あの日のきらめきをカクテル・グラスに注いで (岸雨 三月)
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あの日のきらめきをカクテル・グラスに注いで

「こんばんはー、ごめん、遅くなっちゃって。まだやってるかな? 一人、入れる?」

「もう……本当に遅いですよ、ココアさん。予約してるんだから入れるに決まってるじゃないですか。早く入ってください」

 

他の飲食店と同じくここ「ラビットハウス」にとっても土曜の夜というのは書き入れ時だ。とはいえ、さすがに日付が変わるまで1時間を切る頃ともなるとお客さんは少なくなる。今日は既に店内に誰もいないので、この後はココアさんの貸し切り状態だ。私はこれ幸いと「closed」の札を通りに向かって掛けた。

 

「あれ? お店閉めちゃって大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ。ココアさんに心配してもらわなくても、これでも一日お店を休んでもびくともしないくらいには普段から稼いでるんですから」

 

そう言うと私はココアさんのコートをハンガーにかけ、カウンター席に座るよう促す。

 

「じゃあ他のお客さんには悪いけど、今日はチノちゃん独り占めにさせてもらおうかな」

「もう何言ってるんですか。私じゃなくて、私のお店、ですからね」

「相変わらずチノちゃんは私にツンツンだなぁ……。それにしてもチノちゃん、バーのマスターがだいぶ板についてきたんじゃない? 昔のチノちゃんを知ってると、夜のカウンターに馴染んでるチノちゃんの姿ってなんだか新鮮」

「オーナーの娘としては昼のカフェタイムのことだけじゃなくて夜のバータイムのことも分かってないといけないですからね。修行あるのみです」

「おっ、じゃあ修行の成果、見せてもらおうかな! 明日は仕事もないし、今日はお酒、飲んじゃうよ!」

「はい、いつものノンアルコールカクテルです」

「って早! もう出てきた!」

 

ココアさんが高校を卒業し、この街を出て行ってからもう7~8年になるだろうか。私もココアさんが出て行った2年後には大学に通うために一度この街を出たが、今ではまたこの街に戻ってきてラビットハウスのカウンターに立っている。とはいえ、昔と違ってただ接客してコーヒーを淹れているだけでは済まない。将来お店を継ぐことを考えて経営や経理、仕入れ、設備の維持管理にバイトさんの労務管理や、夜のバータイムのことなども覚えていかなければならない。勉強を兼ねて週に何日かは、こうやって私自身がマスターとしてバータイムのカウンターに立っているのだった。それでもまだまだ未熟な私は父の力を頼らなければならない場面も多かったが。

 

「今日は飲みたい気分だったんだけどなぁ」

「ココアさん、お酒弱いじゃないですか……。この前だって酔いつぶれて終電逃してましたし。という訳で、今日はお酒禁止です」

 

私は指で小さくバッテンを作る。ココアさんは「えー」という顔をしてこう言った。

 

「それを言ったらチノちゃんだって昔からお酒弱いのに……。ねえ覚えてる? シャロちゃんの家でカレーパーティした時のこと! ウイスキーボンボンで酔っぱらったチノちゃん、本当に可愛かったなー!」

「い、いったいいつの話ですか、そんな昔のこと覚えてませんよ」

「確かあの時はシャロちゃんもカフェインで酔っぱらって歌い始めたんだっけ……。あの日のシャロちゃん、完全にアイドルそのものだったよね」

「違います、それは甘兎庵でカラオケ大会した時の話です」

「ばっちり覚えてるじゃん!」

 

思わず二人、顔を見合わせて笑ってしまう。高校を卒業した後、私とココアさんは違う進路を選ぶことになり、この街で重なった二人の人生は、やがて交差した二本の直線が遠ざかるように離れていった。それでもやっぱりこうやって昔の思い出話に花を咲かせるのは楽しい。カウンター越しに顔を向かい合わせて話すと、ココアさんと暮らしたあの三年間の時間にタイムスリップしたような気分になる。

 

ココアさんが自分の進路について真面目に考え始めたのは高校三年の春、ちょうど私達が都会への旅行から帰ってきた頃だったように思う。旅行先での経験を経てココアさんも色々と思うところがあったようで、帰ってきた後に紆余曲折あって「私、本気で国際弁護士を目指す!」と言い始めたのには驚いた。周囲も初めは冗談半分と捉えていたのだが、ココアさんは持ち前の行動力と、いったいどこにそんな力が眠っていたんだろうという驚異的な集中力を発揮し、一年後には本当に海外の大学へ留学してしまった。ココアさんが旅立つ日、見送りに行った駅のホームで私は大泣きしてしまった。そのことは今でもココアさんにからかわれる。当時の私にとっては海外留学などまるで別世界の出来事で、ココアさんが二度と帰らない旅に行ってしまうかのように思えたのだ。だがそんな留学もいつしか終わり、ココアさんは今ではこの国の大きな街の弁護士事務所に勤めている。時々は木組みの街方面でのお仕事もあるようで、そんな時は必ずラビットハウスに顔を出してくれるのだった。

