改稿前等 (むかいまや)
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10-2

改稿前のものです


 

 会場に入ったわたしは周囲を見渡します。たくさんの楽しげなフレンズさん達と、ざわついたような、歓声のような、おたけびのような、わいわいがやがやという地響きにも似た音とに、わたし達は迎えられます。最初の時と比べると、心に幾らか余裕が生まれたのでしょうか? だから周囲を見渡すことが出来たのかもしれません。空は変わらず高く青く透き通り、白くちぎれて漂う雲はゆったりと当て所無いように、けれどまっすぐと進んでいきます。けれど、そんな穏やかな空とは裏腹に、早鐘を打つように鳴り響くのは、わたしの鼓動。わたしを取り囲む光景を眼に入れてしまい、一層の緊張をしてしまいましたが……

「がんばってねぇーともえちゃあーん!」

 不意に聞こえる、聞き覚えのある声。ドードーさんでした。彼女の隣には、ロバさんも……。彼女たちに手を振り返すと、それに気づいたのでしょう、彼女たちもわたし達に両手を大きく降ってぶんぶんと返してくれました。応援してくれる方が居る。それのどれほど心強いことか。わたしは、きっと今ここに立たねば気づかなかったでしょう。

 わたしは前に向き直り、歩みを進め……と、不意に遠くにゴリラさんの姿が、それもドードーさんとロバさんの背後に……って、チーターさんとプロングホーンさんじゃないですか。そのおふたりにゴリラさんはそっと耳打ちをします。気にはなりますけれど、何をしているのかを確認しようとするよりも早く、わたし達は会場の真ん中へ。

「それじゃ、挨拶!」

 ハクトウワシさんの指示に従い、わたし達はお互いにぺこりとお辞儀をし、握手を交わします。自己紹介はお互い済んでいましたから、簡潔に……。

「じゃあ……お互いに離れてちょうだい」

 試合の開始が、ほんの目の前にある。そう感じた瞬間、自分でも奇妙なくらい意識は集中していきました。頭が真っ白になってしまうのでは無く、『何』を『どうする』のかを冷静に、客観的に考える、そんな意識が再び生まれていきます。

「イエイヌ、ともえのペアから『攻め』よ。それでは、開始!」

 甲高い笛の音がひとつ、鳴りました。

 

 打ち合わせの通り、開始の合図が鳴ると、まっすぐにイエイヌちゃんが駆け出します。わたしは早足で前へ進みながらイエネコさん・リオさんの様子を伺います。彼女たちは二方向に別れて会場の外側方向へ駆け出していました。イエネコさんが左側、リオさんが右側……さて、どちらから……イエイヌちゃんの方をちらりと見ると、彼女は中腰で駆け出しやすい姿勢をしたまま立ち止まり、イエネコさんの方へと視線が向いています。

 ふむ……それが良いでしょう。わたしの考えですが、サバンナの景色に溶け込み、姿を見失いやすそうなのはイエネコさんの方に思われます。であれば先にイエネコさんから捕まえるのが適切でしょう。『左』とわたしは指示を出し、イエイヌちゃんに動いてもらいます。彼女がこくりと頷くのを確認し、わたしはイエイヌちゃんから少し離れた距離を取りながらイエネコさんの方向へ歩みを進めます。

 リオさんの方向を見ると、彼女はこちらを伺うように一定の距離を保ったまま、ゆっくりと動いています。方向としてはわたしの後の方へとゆっくり、ゆっくりと……。彼女の位置をしっかりと頭に入れておかないといけません。今後の行動のためにも、そして、『作戦』が見抜かれるかどうかを確認するためにも……。彼女たちはネコ系のフレンズ。つまり音が聞こえている筈なのです。でしたらなるべく合図を出さず、如何に上手に動くか……それが重要です。イエネコさんは笛の音にぴくりと反応を示していましたし……何か気づいているかもしれません。少なくとも今回の『攻め』の間だけでも看破されないよう願います。

 イエイヌちゃんはイエネコさんの右側へと回り込むように走ります。背後の方向にゆっくりと摺り足をしながらこちらを伺っていたイエネコさんですが、イエイヌちゃんが彼女の方に走り出したのを受けて、イエネコさんはぴゅんと素早く駆け出します。イエイヌちゃんとすれ違うようにして、イエイヌちゃんから離れます。もう少し、彼女の動きを見たいところです。彼女の考えや目的がある筈ですから……。イエネコさんはゆっくりと後退しながら距離を調整し、姿勢を直します。そしてイエイヌちゃんとの距離を十分に確保すると、再びこちらの様子を伺うように立ち止まります。わたしは小走りで移動しながら、考えます。どうやら、イエネコさんはわたしとイエイヌちゃんに挟まれないようにしている様に思われます。と、来れば……。わたしは『右』と指示を出します。いささか大雑把な指示ですが、わたしとイエイヌちゃんの間で決められたルールの内のひとつ。『ひとりのフレンズに付いたら、方向の指示はそちらから攻める』というものの為に混乱はあまり無いはずです。

 わたしの指示を受けたイエイヌちゃんは再びイエネコさんの右側方向に駆け出します。さて、踏ん張りどころです……! わたしは、イエネコさんがイエイヌちゃんとすれ違うように逃げないようにするために、一方向に全力で走り出します。それはイエイヌちゃんの背後方向。逃げる方向を塞ぐことでイエネコさんの取ることの出来る選択肢を潰す。その目論見がわたしの体力にかかっていますから、頑張らないと……!

