穢れた生命 (彼岸花ノ丘)
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驚きの旅行計画

 二十二歳というまだまだ若輩者の身で語るのはおこがましいと思うのだけれど、四年間の大学生活はわたしにとって一番幸せな時期だった。

 何しろ小学校から高校卒業まで、わたしは虐めを受けていたのだから。深奈川(みながわ)綺羅々(きらら)という名前の所為で。所為で、というと両親が悪いみたいな感じに取られそうだけど、それは違って、わたしが『綺羅々』という煌びやかな名前と違い根暗で陰鬱な性格だから、そうなっただけ。容姿だって自分でも思うぐらい、昔のホラー映画に出てくる『貞子』ってお化けに似てるし。あと小学校で虐めてきた子が、高校まで一緒だったというのもある。

 だけど大学でその子と別の進路になってから、わたしの生活は一変した。虐めはなくなったし、友達も出来たし……あと……か、彼氏も出来たし……

 学業が学生の本分で、遊んでばかりじゃ駄目だと思うけど、みんなと遊ぶ時は本当に楽しかった。このままずっとこの時間が続いたら良いとも思う。

 勿論そういう訳にはいかない。大学は何時か卒業するものだ。そして卒業後の進路はみんなバラバラ。時間を合わせるのも大変になって、そう簡単には全員集合なんて出来ないだろう。凄く寂しくなる。彼氏や友達も、多分、同じ気持ちだ。

 だから、なのかも知れない。

「みんなでアフリカ旅行に行ってみないかい?」

 わたしの『彼氏』が、唐突にそんな提案をしてきたのは。

 お昼休みの時間帯、たくさんの学生で賑わう大学の食堂の一角で、わたしの彼氏である矢沢(やざわ)(れい)くんはそう言った。わたしと、そして一緒の席でお昼を食べていた友達二人は、彼の発言で目をパチクリさせてしまう。

 零くんは、凄く整った顔をした男子だ。わたしと同い年の二十二歳だけど、もっと若そうな……高校生ぐらいに見える童顔をしている。だけど背は高くて、細身で、目付きがちょっと鋭いところも格好良くて、容姿はアイドルとかモデルみたい。すごく頭も良くて、試験では何時も学年トップ。それにわたしの事を大事にしてくれて、だけど時々情熱的で、付き合っていて何時もドキドキさせてくれる。

 ……そういう良いところと同じぐらい変な人でもあるんだけど。例えばわたしの何処が好きなのかと聞いて「顔と性格、家事と料理が上手いところ、あと身体付き」と臆面もなく語るぐらいデリカシーがない。あと話がちょっと、いや、かなり長い。それと日常生活が全然駄目で部屋が汚い。告白してきた翌日に、いきなり結婚後の生活についてプランを練ってきたとか言うし……それをされて嬉しいと思う辺り、わたしも大概なんだろうけど。

 そんな彼は割とよく、突然変な事を言い出す。初デートに誘われた場所が、五十年間放置された針葉樹林の環境調査だった事は今でも忘れない。最初は色々驚いたし戸惑ったけど、今ではそれなりに慣れてしまった。次は何処に行くのかなと、素で楽しみになっている。いきなりアフリカに行こうと言われても、あまり大きな衝撃とか疑問は湧かなかった。

「いや、なんでまた急にアフリカな訳?」

 なのでわたしはのんびりとしていたところ、同席していた友達の一人である千原(ちはら)瑠美(るびぃ)がツッコミを入れた。

 ルビィはこの大学で出来た、わたしにとって一番の友達だ。栗色の綺麗な髪をポニーテールに束ね、しっかりとお化粧をし、爪のお手入れを毎日やって……あまりお洒落が得意じゃないわたしと違って、全力で『女の子』をやっている。ルビィという名前に負けないぐらい可愛い子だ。胸も、わたしとは比べようもないぐらい大きいし。

 だけど守られるお姫様というタイプでもなくて、気に入らない事にはちゃんと自分の意見を言える強い子でもある。

「卒業旅行って事か? まぁ、何処かに行くのは賛成だが……わざわざ海外じゃなくて、国内で良くないか?」

 ルビィに次いで意見を出したのは、ルビィの隣の席に座っていた、ルビィの彼氏……山本(やまもと)磯矢(いそや)くん。

 磯矢くんは零くんとは真逆のタイプ。ガッチリとした体躯をしていて、長袖長ズボンの上からでも筋肉質な身体付きが分かるぐらい鍛え上げられた肉体をしている。顔付きも、モデルさんというより若い職人さんみたいな感じ。

 見た目だけだとすごく女の子をしているルビィの彼氏とは ― 失礼な言い方だけど ― 思えないけど、間違いなく二人はラブラブカップルだ。告白したのはルビィの方からで、『優しい』から好きになったらしい。やっぱりルビィはすごく女の子をしていると思う。

 ……それは兎も角として。磯矢くんの疑問は尤もなものだ。これが卒業旅行のつもりで言っているのなら、わざわざアフリカに行く必要なんてない。沖縄とか、北海道とか、国内だけでも色々良い旅行地はあるのだから。

 訊かれた零くんはにこりと笑う。多くの女の子をときめかせた笑顔。だけど零くんがその笑顔を浮かべる時は、大抵常識に縛られない事を言い出す時だ。

「ふふふ、心配する事はないよ。既に二人部屋を二つ、合計四人分のホテルを現地に予約済みだからね」

「いやなんで了承得る前に予約済みなんだよ!? 何が心配ないんだよ!?」

「話したら断られるかもと思って」

「断られる前提!? 私達何処に連れていかれるのよ!?」

「……零くん。もうちょっと、ちゃんと説明して。まず、なんでアフリカなの?」

 中々埒の開かない問答を続ける零くんに、『彼女』として尋ねる。零くんは肩を竦めると、諦めたようにようやく説明を始めてくれた。

「うん、ぶっちゃけボクが行きたいからだよ。あと滞在費が安い。飛行機代はまぁまぁ掛かるけど、トータルで見れば他の国に行くのと大差ないんじゃないかな」

「……そういう事なら、良いけどな。卒業旅行自体は行きたいって考えていたけど、何処に行くかまでは考えていなかったし」

「だけどアフリカって、その、大丈夫なの? あまり治安とか良くないんじゃ……」

「そこは心配ないと思うよ。行きたいのはログフラ共和国だからね」

「ログフラ共和国?」

 ルビィが首を傾げながら尋ねた国名。わたしはその名前にちょっとだけ覚えがあった。

 確か、十年ほど前に独立したアフリカ沿岸部の小さな国。

 軍事政権ではあるけれど、経済政策をしっかりとやっていて、それなりに豊かな国らしい。外国のメディアや旅行者もよく訪れ、ネットの使用なども自由。アフリカで今最も急成長を遂げている国だという話だ。

 五年ぐらい前までは紛争も戦争もしていて危ない国だったみたいだけど、今は割と有名なリゾート地になってるとかなんとか。昔はイギリスの植民地だったから英語が通じるというのも、ヨーロッパ圏の観光客を誘致するのに好都合らしい。

 ……一週間ぐらい前に零くんの家に遊びに行った時、山積みにされていたログフラ共和国の関連本をなんとなく読んで学んだ、うろ覚え知識。こんな事ならもっとちゃんと読んどくべきだったかな。というか一週間前から行きたがってたんだね。

「まぁ、みんなが行きたくないと言うなら構わないよ。どうする?」

 ルビィ達にもわたしが思い返していたのとほぼ同じ内容の説明をした零くんは、改めてみんなに尋ねる。

 ルビィは少し考え込み、それからちらりと磯矢くんの方を見た。磯矢くんも考え込んでいて、しばらくしてからこくりと頷く。

「良し、俺は賛成しよう。折角の卒業旅行だし、海外というのも悪くない。安全だというなら、アフリカを特別避ける理由はないからな」

「いっくんがそう言うなら、私も良いよ」

 磯矢くんが答えて、ルビィも答える。

 そうして最後まで返事をしなかったわたしに、三人分の視線が向いた。

 ……まぁ、零くんが大丈夫だって言うのなら、きっと大丈夫なんだろう。そういう事はちゃんと調べるどころか、むしろ人並以上に気を付けるタイプだから。それに零くんとわたしは多少英会話が出来るから、英語圏の国なら言葉に困る心配もない筈。

 この旅行を断る理由はない。

 ……あと二人部屋って事は、零くんと一緒にお泊まり出来る訳で……

「う、うん。わたしも、良いよ」

「だってさ。良かったね彼氏くん」

「うん。もしキララに断られたら別のを考えないといけないところだったよ」

「賛成したこっちの意見は無視かぁ?」

「そりゃ彼女と友人ABが別意見だったら、彼女の意見を採用するでしょ」

「違いない」

 冗談を交わす男子二人はわははと笑い出す。優先してくれるのは嬉しいけど、人目がある中でそれを言われるとかなり恥ずかしい。わたしは、つい、熱くなった顔を俯かせてしまう。ルビィは嬉しそうに笑っていたけど。

「良し、そうと決まれば次は日程だ。みんな、どの日なら空いてるかな? 出来れば二泊三日以上にしたいんだけど」

「あん? もうホテルの予約取ってるって言ったじゃないか」

「ああ、それ嘘だよ。みんなの予定も分からないのにやる訳ないじゃないか」

「おい」

 尤も俯いていた顔は零くんと磯矢くんのやり取りで、くすりと笑みが浮かんでしまうのだけど。零くんは悪質な嘘は吐かないけど、こういうすぐバレる嘘は時々吐く。結構なお調子者だ。バレると思って吐いたのに中々バレそうにない時は、大事になる前にちゃんと告げるから、根は誠実なんだと思う。

 零くんは手帳を開き、今月から翌月に掛けてのスケジュールをみんなに聞いていく。あの日は駄目、この日は駄目と狭めていって、だけどみんな既に進路は決まっていたので、案外すんなり都合の良い日は見付かった。

「うん、じゃあこの日から二泊三日で行くとしよう。ホテルはもう良いところを見付けてあるから、予約と支払いはボクがやっておくよ。あ、ちなみに二人部屋二つで頼むつもりなんだけど、構わないよね?」

「おう、問題ないぞ。後は任せた英語マスター」

「頼んだわよ、英語マイスター」

「そこまで上手い訳じゃないんだけどなぁ。日本人が片言の日本語でもそれなりには分かるように、向こうの人だって片言の英語を分かってくれるというだけだよ」

 ルビィと磯矢くんにおちょくられながら、零くんは楽しそうに笑う。わたしも笑みが浮かんで、わたし達の席は笑い声で満たされた。

 うん、楽しみだ。すごく楽しみ。最後の、という訳じゃないけど……大事な思い出にしたい。

 出発日は西暦二〇三八年三月十日。

 一月後に行われる卒業旅行を、わたし達は楽しみにするのだった。



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楽しいホテル

 正直に言うなら、ちょっとだけ不安だった。

 偏見だとか差別だとか、そう言われたら反論出来ない偏った考えだけど……いくら経済発展著しいとはいえ、五年前まで内戦が勃発していた土地である。ワガママを言うつもりはないけど、泊まる場所は本当に清潔で綺麗なのかな――――なんて思っていた。

 ああ、全くなんて馬鹿な思い込みをしていたのだろう。

 真新しいコンクリートで舗装された、立派な道。道の両脇に立つのは元気なヤシの木数十本。降り注ぐ太陽の光はとても強くて、だけど吹き付ける潮風は涼しく、南国のような心地良さがある。

 その南国風の道の先にあるのは、海沿いに作られた大きなプール。何十、ううん、何百もの人がプールで遊んでいて、だけど窮屈そうにはしていない。市民プールとは比較にならない広さだ。種類もいくつかあるようで、所謂流れるプールとか、飛び込み台のあるやつとか、子供が遊べる浅いものとか……プールそのものが嫌いじゃない限り、どれかは楽しると思わせるぐらいバリエーション豊か。プールの周りには柵が建てられ、その柵すらなんだかお洒落に見えるぐらい綺麗な状態が保たれていた。

 そしてプールのすぐ隣には、大きな建物が建っている。わたし達が通ってる大学の校舎ぐらい大きくて、白い外壁が太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。周りにはヤシや大きな植物が植えられ、常夏感が凄い。周りにはゴミ一つ落ちていなくて、出入口の石段すら傷一つなかった。日本でもここまで綺麗な宿泊施設は、開業したてのものか高級ホテルぐらいだろう。

 予想外だった。或いはわたしの用意したハードルが低過ぎただけかもだけど、でもわたしの隣に居るルビィと磯矢くんも驚いているから、わたしだけがそうした考えを持っていた訳じゃない筈。

 本当に予想外だ……先日零くんが予約したアフリカ新興国のホテルが、ここまで綺麗な場所だったなんて。

「四人分の予約が取れて良かったよ。安くて綺麗でサービスも良いって評判だったからね」

 零くんは心底安堵したように、驚くわたし達にそう話す。ボクのお陰だ、みたいに自慢する感じは一切ない。彼は基本的に『誇る』という事をしないタイプだ。

 勿論彼が誇らなくても、わたしはこのホテルを見付けた零くんは凄いと思う。磯矢くんとルビィも同じだ。

「おいおい、すげぇな! まさかこんな豪華なホテルだなんて!」

「うん! 私、正直田舎の民宿みたいなものならまだマシかななんて思ってたもん!」

「いやいや、それはアフリカを馬鹿にし過ぎだよ。基本的にどれだけ貧しい国でも、首都は立派なものだからね。先進国並みと言っても良い」

「へぇー、首都は立派なんだ……でも、ならなんで毎年食糧が足りないって話になるのかしら? こんなに立派な建物を作れるお金で、ちゃんと食糧を買えば良いのに」

「うーん、本格的に説明しようとすると長くなるけど……」

「掻い摘まんで話して。零が長くなるって言った話は、アンタの彼女以外耐えられなくて寝るレベルだから」

 零くんの前置きに、ルビィはわたしの方を見てにやにやしながらそう答える。なんだかそれが酷く恥ずかしくて、頬がじわりと熱くなった。

 零くんもルビィの反応で、話を短くしようとしているらしい。少し考え込んでから、ルビィの疑問に答える。

「簡単に言えば、どの国も首都以外あまり興味がないんだ。原因は色々あるけど、一つ大きなものを挙げるなら徴税かな。多くのアフリカ諸国では徴税能力が低い所為で農民から税金を得られず、その結果農民が国家運営に殆ど関わらないんだ。どれだけ農民が飢えても政府機能に問題は出ないから、彼等の生活保護なども行われないという訳。国民の大半は農民なのにね」

「うわ……税金が取れないから飢えても良いなんて、酷くない? 国がそんなので良いの?」

「良くはない、とボクは思う。でもこれは誰もが税金を払い、農村でも十分な徴税が行える日本国民からの物言いだ。徴税能力がないというのは、国にとっても国民にとっても不幸な事なんだよ」

 ルビィの疑問に、零くんはさらりと答える。だけどその表情は何処か悲しそうな、少なくとも楽しそうな感じはしないもの。

「……ま、この話はここまでにしよう! それよりチェックインを早めに済まして、この重たい荷物を部屋に置いてしまおう」

 あまり話を続けたくないようで、零くんは見せ付けるように肩から下げた大きなバッグを揺さぶった。

 確かに、わたし達全員が今は重たい荷物を持っている状態だ。二泊三日の旅行だから着替えだけでもそれなりの量だし、女子であるわたしとルビィは質素だけど化粧品とか生理用品も持ってきている。それに ― アフリカとか関係なく何処の国でもあるけど ― ひったくりとかに襲われて、パスポートなどの貴重品をなくしたら本当に大惨事だ。

 貴重品以外の荷物は早く部屋に置き、身軽かつ守りやすい状態で観光を楽しみたい。

「……うん、そうだね。早く行こうか!」

 わたしは零くんの意見に賛同し、磯矢くんとルビィも頷く。

 わたし達は揃って、プールの隣にあるホテルへと向かうのだった。

 ……………

 ………

 …

 ……別にね、良いんですよ?

 そりゃね、わたしと零くんは年頃の男女ですから? 旅行という良い感じにムードが高まってる状態で同じ部屋にいたら色々ね? あるかもだし? そーいう事をするのが目的の場所なら兎も角一般のホテルでそれやるのはちょっとアレだとは思うよ? 避けるべきだとは思うよ?

 でもわたしは年頃な女の子な訳で。彼氏と一緒の旅行なら、そりゃ色々期待しちゃう訳で。

「アンタ、私と相部屋なのそんなに嫌な訳?」

 そんな感じでいじけていたら、ルビィがわたしをおちょくってきた。

 如何にも怒ってそうな物言いだけど、でもその顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。絶対怒ってない。むしろ楽しんでる。

 わたしはベッドの上で体育座りをしたまま、ぷくりと頬を膨らませた。

「……うん、嫌」

「なんとまぁ、素直な事で。昔のアンタは彼氏と手も繋げないような子だったのに、今じゃあ男との寝泊まりに抵抗ないどころか好き好んでするなんて。かーちゃんは悲しいわ」

「つーん」

「ありゃ、こりゃ重傷だ。まぁ、気持ちは分からないでもないけどさ。私もいっくんと一緒の部屋の方が良いし」

 呆れたようにルビィは肩を竦めた後、拗ねるわたしのすぐ隣に座ってくる。それからぐるりと、わざとらしく部屋を一望してみせた。

 わたし達は今、宿泊先のホテルの部屋に居る。

 とても綺麗な部屋で、広さもわたしが一人暮らししているアパートの部屋より大きいぐらい。大きくてふかふかとしたベッドが二つもあり、シャワールームも完備している。テレビは……よく見たら日本製だ。

 部屋にはベランダまで付いていて、窓を開ければ青くて綺麗な大海原が見渡せる。磯風が吹き付けて、とても気持ちいい。クーラーも設置されているので、夜も快適に過ごせそうだ。

 で、わたし達四人組が借りたのはこのタイプの部屋を二つ。この部屋に泊まるのはわたしとルビィの二人。

 部屋は、男女別だった。

「でも仕方ないんじゃない? 零の奴言ってたでしょ。ここは一応イスラム圏で、婚姻前の男女が同じ部屋に泊まるのはあまり好ましく思われないって。そこまで厳しい訳じゃないらしいけど、異国の地でのトラブルは可能な限り避けるべきでしょ?」

「……結婚の約束してるもん。実質夫婦だもん」

「え、何これ惚気? 私今惚気られてるの?」

 わたしの苛立ちは惚気と受け取られてしまい、それがますますイラッとくる。

 そうして苛々してると、何故かルビィは急ににやっと笑みを浮かべた。悪巧みをしているような、或いは面白いオモチャを見付けたような……

「時にアンタ、零とは何処まで進んだの?」

 どうやら後者のようである。

 そしてオモチャとは、わたしの事のようだった。

「……え、ど、何処までって……」

「結婚の約束はしたんでしょ? 実質夫婦なんでしょ? ほれ、何処までいったの? ABCでお答えなさい」

「答え方古くない? それもう五十年前の用語だよ?」

「知ってるアンタも大概でしょ。ほれ、答えろ答えろー。夫婦なんだからCまでいってるんでしょー?」

 ガッチリと肩を組みながら問い詰めてくるルビィ。答えるまで離すつもりはないのだろう。

 でも、どうしよう。

 正直に答えるのは恥ずかしい。だけどルビィに()()()()()()()() 。

 だから思わず黙ってしまったら、悪ふざけ全開だったルビィが急に真顔になった。あれ? と思いながら見ていると、組んでいた肩を離し、わなわなと震える。

「……え、マジ? マジなの?」

 それから、主語も何もない問いをぶつけてきた。

 主語も何もないけど、何を訊きたいかはなんとなく分かる。そして嘘を吐きたくないわたしは、熱くなっている顔をこくりと頷かせた。

 するとルビィはすくっと立ち上がる。

「ちょっと零の奴ぶん殴ってくるわ。足腰立たなくなるまで」

 次いで、ルビィはまるでお父さんみたいな事を言い出した。

「ええええええっ!? な、なな、なんで!?」

「うちの子を傷物にしたのよ!? 鉄拳の十発二十発ぐらい喰らわせなきゃ気が済まないし、この程度の拳に耐えられないような男にキララを任せるなんて出来ないわ!」

「傷物って言わないで恥ずかしいから! あとそれうちに零くんが来て、結婚の話を聞かされた時のお父さんと同じ反応だから!?」

「あ、親御さんはもうご承認済み?」

「え。あ、うん。零くん、二年ぐらい前からこつこつ説得して、今年ようやく……零くんの進路に納得してくれたみたいで」

「二年前ってアンタ達付き合い始めたばかりの頃じゃない」

「零くん、最初からそのつもりでわたしと付き合っていたから……」

 どうにかルビィを宥めて、興奮する彼女をもう一度座らせる。

 座ったルビィはもうすっかり落ち着いていて、大きなため息を漏らした。

「はぁぁー……まさかアンタ達がそこまで進んでいるなんて……」

「あ、あまり、進んでる進んでる言わないでよ……恥ずかしい……」

「まぁ、零ならアンタを任せても良いけどさ。でも良いなぁ、もう結婚を考えてるなんて……学生結婚はしないの? 零とアンタ、大学院に進学よね?」

「うん。大学院卒業までは、しないつもり。ちゃんと就職してからにしようって話してるし」

「まっじめぇ~……はぁ」

 わたし達の関係に感嘆する度、ルビィは大きなため息を吐く。

 それがなんとなく、わたし達を羨ましく思ってるように見えて。

「……ルビィはどうなの? 磯矢くんとは」

 思いきって、尋ねてみる。

 ルビィはふんっと鼻を鳴らした。不満そうな鼻息。だけど、不快という感じはなかった。

「真面目、誠実、優しい。就職先も決まった。うちの両親との仲も良い。多分、ううん、間違いなく近々結婚してくれって言ってくれる。私はそれにOKを出す」

「うん、良かったね」

「でもアイツは、結婚するまで絶対手を出さない。何があってもキス止まり。一回軽く誘ってみたら、真面目に説教された。凄く嬉しかったけど、なんか、もどかしいし、不安になる」

