遅咲きブーゲンビリア (パン de 恵比寿)
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遅咲きブーゲンビリア
貴方がいない物語


一応『早坂さんは明かしたい』シリーズの続編となる予定ですが、あんまり繋がりは無いかも……。
毎度のごとく、原作不順守、自己解釈盛々の内容になっておりますので、ご注意を。
加えて本作品に登場する人物・施設・法律等の概要については、実物とは異なる点が多々ございます。

ぶっちゃけスタンフォードに行く金も時間もないので、ほとんどwikipedia頼り……是非もないよネ!


 

 

 

 

 

 

あるいは何かが違っていたら

あるいは、ほんの少しの勇気を持てていたなら

 

今とは違う、もっと別の未来を歩めていたのかもしれない

 

そんな虚想に溺れながら、幾度眠れぬ夜を過ごしたことだろう。

募る想いが大きいほどに。忘れ消し去ろうともがくほどに。重く縛りついて離れない心の鎖。

 

夢みる過去は暖かく、だからこそ一度瞼を開ければ否応なく飛び込んでくる見慣れた天井に、グッと瞼の奥が熱を帯びる。決して変えられぬ現実の姿。かつて己が選んでしまった道の果てに、たどり着いた当然(お似合い)の末路。

 

 ――嗚呼。自分はこんなにも弱かったのだと。

 

 目の横を伝う生温い何かに、また声にならない哀咽が溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第1話 『貴方がいない物語』

 

 

 

 

 

 

「ふうー……」

深く。 胸奥に溜まった熱を吐き出す。じりじりと乾きを訴える眼球。凝り固まった肩は大きく回せば甘い痛みを返し、それほどに長い間、自分はこのPC相手に格闘を続けていたようだ。

 

椅子の背もたれに身を預けながら、ふと時計を見れば針は既に午後6時。窓の向こうに広がる景色。木々の奥に聳え立つ白く巨大な塔(フーバー・タワー)の背後には、夕色に染まった太陽がゆっくりと身を隠し始めていた。

 

 

「やあ。待たせてしまったね」

 

冷めた珈琲を口に運ぶさなか、背後から届いた声に慌てて振り返る。その嗄れた声が持つイメージ通り、年季の入った顔皺と白く長い髭を蓄えた小柄の男性が、黒木の長杖を片手にひょっこりと奥の部屋から顔を出していた。

 

「い、いえ。丁度頂いていた資料を整理していたところなので」

「ほ。さっき渡したやつかい? もう始めてくれているのか」

 

数枚のA4用紙を手に、杖を突きゆったりと歩み寄る男性。皺の入った瞼の奥に覗く碧色の瞳が、微かな輝きを湛えながら白銀が触れるPCのモニタへと移っていった。

 

「すまないね、雑務ばかり頼んでしまって。君は仕事が早いし正確だから、私もつい甘えてしまう。……なんと、もうこんなところまで」

「いいえ、自分に出来ることであれば」

 

 答えながらも知らずピンと背筋を伸ばしてしまう。入力内容に誤りが無かったことを安堵する反面、休憩中のダラけた姿を見られはしなかったかと、内心冷や汗も浮かべていた。

 

 緊張も当然。本大学においては……いいや。現代天文物理学の世界では、その名を知らぬ者はおらず。学内有数の研究施設に加え、スタンフォードが誇る大型電波望遠鏡の運営までをも一手に担う、名誉主教授を前にしているのだから。

 

 

「今の進捗であれば、明日の10時までには終わる予定です」

「ん、感心感心。日本人は勤勉だというが……その真面目さは、ウチの院生にも見習ってほしいものだ」

「あ、ありがとうござ「そいつを一般の日本人(ジャポネ)と一緒に見ちゃダメよ、教授」

 

遮るように。まるで異議を申し立てるかのように、突如響いた凛とした声。その良くも悪くも聴き慣れた声に顔を顰めて振り返れば、案の定深いウェーブのかかった黒髪の女生徒が立っていた。

 

「コイツの生真面目さは半ば病気みたいなものだもの。

 こんな七面倒臭い数値データ入力、禄に休憩も入れず、半日ぶっ通しで続けられる精神構造が異常なのよ」

 

「……べツィー…」

 

「だいたい何で貴方まで研究室(ここ)にいるのよ。またデータ整理のバイト?それとも勉強だけじゃアピール足りないからって、とうとう直接ごまスリにきたのかしら」

 

 侮蔑と嘲笑を隠そうともしない物言いに、じっと少女を睨め返す。

遠いかの日、フランス校交流会で初めて顔を合わせた時と同じ。不遜に満ちた笑みを浮かべた彼女は、ふふん、と息をこぼしながら益々と舌の勢いを早めていくのだった。

 

「相っ変わらず口が悪いな」

「何言ってるのよ、これでも十二分に加減してるわ。敬愛する教授の手前。まして今は貴方と同じ共用語(イングリッシュ)。母国語で切り刻んで(話させて)たなら、今頃あんた涙とゲボに塗れて床に倒れ伏してるわよ」

「そういうこと平気で言うしさぁ……!」

 

 彼女と一度顔を合わせれば、もはや口戦は避けられない。叶うことならば、関わり合いを持たず、黙秘一辺倒を貫きたいが、殊、彼女を相手取る上でソレは愚策。腹を空かせた大蛇を前に、蛙のように身を縮めていては、瞬く間に彼女の腹の中(ペース)へと飲み込まれてしまう。

 故に今為すべきは専守防衛。彼女の口からマシンガンの如く放たれる口撃の数々を、どうにか急所に当てぬよういなし(・・・)、回避する。これまでの経験を経て身に付けた防護策。この遠い異国の地にて再会して以来、何故か目を付けられ。決して慣れたくはない、しかし既に恒例となってしまったやりとりに、白銀は辟易の想いで身を窶すのだった。

 

 

「こらこら。この研究室で肩を並べるもの同士、そんなに邪険にするものじゃないよ」

 

 見かねた教授の鶴の一声。決して大きくはない相変わらずの嗄れ声だったが、2人はピタリと口をとめた。

 共に尊敬する人の手前。しかしそれ以上に、彼が発した言葉、その真意に思うものがあったのだ。

 

 

「教授、それって……」

 

 驚き固まる二人の様子に、老教授は満足したように微笑むと、手にしていたA4用紙を差し出した。

 

「『ミユキ=シロガネ』ならびに『ベルトワーズ・べツィー』。

 君たち2名が将来我が研究室にて研学に励めるよう、学長に推薦状を出したところだ」

 

「「――」」

 

ヒュッ、息を飲む自身の声が聞こえる。十数秒と感じる驚愕と放心の末、真っ白になった頭は、やがて溢れんばかりの幸福に満たされていった。

 

 

「あ、ありがとうございます!」

「君は何度も此処を手伝いに来てくれたからね。うちの学生達からも推薦が挙がっていたんだよ」

「……わ、私はあんまり歓迎されてないと思っていたのだけど」

 

 湧き上がる喜びを抑えきれぬまま、老教授の皺がれた小さな両手を握っては、何度も握手を交わす白銀。対してべツィーの方は、未だ信じられないというように、難しい表情を浮かべていた。

 

「何でそう思うんだ?」

「それは……まあホラ。私、結構誰にでもズバズバ物申しちゃう方じゃない?一度熱くなると加減できないっていうか……実際、ここの院生(せいと)とも何度か口論になったことがあったわ」

 

 いつにもなく自信の無い声を零すべツィー。弱気、臆病とも映る彼女の姿に驚き目を丸くする白銀だったが、教授の方は変わらず柔らかい笑みを湛えていた。

 

「そんなことはない。君が持つ観察眼、相手の急所を的確に見抜き、論理の矛盾を突く力は私たちが立つ学会(セカイ)では、大きな武器になる。

 皆壇上に立ち、一度はその恐ろしさを味わっているからね。君から技術を学びたい者、競いたい者も大勢いるのさ。」

「……ふーん、そう」

 

 短く、それなら仕方ないとばかりに肩を竦めて見せる彼女。素っ気ない、無愛想とも見えるその姿だが、微かに覗くその口元は喜びに緩み綻んでいた。

 

 

「週末には正式な届けが着くだろう。

 …うん。今日はもういい時間だ。早く家に帰り、友人やご家族の方にこの知らせを伝えてきなさい。

 これまで支えてきてくれた感謝、そしてまだまだ此れからも世話になる奉謝を、決して忘れずにね」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 宵闇迫る紺色の空。遥か遠くに沈む茜の雲を仰ぎ見る。街灯(あかり)が点くのはもうそろそろか、ほんのりと暗がりに染まり、微かに枯葉舞うレンガの道を、二人肩を並べて歩いてく。

 

 

「良かったじゃない。念願叶った研究室に入れて。

 長い下働き(ごほうし)の苦労が、ようやく報われたところかしら?」

 

 僅かに先いくべツィーが振り返りもしないまま嘯く。相変わらずの憎まれ口に、またか、と言い返しそうになる白銀だが……やめた。

 彼女が敢えて挑発的な言動をとるのは、今に始まったことではない。何より彼女という人間は、そうすることでしか他者との会話を切り出せないということを、白銀は長い付き合いの中で学び知っていた。

 ああ、嬉しい気持ちは互いに同じだろうに、まったく素直ではない。

 

 

「何よ。溜息なんかついて。これでもちゃんと褒めてるのよ?わたし」

「褒める?ダウト(ウソだ)

真実(ビリーブ)、よ。だって貴方、大学(ここ)に来たばかりの頃は酷かったじゃないの」

「——……」

 

 近くに舞い落ちてきた枯れ葉を掴みとりながら、思い出すように呟くべツィー。

普段とは異なり、悪意も込められてない何気ない呟きだったにもかかわらず、その言葉は白銀の胸奥にズシリと響いた。

 

「……そんなに、だったか?」

「ええ、そうよ。正直はじめ顔を合わせた時、貴方だって気付かなかったくらいだもの。あの討論大会で私とやり合った気概なんて何処にも無い。死神の2、3匹でも背負い込んでるような顔だったわ。」

 

 そんなことはないと言い返そうとするも、意味がないことに気づく。

それは否定しようのない事実。変えようとも変えられない、自らの過去だからだ。

 

「ま、そんな姿を見てきたからね。よくもまあ今では学年主席(ワタシ)に追いつけたもんだと、素直に感心してるのよ。コレも、『彼女』のお陰ってやつ?」

「………」

「またダンマリ?これからは同じ研究室に通うんだから、もうちょっと愛想良くして欲しいわぁ」

「其れ、アンタが言うのか?」

「それもそうね」

 

 クックッと笑いながら、手で弄っていた枯葉を放り捨てるベツィー。それを合図としたように一斉に街灯が灯り、視界の奥に見慣れたバス停の姿を浮かび上がる。会話に想いを馳せている間に、知らず目的地に辿り着いていたようだ。

 

「私はこの後も講義があるから、此処でお別れね。あの子に、貸し一つって言っておいて」

「貸し?何のことだ?」

「言えばわかるわ。じゃあまた明日ね、ミユキ=シロガネ。」

「―—ああ。また明日」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 バスに揺られながら、窓外の移りゆく景色を眺め見る。

完全に日が落ちた後でも、大学内はまだ明かりと活気に満ち満ちている。

 

 そも敷地面積だけでも東京都を悠に越える広さを誇るこの大学。キャンパス内には大型ショッピングモールを始めとした日常百貨店も立ち並び、学内で消費する電力を独自に賄うための電力発電所まで備えているのだ。まさに生活基盤を内包した一個として機能する都市。未知への探求と技術の革新を目指し、世界中から集まった人、機材、その叡智の粋をもって日夜挑戦が為される研究機関。それこそが此処、スタンフォード大学という場所なのである。

 

 大学敷地内にある学生寮に着くまでの約20分。家路につく安堵感や未だ冷めやらぬ歓喜と興奮など、白銀は胸の内で沸き立つ様々な感情を味わいながら、遠く窓の外に見える列棟の明かりを景観していた。

 

 

『だって貴方、大学(ここ)に来たばかりの頃は酷かったじゃない』

 

「ああ……そうだな。」

 

 耳に残る彼女の言葉に、一人ごちる。

故郷から遠く離れ、このあまりにも広大で荘厳な街にて、独り暮らすことになった自分。

その圧倒的な規模(スケール)、意識の懸隔、文化の違い(カルチャーショック)など。襲い掛かる緊張と不安に、心が押し潰されそうになったのは一度や二度ではなかった。

 

 そんな始まりだった。

 そんな……竦むことしか出来なかった自分が、尚も此処まで走り続けて来れたのは

 また、以前と同じように己に自信を持つことが出来たのは

 

 

『コレも、『彼女』のお陰ってやつ?』

 

 

 ハッ、と。浮かんだその横顔に、急いで携帯をポケットから取り出す。

かねてより希望であった研究室への配属が決まったこと。今まで努力してきた成果がようやく形になったこと。

その喜ばしきニュースを、彼女にも伝えなくてはと思ったのだ。

 

 開いたメール画面に、指は滑るように文章を刻んでいく。いいや、少し震えているだろうか?どうやら思う以上に、自分は喜びを抑えられないようだ。

 

 

夢が叶ったことにだけではない。

此の報告を彼女に出来ること。

其の幸福を共に分かち合えること。

 

ああ、彼女はいったいどんな顔で、自分を迎えてくれるだろうと

 

 

「———……」

 

 メールの文章も打ち終わり、後は送信ボタンを押すだけというところ。しかし、後それだけというところで、ピタリと指が止まった。

 

 胸の中に微かに芽生えたイタズラ心。サプライズを行いたいと思う気持ちが無かったわけではない。

 ただそう、何となく。彼女と面と向かわずして。こんなメール一つで今までの感謝を伝えるのは、『間違いだ』と思えたのだ。

 

 

(ほんと。我ながら、なんて)

 

 自嘲と共に溢れる懐かしい記憶。3年前。まだ日本にいた頃。

あの輝かしき思い出の中で言われた……決して言われたく無かった あの少女の言葉が、耳に蘇るようだった。

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 バスを降りたのち少し歩いたら、生徒たちが住まう学生寮一帯が見えてきた。

一言に学生寮といってもその様式は多数有り、此処いら一帯は、学内でも高位の成績を修めた者のみが住むことが許される特別待遇区域だ。

 通常の寮がマンション状の建物であるのに対し、此処では少し大きめのバンガローが一定間隔で並んでおり、間には遮光・景観用の木々も植えてある。それら一件一件の戸帯が丸々学生に与えられ(2〜3人でルームシェアすることを義務付けられているものの)、おまけにマイカー駐車用の小さな庭まで備え付けられているのだから、改めて日本とのスケールの違いに驚愕させられる。

 

 白銀が此処に住めるのは、秀知院学園時代に生徒会会長を就任したことで得た『秀知院理事会推薦状』のおかげである。

遠い此の地においても、彼の学園が持つ権力(ちから)は大きく、白銀は寮費半額免除、光熱費水道代無料という破格の条件に寮に暮らし住んでいた。

 

 実家を後ろ盾にするわけにもいかず、資金面での不安も大きかった白銀としては正に渡りに船。

これ以上ないというほど良質の生活環境を持ったわけだが……しかし同時に。だからこそ得た苦悩というものもあったのだ。

 

 

 

「———?」

 

 自宅である17番バンガロー。憩いの我が家まであと数メートルというところで、違和感を覚える。

部屋の明かりがもう点いている。家の扉前に立てば、美味しそうな料理の香りも。

 

 その正体に心当たりがないわけではない。真っ先に浮かぶのは『彼女』の姿だ。

しかし……はて?『彼女』は、講義で帰りが遅くなるはず。だからこそ急いで家に帰り、サプライズパーティーの準備をしようと息巻いていたのだが……

 

 鍵を開けて家の中に入れば、より一層濃い料理の香りが鼻と腹の中をくすぐる。その中には牡蠣フライといった白銀の好物も混ざっていた。

 荷物を抱えたまま、白銀が玄関で立ち尽くしていると、奥からパタパタと聴き慣れた足音が近づいてくる。

 

 

「おかえりなさい、御行くん。どうしたんです固まって。

 ……ああ それとも、『おめでとう』の方が良かったですか?」

 

 腰にかけたエプロンで手を拭きながら、悪戯混じりの笑顔ではにかむ少女。

 いいや、この国では互いにもう成人しているのだから、『少女』と言うのは語弊があるのだろうが……それでも、そのいつまでも変わらない麗しさ。少し幼さを残した名前通りの愛らしさには、やはり可憐な少女であると言い得てしまうのだ。

 

 

「今日は遅くなるんじゃなかったのか?」

「出張先の空港で、天候不良により飛行機が足止め。教授の到着が間に合わなくなったとかで、急遽自習に変わったんですよ。……でも代わりの講師もいない。レポートも出ない。ただ90分椅子に座って自習するだけの授業に、わざわざ顔を出す必要はないでしょう?だから出席の代筆だけはべツィーに任せて、先に帰ってきたんです」

 

 フライ返しを片手に臆面もなくシレッと言ってのける彼女。同時に蘇るベツィーの言葉。

 

「貸しっていうのはそういうことか……。不良生徒は、演技だったんじゃないのか?」

「楽できるところは楽すべき。楽しむべきところは楽しむべき、でしょう?むしろ御行くん(あなた)はいつまで経っても真面目すぎるんですよ」

 

 

 少しだけ怒ったような口調に、ああと納得する。べツィーと話したということ。何よりこの様子では、件の報告のことも既に知られてしまっているのだろう。

むしろ何で一番に連絡をくれなかったのか、とヘソを曲げているに違いない。

 

 そうだった。自分が彼女に悪戯を仕掛けようとして、上手くいった試しなど一度とて無いのだ。

 

 

「それよりも、です。帰ってきたなら、先ず言うことがあるんじゃないですか?」

「……ああ、そうだな」

 

 肩まで伸ばした長い髪を揺らし、どこか期待に満ちた表情で囁く少女。その姿に、白銀はこの3年間、もはや何度言い続けてきたかもわからない言葉を呟く。

 

 

「————ただいま。早坂」

「はい。おかえりなさい、御行くん」

 

 

 そうして彼女は、白銀が抱いたどんな笑顔よりも眩しく美しい、大輪のような華を咲かせるのだっだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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再開

 

 それは、およそ3年前。

 白銀御行がスタンフォードの地に来て、2ヶ月の時が経とうとする頃。

 

 

「…ぅ――?」

 

 深い泥の底から這い上がるように、暗濁に沈んだ意識が目を覚ます。肩に奔る鈍い痛み。頬に食い込む硬い本の背表紙。どうやら椅子に座ったまま、机に突っ伏して眠っていたようだ。

 妙に軋む体と、再び眠りへと誘わんとする茹だるような倦怠感を振り払いながら、白銀は大きく背を伸ばした。

 

 同時に「ああ、くそっ」と漏れ出る苦悶。

 午後10時、記憶より2つも進んでしまった時計の針。何より、机の上に広がったルーズリーフ、その叙々にミミズののたくった字へと変貌していく自身の筆跡に苛立ちが募る。

 

 いったい何を眠りこけているか。

 そんな余裕など何処にも無いというのに。

 

 湧き立つ怒りのままに消しゴムを取り出せば、その際に触れたシャープペンの一本がコロコロと転がり、床へと落ちる。カシャン――と。音は家全体に木霊するように、ヤケに大きく響き渡った。

 

 元々は2、3人での使用(ルームシェア)を目的とした家屋。4LDKの2階建。およそ学生一人が暮らすには広すぎる。こと、幼少より極狭のアパートで過ごしてきた白銀にとっては持て余すしかない空間だ。リビング以外の照明は全て落とされ、ただ暗闇が続く廊下に、白銀は言いようの無い孤独感を覚えた。

 

 ああ。家にいた頃はあんなにも煩わしく感じた父と妹の生活音。ずっと、一人だけの部屋が欲しいと夢見ていたのに、いざ手に入れて心に芽生えたのは、紛れもない寂しさ。

 

 ふと、机の上に置いた携帯に目を移せば、何件かの未読メッセージが入っていた。

 その殆どが妹の圭ちゃんから。離れて暮らすようになって以来、頻繁にメールを遣すようになった彼女。内容としては酷く素っ気なく、飢えて死んでないかだの、いい加減彼女出来たかだの。どちらかというと親が送ってきそうな文言であるが、そこからは彼女らしい、少し捻くれた親愛が伝わってくる。対して実の父親の方はといえば、渡米以来ぷっつりと連絡が途絶え、相変わらず何を考えているのやら。

 

 過去の会話(メール)を見て、自然と頬が緩む反面、チクリと胸の奥に痛みが奔る。そのメールに対する自身の返信。大丈夫だと。心配いらないと。逐一返す言葉の一つ一つが余りに頼り無く見えた。

 それが虚勢であると分かっているから。自身の現状が、決して誇れるものではないと知っているから。

 

 

(……ああ、そうだ)

 

 頬を両手で叩いては、机に向き直る。胸の内で燻る焦りを無理矢理気合へと移し変える。

 自分は家族をおいてまで、この違い地にやって来たのだ。ならば、しっかりしなくては。こんなところで立ち止まっている時間など無いはずだ。

 

 大学(ここ)での生活が始まって早2ヶ月。その間にもいったいどれほどのハンデを背負ってしまったか。

 

 

 大学講義における予習の重要性は、高等教育のソレとは比較にならない。

 講義を執り行う講師。すなわち各専門分野における教授・准教授等は、各々が究めるべき研究課題を持ち、日夜、学会発表に向けての研究に勤しんでいる。中には企業と合同で開発を行う者もおり……悪い言い方をすれば、あくまで研究が主であり、生徒に教えることを本職とはしていない(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。生徒の自主的な学習こそを求める環境となっている。

 

 使用するテキストも『教科書』ではなく、『参考書』を用いることが多い。公式の基本を学び、練習と実技を重ね、最後に応用問題を解く――そういった学習のための順序を踏まえたものではない。あくまで使用する公式を抜粋するために用いる資料。

 その公式をどのように証明するのか。どんな場面で使用するのかはテキストには記載されておらず、ただその本一冊読むだけでは学習に足らない。

 誰の言葉であったか、配られるテキストはあくまで参考書、本当の教科書は自らノートに記し作っていくものなのだと。

 

 しかし現実問題として、授業中、何の予備知識もないまま説明を受けて、ソレを一度で全て理解できるかと言えば難しい話である。

 矢継ぎ早に書いては消される黒板。ソレらをノートに写しながら、同時に講師の説明を一度で全て理解する。そんな目と耳と手と頭のフル活用が一講義あたり90分も続くのだ。その講義とて日に最高5回はある。とても、予習無しにはやっていけない。

 

 加えて、ここはスタンフォード。扱うテキストは当然全て英語で記されている。講師による説明も、自ら提出するレポートも、全てが英語によって為される。留学生である白銀がどれほどのハンデを背負っているかは、語るまでも無いこと。

 

 

 いいや、そんな事は言い訳にならない

 

 膨大に熟すべき修文も。異国語による学習も。全ては秀知院学園時代に既に経験してきた事だ。以前と同じ気概で励んだなら、決して乗り越えられない苦難ではなかった。

 そう。あの頃と同じ気持ちで、いられたなら

 

(………な)

 

 そもそもこんな予習など、講義が本格的に始まる1ヶ月までには全て終わらせておくべきこと。テキストの翻訳、内容の全把握。そう出来るだけの時間もあった筈だ。

 けれど、しなかった。出来なかった。

そうするだけの気力を、どうしても持つ事ができなかった。

 

(考えるな)

 

 邪念を打ち払うように一心不乱にペンを走らせる。重い瞼を擦り、痛む指をなお動かし続ける。

 そうだ。それが常だった。自分は秀知院の頂点に立つには、この痛みに耐えるしかなかった。

 ……けれど、そうするほどに。迷いを振り払おうと足掻くほどに、粘つくような黒い感情が胸の底から湧き上がってくる。

 

 苦しい。

 止めてしまいたい。

 どうしてこんな苦労を背負う。

 どんな代償をはらったところで、本当に望むものは手に入らないというのに

 

 

「考えるな……!」

 

 

 ガリガリと、ペンの音が響く。やけに大きく。耳障りとも思える静寂の中で。

 

 

 嗚呼、どうして。

 

 どうして自分は一人、この場所(スタンフォード)にいるのだろう。

 こんな筈ではなかった。

 広すぎる家。隣には、君がいる筈だった。

 

 今まで自分が頑張って来られたのは――

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

 深い深い、微睡の淵へと落ちていく。

光も届かぬ墨色の湖中。体躯は鉛のように重く、波に弄ばれるまま、暗い暗い追憶の彼方へと流されていく。

 

 暗がりの中に浮かぶぼんやりとした光。溶けた砂の輪郭が蘇り、遠い彼方の記憶を呼び起こす。

思い出したくもない記憶。消してしまいたい過去を。

 

 

 ――今や懐かしい秀知院学園の校門前で、男女が向き合っている。

 夕暮れ時だというのに周囲は薄暗く、空には厚い雨雲、木枯し舞い飛ぶ冷たい風が吹き荒んでいる。

 背まで伸ばした長い黒髪を靡かせ、静かに佇む少女。秀知院学園の制服では無い。まるで天上の衣と思わせる程、美しい着物を身に纏って。浮かぶ表情は氷のように冷たく、交わす言葉さえも無い。髪間に覗く赤い瞳が、ただただ無情に自分を射貫くばかり。

 

 

(ああ――)

 

 どうして、と。また同じ疑問が湧き上がる。

 

 どうして君は、そんな目を向けるのだろう。

 どうして君は、何も答えてはくれないのだろう。

 

 まるで出会う以前。氷と呼ばれていた頃の彼女に戻ってしまったかのよう。

 背後には、いつもの小洒落た装いの近従(しょうじょ)の姿は無い。代わりに在るのは、漆黒のスーツを纏った幾人もの大人達。いつか彼女自身が語った……怖いと囁いていた、四宮家本邸の使用人達。

 

 

『――……』

 

 疑問は解けぬまま、言葉も見つけられずにいる自分を前に、ゆっくりと彼女が口を開く。

 

 

(――嫌だ。)

 

 心が悲鳴を上げる。

 聞きたく無い、耳を塞いでしまいたい。

 その結末(こたえ)を、自分はもう知っているから。

 

 それでも動かない手足。心に巣食う微かな妄念が、この場を離れること許さない。

変わらない結果と分かっていても、その続きを。あったかもしれない、別の結末を期待してしまう。

 

それでも

 

 

『ごめんなさい』

 

 

 音は遠く、世界が色をなくしていく。

疑問も、期待も、願望も、恋情も。全てが消し去られてしまうかのように、真っ白に塗り染められていく。

 

 

『待っ――!』

 

 呼びかける声に一瞥も残さず、一抹の憂いさえ無い表情(カオ)で去っていく彼女。その背を追う白銀に、立ち塞がるように並ぶ黒服の執事達。彼女の向かう先。校門前に停まったリムジンでは、何処かで見た着物姿の老人が待っている。あれは四宮の――

 

(……まるで かぐや姫伝説が蘇ったかのよう)

 

 天界の羽衣を着せられたかぐや姫は、人の心を無くし、地上への想いも無くして、月の世界へと帰っていく。穢れや人心の蔓延る地上の世界(秀知院)を捨て、何人も手の届くことはない、天上(四宮)の世界へと。

 

 それが彼女を見た最後の姿。以来、彼女は秀知院学園を去り……生徒会を始め、唯一の親友だった藤原書記の前にさえ、姿を表さなくなった。

 

 

 あるいは何かが違っていたら

 あるいは、彼女の背に手を伸ばせていたなら

 

 もっと違う、別の未来を歩めていたのだろうか

 

 わからない。

 わからなくとも――そう願わずにはいられない。

 

 幾つもの疑問。

 幾つもの無念。

 数えきれぬを悔恨を抱えたまま。

 

 

 俺の初恋は、終わってしまのだ。

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 耳に微かに届く、鳥の囀りに目を覚ます。

と同時に感じる肩の痛み。またも額に食い込みくっきりと痕を残している本の背表紙。ああ、どうやらまたしても自分は机で眠りこけてしまったようだ。思えばここ数日、勉強への焦りでまともにベッドで眠った記憶がない。鏡を見るまでもなく、目の下には大きな隈が残っていることだろう。

 アメリカ(ここ)で目つきが悪いのは、要らぬ問題に発展する危険があるのだが……幸い今日は日曜日。誰とも会う予定はない。何とかこの土日を勉強に費やし、遅れを取り戻したいところ。

 

「……はぁ」

 

 机に広がるルーズリーフに思わず落胆の息が溢れる。当初予定した進捗の半分も進んでいない。昨日1日机に向かっていたのに、これほどしか進んでいないとは。

 やはり気概が足りていない。途中で眠りに落ちてしまうこと自体、高校時代からでは考えられない。自宅での勉強にしろ、大学での講義にしろ、どうしても集中する事ができずにいる。

 嗚呼、本当にどうして

 

 

『ごめんなさい』

 

「………」

 

 

 考えたところで、分かり切った問いなのだと気づく。

 そう、当然の帰結なのだ。今まで自分が頑張って来たのは。どんなに苦しくとも歯を食い縛って耐えて来られたのは

 四宮。

 君に追いつきたい。君の隣に立っていたいと、願い、努力してきたから。

 

 けれど君を失って。

 手を伸ばしたところで届かない。努力など何の意味もなかったのだと思い知されたまま、こんな地にまで独り来て……

 

 以前と同じような自身を。七難八苦に挑めるだけの気概を、抱けるもはずがなかった。

 

 

(まるで魔法が解けてしまったよう)

 

 今の自分は秀知院に入学した頃と同じ。腐り、淀み、無力を感じることしか出来ない。けれど今は、それこそが本来の自分であったとさえ思えてしまう。

 四宮を追いかけていた頃。過去の栄光。それは自分の姿なのに……いいや、かつての己だからこそ、あまりにも眩しく、疎ましく思えた。

 

 あるいは蓬莱の薬でも残してくれたのなら、一抹の希望もあったのかもしれない。

 今はただ――世界の全てが色あせて見える。

 

 

 

(ああ、それでも)

 

 それでも現実は待ってはくれない。時間は感傷の暇など許さず、ただただ平等に、無情に流れていく。どんなに辛い過去があろうとも、己の人生を放棄しない限り、人は今という時間に向き合っていく他ないのだ。

 

 重い思考。世界は酷く色褪せて見えるのは変わらない。

 胸に鈍い痛みが巣食っていくのを感じながら、白銀は再びペンを握るのだった。

 

 

 

 だが、そんなとき

 

「――? チャイム?」

 

玄関から響いてきた音に首を傾げる。郵便だろうか?しかし届け物なら寮が管轄する宅配ボックスに預ける決まりの筈。

 訝しげに思いながらも、机から立ち上がる白銀。その際、ふと壁にかかったカレンダーが目に写り込む。

 

 ……待て。今日は何月何日だ?

 

 背筋に走った悪寒に突き動かされるまま、慌ててテキストに埋れていたスケジュール帳を引っ張り出す。そこに記されていた内容に益々と顔を青くした。

 

 

『入寮希望者訪問日』

 

 

 ――拙い。完全に失念していた。

 ああ信じられない。どんなに切羽詰まっていようとスケジュール管理だけは疎かにしなかった自分が、こんな初歩にも劣るミスをやらかすなど。

 

 そんなにも自分は追い込まれていたのか。日にちを確認する余裕も無いほどに。

 改めて見る自身の惨状に、僅かに残った自信さえ失ってしまいそうだった。

 

 いや、落ち込むより先ずは――

 

 重い体に鞭打ってインターフォンの前にまで走り寄る白銀。その間にも二度、三度と、かなりのスパンで鳴り響く呼び鈴に、待たされて相当怒っているようだと冷や汗が浮かぶ。

 いったいどんな人だろうと来客用カメラを覗き込み

 

 

「は――?」

 

 思考が止まる。あまりにも大きな衝撃。あまりにも多くの疑問に頭を横殴りにされたかのような。

 目に貯め込んだ隈の事も忘れ、気づけば白銀はバタバタと玄関へと走り出していた。

 

 

 

 ガチャンと勢い良く引き開けた扉に、待っていた少女は驚いたような表情で固まっていた。もっとも、自分はその何倍も驚いた顔だっただろう。

 

 

「なんで、アンタが」

 

 白銀の顔を認めるや、安心したように笑みを溢す少女。懐かしも見慣れた翠色の瞳。朝陽に煌く美しい金の髪。

 

 

「はい……久しぶり、ですね。御行くん」

 

 褪せた世界が無理やり色を取り戻したかのような、そんな衝撃。

 

 四宮家近従、早坂愛が其処に立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




クリスマスにこんな失恋話投稿するとか……あっ(察し)


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蓬莱の薬

 

 

 トントントン、と小気味のいい音が響く。角切りにされた豆腐に芳しい葱の香り。作っているのは大根の味噌汁だろうか、優しく懐かしい故郷の香りに知らず胸が安らいでいくのを感じる。対して、その目に飛び込んでくるのは、なんとも不思議な光景。

 淡い水色のエプロンを身につけ、肩まで降ろした金糸の髪を揺らしながら、キッチンで調理に勤しむ早坂。手際に迷いはなく一品また一品と瞬く間に料理が手掛けられていく。

 

「嫌いな食べ物は特になかったですよね?」

「あ、ああ……」

 

 振り返りもせず投げかけられた問いに、若干尻込しつつ答える白銀。嗅覚の安心感と視覚の違和感が半端ない。この2ヶ月かけて少しづつ見慣れてきた筈の台所が、全くの別世界に見えた。

 ほんとうに……どうしてこんな事になったのか

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第3話 『蓬莱の薬』

 

 

 

 

 

 

「久しぶりですね。御行くん」

「アンタ、なんで……」

 

 まだ陽も登りやらぬ藍色の空の下、玄関先で佇む一人の少女。忘れ得ないその姿に幾つもの疑問が頭を飛び交い、言葉を惑わせる。記憶にある着崩した格好では無く、淡色のトレンチコートに純白のカーディガンと落ち着いた装い。小洒落たギャル姿が印象深かっただけに、今の彼女はとても大人びて見えた。

 

 何処か潤んだ瞳で微笑んでいた早坂だが、しかし何かに気づいたようにぴくりと眉を顰める。

 

「少し……やつれましたか?」

「い、いや…」

 

 近づけられた顔に、頬が熱くなるのを感じ、咄嗟に手で隠す。恥ずかしさ以上に胸を占める後ろめたさ。見知った彼女に今の自分の惨状を知られるのが、どうしようも無く心疚しく思えたのだ。

 

「『どうしてお前(わたし)が此処に』。そんな顔ですね」

「あ、ああ」

「…心配だったからでは、ダメですか?」

「なに?」

 

 思わず怪訝の声を上げる白銀。深く顰めた顔に浮かび上がるのは、濃い懐疑の色。微かに目を細めた早坂は、なおも変わらぬ口調で続ける。

 

「圭から相談を受けたんですよ。『お兄ぃの様子がおかしい』って。あまり大学(こちら)での生活を話したがらないし、メールの返事も強がりばかりだと」

「圭ちゃん、が?」

「兄妹ですからね。きっと、勘付くものがあったんでしょう」

 

 圭ちゃんと早坂に繋がりがあったこともそうだが、あの妹が其処まで自分を気にかけてくれていたとは。情けないと思う反面、不思議と安堵している自分がいる。家族への隠し事を続けるというのは思う以上に苦しかったようだ。

 

「……。圭ちゃんの相談に乗ってくれたことは感謝する。だが、だからってアンタが此処に来ることはないだろう。それに『入寮希望』だって?まさかスタンフォードに入るのか」

 

彼女がどんな人間であるか、どれほど忙しい身の上かは知っている。それが、こんな遠い地にまで。心配だからと、そんな親切心一つで足を運ぶとは到底思えなかったのだ。ましてや自分なんかのために。

 その手にさげた巨大なトランクと、背後に並ぶ台車積みの段ボール群。それが一泊そこらの荷物量でないことは明白だ。

 

 本当になにを考えているのか。

未だ解かれない疑いの視線に、少女は一瞬顔を伏せると、はぁ、と大きく溜息を吐いた。

 

 

「まあ……そうですね。確かに心配だったというのは建前。此処にきた理由は別にあります。ただ、ソレを玄関(ここ)で話すと長くなるので……」

 

 外は寒いとばかりに体を抱きしめ大袈裟に身を震わせては、チラリと屋内を流し見る早坂。

 

 

「先ずは朝ごはんにしませんか?入寮挨拶も兼ねて手料理、ご馳走しますよ」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 部屋に荷物を運び入れること数十分、ようやく終わった積入れ作業に額の汗を拭う。

 あの後ポツポツと降り出した雨空の下、玄関先で野晒しになっている大量の段ボールを放っておくこともできず、渋々と手伝いを買い出た白銀。だが量もさる事ながら、中には腰が曲がりそうなほど重い物も有り、かなりの重労働を極めた。

 

 荷物を運び終え、いざ報告をしようと居間に顔を出せば、其処にはエプロンの姿で料理に勤しむ早坂の姿。準備が良いというか、仕事が早いというか、体良く荷運びに利用されたようでちょっと釈然としない気持ちだ。足元には開封されたばかりの段ボール。中からは日本米やら味噌やらが顔を覗かせ、なるほど重たいのも納得であった。

 テーブルの上に用意されていた日本茶を啜りつつ、彼女の後ろ姿をなんとなしに眺める。不意にざわりと、胸奥で疼く妙な既視感を覚えながら。

 

「正直に言うと、今の私はそれほど忙しい身では無いんです。かぐや様が本家に戻られて以来、私たち早坂家の人間を始め、別邸の使用人達はその任を解かれました」

 

 魚の皮が焼けるパチパチという音。長い菜箸に指揮されフライパンの上を踊る野菜たち。

 料理に目を向けたまま振り返る事もなく呟く早坂、その口からさらりと飛び出た名前に、白銀は心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。

「四宮は……それから?」

「雁雄様と共に京都に戻られて、今は次期当主となるべく学習の真っ最中、だそうです。仔細はわかりません。私にとっても、あまりに突然のことだったので」

 

 普段と変わらぬ口調(トーン)で答える早坂。しかしだからこそだろうか、その小さな背中には隠しきれぬ失意と落胆が浮かんで見えた。

あの思い出したくもない記憶。校門での別離。

彼女も――同じような終わりを突き付けられたのだろうか。

 

「私は四宮家近従として、別の主人に仕える道もありました。けれど、かぐや様と過ごした十余年を忘れ、今更別の人に従いたいだなんて思えません。……ですから暫くお休みをいただいて、今までできなかった、やりたい事をこの機にやってみようかと」

「やりたい、こと?スタンフォード(ここ)でか」

「はい。私の趣味は知っているでしょう?」

 

 趣味……。確か初めて出会った時にはパソコン関係の本を買い漁っていたり、自作したデスクトップPCの性能を得意気に語っていたこともあった。

 

 スタンフォード大学は、名だたる著名人を世界に輩出してきた学校だ。電子決済サービスの走りであるPayPalの開発者『ピーター・ティール』。世界的有名検索エンジンGoogleの創設者の一人『ラリー・ペイジ』。かの『スティーブ・ジョブズ』も本校で講演を行い、以降はその影響で入学希望者が倍増したという一種メッカとも呼べる場所。彼女が電子工学の道を希望するなら、これ以上はない大学ではあるが……

 

 本当にそうなのだろうか。大学の選択。進学という道を選ぶこと自体も、将来を決定しうる重要な分岐点だ。それをこんな思い付きで。その場のノリのような勢いで決めつけても良いのだろうか。

 

「そもそもの話、よくスタンフォードに合格できたな。推薦か?」

「いえ、合格してませんよ?」

「……はい?」

「飛び級した御行くんとは違うんですから。私の受験はこれから。一般枠ですけど」

「はぁ!?大丈夫なのかソレ!?」

 

 毎年超々高倍率。全国の天才達が集うスタンフォードの受験難度は半端では無い。秀知院の推薦状が無ければ、白銀でさえ合格は五分といった所だろう。合否基準には試験当日の成績だけでなく、全国模試の結果や普段からの素行も審査される。秀知院での記憶を思い出す限り、早坂の成績ではとても――

 

「ああ、ソレについてはご安心を」

 

 ふふん♪と若干得意げに笑みを零しては、テーブルの上に置かれた青封筒を指差す早坂。それは白銀にとっても懐かしい、全国模試の結果郵送に用いられる封筒だった。促されるままに中を見てみれば、数枚の用紙がパラパラと

 

 

秀知院学園 学期末試験  一位 早坂愛

全国統一模擬試験    一位 早坂愛

 

 

「はぁ!?コレ、おまっ、はぁー!?」

「落ち着いてください。そんなに不思議なことでは無いでしょう。今までは、かぐや様の近従として目立たぬよう故意に成績を落としていたのですから。御行くんとかぐや様が去った今、私が本気を出しさえすれば、こんなものです」

「いや、だからって……帝は!?四条帝はどうした!?」

 

 あの高偏差値を誇る秀知院で毎年同じ順位を取るという離れ業を駆使していた彼女。その実力を疑う訳では無いが、それでも、どれほど刻苦と研鑽を重ねようと決して届かなかった彼の帝王までも易々と越えられてしまったと思うと、心穏やかではいられない。

 

 その問いに対して、早坂は何故か表情を暗くすると

 

「帝、というより四条家のお二人については、今回軒並み成績を落としています」

「一体何が……まさか毒を」

「私を一体なんだと思ってるんですか。そんなこと滅多にしません」

 

 完全には否定しないのか。そう言えば、自分も珈琲をノンカフェインにすり替えられ昏倒(ばくすい)すること何度か。彼女自身が告白してくれなかったら一生知らぬままだったというのが空恐ろしい。

 

「それに毒を盛ったというのなら、私ではなく御行くんの方です。それもとんでもなくタチの悪い毒を」

「……?どういう?」

「今回成績を落としたのは四条家の御二方。加えて柏木渚、田沼翼の計4名。むしろ騒動(スキャンダル)の中心は後の二人です。クリスマスからの日数をして隠し通すのも限界。そして其れが発覚して一番傷つく(パニくる)のは誰か……。ここまで言えば、もうお分かりでしょう」

「……ま、まさか」

 

 白銀の頭の中で組み立てられていく方程式。

 

 毒×壁ダァン = クリスマス×神ってる2人 = ……

 

 

「いやいやいや、何してんのあの人達!?」

「経済連理事の孫にして国内有力造船企業の1人娘が学生妊娠とか、芸能界顔負けの衝撃報道ですよ。なんか何処かで見た偉いお医者さんまで学園に土下座しに来るし……。以来、真紀さんは事あるごとに泣き始める情緒不安定ぶり。帝くんはそのお守りで完全にとばっちりですね。正直、模試どころの騒ぎではないです」

「そ、そんな。そんなことが……」

「学園としても風紀のあり方が問題視され、校長がPTAの前で謝罪(平謝り)を……まあそれはいいです。問題はその混乱に乗じて、あの藤原千花が生徒会選挙に台頭し、父親譲りの政治的根回しでそのまま生徒会長に就任。部活連予算会議を掻き混ぜ、暫くTG部が部活動カースト一位になるという暗黒の時代が続きました」

「アイツもアイツで何やってんの?」

「まぁその後は、現代に蘇ったジャンヌ・ダルクこと『伊井野ミコ』と、ジル・ド・レェこと『石上優』の2人により王政打倒が行われ、抵抗虚しく、往生際の悪さ甚だしく、最後には情け容赦無い(言葉の)ボディブロー連打により地に斃れ伏しました。なお本人曰く『白銀会長亡きあと、2人が秀知院が背負うに足るか試すための礎になったの……』と」

「まだ自ら殴られに行くのか」

「現在は変わらず生徒会書記として、新規メンバーの不知火衣ちゃんにこき使われながらも政務に励んでますよ」

 

 なんでそんな面白おかしなことになっているのかとか、石上は配役的に闇堕ち確定なんだけど大丈夫かとか、ツッコミ所は大量にあるものの、何だかんだと上手くやれていることにホッと胸を撫でおろす。思えば、最近は忙しさにかまけて碌に連絡も取れていなかった。

 

 

「とまあ話は逸れましたが、要するに私は一受験生。今回模試の結果が良かったのは運に助けられた要素が多く、地の学力では御行くんに遠く及びませんし、スタンフォードに合格できるとも思えません。私はまだまだ勉学が必要な身。ですので、貴方には私がスタンフォードに合格するまでの間、勉強を訓えて頂く講師の役をお願いしたいのです」

「……」

 

長い、沈黙。額を手で押さえた白銀は絞り出すような声で問うた。

 

「……本気で、言っているわけじゃないよな?」

「残念ながら、今回ばかりは真面目です。そのかわりといっては何ですが、私はルームメイトとして、炊事、掃除、家事全般など身の回りのお世話をさせていただきます。四宮家近従が誇る最上級の給仕を受けれるんですから、悪い話では無いと思いますよ?」

「いやいやいや」

 

 襲い来る眩暈のようなものに益々と額を押さえ込む白銀。

 彼女はいったい何を言っているのか。そも年若い男女が同じ屋根の下で暮らすこと自体問題だろうに。今は、自身のことに手いっぱいだし、誰かに勉強を教える余裕もない。家事だって別に不慣れなわけではないのだから、十分に事足りている。

 何より、早坂は彼女の関係者……これ以上、悩みの種を増やしてほしくはなかった。

 

「悪いがその申し出は」

「はい、お待たせしました。日本食は久しぶりですよね?」

「……」

 

 受けられない、そう返そうと開いた口を遮るかの如く、コトンッと目の前に置かれる白い皿。じっとりとした抗議の視線などどこ吹く風、早坂は鼻歌交じりに次々と料理をテーブルに並べ、最後には急須でこぽこぽとお茶を注ぎ始める始末。

 悪びれた様子も、取り付く島さえも無い様に、溜息混じりにテーブルに目を落とせば、今しがた運ばれてきた出来立ての料理が並んでいる。ほわほわと湯気の登る純白のうるち米。淡い香りの漂う大根の味噌汁。瑞々しい肌の冷奴。ほうれん草の胡麻和えに、主菜の鯖の照り焼き。刻んだオクラと共に混ぜられているのは、この地では拝むことすら難しいネバ納豆。

 

 朝食にしてはちょっと量多めだが、日本の食卓では極平凡な一般家庭料理といえる。しかし、この国においてはどれ一つとして手に入れることの叶わない、白銀が恋焦がれてやまなかった郷土料理の姿そのもの。

 知らず、ごくりと鳴る喉。白米から登る甘い香り。あれほどまでに恋焦がれた、泣きたくなるほど懐かしい匂いに、彼女の申し出を断ろうとしていた仄暗い意志さえ遠く忘れてしまいそうだった。

 

「どうぞ召し上がってください。使っている野菜も……北海道にいる貴方のお爺さん達が育てたもの。貴方に故郷の味を届けてほしい。その願いを叶えるために、圭から譲り受けたものです」

 

 中々箸を取ろうとしない自分に、ダメ押しのような一言。

 ああ、くそ。やはり彼女には解っているのだ。自分が家族という存在にどれだけ弱いかを。

胸にざわつく既視感の正体――幼いころよりずっと一人で料理を作ってきた自分にとって、誰かに朝食を作って貰うということが、どれ程の意味を持つかも。

 

「……いただきます」

「はい、いただきます」

 

 声は低く、仏頂面で手を合わせる白銀。傍目から見れば酷く不機嫌そうな態度だが、それでも早坂はくすくすととても嬉しそうに笑い、同じように手を合わせるのだった。

 

 炊き立てのご飯を箸で一掬い。溢さぬようゆっくり口に運べば、舌に広がるその甘さに驚愕する。食べ慣れていた頃では気付けなかった、当たり前すぎて忘れていた白米特有の旨味。噛めば噛むほど甘みはまして行き、箸の手は止まらず一口、また一口と、気が付けば茶碗7割を平らげてしまっていた。味噌汁に口をつければ甘辛くも優しい味が舌に染み渡り。程よい焦げ目のついた皮、脂の乗った鯖を箸で突つけばそれだけでホロホロと身をほぐす。

 

「ああーー美味い」

 

 口から溢れる心からの言葉。何度も調理を重ね、何度再現を試みても叶わなかった故郷の味。

食材の違い。風味の違い。毎日の食事のなか感じる違和感の積み重なりが、知らず心にしこり(・・・)を残していた。憩いの場である筈の家に帰ってきても、遠い異国の地であることに変わらない。此処はお前の居るべき場所ではないのだと、訴えかけられているよう。 

 嗚呼、だからこそ、一口ごとに胸に溢れる安堵。全てが懐かしく、あたたかい。

まるで本当に故郷に帰ってきたこのようで……

 

「——っ」

 

 不意に、瞳が熱を帯びるのを感じ、慌てて隠す。

こんな、料理を食べただけで涙を流す姿など、向かいに座る彼女に見られたくなかった。知られたくは無かった。

自分が、こんな弱くなっていたことなどーー

 

「笑ったりなんか、しませんよ」

「…?」

「遊びのない内装。生活に必要な最低限のものしか置かれていない部屋。貴方がどんな想いで暮らしてきたかは分かります。

 出迎えてくれる家族もなく、家にはたった1人。広すぎる部屋も何処か他人の家のよう。拭えぬ違和感と寂寥感に『憩い』なんて見出せるはずもなく……寝ても起きても、本当に気の休まる時間なんて持てなかったんじゃないですか?」

 

 ポツリポツリと紡がれる言葉に、喉が干上がっていくのを感じる。

彼女の口調に責め立てる色は無い。ただただ穏やかに。寂寥を労るような声色をしていた。

 

「毎日の食事も、窓から届く外の声も、全てが慣れぬ異国のもの。馴染もうと努力すればするほどに、その差異(ギャップ)は浮き彫りになっていく。家の中だけじゃない。言葉の壁、文化の壁、見知らぬ街と人、その陰に潜んだ銃の存在……今の貴方には、外の世界がとても恐ろしいものに見えている筈。だから気晴らしに外出することだって叶わない」

「……だが、それは…」

「ええ、貴方はそれを自分の弱さだと言うのでしょうね。以前の力が出せないのも、自信を失ってしまったのも。全ては己の不甲斐なさに原因があるのだと。

 ……けれど違う。環境の変化。日常的に付き纏う違和感。そんな小さなストレスの積み重ねでも、人の心はいとも容易く歪んでしまうものなんです。その重圧に押し潰されて心を病んでしまう人も、決して少なくはない。異国となれば尚更。

 貴方が自信を失ってしまったのも……決して(トクベツ)なことではないんです」

「……」

「あなたは家事は間に合っていると言いましたが、そうは思えません。

居間や台所だって、綺麗好きな貴方にしては掃除が行き届いていないように見えました。心の乱れは生活の乱れ。今まで続けてきた無理が、既に綻びとなって顕れている。。

 貴方が自分を取り戻すには、この環境そのものを変えるしかない。輝いていた頃の自分。以前の自信を取り戻すためにも……私の力が必要ではありませんか?」

 

 差し伸べるように、右手を差し出す少女。あるいは約束を契るように。瞼に覗く翠の色は真っすぐに自分を見つめている。

 言葉を見つけられぬまま、何を言い返すこともできないまま……白銀はただその手を見つめることしができなかった。

 

 

ソレで、いいのだろうか。自分は。

 

ソレでいいのだろうか。彼女は。

 

『スタンフォードでやりたいことがある』なんて、見え透いた嘘。

 

そんな嘘をついてまで。どうして自分なんかに手を差し伸べるのか。

 

自身の将来を棒に振ってまで、どうしてーーーー

 

 

 

 

「…とまあ、真面目っぽい話もしてみましたが、ぶっちゃけた話、御行くんがどう言おうが、私が此処に住むのは確定です」

「ーーは?」

「だってそうでしょう?入寮届は提出済だし、引越し費用・敷金もろもろ、全部もう払ってしまってるんですから。それとも、御行くんはこんな大荷物を抱えて、女の子一人で路頭に迷えというんですか?」

 

 変わらず和かな笑みで問いかける少女。その印象は先までとは真逆だ。

 

「御行くんもまだまだ私のことが分かってないですね。

 そも私が何の打算や勝算もなく、『おねがい』なんてする筈がないでしょう」

「…………ああ、そうだ。そういう奴だったアンタは」

 

 再び湧きあがってくる目眩に額を抑える。

 彼女が玄関に現れた時点で既に積みだったのだ。いかに推薦枠といえど一学生に過ぎない白銀に、ルームシェアの相手を選り好みする自由も、まして其れを拒否する権利は与えられていない。

 

「まあ、そういう事ですから。諦めて大人しく介護されてください」

「……介護言うな」

「嫌なら一早く元気になること。私が世話する以上、目の下に隈とか絶対許しませんからね」

 

 そう言い残し、いつの間に食べ終わっていたのか、手早く食器を片付けては、台所へ運んでいく早坂。颯爽。飄々。そんな言葉が似合う後ろ姿で、今度はジャブジャブと洗い物を始める。出し過ぎとも思える水の量。洗剤もたっぷり

 

「なあ……アンタ本当はーー」

「…?何か仰いました?」

「……いや。なんでもない」

「?」

 

 泡のついた皿を手に、小首を傾げる少女。水の勢いで聞こえなかったのか。或いはそれが幸いだったのか。再び洗い物を始めた早坂の後ろ姿に、白銀は静かに息をこぼす。

 

 

 それはずっと胸に秘めていた想い。けれど出来なかった。

そう問うことがどんなに身勝手で、独善的でーーー彼女の厚意を踏み躙ることであると、分かっていたから。

 

 

『なあ、アンタ本当はーーー』

 

 

未だ諦めきれぬ妄念。ずっと求め続けてきた、蓬莱の薬(彼女との繋がり)

 

 

『四宮のために来たんじゃないか』

 

 

 

油断すればそう問い正しそうになる自分が、何よりも嫌いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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二分咲き

 朝露に濡れた木々の上を数羽の鳥が飛び立っていく。キャンパス内に多くの自然を有するスタンフォード。少し探せば割と頻繁に野生のリスなんかも見つけられたりする。

 

『スタンフォード主催 eスポーツ決定戦!!

