いつの日か、その選択を誇れると知って。 (23番)
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その春を、彼と彼女は未だ知らない。


四月


 俺、比企谷八幡は件の合同プロムを滞りまくりながら消化し、無事三年に進学した。新たな教室に胸を躍らせ(動悸)、まだ見ぬクラスメイトに気を吐き(息切れ)、葉山隼人と海老名姫菜の姿を見て天を仰いだ(気つけ)。そんな俺の高校最後の春は救心と共に始まった。

 何が辛いか。事情を知る人物の生温かい視線が一番くるものがある。まるでさも成長を見守ってきたかの様な眼差し、まるで俺が周りをひっかき回して事を起こしたかのような微笑み、そのすべてに心当たりがあり、いたたまれない俺は黒く平たい甲虫の如く教室、廊下の端をかさかさと逃げ回るしかなかった。

 そんなこんなで幕を開けた最後の春、正真正銘、最後の一年。それももう、ひと月を消化しようとしている。

 未だ慣れない新担任の掛け声と終業のチャイムが重なり静かだった教室に音が満ちる。ボリュームのつまみをゆっくりと回すような、そんな緩やかな喧騒が耳に届く。俺はいつものように鞄を引っ掴むと席を立つ。廊下側の真ん中、不思議と四月最初の席替えでベストプレイスに収まった。どっ、と笑いが起こり、鞄を掛けた肩がびくりと震える。条件反射の様なものだった。自分の事ではないのか、そんな大きく膨らんだ自意識はまだ残像のような影として纏わりついていたらしい。ふっ、と自嘲気味に笑い、教室後方を一瞥してから廊下に出る。なんのこともない、新葉山グループ(仮)が稼働しているだけだった。首元を涼し気な風が吹く。顔を上げて右手を見れば廊下の窓が開け放たれていた。さらにその先には新たな担任が去っていく後姿。すでに教室を出ていたのだろう、ホームルーム後も教室に残り、生徒との時間を大切にしていた平塚先生とはかなりタイプが違う。いや、彼女が異質なだけなのだ。俺は踵を返し、逆方向へと歩き出す。

 ふと、懐かしい香りがして、耳に声が甦る。

『待ちたまえ、比企谷』

 後ろ髪を引かれるように歩みが鈍る。唇を噛んだ。ここで振り返ったら、あの細い拳が飛んでくる気がして。

 ひとつ息を吐いて、大きく一歩を踏み出す。

 背中についた何かを、思い出に繋がった何かを、少し突き放すように一歩、踏み出す。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 小気味よく流れる掛け声。空に弧を描く金属音。そのすべてが自分の周りで起こっている音だとは思えず、ページを繰る手が止まった。教室内に侵入してきた音を捜すように首を巡らせると、長机の先、肩を寄せ合う二人の少女が見える。笑い合うその瞬間を切り取ってコルクボードに張り付ける。それだけで画になる、そんな気がした。

 紆余曲折を得て絡まり合ったその糸は、ようやく一つの答えを紡ぎ出した。

「もーわかんないよお!」

 由比ヶ浜が苦し気な声を上げて上体を逸らした。椅子が軋み、俺の視線も逸れる。バレたら何言われるかわかんねえ。

 じとっ、とした視線を感じる。分かる、分かるぞ。今見たら罵詈雑言で心が死ぬ。

「比企谷君」

「いやまて、冤罪だ」

「何を言っているのか分からないのだけれど、あなた、さっきから本ばかり読んでいてまともに勉強していないじゃない」

 雪ノ下の鋭い指摘を、いやまあ、と曖昧に濁す。無意識に手元にあった文庫本を隠した。「今日の分は終わったんだよ」と肩を竦め、「自習の時間にやった」と言う。

「あら、そうなの」

 雪ノ下が珍しく驚いているので、失礼な、と眉をしかめるが、いつもは集中できないから寝ている、と以前雪ノ下に言ったのを思い出す。なんで今日に限って、と聞かれれば上手く答えられる自信はない。

 今の一瞬でスマホを取り出していた由比ヶ浜が声を上げる。「小町ちゃん今日来れないって」

「あら、それは残念ね」雪ノ下が目を伏せ、由比ヶ浜はがっかりを隠そうともせずため息をつく。

 我が妹ながら人心掌握術をマスターしていることには恐ろしさを越えて愛着しか感じない。やだ、俺ってもしかして気持ち悪い?

 小町という単語に今朝のワンシーンが思い出される。朝食時、小町の小悪魔めいた笑み(超絶可愛い)を。

「そういえば今日夕飯いらないって言ってたの忘れてたわ」

 俺が回想しながらそう溢すと、由比ヶ浜がこくりと頷いた。

「確かに、学年のはじめって特に付き合い多いもんね」

「そうね、どこかの誰かさんには無縁の話でしょうけど」

「いやまて、雪ノ下も大概だろ」

 俺はなにくそ、と一石を投じるが、さらりと軽くいなされる。「あら、私は誘われるもの、誘われもしないあなたと一緒にしないでくれる?」

「ぐ」いなすどころか、弾き返してきやがった。

「でも、今年はそうでもなかったかも」由比ヶ浜が唇を人差し指で弄びながら言う。「みんな受験で忙しいからかな」

「だろうな」「でしょうね」

 それきり心地よい沈黙が訪れ、しばらくの間秒針が鳴る。雪ノ下と由比ヶ浜は勉強に戻り、俺も文庫本に目を落とした。長机に肘をつき、腕で隠すようにして読む。

 妙な視線を感じ始めたのは三十分ほど経った頃だ。

 どこからか見られている感じがして教室内を仰ぐが、俺の他には二人しかいない。気のせいか、と再び文字に目を走らせるが、また視線を感じて顔を上げる。

 バチン、と音がしそうなほど、雪ノ下の視線とぶつかった。なぜ? とクエスチョンマーク溢れる俺を他所に彼女は目を泳がせ、あたふたと机上の参考書を手に取って誤魔化そうと動く。なんとなく居心地が悪くなり、俺も身を捩った。

 そこで突然、ピコン! と音がして、俺と雪ノ下の椅子がガタリと揺れる。

「あ、私だ」俺たちの動揺にも気付かず、「なんだろ」と由比ヶ浜がスマホを手に取る。画面を見ると目を見開き、「ねえねえゆきのん! 見て見て!」と興奮したように声を上げた。「パンさんの映画、今日から公開だって!」

 心臓が破裂したのか、そう思えるほどにびくりと肩が震えた。俺の、そして雪ノ下の。

「面白そうだね! 一緒に行こうよ!」

 由比ヶ浜が満点の笑顔をみせるが、雪ノ下の答えは歯切れの悪いものだった。「え、ええ、そうね」

 様子のおかしい雪ノ下の顔を由比ヶ浜が気遣うように覗き込む。

「あ、ごめん、嫌だった?」

「違うの! それは違うわ、由比ヶ浜さん」雪ノ下が必死な表情で否定する。「ただ、その」

 両手の指をもじもじと合わせる雪ノ下に対面し耳を傾けていた由比ヶ浜だが、持ち前の察しの良さをここで発揮してしまう。

「もしかして、ヒッキーと行く予定だった、とか?」

 ちらりと由比ヶ浜の視線がこちらに届く。俺が目を逸らさないでいると由比ヶ浜は目を伏せ、雪ノ下に向き直った。

「えっと、ごめんね、ゆきのん」

 雪ノ下は黙って首を振る。

 合同プロムの後も、誰一人欠けることなくこの奉仕部は続いている。小町が入ったことで寧ろ増えたといってもいいだろう。だからといって新入部員の募集をしているわけでもなく、平塚先生の紹介という仲介もなくなった為に依頼は現在まで一つもない。ただ、俺たちが時間を共有する場所。流れた時間を噛み締め、それを糧に歩み続ける、そんな場所。

 しかし、変わらず流れる時間の中で変わってしまったことがある。

 俺と雪ノ下の関係だ。

 明確な形を口にした覚えはない。明瞭な思いを表現した訳でもない。それでも、確かに俺は、俺たちは変えてしまった。

 由比ヶ浜は、そんな俺たちにも歩み寄ってくれた。

 三人が三人とも、失いたくないと願ったが故の、回答。歪な三角形。

 ただ俺は、もうそれがただの三角形ではないと知っている。どんなに曲がっていようと、どんなに距離が離れていようと、ちゃんと繋がっていると。

「ゆきのん!」

 陽が傾き始め、太陽の赤々とした熱が肌を焦がす。薄暮が影をさがして侵入してくる黄昏時。一際明るく、立ち上がった由比ヶ浜の高い声が教室内に響き渡った。

「二回! 観に行く気ある⁉」

 雪ノ下はぽかんと口を開けていた。

「え?」

「私もパンさん観たいから、今度二人で一緒に行こうよ!」

 大きな何か、この教室を包み込む蓋の様なもの、それが倒れ、闇が訪れる。じりじりとその瞬間を待っていたかのように顔を出す黒い感情。人の心臓を握りこみ、身体の中心へと引っ張ろうとする苦しい感情。時には人を壊す、そんな恐ろしい感情。