 正直な気持ちを語りながらルビィは俯き、目を伏せてしまう。言葉に出してはいないけど、そう思ってしまう自分が嫌なのだろう。

 それが凄くルビィらしくて、思わず笑みが零れた。わたしが微笑んだ事に気付いたルビィは、ぷくりと頬を膨らませる。

「ちょっと、なんで笑うのよ。こっちは真面目に話してるのに!」

「あはは。だって、なんか……可愛くて」

「むぅー……」

 わたしが正直に答えれば、ルビィはそっぽを向いて拗ねる。

 気付けば先程と立場が逆転していた。

 それが滑稽に思えて、口から笑い声が漏れ出る。ルビィも最初は唇を尖らせていたけど、しばらくして大声で笑う。

「おーい、なんか知らんが随分楽しそうにしてるなー」

「何かあったのかい?」

 そうして笑い合っていると、部屋の外からノックと共に、無粋な男子達の声が聞こえてきた。鍵の掛かっているドアは閉まったまま。そこそこ大きな声でこちらに呼び掛けている筈だ。

 部屋の壁にある時計を見ると、部屋に着いてからもう二十分ほど経っている。この後すぐ観光に行くという話をしていたのにわたし達が中々部屋から出てこないので、こうして迎えに来たのだろう。

 わたしとルビィは互いに顔を見合わせ、にこりと微笑む。わたし達は同時に立ち上がり、揃ってドアを開けに向かった。

 開いたドアの前には、零くんと磯矢くんの姿がある。待ちぼうけを食らっていたであろう二人に、わたし達はずずいと歩み寄った。

「もぉー、急かさないでよ男子ぃ。女の子の準備には時間が掛かるんだぞ?」

「そーだよー」

「お、おう? なんか、随分仲良しな感じになってるな?」

「そうだね。何かあったのかい?」

「えへへ。秘密です」

 零くんからの質問をはぐらかし、わたしとルビィはもう一度顔を合わせ、笑い合う。男子二人はますます訳が分からないとばかりに、揃って肩を竦めた。

 そんな笑いと困惑の中、ふとルビィが何かを思い出したように目をパチリと開く。それから零くんを見つめながら、ちょいちょいと手招き。

「あ、そうそう零。ちょっとこっちに来て」

「ん? なんだい?」

 ルビィに呼ばれ、零くんは言われるがまま歩み寄った

「ふんっ!」

「ぶげっ!?」

 瞬間、ルビィの鉄拳が零くんの顔面を直撃。突然の事に守りを固める暇すらなかった零くんは、アニメでしか聞いた事がないような呻きを上げてバタリと廊下に倒れる。磯矢くんは目を丸くしながらカチンと固まり、ルビィは満足げな鼻息を吐く。

 ――――ああ、そういえば鉄拳喰らわせるって言ってたね。

 一発で倒れたまま動かなくなる零くんを見て、あと九~十九発も耐えられるとはとてもじゃないが思えなかった。



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隠された名所

 ログフラ共和国において観光業、もっと具体的に言えば外貨稼ぎというのは、とても大切なものらしい。

 零くん曰く、この国は軍事国家であり、だからこそお金に困っているという。何故なら強い軍隊というのはお金が掛かるから。例えば戦争映画に出てくる自動小銃の場合、自衛隊が使っているようなものだと一丁当たり二十~三十数万円。意外と安い気もするけど、でも何万人も歩兵がいるならそれだけ数を揃えないといけないし、整備費とか弾代は別だし、訓練で使えば故障もあるだろうし、量が量だから保管庫を建てたりしないとだし、老朽化もあるから定期的に購入しないとだし……銃を一種類維持するのにどれだけお金が掛かるのやら。

 これに加えて戦車だとか戦闘機、あとログフラ共和国は海沿いの国だから駆逐艦とか潜水艦とかも持つと、もうお金はいくら有っても足りない。しかもそういう最新兵器はアメリカとかの『先進国』が作ってるものだから、基軸通貨であるドルを使わないと全く買えない訳で。

 だからこそ観光客からの外貨獲得が大切で、リゾート地の開発にとことん力を入れているらしい。その目論見はそれなりに成功したらしく、稼いだ外貨で最新鋭の兵器を揃えているとかなんとか。

 ……正直それを聞くと、凄く観光を楽しみ辛い。わたし達の支払ったお金が、他国を脅したり侵略したりする兵器を買うために使われるというのは、わたし的には抵抗がある。勿論最低限の装備は国を守るために必要だと思うし、武器とはいえ商品にお金を支払うというのは当たり前の事だと思うけど、話に聞くこの国の軍事力は過剰だとも感じるし。

 だから、うん、そういう意味では此処は思いっきり楽しめる場所だと思う。お金を使う必要がないから。

 でもね?

「くっさあああいっ!? 臭っ!? くさぁ!?」

 ルビィが雄叫びを上げているように、鼻がもげそうな悪臭が漂う場所に恋人及び友人を連れてくるのは割と本気で止めてほしかったなぁ。

 わたし達は今、ホテルから凡そ三十キロほど離れた海沿いに居る。海沿いと言っても埋め立て工事が進められ、岸部はコンクリートで固められていた。海は真緑色に汚れていて、ホテル周辺の青い海からバスで一時間も掛からないような近場とはとても思えない。磯風も酷く生臭くて、そこに癒やしを求める事も出来ない有り様。周りに家はなく、如何にも郊外といった感じ。

 そして何よりキツいのが、目の前のフェンス越しに見える『施設』。

 ううん、施設そのものは多分臭くない。小学校の校舎ぐらいの大きさがある工場には長く伸びた煙突が生えていたけど、そこから煙は出ていないのだから。というか機械が動くような音すら聞こえてこない。恐らく、殆ど稼働していないと思う。

 その代わりとばかりにトラックやショベルカーが動いているのが、フェンスのすぐ傍にあり、工場とも隣接している土地。

 その土地には山のように積まれたゴミがあった。何ゴミかと聞かれると、凄く困る。パッと見ただけで段ボールとか空き缶とか、車とか材木だとかトタン板だとか……なんでもかんでもあるからだ。漂ってくる生臭さを考えると、生ゴミもあるに違いない。燃えるゴミも燃えないゴミも一緒くたみたいだ。

 あまりにも酷い光景と臭い。わたしもルビィも磯矢くんも、誰もがテンションだだ下がりになってしまう。

「うん、良いね良いね。こういうのが見たかったんだ」

 ただ一人、この場所に立ち寄りたいと言って皆を引き連れた、わたしの彼氏を除いて。

 零くんはゴミの山を見て、テンション上げ上げ状態。数枚の写真をスマホで撮った後、今は大きなカメラで敷地内のゴミ山の撮影をしている。カメラで撮影した数はもう何十にもなりそうだけど、角度を変えたり向きを変えたりで、もうしばらく撮り続けそうな様子。わたし、今日はまだ一枚も撮ってもらってないんだけどなー。

 まぁ、彼女であるわたしは彼が何をしたいのか、すぐに理解出来た。この旅行の『真意』についても。だけど傍から見れば変人の奇行。ルビィと磯矢くんも訝しげに見ている。

「ねぇ、何してるの? 此処、なんか新手の観光名所な訳?」

 ついにルビィが尋ねると、零くんはカメラから目を離さずに答えた。

「勿論見た通りゴミ処理施設だよ。今人類が遭遇している環境問題の中で、最大級の問題児さ」

 その答えを聞けば、ルビィも磯矢くんも納得する。納得したから、二人とも肩を落とす。

 零くんとわたしの大学での専攻は、環境学。その中でも環境問題について学んでいる。

 零くんは環境問題の解決に熱心で、海外で現地の写真を撮るというのは日常茶飯事。教授が何処そこに行くぞーと言えば、即答で何処にでも付いていく。あとわたしも一緒に連れていかれる。割とこの活動的な姿勢と斬新な発想で、まだ院生でもないに数々の論文を世に出してるから、本当に凄い事ではある。わたしは、まぁ、そういうところに惚れたので、連れていかれるのは嫌じゃない。

 ルビィや磯矢くんも零くんのそういうところは知っているので、旅行先でも環境問題の調査をしようとする姿勢を今更責めたりなんてしなかった。ただ、なんの調査をしているかは気になるのだろう。今度は磯矢くんが尋ねる。

「最大級の問題児ってのは、どういう事だ?」

「うん。まずこのゴミ処理施設なんだけど、国内向けじゃなくて国外向けなんだ。『ゴミ輸出』のための場所だね」

「ああ、ゴミ輸出問題は知ってるぞ。とある国が他国にゴミを押し付けるやつだ……最近は特に酷いらしいな」

「うん。ハッキリ言って最悪。この状況が続いたら、本当に取り返しが付かなくなるよ」

 零くんの答えを聞き、磯矢くんが表情を曇らせる。ルビィも顔を顰めた。二人の専攻は環境学じゃないけど、零くんと友達なのだからその手の話は何度も聞かされている。それにゴミ問題については、昨今はニュースでもよく聞く話だ。

 二〇一〇年代後半から、自国で処理しきれなかったゴミを海外に押し付ける行いは問題視されていた。特に廃プラスチックの問題は深刻で、あまりの量に何処の国でも処理が追い付かないほど。受け入れ国はリサイクルすると言いながら、結局燃やしたり埋め立てたりしていたらしい。

 流石にこれは良くないと二〇二〇年代中頃、問題解決のための様々な国際条約が結ばれた。先進国はゴミ処理能力を向上させ、どうにかゴミを自国で処理するようになったけど……数年もしたら今度はゴミの埋め立て地がなくなった。二〇一〇年代で既にパンク寸前だったのだから当たり前の結果なんだけど、いざそうなったら何処の国も対処なんて考えてなくて大パニック。じゃあもう条約無視してでもゴミを外国へとなったけど、一〇年代の主要なゴミ受け入れ場所だった新興国は経済発展によりゴミ輸出国に『成長』していた。もう、何処もゴミなんて受け入れられない状態になっていたのだ。

 そうしてドタバタしていた時に新たな処理場として名乗り出たのが、世界で最も貧しい地域だったアフリカ各国。彼等はゴミを引き取ると先進国に言ってきた……勿論、有料で。経済的に未発達な彼等は、兎に角外貨が欲しかったのだ。

 新しいゴミ処理場が現れて、先進国も新興国も諸手を挙げて喜んだ。そうしてゴミは綺麗に片付いてめでたしめでたし……となれば良かったのだけど、そうはいかない。何しろ経済が未熟なアフリカ各国の処理能力は、先進国から見れば皆無としか言いようがない状態だったから。世界中からやってきたゴミは空き地に積み上げられてそれでお終い。焼きもされないそれらが敷地内から転がり落ちて、海とか陸地を汚染する。むしろどうせ外に漏れ出るからと、受け取った傍から海に捨てる国まである始末。

 お陰で、環境悪化のスピードがここ十年で一気に加速したとかなんとか。

「論文やニュースでそういった話は聞いていたけど、やっぱり実物を見たかったからね……おっ、ベストショットだ」

 そう言いながら零くんがカメラを向けた先――――海に隣接しているゴミ処理施設では、ゴミ山が現在進行形で崩れていた。どどどどどっ、という音が聞こえてくる。大量の、分別も何もされていないゴミが一気に海へと流れ出た。

 そんなあってはならない光景が見えていただろうに、海の彼方からやってきた外国の船が、ゴミ処理施設と隣接している港に接岸した。

 ……ベストショットとか言ってるけど、零くん、今頃腸が煮えくり返っているに違いない。ちょっと顔が怖くなってるし。

「これは酷い……! 何故この国はこれを放置している! 処理出来ないなら、受け取りを辞退すべきだ!」

 そして正義感に熱い磯矢くんは、この惨状に対し怒りを露わにした。

「そりゃ、今じゃこれもこの国の外貨獲得源の一つだからね。ぶっちゃけ観光客よりずっと儲かる。利益があるんだから、ゴミの供給元が輸出を止めない限り止まる訳がないよ。利権にもなってるだろうから、山本くんみたいな人が政府にいても握り潰されるだろうね」

「ぬぅ……ならせめてゴミは自分の国だけで処理出来るようにしないとな。良し、明日から俺はもっとゴミを減らすよう、努力するぞ!」

「あはは。山本くんはもう十分やってると思うけどね。でも、そうしてくれるとボクとしても嬉しいかな」

 本当に嬉しそうに笑いながら、零くんはカメラをしまった。もう十分撮影したという事なのだろう。

「じゃあ、ボクの目的は済んだから、あとは旅行を存分に楽しもうか。ホテル横のプールとか、海が見えて綺麗だよ。キララの水着も見たいし」

 それから何事もなかったかのように、そう告げてくる。

 水着が見たいと言われたわたしは身体が熱くなるのを感じて、ルビィと磯矢くんは大きくずっこけた。

「アンタ、この流れでよく平気で言えるわね……そういやなんでプールの周りの海は綺麗なのかしら。ゴミ処理施設がこんな、バスで一時間掛からないぐらい近いのに」

「海流の問題じゃないかな。ホテルからゴミ処理施設の方に流れているから、ゴミ処理施設の汚染はホテル側には来ないんだ。観光客に汚いところは隠せるよう、向こうも考えている訳だね」

「……最悪。私、悪い事して隠すやつが一番嫌い」

 心底嫌そうに、ルビィは不満を言葉にする。磯矢くんの事を真面目で誠実とか言っていたけど、ルビィも似たようなものだ。

「まぁ、ホテルの人達はただの労働者だし、そう嫌わないでやってよ。彼等も生活があるからね」

「分かってるわよ。環境問題ってそーいうのが、こう、ぐちゃぐちゃーってなるから嫌い」

「ははっ、確かにな。もう少しシンプルな方が、俺も分かりやすい」

「そうだね。それはボクも心底思うよ……さて、それじゃあお昼はシンプルに、ケバブにでもするかい? 確かホテルの近くに屋台があったよ」

「いや、そこはもっとアフリカらしい料理にしろよ。ケバブは中東の料理だろ」

 わいわいと話ながら、零くん達は此処へ来るのに使ったバス停の方へと歩き出す。わたしも、今はこの国の環境問題を見て回りたい訳ではなく、卒業旅行を楽しみたい。すぐにみんなの後を追おうとする。

 ただ、零くんほど熱心じゃないけど、わたしも環境問題には人より強い関心があるもので。

 最後にもう一回、しっかりこの目に焼き付けておこうと思いゴミ処理施設の方へと振り返る。施設の横にあるゴミ山の存在を、ちゃんと記憶に刻み込んで……

「……あれ?」

 そうしていたら、ふと、違和感を覚えた。

 何か、変な気がする。

 違和感を覚えたのだから何かがおかしい筈。だけど何がおかしいのかは分からない。

 十メートル近い高さのゴミ山が乱立している点? ううん、そのぐらいの高さなんて、別におかしくない。港に着いた船から運び出されたゴミを使って、ショベルカーとトラックが現在進行形で新たな山を作っているし。

 それともゴミ山を作っているゴミの種類? フェンスのすぐ傍にあるゴミ山を見れば、山の土台となっているのがぐちゃぐちゃな黒いもの、多分焼却処分時の灰だと分かる。その灰から飛び出すように、段ボール箱とか空き缶とか、傘の骨組みだとか石像だとかガラス瓶だとか、魚の骨とか牛の頭蓋骨みたいなものとか……見慣れているかは兎も角、様々なゴミが見られた。それらのゴミの中に、特別変なものは見当たらない。分別も何もないのは気になるけど、『違和感』とは違う。

 なんだろう。何がおかしい?

 変なものがある訳じゃない。だとしたら、あるべきものがないという事? 一体何がないのだろうか。このあらゆるゴミが集まったとしか思えない、ゴミ山から何が――――

「キララぁ! どうしたのー!」

 なんて考えていたら、ルビィの大きな声が聞こえてきた。

 ハッとして振り返れば、随分遠くまで歩いていたルビィがこちらを向いていて、口の周りを手で囲った体勢で居た。わたしを呼び、待っている。

 ちょっとだけのつもりが、随分考え込んでいたらしい。かなり恥ずかしい事をしてしまったと、顔がカッと熱くなる。ぶんぶんと頭を振って、頭の中の考えを外へと追い出す。

「う、うん! ごめんね、今行くよー!」

 すぐに返事をして、わたしはルビィ達の下へと向かう。

 そうすればもう、ゴミへの違和感なんてこれっぽっちも残っていなくて。

 これから始まる本格的な卒業旅行に、胸が弾み出すのだった。



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嬉しい予感

 ゴミ処理施設を見た後のわたし達は、ホテル周辺へと戻った。

 ゴミ処理施設周りに遊べるような施設は何もない。まぁ、あんな惨状の施設を人目に触れさせたいと思う筈もないので、人が寄り付かないようにしているのは当然なんだけど……だけどホテルの建つ区画は違う。ホテルの敷地内にある大きなプールは勿論、他にも様々な観光施設があった。お土産屋は食べ物以外にもたくさんの、動物をモチーフにしたぬいぐるみとか、ガラス細工とか、様々なものが並べられている。なんとかエステとかいう美容関係のお店もあったし、『我が国の歴史』とかいうプロパガンダ満載な予感がする施設もあった。

 あと、わたし達は誰もやろうとは言わなかったけど、大麻を吸えるお店も見付けた。この国で大麻の使用は合法なのだ。でも薬物関係の法律は確か ― 発覚・逮捕されるかどうかは別にして ― 国内外関係なく適応されるので、使ったら日本国内の法律違反。日本人であるわたし達はやっちゃダメです。

 そんな感じで、よく言えばバリエーション豊かな、悪く言えば節操なく様々な施設が展開されている。外貨を得るのが目的だとすれば、成程、経営の多角化は合理的だ。人件費などで自国通貨の収支はマイナスになっても、外貨収支がプラスならあまり問題ないのだろう。

 そう考えると複雑な気持ちだ。この国が軍事政権である事を知り、ゴミ処理施設の惨状を見た後では尚更。だけど人間というのは欲望に素直なものでもあり、一度楽しんでしまえば、次のハードルは低くなる。

 純粋に、とまでは言えないけど……わたし達が本来の目的である観光を楽しむようになるまで、あまり時間は掛からなかった。

「キララぁ! 見て見てこの指輪! ちょー綺麗!」

 例えば今、ルビィが装飾品店を楽しんでいるように。

 まぁ、わたしはルビィほどは装飾品店を楽しんでいないのだけれど。それは楽しむ気分じゃないから、というネガティブな理由じゃなくて……以前零くんからもらった指輪が一番で、他があまり綺麗に見えないからなんだけど。

「う、うん。綺麗だね。ルビィによく似合いそう」

「……なんかノリが悪いわね。ひょっとしてアンタ、零からもらった指輪が一番だから他はどーでも良いとか思ってない?」

「そそそそそんな事なななないよよよ!?」

「分かりやす過ぎる……ちょっと零、アンタこの子にどんな指輪贈ったの!」

「そんな大したものじゃないよ。小さなエメラルドが付いたやつ」

 わたしは咄嗟に隠そうとしたけど、零くんにそんなつもりは全くなくて。あっさりバラされてしまい、わたしは顔が熱くなるのを感じた。多分、今頃頬が真っ赤になってる。

 ルビィは零くんの答えを聞いて、にやにやと笑う。わたしの肩をガッチリと組んで、逃がさないようにしてきた。間近に迫る顔の圧に負けて、つい、仰け反ってしまう。

「誕生石とか憎いわねぇ。それとも幸福になってほしいとか、そんな意味かしら? というか指輪もらったのにしてないのはなんで?」

「だ、だって、まだ結婚前なのに、左手の薬指に嵌めたら、なんか、恥ずかしくて」

「しかも婚約指輪かい! あれ、でもそれならダイヤが一般的……じゃないか、今時は」

「うん、そうみたいだね。それに零くん、こういうお約束、あまり気にしない人だから」

「つまり本心からアンタを思っての贈り物って訳ね。羨ましいわねこのこの~」

 ルビィは指先でわたしの頬をつんつんしてくる。言葉責めと相まって、すごく恥ずかしい。

 そんなルビィが次に視線を向けたのは、ずーっと黙っている磯矢くんの方。

「……私も、大事に想ってくれた結果なら、何を贈られても嬉しいんだけどなぁ」

 それからぽつりと、わたしにしか聞こえないような小声で呟く。

 無言を貫く磯矢くんは、凄く真剣な顔をしていた。血眼になる、とはああいう顔の事を言うのだろう。あの目で睨まれたら、わたしなんて多分身動きが取れなくなる。つまりかなり怖い。

 そして彼の視線の先にあるのは、何種類か並んでいるダイヤの指輪。

 ……多分買う事そのものには迷いがなくて、どれを贈ろうか迷っているのだろう。『一生物』になる予定の品物だから。ルビィとしてはどれが欲しいという事はなく、気持ちのこもったものが嬉しい訳だけど、アレが彼なりの気持ちの込め方なら止める訳にもいかない。

「『お客様、お決まりになりましたか?』」

 ただ悩んでいるのは傍目にも分かったようで、磯矢くんは店員さんに英語で話し掛けられた。ハッと顔を上げた彼は、次いでわたふたする。磯矢くんは英語が苦手なのだ。

「やれやれ、仕方ない。ちょっと助け船を出そうかな」

 見かねた零くんが通訳を申し出る。彼は「長くなりそうだし一時間ぐらい二人で楽しんできてよ」と言いながらわたしの方を見てきたので、わたしはこくんと頷いた。

 あまり長々と考えているところを見られたくないという、男の子の意地なんだろう。

「ルビィ、ちょっと他のお店回ろうか」

「ん? ……そうね、そうさせてもらいましょ。期待してるわよぉ?」

 わざとらしくルビィが声を掛ければ、磯矢くんの背中がビクリと震えた。さて、一時間でちゃんと選べるのかな? まぁ、零くんと一緒なら大丈夫。多分。

 わたしはルビィと共にお店の外へと出る。

 午後三時ぐらいのまだまだ明るい時間帯、装飾品店が面している通りにはたくさんの人が行き交っていた。黒人も白人も黄色人種も居て、顔立ちはヨーロッパ系のやアラブ系が多いものの千差万別。世界中から観光客が来ていると窺い知れる。

