緋弾のアリア-ボンドの娘- (鞍月しめじ)
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ビューティフル・ナイト
001.思いがけない逃走劇


 日本の首都、東京。

 大都市故に犯罪は絶えず、『武装探偵』と呼ばれる民間警察めいた組織がこの都市にも設立されるのは当然だった。

 世界各国に存在する“武偵”たちは、今日も犯罪に立ち向かう。

 

 台場にある人工島で、簡素な電子音が鳴り響いた。

 車をジャッキアップし、下に潜り込んで整備する少女。制服にしては些か短めなスカートからは、銃を収めた厳ついホルスターが覗く。

 音の正体はスマートフォンの着信だった。反応すると、車庫の外がにわかに慌ただしくなる。

 

「周知メール?」

 

 メーリングアプリには『東京武偵校』の送信者名。タイトルにはケース名が暗号の英数字で羅列されている。

 東京武偵校は、近年高度、多発化する犯罪に対し設立された武装探偵を育成する高校。逮捕権も、銃刀所持も認められる民間警察のような組織だ。

 周知メールとは、武偵校在籍の生徒に送られる事件発生の通知で、今回は原則二年次以上への行動要請であり、内容を見る限りは身内の失敗を指しているようだった。

 

「CVRから脱出援護要請……」

 

 特殊捜査研究科。通称CVRという学科がある。所属するには相当な美人である必要がある、ハニートラップ専門要員だ。

 最近東京で蔓延る武器流通。諜報科と呼ばれる学科の生徒たちと協力し、どうもCVRが動いていたらしいとは、今メールを読む少女が何日か前に聞いた情報である。

 そこに友人もいないわけではなかった。先輩ではあるが、少女をよく目に掛けていた。その友人も今回駆り出されていると聞いている。

 

「ま、要請無き手出しは無用だし」

 

 スマートフォンを仕舞う少女の出した答えは冷たかった。しかし、武偵としてのルールでは間違っていない。

 武偵憲章というものがある。国際武偵連盟が作成した、いわゆる心得。そこにも第四項に記されているのだ。『武偵は自立せよ。要請無き手出しは無用のこと』と。

 一見すれば冷たい言葉。しかし裏を返せば、手を出してしまえば悪化する事態もあるということ。しっかりとした手段が踏まれた上での行動が、最善最良の結果へ導くのである。

 今回のケースもまさにそれで、二年次以上の行動要請であれば相対する障害はかなりの重武装か、高練度。要するに犯罪のプロが相手の危険な任務になるだろう。

 まだ武偵として見習いから上がっていない、一年次の生徒が動いたところで荷物を増やすだけ。

 

 下した決断は冷徹だが、意味がある。少女は再び車庫に鎮座するシルバーのスポーツセダンに手をかけた。

 六連星のバッジを輝かせ、丸いヘッドライトカバーが夕日を受けて煌めく。少女のスマートフォンが、再び着信を告げる。

 次は通話だった。少女にのみ宛てられたものだ。相手はCVRの先輩、南野立花(りっか)とあった。

 

「はい。こちら、エレノアのスマートフォン……」

 

『エリー、お願い! 助けてほしいの!』

 

 少女の声を聴くより早く、立花は懇願した。声を潜め、だが必死に。

 

「南野先輩、現場ですか」

 

『そう。どういうわけか、バレてたのよ……。それで今、仲間皆で隠れたんだけど、車輌科の応援まで持たないわ』

 

「私が行っても持ちませんよ。上手く隠れるしか……」

 

 既に車庫の外は元の静けさを取り戻していた。先ほどより人が減ったせいか、もっと静かかもしれない。

 既に少女が所属する車輌科の先輩たちは出動しているだろう。今さら出たところで、どちらにせよ無意味だと彼女は思った。

 

『エリーならもっと早く来れる。お願い、私たちを助けて……!』

 

「……依頼ですね?」

 

『そうよ。受けてもらえる?』

 

 立花の考えは東京武偵校の裏をかいたものだ。仲間を信用出来ていないのか、と言われれば口をつぐむしかないかもしれない。

 だが、それ以上に立花が少女へ寄せる信頼が勝った。周知メールでは原則二年次以上の行動だったが、個人的な依頼であれば別ケース扱いになる。それに、原則行動に強制力は無い。止められはするが、罰則はない程度だ。仮にそれで命を取られれば、自己責任でしかない。

 

「GPSを発信して、なるべく動いてください。動かないでいると絞り込まれます」

 