 由比ヶ浜の笑顔は、それを解かす。

「いい、の?」

 雪ノ下は首を縮こまらせ、上目遣いに由比ヶ浜を見た。小さな針でちょんと突けば、溢れてしまいそうな大きな瞳で見つめる。

「だって、あたしも観たいもん! ヒッキーばっかりずるい!」

 びし、と俺に向けて指を指す。

「指をさすな、ていうかずるいってなんだよ」

「ね、いいでしょ? ゆきのん」

 事態を飲み込めていなかった雪ノ下だったが、泣きそうだった顔が破顔する。くしゃりと笑い、大きく頷く。

「ええ、ええ、行きましょう」

 何度も何度も頷く。

「ありがとう、ありがとう由比ヶ浜さん」

 雪ノ下が少し溢れた涙を拭い、抱き着く由比ヶ浜に身を預ける。

 教室内に伸びていた影が勢いを緩め、陽だまりが拡がる。奇跡のような光景が、俺の贔屓目であることは間違えようがない。ただ、そう見えているのだから、仕方がない。

 祝福するように風が吹き込み、春が香る。

 陽はまだ長く、夕日とも呼べない位置を保つ。

 西向きの窓、逆光で視界がぼやける。

 逆光だから、仕方がない。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 数分前、由比ヶ浜が大手を振って教室を後にした。その笑顔は晴れやかでありながら、見え隠れする哀愁とのコントラストで、とても魅力的に感じた。

 そして今、なう。

 碇ゲンドウなう。

 え? 何言ってるかって?

 一つの長机。その対極を治める者同士、戦場は膠着状態へと陥った。初めに切るカードを決めかねているような休戦時に、俺の両手は口元を隠すように組まれた。なぜ、このような状態になったか、それは時間を遡ると分かるはずだ。

『あ、もしかして、ヒッキーと行く予定だった、とか?』

 先ほどの由比ヶ浜の台詞。察しのいい彼女にしては遅れた方だと糾弾すべきか、発せられた言葉。それに対する雪ノ下の答えは、無い。思い返してみれば、雪ノ下は一度も俺と行くとは明言していないのだ。

 当たり前だ、誘われていないのだから。

 自慢じゃないが、雪ノ下との関係が少し変わってから二人で出かけた回数は指二本で足りる。無論、合同プロム会場の下見を含めてだ。俺と雪ノ下が出かける時は今まで、利害の一致、目的の遂行、効率性の向上、などを理由としたものが主だった。出かける為に出かける、そんなトートロジーは俺たちとは縁遠い感覚だった。

 今回も例外なく、どちらからともなく映画に行こうと口に出したわけではない。合同プロム後、領収書の不足が露呈した際に価格の確認と称して二人で休日にミスターマックスや雑貨屋を巡った時も、どちらが主導した訳でもなく、「仕事だからな」「仕事だものね」などとハリボテの理論を盾に擦り合わせた。その時、チラリと話題に出たのがパンさんの映画だった。

 俺の泳ぎまくる視界の端に、もじもじと膝を動かす雪ノ下の姿が見える。顔は俯き、さらさらとした髪が垂れている。赤い髪飾りが膝の揺れに合わせてひらひらと誘うように踊る。まるで迷子の子猫じみた姿に、思わず手を差し出してしまいそうになる。

 まあ、それなら簡単だ。俺は雪ノ下に手を差し伸べ続けると決めたのだから。何度でも、彼女が立ち上がろうと決めた後でも、一人で立てるのに、と呆れた顔で言われようとも、分かってて差し伸べるのだ。だから、今回も、

「………っ」

ごめんむり! 言えない! 八幡言えない! 恥ずかしい! 助けて! この腰抜けを助けてコマえもん!

 腰抜けでしたね。腑抜けでしたね。通常営業でしたね。ごめんなさい。

 ただ、こんな俺でも由比ヶ浜がいるときに、三人で行けばいいなどと提案するのが悪手だとは学んだ。二週間ほど前、ありんこの如く地雷を踏んだ俺に、雪ノ下は口をきいてくれなくなった。正確には口はきいてくれるのだが、摂氏マイナスとみられる笑顔を向けて来るのだ。そして言葉が優しい(ここ重要)。因みに機嫌が直るのに丸一日を要した。

 あの雪ノ下でさえ、論理や効率よりも感情が先走る、そんな状態があることに驚いた。いや、それは嘘かもしれない。知っていた、知っていた上で、俺は存外その事実に高揚していたのだ。俺たちは端的にいえば面倒くさい。秘めていた感情が迸った時、論理的な言葉を弄し、効率という名文を掲げて我を通し、義務という隠れ蓑を利用してその情念を覆っていた。これしか知らなくて、これが今の最大限で、考えうる最善だと思い込むことしかできなかった。

 そして俺は、その面倒くささを、狂おしいほど愛しく感じた。

 だから何度でも、差し伸べることを諦めはしない。

「比企谷君」

 空気を少し吸い、声に変換しようとした刹那に名前を呼ばれる。俺の喉が奇妙な音を出した。「おお、どうした」

「あの、私」

 雪ノ下が一瞬言葉に詰まり、意を決したように顔を上げたその頬は桜色に染まっていた。

「パ、パンさんの映画が観たいのだけれど、その、一緒に行ってくれないかしら」

 唇を浅く噛み、頬を染める。逆光でも分かるその希うような表情に、意識が持っていかれた。微かに震える肩も、不安げにくっついた膝、スカートの裾を握りこんでいると思われる腕の硬直。恐らく阿保面の俺を不安げに見つめる、大きく綺麗な瞳。

「あ、ああ」

 辛うじて洩れた返事は言葉とも呼べないものだった。その情けない事実に俺の顔も熱を帯びる。嬉しさとも、恥ずかしさとも、怒りとも取れる不思議な顔で、雪ノ下は捲し立て始める。「か、勘違いしないで頂戴。あくまで由比ヶ浜さんと行く下見みたいなものなのだから、別にあなたでなければいけないという訳ではなく……」ところが急激にその勢いが落ち、雪ノ下がゆっくりと俯く。

「ど、ど、どうした」

 動揺のK点を越えた俺の頬はぷるぷると痙攣していた。

「ご、ごめんなさい。今のは失言だったわ、いえ、虚言と言った方が正しい…わね」

 半分頭がフリーズしていて、雪ノ下の言葉を再生するのに時間がかかった。

「あ、いや、大丈夫、分かってる」

 何を分かっているんだというんだ。

 多分、二人の顔はもう、見ていられないものだったと思う。

 だから俺が、「じゃ、じゃあ行くか」と席を立っても、二人とも俯いたままだった。

 教室の扉を閉める時、雪ノ下が不意に顔を上げ、視線がぶつかる。

 雪ノ下の照れた微笑みは、控えめに言って宇宙一可愛かった。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 付き合ってるというのは気恥ずかしいものである。まじでSNSとかで自慢しまくる奴らの気が知れない。身近な人間、例えば部活中の葉山などに見られてしまえば、仲睦まじいな、みたいな視線を向けられ、一歩外に出れば、あんな美人とこの腐れ男が? という視線に晒される。それらの意識で一番顕著なのが自宅で、ふと写真フォルダを開けば、この女優顔の少女と俺が? という気持ちに駆られる。すみません最後のはいりませんね惚気ですね悪いかよ。

 言っておくが、あの二人突き合っ、的な視線も感じる。年頃の男子高校生といえどあまりに不躾ではないかと思う。一応釘をさしておくが、そう言った行為には及んでいない。なんなら空気すらない。え、ないの…? と俺が思うくらいにはない。

 まあそれも、俺の横で楽しそうに雑貨を見る雪ノ下を見ればどうでもよくなる。

「それ、買うのか?」俺が訊くと、「待って頂戴、あっちのと迷ってるの」と真剣な表情で顎に手をやる。

「まだ映画まで時間あるし、好きなだけ悩めよ」

 雪ノ下は手元のマグカップから顔を上げ、俺の顔を見ると小さく「ありがとう」と呟いた。

 そんな風に言われるとこっちも恥ずかしくなるんですけど……。

 千葉の映画館併設のショッピングモールには『パンさんハウス』というテナントが入っており、パンさんファンには御用達の店として有名だった。雪ノ下もよく利用していたそう(多分)だが、プロムの件などで時間が取れず最近は来れていなかったらしい。総武校からここに来る道すがら、雪ノ下に『パンさんハウス』の話を振ると行きたそうにしていたので連れてきた次第だ。

 雪ノ下が、合同プロム以来ではないか、という程の真剣な眼差しを向ける先にはマグカップとミニタオルがある。一寸の曇りもない視線は少し引くが、それすら可愛、げふん、何でもないです。

「どっちが可愛いかしら」

「お、え、ん?」

パンさん一色の店内を見渡していると、不意に話を振られて若干キョドる。

「どっちがいいかしらって」

 雪ノ下はそう言い、俺の眼前に二つの品を並べて持ち上げる。

 別にどっちも可愛いと思うけどな、などという地雷を頭の中で回避する。指をさすために腕を持ち上げかけて、やめた。雪ノ下の背後に見えたパンさんのエプロンが、古い記憶を刺激した。

