寒椿の君 (ばばすてやま)
しおりを挟む

序章
1.分茶離迦にて罪を焼かれよ


基本方針
・個性強い女オリ主と不死川兄の恋愛小説。
・原則人命救済はなし。
・時系列無視・独自設定、原作キャラ同士の男女恋愛要素、ネームドモブオリキャラ有。


 番町に邸宅を構える二階堂家の一人娘は今年十三歳になる。椿の花をことの外好み、年少の女中たちがふざけて椿の御方、と称したのを自ら気に入ったので、家族もこの娘を椿と呼び習わした。社交界ではすでに評判の可憐な娘で、優しい父親、美しい母親、山ほど仕立てたとりどりの着物、美しい細工のかんざし、父にねだって手に入れた舶来の懐中時計や万年筆などたくさんの品々を持っていた。そして一夜のうちにそれら全てを失ってしまった。

 

 明るい月の夜で、臨月の母親は寝台に横たわり、膨らんだ腹を撫でさすっていた。上の娘を産んでから、十年以上も待ち望んだ大切な赤子だった。周囲は後継の男児を望んでいたが、母にとっては男でも女でも可愛い我が子であるから、どちらでも構わず愛するつもりでいる。

 開けた窓から初秋の金木犀の甘い香りがほのかに漂っていた。椿は自室で、生まれてから一度たりとも切ったことのない、自慢の長い髪を梳いていた。

 椿の生まれた一族は近縁を華族に連ね、元禄年間には老中を輩出したといい、父は分家の際に祖父から与えられた伝来の刀を家宝にしていた。男であればその家名に恥じないよう勉学と武芸に励むようよくよく言い聞かされていたかもしれぬが、女の椿には相関わりない話だった。父は事業で財を築き、海沿いに工場をいくつかと広大な土地を所有して、大勢の使用人を傅かせて、流行りの西洋風の館を住まいとしていた。父も母も、娘をおおいに可愛がり甘やかした。

 その日、夜半遅くになっても父が帰らなかったので、椿は不安だったが、母は会食で引き止められたのだろうと意にも介しない。ふいに外からどんどん、と大きな音がしたので、椿は自室を出て、玄関に向かった。

「父様?お帰りになったの?」

 玄関口から聞こえたのは、父親の低い落ち着いた声ではなく、獣のような唸り声だった。戸口が突き破れる音、続け様に鈍い音がした。それが人の肉が潰れるときに発する音であると、この時の椿は知らなかった。

 屋敷中の灯りが消えて、悲鳴が響き渡った。窓ガラスが割れる音、叫び声、何が起きているのか皆目分からぬまま、椿はその場に震えながら蹲って、嵐が過ぎ去るのを待った。

 どれほどの時間が経っただろうか。あたりを静寂が満たしたので、椿は暗闇の中を恐る恐る這って進んだ。

 途中廊下で、見知った顔の下男が血を流して倒れていた。後頭部が吹き飛び、頭蓋が露出している。死んでいた。

 吐き気を堪えて吹き抜けを通り過ぎ、寝室に近づくと、か細い女の声がした。

「母様」

 母親の声がする。椿は立ち上がり、破壊された扉の影から室内を覗いた。寝台の上になにか異様な「もの」が――それが母に覆いかぶさっている。

「お願い……子供だけは……子供だけはどうか……」

 母の下肢は食いちぎられ、異形の口から血が滴っているのが月の明かりに照らされてはっきりと見えた。

 異形は瀕死の母親の願いを嘲笑うかのように、大きく膨らんだ腹部に牙を突き立てた。口から血泡が溢れ、苦悶と絶望の声を上げて母は絶命した。

 

 母親の凄惨な死に様を目のあたりにして、椿が微動だに出来ずにいると、異形の怪物がこちらを向いた。目が合った。

 

 それは獣にあらず。剥き出しの両眼。血肉の滴る牙。人間のそれとは良く似ているけども決定的に異なる手足。

 

 逃げなければならない。

 

 椿は無我夢中で走った。異形が追う気配を後ろに感じながら、椿はほうほうの体で父の書斎に逃げ込んだ。棚には、父が大切にしていた家宝の刀が恭しげに安置されている。

 椿は刀を手に取り、鞘から引き抜いて異形の方を振り向いた。異形は不愉快な調子を帯びて笑った。刀をひっつかんだ細い腕が震える。椿は剣など握ったこともない。これが初めてである。

 

 だが戦わねば死ぬ。

 

 思い切り刀を振りかぶったが、異形の腕の一振りで刃先は容易く叩き折られた。続け様に両の腕を切り裂かれ、苦痛のあまり刀を取り落とし膝をつく。

 異形が爪についた血を舐めとった。生理的な嫌悪感で、この後に及んで背筋がぞっと震える。

「極上の稀血だ……最後まで残しておいた甲斐があった……俺は好物は最後までとっておくんだ」

 異形が迫る。壁に突き飛ばされ、後背を強く打ち、意識が遠のく。

 死んでしまうのだろうか。

 走馬灯はなかった。ただ、魂が芯から凍えるような寒さがあった。

 遠くなる視界に人影が過ぎる。それが何なのか、思考を巡らす暇はなかった。闇に浮かび上がった「滅」の一字だけが、消えゆく意識の最後に残った。

 

 

 次に目が覚めたとき、椿はまったく軽傷で布団に寝かされていた。頭を多少強く打っていたのと、四肢を浅く切り裂かれただけ。悪夢の夜を生き延びたのは椿一人だった。それ以外のすべては館ごと燃えてしまった。混乱の最中、台所の火種が引火して燃え広がったということだった。

 世間の人は皆々、やんごとない一家を襲った滅多にない悲劇である、不運な事故だと語り草った。それが人外の存在である鬼の仕業などと知りようがあるはずもなかった。

 

 椿が最後に見た影は、鬼殺隊と称する鬼狩りの集団の一人であった。家族を喰い殺した鬼を屠り、燃え落ちる館から椿を連れて救ったその鬼狩りはまもなく見舞いに来てくれて、鬼のこと、その習性や始祖のこと、鬼殺隊の成り立ちなどを教えてくれた。

「あの鬼はわたしを『マレチ』と呼びました。『マレチ』とはなんですか」

 椿が問うと、これまで明快に言葉を紡いでいた隊員が初めて言い淀んだ。

「稀血というのは……鬼にとって栄養価の高い血肉を持つ人間のことだ。鬼は人を喰えば喰うほど強くなるが、稀血の人間は一人で五十、百の人間に匹敵する。だから、鬼は稀血の人間を好んで襲う」

「それでは、あの鬼の狙いは私だったのですか。私のためにみな命を落としたのですか」

「それは違う。鬼は人間であれば、それがなんであれ容赦なく喰い殺す。失われた命の責任は、君一人が背負うことじゃない」

 

 肉体の傷は癒えつつあり、看護師が「跡も残らなさそうだ」と喜んでくれていた。身の回りの世話をしてくれている下女は気を遣って、摘んできた竜胆を一輪挿しに挿して飾ってくれる。誰もが優しかった。

 

「あの化け物がこの世に跋扈して久しいと聞きます」

 椿は往診に来た医師に向かって話しかけた。

「人の命があんなふうに夜毎脅かされ奪われているなんて、私、知りませんでした」

「お嬢さん、あまり気に病むんじゃないよ」

 医師は痛ましげに諭したが、椿の耳には入らなかった。

 

 椿はこの世の不条理の中に自分が生かされた意味についてこんこんと考えていた。

 

 はらわたを悲しみと憎しみに焼き尽くされて、虚ろになった骸の中に心臓だけが取り残されて脈打っている。なぜいまだこの心臓が脈打つのか椿は不思議だった。

 己の世界を構築するすべてを失い、それらを喰らい尽くした鬼もまた滅ぼされた。この命があるのが不思議でたまらない。今すぐ愛するものの後を追ったところで誰も引き留めはすまい。だが、許されてはいけないものがこの世にいまだ在ることを知ってしまった。

 

 自分がこの世に生かされた意味があり、成し遂げなければならないことがあるとするなら、それは、有りうべからざるその存在を、この世から消し去ることの他にないのではないか。

 

 そのことに気付けば話は早かった。自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、はっきりと理解したのである。

 椿の心は決まった。

 ちょうどその頃に鬼殺隊の頭領である産屋敷の当主に面通りする機会を得たのは、思いがけない幸いだった。

 椿は当然、こちらが赴くものと思っていたが、彼は尊い身分であるのに、わざわざこちらの病床まで見舞いにやってきた。それで彼の人柄が伺えた。

「失礼するよ」

 彼は細君と思しき女性を伴っていた。産屋敷の当主は若く、椿とそう年も変わらない。額に奇っ怪なアザが広がっていたが、纏う空気の清廉さ、高潔さは年齢にそぐわず、自然と敬服したくなるような雰囲気を漂わせていた。

 椿は畳の上に手をついて平伏した。

「産屋敷様、拝謁の機会を賜りましたことに感謝いたします。そして我が家財について、良く取り計らっていただいたこと、重ねて感謝を」

 館は燃えたが、椿の手元には父から継承した様々な権利や有形無形の財産が残されていた。その財産を、椿が子供であることを良いことに、禿鷹のような一族の係累のものが掠め取っていこうとしたが、産屋敷がすべて取り戻してくれて、信用あるものに運用を任すよう取り計らってくれていた。

「顔を上げてくれないか。そんな風にかしこまらなくていい。当たり前のことをしたまでだから」

 心地の良い声音がその場に落ちる。それで椿は顔を上げた。

「短い間ですが、こちらの方々にはお世話になりました。みなさまのおかげで身体も癒えましたので、明日には床払いとさせていただきます」

「急がなくてもいい。辛い目にあったのだから。心が落ち着くまで休んでいて良いんだよ」

「私ごときにもったいないお言葉。しかし、心配は無用です。産屋敷様、僭越ながら、お願いの儀がございます」

 椿は流れるように言葉を続けた。

「私を鬼狩りの一員に加えていただきたい。『育手』を紹介いただきたいのです。身の程知らずのお願いであることは承知の上ですが、この通り」

 七重の膝を八重に折り曲げて、椿は深々と頭を垂れた。産屋敷はまったく虚を突かれた風ではなく、むしろ、椿の申し出をはじめから予測していたようだった。

「対価無しとは申しません。私の財産をすべてそちら方に寄進致します。鬼殺隊の運営にでも、鬼に襲われた方の生活の再建にでも、自由にご用立ててください」

「そんなことをしなくてもいい。君の申し出を無下にはしないよ」

「いえ、いえ。お受け取りください。どうあってもこの私には無用のものです」

 無用と感じる心は本当であったが、椿としては自分なりの覚悟を示したつもりでもあった。それは人の目には、覚悟というよりも、自棄と呼んだほうが正確に映る所業である。産屋敷はそんなことを指摘する野暮を犯さなかった。産屋敷の眼差しには、深い慈悲が宿っていた。

「椿の君、君がそう、望むなら……」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.霜降る夕に故郷を思う

 鬼殺の剣士を育成するものを育手という。椿の育手となったのは白い髭を蓄えた隻眼の老人で、この頃はもう弟子を取ることも少なくなっていた。

 老人にとっておそらく最後の弟子になるだろうこの少女は、剣どころか斧を手に持って薪を割ったことすらない、甘やかされた深窓育ちの令嬢である。娘の境遇のことは産屋敷からの手紙で知らされていたが、彼女の決意が続くかどうかは半信半疑だった。

 鬼狩りの道は過酷である。剣の道を諦めて隠になるものもいるし、市井に帰って生きていくものもいる。ただでさえ残酷な世界で、わざわざ修羅の道を強いる者はいない。だから、娘が泣いて逃げ出すようなことがあっても、叱ってやるまい止めてやるまい、とだけ決めていた。

 

 訓練が始まると、椿の苦労知らずの手はあっというまにぼろぼろになったが、一月、二月と修行場で過ごしておいて、娘が泣き言一つ漏らさないだけでも老人には十分な驚きだった。さらに驚くべきことに、三月目には、一年長く修行している兄弟子から一本取った。

 

 剣の筋が良い。資質がある。

 

 老人も認めざるを得なかった。それは本来であれば、生涯必要とされることなく、少女の中で眠っていたはずの才能だった。

 むろん、鬼と戦うためには何もかもが足りない。体力が足りない。筋力が足りない。技術が足りない。死ににいく覚悟だけは一人前だった。

 そして、足りない部分を補い力をつけさせるのが育手の仕事だ。老人は椿を厳しく指導した。少女は理不尽な要求にもよく応え、岩を寝床とし、泥水を啜ってもなんでもないようだった。

 椿は表情が希薄で、めったに笑わない。これが良い、あれが嫌だ、などということもない。言われたことを淡々とこなす。できないことは何度でも繰り返して、できるまでやる。

 老人は傷付いた小娘の心を解きほぐすことは得手ではない。だからせめて、命を失うことがないように、ありったけを教え込んで育てあげた。どれだけ鍛えて鍛えて上げても、何かを奪われないために十分過ぎるということはないのだ。

 

 

 師事しはじめて一年余りが経つころ、育手は最終選別に向かう許可を下ろした。椿は特に感慨も湧かず、気を張るでもなく、ただようやく鬼を殺すことができるのだ、と思った。

 

 最終選別が行われる藤襲山。一面に藤、藤、藤の花。幻惑的な光景に導かれるようにして山を登ると、中腹あたりで広場に着く。選別を受ける者たちがすでに集まっていて、重苦しい空気が辺りに満ちている。

 

 最終選別の合格条件は鬼の徘徊する山中で一週間生き延びること。

 

 口にすれば一言だが、これがなかなかに難しい。何年と修練してきても、いざ鬼を目の前にして一瞬でも足が竦んだりするとそれが命取り、次の瞬間、鬼に手足を喰い千切られる羽目になったりする。生死の境界は紙一重である。

 しかし、人を二人三人ばかり喰らった鬼に立ち向かって生き残れずして、隊員になれたとしても戦場で死ぬだけだ。そもここに集った時点で、みな命など捨てたも同然である。

 

 椿は早々に鬼に出会した。鬼は椿を見てにたりにたりと笑った。

「女だ」

 続けて何ぞ言われた気がしたが、霞がかった雑音のようで、耳に入ってこなかった。どの道聞く価値もない。

 鬼を前にして、椿の心は不思議と凪いでいた。胸にあるのは一念だけだった――鬼は殺さなければいけない。

 

 鬼がこちらに突進して襲いかかると同時に、椿も踏み込む。

 

 水の呼吸・壱の型、水面斬り

 

 何万と反復して身体に叩き込んだ型を繰り出す。師から授かった日輪刀の刃先は寸分狂いなく頸を切り落とし、鬼は断末魔とともに塵になって消えた。

 

 水の呼吸は、まるでそうあるべくして生まれついたかのように椿の身体によく馴染んだ。

 

 椿には連れもなかったので、この試練を一人で乗り切る気でいたが、ひとつ思いがけぬ出会いがあった。

「どちら様」

 木立に人間の視線を感じて、椿は声をかけた。出てきたのは広場にいた少年少女の内の一人で、椿を除いては唯一の女の子だった。

「鬼を倒すところ、見てたの。ごめんね」

「謝るようなことではありません」

 その少女は真菰と名乗った。椿よりも一つ年下で、小柄で非力だったが、身のこなしが恐ろしく素早い。同じ呼吸の使い手同士、二人の息はぴたりと合った。それで、最初の夜に顔を合わせて以来、自然、行動を共にするようになった。

 日の高い内に眠って体力を回復し、夜は二人で共に戦い鬼を殺す。それ以外の時間は食べられるものを探したり、たわいも無い話に興じた。

 道端に生息する野草を摘みながら、真菰が言った。

「私、白瓜が好きだなあ。初夏に収穫してね、漬物にすると美味しいんだよ。椿ちゃんは何が好き?」

 はて、自分は一体なにが好きだっただろうか。真菰に問われて記憶を探ると、ぼんやりと両親とともに伊勢に参った思い出が蘇った。参拝に行く道の途中にある店先で、家族で菓子をつまんだのだ。

「甘い物……あんころ餅が好きです」

「あんころ餅!私も好き!」

 誰かと心を通わせるのは嬉しかった。同じ年頃の少女と屈託なく語り合うのは久方ぶりのことだった。

 話をする中でも、真菰はとりわけ、父のように慕う鱗滝という育手のことを楽しそうに語った。

「このお面はね、鱗滝さんが彫ってくれたんだ」

 真菰は愛らしい花の紋様が彫られた狐の面を撫でた。厄除の面といい、悪いものから身を守ってくれるようにと、願いが込められたものであると言う。椿は彫り筋の一つ一つに、作り手の深い愛情を感じた。

「きっと椿ちゃんの育手の人も、同じように想ってくれているよ」

「それは……私は真菰のようではないから」

 きっと違う。真菰の話からは育手との深い信頼関係を感じ取れた。しかし、椿と育手の老人の間には普段たいした会話もない。ここまで鍛えてもらった恩義はあるが、それ以上のものはない。

「そうかな。ほら、この日輪刀の拵、やり直したばかりだよ。きっと椿ちゃんが握りやすいように仕立て直してくれたんだよ」

 真菰に言われるとそうであるような気がする。生きて帰ってほしいと願われている、この世のどこかにそう想ってくれる人がいる、というのは、虚な胸の内のどこかに暖かいものを灯されたような気持ちだった。

 

 真菰はおっとりしているようで鋭い。そして愛らしい見た目とは裏腹に、鬼に容赦がない。

 椿は真菰とは数日しか一緒にいないのに、すでに彼女のことが大好きになっていた。姉妹というものがあるならこういうものかと、互いにそう思い合っていた。

 

 椿の方が力強く、真菰の方が素早い。互いが互いの欠点を埋める戦い方に慣れてきて、二人はどんどん強くなる。所詮女と侮って油断して襲いかかってくる鬼どもも、二人のあまりの強さにたまりかねて逃げていく。

「追いかけなくてもいいよ」

 逃げていく鬼を追跡しようとした椿を、真菰が止めた。

「もうすぐ朝だから。少し休もうよ」

 選別は後半に差し掛かり、野営続きで体力の消耗は激しい。疲労は募るばかりだった。

「でも、鬼を殺しにいかないと」

「どうして?逃げた鬼が他の人を襲うかもしれないから?」

 椿はそんなことは一つも考えていなかった。

「だって、それは……ただ……鬼は殺されなければいけないから……」

 椿は同じことを繰り返した。理由になっていなかった。

 真菰はそれ以上追求せず、少し悲しげに微笑んで、そう、とだけ言った。

 

 鬼を殺すのは気分がよかった。人間の悪党なら、一寸の善心も残っているだろうと手心を加えてやれそうなものを、鬼に対してはまったく躊躇する余地がなかった。鬼は残忍で、醜悪極まりなく、ひとかけらの慈悲を与えるにも値しない。鬼とは例外なくそういう生き物なのだ。藤襲山で過ごすうちに椿は学んだ。

 鬼を殺す理由など、鬼が鬼であるという以外に、何も必要ではなかった。

 

 昼過ぎ、水を汲もうと川の近くまで行くと、対岸の清流のそばで子供が一人死んでいる。身体の大部分は鬼に喰われたとみえ、残った肉に烏が群がって啄んでいた。

「埋葬してあげるべきかしら」

 椿が言った。

「飢えた鬼に掘り返されるかも。だったら、鳥や獣に食べられるほうがいいんじゃないかな」

 確かに、死してこの上鬼の腹に収まるよりは、そちらの方がずっと良い。

 二人はせめてもの供養にと花を摘んで手向け、手を合わせた。

 

「私のこと、おかしいと思う?」

 

 日の暮れるころ、ふいに椿が尋ねた。

「鬼を殺したいの。殺さなければいけないと思うの。それしか考えられなくて」

 心なし考えて、真菰が答えた。

「いいと思うよ。それが生きていく理由になるなら」

 真菰はすこし寂しさをまとって綺麗に笑うのだ。

「胸が張り裂けそうに悲しくても、死んでしまいたいくらい辛くても、命がある限り生きていくしかないから」

 うん、と椿は頷いた。

「椿ちゃんの髪、綺麗だね」

「ありがとう。私は真菰の髪も好きよ」

「うん、でも、もう少し長かったらなあ。椿ちゃんの髪は長いから、纏めてかんざしを挿したらきっと素敵だね」

 かつて十、二十では足りないほど所有していた豪奢なかんざしや髪飾りの類はすべて焼失していた。椿がそういったものは一つも持っていないのだ、と告げると「綺麗な髪なのにもったいないよ。今度買いに行かなきゃ」と言った。

 椿は微笑んだ。真菰も笑った。

 

 そして最後の夜を迎えた。

 

 この夜、二人の前に現れた鬼はこの山で遭遇したどの鬼よりも巨大で禍々しく、一目みて歯の立たないことがわかった。二人はこの一週間で、初めて逃げるという選択肢を選んだ。

 だがその鬼は、どういうわけか執拗に真菰を狙うのだ。

「私のことは置いて行って」

 自分の足では逃げきれないが、真菰一人なら逃げることもかなうであろう。椿は懇願したが、真菰は首を振った。

「あの鬼が狙っているのは私。どうせ追いつかれるよ」

 逃げきれないのであれば、戦うしかない。だが何度斬りかかっても、鬼は硬く、頸を断つことはできない。

 鬼の異能で、地面から伸びた数多の腕が襲ってくる。椿はなんとか逃れたものの、はずみで山の斜面を転がり落ちて逸れてしまった。

 強かに身体を打ち、息が詰まりそうになる。椿は刀を支えにして立ち上がった。背中を強く打っただけだ。急いで向かわなければ。真菰は一人で戦っている。助けに行かなければならない。

「――真菰!」

 鬼が真菰を捕らえているのをみて、血が逆流するような感覚を覚える。

 椿は無我夢中で剣を振るった。

 鬼は思いがけない横槍に気を取られて、獲物を取り落とした。椿はすかさず真菰を抱きとめたが、その身体のあまりの軽さに絶句した。両腕両足の先が引きちぎられて失われていた。

 椿は歯を食いしばって、真菰を胸に抱えて走り出した。

 鬼は追いかけてこなかった。山際の霧が晴れ、ぼんやりと光が差そうとしている。間もなく夜が明ける。鬼は獲物に致命傷を負わせた以上、太陽の光に焼かれる危険を犯そうとはしなかった。

 

「真菰、真菰、死なないで」

 椿は安全圏まで逃れたことを確認すると、潰れた手足の先を布で縛り、賢明に止血しようとする。声をかけながら、涙が溢れ出るのを止められない。

 しかし、もはや何をしても手遅れだった。小さな身体で、あまりにも多くの血を流し過ぎていた。呼吸はあってなきがごとし。負った怪我の重さを思えばまだ息のあるのが不思議なほど。死の影がすでに少女を覆っていた。

 真菰の小さな唇が何か言いたげにはくはくと動いた。椿は一言も聞き漏らすまいと耳を寄せた。

「……今までありがとうって、生きて帰れなくて、ごめんなさいって……」

 椿は何度も頷いた。

「伝えるから。必ず、狭霧山の鱗滝さんに」

 真菰が笑った。その瞳から涙が一雫流れた。

「椿ちゃん、ありがとう……」

 それきり真菰は動かなくなった。

 短い付き合いだった。椿は朝日の照らす中で、冷たくなっていく小さな身体を抱きしめた。

 

 血塗れの少女の亡骸を背負ってよたよたとした足取りで広場に向かう椿に、頬に大きな傷のある少年が手を貸してくれた。無事に真菰の亡骸は麓まで運ばれて、そこで荼毘に伏されて骨壺に収まった。

 

 隊服と鎹烏の至急、玉鋼の選定といった諸事を終えて帰路につくことになると、椿は己の育手に無事を報告するよりも先に狭霧山に向かった。疲労は肉体的にも精神的にも限界点を超えていたが、なにを置いても真菰との最後の約束を果たしたかった。遺骨の入った壺と狐の面はそれほどの重量はないはずなのに、ずしりと身に重く感じられた。

 

 狭霧山の麓をしばらく行くと小屋があり、その戸口に真菰から話に聞いていた通りの風体の、天狗の面をつけた男が立っていた。

 鱗滝は椿が真菰の骨と遺品を持ち帰ってきたことに礼を述べた。

「真菰は優しい子でした――強い子でした」

 椿は何か言わずにはおれなかった。

「真菰は戦って、最後まで戦って死にました。私一人を置いて逃げることもできたのに」

 それから椿は、これほど多弁になるのはいつぶりであろうかとうほどの勢いで、出会ってから別れるまでのたった七日間の思い出を言い募った。真菰のことをこれ以上口にするのは、かえってこの人を苦しめるのではないかと思ったが、止まらなかった。鱗滝も、椿の話にしきりに頷き、遮ろうとしなかった。

 

 真菰の無念の分まで、などとはようも口に出来なかった。

 

 話が終わるとすでに夜で、泊まっていくように勧められたが、丁重に断った。これ以上長居していては、鱗滝が泣けないのではないかと思った。

 別れ際に、真菰のつけていた面を差し出された。愛らしい、花の模様が今は悲しかった。

「構わないのですか」

「真菰はそう望んだだろう」

 椿は礼を言って形見の面を受け取った。

 

「よく戻った」

 遅れて戻った椿を育手が出迎える。老人の声はわずかに震えていた。この人はずっと椿の身を案じてくれていたのだった。おそらく、椿がここにやってきて以来ずっと、彼は弟子を慈しんできたのだろう。ただ椿が気付いていなかっただけの話で。

「はい。ただいま戻りました、お師範様」

 椿は深く頭を下げた。老人は無事に帰ってきた祝いだと、内陸では滅多に入らない大きな鯛を手に入れてきて、捕らえた猪と山菜で豪勢な鍋を作ってくれた。どれもこれも美味しかった。

 

 選別が終わって十日ばかり経ったころ、刀鍛冶が日輪刀を運んできた。里長直々の手になるものだという。椿は何も知らなかったので卒直に光栄だと思ったが、育手は渋い顔をした。里長の女好きは有名だった。

「どうぞ、お手に取りください」

 日輪刀は別名を色変わりの刀と言う。椿が手にした瞬間、それは澄んだ薄青に色を変えた。持ち手が水の呼吸に適性のあることをはっきりと示していた。

 もし真菰が同じように日輪刀を手にとっていたら、同じように青色に変じたのだろうか。

 そう想像して、瞳が潤んだのを、椿はぐっと目を閉じて堪えた。

 

 悲しくても、やりきれなくても、前を向いて戦うしかないのだ。

 

 こうして椿は鬼狩りになった。癸、壬、辛と順々に昇進を重ねていく中、時同じくして選別を生き延びたものたちも次々と戦死して数を減らしていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-1.小話、胡蝶姉妹

 真夏の日盛りが青く茂った葉々を照らして光っている。

 走り込みと素振りの日課を終えて蝶屋敷に向かう途中の道で、椿は村田と出くわした。

 村田は時期は違うけれども同じ育手に師事した、いわば兄弟子である。村田のほうも、頼る身内のない椿のことを何かと気にかけて良くしてくれている。

 

「この先は蝶屋敷だろ。大丈夫か?具合悪いのか?」

「いえ、私用です。村田さんは任務ですか」

「うん、召集がかかってさ」

「お疲れ様です。どうぞお気をつけて」

 

 横を飛んでいた鎹烏が「オソイ!オソイ!」と喚きながら村田を突き回し始める。村田は「やめろよ!」と追い立てられるように去っていく。その後ろ姿を椿は見送った。

 誰かと出会い別れるとき、これが最後になるかもしれない、という可能性を常に頭の片隅で考え続ける。鬼殺隊に身を置くとはそういうことである。

 鬼を殺し続ける日々にあって、椿はかえって穏やかな心地だった。起きる。飯を食う。戦う。寝る。ときに笑い、謡い、爪弾き、季節の移り変わりに心が安らぐ。

 

 あの時、椿が死んで、真菰が生き残っていたとしたら、彼女もそうして生きていたはずだった。

 

 鬼を殺しながら、椿はまだ生きている。

 

 鬼殺隊に女は少ない。女は男に比べて非力でか弱く、すぐ死ぬ。

 そんな中にあって、胡蝶姉妹は異彩を放っていた。姉は花の呼吸の達人で、妹は毒物に精通している。揃って医学薬学に通じていたので、彼女たちの屋敷には連日、怪我人が運び込まれてきて、治療されて帰っていく。それを鬼殺の合間にこなすのだ。椿は感服しきりだった。

 椿は姉妹と任務で一緒になったり、手合わせを申し込んでいるうちに仲良くなり、手土産など持って屋敷を訪れる仲になったのである。

 「ごめんください」と入り口から声をかけると、少女看護師がやってきて、屋敷の主人たちのもとまで案内してくれる。何やら資料の整理などをしているようだったから、作業の合間を見計らって、椿は二人に声をかけた。

 

「カナエ、しのぶ。珍しい紅茶が手に入ったの。良かったらどうぞ」

 

 姉のカナエが、礼を言って包みを受け取った。

「そうだ、お礼にいただいたカステラがあるの。ね、みんなで一緒にお茶をしましょう」カナエが言った。

「だめよ。姉さんはまだ仕事が終わってないでしょ」

「少しだけ!しのぶ、少しだけだから」

「……もう、少しだけよ」

 姉妹が仲良くしているのを見るのは心が和んだ。

 年頃の娘たちが三人も集まってすることといったら、その辺の町娘であろうが鬼狩りであろうが、相場は決まっている。人の噂話ほど楽しいものはないのである。

「先日、岩柱さまが野良の子猫に餌をやろうとしていたのだけど」

「ふんふん」

「猫が怖がって餌に近づかないの。だから岩柱さま、その場を離れられて、遠くの木立から様子を見守っていらしたわ」

「きっと撫でて愛でてあげたかったでしょうね」

「お優しい方よね」

「かわいいわね」

「かわいい」

「素敵……」

 しのぶはうんうんと頷いた。カナエはどことなくうっとりしていた。

 お茶休憩は小半時ほどで終わり、カナエは名残惜しげに仕事に戻っていった。二人でティーカップと皿を片付けながら、しのぶが切り出した。

「椿、この後時間があったら、稽古に付き合ってもらえる?」

「ええ、大丈夫。元々そのつもりで来たから」

 片付けを終えると、二人は連れ立って庭に出た。竹刀を構えて向き合う。

 しのぶと椿が竹刀で打ち合い稽古をすると、これは椿の方が強い。しのぶの突きは速さといい威力といい見事だが、まだ発展途上で、椿にはこれを躱すことができる技がある。

 しかし、鬼を殺す、という技術においては、しのぶの方が一枚も二枚も上手だった。彼女の調合する致死毒の前には、ほとんどの鬼は敵わず死んでいく。

 翻って、椿にとってその辺の雑魚鬼は脅威ではなかったが、頸の硬い、または特殊な技を使う鬼の首を落とすとなると、とたんに決め手にかける。

 強力な鬼との戦いでは、単純な力勝負のみならず、戦術眼や経験則も問われる。これらを養うには、より多くの戦いを重ねて、経験を積むより道はないだろう。しかし、自分は果たしてそこまで生き延びることがかなうかと、椿は時折考える。椿は十二鬼月のように強力な鬼に遭遇したことはなかったが、このままでは出会ったが最後、あっさりと殺されてしまうだろうという予感があった。もっと強くなりたいのは山々だが、しかし、鍛錬を重ねた程度で早々強くなれるならば誰も苦労しない。

「しのぶ、また強くなったね」

「本当に?」

 しのぶが明るくなってぱっと笑った。

「ええ、さっきの一撃、今までで一番速かった」

 夕方を前に稽古を終える。椿が身なりを整えているのに、しのぶは俯いたまま、しかめ面をしている。椿は頭が半個分ほども低い場所にあるしのぶに向かって呼びかけた。

「しのぶ、どうしたの?」

「なんでもない」

「なんでもないことはないでしょう。そういえば、先程右の脚を強く払ってしまったわね。痛む?」

「ちがう」

 しのぶが観念して、大きく息を吐いた。

「背が伸びなくなったの」

 下を向いたまま、しのぶはぽつりとこぼした。

「去年までは少しづつだけど伸びていたのに、止まっちゃった」

 しのぶはもとより華奢で、身体のつくりの何もかもが小さい。手のひらの大きさなど、刀を握れているのが不思議なほどだ。

「悔しい。私も鬼の頸を斬れるくらい、強い力が欲しかった。そうしたら、もっとたくさんの人を助けられたのに」

 気の強いしのぶが漏らした滅多にない弱音に、椿はかける言葉がなかった。

 先日のこと、府中の辺りに鬼が出るというので、しのぶを含めた三人が任にあたった。うち二人は死に、しのぶだけがほとんど怪我も負わず生きて帰ってきた。その鬼は逃げ、今は柱が追っている。まだ割り切るには時が浅すぎた。

 僚友や無辜の人々が鬼に喰い殺されるたびに、自分一人のなんと無力なことだろうと、人智を超えた力を振るう鬼狩りですら、思い尽きぬことだ。

 それでもしのぶは泣いていない。心の強い子だと椿は思った。

「ごめんね、ばかなこと言って」

「いいえ。私も同じことを思うもの」

 男たちに混じって戦うと、体力のなさを痛感する。みなと同じ時間戦っているのに、一番先にへばって刃の冴えが鈍る。悔しかった。

「私たち、みんな一度は岩柱さまのようだったら、あんな風に強くなれたら、って思うものね」

 しのぶがふふ、と笑って同意した。

「ないものねだりしたってしかたないから。どうやって戦えるか考えた方が、ずっといいわね」

 ようやく上を向いた。しのぶは笑っている顔が一番いい。

「ごめんね、こんなこと姉さんには言わないで。困らせるだけだから」

「カナエはしのぶに迷惑をかけられたって、全然構わないと思うけれど」

「だめ、だめ。言わないで」

 

 四日後、椿は東海道沿いの旧い宿場町に赴いた。

 相次ぎ子供が行方知れずになるのだといい、指令に従い調べていくと案の定、鬼の仕業であった。追い詰めた鬼の鋭い牙と爪は只人ならばひとたまりもないだろうが、幸い椿の敵になるような相手ではなかった。誰にも知られぬ内に斬り捨て、その足でさっさと本拠に帰還した。

 懐の時計を見ると午前四時過ぎである。直に夜が明けようとしていた。帰って休もうとしたが、神経が逆だって寝付けそうにない。

 ふと思い立って、鬼殺隊の隊士を弔う菩提寺に足を向けることにした。

 堂には絶えず新しい位牌が納められ、境内に線香が上がる。こうして身寄りあるものも無いものも、みな死して等しく霊を慰められているわけである。

 仏殿の前に人の姿があったので、このような時間に先客かと思い誰ぞとみやると、絹のような美しい黒髪と蝶の髪飾りに羽織。胡蝶カナエであった。

 

「カナエ」

 椿が声をかけると、彼女もこんな時間に人に出くわすとは思いもよらなかったと見え、驚いていたが、すぐに表情を和らげた。

「お帰りなさい。任務は終わったのね?怪我はない?」

「ええ、ご覧の通りよ」

 二人はそれから、墓地の方まで一緒に歩いた。蝉の声も聞こえぬ静けさだった。

「しのぶのこと、ありがとう」

 元々、しのぶとのやりとりを、カナエには見透かされているような気がしていたので、さして驚きはなかった。カナエが可愛い妹の苦悩を見逃すはずがないのだ。とはいえ、約束が約束であったから、礼を述べられる筋合いもないと思った。

「さあ、なんの話かしら」

 カナエもそれ以上はなにも言わなかった。

 墓参を終えるのと時同じくして、東の空から日が指し始めた。無意識にほっと息を吐く。山際に見える朝焼けは美しかった。

「綺麗ね……」

 カナエの横顔には、凛とした美しさが漂っていた。

「お館様にお目通りをしたの。柱の一人が引退するから、その後釜にって」

「まあ」

 カナエはすでに柱となる要件を満たしていた。だから、次に柱が欠けた時、その席に着くのが彼女であることは予想されていたことだった。

「カナエ、おめでとう」

 椿がカナエの両手を包んで祝福すると、カナエは「ありがとう、椿」と言ってにこりと笑った。

 椿はカナエが鬼から人々を守りたいと、その一心で柱を目指していたのは知っている。それに、柱になれば妹を継子にできるのだ。柱は継子が受ける任務に采配を加えられるようになる。鬼狩りはどうあがいても死地にある。同じ死地でも、せめて姉妹共に向かうことができるならそちらの方がずっと良い。

「よかった。椿が祝福してくれるか気になっていたの」

「どうして?」

「だって、以前、鬼狩りが鬼を哀れむなんて信じられないって、そう言っていたじゃない。そんな人間が柱なんて……」

 そう、確かにそんなやりとりがあった。鬼を哀れむ、まして鬼と仲良くするなどと、椿には正気沙汰とは思えなかったから、強い言葉でカナエの言を撥ねたのだ。

「私はカナエの言っていることに一つも賛同はできないけれど、あなたがあなたの信条を貫く分には否定しません」

「椿……」

 カナエの優しい瞳に、椿は先立った少女を思い出した。鬼に殺された彼女も、同じように優しい眼差しで椿を見つめてくれた。

「けれど、あなたは強いけど、優しすぎるから……その優しさが、いつかあなたの身を滅ぼさないか、それだけが私は心配」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-2.小話、冨岡義勇

 大部屋の左右にずらりと寝台が並んでいる。ここには緊急を要しない怪我人たちが集められていて、それぞれ思い思いに寛いでいた。

 椿は談笑しているある患者と見舞い客に近寄って声をかけた。

「村田さん、ご無事ですか」

「……無事に見える?」

「ああ良かった。お元気そうで何よりです」

 椿は安堵の思いで微笑んだ。

 寝台では兄弟子が、全身ミイラ男のように包帯をぐるぐる巻きにされて横たわっていた。しかし、五体満足で生きている。それだけで十分すぎるほど無事と言えた。

 村田は先の任務で、全身の骨が小枝のように折れに折れて、全治数か月と医者に言われている。手足は不能で何も出来ないが、首から上は無傷で口だけはよく回るので、見舞いの客との語らいで無聊を慰めていた。それで椿も見舞いに来たのである。

 椿の先に来ていた見舞い客は後藤と名乗り、隠に所属してまだ日が浅い。戦場に落っこちていた村田を回収した縁で、仕事の合間を縫って訪ねてきたのだという。

 「兄弟子が世話になりました、お勤めご苦労様です」と言って椿が頭を下げると、後藤は逆に畏って、深々とお辞儀を返してくれた。

「何やら、楽しそうにお話しをされていましたね」

「いや、世の中にはとんでもない奴がいるもんだなあって」

「?どなたのことですか」

 とんでもないというからには、柱のいずれかかと思ったが、それにしては調子が違う。

「椿ちゃん知ってるかな。冨岡だよ。冨岡義勇」

 とみおかぎゆう、と聞いた名前を口の中で転がす。

 椿が見舞いに持ってきた柿を、看護師が剥いて持ってきてくれた。村田が食べさせてくれないのかと言いたげな、ものほしげな目線を投げてきたが、椿が無視したので、隠の青年が哀れんで村田に食わせていた。

「ええ、お名前だけは」

「あいつすごいよ。俺らが束で全然敵わなかった鬼の頸、一瞬で落としてた」

 聞けば彼は村田の同期なのだという。冨岡は近頃とくに評判の高い男だ。先日は柱との協力で十二鬼月の下弦を一体屠ったと聞く。椿は直に会ったことはないが、それは見事な水の呼吸の使い手だと聞き及んでいる。

「今まで知らなかったのか、同期なのに」後藤が突っ込んだ。

「あんなに強いと思ってなかったんだよ!付き合い悪いしさ、あいつ」

 鬼殺隊には公の同窓会はないが、同期同士にはなんとなしに連帯意識のようなものが生まれるのが常であった。椿も同期の何人かと連絡を取り合っている。付き合いの悪いものもいるが、そういう時は事情を察してやって、あまり立ち入らないのが作法と言えた。

「椿ちゃんもすごいしさ、俺、心折れそう……」

 村田はもともと、隊員になったばかり頃の椿と手合わせしてまるで歯が立たず、以来、妹弟子に対して完全に自信を喪失している。

「そう落ち込まれずに。村田さんはよく頑張っていらっしゃいますよ」

 椿は実際彼を大した男だと思っている。これほどの長い間前線に出ておいて、生き残るのは決して容易いことではない。

「そうだといいなあ」

「そうそう。俺なんかからしたら、お前だって十分普通じゃないぞ」

 才に恵まれず隠の道を選んだ後藤からすれば、村田とて立派な剣士である。後藤にとっては鬼狩りの剣士は全員雲の上の人で、見えない雲の中でどっちが上であるかなど些事である。ただし、柱は除くが。あれは天に輝く星のようなものであった。

「上ばかり見てもキリがない。しかし下を見て自尊心を満たすというのは人間としてまっとうなありようではない。結局、自分の目線の高さでものごとを見据えて、己のできるだけのことを精一杯やるのが人の道というものだろ」

「いいこと言うなあ、お前」

「隠に入る時にな、お館様に拝謁する機会があって、こういった類のことをおっしゃったんだ」

 後藤がしみじみと言った。

 

 さて、こんな話をした後の次の任務で、どういう巡り合わせか、渦中の人であるところの冨岡義勇と一緒になった。

 

 冨岡は無造作に伸びた黒髪、切れ長の瞳をした涼しげな男で、一見してはとてもそう強いとも思われぬ。しかし、あの清楚にして可憐、性格の柔和なカナエがどれほど腕が立つのか、知らぬ椿ではない。人は見かけに寄らぬと痛いほど知っている。

 

 鎹烏に案内されて鬼の居る場所に向かうと、地面にたんたんと血痕だけが残されていてもぬけの空だった。大方鬼狩りを恐れて退散したのだろう。血の跡を追うと、通りの端っこで人間が蹲り、傷口を抑えてながら震えて泣いていた。髪に白いものが混じる初老の男だ。気配からして、人間で間違いなさそうである。

 さてどうしようかと冨岡の方を振り向くと、彼は一瞥くれて「俺が行く」と言い放ち、そしてこちらの返事など待たずに行ってしまった。

 階級が上の自分が鬼を追い、相方に怪我人の処置を頼む。

 合理的で迅速な決断だ。結構なことである。

 椿は男に声をかけ、傷の具合を見てやった。幸い傷は浅く、毒の類もなさそうである。応急処置の後、町医者にでも診させてやれば十分だろう。

 男があれは何だったのだと問うので、鬼ですよ、あなたを襲ったのは鬼ですよ、と言うとははあ、といまだ容易に信じられぬけども得心が行ったような面持ちだった。そして「そうか鬼かい、鬼がいるのかい。おばあ様が昔、寝る前に聞かせてくださったおとぎ話は本当のことだったのだねえ」としみじみと言った。

 

「このような夜分遅くに、どちらへ」

「神田まで出かけた帰りだったのですよ。娘がそこで女給をしとるもんでして」

「そうですか。それは災難でございましたね」

 雑談していると、男はだんだんと落ち着きを取り戻してきたようだった。

 しかし、冨岡が中々戻らないのが気がかりである。

「旦那様、この通りを下って南南東へ向かいなさい。藤の紋を掲げる屋敷がございます。そこに助けを求められるがよろしい」

「お嬢さんはどうするんだね」

「仲間が鬼を追っていますから、加勢にゆきます」

「ああ、何と言うことを仰る。それはそれは恐ろしい化け物だった。やられてしまうよ、ひとたまりもないよ」

「大丈夫です。鍛えておりますから」

 

 男を鎹烏に任せて、椿は鬼と冨岡の後を追った。

 街の外れまでやってくると、行く道を塞ぐようにして異形の鬼が立っていた。反射的に刀を振り抜いて頸を落とす。だが霞でも斬ったかのように手応えがない。

「泥?」

 頸を切られたそれはたちまちぼろぼろと崩れてただの土塊と化した。これは血鬼術だ。

「こいつらは分身だ。いくら斬っても意味がない」

 横の細道から冨岡が現れて言った。

「本体はどちらに」

「近くにいる」

 冨岡はそう言ってすっと雑木林の方を指差した。

 

 一体一体の強さは全くたいしたことがないが、人間を盾に取られると厄介だ。鬼がやたらと数を増やせることがわかった時点で、周囲に被害が及ばぬよう、本体を街の外れまで追い込みながら注意深く戦っていたのだろう。

 剣の腕前といい、状況判断能力といい、これは噂になるはずだった。

 

 二人で泥の分身を倒しながら、雑木林に入っていく。見つかったのは子供の姿をした鬼だった。

「殺さないで!」

 鬼はもはや泥人形を作る力もないのか、こちらに見つかるや否や両手を挙げて害意がないことを示そうとしていた。

「お願い、見逃して……」

 鬼の目には涙が光っていたが、椿には一片の同情の余地もなかった。一度人を食らった鬼が改心するはずがないのだ。

「鬼狩りが鬼を見逃すとでも?度し難い低能ですね」

 椿の言を受けて、鬼の殺意が膨らむ。同情を誘って隙を見つけるつもりだったのだろうが、滑稽甚だしい。

 椿が刀を振り抜くまでもなく、冨岡の剣が一閃する方が早かった。

 

水の呼吸・肆の型、打ち潮

 

 あまりの速さに鬼は何が起こったのか気付くこともできないまま、頸を斬り落とされて塵になって消えた。

 

 冨岡の技は、椿が使うのと同じ技であったが、精度が段違いに高い。その剣捌きの見事さときたら、嫉妬の念すら湧かなかった。それが極限の鍛錬の成果を理解できるゆえに。

 椿は柱の戦いぶりを見たことがあったから、彼らの凄まじさは知っている。ただ、それとは別に、同じ呼吸の使い手として、冨岡の極限まで練り上げられた技の極地のすごみが理解できたのだ。

この境地に至るまでに、一体どれほどの鍛錬を積んだのか。

 しかも、冨岡の技はまだ完成に至っていないことがありありとわかる。この上にいまだ伸び代を残すとは驚異である。

 それが理解できただけでも、椿自身も日進月歩で進化を遂げているのであるが、そんなことでは気の取り直しようもなかった。

 

「……静謐にして流麗なる凪の剣。お見事でございました」

 

 椿の賛辞に、冨岡は居心地悪げに肩を竦めた。

 鬼は誅伐され、町には平穏が戻った。月はいまだ中天にある。

「お腹が空きましたね」

「そうだな」

「藤の家紋の屋敷に向かいましょう。何か出していただけるかもしれません」

二人で並んで歩いていると、椿の視線が気になるのか、冨岡はなんだともの言いたげだった。

「どうしたら冨岡さんのように強くなれるでしょうか」

「お前はそれほど弱いとは思えないが」

「足りないんです」

 椿の真剣な眼差しに促されて、冨岡はしばし考えたあと、こう言った。

「死ぬほど鍛える。それしかないんじゃないか」

「やはりそれですか……」

 結局のところ、強くなるのに近道はないということだ。

 いやはて、と椿は思い直した。近道はないが、効率の良い鍛錬というものは存在する。そして効率の良い鍛錬とは、己より強い者に稽古をつけてもらうことだ。

「冨岡さん……いえ、お師様とお呼びしても?」

「は?」

 椿の数年にもわたる冨岡への弟子入り願いは、この時から始まったのだと、二人は後々に回想することになるのであった。

 

 ところで、助けた初老の男のことである。

 藤の家紋の屋敷を訪れると、先に着いていた彼は二人を命の恩人といたく持て囃してくれた。腹が減ったというと、定食屋の主人だというこの男、屋敷にあった食材で見事な夜食をこしらえてくれた。

 こうして冨岡と椿は、ありがたくも彼の店で末長く歓待される権利を得たのであった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一章
4.雁の声でも聞こうか


ようやく恋愛パートに突入


 

 不死川はその女を初めて目にしたとき、ここはこの世に非ず、眼前に在るのは天女か観音いずれかに相違ないと思った。それほど美しかった。

「お目覚めになったのね」

 女の美しい表情が和らぎ、鈴のような声が上から降ってくる。優しく額の汗を拭われる。やはり天女である。

 今回の任務は、隊士が十数名がかりで取りかかった大捕物で、最終的に柱まで出動させて鬼を討伐することに成功した。不死川は命に別状はなかったが、いささか血を流しすぎて、戦いの後、しばし意識を失っていたのである。それを看護していたのが、後援でやってきた椿だった。これが二人の出会いだった。

「粂野くん、ご友人の意識が戻りましたよ」

 ほっとした様子でこちらにやってくる親友の姿を見とめて、不死川はようやくうつつに帰ってきた。

 天女は不死川の体調に別状がないことを確認すると、他の者の世話に向かった。

「匡近、ありゃ何者だ」

「椿のこと?」

 親友いわく、名を椿と言う。粂野とは同じ年に最終選別を生き残った同期同士で、階級は上から数えて三つ目の丙に位置する。女だてらに腕の立つ剣士で、蝶屋敷に出入りしているうちに、胡蝶姉妹に教わって簡単な医療技術を身につけたので、その腕前を重宝されている。

 

 不死川自身は当初、こうも正気を失い惑わされるのも、意識混濁状態ゆえの気の迷いかと思われた。しかし、しばらくしても女への評価にはいささかの変わりもなかった。

 

 不死川は己の風体が世人に恐怖を与えるのはよくよく承知していたから、縁を繋ぐ望みは薄いと思っていたが、望外なことに椿は粂野の友人と紹介されれば物怖じせず絡んできた。

「不死川くん、いま帰りですか」

「おう」

「ちょうど良かった。うちに寄って行ってくださいませんか。お菓子をもらったのですが、食べきれなくて。捨ててしまうのも勿体ないし」

 ついていくと、卓袱台の上に山ほどのおかきと煎餅と饅頭と、あんこのおはぎ。最後のは一日五度と口にしても飽きない不死川の大好物である。

「どれが良いですか」

「ん……」

 さすがにあからさまに好物を指し示すのは躊躇われた。

「ああ、できれば、おはぎをお持ち帰りいただけると嬉しいのですが。日持ちしないので」

「それでいい」

「ありがとうございます」

 まさか意思が通じたわけでもあるまいが、結果的に一番良いものをもらったわけである。それにしてもこの女と話していると自分が木偶の棒にでもなった気がする。言葉が出てこない。

 椿は不死川に菓子を包んで渡すと、軒先で「それでは私はこれから任務に参りますので、さようなら」と言って別れる。そしてあっという間に去っていった。

 見た目通りのたおやかなだけの女ではなく、存外思い切りが良い。ますます気に入った。

 

 何がそれほど慕わしく思わせるのか。冷たい中に凛と咲く寒椿を思わせる面差しか、豊かな髪か、ふっくらとした赤い唇か、細い首筋か、白い肌か、憂を帯びた青き眼差しか、どう振る舞ってもかすか滲む気品の深さか。様々に並び立てても、理屈で説明できるものではない。

 

 何のことなく、ようするに物凄く好みの女で、一目惚れだったというだけのことである。

 

 そうした親友の変化に、四六時中一緒にいる粂野が気付かぬはずもなかった。

「実弥、ちょっといいか」

 稽古の合間に休憩に誘い、稽古場を出た先の廊下で粂野は単刀直入に切り出した。

「お前、椿に惚れてるんだろう」

 不死川は目の前の柱に強かに額をぶつけた。

「……俺はそんなに分かりやすかったかァ?」

「うん、まあ、ちょっと……」

 恋なんてみんな馬鹿になるものだから気にするな、と言いたかったが、不死川が更に落ち込みそうなので黙っておいた。

「椿は綺麗だし、良い子だものな。気があるなら、俺が取り持つぞ」

 不死川は黙り込んだ後、踵を返して稽古場に戻ろうとした。

「言うつもりはねェよ」

「なんでだ。鬼殺隊は色恋法度じゃないぞ」

「かわいそうだろうが。俺みてェな奴に好かれてよ」

 不死川はすっかり女に惚れ込んでいた。そして、心底惚れているからこそ、長生きしそうな穏やかな男と結ばれて、幸福を手に入れて欲しかった。

 不死川は鬼殺を誓った身である。いつ戦いで果てるとも知れぬ身では、もはや女を女としてまっとうに幸せにする資格はない。

鬼殺隊の隊士のうちには妻子あるものもいるし、三人の妻を娶って憚りない音柱のような男もいるが、そこは個々の主義の違いなので、口を挟む気はなかった。だからこれはあくまで不死川本人の信条の問題だった。

 粂野の意見は不死川とは真反対である。いつ死ぬかわからないからこそ、隠さず想いを伝えておくべきだ。幸せになる機会を逃すべきではない。

「実弥、そんな悲しいことを言うな」

 粂野が静止するのにも耳を貸さず、不死川は稽古場に戻ってしまった。

 これはだめだな。

 粂野は親友の性格をよく理解していたので、この上に背の押しようはないことを承知した。しかし、諦めきれない。

不死川は常在戦場を体現した、抜身の刀のごとき男で、誤解されやすい(そのように本人が振る舞っているためである)が、性根は真面目で優しい男なのだ。粂野が何をおいても幸せになってほしい人間がいるとするなら、それが不死川だった。

 所帯を持つのは人の幸せ、男の幸せである。

 なんとしてでも二人の仲を取り持ちたい。粂野は純粋な使命感に燃えていた。

 

 粂野は翌日、哨戒任務から帰ってきた椿を捕まえて、世間話の体でこう切り出した。

「椿、君も年頃だろう。いい縁談の一つもないのか」

「とんとありませんねえ」

 粂野はほっとした。すでに決まったものがいるとなれば、大人しく引き上げる心算であった。

 椿は自嘲気味に笑った。

「私のようなはしたない女に縁談なぞ来ませんよ」

「何を言うんだ。引くてあまただろう」

「ご好意をいただくことがないでもありません。でも世の中の多くの殿方は、剣をもって男を打ち負かすような愛嬌のない女は御免被るとお考えです。私ももっともだと思います」

 たしかに世人であればその通りかもしれないが、こと鬼殺隊に身を置くものにとって剣の腕がどうこうというのは、欠点にはなり得ない。椿の言は不正確だ。しかし、花柱の胡蝶カナエなどもそうであるが、ああも美しいと、男たちも気後れして、高嶺の花になってしまい、誰の手もつきようがないのかもしれない。

「君自身、誰か、これぞという男はいないのか」

「特には」

 椿はふと思い出したかのように言った。

「ああ、でも、女の子なら、みんな粂野くんのような人と結婚したいと思いますよ。明るくて、穏やかで、聡明で、優しくて……」

「うん……それはありがとう」

 褒め言葉を並び立てられて面映い気分であったが、いま求めている台詞ではなかった。粂野はどうやって話題を持って行こうかと考えあぐねた。

「ねえ、粂野くん。不死川くんに言われて来たのでしたら、もっとはっきりおっしゃったらいかがですか」

 粂野は口を開けたまま固まり、ようやく「知っていたのか」と絞り出した。

「ああ、やっぱり彼だったのですね」

 粂野はものも言えず撃沈した。完敗だった。

「鎌をかけたのか。い、意地が悪いぞ……」

「ごめんなさい。でもおかしくて」

 椿が楽しげにころころと笑う。

「実弥に言われて来たんじゃない。俺が勝手にやってることなんだ」

「ははあ、なるほど。粂野くんは友達思いですね」

 椿は相変わらずおかしくて仕方がないという風だ。いいように手玉に取られているという感覚が拭えない。

「そこで……その……なんだが、いや、やめだ。あいつのことをどう思う?」

 ここまでくれば直球で行くしか手がなかった。椿は少しもの黙ってからこう言った。

「責務に対して誠実でいらっしゃるお方。不道義を許せぬお方。そして心身ともに、己の信念を突き通す強さをお持ちになっている」

「そうだろう、そうだろう」

 親友を手放しに褒められて、これはイケる!と期待に胸を膨らませる。粂野も所詮十代後半の若い男であり、単純であった。

「しかし、先ほども申しましたけども、不死川くんご本人が私を望みますまい」

「そんなことはない。実弥は君にぞっこん惚れてる。それに俺の見るところ、君たちはうまくやれると思う」

 粂野はすでに仲人を通り越して媒酌人まで務めそうな勢いだった。

「俺は君のことを妹のように思っている。これは君には大きなお世話、老婆心かもしれないが……どうか女性としての幸せを掴んでほしい。考えてくれないか」

 

 粂野と話した次の日、椿は山中に分け入って行った。

 ここは岩柱の修行場だ。山腹には悲鳴嶼が住まいとしている庵がある。椿は悲鳴嶼の許可を得て、たびたびここを己の修練の場としていた。

 滝の下で無心無念の境地を目指し、ひたすらに水に叩き打たれる。常中、常中の意気を忘るるな。

 しかし、集中しようと思えば思うほど雑念が胸を過ぎる。今までなかった事態だ。どうしよう。どうにもならない。

 

 ……もうやめよう。

 

 滝行をはじめて半時間も持たず、椿は潔く諦めることにして、滝壺から上がった。

 

 重たい足取りで山の小径を下っていると、反対方向に悲鳴嶼が登ってくるのが見えたので、挨拶を交わした。

「お邪魔しております」と椿は頭を下げた。

「椿、今日も鍛錬か。結構なことだ」

「それが……とんだ腑抜けで、身に入らず仕舞いで。岩柱さまが修行ついでに私を滝壺に沈めていただけると、大変ありがたいのですが……」

「?」

「いえ、なんでもありません。失礼します」

 

 滝に打たれてらちが開かず、椿は大切に仕舞ってある真菰の面を取り出してきて、己に向き合ってみるものの、結果は同じようなものだった。むしろ気の迷いが激しいことだけが浮き彫りになった。

 それで、もはや誰かに相談するしか打つ手がないと、こういうことに一番明るそうな人物のところに向かった。すなわち蝶屋敷の女主人のもとである。

 粂野とのやり取りを、その人物の名前を伏せて掻い摘んで説明すると、カナエは大興奮だった。

「で、どうするの?」

「どうって……どうしようもないでしょう」

「椿、椿、自由恋愛の世の中なのよ。恋はいくらでもするべきよ。こっちから攻めていかないと!」

 柱の仕事で忙しいのではないかと思ったが、カナエは迷惑そうどころかむしろ、こんなに面白いことはないという顔だ。

「わざわざ私のところまで言いに来たのだから、何も思わないわけではないのよね?」

「それはそうなのだけれど」

 粂野には余裕綽々の態度をとってみせたが、その実、動揺は激しかった。目を逸らしていた事実を、改めて目の前に突きつけられると、はてどうしたものかと惑うのである。

「けれど私は殿方と一緒にいるよりも、カナエとこうやってお話しているほうが楽しいわ」

「まあ、椿」

 カナエは椿の言い草に頬を染めた。友人に好意を示されるのはどうあっても嬉しいものだ。

 カナエは椿の手をとって微笑んだ。

「ねえ、一度よく考えてみて。その人と他の人、何が違うの?」

 

 他の人となにが違うか。椿は帰り道につらつらと不死川のことを考えた。

 そもそも、不死川には驚嘆することばかりだった。

 ある時、粂野が稀血とはどんなものか教えてほしいというので、詳しく聞くと、鬼殺隊に属せず鬼狩りをしている少年がいるのだという。日輪刀も持たず、陽の光に当てて鬼を殺し回る。聞けば聞くほど狂っているとしか言いようのない所業だったが、そんなことが可能になるのには理由があった。少年の血に、鬼を酩酊させる効果があるのだという。

 椿もそのような血の種類があるというのは初耳だった。椿の血肉は、忌々しくも鬼にとっては栄養価が高い御馳走なだけである。

 そして粂野と話をしてそう時も立たぬうちに、鬼殺隊の仲間内で、たびたび不死川の名を耳にするようになった。数ヶ月ばかり育手のもとで修行したと思いきや、風の呼吸の全ての型を体得し、最終選別を悠々通過して、段飛ばしで階級を駆け上がっていく、恐ろしい風体の剣士がいるのだと。その出世の早さときたら、流石に当世最強の鬼狩りと誉れ高い岩柱には及ばぬが、それに準じる早さであることは違いないなかった。

 

 隊士の内には、その荒々しい立ち振る舞い出で立ちを畏怖するものも少なくなかったが、椿は初めて会ったときのあどけない寝顔が思い出されて、恐る気持ちも湧かなかった。なにより彼は粂野の友人だった。粂野は最終選別の場で、真菰の弔いを手伝ってくれた唯一の少年だ。それ以来の付き合いで、椿は粂野ほど気持ちのいい男はそういないと思っているし、彼の友人ならそう悪い人物のはずがない。

 

 椿は自分を冷たい、情の薄い女だと思う。

 鬼を殺すために色恋の沙汰は切り捨ててきていた。

 いままでにもたびたび恋慕う気持ちを告白されたことはあったが、みな椿よりも先に死んでしまった。誰も彼も椿より弱かった。彼らの墓前に線香を上げてやるのが、椿の精一杯の心尽くしだった。

 死んでいった彼らと不死川の何が違うのか。

 

 そう、一つ、思いあたることがあった。

 不死川と一度だけ戦場をともにしたその時のことだ。

 

 不死川の剣は強く疾い。椿が一撃繰り出している間に二撃、三撃を鬼に加えて平然としている。

 敵はそれほど強い鬼ではなかったが、表皮が硬く、椿では頸を落とせそうになかった。それで止めを不死川に任せた。

 陽動のために放った椿の突きで鬼の体勢が崩れる。不死川の血走った眼光が敵をひた見据えた。

「いい加減、死に晒せェ!」

 怒号とともに振り下ろされた日輪刀が、ついに鬼の頸をはねた。椿の目でようやく捕らえ切れるほどの凄まじい技の冴えであった。

 その時の不死川の、返り血に塗れ、修羅の形相で鬼を屠る姿。鬼への混じり気のない殺意と憎悪を発散する剣。

 椿の身が震えたのは恐ろしさゆえではない。歓喜だった。

 あの殺意と憎悪が、椿にはたまらなく心地よく感じられたのだ。

 

「……やはり、一度、滝壺に沈んでおくべきだったかしら」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.一歩も動けない動いていない

 

 ほんの一時期のことだが、少女の面倒を見ていたことがある。

蝶屋敷にいるカナヲとは違い、拾って連れてきたのではなく、向こうからやってきたのである。

 この少女は体も小さく才能もない身だったが、どうしても剣士となる道を諦められず、死に物狂いの鍛錬で何とか鬼狩りとなった。しかし、椿としてもなぜ最終選別に生き残れたのかわからないほど弱かった。

 同じ女性で、水の呼吸を使っていたので、任務で面識を得た椿に懐き、弟子入りしたいと押しかけに来て我が家に居座ることになった。自分も同じようなことを冨岡相手にやっている自覚があった手前、強く言って追い出すこともしなかった。

 小さく愛くるしいなりをしていて、くるくるとよく働くので、椿は小鳥になぞらえて、少女をすずめ、と呼んでいた。少女もそれを嬉しがった。

 椿は人に教えられるほどものを修めていない。よって、彼女を弟子とは呼ばなかったが、どこかそそっかしくも明るいこの少女と一緒にいるのは楽しかった。寝食をともにしていれば自然、情も湧くと言うものである。

 訓練には手を抜かなかった。

 ある時、稽古場で少女を散々に打ち据えたことがあった。反吐まみれでうずくまるすずめに向かって椿は叱責の声を緩めなかった。弱すぎるのだ。

「いまから少々、厳しいことを言いますが」

 椿は、自分がいつまでも上達しない少女に対していらいらしている自覚はあった。

「あなたはあまりにも弱い。このままでは、鬼殺隊をやめなさいと言う他ありません。他の者の足手まといになりますから」

「それはできません」

 なぜかと問うと、「親兄弟を鬼に喰い殺されました。村の親戚にも追い出されて、ここ以外、頼るところがありません」と言う。

 涙を誘う悲惨な生い立ちだが、鬼殺隊では珍しくもない、ありふれた不幸ではある。

「どこぞ商屋の奉公に上がれば良い。お館様にお話ししてごらん。きっと良くしてくださるから」

 鬼殺隊の頭領は、どういった事情であれ、隊を去るものを労いいたわりこそすれ、引き留めることはしない。戦い疲れたもの、怪我をして鬼狩り足り得なくなったものに対して、生活に困ることがないよう、まとまった金銭をやったり、職を世話したりして、面倒を見ているのを椿は知っている。

 少女は首を振った。

「最初、鬼狩りを志したのは仇討ちのためでした。でも今は違います。戦う理由ができたんです」

「それは何」

 少女は微笑みをたたえながら答えた。

「鬼殺隊は私の帰る場所なんです。椿さんや、ここにいる人たちみんなが大切で……守りたいと、力及ばずともそう思うんです」

 椿はこれ以上、何も言いようがなかった。

 少女は間も無く戦いで命を落とした。肉片一つとして返らなかった。

 

 少女の初七日、位牌を前に線香を絶やさず上げながら椿は考えた。

 椿がなぜ鬼と戦うのかというと、これは天が己に課した使命だからである。神仏に問いただしたわけではないが、いま此処この世に生かされているのが何よりの証拠である。

 そうでもなくば、家族が死んだあの日に、鬼を狩り続けるこの日々に、なぜ己の命が失われずにあるのか説明がつかない。

 何か守りたいものがあるわけでもない。帰る場所があるのでもない。

 孤独に寄り添ってくれた少女がいなくなっても、それでも椿は鬼を殺すのだ。己が役目を終えるその日まで。

 

 

 その寺は山と山との間の奥にあって、どうやら寺の門主か、小坊主か、いずれかはわからぬが、とにかく鬼に成り果ててしまい、寺院にいたものを残らず平らげてしまったらしい。

 寺に参拝に訪れたものが行方知れずになり始めてからしばらくして、ようやくことの次第が明らかになり、鬼殺隊が出動した。

 だが、先に派遣されていた隊員から連絡がふつりと途絶え、鎹烏も帰らない。それでもう少し階級が上の椿が呼ばれた。

 

 寺の様子を伺うと、人の気配はまったくない。もともと明治年間に活気付いた廃仏運動で相当打撃を受けていたとみえ、伽藍は見る影もなく荒廃していた。あらかた仏像や経典は焼かれるか売りに出され、細々と信仰を守っていたのだろう。

 

 先の隊員の痕跡を辿ると、山門の付近で戦った形跡がある。しかも、その形跡からするに、どうやら交戦を始めてすぐにやられてしまった可能性が高い。椿はその隊員を知っている。剣の腕前だけで言えば、さほど己と差のない男だった。それで、この鬼は自分一人の手に余ると、烏を飛ばして応援を寄越せと要求した。

 下山もできぬ内に日が落ち、今夜中に仲間が来るだろうかと気を揉んでいると、早々に鬼の襲来があった。

 

 鬼の風体はつるっ禿げに法衣と錫杖、生前の有り方を色濃く残していた。鼻は退化して口が裂けて大きく開いている。恐ろしく静かな鬼で、物音一つなく、声も発さない。普段の椿なら鬼の妄言を聞かされずに済むので有り難かっただろうが、こう黙られると気配の把握に難儀して、「僧侶のくせに念仏一つ唱えられぬのか」と忌々しく思った。

 明確に劣ることはないが、勝ることも決してない。鬼の方がやや上手で、このまま勝負が続けば人間の椿の方が不利なのはいうまでもない。

 これはまずいな、と思った矢先、鬼の方が逃げ出した。なぜかと訝しんでいると、椿の背後から、知った顔が姿を現した。鬼も逃げ出すほどの狂面。不死川だった。

「鬼はどこにいやがる」

 挨拶もなしに不死川が切り出した。鬼殺の場にあってはこれが正しい。

「先ほどまで戦っていましたが、あなたの気配がしたので、一旦遠くへ引いたようです」

 椿は刀を鞘に収めた。身体に軽い裂傷を負っていたが、たいした怪我ではない。

「どういう奴だ」

「僧体の鬼。血鬼術を使います。口から酸を吐く。かなりの速度で連射するのが厄介ですね。直接皮膚に当たればひとたまりもありません」

 この通り、と椿は近くにあったぶなの木の幹を指さした。太い幹の半ばが溶けて折れている。

「ああ、それと、えらく鋭い錫杖槍を持っています。なかなかの腕前なので、酸にばかり気を取られていると串刺しですね。相当速い」

 中遠距離と近距離の攻撃手段を持ち、さらにそれぞれが相当高い殺傷能力を備えている。厄介である。鬼の目に数字は刻まれていなかったが、下弦の鬼の下っ端に準じる程度の実力はあろう。

「今夜中にまた来ると思うか」

「必ず」

 椿は淡々と答えた。

「ここには稀血が二体」

 頬から唇にかけて薄く切り裂かれていた傷から、じんわりと血が滲み出る。口内に鉄の味が広がった。

「飢えた鬼がみすみす逃すには、少々獲物が大きすぎるというもの」

 

 夜が明けるよりさっさと勝負をつけなければ泥沼である。だがいかんせん土地勘がない。山中で見通しも悪い。迂闊に分散して探索するよりも、開いた場所に固まって敵を迎え撃つのが良いと二人で判断した。

 

 互いに背中合わせになり、いつでも動けるよう片膝を立てて座る。黙っているのも何なので、椿は会話を振ることにした。

「今日は粂野くんと一緒ではないのですね」

「匡近は鎌倉で任務だ。悪かったな、俺一人でよォ」

不死川は詫びたが、卑屈ではなかった。単に多勢の方が良かっただろうと椿を労っていた。

「いえ……不死川くんが来てくれたのは、本当にありがたい」

 最初の交戦で一度、このまま敗死する可能性が頭を過った身としては、自分より強いことの間違いのない男は大歓迎だ。

「粂野くんとはほら、兄弟のように仲が良いと評判ではないですか。まあ、兄弟と称されるのが良いのかはわかりかねますが。古来、兄と弟というのは仲が悪いものですから」

「なんだそりゃ」

「古く本朝は中大兄と大海人、源頼朝と義経公、男兄弟というのはことに、跡目を巡って相争うものと心得ております」

「お偉方にどんな事情があるか知らねェけどよ、兄弟っつうのは、そういうもんだけでもねえだろうよ」

「おや、実感が篭っていらっしゃる」

からかい調子で椿が笑うと、不死川は「弟がいる」とだけ言った。

椿は少し目を見張って驚いた。いた、ではなくて、いる、なのか。

「そうですか。不死川くんの弟君( おとうとぎみ)はご健在なのですね」

「『弟君』なんてガラじゃねェよ」

「……お元気でいらっしゃるのですか」

「……多分な」

 兄弟について語る不死川の声音は、本人はそれと気付いていないだろうが、平生よりもずっと穏やかだった。

 椿は反対に、なんとなく裏切られたような気分だった。鰥寡孤独の寄る方ない身の上と想像していたのである。不死川に自分と同類でいて欲しかった、という身勝手極まりない欲望があったことに気づき、椿は己の浅ましさに身から泥でも噴き出るような思いだった。

「お前は――」

 不死川が言い終わるよりも先に、二人ともほとんど同時に殺気に反応した。立ち上がり飛び退いた瞬間、酸の雨が周囲に撒き散る。酸は地面に落ちてじゅっと音を立てた。

「きったねぇゲロだな、クソがァ!」

 不死川が毒吐くが、鬼は意にも介さず、奇襲からの攻勢を緩めなかった。酸が水鉄砲のような強烈な勢いで飛んでくる。距離感を誤って、一発食らえばそれが致命傷である。

 

 風の呼吸・伍ノ型、木枯らし颪

 

 不死川の技は錫杖槍にいなされて、鬼の頸を獲るには至らない。

 鬼の首の可動域はそれほど広くない。酸はほとんど、鬼の身体の真正面にしか飛んでこない。だが、後ろから回り込んで接近したり、懐に潜り込もうとすると、あっという間に距離を取られるか、錫杖で薙ぎ払われる。これがまた見事な棒術、槍術であった。

「後ろに回り込めませんか?」椿が聞くと、

「やってらあ!」と苛立ち紛れに返される。

 このとき不幸だったのは、二人が互いに相手の剣筋を十分に知悉していなかったことだ。

 

 二人が戦場で見えたのは一度だけ。同じ呼吸か、普段稽古で良く親しんでいたならともかく、椿は風を知らず、不死川は水を知らぬ。息の合った連携には程遠い。平生ならば何でもないことだが、瀬戸際の戦いの場においてはこれが大きな瑕疵となっていた。

 

 二人がかりでらちが明かず、なんとか突破口を見つけられないかと探っていると、再び鬼の方が退いて、鬱蒼たる森の中に消えていった。

 なるほど地の利は圧倒的に向こうにあるのだから、一撃離脱を繰り返して、こちらが消耗するのを待てば良いというわけだ。

 鬼の気配が遠ざかったのを確認して、椿は不死川の背後に回り込んだ。

「不死川くん、少し失礼」

「あ?何す――ッてェな!」

背後から腕を回して抱き込んで、思い切り胸を押し込むと、不死川が呻いた。

「な、にしやがるッ……」

「動きに以前のような冴えも切れもない。怪我をなさっていますね。肋骨と右足ですか?息をするのもお辛いでしょう」

不死川は決まり悪そうに顔をしかめた。

「……はっ、大したことねェよ」

 強がりだ。確かに不死川は見かけ平然としている。椿もそれと見ただけでは怪我を負っていることに気付かなかった。

 だが先ほどの戦いぶりからするに、十全に快復していないことは明らかである。

 それでも、手負いの不死川ですら、椿よりはわずかに強い。それで二人の常時の力量差も知れようというものだ。

「俺が鬼の動きを止める。てめェが奴の頸を撥ねろ」

 不死川が言った。

「すでに手負いの身で何をおっしゃる。命を賭さねば斬れぬのなら、その役は私がやります」

 鬼を仕留めるために何をするべきなのか、二人とも同じことを考えていると、椿はそう直感した。命の危険を織り込まねば取れぬ首だ。

「俺の血のことは知ってんだろォ。ヘマはしねえ。下がってろ」

「これ以上血を流すおつもりですか。却下です。あなたは柱になれる方。こんなところで死んで良い人間ではない」

 互いに譲る気はなかった。二人とも妥協という美徳からは程遠いところにいる人間同士である。

「そもそもそんな身体で何をしに来たのですか。私は戦いに耐えうるものを呼んだのですよ」

「大したことねえつったろうがァ。女はすっ込んでろ」

「男だとか女だとか、命をかけて戦う場に一体なんの関係が?朝雨女の腕まくりとでも言いたいのですか」

 キリキリと眉を吊り上げると、不死川は心外そうにしていた。彼には侮辱する意図などなかった。単に己よりか弱い生き物に対して、後ろにいろと、そう言ったに過ぎない。

「まあ、そう謗られても無理なからぬこと。私ときたら、手負いのあなたにも劣る役立たずですから」

 売り文句に買い文句、両者の間にひりついた空気が流れる。

 

 椿は考える。

 二人の内のどちらかしか生き残ることができないなら、死ぬのは椿の方だ。不死川を生き残らせる。不死川が大切だからではない。不死川の方がより多くの鬼を殺戮できるからだ。椿は彼に比べてずっと非力である。

 

「私に望みがあるとしたら、一体でも多くの鬼を殲滅すること」

 鬼が再び来た。今度は迫る気配を先に察知して、椿が躊躇なく身を翻して鬼に向かっていく。

「後は頼みました」

 鬼の前に躍り出た椿のその動きで、不死川は女の意図を完全に把握した。すでに止めようがない。であれば、あとは最善を尽くすだけだ。不死川は歯噛みしながら後を追った。

 

 飛来する酸の雨をひたすら避ける。鬼の酸は一度溜めていた分を吐き出し終えると、補給までにほんの少しの隙ができる。その隙が狙いだった。

 その頃合いを見計らって、椿は思い切り踏み込み、鬼の間合いに入る。鬼は接近してきた敵に向かって、容赦なく錫杖槍を振るった。

 錫杖槍の切っ先が脇腹に深々と突き刺さる。椿は眉根を寄せるだけで灼熱の痛みを堪えると、むしろ穂先をぐいと押し込んで距離を縮めた。鬼が動揺したのでこれ幸いと、錫杖を持つ鬼の手首を掴んで離さない。そしてもう片方の手で己の最速の技を繰り出した。

 

 水の呼吸・漆ノ型、雫波紋突き

 

 日輪刀が鬼の顔面、酸を吐き出す口腔に突き刺さった。鬼は不意を突かれたようだったが、口を大きく広げて、口内の酸で日輪刀を溶かし始めた。このままではほんの1秒、2秒のうちに飛んでくる酸の塊を避けようがない。

 だが、この場にはもう一人がいる。椿に身体を絡めとられて、鬼は背後から来る斬撃に対応できない。

 

 風の呼吸・陸ノ型、黒風烟嵐

 

 椿の眼前をすれすれかすめた不死川の一撃で、ついに鬼の頸が落とされた。青い刀身の半分あまりが溶かされた日輪刀が音を立てて地面に落ちる。不死川は鬼の身体が消滅していくのを目の端で捉えると、膝をついた女のもとへ直ちに駆け寄った。

「椿!」

 柄を折って、穂先を腹から引き抜く。刺された時よりもひどい痛みに呻くのを堪える。血の巡りを意識する。脇腹の傷は深かったが、主要な臓器を傷つけてはいない。大丈夫だ。呼吸をする。血を止める。

「平気です。少し傷むだけ」

 少しどころの痛みでなかったが、あまりにも不死川が血相を変えるので、つい見栄を張ってしまった。

「うまくいきましたね、不死川くん」

「うまくも何もあるか。死ぬ気かァ、てめえ」不死川が苦々しく言った。

「でも、これ以外確実な仕留め方が考え付かなくて。まだまだですね、私」

 しかし、鬼を殺せた。椿にはそれが一番大切なことだった。

「それに、仮に私が死んでいたとしても、不死川くんなら間違いなく鬼に止めを刺してくれたでしょう?」

 不死川が一瞬黙った後、怒った顔で当たり前だというので、椿は安堵で顔を綻ばせた。

「本当に、あなたが来てくださって良かった……」

 




初めはどこに出しても恥ずかしくない気立てのいい女にしようとしていたのに、悪鬼滅殺がキマリすぎてどんどんヤバイ女になっていくので、不死川兄がかわいそうだと思いました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.鮮潔にして霜雪の如し

理性で正気を保とうとする男と狂気に迷いなく飛び込んでいく女


 連戦連戦でそろそろ休まないことにはまずい、という自覚は不死川にもあった。しかし、一人で任務にあたっていたので歯止めがかからなかった。消耗していたところに鬼の攻撃を食らう。己の不甲斐なさに苛立ちながら敵の頸を落とす。

 医者に見せると肋骨四本が見事に折れている。打撲による内臓の一部損傷と、深刻なのは右太腿に負った刺傷で、骨と動脈が傷ついており、よくぞ失血死せずに済んだ、と医師に感嘆される有様だった。

 そういった経緯で、不本意にも本拠から遠く離れた藤の家紋の屋敷で療養を余儀なくされていたところに、鎹烏が指令を運んでくる。某山中で厄介な鬼を見つけたので急ぎ集われたし。ただし激しい戦闘に耐えうるもののみ。

 近隣にいる他の隊員はみなそれぞれ任務についており、持ち場を離れることができない。要請に応えられるのは不死川一人だけだった。

 それで手負いの身に鞭打って戦場に向かった。決して浮ついた考えはない。それが誰であっても、同じ選択をしただろう。不死川には、仲間の窮地を知りながらむざむざ見過ごすことはできなかった。

 

「おい、歩けるかァ」

「……大丈夫です」

 椿は戦いが終わったばかりの時は、傷が痛むのかしかめ面をしながらも気丈だったが、どんどんと血の気が失せてゆき、山を下る足取りもおぼつかず、今は木の幹に手をついて荒い息を吐いていた。

「いや、大丈夫じゃねえだろォ。おぶってやっから、手ェ寄越せ」

「そこまでしていただくわけには……肩だけお貸しいただけますか」

 それで、不死川の肩を借りてなんとか足を進めていたが、具合は悪くなるばかりで、とうとう「私が死んでもどうかお気に病まれませんように」と、とてつもなく不吉なことを言い残して完全に意識を失った。

 

 不死川は内心半狂乱状態で、女の身体を抱えて山を下り、ここにくるまで拠点としていた藤の家紋の屋敷に駆け込んだ。屋敷の主人が出迎える。すでに医者が到着していた。

 そしてもう一人見知った顔がいた。花柱の妹であった。

 たまたま別の任務で近くを通りがかった彼女は、友人が重傷を負ったという報を受けて飛んできたのだった。

「遅効性の毒ね。腹部の傷だって浅くない」

 胡蝶は意識のない椿に向かってしきりに名を呼びかけ、手際良く傷をみていた。

 丸半日かかって処置を終えた花柱の妹に、容態はどうかと尋ねると「当座の危機は去りました。ところで、不死川さん。あなたも絶対安静なんですからね。部屋に戻ってください」と睨まれ、ぴしゃりと鼻先で襖を閉められた。そして日が暮れる頃には、言付けを守らなければもう一度骨を折ると言い放って、こちらに反論する暇も与えず去っていった。

 

 椿は翌朝になって目を覚ました。

 主人に案内されて座敷に向かうと、ぼんやりしながらも起き上がろうとしていたので、「おいやめろ、胡蝶に殺されんぞ」というと大人しくなった。

「しのぶが来ていたのですね」

「あの女、言うことを聞かねえと骨を折ると抜かしやがった」

「ふふ、あの子らしい」

 椿は言いにくそうにもじもじしながら切り出した。

「何から何までありがとうございます。……その、思えば山中では色々と無礼を申しました。お詫び致します」

 そう言って床に伏せながら詫びようとするので、不死川は「いや、俺が言い過ぎた」と止めた。それであの夜の諍いの蟠りも溶けて消えた。

 

 二人の居室は当然別にされていたが、同じ庭に面していたので、縁側から呼びかける声がよく通る。「不死川くん、不死川くん」と呼ぶ声がしては行かぬわけにもいかなかった。

 その日のうちに身体を起こせるようになった椿は、不死川を呼びつけて、とりとめもないことを喋りかける。不死川も、特にすることもないので付き合う。互いに鍛錬を禁じられていて、手持ち無沙汰だったのだ。

 そうこうしていると、成り行きで、手習いをつけてもらうことになった。文を書くのが苦手だと不死川が零したので、じゃあ私が教えましょう、という話になったのである。

「じゃあ手始めに、論語から学んでみましょうか」

「論語」

「ご存知ないですか?」

 不死川は家族を養うために早くから働いていて、学校にもろくに通っていない。生活するのに必要最低限の読み書きは身につけていたが、あくまで我流である。椿の諳んじる漢籍の内容の半分もわからず、不死川は己に学のないことを恥じた。

「悪いな、バカに付き合わせちまってよォ」

 書いたものに赤を入れられながら、不死川が言った。

「何をおっしゃいますか。これだけ書ければ大したものです」

 椿の声は優しかった。

「学問があっても、知性のないひとは世間に山ほどいます。不死川くんは愚かではない。こうやって勉学に励む向上心のある、立派な方です」

 不死川は不覚にも胸が詰まった。家族以外の人間に、そんな尊いもののように褒められた試しはなかった。

 

 することがない時には、椿は書を読んだり、楽器を弾じることを好んだ。日当たりのよい座敷の戸を開け放って、陽の光をいっぱいに浴びながら、屋敷の主人に言いつけて借り受けた三味線を爪弾き、朗々と詩を歌い上げる。

 

 六月の灘声 猛雨の如し

 香山の楼北 暢師の房

 夜深け 起ちて闌干に凭りて立てば

 耳に満つる潺湲 面に満つる涼……

 

 女らしい、高く張りのある澄んだ声だ。

 不死川には詩吟の機敏などわかりようもないが、美しいものを美しいと思う感性は持ち合わせている。

 

「見事なもんだ」

 不死川が褒めると、椿は首を傾げて照れた。

「下手の横好きで。本調子でないのですが」

 涼しげな白絣を纏って佇むその姿は到底、鬼を狩るとは思えぬ可憐な娘ぶりだった。この女はやはり詩でも吟じて楚々としているのが一番お似合いだ。

 

 こうやって一緒にいると、育ちの違いというものを身に染みて痛感する。この世に鬼がなく、二人とも本来あるべき場所にあったならば、こうして道が交わることなど絶対なく、自分は女の屋敷に供する薪でも割っているのがせいぜいだと思った。

 

「なんで鬼殺隊にいる」

 不死川は口を出す筋合いにないことは痛いほど理解していたが、それでも言わずにおれなかった。

「こんな無茶しなくても生きていけんだろうがよォ」

 不死川にとって人の女とはか弱い、守ってやらねばならぬ生き物である。 かつて父に虐げられる母がそうであり、妹たちがそうであった。

 男に守られ大切にされ、子供を産み育てるのが女の一等幸福な生き方というもの。良し悪しは別として、兎角そういった価値観に生きる男であった。

 鬼殺隊にいる女というのはおしなべて鬼を殺すために己の命を捨てた連中である。不死川は彼女たちをことさらに手優しく遇したりはしなかった。彼女たちは同志であって、女ではない。そう扱うのが誠意であった。

 椿のこともそのように思えれば良かったのだが、一度女として意識してしまうともうだめで、まっとうな生き方ではない、なぜこんなところで命をかけて戦っている、とそればかりが思い致された。

 気を悪くするのではないかと思ったが、意外にも椿は鷹揚に微笑んでいた。

「それはね、不死川くん、こんな無茶をしないと生きていけないからですよ」

 ぽろん、ぽろんと弦を爪弾きながら椿は答えた。

「あなた、鬼狩りなんてやめて、明日から田畑を耕して暮らしていけと言われたら、どんな気持ちになりますか」

 椿は押し黙った不死川を穏やかに見つめた。

「私は人の不幸を哀れむのも、哀れまれるのも大嫌いです。ですからどうぞ、私の身の上を気の毒とは思わないでください」

 私もあなたを気の毒とは思いません、と椿は続ける。

「……あなたの過去に何があったか、私は知りません。あなたも、私のことを知らないでしょう。ですが互いにいま、鬼殺の道を志してこうしてここにいる。相応の覚悟を持って。……それで十分ではありませんか」

 それ以上語る言葉はないとばかりに、椿は再び三味線をかき鳴らして詩を吟じ始めた。

 

 まとまった時間ともに過ごすと、上辺だけでない人となりも見えてこようものである。

 椿がもとより美しいだけの女ではないことは承知していたが、それにしても腹の中に秘めた意志の強さ――すなわち鬼を殺すことへの執念を、あの山中での戦い以来、重ねて思い知らされることになった。

 人のことを言えたものかよ、誰しも腹に一物二物抱えているものだ、こんな場所にいるならなおさら、と己を納得させようとするもうまく飲み込めない。

 結局のところ、不死川は女の身の回りの卑近な現実から目を背けて、多少、実像を美化していたきらいがあったのだ。だから女の美しさの中に、節くれだっていびつになった剣士の手を並び立てるのを失念していた。

 

 

 椿はいまだを床を離れて刀を握ることは許されなかったが、此度の戦いで日輪刀が毀損してしまったので、新しい刀が運ばれてくる手はずになっていた。

 その日、不死川は身体の回復訓練に移っていた。庭に打ち込み台を用意させて、木刀で振りかかるのを何度も繰り返す。

「椿さんは、刀を打ち直すのは初めてですね」

 若い男の声がする。刀鍛冶のこの男、明るい調子だが、どこか軽薄さを感じさせる声をしていた。雨戸を開け放していたので、居室からこちらまで会話が漏れ聞こえてくるのである。不死川は鬼と戦う中で研ぎ澄まされた己の耳の良さを呪った。

「里長様の打たれた刀、使いやすく、折れず、曲がらず、本当に良い剣でございました。今回も長様が?」

「はい。里長がお会いできず、残念がっていました。是非面識を得てみたいものだと」

 あの男、とうに用件は済んだのになぜ出ていかない。刀を持ってくることだけがお前の仕事ではないのか。不死川は打ち込み台に散々に打撃を加えながらそう思った。

「お世話になりましたのに、こちらが出向けずに申し訳ない」

「いえ、怪我をされているのですから……しかし、里長がお会いしたいといったのも納得です。お話に聞いてきたよりもずっと美しい」

「まあ、お上手な方」

「お世辞ではありません。あなたのように美しい人にお会いするのは初めてだ」

 不死川の強撃で、打ち込み台がばきん、と凄まじい音を立てて壊れた。

 和気藹々としていた会話が、ぴたりと止んだ。

 不死川は役立たずになった打ち込み台を捨て置いて、縁側を上がり障子を開ける。椿と刀鍛冶の男が、日輪刀を挟んで相対していた。距離が近い。知らず知らずのうちに、木刀を握った手に力が篭った。

 ひょっとこ面で男の表情は伺えなかったが、全身から恐怖を発散して縮こまっていた。その怯えように、不死川が自分がいまどんな表情をしているのか察した。

「用は済んだろうが、とっとと帰れェ」

 はい、と言ったのかは知らないが、蛙が潰れたような声を上げて刀鍛冶の男は退散した。

 椿ははじめ少し驚いている風だったが、今は常の平静な眼差しで不死川を見つめていた。

「手前も浮ついてねェで、さっさと復帰の目処を立てろ」

「不死川くん」

 不死川は椿に背を向け、鍛錬を再開するべくその場を離れた。

 己が愚かなことをしている自覚はあった。

 

 今思えば、一線を引いて、大勢の仲間の内の一人として遇されていたときが、どれだけ楽だったか知れない。

 一緒にいると愛着が湧いてしまうし、好意を持たれているかのような錯覚まで抱いてしまう。椿はたいがい誰にでも親切な女だ。一体何を勘違いしているのだ。

 己の心が思い通りにならない苦しさに心臓が痛む。肋骨すべてがことごとく折れたほうがましだと思った。

 

 

 それからまた数日が過ぎ、ようやく不死川に現場復帰の許可が下りた。異様に長く感じられた十数日間であった。不死川はいまは戦いに行けることが嬉しかった。

 

 出立に備えて、早めに灯りを暗くして布団に入る。

 土砂降りの雨が屋根瓦を打ちつける音が聞こえる。ひどい天気だ。外は嵐で、時折、雨戸が風に煽られてがたがたと鳴った。

 布団に入ってうとうととしていると、ふと人の気配を間近に感じて意識が一気に覚醒する。薄暗がりに目を凝らすと、薄襦袢を纏った椿がすぐそばに座っていた。風呂から上がって間もなくここにやってきたのか、髪がまだ湿っている。

「……おい、部屋、間違えてんぞォ」

「間違えてはおりません」

 これほど近くに人がいるのに今の今まで気付かなかった体たらく。鬼狩りにあるまじき腑抜けぶり。しかし、不死川は己の至らなさを責めるよりも先に女の姿に目を奪われた。初めて彼女を目にした時の、天女のような美しさが思い返される出で立ちであった。

「帰れ」

 不死川は断固とした声で言った。

「帰りません。今夜はここで休みます」

「ふざけんな」

「嬉しくないですか?」

 嬉しいも何もあるか。不死川は狼狽えた。こんなことをされる覚えがなかった。

「あんな世辞に嫉妬するくらい、私のこと、好きなくせに」

その一言で、のぼせ上がった脳みそがすっと冷えた。

「匡近か」

「いえ、毎度、声をかけるたびに首まで真っ赤にされていたら、さすがにわかりますが……」

 不死川は頭を抱えた。穴があったらそこに入って、舌を噛み切って死にたい。

「いいから戻れ、送ってやるから」

 遠くで雷が落ちる音がした。椿は瞬き一つしない。

「女一人が恥を忍んで夜這って参りましたのに、つれないことをおっしゃる」

「意味わかってんのか」

「私、あなたが思うほど世間知らずではありません」

「世間知らずだ。武家華族の裔だろうが。女郎の真似事なんざしてんじゃねェ」

「女郎で結構。大体、きょうび旧い血など、大抵弱く病み細くなっているものです。世間で言われるほど大層なものではありません」

「育ちが違うつってんだよ」

「だから?私はあなたが好きです。それではいけませんか」

 あまりに率直な物言いに、顔面を強かに叩かれたような衝撃を受ける。しばし硬直した後、不死川は「思い違いだ」と吐き捨てた。

「私を愛さない理由ばかり見つけるのがお上手ね」

 椿は不死川の上に覆いかぶさってすうっと顔を近づけた。首元にほのかな吐息を感じる。気が狂いそうだ。

「いいから俺の前から消えろォ。そんで鬼狩りなんぞとっととやめて、鬼のいねえところで暮らしてくれ、後生だ」

「この期に及んでまだそんなことをおっしゃいますか」

 今度は椿の眼差しが冷える番だった。

「惚れた女に目の前で死なれかけてそう思うのがおかしいかよ、ああクソッ」

 最早取り繕いようもなかった。不死川は断末魔でも上げるようにして声を絞り出した。

「なんで俺なんだよ、もっとまともな男がいんだろうよ……」

 悄然とした不死川の姿になにを思ったか、椿は帯を解き薄襦袢を脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ玉の肌をさらけ出した。

 不死川はいよいよ気が遠くなった。

「ねえ、見てください。私の身体」

 椿は両手でぐっと頭を挟んで、不死川が己から目を逸らすのを許さなかった。

 先頃負ったばかりの腹の傷が目を引いた。傷口はすでに塞がっていたが、青黒く引きつった痕になっている。よくよく見れば、瀬戸物のような白い身体のいたるところに、うっすらと戦傷が残っていた。胸や尻は女人らしく柔らかい線を描いているものの、全身に過不足ない筋肉が乗ったその身体つきは、やはり常人の女のものではありえない。

「まともな男と一緒になどなれませんよ、今更」

 ただの思い違いかもしれない。だが、椿はほんの少し、ほんの少しだけ悲しそうに見えた。

 それが不死川の心を動かした。

 不死川は恐る恐る女に触れた。傷口に障りがないよう、そっと腰に手を伸ばす。

「痛まねえか」

「はい、ほんの少しも」

「……後悔すんぞォ」

「しませんよ。可愛いお方」

 椿は不死川の首に手を回して、顔面に走るいかにも恐ろしげな裂けた傷痕に愛おしげに唇を落とした。

 その仕草にたまらなくなって、不死川は自分よりもずっと細い身体を大切にかき抱いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.男女室に居るは人の大倫なり

 他人の心などわかろうと思ってわかるものではない。

 明くる未明の不死川の様子を見て、ああ失敗した、と椿は思った。

 己の貞操など、もとよりちり紙一枚の価値も見出していなかったから、その点についてはひとかけらの後悔もなかった。

 椿は純粋に己の心に従ったのであるし、本当に、こうすれば不死川は嬉しいだろう、と思っただけなのだ。実に小娘らしい無邪気さ、浅はかさだった。

 強いて言うなら、不死川がまるで貴重な真珠か玻璃のごとく己を扱うので、それが癪に触った、というのはあった。自分が肉の器を持った、色も欲もあるただの女であると見せつけてやりたかった。しかし、不死川は思った以上に頑なな男だった。

「責任は取る」

 ことが終わって真先に不死川の口から出たのがそれだった。一時の情に流されて椿に手を出してしまったのを悔いているのがよく伝わる。椿は彼があまりにも気負いすぎていたので、かえって不憫になった。

「どうか何もお気に悩まないでください」

 出来る限り平静に、優しく聞こえるように椿は言った。

「私が好きでしたことですから。責任など取っていただかなくても結構です」

 しかし、自分の声が存外冷たく響いたので、それでまた失敗したと思った。

 椿は枕元に用意してあった隊服と羽織を着るのを手伝ってやった。不死川はされるがままで、一言も口を利かない。

 嵐の夜は明けた。早朝の澄んだ空気を静寂が満たしている。次に来る夜のために、彼はもう行かなくてはならない。

「武運長久をお祈りします」

 

 椿は、不死川を恐ろしいと感じたことは一度もなかった。みなが恐ろしがる見目も椿の眼にはむしろ可愛げに映る。これは嘘でも虚勢でもなく、本当に可愛いのである。

 何より彼には、抗い難いこの世の不条理そのものに対して怒っているようなところがあって、それもまた好ましかった。目に見えないものへの怒りを保ち続けるというのは、それだけで結構なエネルギーを必要とすることで、容易いことのように思われても、実際には並大抵で出来ることではないのだ。

 

 不死川の出立を見送った後、椿は襦袢を引っ掛けただけの裸同然の格好で、布団の上に寝転がりだらんと手足を放り出した。

 彼に己と同じ孤独さを見出していた。

 でも、少なくとも彼には家族がいるのだ。彼には守りたい大切な人がいるんだ。彼の孤独を癒せる人は別にいる。

 自分とは違う。私たちは違う。

 

 私では彼を幸せにできない。

 

 そのことに気付いてしまうと、椿はもう涙を押し留めることができなくなった。布団に顔を押し付けて涙を吸い込ませながら、椿はひとり声を殺して泣いた。自分がどうしてこんなにも悲しいのかわかりもしないのに、いっこうに涙が止まらないのは滑稽だとさえ思った。

 

 

 日は過ぎて、椿も間も無く戦線に復帰した。川沿いの町で、三人がかりで鬼に苦戦しているので、急ぎ向えという。

 椿が到着すると、仲間が足を掴まれて宙吊りにされている。椿はやすやすと仲間を掴んでいた鬼の腕を切り落とした。「この女、よくも俺の腕を」と吠える鬼に取り合わず、椿は流れるような動きで水の呼吸の肆ノ型で敵を仕留めた。この間やりあった鬼に比べれればいかにもとろとろとしていて鈍かった。

 椿は己の刃が鈍っていなくてほっとした。新しい日輪刀は前のものと寸分違わぬどころかそれを上回る出来栄えで、どうやら椿の癖を折込んだ調整が加えられているらしい。やはり里長には一度礼に伺わねばならぬと改めて思った。

 

「あのさ、椿ちゃん」

「はい」

 恐る恐るという風で、村田が話しかけた。鬼に捕まっていた隊員は村田で、椿は地面にのびていた彼を助け起こして傷を診てやっていた。

「怒ってる?なんか怖いよ」

 椿は包帯を巻く手元から目を離さずにそれを聞いた。村田は普段と様子の違う妹弟子を心配して言ったのだ。そうか自分はいま怒っているように見えるのかと、椿は人ごとのように思った。

「お前助けてもらったのに、なんだその言い草は」

「村田さん、椿さんが来なかったら死んでましたよ」

 二人の隊員が呆れたように言った。

「そこは感謝してるよ!」

 村田が言い返したので、椿もふっと笑った。

「そうですね。あんな雑魚鬼に苦戦するなんて、とは思わないでもありません」

「や、やっぱりそうだよな、俺兄弟子なのに不甲斐なくてごめんな……」

 しゅんと落ち込んだその様子に、椿の胸が痛んだ。何もそこまで真剣に言ったわけではなかった。

 村田の傷の状態は深刻ではなかったが、自力で歩けるほどのものではないし、他の二人も余力があるわけではない。自分が運んだ方が隠に任せるよりも早いと椿は判断した。

「医者のところまで送りましょう。村田さん、どうぞこちらに」

 村田は椿に背負われると、ごめんごめんと肩身狭そうに謝るのを繰り返した。

「お二人共、疲れておいででしょう。後からゆっくりいらっしゃい」

 それだけ言い残して、椿はさっさと医者のところに走って行った。二人ともついて行こうとしたが追いつけず、人一人背負って自分たちより速いとはどういうことだと目を白黒した。

 

 椿は村田を背負って走りながら、男と女の仲間同士の適切な心の距離間とはこういうものだと思った。現に村田とこうやって密着していても、別になんとも思わないし、村田もなんとも思っていない。

 とすれば、不死川とのそれはとっくに仲間同士のそれを逸脱している。何も身体的なことを言っているのでなく、心理的な距離のことである。

 なおも村田が申し訳なさそうにしているので、椿は口を開いた。

「あの、村田さんに対して怒ってるわけではないんです。ごめんなさい、気を使わせてしまって」

 すべては個人的な事柄に心を乱されている自分に問題がある。村田が居心地悪気にする道理はなかった。

「そうなのか。いや、俺はてっきり……」

 村田はそれ以上は口を噤んで、何も言わなかった。

「……でも、ご無事でなによりでした、本当に」

 とはいえ、肝が冷えたのは真実だ。椿の脳裏に、かつて最終選別で助けられなかった友人の姿が思い浮かんだ。あの時の自分のままなら、きっと村田を救うことはできなかった。まだ未熟だが、自分は強くなっているのだ。

「落ち着いたら先生のお墓参りに行こうよ」

「そうですね」

 二人の恩師は今春に病を得てこの世を去った。もう大分高齢で、穏やかな最期を迎えたと聞くから、悲しくはなかった。それでも、今まで季節の変わり目に時折届いていた弟子を気遣う手紙が来なくなってしまったのは、やはり寂しかった。

 

 

 村田を医者に送り届けて、人心地着こうと半日かけて家に帰ってみると、気の滅入るような光景が待ち構えていた。良くないことは続くものである。

 住まいにしていた庵は鎮守の森に近くて、侘しい趣だったが、それがかえって風情に感じられて椿は気に入っていた。なにより訓練場が森の中にあって、すぐに行けるのがいい。

 ところが、先日の台風の仕業で、藁屋根が半分吹き飛んで、家の中は風雨に晒されてめちゃくちゃになっていた。最近、帰る機会がなかったから、女中に暇を出していたのが仇だった。すぐに人を呼んで修復できれば良かったのだが、すでに日にちが過ぎて、床も壁もやりかえなければとても人の住める状態にならないだろう。

 椿は心情的に疲れ果てていたが、それでも何もしないわけにはいかない。紙と筆を取り出して、カナエに宛てて、こういう事情だから、しばらく間借りさせてくれと書いた。文を烏に託して送ると、すぐに歓迎すると返事が返ってきた。それで、最低限の身の回りの家財道具だけ持ち出して蝶屋敷に向かった。

 

「いらっしゃい。大変だったわねえ」

 屋敷に着くと、カナエが笑顔で出迎えてくれた。椿はようやく張り詰めていた肩の力が抜けた。

「突然ごめんなさい、忙しいのに」

「いいのよ。そんなことよりも」

 畳の上で荷解きを手伝いながら、カナエは顔を近付けて、椿の耳元で囁くように言った。初めからこれが言いたくてたまらなかったらしい。

「不死川くんとはうまくいったの?」

 まずどこまで知っている、というのと、相手の名前まで教えていないがどこで聞いた、というのとで、椿の思考はぐるぐる回った。

 椿が二の句を継げずにいると、どたどたと廊下を走る音が聞こえてきた。二人で何事かと顔を上げるのと同時に襖が開く。そこに息を切らしたしのぶが立っていた。任務が終わった後、そのままやってきたのか、日輪刀を手に携えたままで、その迫力たるや、気の弱い鬼などはそれだけで逃げ出してしまいそうだった。

「私がいなくなった後、何があったの」

「何って……何が?」

 しのぶの剣幕に押されて、椿がたじろいで答えた。

「どうか知らないふりはしないでね。あなたと不死川さんが……」

 しのぶは死ぬほど歯切れが悪く、これ以上のことは言いたくも信じたくもなさそうだった。

 椿は遠くに烏の鳴き声を聞いて、ああなるほど、鎹烏の噂話かと思い当たった。彼らは噂話が大好きで、しかもこれがまた正確なのだ。そうでなければ彼らの仕事は務まらないのである。

「本当に他人の色恋沙汰ほど世間の関心を引くものはないのねえ」

 椿はしみじみとそう思って言った。

「そんな、他人事みたいに言わないで!あなたのことなのよ!」

 しのぶが「やはり一度骨を折っておくべきだった」などと物騒を言い出したので、椿はこれは真実を伝えておく必要があると思った。しかし、友人の噂事でこの有様なのだから、これはカナエが嫁に行く時は大変だなあと思った。よっぽど強い男に娶ってもらわないと、しのぶが人殺しになってしまう。

「ね、やめてちょうだい。だって、私が悪いのよ。私が彼の寝込みを襲ったんだから」

 椿の衝撃発言で、さしものカナエも笑顔のまま黙り込んだ。しのぶの手からは日輪刀がすべり落ちた。

「ど、どうしてそんなことに?」

「なんだかあの方が可愛くなってしまって」

「可愛い」

 しのぶが力なく繰り返した。不死川と可愛いという単語がどうやっても結びつかない。

「好きな人ができるとね、どんなことでも愛おしくなるのよ」

 カナエがどうどうとしのぶを諫めた。

「原因がどうであれ、当然、責任は取ってもらわないと――つまり、結婚という話だけど」

 意図的に考えないようにしていた言葉を口に出されて、椿は気が重くなった。

「……私がいいと思ったからいいのよ」

 大体ことの原因は椿にあるのだから、被害者面をして、責任をとって結婚してください、などというのはおかしい。

「でも男女が一夜を共にしたんでしょ。本来順番があべこべだと思うけど」

「あの日から会ってもないもの」

「文のやりとりもなし?」

 椿が頷くと、カナエが口を挟んだ。

「だめよ、それは。直に会えないのなら、ちゃんと思いを伝え合わないと」

 カナエは彼女らしい純真さでそう言った。椿は生憎あなたが想像しているような関係ではないのだ、と言うべきか考えあぐねた。

「彼にはかわいそうなことをしてしまったわ」

「どうして?」

「だって、本当に、責任なんて感じる必要ないのに」

 椿は折りたたんだ膝の上でぎゅっと拳を握った。

「私、彼のことを好きだと思ったの。でも今は、あの人のことを考えると、なんだか苦しい……」

 もはや椿は、不死川は自分の中の幻を好きになっているとさえ思った。身分だとかなんだか面倒なことばかり気にしているし。

「椿、あなた、本当に恋をしているのね」

 カナエの声にはいっそ感嘆の響きすらあったが、果たしてそうなんだろうか。椿は途方にくれた。ありがたいことに、カナエもしのぶもそれ以上、椿にもの言うことはなかった。

 

 

 椿は、かつては年頃になれば、父の連れてきた男と結婚するのだと漠然と信じていた。椿にとって本来、結婚というのは、個人のものではなく、家と家が結びつくためのものに他ならない。しかしその父は今は亡く、椿は家を捨てた身だ。父母の身内とはとうに縁を切っていた。だから、椿が誰と結婚しようが自由は自由である。庶民と同じように、恋をして二人だけで一緒になると決めて、咎め立てするものはいない。

 鬼殺隊に身を置くものは、おそらくその職分のためであろうが、色恋に対して率直な者が多い。椿も、もはや己は型通りの結婚など望みようのない身だと見なしていたから、貞操を守ることに価値を見出さなかったし、人を好きになることにも躊躇いはなかった。今まで求められて人と関係を持ったことがなかったのは、ただ良いと思える人がいなかっただけだ。

