時刻は午前零時を回った頃。
闇夜に映える白い砂浜の上を二十代と見えるジャージ姿の女性が一人、とぼとぼと歩いている。
服装はまさしくジョギングをしに来た人間のそれだが、ここは都会から数キロ離れた郊外の彼女の自宅、そこからさらに数キロほど離れた山道のわきにひっそりと存在する普段から人気の欠片もないビーチであり、ジョギングなどという都会の体力を持て余した労働者たちの遊戯とは無縁の土地である。
山道の入り口に街灯が一つ、ぽつんとたたずんでいる。女性は走るのを止め、明かりを喜ぶように手に持っていた小型のライトを下ろし、疲れておぼつかない足取りで街灯の下へと歩いていく。
不意に彼女は足を止め、薄暗く照らされた砂浜を見つめ、聞こえてきた音に耳を澄ました。浜辺に波が打ち寄せている。波打ち際まで街灯の光が届いておらず、彼女の目前にはただ暗闇が果てしなく広がっている。寄せては引き、引いては寄せる波の音は昼間よりもやけに荒々しく、不気味に彼女を
くしゅん、とくしゃみが出る。夜半の陸風は想像以上に冷たかった。
……この女性。彼女は紛れもなくこの話の主人公だが、別段、人と比べて特別な部分があるわけではない。二十四歳、会社員。学歴は悪くないが特筆するほどではない。これといった趣味は持っておらず、最近、運動不足改善のためジョギングを始めたが挫折した。もともと体力には自信があるそうだ。職場では「仕事が恋人」と冗談を飛ばす。現在、恋人はいない。職場での仕事内容としては打ち込みなどの単純な事務作業が多い。勤続は二年である。
疲れた……。
着の身着のまま財布とスマートフォンだけ持って自宅を飛び出し、行く当てもなく町をさまようこと数時間。光を避けて走り続けていたらいつの間にかこんなところまで来てしまった。
ここはどこだ?山道の標識にライトを向ける。「
未白町といえば海沿いの小さな都市だ。自宅からは五~六キロ離れている。都会から二十キロと離れていないが、間に山を挟むせいかこちら側はめっきり人口が少ない。この町の通称である「陸の孤島」という表現もしっくりくる。はっきり言って田舎だ。それは街灯の数を見ても明らかである。山の割れ目からここまで、何百メートルも続く舗装の痛んだ道路沿いに街灯が三本あるだけで、それ以外に光は何一つ見当たらない。あまりに危険すぎやしないか。
要するに、この町で夜中に車を運転する者などおらず、強いて言うなら外出する者もいない、ということである。ここらでは未白町でのみ過疎化が進行している、と職場の先輩も言っていた。
まあ今はそれはいい。とにかく、疲れた。肉体的にも、精神的にも。
ぐったりと車道と砂浜の段差に腰を下ろす。
昔はこの程度の運動で疲れることはなかった。明らかに体力が落ちている。両手の拳をそれぞれぎゅっと握ってみるが、中々力が入らない。腕が震えるほどに頑張ってもだめだ。なまっている。
それもこれも全部仕事のせいだ、と思った。デスクワーク滅びろ。眼精疲労肩こり腰痛、ファック。
誰もいない暗闇に上司を思い浮かべ、中指を立てる。腹や顔に二発三発とパンチを入れる。あんのクソオヤジ。毎日毎日仕事の進捗報告するたびに嫁さんの愚痴聞かせやがって。しかも話を聞く限りケンカの原因はどう見てもあいつにある。それどころか「慰めてほしい」と私を誘ってきやがった。ふざけるな。誰が付き合うか。あいつの結婚相手が気の毒だ。あんな奴と結婚するくらいなら私は喜んで一生独身を貫いてやる。
皮肉交じりに低い声で笑う。それでは収まりきらない。
溜まった怒りを
真っ黒な海に
「はあ、はあ……」一人、暗黒の海と
何分間か、何十分間か。とにかく息が整うまで。
しばらく黙って、波の音を聞いていた。
