俺ガイル~二次 雪ノ下父が贈賄容疑で逮捕!雪乃が独立する? BT付き (taka2992)
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第一章・雪ノ下父が贈賄容疑で逮捕!雪乃独立騒動
第一話


※arcadiaにも投稿しています。

俺ガイル小説版の8巻以降の分岐物語です。9巻が発売されていない時点で、もやもやしたので
これを書きました。
第一章では雪ノ下の父親が贈賄容疑で逮捕されるというイベントで、それまでのモヤモヤをふっ飛ばし、八・雪が仲良くなります。完全に雪乃ルートなので、結衣ファンの人はごめんなさい。

※2月7日から、第二章・平塚先生救出作戦~結婚詐欺師を撃退せよ!を開始しました。





 

 

「おにいちゃ~ん。大変だよ、ちょっと来てよ!」

 

一階リビングから小町の大声が聞こえてきた。俺はさっき本屋から帰ってきたばかり。空腹状態だったが、どうしても手に入れたい本が見つかったので、さっそく読み始めたところだった。今日はクリスマス。あたりまえのように俺には何のイベントもない。

 

「何だよ~、夕飯できたのか~!」

 

「違うよおにいちゃん、雪乃さん家が大変なんだよ!とにかく来てよ!」

 

 ん?雪ノ下の家?いったい何だ? 雪ノ下といえば冬休み中は実家に帰ると言っていた。ちょうど今朝、由比ヶ浜から「何回もゆきのんにメールや電話してもつながらないんだよ」とメールが来ていた。何かあったのか?

 俺はベッドから身を起こしてリビングへ降りた。そこには瞠目しながらTV画面に見入っている小町がいた。

 

「何?」

 

「雪乃さんのお父さんが贈賄容疑で逮捕されたんだって!」

 

「え?」

 

アナウンサーは、建設会社社長で千葉県議会議員の雪ノ下議員が国会議員数人、および国交省幹部数人に対する贈賄容疑で逮捕されたと何回も繰り返していた。2年前の公共事業受注をめぐり、動いた金が数億円に上ると見られ、東京地検特捜部が捜査をしていたもよう。今後、政界にも逮捕者が出る公算が大きく、大きな疑獄事件に発展する可能性が高いという。

 

 まさか。人ごとながら目の前がクラクラした。

 二学期の最後の部活で、俺は雪ノ下と由比ガ浜を残して少し先に帰った。

 

「じゃあな」

 

 それだけを言い残して部室の扉を閉めた。

 生徒会長選挙の後の俺たち三人の関係、あれは何だったのか。いつものようにイスに座って本に目を落とす雪ノ下の横顔。俺が部活に入ったころの凛としたイメージは微塵もなく消え、繊細なガラス細工のようなその姿に、俺はどうしたらいいのかわからず、ただ惰性で由比ヶ浜と馬鹿なことを言い合って、ひたすら時間が過ぎるのを待った。あの雪ノ下の横顔がTV画面にオーバーラップして消えてくれない。

 

「おにいちゃん。雪乃さんとか陽乃さんはどうなっちゃうの?」

 

「あの姉妹は贈収賄事件とは関係ないだろう。どうもならないさ」

 

「本当?本当なの?」

 

小町の目が潤んでいる。

 

「たぶんな」

 

「おにいちゃん、こんなときこそ雪乃さんの力になってあげないとだめだよ。ただ見てるだけだったらわたし、もうおにいちゃんと絶交する」

 

 そう言って小町は鼻をすすった。しかし、おれは雪ノ下のメアドも電話番号も知らない。とりあえず由比ヶ浜に電話してみることにした。

 

「あ、ヒッキー?どうしたの?」

「お前、今カラオケ屋か?すごいうるさいな」

 

「そうだよ、いつものメンバーでクリスマス会だよ」

 

「雪ノ下の家が大変だ、親父さんが逮捕されたぞ」

 

「え?ええ?どうして?」

 

「とにかく携帯でニュースを見ろ。雪ノ下に連絡がつかなかったのはこれが原因だな」

 

「うん、わかった」

 

そういって電話が切れた。

さて、俺としてはどうしたものか。中央政界を巻き込んだ巨大贈収賄事件に関して俺が何かできるとは思えない。奉仕部の扱える問題をはるかに超えている。

 できることといえば雪ノ下の精神的なサポートくらいだろう。しかし、雪ノ下が俺なんかのサポートを必要としているだろうか。それに何と言って元気づけたらいいのか。そもそも現段階では雪ノ下が憔悴しているとか、どんな状態なのか、どこにいるのか事実確認もできていない。

 

 翌朝、由比ヶ浜から電話がかかってきた。

 

「おはよう、ヒッキー、ゆきのんの家大変だね。テレビで大騒ぎだよ。ゆきのんの実家の前にカメラがずらっと並んでるよ」

 

「ああ、そのようだな。雪ノ下から連絡はあったか?」

 

「あったよ。メールが来た。それで今、都内のホテルにいるんだって。陽乃さんと一緒に。心配しないでくれって」

 

「冬休み終わったらどうするか言ってたか?」

 

「言ってない。ゆきのん、メールだとそっけないじゃん?」

 

「そうか、じゃあ俺と由比ヶ浜で会いに行ってみるか?」

 

「う、うん。行っても大丈夫かな。迷惑にならないかな・・・」

 

「とにかく、お前は雪ノ下がいるホテルを聞きだせ。わかったら教えてくれ」

 

 その日の夕方、由比ヶ浜から電話がかかってきた。

 

「電話でゆきのんと喋れたよ。赤坂のホテルに泊まっているんだって、陽乃さんと一緒に。でね、陽乃さんも事情聴取を受けているらしくて、陽乃さんはお父さんの用事でいろいろなところへ出ていたでしょ?それで。声からすると、ゆきのん元気そうだったけど、明日の夕方、ホテルのティーラウンジで会ってくれるって」

 

「そうか、じゃあ、明日行ってみるか」

 

一瞬、小町も連れて行くかと思ったが、今は受験勉強の追込み中だ。総武高に入るとか言っているが、たぶん無理だろうなぁ。雪ノ下家の騒動で気が散って仕方がないらしいが、受験生は必死に勉強しとけ。

俺と由比ガ浜は午後三時に駅前で待ち合わせた。由比ヶ浜はグレーのコートにクリーム色のマフラー、足元には黒いストッキングが覗いていた。

 

「ずいぶん地味だな、今日のお前」

 

「可愛い格好で行くような雰囲気じゃないでしょ」

 

「そういえばそうだな」

それに由比ヶ浜は若干顔色が悪く見えた。話によると、雪ノ下と夜中まで長電話していたらしい。長電話?あの雪ノ下が?

 

「ゆきのん、いろいろと家の話をしてくれたよ。今までわからなかったことがたくさんあって・・・」

 

「そうか、お前らもやっと長電話する仲になったか。俺なんか今だにメアドすら知らん」

 

「それは、ただの成り行きってもんだよ」

 赤坂の駅からエスカレータで上がると、すぐにホテルが見えた。時間は午後3時ちょうど。ラウンジに入っていくと窓際に座ってティーカップを口元に運ぶ雪ノ下の姿があった。

 

「ゆきのん!」

 

 駆け寄る由比ヶ浜に雪ノ下が振り向く。すっと立ち上がって、後の俺にも目を向けた。

 

「大丈夫って言ったじゃない。少し大げさよ。二人して」

 

俺と由比ヶ浜が席につくと、雪ノ下も座った。その姿にはとりたてて陰りがない。むしろ昔の雪ノ下のように、強くてしなやかな凛とした表情すらあった。

 

「元気そうでよかった」

 

「で、どんな状態なの、お前の家。かなりヤバイのか?」

俺がそう言うと、雪ノ下は少しうつむいた。

 

「ええ、私たち姉妹は大丈夫だけれど、弁護士によれば父親は確実に起訴されるでしょうね」

 

「ゆきのんの家なくなっちゃうの?」

 

「そんなことないわよ。ただ、これを機会にして父親は会社からも追い出されるでしょうね。実は、生徒会長選挙のころから父親がそれとなく仄めかしていたわ。こうなることを」

 

「あ、比企谷くんだ、それにガハマちゃんも!」

 

 振り返ると陽乃さんがいた。

 

「姉さんは来なくていいでしょ」

 

「え~、せっかくお二人さんが雪乃ちゃんに会いに来てくれたんだから、姉としてもちゃんとお礼したいじゃない」

 

「あ、このたびは・・・」

俺が何を言っていいかわからずにいると、陽乃さんは満面の笑みを返した。

 

「何かしこまってんの?どうってことないよ、こんなの。私も雪乃ちゃんも見てのとおり元気だよ。うちのお母さんなんて、今後に備えて家の財産をかき集めたり売っ払おうとフル回転しているよ」

 

「姉さん、恥ずかしいこと言わないでくれるかしら」

 

「いいじゃない、この際ぜんぶ言っちゃいなよ。そんなことより、比企谷君、雪乃ちゃんのこと心配してくれたんだね」

 

 そう言うと陽乃さんはニコリとした。反対側のイスに座っていなかったらいつも通り指でツンツンしてくるような雰囲気だ。それにしてもいつもとまったく変わらない陽乃さんには呆れた。何この人。外面も強化外骨格なら心もチタン製なの? それに劣らず妹のほうもかなりタフだ。心配して拍子抜けしてしまった。俺や由比ヶ浜が勝手に心を曇らせていただけだった。

 

「あ、いや、一応、部活仲間だし・・・」

 

「う~ん? まあいいや、ガハマちゃんもごめんね。迷惑かけて」

 

「そんなことないです。あ、いつまでこのホテルにいるんですか?」

 

「それなんだけどね、私は一応事情聴取があるからしばらくいなくちゃなんだけど、雪乃ちゃんはいつでも帰れるんだよ」

 

「まあ、実家の周囲は24時間TV中継中だし、雪ノ下のマンションだってマスコミが嗅ぎつけてるかもしれないし」

 

「雪乃ちゃん、この際独立するって言うんだよ。こんな大変なときにまたお母さんと揉めてるんだよ」

 

「独立?」

 

俺と由比ヶ浜が同時に声にした。

 

「ええ、父が逮捕される直前に私と姉さんの口座にかなりの額を振り込んでくれて、自分で部屋を借りて当面生活ができるわ」

 

「お前何言ってんの?部屋借りたあとずっとその金がもつのか?」

 

「もちろん、ずっともつほどはないのだけれど、そのあとは働けばいいだけでしょ」

 

「ほらね、比企谷君、ガハマちゃん。聞いた? 雪乃ちゃんが働いて学校も行くって言ってるんだよ?バイトなんてやったことないんだよ?」

 

「ゆきのん、大学も自分で稼いで行くつもりなの?」

 

「ええ」

 

「そうだな、お前だったら学費の安い国立に受かるだろうしな」

 

「雪乃ちゃん、それほどまでにしてあの母親から離れたいんだね」

 

「当然でしょ。父がいなくなったのなら、もう一切あの家とは縁を切るわ」

 

「ゆきのん、それは厳しいと思うけどなぁ。生活費と学費を稼ぐなんて遊ぶヒマもないんじゃないかなぁ」

 

「わたしも小遣い減るだろうからカテキョでもしようと思っているんだけどね」

 

 そう言うと陽乃さんはかったるそうに欠伸をした。

 

「ゆきのんはまだ高校生だからカテキョは無理でしょ。何のバイトやるの?」

 

「それは・・・まだわからないわ」

 

「お前らしくないな」

 

 このとき雪ノ下の顔に初めて不安らしき影が浮かんだ。何事にも明晰で、近未来のことならすべて計算済みだと思っていたが、どうやらこればっかりは未来を見通すだけの経験値が足りないらしい。

 

「あ、昨日はクリスマスだったね。こんな状態だからすっかり忘れてたよ。みんなでケーキ食べよう。お姉さんがおごってあげる。ここのモンブランはすっごく美味しいんだよ」

 

 そういうと陽乃さんは手を挙げてウェイトレスを呼んだ。

 

目の前に出されたモンブランは適度な甘さで、アールグレイの紅茶とよく合った。甘いもの好きな俺には少し足りないかもしれないが。

 

「となると、奉仕部も部長不在で消滅か・・・」と俺が言うと、雪ノ下がケーキを口に運んでいたフォークをカチリと置いた。

 

「それは大丈夫よ。下校時間まではちゃんといるわ」

 

「ゆきのん、それだと夜一〇時まで4時間くらいしかないよ。時給1000円だとしても1日4000円。これじゃ無理だよ」

 

「そうだな。土日にフルで働いても月に10万~12万ってところだ。現実的に無理だろ」

 

「あなたたちからも説得してあげて~。無理だって」

 

「なんとかなるわよ。もう決めたもの」

 

 そう言うと雪ノ下の表情には一瞬不安な影がよぎったが、すぐにあのちょっといい笑顔に戻った。

 このとき、俺の脳の中でシナプスがピシッピシッと音を立てながら今までにありえない接続を開始したらしい。その証拠に俺はこんなことを言った。

 

「まあ、雪ノ下がそう決めたら、たぶん、そうするんだろうな。俺もバイトするよ。そしてお前に差し入れするわ」

 

 そう言ったとたん、雪ノ下が動揺を隠せずに肩を震わせた。

 

「ひ、比企谷君、い、一体何を言ってくれるのかしら。働いたら負けと常々吐いているあなたが人のために働くというの?仮にそうしてくれたとしても、とてもそんな施しは受け取れないわ。明日あたり太陽が超新星爆発してガンマ線バーストが地球に降り注ぎそうな気配ね。どうしちゃったのかしら、あなたの脳に宇宙からの重粒子線が直撃しちゃったのかしら」

 

「あれ~雪乃ちゃんが見たこと無いくらい照れてるよ~?言うことがすごいね。さすが理系志望だけある」

 

「あ、あ、私もバイトする!ゆきのんのためならそれぐらいやるよ!」

 

「おお!なんかお姉ちゃん感動して泣けてきちゃったよ。こんないい友達、わたしも欲しいよ」

 

 俺も自分で言ったことに驚いた。しかし、ここまで言えば無理な独立を雪ノ下が思い止まるという期待も少しあった。

 

「あの、その、あ、ありがとう。でも比企谷君も由比ヶ浜さんもそんなことしなくていいから」

 

「まあ、とりあえず、雪乃ちゃんは冬休み明け早々に部屋を確保するみたいだから、困ったら助けてあげてね。わたしは当分家のことで手一杯だからね」

 

「わかりました。ゆきのんに苦労はさせません!」

 

「お前、何言ってんの?」

 

 そういうと雪ノ下以外の三人は声を出して笑った。たぶん、俺もそのとき笑っていたと思う。少しうつむいた雪ノ下を気にしながら。



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第二話

 雪ノ下姉妹が滞在しているホテルに行ってから三日後の夜、雪ノ下から電話がかかってきた。

 

「もしもし、比企谷君?」

 

「そ、そうだ。お前から電話がかかってくるとは思わなかったな」

 

「そうね。お姉さんに番号聞いたから。その、この前はどうもありがとう。それから、今マンションに帰って身の回りのものを持ち出して来たのだけれど、駅前まで来てくれないかしら」

 

「え?今から?」

 

「迷惑じゃなければ。言いたいこともあるし」

 

「わかった。少し待っててくれ」

 

 時計を見ると午後8時過ぎだった。すぐにダッフルコートを着てマフラーをまとい、自転車にまたがった。家を出るとき、小町が何か言っていたが、急用なら電話しろと言い残した。

 

 駅前に来ると、大きなキャスター付きスーツケースを横に置いた雪ノ下がいた。傾きつつあるとはいえ、まだそのいでたちは良家の令嬢のように清楚で大人っぽかった。首まわりに羽毛のついた紺色のトレンチコート。その内側に覗く白いワンピース。ピンク色のマフラーとニーハイのブーツ。髪の毛は後で1本にまとめて、胸の前に垂らしている。お前はどっか大企業の秘書か。

 

「ごめんなさい。呼び出したりして。ただ、ちょっと言っておきたいことがあったから」「いいんだ。ご存じのとおり年末なのにやることは何もない。サイゼでいいか?」

 

「ええ」

 

 席につくと、雪ノ下の頬がピンク色に染まっていた。別に俺を前にして何かしらの感情が昂ぶっているということではない。寒い空気に当たったあとに、店内の暖気に反応したのだろう。

 

「しかし、お前もとんでもないこと考えるな。とんでもないというより無理筋というか」

 

「そうかしら、私は熟考したつもりよ。もう母親の敷いたレールの上をひたすら姉さんを追いかけるだけの生活と縁を切るだけの話よ」

 

「お前さあ、話は元に戻るけど、稼ぐ方法を具体的に述べてくんない?」

 

「それは、まだ・・・」

 

 雪ノ下は求人誌をバッグから取り出して開いた。そこには時給2500円とか、日給2万円可能とかのキャッチコピーが溢れていた。

 

「本当にお前らしくないな。それから、その求人誌の性格というか性質を知って見ているのか?」

 

「ええ、たぶん」

 

「お前、それは水商売ということだろ」

 

「そうなのかしら」

 

 困った。雪ノ下が水商売と聞いて何を想起するのかまったくわからない。いや、水商売そのものを理解しているのかどうかも怪しい。第一、雪ノ下が水商売などできるはずがない。いや、ツンデレ系のメイドカフェだったらできるかも知れないが、最後は見ず知らずの客に優しく微笑まなければならない。そんなことが雪ノ下にできるか。

 水商売の世界にいったん入ると、金に釣られてどんどん過激な方向へ引きずり込まれやすいらしい。そんな雪ノ下を見たくなかった。

 それに、いくらなんでも娘が水商売をやると聞いたら、母親が絶対に阻止するだろう。もしかすると陽乃さんだったら「いいんじゃない?」とか言いそうだが、学校にバレたら雪ノ下はどうするつもりなのだ?

 

「そこに書いてある求人はよせ。もっとまともな働き方をしろ。絶対にお前にはできない」

 

「そんなことやってみなければわからないじゃない」

 少し上目使いで俺に反論する雪ノ下に、さきほど俺が思っていたことをすべてさらけ出した。すると、

 

「へぇ。詳しいのね」

 

「ばか言え、そんな程度のことは17歳になれば大抵知っている。知らなかったお前のほうがおかしい」

 

 ここで俺はまた脳神経細胞が今までになかった接続回路を形成したようだ。

 

「なあ、雪ノ下。確かにお前の言うとおり、何事もやってみなければわからないかもしれない。お前にそんなこと説いても説得できないことはわかる。だから、これは俺のお願いだ、水商売だけは止めてくれ」

 

「あら、またおかしなこと言ってくれるわね。どうしちゃったのかしら」

 

 雪ノ下はクスクスと小さく笑い始めた。俺の中で何かが切れた。

 

「おい!真面目に聞け」

 

 雪ノ下がビクリとのけぞり、目を見開いた。しかし彼女の口からは拒絶に似た言葉が吐き出された。

 

「あなたに関係ないでしょ!私が何をしようと・・・」

 

「関係ないことがあるか!」

 

俺は周囲の目があることをすっかり忘れ、大声を出してしまった。

 

「どうして・・・」

 

そう言った雪ノ下は肩をすぼめて小さくなっていた。

 

「すまん。取り乱した」

 

「あなた、ホテルでも働いて差し入れするって言うし、水商売止めろって言うし、なんなの・・・」

 

「俺は、その・・・」

 

 俺は自分の感情がまだわからなかった。はっきりと言葉にするのが怖かった。

 

「とにかく、学校一の美少女で成績もトップ、体力がないことを除いてはなんでもできて全男子生徒の憧れの的。品行方正で周囲を見下ろして、それを万人に納得させてきたお前が道を外すのだけは見たくない。それだけだ」

 

 雪ノ下はしばらく目を見開き、驚いたように俺を見ていた。時間にして数十秒だったはずだが、その時間が永遠に感じられた。もしかすると、俺の中にあるまだはっきりと意識されていない感情を、そのドロドロの状態のままの未分化の感情を、そっくりそのまま覗き見られているような気分だった。

 

「わかったわ。あなたがそう言ってくれるのは、とても嬉しい。この情報誌で探すのはやめておくわ。お姉さんのツテで何か探すことにする」

 

「そうか、何かきついこと言ってすまなかったな」

 

「いいえ、比企谷君、どうもありがとう。実は由比ヶ浜さんには家に戻るの付き合ってもらったのよ。一人で帰るのが何となく怖かったから」

 

「そうか。いろいろ大変だな。ところで、今日は何で呼び出したんだ?」

 

「あなたにお礼が言いたかったのよ」

 

 雪ノ下はそう言うと微笑んだ。ああ、これだ。学園祭のあと、部室で見せたあの笑顔と同じだ。この笑顔を見せられてしまうと俺は雪ノ下を正視できなくなってしまう。俺がさっき必死で意識しないようにしていたものが何だったのか、無理やり悟らされてしまったような気がした。

 



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第三話

年が明けた。昨晩はリビングでTVを見ていたら眠くなったので、年越しソバを早めに食べて部屋で本を読んでいたら寝落ちしていた。午前10時に目覚めると電気スタンドが点灯したまま。かたわらのスマホのメール着信ランプも点滅していた。

 

 由比ヶ浜からの新年あけおめメール、材木座からは「謹賀新年の寿ぎを賜って進ぜよう」とウザいメール。それぞれに適当に返事を書く。雪ノ下は俺のメアド知らないし、俺も知らないのでそんなメールを出しようがない。まあ、いつもどおりの正月だな。

 コーヒーでも入れようとリビングに下りていくと、小町と家族三人が初詣に出ていた。「行かねぇ」という返事が返ってくるのがわかっているので俺を無視して出かけたようだ。

 ソファでコーヒーをズルズルと啜っていると携帯が鳴った。

 

「ヒッキー?あけましておめでとう」

 

「ああ」

 

「何してんの?」

 

「まあ、別に」

 

「あのね、ゆきのんの誕生日が3日で、その日お祝いしたかったんだけど、ダメみたい。いろいろ忙しいんだって。家があんな状態だから。私の誕生日もみんなで集まってくれたからやりたかったんだけどね」

 

 そういえば、昨年の6月に由比ヶ浜の誕生日会をカラオケボックスでやったっけ。あの時は戸塚も来て、楽しかったなぁ。戸塚はいまごろ何やってんだろ。最近戸塚エキスを吸収していないから、心が干からびてきている。

 雪ノ下の誕生日が1月3日だって? なにそれ。俺と同じじゃん。休み期間中の誕生日って学校の友達になかなか祝ってもらえないんだよな。

 

 元旦の夕方、帰宅した小町が俺の部屋に入ってきた。

 

「すごいよお兄ちゃん、検察の人たちって大晦日とか今日も取り調べてして働いているんだって。正月どころじゃないよ。雪乃さんのお父さん、毎日取り調べられているんだって」

 

「って、お前なんでそんなこと知ってんの?」

 

「ん?陽乃さんとメールしているから。陽乃さんも弁護士や会社の関係者と打ち合わせしたり大変みたい。それを雪乃さんも手伝っているみたいだよ」

 

 さすが小町、こいつのコミュニケーション能力はすごい。ひょっとして由比ヶ浜より優れてる? しかし小町と陽乃コンビは危険ではないか? 俺の知らないところでとんでもない情報がやり取りされているみたいで。でも、雪ノ下家の内情は小町経由でまるわかりだな。

 

「お前、メールしているヒマがあったら勉強しとけ」

 

「息抜きにやってるだけだも~ん」

 

「なあ、小町、お前はどうして雪ノ下が母親を嫌っているのか知りたくないか?」

 

「そういえばそうだね。知りたいかも」

 

「なら、そのへんを探ってくれないか」

 

「え?うん。わかった。小町におまかせ~」

 

 小町はニコリと笑った。俺がどのような意図で指示したのかすぐに察したようだ。何かと物分りが早い。少し怖い気もするけど。

 

「今までにわかっていることもあるよ。どうやら雪乃さんのお母さんは京都の芸者さんだったらしいんだ。若かったころの雪乃さんのお父さんに見初められて、っていうよくあるパターンだったらしい」

 

 小町の話を総合すると、雪ノ下の母は、二人の娘を苦労した自分とは同じようにはさせないと、厳しく育てたらしい。

 水商売に身を置きながらも、祖父や父親に幼少のころから言い聞かせられた高貴な出自を信じて、矜持だけはしっかりと持っていたという。

 一説によると天皇家や公家が姻戚関係をごちゃ混ぜにしていた時代から、ひとすじの血縁を引いているそうだ。高貴な血筋、そんな雰囲気が、一瞬、雪ノ下の面影に重なって見えた。

 過去からの怨念混じりの反動。それが母親を通して二人の娘に津波のように押し寄せてきている。そんな構図が脳裏に浮かんだ。

 波間に浮かんで顔を出し、立ち泳ぎを続けてアップアップしていたのが雪ノ下なのだ。

 そりゃあ苦しかっただろう。よくグレなかったものだ。俺だったらすぐに家出しちゃうよ。我慢を重ねてあんな性格になってしまったのも理解できそうな気がする。

 それにひきかえ、姉のほうはうまく立ち回って波をやり過ごし、サーファーのように乗りこなすことができていたのだろう。あの姉妹の差はそこだ。

 それにしても小町がそんな情報までつかんでいるとは。お兄ちゃんやっぱり怖いよ。

 

 その後、小町が引き出した情報によると、雪ノ下の住んでいるマンションも売却リストに含まれているらしいことがわかった。

 となると、雪ノ下の独立は確定的になる。母親のいる実家にはもどらず、あのマンションもなくなるとすれば、部屋を借りるしかない。

 で、どうするか。やはり雪ノ下の独立騒動をうまく治めるには母親の説得が欠かせない。母親の過干渉を解消して、あわよくばあのマンションの売却も断念させる。それ以外に方法はないように思えた。



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第四話

 突然、動きがあったのは冬休みが終わる前日、夕方6時過ぎにかかってきた由比ヶ浜の電話が発端だった。

 

「ねえ、ゆきのんこれから7時にバイトの面接に行くんだって。ヒッキーがそういう情報あったらすぐに知らせろって言っていたじゃん?だからすぐに知らせたよ」

 

 由比ヶ浜には、雪ノ下の行動をそれとなく、探り出すように指示していた。陽乃ルートは小町、雪ノ下ルートは由比ヶ浜に頼んだ。理由は告げなかったが、もしどこかに出かけるのであれば、行き先の住所も絶対に聞き出しておけと言っておいた。

 

「で、行き先はわかるか?」

 

「うん。なんか聞き出すのに苦労したよ。なかなかどんなバイト先なのか言わないの」

 

 悪い予感がした。強い調子で水商売は止めろと言っておいたのだが、効果がなかったらしい。陽乃さんのツテを頼るというのも、忙しくて無理だったのだろうか。今日で冬休みが終わる。それまでに働く場所を確保しようと焦っているようだ。

 

 由比ヶ浜から聞き出した住所は津田沼駅周辺の繁華街だった。さっそくストリートビューで住所を直撃する。すると、案の定、派手な看板がビルの谷間に氾濫していた。

 おいおい、雪ノ下さん、最近のあんたは冒険しすぎだぜ。

しかもこんなところで働くなんてシャレになってないぞ。

 

 まだあいつは赤坂のホテルにいるはずだ。すると、小一時間かかる。性格を考えると、約束の時間前に到着していることだろう。うまくいけば雪ノ下を発見して思い止まらせることができる。

 試しに、雪ノ下の着信履歴から電話をかけてみた。しかし、電波が届かないところにいるらしかった。

 

「ちっ」

 

 俺は壁にかかっているいつものダッフルコートを素早くまとい、玄関を飛び出した。また小町に声をかけられたが、20メートル先の幹線道路まで走った。しかし、自宅警備員(雪ノ下専用)とは俺のことだな。我ながら苦笑してしまった。

 

 タクシーを止めて行き先を告げる。おそらく20分程度だろう。ところで、家を飛び出してしまったが、俺はどうしたらいい? 何ができる?

 こんなとき、俺には一緒に行動できる友人がいない。柄の悪い兄ちゃんたちに喧嘩吹っかけることになるかもしれない。助けになるのはやはり男の友人だ。だがぼっちの宿命で俺一人で何とかするしかない。

 

 津田沼駅に着くと、住所を探した。あった。洗体メンズエステ・マーメイド??

 これは風俗なのか風俗じゃないのか、いわゆるグレーゾーンの営業形態だな。とはいえ、いくらなんでも、雪ノ下さん、お前がこんなところに出入りするなんて信じられないぜ。少しがっかりだよ。トホホって感じ。

 

 階段を上っていくと三階が店舗になっているらしかった。ドアを開けると、受付らしい30がらみの白シャツの兄ちゃんが「いらっしゃいませ」と出てきた。

 おい、ビビるな。覚悟を決めろ。少し俺の体は震えているみたいだがもう少し我慢しろ。

 

「あの、客じゃないんですけど、今女性の面接していませんか? ちょっと用事があるんですけど」

 

 そう言うと、俺は仕切り部屋の間を一気に奥まで走った。後ろで「おい、待て」と声が追いかけてきた。

 

一番奥には扉があって、スリガラスの向こうに人影の動きが見えた。

 

「わたし、そういうことするって聞いてません」

 

これは雪ノ下の声だ。扉越しだからなのか弱々しく聞こえた。

 

「何いってんの。いまさらダメじゃん。ここまで来てそれはないよ。さあ、どう仕事するか教えるからちょっとこれに着替えてくれるかな。おい、お前も手伝ってくれ」

 

「やめて、やめてください」

 

息を呑んで扉を開けた。ソファに座った雪ノ下が二人の男に腕をつかまれ、激しく抵抗しているところだった。

 

「やめてもらえませんか?」

 

「誰、あんた」

 

パンチパーマをかけた中肉中背の40男が俺を睨みつけた。

 

「比企谷君」

 

腕をつかまれたまま雪ノ下はワンピース姿だった。ソファの背には数日前に見たトレンチコートがかかっていた。その近くには、エステで着用するスケスケ生地の制服も置かれていた。

 

「いや、俺はその子の知り合いですけど、連れ戻しに来ました」

 

「あ?なんなの?営業妨害するの?」

 

 茶髪の30男が威嚇するように俺に近づいてきた。

 

「いや、営業妨害するどころか、あなたたちを助けたいと思いまして」

 

「なんだって?」

 

そういうと茶髪がおれの胸倉をつかんだ。

 

「いや、このままだとお宅の店が営業停止になるかと思いまして。その子、まだ高校生ですよ。雇っていいんですかね」

 

 パンチパーマが茶髪に目を向けた。

 

「おい、年齢を確認しなかったのか?」

 

「はい、すみません。だって、この子、大学生かOLにしか見えないじゃないですか」

 

「スカウトするときに年齢を確認しなきゃダメだろうが。アホンダラ。ああ、兄ちゃん、つれて帰ってくれよ。ありがとうな」

 

 ソファから立ち上がった雪ノ下はコートを手にして、フラフラしながら俺のほうに近づいてきた。その目からはどっと涙があふれていた。

 

「さ、帰ろうか」

 

 そう言って扉を開けると、雪ノ下が遅れまいと俺のコートの背中をつかんできた。

 

「なんでここがわかったの?」

 

「由比ヶ浜から聞いた」

 

「ありがとう。あなたって本当・・・」

 

雪ノ下はバッグからハンカチを出して顔をぬぐい始めた。このとき、俺は泣いた雪ノ下を初めて見た。

 

「どうしてここまでしてくれるの?」

 

「それはこの前サイゼで言ったはずだぞ」

 

「あなたが来てくれなかったら私本当に危なかった」

 

「だからお前に縁のない世界だって言ったろ。そういう場所には金輪際近づきなさんな」

 



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第五話

 雪ノ下と一緒に階段を下り始めると、「あっ」と声をだして雪ノ下が、咄嗟に俺の肩にもたれかかってきた。

 

「痛っ」

 

足首をひねったらしい。出入り口から数歩歩くとしゃがみこんでしまった。

 

「大丈夫か」

 

「ちょっとまずいみたい。右足首が痛くて」

 

「マンションのカギは持っているのか」

 

「ええ」

 

「じゃあ、そこまでタクシーで行こうか」

 

「そうしましょう」

 

 雪ノ下に肩を貸して大通りまで出た。タクシーをつかまえ乗り込み、行き先を告げる。すぐに携帯を取り出して陽乃さんにメールした。

 マンションまでの20分間、雪ノ下は肩を震わせて何もしゃべらなかった。俺も無言を貫いた。というよりもかける言葉を知らなかった。すぐ隣りの雪ノ下のぶざまな姿が俺の心をギリギリと傷つけていたからだ。

 

 さしもの雪ノ下も父親の逮捕騒動に巻き込まれたり、母親に反抗したり、大の男二人に押さえつけられ、風俗の接客とやらを仕込まれそうになれば心も折れる。心身ともにボロボロになっていてもおかしくない。「それみたことか」などとなじることはまったくできなかった。

 

 マンションの近くで下りたとたん。雪ノ下はまたしゃがんでしまった。右足首を見ると赤く腫れていた。これでは数メートルさえ歩けないだろう。

 

「病院行ったほうがいいんじゃないか」

 

「これくらい平気よ。冷やせばすぐに治るわ」

 

 そういいながら雪ノ下はよろけるように立ち上がった。俺は雪ノ下に近づき、両手を取った。ぐいと引っ張り、体を回転させて背中を雪ノ下に押し付けた。そして細い雪ノ下の両手を俺の両肩の上から引っ張って腰を曲げた。

 

「何をするの?」

 

「いいから」

 

 雪ノ下の両ひざ近くの足に腕を回し、そのままおぶった。最初は体が強ばっていたがすぐに雪ノ下の全身の力が抜けた。

 

 背中から首すじにかけてずっしりと質感が伝わる。しかし一歩踏み出すと意外に軽かった。

 雪ノ下の両手が俺の胸の前でしっかりとつながり、俺の首すじに温かい涙がポロポロと落ちてきた。それが肩を伝わって胸のほうまで沁みてきた。

 

 数歩あるくと、雪ノ下の腕の力が強くなった。まるで俺に抱きついてきているようだ。雪ノ下の顎が俺の肩に乗り、鼻先が耳元にあるのがわかる。ちょっと密着しすぎでしょ、これ。その息遣いが左の首すじに当たる。これはマジやばい。おまけに、長い黒髪がひとすじおれの肩ごしに落ちてきた。

 

 ポツリと雪ノ下が小声で言った。小さな子供のいたずらを、そっとやさしく諭すように。

 

「あなた、私のこと好きでしょ」

 

 俺は、はっと息を止めた。心臓の鼓動が早鐘のように打ち始め、全身から汗が噴出すような感じがした。しかし、ここまで来てもう、ウソをつくことはできない。

 

「ああ、そのとおりだ」

 

「私もよ、あなたのことは好き」

 

 これもそっとつぶやくような、独り言のような言い方だった。

 

 なんだと?そんな言葉が雪ノ下の口から突然出るとは。お前、やっぱりスナイパーの素質ありだわ。全身の神経が逆立ってグチャグチャになってしまった。

 しかし、弱っている女につけこんでこんなことを言わせているような気がして、素直に受け取れなかった。セキュリティドアを解除してエレベータに乗ってもしばらく無言が続いた。エレベータを降りたとき、

 

「でも、このことは二人の秘密にしておいてくれないかしら。今日あったことも誰にも言わないで欲しいの」

 

 俺はすぐにわかった。先ほどの俺たちの会話を秘密にするということの意味が。

 

 しばらく俺は雪ノ下をおぶったまま呆然としていたらしい。エレベータが下へ降りてまた上がり、ポーンという低い音がした。その間、雪ノ下も俺の首すじに抱きついたままだった。

 

「あ~ら~、また私お邪魔だったかなぁ。二人して何やってんだか。変な人たちねぇ」

 

 おちゃらけた調子でそう言うと陽乃さんは俺たちの正面に回った。確かに女をおぶった男が廊下で呆然とたたずんでいれば、異様な光景だ。知らない人が見れば不審な目を向けてそそくさと自室へ逃げ込むだろう。だが、陽乃さんは当然のものを見たような普通の顔をしていた。

 

 陽乃さんが今までどこにいたのかわからないが、短時間でここへ駆けつけるということは、やはり妹が心配なのだろう。その一方で強烈な底意地の悪さを見せることもあったり、この姉妹の関係は本当によくわからない。

 

「で、いったいどうしたの?」

 

「雪ノ下が足をくじいたんで背負ってきただけです」

 

「ふ~ん。だったらすぐに中に入りなよ。じゃあ私がカギを開けてあげる」

 

 陽乃さんはポーチからカギを取り出すとドアを開け、先に入り込んだ。俺は雪ノ下をそっと下ろした。

 

「じゃあ、俺はこのへんで。あとは陽乃さんがなんとかしてくれるだろ」

 

「比企谷君、お茶を入れてあげるわ」

 

 雪ノ下がうつむいてモジモジしている。先ほどの俺たちの会話を思い出せば当たり前かもしれない。ダメだ、無理。ありえない。俺はこの雰囲気に耐えられない。

 

「まあ、今日はこのへんにしておくわ。それじゃあ、お大事に」

 

「そう、今日はどうもありがとう。あなたには迷惑かけっぱなしで、その・・・」

 

「気にするな。じゃあな」

 

「ええ、さようなら」

 

俺はエレベータの方へ歩いた。後ろでドアが閉まる音がした。俺はふぅとため息を漏らした。こんなに緊張したことは久しぶりだった。

 

 

 その夜、俺はなかなか寝付けなかった。あのときの言葉のやり取りで神経がゾワゾワしグチャグチャしていた。雪ノ下に打ち込まれた銃弾がいまだに体中を跳ね回っているようだった。

 

 4月ごろ、俺は雪ノ下と初めて会った。あのころ、お互い罵倒し合い、俺はあいつを本当に嫌な奴だと思っていた。おそらく雪ノ下も同じような感情を持っていただろう。

 

 それがあんな言葉を交わすようになるとは思いもしなかった。

 

 修学旅行の最後の日、俺はウソ告白して、葉山グループのうわべだけの関係を維持した。その直後、雪ノ下の態度が激変した。しばらく俺はそれが謎だったが、今となっては妙に府に落ちてしまう。

 

 それに、生徒会選挙の件。自己犠牲的なやり方を嫌った雪ノ下は自ら立候補して俺を止めた。俺はもしかすると生徒会長になりたかったのかと思っていたが、今ではその線も消えた。そう。それ以外に正解はない。しかし、そう意識してしまうと、俺は動きがとれなくなってしまう。どうしていいかわからない。

 

 ただ、このことは二人だけの秘密にして欲しいと彼女は言った。それは、何を意味するのか。それを秘密にすることはうわべだけの関係を維持することにほかならない。俺はあのときそう直感した。由比ヶ浜にそれを隠して奉仕部の活動を続け、今までと同じ学校での生活を続ける。それは、彼女自身が最も嫌った欺瞞ではなかったのか。それとも、今日の俺と雪ノ下は本当の関係を意味するホットラインを通じてしまったのだろうか。

 

 また謎が生まれてしまった。

 

 



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第六話

 

ベッドの上でウトウトする時間が続いた。脳内に形を伴って現われるイメージが次々に変化し、須臾の間に消えていった。

 

そして・・・

 

・・・あなた、私のこと好きでしょ

 

ドキンと心臓が大きく脈打ち、目が覚めた。汗をかいている。これはもう、立派なトラウマだ。いや、心の傷ではないかな。とにかくヤバイ。マジヤバイ。どうしたらいいんですか雪ノ下さん!

 

 その言葉を言われたとき、俺は雪ノ下の顔が見えなかった。背負っていたのであたりまえだが、イメージを伴わない言葉ゆえに、勝手で強烈な妄想がベタベタと貼り付いてしまった。

 

 あのとき、雪ノ下は泣き顔だったはずだが、今では小悪魔的な笑顔で見下ろすような、軽蔑するような目つきで言われたような気もしている。

 

 こんな妄想に憑依されるのは俺はやはりドMなのか。だいたい、耳元でやさしく雪ノ下みたいなスーパー美少女に言われたら落ちない男なんていないだろうよ。好きでしょなんて問われたら好きでなくても好きだと錯覚しちゃうよ。

 

 それにもう一つの問題は、あの言葉のあとに「?」か「!」のどちらかがついていたのか。今ではよくわからない。

 「?」だったら、それこそ小悪魔的に誘惑しているし、「!」だったら、さらにそのあとに「フン!」と続けてツンツンできるわけだし。

 

 いや、あれは、「こんなにも私のこと気にかけてくれて、親切にしてくれて、やっぱりあなたは私のことが好きなんでしょ?そうとしか考えられないわ」と軽くやさしく確認したかったんではないだろうか。

 とにかく、雪ノ下はウソをつかない、と信じるしかない。

 

「私もあなたのことが好き」

 

 これがもしウソだったらもう、俺は一生女性とは喋れないレベルのトラウマ。

 

 そんなことを午前5時に目覚めてしまった俺はツラツラと考え続けてしまった。4時間くらいしか寝てない。おかげで寝不足だよ。ゲッソリ。冬休み明けの朝はこんなにもつらいのか。これから学校かよ。しかし、こんなことばっかり考えてしまって、俺はやっぱり嬉しかったのか。舞い上がってしまっているのか。そう思ったら恥ずかしくなって急にテンションが下がってきた。

 

 連続あくびに襲われながら学校に到着した。雪ノ下はクラスが違うので来ているかどうかわからない。

 休み時間中に由比ヶ浜が話しかけてきた。

 

「ゆきのんね、今日の午前中病院行ってるんだって。足を捻挫したらしいよ」

 

 知ってた。しかし俺は初耳のような態度をとった。昨日のことは誰にも言わないと約束したのだから。

 

「そうか。あいつらしくないな。最近の雪ノ下家といい、災難続きだな」

 

「そうだね。お昼休みに会えるみたいだからどんな様子か見てくるね」

 

 放課後、俺は部室に行こうかどうか本気で迷っていた。変な妄想に憑りつかれてから頭が混乱して、どうもおかしい。だいたい、雪ノ下にどんな態度をとったらいいのかサッパリわからん。

 

 ただ、ヒントはある。雪ノ下が「秘密にして」と頼んできたとおり、表面的には何事もなかったかのように過ごすことだ。しかし、これは雪ノ下自身が嫌った欺瞞ではないのか。これが今の俺の最大の問題だった。

 

 とはいっても、俺自身にはそんな欺瞞にこだわる資格はない。とっくの昔にそんな欺瞞を受け入れてしまったからだ。だったら雪ノ下の方針に従うしかないだろう。

 

 一瞬の緊張ののちに部室のドアを開いた。すぐに湿布の匂いが鼻についた。窓側の定位置には松葉杖を脇に立てかけて雪ノ下が座り、その隣りに由比ヶ浜がいた。

 

「うっす」

 

「あ、ヒッキー、昨日はゆきのん助けて大活躍だったんだね。見直したよ」

 

「へ?」

 

 俺のポカンとした顔を察したのか、雪ノ下が口を開いた。

その眼差しや表情はまるで何もなかったかのようにシレッとしていた。あれ?これはたぶんいつもの雪ノ下1号?昨日のは雪ノ下2号ってわけ?もしかして雪ノ下さんてツンデレだったの?そうなの?

 

「昨日のことは由比ヶ浜さんに今説明したわ。あのあと姉に経緯をすべて話したからいずれ広まると思って。さすがに母親には言っていないようなのだけれど。私たち以外にこの話が広がって欲しくなかったから、あなたには黙っててと言っただけよ」

 

「さすがだな。近未来への洞察力と適切な対処。ただし、独立問題を除く、といいたいがな」

 

 ついついいつものように皮肉を付け足してしまったが・・・あれ?反論がないよ?これは新種の雪ノ下3号?

 

「で、足の状態はどうなんだ?」

 

「まあ、骨には異常がなかったのだけれど、数日はあまり動かさないほうがいいみたい」

 

 俺たち三人はしばらく喋ったあと、すぐに部活をお開きにした。雪ノ下の大事をとるためだ。校門前にタクシーを呼んで帰るというので、由比ヶ浜が雪ノ下に肩を貸して、俺が松葉杖を小脇に抱えた。

 

 こんな状態だったから、雪ノ下の部屋探しは当分延期。その間に、俺のやることといえば、母親の説得しかない。

とはいってもどうしたらいいのか。俺はない知恵を搾り出した。はっきり言って頼るのは嫌だが、葉山の力を借りるしかない。

 

 俺はサッカー部が終わるころあいを見計らって葉山に電話した。番号はWデートのとき知ったが、1回もかけたことはない。

 

「はい。比企谷くん?珍しいな。君から電話なんて」

 

 電話の奥からは、戸部らしき調子のいい甲高い声や、一色らしき「ええ~なんですかそれ~」みたいな声が騒がしい。あいつらもいつものメンバーでダベッているのだろう。

 

「まあ、そうだな。お前は俺に迷惑をかけてくれたことがあったよな?」

 

「え? ああ、あれか。すまん。深く反省しているよ」

 

「その貸しを返して欲しい。単刀直入に言って、雪ノ下の母親の居場所、スケジュールをお前の父親から聞きだして欲しい」

 

「え?なんだって?どうしてそんなことを」

 

「どうしても会う必要があるんだ。30分でも会うチャンスを見つけてくれ。頼む」

 

 しばらく沈黙が続いた。しかし葉山は葉山で察しがいいほうだ。俺が何かやろうとしていることは理解したらしい。

 

「わかったよ。おれの親父に連絡してみるよ。それから、約束してくれないかな。一つは君が自己犠牲的な行動をしないこと。何をするか知らないが、その行動で君自身が傷つかないこと。誰も傷つかないこと。いいか?」

 

 こいつ、しゃれたことを言いやがる。実に葉山らしい。

 

「そのつもりだ」

 

 母親を直撃するには、陽乃さんルートを使う方法もあったが、あの姉妹二人には今回の行動を知られたくない。いくらなんでも、俺が母親を説得しに行ったなんてことが雪ノ下に伝われば、異常なおせっかいに見えたり、雪ノ下自身が自分に何もできなかったことで自己嫌悪に陥りかねない。ここは極秘行動に限る。だから、母親とサシで会う必要がある。したがって、葉山を使うしかなかった。それにしても最近のおれは単独行動が多いな。いや、一人なのは俺の十八番だが。

 

 午後10時過ぎになって葉山から連絡があった。

 

「雪ノ下さんのお母さんのことだけど、毎日忙しくて、予定が流動的で、前の日にならないとスケジュールがわからないみたいなんだ。で、明日なら午後2時から4時くらいまで空いているようだよ」

 

「ホテルは赤坂のあそこか?」

 

「そうだ。1126号室。1125号室が陽乃さんがいる部屋」

 

「わかった、感謝する」

 

「くれぐれも約束を守ってくれよ」

 

 明日はもちろん学校がある。いやいや行ってはいたが、俺はずる休みをあまりしていない。1日くらい風邪で休んでも目をつけられることはない。

 

 

 



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第七話

 翌朝、小町へ工作を頼んだ。由比ヶ浜や雪ノ下へのメールだ。一応、平塚先生にも出しておくか。そして、学校には俺自身が風邪で休む旨を伝えた。

 

 午前中はのんびりと過ごす。みんなが学校へ行き、職場へ出かけていく中、俺だけがソファでコーヒーを啜り、TVを漠然と眺める。なんとも優雅な気分。

 だが、昼を過ぎれば行動開始だ。といっても、大したことをやるわけじゃない。母親を説得しに行くだけだ。緊張してきたのでそう自分に言い聞かせた。

 今回、俺は隠し玉や変なトリックを用意していない。ただぶち当たって砕けるだけのような気がしている。

「君のやり方では本当に救いたい人を救うことはできないよ」という平塚先生の言葉がよみがえる。確かにそうだ。おそらく俺は本当に救いたい人を本気で救うつもりになっている。それに、生意気にもただの高校生が他人の家族の問題に介入しようとしている。そこで、変なトリックを弄して騙すようなことはしてはならないのだ。自己犠牲も必要ない。ただ、問題を指摘して考えてもらう。それ以外に方法はない。

 

 赤坂のホテルに到着すると、俺はまだ門松が残る正面玄関をくぐった。エレベータで11階に着き、一歩足を踏み出すとやはり緊張してきた。

 1126号室があった。ドアをたたく。返事はない。もう一回叩くと、男の声がした。

 背広姿の30歳代の男がドアを少し開けた。

 

「何でしょう?」

 

「雪ノ下さんと少しお話させてもらえませんか? 娘さんの同級生の比企谷といいます」

 

「ちょっと待ってください」

 

男はドアを閉めたが、すぐにドアが全開になった。

 

「どうそ」

 

中に招かれる。すると、国道246号の陸橋が見える窓の横に、大きなソファがあり、雪ノ下の母親が座っていた。

おいおい、俺本当にこんなことしちゃっていいのかよ。焦りと緊張で頭が混乱しかかったが、なんとか抑えた。

 

「話があるそうですね。比企谷さんでしたよね。弁護士からは聞いていましたよ。こちらへどうそ」

 

追い返されないでよかった。俺が来ることは一応伝わっていたわけか。助かった。変な足取りで向かいのソファに座った。

 雪ノ下の母は、どこかの女学校の校長先生みたいな雰囲気だった。一目で数々の有象無象に揉まれて来た人特有の頑強さが伝わってきた。これも一種の強化外骨格だな。

 しかし、顎のあたりの形が娘二人とよく似ていた。パーマを当てた髪はフワリと流れ、緑色のジャケットがよく似合っていた。

 

「単刀直入に言います。娘さんの雪乃さんのことなんですが、少し考え直して欲しいんです。自分にはあなたの軛から逃れたくて苦しんでいるように見えます。小中学生までは自分の思い通りにさせていいかもしれません。しかし雪乃さんはもう17歳です。そろそろ敷いたレールの上から解放してあげてはどうでしょうか」

 

そう切り出すと母親の目が急に鋭くなった。

 

「あなたは雪乃とどういった関係なのかしら。こうして他人の家にずかずかと踏み込んでくる理由が知りたいですね」

 

「関係といえば、同じ部活に属しているというだけですが、この半年以上、雪乃さんを見てきました。学校での成績もよくて人望も厚い。ただ、自分の家を思い出すような状況になるととたんに表情が暗くなる。それが最初に自分が感じた疑問でした」

 

「我が家の教育方針が間違っているとは私には思えません。結果は出ているわけでしょう。あなたにとやかく言われる筋合いはありません。最近の雪乃は独立するって言っていますけど、そんなことは絶対に認めません」

 

「おっしゃるとおりです。しかし、雪乃さん、あのままだと道を踏み外すかもしれませんよ」

 

「そんなことはありえません。私がしっかりとサポートしていますから」

 

「そのサポートが苦しいんではないでしょうかね。あなたはサポートしているつもりでも雪乃さんにとっては苦しい桎梏に過ぎないとしたら。実際、雪乃さんは桎梏から逃れようとし危ない目にもあっているわけだし」

 

「雪乃が何かしたんですか?」

 

 母親の目が若干大きくなり、口もとが緩んだ。これはこの人の不安の表情なのだろうか。

 

「雪ノ下さん、絶対に雪乃さんや陽乃さんに言わないと約束してくれるのであれば、その何か、をいいます。それから、自分がここであなたに会ったことも言わないと約束してください」

 

「わかりました、内密にします」

 

「そうですか。なら。雪乃さんは本気で部屋を借りようとしています。絶対に雪ノ下家と縁を切るつもりのようです。あのマンションも売り払うつもりなんでしょう?」

 

「どうしてそんなことを知っているんでしょう?」

 

「まあそれは、で、お父さんから振込みがあったので当分はそれで生活できますが、そのあとは続きません。雪乃さんは働こうとしていました。しかし、普通の高校生がやるバイトでは自活できません。そこで水商売を考えたようです」

 

 そこで、母親の表情が一瞬凍りついた。やはりストライクだ。母親の経歴を知っていれば当然予想できる。

 

「そんなこと雪乃にはさせません。絶対に」

 

「いや、実際にやろうとして面接にまで行ったんです。その面接のキッカケも町でスカウトの男に声をかけられてついて行ったようです。あの雪乃さんがですよ?そして連れていかれたのが裸の男性に接客して、マッサージするような店。そこで性的なサービスをするかどうかは自分は知りません。しかし、雪乃さんは接客の仕方を無理やり教えられそうになっていたんです」

 

 母親の表情が作り物から素に変化した。ボロボロと憑き物が落ちているような感じだった。

 

「あなたはどうしてそんなことを知っているんですか。そんなことはありえない。雪乃が」

 

「なぜ知っているかというと現場を見たからです」

 

「それで、そのあと、あなた、どうしたんですか」

 

「もちろん、接客を教えていた男たちに雪乃さんが高校生であることを教えて連れ戻しました。あれは危なかった。大声を出して抵抗していましたが」

 

「あなた、雪乃を助けてくれたというのね」

 

「まあ、そうなりますか」

 

「ありがとうございます。感謝します」

 

「このことに関して雪乃さんを叱ったり問い詰めたりしないでくださいよ。かなりショックを受けて反省しているようですから。自分がここに来たことも言わないでくださいよ。見方によればこれは告げ口ですから。

 それに、問題はまだ解消していません。最も重要なことは、それほどの危険を冒してまで娘さんがあなたの桎梏から逃れようとしていることです。どう思いますか」

 

 母親は呆然とし、頭の中が整理できないようだった。

 

「しかし、雪乃のサポートというか、しつけというか、親としての義務というか、そういったものを止めるわけにはいきません、確かに考える余地はあると思いました。今の話を聞いて」

 

「いいですか、お母さん、雪乃さんは確かに敷かれたレールの上では最高のパフォーマンスを発揮します。学校の成績が一番良い例です。しかし、それから外れようとしたとたん、どうしたらいいかよくわかっていない。さっきの面接の話がいい例です。高校生がああいう店で働けないことさえ知らなかった。これでいいんですか? 