 整備用のレンチを手の内で翻し、弄びながらも少女は真剣に懇願へ応える。

 

『やってみるわ。エリーの先輩たちが間に合ってくれれば……』

 

「それはそれ。人数は?」

 

『私含めて四人。乗れる?』

 

 問い掛けにもちろん、と少女が答えた。

 

「CVRクラスのモデル体型なら大丈夫です。インプレッサで行きます、見たことありますよね」

 

 立花は肯定する。少女の愛車だ、彼女も見たことがある。

 終話後は素早くジャッキを下ろし、点検を済ませてエンジンを掛ける。腹の底に響くような、低い唸りが車庫に響き渡った。

 アクセルを踏み込み、発進しようとして人影に行く手を遮られる。慌ててブレーキへ踏みかえ、急停止。立ち塞がったのは少女と同学科の先輩だった。

 

「ボンド、周知メールは見たんだよな?」

 

「武藤先輩……」

 

 先輩──武藤剛気は鋭く少女を睨み付け問い掛ける。

 気圧されそうになりながら、少女は窓を開けて武藤へ答えた。

 

「……依頼です。周知メールとは関係ありませんから」

 

「本当か?」

 

「勿論です」

 

 暫しのにらみ合いの末、武藤は道を空けた。

 すれ違い様、彼は少女へ語り掛ける。

 

「必ず助けてこい。何かあったら、先輩方を頼れよ。もうすぐ俺も出るからな」

 

「はい、先輩」

 

 精一杯、少女は笑みを見せる。武藤は恐らく話を聴いていたのだろうが、止めはしなかった。

 すぐに表情を繕い直し、やや乱暴にアクセルを開ける。

 ホイールスピンと共に飛び出した車体はピットでテールスライドしながら、タイヤが前へ前へと車を引っ張っていった。

 

 

 GPSが指し示したのは都心のビルだった。大通りに面しているが、出入り口は遠くに見える上、遮蔽物が見あたらない。もし銃撃にさらされるのなら、瞬く間に撃たれるだろう。

 CVRがいくらハニートラップ専門学科のような場所とはいえ、危険なエリアを走り回る愚策を犯すような教育は受けない。

 出るとするなら何処か。少女はステアリングホイールの上を、人差し指でノックしつつ熟慮する。

 

「裏か……」

 

 どんな建物にも、余程のものがなければ裏口というものがあるだろう。立花たちも、敵が間違いなく真っ先に抑える表口より、裏口を目指すのではないか。少女はそう考える。

 車を動かし、それらしい出入り口を探した。まだどこにも武偵らしい車は見当たらない。立花の信じた通り、少女の方が早かった。

 

「立花先輩……」

 

 裏口は表口とは反対に、比較的歩道に近く、塀も見受けられた。しかし時間を掛ければ表口より分厚く包囲されるのは間違いない。

 読みよ当たれ、と少女は祈る。表口に出てしまえば、CVRの少女たちは詰みだ。先に出た先輩たちを追い越した以上、事態をややこしくしているのは当然なのだ。

 次第に銃声が聴こえだした。間違いなく、少女の車へ向かっている。

 

「よし、よし」

 

 読みが当たったか、それとも弄らずに発信していた少女のGPS情報が助けになったか、何にしろ間違いなく立花たちは裏口へ向かっている。

 しかし銃声の数がやたらと多い。CVRはさほど重装備ではない。むしろ隠し持てる小型銃や折り畳みナイフなどが好まれる。

 だが建物から聴こえるのは重たい連射の音ばかり。

 考えられるのはアサルトライフル、軽機関銃の類い。なんにせよ、CVRのセオリー通りの装備なら太刀打ちしようがない相手だろう。

 

 間もなく出てくる。ニュートラルにしていたギアを入れ、少女は出入り口を見つめた。

 ドアが開き、変装用の衣装に身を包んだCVR生徒たちが飛び出した。アクセルを数度踏み込み、エンジンを吹かす。

 

「あれ! 私の後輩よ、乗ってっ!」

 

 少女を指差し、ポニーテールのCVR生徒が叫ぶ。立花が生徒を引き連れ、少女の車へ飛び込んだ。

 すぐさま銃撃が車を襲う。バックミラーには生徒三人が乗り込み、助手席に立花が乗った。

 

「行きます。南野先輩は武偵校に状況を伝えてください」

 