「どっちが可愛いかなんて分かんねえよ」

「あら、あなたの主観でいいのに」

「エプロンぐらい目に見えたり、身に付けるものなら分かるかもしんねえけど……」

 俺が雪ノ下の背中側を視線で示す。振り返った彼女はそれだけで俺の頭の中の概要を捉えたのか、向き直って困ったように笑った。

「そういうのは由比ヶ浜に訊いた方がいいだろ」

「……そうね、そうしましょう」

 雪ノ下は納得したように頷くが、その表情は完全に晴れたとは言えないものだった。だからという訳ではないが、俺は商品を戻しにいく背中に小さく語り掛ける。

「なんだ、その、どうしてもっていう時は、ちゃんと考える」

 聞こえなくてもいいか、くらいの声量だったが届いてしまったらしい。雪ノ下の足がピタッと止まる。チラリとこちらを見て、すぐに前を向いた。

「ええ、期待してるわ」

 素っ気ない返事だった。ただ、先ほどより声音が柔らかくなり、足取りも軽くなったように見えた。

 何より、鼻歌と共にチェックのスカートが跳ねている。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

「小一時間ほどもらえると助かるのだけれど、それは無理な相談よね」

 三番スクリーンを出て、トイレを済ますと雪ノ下はこめかみに手をやって唸り始めた。どうやら映画について語ることが多いらしく、それを整理するのに苦心しているらしい。

「別にいいんじゃね、まだ七時前だし、ていうか腹減った」

「そうね、ご飯にしましょうか」

「その間にまとめといてくれ、いくらでも聞くから」

 そう言って歩き出すと、雪ノ下は小走りで追いかけてきて横に並んだ。

「あ、ありがとう」

 意外そうな顔をしてこちらを窺ってくる。

「いや別に、礼を言われるようなことじゃない」

「そう…、そうかしら?」

「そうだよ」

「そう、ね。ありがと」

「結局言うのかよ……」

 すれ違う男どころか、同性の視線までも惹き付ける雪ノ下の隣はまだ慣れず、意味もなくキョロキョロしてしまう。当の彼女は気にする素振りすら見せず、時折ため息をつくなど、恐らく『尊い……』状態に入っていることだろう。Welcome to Underground……

 平日の為、混雑しているとは言えないがそれなりに歩き辛い。対面から来る人を避けようと横にズレるが、雪ノ下は俯いていてついてこなかった。ぶつかる、と思い咄嗟に腰に手を回す。雪ノ下の身体が硬直したのが分かったが、即座に状況を理解すると、ぽしょりと謝って来る。俺が首を振ると彼女は優しく微笑み、再び思案に入る。細く柔らかい感触が、掌に熱く残っていた。

 ひとつ階を上がって俺が立ち止まると、考え事に耽っていたのだろう、いつの間にか後ろに並んでいた雪ノ下が背中にぶつかってきた。

「きゃっ、ご、ごめんなさい」

「お、おお、いいけど、急に止まってすまん」

 何今の超可愛い録音すればよかったごめんなさい。

「って、ここでいいの?」

 雪ノ下が見慣れたオレンジと緑の外観を眺め、次いで俺の顔を覗き込んでくる。

「だ、駄目か?」

「あなたが望むならいいのだけれど、普段何を食べているの?」

「さ、サイゼとか、ラーメンとか、サイゼとか」

「三分の二も占めているじゃない……」

 雪ノ下は呆れたようにため息をついたが、躊躇う素振りも見せずに店内へ足を踏み入れた。

「あ、別のとこでもいいぞ」俺は無意識に手を伸ばす。

 肩口から振り返るようにして、雪ノ下は微笑んだ。

「いいわよ、好きなんでしょ? それに」

「それに?」俺の腕は中途半端な高度で彷徨っている。

「あなたの好きなものは、私も多分、好きだから」

 そう言い残し、ぷいと顔を背けると店内に引っ込んでしまう。

 ボイスレコーダー、買おうかな……。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 食品売り場を通り過ぎ、先に見える自動ドアの奥に目をやると暗く深い闇が拡がっていた。ドリアをエースとしたサイゼ選抜ともいえるメニューを消化し、ドリンクバーをちびちびとやりながら雪ノ下の熱弁を聞くこと一時間、満足げな笑みを浮かべる彼女を引き連れて店を出た。

 既に夜の帳は降り、街灯が点々と延びていた。時刻は八時を過ぎた頃だろう、雪ノ下の家までは三十分程、九時を回ることはないはずだ。

「あ、雨」

 雪ノ下が珍しいものを見つけたかのような声を出す。俺も目を細めてみると、暗い空に薄く線を引いたような雨が降っていた。適当な相槌を打ちつつ肩に掛けていた鞄に手を突っ込む。

「私としたことが、天気予報を見るのを忘れていたわ」

「傘持ってねえのか」

「ええ、でも大丈夫よ、駅までだから」

 自動ドアが静かに開き、春夜の心地よい風に混じって雨の匂いが鼻孔をついた。横では雪ノ下が小さなハンドタオルと取り出したところだった。俺は取り出した折り畳み傘をバサバサと広げる。

「少し歩く、入れよ」

「大丈夫」

「お前、家まで歩きだろ、送ってくから」

「大丈夫よ」

 雪ノ下が意地を張っているのは誰の眼にも明らかだった。そして恐らく、これは彼女の下手なプライドなどではなく、必然的に起こる状況への気恥ずかしさから来ているのだろう。何を隠そう俺も同じだからだ。しかし、それは理由にならない、俺は雪ノ下が風邪を引いたりするのは望まないし、さらにはお世辞にも彼女は身体が強いとは言えない。

 半ば振り切るように歩き出す雪ノ下、その腕を掴んだ。

「いいから、使えよ」

「いいって言ってるのに…」

 こちらを見る雪ノ下の表情は泣きそうとも、恥ずかしそうとも取れた。

「なんだ、その、困るんだよ」

 回転しない頭から咄嗟に出た言葉はそんな陳腐なものだった。

「困る?」

「……ああ、困る」俺は気を落ち着ける為に一度地面を見た。整備されたコンクリートが雨で光沢を見せている。「雪ノ下が雨に降られていると、俺が困る」

 もぞもぞと動き、雪ノ下は俺の腕から離れた。「なによ、それ」

「だから」俺は髪が濡れ始めた雪ノ下に傘をさす。「入れ、俺が困らないために」

 なんだそれ、と自分でも思う。でも、これしか出てこなかった。話しながら理由を探していた。そのどれもが如何に薄っぺらいことか、本心が剥き出しになっている状態で翳す盾のなんと脆いことか。

 ぷ、と空気の洩れる音がした。

「ぷ、ふふ」

「な、なんだよ」

「ふふふ、いえ、なんでもないわ」

 雪ノ下は笑ってしまった事を恥じるように顔を背けた。しかし我慢するつもりはないらしく、明後日の方向を見て肩を震わせていた。

「あの、雪ノ下さん?」

「ふふ、分かったわ。じゃあ、入れてもらえるかしら」

「お、おお、どうぞ」

「お邪魔します」

 すっ、と雪ノ下は流れるように俺の隣に収まる。近づくことで分かる彼女の白く繊細な肌、細く頼りない首筋、そして遠慮がちに向けられた硝子細工の様な大きな瞳。吸い込まれそうなその瞳から視線を何とか剥がすと、折り畳み傘の歪な柄を持つ俺の手に、彼女の細い指が掛けられていた。ぐい、と押される。

「そっちの肩が濡れているじゃない」

「いや、いいんだ、これは」

 雪ノ下が、仕方ないわね、という表情を浮かべた。「あなた、語彙力の低下が著しいわよ」と言うと、俺の身体に肩をピタッとつけてくる。

 俺が慌てて離れようとするとブレザーの襟を掴まれる。身動きが取れない。ふええ、怖いよお、カツアゲと同じ状況だよお。

「離れないで、その」

 体温が下がったその白い肌は、より朱を際立たせる。夕日だから、暑いから、ブレーキランプが、そのどの言い逃れも通用しない、朱が頬にのっていた。

「あなたが濡れると、私も困る……から」

 春、雨、夜。

 こんなに息がしづらい春はない。

 浅い呼吸が鼓動を急かし、血液が滞りなく流れる。

 きっと、きっと酷い顔をしている。

 知らないから、これから知るから、多分ずっと、ずっと先まで、

 春は、熱い。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 エントランス、高級感あふれるそのスペースで雪ノ下はせっせと俺のブレザーを拭いている。何度断ろうと雪ノ下は拭くことを止めない、そのうち俺も諦めて身を委ねた。

「あの、そろそろいいんじゃ……」

 雨に濡れる前より乾いたんじゃないかという程に拭かれ、流石に制止をかけた。雪ノ下はパチパチと目を瞬かせ、そうね、と言って離れた。

「じゃ、じゃあ帰るわ」

 恥ずかしさからその場を離れたく、早口に言う。

「ええ、あの、今日はありがとう」

 雪ノ下は優しく微笑み、少し頭を下げる。見惚れたのは所作の美しさのせいだ、きっとそうだ。

 じゃあな、と踵を返しかけて、「あ」という雪ノ下の声で足がつんのめる。「どうした」

 振り返って雪ノ下を見ると、もじもじと手を前で組んで何やら迷っているようだった。

「ひ、比企谷君、その、相談があるのだけれど……」

 相談? 神妙な雪ノ下の表情に俺は思わず眉をひそめてしまう。

「相談、ってなんだ?」

「無理なら全然いいのだけれど、あの……」

 ごくり、と喉が鳴る。その音が聞こえてやしないだろうか、そんなことを意識すると唾液がさらに喉に溜まり、もう一度唾をのんだ。バクバクと心臓が騒ぎ、胸を突き破らんと内側から叩き続けている。耳がうるさく、外の音は霞がかかる。緊張で視界が収縮し、狭く、雪ノ下だけを捉える。

 どんなことでも付き合う、それはもちろん本心だった。しかし順序というものがあり八幡そんなことしたことないしでもでも…、なんて少女漫画のヒロインの様な脳内会議が繰り広げられているとは露知らず、雪ノ下の小さな唇がゆっくりと動く。

「……チケットの半券を、貰えないかしら」

 ……版権? パンさんの、か? そうか、雪ノ下はパンさんの版権が欲しいのか。いくら俺でもそれは、いやでも、やるしかないか。八幡、逝きまーす!

