オフィーリアの菫 (魚澄蒼空)
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オフィーリアの菫
廊下から流れてくる空気の冷たさは、きっと木枯の仕業ではなかった。
悴む手で掴んだノブの感触がよく分からなくて、ガチャガチャと何度か回す。少しして漸く開いた先の室内は、当然のように暗くて冷たい。吐いた白い息が擦れてその中に消えていき、追いかける訳でもなく靴を脱ぐ。後ろで閉まったドアの音が、重く響いた。
霞みがかった視界の中でコートを脱ぎ捨て放ると、着地地点のテーブルに積んであった雑誌が崩れて床に落ちる。週刊の漫画雑誌は煩わしい音を立てながら、間に挟まっていた薄っぺらい女性誌を吐き出した。丁度僕が今投げ出したコートのような無造作に、くたびれた
何度も読み返された折り目と、カップのシミ。薄茶色に輪を描いたそれは、痣のように遺っている。旅行特集の頁だった。スミレの群生地の写真がでかでかと載っている。捨てて行けよな、なんて文句は苦笑とともに何度も浮かんでは消えてを繰り返していた。
散乱した雑誌をまた積み重ねる。結局女性誌もその中に埋めて、僕はベッドに身を投げた。皺を刻むシーツから仄かに香水が匂ったような気がした。甘い香りに眩んで目を閉じる。
残業終わりの鈍痛を引っ提げた頭に浮かぶのは、残り香に釣られた根雪のような残像だった。置いていった雑誌、染み付いたスミレの香り。
捨てられないのは僕の方だった。捨てて行け、なんて言っておいて。明日は紙ゴミの日じゃないからと、おざなりに濁らせながら。本当に捨ててしまいたいものは多分別にある。
今も見る緣に散りばめられた、近く遠いものが。
それが何かなんて、考えたくもなかった。
▽
春が嫌いだ。
柔らかい陽光が照らすキャンパス内を呆然と歩いていた。二次試験当日と入学式前のオリエンテーション、二回しか踏んだことのない石畳の上で、僕の足は覚束なかった。
青葉を揺らす銀杏の下で深く息を吐いた。青いながらも落ちてしまった数枚の葉は、地面にすり潰され緑色の汁をぶちまけている。
見渡す人の群れは各々の方向へと消えていく。勝手に迷ってしまった僕が悪いと言えばそうなのだが、それでも無関心に流れる人混みにどことなく感傷を覚えた。
初回から講義に遅れたくなんてないが、今まで頼りっぱなしだったスマートフォンの地図アプリにも流石に教室までは載っていない。
もう一度、大きなため息を吐いた。
「君、新入生?」
ふと声を掛けられた。後ろからのそれに振り向くと、声の主は思ったよりも近くから僕のことを見上げていた。
明るい茶髪を肩まで伸ばして、揺れた拍子に鼻をくすぐった香りは甘い。円らな双眸に捉まえられて、僕は小さく返事をした後に「ちょっと迷っちゃって」と付け加えた。
「ここ、広くてわかりにくいもんね。どこに行きたいの? 案内してあげるよ」
「いいんですか?」
「うん。一限は空きコマだから暇だし、全然大丈夫」
「ありがとうございます」
「あはは、まだ何もしてないよ?」
「でも、どういたしまして」。そう言いながら浮かべた気取らない彼女の笑顔に、思いがけない動悸が胸中へとやって来た。
頭一個分だけ低い位置から向けられた視線に上手い言葉も返せずに、行きたい講義室の番号を伝える。頷いて先を歩き始めた彼女に、僕はやっぱり覚束ない足取りで付いていった。
一緒に歩いているだけでだんまりの僕に、彼女は色々なことを尋ねてきた。風に吹かれて梢を鳴らす木々なんかよりも僕の方がずっと静かだった所為で、もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。
出身、学部、住んでいる場所。ありきたりな内容から会話を広げられるのも一種の才能なんだろうなと、簡単な受け答えしかできない自分を恨みながら彼女に合わせて歩を進める。