 わたしが走っている間も、イエイヌちゃんとイエネコさんの追いかけっこは小刻みに進んでいきます。会場の端の方へと進んでいくイエイヌちゃんとイエネコさん。偶然かどうかはわかりませんが、彼女達の動きはわたしの狙い通りのものでした。わたしの狙い。それは会場の角に彼女を追い詰め(わたしかイエイヌちゃんかはともかく)捕まえるというもの。イエネコさんはわたしの動きも視界に入れていたのでしょう。わたしとイエイヌちゃんの間に挟まらないように挟まらないようにと動いてくれました。そう、つまりは――

 

 イエネコさんを会場の端まで追い詰めることが出来た、ということです。

 

 わたしは『左』とイエイヌちゃんに指示を出し、それと同時にわたしは再び全力でまっすぐ走り出します。壁がある訳ではありませんが、会場の端っこに居る以上、イエネコさんの動く方向は必然的に定まります。わたしとイエイヌちゃんの間をすり抜けるしか無いのです。

 会場の端っこにイエネコさんが居て、その左右両側から彼女に向かって迫るわたしとイエイヌちゃん。逃げ道はひとつ。案の定、イエネコさんは全速力でわたしとイエイヌちゃんの間を通り抜けようとします。こうなったらもう指示どころではありません。わたしかイエイヌちゃんか、そのどちらかが彼女を捕まえようと、飛びかかります。イエイヌちゃんは即座に身体を翻し、大きく一歩を踏み出すように、かたやわたしはと言えば「間に合え!」と言わんばかりに彼女のすり抜けるであろう方向へ飛びかかり……。距離的にはイエイヌちゃんの方が近かったのでしょう。イエネコさんは身を撚るようにしながら飛び込んで回避を目論見ます。イエネコさんは、目測を誤ったのか、それともイエイヌちゃんを警戒しすぎたのか……それは定かではありませんが、わたしのすぐ真正面に……!

 無意識の内にわたしは手を伸ばして……彼女の服を掴むことが出来ました。当然、ほとんど反射的な動き。つまり、考えもなく飛びかかり、掴んだのですから、不格好にべちりと地面に転んでしまいましたけれど……そんな痛みなんかどこへやら、妙に沸き立つような心地がして、痛みどこか遠くにあるようでした。……顔を打ち付けなかったのは幸いです。

 イエネコさんが捕まったことを確認したハクトウワシさんが笛を鳴らします。イエネコさんは上手に着地をしたようで、しゃがみ込むような姿勢をしていましたが、笛の音を聞いて、そっと立ち上がります。立ち上がりながら聞こえるのは、歓声。その音は、沸き立つわたしの心をより一層昂ぶらせるようなものでした。嬉しくて、楽しくて、何かがこみ上げてきそうな……けれど、そんな興奮もつかの間。勝負はまだ続いているのです。そのことを殊更に意識した瞬間、「次はどうするのか」という問題について、わたしの思考がめぐり始めます。

「っちゃー……がんばってねー! リオー!」

 イエネコさんは残念そうにしながら、ゆっくりと競技エリア外へ。リオさんはこくりと無言で頷くような小さい動作を見せてから姿勢を低くし、生い茂る草むらの中に身を潜めます。わたしはじっとリオさんの動向を伺いながらも、お腹に付いた砂埃を払い落とします。

「お手柄です! ともえちゃん! 大丈夫ですか……?」

「ふう……ふぅ……まだ、全然。ですけど、始まったばかりですし、リオさんが……」

 わたしの下に小走りで近寄ってきたイエイヌちゃんに、わたしは首を振ります。まだ時間には余裕があるかもしれませんが、詳細な残り時間は判然としません。ここでおふたりを捕まえることのアドバンテージは無視できませんから、もうひと踏ん張り……何より、わたしが捕まってしまう可能性は極めて高いのですから……。

「はいっ! 指示、お願いしますね!」

 楽しげな笑顔でイエイヌちゃんは頷きます。ほとんどの労力を彼女に押し付けている作戦ですけれど、まだ彼女は息を乱すことも無く、普段よりも汗ばんだ位の事も無げな表情ですが……わたしはけっこー疲れてしまっているのです。

「ふーっ……ええ、任せてください! イエイヌちゃん!」

 大きく息を吐き出したわたしを見つめるイエイヌちゃんの表情は、少しばかり心配そうなものでしたけれど、それも一瞬でした。彼女が前に向き直ったのを確認したわたしは、囁くように彼女に伝えます。

「イエイヌちゃん。とりあえずまっすぐリオさんに走って……笛を鳴らすまでは任せますけど……動きは細かめにお願いします」

「はいっ! わかりました! ともえちゃん!」

 こくりと頷いて彼女は駆け出しました。わたしは小走りで彼女の後を追いかけ、イエイヌちゃんとリオさんの動きを見つめます。

 イエイヌちゃんとリオさん達の動きは、至ってシンプルなものでした。ただ、リオさんの動きは、内側方向へと大きめに移動しようというものでした。イエネコさんが捕まったまでのことを含めての逃げ方なのでしょうか? また、幸いだったのは、イエイヌちゃんが細かく追いかける方向を変えてくれていたお陰で、リオさんの位置を見失うことが避けられたという点でしょうか。彼女は小柄ですし、大きく跳ねて身を潜められたら、彼女の姿を見失ってしまっていたかもしれませんからね。とは言え……です。このままでは決め手に欠けます。であれば、機会を見て指示を出すことで、流れを変えなくてはなりません。

 

 わたしがイエイヌちゃんまで残り数メートルというところまで近づいた時です。わたしがすぐ後に居ることを察したのか、イエイヌちゃんがまっすぐリオさんに駆け寄ります。リオさんはイエイヌちゃんの動きから逃れるように会場の左方向へと動きます。

「今……っ!」

 わたしは内心で呟き、全速力で駆け出します。その瞬間、イエイヌちゃんに『左』と指示を出します。イエネコさんの時――つまり外側へ外側へと誘導する動き――とは異なり、イエイヌさんにはリオさんを会場の外側から追いかけてもらう動きです。わたしの考えがもしも上手く行けば……。

 リオさんはぴくりと反応し、彼女の視線はイエイヌちゃんに注がれました。当然、彼女はイエイヌちゃんに追われるがまま……つまり右側へと駆け出します。加えて、会場の外側へ追い込まれないために、後方に移動はしないはずですし、わたしの存在を確認している以上、わたしとイエイヌちゃんの間を通るような逃げ方はしないはずです。つまり、結果的にリオさんはまっすぐ横に移動することになりました。