 ずらりと隙間なく並んでいるお店はどれも綺麗で、ここ数年で建てられたものみたいだ。制服姿で道の端に立っていたり巡回していたりする黒人は、この国の警察官だろう。彼等がこの辺りの治安を守っているに違いない。

 大変賑やかな真新しい観光街で、治安維持も万全。とはいえ異国の地を女二人で無防備に歩き回れば、獲物を探している犯罪者の目に留まってしまうかも知れない。この国にとって観光は外貨獲得のための重要産業なので、観光客が被害に遭えばイメージ回復のため全力で捜査すると思うけど……万が一にも拉致とかされたら捜査されても色々手遅れだし。

 あまり遠出はせず、出来るだけこの装飾品店近くの、それこそ装飾品店が見える位置のお店で時間を潰したいのだけれど……

「まぁ、時間を潰すなら喫茶店よね。あそことかそうなんじゃない?」

 迷いながら辺りを見回していたところ、ルビィがある場所を指差しながらそう語る。

 彼女の示す先を見れば、真っ黒な壁の小さなお店があった。道路側にある大きな窓から様子を伺うに、あまり混雑していない。そして店の入口の上にある看板には、英語で『喫茶クリトルリトル』と書かれていた。

 ……名前に物凄く不安を覚える。

「どうなの? あのお店、喫茶店じゃないの?」

「え? あ、えと、喫茶店ではあるみたいだけど、でも」

「なんだ、それなら早く行きましょ。お店の前でたむろしていたら男子達もやり難いでしょうし」

 だけど確たる不安でもないので迷っていたら、ルビィが先に動き出してしまった。わたしは後を追う形で、ルビィと共に喫茶店の中へと入り――――

「『いらっしゃいませ!』」

 元気な英語で出迎えられた。

 店の奥からやってきたのは若い黒人の店員さん。笑顔が眩く、一目で良い人だと思わせる魅力がある。スタイルも良くて、あまりの美人ぶりに一瞬驚いてしまった。

 店内に他の従業員の ― ついでにお客さんも ― 姿はなく、この店員さんが一人でお店を切り盛りしているのだろうか。店内に置かれている席の数も少なく、十人も入れば満員になりそう。こじんまりとしているけど、その分目は行き届いているようで、席や机はとても綺麗だ。店内を漂うコーヒーの香りも良くて、良いお店に当たったという期待をさせてくれる。

 うん、普通の、普通以上の喫茶店だ。

 お店の奥にずらりと並ぶ、名状し難きぬいぐるみや彫刻を除けば。ゾンビとか骸骨はまだマシで、内臓をひっくり返したような物体はどう考えても飲食店に配置するデザインじゃない。

「『人数は二人でよろしいですか?』」

「え? あ、えと、『はい。二人です』」

「『畏まりました。ご希望の席はありますか?』」

「えっと……『窓際でお願いします』」

 嫌な予感がしつつ、しかし店員から英語で尋ねられた際、思わずYesと答えてしまう。答えた手前今更あーだこーだと言い辛く、装飾品店の様子が窺える窓際席を希望した。

 店員さんに案内され、窓際の二人席に案内される。店員さんはわたし達にメニューを手渡すと、決まったら呼んでくださいと伝えてカウンターの方に戻った。ちなみに案内された席には、タコとコウモリが合体したかのような不気味な小物が置かれている。

「やーん、これキモ可愛いー♪」

 ……キモいは兎も角、可愛いのかな、これ。正気度削られそうなんだけど。

「店員さんの趣味、なのかな。独特だよね」

「写真撮って良いかな。メニュー決まった時一緒に訊いてくれない?」

「ん、分かった」

 ここで勝手に撮らず、訊いてみるのがルビィの真面目なところ。わいわい話ながらコーヒーとスイーツを決めて、店員さんを声で呼んだ。

 わたし達を出迎えてくれた店員さんがカウンターの奥から出てきて、注文を記録するための器機を片手に持ちこちらにやってくる。

 注文を口頭で伝え、それからルビィに頼まれていた事を訊いた。

「『すみません。友達がこの置物を撮りたいようなのですが、よろしいでしょうか?』」

「『はい! 構いませんよ』」

「『ありがとうございます……好きなのですか? その、こういうオカルト系のものが』」

「『ええ、とっても!』」

 何気なく店内のインテリアについて尋ねてみると、店員さんは元気よく肯定した。これだけ堂々と飾っているのだから隠しはしないだろうけど、とても大きな声だったので少し驚く。

「『昔からオカルトや怪談が好きで……この喫茶店も、たくさんの人にオカルトに触れてほしくてやってます』」

「『そう、なのですか』」

「『ええ。そうそう、オカルトと言えば最近、この辺りにはこわーい話がありますよ』」

「『怖い話?』」

「『はい。なんでも月のない夜、海辺に行くとですね、海から人の形をした怪物が現れるという噂です』」

 店員さんは興が乗ってきたのか、すらすらと話し始めた。

 その噂はここ一年ほどで囁かれ始めたもの。要約すると海から怪人が現れ、ゴミ箱を漁っていた、人が襲われた、車が壊された……という被害が出ているそうだ。それは単なる見間違いなどではなく、通報もかなり増えていて、急増した被害・通報に対処すべく警察官の警邏が強化されたらしい。だけど今も被害は減らず、むしろ増加傾向にあるとかなんとか。

 ……なんて言ってるけど、割と怪談のお約束っぽいと思う。今も被害が出ている~とかいうのは、結構本気で調べないと分からない事なので、バレない、というか嘘だと証明し難い話。オカルト話でそれを真面目にやるのも無粋だし。

「『あっ、すみません。長話してしまいましたね。すぐ、ご注文の品をお持ちします』」

 話が一区切り付いたところで、店員さんは慌てて謝ってくる。わたしは特に気にしてなかったのだけど、店員さんは早足でカウンターに戻ってしまう。

 ……まぁ、真面目に考えるなら、夜不用意に出掛けるなって感じの言い付けなのかな?

「随分長く話していたね」

「え。あ、うん。えっと、この辺りの怪談話を教えてくれたの。海からお化けが出てきて、人を襲うらしいよ?」

「おー、現地のオカルトだぁ。あ、この置物の写真は平気?」

「うん、良いって」

「やったー」

 店員さんからの了承を伝えると、ルビィは早速スマホで置物の写真を撮り始める。余程このキモ、可愛いオブジェが気に入ったらしい。

 それはそれとして。

「磯矢くん、どんな指輪買ってくれるんだろうね?」

 窓から装飾品店を眺めながら、ルビィに尋ねてみる。

 写真を撮っていたルビィの手が止まり、ふぅ、と小さな息を吐く。それからわたしと同じく窓から装飾品店の方を見た。

 次いでルビィが浮かべたのは、なんとも清々しい笑み。

「無骨で可愛げがなくて、シンプルな奴ね。アイツはそーいうの全然分かってないから」

 それから心底嬉しそうに、そして自信満々に、ルビィは断言するのだった。



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楽しい逢い引き

 ルビィは凄く女の子らしい女の子である。

 見た目は派手で、お化粧とかもちゃんとして、何時もハキハキ元気満々だから『遊んでいる』という誤解もされがちだけど……心は真逆。物凄く純情な乙女で、本当に嬉しい事があると、一日どころか何日も恋する乙女モードになってしまう。

「る、ルビィ! その、こ、これ、受け取ってくれ!」

 例えば今みたいに、『磯矢くん(彼氏)』から指輪をプレゼントされた時とか。

 わたしとルビィが寝泊まりするホテルの部屋にて。窓から見える月と海が綺麗だねーと二人で話していた夜七時頃、突然磯矢くん(あと付き添いの零くん)が訪れた。彼はわたしと零くんが見ている前で、前置きも何もなく懐から小さな指輪の箱を取り出し、ルビィに差し出してきたのである。

 箱の中の指輪は宝石とかが付いていない、シンプルな輪っか……確かドームというデザインのもの。ルビィが言っていたように『無骨』で、だけど素朴でもあって、磯矢くんの人となりが現れているような気がする指輪だった。

 ……婚約指輪としては、ちょっとシンプル過ぎる気もするけど。

 そもそも情熱的な言葉と顔付きではあるけれども、部屋に入った瞬間とかムードも何もない。個人的にはもうちょっと工夫して、とも思う。だけど貰い手であるルビィは悪態どころか表情を顰める事すらなく、茹で蛸のように顔を赤くしながら指輪を受け取る。

 そしてなんの躊躇もなく、というかその指輪がなんであるかも確かめずに、自分の指に嵌めた。具体的には左手の薬指に。

「……………」

「そ、その、やっぱりこういうのは、もっとちゃんと選びたいけど、なんか期待させてるみたいだから何も買わないのも良くないと思ってええっとつまりなんだこれはその本物じゃなくていや勿論気持ちは本物なんだがつまりだなええっと」

「……………」

 べらべらと話しまくる磯矢くんに対し、ルビィは沈黙したまま。ぼぅっとしながら自分の指に嵌めた指輪を見ている。

 相手から反応がないと人間というのは焦るもので、磯矢くんはわたふたしていた。心配する必要なんてない、と教えてあげたいけど、今の磯矢くんもこっちの話を聞く余裕はないだろう。

 わたしはルビィの傍を離れ、零くんの下へと向かう。零くんはニコニコ、楽しそうに笑っていた。

 そんな零くんに、問い掛ける。

「念のために訊くけど、あれ、婚約指輪だよね?」

「ん? あー、どうだろう? 本物は別に買うって言ってたけど」

「別に?」

 そういえば、本物じゃない云々と磯矢くんも言っている。

 まぁ、勿体振ってるだとかケチったとかじゃなくて、磯矢くんが話してる通りもっとじっくり選びたいからなんだろうけど。一体何日迷うつもりなのかな……

「なら、あの指輪は?」

「プラスチック製の、まぁ、見た目だけはちゃんとしている奴だよ。お値段なんと百ドルぽっきり」

「……微妙に高い」

「プラスチック製だと思えばね。でもプラチナとよく似た輝きを出し、軽量で扱いやすく、傷も付きにくい。耐熱性もあるから料理中に溶けて火傷する心配もなし。性能的には価格に見合ったものはあるだろうね。個人的には、ダイヤとかプラチナのような稀少金属は装飾品じゃなくて工業用にすべきだと思うから、あのタイプの指輪が一般化するのは好ましいと感じる。勿論プラスチックの処理には多くの問題があるから、その点をきっちり解消した上での話だけど」

「だからわたしの指輪、ダイヤじゃなくてエメラルドにしたの?」

「……いや、あの時それは考えてなかったな。なんだかんだいっぱいいっぱいだったよ」

 しっかり思い出してから語る言葉に、嘘はない。彼はこういうところで嘘を吐くタイプじゃないから。でも、そっか。いっぱいいっぱいだったんだ……嬉しいな。

 ……さて。

「ルビィと磯矢くん、まだあの調子だけど、どうする?」

 わたしが指差す先には、未だわたふたしている磯矢くんと、その磯矢くんの前で沈黙するルビィの姿がある。

 零くんは沈黙し、しばし考え込む。考え込んで、大きく頷いた。

「放置で」

「だよねー」

 そして出された答えに、わたしは特に反対しなかった。

 ああなったルビィは余程の ― 頭から水をぶっかけるとかの ― 事がない限り、我に返らない。

 どうにもならないなら、放置するのが一番だ。時間が全てを解決してくれるのである、多分。あとお腹が空いてきたので、ご飯食べに行きたい。

「そろそろ夕食の時間だし、わたし達だけで食堂に行こうか」

「そうだね。部屋の鍵はどうする?」

「掛けとく。今の二人じゃ、部屋にこっそり泥棒が忍び込んでも絶対気付かないし」

「全く同意見だ……ボクは一度部屋に戻って再度戸締まりの確認と、あと貴重品を取ってこよう。こっちの戸締まりは任せて良いかい?」

「うん、大丈夫。しっかり閉じ込めておくね」

「じゃ、よろしく」

 零くんはそう言うと、すぐに自分の部屋へと戻った。

 わたしも自分の荷物の中から、スマホとか財布を取り出す。それからスリとかに取られないよう、お洒落なチェーンで服と結び付けた。パスポートも念のため肌身離さず持っておく。

 ……身支度はこんなもので良いだろう。後は、自分の世界に入ってる二人に一応伝えておかないと。

「わたし達、ご飯食べにいってくるね。二人とも留守番よろしく」

「……うん」

「え、ああ、うん、えとだからその」

「メモ書き残していくから。あと、部屋の鍵は借りてくからね」

「……うん」

「ああ、ああそうだな。ああそうじゃなくて」

 二人の中身が一切ない返事を聞きながら、わたしは部屋の鍵を手に取る。次に綺麗な月明かりと爽やかな磯風が入る窓を締め、テレビがちゃんと消してある事を確認。最後に、わたし達が何処に行ったのかをメモに書いて残しておく。どうせ帰ってくるまで、一度も我に返らないだろうけど。

 これで準備は万端。

「じゃ、いってきまーす」

 外出を伝えてから、わたしはしっかりと部屋の鍵を閉めた。とりあえず、これで良し。

「やぁ、キララ。お疲れ様」

 そうして部屋の前に居たところ、既にホテルの廊下に居た零くんに声を掛けられた。振り向いて、自然と笑みが浮かぶ。

「あまり疲れてはないよ。こっちが一方的に話すだけなんだから」

「それはそれで大変そうだけどね。ほんと、二人ともちょっとしたイベントがある度にこれだ」

「手を繋いだとか、キスをしたとか、そんな事で毎度毎度わたふたしてるもんねー。反応の仕方は二人で全然違うけど」

「話を聞かないという意味では一致してるかな」

「あー、確かにそうかも」

 そういう意味では似たものカップルと呼べるのだろうか。なんだか可愛らしく思えて、くすくすと笑い声が漏れ出てしまう。

 ……あと、これを思うのはルビィ達に失礼なんだけど……零くんと二人きりになれて嬉しい。

「えと。じゃあ、あの、手をつないで、一緒に、食堂まで行こっか……?」

「おっと、先に言われてしまったか。うん、よろしく頼む」

 尋ねてみれば零くんは迷いなく、わたしの手をぎゅっと握り締めた。ちょっと強めに握られると、男の子だなって感じがして、頼もしく思えるから好き。

 わたし達が寝泊まりする部屋はホテルの三階で、食堂は一階にある。具体的には部屋とつながる穏やかな明るさに満ちた廊下を進み、階段を下りればすぐの場所。五分も掛からずに到着だ。すぐに辿り着けるのは有り難いけど、零くんとの手つなぎが五分で終わるのは、ちょっと寂しい。

「あの調子だと、山本くんは千原さんが正気に戻るまで駄目そうだよね。千原さんは何時正気に戻ると思うかい?」

「うーん、あの感じだと……三日?」

「旅行、終わっちゃうね」

「終わっちゃうねー」

「まぁ、楽しめているという意味では問題ないか。残りの日程を僕達二人きりの旅行に出来るのは個人的に嬉しいし……ああ、そうだ。夕食の後は二人きりでプールに行こうよ」

「プール?」

「此処、夜もプールを開放しているんだ。流れとか波がなくて、浅いプール限定だけど」

 零くんのお誘いに、わたしは少し考える。

 勿論嫌な訳がない。零くんと一緒にプールで遊ぶなんて凄く楽しみだし、夜のプールとかロマンチックな感じがするし。

 ……ただ。

「……もしかして水着が見たいから?」

「うん。昼間は観光だけで、プールに行く時間なかったし」

 知ってた。即答するのも分かってた。零くん、自分の欲望に素直な人だから。

「零くんのえっち」

「彼女の可愛い姿は誰でも見たがるものさ。おあずけされたら尚の事だよ」

「うぅ……」

 頬が赤くなるのを感じる。零くんはこういう時、ジョークでも嘘は言わない。本当にそう思っているというのが分かるから、余計に恥ずかしい気持ちになる。

 だけどそうやって求められるのは、嫌じゃない。むしろ嬉しいぐらい。

 だからこそわたしも、新しい水着を買ってきた訳で。

「……もう、仕方ないなぁ。良いよ、後で見せてあげる」

「やった!」

 もっと凄いものも見てる癖に、水着だけで中学生みたいに喜ぶ零くんは凄く可愛いと思った。

 そんな他愛ない話をしていたら、もう食堂が目の前まで来ていた。

 食堂と言っても高級レストランみたいに綺麗な場所で、開かれている大きな扉の前から覗き見ても分かるぐらいたくさんのテーブルと席が置かれている。照明は夕方みたいな淡い橙色で、大人のムードを感じさせた。

 部屋の奥には料理がたくさん並べられ、人々はそれぞれ自由に料理を皿に盛っていく。所謂バイキング形式らしい。夕飯の時間帯というのもあって、たくさんの人が食堂内を行き交っていた。見たところ殆ど全員がわたし達と同じ外国人観光客。アジア系の人の姿はあまりなくて、多分わたし達の日本語を理解出来る人はそんなにいないと思うけど……でももしもさっきの会話を聞かれたら、恥ずかし過ぎる。零くんと『二人きり』だと、言動に抑えが利かないかもだし。

 口をもごもご動かしながら閉じ、小さく咳払い。零くんはわたしの『挙動不審』をじっと見ていたけど、表情一つ崩さない辺り多分こちらの考えなんてお見通し。

 なんか一人だけいっぱいいっぱいになってる感じがして、ちょっと悔しい。

「じゃ、行こうか」

「う、うん」

 だけどその悔しさは、零くんがわたしの手を引っ張るだけで消えてしまうのだけど。

 入った食堂の中は、外から眺めるよりもずっと賑やかだった。大学の食堂と同じぐらいか、或いはそれ以上の広さなのに、それでも窮屈さを感じるぐらい人でごった返している。ぐるりと一望してみれば、大勢の人が席に座っていると確認出来た。

 ……というかたくさん座り過ぎてて、空いてる席が見付からない。

「なんか、満席っぽくない?」

「そうだね。まぁ、夕飯時だから混雑もするか」

「どうする? 待ってる?」

「うーん、確かにキララと話していれば時間なんてすぐに過ぎるだろう、けど」

「けど?」

「二人きりだと話に夢中になり過ぎて、食堂が閉じる時間になりかねない」

 零くんが真顔で発したバカップル発言を、彼女であるわたしは否定出来なかった。

 ルビィ達がいればきっちり時間を見てくれるのでそういう心配は要らないのだけど、そのルビィ達が今は機能不全状態。わたし達だけじゃ、間違いなく時間を守れない。

 今更だけど、わたし達も人の事を言えたもんじゃない。むしろ平時でこの調子なのだから、より重傷だろう。いや、重体?

「……困ったね」

「困った困った。話すだけなら話題はいくらでもあるんだけどね」

「例えばどんな?」

「窒素肥料の大量使用による海洋汚染問題についてとか」

「……わたしも環境学を学んでるから、話せなくもないけどさぁ」

「はは、冗談さ……そうだね、それじゃあ適当にホテル内を見て回ろうか」

「一周したら、また食堂に入る感じ?」

「そう。これなら適度に時間を潰せて、尚且つ潰し過ぎる事もない」

「良いね、そうしようか」

 方針を決めたわたし達はホテル内を見回るべく、食堂を出た。

 食堂から三分ほど歩いた先には、このホテルのロビーがある。ロビーには勿論ホテルの出入口があり、此処から海と面しているプールにも行けるらしい。

 今はもう夕飯時なのだけど、ホテルを出入りしている人の数は少なくない。ロビーにも十数人の宿泊客がたむろしていて、お喋りをしている。フロントには二人の黒人の女性スタッフが居て、宿泊客の様子をチェックしているみたいだった。

 食堂へと繋がる道から見て、ロビーの左側の通路の奥にスタッフルームと書かれた扉がある。わたし達宿泊客は立ち入り出来ない場所だ。ぼんやり眺めていると、大きなゴミ袋……多分中身はペットボトル。ホテル内に設置されている自販機のゴミだろう……を持って、中に入るスタッフの姿も見られた。ゴミ捨て場へとつながる裏口でもあるのだろう。

 今度は右側の通路に目を向けると、観光客らしきラフな格好の人が出入りしている部屋があった。名前が書かれた看板とかはなかったけど、ロビーの壁にあった地図曰く、レクリエーションルームらしい。宿泊客であるわたし達も入れそうだ。

「零くん、あそこレクリエーションルームみたい」

「そうなんだ。ちょっと寄ってみようか」

「うんっ」

 零くんと共に、わたし達はレクリエーションルームへと向かう。

 レクリエーションルームは、これまた大混雑だった。廊下とか食堂と違い、ギラギラと眩しい蛍光灯に照らされている。中はまるで日本のゲームセンターみたいに、大きな機械がたくさん置かれていた。種類はパンチングマシンやレースゲーム、それに……なんで卓球台があるの? 麻雀台まであるし。

 なんというか、売れそうなものを兎に角詰め込んでみましたという感じが強い光景だ。

「うーん、マナーが悪いなぁ」

 そんな風にわたしは機械の方を見ていたのだけれど、零くんは別のものを見ていた。

 部屋の隅に置かれている自販機だ。いや、正確にはその自販機の傍に置かれている、ペットボトルが溢れているゴミ箱かな。ゴミ箱にはまだまだ入りそうなのに、ペットボトルが近くを転がっている。おまけに中身が半分ぐらい残っているものもちらほら……見るに堪えない。

「アレも、纏めて捨てられちゃうのかな」

「多分ね。あんなに『異物』がある状態でリサイクルしてもろくなものが出来上がらないし、だからって汚れを取り除くのだって手間。間違いなく今日見てきた場所に捨てられるだろうね」

「だよね……」

 零くんの話に、わたしは肩を落としてしまう。零くんほどじゃないけど、わたしもちょっとは環境学に精通している身だ。そういった事には敏感である。

 この観光地は治安が良いので、自販機もたくさんあるだろう。もしもその自販機の傍にあるゴミ箱がみんなこの調子なら、きっと毎日大量のペットボトルがゴミとして埋め立てられ……