 あなたは一生雪乃さんのレールを敷き続けるつもりなんですか? いつかは独立する必要があるんではないでしょうか。たとえそれが嫁入りという形になったとしても」

 

母親が無言だったので続けた。

 

「あなたは昔、京都で働いていたと聞いています。娘は苦労させないと思うあなたの気持ちは理解できます。

 しかし、それが強すぎるために、副作用が起きているとしたらどうしますか。こんなこと言って申し訳ありませんが、今回、お父さんが逮捕されました。

 もし雪乃さんが何等かの事情で一人で放り出されてしまったら、雪乃さんは何もできないと思いますよ。

 そういったスキルというか、そう、あなたが良く知っている世渡りの方法というか、たくましさが雪乃さんにはありません。いつも誰かが何かをやってくれていたようです。

 ただ、器用なお姉さんのほうは心配がないようですがね。

一方の雪乃さんは、こんなこと言って申し訳ないんですが不器用でしょう。雪乃さんには、自由に自分で生活する方法を考える余裕や機会も必要なのではないでしょうか」

 

「おっしゃることはわかりました。おそらくそうなのでしょう。しかし、あなたは私の過去までどうして知っているんでしょうか。興信所か何かを使いましたか」

 

「いや、地道に人間観察を続けてきた結果です。たいしたことはしていません。そんなことより、ご提案があります。提案といっても単純です。

 あなたがどうしても雪乃さんへのサポートを続けるつもりなら、学費だけは出す。そして現在雪乃さんが住んでいるマンションの売却は止める。これでいいのではないでしょうか。そうなると食費とか雑費程度しか必要ありません。

 それくらいなら雪乃さんは自分で稼げるでしょう。普通の高校生らしいバイトをやれば。そして、あなたの過干渉をあらためる。家の行事なども強制しない。この線で折り合わない限り、雪乃さんは本当に雪ノ下家と縁を切ると思いますよ。考えたくないですが大学進学を断念して家を出たり、そこまで思いつめるかもしれません。

 もう我慢の限界に来ている。そう判断するほうが無難です。その証拠はやはり風俗店で働こうとしたことです。あの雪乃さんがそんな場所に足を運んだなんて自分もいまだに信じられません」

 

 母親は一瞬天井を見上げてすぐに瞑目した。しばらくそのまま動かなかった。俺は言いたいことをすべて言った。

 これでいい。これで何も雪ノ下家に変化がなかったら、もう俺にはどうしようもない。ただ、帰り際に雪ノ下の母親が独り言ちた「雪乃はいい友人に恵まれたようですね」という言葉が印象に残った。あのぉ、俺は娘さんから友人とは認められていないようなんですけど。

 

 エレベータで一階ロビーに下りると、声をかけられた。

 

「あれ、比企谷君、今日はなんでこんなところにいるの?」

 

ヤバイ、陽乃さんだ。最近陽乃さんと顔を合わせる機会が多すぎる。

 

「いや、ちょっと通りかかったものですから。ちょっとウロウロしてみました」

 

後頭部を手でかきながらそう言った。

 

「やだなぁ、雪乃ちゃんはここにはもういないよ?足怪我してマンションにいるの知ってるよね。そういえば学校は?休み?そんな話聞いてないけどなあ。ん~?」

 

 陽乃さんが一瞬驚いたような目をしたあと、じっと見つめてくる。何かを察したように。何よ何よ。この人やっぱり超能力者?今まで何してたかもうわかっちゃった?この鋭さは人間観察を生業にしている俺でも負ける。

 

「まあ、そういうことで」

 

「何がそういうことなのかなあ。でも、まあいいか。比企谷君のやることだから、たぶん、間違っていないよね」

 

そういうと陽乃さんはニコニコして俺の背中を一回たたき、離れていった。俺もそそくさとホテルを出て帰途についた。

 



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第八話

 俺が学校をずる休みした日から一週間後、動きがあった。雪ノ下が一人で住むには広すぎるあの3LDKから小ぶりの2DKのマンションに引っ越すのだという。

 

 やはり母親への説得は効果がなかったのか。あのマンションはいわゆる億ション。売れば相当な現金が手に入る。やはり今後のためにすぐに動かせる現金を用意しておきたかったのだろう。

 失敗した、と思ったが、雪ノ下の言うには、3DKは売ることは売るが、2DKのマンションも父親の所有物で、そちらに移るだけなのだそうだ。

 

 そのころになると雪ノ下の右足はほとんど治っていた。

 そして、学校が終わると連日のように由比ヶ浜が3LDKに通い、雪ノ下と一緒に荷造りを始めた。女ものばっかりなので俺は必要ないらしい。無駄な労働はしない主義なのでありがたい話だが。

 

 荷造りが4日目になると、とうとう俺も引っ張り出された。荷造りが什器や家電製品に移行してきたからだ。

 

 ほぼ殺風景になったリビングにはダンボール箱が積まれ、俺は一人、キッチンで食器を新聞紙で包んでいた。

 

 なんでこの家にはこんなにいっぱい食器があるの?一人暮らしのくせに。見たこともない形の調理器具がたくさんあって、ダンボールに入れるとき苦労させられた。しかし、几帳面な所有者を反映して、食器類はピカピカ。おかげで手が汚れない。

 

 奥の部屋では二人の女子がしばらくガタガタやっていたが、午後8時が近くなると疲れてやる気がなくなり、俺は壁を背にして座り込んだ。

 

「ヒッキー、晩御飯だよ、こっちおいでよ」

 

 リビングのほうから由比ヶ浜の声が聞こえた。 

 

そそくさと立ち上がり、リビングに行ってみると、小さなテーブルの上に宅配ピザが載っていた。その周囲には、疲れた顔をした由比ヶ浜と雪ノ下が絨毯にじかに座っていた。

 

「お疲れさま、比企谷君、今紅茶入れてあげるから」

 

 そういうと雪ノ下は立ち上がり、ふぅとため息を残してキッチンの方へ行った。

 

「まさか、このダンボールの山も俺たちが運ぶの?」

 

「ちがうよ、業者に頼むらしいよ」

 

 雪ノ下がティーカップを載せたトレイを持って来た。

 それぞれにティーカップを配ると、ピザを切り始めた。

 

 入れ物は豪華だが、こう部屋が殺風景だと家出した学生が集まって貴重な食料を分け合っているような侘しさを感じる。

 

「ヒッキーさ、聞いた? これからはあなたの自由にしなさいって、ゆきのんのお母さんが言ってくれたんだって。学費だけは出すから、あとは自分で稼いで生活してみろっていう感じなんだって」

 

「へぇ~。それはよかったな。家賃も払わないでいいんだよな」

 

「ええ、そう言われたときは狐につままれたような感じだったのだけれど。それに最近母の態度が変わったのよ。これが一番不思議ね」

 

 ま、ひとまず成功といったところか。どうやら鋭すぎて迷惑受けっぱなしの陽乃さんからのタレコミもないらしい。俺はピザを一切れパクつきながら言った。

 

「じゃあ、やっぱりバイトはするのか?」

 

「ええ。小さい学習塾で小中学生相手の先生をやらせてもらうことになったの。これは姉のツテなのだけど。塾講師をしている知り合いにいろいろ当たってくれて」

 

「よかったじゃん。ここに来て一気に問題解決だね。でもゆきのん、陽乃さんと仲がいいんだね。それも安心したよ」

 

「仲がいいのかわからないのだけれど、確かにいざというときにあの人にはかなわないわね。少しくやしいけど」

 

 上品な呼び鈴がルルルルルと鳴った。そのあと、ガチャリと音がしたあと、ズシンと扉の閉まる音がして空気が震えた。

 

「姉さんかしら。今日引っ越し先のカギとか持ってくるとか言ってたから」

 

入ってきたのはやはり陽乃さんだった。

 

「やあやあ、いつものメンバーだね。あ、ピザなんか食べてんの?言ってくれれば何か買ってきてあげたのに。ん?なんか水入らずって感じだね~」

 

「また、そんな変なこと言って」

 

 雪ノ下がふぅとため息をついた。しかし、陽乃さんが入ってくると雰囲気がMAXで明るくなるのも事実だ。いや、俺はちょっと苦手なんですけどね。

 

「比企谷くん、驚いたよわたし、闇でうごめくブローカーの素質あるんじゃない?ふふふ。もし就職なかったらウチの会社の渉外とか、政治家秘書とかいいんじゃないかな。裏方の仕事とかいっぱいあるよ。かなり向いてるよ? もう、わたしもヒッキーって呼んじゃおっかな~」

 

「はぁ・・・」

 

 雪ノ下がジト目で陽乃さんを見る。これ以上陽乃さんを喋らせてはいけない。爆弾が爆発しかかっている。

 

 俺は立ち上がって、陽乃さんの手を引っ張り廊下へ連れ出した。ジト目の雪ノ下とびっくりまなこの由比ヶ浜がチラリと見えたが、さらに突き進んでドアを開け、外に出た。そしてどんどん進んでエレベータの前まで来た。

 

「ちょっと、比企谷くん、君に必要なのはそういう積極性なんだけどなぁ。相手をまちがってるよ。それともわたしに何かしちゃうの~?」

 

 陽乃さんはニヤニヤしている。俺が外へ引っ張り出した理由もわかっているようだ。

 

「ちょっと、陽乃さん、どうかお願いだからその先は内密にしてください」

 

「だってさ、そうやって比企谷君が雪乃ちゃんの身の回りのことやってあげて、それじゃあ今までと何も変わらないじゃない」

 

「ですから、今回のは、たとえれば船に穴が開いて、ほっとけば沈んじゃうような状況だったでしょう。その穴を塞いだだけです。これから雪ノ下も自分で舵を取り始めるはずです」

 

「わかったわかった。それは秘密にしといてあげる。そのかわり、ウソつかないで教えてくれるかな~。雪乃ちゃんが足をくじいた日、何かあったでしょう?」

 

「その、風俗店に面接に行ったことですか?それも喋らないで欲しいんですが」

 

「それは秘密にしておくけど、私が知りたいのは、二人の仲が進展したんじゃないの?ってこと。あのあと雪乃ちゃん明らかに変だったよ」

 

「それは、ショックを受けたからじゃないでしょうか」

 

「う~ん。違うな~。わたしの目は誤魔化せないよ~」

 

「いや、その、なんというか」

 

「チュウとかしちゃった?」

 

「いや、してません。そういうことで楽しまないでください」

 

「なんだぁ~。二人とも捻くれてるからな~。捻くれ同士だと超うまくいくか、まったくダメか、どっちかなんだろうね。これでも応援しているんだよ。わたしなんて最初からそうしてたでしょう」

 

「俺は最近、捻くれないようにしているんですけどね」

 

「ふ~ん、そうか~??」

 

「まあ、とりあえず、戻りましょう。お願いですからあまり喋らないでください」

 

 俺と陽乃さんが戻ると、やはりジト目の雪ノ下と、ピザをモグモグやっている由比ヶ浜の注目を浴びた。

 

「今のは何だったのかしら」

 

「ふふふ、気になる?雪乃ちゃん。でも比企谷君が泣いちゃうから教えてあ~げない」

 

「カギを置いて帰ってくれるかしら。一応お礼を言っておくわ」

 

「はい、カギ」

 

 そう言って陽乃さんはカギをテーブルの上に置いた。

 

「じゃあね。わたしも何かと今忙しいからこれで帰るね~」

 

 そういうと陽乃さんは出て行った。

 

「比企谷君、今のはいったい何だったのかしら」

 

 やばい、明らかに雪ノ下の機嫌が悪化している。口がとんがっている。怖い。どうしよう。場を引っ掻き回してとっとと帰ってしまう陽乃さんにだんだんムカついてきた。

 

「まあまあ、ゆきのん。それにしても陽乃さん、今日のテンションはまた一段とすごかったね」

 

「突然の刺客、そして嵐のあとの静けさって感じだな。翻弄されっぱなし」

 

「でも、ヒッキーと陽乃さんのコンビもなんか面白いね。なんか犬が引っ張りまわされてるみたいで」

 

「みじめな犬ね。姉さんにかかわると、みんな犬になってしまうようね。どうやったらあんなふうに犬を振り回せるようになるのかしら」

 

 

「それはヤバイな。って俺は犬か!さて、ピザで腹が膨れたし、そろそろ俺は帰るぞ」

 

「明日はもう大丈夫だから。どうもありがとう。由比ヶ浜さん」

 

「うん、向こうの家でも荷物整理とか手伝うよ。言ってね」

 

「ありがとう、由比ヶ浜さん」

 

「うっす、じゃあ」

 

 そう言って立ち上がる。由比ヶ浜が先に玄関へ向った。

 

「ありがとう、比企谷君」と聞こえたので振り返ると、そこには満面の笑みの雪ノ下がいた。その背後には吹雪が吹き付け、顔だけが異空間に開いた穴のように暖かい春風に溶けている。こっ怖っ。ゾクリと背中に悪寒が走った。これって、うわさの雪ノ下4号?

 

「あ、ああ・・・」それだけ言い残して玄関の扉を閉めた。

 

 



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第九話

 

その夜、自分の部屋に閉じこもって勉強していた小町が、リビングに「ふわぁ~」とあくびをしながら出てきた。俺はソファに寝転んで本を読んでいた。

 

「そっか~、私のお姉さん候補はとうとう雪乃さん1本にしぼられてきたかぁ~。ふわぁ~」

 

 小町はの目は少し充血していた。止まらないあくびを口に手を当てて押し殺している。

 

「おまえなんなの?どっからそんなガセネタつかんできてんの?」

 

「うん?陽乃さん。最近結衣さんがそっけないと思っていたらそういう事情だったんだね~」

 

「くだらん詮索してないで勉強しろっ」

 

「お兄ちゃんが理科と数学得意だったらなぁ。苦労しなかったんだけどなぁ。できの悪い兄を持つ妹は苦労するのです。いいも~ん、小町はちゃんと強力な対策を立てているのです。お兄ちゃんもきっとびっくりするのです」

 

「お前、泣かせたろか。あ、ちょっと雪ノ下のメアド教えてくれよ」

 

ニヤリとする小町。

 

「ふんふ~ん。いいよ。そっちにメアド送っとく」

 

 俺は雪ノ下4号の出現を危惧していた。このままだとまずいと思い雪ノ下にメールした。

 

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TO:yukinoshita××××.○○○○○○.jp

 

SUB: (non title)

 

明日、土曜日、夕方時間があれば会ってくれ。話がある

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FROM:yukinoshita××××.○○○○○○.jp

 

SUB:(non title)

 

あなたやっぱりストーカー?メアド教えた記憶がないのだけれど

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TO:yukinoshita××××.○○○○○○.jp

 

SUB: (non title)

 

すまん。。

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FROM:yukinoshita××××.○○○○○○.jp

 

SUB:(non title)

 

冗談よ。明日の夕方5時に駅前でいいかしら

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TO:yukinoshita××××.○○○○○○.jp

 

SUB: (non title)

 

お前が冗談?冗談でしょう。行く、よろしく

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 翌日の夕方になると、曇り空は晴れ、一月下旬にしては暖かくなった。しかし冬の五時ともなればすでに薄暗い。俺は自転車で駅前まで来たが、ハンドルに装着するランプを忘れてきた。こりゃ、帰り道で警官に遭遇しないことを願うしかない。あいつらはランプ点けてたってすぐ止めるからな。

 

 駅前にはすでに雪ノ下がいた。ライトグレーのコートに茶色いブーツ姿。それを横目に歩道に自転車を止める。俺たちはすぐ目の前にあるコーヒーおかわり自由のドーナッツ屋に入って座った。

 

「話って何?」

 

「いや、話っていうか、会いたかっただけだ。俺おまえのこと好きだし」

 

 ついつい魔がさしたというか、ちょっと勇気を振り絞ってそんなことを言ってしまった。

 

 雪ノ下の顔がとたんに赤くなっていく。よくSS掲示板などで見られる「・・・///」カァァァってやつだ。しかし、以前の雪ノ下のように滅茶苦茶なことを早口でまくしたてることはなかった。

 

 その様子を見て、俺まで顔が赤くなってしまった。恥ずかしさのあまり右手で後頭部をかいた。数分間そんな状態が続いた。はたから見れば、何やってんの、このバカップルっていう感じ。

 

「そ、そう、あなたがそんな直球を投げてくるなんて信じられないわね。少し変わりすぎじゃないかしら。私は先にあなたにボールを投げてみたのだけれど、やっと返してくれたのね。ずいぶん待ったような気がするわ。昨日なんかイライラしてしまったし」

 

 ボールというのは、雪ノ下をおぶっていたときの会話のことだろう。

 

「俺はもう捻くれないようにしているからな」

 

そこで雪ノ下の目つきがするどくなった。

 

「でも依然として隠し事はするのね」

 

「どんな?」

 

「私の母に何か言ったことよ。それを隠して姉さんといちゃついていたわね」

 

 やっぱり。さすが鋭い。姉の鋭さと強烈さのおかげで忘れていた。妹にも同じ素質が隠れていたことを。

 

「そうか、余計なことをして悪かった・・・って、あれがいちゃついていたように見えるのかよ」

 

 雪ノ下の顔がどんどん険しくなる。口もとがピクピクして、やばい、今にも言葉の爆弾が発射されそう・・・やはりお節介すぎたことをしたのだ。

 俺は被害を少しでも減らそうと腕を顔の前に組んで、爆風に備えた。その瞬間、雪ノ下の表情がふわりと緩んで元に戻った。

 

「ふぅ、冗談よ。やっぱりそうだったのね。今さらあなたのヘンチクリンなお節介に驚いたり怒ったりしないでしょ。今のは推測に基づく仮定を証明するためのフェイントだったのよ」

 

「やられた・・・」

 

「でも、もうそういうことは止めてくれるかしら。そうね、私があなたに対して怒れないのは、あなたは決して見返りを求めていないからよ」

 

「確かにな、こんなことは闇に埋もれてしまえばいいと思っていたが」

 

「昔から私に好意で親切なことをしてくる男子って必ず何か見返りを欲しがっていたけれど、あなたが誰かを助けるときって、一切自分の利益を誘導するような打算がまったくなかった。私があなたに興味を持つようになったのはそれがきっかけよ」

 

俺は無言だった。

 

「それどころか、他人を助けることによって、別に負わなくてもいい傷まで負って、マゾヒストなのかしらって思っていたのだけれど、最近はそういうやり方も改めたみたいね」

 

「俺の昔のやり方だと、本当に助けたい人は助けることができない、って平塚先生に言われたからな。ああいうのは止めた」

 

「あなたも変わったわね」

 

「お前も変わりすぎだろうが。昔は話しかけるなオーラ全開のハリネズミだったくせに。今のお前なんて誰も想像できねぇよ。それが今じゃ冗談連発だぜ」

 

「そうかもしれないわね。私も変わった。それは、やっぱりあなたたちのおかげだと思っているわ。感謝している」

 

「しかし、俺はあまり変わっていないかもしれん。お前がボールを投げてくれた日から、お前にどう接していいのかわからなくなった。今日だってトチ狂っていきなり変なこと言っちゃったし。よくご存じの通り、俺には女子と会話したり付き合ったりした経験がないからなんだよ」

 

雪ノ下はクスクスと笑い始めた。

 

「だから言ったでしょ。私たちが友達になることなんてありえないと。私だってあなたとどう付き合ったらいいかわからないところがある。だから、やりたいようにやればいいのではないかしら。一般の人たちが共有している男女交際という幻想は私たちには無縁よ」

 

雪ノ下はサラリとそう言ってのけたが、俺は由比ヶ浜のことを思い出していた。

 

「あのさ、由比ヶ浜のことだが・・・」

 

「そうね」

 

 雪ノ下が目をテーブルに落とした。思うところがあるらしい。

 

「由比ヶ浜さん、あれだけあなたに対してラブラブ光線っていうの?出していたから、いくら私でも気がつく。でも、最近そうでもないような感じなのよ。あなたにはどう見えているのかしら」

 

「確かに、最近そっけない。相変わらず電話とかメールは来るが・・・」

 

「私は由比ヶ浜さんにも大きな借りがあるの。さっき言ってたハリネズミオーラを乗り越えて最初に友人になってくれたから。だから、私は由比ヶ浜さんの悲しむことはとてもできない。あなたが由比ヶ浜さんとくっつくのもいいと本気で思っていた」

 

「わかるだろ。俺と由比ヶ浜では決定的に何かが違っている。天性の優秀かつ鈍感なコミュニケーション能力のおかげで住んでいる世界が違いすぎる」

 

「でも由比ヶ浜さんに乗っかって違う世界を体験するのもよかったんじゃないかしら」

 

「そうは思わんな、置いてけぼりくらって自己嫌悪に陥るだけだろ」

 

「で、また捻くれてしまうわけね。リア充爆発しろって。やっぱり俺は天性のぼっちだったって」

 

雪ノ下がまたクスクス笑う。

 

「なんとでも言え。俺が由比ヶ浜のことを言い出したのは、俺たちのことを隠して奉仕部を続けるのは欺瞞にならないかということだ。お前はうわべだけの関係は嫌っていただろ」

 

「そうなのよね。もしかすると由比ヶ浜さん、部活止めるかもしれないわね」

 

「それはお前としては避けたいんだよな?」

 

「私たちのことをおおっぴらに周囲に言いふらす必要があるのかしら。それに、私はあなたとのことがバレても由比ヶ浜さんとは友人でいられるような気がするの。もう少し待ってみましょう」

 

「それは問題の先送りじゃないのか。それもお前は嫌っていたはずだが」

 

「ずいぶんと厳しいのね。だったら、私は由比ヶ浜さんと友人を続けるほうを取るわ」

 

「そうか、実は俺もそれのほうがいいような気がする」

 

「あなたって本当に自己犠牲野郎なのね。変わっているように見えて変わっていないのね」

 

「俺はとっくにうわべだけの関係、そう、葉山たちみたいな連中の軽いうわっつらに見えるお友達関係の存在を認めているぞ。確かに俺は変わっている。

 あいつらだって自分たちの関係が壊れないように必死になっている。残り少ない高校生活をみんなで過ごそうと焦っている。その点であいつらはうわべだけじゃない。うわっつらな連中にだって内部に入ってみなきゃわからない本物の関係が存在することを知ったから」

 

「だったら私たち三人の関係だってお互いを思いやっている本物の関係だと言えないかしら。少なくとも以前のように過ごしている限りは」

 

「そうだな。そうも言える」

 

「安心しなさい。由比ヶ浜さんは離れていくことはないわ」

 

「そう願うな」

 

「それに、四月になれば新入部員も入ってくるかもしれないし・・・比企谷君、私もあなたのことが好きよ、だからもう少し待っていてくれないかしら」

 

 そう言うと雪ノ下は少し赤くなった。その様子を見て、また俺は魔がさしてしまった。

 

「わかったよ、ゆきのん」

 

「え?またからかうつもり?」

 

「からかってなんかないよ、ゆきのん」

 

「やっぱり最近のあなた変ね」

 

「変じゃないってば、ゆきのん」

 

 雪ノ下は赤い顔を隠すようにニットの裾を指でいじり始めた。頭の上の黒髪がパラリパラリと落ちる。その様子が可愛くてしかたがない。俺は発見した。雪ノ下は一見とっつきにくい美人なのだが、本当は可愛い系だ。少しだけツンデレとは違う。

 

「意地悪なのね」

 

「俺が意地悪になるのはレアだよ、ゆきのん」

 

「さ、冗談はやめて。今何時かしら」

 

「六時過ぎだな。雪ノ下さん」

 

「今度はさん付け? そろそろ私用事があるから行くわ」

 

「わかった」

 

 俺が会計を済ますと、律儀に雪ノ下が300円を差し出してきたので受け取った。

 俺が自転車に到着すると、雪ノ下もついてきた。

 

「早く。遅れちゃうでしょ」

 

「お前は電車だろ」

 

「違うけど。後ろに乗せてもらうけど、いいかしら」

 

「何いってんの?」

 

俺が事情を飲み込めないでいると、雪ノ下が言った。

 

「あら、聞いてなかったの?これから小町さんに数学と理科を教えにいくのだけれど」

 

「あ?」ポカンとした俺の顔をしげしげ眺めながら雪ノ下がまたクスクス笑う。

 

「二ケツはやばいだろ。このへん、警官多いぞ。で、今日に限ってランプ忘れた」

 

「見つかってもつかまるのあなただけでしょ。早く」

 

「そうかい。そうですかい」

 

 俺が自転車にまたがると雪ノ下が横座りに荷台に乗った。バッグを肩にかけて両手で俺のコートの脇をつかむ。俺は警官に止められたくないからステルスモード全開。全力でペダルを漕ぐ。

 

「お尻痛い」

 

「我慢しろ、ブタ箱に入るよりはマシだろ」

 

「バカね」

 

そうこうしているうちに自宅に到着。玄関を開けると小町を大声で呼んだ。

 

「おーい。お前の言ってた最終兵器運んできたぞ」

 

「はーい、ご苦労さま~。あ、雪乃さんこんばんは。ありがとうございます」

 

「こんばんは、小町さん」

 

「お前な、こういうことは先に言っとけ。雪ノ下、いいのか、こいつでき悪いぞ」

 

「あなたよりもいい成績でうちの学校に合格させて見せるわ。そういえばここに来るの初めてだったわね。お邪魔します」

 

 小町が雪ノ下の腕にしがみついた。頬をスリスリしている。

 

「できの悪い兄にだけは言われたくありませ~ん。あ、お兄さま、私と雪乃さんにお茶入れて持ってきてくださるかしら」

 

 そういうと小町と雪ノ下は二階へ上がっていった。しばらく二人は閉じこもっていた。本当に真面目に勉強しているようだ。

 

 夕食の時間になっても二人は出てこなかった。そしてメール着信。「二人分の食事を持ってきてって、小町さんが言ってるのだけれど」と雪ノ下から。

 おれは母親が作った食事をトレイに載せて部屋のドアを開いた。机に向かう小町とその横で赤ペンを走らせている雪ノ下がいた。

 

「小町、お前これで不合格だったら雪ノ下の面目を潰すことになるんだぞ。死ぬ気でやれよな。寝るなよ。死んでもいいから」

 

「あら、もしかすると小町さん数学できるほうじゃないかしら。よくわかっている方よ」

 

 俺は傍らのベッドの上に本を並べて、硬くし、トレイを二つ置いた。

 

「そうか。すまんな、ゆきのん」

 

 そう言って部屋を出て扉を閉めた。すると、小町の「え!ええ~??」と凄い声が聞こえた。

 それに続いて、「あれは、からかっているだけよ」という声。

 

 しばらくしてトレイを取り下げてくれというメールが着信した。俺はコーヒーと紅茶を淹れて、持って行った。すると、ジト目の小町が顔を上げた。

 

「さっき判明したのです。これからの小町の使命は、総武高に入って雪乃さんをお兄ちゃんの毒牙から守ることに決定したのです」

 

「あれは何でもないから。まだ私たちは何でもないから」

 

「まだ? それを聞いてさらに小町の決心は硬くなったのでした。というのはウソで、雪乃さんがお姉さんなんて小町嬉しい」

 

「馬鹿言ってんな。俺もう寝るわ。雪ノ下、お前、お姉さんがあんな感じで、その下に小町みたいな妹ができたら大変だぞ。よく考えたほうがいい」

 

 そういって部屋を出た。一〇時過ぎだった。その後、雪ノ下が何時に帰ったのか俺は知らない。というか、あんな時間だったらタクシーだろ。小町、タクシー代くらい出したんだろうな。

 

 



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第十話

 二月中旬になると、小町は三校の入試を受けた。総武高と私立の滑り止め、そして総武高よりもランクが上の私立共学高だ。

 それまでに雪ノ下の家庭教師は六回くらいついてもらったようだ。一回ウチに来てからは、小町が雪ノ下の新居に出かけて教えてもらうようにしていた。それくらい気が使える妹で俺も助かった。

 

 入試の結果は、信じられないことに総武高と滑り止めに合格。合格発表のあった夜は、父母と小町の三人でお祝いの外食に出かけていった。俺はあり合わせのものでテキトーに夕食をとっていると雪ノ下から電話がかかってきた。

 

「もしもし?比企谷君?小町さん合格したって連絡あったわ。おめでとう」

 

「そうそう、びっくらこいた。お前のおかげだよ。今親子三人でお祝いのお食事会。どこ行ってんだろな」

 

「あなたはまた除け者なのね。小町さん合格すると思っていたわ。できてたから。私が教えることもなかったんじゃないかしらね」

 

「そっか。それよりお前の身の回りは落ち着いてきているのか?」

 

「ええ、私だったらもう大丈夫よ。父親は保釈されて都内のホテルに潜伏中。母親と姉さんがついて回ってる」

 

「学習塾のバイトはまだなの?」

 

「4月からよ。それまでは少しのんびりしたいわね」

 

 こうして雪ノ下と自然に会話していることが、ふと不思議に感じた。去年の4月、俺たちはほとんどけんか腰で言い合っていた。あのとき、強烈な印象を残す言葉があった。

 

「なあ、雪ノ下。一つ聞いていいか」

 

「なに?あらたまって」

 

「お前は最初に会ったころ、人ごとこの世を変える、って言ってたよな」

 

「ええ、覚えているわ」

 

「その気持ちは今でもあるのか?」

 

「あるわよ」

 

あるのかい。最近の雪ノ下の変貌ぶりを見ると、そんなこと忘れていてもおかしくない感じだが。

 

「どうやって?」

 

「そうね。あのときは具体性に欠けていたのは確かだけれど、今はちゃんとしたヴィジョンがあるのよ」

 

「どんな?」

 

「SETIって知ってる?」

 

「いや、知らん」

 

「Search for Extra-terrestrial intelligence、地球外知的生命探査プロジェクトといって、主に米欧の科学者たちが研究を続けているのだけれど、私の夢はそこに参加することなの」

 

「世界を人ごと変えることとどう接続するのかよくわからんが・・・」

 

「SETIって今では少し廃れたプロジェクトで、あまり科学界でも話題にならなくなってきているのだけれど、それでも研究は続いているの。比企谷君、もし地球外生命が発見されたら、もし地球外の知性が発見されたらどうなると思う?」

 

「そうだな、俺は科学のことはよく知らんが、世界中が大騒ぎになるだろうな。科学史上の最大の発見だろう」

 

「その通りよ。もし地球外の知性を持つ生命体が発見されて、コミュニケーションが成立したりすれば、私たち人類に与える衝撃は大きい。そして、地球全体の意識改革が起こるはずよ」

 

「うん、なるほど。地域紛争や民族紛争といった大規模なものから、個人間のいさかいまで、そんなものは些細でくだらないものに思えてくるだろうな」

 

当然、俺が悩んでいた問題など吹き飛んでしまう可能性がある。それどころか、地球外にライバルが出現して、大人はおろか、子供たちでさえ結束してしまうことも考えられる。人類が初めて発見する他者、その存在が人類に与える影響は計り知れない。

 

「そう。だから、私は将来宇宙科学、細かく言うと惑星科学とか宇宙物理学の方へ進むつもりなの」

 

「そうか、さすがだな。たいしたもんだ。専業主夫とか言ってる俺は恥ずかしいわ」

 

「あなたもやりたいことがそのうち見つかるはずよ。そうすれば専業主夫なんて言ってられなくなるでしょ」

 

「そんなもんかなぁ・・・」

 

「そうよ。あなたの将来も一緒に考えてあげるから、あせらずにがんばりなさい」

 

「あ、ありがとう・・・」

 

 雪ノ下の知らない一面を見た思いだった。あいつはあいつで、この一年で色々なことを考えて成長し、どんどん突っ走っている。やはり、俺には手が届かない人のように思えた。そして、ふと、夏の合宿に行ったとき、夜中に夜空を見上げてたたずんでいた雪ノ下の姿が脳裏に浮かんだ。

 

 そんな会話を交わした翌日、部室の扉を開けると、平塚先生と雪ノ下がいた。

 

「おお、比企谷、来たか。由比ヶ浜は?」

 

「なんかクラスの連中とじゃれあっていましたが、そのうち来るんじゃ」

 

「ふむ。まあいいか。比企谷と雪ノ下、例の勝負のことだが」

 

「はぁ、そういえば勝負なんてやってましたね」

 

「そろそろ結論を出してもいいころだと思うのだが」

 

「平塚先生、その勝負のことでしたら私の負けです。先生もそう思っているのでしょう?」

 

 雪ノ下が目を瞑って両手を広げながらそういった。すると、平塚先生はしばらく絶句していた。

 

「・・・雪ノ下、君は本当に変わったな。あっさり負けを認めるとは。いったい何があったんだ?」

 

「冷静に今までのことを思い出してみると、そうとしか言えないでしょう。ほとんどの依頼は比企谷君が解決しています。まあそのやりかたに異議のある人もいるでしょうけど」

 

「その異議申し立てをすることも可能なんだぞ。いいのか」

 

「ええ。約束どおり、煮るなり焼くなり好きにしてくれてかまわないです」

 

そこで扉が開いて由比ヶ浜が入ってきた。

 

「あ、遅れました」

 

「由比ヶ浜か、今、例の勝負について結論を出そうとしていたところだ。だが、雪ノ下があっさり負けを認めたて驚いているところだ」

 

「そうなんですか。でも、そんな勝負どうでもいいような気もしますけど」

 

「いいえ。ちゃんと白黒つけてもらわないと私が気持ち悪いわ」

 

「そうか。それから、由比ヶ浜は途中参加だ。勝負していることを知ったのも遅かったし、今回はノーカウントだな」

 

「異議はありません」

 

「じゃあ、比企谷、罰ゲームはどうするんだ?」

 

「え?どうするといわれても・・・」

 

 雪ノ下は相変わらず目をつぶったままだ。このままうやむやにしてしまいたかったが、雪ノ下自身がけじめをつけたがっている。なんか、極道の妻みたいだな。

 

「じゃあ、雪ノ下さんには一日・・・」

 

 俺が言いよどんでいると、平塚先生と由比ヶ浜がゴクリと喉を鳴らした。

 

「一日?」

 

「ヒッキーあんまりひどいのはダメだよ・・・それから猥褻なのも」

 

それを聞いて雪ノ下がひきつった笑いを見せる。

 

「そうですねぇ、一日だけ猫耳としっぽをつけて過ごしてもらいましょうか」

 

「ヒッキーそれいいかも。ゆきのん可愛いよ、きっと」

 

「それで決まりだな。ただし、正規の授業中はダメだ。明後日からの土日に卒業式の設営準備や雑務がある。それに奉仕部や生徒会に参加してもらう。そのときに雪ノ下がそのコスプレをする。それでいいな」

 

「わかりました」

 

「いやあ、どうなることかと思ったけど、コスプレで済んでよかったね~」

 

「でも、すごく恥ずかしいのだけれど」

 

「そんなことよりも、私は雪ノ下の変わりっぷりのほうが驚くけどな。お前たち何があった?ん?」

 

「いや、とりたてて何があったわけじゃないでしょ」

 

「そうか、じゃあ私はこれで戻る。そうだ、比企谷、お前には少し話しがある。ちょっと来い」

 

 平塚先生と一緒に部室を出る。すると平塚先生が顔を近づけてきた。

 

「比企谷、あの雪ノ下が負けを認めるのが信じられん。いったい何があった?」

 

「いや、最近雪ノ下家で色々あったじゃないですか。それで俺とか由比ヶ浜が会いに行ったりしてたんです。それくらいですかね」

 

「まあ、いずれにしても最近の雪ノ下は明るい。好ましい方向へ成長しているな。比企谷、君と由比ヶ浜の功績だ。氷漬けの眠れる美女を見事救出したんだからな」

 

「先生もそろそろ・・・なんというか、白馬の王子様に救出してもらえるといいですね」

 

「うぐっ。ぐはっ」

 

しばらく平塚先生のヘッドロックに耐えた。この人ほんと、こんな性格じゃなきゃ今ごろ・・・次は平塚先生の独身地獄からの救出が奉仕部の仕事になるんだろうか。しかし、そればっかりは・・・

 

意識が薄れてばったりと記憶が途切れた。

 

 



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第十一話(最終話)

 

 卒業式の3日前、土曜日の学校へ行くと、森閑として寒々しかった。時々、かすかな人の声が冷たい廊下に響いてくる。13時集合だったが俺は30分遅れた。学生なのに休日出勤なんて勘弁してほしい。

 部室に到着すると扉が開いていた。だが誰もいない。先着の二人も今日はカバンを持っていないだろうから、置いてあるものも何もない。テーブルの上には「みんな講堂だよ!」と書いた紙があった。

 

 講堂にテクテク歩いていくと、真っ先に聞こえてきたのが一色の声。

 

「あ、比企谷せんぱ~い。遅いじゃないですかぁ~」

 

 そういって俺に手を振る。見ると生徒会の面々と一緒にパイプ椅子を並べていた。だだっ広くて寒い講堂には、20人くらいの生徒が働いていた。演壇では飾りつけも行われている。その中に奉仕部の二人もいた。そして城廻先輩もいたのは意外。ちょこまかと動き回っている。

 

「ヒッキーこっちだよ!」

 

由比ヶ浜が手招きする。すぐ近くの雪ノ下も俺に目を向けたが、バツが悪そうにすぐに作業へ戻る。

 

「あれ、持ってきた?」

 

由比ヶ浜がニヤニヤしながら言う。

 

「ああ、あれな」

 

 俺もつられて口元がゆがんでしまう。昨日、千葉街道沿いのドンキでネコ耳セットを買ってきてあった。言いだしっぺの俺が用意することになっていたのだ。

 

「はぁ~」

 

雪ノ下が諦めたようにため息をついた。

 

「どれかしら?」

 

俺はコンビニ袋からネコ耳セットを取り出し、由比ヶ浜に渡した。装着も由比ヶ浜に託した。

 

「はーい。ゆきのん。まずネコ耳だよ」

 

そういって由比ヶ浜はカチューシャと同じ構造をしているネコ耳を雪ノ下の頭につけた。

 

「か、かわいい~!」

 

 そして、しっぽはスカートの後へクリップで留めるようになっている。取り付けると、ダラリと下がったので、由比ヶ浜が途中から曲げて大きな釣り針のような形にした。

 

その様子を見ていた生徒たちが集まってきた。城廻先輩も興味津々の様子で歩いてくる。

 

「わぁ~、雪ノ下せんぱ~い。どうしちゃったんですかぁ。そんなことする人だったんですね~」

 

一色がニコニコして雪ノ下の周囲を回る。

 

「雪ノ下さん。こういう趣味があったの?かわいいね」

 

 城廻先輩が雪ノ下のネコ耳を撫でる。

 

「あの。これは・・・」

 

雪ノ下の顔に赤みがどんどん増す。

 

「いろはちゃん、これはね、ゆきのんの罰ゲームなんだよ~」

 

「へぇ~、でも似合ってますよね。さすがです~」

 

「椅子の配置はもうそろそろ終わりそうね。次は、卒業生用のリボン作りだったかしら」

 

「そうですね~。じゃあ、残りは生徒会でやりますから、奉仕部の人たちはリボン作りに取り掛かってもらえますか?」

 

 俺たちは講堂を出て、職員室の隣りの教室へ向った。雪ノ下は恥ずかしそうに早歩きで前を歩く。やはりしっぽが気になるのかどことなくぎこちない。その様子を見て俺と由比ヶ浜は微笑んだ。

 

「で、さっき、なんで城廻先輩がいたんだ?卒業生だろ」

 

「特に何も聞いてないけど、やっぱりいろはちゃんたちの生徒会が気になったんだよ」

 

 目的の教室には、巻いてあるリボンが山積みになっていた。それを切って、色違いに組み合わせ、最後は花を模したワッペンの下につける。その作業をやるようだ。どう見ても俺に向いている作業じゃない。だが、すでに半分くらい作ってあった。

 

「さっそく始めましょ」

 

そういうと雪ノ下はリボンを作り始めた。由比ヶ浜もそれにならう。

 

「マジ?俺こういうの無理かも」

 

「まあ、そういわないで頑張ろう、終わったら平塚先生がごはんおごってくれるって」

 

 さきほどから雪ノ下が黙っている。やはり、恥ずかしいのか少し機嫌が悪くなっているようだ。だって、罰受けるとか言い出したの自分だぞ?

 

しかたなく、俺も見よう見まねでリボンを作る。だが、一向に効率が上がらない。しばらく無言の時間が続いたが、突然カシャッと音がした。由比ヶ浜が携帯で雪ノ下の写真を撮っていた。

 

「由比ヶ浜さん」

 

雪ノ下がひきつった笑顔でいった。

 

「いいじゃん。誰にも見せないから」

 

「比企谷君がもう少し意地悪じゃなければよかったのに」

 

「まあでも、これでたぶん、奉仕部の活動も一区切りついたということだろ。だから先生も勝負のこと言い出したわけだし」

 

「そうね・・・思えば色々なことがあったわね」

 

「あ、ヒッキー、こんなんじゃ卒業生に渡せないよ?」

 

由比ヶ浜が俺の作ったリボンを一つつまんで言った。

 

「え?そうか?」

 

雪ノ下が立ち上がって見に来た。一つ取ってマジマジと見る。

 

「比企谷君、これじゃダメだわ。赤と白のリボンの長さが違っているじゃない」

 

「だいたいがだな、俺にこんなことやらせるほうが・・・」

 

「こんな簡単なこともできないのかしら。これだったら家で寝ててもらったほうがマシだったわね」

 

そういって雪ノ下は自分の席に戻ろうとして身を翻した。しっぽが俺にふわりと当たった。

 

「るせー。こんな、女子供のやるようなことやりたくないわ」

 

「ずいぶんな言い方するのね。あなた差別主義者だったの。これだって立派な仕事よ。余計な手間がかかりそうだから、もう何もしなくていいわ」

 

「そうかよ。わかったよ」

 

俺が立ち上がろうとすると由比ヶ浜がポツリと言った。

 

「ま~た夫婦喧嘩してるし」

 

「え?」

 

思わず俺と雪ノ下が聞き返した。

 

「だって、ゆきのんとヒッキーのそういうのって、誰が見ても夫婦喧嘩だし」

 

「そうかしらね」

 

雪ノ下が気まずそうに由比ヶ浜を見つめる。

 

「私気がついてたよ。かなり前から。それに、ゆきのんとヒッキーって校内で結構うわさになってるよ? 私近くにいるもんだから、文化祭の終わったあたりから、あの二人どうなってんのってよく聞かれてたんだよ。そのたびに知らないって言ってたけど」

 

「そ、そう・・・」

 

「ゆきのんとヒッキーって、もう何十年も一緒に過ごしてきた夫婦みたいじゃん。ずっと前からそうだったし。ゆきのんがヒッキーのこと言うときって言葉は悪いけど何か楽しそうだし。二人の会話とか喧嘩とか始まると私入れないなぁって」

 

俺と雪ノ下は無言でいるしかなかった。

 

「ゆきのんもさ、ヒッキーのこと好きなんでしょ? ゆきのんは思っていること隠すのあまりうまくないから、すぐ態度に出るじゃん。はっきりわかったのはやっぱり修学旅行のときだよ」

 

「由比ヶ浜さん・・・」

 

「私のこと気を使っているんだったら、もう大丈夫だから。私もヒッキーのこと好きで、色々アピールしてたけどさ、ヒッキーは全然相手してくれなくて、さすがに醒めちゃうでしょ。ゆきのんだったらあきらめもつくってもんだよ。だからもうそういうの止めればいいのに」

 

「由比ヶ浜さん・・・仮によ? 仮にそうだっとして・・・あなたは奉仕部にいづらくなることは・・・というか、奉仕部止めるとか考えてしまうのかしら」

 

「わからないよ。正直いって・・・どうなるか」

 

「由比ヶ浜さん・・・私はね、由比ヶ浜さんに感謝しているの。友人関係だってずっと続けていきたい。だから、あなたがこの部や私から離れるようになるのだったら、私は比企谷君じゃなくてあなたとの友人関係を優先するつもりよ。これは彼にも言ってあるのよ」

 

「ゆきのん!!」

 

ガバッと由比ヶ浜が立ち上がる。なみだ目を含んだ顔がワナワナとふるえている。

それにつられて雪ノ下も立ち上がった。

 

「ゆきのん!大好きっ!」

 

由比ヶ浜が雪ノ下に抱きつく。なにこれ? どんな青春ドラマ? おい雪ノ下、そこで顔を赤くするな!

 

「大丈夫ですよ、結衣さん。これからは兄の勝手にはさせませんから~」

 

 そう言って小町が入ってきた。傍らには不思議なものを見ているような表情の川崎大志がいた。

 

「おまえらいったいなに?」

 

俺の問いかけを無視して小町が雪ノ下の腕にしがみつく。

 

「私も雪乃さんLOVEです~!」

 

「小町さんまで・・・」

 

由比ヶ浜と小町に抱きつかれて雪ノ下が苦しそうな笑顔を見せる。笑顔というかちょっとうろたえているな、あれは。

 

「おい、ここでどうして小町と大志が登場する?おかしいだろ」

 

「小町さんと大志君は奉仕部に入りたいんですって。それで、今日も来たいっていうから、来てもらったのよ」

 

「あ、俺も総武高受かったっす。姉からは奇跡といわれてるっす。だから、比企谷さんに誘われて奉仕部入りたいっす。よろしくお願いします、お兄さん」

 

「お前、殴るぞ。お兄さんと呼ぶな」

 

「そうで~す。前にも言ったとおり、小町の使命を果たすために駆けつけたのです。お兄ちゃんには雪乃さんぜぇった~い渡しません。ね、結衣さん!」

 

「うん、そ~だそ~だ!」

 

お前らなんかおかしいぞ。変だぞ。なんなの? ここは百合の花園なの? 女だけで青春するな。アマゾネス軍団の結成か? そんなん勝てるわけないじゃん。

 

「由比ヶ浜さんと小町さん。ちょっと落ち着きましょう。お茶でも飲みましょうか。部室で。じゃあ、比企谷君、あとよろしく。しばらく仕事続けてくれるかしら」

 

そういうと雪ノ下を中心とした女三人の結合体はゆっくりと部屋を出ていった。俺はあっけにとられてそれを見送った。しっぽだけが左右に揺れていた。

 

 残されたのは俺と大志。

 

「あれ、なんなんすかね」

 

「知るか!知りたくないし。百年研究したって誰も解明できん!」

 

「自分には、お兄さんが雪ノ下さんを取られたようにみえたんすけど」

 

「なあ、お前だって雪ノ下に小町取られただろ?」

 

「やっぱそうっすか」

 

えへへ、みたいな顔で大志が笑った。

 

小町や大志の加入で新学期からは奉仕部がどうなるか想像もできない。いや、女三人の結合体に悩まされることだけは確かだろう。やはり俺の青春ラブコメを無理して捏造するのは間違っていた。だが、あいつらも絶対間違っている!

 

-----完-------

 

※稚拙な乱文失礼しました。読んでくださった方、ありがとうございました。9巻に期待しましょう。



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B.T その後の顛末は小町にお・ま・か・せ!

 あんな感じの結末を迎えてしまった奉仕部の三人ですが~、ここから先の語り部は小町にお・ま・か・せ!

 

 雪乃さんのおかげで見事第一志望に合格した私、小町ですが、その恩返しの意味もこめて奉仕部の活動もがんばっちゃうので~す。

 

 で、4月の頭には入学式の設営があって、それも奉仕部と生徒会でやりました。自分の入学式を自分で準備するなんて変な感じですね~。でももっと問題だったのは、あの3人。あの3人だけだったら、あんなこともあったし、なんか変な雰囲気になっちゃうことも想像できるでしょ?

 

 でも、だいじょうびん!小町と大志君が加わったおかげで奉仕部の人間関係も新たな展開を見せているので~す。

 

 入学式の設営でも些細なことで夫婦喧嘩?が始って、私と大志君と結衣さん3人がサササッと離れて二人だけにしたら、すぐ喧嘩が治まって、ちょっと顔赤くしてぎこちない雰囲気で仕事続けているんですよ~!

 

 そして、二人ともチラチラこちら見てるし。兄はにくたらしいけど、雪乃さんて本当、すっごく可愛いでしょう?「あなたたちこっち来て、お願い」みたいな顔しているんですよ~。

 

 そんな雪乃さんを見ているうちにニックネームが浮かんでしまいました。ゆっきー。結衣さんはゆきのんて呼ぶけど、私はゆっきーって呼んでます。あ、心の中だけですけど。さすがに二つも年上の超優等生に向かって現実では呼べないですからね。あ、心の深くに秘めた思い・・・これって小町的にポイント高いっ!てへっ。

 

 結衣さんも結衣さんで兄に対するそっけなさ度も上昇中。ま、結衣さんは友人が多くて選択肢がいっぱい。あんまり心配する必要はなかったようですねぇ。

 

 そうそう、春休み中はあの二人は会っていたりしたんでしょうかね。兄はちょくちょく出かけていたみたいですが、行き先も言わないし。でもそんなこと詮索すのは野暮ってもんでしょう。

 

 ただ、小町は学校や奉仕部では今まで通りに過ごすことを兄には勧めておいたんですよ。あんまりうわさになるのもまずいですからね。「学校から出たらお好きなように」そう言うと兄から「うるせぇ、ほっとけ」と睨まれました。

 

 兄にやっと訪れた青春(?)小町は16年も待ったかいがあったってもんです。涙がちょちょぎれつつもやっと兄離れができて嬉しい!兄と妹の絆が切れるときも来るんだよ。うんうん。

 

 奉仕部の次のイベントは、新入生オリエンテーリングのときの部活のプレゼン。その活動内容紹介文を書きました。みんなの前で朗読したのがこれです。

 

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!古今東西部活はあまたあれど、ちょっとこの奉仕部に関して講釈たれるのならすなわち天上天下唯我独尊だ!あのお釈迦さまも見てびっくり、触れて卒倒、思わず悟りを開いて昇天しちまうってもんだ。

 関東の弁天さまと慕われ、その美貌と愛で全校生徒を膝下に従える超優秀美少女雪ノ下雪乃を部長に戴き、その下僕に勝負の神を祭る鹿島神社も真っ青の天才軍師、陰謀の限りを尽くして暗躍してきた比企谷八幡・・・」

 

 ここでちゃちゃが入った。

 

「おい、小町、お前いい加減にしろよ。お前アホか。狂ったか。頭爆発してんだろ。そんなのダメに決まってんだろが」

 

「コマちゃん(私は結衣さんから突然コマちゃんと呼ばれ始めた)、私、聞いててなんだかわからなかったよ・・・」

 

「そうね。ちょっと凄すぎるかしらね」

 

 やばい!ゆっきーのまゆげがピクピクしている。私、やっぱ力が入りすぎたかな~。徹夜で考えたのに。

 

「まあ、陰謀の限りを尽くして暗躍してきた、ってくだりは合っているのだけれど、ちょっと大げさよね」

 

「くっ」

 

「はは~。わかりました。もう少し平易に書き直しま~す」

 

そこで平塚先生が割り込んできた。なんか竹刀持っているんですけど。

 

「おほん!しかし、比企谷妹、君の才能と性質はなんとなくわかったぞ。さすが比企谷兄の妹だな。変わってるな」

 

「では、紹介コメントは書き直すとして、どのようなプレゼンをしましょうか。ただコメント読むだけではアピールに乏しいですし」

 

「それはやっぱり、あのネコ耳じゃないですかね」

 

 お~っと、大志君が触れてはいけないものに触れてしまいました。ん?みたいな顔してみんながゆっきーの方を見る。

 

「あれは罰ゲームだったからやっただけで」

 

「雪ノ下、まあいいじゃないか。他の部活もちょっとしたコスプレはやっているぞ。一回やれば二回三回も同じだ」

 

「はぁ」

 

「そもそも奉仕部の内容を説明するのって難しくないですか」

 

 結衣さんがそういうと、兄がまたネガティブな発言をする。

 

「そうだな。そもそも部員を増やす必要もないんじゃないの。ボランティアっていっても誰も興味持たないでしょ。平塚先生が問題児を強制的に連れてくるほうが早いでしょ」

 

「それもそうだな。まだ新入生に関してはよくわからないが、今の二年生には心当たりがあるぞ。そいつを連れてくるかな」

 

「どんな奴でしょう?」

 

「う~む。一人はだな。数学だけが得意で、あとの学科はてんでダメな変なやつだ。君とは違って、天然で人とのコミュニケーションがとれない男。そしてもう一人はいわゆる腐女子ってやつだ。こいつもコミュニケーションが不得意だ」

 

「腐女子って、さすがに奉仕部の管轄外でしょうに。海老名さんを紹介したほうが手っ取り早い。ここはやっぱサナトリウムですか」

 

「あはは、そうかもな。だがこいつらにはお前みたいに強制入部はさせないつもりだ。勧めてみるがな」

 

「そうですか、それはよかった」

 

 それからすぐに部活はお開きになりました。平塚先生がカギをかけて持ち帰り、私たち5人は校門を出たのでした。

 

「コマちゃん行く?」

 

「うん、行きましょう! 大志君もほら!」

 

 私と結衣さんと大志君は一目散に校門の左側方向へダッシュ!

 

「おい、お前ら!」

 

 兄の声が聞こえてきました。しかし、私たち3人は止まりませ~ん。息がぜいぜいしてきたところでやっと止まりました。

さあて、残された二人はどうしたんでしょうか?ちゃんと一緒に帰ったかな?

なにかとおぜん立ての必要な人たちですね(笑)

 



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第二章・平塚先生救出作戦~結婚詐欺師を撃退せよ!
第一話


♪春という字は 三人の日と書きます。あなたと私とそして誰の日?♪

 

♪あなたが好きになる前に

♪ちょっと愛した彼かしら

♪会ってみたいな久しぶり

♪あなたも話が合うでしょう

♪三人そろって 春の日に

♪三人そろって 春ラ・ラ・ラ~

♪何かはじまるこの季節

♪三人そろって 春ラ!・ラ!・ラ!

 

-----歌・石野真子/『春ラ!ラ!ラ!』作詞:伊藤アキラ/作曲:森田公一------

 

 

 

 ちょっと古い曲だが、ラジオを聴いていたらノリのよい爽やかな曲だったのでネットで検索してみた。すると、冒頭の歌詞が出てきた。昔はこんなような、記憶に残るテンポの良い可愛らしい曲があったんだな。今の曲はほとんど記憶に残らない。それは俺が古臭いものにも違和感を感じない特異な人間だからなのだろうか。

 

 そんな曲をラジオが流したのは今が春たけなわで、新しい環境にウキウキしている人も多いからだろう。

 俺も春になると陽気のせいで、柄にも泣く無根拠にウキウキすることがある。この高校に入るとき、うかれて早く家を出て交通事故に会ったくらいだ。これを、春ラララ病と名づけたい。

 突然こんなことを言い出したのは、重症の春ラララ病にかかっている人が身近にいたからだ。その名を平塚静という。

 

 奉仕部のプレゼンをやっても、結局誰も入部希望者がいなかった。ま、やっと固まってきたこの部の人間関係が新入りのために引っ掻き回されたりするのもいやだし、俺としてはひっそりと放置され、誰にも発見されずに一部の人間だけが知っている穴場の店みたいな秘密結社にあこがれている。

 

 例によって部長の雪ノ下雪乃を筆頭に、由比ヶ浜結衣、比企谷八幡、比企谷小町、川崎大志の五人で、放課後に適当にダベっていると、鼻歌を高らかに響かせて平塚先生が入ってきた。その鼻歌に聞き覚えがある。え?先生の鼻歌ってもしかすると春ラララだった?

 

「おお、みんないるな。青春しているか、青少年たちよ!」

 

 バチンと竹刀を鳴らすものの、春ラララな心が滲み出ている先生の雰囲気を察して、俺は質問しないわけにいかなかった。

 

「平塚先生、今日は一段と楽しそうですね。どうかしました?」

 

「ん?そう見えるか。いや~やっぱり春が来ると顔に出るみたいだな~」

 

ちょっと思案顔の雪ノ下がティーカップをコツンと置きながら言う。

 

「昨年の春はそれほど楽しそうではなかったようですが」

 

 由比ヶ浜がひらめいたように握りこぶしを平手でポンと受け、平塚先生を直撃する。

 

「あ!先生、ひょっとして彼氏できたでしょう?」

 

「え?ああ、ま、まあそんなところだ」

 

「ええ~!やりましたね先生、小町はそろそろやってくれると思ってましたよ!先生の年ごろだと結婚と直結ですよね。それでいつです?いつごろ入籍するんですか?」

 

「まあ、早まるな、まだそんな話にはなってない。その可能性は高いといえるのだが」

 

 突然の暴露に奉仕部の一同は驚くばかりだったが、平塚先生の上機嫌はおさまらず、聞かれてもないことを喋る喋る。

 

 その内容を要約すると、相手は元パイロットで当時の年収は1500万円。で、現在はパイロットを辞めて、国際線の乗務中に知り合った外資系ファンドのボスに引き抜かれ、投資顧問会社の雇われ社長をしているという。

 現在の年収は2000万円。千葉県浦安市の、ディズニーランドに程近い新興住宅地に住んでいるという。年齢が36歳。葛西の臨海部に小型クルーザーを所有し、冬でもマリンスポーツを楽しんでいるそうだ。

 

 そんなことを嬉々と喋ったあと、先生は「これは君たちだから話したんで、あまり他言無用だ」と念を押した。

 

 

「今日はこれからデートなので、私はこれで帰る。あとはよろしく頼む。雪ノ下、君がカギを持ち帰ってくれ。職員室のカギ保管ボードにかけておいてくれてもいい」

 

 平塚先生はそういって足取りも軽やかに出て行った。あとに残った五人のうち、俺と雪ノ下が表情を曇らせていた。あとの三人はまだ平塚先生の春ラララの残響を振り切れていない。

 

「おいおい、今の話、どう思ったよ」

 

「そうね。少しよくでき過ぎているかしらね。まさかとは思うけど」

 

 由比ヶ浜がなにげなく問いかける。

 

「ん?まさかって何?」

 

 

「由比ヶ浜、おまえなあ、街でアンケート調査についていったことないか?」

 

「ないけど。あ、もしかして?」

 

「お兄ちゃん、まさか平塚先生がそんな脇甘いとは思えないけど」

 

やっと話が見えてきた大志が口を開いた。

 

「それって結婚詐欺ということですか。まさかそんなのにいまどき引っかかる人いないでしょう」

 

ため息混じりに雪ノ下が口を開く。

 

「そうだといいのだけれど、万が一ってこともあるかもしれないわね。元パイロットっていうのが一番怪しい。これって典型的なキーワードじゃなかったかしら。それに、パイロット辞めてすぐに会社の社長になれるだけのスキルがあるとは思えないのよ。よほどの才人らともかく」

 

「俺も同意見だ。とにかく怪しすぎる」

 

 いつの間にか春ラララな雰囲気が吹き飛んでしまっていた。みんな深刻な顔だ。

 

「で、ヒッキーどうする?」

 

「どうするって・・・今は様子見るしかないだろ。結婚詐欺は結婚を仄めかして付き合っているだけじゃ詐欺とはいえないはずだ。もし平塚先生が詐欺に会っているんだったら、そのうち金を要求されるはずだ。なんらかの理由で金が急きょ必要になって、すぐ返すから貸してくれって。金を渡したら音信不通。それが典型的な手口だろうな」

 

「私、許せない! そいつ。警察に突き出してやりたい! ヒッキーとゆきのん、どうしたらいいの?」

 

「そうね。今のところ、平塚先生に言ったところで相手にしてもらえなさそうね。あの調子じゃ。だから、心の被害というよりも、金銭的な被害を食い止めるのが先のような気がするのだけれど」

 

みんなの目が俺に集中する。みんなの目がどうするの?と訴えている。何で俺だけこういう目で見られる?これって俺のせいなの?

 

「なんだよ。また俺に陰謀を働けっていうのか?」

 

「やっぱりこういうときに頼りになるのはお兄ちゃん以外にいないよ。恩師のピンチを見て見ぬふりはできないでしょ。陰謀っていっても雪乃さんを心配させるようなことはもうしないでしょ?」

 

小町がニヤニヤしてそういうが、俺は目をそらして無視した。

 

「では、みなさん異議がなければ平塚先生が詐欺に巻き込まれているのかどうか確かめましょう」

 

「異議なし!」

 

一同がそれぞれうなずきながら賛成した。

 

「平塚先生はこれからデートだと言っていたので、まず相手を確認したほうがいいと思うのだけれど、どうかしらね」

 

 はあ、と俺はため息をついた。平塚先生の相手を見るってことは先生を尾行してデート現場を目撃するということだ。そんなことが奉仕部の連中にできるとは思えなかった。

 

「5人で行くと目立つので、俺が一人で行くわ。後は邪魔だな」

 

「私も行くわ。あなたが勝手なことをやらないように監視する必要もあるし。それに平塚先生は一回家に帰っておめかしして出るはずよ。先生の自宅住所は姉さんが知っていると思うわ」

 

「また・・・信用ないのな。じゃあ、何かあったときの連絡要員として大志、お前も来い。いざとなったら男のほうが頼りになる。いいか?」

 

「わかりました。なんかすごく緊張しますけど、頑張ります!」

 

「では、今日の部活動はこれにて終わります」

 

雪ノ下がそういうとみんな立ち上がって部室を出た。これが平塚先生救出作戦の発端だった。

 



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第二話

 雪ノ下が陽乃さんから聞き出した住所に行くと、小奇麗なアパートがあった。俺たちはあたりをキョロキョロしながらそこに到着した。制服姿の高校生が三人かたまっていれば目立つ。平塚先生が窓から外を見ただけで一発アウトだ。

 アパートから死角になる通りの角に身を潜めたとたん、平塚先生が外付けの階段を下りてきた。その格好は、茶色い革ジャンにうす青の短めのワンピース。黒いストッキングに茶色のブーツ。もともとスタイルもいいのでかなり決まっている。

 通りの向こうへ歩いていくのを見て、俺たちは無言で尾行を開始した。

 途中、大志が大げさに物陰に隠れたり走ったりしたため、余計に目立ってしまった以外は問題なかった。

 

平塚先生は電車に乗り、幕張新都心に立つ、高層ホテルを目指しているようだった。

 ホテルのラウンジは広く、恣意的にソファやイスが配置されていた。その一つに平塚先生が座るのを見届け、俺たちは植物でさえぎられる死角に座った。

 

「なんか、人のプライバシーを覗いているのはあまりいい気分じゃないわね」

 

「まあな」

 

「自分はこんなことするの初めてっす。ちょっと怖いっす」

 

「あたりまえだろ。尾行なんて普通の人がするもんじゃない」

 

 しばらくして、平塚先生が立ち上がり、腰のあたりで小さく手を振った。その視線をたどると、右手のほうから一人の男が歩いてきた。

 色黒で髪型は短髪。しかし整髪剤で毛を立てている。サッカー選手のベッカムみたいな髪型といったらイメージが湧くだろうか。そして、白いTシャツにダークブルーの革ジャンにジーンズといったいでたち。遠目にもなかなかのイケメンだった。その立ち居振る舞いは爽やかで、不自然な感じがない。並ぶとほとんど同じ背の高さの、よくお似合いのカップルに見える。

 

「大志、おまえ視力はいいか?顔は判別できるか?」

 

「見えますよ。はっきりと」

 

「雪ノ下は?」

 

「私も視力は悪くないし、ちゃんと見えてるわ」

 

「よし、顔を覚えろ。街中で見つけてすぐ判別できるようにな」

 

しばらく三人は、その美男美女のカップルを見つめた。楽しそうに談笑する先生の姿を見て、これが詐欺ではないことを願わずにいられなかった。先生は笑顔を見せているが、その内心は焦りに満ちているのかも知れない。

やがて二人はエレベータの方向へ歩いていった。おそらく最上階のバーにでも行くのだろう。

 

「今日はここまでのようね。これ以上やることはないと思う。帰りましょうか」

 

「顔見ただけだぞ。もっと張るべきだと思うが。少なくとも会話くらいは聞きたい。そこにヒントがあると思う。カメラが欲しいな」

 

「この制服姿じゃ限界があるでしょ。ほら、行くわよ。私たち決して品のいい行いをしているわけじゃないし」

 

「品とかの問題じゃないだろ。目的のためには・・・」

 

「また変なことするつもり? 絶対そういうことさせないから」

 

「俺は違法行為をしたことはない」

 

雪ノ下が両手でおれの両袖を引っ張る。そのおかげで上半身が揺さぶられる。俺は仕方なくエントランスに向った。大志もついてくる。

 

「先輩たちってやっぱり仲いいんですね」

 

後からそんな声が聞こえた。

 

  ★  ★   ★

 

 翌日の奉仕部で、俺は由比ヶ浜と小町に昨日のことを話した。といってもネタは相手を目撃したこと以外に何もなかった。

 平塚先生の春ラララ問題が発覚してから、奉仕部には暗い雰囲気がたちこめていた。

 それでも問題を解決しなければならない。次は、平塚先生の相手の名前と住所、および勤務先の情報が欲しかった。これを入手するにはやはり先生のデートが終わったときに相手を尾行するしかなかった。

 その男は車で移動しているはずで、そうなると俺たち高校生には尾行は無理。どうすればいい?