 となれば……わたしは細かく方向を微調整しながらですが、まっすぐ走ります。リオさんはイエイヌちゃんから逃げることに集中した結果、わたしに気づくのが一瞬遅れました。彼女はわたしを数メートル先に認めた時、驚いた様な表情を浮かべ、急停止、そして進行方向とはまるで異なる方向へと飛び跳ねます。が、わたしに捕まらないような無理な動きをした所為か、その速度は決して早いとは言えませんし、姿勢を崩してさえいました。そして、そこをイエイヌちゃんが見逃す筈がありません。

 一瞬間にリオさんの逃げる方向、速度、姿勢……それらを確認したイエイヌちゃんは、全速力で駆け出しリオさんを冷静に追いかけます。風のようにびゅんと駆け出した彼女は、急な方向転換で姿勢を崩してしまったリオさんを捕まえることに成功します。さすがのイエイヌちゃんですけれど、飛びかかるように動いたために、リオさんに覆いかぶさるような形になっていましたが……。

 

 ハクトウワシさんは、イエイヌちゃんがリオさんを捕まえたのを確認すると、笛を鳴らします。

「しゅーりょー!」

 まだ二回ある『攻め』の一回目が終わったばかりですが、ふたりを捕まえられたということに安堵し、わたしは息をつきます。そのまま、放心状態のイエイヌちゃんとリオさんの下へ。

「立てます?」

 わたしは両手を差し出します。彼女たちは揃って手を取り、立ち上がりました。

「ありがとうございます、ともえちゃん」

「あ、ありがとうございます……」

 彼女達はめいめいに身体の砂埃を払い落とします。

「まだ始まったばかりですからね……!」

 感謝の言葉も程々に、リオさんは負けじとひとこと。そして彼女はそのままイエネコさんのところへと駆け寄ります。それを横目で見てから、わたしはイエイヌちゃんに言葉をかけます。

「お疲れさまです。……最後、大活躍でしたね! さすがイエイヌちゃんです!」

 わたしが褒めると、緊張が解けたのでしょう、イエイヌちゃんはにへらっと表情を崩します。満面の笑みを浮かべる彼女の頭をわっしわっしとすると、ますます彼女は楽しげな表情になって……と、それもつかの間。イエイヌちゃんは表情をはっとさせて、恥ずかしげに(あと、多分名残惜しげに)わたしの手から頭を離しました。

「も、もおぉ……ともえちゃん、他の方も居るんですから……」

 いつもと逆の構図。ふとそんなことを思ってしまいます。

「あはは……ごめんなさい……」

 わたしは頭を掻きながら彼女に謝ります。

「嬉しいですけど、恥ずかしいですよぉ……」

 一拍置いて、彼女は真面目な表情に戻りました。

「『逃げ』ですけれど……どうしましょう?」

 わたしはちらりとイエネコさん、リオさんの様子を伺います。彼女たちも作戦会議の様子。ひそひそと耳打ちをしあっています。

「……そうですね……多分前回と同じで、イエイヌちゃんに全力で逃げてもらうことになるかと……」

 ヤブノウサギさん・ユキウサギさんの時は、わたしがまっさきに狙われました。その結果、ふたりのフレンズさんを相手にとってイエイヌちゃんは会場中を駆け回ることに……。結果から言うなら、『あの子達よりも速い』と言っていた通り、イエイヌちゃんは平気な様子で逃げて切っていましたが……。イエネコさんとリオさんは、少し相手にしただけですが、おそらくあの子達よりも速いという点では間違いがなさそうです。

「わかりました! 任せてください!」

 イエイヌちゃんは事も無げに頷きます。

「体力とか……大丈夫ですか? 無理はしないでくださいね?」

 イエイヌちゃんは胸を張るようにしてふふんと鼻を鳴らします。

「へーきです! 自信ありますから!」

 そうは言いましても……。どういった作戦で彼女たちが来るのかはわかりませんが、イエイヌちゃんの負担はなるべく減らしたいところです。この後も『狩りごっこ』は続くワケですしね。

「もし、指示を出せそうだったら出します。その時は――」

「はいっ! 『逃げる方向』ですよね!」

 お互いに頷きあい……と、ちょうど折よく準備の笛が鳴ります。

「お互い、頑張りましょうね、イエイヌちゃん」

「はいっ!」

 まもなく全員が所定の位置に着き、開始の笛が鳴りました。

 

 さて、わたし達が今度は『逃げ』る番。イエネコさん・リオさんの作戦は、どうやらイエイヌちゃんをふたりで追い、捕まえるというもののようでした。イエイヌちゃんは余裕有りげな雰囲気で駆け出し、彼女たちから距離を取り続けます。わたしは放置されてしまっているので、安心するような情けないような……。と、それどころではありません。イエイヌちゃんのサポートをしなくては……!

 心構えを新たに、わたしはじっと彼女たちの動きを見つめます。どうやら、リオさんが小刻みに動いてイエイヌちゃんを動かしているようで、イエネコさんは姿勢を低くしてイエイヌちゃんの隙を伺っています。まだ勝負が始まって時間はあまり経っていませんが、既に一度、イエネコさんはしっぽと身体を揺らす動きをしてイエイヌちゃんに飛びかかろうとしていました。この時はイエイヌちゃんが動きを読んでいたと言わんばかりの綺麗な回避をしていましたが……それも時間いっぱいまで続くかはわかりません。

 イエネコさん、リオさんとはある程度の距離を保ったままですけれど、イエイヌちゃんの方向へと数歩近づきます。イエネコさんがちらりとわたしの様子を伺いましたが、すぐにイエイヌちゃんの方向へと顔を向け直します。