 そう思った時、ふと、違和感を覚える。

 あのゴミ処理施設の敷地内、()()()()()()()()()()()()()ような気がする。

 ペットボトルだけ別の場所に運ばれているのかな? でも、なんでそんな面倒な事をするんだろう。勿論良くはないけど、纏めて捨てちゃえば楽なのに――――

「どうするキララ。此処で遊ぶかい?」

 頭を過ぎった考えに、だけど深く考え込む前に零くんがわたしの意見を訊いてきた。我に返ったわたしは、少し考える。

 正直、この場所で遊ぶ気にはならない。なんというか「お金を稼いでやる」という意思をひしひしと感じて、苦手なのだ。ホテルの外に並ぶお店だって似たようなものだけど、ここは特にその『雰囲気』が強い感じがする。嫌いとかなんだとかじゃないけど、わたし的には居心地が悪い。

 それにゴミ箱周りが汚い場所にはあまり近寄りたくなかった。この後に夕食なら尚更である。

「……ううん、止めとく」

「そっか。じゃあ、ロビーの方に戻ろう」

 わたしが自分の気持ちを伝えれば、零くんはすぐに頷き、レクリエーションルームから離れる。手を引かれる形で、わたしもレクリエーションルームを後にした。

 そうしてロビーに戻ってきたけど、でも何処に向かうかとかは決めてない。零くんが足を止めたので、わたしも立ち止まる。

「さて。時間を潰した、と言えるほど経ってないけど、どうしようか?」

 零くんの意見に、わたしからすぐに答えられる事はない。今食堂に戻っても、やっぱりまだ混んでるだろうし……だからって他に見たいところがあるかと言えば、そんな事もなくて……ロビーで零くんとお話ししていたら、そのまま何時間も経っちゃいそうだし……

 しばらくそのまま立ち尽くすわたしを、零くんは急かしたりせず、答えを待ってくれる。だからわたしはゆっくりと考えた。どんな答えを伝えても、零くんは否定なんてしないと知っているから。

 そうして考えを纏めて、答えを告げようとした、寸前のところだった。

「きゃあああああああああああっ!?」

 どの国の出身だろうと関係ない、女の人の本心からの叫びが聞こえてきたのは……



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恐怖の襲撃

 悲鳴が聞こえた時、実のところわたしは殆ど驚きを覚えなかった。

 日本で普通に暮らしていて、悲鳴を聞く機会なんてまずない。ゴキブリを見たルビィが叫んだとかはあるけど、あんな可愛らしいものを本物の悲鳴と比べちゃ駄目だろう。本当の、命の危機に直面した時の悲鳴なんて、映画だとかアニメだとかで聞くのが精々。少なくともわたしにとって悲鳴とはフィクションの中の出来事に過ぎず、何処からともなく聞こえたからといって、すぐに身構えてしまうものではなかった。

 むしろ悲鳴のしばらく後、ロビーの入口から雪崩れ込むように入ってきた大勢の人の姿の方が、わたしの心臓を飛び跳ねさせる。

 入口からやってきたのは、何十もの人達。男の人も女の人も居たけど、全員水着姿だった。恐らく夜間プールを楽しんでいた人達なのだろう。危険な、例えばテロリストのような集団ではないのだけれども、一斉に大人数が押し寄せてくれば恐怖を感じる。しかもその顔は鬼気迫るものばかり。ロビーにはわたし達以外の人もたくさん居たけど、その人達も身体が跳ねるぐらい驚いていたので、わたしだけがとびきり臆病という訳ではあるまい。

「きゃあっ!? えっ、な、何……?」

「キララ、しっかり捕まってて」

 困惑するわたしに、零くんがそう言ってきてくれた。訳が分からず、言われるがまま零くんに抱き付く。零くんはわたしの肩に腕を回し、抱き寄せてくれた。

 零くんは決して逞しい身体付きをしている訳じゃない。だけどわたしと比べれば『男の子』らしさが感じられて、ほんの少しだけど安心感を得られた。恐怖はその分薄れ、やってきた人達をちゃんと見るだけの余裕が出来る。

 入口から押し寄せてきた人達は、半分ぐらいはそのままホテルの奥……宿泊部屋がある方に走っていった。残りの半分はロビーに駆け寄り、受付の人達に何かを訴えている。わたしは一応英語が分かるけど、彼等はそれぞれの母国語で話しているのか、殆ど理解出来ない。辛うじて聞こえた英語も早口な上に文法が滅茶苦茶で、他の言語と混ざってしまえばもう何が何やら。

 ただ、だからこそ全員の様子がただ事でないのは理解出来る。

 それに何人かの人は、肩や頭から血を流していた。傷の程度はそれぞれだけど、酷い人はかなり……わたしには直視出来ないぐらい深い。ある男の人なんて、肩から二の腕の辺りまで続く傷があり、その、ちょっと中身が、見えた。医療にはそこまで詳しくないけど、早く病院で治療しないと大変な事になりそうだと感じた。

「あ、あの人達、酷い怪我してる……きゅ、救急車、呼んだ方が良いのかな……?」

「いや、ここはホテル側に任せよう。ボク達は英語を話せるとはいえ、怪我の様子は正確に、それこそ母国語の人が伝えた方が間違いがない。混乱して間違えましたじゃ済まないからね。あと、あちこちから通報したら病院側も混乱するだろうし、ホテル側としても状況を把握したい筈だ」

 わたしが殆ど無意識に尋ねると、零くんはしっかりとした言葉で自分の考えを伝えてくれた。ちゃんとした理由のある言葉は頼もしくて、わたしはまた少し気持ちを落ち着かせる事が出来る。

「それより、気になる点が一つ。あの怪我は、一体何に付けられたんだ?」

 ただ、零くんのこの言葉で心臓がドキリと跳ねたのだけど。

 ……わたしだって、疑問に思わなかった訳じゃない。

 怪我をしている人達の姿を見れば、どれも切り傷だと分かる。さっき直視出来なかったぐらい大きな傷を負っていた人を、勇気を出して見てみれば、その傷が何かで切り裂いたようなものだと分かった。

 猫に引っ掻かれた程度の切り傷なら、例えば金網や割れたガラスに引っ掛けたとかで説明出来ると思う。でもあんな、大きな切り傷なんておかしい。

 なんだろう。切り裂き魔でも現れた? それなら警察も呼ばないと、あ、でももうホテルの人が呼んでいるかな――――

 勝手な想像ではあったけど、わたしは『犯人像』を作り上げた。切り裂き魔なんて怖いと思いつつ、正体が分かると妙に冷静な気持ちになったのも事実で。

 だから。

 ロビーの入口から堂々と入ってきた『そいつ』を見た瞬間、わたしは頭が真っ白になった。

「……零くん……あれ……」

「ん? なん、だ、ぃ……」

 恐る恐るわたしは『そいつ』を指差しながら、零くんに尋ねる。零くんはわたしの指先を追い、そして声を詰まらせた。

 どうやら、混乱のあまりわたしだけが見ている幻覚という訳ではないらしい。

 ロビーの入口から入ってきたそいつ……正体不明の『怪人』は。

 わたしの目がおかしくなった訳じゃないのなら、そいつはハッキリとした形と質量のある物体だった。怪人と言ったけど、それは二本足で立っていて、二本の腕がぶらぶらと垂れ下がり、垂直に伸びた胴体のてっぺんに頭のようなものがあるからというだけの話。

 人間の皮膚は飴細工のような黄ばんだ半透明な色合いはしていない。その奥にある、黒ずんだ小さなものが透けて見える訳がない。皮膚表面はロビーの照明を浴びて艶々と輝かないし、手足の関節部分に子供用玩具みたいな切れ目はない。

 そして口も目も耳も鼻もない、凸凹したボールみたいな頭はどう見ても人間のそれじゃない。

 見た瞬間にぞわぞわとした悪寒が全身を走る。心が掻き乱されるような感覚に陥り、身体中から汗が噴き出した。口の中が乾き、べたべたとした涎で口が開かなくなってしまう。

 それでもそいつがただ佇むだけなら、もうあらゆる疑問を無視して「ああ、ただの趣味が悪い彫刻か」とでも思えたのに――――そいつは意思を持つかのように、歩き出した。

 アレがなんなのか知りたい。だけどわたしが抱き付いている零くんは何も答えず、無言でわたしを強く抱き返すだけ。先程まで頼もしさを感じられた抱擁が、途端に不安を掻き立てる。

「『へへ、なんだよこれは。さてはドッキリだな?』」

 そうして動けなくなったわたし達の前で、一人の黒人男性が歩き出した。

 彼は、多分海外の旅行者なのだろう。綺麗な身形をした男性で、スポーツ選手か、或いはボクサーではないかと思うほど屈強な肉体を持っている。ロビーの受付に集まっていた人達が男の言葉に反応して振り返ると、パニックになったように叫びながら走り出し、ホテルの奥に行ってしまう。

 屈強な男性は人々の反応を鼻で笑うと、躊躇う素振りもなく怪人の前に立つ。左右に身体を揺らし、パンチの真似事をするなど、完全におちょくっていた。

 怪人はそんな男性に対し、ゆっくりと右腕を上げ……振り下ろす。

 直後に、スパッ、という音が聞こえた、気がした。

 そして男性の腕からはどばどばと、真っ赤なものが溢れ出る。

「『……は?』」

 男性は自分の腕を触り、その赤いものが本当に自らの腕から出ているのだと確認していた。そんな男の人の両腕を、怪人もまた自身の両腕で掴む。

 次いで口も目も鼻もない頭が、ぱっくりと左右に裂けた。裂けた頭の中は、どろどろに溶けた肉のような黒い何かで満ちている。

 そしてそいつは男の人の顔面に、その黒い何かを伸ばした――――

「見るな!」

 瞬間、零くんがわたしの顔を手で掴み、自分の胸元に抱き寄せた。

 何時もなら顔が赤くなるぐらい恥ずかしくて、だけどきっと嬉しくなっちゃう行為。でも今は違う。

「ブ、ブゴオォ!? ゴッ!? ゴォオオアォッ!? ボギオオォオ!」

 直後に恐ろしい呻き声と、ぞりぞりと柔らかなものを削るような音が聞こえてきたのだから。

 背筋が凍った。わたしだって子供じゃない。あの二つの音を聞けば何が起きているのか、想像出来る。

 食べているんだ。あの怪人は、さっきの黒人の人を。

「キャアアアアアアアアアアッ!?」

 女の人が叫んだ

 直後ロビーの入口の方角から、窓ガラスを破る音が聞こえてきた。わたしは零くんの胸に埋めていた顔を反射的に上げ、その音が聞こえた方へと振り返る。

 わたし達から五メートルほど離れた位置には、男の人にのし掛かるあの怪人が居た。

 そしてその怪人の後ろ数メートル先……ロビーの入口があった場所から、怪人という形すらしていない、だけど目の前の怪人と同じ質感の存在が何体、何十体もホテル内に侵入してきている! 怪人達は裸足で、恐らく自分達で叩き割ったであろう床に散らばるガラス片を踏み付けるも、怯んだ様子もなく突き進んできていた。

「ひっ……!? れ、零く」

「キララこっちだ!」

 思わず助けを求めるわたしだったけれども、零くんはそれよりも早くわたしの手を引き、ロビーから逃げ出す。

 わたし達が逃げると、怪人……ううん、怪物達は追うかのように走り出す。怪物の殆どは一般的な動物のような、つまり普通の生物の姿をしていない。人を襲った怪人みたいなのはまだ『ちゃんとしている』方で、三本の足の先が捻じ曲がって地面から浮いている奴とか、丸い身体で転がる奴とか……変な形が大多数。身体が光沢のある黄ばんだ半透明な物質で出来ている事以外、共通点が見付からない。

 当然動きの速さもバラバラ。遅い奴等は未だ入口付近でジタバタしているだけ。でも速い奴はそれこそ人間が小走りするぐらいのスピードで、わたし達を追って……

 いや、追ってない。

 怪物達は、何故か一斉に二手に分かれた。一方はスタッフルームがある左側通路、もう一方はレクリエーションルームがある右側通路。わたし達が逃げ込んだ、客室へと通じる通路にはやってこない。

 何故わたし達を追ってこない?

 まさかアイツら、職員の人達を先に襲って、避難の指示とかを出させないようにするつもり? だとしたらアイツらには知能があって……

「キララ!」

 考え込みそうになったところ、零くんに名前を呼ばれた。

 一旦考えを脇に押しやり、零くんの方を見る。わたしの手を引っ張る零くんはもう息が切れていて、だけど意地でもわたしを引っ張ろうとしているのかぎゅっと力強く手を握り締めてくる。

 わたしはその手に答えるように、強く握り返した。

「う、うん。なぁに?」

「兎に角あの怪物から逃げよう! 部屋に戻って、山本くん達にこの事を伝える! その際パスポートとかの最低限の荷物を回収! 一階の非常口から逃げる! これで良いかい!?」

「う、うん。わ、分かった」

 零くんの案に、反対意見なんて思い付かなかったわたしはこくんと頷く。

 食堂の横を通り過ぎ、わたし達は階段を使って三階へと向かう。エレベーターは使わない。何時来るか分からないし、変なところで止まったら『詰み』だからと零くんが判断した。

 三階分の階段を一気に駆け上がるのは疲れたけど、わたしを引っ張ってくれた零くんの前で弱音は吐けない。

 わたしは零くんと手を離し、走りながらズボンのポケットを弄って部屋の鍵を取り出す。途中で落とした、なんてミスをしないで良かった。もししていたら、外から開けるよう呼び掛けなきゃいけないところだった。

 鍵を開けたら、扉を蹴破るようにして開く。

 中ではルビィと磯矢くんが未だ向き合っていた。ロビーでの騒ぎなんて此処まで届かないだろうから仕方ないと思うけど、まだ自分達の世界に浸っているのかとちょっと苛立つ。

 わたしはすぐさま部屋の奥へと向かう。こういう時、外国の部屋は靴を脱がなくて良いから助かる。脱ぐような時間すら惜しいのだから。

「ルビィ! ほらルビィ!」

 ルビィの傍まで近寄ったら、がっしりと肩を掴んで激しく揺さぶる。

 乙女モードだったルビィもこれで我に返る。目の前で彼女の肩をぐらぐらと揺さぶられた、磯矢くんも同じだ。

「え、あ、き、キララ? えっと、何……」

「説明は後でするから。今は貴重品だけ持って、すぐに来て! 磯矢くんも!」

「え? あ、えと、俺、部屋の鍵」

「零くんが今開けてる筈だから! 早く!」

「いや、もう回収した!」

 わたしがルビィと磯矢くんを説得していたところ、部屋の外から声が聞こえた。

 零くんだ。その手には零くんのリュックと、磯矢くんのリュックが握られている。零くんはもう脱出の準備を終えたようだ。

 説明の殆どを省いてしまったけど、わたし達の慌てぶりから危機感は感じ取ったのだろう。最初はキョトンとしていたルビィ達も、表情を引き締める。すぐにルビィは自分の荷物、それとわたしの荷物も取ってくれて

「あ、ごめん。逃げるのなし――――籠城にする」

 零くんが、不意に先程の打ち合わせを変更した。

 何故、と問い掛ける間もなく零くんは部屋の中に入ってくる。扉を閉めてすぐに鍵の摘まみを回した

 瞬間、どかんっ、と強く何かがぶつかる音が聞こえた。

 いきなりの物音にルビィは跳ね、磯矢くんは目を丸くする。零くんは後退りするようにドアから離れ、わたし達の下までやってきた。事情を訊きたそうに、ルビィ達がわたしや零くんを見ている。

 確かに、そろそろ説明した方が良さそうだとわたしも思う。

 零くんが閉め、鍵も掛けた扉。

 だけどその扉はメキメキと音を鳴らし、今にも破られそうな状態なのだから……



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望まない直接対決

 ドアを叩く音は、何時まで経っても止む気配がない。むしろ段々と強くなっている事が、ドアからメキメキと鳴っている音の大きさから窺い知れた。

 もしもドアの向こうに居るのが人間なら、罵声や掛け声の一つぐらいは聞こえてくる筈だと思う。一言も発さず、強い力でドアを叩き続けるというのは、凄く不気味な事だ。

 わたし達が説明しなくても、ルビィと磯矢くんにも伝わっただろう。今、この部屋の外で起きている出来事がどれだけ異常なのかは。勿論、それだけ分かれば十分だから説明をサボろうなんて思わないけど。

「……何が起きている?」

「簡単に説明すると、化け物がホテルに侵入してきた。人が襲われたから、ドッキリじゃない。以上」

「分かった。とりあえず、そう理解する」

 零くんの簡素な説明に、磯矢くんは即答する。磯矢くんも信用しているのだ。零くんはしょうもない嘘なら吐くけど、真面目な顔でジョークは言わない事を。

 ルビィもそれは知っている……なのだけど、彼女はか弱い女子。男の子達ほど、すんなりと現実は受け入れられないようだった。

「ば、化け物って、どういう事よ!? その、頭のおかしい人とか、て、テロリストじゃなくて……?」

「うん、人間じゃないねアレは」

「ルビィ、落ち着いて。えっとね、ちゃんと説明――――」

 困惑するルビィを宥めようと、わたしはロビーでの出来事を話そうとした。

 話そうとしたけど、それは間に合わない。

 何故なら閉めていたドアが、ついに破られてしまったのだから。

「ひっ!?」

「な、なんだありゃ……」

 ドアが破られる破壊音につられるように、ルビィと磯矢くんはそちらを見て、そして唖然とした声を漏らす。

 部屋に侵入してきたのは、人型とは似ても似つかない怪物だった。

 いや、怪物……生物というのは違和感を覚える。何故ならそいつはキュウリのように細長い『胴体』の前方に、一輪の『タイヤ』があるという、なんとも機械的な姿をしていたのだから。だけど胴体中心部からはとても長い人間の、ううん、人形の腕みたいなものが生えてるから怪物……?

 あまりにも奇妙な外見に、ロビーで散々怪物の姿を見ていたわたしまでもが固まってしまう。ルビィや磯矢くんなら尚更だ。

「危ない!」

 動けたのは、大声を上げた零くんだけ。

 零くんは、わたしの傍に立っていたルビィに体当たりをお見舞いした。呆けていたルビィは簡単に突き飛ばされ、受け身も取れず床に転がる。親友が突き飛ばされた事でわたしは我に返り、彼氏である磯矢くんも同じく正気を取り戻す。

 だけどわたし達はどちらも零くんを非難したりしない。

 零くんはドアの方から突撃してきた怪物の体当たりを、ルビィの代わりに受けてしまったのだから。

「がふっ!?」

「れ、零くん!?」

「ぐっ……こ、の……!」

 零くんは怪物に押し倒され、ベッドとその身を挟まれている格好になっていた。両腕を伸ばして怪物の胴体を支え、少しでも離そうとしている。

 だけど怪物の胴体の前方にある車輪みたいな部位は大きく、零くんの顔面近くまで迫っている。車輪はぐるぐると激しく回り、もしもそれが顔の皮膚と接触しようものなら――――

 過ぎる不安と恐怖。だけどそれを感じたわたしの身体は、身動きが取れなくなってしまう。

「こ、の野郎ッ!」

 わたしの代わりに零くんの下へと駆け出したのは、磯矢くんだった。

 いや、磯矢くんは零くんに駆け寄っていた訳じゃない。怪物目掛けて突撃していた。弾丸のような、という表現しか思い付かない猛スピードで磯矢くんは怪物とぶつかり合う。

 磯矢くんはぶつかった衝撃で大きく吹き飛ばされたけど、怪物も同じく吹き飛び、ホテルの壁に激突した。零くんはその隙に身体を転がすようにして移動し、わたし達の下にやってくる。わたしはすぐ、零くんを抱き締めた。

 無事に戻ってきてくれた。

 本当は大声で泣いて喜びたい。でも、そんな余裕はないだろう。

 怪物は起き上がり、車輪と腕を激しく動かしていたのだから。

 わたし達は怪物と睨み合う……と、怪物の胴体の一部、車輪があるところの近くが裂けた。そしてそこから、溶けた黒い肉のようなものが伸びてくる。

 ロビーに現れた怪人とこの怪物が同じ生物なら、あの黒い肉にも人間の顔面を削り取るぐらいの力はあるのだろう。

 わたしは一層強く零くんを抱き締めた。零くんもわたしを抱き、磯矢くんはルビィを守るように前に出る。

 そして、

 ……怪物が伸ばした肉の塊は、何故かベッドのシーツに向かった。シーツを掴んだ肉の塊は、きゅっきゅっと音を鳴らしながらシーツを食べている。

 わたし達の事など、お構いなしだった。

「……あれ?」

「こ、こっちに来ない、の?」

「……零。どうする?」

 困惑するわたしとルビィ。磯矢くんは零くんに尋ね、零くんも考え込んだまま答えない。

 やがて怪物はシーツを全部食べてしまった。次に肉塊を伸ばしたのは、いよいよわたし達……ではなくプラスチック製のゴミ箱。中のゴミを漁る、のではなく、ゴミ箱そのものを噛み砕いて食べている。わたし達なんて、目にも入っていないようだ。

 少なくとも急ぎの危険はない、ように感じる。そのお陰で考えが纏まったのか、零くんがぽつりと話し始めた。

「……今はゴミに夢中だけど、何時こっちに気が向くか分からない。よって取るべきは方針は二つだ」

「二つ?」

「一つはあの怪物の後ろを通り、この部屋から出る。もう一つはあの怪物が隙を見せている間に殴り殺す」

「……それぞれのリスクはどんなもんだ?」

「後ろから逃げる方は、突然アイツが振り返ったりしたら一人はやられるって事。あと廊下にコイツの仲間が居たら、地獄の追い駆けっこが始まるかも知れない。倒すのは、コイツの強さが分からないからなんとも言えない。でもまぁ、一対一だと多分無理なぐらいには強いね、うん」