彼女──先輩は文学部で英文学を専攻しているらしい。古臭い書庫で分厚い本を読んでいる埃っぽい図でも、彼女なら何となく様になる気がした。そんな意味を込めて「似合うと思います」とだけ言うと、先輩は少しだけはにかんだように笑った。花が綻ぶような、そんな笑みだった。
「さて、着いたよ」
そうしない内に着いた講義室は思いの外近かった。どうやら僕は同じ場所をぐるぐると回っていたらしい。僕がそのことに気づいた時、先輩は苦笑しながら言った。
「だから声掛けたんだ。君、すっごく困ってます! みたいな感じ出てたもん」
「……そんなに露骨でした?」
「うん。眉間にめっちゃ皺寄せてさ、皆話しかけづらかったんじゃない?」
大げさに眉根を寄せてみせる先輩。窓から差し込む光の作る陽だまりに透ける細い髪と柔らかい香りにその表情だけが似つかわしくなくて、感じた少しの可笑しさで口の端が僅かに吊り上がるのを自覚した。
「だから、もっと笑った方がいいよ」
「善処します」
「ん、よろしい!」
頷いた先輩の横を通り過ぎて学生が講義室へ入っていった。そろそろ講義が始まるらしかった。
「じゃ、無事着けたことだし私はそろそろ行くね」
「はい。ありがとうございました」
「いいよいいよ。あ、そうだ!」
踵を返そうとした先輩がバッグからスマートフォンを取り、僕の前に突き出す。メッセージアプリを起動すると、友達登録の画面を表示した。あまり操作し慣れていない登録画面を此方も何とか立ち上げて、なるたけ手早く登録を完了させる。
「困ったことがあれば何でも訊いてね」
そう言ってふわりと笑った先輩の顔が何となく離れてくれなくて、間に合った講義も結局耳に入らず終いの九十分に終わってしまった。
春はきっと、暖かい季節だった。
▽
夏が嫌いだ。
「そこ、間違ってるよ」
ルーズリーフを横から覗き込んでくる先輩が、器用に伸ばした手で正答を書き加える。寄せてきた肩が夏の日差しに白く輝いていた。
大学に入って初めての期末考査が目前に迫っている週末だった。外で鳴くアブラゼミの声が、ジリジリと窓越しに僕の焦燥を炙っていた。
初めて会ったあの日から、彼女はこうして時たま僕の面倒を見てくれていた。それがただのお節介なのか、或いは別の何物かなんてことは僕にわかる筈もなかった。
「もう、本当に明日から大丈夫?」
「英語以外なら何とか」
「今その英語を見てるんだけどなぁ……」
言いながら口を付けたストローには、少し噛み跡が付いていた。レモンティーの注がれたグラスは汗をかいて、琥珀色の上の透明はそのままコースターに落ちていった。
「先輩」
「ん?」
流麗な筆記体で書かれた彼女の英字をじっと見つめながら、呼び掛けた僕の口は二の足を踏んだ。
外ではセミが鳴いている。手前の思うままに叫び続ける虫は、己の命の時間を知っているのだろうか。僕には何も分からない。
「試験が終わった後の土曜日、空いてますか?」
だから僕もセミのようにとはいかなくても、小さく呼んでみることにした。
「試験後の土曜。確かその日って……」
先輩が目を遣った壁に貼られているA2判のポスターは、花火大会の告知だった。
「アレです、単位取れてたらで、いいんで」
勉強見てくれたお礼もしたいので。そんな咄嗟に考えた口実までを言う前に口の中が乾ききって、僕は天井でグルグルと回っているシーリングファンを眺めた。
顎に手を当てて考え込むような仕草をとる彼女は、何となしに笑っていた気がした。
「んー、どうしよ。もしかしたら、他の人に誘われるかもしれないし」
「そう、ですか……」
春より少し伸びた髪の毛先を指でくるくると弄りながら言う。
「でもそうだなぁ。……確かに単位が取れてたら、お礼くらいしてもらいたいかな」