「ふんむ……」

 こうして見てみるとイエイヌちゃんは会場のやや外側に居るようで、リオさんも意識的にイエイヌちゃんを外側方向へと動かしている印象があります。つまりわたし達がやっていた作戦と似通ったもの。意図的かどうかはわかりませんけれど、この場合、わたし達が行っていた作戦が参考になる……ような気がします。

「わたしがやられて嫌なこと……」

 それを行うことがこの場を切り抜ける正解だと、ぼんやりと思います。いえ、わたしの性格が悪いとかそういう……じゃなくて……そんなことを考えている間にもイエイヌちゃんは端へ端へと……。

 わたしが出すべき指示に悩んでいると、事態が急変します。イエネコさんがやや小走り気味にイエイヌちゃんの方向へ近づき、それを確認したリオさんがだぁっと駆け出しました。これは、まずい。そんなぼやきが胸に浮かぶのとほとんど同時にイエネコさんがしっぽと身体を揺らし始めます。彼女なりの(……もしかするとネコ系の子たちの皆さんが、かもしれませんが)狙いの付け方でしょう。

 わたしはイエイヌちゃんに『後』ととっさに指示を出します。立ち止まることだけは避けなくてはならず、そして、イエネコさん、リオさんの動きが決まる前に全てをひっくり返さなくてはなりません。そして、イエイヌちゃんが逃げられる方向がこのままではある程度誘導されてしまうことを防ぐ……。イエネコさん、リオさんの考える方向とはまるで逆の方向へと指示を出すことが、正解。『後』と一瞬で判断できたのは幸いでしょう。

 イエイヌちゃんはわたしの指示を聞き取った瞬間に、少し減速し、方向転換。先程まで走っていた方向とは真反対の方向へと駆け出します。それを見たイエネコさん・リオさんはやや慌てたようで、イエネコさんはぽかんとしたように立ちすくみ、リオさんはイエイヌちゃんの急な方向転換に判断が追いつかず、そのまま走り抜けてしまいます。指示は正解でした。

 イエネコさん・リオさんは、急な事態に混乱しながらも、それを解消する為でしょうか? お互いに近づいてこっそりとお話を始めます。彼女たちの様子は、しきりにわたしとイエイヌちゃんを交互に見比べるなど、遠目に見ても焦りのようなものが見受けられました。対策が寝られてしまうかも……という内心のはらはらとは裏腹に、イエイヌちゃんは楽しそうな表情でわたしの近くへと駆け寄ります。

「ともえちゃん! ありがとうございます!」

「いえいえ、とっさでしたけど……上手くいってよかったです!」

 イエイヌちゃんはイエネコさん・リオさんに注意を払いながらも立ち止まり、ほぅとひと息つきます。

「これからもしかしたら彼女たちの作戦が変わるかもですから、また同じようには出来ないかもです」

 イエイヌちゃんにわたしは危惧していることを伝えます。

「それに合図を出してるということでわたしが狙われるかも……」

 わたしの言葉にイエイヌちゃんは苦笑いを浮かべました。

「うーん……でしたら――」

 と、イエイヌちゃんの言葉が繰り出されるよりも先にイエネコさん・リオさんのふたりが動き出します。

「あー……後で大丈夫です!」

 わたしは無言で頷き、イエイヌちゃんから離れます。イエイヌちゃんは待ち受けるように中腰の姿勢になり、じっとふたりを見据えます。

 イエネコさん・リオさんのおふたりの動きは少し変わりました。リオさんが息もつかせぬ走りで追いかけ、隙を見つけてイエネコさんが飛びかかるという形には変わりのないものでしたけれど、イエネコさんが先程よりも大き目にイエイヌちゃんと距離を取り、且つ、わたしのことも狙うようにしきりに警戒するような仕草を取っているのです。おそらく……時間を意識した動き。読みが合っていればですけれど……。リオさんの速度に負けず劣らずのイエイヌちゃんは上手に逃げ回っています。多分、彼女を混乱させないためにも、わたしの『指示』はイエネコさんの動きにのみ注視して、必要に応じて出すべきでしょう。体感ですので、はっきりとはわかりませんけれど、恐らく『逃げ』の時間はまだ半分程度が経過した程度の筈。まだまだ気を引き締めて行かないと……!



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けものフレンズR 合同企画作品

https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im9098445 より設定をお借りしました。
本短編はけものフレンズR BBSで企画した『けものフレンズR合同企画』に参加した作品です。
本編『けものフレンズR ”わたし”の物語』(https://syosetu.org/novel/187921/)と地続きですので、そこのところ、結構イジワルかもしれませんが……ごめんなさい……

お題に則した内容なのかしら? ちゃんとできたかしら……?
追記 締め切り11日いっぱいだと思ってました。


 ゴリラさんにある相談をし、その解決の糸口を見出したわたし達は二日後にとある場所を目指して出発することになりました。ちょうどその日でさばんなちほーから『おうち』に戻ってきて一週間。それもあってか、イエイヌちゃんとわたしの間で、その場所が次の旅の目的地となりました。

 そこについてから、いくつか建物の中をめぐり、適切な機材が使えるかどうかの確認ですとか、何か必要な道具、便利なものなんか見当たらないかですとか、さながら未知の場所へ探検に赴くような心持ちです。わたしに取っては記憶が無い以上、どこも未知の場所です。けれど、今回は今までの旅と異なって、自然の割合が小さく、人工物の割合が多い場所が目的地です。わたしの過去につながる情報や物品を見つけられる可能性も高いと思われますし、何より、わたし自身の生活に還元できる物品が見つかることへのちょっとした期待もありました。

 ですから、どこか浮ついた気持ちになるのも当然でしょう。わたしは鞄の中を覗き込んで、タオルの枚数ですとかランプの吊るす位置を調整したり、色鉛筆の整理やスケッチブックに何を描こうかだなんて事を考えていました。ああでもないこうでもないとあれこれ悩んでいるわたしの事をイエイヌちゃんは最初心配してくれていました。けれど、夕方の散歩が終わり帰宅するころには流石に呆れてしまったのか飽きてしまったのか……わたしから視線を外して、彼女は黙々と絵本を手にとって読み始めていました。