「はんけん?」

 フリーズした脳みそで辛うじてオウム返しをする。

「ええ、入場する際にあなたが預かってくれていたでしょう? それを記念に取っておきたい、から」

 雪ノ下は、なんてはしたないことを、と言わんばかりの恥ずかしがり様だったが、脳内にピンク色の風船がぱんぱんに膨らんでいた俺の意識は弾けて霧散していた。

「ああ、いいぞ」

 だから、気が抜けていた。

 チケットの半券が挟んであるはずの財布を取り出した時、角が引っ掛かり、出す予定のない一つの物体が落下した。コンマ数秒の自由落下。パサ、と軽い音がして二人同時に落ちたそれに目を向ける。そこには落下の衝撃で運悪くカバーが外れてしまった文庫本、『パンさん100の名言』があった。

 スーパースロー映像を彷彿とさせる、ゆっくりとした動作で雪ノ下がそれを拾う。

「そういえばあなた、部室で文庫をコソコソと読んでいたわね」

 バレてた。

「どうしたの、これ」

「いや、まあ、偶々本屋で見つけて」

「面白かった?」

「そ、それなりに」

 そう、と雪ノ下は言い、文庫のカバーを丁寧に直して俺の鞄に入れてくれた。そのままクルリと背を向けエントランスの機械に近づくと鍵を差し込んでカチャリと回した。

「ゆ、雪ノ下?」

 呼ぶと、彼女はひらりと舞うように振り返る。

「自惚れでなければ、嬉しいわ」

 視線を俺の手元に向け、半券を持っていることを確認すると近づいてきて手を取った。

「あなたが嫌でなければ、また、私とどこか出掛けてくれる?」

 こてりと首を倒す仕草はまるで小さな女の子のようで、庇護欲の様なものがどくどくと分泌された気がした。俺は握りこまれた手を見つめた後、助走をつけるように息を吸う。

「嫌なわけがない」

「そう、よかった、ありがとう」

 雪ノ下は重力が消えたかのように軽やかな足取りで自動ドアに向かう。そのまま住人達の領域に足を踏み入れると、ローファーを鳴らしてこちらを向いた。

 しっかりと右手を上げ、ひかえめに揺らした。「じゃあ、また明日」

 俺は苦笑しつつも小さく息を吸い、聞こえるように声を張る。

「ああ、また明日、な」

 自動ドアが閉まるのも待たず、雪ノ下は歩き出す。廊下の角を曲がる寸前、こちらを見てもう一度手を振ってきて、俺も振り返す。

 姿が見えなくなったところで俺もエントランスを出た。掌を上に向けて雨を受けてみるが、反応はない。空を見上げると、雲に隠されていた月が顔を出している。綺麗な弓張月が澄んだ空で浮いて見えた。何となく雪ノ下のマンションを下から順に見上げていく、首が痛くなってきて、十五階を数えた時、白い何かが見えた。

 それは確か雪ノ下の部屋で、俺は頭痛がしてくる。

 何故かは分からないが、あの艶めかしい唇が別の生き物のように蠢く光景が浮かぶ。

 ―――つまらない。

 そんな、あの人の声が反芻する。

 ただ、俺は前ほど雪ノ下陽乃のことを嫌いではない。

 もしかしたら彼女はとても〝人らしい人〟なのかもしれない、そう思う時がある。捉えどころのない彼女に関して、一つ確かなことがあるとすれば、まだちゃんと、俺はあの人が嫌いだということぐらいだろうか。

 それで問題はない、何も。

 取り繕って、表皮を覆って、欺瞞で塗り潰す。それでいいのだ。〝本物〟さえ見紛うことが無ければ。

 水滴を振り払うように傘を畳む。

 明日に向けて歩き出す。

 そう、彼女に約束したから。

                                    (了)

 



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きっと、彼と彼女の熱が褪せることはない。

五月


 ―――黄金の一週間。世間がゴールデンウィークと呼ぶその五日間は、春が、その香りを失う前に残した最後の落とし物かもしれない。

「はっ」

 表紙につられて買った文庫本。その導入に記された表現に思わず鼻を鳴らした。パタンと閉じ、もう一度表紙を見る。雪が薄く積もった夜の公園でひとりの少女が立ち竦んでいる。その端正で儚げな横顔が誰かに似ていて、思わず手に取った。文体まで見ればよかったと少し後悔しながら、鞄に突っ込む。

 ゴールデンウィークに外に出るなど自殺行為。有象無象の人の群れに突撃していくなど、かの特攻部隊を抱えていた国の民であるならば、絶対にやめるべきだと思います。ひきがやはちまん、まる。

 ただ、大型連休に噛みついている俺も今現在、自傷行為にひた走っている。携帯を見ると、五月四日、ゴールデンウィーク真っただ中の日付を表示していた。顔を上げれば、目の前を多くの若者が通り過ぎていく。ほとんどが私服だが、なかには制服を着ている人もいる。ちらと彼らの行き先に目を向ければ、壁の看板に大学名と矢印があった。

柱に預けていた体重を浮かせる。券売機に近づき顔を上げれば、上部に設置された路線図を大きく捉える。ひとつの駅にピントを合わせた。

 今朝、高校生と思わしき男女がひしめく電車内で人の多さに身を捩っていると、人垣の向こうに見覚えのあるホームがあった。イヤホンで耳を塞ぎ、人の会話から車掌のアナウンスまでシャットアウトしていた為分からなかったが、やはり雪ノ下のマンションの最寄り駅だった。てことは、

「一緒に通うこともできるのか……」

 小さく口にしてから、その気恥ずかしさにひとり頭を掻く。

 振り返ると雪ノ下がいた。「今日は早いのね」

「…………」

 頭に手をやったままフリーズしていると、雪ノ下がぱちぱちと瞬きをする。

「どうかした?」

「い、いや、今、なんか聞いた?」

 俺の態度を不審に思ったのだろう、雪ノ下は眉を寄せる。

「何かって、なに?」

「いや、聞いてないならいい、すまん」

 あっぶなあああ。あぶ、あぶねえええ。あんな台詞聞かれでもしたら、顔を覆ってのたうち回っておうち帰って叫んでたぞ。

「あ、ゆきのん!」

 未だ首を傾げる雪ノ下、その頬がすっと緩むのを俺は見逃さなかった。かくいう俺も例外ではないのだが。視線を声のした方向に揃って向けると、由比ヶ浜が手を振りながら小走りで近づいてくる。その身体に犬のしっぽと耳が見え、俺は思わず目を擦る。

「やっはろーゆきのん! ヒッキーもやっはろー!」

「やっ…、こんにちは、由比ヶ浜さん」

 一瞬、雪ノ下は手を上げかけたが、すぐに引っ込めた。それを横目に見つつ、「おお」とぶっきらぼうに返事をする。

 雪ノ下の前に立ち止まった由比ヶ浜は、一瞬悩んでから抱き着いた。「ちょっと、由比ヶ浜さん」と雪ノ下はせめてもの抵抗を図るが、強くは押しのけない。念のため由比ヶ浜の背中を見るが、尻尾はなかった、耳も。身体は正直だね、なんて由比ヶ浜が言い出さないかとハラハラワクワクしていると、背筋に悪寒が走った。何かを感じ取ったのは雪ノ下も同じだったのか、由比ヶ浜が走って来た方向、つまり改札がある方へ目を向ける。

 あ、と思い出したように由比ヶ浜の肩が縮こまる。「ごめんね、ゆきのん。行きたいって言われて…」雪ノ下はそれに首をふり、「いいのよ」と声を掛けた。それから、再び視線を奥に向ける。

「あんた、まだ二年なのにもう受験のこと考えてんの?」

「えー、まあそんな感じですねー。念のため、的な?」

「ふーん、あ」三浦優美子が、雪ノ下を捉える。「突然で悪いんだけど、雪ノ下さん、今日はヨロシクね」なぜか勝気な顔をする。

「ええ、よろしく」雪ノ下は落ち着いた声音で冷笑を返す。

 こっわ……、とじりじり後退りしていると、ちょいちょいと袖を引っ張られた。いつの間にか一色が隣に立っていた。

「ちょっとせんぱい、三浦先輩来るなんて聞いてないんですけど」

「いや、俺はお前が来ることすら聞いてないんだけど」

 俺が身を引きながらいうと、一色は大きな瞳を瞬かせ、いっけね、と言わんばかりに舌を出した。はいはい可愛い可愛い。

「優美子も大学について知りたいんだよね! ね!」

 由比ヶ浜が手をバタバタとさせる。その様はまるで、揺れ動く天秤をどうにか平衡に保とうと暴れているようだ。

「雪ノ下」と声を掛ける。「そろそろ行かないと目当ての特別講義、席が埋まるぞ」

 三浦に張り付けていた視線を悔しそうに剥がし、雪ノ下は動き出した。いや、目を逸らした方が負けとかどこの喧嘩番長?