「つまり、二対一ならやれるんだな?」

 磯矢くんに訊かれ、零くんはこくりと頷く。わたしを抱き締めていた腕を放し、自力で立ち上がった。

 零くんは部屋の隅、そこに置かれていた小さな棚に向かい……引き出しを開け、ガコガコと揺さぶって、ついに外してしまう。棚から外れた引き出しは、立派な鈍器だった。

 磯矢くんは武器を持たなかったけど、拳を握り締め、格闘家みたいな構えを取る。わたしとルビィは、二人の邪魔にならないよう部屋の隅へと移動した。

 準備を終えた男の子二人は、じりじりと怪物に近付く。怪物はゴミ箱に夢中で、二人の方には見向きもしない。

「と、りゃあっ!」

 十分距離を詰めた零くんは、力いっぱい手に持つ引き出し(鈍器)を怪物に叩き付けた。

 木製のそれは激しく怪物の半透明な胴体にぶつかると、呆気なくバラバラに砕けた。見た感じ怪物はそんなにダメージを負っていないようだったけど、ゴミ箱を食べる手が止まる。

「ぬおおおおっ!」

 次いで磯矢くんが、渾身の蹴りをお見舞いした。

 蹴られた怪物は、大きく吹き飛び壁に叩き付けられた。黄ばんだ半透明な身体にヒビが入り、バギンッ! という音と共に車輪が外れる。

 それでも怪物はまだ死なず、人形のような腕を振り回して反撃してくる。よく見れば腕の先は鋭く、引っ掻かれたなら肉を切られてしまいそうだ。それに胴体から出ている黒ずんだ肉も健在である。

 流石の磯矢くんも肉には触れたくないのか距離を取る。だけど手がない訳じゃない。人間には知恵があり、道具を使う事を得意とするのだ。

「これは、どうだ!?」

 零くんは、力いっぱい何かを振り付けた。

 電気スタンドだ。磯矢くんが怪物を怯ませている間に、零くんはベッドの傍に置かれていたものを手にしていた。

 彼が叩き付けた電気スタンドは無防備に伸びていた肉塊に命中する。引き出しを胴体に当てた時はまるで効かなかったけど、鈍器の一撃を受けた肉塊の方は、ぐちゃりと潰れた。

 やはりと言うべきか、胴体ほど硬くはないらしい。零くんは何度も何度も肉塊を殴り、やがて肉塊は力尽きるようにぐったりする。

 それから、どろどろと溶け始めた。

 元々溶けた肉のような質感だったけど、今度は完全な液体になっていた。床に広がり、カーペットの染みになってしまう。未知の存在にこちらの常識がどれだけ通じるかは疑問だけど、ここから元気に復活するのは難しいと思う。

 多分、きっと……倒せたんだ。

「山本くん! ベッドを持ってくれ! ドアを塞ぐのに使いたい!」

「あ、ああ! 任せておけ!」

 だけど一安心するには早く、零くんと磯矢くんは部屋のベッドを二人でドアの近くまで運び始めた。わたしとルビィもこれなら手伝いが出来そうなので、立ち上がり、二人の下に駆け寄ってベッドを持つ。

 ドアを閉め、ベッドを積み上げ……念のためもう一つのベッドをベッドの上に乗せた。だけどドアの鍵は壊されたので施錠が出来ないため、これだけじゃ心許ない。

 追加で棚とかリュックとか、重しになりそうなものをベッドの上に積み上げた。最後に磯矢くんがベッドを背もたれにするように座り込んで、これでひとまず封鎖出来たものとする。

「……それで? コイツはなんなんだ?」

 そうして一息吐いてから、磯矢くんは零くんに尋ねた。

 零くんと磯矢くんが倒した怪物は、今も部屋に横たわっている。溶けた肉はカーペットの染みになったけど、半透明な身体の方は変わらず残っていた。

 零くんの攻撃を受けた後肉がどろどろに溶けたので、多分死んでいると思う。だけど本当にそうかは分からない。外に出てきた肉なんて全体の一部で、今は安静にして溶けてしまった部分を再生させているだけという可能性もある。

 もしかしたら今この瞬間にも立ち上がり、わたし達に襲い掛かるかも知れない。

「良し、ちょっと調べてみよう。安全確認も必要だしね」

 その危険性を推し量るためにも、零くんは自ら危険な役目を買って出る。

「零くん、気を付けて……」

「うん。心配してくれてありがとう」

 わたしの言葉に答えながら、零くんは慎重に怪物へと歩み寄る。恐る恐る手を伸ばし……ゆっくりと、怪物の身体に触れた。

 一度触れたら、段々と大胆になっていく。コンコンと叩いたり、色んなところを弄るようになったり、持ち上げてみたり……見ているこっちはハラハラもので、傍に居たルビィの手を無意識に握り締めてしまった。

 やがて零くんは、納得したのかこくりと頷き、怪物から離れる。

「さっぱり分からないね! 死んでるのかどうかも含めて!」

 そして堂々と、そう答えた。

 ……いや、まぁ、うん。ちょっと触ったぐらいで正体や生死が分かるなら、大仰な研究室とかいらないよね。こんな未確認物体Xなら尚更。

 でも零くんならもしかしたら、なんて期待があったのも事実で。

「えぇ……本当に何も分からなかったの? 推論とかでも良いから……」

 ルビィのように、不確かでも答えを求めたくなる気持ちはわたしにも分かる。

 でもわたしは、その点についてはあまり心配していない。

 零くんが分からないと言う時は、大抵「確かな事は」という先頭の言葉が隠れているだけなのだ。彼は科学者を目指す身であり、不確かな事を言いたくない性分なのである。

 こちらから不確かでも良いからと頼めば、零くんはきっと答えてくれる筈。

「零くん、今は兎に角情報を出し合った方が良いと思うの。みんなで考えれば、何か良い案が閃くかも知れないし」

「……ああ、そうだね。確信を持てないと動けないのは、悪い癖だなぁ」

「慎重なのは良い事だよ」

 ちょっと気落ちしそうな零くんをフォローしつつ、わたしは彼の話を待つ。悪い癖と言うけれど、分かっていても人の性根は早々変わらない。零くんは少しの間、躊躇うように口もへの字に閉じる。

 それでもしばらくすればゆっくりと、閉じていた口は開き、

「この生物は()()()()()()で出来ている。全く新しい、未知の存在だ」

 わたしの、或いはわたし達の理解の追い付かない説明を、始めるのだった。



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憶測の正体

「……プラスチックで、出来ている……?」

 無意識に、わたしは零くんの説明を復唱していた。次いでちらりと、部屋の隅に倒れている怪物の姿を見る。

 確かに怪物の身体は少し黄ばんでいるものの半透明な色合いをしていて、部屋の明かりを受けて艶のある輝きを放っている。言われてみれば凄くプラスチックっぽい見た目だ。人形みたいな手の作りも、そのものズバリ、プラスチック製のオモチャと似たような構造をしている。

 それにプラスチックの怪物なら、プラスチックで出来たゴミ箱を食べるのも納得だ。だってプラスチックで出来ているのだから、ご飯だってプラスチック……

 ううん、やっぱ無理。上手く理解出来ない。

「プラスチックで出来た生物なんて、そんなのあり得るのかよ?」

「というか、プラスチックって生き物に対して有害じゃないの? ウミガメがビニール袋を胃に詰まらせて死んだとか、テレビでよくやってるし……」

 磯矢くんとルビィも同じくすんなりとは納得出来ていない様子。

 零くんは怪物から視線を外さず、その身体に触りながら説明を続けた。

「そうだね、プラスチックは自然界において非常に有害な物質だ。二〇三八年現在、海を漂っているプラスチックの総量は二億五千万トンになろうとしている。二〇一〇年代にプラスチックの使用量を減らそうという取り決めを作ったけど、経済発展や抜け道の利用で、結局全然機能しないまま今に至っている。お陰で数多くの海洋生物がプラスチックの影響で死に、海の生態系は滅茶苦茶だ」

「だったら尚更、プラスチックの生物なんて無理だろ。有害なんだから」

「いいや。有害だからこそ、適応の意味がある」

 磯矢くんの意見に、零くんが力強く反論する。

「かつて植物の光合成により酸素が生まれた時、生物は絶滅の危機に瀕した。酸素は反応性が高く、細胞を酸化させてボロボロにしてしまうからだ。だけどその猛毒を上手く利用出来た種は、酸化により生じる莫大なエネルギーを用いて大繁栄した。それがボク達真核生物、正確にはミトコンドリアだね。生物は例え死に至るほど有害なものであろうとも、適応して利用する能力がある」

「……つまりコイツは、海の生物がプラスチックを食べられるように進化した存在って事か?」

「ボクはそう考える。プラスチックゴミと言うけど、結局のところそれらは物質であり、見方を変えれば資源だ。例えばペットボトルの主な原料であるポリエチレンテレフタレートの化学式はC10H8O4、つまり炭素・水素・酸素の塊だね。あとは窒素さえあれば、様々なアミノ酸の原料となる。優れた『栄養価』だと思わないかい? 付け加えると現在、地球の窒素汚染はかなり深刻だよ。農業では作物の生育を良くするため多量の窒素肥料が使われているし、途上国では工業で用いられたアンモニアや硫酸などの窒素系廃棄物の垂れ流しが後を絶たない。未だ世界の主流であるガソリン自動車の排ガスには、窒素酸化物が含まれている。人類がばら撒いている窒素の量は、今や自然界が固定している量を何倍も上回っているよ」

「……理屈は分かったし、利点があるのも分かった。だけど肝要なのは出来るかどうかじゃないか? 自然界じゃ中々分解されないから、プラスチックゴミを減らそうって話なんだろ? 生物がプラスチックを食べるなんて、本当に出来るのか?」

「出来る。少なくとも二〇一〇年代にはプラスチックを食べる細菌と昆虫が発見されているからね。とはいえこんな風に身体の一部とするような種は発見されていない。突然変異で身に着けたのか、はたまた今まで発見されなかった希少種がゴミだらけの環境で爆発的に増殖したのか……次の研究テーマにしたいところだよ」

 此処から無事に帰れたらだけど――――最後に付け加えられた言葉を、わたし達は笑う事が出来なかった。

 勿論、これは零くんの推測だ。推測でも良いから教えてとこちらが頼んだからした話であり、零くん自身確信がある訳じゃない。

 だけどもしそうだとしたら……

「……人間が海を汚し過ぎた結果生まれた化け物、なのか?」

「ボクはそう思う。プラスチックに触れる機会が増えれば、それだけプラスチックを利用する生物は『適応的』な存在となるからね」

「人間を襲う理由は?」

「人間も相当量のプラスチックを体内に取り込んでいるからじゃないかな。一説には一週間で免許証一枚分とも言われているよ。服だって、大半の人が着ているのはナイロン製だろう? 繊維にしているだけで、これだってプラスチックの一種さ。もしもアイツらがプラスチックを探知出来る能力があるなら、人間も餌に映るかも知れない。まぁ、シーツが傍にあればそっちを食べる程度の、弱い興味みたいだけど」

「ならこれは自業自得の結果ってか? 畜生ッ!」

 磯矢くんが声を荒らげる。床を蹴ったり叩いたりしないところに人となりが出ていて、だけどぎゅっと握り締めている拳から、彼が抱いた気持ちは察せられた。

「……ねぇ、これが天罰とかなら……わ、私達……」

 そしてルビィの不安も。

 もしもこの怪物の正体が零くんの予想した通り、プラスチックによる海洋汚染に適応した生物なら、その発生原因はプラスチックを創り出した人間にある。

 この国に現れたのも、偶然じゃないだろう。観光を始めてすぐ、零くんの希望で向かったゴミ処理施設。あの施設の敷地内からはぼろぼろゴミが零れていた。あんな風にプラスチックゴミが定期的に落ちれば、それはプラスチックを餌とする生物にとっては願ってもない環境だ。あそこのゴミが怪物達を育んだに違いない。

 そんなゴミをこの国に送りつけたのは、わたし達先進国の人間。

 わたしは、進化論は正しいと考えている身だ。神様が生き物を作ったとは、これっぽっちも信じていない。だけど人類の環境汚染により誕生した生物が現れたとなれば、自然からの逆襲という言葉が脳裏を過ぎる。

 自然がわたし達を襲う。それは正しく『天罰』だ。なら、そこから生きて帰るなんて……

 わたしも、ルビィも、多分磯矢くんも、不安から口を閉ざす。

「何も問題はない」

 だけど零くんは、ハッキリとわたし達の不安を否定した。

「……え?」

「天罰な訳ないだろう? というかそんな大それたものじゃないよ。ボク個人の意見だけど、環境汚染というのは『夏休みの宿題』に似ていると思う」

「夏休みの宿題?」

「夏休みに入る前、自然という名の先生が言うんだ。二学期の最初の授業で宿題を提出してもらいますって。勿論ボク達人類は宿題があるとちゃんと理解した。ところが人類は、まだ夏休みは始まったばかりだとか、こんなの簡単だから一日で出来るとか、別に提出しなくても平気だとか言ってサボり続ける」

「……………」

「そして夏休みが明けて最初の授業の日、ボク達はこう言うんだ。『ああ! ボク達が宿題をやらなかったばかりに先生が怒っている! これが天罰なんだ!』……何言ってんだコイツって思うだろう?」

 零くんの例え話に、ルビィと磯矢くんがキョトンとしていた。そしてわたしは、くすりと笑みが零れる。

 これは、零くんが何時も言っている事。

 環境問題により引き起こされるものは、断じて天災じゃない。人間が馬鹿やって、人間が勝手に周りを壊して、その結果みんなが迷惑している『人災』だ。それを裁きだなんだと言うのは、幾らなんでも()()()()が過ぎるというものだ。

 そうじゃない。わたし達は考えないといけないんだ。この宿題の片付け方を。

 あと、ひとまず先生の殺人的ゲンコツをもらわないための逃げ方も。

「……ちなみに、先生からの逃げ方は閃いた?」

「とりあえず籠城して、助けが来るのを待つべきかな。戦ったお陰で分かったけど、コイツらは別に映画のモンスターみたいな馬鹿げた強さじゃない。それなりの武器を装備して、数で上回れば勝てる相手だ。警察が出動してくれれば、すぐに退治してくれると思うよ」

 零くんの例え話を理解したわたしは、零くんの案を伺う。冷静な答えに、ルビィと磯矢くんもやっと落ち着きを取り戻した。二人とも、自分達が死ぬと決まった訳じゃないと気付いたのだろう。顔に安堵の色が浮かんだ。

「とはいえ何時助けが来てくれるかは分からないけどね。救助活動の状況ぐらいは把握したいんだけど……」

「あ、それならテレビ見れば良いんじゃない? 電気は来てるみたいだし、多分点くでしょ」

 冷静になると良い考えも浮かぶようで、天井で輝く蛍光灯を指差しながらルビィが零くんに提案する。「おっと、確かそうだね」と失念していた事を白状しながら、零くんは部屋のリモコンを探した。

 リモコンはベッドがあった場所に転がっていて、零くんはそれを拾うとすぐテレビの方に向ける。テレビは問題なく点いた。

 映し出された番組は、丁度ニュースのようだった。若い女性アナウンサーと年老いた男性が早口の英語で話している。他にも歳を取った、権威を感じさせる人が数名スタジオに居るようだ。

【……つまり、このプラスチックの外殻を持つ生物は、隣国の生物兵器である可能性は低いという事でしょうか?】

 そして女性アナウンサーは、こんな質問を男性達にしている。

 プラスチック云々と話している。ならきっと、このホテルに現れた怪物の話だろう。この番組内で、警察がどうとか、軍隊がどうとか、そういう話があるかも知れない。

 わたしはそれを期待し、思わず前のめりになる。零くんも心なしか身体が傾いていて、わたしと同じ気持ちのようだった。ルビィと磯矢くんは英語が分からないのでそこまでの反応はしていないけど、テレビ画面は注視している。

【……先程からお伝えしています通り、ガウンダ地区に正体不明の生物が出現しました。プラスチックで出来た外殻を持つ、未知の生物です。出現時の映像がこちらになります】

 そんなわたし達の見ている前で、女性アナウンサーは冷静な口調で怪物が現れた時の映像を流すと言った。

 だからその直後に切り替わったテレビ画面に映るのは、わたし達が泊まっているホテル

 ――――の筈なのに。

 何故か、巨大な『何か』が映し出された。

「……え……?」

 困惑した声を漏らしたのはわたしだけ。だけどその映像が始まった瞬間、みんなの動きがピタリと止まった事から、誰もが頭が真っ白になったのだろう。

 テレビに映し出された映像は夜なのか真っ暗で、空を飛んでいるヘリコプターが『何か』を照らしている。『何か』の傍には明かりの灯された『工場』らしきものがあったけど、『何か』から見ればまるでミニチュアのよう。それだけでテレビに映る『何か』がどれだけ大きいか分かる。

 分かるけど、あり得ない。

 だってこのテレビに映し出されるのは『プラスチックの生物』の筈。プラスチックの生物とはつまり、わたし達のホテルに居る奴等の事で……

 この映像のおかしさを、なんとか言葉で並び立てる。だけどそれは無駄な事だった。この映像は、本物なのだから。

 現実逃避するわたしに突き付けるかのように、女性アナウンサーはこう告げるのだ。

【この映像は、全長()()()()()()()()の超巨大プラスチック生命体を撮影したものです。これはSFXではありません。これが現実の世界に現れた、我が国を襲撃している巨大怪獣の姿です】



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迫りくる時限

 六千七百メートル。或いは六・七キロ。

 中々の『距離』だ。あまりに大きくて、具体的にどれだけ長いのかいまいちピンとこない。人間の歩く速さが時速五キロ程度らしいので、徒歩一時間ちょっとと言えば良いのかな。

 そう、キロメートルなんて単位を使うのは距離だ。或いは建造物とか、自然の地形とか、兎に角そういうスケールの代物に使うべき。

 まかり間違っても、生物に使われる値じゃない。

【繰り返します。()()()()()()()()()()の、超巨大プラスチック生命体が我が国に現れました】

 だけどテレビの女性アナウンサーは、否定するわたしに突き付けるかのように、またしても告げてきた。

 そしてその言葉に嘘偽りがないと、テレビ画面に映る動画も物語る。

 黄ばんだ半透明な……いや、ここまで大きくなると最早透明感なんてない。ただの黄ばんだ巨大物体にしか見えない身体は、まるでナメクジのような形をしていた。ただしその身体には幾つかの節があり、急旋回は無理でも、方向転換は左程難しくないのか、ぐねぐね軌道を描きながら前進している。

 前進と一言でいっても、六千メートル以上の巨体だ。ゆっくりに見えるスピードは、きっと人間の全力疾走なんて比較にならないほど速いのだろう。おまけにただ動くだけで、そいつは自分より小さなものを全部下敷きにしていく。

 そいつの歩く先は小さな一軒家が幾つもあったけど、お構いなしに全て踏み潰された……轢き潰すと言うべきかも知れない。ナメクジみたいな外見のそいつに足なんてないのだし。

 潰された家で火が使われていたのか、至る所で火事が起き、真夜中の景色に明かりが灯される。ヘリコプターから照らされるだけでは分からなかった地上の惨状も、これでハッキリと――――

「うっ……」

「キララ、無理して見なくても良い」

 テレビ画面の向こうで起きている事を想像し、吐き気を催してしまう。零くんが背中を擦ってくれて、促されるままわたしはテレビから目を逸らした。

 出来れば、このまま現実からも目を逸らしたい。あんな、人間を虫けらみたいに踏み潰していく化け物なんて……

 ううん、それは……勿論これだって問題だけど……まだ良い。わたし達にとっての大問題は別の事。

「こんなのが出てるんじゃ、警察が私達を助けてくれるのは何時になるのかしら……」

 ルビィが独りごちた、救助の遅れだ。

 人間を食い殺そうとする怪物が、ホテルの中を徘徊している。何時またドアを破り、侵入してくるか分からない。確かに倒せなくはなかったけど、それは二対一だから出来た事。四対何十みたいな状態に追い込まれたら、どうにもならないと思う。ホテルに侵入した怪物がどれどけ居るかなんて分からないけど、最低でも何十と入り込んだのはロビーで見たのだ。あり得ない展開とは言いきれない。

 わたし達は何時死んでもおかしくない身だ。だから救助隊が早く来てくれるのを望んでいる。

 だけどこの巨大怪獣の方が、どう考えて優先度は高い。怪物に襲われているホテルの旅行客なんて精々数百人だけど、あの怪獣が都市に入り込めば何十万という人の命が危険に晒さされる。おまけにわたし達が外国人なのに対し、都市の人々は国民。わたしがこの国の指導者なら、間違いなく怪獣退治と国民の避難に総力を結集させる。警察だって全て動員させるだろう。

 この国の人々の大半からすれば、それが当然の対応。だけどホテルで別の怪物に襲われているわたし達からすれば、極めて身勝手な物言いではあるけど、最悪の展開だ。

「救助隊が来るのは相当先になるだろうね。まぁ、あの怪獣がこの近くに現れたものなら、退治した後に助けに来てくれるかもだけど」

「……退治、出来るのか?」

「流石に出来ると思うよ? いくら非常識な化け物とはいえ、まさか怪獣映画みたく火とかビームは吐かないだろうし。それにプラスチックはよく燃えるから、軍事攻撃で簡単に火が付いて、そのまま燃え尽きると思うよ」

「そうか……勝てるというのは、気が楽になる話だな」

「うん。とはいえあの巨体だと、燃え尽きるには相当時間が掛かるだろうけどね。一日二日じゃ足りなくて、何日も掛かるんじゃないかなぁ。というかあれだけの質量のプラスチック、一体何処で――――」

 磯矢くんと怪獣について話し合っていた零くんは、不意に言葉を途切れさせた。ちょっと気になったので横目で見れば、零くんは目を大きく見開き、わなわなと全身を震わせている。

 それから急に立ち上がると、部屋の窓目掛け駆け出した。驚いた拍子にわたしが身体を縮こまらせていなければ、通り過ぎる零くんはわたしとぶつかって、二人揃って転んでいたかも知れない。

 普段の彼ならそこで「ごめん」の一言ぐらいあるのだけれども、今日の零くんは何も言わない。全速力で向かった窓に辿り着くと、その窓を力いっぱい開き、身体を乗り出して外の景色を見る。