「……ふぅ、こんなものでいいでしょう……!」

 気付けば夕日は殆ど地平に沈んでいました。薄暮に沈む草原の光景を見て、晩御飯を食べなければ、と何故だか思います。今までそうしてきたからでしょうか? さて、この妙な忙しさなのですが……わたしとしては、あれこれ悩んでも大して何も変わらないのはわかっていました。わかってはいたのですけれど……浮ついた身体は動き続けることを求めていました。あれこれ調整してみて、手を入れてみて、考えてみて……そうして作り出したバランスがきっと何かを見つける一助になってくれるのだと、そう信じたかったのです。

「支度、終わったんですか……?」

 イエイヌちゃんは絵本を開いたまま、わたしの方を向いて尋ねます。首をかしげた彼女の表情は、少しだけ困ったような笑顔でした。やっぱり呆れられていたんでしょうねぇ……。

「ええ……と言っても、その、持ち物の何かが大きく変わった訳では無いんですけどね……」

 困ったようにわたしが乾いた笑いを出すと、イエイヌちゃんも同じような笑い声。

「待たせちゃってごめんなさい、イエイヌちゃん。ご飯にしましょう?」

「はい!」

 わたし達はそうして、机に置いてあるジャパリまんを食べ始めました。

 

「んっく……ともえちゃん、お水いります?」

 もっくもっくと静かに食事を進めていると、イエイヌちゃんが尋ねます。

「……んーそうですね、お願いします」

 わたしのお願いに彼女は元気よく返事をして、キッチンの方へと小走りに進みました。

 しばらくして彼女は両手に水を注いだコップを持って帰ってきました。量はちょうど良いくらい。

「おまたせです! どうぞ!」

「ありがとうございます、イエイヌちゃん」

 コップを受け取ったわたしは、ひと口水を含みます。そう言えば、前もこんなことありましたっけ。

「会ったばっかりの頃、覚えてます?」

「どうしたんですか、急に……」

 イエイヌちゃんは椅子から立ち上がりながら、応じます。

「前にイエイヌちゃんにお水を持ってきてもらったじゃないですか」

「あぁーそうですそうです。そんなこともありましたねぇ……なんだか懐かしいです……」

 わたし達が過ごした時間は、多分そんなに長いものでは無いはずです。日数にしておそらく一ヶ月も無いでしょう。ですが、ただでさえおっとりとした時間の流れるジャパリパーク。加えて、カレンダーや時計などの時間経過を知るための道具が軒並み見当たらないという事も手伝ってか、どうにも日付の感覚が曖昧になります。ここでは、きっと時計もカレンダーもさほど必要のないものなのでしょうね。

「その時、イエイヌちゃんったらコップいっぱいに水を入れてて……笑ったらいいのか取りに行ったらいいのか、ちょっと困っちゃいましたよ……?」

 わたしが冗談めかしてそう言うと、イエイヌちゃんは恥ずかしげに顔を赤く染めます。

「む、むぅ……わふぅ……」

 言葉に困った彼女は、眉間にシワを寄せてなんと言い返したら良いのか悩んでいるようでした。

「ふふっ、冗談ですよ、冗談。あの時も……それ以外も全部ですけど……ありがとうございました」

 イエイヌちゃんはわたしを咎めるような表情を一瞬だけ浮かべましたが、すぐにほほえみの表情になります。

「いえいえ、あれくらい!」

 表情を崩さぬまま、イエイヌちゃんは首を振りました。

「それに……私はあの時、ヒトに……いえ、ともえちゃんに会えたことが、嬉しくて嬉しくて……多分、浮かれてたんです」

 えへへと照れ隠しの笑いをイエイヌちゃんは零します。

「そう言ってもらえるなんて、わたしは本当に幸せものですねぇ……」

 思わずしみじみと言ってしまいました。仮に……例えばですけれど、ロードランナーさんやコヨーテさん、ドードーさんと最初に出会ったとしたら、もう少し違った生活が待っていたでしょう。それで困るようなことはきっとなかったと思います。それで不幸になることも、嫌な目に会うこともすることもなかったと思います。皆さん優しいですし、楽しげに日々を過ごしている方ですから。けれど、けれど……断言できます。

「わたしにとって、イエイヌちゃんと出会えたことは、一番の幸運ですよ。ラッキーなんです」

「んふふー……どういたしまして」

 満面の笑みで、イエイヌちゃんは満足気に息を漏らしたのでした。

 

 しばらくすると、何かを思い出したように、イエイヌちゃんは食事の手を止めてぴくりと耳を動かして宙を見上げます。そして手にしたジャパリまんと、宙空とを視線が行ったり来たり……。その様子がどうにも可愛らしくて、わたしはそっと彼女の様子を伺います。すると、イエイヌちゃんはわたしの視線に気づいたのでしょう、はっとした表情になって、視線を下に戻して食事を再開します。けれど、それでも諦めきれないかのように再び視線を上へ……。どうやら何かを考えているようです。

「どうかしました?」

 わたしが尋ねると、イエイヌちゃんは申し訳無さそうな声色で答えます。

「そのぅ……気になることがあって……お願いとかじゃないんですけど……」

 イエイヌちゃんはやっぱりおずおずと、申し訳無さそうな様子。

「んー……? どういうことです?」

 わたしが聞き返すと、彼女はジャパリまんを机の上に置いて、そっと立ち上がり、ベッドに置かれた絵本を持ってきました。

「その、これ……」

 イエイヌちゃんは、わたしと同じようにゴリラさんに紹介された図書館で本を数冊借りてきました。わたしは画集を数冊、イエイヌちゃんは絵本を数冊。それらの絵本は、以前彼女とお話した時の事を踏まえ、そして、簡単な言葉の勉強も出来るようにと簡単なものです。イエイヌちゃんが持ってきた絵本の内容は、動物をモチーフにしたキャラクターが新しいお友達とご飯を作るというものだった筈です。イエイヌちゃんが内容をその時に尋ねてきたので、わたしも軽く内容を読んでいます。書かれた言葉も難しいものではなく、漢字がなかったこともありますし、内容だって平易なものです(ちょっと上から目線な物言いで申し訳ないですけれど……)。

 彼女の疑問は、図書館からの帰り道に、わからないことがあったら教えるという約束も改めて交わしましたから……わからない言葉があったり、読めない文字があったりとか……そういうことでしょうか?