 しかし、結婚となると話が違ってくる。不死川だって、いくら椿のことが好きでも、嫁にもらうとなれば話は別だろう。彼の申し出を撥ねた身でこんなことを望むのは理不尽であるとわかっていたが、あの後何一つ音沙汰ないのがその証ではないのか。

 椿はつとめてそう考えるようにして、不死川のことは終わったことと割り切ろうとした。

 

 

 しばらく任務も入らず、蝶屋敷で怪我人を診るのを手伝ったり、花柱の継子やカナヲに稽古をつけてやったりで、数日のうちはそんな調子で平穏にしていた。

 しかし、どうも気が晴れない。椿は冨岡が任務から帰ってきたことを知って、これ幸いとそちらに向かった。冨岡はちょうど馴染みの定食屋から出てくるところだった。

「冨岡さん、いまお時間よろしいですか」

 冨岡は「ああ」と頷いて、互いに用件を言うこともなく、共に竹林に面した訓練場に向かった。冨岡を訪ねる椿の用事は一つしかない。すなわち鍛錬である。

 椿は冨岡と知り合ってそこそこの年月が経つが、未だに彼の考えることはよくわからない。

 椿が訪ねていくと、任務が入っていない限りはまず間違いなく稽古に付き合ってくれる。かといって正式な師弟というわけでもない。冨岡が承知していないからだ。

 しかし冨岡にとってどうであれ、椿にとって彼は良い師だった。彼の指南は常に簡潔で、いちいち的を得ている。ただあまりにも言葉を飾らないし、挑発的に聞こえるので、へたな相手では諍いの種になると思っている。

 冨岡は無口で、その雰囲気もあいまって近寄り難いので、隊の中に特に親しく付き合うものがいるとも聞かない。こんなふうに定期的に彼を訪れるのはその剣の強さに惚れた椿くらいだったが、その椿も冨岡の個人的な生活ぶりにはとんと興味が湧かなかった。冨岡は良く言えば朴訥とした男、悪く言えば唐変木で、一緒にいて楽しいとはとても言えなかった。

 

 稽古が始まると、たちまち他のことを考える余裕がなくなった。気を抜けば速攻で意識を落とされる。椿は二度も続けて足に強打を食らって、思わず膝をついた。

「非力のくせに力に頼りすぎるな」

 鋭い叱責が飛ぶ。椿は素早く体勢を立て直して、冨岡に向き直った。

 椿の力の強さは中途半端で、女としては相当だったが、男の強いのと比べるとさほどでもない。筋力に任せることを覚えてしまうと、そちらの方が楽なのでつい頼りがちになってしまう。これではいけない。いたずらに力を振るうことは水の呼吸の真髄に反している。

 浅く踏み込んだ撹乱を繰り返す。そこで生まれたほんの一瞬の隙を狙った一突きが冨岡の左腕を掠める。立て続けに放った剣撃に対応するために振り抜かれた冨岡の木刀が、椿の顔をまともに殴打した。椿の鼻先から、たらたらと血が流れた。

 椿はこんな程度で稽古をやめる気はなかったが、冨岡がおろおろとしていたので、一旦木刀を構えるのを中断して「何か拭くものを」と頼んだ。冨岡は慌てて手拭を持ってきて渡してくれた。

「大丈夫か」

「はい」

 血はすぐに止まった。椿はむしろ一瞬でも冨岡に本気を出させたのが嬉しかった。冨岡は普段、椿の顔を狙わない。

「お前は自分が柱になると、考えたことがあるか」

 冨岡が珍しく自分から話を振るので、椿は少し戸惑いながら答えた。

「柱に?いいえ……」

「考えておけ」

 突然柱などと言い出すので、もしやお館様から声がかかったのだろうか、と椿は思った。冨岡もいい加減、柱になるのも時間の問題だ。それだけの実積を積んでいる。気安く稽古に付き合ってもらえるのも残り僅かかもしれない。

「いま九人いる柱に、水柱は不在だ。……誰かが継がねばならない。お前なら、いずれその任に耐えられる日がくる」

 水の呼吸一派として、誰かが水の柱を継がねばならぬという、その気持ちはよく理解できる。しかし冨岡がそのような考えでいるとは知らなかった。普段あれほど人と交わらない冨岡がと、椿は少々胸に来るものがあった。

「冨岡さんにそのように評価していただけるのは光栄ですが、私より適任な方が先にいらっしゃると思います」

 それである。椿が柱の控えとなるにしても、それは冨岡の後だ。十二鬼月でもない相手に死にかけているいまの時点では、椿は柱を語るにほど遠い。柱ならば、あの程度の敵は一閃のもとに討ちとらねばならぬ。

 だが、冨岡は椿の言に首を傾げた。

「……そんな者がいたか?」

「……」

 なぜ自分を勘定に入れていない。一体どこから説明すべきか迷ったあげく、椿は考えるのをやめた。

 椿は冨岡のことが仲間として好きで、尊敬もしていたが、時折この人はちょっと変なんじゃないか、と思うことがあった。今がちょうどその時だった。

 

 そんなことを話していると、冨岡が椿の肩越しにじっと何かを見ているのに気づいた。椿はつられて、視線を追って後ろを振り向いた。

 冨岡の視線の先、竹林のすぐそばに、不死川実弥が立っていた。

 




この作品は人命救済モノではないので、原作中で死ぬ人はみんな死にます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8.乱れ心の花蔓

 午前七時。神楽堂の石段に腰を下ろして握り飯を喰いながら、不死川は昨晩から何度めかもわからぬため息を吐いた。

「あいつ、今日入って何回め?」

「知らん。十回過ぎてから数えてない」

 ただでさえ気が重いのに、同僚にひそひそと後ろ指を差される始末。不死川は最後の一口を咀嚼して飲み込むと、立ち上がって同僚の方を睨み付けた。二人は不死川の眼力に恐れをなしてびくびくしだした。

「行くぞォ。赤鳥居で落ち合って、後の連中に引き継ぐ」

 築地で夜な夜な人が消えるという。日夜情報収集のため虱潰しにあちこちに足を運んで探索するものの、これといった成果は上がらなかった。鬼の存在の確証も得られないまま時間だけが過ぎ、とうとう別の部隊と交代せよと指示が下った。歯痒い気分だった。ここは不死川の生まれ育った場所に近い。この手でカタを付けたい気持ちはいっそう強かった。

 これは不死川の勘でしかなかったが、この界隈のどこかに鬼が巣食っていることには間違いがない。尻尾を掴ませないのは、鬼が強力で知恵が回る証拠だ。強い鬼ほど巧妙に人の社会に溶け込み、鬼狩りの目から隠れ人の血肉を啜っている。杳として所在のしれぬ鬼の首領や上弦の鬼共がその典型と言えよう。だからこそ、ここで一度退かされるのが余計に腹立たしかった。

 だが、指令に背くことはできない。交代で来る部隊を指揮するのは柱である。すでに一般隊士としては最上位の身分に上り詰めていた不死川であっても逆らうことのできない相手だった。

 早く柱になりたい、と思った。今より出来ることが増える。もっと多くの鬼を殺せる。ゆえに不死川は柱になりたかった。

 

 このような次第で、任務が終わることとなると、忙しさにかまけて目を背け続けていた目下最大の難事が不死川の肩に降りてきた。それは他愛のない、ありふれた男と女のあだ事にまつわる話だったが、これが大問題だった。なんせ当事者である。逃れようがなかった。

 

 不死川の俗識によると、一時の情に流されて嫁入り前の娘に手を出すなぞ畜生の沙汰である。ことの発端が発端なので、尋常の男ならとんだあばずれ、淫売に捕まったと全部女のせいにしてさっさと吹っ切れたかもしれないが、生憎、不死川には妙に昔気質というか律儀なところがあった。女に手を上げる父親の姿を見て育ち、ああはなるまい、と決め込んでいたからかもしれない。そもそもが、椿は不死川にとって、とてもそんな風に割り切ることのできない相手だった。

 彼女の人生に入り込んではいけないと思って、一線を引き続けていたのに、何もかも台なしにしてしまった。言い逃れはしない。全部自分が悪い。

 こうなれば責任を取るしかやりようがないが、責任と言ったって、貞操に値段は付けられない。そんなものに値段が付くのは商売女だけである。となれば、腹を括って夫と婦になるしかあるまい。無論、自分など到底、彼女に相応しい男とは思わなかったが、どうにか努力してみせる。

 不死川は椿が自分の家で、飯を炊いて、風呂を沸かして、自分が帰ってくるのを待っているのを想像しようとした。しかし、想像するだけで心臓が跳ね上がる。どうにもならない。しかしやらねばならぬ。

 そう決心したのに、夜が明けた椿はあっけらかんとして冷淡だった。互いに好きだと確認しあって事に及んだのだから、まさか拒まれないだろうと思っていたのに、椿は手をぴしゃりと払うがごとく不死川の申し出を退けたのだった。

 女が何を考えているのかさっぱりわからない。つれない女の態度とどう向き合えば良いのか答えも出ず、それきり二人の間に音信はない。ため息も多くなろうものである。

 

 

 引き継ぎを終えて本拠に帰還すると、不死川は真っ先に鬼殺隊所有の道場に向かった。そこにいる誰かを捕まえて、木刀でも振るえば、多少なりともこの不完全燃焼も発散できるだろう。

 道場では、隅の方で見知った顔の隊士たちがわらわらと集まっていた。彼らは不死川が入ってくるや否や、一斉にこちらに顔を向けた。何事かと思う間もなく、隊士たちがこちらに寄ってきて、不死川を囲んだ。全員なんだか、妙に生優しい眼差しをしていたのが気持ち悪かった。

「不死川、おめでとう」

「ああ?何がだァ」

 祝福されるのに心当たりがなく、不死川は首を捻った。

「鎹烏が噂していたぞ。君と椿、藤の家紋の家で共寝したんだろ」

 この辺りを飛んでる烏どもは残らずとっ捕まえて焼き鳥にしてやらねばならぬ。不死川は決心した。

「良かったな。前から好きだったんだろ、彼女のこと」

「不死川も普通の男なんだな。安心した」

「いまいち絡み辛かったからな、お前」

「もうちょっと嬉しそうにしろよ」

 とりあえずこいつらは殺す。私闘厳禁も何もあるものか。

「てめえら黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがってよォ……」

 不死川がゆらりと木刀を構える。木刀は力いっぱい握られてみしみしと音を立てた。

「えっ嘘、やんの?」

「恥ずかしがり屋かよ」

 不死川をおもちゃに出来て楽しそうだった隊士たちだが、憤怒の形相の不死川にまるでかなわず、ものの見事に木刀でのされることになった。全員を床に這いつくばらせて、不死川は多少、気が晴れた。悪い連中ではないことは知っていたが、揃いも揃って男所帯の無神経が身に染みついていた。

 たんこぶだらけになった隊士の一人が「そんなに怒ることないじゃん」と不服そうに言い募った。懲りない奴だ。

「うるせえ。女の不名誉を言いまわってんじゃねえ」

 すると、床でのびていた隊士たちが復活して、聞いてもないのに口々に喚いた。

「不死川はアタマ硬いな」

「俺らいつ死ぬかもわからんのだぜ」

「そうそう、やれることはやっとくべきだ。向こうもそう思ってるって」

「羨ましいな」

「羨ましい。頼む爆発してくれ不死川」

「おう、もう一度はっ倒すぞ」

 ドスの効いた声で凄むと、隊士たちは言いたいことは言ったとばかりに立ち上がって、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。最早追う気力もなかった。だが、烏は焼く。

 外に出ると、灰色の雲が空を覆い地平の向こうに落ちている。悪天候のせいか、まさか不死川の殺気を感知したわけでもあるまいが、普段うるさく飛び回っている鎹烏は一羽も見当たらなかった。むしゃくしゃした気持ちを抱えて不死川は住まいに帰った。

 

 帰ると、粂野が板の間に正座して不死川を待っていた。ただならぬ様子に背筋が張り詰める。粂野は静かな口調で言った。

「何があったんだ?俺は噂ではなく、お前から話が聞きたい」

 清い瞳で見据えられると、とても口を閉ざしておくことはできなかった。どの道、黙っておくという選択肢はない。不死川は洗いざらいを打ち明けた。

「殴れよ、妹分に手ェ出したんだぜ」

 不死川が言った。粂野の方が椿とはずっと付き合いが長い。

「言っておくけど、このことでお前を糾弾するような、そんな資格は俺にはないよ」

 粂野は苦笑した。

「いいか、俺は椿を知っている。椿は嫌なものは嫌、好きなものは好きではっきりした性格だし、一度こうと決めればなんとしてでもやり遂げようとする、そういう女性だ」

 まったく粂野の言う通りだった。山中の戦いで、鬼の前に躊躇もせず身を投げ出した女は、一度鬼を殺すと決めれば己の命を引き換えにしてでもそれを達成しようとする、骨の髄まで鬼殺に染まった剣士だった。自分や他の隊士たちと同じに。

「だから、椿がお前に好き、と言ったんなら、それは疑っちゃいけないと思うよ」

 粂野は真っ直ぐに不死川を見つめた。

「なあ、彼女を娶りたいのは、責任を取りたいだけか?」

「違う」

 不死川は簡潔に即答した。一線を引いていられる時期はとうに過ぎてしまった。彼女の幸福を祈るだけで満ちて足りていた自分はどこへやら、今は女のすべてを我がものとして囲ってしまいたいという醜い我欲と向き合わねばならなかった。誰ぞ知らぬ男と一緒になるなどと思うと、そいつを叩っ斬ってしまいたい。

 粂野はようやく表情を緩めた。

「良かった。この期に及んで腰が引けているようなら、その時はお前を殴らなければいけなかった」

「だがよォ匡近、俺はもう見限られた身だぜ」

「一度振られたくらいで諦めてはだめだ。その昔、深草少将という貴族の男が、愛情の証として、好いた女のもとに百夜続けて欠かさずに通おうとしたんだ。嵐の日も雪の日もだ。そのくらいしなければ、男の愛情なんて女に響かないということだな」

「そんで、その男はどうなった」

「九十九日目の夜、疲れと寒さが祟って死んでしまった……」

「……」

 不死川は胡乱な眼差しで粂野を見つめた。

「大丈夫大丈夫!実弥は疲労で死ぬほどヤワじゃないから!」

 お前ならなんとかなる!と肩をばしばし叩かれて、不死川は、そういえばこの友人はそもそも楽天的な気質だったことを思い出した。

 

 

 椿は花柱のところに世話になっているらしいぞ、と粂野に勢い良く送り出された。今から話に行けとは急な話だが、このまま放置して解決する問題でもない。むしろ任務が明けて、丁度良い頃合いだった。

 蝶屋敷を訪ねていくと、庭で看護師姿の少女が二人、忙しなく洗濯物を取り入れている。少女たちに声をかけようとすると、彼女らは不死川の風体を目にするや否や、怖気付いて固まったまま、貝のように口を閉じた。

 これはだめだと思ったが、こんなところで挫けている場合ではない。身をかがめ、片膝を着いて少女たちに目線を合わせてやり「おい、椿がどこにいるか知らねえか」と聞いた。かつて妹たちにしていたほど優しい振る舞いではなかったかもしれないが、その片鱗が今の不死川の態度には残っていた。それで少女たちは、見た目は怖いけれども、そんなに悪い人ではないのかもしれない、と思った。なので、聞かれたことに答えることにした。

「少し前に、冨岡さんのところに行くって出て行きましたから、訓練場にいると思います」

 いつも竹林の近くにある訓練場で手合わせしているので、ともう一人の少女が続けた。

「冨岡」

 聞き覚えがある。隊士たちとの会話の中で耳にしたことのある名だ。滅法強くて、次代の柱は間違いないと目されるが、近寄り難くとっつきにくい男であるという話だった。ただ、不死川も人のことを言えた身ではないので、その時は深くは思い致さなかった。ちなみに、当人らは預かり知らぬことだったが、この二人の評判はよく似通っていた。

 

 竹林の方へと向かうと、少女たちに言われた通り二人を見つけることができた。

 向かい合う二人は木刀を携え、椿に至っては片手に血まみれの手拭などを持っている。到底、男女の逢瀬のごとき甘い雰囲気ではない。隊士同士の手合わせでしかないことは明白だが、だからと言って面白いわけではなかった。冨岡は女に好かれそうな、整った顔立ちの若い男だった。なおさらである。

「椿、いいかァ」

 不死川に声をかけられて、おや、と意外そうに椿の眉が動いた。

「何ぞご用でしょうか」

 柔らかい物言いの中に、これまでに感じたことのないよそよそしさが滲み出ていた。胸が軋むような心地だったが、自業自得だったので、不死川は甘んじて受け入れた。

「先日のことでしたら、犬に噛まれたとでも思って、どうかお忘れください」

「犬に噛まれたのか……」

 なぜか冨岡が口を挟んできた。かわいそうな男だとでも言いたげな同情を含んだ眼差しを向けられる。見当違いの同情に、不死川の短気が爆発しそうになった。

「なんだァ?てめェは」

「お前こそなんだ。見ての通り、彼女は今俺と手合わせをしている。用があるなら、終わった後にしろ」

 冨岡の言は火に油を注ぐがごとしで、見るからに業腹の男に向かって言うことではない。しかし、怒れる不死川にまったく怯まないあたり、冨岡はなるほど強者であった。

「不死川くん、そういうことですから――」と椿が言いかけると、冨岡が「不死川?」と目を瞬かせた。

「そうか。お前が椿の背の君か」

「は?」

「え?」

 椿も不死川も揃って、冨岡の突拍子もない台詞に、口の中で短く声を上げた。背の君とはやたらと奥ゆかしい古風な言い回しであるが、ようは夫とか旦那とかを指す言葉である。共寝話からかけ離れているわけではないが、明らかに話題が飛躍している。

「冨岡さん、一体どこでそんな話を仕入れてきたんですか」

 椿が呆れた風に言った。

「俺の烏がそう言っていたが。違うのか」

 どこかで噂がねじ曲がっているが、この男の鎹烏は大丈夫か。そしてそれを間に受けているこの男も大丈夫なのか。

「まだ亭主にゃなってねえよ」

「まだ、ということは予定はあるのか」

「てめえにゃ関係ねえだろォ。引っ込んでろ」

「椿は不服はそうだ」

「だからこれから口説くんだろうが。邪魔すんな」

 怒りのために普段の調子を取り戻していたせいで、舌先の回りが良かった。そのせいでなにやらとんでもないことを口走った気がする。

「椿、どうする」

 冨岡は椿に向かって聞いた。椿は二人の言い合いに耳を傾けて、しばらくじいと黙っていたが、冨岡に問われて口を開いた。

「……口説いてくださるんですね?」

 

 椿が不死川に連れていかれるのを了承したので、冨岡は物分かりよく去っていった。別れ際に何か言われると思ったが、視線一つこちらに寄越さ無いので拍子抜けだった。これ以上会話を交わしたいとは思わなかった不死川としてはありがたいことだった。物言いのいちいちが癪に触る男だった。

 

 冨岡の姿が見えなくなると、竹林の向こうから烏が一羽飛んできて、椿の肩に止まった。鎹烏は女主人の頬に擦り寄って甘えたが、不死川の捕食者の視線を受けて震え出した。

「睨んでも仕方ないでしょう」

「このクソガラス共、人のことを散々面白おかしく噂にしやがって」

「みんな楽しい話題に飢えているんですよ。罪のない巷談くらい、許して差し上げたら」

 確かに、普段大抵不吉な話題を運んでくる鎹烏のことだから、たまの明るい話題にみなが飛び付きたがる気持ちはわからないでもない。だが噂の的にされた方が面白いわけがない。それでも椿の手前、不死川はなんとか怒気を引っ込めた。

 二人でそのような話をしながら、脇に民家が並ぶ、人気のない街路を連れ立って歩いていると、どす黒くなった雲からとうとう雨が降り出した。二人は近くの小屋の軒先の下で雨が弱まるのを待つことにした。二人とも口を開かず、沈黙が続いた。

 雨がしとしとと降り注ぐ中の静寂は苦にならず、不思議と心地よかった。気を張って、浮ついていた気持ちがすっと地面に降りてきたような心持ちだった。

「雨、止まないですね」

 椿が先に沈黙を破った。あの朝のような取りつく島もない冷たさはすでに解けていた。

「ああ」

「私、少し怒っていたんですよ」

「悪い」

 不死川は反射的に謝った。

「謝らないでください。私のせいですから。私の無分別であなたを苦しめて、重荷を背負わせてしまったと思いました」

「重荷とは思ってねえよ」

 不死川の言葉で、椿の唇がわずかに綻んだ。

「そんなことをおっしゃるのに、文一つ寄越してくださらないのね」

「悪かった……」

「ほら、また謝る」

 椿は項垂れた不死川の顔を覗き込んだ。

「前にも言いましたけれど、私はあなたが好きですよ」

 囁くような声で椿が言った。

「だから、責任を取るとか、堅苦しいことはお考えにならないで。私が惨めになるだけ」

 惨めという言葉が不死川にずしんと響いた。女と一緒になりたい、という気持ちは、いまや何も罪悪感から出たものだけではなかった。

「俺はどうすりゃいい。お前の元に百夜通うとでも言えば信じられんのか」

 椿は意表を突かれたのか、小さな口を開けてぽかんとしたが、やがてその顔にじわじわと笑みが広がった。

「……粂野くんですね?」

「……おう……」

 受け売りを見透かされた情けなさのあまり片手で顔を覆った。慣れない言葉は使うものではなかった。

「ねえ、そんな恥ずかしがらないでくださいな。あなたが言ってくださったこと、嬉しいの」

 事実、椿は至極心嬉しそうに顔をほんのりと上気させた。だが、瞳だけがわずかに陰った。

「不死川くん、私はあなたが思うほど優しくないし、気も長くない。あなたが見てるのは幻想ですよ。……私は悪い女ですよ」

「だからなんだ」

 椿がどう己を卑下しても、不死川にとっては自分が見て感じ取ってきたものがすべてだ。他に何が必要なのか。

 周囲は静かな霧雨に変わりつつある。二人以外に音のない世界で、視線が絡み、不死川は椿の腕を取った。椿は不死川の胸の中にゆっくりと潜り込む。不死川は無心に己に比べてずっと華奢な女を擁して頭を抱いた。直に雨が止むのが惜しいと思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章
9.誰に見しよとて紅鉄漿つきよぞ


 目が覚めると日が落ちていて、外はもうすっかり暗くなっていた。近頃は一段と秋が深くなり、日没の時が随分と早くなってしまった。

 三、四日の間、仮眠も取らずに任務にあたっていた反動か、昼過ぎに家に帰ってきたまでは覚えていたが、それ以降の記憶がない。

 寝起きのぼうっとした意識のまま、布団の中で寝返りを打つと、不死川が囲炉裏のそばで羽織を繕っているのが見えた。椿は一気に目が覚めた。

「いつお戻りになったの?」

 椿が寝床から問いかけた。互いに別の任務に就いていたので、顔を合わせるのは一週間ぶりだった。

「日暮れ前だ。お前はまだ寝とけェ」

「いいえ、もう十分」

 椿は床から起き上がり、身支度を始めた。流石に今夜は任務に呼ばれることはないだろうと思って、隊服は着なかった。

 その間、不死川はそつなく白地の羽織を修復していた。

 手先が器用なのか年季が入ってるのか、針仕事ばかりでなく、洗濯でも、掃除でも、飯炊きでも、すべて不死川の方が上手くやってしまう。普段の家事は下女にやらせるから不都合はなかったけれども、椿は女として立つ瀬がなかった。家事を取り仕切るのは本来女の仕事だ。

 だが、人体を縫う技はまだこちらの方が優っている。仕事から帰ってきた男をなんとか労ってやりたいという気持ちで、椿は箪笥から医療道具を持ち出してきて、不死川の背中にそっと手を置いた。

「羽織と違って、こちらは自分では繕えないでしょう。見せてくださいな」

「かすり傷だ、こんなもん」

「ちゃんと手当てした方が早く治るわ」

 椿が説き伏せると、不死川は観念して、上衣の片袖を抜いて肌を晒した。思った通り、左肩から二の腕にかけて裂けた傷があった。傷の程度は深くない。感染症の心配もなさそうだったので、消毒をしてからざっくりと縫い合わせる。傷が出来てから縫うまでにかなり時間が経過してしまったから、これははっきりと痛ましい瘢痕が残ってしまうだろう。本人はまったく気にしないだろうが。

「どうしてすぐに蝶屋敷に行かなかったの」

「あの女をどうにかしろ。人の面を見るなり殺気立ちやがる」

「わかりました、しのぶには言っておきます。けれど、あの子は個人的な好悪で仕事をないがしろにするような子ではないわ。ちゃんと言えば手当てしてくれますよ」

 不死川が眉根を寄せた。縫合の痛みのためではない。横に座って皮膚を縫い合わせる椿の額に、うっすらと真新しい傷を見つけたのだ。別になんてことはない、一両日中に跡形もなく消えそうな傷だったが、不死川は気になったらしい。

「石を投げられたの。大丈夫、すぐ直ります」

 視線に答えるように椿は言った。

「誰だァ、そいつは」

「可哀想な子供たち。怒らないでね。鬼になった母親を私が殺したから」

 不死川の不穏が霧散した。鬼を殺して人を助けて、感謝されるばかりではない。家族や親しい者が鬼に成り果てたことを理解できず、助けた相手に理不尽な怒りをぶつけられることは決して珍しいことではなかった。

「悪いことをしたなどと思いもしません。私が斬ったのは彼らの母親ではなくて醜い悪鬼。悪鬼でなければ、後ろ身に抱えていた赤子を頭から貪り食らったりできないでしょう?」

 椿は怪我の負担にならないように、不死川の膝に頭をもたれた。少し疲れていた。

「因業ね。楽には死ねないわ、私たち」

「今更だ」

 椿の頭を撫でる不死川の手は優しかった。

「子供はどうした」

「親戚が迎えに来ました。あとは隠に任せましたから、よしなに取り計らってくれるでしょう」

 囲炉裏で炭があかあかと燃えている。日常に溶け込む穏やかな風景に、いまだ夢うつつにあるようだった。

 

 椿は雨の日に不死川と再会してから間も無くして、自宅の修復が終わったので、蝶屋敷から元の住処に帰った。そして、次の日には、不死川が居た堪れない様子で玄関口に突っ立っていた。性分に合わないことはわかっていながらも、一度口にしたことだからと律儀に努めを果たす気でいるらしかった。

 だが最初から椿には、不死川に百夜通いなんてまどろっこしいことをさせる気はさらさらなかった。椿には小野小町と違って男の愛を試している時間などない。これ幸いと家に引きずりこんで、二度目の夜を共に過ごし、以来、不死川はここに帰ってくるようになった。

 

 昼間の内に通いの下女が用意しておいてくれた夕食をいただいていると、戸口に人の気配を感じた。真っ当な人の訪れる時間ではないが、これも鬼狩りには常のことだ。

「邪魔するぞ」

 こちらが返事をするのを待たずに、玄関の引き戸が開いた。目立つ額当てに、奇妙な化粧をした男が姿を現す。音柱の宇髄である。彼は背丈が六尺五寸あまりもある大男で、家の中に入るのに窮屈そうに身を屈めなければならなかった。

「邪魔すんなら帰れェ」不死川が容赦なく言った。

「言葉の綾に突っかかるなよ。余裕ねえなあ、お前も」

 柱に向かって何という口の利き方をするのだと思ったが、宇髄は鷹揚に構えていた。上と下の関係に厳しい男だと思っていたから、意外だと椿は思った。

「お茶を出しましょうか」

「いや、すぐに帰る。指令を伝えにきただけだ」

 ただの指令を寄越すのに、鴉ではなく柱が自ら出向いて来るとは穏やかではない。何かあると思い、椿は居住まいを正した。

「私たちのどちらに」

「お前。女が要る。冨岡には話をつけた」

「私は水柱さまの継子ではないので、あの方の許可は必要ありませんよ」

「マジかよ。先に言っとけよ」

 音柱は時間を無駄にしたと無念そうに言った。冨岡はつい先日、柱に就任したばかりだ。椿は相変わらず中途半端な立場で、これからも稽古には付き合ってくれるらしいが、継子にはしないと言われた。冨岡の考えることは良くわからない。

「不死川、手前が築地で追ってた案件だ」

 不死川が不服そうに舌打ちした。彼が柱に任務を引き継いだ後、すでに数か月が経過している。それからもう一名、別の柱の宇髄が呼ばれているということは、調査の進捗が思わしくないということだ。

「なんのために柱を二人も投入してやがる。もう一人はどうしたァ」

「丸三日、潜伏先から音沙汰がなかった。事前の取り決めに従い、死んだものとみなした」

 これには剣呑にならざるを得なかった。宇髄の声音はさすがに軽薄ではない。

「そのような状況で、隊士一人を連れ出すのにわざわざおいでなさったのだから、ただ人手がいるというわけではないのでしょう?」

 椿が促した。宇髄が言うにはこうである。

 付近を捜索しても埒が開かず、失踪者の方を手がかりに調べていくと、共通点があった。ただの庶民ではなく、いずれも成金、官僚、軍人、身分ある人々とその縁者だった。その縁から捜査網を狭めていくと、起点が二か所浮上した。

「京橋の花谷に、芝の三縁亭」

 宇髄が挙げたのは、どちらも世に名を知られた料亭、料理屋である。紹介なしでは敷居を跨ぐこともできず、食事代だけで庶民の月収が軽く飛ぶ。彼らはみなこの二つの店の常連だった。

「芸者をやれ。座敷に上がって、店と常連客を洗い出すんだ。無理とは言わせねえぞ」

 料亭に芸者は付き物ものである。話術で客をもてなすし、同じ店に頻繁に出入りできるから、客にも店にも接近できる。店の内側を探るには恰好の隠蓑といえた。

「無論、命じられるなら、女工でも飴売りでもやります」

 椿は芸者について、世間並みのふんわりとした知識しかない。ただぼんやりと男の人の相手をする仕事だと想像している。

「先行して俺の嫁が潜入してる。置屋にも話を通した。器量良しで唄と踊りと三味線ができれば文句ないってよ」

 ちらっと視線をやると、不死川は相変わらず渋い顔をしていた。

「こいつに酌婦をやれってか」

「芸者と娼妓の区別くらいつけろ」

「わかってらァ」

 椿は任務で必要なら、身体だって差し出す覚悟はしている。宇髄にその意思を表明すべきか迷ったが、流石に黙っておくことにした。これ以上、不用意に不死川の機嫌を損ねるべきではない。話がややこしくなる。大体、椿だって好きでもない男に身体を明け渡すなんて極力御免被りたい。

「気になるならお前も一緒にこい。ちょうど男手も欲しかったとこだ」

「男手だァ?……箱屋か」

「お前にゃ向いてんぜ」

「喧嘩売ってんのか。テメエ、最初からその気だったな?」

「どうだかな」

 箱屋というのが何かわからず首を傾げると、不死川が芸者の付き人のことだと教えてくれた。三味線を入れた箱を担いで芸者の伴をするので、そう呼ばれるようになった。箱屋は女の供をすることから、世間ではおよそまともな男の就く仕事と見なされておらず、借金持ちや流れ者などが主ななり手だった。

 花柳の芸者と遊郭にいる遊女は混同されがちだが、全くの別物で、色を売るのが遊女とすれば、芸を売って客をもてなすのが芸者なのだと言う。

「不死川くんはどうしてそんなに詳しいの?」

 椿が興味本位で聞いた。不死川は黙った。

「男にゃ色々事情があるんだよ。ほっといてやれ」

 宇髄がたしなめたので、椿はそれ以外追求しなかった。

「では、寝所のお供はしなくてもよろしいのですね」

「それはない。まあ尻くらいは触られるかもしれねえが、耐えろ……おい、隣の奴をなんとかしろ。俺は味方だぞ」

 不死川は最早刀を抜いて斬りかかりそうな形相をしていた。

「音柱さま、申し訳ありませんが、私にはなんともできません」

 宇髄はまるで二人が珍妙な獣であるかのようにじろじろと見つめた。

「つーかお前らなんなの?夫婦じゃないのかよ。亭主に『不死川くん』はねえだろ、おい」

「女を三人も囲ってる奴に所帯の常識なんざ説かれたかねえよ」

「囲ってねーよ!全員!嫁だ!」

 椿は男たちがぎゃあぎゃあと言い合うのに巻き込まれたくないので、二の間に三味線を取りに行った。ぺんぺんと試しに音を鳴らしてから弦の緩みを調整する。

 椿がいなくなると、不死川と宇髄は二人でこそこそと話を始めた。

「とっとと祝言を挙げちまえよ。あんまり待たせると可哀想だろ」

「女の家に世話になってる身で祝言なんざ挙げられるかよ。柱になりゃァ、屋敷がもらえる。金にも不自由しねェ。話はそっからだ」

「柱とはまた派手に出たもんだ」

「俺に負けた分際で何を抜かしやがる」

「言うねえ。ま、お前もじきにこっち側だ。お前、鬼殺隊に入って何体鬼を倒した?」

「四十九」

「いいじゃねえか。今回の任務で丁度五十。生き残って、ケジメをつけてやるんだな」

 うっすらと漏れ聞こえる会話に、またどうでもいいことを考えているなあと、椿は三味線を適当にかいて音を鳴らした。

 一緒に暮らして、余人の目には夫婦のように見えているとはいえ、正式にこの人の妻になりたいのかと問われると、椿は自分でもよくわからなかった。

 椿は不死川が好きだったし、不死川も椿を好きでいてくれる。世間から指をさされそうな宙ぶらりんだったけども、椿は世間などどうでもいい。好き同士で一緒にいることのなにが悪いのだろう。それ以上何が必要なのだろう。

 妻になるというのは、家族になるということだ。

 今のところ、自分たちは家族というにはまったく心許ない。というか、不死川には本当の家族が別にいるのである。椿は不死川が弟がいると語ってくれたことを忘れていない。夫婦というのは元を正せば赤の他人の男と女であるから、血の繋がった家族の方が大切なのは当然である。当然なので、そのことを責める気は全然なかった。

 自分以外に一番の大切がある人を好きになってしまったのだから仕方ない。椿は考え方を変えることにした。

 私が死んでも、この人にはちゃんとした家族がほかにあるから大丈夫。

 そう思うことができれば、かえって心穏やかに、安心して甘えることができた。不死川の一番の大切になれないのは悲しかったが、互いに明日も知れぬ身である。一番になるのは別れに痛みを増して辛い気がするから、むしろ都合が良いかもしれない。

 それに、どうせ一緒にいても、椿は不死川にたいしたことはしてやれない。ぼたん一つうまくつけられない裁縫下手だし、着物を洗ったら加減がわからなくて生地を痛めてしまったし、煮物を炊こうとしたら真っ黒に焦がしてしまった。椿は道楽娘で許されて育って、昔からお金にならないことばかり得意だった。

 何か物事に失敗して沈んでいる度に、不死川は「こんなもんは安物だから気にするな」とか「俺はお前を飯炊き女にしたいわけじゃない」とか、なんだかんだと言って慰めてくれるのも、余計に情けなく恥ずかしかった。そういう時の不死川は常よりも更に優しかったから、嬉しい気持ちもあったけれども。

 

 椿がつらつらと考えていると、すっと板戸が開いた。宇髄が退出するらしい。

「明日の10時、日本橋の花街に来い。遅れるなよ」

 宇髄はそう言い残して去っていった。

 

 二人とも立て続けの仕事だったが、人遣いが荒いなどと弱音は吐かない。椿も不死川も、万全の体調であれば、休んでいる暇があるくらいなら、むしろ任務に入りたい類の人間だ。

 ただ最近は、二人で一緒に、森を散歩したり、街に出て買い物をしたり、本を読んで勉強したりする余暇の楽しみを覚えたばかりだったから、休みの短さが少しだけ惜しい気がした。

 宇髄が帰り、夜が深くなっても、不死川の機嫌はなかなか戻らなかった。椿は餉台に肘をついて、洋燈の灯りを調整している不死川に向かって尋ねた。

「私が他の男の人に愛想を振りまくのは嫌?」

 不死川がため息を吐いた。

「お前、何をしにいくかわかってんだろうなァ」

「綺麗に着飾って、お座敷で唄ったり踊ったりお喋りをしてお客を楽しませて、その中に鬼がいたら殺せばいいのよね?」

「間違っちゃいねェが」

「良かった」

「嫌な男がいたら、俺に言え」

「どうするの?」

「殺す」

「堅気の人間は殺しちゃだめよ」

「この不景気に夜な夜な乱痴気騒ぎしてやがる悪党共だ」

 不死川は話を持ち込まれた時点で断らないだけ、最大限譲歩していた。自分の妻を危険に晒している宇髄の手前というのもあったが、不死川は止めても止まらない椿の習性をすでに理解していた。だから心底嫌々ではあっても、送り出さないという選択肢はなかったのだ。

「実弥さん」

 椿は二人きりの時にしか呼ばない名前で不死川を振り向かせると、不満げに尖った唇に吸い付いた。

「こんなことを許すのはあなただけよ。それでも嫌?」

 不死川は目の前に差し出された誘惑に抗わなかった。椿の着物を解きながら、不死川はこんこんと言い述べた。

「座敷に上がるときは左手で褄を取れ」

「左手?」

「男の手が裾から入らなくなる」

「着物の上から触られたらどうするの」

「そいつの指を折れ」

 不死川の声は本気だった。

「うん、そうする……」

 椿は答えると、後は恋人の与えてくれる甘美な刺激に身体と思考を委ねた。まだしばらくは、このおままごとのようなぬるま湯に浸っていたい気分だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10.夕には白骨となれる身なり

「日輪刀は夜間日中問わず常に箱に入れて持ち歩け。人目のあるところで行動しろ。一人になるな。失踪者は――柱も含めて、全員一人になったところをやられてる」

 現場の指揮を取る宇髄が、今回任務にあたる全員に徹底させた規律である。もともと可能な限り二人組で行動するよう指示は出ていたが、柱が失踪したことでそれを更に厳格にすることにしたのだ。

 新橋を筆頭に柳町、日本橋など各所に点々と存在する花街には、それぞれの土地に百を超える置屋がひしめき、数え切れないほどの芸者を抱えている。

 置屋とは芸者が所属し、その活動の拠点となる場所で、ここから料亭やら茶屋やら待合やらに呼ばれて仕事をしに出向いてゆくのである。その質もピンからキリで、芸を売れないから春を売って糊口を凌ぐ枕芸者から、財界や政界の大物にその美貌や才智を愛されて正妻となった者までいる。

 今回世話になる置屋は格式高いことで世間に名が通り、女将はかつて宇髄に命を助けられた恩があるとかで、鬼狩りに理解があって、口が固い。ど素人の椿を数時間で最低限座敷に上げられる程度に育てろという宇髄の無理難題にも見事応えてみせた。幸い、椿は器量よしで、唄も踊りも三味線も得意だったので、これなら客の前に出しても置屋の看板を汚さずに済むだろうと合格点を貰うことができた。

 芸者は通常、何年かにわたる厳しい修行を重ねてようやく一人前と認められる。それまでは半玉、つまり芸者見習いとして座敷に上がるのである。

 宇髄の三人の妻は数日前から店に入って諜報にあたっていたが、宇髄が二人行動を徹底させたのでひとり余ることになり、効率が悪かった。椿がやってきたことで、これで常時二つの店に潜り込むことができる。これにそれぞれ宇髄と不死川が同行して周辺の索敵にあたる。

 柱を一人失ったとはいえ、未だことの全容が明らかでない以上、他の地域の警護を手薄にしてまでの大規模な戦力の補充はできない。不死川は言うまでもなく、椿も平隊士としては歴戦の剣士である。宇髄は鬼を討つことを目的とするのは当然としても、自分が自由にできる最強の戦力で妻たちを守りたかったのだ。

 椿の組む相手は毎晩違っていたが、この日の相方は雛鶴嬢だった。店に向かう俥の中で少し話しただけで、二人はすぐに打ち解けることができた。

「雛鶴さん、花簪が少し曲がっています。頭を下げてください……はい、これで大丈夫です」

「ありがとう、椿さん」

 雛鶴が微笑んで礼を言った。雛鶴は品のある立ち振る舞いの美しい女性で、その仕草の艶かしいこと、男を虜にする天性の才能があるように見受けられた。

 椿は芸者として栄達するのが目的ではないので、姐さんたちが踊り唄っている一番後ろの目立たないところで三味線をぺんぺんと弾き鳴らしておればよい。雛鶴はさすがに凄腕のくのいちで、一流の芸者たちに混じって見劣りない話術を披露していた。椿はひたすらお客に酌をしたり使い走りをして、そこ彼処に目を走らせて鬼の気配を探った。

 

 しかし、椿たちが店に通い始めた頃、つまりは監視体制を変えた途端に、ここ数か月の間、数日と間を持たずして頻発していた人間の失踪がぱたりと止んだ。

 

「一体どういうことでしょう?」

 須磨が二人を前にして尋ねた。今夜の座敷での出番はすべて終わったので、椿と須磨は不死川に伴われて置屋に戻っている。宇髄は雛鶴とまきをに随行しており、まだ帰ってきていない。

「こちらが監視を強化したので、活動を控えているのでしょうか」

「柱をどうにかできる力を持つ鬼がですか」椿が言った。

 鬼殺の隊士が集まっている現状、むしろこれ幸いと片っ端から連れ去りそうなものである。

「そうですね、臆病、いえ、慎重な鬼なのかもしれません。連れ去るのにも何か条件があるとか……」

 唯一失踪現場に立ち会った、ある人力車の俥夫の証言がある。後ろの席に主人を乗せて俥を引いていたのが、橋に差し掛かったあたりで突然と軽くなった。不思議に思って後ろを振り向くと、主人が忽然と消えていた。

「他の件も似たようなもんだ。争った形跡もまるで無いとなりゃァ、抵抗する隙を与えず一瞬で根城に引きずりこんだんだろうよ」

「空間操作系の鬼。異なる空間を作る異能、実空間に転移させる異能か。いずれにせよ厄介ですね」

 鬼の異能は多種多様で、しかも一つでなく二つ三つと異なる能力を駆使することも稀ではない。この異能のために、実力で鬼に優っていようとも搦手にやられて命を落とした剣士がかつてどれほどいたことか。

「店の従業員は?」

「全員洗った。今のとこはシロだ」

 人間に擬態しているとなれば出入りの客か芸者衆、はたまた社会には溶け込まず、野にあって獲物を物色しているのか。しかしこれ以上のことを推測するには手掛かりを欠いていた。

 つまりは現状、これ以上打つ手がなく、調査を続けるしか方法がなかった。

 

 この日の仕事は花谷の宴席で、ある鉱山会社の一行を接待することだった。訪れが絶えない常連とのこと、連夜社長とその部下で遊興三昧とは、このご時世に豪奢なことであった。

「お前は椿と言うのか」

 杯に酒を注いでやると、奥の上座に座った男が横柄な口振りで鼻を鳴らした。身かけは女好きのしそうな若い伊達男と呼べようが、態度の悪さが全てを台なしにしていた。

「どこかで見た顔だ。あれは軽井沢、湖の庭園だったか」

 椿は内心毒を吐いた。成長して昔とは形相が変わっているし、化粧もしているから、知り合いに見つかっても素性が知れることはないだろうとたかをくくっていた。

「ええ、覚えています、芹澤様。お別れの時に夏萩の花を送ってくださったもの」

「あの時の君はまだ子供だった。美しく成長したようで何よりだ」

 褒め言葉の中に嘲笑が混じっていることは疑いもなかった。

「二階堂の娘がまさか芸者に身をやつしているとは」

 これ以上、昔話を続けるならどうしてくれようか。執拗に背中を撫でさすってくるのも気持ち悪い。不死川に言われた通り、小指の骨くらいなら折ってしまってもいいかもしれない。いや、いけない。衆目を集めると動きにくくなる。自制しなければ。

「いまや落ちぶれたといえ、家名を汚す恥。私のことはどうかあなたの御心のうちにお留めください」

「良いだろう」

 芹澤は気前よく椿の申し出を飲んだ。かつて望んだ高貴の娘が自分に屈服しているのが嬉しかったらしい。扱いやすい男だ。

「社長に就任なされたとのこと、お祝い申し上げますわ」

「当たり前のことをいちいち祝うな」

「それは申し訳ございません」

 芹澤はとにかく尊大な男で、昔会った時からその性根は少しも変わることがなかった。父親は鉱山業で身を起こした実業家、三人兄弟の次男で、兄弟の中で一番評判が悪かった。家業は長男がすべて継ぐから栄達の望みもなく、その上、官僚や軍人になってのしあがろうという知恵も気概もない。だから、避暑地で偶然出会った椿に目をつけたのだ。婿養子に入れば、手っ取り早く地位や財産にありつくことができる。椿は当時まだ少女だったが、そうあからさまにこられては青年の思惑もわかろうというもの、宿泊していた宿にまで押しかけて熱心に誘いをかけられてものらりくらりとかわしていたが、最後には父がぴしゃりと追い払った。娘の婿として相応しくないと判断したのだ。

 しかし、話を聞いているに、兄が突然死してしまい、棚ぼたで事業の後継になったらしい。こんな愚か者が人の上に立つなんて世も末だ。椿はこびへつらう部下たちに心底憐れに思い、翻って自分が持つことのできた産屋敷の当主という素晴らしい上司に思いを馳せた。

「おい、椿よ。何か舞ってみろ」

 芹澤の指示に、雛鶴がさっと止めに入った。

「芹澤様、椿はまだ半玉ですから……お見苦しいものを見せてしまいます」

 普通、半玉が先輩の芸者を差し置いて単独で踊ることはない。

「俺が見たいと言ったんだ」

 半人前の踊りを披露させて恥をかかせたいのか、芹澤は譲らなかった。一座に緊張が走る。上客の機嫌を損ねることはできない。

 ここで下手に踊って笑いものになるのは、それはそれで余興と言えよう。失敗とは言うまい。だが、椿の中のいらないプライドが首を擡げた。舐められたまま終わるのは癪だった。

「よろしいでしょう」

 椿は座敷をぐるりと見渡した。色とりどりの着物の中に、から紅の葉の模様が目を引いた。ちょうどよい題材があったではないか。

「秋色いよいよ深まって参りました今日この頃でござますゆえ、今宵は『紅葉狩』をお目にかけましょう」

 雛鶴に目配せをする。意図を察した雛鶴は芸者たちに耳打ちをして、椿が舞うための空間を開けた。椿は立ち上がり、懐から取り出した扇を広げる。一座はその淑とした出で立ちに気圧されて静かになった。

「時雨を急ぐ紅葉狩、時雨を急ぐ紅葉狩、深き山路を尋ねん――」

 朗々たる口上とともに紅葉柄の衣装を纏った芸者が三味線を掻き鳴らす。椿の動きに合わせて、袖袂が蝶が舞うように翻った。

 

 

「――ということがあってね」

 椿は宴席をつつがなく終えた次の日、不死川相手にその晩にあったことを語った。なにもただ雑談をしているのではなく、情報を共有しておくためでもある。

 二つ部屋を挟んだ隣では、須磨が身支度を先輩芸者たちに手伝ってもらっていた。きゃあきゃあと若い娘たちの甲高い笑い声がする。仲良くしているようで何よりだ。

「こっちの素性はバレてねえだろうなァ」

 椿の帯を締めながら、不死川が聞いた。

「大丈夫よ。私は一族に縁を切られたことで通ってるからそれ以上は……もうちょっと強く締めて、そう、そう」

 芸者のだらり帯は長く重く、他人の力を借りなければ締められない。これも男衆の仕事のうちである。

「あの男は適当に転がしておくわ。べらべらといろんなことを喋ってくれて都合が良いし。三縁亭の方にも出入りしているみたいだから、何か情報が得られるかもしれない」

 芹澤の当初の目論見は外れたが、椿の舞がお気に召したのか、また来ると言っていたく上機嫌で帰っていった。今夜中にでも再びお呼びがかかるかもしれない。

 しかし、依然として鬼の正体は不明瞭だ。

「お前の見立てはどうだァ、椿」

 店の出入り口に隊士を張り付かせているが、それらしい気配はない。

「ここにいる。必ず」

 任にあたる隊士の間では、行方不明になった柱と人知れず相討ちになったのではないかという憶測もあったが、状況が願望を否定した。気配はまだ真新しい。鬼は必ずこの近辺に潜んでいる。柱を屠り、何食わぬ顔で。

「直感……ではないわね。違和感というか……なにかがおかしい」

 確実にいると分かっているのに、尻尾を掴めないのがもどかしかった。

「焦んなよ」

 不死川はそう言って椿を諫めた。

 ことを急いて仕損じては元も子もない。不死川は気の短い男であることは間違い無いが、必要な時はいくらでも忍耐強くなれるのだ。箱屋は賤業とみなされているから、人間以下の扱いをされることも多々あるのに、無礼を働かれても眉一つ動かさず文句をこぼすこともない、見事な仕事ぶりだった。

 椿は箪笥の上の籠から包みを取り上げた。

「実弥さん、お口を開けて」

 素直に開かれた半開きの口に丸いものを押し込んだ。

「飴か」

「浅草のべっこう飴よ。甘くて美味しいでしょう?」

「ああ」

 不死川は口に入れられた飴を奥歯でがりがりと噛んで砕いた。この男はこの形でいて甘いものに目がない。中でも一番の好物がおはぎで、他所から五つ六つと貰ってきても、その日のうちにすべてぺろりと平らげてしまう。しかし、他人の前でそういう姿を見せることは稀だった。甘いものが好きだなんて男らしさに欠けると思っているらしい。

「客からの貰いもんじゃねえだろうなァ」

「おかあさんが客あしらいが上手だからと、ご褒美にくださったの。実弥さんも頑張っているから、お裾分け」

 おかあさんとは置屋の女将のことである。芹澤は仲間内でも嫌われ者で有名で、うまくいなしたのを先輩芸者から聞き、これは褒めてやらねばと思ったらしい。

「俺ァ何もしてねえよ」

「店の外で酔っ払って暴れていたお客さんを取り押さえたんですって?」

「あんなもん何のことでもねえ、わかってんだろ」

 もちろん、堅気の男一人制圧することなど赤子の手を捻るより容易いことは心得ている。

「聞けば散々、こちらを貶してくれたそうじゃない?それで怒らず、怪我をさせずに抑えられて偉いねって、そういう話……」

「ああそうかよ……っておい、なんだそいつはァ」

 椿が飴の次に取り出したそれを持つ手を、不死川が捕らえた。飴とは打って変わって不穏な丸い包みだった。

「こちらは音柱さまにお願いしていただいた火薬玉」

 椿は女将から飴を貰ったと言ったのとまるで同じ調子で言った。そして不死川の手をやんわりと引き離すと、締めた帯の中に差し挟んだ。

「もしも私が鬼にやられてしまって喰われるようなことになったら、まだ息の根が止まっていなかったとしても、躊躇わず私の身体に油をかけて火をつけてね。そうしたらこの火薬玉が爆発して、私の身体は木っ端微塵になるわ」

 不死川はいい加減、驚きはしなかったが、その代わり応と返事をすることもなかった。黙って椿が言うことを聞いた。

「鬼に喰われるのだけは嫌。鬼の一部になんて絶対になりたくない。だから、そんなことになる前に、血肉が残らないくらい粉々に吹き飛びたい……」

 椿は稀血で、しかも女である。鬼にとっては喉から手が出るほどのご馳走。己の血肉を喰った鬼はさらに力を増して人を襲うだろう。想像するのも堪え難い。

「どうしてもか」

 不死川の声には諦めと苦々しさが滲んでいた。

「はい。ひどいことをお願いしてるのは承知してるけど、でもやっぱり、わかってほしい……」

 椿は愛する男の顔をいじらしく見上げた。このまま抱きついてしまいたかった。けれど、せっかく着付けた衣装が崩れしてしまうからできない。

 不死川は身を屈めて椿の顔を覗き込んだ。

「口、いいか」

 そういえばこちらも任務でしばらくご無沙汰だった。

 時計を見ると、まだぎりぎり昼の時間帯である。化粧だけなら後で直す時間はある。

「次のお座敷までには、時間があるから。……お願い」

 椿はそう言って、上から降ってきた口付けを迎えた。舌が絡み合うと飴の味がする。

「ふふ、甘い」

 にこにこと笑いながら顔を離すと、心なし不死川の表情が和らいだ。

「化粧をした私としない私、どちらが綺麗?」

「化粧しようがしまいが、お前が別嬪なことには変わりねえよ」

 ぎゅっと両手同士を握り合わせた。下手に飾らない言葉が嬉しかった。

 

「あー、もしもしお二人さん?報告を預かってきたが、入っていいか?」

 突然、障子の向こうから声をかけられた。不死川は慌てて口元を擦って紅を取った。椿の方は薬指で唇をぺたぺたとなぞり、輪郭をぼやかして整えた。

「はい、どうぞ」

 椿が返事をすると、障子が空いた。顔を覗かせた青年隊士は笑わずにいられるかと言わんばかりの愉快そうな顔つきだった。

 彼は樋上という名で、椿や粂野とは同期にあたる。ややお調子者のきらいがあるが悪意のある男ではなく、人懐っこい性格で人気者だった。

「君がそんな風に恋に狂うなんて思わなかった。誰に誘われても靡かない高嶺の花だったのに」樋上が言った。

「なんとでもおっしゃってください」

 椿がつんと澄ました。

「冷たいこと言うなよ。すずめちゃんが生きてりゃ、椿さんに良い人ができたって大喜びだったろうぜ。あの子、君のことが大好きだったもんなあ」

 樋上がしみじみと言ったので、椿もついしんみりしてしまった。それで樋上は矛先を変えて不死川をいじることに決めたらしい。

「なあ不死川、弁財天みたいな美人と一緒に暮らすってどんな気分?なあなあどんな気分?」

「うるせえ黙れ殺すぞ」

 遅れて後からやってきた粂野が樋上の頭をはたいた。

「樋上、人の恋路をからかうような真似はよせ」

「はーい」

 樋上は素直に従った。樋上は粂野には逆らわない。気持ちはわかる。何か無分別な態度を取ったとき、粂野の曇りなき眼に晒されると非常に居心地が悪いのである。

 粂野が到着するや否や、今度は廊下からひょこりと下働きの中年女が顔を出した。

「ちょっとお兄さん!お兄さんの腕っ節を見込んで頼みがあるんだけど、須磨ちゃんの帯締め、手伝ってくれないかい?」

 この年になると怖いものなんかないと言わんばかりの豪胆な彼女は、若い芸者たちが声をかけるのを尻込みする不死川にも遠慮することはない。報告は急ぎではないというので、不死川は乞われるまま手伝いに出て行った。

 ついでにも一人別件で男手が欲しいというので、これは樋上が手を挙げて請け負った。ここには世話になっているから、用を頼まれたら任務に支障のない限り手伝ってやれというのが宇髄の命令である。

「上手くやってるんだな」

 二人残された部屋で、粂野が切り出した。

「まだなんの手掛かりも掴めていませんよ」

「いやそっちじゃなくて、実弥とさ」

 粂野は嬉しそうだった。ひょっとすると、自分が想い人と祝言を挙げるとなってもこんな風にはならないのではないか、とまで思わせる、晴々とした満面の笑顔だった。

「まだ祝言は挙げないのか」

「彼にその気がないのだから、仕方ないでしょう」

「あいつのことは置いておくとして、ほんとに正式に求婚されたらなんて答えるんだ」

「さあ、どうでしょう」

「でも好きなんだろう」

「好きですよ。大好きですよ」

「なら何を躊躇うことがあるんだ?あいつも大概だが、君も足踏みしているように見える」

 思うことが色々ありすぎて、椿は中々、次の言葉を見つけられなかった。

「……誰かのかけがえのない存在になるなんて、恐ろしいと思いませんか」

 椿はようやくそれだけ絞り出した。

「なぜだ?俺は素晴らしいことだと思う」

「私――私、きっと彼を幸せにできません」

 椿は神様にもらった自分の命の残り時間が、それほど長いものだとは思っていない。長く生きる自分の姿をうまく想像できない。きっと彼より先に死んでしまう。漠然とそう思っている。それなのに、自分の我侭しか通さないで甘えてる。ひどい女だ。

「実弥も以前、同じようなことを言っていたよ。君たちは変なところでよく似ているな」

 第一女が男を幸せにできるかなんて気にするんじゃない、と言う粂野は、なるほど兄というものがいればこうであろうかという頼もしさに満ち溢れていた。

「明日も知れぬからこそ、人は約束を交わすんじゃないか。何一つ保証されていないから、証立てるんじゃないのか……だから約束してくれないか。君たちが祝言を挙げる時は必ず俺を呼んでくれよ」

「……明日生きているかどうかもわからないのに、約束をするんですね」

「そうだ。もし、俺や実弥が志半ばで命を落とすことになったとしても、今日、俺の言ったことを忘れないでくれ。今はわからなくても、いつかわかってくれると嬉しい」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11.千切り千切り千切る

鬼殺隊の人たちに恋愛したら?ってフるの、全身骨折してる人に百メートル走を強いるような残酷さがあるよね。助けてくれ恋柱。


 近隣の機械工場が排出する煙煤にまみれた土塀が左右に続いている。掘割の水面は油に塗れ墨で染めたように黒く淀んで動かず、往来は白昼にも関わらずものものしい空気が立ち込めている。貧家の痩せ細った子供たちが路地でたむろして、通りがかる不死川と樋上を暗い眼差しで見つめた。野良犬すら吠えるでもなく、くたびれ切った様子で残飯を漁っている。

「なんで連れが俺なんだよ。粂野ならここでだってさほど浮いたりしないだろ?」

 樋上は己の顔を指して、粂野のそこにある古傷を擬した。堅気で生きてきてこさえた傷ではないと言いたいのだろう。

「手前の胡散臭さにゃ敵わねえよ。黙ってついてこい」

 特有の饐えた悪臭を嗅げばいやがおうにも腐ったドブの中を這いずり回って生き延びていた頃を思い出す。まださほど昔のことではない。正直なところ、不死川はここに戻ってきたくなかったし、まして親友を連れてくるなど絶対に嫌だった。

 そんな年でもないのにまだらな白髪だらけのざんばら髪の男が筵を引いた上に身を屈めてしゃがんでいる。不死川と樋上が前に立つと男は首を上に向けた。右目が白く濁っている。

「不死川か。何年ぶりだ?」

「数えちゃねえよ」

 男は白目をぎょろと動かして樋上の方を向いた。樋上は不気味そうにたじろいだ。

「お前の舎弟か」

「そんなもんだ」

 頭に会いにきたどこにいると尋ねれば、男は欠けた人差し指でぐいと三軒先の小料理店を指した。不死川は物も言わずにすたすたとその場を立ち去った。

「舎弟はないだろ。言っとくけど俺年上だし先輩だよ!?」

「俺に年功序列を説くたあいい度胸してんじゃねえか。何年隊士やってんだァ、てめえ」

 樋上はうな垂れてそれ以上抗弁しなかった。鬼殺隊では強さがすべてに優先する。樋上の階級は上から数えて四番目の丁で止まって久しく、年下で後輩であるところの不死川にはものの数か月で抜かされた。

「さっきから何ビビってやがる」

「俺はいいとこいって小悪党なんだよ。まじもんの任侠相手とか勘弁こうむりたい」

 鬼狩りのくせに何を気弱なと一喝しようという気持ちは、樋上の情けない態度を前に失せた。別に不死川だってこの連れを頼りにする気はない。宇髄からの命令がなければ相方など要りもしなかったのだ。

 

 一連の失踪事件に唯一居合わせた俥夫から詳細な証言を聞き出すこと。それが今回音柱から不死川個人に課せられた任務だった。

 この俥夫、その証言の内容の突飛さゆえに虚言虚実もしや下手人張本人と疑われ、訴えを聞いた巡査たちに捕縛されそうになったのを辛くも逃れてこの貧民窟に逃れてきたのだ。宇髄は独自の情報網でこの俥夫が逃げ込んだ先までは突き止めたが、一帯は縄張り意識が強く、無理に入り込むことができそうにない。そういう理由で不死川に、お前が適任だろうと仕事を振られた。

 どこで不死川がこの地に縁があったことを宇髄が掴んだのかはわからないが、いずれにせよ際立った情報収集能力だった。そもそも、店を突き止めたのも宇髄の功績なのだ。あの風体で元忍だのなんだのとほざいているが、案外バカにしたものではないのかもしれないと、不死川は音柱への評価をいくらか上方に修正した。

 汚らしい小料理店の二階で、日雇い人夫が集まって静かに賭博に興じていた。奥では倶利迦羅紋々の彫物を刺した坊主頭の男が煙草を吸って胡座をかいていた。

「来るならもうちっと暇な時に来い」男が言った。

「暇っつうのはどういう時だァ?負けが込んで胴元が破産した時かよ?」

 手前に座った用心棒が挑発的な言葉にぴくと瞼を動かしたが、この場所に生きる無法者たちは逆らっていい人間と逆らってはいけない人間の弁別にかけては右に出るものがない。用心棒の目から見て不死川は後者だった。よって、壁に立てかけた突棒が用に立つことはなかった。

「何の用だ。博打しにきたって体でもねえだろう」

 不死川は後ろに隠れた樋上にちらっと目線をやった。暗にお前も仕事をしろと急かされ、樋上は渋々前に出て口を開いた。

「雇主を殺した廉で逃げてきた俥夫に用がある。いるんだろう?」

 男は人夫の中から、日に焼けた黒い肌の中年男を紹介した。

「俺あなんもやってねえよ」

 不死川が男の隣に座ると、俥夫はこちらが言葉を発するより前に、まっすぐ前をむいて視線を合わさないまま言った。

「知ってらァ。話を聞きに来ただけだ」

 俥夫の表情が興味深そうに動いた。

「へえ?人力俥夫のほら話を信用してくれるってのか?」

「信用してやる。聞いたことに答えろォ」

 不死川の物言いはぞんざいだったが、むしろその言い回しに親近感を覚えたのか、心を開く気になったらしい。俥夫は頷いた。

「てめえの主人は、消える前になんぞ言っちゃァなかったか」

「あの晩はしたたか飲んでたっからな。酔っ払いの戯言だぞ」

「それでいい」

 不死川が促すと、男は「三味線の音」とぽつりと言った。

「三味線の音が聞こえる、聞こえる、ってうわ言みてえに呟いてたなあ。俺ぁいつもの酔言と思って相手にもしなかった。前を向いて俥を引いてたのがフッと軽くなって……そんで振り向いたらよ、旦那さまの姿がなかったのよ。消えちまった。煙みてえに」

 男は下を向いた。

「おい兄ちゃんよお、旦那さまは死んじまったのかい」

「ああ」

 鬼に連れ去られたなら望みはない。希望を持たせる必要もないと思い、不死川は肯定した。

「俺みたいなもんにも心を砕いてくれる、いいお人だった」

 男の皺だらけの目元に涙が光っていた。

「お前の濡れ衣は晴らす。主人の仇は打ってやる」

「頼むぜ。このまんまじゃやりきれねえよ」

 

 店を出る時、彫物の男が寄ってきて、不死川に耳打ちした。

「ちょいと前の話だが、神楽坂の八幡さんで妙な騒ぎがあったらしい。的屋の喧嘩でカタがついたらしいがな」

「いつだ」

 頭から聞き出したのは新嘗祭のきっかり十日前、柱が失踪した時期と重なる。これはいい情報だった。表向き博徒の喧嘩で処理されているなら、中々情報網にも上がらないだろう。

 礼を言って背を向けた不死川に、男は勿体無げに声をかけた。

「おめえがここにまだいりゃ、なうての手配師になったろうによ。惜しいことをしたもんだ」

「おだててもここにゃ戻らねえぞォ」

「わかってら。鎌かけただけだ」

 ここに生きる人々に対して、一片の親しみもないわけではない。だが、昔と変わらず夜の闇に身を置けども、ここにいては決して得られぬ陽だまりの温かさを分け与えられてしまった以上、もはや戻りたいとは一念たりとも思わなかった。

 

 

 三つ夜が明けた。

 椿はその日も出番を待つ間、三味線を弾き鳴らしていた。

「また弾いてるの?好きだねえ、それ」

 まきをが微笑ましげに椿に言った。椿はにこりと笑って答えた。

「須磨、あんた握り飯食べたね。ほっぺたにご飯粒ついてるよ。どこからくすねてきたんだか」

「だってお腹空いたんですもん……」

 大きな瞳をうるうるさせた須磨は許してあげたくなるような愛らしい風情だったが、まきをには通用しなかった。

「私の分を差し上げました。お腹が空いていなかったので」

 椿が助け舟を出すと「ありがとう椿ちゃん!」と、須磨はこれまた愛らしく礼を言った。

「ほらもう、口元拭いてあげるからこっち来な」

 仲睦まじい二人の様子を見ながら、椿は普段から思っていたことを口に出した。

「音柱の奥様方は、皆さんとても仲良しですね」

「うん?そりゃあ長い付き合いだしね」

「付き合いの長さだけでうまくいくものではありませんでしょう。一人の男性を共有するなら、なおさらのことです」

 椿は実際に目にするまで、噂に聞く音柱の『三人の妻』とは如何なるものだろうかと思っていた。一人の男が多数の女を囲うことは世間に一般的に見られる風習である。しかし、多数の女を持つ場合でも妻は一人。あくまで正妻一人と妾複数なのである。普通は。

「自分の女たちを引き比べてあちらの方が良いこちらの方が良いと縺れに縺れて破局に至るなどありがちな話です」

 多数の女を平等に遇するなど所詮絵空事、いかに男が手管良く女を扱おうともそこに嫉妬妬みが生まれるのは避けられぬ。ゆえに女の間には序列が生まれる。ところが宇髄と三人の妻はみな対等な身分で存立している。これは稀なことと言わねばならぬ。

「天元様は私たちを比べて何か言うことなんてありませんから」

「なかなか出来ることではありませんよ。娶った妻を全員平等に扱うなんて、光る君だってかないませんでした」

「おうおうなんだ。俺の噂話か」

 後ろに雛鶴を連れた宇髄が用事から戻ってくると、須磨とまきをの表情が一気に華やいだ。

「音柱さまのような美丈夫を夫に持つと、妻は悋気に振り回されて苦労すると相場は決まっておりますでしょう?」

「旦那に悋気を起こすってのはあれだな、嫁への愛が足りてねえんだよ、愛が。俺は言葉でも行動でも派手に嫁を愛すると決めている。誤解も齟齬も生まれようがない」

「なるほど、安珍のごとき不義理者とは役者が違うというわけですね」

 椿は得心がいったように頷いた。

「では、音柱さまに悋気は?皆さんお座敷では大評判、須磨さんなど社長のお妾にならないかと誘われていらっしゃるのですよ」

 宇髄は美男なばかりか話が巧みでそれはもう大層女に好かれるが、妻たちもみなそれぞれに性格は違えど、気立てがよく魅力的な女性なのである。

 宇髄は不敵な笑みを浮かべて須磨の方を振り向いた。

「須磨よ、そいつは俺よりいい男だったか?」

「いいえ」

 須磨は首をぶんぶんと勢い良く振り、「天元様より素敵な殿方なんてこの世にいません」と断言した。

「そうか。もし俺よりいいと思う男ができたら言え」

「どうするんです?」

 椿が聞いた。男を沈めるつもりだろうか。物理的に。

「決まってんだろ。言葉を尽くして口説くんだよ。もういっぺん俺に惚れ直してもらえるようにな」

 よっぽど自分に自信がなければ言えない台詞だ。さすが冗談でも神を自称する男である。なにより宇髄の言には誠実さが篭っていた。椿は頭を下げるしかなかった。

「意地悪を申しました。音柱さまの海より深い甲斐性を侮っていたことをお許しください」

 本題に入った。

「鴉からの報告は聞いたか」

「はい。あちらは首尾よく行ったようで何よりです」

「で、こっちはお前は欲しがってた分だ」

 宇髄の持ってきた資料に素早く目を通した。

「お前が言ってた男の会社のここ数か月の損益表と人事資料だ」

「よく集めましたね」

「お館様の力をお借りした。消えた連中全員との繋がりまで突き止めたかったが、そこまで調べ切るには時間が足りねえ。だが、何件かは裏が取れた」

「十分です。見事なお手前です」

 宇髄は腕を組んで思案げに言った。

「あの男、俺が見た限り鬼の気配はしなかったが」

「そこは疑っておりません。芹澤は間違いなく人間です」

「なぜわかる」

「割れたお猪口で指先を切って反応を見ました。私の血を前にした鬼ならどれほど巧妙に抑えても違和感が出るものです。しかし、あの男は私の失敗を前にして眉根一つ動かさず鼻で笑いました。徹頭徹尾冷血の通った人間です、彼は」

「なるほど」

 宇髄が頷いた。

「今夜中に決着をつける。すでに不死川たちには作戦を伝えた」

「ただでは出てきませんでしょう。人間を介してその陰に隠れているような輩です」

「そのためにお前にも一仕事をしてもらう。まさか芸妓が馴染んで剣筋が鈍ったなんてことはないだろうな」

「ご心配なく。いつでも戦えます」

 芸者をやるのはそれなりに楽しかったが、好きでもない他人に奉仕するのはやはりどうにも性に合わない。自分にはこちらの方がよほどお似合いだと、椿は日輪刀を鞘から引き抜いて刀身の具合を確かめた。

 

 芹澤を一人部下から引き離して誘き出すのは拍子抜けするほど 簡単だった。座敷が終わった後、お店の外でお会いしましょうと誘うと、勘違いしてのぼせ上がった男はやすやす乗ってきた。値段の折り合いさえつけば、芸者とて遊女まがいの真似をする時世である。それもこれも身体を売らねば食ってゆけぬような不景気が悪い。

 のこのこと待ち合わせ場所に一人でやってきた男の足を掬って地面になぎ倒し、喉元に小刀を突き立てた。芹澤は仰天して「誰か誰か」と叫ぶが、しかし誰もこない。往来の人払いは完璧だった。

「か、刀なぞ持ってどうしようと言うんだ。婦女子が男にかなうものか」

「生憎、私は素手でもあなたの首をねじ切るくらいのことはできますよ。理解したなら、質問に答えなさい」

 呼吸で強化し極限まで鍛えた肉体に、武術の心得一つない人間の男がかなうはずもない。肩を抑えただけの拘束から抜け出そうとするも果たせず、男は道理の通らなさに目を白黒させた。

「狭斜の巷に身を堕すばかりか人切りとは、先祖の位牌に申し訳ないと思わないのか。この悪女」

「あなた、兄を殺しましたね」

 苦し紛れに罵倒する芹澤の言に取り合わず、椿が核心から迫った。

「なんの話だ」男の顔から表情が消えた。

「河岸で上がったあなたの兄の遺体には上半身がなかった」

 刀の切っ先が喉元につうと触れると、いよいよ芹澤の顔から色みが消え失せた。

「それがどうした。魚にでも食われたんだろう」

 これ以上刀を持つ手を進める度胸がないと思ったのか、芹澤は強気を取り戻した。椿は芹澤の右手の小指を摘んで力を込めた。骨はあっけなく砕け、男は情けない悲鳴を上げた。

「口にする気になるまで、順番に両手指の骨を折ります」

 こけ脅しでない椿の言葉に、芹澤は火がついたように己の所業を捲し立てた。

 

宴席の席で兄と口論になりかっとなった勢いで庭の池に沈めて殺してしまった、死体をどうしようかと考えあぐねていると女が現れた、女は兄を始末する代わりに自分が申し付けた連中を宴席に連れてこいといった、その通りにしただけだそいつらがどうなったかは知らない俺は悪くない俺はなにもやっていない

 

「女に言われた通り連れてきた。それだけですか?気に入らない人間や邪魔になる人間も尽くその女とやらに献上したのでしょう。社主を消して、乗っ取り買収したのも一社二社では済みますまい」

 宇髄の資料と裏付けで、失踪者の人選にこの男の意図が絡んでいることは知れた。図星を突かれた芹澤はまごついてそれ以上何も反論できないようだった。

「……弟はどうしたのですか。書類上では北海道の子会社に出向したことになっていますが、見た者がありません」

 男の形相が鬼じみて歪んだ。そこには肉親への憎悪がはっきりと見て取れた。

「店に連れてきて、女にくれてやった。今更、隠居親父が血迷ってしゃしゃりでてきてあいつを後継者に指名しちゃかなわんからな――ギャァ!?」

 手首の骨がごきりと折れる音がした。

「あなた、尋問の役が私で運が良かったですね。他の隊士にかかればこの程度で済みませんでしたよ」

 芹澤は二言三言ばかり吃りながら訳のわからぬことを言っていたが、ふいに呆然となって「三味線の音がする」と呟いた。

 椿は顔を上げてあたりを見回した。宵中の辻は静まり返っている。

「助けてくれ!助けてくれ!――()()!」

 今度は椿の耳にもはっきりと聞こえた。しゃんとなる三弦の音色が。

 後ろを振り向くと、誰もなかった路地の終わりに女が立っていた。松園の美人絵から抜け出してきたような妖しくも艶かしい青白い顔が、月の光に照らされてくっきりと浮かび上がる。

 女の姿を目にした瞬間、思考にかかっていた靄が晴れ、鮮明な像を結んだ。芹澤と再会した席に居合わせた、紅葉柄の着物を纏った女と目の前の女は同じだった。

「いややわ、全部喋ってしもたん」

 鬼女の赤く熟れた唇から、まるで赤子を諭すような甘い声音が漏れた。

「助けてくれ紅葉、この女に殺される」

 鬼女は冷ややかな眼差しで半泣きになっている芹澤を眺めた。

「うちがここに来たんはあんたを始末するためや。都合のええ手駒や思て泳がせといたけど、これ以上べらべら喋られたら、やり難うてたまらへん」

 芹澤の身体からへなへなと力が抜けた。

 椿は立ち上がり、日輪刀を構えて鬼女を注視した。極めて高い精度で人間に擬態している。だが、店で鬼と見破れなかったのはそれだけではない。

「ええ風やね。うちのお香は脳みそに効くんやけど、こない風が吹かれたらかなわへんわ」

「店でお前を鬼と認識できなかったのは、その認識阻害の血鬼術のためね」

 何が楽しいのか、鬼女は笑みを絶やさない。

 反対に椿の脳髄はしんと冷えていく一方だ。本能が訴える。この女は強い。

「そうや。でも、あんまり驚いてへんな」

「私が紅葉狩を舞ったとき、三味線を弾いた芸者はお前でしょう。あの時から妙な気がしていた」

 芹澤はこの女を紅葉と呼んだ。

 紅葉狩とは、平安時代の武将・平維茂が更科姫なる鬼女を退治する筋立てになる。鬼退治の物語なのだ。そのもととなった伝説の鬼女の名を紅葉と言う。無意識のうちにその名に縁する舞を選んでいたのは皮肉だった。

「あれはええもん見してもろたわ。なんでわかったん?」

「お前が消したある男は、三味線の音を聞いたと言った」

「それだけちがうやろ?三味線弾く幇間芸者は巷に山ほどおる」

 鬼女はまるで面白い謎解きでも聞いているかのように続きを促した。

「あの時はただ違和感として残っただけだったけれど、今ならはっきりとわかる。お前の三味線、山の手の若い芸者風情が奏でて良い音色ではない。生涯を芸に捧げた瞽女老妓もかなわぬ三弦の極地よ」

「そない褒めてもらえるとは思いもよらへんかった。嬉しいわあ。どうもおおきに」

「褒めたように聞こえたの?その域に至るまで、一体どれほどの時を長らえた。どれだけ人を喰った。化物め」

 

水の呼吸・弐ノ型、水車

 

 椿の技は鬼の手練で受け流された。椿もこれで仕留められるなどとははなから考えていない。

「これが三の糸」

 第三の弦から高音が絶え間なく響き、間断なく衝撃波が飛んでくる。背後の家屋はことごとく切り裂かれて崩落した。

「だれもおらへん」

 童女のような仕草で崩壊した家の中を覗き込んだ。家屋の中はもぬけのからだ。

「うちが来おへん間に逃したんやねえ。優しい子」

 椿は黙って陸ノ型ねじれ渦を放った。身体が動く。思考も明快だ。今日はよく戦えている。

「思ってたより強いんやねえ。こないだ殺した柱とさして遜色あらへんわ」

 椿の斬撃は鬼女の顔面を割ったが、傷は瞬く間に再生した。再生速度が異様に速い。ただの鬼ではない。

「これが二の糸」

 女の放った鋭い鎌鼬をすべて避け切ることができず、左腕を深々切り裂かれて血が吹き出た。椿はこういう時、いくら模倣しようにもかなわない師の技の偉大さを思い知る。冨岡なら手傷一つ負うことなく今の攻撃をいなしただろう。

「……あんた、生娘違うのん?」

 鬼女は風に乗った血の匂いをくんと嗅いで不機嫌そうに言った。処女血を好んで啜る鬼の類か、気色悪いことこの上なかった。

「あかんえ、若い娘が身売ったら」

「理から外れた人外畜生が異なことを言うのね」

「芸の道に色欲まみれの男がでしゃばる余地なんぞないわ」

 あからさまに発露する男性嫌悪の幼稚さに、椿は嘲笑を堪えきれなかった。

「惚れた男と情を絡ます悦びも知らないなんて、哀れな女」

 鬼の瞳に初めて殺意が滲んだ。

「生かしたまま連れて帰って鬼にしたろかおもたけど、気い変わったわ。手足引きちぎって頭から喰うたる」

 鬼女が撥を跳ね上げるよりも先に、椿は懐から火薬玉を取り出して鬼の足元に投げた。爆発とともに地面が抉れて土埃が舞う。

「目眩し?大雑把な――」

 そこから先の鬼女の言葉は巨大な爆発とともに弾け飛んだ。

 鬼の死角から飛んできた音柱の日輪刀は、鬼女の身体を裂いていた。

 宇髄の一撃で鬼女の頭は半分吹き飛んだが、頸を取るには至らない。悪態をつく口も再生しやらぬ内に、鬼女は凄まじい速度でその場から離脱する。まもなく気配そのものも掻き消えて追えなくなった。ここに来た時と同じように、血鬼術で空間を跳躍したのだろう。

「よく抑えた」

 煙の中から宇髄が姿を現した。鬼女が冷静さを欠く瞬間に攻撃を叩き込めるまで、気配を殺して潜んでいたのである。多数で待ち構えていては、いかに情報の漏洩を危惧していようとも、鬼女は姿を見せなかっただろう。

「芹澤を連れて行かれました」

「それは目を離した俺が悪い。よくやった」

 宇髄は椿の肩に手を置いて労った。ここで仕留めるのが最善だったが、次の手は打ってある。

「俺は鬼を追う。お前は雛鶴たちと合流して手当てを受けろ」

 宇髄は戦線離脱を命じた。椿の作戦上における役目はすでに終わっていた。

「私も行きます」

「足手まといだ」

 宇髄は左腕の傷を見ながら冷静に言った。

「利き腕ではありません。血も止まっていますから、戦うのに支障は出ませんよ。もし両腕が使えなくなっても肉壁くらいにはなれますし、いざとなれば火薬玉に火をつけて特攻します」

「いや……お前さ……俺もう不死川がかわいそうになってきたわ」

 椿は左腕にきりきりと包帯を巻いた。何がかわいそうなものか。絶対に鬼を許さない。地の果てまで追い詰めてでも殺す。それが自分たちを繋ぐ最大の寄る辺だ。

「問答をしている暇はありません。神楽坂に急ぎましょう」

 異様な胸騒ぎがする。夜明けは遠くないのに、よくない事が起こりそうな予感が身に纏わりついて離れなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12.全月弥天草露に宿る

引き続きお読みいただいている皆様、本当にありがとうございます。さっさと不死川兄とヒロインをほのぼの日向ぼっこでもさせたいです。


 

 宇髄がこの一件を持ってくる、二週間ほど前のことである。

「お館様にお会いしたことがないの?」

 椿は驚きで目をぱちぱちさせた。

 柔らかい日差しが窓格子の隙間から入り込む秋の昼下がり、二人で座卓の上に本を広げて読み合わせていた。その日の教本は太平記で、ちょうど天皇の御子である大塔宮が幕府軍に追われて熊野へ逼塞する場面に差し掛かっていた。

 なぜ軍記物の読み合わせなどしているのかというと、椿の突拍子ない言に発端があった。

「実弥さんは柱になるんでしょう」

「藪から棒になんだ」

「柱になる人は見ていてわかるわ。煉獄家のご子息はご存知?万夫不当の素晴らしい剣士だそうよ」

「煉獄か。あいつァ確かにいい腕っぷしだった」

 任務で一緒になったことのある、金獅子のごとき風体の男を思い返した。代々一族に受け継がれてきた炎の呼吸の継承者となるべく幼少から鍛えたという剣技は見事なもので、その明朗で高潔な人柄といい、なるほど柱となるに相応しい剣士と思われた。

 椿は、柱になる隊士は入隊した時にだいたい予想がつくと言った。一つの目安は階級の上がる速さだが、多くの場合、入ったときからすでに剣の筋が凡百とは違うのだという。とはいえそれらも命あっての話で、これは素質があると見込んでも、つまらぬことで足元を掬われて死ぬこともまた日常茶飯だった。

「だから、どこに出ても恥ずかしくないように礼節と教養を学んでおかなければね」

「なんでそうなる」

 柱になるのに必要なのは強さのみである。礼節などどこに用立てるつもりなのか。

「お館様に直々拝謁する機会が増えるのよ。産屋敷のご当主に無作法を働いて鬼殺隊に籍を置くことはできません」

 すでにそれが決定事項とばかりに、椿は不死川に礼儀作法を叩き込むことを決めたらしい。うわべだけ取り繕っても所詮下町育ちの地金が出るというものと、不死川自身は特にやる気もなく椿の言うまま付き合っていた。だが彼女は小手先で済ませるつもりは毛頭なく、実技実践では足らず、書物を山ほど積み上げてみっちりと仕込まれる羽目になった。幸い、不死川は学ぶことを苦にせず、教えられたことは何でもするすると吸収した。椿はそれを喜ぶのと同じくらい「私が半年かけて覚えたことをあなたは三日で覚えてしまう」と拗ねたが、不死川が「お前の教え方がいい」というと素直に嬉しがった。これは本心だった。学校の教師にでもなれば、さぞ子供から慕われるだろう。

 しかし、椿があまりにもお館様に失礼がないように奥方様にもご令息ご息女にも失礼がないようにと重ねて重ねて言うので、うんざりした心地になり、思わず「どんな野郎だ」と不死川が問うた。そして冒頭の言葉が発せられたのである。

 椿は驚いていたが、そもそも鬼殺隊の頂点に君臨する産屋敷の当主は、一介の隊士が易々相対叶う相手ではない。

「比類なき聡明叡智のお方。隊士が鬼を狩ることのみに専念できるのも、お館様のご采配の賜物よ」

「はっ、そうかい」

 不死川の鼻で括ったような返事に、椿は気を悪くして言った。

「もう少し敬意を払えないの。私たちのお給金も支給品も、隊の運営に必要なものはすべてご当主が家財で賄っているのよ」

 それはたしかに大したものだが、だからなんだ、とも思う。不死川は上に立つ人間が、いくら賢かろうと物を知っていようと金を出そうと、それだけで敬意を持つ気にはなれなかった。戦場で命を張らない人間が何を言ったところで説得力などない。大塔宮が敗地にあって部下から慕われたのは、高貴な身分でありながら、自ら太刀を佩いて弓を取り戦場に立ったからだ。それに引き換え、鬼殺隊の当主は隊士たちが命をかけて戦っているのに、自分は姿も見せずただ部下に死んでこいと後ろに隠れて命令を下している。胸糞悪かった。椿が当主について語る言葉のどこかに陶酔したような響きがあるのもなお一層気に入らなかった。

 不死川の上下感覚は単純明瞭である。強い人間が上で、弱い人間が下、それだけのことだ。野生の狼のごとき価値観だが、それは鬼殺隊の完全実力主義とも合致している。いかに社交性が欠如していようと人望がなかろうとも、能力さえ有れば許容されるのだ。水柱が良い例ではないか。

「鴉ごしに上から命令するだけで顔もみせやがらねェ、そんな奴の何を敬えってんだ」

「こちらがお会いしたいと望めば、相手が誰であろうとも応えてくださるわ。ただお忙しい方だし、みな遠慮をするから、そんな機会がないだけ」

 彼女は鬼殺隊に入る折、当主に直々頭を下げて鬼狩りになりたいと頼みこんだのだと言った。その際に父親から相続した多額の財産もすべて出捐した。それを聞いてますますとんでもない奴だと思った。

 家族を失ったばかりの子供があえて夜叉に身を落とそうとしているなら、悲劇を飲み下して市井の娘として生きていけと諭すのが人倫の筋というもので、財産をとりあげてあまつさえ過酷な鬼狩りの道を歩ませるなど、およそまっとうな人間の所業ではない。

 しかし言えば言うほど椿の目が据わってきたので、この話題はお流れになった。休みの日に、つまらぬことで喧嘩をして気不味くなりたくなかったのだ。

 

 

 そんなことがあったのを、不死川は宇髄とのやりとりの中で思い出していた。目下の苛立ちが、鬼殺隊当主の人事差配の手緩さに向けられていたためである。

 決戦を前にして音柱に人員の増員を進言したところ、にべもなく跳ね除けられた。それどころか、哨戒に当たっていた隊員は軒並み引き上げることになり、宇髄が自ら連れてきた椿と不死川を除いて残ることを許されたのは、不死川が連携が取りやすいからと引っ張ってきた粂野と、その粂野が同期の誼で引っ張ってきた樋上だけだった。

「別件の対処で大規模な部隊が編成されることになった。こっちに人手を回す余裕がねんだとよ」

「正気か。これで逃げられでもしたらどうすんだァ、ああ?」

 鬼殺隊の人手不足はいまに始まったことではないが、大物を仕留める絶好の機会を前にして、戦力を削減するなど妥当な判断とは思えなかった。

「この件は俺たちだけで処理できると上が判断したんだ。俺も文句はない」

 宇髄にしてみれば、下級隊士を十人よりも、上位の隊士を一人寄越してもらえる方がありがたい、というのが現場指揮官としての率直な本音だった。これが人間同士の戦いならともかく、対鬼戦を想定すると、生半可な腕前では何人でかかろうともただ無為に命を落とすばかりで、被害が拡大するだけである。そういう観点から言えば、上位の隊士を優先して残して貰えたのは有難いことだった。

 不死川は舌打ちした。

「てめえも『お館様』とやらを崇拝してるクチかよ」

「愚問だな。あの方のためなら俺は死ねる」

 挑発をあっさりと流されたので、不死川もそれ以上突っかかるのは無意味と悟った。これが最後の定期連絡だ。

「安心しろよ。危なくなる前に俺が出て行く」

「当然だ。あいつに何かあったら俺がてめえを殺す」

「あの女はお前が思ってるほど弱くねえよ。もうちょっと信頼してやれよ」

 宇髄はわかっていない。強いか弱いかはこの際問題ではない。すべては鬼を殺すためなら己の命を軽々投げ捨てていく椿の気性に原因がある。だが、さすがに不死川はわきまえていて、宇髄の提示した案にそれ以上異論を挟むことはしなかった。目的の達成のために手段を選ばないのは不死川も同じだった。

 

「ふーん。買われてるんだな、お前ら」

 神楽坂の参道の途中にある団子屋で一服しながら、樋上が不死川から作戦内容を聞いた感想を述べた。

「共犯者っぽい男を締め上げて鬼を誘き出して、巣穴に戻ったところを叩く作戦だろ。後詰めに選ばれるなんて、信用されてる証拠だぜ」

 店の奥に向かって、みたらし団子もう三串、と頼むと、あいよと威勢のいい返事が戻ってきた。

「音柱って、こないだ道場に乱入してきて、鍛えてやるとか言って隊員に稽古つけてくれたんだっけ?向上心のある奴からしたら、柱に稽古つけて貰えるなんてありがたいよな」

 宇髄本人は継子候補を見繕いに来たらしいが、大半お眼鏡に敵わなかったらしい。

「そうそう、数人がかりでようやくまともに勝負になる感じでさ。俺も結構いい線いったと思うけど、継子にはしないって言われた。結局一対一で勝てたのは実弥だけだったなあ」

 確かにその時は不死川が勝った。とはいえ、この結果が即座に実戦における絶対的な強さを示しているわけではない。宇髄の剣技の真価は巨大な二刀から繰り出す破壊力にあり、木刀と徒手空拳を駆使した手合わせにおいてはもとより不死川に分がある。

「俺は宇髄さんの意見に賛成だな。今回の鬼は確かに驚異だけど、この戦力で十分対処できる相手だと思う」と粂野は言った。

「ヤツは空間を跳躍して即時に移動する手段を持ってる。不測の事態に備えるに越したこたねえよ」これは不死川の意見である。

 神楽坂の八幡宮、ここが鬼の巣穴なのは裏付けが取れている。敷地内を丹念に調べると、大量の人骨を埋めた穴があった。鬼の気配は巧妙に隠蔽されていたが、敷地裏手の草むらの中で消えた柱の日輪刀の破片が発見されたことで件の鬼がここにいたことが確定した。他の情報と合わせて推察した結論が間違っていなければ、鬼はここに逃れてくるはずだ。

「なんで?」樋口が率直に疑問をぶつけた。

「第一に、確実に店内にいた痕跡があるのに、出入り口に張り付いてた監視に引っかかってない。入口を介さず店の中に直接移動したとみていいだろう。おそらく、人間を拐ってるのも同種の血鬼術、でも、無条件に発動できるわけじゃない。状況から見て、誰にも見られていないこと、三味線の音が引き金になるんだろう。

第二に、店に潜入した彼女たちが違和感を感じながらも鬼を特定できなかったのは、認知機能に作用する血鬼術を行使していたと考えられる。だが、人間を拐うのに使用した節がない以上、それほど強い強制力を持つものではない。持続時間が短いか、至近距離じゃないと効果が発動しないんじゃないかな。

第三に、狩場から拐って別の場所で殺す手口、逃げて立ち回る程度の知能と慎重さもある。境内の痕跡からして、長年この地に縄張りを張ってたんだ。外で身の危機を感じて一旦引くとしたら、ここしかない」

 鬼の血鬼術が、生前の性格や嗜好に強く影響を受けているのはよく知られている。行動を性格と能力の両面から検討すれば、敵の戦術も自ずと推測できようものだ。

「お前頭いいな」樋上が真顔で言った。

「宇髄さんと実弥も同じこと考えてたよ。なあ?」

 にこにこと笑いながら粂野が不死川に水を向けた。不死川は団子の最後の一切れを食べ終わり、茶を啜っていた。

「鬼にとって、この場所が割れてるのは想定外だろう。この辺で変な事件なんか起きたことなかったみたいだし」

「スリ師が自分の家の前で盗みをやらねえのと同じだァ。狩場と縄張を分けてやがる」

 

 日が落ちた。そろそろ時間だった。

 夜になると宮司や巫女も全員引き上げ、境内から人気が完全に消える。

「樋上、お前は身を隠して、鬼が現われたら近くで待機してろ。鬼の前には出るな」

「えっ俺いないほうがいい?弱すぎるから?」

 戦力外通告と思ったのか樋上が聞き返した。

「交戦の結果、俺たちの内のどちらか一人が死んだら、宇髄さんと合流して情報を持ち帰ってほしいんだ。それまでに出来るだけ鬼の手の内をあきらかに出来るよう努力する。生き残った方はその場に止まり、柱が到着するまで時間を稼ぐ」

 粂野が穏やかな口調で剣呑なことを言った。

 不死川と粂野は、もう一人を加えて戦力とするよりも、万一に備えて、より多くの情報を持ち帰らせることを優先した。下っ端は生き残ることも仕事のうちだ。

「了解。頼むから死んでくれるなよ。お前らの骨を拾うなんて俺はごめんだからな」

 樋上と別れ、粂野と不死川は敷地全体を見渡せる楼門の上で鬼の到来を待った。

「実弥、強くなったよな」

 粂野の言葉はこちらの返事を求めたものではなかった。嬉しそうにしていることは顔を見なくても声だけでわかった。

 粂野は同期の中では一番優秀で、出世頭だったと聞く。そう歳も違わぬ弟弟子が楽々追い付いてくるなど、尋常の剣士ならばふつう嫉妬心の一つ二つも湧いてきそうなものだ。それでも粂野は最初会った時と何一つ変わらず、この上ない友人として不死川を遇してくれる。感謝しかなかった。

「俺は搦手から攻めるよ。頸を取るのは任せる」

「ああ」

 

 不死川が返事をすると同時に、突如としてわずかに空気が揺らぐ。鬼の気配だ。

 

 境内の北側、本殿。

 一直線に走り、本殿の扉を蹴破る。鬼女が一体、人間の男が一人。日輪刀を構えて向かってくる二人の鬼狩りを前にして、捕食中の女鬼は獲物を投げ捨てて三味線の撥をとった。

 不死川は拳を固めて鬼女の横っ面をぶん殴った。鬼はこちらが想定外の動きをしたことで動揺した――日輪刀で頸を狙ってくるのを予想して反撃を構えていたらしい。その隙に男を連れて鬼から距離を取る。男は両腕を肘近くまで食いちぎられていたが、粂野に抱えられると大声で喚き出した。声を出す体力はあるようだ。命に別状はあるまい。

「助けてくれ!死ぬ!死んでしまう!」

「男が見苦しく喚くな!大丈夫だ、この程度で死んだりしない」

 粂野が男の腕を縛り上げて止血しながら叱責した。鬼の共謀者であることは椿の情報からほとんど間違いなかったが、だからと言ってこのまま鬼に喰われるのに任せて見殺しにするわけにもいかない。

 鬼女は撥を跳ね上げて全方位に向かって鎌鼬を飛ばした。

「ぬりぃ風だな」

 不死川は風の呼吸の肆ノ型で迎え撃ち、鬼の技を相殺した。

「なんで助けるん。身内でも殺す悪党やで、その男。ここで死んだ方がええんちゃう?」

 鬼女は食事を邪魔されたためか不機嫌そうに言った。男は鬼に睨まれて、出血もあいまって、ひいと声を漏らしてついに気を失った。

「この男は人間だ。人の法で罪を裁く」

 粂野が淡々と言った。鬼殺隊は人間に誅伐を下すための組織ではなく、法の秤に乗せる権利もない。鬼を殲滅するだけが大義である。

「てめえは鬼、よって現世の法に(あら)ず――地獄で閻魔に面通して裁きを受けやがれやァ!」

 

 風の呼吸・弐ノ型、爪々・科戸風

 

 鬼女は再び弦を鳴らして衝撃波を飛ばした。手練だ。だが二人がかりならなんとか圧倒できる。

「あんたら、強いなあ……柱と、さっきの女よりも強い」

 女は防御と、合間に攻撃の手を緩めないまま、視線は常にちらちらと退路を探っていた。想像していた通り、多対一を避けたがる傾向がある。

 粂野の剣の切っ先が右脚を貫通する。ほとんど同時に放った剣撃で不死川は鬼女の両腕を切り落とし、柄を思い切り打ちつけて三味線の胴を叩き砕いた。

「なっ……!」

 鬼女の顔が悲劇的に歪む。やはりこの三味線は、鬼にとって何らか特別なようだ。不死川はその隙を突いて一息に頸を刎ねた。

「やったか?」

 畳の上に生首が転がる。だが、鬼女の身体はゆらゆらとしなりながらも突っ立っているままだった。

「……ほんま嫌やわ。なんでそんないけずするん?」

 血塗れの生首から、地の底を這うような怨毒のこもった恨み声が溢れた。

 頸を切り落としても身体が崩れる様子がない。何故だ。

 頸の弱点を克服した鬼がいるというが、二人とも話に聞くばかりで、実際に相対するのは初めてだった。

 しかし、鬼は鬼である以上、急所が存在しないはずがない。何か条件があるはずだ。そこを断てば良い。

 めきめきと音を立てて、鬼女の身体が膨れ上がる。

 鬼が変体を終える前に仕留めようと剣を振り下ろすが、肉が硬すぎて断ち切れない。およそ鬼狩りとして戦う中で初めて味わう感覚だった。

 変貌した鬼女の姿は、もはや人とも女ともかけ離れていた。異形の肉の怪物。もとあった首の断面から生えた、蛇に似た頭がのそりと動く。ぐるんとこちらを向く目には「下壱」と文字が刻まれていた。

「とんだ清姫のお出ましだな……!」

 粂野は汗の滲む両手で柄を握り直した。

「行けるか、匡近」

「当然」

 軽い口調で互いの調子を確認し合う。

 巨体のくせに一切隙がない。どこが急所にあたるかはわからない。だが、勝ち目は手繰り寄せるものだ。恐れは皆無だった。不死川は剣を構えた。

 

 

 人間だった頃の記憶は擦り切れて、随分曖昧になった。

 それでも、膝に染みる凍った雪の冷たさは覚えている。

 幼少に眼病を患って以来この目は光を映さず、盲女はこれができねば食って行けぬからと、腹を空かせ撥で打たれながら三味線を仕込まれた。厳しい修行で芸を身につけて、自然それに誇りを持つようになる。

 紅葉の属する座は同じような境遇の女で構成されていて、みな三味線や長唄を修めていた。芸を身につけた女たちは、村から村へと渡り歩き、宴席に招かれたり門付けに立って金品や食糧を得るのを生業とするのである。

 紅葉の三味線はどこにいっても評判で、座で一番の稼ぎ頭だった。

 紅葉は綺麗な女だったから、男たちから夜の誘いを受けることもままあったが、頑として強く跳ね除けた。座の掟では男と寝るのは厳禁だったし、紅葉もそんなことをして金を稼ぐのは絶対に嫌だった。身体を売って金を稼ぐなど、この世で最もおぞましい最低の仕事だと思っていた。三味線の腕一本で食い扶持を稼ぐことこそが紅葉の誇りだった。

 聞きかじりの船場言葉など使って、他の瞽女とは違うと高慢に振る舞ううち、たいした腕前でもないくせにと座の女たちの嫉妬を買う。嫉妬した女たちの共謀で、顔面に煮立った油をかけられて、一命はとりとめたものの、上州一と謳われた白皙の美貌は面影もなく爛れた。

「お顔はこのように崩れましたが、音色に何一つ変わるものはありません」

「出て行け醜女、見目で楽しませるから招いてやったのだ。お前の三味線など何ほどでもない」かつて紅葉を歓迎した男たちは冷たく言った。

 それ見たことかと笑う女たちの声に押し出されるように座を出て、雪の降る辻の地べたに座って三味線を奏でながら死を待つ。火傷の具合は重く、息をして顔を震わせるだけでも激痛が走り、包帯には血膿が滲み出た。

 そして、あの方がお出ましになったのだ。

「これは鄙の地にそぐわぬ艶な三弦の音色だ。見事なものだ女よ」

 胸に湧き上がる歓喜をどう形容したら良いのだろうか。

 誰も認めなかった紅葉の芸術を、あの方は――鬼舞辻無惨は解したのだ。

 あの方の血をいただいて鬼になった紅葉は、まっさきに長年寝食を共にした座の女たちを喰らい、自分を認めなかった男たちを喰らった。

 定命から解き放たれた紅葉は三味線を自らの自負とすることに変わりなかったが、鬼としての本能が人間の血肉を求めた。この世には鬼狩りというものがあり、ひとたび彼らの目にとまれば鬼になりたての紅葉などたちまちのうちに狩られてしまう。しかし、鬼は人間を食べないと強くなれない。飢えが満たされない。どうすればいい?

 それで、野心のある人間をうまく説き伏せて共謀者に仕立てあげ、人間を連れてこさせて数人を喰い殺し、足がつきそうになったら罪を被せて姿をくらました。獄中の犯罪者が鬼の仕業と喚いても、誰も信じない。

 そうやって人間を喰らううち、いつのまにか下弦に叙され、あの方の尊顔を賜る機会があれば、進んで忠を示した。もとより慕う心に偽りなどない。

 仕事を仰せつかることもあった。

「紅葉、お前に始末してほしい人間がいる」

 それがどう言う意味を持つかなど紅葉は考えない。なぜ自ら手を下さないのかとか、そんなことを疑うのは紅葉の仕事ではない。命じられれば疑念を抱かず忠実に任務を果たすだけが紅葉の役目である。

 ちょうど折りよく物色に立ち寄った店の庭で、男が死体を前にうろたえている。共犯者にならないかと嘯けば男は簡単に手駒になった。男は自分の馴染みの店に紅葉が言った人間たちを連れてきてくれて、あの方の命令は達成した。

 普段はこれで終いなのだが、今回は止まらなかった。仕事を終えた褒美に分け与えられた血が、紅葉の気を大きくした。紅葉の行動は慎重さを欠き始めた。

 一箇所に集中する不審な失踪事件は鬼狩りを呼び寄せたが、そのうちの一人、柱を首尾よく喰い殺したことでますます意気は上向いた。

 このままうまくいき、あの方に許されれば、上弦に入れ替わりの血戦を申し込める。陋巷(ろうこう)の兄妹。特に気に食わないのは堕姫。堕姫!紅葉よりも弱いくせに、兄の妓夫太郎の力で上弦の地位についている。許せない。性を売る賤しい女め。

 反対に、鬼狩りの女は気に入った。紅葉の三味線を褒めてくれた。聞く耳を持ってる。この女の舞はさぞ我が三弦に映えるであろうと思って、連れて帰ってあの方に乞うて鬼にしてやろうと思った。だが、鬼狩りの女は予想以上にしぶとく、その上柱が現れたので台無しになった。

 二対一で戦わない。紅葉は己の強さを自負していたけれど、根本的には確実性を期する性格である。縄張りに逃げ帰り、この程度の傷何ほどのことでもないが、とりあえず、この男で回復しようと腕を喰い千切る。女の鬼狩りのほうは、紅葉の三味線を聴かせたから、誰にも見られていないときに拐ってしまえる。それからまた他の連中を狩りに出れば良い。

 そう算段を立てた矢先、再び鬼狩りの襲来を受ける。擬態の頸をはねられ、怒りのまま本性を剥き出す。それでも二人の鬼狩りはうまく連携して立ち回って、紅葉が肉の内に隠した頸椎を刈り取ってしまった。稀血の男の芳醇な血の香りに酩酊したからなどと言い訳にもならない。紅葉は敗北したのだ。待ち受けるのは死のみである。

 惜しい、惜しい、死にたくない、まだ三味線を弾いていたい。いまだ己は伎芸天の至高の域に辿り着いていない。

 けれど、どうしてそんなに三味線が上手くなりたかったのだっけ。そうしなければ食べてゆけなかったから?それとも、うまく弾けたときに誰かが褒めてくれた時が嬉しかったから……?