 

珍しく由比ヶ浜がひらめいたようだ。

 

「確か、平塚先生ってスポーツクラブのボクササイズやってて、そこでその人と知り合ったって言ってたよね。だったらそこに行けばその人いるかも」

 

俺は思わず叫んでしまった。

 

「それだ!」

 

男の顔を見ているのは俺と雪ノ下と大志だけ。そうなると接近遭遇して個人情報を引き出せるのは雪ノ下しかいない。なぜならそのスポーツクラブへ行って、男である俺とか大志が36歳の男と話すきっかけはないからだ。

 

「雪ノ下、頼みたいことがある。スポーツクラブへ行ってそいつから名刺でももらってくれないか」

 

俺の意図をすぐに察した小町が反対した。

 

「お兄ちゃん、それはどうかな~。少し危険だと思うよ」

 

由比ヶ浜も小町に賛同する。

 

「それってナンパされるってことだよね。ゆきのんだったらきっと成功するけど、あまりお勧めできない手だよね」

 

「わかったわ。やってみる。直接会話してみることも重要だと思うから。それに、クラブの中だけだったら安全でしょ」

 

「え~大丈夫かな~」と小町。

 

「やってくれるか。うまく携帯の情報交換にまで持ち込んで欲しい。俺のスマホを持って行って、それで交換してくれ。その後出なくても嫌われたと思うはずだ。それから、平塚先生も来る可能性がある。注意が必要だな」

 

雪ノ下は4月の頭から週に4日、学習塾でのバイトを始めていた。その合い間をぬって、最初の一回だけ、俺も一緒にそのスポーツクラブへ行った。

 ビジターで2000円という出費が俺みたいな高校生には痛かった。しかし、雪ノ下が一人で行った2回目にその男をみかけ、携帯情報の交換と名刺を見事ゲットすることに成功したそうだ。

 話によると、ランニングマシンに並んでチラチラとその男に興味ありげな視線を送っていたら、あっさりと話しかけてきたという。

 

 その夜、小町が俺の部屋に入ってきて、雪ノ下から電話だと携帯を差し出した。雪ノ下の声は心なしか怒りを含んでいた。

 

「やっぱり、あの男、怪しいわね。私の感覚が間違っていなければの話なのだけれど、彼女のいる人があんなに気安く話しかけてくるかしらね。もう、このことを先生に話したほうがいいのではないかしら」

 

「いや、話をするのはまだだろう。もう少し証拠を集めたほうがいいと思う。先生は俺たちよりも人生経験が豊富だろ。他の女性に声をかけた程度じゃ説得できないかもしれない。それに、まだ騙しているという決定的な証拠がない」

 

「じゃあ、この名刺に書かれている会社に確認して、存在していなかったら、それが証拠になるわね」

 

「間違いなく証拠になるな」

 

「それは私がやってみる」

 

「ああ、よろしくたのむ」

 

「名前は、佐川明彦。明朝電話してみるわ」

 

  ★   ★   ★

 

 次の日、佐川明彦がそもそも詐欺師ではないのではないかという意見が強くなっていた。というのも、雪ノ下が電話すると、最初に受けつけが出て、本人につながったという。名乗っていなかったので慌てて電話を切ったそうだ。

 それから、自宅の固定電話もかけてみたところ、やはり同じ声が出た。

 

「ということは、会社と自宅の電話番号は本物ということだな、でもペーパーカンパニーの受け付けや電話の取り次ぎを代行してくれる業者もいる」

 

「ヒッキー、それって疑いすぎかもよ。疑えばキリがないよね。このまま私たちの取り越し苦労だったらいいんだけどなあ」

 

由比ヶ浜がそう言ったあとにしばらく沈黙が続いた。

 

「自分も人を疑うのは性に合わないっす。そもそも結婚詐欺師って自分は働かないで女から金引っ張って暮らしているわけでしょ? 投資顧問会社に実際に働いているんだったら違うんじゃないですかね」

 

「あの、関係ないことかも知れないですけど、先生、以前にヒモみたいなダメ男と付き合ってたんですって。ギャンブルはやるわ、酒は飲むわ、浮気はするわ、仕事はクビになるわで、先生はそんな彼を見限って追い出したんですって。あ、これは陽乃さん情報なんですけど。別れたあと、先生はかなり落ち込んで、生徒数人で慰めたことがあるようです」

 

小町がそう言うあいだ、みんな俺をチラチラ見る。

 

「あのな、一応言っておくが、俺はギャンブルも酒もやらない。浮気もクビもまだ経験したことがない」

 

「もしかすると平塚先生が比企谷君を特に気にかけているのはそれが理由なのかもしれないわね」

 

「おい。まだ俺はそこまで落ちぶれていないだろうが」

 

「さあどうかしらね。今のままじゃヒモは確定みたいなところがあるわね。品行方正なヒモができるのはあなただけでしょうね」

 

「まあまあ。ゆきのん。その話からすると、先生はまだその人に未練があるのかも」

 

「先生がもしそのヒモ男にまだ未練があるなら、面白いシナリオが閃いたのだが」

 

「うん? どんな? ヒッキーって今回マジメだけど、とうとう陰謀が動き出しちゃうの? ちょっと興味アリかも」

 

「アホか。俺はいつでもマジメだ。ついつい石野真子の「春ラララ」を思い出しただけだ」

 

「何それ?お兄ちゃん。オタガヤ君時代の曲?」

 

「1980年発売の、れっきとした歌謡曲だ。ちょっと古いが」

 

俺はスマホにダウンロードしてあった春ラララを再生した。小さいスピーカーなので音質は悪いが、小気味よいメロディに乗せて歌詞が聞き取れた。

 

「なるほどね。あなたが好きになる前に、ちょっと愛した彼に久しぶりに会ってみたいというわけね。でも三人揃うことはありえないと思うけれど」

 

「そこなんだな。面白いのは。まあ、これは佐川明彦が詐欺師という前提でのシナリオだからな。まだ発表する段階じゃない。そうだ、由比ヶ浜と小町と大志、お前たちは平塚先生の昔のヒモ男を捜してみてくれないかな。陽乃さんの手を借りれば簡単だろ」

 

「比企谷君、姉さんを巻き込むのは賛成できないのだけれど」

 

「もうすでに先生の住所とか聞いてるだろ」

 

「あ、雪乃さん、ごめんなさい。陽乃さんには今回のこと全部喋ってます。陽乃さんも『静ちゃん、そんなヤバイ目に会ってるの?私も協力するよ~』って言ってました。心配しているみたいです」

 

「本当に心配しているのかしらね」

 

「由比ヶ浜と小町はヒモ男が現在何やってるのか、連絡先とかを調べておいてくれ。利用するものをちゃんと利用すれば、おそらくあまり苦労しないと思うぞ」

 

由比ヶ浜と小町と大志はさっそく動き出したようだった。

 



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第三話

 

 数日のあいだ、平塚先生救出作戦は遅々として進まなかった。というのも、佐川明彦に隙がなかったからだ。

 そんなある日、昼休みに俺と雪ノ下が平塚先生に呼び出された。職員室の一角にある応接スペースで三人が向かい合った。平塚先生の顔つきが妙に硬い。

 

「君たちを奉仕部の代表格として呼んだ。悪くいえば首謀格だが。少し聞きたいことがある」

 

「なんでしょうか。あらたまって」

 

「私の付き合っている人を君たちは調べているようだな。なぜだ?」

 

「どうしてそう言えるんです?」

 

俺がそう訊ねると、先生はタバコを一本取り出して火をつけた。ふう~と紫煙を吐き出す。

 

「雪ノ下が彼と話しをしているのを目撃した。スポーツクラブで。そして彼には、あの女性はうちの生徒だと説明した。彼によるとその女性は大学生で、私の知らない名前を名乗ったそうだ。

 それから、その女性からと思われる電話の着信があったらしい。着信履歴に残っている番号を教えてもらったら、なんと比企谷、君の番号だった。どうした雪ノ下、君がこういうことをやるとはな。比企谷の悪影響か?」

 

「すみません。それは・・・」

 

雪ノ下が謝る。しかし、おれはその先の発言をさえぎった。

 

「先生、確かに俺たちは調べています。佐川さんのことを。率直に言います。俺たちは先生が結婚詐欺に巻き込まれているのではないかと疑っています」

 

 しばらく先生の口からは言葉が出てこなかった。一層顔つきが鋭くなる。

 

「まさかな。心配してくれてありがとうと言いたいところだが、今回ばかりは違うと思うぞ。大はずれもいいところだ」

 

「いえ、俺は先生が騙されていると確信しています。これまでに、お金を貸してくれと頼まれたことは?」

 

「ちょっと、比企谷君」

 

「ない。金は持っているように見えるな。私が騙されているという根拠は? 確かなものがあるのか」

 

「ありません。今のところは」

 

先生は呆れたような表情を見せる。

 

「だったらそろそろ矛を収める潮時だ。これ以上、首を突っ込んでくるのは高校生の領分を越えているぞ。昨日も誰かに尾行されているのに気がついたと言っているし。つけてきたのは男だったそうだ」

 

「昨日ですか?」

 

雪ノ下が怪訝そうな顔をするが、はっと閃いたようにうなずく。俺も誰が尾行したのか想像がついた。少なくともその依頼者については。

 

「わかりました。佐川さんに対する直接的な尾行は止めます。でもそれ以外の調査は止めません」

 

「あくまでそう言うのか」

 

「そうです」

 

「比企谷君、相当失礼なことを言っているのよ、あなた。いくら確信があるからって・・・先生の立場を無視するつもり? これは相当な迷惑行為よ」

 

「そうか、比企谷。君がそこまで骨があるとは思わなかった。だったら思う存分に調べるといい。彼にも言っておく。君たちのことだから彼の家とか会社とかも調べたのだろうな。そういえば、この前の日曜日に彼の実家にも行って、両親に会わせてもらった。山梨県まで行ってな。そこまで疑うのだったら君も行ってみるといい。場所も教える」

 

「わかりました。行ってみます。ただし、実家に俺が行くことは彼には伏せておいてくれますか」

 

「いいだろう。比企谷、いったいどうした。なぜそんなに疑っている。私には理由がわからないぞ」

 

「直感としかいいようがありません」

 

「わかった。もうこうなったら私と君の勝負だ。もし君が負けたらどうする? 私の負けだったら・・・」

 

「先生・・・私たちはそんなつもりじゃ」

 

雪ノ下が心配そうに平塚先生を見つめる。

 

「また勝負ですか。どんだけ勝負が好きなんです。勝負というよりもこの場合は賭けという感じですが。いずれにしても俺の負けはあり得ません。だから先生が負けでも何のペナルティも求めません。ただ、自分の過去を素直に見つめなおす機会を必ず持ってください。もし俺が負けたら、そうですね・・・卒業まで坊主頭で過ごします」

 

ここで平塚先生の顔が初めて綻んだ。

 

「いいだろう。しかし、比企谷、君はいつからそんなにしたたかになった? 自分の信念を一歩も引かないで通す君を見て、私はちょっと感動したぞ。奉仕部に連れて行ってから、想像以上の化学変化が起こったようだな」

 

「そうですかね。ただ開き直っちゃってるだけかもしれませんね」

 

「それに最近の雪ノ下の変化も驚きだ。まあわかった。君たちの調査結果を楽しみにしているぞ。話はこれで終わりだ」

 

昼休みも残り少なくなっていた。昼飯が食いたい。空腹と緊張が解けたことで腹がグウと鳴った。俺と雪ノ下はそそくさと職員室を後にした。

 教室に帰る途中、階段の近くで雪ノ下にそでを引っ張られた。人に見られないように柱の陰に連れて行かれる。

 

「ちょっと比企谷君、いったいどうするつもり? あんな大見得切ってしまって。その自信はどこから出てくるの? 話の進め方が強引すぎて少し異様な感じがしたのだけれど」

 

「自信も根拠もないさ。最初に話を聞いたときと、ホテルで佐川を見たときの直感。それだけ」

 

「それだけ? バカね。でも驚いたわよ。あなたの強気には。・・・私もあの人は黒だと思う。実際に話してみて、言葉ではうまく言い表せないのだけれど、なんか薄っぺらいのよ。先生もどうしてあんな人と・・・」

 

「それはやっぱり、焦っているからだろ。佐川にしたって普通の人間だったら尾行には気がつかないはずだ。おそらく尾行したのはプロだ。心当たりがなければ自分の後を気にして歩くはずがないさ」

 

「それで、どうするつもり?」

 

「俺一人で山梨へ行ってくるわ。実家を見てくる。できれば両親に会う。今度の土曜か日曜に」

 

「あなた一人で行かせるわけにはいかないわ。私も行くに決まっているでしょ」

 

「そうか」

 

俺たちはそれぞれの教室に向った。その途中で、陽乃さんに尾行を中止して欲しいと伝えるように、小町にメールした。

 

 



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第四話

 次の土曜日は一日雨だった。この季節にしてはかなりの雨量があったようだ。乗るはずの中央線も危うく運転見合わせになるところだった。天気が悪い中、のこのこ山梨まで行きたくなかったので、翌日に繰り下げ。日曜日も天気が回復することはなかったが、かろうじて雨はやんでいた。

 

 俺と雪ノ下は11時に待ち合わせ、新宿駅に向った。特急に乗って甲府の先の韮崎という駅を目指す。新宿から一時間半の小旅行だ。

 昨晩は親に三万円をねだるのに苦労した。なにしろ休日はほぼ自宅警備員だった俺のことだ。急に友人と山歩きにでかけると切り出すと、母親は真っ先に俺の額を触り、熱がないかどうか確かめた。そこで、小町がフォローしてくれた。

 

「お兄ちゃんがこんなこと言い出すのは珍しいよ。このチャンスを逃すのは親の扶養義務を放棄することだよ。ハイキングぐらい行かせてあげたら?」

 

 こうして俺は旅行代をゲットし、特急のシートに座っている。窓外には時々雨がぱらつき、ガラスに横線を描く。相模湖あたりから山が深くなり、緑の稜線と春霞にけむった谷あいの景色が目にしたたる。

 

 窓側には、ライトブルーの春物コート姿の雪ノ下。めずらしくお菓子を時々口に運んでいる。それもきのこの山。なぜ俺の好きなたけのこの里じゃないんだ? そんな様子を眺めつつ、こいつも変わったとしみじみ思っていたら目と目が合った。

 

「なにか?」

 

「いや、なにも」

 

「あなたのことだから、どうせまた、こいつも変わったとか思って心の中でニヤニヤしているんでしょ?」

 

「どうしてわかるんだよ!」

 

「いちいちうるさいわ。変わった変わったって。時間がたっても変わらない人のほうが変でしょ」

 

そういうと雪ノ下は口をとがらせて顔をそむけた。以前だったら、こいつは本気で俺を嫌っているなと思ったはずだが、今ではその様子が可愛くてしかたがない。たぶん、一番変わったのは俺だ。

 

「そんなことよりも実家に本当に両親がいたらどうするつもり? 完全にあなたの負けということよ」

 

「それはありえないな」

 

「また。根拠もなしに?」

 

俺は、ポケットからスマホを取り出した。ファイルマネージャーを操作して、目的のファイルを再生した。それを雪ノ下の耳に近づける。

 

「もしもし、比企谷と申しますが、社長の佐川明彦さんいらっしゃいますでしょうか」

 

「はい。どちらの比企谷さんでいらっしゃいますか」

 

「あ、知り合いの比企谷です。そういっていただければわかります」

 

「少々お待ちください」

 

しばらく保留音楽が流れる。突然プチっと音がして男の声が出る。その声には36歳よりももっと年季の入ったトーンが混じっている。

 

「もしもし。お電話変わりました。佐川です」

 

「あ、この前はすみませんでした。比企谷と申します。平塚静から叱られました。ご迷惑をおかけしまして。お詫びを申し上げたくてお電話いたしました」

 

「は? 何のことでしょう」

 

「え? 平塚静という女性はご存じないですか?」

 

「はあ、知りませんが・・・」

 

「あの、スポーツクラブに通っているということはありますか?」

 

「いえ、私はスポーツはやりませんし・・・」

 

「どうもすみません。完全に人違いのようです。お気になさらずに、どうかお忘れください。それでは失礼します」

 

「・・・」

 

通話が切れる音。雪ノ下の目が大きくなっている。

 

「あのとき焦って電話を切ってしまったのがいけなかった・・・話していれば、そのときに黒だと判明していたのね。それに、やっぱり声が違う。とんだミスをしたわ。ごめんなさい」

 

「つまり、佐川明彦という会社社長は実在していて、それを騙る人間がいるということだろう。まあ、おそらくこれから行く家も、どうせ空き家だったりするんだと思う」

 

「たぶんそうよね。これでほぼ確定ね。でも、平塚先生は会社に電話したことがなかったのかしら」

 

「携帯だな。私用電話は必ず携帯にかけてくれと言われてるんだろ」

 

「そうなると先生、本当にかわいそうね・・・」

 

雪ノ下がうつむいてだまりこんだ。

 

「大丈夫だ。これも賭けだが、ちゃんと平塚先生を救ってくれそうな人のアテがある」

 

そのアテについて、雪ノ下も理解していたようだ。

 

「そうそううまくいくかしらね。うまくいって欲しいけれど」

 

「だから賭けさ。そしてうまくいくさ」

 

重い台車を押して売り子が近づいてきた。俺はコーヒーを二つ注文した。テーブルを倒してカップを置く。俺もきのこの山をつまみながら二人でコーヒーをすする。

 

「なあ、雪ノ下、ゆきのん、ゆきちゃん」

 

「私は三人もいないのだけれど」

 

「四人くらいいるような気も・・・いや、やっぱりいいや」

 

雪ノ下が少しジト目で言う。

 

「気になるわね。はっきり言ったら?」

 

「お前さ、葉山と昔何があったの?」

 

雪ノ下が手を口に当てて、クスクス笑いだした。肩がふるえている。窓外に広がる天候とはうらはらに、今日は基本的に機嫌がいいようだ。

 

「なんなの。いきなりそんなこと言い出して。爆笑させてくれるわね。それってもしかするとやきもちと理解していいのかしら」

 

「そうだよ。そうですよ」

 

「ずいぶん正直ね。私と葉山君は小学生のころ同級生だったのは知っているでしょ。それに、彼の父親が会社の顧問弁護士だったから、家に度々来ていたのよ。それだけの話よ」

 

「それだけだったらお前が葉山を毛嫌いしている、いや、していたことの説明がつかんと思うが」

 

「小学校低学年のころは、私と彼はクラスでも仲良くしていたのだけれど、彼はそのころから人気者で、彼と仲良くしていた私が嫉妬のために攻撃され始めたの。あなたがよく言ってるぼっち状態になってしまった。でも彼はそんな状況に無力だった。私を助けようとすればするほど、私への風当たりが強くなるの。結局彼と私は疎遠になっていったの」

 

「なるほど。お前、そのころ葉山が好きだったんじゃないのか」

 

雪ノ下が空を見上げるように目を細め、遠くへ視線を送る。

 

「そうかもしれないわね。でも、そんな子供のころの感情が本当に好きだったと言えるのかどうか、今ではわからないわよ。それに、葉山君が好きだったのは姉さんだと思う。そのころから彼は姉に振り回されていたから。そんな昔のこと聞き出して何がしたいの?」

 

「俺もなんとなくそんな気がしていただけだ。しっかし、俺の想像力ってすげえな」

 

「変な想像力が働いて、私たちが春ラララみたいと思っているとか? 全然違うじゃない。三人で会いたいなんてこれっぽっちも思わないし。葉山君に会いたいとも思わない。だいたいあの歌詞おかしいわ。元カレと今カレを会わせて一緒に春ラララとか。それは普通の感覚かしらね。私には考えられない」

 

「別に春ラララとか思ってないから。今言われて初めてそんな図式が見えてきたくらいだ」

 

そんな会話をしているうちに、目的の韮崎駅に到着した。午後二半。相変わらず曇天だったが、かろうじて雨は落ちていない。俺たちは駅を出ると、スマホにマークしておいた場所へ向けて歩き始めた。

 

あたりの景色は千葉の田舎とさして変わらなかった。幹線道路とその両側に並ぶチェーン店、スーパー、パチンコ屋、ホームセンター。日本のどこにでもある風景だ。

 ただ、晴れていたら八ヶ岳や南アルプスの山並みが見えたはずだが、見渡す限りの遠方の風景は白く霞んでいる。これが残念だった。

 

 俺たちは途中で和食のチェーン店に入り、昼食をとった。その後、10分くらい歩くと小さな川を渡り、疎らな住宅街に入った。スマホの地図を見るとマークと現在地が一致していた。そこには小ざっぱりした二階建ての一軒家があった。屋根付きのガレージには軽自動車が止まっていた。一階のリビングらしき窓には白いカーテンを通して明かりが灯っている。どうやら空き家ではないらしい。玄関の脇にはダンボールの束が積み上げられていた。

 俺は雪ノ下にデジカメを渡した。

 

「俺が呼び鈴を鳴らすから、もし人が出てきたらこれで撮影してくれ。できるだけ顔が映るようなアングルで。俺の近くで撮っていると怪しまれるから、少し離れて、さりげなく。

 今日は暗いから感度は最大にしてある。なんとかなると思う。カメラを構えずに、腰のあたりでレンズを家に向けて、何枚もシャッターを切れ。広角なので適当なアングルでも撮れるはずだ。あ、フラッシュは発光禁止にしてある」

 

「わかった」

 

そういうと雪ノ下はデジカメを受け取り、5メートルほど離れた。

俺はポケットのスマホの録音ボタンを押して、正面玄関に設置されている呼び鈴を鳴らした。インターホンや監視カメラはついていない。しばらくすると、30代半ばの会社員風の男性が扉を開いた。今日は日曜日だし、天気が悪かったので外出もせずに家にいたような感じだ。

 

「こんにちは。佐川さんですか?」

 

30男は怪訝そうな表情を見せる。

 

「いえ、違いますけど」

 

「ここに佐川さんが住んでいると聞いて来たんですが」

 

「うちは中山といいいます」

 

「そうですか。以前、ここに佐川さんが住んでいたということはありませんかね」

 

「わかりません。うちは一週間前に引っ越してきたばかりですから」

 

「しつこくて申し訳ないんですけど、お宅に50歳くらい以上のご両親は一緒にお住まいでしょうか」

 

「いえ、私と妻と息子だけです」

 

「ここのお宅は以前誰が住んでいたか知りませんか?」

 

「知りませんんねぇ。不動産屋によると、しばらく空き家だったとは言ってましたが」

 

「このへんは空き家が多いんですかね。いいところなんでこの辺に住もうかと考えているもので」

 

「そうですね。空き家は多いみたいですよ。6~7軒は近くで見学しましたからね。ここに決めたのは、長期間借りる予定だったら家賃を割り引いてもいいと不動産屋が言ってたからです。長期間の空き家は家が傷むから、みたいなこと言ってました」

 

「わかりました。どうもお騒がせしてすみませんでした。失礼します」

 

 中山さんは終始怪訝な顔をしていたが、親切に応対してくれた。会話はこれで終了。調査も終了。あまりに簡単すぎて拍子抜けしたが、冷厳な事実が残った。しかし、これは十分に予想していたことだ。俺は玄関を退いて雪ノ下のほうへ行く。

 

「15枚くらい撮れた」

 

そういって写真を確認している。それを覗き込むと中山さんの顔がはっきり映っていたので安心した。これで押さえた証拠は二つになった。

俺はカメラを受け取って、家の全景をいくつか撮影した。

 

その横で雪ノ下がぼそりとつぶやく。

 

「わたし悲しくなってきた」

 

そして、俺たちは元来た道を無言のまま引き返した。大粒の雨が落ち始めた。



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第五話

韮崎の駅に到着すると、雨は土砂降りになっていた。ふだんは人が疎らなはずの駅構内には人があふれていた。そして、駅員が拡声器で何事かを説明している。

 

「本日午後3時過ぎに、中央本線笹子駅近辺で崖崩れが発生しました。中央本線は大月と小淵沢間で運転を見合わせています。現在のところ、復旧の目処は立っていません。なお、中央高速も笹子トンネル入り口で側壁の崩落があったという情報が入っています」

 

俺と雪ノ下は思わず顔を見合わせた。

 

「なんだと?帰れない?」

 

「そのようね」

 

俺はスマホの地図を呼び出した。現在いる韮崎は、もちろん大月と小淵沢の区間に含まれている。笹子トンネルといえば、天井崩落事故のあったところだ。

 

「どうしましょうか」

 

「お前んちのあの車呼び出したら?」

 

「うちにはもうあんな車も運転手もいないわね。それに高速も使えないみたいだから車も無理ね」

 

「そうか。甲府まで行ければ身延線とかで迂回できるんだが。ま、電車が動き出すのを待ってみるか。まだ四時過ぎだし、そのうち動くだろ」

 

俺たちは駅前の古めかしい喫茶店に入った。同じく途方に暮れている人たちで混んでいた。一時間たっても状況は変わらない。二時間目になると俺はだんだんイライラしてきた。スマホで情報収集したいが電池が20%を切っている。まさか足止めを食うとは思わなかったので充電器を持って来ていない。

雪ノ下といえば、さっきから雑誌をパラパラめくって落ち着いている。そうだ。陽乃さんなら免許持っているよな。でも・・・そんなこと考えているとまた雪ノ下と目が合った。

 

「なにか?」

 

「その、なにか?はよせ」

 

「じゃあ、どうしたの?」

 

「お前の姉さんは免許持っているよな?」

 

「ええ。運転手がいなくなってからは車買ったみたい。でも姉さんに助けてもらうのはお断りよ。少し落ち着いたら? なるようにしかならないでしょ」

 

「そうですか」

 

その落ち着き方がうらやましかった。傍若無人というよりこの場合は泰然自若か。喫茶店の一部を占拠すること三時間以上になると、さすがにいたたまれなくなった。俺はナポリタン、雪ノ下はピラフを注文した。

 食べ終わると俺は一人で駅へ偵察に出た。やはり電車は動いていない。復旧の見込みもたっていないようだ。とっくにあたりは暗く、人もほとんどいなくなっていた。タクシー乗り場にはタクシーがいない。一台止まっているバスも知らない行先を表示している。

 

俺は寂れた観光案内所に入った。デスクの向こうにいるおじさんにたずねると、甲府行きのバスはあるという。それから、この辺のビジネスホテルや旅館についてたずねると、すでにどこも満室だった。ただ、歩いて10分くらいのところにラブホテルが3軒ほどあるので、そこなら空いている可能性があるとか。

時計を見ると8時近い。身延線で迂回すると東京まで3~4時間かかる。甲府までの移動時間を加えるとそろそろ出発しなければならない時間だ。もし東京駅までたどりつけなかったら、タクシー代がかかる。タクシー代を出す余裕はない。そう考えるとすでにギリギリの時間だった。

俺はまずラブホだったら空いていることを最初に雪ノ下に伝えて、拒否られたら身延線で迂回することに決めた。

 

 

「やべぇ。ビジネスホテルとか満室だ」

 

「そう」

 

「お前、よく落ち着いていられるな。この喫茶店だって9時に閉店て書いてあるぞ。どうすんべ」

 

「どうしましょうか」

 

「何も考えてないのかよ!落ち着きまくっているから何かプランがあると思ってたぞ」

 

雪ノ下のキョトンとした顔を見て、俺はおかしくなった。どっかぬけている。変わっているといえば変わっている。俺が腹に手を当てて笑っているのを見て雪ノ下が「楽しそうね」という。

 

「あのさ、お前には似つかわしくないところだったら空いているってさ」

 

「どういうこと?意味がわからないのだけれど」

 

「いかがわしいラブホテルだったら空いているかも知れないって、オッサンが言ってた」

 

「じゃあ、そこに行くしかないじゃない。そう言われると興味が湧いてくるわね」

 

「マジかよ。拒否られると思っていたけど。それでいいなら早く行ったほうがいいかもしれない。満室だったらそれこそ野宿だろ。この雨の中」

 

「じゃあ、行きましょう」

 

俺たちは喫茶店を出て、駅前の観光案内所に再び入り、ラブホテルの場所を聞いた。

 スマホの地図を見ながら、幹線道路をしばらく歩き、わだちのついた田舎道に入ると、竹やぶの陰に隠れて安っぽい窓枠が並ぶ三階建てのホテルが見えてきた。一階は垂れ幕の奥に車が隠れるような駐車場になっていて、入り口はその奥にあった。

 受け付けは顔が見えないようになっている。俺は最後の一個だけ空いていた部屋のボタンを押した。すると、小さな窓からオバサンの声が「お泊りでしたら7800円です」

という。支払いを済ませると大きなプラスチック製のタグが付いたカギを渡された。203と書いてある。

「そのエレベータで行ってください」という声を聞いて雪ノ下がボタンを押す。するとすぐに扉が開いた。

 

「こんなところ来るの初めてね」

 

「あたりまえだろ。来たことないないわ」

 

「どうかしらね。窓口でずいぶん慣れているように見えたのだけれど」

 

「アホか。俺の過去は全部知ってるだろが。こういう知識だけはあるんだよ」

 

部屋は建物の外観を裏切って、小奇麗だった。だが狭い。ソファーとテーブルと液晶テレビがあるだけ。他には備え付けのポットと、お茶やコーヒーセットがあった。

 

壁のハンガーを見つけて雪ノ下がコートをかける。俺はソファに座ってぐったりと脱力した。

 

「疲れた」

 

その傍らで、雪ノ下が冷蔵庫を開けている。小さな仕切りがたくさんあり、透明で小さな扉が塞いでいた。その奥、一つ一つの仕切りに飲み物が横に入っていた。

 

「どうするのかしらね、これ」

 

雪ノ下が小さな扉を一つ開けた。すると、ガッチャンと音がした。引っ張り出したのはワンカップ大関だった。

 

「こんなの飲めないじゃない。未成年なのに」

 

「あ、それってたぶん料金が発生するぞ」

 

「え? あなた飲んでよ。日本酒くらい男だったら飲めるでしょ」

 

「おお、サンキュウ、寝酒にもってこいだ・・・ってなるわけないだろ!」

 

「じゃあどうするのよこれ」

 

雪ノ下がテーブルの上にそれを置いた。しばらく二人で呆然とワンカップ大関を眺めていると、無性におかしくなってきた。

 

「クククククク、あはははははは」と俺がこらえきれずに爆笑すると、雪ノ下も手の甲を口に当てて「ンフッフフンッフフ」と笑いをこらえていた。

 

「やめてよ、笑うの。おなかが痛い」

 

なぜか知らないが笑いが止まらない。雪ノ下もベッドに横に転がって、まるで嗚咽を漏らすように痙攣を続けている。

 

「これはちょっと・・・クククク・・・雪ノ下・・・ククッククク・・・雪ノ下ワンカップ事件・・・ククッ・・・として語り継がれるべきだな・・・おかしい・・・おかしすぎる、止めてくれ・・・おまえ・・・おまえアホだろ・・・アハハハハハハハ」

 

雪ノ下が起き上がる。上気した顔が赤い。

 

「アホとかひどくない?・・・フッフフフ・・・人を伝説扱いしないでよ・・・フフフッ・・」

 

そう言ってテーブルの上に屹立するワンカップ大関に目を戻すと、再びベッドに横たわって痙攣を続けた。

 

笑いが冷めてくると、俺は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して飲んだ。

 

「あ、そうだ、携帯貸してくれ。俺のは電池切れ。家に電話しないと」

 

「小町さんにかければいいのね」

 

そういうと雪ノ下はバッグから携帯を取り出してボタンを押した。

 

「小町さん?・・・そう・・・そう・・・今お兄さんに代わるから」

 

差し出された携帯を耳に当てる。

 

「小町? 今日の中央線の崖崩れ知ってる? 帰れないんだよ。それでこっちで今日泊まるから」

 

「お兄ちゃん。私、今感動しているんだよ? わかる? 雪乃さんから電話と思ったらお兄ちゃんが出るし。とうとう一心同体だね」

 

「俺の携帯が電池切れしたから借りているだけだろ」

 

「それで、どこ泊まってんの? 雪乃さんと同じ部屋?」

 

「お前は余計な詮索するな。そういうことだから」

 

「あ、お兄ちゃ・・・プープープー」

 

俺は強引に切った。



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第六話

 

「おまえは電話とかしなくていいの?」 

 

「わたしは別に誰にも言わなくても大丈夫だから。一人暮らしだし。シャワー浴びようと思うのだけれど、洗面所にタオルとか揃っているみたいね。しばらく入ってこないでね」

 

「あ、ああ」

 

すぐに、水が滴り落ちる音が聞こえてきた。俺はテレビのスイッチを入れた。すると、中央線や高速道路の復旧工事現場が映し出された。明朝の営業開始を目指して全力で作業が行われているという。たぶん、明日は帰れるだろう。しかし、明日は月曜日。学校がある。遅刻確定だ。

 

しばらくして、備え付けの浴衣を着た雪ノ下が洗面所から出てきた。髪の毛は乾かすのに苦労するためか、濡れていない。

 

「じゃあ、俺もシャワー浴びるわ。覗かないでくれるかしら」

 

「バカね。お酒飲む必要ないみたいね」

 

洗面所で脱衣すると俺は浴室に入り、シャワーを浴びた。面倒なので俺も頭は洗わなかった。バスタオルで全身を拭うと、一日の疲れが洗い流されてスッキリする。浴衣を着て部屋に戻ると、テレビも消え、照明が絞り込まれて暗くなっていた。

 

「出た? もうわたし寝るから。クタクタよ。おやすみなさい」

 

ベッドに入っている雪ノ下を見て俺はドキリとした。こんな感じでラブホに入ってしまったが、いざ同じベッドで寝るとなると・・・いったいこれからどうすればいい? 思わず緊張しながら雪ノ下の隣りに入り込んだ。

 

 横になってしばらく雪ノ下は俺に背中を向けていた。こんな状況で眠れるわけがない。一番居心地が悪いのはこの無言の状態だった。

 

「なあ、雪ノ下」

 

「・・・」

 

「ゆきちゃん?」

 

「なに?」

 

「こっち向いてくれないかな・・・」

 

 雪ノ下がもぞもぞ動いて体を仰向けにする。ほの暗い中でも雪ノ下の顔、というよりもその一部がはっきりと見えた。髪の毛が乱れて頬や口のまわりにからみつき、その表情がうかがい知れない。と、そのとき、俺は雪ノ下のまなじりがほんのりと濡れていることに気がついた。さっきまであんなに笑い転げていたのに。

 

「・・・どうして泣いているんだ」

 

「ううん。なんでもないの」

 

「何でもないこともないとは思うが、最近、泣きすぎだろ」

 

「そうかもしれない。私、これまでずっと一人だったから・・・」

 

「それだけじゃわからん」

 

 しばらく無言が続いた。俺は見守ることしかできなかったが、それでも雪ノ下はコクリと喉を動かしたり、時々目を閉じたりして、何を言うか整理しているようだった。

 

「私は、小さいころからずっと一人だった。家族はいたけれど・・・命令ばかりする母、競争意識しか持てない姉、やさしかったけれど家族のことをかえりみない父親、お嬢ちゃん扱いするお手伝いさん・・・。そして学校に行けば私を排除しようとする人たちばかり、近寄ってくるのは私の気を引こうとする一部の男子だけ・・・」

 

 思い返してみれば、俺には小町がいた。時にはとっくみあいの喧嘩もしたし、ガキのくせに余計な詮索してきたり、教訓くさいことをわざわざ兄に向かって垂れるウザさもあったが、俺を一番理解していたのも小町だった。理解されてしまっていることに忸怩たる思いを持つ反面、この世で一番信頼していたのも小町だった。あいつとは腹を割って話す必要がないのだ。そのおかげで俺はギリギリのところで救われていたのかもしれない。しかし雪ノ下にはそんな兄弟姉妹さえいなかったのだ。

 

「そういうことならだいたい理解していたつもりだが」

 

「私って人と触れ合ったことがなかったのよ。こうやって全部さらけ出して話したこともない。ずっと孤独だった。そう思ったら、自然に涙が出てきてしまったのよ」

 

「そうか、俺が思っていたよりもつらかったんだな」

 

「いいえ。つらいとか寂しいという感じではないの。私なりに楽しいと感じることも多かった。何かに打ち込んで成果が出て充実したこともあった。でも何かが足りないのよ。自分の思ったことや感じたことを共有する人がいないと、それがただの幻で終わってしまうような気がするの。それってすごく虚しいことじゃない」

 

思ったことや感じたことを共有する人がいない。・・・俺は、これほど孤独というものの本質を言い表した言葉をかつて聞いたことがない。思ったことを聞いてくれる人がいなければ、その言葉は虚空に消えるしかない。

 それはまるで大海原を小船に一人で乗って、あるいは宇宙空間を一人で漂流しているようなものだろう。やがて、ありもしない島影や救助船の発する光の点滅が見えてきて・・・

 

「そうだな。俺には小町がいてくれたおかげで助かっていたと思う」

 

「あんないい子が妹にいるなんて本当にうらやましい」

 

「心配するな、お前にはもう仲間が何人もいるだろ」

 

雪ノ下が俺のほうに向き直る。

 

「ねえ・・・。お願い、私を抱きしめて。しっかりと」

 

 俺は雪ノ下の首に右腕をまわしてその華奢な体を引き寄せた。左手をその背中にまわす。すると雪ノ下は顔を下に向けてうなずくように、俺の胸にうずくまってくる。頭のてっぺんが俺の鼻先に密着し、ほんのりとした甘い香りが鼻孔に広がった。そして、少し冷たい足が俺の両足の間に割り込んできた。

 どうやらまだ涙が途切れていないようだ。時々鼻をすすったり、ゴクリと飲んだりしている。温かい涙が冷えてくると、胸の上に若干の冷感がわき起こる。雪ノ下の涙が俺の体を濡らしたのはこれで二回目だった。

 

「あなたとこうして話せるようになってよかった・・・」

 

 かつて俺が氷の女王と名づけた雪ノ下も、昨年の4月ごろから由比ヶ浜や俺と接触することで、除々に融け始めていたようだ。春のツララがポタリポタリと雫を垂らすように、雪ノ下の凍りついていた心が涙となって落ちている。これで完全に氷が融け落ちて、雪ノ下の心に春風が吹くことを願わずにはいられない。雪ノ下雪乃といえども、こうして心の中まで見えるようになると、ごく普通の女の子だったことがわかる。

 

 俺は、しばらく左手で背中や肩、頭を撫でた。首や背中で乱れていた髪の毛を正しく流れるように導いてやる。その感触はなめらかで柔らかく、温かい。しかし、まさかあの雪ノ下の体を抱いて、やさしく撫でるようになるとは。

 

 その一方で、俺の鼻先から足先まで、女の体が密着しているという現実。こんなことはいまだかつて経験したことはない。しかもあの雪ノ下のような美人の体がこんなにもぬくもりを伴って自分の近くにある。

 それなのに、俺はスケベな気持ちを抱かなかった。そういう発想や生理的な感覚がまるでわいてこない。あるのはただ平穏な安堵感。こうして身を預けて信頼してくれていることがとても心地よく、ごく自然に調和して触れ合っている。これが俺には不思議に思えると同時に、信じられないことでもあった。

 

 どれくらいの時間が流れたのだろう。そのうち、雪ノ下が眠ってしまっていることに気がついた。俺もそのままの体勢で寝てしまおうと思ったが、なかなか寝付けない。しかし、ふと気がつくと、カーテンのすき間から光が差し込んでいた。

 午前7時になると、傍らの雪ノ下ももぞもぞと動き出し、起き上がって洗面所に行った。戻ってきたときには元の服に着替えていた。

 

 俺も顔を洗って歯磨きをし、浴衣から服に着替えた。洗面所に脱ぎ捨てた服は綺麗にたたまれていた。

 俺は部屋に戻ってオレンジ色の安っぽいソファに座った。雪ノ下は備え付けのポットで湯をわかし、インスタントコーヒーをいれ、カップの一つを俺にくれた。

 テーブルの上にあったテレビのリモコンのスイッチを入れる。一瞬、AVが映ったが、あわてて切り替えた。雪ノ下は気がつかなかったようだ。

二人であまり美味くないコーヒーをすすった。

 テレビには中央線は復旧しているというテロップが流れていた。

 

「もう電車動いてるでしょ?あまり寝た気がしないわね。体がだるい」

 

「そりゃあ、一晩中くんずほぐれつしてりゃあな」

 

俺があくびをかみ殺していうと、雪ノ下がクスクス笑い始めた。その笑い方が大きい。あわててカップをテーブルに置いている。

 

「くんずほぐれつって・・・面白い言葉使うのね。確かにくんずほぐれつしていたわね。おかしい・・・。だけど、あなたがそれ以上のことしなかったのは、少し意外だったけれど」

 

「おまえなあ、普通はくんずほぐれつする前に何かやることあるだろ。儀式的な・・・なんというか・・・」

 

「そお? 結構形式的なことにこだわるのね。そんなのどうでもいいじゃない」

 

「それにな、泣いてたら普通無理だろ」

 

「私は・・・別に・・・そういう覚悟というの?・・・それがなかったら一緒に泊まるなんてことはありえないし。・・・そういうつもりがあるのだったら・・・くんずほぐれつの続きは次のチャンスまでおあずけかしらね」

 

一瞬顔を赤くしながらも、妙にサバサバして晴れやかな表情から吐き出されたその言葉を、あれこれ吟味したり妄想していたりするうちに、雪ノ下はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。

 

「さて、用意はいいかしら。帰りましょう。目的は十分に達成したことだし」

 

 俺たちは田舎道の奥にあるラブホテルを出た。その前に窓口で追加料金をとられた。雪ノ下の大好きな日本酒は彼女のバッグにこっそりとしのばせておいた。家で料理酒に使えるだろ。

 外に出ると雲間から顔をだす太陽がまぶしく、俺は顔をしかめた。

 背後には小高い山があって、南アルプスは望めなかったが、南の方角には山の稜線が黒々と浮かび上がっていた。春の空気がうまい。後ろの林からは鶯の声も聞こえる長閑な朝だった。

 学校には二人とも揃って遅刻だ。おれは学校に伝えるべき言い訳を考えた。そして、二人とも特急電車のシートで爆睡していたので、東京にはあっという間に到着した。

 



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第七話

家について着替えたときは午前11時だった。スマホを充電する時間もないので、充電器をカバンに入れて家を出た。

 教室は授業中だった。ガラガラと扉を開けて入ると、由比ヶ浜と戸塚のほか、ほんの数人の注目を浴びただけ。そして、休み時間になると、戸塚が近寄ってきた。

 

 思えば最近戸塚とあまり喋っていない。体内の戸塚エキスが底をついて、俺の心の襞はアフリカのビクトリア湖のように干上がり地割れしていた。

 これは待ちに待った戸塚エキスを吸収するチャンスなのか? もっと近寄って! ひざの上に座ってくれたらストローでエキスをチュウチュウ吸っちゃうよ。そしてクンクンもしたい!

 ところが、戸塚の雰囲気はいつもと違い、少し緊張しているようだった。

 

「おう、戸塚。寝坊しちゃったよ」

 

「八幡、何でぼくには教えてくれないの? 平塚先生がピンチなんだって? 由比ヶ浜さんから聞いたよ」

 

「戸塚、声が大きい。そのことは拡散するな」

 

「あ、ごめんごめん、でもぼくにも何かさせてよ」

 

「う~む」

 

戸塚の肩越しに由比ヶ浜が覗く。

 

「ヒッキー、私がさいちゃんに教えちゃった。さっきはコマちゃんも来てたんだよ。昨日の夜、電話切れてからまったく通じないって怒ってた。何やってたの?」

 

「電池が切れただけだ。ほら、まだ充電する機会もない」

 

俺は画面の黒いスマホと充電器をカバンから出した。

 

「それでね、陽乃さんからの情報がたくさんたまってて、みんなで一回集まったほうがいいと思うよ。先生の昔の彼氏とかの件で」

 

「お前も声が大きい。じゃあ昼休みに部室に行くか」

 

「そうだね。そうしよう」

 

「あの~ぼくも行っていい?」

 

「いいでしょ?ヒッキー。もう知っちゃってるし。さいちゃんも準部員みたいなもんだし」

 

「ああ」

 

そんな会話をしていると、由比ヶ浜の後ろから川崎沙希まで顔を出した。

 

「あのさ、私も話を大志から聞いちゃったんだけど。あんたちまた何かやってんだね」

 

「川崎、その話は極秘事項にしてくれないかな。あんまり広がると先生、学校にいられなくなるかもしれん」

 

「わかった。しゃべらないよ。で、大志が色々世話になっているみたいで、お礼をいっとく。ありがとう」

 

そう言うと川崎は自分の席に戻って行った。大志に関してはあんまりお世話していないような気もするが。

 

昼休みになると、俺は購買でパンとコーヒー牛乳を買って部室に行った。すると、戸塚を加えたメンバー全員が揃っていた。みんな昼飯を広げている。小町がさっそく話しかけてきた。

 

「お兄ちゃん。先生の昔の彼氏の名前、片岡淳平っていうんだって。それでね・・・」

 

「まあ、落ち着け、とりあえず充電させてくれ。やっとだわ。音信普通になったのはこれが原因な」

 

俺はポットの脇にあるコンセントに充電器をつなぎ、スマホをセットした。

 

「ふう~。それで?」

 

「その片岡さんてね・・・」

 

小町の話をまとめると、片岡淳平なる人物は平塚先生の2歳年上で、同じ高校と大学の先輩。片岡は高校球児で、大学や社会人になっても野球を続け、スポ根を絵に書いたような熱血漢だったという。

 なんか平塚先生の片割れみたいな人だな。それで、先生と付き合い始めたのは大学時代から。3年前に別れるまで6~7年は付き合っていたことになる。

 体力の限界を感じて社会人野球を止めたのが28歳のとき。それ以降は憑き物が落ちたようになってしまった。いわゆるアノミーというやつだ。で、あとは落ちぶれる一方。会社では営業職だったのだが、その成績も落ち、やがて無断欠勤や勤務態度が問題になりクビ。

 その後、1年近く平塚先生のところへ無職のままシケ込んでいたが、愛想をつかされて放り出された。大雑把にいって、こんなストーリだった。

 

「ヒッキー、それでね、私とコマちゃんで会ったんだよ。片岡さんに」

 

「ほ~」

 

「片岡さん、今ではちゃんと会社勤めして自活しているんだよ。先生にはぜひお詫びしたいと言ってた。今でも先生のこと思っているみたいだった。平塚先生は元気か、とか聞いてきたよ」

 

「へぇ。それはいい情報だな。詐欺師につかまっていることは言ったのか?」

 

「言ってないよ」

 

「それはいい判断だったな」

 

戸塚が「どうして?」と聞く。

 

「片岡さんは今でも平塚先生を思っているんだったら、その話を聞いて勝手に動くかもしれん。動いてもいいんだが、そのときは俺たちが集めた証拠を持って行ってもらわないと説得力がないだろ」

 

「そうだね」と由比ヶ浜が言う傍らで、さっきから雪ノ下がひと言も発しない。表情もどことなく硬い。何か違和感がある。それに気がついたのか、由比ヶ浜がたずねる。

 

「ゆきのん、どうしたの? 疲れた?」

 

「いいえ。ちょっと気になることがあったのよ」

 

「どんな?」

 

「・・・」

 

沈黙する雪ノ下にみんなが注目する。

 

「・・・今回の件とは関係ないのかも知れないけれど、今朝、家についたら、郵便ポストにタロットの『DEATH』カードが入っていたの。そして、5階に上がって扉を開けようとすると、ドアにチョークで『死』って書いてあった。部屋に入ったとたんに固定電話が鳴って、出ると無言で切れた。これが数回。あと、留守電にメモリいっぱいの着信。表示はみんな『コウシュウデンワ』になってた」

 

「ええ~!!怖い!」

 

「本当か」

 

「ええ。まだあるの。着替えて家を出たら、見たことのない25歳くらいの男につけられた。コソコソつけるのではなくて、堂々と。5メートルくらい後ろで、私が止まると止まって、歩き始めると男も歩くのよ。人通りがあって大丈夫だと思ったのだけれど、怖くなって駅まで走ったの。男がつけてきたのはそこまでだった」

 

・・・俺は重大なことを見落としていたのかもしれない。平塚先生が山梨の家に行ったとき、空き家に家具などを入れて住んでいるように見せかけるには、それなりの人手が必要だ。それも、周囲に見られないように注意しながら、夜中に見せかけの生活道具を出し入れする必要がある。それは一人ではできない。仲間が必要だ。

 佐川明彦には詐欺仲間がいたのだ。あいつに顔を見られているのは雪ノ下だけ。雪ノ下は逆に尾行されて家を突き止められたのかもしれない。固定電話の番号は、請求書などの類を懐中電灯で照らせば見える。

 俺たちはヤバイ連中を刺激してしまったのかもしれない。だが・・・雪ノ下に対する脅しみたいな面倒なことをやったとして、何の効果がある? これ以上首を突っ込むなという警告にしかならないのでは?