食い下がる気概は珈琲と共に喉の奥に流し込んだつもりが、逆流でもして噎せそうになる。「どう?」とでも言いたげな、いたずらげな笑みが此方を見つめる。
先輩はいつもそうだった。
「じゃあ頑張ります」
「ぷっ! あははっ、じゃあじゃなくて普通に頑張りなよ? 困るのは君なんだから」
「あー、確かに留年は嫌ですね」
「たまにすっごく面白いよね、君」
揶揄って此方の反応を窺うように覗き込んで、子供っぽく無邪気に見せる八重歯に、僕は何も言えなくなる。
そんな自分を嫌いだとも、嫌いじゃないとも思える。そんな心地の向こう側に行けるのだろうか。淡い予見が見え隠れしていた。
まだセミは鳴いていた。ルーズリーフに書き殴る雑な英字の横の空白に、眩い白日が照り返していた。
メッセージの遣り取りで決めた集合場所には、どうやら僕の方が早く着いたらしい。会場の前。手持ち無沙汰に起動させたスマートフォンには、約束の三十分も前の時刻が表示されていた。
西の落陽を追いかけるように紺碧に染まる空を眺めながら、僕はどうやって先輩を退屈させないようにするかなんてことを考えていた。
「あれ、早い」
正面からやって来た先輩に声を掛けられるまで気付けなかったのは、だからだろうか。
顔を上げて彼女の姿を見て、思わず息を呑んだ。
赤を基調にした華があしらわれた浴衣に、いつもとは違って高い位置に結われた髪。それはまさに青天の霹靂のように鮮烈な衝撃で、僕は黙る他なかった。
「……」
「? おーい。何か反応してよ」
「……あぁ、すみません」
目の前でひらひらと振られた小さな掌に意識が戻っても、余韻に浸る酩酊がまだ残っている。
そんな視界の真ん中で先輩はまたにやりと笑う。僕を揶揄う時のそれはいつも通りで、何となく少しだけ、やられっぱなしなことが癪に障った。
「もしかして……見惚れてたり、してた?」
「はい。凄く、綺麗だったので」
いつもなら臆病が邪魔するはずの本音を伝えられたのは、きっとその所為だ。
「あはは、そんな真剣に言われると照れるね。ちょっとした冗談のつもりだったのに」
目をぱちくりと瞬かせた後手うちわでぱたぱたと顔を扇ぎながら、やっぱり先輩は笑っていた。けどさっきのものと違っていたそれは、いつもよりも少しだけ幼く見えた気がした。
「行こっか」
流れていく人波と祭り囃子に紛れるように、僕たちは並んで歩く。威勢の良い呼び込みの声、太鼓の音、金魚の入ったビニール袋を持ってはしゃぐ子ども。先輩は往来に沿って立つ屋台に目を奪われているようで、あちこちに動く視線は忙しない。
「わー、色々あるね。タコ焼き、焼きそば、林檎飴……」
「食べ物ばっかりですね」
「いいでしょー? あ、あれもある!」
言いながら指を差したのは、流行りの飲み物を売っている屋台だった。既に長蛇の列を為しているそこを目にして、思わず頰が引き攣る。どうやら有名店の屋台らしい。
「ね、並ぼうよ! あそこの、めっちゃ美味しいって有名なんだよ」
だけども断る理由も持ち合わせていない。だからと言って早く行こうと駆ける先輩の手を離れるからと握る気概もない訳だが、その時の僕にとってそんなことはどうでも良かった。
ゆったりと進む列も悪くないなんて思考は違いなく
「いいの? 奢ってもらっちゃって」
「バイトの給料入ったんで大丈夫です。それに、一応お礼なんで」
本当はカツカツな癖に余裕があるフリなんかをしてみせる不恰好も。
「ありがとう。お礼にお礼っていうのも変だけど、一口あげるね。はい」
「……いただきます」
「あはは、もっと勢いよく吸わないと。遠慮しないでいいよ。……美味しい?」
「……はい」
「でしょ!」
本当は味なんて大して解ってもいない癖に甘みと無味な食感を美味だと答える口も。
「いやー、君と来れて良かった。実は結構楽しみでさ、張り切って早く来たつもりが君の方が早かったのは、何か負けたみたいで悔しかったなぁ」