 〜電子の世界が君の挑戦を待っている!〜』

 

「ああ、そういえば発祥ここだったか」

 

 デカデカと掲載された日本のゲームキャラクターに息をこぼしつつ、手帳を捲る白銀。

 

 『掲示板』。

それは、大学生活において切っても切れない関係にあるものだ。

 レクリエーションの告知や、レポート提出場所の掲示など。大学側が生徒に伝えるべき情報の全てが集約されている場所。

 廊下にズラリと並んだ黒板大のコルクボード。そこに犇くように貼り巡らされ無数の紙、紙、紙。巨大なポスターからハガキサイズのものまで、色合い大きさもまた様々。ソレらが我先にと場所を取り合い、中には重なっているモノまであるから、小さい用紙ともなれば危うく見落としてしまいそうになる。

 

 白銀の1日は、この掲示板の確認から始まる。それは他の学生も同じだろう。

 

 講義とは基本的に定まった場所で開かれるものだが、時折、その開催時間や教室を変更される事がある。講師側の都合であったり設備的な問題であったりと理由は様々だが、その情報は事前に掲示板で告知される。

 しかし仮に此れを見逃していたりすれば、その生徒は全く見当違いの教室に足を運ぶことになる。当然、講義は欠席扱い。責任は全て、掲示板を見なかった学生側にあるとされるのだ。

 全ては学生の自己管理・自己責任。中には学生一人ひとりのメールアドレスを把握し、直接連絡をくれる教授も居るが、そういった人は稀だ。数年後には社会に出る身として、身に付けておかなければならない心得でもある。

 

 

 早朝ということもあって、学生の通りは少ない。これがもう少し遅い時間になったり、まして昼時にもなれば、各学科から集まった人で溢り、掲示板を見ることすらままならなくなる。

 

 やはり早朝に済ませておくのが吉と、軽快にペンを走らせていく白銀。休み明けになると急に告知が増えていることもあるので、抜け漏れが無いか注意しつつボードの前を練り歩いていく。

 

「……?」

 

 その途中、掲示板の前で立ちす一人の男子学生が目に止まった。

 ベリーショートで纏めた赤茶髪。顔立ちはフランス系だろうか。190…いや2メートルはあろう高身長に対してかなりの細身で、スレンダーというよりは、ひょんな事でポッキリ折れてしまいそうな儚げな印象を受ける。そんな彼が、掲示板に貼られた一枚の紙を食い入るようにジッと見つめているものだから、其処ら一帯は体に隠れ殆ど見えない状態になっていた。

 なので其処は後回しに、別の所から見ていこうと考えていると

 

 

「ああ、ゴメン。邪魔だったかい?」

 

 白銀の視線に気づいたのか、申し訳なさそうに謝罪を述べる青年。そのままこちらの言葉も待つもなく、そそくさと別のボードの所にまで行ってしまった。

 …なんだか悪いことをしたような。ここで退いても厚意を無駄にしてしまうので、この国(アメリカ)ではあまり意味のない会釈をしつつ、手早くメモへと移る白銀。

 

・『工学倫理』:開催場所A-128からCー216へ変更。

・『天体物理学基礎』: 小テスト告知。テキスト範囲p42〜p71。

・『電子磁気学』: レポート提出場所変更……これは先週確認していたな。

 

「あとは『プログラミング実習』が……?」

 

 ペンを走らせる途中、その手がピタリと止まる。掲示された用紙、その内容におかしなものを感じたのだ。

 

・『プログラミング実習』開催場所変更。・変更前 A-311 → ・変更後 A-311 』

 

「……変わってない?」

 

 何らかの表記ミスか、掲載者の勘違いか。教室番号が変更前後で同じものになっている。

 これではどの教室に向かえばいいのやら。変更後の教室番号が間違っているのか、或いは変更前のが誤りで、変更後はA-311で正しのかーー?

 

 

「ああ、ソレやっぱりおかしいよね」

 

 背後からの声に振り返れば、先ほどの男子学生が困ったような顔で佇んでいた。

 ああ。やはり覚えのある顔。先ほど彼が睨み付けていたのも、この用紙だった。

 

「君、ミユキ=シロガネだろう?日本から飛び級で入学してきたっていう。こうして話すのは初めて……だったよね?」

「ああ。確かBクラスの、エイス……」

「ベルトワーズ。エイス・ベルトワーズだよ。よろしく」

 

 何処か不安げに差し出された手をそっと握り返す白銀。30cm近い身長差のせいでかなり不格好な握手になったが、エイスは安心したように顔を綻ばせた。

 

「いやぁ、すごいなぁ。君みたいな若い子が僕達と同じクラスだなんて。

 ……あれ?でも年は一つしか違わないんだっけ?」

 

 少し興奮気味ながらも、小首を傾げるエイス。東洋人は童顔に見えることから、歳の差にギャップを感じているらしい。

 

「こっちの生活にはもう慣れた?」

「いや……正直まだ分からない事ばかりだ」

「ああ、僕もだよ。カリフォルニアは地元だっていうのに、大学の敷地内(なか)に入ったら全くの別世界なんだもの。未だに怯えっぱなしさ」

 

 「それな」と互いに苦笑いを浮かべつつ肩を竦める。同胞を見つけた安堵感と言うべきか、ああ、やはり早坂の言う通り、環境の変化とは誰もが戸惑うものなのだろう。

 

「それで、この掲示は?」

「ああ、丁度さっき院生の人が貼っていくのを見たよ。ただかなり慌てた様子だったなぁ。髪も寝起きでボッサボサだったし」

「どこの研究室の人か分かるか」

「何処の?んーいやごめん、流石にそこまでは」

「だよなぁ。プログラミング実習はジキル准教授だから確か……」

 

 数秒の思案の後、ボードから件の用紙を剥がし取る白銀。代わりに手帳にサラサラと何かを描き出しては、そのページを破り掲示板へと貼り付ける。

 

『プログラミング実習 開催場所変更。

現在詳細を確認中のため、この用紙を見た受講生は掲示板前にて待機願います。

13 JUNE 20〇〇 Miyuki S』

 

 中身を読み直してヨシと頷く。そのまま踵を返しては、剥がした元の用紙を手にエレベーターの方へと歩き出していく。

 

「えっ、ちょ……まさか研究室にまで聞きにいくつもり!?」

「拙いか?」

「いや拙くはないけど……まだ一階生の僕達が入って良いものなのかな、と」

「F棟の研究室は確かカードキー無しでも行けた筈だ。このままだと後から来た人も、掲示を貼ったその院生も、お互い困ることになる」

「まぁ、それはそうだけど……はぁー、大胆」

 

 呆気に取られたような、何処か感心したような声を上げつつも白銀の後ろをついて来るエイス。

 その後エレベーターで上がり。研究室へ向かう道中も、おっかなびっくりと、自身より二回りも小さな白銀の背後に隠れ歩む様は、なんとも異様な光景であった。

 

 

 

 

 

 

「……何のよう?」

「ヒェッ」

 

 目的の研究室の扉をノックして、暫く後。のっそりと顔を出した大柄の男に、怯えた声を漏らすエイス。ボサボサの髪にみっしりと蓄えた無精髭。元々堀の深い顔立ちが、目の下に溜め込んだ隈のせいで、より一層威圧感を醸し出している。二徹した戦士の顔。割と朝よく鏡で見る顔だった。

 

 

「お忙しいところすみません、この掲示についてなんですが…」

 

 相変わらず隠れ切れてないエイスを背中に控えつつ、手に持った用紙を指差す白銀。

 始めは不機嫌そうな様子の院生も、白銀の話が進むにつれ、見る見る顔を蒼く染めていった。

 

「うわヤッバ!!ダメな奴じゃん!こ、ここ、コレ……っ!他にもう見ちゃった人いる!?」

「い、いいえ。多分まだ自分達だけかと」

「いよォしセーフッ!!ちょちょい待ってて、すぐ作り直してくるから!」

 

 言うやドタドタと奥に引っ込んでしまう院生。中からはウルせーぞなどと怒号が聞こえたりしたが、待つこと数分後、再び重い足音とともに息を切らした院生が姿を現した。

 

「A-311からA-241 。A-311からA-241。A-311からA-241……よし間違いないね今度こそ!いやホントありがとう助かった!また教授に殺されるところだったわ!」

「え、ええ……?」

 

 ブンブンと豪快に握手を交わしては、掲示板の方へと走り去ってしまう学生。何とまぁ慌ただしい。開きっぱなしの研究室の扉、その奥からは別の学生が、同じく濃い隈を溜め込んだ顔で迷惑そうに此方を睨んでいた。

 「し、失礼しました」と、そのタッパとは似ても似つかぬか細い声で扉を閉めるエイス。そのまま脱兎の如く研究室から逃げ去っていく。

 

「はぁー怖っ!研究室こっわ!また殺されるって何!?何回死んでんのあの人!?」

「物凄い(ものっそい)淀んだ空気だったな。それだけ大変って事なのか」

「僕達も2年後にはああ(・・)なるんでしょう?うーあ考えたくないぃぃ」

「まあ研究室によって良し悪しあるそうだから一概には。けど入る所は慎重に選ばないとな」

「……あと言っちゃゴメンだけど、目の隈だったらシロガネも負けてないよ?」

「ええ……」

 

 そう遠くない未来には世話になるであろう建物を見送りつつも、足早に去っていく白銀たち。何にしても、貴重な経験だったと思いたい。

 

 

「じゃあシロガネは、入りたい研究室はもう決めてるんだ」

「ああ、マーディン教授の……」

「ぶっ!?マーディン教授!?いや、其処はちょっと止めといた方が……」

「…?扱ってる研究は最新鋭のものだし、評判だって悪くないだろう。むしろ競争率高すぎて……」

「う、うん。ラボは悪くないんだ。ただ若干1名……非常に獰猛かつ厄介な親戚が、同じく其処を狙ってて。ソイツに目を付けられたら、この世のあらゆる地獄(ヘル)艱難辛苦(テリブル)が一斉に襲い掛かってくるというか」

「何それ怖。けどエイスの親戚なんだろ?同じ大学、それもスタンフォードに一緒に入れて凄いじゃないか。同年代なら一度会ってみたい気も」

「いやいや絶対ダメだからね!?万が一にでも遭遇してしまったら、決して動向から目を離さず両手を上げて威嚇し、背を向けずにゆっくりと後退して徐々に視界から逃げることが大切でーー!!」

「何その親戚クマかなんかなの?」

 

 かくも真剣な顔立ちのまま、ミナミコアリクイの如く威嚇ポーズでジリジリと後退っていく身長2mの男に、苦笑いを浮かべる。

 

「とにかく遭遇しないことが第一。僕の連絡先を教えとこう。アレの縄張りや徘徊コースを送るから。自分で言うのもなんだけど、僕が臆病な(こんな)性格になってしまったのも、大半は彼女が原因だからね……。ミユキみたいな良い人は特に好物だから、人格壊れるまで嬲られ続けるよ」

「お、おう……了解した」

「あと、はいこれ撃退スプレー。危なくなったら迷わず使って」

 

 何でそんなのあるの?常備してんの?などのツッコミは飲み込みつつ、携帯を取り出す白銀。

 かくして大学に来て初めて行った連絡先交換。その理由というのは、なんともアレ(・・)なものになったのだった。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

「……とまあ、そんな事があってだな」

「はあ。相変わらず色モノに好かれやすいんですね」

「第一声がソレって酷くない?」

 

 今日一日大学であったことなどを話しつつ、夕食を取る白銀と早坂。

 メニューはカレーにポテトサラダ、ほうれん草のソテーにソーセージとブロッコリーのコンソメスープ。味付けはやはり故郷のソレで、特にカレーに至っては、アメリカで手に入るルーは日本のソレとはまるで異なるので、コクのある懐かしい味はそれだけ心が安らぐ。

 

「けれど、少し安心しました」

「安心?」

「はい。本当に困っている人が有れば、自分の苦労は決して惜しまない。その気質は、今も変わらないようでしたので」

「……」

 

 面と向かって言われると非常に面映いというか、コンソメスープを飲みつつカップで口元を隠す白銀。別段何かを考えてやったわけではない。見栄っ張りな自分のことだ、エイスの前で頼りになる姿を見せたかった、なんて気持ちもあったかもしれない。

 

「じゃあ、御行くんはもう入りたい研究室は決めているんですね」

「ああ。只かなりの人気所だから今の成績ではとても届かない」

「そうですか。なら、これから頑張っていくしかないですね」

「ああ……そうだな」

 

 何も間違ってはいない。当然の激励だというのに、何処か苦し気な歯切れの悪い返事しか返すことができない白銀。

 そうだ、頑張るしかない。どれだけ辛かろうが、自分に誇れるのは勉学の道しかないのだ。

 

「………」

 

 押し黙ってしまう白銀に、微かに瞳を揺らす早坂。その仕草は一瞬で、白銀が顔を上げたときにはいつもの変わらぬ表情に戻っていた。

 

「ご馳走さま」

「はい、お粗末さまでした」

「ありがとう、美味かった」

「ーーー」

「ど、どうした?」

「あ……いえ、すみません。慣れていなかったもので」

 

 そう溢すや、カチャカチャと慌てて皿を片付け始める早坂。顔を伏せ、白銀の視線から隠れるかのように、足早に台所へと引っ込んでしまった。

 

「今更だが、良いのか?本当に家事全部を押し付けてしまって。皿洗いくらい」

「もう、何度も言わせないでください。コレは私の仕事。好きでやっていることなんですから、貴方が気を負う必要はありません」

「む……そうは言うが」

「それに家事が無ければ、私は日がな一日、机で受験勉強する羽目になるんですよ?息抜きの時間くらいください」

 

 そう呟く早坂だが、白銀は尚も納得がいかないと眉を顰める。

 どうせ休むのなら、やはりのんびりしたいと思うのが人情。これまで恐ろしいほど多忙の身にあった早坂だ。せっかくアメリカに来たのだから、思う存分羽を伸ばしたり、観光などこの地でしか出来ないことをもっと楽しんで欲しいとも思う。

 

「それとも、まだ洗濯物を洗われるのが恥ずかしい、なんて言うんじゃないでしょうね?そんな思春期の乙女じゃないんですから。圭には平気で任せていたんでしょう?」

「なっ、違…っ!いや違くな……っ!」

「もう随分経つんですから、いい加減慣れてください」

 

 このシェアハウスで共に暮らすようになって早二週間。その間、基本的に早坂は二階で。白銀(じぶん)は一階で過ごすようにと、生活空間の分配を取り決めていた。

 そうでもしなければ妹でもない同い年の少女と居を構えるなど、意識しない筈がない。MDTなのは未だ変わらず。緊張や気遣いなどで、憩いである筈の我が家が今まで以上に居心地の悪い場所になってしまう。そう思ったのだ。

 そう思ったのだが……

 

「ああ、そうでした。今夜から冷え込むそうなので、毛布一枚足しておきますね。勉強中も寒かったら言ってください。電気ストーブ出しますから」

「ん……ああ、助かる」

 

 考えてみれば一階リビングにいる間、彼女とはいつも一緒にいる気がする。付かず離れず、意識しなければ気づかかない絶妙な距離感というべきか。別れる時といえば、勉強で自室に籠る時か、寝室に上がる時くらい。

 それで緊張を抱ければまだいいのだが、胸に覚えるのは否定のしようもない安堵感。一人暮らしを続けていたことで人肌恋しくなっているのか。やはり家で誰かが待ってくれていること。ふとした時に話し相手になってくれる存在というのは、思う以上に有難いものらしい。

 

 加えて、さすが元四宮家近従と言うべきか。炊事掃除家事完璧。埃一つない部屋は、自分が一人暮らしていた頃より遥かに輝いて見える。喉の渇きを覚えれば、まるで心を読んだかの如く絶妙なタイミングで飲み物が出され、まさに至れり尽くせりと言うべきか。そも待っているだけで毎日料理が出て来るなど、こんな贅沢があっていいのかとさえ思う。慣れてしまえば、いつか自分が駄目人間になってしまいそうで恐ろしい。

 

 そんな思惑があるからこそ、時折こうして手伝いを打診しているのだが、何故か早坂は頑なに拒否するのだ。元近従としてのプライドか。はたまた別の理由があるのか。

 

(……まあ、皿洗い一つで食い下がっても格好がつかないか)

 

 台所に立つ早坂へ食べ終わったカレーの皿を手渡しつつ、息を溢す白銀。

 同じ屋根の下で暮らしていく以上、無意な諍いは起こしたくない。彼女が来てくれてからは各段に生活が良くなったのは事実。だから彼女がそうしたいと言うのなら。甘えてもいいと言うのなら、それで

 

「ーーーいや、やっぱり水仕事は俺がやる」

「御行くん?」

 

 皿を渡そうとしていた手を止め、そのまま流し台へと割って入る白銀。不思議そうに首を傾げる早坂の手からスポンジを引ったくっては、そのままジャブジャブと洗いを始める。

 

「そんな意固地にならなくても。私の手を借りるの……そんなに嫌でしたか?」

「そうじゃない。そうじゃないが……」

 

 寧ろその逆だ。決して口を大にしては言えないが、彼女に感謝したい気持ちは一杯なのだ。

だから。そう、だからこそ。その手を見た瞬間、自然と体が動いていた。

 

 かつては仕事の間の楽しみにと、友人達と一緒にネイルやポリッシュなどを着飾っていたその手。しかし今は水仕事のために全て落とされ、硬水を含むこの国の水道水に慣れていない肌は、微かに赤みと腫れを訴えていた。

 

「……ただ世話になるだけってのは許せない。この家の元家長として、譲れないプライドだ」

「はぁ。それはまた何ともお可愛いことで」

 

 呆れ気味な声など聞こえないとばかりに、より一層ジャバジャバと皿を洗い続ける白銀。

流し台に仁王立つ姿は、場所を譲る気など更々無いようだ。 

 

 

 

 

「…ほんと。そういうところですよ」

 

 その背中に、小さく息をはく早坂。

 囁きは届かず。けれど少女の口元には、ほのりと柔らかな微笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 




今回はちょっとした日常回。話の切りどころが掴めず若干中途半端になってしまいました
大学生活を描写するために2、3人オリキャラが出る予定ですが、あくまでチョイ役の予定です


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貧富

現在PC故障中のためスマホでポチポチ投稿。
ワードが使えない分、誤字脱字大量発生の恐れ(゚o゚;;


 その光景は、今でも鮮明に覚えている。

 

 

『お母さん…なんで行っちゃうの…?』

 

 灰色のトランクを抱え、まだ小さい妹の手を引いては、振り返りもせず去って行く母の姿。

 かつて優しく頭を撫でてくれた手も、愛しむようま眼差しも、今は遠く届かない。

 

『お父さんが嫌いになったの?お金なら僕も頑張って働くよ』

 

 子供ながらに分かっていた。工場が潰れ、父が仕事先を失い、次第に苦しくなって行く日々の生活。

 二人が言い争う姿を見たのも一度や二度ではない。父と母の間にあった繋がり。それがほつれた糸のように細くなって行く様を、泣きそうになる妹を必死に宥めながら、ただ愕然と見ていることしか出来なかった。

 

 もっとお金があったなら。もっと勉強が出来ていたならと、縋るように理由を求めた。たとえ理解していても、母に見捨てられる哀しみを、その嘆きを、まだ十にも満たぬ幼い心が如何して受け止めきれよう。

 そう。理由などなんでも良かった。ただずっと、母がずっと傍に居てくれたなら

 

『別に、お父さんのこと嫌いになったわけじゃないわ。ただ……』

 

 けれど返ってくるのは諦念と失望に沈んだ瞳。

 紡がれる言葉は残酷で。

 明かす言葉はあまりにも正直で。

 

 嗚呼、その言葉はーーー

 

 

『恋愛感情は永遠じゃないの』

 

 

 まるで呪いのように、心に刻み込まれていた。

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

「いや俺だって別に頭の出来が悪いわけじゃねぇんだよ?ハイスクールでは全学科一位を総ナメだったし。そんだけ勉強したからこそ、スタンフォードにも合格(うか)ったわけだしな?」

 

 無数の本が棚を埋めつくす大図書館。カリカリとなり続ける鉛筆の音に混じり、気怠げで、それでどこか陽気な声が響く。

 

「まあだからこそってーか、その反動っつーの?受験が終わってからは学業から解放された達成感と安堵感で、一種の燃え尽き症候群みたいになっちまって。その上、親元を離れてからの1人暮らしだろ?監視の目も無くなって、講義時間も自由に選べるようになったら、いよいよ勉強に挑む気概が無くなっちまったんだよ」

 

 大テーブルを挟んで向かい合う3人の大学生。それぞれが広げたルーズリーフや厚い資料本やらで机上は埋め尽くされ、古い本特有の甘いような酸いたような独特の香りが辺りに広がっていた。

 

「とまぁそんなわけでズルズルと成績落として、今は同じ落ちこぼれ組ってわけ」

「誰が落ちこぼれだ。誰が」

「釣れないこと言うなよー。先週彼女に振られてマジやる気起きないんだよー。助け合いって大事じゃん?同じ学科(クラス)の誼じゃん?Even a chance meetings are preordained(袖触れ合うも他生の縁)ってジャポンでも言うだろー」

「……はぁ」

 

 大学講義では時折グループ学習として2、3人のチームを作り、与えられた議題に対して共同でレポートを提出したりプレゼンを行ったりする。

 白銀とエイスの向かいに座る白人の青年、『キリー=マッケルン』は、そんな折に知りあった……というより、以降やたらと付き纏うようになった割と困った人物である。

 上背は白銀と変わらないくらいだが、くっきりとした目元、堀の深い顔、何よりオシャレなのか口元に蓄えた微妙な茶髭のせいで5、6歳は年上に見えてしまう。

 そんな彼の、なにが困ったかと言えばーー

 

「ああ、この公式また忘れちまってる。何だかんだ受験の時が一番頭良かった気がするわ」

「あーうるっさい。ちょっとは静かにしてよ。若しくは視界から疾くと失せて」

「ヒュー辛辣。大学で出来た連れは一生もんの友人になるんだから、仲良くやっていこうぜー」

 

 憤懣満ちたエイスの声も何処吹く風、飄々とした態度を崩さないキリー。「口を動かす前に手を動かせ」と文句の一つでも言えれば良かったのだが、その手は良く回る口と連動するようにシャカシャカと動き、レポートの進捗度は彼が断然トップにたっていた。

 彼曰く、誰かと喋っている方が集中できるのだと。受験勉強もラジオ相手に語りかけながら乗り切ったそうだが、全く逆タイプの白銀達からすればいい迷惑である。

 

「とまぁ、ジョークは此処までにして……ホントどうするよ今度の小テスト」

「どうもこうも。勉強するしかないだろ、そんなの」

「いや分かってる。分かっちゃいるんだけどよぉ……」

 

 それまでの楽観とした口調から一転、苦々しい表情で額を押さえるキリー。テーブルの端、今まで視界に入らぬよう遠くへ追いやっていたテキストを手に、益々と顔を歪ませる。

 本の帯欄に絢爛な装飾で書かれた『デジタル信号処理』の文字。人間誰しもが一つは苦手教科というのを持つものだが、彼にとってはまさにソレだったらしい。

 

「いやほんと、実際に動いてる姿がイメージ出来ないのって大の苦手なんだよ。回路もわっちゃわっちゃしてるから、何処がどう働くかもわかんねーし」

「まぁ言いたいことは分からんでもないが」

「だいたい小テストの結果で『単位』貰えなくなるとかおかしくね?クッソあの教授、こんな分かりにくい本、テキストに選びやがって……。なんだここ?何で③式はいきなりこんな形になってんだ?」

「何って…書いてあるじゃん。『上記のことから②式が求められる。つまり③式である』」

「いや“つまり”って何だよ“つまり”って!この短い間にいったい何が起こっちゃってんだよ!?」

「ああ、そこラプラス変換してる。式省略してあるけど。」

「省略すんなぁ!そこ大事なところだろうがぁ!」

 

 吠えながら教科書に書き殴るキリー。やたらと省略、簡素化された表記。大学テキストでは割とあるあるなのが困ったところ。

 

「んで、そっからの式も訳分かんねーし……!何だこのδ(デルタ)?いったい何処から出てきた?」

「あ、それ誤植。ほんとはλ(ラムダ)

「はぁーん!!?見本たる教科書が間違ってたら俺はいったい何を信じればいいんだよ!?」

「いや誤植箇所まとめた紙が付いてただろう?」

「それって本端にチョロってあったレシート大のやつか!?捨てたわあんなもん!」

「だーウルッサイ!ホント黙れ!」

 

 身長2mにも成るエイスのアイアンフィストに顎を掴まれ、物理的に封じられる口。これだけドタバタと騒いでまわりに迷惑ではと不安になるが、案外そうでもないようで。

 何せ日本とは異なり、お喋り可、飲食可、スマホ撮影可と、割と色々許されている此方の図書館。他の席でもワイワイ騒ぎながら、ビール缶片手にポーカーで盛り上がっている学生達までいる。

 

 その喧騒さには流石の白銀も辟易気味。資料集めに事欠かないとはいえ、これでは家で勉強した方が遥かに捗りそうである。居慣れた空間、集中を促す適度な静寂。何より今はーー

 

 

「……」

「なんだ急に暗い顔して。悩み事?ならお兄さんに相談してみ?あと代わりにここ教えて」

「6日しか生まれ違わないのによくそこまでデカい顔出来るね。あと見た目は完全に甥っ子に絡むオジサンの図だよ」

「オジサン言うなや。ソレいったらお前ん横に立ったやつはみんなホビットになるわ」

 

 応々と言い合う二人に対し、白銀の表情は尚も重たい。

 今日この図書館で勉強しているのも単に二人に付き合ったからではない。

 

 瞳の奥に浮かぶ彼女の横顔。二人にはまだ紹介していない……どう紹介していいかも分からない。恋人と呼べる筈もなく、けれど単なる同居人と呼ぶにはあまりに近すぎる少女。

 その姿を思い浮かべるたび、別段喧嘩をしたわけでも無いのに、胸の中に燻る後ろめたさにも似た情動。

 

 

 きっかけは数週間前。自分の元にかかって来た一本の電話からだった。

 

 

 

■□■□

 

 

 

『お兄ぃ、愛姉ぇに何させてるの?』

 

 久しぶりの国際電話だというのに、声色に浮かぶ確かな怒気。愛姉ぇという言葉の響きは初めてだったが、誰のことかはすぐに分かった。

 

 圭ちゃんの怒りの理由。それはアメリカ(こちら)での早坂の暮らしについてだった。

 彼女が家に来てからというもの各段に良くなった生活環境。三食栄養の整った食事に規則正しい生活。未だ勉強に追われる身ではあるが、それでも目の下に浮かぶ隈は随分薄くなって来たように思える。かつては広すぎると感じた家も、今では憩いを覚える第二の我が家。全ては、早坂が此処(うち)に来てくれたおかげであるとーー

 

『そうじゃない!!……いやそうだけど、そうじゃない!

 お兄ぃ分かってる?愛姉ぇは元々お嬢様なんだよ?節約生活に勤しんだり、苦い大根の葉の調理方法に逐一悩んだりするべき人ではないんだよ!?庶民(お兄ぃ)の生活に合わせるために、どれだけ苦労させてるか分かってる!?』

 

 ガツンと、電話越しにハンマーで横殴りにされたような衝撃。

 ああ……そうだ。そうなのだ。本来ならば今の生活に違和感を覚えない方が、おかしな話だったのだ。

 

 四宮グループ幹部たる早坂家の一人娘。その生活水準、生まれ育った環境は、庶民である白銀家とは比較にならない。いつのことだったか、彼女の貯金額が4千万に及ぶと聞いた時は、飲んでいた珈琲をイカ墨の如く吹き出してしまった。

 それほど金銭感覚の掛け離れた二人だ。共に暮らそうものなら、互いの認識の差異から不平不満が生まれてもおかしくはない。

 生きてきた世界。培われて来た常識というものは、日常のふとした折にも顔を現すもの。

 

 ーー正直に言えば、共同生活を開始して三週間ほどまでは、そんな兆し(・・)もあった。

 

 それほど寒いわけでもないのに、ガンガンにかけまくる空調。使わずにいるのに刺しっぱなしのコンセント。洗濯機に付いている風呂水を再利用するためのポンプを不思議そうな顔で眺める姿を見たときは、なるほど世界の違いを感じたものだ。

 

 何を貧乏くさいとも思うだろう。しかし白銀にとってはソレが当たり前で……そういう習慣、そういう常識のもとで生きてきたのだ。身に染みついた節制術はもはや生活の一部であり、怠ることは強い嫌悪と罪悪感を呼び覚ます程であった。

 

 

 ……それでも。共に暮らしていく以上は、不満の一つや二つは飲み込むべきだと思った。

 幸い此処の学生寮は水道・光熱費も免除扱い。彼女にまで意味もない貧困生活を強いる必要はない。違和感や罪悪感を覚えることは有るだろうが、其れは自分一人が我慢すればいいこと。何よりこんな遠い地にまで来てくれた彼女に、要らぬ諍いをぶつけたいとは、とても思えなかった。

 

 

 ーーしかし。大方の予想に反して、月日が経つにつれその違和感を感じることは無くなっていった。

 

 多少肌寒かろうと極力使用を控えた空調。使用時以外は都度抜かれたコンセント。先日一緒に食べたカレーにしてもそう。一般家庭と比較してもやたらと具の少ないカレーは、しかしそれこそが白銀にとっては馴染み深い、我が家のカレーを再現したものだった。 

 

 何故そんなことが出来たのか?答えは単純。節約術や料理の具材(トッピング)について、兄妹である圭ちゃんに事細かに聞き教わっていたのだ。

 全ては白銀(じぶん)が安心して過ごせるよう。この仮初の我が家に憩いを見い出せるよう、早坂が重ねてきた努力の賜物。

 

 決して忘れていたわけではない。それでも彼女があまりにも平然と、さも当然のことのように家事をこなしているものだから、自然と意識から外れていたのだ。

 

 

『それだけ甲斐甲斐しくお世話してもらってるのに、お兄ぃったら何!?なんのお礼もしてないの!?お洒落なお店とか連れて行ってあげた、ちゃんと感謝の言葉伝えた、お礼のプレゼント一つでもしたぁ!!?』

 

 そんな早坂の努力をただ一人知っていた圭ちゃんだからこそ、今回ハリケーンの如く怒涛の勢いで掛かってきた電話。もっと大切にしてあげてよとか、そんなんじゃ愛想尽かされちゃうよとか、口を開く度に勢いを増していく妹の声に、流石の白銀も押し黙って反省せざるを得なかった。

 自分が我慢を感じなくなったということ。それは彼女が代わりに、重荷の全てを受け止めているということなのだから。

 

 

 

『早坂。無理する必要はないぞ?』

 

 だからこそ、先週の夜、彼女に申し出たのだ。

 自分の生活に合わせる必要はない。もっと自由に、思うように過ごして欲しいと。

 

 共に暮らして行く以上、一方的に我慢を強いるのは不公平。同居人として、いいや何より早坂という人間に対して、自分は真っ当な立場でありたかった。それがいつもの尊大にして矮小なプライド故だったかは分からない。時間や金銭的な余裕は少ないものの、圭ちゃんの助言通り流行りや人気のお店を調べては、日々のお礼に誘おうとも考えていた。

 だがーー

 

『気を遣って頂かなくても大丈夫ですよ。これ(・・)は私が望んでやっていることですから。  

 寧ろこれくらい楽なものです。節約だって学んでみれば興味深いもの。私もまだまだ世間知らずであったと驚かされるばかりです』

 

 少量の塩と酒を振った鶏胸肉を一つずつ大事に丁寧にラッピングしては、冷凍庫へと収めていく早坂。安売りから大量買いした胸肉もこれなら二週間は美味しく鮮度を保つことができると、鼻歌混じりにキッチンに立つ彼女はとても楽しそうに見える……見えるのだが、それが本心であるかは分からない。

 ああ、嫌なものだ。感謝すべき相手を疑わなければいけないのは。

 

 

『それに御行くんだって、少しずつ以前の調子を取り戻してきているんです。此処で生活スタイルを戻せば元の木阿弥にも成りかねません。貴方が自信を持ってこの大学生活を謳歌すること。それが私の持つ、何よりの望みなのですから』

『っ……』

 

 柔らかな笑みと共に、けれど真っすぐに白銀(こちら)を射止める翠の瞳。そこから伝わるのは紛れもない善意……いいや、矜恃だろうか。

 

 分かっていた。彼女がそういう人間であること。たとえ不平不満を抱こうと、仕事に対して妥協することは有り得ない。拘りと誇りは同値。積み上げてきた努力、その果てに為し得たものこそが、真に己を顕わす価値になることを知っている。

 “そんな”彼女に妥協を無理矢理強いることは、それこそ不敬不遜。一歩も譲る気はないと言い放つ強い眼差しに、白銀はそれ以上切り込むことが出来なかった。

 

 それが彼女の望みであるならば。それが納得の上ならば、たとえ後ろめたさを覚えようと受け止めるべきなのだとーーそう思っていた。

 

 

 少なくとも、3日前の事件が起こるまでは

 

 

 

■□■□

 

 

 

「じゃあミユキの家って、今お風呂使えないんだ」

「ああ。壁内の配管が水漏れを起こしてな。それも俺が寮に入る前から進行していたそうで、漏れた水が木を腐らせて浴室の隣部屋にまで浸食してる。使ってない倉庫だったから、幸い被害は出なかったが……」

「ふーん。でもま、シャワー室なら学内公共のやつがあるだろ?そっち使えばいいんじゃね?」

「ああ……」

 

 だが、それはあくまでシャワー室。入浴用の浴槽は設置されておらず、何より個室が連なった作りであるため、すぐ隣に感じる他人の存在で、ゆっくり休むことも難しい。

 

 唯一。本当に唯一にして、湯浴みに関しては強い我欲(わがまま)を通していた早坂。かなり高めの設定温度。お湯は浴槽一杯になみなみと注ぎ、負けないくらい入浴剤もたっぷり。一度浴室に篭ればかなりの時間出てこないので、時折のぼせているのではと不安にもなるが、きっかり1時間後にはとても満足そうな顔で上がってくるので、要らぬ心配のようであった。

 

 節制術について数多く修めた今でも、入浴剤やお風呂関係については強い拘りを持っていた早坂。風呂上りの姿は、まあなんというか非常に、とても真っすぐに見れないものではあったが、その幸せそうな顔には内心ホッとした気持ちを抱いていた。

 我儘を通してくれること。自分の欲を素直に出してくれることが、単純に嬉しかったのだ。

 

 

 だからこそ。家の風呂が使えなくなるのは相当の痛手だった。

 早坂邸のものに比べれば決して広いとは言えない浴槽。それでも唯一つだった娯楽を失い、それも落ち着かないシャワーでしか代用できないとあれば、その落胆ぶりは想像に余りある。

 加えて、日本人以外は使用率の低かった浴槽。大学側としては浴槽を撤廃し、今後はシャワーのみの運用を計画しているらしい。つまり改装が終わろうとも、以後風呂は使えなくなると……

 

『……仕方がありません。幸い此処の気候なら、冬でもそれほど寒くはならないでしょう。長く暮らして行くのですから、こちらの文化にも順応していかなければなりません』

 

 紡ぐ穏やかな声。それでも普段本音を顕さぬ彼女が目に見えて落ち込んでいるのが分かった。

 

 寂しそうに微笑む早坂の横顔に、ざわりと胸がうずく。

 嗚呼、それでいいのか。只でさせ要らぬ節制を背負わせてきた彼女に、これ以上の我慢を強いることなど。

 

 胸の奥底に眠る微かな記憶。かつて優しかった“あの人”が情愛の色を失っていったのも……こんな見えない我慢の一つ一つを、重ね続けた結果ではなかったか。

 

 

『ーー俺が……』

 

 

 そう思い至った時にはーーもうやるべき事も。その意志も固まっていた。

 

 

 

 

 

 

「ミユキ、そろそろ時間じゃない?」

「ああ。遅くなるだろうから、二人は先に帰っててくれ」

 

 そう言い残しては、鞄と図書館で借り入れた四角いケースを手に去って行く白銀。

 

「あれって映写機(プロジェクター)だよな?何しに行ったんアイツ」

「……キリーは弄るから絶対教えない」

「あ“ぁん!?」 

 

 

 

 図書館向かいに立つ巨大な建屋の中を歩いて行く。エレベーター降りて長い廊下を抜けた先にまつ大きな扉。表札にかかった『学生生活支援課』のプレート。

 

 寮や奨学金制度の利用など、学生が大学内で生活する上で必要な規定を総括する事務所。入学の際に紹介だけはされたものの、実際に世話になることはないだろうと考えていた。

 だが今の白銀にとって、頼れる所はもはや此処しか残されていない。

 約束(アポ)の時間にも十分。左手にはプロジェクター、そして右手には夜なべして作り上げたA4資料の紙束を掲げては深呼吸一つ、戸を叩いた。

 

 

「はい、どうぞ」

 

 4度のノック後、帰ってきた返事と同時に内側から扉が開く。顔を覗かせる50代半ばの女性。真っ赤なルージュに鋭い銀色を放つスクウェア眼鏡。目元に浮かんだ皺と、それに負けないくらい薄く細められた瞳に、どこか威圧感漂うキツめの印象を覚えた。

 

 

「時間ピッタリね。良いことだわMr.シロガネ。

 さてーーお話を聞かせてくださいな?」

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

「お帰りなさい。随分と遅かったですね」

 

 玄関の扉を開けると、待っていたように早坂がパタパタとリビングから顔を出す。時計はすでに21時を回っており、予想以上に遅くなった帰りに、心配をかけてしまったようだ。

 

 リビングへと移るかたわら、どこか疲れきった様子の白銀を、早坂が不思議そうに覗き込む。

 

「事務員……それに寮母さんにも話をつけてきてな。聞いているとは思うが、近々(ここ)の改装工事がある。」

「……?ええ、お話は伺っています。おおよそ5日はかかるだろうとも」

「工事期間についてはもっと伸びるかもしれない。なにせ水回りだけじゃなく古くなったタイルに隣部屋、浴室一帯を丸ごとリフォームするからな。それでなんだが、早坂……」

 

 迷うように一瞬言葉を詰まらせ、早坂の方へと向き直る白銀。

 いつになく歯切れの悪い様子に何事かと首を傾げていると

 

「これからはお互い、別の寮で暮らす気はないか?」

「え……?」

 

 静かに、息を飲む。

 今しがた耳に届いた言葉。その意味が分からないというように、少女は瞳を揺らした。

 

「どういう、ことですか?」

「寮部屋の中には、未だペアが定まっていない所もあるらしい。以前の俺のように一人暮らしをしている所や、受入人数に余裕がある所。早坂と同年代で、ペアを探している女学生の部屋もあった。そこに移れば今まで通り風呂はあるし、大体の間取りは同じだから生活に困ることもそうは無いとーー」

「待ってください。それは」

 

 捲し立てるように語る白銀に、思わず制止の声を上げる。

鈍い痛みを訴える胸。ざわざわと心のうちで揺れていた不安が、形になって行くのが分かった。

 

 それはつまりーー別離を望んでいる、ということだろうか。

 

 先程、寮母に掛け合ったと言っていた彼。それは寮の移動を要望してきたということか。 

 元々トラブルの起こりやすい男女の同居、寮母としても内心は快く思っていなかった筈。仮に白銀が望めば……今の生活を嫌うというのであれば、この工事を期に移動が叶うことも十分にあり得る。

 所詮早坂(じぶん)は無理矢理上がり込んだ身だ。生活水準の異なる二人。何方か一方が我慢を強いられる生活が続くというならば……いっそ、別々に暮らした方がまだ良いとーー

 

「待って…待ってください」

「早坂?」

 

 仮面を被ることも忘れ、知らず白銀の手を握りしめる少女。平静を保たなければと理解しているのに、悲哀が胸に溢れていくのを止められなかった。

 だが対する少年の方はキョトンと、不思議そうに首を傾げている。何故少女がこれほどまでに動揺しているのか分からないというように。思案するように一度瞼を閉じると

 

「……ああ、すまない。言い方が悪かったな。別居というのは、あくまで工事期間中の話だ。その間は人の出入りも多くなるし、施工音や振動で受験勉強どころじゃなくなる。だから、暫く別の部屋にお邪魔させてもらった方が安心してーーって痛ったぁ!?」

 

 話を聞き届けるや握っていた白銀の手に思い切り爪を食い込ませる。固いネイルチップの施されたソレは、さながら猛禽の爪のように易々と皮膚に突き刺さった。

 

 

「何でそんな紛らわしいこと言うんですか!私はてっきり……」

 

 途中言葉を詰まらせてしまった少女に、謝りながらも静かに息を溢す。

 

 本当のことを言えば、別居を薦める声はいくつもあった。自分自身、それがお互いの幸福になるだろうという迷いも。

 

 だが、それ本当の解決に成るだろうか。

別離を告げられて。独り取り残されて……無論“あの時”と状況が違うのは分かっている。それでも、残された者が背負う痛みや哀しみを、白銀は嫌というほど知っていたから。

 

「寮を移る気はありません。工事中もこの家にいます」

「かなり揺れるし喧しいぞ?」

「構いません。此処にいます」

 

 ツンと言い離す早坂。地雷を踏んでしまったか、相当に機嫌を損ねてしまったらしい彼女にやはり勿体ぶるのは失敗だったと、肩を落とし資料を取り出す白銀。束になったA4用紙の中の一枚。不動産屋等で部屋探しする際には必ず目にするソレを広げる。

 

「これは……間取り図ですか?」

「ああ。この家のな」

 

 部屋の広さや坪面積、キッチンの位置などが建築記号により簡略表示された概略図。その中でも特に太い赤ペンで枠取られた一箇所……浴室を指差す白銀。

 

「……以前にも言いましたが、浴槽の件なら納得しているので大丈夫ですよ。けどまぁ、どうせ取り払うというのなら、せめて浴室乾燥機の一つでも」

「ああ、その話なんだがな。『学生生活支援課』まで直接抗議しに行って、”無し“にして貰った」

「……は?」

「加えてもう一つ。木壁が腐った倉庫と浴室を丸ごと改築して、以前よりもずっと広く、浴槽ももっと大きなものに変えて貰えるよう頼み込んできた」

 

 驚愕に目を丸くする早坂に対し、懐からペンを取り出しては、浴室とその隣にある倉庫部屋を一纏めに囲う白銀。そこに書き足す『浴室増築』の文字。

 

「どうしてそんな……いえ、そもそも抗議しに行ったって」

「まぁ、実際には”お願い“だったんだがな」

 

 自分たち日本人にとって入浴の文化がどれほど重要であるか。風呂に浸かることで得られる生産性の向上、精神の安定化。その他説得力のありそうな様々な文言をかき集めては、プレゼンで訴えかけたのだ。

 加えて、改装にかかる費用の見積もり。一般市場価格との比較など、交渉材料に足り得る各種情報も資料に纏め上げてきた。

 

 無論ダメで元々。たかが一般生徒が寮の改築に口を出せるとは思わない。勝手な我儘と、一笑に伏されるのがオチとも考えていた。

 だが、それでも自分に出来ることーー以前の自分なら、確かに出来ていたこと。

 秀知院生徒会長として壇上に立っていた経験。部活連会議など数々の修羅場を通して培った、相手の理解に訴えるだけの技術。いま持てる全ての力を費やしては、『浴室増築』の説得を試みたのだ。

 その結果はーー

 

 

『ええ、まあ良いでしょう』

『えっ、軽……』

 

 予想以上にあっさりと出た承諾にポカンと口を開ける白銀。対して銀の眼鏡をかけた女性は、どこか関心したような息を溢し資料に見入っていた。

 

『ああ、まだ確約は出来ませんけどね。けれどこうして正式に要望があった以上、『支援課』として無視することは出来ません。

 予算会議は来週末。寮の工事もまだ施工案を出す前だったから、タイミングとしてもベストだったわね。単なる要望だけだったら弱かったでしょうけど、これだけの資料があれば十分に説得もできる。……というより、以前もこんな仕事(コト)してたの?この資料、そのまま予算交渉で使いたいくらいなのだけど』

『え、ええまあ……ただ、いいんですか?こんな我儘を』

支援課(うち)はそのために予算(おカネ)貰ってる訳だしね……寧ろ貴方のなんて可愛い方よ?“バーベキューしたいから屋根付きのテラスが欲しい“って言う生徒もいれば、無断でビリヤード台を設置した生徒もいる。ガルダン=アーラサム国から来た第三王子なんて、校内に教会を建てたいだなんて言い出して……。ホント何よ『サハ部』のための教会って。ああ、ゴメンなさい、思い出したらまた頭痛が……』

 

 悩ましげに額を抑える女性。厳ついオーラも察するに余りある心労が原因だったか。

流石に其処の第二王子まだ母校に通ってますとも言い出せず、乾いた笑みを返すしかなかった。

 

 その後も幾つかの変更点が挙がったが、施工案は大方の希望通りに進むはしりとなった。

 

 

 

 

「ーーまあそういうわけで。改装終われば以前より大きな浴槽を使えるようになる。流石に、早坂邸(実家)に比べれば見劣りするかもしれないが」

「………」

 

 終始無言のまま、話を聞き受ける早坂。時折微かに結んだ唇は、告げる言葉を迷っているようでもあった。

 

 

「どうして、そこまで?無駄遣いは嫌いだったのではないのですか。こんな手間を割いて、私なんかのために」

「……理由ならいくらでもある」

 

 今まで世話になってきた礼か。ずっと我慢をさせてきたことへの謝罪か。

いいや。理由はもっとシンプルだ。

 

「『ここでの生活を謳歌してもらいたい』。その想いは互いに同じだ。なのに、一人だけ隣で我慢されたとあっては、楽しめるものも楽しめない。見て見ぬ振りを続けて、それを気に病んで……結局、互いに我慢することになる」

 

 それでは本末転倒。言わずに心に貯めた想いは、いずれは膨らみ淀んでいくもの。

 共に暮らしていく以上は一蓮托生、不平不満があれば素直に伝えれば良かったのだ。それを“以心伝心”、“分かってもらえている筈”なんて、そんな言葉に甘えて……話し合うことも、譲り合う事もしてこなかった。自分が我慢すれば相手が幸せになるだなんて、そんな間違った考えに囚われいた。

 

 

「だから……やっぱり謝りたかったってのが本音だ」

 

 改めて思い知ったのだ。

 

 自分はきっと何も考えていなかったのだろうと。

あまりにも違う生まれ。貧富の差。彼女にこの遠い地で生きることを強いる、その傲慢も。

 

 

『恋愛感情は永遠ではないの』

 

 

 あの日。去りゆく母が最後に残した呪いのような言葉。ただ嫌うことしかできなかったその言葉が、今では理解出来てしまう。

 

 好きという気持ちは永遠ではいられない。環境が変われば気持ちは変わり、呻吟が続けば想いは磨耗していく。かつてどれほど愛の言葉を囁こうとも、いずれは記憶と共に色褪せ、朽ち落ちてしまう。それをーー

 

 それを自分は認めようとはしなかった。分かってもらえる筈だと。想う気持ちさえあれば何とかなるなんて、そんな甘い理想に縋りついては、本当に大切なことから目を逸らし続けていた。

 

 

 ああーーそれはきっと“彼女”にも

 

 

『ごめんなさい』

 

 どうしてスタンフォード行きを断ったのか。

その答えも今なら分かる気がする。

 

 生まれた世界が異なる二人。

 分かり合えないのなら。共に苦しむだけならば、自分達はきっと、初めから出会うべきではなかったのだとーー

 

 

「そんなこと……言わないでください」

「…早坂?」

「どんなに生まれが違っていても、貴方はこうして互いを想い合うことも……お互いの幸せを願うことだって、出来たじゃないですか」

 

 白銀の両手を握っては、伏せた自身の額へと寄せる少女。祈るような仕草は、あの日、リムジンの中で交わしたときのように

 

「だからどうかーー貴方まで、そんな哀しいことを言わないでください」

「……ああ。済まなかった」

 

 震える小さな手を握り返す。

 恋人である筈はなく、けれど単なる同居人と呼ぶにはあまりに近すぎる少女。

 

 

 

 

 嗚呼、けれど今はーーその手を離したくはないと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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救い

「“天体物理学”、と。他にはあるか?」

『あーちょい待ち。あとは……“国際宇宙法”だったっけかな』

 

 燦々と降り注ぐ太陽の下、しかし湿度の無いからりと乾いた風に爽やかさを覚える夏の昼下がり。

 携帯を肩で耳に押し当てながら、いつもの如く掲示板の前でメモを取る白銀。通話相手はこれまた例の如く問題視(キリー)。もう昼を過ぎたというのに今頃起きてきたのか携帯越しの声は酷くガラガラで、普段にもまして気怠げだった。大方、連休前だからと調子に乗って街で遊び呆けていたのだろう。

 

 

「現実逃避も結構だが、いい加減遊んでる余裕無いぞ。今週末からはもうーー」

『あー分かってる。分かってるから二日酔いの頭に現実を打ち込まんでくれぇ』

 

 講義の無い休日ということもあり、普段の喧騒に比べれば学内も静かに思える。それでも流石はスタンフォード、辺りを見渡せばそこかしこに学生の姿が見え、サークル活動でダンスの練習に励む者。キャンパス片手に校舎の写生に勤しむ者。主要施設を除けば一般人にも通行開放されているので、犬の散歩に出歩いている主婦の姿なんかも見られる。

 

 図書館に顔を出すついでに日課である掲示板の確認に来た白銀。たとえ講義は休みであっても掲示板(こちら)は通常通り更新されるため、学生は日に一度は閲覧しに来なければならない。郊外に住む生徒はコレが辛いところで、何せ掲示板一つ見るためだけに休日に態々大学に足を運ばなければならないのだ。

 件のキリーの家からもバスで片道約1時間。誰もが勉強に集中したい今という時期、流石にそれは面倒だろうと、彼の分も確認しようと買って出たのだがーー

 

 

『あと複素数関数応用と、海洋物質学と制御工学とーー』

「待て待てちょっと多い。というか海洋物質学?お前これ履修してたか?」

『いやマロンの奴に無理やり頼み込まれちまってよぉ。悪いけど一緒に見てやっちゃくれねぇか。あとついでにトニーの分も』

「人の厚意にとことん甘えて……ええい、まとめて動画で送るから、自分で確認してくれ」

 

 ため息混じりに携帯のカメラを掲示板へと向けては録画ボタンを押す白銀。もっとも、画像越しでは伝わりはしないのだろう。見慣れたコルクボードから漂う、目には見えないピリピリとした緊張感。普段にもまして数の多い掲示物。それら題目に書かれた『上期末試験』の文字。

 

 燻るような焦りが胸奥に広がっていくのが分かる。スタンフォードに入学しておよそ半年。

ああ、ついにこの時期がやって来たのだと。

 

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第6話 「 救い 」

 

 

 

 

 

 

『単位』

 それは全大学生の渇望の対象であり、彼らはこの『単位』取得のために日夜奔走していると言っても過言ではない。

 

 一つの履修した科目について、一定以上の成績を修めた者が、その証明として与えられる修了証。

 学期末試験の成績、ディスカッションでの発言量、レポートの完成度など評価対象は多岐にわたり、それは同時に単位取得までに潜るべき関門の多さも意味している。その難度は講義や担当教授によっても様々(まちまち)で、中には独自の評価基準を設けている教授もいるため油断がならない。

 