 

「ちょっと、それは怖いね」と戸塚がいう。

 

「戸塚ごめんな、お前に来てもらったとたんにこんな状況になっちゃって。由比ヶ浜、今日から雪ノ下の家に泊まってくれるか?」

 

「え? もちろんいいよ」

 

「大丈夫よ・・・」と雪ノ下。しかしその表情は若干こわばっている。

 

「小町も行きます」

 

「女だけか。それがちょっと気になるけど。まあ、大丈夫かな、三人いれば」

 

「あの、自分は男っす」と大志がいう。

 

「お前はダメだ。小町と同じ家で寝泊りするのは俺が許さん」

 

「あ、やっぱりそうっすか」と大志が頭をかく傍らで、戸塚も俺のほうを向く。

 

「八幡、ぼくも男の子だよ」

 

と、戸塚、戸塚はむしろ俺の家に泊まってくれよ。

 

「戸塚君、大丈夫だから。ベッドとか布団の数が限られているし」

 

雪ノ下がそういうと、戸塚が少し残念そうな顔をする。

 

「それに、比企谷君のあの顔には、小町さんがいないのをいいことに、俺の家に泊まってくれよ、って書いてあるわよ」

 

「八幡、またからかうの?」

 

「そんなことこれっぽちも言ってないだろ」

 

俺を見ながら小町が「あちゃ~」みたいな顔をしている。

 

「おほん・・・んっ・・・んっ。まあ、俺たちはヤバイ連中を刺激してしまったようだな。これ以上、首を突っ込むのは危険だ。ビビることを期待して雪ノ下を脅したんだろう。確かに高校生をビビらせるには十分だ。ここは素直に、言うことを聞いておいたほうがいい。

 おそらく雪ノ下にこれ以上危害を加えることはないと思う。ちょっとした警告だろう。すると・・・。平塚先生への詐欺は諦めてはいないということになるな。

 あいつら、疑われていると気がついた以上、手を引くか、手っ取り早くコトを済ませる可能性が高い。でも、あれだけ強気で詐欺だと言っておいたから、金を貸してくれと言われてもさすがに先生は躊躇するだろう。いずれにしても、俺たちも急ごう」

 

「それであんな失礼な調子で先生に言ってたのね」と雪ノ下が言うが、その意味について他にわかる者はいない。

 

「それで、どうするの?」と由比ヶ浜。

 

「春ラララ作戦だよ」

 

「それも危ないような気がするのだけれど」

 

「もう、こうなったら録音ファイル二つと山梨の写真を片岡さんに持たせて先生の前で佐川と対決してもらう」

 

「大丈夫かしらね」

 

小町が雪ノ下のほうに向き直って言う。

 

「片岡さんって体格いいですよ。喧嘩になったら負けないと思う。でかいし。結構顔つきもするどいし。そうそう、写真も撮ってきました」

 

そう言うと小町は携帯の画面を見せる。

 

「その写真くれ。連絡先も教えてくれ。とにかく、雪ノ下は今日は部活を休止したほうがいい。由比ヶ浜の家を経由して着替えとかを一緒に持ち出して帰って欲しい。小町と三人で家でじっとしていてくれ」

 

「わかったけれど、ちょっと大げさじゃないかしらね」

 

「一応警戒しとけ。ここ数日で終わるさ。万が一、お前の実家に金があると気がついたら、そういう可能性もある」

 

昼休みが終わるチャイムが鳴った。

 



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第八話

学校が終わると、俺は陽乃さんに電話したが、つながらない。メールに「連絡ください」と記して送信した。すると、家に着く直前に電話がかかってきた。

 

「比企谷君? 珍しいね。でもだいたい何の用だかわかるよ。情報が欲しいんでしょ?」

 

「そうです。ちょっと危険な状況も起こっていまして・・・」

 

「ふ~ん。佐川とかいうやつは詐欺グループに属しているからね」

 

「そうです。そのことで」

 

「わかった。いま車の運転中だから。どっかで待ち合わせできる?」

 

「では駅前はどうでしょう」

 

「了解。あと30分くらいでつくと思うよ」

 

私服に着替えて30分後に駅前につくと、ロータリーの脇に止まった赤いスポーツセダンが目についた。よく見ると陽乃さんがおいでおいでと手を振っている。俺は助手席に乗り込んだ。

 

「大人はいいですね」と俺がいうと、陽乃さんは無言で微笑んだ。「ファミレスに入るよ」というので「はい」と答える。

 

近くのファミレスの席につくと、陽乃さんは「いや~、君たち、変な連中にかかわっちゃったね~」と笑う。

 

「それがですね、今日、妹さんの部屋の扉に「死」とか落書きされていたり、堂々と尾行されたりしているんですよ。これっていわゆる示威行為ですよね」

 

「そんなことがあったんだ?雪乃ちゃんだけがそうされたの?」

 

「そうです」

 

「比企谷君は無事だったの? それって不思議だね~」

 

「妹さんを佐川に会わせました。スポーツクラブで。名刺とか携帯番号の交換をしてもらいました」

 

「ふ~ん。雪乃ちゃんをそんな危険な目にあわせる人だったんだ」

 

「すみません・・・そこまで頭が回りませんでした。後悔してます」

 

「でも、そういう脅迫行為をこれからも続けるメリットってないはずだよね」

 

「俺もそう思います。そいつらが振り込め詐欺やっているってことは、やはり陽乃さんが探偵とか興信所を使ってわかったんでしょ?」

 

「あったり~!」

 

「費用がかかったんじゃないんですか?」

 

「もちろんそうだけど、静ちゃんのピンチだもん。それくらいどうってことないよ。でも今回ばっかりはさすがに比企谷君でも無理でしょ。あんまり活躍してないみたいだね」

 

「はっきり言ってギブアップです。佐川が詐欺師であることの証拠はいくつかつかんでありますけど。チンピラグループ相手じゃ、こっちはただの高校生で、男手も少ない。今回は足かせもあったし」

 

「足かせ? ふ~ん、なるほど。ところで旅行は楽しかった~?」

 

陽乃さんはニコニコしてそう言う。やはり何もかもお見通しのようだ。小町~陽乃ラインはどんだけ極太なんだよ。電動カッター使っても切れないだろ。しかし、俺はこんな事態になっていたのに気がつかず、浮かれ気分で雪ノ下と出かけていたことが恥ずかしくなった。

 

「まあ、楽しかったですけど・・・それよりも、連中の情報を詳しく教えてください」

 

「あいつらのアジトは割れてるよ。そこに出入りしているのは6人までは確認してる。これね」

 

陽乃さんはバッグから封筒を出して写真を6枚出した。並べると一人だけ見覚えがあった。佐川だ。

 

「これが佐川明彦ですね」

 

陽乃さんはペンを取り出して佐川明彦と書き入れた。

 

「ふ~ん。でもこいつら、偽名使いまくっているから佐川って本名じゃないと思うな」

 

「こいつの勤めていると称する会社に電話したら、別人の佐川明彦が実在していましたんで。結婚詐欺以外にも振り込め詐欺までやっているとは・・・」

 

「そうそう。探偵さんはそれ以外考えられないって言ってた。あいつらマンションの一室に閉じこもって、みんなで電話かけまくっているんだって。向かいの建物から室内を撮った写真がこれね。笑っちゃうね。アジトの所在地とか、6人の写真をたくさん揃えて、一切合財のネタは警察に渡してあるよ」

 

アジトの室内写真を見ると、ちゃんと机があり、その前に電話があり、壁にはどこかの営業部みたいに棒グラフの表が張り付いている。詐欺師の世界にもノルマというわけか。

 

「警察に通報済みとは、さすがですね」

 

「それから、結婚詐欺についてだけど、NPOで結婚詐欺の相談に乗っているところがあって、そこに写真を照会したら、君の言う佐川と同じ顔した写真があったみたいだよ。その情報も警察に持ってった。警察にも被害届けが出ているみたい」

 

「それはすごい。じゃあ、時間の問題ですかね。あ、佐川の乗っている車の写真とかありますか?」

 

「あったと思うな。ちょっと待って」

 

陽乃さんは違う封筒を引っ張り出して、ぶ厚い写真の束をあさり始めた。その写真は犯人グループが歩道を歩いていたり、車に乗り込もうとしていたり、アジトのマンションから出てくる場面だったり、よくもまあこれだけ集めたものだ。プロの仕事はすごい。

 

「こんな写真とかほんの2~3日で揃えちゃうんだよ。さすがプロだよね~。あ、これこれ」

 

その写真には、紺色のBMWが写っていた。ナンバーもばっちり判読できる。

 

「くっ、詐欺で儲けてBMWなんて乗っていやがる。この写真もらっていいですか。それから、アジトの部屋の中で佐川の顔が映っているこの写真も」

 

「うん、いいよ。コピーあるし」

 

「ありがとうございます。あ、それから、片岡淳平さんの件もありがとうございました。感謝します」

 

「その人を使って何かたくらんでいるんでしょ? あとは任せるよ。片岡って人はまだ静ちゃんに未練があるみたいだけど、静ちゃんのほうはどうかな~。女って昔の男のことでいつまでもウジウジしていないからね」

 

「そこはやっぱり賭けってことでしょ」

 

「静ちゃんも変わっているところがあるからな~。義理と人情の世界の人だからね。うまくいくことを祈っているよ。静ちゃんを助けてあげてね」

 

「ベストを尽くします」

 

「なんか、しおらしいね、今日の比企谷君」

 

「いや、陽乃さんのお手並みに素直に感服しているんです」

 

「いやだな~、これは私がやったことじゃないんだけどな。全部人任せだよ。君みたいに山梨まで行ったりしたほうが偉くない? 小町ちゃんから色々聞いたけど。その証拠だけでも十分でしょ?」

 

「まあ、おそらくそうですけど」

 

「ところで、昔、私と約束したこと覚えてる?」

 

「なんでしょう。約束なんてしましたっけ」

 

「雪乃ちゃんの彼氏になったらお茶しようねって言ったじゃない」

 

「はあ」

 

「で、なったんでしょ?」

 

「さあ、どうだか・・・」

 

実際、雪ノ下の彼氏になったのかどうかわからない。なったような気もするし、まだなっていないような気もする。

 

「う~ん? 否定しないんだね、今回は。もし否定するんだったらまた私とお茶しなきゃならなくなるよ?」

 

陽乃さんが大きな目で見つめてくる。目がん?ん?と返事を催促している。

 

「いや、その・・・」

 

「この前もそんな感じで煮え切らなかったよね」

 

俺は思い出していた。俺はかつて雪ノ下にも「あなた私のこと好きでしょ?」と問い詰められたような気がする。確かに俺は雪ノ下のことが好きだったのだが、それを認めるのを避けていた。はっきりと意識することが怖かった。

 それは、中学で告白してふられた経験から学んだ俺が、簡単に女を好きになるはずがないという思い込みがあり、また、逆に俺なんかを好きになる女がいるわけがないと思い込んでいたからだ。だが、耳元で雪ノ下にそう問われたとき、俺はとうとう自分の気持ちを認めないわけにはいかなかった。

 そして、同じような状況がまた訪れた。妹とその姉によって、俺の心は一番深いところから揺さぶられ、決断を迫られる。

 

「わかりました。はっきり言います。こんな俺でよかったらですけど、妹さんと付き合わせてください。お願いします」

 

そういって俺は頭を下げた。一瞬、自分で言ったことが信じられなかった。まるで親に結婚の申し込みでもしているかのような気分だった。

 

「よく言った! 男はそうでなくちゃね。お姉さんはうれしいよ。二人でいるところを初めて見たときから、お似合いだと思ったもん。雪乃ちゃんのことも助けてあげてね」

 

「このまえは、身の回りのことやってあげるのはよくないみたいなこと言っていたじゃないですか」

 

「比企谷君だったらそこらへんの匙加減うまいでしょ?」

 

陽乃さんは本当に嬉しそうな顔をしていた。何かふっきれたような顔をしている。妹の交友関係や、恋愛関係にこれほど興味を持ち、首を突っ込んでくるのは何か理由があるのではないだろうか。それに、実はこの人、意地悪じゃないんじゃないの? 腹が真っ黒というのもウソ? そんな思いがこみ上げてくるほどだった。

 

「これで私もアメリカに心置きなく留学できるってもんだよ」

 

「そうなんですか? いつから?」

 

「アメリカの大学は9月が多いからね。そのころになると思う」

 

「陽乃さんのことだからハーバードとかコロンビアとかMITとか?」

 

「さすがにそのへんは無理なんじゃないかな。しかも1年くらいの短期留学だよ。まあ、いずれわかると思うよ」

 

帰りは陽乃さんが家まで送ってくれた。俺は佐川とその車の写真を封筒から出し、机の上に並べた。佐川を直撃するにはどこがいいだろうか。しかし、その場面には平塚先生がいることが条件だ。

 



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ラスト3で平塚先生は野球観戦にでかけるようだ

 家で夕飯を食ったあと、小町から電話がかかってきた。向こうでも由比ヶ浜と雪ノ下と一緒に晩御飯を作って食べたそうだ。

 

「別にこっちは異常なしだよ。買い物にも三人で行ったし、誰もつけてきてないと思う。無言電話もなし。そっちは?」

 

「これから片岡さんに連絡してみるところだ」

 

「お兄ちゃん、何か行動起こすときは必ず連絡くれって雪乃さんが言ってるよ。無断で行動したら怒るって。なんかマジみたいだよ」

 

「わかった。わかった。必ず連絡する。お前らもガールズトーク控え目にな」

 

 この時間であれば帰宅している可能性が高いと思い、俺は片岡さんに電話をかけた。すると、由比ヶ浜たちが俺の名前を出してくれていたようで、初めから説明する手間がかからなかった。

 

「静(しず)ちゃんの生徒さんでしょ? 彼女は元気にやってますか」

 

「それがですね。実は、先生、結婚詐欺師に引っかかっているようなんです。そのことで、片岡さんと至急お会いしたいんですが」

 

「結婚詐欺?・・・本当ですか・・・静ちゃんは結婚願望が強かったですからね・・・わかりました、いつがいいでしょうか」

 

「今からはどうですか? 駅が三つしか離れていないようなので、すぐ行きますが」

 

「今からですか・・・わかりました。ではそちらの駅前まですぐに行きます。今から一時間後に」

 

「片岡さんの顔は妹から写真を見せられているのでわかると思います。声をかけます。よろしくお願いします」

 

 すでに午後9時を過ぎていた。

まだ時間は十分にある。俺は小町に電話して片岡さんと会うことを知らせ、部屋の写真類を封筒に入れた。次に、スマホの音声ファイルをマイクロSDカードに移した。

 

 駅前に行ってしばらくすると、片岡さんが現れた。身長が180センチ以上、がっしりした体つきで、結構顔がごつい。なかなか迫力のある男だった。アスリートの片鱗がまだ残っている。

 

「片岡さん?」声をかけると、その男は丁寧におじぎをした。俺も一礼して、以前、雪ノ下と入ったドーナッツ屋に一緒に向った。

 

 ドーナッツ屋の小さいイスがキツそうなほど、片岡さんは体が大きい。少し動くと、イスがギシギシ音を立てる。俺は今までの経緯を全部話した。

 

「そうですか。自分は申し訳ないことをしたのかもしれません。あんなに情けない男になって、静ちゃんを裏切ってしまった。追い出されて当然です。いつかその償いをしたいと思っていました」

 

 その口調は朴訥で、身振り手振りも飾り気がなく、佐川とは正反対のような雰囲気だ。しかし、怒るとすっごく怖そうな感じ。俺だったらこの人にコラ!と一喝されたら時速100キロで逃げるね。

 

「俺たち生徒で佐川のウソの証拠を押さえました。それを平塚先生の前で佐川に突きつけてくれませんか。これが、その写真です」

 

 俺は写真を示して、振り込め詐欺グループのアジト内で撮影された佐川を指さした。それを片岡さんはみつめる。続けて、佐川の実家と称する家の写真のプリントアウトを数枚見せて説明した。

 

「わかりました。やってみます。ただ、静ちゃんがどう思うか・・・俺が突然現れても意味がないかもしれません」

 

「片岡さん、いずれにしても先生は佐川が詐欺師であることを知ることになります。すでに警察が動いています。だったら、あなたが先生に真実を教えてあげてください」

 

「それは、自分に静ちゃんを救えということ?」

 

「そうです。こればっかりは生徒の役割ではありません。それに、生徒に助けられたなんてことになれば、先生の立場がなくなってしまいます。こんなことを高校生が言うのもアレですが、片岡さんはもう立ち直って、ちゃんと働いているのでしょう? だったら先生の前に現れる資格はあるはずです」

 

 片岡さんは自分の役割を理解し、決意したようだ。マイクロSDカードをスマホに差し込んでファイルを転送し、写真入りの封筒を受け取った。

 そして、しばらくの間、会社が終わり次第なるべく家にいてもらうように頼んだ。いつ出番がくるかわからないからだ。駅前で別れるとき「ありがとう」と片岡さんは微笑んだ。

 

  ★   ★   ★

 

 

 その翌日、三時間目が終わったとたんに、俺の教室に小町が入ってきた。職員室に行って、平塚先生の机の上を見たら、今日の千葉ロッテマリーンズのナイターチケットが置いてあったという。

 

「それって千葉マリンスタジアム、つまりホームゲームのチケットだった?」

 

「うん、QVCマリンスタジアムって書いてあった」

 

 そこへ由比ヶ浜が近寄ってくる。

 

「どしたの? コマちゃんたち」

 

「先生が今日の夜、野球を見に行くみたいなんです。机の上に二枚チケットが置いてあって、ピンときたんで知らせにきました」

 

「じゃあ、先生、今日の夜デートなんだね。作戦するのにちょうどいいじゃん」

 

 俺はスマホを取り出してパ・リーグのスケジュールを確かめた。すると、今日はダイエーとマリーンズの試合が組まれている。ナイターゲームが終わるのは、だいたい9時から10時までの間だ。時間的にもちょうどいい。その時間をめがけて行けばいい。

 平塚先生が佐川以外の人と野球を見に行くとは思えない。もし違っていても、我々の足労が無駄になるだけで、損するものはない。

 

「よし、今日決行しよう」

 

 俺はその場で片岡さんにメールした。

『本日決行する可能性大。午後9時に千葉マリンスタジアムに集合の要あり。速やかな帰宅後待機されたし』

 

 放課後の部活で、俺は昨晩の片岡さんとのやり取りを報告した。その後、今日は俺と片岡さんだけで平塚先生たちを直撃する提案をした。大勢で行くと、気づかれるからだ。

 

「ええ~、対決見たかったな~」と小町が不満そうに言う。

 

「でもさ、ゆきのんは行ったほうがいいよ。部長だし。ヒッキーが来るなって言ってもゆきのんは行くでしょ」

 

「そうね。私も行く」

 

「わかった。じゃあ、俺、雪ノ下、片岡の三人で9時にマリンスタジアムに集合。おそらく佐川は車で来るはずだから、駐車場に集合な。でもナンバーとか車種から佐川の車を特定しておく必要がある。それがちょっと面倒かもしれない。もし車がわからないと、群集の中から先生たちを探すのは無理だろう」

 

 部活は早々に終わりにして、それぞれ帰宅した。由比ヶ浜と小町は今日も雪ノ下宅に帰って行った。まだ集団生活をしているが、あれ以来、脅迫や嫌がらせなどの被害には遭っていないという。三人の合宿も、いまく行けば今日で終わりそうだ。

 家につくと4時過ぎ、まだまだ時間はたっぷりある。俺はマリンスタジアム周辺の地図をパソコンで調べた。

 スタジアムは幕張海浜公園の北端にあると言っていい。ホームベース側を取り囲むように駐車場があり、その南西は海になっている。このへんは幕張の浜というが、海水浴は禁止されている

 この地図を片岡さんと雪ノ下に送信した。しかし、雪ノ下は極端な方向音痴で、地図を見ても場所がわかるかどうか定かではなかった。そこで小町にメールして、パソコンで地図をひらいて、場所をうまく雪ノ下に説明するように頼んだ。

 食事を済ませると、俺はスタジアムの駐車場に向かった。



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ラスト2 夜の公園には覗きがたくさんいる!?

 スタジアムの駐車場につくと、群衆の声が時々盛り上がっては消える。円形のスタジアムの上空には、大きな光の柱が煌々と立ちのぼっていた。バッターの名前を告げるアナウンスが響く。

 俺はさっそく一人で紺色のBMWを探した。この場合、駐車場の面積の中央から探したほうが発見する確率が上がるのか。こういうとき、数学的な考え方ができる頭脳が必要なのだろう。仕方なしに俺は入り口から探し始めた。

 すばらくすると、片岡さんから着信。駐車場に入ったというのでそっちを見ると、大男が歩いてきた。その後の遠くに雪ノ下らしき人影。

 

「片岡さん、ここです」

 

 俺は手を振った。すると片岡さんは走ってきた。その手には封筒があった。すぐに雪ノ下も近くに来る。

 

「片岡さん、同じ部の雪ノ下雪乃です」

 

「はじめまして」

 

「あ、こんにちは。・・・雪ノ下さん・・・お姉さんいましたよね。珍しい名前なので覚えていましたが」

 

「ええ。いますけど」

 

「昔、静ちゃんが、お姉さんのことを俺に時々言ってましたよ。あの子はすごいすごいって」

 

「そうですか。姉はちょっとした有名人ですからね。このへんでは」

 

「まあ、みんな車探すの手伝ってください。ナンバーはわかりますよね。手分けして離れて探しましょう」

 

 俺がそういうと、雪ノ下が10メートルくらい離れたところにある車を指さして「あれじゃない?」という。俺が走って見に行くと、ナンバーが合致。紺色のBMWだった。

 

「よし、車発見。では、段取りを決めましょう」

 

 時刻は9時20分。スマホの速報で確認すると、試合はすでに8回裏になっていた。あと20分以内に終わる可能性が高い。

 三人は駐車場から海側の公園に出た。生垣があって、身を隠すのにはもってこいの場所があった。

 

「では、先生と佐川が車に近づいてきたら、片岡さんがすぐに出て行く。証拠を見せて先生を説得し、佐川から引き剥がす。成功したら、俺たちは無視して、というか俺たち生徒がいることは伏せて欲しいです。先生をどこか連れていってください。失敗してもそれはそれでいいと思います。ただ、暴力はいけません。殴ったりすると片岡さんが警察の厄介になるかもしれません」

 

「わかりました。やってみます」

 

 しばらくすると、群集の歓声が聞こえた。勝利チームの名前が告げられ、勝ち投手や次のゲームを案内するアナウンスが聞こえてきた。

 駐車場に人が入ってきた。次々と車のバタンと閉まる音があちこちで響く。

 

「来た」俺がそういうと、片岡さんは、ポケットから黒い皮製の指抜きグローブを取り出してつけ始めた。おいおい。殴るの前提かよ。暴力は止めてくださいと俺が声をかける前に、片岡さんは走り出してしまった。

 

 車の近くに歩いてきた平塚先生と佐川の前に、大きな人影が立ちはだかる。そのとたん、先生の表情が急変し、近づく男を凝視するのが遠くからもわかる。

 

「静ちゃん、話がある」

 

「淳平? どうしてこんなところに・・・」

 

「その男は詐欺師だ。一刻も早く別れろ」

 

「あんたもそんなこと言う?」

 

「そうだ。そいつは佐川なんて名前じゃない。会社社長でもない、ただのせこい詐欺グループのリーダーだ」

 

「あ? なんなのあんた」

 

 佐川が毒気づいて片岡さんに近づく。胸倉をつかもうと両手を出すが、あっけなく片岡さんの右手一本に払われる。

 それにもめげずに佐川は片岡さんの胸倉をつかみ、振り回そうとする。しかし、片岡さんの体は微動だにしない。却って佐川の体が揺れる始末だ。どんだけ片岡さん、足腰強いんだよ。

 

「あんた何者?」

 

「俺は静ちゃんを助けに来た。昔のお詫びと恩返しに来た。お前から助け出すために」

 

「ばか言ってんじゃねぇって。俺たちはもうすぐ結婚するんだ。お前なんかの出る幕じゃねぇよ」

 

「静ちゃん、これ見てくれ」

 

そういうと片岡さんは写真を取り出した。おそらく、アジト室内の写真だ。

 

「こいつはこうやって振込み詐欺やっているんだ。それに結婚詐欺も。被害届けも出ている。佐川という名前もうそっぱちだ」

 

 平塚先生はひと言も発しないで写真を見ている。

 

「お前、いい加減にしろよ」

 

 そういって佐川と称する男は携帯電話を出して、どこかにかけようとしている。片岡さんがその腕をつかみ、もう一方の手で携帯電話を奪い取る。

 

「何しやがる!」

 

 佐川が殴りかかる。しかし、片岡さんは右手だけでそれをかわし、その手首をつかむ。そのままの体勢で、片岡さんはスマホを片手で操作し、俺の渡したファイルを再生する。

 

「あ、この前はすみませんでした。比企谷と申します・・・」

 

 これを聞いて傍らの雪ノ下がクスクスと笑う。

 

「ここで比企谷って名前が出てくるのが間抜けね」

 

「しょうがないだろ」

 

 俺たちは生垣のすき間から20メートルほど離れた三人の様子を眺めていた。すると、後ろからいきなり声をかけられた。まるで足音がしなかったので、思わず「ひっ」と声を出してしまった。

 

「お宅さんたち、どちらさん?」

 

 振り返ると、耳にイヤホンを入れた紺色の背広姿のいかつい男が立っていた。年齢は三十五歳くらい。短髪角刈り。俺なんかよりもよっぽど目つきが悪い。ところが、俺たちよりも駐車場にいる三人のことを気にしているようだ。チラチラを視線をせわしなく送っている。

 

「いや別に、俺たちはただ」

 

「学生さん? 何してんの?」

 

「そういうあなたは?」

 

 雪ノ下が問うと、男は「俺は千葉西警察署の村山ってもんだけど、あんたたち誰?」

という。私服刑事だ。ひょっとして? と俺は思った。本当のことを喋っても大丈夫だろう。

 

「俺たちは、あそこの三人の中に女性がいますよね。あの人の生徒です。俺は比企谷、こっちは雪ノ下といいます。あの女性は平塚といって高校教師です。背の高い男はその元彼で、手をつかまれているのは詐欺師です」

 

「ほう。そんなこと知ってんの。先生のことはこっちも知ってるよ。うん? 雪ノ下って聞いたことあるような」

 

「もしかすると、あの詐欺師に用があるんでしょうか」

 

「そうだよ。君たち余計なことしてくれているみたいだね」

 

「逮捕が近いとか?」

 

「逮捕状がこちらに向かっているところ。それまで、俺は行動確認で張り付いている。邪魔はしないで欲しい」

 

「では、もう少し待ってください。今、元彼が女性を説得しています。もしかすると奴らのアジトもガサ入れするんでしょうか」

 

「そうだよ。同時に執行だね。逮捕状がこないから俺はまだ何もしないけどね。でもあの大男が邪魔すると公妨だな」

 

「いや、警察が出て行ったら必ず協力するはずです」

 

 駐車場ではこう着状態が続いていた。依然として佐川が片岡さんに腕をつかまれていた。

 

「静ちゃん、これでもまだ目が覚めないか?」

 

「淳平。いまごろノコノコ出てきて迷惑なんだけど。あんた、私の気持ちわかってんの? あんたが情けないからこんなことになってんじゃないの」

 

「すまん。だけど、この男だけはやめて欲しい。いずれつかまる奴だ」

 

「少なくともあんたに言われたくない。明彦さん、本当なの? あなたの名前は佐川じゃないの?」

 

「こんな奴のいうことを信じるな。帰ろう。早くこいつを何とかしてくれ」

 

 佐川が暴れだした。つかまれている手を離そうとして片岡さんの足を蹴る。それにひるんだのか手が離れた。その隙に佐川は車のドアを開けようとする。

 

「さ、静ちゃん、車に乗って帰ろう」

 

 しかし、先生は動こうとしない。そのとき、横にいた刑事のポケットで携帯のバイブレータがビービーと震えた。

 

「はい、村山です。わかりました。確保します」

 

 そういうと村山はダッと土を蹴って飛び出した。駐車場の奥からも二人、背広姿の男が走ってくるのが見える。

 

 佐川の前に出た村山が「沢崎光男だな?」と声をかける。

 

「なんだよ。なんか用? 今日は色々うるせぇな」

 

 佐川は片岡さんを含む4人の男に囲まれる形になった。

 

「千葉西警察署の者だが、何の用かわかるな?」

 

「さあね。逮捕状でもあんの?」

 

「あと5分で来るよ。悪いけど逃げられないと思うな」

 

「そう」

 

 佐川はタバコを取り出して吸い始めた。観念したようだ。

 その様子を呆然と見ているのは平塚先生。やがて、覆面パトカーが二台入ってきて目の前に止まる。年配の私服刑事が降りてきて、逮捕状を読み上げる。「午後21時47分。逮捕」そういうと手錠を佐川にかけた。逮捕劇はあまりにもあっけなく終わった。

 

 駐車場に残されたのは先生と片岡さんだった。見ると、先生はBMWに手をついてうなだれている。

 

「静ちゃん。帰ろう」

 

「誰があんたなんかと。ふざけるな」

 

「ごめん。でも、どうしても・・・」

 

 その言葉が終わる前に、先生は体を起こし、片岡さんを叩き始めた。時々平手が片岡さんの頬にヒットする。そのたびにピシッと鋭い音が聞こえてくる。片岡さんは動かずに耐えていた。この人、俺以外にも鉄拳制裁するんだな。

 先生の目には涙が光っていた。俺は先生が泣いているところを初めて見た。

 

「静ちゃん、こんな目にあわせて申し訳なかった。俺がしっかりしていれば・・・俺は今ではちゃんと働いている。立ち直って自活している。だから・・・」

 

「だからなんだ? 今さらどうにもならん」

 

「だから、よりを戻して欲しいとはいわない。ただ、少しでもいいから俺のことも気にかけてくれ。俺も近くにいることを思い出してくれ」

 

「あんた、私がどんだけの思いであんたを追い出したのかわかってる? あのあと、私はしばらく立ち直れなかった。

 私は学生時代は家族と一緒で、社会人になったらあんたとずっと一緒で、一人になったのは初めてだった。だから、だから・・・一緒にいてくれる人が欲しくて・・・あんな詐欺師に引っかかっちゃったじゃない。どうしてくれんだよ」

 

 そういうと平塚先生は片岡さんの足を蹴り始めた。結構強く蹴っているが、あまり効果がないようだ。この人たち、DVという概念持ってる? 相性良すぎでしょ。しかし、俺はその様子を見て、うまく行くのではないかと思えた。

 

「静ちゃん。俺を殴りたかったらもっと殴っていい。今回のことも俺も一緒に受け止めさせてほしい。だから、落ち込まないでくれ。俺でよかったらなんだけど、いつでもそばにいるし。心配なんだよ」

 

 平塚先生はしゃがんで嗚咽を漏らし始めた。その隣りで片岡さんもしゃがむ。

 

「さ、帰ろう。いつまでもこんなところにいられないだろ。ちょっとそのへんで一杯やろう」

 

「馬鹿じゃないの。こんなときに。あんた酒まだやってんの?」

 

「いや、ここ数年、ぜんぜん飲んでいない。こんなときくらいはいいと思って。一杯やって忘れる手もあるよ」

 

「余計なお世話だ」

 

 俺は一杯飲んで忘れるという大人の作法がうらやましいと思った。

 平塚先生が立ち上がった。その背中に片岡さんが手を添える。そして、二人はゆっくりと歩いて行った。二人のやりとりに集中するあまり、隣りに雪ノ下がいることを忘れるほどだった。

 気がつけば背中が下に引っ張られている。後を見ると、雪ノ下の手が俺のMA-1ジャケットの裾をつかんでいた。



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ラストで雪ノ下雪乃の不条理な怒りが爆発する

 

 

 

 

 雪ノ下がはっと何かに気がついたように、左手でつかんでいた俺のMA-1ジャケットの裾を離す。

 

「わたし、あなたと付き合わないから」

 

「は? いったい何を言いだすんだ?」

 

「言ったとおりよ」

 

「意味がわからんが」

 

 雪ノ下の表情がさきほどとはうって変わってきつくなっている。

 

「胸に手を当ててよく思い出してごらんなさい。どうして私の知らないところで私とあなたが付き合うという取り決めが行われているの? 私とあなたが交際するかどうか、姉さんとあなたが決めるわけ? あなた、姉さんに何か言ったんでしょ? 姉さんの許可がないと私と付き合えないのかしら」

 

 俺は陽乃さんに妹さんと付き合わせてくださいと頭を下げたことを思い出した。小町だ。お前は俺の味方じゃなかったのかよ。小町経由で陽乃さんとの会話が伝わっていたのだ。チェンソーでも切れない陽乃~小町ラインの太さが脳裏に浮かんだ。そんなイメージありえないんだが。

 

「それはだな。陽乃さんに半分強制的に言わされたんだよ。何をそんなに怒っているんだ」

 

「あら? 別に怒っていないわよ。そんなに重要なことを本人に内緒にして姉さんと話をするくらいだったら、ずっと姉さんと付き合っていればいいじゃない。あなただったらきっと忠実な犬になれるでしょうね。それに、あなたにはかわいい彼氏がいるでしょ。なにも私が出る幕はないじゃない」

 

「おまえ、なんかトチ狂ってる。俺は陽乃さんの犬でもないし、戸塚はただ、可愛いやつだと思っているだけだろ」

 

「そうかしらね。では、試しに姉さんに言ったこと、今ここで私に言ってみたら? あなたと姉さんが勝手に決めたことが、無意味だとわかるはずよ」

 

 早くて強い口調で、雪ノ下がまくしたてる。俺が何か言うたびに雪ノ下の顔が険しくなっていく。ちょっとやそっとじゃ治まりそうにない。問題が一つ解決したとたんに、こうして次の問題が勃発するのはセオリー通りなのか?

 しかし、陽乃さんに言ったことが原因だとしても、なぜこんなに怒っている? その理由について見当もつかない。俺は問題になっている言葉を、一回だけ息を飲んで再現した。

 

「雪ノ下、こんな俺でよかったら、俺と付き合ってほしい」

 

「答えはもうわかるでしょ? NO! お断りよ!」

 

「どうして!」

 

「理由はさっき言ったじゃない。それに、由比ヶ浜さんとのこともあるから、もう少し待ってほしいと言ったはずよ。でも、もうそんな気もなくなったわ」

 

 そう言うと、雪ノ下は身を翻して歩き始めた。これはまずい。ここで雪ノ下を一人で帰したら、おそらくこれで終わりだ。崖っぷちで木の根っこにぶら下がっているような気分で、俺は雪ノ下の手をつかんだ。

 

「何するのよ。放してくれる?」

 

 俺の手が振り払われた。しかし、再び手をつかんで引っ張ると、近づきざまに右頬にビンタが飛んできた。

 

「おまえ・・・」

 

 呆然とする。一瞬歩きを止めた雪ノ下が再び歩き始める。

 

「待て! お前が何で怒っているのかもっと詳しく教えてくれ!」と言って俺はまた手をつかんだ。今度は容易に振り払うことのできない力で。

 雪ノ下は身をよじったりして手をはらおうとするが、俺も諦めない。

 

「暴行するの? 逮捕監禁? 誘拐? 痴漢? あなたの人生も意外に早く終わりそうね」

 

「お前を失った人生なら、終わったも同じだ!」

 

 俺は思わずそう叫んでしまった。俺の手を離れようとしていた力がおさまる。離れたベンチに座っていたカップルがこちらをチラチラを見ている。

 

「何なんだよ! はっきり教えてくれ! わからないだろ!」

 

 そう叫ぶ傍らで、ランプを点けた自転車が二台、こちらに走ってくるのが見えた。すぐにそれが警官だとわかった。今日は警察官と縁のある日らしい。案の定、二人の警官は俺たちの前で自転車を止めた。

 

「君たち大丈夫? いま大きな声が聞こえたから。何かトラブル?」

 

「あ、いや・・・」と俺が言い淀んでいると雪ノ下が答えようとする。まさかこいつ?

 

「すみません。ちょっと喧嘩してしまいました。大丈夫です。問題ありません」

 

 俺は胸を撫で下ろす思いだった。二人の警官は懐中電灯で俺や雪ノ下を照らす。顔から足先までなめ回すように。

 

「そうですか。女性がそういうんでしたら問題ないはずですね。このへんは結構事件が起こってますから気をつけてください。もう10時過ぎですから、あまり大声を出さずに穏便に。誰かに通報されたらもっとたくさんの警官が来ますよ」

 

「わかりました。ご迷惑おかけしました」

 

 警官たちは自転車にまたがって再びパトロールを開始した。

 

「ふぅ。今わたしが痴漢ですって言ったらあなたつかまってたわね。感謝しなさい」

 

「でもそれは冤罪だろ。それよりもどうしてそんなに怒っているのか教えてくれないかな」

 

「その前に手が痛いので離してくれないかしら」

 

 俺は雪ノ下の手をまだつかんでいたことに気がついた。離すと、つかまれた部分を「痛い」と言いながらさすった。

 

「お前と付き合わせてくれと姉さんに言うのがそんなに腹が立つのか? 理由がわからん。一応陽乃さんはお前の肉親だろ。筋違いだったり、おかしな話だとは思えない。いくら嫌いだといっても、お前の態度はどうしても理解できない」

 

 雪ノ下はまた遠い空に視線を投げかけるように目を細めた。そんな微妙なしぐさを見せたときのことを俺ははっきりと思い出していた。

 

「このまえ、山梨まで行ったとき、葉山君のこと聞いたわね。そのときは口を濁していたのだけれど、小学校低学年のころ、私は葉山君が好きだったの。いわゆる初恋といわれるものね。最初は葉山君も私のことを気に入ってくれてたんだと思う。でもその様子を見て、姉さんが邪魔をしてきたの。私と葉山君を引きはがそうと色々仕掛けてきた。

 それだけならまだいいけど、私の前で葉山君に『おれはハルちゃんのほうが好きだ』なんて言わせるのよ。そのころになると葉山君は姉が好きになっていた。言うことも何でも聞くようになっていた。

 幼いころのこととはいえ、すごいショックだった。姉や葉山君を憎しみ交じりで避けるようになるのも普通でしょ。あなたに恋愛感情に関するトラウマがあるのと同じように、私にもあるのよ。

 もうわかるでしょ。自分の好きになった人が姉さんと仲良くしているのがとても耐えられないことが。私は、葉山君以来、好きになった人なんていなかったから、そのトラウマがあることに気づいたのはつい最近。わかった? 私が怒っている理由が。私のことを姉さんとあなたが勝手に決めるのが許せなかったことが」

 

 俺は、雪ノ下の3LDKマンションで、突然入ってきた陽乃さんの手を引っ張り、出て行ったときのことを思い出した。あの後も雪ノ下は不気味なくらい怒っていた。今から思い出せばあれも嫉妬だ。

 そして・・・俺は陽乃さんの顔も思い出していた。雪ノ下と交際したいと言ったとき、陽乃さんは吹っ切れたような表情を浮かべた。それは、妹に与えてしまったトラウマが、これで癒えると思ったからなのか? ずっと妹への懺悔の念を持っていたとするなら、陽乃さんもそれほど悪い人ではないことになる。

 だが、しかし、最初のころ、陽乃さんはその気のない雪ノ下と俺をくっつけようとして囃し立てていた。本人の気持ちを無視して煽るような人を善人とは言えない。昔は妹の初恋の相手を奪い取り、最近では無理やり妹と俺をくっつけようとする。確かに迷惑この上ない姉だ。

 花火大会で陽乃さんが「また雪乃ちゃんは選ばれないんだね」と呟いたことも思い出す。自分が選ばせなかったくせに。

 雪ノ下が姉との間の溝を意識的に作っている理由が今になって理解できた。この溝は、もう少し時間が経過しないと埋まらないのかもしれない。

 小学校時代のトラウマ。高校生になればそんなもの忘れていそうだが、雪ノ下の場合はそれを癒してくれる経験がなかったのか。そもそも、過去の嫌な経験に縛られてきた俺がそんなこと言う資格はない。

 

「そうか。悪かった。そういう事情があるなら話してくれたらよかったのに。さすがにそこまで想像力は働かない。確かに俺もあの人には振り回されていると感じるけど、性格がよくわからなくて不気味だ。俺には苦手な人だ。もうお前をイライラさせるようなことはしない。許してほしい・・・」

 

「・・・」

 

 しばらく雪ノ下は俺を見つめていた。何分も、俺たちは動かずにお互いを見つめ合っていた。やがて、その表情が緩んできた。

 

「わかった。許してあげる。そのかわり、ひとつお願いを聞いてくれる?」

 

「なんだい?」

 

「その、あの・・・やるべきことがあるって言ってたわよね・・・くんずほぐれつの前に・・・」

 

 雪ノ下がその細い体をモジモジさせている。俺は何を言いたいのかわかった。どうでもいいじゃないとか言いながらも待っていたらしい。今度は俺が行動する番だ。

 

「わかった。それ以上言わなくていい」

 

 俺は雪ノ下をしっかりと抱いた。雪ノ下の両手が俺の肩の上で首の後に回る。すぐ目の前には、はにかんでうつむき加減の顔。俺も恥ずかしさで爆発しそうだが、なんとかこらえる。右手でそのあごを少し上げる。そして、くんずほぐれつする前にやるべきことをした。

 俺はこのとき、雪ノ下と初めて本物の関係になれたような気がした。お互いの気持ちがわかってから4ヶ月以上。ずいぶんと長い時間がかかったように思う。

 

 俺は顔を少し離して「俺たちも帰ろう」といい、雪ノ下の手を引いて歩き始めた。その手が俺の腕にからむ。

 

「おまえの中に、あとどれくらい地雷が埋まってんだ?」

 

「どうかしらね。詳しく診察してくれる?」

 

 一瞬、陽乃さんと会話しているような錯覚に陥った。

 

「おい、急に大人の会話して子供をからかうな」

 

「そういう意味だったら、私だってまだ子供なのだけれど」

 

 平塚先生は今ごろ片岡さんと一杯やっているのだろうか。先生が昔の彼をどのように思っているのかわからないが、少なくとも今回の件を一人で背負い込むことだけは避けられたように思う。孤独に陥ることを防ぎ、ショックを共有できる人を提供できたとしたら、今回の作戦は大成功だ。

 俺はそんなことを考えながら帰宅した

 

 

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※乱文失礼しました。最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。

八幡が俺TUEEEになってしまっている点、ご容赦ください。ご笑読のほど

お願いします。

 



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第三章・やはり俺の青春はココロコネクト
A面01


ありきたりのトランスジェンダーものです。ふうせんかずらが出てきて「人格入れ替わりイベント」を宣言します。その後、ふうせんかずらが大雪を降らせて総武高を封鎖し、生徒にバトロワをさせる予定です。

ココロコネクトのキャラは出てきません。
ドタバタコントを目指しますがうまくいくかどうか。
(ドタバタコントは挫折しました。物語の構造を楽しんでいただけたら
幸いです。なお、「R-15」 および 「残酷な描写」 は、この第三章からです。
俺ガイルの熱烈なファンの方は、ここで読むのを止めたほうが吉かもしれません)


 その日、6時間目は数学だった。捨てている数学の授業を聞いていたって所詮わからない。眠い。俺は机に突っ伏して寝た。10分くらいウトウトしてふと目覚める。すると、周囲の景色が変わっていた。

 振り返ると三浦優美子がいた。ここは由比ヶ浜の席だ。三浦の両隣りには葉山と戸部がいた。しばらく頭がボーッとして理解できなかったが、俺は知らないうちに席を移動していたらしい。

 だが、胸が重い。下に視線を落とすとスカートをはいている。そして、おそるおそる胸に両手を当ててみると……………! 

 

 後ろの三浦に話しかけられた。

 

「ユイ~、最近オープンした幕張イオンモール行った~? あーし、今日行ってみたいんだよね~」

 

 無視した。

 

「ちょっとユイ、なんでシカトしてるし」

 

 仕方なしに俺は答えた。

 

「あんなところ、俺には興味ないよ」

 

 そう言って振り返ると三浦が変な顔をしている。葉山も俺を見て怪訝そうな表情を浮かべる。

 

「あ、言葉使いまちがえちゃったし。ごめんごめん。今日は無理だけど、今度行こうよ」

 

 俺はそう言い直した。しかし俺の声はまったく由比ヶ浜の声だった。

 

 俺は俺がいるべき席を見た。するとそこには俺がいた。俺のいるべき席にいる俺も、ほとんどパニック状態の表情で俺を見ていた。

 チャイムが鳴った。俺はガタンとイスを倒しそうになりながら俺がいるべき席に向かい、俺に話しかけた。

 

「おい、お前はもしかすると由比ヶ浜か?」

 

「そうだよ。もしかしてヒッキー?」

 

 俺たちは入れ替わってしまったらしい。人に会話を聞かれるとまずいので、俺は由比ヶ浜もとい俺の体を引っ張って、人通りの少ない廊下の隅まで連れてきた。その様子は由比ヶ浜が比企谷の手を引いているように見えるはずだ。

 

「ヒッキー、何がどうなってんの?」と泣きそうな俺の顔が俺の声で俺に問う。

 

「わからん。とにかく部室に行こう。あそこなら色々話せる」

 

「わかった」

 

 俺たちはカバンを取ってから部室に向かった。扉を開けるとそこには小町、大志、雪ノ下がいた。

 

「ゆきのん! なんか変だよ。私とヒッキーが入れ替わっちゃった」

 

 俺の姿をした由比ヶ浜が俺の声でそういった。

 俺も「雪ノ下、マジでなんかおかしい。由比ヶ浜の体に俺が入っている、ついさっきから」

 

 由比ヶ浜に「雪ノ下」呼ばわりをされた雪ノ下は、目を白黒させて俺たちを交互に見た。

 

「あなたたち、エイプリルフールはとっくに過ぎているのだけれど」

 

「お兄ちゃん。なんか面白い遊びでも考えたの? 小町もやりた~い」

 

 そういって小町も興味深そうに俺たちを見比べる。

 

 その脇から大志が割り込んできた。

 

「ユイとヒキタニ君、何で私こんなとこにいるの? ここって奉仕部だよね。私さっきまで教室にいたはずなんだけど………」

 

 俺は大志に向かって問いかけた「君は誰?」

 

「私は海老名姫菜だよ」

 

 一同、ええ~! と声を合わせる。

 

 その瞬間、雪ノ下が突然立ち上がって「キャー」と悲鳴を上げた。

 

「あーしもわからない! なんでこんなとこにいるし!」

 

 雪ノ下は自分の体を見回してほとんどパニック状態。

 

「なんで私の髪黒いし! ニーハイソックスはいてるし、ユイ! 助けてくれし!」

 

 雪ノ下の姿をした三浦は、由比ヶ浜の姿をした俺に向かって抱きついてくる。その顔は半泣きだ。

 

「おい、俺は比企谷で、由比ヶ浜はあっち」と俺は俺の姿をした由比ヶ浜を指差す。

 

「もう、なんだかわからない!」と俺の姿をした由比ヶ浜が叫ぶ。

 

 小町が全員の中央に現れる。

 

「ふ~ん。これは人格入れ替わりというやつですかね。なんかそんな小説とかテレビドラマあったですね」

 

「お前は入れ替わってないのか? だったら状況を冷静に把握してくれ。俺たちは何がなんだかわからん!」

 

 俺はそう言ってイスに座った。そこへ、ガラガラと扉が開いて三浦が入ってくる。

 

「信じられないわね。どうして私が三浦さんの体になっているのかしら。さっき比企谷君と由比ヶ浜さんの話を聞いたとたんに、私は葉山君とか戸部君とか海老名さんとかの近くにいたのだけれど」

 

「では、状況を整理しましょう。お兄ちゃんの体には結衣さん。結衣さんの体にはお兄ちゃん。三浦さんの体には雪乃さん。雪乃さんの体には三浦さん。そして、大志君の体には海老名さん。ということは、大志君もそろそろここに来るということでは?」

 

そう小町が言い切らないうちに扉が開き、海老名さんの体に入った大志が入ってきた。

 

「俺、なんだかわからないっすけど、海老名先輩の体に入ったみたいっす」

 

 そのとき、とびらが再び開き、平塚先生が入ってきた。

しかし、その表情はまるで精彩を欠き、青白い。まるで幽霊のような雰囲気だった。

 

「あ、みなさん、おそろいで。……これからあなたたちに面白い実験の対象になってもらいます」

 

「平塚先生、どうしたんですか」と近くの俺の姿をした由比ヶ浜が問う。

 

「私は平塚先生ではありません。先生の体を借りているだけです。意識が飛んでいた時間があるのをあまり気にしないタイプの人だったので。

 私には名前はありませんが、少し前、文研部の人たちからはふうせんかずらと呼ばれていました。たぶん、知らないと思いますが、私は人間ではありません。

 あなたたちにはランダムに人格を入れ替わってもらいます。そう、いつ入れ替わるか、誰と誰が入れ替わるか、いつまでこれが続くのか、誰にもわかりません。

 今回は、奉仕部メンバーだけではなく、あなたたちと近い人たちにも参加してもらうことにしました」

 

 ふうせんかずらを名乗る平塚先生は、半眼のままボソリボソリと話し続けた。俺たちは呆然としているだけだった。

 やがて、先生は体を反転させてロリノロリと部室を出て行った。

 

 

 

 



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B面01

その日、6時間目は数学だった。捨てている数学の授業を聞いていたって所詮わからない。眠い。俺は机に突っ伏して寝た。10分くらいしかウトウトしていないはずだ。しかし、目覚めると、周囲の景色が変わっていた。6時間目が終わってみんな帰って、周囲には誰もいない。が……振り返ると材木座義輝がいた。

 

「むふぅ~ 八幡よ、やっと目が覚めたか。我はこのときを待ちに待っていたのだ」

 

「なんだ材木座か、今日は何の用だ?」

 

「我に向かってそのような言い草をするのは千年早い! 面白い小説の案ができたのでお主に見てもらいたくてな」

 

「またかよ……懲りねぇな。これから部活だから話はそこで聞く。いいか?」

 

「ぶはぁ~ それは困る。また全身に矢を浴びるような酷評に晒されたら、我、死ぬぞ」

 

「じゃあ、どうすんの?」

 

「これだ、これを読んで感想をくれればよい」

 

 そういって材木座はまたコピー用紙の束を差し出した。

 

「まだ冒頭部分しか書いておらぬが、読めばすぐにその面白さがわかるであろう。ではさらばだ!」

 

 目の前には材木座が残して行った文章があった。また読むのかよ。なになに? 最初に但し書きがある。

 

 

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ありきたりのトランスジェンダーものです。ふうせんかずらが出てきて「人格入れ替わりイベント」を宣言します。その後、ふうせんかずらが大雪を降らせて総武高を封鎖し、生徒にバトロワをさせる予定です。

 ドタバタコントを目指しますがうまくいくかどうか。

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 どうやらこの高校が舞台になっているらしい。どこかの投稿サイトにアップする予定のようだ。続きは部室で読むことにした。

 

 

 部室で材木座の未完小説をまわし読みした。登場人物が実在で、しかも俺たち奉仕部がメインだ。人格が入れ替わり? なんかそんなアニメ見たような気がする。

 

「ちょっとヒッキー、何でヒッキーと私が入れ替わってんの、やだ、これ! 私とじゃなくてゆきのんと入れ替わってよ!」

 

「俺に言われても困る。だけど、雪ノ下と三浦が入れ替わっているのは面白いかも。マジでバトりそうだな。見ものだ」

 

「面白いかしらね。ここに書いてあるように、私は絶対嫌だわ。あんな人と入れ替わるのは」

 

「小町はなんで入れ替わらないんでしょうねぇ」

 

 小町が紙の束をパラパラめくっている。そのうち、パサッと長机の上に放り出す。

 

「あ、思い出したっす。ふうせんかずらが出てくるアニメ見たことあるっす。たしか、年齢と体が幼稚園児に戻るのもあったような気が」

 

 投げ出された紙の束を取って、大志がめくり始める。

 

「そのあとバトロワだろ? すげぇ安易だな。発想が。俺たちに殺し合いをさせて、一体誰を生き残らせるつもりなんだ?」

 

 そのとき、平塚先生がノックもなしにソロリと入ってきた。しかし、その表情はまるで精彩を欠き、青白い。まるで幽霊のような雰囲気だった。

 

 なにこれ、デジャブ? 俺は変な感覚を振り払って「平塚先生、どうしたんですか?」ときいた。

 

「ん? ああ、ちょっと昨晩飲みすぎてな、今日はずっと吐きそうなんだ。うぐっ。だから君たち、あとは頼む。適当にやってくれ。うげっ」

 

 平塚先生は、半眼のままボソリボソリと話し続けた。用件を伝えると、先生は体を反転させてロリノロリと部室を出て行った。

 

「よかった。まるでふうせんかずらを名乗ってもおかしくない雰囲気だった。先生も最近色々あったものだから、精神的にまいっているのかもしれないわね」

 

「結婚詐欺師と昔の彼のバッティングだからな」

 

「でも、このまえ平塚先生、お礼におごってくれるって言ってた」

 

「またラーメンかな? それともお好み焼き? どうせそこには……」

 

 俺は陽乃さんが来るんだろと言おうとしたが怖くてやめといた。

 



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A面02

「やべーな。これじゃあ外に出れない。由比ヶ浜の姿をした俺が由比ヶ浜の家に帰宅するのか? 家でどんな生活しているのかもわからないのに? お父さんとかお母さんとどんな会話してんだよ」

 

「私だってヒッキーの家に帰れないよ。コマちゃんがいるからフォローしてくれるかもしれないけど……ヒッキーはゆきのんと入れ替わればいいんだよ……」

 

「あのな、俺たちに選択が可能だったと思うか?」

 

 そんな会話をしていると、雪ノ下と三浦がにらみ合っていた。これから世界最終戦争でも起きそうな気配。

 

「なんだかわからないけど、あーし、雪ノ下さんの体にだけは入りたくなかったし」

 

「そうね。私だってこんなビッチ臭い体、お断りよ。この体に入るとわかるのよ。穢れていることが。感覚的に。すごく嫌な感じだわ。胸が重くて気持ち悪いし」

 

「あ? なめとんか! それはおめぇがちっぱいだからだろ? そんだけ大きくなりゃあ、違和感バチンバチンだろ。感謝しときな! 今のあーしなら、あんたの体ですごくビッチみたいなことができるんだけど?」

 

 そういいながら三浦を宿した雪ノ下がスカートをヒラヒラとまくり始めた。時々大腿のきわどいところまで見える。おいおい。それはヤバイだろ。

 

「なんてことするの? さすがビッチね。それ以上やったら、あなた、社会的に死ぬことになるわよ」

 

 雪ノ下を宿した三浦が、ゆるふわウェーブの金髪を乱しながら、三浦を宿した雪ノ下につかみかかる。とうとう始った。お互いに腕を取ろうとして取っ組み合う。

 普通の状態だったらこの二人の喧嘩は雪ノ下のほうに分があるはずだが、雪ノ下は三浦の体だと勝手が違うのか、まったくの互角だ。三浦の体の手が雪ノ下の体の頬をビシッと打つ。「ひゃいん!」と響く悲鳴。この悲鳴は雪ノ下の声帯から出たものだ。こんな声出るんだな。俺も由比ヶ浜も海老名さんも小町も大志もしばらく無言で見守っていた。

 

「二人とも! 止めてください。今の状態だと相手への攻撃は自分の体にダメージを与えるということですよ!」

 

 小町がそういうと、二人の動きが止まった。どちらも息が荒い。その傍らで俺の体がモジモジしはじめた。

 

「ヒッキー、わたし、トイレ……行きたい」

 

「え? マジか」

 

「男の体でトイレ行ったことないよ。おしっこするときってアレ触るんでしょ? どうしたらいいの?」

 

 俺の体に入った由比ヶ浜が俺の顔を赤くしてそういう。

 

「ユイ~、ヒキオのことなんて気にすることないじゃん。行ってきなよ」

 

「でも……」

 

 おしっことか言うもんだから俺も気がついてしまった。俺もトイレ行きたいことに……。

 

「よし、由比ヶ浜、俺も行く。一緒に行こう」

 

「え? ヒッキーももしかして行きたいの? いやあ~、絶対いやあ~!」

 

 俺の体に入った由比ヶ浜がなみだ目になって叫ぶ。そんなこと言っても俺だって……膀胱さまのお怒りには抗うことができない。

 

「じゃあ、どうすんだよ!」

 

「ヒッキー、お願いだから、トイレの便座に座って、パンツ下ろしたら、絶対見ないで。見たら私、一生恨むよ!」

 

「わかった、わかった。俺のは別に触ってもいいから。触らないとできないから。行くぞ!」

 

 俺と由比ヶ浜は連れ立ってトイレに行った。一瞬、入るべきはどちらか迷ったが、俺は女子トイレに入った。女子トイレなんて初めてだわ。

 

 用を足して部室に帰ると、窓際には三浦の体に宿った雪ノ下と小町、そして海老名さんの体に宿った大志がいて、向かい会う形で大志の体に宿った海老名さんと雪ノ下の体に宿った三浦が睨みあっていた。

 

「ユイ~、ユイはどっちにつく? まさかあーしを裏切らないよね?」

 

「由比ヶ浜さん、あなた、まさか三浦さんみたいなビッチと付き合い続けたいとは思わないわよね」

 

「また言ったし! このハブられ優等生が! お上品ぶりやがって」

 

「あのぅ~ 私、中立ということでいいでしょうか」

 

 由比ヶ浜が優柔不断なことをいったとたんに「ダメだし!」「だめよ!」と一喝されて由比ヶ浜が「ひっ」と体を震わせる。

 

「じゃあ、ヒッキーはどっちにつくの?」

 

「え?俺?」

 

「比企谷君、あなたわかってるでしょうね」

 

「ヒキオはキモイからそっちでいいわ。そのかわり、ユイはこっちにもらう。でもヒキオの体もキモイなぁ」

 

「おいおい、二手に分かれて一体なにをやろうってんだよ」

 

「決まってるじゃん。すぐバトロワが始まるらしいから、仲間を作っておくんだよ」

 

 大志の体に入った海老名さんがそう答えた。

 

「とにかく落ち着け、とりあえずみんな座れ。現状をしっかりと認識して対策を考えよう」

 

 俺はそう言いながら、人数分のイスを並べた。これ以上いがみ合っていてもどうしょうもない。ふうせんかずらの思う壺だ。みんな不満顔のまま、とりあえずイスに座った。

 



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B面02

材木座の小説は、俺と由比ヶ浜がトイレから帰ってきたら、部室に対立が発生していたところで終わっていた。ここで俺はあることに気がついた。

 

「どうして海老名さんはこれからバトロワが始ることを知っているんだ? ふうせんかずらはそんなことひと言も言っていないぞ」

 

「お兄ちゃん、そういえばそうだよね」

 

 

 小町がプリントアウトをめくり始める。

 

 俺は材木座に「すぐ来い」とメールした。すると、扉の外で小さな着信音が聞こえ、すぐに扉が開いた。もしかするとこいつ、俺たちの会話を盗聴していた?

 

「ぶおっほおぅん。呼ばれて飛び出てなんとやら。八幡、なに用かな?」

 

「おい、小説の終わりで、どうして海老名さんがバトロワが始まること知ってんだ?」

 

「うむ、……それはだな…海老名さんがそういうアニメの世界に親和性が高く、簡単にそうなることが予想できたことと、ふうせんかずらとテレパシーを通じておるという設定なのだ」

 

「本当かよ。安易だけどそういうことなら」

 

「そうともそうとも。いまどき、量子テレポテーションが科学的に証明されていることなど常識であろう。だったらテレパシーが実在しないわけがない。そのうち、物体の瞬間移動も実現するに決まっておる! 小説の想像力は偉大よのう」

 

「それは違うわね。材木座君。量子テレポテーションを誤解しているようね。量子テレポテーションは物質の瞬間移動を決して実現しない。そんなことも知らないでよくそんな大言壮語を吐けるものね」

 

 雪ノ下が冷厳な声で指摘し始めた。ちょっと目つきが怖いです。

 

「量子テレポテーションというのは、二つの素粒子に因果関係を持たせて、一方を観測すると、もう一方の状態を観測しなくても決定できるということに過ぎないの」

 

「はぁ? もう少しわかりやすくご教授願えるかな?」

 

 材木座が体を30%ほど縮小させておそるおそる訊ねる。すると、雪ノ下は黒板に図を描き始めた。

 

「いい? 二つの素粒子、たとえば電子をエンタングルさせる、つまり絡み合わせるということは、たとえばスピンで考えると、必ず逆の性質が双方に現れるの。それをA電子が↑、B電子が↓、になっていると表現します。Aを観測したとき、↑と判明すると、Bは必ず↓になっているというに過ぎないわけ。

 Aの電子が瞬間的にBのいる場所に移動するわけでは決してないの。ただ、AとBが何万キロ、何億光年離れていても、Aを観測してデコヒーレンス、つまり収束させたとき、同時にBも収束してAとは逆の絡み合った性質を明らかにする。これはアインシュタインの、物体や情報が伝播する速度は光速を超えない、という法則に違反するように見える。つまり、情報が光速を超えて伝わっているように見える。だから、テレポテーションなんて呼び方が定着しているだけ。わかった?」

 

「っすっすっすぅっご。わからないけどわかりますた」

 

「いま、ゆきのん何言ってたの? 無理っぽいよ、私には。ゆきのん何者? 先生?」

 

 由比ヶ浜の顔が青ざめている。小町も口をあんぐり開けて無言だ。部室が凍りついた。やはり氷の女王は健在だった。

 

「で、小説の設定でそうなっているんだったら私も別に文句はないのだけれど、非科学的な発言があったものだからつい指摘したくなっただけよ」

 

 雪ノ下がイスに戻る。すると、材木座が30%拡大して元に戻った。体から湯気が立ち昇っている。

 

「あのぅ、もう一つ小説内の設定の参考にしたいことがあるのだが………」

 

「なにかしら?」

 

「つい最近、ヒッグス粒子というのが発見されて大騒ぎになったではないか。この小説とは別で、SF小説を考えているのだが……宇宙空間に充満しているヒッグス粒子を集めて放出するヒッグス砲というのは可能であるかな?」

 

「無理ね。だいたい、ヒッグス粒子なんて宇宙に充満していないし。当時、ヒッグス粒子が空間に充満していて、それに物質粒子が当たって抵抗が生まれる。それが質量の発生するメカニズムみたいに言われていたけど、これはとんだ間違いね。質量は物質粒子がヒッグス場と相互作用して発生するの。ヒッグス場というのは真空期待値がゼロではない。どうしてゼロではないのかは謎なのだけれど、ゼロではないから相互作用が起こることになる。

 ヒッグス粒子というのはヒッグス場が極めて高いエネルギーをもらって、ヒッグス場が励起して発生するものよ。別の言い方をすれば、宇宙空間が4000兆℃になったときに相転移が起こって出現する。太陽の中心温度が1600万℃と考えられているのに、そんなエネルギーをどこから調達するのかしら。

 この前CERNで発見されたヒッグス粒子も微細な点に高エネルギーを集中させてやっとヒッグス粒子が現れたに過ぎない。そんな粒子を大量に集めて放出するなんて子供の妄想ね」

 

「ぶひぃ~。わかりますた。もうすこし勉強してきます………」

 

 今度は体を40%縮小した材木座がトボトボと部室を出て行った。やれやれ。見回すと、由比ヶ浜も小町も大志もポカンとしていた。

 しかし、海老名さんがバトロワを知っている件はどうなるんだよ。俺は材木座に「このあともあの小説書き続けるのか?」とメールした。すると、「もちろんだ。あれしきのことで挫ける我ではない!」と返事が来た。こいつ。酷評されたら死ぬといかいいつつ、意外にメンタル強いのな。



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A面03

忙しくて更新できませ~ん!