 

 

 椿と宇髄がそこに到着したときには、すべてが終わっていた。

 深夜の八幡宮の境内はしんとしている。

 本殿の屋根は崩れ落ち、戦いの激しさを物語っていた。音柱は周囲の警戒をゆるめないまま境内の探索に向かった。

 椿が辺りを探すと、砂利の上に転がっている蛇面の首を見つけた。衝撃で本殿の中からここまで転がってきたらしい。

 鬼の方も椿に気付いたらしく、何か言いたげに口が動いた。

 椿は無言で日輪刀に手をかけて振り抜き、ほとんど崩壊しかかった顔をさらに縦に割いた。それで鬼の顔面は完全に消滅した。

「椿」

 樋上が駆け寄ってきた。どこにも怪我はしていないのに血の気の失せた顔で、「粂野が……」とだけ言い、肩を落とした。それ以上は言葉にならないようだった。それで椿はすべてを察した。

 半壊した本殿の内部に二人の姿を認めて、椿はゆっくりと歩を進めて近寄った。

「実弥さん」

 静かに声をかけると、不死川がよろよろと顔を上げた。瞳には怒りも悲しみもなく、ただ理解し難い現実を前にしてぼんやりと鈍っていた。不死川の口が開かれ、匡近が、と力ない声が溢れた。

「息、してねえ」

 晴天の空に星は輝かず、夜の明けは遠かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章
13.鉄樹花開く二月の春


 洋間の暖炉で薪が燃えている。

 ガラス窓の向こうでは、老梅の枝が雪をかぶってきらきらと輝いていた。

「母様、庭先の白梅が花をつけました」

「あら、本当。綺麗だこと」

 年老いた梅の木は、年々つける花の色が褪せていくので、来週中にでも切り倒される予定になっていた。椿はそれを聞いて、折角ぽつぽつとでも蕾をつけていたのに、可哀想だと思っていたのだ。見応えはなくとも、せめて最後の花が枯れ果てるまでは、伐採を延期して貰おう。

 椿は庭師を手配するよう父に頼みに行こうと席を立った。

「お仕事のお邪魔にならないようにね」

 母は書斎に向かう娘に優しく諭した。邪魔になんかならない。父が椿を無碍にしたことは一度もなかった。書斎の樫の扉を押して開けると、父はいつも通り洋椅子に座っている。側まで近寄り、おねだりに小さくて柔らかい手で着物の裾をぎゅっと握った。

「父様、ねえ、外をご覧になって。お庭の梅の木が……」

 こちらを向いた父の顔を見て、椿の全身が凍りついた。

 額におどろおどろしい角、顔は醜く歪み、口は裂け、巨大な牙と割れた舌が――

 

 ……

 嫌な夢を見た。

 眠りが浅かったためであろうか。鴉が外からしきりに鳴いて主人を呼ぶので目が覚める。任務帰りに仮眠を取るため立ち入った蕎麦屋の二階の煎餅布団に包まって、三時間と経っていなかった。

 平生ならば眠りを妨げられたことに億劫な気分になっただろうが、悪夢の続きを見ずに済んだから、今回はむしろ起こしてくれて良かったと思った。

 椿はぼうっとした頭を振りかぶって、立て付けの悪い引き戸をがたがたと音を立てながら開いた。清廉な朝の日が気持ちよかった。

 窓を開けると、鴉がすっと降りてきて、褒めて欲しげに椿の指を甘噛みした。椿の鎹鴉は少し甘えたな嫌いがある。とりわけ一度焼き鳥にされかけて以来恐ろしがってやまない不死川相手に手紙を運ぶ時などいっそう顕著だった。

 鴉から受け取った薄い紙には、不死川の字で「明日の昼に帰る」と書き付けてある。それで、もう二十七日(ふたなのか)か、と気付いて胸に手を当てた。

 

 下弦の鬼との戦いが終結して、二週間が経とうとしていた。

 

 不死川は下弦討伐の功を挙げた翌日には、空席のままになっていた柱の欠員を埋めた。当主からの任命状を受け取った不死川は表情一つ変えず、拝命早々、柱に割り当てられた警備担当地域に飛んでいった。今もそこで鬼を探しては戦っている。

 我が身を顧みず帰ってこない不死川を、椿は引き止めなかった。魂の芯から打ちのめされて、死の底にのめり込んだ人間に、慰めの言葉を一つ二つばかりかけて、一体何ほどの助けになるだろう。周りにできるのはせいぜい寝食の手配を整えて、彼が休みたいときに休ませてやるくらいである。

 家に戻ると、表では通いで家事仕事をしてくれている女中の千夜子が掃き掃除をしていた。

「彼、帰ってきていた?」

「はい。姿は見ておりませんが、台所の盥に皿がつけてありました」

 棕櫚箒を動かす手を止めて千夜子が答えた。

「お口に合えば良かったのだけれど」

「心配要りませんよ。椿様、本当にお料理が上手になりました」

「炊いたお米を丸めただけよ」

 椿は苦笑した。新しいレシピの収集に余念がない料理上手の胡蝶姉妹と比べたら、嬰児同然の腕前である。

 そういえばと、しのぶに「今度みんなで焼き菓子を作るから、都合がついたらお茶の時間にでも食べに来て」と言われていたのを思い出した。確か今日のはずだった。今から湯を浴びて支度をすれば、昼下がりには十分間に合うだろう。

 椿は居間に入ると、棚に設けた後飾りの祭壇に向かい、線香を上げて手を合わせた。白い布を敷いた棚の上に、真白い骨壺を置いている。

 粂野には近い縁者がなかった。身寄りのない隊士の亡骸は、鬼殺隊所縁の寺が墓の世話から弔い上げまですべて面倒を見てくれる。焼場から出されて数日の内には墓塔の穴の中に納まるのが通例だが、今回は椿が手配して、四十九日を迎えるまで遺骨を我が家で引き取って供養させてもらうことにした。

「いい奴ってのはすぐ死んじまうなあ」

 とは、間も無くやって来た樋上の言葉であった。

 粂野には人望があった。代わる代わる人が訪れ、周囲をあまねく照らす日輪のようだった青年の死を悼んだ。任務で危ないところを救われたことのある隊士とか、いつも良くやっていると励まされた隠の者とか、長年の戦友たちであるとか。

「あのさ、俺に言いたいこととかねえの?」

 いい加減そうな樋上の態度の中には、死にたいほどの惨めさがうっすら透けていた。

「俺はあいつらが死に物狂いで戦ってるのを横目に縁下でガタガタ震えてたんだぜ」

「彼の代わりに役立たずのあなたが死ねば良かったとでも言ってほしいのですか?」

 椿は冷たく突き放した。断罪を求める負い目を持った相手には、むしろこのくらい言ってやった方が慈悲心というものだ。

「そうかもな」

 樋上はさばさばと認めた。

「生きるべき奴が死に、死ぬべき奴が生きている。世の中って奴は本当に……」

 それ以上は言葉を継がず、樋上はため息をついた。あの時粂野が助けた芹澤は、両手と地位身分を失って、今は獄中で法の裁きを待つ身である。

「不死川はどこ行った」

「お仕事です」

「お前ついてってやらねえの」

「私は私でやるべきことがありますから」

「薄情な女だな」

 椿は薄く笑って否定しなかった。樋上は声を低くして言った。

「あいつ、大丈夫なのか?」

「大丈夫なわけないでしょう」

 あの二人の結びつきがどのようなものだったのか、部外者である椿に完全に推し量ることはできない。それでも、わかりようのない中にもわかるものはある。ただの戦友というだけではない、無二の親友同士だった、そういう人間を喪失してしまうことの痛みが椿には少しだけわかる気がした。

「けれど、いずれは嫌でも立ち上がらなければいけないのですもの。今は戦うことでしか悲しみを紛らわせないのなら、私はそれでいいと思います」

 大切な人が死に、仲間が死に、それでもひとたび鬼狩りとなったのならば、その命はもはや自分一人のものではない。己が無為に生きることを許された身ではないことくらい、不死川はとっくに承知しているはずだ。

「なんだかなあ。虚しくね?」

「放っておきなさい。人には人のけじめのつけ方があります」

 椿はいまはそっとしておいてやりたかった。無理に癒しめようとして、かえって虚勢など張らせるのは辛いことだ。

「じゃ、俺はこの辺で失礼するわ」

 線香が燃え崩れて灰になった頃、樋上は腰を上げた。

「機会があれば、いつでもお越し下さい」

「そうだな。ま、生きてりゃ顔合わすこともあるだろうさ」

 樋上と椿は元々それほど仲が良かったわけではない。同期の中ではむしろ疎遠な方だった。しかし、仲間が次々と死に絶えていった今では、昔話をできる希少な相手だった。

 

 冬空の往来で子供たちがきゃあきゃあと笑いながら鞠をついて遊んでいる。吐いた息は白く霞となって消えていく。平穏な冬の日だった。

 

 昼過ぎに蝶屋敷に到着すると、門口は閑散としていた。ここが静かなのは運び込まれてくるような怪我人がないということであるから、歓迎すべきことといえよう。

 椿は裏庭に回った。庭の隅の日陰に、白い花弁に紅色の吹き掛け絞りの小輪の花がいくつか抱え咲いていた。

 池の近くで素振りをしていた少女が、こちらに気付いて頭を下げた。

「椿さん、お疲れ様です」

 長い黒髪を後ろに結い上げ、蝶の髪留めをつけてたその少女の名前を小萩と言い、三月ほど前に蝶屋敷にやってきて、今はカナエが目にかけている継子の一人だった。

 椿が庭の花をじいっと眺めているのに気付いて、小萩が口を開いた。

「お師範様が冬の庭が寂しいからって、お花を植えて貰ったんですよ。綺麗でしょう?」

「そうね。少し小ぶりだけれど可愛らしい玉霞(たまがすみ)だわ」

「庭師さんたら、こんな隅っこに植えないでも良いのに」

「これは日陰に咲かせておいたほうが調子が良いのよ」

 こんなやりとりをしていると、主屋の縁側にしのぶとカナヲが顔を覗かせた。刳抜盆の上に菓子とティーカップを積んでいる。

「そこ寒いでしょ。こっちに上がって」

 火鉢の置かれた部屋に招き入れられて一息つくと、早速小萩が口火を切った。

「聞いてください椿さん、しのぶ様ったらこのあいだ冨岡さんとね、」

「小萩、口さがないことを言わない」

 しのぶが小萩の言葉をぴしゃりと遮って牽制したが、椿はその話題に乗っかることにした。くだらなくとも明るい話がしたい気分だった。

「しのぶが近頃、冨岡さんと仲良くしてると聞いたけど、そのこと?」

 椿が言うと、しのぶは本気で嫌そうな顔をした。

「ちょっと、椿までやめてよ。まさかそんな与太話を本気にしてるわけじゃないでしょうね」

「与太話なの?」

 椿は小萩に水を向けた。

「根拠はありますよ。だって普通、なんとも思わない人の隊服を剥ぎ取ってまで、ほつれた(ぼたん)を縫い直してあげたりしないでしょう?」

「そういうのじゃなくて……あの人、とにかく抜けてるんだから」

 しのぶがイライラしながら言った。

 人の世話が苦にならないのはしのぶの美徳だ。性根が善人で、行動力があり、その上生来の世話焼きなものだから、冨岡のようにどことなく抜けた人間を前にすると口と手を出さずにいられないのだろう。

 釦の取れかけていることを指摘して、わかっているんだかわかっていないんだかいまいち掴めない冨岡の返事に業を煮やして、上着を奪い取るしのぶの姿が目に浮かぶようだった。

「しのぶ、お母さんみたいね」

 しのぶは黙って紅茶をぐいと飲み干した。男女の仲だと勘繰られるのと母親扱いと、どちらがましか天秤にかけて、後者を選んだらしい。

「でも水柱さま、素敵じゃあないですか。強いし、見た目もかっこいいし」

 小萩が食い下がった。

「だから、そんなんじゃないって言ってるでしょ。冨岡さんに対して失礼だし、あなたときたらなんでもかんでも色恋沙汰に結びつけてしか物事を考えられないの」

 しのぶの手厳しい指摘を受けても、小萩は全然へこたれなかった。それどころか「年頃の男と女が連んでいるのに色恋沙汰にならないほうがおかしい」と姿勢をいっそう強固にした。

「あなたはどうなの。角の定食屋の息子さんと付き合ってるんじゃなかった?」

「振ってやりました。仕事をやめろと言ってきたので」

 それはそうだろうな、と椿は焼き菓子を口に運びながら心の中で思った。女が刀を振り回して化け物と戦っているだなんて、堅気の男に理解を求めるのは厳しいものがある。

「じゃあ、今度は手近で探してみたら。鬼殺隊は男余りよ」

「嫌ですよ、鬼狩りの男なんて。話は面白くないし、女心はわからないし、すぐに死ぬ」

 小萩の切り捨てるような物言いを受けて、しのぶが一瞬、気遣わしげにこちらを眼差したが、椿は気にしなかった。腫れ物に触るような態度で来られるよりはずっと良い。大体、鬼狩りがすぐに死ぬのは単純な事実だ。先頃、新入りの女の子が添い遂げる殿方を見つけるために入隊したとかいう意味不明な噂をかいつまんで耳に挟んだこともあったが、これぞ与太話というもので、こんな戦傷率の高い場所にわざわざ婿を探しにくる女がいるわけがない。

 それから、屋敷に出入りしている薬師一家に子供が産まれただの、刀鍛冶の里にあると聞く温泉に一度は行ってみたいものだのと、話題は方々へと飛んだ。カナヲはずっと言葉がなく、ひたすら焼き菓子を食べて三人の年嵩の女性たちの話に耳を傾けていたが、彼女はそれで十分楽しいことが表情で察せられた。

「そういえばカナエは?」ふと気になった椿が聞いた。

「姉さんは柱合会議。半年ぶりにお館様にお会いできるって朝方張り切って出て行ったわ」

 椿がそれを聞いて固まったので、しのぶと小萩が何事かと顔を覗き込んだ。

「どうしよう……彼にお館様の前ではお行儀よくしてねって念押ししておくの、忘れていたわ」

 椿は不死川の予定を把握しておかなかった後悔に頭を抱えた。不死川がご当主にいい感情を持っていないのは承知しているし、しかも今は普通の精神状態ではない。何をやらかすかわかったものではなかった。

「彼って、椿さんの良い人のことですか?私会ったことないですけど、その人、お館様の御前に出るのにそんなことを言い含められないといけないくらいヤバいんですか」

「掴み掛かって手を上げなければ上等ね」

「そんなに」

 小萩がしのぶの方を振り返った。

「柱合会議って何時からでしたっけ」

「昼前からだから、とっくに終わってる頃じゃない」

 当主は寛大慈悲のお方なので、無礼があっても気にお留めにならないだろうが、他の柱の仲間たちに袋叩きにされてないかはらはらする。ただでさえ人当たりが良い方ではないのに。

 椿は確かに、産屋敷の当主をこの上なく敬愛しているし、無作法を働く者がいれば叩っ斬ってやりたいと思っている。だが、今は不死川のことばかりが気にかかって仕方がない。色々と教え込もうとしていたのも、不死川がお上の面前で恥をかかないようにと思い遣ってのことである。

「大丈夫ですよ。お師範様がなんとかしてくれますって」

 降って湧いた懸案に気が気でないでいる椿を小萩が励ました。花柱の継子にとって、カナエは最強の女神である。できないことはない。

 そんなことをしていると、外の雨戸をこんこんと嘴で叩いている鎹鴉の姿が硝子障子の向こうに見えた。鴉にあるまじきごてごてしい装飾をつけている。鎹鴉は主人に似るのもいるし、主人の人格を補うように正反対の気質をしているのもいる。そこに見える音柱の烏は前者と言えよう。

「音柱さまの鴉?」

 カナヲが障子を開けると、鴉はつんざくような声で椿を呼んだ。主人が呼んでいるから、一緒に来いという。

「ほら、やっぱり何かあったんだわ。そうでもなければ、音柱さまがわざわざ呼びつけたりしないもの……」

 

 

 これ以上、しのぶたちに心配をかけるのは本意ではなかったので、暇を告げて蝶屋敷を後にする。宇髄の鴉に先導されて山道を登り、やってきたのは、勝手知ったる岩柱の修練場だった。

「音柱さま、これは一体?」

 崖に聳えた巨岩の上に宇髄とカナエが座っている。眼下では、悲鳴嶼と不死川が戦っていた。何故か素手で。

「こっちこっち」

 カナエが手招いたので、椿はその隣に並んで座った。

「お菓子はどうだった?私、下地だけ作ったんだけど、きちんと焼けていたかしら」

「ええ、とても美味しかった……で、何事ですか」

 椿の疑問に宇髄が答えた。

「見てわかるだろ。柱同士で稽古だ」

「稽古と言うか、制裁と言うか、打って叩かれている印象ですが」

 不死川は悲鳴嶼相手にかなり一方的にやられていた。柱は全員普通の隊士とは比べ物にならないくらい強いのだが、岩柱だけは柱の九人の中でも飛び抜けて強い。

「いつもこんなもんだ。最年長者から柱の新入りへの洗礼だよ」

 椿が「柱合会議はいかがでしたか」と聞くと、宇髄もカナエも顔を見合わせて口を閉ざしてしまった。一体何があったというのだ。

 不死川が放った手刀を悲鳴嶼は容易くいなした。そのまま反撃に出た悲鳴嶼の拳は強烈で、両腕で防御したにもかかわず威力を殺しきれなかった不死川の体勢が低く沈んだ。悲鳴嶼の攻防には一切の隙がない。

「順当ですね。岩柱さま相手によく食らいついていらっしゃる」

 素手での殴り合いと言うのは、身長や体重など体格そのものがそのまま実力に直結している。そういう点から言えばむしろ、不死川はよく健闘している方と言えた。

「応援してやれよ」

「鬼を素手で殴り潰す人間に勝てとはようも申しません」

 まず根本的な膂力が常人とかけ離れているのに、その上呼吸で身体能力を底上げしているのだ。悲鳴嶼と武器なしの取っ組み合いでいい勝負をしようと思ったら、羆でも連れてくるよりあるまい。

 悲鳴嶼は訓練にかけては手を抜かない人だが、弁えた人でもあるから、相手を見て戦い方に強弱もつける。しかし、今日は手加減なしのようで、肉体の切れの冴えたことときたら、そのまま拳で岩でも砕いてしまいそうだった。

「本気の悲鳴嶼さんに稽古をつけてもらえるなんていいなあ」

 カナエが心の底から羨ましそうに言った。いかに柱といえど所詮女性であるカナエは悲鳴嶼が手心を加える対象である。

 上から見物がてら話をしている内に決着がつき、ついに不死川は地面に突っ伏したまま立ち上がらなくなった。

「椿、こちらに」

 悲鳴嶼に呼ばれて助け起こしに行くと不死川は完全に気絶していた。しかし顔色は悪くない。少し安心した。

「半年後までに、目上の者への口の利き方を教えてやりなさい」

「承知しました」

 悲鳴嶼は万事に私情を挟む人ではないが、今回はちょっとばかりおかんむりのようだった。珍しいことだ。口の利き方というからには、やはり何かをやらかしたのだろうが、もう一度三人に尋ねても誰も教えてくれなかった。冨岡に聞いてみようと思ったが、これもまたまともに返事が返ってくるか怪しい。

「悲鳴嶼さん、私、次いいですか?」

 椿の後を追って崖下に降りてきたカナエが控えめに願い出た。悲鳴嶼が快諾したので、カナエはぱっと表情を明るくして、恋する乙女のごとき軽い足取りでそちらに駆けていった。

 椿は不死川をひょいと後ろ背に負って立ち上がり、宇髄の方を見上げた。

「彼は連れて帰ります。お世話になりました」

「おう、達者でな」

 宇髄の様子は常と変わりない。だが椿は、なんとなく、宇髄も自分の指揮のもとで部下が死んだことへの引け目があるのではないかと感じた。しかし、経験の豊富な宇髄は、そうした感情との折り合い方も上手いのだろう。椿は一礼してその場を去った。

 

 

 椿は粂野のことを思い、果たされなかった約束のことを思った。どんな悲しみもやりきれなさも、この世に生かされている以上は、足を止める理由にはならない。生きていればすべてが失われていく。今この時後ろに背負った、力強く脈打つ心臓も、正しく動いて息吹く肺も、この温もりも、いずれ失われる。例外はない。椿は目を閉じて大きく息を吐き出して、胸の内に起こった引き絞られるような感覚をやり過ごした。

 山道を下ってしばらくすると、不死川が身動ぎをして意識を取り戻した。すぐにでも降ろせと言われるかと思って様子を伺ったが、不死川は疲労のためか口を開かず、黙って背負われるままになっていた。

「椿」

 麓の近くまで来たところで声をかけられたので、そこで降ろした。足取りはしっかりしていて問題なさそうだ。

 二人が並んで歩くと、山の濡れた小径に落ちた小枝がぱきりぱきりと音を立てた。

「岩柱さま、強かったわね」

「そうだなァ……」

 不死川は憑物が落ちたかのようにすっきりとしていて、素直に返事をした。

「お館様から、正式な辞令を頂いた」

 不死川が立ち止まり、右手を突き出した。階級を示せと言葉とともに、手の甲に風の一文字が浮かび上がる。実際に目にするとなんだか不思議な感じがした。

「これからは風柱さまとお呼びした方が良い?」

「あのな」

「ふふ、冗談よ」

 椿が笑うと、不死川の表情もつられて和らいだ。

 今の不死川には、現実に根差して生きる人間の活力が戻っている。相変わらず何があったのかよくわからなかったが、不死川が大丈夫そうだったから、もうどうでもいいと思った。

「邸を拝領した。……ついてきてくれるか」

「私でいいの?」

 不死川はわずかな逡巡の後、「お前がいい」とだけ言った。椿は返事の代わりに、刻印の浮き出た手を両手で包んで強く握りしめた。彼の地獄への道行きのほんのわずかなよすがにしてもらえるなら、椿はそれだけでいいと思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14.俺たちに明日はない

 大正の年の明け、関東地方は寒波に見舞われた。山里の樹木の枝には霜が降り、水桶には氷が張った。

 正月元旦の早朝、ばしゃんと水が地面に跳ねる音がする。

 不死川は布団から起き上がり、廊下から戸を開けて縁の方まで出ていった。

 すると、裏手の井戸のそばで、全身を水でずぶ濡れにして髪を絞っている女がいる。足元には真っ赤に染まった血水が流れていた。

「何やってんだ」

 不死川が呆れを語尾に滲ませると、椿は悪さを見咎められた子供のように視線を泳がせた。

「隊服が汚れてしまったから、お家に上がる前に綺麗にしようと思って……」

 ものを言い終わる前に、不死川は椿の腕を引っ掴んで家の中に上がらせて、着ている物をすべて脱がせた。頬も四肢も、血潮が通っているかどうかも疑わしいほどに青白く透き通っている。頭から氷水など被るからだ。

 鬼殺隊士は呼吸で身体機能を向上する。代謝を活性することで体温も上昇するから、凍てつく寒さにも身体が震え出すことはない。鬼狩りが手先がかじかんで刀を握ることができないなど、笑い話にもならぬ。とはいえ、寒いものは寒い、冷たいものを冷たいと感じることに変わりない。

 今し方まで自分の使っていた毛布を被せて、火鉢に炭を足し、竈に火を焚き湯を沸かしにいく。丁度良い温度になったところで部屋に戻ると、椿は幼子のようながんぜない有様でうとうととしている。湯で温めた手拭で身体を拭ってやると、一体どんな戦い方をしたのか、耳の裏にまで血が飛んでこびりついていた。

「これ、全部私の血ではないの」

 椿が世話をされながら弁明した。

「確かだな」

「こんなことで嘘なんかつかないわ」

 拭き清めた身体からは、もう血の匂いはしない。剥き出しの裸体に傷は見当たらず、ほっと胸を撫で下ろした。

 年の変わり目でも、鬼は人の節季に構ってくれるわけではないから、隊士は交代で任務に当たっている。椿は大晦日の昼に任務に呼び出されて、その時点で、年越しを共にすることはできないとわかっていた。

「冨岡さんも一緒なの。柱が二人も要る仕事ではないわ」

 不死川の身体は空いていたので、同行しようかと申し出たが、このように断られ、軽く雪のちらつく中を渋々送り出した。冨岡は頭のてっぺんから足の爪先まで気に食わない男だが、鬼狩りとしての腕だけは認めざるを得ない。戦場で妻を任せるのに不足ない相手だ。死ぬほど癪に触ることだが。

「一服してから帰ってくりゃあよかっただろうがァ」

 どんなに順調に任務を終えたのだとしても、帰りが早すぎる。帰路を急ぎすぎるほど急いだのだろう。

「でも、一緒に初日の出を見たかったし、お雑煮を食べたかったの」

「雑煮は逃げねえよ。作っといてやるから、いっぺん寝ろ」

「初日の出は?」

「また来年な」

 銘仙を着せて軽く帯を締めてやると、椿が疲れ切った声で「ありがとう」と言った。

「お参りに行きたいから、昼中には起こしてね」

「ああ。他にはなんかあるかァ」

「うん、外から帰ってきたら、一緒にお風呂をいただいて、その後姫始めがしたい……」

「……わかった」

 それだけ言うと椿は満足して、心緩びた様子で寝息を立て始めた。

 袷の隙間からは形のいい乳房がこぼれて、手には柔らかく濡れた肌の感触がありありと残っている。すでに妻にした女から房事に誘われて、狼狽えることもないだろうと自分でも思うのだが、一度煩悩に振り回されはじめるとどうしようもなかった。不死川は自分も氷水を頭から引っ被るべきかいたく頭を悩ませながら、とりあえず昼までの時間を鍛錬に当てることに決め、桶を脇に抱えて部屋を後にした。

 

 

 年の瀬、新しい邸に移る前に宅で祝言を挙げた。

 簡素を極めた儀式だった。すべてが急にことが進んだので、何もかもが略式で、衣裳も道具小物もまるで手配が間に合わなかったのである。しかし、花嫁はまったく気にしない。それどころが、祝宴はおろか媒酌人も立てたくない、私とあなたがいればそれで良く、ただ神仏に誓いを立てればよろしい、といった具合だった。よって、その通りにしてやることにした。ただし、女側は支度のために介添人を外すことができず、これは胡蝶の姉が務めることになった。

 不死川からすると、種々の事情から引き延ばしていただけで、本来は数か月も前にやっておくべきことだったが、椿はいまいち気乗りしない様子だった。

 何が気に入らないのか、身分違いが嫌か、貧乏くささが嫌か、傷のある顔面が好かぬのか、いろいろと聞いても不満はないの一点張りで、そのくせ鬱々とした態度を崩さないので、ほとほと困り果てた。

 こういう時に一番相談相手になってくれた匡近はいまや骨と灰だけの身となって祭壇に鎮座している。藁にもすがる気持ちで仏に向かい合うと、友人の笑う顔が線香の煙の向こうに見えた気がした。何か言えよ、畜生が。なぜ死んだ。

「何ぞ思い悩んでいらっしゃるのか」

 と言ったのは、里から下りてきた初老の刀鍛冶だった。

 伊達で年をとっているわけでなく、肝が座っていて、不死川に遠慮することがない。あれこれ近況をほじくられ、結婚するのだと口を割らされた。

「以前から思っていたが、あなたは神経に細やかなところがおありだな、不死川殿。男はどっしり構えていればよろしい。女の機嫌なんぞ伺うだけ無駄な骨折りというもんです。情緒が刀の刃文より安定せんのだからやりようがない」

「てめえも嫁は叩いて言うことを聞かすクチか」

「そこまではやりませんが、あなたはとりわけ女を労る精神を持ち合わせているようだ。稀な精神だ。私は良いことと思いますよ」

「御託はいい。さっさと刀を寄越せェ」

 これまで使っていた日輪刀が身が擦り減って弱くなっていたので、これもいい節目だということで、新たな刀を鍛えてもらったのである。確認のために抜刀すると、刀身は常の如く緑色に染まる。棟の根元には悪鬼滅殺の文言が刻まれていた。

「見事な翡翠、鴗鳥の青。これぞ風の柱に相応しい。いやはや、僭越ながら私も鼻が高い。おめでとうございます」

「やるこたぁ変わんねえよ」

「そうでしたな」

 刀工は室内をぐるりと見渡した。婚儀を終えればそのまま新しい邸に移る予定だったから、小さな家屋の中は余計なものが取り払われてがらんとしている。

「私もたくさんの鬼狩りを見てきましたからね。使った刀を見れば人となりもわかろうというものです。そちらの日輪刀、お手にとっても?」

 刀台に縦掛けたそれは椿の日輪刀だった。本人の許可も得ずに獲物を人に触らせるのはどうかと迷ったが、この刀鍛冶がなにを言い出すのかと興味が優った。言っていることにまるで同意はしないが、人生経験は年の分だけ自分より豊富なはずだ。

 この日、椿は兄弟子を伴って育手の師の墓参をするので不在にしていた。この兄弟子と言う隊士、機嫌を悪くした不死川を目の前にしただけですでに泡を吹いて倒れそうになっていた。あまりの怯えようにさすがに居た堪れず、床に手をつき頭を下げて「妻をよろしく頼む」と言うと、気の抜けた意外そうな顔をして「はい」と返事をして、同じように礼をした。

「長の作ですね。水の女人のために打たれた刀、これは、ほう、ほう……」

 はあ、はあ、なるほどと得心が言ったようにしきりに頷く。刀を触らせたことを後悔したが、時すでに遅しだった。

「心配せんでも、あんた方は良い夫婦になるでしょう」

 刀工は根拠も示さずにきっぱりと言った。人相見よりも信憑性がない。家から叩き出した刀工はまるでこたえた様子もなく、「刀鍛冶の里の温泉は滋養に効く。新婚の旅先にでもどうぞ」と抜け抜け言い捨てて去っていった。腹が立ったので担当を外すよう言い付けようかとも思ったが、残念ながら新しい刀は見事な出来で、交代させる理由がなかった。あれで里でも指折りの刀鍛冶と言う。人格と能力は必ずしも比例するものではない。

 結局、女中が「婚前はどんな好きな男と一緒になるのでも、憂鬱な気持ちなものですよ」と自己の経験を引いて言うので、はあそういうものかと一応は納得した。不死川には女の心なんぞさっぱりわからぬ。

 二日前になって、椿は朝食の終わった席で卓袱台に頬杖をつき、恐ろしく厳しい顔でこう言った。

「結婚したら他の女の人と仲良くするのは許さない。遊郭も芸者遊びもだめ。お妾を持つなんてもっての他よ。それでいいの」

「そりゃあ困ったなァ」

 不死川は手元に広げた新聞から顔を上げずにまるでやる気のない返事をした。新聞は本所で失火があっただの、浅草公園で見世物をやっているだの、年の市が賑わっているだのと歳末の安穏な世情を伝えている。鬼の手掛かりは無さそうだ。

「困ったというくらいなら、それらしい顔をしなさい」

 椿は新聞の上から顔を出して、半目でじっとこちらを睨みつけた。そう言われても、これが脅し文句になると思ってる女がいじらしくて可愛らしく、口角が緩むのを堪えきれない。

 わかったわかったとこれまたぞんざいに応えると、椿は今度は裾を掴んで、きつく握り締めて俯いた。これがあまりにも思い詰めた様子だったので、さすがに不死川も身構えた。

「なんだァ、まだ言いたいことがあるなら言え」

 椿はいくらか逡巡して言いあぐねた挙句、重い口を開いた。

「赤ちゃん、産んであげられないかもしれない……」

 月のものの巡りが悪いので、子を持てる望みは薄いと言う。不死川は拍子抜けした。てっきり「私が鬼に成り果てたときにその頸を落とす覚悟もできない男とは一緒になれない」とでも言われるかと思ったのだ。

「お前、そんなつまんねェこと気にしてたのか」

「つまらなくないわ」

 椿は深々と傷付いた様子で家を飛び出した。半日ほど蝶屋敷にいたようだが、その日の夜には帰ってきていて、台所で黙々と夜食を作っていた。

 釜を持つ手つきに危うさを感じた不死川が手伝おうとすると「いいから座っていて」と追い出される。用意された雑炊は塩みが薄くやや味気なかったが、箸を進めるには十分だった。

「不味くなかった?」

 食事を終えると、椿は恐る恐る不死川に感想を尋ねた。

「まあまあだ」

「……無理していない?」

「してねえよ。ごちそうさん」

 そう言って、頭をぽんと叩くと、椿は少しだけ泣きそうな切ない表情をしていた。それで決着がついた。

 

 ずっとそんな調子だったので、当日になってなんとか用意して渡した婚礼装束の打掛も、嫌がられるかと思った。

「椿は不死川くんが選んだものならなんでも嬉しいと思うわ」と胡蝶の姉に参考にならない助言を貰い、迷いまくった挙句の選択だった。唐紅色に春の花を散らしたそれが白い肌にさぞよく映えると思ったのだ。

 風呂敷を解いて、色打掛を目にした途端、椿は瞳を大きく見開いて、物も言わず固まった。思わず「嫌か」と聞くと首を左右に振られた。

「嬉しいの。ありがとう」

 そして、そう言って、はらはらと涙を零し始めた。不死川がおろおろとして肩を抱いてやると、更に激しく泣き出した。本当によくわからない。

 

 そうこうと当日の準備をしていると日が暮れる。

 祝言の夜に、窓から空を見上げると、上空には天の川が散らばっていた。常は焦燥しか駆り立てない夜の空の下で心が凪いでいるのは妙な感覚だった。

「不死川くん、ありがとう」

 胡蝶の姉は改まった様子で、不死川にこう言った。

「あ?何がだ」

 胡蝶カナエは他人の頑なさを自然に解きほぐしてしまうようなところがある。というか、花柱とうまくやれない人間は見たことがない。不死川も例外ではなく、親しくとまではいかないまでも、それなりに良好な関係を築いていた。

「あの子は自分ではそう思ってないけれど、すごく寂しがり屋だから。一緒にいて、手を握って寄り添ってくれる人が出来て、私、本当に嬉しいの……」

 そう言うと、彼女は感極まったように目元に滲んだ涙を拭い、友人を迎えに行った。

 椿はいい友を持った。

 介添人に手を引かれてやってきた花嫁はうっすらと化粧をして、唇にはわずかに紅を乗せている。色打掛は想像通りよく似合った。束髪せず櫛を通しただけの豊かな髪が波打つ様がまた美しかった。

「綺麗だ」と言うと、椿は花が溢れるように笑った。

 ここに来て突然、この女が完璧に自分のものになる実感が湧き、心臓が跳ねる。

 夫婦固めの盃を交わして、それ以上はとくに堅苦しいこともせず、婚儀はあっさりと終わった。

 胡蝶の姉は早々に日輪刀を手に出立した。別れ際に女たちは瞳を潤ませて抱きあっていた。

 その間、不死川は居間の祭壇に向かって手を合わせていた。死者の心境をあれこれ想像するのは好きではないが、友人が生きてこの場に居合わせたなら、なんと言っただろうか。

「私に何か言いたいことはある?」

 装束を脱いで、布団の上で寛ぎながら、「あなた、さっきからずっと何か言いたげだったから」と椿が聞いた。

「お前、必ず生きて帰ってこいと言って、約束できるか」

「いいえ」

「だろうなァ……」

 互いにすでに命を惜しんでなどいない身だ。不死川は腕を広げて、切なく微笑む妻になった女の身体を抱え込んだ。同じ因業を抱える女。同じ泥梨の薄氷に立つ者同士。守ってやりたいような気持ちにもなるし、縋り付きたいような気持ちにもなる。

「できもしねえことを約束しろとは言わねえ。……出来るだけ長生きしろ」

 椿は瞠目して、視線を伏せた。そしてあるかなきかの小さな声で「はい」と言った。

「私たち、長生きして、たくさん鬼を殺しましょうね……」

 それで十分だった。柔らかい鞭のような両腕に絡めとられて胸に抱かれると、あとはもうどうでも良くなる。不死川は女を不具の魂と身体ごと愛した。

 

 

 三が日を過ぎた辺りで、方々から祝いの品が届き始めた。

 誰に何を伝えたわけでもなかったが、相続人を指定するために身上移動の届を隠の人間に渡したので、そこから話が野火のように広まったのだと思われる。

「またてめえらか」

 椿の鎹鴉は木の上で怯えて縮こまっていたが、不死川の鴉は「何が悪い」とばかりに堂々と視線の高さまで降りてきて餌を催促した。いい度胸をしている。

 胡蝶姉妹は九谷焼の茶碗、宇髄はよくわからん掛け軸を贈ってきた。その他、江戸切子の杯だの白足袋だの扇子だの酒類食物だの中に、産屋敷夫妻からの、黒漆塗金蒔絵の器を見るに及んで、不死川の胃がきりきりと痛んだ。

 お館様の御前での自分の振る舞いは、思い返すも腹を切って死にたくなる。罪悪感に耐えきれず、椿に柱合会議で何をしたのか白状した。滅茶苦茶に怒られるのを覚悟していたが、「反省している人間に怒ったって仕方ないでしょう」ということで、咎め立てはされなかった。座学の時間は増えた。

 冨岡はこの時ばかりはそのずば抜けた非社交性を発揮してほしい、という不死川の願いを叶えず、相当に上物らしい花器を贈ってきた。これを椿が気に入ってしまい、早速嬉々として花を生けて、掛け軸とともに新居の床の間に飾り立てた。不愉快な気分になりたくないので、出来るだけそこを通るのを避けるようになった。あからさますぎて笑われた。

 祝言の翌日に移った数寄屋造りの邸は、二人で暮らすには広すぎるくらいで、不死川はいまいち住み心地に慣れない。椿の方はというと、さっさと順応して、女中にあれやこれやと指示を飛ばすのが堂に入っていた。

 柱に一般隊士とは一線を画した、特権的な待遇が与えられるのは、職務がそれを要請するからだ。

 邸の敷地が広いのも理由のないことではなく、継子や弟子を住ませて後継を育てるためであり、自前の稽古場でいつでも鍛錬できるようにという取り計らいでもある。

 給金に上限が設けられていないのは、仕事にかかる経費もそこから捻出できるようにすることで、可能な限り任務を円滑に進めるためだ。この金は、いわばお館様の財布から直接お金を頂戴しているのと同義なので、これを無為無闇に散じて回るような不遜な者は柱にはいない。

 待遇の良いことを目的に柱を目指すものもいるが、そのことを不純だと言い立てるのは野暮というものだ。再三繰り返すが、鬼殺隊では強さが全てに優先するので、金が目的だろうとなんだろうと、強くさえあれば、それで人々を守ることさえできれば、何も後ろ指を指される理由にはあたらないのである。

 

 

 正月の喧騒が落ち着いた頃、休みが重なったので、祝い品の返礼物を見繕うために街に出かけた。

 椿は友禅の帯など締めて少し華やかにした一方、不死川は普段着に唐桟の羽織をひっかけただけで、一緒に並んで歩いていても、決して夫婦とは思われない。実際、陶器問屋をいくつか回っても、店の者たちは二人が女主人と使用人にしてはいやに親しげにしていると訝しんでいた。

「兄ちゃん、不倫も大概にしときなよ」

「……」

 いく先いく先このような調子で、忠言めいて耳元で囁かれるのにはまったくもって閉口させられた。椿の耳に入れずに済んだのはよかった。ややこしいことになったに違いないからだ。

 最後の店で品物を包むのを待つ間、椿は向かいで粟餅を売っているのを物珍しそうに見ていた。店先で杵をついて餅をこねるのを見世物にしているのである。

 かつて住んでいた横町にも、子供たちを得意にする粟餅屋があった。そこで粟餅を買っては、兄弟全員で分け合った遠い日の記憶を、不死川は思い出した。

「食うか」

 椿は頷いた。二人分の餅を買って、川縁の石に腰掛けて包みを開くと、椿の表情がぱっと明るくなった。甘い菓子はなんでも好きな女だ。

 不死川は一口で食べ終わると、妻がきなこをまぶした餅を竹串で器用に切っては小さな口に運ぶのを眺めていた。

「いい加減、弟さんを呼び寄せたら?」

 手を止めて、椿がふいにそう話を持ちかけた。その様子で、突然の思いつきではなく、ずっと言おうと思って機会を伺っていたのがわかった。

「やらねえ。あいつとは旧離切った間柄だ」

「嘘。縁を切った弟に、お給金を半分以上も送ったりしないでしょう」

 鬼殺隊に入り、まとまった金が手に入るようになって以来、不死川は毎月、弟が身を寄せている親族の家に送金していた。しかし、なぜそれを知られている。怪訝そうな不死川に椿が答えた。

「気になって会計部の人にお願いして教えてもらったの。ごめんなさい」

 椿は前から、それなりの給金を貰っていて、散財している様子でもないのに手持ちが無いのを不思議に思っていたらしい。

「いや」

 不審に思うのも調べるのも当然のことだ。伴侶に浪費癖でもあったら堪ったものではない。

「でも、弟さんにお金を送ることができるのも、あなたが生きていればでしょう。鬼殺隊の遺族見舞金は同居家族にしか出ないってわかっている?」

「……そうなのかァ?」

「『鬼殺隊賞恤金支給規則』第十六条五項に書いてあったわ。隠の総務の方が教えてたの」

 そんなものがあるのは初めて知った。ようは、不死川が死んだら、その後の弟の生活の保証ができないだろうと言いたいのだ。

「あいつもいい歳だ。仕送りなんぞなくても一人でやってけらァ」

「あのね、そういうことが言いたいのではないの。折角血の繋がった家族がいるのに、わざわざ離れて暮らす道理はないでしょう」

「とにかく、しねえもんはしねえ。この話はここで終いだ」

 こちらの取りつく島もない様子に、これ以上言うのは無駄だと悟って、椿は川を見ながら独り言じみてぼやいた。

「大きいお家なのに、継子もとらないし、寂しいわ」

 継子がないのは自分の責任だけではない――と言おうとしてやめる。

 上に立つと、今まで見えていなかったものが見えて来るようになる。

 不死川とて、後進の育成に何も思わないわけではなく、それなりに手を尽くそうと努力している。しかし、多くの隊士は、弱いのにはこの際目を瞑るとしても、弱いなりに血反吐を吐いてまで強くなろうと食らいついていく気骨に欠けている。軟弱だ。嘆かわしい質の低さだ。樋上やこれまで連んでいた隊士連中などまだましの部類だった。

 最初から才能技量のある隊士など知れている。ほとんどの隊士ははじめ弱く、鍛錬と経験を重ねて強くなるしかない。しかし死んでいくのは決まって戦意ある者やる気のある者からだ。こういう状況では隊士の練度も中々上がらず、人員配置も苦心してやりくりせざるを得ない。ということを宇髄と話していると、「お前も管理職の苦労が分かってきたか」としみじみ言われた。以前食ってかかったのを根に持っていたのか。

 

 それにしても、弟がいるとうっかり口を滑らせたのを、椿がいつまでも覚えていたのは不覚だった。

 椿は家族が一緒に暮らした方が良いと思って、善意で提案しているようだが、不死川は何があっても弟の前に二度と姿を見せる気はなかった。

 この世に残された、たった一人の血肉を分けた弟。母殺しの兄のことなぞどこかで野垂れ死んだと忘れて、親弟妹の菩提を弔い、新しい家族を作って安寧に暮らしてほしい。弟の人生に咎人の存在は不要だ。これは贖いであり、願いであり、祈りである。

 

 一月の内は寒さが続いた。椿は三味線をやらなくなり、どうしても手元が寂しい時は琴をつま弾いている。代わって、新しい家の庭の隅で花の世話をするようになった。

「これが紅獅子、これが太郎冠者、これが雪灯籠」

 背の低い樹木を一つ一つ指を指してそれらの名を教えてくれるが、ひとつも頭に残らない。だが耳障りの良い、可愛らしい声が耳朶を打つのが心地よいのでわざわざ遮ることもしない。

「ねえ、聞いていらっしゃるの」

 椿がむくれて、人差し指の爪先で不死川の手の甲を軽くひっかいた。

「もういいわ。木刀を持ってくるから、鍛錬に付き合って」

「今からか」

「本気で打ちかかってきてくれないと、おやつに買ってきたおはぎはなしよ」

「おい、そりゃ卑怯だ」

 麗かな陽の下で、愛しい女が笑っている。

 不死川は、尊属殺しの咎で死後の地獄落ちは決まった身である。

 もうこの程度で腰の引ける女ではないことを知っているので、一緒にいて臆することもない。好きなことを好きに生きる女だ。それでいい。それで不死川は救われる。

 二人が背を向けた後で、庭の片隅に咲いた赤い花びらが、あたかも首を落とされたかのように、花首からぼとりと音を立てて雪の日向に落ちた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15.日は紅影を催す

 身の丈に茂った馬酔木が花を咲かせる頃の昼下がりに、手に抱え込めるくらいの果実籠を携えてしのぶが訪れた。午前の時間を鍛錬に当てていた椿は、友人の来る前触れを受け取って、早速身支度を整えてしのぶを出迎えた。

「北海道から取り寄せたの」

 そう言って差し出された籠の中には、この辺りの青物屋ではほとんどお目にかかれない、林檎の果実が収まっている。

「何もかも頂戴してばかりで申し訳ないわ。お礼に上がらなければいけないのはこちらなのに」

 先だって、祝儀と介添を務めてもらったことの礼として、伊万里焼の皿と舶来の硝子細工を姉妹に贈った。その細工の華奢なことにカナエがいたく感激して気に入ってしまい、こんな良いものを貰ったからにはと、それにまた返礼の品を寄越したのであった。

 カナエ本人は、年明けから任務が立て込んでいて、今朝やっと自邸に帰ってくることができた。見た目は元気そうだったが、やはり疲れが溜まっていたらしく、今は久方ぶりの安眠に癒しを得ているという。

「まだ帯も返せていないし……少し待っていて、取ってくるから」

「いいのいいの。急いで必要になるものじゃないから、椿に持っておいてほしいの」

 しのぶがにこやかに手を振った。

「そんなことより、こんな大切なことを私たちに内緒にしておくつもりだったなんて、信じられない」

 このことを咎められるのはこれが初めてでもないのだが、ちくりと刺すような物言いには抗弁しようもなく、椿は首を傾けて心苦しくするしかできなかった。彼女の姉にも、まったく同じことを言われたのだった。

「ごめんなさい、本当に内内で済ませるつもりだったから」

 そもそも椿は金襴緞子で飾った花嫁を羨ましいと思う心を一切欠いた女である。そこにきて、本来父に用意され母から受け継ぐはずだった婚入りの道具を何一つ持たぬ身の上であったから、ますます華やぐ気分にもなれぬという、そういう気持ちで婚儀の日を待っていたのである。

「椿、私に何か言うことがあるわよね」

 しかし、常の穏やかさを湛えながらも、珍しく目の据わったカナエにこう問い詰められれば、内情を白状するしかなかった。

「本当に何も気を使わないでほしいの。形式だけのことなのだし」

「だめよ。形式だけと言うけど、形式は大切なことよ。一生に一度のことなんだから」

 カナエはその洞察力と、あとは単純に付き合いの長さで、友人が結婚という行為そのものに並ならぬ忌避感を抱いているのを見抜いていた。椿が結婚を受け入れた理由というのは、ただ愛する男がそれを望んでいるという一点にしかなかったのである。

 カナエには、恋とは素晴らしいものであり、もちろん結婚というのも幸せに違いなく、またそうあるべきだという信念がある。だから、不死川からどうか椿に良いようにしてやってくれと頼まれるまでもなく、自分にできる限りのことをしてあげようと決心していた。

「お願いだから受け取って。椿に使って欲しいの」

 カナエが椿に差し出そうとしたのは、婚礼装束の一式である。カナエとしのぶは亡母から立派な三襲の衣裳や角隠しなどの諸々を受け継いでいて、姉妹の意見の一致の結果として、それらを椿に都合したいと申し出たのだ。

「大切なものでしょう。血縁でもない私がお借りするわけにはいかないわ」

「こんな時に他人行儀にしないで。私はそんなに友達甲斐がない?」

「も、もうカナエったら、意地悪なことを言わないで……」

 椿は困り果てた。これはいわば姉妹の母の遺品であって、本来の持ち主を差し置いて使わせていただくのは失礼である。道理が通らない。しかし、これ以上ないほどに向けられた好意の証を無碍にするのは、もっと失礼である。

 結局、カナエは衣裳のすべてを明け渡すことは叶わなかった。しかしながら、祝言当日にカナエが椿に締めてあげた綾織の帯は、一式の内から姉妹が提供したものだった。ここが二人の妥協点だった。

 椿は、その時は困惑させられたけれども、今になって改めて思えば、品そのものの価値にも増して、そこまでしてくれようとした友人の思いやりがひどく嬉しく思われた。

 とにかく色々あったが、椿はようやく女戸主の身分から解き放たれて人妻になったのである。

「それで、どう?」

 しのぶは年若い娘としての好奇心ではなく、身内がまっとうな生活を営んでいるかを案じる女家族じみた関心をこめて聞いた。

「特段変わりないわ。もともと一緒に暮らしていたのだもの」

「収まるところに収まって本当に良かったわね」

「一時期は彼のこと毛嫌いしていたのに、どういう吹き回し?」

「だって彼と一緒になってあなたが幸せになれるかどうか、判別がつかなかったのよ」

 しのぶはずっと、友人が好きになってしまった男の人柄を見極めようとしていたのである。その冷淡な態度の底には、この程度で腰の引ける男に友人を任せることはできないという思いやりがあり、椿にはありがたいが、不死川にはかわいそうなことであった。

 年がら年中忌中の鬼殺隊に慶事が少ないかというと、そうでもない。

 むしろみな、命短さを骨身に染みて理解しているから、若くともこれという人がいれば早々に身を固めてしまう。数年生き延びることがかなった後は引退して、育手になったり他の職分に就くのは最も上手く行った例と言え、死ぬまで戦って妻子を残していくのもさして珍しくなかった。遺族には見舞金が出るし、鬼殺隊の仲間内の互助の仕組みで、妻や幼い子供が自立できるまではしっかり面倒を見てもらえて、家族が路頭に迷わないとわかっているから、そういうこともできる。

「俺の同期もこないだ結婚したよ。相手は太物問屋の娘さんだったかな。こうと決めたら早かったな」

 このように言ったのは椿の兄弟子だった。慶事を師へと報告すべく墓に参る道すがらのことだ。

「いいなあ。俺だって結婚できるものならしたいよ」

 えらく哀愁のこもる言いようだった。そういえば村田も男であった。なぜかこの兄弟子のことは女友達と同じように扱っていて、あまり異性という感覚がなかった。

 椿はそうするのが義理のような気がして、村田に似合いの、年頃の良い女子がないかと思考を巡らせた。外で働く男が内室に望むのは、身の回りの世話をし、子を産み育てて、内職でもして家計を助けて、忠実に主人の帰りを家で待ってる女である。しかし、椿はそんな定型にうまく嵌りそうな女性をどうあっても朋友の中に見出すことはできそうになかった。椿はせめて兄弟子に良い人が見つかりますようにと、師の墓前に手を合わせて祈った。

 椿がそんなことを思い出している間に、しのぶは客間の床の間に視線を向けていた。

「これ、良いものでしょう」

 さすがにしのぶは良家の子女なだけあって中々の目利きで、器の形と色の具合でそれが並の代物ではないことを見抜いていた。

「ええ。今回のお祝いにと、冨岡さんからいただいたの」

 市場にもあまり出回らないような、滅多にない見事な染付である。たかが同僚への祝物として贈呈するには値打ちが過ぎるほどだ。こんなものをいただいてしまうのは、冨岡の浮世離れにつけ込んだようで、椿は若干、気が咎めないでもなかった。

 そこにいくと宇髄はさすがで、秀逸な品ながらこちらが気後れしない程度の価値のものを寄越した。

「こちらの懸物は不折の揮毫。音柱さまからよ。見事だと思わない?」

「私は書は詳しくないんだけど、なんだかとても……個性的な字ねえ。お祝い品にしては本人の趣味に寄すぎじゃない?」

「どうかしら。でもこういう時に『高砂』や『松竹梅鶴亀』の古典的な図画を選ばないのが、あの方らしい見事な感性よね……」

 ちなみに、不死川は宇髄の芸術的感性などまるでお構いなしで、掛け軸と睨み合いっこしながら「ガキみてえな字」だの「まだ俺の方がましに書ける」だのとぶつぶつ言い立ててしきりに首を捻っていた。芸術とはおしなべて並一通りに理解しがたい要素を含んでいるものである。

 

 しのぶは忙しい中を抜け出して立ち寄ったというので、話もそこそこに切り上げて暇乞いを申し出た。途中の四つ辻まで見送ろうと、二人は連れ立って往来を歩いた。

「それでね、姉さんが言うのよ。友達の結婚式に出る夢は叶ったから、あとは私の白無垢姿を見るまで死ねないって」

「まあ、当然の姉心でしょう」

「そんなの、自分の方が先に……何事?」

 常は長閑な往来の向こうから、どよめく声がわずかに聞こえきた。隊士たちが共用で使っている道場の方だ。

「行ってみましょうか」

 怪我人がいたらついでに手当てしてやろうというつもりで、道場に足を踏み入れると、そこには思いがけない光景が展開されていた。

 衆目を集めながら、道場の一角で相対するのは両者とも蝶屋敷の住人だった。一人は神崎アオイで、もう一人は小萩だ。

 椿は、アオイが戦うための道具を手に持っているところを初めて目撃した。普段、洗濯物の入った籠などを抱えて、忙しなく働いているのが印象的であったから、剣を持っているのも似つかわしくない感じがしたが、そういえば彼女も一応、鬼殺隊の一員なのだった。仕事用の白衣に覆われているが、その下に彼女が纏うのは、隊員であることを示す黒衣に他ならない。

 小萩はいつもの楽天的な雰囲気をどこかにかなぐり捨てて、研ぎ澄ました剣士の鋭さでアオイに打ち掛かっていた。しかし、柱の継子と癸の隊士には歴然とした力量差があって、しかも上位者である小萩がまったく手心を加えないので、ほとんど弱いものいじめの様相を呈していた。

「本当に弱い。情けない」

 小萩はそう言いながら、中段から竹刀を跳ね上げてアオイに打ち掛かった。アオイは間合いを取ろうと後ろに飛び退くが、小萩が距離を詰める方が早い。

「鬼が怖くて逃げ出すような人間に、その隊服に袖を通す資格なんかない。わかってんの」

 小萩は心を抉るのを目的とした痛罵を放ちながら、肉体を削る手を休めることもしない。アオイは右胴を打ち払われて、悲鳴を上げることもかなわず、膝を付いて身体をくの字に曲げた。

「さっさと鬼殺隊をやめなさい。みっともない恥知らず」

 体勢を崩したまま身動きのとれないアオイに向かって、小萩が竹刀を上段に構えた。その時である。

「小萩!」

 しのぶが大声で名前を呼んだ。小萩ははっとした面持ちで一瞬こちらを見たかと思えば、踵を返して背を向け、竹刀をその辺にいた隊士に押し付けて、足早に道場から出て行ってしまった。

「待ちなさい、小萩――椿、アオイを頼んでもいい?」

 友人が頷いたのを見届けて、しのぶは小萩の後を追った。

 椿はぺたんと座り込んでしまったアオイに声をかけた。

「立てる?」

「あ……はい」

 アオイは差し出された手を取って立ち上がった。普段の気の強そうなしっかりした表情も、きっちり整えた髪型も崩れて、緊張の糸が切れて呆然としている。

 階級が上のものが下のものに向かって一方的に憂さ晴らしをしているようにしか見えようがなかったから、アオイは周囲の隊士たちの同情を一身に浴びていた。それは彼女が見目可愛らしい少女であるだけになおさら顕著だった。しかも椿に手をひかれながら申し訳なさそうに、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すので、少女の不憫さはよりいっそう増した。

「ひでえよなあ」

「あそこまで言わなくたって」

などと好き勝手をのたまう野次馬を、椿は睥睨しつつ「見世物ではありませんよ、訓練に戻りなさい」と言って退散させた。誰も彼もかわいそうといいながら、自分からは柱の継子相手に食ってかかりもしない根性なし揃いである。

 神崎アオイは最終選別に生き残って隊士となったが、選別で心が挫けて任務に出られなくなってしまった。このような隊士は本来、除名処分となって、隠になったり、市井に戻るのが相場なのであるが、彼女の場合は経緯あって蝶屋敷に引き取られた。最初は肩身狭そうにしていたけれども、てきぱきとよく働くので重宝されて、今は諸々の雑務を取り仕切り、屋敷にもすっかり馴染んでいる。非常に真面目な少女で、このような騒動の種になるとは想像もしていなかった。

 椿はアオイを自分の住居に連れて帰った。蝶屋敷の方ではしのぶが小萩を締め上げている頃だろうから、ほとぼりが冷めるまでここで休ませようと思ったのだ。ついでに手当てもしてやらねばならない。裾から覗いたアオイの前腕には、かなり痛々しい青痣が点々と浮いていた。

 椿が棚から薬膏を取り出して「服を脱いで」と指示すると、アオイが慌てて首と手を同時に振った。

「あの、大丈夫です!椿さんのお手を煩わせるほどではありません、自分でできます!」

「そう?」

 アオイが強く押して大丈夫だというので、手当てするのは本人に任せて、その間椿は女中に言いつけて茶を用意してもらった。

「こんなことがよくあるの?」

「いいえ、普段は、その……話もしませんから」

 アオイは引き続き遠慮しきりだったが、椿は「私がやりたいの」と言って、乱れた髪を櫛で梳いてやった。

「ちょっとやり過ぎね。カナエには私からも言っておくわ」

「それには及びません。私の不甲斐なさが原因ですから」

「物には言い方があるでしょう。それに、あなたたち二人だけの問題ではないのよ。部下同士であんな体たらくを晒していては、カナエが柱としての軽重を問われかねないのだし」

 上官に累が及ぶことまでは想定していなかったらしいアオイはばっと顔を上げた。

「他の人は誰も悪くありません。私が役立たずで、情けないのが悪いんです」

「そこまで卑下しなくても。あなたは十分、役に立っていると思うわよ」

 蝶屋敷で働ける人間は希少だ。昼も夜もない激務が続くことも稀ではない環境だから、並の女には務まらない。

 椿もアオイには恩義がある。彼女に洗濯物は干す前に軽く畳んだり叩いたりしてしわを伸ばすのが良いのだと教えてもらわなければ、椿は洗濯物が綺麗に乾き上がらないという難事に、今でも頭を悩ませ続けていたことだろう。

「そういえば、あなたたちは同期だったわね」

 椿は女の子が二人同時に入隊したという話題が、以前知人たちとの会話に登ったことを思い出していた。女子の入隊は珍しいから、それだけで噂になる。と言っても、同じ屋敷に暮らしているはずのアオイと小萩が話しているところはおろか、一緒にいるところさえ、見た覚えがなかったのだが。

「……ただの同期じゃありません。私たちは昔、同じ育手の先生に教えてもらっていたんです」

 椿がちょっと目を瞠ると、アオイは聞いていただけますか、と前置きをして、膝を揃えて姿勢を正して話し始めた。

 鬼殺隊に入る前のことである。アオイがその育手への師事を始めた時には、年の頃二、三ばかり上になる小萩はすでにそこにいた。しかし、育手には明らかに持て余されていた。家族を殺された復讐心を縁に門を叩いたアオイと違い、小萩は家族を病に殺されて、郭勤めも性に合わず、もとより死んだも同然の身だからと、半ば自暴自棄で鬼狩りの道に進んだのだ。身の入り方が違った。

――小萩、そんなところで寝転がって何をしているの。先生に素振りを千回なさいって言われたでしょ

――いいじゃん、ちょっとくらい。それよりアオイ、こっちおいでよ。日差しが気持ちいいよお

――もう、先生に叱られても知らないから!

 万事このような調子で、年下ながらしっかりもののアオイの方が、なにかと物臭で自堕落になりがちな小萩を叱責して引っ張るような関係だったのだという。

 しかし、妹分が出来て張り合いが出たのか、小萩は徐々に真面目に鍛錬に取り組むようになりはじめた。そうすると、もとより両者とも天涯孤独の身同士で、仲良くなるのに時は要しなかった。

 やがて共に過ごすうち、二人の目的は同じになった。

 一緒に強くなろう。強くなって、鬼に襲われる人たちを救おう。

 そうして小指を結んで約束したことを、アオイは懐かしさと痛みを滲ませて語ってくれた。誰かに聞いてほしくて堰き止めていた思いが溢れて止まらないようだった。

「……でも私は駄目でした。戦えませんでした」

 手が震える。足がすくむ。身体がへたってまともに立っていられない。

 この時のために鍛錬を重ねてきたはずなのに、鬼と真っ正面から相対すると、すべてが吹き飛んだ。そして、あれほど憎んだはずの鬼を前に、命乞いをしてでも生き延びたいと思っている自分がいることに気付いた。それでもう駄目になってしまった。心が折れた。

――アオイ、待って!行かないで!

 友の静止の声も聞かず、狂乱状態になって逃げ出した。気が付けば山の中でたった一人、はぐれた友を探して彷徨う意気地もなく、アオイはひたすら、どうぞ鬼に見つかりませんように、小萩が無事でありますようにと、それだけを祈りながら生き長らえた。

 そして最後の夜のことだった。

――こんなところにいたの。この意気地なし

 物音に怯えて木の幹に這い蹲った自分を、冴え冴えと見下ろす姉弟子の眼差しを、アオイは数瞬前のように鮮明に思い出すことができる。

 明け方、小萩に引きずられるようにして山を降りた。一言も口を利くことはなかった。こうして二人の関係は決した。

「侮蔑されて当然です。私は友達を置いて逃げ出して、その間彼女はぼろぼろになるまで戦って、鬼を六も殺したんですから」

 自己嫌悪が煮詰まって、アオイは前を向くのも苦痛になって俯いた。

「それほど鬼を恐ろしいと思うなら、いっそ彼女の言う通り、鬼殺隊をやめてしまえば」

 心が折れたことは理解した。それ自体は責められることではないが、小萩の言うことにも一理があって、戦いから退いた人間を悠長に隊に残しておくことへの風当たりは決して優しいものではない。

「浅ましいことはわかってるんです。でも、ここにいることさえできれば、もう二度と小萩と離れずに一緒にいられる。鬼と戦う度胸もないのに、こんなことを言うなんてどうにかしてるって、自分でも思います」

 アオイの強く握った拳の上に涙がぽたぽたと落ちた。

「あ、あたしはもう、どんなに軽蔑されても仕方ないけれど、姉さんが戦っている時に、全然関係のないところにいて何もしないでいるなんて、耐えられない……」

 突風が吹いて、戸がわずかにかたかたと音を立てるのが遠くに聞こえた。

 それ以上、アオイが何かを話すことはなかった。椿も何も聞かなかった。

「お茶、冷めてしまったわね」

「お気になさらないでください。長居してしまいましたから、これで失礼します。お話、聞いてくださってありがとうございました」

「小萩にいじめられたら、いつでもおいで」

 椿が軽い口ぶりでそのように言うと、アオイは少し眉尻を下げてわずかに微笑んだ。

 蝶屋敷まで送ると言った椿の申し出を固辞して、一人で帰っていったアオイを後ろ姿を見送ると、しばらくして立ち代わりに小萩がやってきた。玄関口で頭を下げる小萩は、しのぶに相当絞られたらしく、やや消沈としている。

「迷惑をかけました」

 わざと主語を曖昧にぼやかした物言いに、椿はこれはまったく反省していないな、と呆れたが、そのことには触れず、「ほどほどになさいね」と言うだけに留めた。

「椿さんは、ああいう人間は嫌いだと思ってましたけど」

「カナエとお館様が彼女の処遇を認めている以上、私が何かを口に出す筋合いではないもの」

 椿は確かに戦う意志のある人間を評価するが、そうでない人間を前線に放り出せとは思わない。それに、アオイは己の身の程を知って、戦う場所を後方に移したのだから、その決断そのものはなんら責められるべき性質のものではない。

「みんな甘すぎます。あんなのを宙ぶらりんのまま野放しにしておくなんて、隊規もなにもあったものじゃない。隊士の士気に関わる」

「具体的には?」

「少なくとも私の士気はガタ落ちです。命を張ってる人間とただの下働きが同じ隊員として認められるなんて、馬鹿げてると思わないんですか」

 心底苦々しげに吐き捨てる小萩を真っすぐに見据えて椿が言った。

「随分厳しく当たるのね。同門ではないの?」

「同門なんて!あんな愚図と一緒にしないでください」

 小萩はひどく不愉快そうに足を踏み鳴らした。

「とにかく、そんなことはどうでもいいんです――戦うなら戦う、戦えないなら隊を去る。私、何かおかしいことを言ってます?」

 言いたいだけ言って、小萩は帰っていった。

 アオイは姉弟子に対して、今なお尽きせぬ愛着を抱いている。翻って小萩の方はと言えば、妹弟子のことを同門どころか他人以下の存在と思い定めているようだ。

 小萩の言うことは過激だが理屈は通っている。同門ならなおさら不甲斐なさを嫌う気持ちもわかる。しかし、ただ単純に嫌っていて鬼殺隊から追い出したいにしては、やり方が中途半端に陰湿である気がした。あんな大勢の人の目に着くところでいじめ抜いたところで、やった方の風評に傷がつくだけである。

 椿は小萩の激しさが何に起因するのか計りかねていたが、いくら考えても、それらしい答えに辿り着けなかった。

 

 まもなく、夕暮れ時に差し掛かる前特有の気怠い感じの日ざしが人里を覆いはじめた。

 椿は広い濡縁に置いた籐椅子にもたれて、女主の手で整形されて色彩豊かになった庭を見やった。まだ肌寒い時期だが、日没前に多少でも日の光を浴びておきたいと思ったのである。

 松の木の太い枝には警戒心のない白鶺鴒が遊んでいて、愛らしい鳴き声を上げている。今日は良い来客日和だった。

 鬼狩りは昼夜逆転の生活を送りがちになるが、人間の生命活動、ことに精神状態を良好に保つために太陽は必須だと、夜勤が続いた時などは特に強くそう感じる。取りも直さず、人と鬼とを分つ断崖がここにある。

 鬼狩りとは、身命にも増して、強烈に神経を削る稼業でもある。

 同僚は早々と死んでいくし、守ろうとして守り切れるばかりでなし、殺された者の無念、残されたものの悲嘆、そうしたものばかり目の当たりにしていると、怒りや悲しみが澱のように積もって、身体より先に心の方が根をあげる。

 心身は一体のものだから、心が折れれば身体もそれに追随する。剣を握れなくなる。

 結局、どんなに強そうに見えたとしても、所詮人間である以上、心の強度を過信していてはあっけなく壊れてしまうということだ。

 だから休息は大切だった。熟練の戦士ほど、己の心身を労る術を心得ている。

 

「椿さま、旦那さまがお目覚めです」

 女中からこのように呼ばれたので、椿は椅子から腰を上げて、この邸の主人のいる場所に向かった。

 椿があちこちに手を回して、自分好みに家中を作り変えていた一方、不死川は広い部屋が落ち着かないのか、南向きに張り出した、一番日当たりは良いが一番狭い六畳間を居室にして過ごしていた。よって必然、椿が一番長く滞在する室もここになった。

 襖を開けて部屋に入ると、不死川は押入に布団を片して、使い勝手の良い桑材の机の上に新聞を広げて湯漬けを食っていた。この机は粂野の遺品である。朋輩らとの形見分けの際に貰ってきたのだ。

「今日はしのぶがきてくれてね、林檎をいただいたから、後で剥いて差し上げるわ」

 隣に腰を下ろして椿が言った。

「千夜子にやらせろ。包丁で手先切ってりゃ世話ねぇぜ」

「大丈夫よ。前よりは少しは上手になったもの」

「これでもかァ」

 不死川は皿に並んだ異様に厚さの不揃いな沢庵漬けを箸で摘んで言った。

「……」

 沈黙の落ちた空間に、漬物をばりばりと咀嚼する音が響く。

 おかしい。刀の扱いはそこらの男にも負けたものではないと自負しているのに、包丁となると途端に手元が狂いだす。

 椿が下を向いていると、食事を終えた不死川が口を開いた。

「あれが花柱の継子かよ」

「起きていたの?」

「うるせえ女だ。嫌でも聞こえてくらァ」

 少々無神経なところのある小萩と不死川はいかにも相性が悪そうなので、あまり顔を突き合わせないよう配慮しておいたのは正解だった。今後も二人が鉢合わないよう気を付けようと椿は心に決めた。

 まもなく膳を下げにやってきた女中に、林檎と包丁を持ってくるように言いつけると、不死川が「切って持ってこい」と言うので、この独断には椿は大いに反発した。

「だめ。私がやるの」

「ものを幅を揃えて切れるようになってから言え」

 千夜子は顔を下に向けながら肩を震わせた。

「わかりました。持って参ります」

「千夜子、どちらの味方をするの」

「旦那さまの言いつけ通りに致します」

 頼みにしている女中に裏切られて椿が不満げにすると、千夜子はいよいよ笑いを噛み殺すのが困難になったのか、立ち上がって台所に向い、ものの数分で戻ってくると果実の乗った器を置いてさっさと退散した。

「私がやりたかったのに」

 椿の子供じみたわがままを、不死川は「もう少しうまくなってからにしろ」と言って、肩を引き寄せてなだめた。椿の小さな癇癪はそれで霧散してしまった。

 林檎は酸味が程良く美味だった。不死川は二、三口と手をつけると、後は椿が食べるところを飽きもせずに眺めていた。

 手持ち無沙汰になった不死川が、妻が何かやっているのを見世物にするのはよくあることだった。その注視のやり方ときたらあまりにあからさまでいっそ不躾と形容できるほどだったが、椿は彼が黒目を大きくしてじいっとこちらを眼差す視線の中に十分な愛情を感じ取っていたから、何にも言わないで、夫がしたいようにさせていた。

 椿は不死川に何かをしてもらった分だけ、何かしてあげたかった。

 とはいえ、椿は鬼狩りの上に石女ときているから、最初から世間並の嫁らしいことはできない。元来、人に奉仕する気質でないし、どちらかと言えば、奉仕させることに慣れた人種なので、うっかりしていると、何かしてもらうばかりになる。

 そういうわけで、己の美しさを愛でて心を満たしてもらえるのは椿にとって大きな喜びだった。もともと椿には、形貌の美しさで不死川の愛情を勝ち取ったという自信がある。

 日が足早に沈んで外が暗くなった。

 灯をつけると、椿はどういうことか、突然にアオイのことばかり思考に過ぎった。どんなに惨めでも姉弟子と一緒にいたいと言って泣いた少女、あれほど一途に慕っているのに、邪険に扱われるのはどれほど苦しいことだろうか。もし夫が、自分が彼を愛するのと同じようにこちらを愛してくれなかったとしたら、きっと舌を噛み切りたいくらい悲しくて辛かっただろう。それと同じことだ。

「アオイは小萩のことが好きなのに、小萩はアオイのことが嫌いらしいの。辛いことね」

「さっきの話か。ほっとけェ。胡蝶がなんとかするだろうよ」

 これはまったく不死川の言う通りで、あの二人の身柄は花柱の管轄だから、万事彼女を通して物事を収めるのが筋というものである。

 それにしても、不死川はカナエのことをとても高く評価して信頼しているようだ。

「最近、カナエと仲良くしているのね」

「は?」

「とぼけないで。今朝、あなたたちが一緒に任務から帰ってきたところを見ていたのよ。随分楽しそうにお話していたじゃない」

 今回の仕事ははじめカナエだけに割り振られていたが、不死川が増援に呼ばれて、それで均衡していた状況が一気に崩れて任務を達成したと聞いている。このところ不死川はカナエと組まされることが多くて、共闘しても相性が良いらしい。夫と親友の仲が良いのは椿にとって嬉しいことだった。

 岩柱には稽古に臨んでは叩きのめされているようだし、音柱とは仕事の愚痴を言い合っているらしいし、先日新たに柱の席に連なった炎柱とも良好な関係を築いていると聞くし、いずれも歓迎すべきことだ。欲を言えば、冨岡との仲はもう少しなんとかならないのかと思わないでもないが、気の合わないものは仕方がない。不仲が仕事上で差し支えがない範囲に留まるなら、無理に上っ面を繕ってまで仲良くする必要はないと思う。

「待て待て待てェ、なんの話だァ」

「何って、柱同士で親睦を深めるのは良いことねって……」

「それだけか」

「ほかに何があるの」

 煮え切らない態度をつついてみると、どうも浮気を疑って当てこすられたと思ったらしい。椿は呆れた。

「言っておくけれど、カナエにはもうずっと前から心に固く決めた人がいるから、浮気相手にするのは無謀だと思うわ」

「しねえよ。浮気は許さねえんだろ」

 不死川は心外とばかりに言った。

「当たり前でしょう。相手が誰でも絶対に許さない」

 椿がそう言い切ると、不死川は安堵と焦燥が入り混じった複雑な表情を浮かべた。それを見て、椿はほんの少し意地の悪い気分になって頬を緩めた。

「嫉妬してほしかったの?可愛い人ね……」

 不死川はうんともすんとも言わないで黙り込んだ。そして、妻に抱きしめられるのと、自分の額の皮膚の薄くなったところに口付けされるのを受け入れた。

 色々な細々とした不安を抱えていたけれども、椿は幸せだった。こんなに幸せを与えてもらって許されるのかと思うくらい幸せだった。

 

 

 

 走っている。

 左右に田畑の広がる畦道を、少年はまるで何かに追い立てられるかのように駆け抜けている。

 なぜ自分はこんなところに一人でいる。自分の役割は家族を守ることだ。兄と一緒に、母と幼い弟妹たちを守ることだ。

――もうみんないなくなってしまったのに、一体何を守るというのか。

 途方もない孤独感に押しつぶされそうになり、鼻の奥がつんと痛んだ。泣くな、しっかりしろ、前を向け、走れ。自分は母の息子、兄の弟、弟妹たちの兄だろう。

 夜通し走り抜いた身体は疲労を訴えて休息を取りたがった。冬の冷たい空気を辛うじて吸い込むごとに肺が膨らんでは縮み、心臓は破裂しそうなほど強く打ち、内臓がどうにかしてしまったのではないかと思うほど脇腹が痛む。

 それでも足を止めることなく、不死川玄弥は夜の闇の中をひた走った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16-1.積もり積もりて情けの深み

※本作は言うまでもなく二次創作であり、時系列、設定は必ずしも原作に準拠しません。


 

 かつて、姉と私は一心同体であった。

「早く生まれておいで」

 母の腹に向かってかけられた下の子の誕生を待ちわびる声も、産着に包まった赤子を愛しげに見つめる眼差しも、記憶にあるはずがないのに、遠くに思い返せるような気さえする。

 物心つかないうちから、しのぶは姉の後ろについて、姉のすることの真似ばかりしていた。お手本は母であるよりも姉であり、親に笑われるほど常に一緒で、嬉しいことも悲しいことも、すべての感情を共有し合っていた。

 成長するに従って、嗜好も特技も趣味もはっきりとした違いが出てきて、見た目にはそれぞれに異なった美しさを持っていたし、性格も、穏やかでおっとりとした姉と、せっかちなきらいのある妹は対照だった。

 しのぶとカナエは混同しようもなく別個の人間だった。それでも、むしろ、真反対だったからこそ、蝶の羽のひとつがいが羽ばたくために不可欠であるのと同じように、ひしりと手を取り合って存立しえていたのだとも言える。

 長じて鬼狩りとなり、姉との才能の差をはっきりと突きつけられて打ちのめされても、しのぶのカナエへの敬慕の念はいささかも変わることはなかった。姉を愛していた。羨望こそあれ、嫉妬の念など湧き起こりようもなかった。これほど強く、美しい人が自分の姉であることはしのぶの幸福であり、自慢であり、誇りだった。

 

 

 桃の節句に合わせて姉妹が誂えた着物に、椿から贈られた洋靴を履いて、カナヲが特に何がしたいという当てもなく、ただ庭を歩き回っている。

「気に入ったの?」

 しのぶがそう問いかけると、カナヲは控え目に頷いた。相変わらず言葉は少ないが、顔つきが柔和になり、情感が備わりつつある。完全に銅貨なしで物事を判断できるようになるまではまだまだ時間がかかるだろうが、ここにやってきた当初のことを思えば、目覚ましいばかりの情緒の進歩だ。

「アオイが手が空いたから、鍛錬に付き合ってくれるそうよ。行きましょう」

 カナヲは蝶屋敷の女性たちに鍛えられて、すでに隊士相当の剣の技量は身につけていたが、最終選別には送り出していない。

 そもそも、本来、姉妹にはカナヲを隊士にする気などなかった。それがこんなことになったのは、椿から「筋違いかもしれないけれど」と、遠慮がちながらも鞭のように厳しい指摘を受けたためだった。

「カナエ、あの子をどうするつもりなの。犬や猫ではないのよ。甘やかして大事にしているだけでは、あなたたちの身に何かあった時、路頭に迷わせることになるわ」

 椿は近しい部外者として冷静に物事を見定めて、このように言ったのである。

 蝶屋敷は慈善施設ではない。姉妹が卓越した技能によって、お館様より土地と家屋敷をまるごと施与受けた、鬼殺隊の医療機関である。幼い少女たちとて、看護婦として鬼殺隊の役に立てるからそこに住まわせてもらえるのだ。カナヲほど意志に乏しくて、家事にも人の世話にも向かない壊れた少女であっても、穀潰しのままでは姉妹に何かあった時に身の置き場所がなくなってしまう。彼女のような子供が、理解ある庇護者から離れて安楽に生きていけるほど、世間は優しい場所ではない。

 だから、時期尚早のように思われても、とにかく何か身につけさせるべきだと椿は言った。とても反論できない正当な意見だった。

 それで、いざ試しにと竹刀を握らせてみると、カナヲには戦いで生き残るための天性の資質が備わっていることがはっきりわかりはじめた。目と反射が良いのである。しのぶは、この子は訓練を積み重ねれば、自分よりも強くなれる、と直感した。不本意なことではあったが。

 そういう経緯で、カナヲは、育手のもとにいる子供たちと同じように、隊士となるための訓練を受けている。

 それでも、カナエもしのぶも、カナヲが鬼狩りではない、普通の少女らしい生活を望めるのではないかという見込みを、いまだ捨てきれていなかった。椿に言わせればそれは甘さだっただろうが、もっとも、椿とて、ものをくれてやったり、稽古をつけてやったりして、カナヲを可愛がることにかけては姉妹と大差なかったのだが。

 しのぶがカナヲを伴い主屋に戻ると、玄関先では、椿とカナエが真剣な表情で話し込んでいた。

「奥多摩の巡回が手薄なの。人手を借りることはできる?」

「小萩を向かわせるわ。今夜からでいいかしら」

「ありがとう、助かるわ」

「いいのよ。そういえば、不死川くんは一緒ではないのね」

 しのぶの見たところ、彼らは同じ任務に一緒にあたることはあまりしない。柱が身内を継子にしたり任務に同行させるのは珍しいことではなく、むしろ後進育成とか士気向上の観点から奨励される傾向にあるのだが、当面こうしたことに私情を交えないのが彼らなりのけじめらしかった。

「彼は別件で一昨日から不在にしているの。行先は教えてくれなかったけど、遠方なのですって」

「しばらく会えないんじゃない?寂しいわね」

 カナエが同情を込めて言った。遠方での任務は長期にわたりがちだった。

「一月は帰って来れないそうなの。でも暇があったら、お手紙を書いてくれるそうだから、寂しくないわ」

 椿は美しくなった。もともと美しかったのが、このところは会うたび会うたびより一層輝きを増しているようだった。鬼狩りのいかめしい地味な装いすら、娘盛りのまばゆさを押し潰すことはかなわなかった。

「この後お寺参りに行って、帰りに甘いものでもいただいてから任地に発つつもりなのだけれど、良かったら途中までご一緒にどう?」

「嬉しい。しのぶ、カナヲ、一緒に行きましょうよ」

「私たちはこれから鍛錬に入るから、二人で行ってきたら」

 このところ多忙だった姉にはちょうどいい息抜きになるだろう。

 妹の言葉に甘えて、友人と連れ立って屋敷を出るカナエを見送りながら、しのぶはしみじみとした気持ちになった。

 椿とカナエは、これ以上の仲睦まじい様子はないだろうという調子で喋り合っている。

 しかし、この二人は、出会った最初から今のような仲良しなわけではなかった。むしろ、椿からすれば、カナエは不倶戴天の敵と呼んで差し支えなかった。

 

 

 椿と初めて出会ったのは、色付いた木々の葉が地に枯れ落ちる晩秋の頃だった。同じときに姉の思いつきで、庭に赤い落ち葉と枝を積んで火を焚いて暖まったことを覚えている。

「水の呼吸を使う女の子のことを、話に聞いたことはあるかい」

 鬼殺隊に仕えて長い老医師が、世間話にそう切り出した。

「椿ちゃんのこと?」と即座に反応したのはカナエである。

「ああ、カナエさんは知っていたんだね」

 しのぶは初耳だった。

 その頃のしのぶは、周囲の何かに気を取られている余裕などなかった。姉と肩を並べて戦うために、人より早く大人になる必要があったのだ。今では蝶屋敷と呼ばれているが、当時はたんに隊士たちの救護施設であった屋敷で、そこを取りまとめる医師らの世話になりながら、任務の時と、カナエが息抜きに外に連れ出してくれる時以外は、ひたすら研究と鍛錬に開け暮れていたのである。

 しのぶが鬼と戦うためには藤の花の毒が絶対に必要で、その研究は鬼殺隊にとって有益であったから、屋敷に住むことを許された。研究には、前線で負傷して帰ってくる隊士たちから得られる、鬼という生物に関する情報と知見の積み重ねが不可欠であったのだ。

「年の頃も近いそうだし、仲良くなれたら良いと思ってね。先ほどここに来ていたから、挨拶でもと」

 カナエがぱっと勢い良く立ち上がった。

「栗花落先生ったら、それを早く言ってくれないと」

「おや、何か彼女に用事でもあるのかい」

「ええ!」

 カナエはばたばたと大急ぎで部屋を出て行った。

 老医師は元気な孫娘でも見るかのように目を細めた。

 カナエは屋敷の人気者だった。妹が研究に邁進する一方で、姉はここに置いてもらう以上はと、自ら看護婦の役目を買って出ていた。彼女はいつもそうだったが、その振る舞いは周囲に好意的に受け止められた。夜中、暗闇の中でランプを片手に傷病者を一人一人見て回るカナエの姿に、生きる活力を見出す隊士も少なくなかったのである。機能回復訓練を今のような形で考案したのもカナエで、姉は強く優しいばかりでなくて、そういう才能も持ち合わせていた。

「しのぶさん、ほら、窓の外を御覧なさい。あの子がそうだよ」

 老医師は格子窓の外に見えた、屋敷の門口に向かう女性の後ろ姿を指さした。それを追って、矢のように飛んでくる人影がある。

「椿ちゃん、待って!」

 走って追ってきたカナエに声をかけられて、彼女がこちら側に振り返った。

 姉と同じか、その次に綺麗な人――しのぶは咄嗟にそのように思った。カナエより美しい人はこの世に存在しないから、これはしのぶが人の容貌を褒めるときの最大級の賛辞である。

 カナエが春の日溜りのような温もりを纏った女性であるとするなら、椿は反対に、冬の早朝の清く澄んだ空気を思い起こさせる怜悧な雰囲気を放つ女性だった。しかし、完璧に整った形貌には隙がなさすぎて、やすやすと近寄りがたい印象を見るものに与えた。

 二人はその場で二言、三言交わした。そして最後に、カナエが至って友好的に差し伸べた手を、椿はやんわりと、だが冷厳な意思を持って振り払った。

 剣呑な様子に、しのぶが慌てて姉のもとに向かうと、すでに彼女は門外に姿を消していた。

「姉さん、何かあったの?」

「今度の週末に、一緒に浅草に遊びに行きましょうって誘ったのだけれど、断られちゃった」

 門口に向けられたカナエの視線は、すでに姿のない椿の影を追っているようだった。

「どうしたらもっと仲良くなれるのかなあ……」

 

 

 カナエの話によるとこうである。数日前の夜のことだ。

 子供の鬼がいた。まだ鬼になったばかりで、人間だったときの記憶が色濃く残っていた。

「おかあさん、おかあさん……」

 母を呼びながら泣きじゃくる子鬼の口元は血に塗れていた。

「お母さん、どこに行っちゃったの?うう、うー……」

 自分のやってしまったことを理解できないほど頑是ない様子に、カナエの心は哀れみに満ちた。ここにくるまでに目のあたりにした、我が子に喰い殺された若い女親の死体が脳裏をよぎる。丁寧に整頓された家内、ぴったり並んだ二人分の布団、夕食の団欒の痕跡。やりきれなかった。

 カナエが子鬼に近付こうとしたその時、目の前の小さな身躯は声もなく前のめりに崩れ倒れた。

 切断されて胴から滑り落ちた首が、まるで鞠のように軽やかに空を飛ぶ。

 カナエは手前に転がってきた鬼の首を、咄嗟に腕を伸ばして受け止めた。子の顔は恐怖と苦痛に染まり、瞳からはとめどなく涙が溢れ出していた。

 鬼の胴体が倒れ伏したその背後に、息を切らした椿が立っていた。彼女は背後から一気に接近して、相手に何が起こるか気付かせる猶予も与えず、その頸を的確に切り落としたのだった。

 カナエは、胸の中にこうべを優しく抱き込み、泣き別れになった胴体の背中をさすってやった。そうすると、子鬼はわずかに、安心したように微笑んで――これはカナエの願望かもしれないが――塵になって消滅していった。カナエはどうかこの哀れな子に、神様が慈悲をくださいますように、そして天国で母親と再会できますように、と祈った。

「……まるでこちらが悪いことをしたかのようではありませんか」

 椿はカナエの鬼への哀悼を自分への非難と感じた。もっとも、椿にしてみれば、鬼を前にしてぼうっとしている仲間を救わねばならない、という使命感で刀を振り抜いたのに、当の本人がこのような有様だったので、焦った甲斐なく感じたのは当然だった。

「いいえ、そんなことはないわ。ありがとう、助けてくれて」

「……」

 カナエは目を伏せた。すでに鬼は形も残さず消滅している。

「この子、泣いていた。悲しんでいた……」

「何を悠長なことを。鬼に情けをかけてなんになるのです」

「みんな人間だったのよ。私たちと同じ、誰かを愛して、誰かに愛された人間だったのよ」

 カナエの訴えは、尋常の人間ならば思わず同調してしまいそうな切なさを帯びていたが、椿にはまったく通用しなかった。

「鬼がかつて人間だったことは誰でも知っています。それが一体なんだというのです?」

「鬼となっても、人間だったときの行いまで否定されるいわれはないわ」

「あなたの言っていることにはまるで道理がない。過去かつていかな善良な人間であったとしても、鬼となり人を喰い殺したからには、酌量の余地などない」

 鬼はあまねく無慈悲に滅ぼされるべきであるという彼女の信念は確固としていた。

 平生、姉を侮辱されて黙ることのないしのぶだが、これを聞かされては文句のつけようもなかった。

 椿の言うことは、鬼殺隊の理念に照らし合わせて正当な意見であって、実際、鬼にすら哀れみを持つカナエの方こそ異質なのである。

 しのぶとて話を聞いて、内心では安堵していた。外見をいかに取り繕っても、鬼は鬼、子供らしく装っていただけのことで、実際には目の前の人間への害意を秘めていたかもしれない。油断したところを攻撃する魂胆だったのかもしれない。しのぶは姉の強さと、鬼を前にして日輪刀の柄から手を離すほど愚かではないことを知っていたが、とはいえ、安易に自ら危険に首を突っ込みに行くような真似はして欲しくなかった。

 だから、しのぶは姉の手前、あからさまにはしなかったが、問答無用で鬼を仕留めた椿に対しては感謝の念すら抱いていたのである。

 

 

「私には私の、あなたにはあなたの信念があります。なぜ私たちが友人にならなければいけないのですか」

 カナエの理想を、椿は絶対に許容しなかった。

 かたやカナエは、この一件があっても、いや、むしろこの一件があったからこそ、椿とは絶対に仲良くなるしかないと心に決めたのである。人間と仲良くやれないで鬼と仲良くなれるわけがない――と考えたわけでもないのだが、いずれにせよ、カナエにとっては、仲間を案じて我が身も構わず刀を振るった椿の本質の方が、互いの信念上の問題より重要なことであった。

「そんなこと言わないで。私たち、良いお友達になれると思うの」

「やめてください。私はあなたが嫌いです」

 椿は物わかりの悪い子供に言い聞かせるように、誤解しようもないほど明瞭に言い放った。だが、この程度で距離を置こうとするようなら、それは胡蝶カナエではない。

「でも、私は椿ちゃんが好きよ」

 椿は思わぬ反撃を食らって黙り込んだ。そして、カナエのことを薄気味悪いもののように眼差した。

 カナエはどんなに冷たくされてもめげなかった。昼も夜もなく椿について回っては、とめどなく喋りかけた。

 

「ねえねえ椿ちゃん、一緒にお昼食べに行きましょうよ」

「行きません」

 

「三味線が得意なの?私も好き!」

「私の家から出て行っていただけますか」

 

「大きな湯船っていいわよね。あっここの銭湯ね、外風呂があるの!一緒にいきましょ!」

「お風呂の中にまでついてこないでください……」

 

 椿はカナエの攻勢に粘り強く抵抗した。カナエに対してこれほど長く拒絶的な態度を通した人間を、しのぶはかつても今も椿以外にお目にかかったことがない。

 そういうことがしばらく続いたある日、しのぶが調剤室で薬の整頓をしていると、廊下から椿と誰かが歩きながら話しているのが漏れ聞こえてきた。

「……どうしてそう嫌がることがあるんだ」

「宗旨の違いです。仏門に帰依した者と耶蘇教徒のようなものです。仲良くできるはずがありませんでしょう」

「最初からそう決めつけてしまうのは、俺はどうかと思うけどなあ。いい子なんだろう、その子」

「いい子と言いますか、人見知りをしない、人懐っこい方……」

 椿はカナエのことを説明するのに、「馴れ馴れしい」とか「しつこい」という無礼千万な形容は避けていたものの、この状況に相当参っていることだけは伝わってきた。弓を引いて矢を打ち込んでいるのに、お返しに大きな花束を投げて寄越されるというのは、やられる側からすると、ずいぶん精神がくたびれるものらしい。

「ほら、やっぱりいい子なんじゃないか。友達は何人いてもいいものだろ」

「粂野くん、他人事だと思って……」

 調剤室の引き戸が開いた。椿は少年の隊士を伴って薬を取りに来たのだった。

「薬をもらっても構わないか?打身に良く効くやつ」

 少年の要望に応えてしのぶは薬棚に手を伸ばした。後ろでは椿が「受け取っておくので、先に向かってください」と言って、少年を先に行かせていた。

 二人きりになった。室内に沈黙が落ちた。

「あの……」

 しのぶがおそるおそる話しかけようとするが、言葉がつっかえた。まごついたしのぶに、椿は表情を和らげてこう言った。

「あなたのお姉さまは、素敵な人ですね」

 言葉面だけ捉えると、皮肉のようにも思われたが、椿には一切他意はなかった。本心からそう思っていることが伝わる真摯な口ぶりだった。

「……姉さんのことは嫌いですか?」

「お姉さまを罵るような真似をしてごめんなさい。…… 嫌いというわけではありませんよ。ただ、彼女のような人と一緒にいると、自分が本当に嫌な人間に思えて……いえ、これは私の都合ですね」

 しのぶは椿の言い草と物腰におおいに戸惑った。彼女は本来、誰に対してもこうやって当たり良く接することのできる女性なのだ。そんな女性をああいう風に振舞わせるカナエは、ある意味では特別な存在とまでいえた。

「これだけ素気無くしたのですから、そろそろ諦める頃でしょう。あなたにも、迷惑をかけてごめんなさいね」

 椿はしのぶに向かって礼儀正しく一礼をして、薬を受け取って退室した。

 しのぶは、椿に向かって、私の姉さんはこのくらいで諦めるような人ではない、と言うべきか判断に迷った挙句、口を噤んだ。

 

「今年の初雪は遅いわね」

「今年は暖かいですから、この辺りでは雪は降らないかもしれませんよ」

「残念ねえ。雪が積もったら、椿ちゃんと一緒に雪だるまを作ろうと思っていたのに」

「作りません」

 

 椿は太陽に照らされた氷山がじわじわと溶け出していくように、カナエに心を許す兆しがあった。そして一時は難攻不落のように思われた鉄壁の牙城の崩れる日が、とうとうやってきたのであった。

 

 カナエが廊下を歩いていると、椿が処置室から出てきたところにたまたま鉢合わせた。椿の顔色がひどく青ざめていたから、カナエは彼女がどこかに怪我をしたのではないかと気がかりになって声をかけた。

「大丈夫?怪我をしたの?」

「月のものです。ご心配なさらずとも結構」

 椿の口調は常にも増してどん底に冷えきっていた。

「今晩、任務でしょう?私が代わりに行きましょうか」

「任務には差し障りありません」

「でも、あなたの血は……」

 椿ははっきりと憎しみが入り混じった形相でカナエを睨みつけた。

「夏の夜の燈に蚊が寄りつく程度のことです。むしろ、いつもより簡単ですよ。鬼を探す手間が省けますから」

 カナエは言葉を失った。こんなに具合が悪そうなのに、一人で鬼を倒しに行くつもりだなんて無謀だ。

「いつもこんなことを?」

「頻繁にではありません。でも、使えるものを利用しない手はないでしょう」

 これほどの無謀で、よく今まで死なずに生きながらえたものだ。椿は弱くはないが飛び抜けて剣技に優れていたわけでもないから、ここまで生き延びたのは本当にただ運が良かっただけだ。

 カナエは決心して言った。

「私も一緒にいく」

 椿はカナエの言葉を理解するのを拒むように瞳を瞬かせた。

「友達のことだもの。放っておけないわ」

「だから、友達ではないと言って……もういいです」

 椿はこれみよがしに大きなため息をついた。

「この体質をご存知なら、なおさら私に近づかない方が良い。……あなたは私とは違う。妹がいるんでしょう。たった一人の、かけがえのない大切な家族なんでしょう。自ら己の身を危険に晒すようなことをなさらないでください」

「私たちは同じ隊士よ。何も違ったりしないわ」

「違いますよ。私が死んでも、とりわけて悲しがる人はいません」

「私が悲しいわ。それではいけない?」

 カナエは椿の手を握りしめた。椿はもう、カナエの腕を振りほどいたりはしなかった。

「私の心配をしてくれるの。椿は優しいのね」

「……あなたに比べたら、私など塵芥にも値しません」

 椿は結局、その夜、カナエが自分の任務に同行するのを許した。

 その後にどのようなやりとりが交わされたのか、しのぶは聞かされていない。

 確かなことは、その日以来、二人が極めて親密な関係を持つようになったことだけだ。信念上の問題を除けば、もとより、二人には友人になれない要素は何もなかった。椿にとって、カナエの思想は我慢ならないものだったことは間違いない。だが、カナエが柱になったときすら、椿はそれを理由に何か物言いをつけることはしなかった。二人の鬼への見解は永久に交わることはなかったけれども、それ以外の部分で相手を認め合うことで、主義主張を超えたところで互いを愛し合い、労り合うことができた。

 

 そうなると面白くないのはしのぶである。

 自分一人だけの姉が、よその人に取られてしまったなどというのは子供っぽすぎる。しかし、胸の内に芽生えた反感の理由はそうとしか言い表しようがなかった。

「昔、日比谷に音楽堂ができた時のこと、覚えている?」

「ええ。すごい人混みだったのと、それにあの軍楽隊の吹奏楽!」

「陸軍学校の生徒さんたちの演奏、本当に見事だったわねえ」

 私たちあの時どこかですれ違っていたかもしれないわよ、とはしゃいでいる二人に声をかけ辛くて、しのぶは二人が話をしている部屋の前を静かに通り過ぎた。

 姉はどんな時でも前向きで、明るいところに今も昔も変わりはないと思っていたけれども、気兼ねなく親友として付き合える相手を見出すと、やはり両親の死がその気質に影を落としていたのだと痛感させられた。姉はかつて祖母から教わって得意としていた長唄をとんとやらなくなっていたのに、しのぶは自分のことだけで精一杯で、たった一人の肉親のことなのに、そういう変化に気付いてあげる余裕もなかったのだ。

 

 実に豊かなる日の本の、橋の袂の初霞、江戸紫の曙染めや

 水上白き雪の富士、雲の袖なる花の波、目もと美し御所桜

 御殿山なす人群れの、香りに酔ひし園の蝶……

 

 椿の奏でる三味線の音に乗せて、カナエが軽やかな声で吾妻八景をうたっている。

 その光景と音色は、桜の花見に家族で川沿いを歩いた情景を、途方もない郷愁ととともにしのぶの胸の内に思い起こさせた。

 気候の穏やかな、春に近くなった日のことだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16-2.鞨鼓を打って舞い見せよ

 椿とカナエは花を摘んできて盛花を生けたり、向かい合わせに座って本を読んだりして、日々を楽しげに過ごしていた。一方、しのぶはこれまで以上に部屋に閉じこもりきりになり、研究に没頭するようになった。

 はかなきこの世にただ二人だけの肉親と思い定めた姉と妹の間に割って入るその女性が、いかほど美しき麗人であったとしても、そうやすやすと心に受け入れられるものではない。しのぶは姉を取られてしまったといういとけない嫉妬に身を焼いたが、椿に姉との交際を妨げるに値するような悪いところがひとつも見当たらない以上、どうすることもできなかった。

「ねえしのぶ、どうしたの」

 近頃誘っても中々外出しなくなった妹を見兼ねたカナエがそう尋ねてやってきた。姉のやさしい手が、妹の少しやつれた頬の線を撫でた。

「顔色が良くないわ」

「今、手強い文献にあたっていて……もう少しで読み終わりそうだから……」

 しのぶは自分の醜い心の内を詮索されたくなくて、咄嗟にそのように言った。それに、外国語の医学書を読み進めていて、睡眠時間を削っていたのは本当だったのだ。

「身体を壊しては元も子もないでしょう?しっかり休むのよ」

「うん、姉さん、わかってる、わかってる……」

 しのぶは姉の気遣わしげな眼差しを振り切って自室に戻り、分厚い辞書や研究資料が積み上がった洋机の上のわずかに開いた空間に手を突いて突っ伏した。

 どうして自分は姉に、椿と友達になれて良かったね、と素直に言ってあげられないのだろう。

 しのぶは椿のことが嫌いになれなかった。椿は素敵な女性だ。年下のしのぶにもとても謙虚で、丁寧に接してくれる。それなのに、椿と一緒にいるときの姉の生き生きとした様子を思うたび、しのぶの胸中には焦燥と嫉妬が燃え上がった。

 胡蝶カナエは私の姉だ。私だけの姉さんだ。

 ……でも、姉さんが笑ったり、喜んだり、戦うときに隣にいる相手は、私じゃなくてもいいんだ。

 二人で一緒に鬼を倒すのだと誓い合った、幼い日を思い出す。

 カナエには才能があった。鬼狩りとして将来を嘱望される姉に比べて、しのぶはどうしようもなく弱かった。ただでさえ体力や筋力で男に劣る女たちの間にあってさえ、なお弱かった。どれほど努力をしても、鬼の頸を切れない。姉と並び立てない情けなさと劣等感がしのぶを苛まない日はなかった。

 それでも、カナエにこんな弱音を漏らすことはできなかった。だって、もしも、万が一にも、心弱いことを口にして、鬼狩りなんてやめなさい、あなただけでも人並みの少女らしく生きて行きなさいと、そう言われてしまったら?とても耐えられない。そんなことを言われるのは、しのぶにとってはほとんど死を宣告されるに等しい。父と母とを失ったしのぶはもう、片時だって姉と離れていたくなかった。

 

 

 忍耐の日々はそう長く続かなかった。もともと気の長い性質ではない。

 ある休みの日に外出から帰ってきた姉が、妹が出迎えるや否や、椿と二人で明治座までお芝居を観に行ったの、と喜色を湛えて言うに及んで、しのぶの中に積もり積もった不満がとうとう爆発した。

「どうして私も連れて行ってくれなかったの?」

 カナエは、予想だにしていなかった妹の剣幕にあらまあどうしたの、ときょとんとした。

「一昨日に誘った時は興味がないから行かない、と言っていたでしょ?」

「……椿も一緒に行くなんて、聞いてなかった」

 しのぶがそう言うと、カナエは「ごめんね、みんなで一緒に行きたかったのね。姉さん気が利かなくてごめんね」と申し訳なさそうに妹を抱き寄せた。

 しのぶの勢いはいっぺんに削がれて、たちまち癇癪を炸裂させたことを後悔した。姉を謝らせたいわけでも困らせたいわけでもなかったのだから。

 だいたい、役者とか劇のお話なら、そういうことに詳しい椿と一緒に観た方が絶対に面白いのだし、姉だって、偏屈で気の短い妹といるよりもずっと楽しいはずだ。だからこれは全部しのぶのわがままで八つ当たりだ。そういう理屈を全部わかっていながら苛立ちを抑えきれない自分に腹が立った。

 姉さんは何も悪くなんかない。私が自分の感情を制御できないのが悪いの。

 そう言いたいのに、うまく言葉に出来なくて、しのぶは姉のやさしい胸に全身を預けて寄りすがることしかできなかった。

 

 

 そんな注意散漫のまま戦場に出てどうなるかは目に見えている。

 鎹鴉に導かれてやってきた峠で、鬼は山道を通る人間を無差別に喰い荒らしていた。みぞれ雪が降り散る中、しのぶは夜を徹して戦って、ようやく敵を山林の中に追い詰めた。後から援護のためにやってきた椿が戦いに加わって、二人がかりでようやく形勢がこちらに傾いたが、しのぶは、自分一人ではこの程度の敵を仕留めきることもかなわないのかと歯痒い気持ちを抑えられなかった。

「しのぶ、熱くならないで!」

 前に前にと突出しがちなしのぶを椿が諫めた。だが、普段なら正論として受け入れられるその言葉も、今はしのぶの神経を逆撫でするだけだった。

「行けるわ!放っておいてよ!」

 敵が椿に向かって大きく腕を振り上げたのを好機とみて背後に回る。致死量の毒を仕込んだ刃の切っ先を、鬼の頸に突き立てようとするが、敵が反応するほうが早かった。まずい、避けられる、と思ったが、すでに引くには遅過ぎた。

 しのぶの穿刺は頸を逸れて、鬼の肩口に突き当たった。しかし、刃が皮膚を貫通することはなかった。単純なことだ。鬼の剛皮を通すのに、しのぶの突く力が弱すぎたのだ。しのぶの攻撃の速度と威力は、数時間かけて戦ううちに体力の消耗とともに減衰していた。

 しのぶの攻撃は弾かれ、細い日輪刀の鋒が音を立てて毀れた。

 あ、と思ったときには、もう遅かった。鬼の鉤爪がしのぶを捉える。反応できない。死が迫る。

 

 水の呼吸・捌ノ型、滝壺

 

 上段から真下に向かって落ちた一閃が、しのぶに向かって伸びた異形の片腕を切断した。その隙にしのぶは後退して鬼の射程から逃れたが、椿は無理な体勢から技を繰り出したために、振り向き様に鬼が放った一撃を避けきることができなかった。

「椿!」

「平気よ。あなたは一旦退きなさい」

 椿の左の前腕は隊服越しにぱっくりと裂け、そこから血の滴が滴っていた。椿は冷静に、しのぶに撤退するよう指示を下した。武器を失ったしのぶは鬼にとって格好の餌にしかならない。

 鬼はにたにたと笑いながら椿を指さした。切り落とした腕先はすでに再生を始めて蠢いている。

「甘い、芳しい血が香るぞ。お嬢さん、こっちにおいで、話をしようじゃあないか」

 より栄養価の高い肉を求める本能で、鬼は組しやすそうなしのぶを差し置いて、椿を狙うことに決めた。椿は黙したまま、水の呼吸の壱の型を放つことで返答とした。

「つれない娘子だ」

 鬼は攻撃を避けながら、さらに下卑を重ねようと口を開いた。

「しかしようも今まで生きてこれたな。月毎に穢血を垂れ流す女の身で――」

 そこから先が言葉になることはついぞなかった。鬼は椿の突きの速さについていけず、青い刀身が、鬼の口腔から後頭部を貫通していた。ただでさえ飛び出た眼球が見開かれ、刀の突っ込まれた口の隙間から、くぐもったうめき声と血泡が漏れる。

「お前の戯言になぜ私が付き合わねばならない」

 椿は冷たい怒りを発散しながら、口腔に押し込んだ日輪刀を、まっすぐ真横に引いた。鬼の口が裂けて血が吹き出る。このような形で鬼の肉体を切り裂くのは、相当の腕力があってこそで、しのぶには絶対にできない真似だった。だが、攻撃としては愚策である。鬼の息の根を確実に止めるためには、頭と胴を繋ぐ頸を断ち切らねばならないからだ。

 椿は頸に切り掛かったが、刃が通らず跳ね返されたのを見て次の手に移った。

「お前は頸が特別に硬いらしい。しかし、多少()()()をすれば刃も通りやすくなるでしょう」

 椿は鬼の能力の低下を狙って、淡々と敵の四肢を削ぎ、目玉をくり抜き、はらわたを抉り出して潰した。やられる方も木偶ではないから、何とか抵抗しようと悪あがきを試みるのだが、椿の手数の多さにまったく対抗できなかった。

 雪と泥の混じった地面に血飛沫が飛び、あたり一面が真っ赤に染まる。

 鬼はしきりに苦痛を訴え、さきほどまでの威勢を振り捨てて「許してくれ、許してくれ」と弱々しく哀願した。

「申し開きがあるなら、これより向かう地獄の獄卒にでも訴えるが良い」

 椿は冷たく言い捨てて、とうとう脆くなった頸をはねて殺した。

 しのぶは鬼を可哀想だとは思わなかった。人を殺した当然の報いだと思った。

 

 まもなく夜明けを迎えた。空を覆った雲の隙間から一差し覗いた太陽の光に照らされて、椿の顔面といわず全身に飛んだ血と肉片が蒸発していく。

「手当てを……」

「しない」

 椿は泥濘の地面を踏みしめて、峠を下るべく足を動かした。怒りが滲んだ足取りに、申し訳なさだけが募った。しのぶは自身の至らなさで、己ばかりか仲間の命まで危険に晒したのだった。

「椿、本当にごめんなさい」

「謝って欲しくない。いつものあなたなら、あんな軽率は犯さなかったでしょうし、私が来る前に倒せていたはずよ。何に気を取られていたのかは知らないけれど、こんな馬鹿げたことで自分の命を危険に晒さないで」

 言い返すことなどあるはずもない。椿の言い草が、自分を過大なまでに買ってくれていることがわかる分だけ、余計に辛く感じられた。しのぶは弁明するのは止して、今自分が言わなければならないことを言った。

「不清潔だから、せめて傷口を見せて。化膿しては大変だから」

 椿はそれで折れた。しのぶは傷口を消毒して包帯を巻いた。それほど深い裂傷ではなかったのが幸いだった。

「ありがとう」

 手当てが終わると、椿は仄かに微笑んで礼を言った。

「ううん。私のせいで……」

「いいのよ。少し熱くなりすぎたわね。気をつけましょう、お互いに」

 椿はそれ以上は咎め立てすることなく、しのぶの肩を軽く抱いた。襟元から淡く匂う清廉な花の香が鼻腔を擽った。

「しのぶが怪我をしなくてよかった。あなたに何かあったら、カナエに一生恨まれてしまうもの」

「姉さんはそんな風には思わないわ」

「何をいっているの。あなたはお姉さまの生き甲斐なのだから、もう少し自覚なさい」

 椿の言うことは大袈裟だとしのぶは思った。

「やめてよ。姉さんは私がいなくたってちゃんとやれる。……椿が姉さんの姉妹のほうがよかった。私なんか、鬼の頸も切れない役立たずだし」

 それを聞くと、椿は口元を押さえて笑い出した。

「そ……そんなこと、本気で考えているの?」

「何がおかしいの」

 真剣な悩みを茶化されて、しのぶがむっとして言った。

「だって役立たずなんて言うけれど、私、しのぶには助けてもらってばかりよ」

「私が?」

「ええ。先生方が私に処方してくださるお薬はほとんどしのぶが作ったのだとおっしゃっていたもの。それに、鬼を殺せる藤の花の毒はしのぶが完成させたのだって、カナエに教えてもらったわ」

「それは……私だけの力じゃない」

「あら、ご謙遜ね」

 謙遜ではない。事実だ。鬼殺隊はその千年にわたる戦いの中で、鬼という生物への見識を積み重ねてきた。その情報と研究の蓄積がなければ、いかにしのぶが薬学において早熟にして希代の才女だったとしても、鬼を死へ至らせるほどの強力な毒が完成の日の目を見ることはなかっただろう。しのぶは、綿々と受け継がれてきた先人の業績の最後のピースを埋めたに過ぎないのである。

 それでも、椿の率直な称賛は、しのぶの弱った心を強く打った。

「私が力足らずで倒せない鬼も、あなたの毒なら倒すことができる。あなたがそれを誇らなくても、私はしのぶを優れた、強い鬼狩りだと思うわ」

 こちらをまっすぐに見据える曇りなき眼差しに、このとき初めて、しのぶは自分の中にあった、椿に対して反撥しきれない理由、漠然とした好意の理由に気づくことができた。

 椿はしのぶを哀れまない。

 屋敷の医師や年長の隊士たちはしのぶに親切だったけれども、ことさらに向けられる恩情はむしろ「ここは本来あなたがいるべき場所ではないのだ」と釘を刺しているかのようだった。まだ、か弱い女の身で、鬼の頸を落とす才能にも恵まれないのに、なぜ鬼殺隊にしがみつくのかと面前で謗りを受けるほうがましだっただろう。自分には戦う手段があるのだと、見下された仕返しをするために奮い立つことができたろうから。

 それだけならまだいい。姉の視線にほんの時折入り混じる、悲しい痛ましさほどしのぶを打ちのめすものはなかったのだから。まるでしのぶが鬼殺隊にいることそのものが耐えがたいような――それがあくまで妹のことを愛おしく大切に想うゆえのものであるとは理解しつつも、どこか我慢ならなかったのも事実だ。