単位(それ)は『昇学』や『卒業』に必要なポイントと言い換えてもいい。一つ一つの科目にて合格することで得ていく得点。

 より多くの科目で合格し、単位(ポイント)を集められた生徒ほど、大学側からは“優秀”と評価されるが、しかし一方で学期末等、ある時期までに規定数に至らなかった生徒は、昇学を許されず問答無用で“留年”を言い渡される。

 

「実際、昨日の講義でミユキの隣に座った人も、2回留年(ダブ)ってるよ」

「そうなのか?此処では歳の差がまるで分からんからな……そんなに難しいのかマディソン教授の試験」

「あの人の場合、レポート重視だからね。テストの点数だけ気にしてたら酷い目に遭うってのが専らの噂だよ。おまけに必修科目。あれ一つ落とすだけで留年確定ってのはホントきついよ」

 

 げんなり、といった表情で図書館の棚から本を抜き取るエイス。

苦手科目な分、頭を抱えたくもなるのだろう。

 

 高等教育までなら勝手に決まっていた時間割も、大学では全て手作り。

 必ず履修が必要で、これに合格しなければ即留年が決まってしまう『必修科目』。数種類ある科目の中から必要数を選んで履修する『選択必修科目』。その他空いている時間に自由に履修できる『自由選択科目』。カテゴリ分けされた各科目について、学生は受ける講義を自分で選び、授業スケジュールを組み立てていく。

 

 一科目で得られるポイント数は限られているため、単位数を稼ぐためには、当然より多くの科目を履修し、それぞれで合格を修めていかなければならない。しかし受ける科目が多くなるほど、提出するレポートや試験の数も増えていくので、何処まで頑張れるかは本人の力量次第。

 

 入学初期には、この単位制度をよく把握できていないがために、必要以上に科目を履修しすぎてパンクしてしまう者。履修スケジュール組み立ての段階で単位数が足りず、留年が確定してしまう生徒なども毎年必ず出てくる。

 留年が続けば大学側からは怠慢、不真面目と評価され、『退学』を言い渡されることも。

 

 以前ならば余程のことがなければ聞かなかった『留年』や『退学』といった言葉が、常日頃のように付き纏うのが大学生活の恐ろしいところ。

 

「……ま、どんなに怖がったところで結局僕たちに出来るのって、こうして地道に勉強することぐらいなんだけどね」

「それな」

 

 両手一杯になった本を抱え、ヨタヨタとテーブルまで歩いていく。

 

 第一、第三土曜日に限り休日も開いている図書館。流石に休みの日ということもあり、館内で騒いだりする輩もいない。普段屯している生徒は、あくまで次の授業までの空き時間を潰しているのであって、講義もない休日にまですき好んで訪れる者はいない。

 なにせこのスタンフォード大学、テニスコートからサッカースタジアム、果てにはゴルフコースまで完備しているのだ。こと遊び場において困るようなことはない。今此処にいるのは、ただ純粋に勉学に集中したい生徒のみ。誰もが厳しい表情で山のような量のテキストをテーブルに広げている。

 

 

 

「進捗はどんな感じ?」

「とりあえず必修科目の勉強は粗方済ませたが……『国際宇宙法』あたりは範囲が広すぎて終わりが見えん」

「あー……法律から州ごとの条例まで全部覚えなきゃだからね。こういうのほど“持ち込み有り”形式にして欲しいのに」

「いやぁ、そっちの方が逆にキツいと思うぞ」

 

 “持ち込み有り”とはその名前の通り、試験に教科書などの資料を持ち込み、それらを読みながら問題を解いていい、というテスト方式である。

 一見、暗記の必要が無く、教科書を見ながらなんてラクショーだと感じてしまいがちだが、実際は問題の数が異様に多かったり、教科書の内容全てを熟学していなければ解けない超難問が出題されたりと、難易度いえば普通のテストより遥かに上だったりする。

 

「『航空力学』は、テストに持ち込んでいいっていうA4紙を一枚渡されたが……」

「要は公認のカンニングペーパーを作れってことだよね。この1枚にどれだけ多くの情報を書き(詰め)込めるか……。A4って結構小さいよ?図とか書いてたらスグ埋まっちゃうって」

「最後の方は米粒にお経を書く心境になりそうだ」

「いや分かんないけどソレ」

 

 他にもマークシートよろしく正答を5択から選ぶ試験。議題に対して考察を全てエッセイ方式で執筆していく試験。与えられた現象データをもとにパソコンで情報解析し、出力結果から要因と結果を導き出す試験など、内容や出題形式も多種多様。それぞれに適した勉強方法と対策をしなければ、試験当日に真っ青な顔を浮かべること必至だ。

 

 

「やるべき事の優先順位をつけようと箇条書きしたら、まずそのやるべき事が多すぎて心折れかけるっていうね……」

「キリーの奴はホント大丈夫なんだろうな。只でさえ出席日数危ういってのに」

「真剣に取り組みさえすれば仕事は早いんだけど、本人がそれを自覚してるせいで、とことん追い込まれるまで本気出そうとしないんだよ。月曜の朝には泣きついてくるに5ドル、だね」

「俺は“今夜にも”に5ドル。遅かれ早かれ面倒なことに変わりはないが」

「……まあ、今回は大学に入って初めての学期末試験だからね。地道に勉強さえすれば、赤点なんてそうそう取らないと思うよ」

「ああ……そう、だな」

 

 確かにエイスの言う通り、このまま勉学を重ねていけば、まずまずの結果を修めることはできるだろう。大学入学以来、遅れていた成績をようやく取り戻せたと言うべきか。少なくとも赤点や単位を逃すようなヘマはーー

 

「……っ…」

 

 そう考えた途端、胸奥に走るジクリとした痛み。まるで煮え立つ鉄が溢れるように、心底に広がる憤りにも似た焦燥感。

 

 ーーー本当に良いのだろうか。

 ーーーこんなもので自分は満足してしまって

 

 どうしてそんなことを思い抱いてしまうのか。

 自分でも分からない。しかし収まってはくれない情動に戸惑い俯いていると

 

 

 

「随分と程度の低い話をしているわね」

 

 唐突に、背後から響く女性の声。その声を聞いた途端、首筋に何か冷たいものが這ったような錯覚を覚え、隣に座るエイスもピキリと体を強張らせる。

 何事かと振り返った白銀の視界、ゆらゆらと揺れる深いウェーブのかかった黒髪。悪辣に吊り上がった口角。蛇を思わせる鋭い瞳は、以前どこかで会ったーー

 

 

「ぎゃあああぁ()たあぁぁああ!!!!」

 

 少女を見るや金切声を上げるエイス。鞄から巨大なスプレー缶を取り出しては、そのまま一切の躊躇なく(ノータイムで)少女目掛けて噴出する。

 

「っ!?このっ、いい加減 人の顔見るなり催涙スプレー出すの止めなさいっての!!」

「あぶべばばば!!?」

 

 しかしその動きも読んでいたのか、少女はヒラリと躱して逆に缶を引ったくては、お返しとばかりにエイスの顔面へと零距離噴射。顔どころか口の中にまでモロに食らったエイスは、十数秒に及ぶ阿鼻叫喚の悶絶の後、ゴトリと首から机に倒れ伏した。

 

「ちょ、今の倒れ方絶対ヤバイ!」

「安心なさい。私に自我を壊されないために、自ら意識を落としただけだから」

 

 いつものことよ、なんてサラッと言いのける彼女だが、普段大人しいエイスの凶行。ましてそんな根源的恐怖への対処法みたいのを見せられて、何を安心しろと言うのか。

 

「さて。久しぶりね、ミユキ=シロガネ。秀知院での討論大会以来かしら」

「……“傷舐め剃刀のべツィー”」

 

 その名を聞くや、にんまりと満足そうに目を細める少女。

思い出すのは、討論大会で浴びせかけられた散々たる暴言の数々。人が潜在的に抱える心の急所を、残酷なまでに的確に突き穿つその口撃は、思い出すだけでギリリと胃腸が痛みを訴えるほどであった。

 

「貴方ひとりよね?」

「ああ……」

 

 正確には一人になったと言うべきか。肩で抱え上げたエイスは白目を剥き、口から泡を吹いては時折ビクンビクンと体を痙攣させている。……いや、やっぱり大丈夫じゃないってコレ。

 

 対するべツィーの方は威圧的な笑みを浮かべながらも、何処か周囲を警戒するように仕切りに目を走らせている。何かを探すように。或いは此処には居ない誰かに怯えるように。

 

「……別にビビってないわよ?寧ろ今なら、返り討ちにして雪辱晴らしてやるわよ」

「なんの話だ。と言うより何の用だ」

 

 先ほどの騒ぎもあって、周囲からは奇異と苛立ちの視線が集まっている。もうこれ以上の悶着は勘弁してもらいたい。

 そんな白銀の態度に、べツィーは詰まらなそうにハンッと息を吐くと

 

「別に用なんて無いわよ。けれどそうね……強いて言うなら“嗤いに来てあげた”ってとこかしら」

「なに……?」

「だってそうでしょう?赤点がどうだ、留年がどうだ。聞こえてくるのといえば、そんな程度の低い話ばかり。愚図で蒙昧、滑稽ったらありゃしない。貴方、今回の試験が持つ意味を本当に分かっているのかしら?」

「……」

 

 嘲笑うような見下ろす少女の視線に、グッと唇を噛む白銀。

 

 ……わかっているとも。

 米国社会において、在学中に修めた成績は、決してその場限りのものでは無い。

 在学中に得られた試験結果は余すことなく全て累積して記録・評価され、その人物が大学生活にて歩んだ軌跡……築き上げてきた能力の程を、如実なまでに顕在化させる。

 それは学外においても。特に企業側がこの“累積評価”に抱く信頼度は絶大であり、就職時における合否の約8割を決定づけてしまうとも言われる。

 

 

 ただ単位を取れば良いという話ではない。大学が誇る有力研究室には定員数に限りが有り、全ての分野において高成績を修めた最高水準の生徒(エリート)しか入ることができない。

 研究室ごとに保有する施設、取り組む研究対象(テーマ)も異なるため、一度この研究室選択に失敗すれば、以降は全く興味もない研究に従事することになる。

 

 大学においては全てが積み重ね。そこに早過ぎるというものは無い。

 そう、決して。

 “最初の試験だから”と油断して良いものではないのだ。

 

 

「希望の研究室がある生徒は今からでも周到に準備を進めているわ。私もその1人。

 聞いた話じゃ、貴方もマーディン教授の所を狙っているのでしょう?一番人気を志望している割には随分と悠長な様子だけれど、きっと私では想像もできないような妙策を持っているのでしょうね」

 

 まるで嬲るように絡みつく言葉の荊棘。彼女が嗤うたび、否定を見出せない自分自身の姿を認めるたびに、胸の疼きは増していく。

 

 そう、わかっていた。溢れるように息吹く焦燥感の正体。

 このままではいけない。自分はまだ全盛期(あの頃)には戻れていない。

 この大学内に無数にいる天才達。彼らと渡り合うには、また……

 

 

「まったく、とんだ腑抜けになったものね。討論大会(ディベート)でやり合った時の方がまだ覇気を感じた。

 ……今の貴方には何の魅力も感じない。何の興味も抱けないわ」

 

 持っていた鞄を乱暴に肩に掛け、振り返るべツィー。去り際、吐き捨てるように告げられた言葉が、白銀の胸奥……脆く柔らかな場所に深い傷を残していった。

 

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

 

“気にする必要ないって。

 アイツだってあれだよ?寮のパートナーがいつまで経っても決まらないことに、内心傷ついてるような奴なんだよ?完全に自業自得だっていうのにね!”

“………”

 

 

 

 

“Help !! Please Help Miyukiiiiii !!”

”…………“

”あれ……なんかテンション暗い?日を改めた方がいい感じ?あー、なんか知らんがまあ元気出せって!アレなら今から飲みに行くか!今日も朝までドンチャン騒ぎーー”

 

 

 

 

 

“……ご馳走さま”

“はい、お粗末様です。今日はもう休みますか?”

“いや、明日も休日だ。試験に向けて少しでも追い込みを掛けておきたい”

“……何か、ありましたか?“

“………”

“分かりました。小腹が空いたら言ってください。軽食、作っておきますから”

“……すまない”

”そこは、いつものように『ありがとう』の方が嬉しいですよ“

 

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 チッ、チッ、と規則正しい秒針の音が響く。時刻は深夜3時を周り、屋外から届く営みの声も既に途絶えて久しい。

 

 また一枚、文字とインクで埋め尽くしてしまったルーズリーフを退かし、真っ新な一枚へと手を伸ばす。これで何十枚目か。積み上げた筆跡の山は、費やした時間と刻み込んできた情報の量に等しく、酷使し続けた頭は芯から炙られたような異様な痛みを発していた。

 

 ああ、目が渇く。腫れを通り越し青痣に染まった指は絶えず激痛を訴えかけ、迷濁に苛まれた思考は油断すれば意識ごと刈りとられてしまいそうだ。

 

 

 “それがどうした”というのか。

 ひっくり返りそうな胃に無理矢理コーヒーを流し込む。より強くペンを握りしめ、走る指の痛みに思考をムチ打つ。

 この程度の苦痛。この程度の辛酸。以前の自分ならば当然のように受け入れ、乗り越えていたこと。かつての自分を乗り越えられずして、どうして成長など望めよう。

 分かっているのだ。己の未熟も。非才も。それでも並いる天才たちに及び立つには、より多くの刻苦を修勉に費やすしかない。生まれ持った何かが足りないのであれば、自分に払える別の何かを代償にするしかない。

 

 

そうーー分かっているのに

 

 

『ごめんなさい』

 

「っ……!」

 

 瞼の裏、浮かぶ情景に奥歯を噛み締める。

 ああ。“まだ”なのか。

 スタンフォードに来て約半年。少ないながら友人もでき、遅れていた成績や失っていた自信も少しづつ取り戻せて来た。

 それでも、一度試煉に挑めば変わらず浮かび上がるあの情景。未だ忘れられぬ悔恨と失意が、まるで諭し宥めるように囁きかける。

 

 

 もう苦痛に身を俏す必要はない。見上げる者は既に無く。たとえどんなに犠牲を払い、手を伸ばしたところでーーーあの高く浮かぶ月輪には、終ぞ届くことはないのだと。

 

 

 

 

「ーー御行くん?」

 

 コンコンと、控え目なノックが響く。

 

 音を立てぬようそっと扉から顔を出す早坂。まだ起きていたのか、或いは起こしてしまったのか。思えば、無理せず休むと約束していた時間も、遠に過ぎてしまっていた。

 心配そうに覗く翠の瞳。肩までおろした金糸の髪が窓から差し込む月明かりに灯され、淡く繊麗な光を帯びている。残念なことだ。この心が暗濁に沈んでさえいなければ、きっと思わず見惚れていた美しさなのに。

 

 

「……すまない。もう少しだけ続けさせてくれないか。こんな進捗では…」

「まだ、辛いですか?」

 

 囁くように問う少女。

 何がとも言わない。それでも確かに分かることがあった。

 

 鉛のように重い体を引きずり、窓際へと歩いていく。曇天に沈む空。厚い雲に星々が隠される中、ただ一つ丸い月だけが寂しくも美しく輝いていた。

 

 「大丈夫だ」と、虚勢を張ることもできた。今まで皆に。家族にさえ、そうしてきたように。

 けれど彼女には……早坂愛という少女にだけは、意味の無いことだと分かっていた。

 

 

 

「……“まだ”、じゃないさ」

 

 空いた胸の傷から、ポツリと溢れた本音。

 

 思い出すのは眩しくも幽けき、かつての自分の姿。ただ一つ、勉学という武器を手に己の地位を守ることに躍起になっていた自分。

 全ては、彼女の隣に立つために。

 全ては、彼女と対等であるために。

 学年首位に立ち、生徒会長にも抜擢され、誰もが羨む為業を演じ続けてきた。

 

 ああ。けれどそんな日々が。

 身を削り、心を削り。ただ一つ残された儚い取り柄(価値)に縋り続ける日々が、辛くなかったといえば……それはきっと嘘になるだろう。

 

 怖れを覚えずにいられるほど、この心は強くはない。迷いを覚えずにいられるほど、蒙昧ではいられない。

 常に求められる完璧。決して許されない妥協。虚栄の自分が認められるほどに、本当(ありのまま)の自分を明かすのが恐ろしくなっていく。

 

 そうーー“まだ”ではない。

 本当は、ずっと苦しかったのだと

 

 そんな弱音が浮かぶ度に、厚く、厚く、覆い重ねてきた心の鎧。浅ましい本心が漏れ出でぬように。“それがどうした”と。“それが自分の望んだことなのだ”と。呪文のように自身に言い聞かせては、弱い己を否定し続けてきた。

 

 泣き暮れる心と律する心。その何方が本心であったかは、もはや分からない。それでも追い求め続ければ、いつかはーーあの遠い空。眩く光る貴き月夜見に、手が届くと信じていたのだ。

 

 

 ああ。けれど、その結果は

 

 

 

 

「時々分からなくなる。本当の自分は、どう在りたいのか」

 

 溢れる声には怒りも、悲しみもなく、ただ寂しさが滲んでいた。

 

 挫折を知り、孤独を味わい、この大学で過ごしてきた半年間。けれどそれは同時に、今まで封じてきた本心と向き合う機会でもあった。

 大学とは己を生き方を定める最後の分水嶺。何のために生きるのか。何を芯として生きてくのか。漠然と思い描くことはもはや許されず、己の人生(歩む道)を否応なく考えさせられる場でもある。

 

 そうして、初めて気づけた想い。今更になって自覚する葛藤。

 

 『今』のように。自信を失ったまま、暗泥に身を沈めて生きて行きたいとは思わない。

 それでも『以前』のように。心を偽り、身を削ってまで己と周りを欺き続けることが本当に正しいことだとは、到底思えなくなっていた。

 それが己の身の丈を知った末の理解なのか、諦めなのか分からない。少なくとも、今の自分には誰にも本心を明かせない己で在ることが、酷く『寂しい』と思えるようになっていた。

 

 あるいはこのまま……ただ等身大の自分として生きていくのも、一つの手なのかもしれない。身の丈に合った努力、身の丈に合った優しさで。そうして少ないながらも出来た、苦楽を共にする友人達。こんな自分でも、受け入れてくれる人はいるのだと知った。

 

 分かっている。

 それが迷い疲れた心が吐露する浅ましい弱音だということも。

 それでも想わずにはいられないのだ。

 

 目紛しくも駆け抜けてきた2年間。けれど今や積み上げてきた努力(見栄)も露と消え、胸に残ったのは拭えない後悔。

 

 あの日々は本当に正しかったのだろうか。

 積み重ねてきた幾つもの嘘。彼女に相応しい人間になりたいと、けれど鎧に縋ることしかできず……本心を明かすことから逃げていた自分は、きっと初めから何かを間違えていたのではないか。

 心を明かすことを恐れ。ありのままの自分が受け入れられることはないのだと、無意識に決め付け……嘘で塗り固めてしまった心だからこそ、見えなくなってしまった本心もあったのではないか。

 

 それは、きっとこれから先も。

 この生き方、この嘘に縋り続けようとする限り、どんなに犠牲を払ったところで、自分はまた何にも残せない。

 

 きっと何もーーー為し得えはしないのだと。

 

 

 

 

 ぼやりと輪郭を失っていく月輪。決して眩しくはないその輝き、けれど熱を帯びて止まぬ瞳をぐっと細める。

 叢雲にさらわれていく月明かり。失った光帯は元来熱を持たぬというのに、一層の心寒さを覚えさせた。

 

 

「……そうですね。私たちはどうしても臆病で、本心を胸のうちに隠してしまいますから」

 

 不意にトン、と。背中に伝わる感触。

衝撃と呼ぶには軽すぎる。けれど確かに伝わる温もりに振り返ろうとすれば、柔らかな髪の感触が首を擽る。

 

「本当は愛してほしい。人一倍、誰かに受け入れてほしいと思っているのに……自分を曝け出すのが怖くて。それしか方法を知らなくて。綺麗な仮面で素顔を覆い隠しては、自分の心にさえ嘘をつくようになってしまう」

 

 息遣いさえ伝わるほどに、すぐ近くから届く声。少女……早坂が自分の背に額を寄せているのだと気付いたのは、随分と経ってからだった。

 伝う温もりは砂漠に溶ける水のように自然と胸へと染み入っていく。紡ぐ弱音(コトバ)も、まるで自分の口から溢れ出ていると錯覚するほど。

 ああ、当然だ。なぜなら彼女もまた…

 

「なまじ仮面を被れば人並み以上のことが出来てしまう私達……おまけに人一倍真面目な貴方ですから。そんな自分と普段から比較してしまって、素でいる事に罪悪感さえ覚えてしまう。皆が求めているのは。皆が望んでいるのは、”本当の自分“じゃあないんだって……たとえ無理を通して演じた姿であっても、止めることができなくなってしまう」

 

 本当に難儀な性格ですよねと。苦笑混じりに呟く彼女を背に感じながら、遠い夜空を見上げる。暗雲の合間にて点滅する人工の灯り。その尾に伸びる真っすぐな飛行機雲。

 

 ーーいつだったか。同じような悩みを、彼女から明かされたことがあった。

 

『今の貴方に、私はどう映りますか?演技を、しているように見えますか?』

 

 夕焼けに染まる秀知院学園の屋上。肌に通り抜ける冷たい冬の風。

 本心と贋造の狭間で揺れる彼女に……自分はなんと答えたのだったか。

 

 

「ーーだけど」

「……?」

 

 祈るようにきゅっとシャツの裾を握る少女。より一層強く預けられる体重に、背から伝わる熱も増えていく。

 

「だけど、本当に全てが『嘘』でしたか?

 貴方が歩いてきた2年間。積み上げてきた努力はーーー本当に、意味の無いものでしたか?」

「………」

 

 囁く声に息が揺れる。じわりと熱を取り戻す胸。

 嗚呼、本当にどうして彼女にはーー自分が心から欲する言葉が、わかってしまうのか。

 

「心が強くなければ、人は努力を重ねられない。理想を掲げることは出来ても、刻苦の重さに挫け、辿り着くこともなく諦めてしまう。心は移ろいやすいもの。皆誰しも、いつまでも。強く在り続けることは出来ない。……けれど貴方は違った」

 

 そうでしょう?と。彼の青痣に染まった手をそっと包む。

 

「混院の出で秀知院学園の生徒会長に至ったのも。成績で学年一位にまでのし上がったのも。誰もが望んで出来ることじゃなかった。それは紛れもない、貴方という人だから為し得たこと」

「……無理を通してきただけだ。怖れや、後ろめたさが無かったわけじゃない。」

「ええ。それでも、決して意味のないものではなかった」

 

 抱きしめるように、後ろから回された両手。

 その大きな背に頬を寄せ、瞳を閉じる。

 

 貴方は知らないのでしょう。

どれだけ多くの人が、貴方()の背中を見てきたか。

 

「貴方の優しさも、その心も、見せかけなんかじゃない。

 誰かを騙すための嘘なんかじゃ……決してなかった」

 

 貧しい混院の出ながら名門秀知院学院の頂天に君臨する生徒会長。

 そんなものは貴方の魅力を表す一つの影でしかない。

 

 過去の暴力事件を起因に、周りを許せず、何より自分を赦せなかった石上優。

 自分の正しさを信じながら、けれどそれを声とする勇気を持てなかった伊井野ミコ。

 今では秀知院学園を引っ張っていくほどに成長した二人も、かつては誰にも言えない、誰にも分かってもらえない悩みを抱えーー自分という殻の重さに押し潰されそうになっていた。

 

 そんな彼らを導いてくれた人がいた。

 解り、受け止め、手を差し伸べてくれた人がいたのだ。

 

( そう。貴方は知らないのでしょう。

 どれだけ多くの人がーー貴方の優しさに救われていたか)

 

 握った手から伝わる温もり。

 あの日、リムジンの中で泣き暮れる私の手を、ずっと包んでくれていたように。

 

「貴方が積み上げてきたものは決して無意味なものじゃなかった。

 多くの人が貴方のようになりたいと憧れた。かつて貴方が、一人泥水に飛び込んだ四宮かぐや(あの子)へ想い抱いたようにーーー多くの人が貴方の姿を“綺麗だ”と感じたんです。

 それを……その想いまでも、全部意味のないものだと言いますか?」

「………」

 

 凍えた心に、一つ一つ伝わる彼女の言葉()

 胸の隙間を埋めるように。あるいは、いつまでも沈んだ心を叱責するように。

 

 あの時と逆だな、と。そう浮かんだ心にかつての情景が蘇る。

 ソレは迷える彼女をに向けて、自ら高らかに宣言した言葉。

何日もかけて考えた(リリック)。ようやく覚えたリズムで……心からの想いを伝えた言葉。

 

『俺の演技は理想のスペック』

 

ああ、そうだ。自分の言葉だったのだ。

たとえ見せかけでもいい。今は身に余るような、愚かな強がりでもあっても。

それでもカタチにすると誓った。決して振り返えらないと心に刻んだ。

走り抜ける苦難のなか、多くのものを溢し、身を削ることになっても

いつか、自分自身が誇れるものに成るならば、それはーー

 

 

『いつか、本物になるための……』

 

 

それは紛れもない、自分が抱いた夢なのだと

 

 

 

 

「……甘えることは、許してくれないんだな」

「私がそんな優しい人間に見えますか?」

「ああ。おまけに嘘つきだ」

 

 綻ぶ口元に、迷いの霧が晴れていく。

 ずっと胸に結びついていた重い鎖も、涙と共に溶け落ちていく。

 

 ようやく取り戻した自信。帰ってきたこの(生き方)

きっと自分はこれから先、何度も迷い落ち込むこともあるのだろう。

 

ーーそれでも、わかってくれる人はいるのだと。

 

 彼女へと振り返り、その小さな体を抱き返す。

 

 ああ、よかった。

 淡く光を帯び、流れゆく叢雲。星も無く、人工の灯火だけが走る夜空。

 それでも。たとえ月明かりなど無くても……瞳に映る彼女は美しかった。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

「ーーーー」

 

 2階の自室にたどり着くや、ボスンとうつ伏せでベッドに倒れ込む。柔らかなマットレス。頬を包む温かなシーツの感触。胸に広がる温かな想い。

しかしそれとは裏腹に……その想いを自覚するほどに、ジクリと鋭い痛みが走った。

 

 のそりと体を起こしては、携帯を取り出す。どんなに心境であろうとも、体は続けた習慣を繰り返す。着信に履歴がないことに今更落胆はしない。こちらから電話をしても終ぞ繋がらないため、報告(それ)はメールで。

 

 2枚、3枚と添付していく写真。彼には秘密で撮った日常の姿を顕したもの。

重いリュックを抱え大学へと出かけていく姿。痛みに額を歪めながら、机へと向かう横顔。その殆どが未だ暗い影を落としていて……この遠い国で打ちのめされ、それでも必死にもがき続ける姿を克明に映し出していた。

 

 あの人がどんな生活を送っているか

 あの人がどんな苦悩を乗り越えて来たか

 その軌跡を、一瞥の漏れも無いよう丁寧に丁寧に書き記していく。今までもずっとそう。もう何度も。帰ってくる宛もないその連絡先に送り続けている。

 

 

『ありがとう』

 

「ーーっ……」

 

 部屋を出る間際、再び机へと向かい始めた彼からかけられた言葉。耳奥に蘇るその声、未だ残る彼の温もりに視界が歪む。締め付けられそうな胸の痛みに口端から哀咽が溢れる。

 

 ああ、何をやっているのだろう、私は

 

 優しい言葉をかけることだってできた。頑張る必要はないと。自由に生きていいのだと。

 それでも私は……ずっと同じ。私と同じ。茨の蔓延る苦渋の道を歩ませ続けている。

 

 謝られる資格なんてない。まして感謝されることなど

 

「……かぐや様」

 

 今も昔も変わらない、胸を苛む罪悪感に遠いその人の名前を呼ぶ。

 

 けれど声は誰にも届かない。

 零れ落ちる涙は、ただただ昏がりへと消えるばかりだった。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

「どうして、ですか」

 

 静かに震える声が響く。

 四宮家別邸、その主人が住う寝室。今まで幾度なく訪れ、瞼を閉じても寸分の違いなく思い出せる筈のその部屋が、しかし今は全くの別所に思えた。

 帳が降りたように暗く沈んだ空気。天蓋付のベッドで腰掛ける一人の少女ーーー四宮かぐやは、背まで下ろした艶やかな黒髪の合間に、感情の無い胡乱な瞳を覗かせていた。

 

 

「どうして会長の告白を断ったんですか。待っていたのでしょう?恋愛戦なんて言い訳をして、本心を誤魔化し続けて……それでも、あの人が告白して来てくれるのを、ずっと焦がれて来たのでしょう」

 

 知らず、語勢が強まっていくのが分かる。それでも抑えられない、胸のうちから溢れ出す幾つもの疑問、忿怒……悲哀。

 

 目も回るような忙しさ、息も絶えそうな緊張感伴う四宮家への給仕。その間にも、数え切れないほどの我儘や無理難題を言い聞かされて来た。

 あの人を振り向かせたい。あの人の想いを知りたいなんて……側から見れば結果など分かりきっているというのに、本心に向き合えない主人の為に、道楽とも言える願いの数々に付き合わされて来た。

 不平不満を漏らしたのも一度や二度ではない。段々と高まっていく風呂の温度、ストレス解消にと見始めた動画の内容も過激になっていく一方だ。

 

 それでも。例え文句を言おうとも主人の我儘に付き合い続けて来たのは……その先に、二人の幸福があると信じていたからだ。

 

 幼少より植え付けられて来た四宮の訓え。家族なんて甘い言葉を好餌に、あの子を纏わりついては離さない血の呪縛。

 それはこの別邸にあっても変わらない。一度の失態で容易く首が飛ぶ環境において、絶対的権力の象徴である彼女(あの子)に、進んで親しくなろうとする人間はいない。誰もが皆遠巻きに、当たり障りの無い対応をするので精一杯。十年に及ぶ月日を過ごしていながら、未だ心を開ける相手が早坂(じぶん)しか居ないという異常。それこそが、この冷たく閉じた世界を顕す紛れもない真実だった。

 

 

“ーー皆と一緒に花火を見に行きたいーー”

 

『ーー了解』

 

 

 その檻を、初めて破ってくれた人がいた。非才ながらただ一人逃げず、畏れず、“四宮かぐや”という人間に真正面から向き合ってくれた人。凍てついた心を溶かし、人と触れ合う喜びを教えてくれた彼ならば……きっと、この閉じた世界からあの子を解き放ってくれるのではないか。

 

 かつては夢としか描けなかった幻想が形を為し始めた時、胸に抱いた喜びはどれほどであっただろう。

 終わりが来ると思ったのだ。

 求めど与えられぬ温もり。疼く心の隙間に身を抱いて泣き暮れる夜も。

 近従として側で支え、けれど密偵としてあの子を欺き……情愛と罪悪感の狭間で押し潰されそうな心を隠し続ける日々も。

 

 そう。いつかはあの子も、四宮の呪縛(おしえ)も忘れ。ただ純粋に、一人の少女として笑える日が来るのだとーー

 

 その未来のためならば、どんな我儘にだって応えられた。どんな理不尽にだって耐えられた。

 

 この胸奥に秘めた蕾の花も……咲かさずに隠し通すことができた。

 

 

嗚呼、それなのに

 

 

「おかしなことを言わないで頂戴」

 

 まるで失笑するように息を溢す少女。早坂の必死の訴えなど歯牙にも掛けず、赤い瞳はただただ無感情のまま。

 

「私は四宮の人間。この国の中枢に立つ存在です。そんな私が何の権威も持たない一介の男などに靡く筈がないでしょう。ましてスタンフォードへの留学なんて……お父様の寵愛に真っ向から背く行為だわ」

 

 今までの恋愛戦の中でも幾度と聞かされて来た文言。素直になれない心、認められない自身の気持ちを覆い隠すための言い訳。

 けれど今は違う。その表情からは照れ隠しや、嘘といった色が一切見えず、それは長年連れ添った早坂の目をしても、本心だと認めざるを得なかった。

 

 表情は変えずーーしかし硬く手を握りしめる早坂に対して、少女はまるで宥めるように静かに息を吐く。

 

「別段、悪戯に無碍にしたわけでもないわ。それがお互いの幸福と考えたまでよ」

「幸、福……?」

「考えてもみなさい。今まで四宮家の庇護のもと、何一つ不自由のない暮らしをして来た私。日本の映画館でチケットの購入すらまともに出来なかった私が、庶民の世界に放り出されて生活していけると思う?ましてや異国の地。立ち塞ぐ障害は想像より遥かに過酷なものよ」

「そんなこと、何の努力もせずに言わないでください!」

 

 真実の愛が有れば如何とでもなる、なんて今まで散々と豪語して来た人が何を言うのか。

 そんな努力……彼が貴方の隣に立つため捧げてきた代償に比べれば、何程のものか。

 

 ああ、そうだ。ましてあんな別れ方、いったいどれほど彼が傷ついたことだろう。

 

 彼にとって……私達、自分を偽る人間にとって、本心を曝け出すという行為がどんなに恐ろしいことか。

 見栄と虚勢で築き上げて来た心暗い過去。鎧を被り必死に隠し通して来た弱く醜い自分。

その全てを“明かす”ことに、いったいどれほど勇気を振り絞らなければならなかったか。

 受け入れられる保証など何処にもない。自分そのものを否定されるかもしれない恐怖。浴びせられる幻滅と嫌悪に、二度と以前の関係には戻れないかもしれない。

 

 それでも彼は成した。貴方や私に出来なかった『告白』を、彼は成したのだ。

 

 

「そうね……努力はできる。けれど、それだけではどうにもならない問題もある」

 

 ほんの一瞬、目を細め……けれどそれだけ。変わらず抑揚のない声で囁きながら、少女は初めて真っすぐに早坂を見捉える。

 

「四宮の家を離れようと、世間が私に向ける目は変わらない。日本を牛耳る四宮家……その令嬢。略取や誘拐の手は何処から伸びるかも分からず、以前のようにSPも付けられない環境では満足に身を守る事だって叶わない。その恐ろしさは……早坂。貴方も嫌と言うほど分かっているでしょう?」

「それ、は……」

 

 誘拐、その言葉に蘇る苦い記憶。際限なく注がれる敵意と悪意に晒され、来るとも判らぬ希望にただ縋るしかない恐怖。

 分かっている。私の時はただ運が良かっただけなのだと。あの人が来てくれていなかったら、今の自分は此処には居ない。瞼の裏に残るボロボロになるまで疲れ果てた姿。その悪意がーー今度はあの人自身に及ばぬとも限らない。

 

 

「”障害が多いほど愛は燃える“なんて、子どもだから言える言葉。現実を前にすれば心は摩耗していく。想いは否応なく色褪せていく。

 後に残るのは拭えない後悔だけ。“どうしてこの人を選んでしまったんだろう”なんて……かつて好きだったという気持ちが、醜く歪んでいく様を見るのは、酷く哀しいものよ。

 貴方も心の底では分かっているのでしょう?私と彼では生きる世界が違う。そんな二人が一緒になったところで……お互いが不幸になるだけだわ」

 

 暗く、深い諦念に沈んでしまった表情はまるで別人のよう。いいや。別人と言ってくれたほうがどんなに良かったか。

 そんな筈がない。そんな言葉が、貴方の想いであって欲しくはなかった。

 

「……御行くんのためでは、ないんですか」

「…?」

「秀知院が持つ『推薦状』の権力。そんなものは四宮の力を持ってすれば容易く唾棄できる。あの人のスタンフォードに行くため……あの人の夢を守るために、貴方が身代わりになったのではないのですか」

 

 裏付けや確証があったわけでもない、藁を掴むように囁いた一つの可能性。

 それでも、たとえ僅かでもいい。口にしたその名前……迎える筈だった幸福な未来が、あの子の心を動かしてくれると信じていた。

 

 

「それは貴方の憶測?それとも願望?」

 

 けれど帰ってくるのは失望をはらむ声。寂寥と静まりかえった水面に、波風一つ立たすことも叶わない。その瞳には、かつて宿していた矜持も、恩情も、欠片ほども残されてはいなかった。

 

 

「……これ以上、私という人間に無為な期待を寄せるのは止めなさい。貴方が傷つくだけよ」

 

 

 嗚呼、どうして

 

 

「貴方も、もう自由に生きていい。私や四宮の家に囚われることも、その合間で罪悪感に苛まれることもない。」

 

 

 早坂は私の近従だと……列挙し断ち截ぐ本邸執事達を前に、そう言い放ってくれた貴方がどうして

 

 

 

「今までご苦労様、早坂。

 

 貴方はーーー私には過ぎた近従だったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 



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吐露

『あー。あー。マイクテス。皆さん、お待たせして申し訳ない。そして忙しい中、よく集まってくださいました(レディース・アンド・ジェントルメン)

 

 若干ハウリングの混ざる若い男の声が、夜の平原に木霊する。

 ヤシの木が立ち並ぶ川沿いの広場。降り注ぐ星光は明るく、しかしそれ以上に煌々と焚かれた照明が燦然と夜空を照らし返している。

 

(暑っつ……)

 

 日が落ちたとはいえ、まだ7月半ば。夏真っ盛りの時期となれば頬を吹く風は生温い。

 加えてこの熱気だ。幾つにも並べられた木製の丸テーブルやBBQ(バーベキュー)コンロの周りは学生達で溢れかえり、開始を待ちきれないのか既にグラスを傾けている者もチラホラ。

 テーブルの上には交流会としての意向も兼ねてか国色鮮やかな料理が並び、タンドリーチキンにスープカレー、カナダ料理のプーティンにブラジル料理のフェジョアーダ。はたまた日本の寿司もあったりと、鮮やかすぎて若干混沌と化している。純日本人としては、カレールー用のグレイビーボートに白玉ぜんざいが浮かんでいる姿はちょっといただけない。

 

「ミユキ大丈夫?最近思い詰めた顔してるけど……悩みごと?」

「ん?ああいや、ちょっと試験続きで疲れただけだ。しかし、すごい人の数だな」

 

 視界の8割を埋め尽くす人影に思わず溜息が零れる。おまけにその殆どが知らない顔。一期生のみの招待とはいえ、全学科の学生が集まっているのだから当然と言えば当然か。野外フェスもかくやといえるほど高まり過ぎた人口密度。けれど実際は単なるビアガーデンの一角に過ぎず、それも学内施設の一部だというのだから、相も変わらぬ規模の大きさに辟易させられる。東京の地で慣らされていなければ間違いなく人混みに酔っていただろう。

 

『まずは皆さんに“お疲れ様”を一言。スタンフォードに入って初の学期末試験。皆が皆、多くの苦難があったことと思います。』

 

 『飲み会』……といえば、それは社会に出れば誰もが経験するもの。

 日本においては縄文時代後期、海外では紀元前3000年前の古代メソポタミア文明にまで遡ると言われる酒造り。その存在が人類史に与えた影響は言うに及ばず、既に食文化を越えて、良かれ悪しかれ人類社会の基盤にもなっている。「大人の階段を登る」という言葉の持つ漠然的なイメージも、飲酒する姿を想像すれば、ああ、と納得してしまうだろう。

 

 それは社会人予備軍と称される大学生活でも同じこと。サークル活動や学会での懇親会、友人同士の飲みなど理由や機会は様々なれど、今まで触れてこなかった大人(アルコール)の世界に飛び込んでいく機宜でもある。

 

 

『そして何よりアホみたいに難しいテスト問題。広すぎる試験範囲に情け容赦なく繰り出されるレポート。ていうか何だあのC問。あんなの出るとか聞いてねーぞ』

 

 今まで真面目にも手を出さず、初めて口にする酒の味におっかなビックリな初心者も。実は既に隠れてこっそり嗜んでいた有段者も。誰もが年齢的合法という赦しの元、大手を振ってジョッキを掲げられる解放感に、喜び、騒ぎ、時にはハメを外しすぎることだってしばしば。

 己の限界も分からず勢いのまま飲み続け、挙句二日酔いの苦しみに呻きのたうつ者。自身の適度なペースと容量(キャパシティ)を学び、程よい楽しみ方を身につける者。それら苦しみも楽しみも全てを飲み干して、果てなき飲兵衛(のんべえ)の道へと突き進む修羅だっている。

 それもまた、ちょっと熟した青春の1ページ。社会に出る前の予行演習と言えるのかも知れない。

 

 

『勉強を抜きしても多くの苦労があったでしょう。慣れない異国での暮らし。文化の違い、言葉の違い。日常のちょっとした歪みはストレスとして積み重なり、負担になっていく。だから』

 

 もっとも文化圏の違うこの国では、それほど身構える必要はない。日本では一時流行った飲みニケーションの文化とは異なり、アメリカでの飲みはあくまで“遊び”。

 広大な庭先に集まって、巨大な肉を転がすBBQを皆で楽しむ。そんな懇親会とは名ばかりの気軽なパーティーであり、仕事上の関係を持ち込むのは逆に倦厭されがちだ。日本のサラリーマンのように、道端に倒れ伏すまで飲み続けることもなければ、一気飲みの強要で病院に担ぎ込まれることもない。

 

 

『だから……』

 

 ましてやこの場(スタンフォード)に集うのは、やがては世界を背負う選り優りの秀才・天才達。酒に溺れる痴態を晒すようなこともなければ、我を忘れて荒れ騒いだりもしない。

 今夜のパーティーだってそう。あくまで優雅に。穏やかに。ワイングラス片手に談笑と食事を楽しむ、そんな華やかなものであると――

 

 

『だから今日はそんなもん全部忘れて飲み明かすぞオラァァァ!!!』

 

「「「「「YEAHHHHHHHH!!!」」」」

 

 

 

そう……思っていたんだがなぁ

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第7話 吐露

 

 

 

 

 

「「Yeeeehaaaaw!!」」

「「Ураааааааа!!」」

「ヒーハー!!ヒィィィィヤハァァァァ!!」

「だー、うるっさい!!ちょっとは落ち着いて飲めないの!?」

「ヒハ?」

「まず人語を思い出せ」

 

 怒号とも狂声ともとれない叫び声を上げる学生達に混じり、蛮族さながら大ジョッキを両手に掲げて踊るキリー。ああ、そうなのだ。此処での飲みはまず素のテンションからしてヤッベェのだ。

 

「なんだあんだお前らぁ!こんなときまで真面目ちゃんかぁ!?酒も全然進んでねぇじゃねえか、ほれほれ!」

「なっ!?ワインの上からテキーラ注ぐバカがあるか!」

「あっれー、間違えちったぁ!?ぶひゃひゃひゃひゃ!!」

「こいつ……っ」

「落ち着けエイス。これが酒飲みのペースだ。惑わされたら禄な事にならん……というかお前が本気で殴りにいったら、それこそ洒落にならんから」

「ミユキも元気ねーぞぉ!あれかぁ!?毎日あの可愛い彼女とヤりまくって疲れてんのかぁ!?羨ましいってもんじゃねぇぞコンチクショー!?」

「よし構わん。思いっきりひっぱたいてやれ」

 

 スパァンっ!と頭をはたく軽快な音が鳴り響くも、誰一人として振りかえる者はいない。皆が皆、苦しみから解放された喜びに声を上げ、中にはテーブル突っ伏して嗚咽混じりに泣き荒ぶ者もいる。

 

 まあ気持ちはわかる。

 過酷と熾烈を極めた学期末試験。米国の大学は入学(はい)ることより卒業()ることの方が難しいと聞くけれど、それを思い知らせるかの如く次々と課される無理難題に、誰もが心をすり減らす日々であった。

 

――え?なにあの先生、いつもニコニコしてるのにこんなエグい問題出すの?

――恐ろしく巧妙な引っ掛け。俺でなきゃ見逃しちゃうね……てか、ここテストには出ないからって授業中に飛ばしたところじゃなかった?

――問題が!まず問題が専門用語だらけで意味分からないんですけどぉ!?

 

 まるで殺意が込められているのではと疑わしくなるほどの難易度。自らの学力に対する絶対の自信を持ち、初めての試験ということもあり余裕の表情を崩さなかった天才達も、しかし2日目を過ぎた頃には「これはヤバい」と察したのか、皆こぞって駆込み寺のごとく図書館へと集まる始末。中には寝袋を持ち込んだり図書館前にテントを張ったりと、職員から注意を受ける生徒もいた。

 

 なにせ必修科目においては、成績が悪い(赤点) = 即留年が決まってしまうのだ。加えてこれは学力競争の場。秀知院学園時代がそうであったように、其処には必然、化かし合い(ダーティプレイ)というのも生まれてくるのである。

 

 権謀術数による腹の探り合い、嘘の付き合いなど序の序。敢えて内容を改竄した資料を提供し勉学を遅らせたり、図書館の資料の独占することで他者の学習を妨害したりと、手腕や方法もまたグローバル。

 特に酷かったのは、テスト形式や出題範囲について大幅な変更があったというデマを流し周る輩が出たことだ。

 

 テストの「形式」「範囲」言えば、勉強する上でまず押さえておかなければならない重要なファクター。いま学習しているところは本当にテストに出るのか?全く見当違いのところに時間を浪費しているのではないか?そんな不安が頭に過ぎっていては満足に集中出来るはずもない。

 加えてタチの悪いことに、その噂は正しい情報もあれば間違いなものもあったりと、清濁入り混じった内容であったため、疑心暗鬼による更なる混乱を助長することになった。

 

 正確な情報を確かめようにも、頼みの綱である掲示板もあてにならない。仔細の書かれた掲示物()が既に剥がされてしまっているため、正誤確認のしようがないのだ。勉学に追い詰められたノイローゼ一歩手前の学生が、学内全てのゴミ箱をひっくり返す珍事件があったが、それも全て徒労に終わったそうだ。

 過去に遡るか、或いは日々変化する掲示板の様子をマメに写真や映像として残していない限り、正答を知ることは出来なくなってしまっていた。

 

 ……まあ、そういう背景もあってか

 

「お?おおぉう?ミユキが5人に増えて丁寧丁寧丁寧にステップ踏んでる」

「飲み過ぎだよ」

「いいや間違いなくオメーに叩かれたせいだよ。痛ってーくそ、脛まで思いっきり蹴飛ばしやがって、」

「?なにそれ。叩いたのは頭だけだよ」

「しっかし、ほんと助けられたぜSHIROGANE☆CHANNELには。あれが無かったら俺たち全員足のひっぱり合いで共倒れになってたぜ?」

「ほんと顎向けて寝られねーよ」

「足な。あと動画化したの俺じゃないし」

 

 慣れない仕草で拝むように両手を合わせては、貢物と言わんばかりに焼けたばかりの肉を次々と白銀の皿へと盛っていくクラスメイト達。SHIROGANE☆CHANNNELとは、その名が示すとおり、白銀御行が撮影した動画をほぼ無編集、ノーカットで垂れ流しただけのチャンネルである。白銀がその携帯で撮ったもの……

 

 

『あと複素数関数応用と、海洋物質学と制御工学と――』

『待て待てちょっと多い。

 まとめて動画で送るから、自分で確認してくれ』

 

 

 

「どうりで、日に日に撮影箇所やアングルに注文が増えていくと思った」

「いいじゃねえかよぉ、減るもんじゃあるめぇし。というか聞いて?あんだけ頑張って動画上げたのに、商法目的は許さないとかで大学側からストップ入って、結局俺のところには一銭も入って来なかったんだぜ!?許されるかこんな横暴!?」

「完全に自業自得だろうに」

「俺はなぁ!この情報化社会にありながら未だに掲示板なんて古典的システムに頼る大学の体制に一石を投じるべくだなぁ!」

「はいはい」

 

 御行が毎日足繁く通っては、動画に納めていた日々の掲示板の様子。それは図らずもクラスの全員が渇望するものであり、動画(チャンネル)の存在は瞬く間に学内中に知れ渡ることとなった。……いいや、むしろその価値に目をつけ、某動画サイトに勝手にアップロードし、再生数欲しさにいたずらに宣伝しまくった輩がいたのだ。

 加えてこの男(キリー)がチャンネルの価値を上げるために、例の誤情報(デマ)を流しまくった裏も既に抑えてある。

 

「……いや実際、バレたらクラス全員から袋叩き確定なんで、どうか内密にお願い致します(ヒソヒソ)」

「状況的に共犯疑われるから言い出せんだろ……というか完全にソレ狙いで俺の名前でチャンネル作ったろう」

「いえいえ?ミユキさんがクラスに打ち解けるための、ちょっとお手伝いをネ?」

「オマエほんといつか刺されても知らんぞ」

 

 

「あーあ、いいよなぁ他所の学部は。試験全部終わって、あとはもう夏季休暇にむけてまっしぐらなんだろ?」

「俺らも『情電』さえ無けりゃなぁ。アレが残ってるせいで、試験はまだ終わってないんだって水差されてる気分だぜ。宴会の楽しさも半減」

「結局いつに延期になったんだっけ?」

「9月10日。夏季休暇真っ只中。

 何が悲しくて休みに入ってまで試験問題に怯えなきゃならんのか」

「まあ毎年“留年生産機”とか言われるほどクソ難らしい『情報電子学』の勉強期間が延びたって考えれば、ちょっとはマシな気持ちになるけど」

「それな」

「はぁ……。もう面倒くさいことは全部忘れよう。とりあえず、お互いよく今日まで頑張りましたってことで、うい、乾杯」

「「「「うえーい」」」」

 

 やる気のない音頭と共に再びグラスを掲げる学友たち。なんとも気怠い。普段はあんなにも凛々しい彼らがこのあり様とは、やはり酒の力は恐ろしい。

しかし秀知院時代においても、こんなに仲間うちで駄弁る経験(機会)もなかった御行にとっては、不思議と悪くはない。寧ろどこか安心を抱ける時間だった。

飛び交う愚痴に悩み話。いかに天才の集まりとはいえ、皆まだ二十歳も届かぬ者達。思えばなにを警戒をしていたのか、皆それぞれに苦労や悩みを抱えているのだと……そんな当たり前のことを知る夜だった。

 

 

 

■□■□■□■□

 

 

 

「いやいやオマエ、ウイスキーはそんなグビグビ煽るようなもんじゃねぇよ死ぬぞ?」

「うーん??ダイジョーブ僕あれだから。強いから。腕にエタノール塗っても全然赤くなんなかったから」

「その検査方法わりと眉唾で信じちゃダメなやつ!おい水持ってこい、早く止めろこのバカ!」

「なあ……こいつ(エイス)今まで友達できなかったの従姉妹のせいにしてるけど、割とこいつ自身も結構アレなんじゃ……」

「言ってやるな。アイデンティティ壊れちゃうから」

「一つ飲んでは父のため。二つ飲んでは母のため。三つ飲んでは……なんだっけ?」

「ガンバレ♡(男)ガンバレ♡(男)」

「やだぁ!?なんか野太い声援が聞こえるぅ!?」

 

 それから宴もたけなわ。

酔いの勢いに任されるまま制御(かじ)を失った話題は、何故か“誰が一番酒に強いか”に始まり……

 

「辛っら!?これ辛っら!?なに考えてんのお前ん(とこ)の料理!?」

「いやそっちこそ、何をどう血迷ったらパイから大量の魚の頭が生えてくんだよ。夢に出そうで怖えーよ」

「ヘイ、ワッツ ディス(なんぞこれ)?」

イッツ ジャパニーズ スシ(おまえ、これ寿司やで)

ポイズン(フグ)!?」

ノット ポイズン(フグではない)

「そういや日本人以外が海藻食うと腹壊すって聞くけど、あれどうなん?」

「炙ってない生の海苔はダメらしいけど、まずそんなの食べる機会ないから」

「うちの親父が乾燥わかめを腹一杯食いまくって、水飲んだら死にかけたって……」

「それきっと別の理由」

 

 郷土料理の食べ比べに飛躍し

 

「じゃ、じゃあ題問18の……(3)は?」

「B」

「Bだったな」

「いやB以外あるか?あそこ」

「終わったぁ!もう全部終わったぁ!留年確定!!」

「大丈夫だって、他が全部合ってる可能性も」

「そこ一番自信あったとこだよぉ!」

 

 

 試験問題の答え合わせを経由して

 

 

「もう元気出せってグエン。元々無理して付き合ってたんだろ?だったら別れられて良かったじゃねぇか。」

「そんな簡単に割り切れるかよ……。3年だぞ3年。それが突然、こんな終わり方……納得できるかよ」

「なぁに忘れた方が楽になる。人生なんて結局、削れ朽ちる岩肌みたいなもんなんだから」

「その心は?」

「あ、ごめん。それっぽいこと言いたかっただけ」

「正直かよ」

 

 最後には、失恋に泣き暮れるクラスメイトを慰める会へと軟着陸するに至った。

 

 それはもうさめざめと。元々泣き上戸だったのか、あるいはずっと押さえ込んでいたものが酒の力で決壊してしまったのか、テーブルに突っ伏して泣き荒ぶグエンと呼ばれた青年を周りの皆で励ましている。