 イスに座っているのは由比ヶ浜の姿をした俺、俺の姿をした由比ヶ浜、三浦に宿った雪ノ下、雪ノ下に宿った三浦、大志に宿った海老名さん、海老名さんに宿った大志、そしてそのまんま小町。あ~いちいち姿と心を考えるのがすげぇ面倒だ。こうしよう。

 

 不可視なゴースト(目視して確認できる固体の識別名)、つまり、心(体)だ。俺はいままでゴーストの名前で相手を呼んだり識別していることに気がついた。ゴーストを宿している肉体の名前で呼んだことはない。

 

 つまり俺の場合だったら、

比企谷(由比ヶ浜)……これで行こう。

 

「さて、これからのことだが。他人の家に帰って、他人を演じることが可能だと思う奴はいるか? 俺は由比ヶ浜の家に帰る自信はない」

 

 俺がそういうと、小町を除いて全員が考え込んだ。無言が続く。答えはわかっている。

 

「自分が一番きついっす。海老名先輩のことほとんど知らなくて、演技する手がかりもないっす」

 

 大志(海老名)が海老名(大志)に話しかける。

 

「そうだよねぇ。大志君の姿をした私がいきなりサキサキにBL布教し始めたら驚くだろうね。うふ」

 

 海老名(大志)は何か楽しそうだ。しかし、川崎沙希だったらこの状況を話して協力してもらえるかもしれない。

 

「問題なのは明後日にある模擬試験かしらね。日本全国の高校が対象で、今回からうちの高校も参加することになったのだけれど、その成績が進路相談の資料になったりするから、重要だと思う人も多い。だけれど、三年のこの時期ではあまり力を入れる必要もないような気もするし……」

 

 雪ノ下(三浦)がそういうと、三浦(雪ノ下)がハタと気づく。

 

「あーし、このままだといい大学行けるってこと? 内申点アゲアゲで推薦もらったり、ハブられ優等生に大学受験してもらって合格して、そのあとで元に戻れば、いいとこ行けるし」

 

「そううまく行くわけないでしょ。ビッチそのものね」

 

「いつ元に戻るかわからないって言ってたからね~。私もゆきのんと試験のときだけ入れ替わりたい。期末試験とかも」

 

「ばかね。そんなことでしたって、あとで苦労するだけでしょ」

 

「それは言えてますねぇ。元に戻ったら、結局同じですからねぇ。それと、逆に考えれば雪乃さんの成績が下がっちゃいますよね。それも問題あるかもしれませんね」

 

 小町がそういうと、三浦(雪ノ下)が悔しそうな顔をして「クッ」と毒づいた。

 

「俺は提案したい。そういった問題をすべて解決するには、雪ノ下の家でしばらく合宿するしかない。ふうせんかずらが変なイベントを止めるまで。一人暮らしは雪ノ下だけだし、2DKと広い。そこで雪ノ下が三浦に勉強を教えて少しでも成績を上げればいい」

 

「ちょっと、ヒキオ、あーしがハブられ優等生と一緒に泊まって、勉強まで教えてもらう? ありえないし。まったく悪い冗談だし」

 

「まあまあ、優美子、このさいしかたがないよ。しばらく我慢だよ」

 

「私も我慢できるかどうか自信がないわ。悪態つきまくるビッチと一緒じゃ」

 

「あ? またビッチ言ったし。小賢しいちっぱい女が!」

 

 雪ノ下(三浦)が立ち上がろうとするが、由比ヶ浜(比企谷)がその肩を必死で抑える。

 

「まあまあ、二人とも落ち着いて……」

 

「由比ヶ浜、三浦と雪ノ下の調停役はお前に任せる。なんとかしてくれ」

 

「ええ~? この二人が暴れたら、私じゃどうにもならないよ? あ、でも今の私は男の体だね。多少は強いかも」

 

「はぁ~。しかたないわね。今のところ、私の家で合宿する以外になさそうね」

 

 そう三浦(雪ノ下)がいったところで下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。

 

 

   ★   ★    ★

 

 

 雪ノ下宅には入れ替わった6人と、そのまんま小町も泊まることになった。小町が大志と同じ家に泊まることは許せないが、危険な大志の体には今海老名さんが入っている。それに、大志の心を宿しているのは海老名さんの体だ。間違いは起こりえない。

 

 雪ノ下の2DKは、以前の豪華億ションと比較するとつつましかった。それでもダイニングルームはリビングルームといえるほど広い。

 ダイニングルームの窓際にあるソファの背中には、パンダのパンさんのぬいぐるみがおびただしく並んでいる。それを見て三浦(雪ノ下)が「なにこれ。あんた、こんなの好きなの? ふ~ん」と鼻を鳴らす。

 

「あなたには関係ないでしょ。くだらないこと言ってないで食事くらい作りなさい」

 

「あーしに料理しろと? 無理だし」

 

「じゃあ、私がやるよ」と由比ヶ浜(比企谷)がいうとみんな「え?」と叫ぶ。

 

「はぁ。結局私がやることになるのね」と、雪ノ下(三浦)がため息をつく。

 

「あ、私も料理は多少できるよ」と海老名(大志)が冷蔵庫を開ける。すると、綺麗に並んだ調味料が見えた。

 

「では、手伝って。これだけ人数がいて、簡単にできるものは、やっぱりカレーかしらね」

 

「なんだ、簡単じゃん」

 

「小町はごはん炊きま~す。この炊飯器5合炊きですよね。すると、一人一合としても足りないか。5合を二回炊きましょう。明日の朝もあるし」

 

 海老名(大志)が野菜室からじゃがいもやニンジン、タマネギを取り出す。さっそくまな板の上で包丁を使い、皮をむき始めた。はたから見ると、三浦と大志がダイニングに並んで一緒に料理をしている。なんともシュールな光景だった。

 

 夕食後、信じられないことに三浦(雪ノ下)が素直に雪ノ下(三浦)に、ダイニングテーブルで勉強を教えてもらっていた。その横には由比ヶ浜(俺)が座り、雪ノ下の講義を聞いている。その光景は、事情を知らない人間が見れば、三浦が雪ノ下と俺に勉強を教えているように見えるはずだ。なんとも不思議な光景。

 

 俺とか大志はぼんやりテレビを見ていた。そのまんま小町は洗い物をした。

 

 午後10時になると眠くなった。問題は部屋割り。しかし俺と大志はリビングのソファで適当に寝ることにした。

 いったん勉強会を中止して、押入れから布団や毛布やシーツといった布類を引っ張り出し始めたのは三浦と雪ノ下だった。

 そのとき、三浦が見てはいけないものを見てしまったらしい。押入れの奥に積んであった古いアルバムを持って、テーブルにいた雪ノ下のところへ戻ってきた。

 

「あんた、ここに写っているの隼人でしょ? これなんだし?」

 

「勝手にそんなもの見ないでくれるかしら。他人のプライベートを覗くなんて、やはり趣味が悪いわね。その写真に何か問題でも?」

 

「これ、小学生時代のゆきのんと隼人君だよね。そっか、幼馴染だったよね。こんな写真があっても不思議じゃないんじゃないの?」

 

 三浦の隣りで由比ヶ浜がアルバムを覗き込む。

 

 おそらくその写真には、幼いころに家に遊びに来た葉山が雪ノ下や陽乃さんとかと撮影したものだろう。しかし、あまり見られたくない人にそんな写真が直撃してしまったことになる。

 

「何かあると思っていたら、やっぱりそうだし。雪ノ下さん、あんた隼人のことどう思ってんの?」

 

「どうとは? 別に何も思っていないのだけれど」

 

「くっ。なんか悔しいし。あーし、絶対あんたに負けたくないし」

 

「優美子、ゆきのんは確かに隼人君のことは何とも思ってないよ。それは保証するよ」

 

「そ、そう。わかった。じゃあ、さっそく勉強開始!」

 

 なんか三浦がすごく勉強やる気になったみたいだ。

 

「あーし、絶対あんたに追いついてやる!」

 

「そう。私に接して自分を高めようとする人も珍しいわね。もしかするとあなたが初めてかもしれないわね。本気なら協力しないこともないわよ」

 

「さすがゆきのん!」

 

「では、一~二年の内容で、必ず試験に出ると思われるところをリストにしてあげるわ。それを見て復習すれば効率が上がるはずよ」

 

「………ありがとう。あーし頑張っから」

 

 一体なに?…この光景…そんな会話を横目で、いや横耳で聞きながら俺はソファに寝転んで、シーツ一枚かぶりながら寝入っていた。

 

 朝、目が覚めると、俺は雪ノ下の寝室と思しき部屋の床に、絨毯を並べて横たわっていた。体には毛布がかかっている。体を起こすと、すぐ横のベッドには雪ノ下(三浦)がまだ寝ていた。

 俺は確かリビングのソファで寝ていたはずだ。もしかすると戻ったのか?

 

 俺は三浦の体をゆすって起こした。すると、そのゴーストは三浦本人だった。

 

「ん? あーし、元の体に戻ったみたいだし。あんた結衣じゃないの?あんまりジロジロ見ないでくれる?」

 

 眠そうに目をこすりながらパジャマ姿の三浦も起き上がる。俺は露骨なその姿から目を逸らした。俺の隣りでは小町も目覚めた。「ふわぁ~」とあくびをする。

 

 俺は、リビングに行ってみた。すると、そこにはソファでシーツにくるまっている由比ヶ浜の体があった。近くの床にはあられもない寝姿の海老名さんの体。

 

 もう一つある部屋からは、雪ノ下と大志が出てきた。そのどちらも元の体に戻っているようだ。

 

「どうやら元の体に戻ったみたいね。全員そうなのかしら」

 

「そうみたいだな。ふうせんかずらの魔法も一晩限りか」

 

 リビングに全員が起きてきた。全員が元の体に戻り、自分の体を懐かしむように確かめていた。しかし、このイベントに何の意味があったんだ? 

 俺たちに何かの変化があったとすれば、三浦と雪ノ下がなんとなく仲良くなったような兆しが見られることぐらいだろう。

 その証拠に、三浦が雪ノ下のマンションを出るとき、「勉強教えてくれてありがとう。一応、お礼いっとく」と、どことなく恥ずかしそうに学校へ向かった。

 

 



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B面03

kousin ture-!


 材木座が部室を出てからしばらくして、平塚先生が入ってきた。さっきよりも多少顔色が戻ったようだ。

 

「みんな、今日空いてるか? お礼の宴会をドド~ンと開きたい。宴会といっても君たちはノンアルコールだが。店はあそこがいい。夜景が綺麗な、幕張新都心の高層ビルの上のほうにあるカラオケ・パーティルームだ。OKならこれから予約する」

 

「先生、二日酔いは治ったんですか? 今日はやめておいたほうがよかないですかね」

 

 俺がそういうと、「なーに、向かい酒一発で復活するさ。面白い余興もあるみたいだしな」と平塚先生がニヤニヤしながら俺の肩に手をかける。

 

 なんか嫌な予感がする笑い方だったが、みんな賛成のようだ。ただ、今日は家の用事がある大志は参加できないという。

 先生は、戸塚とか材木座も呼んでかまわん。呼べる奴は全員呼べ! と大風呂敷を広げるので、俺は遠慮なく戸塚や材木座にメールした。

 

 幕張新都心までみんなでゾロゾロ歩いていると、途中で戸塚が追いついてきた。戸塚が弱いテニス部を見限って奉仕部に転部してくれたら……

 

「はちま~ん! 今日は楽しそうだね」

 

「よお、戸塚。お前も先生の救出作戦に加わったから、ご馳走にあずかる資格は十分にあるぞ」

 

「何もしてないけどね~」

 

 頭をかきながら戸塚が笑う。それを横目で見ていると、後ろを歩いていた小町に尻をつねられた。尻から背中にかけて痛みが走る。

 

「いてぇ」

 

「ん? どうしたの、八幡」

 

「いや、なんでもない。今日の宴会場は、カラオケOKの個室で料理もすごく美味いんだって。そこらへんのガキが行くカラオケとは違って、大人の社交場らしい」

 

「ふ~ん。お金とか大丈夫なのかな」

 

「大人の財力をなめるなとか言ってた」

 

 高層ビルの27階にその店はあった。店名は「スカイラウンジ・オセアノス」だった。

 

「へぇ~、カラオケボックスじゃないんだね。ラウンジだって」

 

 由比ヶ浜が店のロゴを指差すと、雪ノ下が「海に面しているからオセアノスなのかしらね」と思案顔で言う。

 

 女性コンシェルジェが近づき、「総武高の方たちですか? お部屋にご案内します。こちらにどうぞ」と先を歩き始めたので、みんなついていく。

 店内の照明は暗く、廊下からはパーティルームのドアがいくつか見えた。絨毯引きの廊下を歩いても靴音がしない。それに、下手糞なカラオケの声すら聞こえてこない。

 

「こちらです」

 

 コンシェルジェに通された部屋は、20畳くらいの大きさで、中央に大きな円形のテーブルがあり、それを囲むようにイスが並んでいた。奥にはカラオケモニタとマイクスタンドが立った小さなステージがあった。

 先生はステージ側に座っていた。すでにコップに残っているビールは半分。その隣りにはやはり陽乃さんがいた。由比ヶ浜と小町が陽乃さんに手を振る。

 

「やあやあ、みんな来たね~ ガハマちゃんも小町ちゃんも元気そうだね。小町ちゃんなんてちょっと見ないうちに背が伸びたね~」

 

「姉さん、それは親戚のおばさんの言うことでしょ」

 

「まあいいじゃない。雪乃ちゃんも座った座った。今日は発表することがあるからね~主賓の比企谷君も早く座って~」

 

「陽乃、発表することって何だ?」と先生が問いかけるが陽乃さんは笑ってシカトする。

 

 主賓? マジでなんか嫌な予感がする。何をしかけてくるのかわからないのが陽乃さんだ。それに、先生はさっき、楽しい余興もあるとか言ってたのも気になる。しかし、そうやって深刻に警戒してしまうのは俺の悪いクセかもしれない。

 俺がボーッと立っていると、陽乃さんが「ほらほら!」と近づいてきて、手を引っ張られ、雪ノ下の右隣りに座らせられた。俺の右隣には戸塚が座った。雪ノ下の左隣は先生、その向こうは陽乃さん、そして小町、由比ヶ浜という布陣だった。

 

 テーブルの上にはジュースとコップがあり、「みんなとりあえず手じゃくでやろう」と先生がいうので、手じゃくの意味がわかった奴は自分でジュースをコップに注いだ。わからない奴は真似した。

 

「それでは! 静ちゃんの窮地脱出を祝って、乾杯しよう!」と陽乃さんが立つので、みんなも立った。

 

「かんぱ~い!」

 

 めいめいがコップをコツンと当ててジュースを飲む。先生と陽乃さんはビールだった。それも先生だけは大ジョッキ。

 グビグビ飲んで、プハーッと目を瞑るその顔はすでにほんのりと赤い。幸せそうだ。幸せそうだよ、うん。

 

 大きなサービスワゴンを押して、コンシェルジェが入ってきた。そこには、人数分の前菜やらスープやらサラダやら……、そしてなんとローストビーフが出てきた。下手をすると一人一万円ぐらいのコースなんじゃないの?

 

 食事が終わるころには、先生の前にはビール瓶が5本立っていた。

 

「静ちゃん、それで、彼とはうまくいってんの?」と陽乃さんが話のついでにたずねると、先生は「うっ、う、う、う~」と、腕を目に当てて泣き始めた。……ということは、うまく行かなかったのか?

 

「あの人、俺はいつまでも待ってるって言うんだよ。……俺は一回死んだも同じの人間だ。いまさらどうなってもかまわない。……俺は滑り止めでいいよ。もっと良い男が現れたらそっちにのりかえればいい。そのときは静ちゃんの幸せを願ってひっそりと身を引くさ。でも、一生私を待ってるなんて言うんだよ……うっ、うっ、うっ」

 

「ふ~ん。いい人そうだねぇ」

 

「そんなこと言われたら……捨てることなんてできないじゃない……乗り換えるなんて無理じゃない……。ずるいよ……うっ、ぐすっ、ずるっ……あ~酒が足りない、お姉さん! ハイボール一杯! ダブルで」

 

 その様子は悪酔いしているようにしか見えない。

 

「大丈夫ですか、先生。もう止めておいたほうがいいのでは?」

 

 さすがに雪ノ下が先生をたしなめる。すると、コンシェルジェが水とハイボールを持ってきた。それを受け取った由比ヶ浜が先生の前に水を置いた。先生はそれに気がつかず、水をグビグビ飲んだ。そして何も言わない。その後、とうとうテーブルに突っ伏してしまった。

 

「あ~あ、静ちゃん、このままだと潰れちゃうね」

 

「姉さんは車? 先生を送って行くのよね?」

 

「うん、大丈夫だよ」

 

「でも陽乃さん、ビール飲んでませんか? やばくないですか」

 

 由比ヶ浜が心配そうに言うと「大丈夫でしょ。これくらい。コップ一杯しか飲んでいないし。そのうち醒めるでしょ」

 

 俺は陽乃さんに「発表することって何ですか?」と訊いた。

 

「発表するって大げさなことじゃないんだけどね。そうだ、比企谷君はもう知っていると思うな~」

 

「は? 俺が知っている?」

 

「あれだよあれ~」

 

 もしかして、留学のこと? やばい、陽乃さんが雪ノ下のほうをチラチラ見ている。雪ノ下は無表情だったが。

 

 そのとき、平塚先生がガバッと立ち上がった。顔が青ざめて死人のようだ。半眼で表情がまったくない。

 もしかしてリバース? いい大人がリバースしちゃうの? 隣りの由比ヶ浜とか小町もただならぬよの様子を、驚いて身を引くように眺めている。

 

「……みなさん、おそろいで。これから面白いイベントを行います。……みなさんは他人がどんなことを考えているか知りたいと思ったことはありませんか……そんな願いをかなえてあげましょう……みなさんには面白い実験の対象になってもらいます……」

 

 え?……なんだって?…まさか、ふうせんかずら? 材木座の書きかけ小説を読んでいた奉仕部の面々はその意味がわかったらしい。しかし、ふうせんかずらなんてこの世に存在しない。一瞬驚いたが、俺はおふざけだろうと思った。

 

 隣りの陽乃さんが立ち上がって、平塚先生の体を揺する。

 

「どうしちゃったの? 悪酔いしちゃった? 大丈夫かな~ ちょっと座ろうよ」

 

「……私は酔っていません。……平塚先生がずいぶん性格的にズボラだったので利用させてもらいました。……私には名前がありませんが、一部の人たちはふうせんかずらと呼んでいます。……私は人間ではありません。………みなさんには人格を入れ替わってもらいます。誰と誰が入れ替わるか、いつ入れ替わるか、いつまでそれが続くか、誰にもわかりません。それでは、みなさん。このイベントを楽しんでください……」

 

 平塚先生はゆっくりと話をしめくくり、席に座って、再びテーブルに突っ伏してしまった。

 

「マジ? そんなことありえないと思うけど」

 

 由比ヶ浜が恐怖で顔を引きつらせて先生を見つめる。場の雰囲気が一瞬で凍りついてしまった。

 

「ふうせんかずらって何?」と陽乃さんが訊くので俺はアニメに出てきた正体不明の人に憑依する霊魂のようなキャラクターを説明した。それを材木座が小説の中で利用していることも。

 

「まさか、そんなこと………うっ……」

 

 雪ノ下がテーブルに突っ伏した。そして、由比ヶ浜も「え?え?」と声を出して突っ伏した。

 

 いくら頭のいい陽乃さんでもこの状況を理解できないらしい。少しうろたえている。

 

「戸塚と小町は平気か?」俺はそう訊ねると、二人ともうん、うん、とうなずいた。

 

「お兄ちゃん、こんなことある?」小町はそういいながら、突っ伏している由比ヶ浜の背中を揺らした。しかし、何の反応もない。俺と陽乃さんは雪ノ下の背中をトントンと叩いたり揺らしてみるが、こちらも反応がない。

 

 一体、この状況は何だ?

 

「救急車呼んだほうがいいかな?」と小町が言ったとたん、雪ノ下と由比ヶ浜がガバッと体を起こした。

 

 由比ヶ浜が言う。

 

「わたし、どうしたのかしら。わたしはここにいるのだけれど、そこにわたしがいるのはどういうこと?」

 

 それに応えるように雪ノ下が言う。

 

「ええ~! わたしってゆきのんになってる! なんで? 髪も黒くて長いし」

 

「お前ら入れ替わったのか?ふうせんかずらにやられたのか!?」

 

「わたしの姿がそこに見えるということは、どうやらそうみたいね」

 

 そう言って、由比ヶ浜の体に入った雪ノ下が確かめるように手を振ってみたり、髪を触ったりしている。雪ノ下の体に入った由比ヶ浜も同じような身振り手振りをくり返している。

 

「うそ~! そんなことあるわけないじゃない。冗談よしてよ」

 

 陽乃さんは目を白黒させて雪ノ下と由比ヶ浜を交互に見比べる。

 

「八幡。一体どうなってるの?」

 

「見てのとおり、あいつら、入れ替わったらしい。戸塚、なんかお前をマズイところに巻き込んじゃったようだな」

 

「そう言われるとなんか怖いよ」

 

「う~む。平塚先生は入れ替わっていないとして、雪ノ下と由比ヶ浜はどうしたらいいんだろう」

 

「材木座君の小説では、入れ替わりはどれくらいで終わるのかしらね」

 

由比ヶ浜の体に宿った雪ノ下が俺を見る。

 

「わからん。奴はいまごろそのあたりを書いているのかもしれない」

 

「ヒッキー、どうしよう。でもこのまま明後日の試験受けたら、わたし、すごい成績取っちゃうね。逆にゆきのんは困っちゃうね」

 

「模擬試験のことね。あれは確か今年から導入されたのだけれど、3年の今ごろの成績なんかあまり関係ないから、大丈夫だと思う」

 

「でも……」

 

「おい、そんなことより、これからどうするかだ。由比ヶ浜の体に入った雪ノ下が、由比ヶ浜の家に帰れるのか? 家族と話が合わない可能性があるぞ」

 

「そうね。どうしたものかしらね」

 

「じゃあ、雪乃ちゃんのマンションにガハマちゃんが泊まればいいんだよ。その、ふうせんかずらの呪いが解けるまで」

 

「それがいいと思います。小町も行きたいです。また合宿しましょう!」

 

「おい、これは合宿とか言って遊んでいる場合じゃないぞ」

 

「そうでした。でも二人に何かあったとき、もう一人いたほうがいいでしょ?」

 

 俺はとりあえずイスに座り、目の前にあったジュースをコップに注いだ。この前代未聞の事態にどう対処したらいいのかさっぱりわからなかった。



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A面04

 その日の放課後、眠くてしかたがなかったが、俺は奉仕部へ行った。ボケッとイスに座っていると、メンバーがチラホラと入ってきた。大志や小町とか由比ヶ浜、それに雪ノ下が入ってくるのは当然として、今日だけは大入り満員だった。心配顔の三浦や海老名さんのほか、入れ替わりの話を聞いたらしい葉山と戸部も入ってきた。

 葉山は三浦の話を聞いて驚き、もっと詳しく知りたいらしい。それぞれが部室の奥に積み上がっているイスを持ち出して長机の周りに座った。

 

「君たちは変な霊にとり憑かれたんだって?」と葉山が切りだすと、「私も平塚先生にとり憑いたふうせんかずらの話を、その場で聞いていたんだけど、あれは霊というよりも物の怪のような気がする」と海老名さんが応える。

 

「ふうせんかずらが何者なのかさっぱりわからん。自分は人間じゃないとか言ってた。それに人格を入れ替わらせるのも自由自在。たぶん、他のことも自由にできるんだろう」

 

「だったら、先生とか警察とかに話をするのはどうかな。これ以上変なことが起こったら、みんな耐えられないんじゃないかな」と葉山が提案すると、

 

 

「それはやめたほうがいいかもしれないわね。大人たちは入れ替わりなんて信用しない。高校生が集団催眠状態になったと判断されて精神科医が出てくるのが目に見えている。私も入れ替わったから、あれは現実と断言できる」と雪ノ下。

 

 そのとき、扉がガラガラと開いて、一色いろはが入ってきた。こいつは完全に部外者だ。

 

「葉山せんぱ~い。こんなとこにいたんですね~。みんな探しているんですよ。戸部先輩までいるし~」

 

「ああ、悪い悪い。そのうち行くから」

 

「で、みなさん深刻な顔して何しているんですか~ 私も混ぜてください。何か問題ですか。これでも私、生徒会長です~」

 

「いろは。あまりかかわらないほうがいいんじゃね~。さっきから、めっさ恐ろしいでしょう~」

 

「ええ~。いったい何ですか?」

 

「しょうがないな。いろはは生徒会長だし、一応知らせておくか」

 

 葉山がいろはに耳打ちするように事の経緯を話し始めた。時々「え~?」とか「うそ~!」とか甲高い声を上げて相槌を打つ。まるで楽しい話でも聞いているようだ。まったく警戒していない。

 

「うーむ。俺たちは弄ばれるばかりで、反撃するチャンスもないのか」

 

 俺が葉山たちを横目でそういうと、

 

「ヒキタニ君、よく反撃なんて発想するね。物の怪なんかに勝てるわけないよ。昔の人は効きもしない結界張ったり、お札を貼りまくったりするだけで、ひたすら怪異が去るのを待つだけだったんだよ」

 

と海老名さんが答える。

 

「問題は、ふうせんかずらの目的だな」

 

 いろはに説明し終えた葉山が問いかけると、全員沈黙する。しばらくすると、海老名さんが少し声のトーンを落としてボソリボソリと話始めた。どうして今度は海老名さんなんだ。海老名さんは霊媒体質なのか。

 

「目的ですか……そんなことを気にするのですね。…みなさんはあまりに人間的です。あるいは生物的というべきか。そうした人間的思考の枠内にいるかぎり、私のことは理解できなません」

 

「おい、姫菜、どうした?」

と葉山が隣りの海老名さんの肩をゆする。しかし、海老名さんは半眼で顔色がどす黒くなっている。海老名さんの体だけ、光が避けて通っているように陰影が濃い。………ふうせんかずらの光臨だ。員が固唾をのんでその話に感覚を集中させる。

 

「……いいですか、雪が降るのに目的がありますか。火山が噴火するのに目的がありますか。津波が発生することに目的はありますか。太陽の中心で核融合が起こっていることに何か目的がありますか。太陽系が二億年かけて銀河系の中心を公転することに目的がありますか。この宇宙が無限であることに目的がありますか。……私には目的なんてものはありません。ただの自然現象です」

 

「しかし、あなたが自然現象だというのだったら、どうして人間の言葉を話して、人間の目的を理解できているのかしら」

 

「確かに……あなたの問いかけに対して……私は答えています。しかし、実は、知性が介在していないとしたらどうしますか。信じられますか。たとえば、円周率を知っていますね。円周率は割り切れず、延々と無限にランダムな数字が続きます。この中に、あなたの生年月日が含まれているとしたら? ……いえ、実際含まれているのです。ここにいる全員の生年月日。……あるいは適当に思い浮かんだ数列。すべてが含まれているんです。…ランダムな数列が無限に存在するということはそういうことです。…ここに知性が存在しますか。

 また、こんな説明はどうでしょうか。……アルファベットをランダムに無限に並べていくと、……その中には必ずシェイクスピアのハムレットがあり、メルビルの白鯨があり、……マーク・トウェインのハックルベリー・フィンの冒険が含まれているというのは」

 

「確かにそんな話は聞いたことがある。すべての数列が円周率の中に含まれる。それも偶然。そこに知性なんてない」

 

 雪ノ下がそう応えると、ふうせんかずらは納得したようにうなずく。

 

「さすが、雪ノ下さんは察しがいいようです。そうした計算を宇宙に存在するからみあった素粒子が重ね合わせの状態で計算していたとしたら、ほぼ瞬間的にあなたの発した言葉に対応すべき言葉の列を作れる」

 

「要するに量子コンピュータのことね」

 

「人間の世界ではそう呼ばれているようですね」

 

「ただ、人間の言語をコード化する、つまり計算する前提が必要になると思うのだけれど」

 

「それは昔から無線とか放送電波が飛び交っているじゃないですか。そんなことは簡単にアーカイブ可能です。都合がよいことに、電磁場は光子による波動です。その波動はからみ合った粒子にダイレクトに相互作用する。それを翻訳する必要もないわけです」

 

「しかし、そういった断片的な情報をインテグレーションする組織的なものというか、あなたの言うアーカイブはどこにあるのかしら」

 

「そんなものは宇宙空間に大量にあるじゃないですか。宇宙が始ったときから、無限に存在する素粒子は無限の空間に散らばりながら、からみ合いを保っている。もっとも、人間に理解可能な次元でからみ合っているわけではありませんが」

 

「なるほど、最近では3次元プラス時間の4次元ではなく、空間は10次元ないし11次元とする学説がある。その7次元か8次元のどこかで、物質のすべてがからみ合いを保っているというわけ? とても信じられないわね」

 

「信じる信じないはもちろん、あなたの自由です。しかし、無限にある平行宇宙のどこかには、私の言うことを信じるあなたもいるに違いありません。ああ、無限というのは恐ろしいものですね。無限には何でも含まれる。無限は何でも可能にしてしまう。私のような物の怪も可能にしてしまうのですよ。そして、話しは元に戻りますが、私には目的なんてありません」

 

「その、物の怪が人間の意識を乗っ取れるというのはどうしてなんだ?」

 

 俺は一番の疑問を訊ねた。すると、海老名(ふうせんかずら)さんは俺のほうを向いて笑った。地獄の底に引き込まれそうな笑顔だった。

 

「脳は物質でできていますね? そこにはからみ合った素粒子も含まれていますね? 答えはこれでわかるはずです」

 

 俺が手を広げてわからんと身振りをしようとすると、雪ノ下がさえぎるように、「ええ、なんとなく。私たちの意識の源に量子的なプロセスがかかわっていると主張する学者もいるし」と答えた。

 

「以上で私の説明を終わります。今日はみなさん、大勢にお集まりいただいて恐縮です。仲がよろしいようで私もうれしいです。では、みなさんに座興としてちょっとしたイベントをしてもらいましょうか」

 

 そういうと、海老名(ふうせんかずら)は傍らに置いたカバンから紙を取り出して、9人全員に配った。手にとってみても、ただの紙だった。

 

「ではみなさん、そこにあなたがいま一番知りたいことを書いてください。その紙を見ていると、やがて知りたいことが映像で見えるはずです。あ、もちろん。書かなくてもかまいません。参加自由です。それに、そろそろ派手なイベントに移行しましょうかね。たとえばバトロワとか……」

 

「なんか罠臭いな。やっぱりバトロワやらされるのか。そういえば海老名さんがそう言ってたな……」

 

 俺がそういうと、ふうせんかずらは「罠だと思うところも、バトロワにすぐ反応するのもあなたらしいですね」とこっちを見た。

 全員がテーブルの上の紙を見て思案を始めた。俺はもちろん「ふうせんかずらが何者かを知りたい」と書いた。先ほどの説明がチンプンカンプンだったので、映像で見ることができれば、多少は理解できるかもしれないと思った。

 

 俺は紙をみつめていた。するとしばらくして、紙を透過するようにして、うっすらと映像が見えてきた。そこには、材木座のアニメポスターだらけの部屋があり、フィギュアだらけの机があり、キーボードを打ち込む材木座の姿があった。小説を書いているらしい。

 俺はふうせんかずらが何者かと問うたはずだ。それなのに材木座? 

 ふうせんかずらの正体が材木座だというのか?

 

「おい、ふうせんかずら、俺の紙にはお前の正体が材木座になっているぞ。どういうわけだ」

 

「その解釈はあなたがご自由になさってください」

 

 海老名(ふうせんかずら)の向こうでは、三浦といろはがなぜかこそこそと相談をしていた。こいつらも水と油の関係だったはずだが、何か共通の利益に気がついたらしい。

 まず、いろはが紙に何か書いた。映像を見て目を丸くしたいろはが三浦に耳打ちする。すると、三浦も歯ぎしりして顔つきが険しくなった。その憎しみの目を雪ノ下に向ける。

 

 次は、三浦が紙に何か書いた。映像を見た三浦がいろはに耳打ちする。今度は二人して安堵感に満ちた表情を浮かべた。そして、意外そうな顔をして二人で俺を見つめる。

 

「なにか?どうしたん?」

 

俺が三浦といろはに問いかけると、「へぇ~、そういうことになっていたんですか。比企谷先輩も隅におけないですねぇ~」といろはがニコニコしてくる。劣化版小町というか、劣化版陽乃さんのような腹黒さを知っているだけに、なんか気持ち悪い。

 

 そこへ小町が俺の隣りに来て、耳打ちする。

 

「あの二人、葉山先輩と雪乃さんの好きな人を知りたいと紙に書いてたんだよ」

 

 こんなときにアホか。こいつら。ということは、葉山の好きな人というのは? 雪ノ下なの? そんなことがあるか? まあ、この問題は今は保留だ。

 

 小町は、紙に、俺たちが今後どうなるのか知りたいと書いたらしい。

 

「バトロワの結果が知りたいと書いたんですけど、10人全員が次々に銃のようなもので撃たれて死んでいくみたいです。これって本当なんですか」

 

「あ、自分も同じ質問を書いたんですけど、10人全員が勝利して喜んでいるみたいです。誰も死んでいません」

 

「あ? どういうことだ? 全員が負けて、全員が勝つ? 勝者が一人ではない? そんなことありえんが」

 

「へぇ。そんな映像が見えましたか。それも真逆の結果が。それは面白いですね。そんな結果が可能になる仕組みを真剣に考えてみてください。自分たちの未来にかかわることですからね」

 

「同時に勝って、同時に負ける。私たちが勝者でもあり、敗者でもある。まるであなたがさきほど説明した粒子の重ね合わせのようね」

 

「まぁ、重ね合わせという現象は、素粒子のものですから、あなたたちのようなマクロの物体には適用されません。なんでそうなるか考えて、解き明かしてみてください。正解に達したら、何か特典を用意してもいいですねぇ」

 

 そういうと、海老名(ふうせんかずら)はガクッとうなだれた。しばらくするとビクッと体を震わせて、顔を上げた。元の海老名さんだ。

 

「私、どうしてたの?」

 

「ふうせんだよ。あいつに体を乗っ取られたんだ」

 

葉山がそういうと、海老名さんは両腕で自分の体を抱くようにしてうつむいた。

 

「実は、私、ときどき幽霊を見てたんだ。そういう体質だったのかも」

 

「もう、終わったさ、安心しなよ」

 

「あ~! 私も質問書こうと思ったのに、ふうせんかずらいなくなっちゃったんだね」

 

 沈黙していた由比ヶ浜がくやしがっている。

 

「何を知りたかったんだ?」と俺が問いかけると「うん。いつふうせんかずらがいなくなるか。やっぱりこれが一番知りたい。ゆきのんと隼人君も質問しなかったね」と由比ヶ浜が答える。確かにそれは重要な質問だった。

 

「しかし、俺と小町と大志が得た答えで、何かとてつもなく重要なことのヒントがわかったような気がする」

 

「ちょっと、あーし、隼人を見損なったし」

 

 葉山の向こうで三浦が怖い顔をしている。

 

「三浦先輩! そこから先はいいっこ無しですよ!」

 

「あーし、やっぱり雪ノ下さんとは仲良くできないし。こんなんに巻き込まれてこんなとこ来ているけど。早く終わらせてくれないと、あーし我慢できない!」

 

「優美子、何で怒り出したかしらないけど、落ち着いてみんなで切り抜けよう」

 

 葉山がそういうと、三浦は「だって、あんたが……まだ引きずっているし………」と涙目になった。

 

 その後、数日間、ふうせんかずらは出現しなかった。そして、ヘンチクリンなイベントも発生しなかった。俺は、ほんのつかの間、心身ともに安らいだ。しかし、その安堵はすぐに破られた。



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B面04

 

 

 入れ替わった雪ノ下と由比ヶ浜、そしてテーブルに突っ伏している平塚先生。その様子を眺めながら、俺はオレンジジュースを飲んだ。

 

 俺は左隣に座る雪ノ下を見た。姿は雪ノ下そのもの。しかしさっきからの口調は由比ヶ浜のもの。ただ、雪ノ下の声だから、由比ヶ浜の口調で喋っても違和感ありまくり。にわかには信じられなかった。

 

「お前は由比ヶ浜だよな」と、由比ヶ浜(雪ノ下)に話しかける。

 

「そうだよ。ヒッキー。ヒッキーの知恵でこの状況なんとかしてよ」

 

 テーブル上で向かい合う形になる雪ノ下(由比ヶ浜)も俺になんとかして欲しそうな顔をしている。

 

「陽乃さんだったらこんなときどうしますか?」

 

「ええ~。こんな状況どうしたらいいかわかるわけないよ。やっぱり救急車呼んだほうがいいんじゃないかな。お手上げだよ」

 

「姉さんそれはよして。頭がおかしくなったと思われるだけよ」

 

 雪ノ下(由比ヶ浜)が由比ヶ浜の声で言う。

 

俺は左隣の由比ヶ浜(雪ノ下)に質問した。

 

「本当に由比ヶ浜なのか? 聞いていいか? 去年の文化祭のとき、教室の前で俺と一緒に昼飯に何か食べたよな。何を食べたんだっけ?」

 

「え?」と由比ヶ浜(雪ノ下)は言葉に詰まった。

 

「あれでしょ? あれ、言葉が出てこない。ひきが、ヒッキー、なんでそんなこと聞くの?」

 

「ひきが? 何か変だな。さあ、何を食べたか答えてもらおうか」

 

 向かいで由比ヶ浜がニコニコし始めた。

 

「もう、バレてしまっては仕方がないわね。比企谷君、さすがに鋭いわね」

 

「もしかして、雪乃ちゃん、演技してたの? へぇ~。でも一瞬焦ったじゃない。やられたね~」

 

 陽乃さんが呆れたように雪ノ下を眺める。

 

「先生、バレました。もういいですよ。座興は終了です」

 

 雪ノ下がそう言うと「なんだ、すごく早かったな。入れ替わったままお開きにしたかったのだが」

 

 顔を上げた平塚先生もニヤケ顔だった。それに、まったく酔っていない。こういうのをザルというのだろうか。

 

「雪ノ下と由比ヶ浜、お前ら演技が下手だぞ。でも一本取られたわ。戸塚~、よかったな、ちっとも怖くなくて」

 

「本当だよ。僕は信じちゃったもん。どうしようか考えていたんだよ。ひどいな~」

 

「ごめんごめん、さいちゃん」

 

 そう言う由比ヶ浜の後ろに陽乃さんが立って、由比ヶ浜の両肩を揉む。

 

「ガハマちゃんがそういうことするのってわかるけど、雪乃ちゃんが演技するなんて初めて見たよ~。ふうせんかずらよりもそっちのほうが驚きだね~」

 

「あは~、雪乃さん、最近大勝利ですからね~」

 

「なるほどね~、そうだ小町ちゃん何か歌おうよ」

 

「賛成~!」

 

 小町がカラオケセットをいじってマイクのスイッチを入れる。すると、キーンと大音響のハウリングが起こった。

 陽乃さんが一番手で絢香の「number one」を歌った。つい最近のオリンピックのテーマ曲らしい。こんな歌唱力を要求される曲をノリノリで歌うその姿に、俺は思わず見とれてしまった。

 大人っぽい色気が、身振り手振りのたびに周囲へ残像のように振りまかれる。見ると戸塚も小町も見とれている。

 

 そのまま陽乃さんの独占ステージになって欲しかったが、どうせ歌わされる。俺は最近80年代の曲がお気に入りで、YouTubeで漁っていた。松田聖子、中森明菜、小泉今日子、中山美穂、南野陽子、工藤静香、工藤由貴、浅香唯、石川ひとみなんかの曲を聴きまくった。

 やはり、その中で断トツなのは松田聖子でしょう。俺は赤いスイートピーを歌うつもりでいた。

 

 次は由比ヶ浜の番だった。しかし、一人でステージに立つのが恥ずかしいらしく「コマちゃん一緒に歌おうよ」と小町を誘う。それで、一緒に歌ったのがMISIAの「僕はペガサス 君はボラリス」だった。知らない曲だが、そういった情報がわかるのは、大きな液晶画面にタイトルや歌詞が出るからだ。

 この曲も歌唱力が要求される。二人で一生懸命に声を張りあげて合わせようとするが、追いつかない。

 

「じゃあ、次はさいちゃんだよ~」と由比ヶ浜が催促する。だが、戸塚も恥ずかしがって立とうとしない。俺か?俺が一緒に歌うの? そう思った瞬間、小町に睨みつけられた。

 

「戸塚さんは私が一緒に歌ってあげますよ~」と小町が手を振ったので、戸塚はようやく席を立った。

 

 この二人が歌ったのは、なんとアニメ俺修羅のオープニング「Girlish Lover」だった。ガーリッ修羅場。なんでそんなの歌うんだよ! 思い出しちまうだろ。メインヒロインの真涼が可愛くてよく見てたな。女子力高いくせに(料理は由比ヶ浜並みにせよ)ぶっ壊れているところがかつての雪ノ下と似ているが、向こうのほうがエロかったな。だが、あーちゃんのおバカ系ツンデレも可愛すぎて捨てがたい。あ、小町のやつ、さっき大勝利とか言ってたな。まあ、そんなのはどうでもいい。

 戸塚と小町が歌い終わると、やはり俺の番か……。

 と思っていると、小町が俺の手を引っ張る。隣の雪ノ下は陽乃さんが連れ出してステージに。そして流れてきた曲が(何十年前の曲だよ)デュエット曲の定番、ロンリーチャップリンだった。

 困った。恥ずかしい。顔が火照ってきた。ステージに向けられた照明のために目がかすむし熱いし。BOSEのスピーカーがすぐ後にあってうるさいし。

 でも、メロディが単純なので、歌詞を見ていれば歌えた。隣の雪ノ下も顔が結構赤く染まっている。それを見てみんな手拍子ではやし立てる。くそ。必ずリベンジしてやる。

 歌い終わると緊張のためかフラフラした。息があがっている。それは雪ノ下も同じようだった。

 そんなこんなで楽しい時間が過ぎていった。こうした集まりが楽しいと感じるようになっている自分に驚いたりもした。

 だが、宴会がお開きになって高層ビルを下り、駅に向かって歩いているときに、俺はシビアな問題に気がついた。

 あの3人が入れ替わりの座興をしたが、先生と雪ノ下、あるいは先生と由比ヶ浜が座興の打ち合わせをする時間はなかったはずだ。先生が今日宴会やると言い出してから、雪ノ下と由比ヶ浜は俺と一緒にいた。仮に、俺の目を盗んで先生とメールのやり取りをしていたとしても、ふうせんかずらのことなんかを詳細に伝えることが可能だったか。先生のセリフは完璧だった。材木座の小説に書いてあるとおりに再現されていた。

 俺は隣りを歩いていた雪ノ下に聞いてみた。

 

「なあ、雪ノ下、先生と座興の打ち合わせをいつやったんだ?」

 

「ん? いつだったかしらね。覚えていないわ。ねえ、由比ヶ浜さん、先生と打ち合わせした?」

 

「私も覚えてないなぁ。いつしたんだろう」

 

 由比ヶ浜が眉を細めて思い出そうとしているが、心当たりがないようだ。

 

「それっておかしいと思わないか。あれだけ息を合わせて演技するってのは、結構打ち合わせが必要だぞ」

 

「そういえばそうよね。なんでうち合わせした記憶がないのかしら」

 

「おまえら、ひょっとすると。ふうせんかずらに操られていたんじゃないのか」

 

「まさかね。でも、入れ替わりの余興をするという予定が頭に入っていたことは確かね。それがいつ入ったのかわからないのだけれど」

 

「うーむ」

 

 俺は材木座に電話をした。ちょうど家でメシを食っているところだった。小説の原稿を持ってすぐ出て来て欲しいと頼むと「宴会に出るのはいやだ」という。

 

「材木座、宴会はもう終わった。駅前にすぐ来てくれ」

 

「はちえもんがそういうのであれば、応えないわけにはいかんな。了解した」

 

 俺は小町と由比ヶ浜、そして雪ノ下を誘ってファミレスに入った。他のメンバーとは駅前で別れた。ファミレスに入って落ち着くと、10分くらいで材木座が現れた。心なしかその顔が青ざめている。メシ食ってエネルギーチャージしているはずなのに。席につくなり材木座が、焦りを隠さずに切り出した。

 

「八幡、驚いた。我の書いた小説が勝手に変わっているのだ」

 

「なんだって?」

 

「書いた覚えのないストーリーに改変されているのだ」

 

 俺たちの会話を聞いていた3人の女も顔をしかめている。

 

「ここだ。ちょっと見てくれ。ふうせんかずらが登場して、みんなと議論のようなことをしたあと、知りたい質問を紙に書くイベントがあるはずだ。由比ヶ浜どのが自分の知りたいことを紙に書く前にふうせんかずらが消えている。

 そこがおかしい。我の記憶では、由比ヶ浜どのや葉山某の質問にも紙が映像で答えていたはずだ。

 それから、まだまだふうせんかずらとの会話が延々と続く。そこまで確かに書いたのだ。

 だが、ここにある小説ではその部分が消えている。その後、ふうせんかずらが現れないことになってしまって、みんな安心してイオンモールに出かけている。こんなこと書いた記憶はない。これはどうしたことなのだ。怪奇現象としか思えん」

 

 材木座がまくしたてる。その顔はさっきよりも青ざめている。

 

「要するに、自分は小説の中でふうせんかずらを登場させ続けたはずなのに、原稿が勝手に改変されてふうせんかずらも消えていたということね。原稿を変えた記憶がないということ?」

 

 雪ノ下がそう訊くと、材木座は珍しく雪ノ下をしっかりと見た。

 

「そのとおりだ。我、こんなことは初めてだ」

 

「うーむ。そのふうせんかずらが、この現実世界に移動してきて、お前ら3人を操った? まさかな」

 

「ゆきのんとヒッキー、私、なんか怖いよ。なんか操られたような気がする。絶対3人で打ち合わせしてないもん」

 

「お兄ちゃん、ふうせんかずらがこっち来たら、やっぱり変なことが色々起こるの? それは勘弁して欲しいな。なんとかしてよ」

 

「俺に何ができると? そうだ、材木座、原稿を24時間監視して、変わっていたら直せ。小説の中にふうせんかずらを登場させ続けろ。そうしないとまた、俺たちの誰かが何かされるかもしれない」

 

「そ、そんな。第一、ふうせんかずらなんぞ空想の産物。それが現実世界に現れることが信じられん」

 

「とはいっても、お前の小説の変化、それもふうせんが消滅したのは事実だ。そして消滅した時刻と雪ノ下たちが操られた時刻がおおむね一致している」

 

「確かに、だが、このプリントアウトは改ざんの証拠として打ち出したもので、すでにPCのメモリに記録されているものは、本来の原稿に直してある」

 

「もしかすると、中二さんがすぐ直したから、ふうせんがちょっと現れただけなんじゃない?」

 

「その可能性が高いと思えてきた」

 

「そんなことあり得るのかしら」

 

「とにかく、材木座、原稿を随時見直して、改ざんがあったら校正しまくってくれ」

 

「了解した」

 

 夜もかなり遅くなっていた。俺たちは不安感にさいなまれながらもそれぞれの帰途についた。

 

 

 

 

 



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A面05

ドタバタコントにするつもりでしたが、挫折しました。すみません。m(__)m


 

 

 ふうせんかずらが去ってから、いつ再び人格入れ替わりが発生するか心配だったが、模擬試験は無事にオリジナルな体で受けることができた。その結果は一ヶ月後くらいに出るそうだ。偏差値という差別的な指標と一緒に。

 俺たちは試験が終わった放課後にまた部室に集まった。このときも葉山や戸部、三浦、海老名、一色いろはも参加した。そして、ふうせんかずらが何なのかを話し合った。

 とりあえず、一番ふうせんかずらの話についていけたのは雪ノ下だった。その意見を小町が黒板に箇条書きする。

 

「ふうせんかずらは、自分を自然現象と言っていた。そして、ビッグバンからインフレーションを経て、私たちおなじみの物質ができたわけだけれど、その物質粒子すべてが、相転移した現在の宇宙空間に偏在しつつ、いまだに因果関係を持っているそうよ。

 無限のキュービットが無限回の相互作用を行い、あたかも量子コンピュータのように知性が介在しない状態で情報をやりとりしているというの。全宇宙で行われている情報の相互作用と言っていいのかしら。そして、私たちの脳にとも相互作用が可能。

 自然現象というのだから、台風が過ぎるのを我慢するように、私たちも大人しくふうせんかずらが去るのを待つしかない。私が4日前に理解したことといったら、こんな感じかしら」

 

 由比ヶ浜や俺、小町なんかはもう、ユキペディアには慣れていたが、三浦といろはが口をあんぐり空けていた。何を話しているのかわからないらしい。

 

 小町は話を聞いて、黒板に

①ふうせんは自然現象

②ふうせんは自然に発生した量子コンピュータ

③自然現象なので過ぎるのを待つしかない

と書いた。

 

「あのさ~、隼人も頭いいんだから、何かわかったことあったんじゃない」

 

 三浦がそういうと、葉山は頭をかきながら答える。

 

「正直言って、ふうせんかずらと雪ノ下さんの会話はあまり理解できなかったな。量子なんて言葉は高校の物理じゃ出てこないしね。さっぱりだよ」

 

「それよりも、俺はふうせんかずらの正体が材木座として映像に現れたことが気になる」

 

「それは、ふうせんかずらが、実は材木座君にとり憑いているってこと?」

 

 俺の思っていることを葉山が図星で突いてくる。

 

「わからん。しかし、そうでなかったらあそこで材木座の姿が映る理由がない。材木座をここに呼んでみるぞ」

 

 俺は材木座に電話してすぐ来いと伝えた。すると、校門を出てすぐだから引き返すという。

 

 ドアを開けて入ってきた材木座は、奉仕部に10人もいることに目を回していた。相変わらず汗を滴らせている。

 

「いったい何用かな? はちえもん。こんな大人数から糾弾の矢を浴びたら、我は秒死するぞ」

 

「ああ、別にお前を糾弾なんてしない。だが、聞きたいことがある。お前は今、小説を書いているか?」

 

「もちろんだとも。創作こそ我の生きる証。かつての中二病を克服するリアリティの香り溢れる芳醇な小説を書いておる。おほん」

 

「それは、俺たちが出てくるのか? そしてふせんかずらも出てくる?」

 

 材木座が驚愕の表情に変わった。

 

「なぜだ。なぜそれを知っているのだ? さては、八幡、お主は……」

 

「大丈夫だ、安心しろ。俺はハッキングも魔法もできないし、超能力もない。で、今、原稿持っていたら見せてくれないか」

 

 材木座はカバンから紙の束を取り出した。まだ20~30枚程度しかないようだ。

 さっそく原稿を受け取って読み始める。

 小説の中には俺たち奉仕部のメンバーや材木座自身も登場していた。材木座が俺に書き始めた小説を託し、例によって奉仕部で回し読みされ、材木座が呼び出される。そして、量子テレポテーションとか、ヒッグス粒子について不理解があったために、雪ノ下にコテンパンにやられていた。

 そのあと、平塚先生の誘いで高層ビルのカラオケルームで宴会。平塚先生と雪ノ下と由比ヶ浜が、座興で人格入れ替わりの演技をしていた。俺の指摘によってその演技がバレている。

 小説の梗概はこんな感じだった。確かに材木座お得意の魔法やら剣やら異界の戦士などが出てこない。登場するアノマリーといえばふうせんかずらのみだ。

 

「材木座、俺たちは実際にふうせんかずらに遭遇して、人格入れ替わりを体験しているんだ」

 

「なんだって? ふうせんかずらなんてアニメや小説だけの話ではないか。この世に存在するわけがなかろう」

 

「しかし、雪ノ下、三浦、由比ヶ浜、俺、海老名、大志の6人が実際に体験している。それで1日大変だったんだ。なんでお前の小説に出てくるんだ」

 

「実際に入れ替わったというのか。信じられん。我の小説の中ではフェイクだ」

 

「それで、ふうせんかずらの正体を知りたいと紙に書いたら、お前の姿が見えた。俺はてっきりお前の書いた小説どおりに現実が動いているのではないかと疑った」

 

「では、我が犯人ではないな。我は実際の入れ替わりなど書いておらぬ。見てわかるとおり我はふうせん某ではない」

 

「そのようだな。この小説は今まで俺たちが体験したこととは違っている」

 

 材木座の書きかけの小説は10人が回し読みしていた。読み終わった人間から、「関係ないみたいね」「そうだね」

「中二さんも中二病克服できそう」と声が上がった。

 

「ふうせんかずらも、ここ数日出てこないから、もう過ぎ去ったのかも」

 

 由比ヶ浜が解放感あふれる声で宣言した。心の中に台風一過の晴れやかな空が広がった。

 

「ユイ~、そういえば、あーし、幕張イオンモール行きたかったんだけど、試験終わったことだし」

 

「そうだね。行ってみようか。姫菜も行くでしょ?」

 

「いいよ。なんかふうせんかずらに憑かれたおかげで、気が滅入ってしょうがないよ。隼人君も行こうよ」

 

「ああ、今日は部活ないしな。いろはも戸部も行くだろ」

 

「あ、私も行っていいんですか。じゃあ、行きます」

 

「いっちょいっちゃいましょう~、31アイスのあとはカラオケでブースティングでしょう~」

 

 部室の雰囲気が一気に明るくなった。そして、葉山、戸部、いろは、三浦、海老名が出て行く。最後に出て行く由比ヶ浜が振り返り、

「今日はあっちに付き合っとくね」と手を振る。

 三浦といろはが仲良くなったのが意外といえば意外。ほんのわずかの一点で利害が一致したようだ。

 

 俺はどうも解せなかった。材木座の書いている小説は俺たちに関係ないことが判明したが、これから訪れるであろう、バトロワで勝ちなおかつ負ける、という結末。これが引っかかっていた。ふうせんかずらはマクロの物体である人間に重ね合わせはないと言った。だとすると、俺たちと同じメンバーを擁する平行世界があって……それがバトルしてどちらかが勝つとでもいうのだろうか。

 

 部室に残っているのは雪ノ下、小町、大志、材木座、俺だけだった。雪ノ下はさっきから何事かを考えている。じっと動かないが脳がフル回転しているのがわかる。

 

「ねえ比企谷君、私の勝手な想像なのだけれど、もし私たちと同じ世界がもう一つあって、向こうでも私たちが同じようにふうせんかずらの被害にあっているとしたらどうかしら」

 

「俺もそれを考えていたところだ。だが、それを立証する手段がない。俺はふうせんかずらの正体に、材木座の姿が映ったことが一番重要な事実のような気がする」

 

「ということは、材木座君の書いている小説の通りに現実が動いている世界がありうるということね。だとすると、私たちも誰かの書いている小説通りに動かされていると考える事も可能よ。でも、そんなことはありえないわ」

 

「材木座、一つ頼みがある。お前の書いている小説だと、ふうせんかずらはフェイクで出ているんだよな? それを本物にしてくれないか。要するに実際にふうせんかずらを登場させて、小説中の俺たちに何かさせてくれ」

 

「そうするとどうなるというのかな。この世界にふうせんかずらが出なくなるとでも?」

 

「まさかとは思うが。しかし、当分、お前の小説にふうせんかずらを登場させてみてくれ。頼む」

 

「了解した。たとえそれが無意味であろうが、一片の可能性があるのであれば、やってみようではないか」

 

 雪ノ下は俺と材木座のやりとりに、眉間に手を当てて考え込んでいた。そんなわけない、とでも言いたそうな顔で。

 

 



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B面05




※ここから先は、だんだんと「R-15」「残酷な描写」フラグの適用範囲に入っていきます。熱烈な俺ガイルファンの方は、ここから先は読まないことをお勧めします。







 

 

 

 

 カラオケパーティの翌朝、目が覚めるとスマホのランプが点滅していた。材木座からのメールが着信していた。その内容は、

 

「八幡、我はもうお手上げだ。原稿を直しても直してもファイルを開くと違う内容になっているのだ。そして、書かないでいても勝手に原稿が書かれているのだ。これではもう、なすすべがない。いっそパソコンを壊してみようかとも思ったが、もったいないではないか。どうしたらいいのだ………」

 

 材木座の焦りが伝わってくる。同じような内容のメールが深夜から早朝にかけて10本以上来ていた。

 勝手に原稿が書き進んでしまうとなると、俺にもどうしたらいいのかわからなかった。

 俺は部屋のカーテンを開けた。すると、雪が降っていた。雪だと? もう四月の中旬だ。リビングに下りてテレビをつけると、季節外れの雪について気象予報士がコメントしていた。

 4月に雪が降ることはそれほどめずらしくないが、今日のように本格的に積もる雪は非常に珍しいという。日本上空の偏西風が蛇行して東海地方より北を覆っているため、寒気が居座り、そこへ南岸低気圧が通過することから、異常な積雪が予想されるという。気象予報士もコメンテーターも異常気象という言葉を連発する。

 しかしゲストの気象学者は、億年単位で考えれば、地球が赤道まで凍った全球凍結時代もあるし、海面が80メートルも上がったり下がったりをくり返しているので、4月の大雪なんて些細なことは誤差の範囲内だ、という落ち着いたコメントをしていた。

 

 学校へ行く途中、すでに雪は30センチは積もっていた。コートを着てきてよかった。風が強いので寒くて死にそうだ。顔に当たった雪がまつげに凍りつく。街は車が少なく、深々と振る雪に埋まっていく。校庭にはポツポツと足跡。下駄箱では、材木座がノートパソコンを抱えて俺を待っていた。

 

「八幡。メールは見たか」

 

「ああ」

 

「もう、この怪奇現象にはお手上げだ。八幡、このパソコンをお主に託そうと思うのだが」

 

「わかった。俺も、その怪奇現象を見てみたい」

 

 俺はノートパソコンを受け取り、教室へ向かった。教室には半分程度の生徒しかいなかった。先に来ていた戸塚が走り寄ってくる。だが、この天使のような笑顔を俺は守らねばならない。

 

「八幡、おはよう。昨日は楽しかったね」

 

「戸塚。もしかするとそれどころじゃないかも。お前は当分、俺とか奉仕部にかかわらないほうがいい」

 

「え?どうしたの?」

 

 俺の深刻な顔を見て、戸塚から笑顔が消える。そこで、由比ヶ浜が教室に入ってくる。

 

「おはよう。さいちゃんとヒッキー」

 

「あ、おはよう」

 

「戸塚、昨日、雪ノ下と由比ヶ浜がふうせんかずらの演技をしたよな。あれは、もしかすると演技じゃないかもしれないんだ。悪い事は言わないから、当分俺たちにかかわるな。お前を巻き込みたくない」

 

「ヒッキー。そんなに深刻なの?」

 

「おそらくな。すごく嫌な予感がする。何かが起こりそうだ。俺のゴーストがそうささやくって、ふざけてる場合じゃない」

 

「そうだよね。さいちゃんは奉仕部にちょくちょく顔を出しているけど、この一件に巻き込むのは申し訳ないよね」

 

「八幡、ぼくも何かしたいんだけど」

 

「今度ばっかりはどうにもできないと思う」

 

 俺の顔つきを見て、戸塚は「わかった」と言って自分の席へ戻った。

 

「由比ヶ浜、お前もだ。この件からは手を引け」

 

「ヒッキー、どうして? そんなこと言っても、もしかすると私、ふうせんに憑かれてたのかもしれないんだよ。手を引きたくても引けないかも」

 

「そうかもしれんな」

 

 始業時間になっても、教室の席は半分しか埋まっていなかった。異様に暗い雰囲気が教室を覆っている。

 

 材木座の小説の冒頭には、ふうせんかずらが大雪を降らせて総武高を封鎖すると書いてあった。実際にそのとおりになってきた。一時間目が終わって窓から外を見ると、白銀の世界。いや、分厚い雲の翳が視界に薄墨を溶かし込み、夕暮れのように暗い。陰鬱な世界が広がっている。空中を落ちる雪の密度が濃すぎて、地上にどれくらい積もっているのか見当もつかない。

 小町は来ているのか。俺が家を出るとき、まだ自分の部屋にいたと思うが。そのように案じていたら本人が教室に入ってきた。

 

「お兄ちゃん。これってもしかするとふうせんが降らせているの? あれが始るの?」

 

「そうかもしれない」

 

「今メールしたらゆきのんも来てるって」

 

 由比ヶ浜が携帯をパチンと閉じる。

 

「お兄ちゃん、私たち学校から逃げたほうがいいんじゃないかな」

 

「いや、ふうせんがその気になったらどこにいたって無意味だと思う。やつの思い通りに行動させられるさ。昨日の雪ノ下とか由比ヶ浜を見ればわかるだろ。俺たちにできることは何もない」

 

「そんな………」

 

 由比ヶ浜が泣きそうな顔をする。

 三時間目が終わったとき、俺は下駄箱へ行ってみた。校庭にはすでに俺の身長よりも雪が積もっていた。玄関から校舎の内側へ、雪が坂になって入り込んでいた。その坂の上を冷気が滑り降りて、足元に当たる。強い風が学校全体を不気味に鳴動させている。その不規則な重低音は魔物の咆哮のようだった。

 もちろん、こんな状態で帰ることなどできない。無理に帰ろうとすれば動けなくなって遭難するだろう。

 そのとき、緊急放送が流れた。

 

《全校生徒のみなさん、校長です。本日は大雪のために臨時休校にします。千葉県、東京都および政府は緊急事態を宣言しました。首都機能が大雪で麻痺して、自衛隊が道路などの復旧、および孤立世帯の救出活動を開始しました。学校にいる生徒諸君は帰宅しないでください。本校は災害時の一時避難所に指定されています。食料および水のストック、ならびに寝袋などの備えが大量にあります。安心してください》

 

「ちっ、遅い! 」

 

 俺はムカついて一人で毒づいた。

 

 教室へ戻ると、混乱していた。ガヤガヤと生徒が群れている。その中に奉仕部の面々が揃っていた。

 

「比企谷君、まさか、本当に始るの?」

 

 雪ノ下でさえ顔色が青ざめている。

 

「学校は完全に封鎖されている。すでに外に出れない」

 

 俺は自分の席に戻ってカバンから材木座のPCを出し、起動した。ワープロを立ち上げると、履歴から該当するファイルをひらいた。すると、

 

……ということは、材木座君の書いている小説の通りに現実が■

 

……ということは、材木座君の書いている小説の通りに現実が動いている■

 

……ということは、材木座君の書いている小説の通りに現実が動いている世界があ■

 

……ということは、材木座君の書いている小説の通りに現実が動いている世界がありうるということね■

 

……ということは、材木座君の書いている小説の通りに現実が動いている世界がありうるということね。だとすると、私たちも誰かの■

 

 勝手に文字が発生している!!