寄せて、引いて、寄せては引いて、また寄せて。同じことの繰り返しだ。それは仕事と通じるものがある。毎日会社に通って、デスクに積まれた書類をこなし、家に帰る。もう六百回は繰り返しただろうか。評価はされても出世はしないし、給料も上がらない。
―――でも私は二つ年を取った。
次第に頭に上った血が下りてきて、冷静になる。闇のただ中に置かれた自分を直視してしまう。これがまずい。怒っているうちは
……二年間。
二年間、社会人の一員として会社に勤めてきた。できるだけの仕事をこなしてきた。私にはやる気があった。自信があった。
そのはずだった。
長続き、しなかった。精力的に働けば働くほど、私に割り当てられる仕事は増えていった。私は喜んで引き受けた。量をこなしていくうちに身につく手際の良さ……それで自分が評価されている気がした。何でもそつなくこなす、「仕事ができる自分」に酔っていた。
私には自信があった。仕事が増えていっても、残業が増えても。
山積みになった仕事をすべてやり終えた時の達成感は計り知れなかった。オフィスで徹夜明けの朝日に目を細めながら、「生きてる」と思えた。自分へのご褒美に甘いコーヒーを買った。最高に美味しかった。
そのうち、増える仕事に体がついていかなくなった。気づけば同僚の倍近くの仕事を常時抱えるようになり、当然ミスも増えた。上司は同僚と私のミスの数を比べた。母数が違うんだと言っても聞き入れない。誉められるより叱られることが多くなった。つらかった。体力の限界と、結果を出せないストレスも相まって私が体調を崩しがちになると、上司は家に電話をかけてきてこう言った。
「君、メンタルが弱すぎるんじゃないか?」
頭の中で何かが切れた。
もう、どうなってもいいと思った。
「弱いのはあんたの頭だよ!バカ野郎!」とにかく叫んで通話を切った。
体調が治り、職場から消される覚悟で出勤すると、なぜかその上司が職場から消えていた。私が休んでいる間に他の部下から訴えられ、体調を崩したとのことだ。
嬉しかった。もうあいつの下で働かずに済む。友人たちがいたわりの言葉をかけてくれた。「辛かったよね」「もう無理しなくていいからね」暖かかった。目に涙が滲んだ。
次の日から、心にぽっかりと穴が開いた、抜け殻のような日々が始まった。
仕事量は減った。新しくなった上司はまともだ。同僚とあれこれ喋る時間も増えた。なのに。何かが足りない。
仕事に手がつかなくなった。やる気はあるのに。集中が出来なくなった。上司が変わった、それだけで。
仕事のミスが目立った。上司は同僚と私のミスの数を比べた。……反論できなかった。私より同僚の方が仕事量が多かった。
ダメ上司の方が私に合っていたというのか?
そんなの、あんまりだ。
悔しかった。初めて会社で泣いた。
そんな生活が一か月ほど続いたある日。ついに私は逃げだした。仕事帰りの自宅からはるばるこんな海沿いの街まで。着の身着のまま、財布とスマートフォンだけ持って。
みっともない、無様だ、……負け犬だ。自分で自分の傷をえぐる。
落ち着け。
深呼吸する息が震えた。目を拭う。
泣くわけないじゃないか。セクハラパワハラ上司の方が私には相応しかった。それだけの話だ。
反射的にあたりを見回す。誰もいない。見られていない。
離れた街灯の光が私の影を砂浜に淡く、それでいて大きく、映している。小さくなりたい、と思った。
涙をこらえる。我慢だ。
夜半の砂浜を風が吹き抜けていく。背中を押す陸風は私に勇気を与えてくれるようでも、私を海に突き落とそうとするようでもあった。
泣きやしないよな。あんなクズにも守るべき家庭があって、休日はゴルフに行けて。「少しあいつがうらやましかった」なんて、誰に言える?