 と言っても既にかなり酒も回っているため、割と空気はぐだぐだ。適当にヤジを飛ばすものが大半で真面目に聞いているのも2,3人がいいところ。隣で真剣に相槌を打っているように見えるエイスも、実は眠気に誘われうつらうつらしているだけだったりする。

 

「……」

 

 御行としては……酷く耳に痛く、居たたまれない。

今日まであまり話す機会の無かった(グエン)ではあったが、しかしどこか自信と似た境遇、同じ心の傷を抱える者同士としてか、その背中には少なからずのシンパシーを感じてしまっていた。

いつにもまして感傷的な気分になってしまうのは、自分も酔いが回っているからか、それとも……

 

 

「やっぱり、初恋なんて上手くいかねぇのかな……」

 

 ポツリと。力なく呟かれた言葉に、ぎゅっと唇をかむ。

 

「何だそれ?」

「あれ、お前のとこはないの?この常套句。イタリア(うち)は有るぞ」

「というか、その年で初恋だったんかよオマエ」

「…悪ィかよ。お前らだって似たようなもんだろ。ここ(スタンフォード)に来るまでの間、勉強漬けでまともな青春なんて送ってこれなかった筈だ」

 

 グラスを傾ければカランと崩れる氷の姿をうつろな瞳が追う。その滲んだ光沢の向こうに、遠い誰かの陰を思い出すように。

 

「そりゃ俺自身、高嶺の花だと思ってたし、彼女に合わせるため色々無茶もしたよ。

 けれどそうやって……彼女にふさわしい人間になろうと踏ん張る自分も、嫌いじゃなかった」

「……」

「忘れた方が楽だってこともわかってる。けど次の彼女を見つけて、心移りして……そんな簡単に捨ててしまえるのなら今までの想いは何だったんだよ。

 自分の“本気”さえ、否定してしまえる奴に……次に誰かを本気で好きになることなんて出来るのかよ。」

 

 言葉の途中にもかかわらず、崩れるようにまた突っ伏してしまう彼。酔いつぶれしまったのか、あるいは泣き疲れてしまったのか、そのまま微かに聞こえ始めた寝息にやれやれと肩を竦める友人達。

 

 

 ああ、けれど分かる。わかってしまう。

 

 自分にもいたのだ。見栄を張り、無理を重ね。自身の全てを懸けてでも、隣に立ちたいと想える人が。

 

 重ねてきた想いが強く大きいからこそ、手放してしまうことがまるで自分の身を切り落とすようで。嘘と捨て、思い出と忘れてしまう心が欠陥品のようで恐ろしくなる。

 あれだけ本気と嘯いていながら、それを"違う誰か"に向けることが酷く軽薄なことに思えて。

また同じ。また繰り返し。どんなに真摯に愛を叫ぼうとも容易く(わすれ)てしまえること想いに、はたして価値はあるのか。そんな想いしか紡げない自分に……"誰か"を本気で愛することなんて出来るのか。

 

 それが潔さの欠片もない、醜い執着だってことも分かってる。

それでも考えずにはいられない。答えを見つけずには進めないのだ。

 

 そうしなければ自分もまた――

 

 

『恋愛感情は永遠ではないの』

 

 

 あの人と同じ。いつか本当に大切な人さえ、切り棄てられる人間(じぶん)になってしまいそうで。

 

 

 

「……ま、初恋なんてそんなもんだわな。恋に恋するっつーか。経験不足っつーの?自分と相手の心に振り回されるまま、お互い必死になりすぎていつか擦れちまう。本当に幸せになれるのは、そんな肩肘張った関係じゃない。弱いところも汚いとこも認め合って、一緒に居て安心できる人じゃなきゃな」

「なんだ、ずいぶん語るじゃん。流石、伊達に振られ慣れてないわ」

「8人に告白して10人に振られた逸話の持ち主だわ」

「告白する前に振られるとか何そのレジェンド」

「……あれだ。女なんて全世界の半分、35億人もいるんだから切り替えて次目指せ、次」

「それ幼女から老婆まで全部カウントしてるけどな」

「流石のストライクゾーンの広さだわ」

「お前ら逐一茶々入れるのやめてくんない?」

 

 寝息を立てる本人を他所にやんやと盛り上がるキリーたち。

しかし先ほどまでは居心地のよかった筈の盛況がどこか息苦しく感じて、背を向けるように一人席を立つ。

 

「飲みすぎたな……ちょっと風に当たってくる」

「うん……?人多いから迷わないよう気を付けてね」

 

 心配そうに覗くエイスの瞳が酷く申し訳なく思えて、その視線から逃げるように足早に人混みへと紛れ去っていく。

いったい何を後ろめたさを感じているのか、誰に言い訳をしたいのか。暗濁と揺れ動く自分の気持ちに胸を押さえながら。

 

ただ……瞼を閉じれば自然と浮かぶ彼女の横顔に、また胸がズキリと痛みを生んだ。

 

 

 

■□■□■□■□

 

 

「おい、どこの馬鹿だ、網を鶏肉で埋め尽くしやがったのは。焼けるのに時間かかるでしょーが!?」

「こっち火ぃ消えかかってんぞ!豚バラ持ってこい豚バラ!」

「うっわ…なによこの、赤くてやたらグロいソーセージ」

「ちょっと血が多めに入ってるだけだ。マスタードと一緒に抱きしめてやれ」

「ジン♪ジン♪ジンギスカーン♪ふーんふふ、ふんふるふっふ、ふーんふふ、ふんふるふっふ♪」

「サビ覚えてねのーかよ」

「サビなのかここ?」

「うぐ……えぐっ……」

「ちょっと何この子。なんで泣きながらご飯頬張ってるの」

「ああ、そいつの生まれ英国だから。こっち来て初めて食の素晴らしさに目覚めたとかで」

「プリプリの身に油に塗れてないサクサクの衣……こんな美味しいフィッシュ&チップスがあるなんて……」

「ああ、うん……もっとゆっくりお食べな」

 

 耳に入ってくる様々な会話を聞き流しながら、人々の合間を縫うように歩いていくこと数分。相も変わらず人に溢れた会場内は、屋外だというのに酸欠の不安が頭に浮かぶほどのごった返しぶりだ。涼めそうな場所は見つからず、ともすれば押し寄せる人波に本当に迷子になってしまいそうになる。

 

「……?」

 

 一旦戻ろうかと思案していた折、ふと視界の隅、すし詰め状態の会場内でポッカリと、穴の開いたように誰もいない空間が広がっていることに気付く。

 誰かがもどして(・・・・)しまった痕を清掃しているのか?と飲み会ではよくあるトラブルを思いかべもしたが、原因は別にあると直ぐに解った。というより、その後姿を見収めた途端、「ああ、なるほど」と納得してしまう人物がいた。

 

 野外広間に沿うように並び建つ店舗の一つ。色取り取りの酒瓶を棚に並べたスタンドバーにて、脚の高いスツール席に腰掛けては悠々と晩酌を傾ける一人の女性。特徴的なウェーブのかかった髪を揺らし、喧騒を嫌うように会場へ背を向けては何事かをバーテンダーに注文している。

 

 いったい何をすればあそこまで恐れられるのか。彼女を中心に半径10m。まるで恐怖を本能に刷り込まれたかのように如実に距離をとり、空洞を形作る他の学生達。もう十分酔いの回っている頃合いだろうに、それでも畏怖が勝るというように頑なにデッドラインを越えようとはしないのだ。

 

 彼女についての悪評(うわさ)は耳に届いている。というよりその1番の被害者であろう友人が積極的に届けてくる。曰く、彼女の口はパンドラの箱。一度開くだけで世にあらゆる厄災を齎し、会話するだけで内臓年齢が10歳年老い、グッとガッツポーズしただけで相手が吐いて倒れただの……ほんと、いったい何処を目指しているのか。

 

「What's the hell!?何をしているジャパニーズ!ナンパをするなら相手を選べ!!」

「カミカゼトッコー!?」

 

 彼女に近づこうとするだけで、こうも周りが騒めきだす始末。静かに話がしたいという願いも到底望めそうになかった。

 

 

「何の用よ」

 

 カランとグラスの中の氷を鳴らしては、振り返りもせずに呟くベツィー。

 

「後ろに目でもついているのか?」

「こんだけ周りが騒いでれば馬鹿でも気が付くわよこの………ちっ、飲みすぎたわね。良い罵倒の言葉が浮かんでこないじゃないの」

「浮かばんでよろしい」

 

 こちらを向く彼女の表情は、それこそ道端のゴミでも見下ろすような邪険に満ちた顔。

もう随分飲んでいるのか、頬は朱色に染まり普段の威圧感も削がれているというのに、蛇の様に絡みつく視線は変わらない。よくもまあ、これだけ正直(まっすぐ)に人へ悪意をぶつけられるものだと、感心させられそうになりながらも気圧されないよう一歩踏み出す。

 

「で何よ。なんか話でもあるわけ?一緒にいて、仲良いとか思われるの恥ずかしいんだけど」

「……なに。会場を歩いていたら寂しそうな背中が見えたんでな。寮の方はどうだ?いい加減、相方は見つかったのか?」

「アンタそれを誰から……ああ、なるほどエイスね?上等よ。あとで今日胃に入れたもの全部吐き出させてやる」

 

 安易に挑発に乗ってしまったこともそうだが、友人への思わぬ飛び火に「しまった」と後悔を浮かべる白銀。

 正直に明かせば、彼女との接し方は未だによくわかっていなかった。

なにせ善意を持って接すれば、(そこ)を突き込むように一気に心を崩しにかかってくるし、逆に悪意を持って臨めば何倍にも増幅して跳ね返してくるのだ。ホントいったいどうしろというのか。

 

 けれと同時に、彼女が話し相手に飢えているであろうことは、なんとなく察しが付いていた。

別段、参加を強制されていない本日の交流会。それでも彼女がこの場に足を運んだということは、少くとも人類に対して対話を望もうという意思は残っているのだ。

 もっとも現状を見る限り、その試みは上手くはいかなかったようだが……そう考えると、腹立たしげに見える彼女の表情にも納得ができた。

 

 

「今日は……まあ、なんだ。一言、礼を言いに来た」

「あぁ?礼だぁ?」

 

 心底信用ならないと言った顔でこちらを睨み返すベツィー。礼を言われることにこれだけ疑いを示すとは、どれほど自身に対する評価が低いのか。いや、高いのか。

 

「何よ。あんたそっち(・・・)の気でもあったわけ?じゃあ無視させてもらうわ。私の信条は本当に相手が嫌がることだけを――」

「いや違う、そうじゃない。というかそんな歪んだ信条聞きたくない。俺が言っているのは試験前のことだ」

 

 そう。試験が始まる前に図書館で彼女と交わした会話。

ベツィーからすればそれは一方的な罵倒であったかもしれないが、白銀の心を酷く傷つけると同時に、かつての気概を取り戻す確かな火種にもなったのだ。

 アレがなければ、おそらく今の自分はなかった。きっと今頃なけなしの自信さえも砕かれて、潰れていただろう。

 

「ハッ、何が礼よ憎たらしい。やっぱり酒どころか自分に酔ってる奴は考えることが違うわ。

 言ったでしょう?私がするのは相手が心底嫌がることだけ。少なくともあの時のアンタは、そう(・・)すれば潰れてくれると思った。

 そうならなかったのは、ただアンタの努力が――」

 

 言葉の途中、ちっ、と不機嫌そうに顔を歪めてはグラスをカウンターに手放すベツィー。

 

「やっぱりダメね。色んなの混ぜて(ちゃんぽんして)飲むもんじゃないわ……何よそういうアンタは殆どシラフじゃないの」

「い、いや。味は嫌いではないんだがな……どうにも精神的な嫌悪が」

 

 グラスの中、金麦色に透き通るソレに思い出してしまうのは、幼い頃より見てきた、だらしなく家で飲んだくれる父の姿。

定職にもつかず、普段何をしてるかもわからないのに、晩酌だけはしっかりとるその姿に、ああは成ってはいけないと、無意識下にブレーキが効いているのかもしれない。

 

「はぁ?それで食わず嫌いって、一番情けないパターンじゃないのよ。アンタこれから社交界に出ていく上でパーティーマナーがどれだけ重要になるか分かってる?

 主宰に“楽しんでない”ってのが伝わればそれだけでアウトなのよ?それを病気ならまだしも精神的嫌悪とか言い訳に飲まないとか、下戸以前にただの愚図で――」

「(やっべ、一気にスイッチ入った)」

「マスター。こいつにジム=ビーム一つ。ストレートで」

「ちょ、ちょっと待て!あんまり強いのは――!」

「40度以下なら全部水と同じよ。ロックなんて甘えてんじゃないわよ。飲んで吐いて飲んで吐いて。そして強くなるのよ」

 

 完全に飲兵衛(のんべえ)の理論であるが、既にその瞳にロックオンされ、首根っこを掴み抑えられている以上逃げようがなかった。こんなに酒癖の悪い奴だったとは。いいや、蛇といえばウワバミであると相場は決まっているのだから見誤ってしまったのは此方の失態か。その様は“大学の嫌な先輩に絡まれている図”そのものであった。

 

 

■□■□■□■□

 

 

「いいわー。アンタただでさえ青白い顔してるんだから、それぐらい真っ赤になったほうが丁度良いのよ。目も据わって更に目つき悪く……あん?なにガン垂れてんのよアンタ」

「ひゃれてない」

 

 そのまま何が地雷になるかわからない彼女に飲まされ続けること数十分。

『人を虐めている時が一番輝いた顔をする女』というのがエイスの談であったが、正に今の彼女は麗かな水辺で戯れる少女の如く、眩しく美しい笑みを浮かべているのだった。

やっていることは大の男の顎を鷲掴み、無理やりグラスの中身を流し込むことであったが。

 

 軽く話すだけのつもりだったのに、どうしてこんなことになっているのか。疑問に抱くには遅く、既に足元さえ覚えつかなくなっていることに気づく。

ああ、頭が痛いし世界がグルグルと回っている。心配になるほど大きく聞こえる鼓動。呂律の方も既に怪しく、味以前に脳がアルコールを拒んでいるとわかる。

 

「ーー……。 …」

「?」

 

 そんな折、ふと耳に届いた嗚咽混じりの泣き声。

振り向くと10mの間隔を開けた先、自分と同じようにテーブルに突っ伏する学生が目に止まる。

周りの浮かれた空気とは一線を画すように暗い表情を浮かべた彼らは、悔しさか悲しさか、目元を深く歪ませては陰鬱に顔を沈みこませていた。

 

「……気にすることないわよ。あいつらは、もう諦めた連中だから」

「諦めた……?」

「そ。今回の試験で留年が確定して、自主退学を決意した連中」

「———っ」

 

 ベツィーの言葉に、冷水を浴びせられたかのように酔いが冷めていく。

 

「まあ大方今回のことで、自分のレベルがこの大学には及ばないって心折れたんでしょうね。

 別に珍しい話じゃないわ。毎年必ず数人は出てくる……。何よその目。別にアタシは何もしてないわよ。

 ただでさえ忙しいって時に、そう誰彼かまわず苛めに行ったりするもんですか」

 

本当だろうかと白銀の視線を不機嫌そうに睨み返しながら、クッ、とまた一杯グラスを飲み干す。

 

「正直な話をすればね……留年自体もそう特別な(こと)ではないわ。実際、この大学でも毎年4割近い生徒が留年して卒業を先延ばしにしている。

それほどに此処(スタンフォード)での修学は険しく厳しい……アンタだって嫌って程思い知ったでしょう?」

「……そうだな」

 

 少し前の自分。全力を出すことを恐れ、"身の丈に合った努力”なんて、そんな甘い言葉を吐いていた己を、殴り倒したくなるほどには。

 ……けれどせっかくスタンフォードに入ったのに、そんなに早く諦められるものだろうか。

中退が就活に与えるリスクを考えれば、踏ん張ってでも来年に賭けるべきなのでは

 

「納得が出来ていたなら、あんな悔しそうな顔浮かべないでしょうよ。

 そりゃね。留年して、もう一年しっかり勉強すれば、来年には合格する可能性だって確かにありうる。

 でも物事はそう簡単じゃないでしょう?大学(ここ)に居続けるには、毎年莫大なまでの授業料を納めなければならないし、生活費や教科書代だけでも相当な額になる。

 経済的に裕福な学生は家に泣きつけばいいけど、そんな家庭ばかりでもない。ま、特別奨学金が出てるアンタには関係の無い話でしょうけどね」

「そんなことあるか。奨学金と言っても、結局は体のいい借金みたいなものだ。

 卒業後には働いて返さなければならないし、その返済に何年も苦しむ人だっている」

「……そうね。だからこそ、よ。極端な話、高い授業料を払い続けるよりも、早めに中退して社会で働き出した方がずっと稼げることだってある。バイトをして授業料を賄おうとする生徒もいるけど、ただでさえ講義やレポートで追われる日々にそんな余裕があるかも疑わしい。そんな計画性や甲斐性のある人間なら、初めからこんな問題に悩まされたりしない。結局ズブズブと成績を落としていって、何年もして退学を言い渡されるのがオチ。残酷な話……こんなところで心折れるような奴に、この先を歩いていけるとも到底思えない」

 

 ベツィーの語る生々しいまでの現実に、押し黙るしかない白銀。

大学生が社会人予備軍といわれる所以。資金、生活、将来。そんな生きていくうえでは避けて通れない問題を、己の力で越えていかなければならない。

学生の本分は勉強というけれど、もはやそれだけに注力していればいい身分ではないのだ。

 

「ま、どうあれ選択するのは本人の意志よ。それを否定することなんて誰にもできない。大学で習えることなんかよりも、社会に出てから学ぶことの方がずっと多いわけだしね」

「…随分優しい意見だな。もっと」

「もっと貶すものと思った?そうね。少し前の私なら、この無精者。落第野郎と散々に罵り倒していたでしょうね。実際今も7割がたそう思ってるわ」

 

 半分以上じゃん、とげんなり視線を送る白銀の声に、くっくと笑いながらもまたカランとグラスを鳴らす彼女。

 

「他人を甘やかすのなんて大が付くほど嫌いだけどね、それでも多少の社交性は見せておかないといけない。此処にいる人間の殆どは、地元を離れ知己の友人一人いない身の上。そんな中で情報交換もできなければ上とのコネクションも築けない“ぼっち”でいることは、冗談抜きで致命的なのよ。

 各研究室の内情や、今回の試験にしてもそう。人伝いでしか得られない情報が大学(ここ)には在り溢れている。今までのようにプライドの高さに(かま)けて孤高を演じたところで、後に待つのは取り返しのつかない負債だけ……アンタの方は、そこんところ上手くやってるみたいだけどね」

「ああ。アンタの従兄弟にも、いつも助けられてるよ」

「そ。ぶっちゃけソレはどうでもいいわ。

 重要なのは“今までの自分のままでいい”なんて考えてる奴に、成長なんかできないってこと。莫大な資金や時間。そういう代償を払ってまで此処に残り続ける限りは、この環境で成長し、誰にも真似できない理想の自分にならなければならない。そんな覚悟が必要なんだって……学ばされただけよ」

「……その割に言動は変わってない気がするんだが」

「しょうがないでしょ。癖なんだから」

「癖で人の心を折らんでくれ」

 

 なんだとコラと再び酒を注ぎ始めたベツィーを他所目に、テーブルで泣き暮れる彼らへと視線を戻す。

彼らだって、そういう(・・・・)夢を持って、スタンフォードへと足を踏み入れたのだ。一般枠という狭き門を潜り抜けた彼らの実力は、推薦枠で通った自分のソレよりも遥かに上だったかもしれない。

それでもこの結果に至った。周囲の環境か。一人で生きていかなければならない重圧か。日々見えない何かに心を摩り減らされて、本来の自分を見失ってしまった。

 

 ……ああ。もし自分にも『彼女』という存在が居てくれなかったなら、きっとあそこと同じ場所に立っていただろう。

 

 改めて思う。自身を取り巻く恵まれた環境。

同時に――それが"異常"とも言い換えれてしまうこと。

 

 長年連れ添った夫婦というわけでもない。まだ学生の身分だというのに、自分という人間の一番の理解者が傍で支えてくれる生活など、普通では考えられない。

 もう半年近くにもなる早坂との同棲。けれど、その対価として彼女が求めた“スタンフォード合格までの家庭教師”も、今やカタチだけのものになりつつあった。

 元々努力家の彼女だ。買い物以外ではあまり外には出ようとはせず、家事以外の殆どの時間を勉学に費やしている彼女に、自分が教えられるものなど殆ど残されていなかった。

 それでも、頑なに必ず2人の時間を守ろうとする早坂。高校時代までなら、御洒落や流行りのものを求めて街に繰り出すことも嫌いではなかった筈なのに……何かに遠慮するように。ソレが義務だというように。

 

 家事に勤しむ合間や夕食の折、今日一日の出来事を語る姿はとても楽しそうに見える。

それでも、その約束が彼女を家に縛り付けているようで。本来得るはずだった幸福を奪い取っているようで、どうしようもなく居たたまれない気持ちになる時がある。

 

 

 本当は分かっていた。早坂には何か別の思惑があること。

スタンフォードに入学したいなんて……そんな理由さえ嘘だということも。

 

『なあ、アンタ本当は―――四宮のために来たんじゃないか』

 

 彼女が初めて家に訪れた時に聞いた問い……聞くべきだった問い。

けれどそれは未だ胸の奥にしまい込まれたまま、彼女と過ごす時間が増えるほどに、告げることが難しくなっていく。ソレを聞いてしまえば最期。この温かな時間の全ても崩れ去ってしまいそうで。

 ただ勉学に都合のいい環境だからではない。

 ふとした折、彼女が見せる柔らかな微笑みを思うほどに、大きくなっていく想い。

 

『多くの人が、貴方の姿を“綺麗だ”と感じたんです。』

 

 胸の中へと芽生ていく感情の名前。早坂愛という一人の女性へと抱く想い。

 

 ああ。それを分かっていながら……未だに気持ちの整理もできないまま、答えを出すことを恐れている、この卑怯な心も。

 

 

 

「ったく、人が飲んでる横で辛気臭い顔浮かべんじゃないわよ。酒が不味くなるわ」

 

 顔を向ければ、心底不機嫌そうなベツィーの憤懣顔が飛び込んでくる。投げられる視線に遠慮など微塵もなく、その舌先に覗くのは一切の情け容赦なく相手を切り刻む鉄の剃刀。

 

「……一つ、いいか」

 

 ああ。けれど今は……そんな彼女だからこそ、だろうか。酔いを言い訳にするように。初めからソレが目的だったというように、自然と口は言葉を紡いでいた。

怪訝そうに眉をひそめたベツィーは、しかし続く白銀の言葉に心底驚いたように瞳を丸くする。

 

「はあ?アンタ……まじ?

 自分で言うのもなんだけど、わたし相手に恋愛相談とか、正気の沙汰じゃないわよ」

 

 まな板の上で自ら腹を開くようなものだと語るベツィーだが、それでも白銀の瞳を見ると「勝手にしなさい」と頬杖をついては、また2杯、酒をマスターへと注文した。

 

 熱気と喧騒に包まれる会場内。しかしソレを忘れるように、互いに琥珀色に染まるグラスを揺らしながら、密談は続いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

「お、いたいた。ほら向こう(あそこ)だ。やっぱ別の誰かと飲んでるんじゃねーか」

「なにが“帰りが遅いから探しにいこう”だよ。ミユキだって子供じゃねーんだぞ」

「だってなんか思いつめた顔してたし……」

「こんな気ぃ弱ぇくせに、一度も吐かずに飲み続けるんだもんな。人は見かけによらない……いや、よるのか?」

「てか、ミユキも隅におけねーな。話してる相手女じゃねーか。彼女いるくせに」

「いやそれ本人は否定してるから。ていうか相手は誰ズエェアェアア!!?」

「ギャアアっ!?おっま、こんなところで吐くとか、ふざけんなよマジで!?」

「あー……ありゃベツィーだ。こいつのトラウマ。視界に入れさすべきじゃなかったな」

「しかしまた珍しい組み合わせだな。ミユキとあの傷舐め剃刀がねぇ……おまけに結構いい雰囲気じゃね?」

「いやいや無いだろ、あいつに限って」

「はっ、やっぱり女心ってものが分かってねぇなグエン。どんなに突っ撥ねてたって不意に寂しくなる時はあるんだぜ?そのタイミングを見逃さず、心の隙間に入り込むように声をかけることがナンパ成功の秘訣だ。そこんとこミユキはよく分かって――痛ったあ!!だから脛蹴るんじゃねーよエイス!!」

「いやエイス気絶してるから」

「てかお前ら冷静に話してないで、ちったあ介抱しろ!」

 

 

 

■□■□■□■□

 

 

 

『よーし、それじゃ今日はこれでお開きだ。バスで帰る奴は早く乗れー。他のも間違っても飲酒運転なんかすんじゃねぇぞ。バレりゃ一発退学だからなー』

 

 約一時間後。最初の真面目な雰囲気は何処へやら。すっかり出来上がってしまった司会の終了の言葉とともに、交流会は終わりを迎えた。眠りこけた友人を起こす者や、まだまだ飲み足りないと街への凱旋を話し合う者など、未だ宴の熱も冷めやらないなか、皆のろのろと覚束ない足取りで会場を後にし始める。

 

「……」

 

 そんな学生たちを傍目に、自らが酔い潰した青年を隣にカウンター席で一人、琥珀色のグラスどこかが名残惜しげに見つめるベツィー。なんとまあ柄にもないことをしてしまったと、くすぐったさを胸に残しながら。

 

「何の用よ」

「……後ろに目でもついているんですか?」

 

 後ろから近付いてきた気配に一言。

 またこのやり取りかと振り返れば、そこには帽子を被った鳶色の瞳の少年が佇んでいた。

いいや。一見ならばまず騙されてしまうだろうが、瞳の色はカラーコンタクトだし、帽子の中には纏めた髪が結っているであろうことが分かる。

 まったく、わざわざこんな変装までして、ご苦労なことだ。

 

「飲んでる最中もあれだけ視線を向けられれば嫌でも気付くわよ。ったく、鬱陶しい。心配しなくても別に盗りゃしないわよ、こんな奴」

 

 隣でテーブルに突っ伏して眠る白銀の頭を肘で小突きながら、呆れ気味に呟く。その所作が気に触ったのか、あるいは初めから負の感情でも持ち合わせていたか、少年は纏う空気をより張り埋めさせてはこちらを睨みつける。

 しかしそんな敵意などどこ吹く風。これくらいの敵愾心など日常茶飯事だと涼しい顔をしては、未だ起きない青年の頭をガシガシと揺する。

 

「ほら、いい加減起きなさい。愛しい彼女が迎えに来てるわよ」

「……ち、がう。早坂、は……」

「——」

 

 口元から零れ出た囁きにも満たない声に、けれど瞳を伏せてぎゅっと唇噛む少年。

 

「ひっどい顔ね。悲しみもしなけりゃ喜びも出来ない、雁字搦めもいいところ。

 こいつが散々悩むのも分かるわ」

「……」

「なにを話したか聞かないの?」

「……そんな下賤なことはしません」

「そ。アンタもこいつに負けず劣らず、難儀な性格してるのね」

 

 呆れの溜息をつくのと同時、少年の10メートルほど後方から近づいてい来る数人の影があることに気付く。あれは確か……御行の友人(ツレ)か。その中には、おそらく自分の姿を視界に入れまいと、目隠ししたまま歩いてくる従兄弟(アホ)の姿もあった。

 目的はこの少年(おんな)と同じ、御行の回収だろう。しかし少年の方は、正体がバレるのを嫌ったか、踵を返すようにその場を後にしようとするのだった。

 

「待ちなさい。一つだけ忠告よ」

「……忠告?」

「そ。アンタがどんな目的でコイツと一緒に居るかは知らないけどね。……それに気づかないほどコイツは馬鹿じゃない。

 嘘を通して、何かを我慢して。そんな生活を続けていたところで……いずれ間違いなく破綻するわよ」

 

 

 こちらの言葉に何を返すこともなく、ただ唇を噛みしては振り返り背を向ける少年。

そんな事、言われなくても分かっているというように。

それでも……どうしようもないのだと嘆くように。

 

 

「ああ……本当に難儀だこと」

 

 エイスたちと入れ替わりに人混みへと紛れ消えていく背中。その小さく、今にも泣きだしてしまいそうな影を、ベツィーの瞳はいつまでも追い続けていた。

 

 

 

 

 




あとがき

な、なんとか投稿完了できました……(瀕死
お待ち頂いていた皆様にほんと申し訳ありません。
あと3、4話くらいで本編の方は終わる予定なので、もう暫くお付き合いください。
ああ、月日が経つの早すぎるよマザー。一年歳を負うごとに三倍くらい早くなってる気がするよファザー。
絶対フロリダでプッチ神父がなんかしてるって


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未来 前編

想像以上に長くなってしまったため、前後編に分けての投稿になります。
後編もなんとか今週中には上げるつもりです。


 

 

 

 

 

 

 

 事の始まりは

 

 

 

 

 

「デートに行くぞ。早坂」

 

 

 

 

 

 彼が放った、そんな一言からだった。

 

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第8話 「未来」

 

 

 

 

 

 

 

「………」

 

 

 

 顔をあげれば、広がるのは雲一つない青空。緩やかな碧の丘陵に囲まれたこの地域は、こういうカラッとした秋晴れになることが多く、どこまでも続く透き通る青に吸い込まれそうな心地になる。風も適度に吹く心地の良い日和ではあるが、しかしやはり直射日光は辛いため、唾の広い帽子は欠かさない。

 

 

 

 約束の時間まであと30分。待ち合わせ場所ーーといっても、家の玄関を出たすぐそこなのだけれどーーに立ち尽くしたまま、心中穏やかではいられない胸を何度も宥め直す早坂。

 

 

 

(本当に、どういうつもりなのでしょう)

 

 

 

 飲み会があったあの日から約3週間。大学内は既に夏季休暇真っ盛りといった空気に包まれ、実家に帰省する者やサークルメンバーでバカンスに行く者など、皆往々にして休みを謳歌している。

 

 しかし我が家に至っては特に変わらぬ日常で……いや、変わりはあるか。講義が休みということもあり、今までに無かった空き時間というものが生まれたことで、かえって拗らせていたミユキ君のワーカーホリックぶりが爆発。研究室の手伝いやデータ整理の労働など、数多くのバイトを請け負っては、テスト期間時以上の多忙さに身を窶していた。

 

 ここ2週間程に至っては何処かへ通っているのか、朝早く出かけては毎夜遅くまで家を開ける始末。帰ってくる頃には心底疲れたというようにソファへと突っ伏してしまうものだから、どうしたのかと尋ねもしたが、頑なに理由を教えてくれないのだ。

 

 

 

 まだ1教科残っているとはいえ、テスト期間も終えたのだから、ゆっくりと休んで欲しいと思ったのに……此れではまるで、家に居たくないようだと、どこか不安な気持ちが浮かんでくる。

 

 憂いの根底。3週間前、例の交流会でベツィーと御行くんが交わしていた密談。あれ以降、彼の様子が著しく変化したのも確かだ。

 

 

 いったい彼女と何を話したのか。どんな会話を交わしたのかは、雑踏あふれる会場内では聞きとることはできなかった。御行くんに直接尋ねようにも……本来、私はあの場に居なかった筈の人間。変装してまで様子を伺っていたなどと知れれば、要らぬ不信や疑いを抱かれかねない。今ある日常を壊したくない自分としては、それはどうしても避けたいリスクであった。

 

 

 いいや。理由はきっとそれだけじゃない。

 

 

『アンタがどんな目的でコイツと一緒に居るかは知らないけどね。……それに気づかないほどコイツは馬鹿じゃない』

 

 

 未だ胸の奥に残る言葉の棘。

 

あの密談の中で御行くんが吐露したであろう本音。それを確かめるということは……聞き出すということは、あの人が私へ抱く後ろ暗い感情と直面することに他ならない。それが今の私には、どうしようもなく恐ろしくて……足がすくんでしまってまう。

 

 

 

『嘘を通して、何かを我慢して。そんな生活を続けていたところで……いずれ間違いなく破綻するわよ』

 

 

 分かっている筈だった。けれど見ないフリをしていたかった現実。それを改めて否応なく目の前へと突きつけられたようで……以来、胸の奥には重く暗い影が渦巻いていた。

 

 

 

 

 ああ。そんな不安を抱えていたからこそ、だろう。

 

 先の一言は……デートに行こうと誘ってくれた彼の申し出は、とても唐突で、驚愕ではあったけれど。沈んでいた心に暖かな光が差し込むようで、素直(ほんとう)に嬉しかったのだ。

 

 

 良かった。嫌われて、避けられていたわけではなかったのだと、柄にもなく心からの安堵を浮かべてしまったりもした。

 

 

 無論、戸惑いがなかったわけでもない。

 

彼にしては珍しく強引なスケジュール調整。予めこちらの予定を把握してくれていたのだろうが、それでも直前の通知というのは、らしくない急な申し出に思えた。

 

 加えて、「デート」というあまりにも直接的(ストレート)単語(ワード)。かつては恋愛頭脳戦などと、回りくどい事この上ない争いをしていた彼の性格を思えば、あまりに攻めた発言だ。

 

 

 ――やはりベツィーの入れ知恵だろうか。

 

どうにも彼女には、アダムとイブにリンゴを食べるよう唆した悪い蛇のイメージがこびりついて離れない。

 

 

 それでも。未だ疑いの想いは晴れなくとも、喜びに舞い上がりそうになっている心。

 

 我ながら一体なにをはしゃいでいるのか。昨日の夜から何度も鏡と見比べては選んだとっておきの服。カジュアルながらも清楚さを前面に押し出した純白のワンピース。身支度一つとて、気がつけば2時間近くも費やしてしまっていた。

 

 久方ぶりのお出掛けという事もあっただろう。何より……どうしても意識してしまう。彼との、人生二度目のデート。ダメだと心で律していても、高鳴る気持ちを抑えられないでいる。

 

 

 ああ、何を勝手な。初めからそんな■■など、持ち合わせていないというのにーー

 

 

 

 

 

 期待と緊張が入り混じるような溜息を零しながら、チラリと腕時計を見れば、時刻は午前7時45分。待ち合わせまでは後15分あるものの、未だに彼の姿は見えない。

 

 

 時間に余裕を持つ彼にしては珍しい。そも家の前で待ち合わせなどするくらいならば、初めから一緒に出かければいいのに……今日という日に向けて、何かしらの準備をしているのか、明朝、まだ空が瑠璃色に染まらないかという頃には、彼の姿はもう家の中から無くなっていた。

 

 

 

 クロスストラップの靴で背伸びしては、いまかいまかとその姿を探す。しかし見えるのは路上を走るハイブリットカーが一台。他に人影らしいものも見当たらない。

 

 

 何かあったのだろうかと、ふと不安を覚え携帯を取り出すも、メールや着信に何の通知もない。こうなれば一度電話して確かめた方が早いかと、通話ボタンに手を掛けかけたその折———先ほど路上で見かけた車が、ピタリと家の前で停車するのが見えた。

 

 

 

「すまん。ギリギリになってしまったな」

 

「ーーー」

 

 

 カーウインドウが開いた先。運転席から顔を出した御行くんの姿に、危うく携帯を取り落としそうになる。

 

 陽光を跳ね返すCR-Vの煌びやかなボディ。外車特有の左ハンドル。シックなブラウンのレザーに包まれた内装。無論それがレンタカーであると分かっていても、目の前の光景に思わず言葉を失ってしまった。

 

 

「い、いつ免許なんて取ったんですか?」

 

「ここ数週間、教習所に通い詰めてな。ようやく昨日DMVから免許が届いたところだ」

 

 

 DMV。日本でいうところの運転免許試験所。確かにアメリカでの免許は日本のソレとは違い、安価かつ比較的短期……最短二週間も有れば取得できるとも聞く。受講可能年齢は16歳。飛び級で1歳若く大学に通う御行くんでも十分取得可能ともなれば、資格中毒者である彼が見逃すはずもなかった。

 

 

「もしかして、最近帰りが遅かったのは……?」

 

「ああ……教習所の講師に随分厳しくあたられてな。猛特訓をする羽目になった」

 

 

 どこか疲れような顔で語る彼。なるほど、毎夜の憔悴した顔もそれが原因か。私に黙っていたのは、おおかた彼が大好きなサプライズのためだろうが……。

 

 

 

「それはまあ大変でしたね。

 

 で?取得するまでに何人病院送りにしたんですか?」

 

「……質問の内容おかしくないか?なんでそんな」

 

「何・人・ですか?」

 

「……2人」

 

 

 やっぱり、と手を額に盛大に溜息をつく早坂。

 

 

「い、いや、別に事故は起こしてないぞ?ただクラッチの切り替え感覚が難しくてだな。急に動いたりエンストしたり、車がガクンガクンとロデオのように暴れるものだから、気がついたら助手席の人が白目剥いてて」

 

「それで済んだと見るべきか……教官さんの鬼訓練にも感謝納得ですね」

 

 

 弁解になってない弁解にまた一つ溜息。しかし彼という人間の性質上、それだけの犠牲を生み、修練を積んだ以上は、しっかり人並み超えた実力を身につけていることは確かだ。ただでさえ危ない車の運転だが、少なくとも命を脅かされる危険は排除してもいいだろう。……たぶん。おそらく。Maybe。

 

 

「ああ。今ならコップに並々注いだ水を溢さずに停車、発進できるぞ」

 

「ほんとに、どうしていつもそう極端なんですかね」

 

 

 冷めた視線と共に助手席に座れば、運転席(となり)の困ったように笑う彼の横顔がよく見える。

 

 ……なんだか、とても新鮮な光景。運転時の視野を矯正するためだろう、その瞳に掛けた縁の細い銀の眼鏡はよく似合っていたし、悠々とハンドルを操る姿は何処か大人びて見えた。

 

 いつぞや雑誌で見た『彼氏のカッコいい姿ランキング』の上位に、『車を運転する姿』というのがあったけれど……なるほど、その気持ちも少しだけ分かる気がした。

 

 

 

「それで。今日は、デート、という事ですけど……どちらに向かうんですか?」

 

 

 ゆっくりと走りだした車に、努めて平静を装い尋ねたつもりが、やはりどこか言い淀んでしまう。家の中とは違う特殊な環境。常にすぐ側に感じる互いの存在に、どうしても緊張を隠せない。髪をいじる所作(ルーティン)で気持ちを落ち着かせながら、泳ぐようにカーナビへと目を移す。

 

 

 考えられる候補しては……彼が前々から行きたいと言っていた、『グリフィス天文台』あたりだろうか。米国内でも指折りに数えられる天体観測所。ロサンゼルスの街を観光できるあの場所ならば、デートにももってこいの環境ではある。ただーー

 

 

「それも考えたんだがな。だが移動だけで車のなか片道5時間は流石にキツいだろう?だから今日はあくまで日帰り行ける範囲。近場のサンノゼで昼をとって、その後は大学の中を見て回ろうと思う。ロサンゼルスは……また今度だな」

 

「大学を、ですか?」

 

「ああ。今まで忙しくて、なんだかんだと一度も案内出来なかったからな。学生用のパスがあれば研究室やもっと奥まで見学することもできる。だから……まあ、デートというには味気ない観光がメインになってしまうんだが……早坂も今年末には受験するんだ。どんな場所かは興味あるだろう?」

 

「……。そう、ですね」

 

 

 何処か煮えきらない、曖昧な返事。彼の厚意に対する罪悪感か。重ねている嘘への後ろめたさか。厳密にはデートではない……そう語る彼の言葉にも、落胆と安堵。自分でも整理できない複雑な感情の波が、胸の中で渦巻いていた。

 

 

 

そんな心情を知ってか知らずか、彼は徐に懐から3.8mmカセットテープ……マジックでタイトルを手書きした明らかに手製のソレを取り出すと

 

 

「なに。道中退屈なら、このお気に入りのナンバーを流せば」

 

「嫌、やめてください。一体いつの時代の人間ですか」

 

アメリカ(こっち)ではまだ割と人気(メジャー)なんだぞ?レトロブームというか、アナログブームというか……」

 

「“お気に入りの”の時点でもう死語なんで却下です。ほら信号変わりますよ。行って行って」

 

 

 ぬぅ……とちょっと不満げな顔を浮かべながらもアクセルを踏み出す彼。少しだけ勇み足なのは、彼もまた今日という日に舞い上がってくれているのか……そう思うと、ほんのりと胸に温かさが蘇る。

 

 

 

 背中越しに伝わる揺れ。耳に触れるエンジンの音、オープンガラス一杯に広がる満天の青空。

 

 ああ、今日も暑い1日になりそうだと、その眩しさに目を細めた。

 

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

 スタンフォードからサンノゼまでの距離は車で数十分。その間ラジオをつけるでもなく、ここ最近の出来事など他愛もない会話を繰り返す二人。

 

 やはり習慣というのは偉大というべきか、初めは抱きすぎていた緊張も、彼と話しているうちに段々と解れていった。窓から入ってくる麗やかな日差し。涼しい風。そして絶叫。

 

 

「凄い悲鳴ですね」

 

「ああ。アトラクションの大半が絶叫系らしいからな。おまけに何故だかは知らないが、夏季の半年間だけしか営業してないらしい」

 

 

 サンノゼへと向かう道会いに覗く巨大遊園地『カリフォルニアズ・グレート・アメリカ』。その名が冠する通り、カリフォルニア州を代表する一大テーマパークであり、東京ディズニーランドに匹敵する敷地面積内に所狭しと絶叫系アトラクションが並んでいる。車道から見えるのはコースターの端っこ部分ぐらいだが、それでも遠く離れた此処まで悲鳴が届くほど。

 

 

「今が正にシーズン真っ只中だからな。ウチの生徒も相当遊びに行ってるんじゃないか?」

 

「だからこんなに車も多いんですね。……ちなみに御行くんはどうなんです?そういう絶叫系。個人的には、凄く弱そうなイメージありますけど」

 

 

 本当は超絶苦手で、アトラクション入場までの並び時間も、顔を真っ青にするほど震えているのに、それでもプライドにかけて頑なに逃げまいと踏ん張っているイメージ。

 

 

 

 

「いや。正直どうだろうな……うちは貧乏だったから、まず遊園地に行けた機会が」

 

「ごめんなさい、この話は無しにしましょう。すみませんでした」

 

「そんな矢継ぎ早に謝らんでも。早坂の方はどうなんだ?個人的には、凄い強そうなイメージだが……いや。一見何事もなく平然を装っているけど、自己暗示で恐怖心そのものを押さえつけて実際はかなり余裕無いイメージ」

 

「あー……」

 

 

 我ながら、いかにもやりそう(・・・・)だと苦笑いを零しながらも、しかし冷静に考えてみれば、自分もそういったアトラクションには過去一度も乗ったことがないことに気付く。幼少より四宮家の近従として仕える身。誘拐の危険もあるかような大衆施設に主人を連れて行けるはずがなく、つまるところ、その楽しさというのは私も……

 

 

「今度、一緒に回るか」

 

「はい……宜しくお願いします」

 

 

 妙にしんみりしてしまった空気の中、そんな約束を交わしながら、また聞こえてきた悲鳴をBGMに車は長い下り坂をひた走って行くのだった。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

 Apple 。Facebook 。Google 。誰もが耳にした事のある一大企業をはじめ、数多くの技術系グローバル企業が密集するシリコンバレー。そのお膝元であるこのサンノゼ市も、街全体が清潔感と解放感に包まれた美しい街である。

 

 同3大企業も本社をかまえるハイテク感溢れたガラス張りのオフィス街に、同じくらい自然(ミドリ)に富んだ街並み。休日となれば多くの人が往来し、中にはこれも一種の最先端なのか、携帯電話片手に電動キックボードを蹴って移動するビジネススーツ姿のサラリーマン等も見られた。

 

 

 

 

「待ってください、これって日本じゃまだ発表すらされてないモデルですよね!?こっちは……Home Podの最新版!?」

 

 

 Apple本社内に飾られた大小様々な展示品を眺めては、マジやばー♡と興奮冷めやらない様子の早坂。流石は電子機器大好きっ子。専門用語入り混じる英語で書かれた紹介文も難なく読み上げては感嘆の声を上げている。

 

 

「やっぱり米国(こっち)ではもう、6G普及に向けた開発が進んでるんですね。最先たーん♪」

 

「けどまだ通信会社ごとで改善項目は定まってないんだろ?カバレッジ拡張や高信頼通信……航空衛星間通信の分野に力を入れてくれると助かるんだが」

 

「そうですけど……ちょっと意外。御行くんもそういうこと興味あったんですね」

 

「後々の研究でも必要になる知識だからな。と言っても、まだほんの基礎部分しか学べてないから、早坂にも色々と教えて貰えると助かる」

 

「それは……はい。喜んで」

 

 

 少し嬉しそうに口元を緩ませては、通信システムやその仕組みについて、あれやこれやと解説を加えてくれる早坂。過去こんな話題を触れる相手に恵まれなかったからか、あるいは単純に興奮のためか、途中からやけに早口になって聞き取りづらくはあったが、なんとか付いていくことだけは出来た。

 

 

「でも研究なんて、普通は三期生になってから始めるものですよね?どうして一年目(いま)から……」

 

「まあ今のところはバイトの傍、先輩の手伝いをしているだけだけどな。何せ本気で研究しようと思ったら、実験方法の立案から装置の作成まで全部自分で行わなければならないんだ。時間や知識はいくらあっても足りないし、始めるなら早い方がいい。だから今は、後学のための勉強、兼、研究室の皆に顔を覚えてもらう……まあ点数稼ぎみたいなものだな」

 

「そんな卑下した言い方しなくても……大切なことですよ?」

 

 

 今という時期。彼の年齢でそこまで考えられる人間がどれほど居るだろう。たとえ考えたとして、それを実際に努力へと移せる人間が果たしてどれほど……

 

 

「早坂だって、これだけの知識があれば直ぐにソフト開発にも取り組めるんじゃないか?」

 

「私の方こそ、ただ趣味が嵩じただけの偏った知識ですよ。そんな甘い世界じゃないです」

 

「好きこそ物の上手なれとも言うし、しっかり学ぶ環境さえあれば上へ登り詰めていける才能だと思うんだがな……。それこそ、妥協するような性格でもないだろう。

 

実際どうなんだ?こういうの、好きになる切っ掛けみたいのはあったのか?」

 

「切っ掛け……」

 

 

 虚空を見上げては、糸を手繰るように過去の記憶を掘り返す。といっても、詳細はもはや思い出せない。動画を観たり、調べ物をするのに便利だと覚え始めたのかもしれないし、それらもパソコンに触れている間にいつの間にか身についていた知識だった。もともと流行り物が好きだったし、忙しい日常のさなか、個人(ひとり)で楽しむのには都合が良かったというのもある。

 

 

 ああ、けれどそれと同じように……毎年の如く更新されていく機器。

 

姿形を変え、次々と機能を拡張して。今まではあり得なかったとされる技術で、過去の常識を置き去りにしていく。そんな目まぐるしいまでに発展していく電子機器の世界に驚きを覚えていたのも確かだ。

 

 

 なにせ一昔前までは携帯電話にカメラ機能なんて付いていなかったし、パソコン一台置くなら、ディスプレイだけで机一つを丸まる占領していたのだ。それがソフト、ハード、通信技術……全てがほんの十年でどんどん発展して、小型化して……スマートホンのような、かつてならSF上の産物でしかなかった物を、今では誰もが当たり前のように持ち歩いている。

 

人の技術の発展や進歩。そういうものを一番身近に、如実に感じられるのが、この電子機器業界(セカイ)だったのかもしれない。

 

 

「ですから、まあそんな知識も持っていたら格好いいなと……気付いたら熱中していたというか……。」

 

 

 次第にか細くなっていく声。無闇に熱くなる頬。話しているうちに酷く恥ずかしい気分になってくる。

 

 自分の「好き」を語る機会なんて今まで無かったし、冷静に考えてみれば女子で自作のパソコンを組み上げているなど、世間一般で見ればかなりオタクへと足を突っ込んでいる部類だ。実際かぐや様(あの子)にも相当引かれていたし、もし彼にも同じ表情(かお)を向けられたらと思うと、羞恥や不安を覚えずにはいられなかった。

 

 

 しかし彼はおかしそうに笑うと。

 

 

「まさか。そんなことを言いだしたら、大学に通う連中(俺達)は皆一人残らずオタクだよ。

 

寧ろそうでもなきゃやっていけない」

 

「……そんなものでしょうか」

 

 

 疑い気に呟く私に、俺を見てみろと、鼻上の眼鏡を中指でわざとらしくもクイッと押し上げて見せる彼。そのなんとも様になっている姿に、思わず吹き出しそうになった。

 

 確かに、大学で一つの専攻に通う生徒は、その分野の知識を切り詰めた専門家(オタク)のようなものだし、そういう場所だからこそ新しいアイデアも生まれてくるのだろう。そう考えると、ほっと安堵が浮かぶと同時…・・・彼の通う大学という場所にも、少しだけ興味を引かれた。

 

 ……ほんの少しだけれど。

 

 

 

 

「——と、話してるうちに、もうこんな時間か。そろそろ次の場所に向かおうと思うんだが」

 

「え……()だ。もう少しだけ……あとこのフロアだけ」

 

「この時間になると、やたらと道が混むようになるんだけどな……まあ2、30分くらいなら大丈夫か」

 

「あと3時間だけ」

 

「此処だけで一日終わるつもりですか。ほらパンフレット全部持って帰っていいから。なんなら来週もまた連れてくるから」

 

 

 新型機種のタブレットに齧りついては子供のような駄々をこねる彼女にツッコミ一つ。けれどこんなに浮かれた彼女を見るのは本当に久方ぶりで……やはり連れ出して正解だったとほっと息を零しつつ、白銀はまたスケジュールを組み直すのだった。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

「うっわ……滅茶苦茶な構造してるなコレ。話で聞いたより5倍は入り組んでるぞ」

 

「ここまで来ると、もう豪邸より迷宮って名乗った方が正しいんじゃないですかね」

 

 

 サンノゼ市街に数多く存在する観光名所。その中でも一際異彩を放つのが、此処『ウィンチェスター・ミステリーハウス』である。

 

 

 元々は銃ビジネスで栄えたウィンチェスター家。亭主の死後、彼の妻が霊媒師の助言をもとに建てたというその屋敷は、彼女が亡くなるまでの38年、それこそほぼ毎日にわたり昼夜問わず増築に増築を重ねた結果、今では“ガイドの助けがなければ二度と外に出られない“と評されるほど、複雑怪奇な迷宮へと成り果てていた。

 

 現在は住まう人もおらず完全な幽霊屋敷。その成り立ちや痛烈すぎる見た目のインパクト故に、カルフォルニア州の歴史的重要建造物として登録されているほどである。

 

 

「部屋数およそ160室。暖炉の数47戸。窓ガラスの数だけでも1万枚以上って……聞いただけで気が滅入る。掃除するだけでいったい何人要るし」

 

「そんな所帯じみた感想(こと)を……いや、どちらかというと職業病の方か?」

 

 

 近従時代の多事多端を思い出してるのか、悩ましげに俯く早坂の頭をそっと撫でる。

 

 

「けど(うち)だって、一人で掃除するには正直キツい広さだろう?こっちの生活にも十分慣れてきたんだ。そろそろ家事の分担を考えてもいいと思うんだが」

 

「うちはいいんです。二人しか住んでない分、汚れる箇所も少ないんですから。私の楽しみとアイデンティティを奪わないでください」

 

「いや、だが掃除や料理の手伝いぐらい良いだろう?暫く包丁や鍋に触ってないと、腕が鈍ってしまいそうで」

 

「そんなこと言って。この前一緒に料理した時だって大変美味しいものを作って下さったじゃないですか」

 

 

 不満気たっぷりな表情でごてる早坂。

 

 

 そう。同じ食材。同じ調理器具を使っているはずなのに、どうしてあそこまで味が変わってくるのか。食材の持つ旨味を極限にまで引き出す技量とでも言うべきか。それが黄金炒飯の件しかり、彼が長年に及ぶ苦しい貧困生活のなかで培ってきた技術なのだと分かっていても、やはりプライドを負かされたようで悔しいものは悔しいのだ。

 

 

「だから私の腕が其処(・・)に追いつくまではダメです」

 

「いや、だが」

 

「あれだけ普段“ありがとう”とか“美味しい”とか言ってくれるのに、実は内心自分で作った方が美味しいとか思われるの、ほんと嫌なんでダ・メ・で・す」

 

「思わんって」

 

 

 というかそんなに言っていただろうか。意識していなかっただけに、若干気恥ずかしい思いに駆られながらも、拗ねたように先を行く彼女の背を慌てて追いかける。まさかこれほどまでに抉らせていたとは。これは昼食の店選びも慎重に行わねばと、密かに気持ちの糸を引き絞る白銀だった。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