「別に勝負してた訳じゃないんですけどね。でも、楽しみにしててくれたなら良かったです」
言葉の端々に過剰反応してしまいそうな癖に平静を装う臆病も。
……ここまで来たならば、僕はもう認めるしかなかった。
僕は、彼女のことを──
「楽しみに決まってるよ。君って弟みたいで可愛いし、一緒にいて楽だから」
──彼女の、ことを。
「あ、花火始まったね」
口の中に残った甘さが纏わり付いて離れない。
空に昇った華の静かな散り際を、すぐさま上がった次が誤魔化すようにまた一つと繰り返していく。
夏はどこまでも、眩い季節だった。
▽
秋が嫌いだ。
有り体に言ってしまえば、あれは初恋というやつだったのだろう。彼女の気を引きたくて僕は行動の伴わない無為な試行錯誤を繰り返しては、夏の花火を思い出して自爆していた。
そうして少しするとまた春から変わらない笑顔に、どうしようもなく胸の
「これ、スミレの香水なんだ」
「お気に入りー」。僕のベッドに寝そべって垂れていた髪を弄りながら、彼女は自慢げに言った。
時折家に来る彼女と他愛もない話をするようになったのは、キャンパスに落ちる銀杏が黄色く色づき始めた時だった。週に数回とか、多い時ではほぼ毎日だったりとか、そんなペースだったのを覚えている。
何を思っているのかなんてことは知らない。不透明な予見に突っ込んだ結果が今踏んでいる二の足だったから。
だから僕は何も訊くことはしなかった。そうしない内に僕の家の洗面台はよく分からない化粧品に埋もれていったし、酎ハイの空き缶も増えていったが、その分だけコンビニのレシートとカップ麺の空容器は減っていった。それでも僕は何も言えなかった。
枕の横には、シェイクスピアの『ハムレット』が置かれていた。僕の分からない英書も大分増えてきていた。
「好きなんですか? スミレ」
「うん、好きだよ。いい匂いで、綺麗だしさ、それに……」
「それに?」
「……なんでもないっ。それよりお腹空かない? 何か作るね」
「え、あぁ。ありがとうございます」
特に言及することでもないだろうと、濁すような提案に頷いた。彼女はベッドから起き上がって、勝手知ったる風に冷蔵庫を開ける。
「……君、全然買い物行ってないなー?」
「いや、この前行ったからいいかなって」
「この前って、一緒に行ったの三日も前じゃん」
少しだけ眉根を寄せる彼女に、僕は肩を竦めてみせた。
短く息を吐いて苦笑してから、彼女は掛けていたコートを羽織る。
「ほら、行くよ」
「今から……?」
「何もないと作れないでしょ? それに夕方の方が見切り品とかあって安く買えるし」
「主婦みたいですね」
「君が生活力なさすぎなの。ヒモの才能あるよ」
何とも不名誉な才能だった。マジかと呟いて顔を顰めると、クスリと笑われる。
「お金はお姉さんが出してあげるから、荷物持ちくらいはしてね」
「ちゃんと出しますよ。ヒモじゃないんで」
「お、頼もしい。じゃあ私も腕によりをかけて作ろうかな」
適当に外に着られる上着を引っ張り出して、玄関に向かう。一人暮らし用のワンルームの玄関は狭い。靴を履こうと屈んだ彼女とぶつかって、布越しに体温が伝わった。
開けたドアから流れる風に拐われても、それは何となく残っていた。
買い物を終え当たり前のようにキッチンに立った彼女を、僕は後ろからぼうっと眺めていた。それだけだった。
何でここまでしてくれるのかなんていうものは今更ながらの感慨ではあったけど、何も考えたくなかったから。臆病と抱えた痼で固まった口は、ただ彼女の作ってくれた料理を咀嚼するだけで、でもそんな僕を正面から眺めている彼女に、花火を見に行った夏の時とは全く別の意味で停滞を望んでいた。
珍しく酎ハイじゃない度数の高い蒸留酒を飲んでいた。ペースだっていつもより早かったけど、僕は嗜めるでもなく、何てない会話をし続けていただけだった。それだけなのだと。