「……私は彼氏もいないってのに」
もう何も考えるな。
息を吐く。ため息ではない。決して。
さみしいだなんて、思ってない。ぶんぶん首を振る。寂しくない。全然。
ふと、視界に入ったものに私は首をかしげる。海沿いの道を数十メートル戻ったところに明かりがついていた。街灯の光のはるか下で、海側を向いて光っている。来るときは全く気が付かなかった。変だなとは思ったが、それ以上特に疑問を抱くこともなく、私は遠い闇のかなたの光を目指した。
砂浜をライトで照らしながらふらふらと歩いた。右に三歩進めば平坦な舗装された道路が続いている。道路に上がった方が速い。頭では分かった。でも、身も心も疲れすぎて。とてもそんな気分にはなれなかった。
効率。今までの私は効率ばかり気にしていた。手際よく仕事を処理することばかり考えて。結果、この様だ。
効率、今の私の一番嫌いな言葉。くそくらえだ。そんなことを考えながら、足場の悪い砂浜を歩き続けた。
それは私にとって達成の象徴であり、思い出したくない過去の一部でもあった。
「自販機……か」
嫌な記憶だ。あの上司の下で働いていた時、山積みの仕事をこなした後によく缶コーヒーを買って飲んだっけ。今となってはひどく昔のことに思える。
落胆と同時に安堵もした。危険な代物ではなかったから。それと効率主義だった昔の自分に抗えた気がして、総じて悪い気分ではなかった。
……何か買っていくか。
財布から百円玉を数枚取り出し、ちゃらちゃらと自販機に金属音を響かせ。
「……あ”っ」つい、条件反射であるボタンを押してしまった……。
ピッ、と音が鳴り、がしょん、と選んだ飲み物が取り出し口に落ちる。
「あー…、コーヒー……」
銘柄まで昔飲んだものと一緒か……。大きなため息を吐く。
―――私はもう抜け出せないのか?
怖い。コーヒーを投げ捨てる。近くの砂地に刺さって止まった。思わず後ずさる。汚い。触りたくなかった。
忘れろ。
何を飲もうとしていたんだっけ。目を背けついでに飲み物を選ぶ。コーラにしよう。そうしよう。
お金を入れ、コーラのボタンを押す。受け取り口にごとん、とコーラが落ちた。コーラを手に取る。
「……冷たっ。……寒い」
今更気づいた。寒い。こんなに寒かったっけ。……寒っ。
スウェット越しに二の腕をさする。体がすっかり冷え切っていた。
ひときわ大きな波が浜辺に打ち寄せる。肩がこわばった。恐る恐る振り向く。暗闇だ。ざん、ざざん、と不規則に寄せる波は恐怖心をあおるには十分だった。自販機の後ろに隠れ、耳を塞ぐ。不意に風が強く吹いた。怖かった。
暗闇。潮騒。夜嵐。その三つに囲まれて、どこにも私の逃げ場は無かった。
寒い……。しゃがんで膝の下に手を回し、鼻水を拭う。
くしゅん。くしゅん。続けてくしゃみが出る。真夜中のビーチは来た時よりずっと冷え込んでいた。
何か温かいもの……。こういう時に、彼氏がいたら。……彼氏はホッカイロじゃないだろ。一人で突っ込んでみたが笑えなかった。
街灯代わりの明かりとなっている自販機の裏は、何も見えないほど暗い。手が届きそうな暗がりに元カレの顔が浮かんだ。私から告白して数か月付き合った挙句、わがままを言って勝手に振った彼。
特にいざこざがあったわけでもなく、性格的に相容れない部分があったわけでもなく。どうして別れたのか分からないくらいだ。
……そう。別れる理由なんてなかった。ずっと一緒にいればよかったんだ。でも当時の私に、そんなことを考えている余裕はなかった。……仕事が多すぎて。時折思い出しては電話をかける(徹夜明けの早朝が多かった)なんて不安極まりない付き合い方で、よく五か月ももったものだ。
もっとたくさん会っておけばよかった。たくさん話しておけばよかった。
ハハ。何を今更。……
「これ以上迷惑をかけたくない」そんな理由で一方的に振った。仕事に集中したかったから。私は馬鹿か。もうちょっと何か、言い方ってものは無かったのか。嫌いなら嫌いと、なぜはっきり言わなかった。
……好きだったんだ。
ふっ、と鼻で笑う。何度も何度も。
バカだなー、私。
ふふ、ホントにおバカさんだ。好きだったくせに。止められたのに。仕事の方を取っちゃうとか。
『……そっか。仕事……頑張って』そう言って彼は悲しげに微笑んだ。