「えぇっと、どこですか? わからないこととか……?」

 イエイヌちゃんは小さく首を振ります。

「その、文字もわかりますし、意味もわかるんですけど……気になっちゃって……」

 そう言いながら、イエイヌちゃんはぺらぺらとページをめくって、問題のページを指差します。

「ここ……ぱんけーき? ですか?」

 彼女がわたしに見せたのは、大きな一枚のパンケーキを囲んで、おやつを食べるキャラクターの絵が描かれたページ。それは本当に朗らかで楽しげな光景でした。物語の流れからしても、最後の最後、新しいお友達との親睦を深めるという目的を達成できたことを祝福したくなるような、そんな可愛らしいページでした。

「そう、ですね……。これがどうしました? というか、もう読めちゃってるんですか……すごいですね……」

 すこしひらがなを教えただけで、すぐに絵本を読みすすめることが出来るようになった彼女にわたしは素直に感心します。

「えへへ……それほどでも……」

 てれてれしながらイエイヌちゃんは言葉を続けます。

「でですね……その、ぱんけーきが気になっちゃって……美味しそうで……そのぅ……」

 あぁ、なんとなく彼女の言いたいことがわかってきました。つまりは……

「食べてみたいってことですか?」

 イエイヌちゃんは小さくこくりと頷いたのでした。

「まぁ、そうですねぇ……ご飯食べてる途中ですし、まずはジャパリまん、食べ終わっちゃいましょう? そしたら、パンケーキ作れるか考えてみますね」

 わたしの言葉に彼女の顔はぱぁっと明るくなりました。

「はい! ありがとうございます!」

「いえいえ、考えるだけならいくらでもできますから……作れるなら、そうですね……ぜひわたしも作りたいところですけれど……」

 わたしの言葉にイエイヌちゃんは不思議そうに首を傾げます。

「つくる……? ともえちゃんは食べないんですか……? 確かに絵本でも作ってましたけど……ともえちゃんも作れるんですか……?」

 そう言えばそうです。なんでわたしは作れる、作りたいなんて思ったんでしょう?

「うーん……そんな気がするんですよねぇ……なんでだかわからないんですけど……」

「覚えてないだけで昔作ったことがある、とかですかね……? ともえちゃんが作りたいなら、そうしてください! お手伝いだってさせてください! 楽しみですね……! んふふー」

「ええ、その時は、お願いしますよ、イエイヌちゃん」

 そんなやり取りをしてわたし達は食事を再開したのでした。

 

 満腹時特有のぼんやりとした満足感を堪能しながら、わたしは外をぼんやりと眺めながら、先程のパンケーキについて考えます。イエイヌちゃんはどうにも気になって仕方がないのか、ベッドの上で同じ絵本を繰り返し、ゆっくりと眺めていました。

 ドードーさんとお話した内容とも無関係とも思えませんでした。彼女と話をした『クッキー』についての昔話、彼女の願い……。パンケーキとクッキーとでは明らかに違いますけれど、使われている素材はおおよそ同じ。作り方と素材それぞれの分量が異なるだけ……。少し飛躍している気もしますけれど、そう考えると、彼女との約束を果たすことは、イエイヌちゃんの願いを叶えることに繋がります。クッキーと比べるならパンケーキを作る方法は、ずっと楽なはず……うーん……。満腹だからか眠くなって……ふわ……ぁ……。

 

 

 バニラエッセンスの甘い匂いが仄かに立ち込めるキッチンにあたしとお父さんは居ました。あたしは小さなエプロンを付けていて、そこに汚れは見当たりません。一方で、お父さんはシンプルな無地のパーカーを着ていて(おそらく部屋着か普段着なのでしょう)、そこには何やらクリーム色の汚れの跡がこびりついていました。

「なんでお父さんは焦がすの……」

 あたしが尋ねます。あたしが指をさす先には、ホットケーキが三枚ありました。うち一枚は、少し大きめのサイズで、形がひどく崩れていて、焦げて(それも両面とも!)いるもの。残りの二枚は程よく狐色に加熱され、それなりに整った円形のものでしたが、サイズは少し小ぶりでした。

 キッチンペーパーでしきりに服に付いた汚れをこすっていたお父さんは、その手を止めて「あはは」と頭を掻きながら笑います。

「いや、レシピはちゃんと覚えたんだよ……?」

 レシピを覚えているかどうかは、大切かもしれませんが、重要なことでは無いのです。適切なタイミングに適切な処理を行うことこそが料理や調理に求められることなのです。

「ひっくり返すのも、下手だし……」

 それもまた事実。何故フライパンの外側に生地を跳ね飛ばすのでしょう?