 背筋を伸ばし、実際の身長以上の存在感を感じさせる雪ノ下を先頭に俺と一色が続く。しんがりは由比ヶ浜と三浦が固めた。

「なんだこの編成……」

 職業:女王を二人抱えるパーティなんて普通クリア後じゃない? 傍目に見れば強そうだが、その中に加えられた者はたまったもんじゃない。そういえばロールプレイングって大体四人編成だし、ひとり帰ってもいいんじゃないかな?

 そんな考え事をしているうちに、陽光の切れ端が無機質な駅構内を彩り始める。ちらちらと目に入る虹色は、今を彩るものなのか、それとも少し先を彩るものなのか、まだ分からない。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 このオープンキャンパスの目玉のひとつ、テレビにもよく出ている有名教授の特別講義を拝聴する為、その大学で一番広いらしい講義室に入った。しかしすでに席は虫食い状態になっていて、五人が並んで座れるほどの余裕はなかった。二列挟んで二席、三席と空いていた為、二席の方に由比ヶ浜が「優美子と座るよ」と申し出た。俺は三席空いている奥に詰めて座る。

「ふう、なんとか座れたな」

「ええ…、少し見通しが甘かったわね」

 俺の左に座った雪ノ下は、不覚だわ、と白装束で腹を切りかねない程に苦い表情をする。あの、世の中の殆どの事と対決していたら身が持ちませんよ?

「なにかしら」雪ノ下が冷たい視線で射貫いてくる。「にやにやして、控えめに言って気持ち悪いわよ」

「控えめにいってかよ……」

 俺は右手で頬を揉む。本当に、歪んでいる。俺の人生が苦労することなど自明であるが、雪ノ下も大概だ。価値観は主観である。真っ直ぐすぎる彼女の正義は周囲からすれば認めがたいものであろう。それも、彼女が往々にして正しいが故、劣等感に苛まれる。世の中が間違っているから彼女が間違っているなど、考えるだけで頭が痛い。

「あのー、いちゃいちゃするのやめてもらっていいですかー?」

 雪ノ下の奥、つまり左隣から一色が顔を出す。驚いた雪ノ下は頬を染め、「そ、そういうわけでは……」ともじもじ手を動かした。

「え、かわい……」俺は、はっと口を抑える。心の声が出てしまったかと一瞬焦るが、耳に届いたその音は一色の言葉だった。「ちょ、雪ノ下先輩可愛すぎません? それわざとじゃないんですか? 素なんですか? 私って一体……」

 一色が何か重たいもので後頭部を殴られたように身体を揺らしている。

 雪ノ下の横顔を見て、『でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる』という言葉が思考を横切る。

 肌が粟立つ、それから、眩しくて目を逸らした。

 わっと歓声が上がり、教壇近くの扉から見覚えのある薄毛の男性が登場した。下品な指笛が講義室に響き、それに呼応するように立ち上がる高校生も現れる。一色が口を半開きにして手を叩く様子が横目に見える。

 数回叩いた手を、すっと下げる。熱を持った何かに当たる。びくりと彼女の肩が強張るのを感じる。未だそこにある彼女の小指に手を絡めた。

 雪ノ下の端正な顔がこちらに向けられるのが分かった。

 でも、それに応えることはできない。ただ、その小さな彼女を抱き締める。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 心地よい風が手をすり抜けて頬を撫でた。火照った顔に、冬の残り香を感じさせる風が染み渡る。ベンチに座って抱えていた頭を上げ、思い思いに前を横切る高校生を景色の一部として捉える。左手に残る微かな熱を思い出し、再び目を伏せた。

 特別講義が終わり、次のブースに向かうことを固辞して今に至る。雪ノ下の顔が見れなかった。なんであんなことをしたのか、今問われても、それは情けない言葉にしかならないだろう。

 ベンチがきいと鳴り、隣に誰か座りましたよ、と伝えてくる。由比ヶ浜たちはブースを回っているはずで、恐らく別の団体だろうとそのまま地面と会話し続ける。

 数分後、「あんさー」という聞き覚えのある言い方に顔を上げる。三浦と目が合う。「これ、飲む?」ペットボトルを差し出してきていた。

「え、ああ、さんきゅ」予想だにしていない出来事に、思わず従ってしまった。受け取ってしまったものは仕方なく、キャップを開けて口を付ける。

「あんた、体調大丈夫?」

「あ、ああ、なんでもない、大丈夫だ」そういやこいつ、いつぞや一色がふらついてた時も声かけてたな、流石姉御肌。「すまん、いくらだった」

「別にいいって」三浦はぶっきらぼうに答える。

「いや、そういう訳にもいかんだろ」

 深い仲でもない、意地でも払おうと財布を取り出すと、三浦が口を挟んだ。

「お金はいいからさ」三浦が息を詰まらせる。「ひとつ聞いていい?」

 聞き終わる前から無言で百円玉を二枚摘み出し、三浦の横にぺちりと置く。それを見た三浦が口を震わせ、顔を引き攣らせた。「は⁉ あんた――」

「そんな対価払わんでも、聞きたいことがあるなら聞けばいい」

 三浦が言い切る前に、ぴしゃりとシャットアウトする。財布をしまい、煽るようにペットボトルを傾けた。

「なんか、ムカつく」

「悪いな、部長の方針なんだ」

 部長の考えは一応、正当な対価は貰う、というものだ。しかし、いち学生の俺に質問することに代償が発生するほど、こちとら人間できちゃいない。ていうかまともな答え出せる気しないし…。

「で、なんだ」

 俺が沈黙を嫌い、先を促すと、三浦はゆっくりと口を開く。

「あんさ、あんたらって、どうやって大学選んでんの」

 まるで、私のこの質問は墓場まで持って行け、と言わんばかりの目力に気圧される。急かされている気分で、俺は慌てて言葉を紡いだ。

「ま、まあ、普通は自分の目標に合うかどうかだろうな。これになりたいだとか、これを叶えたいだとか。例えば公務員になりたいなら、その大学の公務員試験合格率を見ればいい」公務員試験合格率と就職率の関係が喉を出かかったが、恐らく必要ないだろうと押し込む。「他にも、受けたい教授の講義、ゼミを目的にする奴もいるんじゃないか」さっき聞いた特別講義も、この大学に入れば抽選で受講できるそうだし、と付け加えて三浦を窺う。

「そっか…」と呟く彼女は神妙、というにはいささか哀しみの色が濃い表情をしていた。俺は違和感から目を逸らし、コンクリートの地面に視線を落とした。濃淡を生かしてモザイク模様が描き出されている。そのどれもが白でも黒でもなく、曖昧なグレーで心がざわつく。

「――なんて、考えてるやつ、いんのかね」

「は?」

 気付いた時には、その声は三浦の鼓膜に届いていた。自分に呆れてため息をつき、言葉を重ねる。

「俺、大学の中身そんなに重要視してないし」つい先ほどまで講釈垂れていた俺があけすけとものを言うので、三浦の表情が固まる。「だって、どんなところか分からねえだろ。こんなオープンを謳って開催しても、実際どうなのかなんて全く分からん」不機嫌になる寸前、そんな雰囲気の三浦の眼の奥を叩くイメージで続ける。「だから、探しに行くんだろ。やりたいことが見つからないから、皆探しに行くんだ。理由なんてなんでもいい、誰かと一緒に通いたいでもいいんだ。とにかく受かって、その時出来ることに必死になれば、きっと見つかる」

 しゃべりすぎたな、と襟足を掻きながら三浦を窺うが、表情を見る限りどうやら満足してくれたらしい。

「なんか、生意気、ムカつく」彼女は少々乱暴にそういい、立ち上がると携帯を耳に当てた。「あ、結衣?」

 その背中に向けて、「悪かったな」と弱々しくぶつける。

 三浦はくるりと振り返り、薄い唇を動かした。

 音はしないが、その波は確かに伝わった。

 俺も重い腰を上げて歩き出す。

 進まなければ、何も見つからないと知っているから。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 僅かな喧騒の中、耳を澄ますと、かち、かち、と規則的な泣き声が聴こえている。文字通り一秒と休まず時を刻み続けるその秒針を目で追っていると、一周したところで声を掛けられた。