 

 香ばしい珈琲の香りが鼻を擽る。ビターカカオを生地に混ぜた、ふんわり大人の味わいが魅力のパンケーキ。メインストリートの外れにひっそりと佇むその喫茶店は、店主のこだわりなのか入口の看板が非常(ヤケ)に小さく、人目につきにくいいで立ちではあるものの、昼時でも喧騒も遠く忘れられる落ち着いた風情のある店であった。

 

 

「ん、生地にナッツが入ってる。食感もすごく美味しいですねコレ」

 

「この域地(あたり)にしては値段もリーズナブルだし、おまけに昼限定でパンケーキ一枚がおかわり無料らしい」

 

「じゃあ早速頼んじゃいましょうか」

 

 

 少しご機嫌斜めだった彼女も、流石のプロの技量を前には刀を下ろすのか、フンフン♪と舌鼓を打ちつつご満悦の様子だ。紹介してくれた研究室の先輩に胸の中で何度も感謝を述べつつ、また珈琲へと口をつける。

 

 

「そういえば、この近くにも天文台があるんですよね。そっちは寄らなくてもよかったんです?」

 

「ああ、『リック天文台』だろう。世界で初めて山頂に作られた歴史的にも有名な天文台だ。まあただ今の管轄はカリフォルニア大学だから、イベント期間中でもなければ望遠鏡は覗かせてもらえないらしい」

 

「それは……ちょっと残念でしたね」

 

「いいや。元々今日行く気は無かったからな。なにせ天文台までの道中が相当に入り組んだ山道のうえ、細いカーブだけでも300以上越えて行かなきゃならないらしい。元々はロバの通り道。着いた頃にはみんな車酔いでグロッキーになってるそうだよ」

 

 

 先輩の体験談だ。そう語る彼に、なるほど、それはデートで行く場所じゃないなと肯く。それに星空を眺めるのならば、行くのは夜になってからだろう。

 

 

 

 一度目を閉じれば鮮明に蘇る。頬をなでる冷たい風の感触。虫の微かな声だけが響く静寂のなか、空一面を覆い広がる星屑の海。

 

 

 

「………」

 

 

 

 およそ一年前。彼との初めてのデートで見上げた星空。その輝きは、今でも色褪せることなく瞳の奥へと残り続けている。

 

 もっとも彼が覚えているかどうかは、定かではない。デートと言っても、それは一方的な感情(もの)で、彼自身にその自覚は無かったかもしれないけれど……

 

 

「それにな。今は望遠鏡を覗くより、もっと熱中できることがある」

 

「……?それってもしかして、さっき言ってた研究のことですか」

 

「ああ。まあ詳しくは大学に帰ってから話そう。午後からはそれがメインだしな。

 

けどその前にもう一ヶ所。サンノゼ(ここ)で見ておきたい観光地(ばしょ)があるんだが、いいか?」

 

「別に構いませんけど……どちらへ?」

 

 

 不思議そうに小首を傾げる早坂に、白銀はどこか悪戯気に微笑むと

 

 

 

「なに。ちょっと日本までな」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 視界を包む艶やかながら侘び寂びのある緑の景色(いろ)

 

 カコンッーーと。水の重さに柔らかな音を響かせる鹿威し。

 

 

「はぁ~~」

 

「口、開いてますよ?」

 

「いや、これは開くだろう。凄いなここ」

 

 

 周りに生茂るは緑溢れる松林。池にかかる赤塗りの桟橋に、苔の生えた石造りの灯篭。池には赤や金色の鱗を纏った色取り取りの錦鯉が泳いでいたりと、その風景はまさに伝統的な日本庭園そのままである。

 

 

 あまり知られてはないが、サンノゼ市と日本の岡山市は姉妹都市の関係にあり、ここ『日本友誼庭園』もその友好の意を込めて、かの後楽園を模して造られた。その再現度は素晴らしくも凄まじく、整えられた砂利と石畳と歩道に、木と瓦作りの長屋門。思わず米国にいることを忘れそうになるほど、見るも立派な御庭なのである。

 

 

「おお、合鴨まで泳いでる。中で飼ってるんだろうか」

 

「これまたほのぼのと……緑茶とか飲みたくなってきますね」

 

「それな」

 

 

 また一つ零れる弛緩した息。たとえ作り物だと解っていても、緑の色や匂いに心安らいでしまうのは、やはり自分は根っからの日本人なのだろう。

 

 

「でもせっかく米国にまで来て、わざわざ日本のものを見るというのも変な話ですね」

 

「いや、でも……あるだろう?旅行に行ったはいいけど、目に映るもの全てが真新しいものばかりで。せめて見知ったコンビニやチェーン店のものでも食べて、少し落ち着きたくなる気分の時って」

 

「ごめんなさい、ちょっとよく分からないです」

 

「そうかー」

 

 

 残念そうに溢しながら、池垣から鯉用の餌をひとつまみ池へ落とす白銀。途端に口を開けた鯉達が我先にと集まってきてはバシャバシャバシャバシャ、ココココ、ココココと波立たせるものだから、水面は瞬く間に大盛況となるのだった。

 

 

 

 

 

 

「……まだ、帰りたいと思いますか?」

 

 

 その喧しさに紛れるように。あるいは聞き逃してくれたらというように。不意に、小さく囁くほどの声でポツリと呟く少女。

 

 “何が”とも、“何故”とも聞かない。酷く自分勝手な問いかけ。

 

 それでも、彼はただ静かに頷くと

 

 

「そうだな。残してきた圭ちゃん達(家族)のこともあるし、時折、無性に寂しくなることもある。まったく帰りたくないって言うのは……まあ強がりだろうな」

 

「……」

 

「でも、それも以前ほどじゃあない。ここに来たばかりの頃……孤独に打ちのめされて。周りの全てに怯えて。只々泣き帰りたかったあの胸の冷たさは、もう無い」

 

 

 それは、ふとした時にも思うことだ。

 

 息も詰まるような膨大な量のデータ整理。いつ終わるかも分からない研究の手伝いに心が疲れ果てた時、思い浮かぶ“帰りたい場所”は、いつしかあの家になっていた。

 

 足の重い帰り路。寒々とした心を抱えるなか、家の窓から漏れ出る暖かな灯が見たときの安心感は……とても言葉では言い表せない。その温もりに、その存在に、いったい何度心を救われたことだろう。

 

 

「………」

 

 

 

 水面を眺め呟く少年の言葉に、キュッと唇を噛みしめる少女。揺れる瞳の色。嬉しさとも哀しさとも分からない、複雑な色を湛えながら

 

 

「……それ、は…」

 

「うおっ!?」

 

 

 バチャリと。水を弾くような音と共に、突如目の前へと飛んでくる幾滴もの雫。餌を求めた鯉が一際大きく跳ねたか。

 

 思案に呑まれ動けなかった少女だが、寸での所で少年が庇ったことで事なきを得た。

 

 

「大丈夫か?……というか、うおっ、とか言っちゃったよ、たかが水に驚きすぎか」

 

「い、いえ……ありがとうございます」

 

 

 恥ずかしそうに呟く彼に、けれどそれ以上に顔を朱色に染めて俯く。

 

 突然迫った彼の顔を直視することができない。庇われた際、抱き留めるように両手で掴まれた肩が熱を帯びて仕方がなかった。

 

 

 いつまでも鳴りやんではくれない鼓動。

 

 何を考えているのか。何を、期待してしまっているのか。

 

 危うくも抑えが利かなくなりそうな心を、必死に抑えることしかなかった。

 

 

「う……。ちょっと藻の匂いがついたか。染みとかできてないよな?」

 

「……別に。目立つような所は何処も」

 

「ああ、なら良かった。デートも問題なく続行できるな。時間も良い頃合いだ、そろそろ車に戻るか」

 

 

 そう言っては背を向け歩きだす彼に、貼り付けた仮面をようやく崩せる。必要以上に張り詰めた表情(かお)。動揺を伝えないにしてもやり過ぎか。

 

 密かに息を吐き、顔の熱を振り払いながら……けれど薄れゆく肩の温もりに、どうしようもなく寂しく覚えてしまう自分がいた。

 

 

 

 

 

『……それ、は…』

 

 

 何を言いかけてしまったのだろう。

 

 何を問いかけたかったのだろう。

 

帰りたい家。戻りたい場所。そう想えるのが……“私のおかげ”とでも言って欲しかったのだろうか。

 

 

 

 それだけは、一番望んではいけないと誓った筈なのにーーー

 

 

 

 

 追いかける彼の背中。未だ高鳴りを抑えられない浅ましい心に、少女はまた唇を噛みしめるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




デート回……というよりはサンノゼ観光回。
あんまり初々しすぎない雰囲気を目指したつもりですが、どうだったでしょう
こういう場面がポンポン変わる描写は苦手ですねorz


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未来 後編

投稿が遅れて誠に申し訳ありません!
11月中に投稿するとか宣っておきながら、"明けましておめでとう"さえ遥かに遅いこの時期にまでなだれ込む体たらく。
今年こそは、もっと早い執筆を心掛けていきたい。そんな抱負


「早坂は、うちの大学(スタンフォード)のことをどう思う?」

 サンノゼから戻る車の中。過ぎ行く街並みを窓の外に、ハンドルを握る御行くん(カレ)は唐突にそんなことを聞いてきた。

 どこか要領を得ない曖昧な質問。朝から続くデートではあるが、“行き”に比べて明らかに減ってしまった会話に気を使ったのかもしれない。

 

「どう、とは?」

「いやまあ……あるだろう?大学に抱く印象とか。実際に通学する俺を観ての感想とか、そういうの」

「……そうですね。大変そうだとは」

 

 それは率直にして素直な感想だった。

 大学領内の車道脇には常に百を超える無数のキャンピングカーが停まっている。それらは高額すぎる授業料故に寮を借りるだけの余裕もない苦学生が……或いは、あまりに多忙すぎるスケジュール故に家に帰る時間をも惜しい研究生が、寝泊まりしている仮住まいである。研究棟の灯りは一年を通して消えることは無く、この夏季休暇の時期でさえ変わらず不夜城として廻り続ける有様。

 それだけの過酷さ。そも人並み外れた学力と情報処理能力を持つ御行くんでさえ、毎夜遅くまで身を削り勉学に追われる環境なのだ。

 重圧や怖れ。大学に抱く印象はマイナス寄りであった。

 

 

「……そんな姿しか見せてこられなかったからな。正直、悪いと思ってる」

「そんな。御行くんのせいでは」

「まあそういう予感があったから、今日こうして大学を案内しようと思ったんだがな」

 

 どこか申し訳なさそうに眉を落とすも、交差点を曲がりながら何気なしに呟いてみせる彼。その意図は未だによく掴めない。

 

 木々の生茂る広大な森の向こうには、スタンフォードの象徴であるフーバータワーの巨躯が映る。敷地面積だけでも渋谷区の倍以上あるために、大学に戻ってきたというよりは一つの市街を訪れたような感覚。場所ごとで映る景色も全く異なるために“見慣れた”とは言えないけれど、それでも知った光景ではある。

 そも早坂(わたし)とてこの地に来て約半年になる身。買い出しの際には敷地内のショッピングモールに足を運んでいるのだから、学内のことを全く知らないわけではないのだ。

 だからこそ分からない。彼の目的。このデートの意味。

 御行くんはいったい……今更私に何を見せたいというのだろう。

 

■□■□■□

 

 

 スタンフォード大学病院のすぐ隣。北口第28番駐車場に車を停め校舎内へと足を踏み入れれば、そこには地獄の門が待ち構えている。

 それは別に比喩的な表現でもなんでもなく、まさに文字通り、かの天才彫刻家オーギュスト・ロダンが創り出した傑作『地獄の門』が聳え立っているのだ。

 

 スタンフォード大学が誇る一大美術展『ロディン・スカルプチャー・ガーデン』。その名の示す通りロダン(ロディン)が手掛けた作品を展示する巨大な箱庭は、『カレーの市民』、『考える人』の像をはじめ、日本でもよく知られる彼の代表作を幾つにも取り揃えている。

 

 一般的な美術展とは異なり、屋根や壁もなく、青々とした芝生が生い茂る庭に青銅製の像がデデンッと、それこそ野ざらしに見えるほどの大胆さで飾られているのだから、その存在感に初見の者はまず振り返る。一作あたり何億円もするロダンの像をこの大盤振る舞いなのだから、この大学の資金力にはいい加減眩暈を覚えてもいい頃だろう。

 

 

 ただ、そういう(・・・・)雰囲気もあってか……。

 

 中世の城砦を思わせる重厚な石畳。遥か高く天井まで大理石で覆われた広大な廊下も。ただ其処を歩いているだけで、自然と身を引き締められるような威圧感を感じさせられる。四宮家本邸を訪れた時とどこか似て非なる、荘厳さと厳格さに押し潰されるような感覚。世界最優秀の大学の名は決して伊達ではないのだと……そう無意識に訴えかけるような。

 

 すれ違う研究生たちの表情は、自分とそう年も変わらないはずなのに、酷く大人びて見えた。

 無二の自信を宿した迷いない足取りも。

 己の歩むべき未来をまっすぐに見据えるその瞳も。

 今の自分と比較してしまうようで、どうしようもない焦りを覚えるのだ。

 

 今更ながらに自覚(理解)する。何故自分が日頃大学内へ出向くことに消極的だったのか。

自責やあの子への後ろめたさだけではない。私自身の胸の中にあった惧れ。

 

 

「この手の芸術には明るくないから、どうにも良し悪しがなぁ……。観光客も多いようだし、早めに次に行くか」

 

 そんな私の内心を知ってか知らずか、見学も半ばに足早に美術展を後にしようとする彼。

 道ゆく学生たちと同じ瞳。彼らと同じ視線で、何の気兼ねもなく廊下を歩き進む姿には不思議と安心や頼もしさを覚えて……。人混みの多いなか、逸れないようにと差し出された手を、早坂は自然と握り返していた。

 

 

 

「それにしても、キャンバスボードを掲げている人が多いですね」

「ああ。芸術課の生徒だろう。コンクールが近いうえ、特に今季は死ぬほど課題も出されたそうだから皆必死だ。

 ただ、たとえモデルやポーズを頼まれたからといって安易に了承するな。軽く3時間は付き合わされるぞ」

「付き合わされたんですか?」

「さて、次に向かうメインストリートについてだが……」

「付き合わされたんですね?」

 

 美術展エリアを抜けると景色は一転、大きな湖を沿って伸びる公園のハイキングコースのような並木道へと変わる。背の高いヤシの木や落ち葉舞う広葉樹が織りなす木漏れ日の道は日の一番高いこの時間でも涼しく、愛犬の散歩やランニングに精を出す人の姿もチラホラ。

 道中には大学で契約しているチェーン店や、OB・OG(卒業生)が経営する個人商店なども顔を覗かせ、古本屋に自転車の貸出所……少し歩けばゴルフ場があるためだろう、スポーツ用品店なども人気であった。

 

 

「甘い匂い……洋食屋さんですか?」

「いや、美容室」

「美容?でも、ものすごいメイプルシロップの香りですけど」

「順番待ちで並んでる間にワッフルを出してくれる店でな。それがもっぱら旨いと評判なんだよ。いま並んでる客も大半が散髪よりそっち目的らしい」

「はあ。それはまた不思議な」

 

 

 メイプルシロップを整髪料代わりに塗りたくってくる美容師の幻想(すがた)を掻き消しつつ、小洒落た看板の向こう側、店の中でノンビリと談笑に耽る女学生達の姿を見つめる。それは日本にいた頃……秀知院時代、放課後にギャル不良友達と街のファーストフード店で駄弁っていた時の雰囲気と何も変わらない。気だるげで、楽しげで、何気ない日常を何気ないものとして受け止めている姿。

 

 ああも胸に抱いた緊張はなんだったのか、先ほどの厳格さとは一転、どこまでも素朴で長閑な雰囲気に毒気を抜かれる。あまりのギャップに本当に同じ大学内かと疑いたくなるほどだった。

 

「なんか唐突にでっかいトーテムポールも立ってるし」

「どっかの学生の作品らしいんだがな……詳細は分からん。おまけになんか数年前にも一本増えたらしい」

「……ちょっとよく分からない所ですね。此処(スタンフォード)って」

「それなぁ」

 

 インディアン調溢れる全高6メートルにもなる巨大なモニュメント(それ)を見上げながら、半ば理解することを諦めたように笑う彼。

 そんないい加減さで大丈夫なのだろうか?と若干の不安を覚えながらも、陰りもない彼の表情に安堵やら拍子抜けやらで釣られて笑みが溢れる。

 ああ、そんな緩さでもいいのだと。肩書きや先入観に惑わされて、自分もまた大学という場所に要らぬ緊張を抱きすぎていたようだ。

 

 

「惜しいな。いつもだったら此処で演劇サークルがリハーサルしてるんだが」

「そんなサークルがあるんですか?」

「ああ。学内公演や、ボランティアで外の育児施設なんかにも時折出向いてる。米国(こっち)ではそういう社会貢献活動も評価の一環になるからな。……演劇に興味があるのか?」

「別にそういうわけでは……私が別に好きで演技をしているわけじゃないこと、知っているでしょう?」

「……まあな。だが、だからこそソレを『好き』になれたらとも思ったんだよ。自分や他人を騙すためじゃなく純粋に誰かを楽しませるための演技。そこには違った面白さや喜びも見えてくるだろう。早坂の演技力なら、すぐ主役級だってもぎ取れるだろうしな」

「どうでしょう?それこそ、全く違った技術が必要になってくると思いますけど」

 

 疑い気に、けれど胸を擽る妙な気恥ずかしさに、ふいと顔を背ける。“ありえない”と一概に否定しきれないのは、自らの演技力に自信を持っているだけに、淡い期待も抱いてしまっているのか。彼が寄せてくれる言葉や信頼が、純粋に嬉しいという気持ちもあった。

 しかし同じように芽生える躊躇いの感情。四宮家に仕えていた今まででは決して許されなかった選択肢。想像もできなかった漠然的なまでの自由を前に、心は喜び以上に戸惑いを抱いていた。

 

「まあ演劇に限らず、此処は本当に色々なサークルに力を入れてる。テニスやバレー、フェンシングといったスポーツ系サークルについては専用のスタジアムを持つくらいに盛んだし、ブラスバントや演芸といった文化系サークルだって数々の表彰と実績を重ねてきた伝統ある部活ばかりだ」

 

 大学の庇護下にあるとはいえ、社会における(ひとつ)の団体を資金と人材の問題に額を擦り合わせながら運営していく。そんな活動を通すだけでも何より得難い経験となるし、作り上げた人脈(コネクション)は卒業後にだって生きてくる。

 初めはちょっとした趣味を活かしたいと始めたプログラミングサークルが、その時に集まった人材や築いたコネを基礎(もと)に、そのまま会社を立ち上げたという例もあるくらいだ。

 

「それはかなり特殊すぎる例だと思いますけど……。そういう御行くんは何処かサークルに入ったりはしないんです?」

「今は正直余裕がないからな。2期生になってもう少し落ち着いてから選ぶつもりだ。そうだな。手軽に始められて金もかからない……歌唱部あたりにでも」

「やめてください。伝統に終止符を打つつもりですか」

 

 サークルクラッシャー(物理)どころの騒ぎではないと顔を青くしては捲し立てる早坂。

 何故そういつもいつも茨の道を歩こうとするのか。いや、歩くだけならいいが、周りの動植物も丸ごと根絶やしにするような行為は、各方面からいつ苦情が来てもおかしくないのでいい加減止めていただきたい。

 

 そのまま幾度かのドタバタを重ねながらも、彼につれられるままスタンフォードの名所、珍所と学内巡りは続いた。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 フーバータワーを仰ぐ広大な大通り。その中央には、高々と水を吹き上げる石膏造りの噴水があり、数多くの観光客が足を休める憩いの場にもなっている。雲一つない青空の下、悠然と聳え立つタワーを背後に満然と噴きあがる噴水は、それだけで一枚の絵になるような美しさであり、傍にひっそりと立つ野外演説用のスピーチ台も含め、観光客が熱心に写真を収める絶好の撮影スポットにもなっていた。

 

 これが卒業シーズンにもなれば、真っ黒なマントに加え、お馴染み頂上に四角い板が乗ったような帽子……通称スクエアアカデミックキャップを被った学生達の姿で溢れかえり、これまでの健闘とこれからの門出を讃え合う卒業披露宴が行われる。

 

「あのスピーチ台に主席として立った学生は、願いが叶う。なりたい自分に必ずなれる、なんて言い伝えもあってな」

「また随分使い古された学校あるあるですね。じゃあ、もし御行くんがあそこに立ったら何か叶えたい願いってあるんですか?」

「有るには有る……だが、どうだろうな。一人で叶えられるようなものじゃないし、そんなジンクスに頼るべきものでも」

「……そんな勿体ぶった言い方して、どうせ願いそのもの(本当のこと)は恥ずかしくて言えないんですよね?」

 

 冷ややかな視線(ジト目)を送ると、逃げるようにそっぽを向いてしまう彼。耳まで赤くした顔は隠す気があるのか無いのか。

 

「そもそも順番が逆じゃないですか?ここを主席で卒業できるようほどの才覚と忍耐を合わせ持った生徒なら、なりたい自分にだって当然なれるでしょう」

「そう言われると身もふたもないんだが……。まあ頑張って此処(そこ)に立ったからこそ、生まれてくる自信ってものもあるんだろう」

 

 勉学も努力も、大学を卒業してそれで終わりではない。社会という荒波に放り出されて、目を覆いたくなるような現実に直面して、それでも夢を叶えられるかどうかはその人の持つ運否天賦も大きく関わってくる。

 だからこそ、だ。ソレがたとえ過去の勲章であったとしても、「この場所に立った」という事実(かこ)は、折れてしまいそうな心を支える一つの柱になる。覚束ない言い伝えの一つが、瀬戸際で踏ん張るための確かな足がかりになることだってあるのだ。

 

 

「"人生は時に人をレンガで殴る。それでも信念を放り投げちゃいけない。

 将来をあらかじめ見据えて点と点をつなぎあわせることなどできず、できるのは後からつなぎ合わせることだけ。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない"」

「……それは――」

 

 紡がれる彼の言葉に、再び演説台を仰ぎ見る。

 

 およそ数年前。現Apple社の創始者にして、在りし日の天才。スティーブ・ジョブスがスピーチを行なったのも、この演説台だった。

 

 『ハングリーであれ。愚か者であれ』

 

 繰り返す成功と失敗の狭間、病魔に犯された彼がその生涯を通して語り得た、己自身の生き方を説いたあまりにも有名な演説(ことば)

 

 

 

 

「……御行くんは、卒業したあとは博士課程まで進まれるんですか?」

「いいや。その気はない」

 

 何気なく聞いた問いであったが、しかし予想以上にきっぱりと返ってきた答えに目を丸くする。

 

「理系なら修士・博士に進んで当然って声もあるがな。実際には修士課程で2年。博士課程で更にもう2年と、それだけ社会に出るのが遅れることになるし、専門的な分野にのみ注力する分、かえって他の道を選べない……未来への選択肢を狭めることにも繋がる」

 

 勿論、修士博士を卒後()ないと就けない職種もあるがなと、遠くフーバータワーの姿に目を細め呟く彼。

 

「大学はあくまで研究機関の一つだ。その設備は確かに一級品ではあるけれど、市場競争の最前線に立つ企業の開発力も決して負けているわけじゃない。大学で新たに発見された技術が、とある企業では数年前に確立されていたという例もある」

 

 企業と大学が共同開発をする話は間々ある話だが、ソレはあくまで企業側に研究設備や人材が不足している場合。そも自社の要ともなる大切な技術を、情報漏洩や利権争いの危険もある他所へとイタズラに放ったりはしないものだ。大学の研究が日の目は浴びるのは、あくまで学会という閉じた世界でだけ。ソレが社会に活きるカタチとなるまでには、どうしても企業の力が必要となる。

 

「要は、なにも大学に固執する必要はないってことだ。研究の方法やそのノウハウを学べたなら、今度は企業(社会)の中で生かし、より多くの経験を積んでいけばいい。

 それでも博士課程に進み大学に残りたいって人は、本当に研究が好きで好きでたまらなくて……大学(ここ)でしか続けられない研究がある。博士号の称号を得てからしか社会に出たくないって、そんな確固たる意志を持つ人達だ。

 少なくとも、”周りが行っているから”なんて甘い考えで選んでいい道じゃない」

 

 語る口調は穏やかで、けれど芯の籠もった言葉は自分に言い聞かせているようでもあった。

 

 胸の中に広がる驚き。まさか彼がそこまで将来のことを見据えているとは思わなかった。

勉学に追われる毎日で……とてもそんな余裕など無いように見えていたから。

 

「まあ実際にどうなるかは分からない。数年後には気持ちも変わってるかもしれないし、卒業時の社会情勢だってよく鑑みる必要がある。

 ……それにな。大学についてこうも言ったが、実際に研究を続ける先輩たちの姿を見てると、大学(ここ)に残りたいって気持ちも分からないでもないんだ」

 

 マジメな表情から一転、どこか困ったような微笑を零しながら、大通り沿いに在るコロニアル様式の建物前で立ち止まる彼。その懐から徐に板状の何か……ガラスケースで覆われた一枚のカードキーを取り出す。

 

 

「さて、ここからがようやく今日のメイン。一般の人では立入り出来ない学部生専用の研究施設エリアだ。見学の際には関係者の引率が常に必要だから、側を離れないでくれ」

 

 

 念を押すような言葉と共にIDを壁の機械へとかざすと、短い電子音の後に左右へと扉が開く。

 出迎えるのはホテルのエントランスを思わせる広大なロビー。中央の壁にはスタンフォードを紹介するためのイメージPVを流すモニターが掛けられ、来客用に備えてかソファーや観葉植物も並べられていたりと、その内装は中々にお洒落だった。

 

 しかし、にもかかわらずだ。たった一枚の扉を隔てて足を踏み入れた屋内は、色彩も、纏う雰囲気も、全く別物へと変わっていくのを早坂は感じた。美術展で感じたものと同じ、目には見えない何かが建物の奥から溢れ出してくるような、異質な緊張感。

 

 

 早坂が抱いた印象は正しく、彼に連れられるまま奥へと進めば、世界はまた一変する。

 

 西洋風建築物の洒脱な外見とは似ても似つかぬ重厚な鉄筋コンクリートの壁。どこから聞こえてくるのか唸り声のような機械の重低音。敷き詰められた淡緑色のタイルは照明を反射するほど磨き上げられ、埃ひとつない清潔感漂う空気が屋内全体を包みこんでいる。

 装飾系の品など一切ない実用性一点張りの内装空間。俗にクリーンルームと呼ばれるその部屋は、各々が独立するよう格子状に配置され、外部からでも中の様子が確認できるよう、一部ガラス張りの作りとなっていた。

 

 

 

「学生にはそれぞれ研究のための個室が与えられていて、自分が取り組むテーマに則する実験を行なっている。ここは主に小規模な機材を取り扱うための共同スペース。実験で必要な資材を加工したり、装置の雛形を作成したりする……まあ、個人保有の工房みたいなものだな。今はみんな研究室のゼミで席を外しているが、周りの物には一切触れないよう頼む」

「こ、これで小規模なんですか」

「ああ。大型の設備にもなれば、ロケットの打ち上げ台よろしく数階建ての棟を丸ごとぶち抜いて設置されているから、正直デカすぎて全容がまるで見えてこない。

 どんな研究を行っているのか見学するだけなら此処(こっち)の方が分かりやすいし、見応えもあるだろう」

 

 

 そう言ってはガラスの向こうに所狭しと並ぶ機械の数々を指し示す彼。しかし、それらについても壁一面を覆う大きさの物もあれば、作成途中なのかパーツが露出しているもの。どうやっているのか宙に浮いて見えるものまであったりと、いったい何のための機械なのか、どんな動きをするのかもイマイチ想像できない。唯一見当がついたのは3Dプリンターあたりだろうか。

 

「学生ごとで扱う研究テーマは異なるから、当然使用する装置もそれぞれ別個の、より専門的な物になってくる。そうだな。簡単なのから紹介していくと……左手にあるあの円形の機械。あれはリチウム電池内部のグラファイトを整形する装置で、主にバッテリーの長寿命化や高出力化のための研究に使われている。

 その向こうの小さなボード状の機械は、発生した音波を特定の座標に集結することで、何もない空中に『感触』を生み出す立体音響装置だ」

「……は、はあ」

 

 もっと気の利いた返事もあっただろうに、しかし目の前の光景に圧倒されて、間の抜けた言葉しか返すことの出来ない早坂。話の内容が理解できないわけではない。しかし自分が思い浮かべていた“天文学”の研究室の姿より、ずっと物物しく機械機械(ゴテゴテ)していて、イメージと照らし合わせるのに時間がかかっていた。

 なんというか、自分の想像ではもっとこう……

 

 

「もうちょっと詳しく紹介出来ればいいんだが……此処だけでも28人も研究生がいるから、俺も自分が手伝った研究(テーマ)の物しか把握出来ていないんだ」

「い、いえ。ただ少し驚いたというか……天文学の研究って、こんな事もするんですね」

 

 戸惑ったような早坂の言葉に、白銀は数秒の沈黙の後、納得したように「ああ」と息を溢した。

 

 

「早坂は、『天文学』が何を研究する学問か知っているか?」

「そう、ですね。やっぱり星座の位置や天体の状態を観察する……学問、でしょうか」

 

 1番に思い浮かぶのは、やはり昼にも話題に挙がった『天文台』のように、巨大な天体望遠鏡を覗いては宇宙の様子を観察する姿だろうか。

 

 この太陽系。この銀河。宇宙に存在する無数の星々。それらの年代を観察や地球との距離換算から算出し、天体図へと記録していく。

 そういった研究は、星が占星術として用いられた遥か遠くの時代から脈々と受け継がれ、今は誰もが知る“一年の周期”、“地球は丸い”なんていう常識も、そうした長きに及ぶ研鑽の果てに求められた真実()であった。

 現代でも、時折日蝕が起こったり、彗星が接近したり、また新しい星団を発見した研究者などが現れれば、その功績や命名が大々的ニュースとして取り上げられ、一躍話題になる。

 

 ただ、正直……。

 身も蓋もない、酷く失礼な言い方をしてしまえば。

 “天文学の研究“と聞いた限りでは、四六時中天文台に引きこもっては望遠鏡の観察結果を記録し続ける……そんなどこか地味な研究風景を想像してしまっていた。

 

 

 

「いや、その認識は間違ってない。今ある天体図や太陽系の惑星相関図だって、そうしたひたすらに地味で弛まぬ努力(研究)の果てに解き明かされてきたものだ。

 ただ、それらは『位置天文学』や『天体力学』と呼ばれていて、現在では“古典”天文学にあたる分野でな。

 対して、いま俺たちが学んでいる近代天文学は、別名『天体物理学』……宇宙の存在と事象を解明する学問と言われている」

 

 

 天文学の研究には主に2つの側面が存在する。

 一つは、宇宙という無限にも思しき広大な空間において、人類がどのような立ち位置にあるかを識ること。

 そしてもう一つが、宇宙空間という地上とは全く異なる極限状態において、我々の知る物理法則が適応できるかを検証すること、だ。

 

 『天体物理学』はまさに後者。宇宙空間で起こる様々な現象、天体同士が互いに及ぼし合う作用を、物理学的な知見を持って解明することに重きを置いている。

 宇宙空間という地上とは全く異なる環境。人の何億倍もの寿命を持つ星々。距離、時間、大きさ、すべてにおいて地球の物差しではとても計れない規模(スケール)。未だ人類が足を踏み入れたばかりの異教の大地で、果たして我々の知る物理法則(常識)は通用するのか。

 

「隣にある実験室だってそうだ。電磁力や真空状態を利用して、宇宙空間を擬似的に再現する(・・・・・・・・)ことで、無重力環境下での物質の状態変異を視ている。

 宇宙での物体変化。物理法則の検証。

 そんな研究が何のために行われているか。どこで活かされるかといえば……」

 

 徐に“上”を指差した彼に促されるまま、天井を見上げる早坂。

 照明が光る白い天板。2階。屋上。

 いいやそんなものではない。彼が指しているのはその遥か先。雲も。大気圏も。全て超えて浮かぶ世界最頂点の人工物。

 

 

「――ISS(アイエスエス)

「そう。『国際宇宙ステーション』。あれもまた微小重力環境下で研究を行うための、宇宙に浮かぶ一つの実験棟だ」

 

 

 地上から遠く離れた大気圏外。宇宙空間という極限環境でしか生まれ出でないものを見つけ出すために打ち上げられた、最先端にして世界最高空の有人実験棟。

 その存在意義は、やはり宇宙空間だからこそ成し得る『極微重力』『極微対流』にある。

 

 

 たとえば例として、地上で2つの金属を混ぜ合わせ、“合金”を作るとしよう。

 鉄にニッケルやクロムを混ぜ合わせることで耐食性を向上させた“ステンレス鋼”が有名なように、特定圧力、特定温度で混ざり合った金属は、配合方法や原子同士の結合状態の差異で、強度・性質も異なる新たな金属へと結び変わる。

 しかしその過程。原子という極極微小の世界(単位)を取り扱う上では、重力や対流というほんの僅かな外因(外からの力)でも避けることはできず、重力により沈殿した原子、対流により移動してしまった原子は、結合を阻害されてしまうために、うまく混ざり合うことが出来ない。

 

 ではもし仮に、これを宇宙空間で。重力も対流も存在しない、完全な静止状態で行えたとしたらーー

 

 

『知ってますか先輩。ガンダムが宇宙製なのって、その素材であるガンダリウム合金が宇宙重力化でしか作れないからなんですよ』

『いや、それはいいが石上。テスト期間中に生徒会室で堂々とゲームするのはどうなんだ。俺はいいが、四宮や伊井野がなんと言うか……あ…。』

『そんなのを生産できるコロニーを丸ごと地球に落としちゃうなんて、発想がぶっ飛んでますよねー』

『いや来てる。コロニーやガンダムよりもっと怖いものがすぐ後ろに来てるから石上』

 

 

 重量同一化による新合金の研究。

 タンパク質結晶化実験による医療新薬の開発。

 各国のISSで行われた実験は数知れず、導き出された研究結果は人類発展のための貴重な礎となっている。そも人間が宇宙空間に長期滞在するというだけで、そこからは将来人類が宇宙に進出するための莫大なデータが得られるのだ。

 

 一方で注視されるのがリスクとコストの問題。

 地上とは全く異なる物理環境、極閉鎖環境である宇宙において何の前準備も無しに実験を行えば、そこには地上では到底想定し得ない未知の事故が起こる恐れもある。

 地上では100℃で沸騰する水も、宇宙ではわずか23℃で沸騰を始め、加えて無重力下であるために一度暴露すれば微細な球状となって辺りへと飛び始める。水ならばまだいいが、実験で扱うのはどれも塩酸などの危険化学物が主。一歩外に出れば酸素もない死の世界が広がる宇宙ステーション内での事故の危険度は言うに及ばず、だからこそ、地上の擬似空間による事前予測と前プロセスの組立が何より重要視される。

 

 加えて、地上での実験には“完全な宇宙空間の再現”という目的もある。

 宇宙空間での実験と、地上の擬似空間での実験。仮に両者で全く同じ結果が得られたとしたら、地上施設は“完全な宇宙空間を再現できた”ことになり、その技術を確立すれば以降は生産拠点を地球へと移し、宇宙にまで物資をもっていくリスクもコストも払わなくてよくなる。

 

「ISSだけじゃない。今や天体顕微鏡だって宇宙に飛ばす時代だ。

 人工衛星と一体になった“衛星顕微鏡”による実観測。各々の星が出す電磁波スペクトルの解析による計観測。宇宙の観測法はもはや天文台による地上からのアプローチに留まらない。

 こうやって聞くと『天文学』っていうより、『宇宙工学』や『宇宙航空学』って感じがするだろう?実際それらは切っても切れない関係にあるし、そもスタンフォード大学には『天文学部』という学部は存在しないんだ。

 在るのは『自然科学科』という大まかな括りのみ。だから極めようとさえすれば、国立天文台の役員として働くことも。宇宙船を創りだすエンジニアになることも、さらには実際にISSや他惑星へと飛び立つ宇宙飛行士を目指すことだって出来る。

 実際、今俺がいま手伝わせてもらっている研究だって、どちらかと言えばエンジニア向けに行っているものだ」

 

 先に紹介したリチウムイオン電池だってそう。将来的には次世代電源バッテリーとして、ISSで使用することを目的とした研究。

 

 

 此処はそういう(・・・・)場所だ。

 宇宙や星のことを夢見がちでしか語れなかった、外の世界とは違う。

 研究やアプローチの方法は異なれど、誰もが同じ志のもと、日々研鑽を重ね宇宙へと手を伸ばす……そんな願いが集う場所。

 

 

 

『いまは顕微鏡を覗くより熱中できることがある』

 

 昼間、何気なく聞いた言葉。その真意を今更ながらに理解し息をのむ早坂。

 

 ああ、知らなかった。まさかこんなにも―――

 

 

「……と。ここからは耳栓が必須だから注意してくれ。あと絶対口は開けっ放しにしておくように」

 

 廊下の突き当たり。見るからに重厚な金属製の扉の前に立ち止まっては、ウレタン製の大きな耳栓を手渡してくる彼。

 ”実験中“を示す赤色のランプを隣に描かれた部屋の名は『防音室』。その名が物語るように重く厚い扉が四重にも続いては道を塞ぎ、中からは今も唸り声のような重低音が響き、それは一つ扉を潜り抜けるごとに大きくなっていく。 研究室に足を踏み入れた時から聞こえていた音は此処から漏れ出ていたのか。最後の扉を開け放つころには、頬を打ちつけるほどの爆音が溢れ出てきた。

 

 

『はいストップ!!エンジンストーーップ!!!実験止めッッッ!!!』

 

 そんな爆音に負けないくらいに轟く拡声器越しの女性の声。その声を皮切りにウゥゥゥン……と低い駆動音を残し、音の波が次第に引いていく。

 鉄製の階段をカンカンと忙しそうに降りてくる足音と共に、A4大のタブレットを片手に持った亜麻色の長い髪の女性が、御行たちの前へと顔を出した。

 

「あら?ミユキじゃない。今日はお休みじゃなかったの?」

 あー…そういえば研究室の紹介、今日って言ってたわね。ゴメンね、何のおもてなしも出来なくて」

「いえ、勝手に押しかけているだけですから。新しい実験の方はどんな具合ですか?」

「んー、あんまり芳しくないわねー。所定出力の70%も出てないもの。やっぱりヒドラジンの濃度を下げるのは良くないかしら。でも宇宙環境での噴出安定性を確保するには粘度も必要だし……」

 

 タブレットを弄りながらブツブツと、その端正な顔をいかにも悩ましげに歪める女性。年は3つか4つ上。顔立ちからしてカナダ系だろうか。くっきりとした目元には若干の疲れの跡を残し、化粧も殆ど乗せていないようだったけれど、それでもスラリと伸びた長い脚といい相当な美人であることがわかった。

 亜麻色の髪をペンでクルクルと巻きながら、途中、ヘーゼル色の双眸が早坂の姿を捉える。

 

「あら、その子がお客さん?ゴールドブロンドにサファイア・アイ……え、じゃあこの子がミユキの言ってた?あらあら、まあまあ。超絶可愛い子じゃないの。やるわねーミユキも」

「マリー……アンタその言い方、親戚の叔母さんみたいよ?てかいい加減早くサンプル回収してくんない。こっちは昼飯抜きで付き合ってんだからさ」

 

 上から聞こえてきた声に顔を上げれば、今度はロシア系、銀髪を輝かせるボブカットの女性が2階のフェンスから顔を覗かせていた。

 

「ああミユキ丁度良かった。悪いんだけど今日の実験で取った観測データ、またパソコンの方に送っておくからフィルタリングと解析かけといてくれない?来週中でいいから」

「条件の方は?」

「あとでメモって机に置いとくからソレで。それと今度の学会で泊まる――」

「ホテルなら飛行機のチケットと合わせてもう予約してます」

「会場までは?」

「徒歩5分。チップは不要です」

「夜食は?」

「一つ星フレンチの店が向かいに。コースは好物のカニ料理で」

「OK。パーフェクトよミユキ」

「なによ。普段は散々人に頼るなとか言うくせに、貴女だって相当甘えてるじゃないの」

「いいのよ、ウチのやり方に早く慣れて貰うって思えば。こんなに使え……将来有望な子を他所の研究室にとられたら勿体ないでしょ?」

「ほら聞いた?アレがあの子の本性よ。無駄に良い顔で後輩を誑かしては、散々コキ使ってこの間も学生一人を潰しちゃったんだから。ミユキも気をつけなさい。あとついでにインフルエンザにも。最近、他棟で相当流行ってるみたいだから」

 

 そう捲し立てるように言い残しては、実験室の奥へとパタパタ走り去ってしまうマリーと呼ばれた女生。その先にある巨大な機械の塊……おそらく先程の轟音の発生元であろう、ロケットエンジンの周りをぐるぐると歩き回っては、何事かをタブレットに書き収めている。

 その姿は見るからに忙しそうで、銀髪の女性の方も伝えたいことだけ伝えて満足したのか、いつのまにか2階から姿を消していた。

 

「……とまあ、見てもらった通り。此処はロケットエンジンに使用する液体燃料、およびバーニアノズル形状組成の研究場で、あの二人はチームを組んで共同研究している。

 今の時代、ロケットエンジンといえば固形燃料を使うのが主流なんだがな……それでも生産性と誘導制御に優れる。何より液体こそロマンだろうと研究を推しているのがあの二人だ」

「……綺麗な女性(ひと)たちでしたね」

「そうだな。日本では少し珍しいかもしれないが、こっちでは女性の博士や教授も大勢いるから努力と実力次第でいくらでも活躍の場がもてる。あの二人だって、肝の太さだけでも男勢の数倍は勝っているから、毎朝のように教授と論争を繰り広げる有様だ」

 

 振り回される周りとしては困ったものだと、苦笑混じりに呟く彼の表情は、しかしどこか楽しげでもある。半年前、此処(スタンフォード)を訪れた時からは想像も出来ない晴々とした面持ち。

それをとても嬉しく思う反面……ズキリと、胸の奥に痛みを覚える自分がいた。

 

 

 その後、ゼミから戻ってきた学生たちにより研究室は途端に慌ただしくなり、学生達の手で各々の研究の紹介が成された。

 宇宙服が破れた際に緊急で気化し、空気を供給する液体酸素の機構。

 プログラムにより特定の動作を行い、飛行士を補助する小型のマニピュレーター。

 映画ベイマッ○スに感化されて作りだしたという月面調査用直立2足歩行ロボットなど、扱う分野や研究対象も本当に様々で。

 自身の研究のことを話す学生たちの表情は、少し恥ずかしげではあったけれど、それでも自身と誇らしさに満ちていた。

 

 発想は奔放でまだまだ荒削り。コストも度外視なうえ実用に足るものは殆どなかったけれど。

 そこには確かに、眩しくも果てない“未来”の姿があった。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 日も落ち始め、茜色から瑠璃色へと移りゆく空に星が瞬く頃。肌寒さを感じるそよ風を頬に、早坂は3階建て研究棟屋上から階下を見下ろしていた。視線の先には、研究棟地下の搬送庫から身を乗り出し、今まさに大学を発たんとする巨大トレーラーの姿。此処で作った実験モデルを、しかしスタンフォードにある設備だけでは検証に限界があるため、共同研究先であるハーバードへと搬送する(うつす)ところだ。

 

アレ(・・)に、御行くんの研究も乗っているんですね」

「ああ。『ソーラーパネル鶴翼展開時、重心変化に対して衛星軌道を自動修正するためのプログラムとそのモデル』……と言っても、出来ているのはまだ本当に雛形にも満たない、蕾みたいな案だが」

 

 それでも研究とはトライ&エラーの繰り返し。

 幾度もの失敗。数多もの改修を重ね、少しずつ少しずつ葉を広げては、いずれはカタチあるものへと芽吹いていく。今世界にある常識も、革新的と言われた技術も、全てそうした研鑽無くしては生まれてはこなかった。

 

 

 

「———どうだった?今日一日、大学を見て」

 

 沈みゆく夕日を目に、徐に囁く白銀。

 屋上には二人だけ。別に他の誰も居ないというのに、抑えられた声はその自信のなさを表すようでもあった。

 

 ……なにせ今日やったことといえば、街や大学を歩いて回ることや、彼女にとっては何の面白みも無かったかもしれない、一方的な研究室紹介。

 以前、早坂がしてくれたように……相手の好きなことだけを詰め込んだデートプランを立てられればよかっただろうに……。

 そうしなかったのは、ただ彼女に見て貰いたかったから。いま自分が見ている世界。このスタンフォードという場所で、出来ることを。

 

 

 

「そうですね……正直、驚きました」

 

 振り返る1日の記憶に、ふっと柔らかな息を溢す少女。

 

 貴方が手掛けていたもの。貴方が目指したものを目の当たりにして、胸に芽生えた感情は驚愕か、感心か。ただ宇宙という想像以上に雄大な(せかい)を前に、知らず圧倒されてしまっていたことは確かだ。

 

「結局、御行くんは将来エンジニアになるのが夢なんですか?」

「いいや、まだハッキリと決めたわけじゃない。先にも言った通り、此処は本当に何にでも成れる……何を目指すことも出来る場所だ」

 

 スティーブ・ジョブスの言葉ではないが……将来をあらかじめ見据えることなんてできない。それでも重ねてきた努力が、築き上げてきた一つ一つの点が、いずれ人生を結ぶ掛け替えのないものへと変わることもあるように……歩んできた時間は、決して人を裏切らないと信じるしかない。

 たとえ一つの夢に敗れたとしても、身につけた技術が、経験が、また新たな夢へと歩み出す架橋となるように。一度挫折した自分が、あの輝かしい思い出をもとに、また立ち上がれたように。

 

「だから今はより多くの点を作るために、いまこの時間にしか重ねられない努力を、決して惜しまず続けていくつもりだ。より多くの未来を描くため。秀知院時代(むかし)の自分でさえ想像もしえなかった、理想の自分になるために」

 

 まるで己自身へと誓うような言葉。

 隣に立つ白銀の相貌。日も落ちかけ、明かりも乏しくなった屋上でなおハッキリと映る瞳には、灯り始めた星々の明かりが映り込んでいる。

 

 その横顔を、早坂は眩しいものを見るようにふっと目を細め見つめていた。

 挫折を味わい、それでも立ち上がった彼の姿は、とても心強く、頼もしく―――。研究室の人達だってそう。まだ知りあって間もないだろうに、まるで引っ張りダコのように彼に研究の手伝いを頼む様は、それだけ多くの人の信頼を勝ち得ている証だった。

 

 ああ、元々彼はそういう人だった。

 決して他人を軽んじず。自ら歩むための努力を惜しまない。口にするのは容易く、けれど成し得るのはあまりに難しい。誰もが正しいと思いながらも諦めてしまう理想。今ある姿とて、ただ彼が重ねてきた努力にまわりの評価が追いついたに過ぎない。

 

 いつしか、助ける側だと……支える側だと勝手に思い込んでいた私の想い(自惚れ)など遠く追い越して、彼はしっかりと自分の未来を見つめていたのだ。

 その姿が眩しく、羨ましい。

 

 未来なんて描くことも出来なくて。

 どうしようもない現状に、ただただ、我儘な抵抗を続ける自分とは大違いで……

 

 ああ、きっと彼ならば……本来、私の手など借りずとも、自分の足だけで立ち上がれていただろうと、そう確信して(おもえて)しまうほどに―――

 

 

 

「早坂のおかげだ」

 

 すぐ近く。気が付けば手も届くほどの距離から聞こえてきた声に、はっと顔を上げる少女。

 何を言われたのか分からないというような、戸惑いの表情を浮かべながら。

 

「今見えるこの景色も。今あるこの(じぶん)も。早坂がいたからこそ気づけた。君がいなければ、決して辿り着けなかった場所だ」

「……そんな、ことは「そんなことはない、と。そう否定するんだろう」

 

 拒絶しようとする彼女の言葉に哀し気に目を落としながら、けれどそれは紛れもない事実だと呟く白銀。

 

 

『早坂は、うちの大学(スタンフォード)のことをどう思う?』

 

 それはかつて、自分自身にも投げかけた問いだった。

 早坂が来る以前。自分にとって大学という場所は、まさに彼女が語ったように、恐怖の対象でしかなかった。

 荘厳かつ広大すぎるキャンパス。自分より遥かに優れて見える同級生たち。気持ちの余裕など持てず、焦燥と緊張に追いやられるまま、見えない重圧に押しつぶされていくかのような日々だった。

 誰が悪いかもわからず、どうすれば良いかもわからず。ただ弱い自分を呪うだけの毎日だった。

 

「けれど君が来て……側で支えてくれて。俺はようやく、自分というものに向き合うことができた」

 

 見栄と嘘に塗り固められた自分。迷いや違和感を覚えながらも意地で貫くしかなかった生き方。けれどそんな生き方(じぶん)でもいいのだと―――そう認めてくれる人がいた。

 

 逃げたい己を必死になって言い聞かせていた高校時代(いぜん)とは違う。本当の意味で白銀御行(自分自身)という人間の在り方を、赦すことができたのだ。

 心の余裕は視野の広がりに。自分自身を見張っていた目が外へと向けられたことで、映る世界はより鮮明に、より輝かしいものへと変わっていった。

 恐怖のイメージで塗り固められていた大学も、夢を描き叶えるための場所なのだと気が付くことができた。

 

 かつては見上げることしかできなかった星。憧れることしかできなかった輝きも……今は、手を伸ばせば届く場所に立っている。

 

 

 だから何度でも言おう。たとえ早坂自身が否定しても。

 白銀御行は、早坂愛という女性に救われたのだ。

 

 

「そう。そんな君だからこそ―――どうか、自分の未来()を見つけてほしいと思った。」

 

 かつて君が、自分にそうしてくれたように。

 俺が、この場所で幸せを見つけられたように。

 多くの夢と可能性が集い、自分自身の道を切り開くことのできるこの学び舎だからこそ、どうか自分の喜びというものを見つけて欲しかった。

 

 無論、それが簡単ではないということも分かっている。入学するまでも。入学した後も、スタンフォードで夢を叶えようとする限りは、多くの困難が伴うであろう。

 けれど、それでも。彼女自身が持つ溢れある才を無碍にしたくはなかった。今まで多くの努力を重ね、多くの涙を流してきたからこそ在る実力()を……彼女自身に否定して欲しくはなかった。

 

 多忙さに追われ、青春さえ碌に謳歌できず、自分の夢を描くことすら叶わなかった彼女だからこそ。

 

「どうして……ですか」

「……?」

「気付いているのでしょう?スタンフォードに入りたいなんて、私の願いは――」

 

 未だ彼女を囚える見えない呪縛。明かせぬ嘘と葛藤(後ろめたさ)に、顔を俯かせる君だからこそ。

 

「たとえ、その始まりが嘘でもいい」

 

 サークルでも。研究でも。

 君自身が打ち込めるもの。夢中になれるものを見つけて欲しかった。

 遊園地を一緒にまわること。ラスベガスへの旅行。君が心から笑えるものがあるのなら……なんだってよかった。

 

「後ろめたさを感じる必要なんて無い。それ以上のものを……もうとても返せないようなものを、俺は貰ってしまっているから」

 

 だから自分が求めるものは一つ。

 噴水に投げかけるようものでもなければ、一人で叶えられるものでもない。

 

 いま(じぶん)が望む願いは、たった一つ。

 

 

「早坂———どうか君に、幸せになって欲しい」

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 唄う彼の言葉が耳を打つ。

 何よりも望んでいた言葉が、目の奥に熱を灯らせる。

 

 

”———■■してはいけない”

 

 

 ともすれば告白より恥ずかしいその物言い。

 それを告げるまでにどれだけの葛藤があったか。

 どれだけの勇気を振り絞ってくれたか。

 それは明かりの乏しくなった夜空の下でなお朱色と分かる彼の表情を見れば、容易に想像することができた。

 

 いったいどれだけ……私のことを大切に想ってくれているかも

 

 

”———期待してはいけない”

 

 

 頷いてしまえればどれだけ楽だろう。

 信じて。迷いや不安さえもかなぐり捨てて。

 その胸の中に飛び込めてしまえたら、どんなに幸福なことだろう。

 

 

(ああ……それでも)

 

 

 

 

 

”その花を―――咲かせてはいけない”

 

 

 

 

 

それでも、私は―――

 

 

 

 

 

 

 















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自問

 

深い深い、微睡の底へと落ちていく。

 

 

 気が付けば、いったいどれだけの時間をそうしていたのか。

 光も届かぬ墨色の湖底。暗濁と沈む果ての無い闇の中を、ただ一人延々と彷徨い歩いていた。

 

酩酊したように揺らぐ視界。耳が痛くなるほどの静寂のなか、聞こえるのは自らの鼓動と、口から溢れる荒々しい吐息だけ。

 一歩踏み出すたび、足に纏わりつく泥は鉛のように重く、時折り混じるガラスの破片が剥き出しの足を幾度も傷つける。

肌を撫でる水は凍えるように冷たく、それでも焼き燻るような灼熱に侵された体は絶えず倒懸を訴え、霞む視界と息苦しさに何度も膝を落としそうになった。

 

 ああーー痛い。苦しい。

 

 吐き出す(こえ)さえ誰の耳に届くことなく湖中へと溶けていく。

たとえソレが。胡乱と広がるこの世界が、ただの“夢”だと分かっていても、襲いくる苦悩の過多に心が悲鳴をあげていた。

 

 

 それでも、何かに急かされるように。まるで“そうしなければ”と駆られるように、足は歩みを止めてくれない。

 荒い吐息をそのままに、一歩、また一歩と荊棘の道へと踏み出していく。

 

 

 

『貴方は何がしたかったの?』

 

 不意に、届いた声に顔をあげれば、ただ湖中を漂うだけだった泥が渦巻くように形を変え、一つの人影を象っていた。

 

 その姿はどこかで見た……いいや、忘れられもしない慎ましくも厳格な給仕服。

 墨色に歪む視界の先、項垂れる自分を見下ろすように。あるいは見下すように。まるで鏡合わせのように立つ、もう一人の自分。

 

 

 (ああ、けれど違う。)

 

 これもハズレだ。

 影は仮面を身に付けていたから。

 

 歪で粗雑。微細な泡の混ざる濁ったガラス色で出来た仮面(ソレ)は、かつて自分が作り上げた嘘の人格そのもの。それが過去どんな目的で……どんな嘘を重ねるために被ったものであるかも、鮮明に思い出すことができた。

 

 これでいったい何度目になるだろう。虚栄の仮面を貼りつけた、偽りの自分と対峙するのは。

数えることさえ無意味だというように、幾度影を振り払おうと、その先にはまたすぐに別の、違う仮面を身につけた(じぶん)が待ち構えている。

 今まで積み重ねてきた罪を咎立てるように。泥に混じり足を傷つけるガラスの破片も、そうして使い棄てて来た感情の残骸(なれ果て)に他ならない。

 

 

『貴方は何がしたかったの?』

 

 問いを繰り返すばかりの影は、決して答えを与えてはくれない。仮面の奥に青く冷たい瞳を浮かべ、まるで責めるように糾弾の言葉を投げかけるばかり。

 侮蔑と軽蔑に満ちる視線を、ぎゅっと唇を噛み締め受け止めるしかなかった。

 

 ーーーああ、答えられればどれだけ良かっただろう。

 分からなかった。自分自身にさえ。

 

 私は、いったい何がしたかったのか。

 遠いアメリカの地にまで来て。

 彼の……貴方の助けになって。

 その先にいったい何を、望んでいたのだろう。

 

 

 見えぬ答えに項垂れるように自身の顔へ手を触れれば、そこからも固く冷たい感触が返ってくる。

 

 そう……仮面を身に付けている(嘘をつき続けている)のは自分も同じ。

 だから私も、彼女達と同じようにただ問いを続けることしかできないのだ。

 

 

 輪郭を失いそうな自身の体をぐっと抱きしめ立ち上がる。痛む足を引きずり、影を振り払っては、また茨の道へと一歩踏み出していく。

 

 探さなければ。見つけ出さなければ。たとえどんなに苦しくても。

 

 光も届かぬこの暗闇の湖底。暗濁と沈む己の心の中に、ただ一人居るであろう仮面を被らない自分。

 

 

 他ならない、私自身の本心を。

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第10話 本心

 

 

 

 

 

 

「だから居たんだってよぉ!美人三姉妹!」

 

「あ“ぁーうるっせぇ、何度目だよその話。壊れたテープレコーダーみたいに繰り返しやがって」

 

「アホみたいに肌も焼いて。浮かれ気分なの丸出しじゃねぇか」

 

 無数の本棚が立ち並ぶ大学附属図書館の一角。木製の長机が敷き詰められた学習用スペースから響くやたらはしゃいだ男の声を、数人の白い目が受け止めている。

 

 長かった夏季休暇もしかし過ぎてみればあっという間なもので、既に全体の4分の3が終わろうかという頃。まだ休み中ということもあってか図書館に映る人の影は少なく、テスト期間中に見せた凄惨たる混沌ぶりも遠く形を潜めている。が、ただ煩わしさという点だけで言えば、目の前の男(キリー)一人で補ってあまりある喧しさを醸し出していた。

 

「おめーらは直接見てねぇから分かんねぇんだよ、その素晴らしさが!神々しさが!