いつもそれだけだったからと。
だから彼女に求められて、僕は酷く当惑した。
呂律が怪しくなった彼女を寝かしつけて、ベッドに潜り込んで暫くした時だった。
「……今日だけ、だから」
衣擦れの音と、剥がされた布団の代わりにやって来た冷気を直ぐに覆った体温。
何の話か解らない程能天気でもなかったが、いつもと違う彼女を気遣う余裕などは消え失せてしまう程には僕は刹那的な人間だった。
「あの──」
「──お願い」
押し付けられた軀に、耳にかかった吐息は、少しだけ涙ぐんだ水色だったように思えて。もうそれ以上は何も言えなかった。
無造作に放られた布、鼓膜を引っ掻くような短い声、熱を帯びた視線。
秋はどうしようもなく、移ろう季節だった。
▽
冬が嫌いだ。
あれから繰り返した今日だけを数えれば、指折りで足りないくらいになることに気づいた頃にはもう吐く息は白くなっていた。僕は変わらず何も考えないままで、彼女の髪はもう肩甲骨の辺りまで完全に覆ってしまうほどまで伸びていた。
白い背中に流れる鳶色の輪郭を、常夜灯の作る薄闇に向けて彼女は僕の隣で横たえている。そこには付けた覚えのない傷や鬱血痕が、隙間から覗いていた。
汗とむせ返える濃密な匂いは、窓を開けないと換気できそうになかった。
思慕もあった。劣情もあった。
けど軀を重ねる毎にはみ出ていくような心地に、いつしか冷え切った思考が脳裏を過るようになった。
知らない薄紫色を眺める。
「先輩は、弟と寝たことがあるんですか?」
その累積が、ふと口を衝いて出たことがあった。
「……んー、どうだと思う?」
首だけ動かした流し目は、平生の円らに蠱惑の色を滲ませて此方を見遣る。喰まれた鎖骨がじわりと疼いた。
「分からないから訊いてるんですけど」
「まず私、君に弟がいるなんて話したっけ」
「いえ」
「じゃあ何で弟なのさ」と苦笑して、きっと春の木洩れ陽を注ぎ夏の花火を散らせたことなんて覚えていないのだろうと思った。明け透けに息を吐いてから彼女は宣言した。
「そもそも私は一人っ子です」
「そうなんですか」
「うん。……今はね」
「今は、って……?」
「……ごめん」
それ以上、彼女は何も言わなかった。一人用のベッドに布の一枚も挟まず隣り合っているのが不自然なほど、向けられた背中は淡くぼうっと照らされていた。暖房のかかる音がやけに煩わしい夜で、その日はよく眠れなかった。
その日が何度目の反覆になるかなんてことは、もう覚えていなかったが。
目覚めるともう昼を過ぎていて、彼女は僕よりも先に起きて遅めの昼食を作ってくれていた。
前に作った残りがあるからと出されたカレーと味噌汁というのは、何とも妙な和洋折衷だと思ったのを覚えている。夜の気怠さを引き摺った体で向かい合って、互いに何も言わずにいた。
気遣いに拙い返事を返していた春の色は抜け落ちて、窓から見える木は褐色の細い枝を裸に垂らしていた。
「寒いね」
「夜、雪降るらしいですよ」
「そっかぁ」
半ばうわごとみたいな言い方で彼女は呟いた。この前買った雑誌をパラパラと捲りながら、インスタントのコーヒーを啜っている。カップに付けた指先は白く綺麗で、いつだったか同期の友人が褒めていたことを思い出した。
よく一緒にいる僕を揶揄うような冗談まじりのやっかみで、そんなことを言っていた気がする。でもそれと同時に向けられた
あの人は誰にでも──
「早く春になってほしいね」
「寒いですもんね」
「……うん。春になって、またあったかくなったらさ、旅行にでも行きたいなぁ。君とここみたいなスミレとか沢山咲いてるとことか行ってさ、桜も見て、それから……」
「……」
「……なんてね」
にこりと微笑む彼女は、何を考えてその表情を僕に向けたのだろうか。
溶けない根雪はまだ止んでくれそうにない。
誰にでもそんな雪を積もらせる。