 

「で、うちのボス弁ったらさー。準備書面のここはこうしろ、ここはこうとか赤を入れてくるけれど、昔ならともかく今の世代の裁判官に対してそれは心証的にどうなの?って思うことも結構あるんだよねー。その割に肝心なところでは『君も弁護士なんだから自分で考えたまえ』だし……」

 

弁護士の仕事というのは、私には想像もつかないくらいハードなものなのだろう。ココアさんの明るく前向きな性格は今も昔も変わらなかったが、こうやって仕事の愚痴を聞くことも多くなった。この街に帰って来て仕事するようになって、自分の力でお金を稼ぐことの大変さは人並みに分かるようになったつもりだ。それでも私のような自営業者の大変さと、ココアさんのように責任の大きい仕事をしながら組織に属している人の大変さは根本的に違うものがあるように思う。あの頃のココアさんと私の間の話題は、学校のこと、友達のこと、街のこと、趣味のことなど、ほとんどがお互いに共通の認識のあることばかりだった。正直今は、ココアさんのする話題は私にはよく分からない内容のものも多い。でもバーのマスターというのは職業柄、人の話を聞くのが上手くなっていくものだ。ココアさんの話に分からないなりに相槌を打ち、ココアさんの話したい話を引き出していくことは、半人前マスターの私でも出来ることだった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「すー……、すー……」

 

ココアさんが店に来てから1時間ほど。ココアさんはカウンターに突っ伏して眠りの世界に旅立っていた。ココアさんが「ねえ一杯だけ、一杯だけ飲んじゃダメ?」と言うので、断り切れず一杯だけカクテルを出してしまったら、その一杯でココアさんは撃沈してしまったのだ。今日も到着が遅くなったのは仕事が長引いたせいだと言っていたし、だいぶお疲れだったのかもしれない。

 

「ココアさーん、起きなくていいんですか」

 

ココアさんはビジネスホテルのある近くの街で宿を取っているようなことを言っていたけど、この様子だと宿はキャンセルかもしれない。本当にしょうがないココアさんです、と私はつぶやく。今夜はここに泊って行ってもらうしかないだろう。部屋はココアさんが昔使っていた部屋を使えばいい。ココアさんに着せるパジャマはちょうど良いものがあったでしょうか――、そんなことを考えながら、私はちょっとだけわくわくし始めていた。ココアさんと一つ屋根の下で眠るなんていつ以来だろう。この気持ちは、初めてマヤさんとメグさんをお家に泊めた時の気持ちにちょっとだけ似ているかもしれない。もっともその時のマヤさんメグさんはこんな風に酔いつぶれたりはしなかったし、こんなに世話の焼けることもなかったけれど。

 

眠っているココアさんに肩を貸すようにして無理やり歩かせて上階に連れていく。廊下で父とすれ違ったとき、父は少し驚くような表情をしたものの、すぐに事情を察して優しく微笑み、ココアさんに階段を上らせるのを手伝ってくれた。かつては精悍だった父も年齢には勝てないのか、頬には皺が増え、髪には白いものがだんだんと混ざり始めて来ている。でも父の微笑む顔は年々、おじいちゃんのそれに似てきているような気がする。

 

ココアさんの部屋はココアさんが出て行った時のままにしてある。幸いちょうど昨日掃除をしたばかりだったので部屋は綺麗だ。ココアさんが出て行った後の部屋は、ココアさんの溜め込んでいた私物――だいたいはブロカントやこの街のお店で買い込んだ雑貨類だったが、それは同時に私たちとの思い出の詰まったものでもあった――が撤去された分、ずいぶんと寂しく見えた。でも今は、かつての部屋の主が戻ってきたことで、まるで部屋自体が喜び、華やぎを取り戻しているようにも見えた。

 

とりあえずココアさんをベッドに寝かせる。仕事からそのまま直行してきたココアさんはぴっちりしたスーツを着ている。このままではスーツに皺ができてしまうかもしれない。さすがに眠ったまま着替えさせることは出来ないので、一度起きてもらわないと。でもどうすれば目覚めるでしょうか――ベッドの前で私は考え込む。