 しのぶは、自分のような非力でも立派に戦えるのだと証明したかった。鬼狩りはヒトの肉体的な脆さを補うべく日輪刀を拵え、呼吸で戦う術を生み出した。しのぶの藤の花の毒もそれとなんら変わるところはない。

 それでも、どうあがいても、周囲の人の目に浮かぶ哀れみを消しきることがかなわない。そのことに疲れていた。

 だが今、この人は、しのぶを一人前の剣士として扱った。非力ゆえに毒に頼る哀れましい存在としてではなく、ともに戦う、対等な同士として認めてくれた。それはしのぶの擦り切れた心を貫いて、福音のように響いた。

「もしかして、カナエと喧嘩でもしたの」

 椿がしのぶの様子を見てとって言った。しのぶは決まりの悪さに思わず俯いた。

「喧嘩じゃない。私が一方的に当たり散らしただけだから」

「カナエは気にしないわ。それはあなたが一番良く知っているのではなくて?」

「でも」

 椿の口元には優しさが滲んでいた。

「カナエはね、いつも面白いくらいしのぶの話ばかりするのよ。こんなに優しくて賢い、頑張り屋さんな女の子はいないって」

「そうなの?」

「嘘なんかつかないわ。しのぶは頑張りすぎるところがあるから心配だって。息抜きに劇に誘ったのだけれど、断られてしまったって、落ち込んでいたわよ。だから、そんなに難しく考える必要はないわ。ほら、落ち込まないで。カナエはあなたの笑顔が一番好きだと言っていたもの」

 椿はしのぶのほつれた髪を一房手にとって撫で梳いた。

「こんなに可愛い妹がいるなんて、カナエが羨ましい」

 心の底からの羨慕の念がしのぶの胸を衝いた。椿には家族がいない。そんな女性と張り合って、的外れに恨みがましく思った自分は、なんと己のことしか考えられない、思いやりのない人間だろうか。しのぶは自分が恥ずかしくてたまらなくなった。

 まもなく山の麓に着いた。ここから本拠まではそう遠くない。休息に藤の家を使うまでもないだろう。空模様は変わりやすくて、晴れたり曇ったりを繰り返して、今は冷たい小雨が降りさしていた。

「帰ったら、お湯に浸かってちゃんと温まるのよ」

 椿はしのぶに背を向けた。このまま行かせてはいけないと思って、咄嗟に椿の怪我をしていない方の腕を掴んで引き留めた。

「その、都合が悪くなければ、これからお屋敷に来ない?傷口の経過を見たいし、ご飯もお風呂も用意できるし……それに、姉さんが作ってくれた柚餅子がまだ残っているの……一緒にどう?」

 なぜかひどくどぎまぎして早口になった。しのぶの方から椿に積極的になるのは初めてだった。隠せないほど頬が紅潮しているのが自分でもわかった。

 椿は本当に嬉しそうに、「いいの?」と言って笑った。冬の雨に濡れた南天の実が、朝の太陽の光を受けて輝いていた。

 

 

 こうして思い返せば、完全に愚かな独り合点で勝手な徒労を背負い込んでいたわけだが、あの頃はそれほど余裕がなかったのだ。姉を取られてしまうのではないかという焦燥も、もとを正せばしのぶ自身の、自己評価の低さに原因があった。姉にも言えず胸の内にわだかまり魂を硬く縛っていた劣等感を、椿は思いがけずもすっと解きほぐして、しのぶの目を開かせた。しのぶはカナエと互いの手を強固につなぎ合わせることに必死になるあまり、視野狭窄に陥って、この世界の色々なことを見おとしていたのだ。

 しのぶがカナエに内心を吐露すると、姉は「私が椿のことを好きになったら、しのぶを好きな気持ちも半分になると思ったの?」といたずらに笑った。改めて言葉にされるとあまりに子供っぽい。カナエはしのぶの両手を握って言った。

「誰かを好きな気持ちは、好きな人が増えたからって減ったりしないわ。そのぶん、愛する気持ちが大きくなっていくの」

 しのぶの眼差しは外の世界に向けられた。まだ壊されていない、誰かの幸福を守りたいという最初の願いに立ち返った。もはやカナエが、身寄りを失って看護婦として働くために屋敷にやってきた少女に、姉妹のお揃いの蝶の髪飾りを作って渡したからといって、厭わしく思うことなどあろうはずがなかった。しのぶはカナエとともに、少女たちを家族同然に愛しみ、時に自らよるべない子を連れて帰ってくることもあった。彼女たちのことはみんな、本当の妹のように可愛かった。かつてカナエが椿とささいに笑い合っているのにすら嫉妬していたことを思えば、瞠目すべき変化だった。

 相変わらずしのぶの背丈は小さいままで、激しやすい勝気な性格にも変わることがなく、この世から人の死の悲しみが消えることはなかったが、賑やかになった蝶屋敷はしのぶの幸福の住処だった。

 しのぶは戦いの場に身を置く限り、絶えず己の弱さに打ちのめされなければならないが、守るべき家族が増えたことで強くなれたし、姉と支え合い、もし姉にすら打ち明けられないことがあれば、その時は椿がしのぶの苦悩に寄り添ってくれた。

 こうした結果に至ったのは、椿が意図してもたらしたものではなくて、あくまでその行動の偶然の産物ではあったけれども、しのぶの中で彼女への感謝の念が尽きることはなかった。

 




ヒロインがしのぶに最初からタメ口だったのは、カナエからしのぶの話を嫌というほど聞かされていてすでに他人とは思えなかった+年下だからです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章
17.彼岸之後


 玄弥は十にも届かぬ齢のうちに家族をすべて失った。生まれ育った喧々たる市街を離れ、山間の清閑な集落に住む伯父夫婦に引き取られて、そこで暮らすことになった。伯父は兵隊から戻って以来片腕が上がらないが、働き者の善人で、妻とともに小さな田と畑を耕して暮らしている。夫婦に子はなかった。二人の間に生まれた子はみんな虚弱で、三の年を数えないうちに病で命を落としてしまったからだ。

 世間の者の目には、先住の子のいない家にやってきた少年は幸いな身と映った。我が子のない伯父夫婦は、自然と甥を実子同然に遇したからである。

 暮らしぶりは慎ましかったが、毎日三食、お腹いっぱいになるまで食べることができたし、生まれて初めて学校に通わせてもらい、冬になればたくさん綿の入った半纏を仕立ててもらった。村人も、異郷からやってきた不幸な身の上の少年には何かにつけ気を配ってくれて、夏になると畑でとれた西瓜をどっさりと差し入れてくれた。

 しかし、どれほど善良な人々に囲まれて優しくされても、自分の居場所はここではない、という孤独と疎外感を拭い去ることはできなかった。

 玄弥には家族みんなで暮らした、長屋での貧しい日々が恋しくてたまらなかった。父に殴られようと、一日の糧を一杯の粥でやり過ごそうと、隙間風の寒さに震えようと、母と兄弟たちとさえ一緒にいられたなら、そんなことは大した問題ではなかった。

 通わせてもらった学校にはすぐに行かなくなった。働いて身体を動かしているほうが性分に合っていて好きだったというのもあるし、後ろ暗いものを背負わぬ同い年の子供たちの屈託のなさに耐えきれなかったのもある。

 夫婦は玄弥が勝手をしても責めなかった。二人はいつも、一夜のうちに親兄弟をすべて喪ってしまった甥を憐れんでいたから、大抵のことは彼の好きなようにさせていた。それに、玄弥に仕事を手伝ってもらうのは肉体の頑丈でない夫婦にとってありがたいことだった。玄弥は年の割に力が強く、体力があり、厳しい労働によく耐えた。米搗き麦搗きも、山に分け入って薪を取ってくるのも、重い俵を担いで家と倉を往復するのも難なくやってのけた。

 

 ここに来ては幾度、親と子が、あるいは兄と弟が、農務を終えてともに帰路につく後ろ姿を眺めやって羨んだことだろうか。

 

 そういう時には、必ず、この世に唯一残された肉親のことが思い出された。兄に会いたかった。例えよその人の家に育つことになっても、たった一人の血を分けた兄が一緒にいたなら、何も悲しいことなどなかっただろう。

 玄弥は苦しみの海でもがいていたが、これが自業自得の苦しみであるとも理解していた。家族を失った悲しい夜に、兄にひどいことを言ってしまったのは玄弥のほうだった。玄弥は兄に見捨てられたのでなくて、自ら突き放してしまったのであった。後悔しない日はなかった。

 兄の消息は杳として知れない。

 元気でいるだろうか、生きているだろうか?いや、絶対にどこかで生きているはずだ。万が一にも死んだなどとは想像したくなかった……

 

「玄弥か。どうしたのだ、こんな時間に」

 日暮れ時に、勝手知ったる寺院の石階段に腰掛けて悄然としていると、法衣を纏った老僧にそう声をかけられた。彼はこの山麓のただ一つの寺院の住職であった。

 玄弥はこの村にやってきて以来、毎朝のお寺参りを欠かしたことはない。風雨の打ち付ける日も、霜の降りる寒い日もである。玄弥は決して信心深い性質ではなかったが、兄の無事と、母と弟妹たちの死後の健やかを祈る気持ちはそれほど強かった。僧は玄弥をたいそう気に入って、うちのお寺においでと再三誘ってくれたが、今のところ、甥を出家させるつもりのない伯父夫婦はこの申し出を保留にしていた。

「ここにはいつ来ても良いが、夜はだめだ。いいかい、決して日が落ちてから外を出歩いてはいけないよ。鬼がでるからね」

「鬼?」

 玄弥が怪訝に聞き返すと、僧は重苦しく頷いた。

「人の血肉を喰らう怪物だ。鬼は夜になると出歩き始める。けれども、日の光を浴びると焼け消えてしまうから、日中のうちは安全だ」

 僧の言葉とともに、玄弥の脳裏に、太陽の光に照らされて塵と朽ちてゆく母親の最期がまざまざ思い出された。

「この山麓の家々は、どこも藤の花の香を焚いて夜を過ごすだろう。あれも鬼が家の中に入ってこないように……どうしたんだね、顔色が良くない」

 玄弥はからからに渇いた喉の奥から掠れた声を出した。

「なあ、お住持さん、俺がこれから言うこと、笑ったりしないできいてくれるって約束してくれるか」

「もちろんだとも」

 そして玄弥は、これまで誰にも打ち明けたことのない、自分の家族の上に起こった、悪夢のような出来事のあらましを打ち明けた。

「……そうかい。お前の母さんは鬼になってしまったんだね」

 玄弥の話を聞き終えると、僧は念仏を唱えながら手のひらで数珠を擦り合わせた。

「鬼は鬼としてこの世に生まれ出るわけではない。元は人間なのだよ。しかし、虫一匹殺さぬ行いの正しい人であっても、ひとたび鬼の血を浴びてしまえば性根は歪み腐り果てて人の血肉を求める怪物に成り下がってしまう。……けれども、良いかい、決して母さんを恨んだりしてはいけないよ。誰も鬼になりたくてなるわけではないんだからね。業縁に招かれた行いの報いを、その人個人の責めに帰しては、物事の正しいあり方を見失うことになる」

 玄弥にはもとより母を恨む気持ちなどなかったから、僧の言葉に素直に頷いた。

「……でも、そんなのが夜にうろつき回ってたら、誰も安心して暮らしていけねえじゃん」

「みんなが安泰に生きていけるよう、鬼は鬼狩り様が成敗してくれると昔から決まっているんだよ」

 玄弥はもっとたくさん話が聞きたかったが、僧はそれ以上は何も話したがらず、もう日が暮れるからと急いて家に戻るよう促した。

 僧によってつまびらかにされた真相は衝撃だったが、そうか、と附に落ちる思いでもあった。優しく微笑む母親の姿とその最期を思うと涙にくれずにはいられなかったが、一切衆生悉有仏性という考えが玄弥の心をわずかなりとも慰めた。そして、鬼などという、そんなけしからぬ怪物がこの世に野放しになっていて良いわけがない、とも思った。

 その日、玄弥は兄の夢を見た。血まみれの兄が夜路をさすらっている夢だった。玄弥は去りゆく後ろ姿に向かって名を呼びかけたが、兄がこちらを振り向く前に目が覚めてしまった。

 

 数日後、西からやってきた旅人が、寺に一宿一飯を求めて立ち寄った。たまたま来訪に居合わせた玄弥が洗足の盥を持って戸口までやっていくと、僧と旅人は軽い言い合いをしていた。

「お前さん、何もわざわざ難所の峠を越えてこなんでもよかったろうに」

 二人は知己らしく、砕けた調子でやりとりをしている。

「いやあ、いくら険しいと言ったって足腰さえしゃんとしてりゃあ難ないと思ってたがね、まさかあんな化物に襲われるとは……」

「思慮の浅いことだ。まったく鬼狩り様が居合わせねばどうなっていたことやら」

 旅人の男は峠で鬼に襲われたという。いまだ興奮がおさまらぬようで、鋭い鉤爪があわや喉元まで迫りきたとき、鬼狩りが現れて命を救われた一部始終を、さかんに身振り手振りを交えて語ってくれた。

「なあ、鬼狩り様ってどんな人だったんだ?」

 玄弥の素朴な問いに、男は記憶を辿って答えた。

「背の高い、白い髪の若い男だったな。顔にどでかい傷をこさえてあってよ、どっちが鬼だかわかりゃあしねえ、おっかねえ面してやがった」

「これ、命を救われておいてなんという言い草か」

 老僧がそう言ってたしなめた。玄弥の耳に、白い髪、顔に傷のある若い男、という言葉が反響した。

「なあ、その人の名前は聞いたか?どこに行ったか分かるか?」

「知らねえな。すぐにどっか行っちまって、礼も言えなかったしよ」

 男は胸ぐらに掴みかかる勢いで前のめりに聞き込む玄弥をまじまじと見つめた。

「そういや、あの男の傷、お前の顔の傷によく似てた……気がしないでもないな」

 様々な考えが頭の中をぐるぐる回り、すべてが繋がった。

 兄だ。きっと兄だ。鬼を殺す。己の身を危険に晒しさえして、誰かの命を守る。兄のやりそうなことではないか。

 もはやいてもたってもいることができなかった。鬼というものの実在を知った今、玄弥には暖かい寝床にもぐりこんで安穏と夜をやり過ごすことなど選べなかった。

 その晩、玄弥は夫婦が寝静まったのを見計らって、良心の呵責とともにくすねた紙幣小銭と身の回りのわずかな小間物を雑嚢に詰めこみ、薪割りに使う鉈をとって腰にぶらさげた。

 物音を立てないよう注意を払って家を抜け出し、村を出る街道までやってくる。ここまでくれば、誰にも出会すことはないだろう、という拙い予想は外れた。道標のそばには、明かりを携えた老僧が立っていたのであった。彼の墨染めの衣からは、藤の花の香がかすかに漂っていた。

 老僧は少年が出立する様子を見ても、何事かと問うこともせず、ただじっとこちらを見つめるばかりだった。玄弥が止めないでくれ、と言おうとするより先に僧が口を開いた。

「鬼狩りは鬼殺隊という組織に属している。黒い隊服を纏っているから、見ればそれとわかるはずだ。悲鳴嶼行冥という男を頼りなさい。盲目の、巨躯の僧侶だ。私の知り合いといえば、悪いようにはしないはずだ」

 いわくいいがたいその表情から、僧が何を考えていたのかを推し量るには、玄弥は幼すぎた。玄弥はもの言わず、軽く礼をして僧のそばを通り過ぎた。彼は玄弥の姿が見えなくなるまで、そこに立ち尽くしていた。

 向かうは青梅街道を西にさらに西、大菩薩峠である。月のない夜、眼前には果てしない闇が広がっていた。玄弥は竦み上がりそうな如法暗夜にも構わず、ただひらすらに走り進んだ。

 

 このような次第で、玄弥は村を出奔したわけだが、そこからの道行きは波乱に満ちていた。だいたい、そうあっさりと目的に辿り着けるようであれば、世の中にこれほど苦労ごとは溢れていない。山に入っては熊に襲われるわ、人里に寄れば人売りにかどわかされかけるわ、挙句寝ている間に持ち物を掏られて一文無しになるわで、これまでの自分がどれほど周囲に守られていたのかを嫌というほど痛感させられる始末であった。

 這々の体でようやく鬼狩りを見つけてみれば、「隊員でもない奴が悲鳴嶼さんに会えるわけないだろ。俺だって遠くから見たことあるだけなのに」とすげなくされる。

「じゃあどうやったら会えるんだよ」

「柱はおんなじ柱にでもならなきゃおいそれ会えたりしねえよ」

 鬼殺隊の平隊士は玄弥を鼻で軽くあしらったが、育手のもとに連れていくという先達としての最低限の義務を果たした。ひもじくして親兄弟も風雨を凌ぐ軒も持たぬ子供が、よりよい暮らしを求めて鬼殺隊に入ろうとするのは決して稀なことではなかったから、彼は当然、玄弥もその手合いだと思ったのだ。

 ところが、これが長続きしなかった。ものの一月も経たないうちに、育手から破門を言い渡されたのだ。

「才能がないって言ってんだよ。どっかで達者で暮らせ、悪いこた言わねえから」

 意味がわからなかった。玄弥は腕っ節が強い方で、その辺の町道場の小倅などとやりあっても、決して引けをとるとは思っていない。だが、育手は聞く耳をもたずぴしゃりと門戸を閉めた。

 このままおめおめと村に帰れるはずもなかった。そもそも玄弥には、もう二度とあの村に帰るつもりがない。あそこは玄弥の帰る場所ではない。

 

 暗い渓谷に吹き込む風の音がごうんごうんと反響している。

 

 青ざめた空に響き渡る、鴉の変わりばえしない野太い鳴き声さえ人を馬鹿にしているように感じられて腹立たしい。感情に任せて狙いすまして礫を投げつけてみるものの、当然のように躱されて石は虚しくぱらぱらと草むらに落ちた。

 惨めだった。何もかもが理不尽だという思いが込み上げてやるせなかった。

 こうなれば自力で鬼を狩るより、兄に辿りつく道はない。だが、鬼狩りにならずに鬼を殺すことは難しい。鬼は、太陽の光に炙られるか、鬼狩りの持つ特別な刀で頸を落とさなければ死に至ることはないということを、玄弥は育手のもとで学んでいた。

 石の落ちた茂みの中から、かさかさと物音がした。見れば狸の親子がひゅっと飛び出て走っていく。獣だって家族で暮らすのに。熊の子だって、母熊に教えられて狩りのやり方を覚えるのに。

 玄弥だって昔はそうだった。

 母は子守奉公をしていた際に文字を覚えてきて、それを長子である実弥に教えた。兄はそれを地面に書いて玄弥に教え、玄弥はさらに下の弟たちに教えた。それで一家は文盲の蒙昧から逃れた。兄は母の内職を見真似て、草鞋を編み、竹を割って団扇の骨を作ることを覚えたが、これも長じては下の子たちの仕事となった。年端行かない弟妹の面倒を見るのはもっぱら玄弥の役割で、その間、母と兄は外に働きにいくことができた。兄は荷車引きの仕事を受け負っていて、これは力が要る過酷な仕事だったが、時折、親切心の厚い親方から余分に駄賃をもらってきて、その金で弟たちに菓子を買って与えてくれた。玄弥が近所に住んでいる年上の悪童に囲まれて小突きまわされた時に助けてくれたのも兄だった。だから、玄弥も下の弟や妹たちが誰かからいじめられとき、同じようにして守った。自分より下の弱いものを守るという姿勢を、玄弥は兄から学んだのだった。

 反面、父親からは何も学ぶことがなかった。酒と博打で身持ちを崩しては、頻繁に家の金に手をつけていた男を父として尊敬することはできなかった。父がたった一度だけ、一家の長らしい姿を家族の前に見せたのは、高利貸しが徒党を組んで長屋の戸口を突き破って侵入してきたとき、むやみに拳を振り回して襲ってきた連中を追い払ったことだけだ。しかし、そもそも高利貸しに借金をこさえて返さなかったのは当の父親本人であったから、自ら撒いた火の粉を払っているに過ぎなくて、なんの心象の挽回にもならなかった……

 くたくただった。腹が減っていた。玄弥は近くに見つけた、荒れ寺の一部らしい小さな堂を寝床に借りようと、広縁まで上がっていこうとした。

 すると、暗がりで何かを蹴飛ばした。

「……え?」

 玄弥は足に感じた嫌な感触の正体を確認しようと、蹴飛ばされて転がっていった物体の方に顔を向けた。

 頭が一瞬、現実を理解することを拒んだ。それは人体の頭部であった。

 そして、玄弥はようやく、目の前で起こっていることを正しく認識した。血の海の真ん中で、損壊した男の骸を怠惰な様子で貪る怪物がいる。

 鬼だ。なぜ今の今まで気づかなかったのだ。

 立ち竦んでいる場合ではなかった。玄弥は気力を振り絞って鉈を振りかぶったが、鬼はうっとおしい蠅を払うように腕をひとなぎして、簡単にこちらの攻撃をいなしてしまった。衝撃で取り落とした鉈を拾おうと下に視線をやると、死んだ男の手にピストルが握られていることに気付く。咄嗟に男の腕に飛びかかり、硬直した手から強引にそれをもぎ取る。弾倉には弾丸が五発。近距離から狙いを定めて放った弾丸は、すべて鬼の頸に命中した。

「はは、お前、腕がいいな。持ち主の方は、明後日の方に一発撃つのがせいぜいだった……しかし、こんな飛び道具じゃ俺は殺せねえよ」

 鬼の体当たりを受けてひとたまりもなく地面に倒された。飛びかかってくる鬼から身を守ろうと突き出した腕は抉られて、上腕の肉はごっそりとこそげて白い骨が露出した。痛みと恐怖で、玄弥の全身から、どっと汗が噴き出た。

「食いどころが少ない上に肉の不味いガキだな。まあ腹の足しにはなるか……」

 無茶苦茶に値踏みされて、かっと頭に血にのぼる。好き勝手を言いやがってと、玄弥の内に怒りとともに、強烈な、原始的な生への渇望が沸き起こった。

 死にたくない。生きていたい。

 しかし、玄弥の手元に、起死回生の手が残されていないのは明らかである。鬼もこれ以上の抵抗はできないと思い込んで、悠々と捕食を続行する構えだった。だから、完全に油断し切って、今も身を食われつつある獲物の目が死んでいないことに気づいていない。

 玄弥はこの絶体絶命の危機を、自分の力だけで乗り切らなくてはならない。ここには兄はいない。誰かが助けに来てくれたりはしない。

 甘ったれた考えを捨てろ、と自分を叱咤する。

 自分だって戦える。兄が玄弥を守ってそうしたように。

 やるしかない。玄弥は歯を食いしばり、間近に露出した鬼の頸に、最後の武器である()()を突き立てた。

 

 

 春のたけなわを間近に控えた山々の沢には雪解けた水が流れ、鳥のさえずりが一段賑やかに響いている。訪れた堂のそばには、枝垂れ桜が枝をさかんに伸ばして狂い咲く。風に散らされた花びらが、亡骸を埋葬したばかりの湿った土の上に降り注いでいた。

 悲鳴嶼はそこで、死者のために弔いの経を上げていた。椿は終わるのを待って声をかけた。

「岩柱さま、こちらの後処理はつつがなく済みました」

 このたび椿の鉢合わせた鬼は、人を二、三ばかりしか喰っていなかった。瞬く間に頸を落とせる雑魚だが、そうはしない。生きたまま捕らえる。捕らえた鬼は特別の鉄檻に放り込んでおく。隠が数人がかりで檻を運ぶのに下級の隊士が一人随行して、日の高いうちに藤襲山に入り、鍵を解いた檻を山の中に置く。夜になると、鬼は勝手に抜けだして、空になった檻が残る。そして翌朝には、再び山に入って檻を回収する。これが一連の流れである。

 椿はこのやり方に疑問を抱いたことはない。鬼はみな救われ難き下品下生の畜生、等しく藤の花の牢獄で悶え苦しみ死に果てれば良い。

 椿は一般の隊士として最上位の階級に上り詰めた時、特別に志願して藤襲山に入り、真菰を殺した鬼を見つけ出して斬り殺していた。あれだけは放って置くことができなかった。かつて歯の立たなかった敵を易々打ち果たせるようになったのは椿の進歩を証したが、十三の年から永久に成長するのを止めてしまった優しい少女のことばかり思い返されて、喜びどころか、悲しみの情がより一層切実に勝った。

「この数日、辺り一帯をくまなく浚いましたが、鬼の数は減じるばかりです。やはり鬼舞辻無惨は、こちらを警戒して鳴りを潜めたか、あるいはすでにこの地を離れたものかと」

 悲鳴嶼は重々しく頷いた。

「ご苦労だった。私は持ち場に戻る」

「わざわざ足を運んでいただいたのに、手がかりを得られずに残念でございました」

 近頃、奥多摩で鬼が増殖しているという情報があった。鬼は始祖の血を注がれることで殖える。若い鬼が多いと言うことは、元凶が近辺を彷徨いている可能性が高いと言うことだ。だから悲鳴嶼がこの地に呼ばれた。

 在命の隊士で、鬼舞辻無惨と遭遇したものはいない。過去の鬼狩りの交戦記録も、断片的にしか残されていない。かといって鬼から無惨の情報を得ることもできない。始祖について何かを言わせようとしただけで細胞が自壊を始めるのである。人知を超越した生命体――手当たり次第に眷属を増やしてその存在の痕跡をあちこちに刻んで回っているわりに、自己顕示欲が薄いというか、己の情報を知らしめないことにかけては徹底していた。これは慎重さの発露だろうか、それとも臆病と評するべきだろうか?

「それともう一つ。小萩が川沿いに逃げた鬼を追ったまま帰ってきません」

 日はすでに高い。危険はないだろうが、念のため迎えに行こうということで、二人はともに曲がりくねった岨道を降りていった。椿は悲鳴嶼を横目に伺った。何せ大男で、並の子供と大人くらいの背の丈の差があるものだから、目線を上に合わせるのも一苦労だった。

「なにか聞きたいことでもあるのか」

 悲鳴嶼がそう言ったので、椿は思い切って疑問をぶつけることにした。

「兼ねてより不思議だったのですが、如何様にして物の相貌を把握なさっているのですか?私はどんな時にも岩柱さまが距離感を見誤るのを見た覚えがありません」

 椿は、悲鳴嶼にぼこぼこにされて帰ってきた不死川に湿布を貼ってやりながら「後ろに目ぇついてんのかあの人」「岩柱さまは物心ついてより盲人だそうよ」「俺ァ完全に気配殺して後ろから切りかかったんだぜ」「そう、そのお返しがこの真っ青な痣というわけね」「言うな」「言っても言わなくてもあなたが返り討ちにされた事実は変わらないわよ」「……」「それよりも、岩柱さまはどうやってあなたの攻撃を察知したのかしら……」という会話を交わして以来、そのことが気にかかって聞いてみたくて仕方なかったのである。

「言葉で表現するのは難しいのだが……単純に気配を探っていると言うのでは、君の疑問を解消するのに十分ではないだろうな」

「我々ですとて、生き物の気配や、誰かに見られているときの視線は感じとれますが、岩柱さまのそれはいささか理を超越しているように見受けられます。それとも、盲人の方とは、みなさまそのようになさっていらっしゃるのでしょうか」

「無論、目が見えない分、それ以外の感覚が鋭くなるということはあり得るだろうが……しかし、なぜにわかにそのようなことを?」

「岩柱さまを参考にすれば、仮に戦いの場で視覚を使えなくなっても継戦に耐えるだろうと、夫と話していたのです」

「君たちは家でもそんな話ばかりしているのか」

 悲鳴嶼の口調は若干呆れ混じりだった。

「そんな話ばかりというわけでは……そう、彼、先日任地からお手紙をくださったのです。けれど、怪我はしていないかとか、ちゃんと食事しているかとか、自分のことをちっとも書いてくださらないのが彼らしいというか……それに、お手紙に咲いたばかりの菜の花を添えてくださっていたの、花の名前を一つも覚えられないあの人が私にと選んでくれたものだと思うと、とても嬉しくて……」

 引きも切らずに喋り続ける椿を悲鳴嶼は邪険にしたりせず、むしろ微笑ましげに見守ってくれた。

 悲鳴嶼は心のやさしい男である。そして元来、殺生を忌み嫌う人である。蟻が地面を這って進んでいるのを、うっかり潰してしまわないように注意深く足を踏みしめるし、羽虫が食膳に紛れていたときでさえ、おおかわいそうにと小指にすくい上げて外に逃してしまう男だ。ことほど左様に性根が戦いに向いていない人間が、誰よりも鬼を殺す才能に恵まれているというのは、この世の皮肉としか言いようがなかった。

 そうこう話している内に川辺に出た。視界が開けたあたり一面に、春の喜びを湛えたとりどりの草花が咲き溢れているのが見るものの目を楽しませてくれた。悲鳴嶼も、視覚以外の感覚、匂いや、草葉の擦れる音や、あるいは先ほどに出た気配とやらで生命の息吹を感じ取って、心を和ませていた。

「?……騒がしいな」

 悲鳴嶼の疑問はすぐに解けた。少し行った先に、二人が探していた少女を発見したのだ。しかし、どういった理由でか、たいそうな剣幕で見知らぬ少年の腕を捻り上げている。少年のほうも負けじとじたばたして、なんとか拘束から抜け出そうともがいていた。春山の余韻は一気に霧散した。

「くそッ!離せよババア!」

「あんたさっきからババアババアってなによ!私はまだ十六歳よ!?」

「俺より年上じゃねーか!ババアだ!」

「こッのクソガキ!殺す!」

 悲鳴嶼は見るからに「あんな我欲まみれの醜い子供たちと関わりたくない……」という佇まいで一歩引いていた。選択の余地はなかった。椿は仲裁に入った。

「二人とも、落ち着きなさい」

 二人は引き離されても、しばし蛇と蛙のように睨み合っていた。椿は構わずに、小萩に向かって本来の仕事について問いかけた。

「こちらに逃げた鬼はどうしたの。生け捕りにするのではなかった?」

 小萩はあっと手のひらで口を覆った。

「すみません、うっかり殺しちゃいました……」

「……そう」

 小萩がしょげ返るのを見て、少年はいい気味だと言わんばかりに鼻を鳴らした。一体何があったというのだ。

「君も言葉遣いには気をつけなさい……あら、大変。怪我をしているのではなくて?」

 ずたずたに千切れた袖口と、衣服のあちこちに血がこびりついているのを見咎めて椿が気遣ったが、少年は「なんでもない」とつっけんどんに言い捨てた。

「人様に心配されて何、その生意気な態度は」

「あなた今、この子の腕を折ろうとしていたように見えたけれど」

「それはこの子が鬼を倒したとか、悲鳴嶼さんの知り合いとかいい加減なことばっかり言うから

 ――」

「嘘じゃねえよ!ほんとに俺一人でやっつけた!それに覚如って僧侶に、悲鳴嶼という男を訪ねろと言われた……」

 少年が声を張り上げたが、最後の方は悲鳴嶼の巨体に気勢をくじかれたのか小さくなっていった。

「御房が?」

「お知り合いですか」

 悲鳴嶼は椿の問いにははっきりと答えず、思案気にするばかりだった。

 小萩はあいも変わらず少年を見下すことに余念がなかった。

「悲鳴嶼さんがなんであんたみたいなガキを相手にするのよ」

「小萩、やめなさい」

 悲鳴嶼に諌められ、小萩は不服そうに黙った。

「私に用があるのだろう。話してみなさい」

 少年は最初こそ悲鳴嶼の風体に怖気付いていたようだが、気を取り直して、なんとか自分を立派に見せようとして胸を張り、たどたどしく話し始めた。

「兄貴を探してるんだ。多分鬼殺隊にいる……と思う……わかんねえけど」

 少年の話はいまいち要領を得なかったが、生き別れの兄を探している、鬼殺隊に入りたい、要旨としてはとにかくそういう内容だった。

「それで悲鳴嶼さんを当たるなら順序が逆よ。まずは修行して、最終選別に受からないことにはお話にならないわ。それなのにあんたときたら、育手のもとを追い出されたんですって?」

 少年の両手はぶるぶると震えていた。話からして、悲鳴嶼を最後のよすがと頼んでここまでやってきたのは明らかだった。悲鳴嶼本人は数珠を鳴らすばかりで黙したままだ。

 ずっと少年の話に耳を傾けていた椿が口を開いた。

「悲鳴嶼さん、良いではありませんか」

「しかし……」

「私はこの坊やを気に入りましたよ。力足らずでも一人で鬼を狩ろうなどと、見事な心延えではありませんか」

 無謀ですよ無謀、と小萩が囁いたが、椿は無謀なのは嫌いではない。所詮同じ狢の穴であるという同類意識の方が強い。

「当面は私が面倒をみましょう。坊や、お名前を教えてくださる?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.彼女と俺の二十日間

 謎の女である。

 玄弥は軍鶏鍋の締めのうどんを啜りながら、対面に座った女の顔色を上目遣いに窺った。料理屋の座敷に上げられて、早々に運ばれてきた鍋の中身は、育ち盛りの少年とそれに負けじとよく食う女の二人分の胃袋にきれいに収まった。女はにっこりと笑った。

「おいしい?」

「う、うん……」

「良かった。ここのお食事は評判なのよ」

 女は給仕を呼びつけて、穴子の蒲焼き丼を玄弥の前に置かせた。卓の上にはそのほか、牛肉も錦糸卵も天ぷらも山盛り積んでいる。お祝い事の席のようなご馳走である。かつて大根河岸の料理屋の前を通る時、厨房から漂ってくる匂いを嗅いでは、一生に一度はこんなうまそうなものをお腹一杯になるまで食ってみたいと願ったものだったが、こんな形で果たされるとは予想していなかった。

 遠慮がちに箸をさ迷わせる玄弥に、女がどうぞお食べと促した。

「お代金の心配なんかしなくても良いのよ。お腹が空いているんでしょう」

 女の言う通り、食べ盛りの胃袋はこれだけ食ってもまだまだ満ち足りていなかった。玄弥は食欲に負けてそれらに箸をつけた。どれもこれも美味しかった。

「……ほんとに俺に修行つけてくれるんだよな?」

「ええ。でも、その前にまず養生なさい。それほどみすぼらしくては何も教えられないわ」

 玄弥は警戒心を緩めなかった。僧侶が頼れと言った悲鳴嶼のことは信頼していたけれども、それ以外の人間は誰も信じるに値しなかった。ここに来るまでの惨憺たる苦労や心痛は少年の心をずいぶん頑なにし、また疑り深くさせていたのである。世の中そんなうまい話は転がっていない。ポン引きに唆されて、この世の地獄のような鉱山に売り飛ばされて、馬車馬の方がましというほど働かされる羽目になった哀れな田舎者の青年の話など、まったく他人事ではなかったのだった。

 腹がくちくなると、女は店のものと話すため部屋をでていった。頭がかゆいのが気になり、頭皮を掻き毟ると、髪の隙間からぽろぽろとしらみが落ちてくる。店に着いて、いの一番に風呂場に連行されて湯船に突っ込まれたといえ、数か月にわたる不潔な暮らしの残滓はそう易々落とし切れるものではない。

 玄弥が逐一指でそれらを潰していると、女が目の細い櫛を片手に戻ってきた。

「おいでなさい。髪を梳いて虫を取ってあげる」

「いやだ。自分でやれる」

「自分では見えるものも見えないでしょう?」

 女は有無を言わせぬ態度で玄弥の前に正座した。そして「ここに頭を乗せなさい」と己の膝の上を指差した。いわゆる膝枕の体勢である。

 

 嫌だ。こんな得体の知れない女の前でそんな無防備な姿を晒すのは嫌だ。

 

 玄弥が棒立ちしていると、女は痺れを切らして「嫌ならそのお(ぐし)、全部刈り取ってしまうわよ」と物騒を言い出した。玄弥は観念して、おそるおそる膝の上に左の耳を下にして頭を乗せた。

 もうほとんど、喉に包丁を突きつけられたニワトリのような心境で、やっぱり全部剃った方が早いと剃刀を取り出されないか体を固めてはらはらしていたが、女は意外にも、目の細い櫛と、真珠を削ったような光沢のある爪先で髪を梳いて、根本にへばりついたしらみの卵までこそぎ落としていく。

 柔らかい丁寧な手つきが心地よい眠気を誘った。玄弥は油断してはいけないと思って、襲ってくる睡魔に耐えた。寝ている間に有り金を全部持っていかれた苦い経験はそう簡単に忘れられるものではない。

 だが、女から漂う優しくて甘い香りは、疲れきった心にきつく締めたたがを緩めさせるには十分だった。大体、こんな、なんの不自由もなく満ち足りてそうな女が、玄弥みたいな子供に一体なんの下心を抱くというのか。まさか、炭鉱に売り飛ばすためにこんなご馳走を用意する手間をとったりはしないだろう……そう自分を納得させて、玄弥は眠りに落ちていった。

 

 

 兄は鬼殺隊の『柱』で、難しい仕事を任されており、遠方にいるため、今は会えない。

 これは悲鳴嶼が言ったから確かだ。鬼狩りが兄だと直感した玄弥の勘は当たっていたわけだ。

 玄弥は兄が組織の中でひときわ高い地位を得ているらしいことが単純に誇らしかった。しかし、悲鳴嶼は忙しいとかでさっさとどこかに行ってしまった。ついでに、小萩と呼ばれたこまっしゃくれた娘は、玄弥の名を聞くや否や「私ちょっと用事を思いだしました!」と脱兎のごとく背を向けて逃走していったので、玄弥は必然、もう一人の女と二人で取り残されることになった。

 女は椿と名乗った。

「俺、あんたの世話になんかならねえよ」

「どうして?」

「どうしてって……あんた、その形で剣士なのかよ」

「私の実力を疑っているの?心配しないで。こう見えても柱の次くらいに強いのよ」

 嘘をついているようには見えないが、いまいち信頼に欠ける。椿は確かに女としては上背があって、刀を腰に差しているけれども、いかにも線が細くて、これが茶屋の看板娘なら上等だろうが、鬼狩りとして見るといかにも心許ない。こんな淡雪の精みたいな女が、本当に鬼を殺せるんだろうか。玄弥だって()()()()()()()全然敵わなかったのに。

 しかし、今はこの女を信用するしか他にやりようがない。

 玄弥の目的は二つあって、第一は兄に会うことだが、第二が鬼狩りになることだ。椿は兄の任務が明けたら引き合わせてあげられるし、それまでは鬼狩りになるために鍛えてくれると約束した。話がうますぎる気がしたが、禍福は糾える縄の如く、これまでの不運の分だけようやく幸運が巡ってきたのだ。玄弥はそう思うことにした。

 

 

 目を覚ますと、時計の針はぐるりと二周回って朝だった。一昼夜も眠りこけていたようだ。

 布団から這い出て廊下に出ると、階下で店の女将と椿が楽しげに話しているのが聞こえてきた。

「此度はご主人さまはお付き添いではないんですね」

「今は遠方に出張しているものですから。次は一緒に、ただのお客として参りますわ。彼、ここのお料理を大層気に入っていらっしゃるの」

「これは嬉しいことを聞きました。是非にお待ち申しております」

 ふうん、そうなのか、人妻なのか。だったらなおさら、鬼狩りなんか辞めて、家で飯を作って亭主の帰りを待っていれば良いのに。

 家人に案内されて風呂場で顔を洗わせてもらい、部屋に戻って所在なげにしていると、用を終えた椿が現れた。女将に頼んで、玄弥の破けた上着を繕ってもらったのだと言う。

「布団を片付けたら、一階に降りてきてね。朝食を食べたら出立するわ」

 朝食は白米に焼魚に味噌汁。食事の間、椿はここがどういうところか話してくれた。

 世間には鬼殺隊に協力する仁恕の民がいる。彼らは家屋に藤花の紋を掲げていて、鬼狩りに無償で軒を貸し、必要な諸物を調達して施してくれる。命を守ってもらったことへ恩義を感じた人々の好意で供されているから、規模も一様ではなく、庄屋のお屋敷のように立派なところもあれば、ごく普通の民家のこともあれば、質素な古びた狩猟小屋のことすらある。ここもその一つである。

「私は昔に、ここの旦那さまとご縁があって、未だにこちらにくると大変良くしてくださるのよ」

 到着の折に、元気そうでなによりだ、いるものは無いかと、まるで嫁に行った娘が里に帰ってきたかのように手厚く迎えてくれた初老の男がその旦那という。彼に限らず、この家の人はみんな椿のことが好きらしかった。この話をしている最中も折につけ誰かが様子を見に来て、おかわりは要らないかと声をかけてくれる。出立の段に至っては、一家総出で惜別の情を述べられて送り出された。

 椿は玄弥の方を振り返った。

「これから岩柱さまの修行場まで歩いて行くけれど、着いて来られるわね」

 悲鳴嶼の修行場は、人里離れた山の奥にあると言う。

 玄弥は頷いた。なんせずっと兄を探して山中を走り回っていたし、一度は育手のところで訓練を受けたのだ。体力には自信がある。

 だが、その自信は早々にもろく崩れ去った。

 確かに椿は歩いているのだが、歩く速度が早すぎるので、玄弥の足では全力で走ってついていくのがやっとだった。平地でさえそんな有様だから、山間に入るとその差は開く一方で、彼女に追いつくまでいちいち待たせる羽目になった。

 椿は足を脚絆で固めもせず、悠々と急斜面を登っていく。千里を踏破してもなお余裕のありそうな健脚。こうなって玄弥は、ようやく椿を女風情と見た目だけで判断して完全に舐め腐っていたのに気づかされた。この女、淡雪の精どころか、天狗の娘か何かだ。

 荒れた岨道を越えると、眼前には禿げた断崖が聳えていた。玄弥の顔面が引きつった。ここを越えていくのか。

「この丘を越えるのが一番の近道なの」

「こんなもんは丘なんていわねえよ!崖ってんだよ!」

 絶壁の岩肌にどうにかしてしがみつきながら玄弥は絶叫した。椿は拳一個分もない足場に片足だけ乗っけて立ちながら、玄弥を上から見下ろしている。強風に煽られて足を踏み外しそうになるたびに、「落ちそうになったら拾ってあげるから、下を見ないで一思いに上がっておいで」と励ましてくれるのは、ありがたいことには違いないが、その余裕が心底恨めしかった。

 そんなこんなで、目的地だという草庵に辿り付いたときには、精魂尽き果ててへろへろになっていた。椿は汗だくで地面に倒れてくたばってる玄弥に向かって、「よく頑張ったわねえ、お水をあげましょう」と甕一杯に汲んできた水を注いだ。喉が潤う。生き返った。

「鬼はどんなに長く戦っても疲れないし、傷を負わせてもすぐに再生する。夜明け前に体力を消耗しつくせば朝日を拝めないものと思いなさい。さあ、いつまでもそんなところに寝ていないで。これから鍛錬を始めるのよ」

 椿の冷厳とした態度に、玄弥は重い体を起こして神妙に「はい」と返事をした。初っ端から大変な試練だったが、この程度で弱音を吐いていては強くなんかなれっこないだろう。

 

 その日から、青葉の茂る鬱蒼とした森の中で修行もといひたすらこてんぱんにやっつけられる日々が始まった。

 

 椿は最初、「体力がなさすぎる」と言って、山の中をひたすら走らせたが、玄弥がせがむと、思いの外あっさりと刀を握らせてくれた。日輪刀ではなくて、刀鍛冶が習作に鍛えたという無骨なだんびらだったが、それを持って切りかかっておいで、と言われた時には流石に躊躇した。しかし、刀を構えて斬りかかっても丸腰の椿にまるで敵わず、散々に打ち負かされたので、それ以来、一切のためらいは捨てた。

 椿は厳しかったが、それなりに丁寧にものを教えてくれる人でもあった。どうやって身体を動かせば良いのか、手足や筋肉の動かし方一つ一つを取って指導してくれる。玄弥は浴びせられる教えの十のうち一をなんとか拾い上げるという体たらくで、しかし椿は同じ間違いは一度までは許すが、二度目からは容赦なく竹刀を振り飛ばすので、青痣とたんこぶの癒える暇がなかった。

「苦労しないと強くなれないわよ」

「うっせえな!あんたは苦労したことあんのかよ!」

 玄弥が癇癪を爆発させると、椿は笑いながら、人並みにはねえ、と返した。いまいち真偽のほどを図りかねる返答であった。この女には、明らかに甘やかされ、大切にされて育った雰囲気がある。それでいて玄弥が足元にも及ばないくらい強いのである。存在そのものがどこかいびつだった。

 

 修行を開始して間も無くして、食糧のほか、毛布やら衣服やら生活品を詰め込んだ行李を肩に担いだ男が草庵を訪れた。

「後藤さん、ありがとうございます」

「いいよいいよ。これが仕事だしな。そっちが風さんの弟?」

「そうです。可愛いでしょう」

「えっ……うーん……まあ……はあ……」

 答えあぐねて言葉を詰まらせた男と視線が合う。玄弥が肩を竦めると、二人の間に奇妙な連帯感が生まれた。そして、ちょっとどっかおかしいよなこの人、と言う心の声を通わせた。

 男は荷物を届けるという任を果たすと、世間話もそこそこに立ち去った。この後にも仕事が入っているということだった。

「彼らは『隠』というの。鬼殺隊の後方支援を任されているのよ」

 後藤が帰った後、顔を半分も隠した異様な風体への疑念を見てとったのか、椿はそう説明した。

「あいつらも戦うのか?」

「いいえ。彼らは事後処理や、私たちに必要なものを用意してくれるの。……ああ、戦わないからと言って、彼らを軽んじたり、見下したりしてはいけないわよ」

 玄弥の物言いたげな視線を受けて椿が言った。

「君だけではないわ。多くの人が刀を持って戦うことが一番偉いと思っている」

「そりゃ、命懸けなんだから、当たり前だろ」

 椿は「人には向き不向き、天稟があるの」と言って諫めたけれども、それ以上言葉を重ねて、玄弥の見方を正そうとはしなかった。

 

 椿は夜は仕事だと言って頻繁に山を下り、朝日が登る頃に帰ってきて玄弥の指導してくれる。玄弥は次第に、彼女は自分を柱の次に強いと言ったけれども、それもあながち誇張ではないのかもしれない、と思い始めた。玄弥の面倒を見るかたわらで、自分も修行などと言って素手で薪を割ったりしている。真似をしたら、木の鋭いささくれが手に突き刺さって怪我をした。椿は「君にはまだ早い」と、顔をしかめて説教をしながら手当てしてくれた。

 彼女は強さにかけては申し分ない人だったが、十分な生活能力を備えているとは言い難かった。最初の食事に作って貰った雑炊は味が濃すぎたし、二度に出された味噌汁は薄すぎて味がしなかった。味付けに関し適量とか目分量という概念が完全に欠落しているものと思われる。よって、三度目は玄弥が自ら飯炊きの任を買って出た。椿が鴨を獲ってきたので、それの首を落として羽を毟って捌いて鍋にして出すと「玄弥くんすごい、お上手ね、お料理の才能があるわ」といささか過大なほど褒めちぎられた。その後は、何を作っても笑顔でおいしいおいしいと食べてくれる。悪い気はしない。

 彼女が現状に対して、なんの努力もしていないわけではない。玄弥が言いつけられた回数分素振りを終えて草庵に戻ると、椿は包丁を片手に持ったまま机の上に半ば突っ伏して陰鬱な顔を晒していた。怪談じみていてぎょっとするからやめてほしい。

「うわ、何やってんだよ」

「りんごを……剥くのを練習しようと思って……」

 椿の前では、瑞々しい林檎だったものが器の上にいびつな破片になって飛び散っていた。一体何をしたらこんな風になるんだ。

 玄弥は粉砕されてばらばらになったりんごの小さな破片をつまみながら、はじめ彼女に髪を梳かれたとき、自分の頭蓋骨がこんな風に砕け散ることにならなくて良かったなあ、と思った。

 

 森の中では、たまに悲鳴嶼の姿を見ることもあった。大抵、気配を消して向こうの木陰に隠れてじっとこちらを伺っている。が、あまり長いことではない。というのも、そうしているとどこからか猫が現れて、悲鳴嶼の足元に、にゃーんと鳴きながら戯れつくのである。それで悲鳴嶼は猫を抱きかかえてあたふたとどこかに去っていくのがお決まりだった。

「なあ、あの人なにやってんの」

「君が心配で見に来てくれているのよ。気付いていない振りをしておあげなさい」

「あの猫は?」

「このお山に住んでいる猫様。岩柱さまにたいそう懐いているのだけれど、留守がちだから、帰ってきたときは構ってほしいのね」

 どんな大樹も悲鳴嶼の巨体を隠すには足りていないので、気付かない振りをしろという椿の注文はかなりの無茶振りだったが、玄弥は言われた通り、あまり気にしないように努めた。

 

 椿との毎日は、おおむねそのような調子で過ぎていった。

 

 ある朝のこと、椿が机を出して、筆で文を書きつけている。かなり集中していて、玄弥が部屋に入ってきたことに気づいていない。後から近寄って手元を覗き込むと、何やら誰かに宛てて手紙を書いているようだ。それはこういう書き出しで始まっていた。

 

 山々に春霞たなびき、どこかもの憂く陽気が続きますこの頃、精励恪勤にして安らかにおられますでしょうか。御近況をつまびらかになさらないので心細く感じておりますが、前後に冥加のありますことを日々神仏にお祈り申し上げ……

 

 そこまで読んで、こら、と人差し指で額を小突かれた。

「人の手紙を盗み見るなんて、いけない子」

「ご、ごめんなさい」

 玄弥がまごつきながら素直に謝ると、椿は目を細めて「いいのよ」と言った。

「でも、失礼なことだから、他の人にはやってはいけないわよ」

 机の上にはもう一つ手紙があった。丁寧に広げられて、翡翠の文鎮を上に置いてある。

「そちらは主人からの手紙」

 椿の仰々しい、装飾が過ぎる筆致に比べるとずいぶん質実な書き振りだ。宛名と差出人の名前は書いていない。内容はこうだ。

 身体の調子に変わりないか。開き戸の蝶番が壊れたのは己が帰ってから修理するからお前は何もしなくていい。それから、飼育箱の中の腐葉土は時期を見て入れ替えること、そして四月に入ったらもう何もする必要はないこと、というのが念押しに二回も書いてあった。一体なんのことだろう。

「彼、虫を飼っていてね」

 しらみじゃないだろうな。

「はじめは蜂の子みたいに炒めて食べるために飼っているのかと思ってたら、そんなわけないだろうってすごく怒られたの。土の中で芋虫みたいにもぞもぞと動いてね、私もお世話をしている内になんだか愛着が湧いてきたわ」

 愛着か。椿の親切は日に日に度を越すようになり、昨日など、寝しなに枕元まで寄ってきて「お話を読んで差し上げましょうね」と本を開く始末。こっちをいくつだと思ってるのかと怒鳴ると、しゅんと肩を落としてしまったので、好きにしろと言うと、嬉々として『一寸法師』を物語り始めた。透き通った良い声だった。すぐに寝た。

 こういうことをされるのも、世話をしているうちに愛着が湧いたというやつなんだろうか?俺は虫けら並みか。

 とはいえ、玄弥は椿の調子に慣らされつつあったし、実際もう大分に打ち解けていた。彼女はかなりの変わり者で、辛辣なことも言うが、基本的には親切でやさしい人だということもわかった。筆跡を愛おしげに撫でて、丁寧に手紙を折りたたむ仕草から、椿がその人をとても大切に思っていることが伝わる。彼女のような女性に想われて、生涯添い遂げることを誓った男の人というのはきっと幸せなんだろうな、と玄弥はしみじみ思った。

 

 

「今日はお出かけしましょうね」

 その提案は唐突だったが、玄弥に否やはなかった。

 椿はどこに行くのかと尋ねても「楽しいところ」といってもったいぶって教えてくれない。

 山の麓まで走らされて、そこから少し行くと神社が見えた。境内は人混みでごったがえしている。立て看板には、この度、新しい社殿が落成したことと、巡業の奉納相撲の催しがある旨が番付表とともに貼り出されていた。

 玄弥は落ち着きなくきょろきょろとあたりを見回した。お祭り騒ぎの浮かれた賑やかさが懐かしく嬉しかった。玄弥はそもそも都会育ちで、自然よりも人の多い雑多な場所に郷愁の念を覚える。

「ああ、いらっしゃったわ」

 境内に設けられた土俵の周りに、老若男女が筵を敷いて座り込んでいる。その後ろの方にいた、頭髪の目立つ男に近寄っていくと、男の方が先にこちらに気付いて会釈をした。

「息災か、椿の御方」

「はい。煉獄様もご健勝で何よりです。今日は千寿郎くんはお付きでないのですね」

「午睡を起こすに忍びなくてな!そちらの少年は噂の弟か」

 男は煉獄杏寿郎と名乗った。平服で悠然と構えているが、立ち振る舞いからただものでは無いというのがひしひしと伝わってくる。この人も鬼殺隊の剣士なんだろう。

「では、後はよろしくお願いします」

 玄弥を煉獄に引き渡して、椿は人混みの中に消えてしまった。

「椿さんは?」

「彼女は所用だ。何、小一時間ばかりで済む」

 椿と離れると途端に落ち着かなくなった。どうせなら一緒にいて欲しかった。

 ただ、椿が玄弥を任せるのにこの男を選んだ理由もなんとなく察せられた。煉獄は派手な外貌の割に、人に緊張を強いるような(いかめ)しさがなくて、公正で寛大な空気を纏っていた。

「山の中に篭りきりでは息苦しいだろうと、俺に君を任せられないかと頼んできたのだ。だが、その様子では無用の心遣だったようだな」

 たぶん、同性の方が気兼ねなくいられるだろうという彼女なりの配慮だったのだろうが、それにしても初対面の男と相撲を観覧させるという趣向はよくわからない。

「すみません、付き合わせて」

「気にするな!そもそも俺はここに相撲を見にきたに過ぎん!同伴者が一人増えるくらいどうということはない」

 この人、ずっと真顔だな。

「それに、俺にも弟がいる。弟はいいものだ、愛いものだ」

 そう言われて、兄のことを思い出した。もちろん、忘れていたわけではないが、椿がそう約束してくれた以上、遠からず再会できるのは間違いないから、もうかつてほどの焦燥は覚えなかった。しかし、会って無事を確かめて……それからどうする。昔そうだったように、玄弥は兄の役に立ちたい。しかし、椿に「お話にならないくらい弱い」と評されている今の玄弥では力になることは叶わないだろう。玄弥の中に突然、兄に会うのが躊躇われる気持ちが起こった。兄の前に出て恥ずかしくないくらい強く立派になってから出直したい。

「俺、頑張ってるつもりだけど、中々うまくいかなくて、こんなんで、兄ちゃ……兄貴に、認めてもらえるかなって思っただけ……です」

 玄弥の口からするりと湧いて出た懸念が溢れた。この人の前で嘘をついたり、誤魔化したりするのは無意味であると思った。

「何、心配無用だ。いやしくも兄ならば、努力する弟を粗略に扱ったりするものか」

 煉獄はそう言ってぽんぽんと肩を叩いた。彼の励ましには、人を大いに勇気づけ落ち着かせる力があった。

「困ったことがあれば椿を頼るといい。力になってくれるはずだ」

「いや、あの人にそこまで迷惑、かけらんねえし」

 すでに世話になりすぎるほどなっている自覚はある。

「何を言う、彼女は君の――」

 周りからわっと歓声が上がったために、彼女が玄弥のなんなのかを聞く機会を逸してしまった。土俵上で取組が始まり、煉獄は拳を握って前のめりになった。どうもかなりの相撲好きのようで、あの力士は小柄だが粘り強いとか、この力士は押しが得意とか、色々と解説してくれたので、あんまりもののわかっていない玄弥も最後まで飽きずに楽しむことができた。

 

 弓取式の終わる頃に椿は戻ってきた。

「今度、九段で梅若兄弟が『景清』を勤めるそうだが、君は行かないのか」と煉獄が言う。

「都合がつけば行くつもりですが、同行くださる方がなくて。よろしければ一緒にいかがですか」

「俺は構わないが、君の亭主に申し訳が立たん。二人で行ってきたらどうだ」

「でもあの人、能の舞台はお好みではないのです。正月明けに神社で一緒に『翁』を観覧したのですけれど、本当に退屈そうで」

「あれは神事だから、ああいう男には面白くないだろう。もう少し物語性のあるわかりやすいものが……『土蜘蛛』などが良いのではないか」

「ご最も。考えて見ることに致しますわ」

「そうするといい。あいつにあまり悋気を起こさせてやるな。哀れだ」

 それから二人は玄弥にはちんぷんかんぷんの趣味人の会話を交わしてから別れた。

「いい人だったでしょう」

「うん」

「お相撲はどうだった?」と聞かれたので「ちっこいのがでっかいのを投げ飛ばしてて面白かった」と答えると、椿はそれはよかったわねえと破顔した。

 帰りしなに二人で屋台を冷やかすのも面白かった。これは玄弥よりも、椿の方がずっとはしゃいでいた。

 

 一方、修行は情け容赦のなさを増していった。「これに耐えられないようなら呼吸を教わる資格もない」と激流の中に蹴り落とされた時は運良く浅瀬に出られて生き延びたが、「あれはマジで死ぬ」と抗議しても「死ぬ気でやった方が早く身につくわ」という調子で聞く耳を持たなかった。ただし、うまくやったときは綺麗な顔を綻ばせて、口を極めて褒めてくれるのである。それで玄弥はなんとか、また頑張ろう、というやる気を奮い立たせることができた。

 

 その夜は、もう春もたけなわというのに、ひどい寒の戻りがあった。山の冷え込みは平地のそれに比べてひとしおである。すでに囲炉裏の火を落としていて、継ぎ足す炭もなかったから、玄弥は布団を二枚重ねて包まって寒さに耐えて浅い眠りについていた。

 ふいに目を覚ますと、椿の姿が暗闇にぼんやりと浮かんでいる。今夜は任務で不在にしているはずだったのに。

「椿さん、任務は……?」

「他の人に交替してもらったのよ。ほら、今日はひどく冷えるでしょう」

 炭を切らしていたのを思い出して、急いで帰ってきたの、と囲炉裏に新しい炭を入れて火を起こしている。灰の中で赤々とおこる炭火を見ていると、今まで優しくしてくれた親切な人たちの顔が思い起こされた。分けても伯父夫婦に対しては、あれほど良くしてもらったのに不義理を働いたと胸が痛んだ。

「ありがとう……」

 寝ぼけ眼で玄弥はもそもそと礼を言った。椿は「ゆっくりおやすみ」と頬を包んで微笑んでくれた。

 この人は全然、母とは似ていない。母からは少し埃っぽい、暖かいお日様の香りがした。椿からは花のような甘い香りがする。なのになんで、こうやって寝かしつけてもらったり「偉いね、頑張ったね」と褒められるたびに、母を思い出すんだろう。

 

 

 さらに数日あまりが経過した。椿がこの草庵を引き払って、鬼狩りの住む里まで行くと言った。

「本拠に君を連れて行く許可が下りたの」

 鬼狩りの里は、鬼殺隊の者ばかりでなく、彼らの世話をすることで生計立てている市井の人も住んでいるが、全員、家族関係や住居などを把握されていて、外からやって来る者はきちんと身上調査を受けて、許可が下りないと立ち入ることを許されていないのだという。これは鬼に隊の所在を知られぬための措置の一つであると椿は言った。

 徒歩で山を下り、力車を乗り継ぎ、ここからはご自身の足でと下ろされる。

 あたり一面は、燻った煙のような霧に包まれている。目の前を歩く椿の姿がおぼろになるほど濃い。玄弥は逸れるまいと椿の手を掴んでぎゅっと握りしめた。

 次第に靄が晴れてきて、視界が開けた。

「ここ?」一直線に塀が続くある邸の前で椿が立ち止まった。

「そうよ。我が家へようこそいらっしゃい」

 裏の戸口から、紅や白の花の咲き乱れる庭園を横切って邸内に通される。

 玄弥はこんな立派なお屋敷にお目にかかったのは生まれて初めてだった。立派というのは、なにも規模のことばかり指しているのではない。万事に調和がとれており、質素ではないが華美過ぎず、清潔で、何よりも、ここを居心地の良い空間にしようという配慮が隅々まで行き届いている。

 縁側から春の海にまどろむ庭を見渡すに及んでは、その造形に感嘆の情を覚えずにはいられなかった。うららかな日射しがよく手入れされた松や苔の緑の上に弾けて光っている。玄弥はこの風景の素晴らしさを十全に表現する語彙を持たなかったが、これが見事な、趣のある庭園であることははっきりと理解できた。

 これは当事者たちに預かり知らぬことだったが、玄弥は美術的な方面に関しては、生来、兄よりも鋭敏な感性を持ち合わせていたのである。

 玄弥は縁側から吹き込むやわらかい風に身を揺すられながら、このような家や庭を作る人の人となりというものに想いを馳せた。

「ここにおいで」

 椿に呼び寄せられて、玄弥は、素直に言われたところに座った。そして、何を言われるのかを待った。

 椿は穏やかな表情で口を開いた。

 

「玄弥くん、君は鬼殺隊に入るのはやめなさい」

 

 玄弥は馬鹿みたいにぽかんと口を開けた。時間が止まった気がした。ししおどしの立てる乾いた音で我に帰らなければ、ずっとそうしていたかもしれない。

「な、なんで」

 玄弥はつっかえながらそう返した。これまであんなに熱心に鍛えてくれたのに、それを突然やめろだなんて、不条理だ。理不尽だ。意味がわからない。

「君には才能がない」

 こちらの動揺に反して、椿は落ち着き過ぎるほど落ち着いていた。

「呼吸の適性は生まれつきのものだから、努力ではどうにもならないし、そういうひとは珍しくない。それでも、どうしても鬼殺隊の力になりたいなら、隠に推薦してあげても良い。いずれにせよ、刀を持って戦う鬼狩りは諦めなさい」

 素の身体能力の向上を加算とするなら、呼吸はそれを乗算で引き上げる。素の腕力のみで鬼と戦うのは、特別に才能がある人間を除いては、ほとんどなし得ないことだ。そして玄弥にはその才能がない。腕っ節は強いが、超常のものではない。

「昔、君みたいな、呼吸をほとんど使えないような子の面倒を見たことがある。その子は死んだわ」

「死ぬのなんか怖くねえよ」

 玄弥はほとんど反射で答えた。見え透いたはったりだった。

「あんまり軽々しく死んでも構わないなどと言うものではないわよ」

 椿の声音に変わりはない。

 そして、次の瞬間、世界が反転した。間を置いて、手刀で肩を打たれて、畳の上に組み伏せられたことを理解した。

「くそっ!離せよ!」

「だめ。君のような身の程知らずを野放しにしておくと他の人の迷惑になる。ここで両手両足を折って二度と使い物にならないようにしておきます」

 椿は本気である。掴まれた手首が軋む。打たれた肩は焼けるように熱い。玄弥はじたばた暴れたが、まったく勝負にならずに抑え込まれる。今はもう椿がどれだけ強いかわかっていた。山の中で戦った鬼よりも彼女は強く、玄弥に対抗する術はなかった。

「それが嫌なら、鬼狩りになるのは諦めるとだけ言えば良い。安心なさい、君はここ以外のどこででもうまくやっていけるわ」

 

 走馬灯のように、玄弥の脳裏に思い出されることがあった。

 

 もうずっと昔のことだ。

 粗相をして、うっかり棚の上にあった父親の酒瓶を落として割ってしまったことがある。父親に殴られる恐怖に震え上がった玄弥を慰めながら、兄はこう言った。

「兄ちゃんに任せろ。お前は絶対に、何も言うなよ」

 そして、外から帰ってきて、いつもの場所に酒瓶がないことに怒り狂った父に自ら「俺が割った」と名乗り出た。

 弟に代わってすべての責めを負った兄は、顔面が血だらけになるまで父親に掴まれて引き回された。そのとき、玄弥はずっと両手で顔を覆って、部屋の隅で震えて泣いていたのだ。

 

 ……あの時の、この世からむなしく消えてしまいたいほどの惨めさ、情けなさときたら!

 

 玄弥が一番許せないのは、目の前で兄が打たれているのに、父の暴力を恐れて、本当は自分がやったのだと言い出せない自分自身だった。

 ここで逃げ出すのは、あの時と同じ轍を踏むということだった。そうなれば玄弥は今度こそ、生涯、自分を許せなくなる。兄を犠牲にして、生きる理由も甲斐も失って長らえる命にいったいなんの意味があると言うのだ?たとえこの道を選んだことで命を失うことになったとしても構わない。己を恥じて生きていくよりもずっと良い。

「いやだ」

 玄弥は椿の透徹した眼差しを真っ直ぐに睨み返した。あまりに力を込めすぎたので、目の血管が破れて血が滲んだのではないかと思った。

 目尻を伝って流れるものがある。涙だった。

「……そう」

 椿が大きなため息をついた。

 その表情は、どこか、嬉しいようでもあり、切ないようでもある。

 彼女はゆっくりと身を引いて、玄弥を開放した。そしてすっと立ち上がって袂を翻した。

「……そこまで覚悟を定めているなら、きっと大丈夫ね。さあ、君のお兄様に会いに行きましょう」

 




主人公、人様の弟で念願のお姉ちゃんムーブを心ゆくまで楽しんでおりますが、次回実の兄にめちゃくちゃ怒られますね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19.風雨対牀、櫛風沐雨

不死川兄は母親や弟や妹にしてやれなかった分まで自分の女房と子供を幸せにする義務を背負っているので、一刻も早く婚活を開始するべきだと思います。


 鏡が嫌いだ。

 己が母の息子であるよりも、父の息子であることをあからさまに突きつけるからだ。骨格も顔つきも歳月を経るごとに父に似る。まるで亡霊に付き纏われているかのようである。

 椿は夫が鏡が嫌らしいということに気付いて、家中の鏡という鏡に布を掛けて覆い尽くした。気を遣わせるのが嫌だったので、全部外せと言ったら、澄ました顔で「埃除けよ」と応えられた。互いにそういうことにしておいた。

 しかし、僅かばかりの平穏を確保しても、結局は嫌でも目につくところに父の遺伝子を顕著に見出す。例えばこの手のひらがそうだ。己の手が年々、家族を殴って不幸にした手に似ていくのは、はっきり言うが中々の恐怖である。

 不死川が手指の爪を切りながら渋い顔をしていると、椿が「どうしたの」と言って隣に座った。

「自分の手を親の仇みたいに睨んだりして」

「親みてえだからだよ」

 椿はふうん、とだけ言って、不死川の手から爪切りを取り上げて道具箱にしまった。

 穏やかな陽気の昼下がり、近所の飼い犬はひねもす縁側でのんびりしている。障子紙は日光を透過して薄白く光っている。仮眠でも取ろうかと思っていると、ゆっくり肩を引かれる。不死川はそれに抗わず、一緒に畳の上にごろんと横たわった。腕を枕にして、椿の光沢のある艶やかな髪が畳に散らばった。

「私の髪は、母様譲りと言われたものだけど、もとは北国から嫁いで来られたお祖母様譲りなの。髪を結い上げてお仏壇の前に座っていると、お祖母様が生き返ったみたいだって、よく笑われたものよ……」

 椿とは違う。自分は親の悪いところばかり似ている。父親から受け継いだのは見目ばかりでない。短気なのも口よりも先に手が早く出るのもそうだ。もし、良いところがあるとすれば、それは母譲りだろう。しかし悲しかな、母に似ることはなかった。

 椿は横たわったまま、不死川の腕を掬い取って手のひらを合わせた。

「私は実弥さんの手、好きよ。大きくて分厚くて、たくさんの人を守ることのできる手だもの」

 椿の手も並みの女のそれではない。それでも十分、細長くて、華奢で、透き通るような美しい手だ。傷だらけのごつごつした男の手と合わせると一回りも小さくて、歴然と違って見える。

「そうか?」

「そうよ」

 節くれだった太い指に白い手が絡んだ。

「私もこのくらい手が大きかったら良かったのに。そうしたら、流しにお米をこぼさずに済むわね。桶を傾けたときに勢いで流れていってしまうの、手で掬おうとするのにうまくいかなくて……」

「お前、水仕事はそろそろ諦めろ」

「もう、人が頑張ってるっていうのに笑わないで」

 不死川は声を立てて笑ったが、椿は拗ねて頬を膨らませた。自分では一生好きになれそうにはないが、椿が好きだと言ってくれた手で、薄桃色の頬っぺたを突くように撫でると、口元にふつふつと笑みが戻った。

 水仕事というのは押し並べて過酷なものだ。炊事に洗濯、その他色々の仕事のために年がら年中あかぎれが治らなかった母を思い出す。

「また三味線弾けよ。好きなんだろ」

「いいの?」

「ほどほどにな」

 不死川は、椿のただでさえいらぬ苦労を重ねてきた手を、これ以上働かせたくなかった。楽を奏でたり、生き物や植物を愛でるために使われてほしかった。

「明日からしばらく任務に入る。家の留守は任せた」

 椿はうんと頷いて、「でも、たぶん、家のことは千夜子が全部やってしまうわ……」と小声で言った。それでいいんだ。お前は何もするな。

「いつ頃戻るの?」

「わからねえ。一月は要る」

「そう。できるだけ早く帰ってきてね。一月後なら、東京の桜は丁度見頃よ」

「わかった」

 衿の合わせに手を差し込んで胸の膨らみをまさぐると、椿はくすぐったそうに目を細めて、自ら腰帯を解いた。それからいつも通りのやり方で交わった。

 寝所を共にするようになって久しいが、一向に子のできる兆しはない。

 不妊の妻を前にした男のとるべき行動というのは、離縁して新しい女房を迎えるとか、または妾を囲ったりするのが椿の頭の中での世間並みらしいが、不死川はこのままで全然構わない。自分にはこの女一人で十分だ。

 まっとうな考えではないかもしれないが、そもそも二親揃って生死の狭間の泥沼であがいている身分で子を望むのは、それこそ悪徳というものではないか。椿は物寂しげにするが、この女は立派に戦って死にたいと破滅に奔りたがるその心で子供が欲しいと思う自己矛盾にも気付いていない。

 それでも、椿は、まともな人間の営みとはどのようなものか、不死川に教えてくれる。自分のような人間でも、誰かを幸せにする資格があるのではないかと思わせてくれる唯一の女性だ。頭がよく回り、決断力があり、己が及びもつかない豊かな感性で世界を捉えて、その美しさを分かち合おうとしてくれる。すらりと長い手足、くびれた腰つき、湿ったうなじ、外観の優美なことは言うまでもなく、頑固で向こう見ずで、少し抜けたところもあるが、むしろそこが可愛くてたまらないので、不死川にとってはまったく欠点ではない。

 この任務から戻ったら、墨堤の桜並木に連れて行ってやろう。深川の禅寺に芭蕉の句碑があると言って見に行きたがっていたから、それもついでだ。これ見よがしに咲き散る桜など、本来雑踏をかき分けてまで好き好んで見に行く気になれはしないが、満開の桜吹雪の下で笑う妻はさぞかし可憐であることだろう。

 

 

 

 それからきっかり一月後である。早朝の雨に洗われた桜の大木の下では、紋白蝶が群を成して羽ばたき、蝶屋敷に春の訪れを告げている。

 任務を終えて帰ってきた己の目の間に立つ椿は、ぴんと背筋を張って、腕を組み、冷たい眼差しでこちらを睥睨している。その後ろで、夜明けの世界に置き去りにした弟が、腫れた頬を押さえて震えている。

 一月前に望んだ光景ではなかったが、往々にして現実は理想とはかけ離れるものである。

「その不機嫌を仕舞いなさい。いい年をしてちゃんと話し合うこともできないの」

 椿は激昂した夫を前にして実に泰然たるものだ。

「何を話すってんだ」

「この子、あなたに会いたいためにここまでやって来たのよ。平手で顔を打つより先に、一言でも優しい言葉をかけてあげられないの。弟なのでしょう」

「そいつに兄貴呼ばわりされる筋合いがねえ」

 玄弥が何か物言いたげにこちらを向いた。

「よくも俺の前に面ァ出せたな。人様に散々迷惑かけやがって」

「にいちゃん」

「黙れ。俺は家の金を盗むようなクズを身内に持った覚えはねえぞォ」

 そう言うと、玄弥は憐れなほどしょげかえって、再び下を向いた。

 椿は兄弟のやりとりに口を挟まなかったが、こちらの振る舞いを良く思っていないのは明らかだ。弟と違い、椿は実弥の怒りなど一筋も恐れてなどいない。

「俺ァ弟なんぞいねえっつったよな?」

「あなた、この私にそんな言い逃れが通用すると思っているの?」

 椿の言葉は氷点下より冷たい。

 はじめの報せを受け取ったときは完全に寝耳に水で、真っ直ぐに親戚の家に帰せと書き送ったのだが、椿は実兄の意見などまるでお構いなしで、何もかも自分のしたいように手配した。ここ数十日間、弟はそれは呑気にやっていたらしいが、玄弥自身の預かり知らぬところで、本人を巡って激しい争いが繰り広げられていたのである。鬼殺隊には、鬼が人間に取り憑いたり、近親者に擬態したりして、あらゆる手段で頭領の首を狙ってきた過去の経緯があるから、身元不明の部外者を入れることには慎重にしている。だから不死川も、弟などいないと周りに言い切って、時間を稼いでいればやりようがあると踏んだ。しかし、政治的な手練手管では妻の方に分がある。彼女はこちらを説き伏せられないと見るや、さっさと身元を改め、戸籍を洗い出し、信頼に足る証言と証拠を揃えて、万が一この子を見染めた自分の目に曇りがあったなら、その時は腹を切るなり喉を突くなりして責任をお取りしますと上に申し添えて玄弥をここまで連れてきた。アホか。こんなことで命を張るな。

 お前の弟は鬼狩りになりたいと望んでいる。私は本人の意思を尊重して手を貸している。

 椿の主張は簡潔なだけに論理的な綻びを追及できない。そも、鬼殺隊の原理原則に従えば、椿の言い分におかしなことは何も見当たらない。極めつけは岩柱と炎柱が証人だ。不死川はまさに孤立無援の戦いを強いられている。しかし、それがなんだ。柱が何人認めようが知ったことか。俺が認めていない。

 それにつけても弟のバカさ加減に腹が立った。夜に外をうろうろ徘徊するな。ちょっと優しくされたくらいで知らん人間についていくな。炭鉱に売り飛ばされたらどうするんだ。

「どうでもいい。さっさとそいつを元いた場所に返して来い」

「山の中に捨ててこいとでも言うの。どうしてこんなにいじらしくて健気な子を邪険にできるの?」

 いじらしくて健気ときた。入れ込みすぎである。どうあっても玄弥の肩を持つ構えを崩す気がないらしい。

 妥協点を見出せない。

 椿の方もこちらが全然主張を引っ込めないので、少し途方に暮れている。普段、意見が反り合わなかった時は、大抵不死川が譲歩して決着するから、そうでないときの対処がないのだ。

「玄弥くんのこと、大事なんでしょう。守ってあげたんでしょう?」

「守ってねえよ」

 弟を遠ざけていた理由は単純なことである。玄弥は、兄が何をしているか知れば、絶対に自分の真似をせずにはおれないだろうという確信があったからだ。

 昔からそうだった。何をするにしても一分もそばを離れていたくないとばかりに兄の後ろをついて回った。家事をしていれば手伝いたがり、子守りをしていれば代わりたがり、荷を引いていれば隣を歩いて自分も取手を持ちたいとせがんだ。

 かつてはそれでもよかった。よく家族の面倒を見、よく働く兄は弟の模範に相応しかった。だが、今は違う。今の自分のようになってくれては困る。死と隣り合わせのこの場所に、たった一人生き残った弟を置いておけるわけがない。

 握りしめた拳に青筋が浮いた。

 なぜこんなところまで来てしまったのか。鬼の出ぬ揺籃の大地で、安らかに生きておりさえすればよかったものを。

 まるで実弥の怒りに共鳴するかのごとく、空は曇り強風が荒れ散らかしている。病室の洋窓は風に吹き立てられてガタガタと音を立てて鳴った。

「……私のことも殴る?いいわよ、避けないから」

 椿はそう言って、つんと顔を前に突き出した。

 こめかみがひきつった。こんな愛くるしい生き物に、怒りに任せて手など上げられるか!この女は手合わせの時にさえこちらがどれだけ心を痛めているか毛ほども理解してない。そして、やはり、妻を蹴り倒して平然としていたあの男はどうにかしてる。

 きりきりと張り詰めた空気の中、玄弥が意気地を振り絞って兄ちゃん、と口を開いた。

「俺が悪いから、椿さんに怒らないで……」

「玄弥くん」

 椿は自分の腰元に取り縋ってきた玄弥を、まるで庇うようにして抱き寄せた。

 小さくない衝撃が不死川を襲った。

 どうしたって、怒れる父から子供たちを庇う母の姿を思い出さずにはいられなかった。弟の目に映る今の自分の姿は、さぞかし父によく似ていることだろう。鏡を見ずともわかる。

「……そいつを、お前の姉弟(きょうだい)ごっこに付き合わすな」

「ごっこだなんてそんなつもりは──」

 言い返す椿に、不死川は止めの一撃を吐き捨てた。

「いい加減にしろ。弟妹(きょうだい)のいないお前には何もわからねえよ」

 口に出したそばから後悔した。顔を見ないでも、椿の表情から血の気が引くのが分かった。

 不死川は臨月の母親を亡くして、姉になり損ねた女が、弟とか妹とか言うものにどういう憧れを抱いているか、良く承知しているはずだった。

 これ以上この場にいることが耐え難く、大股で二人の側を通りすぎ、部屋を出て、廊下を曲がり、裏口から屋敷の庭に出る。人気のない池泉の側までやって来て、ようやく不死川は肩を落とした。なぜこうなる。

 

 思い通りにならないから、家族に当たり怒り散らす。自分は父と同じことをしている。

 

 父のことはやるせないクズだと思っている。ただし、実弥の父親に対する感情は玄弥のそれほど単純ではない。年長である分だけ、実弥には弟には見えていない景色が見えていた。

 物心ついたばかりの幼い日、父の逞しい腕に抱えられて、市場に節分の魔除けの飾りを買い求めた記憶が残っている。葉のついた柊の枝と葉鞘を落とした豆の木の枝を一束、その枝に焼いた鰯の頭を刺して、家の入口の高いところに飾るのである。これは主に地方に見られる、鬼を祓うための古い風習であった。まだ実弥が兄でなかった頃は、そういうことをする余裕もあった。

 父の素行不良は、子供が多くなってから始まった。

 今思えば、父が目の敵にしていたのは、母ではなく、山ほどいる子供たちだ。

 父を擁護するわけではないが、下町の貧しい裏長屋においては、切りなく増える子を疎み間引く親などさして珍しいものではない。生計上の不安から、川に何時間も浸かったり、あらんかぎりの不養生を働いて、なんとかして腹の子を流そうとする母親は少なくないし、縊り殺されて間引かれた嬰児の死体が菰に包まれて溝沼に漂っていることさえあった。運良く死なずに済んだ赤子にも、やはり明るい未来は用意されていなかった。

 椿には想像もできないに違いない。あまりにも無邪気に親子兄弟は慈しみあうのが当然だと思い込んでいる女だ。金や権力を巡る不和には通じていても、貧困に由来する想像を絶するほどの醜さや惨めさには理解が及ばないのだ。もっとも、そうした世界を知らないのは、椿が大事に大事に育てられた証である。だから、不死川は、彼女の無知を矯める気には到底なれなかった。臭いものをわざわざ鼻先に突きつけて、お前の認識は誤っているなどと能弁を垂れる必要などどこにもない。

 強者は弱者を虐げる。夫は妻を殴る。母は子を殴る。兄は弟を殴る。そういう世界がこの世にはある。

 母は子供たちを、そうした世界の真理を超越したところで愛してくれた。誰一人、間引くことを許さなかった。子供たちのために身を粉にして働いた。それが父には気に食わない。

 父には一家の家計は大黒柱たる夫の手一つによって賄われるべきという亭主関白的な信条があり、妻を外に働きに出すというのは通常の倫理の埒外にある。これはその発想自体が、妻と家庭を己の意のままに支配せんとする強烈な独善性の発露に他ならないのだが、それでも本来は、父の怒りは、まずをもって生活に困窮して女房を外に働きに出さざるを得ない、己自身の甲斐性のなさに端を発していた。その苛立ちで酒に手をだす。博打を打つ。ただでさえない金が消える。悪循環である。

 父の生き方は、旧習と迷信が支配する場末の地に生きる男たちの平均的なそれに堕した。

 そう、父から何かを教わった覚えはほとんどないが、脳裏に強烈に焼きついている一言がある。

「俺のようになるな」

 それは父が実弥に手を挙げるときの決まり文句だった。

 実弥は生来旺盛な反骨精神を発揮して、こんな畜生には絶対にならないと固く心に決めていたから、父にそう言われてもなんの感慨もなく、クズはクズなりにクズであることを自覚しているんだな、と淡白に思ったものだ。父親に対しては常に恐怖でなく、怒りが先行した。

 そういう子供であったから、殴られてもただでは転ばない。父を睨み付けると「親に向かってなんだその目は」とさらに殴られる。

「俺みてえなクズになりてえのか?嫌だろうが!嫌なら親の言うことを聞け!」

 だが、父がその言葉を口にした途端に、体中が痣だらけになるほど蹴られ殴られても涙一つ見せない母が、「やめて、やめて」と悲痛な声を上げて、振りかざした父の腕に縋るのである。

 母は子供たちを愛するのと同じように父を愛していた。そして父もまた、おそらくは、母を愛していたこともあったのだ。子供を愛そうと試みたことさえあったかもしれない。母は、我が子に己を誇ることのできない父という生き物を、哀れみ、悲しんでいた。

 あの時は父の哀れさも母の泣く理由も理解できなかった。どれほど大人らしく振る舞おうと背伸びしたところで、実弥は所詮子供だった。

 ところが、こうして自分が所帯を持つ身になると、あの時の両親のあり様に理解が及ぶ。血の繋がりのない他者の人生に責任を負うという、婚姻という社会契約が、不死川の精神を多少なりとも大人に引き上げた。

 貧しくさえなければ、果たして父の悪性があそこまで深化することがあっただろうか。

 いや、もはやそんなことはどうでもいい。いま肝心なのは、自分があの男と同じ轍を踏もうとしていることだけだ。

 池の水面には、強風によって飛ばされた花びらが吹き溜まり浮かんでいる。東京の桜は、この一両日のうちにあらかた散り落ちるだろう。

 不死川はその場を離れて歩き出した。

 玄弥、こちらにくるな。遠くに行け。俺のようになるな。

 

 

 

「ここは蝶屋敷と言うのよ」

 屋敷に足を踏み入れる前に椿はそう言った。建物中の床や壁に、独特の薬の匂いが染み付いている。それでここが医療施設であるということが説明されなくてもわかった。

 兄が出て行った後、椿は玄弥を大部屋の病室に伴った。昼前の病室では、少女が忙しなく働いている。先ほどとは打って変わって静穏な空気が流れている中、一つ不穏と言えそうなのは、窓際の寝台の上で、男が一人、ぶつぶつと恨み言のくだを巻いていることくらいだ。

「……このまま俺が死んだらあいつのせいだからな。俺の墓石に毎日団子餅を供えに来なけりゃ化けて出てやる……25歳までに頭がハゲ上がる呪いをかけてやる……」

「いい加減にしてください。それだけ喋れる人は死んだりなんかしません」

 男の包帯を替えている少女が呆れかえって言う。

「アオイちゃん、聞いてくれよお、不死川の奴ひどいんだぜ……俺の腹、ブスブス刺しやがって……官憲に見つかってたら確実に猟奇殺人の罪でお縄だったぞ……」

「でも、そのおかげで助かったんでしょう?不死川さんがお腹の中に入った血鬼術を日輪刀で焼いて無かったら命がなかったって、先生から聞きましたよ」

「麻酔なしだぞ!やってられるか!しかも急いで帰るからって汽車に乗っけられてさあ、揺れるたんびに腹は痛いし、傷が広がった気がするし……」

 兄の名が出たので思わず顔を上げた。椿は玄弥の座っているところから離れて、しくしくと泣いている男に声をかけた。

「樋上くん、お身体の加減はいかがですか」

「見ての通りだが?」

「良かった。命に別状がなくて何よりです」

「お前ら揃って人でなし夫婦だ……」

 樋上と呼ばれた男は、ぐったりして、女に囲まれて恥も知らずにめそめそしてる。玄弥はこんな情けない男でも隊士になれるのかと思った。ついさっき、才能がないから諦めろと言われた身としては忸怩たるものがある。

 椿は脇机の上に置かれた薬の処方箋に目を通した。

「毒ですか」

「毒っていうか、寄生虫みたいなもんらしい。目に見えないくらい小さい虫が口とか傷から入って、人の体の中で自己増殖するとか細胞分裂がどうのとか核酸とか……俺には先生の言ってることがさっぱりわからん」

 椿は顔を渋くして「話を聞きに行ってきます」と言い残して病室を出た。

「そいつ誰?」

「不死川さんの弟だそうですよ」

「あいつ、弟なんかいたのか」

 男は投げやりに頭の後ろに手を組んで寝そべった。少女は洗濯物を籠にまとめていた。

「でも、鬼の本体は倒したんですよね」

「ああ、デカかったぜ。十メートルはあったかなあ、太ったミミズみたいでさ。人の腹わたが大好物っつう……」

 二人の会話を流し聞きながら、玄弥は兄のことを考えた。

 会わない内に、兄は少年から大人の男になっていた。

 椿が「ものすごく怒っている」と脅かすので覚悟していたけれども、想像以上の「ものすごく怒っている」だった。あんな別れ方をして、また昔みたいに、兄が当然に笑いかけてくれると思っていた自分のなんと浅はかなことか。兄の怒る理由はもっともだったけれども、悲しいものは悲しい。

「……何はともあれ命の恩人さ、なあ。お前の兄貴は立派な奴だよ」

 それを聞いて、玄弥の気分が少し上向いた。

「あっ。何ですか、その顔は」

 アオイと呼ばれた少女が玄弥の腫れた頬を見とがめた。

「平気だって」

 玄弥は今、それはもう、この上なく落ち込んでいたけれども、ほとんど歳の変わらない女の子を前にして弱いところを見せるのは自尊心が許さなかった。

「駄目です。氷嚢を持ってきますから、大人しくしてください」

「あ、ああ」

 有無を言わせぬ迫力のある子だ。

「椿さん、こういうのよく気がつく人なんですけど。なんだか心ここにあらずでしたね」

「旦那とやりあってるからだろ。普段あいつ、嫁に異常に甘いからな」

 何か聞き捨てならないことが耳を貫通していった気がする。だが悲しかな、玄弥の脳みそ一つでは浮上してきた可能性を結びつけることができない。

「聞いていいか?」

 洗濯籠を持って部屋を出ようとするアオイに向かって玄弥が聞いた。

「?どうぞ」

「兄貴と椿さんって、その、一体、どういう……関係なのかなって……」

 二人は奇妙なことを聞いたとばかりに当惑していた。

「いや、どういう関係って、なあ」

「むしろ今まで何だと思ってたんですか。あの二人は──」

「やめろよアオイちゃん」

 樋上は口に手を押し当てて必死に笑いを堪えていた。

「本人たちから伝えさせる方がおも……筋が通ってるだろ」

「樋上さん、楽しんでますね……」

 男の人を小馬鹿にする態度が玄弥の短気を刺激した。

「あんたには聞いてねえよ」

「おうお前、なんだその態度は。こちとらこれでも一度は雷の呼吸の継承者と見込まれた男だぞ」

「偉いのかよ、それ」

「偉いわけないだろ。隊士になった時の先生の激励が『柱になれるように精進しろ』じゃなくて『死なないように頑張れ』だった時の悲しみがお前にわかるか!?」

「じゃあなんで威張るんだよ?!」

「騒がないでください!病室で!」

 そんな具合で三つ巴でわあわあと騒いでいると、慌ただしく廊下を走る音が聞こえてきた。

「彼、ここに来ていない?」

 扉の向こうから、ひどく切羽詰まった様子の椿が現れた。

「不死川さんのことなら、はい。お見えではないですが」

「まだ経過観察中で……大人しくしていないといけないのに、病室に戻ってきていないの」

 椿はもどかしげに周囲を見渡した。

「ここに来るまでに屋敷の内は一通り見回ったのだけれど、どこにもいなくて──玄弥くん?」

 

 

 悪い予感がした。

 玄弥は聞くものも聞かずに屋敷を飛び出した。

 兄が困難な局面に陥った時、どういう行動をとりたがるか玄弥は理解しているつもりだ。こんな不出来でも弟なものだから。兄はなんでも自分一人で解決しようとする。重い荷車は、たしかに、頑張ったら一人で引ける。でも、二人で押せば、もっと楽に動かせる。なのに一人でやろうとする。

 椿に手を引かれてやってきた道を戻った先、少し高くなったところに小さな鳥居がある。その昔、神社の境内は兄のお気に入りの場所だった。他の兄弟を遊ばせて、自分は社殿の階段に腰掛けて、まだ遊びに加われない下の子の面倒を見ていた……

 果たせるかな、そう高くもない階段を登り、鳥居をくぐった先に、狛犬が鎮座する石台を背もたれにして兄が足を投げ出して座っていた。

「来るな」

 先程より声に力がない。額には脂汗が浮かんでいる。

「か、顔色悪いよ、具合良くないの?」

「お前には関係ねえよ」

 兄がゆっくりと立ち上がった。

「椿を呼んでこい」

「でも」

「いいから呼んで──」

 そう言いかけた兄の口から、濁った咳とともに勢いよく鮮血が飛んだ。

 身体をくの字に折り曲げて、膝を突き、結核患者がごとく大量に喀血する兄の姿に、動転のあまり言葉も出ない。拒絶されるのも構わず兄の元に駆け寄る。病気か、怪我か?

「くんなつったろうが!」

 玄弥が手を出した瞬間に、苛烈な怒号が飛んだ。

「だって」

「てめえは何もわかっちゃいねえ」

 兄は一体どこにそんな力があるのかという勢いで玄弥の胸ぐらを掴んだ。言っているそばから、口から真っ赤な血がこぼれ、玄弥の顔面にまで血飛沫が飛ぶ。

「よく見とけ。鬼狩りになるっつうのが、どういうことかなァ……!」

 そう言って兄は玄弥を突き飛ばし、腰に挿した刀を鞘から抜いた。再びごほっと咳き込み、抜いた刀を逆手に持って、己の腹に押し当てた。

「ま、待──」

 止める間もなく、緑色の刃は、まるで豆腐でも切るかのように易々と腹を貫いた。

 震える手が鋸を引くように動いて内臓を抉る。肉を切る、鈍い、嫌な音がする。

「くそッ、あのミミズ野郎、悪足掻きしくさりやがって……」

 兄はぶつくさと文句を垂れながら腹部から刀を引き抜いた。白い羽織の袖で刀身の血を拭って鞘に納める。玄弥は兄があまりに平然としているので、かえって気が狂ったのではないかと疑わしく気がかりだった。刀などどうでも良いから、自分の腹の傷からどうにかしてほしい。

「……大丈夫?」

 玄弥が恐る恐る尋ねた。

「あ?こんなもんどうってことねえよ。とっとと消えろ」

 兄はそう言って、さばさばと腹に包帯を巻いて止血しだした。

「でも、ちゃんと医者に見せた方が……」

「しつけえなてめえは──ッ!」

 兄の言葉が途切れた。そして、喉を掻きむしるような仕草をしてうつ伏せに倒れた。玄弥が慌てて引き起こす。もはや邪険にした弟を振り払うような余裕もないようで、数秒のうちにぴたりと小刻みな痙攣すら止み、全身から力が抜けた。

 口元に手を当ててぞっとした。息をしていない。

 玄弥は兄の片腕を自分の首に引っ掛けて、無我夢中で元来た道を引き返そうとした。さっきまでいたあそこは病院だ。医者がいるはずだ。

 一刻も早く診て貰わなければならないのに、玄弥が背負うには兄は大きくなりすぎていた。引きずって歩いても全然前に進んだ気がしない。

 朝露に湿った小砂利の上に、点々と血が滴り落ちる。

 いよいよ兄が死んでしまうのではないかという恐怖が玄弥の胸を激しく穿った。

 またなのか?また何もできないまま家族を失うのか?

「玄弥くん!」

 前を向くと、石段の下から、椿が駆け上がってるのが見えた。頭上で鴉が人語らしきものを喚き散らしている。

「椿さん、に、兄ちゃんが」

 半泣きの玄弥から兄の身体を受け取って、椿は素早く喉や、胸や、身体のあちこちを触って調べた。

「血反吐が喉に詰まってる」

 そう言って、拳で背中を三度と強く叩いた。反応がない。

 効果がないと見ると、椿はすぐに姿勢を変えて、今度はぐいと下顎を掴んで上向きにさせた。そして、そのまま血塗れの口に、自らの唇を押し当てた。

 大きく息を吐く。吸う。肺を収縮させる毎に、喉奥から間欠に溢れた血泡を吸い出しては吐き出す。

 椿はそれを数回繰り返して、とうとう、体内を蝕んでいたそれを探り当てて地面に吐き捨てた。

 赤黒い血溜まりの中で、なにかが禍々しく蠢いている。玄弥はそれを、首を延ばして覗き込んだ。

 虫だ。黒い塊のようにも、肥え太った芋虫のようにも見える。

「玄弥くん、離れて」

 慎重を期した椿が、腰の刀に手をかけてそう指示した。しかし、それ以上の手間は要さなかった。地面に落ちたそれは、風に追いやられた雲の隙間から覗く太陽の光に照らされたことで、断末魔すら上げることなく、完全に蒸発して消え失せた。

 神社の境内に静寂が満ちる。椿が深い安堵の溜息をついた。

「……こうなるかもしれないから、入院してなさいと言われてたのに。カナエとしのぶが帰ってきたらお説教よ」

 その口ぶりから、もう心配はないのだと悟って、玄弥もまたその場にへなへなと崩れ落ちた。何もかも心臓に悪すぎる。

「椿」

 息を吹き返した兄が、うっすらと目を開いていた。焦点の合わない目で椿を探している。

「俺が悪かった」

「どうして謝るの」

 椿は兄の上半身を抱き起こしてぎゅっとしがみついた。

「こんなことであなたを嫌いになったりしない。ばかな人」

 兄はなおも何か言いたげにしていたが、椿が紅で塗るより赤く染まった唇で「大好き」と何度も繰り返すので、観念しきって、大きく息を吐いて瞼を閉じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20-1.夏も近づく八十八夜

 欅の枝先から病葉がほろほろと散る。

 杉皮で葺いた切妻造の茶室に陣取って、象牙の撥を三味線に叩きつける13歳の椿に、躙口をくぐって室に入ってきた父親が声をかけた。

「どうしたんだ、怖い顔をして」

「母様が、お花や三味線や舞にのめり込むのはやめなさいって」

「なぜだ?常盤津節の家元の前に出しても恥ずかしくない腕前と、お師匠がお褒めになっていたじゃないか。父様は鼻が高いぞ」

「お裁縫の段取りもうまく出来ないで遊芸に入れあげるような悪い女の子はお嫁の来てがないって。学課のお勉強ばかりよく出来たって仕方ないって……」

「ははあ、学校の成績表を見られたんだね」

 父は笑いながら不満顔の娘の正面に座った。母は娘にバイオリンやピアノをやらせたかったのに、椿が頑強に三味線とかお琴だとかの和楽器にこだわって抵抗したから辛辣なのだ。三味線が婦女の嗜みとなって久しいが、深窓の姫君である母は、未だにあんなものは芸娼妓の見世物だといい顔をしない。

 それにひきかえ、裁縫は女学校で学ぶ授業の一つで、女の子にとっては、国語や、数学や、外国語を学ぶよりもずっと大切な科目である。

「しかし、母様のご心配ももっともなことだ。もう少し、家政に力を入れてもばちはあたらないよ」

「嫌です」

 椿は撥をべんと強めに叩いた。

「お縫い物は全部()()がやってくれますもの」

「そりゃあ、今はそれで良いかもしれないが」

「つやは私がお嫁に行く時は必ずついて参りますと約束してくれたのよ。だから何にも不都合はありません」

「そうかそうか」

 父は、それなら好きにしなさいと言い、一度嫌だと思ったことには絶対に手をつけたがらない娘の気質を鷹揚に受け入れて、説得するのを諦めた。そして話を学業のことに移した。

「学校では英語しかやらないのか。そうだ、お前もフランス語をやるといい。父様が教えてやろう」

「結構です。フランス人の気取った書き物は性に合いません。近松や西鶴を読まされるほうが余程ましというものです」

「お前はそんなことを言って、若いくせに、旧幕の頃に無かったものは大抵良くないものだと決め付けてしまうのだからなあ」

「母様の受け売りですわ。父様がご執心のボードレールだかマラルメだかの詩を、毎夜聞かせられるのが我慢なりませんのよ」

「参った、勘弁してくれ」

 父が降参とばかりに両手を上げたのが面白くて、椿はようやく仏頂面を解いた。

「さて、父様はこれから客人をお迎えする。お部屋に戻りなさい」

「もう日が暮れるのに?」

「なんでも肌が弱いとかでね、夜にしかお見えにならないお客なんだよ」

 

 椿は父の言いつけに従い茶室を出て、両袖に細竹の垣根を結った門をくぐった。夕焼けが、権勢と富貴の象徴ごとく堂々聳える洋館のみならず、暮ゆく空と樹々と、目に入る世界のすべてを橙色に照らしていた。

 屋敷の炊事や水仕事を担う下女中たちが、木立の間に額を寄せ合ってお喋りしているのが耳に入る。

「以前にもお見えになったあのお客、あれほどの若さで製薬会社の役員を務めてらっしゃるとか」

「齢にそぐわないと言えば、あの落ち着きと見識ぶり!旦那様が驚いていらっしゃったわ」

「それだけじゃないわよ。惚れ惚れするほどの男前なんだから」

「独身なの?」

「独身でも私らと縁付くことなんかありゃしないわよ」

「あはは、違いないわ!」

 下女たちが声を上げて笑った。この場に女中頭がいれば、はしたないと言って注意しただろうが、椿は彼女たちの無邪気な会話を咎める気にはなれない。それに、こんな話を主家の娘に聞かせたことで叱責されるのは、自分ではなくてより立場の弱い下女たちの方だから、椿は誰にも気付かれないうちに急いでその場を離れた。

 大体、父のお客がどれだけ男前だかなんて、椿の関心外だ。

 もともと恋愛事に縁薄い性質である。同級生たちは舞台役者に熱を上げているが、椿は彼女たちが教室に持ち寄る、目鼻立ちの整った美男子の写真など見せつけられても心惹かれない。

 今の椿にとって、母のお腹に宿った新しい命のことを考える以上の重大なことはない。

 椿は姉になるのだ。母の妊娠がわかった時の、両親の喜びがどれほど大きかったか!できれば、事業の後継ぎになれる男の子が良い。もちろん、女の子でもまったく構わない。その時は、自分が婿養子を取ればいいだけのことだから。

 赤ん坊とはどれほどに可愛い生き物だろう。子守唄を唄ってあげよう。抱き締めてあげよう。そして、大きくなったら、絵本を読んであげたり、草花を摘んで冠を作ってあげたり、影ふみをして遊んであげるのだ。

 椿がその場を去った後も、飯炊女たちのお喋りは続く。

「お名前も素敵じゃあない?」

「そうね、名は体を表すというものね」

「気品があって清らかで、まるで月の光のようなお方──月彦様」

 

 

「あの子は大丈夫ですよ」

 玄弥を引き取って十日ほど経った頃のことである。椿は様子を見に来た悲鳴嶼にそう言った。

「多少情緒不安定なところは見えますが、あれは性格でしょう」

「君はそう思うのか?」

「岩柱さま」

 椿に牽制された悲鳴嶼は、少しばつが悪いようであった。悲鳴嶼の腕の中では猫がまん丸の目をこちらに向けてじっとしている。なんとなし抗議されている気分である。

「君が情に流されて判断を誤っていると言うつもりはない」

「あら、なおさら客観的に判断いただかなければ困りますわ。お館様への申し訳が立ちませんでしょう」

「私も問題はないと思う」

 彼は鬼と戦ったと言った。なるほど衣服は破け、血が飛んでいる。であるのに、身体に怪我らしい怪我が見当たらない。不自然だ。何かを隠している。

 とりわけ悲鳴嶼の疑心は強かった。彼は鋭敏な直感を働かせて、玄弥の様子が尋常ではないことを見抜いていた。

 しかし、これ以上は少年を疑いにかける材料に欠いていた。不死川玄弥は多少口が悪くて感情の昂りやすいところはあるが、健やかなよい少年であるという見解において、二人に相違するところはない。

 とはいえ、悲鳴嶼の懸念もまったく根拠のないことではなかった。ともに過ごす内に、椿の中に少年をひたすら可愛くおもう気持ちが芽生えていたのも事実であるからだ。

 椿はずっと昔から弟が欲しかった。

 女友達たちは妹の方が自分たちがかつてやってきた共通の遊びができるからずっと楽しい、男の子は乱暴だし意地悪だ、と言って妹の方をこそ望んでいたけれども、椿はできれば弟が欲しかった。

 玄弥は夫の弟なのだから、これは系図上では血の繋がった弟に限りなく近い。自分の弟と同じに扱って差し支えあるまい。そうした自分勝手な解釈を押し進めて、椿は大いに玄弥を可愛がった。これが血の繋がった弟か妹を得る機会は永久に閉ざされた女の、失われた世界を再構築しようとする虚しい試みと分かっていてもやめられなかった。

 その調子あまって、これは是非、我が家に引き取って世話をしてやろうと、うきうきとして夫に手紙を送ったのに、不死川の返事はにべもなかった。筆圧からは、はっきりとした怒りがひしひし滲み出ていた。

 椿がいますこし冷静なら、こういうことを言わざるを得ない実弥の心境に思いを巡らすこともできただろうが、なんせ正常な判断能力を幾分か喪失していたので、元来の跳ね返りが頭をもたげた。なぜこちらが怒られねばならぬのか、弟が命すら危険にさらして兄に会いにきたのに、顔も見たくないとはどういうことか。それに椿は、二人がお互いに合意して離れて暮らしていると思っていたのに、玄弥は兄の生死すら不明瞭なままでいたという。確かに自分は、彼のいう通り、兄弟というもののなんたるかなど頭の髄からわかっているわけではないが、人の道としてけじめはつけるべきだ。

 

 椿はもう、夫が好きな人にどういう愛し方をするか、よくよく承知していたから、この人が弟を大事にしているのは、どんなにそっけない態度を取っていたとしても理解できる。

 

 弟を鬼殺の道に進ませたくないというのは、非常にまっとうなものの考え方である。しかし、玄弥の方にももう十分すぎるほど情が移っていたので、彼の望みをどうにかしてかなえてやりたいという気持ちもあった。それは自分が来た道だった。かつて、産屋敷耀哉以外の誰も、椿がここまで戦えるようになると信じなかった。箸より重いものを持ったことのない小娘が刀など握って戦えるわけがない、鬼に食い殺されるのがおち、死ぬまで夜闇に震えて藤の香を焚き染めて生きていけ、というわけだ。

 こんなに人を馬鹿にした話はない。戦意を示したものの戦う道を上から押し潰して閉ざそうとするのは、その人の尊厳に対する侮辱でしかない。

 椿にはそういう思い出があるので、いくら内心で、夫のほうがよほどまともな考えをしていることをわかっていても、心憎いばかりの兄の気持ちと、少年の戦う意志を天秤にかけて、後者に肩入れしないという選択がなかった。どの道、どっちつかずでいていいことは何もない。

 しかし、もしも椿にちゃんとした血の繋がった弟か妹がいれば、もうすこし、彼の考えに共感を示してやれただろうか?そう思うと、夫にほんの少し不憫の情が湧いた。

 

 それにしても、夫が玄弥の言うことにまったく聞く耳も持とうとしないのは不思議だった。彼の論理上受け入れられないようなことを椿が言い出しても、とにかく一度は胸の内に入れて、酌量しようとしてくれるのに。

「弟というものを、兄に従うものと決め込んでおるのですよ」

 とは、二子を育てる当家の女中の意見である。

「うちの息子たちも、軍隊ごっこなどするといつも兄が大将をやりたがりまして、弟のお前は兵隊をやれ、という具合でございます。それで日に一度二度は我を忘れて格闘をしだすのですからね、たまりません」

「でも、殴る蹴るの喧嘩をすると言っても、千夜子のお子は九つと七つでしょう」

「長幼の序に齢は関係ありませんよ。いくつになっても兄は兄、弟は弟です」

 これは中々説得力のある意見だった。少なくとも椿が頭の中でああだこうだと理屈をこねくり回すよりはずっと真実味があった。

 一方で、「不死川くんの気持ちはよく分かるわ」と言ったのはカナエである。午後から午前に変わる切れ目の時刻に、不夜城浅草の喧騒を望む隅田川沿いの堤を二人連れ立って歩きながら、よもやまに繰り出した話題に、カナエは深く共感を示してくれた。

「下の子にはできるだけ危険なことはして欲しくないのよ」

「でもカナエは、最後にはしのぶの決めたことを尊重するでしょう?」

「どうかしら」

 カナエはいつになく歯切れが悪い。

 もしもカナエが、自分は戦うけれども、あなたはどこぞの良い男と結婚して、幸せに暮らしなさい、といって手を離したら、しのぶは怒り狂うだろう。怒り狂って、「私は絶対にてこでも動かないぞ」とばかり、カナエの腕を掴んで離さないに違いない。

 そうしてみると、カナエのやることは尊重というよりも、むしろ根負けである。

「しのぶによい年頃の男性がいたら是非連れてきてね。あの子、私が誰を紹介しても気に入らないばっかりなんだから」

「あの子はまだ早いでしょう。第一、あなたが片付かないのに妹が先に、というのは道理が通らないわよ」

「私は結婚しないわ」

 椿が訝しんでカナエの顔を伺った。

「一体何を言い出すの?」

 若い女が結婚をしないで一体何をするのか。仕事のない男、結婚しない女というのは確かに存在するけども、初めからそれらを放棄するのは、俗世を超越したこんな場所に生きる人々の中にあってさえ決して考えられぬことだった。

「私はね、神様に恋をしたの。だから結婚はしない」

 カナエの透き通った眼差しの強さは、これが言い逃れの方便でないことを椿に理解させるには十分すぎるほどだった。

 川の両岸には電気燈が灯り、遠く市街に輝くそれがまるで人魂のように揺らめいて見えた。

「……それ、しのぶに言った?」

 カナエは視線を明後日の方に泳がせた。姉からこんなことを聞かされたしのぶの剣幕は普段の比ではないだろうことは容易に想像がつく。

「でも、椿は私の味方になってくれるわよね?ね?」

「それは……まあ……ええ」

「良かった!」

 椿には到底いい仲裁者にはなれる自信はないが、カナエにはそれで十分だったようだ。

 兄弟の厄介について相談したら、今度は別の姉妹の厄介まで抱えることになってしまった。釈然としない気持ちを覚えながら、椿とカナエは巡回のためにそれぞれ二手に散った。

 やることが山積であった。

 近頃女がよく死ぬ。しかも、これは間違いなく鬼の仕業でしかないだろう、というやり方で殺される。新聞はこんな市中に猪や熊が出るものかと記事を書いているが、これは獣でなくて鬼だ。世間は人間の殺人者の可能性を疑わない。なぜなら人間は人間を食わないからだ。

 およそ二日ぶりに帰宅すると、玄弥は籐椅子の上に行儀悪く足を乗せて、じっと待っていた。

「あなたのお兄様、今日のお昼過ぎには退院するそうよ」

「もう?」

「言ったでしょう、大したことのない怪我なんだって」

 刀傷は重要な臓器は避けて通っていた。常人ならむこう一月は寝込まねばならない大怪我であるが、彼の基準からすればそう大した傷ではない。

 まだ鬼狩りになりたいと思うかとは問わなかった。

 玄弥の思考回路は理解しやすい。誰かが命をかけて戦っていることを知っているのに、自分一人が安全な場所でぬくぬく守られているなんて絶対に許容できない、そういう気持ちはよくわかる。だから、兄が目の前でこういう目に遭うこともあるんだぞ、と示してみせたのは彼の意図したのとはまったく逆の効果をもたらしたわけだ。

「さて、一緒にお迎えに上がりましょうか。千夜子、靴を用意してちょうだい」

 女中を先に玄関先に向かわせる。玄弥はもごもごと口を動かした。

「あのさ、椿さん、ああいうこと誰にでも言わない方がいいと思う……」

「ああいうことって」

「だから……」

 少年は手や首を振って、なんとか言い出しにくいことを言葉にしようと努力していた。

 準備を整えた千夜子が敷居際までやってきて手をついた。

「旦那様のお迎えでございますね」

「ええ、昼過ぎには退院すると連絡があったから」

 玄弥は不思議そうに首を傾げた。

「旦那って?」

「玄弥様の兄御様ですから、旦那様と申しました」

「??」

 玄弥の要領を得ない表情に、千夜子がこれはどうもきっぱりはっきり言わねば伝わらぬと口を切った。

「不死川実弥様は、私のお仕えする女主人のご亭主にあられます」

 女中は一切の誤解を排した明快な事実を述べた。

「……」

「玄弥様、玄弥様?あら大変、椿様。弟様が立ったまま気絶されておられます。……椿様?どういたしましたか、頭など抱えられて」

 

 

 同時刻、風柱邸から半里ほど離れた蝶屋敷の一室では、不死川のそう打たれ強くもない忍耐が試されていた。

「鬼を仕留め損ねて窒息死しかけるってなんだよ。間抜けか?ダセェな」

「柱とあろうものが情けない」

「情けないな」

 宇髄、煉獄、冨岡が、寝台に腰かけた不死川をとり囲んで口々に述べる。もともと遠慮のない間柄である。不死川の短気が爆発するのは順当な末路だった。

「てめェらとっとと出て行け!何しに来やがった!」

 柱が雁首揃えて暇か!と怒鳴りつける不死川に、三人は悪びれもせずこう答えた。

「俺は胡蝶との共同任務があるので、打ち合わせのために立ち寄った!」

「前を通りがかったついでに覗いてやろうと思ってな」

 あくまで実直な煉獄とにやにやしている宇髄を順番に睨みつけた後、不死川は突っ立った冨岡の方に恐ろしい形相を振り向けた。

「俺は不死川が怪我をしたというので、見舞いにきた」

 冨岡が臆面もなく風呂敷に包んだ菓子折りを差し出す。不死川は肩を落としてうなだれた。他人の身を案じて来訪した唯一の男がよりにもよって冨岡義勇だったことは痛恨の極みであった。

「しっかしまあ、お前がそこまでやられるとはねえ。どういう奴だったんだよおい」

「大したことねェよ。俺がヘタを打っただけだ」

 本体を討伐したことで多少気が緩んでいたのは否定できない事実である。ほとんどすべての血鬼術は、本体が死ねば効力を失う。二百年以上も一地方に巣食い生き永らえた狡猾な悪鬼の最後の悪あがきが「ほとんどすべて」にあてはまらない可能性をきちんと想定しておくべきだったのだ……いや、想定していたのだが、対処を誤った。

「それよりも退院したら、弟くんにちゃんと礼言っとけよ。お前が担ぎ込まれてきたときさ、泣いてたぜ」

 隣の寝台で横になっている樋上が、視線だけこちらに投げながらそう言った。不死川は忌々しげに舌打ちした。

「情けねェ奴だ」

「いや、兄貴が目の前で割腹したら普通は泣くだろ……」

 不死川は宇髄のもっともな指摘を完全に無視した。そして、点滴の面倒を見てくれている胡蝶しのぶに声をかけた。

「どうだ」

「この点滴で最後です」

 不死川の回復の速さに、そばについていた看護婦の少女は困惑の色を隠せず、樋上は「化物か?」とぼやいた。

「しのぶさま、お師範さまがお呼びですよー……うわっ風柱さま、人気者ですね!」

 胡蝶の鬱陶しい継子が、ひょいと頭を突き出して賑やかな病室をからかう。

 それを受け、面会はここまでとした胡蝶の一声で、人口密度の高い病室から柱たちが三々五々に散っていく。

 十数分もすると最後の点滴袋が空になった。針を抜いてくれた少女に「世話んなったなァ」と声をかけると、「どういたしまして」と返される。最初の頃は随分怯えられたものだが、出入りを繰り返しているうちに向こうが慣れた。もとより不死川には女子供をいたずらに威かす趣味はない。

 胡蝶はもうしばらく加療の必要があると患者に説いたが、不死川が頑として家に帰りたがったので、当分安静にしていること、太陽の光によく当たること、毎食後処方された薬を飲むことを条件に退院を許した。

 看護婦の見送りを受けて蝶屋敷を後にする。菓子に罪はないので、冨岡の置いていった菓子包みも持ち帰る。ちらりと中を見てみると、銀座の有名菓子屋の最中であった。午前中のうちに売り切れてしまうので、中々買えないのだと妻がぼやいているのを耳にしたことがある。これは椿が喜ぶぞ、と頬をわずか緩めそうになったが、いや待て、なぜ不死川の見舞いに嫁の好きな菓子を持ってくる。それ自体は構わないとしても、なぜ椿の好物を把握しているのだ?やはり冨岡は殺す。

 家までは徒歩で三十分ほどである。

 通りがかった共用井戸のそばでは御新造たちが世間話をしている。物価の上がり幅が著しくてかなわない、豆腐さえ二か月ごとに五厘値上がりすると愚痴をこぼしている。

 家庭の団欒の雰囲気をまとった女たちの姿に、家に帰りたい気持ちがいやでも増した。嫁の作ったちょっとどうかと思うほどまずい味噌汁すら恋しい。自分が不在の間に多少でも料理の腕が進歩しているだろうか。いや、しばらく任務続きだったようだし、まずはこの一月の苦労を労ってやらねばならぬ。玄弥のことは……帰って茶を飲んでから決める。不死川は丸二日も猶予があったのに何にも妙案が浮かばなかった自分の脳みそを恨んだ。

 

 戸口をくぐり御影石を踏んで家に入ると、玄関に上がる前からやいやいと騒ぐ声が聞こえた。

「ごめんね、ごめんねえ、玄弥くん」

「ざっけんなよ!なんっで兄貴が所帯持ちになったなんて一大事を飯炊女から聞かされなきゃならねえんだよ!」

 それで不死川は騒ぎの理由をだいたい察して、座敷の襖を開けた。

「あ、あなた、おかえりなさい!」

 椿が顔だけこちらに向けて、ぱっと華やいだ表情を見せた。玄弥は両腕を振り回して暴れていたが、椿は片手一本で頭を押さえて制圧している。

 不死川が「お前、何も言ってなかったのか」と言うと、椿は「忘れてた」あっけらかんと言った。

「信じらんねえ!忘れるか普通!?」

 一月も一緒に過ごしておいて今更この弟は何を言い出すのか。普通じゃないんだ、この女は。

「てめえはさっきから兄嫁に向かってなんつう口の利き方してやがる」

 とりあえず一発脳天に拳突を食らわすと玄弥は「痛ってえ」と呻きながら畳の上に転がった。

 しおらしくしていたので失念していたが、玄弥は元来えらい癇癪持ちで、自我の張り合いでそう他人に譲ることがない。相手が神だろうが仏だろうが兄だろうが知ったことではない。

「兄ちゃんのバカ……面食い……」

「あ!?」

「怒らないで!」

 椿は実弥に目配せして、自室に戻るよう促し、畳に伸びてる玄弥を二階に引きずっていった。

 一体玄弥は何がどう不満なんだ。兄嫁が美人で嬉しくないのか?