冬はどうしたって、
凍て刺す風が頰を撫でつけ鼻が赤くなっていた。慌ただしく灯り始める街の橙色の燈が、いつしかの暖かさだとか眩さだとか、時の移ろいだとかを痛いほどに照らしつけているような気がした。
十二月のいつか。クリスマスはまだ来ていない。だけど充分な程に積もり過ぎた雪で真白になった帰路は、唯々歩くことを億劫にさせるだけだった。
手袋を忘れて、悴んだ手でポケットの中を漁る。入っている筈の鍵が中々掴めず手探りのまま家の前までやって来て、ドアの前で彼女が佇んでいるのに気付いた。
「あ、おかえり」
「……どうしたんですか」
「ちょっと会いたかったから、って言われたら困る?」
悪戯げな笑みを浮かべていたけど頰も耳も鼻も真っ赤で、何となく痛々しかった。
「いえ。……ってか、いつから待ってたんですか?」
「ちょっとだけだよ」
「いや、ちょっとって……! ……取り敢えず、上がってください」
「……ありがと」
促すように押した背中はきっと冷たかったのだろう。悴み感覚さえ消えて、触れた手ではもう分からなかったが。
シャワーを浴びるように勧めて、何か温かい飲み物でも用意しようと戸棚からカップを取り出した。いつの間にか二つに増えていたカップと、いつの間にかそれを当たり前のことのようにしてきた僕が、今更ながらに整合しなくなっている。
それでもヤカンを火にかけてからコーヒーの在処が分からないというのだから、まったく笑える話だ。
「お風呂上がったよ。……あ、もしかしてコーヒー淹れようとしてくれてた?」
「そうですけど、コーヒーどこに置いてるんですか?」
「えっとね、棚の奥の……ここ」
随分と分かりにくい場所に置かれていた瓶の中身は大分減っていて、今度買い足しに行かなければとどうでもいいことが頭に浮かぶ。
「後は私がやっておくから、君もお風呂入ってきなよ」
「いや、別に僕は大丈夫なので……」
言いかけてくしゃみが出る。くすりと笑われて、そのままヤカンの取っ手を持っていた手を代わられる。
「君は優しいね」
此方を見ないまま放たれた一言に何も返せずに、僕は風呂場へと入ってシャワーを浴びる。
熱い湯を頭から被って、特に何を洗い流すでもなく鏡を見た。湯気で曇われた壁は何も映さない。排水溝にすっと入り込んでいく泡立った水は、もう冷たくなっていた。
適当に体を拭いて出ると、彼女はベッドの縁に腰を掛けていた。部屋着から僅かに覗いた細い指先で、いつもと同じようにカップを持っている。
「お、上がった。ほら、こっち来て」
横を叩く彼女に従って隣り合う。
差し出されたコーヒーを受け取って、何度も息を吹き掛けてから口を付ける。「猫舌だ」と笑われたのは、そう言えば祭りでタコ焼きを食べた時からだったと、不意にまた無為な思考が過る。
暫くの静謐を破ったのは、彼女の方からだった。
「ごめんね、急に押しかけちゃって」
「大丈夫ですよ。どうせ暇だったんで」
「あはは、だと思った」
愉快そうに笑った後に、「そう言うと」と独りごちる。
仕切り直すように身を屈めて、彼女は足元のバッグから小さな包みを取り出した。ラッピングのされた長方形の箱だった。
「当日どうしても外せない用事があってね、早めに渡しておこうと思ったんだ。はいこれ」
言って手渡される。
「クリスマスプレゼント」
「ありがとうございます。でも僕、まだ何も用意してないですけど……」
「いいよいいよ。いっつも君には色々してもらってるし」
ぐるりと部屋を見渡しながら彼女は言った。
「本当、色々してもらったなぁ」
沁み入るような、そんな声音だった。
何か予見があったのかもしれなかった。
気づく事実に重ねるみたいに、どうでもいいことを考えるのも。
「ねぇ」
手を重ねられる。
「どうして君はこんなに優しいの?」
いつも香っていた菫は、シャンプーの匂いでかき消されている。じっと見つめられる。