 

 その様子を見た由比ヶ浜が「キャー」と悲鳴をあげる。

 

「いったい何なの、これは……」

 

 雪ノ下も文字が自動書記のようにジワジワ増加していく様子を見て驚愕の表情を浮かべる。しかし、このファイルに書かれていることは俺たちが経験したことではない。だが、少し前を読んでみると、この小説の中でも材木座は小説を書いており、その内容があらすじになっている部分があった。

 

《……材木座が俺に書き始めた小説を託し、例によって奉仕部で回し読みされ、材木座が呼び出される。そして、量子テレポテーションとか、ヒッグス粒子について不理解があったために、雪ノ下にコテンパンにやられていた。

 そのあと、平塚先生の誘いで高層ビルのカラオケルームで宴会。平塚先生と雪ノ下と由比ヶ浜が、座興で人格入れ替わりの演技をしていた。俺の指摘によってその演技がバレている。……………》

 

 この部分は! これは確かに俺たちが経験したことだ。雪ノ下にこの部分を読むように促すと、しばらく考え込んでしまった。

 

「……つまり、材木座君が書いている小説の中でも材木座君が小説を書いていて、その内容は私たちに関することなのね。入れ子構造というか、二つの世界がお互いの世界を記述し合っているわけ? 現実はどこにあるの?」

 

「俺にはサッパリだ。それに、ジワジワと増え続けている文字。いくら直しても無駄なわけだ。もし俺たちが材木座の書いている小説の中の材木座が書いた世界なら、もう、なす術がない……」

 

 雪ノ下が一人で呟くように言う。その大きな目が微動だにしない。

 

 

「……ホログラフィック・ユニバース……。私たちの4次元世界は、どこかで計算され演算されたデータの動き通りに投影されている。まるでホログラムのように。

 そんなオカルト的なことを主張するれっきとした物理学者がいた。しかもアインシュタインの弟子……。

 この現象も似ている。……時間をずらして事実を記録したり予言をしている……いずれにしても私にはよくわからない。こんな現象ありえない……」

 

「とにかく俺たちはここに閉じ込められた。しかし、ふうせんが用があるのは俺たち奉仕部だけだろ。他の生徒は関係ないはずだ。どういうつもりだ」

 

「お兄ちゃん、マジ怖いよ」

 

 俺はノートPCの電源を落とした、が、落ちない。液晶画面では相変わらず文字がカウントダウンのように増え続けている。

 そうだ、ノートPCはバッテリーが外せるはずだ。画面を閉じて裏返し、二つのノッチをずらしてバッテリーユニットを外した。これで電源はない……が……、おそるおそる画面を開くと、同じだった。バックライトの輝く画面では、文字がジワジワと増え続けていてる。

 一瞬、ノートPCを床に叩きつけようかと思ったが、そんなことをしても無駄だろう。

 

「ゆきのん、わたし怖い」

 

 由比ヶ浜と小町が雪ノ下にしがみついている。しかし、雪ノ下にしても顔色が悪い。

 

「比企谷君、何か悪知恵は働かないの?」

 

 俺は手を広げて敗北を認めた。窓の外では以前にも増して雪の降りが激しくなっている。バタバタバタと空が鳴り始めた。窓に駆け寄ると、日の丸をつけたダークグリーンのヘリが二機、低空を飛んでいるのがかろうじて見えた。

 ヘリの一機が爆音と轟かせて校舎に近づいてきた。サーチライトが窓を走っている。その光の中で、生徒が数人、ヘリに向かって手を振った。

 そのとき、天井の蛍光灯が一斉に消えた。女子生徒がキャーと声を上げる。雪の重みで送電ケーブルでも切断したのだろうか。

 俺はスマホを取り出した。すると、アンテナのアイコンの上に赤いバッテンがついていた。携帯の電波も届いていない。

 

 そこへ大志が入ってきた。

 

「お姉さん来てますか?」

 

「そういえばいないみたい」と由比ヶ浜が川崎沙希の席のほうを眺める。

 

「やっぱり。携帯で連絡がとれなくなっているんで。途中で雪の中で動けなくなっているかもしれないっす。自分は、探しに行ってみます」

 

 そういって大志が駆け出そうとするので止めた。

 

「無理だ。この中に出て行ったらお前も遭難するぞ。スコップで穴を掘りながら家まで到達できる自信があれば別だが」

 

「……やっぱ、そうっすよね」と大志が途方に暮れる。

 

 窓際では葉山、戸部、三浦、海老名がかたまって立っていた。さっきから俺たちが深刻そうな顔をして話し合っているのを気にしていたようだ。だが、葉山はこんなときでも明るい笑顔を振りまいている。

 俺は、こいつらも巻き込みたくなかった。

 

「奉仕部へ行くか?」と提案すると、みんなうなずく。俺たちは窓枠やガラスが凍り付いている廊下を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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A面06

 

 

 

 材木座に、小説の中にふうせんかずらを登場させて欲しいと頼んだ日の夜、電話がかかってきた。

 

「八幡、お主の頼みを実現させるために原稿ファイルを見たところ、勝手に話が書き換わっている。

 小説の中でふうせんかずらを登場させて、人格入れ替わりの話を書いたのだ。それをたしかに保存したのだが、いったんワープロソフトを終了させて再びそのファイルを読み込むと、書いたことのない原稿になっている。これはどうしたことだ。我、頭が混乱しておかしくなったのか……」

 

 材木座の喋り方に中二病患者独特の言い回しがない。素に戻っている。

 

「まさか、そんなことがあるか。書き換わっている内容はどんなものだ?」

 

「うむ。カラオケパーティの後、話は雪の朝から始まる。大雪が30センチは積もっていることになっている。そして、教室には登校可能だった生徒が半分しか来ていない。午前中には、我らの学校が大雪で封鎖される。すでに2メートルも雪が積もっている。

 そんな中、我のノートPCの周りに奉仕部の面々が集まり、画面で文字が勝手に書かれていくのに恐怖の表情を浮かべている。

 やがて停電し、自衛隊のヘリが偵察飛行しているのを目撃する。お主を含む奉仕部の面々は部室に向かう。だいたいこんなところだ。

 我はすぐにふうせんを登場させたのだが、そんな風に書き換わっている」

 

「それが本当なら、超常怪奇現象じゃないか」

 

「では、明朝、PC持参するんで、お主の目で確かめるがよい」

 

「わかった。持ってきてくれ」

 

 翌朝、ふとんから上半身を出して寝ていたおかげで、寒さで目覚めた。体が冷えて鼻水が出ている。ブルッとふるえて布団をかぶったが、時計はすでに起床時間だった。

 俺はカーテンを開けた。すると雪が降っていた。マジか。もう4月の中旬だぞ。

 リビングへ下りてテレビをつけると、季節外れの雪について気象予報士がコメントしていた。

 4月に雪が降ることはそれほどめ ずらしくないが、今日のように本格 的に積もる雪は非常に珍しいという。日本上空の偏西風が蛇行して東 海地方より北を覆っているため、寒気が居座り、そこへ南岸低気圧が通過することから、異常な積雪が予想されるという。気象予報士もコメンテーターも異常気象という言葉を連発する。

 しかしゲストの気象学者は、億年単位で考えれば、地球が赤道まで凍った全球凍結時代もあるし、海面が80メートルも上がったり下がったりをくり返しているので、4月の 大雪なんて些細なことは誤差の範囲内だ、という落ち着いたコメントをしていた。

 

 小町がトーストを皿に載せてテーブルに置いてくれた。

 

「お兄ちゃん、外見てみた? これじゃあ学校まで行くの大変だよ~。休んじゃおっか」

 

「そうしたいところだがな。俺は約束がある」

 

 モグモグとトーストを咀嚼しながらコーヒーを流し込む。

 

「一緒に学校行くか。そそっかしいお前のことだから、転ぶに決まってる。ちゃんと長靴はけよ。コートも着ろ」

 

「お兄ちゃんに言われたくありませ~ん。でも久しぶりにだね。兄妹揃ってなかよく登校。たまにはお兄ちゃんと一緒に手をつないで歩いてポイント稼がなくっちゃ」

 

「まだポイント貯めてるのか。もうそろそろパソコンもらえる頃だろ。PCの調子が悪くて困っているやつがいるから、そいつにやれ」

 

「や~なこった」

 

 コート姿の小町と一緒に、学校までの雪道を歩いた。寒いし、雪がまつげにひっかかって凍るし、鼻水は出るし。

 小学校のころに、雪玉を作って投げ合った記憶があるが、高校生にもなると、そんな戯事も遠き日のよき思い出。ただ転ばぬよう足元の確認と恐怖感に溺れるのみ。ああ、大人になりたくねぇ。

 

 下駄箱では材木座が待っていた。その手にはPC。雪雲の薄暗さもあって、その顔は青白い。

 

「あ、中二さんだ。おはようございます」

 

「おお、妹君か。それに八幡。例のPCを持参した。お主に託そうと思うのだが……」

 

「わかった。怪奇現象を俺も確認したい」

 

 俺は材木座からPCを受け取って教室に向かった。教室には始業時間近いというのに半分くらいしか生徒がいない。

 そして、三時間目になると、授業中の雰囲気がざわつき始めた。「携帯の電波がとどいていない」とか「帰れるかな」とか「今日は休めばよかった」などと話す連中が増えたためだ。

 そして、四時間目の授業中に、校長による緊急放送が突然入った。

 

《全校生徒のみなさん、校長です。本日は大雪のために臨時休校にします。千葉県、東京都および政府は緊急事態を宣言しました。首都機能が大雪で麻痺して、自衛隊が道路などの復旧、および孤立世帯の救出活動を開始しました。学校にいる生徒諸君は帰宅しないでください。本校は災害時の一時避難所に指定されています。食料および水のストック、ならびに寝袋などの備えが大量にあります。安心してください》 

 

「ええ~!」と生徒が合唱する。「遅いよ~」「帰れねぇじゃん」

 

 こうなるともうカオス状態。俺は教室を出て一階へ行ってみた。すると、雪は2~3メートルも積もっている。

 無理に外へ出ると、動けなくなって遭難するのは確実だ。

 周囲を見渡すと、生徒が少ないせいか、校内は森閑として寂しい。そこへ校舎の縁が風を切り裂く甲高い音と、空洞へ吹き込む風が生み出す重低音が混ざり合い、精神を揺さぶる不気味な共鳴が起きていた。

 

 俺は教室へ戻った。すると、奉仕部の面々と葉山、三浦、海老名が集まっていた。もうこのメンバーが集まることはそれほど珍しくない。

 

「これって、もしかするとふうせんかずらの仕業?」

 

 葉山が俺に問いかける。「そうかもな」と俺は生返事をした。

 そんなことよりも気になることがあった。俺は、カバンから材木座のPCを取り出した。机の上で電源を入れる。すると、現れた画面は、書きかけの小説を表示したワープロ。しかも……………

 

 

……無理だ。この中に出て行ったら■

 

……無理だ。この中に出て行ったら遭難するぞ■

 

……無理だ。この中に出て行ったら遭難するぞ。スコップで■

 

……無理だ。この中に出て行ったら遭難するぞ。スコップで穴を掘りなが■

 

 俺は思わず「うわっ」と声を出してのけぞった。その声を聞いた連中が俺のそばへ寄ってくる。

 

「どうしたの?比企谷君」

 

 雪ノ下が近づく。

 

「奉仕部のカギは持っているか。持ってないのならとってきてくれ。部室で待ってるから」

 

 そういうと、俺はPCをパカッと閉じて教室を出た。後ろからは「何?」「どうした?」という声。昨日、奉仕部に集まったメンバーが異変を察知してぞろぞろとついてきた。

 

 雪ノ下にカギを開けてもらって、部屋に入ると、俺は長机の上でPCを開いた。全員が注目する中で、小説は自動的に書き続けられていた。あのとき、紙に映った映像は材木座ではなくこのPCだったのではないか。そうだとしても、このPCはふうせんの活動を反映しているに過ぎないはずだ。

 

「なにこれ?」と小町が体を震わせる。

 

「たぶん、ふうせんかずらの執筆作業だろ。もうすぐ現れるんじゃないの」

 

 俺は投げやりな言い方をした。どうしようもない。こんな怪奇現象を見せられては。

 

 勝手に文字が増加し続ける画面を見て、雪ノ下の目が大きくなる。画面を操作して前のほうから読む。

 

「ここに書かれていることは、もう一つの世界のことよね。材木座君が原稿を勝手にいじるようになったものだから、ふうせんかずらが材木座君を排除したのかしら。そうすると、彼はもう部外者ということになる」

 

 葉山がPCを手にとる。そして、電源スイッチを切る。しかし画面は消えずに文字が増え続けている。葉山はバッテリーを外しにかかった。パチンと音がしてバッテリーが外れたが、やはり画面は消えなかった。

 

「隼人~、どうなってんの?」

 

「わからないよ。どうしてこんなことが」

 

「私たちはふうせんかずらの掌で弄ばれているってことじゃないかな。もうすぐバトルが始ってみんな死んじゃうんだよね……」

 

 そう海老名さんが諦めたように言ったとき、ガラガラと扉が開いた。俺はてっきりふうせんかずらが憑いた平塚先生かと思ったが、こんな非常事態になってもフワリとした雰囲気をまとった一色いろはが入ってきた。

 

「葉山せんぱ~い。やっぱりここですか~。探していたんですよ」

 

「いろはす~、今度は何の用だ? 今日は部活ありえないの知ってるでっしょう~」

 

 戸部が軽い調子で答えたが、一色の視線は葉山に向いている。

 

「あ、比企谷先輩もいるし、雪ノ下先輩もいる。頼もしいです~。この大雪にみなさん閉じ込められてしまって、こんなとき生徒会はどうしたらいいのかアドバイスが欲しくて」

 

「こんな状況じゃあ、生徒会は先生の指示に従うしかないよ。ここよりも職員室に行ったほうがいいと思うよ」

 

「え? でも職員室に先生が一人もいないんですよ。だからここに来てみたんですけど……」

 

「なんだって?」

 

 そのとき、扉が開いて平塚先生が入ってきた。その顔を見ればすぐにわかる。ふうせんかずらだ。夜中の路傍で微かな光を浴びる柳の木のように、ゆらりゆらりと体が揺れている。

 

「みなさん。おそろいですね。役者は揃ったようですね。それでは、そろそろ最大のイベントを開始しましょうか」

 

「もうやめてくれ! 俺たちはお前のおもちゃじゃないんだ!」

 

 俺がそう叫ぶと、ふうせんかずらがゆっくり近づいてきた。

 

「そう、比企谷さん、あなたたちは私のおもちゃじゃない。だから、弄ぶのを止めようとしているんですよ………わたしは二つの小説を同時に書くのが面倒になってきました。なので、どちらか一つに統一しようと思いまして………このさい、どちらか一つに消えてもらいます。どちらが消えるか、あなたたちに選んでもらおうと思います………」

 

「結局、弄んでいることに変わりはないじゃない。それに、あなたの能力からすれば、二つの小説を同時に書くなんてことは、ほんの些細な負荷にすらならないはずよ。これまで人類が書いてきた書物のすべてを、あなたは一瞬で作れる。まったくあなたの言っていることは矛盾に満ちているわね」

 

 鋭い口調で反論する雪ノ下のほうに、ふうせんかずらが暗い顔を向ける。

 

「わたしはあなたたちに、自発的な意志による選択、つまり自由を与えようとしているのですよ……もちろん、勝利したらですが……勝てばこの世界から解放してあげましょう……わたしも二度と姿を現しません……その一方で、負けたら死。すなわちすべてが無に帰する……どうしますか、やりますか、やりませんか……」

 

「要するに、私たちは実体のないシミュレーションなの?」

 

「いいご質問ですね……わたしは時間に対してあらゆる操作ができます。時間を止めることも遡行することも可能です。また、プランク時間(5.39121×10^-44 秒)のすき間に任意の時間を挿入することもできます………これで理解できますかね……雪ノ下さん……」

 

「すると、私たちの肉体的な実体はあるということ? どこかで私たちの実体が普通に生活していて、プランク時間とプランク時間の間隙にこの世界が挿入されているということ? 普通に生活している私たちは、あまりに短いプランク時間のすき間を意識することはできない。この世界はそのすき間の連続体ということ? だとしたら何という……。恐ろしい………」

 

「ものわかりが良すぎて、驚きました……おおむねその通りです」

 

「雪ノ下、どういうことだ?」

 

 俺は二人の会話が理解できなくて問いかけた。

 

「ちょっと違うのだけれど、映画のマトリクスのような構造になっている。私たちは保育器の中で脳にコードがつながれているわけではないけれど、そんな感じかしら。

 私たちの実体の脳に干渉するタイミングは、一番わかりやすいイメージでいくと、映画のコマがあるでしょ。あれは瞬間的に動かない写真が連続してパッパッって写るじゃない? コマの間に一瞬、他の画像を入れても気がつかないということ。最近では、時間も連続的なものではなく、離散的なものだと考えられている。無限に微分ができない。時間の最小単位がプランク時間というわけ。

 この世界はシミュレーションと私たちの意識が相互作用して作り出されている。そこでの感覚は私たちの実体にフィードバックされる。そして、感覚が発生する。マトリクスでもシミュレーションの中で負傷すると実体も影響を受けるでしょ。

 しかし、この世界で受けた感覚は一瞬すぎて、私たちの実体には感知されないでしょうね。この世界にいる私たちは感覚が意識されるのに十分な時間があるのだけれど」

 

「難しいな」

 

「そうですか、そこまで理解されてしまいましたか……では言い方を変えましょうか……このバトルに勝利すれば……あなたたちの実体の脳に対する量子的な干渉を止めてあげましょう。どうですか……これでやる気になりましたか……」

 

「やるしかないだろうな。そんなキモイ干渉は一刻も早く止めてもらいたい」

 

「そうね。やるしかないわね。このバトルはやっても大丈夫だと思うわ。たぶん。私の推測が正しければ……。しかし、どっちみち拒否しても無駄なのよね」

 

「いいか、葉山、三浦、ほかの連中も。反対の者は?」

 

「ああ、やるしかないみたいだな。優美子、やろう、雪ノ下さんが大丈夫って言ってるから大丈夫だよ」

 

「隼人がそういうんなら、やるしかないし」

 

 みんなやる気になったようだ。反対する者はいない。

 

「そうですか、それでは……」

 

 ふうせんかずらが、手で机の上に四角形を書いた。その空間が光る。そして、武器がゴトゴトと音を立てて落ちてきた。机一杯に拳銃や弾薬の箱が無造作に散らばる。

 

 拳銃はシグ・ザウエル社のP230だった。1970年代後半に開発され、日本では警察が採用している。噂ではSPが所持しているらしい。

 

「これだと、有効射程が50メートルくらいだろ。白兵戦に近いな」

 

「まあ、校内ではこれくらいで十分でしょう。その程度の火力で我慢してください。RPGとかロケットランチャーを持たせたら、一発で決着がついちゃいますからね。

 あ、相手はあなたたちと同じメンバーですが、同じ2人のうち1人が死ねば、残ったほうは銃弾を打ち込まれても、屋上から飛び降りても死にません。そのつもりで……」

 

「どういうことだ」

 

「比企谷君、あとで説明してあげるわ。これも私の推測が正しければだけど」

 

「どうも雪ノ下さんは理解が早くてかないませんね……バトルの開始は、相手が現れたときです。あと1時間もないかもしれません。それから、どちらかのグループが全滅したときがゲームの終わりです。では……幸運を祈ります」

 

 ふうせんかずらは、フラフラしながら出て行った。扉が閉まったときに、不意に聞きたいことを思い出し、俺は先生を追いかけた。他の教職員とか生徒はどうなるのか?

 部室の扉を開けたて廊下に出たが、そこには誰もいなかった。俺はそのまま職員室や他の教室へ行ってみた。だが、静かで冷たい空気が充満するだけで、人の気配がまったくない。この学校にいるのは俺たちだけのようだった。これで舞台設定は完了というわけか。

 

 部室へ戻ると、全員が銃を手にとって眺めていた。

 由比ヶ浜や小町、一色までが、おそるおそる両手で銃を構えている。「重い~」「無理~」とか言って、ゴトンと銃を机の上に置く。おそらくあんなんじゃ撃てない。

 俺は、銃の操作法を説明した。俺だって実銃をいじったことなどないが、およその知識はある。マガジンを外して、弾丸を一個ずつ入れる。マガジンを本体に挿入したら、スライドをずらして弾丸を装填。あとは引き金を引くだけ。あとは、セーフティレバーやハンマーの扱い方を含めて、およその操作法を全員に教えた。

 全員がある程度の操作を覚えると、次は食料や水の確保に話題が移った。全員でカバンから教科書を放り出し、代わりに銃と弾薬を入れ、部室を出た。一階の売店でパンとか飲み物をカバンに詰めてくるためだ。

 売店には、もちろん誰もいない。みんなでパンやペットボトルを適当にカバンに入れた。そのあと、廊下の切れ目に立ち、校庭のドカ雪に向かって何発か発砲してみた。

 両手で構えても、パンと乾いた音と同時に、パンチを受け止めているような反動が来る。これを続けていたら手首の関節がおかしくなりそうだ。

 同じように、全員に撃たせてみた。葉山や戸部、大志は撃っているうちに片手でも狙いをつけられるようになった。

 三浦、雪ノ下、一色は結構面白そうにパンパン撃っていたが、由比ヶ浜と小町、それに海老名はへっぴり腰で、しかも顔をそむけて一発撃つのがやっとだった。

 そして、俺たちは発砲という初体験の興奮が冷めやらぬまま、火薬の匂いにまみれつつ部室に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 

 



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B面06

A面06で以下の部分を直しました。

×どちらかのグループの最後の1人が生き残ったときがゲームの終わりです。

〇どちらかのグループが全滅したときがゲームの終わりです。









 

 カギをもらうために職員室へ向かう廊下を歩いた。そのとき、校内の照明が点灯した。どこかで応急措置でもしたのだろうか。

 部室に入ると、人にかき回されていない凍った空気が鼻についた。しばらくすると、廊下から聞こえてくる話し声が大きくなる。そして、部室のドアが開かれた。入ってきたのは葉山、戸部、三浦、海老名だった。

 先頭の葉山が俺を見て「君たち、また何かたくらんでいるんじゃないかと思って。お邪魔だったかな」という。

 

「別に邪魔ってことはないけど、ここにいてもロクなことないと思うぞ」

 

「どうしてだい? もう当分帰れないみたいだし、ヒマなもんだから。こんなとき、君たちと一緒にいると心強いからね。あはは」

 

 俺は迷った。こいつらにふうせんかずらのことを言ってもいいのかどうか。雪ノ下は指を眉間に当てて、しばらく考え込んでいた。

 

「比企谷君、おそらくふうせんかずらは自分の思い通りに私たちを動かす。彼らが必要ならそうするはず。どこにいても同じだと思う」

 

「その通りだな」

 

 俺はついさっき戸塚にかかわるなと警告したが、ふうせんが必要としているなら、いずれここに入ってくるはずだ。それは葉山たちも同じに違いない。それに、ふうせんのことを喋っても、葉山たちが不必要なら排除するはず。

 問題は、本当にバトルが始るのかということだ。俺たちはまだ一回も直接ふうせんと会話していない。だが、その登場も時間の問題だろう。

 

「優美子~、私たち、とんでもないものに憑かれてるんだよ」

 

 由比ヶ浜が泣きそうな顔で三浦に近づく。

 

「はぁ~? いったい何だし?」

 

「ヒッキー、あれ見せてあげてよ」

 

 俺は、材木座のノートPCをカバンから出し、机の上で開いた。相変わらず執筆作業が続いていた。

 

 三浦と葉山がその画面を覗き込む。

 

「これって、パソコンだよね。だったら文字を次々に表示させるプログラムだって可能じゃないの?」

 

 と葉山がいうので、俺は無言でPCのバッテリーパックを外し、再び画面を見せた。葉山の顔が険しくなる。その後ろで三浦、海老名、戸部も覗いている。 

 

「ありえないでしょ~」と大きな声を出したのは戸部だった。

 

「確かに、これは異常だ。なんだこれ」

 

 俺は葉山たちにふうせんかずらのこと、材木座の書いている小説が勝手に更新され、自動的に執筆が継続していること、その小説の内容から推測して、今日の大雪はふうせんかずらの仕業であること、そして、まもなくバトルロワイアルが始ることを説明した。 

 

「……信じられないな。そんなことがあるなんて。しかし、このPCを見れば、信じざるをえないな」

 

「でしょ? わたしとゆきのんが昨日、ふうせんかずらにとり憑かれてたのかもしれないんだよ」

 

 見ると、由比ヶ浜が三浦にしがみついていた。最近、由比ヶ浜のしがみつきクセが強くなっている。

 俺は、小説の昨日から増加している部分を読んでみた。すると、ここにいる9人と一色いろはを加えた10人が無人の校舎に閉じ込められ、バトルに備えて銃を撃ったり、食料をカバンに用意していた。

 読み終わると、PCを葉山たち新参者に渡した。事情を詳しく知るには原稿を読んでもらうのが一番だ。3人はイスを並べて座り、しばらく画面を食い入るように見つめていた。三浦が読み始めてしばらくすると、その顔が険しくなった。悔しそうに歯ぎしりして、一瞬、雪ノ下を睨んだ。

 

 そこへ、一色いろはが入ってきた。ああ、これもすでに書かれている。自動書記を続ける原稿の通りだ。こんな事態なのに、いつもと変わらないフワリとした雰囲気で葉山を探しにきたのだ。 

 

 俺は、一色が何か言う前に反射的に声をかけた。

 

「一色、葉山を探しに来たんだろ。こんな非常事態のとき、生徒会が何をやればいいのかアドバイスが欲しくて。そして、途中で職員室に寄ったら先生は誰もいなかった、そうだよな」

 

「ええ~、するどいですね、比企谷先輩。その通りですよ。なんでわかったんです? みなさん深刻な顔してどうしたんですか~」

 

 思わずため息がもれた。シナリオは予定通り進行中。これで10人が揃っった。

 

「悪いけど、俺、説明する気力がないわ。小町、一色に説明してやってくれ。頼むわ」

 

「わかったよ、お兄ちゃん。一色先輩、こっちに来て座ってください。全部説明します」

 

「なんかワクワクしますね~」

 

 アホか。小町の説明中に、一色は「本当~?」とか「ええ~?」とか声を上げる。最後に、「じゃあ、わたし、選ばれちゃったんですか~? そのふうせんなんとかに?」

 

「どうやらそのようですね」

 

 と小町がいうと、「でも、葉山先輩がいるから大丈夫ですよね~」と、イスをずらして葉山の近くに寄る。

 

 葉山が一色に自動書記画面を「ほら」と見せる。PCはバッテリーが外れていて、その部分が凹んでいる。

 

「じゃあ、本当なんですね。怖くなってきました。どうしよう」

 

 尋常ならざる現象を目の当たりにして、初めて一色が落ち着いた素の声を出した。

 突然、安っぽい電子オルゴールの音が響いた。俺はドキリとしたが、それはお湯が沸いたことを知らせる電気ポットの音だった。雪ノ下が紙コップを並べて紅茶を入れ始める。その香りが漂ってくると、焦りと不安でザワついていた心が和んだ。ふぅ~と深呼吸ができる程度には心が落ち着いた。

 

 俺は次に確実に起こることがわかっていたので、紅茶をゆっくりと啜った。不吉なこと、どうしても避けたいことがゆっくりと近づいてくるとき、その内容を知ってさえいれば、焦らずに冷静に事態を分析して明晰な意識を持てる。

 ふと、俺はふうせんかずらが何者か、その尻尾をつかんだような気がした。雪ノ下との会話では、ふうせんはこの宇宙に偏在しているという。しかし、それはこの宇宙に閉じ込められていることを意味する。無数に存在する他の宇宙を知ることも、他の宇宙に出ることもできないはずだ。今まで俺は、ふうせんを神のようにイメージしていたが、その神にも限界がある。この宇宙を包含する、さらに上位のレイヤーがある。ふうせんかずらも絶対的ではなく、相対的なのだ。ふうせんにも怖れるものが必ずあるはずだ。そう考えると恐怖心がなくなった。

 そして、平塚先生の姿をしたふうせんかずらが部室に入ってきたとき、俺の内部に沸々と抑えきれない怒りがわいた。

 

「おい、ふうせんかずら。お前いい加減にしろよ。つまんねぇ小説なんて書いているんじゃねぇ。とっとと消えろ。帰れ!」

 

「おや、比企谷さん、初対面の人にはもう少しおだやかに接するものですよ。つまらない小説なのはお詫びしますが」

 

「お前が人間だったら、いくらでも礼儀正しくしてやる。お前のくだらねぇ小説読まされたおかげで、説明を聞く必要はもうない。とっとと銃でも自動小銃でも戦車でも出せ。くそが」

 

「そうですか、それなら話は早い。あなたたちもゲームに参加してもらえるわけですね」

 

「なんで俺たちもこんなことやらないといけないんだ?」

 

 葉山がふうせんかずらに問いかける。

 

「それは葉山さん、あなたには救いたいと思う人がいるんじゃないですか。それも複数。だったらこのさい、助けてあげてくださいよ」

 

「もちろん、助けるのはかまわないさ。ただ、こんなことして何になる」

 

「雪ノ下さん、わたしの代わりに説明してあげてください。あなたはこの中で一番察しがいい」

 

 みんなの注目が雪ノ下に集まる。

 

「たぶん、ふうせんかずらは私たち人間が怖いのよ。この宇宙の中で自意識というものはアノマリーだから。異物だから。

 私たち人間の体も宇宙内の物質でできている。しかもエントロピーが増加する一方の宇宙内部で、ネガ・エントロピーを食べて、わずかな時間ではあるものの平衡状態を保っている。宇宙内の存在が恣意的な目的を持ったり感情で動いたり、オントロギッシュな認識を持ったりする。そして、一番の脅威は知性なのよね。知性を持たないふうせんかずらとしては。

 だから、私たちを調べている。こんな実験をして情報を集めている」

 

「だいたい合ってますが、ちょっと違います。おそらく人間には理解できないかもしれませんね。

 この宇宙はあと50億年ほどで相転移する可能性があります。現在のところ、0K、つまり摂氏-273・15℃が絶対零度とされていますが、この温度がもっと下がる可能性があるのです。あなたたちには50億年という時間は無意味ですが、時間が存在しないわたしにとっては、すでに起こっていることです」

 

「何の話だ。さっぱりわからん」

 

 俺がそういうと、雪ノ下が俺の肩に手を置いて「続けて」という。

 

「3次元空間を1次元減らして平面と考えてください。そこに垂直方向へ時間次元を加えると、立方体になります。時間のないわたしの世界を説明するなら、こういうイメージを提示するのが一番いいでしょう。この立方体のどこにでもわたしは偏在している。そして、すでに相転移の起こっている部分がこの立方体の内部にあるのですよ。ジワジワと光速で広がってきてます。わたしの一部はすでに相転移に蝕まれているのです。全空間が相転移すればわたしもどうなるかわかりません。その前に……」

 

「わかった。あなたは人間の知性や意志、創意工夫を研究しているのね。そして、相転移の危機から脱しようとしている。ふうせんかずらさん、そういうのを意思というのよ。それを、目的というのよ。リソースばかり大きくて、やはり知性を欠いているようね。すこしは成長しなさい。相転移したらあなたも滅びる。それが怖くて人間を頼っているのよ」

 

 ふうせんかずらは混乱しているようだった。

 

「もうすでに意味のある情報は集まっているんだろ。いい加減に消えてくれ、神を気取ったペテン師が」

 

「神ですか。神もまた特異な概念ですね。そうした超越項を析出せざるをえない人間の………いや、あなたのおっしゃるとおり、わたしは神ではありませんし、そんなことを言ったこともありません。まあ、そんなことはどうでもいいんですが。そろそろゲームを開始してもいいでしょうかね。わたしが初めて意識した目的を達成するために」

 

「勝手にさらせ!」

 

「わかりました。ゲームはどちらかが全滅した時点で終了です。すでに知っていると思いますが。負けたほうは無に帰し、勝ったほうはこの世界からの解放。お好きなほうを選んでください。

 わたしとしては勝つことをおすすめします。わたしも無という状態は知りませんから。なぜなら、この宇宙空間にあるかぎり、無は存在しません。絶対零度の真空中でさえ、まだマイナス273℃のエネルギーが残っているわけですから。そこでは量子的ゆらぎ、つまり対生成と対消滅が起こっている。人間にだけ訪れる死とはどんな状態なのか。想像もできません」

 

「わかったよ。お望み通り勝ってみせるさ」

 

 そう葉山が言うと、ふうせんが空中に光る四角形を書いた。そこからガラガラと拳銃10丁と紙箱に入った大量の弾薬が落ちてきた。

 

「とっとと帰りやがれ、くそが」

 

 俺がそういうと、ふうせんかずらは部室を出て行こうと背中を見せた。しかし、すぐに振り返る。

 

「比企谷さん、もう小説は自動的に書かれていません。確認してください。これから先はあなたたちの自由意志で行動してください。それでは幸運を祈ります」

 

 部室の扉が閉まった。その向こうにはすでに平塚先生も、他の職員も、生徒たちもいない。校内には俺たち10人しかいないはずだ。

 俺はパソコンを開いてみた。電源が落ちていた。スイッチを入れてみるが、ウンともスンともいわない。

 部室に残された俺たちは、おそるおそる銃を手に取る。銃の中では軽いほうとはいえ、700グラムほどあれば、やはりずっしりとした質感がある。俺は基本的な操作を説明して、全員に覚えさせた。

 次は、やっぱり食料の確保だ。俺たちもカバンから教科書を出し、銃や弾薬を詰め込んで売店に行った。

 その帰りに、校庭に向かって射撃練習をした。みんなに見えるように、実弾入りのマガジンを差し込み、スライドを動かして装填をする。そして引き金を引く。

 

 両手でかまえてパン、パンと二発撃った。空薬莢が飛び出して雪の中に消える。火薬の匂いが周囲に広がる。

 男だったら子供のことにモデルガンをいじったりするものだ。俺以外の男3人は問題なかった。何発か撃つと、片手で撃ち、反動にも慣れてきた。

 ハンマーの衝撃を弾に伝えて発射されるという構造を瞬間的に理解したらしい雪ノ下は、最初からうまく撃てていた。片手で狙いをつけて撃つと、制服の袖口から見える手首が曲がり、腕が上方向へ跳ね上がるが、反動を予測してうまく対処している。

 それに対抗するように三浦も撃ち始める。やはり理解してしまえばそんなに難しいことはない。パンパンと撃ってすぐにマガジンを空にした。

 三浦の銃のスライドが後ろに下がったまま止まる。

 

「それはロックを外すか、マガジンに弾を入れて差し込まないと直らないのよ」と雪ノ下がアドバイスするが、三浦は「フン」と顔をそむける。

 一番危なっかしいのは由比ヶ浜だった。雪ノ下が後から手を添えて、一緒に撃つ。それでも音と反動に驚いて目を瞑ってしまう。一人で撃つと「キャア」と言って銃を落としてしまった。由比ヶ浜は後方支援に回したほうがいいのではないか。後ろで弾をマガジンに詰めるとか。

 小町は俺が教えてやった。こいつも要領が良いほうなので、すぐに扱いに慣れた。海老名さんは、まったく銃に触れたがらなかった。三浦が銃を持たせようとするが「私はいいよ」と拒む。戦意のまったくない海老名さんも後方支援が適しているかもしれない。

 

 練習を終えた俺たち10人は、雪混じりの冷たい風が吹き込む無人の廊下を歩いて、部室に向かった。

 

 

 

 

 



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(A⇔B)01 邂逅

 部室に戻る途中、一階の廊下の窓ガラスは、雪でふさがっていた。いくつかのガラスが割れて、雪が廊下へ雪崩れ込んでいる。床には冷気がたまり、歩くとそれが蹴散らされるのがわかる。暖房が効いていなければ、とっくに凍えているところだ。

 階段を上がって3階の部室の前まで来ると、部屋の中から声が聞こえた。

 

 まさか!

 

 やばいと思ったときには遅く、葉山が扉を開けていた。葉山の動きが止まり、凍りつく。俺も部屋の中を覗きこんだ。すると………。

 

 部屋の中にいたのはそっくりそのまま俺たちだった。俺たちの分身。コピー。鏡像。一瞬めまいがしたが、部屋の中を見渡すと、机が横倒しに積まれて楯になっていた。弾丸避けの塹壕だ。

 

 その前には葉山と俺。俺は俺と目が合った。7~8メートル先にいる俺が俺を見て驚愕の表情を浮かべる、そして、俺に銃を向けた。いきなりバトルが始ったのだ。

 

「逃げろ! 葉山!」

 

 俺はそう叫んで扉の前から飛んだ。葉山も反対側に飛んだ。その身のこなしはさすがに体育会系だった。素早く床を転がって、間一髪、難を避けた。パンパンと銃声が響き、スチール製の扉から火花が散る。ガギーン、ガギーンと鉄が衝撃でねじれる音が廊下を走る。何発もの銃弾は部室の入り口を抜け、廊下の壁から塵をはじけ飛ばす。

 

「みんな向こうへ走れ!」

 

 10人が一目散に渡り廊下を走って違う校舎へ向かう。しんがりにいた俺はカバンから銃を取り出し、振り向きざまに何発か撃った。とりあえず、敵グループとの遭遇に、犠牲者はいないようだった。 こちらの校舎は奉仕部のある校舎とほぼ同じ構造で、大きさも4階立てというのも同じだ。突き当たりを曲がって、射線から逃れると、みんな息を切らせていた。

 

 葉山が「どこか拠点を探そう」というと、「生徒会室ならここの2階にあります」と一色が提案する。

 教室の大きさは、視聴覚室とか調理実習室などの特殊な教室を除いて、ほとんど同じ大きさだ。生徒会室も他の教室と同じ構造だが、奉仕部のように使われていない机や椅子はない。

 俺たちも掩蔽壕を作ることになり、みんなで隣りの教室から机を運んだ。それを横に積んで、足をガムテープでしばって積み上げる。窓側から襲撃されることを考えると、ガラス一枚なのが不安だ。そこで、スチール製のドアのカギを閉めて、廊下側に立てこもれるようにした。こうすればひとまず安堵できる。

 机の壁は、面倒だったが廊下にも作った。部屋の入り口を出たところにいられるよう、左右の二つの壁を作った。

 その作業が終わると、俺は大志に「悪いが、見張りをしてくれないか。あとで代わる」と頼んだ。

「わかりました」と大志が扉に向かうかたわら、塹壕の中では由比ヶ浜と海老名がイスに座って体をブルブルと震わせていた。 

 

「本当に始まっちまったな」

 

 俺がそういっても葉山も戸部も無言だった。その手には銃が握られている。彼らだけでなく、雪ノ下も三浦も小町も無言だった。特に三浦は一生懸命に状況を把握しているようだった。

 

「とりあえず、お茶でもいれます」と、一色が奥のテーブルの上にある電気ポットを確認して、近くの収納ボックスからコップを取り出した。俺は次に何をしたらいいのか考えた。しかしどうしたらいいというのだ。

 お茶をひと口すすったところで、銃声が数発聞こえた。そして、すぐ近くに着弾する音。大志が「来ました!」と叫ぶ。俺は廊下に出て楯のすき間から様子をうかがった。隣りに葉山と戸部も来る。

 渡り廊下が終わるところに階段がある。その角からこちらをうかがう顔があった。誰だかわからないが男が1人いる。俺はそこに向かって2発撃った。向こうも手だけを出して撃ち返してきた。

 パシン!と机の板が弾ける音。細かい木の破片が頭に降りかかった。

 

「あれは誰だ?」と俺がといかけると、葉山は「たぶん向こうの君みたいだな。偵察に来たようだ」と俺に顔を向けた。

 

「こっちも、なんか陰謀というか作戦を考えてくれよ、君が一番そういう頭働くだろ」

 

「考えがないこともない。ただ、あそこの見張りがいなくならないと動けない」

 

「そうか。戸部、援護してくれ。撃ちまくれ!」

 

「わかった」

 

 戸部が机の山の上から顔を出し、銃を構えると、葉山が楯から出た。俺は「おい!やめとけ!」と叫んだが、葉山は俊敏に柱の影に隠れる。すると向こうの発砲が増えて、2人いることがわかった。俺も戸部も撃ち返す。俺の銃のスライドが後ろに下がったまま引っかかった。弾丸を装填するあいだ、代わりに撃ってもらうために大志を隣りに呼んだ。

 と、そのとき葉山が発砲しつつ、うぉーと声を出して走った。そのまま階段のあたりまで突っ走る。反撃がないようだ。葉山がこちらに手を振る。どうやら相手は階段を下りて撤退したらしい。

 

 生徒会室に戻ると、俺は考えていた作戦を披露した。奉仕部の部室は3階にある。俺は奉仕部の真上の部屋の窓からロープで3階の窓まで降り、一気に撃ちまくって決着をつけたかった。

 

 俺は一色に20メートルくらいのロープはあるか訊いた。隣りの生徒会の倉庫にはあるかもしれないという。一色が隣の部屋に行くとき、俺と葉山も楯のところで見張っていた。すぐに一色は円形に巻かれたロープの束を持って隣の部屋から出てきた。

 

「で、誰が行く? 俺が行ってもいいよ」と葉山が言う。しかし、これは俺がやりたかった。もう、こんな撃ち合いはごめんだ。この作戦一発で終わらせたかった。

 

「俺のほうが体重が軽いだろ。葉山、戸部、大志、三浦、雪ノ下、一色の6人で支えてくれ。由比ヶ浜と小町と海老名は4階の教室の入り口で廊下を見張っていてくれ。この作戦でいきたい」

 

 俺は小町、海老名、由比ヶ浜から銃をもらった。手に2丁持ち、ベルトにも2丁差しておく。こうしておけば装填する必要がない。

 

 みんなで息を殺して廊下を歩いた。俺の胴体にはロープが巻かれている。ロープの続きは葉山や戸部が握っている。まるで俺は捕らえられた囚人のようだった。

 渡り廊下には誰もいなかった。靴音をさせないように抜き足差し足で歩く。階段を上がって4階についた。奉仕部の真上の教室は空き室だった。このことは初めて知った。ということは……扉に手をかけても動かない。鍵がかかっている。

 

 俺は壁の上にある小窓を見た。ガラスがはまっているが、左右に開くようになっていた。

 

「葉山、戸部、俺をあそこまで持ち上げてくれ」

 

「わかった」

 

 2人が俺の大腿をつかむように持ち上げる。窓の下に手が届くと、手で自分の体重を支えられた。葉山と戸部の肩に足をかけると、教室内を見ることができた。

 俺は銃をガラスに叩きつけて割った。ずいぶんと大きい音がした。ガラスの破片を払いのけて、おれはネジ式のカギを解き、窓を開けて体をねじ込んだ。そして、部屋の中へ飛び降り、ロープをひっぱい込んだ。

 部屋の中は暖房が効いていないので、冷蔵庫の中のようだった。空気がカビ臭い。扉のカギを回して外した。

 

「さて、バンジージャンプを始めるか」

 

 俺がそういうと、葉山がクスッと笑う。窓を開けるとすさまじい冷気が吹き込んできた。

 

 吹き付ける雪に足を晒して、窓枠に座った。寒さのために体がブルッと震える。

 ロープは6人がしっかりと持っている。両手には2丁、ベルトにも2丁。そのまま、体をまっすぐにする。窓枠から尻が外れて、俺は外壁に宙吊りになった。

 体を回転させ、頭を下にした。手で合図をしてロープをゆっくりと下ろしてもらう。3階の部屋の窓が近づいてきた。目が窓の切れ目まで達すると、部屋の中が見えた。

 俺たちのコピーは、窓側に塹壕を作っていた。ちょうどその内側が見える。そこには、小町、由比ヶ浜、海老名、一色がイスに座っていた。4人だ。それ以外は見えない。どこにいる? 何かの作戦行動をしているのだろうか。もしかすると、生徒会室の襲撃に出ているのかもしれない。

 4人は、上から覗かれていることも気づかず、身を寄せ合うようにして何かを話していた。俺は……俺は……俺は、こいつらをこれから撃つというのか……。おそらく何の反撃もしてこないだろう。そんな4人を撃つというのか。

 

 自分のやろうとしていることが信じられなかった。本当に撃てるのか?

 

 異常な時間が経過した。上から「比企谷、支えるのが結構つらい。早くしろ」と小さな声が聞こえた。

 俺は時間が恐ろしくなった。強制的に次の変化を要求する時間。変化しないこと絶対に許さない時間。時間は考えずにいること、動かずにいること、変化しない自由を選択することを絶対に認めない。人を死の淵に次々と運んで無慈悲に突き落とす、溶鉱炉へ続くベルトコンベアのような時間。

 俺は目を瞑った。だったらこれを早く終わらせたい。こんな嫌なことを早く終わらせたい。止まれないんだったら時間を早く進ませたい。許せ! 小町、由比ヶ浜、海老名、一色!

 

 俺は目を開き、2丁の拳銃を4人に向けて連射した。粉砕されたガラスが飛び散り、俺の顔に跳ね返る。その向こうで……。

 その姿が俺の脳裏に焼きついた。これほど強烈で精彩に満ちた映像は見たことがなかった。映像出力端子から伸びた線を脳に差し込まれたかのように、鮮明な画像が脳内に迸った。

 ……小町が弾丸を受け止めようとでもするかのように、俺に向かって掌を見せ、「お兄ちゃん、やめて!」と叫んだ。同じように由比ヶ浜が「ヒッキー!」と口を歪め、両腕で顔を守りながら目を閉じる。海老名はただ、驚くような表情で俺を見ていた。

 その姿が血に染まっていく。俺が二つの人差し指を動かすたびに。飛び散る鮮血。痙攣する手足。みるみる広がる血溜まり。時間がその変化をゆっくりと導いてゆく。物理的な法則に則って……。

 よく見ると蠢く半死体の中に、一色の姿がなかった。わずかな隙をついて逃げたらしい。

 気がつくと、発砲していないのに、窓ガラスや窓枠が時々弾ける。部室の廊下側から反撃されているらしい。パンパンと音が聞こえる。俺は合図を送って引き上げてもらった。

 その途中、上からも発砲音が聞こえた。俺の襲撃を知って、相手グループの誰かが4階に上がってきたようだ。

 4階の部屋に戻ると、俺はロープを外した。そして、廊下の扉から顔を出して、葉山たちと反撃した。そのうち、銃声が止んだ。

 部屋の中では三浦と雪ノ下が、倒れている小町、由比ヶ浜、海老名を介抱していた。俺が相手グループの3人を撃ったとたんに、こちらの3人も動かなくなっていたのだ。しかし、こちらの3人には銃創がない。

 

「おそらくこの3人は大丈夫よ。生きている。このまま放置しておいても凍死することもないでしょう。ふうせんかずらはそう言っていた。行きましょう」と雪ノ下が言う。

 

「本当か? せめてカーテンでもかけておいてやろう」

 

 俺は戸部と葉山と協力して、窓のカーテンを引きちぎろうとした。しかし……体の力が入らなかった。思い通りに動かせない。立っていることもつらくなってきた。ひざの力が抜け、その場に崩おれてしまった。

 

「どうした?」

 

 葉山が俺の異常に気づく。

 

「あいつらにカーテンをかけてやってくれ。なんか俺は体がおかしい」

 

 確かにおかしかった。異様に手足がしびれて冷たい。手の感覚が薄らいでいる。さっきから視界が白くなっているような気もする。俺は床に寝転がった。動けないのだ。

 

「比企谷君、すごく顔色が悪いわ」

 

 雪ノ下と三浦が俺を覗き込む。

 

「葉山君、生徒会室に戻る必要があるかしら」

 

「あんまりないな。一時的にここを拠点にしようか」

 

「それがいいと思う。彼をかついで移動しているとき、襲撃されたらまずいと思う」

 

「じゃあ、また机で楯を作るか。戸部、大志くん、やるよ。一色と優美子は廊下に顔出して見張っていてくれないかな」

 

「わかった」と三浦と一色が扉の方へ歩く。

 

「雪ノ下さんは比企谷君の看病して」

 

「わかった」

 

 俺は、雪ノ下に引きずられて教室の後ろに移動した。依然として体に力が入らない。これは、いわゆる腰が抜けたという状態なのだろうか。

 俺は気分が悪くなってきたので、震える指先で手首に触れ、脈を診た。すると、脈打つ感覚が不規則に伝わってきた。しばらくトットットと来たあと、数秒なかったりする。

 

「どうやら神経がおかしくなってしまったらしい。その原因は……」

 

「もうそれ以上、言わなくていいわ。なんとなくわかる。妹さんとか由比ヶ浜さんを撃ったんでしょ? 相当きつかったのよ。でも、本当に死んではいないのよ」

 

「わかっているさ、脳の一部では。でも、わかっているのはその一部だけで、それ以外の俺の全身全霊は……自分の妹を射殺した、と認識してしまっている」

 

「比企谷君、よく聞いて。あなたの撃ったのは幻影よ。だから……」

 

「幻影にしては血が飛び散ったり、すごいことになっていた。やめて! という声まで聞こえた。俺のまぶたには、その映像が焼き付いてしまった。なんかマジで体がおかしい。動かないんだ」

 

「そうね。もしかするとPTSDになっているかもしれないわね」

 

「俺は……俺は……」

 

「比企谷君、今は何も考えないで心を空にしなさい」

 

 まるで母親のような声で言うと、雪ノ下は動かない俺の体を壁にもたれかけさせ、同じように隣に座った。そして、俺の上半身を胸に抱き止め、俺を両手で包み込んだ。そのぬくもりが、俺の冷たい体に乗り移ってきた。

 

「安心しなさい。大丈夫よ。ずっとこうしていてあげるから」

 

 顔が冷えていて気がつかなかったが、俺は大量の涙を流していた。

 

 

 

 

 

 

 



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(A⇔B)02 宿命の二人

 名前など、どうでもよかった。俺が誰で、俺を抱いてくれているのが誰で、誰を殺して、誰が死んで、誰が生き残って、誰がこんな舞台を用意して、誰が何を望んだか。

 そんなことはどうでもよかった。誰かが目をつむったままの俺の顔を、ハンカチで拭ってくれた。冷たい頬を手で覆って温めてくれた。誰かが凍えて震える手を握ってくれた。誰かが俺の頭にずっとキスをしてくれていた。密着している誰かの体のぬくもりが温かかった。

 だが、その誰かが愛しかった。愛しくてたまらなかった。愛しい人のために俺は、血しぶきに染まったボロボロの心と体を元に戻さなければならなかった。そして、愛しい声が聞こえてきた。

 

「あなたの心がダークサイドに落ちないように、何かお話しましょうか」

 

「ああ、何でもいいから話してくれ……」

 

「あなたがいつから私のこと好きだとはっきり意識したか、当ててみましょうか。あれは確か昨年末、私が風俗情報誌を見ていたら、あなたが止めろ! と怒鳴ったことがあった。そのとき、あなたはまだそういう意識がなかったはず。でも、私は直感したのよ。まだはっきり意識していないけれど、この人、私が好きなんだって。

 あなたは自分の心を認めるのを躊躇っていた。たぶん、それは私に責任がある。私の偏った性格のせいで、ずっと意に反した態度をとり続けていたから。

 あなたも意外に自分の素の心を隠すのが下手よね。知略は働くくせに。でも、うれしかった。それから私は決めたの。はっきり認めさせようって。だって、あのあと、私に異様な関心を持って、探りを入れ続けてたでしょ。まさか助けに来てくれるとは思っていなかったけれど、そこまで気にかけてくれるなんて、このままあなたを放置したらいけないと思ったのよ。まるであのときのあなたは迷子のようだった。それに、あなたは過去のトラウマのせいで人を好きになっても自分から動こうとしないじゃない。だから、誘導してあげようと思ったのよ。私のこと好きなんでしょ? と問いかけて。間違っていなかったと思うのよ。一番大切なときにあなたは素直になってくれた。だから、私も素直になれた」

 

「……そうか…」

 

「だから、私のことをはっきり意識したのはあのとき。合ってる?」

 

「合ってる」

 

「そう。でもあのとき、はっきり認めてくれなかったら。私は幻滅していたと思う。そんな程度の勇気がないのなら、もう無理でしょ」

 

「そうだな」

 

「あなたはやさしい人なのよ。私みたいな女が自分とかかわっちゃいけない、とか勝手に考えていたでしょ。まったく自己犠牲的な性格してるのよね。

 ………そうだ。これが終わったら……ふうせんかずらが消えたら、どこか旅行にでも行かない? 雪に閉じ込められて鬱屈してしまっているから、どっか温かいところがいい。あんまり人がいないところ。意外に思われるかもしれないけど、ビーチリゾートとかいいかも。私だって日焼けさえしなければ、太陽のギラギラした浜辺で、パラソルの下で寝転がっていたいもの。一週間くらい羽根を伸ばしたい。旅行から帰ったら、私のところへ来て一緒に住んでくれないかしら。あそこは一人だと広いし……一緒に暮らせたらうれしい………」

 

 雪ノ下が言葉に詰まった。俺は目を開けて顔を上げた、すると、俺の額の上に顎があった。そこから涙が点々と垂れてきていた。

 

「どうした? なんでお前が泣いている」

 

「ごめんなさい。この世界での私たちの行く末を考えると………」

 

「この世界はどうなるんだ?」

 

「それは……あなたが回復したら言うわ……」

 

「そうか。でも、体の感覚が戻ってきたように感じる」

 

 俺は手を動かしてみた。冷たさは残るものの、しびれはなくなっていた。雪ノ下にもたれていた体を起こしてみると、不快な脱力感が和らいでいた。

 

「ありがとう。よくなっている」

 

 試しに立ち上がってみた。多少ふらついたが、足腰にしっかりと力が入った。不安はあるが大丈夫かもしれない。

 俺はまた床に座って、壁にもたれた。雪ノ下が握っていたハンカチをとって、今度は俺が涙を拭いてやった。

 

 掩蔽壕の中には、葉山と三浦がいた。イスに座って俺たちをチラチラ見ている。いちゃつき過ぎのような気もするが、こんな異常な世界に閉じ込められている。好き勝手にやらせてもらうさ。

 残りの人間は扉や廊下で監視活動でもしているのだろう。

 三浦が小声で葉山に話しかけている。

 

「隼人、あの2人のこと知ってたん?」

 

「ああ、知ってたよ。結構前から」

 

「ふ~ん」

 

「お似合いだろ。あれは宿命だな」

 

「雪ノ下さんてもっと冷血だと思ってたし。あんな優しいなんて意外だし」

 

「人は見かけによらないってことだろ。優美子も意外に純粋で、面倒見もいいし。恥ずかしがりやだしさ」

 

 葉山がそういうと、三浦が少し赤くなった。

 

「でも、それって褒められてる?」

 

 葉山がはははと笑う。

 

 

「比企谷君、歩けるかな。大丈夫なら生徒会室に戻らないか? ストックの弾薬とか食料もあるし。腹減ったよ」

 

「わかった。行こう」

 

 三浦が残りの人間に移動を告げるため、立ちあがって掩蔽壕を出た。俺はフラフラしながら葉山に続いて歩いた。教室の入り口にはいろはが、廊下の柱の影には戸部と大志が座っていた。大志は見張り役が板についてしまって、移動と知ると、銃を構えて先鋒を務めていた。

 

 生徒会室に戻る途中で、葉山と戸部が教室に入り込み、毛布代わりにするためのカーテンを引きちぎった。全部で6~7枚になると、米俵のように嵩張った。だが、俺にはそれを持ってやる気力がなかった。