「……クソっ!」

 そして外に向けて、悪態を吐いた。

 普段ならどんな時でも冷静な零くんの悪態に、わたしは思わず身震いする。何か、とんでもないものを彼は見付けたのだ。

「れ、零くん……どう、したの……?」

「……説明するより、見た方が早い」

 わたしが尋ねると、零くんはそれだけ言って窓の傍から退く。これも何時もの零くんらしくない。人に説明するのが大好きな彼が、何も語らないなんておかしい事だ。

 わたしは立ち上がり、窓の傍まで行って零くんが今まで見ていた景色を眺める。ホテルの周りは発展しているので明るいけれど、少し離れた場所には光が見付からない。唯一の例外は地平線彼方の、ぼやっとした赤い輝きぐらい

 それを理解した瞬間、わたしは血の気が引き、腰が抜けた。

 わたしがへたり込んだのを見て、ルビィがやってくる。何か声を掛けてくるけど、わたしの耳には何も聞こえず、窓を指差す事しか出来ない。

 ルビィは外の景色を見て、悲鳴と共に磯矢くんの下に駆け寄る。磯矢くんも、一旦ベッドに寄り掛かる姿勢を止めて窓へと向かい、そして後退りした。

 見てしまった。見えてしまった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ちゃんと、ハッキリと見えた訳じゃない。だけど地平線からでも見えるという事は、きっと高さ何百メートルも有るのだろう。そんな『化け物』、この世に一つしかない。一つであってほしい。

 テレビに映されている、体長六千七百メートルの超巨大プラスチック生命体。

 それが、わたし達のホテル目指して進んでいるのだ。

「な、な、なん、なん、で……!?」

「そのなんでは、何故奴がこっちに向かっているのかという意味かい? それはボクにも分からない。でも、何故此処に現れたのかは想像が付く」

「はぁっ!? どういう意味だよ!?」

「あのゴミ処理施設だ。大量のプラスチックゴミが投棄されているあの場所なら、いや、あの場所でなければ餌が足りない。アイツはゴミの埋め立て地の傍にある海か、或いは地下で生きていたんだろう。しかしこれだけの巨体となると、正体が単一の動物とは考え難いね。単細胞の集まりか、それとも幾つかの個体が寄り集まったのか……現実逃避の題材としては打ってつけのテーマだね全く」

 磯矢くんの疑問に、零くんは早口で答える。思い返すとあのゴミ処理施設は、あらゆる種類のゴミがそのまま捨てられていたけど……ペットボトルのようなプラスチックゴミの姿はなかった。

 きっと、アイツが全部食べていたんだ。

「……すまない。ボクが此処を旅行先にしようなんて言ったばかりに」

 絶望感に見舞われるわたし達の前で、零くんがぽつりと謝罪する。

 わたし達は、すぐには何も言えなかった。

 確かに、この国への旅行は零くんの提案から始まった。このホテルを選んだのも零くん。そういう意味では、零くんが言い出さなければわたし達はこの惨事に巻き込まれなかっただろう。わたし達の誰一人として、アフリカ旅行なんて考えてなかったのだから。

 零くんは、そんな自分を許せないに違いない。罵り、叱ってほしいのかも知れない。

 だけど。

「おう、謝る暇があるならもっと現実的な事を言えよ。何時ものように」

「そうよ! そんなどーでも良い事言ってる暇あるなら、どうするのか考えないと!」

 わたし達に、そんな『くだらない』事に時間を割く暇はないのだ。

 大体誰も零くんが悪いだなんて思っていない。こんな目に遭うなんて誰も予想すらしていなかったのに、どうして彼を責めるというのか。それに零くんに罵詈雑言を浴びせたところで、状況は何も変わらない。

 わたし達は合理的なのである。零くんという小難しい人との付き合いが、そこそこ長い所為で。

「零くん、今はナイーブになってる場合じゃないと思うよ? 本当に申し訳ないと思うなら、項垂れる前に真面目に考えてよ」

「……何気にキララの言葉が一番キツくない?」

「そりゃ、将来の伴侶ですし。夫婦が何時までも仲良しでいる方法は、あまり溜め込まない事ってお母さん言ってたもん」

「ああ、お義母さんが言ってるなら間違いないね……すまない、ちょっと混乱していたようだ。うん、もう大丈夫」

 零くんは何時もよりちょっと強張った、だけど冷静な笑みを浮かべてくれた。そうだ、わたしの大好きな零くんは、こうでないといけない。

 零くんが弱音を吐いてくれたお陰か、わたし達も少し冷静になれた。落ち着いて、これからについて話し合う。

「良し、まず話し合うにあたり、定義を決めよう。ホテル内を徘徊している人間サイズの存在を怪物、テレビで放送している超巨大生物を怪獣とする。異論はあるかい?」

「なし。むしろその方が分かりやすい」

「わたしも、ないよ」

「私もない」

「分かった。それじゃあ、これから何をすべきか、選択肢を出そう。ボクは二つしかないと思う。籠城するか、ホテルから脱出するかだ。ちなみにボクは脱出派。怪獣の正確な進路は不明だけど、なんとなーくこっちに来ているように見える。脱出しなければホテルごと踏み潰されるだろうけど、怪獣到達前に救助が来る可能性は皆無だと思う。みんなの意見はどうかな?」

「そんなの、脱出しかないでしょ。籠城していて、やっぱり危ないから逃げようってなっても、多分あの怪獣からは逃げきれないわ。大きいとそれだけスピードもあるからね」

「うん……わたしも、逃げた方が良いと思う。あの怪獣に銃が通じるとは思えないから、多分軍隊が出てくる筈。もしかしたらミサイルとかの、流れ弾が飛んでくるかも知れない。此処に居ても危ないと思う」

「今時の軍隊なら、戦車砲でも目標への命中率はほぼ百パーセントらしいぞ。あの巨体なら流れ弾の心配はいらんだろう。とはいえ怪獣がホテルの至近距離まで来たら、流石に巻き添えを喰らう。俺も逃げる事には賛成だ」

 零くんの意見に、わたし達三人が賛同する。あの怪獣を前にしたら、ホテルに籠城なんて『暢気』な真似をする余裕は吹き飛んでしまった。

 じゃあ早速荷物を持ってすたこらさっさ、という訳にはいかないけど。

 何故なら、ホテルにはたくさんの怪物が徘徊している筈なのだから。

「じゃあ、逃げるって事で良いわね。ところでもし逃げている途中で怪物と出会ったらどうする? 倒すの?」

「いや、それは駄目だ。確かにこの部屋に来た奴は俺と零の二人で倒せたが、暢気にシーツを食べ始めたから勝てたようなもんだ。真っ向勝負じゃどうなるか分からんし、アイツよりも強い怪物だったら手に負えん。それに時間だって掛かる。もしも戦ってる時に仲間を呼ばれたら、どうにもならないぞ」

「じゃあ、鉢合わせたら走って逃げる?」

「シンプルだけどそれが一番だね。それと出来るだけ身の回りからプラスチックを外しておこう。多少は関心が薄れる筈だから」

「……スマホとか財布の中のカード、あとパスポートは?」

「それは流石に持っていこうか。カード類は、もしかしたら囮に使えるかも知れないし。あと脱出が最優先だけど、脱出後も考えないといけないからね。本気で身の回りのプラスチックを全部外すなら、ナイロン製であろうボク達の服と下着も脱がなきゃ駄目だよ」

「裸で外に出るとか、ぞっとするわね……変な奴に襲われる危険もあるけど、怪我とかも危ないし」

「それだけやっても、毎週免許証一枚分のプラスチックを体内に取り込んでいるから完全な無関心にはならない、と」

「何事も限度が大事って訳だな。そうだ、もしも外で逃げている人と出会ったらどうする? 俺としては一緒に脱出したいが」

「……難しいところだね。一人だけなら合流で良いと思うけど、集団だと意見調整しないといけないから避けた方が良いかも」

 細かい方針を話し合いながら、わたし達は必要なものを決めていく。人がいたら助けるかどうかも含めて全員の確認を取り、不測の事態で混乱が起きないよう確認していく。

 勿論わたし達はただの学生であり、これから起きる事の全てを知るなんて出来ない。どれだけ想像力を膨らませても想定外は起こるだろうし、予め予想していた事だって、いざ目の当たりにすれば怯んで動けなくなるかも知れない。或いは混乱から、打ち合わせと全然違う行動を取ってしまう事もあり得る。

 これから何が起きるかなんて分からない。分からないけど、このまま此処に居ると危ないのだから、動くしかない。

 話を終え、最低限の荷物を持ったわたし達はドアの前のベッドを退かす。遮るものがなくなったドアの前で互いの顔を見合い、背負ったリュックの肩紐を握り締めながらこくりと頷き合う。

「よし、いくぞ」

 そして先頭に立った磯矢くんの掛け声と共に、わたし達は部屋の外へ足を踏み出すのだった。



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不穏な逃走劇

 部屋の外は、酷いとしか言いようがない状態だった。

 怪物達は蛍光灯のカバーを食べようとしたのか、天井の明かりが幾つか破壊され、廊下はかなり暗くなっている。例えるなら夕方遅くぐらいの、ちょっと物陰に入るのを躊躇いたくなる雰囲気。細かなものを見落としやすく、足下に注意しないと何かに蹴躓いてしまうかも知れない。

 ……もう少し暗ければ、惨状も見ずに済んだのに。

 廊下に飾られていたカーテンが引き千切られ、床に散乱している。壁紙も破かれて中の防火材が露出していた。床には爪痕のような傷が無数に刻まれ、わたしなんかは見ただけで震え上がってしまう。幾つかの部屋のドアが破壊されていて、奴等がそれらの部屋に侵入した事が窺い知れた。

 そして廊下には倒れたまま動かない怪物が数体と、同じく数個の大きな肉塊、あ、いや違うこれ人間の

「ひっ……」

「あ、アレって……」

「いきなり目にするとは、ある意味ついてるかもね。追われてる時に気付いてしまうより、今のうちに慣れてる方がまだマシだろうし」

「それを素直に喜べる奴は、ぶっちゃけ頭おかしいだろ」

「うん、ボクもそう思う」

 気付いてしまったわたしとルビィを気遣ってか、零くんはそうフォローしてくれた……生憎磯矢くんが言うように、全く同意出来ない。零くん自身受け入れてないし。

 だけど零くんの考えには一理ある。横たわる彼等を見て、一瞬軽いパニックになったのは確かなのだから。もしも怪物に追い駆けられている時にこの人達のような遺体を見てしまったら、きっと酷い混乱状態になっていただろう。

 だからこれは、悪い事じゃない。

「……大丈夫。とりあえず、落ち着いた」

「わ、私もなんとか」

「無理はしてない? 大事な事だから正直に教えて」

「うん、本当に大丈夫」

「……ごめん、私やっぱ無理」

 わたしは零くんに言われた通り、正直に答える。ルビィの方はそう言った直後、吐いた。零くんと磯矢くんが周りを見渡している間に、わたしはルビィを廊下の壁際まで移動させ、背中を擦ってあげる。

 幸い、ルビィが落ち着くまでの数分間、怪物達が襲撃してくる事はなかった。わたしはホッと、安堵の息を吐く。

 ……でも、それはそれで少し不安だ。これだけ廊下を荒らされているからには、相当数の怪物が一度はこの廊下に押し寄せてきている筈。なのに今その姿は全然見えない。

 開きっぱなしのドアの奥にまだ潜んでいるのだろうか? もしそうなら部屋のどの辺りに居るのか、食事中や満腹ならまだ良いけど、次の獲物を狙っているのなら……

 ちょっと考え込むと、悪い事ばかり思い付いてしまう。もしもを考えるのは悪くないと思うけど、恐怖で足が竦んだら元も子もない。

「……ごめんなさい。吐いたら大分スッキリしたわ。今度は、本当に大丈夫」

「分かった。無理せず、着実に行こう」

 ルビィが一通り吐き終えたところで、わたし達は脱出を再開する。

 脱出ルートは部屋から出る前に決めてある。三階にある部屋から出たらすぐ階段に向かい、そのまま一階へ。廊下を渡り食堂の前を通ってロビーに行き、そこから正面玄関を通って外へと出る……他の候補としては非常口から脱出するルートがあったけど、正面玄関ルートはみんなが一度は通っていている道なのでいざって時に迷わなくて良いだろうという事で、この経路になった。

 隊列は磯矢くんが先頭に立ち、ルビィ、わたし、最後列に零くんが居る。零くんが後方を確認し、一番力のある磯矢くんが先陣を切るという形だ。わたしとルビィは、左右を警戒する。武器は特に持っていない。足を止めて戦うつもりがないので、余計なものは持たない事にしたからだ。

 脱出経路にわたし達の歩みを阻むようなもの、例えば崩れた瓦礫とかはなく、転んだり蹴躓いたりせずに済んだ。怪物にも襲われず、歩みは止まらない。

「……あの、零。さっきはありがとうね」

 その歩きの中で、ルビィが不意に零くんにお礼を伝えた。

「? ボク、なんかしたっけ?」

「怪物が部屋に入った時、助けてくれたじゃない」

「……あー、そういえばそうだっけ」

 ルビィに言われてようやく思い出したのか、零くんはぼんやりとした口振りで答える。人助けをした自覚のない零くんに、ルビィは肩を落とした。

「アンタねぇ。もうちょっと人助けしてる自覚を持ちなさいよ」

「そう言われても、あの時は無意識だったからなぁ。感謝されたくてしてる訳じゃないし」

「ははっ。お前らしい……俺からも礼を言わないとな。ありがとう。お陰でルビィが助かった」

 磯矢くんからもお礼を言われ、零くんは「んー」と面倒臭そうにぼやく。感謝されたいからしてる訳じゃなくて、したいからしただけの事。それを褒められて、くすぐったく感じているのだろう。

 うん。わたしは零くんのそういうところ、好きだなぁ。

 ……そういえば、部屋に入ってきた怪物はなんでルビィを狙ったんだろう。偶々近くに居た、訳じゃないと思う。ルビィよりも磯矢くんや零くんの方が怪物と近かった筈だし。

 何か理由があるのかな?

「おっと、階段が見えてきたぞ」

 考えようとしたけど、その前に最初の『目的地』が見えたと磯矢くんは伝えてきた。それを聞いたわたしは、自分の考えに没頭して左右の警戒を怠っていたと今更気付く。危うくみんなを危険に晒すところだったと、改めて気を引き締めた。

 辿り着いた階段は明かりが廊下より高い位置にあるお陰か、壊されていないライトによりとても明るく照らされていた。歩くのに支障はなく、磯矢くんの足取りは平らな廊下よりも少し速い。わたしとルビィも少し早歩きで磯矢くんの後を追う。

 階段途中で見えた二階廊下は三階廊下と同じような光景だったけど、同じく動いている怪物の姿はない。生きている人の姿も、同じく。

 問題なく一階まで下りる事が出来、わたし達は自然と息を吐く。ここまで生きた怪物の姿はなく、わたし達にも怪我はない。一階の廊下にも遺体があったけど、三階の廊下でほんのちょっと()()()お陰で、そこまで精神的ショックはなかった。三階と同じく廊下は明かりが破壊されていて薄暗かったけど、遺体がハッキリと見えないのでむしろ助かるぐらい。

 玄関まであと一歩のところまで難なく辿り着けて、一層安堵の気持ちが込み上がる。

 その何十倍も、怪物が全然見られない現状に不安を覚えるのだけど。

「ここまで順調だと、何かありそうで不安になるな」

「ちょ、怖い事言わないでよ!? 何もないならその方が良いに決まってるじゃない!」

「その点についてはボクも千原さんに同意するね。でも、確かに奇妙な感じはする」

「たくさんプラスチックを食べて、満足して帰った、とかかな……?」

 周りを見回しながら、わたしは自分の考えを述べてみる。此処に来るまでの道中、たくさんの人が食い殺され、ナイロン製らしきカーテンは余さず引き千切られていた。あの怪物達にどこまで常識が通じるか分からないけど、普通の動物なら食事を終えれば寝床に帰るものだと思う。

 零くんも、わたしの考えを否定はしない。でもいまいち納得も出来ないのか、肯定的な反応もない。

 わたし自身、そこまで自信のある答えでもなかった。

「まさかあの化け物達、罠を仕掛けているんじゃないよな?」

「流石にその可能性は低いんじゃないかな? 攻撃的な人間を前にして、暢気にシーツを食べるぐらい本能一直線な生物みたいだし」

「そ、そうよ。零の言う通りよ。考え込むぐらいなら、さっさと逃げましょ」

 話し合う磯矢くんと零くんに、ルビィが震えた声で先に進むのを促す。何時怪物が出てくるか分からないホテルから、一刻も早く出たいのだろう。慌てるのは良くないけど、立ち止まっていても仕方ない。わたしもその意見には賛成だ。

「それもそうだ。先に進もう」

 零くんもルビィの意見に納得し、磯矢くんも頷いた。

 廊下を進んだわたし達は、食堂の前を横切る。そこからも物音はなくて、すっかり静かになっていた。磯矢くんが念のため食堂内を覗き込んだけど、中に怪物と『生きている人間』の姿はなかったらしい。食堂の前を、すっと通り過ぎる。

 怪物の姿はやはりなくて、順調にいくほど不安は大きくなる。だけどロビーが近付くと、その不安が少しずつ打ち消された。むしろ今すぐロビーから外に出たくて、疼く足を抑えるのでやっとな気持ち。

 早く逃げたい。

 早く帰りたい。

 その願いがいよいよ叶うと思った、その直後の事だった。

「待てッ」

 磯矢くんが潜めた声で、わたし達を止まらせた。

 ぞくりと、背筋が凍る。

 わたし達は今、ロビーへと繋がる、最後の曲がり角に居る。磯矢くんはそこから顔を少しだけ出して、廊下の先に見える筈のロビーをじっと観察していた。そして彼は一向にロビーへ向かおうとしない。

 零くんがわたしの肩を叩いて呼び、無言で後ろを指差す。後ろを監視していてほしいという意味だと受け取り、わたしはその通りにする。零くんは磯矢くんの下へと向かい、多分彼と同じく角からロビーの様子を窺ったのだろう。

「いやぁ、どうしたもんかなぁ……」

 しばらくして零くんの、引き攣った小声が聞こえた。

 何があったのだろうか。わたしはちらりと零くんの方を見ると、零くんはルビィを先に磯矢くんの下へと向かわせていた。ルビィは恐る恐る角へと向かい……ちょっとだけ覗いた瞬間跳ねるように、こちら側に戻ってきた。腰が抜けたのか、ルビィは這うようにわたしの下にやってくる。

 声を出さないようにするためか、ルビィは自分の口を片手で塞ぎながら、わたしの前で廊下の角の先を指差す。見てきてという意味だと受け取り、わたしは零くんに再び背後を任せ、磯矢くんのところへと向かう。それから恐る恐る、角から顔を出し……

 正直、悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。或いは本能的に、声を出したら不味いと察した結果なのかも知れない。

 もしも悲鳴を上げたなら、多分わたし達は全滅していただろう。

 廊下の先にある、明かりが煌々と灯されたロビー。

 そのど真ん中に、体長五メートルはありそうな怪物が待機していたのだから……



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居座る親玉

 テレビで放送されていた、体長六千七百メートルもの超巨大プラスチック生命体。

 もしも零くんの予想通り、ホテルを襲撃した怪物達がその怪獣と同種であるなら……体長二メートル未満の怪物は子供、というより赤ちゃんみたいなものだろう。これからどんどん大きくなる育ち盛りの筈だ。

 だから、ある意味これは想定内。むしろ不意打ちを喰らわなかった分、幸運とも言える。そして何より、何十メートルとか何百メートルとか、わたし達じゃどうやっても手に負えないサイズじゃなかったのだから、これ以上の幸運を望むのはちょっと欲張り過ぎというものだろう。

 でも、そのささやかな幸せを噛み締められるほど、わたしは人間が出来ていない。

 というかロビーを占拠する体長五メートルのプラスチック生命体を見て、「ああこんな程度で良かった」なんて思える人がいるのだろうか。

「人間大の個体なら強行突破もやれたけど、アレに挑むのは四人掛かりでも危険かなぁ」

「ああ、俺も同意見だ。こっちの攻撃が効くのかすら怪しいぞ」

 零くんと磯矢くんも警戒心を露わにし、ルビィは今もガタガタ震えている。

 ロビーに居座る大型の怪物は、人間と似た姿をしていた。

 勿論それは人間と見間違うという意味ではなく、頭があって手足があるという、輪郭的な話。わたしと零くんがロビーで見た、黒人男性を襲った出来損ないの人型と同じタイプの外見だ。手足はプラスチック製のオモチャのように切れ目の部分で動き、目も鼻も口もない頭を左右に開いて肉を剥き出しにしている。手足の先は鈍器のように丸く、相手を切り裂いたり物を掴むのには向いていない。

 大きな怪物はロビーの中央に座り込み、だらだらとしている様子だ。餌を探して動き出そうとする素振りは見られない。むしろふんぞり返り、偉そうな態度に感じられた。

 そうして観察していると、とことこと一匹の怪物が、わたし達が隠れているのとは別の廊下からロビーに現れた。まるで節足動物みたいに、六本の足と、頭や胸や腹を分ける括れのようなものが確認出来る怪物。スタッフルームがある方角から現れた小さな ― とはいえ体長二メートルはありそうだけど ― そいつは、大型の怪物の前までやってくる。

 次いで虫型の怪物の頭が裂け、中から出てきた肉塊が何かを吐き出した。

 どぽどぽと音を立てながら吐き出されたそれは、人間の吐瀉物よりも粘度が高いのか、黄ばんだソフトクリームのように積み上がる。すると大型の怪物は頭から出ている肉塊を伸ばし、その汚いソフトクリームを食べ始めた。虫型の怪物は吐き終えると、またスタッフルームの方に向かっていく。

「成程、興味深い生態だね」

 その光景を一緒に見ていた零くんが、ぽつりと独りごちた。

「……群れの仲間とかかな?」

「そう見えるね。ただ対等な立場ではなさそうだ。もしかすると彼等には社会性があるのかも知れない」

「アリとか、ハチみたいな?」

「そんなところかな。まぁ、流石に昆虫ではないと思うけど。外骨格ぽくないし」

 生態を予測しながら、しかし種族は断定は出来ず。もしも昆虫なら、殺虫剤で倒せたかもなのに……

「それで、どうする? さっきも言ったが、倒せるような大きさじゃないぞ」

 磯矢くんが零くんに方針を訊いてくる。零くんは口を閉じ、考え込む。

「べ、別のルート探しましょ。非常口だってあるんだから……」

 その沈黙の間に意見を出したのはルビィ。

 一刻も早く大きな怪物から離れたいのだろう。だけど出してきた案は決して悪いものじゃない。少なくともわたしには、ロビーに陣取る怪物の横を強行突破するより何百倍も安全な方針に思えた。

「……確かに、そうするのが良さそうだ。良し、非常口の方に向かおう」

「うん、そうした方が良いと思う」

 零くんが賛成し、わたしも同意した。

「いや、駄目だ」

 だけど磯矢くんが反対する。

 何故? わたし達の誰もがそう思い、彼の方を見遣る。磯矢くんはわたし達の方を見ておらず、食堂へと向かう廊下の先を見ていた。

 わたしは磯矢くんの視線につられて、廊下の奥に目を向ける。そうすれば、彼の言いたい事は一瞬で理解出来た。

 ――――怪物が居たのだ。わたし達の背後に。

 勿論すぐ近くじゃなくて、廊下のかなり先の方。蛍光灯が壊れていて暗いから距離感が掴みにくいけど、二~三十メートルは離れていると思う。動きも遅くて、こっちに来るまで時間は掛かる感じ。

 だけどのんびりしていられるほど、余裕がある訳じゃない。怪物は足を止める事もなく、淡々とこちらに向かってきているのだし。何より……

「数が多過ぎるなぁ」

 零くんが言うように、多勢に無勢だった。

 廊下の先に居た怪物の数、優に十体以上。動きが鈍いから部屋に侵入してきた奴よりは強くないかもだけど、流石にこの数を一度に相手するのは危険だと思う。

「な、なん、なんで……こんな群れが!?」

「……何処かにプラスチックゴミを纏めて置いていたのか、或いは備品倉庫か。そこに集まっていた奴らが、一斉に帰ってきたのかな。なんにしろ、奴等が姿を消していた理由が少しだけ分かったよ」

 淡々と分析しているように語る零くん。だけどその声はほんの少し早口で、僅かながら震えていた。

 これは、どうすれば良いんだろう?