その瞳から見た僕は、一体誰なのだろうか。いつまでもそれが分からなくて、知ろうともしていなくて、だから僕は何も言わなかった。
「……」
何も言えなかった。
「そっか」
ふっと笑って、彼女は立ち上がる。
「ありがとう、お邪魔させてもらっちゃって。今日はもう帰るよ」
着て来ていた服を手に取って、部屋着から着替える。脱衣所から覗く背中には、やっぱり僕の知らない痕が残っていた。
「じゃあね」
コンビニにでも行くように言われた挨拶に、開いたドアの音だけは妙に重々しく響いた。
ついさっきまでいた彼女がそうしていたように、僕はふと部屋を見渡した。何となくそうしただけだった。色々してやったなんてことは微塵も思っちゃいなかったけど、確かにそう言えるくらいには堆積があったのだと、いつもながらに遅れて気づいた。
いや、きっと違う。目を逸らしていただけだ。今までも、今も、今では。
それ以来、彼女が僕の所へ来ることはなかった。
それだけは、何となく解っていた。
▽
愛が解らなかった。
言葉で結ぶ契約なのか、言葉にせずとも伝う事象なのか。きっとどれも違うように私には思えた。
昔からこんなことを考える程捻くれた人間ではなかったと思う。昔の私はもっと純真で、愛がどうこうとかじゃなくて、唯々目の前にあるものだけを有りの侭なのだと信じていた。
でも大きくなって、文字通り見えるものだって増えていって。そうやって少しずつ賢しくなっていくに連れて、見えるものの色が褪せていくように感じて、その分だけ剥げていく裏に貼り付いていることばかり分かるようになっていた。
両親が離婚した。
それは私が大学に入ってからすぐのことで、どうやら母が不倫をしていたことが原因らしかった。口論の末まだ十歳の弟を連れて出ていったのだと聞かされた実家のリビングは、驚くほど物が少なく整頓されていた。
薄々察していた。何かが綻んで軋むみたいな心地を感じたのは高校生の頃からだった。優しい母と、頼り甲斐のある父。幼い頃から見続けてきた像はいつの間にか焦点がぼやけて、褪せて。
私が家を出た途端にこれだ。私に負担をかけまいと我慢してくれているのだろうとも思いたかったけど、母を口汚く罵る父の側には知らない女物のコートが掛けられていて、つまりはそういうこと。
変わってしまったのか、それともそもそもが全部見せかけだったのか。私には分からないけど……きっとそういうものなのだと感じた。
言葉にしたって、書面に記したって、何も変わらない。きっとそういう風にできている。だったら任せてしまった方が楽だ。少し一緒にいて、ダメだったならまた離れればいい。言葉も要らないし、煩わしさだってない。
都合のいい女だと言われたことがある。私だって思っているんだから、きっとそうだ。流石はあの人たちの娘だと、苦い笑みを作り笑いに燻らせる。
そんな風に過ごすことをもう何も思わなくなって、その内に四季が巡って、彼と会った。
「君、新入生?」
眉間に皺を寄せていた彼に声を掛けたのは、単なる気まぐれだ。見るからに困っていそうだったし、何となく。
遠慮がちな態度や挙動が可愛らしいななんて思って連絡先を交換したのも、何度か勉強を見てあげたのも、いつものようにすぐ離れるんだろうという前提に起こった気まぐれ。
そうして春が過ぎて、夏が来た。
「先輩」
「ん?」
「試験が終わった後の土曜日、空いてますか?」
少しだけ緊張を面持ちに滲ませた彼の言葉。茹だる外の日差しに、蝉が鳴いていた。
湧いて出た悪戯心と実際の憂慮が滑らせた口に、彼はしょんぼりと気落ちする。でも他の人からの誘いを憂慮と捉えている辺り、もしかしたら私は既にダメになっていたのかもしれない。
だとしてもここまでは、これまでだと思っていた。
「君って弟みたいで可愛いし、一緒にいて楽だから」