とっさに顔を手で押さえる。
「う、ぐ」
手の間から暖かい液体が流れた。
『泣かないで』元カレの幻影が慰めてくれる。その表情はどこまでも優しかった。
どうして離れてしまったんだ。私は……。
理由なんて明らかだろう。私は仕事に手いっぱいだったから。そう思うとまた涙があふれた。
「……悪いことしたな」
ようやく気分を落ち着けて、自販機で買いなおした缶コーヒーに口をつけた。疲れ、冷え切った体に染み入る滑らかな液体は、風化した、かすかな達成感とトラウマの苦い味がした。
別れてから一年半も経ったのか。昔になったな。彼はまだ私のことを覚えているだろうか。あるいは、電話をかければ私の事や私たちの事も思い出してくれるだろうか。
コーヒーをすする。電話をかけたい衝動までごくりと飲み込んで、息を吐いた。
……何を今更。一年半も前に終わったことだ。
風が止み、波が砂浜を行き来する以外、耳に入る音は無くなった。真夜中の海辺に私以外の人影は見当たらない。海が迫ってくるようで、恐怖心が募った。そろそろ帰ろうか。
コーヒーをまた一口。感情を飲み込んで心をリセットする。帰宅なんてまっぴらだ。
ごくり。
ゴクリ。
……。
目の端に涙がにじんだ。あたりを見回して誰もいないことを確認する。
泣いてしまえば楽になれる。そう思った。
仲のいい友人の顔を思い浮かべる。母の顔を思いだす。
鼻がすんと鳴るだけで、涙は出てきやしない。私は何がしたいんだろう。
突如沸いてきた
ハアッ、と大きなため息をつき、自分の膝の上に上半身を倒した。自分の人生が急に無意味なものに思えてきて、喪失感が押し寄せてきたのだ。空になったコーヒーの缶にさらにため息を吐く。
私を散々こき使った上司の顔が脳裏に浮かぶ。にこやかな笑顔をしていた。仕事をこなして持っていった時の顔だ。それか、私が一人で徹夜の作業を終えてコーヒーを飲んでいた時に、「お疲れ様」と初めてねぎらってくれた時の顔……。
かあっと目頭が熱くなった。戸惑いうつむくと、砂浜にぽつりと涙が落ちた。
くそ。なんで。なんであんな奴のために……くそっ、くそっ。
涙が止まらない。苦しくはなかった。むしろ温かくて。心惹かれて。それがどうしようもなく、悔しかった。……あいつが一度見せたあの笑顔のために、私は頑張れていた節があったから。
もしかしたら、好きだったのかもしれない。
そんな……そんなことって。
「ああっ……!」両手で顔を押さえた。やるせなかった。苦しかった。
上司の絵顔を脳裏から消そうと、必死に元カレの事を考える。初めてキスした日のこと、ほのかに赤くなった頬、ふんわりと微笑んだ彼の顔……。
元カレと上司の笑顔が重なる。
―――似ていた。
顔立ちか、雰囲気か、わからないけれど、どこか二人は似ていたのだ。
はっとして、濡れた手のひらで太ももをつかむ。体中が引き締まる思いがした。
……そうか。私は。やっぱり私はずっと……。
ポケットからスマートフォンを取り出し、電源を入れ、電話帳を開いた。
途端に電話がかかってきた。同じ会社で働く親友兼同僚のユリからだった。思い出したくもない会社のことが脳内を駆け巡り、軽い頭痛を覚えながら電話に出ると、
『なんでちっとも電話に出てくれないのおおおおおおお!?!?』ユキの泣き声が耳を貫通した。
「え?ええっ?」
耳の痛みをこらえながらスマホの着信履歴を開く。二十件以上も不在着信があった。誰の声も聞きたくないとスマホの電源をOFFにしたままだったからだ。
『LINE送っても全然メッセージ帰ってこないし!!心配してたんだよ!?』
「わ、わかった、ごめん。悪かったよ。私は大丈夫だから……心配しないで」
『分かればよろしい。じゃなくて、本当に大丈夫なの?最近会社でも仕事、上手くいっていないみたいだし……。悩み事あるならいつでも相談に乗るからね?遠慮しなくていいよ?』
言葉だけでなく、本当に親身になってくれていることがユキの口ぶりから分かった。
「うん……ありがとう。それじゃ、ちょっといいかな」
相談してみよう。何度も頭に浮かんでは、世間体が怖くてずっと逃げ、考えまいとしていた、あのコト。
『何でも言ってみなさい』
相も変わらずお調子者なユキだった。