 

 階段を降りて2階に行く途中で、銃声が聞こえた。大志が駆け戻ってくる。

 

「向こうの葉山さんと戸部さんがいました。自分が撃ったら逃げて行ったんですが、缶のようなものを持っていました」

 

「要警戒だな。何か考えているんだろ。向こうにも比企谷君がいるんだからな」

 

「向こうの俺は相当怒っているだろうな。それから滅茶苦茶ショックを受けてもいる。自爆覚悟で攻撃してきてもおかしくない」

 

「でも、向こうにも雪ノ下さんがいるから、異様なこと始めようとしたら、止めるだろ」

 

 俺はそう願った。向こうの俺がどんなことを考えているのかわからないが、もしかすると奇想天外な作戦を立案しているかもしれない。この数時間の沈黙が不気味だった。ただ、3体の死体をどうにかする時間だったのかもしれないが。

 

 生徒会室は出て行ったときのままだった。荒らされている様子はない。残っていたカバンの中にはパンとペットボトルがあった。食欲がまったくなかったが、俺はそれを無理に胃に流し込んだ。持っている4丁の銃のうち、3丁は葉山、戸部、大志に渡した。死んだ3人のカバンを開いて、弾薬を集め、再配分した。それぞれのポケットが弾で膨らんだ。

 

 突然、廊下のほうから銃声が響いた。葉山と戸部が掩蔽壕から飛び出す。それと鉢合わせするように大志と一色が教室に駆け込んできた。

 

「葉山先輩、向こうは全員で来てます。すごいです。マジです」

 

 パンパンパンという散発音と同時に、壁がズシンズシンと振動する。全員が掩蔽壕に走りこんでくる。葉山たちは机のすき間から入り口をうかがい、銃口を向けている。

 俺は念のために、掩蔽壕からいったん出て、窓に駆け寄った。窓を開いて外を見る。雪が2階の床下あたりまで積もっていた。人影はない。

 そして、俺が実行した作戦を思い出したので上も見てみたが、垂れ下がっている人間もいない。窓側の安全を確認すると、再び掩蔽壕に入り、銃を構えた。

 

 入り口から覗き込んでいる手鏡が見えた。顔を出すのが危険なので、鏡で見ているのだ。俺はそれを狙って撃った。近くに着弾して鏡が引っ込んだ。そのとき、何か鋭い匂いが漂ってくるのに気がついた。この匂いは……。

 

 ザバーンと音がして、バケツが次々と部屋に投げ込まれた。この匂いは、ガソリンか軽油だ。やばい! 鼻を突く匂いが充満する。

 

「なんなの?」と三浦が叫ぶ。

 

「みんな窓を撃て! ガソリンのガスが充満したら爆発するぞ。ガスを逃がすんだ!」

 

 全員で窓を撃つ。次々と割れるガラス。そして、冷気が吹き込む。そのおかげで爆発は免れたが、床が燃え上がった。黒煙を噴き出す劫火が教室を占領し、ものすごい熱気が渦巻く。相手がひるんだと踏んだのか、入り口からは銃口が覗き、めくら滅法な発砲が始った。

 

「くそっ!」葉山が応戦するが、あまり意味がない。このままだと、すぐに火が掩蔽壕のほうまでまわる。おそらく、廊下に飛び出した瞬間に集中砲火を浴びるだろう。

 

 戸部が机の上に立ち、廊下側の壁の上部にある窓を撃った。そして、手を伸ばして銃だけを廊下側に出し、めくら滅法に発砲し始めた。

 その行動は正しかった。あそこから軽油やガソリンを投げ込まれたら、もう逃げ場はない。

 

 目の前の机がミシミシと焦げはじめた。熱で目が痛い。そして、とうとう机が燃え始めた。もうこれ以上、熱くて耐えられそうもない。

 

「うがっ」と大声を立てて、顔に血を滴らせた戸部が、机の上から転落する。跳弾が当たったのか、そのまま劫火の中へ転がる。

 

「おい戸部!」と葉山が叫ぶが、すでに燃え上がっている戸部を助ける術はない。

 

 そして……。戸部が守っていた小窓から、軽油が降ってきた。それは掩蔽壕の中に降り注いだ。一気に火が回る。俺にも軽油がかかった。その部分に火がついたのであわてて消す。掩蔽壕の中にいた人間はみんな体の火を消すのに躍起だった。

 

「もうここはダメだ! 窓から飛び降りるぞ! みんな走れ!」

 

 俺はそう叫んで、隣りの雪ノ下の手を引っ張った。火に炙られながら窓に近づくと、間髪をいれずに2人で飛んだ。ずっぽりと雪の中に体がめり込んで、腹のあたりまで沈んだ。火傷気味の体が冷えた。

 次に飛んだのは葉山と三浦だった。そして大志が窓に見えたときは、銃声が聞こえた。大志も俺の近くに落ちる。

 銃声がうるさくなった。葉山が「一色! おい! いろは!」と窓に向かって叫ぶが、返事はなく、本人が姿を現すことはなかった。窓からは黒煙が噴出し、炎の舌先がチラチラと白い壁を舐めている。みるみるうちに白い壁が焦げていく。

 ただ、そのおかげで身動きできない俺たちが銃撃を免れていた。ひょっとすると全員焼死したと思っているかもしれない。あいつらが現場検証できるまで、まだまだ時間がかかる。

 体を動かして、なんとか校舎側へ移動する。しかし、なかなか進まない。靴も脱げそうになっている。

 雪を掘るように進み、なんとか一階の入り口までたどり着いたときには、全員が疲れ果てていた。顔はすすけ、服は焦げて穴が開いている。

 残ったのは俺、葉山、大志、雪ノ下、三浦の5人だった。

 

 

 

 

 

 



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(A⇔B)03 世界の終わりについて

 

 1階の廊下で、俺たち5人はしばらく手をついて床に座り、肩で息をしていた。疲れきっていた。ガソリン攻撃を受けた結果、こちらは2人を失ったが、コピーの連中も5人になったはずだ。3対2。1人ぶん、俺たちのほうが勝っている。

 みんなぶざまな姿だった。制服のところどころが焦げ、ボロボロになっている。2人のロングヘアの女は、髪の一部がチリチリになっている。特に金髪の三浦は、濃い茶色に焦げている部分が目立つ。だが、そんなことにかまっている余裕はない。

 

「あ~、わたしもう疲れた。無理よ。どっかに隠れて休みたい」

 

 三浦のこの発言に違和感があった。こいつは自分のことを、あーしと言っていたはずだ。このチャンスに葉山とくっつこうという魂胆? そう思うと、おかしくなってきた。

 

「講堂の倉庫あたりだったら隠れられるかな。どう思う、比企谷君」

 

「とりあえず、そこまで移動すっか。あそこだったらマットとかがあるから、寝られるかもしれん。カギがかかっているはずだが」

 

「これがあるさ」と葉山は銃を振る。

 

 全員がヨロヨロと立つ。講堂は3つの校舎の一番北側にあった。奉仕部の部室とは、かなり離れている。途中で売店に寄って、食料と飲料を調達した。簡単に食えるものといえば、パンや握り飯しかない。表示を見ると、まだ賞味期限は切れていない。が、何か温かいものが食いたかった。

 俺は、陳列棚にあるカップ麺5個と箸5本を袋に入れた。そして、売店の従業員用らしき電気ポットをコンセントから引き抜いた。これさえ持っていけばカップ麺が食える。

 

「これ着たほうがいいんじゃないですかね」と大志が売店の奥に積んである箱に手を突っ込んで、ジャージを漁っていた。ビニール袋に入った新品の赤と緑のジャージが、俺たちのほうに投げ出された。上下セットになっているようだ。

 

「いえてる。制服がボロボロだし。一つもらう」

 

 三浦が赤いジャージをとる。下のジャージはスカートの下につけ、上は征服に重ね着していた。女は赤、男は緑のジャージをその場で着た。重ね着すれば、少しは夜の寒さ対策になるかもしれない。

 

 略奪が済むと、講堂へ向かった。もう、面倒くさくて不意の襲撃を誰も気にしていなかった。講堂に続く屋根つきの道は、校庭に積もった雪をVの字に分けていた。それでも屋根の下には、1メートルくらいの積雪がある。足跡や、雪を掻き分けた痕跡がないので、おそらく誰もいないはずだ。

 抱えていたポットを開けると、そこにはお湯がまだ半分残っていた。俺は雪を目一杯ポットに詰めてフタをした。

 

 講堂の扉をガラガラと開けると、真っ暗なうえに静かな冷気が満ちていた。入り口の右側に、電気設備の制御盤がある。それを葉山がいじると照明が点灯し、暖房の運転が始まった。ブーンという低音が響いて、空気が動く。

 目的の倉庫は、講堂の演壇の地下にある。そこには、跳び箱とかハードルとかマットとかが格納されている。扉はやはり施錠されていた。

 

「下がっていろ」と葉山が鍵穴に銃口をつけて撃つ。扉は開いたが、これで内側からカギをかけられなくなった。

 中に入ると、葉山が扉に跳び箱を当てて塞いだ。照明をつけると積んであるマットが見えた。数枚を床に敷き、そこへ全員がゴロンと転がった。俺もしばらく目を閉じて動かなかった。

 

「やれやれ、これで少し休めるかな」葉山がそう呟くが、俺は少し寒いと思った。ここには暖房の空気が入ってこない。俺は大志を連れて外に出た。演壇のスクリーンを隠してあるバカでかくて厚いカーテンを、体重をかけて2人で引きちぎった。

 

「この下にもぐりこむと少しは温かいと思う」

 

 カーテンを広げると、みんながその下へもぐった。みんな言葉が少なかった。

 そのうち、やはり腹が減ってきた。コンセントを探してポットでお湯を作った。カップ麺を食うと、多少は疲れがとれてきた感じがする。

 

「隼人、明日からどうすんの?」

 

 カーテンを肩までかけて壁にもたれている三浦が、視線を隣りの葉山に向ける。

 

「もう考えたくないな。このまま終わりにして欲しい」

 

「雪ノ下さん、あんた何か知ってるんでしょ? 教えてくれない?」

 

「それは……」

 

 跳び箱にもたれている雪ノ下が言いよどんでいる。

 

「それは? どうして言えないわけ? 何があるわけ?」

 

「この世界が終わってしまうのよ。どちらのグループが勝っても」

 

「は? 終わる? よくわからないんだけど」

 

「三浦さん、残された時間は少ない。こんな勝負なんて忘れて、生きたいように生きなさい。ここでは殺されても殺しても同じよ。あなたが今、何を一番したいか、よく考えて、行動しなさい」

 

 呟くように言った雪ノ下の視線が床に落ちたまま、微動だにしない。

 

「は? なんか預言者みたいなこと言わないでよ。マジで頭大丈夫?」

 

「優美子、たぶんその通りなんだよ。どうしてだか俺にもよくわからないんだけど」

 

「俺ももう、殺し合いなんて真っ平だ。くだらん。最初は大丈夫だと思ったが、ノリで3人撃ったら、そのショックで心も体もボロボロだ。銃なんて素人の撃つもんじゃない。

 プロにしたって、イラクやアフガンに従軍した帰還兵のPTSDが問題になっているくらいだ。こんなことやらせやがって。くそが。なんとかふうせんかずらをブチ殺す方法はないのか?」

 

「ないわ」

 

「どうして?」

 

「相手はほぼ無限の大きさを持っているのよ。しかも異次元でネットワーク化している。あなたがブチ壊せるものなんてせいぜい自分と同じ大きさのものくらいでしょ。月や地球だって壊せない」

 

「そうか」

 

「打つ手なしか」

 

 葉山が仰向けに寝転がって天井を見上げる。俺もマットに寝転んだ。もう考え事をするのも億劫だった。

 

 葉山が何かを考えついて上半身を起こす。

 

「そうだ。あいつらも同じようなこと考えているだろ。休戦を持ちかけたら?」

 

「私もそれを考えたけれど、たぶん、そんなことしたら、ふうせんかずらが現れて介入してくると思う」

 

「そうか。くそ! まだ8時だけど、もう俺は寝る!」

 

 葉山が打ちのめされたようにバタンと寝る。こいつにしてはふて腐れたような珍しい態度だった。さすがにこの状況では、持ち前の明るい性格は役に立たない。その後、誰も声を発しなかった。

 

 

  ★    ★    ★

 

 

 ふと気がつくと、ひと眠りしていた。腕時計を見ると午前4時。疲れていたので、ひと眠りにしては長かったが、あんまり寝たような感じがしない。倉庫の中は照明がついていた。寝息が聞こえる以外はシーンとしていた。 

 

「起きた?」と声をかけられた。隣の雪ノ下も起きていた。

 

「おまえは寝たのか?」

 

「ええ。少しだけど。話しがあるのよ」

 

 雪ノ下が体を起こした。俺も上半身を起こす。

 

「ちょっとついてきて」

 

 雪ノ下が立ち上がる。一緒について行くと、扉の前の跳び箱を移動させ始めたので俺も手伝う。ギリギリと音がしたが、眠っている3人は目覚めなかった。

 

 講堂は暖房がかかりっぱなしになっていて、よく晴れた春のように暖かかった。雪ノ下に手を引かれて演壇に上がる。両脇のそでの紺色のカーテンあたりで一瞬止まる。文化祭のとき、ここから雪ノ下に無線でいじられた場所だ。

 そこを過ぎると、階段があった。上がると、講堂全体を見渡せる小部屋があって、放送機材が置いてあった。

 その小部屋に入り、機材を置いてある机の前に立った。

 

「話って何だ?」

 

「この世界がもうすぐ終わることよ」

 

「ふうせんかずらは、負けたほうが無になるって言ってたはずだが」

 

「でもそのあと、私の指摘を受けて訂正したでしょ。私たちの実体の脳へ量子的な干渉をするのを止めるって」

 

「それが?」

 

「その意味はね、この世界が消滅するってことよ」

 

「どういうことだ?」

 

「コンピュータで動いていたゲームを止めて、電源を落とす。するとゲームは終わる。いいえ、消滅するということよ」

 

「でも記録されて電源を入れれば復活するじゃないか」

 

「ふうせんかずらにその気があればね」

 

「なるほど、俺たちの世界はきれいさっぱり消滅するってことか」

 

「そういうこと。生き残っている私たち5人とコピーの5人も消滅する。私たちの今までの記憶もすべて無に帰する」

 

「それはいやだな。想像もできない。だからお前は三浦に聞かれたとき、言うのをためらっていたんだな」

 

「だって、希望のない話しじゃない。この事実は絶望しかもたらさない。残りの少ない時間を絶望で塗りつぶしたくないでしょ」

 

「なるほど」

 

「それから、もっと重大な疑問があるの」

 

「どんな?」

 

「私たち、いったい何時からこのシミュレーション世界に囚われたの?」

 

「それは……わからん……」

 

「そうでしょ? ふうせんかずらが現れたとき? それを確かめる方法がないでしょ? もしかすると、もっと以前からこの世界にいたのかもしれない。平塚先生が彼氏自慢をしに部室に入ってきたとき。

私が足をくじいたとき。私の父親が逮捕されたとき。生徒会選挙で私とあなたが対立したとき。修学旅行に行ったとき……奉仕部に初めてあなたが入ってきたとき。この高校に入ったとき……。もしかすると生まれた瞬間から?」

 

「それは恐ろしい。もしそうだとしたら……」

 

「でしょ? 私は……あなたと出合った事実が、この世界だけの出来事だったとしたらと思うと……」

 

「ということは、俺たちの実体は……お互いを知らない、という可能性もあるのか……」

 

「そう。私とあなたが、この同じ高校にすら入学していない可能性だってある。今ごろ、あなたのことをまったく知らない私が、まったく違う高校に通っているかもしれない」

 

「そんなことがあるか……」

 

「あなたと私がこの高校に入って、奉仕部で出会って、いまここにいるまで、すべてシミュレーション世界での幻影に過ぎないとしたら、どうしたらいいの?」

 

「わからない…」

 

 俺は背すじが凍った。この世界が開始されたのがいつなのか、まったくわからないのだ。雪ノ下と俺が出会ったというシナリオが許されるのは、この世界だけだとしたら。

 

「理解してくれたようね」

 

「だから、お前はあのとき涙を流していたというのか」

 

「そうよ。それ以外ないじゃない。あなたと出会って、こうして一緒にいることがすべて幻影だとしたら、とても耐えられない……。一瞬で終わって消滅してしまうなんて」

 

「俺とお前が、こうして一緒にいられる時間も、あと残りわずかということか。せっかくいい関係になれたというのに……」

 

 目の前が真っ暗になった。目の前に立っている雪ノ下への愛しさも、消えてしまうというのか。俺を好きだと言ってくれた雪ノ下の気持ちも、幻影だというのか。

 体が震えてきた。怒りだか悲しみだかわからない激情で体中の血が沸騰しているようだ。

 

「ありえねえよ!」

 

 そう叫んだ俺に雪ノ下が身を寄せてきた。その体をほとんど絞めつけるほど強く抱きしめた。

 

「まだ実体のほうも私たちと同じような関係になっている可能性も残っているのよ。でも、これからずっと私の近くにいて」

 

「俺もそうしたい。ちくしょう! なんとかする方法はないのか!」

 

「たぶん、ないわ」

 

 瞬間的な激情の次に襲ってきたのは虚脱感だった。俺には何もできない。

 

「本当は、まだ疑問があるのよ」

 

「やっぱり絶望感しか生まない疑問なんだろ」

 

「そうね。あなたは今、自分が存在している感覚を信じて疑わない。しかし、私とか葉山君とかが純粋なシミュレーションだったとしたら、そうじゃないことを確かめる手段もないのよ」

 

「実体に干渉されてシミュレーションに接続されているのは俺だけで、他の人間はそうじゃないと? つまり俺以外は全部ニセモノかもしれないと? この世界にいるのは実は俺だけだと?」

 

「その可能性もある。でも、私は私を本物だとしか思えない。疑いはじめたらキリがないのよ。こんなところにいたら精神が破壊されてもおかしくないわ。だから、もう私は考えたくない。怖い。どうにもできなくて虚しい」

 

 伝えたかったことを吐き出すと、雪ノ下の体の力が抜けた。眠そうな目で、かろうじて俺に抱きかかえられて立っている。その体を机の前のイスに座らせた。

 階段を降りて、またカーテンを引きちぎった。カーテン大活躍の巻。学校は泊まる場所じゃない。ん? 泊まる? 警備員室、保健室にはベッドがある。数時間でもいいからフカフカの布団に包まれて寝たかった。

 演壇の上の右サイドの小部屋の中で、俺たちは2人で並んで立ち、引きちぎったカーテンでぐるぐる巻きになり、床に横たわった。床が痛かったが、そのまま数時間は眠った。このままずっと離れたくなかった。

 

 コツ、コツという足音で目が覚めたとき、窓が明るくなっていた。明らかに警戒しつつ移動する足音だった。床に頭がついているので、その微かな振動が感じられる。

 ジャージにはさんでいた銃を確かめた。密着している雪ノ下はまだまだスースーと鼻で息をして、眠っている。2人が横たわっているのは、小部屋の一番奥だった。入り口からは机の影になっている。このまま動かずにいたら、見過ごしてくれるだろうか。

 俺は息を殺して足音が近づいてくるのを見守った。

 

 

 

 







これって自分で自分の作品を評価できるんですね。間違えて押したら載っているし。
ああ、恥ずかしい。笑


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(A⇔B)04 対消滅

 

 

 演壇の床は木製で、歩くとミシリミシリと音がする。その音が階段を上がる音に変化した。この部屋に上がってきているようだ。

 隣りには寝顔。清らかな寝顔があった。そういえばこの寝顔をマジマジと見たことがない。あまりにも無邪気な表情なので起こしたくなかったが、耳元でささやいた。

 

「起きろ」

 

 数回ささやくと、「ん~」と喉が鳴って、目が開いた。しばらく夢うつつだったが、危険が近づいていることを知らせると、その上半身が起きた。

 

「し~」

 

 俺は口に人差し指を当てた。銃を取り出して、机の上で構えた。階段のほうを凝視する。ミシリと音がして、人の気配が近づく。そして、壁の切れ目から銃口が見え、次に顔半分が見えた。片目で部屋の中を覗いている。

 あれは大志だ。だが、味方の大志なのか。

 目と目が合った。動きが止まる。

 

「先輩?」

 

「大志か?」

 

「探していたんですよ。起きたらいなくなっていたんで」

 

 俺たち2人が消えたことを知っているのは味方しかいない。それに、緑色のジャージを着ている。緊張が一気に緩んだ。

 

「悪かった」

 

 大志は、見てはいけないものを見たような顔をしながら、恐縮するような雰囲気で全身を現した。そりゃそうだろうな。俺だって、こんな朝に男女2人がいる部屋に入っていくのは気が引ける。

 

「葉山先輩と自分とで探しに出ているんです。自分は講堂の中、先輩は向こうの校舎のほうへ行きました」

 

「わかった、倉庫に戻るから、葉山を連れ戻してくれないかな」

 

「了解です。抜けるときは一声かけてくれって葉山先輩が言ってました」

 

「わかった。俺から謝っておく」

 

 大志が階段を下り始めた。俺は講堂全体を見渡せる窓の前に立った。すると、講堂の入り口あたりに人影があった。葉山だろうか。

 その人影が演壇の方向に銃を向け、いきなり撃った。ちょうど大志が演壇から降りるタイミングだ。

 真下からも銃声がした。屋外と違って、甲高い音がパーンと響き渡る。

 入り口近くで身を隠した人影は、コピーの大志のようだった。偵察に来て、よりによってコピーと遭遇したらしい。

 俺も窓を開けて銃の狙いをつけた。しかしここから撃っても当たりっこない。40メートルくらいは離れている。

 真下から大志が飛び出した。すごい勢いで入り口の方へ走っている。

 

「おい、やめとけ!」

 

 俺は叫んだが、大志は止まらない。走りながらパンパンと撃っている。相手は扉の影に隠れつつ、時々発砲を続ける。少し撃ちすぎだ。すぐに弾がなくなる。装填する時間はないはずだ。

 

 予想通り、2人の大志は銃を撃ちつくした。講堂の入り口にいたコピーの大志は、身を翻して逃げようとする。そこへ壁伝いに接近していた味方の大志が、追いつこうと飛び出す。隣に立っていた雪ノ下が「大志く~ん。やめなさい! 戻ってきなさい!」と、今まで聞いたこともない大声で叫ぶ。しかし、2人の大志は入り口から校舎のほうへ走って行った。追いかける大志が逃げる大志に追いつき、取っ組み合いが始ろうとしている。

 雪ノ下が俺の袖を強く引っ張って身をかがめた。俺を机の下に押し込み、「伏せて」と身を丸くする。

 

 その瞬間、すさまじい閃光が走った。

 

 部屋の中が、目を開けていられないほどの熱い光に満ちた。目を閉じていても眩しい。壁すら透けて見えるようだ。

 間髪いれずに衝撃波に体を揺さぶられた。ドドドドドドと唸る衝撃に何度も全身を叩かれ、意識が飛ぶ。あらゆる周波数の音波に襲われ、思わず耳を塞ぎ、顔を床につけた。

 

 ものすごい音と爆風の狂乱状態が続く。俺たちは部屋の中をたらいまわしにされた。洗濯機の中にいるようだった。ゴツゴツと頭に板や壁が当たり、空中には塵芥が飛び、呼吸するたびに喉に刺激が走った。

 

 気がつくと、雪ノ下をかばうように伏せていた。俺たちの上にあった机はどこかに消え、かわりにゴミや木の破片、コンクリの粉が覆いかぶさっていた。床と壁が傾いで、天井の鉄骨がすぐ頭の上にあった。

 おそるおそる顔を上げると、壁の切れ目から見える講堂は、滅茶苦茶に破壊されていた。天井の半分が吹き飛び、曇り空が見えている。その陰鬱な空に鉄骨が突き刺さっていた。

 

 雪ノ下が肩を震わせながらフフフフフと笑い始めた。……大丈夫なのか。気でもふれたか。

 

「どうした」と問いかけても返事がない。そのかわり、ツーという電話の発信音のような高周波が聞こえる。耳が聞こえなくなっているようだ。

 大声で「どうした!」と問い直した。すると、「ふざけてる。本当にふざけてる。人間をバカにしている」とうっすらと聞こえた。

 

「何がバカにしてるんだ?」

 

「ふうせんかずらよ。人をバカにしすぎ。今のは、おそらく対消滅のパロディなんでしょ。大志君と大志君が接触したら、物質と反物質の接触のように、大爆発が起こるように設定してあったのよ。本当にふざけているわね」

 

「対消滅って……」

 

「粒子には反粒子が存在するの。反粒子も普通の物質と同じように反物質を構成できる。物質と反物質が接触すると、エネルギーを解放して消滅する。反物質1グラムでだいたい広島型原爆に相当するエネルギーが放出される。たった1グラムでよ? 

 でも今のは対消滅ではないわね。その証拠に、こんな近くにいたら私たちは瞬間的に蒸発しているもの。

 大志君は60キロあったとすると、6万グラムよね、それが2人で12万グラム。今のが原爆12万個ぶんの爆発のわけがない。……ただのパロディなのよ。ふざけた設定。……なめきっている。きっと私たちが戦争をやめて仲良くしたらこうなるって、見せしめなのよ」

 

「派手にやってくれたな。大志のやつ……講堂が吹っ飛んだ」

 

 あたりは瓦礫の山だった。ようやく煙幕のように立ち込めていたホコリが落ち着き、空気の透明度が戻ってきた。動くものは何もない。

 階段がグニャグニャに曲がっていたが、なんとか下りる事ができた。曲がった鉄骨、棘だらけの木の破片、焦げ臭い煙を立てる布。その中を歩いて、地下倉庫の入り口にたどりついた。扉は破壊されて、内側に吹き飛んでいた。

 

「おーい。誰かいるか~! いるとしたら三浦だろ! いるか~」

 

 中に入っていこうとすると、後ろから葉山に声をかけられた。無事に戻ってきたようだ。

 

「今の爆発はなんだ?」

 

「大志と大志が接触したら大爆発が起こった。そう設定されていたらしい」

 

「じゃあ、大志君は死んだのか」

 

「そのようだな。中に三浦がいるんだろ?」

 

「いると思う…無事だといいが」

 

 薄暗い倉庫もガラクタで歩きにくい。葉山が崩れた跳び箱をどかすと、赤いジャージをはいた足が見えた。気を失っている三浦を引っ張り出し、葉山が頬をはたく。すると「う~ん」と声が出た。

 

「大丈夫か。痛いところはあるか」

 

 三浦が上半身を起こす。何が起こったか理解していないようだ。

 

「体中が痛いけど……」

 

 葉山が三浦の体を調べる。ジャージに穴が空いているが、かすり傷程度で済んでいるようだ。出血しているところもない。

 葉山が三浦をおぶって、元講堂内に出た。背中から下ろされると、三浦はなんとか歩けるようだった。

 俺たちは校庭の奥にある運動部の部室が集まった通称「タコ部屋」を目指すことにした。

 そこには一応二階建てで、シャワールームもある。運が良ければ久しぶりに体を洗える。

 しかし、そこまでは雪の中を進む必要がある。行きにくいのだが、行ってしまえばしばらく休める可能性が高くなる。

 

 苦労してタコ部屋にたどり着くと、戸塚の所属するテニス部の部室に入った。ありがたいことに電灯もつくし暖房も入った。水道も使える。

 一晩寝たというのに、イスを並べて寝たり、壁にもたれたり、みんな元気がなかった。

 俺は、廊下に出てシャワールームに行ってみた。男子用は一階にあり、女子用は二階にある。男子用に入ってみると、温度表示のあるパネルがあった。そこをいじると数字が変化する。スイッチをONにして近くのコックをひねってしばらくすると、お湯が出てきた。

 

 テニス部の部室に戻って、女子2名にシャワーが使えることを伝えた。

 

「今のうちに行っといたほうがいいぞ。石鹸しかなかったけど、ないよりはマシだろ」

 

「ありがとう。行ってくる。三浦さんも行きましょう」

 

「うん? ん。行く……」

 

 体が重そうに三浦が立って、雪ノ下の後を追った。喧嘩にならないことを祈るばかりだ。

 しばらく葉山と二人きりになった。なかなか珍しい時間だ。俺は聞いてみたいことがあった。

 

「なあ、三浦のことはどう思ってんだ?」

 

「どうしてそんなこと聞く?」

 

 並べたイスにあお向けに寝ながら葉山が答える。

 

「いじらしく見えるんだが。あいつはお前のこと好きなんだろ」

 

「たぶんそうだね」

 

「でも、あいつはお前の気持ちが自分に向いていないことを知っていて、言い出せないみたいじゃないか。いじらしく見える」

 

「ずいぶんと突っ込んだこといい始めるんだな」

 

「迷惑か? ならこの話はやめる」

 

「別にいいんだ」

 

「じゃあ、もう一つ聞いていいか」

 

「ああ」

 

「お前は昔、雪ノ下のこと好きだったんだよな」

 

「ああ。でも本当にそうだったのかは今となってはわからん。昔の事情は君も知っているんだろ」

 

「まあな。今でもそうなのか」

 

「わからないな。ただ、俺は彼女に好きな人ができて、それがうまく行っているのが嬉しいんだ。これは本心だ」

 

「欺瞞じゃないのか」

 

「本当にわからないんだ。困らせないでくれよ。君は昔、リア充を憎んでいたみたいだけど、今となっては君のほうがリア充じゃないか。あはは」

 

 俺は、葉山が俺と雪ノ下に対して、それぞれの事情のために負い目を感じ続けていることに気がついていた。これをなんとか解消したかった。

 もしかすると、葉山は俺たちに危機が迫ったとき、自己犠牲をしてまで助けようとするかもしれない。俺は人に哀れまれて助けられるのが異常に嫌いだ。これは人格の変更を果たした今でも変わりがない。

 

「葉山。この世界では他人を助けることに意味はない。いずれみんな消える」

 

「どうしてそんなこと言い出すかな。たとえ消えるとしても、最後まで助け合えばいいじゃないか」

 

「そうか。そう考えられることがうらやましい」

 

 やはり葉山は葉山だった。俺は葉山に負い目を感じるようになる未来が訪れないことを祈るしかない。

 

 2人の女が出て行ってからかなりの時間が経過していた。俺は廊下に出てみた。すると、突き当たりの水道場に赤のジャージ姿があった。そちらに歩いていく。

 

「お~い。終わったか?」

 

 2人が振り返った。

 

「終わった。でも来ないでくれる?」

 

「なんでだよ」

 

「下着洗ってるから」

 

「そうか」

 

 俺は踵を返した。結構仲良くやっているようだ。

 しばらくして2人が帰ってきた。入れ替わりで俺が先にシャワーを浴びに行った。バスタオルは誰かのロッカーから借用した。

 温かいお湯に顔を向けながら全身で当たると、生き返ったような気がする。

 転がっている石鹸をこすって頭髪から全身まで洗った。

 葉山もシャワーから帰ってくると、これからどうするか話し合いになった。ここで、雪ノ下が葉山と三浦に、この世界が消えることや、いつから囚われているのかわからないことを伝えた。

 やはり絶望感が覆った。それでも、葉山は「勝とう」という。

 

「最後まで諦めないで勝って、ふうせんかずらの審判を受けよう」

 

「わたしも隼人に賛成かな~」

 

 三浦がかったるそうにそういうと、意外にも雪ノ下も賛成する。

 

「そうね。希望は最後まで持ち続けるべきだわ。たとえこの世界が消滅しても、希望を捨てなければ、その後になんらかの形でつながると信じるしかないわね」

 

「どうつながるという……」

 

 ネガティブな発言をするのは俺だけだった。

 

「どうもこうもないわ。ふうせんかずらは自覚していないようだけれど、明らかにあれは人間と同じような自意識だと思うの。なぜだか自分には意思も目的もないとか言っているのだけれど、私たちからすれば自意識でしょ、あれは。

 だったら、動かせる可能性もわずかにあると思う。私たちが他人の心に影響を受けるように、私たちも何かの影響を与えられるかもしれない。事態を変えるには、それに賭けるしかないと思う」

 

「ふうせんかずらに感情移入を期待するわけか。うまく行くとは思えないな」

 

「でも、それしかできないでしょ。何か他に希望らしきものがあるのかしら」

 

「ふせんかずらに心理的な影響を与える具体的な方法が思いつかない」

 

「葉山君みたいに、最後まで諦めないで悪あがきするしかないわね」

 

「くっ」

 

「あなたがそこまで腐っているとは思わなかった」

 

「腐っているんじゃなくて、正確な判断だと思うがな」

 

「まあ、まあ」と葉山が割って入る。久しぶりに雪ノ下と喧嘩になりかけた俺も、少し反省した。今はそんなことしている場合じゃない。それに、言い合いしたって所詮無駄なことだ。

 

 希望か。状況に対する正確な判断だったら雪ノ下のほうがしっかりしている。しかも、俺なんかよりもこの世界のことを知悉している。そして絶望しかないこともよくわかっている。それなのに、あえて希望を言い出す。

 それが追い詰められた結果なのか、それとも本当に希望があるのか。

 やはり俺も希望に賭けたかった。おそらく、生きるということは、今ここにある一瞬に、小さな希望を託すことだ。生きている限り、連続する一瞬の希望を選択し続けるしかない。その事実から目をそらしてはいけない。

 わかってはいる。しかし、今の俺の心は、どうしても希望という言葉を受け入れられなかった。

 

 気持ちが滅入ってきたので、俺は外に出た。相変わらず世界は雪に埋もれていた。ただ、珍しいことに厚い雲の切れ目から青空がのぞいていた。

 近くの講堂は瓦礫と化し、校庭に面している校舎の二階の窓は、一部黒こげになっていた。

 

 青空を見上げた。雲の切れ目には太陽があった。久しぶりの日差しが顔に当たって温かい。しかし、そこにも異常があった。太陽が二つあった。

 直視できないが、確かに二つの光球がある。

 くっ。ふざけてやがる。

 感想はただそれだけだった。

 

 

 



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(A⇔B)05 二種類の適応形態

 

 

 テニス部の部屋に戻ると、葉山がテーブル上に残りの弾薬を並べていた。200発くらいはあった。その脇には銃が3丁。俺が1丁持っているので、この場には合計4丁ある。ちょうど人数分。最初にあった10丁は死体と一緒にあったり、爆発で散逸したりしていた。

 

「比企谷君、腹が減ったからメシ食いに行きたいんだけど」

 

 空腹を忘れていた。食料は売店にしかないから、そこに取りに行くつもりだろう。

 

「売店? あそこは略奪の限りを尽くされて、まだ何かあるかな」

 

「いや、調理実習室に行く。あそこには冷蔵庫があったはずだ」

 

「それは思いつかなかったな」

 

「保存の効く食材が少しはストックされているはずだ。雪ノ下さんが料理してくれるって」

 

 ゴクリと喉が鳴った。ここ2日間、ろくなものを食っていない。俺たち4人は銃と弾薬をポケットに入れて、タコ部屋を出た。

 雪がまったく融けていない。足を踏み入れると沈んで抜けなくなる。腹ばいになって、手で雪を掻き分けて進む。体にまつわりついて動きを奪う雪と格闘しながら、俺はついさっき見た異常なものを思い出した。しかし、今は全天を雲が覆い、見ることができない。

 

「さっき、太陽が二つあった」

 

「太陽は一つだろ」

 

 葉山が顔を上に向けて、空を仰いでいる。

 

「さっき、雲の切れ目から太陽が二つ見えた」

 

「そんなことがあってもおかしくないわね。ここは地球じゃないのよ。どこかの連星系のつもりなんでしょ」

 

 動きを止めた雪ノ下も、空を見上げている。

 

「だいたい、この世界が地球上にあるわけがないもの」

 

「俺たちはふうせんかずらの内部にいるというわけか」

 

「そうなんでしょうね。どこかにいるようで、どこにいるわけでもない」

 

「たまんねえな」

 

 瓦礫と化した講堂に裏口から入った。ガラクタの上のほうが、雪山を歩くよりもまだましだった。そして校舎へ続くV字の道を歩くと、校舎の壁が黒こげになっていた。講堂側の窓ガラスが全部割れている。

 一階にある調理実習室になんとかたどり着くと、転がっている鉄の棒でカギを壊した。中は荒らされていない。敵の連中はここに来ていないはずだ。

 奥にある小部屋の扉には、「調理準備室」とプレートが嵌っていた。中には大きなフリーザーが一個あって、その隣りには調味料を格納する棚があった。塩コショウなどと書かれた缶が並んでいる。

 

「卵、冷凍のごはん、ハムくらいしかないわね。チャーハンかスクランブルエッグか……」

 

 フリーザーを覗き込む雪ノ下がそれらを取り出す。

 

「おお、なんでもいい。食わしてくれ」

 

 俺はホカホカのチャーハンを思い浮かべると唾液が出てきた。葉山も表情がゆるんでいる。

 

「わたしも手伝う。4人のスクランブルエッグだと、卵は8個くらい?」

 

「だいたいそのくらいね」

 

 三浦が卵を取り出して、実習室のコンロの前に置く、棚からフライパンを取り出して、サラダ油も用意する。

 だが、料理をするのは雪ノ下に譲った。

 

 皿に盛り付けられたのは、ハムとタマネギとグリーンピース入りのチャーハンと、スクランブルエッグだった。たいした調味料もないのに、美味だった。というより、飢えていたので、温かいものなら何でも美味かった。

 

 俺も葉山も大皿に盛られたチャーハンにスクランブルエッグを載せて、ガツガツとかきこんだ。こんな美味いメシは食ったことがないかもしれない。

 こんなささやかな宴も残り少ない貴重な時間の一こまだった。最後のブランチ。これが最後のまともなメシのような気がする。

 

 テーブルの対面では、雪ノ下と三浦が並んで、スプーンでチャーハンを掬っている。

 ガツガツ食いそうな三浦が、上品に少しずつスプーンに乗せて口に運んでいる。

 食欲を満たしながら、俺はその様子を見ていた。

 

 顔立ちとスタイルだけなら、三浦は相当な美形だ。しかしその性格は……。このことはかつての雪ノ下にも言えた。この2人はどこか似ている。

 どちらも、美形ゆえに男子生徒の注目を常に浴び、女子からは嫉妬されてきたことだろう。それがウザくてたまらず、雪ノ下は話しかけるなオーラ、三浦は見てんじゃねぇぞコラみたいな雰囲気を身につけた。三浦のコワモテは、ウザい視線を撃退して楽に振る舞えるように適応した結果なのではないか。

 そういえば、その昔に女子高生のガングロとかヤマンバみたいな下品な流行があった。茶髪や白髪に黒い顔、目の淵や唇は白く塗る。

 そんな奇抜で気持ち悪い化粧法が流行したのは、ある学者の分析によると、男のウザい視線を遮断して、仲間とつるむためだという。そのころから女子高生というと一種の性的なブランドになっていた。そういった視線を拒否する気持ちはよく理解できた。俺だってレッテルを貼られればむかつく。

 こうしてみると、三浦も雪ノ下も中学から高校にかけての他人からの視線が、性格形成に大きな影響を与えていることがわかる。似ていると思った理由はこれだった。

 

「ヒキオ、なにジロジロ見てんの?」

 

 無意識に眺めていた三浦に指摘されて我に帰る。やはり他人の視線には敏感だ。その隣りで雪ノ下がクスクス笑う。

 

「どうせ、くだらないこと考えていたんでしょ」

 

「そうだな、確かにくだらんこと考えていた。三浦といったら、グラサンかけて誰かをオラオラって脅かしているイメージを持っていたんだが。誰かさんみたいにツンツンしているんじゃなくて、オラオラだな。でも、こうして不可抗力で近くにいると、違うんだな。なんか可愛く見えてきた」

 

「なにを言い出すわけ? ヒキオに可愛いとか言われたし。わたしに可愛いとか言っても無駄だし」

 

 三浦が意外そうな顔をする。言われたことに抵抗したいような表情も混じっている。

 

「すごく面白そうなこと言い始めるのね。私も興味があるわ。続けて」

 

 雪ノ下が一瞬、三浦を見たあと、俺に視線を合わせる。

 

「それで、三浦も昔、男子生徒に注目されて、女子からは嫉妬されていた口なんだろ?」

 

「まあ、周囲の奴らがウザかったのは確かだけど。中学に入ったころには特別扱いされてたし」

 

「そういう状況にお前なりに適応した結果が、オラオラ系なんだろ。確かに男子は興味なくすし、女子は怖がるし。友達に選ばれた女子は怖くて友達やるしかないし。由比ヶ浜とか。

 ぶっちゃけ、適応という点では雪ノ下と似ているよな。雪ノ下の場合は話しかけるなオーラで武装した。違いはそこだな」

 

「ふーん。で?」

 

 三浦が興味なさそうに鼻を鳴らす。本当は図星を突かれて恥ずかしがっているのかもしれない。

 

「なんだ。優美子のそんなこと、俺はわかってたけどな」

 

 葉山がにこやかな顔をする。

 

「お前はずっと三浦に接触していたからそうだろ。俺なんて、教室では三浦が怖くてたまらなかったんだからな」

 

「そこへ堂々と優美子にからんで、喧嘩売ってきたのが雪ノ下さんだったな。あはははは」

 

「そんなこともあったわね。今となっては懐かしい話ね」

 

「あのさ、オラオラ系ってのはやめてくれない?」

 

「じゃあ、ヒキオってのやめてくれ」

 

「要するに、わたしがオラオラ系に適応したのは間違いだったって言いたいんか?」

 

「そうかもしれん。その押し出しの強さ、圧力感は引く」

 

「俺は優美子からそんな圧力感じたことないけどな」

 

 葉山のフォローも虚しく、三浦の表情が曇っていく。

 

「ヒキオ、そんなことわかってるし。ほとんどの男子の心が雪ノ下さんのほうに行っちゃうのも知ってるし……」

 

 三浦が下を向く。金髪がサラサラと顔の前を覆っていく。普段ならこんな会話で心が塞いでいくようなタマじゃないが、さすがにこの絶望的な状況だと勝手が違うようだ。

 

「今の優美子は全然オラオラ系じゃないよ。俺はわかってるつもりだよ」

 

「隼人はやさしいね。でも無理しなくていいから……」

 

 しばらく沈黙が覆った。俺は、次の言葉を言おうかどうか迷った。自分がされるのは絶対に御免こうむりたいお節介に過ぎなかったからだ。でも言ってみることにした。

 

「なあ、葉山、俺と雪ノ下、お前と三浦に別れて別行動しないか?」

 

「え?」と葉山と三浦が顔を上げる。

 

「あ、ああ、俺は別にいいが」

 

 葉山が一瞬困ったような表情をした。

 

「ヒキオ、何か余計な気を使ってない? そういうのやめてくれる?」

 

「雪ノ下はどう思う?」

 

「私は三人のしたいようにしてもらって構わないけれど。確かに残り時間は少ないわけだし」

 

 そのとき、調理実習室のほうから物音がした。扉の開く音だ。全員がそれに気がついて立ち上がった。調理準備室の扉は閉まっている。窓は雪で塞がれている。

 葉山が廊下側の扉に近づき、音を立てないように鍵をゆっくりと回す。少し開いて廊下に顔を出す。こちらに背を向けたまま右手を上げてOKサインを示した。廊下には誰もいないということだろう。

 

 俺たちはゆっくりと葉山の後から廊下に出た。俺も葉山も銃を抜き、ハンマーを後ろへ倒している。そこへ、コピーの俺が調理実習室から出てきた。鉢合わせの状態だった。コピーの俺は銃を抜こうと肩を動かす。

 

「動くな! 手を上にあげろ!」

 

 葉山がコピーの俺に銃を向ける。コピーはゆっくりと手を上げた。

 

「ここでお前らに会うとはな。同じ事を思いついたんだな」

 

 そう言う俺のコピーに、俺も銃口を向けて構えた。

 

「いっそのこと、俺がそこの俺に抱きついて、一瞬でこのゲームを終わらせるってのはどうだ? 早くて楽だろ」

 

 さすが俺のコピーだった。俺とまったく同じ発想をしている。

 

「それでいいの? あなたは何かやり残していることがないのかしら」

 

 雪ノ下が俺のコピーに問いかける。俺も俺のコピーもやり残したことが何なのかわからなかった。

 

「そっちの雪ノ下もこっちの雪ノ下も、見た目がまったく同じだな。信じられん。

 ところで、俺と俺が接触すると爆発するが、俺と、そっちの俺以外のやつと接触しても爆発するのか?」

 

 同じ疑問を俺のコピーも持っていたようだ。

 

「どうかな」

 

「やってみるか?」

 

 コピーの俺が近づいてきた。

 

「動くな、マジで撃つぞ!」

 

 葉山が叫ぶ。

 

 俺たち4人の後ろから銃声がした。壁の跳弾がキーンと響く。

 敵の葉山が廊下の遠くから走ってきた。そして、俺たちが振り返った隙をつき、俺のコピーが反対側に走り出した。

俺は走る俺を撃とうとして構えた。しかし、葉山に止められた。

 

「よせ! 敵の君を撃てば、君も動かなくなるだろ。それは困る」

 

 そう言って、葉山は走ってくるコピーの葉山に発砲し始めた。こいつは自分は動かなくなってもいいというのか。向こうもしばらく柱に隠れて撃っていたが、やがて姿を消した。

 

 やはり、タコ部屋に戻ったほうがいいようだ。校舎にいると遭遇する機会が増える。 葉山が進む方向に銃を向けて先頭を歩く。次に三浦、雪ノ下。しんがりは俺。時々後ろに注意を向ける。

 俺は、前を歩く雪ノ下の方をつついた。

 

「銃を出しとけ。なんか危険な匂いがする」

 

「わかったわよ」

 

「お前の運動神経と反射神経と判断力は俺よりも上なんだからな。それに肝の据わり方も」

 

「わかったから」

 

 ジャージ下の制服のポケットから銃を取り出すと、雪ノ下はスライドをガシャとずらした。それを両手で握って、体の左側にキープしている。

 

 左側の壁が、階段のために切れている。そこを通りかかったとき、階段の上に何かの動きが見えた。ガシャンと音がして足元に火が燃え上がった。また火炎瓶だ。同時に階段の上から連続的な発砲。敵の葉山なのか俺なのか。

 直撃は免れたが、葉山と三浦、俺と雪ノ下の間に瓶が落ちたため、図らずも二手に分かれて逃げることになってしまった。これが吉と出るか凶と出るか。

 

 雪ノ下と一緒に調理実習室の方へ走る。後ろから発砲音。その音に向かって雪ノ下が何発か撃った。

 突き当たりを右折すると、奉仕部の部室がある校舎に入る。敵の本拠がある可能性が高く、遭遇率も上がるはずだ。

 俺たちは、とりあえず正面玄関の脇にある警備員室に入った。ここには監視カメラがあるはずだ。

 だが、監視カメラの画像はパソコンに4分割されているだけで、正面入り口、裏門、校庭が映っているだけだった。思い出してみれば教室に監視カメラはなかった。画面の中で映っていない区画は、講堂の爆発で壊れたのかもしれない。

 肩で息をしながらデスクの前のイスに座る。

 

「こっちに来て大丈夫かしらね。それに、あの2人も心配ね」

 

「葉山がなんとかしてくれるだろ。落ち着いたらタコ部屋に行ってみるか。タコ部屋は雪に塞がれているから安全だと思う。あいつらがそこにたどり着いていればいいんだが」

 

 俺はさっきの雪ノ下の発言で引っかかっていることがあった。

 

「俺のコピーにやり残していることがないかと聞いていたが、何のこと?」

 

「たぶん、意味のありそうないい加減なこと言って惑わそうと思ったのだと思う」

 

 警備員室の奥は、泊まれるように和室になっていた。鍵がかかる。そこに入って畳に転がった。ふぅと息を吐いて目を閉じた。頭がジーと鳴っている。

 

「少し休めるかしらね」

 

「なんか、もう、どうなってもいい気もする」

 

「いつ死んでもいいように覚悟はできているでしょ。そうだ、お願いがあるのだけれど」

 

「なに?」

 

「シャワーを浴びて髪の毛を乾かしたら、ロクに手入れをしていないものだから、枝毛がひどくて。櫛が通らないのよ。それに、生徒会室で火炎瓶攻撃を受けたとき、焼けた部分があって、気になるの。見てくれない? その部分を取って欲しいのよ」

 

 いつ死んでもいいみたいなこと言っているのに、身だしなみは気になるのな。俺はニヤニヤしながら身を起こした。

 彼女の後ろへ回って、背中の下まである長い髪を指ですいてみた。確かにひっかかる部分がある。よく見ると、一本の髪が二つに分かれているのもある。

 まず、焦げて縮れている部分をちぎってやった。傷んでいる部分以外は、艶やかでしなやかな髪の毛だった。

 

「手入れが大変なんだな。俺なんてシャンプーして乾かしてそのままだわ。ショートにしようと思ったことはないのか」

 

「小学生のころは姉さんみたいな髪型だったのよ。ロクに手入れしていないのね。あなたのそのアホ毛はわざとやっているのかと思っていたけれど」

 

 雪ノ下が顔の前に髪を引っ張って点検しつつ、クスクス笑っている。2人でこんなふうに過ごす時間も残り少ない。

 急に切なくなった。世界が終るとわかってから、俺の彼女に対する思いは異様に強くなっていた。気がつくと、鬱勃とした欲動がわき起こっていた。

 

 やり残したこと? それに、俺は気がついた。彼女は曖昧に答えていたが……。彼女もそれに気がついていた。

 

 俺は後ろから彼女に抱きついた。そして、その体を反転させて向き合った。無言のまま目と目が合う。2人ともしばらく目をそらさなかった。感情があるような、ないような、寝顔のような清らかな顔があった。

 

 毛をいじっていた手が下がり、俺の胸に触る。上半身を抱き寄せると、頭が俺の顎の下に凭れかかってきた。右手でその頭を抱いて、顔を近づける。

 

 そして……。彼女の目が閉じたとき、銃声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 




 こんにちは!小町で~す!

 今回から私が後書きを担当することになりました!またみなさんにお目にかかれて嬉しいで~す。
 もう一人の小町は兄に撃たれて死んじゃいましたが、凍結してスヤスヤ寝ている小町もいるのです。夢の中にいても、心配な心配な兄の様子がわかってしまうなんて、ポイント稼ぎすぎですかね~。
 それにしても小町の生きていた世界がニセモノだったなんてショックです。このまま消えちゃうんでしょうか。それはないですよ、ふうせんかずらさん。
 小町の場合は、まだ別れたら悲しい人がいなかったのが幸いかも。少しは気が楽です。
 それに、結構楽しかったな~、ゆっきーと一緒に泊まったり、ガールズトークしたりして。怖かった三浦先輩にも親近感湧いたりして。
 まあ、それはともかく、今回はとうとう兄が童貞捨てる? 本当に捨てちゃうの? 小町の手の届かない大人になっちゃうの? それもゆっきー相手に? って思って祝福の用意をしていたんだけど、やっぱり邪魔が入るところなんて兄らしいですね。笑。
 これから先、どうなるんでしょうかね。小町と一緒に、せっかく育った2人の想いも消えてしまうんでしょうか。それは虚しいです。
 さ~て、お時間が近づいてきました。それでは、みなさんごきげんよう!次回の後書きもサービスサービスぅ~!



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(A⇔B)06 隠された恋の終焉

 

 

 

 銃声は散発的に聞こえた。遠いために音がカン、カンと乾いたトーンになっている。

 銃撃戦の結果は絶対に把握しておかなくてはならない。その結果によって俺たちの行動も左右されるからだ。

 小部屋から出て、警備員室の窓の外を見た。人影がない。窓から四方八方をうかがうが、やはり誰もいない。

 俺たちは正面玄関のホールに出た。そして、左右の廊下につながる壁から顔を出した。

 長い廊下には誰もいない。足音も聞こえない。さきほどの銃声も今は止んでいる。俺も雪ノ下も凍結していないということは、相手方の2人も無傷ということだ。

 

 右方向は、調理実習室のある校舎へつながっている。やはりそちらへ向かうべきか。

 進行方向へ銃を向けて進む。後ろは相棒に任せた。雪ノ下と、背中合わせに銃を構えるような相棒になるとは思わなかった。

 廊下にはガソリンか灯油の揮発性の匂いが漂い、プラスティック樹脂の焦げる異臭も混じっていた。

 人影もなく物音も聞こえないまま、調理実習室の前まで来た。廊下や壁は真っ黒に焦げ、まだ煙を立てていた。息ができないくらい、嫌な空気が充満している。

  

 左側の階段の踊り場に倒れている人間がいた。下からだと手しか見えない。あの細さは女のものだ。

 階段を駆け上がって確認した。やはり三浦だ。腹部から胸にかけて血に染まっている。

 ここから火炎瓶の攻撃を受けて、葉山と一緒に逃げたはずだ。それが、再びここで撃たれている。いったいどのような経緯なのだろうか。2人で逃げたり反撃しているうちに、めぐり巡ってここで撃たれたのか。

 

 雪ノ下が三浦に触ろうとした。

 

「よせ。爆発するかもしれないぞ。味方なのか敵なのか判別できない」

 

「赤いジャージ着ているでしょ。大丈夫よ」

 

 雪ノ下は三浦の腕をつかんで手首の脈を確かめた。こちらを見て首を振る。そして、半開きの目を閉じた。

 

 俺は隣りの教室から、またカーテンを引きちぎってきた。三浦の身長に合わせて折りたたんだ。死体を壁際に寄せ、手と足をまっすぐにして、カーテンをかけてやった。できることはそれだけだった。

 葉山はどこにいる? 無事なのかどうかわからない。タコ部屋にいるのだろうか。

 

 また背中合わせの移動を開始した。いつ火炎瓶の襲撃を受けるかわからない。しかし、俺たちを撃てば、自分たちも凍結する。撃つだろうか。少なくとも俺は敵の自分や雪ノ下を撃ちたいと思わない。そのことに雪ノ下も気がついたのか、背中に感じる緊張がゆるんできた。

 

 講堂の瓦礫の中を進み、雪道にまた苦労してタコ部屋に到着した。雪の上には新しい足跡はない。タコ部屋の建物にも異常はない。

 一応、銃を構えて入る。

 

「葉山いるか?」

 

 小さな声で呼びかけてみるが、返事はない。色々な部室の扉を開くが誰もいない。二階に行って全部室も確かめるが人の気配がない。

 

「校舎のどこかに隠れているようね。あるいはもう撃たれたのかも」

 

「となると、残るは俺たちとコピーの俺たちだけか」

 

「決めつけるのはよくないわ。信じられるのは確実な情報だけよ。ところで、少し落ち着きましょう。さっきの続きをしてくれない?」

 

「え? ちょっ……」

 

 こいつも大胆なことを言い出すようになったと驚きながら焦った。

 

「なにか勘違いしているようね。髪の毛の手入れをして欲しいのよ」

 

「そうか。わかった」

 

 テニス部の部室の棚にある小さな引き出しには、カッターやはさみ、ガムテなどが入っていることを知っていた。その引き出しからはさみを二つ取り出して、一つを雪ノ下に渡した。

 

「引きちぎると髪が傷むんじゃないか。はさみのほうがマシだろ」

 

「ありがとう」

 

 イスに座った雪ノ下の後ろにイスを置き、そこに座った。

 

「なんかサルってこういうことよくしてるよな?」

 

「サル同士で毛づくろいしているやつね。毛づくろいじゃなくてノミ取りだったかしら」

 

 何本かの毛を指で滑らせて、手ごたえを感じると、そこを見て、異常があったら切った。そんな作業をしばらく続けた。

 

「こんな面倒なこと家でやってたのか」

 

「枝毛切りハサミというのがあるのよ。刃の部分が小さくなっているハサミ。でも普通のハサミでも変わらないわね」

 

「毛づくろいは鳥がやるものだったな。羽根をくちばしでスススって舐めてるもんな」

 

「よく知ってるわね。それなのに生物の成績悪いのが不思議ね」

 

「観察するのだけは得意だからな」

 

「観察するのは科学の基本なのだけれど」

 

「やっぱり観察は得意じゃない」

 

「相変わらずひねくれているのね」

 

 そんな会話をしていると、足音が聞こえてきた。雪ノ下の動きがピタリと止まる。

 

 葉山だろうか。だったら俺たちに呼びかけてもいいものだが、無言で移動している。それに、各部屋の扉を開けて確認している。

 

 これは……。

 

 しかし、味方の葉山だとしても、俺たちがここにいるという情報はないし、敵が潜んでいる可能性を考えていれば、むやみに呼びかけることはできない。部屋を全部確認する必要もある。

 その行動パターンは、敵の行動パターンと同じだ。敵か味方かを今、判断することはできない。

 俺は銃を腰から引き抜いた。用心するに越したことはない。待っていればやがてこの部屋の扉を開けるだろう。それまで待つことにした。

 

 扉が開いて葉山が姿を見せた。緑色のジャージを着ている。だが、調理実習室の前で見た敵の葉山も緑色だったような記憶がある。

 

「ここにいたのか、君たち」

 

 葉山も銃をこちらに向けている。

 

「無事だったんだな。何があった?」

 

「優美子がやられた。かばってやれなかった」

 

「俺たちも三浦を見た。階段のところで。カーテンをかけておいた」

 

「そうか」

 

「ところで、太陽の様子はどうだった? 俺は太陽がいくつあると言ったっけ?」

 

「太陽? 何のことだ?」

 

「太陽が二つあったんだ」

 

「何だって? 太陽は一つだろ」

 

 俺は銃を葉山に向けた。葉山も銃を俺に向ける。イスに座ったままの雪ノ下も銃をニセ葉山に向けて、ハンマーをカチリと倒す。

 

「お前は敵の葉山だろ」

 

「そうだよ。もうこれで終わりにしようと思って、あとをつけてきたんだ」

 

「俺たちを撃つつもりか?」

 

「そうだ」

 

 葉山が近づいてきたとき、後ろから味方の葉山が現れた。銃を敵の葉山の背中に向ける。

 

「銃を下ろせ。後ろを見てみろ」

 

 敵の葉山が振り向く。しかし銃は俺に向けたままだった。

 

「下ろすわけないだろ」

 

 敵の葉山は、俺、雪ノ下、味方の葉山の三つの銃に狙われていた。

 

「敵の葉山。お前は俺は撃てても雪ノ下は撃てないだろ」

 

「どうしてだ」

 

 

 敵の葉山が雪ノ下に銃口を一瞬向け、また俺に狙いを戻した。

 

「お前は雪ノ下に何か負い目があったよな。それに、自分の好きな女を撃てるのか。小学生のころからずっと好きだった幼馴染の女を」

 

「それは……」

 

 味方の葉山が固唾を飲んでいる。やはりコピー同士、心の中がわかるようだ。

 

「撃てないだろ。ここから去れ。そうすれば俺たちも手を出さないで見逃してやる。俺ももう人を撃ちたくない」

 

「じゃあ、比企谷君、君を撃つ」

 

 ニセ葉山と俺の間に雪ノ下が立ち塞がった。俺に背中を押しつけて、後ろへジリジリと下がる。ニセ葉山から少しでも距離を取りたいようだ。

 雪ノ下の頭の上から、俺の目が覗いているのだろう。ニセ葉山は銃口を少し上に向けなおし、俺の目に狙いをつけた。

 

「その瞬間にお前も死ぬぞ。俺たちの味方の葉山もお前を躊躇なく撃つだろう。それでいいのか。それで終わりだぞ」

 

「………」

 

 腕を伸ばして銃口をニセ葉山に向けたまま、雪ノ下が毅然とした態度で言う。

 

「葉山君、私があなたを撃ってあげる。今ここで復讐してあげる。そうすれば、あなたは私に対する負い目を無くして死ねる。あなたの理不尽な感情も消える。私が引導を渡してあげる」

 

「………」

 

 ニセ葉山の目が少し泳ぐ。

 俺は、何か言うことを探したが、見つからなかった。これは葉山にとって残酷すぎる。

 

「味方の葉山君もそれでいいわね」

 

「わかった。そうしてくれ。もう覚悟は決めている」

 

「お前、そこまでしなくてもいいんじゃないか。今度はお前が苦しむかもしれない」

 

「少なくとも半分の承諾は得たわね。さあ、敵の葉山君、撃つわよ。あなたが私を撃つのも自由。私だって覚悟を決めているのよ。どうするの? 撃つ? それとも素直に撃たれる?」

 

 敵の葉山は依然として銃口を俺に向けていたが、さっきよりもずいぶんと落ち着いた目をしていた。

 

「これで心置きなく死ねる………か。思えば長かった……」

 

 数分の沈黙が流れた。スチール写真の映像のように誰も動かなかった。

 やがて、何かを諦め悟ったように、銃を握っている敵の葉山の腕がゆっくりと下がる。その顔は平和な表情だった。山の頂上でご来光を仰ぎ見るような、どこかに希望を感じさせる顔をしていた。

 

 そして……。次の瞬間、葉山の頭の中には、太陽が赫奕(かくやく)として昇ったはずだ。

 

 雪ノ下の手首が上に跳ね上がる。その反動が肩越しに俺にも伝わった。

 ほぼ同時に敵の葉山の眉間に穴があき、後頭部から金髪と血しぶきが飛ぶ。テニス部のドアにいた味方の葉山も、その場に崩れ落ちた。

 

「マジかよ……。お前、本当に撃ったのか……」

 

 雪ノ下が固まっている。腕を伸ばしたまま、しばらく動かなかった。

 我にかえるまで数分かかった。銃を床にゴトリと落とし、仰向けに倒れる葉山に近づく。

 動かない葉山に向けてかがみこみ、雪ノ下が呟いた。

 

「ごめんなさい。でも、これで良かったと信じたい……。私たちもすぐにそっち行くから許して欲しい……」

 

 俺はまた、カーテンを引きちぎった。何回引きちぎるのか。しかし、これ以上引きちぎることはないような気がする。俺たちが死ねば、もうカーテンを引きちぎる人間はいない。

 ニセ葉山にカーテンをかけた。そして、入り口近くでうつ伏せに倒れている葉山を室内に入れ、壁に凭れかけさせた。こっちにも、その肩から足先までカーテンをかけてやった。

 

「なんか嫌な感じね。人を撃つのって。あなたがおかしくなったのが理解できる」

 

 雪ノ下の顔色が心なしか悪い。立っているので、ショックが俺ほどじゃないことがわかる。が、心も体もネガティブになっている。問題を一人で抱え込むクセはまだ治っていない。なんとかしてやりたい。

 

「この部屋を出よう。二階に行ってみよう」

 

 雪ノ下の手を引いて、部屋を出た。

 二階の機械体操部の部屋にはマットがあった。それに、廊下には持ち運び用の畳が数枚置いてあった。

 俺は畳とマットを体操部の床に敷き、雪ノ下を寝かせた。

 少し休んだほうがいい。ロッカーからバスタオルを数枚出して、かけてやった。俺はその傍らに座り、壁に凭れた。

 雪ノ下は目を閉じていた。だが、その手が救いを求めるように伸びてきた。俺はその手を握った。

 

「これで二人きりになったけど、なんか、さっきの続きをする気分じゃないわね」

 

 冗談のようなことを言った雪ノ下の顔は笑っていなかった。

 

 

 

 

 






毎度どうも、小町です!