 嗚呼、今でも瞼を閉じれば鮮明に思い浮かぶ。燦々と降り注ぐ太陽の下、青く輝く大海原を背景に負けないくらい眩しく艶美な笑顔を浮かべる真夏の女神たち。地上に舞い降りた天使ってのはまさにああいうの言うんだろうなぁ」

 

「なんだろう。こいつが言うとエロい意味にしか聞こえないんだが」

 

「実際、下心丸出しだろうよ」

 

「せめて女神なのか天使なのかハッキリしろと」

 

 休暇中にはサークル仲間と一緒に南国ハワイへと旅行してきたというキリー。肌はこれでもかというくらい黄金色に焼け、対して口から覗くやたら眩しいばかりの歯。頑なに外そうとしない黒色のサングラスといい、もう見目だけでたまらなく鬱陶しい。

 皆に買ってきたお土産も、現地の守り神なのかよく分からないデザインの置物に、必要以上にゴテゴテしたキーホルダー、特大サイズのペナントといい絶妙に貰って嬉しくないラインナップのものばかりだった。

 

「もうルックスからスタイルに至るまで全部パーフェクツ!一目惚れどころか十目惚れはするくらいの可愛いさレベルだったね!」

 

「頭の悪い単位を作るな。てか10回見て惚れるって、それ逆にランク下がってんだろ」

 

「どうせまた振られたんでしょ?」

 

「ちっげーし!寧ろあまりの可愛さに緊張して声もかけられなかったからねー!?」

 

「一番情けないパターンだよそれ」

 

「特に真ん中の子……次女の子がさぁ!超絶可愛い子だったんだよ!!

 母性あふれる可愛い系(プラス)全体的なゆるふわ雰囲気から、しかしどこか醸し出される掴みどころのないミステリアスな空気!まさに深層の令嬢!ピアノを演奏する姿とか超似合いそうだったね!!……いや、実際すれ違った時はなんか『ラーメン屋かな?』って思うくらい豚骨臭が漂ってきたけど」

 

「居るわけねーだろ、そんな面白いの」

 

「居たんですー!?おまけに暴力的なまでのスタイル!まさにボンッ!此処がボンッ!抱きしめたらめっちゃ柔らかそうだったよ!絶対いい匂いするよ!いや実際ラーメンの匂いだったけど!」

 

「だからいいっつってんだろぉラーメンの精の話はよぉ!?お前ほんと分かってんのか!?試験明日なんだぞ明日!これ落としたら即留年なんだからな!?」

 

 彼らが休日中にもかかわらず図書館に集まっている理由。それは学期末試験において延期となった『情報電子学』のテストに備えてだった。

 他の教科に比べて圧倒的に広い出題範囲に加え、毎年『留年生産機』とも悪名高いこの科目。必修科目であるが故に落とすわけにはいかず、彼らが抱く警戒と緊張はもっともであり、だからこそ未だ休み気分の抜けないキリーの態度には苛立ちを募らせていた。

 

 

「っっあ“〜〜、絶望的に時間が足りねぇ!何でもっと早めに勉強始めなかったかなぁ俺っ!?」

 

「まあ一度休みモードに入って気が緩んじゃうとね。久しぶりに実家帰って、何もせずともご飯が出てくる有り難みを痛感して。のんびりテレビでも見て過ごしてたら普段の何倍もの速さで時間が過ぎてたことにビビるわ。飼ってる猫と戯れ始めた日にはもう……」

 

「どうせあと1教科だし、集中して勉強すればすぐ終わるだろって油断もあったり」

 

「ヤメロォ!己の不甲斐なさを痛感させるのはヤメロォ!!」

 

「てか結局なんで延期になったんだっけ?『情電』って」

 

「あれだろ?共同研究先の企業が“提出された資料に不備がある”だの難癖つけてきたとかで……。教授や研究員生全員で集まって三徹がかりで資料を作り直したそうだぜ」

 

「ほーん?普段はあれだけ威張り散らしてる教授が、企業様の前ではヘコヘコ頭下げてるんだと思うと、ちょい胸がスッとする気分だわな。で?なんて名前の企業よ」

 

「確かウツノミヤだったか、ニノミヤだったか……ミユキだったら知ってるんじゃね?同じ日本(ジャポネ)の会社だろ」

 

「おう。そこんとこ、どうなんだミユーー」

 

 声を掛けようとする途中、しかし視線を送った先に誰もいないことを思い出し、言葉を詰まらせる。

 長机を挟んで皆が肩を並べ座るなか、其処だけが穴の空いたようにポッカリと、沈黙に満ちた空席となっている。

 

 およそ数週間前。残るテストに向けて勉強会を開こうと提案した張本人が、しかし初日だけ顔を出して、以後は欠席ばかりを続けている。

 どうしたのか、何かあったのかとメールを送れど帰ってくるのは謝罪の返事ばかりで……。

 彼に信頼をおいて集まったメンバーだからこそ、その不在には皆口にこそ出さないものの不安と心配を抱いていた。

 

「……ったく、何やってんのかねぇ。あのバカは」

 

 いくら見つめども答えの帰ってこない空席を前に、キリーはまた一つ、大きな溜息を吐いた。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

「入るぞ。早坂」

 

 数回の短いノックの後、しかし返ってこない返事にそっとドアを開く。

肌に触れる微かな熱気に満ちた空気。耳に届く荒く苦しそうな吐息。

この数日で見慣れてしまった光景にグッと唇を噛みながら、ゆっくりベッドの傍へと歩み寄っていく。

 

 

 具合はどうだ?そう問おうとした口は、そのまま閉じるしかなかった。

 

 もう正午を過ぎた時間だというのに窓際のベッドに横たわり、厚くかぶった布団から顔だけを覗かせる早坂。

額には大粒の汗を浮かべ、その寝顔に浮かぶのは安眠とは程遠い苦悶の表情。

薬はもう飲んだ後だというに、熱は一向に下がる気配を見せず、容態は寧ろこの数日で悪化しているようにさえ思える。

それが……いま彼女を苦しめる症状が、現在大学内でも猛威を奮う流行り病(インフルエンザ)であることはもはや疑いようもなかった。

 

 

 早坂が体調を崩し始めたのは……いいや。その様子がおかしくなり始めたのは、学内散策のデートを終えて間も無くだった。

 彼女とこの家で暮らし始めて約半年。積もり積もった返しきれないほどの感謝の念。彼女に抱く想いの丈を伝えた機会でもあった。

けれどその日を境に、彼女は何処か自分と距離を置きたがるようになり……。明確な拒絶の言葉があったわけではない。それでも、今まで感じていた遠慮とは異なる別種の忌避感。ふとした拍子に感じる余所余所しさ。

普段の様子や家事の合間にしても何処か上の空で、時折熟考に悩むように難しい表情を浮かべることも少なくなかった。

 

 デートを終えて、進展するどころか逆に離れてしまった心の距離。

けれど落胆はなかった。寧ろ当然のことだとも。

 

 戸惑わない筈がないのだ。自分が彼女へと向けた願い。このスタンフォードで彼女自身(自分だけ)の幸福を見つけて欲しいという想いは、ともすれば彼女がこれまで四宮家で築き上げてきた地位を棄てろということに他ならない。

四宮家から与えられた使命を忘れ、或いは彼女の実家……早坂家の意向をも裏切って。そんな決断(選択)が、一朝一夕で下せるものでないことは、白銀自身が一番よくわかっていた。

 

だからたとえ距離を置かれようとも、彼女が自分の答えを見つけ出すその時までは、決して決断を迫るような真似はしまいと……そう心に決めていた。

 

 

 だが今になってみれば、それもただの言い訳だ。

たとえ内心を明かさずとも。決して自らの仕事を妥協することの無かった彼女にとって、その変化がいかに致命的なものであったか。

思いつめるほどに……追い詰められるほどに、本心を覆い隠してしまう彼女の性格(こと)を、自分はあの誘拐事件を通じてもう知っていた筈なのに。

 

 階段の下、項垂れるように倒れる彼女の姿を見つけた時にはもう遅かった。

ボロボロの仮面の下に露わになった素顔。平静を演じ続けるために無理を重ねた体はとうに限界を超えていて。

 

誰よりも近くに居ながら。幸せになって欲しいなどと豪語しておきながら。結局自分は、彼女が負う苦しみの何一つも理解できていなかったのだから。

 

 

『お願いですから……どうか放っておいてください……。もし貴方にまで感染ってしまったら……私は……』

 

 

 息も絶え絶えに。目に涙さえ浮かべ必死に訴える彼女の姿が痛みと共に蘇る。

 病に犯された後も、早坂は己の不甲斐なさや仕事ができない現状を謝るばかりで。こんな状態になっても、決して甘える姿を見せようとはしない。

涙ながらに必死に訴える瞳が、けれど言葉以上に明確な“拒絶”に思えた。

 

この家も、彼女にとっては安らげる場所などではなく、ただの仕事場で。

 

白銀御行(じぶん)という存在もまた、弱さを見せるわけにはいかない。ただの他人に過ぎないのだと――

 

 

 

「……早坂」

 

 呼びかけに応える様子も、その余裕さえもない。喉から洩れる痛々しいほどに掠れた吐息。

 日本の医療とは違い、アメリカではインフルエンザに対する明確な処方薬というものは支給されない。

タミフルのように症状や苦痛を緩和する薬が提供されることもなく、通常の風邪と同様あくまで家庭での療養に留まる。与えられた薬も、咳止めや解熱剤といった気休め程度のものでしかなかった。

 

 せめて食欲が戻ってくれたらと作ったお粥も、ただ皿の上で冷めていく。何か出来ることはないかと考えを巡らせども、結局は見守ることしかできない。

額に溜まった汗を拭い、苦痛が少しでも和らいでくれればと温くなってしまった氷枕を新しいものへと変える。しかしそんな想いさえも届かないというように、より魘されるように目元を歪ませる彼女の姿に、白銀は己の無力を感じずにはいられなかった。

 

 思えば彼女のことを気にするあまり、自分もここ数日は気落ちばかりしている。看病する側がこんなことでは、目を覚ました彼女に心配をかけるだけだというのに、嫌な想像ばかりが頭に張り付いて離れなかった。

 

 

 ヴーーッ ヴーーッ

 

 失意に暮れる自分を叱咤するかのように、突如荒々しく震えだす携帯電話。

早坂が起きてはいけないと急いで取るも、表示された名前を目にくしゃっと眉間に皺が寄る。泣きっ面に蜂ならぬ蛇。投げ出してしまいたい気持ちを必死に抑えながら、携帯を耳へ押しあてる。

 

「……もしもし」

『死人みたいな声ね』

 

 アンタまで病気になったか、と心底呆れたような溜息が耳を打つ。

聞こえるのは声だけだというのに、白銀にはじっとりと目を細めねめつけるベツィーの顔がはっきり見てとれた。

 

 

『ああ待ちなさい、切るな切るな。これでも一応心配してかけてやったんだから』

 

 思わずぎょっと目を見開く。“心配”などと、これ以上に彼女に似合わない言葉があっただろうか。明日は雨かはたまた台風か。

 

カリフォルニア(こっち)台風(ハリケーン)はわりとシャレにならないから止めて欲しいんだが」

 

『なんの話よ。てかアンタ何で勉強会に出てこないのよ、エイス達と約束してたんでしょう?おかげで何故かこっちに苦情の電話が来たわよ。

“どうせまた虐めたんだろう”とか。“今度は何を言って心砕いた”とか。ざっけんじゃないわよ。全く身に覚えの無いことで責められるのは流石のアタシでも堪えんだからね!?』

 

「普段の言い合いではどんな恨み言吐かれても動じないどころか、逆に鼻で嗤い返してくるのに」

 

『議論の時は良いのよ。何があっても相手を論破する(殴り殺す)って心に決めてるから』

 

「そんな覚悟キメないで欲しい」

 

 げんなりと零れる溜息。

 その後も、二度三度。息を吸うような気軽さでこちらを貶してくる彼女へと言い返すうち、しかし沈んでいた心も自然と軽くなっていった。

誰かと話せる機会を欲していたのか、或いは彼女なりショック療法なのか。心配しているというのは本当らしく、いくらか罵倒の切れ味も抑え気味だ。

それでも真剣が木刀になっただけで痛いことには痛いのだが。

 

 

「試験勉強の方は家で問題なくやっている。エイスたちにもそう伝えているんだが……」

 

『そりゃ、そんな死人みたいな声で言われても説得力ないでしょうよ。

 だいたい、自家学習でこと足りるなら誰も図書館なんかに駆けこんだりしないわ。

 ……アンタまさか今回の試験は諦めて、追試に賭けてるわけじゃないでしょうね』

 

「それこそ“まさか”だろう」

 

 

 身内の不幸や突然の事故。不慮の事態により欠席を余儀なくされた学生のためを思って、大学側は試験に追試を設ける用意がある。

もっともソレは高校時代までと異なり義務ではない。出題者側……延いては担当教授や研究室側の善意によるところが大きい。

 毎年多忙繁忙に追われる研究室。

追試となれば出題の重複を避けるために試験問題を作り直さなければならず、当然出題難度も変わってくる。

ましてや今回のように、元々が延期になった試験ともなれば、これ以上のスケジュール変更が認められるかは難しい所。

もし研究室側の都合により追試の開催が困難となれば、未受験者は不合格のまま。議題教科が必修科目である以上、そのまま留年に陥ることだって有り得る。

 

 学内で修めた成績がそのまま企業就職で評価されるアメリカ社会において、“未受験による留年”がどれほど重い烙印となるか。それが分からない白銀ではなかった。

 

何よりそんなことをされて、早坂が喜ぶはずがないことも

 

 

『別にアンタが気落ちすることじゃないでしょうに。世界最小にして人類最大の敵、インフルエンザ。どんな完璧超人だろうと、どう万全に対策しようと罹るときは罹る』

 

「………」

 

 耳に響くベツィーの慰め。誰を責めるべきでも、誰が負い目を感じることでもないと。

 

けれど、こうして。目の前で、今も苦しみ横たわる早坂の顔を見ると、どうしても言葉を噤んでしまう。

 

 

 

本当に――そうなのだろうかと

 

 

 

『……マ、マ………』

 

 熱に魘されるその口から、助けを求めるように零れでた母の名前。

 

 半年前、彼女は言った。アメリカでの生活に馴染めず自信も何かもを失いボロボロだった自分に。

生活の変化。環境の変化。そんなちょっとした外因でも、人の心は容易く壊れてしまうのだと。

 

 けれどそれは、彼女とて同じだったのではないか。

故郷を遠く離れ、心を許せるはずだった母にさえ別れを告げて、たった一人。慣れない異国の地で生活を続けることが、彼女にとっていったいどれだけの重荷だったことか。

そんな彼女の心を知らず。分かろうともせず。この国(この場所)で幸せを見つけ欲しいなどと、無神経な要望(願い)で彼女を追い立てたのは誰だったか。

 

今ある関係が壊れることを恐れ。本当に大切なことも聞き出せないでいるのは誰か。

 

ああ、そうだ

 

「もっと早く、聞くべきだったんだ」

 

 どうして君はスタンフォードに来てくれたのか。

半年前、彼女とこの場所で再会して以来、ずっと胸に仕舞い込んでいる問。

 

 彼女が抱える罪悪感の正体。迷いの核心。

それも分からずして、どうして彼女の心を救う(知る)ことができるだろう。

 

 

『ハァァ~~~っ』

 

 長く長く、たっぷり三分間。まるで怒りの全てを吐き出すかのような溜息が電話越しに響く。

そうして次に開いた彼女の口から出てきたのは、ソレまでとは異なる重い口調だった。

 

懇親会で(まえに)も言った筈でしょ。“それだけは止めておきなさい”と』

 

「……だが」

 

『人間の意志ってのはね、決して一つじゃぁないの。誰かが為す選択だって同じ。

 一つの想いから下した決断に見えても、その奥には本人さえ自覚しえないような複雑な心情の渦が隠れている。

 それこそ、目も覆いたくなるほどに浅ましく醜い利己的な打算というものもね。

その一つ一つを聞き出して。知りたくもない感情の全てを自覚させて。自分の(こころ)と無理やり向き合えだなんてのは尋問と同じ行為よ』

 

 私が普段やっているね。アンタだって散々嫌がってるじゃないの、と最後にそう付け足すベツィー。

 

彼女は言う。おまえの行いは彼女を苦しめるものでしかないと。

 

 

 

「……」

 

 

 それでも、だ。

 

 もし自分と居ることが、彼女の不幸へと繋がるのならば。

 今の生活が彼女にとって苦痛でしかないのなら。

 

 

ソレはきっともう――終わらせるべきなのだろう

 

 

 

『それにね』

 

 また深く大きな溜息をつくベツィー。呆れと憤り。そして微かな同情も含めて。

 

 

『それだけ深く絡み合った感情の蔦。

 自分の本心なんて……きっともうその子自身(本人)にだって分からなくなってるでしょうよ』

 

 

 

 

 

 

 

 




長くなりすぎたので途中投稿

イチャラブが……ゲボ吐くほどのイチャラブが書きたい……(禁断症状


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自答

 幸福になってはいけない。

 

 決して、期待を抱いてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 重い泥に足を取られ膝をつく。

 

 果ても無く続く墨色の湖底。視界は朦朧と霞み、目の前に翳した筈の手のひらさえ輪郭を掴めない。

 絶えず体を蝕む熱に喉奥からは鉄味の吐息が競り上がり、疲れ果て、なおも歩き続けた脚はもはや立ち上がることさえ叶わないほどに憔悴しきっていた。

 

 痛みに蹲る私を見守るように……或いは見下すように。いつしか周囲を囲むように漂う無数の影達。

 問いかける言葉もまた変わらない。

 

 

貴方(わたし)は何がしたかったの?』

 

 

 幾度となく繰り返した自問自答。

 ……分からなかった。初めに抱いた筈の願い。他ならぬ自分自身の本心であるソレが、けれどどれだけ探しても見つけることができない。求め手を伸ばすほどに、霞の奥へと消えてしまう。

 

 それが苦しくて(切なくて)

 それが悲しくて(悔しくて)

 

 遠いあの日、かぐや様(あの子)に見離された時と同じ。否定することも、受け止めることもできない無力感。失意の果て、自分の心さえ信じられなくなってしまいそうな

 

 ただ──

 

 

『ただ、どうしようもなかったんです』

 

「──ー」

 

 声は自身の口から溢れたものではなかった。

 蹲る自身のすぐ後ろ。漂うだけだった影の一人が、囁くように零した言葉。しんと響く声に、静寂に沈むだけだった湖底がざわりと揺れ動く。

 

『かぐや様に近従の任を解かれて……あの子は遠く、京都の本邸へと連れていかれてしまって。何度も真意を確かめようとした。心変わりの理由(わけ)を問いかけた。けれど──』

 

『けれど答えは終ぞ帰ってはこなかった』

 

 追従するように。あるいは反論するように。言葉奥に隠しきれない憤りを滲ませながら、また別の影が口を開く。

 

四宮黄光(あの男)に邪魔をされている?』

『ううん。届いていないはずがない。近従時代に使用していた非常用ホットライン……あの子との間に残された、たった一つの繋がり。知られればこの連絡手段さえ断ち切られていた筈だから』

『それでも決して帰ってはこない返事。何故と問う嘆きも。どうしてと訴える憤りも。全ては虚しいままに』

『あの子は遠く、別の世界へと行ってしまった』

 

 天界の衣を纏い心を変えてしまったかつてのお姫様のように。心は地上を離れ、私たちへの関心ももはや失ってしまっていた。

 

 さようなら、と。最後に告げられた言葉を幾度も夢に見た。その度に、涙と共に目を覚まして。

 諦められなかった。受け止めることなんて、できる筈がなかった。

 妹同然に育ってきた貴女。かつて私を救ってくれた貴女を、どうして見放すことなど出来るだろう。

 

『何かやむを得ない事情があったに違いない』

『誰にも明かすことの出来ない苦悩(秘密)を抱えて。権謀術策が渦巻く四宮家の中、あの子は今も独り戦い続けているのだと』

 

 ただそう……信じていたかっただけなのかもしれない。

 

『それでも、近従としての地位を失った私に、もう本家の決定に抗う手段なんてもう残されてなくて』

『だから私は、最後に残った微かな可能性を……』

『白銀御行という、たった一つの希望に賭ける(すがる)しかなかった』

 

 かつてあの子が地上で出会い、心を開くきっかけになってくれた人。四宮かぐやという人間を変えてくれた唯一人の存在。あの人ならば、きっと……冷たく凍てついた心を溶かし、もう一度以前の優しさを取り戻してくれるのではないか。

 

 胸に生まれたのは、そんな浅はかで、どこまでも身勝手な期待だった。

 

『けれどその切願(おもい)だけを胸に、私は遠くアメリカの地にまで訪れた』

『もう届かない彼女と、まだ手を伸ばせば追いつけるかもしれない彼。そのふたつを天秤にかけて』

『私と同じように……ううん。私以上に傷ついた(あなた)の姿を知っていながら』

『自分には叶えられない願いを、貴方へと押し付けた』

 

 一人、また一人と。胸の内を懺悔するように言葉を続ける影達。身につける仮面は皆違って……けれどその一つ一つが「私」という人格を形作る感情の欠片達。

 

 胸に浮かぶ心情を映し出すかのように、揺らめく湖中の砂が一つの風景を形作っていく。

 色の無いモノクロの世界。およそ半年前、日本から遠く離れたこの地で、彼と再開を果たしたあの日。

 今や住み慣れた()の扉は、けれど初めて目にした時には、何度心を奮い立たせても怖気付いてしまいそうなほどに大きく、重く感じられて。

 突然の来訪に『どうして』と投げかけられる、不信に満ち満ちた貴方の瞳。

 

 

 それは当然の反応(こと)

 

 けれどとても悲しくて

 

 

 貴方が早坂愛の姿(わたし)に、四宮かぐや(あの子)との繋がりを期待していることは知っていた。そう(……)してしまった過去を悔い、ずっと謝ろうとしてくれていることも。

 

 

(けれど…… 本当は、全てが逆だった)

 

"どうして"と聞かれるのが怖かったのも。心の底から謝りたかったのも、私の方。

 

『さも傷ついた貴方を助けに来たかのような顔で近づいて』

 

 忘れてしまいたかっただろう心の傷。この国で。この場所で、貴方自身が見つけられた新たな幸福もあったかもしれないのに……それさえ否定して

 

『空いた心の隙間を狙い、入り込むように』

 

 心をかぐや(あの子)へと縛り付けて。また天才達を相手に無理を通して渡り合う、苦渋の道を強いて。

 

 貴方が思い描くような、四宮家や早坂家からの意向があったわけではない。

 まして、あの子の望みがあったわけでも。

 

 全ては私の我儘。

 

 私の方が、貴方を『蓬莱の薬』として、利用しようとしていたのだ。

 

 

 

 そうして始まった歪な共同生活。

 

 幸福を感じてはいけないと思った。

 私は、(あなた)を騙し欺いている。傷ついた貴方を無理矢理奮い立たせ。自信を取り戻させるのも、全ては貴方にもう一度あの子と向き合う勇気を抱いてもらうため。

 

 だから日々こなす家事も、交わす会話も。かつて近従として務めていた頃と同じ、あくまで仕事として。そこに何の見返りも求めてはいけない。そんな資格などある筈もないと、自らに言い聞かせ続けた。

 

 

 慣れない異国での暮らし。何より、他ならぬ白銀御行(あなた)との二人暮らしだ。他人の気色の変化に人一倍敏感な彼を欺き続けることはとても難しいことで……僅かな気の緩みも許されない。厚く厚く被った仮面を外す暇さえ無い。そんな辛く厳しいだけの日々がずっと続くのだと、そう思っていた。

 

 

 

 ……

 

 ……

 

 

 

 ああ、けれど

 

 

『けれど実際は──』

 

 

 じわりと胸の奥に広がる微かな温かさ。冷たい灰色だけだった世界に淡く柔らかな色が灯っていく。

 

 

 浮かび上がる日々の光景。

 言葉や文化、家電一つとっても日本とは全く仕様の異なるその地は、もはや別世界と言っても過言ではない環境で。何より、世界最高峰たるスタンフォードに通う彼の日常は、私が想像していたものなんかより遥かに過酷なものであった。私自身、彼を支える以前に、移住したての頃は慣れない異国の暮らしに随分と苦戦していたように思う。

 

 そんな内心が伝わっていたのか……或いは単なるお人好しだったのか。

 日常の事あるごとには家事の手伝いを申し出てきた彼。

 

『もう本当に何度言っても。どれだけ私が断っても、しつこいくらいに』

『プライドが高くて意地っ張り』

『そんなに私の世話を受けたくないのかなって、不安になったりもした』

『……でも』

 

 でも本当は分かっていた。それが貴方なりの気遣い(優しさ)であったこと。

 

 四宮家の近従として私生活さえ仕事に忙殺されていた過去。人目に触れれば自分でも気付かぬうちに仮面を被ってしまう私を知る、貴方だからこそ。

 どうか早坂(わたし)にも、家でくらいはのんびりしていて欲しいと……私1人が負担を負うことを良しとはしなかった。

 

 日課の家庭教師にしてもそう。スタンフォード大学に入りたいだなんて嘘の夢。貴方の側にいたいがための口実を、けれど貴方はどこまでも本気で応援してくれて

 

『自分の方が大変だろうに、どうして人の事ばかり』

 

 けれど思い返してみれば、貴方は初めからずっとそうで。

 あの頃からずっと……貴方は私の幸せを願ってくれていたのだ。

 

 

 凍らせた筈の心の底にジワリと広がる感情。貴方を騙すことへの後ろめたさを抱きながら、けれど同じように、木漏れ日のように差し込む“嬉しい”という気持ちを振り払えないでいた。

 

 我ながらなんて情動的(ちょろい)

 けれど幼い頃からずっと、四宮家に仕えてきた私にとって、ソレはずっと与えられてこなかったもので。完璧は当然と、どれだけ身を粉にして仕えても投げかけられるのは些細な咎の粗探しと、失態を責める言葉ばかり。誰かに感謝されることなんて数えるほども無い。幼い頃はその厳しさに何度も涙を流し、だからこそ自然と自分の心を殺す術が身に付いていた。ただ、そうあれかしと育てられてきた。

 

 ああ、だからこそ。“ありがとう”なんて。日常のふとした時に、まるで当たり前のように与えてくれる些細な言葉の一つ一つが、ただ純粋に嬉しかったのだ。

 

『浴室が壊れてしまった時だってそう。貴方一人(ほんとう)ならその必要性だって無かったのに、まるで我が事のような真剣さでリフォームを申し出てくれて』

『私の喜ぶ顔が見たいと……その一心で内装を考えてくれて』

 

 共に過ごす時間の中、少しずつ。少しずつ大きくなっていく感情。

 凍らせ、咲き遅れた蕾が花開いていくように。

 

 ゆっくりと、けれど確実に以前の自信を思い出して(取り戻して)いった貴方。

 多事多端を極める大学での1日を終え心根まで疲れ果ててしまったような顔が、けれど家路に着く頃にはほっと安堵に微睡む……そんな表情を見るのが嬉しかった。

 

 私も、日々こなすだけだった家事(仕事)は、いつしかキッチンに立てば自然と貴方の横顔を思い出すようになり……

 また喜んでくれるだろうかと。

 また、美味しいと言ってくれるだろうかと。

 ふとした折には時計を見上げ、貴方の帰ってくる時間を心待ちにしている自分がいた。

 

 

 

本当に幸せになれるのは、一緒に居て安心できる人じゃなきゃな

 

 

 大学での飲み会なんて高校でのソレ以上に乱交(ヤリ)パ必至。そんな通説(ゴシップ)を知っていたがために、気がつけば全身変装で固めてまで忍び込んでいた飲み会当日。

 ふと耳に飛び込んできた誰かの言葉、けれどどこか納得したように頷く貴方の姿に……自分でも分からず瞼の奥が熱くなったのを覚えている。

 

 ああ……こうして過ごす時間(いま))も。

 胸の奥でたしかに宿る暖かさ(幸福)

 貴方も私と同じように、感じてくれているのだと。

 

 想い想われているのだと感じる瞬間。

 私たち二人だからこそと、そう思える時間が何より温かくて

 

 

『じゃあ……どうして?』

 

 詰め寄るように乗り出してくる一つの影。身に纏うのは今や懐かしい……ただ変装のために取り寄せた、とある日本の女学院の制服。私たちの中で、初めて“この気持ち”を自覚した人格。

 

『どうして貴方は断ったの? 

 嬉しかったんでしょう? 本当ずっと待ち焦がれていたんでしょう? 

 なのにどうして、貴方は彼の手を取らなかったの?』

 

 

君に、幸せになってほしいと。

 

 デートの終わり際。貴方が私に捧げてくれた言葉。

 

 

 嬉しくないはずがなかった。

 胸の奥底から湧き溢れ出るような感情を抑えるのに必死だった。

 

 すべてを忘れ、その手を取ってしまえたらと……そう願わずにはいられなかった。

 

 

(……だけど)

 

 ズキリと胸の奥に奔る痛み。

 幸福に浸る心を決して許さないというように、堅く硬く縛り付いて離さない罪悪感の鎖。

 

 それは決して許されないこと。

 スタンフォードに訪れていたのも。こうして日々感じている幸せも

 本来、全てはあの子が体験す()るはずだったもの。

 

 私はそれを横から掠め取っていったに過ぎない。

 騙し、利用しようと近づいて。幸せになってはいけないと誓ったはずの私が、いったいどんな資格があって、あなたの隣に居ることができるだろう。

 

 

『違う。あの子は自分からその未来(それ)を棄てた』

 

 否定を叫ぶ(わたし)。仮面は大きくひび割れて、合間に覗く青い瞳から涙を流しながら

 

『あの人がどれだけ傷ついていたか……今の自信を取り戻すために、いったいどれだけの苦痛と努力があったか。私は知っていた。私だけは、ずっと傍で見てきた』

 

 スタンフォードでの生活を始めてからも、かぐや(あの子)への連絡は何度も試みた。

 あの人が大学へと向かう姿。挫折に傷つき、それでも折れず努力に立ち向かう姿……一緒に送った写真の数は、もはや数えられないほど。かつての想い人の姿を目に、あの子も何らかの心変わりをしてくれるのではないかと……そんな淡い期待を元に始めたことだった。

 けれどその心境は、その目的は、傷ついた彼の姿を知るほどに。その優しさ()に触れるほどに、少しずつ変わっていった。

 

私は四宮の人間。この国の中枢に立つ存在です。そんな私が何の権威も持たない一介の男などに靡く筈がないでしょう。

 

今までご苦労様、早坂。貴女は私には過ぎた近従だったわ

 

 

 自分と同じ境遇。自分と同じ痛みを知る貴方。

 想いを棄てられることの辛さを、誰より知っていた私だからこそ

 

 かぐや。貴女が手放してしまったもの。貴女が傷付けてしまったものの重さを伝える(教える)ために。

 

いつしか私は──

 

 

「ちが……う」

 

 耳を塞いで、首を横に振る。そんなこと、私は考えていないと。

 影達の言葉を。自らの胸の奥から溢れ出そうになる後ろ暗い感情を否定するように。

 

『けれど、あの子は変わらず応えないまま』

『まるであの人から……自らが犯した罪にさえも目を背け続けるように、沈黙を貫き続けた』

 

『どうして後ろめたさを感じる必要があるの?』

『ずっと私が支え続けてきた。私だから……私たちだからこそ、掴めた幸福(いま)だった』

 

 

 そうだと認めてしまいたい心が溢れ出す。

 

 違うと否定したい気持ちに胸が打ち震える

 

 

 憐情と使命感。慕情や渇愛。自分でもわからない感情に心がぐちゃぐちゃになって。

 

 

 日々胸の中で大きくなっていく、『期待』という感情が恐ろしくて仕方がなかった。

 

 

 

「ねえ──アナタだって、そうだったんでしょう?」

 

 

 振り絞る声と共に……並び立つ影達の後ろ。その合間に隠れるように、ひっそりと佇む小さな姿を睨みつける。

 

 ただ一人仮面を身につけない容姿は、今の自身よりも二回りほども幼い。

 不安げに瞳を揺らし、今にも泣きだしそうな顔の女の子は、けれどだからこそ紛れもない探し求めていた私自身の『本心』なのだと自覚できる。

 

 小さな両手にはまだ蕾のまま、咲ききってもいない半端に開かれた一輪の花を握り。ふとすれば折れてしまいそうなか細く小さな花を、大切に、必死に守るように抱え込んでいた。

 

 

「あの子を裏切って……いつか幸せに溺れ、あの子の姿を思い出しもしなくなる。そんな自分になってしまうのが恐ろしかった。

 胸の中で大きくなっていくこんな後ろ暗い感情を、あの人に知られてしまうのが、怖くて仕方がなかった」

 

 

 本当は辛かった。貴女を裏切り続けるのも。貴方を騙し続けるのも。

 初めから何もかもが間違っていた生活。こんな暮らしが長く続けられるはずがないこと。

 嘘を貫いたところで、いつかはお互いが不幸になってしまうことにだって……本当は日本を発ったあの日から、ずっと分かっていたことだった。

 

 けれど止めることが出来なくて。この温かな時間(幸せ)を棄てる決意も、続ける勇気も持てなくて

 

 何一つ決断することも出来ず、こんな所で蹲っている自分が、なにより許せなかった。

 

 

「……もう、気付いているんでしょう?」

 

 かつての自信を取り戻し、遠い宙を見上げる貴方。

 もう支える必要は何処にもない。私に出来ることも、もう何も

 

 終わらせるべきなんだって。

 続けることは出来ないんだって

 

「本当にあなた(・・・)の幸せを願うのなら、私にできることはもう……」

 

 

 言葉にしてしまって、目から溢れ出る大粒の涙。

 今まで過ごしてきた温かな時間が、まるで走馬灯のように頭の中に溢れ、そして消えていく。

 

 もはや何も分からなくなってしまった自分の心で、けれどこの感情(それ)だけは真実だと悟るように。

 

 

「……」

 

 

 少女は何も応えない。

 

 自分と同じような泣きそうな顔で。

 

 けれどどこまでも冷たい、責めるような瞳を浮かべ、ただの一言。

 

 

 

 

「──嘘つき」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ようやく辿り着けました、早坂の本心 兼 答合わせ編
と言ってもまだ前半、本音と建前で言うところの建前パート
どんだけ複雑怪奇な感情をしとるんじゃ うちの早坂は


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古い砂に込めた夢 前

 

嘘つきーーと。

 

 

 囁いた少女の声が波となるように、突如湖底に吹き荒れる滂沱の渦。

 溢れる嘆きを表すかのごとく。湧き上がる怒りに応えるかのごとく。荒々しく逆巻いては幾人にも浮かぶ仮面の影達さえも流し崩していく。

 

 湖底に犇めいていた黒い泥。使い棄てられた感情の残骸。その下から露わになる、水晶のように澄んだ輝きを放つ無垢の結晶達。

 波に舞い上がり、ゆっくりと降り注ぐそれらは、暗濁と沈む湖底でなお美しく輝いて見えて。

 

 ーーそれは遠いいつか。

 貴方と共に見上げた冬の夜空を思い出すようで。

 

 

『ーーー。』

 

 降り積もる砂に形造られていく風景。忘却の彼方へと封じ込めていた筈の記憶。

 

 決して思い出すことのないように。けれど決して褪せることのないようにと、大切に守り続けたソレは

 この暗い水底で、1人残された少女が最後まで願い抱き続けた、古い砂に込めた夢。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みっゆーきクーン」

 

 冬晴れの澄んだ青い空に鈴のような明るい声が響き渡る。

 

 東京都渋谷駅。日本人なら誰もが知るであろう忠犬像の前。休日という事もあり多くの人が往来し(ごった返し)、待ち合わせスポットとしては些か有名すぎるために、いざ着いてからが落ち合うまで大変と評されるこの場所。けれど、目的の人物はすぐに見つけることができた。

 

 本に落としていた目線を上げ、少し驚いた顔でこちらへと振り返る彼。

 

 

「待ち合わせ……一時間先じゃなかったか?」

「そういう貴方だって、もう来てるじゃないですか」

 

 くすくすとおかしそうに笑う私に言い返す言葉が見つからなかったのか、微かに頬を染めバツが悪そうに視線を逸らす。

 

 

 

 四宮家内でも大きな騒動となった誘拐事件の(ほとぼり)もようやく冷めた頃。

 事後報告も兼ねて……結局妙に畏まった文面となってしまった、かの手紙を元に取り付けた今日という日の約束。

 

 2人きりでの買い物という突飛かつ突然の申し出だったにもかかわらず、予想外の二つ返事で了承を貰えて……。彼もまたこんなにも早くから待ってくれていたことに、楽しみにくれていたのだろうかと、期待にも似た淡く擽ったい想いが胸の奥に広がる。

 

 

「というか、なんでギャルモード(ハーサカさん)?」

「……」

「……」

「そりゃあ、同じ秀知院の女生徒と生徒会長がお茶してる姿なんて見られたら、噂になっちゃうでしょう?」

「それは分かるが……え、なに今の間」

 

 

 ピシリと一瞬固まってしまった表情を取り繕いながら、尤もらしい理由を捲し立てる。

 

 ああ、やはりというべきか。素の自分を知る相手というのは、どうにも気恥ずかしさが勝ってしまう。

 なにせ、事件中にはあれほどの泣き顔(醜態)を見られてしまった相手。母やかぐや様以外となれば……まして異性ともなれば初めての相手(ひと)だろう。

 意識しまいと押さえ込もうとするほどに、かえって胸の奥からは羞恥や緊張の思いが湧き上がり、それを隠そうと気づけば彼を前に最も着慣れた無難な仮面を身につけていた。

 

「そう言う御行くんの方こそ、なんでいつもの学生服なんですか。折角のお出掛けなんだから普通もっとこう……あるでしょう?」

「いや、一張羅の方が丁度クリーニング中でな……そんなにダメか?学生服」

「並んで歩く私との対比を考えてください。側から見たら何の集まりかも分からないし」

 

 見慣れた、いや既に見慣れすぎた真っ黒な秀知院の学生服姿にジト目をもって返す。休日の渋谷という浮かれきった空気の中に聳え立つ黒一点。目も回りそうなほど人で溢れかえるこの駅前にて、一発で彼を見つけられたのもそれが理由だった。

 

 かたや気合の入った純白の肩出しニットプルオーバー。かたや別方向に気合の入ったバリバリの学生服。激しすぎるコントラストに、どこへ行くにしても悪目立ちすること必至だった。

 

 

 期待していたのは私だけなのか……そもデートとしての自覚が無いのか。これでは昨日も夜遅くまで懸命に鏡前でコーデを選んでいた自分が馬鹿みたいではないか。

 いや、でもかぐや様とのお出かけの時も学生服だったな、この人。

 

「……分かりました。なら一軒目に向かうお店は決まりましたね」

 

 悶々と湧き上がる想いをため息一つで振り払い、強引に彼の手を引いては休日の街へと歩き出していく。

 

「っ、待て、自転車を買いに行くんじゃないのか?」

「命を助けて貰ったお礼なんですから、それだけじゃとても足り得ません。

 覚悟してくださいね?今日は貴方に奉仕し尽くして、絶対に心から“満足した”って言わせてみせますから」

 

 にっ、と挑戦的でどこか楽しげな、冬晴れの街並みに合う眩しいばかりの笑顔が咲き誇る。

 

 まだ何も知らない。これから訪れる未来のことなど知る由もない。

 あどけないばかりの笑みを浮かべる自身の姿が、其処にはあった。

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア第12話 「古い砂に込めた夢」

 

 

 

 

 

 

 

「御行くんは地のレベルが高いんだから、もっとしっかりオシャレに気を遣ってください。正直勿体なさすぎ」

「いや、圭ちゃんにも似たようなこと言われたが、拘り出したらとてもキリがない…………どこから腕を通せばいいんだ、これ?」

「だったら今日だけは我慢せず存分に着飾ること。こういうセンスは実際に着慣れてみないと身につかないんですから。

 あ、似合ういい感じ♪じゃあボトムの方はもっと派手目に…」

「この季節でこの格好は流石に寒くないか?」

「耐えて。オシャレは我慢です」

「いま我慢するなって言わなかった?」

 

 

 都内有数の衣料用品店(アパレルショップ)。数多くのマネキンが立ち並びポーズを決める煌びやかな店内にて、試着用ボックスに閉じ込めた彼へとアレよコレよと服を手渡していく。人気のブランドや季節の流行り物。ネックレス等のちょっとした小物なんかも。

 

「そもそも御行くん、目つきを気にしてるくせに、どうして眼鏡かけないんです?」

「一度かけ始めたら、逆に裸眼の方はどんどん視力が落ちていくんだろう?だったら無理に頼らず、日常生活に支障のない今の視力(段階)で留めておくのが無難だ」

「本音は?」

「……俺がかけると、どこからどう見てもガリ勉にしか見えない」

「はぁ……」

 

 大方そんなことだろうとため息一つ。ガリ勉どころかおそらく、いいやまず間違いなく日本で一番勉強しているであろう人が何をいうのか。その目のクマだって。本当は努力の勲章なのに、それを本人が恥と感じていることが無性に悔しく思えてならなかった。

 

「ならコンタクトは……ダメですね。鏡の前で上手く入れられず、何度も目を突く様が見える見える」

「アレは痛かった……。目を開けなければ正確に狙いが定まらず、しかし開けていては被害が増す。正に完全なーー」

「はいはいデッドロック、デッドロック」

「……そもそも付けたまま眠れないってのは割と致命的じゃないか?不慮にコーヒーを飲めずに寝落ちしてしまったらどうする」

「そんな危険を心配をするのは貴方だけだと思いますけど……。人のことを言えた義理じゃありませんが、御行くんも大概他人の目を気にしすぎ。それに眼鏡だって、ちゃんと選べば歴としたオシャレになるんですから」

 

 そう言っては店頭に並べてある無地のサングラスをかけてみる。

 

「どうですか?」

「……」

「ど、う、で、す、か?」

「うん、まぁ……………………………可愛い」

「よろしい♪」

 

 長い長い逡巡の末、観念したとばかりにポツリと溢した彼に、満面の笑みをもって返す。

 面と向かって人を褒めることに慣れていないのか、褒められた本人(わたし)よりも褒めた当人の方が照れくさそうな様子だったけれど……呆れ混じりの微かに綻んだ口元からは、遠慮や戸惑いの色が薄れて見えた。

 

 

 サングラスをこっそりと買物籠に入れ、そのまま彼の着替人形化を継続すること数十分。滅多にない機会だ。冬物に限らずいろいろ買い与えて、いっそ自分色に染め上げてしまおうかと、そんなことを画策していたところ。しかし途中、隠していた服の値札……一着ウン十万もするソレが彼に見つかってしまったために急遽ワンランク下のお店での選び直しとなってしまった。

 

 お礼なのだからお金は全部出すと言っているのに、せめて半分は払うと頑として聞いてはくれないのだ。全くほんとに意地っ張りというか、プライドが高いというか……。

 

 

「…ふふっ」

 

 けれど何故だろうか。こんなふうに、互いの弱い内面を知っていながら、だからこそ子供のように意地を張り合える関係というのが、不思議と好ましく思える自分がいた。

 今も試着室の外。今度は彼自身が選んだ服への着替えを待つ……本来なら退屈な筈の時間。しかし口元には知らず柔らかな微笑みが浮かんでいて。

 自分の心などとうに知り尽くしていた思っていたのに、少しずつ……少しずつ胸の中で広がっていく、名も知らない淡く擽ったいような感情。

 

 店内を見渡せば、もうすぐ来る聖夜に向けてのクリスマスムード一色で。自分達と同じように服を選ぶ男女客の姿。プレゼント用にと並べれれた色取り取りのニット帽やマフラーが一際目を引いた。

 これから本格的に寒くなってくる季節だ。自分もプレゼント用に一つ買っていこうか……いいや、どうせ贈るならば感謝の思いを込めて手作りに挑戦してみても……あ、でも編む時間取れるかな、なんて。

 まるで年相応の少女に戻ったかのように、携帯で編み方を調べながらそんなことを悩んでいると、カシャリと目の前でカーテンが開いた。

 

 

「どうだ?」

「……良い。良いんですけどその妙ちくりんなポーズのせいで全て台無しです」

 

 ガイアが俺にもっと輝けと囁いていると言わんばかりに、狭いボックス内で大胆かつ野性味の溢れるポーズを決める彼。だが、どう頑張って見ても右膝を故障したフラミンゴか、ベドナム戦争従軍中のレッサーパンダにしか見えない。そんな姿をどこまでも冷ややか(クレバー)な瞳で迎える。

 

 しかしファッションの方は存外に問題ないようで、スレンダーかつスラリと引き締まった彼似合いのコーデに仕上がっていた。

 

「……なんでカーテンを開けるたびにそう身構えているんだ?」

「……いえ、いつ何かの間違い(ファンブル)が起こって“名状し難き何か”が飛び出してきても構わないようにと……むしろ御行くんの方こそ、極めて常識的(まとも)なファッションセンスを備えていたことに驚きです」

「真顔でそんなこと言う?」

「だって、こと“センス”ってつく言葉については軒並み壊滅的だったじゃないですか、貴方」

「いやいや。そんな筈は……」

「運動センス」

「ぐっ、」

「歌唱センス」

「うぐぐ、」

 

 挙げていく過去の事例(惨劇)の一つ一つに、岩戸のとびらの如くカーテンの奥へと隠れていってしまう彼。

 まあ後に聞いた話では、ファッションについては丁度先日妹の圭ちゃんからキツイお灸を食らって、予め改善済みだったらしい。

 それは有難いことなのだがーー

 

「身構えていた方としては正直ちょっと拍子抜け。もう一回やり直して貰えます?」

「そんな芸人みたいなダメ出しある?」

 

 むすっと隠しもしない不満顔を浮かべる。そんな彼の姿に、また思わず笑い声を上げてしまう自分がいた。

 

 

 その後もよく分からないデザインのサングラスを掛け合ったりと……屈託なくじゃれ合う姿は、周りから見たらどのように映るのだろう。

 仲のいい友達か。兄妹か。ああ、それともーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そもそも、お礼なんて別に良かったんだぞ?」

「だって御行くん、あの事件で自転車が壊れてからは、ずっとバス通いだったじゃないですか」

 

 目紛しく人の行き交う街中を、次の目的地へと向けてひた歩いていく。思いの外服選びに夢中になってしまったので気持ち早足に。

 

 本日の主目的……というより彼を誘い出した口実は、先日の誘拐事件で壊れてしまった彼の愛車を買い直すことにあった。

 

 もともと相当長い期間を利用していたことに加え、犯人を猛追するために高スピード、かつ超長距離を見事走り抜いた車体は、果てには車軸やフレーム本体が大きく歪んでしまうほどに損耗しきっていた。

 修理できたとしてもテセウスの船。買い直した方が早いと……そう自ら語る彼であったけれど、長い間愛用していた分思い入れも深かったようで。残念そうに息を落とすその横顔は今も胸に残っていた。

 

 

「毎日のバス通いともなれば、時間的にも金銭的にも相当な負担になっていた筈……そんな無理を強いたまま、見て見ぬふりすることなんて出来ません」

 

 何よりプライドが許さない。そう豪語しては未だ遠慮を捨てきれない彼を強引に引っ張っていく。悠々と街を闊歩していく私の背中に、どうしたのか彼は数秒……何かを言い淀むように視線を迷わせ、口を開いた。

 

「早坂の方は、もう大丈夫なのか?」

「?はい。傷の方も、見た目ほど酷い怪我ではなかったですし、跡が残る心配もないそうです」

「怪我もそうだが……」

「……大丈夫ですよ。本家からの追求も収まりましたし、私の方も、気持ちに整理が出来ましたから」

 

 事件の際に負った額端の傷。今は髪の下に隠したそれに触れつつ、柔らかに微笑みかえす。

 

 それは本当のこと。あの事件の背後で秘密裏に行われていた本邸執事達からの理不尽な人事圧力……私たちをかぐや様のお付きから解こうとする動きは、かぐや様本人による徹底抗戦の意思を受けてからは、すっかり影を顰めてしまった。