「旦那さま、例えば、例えばの話ですよ」

 千夜子が、不死川の手から菓子折りを受け取りながら辛抱強く言った。

「父親が、苦労を共にしてきた古女房と離縁して、とびきり若くて器量よしの継母を連れてきたら、どういうお気持ちになりますか」

 なんなんだその例えは。最悪というほかあるのか。

 

 自室に戻ると、そこは一月前に出て行く時と変わらず整然としていた。畳の上には塵一つ落ちていないし、机はぴかぴかに磨かれている。

 違うところといえば、時期を過ぎた火鉢が仕舞われていたのと、部屋の隅に畳んだ布団が、主人の帰りに合わせて外に干されたものとみえ、春の日差しを浴びて膨らんでいたことか。

 庭に望む障子は開け放され、そこから新緑の葉をそよがせる爽やかな風が吹き込んできた。

 不死川は縁の下に置かれた飼育箱を取り出した。箱一杯に敷かれた土の上で、前蛹がうねうねと微弱に動いている。不死川は安堵で胸を撫で下ろした。実は、ほんの少しだけ、喧嘩の腹いせに愛虫たちを山の中に埋め戻されている可能性を案じていたのだが、椿は万事指示通りにやってくれていたようだ。不死川は妻をもっと信頼するべきであったと反省した。

 しばらくすると、駄々っ子を宥めすかした椿が、急須と湯呑みを並べた盆を持って戻ってきた。じたばた暴れているのが天井から聞こえる。廊下から二階に聞こえるように「るせえぞ!」と怒鳴ると、ぴたりと物音は止んだ。

「玄弥くんにはね、二階の空き部屋を用意してあげたの。これからお召し物とか、家具とか、色々と揃えてあげないといけないわね」

 不死川は相槌も打たなかった。弟をここから追い出すのをまったく諦めていなかったので、わざわざくつろげるような提案に乗る気がなかった。文字通りの針の筵を用意するのも辞さない構えだ。

「それでね、近々呉服屋さんをお家にお呼びしようと思うのよ。どのみち私たちも夏物の着物を揃えなければいけないし。玄弥くん、好きなお色味はある?」

「本人に聞けェ」

 夫の投げやりな返答を一切意に介さず椿の話は続く。美味しいお菓子を食べさせたい。一緒に東京市内に買い物に行きたい。不死川は、妻の幸せではちきれそうな様子に、抵抗する気力を根こそぎ奪われていくのを感じた。これは早めに手を打たなければならない。

「お前、あいつからなんか聞いたか」

「何かって?」

 玄弥は何も具体的な話を椿にしていなかったようだ。椿の方も、不死川が何も過去を語らぬのに、自分が横からそれらを聞き出すのは公平な行為ではないと思って、控えていたという。

「聞け。俺には弟と妹が合わせて六人いた」

 椿はさすがに驚いて目を見開いた。こうやって自らの過去について語るのは初めてのことである。感傷的な身の上話は不死川のもっとも嫌うところだった。

「五人は死んだ。残った一人が玄弥だ。なあ、たった一人生き残った弟が、死に急ぐのを止めようと思う、俺の考えはおかしいか」

 思いがけず情に訴えるような言い方になってしまったのを後悔したが、一度口に出したものは飲み込めない。椿は小さくため息をついて不死川に向き直った。

「おかしいとは思わないわ。でもそういうことは、私に言うのでなくて、あなたの口から玄弥くんに伝えなさい」

「聞くタマかよ」

「どうして聞かないの?」

「……」

「ねえ、自分の言ってることが受け入れてもらえないって、わかってるんでしょ?ならそれが答えよ。あなたに玄弥くんの生き方を決める権利はないわ」

 自らの生と死に責任を負うのは己一人であり、自己の人生の決定権を他人に委ねてはならない。いやしくも鬼殺隊に身を置くならば誰もが身に染みて通暁しているはずの真理だ。

「鬼殺隊に入りたいなんざ……身の程知らずのグズの分際で……」

「身の程なんか弁えてたら、私たちの誰も鬼殺隊に入ってないわよ」

 椿はあくまで手厳しい。

「あの子、あなたに感謝しているのよ。そうでなければ、あんな苦労をしてわざわざこんなところまでやってきたりしないでしょう」

「はァ」

 心底どうでも良かった。兄が弟を守るのは、水が高きから低きに流れるように当然のことであって、感謝されたり、ましてや後ろめたく思われるいわれは小指の爪垢ほどもない。

「お前はえらく懐かれたな」

「そう見える?」

「甘えてんだよ、ありゃ」

「不思議よね。両手両足を折るって脅したのに」

「何やってんだ……?」

 手紙を読んだ限りでは仲良くやっているのかと思っていたが、どうもさっきの様相を見る限り、玄弥は大して従順でもなかったらしい。

「よく似ていらっしゃるわ」

 椿は膝をついて前屈みになり、夫の顔を覗き込んだ。細い腕が実弥の膝の上に落ちた。

「実は最初はね、見かけあんまり似ているとは思わなかったの。でも、あの子、日輪刀も持たないのに鬼を殺してやるって思い詰めて一人で戦おうとしていたのよ。本当にあなたそっくり……」

 椿はしみじみと血の繋がりというものの強さに感じ入っていたが、不死川の胸に兆したのは失意と悲しみだった。椿がなんと言おうとも、やはり認めることはできなかった。

 

 

 




次話で一区切り、そのあと大人気キャラ上弦の弐さん登場で話を加速させたいです。早く原作時間軸に突入した〜い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20-2.野にも山にも若葉が茂る

玄弥「身内のラブシーンはキツい」


 椿が、「お兄様がここにお住まいになっても良いって」と、弾んだ声で二階に上がっていくのを横目に、不死川は今日中にやるべきことを頭の中に書き出した。刀の手入れ、壊れた戸の修繕、そう、それにお館様への定時報告。これが最優先事項だ。

 重たい腰を上げ、手紙を書くために紙と筆を抽斗から取り出して机の前に向かう。

 不死川はなにもやけになっていたのではない。一縷の望みをかけていたのだ──椿の道楽に弟が感化されてくれるかもしれない、という望みである。

 自分一人では、弟を安穏な生活に向かわせるよう翻意させる望みを抱くことは到底不可能であったろうが、今の自分の隣には椿がいる。彼女は世の中の楽しいことをよく知っているし、その振る舞いで自然と、無学の子供に物事の新しい見方を教えることもできるだろう。このまま刀を持たすのを許さず、気楽な日常に身を置かせて、学問を身につけさせて、一人立ちさせるというのは、夢物語ではなく現実的な手段の一つとして十分考慮するに値した。

 不死川は、突如閃いたこの良い考えに縋りたかった。椿が、もう自分が教えられることは一通り教えたから、あとは当人の努力次第で、そちらで手助けする気は()()はないと言ったのにも大いに勇気づけられていた。

 どのみち、弟をここから追い出すのは棚上げせざるを得なかった。不義理を働いた伯父夫婦の家に戻すこともできないし、ここを追い出して野垂れ死にさせるわけにもいかない。

 上階では、玄弥が俺はまだ認めていないだのやいのやいのと喚いている。

「弟さま、そのように邪険にされずとも……椿さまを姉とお呼びするのがそれほど嫌でございますか」

「わ、私、お姉ちゃんって呼んでもらえるの?」

 椿の声音は抑えきれない甘美な期待に満ちていた。

「呼ぶわけないだろ!バーーカ!」

 玄弥はそう吐き捨てると、荒々しく階段を降りて、兄の部屋の前までやってきた。そして実弥が俺の嫁を罵倒するなと言うよりも先に、「結婚おめでとう!」と語勢も強く言い放って、再度ばたばたと階段を駆け上がって行った。

 大丈夫かあいつは。情緒不安定か。

 部屋に戻ってきた椿は、玄弥の癇癪に呆気にとられて首を傾げていた。

「認めてもらえたのかしら?」

「……多分な」

 手紙は椿に見てもらって、なんにも手入れをするところがないとお墨付きをもらって鎹鴉に託した。女中は帰り、玄弥は完全に沈黙し、椿は家の細々としたことに取り掛かった。春の日の午後はそのように過ぎて行った。

 

 

「あなた、ご飯よ」

 夕暮れを告げる山の寺の鐘が鳴る頃、椿に呼ばれたので戸棚を修理していた手を止めて茶の間へ入る。食膳の上には白い豆腐が鍋の中にぐつぐつと煮えていた。

「湯豆腐」

 食膳の前に正座させられた玄弥は、豆腐と茶碗に盛った飯の他に何もないか膳の上に目線を巡らした。

「こんだけ?」

「穀潰しの分際で出されたもんに文句つけてんじゃねえぞォ」

 玄弥はすんと押し黙って箸を動かしはじめた。実弥は、今まではあまり意識しなかったが、弟と生活を共にする以上は、家長としての威厳をはっきり示さねばならないと考えた。

「そんなことないわ。お山にいるときはご飯の用意をしたり、山女魚を釣ってくれたりしたもの」

「山女魚くらい俺でも釣れる。……おいなんだ、その目はァ」

 玄弥は、嫁に丸め込まれる兄に物言いたげな視線を寄越したが、兄に咎められると「別に」と肩を竦めて、再び椀を手に取って豆腐を掻き込んだ。

 一家団欒とはいかなかった。椿は当たり障りのない話題をこちらに振るのだが、兄も弟も「うん」「はあ」とか別別に答えるだけで、会話らしいものはそこに成り立たなかった。

 湯豆腐は食えたものだった。湯豆腐なんか豆腐を買ってきて、鍋で煮詰めるだけなんだから失敗しようがないと思うだろうが、椿が火加減などという繊細な作業をうまくやれると期待する方がはじめから間違っているのであって、これは彼女にとっては大成功の部類であろう。

「物足りないようなら台所にかき餅があるから、食べておいでなさい。あ、あなたはダメよ。絶食していたんだから、軽いものから始めないと」

 玄弥はちょっと迷った末に、台所に向かった。

「お前、あいつを──」

「甘やかすなと言いたいんでしょう?」と椿が先回りした。

「わかってんじゃねえか」

「どうせあなたが厳しくするのだから、私は優しくしてあげようと思って」

 皿を片付けながら椿が言う。

「芯がしっかりしてる子だから、甘やかしてだめになったりしないわ。それに、あのくらいの年頃の子って、これをやりなさいとかあれはだめだとか上から強要される分だけ反抗するものでしょう?」

 不死川はがくりとうなだれた。頭を冷やすと、椿の言うことはいちいちもっともなことのように思えた。

「椿」

「はい、なあに?」

「……苦労かけて、悪い」

「もう、謝らないでって、何度言わせるの」

 それから一緒に夕食の片付けをして、順番に風呂に入り、隣同士に布団を並べて、久しぶりの夫婦生活の幸福を味わった。

 不死川は太陽の光をよく浴びるように、とお達しが出ているため、しばらく昼型の生活になる。

 しかし、椿にはそんなことは関係ないので、明朝には鴉に呼び出されて任務に赴くことになった。彼女は夫が復帰するまでの間、彼の定常の警戒区域を他の柱や隊士と分担して受け持っているのだ。

「明日からは、午前中に千夜子が帰ってしまうから、晩ご飯の用意はお願いね」

「ああ」

「それから、私がいない間もご機嫌良くしておくこと」

 遠まわしに弟に突っかかるなと言い含められるのは不本意だったが、心労をかけるのもそれはそれで本意ではないから「わかった」と頷く。椿は表情を綻ばせて不死川の腕の中に収まり、自分よりもやや高いところにある夫の顔を近寄せた。

「いってらっしゃいのキスをして」

 望み通りに額に口付けて抱きしめてやる。抱擁した身体は柔く、どうしても大切にしてやらなくてはならない──と思うものの、不死川にしてやれることはなにもない。彼女は今から自分のいない戦地に赴いて、腰に差した刀で、鬼を殺しにいくのである。

 不死川は門口に立ち、小さくなっていく妻の背中を見送った。

 二階の窓からこちらを見下ろしていた玄弥が、部屋の柱に何度も頭をぶつけるという奇行に走っていたのは気付かなかったことにした。

 

 

 早朝は霧のような雨が降ったが、日の出から二時間も経つ頃にはすっかり晴れた。外から雲雀だか燕だかのさえずりがうるさいほど聞こえ出し、植込の連翹の黄色が目に鮮やかだった。

 玄弥は穀潰し扱いを返上しようとしてか、誰に言われるまでもなく庭掃除に勤しんでいる。

 現実問題として、この邸に男手が増えるのはありがたいことである。

 女中の千夜子は邸には住まずに、自宅に老いた母と二人の子があるということで、そこから通ってくる。あとは近所に住んでいる老女が掃除をしにくるくらいである。人手の足りていないこと甚だしい。鬼殺隊から寄越された下男は、不死川が独断で早々に解雇してしまった。

 これについてはかなり揉めた。家を維持するのにはどうしたって力仕事のできる男手が必要なんだというのが椿の言い分だった。

「俺がやりゃあいいだろ」

「あなたが働き者なのは認めるけれど、手が回らないでしょう。大体、何が気に入らなくて彼を雇い止めなさったりしたの」

 隠の父親を持つというこの下男は、細かいことによく気が利く、使用人としてはいささか出来過ぎなほど優秀な男だった。特段の落ち度もなく、何より茶の道だとか華の道だとかに良く通じていて、椿にとっては話甲斐のある相手だった。

 ようは妻と他の男が一緒にいて、自分の知らない話題で盛り上がっているのが嫌だったという愚かな嫉妬心だったのだが、流石にこれが情けなくみっともないことの自覚くらいはある。

「そこまで頑なに拘るのだったら、構わないけれど」

 不死川が口を割らないでいると、椿はそれ以上追求することをやめてしまった。しかし、内実の理由はなんとなく察されていた気がする。椿はその日一日機嫌が大層良かった。

 それにしても二人の間には、主にその育ち方の違いに起因する、埋め難い溝があった。

 不死川には実生活でも戦いの場でも、誰かを頼みにするという発想があまり湧かない。家族の中にあっても仲間の中にあっても、ほとんどの人間との関係において、不死川は相対的な強者であった。自分のことはなんでも自分でやらなくてはいけなかったから、他人に何かを頼むというのが収まりが悪くて落ち着かない。

 椿にもそういうところがないとは言わないが、実生活上のことに関して言えば、包丁の切れが悪いなら刃物屋に、鍋の底に穴が空いたら鋳掛屋に、下駄の底が擦り切れたら歯入に頼んで直してもらえば良いという具合である。多く使える財を持っている人間は、その財で他人を養う義務がある、というのが彼女の持論で、これは確かに筋が通っている。ただ、不死川がそういう生活習慣と縁のないところで生きてきた人間だったから馴染めないだけだ。

 椿は不死川の習慣を強いて変えさせようとはしなかったが、前から馴染みの職人に、仕事を依頼して手間賃をくれてやるという彼女なりの流儀を曲げることもなかった。

 よって、不死川は、下駄箱に底の擦り減った足駄を見つけた時、妻のやり方に歩み寄ろうとした。自分で直すこともできたが、それよりは、筋違いのところにある下駄屋に持っていくことにしたのである。

 店の軒先に近づくと、表に筵を敷いて座っている男がこちらに気付いて挨拶をした。

「調子はどうだ」

「まあまあだ」

 店先で草履を編んでいる中年の男は、二十年ほども前は鬼殺の剣士だったと聞くが、鬼との戦いで両足を膝下から切断した。それ以来、下駄の歯入れだの草履の裏付けだのの仕事で得られるわずかの収入で生計を立てている。本人は、自分は履物の要らん身になったので、今後は死ぬまで他人の履物の世話をするのだと言って笑い飛ばしており、聞いた方は笑ってやれば良いのか痛ましい顔をすれば良いのか判別しかねるところであるが、本人はこれを諧謔だと思っているらしい。余裕のある暮らしぶりには見えない。隊から年金を受け取ってもう少し楽をすることもできるのだが、自分に与えられる取り分があるならもっと困っている別の誰かにやってくれと固辞しているのだという。

「ようやく郷から身内を呼んできたのかい」

 不死川は、相変わらず噂の出回るのが早いと思った。

「うるさくてかなわねェよ」

「賑やかなのは良いことさ」

 自分より二回りも年上の、やもめ暮らしの男にそう諭されては黙るよりない。不死川は職人の仕事が済むまでの間、無造作に置いてあった木の箱の上に座って待つことにした。

 よそから鬼殺隊に入りにくるのは多くは天涯孤独だったが、身内のあるものは呼び寄せて一緒に暮らすのが多い。鬼狩りは人間であり、人間が生活する以上、井戸から水を汲まねばならぬし、火を焚くために薪を燃やさねばならぬし、飯を用意しなければいけないし、大工も要るし、医者も要る。これらすべてを賄うには、隠だけでは手が回り切らないが、鬼狩りは所在を秘匿するから、外部から人を呼ぶのも難儀である。そこですでに素性が割れていて事情を知った者を労働力に当て込むわけだ。閉ざされた共同体の中で、完結した経済を営むための苦肉の策とも言えるし、雇われる方も、たとい家族である隊士が死んでもここにいれば何かしら仕事を回されて食いっぱぐれることはないから、誰にとっても都合がいい。

「お嬢さんは元気にやってるかい」

「まあな」

「そりゃなによりだ」

 この男は鬼殺隊に入ったばかりの、まだ少女だった時の椿を知っているのである。

「ここに来た時は銀貨と銅貨の区別もままならならんかった子が人妻とは立派になったもんだね。いや人間進歩するもんだね。それに、よく笑うようになった」

 男は昔から顔馴染みの少女の成長に深く感じ入った様子だった。不死川にはいまいちぴんと来なかったが、椿が昔よりもよく笑うようになったのなら、それで十分だと思った。

 

 

 それから二日が経った。機能回復のための訓練を一通りこなして、そろそろ復帰しようかという頃合である。

 朝飯の用意のために台所の竈に火を起こしていると、ふいに玄弥が現れた。

「兄貴、手伝う」

 実弥は無言で竈の前から退き、弟に火の加減を見る仕事を任せて、流し台で野菜を切り始めた。

 互いに無言だった。口を開いたのは玄弥の方だった。

「いつ結婚したんだよ」

「去年の末」

「……早くね?」

「そうか?」

 自分の方は、確かに平均よりもやや早いかもしれないが、椿はこれ以上歳を食うと行き遅れになる。

「椿さん、いい人だな……」

 そう思うなら態度を改めろ、と言いかけたがやめた。玄弥の椿への当たり方は、嫌っているのではなくて、むしろ強烈な甘えたの発露であった。実弥は、玄弥の母性恋しさに対して想像を巡らすべきであったが、なんせもとがそれほど細やかに気を回せる性質でもないと自負しているから、いかんともしがたかった。

「まあ全然意外じゃないけどな。兄ちゃん、昔から器量良しが好きだったし」

「へえ、そうなの」

 ここにいないはずの人間が不穏な調子で相槌を打った。

 実弥は背筋に寒いものを感じながら振り返った。椿が勝手口の方に、格子窓から入る朝陽に照らされて気配もなく佇んでいた。

「いつ帰ってきた」

「ついさっき。予定よりも早く任務が終わることになったの。冨岡さんが、後はやっておくから、もう帰りなさいとおっしゃって下さって」

 鴉に連絡させたはずだけれど、気付かなかった?と椿が言う。玄弥はあさっての方角を向いて知らん顔をしている。鴉の連絡を手元で差し止めていた犯人はこれで明白である。

「それよりも、なんだか面白そうな話をしているのね」

 椿は心なしいつもより光の失せた目をひたと不死川に据えた。

「与太話だ、本気にすんなァ」

「でたらめじゃねえよ。いつも仕事帰りにわざわざ二筋手前の横丁を通って帰ってたの、煎餅屋の看板娘が見たかったからだろ。兄ちゃんあそこ通る時、いっつもあの子を見てた」

 玄弥は半目で兄の過去の遍歴を暴露する。

「違っ……、テメェ口を閉じろ!」

「どうして大きな声を出すの?別に気にしてなんかないわ。昔のことだものね」

 椿はいやに物わかり良さげな態度で、朝飯の準備を手伝うために服を着替えに行った。

 夫婦に不和の種を撒いた張本人は、素知らぬ顔どころかむしろ呆れた目つきで二人を眺めている。ここで玄弥に当たり散らかすことは容易いが、事態が悪化するだけのことである。不死川はぐっと耐えて、引き続き食事の用意を進めた。朝飯の席では、椿と玄弥が、春大根とねぎの味噌汁と豆の煮物を食いながら楽しそうに喋っていた。

 椿は風呂に入った後、布団の上に正座して、真珠を嵌め込んだ櫛で髪を解かしながら、朝の雑事を終えた夫を待ち構えていた。

「怒ってるか」

 不死川は清潔な布を持ってきて、いつもよりさらに優しい手つきで、風呂上がりで湿った妻の髪を包んで乾かした。

 彼の女性遍歴は、すべて結婚する前のことで、世間の道義に照らし合わせれば、後ろめたい気持ちになる必要は何もない。椿だってそういう理屈がわかっていないわけでもないだろうが。

「怒ってないわ」

 椿はつんと取り澄ましている。

「ただ、私は好きになったのも()()()()()のもあなたが初めてなのに、あなたは私が初めてではないのは不公平だと思っているだけ。……どうして笑うの」

「笑ってねえよ」

「嘘。笑ったわ」

 椿は後ろのめりになって夫を押し倒した。組んず解れつの取っ組み合いしている内に、不機嫌は霧散し、何で争っていたのかはどうでも良くなり、椿は子供のようにくすくすと笑って、夫の身体に身を寄せた。

 その日の夕食時、玄弥は顔を合わすなり、気味が悪そうに「兄貴、顔が気持ち悪い……」と言った。ついに堪忍袋の緒が切れた不死川は、もう遠慮する気も完全に吹き飛んで、弟の足を掴んでぎりぎりと絞り上げた。玄弥は「痛いってマジで痛いって」と喚き散らして抵抗し、椿は「仲良しっていいわねえ」とのんきに言って、しゃもじで御櫃の飯をほぐしていた。

 

 

 

 まもなく不死川は戦線に復帰したが、それほど忙しくならなかった。藤の花の季節がやってきたからだ。

 藤棚から紫の花房が目一杯に溢れ出すこの時期は、一年を通して鬼の活動が最も低調になる。鬼殺隊にとっては、正月よりも盆よりも一息つける時節というわけだ。

 柱も交代で休暇を取る。

 煉獄は連日歌舞伎座に芝居見物、悲鳴嶼は俳人の邸宅まで尺八を吹きに行き、宇髄は三人の嫁を引き連れて北関東に足を伸ばして温泉巡りと洒落込むらしい。

 胡蝶は医療施設を預かっている関係上、泊まりがけでどこかにいくことはしないが、妹や看護婦たちとともに、東京市内を電車に乗って観光して回った、日の高いうちに賓頭盧の頭を撫でて徐厄の功徳を積み、日が落ちてはお地蔵の縁日に参ったのだと言う。

 不死川はせいぜい昆虫飼育を楽しみにするくらいが関の山の、没趣味な男なので、お彼岸に出来なかった友人や仲間たちの墓参りを済ませた後は、なんにもやることがなくなり、いつも通り鍛錬に励んでいた。不死川は休みなんぞ欲しくはない。

 ただ、嬉しいのは妻がずっと家にいてくれることで、休暇の初めには彼女に連れられて能楽を観に行ったり、里山を散歩したり、ご飯ごとに今日の朝はこんなことがあった、昼にはこんなことをした、夜はこんなことをすると喋るのを聞くのが楽しかった。

「今日は玄弥くんと一緒に三越に行って、盛花の展示を見てきたの。それからお蕎麦をいただいて、お寿司屋さんにも寄ってね……」

 食べ過ぎだ。通りで玄弥が夕食の席に姿を見せないわけである。椿は細身の見た目によらず良く食う。晩飯の膳には土産の稲荷寿司が上がった。

「玄弥くんはよい感性をお持ちだわ。自然の風韻を尊ぶことをきちんと理解しているもの」

「そうかよ」

「もう、少しは褒めて差し上げて」

 自分には、椿が盛花に理屈は禁物だの自然本位であるべしだのと滔々と語っていることが全部右から左に突き抜けて行ったが、玄弥は違ったらしい。今は椿に買い与えられた真松や石榴の鉢植えを二階の窓枠に置いて育てている。こんなもんの世話をしている暇があったら勉強しろと、全部地面に突き落として叩き壊してやりたい衝動に駆られたが、椿がほとんど軽蔑に近い視線を投げて寄越してひき止めるのでやめた。

 なにもかも思い通りにとはいかなかったが、おおむね不死川の望んだ通りの日常が過ぎて行った。

 当初不死川は、弟の学課のあまりの出来の悪さに、この数年間一体何をしてきたのかと切れ散らかした。近所に住んでいた、尋常科の元教員を家に呼んで見させたところ、さすがに読み書きができないほどの愚かではないが、進学できる見込みはまったくないと評価されたのである。

「遊んでねぇで勉強しろ、この馬鹿!」

 弟には学で身を立てられるようになってほしいという兄心ゆえの怒りだったが、椿が、今日び、大学を出て学士様修士様になったところで良い勤め口が得られなくて難儀している若者が山ほどいる、手に職をつけるのも悪くないのでないか、ととりなすので一旦は矛先を収めた。玄弥は学業を疎かにしていた自覚はあったらしく、怒り散らす兄を前に抗弁の余地もなく、吐きそうな顔で俯いていた。

 椿は、玄弥を机に向かわせることはとっくに諦めていて、花鋏を持たせて庭の樹花の世話をさせている。そして近所の植栽を切り揃えさせて、駄賃に小銭をもらわせたりしていた。確かに、この調子で園丁にでもなれる腕をつけてくれたら、言うことはなにもないのだが。

「そうそう、日本橋に初鰹を出す美味しい料理屋があるらしいの。それに、その近くにある茶商は静岡で摘んだ茶葉を次の日には仕入れているのですって。今なら丁度、八十八夜に摘んだお茶が並んでいる頃よ」

 八十八夜に摘む茶葉とは、その年一年の息災を願う縁起物である。

「……行くか?」

「うん!」

 椿は嬉しそうに頷くと、二階に向かい、部屋に篭っている玄弥に声をかけた。

「玄弥くん、お兄様が市内に連れて行ってくれるのよ。一緒に行かない?」

「行かねー」

 今日行ってきたばかりだろと、玄弥はまるきりふてくされた駄々っ子の調子である。

「またアイスクリームを買ってあげるわ。おいしかったでしょう」

「いいって、二人で行ってこいよ」

 懸命に食い物で釣ろうとしている椿だが、玄弥にあるのは気遣いの色であった。

 不死川も椿も明後日にも休暇を終え、任務に戻ることになっている。せめて夫婦水入らずで過ごさせたいという思いやりを汲んだ不死川は、弟の成長を感じてしみじみとした気分になった。

「玄弥くん、いかないって……」

 椿はよっぽど三人で行きたかったのかやや沈んだ面持ちだった。不死川が宥めようとして「まだ次にすりゃいいじゃねえか」と言うと、「次なんかあるかどうかもわからない」と返された。それはそうだが。

 それでも、翌朝に汽車に乗る頃には大方持ち直して、車窓の田園風景を眺めながら楽しみねえとはしゃいでいた。

 東京市内に出るには、一番近い駅から鉄道を使う。終点まで二時間はかからない。そこからは、大した距離ではないから、停車場から徒歩で目的地まで向かう。

 天気の良い初夏のこの日はうっすら汗ばむほどの陽気で、街に連なる建物は地面に濃い影を落としている。

 二人とも暑さに根を上げるほど柔ではないが、道端の木陰に井戸があったので、そこで少し涼んでいくことにした。不死川は手拭いを水に浸して絞り、妻の額や首筋に浮いた汗を拭ってやった。

 そうしていると、井戸の周りで休んでいた車夫の中から一人、人相の悪い男がこちらに寄ってきて、「ご婦人、いかがだ。お安くするよ」と言って、人力車をしゃくって示したが、椿はやんわりと断った。

「ありがとう。でも結構です」

「しかし、そんな華奢な足駄では、鼻緒が切れんか不安にならぬか」

「もしそうなったら、夫に背負ってもらいますもの」

 不死川は不意を突かれた。かつて椿が、瀕死の怪我を負っても頑に不死川に背負われることを拒否したことを思い出したのである。あの頃の彼女なら、たとえ地面が焼けていても自分の足で歩くことを選んだに違いない。

「あら、なんだかご機嫌ね」

「別に」

 日本橋の大通りは、中折帽を被った紳士とか、文士風の痩せた男とか、島田に結った若い女とか、絹の手袋をした婦人とか言った、あらゆる種類の人間でごった返している。

 信号待ちをしていると、派出所の前に直立する巡査が、不死川の風采をけしからぬとみたのか、じろりとこちらを睨めつけてきた。このまま向かってくるかと思われたが、椿が不死川の腕を組んで、にこりと微笑みかけたので、巡査は意表をつかれて、あわてて前に向き直った。

「いつもこうなんだから」

 椿は立腹気味だったが、不死川は彼女の言う通りいつものことなので特に気に留めなかった。それにしても妻と一緒に歩いていると、警官に職務質問される回数が激減するのは動かし難い事実であった。

 不死川は通りに並ぶ宝石商や唐物屋を指して椿に尋ねた。

「お前、ああいうのは欲しくねえか」

「ううん、いらない」

 椿は店先に並ぶ、瑪瑙の指輪にも、珊瑚の首飾りにも、本鼈甲の簪にも、いずれにも心を動かされた様子はない。結婚してそれなりに経つのに、こうした装飾品の類を妻に買い与えてやれていないのは、夫として忸怩たる思いが募る。しかし、彼女の判断を仰がないで、自分ひとりで品を選んだのでは、妻の美的感覚に沿える自信がまったくないので、おいそれとそんな冒険には踏み出せなかった。

「それよりも、お昼ご飯を食べに行きましょうよ」

「わかったわかった」

 不死川は椿の希望を順番に叶えてやった。昼飯に初鰹を食っておいしいうまいと言い合い、茶商に寄ってはまったく茶葉ごときに色々な名前をつけて売るものだと感心した。

 それから二人は川沿いを下った。土手の木々は滴るような緑、日の光に輝く水上に河船の往来は著しく、空気に都会の工場から排出された粉塵が混ざっているのを差し引いても、昼下がりの散歩にはもってこいの麗かな気候だ。

 橋を渡ると、町並みは次第に、日稼人足などが住う木賃宿街へと移っていく。瓦を葺いている民家などここにはひとつも見出せない。不死川にはたいして面白くもないさびれ果てた下町だったが、椿の目は、広重や北斎が描いた江戸の風致をそこに見出そうとしているようである。彼女が見たがっていた芭蕉の句碑なども、こんなつまらぬものかと思うほど小さかったが、それでも非常な感銘を受けたらしい。椿は老樹が鬱々と茂る平凡な境内を探索して、男谷某とかいう幕末の剣士の墓を見つけて手を合わせた。

 ここで終わっていれば、素晴らしい良い休日で終わっていたものを、次に出発する汽車に間に合わせるために、電車に乗って戻ろうとしたのがいけなかった。

 座席に座っていると、前に立つ禿男が、しきりに椿の顔にちらちら視線を走らせるのである。不躾な態度に不死川が口を開こうとするより一歩先に、男が確信を持って声をかけた。

「もし、二階堂の御令嬢では」

「人違いでございましょう」椿が微動だにせず、早口に言った。

「何をおっしゃいますか、そのお声を聞いて確信いたしましたよ。いや、ご健在とは思いませなんだ」

 椿は、言い逃れが不可能と悟って、ぎこちなく笑うことでなんとか男の追求を交わそうとしていた。

「お屋敷が燃えたのは残念なことでございました。お父君は当世屈指の宋磁の収集家でしたのに……とりわけご所収の下蕪瓶は二つとない希少な品で……惜しいことでした」

 不死川は男の言い草に鼻白んだ。人が死んだことよりも、骨董品が焼失したことのほうがよっぽどの重大事と言わんばかりだ。悪意がないのが余計にたちが悪い。

 一刻も早く御免願いたいものだが、生憎電車の中である。逃げ場がない。

「ご生前のお父君から、お代を頂いた品物を預かったままになっておるのです。是非、店にお越し下さい」

「それは……でも、汽車の時間が……」

 椿は気の塞いだ様子で夫の方を伺った。

「嫌なら行くな。行きたいんなら、一本遅らせりゃァいいだけだ」

「なんだお前は」

 男は横から口を挟んだ不死川を不審そうな目で見つめた。

「私の夫です」

 椿が不死川の手を握りしめて、うってかわってはっきりとした口調で言うと、男はなにやら一瞬のうちに頭の中で勝手に物語を組み立てたらしく、得心したような顔つきになり、「はあそうでしたか、失礼しました」とかしこまって禿頭を下げた。落ちぶれた先でやくざ者に拾われたとでも見たか。さほど的を外した妄想でもないが。

 椿は迷った末に男の提案を受け入れた。男に先導されるまま電車を降り、しばらく通りをいくと、木札に流麗な文字で古美術と堂々書きつけた商店がある。男は入り口の硝子戸を開けて二人を招き入れた。棚には骨董が物々しく並んでいる。地べたに近いところに置いてあるのは、美術品というよりも、むしろ徳川時代の遺物と思しきがらくたと思われた。

 不死川が手前に置いてあった壺を手に取ろうとすると、男が鋭く制した。

「触らんでください、そいつは値打ちもんです」

「こいつがかァ?」

 不死川が手を伸ばしたのは、気に入ったのではなくその逆で、なんとなく嫌な気配を感じたからだ。作り手の妄執が染み付いているような陰気である。こういうものが評価されるのは、好事家というのは本当にわからない。

「どうだ」と椿の意見を伺うと、彼女は「浜に打ち上がった死んだ魚のようで好きになれない」と言った。よくわからないたとえだが、褒めていないことは間違いなく、意見の一致を見ることが出来た不死川は満足した。

「どうぞ、こちらです」

 男は店の奥から桐箱を持ち出して、うやうやしい手つきで箱を開けた。中に入っていたのは、掛け軸仕立ての、花と番の鳥を描いた画であった。椿は目を見張った。

「これは曙山の……」

「はい、秋田蘭画の逸品です」

 男は、椿がすぐにその画の真価を理解したので満足そうだった。

「中々市場に流れてこないので難しいと申し上げたのですがね、娘が気に入りの画家だから、草の根を分けてでも探してこいとお求めになられたのですよ」

 椿は一言も口を利かない。まるで上の空に見えた。不死川にはかける言葉が到底見当たらなかった。

「良いお父君でしたね」

 男の声には心底からの温かみがあった。思えば注文主が死んだなら、誰にも知られず代金を着服して他に売り飛ばしても良かっただろうに、今の今まで手元に残しておくとは義理堅い男である。

「いいえ」

 椿は微笑んでいるのに、今にも泣き出しそうで、そのくせ瞳には涙一粒浮かんでいなかった。

「大嫌い」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

未来編
父なるもの、母なるもの


本誌にて鬼滅の刃が無事クライマックスを迎えましたね。完結おめでとうございます。
原作最終話記念に、当作も最終話(仮)を公開しようと思います。
「僕の考えた最強の不死川兄の余生」です。お楽しみいただければ幸いです。


 昭和二年一月某日。

 

「雪子」

 

 小学校の校庭で遊んでいる子供たちの群れに向かって、その名前を呼びかける。すると、子供の中から一人、その名の示す如く雪のように白い肌と髪を持つ少女が、兄様、と俺を呼びながら駆け寄ってきた。優しくて、美しくて、賢い、俺の自慢の妹だ。

「寒くないか」

「平気よ」

 妹に襟巻きと手袋を付けさせて、俺たちは並んで歩き出した。

 まだ大災害からの再建の途にある東京の街並みに空風が吹き抜ける。空には絶えず金槌の音が響く。昭和の年の正月は明けてまもない。

 

「よう、不死川」

 

 家への帰り路に着いた俺たちの横を自転車が通り過ぎたかと思えば、角を曲がる前にキッとブレーキをかけて停止した。同じ中学に通う、同級生の宇髄である。

「妹のお迎えか?毎日よくやるねえ、お前も」

「うるせーよ」

 宇髄には父親が一人、母親が三人いる。この複雑な家庭環境を聞かされた人間は口を揃えて「いやおかしいだろ、母親は一人しかいないはずだろ」と言う。確かに、生物学上の母親は三人のうち一人のはずだが、宇髄はどの母親が自分を産んだのかなんてことには関心がないらしく、三人の母親を、差をつけずに大切にしている。

「こんにちは」

「おう雪子ちゃん、今日も可愛いな」

「雪子、こんな奴に挨拶なんかしなくて良い」

 妹は悲しげに眉尻を下げた。

「兄様、どうしてお友達にそんな意地悪を言うの?」

「妹の教育に悪いぜ、不死川よお」

 宇髄はにやにやしている。殴りたい。こいつにはこういう調子で人の神経を逆撫でして楽しむ悪癖がある。しかし、この程度で付き合いを止めるような浅い腐れ縁でもない。砂場でブリキのおもちゃを取り合っていた頃からの付き合いであるからして。

 宇髄はポケットからこれみよがしに、何かの観覧券らしい紙切れを見せびらかしていた。

「また女の子にもらったのか」俺は呆れて言った。

「誘われたんだよ」

 宇髄は背が高くて、顔が良くて、運動神経抜群なので(改めて列挙するとなかなか腹の立つ男だ)、近くの女学校の生徒から毎日のように恋文を貰っている。俺だって背が高くて運動神経が良いことは同じだが、俺が彼女たちに少しでも近寄ろうものなら最後、蜘蛛の子でも散らすように逃げていかれる。仕方ない。俺の上背と顔が怖いのはわかってる。責める気はない。

 宇髄はまあ、こういう奴なので、周りからやっかみを受けることもままあり、上級生に体育館裏に呼び出されて囲まれて詰められることもあるんだが、俺が加勢するまでもなく一人でやっつけてしまっている。宇髄は親父さんから、後遺症が残らない程度にできるだけ人間を痛めつけてとっちめる方法とやらを伝授してもらったらしい。宇髄の親父さん、何者だよ。

 宇髄と別れて、俺たちは引き続き帰路を歩く。

 大地震でひどい被害を受けた東京市内のこの一帯は、一旦地ならしされて完全に生まれ変わった。建物も樹木も電信柱もすべてが新しくなり、かつてはあまり見られなかった西洋料理屋や舶来物を仕入れる洒落た雑貨屋が当たり前に並んでいる。かつての江戸の町を偲べるものは何も残っていないと、風流を知る古老は嘆いている。

 しかし、たとえ魚河岸が日本橋から築地に移るような天変地異が起こっても、変わらずにこの地に受け継がれているものもある。頭が少し欠けてしまったこの路傍の石地蔵は、自分が幼い時と変わらずそこに直立して人々を見守り、願掛けの絵馬や錦の奉納が絶えないこの光景も昔のままなのだと、父は息子と娘にそう語った。

 時代は移ろう。風に吹かれて紙屑が宙を舞う。道端の植え込みには、新聞の切れ端が引っかかっている。それは皇太子の践祚を伝える、数週間前の記事だった。

 

 

 先月の年の暮れに聖上が崩御した。

 俺は明くる日に、街角の新聞売りから号外を一部買って家に戻り、家族みんなの前で紙面を広げた。そこには新しい元号が記されていた。

「新しい元号は『昭和』だって。変なの」

 耳慣れのしない単語に、俺が忌憚無い感想を述べると、母がこう答えた。

「大正に移った時も、みんな「変なの」って思ったわ。ねえ、あなた」

「明治が長かったからな。あんときは元勲が腹切ってえらい騒動だった」

 父はそう言って、味噌汁を啜っていた。

「お茶を入れましょうか」

「頼む」

 俺の父と母は、とても仲良しの夫婦だ。

 父は日雇いの職工をやっていて、母は近所の子供に三味線を教えている。

 一緒に外に出かける時はいつも手を組んで、寄り添いあって離れることはない。公序良俗に反してるだなんて怒られたりしないのは、みんな、母が顔面を半分も眼帯で覆っているのを見て、なるほど奥方は盲人なのだな、それでご亭主が腕を取って引いてやっているのだ、と好意的に解釈してくれるからだけど、俺は知っている。母の目はばっちり見えてる。いい歳して付き合いたての中学生男女みたいにべたべたしていたいだけだ。

「あなた、そういえばね、お向かいさんが歳の市の後始末を手伝いに来てもらえないかって。どう?」

「明日だな、わかった」

 父は母から湯呑みを受け取りながら言った。

 今でこそご近所は父をとても頼りにしているけど、それまでは顔面を横切る古傷と手指の欠損という見た目のせいで随分損をしてきた。ここに引っ越してきたばかりの頃、二人が挨拶のために近所の家を訪ね歩いたところ、父がいるとみんな警戒して表に出てきてくれない。やむをえず母が一人で挨拶回りをした。

 それでも、父はすぐに物腰が丁寧で仕事が早いと評判になったし、母は上手に三味線を教えて子供たちに好かれたので、そう時を置かずに周囲の目は変わった。今ではすっかり地域に馴染んでいるが、子供たちについて言えばいまだ父を大層怖がっている。しかしそれは、悪ガキに手を焼いているおかみさん達にとってはもっけの幸いで、悪さをした子供を諭すときに「今度おいたをしたら、不死川くんのお父さんに怒ってもらいますからね」というと、覿面に効くのだという。父はそれを聞いて大爆笑していた。

 そういえば、自分の強面は完全に父親譲りだと思っていたが、母の言うところによると、むしろ父の弟の方に良く似ているらしい。

 見せてもらった写真は、昔住んでいた家の庭で撮ったと見られ、見知った面々の中に、奇抜な髪型をした少年が、今も昔も相変わらずきれいな母に肩を抱かれて佇んでいた。これが父の弟だ。確かに、言われてみれば、俺と似ているかもしれない(俺はこんな変な髪型じゃないけど)。今よりもだいぶ若い父は、みんなと少し離れたところに片膝を立てて座っていた。

 

「この子のこと、忘れないでね」

 

 不死川玄弥。一度も会ったことのない、俺の叔父さん。どんな人だったんだろう。母は「兄想いの、とても優しい子だったの」と言う。会って、話をしてみたかったな。

 ご近所さんは興味本位で、父と母がどういう経緯で一緒になったのかと、二人の過去をそれとなく息子である自分に尋ねるが、俺に聞かれてもよく知っているわけではないから答えようがない。

 二人は自分たちの昔の話をあんまりしない。俺や雪子の進路の話とか、今年はどこに旅行に行こうかとか、天候に恵まれたから次に出回る林檎や梨はおいしいだろうとか、未来のことばかり話そうとする。

 かつて謎に包まれた両親の過去を知るための手がかりはないかと、仏壇の過去帳を捲ったことがあるが、幼い齢で死んだ子供の名前がたくさん並んでいたのに心が痛み、それ以来、詮索することはなくなった。

 確かなことは、二人とも、毎朝早く起きて仏壇に手を合わせること、しょっちゅうお墓参りにいくこと、そして、毎日毎日、誰かの月命日だからとお供えをしていること。そのくらいだ。

 

 

「ただいま」

「おかえりなさい、寒かったでしょう」

 兄妹が声を揃えて呼びかけた時、母は茶の間の火鉢の灰をかきならしていた。

「お手紙が届いているわよ」

「俺に?」

 母の言いつけに従って雪子と一緒に手を洗った後、茶の間に戻る。卓袱台の上に置かれた、上品に封緘された封筒を見て、俺はそれが誰からの手紙か一瞬で理解した。

「輝利哉くんからだ」

 封を開けて手紙を読む。元気にしているか、勉強に励んでいるかと、こちらの近況を問いかけるとともに、妹のくいなが近日中に結納するのだと伝えていた。

「くいなちゃん、結婚するんだ」

「お相手は酒蔵の御曹司様だそうよ。本当におめでたいことね」

 母はよく知った女の子の慶事を心から喜ぶとともに、早速、お祝いに何がふさわしいかあれこれ考えていた。

 かつて俺は、輝利哉くん、それにくいなちゃんとかなたちゃんの三人のことを、本当の兄さんと姉さんだと思っていた。そのくらい、一緒に暮らしているも同然に頻繁に互いの家を行き来していた。

 一緒に鞠をついて遊んでもらったことや、輝利哉くんが父に剣道を教えてもらっていた光景を、俺はつい昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。

 ちなみに、輝利哉くんは俺に「くん」付けされるほど身分の卑しいお方ではないらしいんだが(父と母は年下の彼に敬語と尊称を欠かさなかった)、輝利哉くんがそう呼んでもらえて嬉しいというから、俺も遠慮はしていない。

「お醤油を切らしたから、買いに行ってくるわね」

「父さんは?寝てる?」

「ええ。あとで白湯を持っていって差し上げてね」

 母はやっていることはその辺の主婦と変わりないのに、生活感というか、くたびれたところが全然ない。家に遊びに来る友達たちはみんな、母のことを活動写真から抜け出してきた女優みたいだと言っている。担任の教師に至っては、母に「うちの子をどうぞよしなにしてやってください」と頭を下げられて以来、それまで厳しかった態度が豹変してやたらと俺に甘くなった。教員としてどうかと思う。

「母様、お買い物に行くのね。私も行く」

 雪子は空の一升瓶を抱えて、絶対に母の役に立つのだと言う構えで玄関先に仁王立ちしている。母はにこにこして「ありがとう」と言い、母と娘は仲良く手を繋いで買い物に出かけた。

 

 震災後に突貫工事で建てられた、小さな安普請の借家が一家の住まいだ。

 最初住み始めた時は、床板の隙間から風が吹き込んでくるのでたまらない寒さだったけれど、今は父が全部の部屋に畳を敷いてくれて、母が火鉢の炭火を絶やさないようにしてくれているので、真冬でも凍えることなく快適に過ごしている。

「炭売りの男の子にね、長持ちする良い炭の見分け方を教えてもらったのよ」

 母はそう言って微笑んでいた。

 母はこの家の二十坪ほどの庭で、たくさんの草花を育てている。春夏秋冬、季節毎に色とりどりの鳥や蝶が遊びにくる小さな庭。父は妻の園芸趣味を慮って、もう少し大きい家に移ろうかと持ちかけたこともあるが、母はここを「家族みんなの顔がすぐ近くに見えるこの家が好き」と気に入っていて、離れる気はないようだ。母が気に入っているということは、つまり、父に気に入らない道理は何もないということになる。

 以前はもっと田舎の、大きな家に住んでいた。燦爛たる星々の輝く、夜空美しい揺籃の地。俺が進学する時に、二人で散々「子供たちにとってどちらが良いのか」を頭を突き合わせて相談した挙句、やはり都会の方がより良い教育を受けさせることができるからと言うことで、ここにやってきたのだ。宇髄一家が同じ理由で先に引っ越していたのも後押しになった。

 

 二人が外出した後、輝利哉くんへの返事を書いていると、父が床から俺を呼ぶ声がした。

「水いるか、親父」

「いい。それより、こっちに来い」

 父は寝床で上半身を起こして、息子を手招きしていた。ちょっと退屈そうな顔だ。今日は本当は仕事のはずだったのに、具合が悪そうだからと母が休ませたのだった。

 

 父は十年前から、持ってあと数か月と余命を宣告されている身だ。

 

 医者はもう十年も見立てを外し続けていて、俺はこれからも外れ続けてほしいと願っている。淡い儚い願いだ。父の容態は年々悪くなっていく。父も母も何も言ってくれないけれど、そんなことは見ていればわかる。

 数年前に一度、肺が炎症を起こしたとかいう理由で本当に危なかった時があって、その時に医者は「今晩が峠です、覚悟しておいてください」と言ったけれど、一体何を覚悟するというんだろう?「父様は大丈夫よ」と言って、雪子を寝かしつけた母は、一度でも目を離したら父がどこかに行ってしまうのではないかと、まばたきも出来ないで付ききりで父を看病した。俺は不安で一睡も出来ず、父の手を震えながら握っていた。大切な家族が死んでしまう準備なんか、百年かけたってできるはずがない。幸いなことに、父は恢復して、一週間後には現場に出て材木を軽々担いでいた。医者は眼を剥いて「不死川さん、あんたほんとに人間ですか?」と失礼を言った。

 ぐだぐだととりとめもないことを考え続ける俺に比べ、妹は非常に建設的な思考の持ち主で、「私、大きくなったらお医者になって、父様のご病気を治してさしあげるからね」と決然としている。膝に乗せた愛娘に、耳元でそんなことを囁かれた父は「雪子が治してくれるなら長生きしなきゃなあ」と顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

 こんなに体が悪いんだから、家でじっとしていろ、力仕事もたいがいにしろと言っても耳を貸さない。「父親が日がな家にいちゃ良くねえよ」と言うのが父の言い分で、ただ一人、母だけが、父に何かするのをやめさせることができるのだった。

 

「上着を持って来い」

 父は俺の学生服の上着を持ってこさせて、おもむろに裁縫道具を取り出し、袖丈を直し始めた。近頃、背丈が竹のようにぐんぐん縦に縦に伸びる。そのせいで袖丈が合わなくなって、手首がむき出しになっていた。

 うちでは針仕事は父親の領分だった。欠けた手指でよくも器用にやるものだ。

「いくつになった」

「今年の正月で十四」

「身長の話だ」

「わかんねえけど、この分だと夏までに親父より高くなるよ」

 父は「そうか」と穏やかに言った。少し咳き込んだので、もう一度水はいらないかと尋ねるが、いらんと首を振るので、代わりに背中をさすった。

「親父、小さくなったな」

「馬鹿いえ、お前がでかくなったんだ」

 父はお返しとばかりに俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 父さんというのがなんとなく面映く、ある時から親父と呼び始めると、母は息子の変化におろおろと狼狽えたが、父が母を「この年頃の男なんかそんなもんだ」と諭した。この調子でお袋などと呼び出すと卒倒しかねないから、母のことは相変わらず「母さん」と呼んでいる。

 母に逆らう気は全く起きない。以前、ちょっとした口答えをして、夕食を食べなかった時、母がほろほろと涙を流しながら傷んだ飯をごみ箱に捨てている姿を見た。罪悪感に耐えきれず、俺の反抗期めいたものは一瞬で終わった。

「進路、決めたかァ」

 父の問いかけは、その場にぴりっとした緊張感を呼び起こした。

 半年ほど前のこと、同じように進路の話になった時、俺が海兵団に入りたい、軍人になりたいのだと口にすると、父は血相を変えた。

 昔から船が好きだったし、体の丈夫なのだけが自分の取り柄だ。学校の成績だって悪くない。ちょっとでも早く就職して、生計の維持に貢献したいと言う親孝行からの提案だったが、父は頑なに認めなかった。

「軍人ってのは人を殺すんだぞ」

「分かってるよ。でも、雪子は医者になりたがっているし、食い扶持を減らせた方がいいだろ」

 父は言葉を尽くして俺を止めようとしたが、そんなふうに執拗に反対されるとかえって反発したくなるものだ。母は青ざめて、正座をして微動だにしなかった。

 意固地になる俺に、父はとうとう切れた。

「お前はなんもわかっちゃいねえ」

 気づいた時には俺の体は宙を舞い、一瞬遅れて頬が火であぶられたように痛み始めて、やっと殴られたのだと理解した。

 こんなふうに父親に殴られたのは、生まれて初めてだった。

 俺を殴る父の体捌きは信じられないほど無駄がなくてすごかった。もちろん、柔道も剣道も、父から手ほどきを受けたわけだから、喧嘩が弱いと思っていたわけじゃないが、それでも俺は、しばし、進路を巡って対決中と言うことも忘れて、父の強さと言うものに畏敬の念を感じて動けなかった。

 ちなみにその後は、母が泣きながら父を羽交い締めにして止めに入った。父は母の涙を拭ってなだめることに必死になり、それ以来、この話題は触れられることなく放置されていた。

 俺は決意を固めようとして、唾をごくりと飲み込んだ。

 父も母も、聞けば絶対に応援してくれるだろうと確信していたけれど、だからこそ口に出すのが躊躇われたのだ。

「母さんには言わない?」

「言わねえよ」

 俺は声を小さくして言った。

「船の設計士になりたいんだ。普通の船じゃない、地球を何周も回れるくらい、大きい船を作る人になりたい」

「いいじゃねぇか。頑張ってみろ」

「軽く言ってくれるけどさ、そんなに簡単じゃないよ。一高を出て、帝大を首席で卒業できるくらい優秀じゃなきゃ」

「お前は母さんの子だ、なんとかなる」

 俺はなんともいえない気分になった。父の言い草は、母が「あなたは父様の子だもの、なんとかなるわ」と言う時とまるきり同じ調子だ。

「それに、すごくお金がかかるし」

「子供が変な気を回すな、お前の学費くらいなんとかなる」

「この家のどこにそんな金があるんだよ」

 これは両親の悪口みたいになるから言いたくなかったが、二人ともそんなに収入のある稼業なわけじゃない。そのくせ衣食には惜しみなく金を費やすし、年に一度は必ず、熱海とか京都とかに家族旅行に行く。もちろん、それらは非常に楽しい思い出で、箪笥の上に所狭しと各地で撮った写真を飾っているけれども、我が家の家計が火の車なことに間違いはない。

「金の心配はするな」と父は再び俺を嗜め、そしてすこし黙ってから「母さんに感謝しろ」と言った。もしかすると、母はすごい金策家なのかもしれない。持参金代わりに土地を持ってきて、地代収入があるのかもしれない。真相は不明だ。

 その母も、妹を産んでから前ほど体調が思わしくない。本人は「歳を取ると体力が落ちるのよ」と言って加齢のせいにしているが、それだけじゃないはずだ。

 雪子はたいへんな難産で生まれた。出産に三日三晩も要した挙句、胎から出てきた最初は息をしていなかった。海千山千の産婆が「こりゃあだめだわ」とさじを投げて、最後の死に水を取ろうとして産湯につけようとしたのに、父は産婆の手から赤子をぶんどって、足を掴んで上下を逆さまにして振った。それで雪子は、ようやく産声を上げたのだ。

 妹はそういう生まれ方をしたせいか体が弱くて、しょっちゅう風邪を引いてみんなの肝を冷やした。だが、小学校に上がって、通学や体育の時間に体を動かすようになると自然と鍛えられて丈夫になったようで、このことで父と母は、箱入りすぎるのは身体によくない、もっと運動させるべきだったと反省していた。

 そんなわけで、我が家で体になんの障りもないのは俺だけだ。自動車にぶつかった時も、車体の方がへこんで俺がかすり傷一つ負わなかったので、運転手が引いていたくらい頑丈なのである。

 もし自分が、人よりも頑丈な身体を持って生まれたことに理由があるなら、それは家族を守れるように、神様がそう取り計らってくださったんだろう。俺は誰に言われるまでもなくそう理解していた。

 それなのに、父も母も、全然俺を頼りにしようとしないし、肝心な話は何もしてくれない。もどかしい。早く一人前の男になりたい。

「諦めるなよ。それが一番、親孝行だ」

 そんな俺の内心を見透かしたように、父がそう言うから、ああ俺はこれは絶対に夢を叶えなくてはいけなくなってしまったなあ、と観念して腹を括った。まずは次の学期末にもらう通知書の全部の項目を、最優良の『甲』で埋めてしまわないと。

 

 父は針仕事を終えた。俺に上着を着せて、自分の仕事の出来に満足そうにしている。

「親父、もう休めよ」

「もう十分寝た」

 そう言って、父は立ち上がろうとした。母がいないうちに、台所で夕食の準備を手伝う気なのだ。

「勝手に起き上がって、母さんに叱られても知らねえから」

「……だめだと思うか」

「うん」

 俺が断言すると、父は大人しく床に戻った。買い物から帰ってきた母は、「私がいないのにじっとしていられたの?実弥さん、偉いわね」と父に頬擦りしていた。父は満更でもなさそうな顔だ。俺は父と母の仲を取り繕えたので満足だった。

 

 今日の晩ご飯は、鮭と大根の煮物だ。母の作るご飯はとても美味しい。時折独創的なレシピでみんなを困惑させることもあるけれど。

「今日はあいつの命日か」

 父がぽつりと言った。

「お前、冨岡のこと、覚えてるか」

 俺は「うん」と頷いた。

「冨岡さんって、父様と母様の昔の写真に写っている素敵な方?」

「ああ、雪子は会ったことないよな。面白いくらい鮭大根が好きな人でさ……」

 鮭大根を見ると、決まって冨岡さんを思い出す。俺が物心ついて間もなく病気で亡くなってしまったけれど、朧げな記憶の中にあってさえ、よく遊んでもらったこと、そして、とても優しい人だったことを思い出せる。いや、あの頃の俺たちの周りには優しい人しかいなかったのだ。誰もが俺のことを宝物のように大切にしてくれていたのだと(母さんは今でも「あなたたちは父様と母様の宝物」と言って憚らないけど)、今ならそう理解することができる。そう、ちょっと早く生まれただけで威張り散らす上級生とか、俺を目の敵にしてくる教師たちとかに囲まれてる今なら。

 お夕飯を仏様の前にお供えして、手を合わせる。晩ご飯は必ずみんな揃って、手を合わせてから食事をいただくのが我が家の流儀だった。

 

「今日は学校でどんなことがあったの?」

 母にそう聞かれて、雪子が休み時間に竹馬に乗って遊んだことや、習字を先生に褒めてもらったことなどを楽しげに話していた。

 俺は世間話の一つとして、なんとなしに言った。

「八丁堀の白魚橋があるだろ。昨日の晩さ、あそこに()()()()()()()()

 母の手から、箸が滑り落ちた。

 俺は「母さん、疲れてる?大丈夫?」と言って、床に落ちた箸を拾った。母は首を振りながら、どこか上の空でそれを受け取ったように見えた。

「鬼?」妹は無邪気に兄の言ったことを繰り返す。

「一か月前から市内に出没してる、通り魔のあだ名だよ。頭を金棒で叩──」

 叩いたみたいに潰して人を殺すから、鬼って言うんだって、とは言葉にしなかった。父親の厳しい視線を感じたのだ。うん、そうだ。雪子にこんな話をするべきじゃない。

「みんな騒いでるけど、すぐに警察が逮捕するよ」

 俺はそう言って飯を掻き込んだ。

 父と母は、無言で顔を見合わせていた。

 

 

 結局、捕まったのは鬼なんていう仰々しい俗称にそぐわない、若い男だった。

 若いどころではない。まだ十七歳で、取調べでは金槌で人間の頭を叩いたらどうなるか見てみたかったんだと、わけのわからない動機を捲し立てたらしい。

 通りすがりの人間を狙った、正気を欠いた猟奇的犯行は、犯人が逮捕された後も、世間を大いに賑わせた。

 ある雑誌は、この青年の有様こそ昨今の道徳的類廃の象徴であるなどと最もらしく並べ立てたし、他の新聞記事では、加害者が精神鑑定で精神薄弱と判定された場合、果たして刑事責任能力を問うことができるのかと一石を投じていた。

「責任能力がなんだよ、少年法があっても人殺しは人殺しだろ」

 授業後の昼休みの教室で、法曹志望の級友の一人が記事を斜め読みしながらぶつくさ言ってる。

「そうか?俺は本質的で重要な問題提起だと思うけどな」

 周囲の視線が宇髄に集中した。

「つまりだな、俺が夢遊病の患者で、寝ている最中に、その辺にあったナイフを手に取って、偶然でくわした不死川を刺して殺したと仮定してみろ」

「おいおいおいちょっと待て、人を勝手に殺すな」

 宇髄は俺の制止を無視して続けた。

「で、その場合、果たして俺を罪に問えるのかって話だ。誰だって寝ている間の自分なんか絶対に制御できない。無意識状態なんだからな。これを果たして明らかな殺意があった場合と同様に裁いて良いのか?故意と未意によって、量刑の決め方は区別されるべきじゃないか?」

「あー、確かに」

「不死川、悪いな、俺は宇髄の無罪放免に同意する」

「無罪放免とまでは言わねえけど、減刑の余地はあるかな」

 級友は口々に宇髄の言うことに追随する。

「おいこっちは殺されてんだぞ。んな理屈で納得できるか」

「許せよ不死川、この俺が命日には欠かさず墓前にスイカをお供えしてやるから。お前、好物だったろ」

「なんも嬉しくねえよ!お前それで通ると思ってんのか!?」

 級友たちがやれやれやっちまえと囃し立て、俺と宇髄は校庭に出て取っ組み合いを始めた。俺たちにとっては軽い運動程度に過ぎない戯れだが、何も知らん連中には本気で殺し合いでもしているように見えるらしく、教師たちは慌てて窓から俺たちを止めようと怒声を上げた。

 教師陣はいつか俺が不良少年にでもなったら、腕っぷしが強いから手がつけられないと戦々恐々としているんだろうが、俺にだって言い分はある。俺は絶対に、上級生たちみたいに、自分より弱い人を痛めつけるために拳を振るったりしない。

 父は俺に柔道とか剣道を教える時、これはお前が大切な人たちを守れるように教えるんだ、決して弱い人に向けるために教えるのではない、と言った。そんな父を、俺は世界で一番尊敬している。

 

 しかし、世人も馬鹿なあだ名をつけて恐ろしがったものである。

 頭の狂った殺人鬼に襲われないためにやるべきことは、早く家に帰って戸締りをしっかりすることであって、まじないや護符に助けを求めるのはおよそ科学的な態度ではない。

 そんな迷信で祓える鬼なんて生き物が、この世に存在するわけがないのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五章
21.ダンス・ウィズ・ミー


 息をするたびに、肺に鋭い刃を突き立てられたように苦しい。

 足を動かすたびに、身体中が巨岩を叩きつけられたかのように痛む。

 二方から鉄の弾ける音がする。毀ち壊される音がする。

 仲間が戦っているのだ。

 椿は穿たれた太腿の傷を、紐できつく縛り上げて止血をすると、音の鳴る方へ向かった。

 立ち上がって刀を振るう力が残されているなら、最後まで戦わなくてはならない。みんなそうしてきた。自分もそうしなければならなかった。

 

 

 

 立て続けに女が殺される市中の巡廻態勢を強化して十日目になる。手頃な病院を間借りして、犠牲者の検分に当たったが、いずれの遺体も激しく損傷していて、大した手がかりは得られない。しかし、柱を動員して、その上に多くの人手を割いているからには、そろそろ何かしら収穫が欲しいところである。

「こうも若い女ばかりとはなあ」

「珍しくもないだろ?子供ばかり好んで喰う鬼だっている」

 平の隊士が二人、病院の廊下を歩きながら話をしている。

「しかし、一緒にいた情夫も殺されてるのに、こっちは喰われた形跡がない。となれば、これはよっぽどの女好きだろう」

「まあ、綺麗どころが所望ってなら、今回は俺らにお鉢は回ってこないかもな」

 隊士の一人が皮肉げに言った。

「胡蝶様たちのことか」

「そうそう、あんな細腕でよく柱になれたもんだ──あっ」

 噂をすれば影が射すとはまさにこのことである。角を曲がった先でカナエと椿の二人と出会した隊士たちは決まり悪げに俯き、「お疲れ様です」と蚊の泣くような声で言った。

 椿は無言で会釈するだけに留めたが、カナエは「お勤めご苦労さま!」と愛想よく挨拶をした。それで隊士たちはおっかなびっくりの挙動であたふたと立ち去っていた。

 椿はため息をついた。

「あなたときたら、ああも侮られて怒ろうともしないんだから」

「頼りなく見えてしまうのは事実だから、仕方ないわねえ」

 呑気に笑うカナエは、不愉快を建前で繕っているのではなくて、本当に、心の芯から寛大に受け止めているのである。椿にしてみれば、彼女のそうした優しさは時に物足りなく、無防備が過ぎるのではないかと思うこともままある。しかし、妹のしのぶの方は謗りを受けて黙っていないし、人を疑うことを知っているから、この姉妹は二人が揃って釣り合いがとれて丁度良くなり、完全な形になるのだ。

 二人は共に、普段は応接室として使われているらしい上等な部屋に入った。厚手のカーテンを開き窓を開け放つと、日の光が室内を照らし、机の天板のガラス面についたひっかき傷を一筋浮かび上がらせる。その上に市内の地図を広げて、隠が用意してくれた紅茶と菓子を摘みながら、次はどこに鬼が出没するだろうか、どんな能力を持つ鬼であろうか、人員の配置はどうしようかと話し合った。

 いよいよ議論が白熱しようという頃、音を立てて扉が開いた。二人が振り返ると、そこには大剣幕のしのぶが立っていた。

「姉さん!」

「どうしたの、そんなに慌てて」

 勢いよく詰め寄る妹を、カナエは平生通りの微笑みを湛えて迎え入れた。

「また、私は待機?」

 しのぶの語勢は強い。

 カナエは何を言われているのかわからない様子できょとんとしていたが、椿は瞬時に彼女が何を言わんとしているか察した。今回の任務でも、カナエはしのぶに、前面に出ることを許さなかったのだろう。

 薬学と医学とに精通したしのぶは、もはや鬼殺隊にとり替えの利かない人材であるから、おいそれ無闇に前線に出すわけにはいかない。それがカナエの言い分である。その言葉が虚実でない証拠に、カナエは妹の適性を見込んで、蝶屋敷の女主人の地位と権限をあらかた譲り渡してしまった。

 しかしまあ、しのぶがそんな理由で納得するわけがなかった。

「んん〜〜……」

 大きな瞳をまん丸にして近寄ってくるカナエに、しのぶがたじろぐ。そして彼女はあろうことか、「えいっ」と真正面からいもうとに抱きついたのであった。

「ちょっと、姉さん!誤魔化さないで……あっ、だめだって、だめだって、ば……」

「よしよし、可愛い子、可愛い子」

 腕の中に閉じ込められて、よしよしと頭を撫でられてはどうにもかなわず、しのぶの怒気はみるみるうちに萎んでいく。なんと言ったって相手は大好きな姉である。椿は、くっつきあう姉妹を眺めながら、京焼の小さな湯呑みに注がれた紅茶に口をつけた。そして、用意できなかったから贅沢は言わないけれども、紅茶はやはり急須と湯呑みではなく、白磁のティーカップで楽しむのが風情に相応しいと思った。

 しのぶは「またくるから……」と、どことなく幸福な空気を発散しながらよろよろと部屋を出て行った。不満が解消したわけではないだろうが、「とりあえず今日はこの辺で勘弁してあげよう」ということらしい。

「ごめんね、話の腰を折ってしまって。そうそう、人員配置の件だけれど……」

 それからの議論はとんとん拍子に進み、今晩、カナエはここに残って全体の指揮を執り、椿は巡回要員に組み込まれて市中を虱潰しに調べまわることで決まった。

「仲直りしないの?」

「?」

 カナエは鉄瓶で湯を沸かしてきて、紅茶を注ぎ直してくれた。椿はありがとうと言って、湯気とともにほのかに漂う芳醇な香りを楽しんだ。

「しのぶは誤魔化されてくれたのよ。優しい妹を持って幸せね、カナエ?」

「でも、私は本当に、」

「あなたが柱として、適切な判断を下していることに異論はないわ。でも、私には、あなたがしのぶを安全なところに仕舞い込もうとしてるようにみえるし、あの子もそう感じているから怒っているんでしょう」

 カナエは椿の言葉への反駁を見つけられないようだったが、そう指摘した椿の方も、カナエが自分の振る舞いに無自覚だったのには驚いた。

「……そう見える?」

「最近はね、特にそう」

 カナエは「そっか、そっかあ……」と呟きながら、差し入れのビスケットをひと齧りした。

 

 それにしても、この姉妹の様子を見るにつけては、家に残してきた兄弟のことを思い起こさずにはいられなかった。

 

「俺、ここ出て行った方がいいのかなあ」

 ある時、庭の植栽の傷んだ葉先を鋏で切って整えながら、玄弥がそう言った。

「兄貴が元気にやってるってわかって安心したんだ。だからここを出てって、悲鳴嶼さんに頼んで、鬼殺隊に入れるように鍛えてもらおうと思って」

 悲鳴嶼に教えを乞いたいとは中々贅沢な発想だが、椿はここは玄弥の自立心を評価することにして「悪くない考えだと思うわ」と言った。

「でも出ていくなんて言わずに、いつでも帰って来てくれたらいいのよ。彼、あなたと一緒にいるととても楽しそうだもの」

「邪魔じゃねえ?俺」

「邪魔ではないわ」

 椿が断言すると、玄弥はふーん、と気の抜けた相槌を打って、今度は移植ごてで土を掘り返すのを手伝い始めた。

「でも兄貴さあ、俺が椿さんと一緒にいるとすっげえ目つきで睨んでくんだけど」

「あれはねえ、私たちが仲良くしてるのが嬉しいのよ」

 彼は相変わらず、鬼殺隊に入りたいという弟の望みを頑なに拒んでいて、もし玄弥がこのことで何か言おうものなら「兄貴」のあの字も言わないうちに鉄拳を飛ばすだろう。ただし、驚くことが一つあって、それは実弥が、自分の弟は鬼と戦える見込みがあって、十分な訓練を積めば、最終選別もわけなくこなして見せるだろう、と考えていることだった。

 つまり、実弥は()()()()に、呼吸の才能が欠如していることなどまったく想定していないのである。人を二、三喰っただけの雑魚鬼に、自分の弟が敗死する可能性などはなから考えていない。そのくらいできて当然と、根拠のない信頼を抱いている。

 事実を述べるなら、玄弥には兄ほどの剣術の才能はない。まるで兄弟らに平等に割り振るために用意されていた才能が、兄の方に一身に授けられてしまったかのように、玄弥には呼吸の適性というものがまるきり欠けている。天の差配とは、ことほど左様に不公正で過酷である。

 剣術の才や呼吸の適性は、必ずしも燕雀鳳を生まずということはないし、堯の子堯ならずということもまま起こりうる。見かけよりもずっと思慮の深い男が、こんな初歩的な可能性に思い至らないのは驚くべきことであるが、椿はそこに、弟への無意識の信頼を感じて、微笑ましく思ったものだ。

「いつまで土いじりしてやがる!さっさと手ェ洗ってこい!」

 昼飯できてんぞと、丼鉢を三つ、うまいこと腕に抱えて縁側から声を張り上げる兄の姿を見て、玄弥は移植ごてを大急ぎで籠の中に突っ込んだ。椿は「すぐに行くわ!」と返事をして、一緒にいきましょうと背後から玄弥に抱き寄せた。玄弥は蛙が潰れたような声を上げたが、自分たちを眼差す実弥の目元がわずかに和んだのを、椿は見逃していなかった。

 

 そんなことを思い返しながら窓の外を見ると、日はすでに大分傾いていて、西日が目に痛かった。椿は椅子から立ち上がった。

「私が帰ってくるまでにちゃんと話し合って、仲直りしておきなさい。簡単でしょう?」

 カナエは腕を組んで難しい顔をした。妹の頑固は筋金入りだ。

「許してもらえなかったらどうするの」

「そうねえ、仲直りするまでの間、しのぶと一緒に銀座にシュークリームを食べに行くお役目は私に譲ってもらおうかしら」

「だめ!それはだめよ!仲間外れにしないで!」

 二人は戯れに言い合い、少女の顔をしてくすくすと笑い合った。そして、この任務が終わったら、近頃評判の洋食屋にみんなで揃って食べに行こうと約束してから別れ、椿は生温い夕風の立つ街を歩き出した。

 

 

 月の明るい夜である。

 板塀の続く陰鬱な往路を行くと、まもなく吉原遊郭に突き当たる。郭をぐるりと囲むお堀を指してお歯黒溝といい、手前の路地には娼妓相手に化粧品や日用品を売ってる小間物屋だとか荒物屋だとかが並んでいる。

 

 その道半ばに、偵察に出していた椿の鎹鴉が、両翼を広げて飛び立つ格好のまま地面に落ちていた。

 

 椿は近寄って、暖かさが残る躰を胸に抱きあげた。首から胴体にかけてを、鋭く切り裂かれて死んでいる。

「誰にやられたの」

 鬼殺隊に入って以来ずっと付き従ってくれた、よく主人を慕ってくれた雌鴉から、返答が戻ってくることはなかった。

 

 何かがいる。

 

 深夜十二時をとうに越した娼窟街はひっそりと沈まる。住人たちの宵寝は深いと見える。

 堀の水は不潔に濁り、人家の格子窓に絡まる朝顔の蔦はからからに萎れている。

 

 蒸し暑いほどの夏だのに、風だけが凍えるように冷たい。

 

「あれぇ、柱じゃないんだ?」

 仰々しい被り物、しっかりした体躯、和とも洋ともつかぬ装束を纏った若い男の姿をした鬼は、椿の隊服を見て、そこに金色の釦がついていなかったために、やや落胆した面持ちだった。しかし、すぐに取り直して屈託なく笑い、不吉に輝く虹色の両眼をこちらに向けた。

 そこに刻まれた、墨で書いたような文字。眼球に数字が刻まれているのは、十二鬼月の証。

 上弦の弐。

 剣の柄にかけた手が、奇妙な震え方をする。背筋を汗が伝ったのは、暑さのためだけではない。

 上弦の鬼と交戦して生きて帰ってきた者を、存命の鬼狩りの中に見出すことはできない。柱ですら、上弦の鬼を前にしては、勝利するどころか生き延びることさえ困難なのだ。しかし、だからこそ情報の確保のために、戦いを見届ける隊士があともう二人、せめて一人はこの場に欲しかった。

 だがここに至って撤退を選ぶことはできない。時間はない。選択肢もない。

 このまま戦うしかない。

「せっかく手間をかけて鬼狩りを呼び寄せたんだから、せっかくなら柱がよかったなあ。でも大丈夫だよ。来てくれたのが可愛い女の子で嬉しいな。それに──すごくいい匂いがする」

 椿はこの鬼の言動を聞き続けることの愚を悟り、刀を抜いた。もう手先は震えなかった。

 

 水の呼吸・壱ノ型、水面斬り

 

 鬼は椿の先制攻撃を易々と回避した。近づけばより一層強烈に匂う腐った死臭に、嫌悪感が込み上げる。

「俺の名前は童磨。ねえ、君の名前を教えておくれよ」

 鬼は鉄扇を振い、氷の鞭を繰り出した。回避する椿に答える余裕はない。

 椿はこの一瞬の攻防で、己と鬼との間に横たわる圧倒的な力量の差を、極めて正確に認識した。鬼狩りとしての豊富な戦闘経験が、それを可能にさせた。

 何十年何百年に渡り生き長らえた上弦の鬼。数多の人間を喰らい尽くし、おそらく柱さえも容易く葬り去ってきた。対する椿が単独で討伐した鬼の数は四十三体、平隊士としては上出来だろうが、この敵と戦うには何もかもが不十分だ。

 今ここで、この強力な敵を相手に、私は何をするべき?

 なすべきことは、この鬼の頸を切ること。できないなら、ほかの人間に危害が及ばないように、時間を稼ぐこと。この夜に誰も死なせないこと。

 業腹だが、時間稼ぎになることは一つでもやるべきだ。

「なぜ女ばかり狙う?」

 椿が硬い声遣で問いかけると、鬼は存外素直に答えを返した。

「だって、どうせ喰べるなら干からびた硬い肉よりは柔らかい肉のほうがいいだろう?それに、女の方が男よりもたくさん栄養があるから、強くなるには効率がいいんだよ」

「……そう。よく喋ってくれるのね」

「君はここで死んで俺の一部になるんだから、この世で聞き残したことがないように物事の理を教えてあげるのも俺の務めだからね。……ああ、怖がらなくていいんだよ!これは幸せな、名誉なことなんだから」

 聞いているだけで耳が腐り落ちそうだ。頭が痛い。

 椿の放った刺突が、敵の眉間から顎までを浅く切り割るが、すぐさま跡形もなく傷が塞がる。驚異的な速さだ。治癒速度が、これまで戦った鬼とは比較にならぬほど早い。

「若い女の子はみんな美味しいけど、特に鬼狩りの女の子は格別だよ。みんな鍛えてて豊かな肉体を持ってる。まるで俺の一部になるために頑張って美味しくなってくれてるみたい。なんだか家畜場の豚みたいで滑稽だよね」

 その上頭も舌もよく回る。こちらが何を言われて不愉快に感じるのか、理解して言葉を紡いでいる。

「お前ほどお喋りな鬼は初めてよ」

「褒めてくれるんだ。嬉しいな、頭を撫でてあげようか」

「なぜ初対面の男に触れられて嬉しがる女がいると思えるの?人との接し方を学んでこなかったようね」

「失礼だなあ!今まで俺に頭を撫でられて喜ばない女の子はいなかったのに!」

 

 血鬼術・冬ざれ氷柱

 

 四方から無数の氷柱が襲いかかる。手数が多すぎる。回避できない。

 であれば、すべて叩き落せばよい。

 突如張り詰めていた力を抜いた椿の姿は、鬼の目には戦いを諦めたようにすら映ったかもしれない。だが、椿は考えなしになって緊張を解いたのでない。ぎりぎりの際を見定めて、不要不純なものを削ぎ落としたのだった。

 椿の日輪刀は、刃渡り二尺ばかりのごくごく一般的な打刀だ。特段の仕掛けなどもない。なんの変哲もないのが一番使い勝手が良く、臨機応変に対応できる。水の呼吸の真髄は、変幻自在であること。柔よく剛を制し、あらゆるものに形を変えて対処する、というのが育手の教えである。

 そして、冨岡の戦いぶりを長く間近で見てきた人間としての実感でもある。

 

 水の呼吸・拾壱ノ型、凪

 

 自然体から放たれた、当代の水柱が編み出した水の呼吸の極致の技が、鬼の攻撃を完全に無力化した。鬼はそれを気にするでもなく、むしろ虹色の瞳は、ますます輝きを増したようである。

「これまでたくさんの水の呼吸の使い手を見てきたけれど、その技は初めて見るなあ!」

 初見の技に興を催した鬼は、興味津々の様子で、優雅な仕草で扇を振るった。

「くうっ……!」

「やるねえ!もう少し早くしようか!」

 敵は今し方いなされた技を再度放つ。宣言通り、先ほどよりも速度と威力が上がっている。

 初めから最高速で叩くのでなく、徐々に速度を上げることで、こちらの技の限界がどこにあるのかを見極めようとしているのだ。これを可能にする力量がまず脅威である。

 この鬼の強さには、底が見えない。

 柱が複数でかからねば、勝ち目がないと見て良い。最低でも三人、いや四人、命を擦り潰す覚悟でかかってようやく仕留められるかどうか。

 椿が今の今まで悠長に戦えているのは、実力差が拮抗しているからではなく、手加減されているからだ。この鬼にとってこちらの攻撃は児戯に等しく、真剣な回避行動を取るほどの脅威でない。

 水色の刃の鋒が鬼の頭蓋を深々と割る。

 これは鬼に取っては不覚であったようだ。ここにきて椿の速度が、鬼の想定を初めて上回った。

 鬼はぞっとするような笑顔を浮かべた。

「お返し」

 後方に引く暇さえ与えられず、鬼は一瞬のうちに距離を詰めて椿の頬に手を当てた。間近に迫ったこの鬼のすべてが椿に身の毛がよだつような嫌悪感を抱かせた。

「綺麗な目をしてるね、このまま食べちゃいたいくらい」

 そして、鬼の親指が、嫌な音を立てて椿の右の眼孔に食い込んだ。

「……ぐ、っつ……!」

 強烈な痛みが精神を萎えさせるよりも強く、戦士の本能が手足を突き動かした。

 可も不可も知ったことか、一刻も早くこの鬼を誅殺せねばならない。

 左足を軸にして、渾身の力で振り上げた右足が、鬼の胴にまともに命中する。強靭な体幹はその程度ではびくともしない。鬼は笑みを絶やさない。

 しかし、足を絞り身体ごと絡めとって引き寄せようとすると、意図を掴みかねたのか表情が変わった。

 この距離なら、頸に届く。

 下から刃を跳ね上げようと構えた所作が何を目的とするのか瞬時に悟った鬼は、すぐさま椿から離れて後方に飛び退いたが、代償として両腕を切り落とされた。

 人間同士の決闘なら決定打になっただろうそれも、疲労せず、あらゆる傷が瞬く間に治癒する鬼相手には無意味と帰する。

 鬼はあっという間に再生した両腕で、再び武器の扇を手に握った。

「俺の頸を取ろうとしたんだね。あの状態から中々決断できることじゃないよ」

 一聞では賞賛なのか嘲笑なのかは判別しかねたが、鬼が人間を賞賛することなどあり得ぬのだから、後者が真意に決まっていた。

 眼孔から抉り取られた目玉が、切り落ちた鬼の手のひらから地面にごろんと転がる。

 椿は足元に転がってきたそれを、ためらいなく足で踏み付けにした。

 柔らかい不気味な感触が靴の裏皮越しに伝わる。それで、椿の視覚を半分担ってきた器官はあっけなく潰れて、透明の液体が辺りに飛び散った。

「自分の目玉なのによくやるね」

「お前の一部になるくらいなら、潰してしまったほうがまし」

 椿は剣を構え直した。

「這いつくばって地に伏して啜る無様を晒すなら、止めはしないけれど」

 血管を収縮して出血を抑えても、夜明けまではまだ一時間以上ある。

 あと自分がどれだけ持つか、見当もつかない。だが出来るだけ長く、ここに足止めをする。どれほど強くとも鬼が鬼である以上は、陽光が近くなれば撤退せざるを得ない。そこにしか活路を見出せないのは情けない限りだが、それで一人でも多くの命が救われるなら、自分がここまでやってきた甲斐もあるだろう。

 鬼の速度が更に上がる。だが、椿の方もまた、戦いの中で己の能力が加速度的に引き上げられているのがわかる。

 

 水の呼吸・拾ノ型、生生流転

 

 死角から飛んできた攻撃が頬を切り裂く。すでに喪失した感覚器官に頼ろうとするな。よく見、よく聞くだけでは足りない。悲鳴嶼がなんと言っていたか思い出せ。

 立て続けの鬼の波状攻撃によって、周囲の門行燈、家屋までが凍りつき、細切れに分断されては崩壊して地面に落ちる。

 住人たちは何か恐ろしいことが起きているのを本能で察知しているのだろう。騒ぎが大きくなっているというのに、誰一人家内から出てこようとしない。賢明だ。ありがたい。一般人が戦いに巻き込まれて、命を失うようなことだけは避けねばならない。

「君は不幸な子だね」

 鬼は心からそう思って、可哀想がっているような声音である。

「初めから生きて帰る気がないんだろう?」

 放って置け。何が私の幸せかは、私が決められる。

 不毛な問答であると理解しつつも、不愉快を跳ね除けるために声を上げようとしたその時、言いようのない違和感を感じた。

 呼吸が続かなくなってきた。技の精度が落ちている。

 疲労が募ったためだけではない。むしろ感覚そのものは、これまでにないほど研ぎ澄まされている。

 原因はなんだ?

 思考は目まぐるしく回転し、知覚を総動員して周囲を探る。

 

 氷の粉。

 

 扇の動く軌道に沿って、微細な粉氷の粒子。あの扇を煽いで空気中に散布している。それが己の肺の動きを低下させている。

 これもこの鬼の能力としたら、一体どうやって倒せる。最高の剣士であっても、呼吸をしないで戦うことはできない。

 椿のほんのわずかの思考の隙を、鬼は見逃さなかった。

 

 血鬼術・枯園垂り

 

 躱し切れなかった氷の刃に背と足とを貫かれ、耐え切れずに膝を突く。血を吐いてしゃがみこむ椿の姿を、鬼は何の驚きもなさそうに見下ろした。きっとこの調子で、数え切れないほど多くの鬼狩りを葬ってきたのだろう。

「頑丈なのが仇になったね。苦しくても意識を失えないんだ、かわいそうに、今楽にしてあげるから──」

 かわいそうと言いながら、こちらの首を落とそうとする動作が、途中でぴたりと止まった。

 

 鬼が視線を投げる方角。斜後方の屋根の上に、別の鬼の気配を感じる。

 

 椿は自由にならない首を動かして何とか新手の姿を捉えようとした。童磨は扇の代わりに、片方の手を気さくに振った。

「堕姫じゃないか!元気だったかい?」

「ここはアタシ()()の縄張りよ」

 同胞の到来を歓迎する童磨に引き換え、堕姫と呼ばれた女鬼ははっきりと不機嫌そうだ。

「ごめんごめん。でも、娼婦たちには手を出してないんだから、許しておくれよ」

「悪いと思うならそこの女を頂戴」

「人の物を取ろうとするのはお行儀が悪いぜ」

「柱を探しにいけばいいじゃない。アタシ知ってるんだから。山奥でだらだらしてる暇があったら柱の一人二人殺してこいってご勘気を被ったから、わざわざ目立つ真似をして鬼狩りをおびき寄せていたんでしょう。それなのにこんな雑魚を嬲って遊んでいたのがバレたら、あの方はなんていうかしらね?」

 女鬼は己の縄張りに飛び込んできた素晴らしい獲物を、なんとか横取りできないかと口を尽くしている。そして、彼女の態度はあくまで高慢だが、これはむしろ相手に気を許しているためだろうし、童磨の方にしても、その馴れ馴れしさを鷹揚に受け止めているようである。

 こいつらは知り合いなのか?鬼同士なのに?

 鬼は群れない。群れることができない。だが、上弦の弐と上弦の──数まではわからなかったが、とにかく、上弦の鬼同士はその原則の例外なのかもしれない。確かに、鬼同士が鬼狩りの情報を共有することが出来るなら、計り知れない優位を得られる。

 しかし椿は、もはや上弦鬼の生態に気を取られるどころでない。立ち上がろうと試みても、身体に力が入らない。肺がまずい。呼吸ができない。

 二鬼の視線がこちらに注がれているのを感じる。相手を出し抜いて、瀕死の鼠に最後の一撃を喰らわせる機会を虎視眈々と狙っている。

 ただで殺されてなるものか。

 苦しみにもがきながら、柄を握る手に力を込めようとした瞬間だった。

 

 

 花の呼吸・参ノ型、雲居の桜

 

 

 よく見知った剣筋だった。もう何年も、竹刀を交えて互いを高め合ってきたのだから、見間違えるはずがなかった。

 鬼の背後から一思いに振るわれたカナエの一撃は、鬼の喉笛を突き切ったものの、返す刀に反撃を受けたことで頸を落とすには至らない。続け様に小萩が女鬼の方に切り掛かった。

「……!どっから湧いて出てきたこのクソ女共!」

 女鬼は突然の闖入者に怒り唸った。

「小萩!」カナエが鋭く叫んだ。

「引けと言われても聞きませんよ!いくらなんでも二体相手は無理でしょう?あっという間にやられちゃいますよ」

 小萩は低く笑い、そして「最後までお師範様と一緒に戦います」と決然として言った。

「……アオイと仲良くするのよ!」

「それはちょっと!約束できません!」

 小萩はそう答えると、逆上して反撃に出た女鬼とともに、屋根の向こうに消えていった。

 椿は相変わらず動けないでままで、口からは血と苦しげな吐息が漏れるばかりである。

 仲間が来てくれただけで、安心して、張り詰めていた糸が切れてしまうなんて、なんと情けないことだろう。

 カナエは、椿を庇うように鬼の前に立ちはだかった。やめてほしいと思った。後は死ぬだけの自分のことなど何も気にしないで戦ってほしかった。

 そして今となっては、戦いで得た情報の何もかもを伝えられない己の不甲斐なさだけが思い致されて辛かった。

「仲間思いだねえ、素敵だねえ」

 場違いに明るい拍手が辺りに響く。

「どうしてこんな酷いことをするの?」

 カナエの牡丹のように可憐な唇から発された思いがけない言葉に、鬼は意表を突かれて首を傾けた。

「……それ、今聞く?仲間がそこで死にかけてるのに。頭までお花畑なのかな」

「あなたがどうしてこんな風に人を傷付けて平気でいられるのか、私は知りたい」

 カナエの語調はあくまで穏やかだったが、それにそぐわぬ不動の強さを孕んでいた。

 こんな時だというのに、いや、こんな時だからこそ、その態度がひどく彼女らしくて、なんだかおかしかった。椿はカナエの、そういうところが好きだった。

「さあ、あなたの相手は私よ」

 

 

 

 誰しもがこの世に望んで生まれ落ちるのではなく、誰しもが望んで罪を犯すわけではない。

 

 かつて椿は、胡蝶カナエの性質を指して、根本的にものを憎む心の働きを欠いていると言った。それが的を得ているかはともかくして、少なくとも、カナエが鬼との戦いに身を投じたのは、誰かを守りたいからであって、鬼が憎かったからでないことは間違いない。

 もちろん、親を亡くした悲しみは強かったが、それからの日々に恩人を得、師を得、妹たちを得、友人を得ることができた。そして常に、しのぶがそばにいてくれた。比類なき幸運と幸福であったと思う。

「『我が心の良くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともある』と、そう言いたいわけね」

 椿とはよく話をした。

「人を喰った鬼を許すことはできない」

「許すと言っているわけではないのよ」

「もちろん。罪を許すのは人の業ではなく、神仏のみ(わざ)だわ」

 鬼の罪を濯ぐのは神仏の役であると彼女はいう。

 では、人が鬼に向ける憐みは無意味であろうか。そうは思わない。

 カナエは悲しくも鬼に転じた者たちが、愛しい家族を傷つけたくないと、時に涙すら流して人喰いの本能に抵抗する姿を見てきたのだ。彼らは結局は食人衝動に負けて、頸を落とされたが、もし本能に抗いきり、人の肉を頂こうとしない鬼がいたなら、カナエは決して見捨てはしないだろう。力を貸してあげよう。寄り添ってあげよう。

 己の生き方にも死に方にも悔いはなかった。今際に己の命を奪おうとする鬼に対してすら怒りはなく、人の善意も悪意もまともに受け止められぬ定めを背負った虚無の男を哀れと感じるのみである。

 けれども、一つだけ、どうしてもたった一つの未練だけが消えずに心の底に沈んでいる。

 かつて一心同体のようだった、カナエの半身。誰よりも幸せになってほしいと願った愛する妹。

 ……一緒に戦うって、約束したのに!