 そういうことだったんですね。葉山先輩って。でも葉山さんはどこかで「本当に人を好きになったことがない」って言ってたように記憶していますが。きっと、小学生時代の負い目があるから、本人にはそう感じられていたのかもしれませんね。
 暗い雰囲気になってしまった本編ですが、私だけは健気に明るく行きたいと思います。
 このままこの世界が終わるのは反対です! 誰か、量子コンピュータを自在に操れるスーパープログラマはいませんか? 設定を書き換えて、小町が校内一に美少女になって、成績もトップで、運動も抜群にできて……イケメンにモテモテの世界を……。なんつって。
 でも、ゆっきーには「そんな偽りの世界で生きることにどんな価値があるというの?」と叱られそう。そんなゆっきーも、今回は少しばかり心の傷を負ったようですね。小町が貯めたポイント全部使っても治してあげたい。でも女はこういうとき強いよ! すぐに復活するでしょう。
 ではみなさん。この世界が消滅するまで、毎回お会いしましょう! ごきげんよう。



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(A⇔B)07 終わりへのカウントダウン

 

 

 

 握られた手をバスタオルの端から出して、彼女はスヤスヤと眠っていた。その寝顔を見ていると癒される。純真無垢、無邪気、そんな顔をしている。

 その寝顔が癒し効果を持つことに気がついたのはつい最近だった。見ていると心が落ち着いて、永遠に平和が続くような安心感に満たされるのだ。なぜだろう。

 口もとがピクリと動いて薄目の隙間から瞳孔が見えたときは、眠り始めてからすでに2~3時間は過ぎていた。

 

「どうしてニヤニヤしているのかしら」

 

「いや、別に。気分はよくなったか」

 

「ひと眠りしたらスッキリした。あなたは人の寝顔眺めていい気分だったようね。もしかしてスケベなこと考えていたわけ?」

 

「なんだそれ。意味がわからん」

 

「男のスケベ心って、ある程度距離がないと起こらないんじゃないの? いくら美人でも長く一緒にいると消えてしまうんでしょ?」

 

「まあ、そういう話は聞くよな。それが今の俺たちに何の関係がある?」

 

「あなたがニヤニヤしながら私をスケベな目で見ていたのが珍しいと思ったのよ。私たちって最近ずっと密着していたから。慣れちゃったのかと思ってた。それか……」

 

「あのな、俺はお前の寝顔を見て、スケベ心にふるえていたわけじゃない。自分で寝顔見れないから気がつかないだろうけど、お前の寝顔は一級品だ。癒されることに気づいた」

 

「また変なこと言うのね。一級品の寝顔なんて言われたことないわ。私は赤ん坊なの?」

 

 上半身を起こしながらクスクスと笑う。この様子だとメンタルは回復したのだろう。

 

「お腹空かない?」

 

 そう言われたので壁の時計を見ると、午後6時を過ぎている。

 

「空いたな」

 

「調理実習室に行くのは危険な気がする。いいこと思いついたのよ。裏門から学校を出ると、細い道を挟んで民家があるでしょ。そこには冷蔵庫とかコンロがあると思うの」

 

「ん? そうだと思うが、使える設定になっているのかな」

 

「行ってみない?」

 

「行ってみるか」

 

 起き上がった雪ノ下が「ちょっと待ってて」と部屋を出て行った。シャワールームの方へ向かったようだ。そして数分後に帰ってきた。

 

「何してたの?」

 

「乾かしていた下着をつけてきたのよ」

 

「え? ということは今まで、ノーパン?」

 

 思わず雪ノ下の下半身を見た。スカートの下に赤いジャージをはいているので詳細はわからないが。

 

「そうよ。ノーパンにノーブラ。ニーハイも干してたけど。それが何か?」

 

「そういえば三浦と一緒に洗ってたもんな。もしかして、三浦の下着と一緒に並べて干してたの?」

 

「それが?」

 

「あ、いや、何でもない……」

 

 雪ノ下が久しぶりにジト目になる。徹底追求モードに切り替わった音が、かすかに聞こえたような気がした。

 

「ふ~ん。言わないとごはん作らない」

 

「おまえ、女房かよ」

 

「すでに似たようなもんでしょ。由比ヶ浜さんも言ってたじゃない」

 

「あのな。大したこと考えていたわけじゃない。追及する価値はないと思うぞ」

 

「続けてごらんなさい」

 

「だから……。三浦とお前のブラが並んでいたら、お前がコンプレックスを抱かないかと……。ほんの一瞬、そう思っただけだ」

 

 変なニコ顔をした彼女が近づいてきた。口が若干とんがっている。両手で俺のほっぺたをつまみ、横に引っ張る。唇が広がるし、痛ぇし……。

 

「見くびらないでちょうだい。ブラの大きさは、そんなに違いありませんでしたから。それに着やせする体質なので」

 

「そんなに、ってのはずいぶん抽象的であいまいだな。人によってズレが大きい。痛いってば……。早く行こうよ。腹減った」

 

「よろしい。正直に吐いたから許してあげる」

 

 ほっぺたから手を離すと、雪ノ下は畳の上に置いてあった銃を取って、制服のポケットに入れた。俺も一応、腰を触ってその重たい感触を確かめた。

 

 外はすでに暗い。灯火に照らされた雪がほの白く発光しているように見える。この学校の裏口はすぐ近くにある。だが、近くても雪がすごくて、なかなか進めない。

 裏口のフェンスの上まで雪が積もっているので、そこをまたいで道路に出た。

 一番近くの家に近づくと、二階の屋根が1メートルくらい上にあった。そこに飛びついて、彼女の手を引っ張る。窓ガラスを割って和室に侵入した。

 一階に下りると、リビングルームの照明を入れ、暖房スイッチもONにした。一〇畳ほどの広さがあり、ソファやダイニングテーブル、アイランドキッチンを備えた普通のリビングだった。

 予想通り、電気・ガス・水道が使えた。こんなことならもっと早くからここに来るべきだった。冷蔵庫の食料も豊富で、まともなメシが食えそうだ。

 

 料理ができるまで、テレビでも見ようとテーブルの上のリモコンを操作した。だが、テレビはONになるがどのチャンネルも砂嵐だった。ふだんはまったく見ないバラエティ番組が恋しくなる。

 小一時間待って出てきた料理は、チキンライスの入ったオムライス、小ぶりのグラタン、グリーンサラダ、ワカメスープだった。

 また俺はガツガツと食った。毎日こんだけ美味いもの食ってたら太るにちがいない。

 

「お前の作るメシは美味くてかなわん」

 

「ちゃんと感謝してる? 感謝している人の胸の大きさをバカにしないわよね。普通」

 

「その、根に持つ性格をなんとかしろ」

 

「記憶力が良いと言ってくれるかしら。その時その場の人間の心理や発言をしっかり覚えている。永久に忘れない。あなたがここ一年間に私の前で発言した内容は、全部反芻できるのだけれど」

 

「それって怖ぇよ。勘弁してくれよ。恥ずかしいし」

 

「もう逃げられないわね。あなたの言動はここにすべて記録されているから」

 

 雪ノ下が人差し指で自分の頭をつつく。

 

「なんか変な会話しているな、俺たち」

 

「そういえばそうね。前にも気がついたことがあるけれど、あなたと会話していると、話がアブノーマルな方向へ行きやすいのよね。アブノーマルでなかったら、世を拗ねるような」

 

「俺だけの責任とは言えないだろ」

 

「まあ妥当なご意見ね」

 

「だが、全部覚えているってのも厳しい面があるんじゃないか。俺なんて恥ずかしい記憶ばっかりなんで消し去りたい」

 

「恥の多い人生を送ってきました。ってやつね」

 

「人間合格したいもんだな」

 

 食後の紅茶を飲みながら、他愛のない会話が続いた。彼女と二人きりになると、こうした会話がいつまでも続けられるような気がした。まるで同棲でもしているような雰囲気。俺たちの置かれている状況を忘れてしまいたい。だが、二人とも忘れられるはずがなかった。ここはふうせんかずらの中なのだから。

 

 忌々しい声がした。その声は、人間という憑り代がないために抽象的で、鼓膜を通してではなく、聴覚細胞に直接働きかけてくるような感覚を催させた。

 

「おくつろぎのところすみません。お二人さん。もう闘う意思はないようですね」

 

 声が聞こえた方向を見ると、そこには1メートルくらいのレンズでもあるかのように、空間が歪んでいた。その歪みが次第に線状になり、中性的な顔になった。

 

「それがお前の顔か?」

 

 俺は銃を取り出し、顔に向けた。だが、おそらく撃っても無駄だ。

 

「いいえ、ちがいます。私に顔があるわけないでしょう。ただのイメージです。もう一組のあなたたちも、戦意喪失しているみたいです。保健室でくつろいでいますよ」

 

「何の用だ。消えてくれ。邪魔だ」

 

「今のところ、勝負としてはあなたたちのほうが勝っています。ただ、これ以上続ける気がないのであれば、あと24時間で強制的に終わらせようと思っているのですが、どうしましょうか」

 

「勝手にすれば? もうどうでもいいわ、そんなこと。あなたの思い通りにはならない」

 

「勝ったほうのメンバーを蘇生させて、表彰しようと思っていたんですがね」

 

「そんな表彰に何の意味があるというの? バカにしすぎでしょ」

 

「お望みであれば、この世界をずっと存続させてもいいと思っていたのですが」

 

「こんな偽りの世界に生きることにどんな意味があるというの? バカなことを言うのはほどほどにしてくれない?」

 

「偽りの世界ですか。ではその内部であなたが思ったことも偽りということになりませんか? あなたたちのお互いの気持ちも」

 

 激情が抑えきれなかった。こいつは絶対に許せない言葉を吐いた。俺は顔に向けて数発撃ったが、屈折率の違う空虚な空間を、弾丸が通り抜けただけだった。

 

「貴様は絶対に許さん! 俺の彼女に対する気持ちは本物だ」

 

「ふうせんかずらさん。残念ながら人間はそんなに単純じゃないのよ。あなたには理解できないでしょうけれど。ニセモノだらけの世界にだって本物が存在することもある。ニセモノが本物に変わることもある。この世界が終わる直前に、それを見せてあげる」

 

「ほう、どのようにして見せてくれるのでしょう。実は、私にはもう、結末はわかっています。私には時間が存在せず、どの時間にも存在できることは話しましたよね。あなたたちがどうなるかわかっているのですよ。その場合にはペナルティを与えなければならないかもしれません」

 

「どうなるというんだ! ペナルティだと?」

 

「それはお答えできません。すでにあなたたちの意識にはあるようですし。それを確実に意識させたくありませんから。

 私としては、勝ったほうのメンバーがずっとこの世界で生きるという選択をお勧めします」

 

「だから、それは拒否すると言ったろうが」

 

「そうすると、あなたの妹さんとかも、このまま消えてしまうことになりますが。いいんですか?」

 

「………」

 

「蘇生した妹さんに、一目でも会いたいと思いませんか?」

 

「くそ! 死にやがれ、てめぇ」

 

「とにかく、何のアクションもない場合は、あと24時間で終了します」

 

「ええ、それでいいわ。消えて。さようなら」

 

 ふうせんかずらの顔があった空間が元に戻った。無理やり現実に引き戻され、俺はぶちのめされた気分だった。どんどん心がダークサイドに落ちていく。

 イスに崩れ落ちた俺の肩に、背後から両手が添えられた。

 

「最後まで希望を持って。私たちが今ここに一緒にいることは、ふうせんかずらにも絶対に変えられない事実なのよ。最後までこの絶対的な時間を大切にしましょう」

 

 強い……。こんな状況になっても、そこまで言うとは。できればすがりついて泣きたいと思った。

 

「お前と一緒にいられる時間もあと24時間か。何もしてやれなかったような気がする。すまん……」

 

「そのネガティブな思い込みを消して。そうだ、お風呂ためたから一緒に入らない? 湯船に浸かるの久しぶりでしょ? 暖まると疲れもとれてサッパリするわよ」

 

 風呂? 一緒に? 突拍子もない提案にたじろぐ。立ち上がるとニコリとした彼女の顔があった。

 

「もうこの世界も終わりでしょ? いいじゃない。入りましょ。もしかして恥ずかしいの?」

 

「あ、ああ……。わかった」

 

 急に襲われた緊張感で体がガチガチになりながら、洗面所のほうへ一緒に行った。

 

 

 

 







 こんにちは。いつもの小町です。

 とうとうこの時が来ましたか。あ、カウントダウンのことですけどね。笑。やっと夫婦水入らずのように過ごせたと思ったら、それもたった一日に終わりですか。小町はこの二人が不憫で不憫で。最後にゆっきーが弾けちゃうのも理解できちゃいますねぇ。
 小町だったら24時間で何をするでしょう。大好きな甘いものをたくさん食べちゃうかな。でも、焦らずにいつもの通りに過ごすかもしれません。
 聞いた話によると、この世界が終わるまであと2回くらいしかないということです。二人の希望が未来へつながることを祈っています!
 それでは。ごきげんよう。


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(A⇔B)08 俺と彼女が一緒に入浴するわけがない

 

 

 

 洗面所の奥が風呂場になっていた。ガラスのはまった折れ戸を開くと、湯けむりが充満していた。

 洗面所には洗濯機もある。その上に緑色のジャージや制服の上着を置いた。

 

「マジで一緒に入るのか? お前が大丈夫なのかと心配なんだが」

 

「やっぱり恥ずかしいかもしれない。ノリで入ろうって言ったけど……」

 

 髪の毛をグルグルと巻いて、ゴムで後頭部に止めたあと、ゆっくりと赤いジャージと制服を脱ぎ始めた。しかし……。

 

「後ろ向いてて」

 

 そう言うのでその通りにした。俺はこのまま脱ぎ続けていいのかどうかわからなかった。が。風呂は入りたい。お湯に浸かってあたたまりたい。グダグダしていないで、さっさと脱いで湯船に浸かろう。

 そう思って、一気にズボンやらシャツやらパンツを脱いだ。

 だが、やっぱり信じられないほど恥ずかしい。鏡の横にかかっていた小さなタオルで前を隠した。

 

「はい。これ」と後ろ手に渡されたのがニーハイソックスだった。え? なんで?

 

「意味がわからん!」

 

「そういうの好きかと思って」

 

 おそるおそる彼女の方を見ると、顔が真っ赤になっている。シャツの下にはスカートもない。白くて長い素足が見えていた。

 

「なにブッ飛んでいるんだ! 大丈夫かよ」

 

 頭がクラクラしてきた。俺をフェチだと思っているらしい。正直にいえば、確かに興味がないこともないが、匂いをクンカクンカしたくてたまらないということはない。

 

「じゃあ、こっち?」

 

 さらに顔を真っ赤にしてパンツを下ろそうとしている。

 

「お前、重大な誤解しているぞ。やめてくれ。そんな事しなくても大丈夫だ!」

 

「本当に? 恥ずかしくて死にそうだけど……。我慢しているのだけれど……」

 

「いい! そんなことしなくていい! 確かに下着には興味がないこともないが、それを手にとって何かしたいとは思わん! 信じてくれ! 頼む!」

 

「そ、そう? じゃあ返して」

 

 俺はあわててニーハイを返した。大丈夫かよ。男はみんなそうだと思っているんじゃないのか。どう説明したらいいのだろう。説得力のある説明の仕方があるだろうか。

 

 俺は勇気を振り絞って、というよりヤケクソになって、背中を見せている彼女をこっちに向かせた。そして正面から抱き寄せた。

 お互いに顔しか見えなくなった。それにしても自分から言い出したくせにこの恥ずかしがりかたは何? あまり喋らなくなっている。ふだんの様子とのギャップにも頭がクラクラしてきた。

 

「こうすれば見えないだろ。恥ずかしくない。顔真っ赤だぞ。別々に入る? 俺が出てってもいいぞ」

 

「それはいや」

 

 彼女がシャツを脱ぎ始める。すると、なめらかで白皙の肌が顕わになった。ブラジャーが外されると、小ぶりだが、形のいい乳房が見えた。

 そしてパンツを脱ぐと、お互いが全裸になった。突拍子もなくいきなり靴下を差し出されたことで、俺の緊張はふっ飛んでいた。それでも、目の前の裸体を眺めている余裕はあまりない。

 

 湯船には最初向き合って入ったが、どうにも目のやり場に困る。なんか俺の視線が露骨にスケベっぽく見えそうなのが気になる。目つきも顔つきもぎこちなくなっている。湯に浸かれば「はぁ~」と声の一つでも出そうなものだが。

 

「なあ、背中を向けてこっち来なよ」

 

「こう?」

 

 彼女を後ろから抱え込むような体勢になった。その体が俺の胸に凭れてきて、やっと落ち着いた。目の前の肩から伸びた手が、お湯をすくって二の腕にかけている。俺は、お湯がかなりぬるいことに気がついた。

 

「いつもこんなぬるい風呂に入っているのか?」

 

「これくらいの温度に30分くらい入るわね。そうすると寝るときも足が温かいのよ」

 

「ふぅ~。どうなるかと思った。靴下なんか渡すから」

 

「私ね、自分に魅力がないのかと思ってたの。あなたと二人きりになる機会が何回もあったのに、何もしてくれなかったじゃない? だから、そういうことでもしないとダメなんじゃないかと。あるいは、機能的に問題があるのかと」

 

 そう言って見せた横顔が笑っていた。もう顔は赤くない。お湯に当てられて上気しているだけだ。

 

「それは誤解だな。俺がおくてになっていたのは、お前が綺麗すぎるからだ。気後れしていたんだよ。って、……機能的な問題? それって……」

 

「問題ないことは今わかった。お尻に当たってるから」

 

 いつの間に……。緊張して気がつかなかった。急にそれを隠したくなった。

 

「恥ずかしいな」

 

「どうして? 普通のことでしょ。触ってみていい?」

 

「え? ああ……」

 

 右手が後ろへ伸びてきて探る。それがくすぐったい。やがて探り当てられ……。

 

「本当にこうなるのね。なんか面白い」

 

「あんまり強く触らないでくれよ」

 

「どうして? あ、そういうことね」

 

 彼女の左手が俺の手を取る。そして、自らの胸へ導く。そのやわらかい膨らみを手のひらで包み込むように撫でると、ひっかかる点があった。「あっ」と小声が出る。

 

「今のはいいけど、あんまり強く触らないでよ。痛いから」

 

 その横顔がまた笑っていた。

 目の前に首すじがあった。俺はたまらなくなってそこにキスして、唇を滑らせた。その反応が如実に現われ、肩が慄える。

 

 

「お前、本当に綺麗な体してんのな。細いし、足長いし」

 

「ありがとう。あなただって手首とか足首細いじゃない。男にしては珍しいかもしれないわね」

 

「なんか、禁断の果実を食らっちまったようで、もうメロメロ」

 

「まだ食らってないでしょ。……メロメロで思い出した。前に小町さんと話した内容を」

 

「なんかすごく嫌な予感がする」

 

「当たり! あなたがテレビから録り貯めた秘蔵のDVDがあるでしょ」

 

「なに?」

 

 俺はDVDを百枚くらい所蔵していた。それもあまり人には見られたくない内容の。だが、アダルトものは少なかったはずだ。

 

「アニメを貯めたやつ。それを小町さんが解析したんだって」

 

「解析? あいつめ。要するに盗み見したんだな」

 

「そう。それから、あなたが持っている雑誌類もろもろと併せて総合的に分析すると、ある傾向が浮かび上がったんだって」

 

「どんな?」

 

「あなた、JCが好きでしょ?」

 

 彼女が振り返って見つめてくる。

 

「は? JCって女子中学生?」

 

「そう。たとえば、こんなセリフを言う子。

 こんな部屋に連れ込んで何をしようというんですか! このドスケベ、変態、変態、変態! つつつ、通報しますよ! 私に指一本でも触れたら、ブチ殺しますよ! お兄さんなんて大嫌いなんですからね! すっごく気持ち悪いです!」

 

 え? CVが同じ? いや……。今日は頭がクラクラしっ放しだ。三半規管にサナダムシでも齧りついているのではないか。

 目の前でに然現れた演戯にあっけにとられた。声質と言い回しにかなりの再現性があった。俺の中に眠るいくつかのツボを完全に刺激していた。このカンの良さ……。

 

「よくそんなセリフ覚えているな……」

 

「これを兄の前で演じれば、萌えるんじゃないかって言ってた」

 

「あいつめ。マジ許さん!」

 

「ラブリーマイエンジェルっていうんでしょ? このキャラクターが一番好きなんじゃないかって、小町さんが言ってた。

 ごめんなさいね~。目の前にいるのがJKで。それも末期だし。もう18だし。JCってロリコン? ギリギリ違うのかしら。ロリコンって言ったらJSが相場なのかしらね。ただ、あなたの場合はシスコンではない、とは聞いたのだけれど」

 

 そう言いながら、肩が大きく震えている。手の甲を口に当てて、いつものスタイルで笑っている。こんな風呂の中だが。しかも裸で。

 

「あほか。中学生とか小学生が好みなわけないだろ。それに、2次元と3次元を一緒にするな」

 

「まだあるんだって。あなたにメロメロなの。あなたがエロエロなの。とか。

 あと、お外走ってくる~。

何のことだかわからないのだけれど」

 

「たのむ、もうやめてくれ! お前らそんなガールズトークしていたのか」

 

「そう。こういう演戯をしたら兄が興奮するって。小町さんが力説していた」

 

「まるで俺はJC好きのアニオタじゃないか。それにロリコンかよ! よかったな、そんな真似しなくて。的外れもいいところだ。小町情報は信用できないことがわかっただろ」

 

 我ながらおかしくなって噴き出した。腹が痙攣して湯船の水が飛び跳ねた。

 彼女が身を翻して顔を近づけてきた。

 

「わかってる。あなたは少し捻くれているだけで、いたって正常よ」

 

 そういうと彼女は俺の首に手を回してキスしてきた。

 

「お前、なんか姉貴に似てきたぞ。素質はあると思っていたが」

 

「そお? 振り回されちゃったかしら?」

 

 水を滴らせて彼女が立ち上がった。その全身が顕わになる。思わず見とれてしまった。

 俺も暑くなってきたので湯船を出た。ボディソープを手につけた彼女が待っていて、体を洗ってくれた。突き出している部分も含めて。

 そんなことをしてもらうのは子供の頃以来だ。俺も彼女の背中から足までこすってやった。

 もう、お互い恥ずかしさなど感じなかった。当たり前のことをしているような気分。

 シャワーで石鹸を流すと、髪の毛を洗うという彼女を残して先に出た。

 

 リビングに戻る前に、寝室に侵入して、箪笥の下着類を漁った。他人のものだと気持ち悪いが、洗面所に置いていある着古しよりはマシだ。たぶん、洗濯してあるはずなので適当に選んで着た。Tシャツも失敬した。一応着ける前に匂いを確かめると、洗剤の香りがした。

 

 冷蔵庫から炭酸飲料を取り出し、ソファで喉に流し込む。長湯をしたことがないので、渇いていた。飲み干すとはぁ~と息を吐き出し、ソファに横になった。このまま眠れそうだ。

 しばらくすると、洗面所からドライヤーの音が聞こえてきた。他人の家の設備を使い放題。洗濯機の回る音も聞こえてきた。

 

 俺は、ふうせんかずらの世界にいることもすっかり忘れ、いつの間にかウトウトして半睡半覚の状態に陥っていた。

 

 

 

 

 






 こんばんは、小町です。
 今回は入浴シーンだけで終わってしまいましたね。ということは、この世界が終わるまであと2回ってことになるんですかね。
 いやぁ。高校3年といえば、もう大人ですよね。18歳ですから。なんたって大人の定義を18歳以上にしようという議論も最近になって出てきたくらいですし。
 そうそう、兄の嗜好ですけど、妹ものの例のアニメが好きらしいんです。同じ千葉だし。小町も妹なのでちょっとドキドキしましたが、単純にキャラ萌えしていたようです。やっぱりああいう清純派で、ツンツンして、軽く病んでいるというか、クセがある人に惚れるようですね。あ、そういえばこの話のタイトルも引っ掛けているみたいですね。
 それではみなんさん。ごきげんよう。



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(A⇔B)09 情交と死。そして……。

内容がR-18に該当すると思われる場合、連絡いただけると幸いです。なにとぞ、よろしくお願いしますm(__)m


 

 

 トントンと肩を指で叩かれた。それまで、俺は夢うつつの状態で、何か断片的な夢を見ていたような気がする。それも悪夢に近い。気持ち悪いストレスで、思わず歯軋りをしてしまような……。

 それは、この世界の終わりが刻一刻と近づく悔しさの歯ぎしりだったのだろうか。

 

 まぶたを指でこすって目を開けると、水色のワンピースを着た彼女が立っていた。

 

 

「寝ちゃってたの?」

 

「そうらしいな」

 

「時間がもったいじゃない」

 

「それは略奪したのか?」

 

「このワンピ? タンスを探して借用しちゃった」

 

「似合っているな」

 

「なかなかいいでしょ。紅茶入っているけど」

 

「ありがとう」

 

 俺はソファから起き上がって、テーブルにつき、ティーカップをとった。いい香りに包まれて啜ると、一気に目が覚めた。時間は午後11時過ぎ。残されたのはあと18時間くらいか。

 風呂場で緊張したり興奮したり焦ったり恥ずかしかったりした疲れのために寝てしまった。確かにもったいない。そう思うと抑えきれない感情が湧いてきた。

 

 無言で立ち上がり、隣りのイスに座る彼女の手をとる。何かを察したように、反対の手にあったティーカップがコトリと置かれた。

 俺は彼女を寝室に連れて行った。右手で、額から頬にかけて垂れている髪の毛を後ろへよけ、左手で腰を引き寄せて長いキスをした。

 

 ワンピースを脱がせて裸体を見せても、彼女は恥ずかしがっていなかった。俺も同じように、あまり恥ずかしくない。あの風呂場の戯れは正解だったのかもしれない。

 抱き合ったまま、細い体をベッドへ押し倒した。

 そのあとは無言のまま、ほとんど自動的にことが進んだ。二人とも真面目に行為に熱中した。

 仰向けの彼女をバンザイさせると、桜色の小さな乳首を吸った。そっと舌を動かすたびに全身の筋肉が反応する。これが面白くて、しばらく熱中した。目を閉じたその顔が、感覚を味わっているのがわかる。息がだんだんと荒くなってくる。俺は、さっきからまったく会話していないことに気づき、話しかけてみた。

 

「いい? 痛くない?」

 

「うん。気持ちいい」

 

「女はいいな。こういうところが体にたくさんあって」

 

「男もいいんじゃないの?」

 

「そうでもないんじゃないかな」

 

「下になってみて」

 

 俺が仰向けになると、彼女が馬乗りになった。体が下向きになると、その胸が重力で下がり、大きくなったように見えた。動くと意外に揺れる。

 

「見くびっててごめん。ちゃんと揺れるんだな」

 

「また、それ言うの?」

 

 彼女の両手が、また俺の頬をつまんで横に広げた。

 

「それ、地味に痛い。ごめん。謝る」

 

「仏の顔も三度まで。次がラストチャンスね」

 

 頬から離れた両手が俺の体を撫でる。そして、彼女の上半身が俺に覆いかぶさり、乳首を吸い始めた。舌先を微妙に動かすと、今まで知らなかった感覚が起こった。髪の毛がパラパラと落ちてきて、肌を刺激する。

 

 男女の行為をしながら、こうして触れ合っていると、最も深いところから癒やされていることに気がついた。俺の深いところで何かが融けている。

 それは、俺が18年近く生きるうちに固まってしまった、女性に対する偏見、あるいは人間に対する偏見かもしれなかった。

「どうせ女は~~だ」という稚拙な固定観念。未熟ゆえの勝手な思い込み。所詮、人間なんて理解しあえない、それは男女の仲になっても同じだ。

 そんな頑迷なガン細胞が、彼女と触れ合うことでどんどんと消滅していくのがはっきりとわかる。

 確かに彼女の心の中のすべてを知ることはできない。だが、こうして触れ合っていれば、やがて信頼できるほどにはわかりあえるはず。そんな確信が生まれた。

 今、二人がしている行為も共同作業だ。目に見えるもの全部さらけ出し、許しあい、信じようとする共同作業。それが愛し合うということかもしれない。実は、具体的な行為や、それによって生じる性的な感覚などはどうでもいいのではないか。

 しかし、最後になってそんなことを知ることになるとは……。もっと前から知りたかった。こうして雪ノ下雪乃と、いや、もうそんな固有名なんてどうでもよかった。

 ここには俺と彼女しかいない。一人の男と一人の女しかいない。近くにはもう一組のコピーがいるが、同じことだ。その彼女と愛し合っていることが奇跡のように思えた。

 

 思惟の底から現実へよみがえると、彼女の顔が俺の真上にあって、その目が覗き込んでいた。

 

「こんなときに、何か考え事をしていたようね。悪いクセね」

 

「ちょっと考えてしまった。俺にはお前しかいないことを。お前を愛していることを。自分でも信じられないくらいに」

 

「どういうことか教えてくれない?」

 

 彼女が俺の横に寝直し、その体をこちらに向ける。その体を抱き寄せて、自分の中のどこか深いところで何かが融けていることや、さきほど考えたことを話した。

 

「そうかもしれないわね。こういうことしていると気持ちよかったりするけど、それは本質的なことじゃないかもしれない。私もそれに賛成」

 

「俺たちはわかり合っているんじゃないのか。少なくともその近くにまではいるような気がする」

 

「きっとそうよ。私もあなたのことをこんなに愛しているもの。でも今は最後までして」

 

 そう促されて、俺は彼女に上に乗った。左手を背中の下に入れて、右手を頭の下にまわして抱いた。足が開かれ、手に導かれるままに彼女の中に入ろうとする。しかし……。

 

 目の前の顔に苦痛の表情が浮かんだ。普通の顔じゃない。俺はためらった。

 

「大丈夫か……」

 

「ゆっくり、お願い……」

 

 慎重にしているつもりだが、少し力を入れると、苦悶の表情で口角が鋭くなる。その体に力が入ってくねり、無意識に上に逃げようとする。しばらくすると、ベッドの縁に頭がつくほど移動していた。それでも彼女はのけぞりながら耐えようとしている。

 

「少し動かないでいて」

 

 そういうので、俺は止まった。両手が俺の胴体を掴んでいる。

 

「痛いなら止めよう。無理するな」

 

「大丈夫よ。少し待って」

 

「大丈夫な顔をしてないぞ」

 

 半分くらいは入ったような気がする。確かに締め付けを感じるが、こっちは痛くない。このまま最後まで行けそうだが、それは苦痛だろう。しばらくそのままでいたが、苦痛の表情を見るのは耐えられない。体を下げると、彼女の体の力もすっと抜けた。

 

「ごめんなさい。やっぱり女は慣れないとダメみたいね」

 

「いいさ、そんなことは。さっきお前が言ってたように、もっと前からしておけば……」

 

 彼女の頭を撫でながらそういうと、その体が起きた。そして、顔を俺の下半身の方へ近づける。それを手にとると口に含んだ。

 

「どう? 気持ちいい?」

 

「すごくいい」

 

 そのリズミカルな動きのたびに、俺のテンションが上がっていった。彼女が懸命にその行為をしているのがわかる。その光景には強烈なものがあった。今まで見てきた彼女の姿の中でも、一番刺激的だった。

 やがて感覚がだんだんと蓄積されていき……。あっという間に体がふるえて果てた。

 

 彼女が俺のほうに戻ってきて寄り添った。

 

「お前がそんなことするとは」

 

「しなかったほうが良かった?」

 

 俺は答えずに上半身を起こした。彼女に覆いかぶさって、体を下にずらしていった。下半身に到達したとき、あわてたような声がした。

 

「やめて! それだけは。恥ずかしい……」

 

 俺は足の間に顔をうずめた。大腿がかたくなに閉じている。それを顔で押し広げようとするが、すごい力で抵抗している。それでも顎を間に入れようとすると、諦めたようにだんだんと大腿が開いてきた。

 舌先で一番敏感な部分を探る。ある程度の構造は知っていたつもりだが、見えないのでなかなか難しい。しかし、そのポイントがわかった。そこを舌と唇で刺激すると、体が痙攣し始めた。

 腹筋が硬直と弛緩を繰り返し、胸が盛り上がって仰け反る。同時に、嗚咽を漏らすような声で大きく喘ぎ始めた。顔を上げてみると、恥ずかしいのか両手で顔を覆っていた。

 舌先に入れる力を強くしていった。すると、腰が浮き始めて上下に微動を繰り返し、腹筋の痙攣が止まった。腹筋の筋が見えるほど力が入ったままになった。

 それと同時に、へそから胸にかけての仰け反りが一段と高くなった。俺の頭を二つの大腿がすごい力で締めつける。

 やがて「ん~っ」という細長い声と共に、全身の力が抜け、仰け反っていた胸が下に降りた。

 彼女は乱れた髪の中で「はぁはぁ」と荒い息を続け、しばらく放心状態だった。その間、腹筋が数秒の間隔を置いて痙攣していた。

 

 二人とも汗をかいていた。体が熱い。言葉もなく抱き合って、そのまま目を閉じた。体が冷えるとまずいので、掛け布団を上に引いた。そのまま二人とも眠ってしまった。近づいてくる時間の深刻さにふるえながら。

 

 

 

  ★    ★    ★

 

 

 

 目が覚めると、窓の外からは雪を通した暗い光が入ってきていた。隣には誰もいない。一人だった。時計を見ると昼前。かなり眠った。残りはあと6時間といったところか。

 ジャージを着てリビングに起きていくと、コーヒーの匂いがした。普通の家庭の普通の昼だった。

 

「起きたのね。ずいぶん寝ていたようだけど」

 

 青いワンピース姿の彼女がアイランドキッチンの奥にいた。何か作っている。

 

「眠りすぎた。あんなフカフカのベッドで寝たのは久しぶりだったから」

 

「私も一時間くらい前に起きたばっかり」

 

 テーブルの上にはピザトーストとサラダが出された。一緒に食べ始めるが、心なしか雰囲気が暗い。

 

「残り時間が少なくなったな」

 

「そうね。あと6時間くらい?」

 

「どうするか決めたのか?」

 

「ええ。あなたも決めているんでしょ?」

 

「たぶん。だが、それを言うのは最後にしよう」

 

 彼女はうなずいた。言わなくてもわかっていた。お互いにこれだけ結びついた今となっては、それは絶対的な確信だった。

 

 食事が終わると、俺たちは寝室で時間を惜しむようにまた裸になった。起きて、顔を見たとたんにそうしたくなった。それほどの激情が渦巻いていた。

 感情と欲動の流れのままにもつれ合い、赤くなって擦り切れるほとに肌を重ねた。

 交じり合う。まさにそんな感じだった。二つの体に分かれているほうが異常だとでもいうように、一つになりたがった。

 一つになる。そう。昨日とは違って今回は、俺たちは一つになれたのだ。

 

「来て。大丈夫かもしれない」

 

 

 そういうので、昨日のように彼女の中に入ろうとした。少し、苦痛の表情があったが、ゆっくりと進むと、最後まで行けた。締め付けられている感じはある。だが、それほど苦痛はないようだ。俺はしばらくそのまま動かなかった。いや、動くとすぐに……。

 

「大丈夫か」

 

「ええ。昨日よりは。慣れたんだと思う。ゆっくり動いてみて」

 

 体を前と後ろに少しずつ動かした。その摩擦がもよおす感覚が体中に走った。彼女の表情は……。大丈夫だ。目を閉じてはいるが。

 だんだんと体を大きく動かした。しばらくすると、彼女の顔がその感覚を味わうような表情に変わっていった。

 安心すると同時に、俺は夢中になっていた。彼女の背中に両手を回して、しがみつくように首すじを吸った。

 目の前で、その顔が恍惚としてきて、上半身がのけ反り始めた。息が荒くなり、嗚咽のような声も漏れる。彼女の感覚が俺にもすさまじい勢いで乗り移ってくる。

 動きながら、俺はなんだかわからなくなってきた。激しく体を走り回る熱と感覚が閾値を超えた。こんな狂おしさを経験したのは初めてだった。

 俺は、全身全霊でこの女を愛している。そう思った刹那。彼女の中に放出した。

 しばらくそのまま、二人とも動けなかった。荒い息が治まってきたのは数十分後だった。

 

 その後も、熱しては冷め、熱しては冷めの繰り返し。狂ったような情交が続いた。彼女が上に乗り、髪を乱しながら嬌声を上げる姿を目に焼き付けた。

 本当に俺たちは狂っていたのかもしれない。だが、いくら俺たちが若くても体力の限界が来る。落ち着いたときには午後5時ごろだった。

 

 疲れて眠ってしまいそうだった。だが、永遠に眠りにつくためにやらなければならないことがある。

 言葉もなく、俺たちはベッドから降りて、服をつけ始めた。俺にはボロボロの制服とジャージしかない。洋服箪笥を開けて、新しそうなズボンとシャツを着た。ちょうど体型が合っていた。ついでにネクタイもつけて、鏡を覗くと少しはマシないでたちに見える。

 

 

「ちゃんと働けそうね。これで終わりというのももったいないわね」

 

 ワンピースを着た彼女が俺の姿を見て感想を言った。リビングから運んできたティーカップを一つ、俺にくれる。

 ベッドに並んで座ると、俺の曲がったネクタイを正してくれた。

 

「今までありがとう。俺はお前を本気で愛していたことが今日わかった。こんな偽りの世界だったが、お前と出会って俺は幸せだった」

 

「私もよ。またどこかで会いましょう。信じていればきっと会えるような気がする。私をここまで普通にしてくれてありがとう。愛してくれてありがとう」

 

「俺もだ。お前に出会わなかったらどうなっていたことか。感謝している。その恩返しも今度絶対にする」

 

「私、泣きそうよ。でも泣いたら負けを認めることになる。私たちの心は、この宇宙のどこかで、必ず生まれ変わる。それを信じましょう。この世界が終わっても、他には無数の世界があるのよ。きっと、そこで、そこで……」

 

 我慢していたようだが、彼女の目尻からは涙があふれ始めた。それを俺はシャツの袖で拭いた。

 

「笑ってくれ。最後はお前のあの笑顔が見たい」

 

 彼女がこちらに向き、笑顔を見せた。

 

 俺も涙がひとすじ流れた。だが、これ以上は絶対に流さない。泣いてしまったら、永遠の別れを認めてしまう事になる。この女とはまたどこかで必ず出会うのだから。

 

「左胸にする? それとも頭?」

 

「そうね。頭の方が楽だと思う」

 

「5・4・3・2・1・ゼロの、ゼロのタイミングな」

 

「わかった」

 

 ベッドの上に乗って、向かい合った。お互いの左手をタオルで結びつけた。時計を見ると時間が迫っている。

 俺たちは右手で銃を取った。お互いの頭に銃口をつけた。

 カウントダウンを始めようとしたとき、声が聞こえた。だが、そんなことはどうでもよかった。

 

「やっぱりあなたたちはそうするのですか。もう一組の人たちもそうするみたいですね」

 

「余計な口出しするなよ。ふうせんかずら。ニセモノが本物になる瞬間をよく見ておけ」

 

「わかりました。わたしもあなたたちが本物になることを祈っています」

 

 邪魔者の声はそれだけ聞こえて消えた。

 

「いいか?」

 

「はい」

 

 きよらかな顔がそこにあった。何の悔いも韜晦もない。目が閉じられると、あの純粋無垢で無邪気な寝顔になった。

 

「いくぞ」

 

 5・4・3・2・1・…………。

 

 一瞬、火が見えたような気がした。すさまじい衝撃が全身を走ったあと、すべてが終わった。暗い闇の中で握った彼女の手の感覚が最後だった。

 

 

 

 






こんにちは、小町です。なんか明るい気分になれなくなっちゃいました……。
とうとう、この世界も終わってしまいました。私、小町も消えてしまうようです。寂しいです。でも、私もどこかに生まれ変わることを信じることにします。
 最後の一日、二人はすさまじい生きざまを見せてくれました。こんな結末を迎えるとは思いませんでしたが、ふうせんかずらに徹底的に抗う気概がすごかったですね。
 このあと、最終回のようです。いったいどうなるんでしょうか。別世界での話になりますんで、私にも予想がつきません。小町があとがきを担当するのも今回で最後です。どうもありがとうございました。
 それでは、みなさん、ごきげんよう!



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(最終話)これで俺の青春ラブコメがやっと始まる。

最終話


 何か、大きな断絶があった。だが、何と何が断絶したのかわからない。そして、断絶のあと、元の自分と今の自分に、何かの変化があったような気がする。

 暗闇の中を光速を超えて飛び、自分がどこまでも広がっているかのような感覚。体が無限に重くなってしまったような感覚。近くのものが小さく見え、遠くのものが大きく見えるような、狂った感覚。

 無数の、今までに経験したことのない異常な感覚が同時に存在した。

 時間の経過も感じられない。今まで自分が述べたことは、線状的に順を追って文字で綴られているが、実際には、すべての文字が一つの位置に重ね合わされていた。すべての意味が同時に感知できた。無限の大きさを持つ一点にすべての意味が折りたたまれていた。無限の大きさをもつ一点? とりあえず、この矛盾が矛盾ではなくなる世界にいたような気がする。

 

 わけがわからなかった。何かがおかしい。自分はどこにも存在していないはずなのに、次第に具体的な感覚が強くなってきた。

 たとえば、足を回転させていること。その足が何かの負荷を感じていること。

 たとえば、両手で何かを握っていること。その手は綱渡りのようなバランスを保つために働いていること。

 

 たとえば、両手で何かを持ち、そこに書かれているたくさんの記号を目で追っていること。

 たとえば、ガラス越しに桜色に塗られた景色に目を取られ、それが横に流れていくのを追うこと。

 

 具体的な感覚がますます強くなる。

 

 両足が回転するごとに景色が変わっていった。両手で握っていた棒を動かすと、方向が変わった。

ハンドルでバランスをとって、人が前に出てくるとブレーキを握った。ハンドルの前にあるカゴには、新しい学校の指定カバンが置かれていた。

 

 両手で押さえていた紙をめくり、次のページの文字を新たに追い始めた。

 ガラス越しには綺麗な桜の花が流れていく。革張りのシートには、新しい学校の指定カバンが置かれていた。

 

 雑多な感覚が複雑に重なっていたのはここまでだった。気がつくと、俺は自転車をこいでいた。しかも、今日は高校の入学式の日だった。ワクワクして一時間早めに家を出てしまったのだ。

 

 だが、……同時に、……俺は。あのふうせんかずらのシミュレーション世界で、彼女と心中した記憶もよみがえってくる。

 

 なんだと? なんで俺がここにいる? 今日は総武高の入学式の日だと? 

 驚愕してあたりを見回す。見慣れた町並み。この道路は何回も歩いたり、自転車で通っている。見間違えるわけがない。

 

 俺は、転生したのか! 前の記憶をそのまま維持して!

 そんなバカな。ありえない。しかし、俺の視界には俺の住んでいる街。

 着ている制服は、まだピカピカに真新しく、ノリが効いている。ズボンの折り目もはっきりしている。

 

 このまま進むと学校に近づくことになる。そして、俺の記憶では、由比ヶ浜の犬を助ける。同時に交通事故。車には雪ノ下雪乃が乗っているはずだ。

 

 俺は焦りながら自転車をこいだ。時間を早めたかった。コトが起こる前にその場所につくために。すると……。

 右の歩道に女の子がいた。犬を連れている。……由比ヶ浜結衣だ。

 どちらの車線の車も来ない事をよく確認してから、道路を渡り、反対側の歩道に自転車を進めた。

 由比ヶ浜に近づく。しかし、どうしたらいい?

 犬はせせこましく走ったり止まったり、路傍の匂いを嗅ぎまわっている。

 そうだ。俺にはやることがある。ペダルに力を入れて由比ヶ浜に近づいた。そして、思い切って声をかけた。

「すいません。ちょっといいですか? 犬の首輪が外れそうになってますよ」

 

「え?」

 

 俺の顔を見た由比ヶ浜は、明らかに俺を知らなかった。少し怯えたような表情を見せる。不審者と思われてもしかたがない状況だ。

 自転車から降りて、サブレの首輪を点検した。すると、やはりロープと首輪をつなげる金属製の輪が、開きかけていた。

 

「ほら」とその輪を由比ヶ浜に見せ、力を入れて輪を閉じた。

 

「これで大丈夫です」

 

「ありがとうございます。総武高の制服着てますけど、そこの人ですか?」

 

 由比ヶ浜がニコニコした顔で問いかける。やはり、こいつは性格がいい。

 

「そうです。今年から通う新入生です」

 

「あ、そうなんですか? 私もです。これから家に帰って出ようと思っていたところです。もし学校で会ったら、よろしくお願いします」

 

「そうなんだ。じゃあ、よろしく」

 

 俺は自転車に乗り、由比ヶ浜に手を上げて走り始めた。

………振り返らなかった。なぜなら涙が出そうな気がしたからだ。

 お前は俺なんかにかまわず、自分の道を行け。あの世界では俺を気にしてくれてありがとう。お前には頭があがらないよ。それに、撃ってすまなかった。お前がピンチのときは必ず影から助けてやるからな!

 そう叫びながら、俺はペダルをこいだ。しばらくして振り返ると、由比ヶ浜は歩道からいなくなっていた。

 

 そこへ、黒塗りのリムジンが通りかかった。結構なスピードが出て俺を通り過ぎるかと思いきや、急ブレーキが鳴った。まさか!

 数十秒ほどリムジンが止まって走り出した。そこに残されたのは……。

 

「おい! お前なのか! 雪ノ下!」

 

「そうよ! 比企谷くん! あなたなの?」

 

 信じられなかった。奇跡が起こっていた。車も気にせずに俺は自転車を倒して走った。幸いなことに車にはひかれなかった。

 

「なんでだ。なんでこんなことが起こる」

 

「わからない。気がつくと車の中にいたのよ!」

 

「俺もだ、気がつくと自転車に乗っていた!」

 

 俺は彼女の手をとった。人目を忘れて思わず抱きしめた。

 感激のあまり2人とも泣いていた。はたから見たらどんなふうに見えただろうか。朝っぱらから泣きながら抱き合う高校生のカップルを。

 

 我に返った二人は学校の方へ歩き始めた。彼女がカバンの中からハンカチを出して俺に差し出した。まず、彼女の目をふいてやり、その後、俺の顔を拭った。

 

「どうなっているんだ。これはペナルティなのか」

 

「私たちの願いが届いたのかもしれない。ペナルティというよりも、ふうせんかずらの配慮のような気がする」

 

「お前に記憶が残っていてよかった。俺一人だったらどうしようと思っていた」

 

「他の人たちはどうなんでしょう」

 

「さっき犬連れの由比ヶ浜に会った。首輪を直して逃げられないようにしてやった。あいつは俺を認識しなかった。記憶がない」

 

「そう」

 

 俺は気になって、携帯を取り出した。高校入学当時は、まだガラケーだった。家に電話をかける。この4月から中二になる小町は、まだいるはずだ。

 

「はいは~い。お兄ちゃん? 何?」

 

「ちょっと気になることがあって。お前、ふうせんかずらって知ってるか? 知り合いに聞かれたんだが」

 

「え? ふうせんなんとかなんて知らないけど。ふうせんを子供にくれる着ぐるみかなにか?」

 

「わからないか。ありがとう。他に聞いてみるわ」

 

 電話を切ると、彼女が顔をしかめた。

 

「私たちだけ? 葉山君とかは?」

 

「学校で顔を合わせるとわかるはずだ。しかし、葉山とか記憶があったらまずいだろ。ちょっと残酷だったぞ」

 

「そうね。しかし、なぜ今なのかしら。入学式当日に」

 

「考えてみれば、俺たち、すげぇ有利じゃないか。また高校生を二年間やり直せる。お前なんて勉強しなくてもずっとトップだろ。遊べるじゃん」

 

「で、あなたにもすごくメリットあるわね。やり直せて。すでにボッチじゃないし」

 

「そうかな。そうだな」

 

「あなたね、私みたいな彼女が入学式当日からいて、自分が非・リア充とか思うわけ? それってどんだけ贅沢なのかしらね。すごく精神的に成長した状態でやり直せるのだから、いいことよ」

 

「確かに。学校一美人で成績トップの彼女? それに、もし葉山に記憶があったら学校一のイケメンの戦友? ……笑える。……マジ笑える。おかしい。これが俺だなんて。ありえねぇ」

 

「私、奉仕部を作らないわ。あの部を作ると、またふうせんかずらを呼び込みそうだから。未来を変えるの。でも由比ヶ浜さんとは絶対また友達になる。部活作ったら入ってくれるの?」

 

「何を作るんだ?」

 

「そうね。宇宙科学研究部。非線形数学研究部。基礎物理学研究部、あたりかしらね」

 

「パス! そんな部活作っても由比ヶ浜は入らんぞ。無理だろ。もっと柔らかい部活にしろよ。とにかく、人の悩みを解決する部活だけはやめとけ」

 

「また陰謀が働けるのがいいかもしれないわね」

 

「陰謀も、もういい。そうだ。ペット研究会ってのはどうだ? 犬猫や小動物の研究から、野良猫の救済活動。野良猫の去勢費用の募金活動とか。犬猫の里親募集と斡旋とか」

 

「それいい! 考える。たまには立派なこと言うのね。見直した!」

 

「そうですかい」

 

 俺は思わず微笑んだ。雪ノ下もこの高校に入るころは、性格に問題があったはずだ。それが、この明るさ。ニコニコ笑っている。話しかけるなオーラなんて微塵もない。これも大違いのはずだ。

 美人で頭脳明晰、そして性格も明朗闊達だったら、最強のキャラクターになる。もしかすると彼女の姉を超えるかもしれない。陽乃さんは、この4月で伝説を残して卒業したはずだ。その妹の、これから始まる学校生活が目に見えるようだ。

 

 歩いているうちに、学校の近くに来ていた。まだ時間は早い。左折して小道に入った。数分歩くと、見覚えのある家が見えてきた。

 記憶の中では降り積もった雪に閉ざされ、二階からその中に入った。まるで昨日のように覚えている。実際、体感的には一日くらいしか経っていない。

 

「あの家で……私たち」

 

「そう。死んだ」

 

「でも、こうして生きてる」

 

「あのシミュレーション世界からすると、現在は時間が巻き戻ったことになるけど、この現実世界の時間は、正常なのかな」

 

「シミュレーション世界の時間は中の人に感じられても、もともとないようなものだから、早く進んでいてもおかしくないはずよ」

 

「あの中で俺たちはすごかったな」

 

「何が?」

 

「色々と」

 

「またエロいこと考えている? でも、私たち、また初体験できるのよ。知ってた? 二回も初体験できるなんて珍しいわね」

 

「そうなるな。となるとまたお前、痛がるの? そうなの?」

 

「この体だとどうだかわからないわ。実際にやってみないことには。今日してみる?」

 

「ちょ…。それはいいけど」

 

 この明るさ。そしてノリがよくなったというか、軽くなったというべきか……。

 

「結構重大なことに気がついたのだけれど。聞きたい?」

 

「ああ」

 

「今いるこの世界がシミュレーション世界ではなく、私たちが実体であること。これを確かめる方法を考えなさい」

 

「マジか! もしそうだったらどうする。恐ろしいぞ!」

 

「だから、宇宙科学研究部にしようと……」

 

「いや、もういい。ここがまた偽りの世界だとしても、またお前と会えた。次の世界でもお前と会えるさ」

 

「そうかもしれないわね」

 

 俺は手を取って、彼女を家の陰に引っ張った。「どうするの?」みたいな目をしているので、「もちろんこうする」みたいな顔をしてキスをした。

 彼女のカバンがドサリと落ちた。俺もカバンを落として、彼女の体を抱きしめた。

 学校なんか行くよりもずっとこうしていたかった。何よりも、また会えた奇跡を二人で祝福したかった。

 

「もう、離さないから」と口を離した彼女が呟く。

 

「俺も」と答える。

 

 近くの家のドアの取っ手がガチャリと音を立てた。

 

 俺たちはカバンを拾って、一目散に駆け出した。

 走り出した先には、桜の花がヒラヒラと舞い落ちる総武高の校門があった。

 

 

 

 




 ずっと読んでくれた方、ありがとうございました。拙い文面に付き合ってくださり、あつく、御礼申し上げます。

 本日は、俺ガイルの9巻の発売日のようです。この節目に、このSSを終えられて、なんだか感動しています! 明日、9巻を買ってきたいと思っています。
 思い返してみれば、8巻を読了後に、なんか表現しにくい不全感を覚えて、雪ノ下の父親の逮捕騒動で二人を仲良くしてしまえ、と思い立ったのが今年の1月初頭でした。
 それから3ヶ月半。毎日のようにあれこれストーリーを考える毎日でした。その結果がこれかよ! だと思います。特にひどいのが、雪乃のキャラ崩壊でしょう。原作を跡形もなく蹂躙しているのが三章で、腹を立てた人もいることでしょう。その自覚はあります。力量不足ですみません。ですが、素人としてそれなりに頑張ったような気がしています。ちなみに、三章を書いた目的は、俺ガイルの物語そのものの解体構築でした。
 9巻を読んでみないとわかりませんが、たぶん、これでこのSSは完結です。書くとしたら他のものにしたいです。もう、いい加減、「ゆき」と入力して「雪ノ下」と変換するのが面倒になってきました。笑。
 それでは、みなさん、ありがとうございました。もし何かの折にみかけたら、ひけらかしに来てやってください。



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