「それはね――生地が勝手に飛んでいくんだ」

「いーいーわーけー!」

 あたしにはするなと散々言うくせに、自分はするというのは不条理でしょう。あたしが咎める視線を送ると、お父さんはきまり悪そうに視線を逸します。

「だってあたしに出来るのにぃ……おとなでしょ?」

 お父さんが困った時にいつもする癖。それもあたしと――――にだけ……。それは大きな手で、あたしの頭を撫でること。

「お父さんはねぇ、下手なんだ。料理。……――は上手なんだなぁ。自慢の娘だよ、ホント……母さんに似たんだろうねぇ……」

 あたしは少しむっとしていたのですけれど、褒められて悪い気はしないものです。あたしは「んふー」と満足気な息を漏らして、お父さんの顔を見ます。

「そうなの?」

「そうだとも。母さんは料理が上手でねぇ……」

 お父さんは昔を思い出すかのように、しみじみとした表情で視線を宙へと投げましたが、程なくして、あたしの顔に視線を戻しました。

「じゃあお皿によそおうか」

 あたしはシンクの傍らに置かれたフライ返しを手に取り、お父さんに頷きます。

「うん! ……お父さんにあたしが作ったの、あげるね」

 再びあたしの頭はわしわしと撫でられます。お父さんは、あたしが「量を食べたい」から交換すると言ったのではなく、お父さんに「上手に焼けたものを食べてもらいたい」から交換するのだと考えたようです。お人好しですよねぇ。それとも、それだけあたしの事を信じてくれているのでしょうか?

「ありがとう。でも、自分の失敗は自分で責任を取らねばなるまいて。お父さんが自分のを食べるよ。――は自分の作ったのを食べなね」

 それは我が子か否かを問わず、子供に投げかける口調では無いでしょうに……。けれどあたしはわからないところは無視して、意味のわかるところだけ聞き取ったようです。

「いいの……? 焦げてるよ……?」

「ああ、平気平気、これはこれで美味しいと思うよ? ……じゃあ、あとは――――が帰ってくるのを待って……すぐ帰ってくると思うけど、簡単な検診だった筈……っと噂をすれば、だ」

 玄関の開く音が聞こえて、遅れて「戻りましたぁーっ!」という元気な声。どこか聞き覚えがあるようで、多分、少し違う声。その子は、あたしの、大切な、大切な――

 

 

 わたしはそこで、目を覚ましました。過去の出来事、そのひとかけら。それを見たような気がするのです。本当に大切なかつての日々をそこに……。ひどく深い眠りから急に目覚めたときの追い立てられるような焦燥にも似た感情に苛まれる中、わたしは、ただ、どこだかわからない虚空を見つめていました。

「ともえちゃん、どうかしましたか……?」

 イエイヌちゃんは、呆然としていたわたしを心配そうに覗き込みます。

「……何でも無いですよ? 平気です、平気……」

 みぞおちのあたりがじゅんとなる、いつもの感覚。最近はなかったように思うのですけれど……。

「どうぞ、お水です……さっきの残りですけど……新しく汲んできた方がいいですか……?」

 わたしはコップを受け取り、三分の一ほど残っていたそれを一気に飲み干しました。

「……ふぅ。大丈夫です。痛くもなんとも無いですし……寝起きでぼーっとしちゃっただけです」

「なら良いんですけれど……」

 しばらくの間、お互いに言葉を発することなく見つめ合いました。わたしの具合を伺うような彼女の視線は、欠片だけみた過去の思い出をなぜだか想起させます。

「ねえ、イエイヌちゃん」

「どうかしましたか……?」

 やっぱり心配そうな顔。そんな顔しないでください? ね?

「ホットケーキなら、多分作れます。クッキーの材料があれば、多分……ここで作ることだって……」

 わたしは、「ホットケーキもパンケーキも似たようなもの、実質同じ」と言うような乱暴に過ぎる説明も付け加えました。するとたちまちイエイヌちゃんの表情は明るいものになっていきました。

「本当ですかぁっ!?」

「ええ、細かいレシピとか、確認したいところですけれど……まずは材料の確保ですかねぇ……次に行くところで上手いことできれば……その後にゴリラさんが材料を用意してくれるはずでしたし……」

 わたしはひと息おいて、言葉を続けます。

「明後日の旅……というか探検ですね、ほとんど……頑張りましょうね、イエイヌちゃん」

「はいっ!」

 こくりと頷いた彼女は嬉しそうで、楽しそうで、今と未来とに果てしない希望をいだいているようでした。そんな彼女の姿を見ていると、わたしも何処か心が癒えるような思いです。もしも、彼女でない誰かと今一緒に居たとして……わたしは今のわたしほど、過去に囚われないでいられたでしょうか? 確証は無いですけれど、多分……。

 と、それはそれとして、です。今すべきことをなさなくてはなりません。

「それじゃあ……お風呂、入りましょうか」

 うぅっとイエイヌちゃんは声を漏らし、いやいやと言わんばかりにしっぽを大きくひと振りします。

「……嫌ですか?」

「いえ、そういう訳じゃ……なんだか落ち着かないですし、恥ずかしいですから……」

 ふうむ。わからない訳でも無いですし、無理に入れというのも妙な話です。

「まぁ、嫌なら構いませんけど……わたしはお風呂入って来ますね」

「はい! 行ってらっしゃい!」

 ひとりでお風呂に入って、あの夢を考え直すというのも悪くはありませんからね。もしイエイヌちゃんが後で入ってくるようなら、彼女にも伝えて意見を聞きたいところです。

 

 あぁ、それにしてものんびりとした日々でした。また旅に出ることを待ち遠しく思う気持ちもありますし、ここを離れることを惜しむような気持ちもあります。それは多分、ここに戻ってきても良いのだという考えが芽生えてきたのでしょうか? そう思えるのは、サバンナまで旅に出たお陰かもしれませんね。戻るべき場所をより強く認識するのはそこを離れてから、ということなのでしょう。

「そうだ、イエイヌちゃん」

 わたしは服を脱いでいる途中でしたけれど、脱衣所から顔だけ出して、イエイヌちゃんに言います。彼女はどうやら自分もお風呂に入るかどうか悩んでいるようでした。何故わかったのかと言えば、彼女ったら自分の服のボタンを付けたり外したりしていたのですもの……。そして、イエイヌちゃんはわたしの言葉でその手を止めて、こちらを向きました。

「……? はい、なんでしょう?」

「ずっと一緒に居てくれて、ありがとうございました」

 わたしは彼女の反応を確認せず、お風呂に戻りました。ただ言いたかっただけ……そんなワガママな気持ちを彼女に伝えたくなってしまったんです。

 