 本邸執事といえども所詮は使用人。直系の御令嬢たる彼女の逆鱗に触れるのは流石に拙いと感じたか、そもそも黄光(あの男)の意志が絡んでいない案件であったか。今はまだ本邸から派遣された執事達が数人別邸に出歩いているものの、かぐや様の目が行き届いている限り、もう以前のような大きな顔も出来ないだろう。

 何より、かぐや様の生活をお世話をするのは本邸執事達にも難しいようで……

 

『休暇なんて早く終わらせて戻ってきなさい。好みのお茶一つ満足に飲めない生活なんてストレスが溜まるだけだわ』

 

 呆れ混じりにため息を溢す主人。刺々しい言葉のようだけれど、あの事件を通した後だからこそ分かる、そこには確かな信頼と芳情を感じられて。

 

「………。私はこれからもかぐや様(あの子)の近従を続けていけます。まあ、目の回るような忙しさであることには変わりありませんけど」

「……。そっか」

「っ、!」

 

 可笑しそうに笑う私に、小さくそれだけを零し、くしゃりと撫でるように私の頭へと手を置く彼。

 らしくもない突然の行動(スキンシップ)。予想だもしていなかった行為に思わず胸が早鳴り、平静を無理に取り戻そうと気がつけば言葉を捲し立てていた。

 

「そ、そのお礼(お返し)なんです。中途半端で済ませることなんて出来ません。

 貴方の趣味嗜好を徹底的に調べ上げて最高のプランに仕上げて来ましたから、御行くんなんて(・・・)今日一日周り終えた頃には、きっと喜びに嗚咽しているでしょうね」

「そんなに?」

「ええ。そのプライドの鉄仮面も投げ捨てて悶絶すること間違いなしです」

 

 ふふん、彼のプライドをくすぐることも分かって、敢えて挑発的に笑ってみせる。予想通りか、或いは合わせてくれたのか、「ほう……」とどこか不遜な表情で私の挑戦(言葉)を受け入れてくれた。

 

「わかった。だが俺とてこの八面玲瓏ぶりで秀知院学院の生徒会長(トップ)にまで上り詰めた男だ。そう簡単に醜態を晒したりなんてしないさ」

「本当に?言いましたね?」

「ああ。絶対、早坂に悶絶させられたりなんかしないーーー!」

 

 

 

 

 

 

10分後

 

 

 

 

 

 

 

「にゃー」

「にゃあ“あ”あ“あ”あああ!!!おかわぁぁぁああ!!!」

 

 

 

 

「……一軒目から完落ちじゃないですか」

「いや負けてないが?俺を負けさせられたら大したもんであ“あ”ああああ 太ももフミフミしてるぅぅぅ!!?」

 

 足元からよじ登る小さな生き物の姿に、法悦の声をあげる彼。胡座をかいた足の上でモフモフと。それでいて柔らかくしなやかな体をスリスリと擦りつけてくる姿に悶絶の叫びを上げている。

 

 訪れたのは都内でも有数の人気を誇る『猫カフェ』。ポテポテと短い脚での足取りが可愛いマンチカンや、長い毛並みが優雅なソマリなど数々の人気どころを揃え、加えて特に人懐っこい子ばかりを集めたこのお店は、猫の方から積極的なスキンシップを取ってくれるということでファン急増中のお店となっていた。

 

 普段の彼ならばプライドの高さが邪魔をして決して1人では入れなかっただろう店。子どもの頃から大の猫好きではあったけれど、しかし経済的な理由から飼うことも許されなかった彼にとっては、其処は正に天国に近しい場所で……。

 

「さっきのことは謝る……いやほんと、ぐすっ……ほんと連れてきてくれてありがとう」

「泣くほど?」

「だってあり得ないだろう、なんだこの可愛いさ。柔らかさ。世界が平和になってしまうぞこれ」

「ちょっとなに言ってるかよくわからないです」

 

 いまやその魅力に陥落し、四方八方から我が物顔でよじ登ってくる猫達にされるがまま埋もれいく彼。だというのにその表情切ないくらいに幸せ顔だ。

 

「なんだ。早坂は猫苦手なのか?」

「苦手というほどじゃないですけど……」

 

 彼の背の上でのんびり香箱座りする茶猫と、じっと目が合う。

 そう、この目。大きく透き通って、それでいても深い色の双眼に見つめられると、なんだか心の奥底まで見透かされているようで酷く居た堪れない気持ちになるのだ。

 

「それに、猫って自分が『母親』って決めた相手以外にはなかなか懐かないし」

「……」

「かと思えば、慣れない相手にはいい顔見せようとすぐ本心隠して猫被るし」

「……」

「なんで私の顔をじっと見つめるんです?」

「いや、なんでも」

「にぃ〜〜」

 

 盛大に目を逸らしては、ぶらーんと肩にぶら下がっていた子猫を腕の中であやす彼。指で顎の下を撫でれば気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らし喜ぶ声がこちらにまで聞こえてきそうだった。

 他の猫たちも膝の上で盛大に伸び(・・)をし、甘えるように彼の手のひらへと額を擦り付けている。

 

「………」

 

 ああ、そんな姿を見ていると……自分もあんな風に素直に甘えることができたら、受け入れてもらえるのだろうか、なんて。羨ましさにも似た感情が芽生えてしまう。

 

「早坂?」

「っ、なんでもありません」

 

 知らずとん、と。もたれるように彼へと寄せていた肩を、慌てて引き剥がしては立ち上がる。誤魔化すように時計を見やれば時刻は既に11時30分。予定の時間を20分近くもオーバーしていた。

 

「ほらっ、そろそろ次の場所に行きますよ。猫ちゃんどけて」

「ええ……」

「そんなこの世の終わりみたいな顔浮かべないでください。まだ一日は始まったばかりなんですから」

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

『よろしいのですかな?』

 

 ティーソーサーを置くカチャリという音ともに、皺がれた厳格な声が響く。

 

 漆黒の執事服に身を纏い、オールバックにまとめたシルバーブロンドの髪。片目にのみ銀色のモノクルを携えたその佇まいは、面と向かうだけで圧のようなものを感じる。元来は早坂愛を始め、別邸の使用人たちの左遷を目的に訪れた本邸お抱えの老執事。

 

 しかし罷免の話も白紙に戻った現在となっては、その落とし前として唯一人別邸に残り、早坂愛が休暇を取る数週間の間、代理として主人である四宮かぐや仕えることを約束立てていた。

 

 いわば期間限定の近従代理。無論、立場の異なる別邸使用人達との間に軋轢が生まれなかったわけではない。元々は自分たちの職を奪おうとしていた相手。不信や猜疑心は抱くのは当然のことだろう。

 が、それも。こうして数週間を経た今では少しずつ変わってきたように思う。

 彼が近従を勤めるようになってからは、普段の5割増しで繰り出されるようになった主人の我儘。昔話のお姫様もかくやと思われるほどの無理難題に晒され続け、しかし弱音の一つ、嫌な顔の一つ漏らさずに、老体一つに鞭打って懸命に応える様には、流石に思うところがあったのか、初めは白い色ばかりを孕んでいた使用人達の視線も、今では随分と軟らかくなったように思う。

 

 本来の地位を考えればこのような汚名を被る必要もない身分。だがそれでも甘んじて受け入れているのは本邸執事としての意地かプライドか。噂によれば、もとはかぐや様のお母様、名夜竹様に縁のある人物だというが……真実は定かではない。

 

 

『何が?』

 

 そんな彼に出された紅茶へ一瞥をくれることもなく、不機嫌さを隠そうともせずに応える主人。

 

『早坂の件です。本当によろしかったのですかな?』

『……いいのよ。あんな事件の後だもの。徒に家で安静にしてるより、ショッピングにでも出かけて気分転換する方がいっそ健康的だわ』

『……ふむ』

 

 テーブルの上にどかりと乗った四角い機械を相手にダイヤルやらボタンやらをアレコレと操作している主人の姿に、静かに息を溢す。

 使用人がとある目的のために用いるソレだが、電子機器全般に疎く、且つ初めて触れるかぐや様にとっては扱いが難しいかもしれない。

 努めて平静を装っていながら、それでも穏やかならざる内心を隠しきれないご様子のかぐや様。思うように動いてくれない機械への苛立ちか。いいや、それ以前にーー

 

『もう一度お訊ねします。本当によろしかったのですか?』

『……貴方も大概しつこいわね。いいのよ、私は会長を信じてるからっ!』

 

 主人の不機嫌の原因について、老執事にもおおよその予想はついていた。

 “彼”が主人の想い人であること。同時に、早坂が“彼”と向ける秘めた慕情も。少女達の何倍もの時間を生きてきた老執事()のことだ。その洞察など見抜くことなど赤子の手を捻るようなものだった。

 

 それが、かぐやにもわかっているのだろう。向けられる老執事の視線に、面白くなさそうにふん、と息を吐く。

 この老人(おとこ)、要はこう言っているのだ。

“想い人を盗られそうだが、大丈夫か?“と。

 

『大丈夫よ。どうせ早坂(あの子)のことだもの。今頃またあの夢と予定を詰めこすぎたタイト過ぎるデートプランを掲げて、会長に呆れられてるに決まっているわ』

 

 以前、後輩の石上君に”夢見すぎ“とバッサリ切り捨てられた横浜デートプラン。恋愛経験に疎いために想いばかりが先行し、秒単位のスケジュールに埋め尽くされ、常人にはとても遂行不可能とまで称されたかの計画。

 

 ああ、そうだ。あんなの嫌がられるに決まっている。

 普段から身を焼くような多忙さに慣れ。過密スケジュールをも難なく乗り越えられる程の気力と体力を持ち合わせるような人でもなければとてもーーー

 

『彼なら割とどちらの条件も満たしていませんか?』

『っ〜〜〜!!』

 

 気付いていた。しかし敢えて意識していなかった図星を突かれ、苦悶の声と共に何かビキリと嫌な音が響く。回していたプラスチック製のダイヤルが、その弓道により鍛えられた見かけ以上の握力に晒され、砕けて割れたようだった。

 

 その後続いた数秒の沈黙。深呼吸の声。

 自らを宥めるために紅茶を飲んだのか、陶磁器(ティーソーサー)が触れ合うカチャリとした音の後には、幾らか落ち着いた声が聴こえてきた。

 

『だいたい今の早坂じゃ、会長と碌にお話なんて出来ないわよ』

『ふむ……その心は?』

『……あの子の仮面は自分を守るためのもの。その場限りの嘘を貫き通し、弱い自分を覆い隠すための。

 でもね?本当に誰かを好きなったら“その場限り”でなんて居られないでしょう?』

 

 誰かを好きなれば、もはや今まで通りの関係ではいられない。その場限りの嘘を重ね騙し通していた相手ではもう留められない。胸の内から湧き上がる感情の渦に、自分自身もまた、否応なく変わらざるを得なくなる。

 

 本当に誰かを好きになって、自分の将来をも共にしたい相手だと、そう意識した時ーーあの子は果たして今のように涼しい顔を浮かべていられるだろうか。自らを守るその分厚い仮面を棄てる勇気が抱けるだろうか。

 

『仮面を棄てない、という手もあるのでは?』

『それこそ残酷な未来でしょう』

 

 好きな人にさえ嘘をつく罪悪感。いずれは本当の自分を見てほしいという欲求が抑えられなくなることを分かっていながら、仮面を外すことへの恐怖は日に日に増すばかり。そんな未来にどうして幸福を思い描けるだろう。

 

『……面倒臭いとか奥手(ヘタレ)とか、散々私のことを馬鹿にしてきたけれど、あの子だって恋愛については素人同然。どうせ今だって、会長相手に無意識に仮面を身につけて外せないでいるに決まってるんだから』

『……なるほど。それがかぐや様には勝てない理由だと』

『ええ、そうよ。何より……そう、何よりっ!私は会長のことを信じてますからね!』

『それは先ほども聴きました。あと、そういう強気な発言は盗聴器(それ)を外してからが宜しいかと』

 

 ザザッと微かに入るノイズの音。テーブル上の機械に繋がり、今も少女の耳に取り付けられた巨大なヘッドホン。

 大方、デート中の様子も含めて、こちら(・・・)の動向を四六時中監視する目論見だったのだろう。

 

『……ちなみに、盗聴器の子機というのは、普段我々が使用している?』

『……?ええ。そうよ』

『洋服のボタンに偽装した?』

『ええ。だからなんなのよっ?』

『…………。』

 

 ザザッッ

 

『一つ、襟元に付いておりました』

『え……?は………?』

 

 

 ザザッ!ザザザッ!

 

 

『えっ!?ちょっと待って!

 まさか逆盗聴!!?早坂これ聴いてーー!!?』

 

 

 

 ブツンーー

 

 

 

「おーい早坂。注文通りタピオカミルクティー買ってき………どうした?」

「いいえ?なんでも?」

 

 ピキピキと。笑顔の横に怒りのマークを浮かび上がらせながら振り返る私に若干たじろぐ彼。

表情こそすぐさま取り繕ったが、頭の中では小馬鹿にしたようなかぐや(あの子)の声がいつまでも繰り返し反響していた。

 

どうせ何も出来やしない

今日もメソメソと泣きながら帰ってくるに違いないとーー

 

(上等です)

 

 ああ寧ろ丁度いい。未だ臆病さを捨てきれなかった心を、こうして憤りが後押してくれるのだから

 

 

「それより御行くん、今日は夜遅くなっても構いませんよね?」

「ん、ああ……。圭ちゃんにもそう伝えているが」

「だったら予定変更。一つ行きたいところがあるんですけど……お付き合いいただけますね?」

「っ!?おい早坂!?」

 

 華やかにニコリと、しかし有無を言わさぬ迫力の笑顔を携えては、彼の手を引っぱり走り出す。

行き交う人たちの間を縫うように。もう取り繕う必要はない、しつこく追ってくる監視人(あの子の目)さえも遠く置き去るように。

 

 陽光差し込む明けの街角から突然始まる逃避行。それはさながら映画で見たワンシーンのように。

 ビルの間から映る冬空はどこまでも澄んだ群青。

 

 同じ色を湛える少女の瞳には、ある一つの決心が浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 



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古い砂に込めた夢 中

※本作品には赤坂アカ先生作『IB-インスタントバレット』のネタバレを含んでいます。


 

 

 

 物語の開始(はじまり)を告げる低いブザー音と共に、暗がりに浮かんでいたオレンジ灯がゆっくりと落ちていく。

 

 

 視界いっぱいを覆う巨大スクリーン。階段状に並んだホール(シート)の脇には、熱いコーヒーと山盛りのポップコーンが相席し、開演の時を今か今かと待ち侘びている。

 

 帷が落ちていくほどに少しずつ高まっていく期待。スクリーンの奥に広がる別世界へと引き込まれていくような幻想的な錯覚。それはこの空間だからこそ味わえる、誰もが最も近しき非日常への入口。

 

 

 

『——映画?』

『はい。以前からずっと観たいと思っていたものがあるんですけど、中々時間が取れなくて』

『まあ、そうだろうな……。そんなに面白い映画なのか?』

『話題沸騰。感動必至。実話を元にした等身大ラブストーリー物だそうです』

『んー、割と使い古された謳い文句』

『私もネタバレになるのは嫌なので、あまり詳しくは調べていないんですけど……魔法に目覚めた主人公たちが、世界の危機を前に仲間たちと一緒に何やかんやする話だそうです』

『何やかんやって。というか魔法が出てくる時点で実話を唄うのは厳しくないか?』

 

 本当に大丈夫かその映画と、明らかに不信顔を浮かべる彼。

 私自身、事前情報の曖昧さや上映時間の関係で1日の大半が潰されてしまうことから、当初のデートプランに組み込むことを避けていた。

 

けれど

 

“――どうせ早坂(あの子)のこと。今日もメソメソ泣きながら帰ってくるに決まってるわ”

 

 

『ちなみに原作者は『恋は甘口(こいあま)』と同じ人ですよ』

『そいつは期待できるなっ!』

 

 

 それでも、この映画を見ることを選んだのは、この映画を視聴した多くの人が語った感想が、かの恋愛漫画と同じ……『恋をしたくなった』というものだったからだ。

 

 今日という日の本当の目的。彼に手紙を出した時から、ずっと胸の中で燻っていた気持ち。

 

 臆病に揺れる心を、そっと後押ししてもらうために。

どうかこの映画が終わる頃には……私のこの決意(おもい)が固まっていますようにとーー

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 まだ先も見えない。

 未来すら描けない少年少女(子供たち)の手に発現した20の魔法。

 

 時に『創造』を。

 時に『破壊』を。

 或いは『時間』そのものを。

 

 人智を凌駕する異能は、世界の法則をも書き換えるほどの力で。けれどそれらは決して、望まれて生まれ出でたものでは無かった。

 

 力が目覚めたのは皆、棄てられ、忌み嫌われ、愛されることの温もりも忘れ果てた子供達。

 何を望めども叶わない。純粋だった心は街に蔓延る悪意に歪まされて。ただただ呪われた自身の運命を。斯様な理不尽を強いる世界の不条理を恨み、怒り、声にもならない慟哭を挙げることしか出来なかった子供達。

 

 魔法と呼ぶにはあまりに生易しい。

 それは“世界を壊したい”と願うほどの、呪いにも等しい悪意の力。世界に弓弾くために放たれた使い棄ての20の弾丸(インスタント・バレット)

 

 そのうちの一つ。未来を見通す瞳を持ち、自らを“魔女”と名乗った少女は告げる。

 

 遠くない未来。世界はこの『IB(魔法)』の力によって滅びを迎えると。

 

 

“――ハッ、上等じゃないか。だったら私が壊してやるよこんな世界”

 

 

 滅亡の未来を回避するため互いに手を取り合う……そんな愛着も、余裕も、今の彼らには無くて。寧ろ望んで世界を終わらせようと、魔法を行使し始める。それは主人公と呼ばれた少年でさえ同じこと。復讐を果たせる世界(相手)は一つしかないからこそ……世界を終わらせるのは俺だと。時に敵対し、時に共謀し、まるで競り合うように、破滅への秒針を回し始める少年たち。

 

 全ては憎むこの世界を終わらせるため。

 彼らの胸の内に微かに残った良心。

 終わりが約束されているならば

 救いが無い世界というのならば、せめて……最期くらいは、自分の描く『優しい終わり』が、世界に訪れますようにと。

 

 本当は、ただ気付いていただけなのかもしれない。

 誰よりもまざまざと、“それ”に晒されてきた彼らだからこそ。

 自分達の身に宿す魔法なんて、世界を包む悪意(それ)に比べたらいかに矮小(ちっぽけ)で。たとえ 自分たちの存在なんてものが無かったとしても、世界はどうせ、どうしようもなく悲惨で残酷な最期を迎えるだろうことも。

 

 

“変わりたいと思うだけで変われたのなら……

 優しくなりたいと願うだけで優しくなれたなら、どれだけ良かっただろう”

 

 彼ら自身、きっと想像もしなかったこと。

 世界を呪う異常を。この世界の終わりを望む、誰もが危険視した思想を。けれど恨みのまま、感情のままにぶつけ晒し合う。そんなことでしか分かり合えない瑕があった。争うという行為もまた、互いの孤独()に触れ合う繋がりであったこと。

 

 

“この方法ならきっと……もうこれ以上私みたいな子も生まれてこないで済む”

 

 たとえ歪な形であっても、孤独に打ち震えた生涯において、誰かと()の繋がりがいかに得難いものであったか。

 

 決して癒えはしない心の傷。1人で抱えるにはあまりに大きすぎる、懺悔と後悔。

 

 誰もが、初めから終わりを望んでいたわけではなかった。

 多くのものに憧れて。けれどそれ以上に多くのものに裏切られて。

 かつては正しいと思った良心(おもい)さえ、現実の前に醜く歪まされていく。

 

”ああ、そうさ。どれだけ望んでも優しくもなれない。誰かを傷つける生き方しか選べ(でき)ないというのなら、私は――生まれてきたくなんてなかった”

 

 どうして全てに絶望しなければならなかったのか。

 どうして、“世界を壊したい”なんて……そんな哀しい願いを抱かなければならなかったのか。

 

 何かを壊すことしか出来ない両腕。

 呪いを吐くことしかできないその口で。

 本当はいったい何を願い。何が欲しいと叫んでいたのか。

 

 

 

『クロ君。君はその力で、この先多くの人を救うよ』

 

 

 破滅の未来は変えられない。

 ハッピーエンドなんて都合の良いものは無く、世界は怒りと哀しみに満ち溢れている。

 それでも、終わりへと続くこの世界で。

 辛くとも、哀しくとも、鼓動が続く限りは生きて行かなければならないこの現実で、それでも。

 

 

『遠くない未来――そんな君に、私は恋をしてしまうんだってさ』

 

 

 それでも救いを願うというのならば、“()たち”は――

 

 

 

 

 

 

□■□■

 

 

 

 

 

 淡い光の灯るスクリーンに映る2人の影。

 遠い未来をも見透す異能を持ち、その歪んだ力ゆえに自らを魔女と語った少女。

 けれど今は……。人々の行き交う街角。想い人を待つこの時間(いま)だけは、なんの陰りもない、年相応の少女に戻ったかのようで。

 

 

≪“ねえ、聞かせて“≫

 

 一度覗いて(見て)しまった未来は、収束する因果により二度と変えることは出来ない。世界を包む誓約。避けられない滅亡の未来を前に誰よりも抗おうと足掻き、そして打ちのめされてきたのも彼女だった。

 

 幼い頃より幾度となく見せつけられてきた世界の終わり。たとえ望まずとも。どれだけ拒もうとも、その光景は悪夢として現れては、少女の心を蝕んでいく。

 

 それは、自分自身の最期(おわり)

 渇いた銃声と共に血の海へと沈みゆく、死の光景さえも。

 

 止まってはくれない時計。変えられない未来に、いくつの夜を、怯え震えながら過ごしたことだろう。

 その瞬間(とき)だって………もう数時間後にまで迫っている。

 

 

≪”今、あなたは幸せ?“≫

 

 何一つ報われなかった一生。自分以外助けてくれる者はなく、誰に愛されることもなかった。愛という言葉の意味さえ、知るにはあまりに短すぎる生涯。

 

 それでも

 

 

 問いかけに、微笑みを返す少女。

 言葉もなく、ただそれが全てだというように。花の咲くような、誰もが羨む眩い笑顔で。

 

 

 未来を見透す瞳を持つからこそ。ずっと夢見てきた、遠い過去に抱いた初恋。

 ずっと憧れ続けてきた、遠い未来に抱く初恋。

 

 

 その呪われた一生で。もし彼女の心を救ってくれるものがあったとしたら……それは、この(一瞬)だけだったのだと

 

 

 

 

 

「………」

 

 物語も佳境だ。スクリーンから溢れる光を浴びながら、時折聞こえる啜り泣くような声に観客席を見れば、先の展開が分かってしまうのだろう、既に涙を流す人の姿も多くあった。

 

 それは隣に座る彼も同じこと。どこか、私たちとよく似た容姿の登場人物達(彼ら)。だからこそより深く感情移入してしまうか。切なくて、悲しくて。薄氷のように歩くような脆く繊細(不安定)な感情は、懸命に生きる彼らの想いがそのまま伝わってくるようで……

 

 

 ああ、けれど誰もが涙する物語を前に。

 恋に心を救われた、少女の笑顔を前に……。

 

 

 私は知らず、貴方の横顔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 胸に手を当てれば、トクン、トクンと早鳴る心臓の音。

 

 

『――あの子は仮面を外せない。あの子の仮面は自分を守るためのもの。

 でも本当に誰かを好きになったら、“その場限り”でなんて居られないでしょう?』

 

 耳に蘇るかぐや(あの子)の言葉。

 酷い憤りを覚えたのは、ソレが否定のしようのない事実だったから。

 

 全ては自分が傷つかないため。いつしか両手ですら抱えきれなくなった仮面の数々。

 けれど本当にその人を大切に想いたいというのなら……将来を誓い、いつかは家庭を築いて。本当にその人(貴方)と一緒に在り続けたいと望むのなら、もう“その場限り”なんて言い訳は通用しない。偽りの自分を晒し続ける不誠実に、きっと自分自身が耐えられなくなっていく。

 

 

『――人は演じなければ愛してもらえない』

 

 それでも、人の生き方(考え方)は簡単になんて変わってくれなくて。

 隠してきたものが大きすぎるからこそ……誰よりも自分という人間を知っているからこそ。本心を明かすことは今でも恐ろしいと思う。

 必死に抱いてきた仮面の全てを手放して、弱い心も、この醜い本性も、全て晒け出さなければならないと思うと、込み上げる恐怖に全身が竦んでしまう。こんな私を受け入れてもらえるのだろうかと……たまらない懼れに、逃げ出したくなる。

 

 

(……。けれど……)

 

 

 未だ残る温もりを求めるように、触れる自身の髪。

 

 

 

『……そっか』

 

 クシャリと頭を撫でる、ごつごつとした貴方の手の感触。

強くもなく弱くもなく。ほんの微かに伝わる震えは、慣れないことをする緊張を必死に隠すようで……

 

 

 本当は気づいていた。その行為の真意も。

 私と同じくらいに臆病で。私以上に不器用な貴方が……それでも、懸命に伝えようとしてくれた本心(想い)にだって。

 

 

 かぐや(あの子)の近従として、これからも四宮家に仕えることを告白した私。

 

 それは同時に、今まで通り。弱い自分を押し殺して。泣きたい心に嘘を吐いて。いつ報われるとも分からない険しく孤独な道を、また歩み続けるということ。映画館の入口でも見た、友人達と一緒に屈託なく笑いあう女学生たち。そんな年相応とは真逆……睡眠の時間さえ碌に取れない。責任と重圧ばかりが圧し掛かる毎日だ。

 

 ああ、その辛さを知っていたからこそ。

 その厳しさも、誇りも、誰より理解する貴方だからこそ。

 

 

――無理をしすぎるな、と

 

――辛くなったら頼れ、と

 

 

 貴方らしくない、不格好で突拍子もない行為の裏には、そんな優しさが溢れていたこと。

 

 

「……」

 

 ホールチェアの手すりに置かれた、貴方の手に目を奪われる。少し手を伸ばせば……ほんの少しの勇気を出せれば、重ねられる距離。

 

 あの誘拐事件の終わり。帰りのリムジン車の中。自ら隠してきた咎を、電話であの子に明かす間……留めどなく溢れる罪悪感に、糾弾されることへの恐怖に……怖くて(哀しくて)、逃げ出したくて。泣き続ける私の手を勇気づけるように、ずっと握り続けてくれた貴方の手。忘れもしないその温もりに、想いを馳せる。

 

『どうか覚えていて。愛という字は”心を受け入れる”と書くの』

 

 

 脆く。幼く。明かすことさえ恐ろしいこの心。それでも

 

 

 

 本心を知ってなお……今日という日も、変わらず接してくれる貴方。

 強い私も。弱い私も。当たり前のように認めてくれた、貴方だからこそ。

 

 

(貴方になら……)

 

 

 ううん。どうか貴方にだけは。

 

 

 この心を受け入れてほしいと

 

 そう願わずにはいられない私がいる

 

 

 

≪”恋にはワクワクとドキドキが大事なんだから“≫

 

 

 

 淡い光の灯るスクリーンで続いていく物語。

 誰もが救いを願い求める、”終わる世界”の物語。

 

 それでも私はずっと……貴方の横顔から、目を離せないでいた。

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 暖房の効いた映画館から(そと)へと出た途端、冬の冷たい風が頬を吹いた。

 頭上に広がる雲ひとつない透き通った夜空。溢れる都会の照明にあいにくと星の光は見えなかったけれど、ぼんやりと浮かぶ十五夜の月明かりが柔らかに揺らめいていた。

 

 

「もう。今朝あれだけ強がっていた人はどこに行っちゃったんです?」

「しょうがないだろ……あんな結末(ラスト)……泣くなって言う方が人間としてどうかしてる」

 

 映画を見終わってからというもの、彼はずっと涙目(こんな調子 )で。

 本当に不思議。今日1日だけで千年の恋も冷めるような姿など幾度も見ている筈なのに、この胸は淡く焦がれるような想いで満ち満ちている。

 

 

「ほら。急がないと、お店閉まっちゃいますよ?」

「ん……ああ、そうだったな」

 

 喫茶店、時計屋、ビデオレンタルショップ。街道に面した店から溢れる明かりを浴びながら、本日の最終目的地である自転車屋へと向かう。

 思い出すように息を零す彼は、それだけ今日という日に夢中になってくれたのか。嬉しいと思う気持ちを上辺では取り繕いながらも、そんな彼に朱色に染まったこの頬を悟られないよう、その肩口……彼の体が作る影へとそっと身を寄り添う。

 

 トクン、トクンと、一歩足を踏み出す度に早まっていく鼓動。その高鳴りをより一層強く感じるのは、自身の中に溢れるこの想いを自覚したから。

 頭の中ではこのあと貴方に言うべきこと……貴方へと伝えたい告白の言葉が、幾つもの旋律になって鳴り響いていた。

 

(――ずっと貴方のことを想っていました)

 

 駄目、淡白(シンプル)すぎる。

 

(――その横顔を、これからはもっと近くで見させてください)

 

 ううん、これじゃ婉曲(キザった)すぎ。

 

 様々な形で、音色で。けれどたった2文字の想いを伝えるために、幾つにも浮かんでは消えていく告白の言葉。頭の中の難しい顔を浮かべた私が、あれは違うこれも違う。もっとちゃんと言葉で想いを伝えたいと、何度も台詞を選び直しているけれど……

 

 けれど心に浮かぶ言葉の、そのどれもが偽りのない本心で。

 募り積もりゆく想いの丈。胸の奥から溢れて止まない、叫び出したくなるような想いの徒波に、フワフワと浮き立つような淡く恍惚とした心地に包まれていく。

 

 こんな気持ち、初めてのことで。

 ふと店のガラスに反射する自身の姿を見れば、そこにはいつの日か、貴方にも見せた表情。

 今は何の仮面も被っていないのに……そんな余裕さえない筈なのに。そこに()るのは、恋に恥じらう少女の顔そのもので。

 

 

(嗚呼――こんなにも)

 

 今更に実感する、胸の中に秘めていた想いの大きさ。

 それでも、未だいつまで経っても告白の言葉を決めきれないのは、きっと私の心に恐れが残っているから。頭の中で難しい顔をしていた私も、今や目尻に涙を溜めながらフルフルと顔を真っ赤にして、ともすれば緊張と羞恥に耐えかねて逃げ出してしまいそう。

 想いを強く抱くほどに鼓動は増して。時折隣にいる彼を見上げては、その横顔により頬を赤くして俯く。そんなことばかりを繰り返している。

 

 あれだけ映画に勇気を貰っていながら。こんなにも前準備と用意を重ねていながら、未だ臆病を拭いきれない自身の心に大きな溜息が漏れた。

 

 

 それでも、決して難しくはない筈なのだ。

 

 

 

――どうしてそう思うの?

 

 

(……?だってそうでしょう?)

 

 

 ざわりと。不意に胸の内から湧き出た問いに応える。

 

 そう。少なくとも私は、あの子のように理由を並べていつまでも告白から逃げたりはしない。

 自分の想いを否定もしなければ……”好きになるのは相手から“なんて。そんな無意なプライドで意地になったりなんかしない。

 

 たとえどれだけ緊張に心が揺れていても……そう。最悪、今だけは本心をさらけ出すことが出来なくても。私なら……仮面さえ被ってさえしまえば、問題なく言葉(想い)を伝えられるのだから。

 

 

 

――ダメ

 

 

 

(大丈夫。ちゃんと伝えられる)

 

 不安を振り払うように顔を上げる。その視界の端……ぼんやりと明かりの漏れる、街角の一店舗を目に映しながら。

 いつもと同じように。何も物怖じする必要なんてないと、自らを勇気づけるように。

 

 

 

――ダメ……!

 

 

 

 

 そう。だってこれは経験済みのこと。

 

 かつて、一度は乗り越えてしまった試練。

 

 

 彼への告白だって

 

 決してこれが―――『初めて』ではないのだから

 

 

 

 

 

 

その場所を―――目にして(思い出して)はいけない

 

 

 

 

 

 

「ーーーーーー」

 

 

 

 一陣の凍てつく風が通り過ぎる。

 

 浮かれていた心も。

 灯っていた胸の熱も。

 全て、奪い去っていくように。

 

 耳に蘇る呪いの言葉。

 思い出したくもなかった、かつての記憶。

 

 夜風が過ぎ去り、夢も覚めた(魔法が解けた)あと。その胸には――

 

 

 ただ一色。どうしようもないだけの後悔が残されていた。

 

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

「では、こちらが防犯登録の書類になります。」

 

 夜遅く、閉店時間ギリギリの訪問だったにも関わらず、快く対応してくれた店員さんに礼を述べながら店を後にする白銀。

 新しく購入した自転車は信じられないくらいの軽さで。何より今まで手動でライトのオンオフを切り替えていた白銀にとっては、オートライトで車輪が重くならないというだけで画期的だった。

だがそんな感動も心半ばに、急くように駆け出していく。

 

「すまん、待っただろう」

 

 店の外、ベンチに腰掛け待っていた早坂の元へと駆け寄る。

 なるべく急いで選んだつもりではあったが……それでもこの寒空の下1人待っていた彼女の頬は血の気が失せたように白く色を無くしていた。

 

 もともとお洒落に気を遣っての薄着だ。外で待つより暖房の効いた店内で一緒に選ぼうと再三にわたって呼び掛けたのだが……まるで何かを取り繕うように。何かを恐れるように決して首を縦には振ってくれなかった彼女。

 どうしたのかと問う声にも曖昧な言葉で誤魔化すばかりで……。映画を見た直後、楽しげに笑っていた頃とは真逆の様子を見せる早坂に、いつまでもその理由(原因)を見つけられないでいた。

 

「良いのは、選べましたか?」

「……ああ、お陰様でな。」

 

 よかった、と。力なく微笑む。その表情だって、この薄い月明かりの下では酷く滲んで見える。そっと手を触れれば、氷のように凍えた小さな手のひら。彼女の演技をよく知る白銀だからこそ分かる(感じる)。その顔は寧ろ――

 

「………」

「………」

 

 間を包む沈黙。時計を見れば既に午後10時、月も空高くに登り行く頃。気温はますますと下がり、ジャケットを羽織っていてなお身が凍えるほど。ふと携帯を覗けば、帰りの遅い(自分)に対する怒りのメールが既に数多く届いていた。

 

 お互いに決して暇ではない身の上だ。目的を終え次に行く宛も無いならば、もう解散(終わり)を切り出すべきなのだろう。

 そう頭では分かっていながら……けれど少年も、そして少女も。いつまでも続く沈黙を互いに破れないでいた。

 

「……早坂」

 

 何も返してはくれない少女にそっと声をかける。俯いた髪の合間に見える空色の瞳は……今にも泣き出してしまいそうなほど、熱く潤んでいて。振り払うこともなく、指だけで力なく握りかえされた手。寒さなどが原因ではない……その指端から伝わる震え。

 

 俯く少女の姿と、記憶に残るリムジンでの光景を目に……白銀は一つため息を吐いた。

 

 

 

「え……?」

 

 ふわりと。少女の肩に掛けられる、今日買ったばかりの少年のジャケット。戸惑いの目を浮かべる早坂に対し、白銀はポンポンと自身の後ろ、自転車の荷台を手で叩く。

 

 

「せっかく買った新車だ。今のうちに慣らしておきたい。

 

 悪いが、もう少しだけ付き合ってもらうぞ、早坂」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

 

 郊外に向かって駆けていく一つの明かり。

 風を切る自転車に騎乗するのは2つの影。冷たい風に煽られるように、荷台に腰掛けた少女の靡く髪が月明かりに煌めいている。

 向かうのは山間の方角か、2人乗りに加えて結構な上り坂だというのに自転車は平地と変わらぬスピードでグングンと前へと進んでいく。

 

 先頭を漕ぐ少年がバランスを崩さぬよう……そっと身を預けるように、背中に寄り添う少女。

 道路を行く車の数は少なく、照らすのは等間隔に立ったハイウェイ灯と微かに注ぐ月明かりだけ。

 何処に行くつもりなのか。いつまで走り続けるのかも知らされていない。街の灯りはどんどん離れていくのに……けれど不思議と不安な気持ちは湧いてこなくて。

 

 きっと行先を聞いてしまえば、この時間も終わってしまう。

 ああ、寧ろ胸の中ではそんなことを知らず恐れている自分がいる。

 

 体を吹き抜ける冷たい夜風に、彼から預かったジャケットをキュッと握る。代わりに薄着になった彼は寒くないだろうかと顔を覗けば、この上り坂のせいだろう。伝わる体温は温かく、その額には微かに汗も浮かんでいた。

 

 

 ……思い出してしまう。

 誘拐事件のさなか。遮光プラドに覆われたあの暗く狭い車の中。唯一の心の頼りだった四宮家との繋がりも断たれ、助けさえ望めない状況で……けれど遠く、小さく。サイドミラーに映る貴方の姿をずっと求め続けていた。どれだけ離れても、追い続けて来てくれる貴方のその姿に……ずっと心を救われていた。

 

「っ――……」

 

 ギュッと、また熱を帯びる瞼に息を零しながら、彼の背中へと額を埋める。

 こうしている間だけは……胸に奔る鋭い痛みも、忘れられる気がしたから。

 

 その温もりにすがるように。

 ああ、叶うことなら、どうか。この時間がいつまでも終わらないで欲しいと……そんな意味のない願いを抱きながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1時間ほど自転車を走らせ、ようやくたどり着いた山間の道。神社へと続くような長い石階段のふもとへと自転車を止めた彼。

 街灯は数えるほどしかなく周囲には鬱蒼と木々が生い茂っているため、ぽっかりと口を開けた階段の入り口だけがぼんやりと闇夜に浮かび上がっていた。

 

「ここを登るんですか……。御行くんは……その、虫とかは大丈夫なんです?」

「この季節だから大丈夫、のはず。もし気を失ったら蹴り入れて叩き起こしてくれ」

「何一つ大丈夫には聞こえないんですけど」

 

 やっぱり知り合い以外とは来られないな、と。そんなことをボヤキながら、しかし慣れた足取りで階段を上り始める彼。自然と繋いだ手に引かれ後に続けば、石段の続く先、かすかに光の漏れる遠い頂上の様子が垣間見えた。

 それでも途中に(あかり)などはなく、微かにあった月明かりも石段を登るほどに木々へと隠され、視界は暗闇へ染まっていく。

 耳に届く微かな虫の音。お互いの口から溢れる吐息。時間の感覚を忘れる、長い様な短い様な時間。繋いだ手の……そこから伝わる温もりだけが、互いの存在知らせる唯一の拠り所だった。

 

 

「さあ、もう少しだ」

 

 差し込む月明りと共に、丘の上に吹く澄んだ空気が肺を満たす。

木のトンネルを抜け、階段を登り終えた先。目の前に飛び込んで来た光景に、思わず言葉を失っていた。

 

 

 夜空一面に広がる星の大海。散りばめた宝石のように瞬く、都会の明かりから解放された純粋な耀きに揺れる星々。一筋の淡い白波が揺蕩うような、光の帯を成す冬の天ノ川。

 それだけではない。今は遥か遠い地表。

都会に連なるビル群がなす光の山岳。小さな流れ星のように、街へと続く曲がりくねった道を進む無数のヘッドライト。一際大きな光を放つ港には、信号を送りあうように明滅する明かりを纏った輸送船がゆっくりと入港し――

 

 ああ、まるで空にも大地にも、星の海が続いていくような。

 光の息吹脈打つ幻想的な光景が、其処には広がっていた。

 

 

「……東京の近場に、こんなところがあったんですね」

「ああ。天体好きでもなければ知らない穴場だ」

 

 龍珠あたりは知ってるかもしれないが、と何かを探すように長く伸びた草むらを掻き分ける彼。

風景を一望できる位置にポツリと立つ、石造りのベンチが顔を出した。

 

(以前)に来てた頃は、こんなに荒れてはいなかったんだが……」

「昔、というと?」

「ん。秀知院に入ったばかり……いいや、その生徒会会長(トップ)を目指し始めた頃か。

 周りとの(生まれ)の差や、才能の差。どれだけ勉学を重ねてもなかなか埋まらない学力に、色々なことが嫌になって……その度、自転車を思い切り飛ばすストレス解消がてら、この景色に慰められに来てた」

 

 あの家で泣こうものならアパート中に響き渡るからなぁ、と。照れの混じる困ったような笑いを浮かべては、ベンチの汚れを手で払って腰かける彼。

 懐かしむような口調や、この場所の現状を見ても、彼自身訪れるのは随分久しぶりのようだった。

 

 当然か。彼は長く嶮しい道のりの末、見事その頂へと登り詰めたのだから。

 

 そっと彼の隣に腰をかければ、差し出される缶コーヒー。

今日一日を互いに労うように。遠いいつか、彼と学園屋上で談話した時のことを思い出すようだった。

 

「……どうして、私をここに?」

「さあ。今日一日楽しませてくれたことへのお(かえし)と……まああと半分は自慢だな。

 この綺麗な景色を、誰かに覚えて(知って)おいて欲しかった。

 忘れられてしまうには、あまり勿体ない場所だろう?」

「……そうですね」

 

 この冬空の下、コーヒーから手に伝わる温もりは温かく。ほう、と。一口の後に溢れる白い吐息が、星の海を背後に消えていく。そんな情景さえ何処か幻想的で……。きっとこの先、どれだけ歳を重ねても自分はこの景色を覚えているだろうと。自然とそう思えてしまうほどに、心を揺らす美しい光景だった。

 

けれど

 

(……嘘つき)

 

 それが本音(すべて)ではないこと。

 

 本当は、誰に向けてのエールだったのか。

 泣きそうな顔で俯いていた、誰を、勇気付けようとしてくれたものであったか。

 バレバレの照れ隠しをする貴方がうらめしくて……イジらしくて、ついジっと睨んでしまう。

 

 そんな私の瞳に「嘘じゃないさ」と。心境を察したかのように笑いを零しては、立ち上がる彼。

 

 

「俺自身、もう一度見に来ておきたかったってのもある。

 最後にもう一度だけ、勇気をもらいに。

 

 きっとしばらくは……帰っては来られないだろうから」

 

 

「———」

 

 囁くように紡がれた言葉に、目を見開く。

 力の抜けていく指に、危うくコーヒーを取り零しそうになりながら……それでも構わないというように、愕然と貴方の横顔をただ見つめる。

 この星空を越え、遥かな大海も越え、どこまでも遠くを見据える貴方の瞳。

 

 ああ、今更ながらに気付く。どうして彼が壊れてしまった自転車をすぐに買い直そうとしなかったのか。

どうして、その必要が無かったのか。

 

 秀知院学園の推薦制度により、スタンフォード大学への飛び級での留学を決めた彼。

 長い長い苦難の果て、ようやく掴んだ夢の(きざはし)

 今はこうして隣で話している彼も。

 さっきまでずっと手を繋いでいてくれた貴方も……僅か数ヶ月には、もう手の届かない遠い地へと行ってしまうのだと――。

 

 

 その事実を知らない筈がなかった。

 覚えていないわけがなかった。

 

 それでも、認めたくないこの心が――知らず記憶の隅へと追いやっていた。

 

 

 

(……言わ、なきゃ)

 

ドクン、と。再び熱を灯す心。

すぐ傍まで迫った瀬戸際(刻限)に、無理やり勇気を絞り出すように。

 

(伝えなきゃ……)

 

そう、今だけなのだ。彼が此処にいてくれるも。その手に触れられるのも。

もうこんな機会は巡っては来ない。

彼に想いを告げられるチャンスは……もうこの瞬間しか残されていないのだ。

 

 

「――――、――」

 

 

 ああ、なのにどうして

 

 どれほど声を出そうとしても。どれほど胸の中で勇気を振り絞っても。凍えるように固まった喉が、唇が、言葉を紡いでくれない。

 怯えに染まりきった心が、意志さえも押し殺して……どうにも出来ない想いに、目に涙ばかりが浮かんでいく。

 

 

(どう、して……っ!)

 

 

 

 

 

 

 

当然だ。

 

 

だって知っているのだ。私は。

 

 

その言葉の結果(続き)を――

 

 

 

 

 

『ごめん――俺、好きな人がいるから』

 

 

 

 

 

 まだ『ハーサカ』として、近従としての立場を明かしてはいなかった……

本当の名前さえ、貴方に伝えていない頃に果たした――果たしてしまった告白。

 

 けれどその結果(言葉)は、今でも鮮烈なまでに耳に焼き付いて。離れてくれなくて

 

 

 分かっている。あの時とは何もかもが違うこと。

 お互いの強い所も弱い所も知って、認め合って。

 私の心も……きっと、あなたの心だって。「あの時」からは、大きく変わってくれているかもしれない。

 

 けれど、そんな”もしかしたら”なんて淡い期待も。

あの本屋(場所)を目にしてしまった瞬間……氷よりも冷たい風となって、灯る熱のすべてを奪い去ってしまった。

 

 

 

 ああ、そうだ。仮面で言い訳が出来ていた「あの時」とは違う。

恋を知って。この胸に宿る想いを自覚して。

 

 本心から受けいれて欲しいと願ったからこそ――拒絶されることの恐怖は……想いを断られることの恐怖は、あの時と比較にならない畏怖となって心を苛んでいく。

どれほど胸を奮い立たせても、期待なんかよりも遥かに鮮明な過去(リアル)が、容易く心を折ってしまう。

 

 もう演技だったから、なんて言い訳はできない。

あの子の命令だったからなんて……そんな卑怯な言い訳で自分を騙すこともできない。

 

 心からの想いを伝えて。

 もしもう一度、貴方にあの言葉を言われてしまったらと想像する(おもう)と――胸を抉る恐怖に声を出すことさえ叶わなくなってしまう

 

 

 そう……本当は、分かっていたのだ。

 

 貴方の想いは、未だ(変わらず)あの子に向いていること。

 スタンフォードへの留学。日本で過ごせるこの最後の時間に……貴方はきっと、あの子への告白を果たすだろうことも。

 

 それはずっと変わらない……変えられないこと。

私と出会う以前から、貴方の瞳にはあの子の姿が在って。

 ああ、初めから…………二人の間に入る隙間なんて、何処にも無かったということも。

 

 

 

 そんなこと、全部、全部、わかっていた筈なのに――

 

 

 

 それでも諦めきれない。

ようやく見つけられたこの想いを、棄てることなんて出来ない心は、意味のない空想ばかりを募ってしまう。

 

 あんな出会い(始まり方)でさえなければ

 あんな告白の言葉でさえなければ―――もっと違う別の未来(結果)もあったんじゃないか、なんて。

そんな在りもしない幻想を抱いてしまう。

 

けれど、どれだけ願っても、どれだけ後悔しても、記憶の中(かつて)の私は言葉を変えてはくれない。

 

 

 

『試しに私と付き合ってみない?』

 

 

そんな言葉で伝えたいんじゃなかった。

 

 

『友達9割っていうキープ的な彼女でいいから――』

 

 

貴方に抱くこの想いは……そんな軽い気持ちなんかじゃなかったのに

 

 

――子供だったんだ。

 

恋を知らず。愛を知ろうともせず。

 

――愚かだったんだ。

 

演じなければ愛されないなんて言い訳に、本当の自分を晒す勇気からも逃げて。

 

 

 

嗚呼……知らなかったんだ。

 

 

 

 こんなにも

 

 こんなにも――

 

 

 誰か(あなた)を好きになる日が来るだなんて

 

 

(ああ……こんなのってない)

 

 

 

 弱く幼い心に、ようやく芽生えた(初恋)

 

けれどそれは、一度開けば散ることが約束された……

 

 

決して、咲かせてはいけない花だったのだ。

 

 

 



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古い砂に込めた夢 後

 水へ溶けいく泥のように、輪郭を失っていく記憶の砂。模られていた風景がガラリと崩れ、また墨色の湖底が覆いだす。

 

 

 

 それからのことは、よく覚えていない。

 

 その後の彼とどんな言葉を交わしたか。どんな別れ方となってしまったかも、酷く曖昧で。

 抱えきれない哀しみの多寡にすべてを忘れてしまいたかったのか。恥も外見もなく泣き崩れてしまったように思うし、ハリボテの仮面を被ってはまたその場限りの嘘で取り繕ったようにも思う。

 

 気が付くと、私は四宮邸の正門前に立っていて……あの子が予見したとおり、涙に目を泣き腫らした顔で。

 

 正門をくぐれば、立ち塞ぐように出迎える老執事の姿。四宮家の使用人の身でありながら、これほどに帰館が遅れるのは何事かと、厳格な表情に頬の皺を一層に深めて。

 浴びせられる叱責はやむことはなく、けれどどんなに冷たい罵声の言葉も、深く沈み果てた心には露とさえ響くことはなかった。

 

 

 老執事の後ろ、淡い緋色の寝服に身を包み、ひっそりと隠れるように佇むかぐや様。

 浮かぶ表情はどこか後ろめたそうで。逆盗聴のことを問い正したいけれど先にしかけたのは自分の方だからと、怒るに怒れない微妙な顔をしていたけれど……

 その表情も、俯く少女(早坂)の様子を見た瞬間、ハッと顔色を変えた。

 

 

「そもそも貴様の主人に対する態度はいつもいつも」

「黙ってなさい」

「ええ……」

 

 ピシャリと有無を言わさぬ一言。貴方が“代わりに叱ってくれ”と頼んだのですよねと、困惑顔の老執事になど目もくれず、ゆっくりとした足取りで早坂()の方へと歩み寄っていく。

 

 

 揺れる黒髪に隠れた表情はよく見えない。

 ううん。私の方が、その顔を直視するのが怖くて……怯えた顔をいつまでも上げられないでいた。

 

 

「……会長に、想いは伝えられた?」

「っ……」

 

 響く静かな声に、首だけをふるふると小さく震う。

 拍子に溢れる涙の雫。どれだけ堪えようと瞼の奥から溢れて止まないそれが、月明かりに虚しく輝いていた。

 

 ……今の彼女に、私の姿はどう映るだろう。

 普段あれだけ“臆病”と罵り。早く告白すればいいなどと無下に煽っていながら、何も出来ず逃げ帰ってきた私。

 自身の想い他人を盗ろうとした相手(わたし)を……貴女はどう思うだろう。

 

 どれだけ嗤われようと仕方ない。たとえどんなに蔑まれようと、言い返す資格さえない。

 惨めに泣き暮れることしかできない今の私を、貴女は――

 

 

「っ……」

 

 不意に。視界いっぱいを覆う淡い緋色。

 背中にそっと回された細い腕。冷く凍え切った体へ染み入るように伝う温もりに、抱き締められたのだと分かったのは、随分と時間が経ってからだった。

 

「か、ぐや…さま?」

「……」

 

 震える問いかけの声にも答えず。けれど咎めることも、責めることもせず、抱きしめる手を離さない少女。

 

 泣きくれる少女を慰めるように。

 ただ深く、その痛みを分かち合うように。

 

「ほんとうに……どうしてこんなにも、儘ならないのでしょうね」

 

 紅い瞳に灯る悲しみの色。

 私よりもずっと早く、恋を知った彼女。

 告白の怖さも。失恋の痛みにも。ずっとずっと、怯えてきた彼女だからこそ……

 

 

 

 

(ああ……どうして)

 

 

 どうして、貴方達でなければならないのだろう。

 

 貴女の想い人が彼でなければ

 貴方の想い人が、彼女でさえなければ

 

 ああ。私はきっと、力づくにだって、奪えていたかもしれないのに

 

 

 

「ぅ……ぁ――」

 

 伝わる温もり(優しさ)に、最後の堰が崩れていく。溢れる大粒の雫が、緋色の服に染みを作る。

 あるいは……“敵わない”と。心が認めてしまったように。涙は溢れて、止まってはくれなくて。

 

 

 淡い月明かりが照らす下、誰に見られることも無いよう抱きしめられた貴女の胸の中。

声を殺すこともなく、感情を隠すこともなく、私はただ子供のように泣き続けた。

 

 

 

 それは諦め(別れ)の涙。

 この胸に芽生えた想い。初めて抱いた恋心への。

 

 咲いてしまえば散ってしまう。自分自身の手で、刈り取らなければならない花。

 ならばせめて、咲かず、枯れず、美しい蕾のまま。どうかこの想いが、決して色褪せることのない思い出となるように。泣き噦る幼い私を一人冷たい心の底へと置き去っては、この想いを忘れた(封じた)

 

 これから貴方達2人が歩むであろう道。多くの心無い大人達、多くの困難が立ちはだかるその旅路にて……私だけは、大切な2人を支える良き友人で在れるように。

 

 どうか貴方達の前ではちゃんと笑顔のまま(わらって)……その歩む行末を、心から祝福出来ますようにと

 

 

 

 

 

 

ああ、なのに

 

 

 

 

 

 

 

(なのに、どうして?)