「せんぱい、雪ノ下先輩とデートとかしてるんですか?」

 なんの脈絡もなく、不躾に投げかけられた問いに、先輩らしく咳払いをして答える。

「な、げほっ、こほっ、ちょ、むせ、はっ、ああ、え?」

「いやせんぱい、テンパりすぎです大丈夫ですか」

 一色が残念そうな視線、それも使い古された雑巾に向けるような哀愁を称えながらティッシュを渡してくる。「けほ、すまん」

 

 三浦との会話の後三人と合流し、大学内にあるカフェで軽く昼食を済ませる。十四時前には目的のブースは回り終え、解散する運びとなった。駅のホームで別れる直前、再び勝気な笑みを浮かべる三浦の表情は、どこか晴れやかに見えた。

 そして当初の予定通り、雪ノ下と由比ヶ浜は雪ノ下邸で開催される誕生パーティーの準備に向かった。俺の仕事は準備が終わるまで一色の相手をすることだった。とはいえ、俺に時間が作れるわけもなく、結局は一色の買い物に執事のように付いていくだけとなった。

 

 どうにか呼吸を落ち着け、ちらりと目を転じれば場所は木の香りがしそうな小さなカフェ、俺の隣には一色の購入した服が入った紙袋とビニール袋があった。ファッションショーを見せられている気分で、「似合う似合う」と連呼する簡単なお仕事の成果だ。あれ、俺に還元されてなくない? 今どきポイントでも還元は必須だぞ?

「はあ…で、なんか言った?」

 俺は平静を装い、人生の先輩として聞こえぬふりという汚い手札を切る。休日前の仕事メールはみざる、帰社直前の着信音はきかず、断定的な意見はいわず、これぞ古くから伝承される三社畜の特技だ。

「いや、雪ノ下先輩とデートはしてるんですか、って聞いたんです」

 一色はあっけらかんとした様子で同じセリフを繰り返す。ううん、この子に社畜の才能はないのかな?

「ええ…、そんなこと聞いてどうすんの、なに、脅しにでも使うの」

「だから、せんぱいは私の事なんだと思ってるんですか…」

「元請」

「もー、よく分かってるじゃないですかー」

 うへえ、と舌を出していると、すっと手が伸びてきて頬をつねられる。「いてえ」

「答えてください」

 いろはすこわあ…、と負傷した頬に手を当てる。「まあ、偶に…だよ」

「ちっ、惚気かよ」彼女は大げさに舌を打った。

「ちょっと一色さん? 失礼じゃない?」

 てへぺろ、と可愛らしくウインクを決め、下から覗き込んでくる。見透かされそうな上目遣いに居心地が悪くなった。

「週に一回ってとこですか?」

 何かを試すような視線。まるで、私にはそれを聞く権利があると、基本的人権の尊重を主張するかのように強く身を乗り出してくる。せんぱいに人権があるように、私には聞く権利があるんです、とか言い出しかねない。

 居心地悪くコーヒーを口に含み、俺は明後日の方向を見る。「合計で三回だな」

「はあ、なるほど、まあせんぱいにしてはよくやってるじゃないですか」

 一色は感嘆のため息と共に、ソファの背もたれに身体を沈みこませた。ちらりと捲り上がったスカートの奥に視線が吸い寄せられ、慌てて剥がす。それが原因かは分からないが、一色は膝小僧を殊勝に隠した。

 ちうちうと、唇を尖らせてカフェオレを飲む姿はどこか不機嫌だ。

 十六時過ぎ、夕食前という事もあり店内のひとはまばらだ。じとっとした目つきをする一色からどう逃れようか、と思案すること数分、「一応、内容訊いていいですか」と彼女が口を開く。

「は?」銀行口座の暗証番号でも聞かれたのかと錯覚する。

 一色の湿度は高いままだ。「どういうデートだったのか」

「どういうも何も…」

 普通だろ、と言う前に塞がれる。「一回目は?」いくら画面をスクロールしても、『答えない』という選択肢がないことを悟り、項垂れる。ついでにいうと、『逃げる』もないし、『たたかう』に至っては最初からない。

「まあ、買い物だな」「二回目は?」「まあ、買い物だな」「三回目は?」

 少し胸を張る。

「映画観に行った」

「ああ、パンさんの」

 一色は一瞬思案し、それから人差し指をピンと立てた。

「ショッピングっていうからには、何を買ったか聞いていいですよね。夏物の服ですか? あ、でも浴衣もいいですね」

 俺は目を逸らす。

「ハリパネ」

 一色の顔があからさまに曇る。

 

「―――ほんっとありえないです! 付き合ってひと月少々なんて、多少あつあつなくらいが丁度いいんですから! なに自信満々に、三回、とか言っちゃってるんですか、それ実質一回ですから!」

「いや、誰も自信満々には」

「そこうるさいです。とにかく付き合ってもデートないとか、せんぱいは釣った魚に餌やらないタイプの男ですか! 期待させるだけさせておいて、手元に置いたら放置の女たらしですか!」

 一色が嘆くように頭を抱えるが、その顔がどこか楽しそうで反応に困る。

「いやまあ、そこは温かい目で…」

 俺は誰になんの願いをしてんだ。

 ひとしきり暴れた一色はソファに深く腰掛けるとカフェオレで一息つく。「まあ、せんぱいですしね」

「そうそう、だからあんま期待すんな」

 俺も開き直り、もはやふんぞり返りそうな態度で残ったコーヒーを煽る。

「まあ、期待通りというか、なんというか」一色は呆れた顔で、「とにかく女の敵です」と笑った。

 携帯に着信が入り、出ると雪ノ下のくぐもった声が聞こえた。少し新鮮なその音に身を委ねていると、『ねえ、ちゃんと聞いているのかしら』と叱られる。

「ああ、ちゃんと聞いてる」

『そう、ならいいわ、じゃあよろしくね』

 電話を切ると伝票を持って立ち上がる。

「行くか」

「はい!」

 店を出ると、何故か日の長さに驚く。それが一日の濃さからなのか、それともただ季節によるものなのか、そんなことを考えて頭を振る。重要なのは二度と戻らない今だ。街を焼く西日、複雑な模様を描き出す木立、逆光に目を細める一色、三歩先を照らす街灯。

 きっと、すぐ終わってしまうから、好きな時間は短いから、だから、

 こんなに眩しいのだろう。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 数字が順に増えていく、その切り替わるスピードと、箱にかかる重力が比例していないように思えた。十五階に登場したところで喉を鳴らす。扉が開き、家のリビングがすっぽり入りそうな廊下が姿を現す。毎度のことながらそのスケールに頭がクラクラする。左に折れれば、一五〇七のナンバープレートが見えてくる。

 初めて訪れた一色は緊張した面持ちで、ここですか、と目配せをしてくる。別にしゃべってもいいんだよ? なんならそこら辺の建物より防音されているまである。

「早く開けろ」じゃないと中の奴等がいつまでも可哀想だ。

「は、はい」

 一色はそっとノブに手を掛ける。その重厚な扉を罠でも警戒するようにゆっくり開けるものだから、俺は思わず右手を伸ばし彼女のノブを握る手に重ねる。一色の肩が震える。構わず開ける。その刹那、

 パンッ! パパンッ! 

「いろはちゃん! お誕生日おめでとう!」

 普段は暗く、どちらかというとラグジュアリーな雰囲気の玄関。それが飾り付けられ、華やかなパーティー会場へ向かうエントランスに様変わりしていた。休符を挟んだのち、雪ノ下、由比ヶ浜、そして比企谷小町のクラッカーによって注がれた紙吹雪をその身に受け、一色は飛び切りの笑顔をみせる。

「ありがとうございます!」

 

 飾り付けられたリビングで豪華絢爛なメニューを思うさま貪り、最後に奉仕部の女性陣によって作られたホールケーキを平らげた。当初は緊張気味だった一色も、食事が終わるころには随分肩の力が抜け、今は足を崩している。由比ヶ浜は幸せそうな顔をしてお腹を押さえていた。雪ノ下と小町がお茶を淹れてくれたので、俺は猫舌と格闘を始める。

「でもほんと、皆さん受験で忙しいのにすみません……」一色が我に返ったように身を縮め、由比ヶ浜が首を振った。「ううん! 遅れちゃってごめんね!」

 雪ノ下も湯飲みにそっと口をつけ、ほっと息を吐いた。

「ええ、その点は心配ないわ、由比ヶ浜さんには別で課題を用意してあるから」

「そうだったの⁉」由比ヶ浜が項垂れる。

「当たり前じゃない」

 一色が嬉しような、恥ずかしいような顔で二人の会話を見ている。

「あら、何を笑っているのかしら比企谷くん、あなたの分もあるのよ?」

「まじかよ」アホの子と同じように頭を下げると、隣に座る小町が「うんうん、いいお義姉ちゃん……」なんて一人で納得している。

「プレゼントは当日に貰っちゃってましたし、私なんかの為に、ありがとうございます」

 俺以外の三人が優しく首を振り、話題を変える。そしてその内容がカフェで一色に話したものであったために、食器をまとめてキッチンに引っ込んだ。戦略的撤退と言ってくれ。

 シャカシャカと皿を洗っていると、隣に人が並ぶ。

「手伝うわ」

「…サンキュ」

 迷って、ありがたく受け取ることにした。

 リビングの方では一色と小町のハイテンションな声が聞こえている。その幸せな音に耳を傾けながら、雪ノ下の長い睫毛に気付く。ぱちり、と音がしそうなほど瑞々しい瞬きに我に返る。