そう言って私は花火だけを見つめた。横に並ぶ彼のことは、見なかった。
移ろいでいくものが怖かった。
私はそういう人間だ。目に付いていた肉親の不和だって知らないフリをして笑うくらいには臆病者で、どうやらその対象が自分にしたって同じみたいだった。
君は今まで一緒にいた人の誰とも違う目で私のことを見ていた。誰とも違う声で話してくれていた。それは春の頃から変わらない君のままで、変わっていっているのは私の方だと気付いた時には、もう遅かった。
他の誰と歩いていたって、寝ていたって。どうせ同じなのだと思いたくて近づく度に、純な心で私を受け入れる君の傍にいることが心地好くも苦しくもあった。
これまで自分がやってきたことが、無駄で愚かで滑稽なことのように思えてしまうから。
愛なんてないと嘯いてきた意味が、瓦解して消えてしまいそうな気がしたから。
……意味の分からないくらいに捻くれた女だなぁ、私。
でも、だからきっと、君に抱かれたかったんだと思う。ここに来てまだ認めたくなかった事象への反証のつもりだったのか、それとも──
──なんてね。
今日だけなんて詭弁を何度も繰り返して、私はずるずると君を引き摺った。純を燻らせて、秋が過ぎて冬の雪が降る。春はまだ遠い。
でも、もう終わりにしなきゃいけない。君のそれに、これ以上縋るのは。
雪の降る日に君を待ち伏せて、押し付けるものだけ渡して、最後に一つだけ訊いてみる。
「どうして君はこんなに優しいの?」
じっと見つめる私に、君は何も言わない。
それはきっと、分かろうとしないようにしてきたから。
嗚呼、君は本当に──
いつかの夜。軋むベッドの傍に私が持ってきていた本が投げ出されているのを、くらくらする視界の隅で捉えたのを思い出していた。
シェイクスピアの『ハムレット』。ふと、ハムレットの恋人であるオフィーリアの埋葬に際して兄のレアティーズが言った言葉が脳裏を過ぎった。
きっと無理な話だけど……いつか君と、スミレを見に行けたらいいなと思った。
いつかスミレが咲くといいなと、そう思った。
▽
彼女が僕の前どころか日本からいなくなっていたというのを聞いたのは人伝てで、あれから二度目の春が来た頃だった。彼女は海外留学に行ってしまっていたらしい。
その春には誰もいなかった。がらんどうな部屋に置かれた抜け殻だけをぼうっと眺めて、いつもよりも部屋が広いことに気付いた時には、もう笑うしかなかった。
笑った方がいいと言った彼女を思い出す。
いつかに僕のことを優しいと言っていたけど、それは違う。
好きな人に歩み寄ることもせず、ただ傍にいただけの臆病者。それが僕だった。僕という人間だった。
彼女を思い出させるものが大嫌いで、だからそんな自分も大嫌いだった。
「……」
夕飯を作らなくてはと起き上がる。あれからカップ麺の空容器は増えていないけど、置き去られた蒸留酒だってそのまま置いてあった。カレーでも作ろうと持ち上げたレジ袋の中に入っていた安売りの肉や野菜は結局冷蔵庫の中に移して、久しく開けていなかった酒瓶の封を開ける。一気に飲み干しては、灼けるような熱に咳き込む。
「はは、まっず……」
覚束ない足取りに、またベッドへと逆戻りした。
鼻に抜ける酒臭さも、いつかに在った濃い汗の匂いも、すっかり消えてしまった筈の菫に塗り替えられてしまう。
勢いよく埃が舞う横の視界に、本の背表紙が入って手に取る。
適当に捲った頁のある一節が目に付いて、僕はふっと笑う。
──
──
──
指でなぞったその文字に、僕はやっぱり笑うしかなかった。苦く、甘く離れない菫の匂い。
もう二度と生えるな。
そう嘯いて、僕は本をそっと閉じた。
菫はきっと、いつまでも香っている。
ただ、それだけの話だ。
花言葉は愛。
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