 

 

 

 

 

『どうして、あの人の告白を断ったんですか』

 

 

 抱く想いなどとは裏腹に、無情にも過ぎ去って行く現実(日々)

 

 分からなかった。貴女の心が。

 いったいどうすることが、正解だったのか。

 想いを封じ、冷たく色褪せた心では、答えを見つけることさえ叶わなくて。

 

 

『さようなら、早坂。あなたは私には過ぎた近従だったわ』

 

 

 何故という嘆きも疑問も虚しいまま、遠い世界へと行ってしまう愛しい人達。

 あの温かった時間。胸に残るこの思い出に縋るのは、私だけだというように。

 

「諦められなかった。受け止めることなんて、出来る筈がなかった」

 

 どうすることも出来ない事情があったのだと。そう信じずにはいられなかった。

 

 ああ。そうでなければ、いったい何のために私は――

 

 

 

 

 貴方がスタンフォードへと旅立つ日。家族や生徒会メンバー、貴方を慕う多くの人が見送りに集った空港で……。私もその場所に訪れていた。誰にも見つからぬ隠れた場所で。怯えるようにただ一人。

 

 本当は貴方を引き止めるため。

 もう一度、あの子の本心を確かめて欲しいと、訪れた空港だったのに。

 

 

 永い別れの時を前に、いつになく目を潤ませてしまった妹を宥めるように、穏やかな笑顔を浮かべる貴方。心配ないと。向こうでも上手くやって行けると。信頼に応え、皆を安心させるように浮かべた顔は――けれど私にだけは、全く違うものに映っていた。

 

 

 本当は“どうして”と叫び出したくて。

 今にも泣き崩れそうな心を、必死に押し殺して。

 

 ああ。出来るはずがなかった。分からないはずがなかった。

 だってそれは私が教えた演技。

 私が浮かべるこの仮面(もの)と、全く同じ笑顔だったのだから。

 

 告白を断られた相手に、もう一度想いを問いただす。

 そんな私には叶わなかったこと……私自身が恐れに逃げ出してしまったことを、どうして同じ傷を抱える貴方1人に押し付けることが出来るだろう。

 

 

 トランクを引き、遠くなって行く貴方の背中に意味もなく手を伸ばす。

 

 それでも、貴方の歩む道先が、決して明るいものではないことだって、目に見えていた。

 壊れかけの心を抱えて。誰の助けを得ることも出来ない、遠い異国の地で独り。

 その先にどんな冷たく悲惨な未来が待っているかなんて――

 それは数ヶ月後、圭から助けを請われるずっと以前から、分かっていたことだったのだ。

 

 

「“もう届かない彼女と、まだ手を伸ばせば届くかもしれない彼とを天秤にかけた”」

 

“嘘つき”

 

 本当は、ただ哀しかっただけ。

 離れていってしまう貴方が……かつて私を助けてくれた貴方までもが、あの子と同じように、遠く心も見えない存在になってしまうことが。

 

「"貴方をかぐやへと繋ぐための蓬莱の薬として利用した"」

 

“嘘つき”

 

 浮かぶ言葉は言い訳ばかり。そんな使命(理由)に縋ることでしか、もう一度貴方の前に立つ勇気を抱けなかった。

 ソレはきっと貴方も同じ。

 一つ屋根の下で共に暮らす。そんな他人が聞けば誰もが邪推の一つでも起こしそうな環境で、それでもお互いに意識することを避けていたのは……敗れたばかり恋心が知らず“そういう気持ち”を抱くことを恐れていたから。

 

 同じ傷を持つもの同士。本当は弱い心を持つもの同士。

 嘘と言い訳に塗れた、互いの傷を舐め合うような愚かな日々。

 

 

(ああ、けれど)

 

そんな日々でも、愛おしいと思ってしまった。

失くしたくないと願ってしまった。

 

 初めはお互いにボロボロで。

相手を想うことにさえ臆病にしかなれなくて。

それでも、少しずつ。少しずつ

同じ時間。互いを想う優しさを分かち合う中で、築きあげていった繋がり。

 

 貴方は“私に救われた”と言ったけれど、それは違う。

近従としての誇りも、自分の気持ちの在処さえも無くしてしまって。

何が正しい選択かも分からない。怯えと不安に埋もれた心を救ってくれたのは、いつだって貴方の……

 

 

「貴方を騙すことへの後ろめたさを抱きながら、胸の中に溢れる名前も知らない感情を振り払うことができなかった」

 

“嘘つき”

 

 本当はずっとずっと胸に抱いていたこの気持ち。

一度は諦めてしまった……凍らせてしまった想い。

ああ。そこにまた熱が灯る喜びを、いったいどれほどの言葉で言い表すことできただろう。

 

 

”幸せになってはいけないと思った”

”いつも、あの子への罪悪感を感じていた”

 

それも全ては――貴方と過ごす日々が、抱えきれないほどの幸福に溢れたものだったから。

 

 

 

 

ああ――けれど。だからこそ。

日々胸の中で大きくなっていく期待が恐ろしくて仕方がなかった。

 

殻を破り、咲き始めてしまった心の花。

もう忘れることはできない。蕾として抑えることも叶わない。

 

 

「幸せに溺れ、いつかあの子を思い出しもしなくなる。そんな自分になってしまうのが恐ろしかった。」

 

“――――嘘つき”

 

 

本当は……本当は、ただ怖かっただけ。

 

もし胸に溢れるこの想いが、私だけのものでしかなかったら

抱く幸福も、そう思える理由も、単なる勘違いでしかなかったら

 

 

膨れ上がるこの期待を抱いたまま、もしまた、貴方に“あの言葉”を言われてしまったら

 

私はきっと―――もう二度と、立ち上がれなくなってしまうから。

 

 

 

私の心は、あの時のまま何も変わらない。

ずっとあの夜に囚われたまま。

言えなかった告白の言葉を、いつまでも胸に抱え続けている。

 

 

 

 

 

 

あるいは何かが違っていたら

あるいはほんの少しの勇気を持てていたなら

 

今とは違う、もっと別の未来を歩めていたのかもしれない。

 

 そんな虚想に溺れながら、幾度眠れぬ夜を過ごしたことだろう。

 

 募る想いが大きいほどに。忘れ消し去ろうともがくほどに。重く縛りついて離れない心の鎖。

 

夢みる過去は暖かく、だからこそ一度瞼を開ければ否応なく飛び込んでくる見慣れた天井に、瞼の奥が熱を帯びる。決して変えられぬ現実の姿。かつて己が選んでしまった道の果てに、たどり着いた当然お似合いの末路。

 

 ――嗚呼。自分はこんなにも弱かったのだと。

 

 目の横を伝う生温い何かに、また声にならない哀咽が溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

「――……」

 

 

 遠く、誰かの呼ぶ声がする。

 冷たい水底に沈み、溺れ行く私を掬い上げるように。

 

 暗闇に差す暖かな光。傷つき凍えた手のひらを包む微かな温もり。

 

 ああ。知っている。

 何度も求めて。何度も振り払おうとして。

 けれど出来なかった愛おしい温もりに、知らず涙が溢れる。

 

 

 こんなにも苦しいのに

 こんなにも哀しいのに

 

 

 私の心はまだ、貴方の手を求め続けている――。

 

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

 

 

 

「早坂っ」

 

 彷徨うように、力なく伸びた手を知らず掴んでいた。

 

 呼びかける声に微かに意識を取り戻したのか、薄く開いた少女の瞼。

 けれどその瞳は朦朧と、目の前にある少年の姿さえ映せているか定かではないような、力の無い色をしていて。

 微かに溢す吐息も焼けた喉の痛みに苛まれるように、表情には苦悶と涙の跡ばかりが残る。

 それでも。動かない体に鞭打つように、むり無理矢理にベッドから起き上がろうとする彼女。

 

 

「駄目だ。頼むから、これ以上無理をするな」

「……」

 

 そっと肩を押さえ、必死に静止を呼びかける。懇願にも似た少年の声が届いたのか、また力なくベッドへと沈んでいく少女だったけれど……その瞳は涙に溢れ。力なく伸ばされた、細く震える手だけが、求めるように少年の顔へと伸びていた。

 

 

 頬に触れる少女の熱い手のひら。

 何も言わぬまま。言えぬまま。哀しげに瞳を潤ませ、それでも慈しむように撫でる小さな手。

 

 

「どうして……」

 

 

 

 

 

『どうして――』

 

 あの日、スタンフォードで再開したあの日にも、貴方の口から溢れた言葉。

 突然の来訪に対する理由。胸の内に隠した、後ろ暗い想いを見透かしたかのような。ずっとずっと、聞かれるのが恐ろしかった言葉。

 

貴方()は何がしたかったの』

 

 けれど本当は、それ以上に。

 

 貴方に向けられた疑惑に満ちたその視線が、

 再開を素直に喜ぶことも出来なくなってしまった心が、ただただ哀しかった。

 

 

「心配だったからじゃ……ダメですか?」

 

 掠れた声で紡ぐ。怯え震えた声で捧ぐ。

 

 あの日に言えなかった言葉の続きを。

 

 

「ただ、側に居たかったからでは、ダメですか?」

 

 

 あの夜、あの星空の下。

 貴方に伝えたかった、本当の――

 

 

 

 

 

 

 

「貴方を好きになっては――ダメですか?」

 

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

 揺らめくカーテンの合間、微かに差し込んだ月明かりに目を覚ます。

 汗で張り付いた髪を拭いながら重たい体を起こせば、部屋は既に暗がりに沈み。窓の外に映る夜空。時計を見れば既に深夜3時を回っていた。

 

 昼間に比べれば大きく引いた熱。免疫機能によるウイルスの焼却は無事終えたのか。未だ体の痛みや倦怠感は残れど、慣れ親しんだ自身の体調を鑑みれば、後はもう回復に向かうだけだと分かる。

あともう一休み。このまま眠り、もう一度を目を覚ます頃にはきっと

 

「――……」

 

 微かに聞こえた寝息。自身の眠るベッドの足元を見た途端、どきりと心臓が高鳴った。

 

 フローリングに座り込んだまま、上半身だけベッドに突っ伏するように眠る彼の姿。

看病の途中、疲れにそのまま寝入ってしまったように。深く長い寝息は、負った疲れの程をそのまま表すようだった。

 

 今も眠る彼の左手に、繋がれたままの自身の右手。

こうして目のあたりにするまで、気付かないほど自然に。違和感を覚えないほどに。

それだけ永い間、ずっと離さないでくれていたのだと。

 

――分かっている。暗闇の底へと溺れてしまいそうだった意識。

ああ。きっと離そうとしなかったのは私の方だと……。

理由もなく、誰に言われるまでもなく、確信できてしまうことだった。

 

 

 

『貴方を好きになっては――ダメですか?』

 

夢現に覚えている。

昼間の出来事。貴方に伝えてしまった、その言葉も。

 

 

 自覚してしまった気持ち。

 既に咲ききってしまった花。

貴方と、この生活を続けるために守らなければならなかった……最後の分水嶺。

 

その額にそっとキスを落としては……零れた涙が、彼の頬を伝った

 

 

 

ああ、もう

 

 

「――もう、この場所(ここ)には居られない」

 

 

 

 

 





作者の心の中

悪魔「抱けぇ!抱けェー!!」
天使「どうどうwww」
悪魔「お前ホントいい加減にしろよマジで!」

中編に詰め込みすぎてしまったので今回は短めに。
次回、最終回「白銀御行は告りたい」
とうとう大詰めです。


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白銀御行は告りたい 前編

投稿が遅れてしまい大変申し訳ございません。
例の如く長くなってしまったので前後編です。


 

 

 

 

 恋愛とは好きになった方が負けである。

 

 

 恋人同士の間にも明確な(上下)関係というものは存在する。

 尽くす側と尽くされる側。

 搾取する側とされる側。

 『惚れた弱み』なんて言葉はまさにその妙で。

 

 だからもし貴方が誇り高く生きたいと願うのならば、決して自ら告白しようなどと思い抱いてはならない。

 それは自らの全てを捧げ尽くす、『敗者』と認めるも同義だから。

 

 

 恋愛とはすなわち戰の場。

意地とプライド。己の全てを賭けてぶつかる場。

 

 

 ああ。その考えはーー

 

 

 

 

 

 

「今でも、間違いじゃないって思ってる」

 

 

 

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

微かな鳥の囀りが耳を擽る。木々の合間から顔出したばかりの太陽が、朝露纏う外気に白いべールを織りなす頃。

 

「それじゃあ行って来る。……くれぐれも無理だけはしないでくれ。まだ病み上がりなんだから」

「分かっています。御行くんの方こそ、しっかり頑張ってきてください」

 

 今日を逃したら最期なんですからね、と。

 そんな念を押すような言葉と共に見送られる玄関口。重いリュックを肩に背負いトントンと靴の踵を鳴らしながら、廊下に立つ寝服姿の早坂へと振り返る。

 

 

 夏季休暇に入る以前より延期されていた『情報電子学』の試験。

 スタンフォード大学自然科学科一期過程の功科を決める最後の関門であり、この結果次第で2回生進級への合否も決まる。

 

 出題難度もさることながら追試を望むことさえ難しい現状。ただ一度の失敗(ミス)が即留年へと繋がり、己の将来をも左右されかねないとなればプレッシャーを覚えるのは当然であり、これから大学に向かう者は皆一様に緊張で顔を塗り固めていることだろう。

 

 

「何か必要なものはあるか?帰りに買ってきて欲しいものとか……」

 

 そんな渦中だというのに、どこか後ろ髪を引かれるように玄関へと振り返る白銀。  

 出立の間際、おもむろに出した提案に対して、けれど少女は淡く微笑みながら首だけを横に振った。

 

 ……やはりまだ声を出すのは辛いのか。

 

 今朝方、目を覚ました頃には幸いにも熱は大きく下がり、ベッドから起き上がれる程には体調を回復させていた早坂。

 それでも未だ体に残る傷跡は大きく、一人では満足に出歩くこともできないこと。碌に体を動かせる状態にないことは、彼女の様子や時折浮かぶ苦しげな表情から痛いほどに察することができた。

 

 本来なら今だって安静に寝ておくべきなのに……それでも、せめて見送りだけはさせて欲しいと。請い縋るような彼女の瞳に負け、こうして玄関までの同伴を許していた。

 

 病に苦しむ彼女を一人家に残すこと。その後ろめたさと胸によぎる微かな予感が。白銀の足を重く引き留めていた。

 

 

「夕方までには帰って来れる。全部終わって、早坂の体調も戻ったらーーー休暇ももうすぐ終わりだ。遠出や外泊になってもいい。2人で行きたい所に行こう」

「……ええ、楽しみにしています」

 

 

 それでも迷いを振り払うように、意を決して開け放つ扉。

 

 此処で不甲斐ない姿を見せれば、余計に彼女へと不安を与えてしまうかもしれない。

 全ては今日という日を迎えるため。その先に続く未来へと繋げるため。どん底とも言える環境から、必死に2人で積み上げてきた半年間だったのだから。

 

 

 屋外へと顔を出した瞬間、眩いばかりの陽光が視界を包みこむ。迎えるのは晴天と澄み渡る夏の青空。

 

 「いってらっしゃい」と、囁かれる言葉に背中を押されながら、大学へと歩き出していく少年の脚。

 およそ半年前に纏っていた暗い影など微塵も感じさせない。逡巡なく、真っ直ぐに前だけを見据えた瞳は、かつて失くしてしまった自信を取り戻した確かな証で。

 

 光に燦々彩られたレンガ道は、これから少年が歩む行き路(未来)を祝福するようでもあった。

 

 

「---」

 

 ああ、けれどだからこそ。

 別れの際。か細く消え入りそうな声で紡がれたもう一つの想いは、その耳に届くことはなかった。

 

 ゆっくりと。重い扉が閉まりゆくごとに、途絶えていく外の陽光(あかり)

 眩しさに滲み、溢れ出す涙に霞み、目も眩むような光の向こうへと消えて行く貴方の背中。もう二度と見ることは叶わないその姿に……耐えきれず、頭を下げていた。

 

 

「ごめん、なさい……っ」

 

 零れ落ちるいくつもの雫が廊下を濡らす。痛む喉が鳴らす掠れた声で、それでも溢れ出る謝罪の言葉を止めることができなかった。

 

 決して赦される筈もない。決して、伝えられない想いと知っていたから。

 それがどれだけ酷い裏切りか、わからない筈がなかったから

 

 

 

 温もりも途絶え静寂ばかりが包む家の中。震える肩を支えてくれるものは無く、嗚咽混じりの懺悔だけが、ただただ虚しく響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 最終話

 

 

「白銀御行は告りたい」 前編

 

 

 

 

 

 

 

 時折ガタンと。揺れるバスに身を任せながら、窓の外に過ぎゆく街並みを悄然と見つめる。

 

 一年を通して活気を忘れ得ないサンフランシスコの街並み。街道は今日も今日とて朝の通勤に行き交う人々の波で溢れ、まだ眠そうに欠伸を噛み殺し、多忙という名の日常に挑み行くその姿は……それでも、ただ逃げいくだけの自分には酷く眩しいものに見えた。

 

 鉄筋コンクリートの森を抜け、郊外に続く道まで来れば景色は一転、カリフォルニアに横たわる広くなだらかな大地が迎える。どこまでも続くような緑丘と、それを包む澄み切った蒼空。雄大なばかりの自然の風景が、此方の心境など知りもしないというように、ただ穏やかに広がっている。

 

 

 およそ半年前に見た景色とは真逆(・・)の路順。

 以前に比べれば酷く少ない……事実、夜逃げ同然の荷物だけ纏めたトランクを胸の中に抱きしめたまま、その奥からあふれ出しそうになる感情の波を必死に抑え込んでいた。

 

 僅かにでも気を緩めれば……ほんの少しでも自分の気持ちに正直になってしまえば、また埒もなく泣き崩れてしまいそうで。

 

 外見と体面を取り繕うため、また知らず知らずのうちに被っている無表情の鉄仮面。こんな時くらい自分の想いに素直になれてしまえばいいのに……それも赦さない。骨の髄にまで染み込んだ演技の技術(習慣)が、有り難くもあり、どうしようもなく恨めしく(哀しく)もあった。

 

 

 

 耳を澄ませば、重く、遠く聞こえ始めるエンジン音。空気を裂いて甲高く響き渡るソレは、次第にバス全体を包み込むほどの轟音へと変わっていく。

 窓の外を覗けば今もまた一機。陽光を遮る巨大な機械の翼が、遠く陽炎の滲む滑走路へと降り立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『"Good morning passengers. This is the pre-boarding announcement for Spirit Airlines to ーーー“』

 

『"Attention on DELTA Airlines flight 325 to New York. The flight has been delayed due to bad weather ."』

 

 

 

「あと……1時間……?」

 

 

 たったの……?

 様々な航空アナウンスが飛び交う空港ロビー。今も壁一面を埋め尽くし、刻一刻と表示を切り替える電光掲示板を前に一人呆然と呟く。

 

 ロサンゼルス空港発、日本(成田空港)行きの国際航空機。

 予約を入れたその便の発着までには随分と余裕を設けていた筈なのに……実際には搭乗検査等を含めれば、もう数十分とさえ残されていない。

 こうして見上げる時計の秒針(ハリ)でさえ、普段より遥かに速く足を進めるように見える。

 

 それほどまでに。空港(この場所)()るまでの自分の足取りは重く。気持ちを抑え込むのに時間を浪していたのだと……

 

「………」

 

 目前に迫った抗いようのないタイムリミットに、今しがた歩いてきたばかりの空港ロビーへと振り返る。正しくはその先……今も多くの人が行き交うの入口(エントランス)に……在る筈もない影を探して。

 

 

 嗚呼、何を白々しい。

 敢えてそう重なるように。万が一にも、貴方が見送り(引き止め)に来られないようにと、自分で定めた搭乗時間だったのに。

 

 

 

 もう、この時間。(あなた)の方は試験が始まった頃だろうか。

 

 瞳を閉じれば自然と想い浮かぶ、広い大学の階段教室、厳しい表情を浮かべながらも確かな自信を瞳に教壇へと挑む貴方の姿。

 

 かつての自信を取り戻して。今はもう自分の足だけで立って。夕暮れに沈む大学の屋上、淡い紺色へと染まりゆく宵初めの空を目に、まだ見ぬ遠い未来への夢を語ってくれた貴方。瞬く星々へと手を伸ばす姿はとても眩く、誇らしく……

 

 ああ。けれど同じく胸の奥に芽生えてしまう切なさ。

 

 もう、私の助けは必要ないのだと。

 

 果たしてしまった貴方の隣に居るための理由(言い訳)

 見え始めた日常の終わりに、ただ目を伏せて俯くことしか出来なかった。

 

 

 こんな結末が来ることも。

 こんな生活が永くは続けられないことだって、全部全部、分かりきっていたことなのに

 

 

 「ーーーっ」

 

 頬を伝う温かな感触に手を触れれば、また。厚く被った筈の仮面の下から涙が溢れ出している。

 通り過ぎる旅行客達の怪訝そうな視線を浴びながら、濡れた自身の指先へと目を落とす。

 

 

(ああーーどうして)

 

 

 どうして、今になって思い出してしまうのだろう。

 どうして、今更になって気づいてしまったのだろう。

 

 このまま日本に逃げ帰ったところで、安息が待っているわけではない。四宮家の意思に背き、長く席を開けていた咎は避けられない。以前のような地位を望めるはずもなく、後に在るのは冷たく厳しい現実だけ。

 

 ならば……どれだけ覚えていたところで、決して報われることはない想い。どれだけ大切に胸の奥に抱え込んでいたところで、思い出す度に心に傷を作るだけの記憶ならーーー再び前を向いて歩き出していくためには、早々に切り捨て(忘れ去ら)なければならないのだと。

 冷徹にも決断を下すもう1人の自分の声だって、ちゃんと聴こえていた。

 

 それでも。

 

「ーーっ……、……」

 

 忘れてしまおうと。消してしまおうともがくほどに、胸の中から溢れて止まない記憶。

 この(ばしょ)で貴方と共に過ごした半年間。眩しく、暖かく、まるで走馬灯のように浮かんでは消えて行く日々の思い出に、溢れる涙を止めることが出来なかった。

 

 

『心配だったからでは、ダメですか?』

 

 受け入れてくれる保証(自信)なんて、始めからあったわけではない。

 本当は不安だらけで。いつ拒絶されるかもわからない怯えをいつも胸の奥に抱えて。

 

 貴方の隣に居続けるために、自分自身で誓った(架した)役割。上手く演じなければ。ちゃんと役に立たなければと、焦りと緊張に思いもしない失敗をすることだって少なくなかった。

 

 

『うっぷ……』

『ご、ごめんなさい。いいんですよ無理して全部食べなくても』

『いいや、せっかく作ってくれたんだ。絶対残したりしない……。あれだな。さては早坂もアメリカ(こっち)の冷蔵庫の大きさに化かされたな?』

『……じゃあ御行くんも?』

『ああ。幅も奥行きも、日本のに比べて倍近くあるから感覚が狂ってセール時なんかはついつい買い貯めし過ぎてしまう。そもそも売ってる食品のサイズも桁違いだから、油断すると賞味期限の扱いが大変なことに』

『……実は卵の方も結構残っていまして』

『2人で頑張ればまあなんとかなるだろ。オムレツに茶碗蒸し、デビルドエッグ。生食はダメだから卵かけご飯には使えないが……よし、いい機会だ。早坂にも白銀家(わが家)秘伝の黄金チャーハンを振るう舞う時が来たようだな』

『やる気満々なのは助かりますけど、なんでそんな嬉しそうなんです?』

 

 

 けれど目まぐるしく慌ただしい日常の中に、初めに抱いていた不安や遠慮も少しずつ溶けていく。

 

 

『どうしたんです?洗濯物なんかに顔を埋めて』

『いや、なんか懐かしい匂いに安心して……。一人暮らしをしてると、どうしても洗濯物から日の匂いが消えていくから、この温かさや香りが恋しかったというか……』

『まあ、御行くんは特に帰りが遅いですからね。朝干しても、取り込む頃には夜風で冷え込んでたのは分りますけど』

『……。(ホスホス)』

『な、なんか恥ずかしいので、そんなに嗅がないで頂けます?』

『なんでだ?俺のワイシャツだろうに』

『なんでもです。特にその襟元!絶対に口近づけないでくださいね!』

『??』

 

 流れる時はあっという間で。苦しいことも沢山あった筈なのに、胸の奥には温かな記憶ばかりが溢れる。

 

『おかえりなさい……って、今日はまた一段とお疲れの様子ですね』

『あ“ぁ……脳の使いすぎで知恵熱と鼻血が……。まだ頭の奥がクラクラする』

『どうせまた他人(ひと)の分まで余計に仕事手伝ったんでしょう?……もう、お風呂沸いてますから、肩まで浸かってゆっくりして来てください。今日は貴方も好きだって言ってたラベンダーの入浴剤ですよ。私おすすめ2番目のやつ』

『ぅん……助かる……めっちゃ助かる……。けど頭痛い時に風呂って大丈夫なんだっけか』

『むしろ血行が良くなって頭痛も取れますよ』

『耳鳴りは?』

『秒で止まる』

『お風呂への信頼が厚い』

『気持ちいいからって、前みたいにそのまま寝ちゃわないでくださいねー。あがったら何か飲みます?』

『コーヒー』

『これ以上何を頑張るって言うんですか。コーラ冷やしときますからそれ飲んで早く休んでください』

 

 

 

 思い返せば、ささやかな幸せだったかもしれない。

 同じトラウマを持つ者同士、浅はかな傷の舐め合いだったと人は言うかもしれない。

 

 それでも。

 

『早坂』

『はい?』

『……いつも、ありがとうな』

『……。はい』

 

 

 誰よりも臆病な私たちだったからこそ、一つ一つ大切に積み重ねていった時間。誰に望むべくも、誰に真似することも出来ない、私たちだけの日常。

 

 ああ……手放してしまう今だからこそ分かる。

 

 どれだけ、自分がその日々に救われていたか。

 どれだけ、自分があの日々に憧れていたか。

 

 こんなにも貴方のことが好きだったのだと。

 

 今更自覚する本心。ずっと伝えられなかった言葉の数々が涙となって零れ落ちる。

 

 

「……」

 

 

 或いは……今ならばまだ間に合うかもしれない。

 誰にも気付かれぬまま家に帰り、いつもと同じ素知らぬ顔で彼の帰りを迎えて……胸に宿る痛みも罪悪感も忘れたまま……またあの温かな日常に戻るだって出来るのだと。

 そんな浅はかな誘惑が胸の奥から溢れ出しそうになる。

 

 

 ああ、けれどそれも叶わないことだって、自分自身が一番よく分かっていた。

 

 

 もう花開いてしまった恋心。

 

 どれだけ自分の気持ちに嘘をつき、心を凍らせたところで、また氷は溶け出して。貴方が与えてくれる優しさ()に、貪欲さを抑えられなくなっていく。

 

 貴方の想いが未だかぐや(あの子)へと向いていること……その変えられない事実にいつまでも嘆き続けて。

 

 どうして私の方を向いてくれないのか。

 どうしてあの子でなければならないのかと。

 

 報われない想いに、いつかは大切な貴方達のことさえ、恨み嫌うようになってしまう。

 

 ああ。そんな自分の本性を知っていた。

 浅ましさと醜さに濁るこの心が、いつか貴方の歩む未来さえ傷つけてしまうと知っていたからこそ私はーー

 

『もう、此処にはいられない』とーー(あなた)の元から去ることを選んだのだ。

 

 

 

 

 

ーー嘘つき

 

 

 

 

(本当は、ただ怖かっただけ)

 

 

 こんな醜い心内を、貴方にだけは知って欲しくなかった。

 こんな何も逃げるような別れ方を選んだのだって……貴方の顔を正面から見てしまえば、決心が揺らぐと分かりきっていたから。

 

 そのために、病に苦しむふりを続けて。

 貴方が向けてくれた親愛や優しさを、最後まで裏切り続けて。

 

 そんな私がーーあの日、空港で貴方を引き止めることさえ出来なかった私が、こうして今もまた未練がましく、あるはずも無い貴方の影を求めて、振り返っている。

 

 

(……なんて酷い人間だろう)

 

 

 ”もう自分の助けは必要ない“なんて、それがどんなに穢い言い訳であるか。

 

 誰も居なくなった冷たい家を目に、貴方はどう思うだろう。

 また裏切られたと……また棄てられたと。今度こそ立ち直れないトラウマを抱えてしなうかもしれない。

 

 それが分かっていながら私はーーー

 

 ただ、貴方の一番になれないと。

 

 そんな浅はか(無慈悲)な理由のためにーー貴方に消えない傷を残そうとしているのだから。

 

 

 

(本当に……なんて酷い)

 

 

 

 結局私は、何一つ変われはしないのだと。

 

 どうやったって整理出来ない心。自分自身でさえ見つけられない本心に、矛盾ばかり抱えて。

 

 過去を振り返って浮かぶのは後悔ばかり。一番大切に想いたい人にさえ自分を明かす勇気も持てない。

 

 

 こんな人間をどうして愛してくれるだろう。

 

 こんな人間(わたし)を、いったい誰が愛してくれるだろう。

 

 

 

『人は演じなければ愛して貰えない』ーー?

 

 

 

 ううん

 

 

 

 演じてさえーーー私は愛して貰えない

 

 

 

 

 

『"JAL Airlines flight 6215 to Narita International Airport will begin boarding. Please have your boarding pass and identification ready."』

 

 

 

 搭乗開始を知らせるアナウンスに、重く俯いていた顔が上がる。

鉛のように重い手足。動きは鈍く、それ以上に沈む心を抱えたまま引き摺るようにトランクを引っ張って行く。

 

 涙にぼやけ、輪郭さえ掴めない視界では、もう自分がどこを歩いているのか。どこへ向かって歩いていきたいのかさえ分からない。

 

 けれども決して待ってはくれない現実。もう自分にはそんな生き方しか出来ないのだとーーたどり着いてしまった残酷な答えに一歩進むたび心が枯れていくのを感じながら、搭乗口への道を歩いていく。

 

 

 

『早坂』

 

 

「ーー……」

 

 後ろ髪を引くように、不意に頬を撫でる風。

 耳に届く貴方()の声が、心が創り出した幻聴だと分かっていても……立ち止まった足がまたエントランスへと振り返る。

 

 あの暖かな日々を決して忘れないよう、大切に胸の奥へとしまい込むために。

 

 ああ。どうか

 

 せめて最後にもう一度、貴方の姿を思い浮かべてーー

 

 

 

 

 

 

「ーーーーーー」

 

 

 

 

 トランクを握る手が力を失う。

 呼吸が止まり、音も無い声が口から零れる。

 

 

 あり得ないと。そんな筈がないと。

 

 目の前の光景を認めまいとする心を、けれど同じ心が否定する。

 

 

 涙でぼやけきり、輪郭さえ掴め無くなった視界でーーーそれでも見間違えるはずがない。

 

行き交う人の波を掻き分けながら。遠いいつかと同じように。全身を疲労に濡らしたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる貴方の姿。

 

 

 

「どう、して」

 

「どれだけ……一緒に居たと思ってる……」

 

 

 お前の考えることなんて、お見通しだと。息も絶え絶えに睨みつける彼の視線は鋭く、けれどそれ以上に浮かぶ安堵の表情。

 ……ああ、その表情だけで、瞳と胸の奥にアツい熱が込み上げるのを感じながらも、微かに残った仮面の欠片が邪魔をする。

 

 

 (違、う。……そんなことを、言いたいんじゃない)

 

 貴方は、わかっているのだろうか。いま貴方が此処に()るという意味。

 私を追う、その選択を選ぶために何を諦めなければならなかったか。

 いったい、何を棄てなければならなかったのか。

 

 そんなこと、理解していない筈がないのに。

 

「何をやっているんですか……貴方は」

 

 涙に震える声で呟く。嬉しさと哀しさと、自分でもどうしようもない感情の波に振り回されるまま。

 

 今日という日を迎えるため、貴方が重ねて来た苦悩の日々を想う。

 大学(ここ)でだけの話じゃない。今までだってずっとそう。友人や同年代の多くが思い思いの学園生活を謳歌する中、貴方だけは青春と呼べる殆どの時間をも勉学に捧げて。

 

 どれだけの葛藤があったか。

 どれだけの苦悩に打ち拉がれたか。

 

 目も覆いたくなるような艱難と挫折の末、ようやく辿り着けた今だったのに。

 

 

 並み居る才賢達が集う研究室にて、それでも確かな信頼を勝ち得ていた貴方。

 これからは同じ苦悩を知り、同じ夢を抱いた学友達と共に。

 時に競い高め合いながら、遥か遠い(そら)へと臨み行くーーーそんな輝かしい未来が待っているはずだったのに。

 

 

 ああ、それなのに、どうして

 

 

 

「言葉にしなければ、わからないか」

 

 

 紺青の瞳が私を射抜く。

怒気さえ霞む真剣さで。どこまでも真っ直ぐな色で、私を見つめて

 

 

 

「そんな未来(もの)よりーーお前の方が大事だって言ってるんだ」

 

 



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白銀御行は告りたい 後編

 言葉にしなければ分からないか、なんて。

 自分で口にして、どれだけ身勝手な台詞だろうと思う。

 

 ちゃんと言葉にしなければ。

 カタチにして想いを伝えなければ、互いの気持ちなんて分かるはずがない。

 

 そんな事も忘れたまま、いま在る関係に甘え、ずっと彼女(きみ)のことを傷つけてきたのだから。

 

 

 

 大学への道を途中で引き返したのも。彼女が去ったあと、もぬけの殻になった家を前に、それでも嘆き暮れることをしなかったのも、きっと心の何処かでこうなる(・・・・)予感を抱いてからだろう。

 

 叶うことならただの思い過ごしであってほしかった。“臆病な人だ”なんて笑いながら、いつもと同じようにこの家で自分の帰りを待っていて欲しかった。

 

 それでも騙し合う(こと)から始まった関係を終わらせるため、この場所を去ることを選んだ君。

 それは彼女自身が、此処での暮らしに苦痛を抱いていた何よりの証で。

 

 あるいはこのまま、その背を追わず諦めてしまった方が……君にとって幸せなのではないかと。

そんな想い(まよい)を胸の中に抱かなかったわけではない。

 

 

 

 

(……それでも)

 

 

 

 

 

『馬鹿言ってんじゃあないわよ。初恋を呪いだとでも思ってんのか』

 

 早坂との関係にいつまでも迷い答えを見つけられないでいた自分へ、吐き捨てるように投げかけられた言葉。酔いのせいだけではなく、赤く上気させたベツィーの顔には、どこまでも深い侮蔑の色が滲んでいた。

 

『長いこと生きてりゃ違う人を好きになる事だってあるし、初恋なんて実る方が稀じゃないの。

 なのに何?アンタときたら、“一度その人を好きになったらずっと想い続けなきゃいけないー”とか。“たとえ振られた後でも一生忘れちゃならないー“とか、ほんといったいどんだけ傲慢なのよ』

『なにもそこまでは』

『そう言ってんのアンタは。だからいつまで経ってもウジウジウジウジ悩み腐ってんでしょうが』

 

 腹立たしげにグラスを飲み干し、空き瓶の山をまた一つ築いては語気を強めていく少女。

 

『アンタは認めたくはないでしょうけどね。人の気持ちなんて簡単に変わるものだし、恋愛感情だって決して永遠じゃないの。

 想いなんて時が経てば擦れもすれば色褪せもする。初めは上手く行っていたようなカップルでも、いざ付き合い出してみれば今まで見えなかった嫌な部分に幻滅するなんてこともよくある話よ。

 

 なのに“愛は永遠だ”。”お互いを思う気持ちは変わらない“、なんて。そんな浮ついた幻想を押し付ける奴ほど、相手の気持ちを察する努力も蔑ろにして心の機微にも気づきやしない。これくらいなら許されるだろうなんて甘えと信頼を履き違えて、些細な擦れ違いから破局するカップルがこの大学の中だけでもどれだけいることか。

 

 それだけ互い(人が人)を好きであり続けるってのは難しいことだし、皆が皆あんたの謳うような純愛にばっか拘ってたら、それこそとっくに人類なんて滅亡してんのよ』

 

 いつものように反論の隙も許さない、滂沱のような勢いで押し流していく言葉の波。

 厳しい言葉の中に織り交ぜても彼女は言う。想い人が変わること。他の誰かを好きになるという選択は、必ずしも“悪”ではないのだと。

 

『なにも浮気を推奨()してるわけじゃない。既に相手がいるくせに、欲掻いて他の誰かにまで手ェ出そうなんて輩は私が容赦なく切り刻んでやるわよ。

 でも失恋に関しちゃ別の話。いつまでもクヨクヨ引きずってたって何も救われないし、思いっきり泣いて、それで次を向けなきゃ何のための失恋か、何のために流した悔し涙かも分かんないでしょうが』

『……だからって』

『あん?』

『だからって、それが簡単に心変わりしていい理由にはならないだろう』

『うーわ』

 

 絞り出すように告げた声に、“めんどくさコイツ”とか“これだから童貞は嫌なのよ”とか、散々な言葉と共にいっそう顔を顰めるベツィー。

 しかし互いに酔いの回った頭。罵倒の言葉もいい飽きたのか、疲れ気味にグラスを置いてはため息を吐いた。

 

『……アンタがどれだけ元カノを想ってたかなんて知りゃしないわよ。でもね。そんなことばかり気にして今の幸せが見えなくなってるようじゃ、それ以上にバカな話はないわ。

 それにアタシからすれば……アンタはもう十分受け入れているように見える』

『受け入れてる?』

『そう。自分が振られてしまった理由(原因)も。そうなってしまった落ち度も。

  アンタなりに必死に考えて、変えられない過去として既に受け止めてしまっている。でなきゃアンタ今頃ここには居ないし、あのままずっと腐ってたはずでしょうが』

 

 違う?と問いかける彼女に知らず口を噤む。

 本来なら反論を覚えるべき言葉が、驚くほど容易く胸の内へと落ちていったのは、きっと自身の中にも納得できる(思う)ものがあったのだろう。

 

 

 このアメリカでの生活を通じるなかで、否応なく味合わされた現実。

 「自立」というたった二文字に込められた重さ。自分たちの力だけで生きていく、それだけのことがいかに厳しく受け入れ難いものであったか。たとえだらしのないように見える親でも、どれだけその存在に甘え、守られてきたか。

 

 ああ、そんなことも知らず。ましてや彼女との間にある貧富の差さえも分かろうとせず。愛があればどうにかなるなんて甘い幻想に縋っては、彼女をこの辛く嶮しい荒野へと連れ出そうとしていた。

 

 

『ごめんなさい』

 

 あの日告げられた別れの言葉。ただ悲観と共に思い出すことしかできなかった言葉は、けれど決して理不尽なものではなく。彼女には真に(ただ)正しい未来が見えていただけなのだと。

 あの日選べなかったもう一方の分かれ道……眩い未来が続くと描いていたその先は、けれど決して輝かしいものばかりではなく。たとえあの別れが無かったとしても、己の弱さや脆さと向き合うことからも逃げていたあの頃の自分では、きっと遠くない未来、同じ結末(おわり)を迎えていただろうと。

 

 そんな自身の未熟さと愚かさを、消えない痛みとともに受け入れている自分がいる。

 

 

 受け入れてなお……今は前を向いている自分がいる。

 

 

 至らなさ故に辿り着いてしまった現実(いま)を認め、尚も前へ進むために歯を喰いしばって。

 たとえ歩む未来が望むままの形ではなかったとしても、足元に広がるこの道は、未熟だった自分が“それでも”と抗い選び続けてきた旅路の果て。残した轍が消えることはなく、積み上げてきた努力の日々は今も変わらず自分を遠い夢の頂へと繋いでくれている。

 

 たとえどれだけの失敗に身をあぐねようとも、重ねてきた過去の全てが無為になることはない。

 決して、自分の全てを否定することはないのだと。

 

 ……そう、気づかせてくれた人がいた。

 独りだったらならきっと力なく潰れていたであろう自分を、見放すことも、見棄てることもなく。ただもう一度立ち上がれると信じて、支え続けてくれる人がいたのだ。

 

 

『アタシが一番気に入らないのはソコよ。もう自分の中で気持ちに整理はできてるし、新しい想いにだって本当は気付いている。なのに世間体やら元カノへの罪悪感やら。そんな都合の良い理由を並べては頑なにソレと向き合おうとしやがらない。自分を赦せる言い訳ばっかり探してる』

『っーー』

『アンタが早坂(ソイツ)と一緒に這い上がってきた半年間てのは、そんなに軽いもの?アンタがその子を想う気持ちってのは、そんな言い訳なんかで収まるようなもんなわけ?変なことにばっか頭ァ回してないで、一回全部真っ白にして考えてみろってのよ』

 

 普段の罵倒に比べれば遥かに穏やかな口調が、けれど矢のような鋭さ(痛み)となって胸を貫く。それがどれだけ自分の核心を……ずっと避け続けていた弱さを射抜くものであったか

 

 

 そう。思えば、ずっと言い訳ばかりを探してきた。

 

 君に惹かれる理由を。

 

 君を好きになってもいい言い訳を。

 

 人が心変わりを起こすからには、相応しいだけの切っ掛けがなければならないなんて……そんなことを勝手に思い抱いていた。

 

 

 そうでなければ、とても赦されないと思えたのだ。

 

 

 あれだけ好きだと曰っていながら、容易く心を入れ替えてしまう不純。

 

 四宮に振られた傷をまるで埋めるかのように、早坂(彼女)を求める自分の姿が。

 

 

 なにより

 

 

『ごめん……。俺、好きな人がいるから』

 

 

 その痛みも、苦しみも知らないまま。

 あの日彼女の想いを断り、無碍に傷付けってしまった自分に、いったいどんな資格があって、彼女の隣に居ることができるだろうと

 

 

(……けれど)

 

 

『心配だったからでは……だめですか?』

 

 そんな迷いも。赦す、赦さないという感情も。

 所詮(結局)は己の畏れ(弱い心)が生み出した自縄自縛。

 

 本当は誰に咎められたわけでもない。誰に責められたことさえも。

 自分自身で勝手に相応しくないなんて壁を作っては、自分の気持ちと向き合うことを避けていた。

 

 “相手が自分を好きに違いない”なんて。また、そんな浮ついた希望を抱いてしまうのが恐ろしくて。

 その優しさに誰よりも触れていながら、どう在ることが君にとっての幸せなのか……思い出す過去の過ち(トラウマ)に本心を確かめる勇気も持てず、いつしか『君に幸せになって欲しい』だなんて、そんな曖昧な覚悟(ことば)へと逃げていた。

 

 

 そんな臆病が。弱さが。

 いまも彼女を傷つけているというのなら

 

 

 そんなもののために

 

 

『貴方を好きになっては……ダメですか……?』

 

 

 今も、彼女が涙を流さなければならないのなら

 

 

 自分が本当に(ただ)さなければならなかったのは

 

 

 

『というか、アンタらの恋愛感覚じたいまずおかしいのよ。

 ただの告白よ?結婚前提(まえ)のプロポーズでもなんでもないのよ?なのに、なにを当然のごとく一生添い遂げるみたいな覚悟抱いてんだコラ』

 

 ゴツンとグラスの底で小突いては苦言を吐いてくるベツィー。重すぎるわと罵る言葉に、けれどそれだけは、叛意を込めて見つめ返す。

 

 何を当然のことを。

 

 誰よりも理知深く、誇り高い彼女を知っていた。

 だからこそ本当は誰よりも傷つきやすく、あのリムジンの中、一人泣いている彼女の姿を知っていた。

 

 たとえどれだけ世間(まわり)に拗らせてると罵られようと、彼女を相手に軽率な気持ちのまま挑もうなんて想いは欠片も湧かなかった。

 

 

『……それだけ大事に想ってるってことなんでしょ?

 はっ、なによ。じゃあもうとっくに答え出てんじゃないのよアホらしい』

 

 心底疲れたというように天井を仰いでは今日一番の溜息を吐き出すベツィー。

顔には相変わらず侮蔑の色が溢れていたが、浮かぶ嫌悪はいくらか和らいで見えた。

 

『頑固さもそこまでいくと筋金入りね。

 ……なら、いっそその調子どこまでも自分に我儘になっちゃいなさいよ。

 

 恋愛も結婚も、突き詰めてしまえば結局はノリと勢い。

 浅ましかろうが愚かだろうが……それこそ、どんな天才だろうが。

 自分の気持ちに正直(バカ)にならなきゃ、本心なんて見えやしないんだから』

 

 

 

 

 

 

 俯かせていた顔を上げる。

 

 伽藍洞の家を背に振り返り、大学とは真逆ーー今は遠い、彼女の背を追って駆け出していく。

 

 行き先に確たる証拠があるわけではない。追いつけるかの保証さえも。

失う未来(もの)の重さ。“何をいまさら”と、拒絶される言葉を思うと脚がすくみそうになる。

 

 それでもと、握りしめる車の鍵。

 

 もう十分に迷い続けた道。

 もう十分すぎるほどに間違えてしまった選択。

 

 だからこそ。もう相手を想うふりをして、本当に大切なことから逃げることだけはーーー二度とはしたくなかった。

 

 

 

『そんな貴方だからこそ、救われていた人がいるんですよ』

 

 

 ああ。在ったのだ。

 

 君に惹かれる理由も。

 君を好きになる理由も。

 

 そんなものは、君とこの場所で過ごしてきた半年間(日々)を思えば、探す必要などないくらい当たり前に(たくさん)に胸の中へと溢れていた。

 

 母に見棄てられて以来、ずっと迷い続けてきた自分の在り方。

 こんな自分でいいのか。こんな自分が愛されるのだろうかと、消えない恐れを隠すために仮面を磨いてきた日々。

 そんな自分が初めて出会えた、ありのままを明かすことが出来た人。初めて、これがありのままの自分でいいのだと……そう受けとめさせてくれた君だからこそ。 

 伝えたいこと、謝りたいこと。また言葉にできていない、数えきれないほどの想いの数々が、星のように胸の中に瞬いている。

 けれどそのすべてを伝えようとすれば、自分はきっとまた言葉を選んで(取り繕って)しまうだろうから、伝えるべき想いは、ただ一つにすると心に決めていた。

 

 

 世界最大の敷地面積を誇るロサンゼルス空港。広すぎる港内を駆けずり回り。行き交う人々の波を潜り抜け。

 そうして、ようやく追いついた背中。

 

 その姿を見止めた瞬間、顔に浮かんだ安堵の表情は、どれだけ情けないものだっただろう。もつれた足で駆け寄る姿は、どれだけ無様だったことだろう。

 

 格好悪くて。みっともなくて。

 きっと、プライドと見栄ばかりに固執していた以前の自分では、絶対に受け入れられなかっただろう姿。

 

 けれど今は、こんな自分だからこそーーー。

 

 

「どうして、ですか」

 

 長い長い沈黙の末、俯いていた少女の顔が上がる。

 涙に腫らした青い瞳。尚も零れ出す大粒の涙が頬を濡らし、普段の平静の仮面など見る影もない、肩を震わせながら、消え入りそうな声で囁く。

 

 

「私は……貴方の思うような人間じゃない。

 貴方を裏切って……酷く欺いて……。取り返しのつかない傷を、貴方に負わせようとした」

 

「こうしてちゃんと追いついた」

 

「今だけじゃない。これからだって……私の嘘のせいで、何度も貴方を傷つけるかもしれない」

 

「惚れた弱みだって、笑って受けとめる」

 

 

 一言一言、伝え聞かせるように。ゆっくりと歩み寄りながら告げる。

 

 えーー?と一瞬、何を言われたかわからないというように放心した顔を上げる少女。その言葉を。目の前に広がる現実を、未だ信じられないというように。

 

 また一筋。少女の瞳から溢れ出た涙を手で拭いながら、祈る様に瞳を閉じ、大きく息を吸い込む。

 

 

 

 告げるのはたった一言。

 数文字にさえ満たない言葉。

 

 たとえ何度経験しようとも決して慣れることは無いだろう。息をするだけで早鐘を打つ鼓動。

 

 この一言を伝えるためだけに、どれだけの遠回りをしてきたのか。

 この想い一つ伝えるために、いったいどれほどの覚悟を抱かなければならないのか。

 

 

 想いが届かなければ最期。元の日常に戻ることはおろか、今度こそ立ち治れないほどの傷を負うかもしれない。

 

 現実は幼い頃の想像なんかよりずっと残酷(ドライ)で……いつかはこの想いだって、儚く褪せてしまうのかもしれない。

 

 あるいは恋をしなければ。誰かを好きになりさえしなければ、心は平穏のまま。こんな痛みも恐れも、抱く必要はなかったのかもしれない。

 

 ああ。それらすべての想いも込めて。

 築き上げてきた過去(これまで)。先に待つ未来(これから)

自身の全て(あらゆるもの)を捧げなければ、告げることさえ叶わない科白(言の葉)

 

 

 

 そう―――『恋愛とは好きになった方が負けである』と。

 

 

 その考えは、今でも間違いじゃないって思っている。

 

 

 

 

 それでも、言うのだ。

 

 

 

「好きだ。早坂」

 

 

 だからこそ、伝えるのだ。

 

たとえ全てを捧げたとしても。

 

 

「もう『幸せになって欲しい』なんて、そんな言葉に逃げはしない。

 たとえこの先。たとえどんなことがあっても、お前を幸せにしてみせる」

 

 このやさしくはない世界で、それでも出逢うことが出来た、掛け替えのない君へ

 

 どんなに浅ましくても。どれだけ自分勝手でも

 

 胸の奥から溢れる、紛れもない(こころ)心からの言葉を。

 

 

「だから、どうか」

 

 

 ああ。なぜなら、自分にはもうーー

 

 

「どうか、これからも、俺の隣にいて欲しい」

 

 

 もう君の居ない幸福(しあわせ)など、考えることはできないから

 

 

 

 

 

 

 

「……わたし、は……」

 

 一歩、歩み寄る度に、竦むようにその小さな体を抱え込む少女。自らの心にさえ怯え、否定するように、何度も顔を横に振って。その度に溢れ出す感情の欠片が涙となって零れ落ちる。

 

 使命感や罪悪感。ぐちゃぐちゃになった理性(ココロ)が、尚も見苦しく抗う。

 拒まなければと。赦されていいはずがないと。

 

 

“ーーーどうして?”

 

 

(私は、かぐや(あの子)じゃない。あの子のように、貴方の隣に立っていていい人間じゃない。)

 

 

“ーーー御行くん(あの人)は、それでも”私”を好きだと言ってくれたのに?”

 

 

貴方を裏切ろうとした私を。

嘘つきで、臆病で。

醜い私の本性(すべて)を知ってさえ……それでも

 

 

“———ねえ。あなたは、なにがしたかったの?”

 

 

ずっと叶わないと思っていた。

 

ずっと夢見て、それでも届かないものと、諦めるしかなかった光景(一瞬)を目の前に

 

 

 

(わたし)はーーどうしたいの?”

 

 

 

 

 冷たく震える小さな体を抱きしめられる。

止められもせず溢れ続ける涙が、彼の(シャツ)を濡らしていく。

 

 

「わたし、は……誰かに愛されていい人間じゃない」

 

 そんなことはないと伝えるように。また強く腕に力を込めて。

 堅く固く。もう決して、手放す(間違う)ことのないように。

 

 

「……それ、なのに。」

 

 

伝う温もりに。求めてやまなかった温もりに、最期の仮面が剥がれ落ちる。

 

 

「それでも、本当にーーー」

 

 

 

 

 

“こんな私で……いいんでしょうか。”

 

 

 

 

「ああ。早坂でなければダメなんだ」

 

 

 最後に零れ出た声にもならない本音(こえ)を、涙で濡れる肩口に強く抱きしめて応える。

 

 嘘と本当の狭間。消えない罪悪感と願いの狭間でずっと自分を傷つけてきた。

 心という何処までも不安定な器に振り回され。その歪さも。脆さも、痛みも知る。そんな君だったからこそ

 

 

「そんなお前にだから、救われていた奴がいたんだ」

 

「っ…!」

 

 

 その言葉を最後に、零れ出す嗚咽。

 

 

「……ぅあ……っ……、あぁ……」

 

 

 今まで溜め込んできた想い。隠し続けてきた思い。その全てが溢れ出すように。

 何度もしゃくりをあげ、くしゃくしゃになった顔で泣く姿は、まるで子どものように。

 

 

 

 言葉は無い。まともな声さえあげられない。

 それでもゆっくりと、少年の背中へと回される手。 

 か細く震え、ギュッとシャツを握りしめて。

 

 決して手放したくないと、少年以上の(おもい)で強く抱きしめ返す。

 

 

 

 

 

 それが―――何よりの答えだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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