 じっとしている? もしも奴等が満腹になったが故に帰ってきた集団なら、下手に動かなければやり過ごせるかも知れない。積極的に人間を殺そうという意思がない事は、部屋に押し入ってきた個体が生きてるわたし達を無視してシーツを食べ始めた事から明らかだ。

 だけどもしも奴等が餌場を喰い尽くして戻ってきたのなら、帰り道に転がっている食べ物を無視するだろうか? 小腹の空いた野生動物にそんな『お行儀』の良い態度を求めるのは酷だろう。

 通り過ぎるのを祈るのは、ちょっとばかりリスクが高い。じゃあ立ち向かうのが正解かと言えば、それも違うだろう。数からして勝ち目がないのは明らかなのだし。それに戦う際の物音でロビーの巨大な怪物がこちらに気付いたら、挟み撃ちの形になってしまう。

 やり過ごすのは危険過ぎ。立ち向かうのは駄目。なら、選択肢は一つだけ。

 逃げる事。

 ホールに陣取る大型怪物の横を、全力疾走で通り過ぎるのみ。

「……強行突破しかない、か」

「そ、そんな……」

 磯矢くんの独り言に、拒否感を示したのはルビィだけ。でもルビィが臆病とかおかしい訳じゃない。わたしだって、正直こんな事はしたくない。喜んでする奴なんて、そっちの方が絶対おかしい。

「ルビィ、手をつないで……わたし、不安だから」

 わたしはルビィの気持ちを静めようと、彼女の手を掴もうとした。

 よく見れば自分の手は震えていて、わたしも本当はルビィと同じぐらい怖かったんだなと、他人事のように感じる。何度も何度も怖い目に遭って、感覚が麻痺してしまったようだ。

 わたしの震える手を見たルビィは、ごくりと息を飲んだ。それから恐る恐る手を伸ばし、わたしの手を掴んでくれる。震える手同士でもつながれば、ちょっとだけ、その震えは抑え込めた。

「……ごめんなさい。気が動転して……」

「この状況で動転しないのは山本くんぐらいだよ」

「いや俺かよ!? お前の方だろ!?」

 ルビィの謝罪に、零くんが茶化すように磯矢くんにジョークを振る。磯矢くんがツッコミを入れ、零くんは肩を竦めた。

 ……それからくすくすと、四人で笑う。

 気持ち的には、ほんの少しだけではあるけどリラックス出来た。緊張ばかりしていると身体が強張り、動けなくなる。今は、きっとこれがベストコンディション。

 これから危険地帯を走り抜けるなら、この状態でいくしかない。

「さぁて、そろそろ出ないと後続組に追い付かれる……先頭はボクと山本くん、女の子達はそれぞれの彼氏の後ろに着く。ボクは怪物の右を通るから、山本くんは左を通ってくれ。二手に分かれてアイツを撹乱しよう――――というのが即興で思い付いた作戦なんだけど、何か代案あるかな?」

「ない」

「わたしも、それで良い」

「わ、私も……」

 零くん即興の、だけど現状他にない案を受け入れれば、準備万端。わたし達は全員と顔を見合い、同時にこくりと頷き……

「行くぞ!」

 磯矢くんの掛け声に合わせ、一斉に廊下の角から走り出すのだった。



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土壇場の強行突破

 意を決してホテルのロビーに突入したわたし達は、一つの幸運に恵まれた。

 ロビー中心に居座っていた大型の怪物は、わたし達の姿を見ると驚いたように硬直したのだ。しかも一瞬だけじゃなくて、結構長い間固まり続けている。

 どうして? と少し考えれば、答えはすぐに閃いた。きっとこの大型の怪物はさっきみたいに仲間から与えられる餌ばかり食べていたから、生きた状態の獲物を見た事がないんだ。

 日本人の場合、目の前に生きたニワトリが現れても「こりゃ美味そうだ」と言いながら捕まえる人は殆どいない。むしろ大多数の人はビックリして、しばらく動けなくなる筈だ。大型の怪物が同じような状態に陥っているなら、逃げようとするわたし達にとって実に好都合。わたしとルビィは互いの顔を見て、引き攣りながらも笑みを浮かべた。

 ――――好都合だったのは、ほんの一瞬だけだった。

 大型の怪物は、本当に生きた状態の『食べ物』を見た事がないのだろう。だからわたし達を食べるため、頭からどろどろした黒い肉の塊を出したりはしてこない。

 でも、さっきの日本人とニワトリの例えを使えば。

 全員ではないとしても……ニワトリに驚いて、追い払うため思わず蹴飛ばそうとする人は出ると思う。気が弱くて、些細な事でもパニックになってしまうような人なら特に。

 外敵と触れ合わず、獲物の生きた姿も知らない『女王様』が、突然の襲撃者を前にしたら混乱するに決まっている。

 動かなくなっていた大型の怪物は不意にぐるりと身体の向きを変え――――丁度真横を通ろうとしていた磯矢くんにその腕を振るった。

「がっ!?」

「いっくん!?」

 巨大な腕の一撃を受け、磯矢くんが突き飛ばされる。彼はごろごろとロビーの床を転がり、壁に身体を叩き付けた。その光景を見たルビィが悲鳴染みた声を出す。磯矢くんはなんとか立ち上がったけれども、すぐに膝を付いてしまう。

 鍛え上げられた身体のお陰か酷い怪我はしていないみたいだけど、それでも立てなくなるぐらいのダメージを負ったのだろうか。少し休めば立てるようになるかも知れないけど、だけどそんな余裕は多分ない。

 磯矢くんを殴り飛ばした怪物が、磯矢くんの事をじっと見ているのだから。

 見ていると言っても、怪物には目なんてない。だけどその巨大な頭の先は、確かに磯矢くんの方を向いていた。挙句じりじりと躙り寄る動きをしているのだから、ただの偶然、なんて考えは最早現実逃避でしかないだろう。

 生きた獲物を見るのは始めて。だけど服とか体内のマイクロプラスチックとかを感知して、これは食べ物なんだと気付いてしまったのかも知れない。

 さっき、生きてるニワトリを美味しそうだと思う人はいないと考えたけど……怪物達は人間じゃなくて、野生動物的な存在の筈。目の前にあるのが食べ物だと分かれば、それが生きているかどうかなんて気にしないだろう。

「た、助けないと……!」

「駄目だキララ! 危ない!」

「でも!」

「ボクが行くから待っているんだ!」

 駆け寄ろうとするわたしを零くんが抑え、彼は大きな怪物の背後から駆け寄る。武器も何も持ってない零くんは、渾身の蹴りを怪物に食らわせた。

 二メートルぐらいの、普通の怪物だったら、これでつんのめるぐらいはしたかも知れない。だけど大きさ五メートルの怪物はビクともせず、蹴られた背中側へ振り返る事すらしない。プラスチックの身体には痛覚なんてなくて、蹴飛ばされた事にすら気付いていない様子だ。

「みんな逃げろ! 俺は一人でも大丈夫だ!」

 微動だにしない怪物を前に、磯矢くんがわたし達に逃げるよう促す。怪物と磯矢くんまでの距離は、もう何メートルもないというのに。

「そんな事、出来る訳ないでしょ!」

 磯矢くんの意見に真っ先に反論したのはルビィ。彼女はあれだけ怖がっていた怪物の横をするりと通り抜け、磯矢くんの下まで誰よりも早く駆け寄ってしまう。それから彼を立たせるため、小さな身体で大きな磯矢くんを持ち上げようとした。

 まるで、それを許さないとばかりに。

 磯矢くんを見ていた大きな怪物が、何故かその動きを早めた。餌の量が二倍になったから? 理由を考えている暇は、どうやらなさそうだ。

「くそっ! このっ! なんでこっちに反応しないんだ!」

 零くんは必死に怪物に蹴りを入れ続けるが、怪物はやはり微動だにしない。少しずつ、少しずつ磯矢くん達との距離を詰めていき……

「……ルビィ、しっかり口を閉じていろ!」

 いよいよその手が届きそうになった瞬間、磯矢くんがルビィを突き飛ばした。

「きゃっ!? い、いっくん――――」

 突き飛ばされたルビィは倒れた痛みで悲鳴を漏らしつつ、大切な彼氏の名を呼ぼうとしていた。怪物から逃がすために、我が身を呈してくれたのだから。

 磯矢くんはきっと、自分の命よりもルビィを守ろうとしたのだろう。迫り来る怪物の前から、大切な彼女だけを渾身の力で退かしたのだから。

 でも。

 磯矢くんに迫っていた筈の怪物は、何故かルビィの方へと振り向いた。

「ひっ!?」

「なっ!? お、おいっ! こっちだ!」

 大型の怪物に見つめられてルビィは悲鳴を漏らす。磯矢くんは慌てて大声で自分の存在をアピールするけど、大きな怪物は気にも留めていない。

 じりじりと、今度はルビィを追うように移動し始める。

「や、やだ! 来ないで!」

「ルビィ!? そっちじゃない! こっちに来て!?」

 磯矢くんと違ってルビィは走る事が出来たけど、混乱しているのかルビィはホールの出口から遠ざかるように逃げてしまう。こっちに来るようルビィに伝えてみても、恐怖に染まった彼女の耳には届かない。

 そんな彼女を更に追い込む事態が起きる。

 ホテルの廊下から、何体もの怪物が現れたのだ。わたし達をホール突入に駆り立てた集団が、ついにやってきたらしい。

「嫌ぁ!? こ、来ないで! 来ないでよぉ!」

 ルビィが鉢合わせた集団から逃げるものの、怪物達はルビィ目指して動く。混乱したルビィはぐねぐねと蛇行するように走っていたのに、怪物はその蛇行を律儀に追い駆けた。

 まるで、いや、間違いなくルビィは狙われている。思えば部屋で襲撃された時も、怪物は真っ先にルビィ目掛けて突撃していた。一度だけなら偶然かもだけど、二度目で、しかも何体も同じ行動を見せているのだ。そこには何か、確かな理由があるに違いない。

 そう、わたし達にはなくて、ルビィにだけある理由が。

「きゃあっ!?」

「ルビィ!?」

 怪物に追われていたルビィが、ロビーに転がっていた何かに蹴躓き、転んでしまう。

 普段ならすぐ立ち上がれる筈のところ、迫り来る怪物の恐怖で腰が抜けたのか。ルビィは這いずるように動くのが精いっぱいな様子だった。怪物達は少しずつ、その距離を縮めていく。

「くそっ! なんでコイツ無視してんだ!?」

「このっ! このっ!」

 ようやく立ち上がった磯矢くんと、もう息も切れかけている零くんは、大きな怪物に何度も蹴りや拳を入れている。それでも怪物の動きは止まらず、二人は焦っていた。

 冷静に考えられるのは、咄嗟に動けなかったわたしだけ。

 考えるんだ。何か、ルビィだけわたし達と明確に違うところがある筈。何か、何かが……

「い、いやあぁぁぁ!?」

 考えるわたしだったけど、全く何も閃かないまま。間近に迫った怪物に対し、ルビィは両手を闇雲に振り回しながら悲鳴を上げて――――

 キラリと、ルビィの指が光った気がした。

 ……それは単なる勘違いかも知れない。

 だけど勘違いだとしても、彼女の指には『アレ』がある筈だ。服とか靴に比べてずっと小さく、軽いそれは、だけどこの中では一番プラスチックっぽい。そしてルビィだけが付けているもの。

 もしかしたら、もしかするかも知れない。違っていたら色々可哀想だけど、でも少しは気が逸れるかも知れないし、生きて帰ったなら後で本物を貰うのだから捨てさせたってバチは当たらない筈。

「ルビィ! その指輪を遠くに投げ捨てて!」

 だからわたしは、ルビィにそう伝えた。

 パニック状態だった筈のルビィは大きく目を見開いた。それから自分の左手の薬指に嵌めていた指輪を握り締め、嫌々と言いたげに首を横に振る。この指輪を捨てるのだけは絶対に嫌だと言わんばかりに。

「それ偽物だから! ただのプラスチック!」

「はぁっ!? そ、そーいう事は早く言いなさいよ!」

 なので本当のところを教えると、ルビィは顔を赤くしながら指輪を投げ捨てた。

 すると怪物達は、一斉に身体の向きを変える。

 次いで全員が、ルビィが投げ捨てた指輪を追い駆け始めた。仲間を押し退け、わらわらと指輪に群がる。大型の怪物も同じく指輪を追い、自分より小さな仲間を蹴散らしていた。

 突然の怪物の行動に、零くんと磯矢くん、そしてへたり込んだままのルビィは唖然としていた。わたしだけが、思っていた通りの結果にガッツポーズを取る。

 あの指輪は零くん曰く、最近開発された新しいプラスチックで出来たもの。怪物はプラスチックを餌にしているので、もしやと思ったのだ。部屋でルビィが真っ先に襲われたのも、指輪に引き寄せられたのだろう。偶々怪物を引き寄せてしまう製法だったのか、見慣れないものに食指が動いたのか、正確な理由は分からないけど。

 勿論どれだけ興味を惹こうと、あくまで餌という認識の筈。あんなちっぽけな指輪なんて、アイツらは一口で食べてしまうだろう。だけど元々大して動きの速くない奴等を、部屋の隅まで退かせたのだ。こちらからすれば形勢逆転である。

「磯矢くん! ルビィを早く立たせてあげて!」

「お、おう!」

 磯矢くんは駆け足でルビィの下に向かい、彼女を立ち上がらせた。腰は抜けても怪我はない筈。一度立ち上がれば、もうルビィは自分の力で歩けるようになっていた。

「凄いよキララ、後でさっきの秘策の詳細を聞かせてよ――――よし、逃げよう!」

 ぽつりとわたしを褒めつつ、零くんが先導してホテルの外へと走り出した。

 指輪で隅っこに寄せたお陰で、もうホテルの出入口の前に怪物はいない。指輪を食べ終えたのか怪物達の視線が一斉にわたし達の方を向いたけど、もう怪物達との距離は十分に開いた。加えて大して足の速い生き物じゃない。追い付かれる事もないし、転んでも起き上がる時間ぐらいはある。

 精神的余裕はわたし達の足取りを軽やかにする。誰も転ばず、蹴躓く事もなく、わたし達は出口へと向かい、

 全員無事に、ホテルの外に出るのだった。



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日常への帰還

「良し、出られた! ……さぁてとりあえずあっちの、海とは反対側に走るよ!」

 ホテルを出てすぐ、零くんは逃げる方角を指差した。街灯の明かりがないため真っ暗闇に閉ざされた、昼間に観光した時の記憶が正しければショッピング通りの方だ。

 本当に行く先は真っ暗で、出口付近がホテルの明かりで微かに照らされている事もあってか、墨汁で塗りたくられたみたいに何も見えない。足下に大きなものが転がっていたとしても、間近に迫るまで、或いは実際に蹴躓くまで気付かないだろう。道を行き交う人の気配もないから、何処が安全なルートなのか全く分からない。歩くならまだしも、走るなんて危ない事この上ない道だった。

 だけどわたし達は立ち止まる訳にはいかない。

 どうにかホテルから全員無事に脱出した訳だけど、ゲームや映画と違い、それで全てが終わった訳じゃないからだ。扉一枚で部屋から出られなくなるゲームのモンスターと違い、怪物達はホテルの外まで平気で出てくるだろうから、こんなところで暢気に休んでいたら追い付かれてしまう。というかそもそもわたし達がホテルから逃げ出さなければならない原因は、あの『ちっぽけ』な怪物達なんかじゃない。

 ――――遙か彼方から聞こえてくる、どおん、どおんという音の方だ。

「お、おい、この音ってまさか……」

「うーん、思いの外近い。巨大だから足は速いと踏んでいたけど、かなり接近しているね」

 暗闇の中を走りながら狼狽える磯矢くんに、零くんは淡々と答える。真っ暗なので磯矢くんとルビィの顔は見えないけど、多分わたしと同じように、思いっきり引き攣らせている筈だ。

 わたし達がホテルから逃げ出した原因である、体長六千メートルにもなる超巨大プラスチック生命体。

 わたし達が『怪獣』と呼ぶ事にしたあれが、かなり近くまで来ているらしい。此処からだと周りが建物に囲まれているため怪獣の姿は見えず、具体的にどれだけ近いかは分からないけど……聞こえてくる爆発音は、結構な近さに感じられた。

 爆発音はこの国の軍隊が怪獣を攻撃している証。それが続いているからには、どうやら未だ怪獣は倒せていないらしい。聞こえてくる音の激しさからして、弱っている様子もないのだろう。零くんは焼き尽くすのに何日も掛かると言っていたけど、どうやら本当にそうなりそうだ。

 超巨大プラスチック生命体に踏み潰される危険は未だ消えておらず、距離の近さを思えばうっかり外れた軍事兵器に巻き込まれる可能性も出てきた。此処に居たら危険極まりない。

「ど、どうすんのよ!?」

「どうもこうも、さっき言ったように走って逃げるだけだよ。出来るだけ遠くにね!」

 零くんに言われるがまま、わたし達は走り続ける。

 その走りを応援するのは、ガシャンッ! というあまり聞きたくなかった音。出来れば無視したいけどそうもいかず、音が聞こえた、もう大分遠くなったホテルの方へと振り返れば……そこには体長二メートルぐらいの怪物が数十体と、五メートルはある大型の怪物がホテルの外に出ているところだった。

 そして怪物達は、迷いなくわたし達の後を追ってきた。もうホテルの餌は食べ尽くし、わたし達以外に餌はないと言わんばかりに。怪物達の姿はホテルから離れればすぐ闇の中に溶けてしまったけど、ガシャガシャという音が、決して彼等がこの世から消えた訳ではないと照明していた。そして音が遠ざかる事はなく、延々とわたし達の後ろを付いてきている。

「ど、どど、どうするの!? アイツら追ってきたわよ!?」

「プラスチックに惹かれてるんじゃないのかよ!? 周りの店にプラスチックなんて山ほどあるだろ!」

「食べ尽くしたんじゃない?」

「よく平然と答えられるわねアンタ!? どーすんのよこれからぁ!」

「そりゃあ向こうが飽きるか別の餌を見付けるまで、ひたすら走るしかないんじゃないかな? 幸いあちらさんの足はあまり速くないから、今の速さを維持すればそのうち振りきれる筈だよ」

「そんなぁ!?」

「まぁ、確かにそろそろ体力的にキツいけどね。このまま逃げ続けるのはちょっと勝算がないかもだし、打てる手は打ちたいけど、どうしたものか――――ん?」

 終わりの見えない逃避行にルビィが悲鳴を上げ、零くんが次の案を考えようとした……直後に零くんがぽつりと声を漏らす。

 零くんは何に反応したのか? 彼の顔が見えないのでハッキリとは分からないけど、もしも正面を見ているなら、きっとわたし達の進行方向上に突如現れた『光』なのだろう。

 現れた光の数は四つ。本当に小さな光だけど、かなり強い輝きのようでハッキリと確認出来る。だけど周りにその光は広がっておらず、まるで自らの正体を隠すように暗闇が残っていた。強い光なのに周りが照らされていないのは、光が狭い範囲に集められている……ライトのような道具が光源だからか。

「『伏せろ!』」

 そしてその光の先から、男の人の大きな声で英語が聞こえてきた。ハッキリとした命令文だ。

 次いで、カチャリ、という音が幾つも聞こえた。

 その音はただの気の所為かも知れない。だけどもし気の所為じゃなかったら、地に伏せないと『彼』に逆らったというだけでは済まない。

 もしかすると、()()()だ。

「っ!? みんな伏せて!」

「え? お、おう!?」

「ルビィ早く!」

「きゃっ!?」

 英語を聞き取ったわたしと零くんは命じられるがまますぐに伏せ、磯矢くんとルビィを伏せさせる。

 すると次の瞬間、パパパンッ、という乾いた音が聞こえた。

 本物なんて聞いた事がない。だけど映画とかアニメとかでは何度も聞いた……ううんやっぱり聞いた事がない『本物』の音。とても軽い破裂音で、背筋が凍るほど淡々としていて、凄く不気味に思える。