「私……会社辞めようと思う」ユキの反応を予想して、スマホから耳を離す。
『ほうほう。……はああああ!?』
案の定、ひどく驚いている様子だった。
「……どう思う?」
うーん、あーー、とユキは意味不明な音声を発している。スマホ越しにユキが頭をひねっている姿が容易に想像できた。
『いいんじゃない?』返ってきたのは以外にも淡白な回答だった。『こんなブラック企業にあなたみたいな真面目な子がいちゃダメ。あんな会社でストレスも溜めずにやっていけるのは私くらいのもんよ。ナツキはもっとホワイトな企業で出世するのが吉!』
「……そっか。ありがとう」
『どうしたしまして!転職先で落ち着いたら、またどこか遊びに行こうね!』
ユキはそう言うと、じゃあね、と半分しか言い終わらないうちに通話を切った。せっかちなことだ。
家に帰ったら辞表を書こう。悲壮な決心をしながらLINEを開くと、通知が二百近くも来ていてぎょっとした。その百八十以上がユキのものだった。
心配してくれてたのかな。そう考えるとなんだかくすぐったくなって、ふふ、と笑みがこぼれた。
深呼吸をして息を整える。ふん、と鼻息荒く意気込んだ。
……よし。ユキが心を和ませてくれた。本命の相手に直接電話、いってみよう。
仕事が恋人?別れた頃よく同僚に言っていた。最近も言ってたか。とにかく、そんなのは嫌だ。あの人でなければ、嫌なんだ。
元カレの電話番号を画面に打ち込み、赤いボタンをタップ。読み込みが始まり、呼び出し音が鳴る。
「……レイト?」
『……久しぶり』懐かしい声。もう聞けないかと思っていた。
「ごめん」それだけ言った。まずはそれだけ。
『……』
ずず、と鼻をすする音が聞こえる。彼も風邪をひいているのか、もしくは。
「分かれちゃった時のことは全部私が悪い。ごめんなさい」
謝らなければ何も始まらない。
『そんなことないよ。俺も悪かった』
そんなことない。どう考えても私の責任。優しいのは前から変わってないね。
「それで…その……、仲直りしたいと思って。もし良かったら、今度一緒にお茶、行かない?……ごめん、何年も経ったのに今更……」
『いいよ。ちょうど予定が空いてる』
「ありがとう。ごめんね。忙しいのに」
別れる前、彼からよく聞いたセリフだ。
『ううん。全然忙しくない』
あの時、あなたにそう言ってあげられたならどれほど良かっただろう。
『仲直り、しよう』
「……うん、ありがとう、ありがとう」言いながら、感極まって泣いてしまった。
『泣かないで』
その声はどこまでも優しくて。彼が言葉を語りかけるたびに、涙が頬を一層速く流れた。
今週末に、駅前の喫茶店で会うことになった。夢にまで見た再会は目前だ。年甲斐もなく胸が高鳴ってしまうと思いきや、私はまだ二十二歳だった。別れてから十年近くたった気がしていた。まずいまずい。
しがらみが一気に解け、すっきりした気分だった。こういう心持ちの時は、パワハラセクハラといった忌まわしい記憶まで、無駄ではなかったように思えてくるから不思議だ。
東の空が白み始めていた。前も後ろも、暗黒の世界から元通りの美しい色を取り戻しつつある。砂浜は白く、空は青く、草木は緑に、自ずから生命を感じさせる色へと還っていく。
いつの間にか手放し、風で砂浜を転がっていたコーヒーの空き缶を拾い上げる。これまで私を踏ん張らせてくれていたコーヒー、きっとこれは毒薬だ。悪い夢でも見ていたんだろう。
今、私には会いたい人がいる。助言をくれる人がいる。私のことを心配してくれる人がいる。
なんだ。私の人生、まだまだ捨てたもんじゃないな。
夜明けが近い。薄闇の中、空き缶入れに砂にまみれた缶を投げ込み、砂浜から人気のない道路を駆け出した。家まで走って帰ろう。二年間で失われたものを取り戻すんだ。
一から出直しだ。未来がまた真っ白になった。不安と同時にわくわくもする。これから私はどうなるのだろう。どうなっていくのだろう。まっさらなキャンバスに、どんな素敵な未来を描いていくのだろう―――
※この作品はコーヒーを貶めるものではありません。
※作者は缶コーヒーではWONDAが好きらしい。
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