「そういえば、結局仲良くなったな」

「一色さんと小町さんのこと?」

「ああ」

 俺が泡を落とし、雪ノ下が皿を拭いていく、一枚一枚渡すタイミングが合うだけで、小さく心臓が弾むような気がした。

「私は最初から分かっていたけれど」

「そうなのか?」

「ええ、だって」雪ノ下はその時だけ手を止めた。「どちらも、私が大切だと思った人だもの」照れ隠しか、絹の様な髪を耳に掛けた。形のいい耳が露出する。

「ふっ、そうだな、そうだ」

「その含みのある言い方が気になるのだけれど、まあいいわ」

 棘の丸い言葉を翳し合い、自然と口角が上がっていた。その事実に気が付くのは、家に帰ってからになる。

 永遠に、この時間が続けば、あわよくばそのまま専業主夫になれないか、そんな果てしなくどうでもよく、呆れるほどくだらないことを沢山考えた。

 

 

          ×   ×   ×

 

 

 エントランスを抜けて一方通行の自動ドアが開く。「あ」とわざとらしく声を出した。「悪い、携帯忘れた」振り返る由比ヶ浜、小町、一色の顔も見ずに踵を返した。ひとりで乗り込んだ箱のスピードはさっきより遅く感じた。世界の理に反しているからか、これからそれを犯そうとしているからか。

 一五〇七のプレートを一瞥する。逡巡の後、インターホンを使わず小さくノックをした。自嘲気味な笑みが零れる。これで反応が無ければ、俺は今日をやり過ごすのだろう。

 無情にも、その扉は開く。

「来ると思っていたわ」雪ノ下の表情は優しい。「これでしょう?」その繊細な手には俺の携帯が載せられていた。

「…ああ、すまん」

 雪ノ下は眉を下げる。「そんな、謝ることではないわ」

「そう…、だな」

 ゆっくりと視線が下がる。薄手のカーディガンに包まれた細い肩。すこしの力でぽきりと折れてしまいそうな華奢な腕。それから、そっと携帯を受け取った。

「どうかしたの?」何かを察した雪ノ下が、首を傾げる。

 なんでもない、そう答えそうになる自分をグッと抑えた。

 世界を相手にするなんて馬鹿げた表現だ。誰も見たことのない深い森に足を踏み入れるわけではない。そこは既に荒らされて、よく見れば無数の足跡が地面を埋め尽くしている。

 周回遅れどころじゃない。

 でも、後ろを振り返れば、掘り返して埋めた種が芽吹いている。きっと、世界は変わらない。それはたとえ誰の命を賭したとしてもだ。万物は流転し、間違いも流転する。俺が切った世界を、彼女は愛し続けている。その事実に、

 俺は高揚しているのだ。

「一緒の大学に行こう」

 呼吸の延長線上、そんな雰囲気で発せられた言葉に、雪ノ下は驚いて身体を固めた。ただ、大きな瞳の奥でゆらっと動く何かが見えた気がした。

「必ず受かる、だから――」

 言葉を遮るように、ぽす、と胸に何かが当たる。それは雪ノ下の額で、小さく握られた拳だった。

「ええ、一緒に頑張りましょう」

 くす、と笑う声が聞こえてくる。それは伝播し、俺の肩をも震わせる。二人でひとしきり笑った後、雪ノ下の背中に手を回すと、びくと身体が跳ねる。小さなその存在を、優しく抱き締める。

 

 臆病は伝染する。

 そして、

 勇気も伝染する。

 

 誰の言葉だったか、まあ、今はいいか。

 

                                  (了)

 



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この空は、彼と彼女の世界を彩っている。

六月  14.5巻ネタバレ注意


 走らせていたシャープペンシルが止まるのと、鼓膜を叩いていた音の波がやむのが重なった。顔を上げて息をつくと、さほど広くはない自習室を見渡す。公開初期の鬼滅かというほどの盛況をみせていた室内も九時を回ると空席が目立ち始める。嘘ですごめんなさい観てないですごめんなさい。いや、あるじゃん? 観に行ったら負けみたいな、ね? ない? おっけ☆

 ちらと視線を横にやれば、大きな一枚ガラスに「予」という漢字の裏側が見える。しとしとと降りしきる雨は窓にぶつかり複雑な模様を描く。通りを挟んだファストフード店のネオンが水滴に吸い込まれ、カラフルな飴玉のように視線を釘付けにする。口の中に唾液が溜まり始めたころ、扉が乱暴に開けられた。

「自習室の使用は九時半までだからなー」

 講師が顔をひょっこりと出して言うと、すぐさまいなくなった。そして今度は入れ替わるようにぞろぞろと生徒が入ってくる。ちょうど講義が終わったのだろう、復習がてら自習室を利用する生徒は多い。

 その中に、ひときわ目を引く美少女がいた———いや、主観じゃないから、一般論だから、世論だから、印象操作とかしてないから。マジでしてないから困るんだよなぁ……。

「待たせてごめんなさい。お腹、減ったでしょう?」

 雪ノ下雪乃は、小さく頭を下げて艶やかな黒髪を揺らした。

「いや、俺も復習したかったし……」と、言ったところで俺の視線は雪ノ下の額に吸い寄せられた。

 雪ノ下はそれに気が付き、あ、と照れたように笑う。「ちょっと前髪が伸びてきたから……」留めていたヘアピンを外すと、露になっていた小さな額が隠れる。

「なんか、雪ノ下っぽくない色だな、知らんけど」言いながら、座る様子のない彼女に倣い、机の上を片付ける。

 手に持った桃色のヘアピンを大事そうに包み、彼女は頬を緩める。

「由比ヶ浜さんが貸してくれたの」ほお、どおりで、「似合わなかった…かしら?」

 立ち上がった俺の顔を覗き込むように、上目遣いでこちらを見てくる。

「……いや」それは反則じゃないですかねぇ……「似合っては…いるんじゃないでしょうか…」長い睫毛に吸い寄せられそうな意識を叩き起こして鞄を肩にかける。

「あ、ありがとう」

 そう小さく呟いて、彼女は目にかかりそうな前髪をぽふぽふと撫でた。

「い、いくか」

「え、ええ、いきましょうか」

 ぎこちない動きで予備校の外に出る。強くはないものの、闇夜に紛れてしっかりと掌を叩く水滴に鬱陶しさを感じる。後ろを振り返れば、ローファーのつま先でタイルをトントンと叩く彼女がいる。

 俺は先ほどから思っていたことを口に出す。

「なあ雪ノ下、夕飯、そこの店でもいいか?」

 踵を地面につけた雪ノ下は、細い首をこてんと傾げた。

 

 ハンバーガーとポテト、ジュースが乗ったトレーを受け取ると、壁面に描かれた大きなMのロゴを横目に二階に上がる。角の席に近づくと奥のソファ席に雪ノ下を誘導する。窓の外には先ほどまでいた予備校の建物が見えた。自習室にはまだ生徒が残っているようだ。

 ストローの袋を破いていると、正面に座る雪ノ下の挙動がおかしい。右へ左へ視線を動かしている。

「なんだ、由比ヶ浜と来なかったのか、こういうとこ」俺は久しぶりのザ・ジャンクフードに胸を躍らせながらドリンクに口をつける。

「ええ。色々なところに連れて行ってもらったけれど、このお店は初めてね」

「ほーん」

「いつか、異物混入がどうとか言っていたような気がするわ」

「ああ、あったなぁ…、まあ遠い昔の話だし大丈夫っちゃ大丈夫だろ」

 第一、そんなもの気にしていたら祭りの屋台とか間違っても手出せないし。

 何に納得したか分からないが、雪ノ下はこくりと頷くと手に持つハンバーガーに齧り付いた。

「………」

 俺がその様子をじっと見つめていると、気が付いた彼女は顔をそむけた。はむはむと咀嚼して、大きく喉を鳴らすとこちらに向き直る。

「なにかしら」

「ぷっ」

 思わず、笑っていた。

 雪ノ下の毅然とした表情と、唇の端についたケチャップとのアンバランスが、その凛々しさと幼稚さの矛盾が、不思議な魅力に映ってしまい、つい手が伸びた。

「え、なにんっ…」

 紙ナプキンで口元を拭われて、彼女の目が丸くなる。

 数秒して、俺も俺自身の行ったことに目を丸くする。

「あ……すまん……」

 ええええええええ、いや、えええええええ。

 あまりにも自然に発動したお兄ちゃんスキルに動揺が隠せせせせせ———はっ、として後ろを振り返るが誰もこちらに注目していない。あぶない、予備校の奴らに見られでもしたら、またバックレるところだった。自分の痴態ならいざ知らず、バイト先にいたカップルがバックヤードでキスしていたのを目撃した時も自主的にバックレた。やだ…私の情緒…不安定すぎ……。