 だけど同時に、凄く頼もしい。

 それは人間が作り出した文明の利器である、銃が奏でる音色なのだから。

「『行け行け行け!』」

「『民間人四名確認! 救助する!』」

 銃を撃ちながら、わたし達の行く手にあった光が近付いてくる。やがて光……ライトが付いた銃を持つ、迷彩服を着た軍人さん達がわたし達のすぐ傍までやってきた。

 軍人さん達はわたし達の身体を掴んで立ち上がらせ、「よくやった」とか「もう大丈夫だ」と英語で話し掛けながら力強く引っ張って走り出す。進む先には何台もの大きなジープがあって、こっちに来いとばかりに手招きする軍人さんが何人も居た。

「な、なぁ、俺達……助かったのか!?」

 英語が分からない磯矢くんが、だけど期待した声で尋ねてくる。

 零くんはこくりと頷き、

「うん、助かったよ……ひとまずね」

 ぽつりとそう答えた。

 その言い方は、何か別の考えがあるような感じがした。だけどそれを聞く前に、軍人さん達はそれぞれが最寄りの車にわたし達を連れていこうとした。わたし達全員足の速さはバラバラで、話し掛けるにはちょっと距離が離れてしまう。背後から聞こえてくる銃撃音の激しさも、遠くから声を掛けようとする気持ちを少し鈍らせる。

 何も言えないまま、わたし達は男女別々に車へと乗せられた。こんな時にもイスラム教的な配慮なのか、それとも偶々か。非常時だし、多分後者だろう。

 お陰で、車の中でも零くんに話し掛ける事は出来ず。

 ホッとした表情を浮かべるルビィの横で、わたしは、少しだけもやもやとした気持ちが残った。でもそのもやもやも、車が急加速で動き出して、銃声が一気に遠くなって……車の速さが普通になった時には霧散していく。

 最後は、再会した時に訊けば良いかな、と思うようになって。

 気を抜いた途端襲われた睡魔に抗わず、一足先にわたしの肩に寄り掛かってきたルビィに、わたしも身を預けるのだった。



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止まらない穢れ

 救助されたわたし達は、その後街から離れた怪しい研究所に……なんて事はなく、海から遠く離れた内地で栄えている都市の、とある大きな建物に連れていかれた。軍人さんの話曰く、この国の首都らしい。近代的なビルが建ち並ぶ様は、正しく『首都』の様相をしていた。勿論、観光する暇なんてなかったけど。

 案内された建物は体育館のような、とても広くて物が何一つ置かれていない場所だった。此処が普段どのような用途で使われている場所なのかは、この国の文化にさして明るくないわたしには分からない。だけど近代的な建物だけにお国柄みたいなものはあまり感じられず、『外国人』という身分としては却って居心地が良かった。

 その居心地の良い場所に、わたし達は決して一番乗りした訳ではない。

 わたし達が来た時には既に、何百もの人々が集まっていた。見知った顔 ― 具体的には喫茶店のお姉さんとか ― も見付けて、海沿いの観光地に居た人々がこの体育館のような場所に集められているのだと分かる。人種も歳も性別もみんなバラバラ。観光地で働いていた人々だけでなく、大勢の観光客も救助もしくは避難していたらしい。そりゃ、わたし達みたいなただの大学生でも怪物ひしめくホテルから全員脱出出来たぐらいなのだから、大人が数人も集まれば町から逃げ出すぐらい出来なくもないだろう。勿論死んでしまった人も少なくないけど……

 ともあれ救助されたわたし達は、そこで軍人さん達から様々な支援をもらった。食べ物だったり、飲み物だったり、着替えだったり。怪物に殴られた磯矢くんは怪我の診察も受けた。擦り傷だけで骨折とかはなく、消毒だけで済んでいた。ルビィったら心配し過ぎて、なんでもないと分かった途端腰を抜かしていたけどね。

 お腹も膨れ、身体も綺麗になったわたし達は、日本からの救助隊が来るまで避難所で待つ事になった。お財布とかパスポートはちゃんと持っていたから、帰ろうと思えば飛行機ですぐにでも帰国出来る。だけど日本政府としても『生存者』の数を確認する必要があるので、政府の人と色々やり取りしてからでないと駄目だと、軍人さん達から言われてしまった。こっそり逃げ出したら迷惑掛けちゃうし、大人しく従う。

 他の旅行者の人達も同じようなもので、わたし達がホテルから逃げ出して丸一日が経ったのに、未だ避難所は人でごった返している。そして時刻はもうすっかり夜遅くだ。幸いにして布団、というか寝袋みたいなものも支給されているので、わたし達は寝場所にも困っていない。寝ようと思えば何時でも眠れるだろう。

 だけど寝ている人は殆どいなかった。

 何故ならわたし達……此処に居る救助者の殆どは今、避難所に設置されたテレビに夢中だったからだ。

「……零くん」

 周りにたくさんの、隙間なんてないぐらい人が居る中、はぐれたくなくて……ルビィと磯矢くんとは既にはぐれているけど……わたしは隣に立つ零くんの手を掴む。零くんもわたしの手をぎゅっと握り締め、離さないように掴んでくれた。

 零くんの存在をしっかりと感じながら、わたしは体育館の天井付近から目を逸らさないよう意識する。

 避難所に設置されたテレビは、出来るだけ多くの人が見られるよう、天井からぶら下がる形で設置されていた。画面もとても大きくて、映画のスクリーンみたい……それでもちょっと見辛いぐらい、周りには人が集まっている。

 それも無理ない話。

 何故なら今テレビには――――わたし達が怪獣と呼ぶ、あの超巨大プラスチック生命体が映っていたのだから。

 ヘリコプターから撮影しているのか、怪獣は空から俯瞰するように映し出されている。体長六千七百メートルという出鱈目なサイズは、地面にあるミニチュアのような建物達がなければ到底実感出来ないもの。ナメクジみたいな身体は一見してゆっくり動いているけど、景色である町並みの動きを見れば、車なんて比にならない速さだと分かる。見れば見るほど、とんでもない非常識だ。

 その非常識は今、激しく燃え上がっている。

 この国の軍隊が行った攻撃により付いた火だ。今もたくさんの砲撃と空爆を浴びていて、真夜中にも拘わらず全身がハッキリ見えるほど明るく燃え盛っている。炎は怪獣の身体であるプラスチックを次々と燃やし、全身から黒い煙が轟々と噴き上がっていた。もしもあの煙に包まれたなら、多分一瞬で一酸化炭素とかダイオキシンの中毒で死んでしまうだろう。それほどまでに激しく、そして濃い黒煙だった。

 だけど燃え盛る怪獣は止まる気配すらない。

【我が国の軍が攻撃を続けていますが、超巨大プラスチック生命体の進行速度に変化はありません。米軍や西洋諸国の援軍は、どうやら間に合いそうにないようです】

 現場に居るであろう男性リポーターはもう諦めてしまったのか、淡々と事実を語る。それはわたし達の目にも明らかで、だからこそ彼の言葉をすとんと受け入れられた。

 一応言うと、怪獣はわたし達が居る首都なんて目指していない。内陸の方へと進んだけど、むしろ人気のない地域を目指していた。お陰でこの国の軍隊は思う存分武器を使えているらしい……動きを抑えきれていない現状でそれを知っても、絶望感しかないけど。

 そしてそいつの行く先も、希望と言うよりは絶望寄りだ。

【……ああ、ついに見えてきてしまいました】

 リポーターが達観した声を漏らすと、次いでカメラが別の場所を映す。

 テレビに映ったのは、無数に並ぶ電波塔のような建物。

 だけどそれは電波塔じゃない。電波塔には必要ない大型の機械が接地され、地面を深々と掘り進みながら現代社会を支えるのに不可欠な資源を採掘する施設……

 油井(ゆせい)だ。

 怪獣は、油田地帯を目指すように直進していたのだ。それもこの国で最大規模の、世界でも有数の産出量を誇る巨大油田である。

 テレビに映る軍隊の攻撃は更に激しさを増したけど、怪獣は怯みもしない。むしろその移動速度を速めたようにも見えた。軍隊の攻撃などものともせず、一直線に油田へと向かい続ける。

 そしてついに到達してしまった。

 油井自体は、きっと機能を停止させていた筈。だけど燃え盛る怪獣が触れた事で、微かに残っていた石油が着火してしまったのだろう。激しい炎が施設から噴き出し、周りの油井にもどんどん燃え移る。

 ほんの数分で油田は炎に包まれた。もう此処は二度と使えない、なんて事はないけど……消火するにはたくさんの時間とお金、資材と人材が必要になる。先進国でも大変な作業を、アフリカの中ではかなり豊かとはいえ決して大国とはいえないこの国にも出来ると考えるのは、あまりに楽観視し過ぎだろう。

 そして石油という、外貨としても軍需物資としても欠かせないものを失った事で、軍政であるこの国の情勢は不安定なものとなる筈。その不安定さは周辺国に広がり、もしかしたら、この油田火災とは比較にならない『災禍』を引き起こすかも知れない。尤も怪獣は、人間社会のあれこれなんて気にしていないだろうけど。

 油田に到着した怪獣は、鎌首を上げたナメクジのような身体の頭部分を地面へと向けた。そこには油井があったけどお構いなしに前進し、頭が油井を押し退けて地面に到達。だけど怪獣は止まる気配すらなく、前進し続ける。

 ついにその身体は周りの地面を押し広げながら、地中へと侵入した。地面に開けられた穴からたくさんの黒い水……石油が噴き出し、周りの炎によって燃え盛る。穴はどんどん拡大していき、合わせて燃える石油の勢いも増していく。

 もう、軍隊の攻撃は行われていない。やったところで無意味どころか、却って油田火災を酷くしてしまうと判断したのかも知れない。

 邪魔がなくなった怪獣は悠々と行動し、その全身を地中へと潜らせていく。身体が大きいのですぐには潜りきらず、十分ぐらい時間を掛けていたけど……事の大きさを思えば、あっという間の出来事のように感じられた。

 地上にはもう六千メートルの巨体なんて何処にもなくて、何百メートルもありそうな大穴と、大穴よりも大きく燃え広がる炎が残っているだけ。

 テレビを見ていた人達は沈黙していた。沈黙しながら、「終わった」と語っていた。何が終わったのか? それはきっと人それぞれで、そもそも具体的なものがある訳ではないと思う。曖昧で、不安で、期待もしたい、妙な感覚。

 ただ一人、零くんだけは違う想いを抱いているだろう。

「……プラスチック製品は、元を辿れば石油が原料なのは知っているね?」

 一部始終を見たわたしに、同じものを見ていた零くんが話し掛けてくる。今時小学生でも知ってる事に、わたしは素直にこくんと頷いた。

「彼等がプラスチックを餌としているのなら、その原料である石油に惹かれるというのは、まぁ、あり得る話だよね。ボクは彼等がプラスチックに引き寄せれていると考えたけど、実態は逆で、石油を探し求めていたのかも知れない」

「……うん」

「そして今、地球の海は何処もかしこもプラスチック(石油)で汚染されている。彼等は餌を求め、世界中の海に拡散しているだろう。そもそもあの怪物達がこの国で発生したとは限らないんだ。今回の件が初の拡散かも知れないけど、それを期待するのはちょっと希望的観測過ぎるよね」

「……日本とかにも、現れるのかな」

「多分現れるだろうね。日本近海は海洋プラスチックの量がかなり多いと知られているし。でも生物にとって大事なのは、全体の量だけじゃなくて、密度も大事だ。日本近海だと小さな奴なら兎も角、数千メートル級の奴がぽこぽこ生まれる事はないんじゃないかな」

「ホットスポットみたいにゴミが集まる場所か、ゴミが垂れ流しの施設じゃない限り、大量発生はしない?」

「こんなのは願望みたいなものだけどね。プラスチックを食べる以外、生態なんて何も分かってないし……とはいえ、じゃあこの願望が叶わず、奴等が大量発生したら人類が滅ぶかといえば、そんな事はないだろう。体長二メートル程度の個体なら生身の人間でも倒せる事はボク達が証明した。五メートル級や、多分居るだろう数十メートル級の個体だって軍事兵器の前では形なしさ。六千メートル級の個体だって、核兵器を使えば跡形もなく吹き飛ぶだろうね。所詮通常兵器で燃える程度のプラスチックだし。あとメガトン級の核兵器を一~二発使ったところで核の冬が訪れない事は、二十世紀後半に行われた無数の核実験が証明している。()()()環境汚染に目を瞑れば、まぁ、核兵器の使用を躊躇う理由はないね」

 つらつらと、零くんはプラスチック生命体についての考察を語る。

 長い話だけど、一言で纏めれば「人類にとって脅威じゃない」、といったところ。

 わたしもそう思う。あの超巨大な個体だって核兵器なんか使わなくても、この国でも時間さえ掛ければ倒せたと思うし、アメリカとかの最新鋭兵器なら一日で撃退出来るかも知れない。小さな奴なら言うまでもない。

 そう、きっと人が滅ぼされる事はない。

 ――――『今』は。

 その言葉が零くんの話の頭に付いていると、わたしは気付いた。気付いたから、わたしは何も言えなくなる。出来るのは精々、ぎゅっとその手を握り締める事ぐらい。

 決意に満ちた零くんの横顔を、じっと横目に見ながら……



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変われる世界

 良く晴れた朝。マンションの一室にて、わたしはゆっくりと背筋を伸ばした。

 時刻はもうすぐ朝八時。朝食を食べ終えて一休みし、身体はすっかり本調子になっている。何時でも動き出せる状態だ。現在座っているテレビ前のソファーでごろごろ寝転がりたい衝動と戦いながら、ゆっくり立ち上がる。

 なんとなくお腹を摩りながら、さて、何をしようかと考える。今日は出掛ける用事がないので、家でのんびりしていられる。とはいえ、じゃあ今すぐカウチポテトという訳にはいかない。ゴミ捨てにも行かないと行けないし、部屋の掃除もそろそろしたいところ。済ませてあるのは朝食の洗い物だけ。

 良し、まずは掃除から始めよう。うちが使っているゴミ捨て場に回収車が来るまでまだまだ時間が掛かるし、掃除をしてからでも十分間に合う。

 早速始めるべく、掃除機が置かれている洗面所の方へ……向かう前に、まずはテレビを消そう。節電は大事だ。という訳でソファーの上に置かれているリモコンを手に取り、テレビを消そうとした。

 その時である。

【昨日正午頃、『合成樹脂生物』の日米合同駆除作戦が沖縄沖にて行われました】

 テレビから聞こえてきたその言葉が、わたしの動きを妨げた。

 ……リモコンを掴んでいた手は下り、立ち上がっていた身体は再びソファーに座り込む。視線は、テレビに釘付けとなった。

【作戦により『合成樹脂生物』のコロニーは壊滅。防衛省の発表によると五十三体を駆除したとの事です。近隣住民からは安堵の声が聞かれる一方、米軍基地を正当化するための政治的アピールだとの意見も根強く……】

 ニュースを読み上げるアナウンサーの、淡々とした声。それを聞いたわたしは、大きく肩を落とす。

 ――――わたし達がアフリカの地で『怪物』と出会ってから、今年で四年が経った。

 四年間で、わたしの身には色々な事が起きた。大学院は無事卒業したし、就職先で嫌ぁな上司にいびられたり、ルビィと磯矢くんのケンカに巻き込まれたり……半年前には零くんとついに結婚したり。

 世界も色々と変わった。あのプラスチックの怪物達……正式には合成樹脂生物と呼ばれるようになった生物が、世界中に現れるようになった。わたし達が旅行したログフラ共和国は経済不安から起きた内戦で最貧国に転落している。そして一般人の海洋ゴミへの意識が少し高まった。

 だけど変わらなかった事も多い。

 ログフラ共和国の油田火災はかなり沈静化したとはいえ今も続いているし、途上国へのゴミ輸出は大して減っていない。国の偉い人は環境問題より政治とか選挙の事ばかり気にしていて、一般人も大多数は自然環境より経済問題の方が大事。途上国は今でも開発優先で、先進国でも経済的な問題がある国はそうなりやすい。プラスチックの怪物という如何にも自然からの逆襲みたいな存在が現れても、大部分の人間は環境問題を殆ど気にしていなかった。

 その一番の理由は、合成樹脂生物があまり強くないから、だと思う。

 四年前に零くんが予想した通り、合成樹脂生物は人間が少し本気になれば簡単に駆除出来る存在でしかなかった。普通の銃や大砲でも倒せたし、研究が進んだ事で『燃やす』のが一番安価で効率的に倒せると判明している。時折現れる体長一千メートル超えの個体すら、ナパーム弾や焼夷弾のような燃やす事に特化した攻撃を大盤振る舞いすれば、二十四時間以内に倒される有り様。核兵器なんて使う必要すらない。

 そして今では総個体数が概算ではあるけど算出されていて、世界各国が協力して根絶作戦を実施中。数は確実に減っていて、十年もすれば絶滅に追い込めると少し前に新聞で読んだ。自然保護団体も、余程カルト的な団体でない限りこの『異常な新生物』の絶滅に反対するところはなく、多分問題なく作戦は進むのだろう。

 ……だから今では、その合成樹脂生物を使った政治があちこちで行われている。例えば日米同盟の強固さや基地の重要さをアピールするため、或いは米国の兵器の威力を誇示して中国やロシアを牽制するために。

【やっぱり政治的に利用しようという勢力の多さが問題です。その所為で駆除作戦の進行が遅れていると考えられます】

【いやぁ、早く退治してほしいですよ。あんなデカい怪物がもし東京に現れたら、もうとんでもない被害が出ますよね?】

【政府には国民の事を一番に考えてほしいものです】

 テレビの専門家やコメンテーター、ゲストの芸能人達も、その意見は政府への批判とかそんなのばかり。合成樹脂生物そのものには、あまり関心がないように思える。まるでもう、絶滅が確定しているかのように。

 合成樹脂生物に本気の警鐘を鳴らしているのは、多分零くんだけだ。

「……あの大きな奴が地下に潜ってから四年、か」

 ぽつりと、考えていた事が声に出てくる。

 ログフラ共和国に出現した六千七百メートル級の個体は、今もその行方は分かっていない。

 油田の中で窒息死した、というのが大半の専門家の意見だ。テレビや新聞もそう言っている。だけど死骸は見付かっていなくて……だから零くんのような、一部の識者はこう言っている。

 奴は生きていて、今も何処かに潜んでいるんだ、と。

 そしてそれは、破滅のカウントダウンが始まっている証なのだ。

【次のニュースです。現在国際的な値上がりが続いている原油価格ですが、今週から更に上がる見通しとなりました。世界各地の産油量減少が止まらず、更なる供給不足が予想されるためです】

 ……プラスチックの原料は石油。だから合成樹脂生物が石油を食べたとしても、なんらおかしくない。奴が生きていたなら、大量の石油を食べて、より大きく、より強くなっている可能性がある。

 そうした意見に対し、ならばログフラ共和国の石油火災が今も続いている事は奴が死んだ確かな証拠だという反論もある。石油を食べる奴が地下に居たら、原油火災なんてあっという間の鎮火する筈なのだから。だけど別の見方、例えば奴は地下を掘り進みながら何処かに去っていて、何処かでひっそりと繁殖していたなら……世界各地で原油の産出量急減が起きるかも知れない。そして繁殖が止め処なく続けば、いずれ全ての石油が『枯渇』するだろう。

 人間は宇宙の彼方まで観測する術を手に入れた。だけど未だ足下の大岩の中身を覗き見る手段は持っていない。大地の奥底を移動されたなら、わたし達にそれを知る事は不可能だ。何かとんでもない、人類の存亡に関わる事態が起きていたとしても。

 零くんは、そのもしもに備えていた。

 あの日から四年が経ち、零くんは今や立派な研究者だ。主に海洋のプラスチックゴミを分解するための、安価で環境に優しい『還元技術』の開発に勤しんでいる。プラスチックを石油に戻す技術自体は何十年も前に実用化されているけど、コスト面とか廃液の処理、対象が限定される点や不純物混入などの問題であまり一般化されていない。

 この技術が実用化出来れば、海洋プラスチックゴミは何処の国でも利用出来る『油田』となる。油田の有無による貧富の差や、奪い合いによる紛争もなくなるかも知れない。そして何より、零くんが想像した通り奴が石油を貪っていたなら……増殖した合成樹脂生物から効率的に石油を取り出す技術がなければ、石油の枯渇と共に人類文明は本当に終わってしまう。

 勿論油田で繁殖しているという説は、零くんの憶測だ。人類に見通せない地球の地下深くの事を、人間である零くんに見通せる筈もない。だからこの研究は、今の自然環境を綺麗にするだけのもので終わるかも知れない。零くんも、そうなる事を祈っている。

 ううん、それこそしなければならない事だ。

 零くんは言っていた。環境問題というのは夏休みの宿題みたいなものだと。

 合成樹脂生物が宿題を放置した事へのお仕置きだと言うのなら、わたし達がやっている事はそのお仕置きを焼き払う事。お仕置きを燃やしたところで宿題は消えない。むしろこれで宿題をやった気になっている分、却って状況が悪化していると言える。

 そして合成樹脂生物が、先生からの最後のお仕置きとは限らない。次のお仕置きは合成樹脂生物ほど()()()()()かも知れない。なのに世界は今、宿題から目を背けている。お仕置きされても燃やせば良いと、楽なその場しのぎを見付けてしまったがために。

 零くんはその宿題を、一生懸命やっている。

 勿論、宿題をやらないといけないのは科学者だけじゃない。わたし達一般人も同じ。むしろ宿題の原因という意味では、わたし達こそが率先してやらないといけない事だ。

 出来る事からやっていこう。

「……この子が産まれた時、汚れた世界なんて、可哀想だもんね」

 もう一度お腹を摩ったわたしはテレビをちゃんと消してから、部屋の掃除をすべく洗面台へ向かうのだった。



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