 弱くて愚かな私は、大切なものを失うことを恐れるあまりに愛する妹の切なき叫びに耳を塞いだ。しのぶには、身勝手な願いのままに死んでいく姉のことを、許してほしいと思わなかった。

 

 

 

 

「我々には待機命令が出ています」

「わかってる。でも、柱の応援は間に合わない」

 しのぶは苛立ちを抑えきれないまま、隠に車を手配させようとした。

 椿の鎹鴉から、定時の報告が途絶えた。

 カナエは異常を察知するや否や、ここから一番近くにいる柱に応援を要請すると、すぐさま小萩だけを連れて現場に向かった。しのぶをを置き去りにして。

「花柱様は、己と継子の二人でことに当たるとご判断をされたのです。しのぶ様……!」

 しのぶのこめかみが、不安と焦燥とで焼き切れるように痛んだ。

「……車を用意して」

 そう繰り返すと、隠の女性はぎゅっと目を瞑り、懊悩の末に「手配して参ります」と答えた。

「しのぶ様」

 しんと冷えた声を受けてしのぶが振り返る。

 そこには、白い長衣を脱ぎ捨てたアオイが、日輪刀を抱えて立っていた。少女の顔は月光の中で青ざめていた。

「私も行きます」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22.水滴岩を穿たず

 厳しいな、というのが、女鬼と対峙した小萩の率直な手応えである。

 小萩は、師とともに下弦の鬼と戦ったことがあった。そしてその鬼よりも、この帯を操る女鬼は格段に強い。小萩は最初に水の呼吸を学び、胡蝶カナエに師事して、より己の身体に適合した花の呼吸を会得した。それなりの場数も踏んできた。己の強さに対する自負は多少なり持ち合わせている。その自分をして、戦いの主導権を握らせず、常に上手を行く上弦の女鬼。

 結果で言えば、ここに来るのに小萩だけを伴った師の判断は正解だった。下位の隊士が何人雁首を揃えても、この鬼の前には返り討ちにあうことが見えている。

「さっきまでの威勢はどうしたの!?もう息が上がってるわよ!」

 鬼は嘲笑とともに、融通無碍に張り巡らした帯を小萩に向かって飛ばす。右足の脛がざっくり切れる。最初の頃はなんとかついて行けていたのに、ここにきてだんだんと圧されはじめた。

「るっさいわね!なんて格好してんのよ、この痴女!」

「だっっれが痴女だ、阿婆擦れ!」

「お前以外の誰がいるっての!?」

 小萩の罵倒に、女鬼は面白いほど素直に反応を示した。強いことは強いが万事感情的で、頭はあまり良くないようである。

 小萩は怒りのために単調となった攻撃を躱し、空中で身体を捻り上げて鬼の急所を狙った。

 

 

 花の呼吸・陸ノ型、渦桃

 

 

 攻撃は帯の防御に阻まれて頸に届かなかった。地力で負けている。

 まばたきさえはばかられる緊張感の中で、ふと脳裏に、懐かしい光景がよぎった。

 

 豊かな緑の庭。かんかんに照る夏の日盛り。蝉が煩いほど鳴いている。

 

 これが走馬灯かと、苦笑をもらしたいような気分になった。そう、そんなこともあったなと、小萩は初めて蝶屋敷を訪れた日のことを思い出していた。

 

 

 

「鬼殺隊をやめさせてください」

 この屋敷の女主人、胡蝶カナエを前にして、小萩は開口一番にそう言った。

 これは小萩のことではない。アオイのことである。かつて同じ育手のもとで研鑽に励んだ少女が蝶屋敷で働いていることを知って、小萩は苛立ちのままに庇護者である花柱に詰め寄った。鬼殺隊の組織の序列など知ったことではなかった。

「彼女が望むなら、もちろんそうするわ。けれど、アオイはここで大きな力になってくれているし、隊をやめるかやめないかは、あなたが決めることではないわね」

 平隊士の無礼千万を花柱は諫めなかった。その代わり、こちらの要求を容れることは決してないだろうことも、その態度からありありと察せられた。

「あの子は最終選別を突破していない。たまたま生き延びただけの人間に、命をかけて戦ってる私たちと肩を並べる資格があるとでも言うんですか?」

「相応しくないと自分を戒めながらここに身を置き続けることは、逃げ出してしまうよりもずっと辛くて苦しいことよ」

 小萩は他の柱相手ならとっくに処罰ものだと理解していたが、それでも威圧的な態度を崩すことはできなかった。小萩の言っていることは、間違いではないはずだ。正しい人間が卑屈になる必要はない。

 しかし、カナエの瞳は激しい非難に晒されても揺らがずに澄んだままだった。かえって小萩がひどい居心地にさせられた。自分が正しいことをしているのだという確信が揺らぎそうになる。

「あなたはどうしてアオイをここから追い出したりしたいと思うの?」

「どうしてって、妹弟子の不始末をつけるのは姉弟子としてのけじめってものじゃありませんか」

「それだけ?」

「それだけって……何ですか」

「……そう、そう、そうなの」

 花柱は一人合点してしきりに頷いていた。一体なんなんだと小萩が詰め寄ろうとしたその時、彼女の口から、完全に慮外の一言が飛び出した。

「ねえあなた。私の継子にならない?」

「…………はあ?」

 

 今思い返せばなるほど、実に胡蝶カナエらしい話ではある。

 カナエは小萩が知るどんな鬼狩りよりも苛烈な女であった。悲劇の因果を断ち切るために鬼の頸を落とすくせに、その鬼に対する慈悲を説くカナエのことを、小萩ははじめ気が狂っていると思った。猟師が畑を荒らす猪に、都度、ああ、あの猪にも巣に帰れば家族があるのだなあと心を寄せていてはやってられまい。しかしカナエはそれをやる。彼女には鋼鉄の信念があり、それは火で炙られようと穴に吊られようと決して曲がることはないのだろう。大したものである。そう理解すると、彼女に対する純粋な敬意と親愛の念が湧き上がった。憧れはしなかったけれども。

 小萩が思うに、師が誰からも好感を持たれるのは、彼女自身が誰に対しても好感を持つからだ。彼女が何かを悪様に言っているのを、小萩は聞いたことがない。とはいえ、こんな恐ろしい女を相手に、よくもまあ男たちは鼻の下を伸ばせるものだと思った。この女性に比べれば、鬼に対する憎しみを隠そうともしないしのぶとか他の女隊士とかの方がよほど理解の範疇にある。

「どうしたんですか?小萩さん」

「んー?なんでもないよ。これ洗濯しといてくれる、きよちゃん」

 蝶屋敷に迎え入れられた小萩は、そこにいるのを楽しんでいたが、髪飾りを与えられてなお、やはり自分だけがどこか違う、という異物感を拭うことはできなかった。

 ここにいる可憐な少女たちは、当たり前に他人の幸せを願える人たち。彼女たちは美しいところからここに降ってきた。小萩は溝沼の中から這いあがってきた。物の見方は自ずと異なる。

 小萩は孤児だった。人から物を盗み、ごみを漁って暮らしてきた。

 それでも家族と一緒にいた時よりもずっとましだった。毎日毎日畑仕事と柴刈りと駄馬のようにこき使われて、いつか女郎部屋に売り飛ばしてやるのだといい聞かされれて育った小萩は、家族が死んだことでやっと自由を得たのだ。線路伝いに歩いて田舎から都会に出てきて、おんなじような境遇の孤児たちとつるみ、物乞も泥棒も、なんでもやった。

 小萩は器用で要領が良かった。だから、立派なコートを佩用した紳士の衣嚢や、綺麗な身なりの婦人の懐から、丸々肥え太った財布を掏るのも容易にやってのけた。良心の呵責はなかった。彼らは恵まれた身分とそれに見合う財貨の所有者なのだ。財布を失くしたくらいで明日の朝飯に事欠くわけではない。ならば自分たちみたいな憐れな子供に、ちょっとしたお裾分けをくれてやっても良いではないか?小萩は自らの行いをそのように正当化した。

 浮浪児たちの群れを率いる頭領は痩せた老婆で、浮浪児たちが掠め取ってきた上りを懐に入れていた。仕事のできないのろまは哀れで、稼ぎがないとひどく打たれた。

 小萩は最底辺の暮らしの中ではうまくやれている方だったが、だんだん嫌気がさすようになった。昔馴染みの仲間が、警吏に頭をしたたかに棒で叩かれて帰ってきて、夜のうちは大丈夫と笑っていたけども、朝起きてみれば隣で冷たくなって死んでいたのもこたえた。仲が良かったからと言うよりも、明日は我が身と思ったのだ。

 そんな折に、ある孤児仲間が「ここを出て行って鬼狩りにならないか」と持ちかけてきた。

 仲間によると『鬼狩り』というものになれば、常に化け物と命をかけて戦わねばならないけれども、その代わりに自由に使えるお金がたくさんもらえて、上質な衣食住を保証してくれるんだという。

 ちょっと話がうますぎるのではないかと思ったが、今だって一日一日を生きるのが命がけ、明日もしれぬ身。化け物と戦うくらいどうということはない。

 小萩は誘いに乗って、剣士を育てる育手のもとに向かった。

 育手は他人を傷つけたり、ものを盗んだりするのはいけないことだと諭してくれた最初の大人であった。小萩は生まれて初めて綿の布団で眠りにつき、物を食べすぎて満腹になるというのがどういう状態であるかを知った。なるほどここは良いところだ。腹を満たすに十分な食糧があり、雨露を凌げる快適な寝床があり、清潔な着物を季節ごとに取り替えて着ることができる。人間にとって生きるために必要十分なすべてがある。

 訓練はキツかったが、どんなに辛くても、昔の暮らしにだけは絶対に戻りたくない。ここ以上に安寧な暮らしは望めない。そう思えば耐えられた。

 

 アオイがやって来たのは、若葉から玉雫が滴り落ちる梅雨の頃のことであった。

 

 自分のように家族を失って不幸になる人を増やしたくない、と言って修行に励むアオイに、小萩は、へえ、としか返しようがなかった。アオイには養ってくれる親族もいたのに、わざわざこんなところまでやってくるなんて、どうかしてる。自分みたいな、何にも持たない孤児ならともかく、食うに困らない人間が強いられもしないのに他人のために命をかけて戦うなんて正気の沙汰ではない、という感覚があったのだ。

 アオイは小萩と違って真面目な気質で、鍛錬に手を抜かなかったから、二人はしばしば衝突した。小萩はアオイのことは嫌いではなかったが、この四角四面な性格だけはどうにかならないかなあと思っていた。どうにも今まで身近にいなかった類の人間だった。

「小萩!先生を困らせないで!」

 修行を半ばで切り上げて街遊びから戻ってきた小萩を、アオイは腰に手を当てて待ち構えていた。

「困ってないでしょ」

 実際、育手は小萩の奔放を強く諫めなかった。小萩はもう十分強くなっていて、まだここにいるのは次の選別までの猶予期間に過ぎなかった。

 アオイは小萩が悪びれないのでぷりぷりと怒っていたが、もうこれ以上は言っても無駄だと悟ったのか、「これ、あなたの分だから」と言って、布で包んだ何かを押し渡した。布は桑の実を一盛り包んでいた。

 小萩はびっくりして、思わず「なんでこんなのくれるの?」と聞いた。

「先生が持ってきてくれたの。私はもう貰ったから、これはあなたの分」

 アオイの言ったことを聞いても小萩の釈然としなささは解消しなかった。小萩は桑の実を舌に乗せて再び問いかけた。

「なんでわざわざ取っておいてくれたわけ?私が知らないうちに独り占めしておけば良かったのに。言っとくけど、あたし貧乏人だから。あんたにあげられるものなんか何にもないから」

「べ、別にいらないけど……」

 アオイは小萩の喧嘩腰の態度の理由がわからず困惑していた。アオイにとって、得たものを自分だけのものにしないで他人と分かち合うのは、ごく当たり前のことで、何らの見返りを求めるような行為ではないのだ。

 何よう正義漢ぶって!小萩は道端の小石を蹴り上げてふて腐れた。彼女が他人に親切できるのは、たまたま富んだ家に生まれて、優しい人たちに囲まれて育ったためではないか。自分みたいに、泥水を啜って残飯を漁る身分に生まれたならあんな綺麗事だけで生きていけなかったはずだ。私だって、人から奪ったり盗んだりせずにいたかった。まともに生きていけるならそうしたかった。

 しかし、そう考えること自体が己の惨めさを増すだけだった。

 小萩はアオイの善意の礼に、彼女が中々勘所をつかめないでいる技のコツを教えてやった。アオイは姉弟子の言うことをよく聞いてくれて、間も無く彼女は水の呼吸の型を一通り身につけた。満面笑顔のアオイに「ありがとう!」と抱きつかれて、小萩はぎこちない微笑みでそれに応えた。

 季節は巡った。最終選別を間近に控えたある日のことだ。

 就寝時刻に寝床にアオイの姿が見えないので探しに行くと、彼女はお地蔵様の前にしゃがみ込み、そこで手を合わせて、声も上げずに涙を流していた。

 小萩は、やはり気強くしていても家族が恋しいのだなあ、と思って、アオイの隣に並んで座った。そして、鬼がこの世にあろうがなかろうが、人間なんて何でもない理不尽なことで死ぬのだし、親ならなおさら子よりも先に死ぬのだから、いつまでも気に病んでいたって仕方がないと励ました。しかし、アオイはそれを聞いて更に激しく泣いた。小萩は弱り切った。

「泣き止んでよ。あたしがいじめたみたいじゃない」

「うん……ごめん……」

 アオイは小萩が差し出した手布で涙を拭った。

「小萩には家族はいないの?」

「いない。あんな奴ら、死んでくれてせいせいした」

 その言い草を聞いてアオイがぎょっとしたので、小萩は自分の家族がどんなに悪党だったかを説明した。気まぐれに人を殴る父親、飯をくれない継母、腹違いの姉を小突き回す憎たらしい異母弟たち。その家族が流行病で死んで、どぶさらいまでして生き延びていたことまで。しかし、さすがに盗みを働いていた過去を告白する勇気はなかった。

 小萩の身の上話を聞かされたアオイの眼は、哀れみとも悲しみともつかぬ不思議な色に染まっていた。

 今ならわかるが、あの時の彼女は、小萩が感じてきたこの世の理不尽の悲しみを分かち合おうとしてくれていたのだ。

 その日二人は、同じ布団で枕を並べて眠りについた。

 認めざるを得なかった。

 小萩は、アオイの誰かの命が奪われて悲しいと感じる心や、見ず知らずの他人を守るために戦おうとする志を美しいと感じたのだ。素直にそう受け入れた時、初めて誰かのために命がけで戦ってみるのも悪くないかも知れない、彼女のように美しい人間には永劫なれはしないだろうが、しかし、きっと悪い気分にはならないだろう――そう思った。

 こんな心もちで最終選別に臨んでしまったものだから、アオイの心が挫けた時の失望は大きかった。

 アオイが蝶屋敷に居処を見出したことを知っても、小萩の苛立ちは募るばかりだった。あの真面目の心が、そんなことで救われるものか!確かにアオイは、蝶屋敷で誰からも頼りにされ、よく働いていたけれども、ふとした瞬間に、なんとも言えぬ暗い後めたさを漂わせていることがあった。隊士であるにも関わらず、戦いに行くことのできない己を恥じていることは明白だった。

 戦えない自分を後めたく思うのは、どっちつかずの中途半端を続けているからだ。それならきちんとけじめをつけて隊士を辞めるべきだ。こんなところさっさと出ていけば良い。命をかけて戦うことは間違いなく恐ろしいのだから、恐ろしいと感じる心そのものを責めるものは誰もいない。守られる側の人間に戻れば良い。普通の娘の幸せを手に入れて暮らして行けばいい。

 お前がやれないなら私がやる。私がお前の代わりに人を守ってやる。だから、そんな顔をしないでほしい。自分のことを価値のないもののように思わないでほしい。

 ……すべて小萩の身勝手だった。

 

 

 

「これで終わりよ!さっさと死ね!」

 思考の渦から抜け出した小萩の目の前に攻撃が迫る。囲まれている。逃げる場所がない。

 終わった、と力が抜けた瞬間だった。

 

 

 水の呼吸・陸ノ型、ねじれ渦

 

 

 不意打ちだった。小萩も女鬼も全神経を互いに集中していたので、接近する気配に気付かなかったのだ。

「……アオイ?」

 アオイは日輪刀を正眼に構えていたが、小萩の目には洗練されているとは言い難い。実戦経験がほとんど皆無なのだから当たり前だ。

「……何、お前。塵屑にも劣る雑魚の分際でアタシの邪魔をしようっての」

 そして、女鬼はアオイの実力を正しく把握していた。今の攻撃は完全に不意打ちだったから通用したのだ。その証拠にアオイはちょっと睨まれただけで威圧されて膝ががくがく震えている。

 だめだ。太刀打ちできない。アオイが日々の多忙の合間を縫って、剣の鍛錬を続けていたことを、小萩は知っている。だが足りない。

「……逃げなさいよ、死ぬわよ」

 小萩にそう言われても、アオイは動じなかった。それどころか、

「退かない。私も戦う」

 そう言って震えを抑えて、決然と鬼を見据えていた。

 なんでよりにもよってこんな勝ち目のない戦いにやる気を出してるんだと舌打ちした時だ。空気が変わった。

 女鬼の背後から、水色の日輪刀を携えた、血塗れの女がゆらりと姿を現したのだ。上弦の弐にしたたかにやられて、相当の深手を負っていた椿の、血の気の失せた顔にはほとんど表情らしい表情がない。

 女鬼は椿の方に振り返ってあざ笑った。

「なんだ、まだ生きてたの?次から次へと塵虫が――」

 女鬼の言葉がそこで途切れた。音もなく振り抜かれた一閃に反応できず、驚愕に歪んだ女鬼の首が切断面からずるりと落ちる。

 続け様に椿が懐から投げ放った球状の物体を見て、小萩は咄嗟にアオイを庇いながら地面に伏せた。

 鬼の真上に飛んだそれが、一拍の間を置いて炸裂した。

 轟然とした爆音が響き、辺りに黒煙が立ち込める。頑強な鬼の身体さえも傷つける、音柱の特製の火薬玉である。

「報告」

 椿は爆心から立ち上る煙から目を逸らさず、端的に小萩を促した。

「えーっと……鬼の異能はあの帯です。切れ味が鋭くて、蛇みたいにうねって飛んでくる……あの、大丈夫です?目とか、その、色々」

「ありがとう、大丈夫よ」

 小萩が満身創痍の体を気遣うと、椿はそこでようやく二人を安心させるように微笑んだ。

「二人とも、油断しないで」

 アオイが怪訝そうに椿と小萩の両方に交互に視線をやった。小萩は肩を竦めた。女鬼の頸は間違いなく落ちていた。その上、あの爆発で木っ端微塵にされては生きているわけがない。

 しかし、二人の予想は外れた。爆煙が晴れたそこには、頸の傷と火傷を再生した女鬼が口汚く喚いて健在でいた。

「お前!!お前!!!よくもやってくれたわね!この死に損ない!」

 アオイが容赦ない怒声に身体を強張らせた。ありえない。首を切り落として焼いたのに生きている。

 一方の椿は動揺した素振りもない。片方だけ残った青眼の瞳の奥はひんやりと冷たい。

「生き汚いのはどちらかしら。おまけによく口が回ること。上弦の鬼とはみなそうなの?」

 女鬼はそれには答えずに、呪詛のように死ね、死ね、と繰り返す。

「何よお前、見ればわかるわよ。綺麗に生まれて、人に傅かれて、金にも食べるものにも困ったことなんか一度もないんでしょう。そのくせ自分が何かを損なうのは絶対に許せない、そんな連中、掃いて捨てるくらい見てきたんだから」

「何が言いたいの?私にはお前の腐った根性を満足させるために、美しく才能豊かに生まれて申し訳ありませんでしたと頭を垂れる気はないわ」

「このっ……減らず口ばかりっ……やっぱりブス!性格ブス!」

 小萩は女鬼の言い草が面白くて、なんだか笑えてきた。彼女の言っていることは、昔の自分とほとんど同じだった。

「なに笑ってんのよ、アンタは」女鬼は鼻尻に皺を寄せて小萩に言い捨てた。

「別に?気が合うと思っただけ。そうよね、豊かな人間から奪い取るのって気分がいいわよね、楽しいわよね」

「?」

 椿が動いた。手負いにも関わらず小萩とは段違いの速さだ。

「焦っているわね、お前」

 椿が女鬼の攻撃をかいくぐりながらそう言った。

「夜明けが近いもの。そうでしょう」

 女鬼の口からきりきりと歯を食いしばる音が聞こえてきそうである。そうだ。もう日の出が近いのだ。

 小萩が援護に回ろうとした時、女鬼はまるで見えないものを見ようとするかのようにかっと目を見開いた。

「だめ!!」

 女鬼は突如として空に向かって叫び出した。鬼狩りの女たちの視線が、一体何事かと女鬼に注がれた。

「お兄ちゃんは手を出さないで!こいつらはアタシが殺す!」

 女鬼はそう叫びがら、帯を張り巡らしアオイを狙った。対複数人の戦いにおいて、一番弱い者から狙うのは定石だ。女鬼はアオイを死にかけの椿や手負いの小萩よりも弱いと判断した。

 帯がアオイの頬をかすめる。小萩の心臓が嫌な脈打ち方をした。

「私のことは放っておいて!」

「弱いくせに何言ってんのこの愚図!」

 アオイは小萩に庇われながらも機敏に動いた。複雑な軌道を描いて飛んでくる帯も、的がわかっていれば対処もいくらか容易だ。

「大っ体、なんであんたこんなとこに来てんのよ!大人しくしてれば良かったじゃない!」

「だって、私も鬼殺隊の一員なのよ!みんなが命がけで戦ってるのにいつまでも逃げてられない!」

「ハァ!?……あんたってばバカ!ほんとにバカ!」

 今更なんだ、今更なんなんだ。小萩はアオイの身勝手に頭が無茶苦茶になってしまいそうだった。いや、身勝手なのはお互い様だったか。

 防戦を強いられる二人とは反対に、椿は異様な速さで敵を追い詰めている。水色の刃が一度ならず二度までも鬼の脳天を叩き割った。しかし、もともと戦えるような身体ではないのだ。動きの精度は確実に、そして急速に落ちていっている。

 女鬼の動きはいよいよなりふり構わなくなり、通りの家屋が一軒、二軒、巻き添えを食らって崩落した。

 椿は無辜の人間に向かう攻撃を押し留めようとしているが、もはや一呼吸ごとに血を吐いている有様である。気は確かに保てているようだが、いい加減限界だろう。

 人間の体力が切れるのが先か、太陽が昇るのが先かと思われはじめた矢先、緊迫の空気を突き破るものがあった。

 赤ん坊の泣く声だ。

 アオイが弾かれたように泣き声のする方に目を向けた。小萩が遅れてそちらに視線をやると、戦いの余波で倒壊した家屋から、みすぼらしい痩せた女が、赤子を抱いていて震えて這い出てきた。

「二人とも、右!」

 椿が注意を促した時にはもう遅かった。帯が地に這いずっている女性と赤子に向かう。その直線上の手前に小萩はいる。アオイは自分の身を守るだけで精一杯だ。椿は間に合わない。

 攻撃は、あくまで直線で向かってくるから、小萩は身を翻すだけで避けられる。だが、避ければ背後の二人が死ぬ。

 選択の余地はなかった。小萩は刀で攻撃をいなそうと振り切ったが勢いを殺しきれず、鋭利の帯は小萩の腹部をまともに切り裂いた。

「小萩!」

 女鬼は確実に小萩を仕留めようと追い討ちを放ったが、椿の剣撃で軌道を逸らされると、悔しそうに顔を歪めた。もう間も無く夜が明ける。

「覚えてなさいよ!」

 女鬼はそう吐き捨て、そして――脱兎のごとく身を翻し、逃走に転じた。

 死ぬほど情けない後ろ姿に考えつく限りの罵倒を投げつけてやりたい気持ちは山々だったが、生憎、大声を出す余力がない。地に倒れ伏して、は、は、と短く呼吸を続けるのが精一杯だった。

「アオイ、そちらの方々と小萩を診てあげなさい」

 椿はそう言い残して、逃げ出した女鬼の追跡に駆け出した。

 明るんだ往来には人々が一体何事かと飛び出してきて、その内の何人かが倒壊した家屋から女性と赤子を引っ張り出していた。二人とも命に別状はなさそうだ。

 小萩は横たわったまま、視線だけ動かして自分の下半身を眺めた。腹の傷の赤い裂け目から、内臓がはみ出ていた。胸から下は痛みを通り越して感覚がなく、もはや自分の身体とは思えなかった。

 女性と赤子を診終えたアオイがこちらに駆け寄ってきた。そして、小萩を手当てしようとして、あまりの凄惨な傷の具合に息を飲んだ。

「なにぼさっとしてんの。あんたもさっさと追っかけなさい」

 小萩は努めて平常通りに声を発そうとしたが、力が入らないのはどうしようもなかった。

「でも、」

「椿さんのことなら聞く必要ないわ。もう死ぬわよ、私」

 小萩は静かに言った。アオイの息が詰まった。

「見たらわかるでしょ。この傷じゃ助かりっこない。あんた、看護婦やってるくせにそんなこともわかんないの?」

 アオイはこれだけ言われても、小萩から離れようとしなかった。そして、背骨だけ辛うじて繋がっている胴体を、どうにかして縫合しようとする無駄な足掻きを始めた。

「……足手まといでごめんね、弱くてごめんね。いつも小萩の足を引っ張ってるわよね、私」

 アオイは声を震わせたが、小萩はなんで謝るんだとそれがまた癪に触った。矛盾しているようだが、小萩の苛立ちの種は、本質的にはアオイが戦うとか戦わないとか、そう言ったところにはないのだ。

「ちょっとやめてよ、そういう卑屈なのは……刀なんか持てなくたって、あんたはよくやってるし、十分みんなの役に立ってるし……ああ、何が言いたいかって、つまり……」

 小萩は、もう声を出すのも辛かったが、なんとか言いたいことを口にしようと最後の力を振り絞った。言っておかなければ後悔する予感があった。

「戦いに行けなくても弱くても、自分を責める必要はないってこと……」

 結局、小萩は、アオイの気弱な姿を見たくなかったのだ。下ではなく前を向き、その正しさに胸を張って、堂々としていてほしかった。弱くても戦おうとした自分を誇りに思っていてほしかった。

小萩は昔から、人間として正しくあろうとするアオイの振る舞いを尊敬していたのだ。

 アオイは瞳を見開いて、唇を震わせた。

「小萩、私、頑張るから……頑張るから、だから、」

「無理しない」

 小萩が冗談めかして口角を上げると、アオイは同じようにして笑おうとしたが失敗して、顔をくしゃくしゃにした。涙が一筋二筋と頬を伝っていた。

 鬼狩りの死は、惨めなだけの橋の下の死とは違う。先に死んで行った身寄りのない仲間たちと同じに、ねんごろに経を上げて弔ってもらえる。だからもう、死への恐怖はなかった。

 しかし、自分は果たして人に涙を流して見送ってもらえるくらいに価値ある人間になれただろうか。それがわからない。もう理解する機会も訪れない。小萩はここで死ぬから。

「ゆっくりおいで」

 小萩のあるかなきかの微かとなってしまった声は、幸いなことにアオイの耳に届いていた。

「いつ来たっていいけど……待っててあげるから、ずっと」

 極楽にも地獄にも会いたい人はいない小萩にとって、あの世の入り口に座り込んで、アオイがやってくるのを待つのは困難なことではない。百年だって待っていてあげられる。

 アオイはそれを聞いて再び瞳を潤ませたが、もうこれ以上涙は溢れなかった。そして、うん、うん、と繰り返し頷いた。気分が良かった。

 小萩は最後に、みっともなく崩れてよれよれになった、それでも瞳だけは深青に澄んだアオイの面差しだけを網膜に焼き付けて、ゆっくりと目蓋を閉じた。

 

 

 

 

 森の中に聞こえる鴉の声と、南無阿弥陀仏と唱える低い声、それらを耳にしながら、玄弥は巨岩の上に疲れきった体を横たえて、頭上に広がる夜明け空を眺めている。

 藤の花の季節が終わると、兄も椿も玄弥にばかりかまけていられる時間もなくなり、しょっちゅう屋敷を留守にしている。

 そして玄弥は、二人が家を空けている間、ずっと悲鳴嶼のところで厄介になっている。

 悲鳴嶼に教えを乞うことについて、椿は「自分で説得しなさい」といって口添えなどはしてくれなかった。しかし、彼の住いである侘しい寓居の前に二晩続けて居座って弟子入りを頼み込むと、悲鳴嶼は割とあっさりと根を上げた。玄弥が飯も食わずにその場に座しているのが気の毒になったらしい。悲鳴嶼は暇ということはありえないし、しかも弟子取りにちっとも乗り気でなかった割には、よく玄弥の修行の世話をしてくれている。「この岩を押して動かしてみなさい」と指示されたときはこれは頓知の一種だろうかと面をくらったが、とりあえず今のところは、文字通り石にかじりついてでもやり遂げるべく力を絞っている。今のところこの巨岩、一寸と動きそうな気配はないが、しかしこのくらいのことは兄にだってできるはずだ。自分は兄の弟である。できないはずはない。そう自分を励ましている。

 悲鳴嶼とは一緒に過ごして長くないが、口のうまくない不器用な人だと知れるまでそう時間はかからなかった。悲鳴嶼は鬼殺隊で一番強いのに、ちっとも偉ぶったところがなくて、住居で彼の身の回りの世話をしている隠の人は「あんなにできた人はいない」と大絶賛している。玄弥にはそういったことよりも、夕飯の魚を縁側に寄ってきた猫にためらいなくくれてやるような素朴な優しさが印象に強い。

「御房は息災でおられるか」

「元気ですよ。ほっといたら半日でも平気で説法するからガキ共に煙たがられるくらい」

 これは玄弥がそもそもここにくるきっかけになった僧の話である。昔から面倒見の良い人で、悲鳴嶼も大層世話になったらしい。恩人なのだ、とも言っていた。なんの恩人なのかは聞いていない。

 不死川家の生き別れの兄弟が再会してもう数か月も経つが、大きく変わるものもあれば変わらないものもあり、兄に対する玄弥の感情は単純ではなかった。

 多少は昔のように、兄弟らしく振る舞うことを思い出したとはいえ、兄に対する玄弥の罪悪感は、おそらく一生胸の中にこびりついて取れないだろう。それでいいのだと思う。もともと謝って許されるようなことを言ったつもりもない。

 しかし、自分を守ってくれた兄の気持ちに報いたいと思うのなら、玄弥がやるべきことは、自分だけが楽になりたい自責の念で己を苛むことではないはずだ。

 失われた命が戻ることはなくても、今ここにある命を守りたいと思うから、兄は鬼狩りになったんだろう。兄みたいになりたい。幸せに生きている人たちの平穏を守りたい。

 玄弥のやっていることを、兄は任務に出ていて何にも知らない。しかし、いつまでも隠し通せるわけがないから、近いうちには伝えなくてはならない。知られたら怒りを買うことはもう重々すぎるほど承知していたが、もはや兄の怒りで揺らぐほど脆い決意でもなかった。

 それに、椿は背を押してくれるはずだ。彼女のことを姉などとは気恥ずかしくて口にできそうにもないが、玄弥はもう彼女のことを家族だと思っていた。はじめ反発心で頑なになった玄弥の心は、兄が椿と一緒にいて微笑み合っていたり、労り合っていたりしているのを見ているうちに柔らかくなってしまった。今はただ、兄が幸せそうなのが嬉しかった。玄弥が守りたい幸せの真ん中には兄がいた。椿もそうだった。

「……早く帰ってこないかな」

 大切な人たちの帰りを待ちこがれる玄弥の独り言は、早朝の静寂の中に溶けて消えていった。

 




小萩の当初のキャラコンセプトは「綺麗な獪岳」でした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

余談〜天才堕姫ちゃんごちそう食べた

「言ったじゃねえかよお、俺が出てって皆殺しにしてやるって」

 鬼狩りと太陽から逃げおおせた堕姫は、地底の穴蔵で痩身の兄の背中にしがみつき、わんわんと声を上げて泣いていた。柱でもない鬼狩りに散々にやられた挙句、敗走したのがよほどこたえてるのだ。なんという失態、なんという無様。彼らの主人に知られればただでは済むまい。

 それでも妓夫太郎は最後の最後まで手出ししなかった。自分が出ていけば容易に片付いたろうが、妹がそれを望まなかったからだ。

「だって、あたしが食べるんだもん、一人できるもん……」

「お前の獲物を横取りして喰ったりしやしねえよ」

「あの女ども、あたしにひどいこと言ったのよ、むかつく、むかつく!あたしの手で八つ裂きにしてやらなけりゃ気が済まない!」

 堕姫は兄の背中をぽこぽこと叩いた。妓夫太郎はざんばら髪をぼりぼりと掻き毟った。

「もしあいつらがまた来るようなことがあったら、今度はうまくやるんだから」

「だめだ」

「どうしてよう」

「次に来るのはあんな雑魚じゃねえ。ほとぼりが冷めるまでは大人しくしてろ」

 妓夫太郎は、これでも妹を痛めつけられて怒っていたのである。しかし妹可愛さに判断を誤らないだけの冷静さも持ち合わせていた。

 小柄の娘を口が利ける状態でとり逃してしまった。あの女は堕姫のことを仲間に報告するだろう。つくづく悔やまれるが、しかし、妓夫太郎はこういう時どう対処すれば良いのかわかっている。

 五、六十年か昔に同じようなことがあった。のこのこやってきた柱を始末したは良いが、派手に立ち回ったせいで鬼狩りの強いのが大挙して遊郭に押し寄せてきたのだ。連中が地上を徘徊する間、二人は地底に身を潜めてじいっとしていた。数か月もすると連中は、鬼が縄張りを捨てたと思い込んで、もはやこの地は警戒に値せずと姿を消した。鬼狩りが一人残らず消え去って、それからようやく二人は地上に舞い戻ったのである。

 今回もその時と同じようにする。確実に敵を仕留めるために逼塞するのは、苦でも屈辱でもなんでもない。柱を倒す時は単独撃破が鉄則だ。一人の柱を倒すのは、妓夫太郎たちにはそれほど難しいことではない。それでも、群れてかかってこられると厄介である。用心するに越したことはない。それがゆうに百年を生き長らえた鬼の処世術というものだ。個に多数でかかることの強みを、妓夫太郎は他のどんな鬼よりも理解している。

 堕姫は兄の言葉にしぶしぶ同意した。そして兄の背にくっついたまま、足をぶらぶらと揺らして「お腹空いたあ」と無邪気に言った。妓夫太郎は帯に取り込まれて眠っている人間を指した。

「この女、お前のお気に入りだったろ。こんなときゃいいもん喰って嫌なことは忘れちまえ」

「お兄ちゃんの取り分がないじゃない」

「俺はなんもしてねえからよ。……よしよしわかった、じゃあこっちの女はお前が丸ごと食えばいい。で、そっちの女は頭から股まで割いて丁度半分こだ。な、それでいいだろ」

 妹と違い、妓夫太郎は口にするものの選り好みをしない。老いた人間も病気の人間でもなんでも喰う。うまそうな人間の肉は、進んで妹に分けてやっている。それでも兄の方がよっぽど強かったのだが。

 うまそうな人間といえば、今回の戦いで唯一、堕姫に肉薄してその頸を落とした女。あれは惜しかった。是非とも妹に食わせてやりたい上質な肉だった。しかし、あの怪我の具合では生きてはいまい。残念だ。

 堕姫は兄になだめられてようやく機嫌を取り直した。それから手前に吊るしたお気に入りの花魁の女へと、木に実った果実をもぎ取るがごとく手を伸ばした。こいつは幸せだ。眠っている間にことが済む。生きたまま炎で焼かれるよりも遥かに慈しいことだろう。妓夫太郎はそう思う。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23.からから回る

今気づきましたが、ここすき機能というものが実装されていたようで、押していただいた方ありがとうございます。
煉獄さんは生き様が立派すぎて「煉獄さん」っていう概念みたいになってるので、かえって人並みの人生を楽しんでいてほしいという気持ちになります。



 煉獄が風柱邸を訪れたのは真夏の昼べのことだ。快晴で、空気は生温く蒸し暑かった。

 出迎えに接した煉獄は、思わぬものを目の当たりにして両眼を見開いた。客人を迎えた風柱の弟の顔面は、ちょっと見られたものではないほどひどく腫れ上がっていた。

「どうしたんだ、その顔は」

「兄貴とちょっと喧嘩しただけです」

 煉獄の拝見するところでは、彼ら兄弟は実力に天と地ほどの差があると見え、ゆえに、殴り合いとなればそれは一方的なものとなったはずであったが、やられた方の玄弥はけろっとしていて、こたえた様子もない。

「君の兄に会いにきた。面会は叶いそうか」

「大丈夫だと思います。俺をぶん殴る気力があるし――あ、忘れてた」

 玄弥は座位のまま煉獄に向き直った。

「本当にありがとうございました。……椿さんを助けてくれて」

 そう言って頭を下げようとした少年を、煉獄はよしてくれと制した。

「俺は何もしていない」

 本当に何もしていないのである。煉獄はただ、花柱の救援要請を受けて最初に到着した柱というだけに過ぎない。現場に着いた時にはすでに夜明けで、すべてが終わった後だった。

 居間には風呂敷包みが置いてあった。どうやらもともと外出するつもりだったところに、煉獄がやってきたものらしい。

「俺は蝶屋敷に行ってます。いや、手当てしてもらおうってんじゃなくて、お見舞いに」

「一緒に行かないのか」

「兄貴は出禁になりました」

「なぜだ」

「今朝屋敷で、こう、やって騒ぎになったので」

 玄弥はこう、と言いながら、拳を作って上下に激しく振った。聞くところによると、今回の任務に追随していた隊士たちの不用意な会話に居合わせてしまったらしい。

 

 ――柱が殺された。上弦の鬼って、そんなに強いのか?

 ――頑張って戦ったって言ったって、倒せなかったんじゃ、なあ……

 

 彼らとしては上弦の鬼を恐れる動揺あまりの弱音であったろうが、聞いて気分が良いものではない。

 しかし、それを不死川が怒ったのは良かったのかもしれない。不死川はなんだかんだといって最後は理性で歯止めを効かすだろうが、胡蝶しのぶが聞いておれば怒るだけでは済まなかっただろう。

「御方の容態は如何か」

「良くないです。でも、医者は意識がなくても、声をかけてやると具合に良いんだって……だから、兄貴の代わりに俺が行きます」

 彼は見舞いに行った後は、しばらくはこの家にも帰らないつもりで、その間は悲鳴嶼のもとで修行に励むと言うことだ。良い気概である。

 入れ替わりに家を出て行く少年から、彼の兄が東側の部屋にいると聞き出し、渡り廊下を歩きながら、煉獄は椿と初めて出会った時のことを回想していた。

 

 

 それは先冬のことであった。北風に流された雪が、山里に生い茂る芒の草原や杉の梢枝の上に静かに降り注いでいた。

 その日は偶然、帰り路で不死川と一緒になったので、情報交換がてらたわいもない話に興じていた。新しく入った隊士たちに継子にならないかと勧誘して回ったけれども、ものの半日も経たないうちに全員逃げ出してしまった、と煉獄が口惜げに語ると、不死川は「よくやるぜェ」と半ば関心、半ば呆れ混じりで言った。

「後輩を導くのは先達の務めだ。柱ならなおのこと、その責務を疎かにするわけにはいくまい!」

「腑抜けた連中に稽古をつけてやるほど暇じゃねえだろォ」

 と、不死川はこのように下級の隊士の惰弱なことに毒づいていた。しかし煉獄は、今まで一緒に戦った経験からして、この男は誰かを背後に守って戦うときが一番力を発揮するのだと知っていた。つまり、これは彼なりの不器用で、彼らのことがどうでもいいわけではなく、むしろ弱い者が弱いままみすみす命を落としていくのがやりきれないのであった。

 自分たちは顔を突き合わせれば万事こうで、互いの私生活だとか身の上だとかを語り合ったことは無かった。不死川は煉獄に弟がいることも知らないに違いなく、煉獄も彼の家族のことは知らなかった。この時までは。

 杉林を通り抜けて会話が途切れたところで、前方を見つめていた不死川の息がはっと詰まった。煉獄は何事かあったのかと視線の先を追った。

 霜の深い野道の先に、道祖神の石碑がある。里に帰るときにはほとんど必ずこの道を通る。

 その石碑のそばに、すぐれて美しい女人が傘を差して立っていた。

「――椿」

 不死川はその姿を認めるや否や、隣にいた煉獄のことなどお構いなしで一目散に駆けて行った。

「なんでこんなところにいる」

「早朝お帰りになるときいたから、迎えに上がろうと思って」

「家で待ってりゃ良かったろ」

「でも、早く会いたかったの。――寂しかったのよ」

 その一言で、不死川の威勢は完全に削がれたようだった。彼は傘を受け取ると、妻の肩を抱いて身を翻した。そのときわずかに背後の煉獄に視線をやった。煉獄は心得て、軽く会釈を返した。

 一つの傘を分け合って睦まじく歩く二人の後ろ姿を、煉獄はわずかな感銘とともに見送った。夫婦が身を寄せ合う様子は、煉獄の胸に、どこか懐かしく暖かい感慨を呼び起こした。

 

 次に彼らとまみえる機会は、意外と早く訪れた。

 

 数日後、謡(能の声楽の部分)の稽古のために師の家まで弟を伴って足を運ぶと、そこに椿が来ていたのだ。椿はこちらが炎柱であることに気付くと、深々と頭を下げた。幾分か恐縮しているようである。

「俺はそこまで畏まられるようなことをしただろうか」

「先日の非礼のお詫びでございます」

 あの雪の日、煉獄が居合わせたのにまったく気付いていなかった、あとで夫に言われて初めて知ったのだと、椿はそう述べて挨拶もせずに去ったことの非礼を詫びた。

「気にする必要はないが、君たちはいつもあんな風なのか」

 そう聞くと、椿の頬にわずかに朱が差した。そして、互いに忙しく、ああやって出迎えることができるのは稀なことだから、つい張り切って周りが見えなくなったのだと呟くような小声で言った。

 そして己の振る舞いがいかにもはしたなく感じられたのか、謡の教本に目を転じて、「謡をおやりになるのですね」と話題を変えた。

「いや、ほんの嗜み程度だ」

「そうは言いましても、若様は物心つきましてよりこちらに通っておりますゆえ」

 といって、師は煉獄の力量を請け負った。

 煉獄は歌舞伎も能も見るのも好きだがやるのも好きだ。それらは先人が磨き抜いた智慧と技を昇華した型を身につけるという点で、呼吸法の習得に通じるところがある。型はすべての基本である。不器用なものにも特別な才能がないものにも、先に進むための道標を示すのが型である。

 謡の師は煉獄に、「御方に一調、披露なさってはどうか」と勧めた。彼はもののわかる人間に対して、己が育てた弟子を自慢したいのである。椿が「是非」と願ったので、煉獄も腹を括った。

「では千寿郎、鼓を持て!」

 千寿郎は兄に従って、鼓の緒を締め直した。まもなくこおんと澄んだ音が部屋いっぱいに響き、煉獄はそれに合わせて、『芦刈』の一節を謡った。

 一調が終わると、椿はまず千寿郎に向かって、

「強くて芯の太い、荘厳な良い音色でしたね」

 と微笑みかけた。他人から褒められることに慣れていない弟は、はにかみながら「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。謡一人と鼓一人でやる一調は、囃子方である鼓の方がよほど技巧を試されるのである。兄の贔屓目を除いても、千寿郎は立派にやってのけた。

「そして煉獄さまは――本当に見事な『笠之段』でございました。嗜みとはご謙遜が過ぎます、本職の役者でもこれほど良いお声には中々接しませんもの」

 師匠は椿に同調してそうでしょう、そうでしょうともと二度も三度も相槌を打った。千寿郎は兄が褒められているので嬉しそうだった。

「いや未熟な手前、お恥ずかしい限りだ」

 稽古にさほどの時間を割いていない煉獄のそれは趣味の領分を出ない。稽古の大事なことは剣でも謡でも同じだ。それでもなんとか様になっているのは、ひとえに生来見栄えがする体躯と聞き映えのする声を持っていたためである。

 会が終わり、師に暇を告げて外に出ると、表門のところに、着流しと羽織の出立の不死川が突っ立っていた。彼は妻を迎えに来たものとみえ、そのこと自体は意外ではなかった。

「奇遇だな不死川!」

「……おう」

 ただし、不死川が煉獄に向ける眼差しは非常に冷たく痛いほどだった。敵意さえ孕んでいると言ってよかった。千寿郎は「なぜこの人はこんなにも冷たく兄を睨みつけているのだろう」とおろおろしていた。

 胸中を察するところ、不死川は自分の妻が非常に魅力的であると確信しているのだろうから、へたに男に近づいて欲しくないのだろう、その気持ちは理解できる。しかし煉獄としては人妻に変な気を起こすつもりなど毛頭ないわけで、その懸念は完全に杞憂でなおかつあらぬ疑いだと言いたかった。

「煉獄さま、まだいらしたのですね――あら」

 椿が遅れて玄関から出てきた。

「先に戻っておいてって言ったでしょう」

 不死川は黙って、妻の肩に長羽織を被せた。

「買い出ししてから帰んだろ。荷物持ちくらいさせろ」

「気にしなくても良いのに……そうだ、あなた、今日の晩ご飯何が良い?」

 その時、たまたま腰に魚籠を下げた青年が門の外を通りがかった。不死川は反射的に「魚」と答えていた。

「……魚?適当に答えていない?まあいいわ。角のお魚屋に美味しそうな鯖が売っていたし。煮付けにする?塩焼きにする?」

「焼く以外に何ができんだ」

「この間千夜子に甘露煮の作り方を教えてもらったの、それにね……」

 二人はこんな調子で会話しながら、手を繋いで去っていった。

「仲がよろしいんですね」

 完全に二人の姿が見えなくなると、千寿郎が感心げに言った。

「良いことだ」

 不死川は妻に対して、信じがたいほど語勢が柔らかい。椿は夫に対して、常の佇まいをかなぐり捨てて童女のような甘え方をする。互いに夢中ですっかり惚れ込んでいるのである。独り者にはちょっと眩しいくらいである。

 煉獄はどことなく感じる懐かしさの原因を探った。

 そして、己の母と父とのことに思い至った。といって、両親とあの二人が似ていたというわけでもないのだが。

 

 ――そのようになさってはお身体に障ります

 ――しかし、瑠火、今はお前の……

 ――万一にも不覚を取るなどあっては柱にあるまじきこと、私も鬼狩りの妻として立つ瀬がありません。どうかお部屋に帰ってお休みください

 

 任務から帰って看病にあたろうとした父を、母はそう言って追い返したことがあった。

 賢夫人の誉高かった母は、常日頃から自他に厳しい人であった。

 夫が血まみれになって怪我を負って帰ってきても一筋の動揺も見せず、手際良く湯を沸かし医者を呼ばせていた。そうした女性だったから、夫が任務に出ている間も冷静にしていて、心乱れる様子などなかったけれども、帰りが平常より遅れた時は、まんじりともせずにいたのが記憶に蘇る。そしていざ夫が帰宅した時には、ほっと一息をついて、それから普段と同じように夫を出迎えていた。

 ――おかえりなさいませ、あなた……

 夫を見送る時は、必ず燧石を打ち鳴らして清めの火花を飛ばしていた母。留守の間、夫の無事を一心に祈り続けていた母。強き者の責務を説いた母……

 そして父だ。ある時から物事すべてに投げやりになってしまった父に対して怒りはなかった。ただ辛かった。もっともな正義感から父を無責任だと非難する言葉を聞いても同調する気になれず、兄弟を引き取ろうかと親身になってくれる親戚もいたが、そうなると父が一人きり残されてしまうと思って踏ん切りがつかなかった。煉獄はふだん周囲にどのように年不相応に頼りにされていたとしても、父の前では親を想う子にすぎなかった。

 そういえば、父の無気力は母の死後に始まったのだった。

 そのことに思い至ってから、ほんの少し調べただけで、実は母が亡くなった後、父の元にたくさんの縁談が持ち込まれていたことがわかった。まだ働き盛りの若い男が後妻を迎えるのはごく一般的なことで、まだ幼い子供のためにも新しい母を作ってやるのが良いだろうという風潮は強かった。

 しかし周囲の気遣いは、父がそれを強固に拒んだので成立しなかった。

 彼は妻だけを愛していた。後添えを持たぬのも、ひとえに亡き妻へ向ける愛の大きさゆえであった。

 煉獄はそれですっかり納得してしまった。

 母の愛は偉大であった。そして、そのような偉大な愛を失った男が、失意にさまようのは何ら不思議なことではなかった。

 このことがわかったのは、煉獄にとってわずかばかりにも慰めとなった。父子の関係には特段変化はなかったが――どう言い繕っても「お前に何がわかる」とか、そういった類の言葉が返ってくるのは容易に想像がついたので――今までどうしてとばかり思っていた事柄に答が与えられたので、晴々とした気持ちであった。

 こんなことを思い出したのは、つまり、唯一無二の番を失った男というものは、際限なく惨めで悲しい生き物になってしまえるのだ、という話である。

 

 

 東側の一室に人の気配があった。外から声をかけても返答がなかったので、止む無く断りを得ずに襖を開けると、物騒な一文字を背負った不死川が、その背をこちらに向けて座っていた。何をやっているのか、畳の上一面に布を広げている。

「失礼する」

「煉獄」

 部屋に踏み入ろうとした煉獄を、不死川が低く威圧した。

「この部屋の敷居際を跨いだらテメエを殺す」

 気の弱い者であればそれだけで竦み上がって逃げ出しそうな声だったが、相手は炎柱である。臆するはずもない。しかし一旦は牽制に従うことにして、その場に立ち止まり、部屋の中をぐるりと見渡した。

 桐箪笥に化粧台に文机。清潔で整頓されている。それに壁際の衣紋竹には、優美な色柄の単衣が掛かっている。女ものだ。

「ここは細君の居室か。すまない。配慮を欠いていた」

 煉獄は前がかりになった身を引いた。しかし、そのままその場から動く気配を見せなかったので、不死川は鬱陶しげに「何の用だァ」とさらなる不穏を立ち上らせた。

「不死川、そう殺気立っては誰も声をかけにくい!鴉が困っていたぞ!知らせがある。お館様からの指令だ、心して聞け」

 上弦の鬼の出没は、これの討伐を鬼殺隊の目下最大の優先事項とさせた。

 鬼はいくつかの痕跡を現場に残していた。その痕跡を追って、遊郭の付近と、鬼が去ったと思われる西の方角に、柱の半数を動員して捜索に当たることになった。

「君の具申は聞き届けられた。俺とともに、上弦の鬼を追う任に就けとの仰せつかりだ」

 行けるな、とは口に出すこと自体がこの男への侮辱のように思えたので言わなかった。

「聞き及んでいると思うが、君の細君と最後に接したのは俺だ」

「だから何だ」

「彼女は見事だったぞ。鬼殺隊の一員として立派に戦い、その務めを果たした」

「んなくだらねえことを言いにきやがったのかテメエは」

「最後まで言わせろ!彼女は俺に、自分が知り得たすべての情報を、つまり鬼の容貌や、能力や、そうした諸々の事柄を伝えてから力尽きたが、俺は最後、彼女に『他に言うべきことはないか』と聞いた」

 不死川は、それを聞いてようやくこちらを振り向いた。

「彼女は『玄弥くんと仲良くしてね』と」

 一瞬、煉獄は不死川が我構わず飛び出していくかと思った。

「それだけか」

「ああ」

 そうはならなかった。不死川は、胃の腑を炎で炙られる痛みに耐えようとするかのごとく身を強張らせ、額に手を当てて息を吐き出した。

「どいつもこいつも手前勝手を言いやがる……」

 廂に吊るした青銅の風鈴が揺られて涼しげな音を立てた。風が出てきたのだ。

「……それは何をしている?」

 よくよく目を落とせば、不死川が手元に広げているのは縫い物である。解いた衣を仕立て直しているようだ。

「……あいつがよそで貰ってきた袷の身幅が合わねえっつうからな」

 ――どうしましょう。こういうの、呉服屋さんにお願いしたらいいのかしら

 ――仕立て直してやるから、部屋に置いとけ

 ――直せるの?

 ――そんなに難しかねえよ。帰ってくるまでに仕上げといてやる

 ――急がなくてもいいのよ。どうせ着るのは夏が終わってからだもの……

「帰ってくるまでに仕上げてやるって、約束したからなァ……」

 不死川はもうそこにいる客人のことなどどうでもいいとばかりに針仕事に戻った。煉獄の方も、これ以上にかける言葉を何も持たなかった。

 

 

 床の後ろで蝉がひっきりなしに鳴いている。草叢に落ちて潰れた果実には蟻が群がっている。

 煉獄が出立の時刻だけ告げて帰った後も、不死川はしばらく黙々と針を動かしていた。地面に落ちる影が長くなりかけた頃にようやく手を止めて、飯だけ炊いて漬菜を食った。夏場だから、あまり長持ちしないだろう。早めに胃袋に入れて片付けてしまわなけばいけないと思うが、妻が慣れない手つきで葉物を樽に詰め込んでいたのが思い出されては胸が重たくなり、箸の進みは遅々とした。

 椿が不在の間、家のことは不思議と行き届かないというか、いる時と同じようにはいかないようだった。陶器に浮かぶ睡蓮と蘆は、毎日水を換えているはずなのに葉先が茶色くなってしまった。庭の樹木の世話に至っては、まるでやりようがないので玄弥に任せておこうとしたが、弟はよりによってこんな時分に底抜けのバカを発揮した。やはりどう反対されても俺は鬼狩りになりたいなどと言い抜かす。ふざけるなと言っても聞かない。二、三顔面に拳を入れたが折れない。そして今の不死川には、それ以上に言葉や行動を尽くす余力がなかった。

 柱の掛時計を見ると、まだ出立まで余裕があった。

 不死川は家を出た。とくに当てはない。しかし足は自然と流れるように蝶屋敷に向かっていた。

 本来ここに用は無かった。というか、今朝の一件で、自分ごと以外の用件で病棟を訪れるのは禁じられていたのだ。

 屋敷は普段の明るい軽やかな雰囲気が完全に消失してしまって、全体が悲しみに重く沈んでいる。胡蝶カナエは誰からもよく慕われた。その継子もけたたましく賑やかな女であった。羽虫さえ喪に服し、雨露に濡れた草木すらその死を悼んで涙に暮れているかのようだった。

 不死川は塀を身軽に飛び越えて、ひそかに屋敷の裏庭に回った。敷地に入ったことで気を緩めかけたその時、思いがけない一声が静寂の空気を破った。

「実弥」

 窓の内側から発せられた柔らかい声に、不死川は思わず顔を跳ね上げた。

「お館様、なぜここに」

 側に誰もついていないとは無用心であると言いかけたが、そもそもこの人が隊士を護衛につけたことはないのだし、むしろ自分と一緒にいるいまの状態が一番安全であることに思い至った。

「あまねはしのぶたちについているよ」

 産屋敷は不死川の疑問にそのように答えた。そして、「なぜそんなところにいるんだい、こちらにおいで」と手招きした。

 逆らえるわけもなかった。不死川は身を隠すようにして裏の戸口から屋敷に入った。幸い、誰にも会わずに済んだ。

 病室には産屋敷と椿しかいない。産屋敷は寝台のそばに立ち、不死川はその斜め後方に控えた。椿はここに運び込まれてからもう二日経つのに、ずっと意識が戻らない。すんなりとした真っ白な腕に、管をたくさんつけているのが痛々しい。上半身は衝立に遮られて見えなかった。

「情けない話をするのだけれど、私は身体が強くない。子供の頃からそうなんだ。今でもよく熱を出して妻の手を煩わせている」

 産屋敷の口調は常と変わらず穏やかだった。

「けれどね、熱で意識が朦朧としていても、あまねに手を握ってもらうととても安心する。安らかな心地になる……実弥、ここへ」

 産屋敷が不死川に向ける慈悲深い眼差しは、母のようであり、父のようである。同時に、今の言葉には、妻帯者という立場を同じくする者としての思いやりがあった。

 手を握ってあげなさいと促され、不死川は恐々寝台に近寄った。顔を見てやる勇気がないのが情けなかった。

「椿は大丈夫だよ」

 その通りだ。椿は大丈夫だ。不死川は何の憂いもなく普段通りにしておれば良いのだ。彼女が目を覚ました時、この醜態を知られれば何を言われるかわかったものではない。

 医者は、普通ならこれほどひどい怪我を負った者は生きてはいられないと言った。いつ息をするのをやめてもおかしくないと言った。だからなんだ。この女は今までだってさんざん死ぬような目にあってきたんだ。実弥はかつて死にかけた彼女の身体を抱えて山を下ったことがある。あの時だってどうにかなった。今回だってどうにかなる。

 そう考えて気を鎮めようとするが、かえって底のない奈落へ落ちていくような覚束なさがある。

 死ぬな、死ぬな、どうか死んでくれるな、これ以上、家族を失いたくない。勘弁してくれ、もうたくさんだ……

 恐る恐る握った手のひらがひんやりしていてやりきれない。楽しげに笑う声が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24.ちりんと鳴る

誤字報告をいただきました。報告してくださった方、ありがとうございます。


 二階堂邸の食堂は、客人をもてなすためにも使われるから、その内装は贅を凝らしている。しかし、家族で食事を取る団欒の場所としてはいささか絢爛にすぎるのは否めない。マホガニーの重厚なダイニングテーブルを挟んで座る親子の距離は遠い。

 娘が座る向かい側で、父が仔牛のステーキをナイフで切り分けては口に運んでいる。

 椿は目の前の食事に手を付けず、肘掛けに腕を置いてじっとしていたが、ふと名前を呼ばれた気がして後ろを振り返った。

「どうしたんだい」

 父に問いかけられた娘は、振り返ったままの体勢で「お館様に呼ばれました」と答えた。燭台で揺らめく炎が、青白い横顔と、マントルピースの上に置かれた西洋絵画を照らしていていた。

「物々しいことだ。戦国時代のお大名じゃああるまいし」

「なんとでもおっしゃって。今はあの人が私の父ですもの」

「目の前に本物の父親がいるというのに、ひどいこと言う」

 父は声を張り、我が妻の名前を呼んだ。

 しかし、どこからも返事はない。

「来ないな。折角、久しぶりに家族みんなで食事を囲めると思ったのに」

「お見えになるはずがないわ。だって、母様は、()()()()()()()()()()()()()()()

 父は瞠目した。そしてすぐに神妙げになって二、三度と浅く頷いた。

「ああ……そうだ、そうだった」

 椿は黙るのをやめた。そうすると父を責める言葉が堰を切ったように溢れ出した。

「母様だけじゃありません。長年忠実に仕えてくれた家令と老女中、私が生まれる前から庭園の世話をしていた庭師、親を養うために田舎から奉公に上がった下女、他にもたくさんの罪のない人を殺しましたわね」

「そうだね」

「あなたは家を支える使用人は私たちの家族も同然で、敬意と礼儀をもって接しなければならないと教えてくださったわね。もう、主君が家臣を手打ちにしてお咎めなしに許された時代とは違うんだって……人の命の重みは身分の貴賤に関わらず平等なんだって」

「それもその通りだ、私の教えたことをきちんと聞いていたんだね。お前が誇らしいよ」

 父は肩をすくめた。

「なぜそのように憎々しげに私を睨むのだ。お前は鬼の血を注がれた人間がどうなるかわかっているだろう?私には抗いようがなかった」

「だから何?死んだ人にとって、あなたの事情など関係ないことでしょう?」

 娘は父を取り付く島もなく突き放した。

「お前、父親を憎んで、命を捨てるような真似をして、それで罪滅ぼしでもしているつもりかい」

「勝手なことを言わないで。そんなのじゃない」

「そうだな、お前のやっていることは罪滅ぼしというよりも八つ当たりだ。鬼狩りはお前のほかにも山ほどいる。お前が殺さなくても他の誰かが鬼を殺す。それでもお前は剣を手放さないというのか、神様がお前を生かしたのはそのためだなんて幻想にすがるのか?」

 椿は激しくなる感情を押さえ込もうとして、肘掛けに置いた手を握り締めた。木の枠組みが軋んだ音を立てた。

「……たった一人しか生き残ることができないなら、それは私以外の人でなければならなかったのに、どうして私を残したの」

 父は我が意を得たりという顔になった。

「なんだ、それが本音かい。つまり、お前は一人だけ生き残ってしまった罪悪感から逃れたいというわけか。なんと傲慢な、思い上がった利己主義(エゴイズム)だろうね。お前は誰かに悪いと思いながらもその実、自分のことしか考えていないではないか」

 言葉を失った椿に構わず、父の姿をした何かがまくし立てる。

「何を驚いている?わかっているはずだ!これはすべてお前の頭の中で起こっていること、お前が心の底で考えていたことだ。死んでいった者たちとその家族の誰一人として、お前の不幸を願った者がいるか?いなかっただろう。誰しもがお前に幸せに生きろと、そう望んだだろう。死者に答えを聞くことは叶わずとも、お前にはわかっているはずだ。お前はそう願われて生まれ、そう祈りを受けて育ったのだから」

 こんなことをこの人に言われる筋合いはない。視界が怒りのためにぐるぐると回って吐き気がする。――無意味だとわかっていても、叫んで問いただしたかった。あの夜に何があったのかと。

 もちろん、今となっては、本当のことは誰にも何もわからない。

 確かなことは、あの日家を襲った鬼は父であったこと。血を浴びて鬼に転じた父は、人格も理性も喪失し、周りにいた人という人を殺し尽くして、妻や娘が一目見てそうとわからないほど元の型を留めない異形に成り果てて、それでも家に帰ろうとしたのだろう。……愛する家族たちの待つ我が家へ。

 鬼になった父はもはや父ではない。そうわかっているのに、脳裏に醜悪な鬼の形相が焼き付いて離れない。纏わり付く嫌悪感が父を安らかに悼ませてくれない。鬼は父の魂と矜持を捻じ曲げただけではなくて、家族の暖かい、大切な思い出すら汚した。

 鬼は嫌いだ、大嫌いだ。

「私の決めたことに指図しないで。あっちに行って……」

 我らは死後、犯した悪業の様相に従って地獄にて裁きを受ける。殺生をしたものの堕ちる世界を大火の満ちる炎熱地獄という。いやさかに燃え盛る炎で焼かれる父の苦しみはいかほどか。

 かわいそうと思ってはいけない。当然に咎の報いを受けているだけだから。けれど、けれど、

「……かわいそうなお父様。せめて、あなたが誰も殺さないうちに、私が頸を落として差し上げたかった」

 苦しみとともに絞り出した言葉に応える声はもはや無かった。父の姿は見る見るうちに赤々燃え盛る炎に包まれた。一瞬きの後、もうそこには誰も座っていなかった。

 

 

 

 

 その日、任務が明けて蝶屋敷に戻ったばかりだったしのぶは、休む間もなく急患の治療に追われた。

 一命を取り留めた隊士は、何度もありがとうと言って、しのぶに感謝の意を伝えた。この青年は右手を失っていたので剣士としては引退せざるを得ないだろうが、落ち込んでいる暇も惜しいとばかりにすでに今後の身の振り方を考えている。しのぶが「頑張ってくださいね」と微笑みかけると、彼は顔を赤らめた。見慣れた表情だった。姉に看護される男たちと同じ顔をしていた。偶像を仰ぎ見るがごとき陶酔した目つき。

「もう夏が終わりますよ」

 一通りの仕事に区切りをつけると、しのぶは椿の病室を訪れた。カーテンを開けて、意識の戻らない友人に呼びかける。

 しのぶは忙しい合間にも、できるだけここを訪れるようにしていた。

 開け放した窓から、一陣の風とともに蝶が舞い込んできて、脇机の花瓶に生けた山百合に留まって蜜を吸ってた。

 しのぶは、しばし脱力してそれを眺めていた。

 ここに来ると、張りつめていた気が抜ける。今にもその扉の陰から姉が覗きこんでくるような気さえする。

 そんなことがあるはずがないのに。胡蝶カナエはしのぶの腕の中で息絶えた。亡骸を連れて帰り、死化粧を施し、母から受け継いだ花嫁装束を着せて荼毘に伏した。そして四十九日を迎えるのを待たずに、早々に両親の眠る墓に遺骨を納めた。僧には急がなくても良いと言われたが、時の流れは容赦なく、カナエの弔いを終えなければしのぶは一歩も前に進む力を得られなかっただろうから、それで良かったのだ。

 それでもいまだに、現在と過去のあわいに漂っているような、心もとない気持ちになることがよくあった。こんなことではいけない、甘えていてはいけないと思うのに。

「……みんなで天神様のお祭りに行こうって約束していたわよね。それに、秋になったら、無花果を採ってジャムを作りましょうって……それに……他には……何があったっけ」

 姉の死とともに、ほとんどの約束は果たされずに破棄されてしまった。しのぶはこの屋敷を、姉が生きているときと同じように運営しようと努めていたが、今のところ、この試みが成功しているかそうでないかは判別がつきかねた。いずれにせよ、しのぶには気にかけねばならないこと、やらければいけないことが多すぎ、心身の疲労は甚だしかった。

「任務に出る回数を増やして貰ったの。お館様は働きすぎでないかと気にかけてくださったけど、弱音なことは言っていられないわ。それに、私、筋力はないかも知れないけれど、体力はそれなりにあるのよ」

 しのぶは体重をかけないようにして、そっと自分の頭を、眠り続ける友人の胸元に押し当てた。心臓が確かに脈打っている。生きている。

 安堵の思いで息を吐く。

 しのぶはすでに最愛の姉を亡くした。髪飾りを分け与えた妹の一人を失い、さらに親しい友まで失うことは耐え難かった。

「……みんな姉さんと小萩がいなくなって寂しいのに、本当に立派にやってくれているの。私も頑張らないと」

 容態は小康を保っている。ほんとうに、ただ眠っているだけのように見える。しのぶも他の医者たちも、やれることはすべてやった。あとは目覚めを待つだけだったが、しかし、それがいつになるのか、明日か、一年後か、もっと先か、それとも目覚めず仕舞いか、確かなことは誰にも言えなかった。

「ねえ椿、私、姉さんみたいにできてるかな……」

 姉の仇を討つことはできなかった。上弦の鬼は辛くも鬼殺隊の追跡の手から逃れおおせた。

 だから、まだ休む時ではない。決して立ち止まってはいけない。

 しのぶは姉の志を継ぐと決めた。二人で誓い合った、幼い日の約束のために生きると決めたのだ。

「頑張らなきゃ」

 しのぶは繰り返した。そして、姉さんが、どうかこの女性(ひと)を冥府の門から追い戻してくれますように、と祈った。

 

 

 

 

 父が消えた後は、電灯が切れるように目の前のすべてが消えて真っ暗になった。そして、もう一度瞬きをすると、椿は茫漠と広がる河原敷に一人立っていた。

 薄ら寂しい石ころひしめく河原に、セルロイドの風車がひとりでに回っている。

 少女が一人、風車のそばにしゃがみこんでいる。椿が歩み寄っていくと、少女は垂れていた頭を上げた。

「つや、どうして泣いているの」

 ()()は父に仕える家扶の娘であった。遊び相手にと宛がわれたたくさんの女の子のうちの一人で、椿は明るくて利発な彼女のことが一番、好きだった。

「痛かった?苦しかった?……ごめんね、ごめんね、つや」

 つやは泣きはらした顔で、「もう痛くも、苦しくもございません」と首を振った。

「ただ、わたくしは、椿さまがいたわしくて、かわいそうで……」

 そういって再び涙に伏せた少女に、椿はたまらない気持ちになった。

 守るべき家名も親兄弟もない、そんな人間は、椿の考えるところでは、己の意志一つでどのように命を捨ててもよいのである。椿は決して不幸ではなかった。

 私は辛くなどないのよ、と慰めようとした手はしかし、むなしく空を切った。爪の先も触れないうちに、つやの姿は霞のように溶けて消えてしまった。

 ――何がかわいそうなものか。お前は仕える家の主人に殺されて、炎に甞められて、相貌の判別もままならぬ無残な屍を晒した。これからもずっと続いていくはずだったまだ見ぬ未来を断ち切られたお前の方が、余程にあわれではないか……

 この世の理不尽に逆上するような怒りがこみあげたその時、背後に人の気配を感じて、椿は後ろを振り向いた。

「お前の剣は憎しみに逸り過ぎているな」

「お師範さま」

 そこには椿を剣士へと育てた恩師が、木剣を構えて立っていた。老人は真正面からそれを振りかぶり、弟子に一撃を加えた。椿は打たれた刀を素手で受け止めて押し返した。

「一体何をするのか」とは問わなかった。これは何千何万と繰り返した稽古の、いつものやり方だったから。

 師は打ち込むのをやめずに滔々と続けた。

「確かに、憎しみも怒りも手足を動かすための薪となろう。だが、覚えておけ。復讐心は倦む。いつかそれだけでは戦えなくなる。長く戦いたいなら、今から私の言うことを決して忘れるな」

 ――人の命を守ること。誰も殺させないこと。

「この大義に背いては、天地神明に我らの戦いは正当であると誓うこともできはしまい。我らが唯人が持つには強すぎる力を行使するのを許されるのは、切れば血の吹き出る生身の人間を守ること、ただ一つに拠るのだから……」

 それだけ言い残して、師の姿は消え失せた。

 椿はそれで、これは過去に起きた出来事だ、と気付いた。言われたその時は、しっくりこなくて、ずっと忘れていたのだ。

 いつのまにか煮えるような怒りは胸の内から去っていた。

 あの夜からたくさんの出会いと別れとを繰り返し、この世を恨むよりも愛おしむ時間の方が長くなった。壊されたくないもの、美しいものがこの世には確かにあり、そういうものを守るために戦いたいと思う。師の言葉は、時を経てようやく椿の血肉になった。

 結局のところ、椿はどれほど世界に絶望しても、性根の部分で厭世的になる素質に欠けているのだ。

「あなたの言った通りでした、お師範さま。……不出来な弟子とお笑いになるでしょうね」

 

 

 

 

「あ、神崎」

「こんにちは、玄弥さん。こちらのお花はお預かりしますね」

 玄弥は椿の病室に向かうために廊下を歩いていてアオイに遭遇した。アオイはちょうど自分も彼女のところに行くのだと言って、玄弥が抱えていたひまわりを受け取った。

「これはお一人で?」

「いやさあ……」

 玄弥は最近、日を置かないで頻繁に蝶屋敷を訪れている。そして、玄弥が訪れるたびに、何度か見かけたが全然しゃべらない、よくわからない女の子――栗花落カナヲが、じいとこちらを見つめてくるのである。この日、ついにたまりかねた玄弥が「何か用か」と聞くと、カナヲはこちらに付いて来いとばかりにくるりと背を向けて歩き始めた。戸惑いながら彼女に従って歩いていくと、屋敷のすぐそばの垣まで来た。そこには遅咲きのひまわりが群れをなして咲いている。

「……」

「いや、なんだよ」

 玄弥をここまで案内すると、用を達成したとばかりに満足げにカナヲはどこかに去ってしまった。玄弥は狐に摘まれでもしたかのような気分だった。

「何だったんだ、マジで……」

 それにしても見事なひまわりである。いくらか頂いてしまっても良いであろうと、玄弥は通りがかったきよに許可をもらって花鋏を拝借し、一輪、二輪を切り取ってこちらにやってきたのだった。

 玄弥は「あいつわかんねえ……」と唸っていたが、アオイはカナヲが何をしたのかよく察した。

「カナヲが……そうですか」

 アオイは微笑みを浮かべて、新しい花瓶を出してきてひまわりをそこに生けた。

 一方、手持ち無沙汰の玄弥は、椅子に行儀悪く腰かけて、点滴袋を取り換える作業に掛ったアオイの姿を眺めていた。

「なにか?」

「いや。任務こなしながら怪我人の世話もするって、大変だな」

「お気遣いは不要です。しのぶ様の方がよっぽど大変ですから」

 アオイはしのぶに同伴して任務に赴くようになったが、しのぶはむしろアオイに、医学とか薬学とか看護学とか、そういう才能を期待しているようであった。実際、アオイは以前よりも不在がちになったしのぶに代わり、屋敷のことをよく采配している。

 それはちょうど、カナエとしのぶの関係に似ていた。しかし、似ていても、決して同一ではない。

 しのぶは、妹たちの前で笑みを絶やさないでいる。けれども、アオイにはそれがかえって痛々しいように感じられる。だがアオイが彼女に一体何を言えようか。自分は所詮、しのぶにとっては守るべき妹の一人でしかないのだ。悔しかった。多くのものを背負って立つしのぶの支えになるための力がない自分が惨めだった。誰にも死んだ人たちの代わりは務まらない。

 それでも、力足らずでも、なんとかしのぶの力になりたい、これはアオイのみならず蝶屋敷の少女たち全員の願いであった。アオイはそのために力を尽くしている。それが先に逝った姉弟子の願いにも適おう。彼女は決して、アオイに後ろ向きになることを望まなかった。

「不死川さんはお見えではないんですか」

「兄貴は東北に行った」

 玄弥はいくらか投げやりな調子でそう答えた。

「遠方ですね」

「手ごわいのが出たんだ」

 例によって兄は玄弥には何も申し付けずに行ったが、これは鴉に聞いたので確かな情報だ。

「もう少し近場の任務を割り振っていただいても良いのでは?だって、本当なら一番、傍についていてあげなきゃいけない人じゃないですか。しのぶ様も止め立てたりしませんよ。もう少し顔を出しても……」

 玄弥はやれやれ、とでも言う風に首を振った。

「椿さんは、物も言えない自分のところに来て落ち込んでるくらいなら、一つでも多く鬼の首を取ってこいって、そう言う人なんだよな。……そりゃ、兄貴だって、できるならずっとついててやりたいって思ってるだろうけどさあ」

 己の感情を押し殺して、愛する人の意に沿おうとするのは、むろん深い愛情の証左である。しかし、アオイにはそれがひどく過酷なことに思われ、どうしようもなく切ない気持ちになった。

「帰ってきたら、一番最初に会いに来いって手紙送っとく。それまで椿さんのこと頼む、神崎」

 アオイは「任せてください」と頷いた。玄弥もしばらくはここに来ないと決めていた。彼は彼なりにやることがあった。玄弥はもう、自分がいかに才能なしを理解しはじめていた。そういう人間が、他人と同じように戦いたいなら、人の何倍も時間をかけて努力を重ねなくてはいけない。椿もそれを望むだろう、そういう確信が玄弥にはあった。

 

 

 

 

 椿は、今度は櫟の木の下に立っていた。河原の風景とはうって変わって明るく爽涼とした春の野原を眺めれば、そこにはやはり少女が一人、佇んでいる。

 少女――真菰は楽しそうに白詰草の花冠を編んでいる。

 椿は隣に座って、十三歳のままの永久に歳をとらなくなった真菰を見つめた。

「私、死んだの?」椿の口が考えなしに動いた。

「さっきから死んだ人ばかりが私の前に現れるの。ここはあの世?」

「まだ死んでないよ。さっき聞いたでしょ、これは全部椿ちゃんの頭の中で起こってることだって」

 椿はそう、とだけ言った。これがぜんぶ自分の頭の中が見せている風景なのだと思うと妙な感じがした。

「残念そうだね」

「自分が情けなくて」

「どうして?」

「だって、鬼を二体も取り逃がしてしまったのよ」

「それ、ちょっと思い上がりすぎじゃない?椿ちゃんよりもずっと強い相手だったんでしょ。人間一人でできることってそんなに多くないよ。引き際を見極める方が大事!」

 真菰は手厳しい。椿は完全な正論の前に手も足もでない。

「椿ちゃんは昔っからそうだよね、一度こうと決めたら絶対、後に引かないんだから……」

 真菰は呆れながらも、編みあがった白詰草の冠を椿の頭に載せてくれた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 椿は冷静に、これは記憶ではなくて、自分の頭が作り出したまやかしだな、と考えた。真菰と過ごした時間に、こんな風に穏やかでいられる時間は少なかった。

「でも、引き際だなんて、私が言えたことじゃなかったね」

「真菰は見誤ってなんかない。私が足手まといだったのよ。……真菰一人だったら、逃げ切れたわ」

「ちょっと、それ以上言ったら私、怒るからね」

 真菰は腰に手を当てて頬を膨らませた。

「人が生きるとか死ぬとかを決めるのは、結局最後は巡り合わせとか、運とか、そう言うものでしかないでしょ。だから、運が良かったら、ああ運が良かったなあ、ってほっとすればいいし、運が悪かったらその時はがっかりすればいいんだよ」

 不条理に大きな力で押し潰されてしまった真菰はあっけらかんとして言った。

「そんな風に割り切れること?」

「うん。だって、あの時、もし死んだのが椿ちゃんで、生き残ったのが私だったら、椿ちゃんは私のことをどう思った?」

 決まっている。できるだけ長生きして、前だけ向いて生きて行ってほしい、と思っただろう。

 真菰は小首を傾げて微笑んだ。

「私も同じ気持ち」

 そう言い残して、真菰の姿も白詰草の冠も消えてしまった。

 目の前には立ち替わりに黒い隊服を着た青年が――粂野が立っていた。粂野は眉間に皺を寄せて、もの言いたげな顔をしている。

「まだ()()()に来るのは早いんじゃないか」

「大丈夫よ。私は敵わなかった、手強い鬼だったけれど、きっと他の誰かが始末をつけてくれるわ」

「そんなことを心配しているんじゃない。実弥はどうするんだ」

 椿は言葉に詰まった。ここに来た時から、考えないようにしていたことだ。

「……玄弥くんがいるもの。それに、あの人は、私が死んだくらいで戦うのをやめるような、そんなに弱い人じゃないし……大丈夫だって、信じてる……」

 椿の語勢は次第に弱くなっていく。粂野の姿も春の野原も消え去って、後には闇が残るばかりだ。

 そうだ、自分が死んだら、実弥はさすがに悲しむであろうが、弟の存在は大きな慰めになるだろう。彼にはもう、心を開いて語り合えるような友達もいないのだ。自分がいなくなった後、彼が一人ぼっちにならないで済むのは、ほっとした気分であった。それだけは、本当に気にかかっていたから。

 つくづく可哀想なことをしてしまった。

 椿は、実弥が自分を愛してくれていることを知っていた。そして、本当なら、その気持ちを墓まで持っていくつもりだったことも知っていた。

 明日知れぬ身なら、腕の中に抱え込んでおくものは少ない方がよい、と言う考えはそれはそれであり得るだろう。人の死の悲しみに遭いたくないのなら、死んで悲しいような人を作らないか、自分が先に死ぬしかやりようはない。椿はこんな考えには、まったく賛同しないが。

 けれど、こんなことになってしまった以上、彼の方が正しかったのかも知れない。

 自分が死んだら、彼はどうするだろう?自分のことは夫婦の縁が浅かったものと早く忘れてしまって、兄弟仲良く手を取り合って、もしも良い人がいれば後添えをもらって……

「…………は、」

 そこまで想像して、全身からどっと汗が吹き出た。

 彼が他の女に心を許し、他の女を愛する。考えただけで気が狂いそうになる。

 理性では、新しい出会いや時間が、傷ついた心を癒してくれるのがよいのだとわかっている。

 しかし、もし彼が、私のことを死ぬまで忘れないでいてくれて、誰にも心変わりせず、来世で私と再会できる日を心待ちにしてくれるなら、椿はそれが嬉しい。

「私、私――帰らないと」

 一刻も早く彼のもとに戻らなければならない、という強烈な衝動に突き動かされて、上も下も方角もわからずに椿は走った。

 嫌な女、ひどい女!好きな人の幸せを願えないなんて。

 もっと彼にとって都合の良い女、物分かり良い女になれたらどんなに良かっただろう。しかし、椿はもう、人を愛するとはどういうことか理解していた。

 椿は、彼を好きになったと気付いたとき、内心いたく動揺して、己の心の動きにどうにかして理由を付けようとした。だが、人に恋したり愛したりする心の動きとは理屈ではなくて情動であって、何か理由を並び立てて愛する、愛せない、というものではない。実弥は、よく気の利く優しい男だったけれど、もしそうした様々な美徳が欠けていたとしても、やはり椿は彼を好きになっただろう。きっと実弥も同じ気持ちなのだ。そうでなかったら、こんなに物分かりが悪くて、不器用で、子供の産めない女と添い遂げようとしてくれたりしない。

 

 椿は、輝くような白髪を頂く少年の頭を膝に乗せたあの日の、夜明けの空の色さえ鮮明に覚えている。

 

「父様と一緒に来てはくれないのかい」

 走った先で、再び父親が姿を現した。惑う心はなかった。

「まだそちらには行かないわ。やらなければいけないことがあるから」

 父は案外とあっさりと差し出した手を引っ込めた。

「本当に残念だ。私が生きていたら、あんな男と一緒になるのをやすやす許したりしなかったのに」

「あの人を悪く言わないで。それに、別にお許しなんて貰わなくたって構わないわ。人は誰でも自分の思うままに生きる権利があるって、そう教えてくれたのは父様じゃない」

 椿が冷たく一蹴した。

「しかし、拳の一つ二つ食らわせたってばちは当たらないだろう」

「実弥さんはとっても強いのよ。馬に振り落とされて足の骨を折ったりしてる父様にどうこうできるものですか」

 椿が頑強に自分が見初めた良夫の肩を持つので、父はすっかりしょげかえって肩を落としている。

「意外ね。父様は母様と違って、平民との結婚は罷りならないなんて、そんな世間並みなことをおっしゃらないと思っていたのに」

「野暮なことを言うね。男親というのは、娘が連れてきた男はどんな男でも、それがたとえ宮様であっても、とりあえずは気に食わないものなんだ……」

 父の姿は再び遠くなった。何か暖かい、大きなものに背中を押されている。馴染んだ気配に振り返ろうとする前に、椿の意識は浮上した。

 

 

 

 

 最初に感じたのは、異常な喉の渇きだった。

 耳の中で己の息遣いだけがやけに大きく聞こえる。体が重い、光が眩しい。

 ――これは私の()()()ではない。現実だ。

 椿は、寝台の手すりに掴まってゆっくりと身を起こし、脇机に置かれていた水盆に口をつけた。張り付いた喉は水を嚥下するのにも一苦労であった。それでもしばらくすると徐々に落ち着いて、自分の置かれた状況を省みる余裕ができた。

 慣れ親しんだ蝶屋敷の天井、花瓶に満開の花、無機質に吊り下がった点滴袋。

 頭に締め付けられるような窮屈さを覚えたので触れてみると、頭から顔面の右半分を包帯が覆い尽くしている。無理矢理に顔面に巻いた包帯を外し、盆の中に残っていた水の面をのぞき込んだ。

 眼窩が落ち窪み、見るからに痛々しい傷痕がはっきりと残っている。もっとも、命を失うに比べればささいなことだ。筋肉は眠っている間にごっそり落ちてしまったようだが、これは訓練すれば元に戻るだろう。気がかりなのは心肺機能で、深く息を吸おうとすると、わずかにとげを刺したような不快な感覚を覚える。

 完全な回復は見込めない損傷かもしれない。

 身の回りのことを確認し終えて、外はどうなっているだろうかと、首を捻って視線を転じて――愕然とした。

 あれほど青々と繁っていた木々は、燃えるような赤やくすんだ黄色に色づいて、いまやあらかたの葉を地面に落としてしまっている。

 季節が変わっている。一体どれだけの間眠っていたのか。

 椿は大きく息を吐いた。

 生かされてしまった、という感触が強かった。

 椿は、上弦の弐とたった一人で対峙したカナエの命はないだろう、とわかっていた。そして、小萩が、手の施しようのない致命傷を負っていたこともわかっている。

 ――わかってるよ、鬼を皆殺しにするまでは死なない。

 一度そう決めてしまったから、道半ばで足を止めることは自分に対して受け入れられなかった。色んな人に呆れられてしまっても、この意地がなくては、椿は両足二本で立っていることもできやしないのだ。許してほしかった。

 それきり周囲への関心も失せて、再び頭を枕の上に投げ出し、目を閉じた。

 室内には柔らかい光が差している。もうすっかり秋が深いようで、わずかに空いた窓の隙間から風が吹き込んでひんやりと肌を撫でる。

 人を呼ぶ努力をするべきかと思ったが、太陽の傾き具合からして、今は朝、ちょうど夜間の当直が明けて一息ついたあたりの時間だろう。手を煩わせたくない。急ぎでもなし、巡回の時間までおとなしくしていよう。ただでさえ手間と心労をかけていただろうから。しかし、こういう時は、ごめんなさい、ではなくて、ありがとう、と感謝する方が喜ばれるものだ。いろんな人にお礼を言って回らないと。室内に甘い匂いが満ちて染み込むほどに咲いたたくさんの花の束で、いかに多くの人が自分に心を尽くしてくれたのか知ることができた。

 まだ思考がうまくまとまらない。椿はしばらく、現実と夢の狭間でうつらうつらとしていた。

 ふと、ざ、ざ、と土の地面を踏み締める足音が耳に届いた。

 誰だろうか。屋敷に用があるなら、わざわざ裏手に回ってくる必要はない。それに、心なし足音が疲れきっているように聞こえる。椿は不思議に思って、庭の手入れにやってきた園丁だろうかと、誰が来たのかを見ようとして瞼を開けた。

 窓の外に立ち止まった人影と目が合った。椿は驚いたが、向こうの方がもっと驚いていた。

 唖然として突っ立っているのは、見間違えようもない夫の姿である。驚愕のあまり声もでないと見える。

 実弥が声よりも先に腕を窓に伸ばしたのを見て、椿は咄嗟に唇の動きだけで、表玄関から上がって、と伝えた。実弥ははっと我に返って身をひるがえした。

 女の子たちの慌てふためく声――廊下を駆ける音――そういうものがして、まもなく扉を蹴破らんばかりの勢い、というか実際に金具がいやな音を立てて軋み、実弥が病室に押し入ってきた。ひどく顔色が悪かった。

「ごめんなさい」

 さっき言わないと決めたばかりだったのに、自然と謝罪の言葉が口をついて出た。

「もういい。もういい、椿、」

 実弥は、ほとんど自分も寝台に倒れこむような恰好になって、もういいんだ、良かった、本当に良かったと、そう繰り返しては、確かめるような動きで椿の輪郭を包んで指先でなぞった。

 そういえば、さっきは気にならなかったけれども、顔にひどい傷がついたのだ。嫌われたりはしないだろうけど、見栄えが良いのが自分の取り柄で、彼も気に入ってくれていたのに。

 表情に出したつもりはなかったが、実弥は椿の相好がわずかに沈んだのを見逃さなかった。

「い、痛むかァ?」

 実弥は慌てて手を引っ込めた。そして、まるで自分の方が目玉をえぐられたような悲痛な顔になった。

「痛み止めがいるか、いや、まずは医者を呼ばねぇとな、大丈夫だ、きっと大丈夫だからな、心配するな、俺がついててやるから……俺が何とかしてやるから……」

 彼は片目を失くした妻を励まそうとして必死なのだ。

 椿は大丈夫よ、と答えた。本当に痛みはなかったのだ。彼のうろたえる姿が愛おしかった。一瞬でもこの人の愛情が損なわれるのを想像した自分が愚かであった。

「目はもう一つ残っているから、悲しくないわ。平気よ」

 椿が「触って。そちらの方が嬉しいの」と言うと、実弥は震える手つきで痛ましげに顔の傷跡をなぞった。続けて「お顔の傷、お揃いね」と言うと、涙声で「バカ」と返ってくる。それでもう、椿も耐え切れなくなって、行き場を失った感情が涙になって溢れた。

 私のために、あなたはこんなにも取り乱して、心弱くなってしまった。椿はもう、自分はこの人のために、身勝手に死ぬことは許されなくなったのだと思った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

余談~忠犬猗窩座くんの受難な一日

 猗窩座は困惑していた。

「お前は上弦の――参だな」

 見通しの良い草原にて、猗窩座の行く手に立ち塞がった鬼狩りは女だった。まだ幼さの残る顔立ちを、いかにも毒々しい憎悪に染めた女である。

 いや、しかし、果たしてこれを女と呼んでよいものだろうか?矮小な肉体は、女どころか少女というにも及ばない。

 猗窩座は幼児に殺意を向けられているに等しいちぐはぐな感覚を覚えた。

 誰かから憎しみをぶつけられることには慣れている。しかし、この娘から立ち上る強烈な憎悪に関しては、なぜだか「見当違いだ」という思いがこみ上げてきた。

「上弦の弐はどこにいる?」

 怒りに肩を振るわせながら峻烈に問いただす物言いに、猗窩座は思わず舌打ちしそうになった。

 やはりそうではないか。同じく十二鬼月に配された上弦の弐、童磨。そもそも、猗窩座がこんなところに派遣されてやってきたのも、発端はあの男にある。

 猗窩座は普段、日本中を駆け回って、"青い彼岸花"を探している。

 無惨が猗窩座を含む上弦の鬼に下した使命は大きく二つある。一つは鬼狩りを首魁である産屋敷一族ともども皆殺しにすること。そしてもう一つは"青い彼岸花"を手に入れること。

 他の上弦たちも、それぞれのやり方でこの使命を果たすべく努めている(はず)だが、やり方はおのおの異なる。

 基本的な生態をのぞけば、鬼の在り方は多種多様である。縄張りを定めてそこで獲物を品定めする鬼もおれば、常に一所に留まらず流離っている鬼もおり、童磨はどちらかと言えば前者だし、猗窩座は後者の典型である。

 もっとも無惨に許されたこと以上の情報を共有しあわないので、他の上弦がいかな手段を用いているのかは知らぬ。そして猗窩座のごとき無骨者には野山をかけずり回るのが関の山である。

 そんな猗窩座に珍しい指令が下りてきた。

 

 ()()をどうにかしろ。

 

 あれとは童磨のことであり、どうにかとはきちんと仕事をさせろと言うことだ。

 無惨はごく一部の例外を除いては決して、鬼に鬼の面倒を見させたりしない。だからこういうことはとても稀なのだが、今回に関してはその理由は簡単なことだ。

 無惨は、童磨と喋るのが嫌なのである。出来るだけ関わりたくないのである。

 はじめは何十年かぶりに童磨のもとに訪れて仕事ぶりを直接詰ったようだが、やっぱり嫌なものは嫌だったらしい。それで猗窩座にお鉢が回ってきた。無惨は定期的に配下の鬼たちの仕事ぶりを巡視して回っていて、比較的自由にされている上弦の鬼だって例外ではない(すべての鬼の面倒を見るのは楽な仕事ではないはずだが、無惨はやってのけている)。もっとも、猗窩座に何か言われた程度で童磨が態度を改めるわけがないので、つまりこれは、童磨への制裁というよりも、猗窩座に対する憂さ晴らしなのである。猗窩座が童磨を嫌っているのを、無惨はよく承知している。

 しかし、猗窩座にとって主人の命令は絶対である。やりませんという回答はありえない。

 そう、それで、差し当たって喫緊の事態は、童磨に怨みを持っているらしい目の前の女をどうするかだ。

「退け娘子」

 猗窩座は抑揚なくそう言った。

「俺は女とは戦わない。俺の拳を振るう価値もない――」

 女の腰から刀が引き抜かれようとした。

 嫌な予感が猗窩座の脳髄を貫いた。

 目の前の少女そのものは、何一つとっても猗窩座の脅威ではない。この少女が全力でかかったところで、己の肉体に傷一つすらつけることは叶わないだろう。こんな子供、生まれたての赤子より容易く捻り潰せる。

 だが本能が、この娘に剣を抜かせてはならないと警告している。

 猗窩座は直感に従い、一瞬で間合いを詰めて手刀で女の身体を跳ね上げた。女の身体は軽々と地面に叩きつけられる。刹那の出来事であった。女の顔が何をされたのか驚愕に歪むより早く、猗窩座は女に背を向けて、反対方向へと走り始めた。

逃げるな!

 女の絶叫が背後から追ってくる。

「私と――私と戦え!」

 嫌だ。悲痛に響く女の叫び声をついとも顧みず、猗窩座はその場から離脱した。己が求めるのは強者との戦いである。弱者をいたぶるのはかれの本分ではなく、女はすべて強者となる資格を欠いた弱者である。少なくとも、猗窩座の考えるところではそうである。

 弱者を忌み嫌いながら女を生かす矛盾に、猗窩座は気付いていない。

 夜闇を疾走した先、断崖の頂上に、探していた男の姿が見えた。童磨は待ち構えていたという体で両腕を広げた。

「猗窩座殿!猗窩座殿じゃないか!嬉しいなあ、俺に会いに来てくれのかい?」

 不快に不快を上塗りする心なくはしゃいだ声に、猗窩座は苛立ちで血管がはち切れそうになるのを感じた。

 背後にはあの娘以外の、こちらに向かってくる鬼狩りの強者の気配がある。平生の己ならば嬉々として迎え撃っただろうが、猗窩座には、今はもう戦う気がなかった。

 一言で言うと、興を削がれたのだ。

「連中はお前が相手をしろ。あの方は貴様に柱を殺せと命じたはずだ」

 猗窩座は機械的に言った。

「言いつけ通りにしたよ。だからあれは猗窩座殿にお任せしたいな。俺は今、可愛い女の子たちとおしゃべりできて気分が良いんだ」

 まあその子たち俺が殺しちゃったんだけどね、一人は柱だったんだよ、食べ損ねたのが残念だなあ、などと何が嬉しいのかべらべらと愉快げにまくし立てた。

 だが嘘ではないらしい。

 童磨は、鬼狩りを殺戮するのに長けた異能を持つが、獲物をいたぶってから殺す悪いくせがある。本人は真面目にやっていると嘯くがどこまで本気であるものだか。結局、鬼は目先の快を優先せずにおれぬ生き物なのだ。

「だからなんだ?あのお方が、その程度の働きでお前の怠慢をお許しになるとでも――」

「おいおいおいちょっと待ってくれよ、俺が怠慢なら猗窩座殿はどうなんだい。せっかく鬼狩りの女の子と出くわしておいて、殺すどころか戦いもせずに立ち去るなんてさ」

 童磨は人差し指をち、ちと振った。

「ずっと前から言ってるだろ?若い女の子は栄養豊富なんだよ、喰わない手はないよ。強くなりたくないの?」

 猗窩座は右拳を振るい、童磨の脳天を叩き砕いた。童磨は残った顔の下半分で声を立てて笑った。哄笑が神経に障る。今度は喉元に拳を加えて、勢いざまに断崖の下に突き落とした。童磨の口元は相変わらず楽しそうに弧の形に歪んでいる。

 つくづく忌々しい、煮ても焼いても喰えぬ男だ。

 とにもかくにも猗窩座は任を果たした。後のことは与り知ることではない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25.ネバー・レット・ミー・ゴー

鬼殺隊にはOJTという概念が存在しないだって大正時代だもの


 春告げ鳥のさえずる朝、椿は夫の腕の中で目を覚ました。

 昨晩は一人で眠りについた。不死川は明け方に帰宅して、いつものように布団に潜り込んできたのだろう。

 椿は夫を起こさないようにそっと腕の中から抜け出した。身支度を整え、竹刀を持って野外に設けた訓練所に出る。

 辺り一面は朝靄に沈んでいる。敷石のくぼみに溜まった水の表面には薄い氷が張っているものの、遠くの山の峰々に積もった雪は溶け始めていて、残雪の間にところどころ岩肌を晒している。いよいよ春は暦の上だけのものではなくなりつつある。

 風情を楽しむのもそこそこに、椿は日課の定常訓練を始めた。

 椿はもともと剣士として鍛えた強健な肉体を持っていたから、一度目覚めてしまえば回復は早くて、すぐに日常生活に戻ることができた。しかし、いまだ任務の復帰はかなっていない。肺機能が著しく低下していたので、これを取り戻すための訓練を積まなければならなかったのだ。

「あのですね、普通、人は肺に穴が空いたら息ができなくなって死ぬんですよ」

 機能回復訓練に付き合ってくれたアオイは、このような言い回しで本当なら命のない身だったことを自覚しろと言った。

「穴なんか空いてないわ。ただちょっと……()()()が……ずだずたに切れてしまっただけで……」

「同じようなものです。じれったいのはわかりますが、焦らないでください」

 アオイの口調はにべもなく、まったく正論なのである。だが鬼狩りにとって、肺が思うように動かないのでは、ほとんど剣士生命を絶たれるに等しい。せっかく手足が四本揃って生き延びたのに、これでは生殺しではないか。

 復帰を焦る椿に、実弥は辛抱強く付き合ってくれた。

 訓練の相手となっては手を抜かず、具合を悪くすれば背中を擦って労わってくれ、作り方を覚えて薬を煎じ、滋養によさそうなものがあればすぐに手に入れて食べさせたりしてくれた。

 傷身の妻の世話は決して楽なことではなかったはずである。まして柱としての職責に一切手抜きはない。彼がそのことにひとつの迷惑も感じていなくても、だからこそ余計に心苦しいのだ。

 その日は異様な天候で、猛烈な風と雪が一帯を吹き荒れた。厚い雲が完全に太陽を覆ってしまったので、真昼間なのに薄暗かった。

 戸を締めきっていても、隙間から凍えるような冷たさが忍び込んでくる。実弥は椿の手先の冷たさを憐れんで、懐炉を握らせるだけでは足らず、しきりに握ったり、摩ったりして温めようとしてくれている。まだ身体が戻りきらないので、体温が上がりにくいのだ。

 椿は戸ががたがたと揺れる音を聞きながら、嵐が早く止むように祈った。この人はあと二、三時間もすれば、こんな悪天候の中を任務のために出ていかなければならない。自分の役立たずが悲しく、手間をかけて申し訳ないと謝ると、

「俺のことは気にすんな」

 そう言って、椿を後ろから抱きしめて、子供をあやすように優しく揺すってくれた。

「……任務に戻れるくらい元気になったら、私、もうあなたから離れないわ」

 椿は、自分をかき抱く両腕に刻まれた真新しい傷跡をなぞりながら言った。

「そうよ、どうしてもっと早くそうしなかったのかしら……柱の任務は部下や継子が補佐するものよ、やることが多すぎるんだから。……あなたが継子をとらないなら代わりをする人が必要よ」

 これまで二人は、決して一緒に任務に出ることはなかった。それはけじめと言うよりも、互いに私情を切り離す自信が到底なかった。情けない話だが、愛する人と名も知らぬ無辜の人と、どちらか一方しか助けることを選べないなら、必ず後者を選ばねばならぬ――しかしその決断に耐えない。そして迷えばその一瞬が命取りになる、それは二人とも本意ではなかった。

「私を連れて行って」

 椿は振り向いて、夫の身体に両手を絡ませて力いっぱいにしがみついた。

「こんな無様では説得力は無いかもしれないけれど、足手まといにはならないわ」

 実弥は黙って妻の乱れた髪を指で梳いて直した。

「しょうがねえ奴……」

「ふ、ふ……」

 椿は笑みをこぼしながら、「絶対に、私を連れて行ってね。絶対よ」と繰り返した。実弥はどう受け止めたのか、苦笑しながら「わかった」と頷いた。

 

 

 長い冬の終わりは存外あっけなくやってきた。

 

 

 椿の身体は七、八割方の回復をみせた。毎日欠かさずに行う二時間余りの稽古にも耐えきれるようになった。技の冴えなども、ほとんど以前と遜色ない水準に戻っている。

 椿を一の型から十の型まで三度繰り返し型をなぞったのを朝の稽古を仕舞いとして、竹刀を置き、再度着替えて、今度は台所に向かった。食事の準備のためである。

 釜に米をしかけて、御用聞きから買い付けた笠子の干物に、副菜に青菜のお浸しをと思いつき用意にかかる。菜葉がさくさくと軽く切れる感触が手に楽しい。この包丁は刀鍛冶の里の職工が打った逸品なのだ。

 しばらくすると飯の炊ける匂いを嗅ぎつけたのか、実弥の鎹鴉が黒い翼を羽ばたかせて窓枠に留まった。物欲しげに光るつぶらな瞳に負けて、椿はゆでたまごを剥いてやった。卵は鴉たちのたいへんな好物だ。たいてい一つやっただけでは飽き足らずおかわりを要求する。

「お前は食いしん坊ね。あんまり急ぐと喉につまるわよ」

 椿の呆れた言い草に、鴉はガアと鳴いて返事を寄越した。

 食事の準備が一通り済むと、主人のための着替えを用意して、玄関に脱ぎ捨てられたままだった脚絆についていた乾いた泥を落とした。それでもまだまだ時間に余裕があったので、家の外回りを掃き清めることにした。春嵐に乗って飛んできた枯葉が方々に吹き溜まっていた。

「おはよう、玄弥くん」

 廂の下を箒で掃いていた椿が後ろに向かって声をかけると、不死川玄弥が、庭石の陰からおっかなびっくりな様子で顔を出した。

「き、気付いてたのかよ」

「気配を殺し方がなってない。精進なさい」

 椿は笑いながら玄弥の頭にぽんと手を置いた。玄弥は、驚かそうと思ったのにと悔しそうにしたが、気を取り直して重たげに膨らんだ風呂敷包みを差し出した。

「柿。こないだの草餅のお礼に、悲鳴嶼さんがもってけってさ」

「悪いわ。あれだって、こちらがお世話になっているお礼なのに」

「余るくらい吊るしてる奴を取ってきただけだから、気にするなって」

 玄弥はすっかり悲鳴嶼の弟子が板についた。山中にある悲鳴嶼の住居に腰を落ちつけて久しく経つが、月に数回は、こうして顔を出しに帰ってきてくれる。椿としては、玄弥が腐らずに努力している姿を見るのは嬉しかったが、とはいえ、なにくれ義弟の世話をするのが楽しかった身としてはほんの少し寂しい気持ちもあった。

 居間に上がらせると、玄弥は周囲をきょろきょろと見回した。

「あれ、兄貴いねえの」

「奥でお休み中よ。こんな時間にやってきたのだもの、朝ご飯、食べていくでしょう?」

 味噌汁を作るのを手伝ってもらって、食卓に並べると立派な朝食の用意ができた。二人は差し向かいに座って「いただきます」と言って手を付けた。玄弥はうまいうまいとよく食べてくれた。

「千夜子さん休み?」

「ええ、月末まで暇を出しているの。下の子が質の悪い風邪にかかってしまって」

 椿の料理の腕前は以前に比べるとかなりの進歩を見せていた。そもそも要領が悪いわけでもなくただ手際に不慣れなだけの料理下手だったから、家にいて集中して家政に取り組むと、めきめき腕を上げた。

 玄弥の方はと言うと、少し背が伸びたし、面構えがやや精悍になったようである。悲鳴嶼から聞いたことでは、うまく物事が運ばないと癇癪を起こすくせはあるようだが、よく師匠の言い付けを聞く子であると褒めていた。少なくとも、初めて出会ったときの、あの余裕のかけらもない痩せた子供の時とは見違えて逞しくなったと言える。

「そう、千夜子から聞いたのよ。喧嘩したんですって、私がいない間」

 玄弥は言い逃れを試みてひとしきりあーだとかうーんだとか意味のない声をあげた。

「別に、今更責めようというのではないのよ。でも、二人で仲良くしてって言ったのに……」

 椿は苦笑した。玄弥はげっそりした顔つきになった。

「椿さんがいない間、みんな大変だったんだからな」

「みんなって」

「みんなだよ……みんな兄貴にびびってさ、俺がどうこうできる空気じゃなかったんだからな……」

 そう言って玄弥は机に突っ伏した。「もうあんな心臓に悪いのはたくさんだ」と続ける玄弥があまりに萎れ切った様子だったので、椿はお行儀が悪いと指摘するのを忘れてしまった。

「……でも、私は玄弥くんがいたから、あんまり心配せずにいられたのよ。私がいなくなっても、玄弥くんがいるから、大丈夫だって……」

「それマジで言ってんのかよ」

「玄弥くん、怒ってる?」

「当たり前だろ」

 物言いにぴりぴりしたものを感じたので、確かに自分が軽率だったと思ってこれ以上この話題を続けるのはやめにした。

 不死川の兄弟は、顔を合わせる回数は減ったが、お互いにこのくらいの距離がちょうどよいと思っているらしい。実弥が自ら繕った半纏を、自分からだと言わずに弟に渡せと言った時には椿は心底呆れたものだったが、玄弥には黙っていてもそれが兄からの贈り物だとわかったらしく(兄嫁がこんな立派な繕い物をやり遂げることができるはずがないので)、はにかみながら受け取っていた。

「お兄様に会っていかない?」

「疲れてるんだろ、遠慮しとく。それに俺、これから走り込みがあるから。高山の麓からてっぺんを三往復するまで帰ってくるなって言われちまった」

 それは玄弥の足では一日仕事だろう。椿は手早く握飯を拵えてやり、水筒と一緒に持たせた。玄弥は「また来る!」と言って、小走りに門を駆け抜けて行った。

 

 

 それから、庭で花草の手入れをして、その内のいくつかを摘んで盛花を生けるなどしていたが、昼に近くなっても実弥が姿を見せない。寝過ぎは身体の毒だし、お天気なので布団も干したい、これは起こしに行かねばならないと椿は腰を上げた。

 部屋に入ったとき、廊下を歩く足音を聞きつけて目を覚ましたのだろう、実弥は寝起き特有の気だるい感じで半眼を開けてこちらを見ていた。

「……どこにいってた」

「どこにも何も、もうお昼前よ」

 外に面した雨戸と障子を引いて部屋に明かりを入れてやると、実弥は眩そうに腕で顔を覆った。

「ほら、起きて!今日は久しぶりの晴れ間なの、お布団を干させて」

 椿は強引に布団を引っぺがそうとしたが、実弥は端をつかんでそうはさせまいとする。不毛な攻防はばかばかしくなった椿が諦めたので決着がついた。意趣返しに勢いよく寄りかかってみるものの、頑丈な肉体はびくともしないで妻の柔い身体を受け止めた。

「ずいぶんお疲れね。何かあったの?」

 椿は夫の胸の上に両手を置いて、顔を覗き込みながら聞いた。

「……蛇……」

「へび?」

「ネチネチとしつけえんだよ……あの野郎……」

「……??」

 まだ半分夢見心地らしく、酔っ払いの言うことのようにいまいち要領を得ない。しかも、椿の知るところでは、彼は蛇は嫌いではなく、むしろ縁起が良いというので好きだったはずだが。謎だ。

 実弥はいつものぎらついた空気はどこへいったのやらというほどのへろへろぶりでぐったりしている。しかし椿は、寝癖のついた髪も、寝起きの緩んだ表情も可愛いと思うばかりだ。普段からこのくらいの可愛げを少しでも見せていたら、目下の者たちからももっと懐かれたり慕われたりしそうなものだが――もっとも本人は、余人にこのような姿を晒すくらいならむしろ死んだほうがましだろう。

「……お前、今日は蝶屋敷で定期健診あんだろ……」

「あなたが起きないなら私も行かない」

 上に寄り掛かったまま頭を優しく撫でてくれる妻の言うことがどこまで本気か図りかねたのか、実弥はようやく観念して起き上がった。椿はにこりと笑って、「お顔を洗ってきてね」と洗面台に行くように促した。

 庭で一番陽当りが良いところに布団を干すと、これで午前中にやるべき家事はすべて終わった。居間に戻ると、ちょうど頭から冷水を被ってきた実弥が戻ってきたところだった。

「何かやっとくことあっか」

「今日は夕食に鴨鍋をするの。お野菜の下拵えをしておいてくれると助かるわ」

 実弥はわかったと返事をして、椿の肩に袷を羽織らせると、気をつけていけ、と言って見送ってくれた。

 

 

 定期健診は本当のことだったが、椿にはもう一つ別の目的があった。

 蝶屋敷の書庫に収められている資料を閲覧する許可が下りたのだ。それは一時代前、上弦の参と戦った当時の記録と敗れた隊士の検視書の写しとである。

 過去の交戦記録は主に文書、時に口伝で後世に伝えられたが、失われてしまったものも多い。代々炎柱の書を継承してきた一族の裔である煉獄曰く、鬼殺隊の組織が何度も壊滅の危機に瀕するその度に資料を持ち出す暇もなく本拠を捨てざるをえなかったりしたので、相当数が散逸してしまったのだと言う。

「ここの文書、基本お館様の許可がない限り持ち出し禁止なんですよ」

 椿は隠の青年が持ってきてくれた一綴りになった書類を受け取り、礼を述べて土蔵を出た。

「お館様は、椿さんの気のすむまで読ませてやりなさいと」

「ありがとうございます。終わったら如何しましょう?」

「栗花落先生に渡しておいてください。私は別件に出ますので」

 椿はいったん屋敷に戻り、無人の医務室の椅子に腰掛けて書類を広げた。

 上弦の鬼は下弦の鬼と異なり両眼に文字が刻まれている……全身に刺青のような文様のある鬼……徒手空拳によって戦う……桁外れた攻撃の速度と威力……ざっと読み取れたのはその程度だった。

 もっと他に参考になるような情報がないかと紙をめくっていると、戸が開き、この屋敷で医療に携わって長い老医師が訪れた。後ろにアオイを従えていて、彼女は椿に「どうぞ」と茶を淹れて出してくれた。本当に気の利く子だ。

「上弦の参について調べているんだって?」

「しのぶが遭遇したと聞きました」

 老医師は厳しい顔つきで頷いた。

「しのぶさんは本当に運がよかった。どういうわけで見逃されたのかはわからないが、上弦の鬼と戦ってたいした怪我も負わずに帰ってこれたんだからね。奇跡だ」

 しのぶがそれに出くわしたのは上弦の弐の探索途上のことだったという。しかし、上弦の参はしのぶに一打をくわえただけで殺さずに立ち去った。理由は皆目わからない。太陽を恐れるにはまだ夜の闇は濃かった。

「期待をしているのなら悪いが、見ても参考になるようなものではないよ。気が滅入るだけだ」

「敵の戦力分析の役に立つものは、何であれ目を通す価値があると思います。それに、気が滅入るようなものはこれまでにもたくさん見てきておりますから、今更……」

 椿は再び書面に視線を戻した。後ろでは老医師とアオイが喋っている。

「先生は上弦の参のことをご存知なんですか?」

「ご存知も何も、そこにある検視書を書いたのは私だ……あれは安政の最後の年だったかな」

 アオイはわずかに眉を寄せた。椿は無表情のままそれを聞いていた。

 老医師は湿り気を帯びた口調で昔語を始めた。

 今から五十年近くも前、老医師はまだ医術を修めたばかりの駆け出しの医師で、上弦の参と相対したのは当時の水柱とその継子だった。彼は当代最強と目された柱の一角で、多くの継子を抱えて育てていた。その教えを受けた者の中には、後に水柱の地位を継いだ冨岡の師もいるという。

「時の水柱さまは武運つたなく敗れてしまったが、隠が到着した時にはまだ辛うじて息があって、戦いの一部始終を我々に伝えてくれたんだよ」

 多くの人の死を見送ってきたに違いない老人の皺の刻まれた顔には、ある種の諦念が見え隠れしている。

「若い命が散るのはいつの時代も悲しいことだ。……とりわけカナエさんたちが身罷った時には、もうこの屋敷の喪が開けることはないんじゃないかと思われたものだが」

 窓の外では小鳥たちの鳴き声がする。里の至る所の梅の花は見頃を迎えつつある。

「全部しのぶさんのおかげだ。彼女がしっかりしてみんなをまとめなければここまでは……」

 老医師の物言いに、アオイは感じ入るところがあったようだが、椿はかえって苛々した。感傷的に浸って何になる。

「私が疑問に思うのは、文書の閲覧自体が制限されていることです。こんなものが保管されているのも今回のことで初めて知りました。なぜもっと広く情報を共有しないのです?」

「隊士たちに半端な知識を与えて、先入観でことにあたらせるとかえって足を掬われる」

「それは隊士たちをあまりに見くびっているのは?育手が教えたきり、実戦に投入してろくに上の者から教練を受ける機会も与えられない。であれば隊士の質が上がらないのも必然でしょう」

「そのための人的余裕がないのが今の鬼殺隊だろう?」

「それはお館様のご意見ですか。それともあなたの私見でしょうか」

 椿は平素の物言いを心がけようとしたが、言葉尻に棘を含んでしまうのはどうしようもなかった。老医師はあくまで旧来のやり方を支持するが、椿はそうは思っていない。何かやり方を変えなければ、上弦の鬼に一方的に殺戮されるままの現状だって変わりはしないだろう。

 不穏な空気にアオイが「つ、椿さん、先生に失礼ですよ」とおろおろしはじめた。

「そうですね、やめましょう。私たちがこんなところで言い争って何が変わるわけでもありませんし――」

 その時、戸をこんこんと叩く間の抜けた音が室内に満ちた緊張を破った。

「さァーせん、誰かいますかー」

 老医師が入りなさいと返事をすると、機能回復訓練のために蝶屋敷の道場を使用している隊士が引き戸を開けて入ってきた。後ろにカナヲを連れている。

 椿はカナヲのむき出しの膝を見て顔をしかめた。

「どこでこんな痣をこさえてきたの」

「乱取りの稽古に付き合ってくれてる時に転んじまって。あ、無理に誘ったわけじゃねえっすよ、この子がやりたいって言うもんだから」

「そうなの?」

 椿が聞いた。カナヲはアオイに湿布を張ってもらいながら、無垢な表情で頷いた。

「この子、筋がいいっすねえ。下っ端の隊士なら、もう互角以上にやりあえるでしょうよ」

 隊士はそう言って、カナヲをこちらに引き渡すと訓練に戻っていった。

「自分で決めたんだな。えらいな、カナヲはえらい子だ」

 老医師には子がなく、したがって孫もない。だから余計に、カナヲが氏を決めるときに自分のそれを選んだのが非常に嬉しかったのだろう、孫がおればこうであってろうというふうに可愛がっている。

 それにしても、カナヲが、戦うための訓練を受けたいと自ら意思を表示したのだという。

「アオイ、あなた知っていたわね」

 アオイの肩がびくっと跳ねた。

「わ、私はカナヲがそうしたいと言うなら、その意思を尊重します」

「そうね、それはいいことね。それで、しのぶは承知しているの?」

 アオイは沈黙を返答として寄越した。

 椿はどうしたものかなあと考えあぐねた。実際のところ、カナエがいなくなった後の蝶屋敷のことは、今のいままで自分のことだけで精一杯だったので、把握しきれているわけではないのだ。

 しのぶは人が変わったと、みんなが言っている。

 ――しのぶさん、前は怪我して来ると怒りながら手当てしてくれたんだぜ。それが今では、なあ?