 俯く雪ノ下は耳まで真っ赤にしていた。怒りに震えているのではないかと見紛うほどで、怒ってないですか? と敬語で尋ねそうになる。

 ふと、こいつも妹なんだよな、と思い出す。少し特殊な人たちに囲まれているだけで、彼女は妹で、雪ノ下陽乃は姉だった。

 そんなことを考えていたから、雪ノ下が顔を上げて小さく、「それくらい、自分でできるわ……」と呟いたのに笑みがこぼれた。

「ああ、知ってる」上がった口角は戻らない。「知ってるぞ」

 

 熟考した結果、雪ノ下と同じ予備校に通うことになった。俺が最重要ポイントに挙げた〈近くにうまい店がある〉という条件を完璧に満たし——通りに並ぶファストフード店から、少し足を運べば隠れたラーメンの名店まで——、駅から近いのに、娯楽施設がほとんどない。それもあってか落ち着いた学生が多い気がする。周りが行くからという理由で遊び感覚で通う、ウェーイの一族はあまり見かけない。

 俺はというと、全額免除とまではいかなかったが、無事スカラシップも通り財布はホックホク、小金の錬金術師の名に恥じぬ活躍を見せた。因みに雪ノ下は普通に特待生だった。ぱねぇよあの人…てかぱない。

 予備校に通う日は週に三回。なるべく奉仕部に顔を出す為、その内の一日は土曜日にしようと、同じ予備校に通うことになった由比ヶ浜も含め話し合った。俺と雪ノ下は平日に三日、由比ヶ浜は四日、奉仕部に顔を出すことができる計算だ。一色もマグカップを用意してもらって以来、顔を出す頻度が増えたようだし、小町が奉仕部に一人きりになる時間は殆どないといってもいいかもしれない。

 まあそれも、新入部員が入ればいらぬ心配にはなりそうだが。

「それにしたって、あなたの講義は終わっているのだから先に帰ってもいいのに……」

 彼女はちびちびとドリンクを飲みながら、少し拗ねたように口を尖らせる。

「あ? いや、あれだよ、あれ。復習したいし」俺は頬杖をついて、彼女の視線から逃れる。「それに……夜遅いと、危ないだろ、色々」

 最後のポテトを口に運ぶ。

「そ、そう…ありがと」

 雪ノ下はとても素直に、嬉しそうな表情をする。彼女の意識の外側で目じりは下がり、口元が緩む。頬は桜色を称えて染まる。

 そんな彼女に、俺は目を奪われる。

 俺の視線に気が付いたら彼女はこちらを恨めしそうに見るだろう。

 でも、それでも、俺の意識は彼女に染まる。

 

 

          ×  ×  ×

 

 

 相も変わらずの雨。じめじめとした空気が校舎を包み、リノリウムの廊下は湿気で鈍く光っていた。梅雨だしな、と分かりながらも恨めしく、風の打ち付ける窓の外を眺める。時折横切る枯葉は、この三年生の教室まで舞い上がってきたのだろう。

 普段は四十人ほどの生徒が集うこの教室も、放課後ともなれば閑静な雰囲気に包まれる。運動部も休み、微かに聞こえてくるは吹奏楽部の音色だけ。そんな心地の良いひと時に水を差す男にガンをつける。

「比企谷、目つき悪いぞ」

 葉山隼人は、眉を下げる。

「うるせぇ、生まれつきだよ」

 なおもガンを飛ばす俺に苦笑を返し、仕方ないだろ、と言った。

「仕方ないだろ、進路相談は番号順なんだから」葉山は大袈裟に肩をすくめる。「俺だって君と一緒にいたいわけじゃない」

「じゃあ出ていけばいいだろ」

 ガルルル、と今にも噛みつかんばかりの攻勢に俺は出る。

「教室で待ってろって言われただろ……」

「うるせぇ、じゃあ廊下に立ってろ」

 昭和の教師か、と葉山が小さく突っ込みを入れる。

 

 うちのクラスは特殊で、定期進路相談会という名目で担任の先生と対話をする時間が設けられている。そんなもの半年に一回やればいいだろうと思うし、悩みや相談があるなら直接先生のもとに行けばいいのにと思う。現にほかのクラスでは行われていないらしい。相談するのが苦手という生徒のための救済措置の意味と、生徒の勉強の進捗状況などを細かく気にしているのだろうが、その固いやり方にどうも前任者とのギャップを感じずにはいられない。

 なんにせよ、このいけすかないイケメンと二人きりの時間が生まれることがこの相談会最大のウィークポイントだった。

「なんで相談会の区切りが俺で最後なんだ……」

 番号順で一日に五人ずつ行われるが、毎回五人目が俺になる。つまり番号順で一個前の葉山と毎回二人きりになる時間が生まれるということだ。そして葉山の前のガリベン君の相談が長い長い。長すぎて教師と生徒の禁断のLOVEを疑ってしまうとこハッ! 今一瞬、〈腐〉の気配が……。

「……? どうした比企谷」葉山が怪訝な顔でいう。

「なんでもねぇよ」

 不毛なやり取りに嫌気がさし、読み止しの文庫本を取り出したところで声が降ってくる。

「雪ノ下さんとはうまくやってるのか?」

 耳を疑うようなセリフだった。ただ、一色や小町が発する類のものでも、下衆の勘繰りから発せられた不快な問いかけでもない。純粋な確認、そうだとすぐに分かる、マットな声だった。

 言葉の内容とは裏腹に、すっ、と染み込んできた。

「まあ、うまくやってんじゃねえの。知らんけど」

 だから、すんなりと返事が出たのだと思う。

 葉山は意外そうにこちらを見て、実際に「意外だな」と言った。「比企谷がそういうことを喋るなんて」

「お前が聞いたんだろぶっ殺すぞ」

「ははは、言葉が強いな、弱く見えるよ」

「あ? なんならキャンキャン吠えてやろうか」

 こちとら負け犬根性すわってんだよ舐めんな。ていうかなにこいつアニメもいけんのどこまでハイスペックなんだよちょっと良いとか思っちゃったよ。

「同じ予備校行ってるんだって? 噂になってるよ」

 舌打ちをしたくなるような気分だったが、どうせバレることだろうとは分かっていた。総武高校の生徒も通っているし、学年一位の女子が通っている予備校というトークテーマだけでも良い話のタネになるはずだ。そこに目が腐ったスパイスまで振りかけられればそれはもう珍味、おっかなびっくり手を出す輩がいてもおかしくはない。

「暇だねえ」へらへらと笑って見せる。

「暇なんだよ」葉山は常と変わらず爽やかに、しかし嫌な笑い方をする。

 普段の教室では見られない葉山の表情に、俺は少し安心をする。俺の知っている葉山隼人は、確かにいると。

 時々、分からなくなる。

 葉山隼人に海老名姫菜、そして雪ノ下陽乃という人種。その外側の殻を見せ付けられている時間が長くなれば長くなるほど、自分が作り上げた彼ら彼女らが少しずつ不安定になっていく。輪郭がぼやける。そんな感覚。

 彼ら彼女が冷たく笑うとき、どこかで安堵を覚える自分がいる。

 俺の範疇が間違っていないと、胸を撫で下ろす自分。

 その度に、危ういな、と思う。

 きっとそれは弱いから。それを認めてしまっては、それを支えにしてしまうから、だからきっと今の俺は弱いのだと思う。

「なぁ、葉山」スマホを弄っていた葉山がこっちを向く。「これは俺の友達の友達の話なんだが」

「前提がおかしいことには触れない方がいいのかな」

「恋人にプレゼントを貰ったらしいんだが、お礼をするべきか迷っているらしんだ」

「うん、それで?」

 葉山は、本当に分からない、という表情で続きを促す。

「いや、それでって……返した方がいいのかって話だよ」

 俺は不安と苛つきを口の中で噛み締めるように言う。もちろん、勝手に話し始めたのは俺だが、そんなとぼけるような———。

「そんな答えの決まっていることを、考える必要があるのか?」

 葉山隼人は変わらず話を続ける。

「は?」俺は思わず体ごと葉山に向けた。

「分からないのか…」

 古い記憶が刺激され、「だから、それやめろ」と言っていた。

「あぁ、すまん、だって答えが出ているから」

 俺は沈黙で相槌を打つ。

「比企谷が俺にそれを相談するってことは、それだけ重要なことだって言ってるようなもんじゃないか。あの比企谷が、俺に」

 そこで、教室の扉がガララと開く。

「葉山君、次だって」ガリベン君だ。

 葉山はそれに頷き返す。

 ガリベン君が去り、一瞬の静寂のあと葉山は立ち上がった。

「本当に君は、変なところで視野が狭いな」葉山が本当に楽しそうに笑う。「いや、自分のことになるといつもそうだったか」

 俺が何も言い返せないでいると、葉山はそのまま教室の外に消えていく。

 一人残された教室で、俺は天井を仰いだ。

「そう、か……」

 不安は消え、苛つきの存在は見る影もない。ただ、大きなものに包まれた感触だけが残っていた。

 葉山の言葉は、すとん、と胸の真ん中に落ちたようだった。その事実を素直に受け止めている自分に驚く。

 

 

          ×  ×  ×

 

 



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