 明日から、明後日から、その先も、ずっと、お願いしますね。そんな思いは、幾度も伝えてきたはずなのに、どうしでしょう? いつもよりも少しだけ恥ずかしくて、少しだけ、込める思いが異なっているように思えて、言えませんでした。




かなり遅くなりましたが、今年もよろしくおねがいします。


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R三題噺

某所にて言い出しっぺの法則


 ある初夏の昼下がりのことです。

 わたし達は『おうち』から出て、散歩をしていました。

「いい天気ですねぇ……」

 空には、それこそメレンゲですとか、綿菓子のような、なんて喩えが似合うような、ほわほわとした雲が浮かんでいて、びっくりするくらいの青空の色が、その下に居るわたし達の心をいっそうウキウキとさせます。それに、草原は新緑に染まっています。その為か、辺りには青臭くも心地よさを感じる独特の香りが立ち込めていました。初夏という季節が持つ、ひとつの魅力でしょうね。

「本当に……今日はいいお散歩日和ですね!」

 わたしはゆっくりと頷きます。陽射しを浴びているだけで本当に気分が晴れやかなものになります。ほんの少し汗ばむのは気持ちの良いこととは言えませんけれど、じっとりとした身体を吹き抜ける風の心地よさは、汗ばむ不快感なんかよりもずっと素晴らしいものでした。

「イエイヌちゃん、あの雲、見てください」

 わたしが空を指差すと、イエイヌちゃんは手を眉の辺りに当てながら、覗き込むようにして、空を見上げます。

「どれですかぁ……? えぇっとぉ……」

 わたしが指示している雲がどうにも見つからないようで、彼女はしきりにきょろきょろとしていました。

「えぇっと……あそこの、泡の山みたいなヤツ、わかります?」

 適当に過ぎる気もしましたが、イエイヌちゃんはこくこくと頷いてくれました。本当にわかってます? と聞き返したくもなりましたが、話を続けます。

「それの右隣の雲です」

「みぎ……。あ、わかりました、あの丸いやつですね!」

「そうですそうです!」

 イエイヌちゃんは、にへっと可愛らしい笑顔を浮かべてわたしの顔を見ます。

「あれが……どうかしました?」

「あ、いや、結構どうでもいいお話なんですけどね? あれ、マカロンみたいだなぁって思ったんですよ」

「まかろん」

 イエイヌちゃんは疑問を浮かべた表情で呟きました。その呟き方と言ったら、聞き慣れない言葉を言ったからか、舌っ足らずな具合になっていまして、それがまー、可愛らしいこと。 

「あー……お菓子です、お菓子」

 ふんふんと頷いた彼女は「どんなお菓子なんですか?」とわたしに説明を求めます。

「じゃあ……そうですね……あそこに座りましょう?」

 あくまで感覚ですけれども、結構な距離を歩いた気もしますし、この辺で休憩しても大丈夫でしょう。

 好奇心に溢れたきらきらとした瞳を見せるイエイヌちゃんと一緒に、木立の下に腰掛けます。わたしはカバンからスケッチブックと色鉛筆を取り出し、記憶を頼りにスケッチをしました。

「こんな形で……間にはクリームとか、ジャムとかが入ってて……やたらと甘いんです。匂いは――」

 イエイヌちゃんはわたしの言葉を聞きながら、目を閉じます。マカロンの形を確認した後は、どうやら味ですとか香りですとか、そういう感覚的なものを想像しているようです。

「ふんふん……」

 と、くぅとお腹のなる音が小さく彼女の方から聞こえてきました。恥ずかしさか、それとも申し訳無さか、イエイヌちゃんは頬を少しだけ赤らめます。

「し、失礼しました……。そのぅ、ともえちゃんの話聞いてたら、なんだかお腹空いてきちゃいました……」

「あはは、わかりますわかります」

 わたしもなんだか甘いものが食べたい気分になってしまいましたからね。パークではあんまりそういうモノ、無いですから、少しだけ惜しい気もします。『おうち』にはお砂糖がありましたから、それを使えば多少は融通が効くのでしょうけれど……。

「帰ったらご飯にします? 今だとちょっと早いかもですけど、帰る頃にはちょうど良い時間になってそうですし」

 わたしの言葉にイエイヌちゃんは「はい!」と返事をしました。

「ところでともえちゃん。そのまかろんってお菓子、ともえちゃんは作れるんですか?」

「作ったことは無いですけど……確かけっこー難しいとかなんとか……」

 確かメレンゲを焼くんでしたっけ? 絶対そんなに簡単じゃないですよねぇ……。

「そうなんですかぁ……」

 イエイヌちゃんはがっかりした様子を見せます。

「んーと、食べたかったりします?」

「えへへ、ちょっとだけ……」

 ふむん。彼女の期待に添えるかはわかりませんけれども、少し考えてみましょうかね……。わたしも歯が痛くなるくらい甘いもの食べたい気分になってきちゃいましたから……。

「確かお菓子関係のレシピが図書館にあったような、なかったような……今度調べてみますね」

「ほんとうですかぁっ!?」

 あら、嬉しそうな顔。

「……作れなくても許してくださいね……? じゃあ、そろそろ、出発しましょうか」

 イエイヌちゃんも身体を動かしたかったようで、「はい!」と返事をし、わたしが立ち上がるよりも早く道に出て、駆け出しました。

「ちょ、ちょっと……もう……。待ってくださーい!」

 イエイヌちゃんは喜色満面という具合で、両手をばんざいして振っています。まずは、追いつかないとですね。

 

 イエイヌちゃんを追いかけながら、思います。

 彼女の期待には応えたいところです。けれど、知らないこと、やったことのないことですから、どうなるのかわかりません。ただ、そうですね……作れそうなら、完成するまで秘密にしておいて、イエイヌちゃんをびっくりさせちゃおうかな、なんて思います。もしそれが叶うのなら……その時の彼女の表情が楽しみです。



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