 ――言ってることがさ、カナエさんみたいなんだよな

 入院しているときに、見舞いに訪れてくれた隊士たちから聞いた話である。

 姉の死はしのぶに致命的な変化をもたらした。笑顔の下に喜怒哀楽のあらゆる感情を覆い隠して、いっそ不気味なほど死んだ姉の言動や行動をなぞっている。

 それでもしのぶはしのぶである。椿は、彼女は自分の前では、心打ちとけて以前の彼女に戻ってくれているのではないか、と感じることがある。

「傷は薄くなると思うけれど、目だけは元通りにはならないわ」

 しのぶはずっと椿の身体ことを気にかけてくれた。立ち振る舞いがどう変わろうと、厳しくも優しい、しのぶの根っこの部分はいささかも変わっていはしない。

「……本当にごめんなさい」

 しのぶは何に謝っているのか、しきりに謝罪を繰り返した。何を謝ることがあるのかと言っても聞かない。彼女は最愛の姉の命さえ失ったのに、この上必要以上に他人の心配などをして、心を痛める必要はない。

「ねえ、しのぶ、自分を責めたりしないで。あなたがいなければ私、ここまで持ち直せなかったと思うの。本当にありがとう」

 退院のとき、椿がそう伝えると、しのぶは目を見開いた。そしてとうとう耐え切れなくなったように、わっと椿の首元に抱きついた。

 椿は目を伏せた。彼女の無念な気持ちが痛いほど察せられた。しのぶには戦う機会も与えられなかった。姉が切り伏せられるのに間に合わなかった己のふがいなさ、上弦の参に相手にすらしてもらえなかった己のみじめさ、そういうものを彼女がどれほど憎んだか知れない。

 つくづく自分がこんこんと眠っていたのが悔やまれた。己ごときに何ができたわけでもないが、それでも一番辛いときに共に悲しみを分かち合いたかった。……もっともこんなことは、あの場で唯一生き残った自分が願うのはいかにもおこがましく、椿には一人で突き進むしのぶを止める手だても権利もない。

 カナエたちの死から半年以上になる。

 時の流れに置き去りにされていたためか、死に顔も見なかったためか、仏前に香を薫じても墓に参っても実感が湧かず、まだカナエも小萩もどこか遠い場所にいるだけで、その内ひょっこり帰ってくるような感じがした。

 廊下を歩いていると、ある部屋の引き戸が薄開きになっていたのに気付いた。椿は何気なしに気になって中を覗いた。

「しのぶ?」

 はっと顔を上げた。

「今日は出払っていると思っていたわ。何を――」

 しているの、と続けようとしながら一歩足を踏み入れて、椿は目の前が立ち眩むような感覚に襲われた。

 なぜ気付かなかったのだろう。ここはカナエの私室だ。

「部屋の整理をしようと思って」

 しのぶは困ったように微笑んだ。

「少しづつ手をつけているのだけど、なかなか進まなくて。でも、いつまでもこのままにしておくわけにはいかないでしょう?」

 部屋の様子から、しのぶが何度も遺品の整理を試みては断念しているのが見て取れた。無理はない。主が戻らなくなってもう半年以上にもなろうというのに、この部屋には、まだ、カナエの香りや、気配や、温もりさえ残っている。

 カナエの部屋は、彼女の趣味を反映して洋風の意匠に統一されている。机も椅子も本棚も箪笥も、すべて舶来の上等なのを使っていた。早々に処分するわけではないにせよ、このまま死蔵させておくには惜しい品ばかりだ。

「この部屋、カナヲに使わせてあげたら?」

「カナヲに?」

「あの子の部屋、物が増えてきて手狭になってきていたでしょう。この部屋は広いし収納もたくさんだし、家具も調度類も、きっと気に入る思うわ。もちろん、あの子がいいと言えばだけど……」

「そうね……どうして今まで思いつかなかったのかしら」

 しのぶはカナヲに聞いてみると言って、それから二人は一緒に縷々としたものの整理にかかった。すべきことが定まったためか、まるで見えない手に助けられているかのように、とんとん拍子に作業は進んだ。

 しのぶが荷物を箱に入れて運び出している間に、椿は本棚の文学雑誌を手に取ろうとした。これは椿の持ち物だったが、カナエが好きな作家の短編が載っているというので、貸してそのままになっていたのだ。手に取ると本の間からひらりと一枚の写真が落ちた。

「あ……」

 椿は慌てて床に落ちた写真を拾い上げた。

 それは蝶屋敷の庭で撮られた集合写真だった。カナエは手先が器用で、最近は写真機に凝り始めていたのだった。

 カナエは中央に立ち、看護師の少女たちに囲まれ微笑を浮かべている。しのぶはカナヲの目線までしゃがみこんで肩を抱き、小萩はいたずらな表情を浮かべていて、アオイはまさか魂を奪われるなどという迷信を信じているわけでもないだろうが、写真機が珍しくて緊張しているのか、少し頑なな表情ではあった。しかし全体としては、撮影の時の和やかな空気がそのまま伝わってくるような良い写真だった。

 これはしのぶに渡さなくてはいけないだろう。そう思い立って、扉の方に向かった瞬間、椿の耳に聞き馴染んだ優しい声が届いた。

 

「しのぶのこと、お願いね」

 

 椿は弾かれた様に振り返った。しかし、背後では、少女らしいレースのカーテンが風に吹かれて揺れているばかりであった。

 椿はその時、やっと理解した。もう二度と、一緒に本を読んだり、花を摘んだり、お茶を飲んだりして笑いあったりした、あの穏やかな日々は帰って来ないことを。

 彼女は柱の責務を全うした。夜明けまで戦い、無辜の人の誰も死なせなかった。

 カナエは本当に逝ってしまったのだ。

「……ばかね。私なんかのところに来る前に、しのぶに顔を見せてあげなさい」

 

 

 整頓に一区切りが付き、時間も時間だったので、今日はここまでにしましょうということになった。椿はしのぶに、顔色が良くないので休んだ方が良いと勧めたが、しのぶは任務があると言い張って、早々に屋敷を出て行ってしまった。

 椿はすぐには帰らず、少し足を伸ばして、家の反対方向にある刃物屋に向かった。外の風に当たりたかった。それに預けていた品も受け取りたかったからちょうど良かったのだ。

「鴉を飛ばしていただければこちらから伺いましたのに」

「どうぞお構いなく。少し歩きたい気分でしたの」

 刃物屋には、刀鍛冶の里から研ぎを専門にする職人がやってきて交代で常駐している。わざわざその刀を打った刀鍛冶に頼むほどではない簡単な研ぎはここでやってもらえるようになっているのだ。

 預けていた刀を受け取り、職人とよもやまな世間話をしていると、戸口に新しい客が現れた。職人はその男の姿が見えるなり低頭して畏まった。

「冨岡さま、何がご入用のものでも」

 敬うのもむべなるかな、そこに立っていたのは当代の水柱であった。冨岡は、「研ぎを任せたい」と言って、腰に帯びた日輪刀を差し出した。

 職人は富岡の手から刀を受け取ると、早速研ぎ台に向かって行った。柱の時間とは貴重であり、刀鍛冶は最大限の速度で仕事を完遂しようと試みている。

 冨岡は平常と変わらない涼しげな風体である。冨岡は椿が挨拶をしたので、ようやくそこにいるのが見知った顔であることに気付いた。

「具合はどうだ」

「おかげさまで、すっかり良くなりました」

 冨岡は見舞いに訪れなどはしなかったが、この筆不精の男には珍しいことに、こちらの身体を気遣う手紙を寄越してくれた。彼は一応はこの里に居を構えているものの、出払っていることが多く、今日はたまたま色々な所用を済ませるために立ち寄ったのだと言う。

「先ほどお前の家にも寄ったが、これから客人が来ると追い出されてしまった」

「客人?」

 そんなものがあるとは、彼からは一言も聞いていない。

 

 椿は冨岡と刀鍛冶に別れを告げて、刃物屋を出ると、心なし足早に家路を急いだ。

 

 近づくと邸の裏手からかすかに剣戟の音がする。椿は塀に沿ってその音のする方に向かった。朝方、自分も使った、屋敷の敷地内に設けた訓練場だ。

 そこで行われていたのは、組太刀の稽古であった。

 二人の剣士が、土埃を巻き上げながら技を繰り出しあって戦っている。一方は不死川だが、他方は縞柄の上着を羽織った見知らぬ剣士だ。まっすぐな木刀が変則的にうねる太刀筋――椿はその呼吸の型に見覚えがなかったが、ほんの少し見ただけでも、相当な手練れであることは窺い知れた。

 戦いはまもなく、木刀に亀裂が入り、使い物にならなくなったので中断した。もともと腕慣らしの手合わせ程度のものだったようで、それをもって稽古は終わった。

「あなた、こちらの方は?」

 椿は二人に近づいた。

 よくよく眺めてみると目の前の剣士は色の違う瞳といい、口元に包帯を巻いているのといい、なかなか尋常の風体であるとは言い難い。

「こいつは新任の柱だ。名前は伊黒小芭内」

 目の前にいるのが柱であることに驚きはなかったが、その小柄なことには驚嘆の念を禁じえなかった。

「お初お目にかかります。私のことは椿と――不死川の嫁でございます」

 伊黒は黙って会釈した。椿はその仕草に、なんとなく敵意めいたものを感じて戸惑った。初対面でそのような扱いをされる理由がわからない。

 気が重くなるような沈黙のあと、伊黒は顔をしかめて口を開いた。

「ここで女と二人暮らしか。ご大層な身分だな不死川」

「非難される謂れはねえぞォ、文句なら宇髄にでも……椿、どうした?」

 椿はぽかんと口を開けた。

 長い黒髪、小柄な体格、中世的な風貌――それらすべてが椿に目の前の剣士のことを、女性(おんな)であると誤解させていたのだ。

「伊黒さまは……殿方なのですね……?」

「まさか俺が女に見えるとでも?」

 色違いの双眼が鋭い怒りを帯びた。伊黒の形相に、椿は身を縮めて低頭した。

「失礼を申しました。お詫びします」

「本当に失礼だ、不愉快だ。貴様の眼は節穴か?」

「おっしゃる通りです……申し訳ございません……」

 申し訳なさで小さくなる椿に不死川が助け船を出した。

「テメェ、くどくどと言い抜かすのも大概にしろよォ。謝ってんだろうがァ」

 伊黒はふんと鼻を鳴らして一応は矛先を収めた。

「お、お詫びにご夕食を食べてゆかれませんか?今日は鴨鍋なんですよ」

「いらん」

 伊黒は取り付く島もない。

「わかってるんだろうな。次は俺の邸の道場に集合だ。女に現を抜かして遅れるようなことがあれば承知せんぞ」

 伊黒は最後に不死川の方に向き直り、こう言い捨てて去っていった。

 

「はぁ……」

 鍋を火から下ろしながら、椿は重苦しいため息をついた。

 男が女と取り違えられたら、自尊心を傷つけられて怒るのは当然である。もうこれは、自分が全面的に悪いので、いくら不死川に「気にすんな」と言われたところで、そうそう気にしないでいられるものではない。

 夕食時になっても暗い顔をしている椿に向かって、実弥は煮えた鴨肉を口に放り込みながら

「あんな奴はどうでもいい、ほっとけ」

 とばっさりと言い切った。

「でも……」

「あいつァ誰にでもああなんだよ」

 伊黒の口調のきついのはいつものことで、他人に対してはたいてい木で鼻をくくったような態度を取るし、そもそもが大の女嫌いで名が知れてるんだと言う。それに、人前で飯を食わないので、食事に誘われて乗ってくるはずがないということも教えてくれた。

 散々な評価を聞かされたが、不死川は伊黒を口で言うほど嫌っているわけではなさそうだ。彼は嫌いな人間のことをこんなに長々喋ったりしない。

 

 月の明るい夕べで、実弥は食後の机に儒学の教本を広げて読み入っている。椿は時折、問われたところを指南しながら、白っぽくなった炭を火箸で掻いた。

「今日で定期健診はおしまいなの。もう任務に復帰してもよろしいでしょうって」

 椿は何気なく切り出した。空気がわずかにぴんと張った。

「次からの任務、私もついていっていいでしょう?」

 すでに産屋敷の許可は取っていたので、あとは本人の意向だけだった。

 実弥は顔を上げずに「ああ」と短く返事をした。そして続けざまに大きく息を吐いた。

「わかってる、椿。俺ァわかってんだ。お前がこの数か月間、不本意だったことはな。だが、不謹慎だが俺は嬉しかった。お前が安全な場所で俺の帰りを待ってることが、こんなに嬉しいたぁ思わなかった……」

 芯からの愛情のこもった言葉に、椿は胸を突かれるような思いだった。この人は受け入れ難いながらも懸命に椿の意思に沿おうとしてくれている、それが嬉しかった。

「私、役に立つように頑張るわ」

 自分の力量にそれなりの自負はあったが、肺が少し弱くなってしまったし、片目は無くなってしまったしで、なにもかもが以前のようとはいかないだろう。

 実弥は気負った言葉を聞かされてふっと笑った。

「心配すんな。……お前を死なせやしねえよ」

 それは、椿が本当にほしい言葉とは少し違っていたけれど、十分だと思った。

 三日後の早朝、二人は連れだって任地に発って行った。椿は実弥をよく補佐したし、周囲の者たちはそれを大いに歓迎した。

 春が来て夏が来て、一年が経ち二年が経ち、相変わらず風柱は継子を取らなかったが、血も涙もなさそうと評される男が嫁を従えているのは余人に親しみやすさを感じさせたらしい。幾人かの若い隊士が二人を慕って門戸を叩き、過酷な指導で鍛えられて、立派な剣士になって戦地に赴いて行った。

 そうやって歳月は巡っていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間
26.花ある君と思いけり(前)


 神経質で粘着質、非力そうな見た目でいてなかなか強い、変幻自在の太刀筋、そして病的な女嫌い。

 これらが蛇柱の評判のすべてだ。

 病的とはどのくらいかというと、道行くうら若き乙女たちから漂うおしろいの匂いにすら反応して顔をしかめる有様である。不死川からすると、男に生まれて女が好きでないというのがどうにも理解の範疇外だが、他人の嗜好に口を挟む趣味はない。他の柱も押し並べて不干渉の構えを取っていたが、唯一宇髄だけが「お前そういうのはよくねえぞ」と玄人女の世話をしようとする。本人が嫌なものは仕方ないだろうがよしてやれと言うと、宇髄は別に男女の関係になれと言うんじゃない、わかってねえなあと首を振った。

「ああいう手合いがへたに女に入れ込むと厄介なことになるんだ。極端は極端に振れやすいからな」

 酒の力を借りて話でもすれば相手が得体の知れない怪物ではなく言葉の通じる人間なのだと理解できよう、屈折した女性観はさっさと捨てておくに限る、それが本人のため引いては世のため人のためになるんだ、と言うのが宇髄の持論だった。

 この男が世間の道理を説いているのがそもそも噴飯ものだったので、その時は一笑に付して終わったが、今となっては奴の懸念もあながち的外れではなかったな――と、不死川は遠い目をした。

 伊黒は先だっての柱合会議以来、完全に様子がおかしい。今も出された茶にも手をつけず、時折物憂げなため息をついては虚空に視線をさまよわせている。

「足元が心許ないので靴下を贈ろうと思うんだが……喜んでもらえるだろうか……」

 特別の関係にない異性に対して、肌に触れる衣類を贈るのは、一般的には非常識に分類される行為であろうが、相手は甘露寺である。甘露寺はその意図にあれこれ思い巡らして、邪険にするような女ではない、と思われる。よって、不死川は、悪くはないだろうと答えた。伊黒はずいぶん励まされた様子で「では、次に会った時に渡そう」と言った。不死川にではない。首に巻いてる蛇にだ。

 伊黒はこうなってしまった理由は明白で、あの新しい柱の女、甘露寺蜜璃に激突(ぶつかったわけではないが、こう言い表すのが一番しっくりくる)したからだ。

()()はなんだ」

 会議が終わった後、呆然としながら松の木の下に突っ立っている伊黒に、不死川は手短く「女だろォ」と答えた。

「女」

 伊黒はぽつりと言った。

「女か」

 不死川は察しが悪い男ではないから、すぐに伊黒が、俗にいう一目惚れ状態に陥っていることに気付いた。これで恋煩いで剣を握る手も覚束ないと言い出した日には張り倒すところだが、今のところ職務に支障は見られない。となれば不死川が何か口を挟む筋合いもない、はずだった。

 辟易するのは、伊黒が頻繁に口実を作っては風柱邸に上がりこみ、不死川にそれとなく、普通の女性は一体何を好むのかとか、どうしてやったら喜ぶのかとか、そういうことを聞くようになったことだ。これには参った。そも相手は女である前に甘露寺である。どう考えても煉獄に聞くのが一番手っ取り早いが、それはもうやっていて、その上で不死川に意見を求めているらしい。お手上げだ。暇かお前。

「俺は女の考えることなんざわからねェぞ」

「お前は自分がわからないということをわかっているから良いんだ」

 物知り顔の教えたがりよりはずっとまし、伊黒はそう考えているらしい。もともと伊黒と対等に口を利けるのは同格の柱の同僚くらいで、女の胡蝶にはこんなことを相談できないし、宇髄と不死川以外の男連中には一切女っ気がないし、そして伊黒は妻を三人も持つような破綻者に聞くことは何もないと思っている。

 最悪な消去法による人選とはいえ、頼りにされれば応えてやりたくなるのが人情というものだ。

 それで不死川は、最初はそれなりに真面目に相手をしてやっていたのだが、近頃ではこう何度も訪ねてこられてはたまらない、という気持ちの方が強くなりつつある。

 今日などは久しぶりの休みだったので、椿を連れて墓に参り寺を詣でるつもりだったのだ。古刹近くにある沼畔の彼岸花の群生は今が一番の見頃だ。休日のささやかな息抜きを妨害された不死川の忍耐が限界を迎えようという頃、椿が抹茶のお代わりを持ってやってきて、

「一時から北山の方で俳諧の運座があるそうですよ」と伊黒をうまい方向に誘導した。この男はこれで俳句に造詣が深く、素人ばなれしているらしい。

 伊黒は椿に促されるまま、見ている方が不安になるような足取りで風柱邸を後にした。

「伊黒さま、大丈夫かしら」

 椿は、伊黒に対して初対面で大失態をやらかした引け目がある手前、たまの休みを狙って頻繁かつ無遠慮に家に上がりこまれても、嫌な顔一つせず丁重にもてなしてやっている。立派だ。

「大丈夫ではねえが、どうにもならねえよ」

 色恋沙汰に付ける薬はないと相場は決まっている。

「ねえ、伊黒さまが入れ込んでいらっしゃる甘露寺さまって、どんなお方なの?」椿は興味津々である。「聞けば煉獄さまの秘蔵っ子で、大した力持ちだそうじゃないの」

「どんなっつってもなァ……」

 不死川とて、甘露寺蜜璃とは先日の柱合会議で一度顔を合わせただけだ。一遍通りの見識しかない。奇抜な髪の色をした若い女で、柱で、恋の呼吸を使う。……恋の呼吸って何だ?

 しかし、力持ちと言うならばそうである。

 柱には新入りが加わると、力比べの腕相撲で優劣を決する慣しがある――慣しと言ってもどうせあのお祭り男の宇髄あたりが言い出したことだろうが。それはともかくとして、甘露寺はこの腕相撲において、柱の中でも腕力上位である煉獄や不死川や冨岡と、これがなかなかいい勝負をしたのである。

 不死川は素直に感心した。甘露寺はこのなりで、屈強な大男も裸足で逃げ出す煉獄の扱きにも、心身に過酷な任務にも耐えてここまで来たのだ。女だてらで柱にまで登り詰めるのは並大抵の努力家ではない。

 それにそう、場違いなほど屈託がない人柄も彼女の特性に挙げられよう。その気質で師の煉獄からは随分可愛がられていたようだし、隊士や隠たちからも好かれているようだ。

「つまり、とても魅力的な女性なのね」

「まあ、世間並みに言やそうなんだろうがよ」

 あの明るさは不愉快ではないけれども自分には少し眩しすぎる。それに、不死川の考えには守旧的なところがあり、年頃の娘子が胸元を寛げて、太腿を剥き出しにして平然と巷を闊歩するなどというのは、ちょっとどうかと思われるのである。

 私も一度お会いしてみたいわ、と椿が言ったところで、ひゅいと鴉が縁側から飛び込んできた。椿が復帰するのに伴って、殉死した前任に代わって付けられた鴉だ。

『お館様からのお手紙です』

 緊張が走った。不死川は反射的に刀台に置いた日輪刀に手を伸ばした。

 椿が鴉の足に括りつけた手紙を開いて読み入っている間にも、不死川は出立の支度を進めた。やめろと言わないのは、つまり、そういうことだ。

「十二鬼月の下弦か、もしくはそれに準ずる鬼であろうと」

 椿は読み終えるなり手紙に火をつけて焼き捨てた。

「どこだ」

「今朝未明、見沼付近を北へと移動しているのを鴉が目撃したのが最後」

 不死川の頭は素早く回転した。関東平野はこの数日、秋晴れで澄み渡っている。まだ周辺で身を潜めているに違いない。

「日が高いうちに追い付くぞ」

 椿は完璧に不死川の意を汲んで手配を進めて、半時間とたたないうちに車上の人となって目的地に向かっていた。

 何もかも椿が一緒にいると手際良くことが運ぶ。

 情報収集のための聞き込み一つをとっても、初対面の人間の心をほぐして聞き出す術は無骨な男には到底かなわない。見知らぬ土地でよそ者と怪しまれても、男女の連れというのはただでさえ警戒心を抱かれにくいものだ。それに、彼女はそうしようと思えばいくらでも人当たりよく振る舞えるのである。

 そして、鬼との戦いの場では、本人がそう言った通り、決して足手纏いにはならなかった。

 つまり、椿を任務に伴うようになって、困るようなことは何も起きず、不死川はかつてなく心身ともに充実した日々を送っている。不道の分際でこれほど幸福でいることが許されて良いのかとさえ思う。

 鬼は見立て通り、森の中で身を潜めていた。挟撃で逃げ場を失った鬼の首はあっけなく落とされ、任務はつつがなく終わった。どこのバカだこんな雑魚を十二鬼月呼ばわりしたのは。

「――で、次は」

「次はねえ、九州」

 不死川が救援を求めた隊士を散々に叱り飛ばしている間にも、矢継ぎ早に指令が下る。椿は地図を広げて、先遣隊では手に負えないらしく、厄介な血鬼術を持った鬼が潜んでいそうだと細々とした説明にかかった。話を聞く限りでは長丁場になりそうな任務だ。

 二人は途上、乗り継ぎで次の汽車を待つ間、駅の近辺で飯屋を探すことにした。急いでどうにかなるものではない。もともと目的地に着くまでには数日を要するのだ。

 駅を降りると、海が近いためであろう、潮の香りが鼻をついた。東京には比ぶべくもないが、大通りに密集した建物のそこかしこにけばけばしい幟がはためいており、活発に人が行き交っている。

 その人込みの中に、鬼殺隊の隊服を着用した、これまたけばけばしい桜色の髪をした女の姿があった。

 あんななりをした隊士を不死川は一人しか知らない。椿も、すぐにそれが仲間だということにすぐに気付いた。

「もしかして、あの方が甘露寺さま?」

「そう、だ……」

 不死川の肯定の言葉は力なく消えていった。

 甘露寺の後方十間ほどの距離に、彼女を後ろから尾ける縞の羽織を着た男がいる。

「……ところで、伊黒さまは何をなさっているのかしら?」

 そんなことは俺が聞きたい。

 伊黒はこそこそと電柱のかげに隠れながら、付かず離れずの距離を保って甘露寺を追いかけている。どこからどう見ても立派な変質者だ。今すぐこいつと知り合いなのをやめたい。

 手を出すか他人のふりをするか、しばしの葛藤の挙句、往来の公序良俗を乱す同僚を放っておくわけにもいかず、不死川は伊黒に無言で近づき、隙だらけの後頭部に拳骨を入れた。

 不意打ちを食らった伊黒は、さすがの体感で無様に地面に倒れるようなことはしなかったが、後背を振り返り自分を殴りつけた男を怒りとともにねめつけた。

「何をする不死川!」

「何をするはこっちのセリフだぜ、女を付けまわすなんざ気色わりィ真似しやがって!」

「付けまわすだと!?人聞きが悪いにもほど……が……」

 伊黒は冷静に自分の所業を見つめ直した結果、「そんなつもりは……」と頭を抱えた。無自覚か。いよいよ末期だ。

 その間に甘露寺は煉瓦造りの建物に入ってしまった。看板からして洋食屋のようだ。

「見れば甘露寺さまはお食事のご様子。同行を申し出れば良かったでしょう、知らぬ仲でもなし」

「初めはそうしようと思った」伊黒が苦々しく言った。

「話しかける機会を逸してしまっただけだ……」

「言い訳すんなァ」

 そこからの椿の決断は早かった。撃沈している伊黒の首根っこを半ば引きずって店の扉を開くと、一直線に桜色の女の前まで行って「もし、甘露寺さま」と声をかけた。

「はい?あら、伊黒さんっ不死川さんっ、お元気でしたかあ!」

 華やぐような陽の気に居心地の悪さを覚える。この率直さは年頃の娘たちの中にあっては普通なんだろうが、異常の中の普通は異様である。慣れない。

 椿が同席しても良いかと問うと、甘露寺は満面の笑顔で快諾した。

 四人がけの洋卓に不死川は妻と並んで席に着いた。向いには伊黒、はす向かいに甘露寺。椿は不死川の収まりの悪さなどどこ吹く風で、店員が持ってきた、よくわからん片仮名だらけのハイカラな単語が踊っている品書きに目を通している。

「もう決めた?私のおすすめはねえ、ビーフシチュー!」

 不死川には特に意見が無かったので、じゃあ私たちもそれにしましょうと、椿は流れるように店員に注文を申し付けた。伊黒は水を頼んだだけだ。

 伊黒が人前で飯を食わない理由には所説あり、食い物に毒を盛られたことがあるので人前で食事をしないんだとか、包帯を取るとものすごい醜男なので気にしているからとか、好き勝手な憶測が隊内で飛び交っている。

 なお、不死川はかつて丸三日ばかりだろうか、任務のために一睡もせず常に行動をともにしていたのであるが、自分が握飯で腹を満たし清流で喉の渇きを癒していたにもかかわらず、伊黒においては一切の飲食を絶ってぴんぴんしていたことがあったので、少食で足りる体質なんだろうと理解している。

「甘露寺さまはよくこちらに?」

「先月からこの地域の警備担当を任されたの。東京と違ってこの辺りではまだ洋食屋って珍しいそうなのね、それで毎日通ってたらお店の人と友達になっちゃってね……」

 女たちの話の種は尽きない。弾んだ声で、()()なんて仰々しくて仕方がないから下の名前で呼んで、では私のことも、出身はどこ、ご趣味はなに、好きな動物は、とありとあらゆる方向に話題が飛んでゆく。不死川は女子二人の会話に耳を傾けるのを早々に放棄して、店員の運んできたビーフシチューに手をつけた。中々いける味だ。

「伊黒さん、本当に何も食べなくて大丈夫?」

 甘露寺が気遣わしげに言った。

「いや、空腹ではないんだ。……心配をかけてすまない……」

 水にさえ手をつけない伊黒とは対照に、甘露寺の前にはオムライスだのカツレツだのがひっきりなしに運ばれてくる。そして甘露寺はそれらを平然と平らげる。そろそろ身体の体積と皿の上に乗っていた食い物の質量が換算が釣り合わなくなってきた。不死川は半目になり、椿はきょとんと目を丸くし、伊黒だけが険の削げ落ちた眼差しで甘露寺を見守っている。

「た、食べ過ぎかな?しのぶちゃんとか、心配になるくらい少食だものね……でも、私はこのくらいご飯を食べないと力が出なくて……」

 二人の視線に気まずくなったのか、甘露寺が恥ずかしそうに口ごもった。椿は安心させるようににっこりと笑った。

「何もおかしいことはありませんわ。しのぶは小柄だし、筋力を使わない戦い方をしますもの。私もよく食べすぎだなんて笑われますけれど、そんなことを気にしていては戦えませんでしょう?」

 甘露寺はそれで元気付いた。同じ女の椿が自分もよく食うと言ったのが嬉しかったらしい。いやしかし、確かに、椿はたいがい食欲旺盛な方と思うが、まだ常識的な大飯喰らいの範疇に収まっていると思われる。一方の甘露寺だが、これはもはや質量保存の法則への挑戦だろう。

「蜜璃さんはどうして鬼殺隊に?」

 甘露寺が、一番下の弟を揺り木馬に乗せて遊んだ話をした後で、椿がつい思わず、という風に問いかけた。鬼殺隊にいる女たちはおしなべてよほどの事情があってこんなところまでやってくるのである。そして甘露寺には、よほどの事情があるようには到底思われない。

 甘露寺は、伊黒と不死川の顔を交互にちらちらと見たかと思えば、顔を真っ赤にしてこそこそと椿の耳元に囁いた。

「それは……まあ……女性にとっては死活問題ですものね」

「そうでしょ?そうでしょ!?」

 椿は眉間の間を指で押さえた。頭痛を覚えるような理由だったのか……。

「そうそう、椿ちゃんって……やだっ、もうこんな時間!」

 甘露寺はぴゃっと立ち上がった。ここから離れたところで調査部隊の隊士たちと待ち合わせをしているんだという。

「みなさん、お先に失礼します!」

 甘露寺は、不死川に一礼をし、椿とは今度一緒にパンケーキを食べましょうと約束をして、最後にちぎれるほど手を振りながらこう言った。

「――伊黒さん!先日いただいた靴下、私の足にぴったりだったわ!本当にありがとう!」

 そして光輝くような微笑みを残して、春の嵐のように去っていった。

「誠実で優しくて明るい、お日様のような方ですね」

「ああ、そうだな」伊黒が呆けながら返事をした。

「……」

「……」

「……で?」

 椿は詰め入るような目つきで伊黒に向き直る。その威圧感に、伊黒のみならず、なぜか不死川までもが責められているような気分になった。

「伊黒さまのお気持ちは決まっております。そして蜜璃さんのご事情も理解しました。となれば、貴方様がなさるべきことは一つしかないと思いますが」

 男二人が揃ってはてなんであろうと疑問符を浮かべていると、この物分かりの悪さに任せていてはらちが明かないと思ったのか、椿がじれったそうに言った。

「決まっているでしょう。――求婚なさいませ」

「キュ!??」

 伊黒が首を絞められたような声を上げて絶句した。

 不死川は一体全体何を言い出すのかとはらはらしたが、しかし椿は今、誰もが口に出したくて仕方がなかったが他人事と気兼ねして控えていた核心をずばりと突いて見せたとも言える。

 伊黒が甘露寺に想いを寄せているのは、声変わりもまだな子供の時透さえそれがどのようなものか理解しているくらいに一目瞭然なのである。しかも当の本人である甘露寺ただ一人だけが、そのことに一切気付く様子がない。甘露寺に何も期待できない以上、伊黒が行動を起こさなければ何も進展しようがない。

「なぜ、きゅ、求婚なぞという話になるんだ」

「なぜって、彼女とお近づきになりたいから、散々この人相手に問答を重ねていたんでしょう」

「意味が分からん。お近づきになりたいだのなんだの……俺はそんな大それたことは考えていない」

「あの方のことを愛していらっしゃるのに、傍から見ているだけで満足なんですか?」

 椿はこともなげに言った。伊黒は半分魂が抜けかかってる。

「一体何の……誰の話をしている」

「伊黒さま、蜜璃さんのこと好きですよね?と言うお話しですが」

「……」

「もしかして、自覚がなかったんですか」

 嘘だろ。鈍感同士かお前ら。

 椿は呆れてため息をついた。

「伊黒さまがそれがいいというなら無理にとは申しませんけれど、指を咥えて見ているだけではそのうち他の殿方に掻っ攫われますよ。蜜璃さんは誰がどう見ても素敵なお嬢様ですもの。後からこうしておけば良かっただなんて、後悔しても遅いですからね」

 椿は自分の言いたいことだけ一方的に喋り倒した挙句、敢然と席を立った。不死川もそれに倣った。

 全身から汗を流しながら硬直してる伊黒は放置した。これ以上へたに声をかけると舌を噛んで自決しそうだったのである。

 

 定刻通りに出発した旅客車は、季節柄もあって賑わっていたが、幸い、二人の入った個室には後から入ってくる客もない。

 椿はこれが作法だと思っているので、席を詰める必要もないのに膝をまとめて小さく座っている。駅を出てしばらく経つと、思うところがあったのか、落ち込み気味に

「ちょっと言い過ぎたかしら」と呟いた。

 不死川は肩にこてんともたれてきた形の良い頭をよしよしと撫でた。

「いや、あいつにはあれくらい言ってやって丁度良い」

 椿が伊黒相手にあそこまで言いたい放題したのは驚いたが、もしかすると頻繁に家に上がり込まれたので鬱憤が溜まっていたのかもしれない。だとしたら申し訳ないことをした。次からは情けをかけずに門前払いを食らわせることにしよう。

 それにしても求婚は飛びすぎだろう。そう言うと、椿は、「男が好きな人に誠意を見せたいならそれしかないじゃない」と膨れた。それしかないのか。

『吾輩はどうかと思いますがなあ。発想がいささか短絡に過ぎるのでは』

 個室なのを良いことに車中に潜り込んできた鎹鴉が椿の膝の上で羽を伸ばして休んでいる。お前は外に出ろ。

「あら、お前はいつから人間社会の機微に聡くなったの」

『これは手厳しい』

 椿はちょっと意地悪そうな笑いを浮かべて鴉をうりうり撫でまわした。鴉はどことなく嬉しそうだ。こいつ雄かよ。死んでくれ。

 ところでこの鎹鴉であるが、ほかと違って人間と遜色ないほどに達者に人語を解する。並みとは異なる特別な訓練を受けた鴉であるためという。

 近頃、椿は産屋敷邸に呼ばれることが増えた。特別な鎹鴉を付けてもらえるのも、頻繁に差し向かいでの面会を許されているのも、彼女が柱とはまた異なった形で重んじられている証拠で、不死川はそれを名誉なことと思うが、椿はたいてい、あそこから戻ると難しい顔をして自室に引きこもってしまう。悩みがあるなら聞いてやりたいが、互いにそれぞれの領分に関して守秘義務があることは理解しているので、おいそれ嘴を突っ込むのも憚られた。

 

 西国の地の任務は想定していたよりも早く終わった。それでも本拠に帰ってきた時には、もう寒風が骨に染みるような季節だった。

 

 帰宅してしばしの骨休めの間、女中に留守の間に変わったことがなかったかと聞くと、息子たちが旦那さまから頂いた甲虫がことごとく死んでしまったので悲しんでおりましたとか、玄弥が何度かやって来ては庭の手入れをして帰っていったとかとか、そういった日々の細々としたことを伝えてくれた。伊黒はこちらの不在を知ってか訪ねてくるようなこともなかったそうだ。結構なことだと差し当たって安堵したのもつかの間のことだった。

 椿は早々に趣味でやってる謡の稽古に行ったのが、そこから戻ってくるなり深刻そうに口を切った。

「もう聞いた?蜜璃さんと仲良くしている男隊士が次々闇討ちされてるって噂」

 悪化してんじゃねえかよ、おい。柱が隊の風紀を乱すな。

「……もういっぺんぶん殴ってくらァ」

 不死川がゆらりと立ち上がりかけたのを、椿が「ちょっと待って」と制止した。

「噂は噂ね。蜜璃さんと仲の良い男性に対して威嚇的なことは確かなことだけれど、今のところ実力行使に出た事実はなさそうよ。……そもそも、本当にそんなことがあったら、さすがにお館様が許さないわよ」

 それもそうだ。不死川は座布団の上に胡坐を組んで座りなおした。

「噂って言やまたあのクソ鴉どもかよ、毎度ロクなことしやがらねえな……」

「根も葉もなければここまで広まったりしないわ。あなただって今私の言ったことを信じたでしょう。そこが問題よ」

 その通りだ。事実がどうかはこのさい重要ではない。柱が私情に端を発する怨恨で隊士を害して回るなどという風聞が信じられてしまうのが問題なのだ。鬼殺隊は恋愛禁止ではないが、節度というものがあるし、何より下位の者たちに示しがつかない。

 しかし不死川の頭で現状を打破する名案など思いつくはずもない。不死川の得意は物事を力ずくでどうにかすることであり、人間関係は不得手の範疇だ。そもそもがなぜ自分が他人の好いただの惚れただのに気を使ってやらねばならぬのか。

 こういう俗っぽいことはこいつの方が慣れているだろうと、ちょうどよくやってきた樋上に経緯をかいつまんで話した。能天気そうな面を下げた樋上は野次馬根性丸出しで目を輝かせている。おおよそ恋愛沙汰など当人たちにとっては命をかけるほど真剣なものでも、他人の目からはこれほど滑稽な笑い話はないものだ。

「へ~、蛇さんそんな感じなんだな」

 樋上はうんうんと頷いた。

「でも気持ちはわかるぜ、甘露寺ちゃん良いよな。こう……ぼーん!ばーん!って感じで」

 不死川の視線が蔑みに満ちた。樋上が「なんだよその目は!」と喚いた。

 男どもを威嚇して回る伊黒をバカだバカだと思っていたが、惚れた女が、こんなアホみたいな男に色目を使われるのは我慢ならない、その気持ちはよく分かる。結局不死川が伊黒を突き放しきれないのもそこなのだ。同情心があるのだ。

 ところでこの樋上だが、小半時間ほど前に、隊士を一人伴って不死川邸にやってきたのだった。

「なんだそいつァ」

「よくぞ聞いてくれた不死川。こいつ、俺の弟弟子の獪岳!いいだろ。お前にゃやんねえから!」

 樋上はばしんばしんと弟弟子と紹介した少年の背中を叩いたが、当人は死ぬほど鬱陶しそうだ。少年は樋上の手を払いのけて、不死川に向かって深々と頭を下げた。

「俺を弟子にしてください」

 何を言い出すかと思えば自分を継子にしろと言う。この強気は自分の腕に自信がある証拠である。悪くない気構えだが、この手の奴には何を置いても初対面で上下関係を叩き込んでおくのが肝要である。「柱を舐めんじゃねえぞ」と生意気そうな面に一発食らわすため拳を作った瞬間、狙ったように椿の腕がするりと絡んだ。

「きみ、まずは私と戦ってみない?」

「はあ……」

 少年は若干、不本意そうである。

「あなた、いいでしょう」

 許可を求めているものの椿の中では決定事項らしく、意気揚々として木刀を手に取っている。

 不死川は彼女の意図を理解した。なるほど気骨があるのは結構なことだが、今この子供は椿を片端者の女とみて面上に侮りの色を浮かべた。見るからに自分より弱そうな女に叩きのめされれば、顔面に一発食らうまでもなくいい薬になるだろう。

 それで不死川は「こいつから一本取れたら考えてやらァ」と言って、椿と獪岳を戦わせて、その戦いぶりで決めるということにした。

 樋上は「がんばれよ~」と実にのんきに構えている。

「どうだ?俺の弟弟子。強いだろ」

「まあまあだなァ」

「褒めてやってくれよ」

「圧されてんじゃねェか」

「無茶言うなよ、相手が相手だぞ」

 少年は執拗に向かって左側、つまり彼女にとっての死角から剣戟を放っているが、椿はそのすべてを軽やかにいなして寄せ付けない。椿は鬼どもがお決まりのように死角を狙ってくるので、いまやそちら側からの攻撃に反応する方が容易くなったとまで言い切っているくらいなのである。そもそも、椿は甲の階級を得て長い熟練の鬼狩りで、踏んできた場数が違う。

「風柱様の弟子入りには足りねえか?」

「『やんねえ』じゃなかったのかよ」

「そいつは言葉の綾だ。あいつ最近どんどん強くなっててもう俺じゃ相手にならねえ。本人も現役の柱に弟子入りしたいって言ってるしな。宇髄さんにもお願いしようと思ったんだけどさあ、最近捕まんねえだよな、あの人」

 それで自分の面識のある柱を回って、頭を下げて回ってるというわけだ。面倒見の良いことだ。

「稽古の相手が欲しいってんなら見てやってもいい。だが継子にはしねェ」

「なんでだよ」

 不死川は少年の戦いぶりを見やった。

「雷の呼吸の型は五つだったかァ」

「いや、六つ」

 樋上が急いで付け足した。

「あいつは壱の型を使えない。だけど、そんなのは問題にはならないだろ」

「テメエが一から鍛え直してやりゃァ済む話だろうが。俺は雷の呼吸のことなんざわからねえぞ」

「あいつが自分より弱い奴の言うこと素直に聞くようなタマに見えるか?」

「相手が強かろうが弱かろうが、自分を弁えて他人に教えを乞えねえ奴はそれまでだ」

 少年の上昇志向の強さは褒めてやってもいいが、不死川にはむしろ、世話になっているはずの樋上や、格下だと認めた人間への酷薄さが気になった。

「他を当たれェ」

 不死川はそっけなく答えた。

「俺がこの通り頼み込んでもダメ?土下座しても?」

「テメエの土下座なんぞ金を出しても見たくねえよ」

 樋上は意気消沈として肩を落とした。

「……ここんとこずっと雷の呼吸から柱が出てない。俺は才能なしで先生を失望させちまった。せっかく弟子にしてもらったのにさ」

 樋上は基本となる五つの呼吸のうち、雷の呼吸のみが柱に名を連ねていないことを気にしたが、不死川にはいまいち共感しかねる焦燥だった。柱の地位は呼吸の別に応じて分配されるような類のものではない。柱になることそれ自体を目的とする根性では、万年経ってもそこに到達することはかなわないだろう。

「だからせめて、同門から柱を出すのを手伝いたいんだよ。あいつは努力家だし見込みがある。兄弟子としてできるだけのことはしてやりたいんだ。それが先生への恩義への報いにもなるしな」

「おい、殊勝で同情を引こうったってそうはいかねえぞォ」

「あ、ばれた?」

 樋上は沈痛な表情から一転してけろっとしてみせた。相変わらず転んでもただでは起き上がらない男だ。

 結局、樋上の弟弟子は一時間続けても椿から一本取ることはできなかった。少年は一応は納得したものと見えて「ありがとうございました」と礼を言い、樋上に連れられて去っていった。

「断ったのね。真面目そうな子だと思ったけれど」

「不服か?」

「私はあなたの決めたことに従うわ」

 拳を差し止めたのはどういうわけかと聞くと、椿はおかしそうに笑った。

「だってあの子、せっかく可愛い顔をしていたのに鼻骨が曲がったままこれからの人生を過ごすのはかわいそうでしょ」

 ……やはり一発殴っておくべきだったか。

 

 この日の夜もまた闇色が濃かった。

 守るべき人の営みがあることを告げる、拍子木を打つ澄んだ音が風に乗って聞こえる。ここは山間とはいえ人里が近い。早々にけりを付けてしまわねばならない。

 不死川は久しぶりに戻った自分の警備区域を駆け回り、鬼の気配を探り出しては一刀のもとに切り伏せた。

 一仕事を終えて麓近くまで戻ると、返り血に濡れた日輪刀を下げた椿が、満ちた月を仰ぎ見て立ち尽くしていた。辺りに鬼の気配はない。一帯の鬼はこれで討伐せしめたもののようだ。

「そういえば、今年の彼岸花、見損ねてしまったわね」

 主に伊黒のせいでな。

「また来年連れてってやる」

「うん、来年……」

 椿はゆっくりと微笑んだ。昼間より、少し元気がないように見える。

「疲れたか」

「平気」

 椿は普通に戦う分には支障がないし、剣の技量のみで言えば柱さえ匹敵するだろう。しかし、一夜を越すには体力が覚束ない。一人で鬼狩りの任務を与えるには不安が残る。

 だからこれでいいのだ。

 明るい月光が、山の緑と小さな湖の面を明るく照らしている。

「昔、珍しい花があると案内されて、家族で見に行ったことがあるの。そう、ちょうどこんな山間の里の近くだったわ。雲一つなくて、お日様が明るくて……」

 椿は夢見るような口調で言った。

「何度もお山の中を探したのに、それきり二度と見つからなくて、……あれは現実のことだったのかしら」

 椿は血の滴を刀身から拭い、鞘に収めた。

「……伊黒さまのこと、良いように収まるといいわね」

 




樋上は獪岳にグチャグチャに殺されるよ 未来の悪魔より


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27.花ある君と思いけり(後)

誤字報告ありがたいです。そして推薦をいただきました。本当にありがとうございます!


 椿としのぶは初冬の街角を早足で駆けていた。暗い路地には、鬼どころか人一人、猫一匹の気配さえない。

「邪魔をしないで、椿」

「邪魔なんかしないわ。あなたの発案について、お館様にそう乞われたから意見を申し上げただけ」

「それを邪魔していると言うの」

「勝算が低いと自分でも理解しているからそう思うのよ。ねえ、どうして私も一緒に――」

「そんなこと聞かないで!」

 椿が言葉を重ねるのをやめてじっと見つめると、しのぶは大声を出したのが決まり悪いのか顔を背けてしまった。

「……ついてこないで。一人にして」

「そんなことを言ったって、行く方向が同じなんだからしょうがないでしょ」

 もう夜明けだった。

 しのぶは白みつつある東の空を見て、歩く足を止めて立ち止まった。椿は隣まで行って、しのぶの小さな手を包むように握った。

「一旦戻りましょう。ね、それでいいわよね」

 しのぶは小さく頷き、椿の手を握り返してくれた。二人は連れだって本拠に戻った。

「……夕方には見廻りに戻るけど、どうする?」

「ついて行ってもいい?実弥さんひどいのよ。酸素の薄い高地の任務で、肺の具合に悪いからやめておけなんて言って、人を置いてきぼりにするんだもの」

 しのぶは仕方ないわね、と言いながらも少し嬉しそうだった。二人で一緒に任務に当たるのは本当に久しぶりのことだ。

 一度戻ってご飯にしましょうと話し合いながら蝶屋敷へ続く道を歩いていると、冬枯れて葉の落ち切った桜の木のそばに甘露寺が立っているのが目に入った。風呂敷に包んだ大きな重箱を手に下げて、いささかぼうっとした様子で虚空を眺めている。

「甘露寺さん?どうしたんですか、こんなところで」

「あっ、しのぶちゃん、椿ちゃん」

 しのぶが声をかけると、甘露寺はこちらに気付いて「こんにちは」と小さく頭を下げた。どうしたことか、見るからに元気がない。異常事態だ。いつもならちぎれそうなほど手を振って満面の笑顔で挨拶してくれるのに。

「なんでもないことはないでしょう。……あら、この着物素敵ね。どこかにおでかけ?」

「おでかけはもう終わったの」

 二人のもの言いたげな視線に囲まれて、甘露寺は、えっとね、と言って、いくらかためらいながら口を開いた。

「ご縁があって、ある殿方とお知り合いになって、それで今日、近くのお寺の紅葉がまだ綺麗に残っているから見に行きませんかってお誘いを受けたのね」

 要するに逢引きか。椿は眉を寄せた。話し始めから、すでにこの話がめでたしとは終わらない不穏な気配がひしひしと伝わってきたのだ。

「私嬉しくて、お弁当、たくさん作ったの。喜んでもらおうと思って。そうね、初めは楽しかったわ。真っ赤な葉が綺麗で、湿った落ち葉の上を歩くのも面白くて。それで、色々お話している内に――結婚の話になったの」

 しのぶも話の着地点が見えてきたらしく、顔だけ笑顔のまま、ぴしりと拳に血管を浮かせた。

「もし自分と一緒になったら、鬼殺隊はやめてほしい。家に入って、自分と両親の世話をしてほしいって。でも私は、鬼殺隊をやめることはできないって、そう言ったの。そうしたら、態度が急に変わって」

 甘露寺は話続けている内に涙声になった。

「そんなのはそもそもが女のすることじゃないんだからやめなさいとか、それに、二人しかいないお出かけにお弁当を七段も重ねて作ってくるなんて、ひ、非常識だって……冬眠前の熊でももっと少食だって……」

「もういいです、甘露寺さん」

 しのぶは懐からハンカチを取り出して、甘露寺の目元に滲んだ涙を拭った。

「どこの馬の骨がそんな事を言ったのか教えてください。簀巻きにして川に放り込んでやります」

「普通の人は死んじゃうわ。縄でくくって木に吊るすべきよ」

「いいわね、それ」

「ダっっダメダメダメ、二人ともダメだよ!」

 椿としのぶの過激な提案に、甘露寺の涙が引っ込んだ。

「さあ、こんな寒いところに立ってないで。そんな狭量な男のために蜜璃さんが泣いたり悲しんだりする必要はないわよ。嫌なことは早く忘れましょう」

 甘露寺はそう励まされて少し浮上したようだが、やはりどことなく浮かない顔つきでいる。喜怒哀楽の切り替えの早い彼女には珍しいことだ。

 しのぶは少し思案して、人差し指を立てて甘露寺にこう提案した。

「元気が出ないなら、そうですね――私たちと楽しいことしません?」

 

 

 

「それでこれですか」

 アオイは道場の壁に、椿とカナヲと三人で並んでもたれて、呆れたような、いっそ感心したような調子で言った。

「いいでしょう、すっきりして」

 カナヲはあどけないつぶらな瞳で、しのぶと甘露寺が竹刀で打ち合う様子を見つめている。嫌なことを忘れるには、思い切り身体を動かすに限る――椿としのぶと、そして甘露寺にも異論のない意見だった。

「もしかして、しのぶが帰るのを待ってた?ごめんなさいね、横取りのような真似をしてしまって」

「いいんです。私だとしのぶ様に教えてもらうばかりになってしまいますから」

 柱の女たちの勝負は拮抗している。しのぶの目にも止まらぬ神速の突きを、甘露寺は強く、しなやかな肢体をのびやかに動かして、ひらりひらりと紙一重でかわす。

 しのぶの突き技は鬼殺隊随一の速さを誇る。斬るという動作を捨てて、刺突それ自体のみを極限まで鍛え上げたのは、少なくとも当世の隊士としては胡蝶しのぶが唯一であろう。刺突という動作は本来、生半可では鬼殺の決定打にはなりえないから、型の一つとして突き技を修めることはあっても、多くの剣士はそれほど力を入れて修練に励まない。

 今でこそ取り沙汰するものもないが、しのぶが柱になった当時は、頸を切れない柱が許されるのかと、少なからぬ物議を醸したものであった。もしも毒が通用しない鬼に遭遇した場合、頸を切る手段を持たないしのぶにはなす術がない。柱は強者でなくてはならず、頸を切れない剣士は強者ではない。

 それでもしのぶは、色々な困難を経て、誰の文句も寄せ付けない地位を築いている。立派なことだ。

「椿さんは参加しないんですか?」

「私では蜜璃さんに手加減させてしまうの」

 椿はしのぶとは手の内を知り尽くしていることもあってそれなりに伯仲した勝負になるのだが、甘露寺相手だと力負けしてしまうのだ。

 手合わせは一見すると、しのぶが優勢に進めているように見える。しかし、ここにきて甘露寺が上手に回り始めた。攻めているというよりも攻めさせられている。戦いが長引くほど、体力や継戦能力で上回る甘露寺の方が有利なのだ。

 それはしのぶも十分に理解しているのだろう。主導権を握り返すべく、凄まじい速度の連撃を叩き込む。甘露寺はこれをどうにか堪えてしのぎ切ったが、無傷では済まず、右腕に強かな一撃を喰らった。それでも竹刀を取り落とさずに済んだのは見事と言えた。

「やりますね、甘露寺さん」

「しのぶちゃんこそ!」

 二人が相手の健闘を湛え合い、互いに竹刀を構え直したその時、気の抜けたぐうという音が低く鳴り響いた。甘露寺の胃の唸る音だ。

「……」

「……」

 緊張が緩む。椿は真っ赤になった甘露寺に向かって安心させるように微笑んで、乾いた音を立てて手を打った。

「そろそろお仕舞にしましょうか。二人ともお風呂に入って、着替えておいでなさい」

 

 

 

 二人が風呂場で汗を流している間に、椿は火鉢を出して部屋を温めていた。アオイとカナヲは、柱同士の稽古に良い刺激を受けたようで、道場に残って稽古に励んでいる。

 甘露寺が手付かずのまま持ち帰ってきたお弁当を机の上に広げると、七段重ねの重箱には佃煮、卵焼、焼鮭、葉菜、そのほか色々な彩り豊かなおかずが宝石のように詰まっていた。甘露寺は料理に関しては、食べるばかりでなく作る方にも才覚があるようだ。

 そうしているとまもなく、葡萄色に染めた矢羽根絣の着物に召し替えたしのぶが襖を開いて入ってきた。

「蜜璃さんは?」

「もう少し湯に浸かりたいって」

「一人で大丈夫?湯舟に頭まで浸かったりしていなかった?」

「身体を動かして大分吹っ切れたようだから、大丈夫よ」

 椿よりも甘露寺との付き合いが長いしのぶの言うことなので間違いはないだろう。椿は、座布団の上に座ったしのぶの後ろに膝を立てて、少し乱れてしまって後れ毛の目立つ髪を整えてあげた。

「今回の任務、随分長くかかったわね」

「一月くらいかしら。でも今は、ここは私がいなくてもアオイがいれば回るようにしてるから大丈夫」

「手伝いが必要ならいつでも呼ばれるわよ」

「いいのよ。手伝いなんかじゃなくて、今みたいにゆっくりするために来てくれたらいいの」

 どこか懐かしいような、ゆったりとした空気が流れていた。火鉢の五徳にかけた鉄瓶が暖かくなって、中に張った水がぶくぶくと微かな音を立てて沸騰している。

 椿は茶を煮出そうとして沸いた湯を急須に注いだ。手持ち無沙汰になったしのぶは、椿の髪を一房つまんで弄り始めた。

「香水変えた?」

「よく気付いたわね」

「わかるわよ。薔薇の香り、少し強くしたでしょう。いい匂い」

「ありがとう、嬉しい。彼は気付いてくれなかったの」

 しのぶが得意満面の笑みを浮かべた。それから、銀座のどの店の調香師がいいだとか、舶来の香水は匂いが強すぎてだめだなどと言い合っていると、元気いっぱいの甘露寺がほかほかの湯気を纏って飛び込んできた。部屋の空気が一気に賑やかになり、しのぶは一瞬で妹分の顔からいつものしっかりものの顔に戻って、「どうぞこちらに」と席に着くように促した。

「良いお湯でしたぁ~!しのぶちゃん、ありがと!」

「あらあら蜜璃さん、胸元がはだけているわ」

「えへへ、椿ちゃんも、ありがとう」

「どういたしまして」

 三人が揃ったところで、机の上に広げていたお弁当をいただくことにした。

 甘露寺手製の料理は何を食べても美味しかった。かぶの葉の漬物は塩加減が丁度良いし、高野豆腐はしっかりだしの味がしみ込んでいる。彼女の手料理を毎食頂ける男は幸せだ。甘露寺はさぞ良い嫁になるだろう。

「どうしたらこんなに綺麗に焼けるのかしら」

 椿は卵焼きを箸で摘んで、嘆息混じりで言った。

「難しくないよ!まずはフライパンをよく温めてね、たくさん油を引いて……」

「甘露寺さん、手加減してあげてください。この人は最近ようやく卵に殻の破片を混ぜないで焼けるようになったばかりなんですよ」

「しのぶったら!」

 甘露寺は「じゃあ今度うちに来て!一緒に練習しよ!」とはつらつとした笑顔を向けた。本当に性根の優しい子だ。ちなみに、しのぶは決して椿に、蝶屋敷の台所の敷居を跨がせたりしない。こちらは優しくないが賢明ではある。

「そうだ、前から聞きたかったんだけど……」

 お弁当があらかた片付いた頃、甘露寺がはにかみながら言った。

「椿ちゃんはどんな馴れ初めで結婚することになったの?宇髄さんはお見合い婚だったって言うの」

 椿は箸を置いた。ついにこの質問が来たな、と思った。この際、宇髄のそれが見合い婚かどうかの真偽は置いておく。

「馴れ初めと言ってもね。別にこれといったきっかけなんかないわ。任務で知り合って、一緒にいるうちに好きになっただけ」

 甘露寺は「素敵……」と頬を染めている。しのぶは苦々しげに茶を啜っている。

「お見合いじゃなくて、恋をして結婚したいなら、段階を踏むべきだと思うの」

「段階?」

「まずはお友達になるの。お友達になって、仲を深め合って、相性が良かったならしぜんと相手を慕う気持ちが芽生えてくるでしょう」

「……確かに!」

 甘露寺は手を打って感心した。

「仕事に理解のある人がいいなら、絶対に鬼殺隊の中か近くで探すべきよ。どう?身近に素敵な人はいない?」

「えっ……だって……そんな……鬼殺隊にいる人はみんな素敵な人なんだもの」

 みんなときたか。

「全員のことが好きって言うのはね、恋愛ごとにおいては全員好きじゃないのと同じよ」

「そうかなあ?」

「残酷だけど、恋をするってそういうことよ。大勢の人の中から、たった一人を特別にするとね、その人だけが飛びぬけて素敵に見えて、それ以外の男は大根か何かにしか見えなくなるの」

「大根……」

「甘露寺さん、椿の言うことは一般論だと思わないで、話半分に聞いてくださいね……」

 話をよくよく聞いていると、彼女の結婚に対する感情は単なる娘らしい純真な憧れのみに留まらない、切迫した危機感を孕んでいることに気付く。

 甘露寺は次の正月で十九になる。適齢期とはいえ、そこまで焦る必要もないと思うが、周りの同級生がみんな恋愛らしい恋愛もせず、あらかた在学中に縁談がまとまって退学して行ったり、卒業後すぐに家庭に入ってしまい、甘露寺一人が見合いにことごとく失敗して取り残されてしまったそうである。それは辛い。

「見る目の無い男がいたものですね」

 お見合い話の下りでしのぶが放った容赦無い物言いに、甘露寺が弱々しく微笑み返した。心の傷は深いようである。

 椿が思うに、結婚とは、本来的には家と家の結びつきであって、人間同士が結びつくためのものではない。だから、家風に合わなければどんなに優れた女性であっても破談に至るのは致し方のないことで、甘露寺個人の人格が否定されたのとは違う……のだが、こんな理屈を並べ立てたところで、傷ついた少女の心を癒すには役に立たないだろう。みんなあなたのことが好きよ、落ち込まないで、と慰めを試みたところで同じである。たった一人の伴侶から向けられる愛情、唯一の人に思い思われる経験以外に、彼女の傷が癒されるすべはないのだ。

 椿が「じゃあね、こうしてみたらいいのよ」と年長者としてわずかに豊富な人生経験のおすそ分けをしようとすると、甘露寺は興味津々でうんうんと首を縦に振る。素直が過ぎてちょっと心配だ。

 しのぶが同じように思って、「あんまり変なことを甘露寺さんに吹き込まないで」とたしなめた矢先、板戸の外で鴉が劈いた。――任務の報だ。

 

 

 

 水気を含んだ北風が、侘しい長屋の連なりに吹き付ける。

 この土地の人々は飢えるほど困窮しているわけではないけれども、日々の身上を稼ぐので精一杯の暮らしをしている。それでいて容易に困難を表に出さない気風があり、よそものには打ち解けにくい、付き合い難い住人が揃っているのだが、この日は見慣れぬ異邦人の周囲に子供たちが群がる珍しい光景が広がっていた。

「平吾がいなくなっちゃったんだ」

「絹のお母さんもだよ」

「向こうの長屋に住んでる源三郎おじさんも」

 子供たちは椿の耳元にやってきては、内緒話をするように小声で囁く。

「平吾くんとお絹ちゃんのお母さま、いなくなる前になにか言っていなかった?」

「母ちゃん、川のすぐ近くで兄ちゃんを見たんだ、って言ってた」

 絹はきゅっと引き結んでいた唇をわなつかせながら言った。

 兄ちゃんというのは、何年も前に病気で死んだ絹の兄で、母親が一番可愛がっていた子のことだと、周りにいた子供が説明してくれた。

「平吾も、家出したおとっつぁんがあそこにいたんだ、間違いない、って」

 二人とも、夜半遅くに帰ってきた長屋の人足が、川辺に向かうのを見かけてそれきりという。椿はもうこれ以上聞けることはないだろう、と思って裾に手を伸ばした。

「みんな、教えてくれてありがとう。お礼に鹿の子餅をあげましょうね」

 懐紙に包んだ餅を手に与えると、子供たちはわあっと歓声を上げて受け取った。

「お絹ちゃんには二つ。お家に持って帰って、父様と一緒にお食べなさい」

 子供たちは口々にありがとうと言いながら、「お姉ちゃん、また来てね!」と手を振って家に戻っていった。絹は一番最後に、「ちゃんと聞いてくれてありがとう」と感謝して、ようやく口の端に微笑を乗せて帰っていった。きっと、大人には話せないか、話しても信じてもらえなかったのだろう。

 子供たちと立ち替わりに、他の長屋で聞き込みを終えたしのぶがやってきた。

「どうだった?」

「源三郎さんは半年前に奥さんに出ていかれて以来、酒浸りだったそうです」

 番茶でもてなしてくれた家主は、どうせ酔ったはずみに川に落ちでもしたのだろう、家賃も滞りがちだったので厄介払いできて幸いだった、と薄情な様子だったという。

「伊黒さま、もちろん聞いていらっしゃいましたね」

「当然だ」

 子供たちの前では完全に気配を消していた伊黒が、屋根の上から女たちを見下ろしながら不愉快そうに言った。

「お前たちには別件の指令が来ているだろう」

「はい、中々鬼の尻尾が掴めない上に住人たちの口が固くて難渋しているから、向かう前に一旦ここで情報収集を手伝えとの指令でございます。私もしのぶも、この辺りの事情には多少通じておりますので」

 この一帯はかつて花柱の担当区域だった。かつてカナエが守っていた広大な領域は、三分の一を一般の隊士が分割して受け持ち、残りをしのぶが担当している。

「まあ、そんなことはどうでもいいとして……敵は親しい人の幻覚を撒餌に人を誘き寄せているようです。ただの幻影か精神に干渉してきているのかはわかりかねますけれども、立ち回りにはいささか注意を――いらぬお節介でしたね」

 椿は伊黒の不機嫌を見て口を閉じた。

「何をしている。用が済んだのならさっさと行け」

「言われずとも退散しますが、その前に一つよろしいでしょうか。なぜこの期に及んで蜜璃さんに想いを告げないんですか?」

 椿は有無を言わさず単刀直入に切り込んだ。

「前にも言ったはずだ。俺にそんな気はない。下衆の勘繰りはやめろ」

 伊黒は不愉快の極みとでもいうような刺々しい口調だ。

 椿はこれまでに見聞きした伊黒の奇行と、今の言葉を合わせて考えて頭を捻った。他人にちょっかいをかける暇はあるくせに、甘露寺には何もする気がない。――一体なんなんだろう、この男。

「では甘露寺さんと仲良くしている隊士や隠に凄んでみせたり、未練がましく付きまとうのをやめてください。あなたの振る舞いのせいで彼女が良縁を逃して一生結婚できなかったどうしてくれるんですか?責任とれるんですか?とらないんでしょう?」

 しのぶが椿の思ったことを率直かつ無慈悲に代弁した。伊黒の首元の蛇が居心地悪げにもぞもぞと動いている。

「椿、あなたも何か言って」

「何かって言われてもねえ……」

 椿は、これはちょっと自分には手がつけられないな、と思っていた。伊黒の拒絶的態度の理由が全然わからないのだ。

「もういっそ、蜜璃さんには私たちから良さそうな人を紹介してあげた方がいいんじゃないかと思うの。ほら例えば、冨岡さんとか」

 しのぶは頭に鈍痛を覚えたように手を額に押し当てた。

「……その馬鹿みたいな話、どうしても今聞かないといけない?」

「何よ、しのぶだって冨岡さんのこと嫌いじゃないでしょう。優しい人だし、一本気だし、誠実だし、奥さんになった人のことは絶対、大切にしてくれるはずよ」

「まともに会話も成り立たないくらいの言葉足らずなのに、どうやって夫婦生活ができるの」

 椿はしのぶの突っ込みを意に介さず続けた。

「確かにおしゃべりな方ではないけれど、見た目より簡単な思考の人だから、慣れれば何を考えているかはすぐにわかるようになるわ」

「擁護になってないわよ」

「……それに、なんと言っても熟練の柱だもの。『頼れる殿方に守ってもらいたい』ならうってつけよ」

 椿がいっこうに諦めないので、しのぶは「襟が解れてるのも自分で直せないくらい生活能力ゼロだし」と別の切り口で責めだした。

「たいした欠点にはならないわ。その程度のことなら人に任すか女が甲斐性を見せればいいだけのことじゃない」

「冨岡さんの天然を甘く見過ぎ。あんな人と結婚したら最後、知らないうちにどこかで借金の連帯保証人になっていて、嵩んだ借財をそのまま押しつけられて、一人で途方にくれたりして、しまいには家庭にも飛び火して……とにかくそう、大変なことになるに決まってるわ」

「……」

 あまりに具体的に提起された懸念に、さすがの椿も返す言葉を失った。

「とにかく、冨岡さんは無理。絶対に駄目」

「まったくだな。不良債権を押し付ける悪徳銀行員のような真似はよせ」

 伊黒は最初「一体何を言い出すんだこの女は」とでも言いたげに二人の会話の行方を追っていたが、最後にはしのぶの意見に追随した。

「それじゃあ煉獄さまはどう?人間として非の打ち所のない方だと思うけれど」

 しのぶは「どうして最初から煉獄さんにしなかったの?」と呆れながら言った。

 伊黒は沈黙した。

「私もいいと思うわ。もともとあの二人は師弟だし、仲も良いし」

「いいわよね、煉獄さん」

「ええ。伊黒さんもそう思いませんか?」

 突然水を向けられた伊黒は、ちょっとだけ言葉に詰った。

「……あの二人は、互いにそんな気はない」

「そんな気がないのは、そういう目で相手を見たことが無いからですよ。どこに出しても恥ずかしくないみごとな男ぶり、女ぶりのお二方ですもの、一度意識しえばあっという間ですわ」

 伊黒は同意する気持ちと反対したいような気持ちの相反する感情がせめぎ合った複雑な表情をした。

「嬉しくないんですか?彼女の幸せを見てるだけで満足なんでしょう?」

「好きにしろ」

 しのぶに煽られて、伊黒はそう吐き捨てた。

「俺には関係ない話だ」

 そして、来た時と同じように、音も立てずに屋根から屋根に飛び移って去ってしまった。

「……ちょっといじめすぎたと思う?」

「まさか。あのくらいでちょうど良いわよ」

 しのぶにとって、伊黒は冨岡以上に論外らしい。あの素敵な可愛らしい女性を、あんな意気地なしに任せることはできない――というのがそのわけだ。一理ある。

 しかし、伊黒のすげない態度はかえって、椿の中ににわかに憐憫の情を引き起こした。

 伊黒がああも頑ななわけは想像もつかないが、なんせ男の考えることだから、どうせ愚にもつかない理由があるにはあるのだろう。しかし、甘露寺の伴侶に他の男はどうかと問われて明確な答えもできずに去っていく伊黒の背中は、いじらしくけなげで、見る者の同情を誘った。まあ椿にとっては大根だが。

「伊黒さん、悪くないと思うけど」

「私は反対」

 しのぶはにべもない。

「この期に及んで尻込みしているような男に、甘露寺さんを幸せにできると思うの?」

 確かに、甘露寺ときたら、親しくなればなるほど、彼女の優しさや誠実さといった美徳を享受するに相応しい男が果たしてこの世に存在するものかと考えたくなるような女の子なのである。

「私の考えは少し違うわね。幸せは自分で掴み取るもので、誰かに与えてもらおうなんて甘い考え方でいたら、それこそ遠ざかっていくものじゃない?」

 伊黒に何かするのを求めるのは不可能としても、甘露寺が何かする分には背中を押してやって差支えないのではないか。

 機会だけでも与えてあげたら、と椿が微笑むと、しのぶが深いため息をついた。

「あなたがそこまで言うなら、仕方ないわね……」

 

 

 

 自分よりも経験豊富な柱であるしのぶの、「こちらは私と椿で十分ですから、伊黒さんを手伝ってあげてください」という指示に従って、甘露寺は鬼を探すために橋を渡り、川沿いの土手を走ったりしながら、頭の片隅で考えていた。

 

 本当に、この広い世界のどこかに、私を好きになってくれる人はいるんだろうか?

 

 大好きな家族、大切な仲間、どれほど素晴らしい人たちに囲まれていても、心の中で拒絶されることを恐れる気持ちが拭えない。自分という人間を真正面から否定された経験は、甘露寺を臆病にしていた。

 今回のことだって、男の口調はそれほど強く甘露寺を咎めるものではなかった。世間では彼の方こそまともなのだ。だが一度ああ言われてしまうと駄目だった。彼は甘露寺の奇抜な容姿は気に入ってくれたが、内面まで受け止める度量は持たなかった。自分のすべてを受け入れて、好きになってくれる男性――虫のいい期待なのはわかっていたが、甘露寺はそういう人を求めずにはいられなかった。

 鬼狩りは、人の命を守り、己の身命を捧げる職務だ。甘露寺は命を落とすこともある危険な仕事であるのは承知の上でこの道に入った。婿探しという目的とはまた別に、わが身を顧みずに人の命を救おうとする隊士たちの志に感銘を受けたのである。決して生半可な気持ちではない。恥じることも何一つとしてない。甘露寺には己の職責に対する誇りがあり、その誇りごと、自分を受け入れてほしかった。

 

 男の人任せではだめ。少しでもいいと思える素敵な人がいたら、自分から一歩踏み出さなくてはならない。

 

 椿はそう助言してくれた。甘露寺は彼女の言葉に従って、鬼殺隊に入ってから出会ったたくさんの人たちの顔を順繰りに思い浮かべた。

 煉獄は甘露寺を正しい方向に導いてくれた高潔にして優れた師である。悲鳴嶼とは猫好き同士で気も話も合う。時透はぼうっとしているようで優しい子だ。冨岡とは話したことはないけれど、絶対に悪い人ではないのはわかる。みんないいと思える素敵な人たちばかりだ。

 伊黒。彼は他の人とはちょっと違う。何が違うんだろう?

 そこまで考えて、甘露寺は乙女の思考を鬼殺隊の柱のそれへと切り替えた。

 油断なく前を見据える。

 辺りは淡く夜靄が立ち込めている。気配がする。人の形をした影もある。でも、人の姿をしているけれど、気配が人じゃない。

 足を踏み込むより先に、靄の中から男の姿が現れた。

 甘露寺は言葉を失った。

 自分はこの男を知っている。知っていた。美男子であったような気がする。分からない。もうはっきりと思い出せない。甘露寺は彼と一緒に並んで歩いているとき、ずっと下を向いていたから。

『危うく騙されるところだったけれど、貴方との見合いが破談になってよかった。こんな髪の色の女と連れ立っているのを見られて、私まで気狂いと思われてはたまらないから』

 甘露寺は、反射的に愛刀を抜いて手首を捻った。

 日輪刀に絡め取られた影は水蒸気のように霧散して消えた。やはり実体ではない。物理的に人を害する能力はない幻影だ。精神的な動揺を誘うための血鬼術に違いない。

 そうだ、幻だ。そうとわかって心をかき乱されているようでは、柱失格だ。

「しっかりしないと!」

 甘露寺は両手でぱしんと音を立てて自分の頬を叩いた。

 腑抜けている場合ではない。これは鬼の攻撃だ。ということは、先行している伊黒も現在進行で攻撃を受けていると考えた方がよいだろう。

 甘露寺は鬼の気配を強く感じる方角に突き進んだ。

 伊黒と鬼はまもなく見つかった。スゲやアシが茂る沼地のすぐそばで両者が戦っているのをみて、甘露寺はとっさに――()()()()()()だわ!と思った。

 甘露寺が想起した妖怪に似て、鬼の頭部には目も鼻も口さえあるべきところに無かった。肌色は水死体じみていて男女の別さえ判別できない。それでも上半身はかろうじて人の形を保っていたが、下半身は完全に異形と化して、蛸を思わせる巨大な触手が伸びている。加勢しようと身を躍らせた甘露寺の隊服の裾を、先が鋭利なくちばしのようになった触手が切り裂く。くちばしがぱかりと開いたかと思えば、そこにそこにぎざぎざの歯がたくさん生えているのが見えた。これで獲物を仕留めて食うのだ。

「後ろから回り込めるか!」

「はい!」

 伊黒に指示されて攻撃を加えるが、触手に阻まれて本体に刃が届かない。触手それそのものを断ち切るのは容易いが、凄まじい速度で再生するし、数が多くて多少の攻撃で手数を減らしても意味がない。厄介だ。

 相対して理解した。幻影はこの鬼にとっては、獲物をおびき寄せるための小手先の撒き餌に過ぎず、相次いでこの地で隊士が殺されたのは単純に力で押し負けてしまったのであろう。

 伊黒が補佐するように動いてくれるおかげで、甘露寺は無縫の剣捌きを十全に発揮することができる。何度か切り込んでいく内に、触手は根本から切断されると再生が遅いことに気付いた。

 ここが活路だ。

 

 恋の呼吸・伍ノ型、揺らめく恋情・乱れ爪

 

 広範囲に放たれた斬撃が、触手の根本を抉るように切り取る。再生が遅れた隙に畳みかけるように次の型を放った甘露寺の剣が、ついに鬼の頸に届こうというその時、鬼の幻覚が、伊黒にまとわりつくようにぬるりと現れた。

 

 顔は見えない。黒い、長い髪の――あの姿は女性のものだろうか?

 

『この人殺し』

 

 甘露寺が聞き取れたのは、怨念の籠ったその一言だけであった。

 伊黒の剣が幻影を叩き切ったのと、甘露寺の刃が鬼の頸を落としたのはほとんど同時だった。そして、次の瞬間、鬼の身体は崩れ、幻も跡形もなく消え去った。

「甘露寺、今のは――」

「いいいい伊黒さん、だ、大丈夫!!?」

 甘露寺は鬼の身体が完全に崩れ去るのを待たずに、脱兎のごとく伊黒のもとに駆け寄った。

「大丈夫だが、その……甘露寺、きみの方こそ大丈夫か?足が震えているぞ」

「はっ……そうだわ、深呼吸、深呼吸……」

 甘露寺は大きく息を吸ったり吐いたりして動揺を鎮めようとした。

「今の女の人、しのぶちゃんが朗読してくれた本の挿絵で見た皿屋敷のお菊さんにそっくりだったの!しのぶちゃんって怪談話がすっごく上手でね、臨場感があって、今にも後ろから幽霊が出てきそうで、私その日は天井の染みも怖くて寝付けなかったなあ」

「そうか……それは災難だったな」

「あっ、でも頭の中でウサギを数えてたら寝れたよ!」

 あの女幽霊が伊黒にとってどういうものかはわからないが、絶対、嫌な怖い思いをしたに違いない。甘露寺だったら、あんなのが間近に現れたら恐怖のあまり絶叫せずにはいられなかっただろう。

「とにかく、ごめんなさい!私がもっと早く鬼の頸を切れていたらよかったわね」

「謝られるようなことじゃない。鬼にとどめを刺してくれたのは君だ」

 伊黒の声は落ち着いていた。

「俺一人ではこれほど早く仕留められなかった。ありがとう。無事で良かった。……それにしても、皿屋敷のお菊さんか……」

 ――あ、今、伊黒さん、笑った。

 甘露寺の胸がときめく。

 やっぱり、伊黒は他の人と違う。目が違う。声も違う。

 甘露寺は目元を真っ赤にして、もじもじとためらいがちに両手を組んだ。

「実は、伊黒さんに言いたいことがあって」

「俺に?」

 伊黒は少し戸惑った様子で甘露寺の方を向いて立っている。高鳴る胸の鼓動が止まない。

 勇気を出さなければ。自分から踏み出さなければいけないのだ。

 そうして、ようやく甘露寺は、椿から「素敵だと思う人がいたら、まずはこう言ってお近づきになりなさい」と教えられたことを口にした。

「お、お友達から始めませんか……?」

 

 

 

 

 

「そういうわけで、あの二人はお友達から始めることになったわ」

 夕食の席で、椿は任務から無事帰還した夫に留守の間に何があったかと問われて、置いて行かれた鬱憤を晴らすようにここ数日にあった出来事の始終を語り終えて満足そうにした。

「フーン」

 玄弥は見ず知らずの他人の色恋沙汰という、恐ろしく興味を持てない話題をどうにか耳に流し込んで、せめて義姉が満足するようにと相槌を打って夕食に出されたうどんを啜った。たまたま山から下りてきていたのを椿に捕まって、ついでに食べていきなさいと強引に相伴に預かったのである。

「私は『お友達になりましょう』と言ってみたら、と提案したのだけど……『お友達から始めましょう』じゃあ意味がちょっと違うんだけど……まあ、うまくいくならどちらでもいいわよね。文通から始めるそうなの。出だしとしては上出来よ」

「兄貴と椿さんもそんな感じ?」

「私たちは文通する必要はなかったわ。だって会いに来てくれたんだもの。私の帰り道に通るのを待ち伏せて、たまたま一緒になりました、って顔してる実弥さん、すっごく可愛かったんだから」

 玄弥は「へえーへえー」と言いながら兄の方を伺った。不死川は机の上に肘をつき、手を組んで下を向いたまま、微動だにせず沈黙している。話の途中からずっとこんな調子なのだ。

「ねえちょっと、どうして何にも言ってくれないの?褒めてくれると思ったのに」

「何を?」兄に代わって玄弥が答えた。

「だって、あの二人がくっついてしまえば何もかもが丸く収まるわけでしょ」

「まだうまくいってなくね?」

「お互いに脈があるんだから、あとはどうとでもなるわよ」

 玄弥は椿の言葉を説得力ゼロだと感じているのが見るからに明らかだったが、それ以上は突っ込むのをやめて、器の底の方に残っていた具の切れ端を摘まむことに専念した。

 不死川はなおも俯いたままだったが、椿が「もしかして夕食、お口に合わなかった?」と不安そうにしだしたので、とうとう「ちげえよ」と重たい口を開いた。

「……俺、は、匂いが変わったのには気付いてたぞ」

「そう」

「……」

「びくびくしないでよ。別に褒めてくれなかったからって、怒ったりしないわ」

「……」

「私、女の身だしなみの細々したことに口を挟んでくるような目端の利きすぎる男は好きじゃないの。あなたはそのままでいいのよ、堂々としていて」

 不死川はそれでようやく「許された」といった感じで力を抜いた。

「……あの女、昔っから悪意しか感じねェんだよ……もっと上等な着物を着せてやれだの下座に座らせるなだの他の女に目移りしたら殺すだの、俺のやることなすことにいちいちケチつけやがってよォ。……小姑か?」

「目移りしたの」

「してねえよ!」

「兄貴、落ち着けって」

「テメエは黙ってろ!!」

「なんで俺殴られんの!?」

 電灯が豊かな灯りを投げている居間が騒ぎ笑う声で満ちる。不死川邸の夕べはそのような調子で賑やかに過ぎていった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六章
28.芳心寂寞として寒枝に寄る


 この道をひたすらまっすぐに進んでいくと、鬱蒼とした竹藪が広がる場所に出る。竹藪を抜けた先の小径を行けば、最終選別の行われる藤襲山に辿り着く。

 悲鳴嶼のところに出入りする隠から漏れ聞いた話だ。

 玄弥は藤襲山に続く道に立った。すでに日はずいぶん傾いて、田圃の畦道が夕暮れに照らされている。こんな時間にこの道を通るのは自分くらいだろう――そう思って深く息を吸った時だった。

 

「待って、カナヲ!待ってったら!」

 

 ふいに後ろが騒々しくなったので振り向くと、ちょうど栗花落カナヲと神崎アオイが連れ立ってこちらに向かってやってくるのが見えた。

「玄弥さん?どうしてこんなところに」

「見りゃわかんだろ」

 玄弥が腰に引っ提げた借り物の日輪刀を見せるとアオイは黙り込んだ。

「アオイ。私、どうやって行けばいいかわかってるよ」

「うん、そうだけど……でも……途中まで送っていくわ。道に迷ったらいけないし」

 もちろんは口実で、アオイは、カナヲが心配でたまらず、彼女を気遣って、できるだけ一緒にいたいのだろう。もっともカナヲの様子は普段通り、たおやかで泰然自若そのものだ。肩に力が入ったまま抜けない玄弥とは対照的である。妬む気も失せる。

「本当に行くのね?」

「うん」カナヲは即答した。

 玄弥は「聞くか?ここまで来て今更」と呆れた。カナヲのことをそれほどよく知っているわけではないが、しかし、玄弥には彼女が選別に向かおうとする理由が、少しだけ分かる気がする。

 アオイは玄弥の物言いに鼻白んだ様子だったが、すぐに気を取り直してこう捲し立てた。

「いい?だめだと思ったら日の高いうちに山を下るのよ。強い鬼に遭遇したら、絶対に、深追いしちゃだめ。体力がなくなると冷静な判断ができなくなるから、休息は十分とること、それから……」

「おまえ、そういうとこほんとに胡蝶さんと似てるよな……」

 玄弥は関心と呆れるのが半々の調子で入った。再度茶々を入れられたアオイはもう不快な気持ちを隠そうともしなかったが、これから選別へと向かう玄弥への気遣いが勝って、やり返そうとはしなかった。

「……それに、できれば二人、一緒に行動した方がいい。生き残る確率は絶対に上がるから」

「やめろよそういうの。俺、ぜってー足手まといになるからそこまで迷惑かけらんねえよ」

「変な意地を張らないで」

 玄弥とアオイの言い合いに、カナヲはちょっともの言いたげにしたが、結局何も言わなかった。

「つーかお前、自分がビビったからって他人も同じだと思うなよ!俺はもう鬼とやりあったことあるんだからな!」

「またその作り話!?いい加減にして!ろくに訓練も受けてない素人が鬼を倒せるわけないでしょ!」

「嘘じゃねーーよ!」

 ついに言い合いをはじめた二人を横目に、カナヲはてくてくと先に進んだ。アオイは慌てて後を追いかけ、玄弥はそれに続いた。

「……死ぬかもしれないのよ。怖くないの」

 どうだろうか。アオイがかつて抱いたのは生命を脅かされることへの本能的な恐怖であろう。玄弥が恐れるのは鬼や死ぬことそのものではなくて、無為に死んでなんの役にも立てないことだ。恐れるものが違う。

「別に、なんてことねえよ」

 玄弥はそう言って拳を握った。そうしておかなければみっともなく震えだしかねなかった。

 最終選別に臨むことができるのは一度きり。二度はない。技量以上に覚悟と胆力を問う場である。この山に入るからには、七日を超えて鬼殺の隊士となるか、さもなくば死ぬか――選別に向かうとは、そういうことだ。

 

 

 

 

 東京から離れた地方の都市にも西洋文明の流入は著しく、往来には洗練された欧州様式の建造物が立ち並んでいる。路面電車がベルの音をたてて走行し、人と俥と荷馬車が目まぐるしく行き交う。それでも通りを一つ中に入ればそこにはまだ明治より前の古めかしい街並みが残っていて、椿たちが逗留したのも、そうした古い宿の一つであった。

 本拠を離れて二か月以上が経過していた。

 遠地の任務はしばしば長引いたが、今回も例に漏れず、こちらが終われば次はあちらと矢継ぎ早に任務が飛び込んでくる。

 その任務の合間に、椿が遠方と連絡をとるため宿の電話機の前に座り込んでから、かれこれ二十分が経とうとしていた。向かいの壁には、実弥が目を閉じて腕組みをした態勢でもたれている。

「そろそろ諦めろ」

 椿は実弥のわずかに苛立ちが混じった声を無視して受話器を握り締めた。受話器からは、交換手の不手際のためか、電話局の設備不調のためかはわからぬが、プツ、プツと雑音が切れ切れと聞こえてくるだけで、一向に先方に繋がる気配がない。

 とうとう椿が実弥の言葉に従い、一度かけ直そうかと思い始めた矢先、受話器の向こうから機械音以外の人の声が聞こえた。椿はいささか食い気味に「玄弥くん?」と呼びかけた。実弥の瞼が動いた。

「良かった、怪我はない?」

 椿は逐一、電話に向かってうんうんと頷きながら、雑音混じりの義弟の声を聞いた。

「もちろんよ、ええ……そう、そう……玄弥くんもこれから頑張ってね。おめでとう。……あなた」

 実弥は差し出された受話器を一瞥だけすると、一言も発さずに踵を返して階段を上っていった。

「……玄弥くん、彼、なんにも喋る気がないみたい……怒ってるのかって?そうねえ……」

 そうしていると電話の向こうでわたわたと慌てる声がした。電話の主が交代した。

「あら、岩柱さま?……どうぞ玄弥くんへのお叱りはほどほどに……え?もう説教は終わった?あらまあそれは……。こちらはなんとでもなりますので、お気になさらずに……ええ、では。失礼します」

 受話器を置いた椿に向かって、宿の女将が心配そうに勘定台の向こうから首を伸ばした。

「ご主人、随分と物々しいご様子でございますねえ」

「なんと言うこともありません。それに、お布団は下げたままで構いませんよ」

 椿が今日中に宿を引き上げると話をすると、女将はたいそう残念がってくれた。

「もう少しゆっくりなさっていけば良いのに!でもそうですわねえ、この辺りも近頃なにかと物騒で……聞きました?昨日の真夜中、中通りに日本刀を振り回す大男が出たんですって!幸い怪我人はいなかったようですけど……人の行き交いがばかに増えたせいでおかしな人も多くなって、ああ、昔は良かったわねえ……」

 椿は完璧なよそ向きの笑顔を繕って「まあ恐ろしいこと」と話を合わせ、女将からこの街がもとは城下町であったこと、お殿様が住んでいた頃の興味深い昔話などを聞いてから二階に上がった。

 不死川は、窓っぷちの少し高くなったところに片膝を曲げて腰掛け、外の光景を見下ろしていた。

 椿は部屋の隅の方の離れたところに座り、実弥の立てた膝あたりにぼんやりと眼をやっていた。実弥の膝の上では猫が丸くなってごろごろしている。この宿で鼠取りと愛玩を兼ねて飼われている猫だ。椿にはいっこうに打ち解けなかったが、実弥にはよく懐いた。滞在の間、魚の切り身だのなんだので餌付けした成果と思われる。

「私、二月前に玄弥くんに会った時に、次の選別には悲鳴嶼さんに反対されても必ず行くと聞かされて――もうこの子と生きて会うのは最後かもしれないって、そう思ったの。でも止めなかった。私の予備の刀を持たせて、頑張ってね、って、そう言って見送ったわ」

 彼の実力はどう見ても最終選別を生き残れる水準に達しておらず、よって止めずにいるのはほとんど見殺しにしたに等しい。だからそのことで罵られたり怒られたり、ことによると殴られたりするのも、ある程度甘んじて受け入れるつもりだった。

 しかし、実弥は「そうか」と返事をするだけで、一向に椿を責め立てる気配がない。

「怒らないの?」

「なんでお前を怒らなきゃならねえ。あいつは底なしの馬鹿だが、それでお前を責める道理がねえだろうよ」

 不死川の考えでは、どれほど努力を重ねたところで、弟が呼吸を使えるようになる見込みはゼロだった。放っておけばそのうち諦めるだろうという見通しは楽観的だったが、呼吸の使えない者が最終選別で生き残るのは現実的ではなく、従って弟が鬼殺隊に入ることも到底考えられなかった。

 そういう意味で、不死川は弟を完全に見誤っていた。侮っていたと言い換えても良い。

「玄弥くんのこと怒らないであげて」

「……」

「……お館様にお願いして、あなたの担当区域に近い場所の任務に配置してもらいましょうか?」

「やめろ」

 椿はため息をついた。自分が言うのもなんだが、頑固だ。

 彼も理性では弟の決断を妨げることはできないとわかっているのだ――感情は別にしても。

 実弥はちょっと足を揺らして、猫を膝の上から下した。猫はその意図を心得て、窓から下屋を通って外に出て行った。

「こっちこい」

「お膝に抱えておくなら猫の方が良かったと思うわよ。暖かいし柔らかいし」

「お前な、自分が懐かれなかったからって根に持つなよ」

 そう言って苦笑しながら「ほら」と手招きするので、椿は実弥のもとににじり寄り、畳の上にぺたんと座り込んで頭だけ夫の膝の上に乗せた。視線を合わせるのが怖くて、ずっと明後日の方を向いていた。実弥も無理矢理顔を突き合わせようとはしないで、優しい手つきで頭を撫でてくれた。

 

「……あいつは大馬鹿野郎だ、お前にそんな顔をさせやがって」

 

 ことさら哀れそうに、大きな手のひらで椿の頬を包む仕草に胸が詰まった。こんな時に、あんまり優しくしないで欲しいと思った。

 玄弥は最終選別で死ぬかもしれなかった。そして、間もなく迎える、最初の任務で死ぬかもしれない。しかし、そこに行きたいと思って到達して死ぬ人生は、なにも成し遂げずに無為に長らえる人生に勝る。だから、たとえ死ぬかもしれないとわかっていても、そこに向かって送り出してやるのが、先達のできる最大の優しさである。椿は自分がそうだったから、玄弥にもそうしたのだった。

 二人はそうして束の間の休息を過ごしていたが、窓から鴉が飛び込んでくると慌ただしく身支度を整えた。

 私事にばかりかまけて落ち込んでいる暇はなかった。

 宿を引き払い、路地を抜けるすれ違いざまに、子連れの若い母親と巡査にすれちがった。巡査は昨晩、不審な男が通りに出没したので、あまり遅くならないように、人の多い場所を通って家に帰りなさいと親子に注意しているところだった。二人はその横を堂々と歩いて大通りに抜けた。

 二人とも表面にはおくびにも出さなかったが、職務に忠実な警官の手を煩わせているのは若干、気が咎めた。可能な限り人目を避けて行動したつもりだが、鬼はそんな配慮はしてくれない。

 

 足早に街を離れると、都会の喧騒とは打って変わって、のんびりとした素朴な田圃の風景が広がっていた。

 手籠を携えた若い婦女子が流行りの歌を口ずさみながら砂道を歩いている。野菜を売った帰りであろう老人が空の荷車を引いてる。

 先行していた隊士たちとの集合場所に到着すると、すでに全員が集まっていた。三人いる。面子は悪くない。だが不死川は顔を合わすなり早速叱責を飛ばした。

「テメエらが雁首揃えて収穫なしたァ情けねえ」

「すまん」

「耳が痛い」

 三人のうち二人が代わる代わるにそういった。二人はそれぞれ相川と小谷といい、年齢も職歴も不死川より上で、相手が柱だろうが臆するような者たちではないから、自分よりも早く昇進して上司になった後輩に対する独特の気安さがある。相川は三十歳まで鬼狩りを務めあげることができたら引退して、故郷に帰って余生を悠々自適で暮らすと言っている。小谷は隠の女と結婚して子供が三人いる。こちらは子供に多くのものを残してやりたいので、身体が動かなくなるまでは働き続けるつもりらしい。

 不死川は二人に対してはそれで溜飲を下げて、その場にもう一人いた知らぬ顔を見据えた。

「名前はなんだァ」

「か、垣見です」

「階級は」

「みっ、壬です」

 垣見はつっかえながら答えた。

「引き続き手分けして行動しろ。先に鬼を見つけたら鴉を飛ばせ、俺が着くまで持ち堪えられなかったら承知しねェぞ――垣見、テメエは俺とこい」

 垣見は死刑宣告を食らったような顔をした。

「足手まといになるようなら殺す。ついてこれなくても殺す」

「はひっ」

 椿は恐怖に震える垣見に優しい声音で語りかけた。

「怖がらなくて大丈夫ですよ。柱と一緒ならこの任務で死ぬことはありません」

「そうそう、運いいぜお前!」

 一体全体そういう問題なんだろうか?と垣見は困惑したが、とりあえずはそれで納得した。

「では、私はこれでお暇します」

「えっ」垣見は驚いて声を上げた。小谷は「なぜだ?」と訝しげにした。

「私だけ先に東京に戻れと指示がありました。みなさん、ご武運を」

 垣見は目線だけで必死に「行かないでください」と訴えかけていたが、上からの指示では仕方がない。

 椿と実弥は先に別れを済ませていたから、実弥は椿の言葉を聞き終えるなりさっさと行ってしまった。そしてあっという間に姿が見えなくなり、垣見は全力で後を追った。

「マジで帰るのかよ。あの旦那をなんとかしてから帰れよ。こえーよ、目がよ」

「心にもないことをおっしゃらないでください。怖くなんかないでしょう」

「俺たちは構わないが下っ端は違うぞ。萎縮させてどうする」

 相川と小谷は口々に好き勝手を述べた。悲鳴嶼などの上位者を除いて唯一不死川を御しおおせることのできる人間が、その任を放棄するのは不誠実だと考えているらしい。

「あの人はこの程度で萎縮してるようでは、実戦で使い物にならないと考えています」

 もっとも不死川の不機嫌は私的な事柄に起因するのだが、そのことは伏せた。

「そりゃそうだけどよ。まあ、俺らもちょっと油断してたな。あいつお前と一緒になってから結構穏やかになってたからな」

 相川は首を振って、「しかしお前一人で呼び戻されるとは、どこもよっぽど手が足りていないんだなあ」と言った。

「さあ、内容については私もよく知らされていなくて、とにかく戻ってこいとしか……どんな仕事でも、最大限力を尽くすことに変わりはありませんけれど」

 

 

 

 

 炭治郎が藤襲山から帰ってきて、早くも十日が経過した。

 師は間も無く刀鍛冶が日輪刀を持ってやってくるだろうと言っている。そうしたら、すぐに鴉が最初の任務の指示を下してくれるはずだ。それまでの間、炭治郎は妹の世話をしたり家事を手伝ったりする以外の時間をすべて鍛錬に充てている。いつでも戦いに行けるように。

 山を駆け回り素振りをした帰りの道で、湿った土手にフキの花がたくさん咲いているのを見つけて嬉しくなった。そして妹が、かつて兄の好きな山菜を摘んで持ち帰ってきてくれた妹が、山菜はおろかおよそ人の食べる物を一切受け付けなくなってしまったことを思い出して悲しくなった。

 

 

 ――お兄ちゃん。今日はお兄ちゃんの好きなタラの芽、たくさん採れたよ。それに、つくしも、ぜんまいも、わらびも、うるいも……

 

 

 人間だったころの妹の言葉が、耳の中で悲しく木霊する。手際よく山菜を摘む妹の姿を、いまも瞼の裏に鮮やかに思い描ける。

 嬉しくても悲しくても暦は巡り、春がやってくる。家族が静かに眠る生家の墓所に積もった雪は溶けているだろうか。春の息吹は故郷の山に豊かな実りを齎してくれているだろうか。

 炭治郎は小屋に戻る前に、お地蔵に供えた花束の水を取り換えた。自分が最終選別に向かう少し前、いっぱいに束ねた早春の野の花を鴉が運んできたのだ。

「去年も同じように花が届いていましたね」

「毎年だ。この時期になると、参る暇がとれなくて申し訳ないと供えの花を届けてくれる」

 鱗滝の弟子たちは、誰も骨の一欠片も帰ってこなかったが、真菰だけは選別で一緒になった少女が亡骸を持ち帰ってきてくれたのだという。

 故人の人柄を思いやったような春の訪れを感じさせる花束を見て、炭治郎は、毎年欠かさず死んだ友人の墓所にこのような花を届ける人とはどんな人であるかを考えた。今も隊士を続けて鬼と戦っているその人の気持ちを思うと、枯らしてしまうのがしのびなく、手間でもこまめに水を替えていればまだ向こう数日は見苦しくなくて済むだろうと、誰に言われるまでもなくそうしている。

 

 そうこうしている内に日は落ちてしまった。急いで小屋に戻ると、戸口の前に人が立っているのが見えた。

 炭治郎の知る人ではない。ここを訪ねてくるのは行商とか猟師くらいのものだが、そこにいるのはそのいずれでもない。まったく別の、知らない匂い。刀鍛冶――でもなさそうだ。

 炭治郎が声をかけるより先に、その人はこちらに気付いて振り向いた。

「こんばんは、ぼうや」

 意匠がやや異なるが冨岡と同じ黒い隊服を纏い、腰に刀を差して、穏やかに笑っている。綺麗な女性だった。束ね合わせたたくさんの花を嗅いだ時のような、とても良い匂いがする。

 立ち上る甘い香りに惑わされ、炭治郎は一時、目の前の女性の感情の機微を拾い損ねた。

「鱗滝さまはご在宅?」

 鱗滝も外の人の気配に気付いて戸口から顔を出した。

「椿、なぜここに」

 女性はご無沙汰をしておりますと頭を下げた。

「お弟子様が最終選別に突破したと伺いました。育手として嬉しく誇らしいことでしょう、おめでとうございます。それで――その中にいるのは、一体()です?」

 炭治郎はようやく彼女から不穏な匂いを感じ取った。しかし、身体が反応しない。鱗滝ただ一人が、目の前の女性の殺意に反応し、上段に抜かれた剣を辛うじて受け止めた。

「待て!椿、これには事情が」

「師弟揃って鬼を庇いだてするとは、信じがたい耄碌ぶり。いえ、もう何も聞きますまい」

 鬼を殺すための日輪刀同士が、火花でも立ちそうなほどの強さで鍔迫り合う。

「一体誰から何を聞いた!」

「人を喰わぬ鬼がいる――まさかそのような妄言を信じるとでも?」

 攻撃を食い止めようとする側の鱗滝が押し込まれ、体勢が崩れる。

「炭治郎、禰豆子を連れて逃げろ!」

「でも!」

「お前では歯が立たん!」

 次の瞬間、女の放った足蹴りが鱗滝の腹部を直撃した。

 いかに元柱と言っても、現役で、しかも柱に次ぐ実力を持った上位の隊士とでは身体の動きに雲泥の差がある。鱗滝は濁った呻き声を上げて地面に倒れ伏し、そのまま動かなくなった。

「鱗滝さん!」

 炭治郎は反射的に、鱗滝の手から弾き飛ばされた刀を手に取った。

 その時、外が騒々しいのを怪訝に思ったのか、布団に包まっていたはずの禰豆子が小屋の戸口から姿を現した。

「来るな、禰豆子!!」

 女が禰豆子に向かって踏み込んだのを見て、炭治郎は咄嗟に妹に向かって思い切り体当たりすることで攻撃から守った――受け身は禰豆子が取ってくれた。

「それを渡しなさい」

 女は地面に転がった炭治郎と禰豆子に向かって、一度刀を鞘に収めて片手を差し出した。

「……()()なんて言わないでください。禰豆子はものじゃない。俺の妹です」

「ものではないけれど、人でもないわ。私は鬼殺隊の隊士。私は私の務めを果たすために、その鬼の頸を切ります」

 自然体から立ち上る殺気に背筋に震えが走る。匂いでわかる。この人を正攻法で打ち破ることは、少なくとも今の炭治郎にはできない。かつて無謀にも冨岡相手に斧一本で立ち向かった炭治郎は、二年の修練の成果として、自分と強者の実力差をある程度正確に測れるようになっていた。

 迷っている暇はなかった。炭治郎は禰豆子の腕を引いて立ち上がり、脇目も降らずに山の頂上に向かって走り出した。

 山の中なら、地形や遮蔽物を利用して撒けるかもしれない。炭治郎が彼女に唯一優っているものがあるとすれば、それは地の利だけだ。鱗滝のことだけが気がかりで申し訳なかった。

 彼女から逃げおおせることができなければ――いや、そんなことは考えるな。禰豆子は殺させない。そして自分も死ぬわけにはいかない。自分が死ねば禰豆子を守れるものはいなくなってしまう。

 妹は死なせない。絶対に。そのために炭治郎は鬼殺隊に入ったのだから。

 

 

 

 椿はその場に立ち留まり、走り去っていく少年と鬼の後ろ姿を眺めていた。

 背中を向けた二人の背中に刃を突き立てることは容易だった。いままでに何度も鬼になった身内を庇う人間を見てきたし、そのたびにすべきことをしてきたはずだった。手心を加える理由にはならない。

 なぜだろうと自分の心の動きを探ると、己が常よりもずいぶん感傷的になっていることに気付いた――真菰の眠る地を、血で汚さねばならないのは残念だ。

 椿は一抹の感慨とともに、彼らを追って、かつての友の眠る山の頂きに向かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29.春を掩う残香

 木立をかき分け急な斜面を踏みしめながら、炭治郎と禰豆子は走った。

 汗と霧で着衣が湿って肌に張り付くのが不快だった。夜で暗いのと、あまりに霧が深いのと、そもそも後ろを振り向く余裕などなかったので、姿はわからなかったが、気配で距離を離せず追われているのがわかった。

「禰豆子! もう少し早く走れるか? 禰豆子……禰豆子?」

 突然、手を引いて走っていた妹の足が鈍くなった。逃げるだけで必死になっていた炭治郎は、そこで初めて妹の顔を覗きこみ、瞼が落ち切っていることに気付いた。

 禰豆子はそれでも、なんとか進もうとして一歩を踏み込んだが、とうとう前に倒れて眠り込んでしまった。炭治郎は意識を失った妹の体を抱き止めて、これ以上逃げることはできないと悟った。こんなときに、とは思わなかった。禰豆子は人の血肉の代わりに眠ることで体力を回復していて、だからいつもどこか眠たげだし、何かということもないのにぱたりと寝込んでしまう。だから、これは仕方のないことだ。

 禰豆子がどんな状態であっても関係がない。自分が守り通さなければいけない。

 霧の中から女の姿が現れた。

 優雅な足取りで岩根を跨いだ女の姿に、炭治郎は臨戦態勢を取るべきなのか判断を迷った。彼女は刀に手をかけていない。無防備な女性に向かってためらいなしに刃を向けるのは炭治郎の良心に反した。

「何をぼうっとしているの? 剣を構えなさい」

 そう叱咤され、炭治郎は妹を木の根元に寝かせて向き直った。

「あなたは椿さんですよね。真菰の友達だった……」

「それが何? 気安く真菰の名前を呼ばないで。面識なんてないでしょう」

 炭治郎は素直に口を閉じた。取り付く島もなかった。彼女の魂に教えを受けたのだと口にしたら、この人の耳にはいかにも愚かしげに聞こえるだろう。

「鬼殺隊は鬼を滅するが使命の組織。こうなると予想できなかったわけでもないでしょう」

 炭治郎は歯を噛みしめた。ことここに至ると、自分の考えが甘かったと認めざるをえなかった。藤の山で見たあれらを鬼本来の姿とするなら、確かに、彼女が禰豆子を殺そうとするのは無分別な行為とは言えないだろう。

 炭治郎は、人を喰わない鬼がいるのを知っている。それは他ならぬ自分の妹である。しかしこの人は、人を喰う鬼しか知らないのだ。

 炭治郎は、どうにかしてこの女性を説き伏せられないかと口を開いた。

「妹は鬼になってから一度も、人を喰ったことはありません」

「証拠は? 君が夜な夜な近くの村から人を攫ってきて人肉を喰わせていないという保証がどこに? どうやって妹が無害であることを証明できる?」

 炭治郎の訴えに、椿は反論のいとまを与えない鋭さで返した。

「君が鬼殺の剣士ならやるべきことはただ一つ――その鬼の頸を切り落としなさい。藤の花の山で、君はもう鬼を殺したはずよ。同じことでしょう?」

 背筋に冷たいものが走った。

 この人は本気だ。それが正しいと信じきっているから、悪意がない。兄に妹を殺させることに、一切、ためらいがない。

 冷たさの後に、身体の内に燃えるような熱さを感じた。

「……もし、禰豆子が人を殺めたというなら話は別です。でも、妹にはなんの罪もありません」

 炭治郎はついに躊躇うことをやめた。彼女は禰豆子を疑っている。それは当然である。しかし、貧しい人は他人からものを盗むかもしれない、だから先に腕を切り落としておく、そんな道理はない。

「俺は妹を守ります。必ず、人間に戻してみせます。だから退くことはできません」

 そう言って、炭治郎は藤襲山で使ったのと同じ師の剣を構えた。

「禰豆子が人を襲おうとしたら、俺が止めます。決して、人を殺めさせたりしません」

 椿は特段、炭治郎の揺るぎない決意に心を動かされた様子もなく、その眼差しは冷ややかなままだった。

「なら証明してみせなさい。君の言葉が信用するに足りるかどうか――」

 椿が言い終わるが早く、炭治郎の顔面に拳が飛んだ。反応する間もなかった。殴られた顔面は痛いというよりも熱く、すぐに鼻腔が鉄の匂いでいっぱいになったので、これは間違いなく鼻の骨が折れたと思った。

「刀は使わないわ。鬼を滅するための刀を人の血で汚すのは嫌だもの」

 炭治郎は椿がそう言っている間に、なんとか刀を構えなおした。

 隙の糸が見えない。ただ立っているだけなのに、切り込んでいける隙が見当たらない。

 再度横殴りに吹き飛ばされ、岩に真正面から頭を打ち付ける。割れた額が血に染まる。

 続け様に腹部にしたたかに膝蹴りを食らって胃のなかのものを吐き出しながら、炭治郎は必死で思考を巡らした。

 隙がないなら作れば良い。彼女ははるかに格下の炭治郎相手に刀を抜かない。今の攻撃も、最初のにくらべて少しだけ遅いし、威力も低い。炭治郎の実力を見切って、この程度で十分だと侮っているからだ。そこにつけ入る余地がある。

 大きく息を吸って吐く。

 臆するな。命をかける覚悟で踏み込まねば勝機はない。

 手刀が頭をかすめた。浅い。

「!」

 初めて椿の顔に驚きが浮かんだ。攻撃を掻い潜って間合いに潜り込んだ炭治郎は、肩をしならせて刃を振りぬいた。殺さない。峰打ちで気絶させるだけだ。

 血潮が溢れて大地に落ちる。視界が暗転した。

 

 

 

 

 時を遡ること半日前。

 寒空に雁が渡る昼下がりの産屋敷邸の座敷に、椿は端然と座していた。上座には、鬼殺隊の領袖が居住いを正している。

 人を喰わぬ鬼の娘がいる。鬼の娘とその兄の監視および報告、それが呼び戻された椿に下された任務だった。

 絶句したまま身じろぎもしない椿に、産屋敷は病に鎖された眼を向けて穏やかな口調で語りかけた。

「君には先に知っておいてほしかった。皆すぐには受け入れられないだろうから」

「私も受け入れてはおりません」

 何か悪い冗談を言われたようだというのが、竈門兄妹の身の上に起こった話を、一から十まで聞かされたあとの率直な感想で、冨岡の判断も、それを諾々と受け入れた鱗滝も、報告を受け取っておきながら二年間も放置した産屋敷も産屋敷で、とにかく関わった人間全員、頭がどうにかしているとしか思えなかった。

「鬼を引き入れるなど前代未聞、隊の規律をいかにお考えか。士気にも関わります。ご再考をお願いします」

 椿は全身で不服を訴えた。鬼を連れた鬼殺の剣士など認められるはずがない。

 だが産屋敷の微笑みに影が差す兆しはない。椿の反発など予想の範疇内なのだろう。

「そもそもその兄とやらが信用できませんね。身内は鬼を庇おうとするものです」

「義勇と左近次の判断を信頼できないかい」

 産屋敷の指摘は、勢いづきかけた椿を制するには十分だった。相手は現水柱と元水柱、つまり、椿にとっては序列的にも実質的にも、他のどの柱よりも尊重すべき存在だ。彼らの判断に異議を申し立てるなら当然、それなりの根拠がなくてはならない。しかし――根拠など必要だろうか。これは単なる意見の相違とはわけがちがうのだ。

「彼らの保証があっても不足と言うものがいるだろう。私自身、裏付けがほしい。だから、真実、炭治郎と禰豆子が信頼に足るかどうか、私の目となって確かめてきてくれ。そしてできるなら、導いてあげてほしい。君が今まで下の子たちにそうしてきたように」

「私のような若輩にはとても……務まりますかどうか」

「謙遜が過ぎるよ。君が公正に物事を見定めてくれると期待しているんだよ」

 歯の浮くようなお世辞とは思わなかった。産屋敷の言葉は確かに深い信頼を伝えてくれてはいる。しかし、椿にはいまいち響かなかった。椿にとって、目の前の人は、十分敬意を寄せるに値したけれども、もはや以前ほど盲目的な崇拝を寄せる気にはならなかったのだ。かつて掴みかけた上弦の鬼の足跡を捉え損ねて仕留められなかったことへの失望はそれほど深かった。

「その鬼のために犠牲を払う事態となったら、どう責任を取られますか。冨岡さまと鱗滝さまの命では収まりが利きませんよ。彼らの行状を認め、許したあなた様の責任はいかに問われます」

 産屋敷は部下にこのように責められても気を悪そうにするでもなく、むしろ嬉しそうだった。

「その時は君の思うように処断してくれて構わない。禰豆子のことも――私のことも」

 言外に、己が道を誤れば誅しても差し支えないと唆されては、いよいよ黙さざるをえなかった。

 この人は本気である。

 産屋敷はあまり体調が良くないのだろう、普段さえ良いとは言えない顔色がさらに悪い。脇息の使用を勧めたが、首を横に振られてしまった。

「……危険を冒してまで鬼を引き入れようとすることの目的を教えてください」

「すべての鬼は、潜在的に鬼舞辻の支配から逃れ、脅威となりえる能力を備えていると考えている」

 椿は色々と言いたいことを飲み込んで続きを促した。

「だから、鬼を完全に支配下に置きながらもなお反逆を恐れている。彼らが集団で行動しないことがその裏付けだ。支配から逃れ、理性を保ち、人のために戦える鬼を引き入れることができれば、我々にとって大きな戦力になる」

 産屋敷の言うことは、たしかに、とても正気とは思えなくても、それなりに理屈が通っている。

「鬼が人の血肉を欲するのは――」

 産屋敷が濁った咳をした。椿が声を張って人を呼ぶと、隣の間に控えていたあまねが老医師を伴って入室してきた。その間にも、産屋敷は切れ切れに椿に向かって喋りかけた。

「細胞の欠陥を……他者の遺伝子情報を体内に取り込むことで……絶えず……補完しようとしている……」

「それ以上はお控えなされ。お命を縮めますぞ」

 あまねが崩れそうになった夫の身体を支えた。老医師は手厳しい調子で注射を打ちながら、先先代が亡くなる半年前もこのような容体であったと忌憚なく述べた。

「すべては鬼舞辻を倒すためだ。……頼むよ、椿」

 この人の命数は尽きつつある。

 産屋敷は自分の寿命を聞かされても毫も動揺した素振りも見せない。いや、そもそもこの人が泣いて悲しんだり、怒ったりしているところなど、誰も見たことがない。

 産屋敷を見ていると、自分の血筋に対して責任を負う、負わざるを得ない生き方とはこうも過酷かと思わされる。

 自分たちは由緒のある家柄の出自という点で共通していたが、椿が自分の血筋になんの責任も持たなかったのに対し、産屋敷は生まれながらに短命と鬼殺隊当主としての生き方を義務付けられている。古来から続く家柄など、遡ればみな遠い親戚である。自分たちは系図を紐解けば、必ずどこかで血筋が繋がるはずだった。もっとも、束の間の殷盛を享受したに過ぎぬ武家の出の己と、もとは朝廷の位の高い貴種であったという産屋敷一族を同列に並べるのはいささか烏滸がましい話であったが。

 そんな人に、これ以上益体もない手前勝手な不服を申し立てて何になろう。

 確かに、尋常に依らざる方法をもってせねば現状を打破できまい。こうしている間にも、刻一刻と人は死に、隊士らは血を流し命を散らしているのだ。

「……御意」

 椿は頭を垂れて拝命の意思を示した。退室すべく腰を上げると、産屋敷が妻に支えられながら「最後に一つ」と声をかけた。

「頼んでいた、あの件はどうなっている?」

 後ろを向いたままの椿の肩がかすかに震えた。

「――依然、確かな情報は得られず、存在も確認できません。上弦の弐の行方は知れぬままです」

 産屋敷は、あまり落胆した様子もなく、そうかとだけ返事をした。それでこの話は終わりだった。椿も、言うべきことは他に持たなかった。

 

 

 

 

 本来、彼らの身柄に責任を負うべき冨岡は多忙を極めている。他の柱や上位の隊士も同じだ。その辺の隊士や隠においそれ任せられる事案でもなし、この件に誰か一人、人員を割かねばならぬとしたら、自分が適任であろうという産屋敷の意図は理解する。しかし――理解はしても、納得するのとは別の話だ。椿は医者から、肺に負った怪我の後遺症で、剣士としてそう長くやれないだろうと宣告されている身である。剣を振れるうちはできるだけそうしたかった。前に出て戦いたいのだ。後進の指導なんて腰を据えてやるには早すぎる。それなのにこんなのはひどい。あんまりだ。嫌がらせ人事だ。どうしてこんなことに。助けて真菰。

 そうして考え抜いたすえ、椿は一つの結論に達した。

 

 ようは、ここで鬼を始末さえしてしまえれば、それですべて済むのだ。

 

 産屋敷の目である鎹鴉を追い払って戻ってこない内に、なんとかしてことを済まそう。鬼を殺したら、この一件は自分の胸の内に収めておく。冨岡も鱗滝は責任を取らずに済むし、産屋敷の求心力も翳らない。

 椿は産屋敷と違って、はなから人を食わずに理性を保つ鬼、まして人に与する鬼の実在などありえないと考えているので、軽くつついて追い詰めればすぐに本性を現すだろうと高をくくった。そう、どんな理由があっても、人を喰う鬼を処断してなんの後めたいことがあるのか。

 残念だが、産屋敷には信頼する人間を間違えた。そう思って、諦めていただくことにしよう。

 そう心に決めて狭霧山に向かった椿に、誤算があったとするなら、実際に相対した竈門炭治郎が事実として、心映えの優れた見事な少年であったことだ。

 まっすぐな赤みがかった瞳に見つめられながら、椿はこの子の言うことにこれ以上、耳を貸してはいけないと思った。ほんの少しのやり取りで、椿はもう彼のことが好きになり始めていた。

 何度か叩きのめした末の少年の渾身の一閃は、想定を超えた正確な太刀筋で椿を驚かせはしたが、それだけだった。手のひらで刀を受けて押しとめ、そのまま顎を下から上に蹴り上げた。少年の身体が宙に舞い、ゆうに数メートルも吹き飛んで沈黙した。気を失ったようだ。

 椿は刀を受けた手を何度か握ったり開いたりした。傷はごく浅く、出血は間も無く止まるだろうが、不覚は不覚だ。見たところやや決断力に欠けるきらいがあると思っていたので、こう真っ直ぐ大胆にこられるのは想定していなかった。少し見くびり過ぎていたなと、椿は少年への評価を改めた。

 地面に倒れた少年を一瞥してからついと目を見やると、木の根元に寝かされていた少女が目を開いていた。

 暗闇に、鬼の眼光が輝いている。

「心配せずとも、お前の兄にこれ以上手出しはしない」

 こちらに来いと言うまでもなく、少女は気を失った兄に駆け寄って覆い被さった。椿を見る目つきに「一体何をするのか」と非難がましげな色が滲んでいる。

 少年の真っ直ぐな瞳は椿に、これまでの人生の歩みで出会ってきた、素晴らしい、善良な人々のことを思い出させずにはいられなかった。認めよう。この少年を信頼した冨岡と鱗滝の眼に曇りはない。

 だが鬼は別だ。

「立ちなさい」

 椿は少女を強引に立たせると、口枷をほどき、顎を掴んでぐいと上を向かせた。少女は反抗する素振りを見せない。手のひらに薄く溜まった血にも反応しない。酩酊とは少し違う、眠たげな眼で茫としているだけだ。

 椿は下顎を砕くつもりで手に力を入れた。みしっと音を立てて骨が軋んだ。

「あ、あ、う」

 娘がもの言いたげに声を発した。

 鋭利な牙が覗く口から、涎がたらたらと溢れている。嫌悪感で怖気が立った。

「お、お、にい、おに、ちゃ……」

「……」

 間違いなくこの少女は鬼だ。しかし、彼女はまだ誰も殺していない。彼女の魂は今だ殺戮の罪に汚されていない。清らかな少女のままである。

「安心しなさい。私が殺すのは鬼だけ。……お前の兄は殺さない」

 なるほど冨岡の証言は事実であろう、鱗滝の報告も然りであろう、しかし、そんなことは理由にならない。鬼は殺されなければならない。

 しかし、しかし……

 殺さずにおけという命令と、相反する義務感が混然となって椿の中で衝突を繰り返した。

 このままこの娘を殺すことは短絡的な行いであろうか? それとも生かすことこそが情に血迷った過ちか? 