 

「……お姉ちゃんの、寝ぼすけ」

 

何とはなしにそんな言葉をつぶやいていた。そういえば昔の私は、「お姉ちゃん」と呼ぶと普段は何をしても目覚めないココアさんが一発で起きるので、この言葉をずいぶん便利に使っていたような気がする。これで何度ココアさんの遅刻を防いだことか。なので今も無意識に「お姉ちゃん」と言ってしまったが、ダークスーツに身を包んだ現在のココアさんは目覚めることなく眠り続けるのだった。

 

「…………」

 

昔の私は「お姉ちゃん」という言葉を魔法の言葉のように思っていた。だが、魔法というのは期間限定メニューのようなものだったのかもしれない。ココアさんの寝顔を眺めながらそんなことを思う。今考えると、寝ていても「お姉ちゃん」という言葉にだけ反応するだなんて、ちょっと漫画じみてバカバカしいような話だ。昔のあれも、もしかしたらココアさん流のジョークだったのかも――、そんなことを思いながら、毛布だけでも取ってこようと部屋を出ようとしたその時だった。

 

「むにゃ……チノちゃん……」

「ココアさん?」

 

寝言かと思ったが、ココアさんははっきりと目覚めていた。まぶたは半開きでとても眠そうではあったけど。「着替えだけでも……」そう言いかけた私をジェスチャーで制して、ココアさんはこんなことを言い始めた。

 

「来月はチノちゃんのお誕生日だよね。チノちゃんのお誕生日パーティー、みんなを集めてしようよ。また昔みたいにさ」

「えっ?」

「リゼちゃん、シャロちゃん、千夜ちゃん、メグちゃんに、街の外に出たマヤちゃんも呼んで、あともちろんナツメちゃんエルちゃんにフユちゃんも……」

「ちょっ、待ってください、私もうそんなに盛大に誕生日を祝われるような歳では」

 

そこまで言ったところでココアさんはバタン! とまたベッドに倒れこんで眠ってしまった。いったい何だったのだろう。お酒に酔った勢いで訳の分からないことを言っているのだろうか。確かに昔は、何かというと理由をつけてみんなで集まっていた。誰かの誕生日もそうだし、音楽会、文化祭にハロウィンにクリスマスなどなど――でも今はみんなそれぞれに仕事も持っているし、それぞれの生活がある。マヤさんなんかフィールドワークだなんだといって年がら年中世界中を飛び回っている。何よりココアさん自身が一番忙しいはずだ。みんなの予定を合わせて集まって誕生日パーティーをするなんて本当に出来るんだろうか。

 

「すぅ……」

 

でも、と思う。ココアさんの寝顔を見ていると、不思議とココアさんなら実現してしまうかもしれない、と思うのだった。だってココアさんはまるで魔法使いみたいに、みんなが夢見た以上の光景を現実のものにしてきた人だから。たぶん一人ではできなくて、「チノちゃん手伝ってー!」と良い歳して私やみんなに助けを求めてきそうではあるけれど。「しょうがないわね」「やれやれ」と言った顔をしながらも何だかんだ手を貸してくれるシャロさんやリゼさんの姿や、人一倍ノリノリで色んな企画を提案してくる千夜さんの姿が目に浮かぶ。

 

私とココアさんの間には、大人になって共通の話題は少なくなったけれど、逆に大人になってから発見した共通点もあった。二人とも、お酒を飲んでどんなに酔っ払っても記憶は残るタイプだったのだ。今言った誕生日パーティーのことだって、きっとただの冗談ではなく本気の本音として酔いが覚めても覚えているだろう。

 

「おやすみなさい、ココアさん。誕生日パーティー、楽しみにしてますからね」

 

ココアさんに毛布をかけながらそう言って私は部屋を後にした。

 

次の誕生日で私も25歳になる。二十代の前半は終わり、いわゆるアラサーという年齢に突入だ。私の人生で一番きらめいていた時期は終わりつつあるのかもしれない。でも、ココアさんと過ごした木組みの街での三年間は、解けない魔法のように私の記憶の中に残り、私の心を今も暖め続けている。ちょうど、真っすぐに交わる交差点から遠く離れて振り返っても、まだその交差点を遠くに眺めることが出来るように。そして私もココアさんも、距離は離れても心まで離れ離れになってしまった訳ではない。あの日々のきらめいた記憶を持ち続ける限り、私たちはまたここで会うことが出来るし、その記憶を灯火のようにしてそれぞれの道を前に進むことが出来るのだろう。

 

たとえその道が、この先二度と交わることがないものであったとしても。



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