 鬼とは他者への労りや慈悲からもっとも遠い生き物だ。かつて誰かを愛し愛されたはずの人間が、不可逆に変質した成れの果ての存在でしかない。であれば今の少女の挙動がなんであるのか。椿には判断がつかなかった。

 身近な者が鬼になったら、人を殺める前に頸を落として殺す。鬼殺隊の者であれば必ずそうする。そういう覚悟ができない人間は、そもそも鬼殺隊に入るべきではない。この少女の兄に、果たして決断できるだろうか。

 いや、これ以上の酷を求めるべきではない。やはりこの娘は、自分がここで殺してやらなくてはならない。今死ねば、彼女は憐れな被害者で終われる。地獄の炎に焼かれずに済む。

 でも、自分は、鬼を人へ戻す可能性など考えたこともなかった……

『もう十分でしょう』

 その時、夜空を裂いて飛んできた鴉が、肩に止まって耳元で囁いた。

『人である兄を身を挺して庇おうとしている。貴女の血にあてられて攻撃してこようとしない。彼女の潔白は証明された』

「これから人を殺す可能性は皆無ではない」

『お館様のご命令は――』

「もういい」

 椿は鎹鴉の言葉を遮り、疲れたように首を振った。少女を掴んでいた手を解く。殺気が霧散して消えていく。

「起きなさい、竈門炭治郎」

 割合早いうちからこの少年が意識を取り戻していたのには気付いていた。こちらが妹を殺そうとする素振りを見せたら、その瞬間に切りかかれるように気絶したふりを装って機会を窺っていたのだろう。とても敵いそうにない敵が、他の獲物に集中した瞬間を狙うのは合理的な所作だ。

 いいな。叩けば叩くほど伸びそうだ。椿は良い鉄を前にした刀鍛冶のような感想を持った。

 少年はおそるおそる瞼を開けた。

「改めて挨拶をしましょう。私は椿。お館様の命で君たちの目付役として派遣された」

「お館様?」

「鬼殺隊のご当主よ。いずれお目にかかることになるわ」

 椿が割れた額を手当てしようとして繃帯を取り出して近づくと、少年は身構えて手元に刀を引き寄せた。無理もないというか、当然の防衛行動だ。

「君の実力を試すために手荒な真似をしたことをは認めるけれど、過度に警戒されると今後の任務に差し支えるからほどほどにして」

「いや、でも……さっきまで、()()とかじゃなくて、本気で……俺たちのこと殺すつもり……でしたよね?」

「何を本気と呼ぶのかわからないけれど、出方次第で殺す気だったのは本当」

 少年の顔がひきつった。背後から息を切らした鱗滝がやって来るのが見えた。禰豆子は幼子じみた足取りでかけてゆく。鱗滝はひしと少女を抱き留めた。

 椿は苦々しい気持ちを抑えられなかった。いずれ殺さねばならぬものに情が移り過ぎだと思った。

「この子の刀鍛冶は私のもとへ寄越すよう伝えてください。二人とも、このまま連れて行きます」

「椿、わかっていると思うが」

「殺しません。お館様の……ご命令ですから」

 鎹鴉の視線が痛かったが無視した。鱗滝はどれだけ事情を把握したものか、こちらの無礼を根に持つふうもない。謝る気はなかったが、かといって嫌味の一つ二つもないのではかえって居心地が悪かった。

「先に言っておくが、炭治郎の刀鍛冶は鋼鐵塚だ」

「鱗滝さま……よくあの方とのお付き合いを続けられますね」

「根は悪い男ではない」

 兄妹と鱗滝が別れの挨拶をしている間、椿は少し離れたところで待っていた。

 育手と弟子の関係は、時に親子のそれにも匹敵するものだ。炭治郎は、呼吸の使い手としては未熟極まりないものの、剣術の基礎はしっかり土台固めされている。呼吸という技術に使いこなすために肉体そのものの練度は欠かせないが、これは近道のない地味な訓練を積み上げるほかない。本人も根気強くなければならないが、教える方にもそれなりの忍耐が要求される。鱗滝が彼をどれだけ大切に育て上げたのかがよくわかるというものだった。

 月はまだ東の空にあり、夜明けは遠い。

 本来の出立を早めて隊服に着替えた炭治郎は、一応、いや間違いなく先輩ではある椿の歩く後を粛々ついてきた。当然ながら警戒心は緩んでいない。それでいい。自分は産屋敷の名代として、客観的な立場を保たねばならないのだ。

 霧の立ち込める山腹を過ぎて尾根を越えた頃、炭治郎が口を開いた。

「あの、俺たちは一体どこに……」

「北西の街に鬼がいるとの情報が入りましたので、討伐に向かいます。君の初任務よ、しゃんとしなさい」

 自分の刀がまだ出来上がっていないとか顔面の骨が折れているとか、そんなことを言い訳にして嫌がるようであればもう一度張り倒すつもりだったが、少年は「頑張ります!」といささか緊張した面持ちで応えた。椿はそれに満足して、更に先に先にと進んだ。その後を、妹を詰め込んだ箱の肩紐を引き締めた少年が慌てて追う。

「さっきの戦い方、すごかったです。鬼殺隊の人はみんな椿さんみたいに強いんですか?」

「私が強いんじゃなくて、君が弱すぎるの」

 椿がぴしゃりと言い放った。

「全集中の呼吸をほんの少し使っただけで息切れをしてる。そんな力量で妹を止めるだなんて大言壮語も甚だしい。もっと訓練の強度を上げなさい」

 炭治郎は椿に厳しい言葉を雨のように降らされて言い返しもせずにしゅんとした。自分が未熟者である自覚はあるようだ。炭治郎は、見込みはあるが、見込みだけで、今はまだ異能持ちの鬼にあっけなく殺される程度の実力しかない。

「そ、そうですか……そうですよね……」

「……だから使い物になるまで私が鍛えます」

 時間を無駄にする気はなかった。産屋敷の意図がどこにあるにせよ、もともと、新入の隊士があまりに早々と死にすぎるので、入ってしばらくの間は上位の先輩隊士をつけて面倒をみさせてはいかがかと進言していたのは椿だ。

「言っておきますけれど、私はまだ君たちのことを認めたつもりはないし、やるからには厳しくするわよ」

 椿は断られたり、嫌がられたりする反応を期待して、こう言ったのである。

 なんせ炭治郎少年はまだまだ、こちらに心を許していないのだし、そんな人間に教えを受けるのは、誰だって嫌に違いない。だいたいからして、この少年に導き手となる師が必要なら、それは自分でなく、冨岡であるべきでないのか。それが筋というものだ。よし、断られたら有無を言わさず冨岡の屋敷に放り込んでおこう! 

 しかし、予想に反して、炭治郎の表情はじわじわと明るんでいく。椿は想像していたのと違う反応に戸惑った。嫌がるところではないのか、そこは。

「はい! お願いします!」

 快活に頭を下げる炭治郎に、「やっぱり今の話は無しで」などと言えるはずもない。つくづく面倒なことになってしまったとうなだれる椿の耳に、春の少女の笑う声が聞こえた気がした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

30.孤雲去って閑なり

 十六歳の少女が夜毎姿を消す北西の街の鬼は、竈門炭治郎によって討伐された。椿はいっさい手出しをせずに、鴉と一緒に、少し離れたところから彼らの戦いぶりを見守っていた。

『お見事でした。血鬼術を使う鬼は初めてでしょうに、落ち着いてよく対応できましたね。流石は元水柱のお弟子さんだ』

「……そうね」

『禰豆子さんもよく頑張っていましたね。動きは単調ですが、あの身体能力の高さと打たれ強さでは凡百の鬼では相手にならないでしょう』

「……」

『ところで今、どういうお気持ちですか?』

「……お前、ここで油を売っている暇があるなら早く上に報告を上げてきなさい」

『承知しました』

 鴉は邪険にされて気を害した風でもなく、粛々と椿の指示に従って飛んで行った。

 椿の炭治郎への評価は、鴉のそれとおおむね一致する。初任務で血鬼術を使う鬼と戦って、うまく対応できずに殺される隊士は少なくない。初見の奇術に惑わされず、冷静に、柔軟に対処できる思考力を備えた彼は、優秀な剣士になれるだろう。問題は禰豆子の方で、椿は自分が鬼狩りとしてはそれなりに経験を積んだ方だと思っているが、人を守るために鬼と戦う鬼など初めて見た。

 ……産屋敷が特別扱いするのも道理か。

 刀を鞘に納めた炭治郎は、少女を横抱きにしてへたりこんだ青年に「大丈夫ですか」と声をかけていた。

「さ、里子さんは……」

「気を失っているだけです。家で寝かせておいたら、直に目を覚ましますよ」

 鬼が蒐集していたかんざしの束を、殺された女の子の家族に返してあげてほしいと頼んだところで、椿が遠くでちょいちょいと手招きした。炭治郎は、青年に「さようなら」と別れを告げて手を振った。

 青年が我に返った時には、すでに炭治郎の姿は遠くにあった。青年は奇妙な夢に迷い込んでしまったような心地で、ただ腕の中の愛しい人が今ここに間違いなく存在していることを確かめるように、ひしと抱き締めるのみだった。

 夜明けの街道を並んで歩きながら、炭治郎は面持ちを神妙にして、椿の方を向いた。

「これで俺たちは認めてもらえましたか?」

 椿はざっと駆けだした。炭治郎が慌てて後を追った。

「椿さん!椿さん!どうして逃げるんですか!?」

「逃げてるんじゃない!ついてきなさい!」

 

 これは仕事だ。これは仕事だ。個人的な好悪の感情を挟んではならない。後輩を導くのは先達の務めだ。しっかりしろ。

 自分に何度もそう言い聞かせて、なんとか気持ちを切り替えた椿は、次の任務が入るまでの間、山際の村のはずれの、普段は使われていない小屋に滞在することに決めた。まだ鬼狩りたちの住む場所に連れて行くわけにはいかないが、当面の拠点は必要だ。

 右手に山の裾、左手に緩やかな斜面を流れる川を望むこの小屋は、昔は藤の花の家紋を掲げていたらしいが、家人が死んでからは継ぐ人もおらず、今は鬼殺隊の剣士や隠がこの近くで仕事があったとき仮寝をするだけの場所になっている。

 二人は、川の土手の少し高くなったところまでやってきた。眼下では、さざ波の立つ水面が日の光を受けて輝いている。炭治郎は椿に言われるがまま羽織を脱いだ。彼は、稽古をつけてもらえると言われただけで、具体的な内容はつゆも聞かされていない。

「君、鱗滝さまのところでは水練はやらなかったのね」

「はい。狭霧山には湖も川もないので……あの、椿さん、何を……?」

 椿は縄を取り出して、縄の先端の片方をそばに転がっていた岩石に、もう片方を炭治郎の足首に括り付けた。常識的な考えでは、このように人の身体に重りをつけて水中に放り込むと、水死体が完成する。

「今から水中に潜って息を止めなさい。一度潜ったら最低三十分は上がってこないこと。それで肺を鍛えるの」

「まっ――」

「行っておいで!」

 川の中に放り投げる直前、炭治郎が何かを叫んだような気がしたが、椿の耳はそれを都合よく聞き流した。

 水中の息止め訓練は、水の呼吸の育手が特によく用いる訓練手法で、蝶屋敷でも行われているが、普通は自重のみで行う。しのぶから継子の訓練手法について相談を受けたさい、このように重しを括りつけて容易に上がってこれないようにすると死ぬ気でやるから訓練効率が上がると誇らかに提案したところ、即断で却下された。解せない。指導者がちゃんとついていれば何の問題もないのに。蝶屋敷の教育方針は尊重するが、たまには厳しくすることも必要だと思う。

 溺死しない程度の頃合いを見計らって一旦引き上げると、炭治郎は若干放心状態で「俺は長男なので……耐えられます……長男なので……」とうわごとのように口走っていた。長男であることと忍耐力の因果関係は不明だが、そう自分に言い聞かせて心が折れないならまずまず結構なことだ。椿は再び少年を水中に突き落とし、訓練は夜になるまで続いた。

 

 稽古の合間に、二人は焚き火を囲みながら、色々な話をした。

 

 炭治郎は十五歳で、二年前に鱗滝のもとにやってくるまでは、故郷の山で炭焼きをしていた。父親が病で死んで以来、母親と五人いた妹と弟たちの食い扶持を稼ぐ役割は彼のものになった。

 椿は感心もし、痛ましくも思った。齢十三で一家を養うのは非常に立派な、偉いことで、誰にでもできることではない。しかしまだ子供だ。本当なら友達と遊びたい盛りだろう。骨身も固まらない子供が、重い炭俵を担ぎ、山を下って売りに行く。椿には想像もつかない重労働で、本来は、年端もいかない少年がやるべきではないことだ。

「大変だったでしょう」

 鬼狩りになろうとする苦労は、椿にも理解できる苦労だ。だが、炭焼きの苦労は、椿にはまったく理解の及ばない苦労だ。

 しかし、炭治郎はこちらの同情などまるで見当違いであるかのように、「俺はこの仕事が好きです」と言った。

「炭焼きは、利ざやのたくさんある仕事じゃありません。家族にもっと良いものを食べさせたり、着せてあげたいとは思いましたけど、仕事がつらくてやめてしまいたいとか、そんなことは一度も思いませんでした」

 父祖から伝わる知恵と経験を頼りに、良い木を伐り、薪を積んで、窯に火を入れる。手を黒く、顔を赤く染めて、肉体と五感を研ぎ澄まして、出来上りの頃合いを見て焼きあがった炭を外に出す。

 言うほど簡単なことではない。しかし、彼は自分の仕事に誇りを持っているし、それが楽しいのだ。稀有の気質である。

 炭治郎は、手近にあった枝を折って焚き火に加えた。

 鬼に身内を殺されて、鬼殺隊に入ろうと考えるものは、全体の数からするとごく少数だ。多くはやりきれない悲しみや怒りに折り合いをつけて日常に帰っていく。炭治郎も、妹がこういう状態でさえなければ、自発的に剣を取る道を選ぼうとはしなかっただろう。

 この子はそういう子だ。本来、戦うことに向いていない子だ。

 頭の上で木の葉が風に揺られる。夜露がぽつんと焚き火の中に落ちて、灰神楽が立った。紺青色の夜空に、星が砂金の様に散らばっていた。

 

 翌朝、椿が自分の稽古を終えて小屋に戻ると、炭治郎が土間のへっついに火を入れて朝飯の準備をしていた。

「まだ寝ていていいのよ。疲れているでしょう」

「平気です」

 炭治郎の赤みがかった瞳は生き生きとして輝いていた。

「俺にやらせてください」

 お世話になっている身だからこのくらいはやらせてほしいとまで言われては強いて引き留める理由もなく、まもなく炭治郎は、川で取れた鮎を塩で焼いたのと、味噌汁と白いご飯を炊き上げて立派な朝食をこしらえた。

 椿は膳の上に並んだそれらを、一口ずつ口に運んで、ふうと息を吐いて箸を置いた。

「口に合いませんでしたか?」

 心配そうにした炭治郎に、椿は、いえ、と首を振った。

 炭治郎の焼いた鮎は美味かった。味噌汁も美味かった。そして炊いた飯はもう一段、美味かった。米粒がふっくらしていて、つやからして普通とは違う。口に入れると衝撃的に甘い。なんだこれは。

 負けた。家事力で完全に負けた。相手が女の子ならともかく、年下の男の子に。

 腕前に天と地ほどの差がある……もはや比べることそのものが蛮勇……なぜ私とお前はこれほどまでに違う……相手の卓越した力量を認めがたい葛藤のすえ、椿は最大級の賛辞の言葉を絞り出した。

「炭治郎くんの作ったご飯……毎日食べたいくらい美味しい……」

「良かった!」

 おかわりありますよ、と屈託なく笑う炭治郎に釣られて、椿の口元にも我知らず微笑みがこぼれた。

 炭治郎は、まめまめしくよく働く少年だった。

 何も言われずとも毎食を用意したし、掃除も風呂焚きもなんでもやった。しかもそれぞれ、椿がまったく敵わない手際で先取りしてこなすのである。どちらが世話をしている側かわかったものではない。

 もちろん、訓練で容赦することはなかった。

 就寝中も気を抜くなと木刀で襲い掛かって、体中青あざまみれになるまで叩きつけた。次の日の朝になれば、石を詰め込んだ袋を背負わせて足の裏にできた血豆が潰れるまで走らせた。それでも炭治郎は弱音一つとはいかないものの、少なくとも「つらくてやめてしまいたい」とは言わなかった。心が折れそうな顔は何度かしていたが、とにかく、一通りを耐えてやり遂げた。

 炭治郎は、酷使した身体のそこかしこがひどく痛むらしく、薬を塗るのにも背中に手が回らず難儀そうにしていたので、椿は「貸しなさい」と軟膏を取り上げた。「自分でやります」と慌てふためくのを強引に膝の上に抱えて手当てをしてやる。

「他に痛むところはない?」

 炭治郎は、ないです、と蚊の鳴くような声で言った。頬に朱色が差している。思春期かな。

「訓練以外の時も、呼吸をするときは常に血の巡りや肺の動きを意識して」

「全集中の呼吸を常時行えるようにするためですか?」

「そう。この調子で鍛錬を続けていれば、数週間で常中に取り掛かれるようになるわ」

 全集中の呼吸の常中は、それ自体が身体能力を飛躍的に高めるから、別にいつ取り掛かっても構わないのだが、肺活量を可能な限り鍛えてから習得した方がその後の発達が良いのだ。身体が未成熟にも関わらず常中を使いこなしている時透は、普通の人間が真似してはいけない異次元の天才なので、考慮外とする。

「炭治郎くん、明日のことなんだけれど……」

 怪我の処置を終えて顔を覗き込むと、炭治郎は、抱えられた姿勢のままうつらうつらとしていた。

 椿は、気を抜くなと言ったはずだ――と打ちかかろうとして、木刀に伸ばしかけた手を引っ込めた。彼は毎日とても頑張っているし、今日はこのくらいにしておこう。休息することも大切だ。

 本格的に寝落ちた身体を抱きかかえて布団に運んでやりながら、椿は、こんなはずではなかった、という釈然としない気持ちでいっぱいになった。

 炭治郎は、度胸があるし、勘もいいし、なんと言っても素直だ。どうにも嫌いになる要素がない。

 これには困ったが、それよりも困ったことは、この少年が、椿に対して何らの悪感情も抱いている風ではないことだ。あれだけ脅かしたので、打ち解けるのは難しいだろうし、その方が都合がよいと思っていたのに、こうもあっさりと懐かれるとは思っていなかった。

 

 そうすると、引き続き残った唯一の問題が鬼の禰豆子である。

 

 これにはとにかく手を焼かされた。できればずっと箱の中で寝ていてほしかったという椿の願いもむなしく、禰豆子は昼と夜に切れ切れと起き出して、何をするかというと、膝の上に乗ってきたり、腰元に抱きついたりして、とにかく椿のそばから離れようとしないのだ。監視する手間が省けるといえばそうだが、嫌なものは嫌だ。鬼に懐かれて嬉しいわけがない。

 炭治郎は、腕にしがみつかれた椿が硬直していることに気付いて、妹をぺいっと引きはがした。

「禰豆子、あんまり椿さんに迷惑かけちゃだめだ」

 炭治郎がそう言い聞かせたが、禰豆子は不服そうにむうむうと唸るばかりだった。禰豆子は、その容姿と稚気もあいまって、可愛らしくみえないこともなかったが、椿の鬼への嫌悪感は生理的なもので、理性でなんとかなるような類のものではない。

「この子、昔からこんなだったの?」

 禰豆子は、情緒がほとんど赤子並みに退化していることを差し引いても、ひどく甘えたがりで、野放図で、人懐っこかった。これは生まれ持っての気性だろうか。

「いえ。むしろ俺よりしっかりしてるくらいで」

 炭治郎は、人間だった時の禰豆子が、いかに快活なしっかりものの少女だったかと、裁縫がとても得意なことや、忍耐強くて、我がままや弱気を吐いたりしない気丈な性格であったこと、町では評判の美少女であったことをひとしきり語った。

「でも、そうですね、椿さんは大人の女の人なので、その……母親……だと思っているのかもしれません」

 非常食ではなくてか……

 禰豆子は炭治郎に諌められてしばらく大人しくしていたが、真夜中ごろに再び箱から出てきて、書き物をしていた椿のそばにやってきたかと思うと、床にころんと横たわり、構ってほしそうに手足をじたばたさせた。その様は椿に、実弥に懐いているご近所の犬を思い出させた。……そういえば、彼は犬を手懐けると、顎の下を撫でていたっけ。真似をして顎を撫でてみると、禰豆子はこれをひどく嬉しがった。しかしそれを見ても、心がなごむどころか、ますますげんなりした気分になった。生まれてこの方、犬猫に好かれた試しがないのに、どうしてよりによって鬼に好かれるのか。この娘、ちょっと前に目の前の女に顎を砕かれそうになったことも忘れたのか。

「あなた、このお兄様に自分よりもしっかりしていただなんて言わせるなんて、一体どんな女の子だったんでしょうね……」

 

 そんな調子で五日ほど経った頃、ようやく炭治郎の刀が届いた。

 椿が、水の呼吸の適正がある剣士の日輪刀は青色になるのだと言うと、炭治郎は少し残念そうな顔をした。彼の日輪刀は、手に持つや黒色に染まったのだ。

「椿さんは黒い刀を持っている剣士を知っていますか?」

「ないわ。黒は珍しい色だから」

 日輪刀の色は、ほとんどの場合、これは類を見ない中途半端な色合いだなと思われても、それに近しい適正な呼吸を特定できるのだが、黒色はどんな呼吸にも馴染まない。

 そういうわけだから、黒色は出世できない色、もっとひどいと早死にする色、と評されていることは伏せた。

「俺に水の呼吸は向いてないんでしょうか……」

 炭治郎はしょんぼりとして俯いた。

「みんながみんな、はじめから適正のある呼吸を使っているのではないわ。最初に基本の呼吸を身につけて、後から派生の呼吸を学んだり、色んな型を組み合わせたり発展させて自分だけの呼吸の型を作る人もたくさんいるし、今は焦らず、水の呼吸を極めることに集中しなさい。大丈夫、決して無駄にならないから」

「はい!」

 炭治郎の顔色が晴れたので、椿は刀鍛冶である鋼鐵塚の方を向いた。鋼鐵塚は、刀の色が予想と違ったという割合どうしようもない理由で癇癪を起こしていたが、刀を渡すという任を果たし終えて、そこで初めて椿がいることに気付いたらしい。

「今日は白い奴はいないのか」

 そう言って、きょろきょろとあたりを見回した。

 鋼鐵塚と椿が顔を合わせたのは、これが初めてのことではない。数か月ほど前、非番の日に不死川と二人で散歩をしていたところ、恐ろしい形相で包丁を振り回す鋼鐵塚と、這う這うの体で逃げ惑う隊士に遭遇したのである。不死川は、まず公共の秩序を乱している鋼鐵塚に怒り、拳でぶん殴って気絶させたあと、非戦闘員の刀鍛冶ごときに追い回されて腰が抜けてる隊士に怒った。……思い返すもどうにかしてる話だ。

 鋼鐵塚は、腕は確かだが極めて偏屈な刀鍛冶であり、人の話をまったく聞かない上に自分の鍛えた刀を毀損するとひどく怒り狂うので評判だった。椿が知る限りでこの男とうまくやれているのは、年長者かつ人格者の鱗滝くらいのもので、彼がいま所有している日輪刀も確か鋼鐵塚が打ったはずだ。鋼鐵塚が炭治郎の担当になったのは、その縁あってのことだろう。

 それで、先ほどの話に戻ると、不死川にああいう目に合わされた人間はたいていこちらと関わり合うのを忌避するようになるものだが、鋼鐵塚はそんなやわな神経はしていなかった。

「あの時奪った俺の包丁を返せ」

 奪ったのではなく、人命救出のために取り上げたのであるが、いずれにせよここまで堂々言ってのけられるとは、刀鍛冶にしておくのは勿体無いほどの度胸である。

 没収した包丁は、殺人未遂犯に返すのもなんだし、捨てるのもなんだし、放置しても錆びるだけだし、と処分に困ったすえ、我が家の台所で本来の用途に用いられている。椿はその旨を伝えた。

「勝手に使わせていただいて申し訳ありません。必要ならお返しします」

 しかし包丁だって、口がないから聞くわけにもゆくまいが、人を追いかけ回すのに使われるよりも、肉や野菜を切っていた方が嬉しいはずだ。椿は切れ味がいいので料理が上手くなった気がするので大いに気に入っているし、不死川も肉や魚の骨を断つのが容易だと褒めていた。千夜子は、指を落としそうだと怖がって使わない。

 鋼鐵塚はそれを聞くと、そっけなく「いらん」と言い残して去っていった。心なし機嫌がよさそうだったのは気のせいだろうか。つくづくよくわからない男だ。

 

 時同じくして、鴉が指令を運んできた。

 

 近くの町の、北へと向かう山道で、人が失踪している。最低位の階級の鬼狩りを一人、送り込んだが消息が途絶えた。

 宵の口に山道のふもとまでやってきて、雑木林の彼方を見据えたとき、なるほど、これは()()なと直感した。椿は、炭治郎の肩を軽くぽんと叩いた。

「ここからは君一人で行きなさい。私がこれ以上近付くと、多分、気付かれて逃げてしまうでしょうから」

「逃げるんですか、鬼」

 これまで、どちらかというと、積極的に襲ってくる鬼ばかり見てきた炭治郎が言った。

 鬼は逃げる。強い鬼狩りほど鬼の気配に敏感なように、鬼も鬼狩りの気配を察知する。だが、これはあまり強くない鬼の場合だけだ。どうも彼らの天敵を識別する感覚はあくまで弱者ゆえの生存本能に基づくもので、それほど精度が高いものではない上に、強くなればなるほど、その感覚は失われるようであるらしい。というか、強い鬼がそれに比例して高い探索能力を備えていたら、鬼殺隊はとっくの昔に壊滅している。

 炭治郎は、鬼狩りとしては圧倒的に強いわけではないので、敵が警戒していても、網に引っかからず接近できるはずだ。

 説明を受けた炭治郎は納得して、肩から木箱を下ろした。そして、椿に向かって「妹をお願いします」と頼んだ。

「連れていかないの?」

 禰豆子が人のために戦えるのは理解したから、椿は強いて二人を引き離すつもりはなかったのだ。今回の敵は、隊士を一人屠った鬼である。

「一緒にいると禰豆子を頼ってしまう。俺はこれ以上、妹に血を流させたくありません」

「……妹と私を二人にして構わないの」

「え?」

「あなたが見張ってない間に、私が妹を殺すと思わない?」

 炭治郎は、意表を突かれた、考えてもいなかったという顔できょとんとした。

「椿さんは、禰豆子が人を襲わない限りは生かしておくと言いました。あなたは一度言ったことを軽々覆す人ではないです」

「……」

 炭治郎はそれだけ言い残して、木箱を椿に手渡すと、山道に向かって歩いて行った。

 椿はどうにもやりきれない気分で、片腕に木箱の肩紐を引っ掛けながら、町に戻り、三方を葦簀で囲ったおでん屋の車屋台に腰掛けた。

 炭治郎が、妹を、自分の命よりもずっと大切にしていることなど見ていればわかる。彼は自分の命よりも大切なものを椿に預けて行ったのだ。

 炭治郎の信頼は手に余る。

「姉さん、お酒いる?」

 店主に問われて、椿は豆腐と大根だけ頼んだ。酒は飲まない。仕事中である。

 近くの座敷から、義太夫を弾く三味線の音がする。賑やかな夜だ。

 ここの屋台はそれほど繁盛しているわけでなく、端っこの腰掛けに男が一人座っているだけだった。男は、中からカリカリとひっかくような音のする木箱を気味悪そうに眺めた。

「そいつはなんだ?」

「猫です。よくひっかきますし、かみつきますから、決して開けないようにしてください」

 男は常連客らしく、勝手知ったる様子で燗徳利で手酌していた。しかし、男の酒は、陽気な酒ではなかった。店主が明日も早いのだから家に帰って寝ろとすすめるのにも耳を貸さず、手に持った盃をぐいとあおった。

「女房に逃げられたって、もう半年にもなるだろう。いい加減やけを起こすのはやめなよ」

「あいつは死んだ」

 男の目がうつろに淀んだ。

「滅多なことをいうな。ひょっこり帰ってくるかもしれんじゃないか」

「身内もねえ、ここ以外に縁のある土地もねえ、あの女がどこに行く当てがあるってんだ。山に入って、崖から落ちたか、熊にでも喰われたか、どっちにしろ、ろくな死に方じゃなかったろうよ。俺にはわかる」

 男の盃を持つ手が激しく震えた。

「あいつは死んでよかった」

「旦那、そりゃないよ」

「死んでよかったんだ。生きてたってなんにもならねえ。世の中、辛い、苦しいばっかりだ」

 彼は見るからに生活に疲れ果てて、ひどくくたびれていた。自分は職人として手間賃をもらうし、上の子供は小学校を出してすぐ大工のところへ奉公に上げたが、どれだけ働いても生活が楽にならない。銭がないので、勘定日がくるまで三日も食わないで働き通したこともある。そんな有様でも税務署は空の米びつにさえ手を突っ込んで有り金を持っていく。

「お前みたいな娘さんにゃ逆立ちしたってわかりゃあしねえだろう。あいつはよう、五人もいるガキどもの世話をして、飯の煮炊きして、毎日牛馬のように働いて、気苦労を全部しょい込んで、極めつけに亭主は飲んだくれときた。お前なんか出ていけ、出て行ってやるなんて、いつもの口喧嘩だ。あの日、あいつはそう言って、真夜中に家を飛び出して、それで、それで……」

 男の頭ががくりと垂れた。男の表情からは、深い悲しみと、悔悟の念が見て取れた。

「お子さんはかわいいでしょう」

「ああ。ガキはかわいい。みんなかわいい、手の付けらねえ畜生どもだ」

 男の言うことによると、一番上の息子を除き、幼い子供たちはどうにも稼ぎが少ない上に酒や素行のだらしない父親を尊敬してはいないらしい。椿は、男の横顔を見据えて言った。

「女手なしにお子を養い育てるのは、並大抵のことではありません。お子方も、今はわからなくても、いつか自分で働いて、家族を養うようになれば、お父様の苦労も愛情もきっと理解なさいますよ。……それが奥方様の供養にもなりましょう」

 男は黙った。そして、しくしくと泣き出し、再び酒を飲み始めた。もう椿に絡んでこようとはしなかった。

「姉さん、ほんとにお酒いらない?」

「結構です」

 椿は無心で大根の切れ端を口に運んだ。人の心を慰めるのに、軽々しく産屋敷の真似事などするものではないと思った。

 炭治郎が帰ってきたとき、手元の懐中時計は明け方が近いことを示していた。

 店主は箸や皿を洗って、店じまいの支度にかかっていた。先刻話しかけてきた男はとっくに潰れて鼾をかいている。

「おかえり」

 暗いところから戻ってきた炭治郎は、明るい提灯に目がくらんで気後れしたようだった。店主は無言で残り物らしいこんにゃくと竹輪麩を乗せた椀を前に置いた。炭治郎は律儀に「いただきます」と手を合わせて箸を取った。

「何かあったの?」

 炭治郎には、どことなくいつものはつらつさがない。

「鬼に襲われて怪我をしていた兄弟を、山の向こうの家まで送り届けていました。遅くなってすみません」

「ぼうや、北の山道を通っていったのかい」

 店主は怖いもの知らずを見たとでも言いたげだった。

「あの山道は最近人がよく行方知れずになるってんで、この辺りのもんは近付くのも避けるってのにたいした度胸だ。そういや、そいつの女房が、一番最初の行方知れずだったかねえ……」

 その時、暖簾を分けて、年のころ十三ばかりの少年が現れた。まだ子供なのに、もう一人前の大人のように体中に労働の疲れを滲ませている。

「父ちゃん、帰ろう」

 男の息子であるらしい少年は、だらしなく机にもたれた父親の肩を揺すった。男は目が覚めたのか覚めていないのかはっきりしない様子だったが、店主に差し出された水を一気に飲み干してのろのろと腰を上げた。

「もう酒はやらねえ」

 男が独語した。父子は頷き合いながら夜明けの町に消えていった。彼らがああやって約束するのは初めてではないのだろう。そして男は、夜になれば再びここに座って、酔いに悲しみを紛らわしに訪れるのだろう。

「私たちも行きましょう」

 

 

 

 

「――俺が頸を切ったのは、女性の鬼でした」

 店を出てしばらくして、炭治郎がぽつりと語った。

「以前にも鬼狩りを殺して喰ったんだって自慢してました。消えていくとき、寂しい、悲しい匂いがした。……家族のところに、帰りたかったのかな」

「さあ、どうでしょうね」

 彼の妻は、鬼になったのかもしれない。鬼に喰い殺されたのかもしれない。だが、崖から足を滑らせて落ちて死んだのかもしれないし、あるいは誰も彼女のことを知らない遠い町で暮らしているかもしれない。

 真相をつまびらかにしようとするだけ詮無きことだ。

 北の山道に巣食った鬼は退治された。今後、鬼が出ることはない。それだけが事実である。

「炭治郎くん。あのね、私は君のことが好きよ」

「えっ?!あ、はっ、はいっ!ありがとうございます!」

 炭治郎の声が裏返った。椿は構わずに続けた。

「だから、君には強くなってほしいけど、死んでほしくもないのよ。……どうか、鬼に同情しすぎるのはほどほどにしてね」

 けぶった曇り空が、日の出の光を含んで明るくなっていく。

 二人の頭上に鴉が騒ぎ立ち、次に向かうべき場所が浅草であることを告げた。

 




竈門炭治郎とまったり悪鬼滅殺スローライフする話……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

31.砂に沈み未だ融けず

「小さくなりなさい」

 椿は、炭治郎いわく「これが妹の普通の背丈」の大きさの禰豆子を、どうにかして木箱に押し込めようと頑張っていた。禰豆子の兄はここにいない。炭治郎は突然、鬼がいると叫んで浅草の人混みの中に飛び出してしまった。彼の後を追うためには、禰豆子をこの木箱の中に入れなければならない。椿は炭治郎と違って、たくさん人間がいる場所を鬼の手を引いて歩くなど真っ平御免だし、放置など論外だ。

 しかし禰豆子はというと、椿に肩を揺すぶられるまま頭を左右にぐらぐらさせるだけで、まるでこちらの言うことを聞いてくれない。遊んでもらっていると勘違いしているらしい。

「小さく……小……小さ……小さくなりなさいと言っているでしょう……!」

 最後の方は半ば力ずくで押し込むような形になってしまったが、どうにか禰豆子を木箱に押し込むことに成功して、椿は炭治郎の後を追って足早に駆けだした。

 歩きながら周辺を探るが、人が多すぎるのと、血鬼術で攪乱されているのか、気配が微弱で探り辛い。炭治郎の嗅覚はすこぶる便利だ。普通の鬼狩りなら一筋縄ではいかなかっただろう。

 その時、自動車が警笛を鳴らして急停車した。

「待って、待って!止めて!」

 若い女性の甲高い叫び声に、周囲が何事かと注意を寄せる。椿は構わずそばを通り過ぎようとしたが、後ろから手を取られてやむを得ず振り返った。そして、そこにいた、息を乱した女性の姿を見てあっけにとられた。

「まあ――麗さま?」

 麗はある財閥に縁する一族の娘である。椿よりも三、四つ年上なので学年は違うものの、同じ学校で学んだ同窓生で、親同士の交流もあったから、小さいころから親しく付き合っていた。彼女は少女時代の清楚な佇まいをそのままに、立派な淑女へと成長していた。

「椿さんね?本当に椿さんなのね?」

 麗は涙ぐみながら、椿の両手を握りしめた。

「ご家族にあんなことがあった後、消息が絶えていたものだからてっきり……いままでどこにいらっしゃったの?」

 椿は、「親切な方にお世話をしていただいて、不自由なくやれています」と言葉を濁した。麗はあまり深入りされたくないのだという言外の意図を察してくれて、それ以上深く追及してはこなかった。彼女の優しさに付けいっているようで、わずかな心苦しさを覚えたが、やむを得ない。時間が惜しい。昔話もそこそこに切り上げねば。

 麗はこちらの事情を知らないが、椿は、彼女の身の上のことを多少知っている。麗が学校を卒業してまもなく、同じような家柄から夫を迎えたことと、その夫が強盗に殺害されたという風聞は、一時期新聞の三面記事を賑わせたものだ。

 麗は、自動車の後部座席に座っていた少女を、前夫との間に産まれた娘の清子であると紹介した。そして今は再婚をしていて、相手の名を月彦と言うのだと教えてくれた。

「椿さんもご存知のはずよ」

「私が?」

「ええ。お仕事の関係で、二階堂のお屋敷にはよく出入りしていらしたそうだから」

 確かに聞き覚えがある名前だった。しかし、どういう経緯で耳にしたのか、はっきりと思い出せない。

 椿は、もはや前世の記憶ほど遠い、十四歳以前の幸福な過去を追想した。

 若い男……月彦と名乗る男……確かにいた。訪れの先触れがあっただけで、女使用人たちを色めき立たせた貴公子のような男が。

 

 父の客人。……()()()()()()()()()()客人……

 

「あの人が亡くなったことは私たちにとって大きな悲しみだったわ。けれど、月彦さんが清子のことを血のつながった実の娘のように可愛がってくれて、感謝しているの……」

「それにしては――」

 こういう直感は大抵当たるものだ。椿は語尾がわずかに上擦りそうになるのを堪えた。

「情の薄い方のようにお見受けしますわ。夜更けにこんな小さな子を連れまわすだなんて」

「仕方がないのよ。忙しい人だから、毎日、日が昇る前にお仕事に行って、夜遅くにお帰りになるし……家族のお出かけは、いつも日が落ちきってからになってしまうの」

 旧友との再会の喜びが、麗をいつになく饒舌にしていた。これは月彦という男にとって計算外の事態だったに違いない。麗は聡明で、慎み深い女性だ。常ならば、家内の事情を詳らかに――とりわけ、日の光を眩しがる彼の安息の妨げにならぬよう、夫の寝室を、北側の日の当たらない部屋に配していることまで述べ立てたりはしなかったはずだ。

「昔のお友達の動静はずっと気がかりでした。ですから、麗さまが今、幸せにしているようで、本当に良かった……」

 椿がそう言って微笑みかけると、麗は感じ入った様子で眦に浮かんだ涙を拭った。そして、麹町に邸宅があるので、いつでも歓迎するし、困ったことがあればどんなことでも頼りにしてほしいと言い残して、自動車に乗り去っていった。

 椿は鴉を呼びつけ、彼女たちの住居に手空きの隊士を向かわせるよう指示を出した。

 ――麗は夫と別れたばかりだと言った。まだこの近くにいる。

 椿は、記憶の中から、懸命にその男の姿を探し出そうとした。だが、どのような容姿の男であったか、まったく思い出せない。

 大通りに、白熱ガスの華々しい明るさが満ちている。

 人波の間を縫うように進み、すれ違いに酔っ払いの男と肩をぶつけた。向こうは何やらわけのわからない繰り言を喚いていたが、連れの女に「その女、盲だよ」とたしなめられて、矛を収めていた。

 横に角を折れて細い道に入ったとき、反対から男がゆっくりと歩いてやってきた。

 洗練された出で立ちの、気品ある紳士だ。これといって不審なところはない。月光に照らされた青白い顔色が、いささか病人めいて人目を引くだけだ。

 椿はほんのわずかの既視感に足を止めて、その男を凝視した。

 

「私に何か?」

 

 男はこちらの視線に気付いて、人当たりよさそうに微笑んだ。

 椿は身じろぎもできずに立ち尽くした。

 男はまったくの自然体で、そこだけ空気が冷たいとか、怪しげな雰囲気だとか、そういった違和感を覚えさせるものはまるでない。極微の違和感の正体がなんなのか、突き止められないのに、本能だけが危険を訴える。――この男は何かがおかしい。

 それに、自分はこの顔を、どこかで見たことがあるはずだった。

「お前が、鬼舞辻無惨……?」

 何が起きているのかを理解したときにはすでに遅かった。男が刹那に振りかざした左手の切っ先は、刃物のように椿の胸部に深々突き刺さっていた。

「……急所を庇ったか?しかし、小手先の悪足掻きだったな。お前はここで死ぬ」

 死の予感に突き動かされて、咄嗟に取った回避行動がわずかに急所をそらしていた。

 男は、何の感慨もない調子で、椿の胸から手を引き抜いた。

 心臓が狂ったように脈打つ。傷口は火に焼かれているように熱い。前のめりに崩れかけた姿勢を保つのに精一杯で、とても反撃に転じる余裕などない。

「警官さん来てください!この人、体調が悪いようなんです!」

 男の呼び声で、通りを巡回していた警官が二人、どうしたどうしたと小走りでやってきた。椿が、一体なんのつもりだと顔を上げた時、すでに男の姿は目の前から忽然と消えていた。……逃げられてしまった。

 落胆している暇はなかった。負傷にも、後背に隠した刀にも、気付かれると面倒だ。

「お構いなく。少し、人に……酔ったようです……」

 椿は心配する警官の手を振り払うと、禰豆子を入れた箱を引き摺って、建物と建物の間の陰に入った。石壁にもたれて座り込み、ゆっくりと呼吸を整えようとする。

 傷はわずかに急所を逸れており、この程度の怪我でまるで身動きができないのはおかしい。だが、鬼化の兆候もない。毒だろうか?原因がわからない。

 うずくまって身体の変調に耐えていると、箱の扉が内側から開いた。中から禰豆子が顔を出す。彼女は、病身の家族を気遣うかのように、椿の汗ばんだ頬にぺたんと両手をくっつけた。

「……私を心配しているの?」

 思わず口元に弱々しい自嘲が浮かんだ。鬼舞辻を前にして何も出来ずに一蹴されたことも、あまつさえ鬼に心配などされていることも、すべてが腹立たしく惨めだった。

 しかし現実は現実だ。今は生き延びることを考えなければならない。

 椿はゆっくり瞼を落とした。炭治郎が近くに来ている。それなら大丈夫だ。後は任せられる。

 

 視界が閉ざされると同時に、思考が秩序を失う。記憶が現在と過去を行ったり来たりする。

 

 

 生まれ育った我が家。親しみ深い広大な庭。母のお気に入りだった薔薇の蔦が絡むアーチ。

 十三夜の月が洋館の外壁を明るく照らす。美しい夜。

 

 

 椿は、母の部屋で洋椅子に腰掛けて、窓枠に頬杖をつき、月明かりに照らされた夜の庭を眺めていた。

 部屋の戸をこんこんと叩く音が聞こえた。椿は「どうぞ」と入室を促した。扉を開けて現れたのは、若々しい見た目にそぐわない、落ち着きと気品を備えた女性である。母は決まって、娘にこんな女性になりなさいと言う。

「珠世」

「お嬢様、こんばんは。奥方様は?」

「所用が長引いているの。すぐに来るわ。そんなことよりも、私、あなたに言っておきたいことがあるの」

 珠世は、腕の良い女医者がいるという評判を聞きつけた父に招かれてこの屋敷に出入りするようになった。母の気虚の治療のためだった。若い男の助手を伴ってやってきた彼女は、前評判通りに仕事をこなして、母の体調はすぐに良くなり、近頃は経過が順調なので、母が話し相手が欲しくて呼ぶだけになっていた。

「あなたの助手のこと。彼はもう少しお行儀よくすることを覚えるべきね。あなたの前ではどうだか知らないけれど、彼、信じられないくらい人当たりが悪いの。あの人が大きな声を出すものだから、女中が怖がって泣いていたわ。その子はお茶はいかがですかって聞いただけなのよ。嫌なら結構と言えば良いだけで、怒鳴る必要はないと思うの」

 椿の言い草はもっともらしくも放縦極まりなかったが、珠世は殊勝に頭を下げた。

「申し訳ありません。後で叱っておきます」

「椿、先生とお呼びなさい」

 その時、母が所用を済ませて部屋に入ってきた。

「奥様、お加減はいかがですか」

「結構よ。ありがとう」

 母はそれから、娘の方を向いて眉を吊り上げた。

「またピアノの稽古をお休みしたの」

「先生の教え方が上手でないのだもの。本当に退屈なのよ、お母さまも一度お越しになると良いわ」

 母のお小言に、椿は悪びれずにそう返した。母は叱っているつもりだろうけれど、椿は少しも怖くない。

「仕方のないお転婆ね。先生を叱責できる身ではないでしょう」

「いいえ、奥様。お嬢様は私の至らなさをご指摘なさったのです」

 珠世に庇われるのはいささかばつが悪かった。確かに椿は、彼女の助手のことは好きではなかったけれど、珠世のことは嫌いではなかった。むしろ好きだった。彼女が来てから、母が明るい表情をすることが増えたからだ。

「……いいのよ。あの子が気にしないと言ったもの。私も気にしないわ」

 椿は、母に促される前にさっと踵を返して部屋を出て行った。後ろで母がため息をついているのが聞こえた。

「ごめんなさい。私たちが甘やかしすぎたの。どうかお気を悪くなさらないでね」

「気を悪くなどしません、お子が大事なのは当然のこと。……本当に、親にとって我が子とは、金銀珠玉にも勝る宝でございます……」

 

 初夏は過ぎ去り、母の愛した薔薇も散り果てた。

 

「素晴らしい博学だ。その若さでたいしたものだ」

「私のごとき若輩にはもったいないお言葉です」

 夜半、書斎で本を探していた椿は、隣の部屋の応接間から話し声が聞こえてくるのでおやと首を傾げた。父はこの応接間に、好事家仲間とか社会的地位のとても高い立派な人とか、ご自分のお眼鏡に適った人しか招かないのだ。なるほど、声の張りからして青年らしき客人は、若いのにたいしたものであるに違いない。

 椿は応接間への続く扉の鍵穴を通して二人の様子を窺った。お行儀が悪いことは承知していたが、尊敬する父にそこまで言わせる青年とは一体どのような人なのか興味が湧いたのだ。

「それで、月彦くん。君が聞きたいのは珠世くんのことだったな」

「はい。……珠世はかつて、私の婚約者だったのです」

 月彦は、沈痛そうに首を振った。

「ですが約束は果たされず、彼女は下男と駆け落ち同然に私の元から去っていきました。もはや過ぎ去ったこと、今更恨み言を申すつもりはありません。それでも、彼女が今、幸せに暮らしていることを自分の目で確かめたいのです」

 珠世とは、少し前までこの家に出入りしていたあの女医者のことであろうか。駆け落ちなんてことをするような不埒な女性には見えなかったが。それにしても、好きだった女性を横から奪われて、取り返そうという気概もないなんて、情けない男だ。

 しかし父はうんうんと頷いた。いたく同情を寄せた様子である。

「残念だが、私たちも彼女の行方は知らない。どうしてもやむをえない事情があると急に暇乞いを申し出て、すぐに発ったものだから……しかし、彼らの容貌を知っている屋敷の者たちには、彼女の姿を見かけたら、必ず私に伝えるように言っておこう」

「感謝します。ところで――ご息女に挨拶をさせていただいても?」

 鍵穴越しに目が合った気がして、椿は弾かれたように扉から飛びのいた。扉から彼が座っている場所までかなり距離があるのに、まさかこちらに気付いたのだろうか?

「是非にと言いたいところだが、あの子に君のご尊顔をお披露目する気はないな。私はまだ娘を嫁にやるつもりはないからね……」

 応接間に笑い声が響いた。別れ際の歓談をした後、月彦は去っていった。椿はその間、心臓がばくばくと脈打つのと、目が合ったと思った瞬間の不気味さの余韻で動けないでいた。

 見送りから戻った父のもとに、二階から降りてきた母が口早に言った。

「あの方をこちらに招くのはお止めになって」

 父は、突然の訴えに戸惑った様子だった。母が父の交友関係に口を挟んだためしは今までに一度もない。物事や人間につける好悪に、およそ不一致をみたことがない夫婦で、父が好きなものは母も好きだったし、母が好きなものは父も好きだった。

「君が言うなら、もちろんそうするが」

 父は不審がりながらも、母の希望を受け入れた。彼は自分の妻が、出産を控えていて、神経質になっているのだと思ったのだ。

「だが彼の一体何が気に入らないんだい。気持ちのいい青年じゃないか」

「わからないけれど、でも、あの方の目つき、なんだか値踏みをされているような、嫌な感じがするの……」

 

 

 

 

 

 二人の鬼の助けを得て事態を切り抜けた炭治郎が次に目の当たりにしたのは、壁にもたれて完全に意識を失っている椿と、一体いままでどこで何をしていたのかとでも言いたそうな禰豆子だった。慌てて椿に呼びかけるが、全然反応が返ってこない。濃い血の匂いがする。怪我をしている。早く医者に見てもらわなくてはいけない。

 しかし、助けてくれた青年は今度はすげなかった。彼は椿を見るなり「その女はだめだ」と言って、鼻を押さえて露骨に嫌そうな顔をした。

「鬼舞辻にやられたんだろう。長く持たないぞ」

「こ、困ります!この人は俺の大切な……仲間……なんです……」

 青年が胡乱気な顔でふんと鼻を鳴らした。

「お願いします。このまま放っておいたら本当に死んでしまう」

「しつこいぞお前。傷の具合が悪いから助からないと言ってるんじゃない、鬼舞辻の……いや、待て。その女……」

 青年は限界まで眉間に皺を寄せると、前言を棄却して「ついてこい」と身を翻した。

 彼は自分たちの根城に到着するや否や、女性のところまでずんずんと歩いていき、彼女の耳元で低く囁いた。

「珠世様、この女、二階堂の娘です」

 目配せしあった二人の間にただごとではない空気が漂う。炭治郎には、彼が何を言っているのかよくわからない。二階堂とは一体なんのことだろう。……そういえば、炭治郎は椿の氏を知らない。

「生きていたのですね。生きて……」

 炭治郎の背中から降ろされた椿を見る彼女の目がかすかに潤んだ。青年の首が沈鬱そうに垂れた。そしてすぐに治療に取り掛かってくれた。炭治郎は、両者の反応を不可解に思いつつも(椿に鬼の知り合いがいるわけがない)、二人が懸命に傷の手当てをしてくれていることに感謝した。

 二人の鬼は、それぞれ珠世と愈史郎と名乗った。

「助かりますか?」

「私たちに出来ることは多くありません。もともと自力で出血を止めているようですから」

 胸を刺されて自力で血を止められる理屈が今の炭治郎には皆目わからないが、椿は、「私にできることは君にもできるようになる」と言っていたから、呼吸を極めた人はそういうこともできるんだろう。炭治郎の胸に尊敬の念が湧いたが、同時に、よくわからな過ぎてちょっと怖いな、とも思った。

「あの薬を使いますか」愈史郎が珠世に聞いた。

「この方には必要ないでしょう」

「薬って何ですか?」

 これには珠世よりも愈史郎が口を出すのが早かった。

「気安く話しかけるな。珠世様は医術はもちろん、薬学でもこの国に並ぶものない優れたお方なんだ」

「それほどたいそうなものではありませんよ」

 珠世は謙遜したが、炭治郎は、彼女が鬼を人に戻す術について肯定的に語ってくれたとき、手探りで進み続けた暗闇に一筋の光明が差したように思えた。なんせ冨岡や、椿はもちろんのこと、進むべき道を示してくれた鱗滝さえ、禰豆子を人に戻せるのかどうか半信半疑であったのだ。

 炭治郎はもっと珠世から話を聞きたかったが、新手の鬼の襲来で、これ以上悠長に膝をつきあわせて話をしている暇は与えられなかった。新たに現れた二体の鬼は、聞いてもいないのにべらべらと喋ってくれたので、彼らが鬼舞辻直属の配下で、その命令を受けて自分たちを殺しにきたのだということはすぐにわかった。

 炭治郎は、むろんすぐに日輪刀を構えて立ち向かったが、二体同時に相手をするのは過酷であった。毬を使う少女の形をした鬼を禰豆子と珠世たちに任せて、炭治郎は手のひらに目玉のついた男の鬼と対峙した。

 珠世は、修羅場慣れしていると言えばおかしいが、突如の襲撃に微塵も動揺せず冷静である。愈史郎は自ら拵えた守りを突破されたことに苛立ちを隠せていなかったが、それでも炭治郎が苦戦しているのを見て力を貸してくれた。

 やはり、この二人は、普通の鬼とは違う。信頼に値する人たちだ。

 愈史郎の助けもあって、炭治郎はいくらかの苦闘の末に、男の方の鬼の頸を落とした。炭治郎はここに来るまでに相当鍛えられていた上、愈史郎の貸してくれた目のおかげで無傷とはいかないものの、いくらかの打撲のみで戦いを終えることができた。

 倒した鬼の身体の消滅を見届けて、半壊した建物の側にいる珠世たちのところに戻ると、毬の少女の鬼の頸はすでに地面に落ちていた。

 その鋭利な切断面は、この鬼を討ったのが、禰豆子でも珠世たちでもないことを示している。

 答えは明白であった。椿が鬼の頸のすぐそばに、刀を支えにして膝をついている。

 愈史郎と珠世は少し離れたところに座り込んでいた。着物のあちこちに血が飛び跳ねているのが、戦いの凄惨さを物語っていた。禰豆子も同様に、いくらか着崩れして裾が乱れていた。再度の襲来があればひとたまりもないが、月の傾き具合からして、あと半時間もすれば夜明けだ。これ以上の敵襲は考えられない。

 炭治郎はほっと息をついた。

「炭治郎くん、 そちらは片付いたの?」

 椿の声はずいぶん生気に欠けていたが、それでも炭治郎は、彼女が刀を持てるし、意識もはっきりしていることに安堵した。これほど強い鬼と戦って勝てるくらいなら、具合はそれほど悪くないのだろう。

「はい。あの、傷の具合はいいんですか?」

「ええ。手当てしてくれたのね。ありがとう」

 炭治郎がそれは珠世さんと愈史郎さんのおかげです、と返す前に、椿が続けた。

「――これほど鬼だらけの場所で眠り込んでいたなんて信じられない迂闊、我ながら不甲斐ない」

 殺気が閃く。次の瞬間、愈史郎の頸が飛んだ――ように見えた。実際には、椿の刀は一直線に愈史郎の頸を狙って、喉から項部を貫通するに留まっていた。

 勢いで横転した愈史郎の喉笛から突き出た青色の刃先が地面に食い込む。

 椿は、愈史郎を完全に無力化すると、次いで懐刀を逆手に握りしめて珠世の髪を掴んで引き倒した。珠世は抵抗しなかった。

「珠世さん!椿さん!!」

 炭治郎は愈史郎を救うべきか、珠世の方に向かうべきか迷った。しかし、愈史郎が顔面血まみれの凄まじい形相で、口だけをぱくぱく動かしながら、珠世を守れと必死に訴えているのを見てしまったので、炭治郎は身体を割りこませて珠世と椿を引き離しにかかった。しかし、椿の腕は、炭治郎が力を込めた程度ではびくともしなかった。

 珠世は、澄んだ眼差しで椿を見上げていた。

「……まさかこんな形で再びお目にかかることになるとは、思ってもいませんでした」

 椿は苦し気な吐息とともに、怨嗟の色濃く滲む声で「珠世」と名を呼んだ。

「お前、お前――私たちを騙していたのね」

「し、知り合いですか?」

 珠世も椿も、炭治郎の問いかけに答えなかった。二人とも、炭治郎のことなどまるで眼中にない。

「その目は何?何か釈明したいことでもある?」

「釈明とは」

 椿に問い詰められて、珠世はそっと目を伏せた。

「我が行いを弁明し、理解を求める、醜く浅ましい自己保身に他なりません。私がすべきことは、釈明ではなく、事実を申し上げ、あなたの――」

「事実?」

 珠世の細い頸に短刀の刃を差し当てられるのを見た愈史郎は、必死で拘束から逃れようとしていたが、自力で脱することは難しいようだった。

「お前たちは医者と偽って私たちの前に現れた。お前たちの出入りが途絶えたすぐ後から、屋敷にあの男が現れるようになって、それで、それで……」

 椿は、それ以上は息をするのが苦しそうに身を捩った。そして、炭治郎の持つ黒刀に目を止めた。

「それを貸しなさい」

「だめです」

 炭治郎は即答した。椿の胸に巻かれた包帯には、じわじわと明るい血の色が染み出している。

「中に入って休んでください。傷口が開きかけてるんです」

「君こそ怪我をしているじゃない。私の鍛え方が余程甘かったようね」

「す、すみません。でも本当に手ごわくて……十二鬼月って強いんですね……」

 辺りに場違いなほど気の抜けた空気が漂った。椿が呆れかえった調子で言った。

「……あのね、こんなに弱い連中が十二鬼月なわけがないでしょう……」

「そうなんですか?」

 炭治郎がぐるりと周囲を見渡した。珠世は黙って頷いた。愈史郎は串刺し状態のまま、目つきだけで「お前は信じられないほどのバカ」と訴えている。禰豆子だけが兄に味方するようにこてんと首をかしげた。

「とにかく、珠世さんは鬼ですけど、えーっと……その……良い鬼なので……その刀を納めてください」

 椿の刀を持つ手に血管が浮き出た。

「鬼に良いも悪いもない。情をかけるのもほどほどになさいと何度言わせるつもり」

「情じゃないです。珠世さんが椿さんの傷を手当てしたのは事実です。愈史郎さんも、俺が鬼舞辻の追手の鬼を倒すのに手を貸してくれました。……人間を害する鬼は、そんなことはしません」

 差し当てた刀の先が揺れて、玉のような血のしずくが珠世の首筋を滑り落ちる。

 椿は、炭治郎に対する反証を百も二百も頭の中で考えついたであろうが、彼女にはこの上らちの明かない問答を繰り返すために体力を浪費するつもりはないらしかった。

 椿は珠世に顔だけ向き直り、重い吐息をついた。

「私の問いに答えなさい。確かに、そうね、お前の頸を落とすのはそれからでも遅くない」

 そう言って、椿は包帯ごしに自分の胸の傷口を押さえつけた。

「あの男、私に何をした?この傷、ただの傷じゃない」

 珠世は命じられるままに諾々と口を開いた。

「攻撃に自分の血を混ぜたのでしょう。いいえ、あなたは鬼にはなりません」

 ただでさえ蒼白だった椿の顔色がさらに白くなったのを見て、珠世が重ねて言った。

「呼吸を使える剣士を鬼にするためには時間がかかります。あの男、鬼舞辻無惨は、その牙を我が身に向けられることを恐れるゆえに、呼吸の剣士をその意に反して鬼にしようとは決してしません。ただ攻撃に血を混ぜて、細胞を破壊するだけ。……本来、それほど大量の血を注がれた場合、即座に人の形を保てなくなり死に至るのですが……」

「でも椿さんは死んでません」

 炭治郎が言った。今の椿は、胸に風穴を開けられる寸前だった割りには元気だ。

「そうでしょうね。あのお母さまの血を受け継いでいらっしゃるのですから」

「私の母が何だというの?」

 椿が刀を持った反対の手で珠世の髪を掴んでギリギリと締め上げた。愈史郎が抗議のために何か言葉を発そうとして、代わりに口からごぼごぼと音を立てて血を溢れさせていた。

「鬼舞辻の血は大半の生命体に有害に作用しますが、人間の中にはごく稀に、鬼にならない体質の者や、細胞破壊を受け付けない体質の者がいます。あなたのお母さまと、その血を半分受け継いだあなたは、その後者に属します。生まれつきの体質なのです。……現に今、それが証明されました。わずかな拒絶反応はありましたが、鬼舞辻の血は結局、あなたの肉体を破壊することができなかった……」

 珠世の声色には複雑な感情が入り混じっていた。

「私はそうした特異な体質の人間を、長年探し求めていました。その血を分析して、鬼化を防ぐ薬や、細胞破壊を食い止める血清を作ることができれば、鬼舞辻を倒すための強力な武器になる、そう考えてのことです」

 椿は珠世の話にも、一向に腑に落ちた様子ではなかった。

「今の話だけでは、お前たちが突然私たちのもとから去ったことの説明がつかないわ。お前が鬼舞辻と結託していないという証明はどこにあるの?」

「……私は長く鬼舞辻と敵対し、命を狙われています。あの男の気配を察した時点で、居所を悟られないよう、姿を隠しましたが、詰めが甘かった。当時の私は、長年の悲願を目前にして夢中になるあまり、いくらか警戒を怠っていました。おそらく、あの男は……私のいた痕跡を辿って、あなた方に目をつけたのだと……」

 炭治郎は息を詰めて二人の問答の行く末を見守っていた。風の音さえなく、ただ時折、愈史郎がもがくうめき声だけが聞こえた。

「お前は自分と関わりを持った人間を守るための手だても講じずにのうのうと私たちに近付いたの?」

「はい」

「お前がいなくなったあと、私たちがどうなるか少しでも考えた?」

「はい」

「母も父も信頼する相手を間違えたわ」

「お返しする言葉もありません」

 炭治郎は、珠世から漂う強烈な自責の念にはらはらした。

「責めは甘んじて受け入れるつもりです。目玉をくりぬくなり、耳鼻を削ぐなり、あなたの気が済むまで痛めつけて構いません」

 椿の眼差しに軽蔑の色が満ちた。

「珠世、お前の発想はどれだけ取り繕っても鬼でしかないわね。そんな提案で私の気分が晴れると思った?私が鬼の肉を断ち切る感覚が楽しいから、鬼が苦しむ様を見るのが嬉しいから鬼狩りをしているとでも思っているの?」

 珠世が沈黙した。

「私はお前のいうことは聞かないし、お前の罪悪感の埋め合わせに手を貸すつもりもないわ」

 椿は珠世の拘束を解いた。そして、よろめきながら愈史郎のところまで歩いていき、彼の喉に突き刺さったままだった愛刀を引き抜いた。解放された愈史郎は、一目散に珠世のもとに這いずり走った。

 椿は、二人が日陰に逃れるのを止めなかった。

 禰豆子が屋内に戻るのを見届けて、日の差し始めた庭先に目をやると、とうに形を失くした毬の少女鬼の着物が風に煽られてはためいた。力なくうなだれた椿からは色濃い失望と疲弊の匂いがした。

 炭治郎は、視界に映るものすべてが哀れでならなかった。

「ごめんね、先輩なのに頼りにならなくて」

 しばらくの沈黙の後、椿が言った。

「そんな」

「いいの。骨は折れてない?」

「はい。打撲だけです」

「良かった」

 椿は、それだけ確認すると、珠世たちの後を追って地下に向かった。

 炭治郎が先ほどのような修羅場になりはしないかと気遣わし気に見つめると、椿は「大丈夫だから」と安心させるように微笑んだ。

 愈史郎が、珠世を庇うように立ち塞がった。

「そこを退きなさい」

「珠世様に何をする気だ」

「話をするだけよ。そもそも愈史郎、お前のことは昔から気に入らなかった。よくもうちの女中を泣かせてくれたわね」

「なんの話だ!」

 愈史郎が吠えた。後ろに立つ珠世が「愈史郎」と呼んで彼を沈黙させた。

「珠世。鬼舞辻無惨を抹殺したいというお前の本心に偽りがないのなら――」

 椿はためらいを振り切った、落ち着きを払った声で言った。

「――私とともに鬼殺隊の本拠に来なさい。あの方は、鬼舞辻無惨を倒すためであれば、人喰い鬼を身中に引き入れる愚を冒すことを躊躇わないでしょう」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

未来編2
あなたに会いたい


完結一周年記念未来編パート2。


 遅咲きの桜が散り始めた頃だった。植え込みのつつじが一斉に薄紫と白色の花を咲かせて、これから盛りを迎えようとしていた。

 素晴らしい陽気の昼下がりだ。父と妹は散歩に出ていて、母は庭の植栽の手入れをしていて、残された俺は一人、家内に残って数学の宿題を解いている。差し込む日差しに集中力が散漫になり始めたころ、玄関口から「ごめんください」と子供特有の甲高い声がした。妹の友達だろうか。俺は息抜きの口実ができたので内心喜びながら、来客を迎えるべく玄関先に向かった。

 そこに立っていたのは、背格好からして俺より三つか四つは年下だろう少年だった。

「不死川さんのお家はこちらでしょうか?」

 俺は、はいそうですが、と返事をするどころではなかった。少年の既視感のある顔立ちに、息が止まりそうなくらい驚いていたのだ。

「……冨岡さん?」

 もちろん、そんなはずはなかった。父と母の旧知で、幼い俺によく目をかけてくれた青年であった冨岡義勇は、十年以上も前にこの世を去ったのだ。そもそも年齢が違う。

 見当違いを口走ったことを謝ろうとするより先に、少年が「父をご存知なんですか?」と声を弾ませた。

「俺は冨岡義勇が長子、義人(ぎひと)と申します。ご夫妻は在宅ですか?」

 俺が立て続けの衝撃に二の句を継げずにいると、後ろから来客に気が付いた母がやってきた。少年は恭しく頭を下げた。母が驚きにわずかに目を瞠ったことで、この少年が、我が家の誰にとっても思いがけない客人であることがわかった。

「よくいらっしゃったわ。どうぞ中に入って」

 俺は母に指示されるがまま台所の戸棚から羊羹を出し、来客用の上等な茶を淹れた。

「どうしたの、そわそわして」

「いや、だって……冨岡さんに息子さんがいたとか、初耳なんだけど」

「そうだった?」

「そうだよ!」

 小声で言い合いながら居間に戻ると、義人少年は座布団の上に行儀よく正座して待っていた。きちんと躾けられた行き届いた佇まいは、小柄(俺基準)でなよなよしい(俺基準)見た目を補ってあまりあるほど少年を利発そうに見せていた。俺は少年の、ぴんと伸びた背筋に、何か武道でもたしなんでいるのかもしれない、と思った。

「どうしてここがわかったの?」

「住所は誰にも教えてもらえませんでした。だから、鴉の行く方向から大体の当たりをつけて、後はこの辺りのお家を一軒一軒訪ねて回ったんです」

 玄関にきちんと脱ぎそろえられた子供用の革靴のかかとが随分とすり減っていたことが、虚言でないことの証拠だった。俺は内心、なんて奴だと呆気に取られた。……鴉に聞くって何だ?

 聞けば彼は今年十三で、進学のために母親の元を離れ、今は東京の寄宿舎で生活をしているのだという。

「お母さまは元気?」

「はい、とても。三日に一度は葉書が届くんですよ」

 義人はそう言って、人懐っこい笑みを浮かべた。

 俺は、母にこれが息子だと紹介されている間も落ち着かずそわそわしっぱなしだった。仲良くしていた叔父さんに隠し子がいることが突如として発覚した、ちょうどそんな気分だったので、義人が「生前は父がお世話になりました」というのにも、「むしろ俺が世話になった方というか」としどろもどろに答えるしかなかった。

「本日は、お願いがあって参りました」

 一通りの歓談が済むと、義人は和やかな雰囲気から一転して神妙な顔つきになった。母は意外そうではなく、むしろこう切り出されることを予想していたかのようだった。俺は一人、話についていけず取り残されて、おろおろしている。なんだ、なんなんだ。

「産屋敷家の社に奉納される神楽、水の呼吸の型は、壱から拾までの十個の型を舞うものです。しかし、本来の水の呼吸には、十一個目の型があるのだと先生は仰いました」

 義人は指を揃えて畳に手をつき、深々と頭を下げた。

「僕は貴女様から、失われた拾壱の型のご教示を賜るために、こちらにお伺いしたのです」

 一体全体この少年は何を言っているのだろう。神楽だのなんだの、母に何の関係があるんだ。

 水を打ったような静寂の中で母が口を開いた。

「『凪』はあなたのお父さまが編み出した、あなたのお父さまだけの技。私ではお力にはなれないわ」

「でも、父の継子だったんでしょう?父亡き今、貴女が拾壱の型の唯一の使い手であると、僕はそう伺いました」

「誰からそんなことを聞いたの?」

「村田のおじさんに」

「……村田さん……」

 笑顔のままの母の額に青筋が浮いた。これは怒っている。かなり怒っている。

「あなたの志が無欠の型を受け継ぎたいことにあるなら、お父さまが遺した指南書に当たりなさい。それで絶えてしまうなら、それまでのこと」

「先人から受け継いだものを、正しい形で後世に伝えるという責任を放棄するんですか」

「そんな責任は君にも私にもないのよ」

 義人の語勢は詰問するかのように激しくなった。一方、母は言っていることの中身はともかくとして声音は労わるように優しく、それでいて決して説得されないだろうと予感させるには十分なほどの頑なさを帯びていた。

 加熱する応酬に、これは制止に入った方がいいのだろうかと思い始めた矢先、客間の戸が勢い良く開いた。

「舐めた口利いてんじゃねェぞこのクソガキ」

 父である。いつの間に帰ってきていたのだろうか。廊下に仁王立ちする父からは気の弱い子供などは泣いて逃げ出しかねない威圧感が滲み出ていたが、腕に抱っこされた雪子に「父さま、お顔こわーい」と頬を突かれていたので、その迫力の大部分が損なわれていた。

 父は散歩帰りでご機嫌の娘を降ろした。

「父ちゃんな、お客と話があるんだ。兄ちゃんとあっち行っててくれるか」

 巻き添えで追い出された俺は、雪子を連れて隣の茶の間に戻った。机の上にはやりかけの宿題を放り出したままだったが、手を付ける気にはなれなかった。

「あの子だあれ?」

 雪子はそう言いながら、茶の間と客間を隔てる土壁にもたれてぺたりと耳をくっつけた。興味津々である。無理もない。義人は、腕白小僧ぞろいの同級生の中には絶対にいないタイプの少年だ。

「冨岡さんの息子さんだって。なあ、煎餅食べるか」

「いらない。父さまがお団子を買ってくれたの」

 俺は畳の上に引っくり返り、すべての責務を放りだした。雪子が煎餅で誤魔化されないのは、腹いっぱいになるまで買い食いさせた父のせいであって俺のせいじゃないし、この家の壁が薄くて、隣室の会話などちょっと耳を澄ましただけで筒抜けなのも俺のせいじゃない。

 壁の向こうでは、母が懸命に少年を諭そうとしていた。

「どんな物事も必要とされなくなれば廃れていくのよ。平和な時代に、そんなものを受け継いでいくことになんの意味があるの?」

「そんな……そんなものじゃありません。なぜ、力を貸してくださらないんですか?お父さんの友達は、過去のことなんか恐れたりしない、勇敢な人たちだと思っていました」

「伝統だの継承だのとくだらねえ感傷に人を巻き込んだ挙句腰抜け扱いとは何様のつもりだテメエは」

「くだらなくなんかない」

 義人の声は激情のあまり震えていた。俺は彼が激情に任せて父に飛びかかったりしないかとはらはらしながら耳をそばだてていた。そうなった場合、義人には万が一にも勝ち目はないからだ。

「誤魔化すな。てめえがこだわってんのは、そんなもっともらしい理由じゃねえだろ」

 父が不愉快そうに鼻を鳴らして、荒々しく立ち上がる気配がした。

「父親が恋しけりゃ鏡でも見とけ。……あいつが化けて出たようなツラしてんだからよ」

「あなた」

「おい椿、取り合うなよ」

 父はそう念押しして、もう話すことなどないとばかりに二階に上がってしまった。

 どんなに失礼であったとしても、相手は子供だ。あんなに攻撃的に出なくたっていいだろうにと反発するよりも先に、あんまりにらしくない態度なので、父は何がそれほど気に入らないのだろうと、俺は首を捻らざるを得なかった。

 それにしても義人は大した奴だ。あの父に凄まれて、真正面から言い返すとは。父の剣幕をものともしないのは、うちの家族と、宇髄の親父さんと往診の主治医と、通りの角の菓子屋のおばあちゃんと……結構いるな。

「出直します。また今度、改めてお話させてください」

 母が返事もしない内に、少年が「お邪魔しました」と言って客間を出ていく音がした。俺はさっと廊下に出て義人の後を追った。

「送ってく」

 義人は意外そうにしたものの、こちらの申し出を断らなかった。

 門を出てからしばらくは無言で歩いていたが、俺の方が沈黙に耐え切れなくなった。

「悪かったな。普段はあんな理不尽に怒る人じゃないんだが」

「ううん。対等に扱ってもらえてるって気がするから、嬉しいよ」

 少年はそう言ってはにかんだ。あれが嬉しいのか。変なやつだ。

 停車場に着くまでの間、俺たちはとりとめのない雑談で盛り上がった。義人はやはり剣道をやっていて、身体を動かすのは得意だけれども、人と戦うと勝率は良くないということだった。

「先生は技術が足りないんじゃなくて、勝気が弱いからだって言うんだ。でも人を打ちつけたりするのって、気分がよくないし」

「向いてねえよそれ。さっさとやめろよ」

「でも必要なことだから」

 何が必要なんだかはわからないが、義人の決意は固そうである。本当に変な奴だ。

「君も剣道やるんだ」

「ああ」

「どんな型を使うの?」

「どんなって、普通だよ」

 俺たちは人の流れに押し出されるようにして停車場に続く橋梁を渡り切った。踏切の鐘の音がけたたましく響いていた。

「僕、風の呼吸の剣舞を見たことあるよ。かっこいいよね」

「何だよそれ。カゼ?」

「何って」

 何を言っているのかわからず、茶化し気味に返すと、半分笑ったままの義人の顔に戸惑いに似た表情が浮かんだ。

「だって、君のお父さんは――」

 その時、乗り場に列車が到着した。重たい鉄がこすれるその轟音のために、俺は義人の言葉を拾い損ねたのだった。

 何を言ったのかと聞き返す暇もなく、義人は「さようなら、また来週」と手を振って乗降口に向かった。俺はどことなく釈然としない気分のまま、人混みにまぎれて消えていく小さな背中を見送った。

 来た道を引き返して家に戻ったときには、すでに日が傾き始めていた。普段通りの夕方だ。雪子は家の前の道で近所の友達と一緒に手毬をついて遊んでいたし、父は茶の間で洗濯物を畳んでいた。俺は台所で夕飯の準備をしている母の背中に向かって、別れ際の義人の言葉を伝えた。

「あいつ、また来週来るって」

「そう」

 母は包丁を動かす手を止めることもなく、なんとない調子で返事をした。

「何時ごろに来るか聞いた?ほら、今日よりも早く来てくれたらお昼ご飯を一緒にできるでしょう。どんなものが好きかしら。おやつも用意しないといけないわね。甘いものが嫌いじゃないといいんだけど」

「母さん」

 俺は少し早口な母の言葉を遮った。

「母さんが嫌なら、俺、あいつのことぶん殴っても追い返すよ」

「そんなことはしなくていいのよ、仲良くしてあげてね。……優しい子、こっちにおいで」

 

 

 

 義人は「また来週」の言葉通り、一週間後の休日に再びやってきた。次の週も、その次の週もだ。母にうんと言わせるまでは、時間が空き次第来ることにしたらしい。遊びたい盛りに貴重な休みを無為に浪費することもないだろうに、もしかして友達いないのか?

 彼はたいがい午前のうちにやってきて、昼飯を囲み、世間話でもして、それで帰っていく。

 母は小さな客人を決して無下にしたりせず、丁重にもてなした。もっとも義人の望みを叶える気はひとかけらもなさそうだった。

 父は、天敵ができて張り合いが出たのか、近頃はすこぶる体調が良い。その代わりといってはなんだが機嫌は悪い。一昨日など、庭で何をしているのかと思えば野球のバットを振り回していた。義人の脳天をカチ割る練習をしてるんじゃないといいんだが。

 義人はこちらの都合などお構いなしにやってくるので、父も母も仕事で不在なことがある。雪子さえいないときは、俺がこいつの相手をすることになる。義人は男のくせに喋るのが好きで口数が多いので、俺は適度に相槌を打っていさえすれば良く、相手をするのはそう難しくなかった。

「君は気にならないの?昔、自分のお父さんとお母さんがどんな人だったか、どんなことをしていたのか」

 昼飯の後、五目並べに興じていると、義人がだしぬけにそう言った。

「いや、別に……」

「本当に?」

「しつこいぞ」

 ぱちんと音を立てて盤上に白石を置くと、義人があっと声を上げた。白石が五つ一直線に並んだ。俺の勝ちだ。義人はばかじゃないんだが、恐ろしく勝負事に弱い。五目並べで黒石を持って負け続けられるのは、いっそ才能だと思う。

「お前の都合は知らねえけど、人には人の事情があるんだ。あんまり無遠慮につつき回すなよ」

 そうは諫めたものの、本当に、本心から全然気にしていないのかと言うと、それは嘘だった。だが二人は、あんまり昔の、込み入ったことを話さない。話したがっていない。俺にもそれくらいはわかる。本人たちがあえて内緒にしたがっているのに、無理に暴いて何になるんだ。

 大体、俺はいまだに神楽だの呼吸だの、義人が何を言ってるのかさえさっぱりわからないのである。

 義人の口調からは俺が母をその気させてくれないかなあという下心が見え透いていたが、怒る気にはならなかった。というか、誰も義人のことが嫌いになれなかった。父でさえ、義人がいつもより来るのが遅くなった時は心配して、あいつはまだか、車に轢かれてないだろうななどと憎まれ口を叩いてそわそわする有様だった。

 

 

 

 梅雨の季節がやってきた。もはや週末の来客は恒例になりつつあった。

 その日はやや曇りがちなこの時期に貴重な晴れの日だった。俺は夜更かしをしたせいでいつもより遅く起きた。顔を洗って茶の間に入ると、父が母の膝枕で横寝していた。見るからに落ち込んだ雰囲気だ。

「なんかあったの?」

「雪子がね、義人くんたちとお出かけしちゃったの」

 そういえば昨晩の妹は、友達たちと遊園地だか公園だかに行くのだと張り切って、てるてる坊主を吊るしていたな。父は大方、朝になって集まった顔ぶれを見て、子供たちだけで遠出するのはと渋ったに違いない。

「そんなに心配なら後ろからこっそりついていけばいいだろ」

「だめよ。ついてこなくていいって言われちゃったものね?」

 母はくすくす笑いながら父の髪を撫でた。父は落ち込んでいたなりに母の膝の上で慰められていてまあまあ幸せそうなので、俺は黙って朝飯を掻き込むことに集中した。

 俺は何も心配していない。あいつはしっかりしてるし、見た目の割りに肝が座っている。その上、年下に対しては面倒見が良いし、穏やかで優しいし、なんといってもあやとりとか人形遊びとか、女の子の遊びに嫌がりもせずに付き合ってくれる義人は、少女たちから「頼りになる年上のお兄さん」という、俺が絶対に獲得できない立ち位置で慕われてるのである。やっぱり義人は剣道、やめたほうがいいと思う。向いてない。

 残った飯の上に茶を注いで茶漬けを作っている俺の脳裏に、不意に義人の言葉がよぎった。

 気にならないの?

 気にならないわけないだろ、と俺は心の中で反芻した。分別のつかない子供の頃なら不思議に思ったことは何でもお構いなしに口に出したろうし、実際そうしていたが、あいにくその時周りの人たちがどう答えてくれたか思い出せない。

 呼吸って何?神楽って何?冨岡さんはどうして死んでしまったの?父さんが身体中傷だらけなのはなぜ?なぜ母さんの……母さんは……

 …………

「どうしたの?」

「足りなかったか飯」

 俺は首を振った。息子のほんのちょっとの感情の揺らぎに気付いて、心配を巡らす両親に、一体何を言えるだろうか。

「なんでもないよ。天気も良いし、久しぶりに釣りに出たいと思って」

「おっ、釣竿だな」

 父の関心は物探しに移った。もともと切り替えの早い、いつまでも落ち込んでいるのが性に合わない人だ。父は物置に向かい、奥から釣り竿を取り出して渡してくれた。

「お友達と一緒に行くの?」

「ううん。親父、今日は仕事休み?」

 だめ元で誘ってみると、父は二つ返事で乗ってきた。雪子に振られたので、暇を持て余していたらしい。

 俺たちは母に見送られて、近所の川辺までやってきた。広い河岸は、朝釣りの時間をとうに過ぎていたので閑散としている。草の上に腰を下ろして釣り糸を垂らすと、まもなく鮒が二匹、三匹とかかった。しかし、それ以外に何か釣れる気配はなかった。

「不満そうなツラしてんな」

「だって鮒ってあんまり美味くないだろ。季節も悪いし」

 俺が「鰻が釣りたかったんだよ」とぼやくと、父は「贅沢な奴だ」と笑った。

 釣り竿を握ってじっとしている間、俺は学校であったこととか、世間で流行っていることとかのどうでも良い話をした。父はおかえしに、昔の話をしてくれた。昔の話というのは、義人が期待しているようなことではなくて、父がまだ少年だった頃の話だ。

 俺はその話を聞くのが好きだ。

 昔は食べるものがなかった。近所の料理屋から漂う匂いを嗅いでまでして空腹を紛らわせていた。そんなある日、溝の中に泥鰌が泳いでいたのを見つけた。思わず素手で掴み取って、家に持って帰って、どじょう汁にして弟たちに食わせた。そういう話だった。

「あの時はいいことをした気分だったが、よくよく考えりゃドブの中を泳いでた泥鰌なんざ、不味くて臭くて食えたもんじゃなかったかもしれねえなァ……」

 父は遠い目をして水面を眺めている。

「不味けりゃそう言ってるよ。みんな美味そうに食べてたんだろ?」

 父は黙って俺の頭を掴んでわしゃわしゃ撫でまわした。

 それから俺たちは、夕飯にするには十分な分だけの鮒を手桶に入れて持ち帰り、母が不在にしていたのを良いことにすっかり夕食の準備を終えてしまった。俺は炊きあがった鮒飯を、仏壇に供えて手を合わせた。

 

 

 

 そうこうしている内に長雨は明けて、季節は夏へと移っていった。厚手の布団は押し入れに仕舞われ、毎晩蚊帳を吊るして寝るようになった。

 義人の方は相変わらず飽きもせずに通ってくる。筋金入りの頑固の母にここまで食い下がるとは、本当によく頑張る奴だ。

「一度だけでいいんだ。あと少し、あと少しなんだ。頭ではどうすればわかっている。たった一度でも正しい形を見せてもらえれば、それでいい」

「ふーん」

 いつもの帰り道である。義人の言うこともいつもと変わりない。義人は俺の呑気にかちんときたのかややむくれた調子だ。

「お父さんのこと知りたいって思うの、変?」

「変とはいわねえけどよ、それなら型?とかより先に自分の母さんからどんな人だったか聞けばいいだろ」

 俺がそう言うと、義人は「はあーっ」と、呆れたため息をついた。

「あのさ、もうちょっと考えてから発言してよ。女手一つで子供を育てるのはただでさえ大変なんだよ。それなのに、僕があんまりしつこくお父さんのことばかり聞き出したら、片親で寂しい思いをさせてるんじゃないかとか、自分の世話がいきたりないんじゃないかとか、お母さんに要らない心配をさせるじゃないか」

 年下から真面目な説教を食らわされ、俺は沈黙した。母親に心労をかけたくないという義人の気持ちはとても立派だ。その代わり、俺の母親が非常に迷惑を被っているのであるが、それはどうなんだ。

 義人は俺の前に飛び出て後ろ向きに歩を進めながら(こけるぞ)、眼差しをきらきらさせながら言った。

「君は僕のお父さんを知ってるんだよね。どんな人だった?」

「どんなって……優しくて良い人だったよ」

「抽象的過ぎるなあ。もっと具体的に」

「注文の多い奴だな!俺だって大したことは覚えちゃねえよ」

 物心つくかつかないかの幼児の頃までしか世話になっていないのであるから、具体的な人柄など語れるわけがない。俺がのらりくらりとかわしていると、義人は役立たずとでもいいだけな視線をくれてよこした。注文が多い上に失礼な奴である。

「俺以外にもっと聞ける人が他にいるだろ、その人たちに聞けよ」

「聞いてるよ。でも、寡黙だったとか、お喋りだったとか、お葬式みたいに暗かったとか、いつもにこにこしてて明るかったとか、人によって言うことがまちまちだから結局よくわかんないんだよね……でも、鱗滝先生も、村田さんも、輝利哉さんも、みんな一つだけ口を揃えるのはね、お父さんはたくさんの人の命を守った、すごい剣士だったんだって、そういうんだよ」

 義人の真剣さは痛いほどだったが、俺は頭が痛かった。これはあれだな、こいつがあんまりにもしつこいもんだから、みんなで結託して作り話を吹き込んだな。それにしたって、与太話にしてももう少し現実味を交えてほしいものだ。剣士ってなんだ。尊王志士か?新撰組なのか?どっちにしろ、こんな大法螺を本気で信じ込んでいる義人がかわいそうだ。

「はあ。で、誰と戦ってたんだよ。幕府軍?ロシア兵?」

「お父さんが戦ってたのは人間じゃない。人を食べる不死身の化物――鬼だよ」

 やべえな。妄想が加速してる。みんなつくづく罪作りをしてくれたものだ。ひでえよ輝利哉くん。

 俺も一瞬調子を合わせようとしてしまったが、妄想の負の連鎖はここで断ち切って置いた方がいい。俺はそれこそ心を鬼にしてキツめの言葉を投げた。

「何だよ鬼って。お前幽霊とか妖怪とか信じてんの?見たことあんのかよ」

「な、い、けど」

 義人はぐっと詰まって立ち止まり、つられて歩みを止めた俺に「嘘じゃないよ」と威勢を張った。

「嘘とは言ってねえよ。けど、たとえ話にしてももうちょっと他にあんだろ」

「やっぱり嘘だと思ってるんだ」

 義人は唇を噛みしめると、くるっと向きを反転させて、夕日の方角に向かって猛烈な勢いで走り去っていった。そちらが駅の方角だったわけで、何も気にするようなことはなかったのだが、取り残された俺は割り切れないようなもやもやした気持ちを抱えて帰路につかなければならなかった。

 追いかけてやるべきだっただろうか。しかし、間違ったことを言ったとは思わない。俺は間違っていない。そう思うのだが、翌朝になってもどうにもすっきりとせず、授業中も教師の講釈など一つも耳に入ってこない。上の空で黒板の方に目線だけを向けるのが精一杯だ。

 義人の主張は何も論理的じゃないし、筋も通ってない。しかし、これは理屈の問題ではない。感情の問題だ。

 午前の授業の終わりを告げる鐘が鳴った。

 席を立つと、隣で爆睡していた宇髄が目を覚まし、大あくびをしながら言った。

「おーい不死川、昼飯は?」

「野暮用。先生には体調不良で帰りますって伝えといてくれ」

 宇髄が「言い訳にしても無理があるぞー」と追撃するのを無視して、学校を出た俺は真っ直ぐに駅を目指した。

 謝りに行こう。悪いことをしたと思っていないのに謝るというのは、これはこれで失礼な気もするが、言い様に多少、配慮が欠けていたのは事実だ。

 電車を乗り継ぎ、義人の通っている中学校に到着したのはちょうど休み時間の終わりごろだった。義人は校庭の端で、友達らしい同級生に囲まれて楽しそうに喋り合いながら校舎に向かっている。俺はほっとした気分になりつつ(なぜほっとしたのか自分でもわからないが)、「おい」と手を上げて声をかけた。こちらに気付いた義人は、昨日のゴタゴタを根に持っているらしく憮然とした表情だったが、友人たちが必死で止めようとするのを「知り合いなんだ」となだめてついてきてくれた。我ながら絵面が犯罪的だったと思うので、彼らの反応は理解する。なかなかいい友達を持ってるじゃないか。俺が完全に悪役なのはいいんだ。慣れてるからな。

 近くの駄菓子屋の店先の腰掛けに座り、二本買ったラムネの瓶の一本を渡すと、つんとしていた義人の表情筋が緩んだ。

「昨日は言い過ぎた。悪かったな」

「それだけ言うためにわざわざ来たの?」

 義人は、甘い炭酸水と俺の謝罪で満足そうである。

「謝りにきたってことは、僕の言ったこと信用してくれたんだよね」

「ああ、お前の中ではそういうことになってんなら俺に文句はねえよ」

「信じてないじゃん!!」

 義人は両手を使ってバシバシと俺の背中を叩き抗議したが、威力も迫力もほとんどゼロだ。義人はまもなくお店の人の「子供は元気があっていいわね」的な視線にあてられて冷静さを取り戻し、腕を組んで大股に座りなおした。

「僕のことを信用しないのはもういいよ。でも、僕にあの話をしてくれた人たちを嘘つき呼ばわりするのは許せない」

 義人はそう言って、今度先生のもとに来て、一緒に父の話を聞いてほしいとまくしたてた。話をしてくれた人の中で、その先生が一番年嵩だから、したがって説得力も高いだろうと言うのだ。俺は面倒なことになったなあと思ったが、これ以上臍を曲げられるともっと面倒なので、義人の提案に合意した。年上は年下のお願いを聞いてやるものだ。

 当日は朝から曇っていた。俺たちは停車場で待ち合わせをして、朝一の人もまばらな列車に乗り込み、西を目指した。郊外に出れば田畑が広がる単調な風景が延々続くばかりである。

「暇だな」

「トランプ持ってきたよ」

 用意のいい義人のおかげで、道中は退屈せずに済んだ。

 目的の駅で下車して、さらに小一時間も歩くとそこが義人の先生の住む土地だった。のどかな土地で、近くに集落があり、鬱蒼とした杉林が山のすそを覆い隠していた。

 義人が家の前で戸口を叩くが、中から応答がない。一反ほど離れた隣家に向かうと、中から中年の女性が出てきて「義人ちゃんお久しぶり」と挨拶をした。

「鱗滝先生は?」

「左近次さんなら、しばらく前から草津まで湯治に出てるよ」

 うちに来たときもそうだが、こいつは人に会う気があるなら事前に手紙を送るなり電話するなりして、前もって連絡しておくべきだ。俺がそう言うと、義人は「今度からそうする」とがっかりした様子で言った。

 いないものは仕方がない。俺たちは近くのお社の石段に座って、家で作ってきた握り飯を食べた。

 今更ながら鱗滝さんとはどういう人なのかと聞くと、自分の剣道の先生で、親戚のおじいさんみたいなものだと言った。村田さんといい輝利哉くんといい、義人には親戚のおじさんやお兄さんのようなものがたくさんいる。

「この山の上に、お父さんの友達のお墓があるんだ。折角だからお参りしていっても良い?」

 特に断る理由がない。せっかく遠方の土地まで来たのだ。山登りなんて家族で日光旅行に行った以来だとのんきに構えていた俺であるが、すぐに見通しの甘さを思い知らされる羽目になった。日頃から人の行き来はあるらしく、人間が通るのには十分な道が通っているが、なんせ勾配がきつい。そんなに高くないはずなのに異様に空気が薄い。昼間なのにやけに薄暗くて不気味だ。なんなんだこの山は。まず行楽目当てに登るような山じゃない。

 厚い雲が流れて、じきに晴れ上がり、夏の太陽が顔を出した。日盛りの灼熱がじりじりと大地を焼く。

 強烈な日差しに照らされながら、険しい山道を登っていくのはかなりの苦行だったが、弱音は吐いていられなかった。俺よりもよっぽど小柄な義人が、悠々と足を早めて登っていくのだ。こうなると意地である。

「無理しなくていいよ。先に降りる?」

「そうはいくか」

 それからしばらく登ると、道沿いの小高くなったところに地蔵が十ばかりと石碑が並んでいた。義人は早速地蔵に線香を上げに行った。俺は日陰に入って水を浴びるように飲んだ。

「ここ、しょっちゅう登ってんのか」

「先生と一緒にね」

「よくやるよお前」

 あたりに線香の匂いが漂った。義人が地蔵に手を合わせながら口を開いた。

「この山の峰には、死者の霊魂が棲んでいるんだって言い伝えがあるんだよ」

「誰が納涼怪談話を始めろつったよ」

「そういう話じゃないから」

「どういう話だよ」

「僕の友達にね」

 義人は頭上に広がる鮮やかな青空を仰いだ。

「病気でお母さんを亡くした子がいてね、しょっちゅう夢にお母さんが出てくるんだって。羨ましいな。僕も、夢でも幽霊でもいいからお父さんに会いたいよ」

 話繋がってねえよ、とは言わずにおいた。父親を知らずに育った子供の切実な願いをからかいで返すのは残酷すぎる。

「……幽霊がいるかは知らねえけど、自分の代わりにお前が友達の墓参りをしてくれるのは喜んでると思うぜ、多分」

「うん」

 ちょっと踏み込みすぎたかと思ったが、義人は気を持ち直して、少し微笑んでこちらを振り返った。

 

 やかましいほどの蝉の鳴き声が、一瞬、遠くなる。

 

 目を見開いて俺の背後を凝視する義人の視線に釣られて後ろを振り返ると、藪に囲まれた木陰の目に痛い緑の中に、影がある。

 人の影に見える。

「お父さんだ」

 義人はそうこぼすや否や、脱兎のごとく走り出した。俺は荷物をその場に放り出して後を追った。

「ばかいえ!お前の父さんは死んだんだ!」

 義人は止まらなかった。木陰の合間に見えた影は、確かに人影のように見えなくもなかったが、おおかた鹿か猪かの獣の類だろう。死者の霊が出ると評判の山中で、まさにその幻影に遭うなんてくだらない、ばかげた話だ。

 どのくらい走っただろうか。森を抜けると、背の高い杉林に囲まれた空地に出た。正面には真っ二つに割れた巨大な岩が鎮座している。頭上の枝葉の隙間からは、太陽の光がさんさんと降り注いでいた。

 目の前を、たぬきの親子連れがすみかを荒らしに来た人間に恐れをなしてわさわさと走り去っていった。

 義人は岩の前で、息を切らしてしゃがみこんでいた。俺は隣に膝をついて肩を叩いた。

「ほら見ろ。誰もいやしねえよ」

 俺は口を閉じた。義人の目から大粒の涙が溢れ、汗とともに伝い落ちて、乾いた地面を濡らしていた。

「……みんながお父さんのこと、素晴らしい、立派な人だったって言うんだ。僕もそんな風になりたいのに、お父さんと同じようにできない。僕には才能がないんだ、きっと。お父さんと違って」

 そう言うと、義人は立ち上がって、涙の流れる目元をこすった。

「ごめんね、こんなところまで連れてきちゃって。迷惑だったよね」

 俺はかける言葉を持たなかった。俺には父無し子の孤独も辛さも真に理解してやることはできない。義人は父親と一緒に山登りすることもなければ釣りに行くこともできない。それが無性に悲しかった。

 

 

 

 次の週末、義人は姿を見せなかった。雨が降っていた。どこにも遊びに行けないから、雪子はつまらなさそうに鶴を折っている。

「義人くん、こないねえ」

「そうだな」

 蒸し暑く、家の中がいやに静かに感じられた。母が雨の中仕事に出て行ってしまったから余計だった。ここ数か月、義人が訪れるようになってからは、休日の昼時は賑やかなのが常だったのである。

 俺は二階の六畳間まで上がって行った。父はそこで黙々と仕事道具の手入れをしていた。

 俺は、意を決して、父の背に声をかけた。

「話があるんだけど、いい?」

 

 




冨岡さんの余生が気になります。無事に綺麗な奥さんもらって可愛い子供に恵まれたんでしょうか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。