 サイドブレーキを外し、アクセルを強く踏み込む。立花や生徒たちの想像とは逆に、車は勢い良く後退し始めた。

 タイヤから立ち込める白煙をフロントウィンドウに見ながら、少女はステアリングを巧みに操り銃撃を逃れる。バックミラー、サイドミラーをチェックしながら障害物を避けると、今度は後進の勢いを利用して180度転回。首を痛めそうになるほどの重力に、生徒たちが顔を歪める。

 シフトチェンジ。リアの灯火から後進灯が消え、バックブザーも鳴り止む。次の瞬間、重力は前方から襲い掛かっていた。

 

「ヘリまで出てきましたけど、何したんですか?」

 

 少女の言葉に、立花が後ろを振り返った。

 上空に一機、ヘリコプターが飛んでいる。開いたドアには機関銃手。対する少女側は普通のスポーツカーだ、防弾装備などは一切無い。ライフル弾を連射されれば、たちまち穴だらけに変えられてしまう。車内も無事では済まないだろう。

 

「どうするの!?」

 

 後席からCVR生徒が訊ねた。とはいっても、それは運転手である少女も考えているところ。

 とにかく直進するのは危険と判断し、少女は青い瞳をサイドミラーへ向ける。

 

「掴まって」

 

 少女はステアリングを回し、車を右方向へ滑らせる。ギアを落とし、更にクラッチペダルを蹴り飛ばした。エンジン回転数が跳ね上がり、更に車が前へ進もうとする。

 白煙を残し、右折。困惑する一般車を次々と回避しながら車は加速していく。

 機関銃手も迷っているのか、発砲は今のところ無い。いつ一般人を巻き込んだ銃撃が始まるのかも分からないが、今のところは距離を離す事に集中出来た。

 

「エリー、車輌科から連絡! 指示を求めてるわ!」

 

「一旦保留でッ……!」

 

 少女が不意に急ブレーキを掛けた。前へ吹き飛ばされそうになりながら、立花は耐える。

 前方に封鎖線が出来ていた。一般車が危機を察知してか離れているが、短機関銃を向けた人影が複数、SUVを壁にして陣取っている。

 

「後ろはヘリ、前はSMG。防弾ガラスは無いし……」

 

 少女は思考を巡らせる。

 

「先輩方を別な場所に降ろします。スマホをホルダーへ、スピーカーにして」

 

 前後から複数の銃口を向けられながら、少女はまだ冷静に思考していた。

 いつ引き金が引かれるかも分からない緊張感。センターパネルのスマートフォンホルダーへ、立花の端末が置かれた。

 

「辰巳へ逃がします。先輩方は辰巳のエリアI-7へ向かってください。CVRを降ろします」

 

『今は行動制約をとやかく言うつもりはないが、大丈夫なんだな?』

 

「私は別な方から『助けてほしい』と依頼を受けただけです」

 

 了解の声がスピーカーから返ってくる。少女はCVR生徒たちを伏せさせると、エンジン回転数を上げる。

 黄色いニードルが黒背景のメーターの中で、何度も何度も跳ね上がった。

 一秒ほどの時間が、ゆっくり流れているようにすら感じる。しかし、そんな錯覚もやはり一瞬だった。

 急発進と共に車は左折する。リアを大きく振り回し、銃弾をキャビンから比較的遠いリアへ集中させる。距離の開いた拳銃弾程度ならトランクのパネルでも防げる算段で、少女は先程より大きく後輪を振りだしていた。

 

「私、車とかよく知らないけど、こんなに滑って大丈夫なの!? タイヤとか!」

 

 銃撃に晒され、いよいよ立花の緊張が振り切れたらしい。心配は車へ移り、焦るのは後席の生徒だけになった。

 少女は答えない。火花を散らすボディパネル、テールランプは銃弾で割られた。

 高鳴るエンジン音に合わせ、エンジンルームで排気ガスを受けたタービンが回る。盛り上がるエンジンパワーで走ろうが、追手は地形など関係ない。それどころか、先程のSUVも追跡に加わっているようだった。

 

「先輩方、銃は?」

 

「私はPPK一挺」

 

 立花が見せたのはやはり小振りな拳銃一挺。後席からも同じような銃が出てくる。とてもではないが、短機関銃を向けてくるSUVも相手に出来る武器とは言えない。かといって、少女自身も重武装ではなかった。持っているのは拳銃一挺に、折り畳みナイフ。

 防弾ガラス無しに減速するのは危険だ。かといって車を当てても、車格が違いすぎて逆に潰されかねない。CVRを逃がすまで、なんとしてもペースを維持できる程度のダメージで抑える必要がある。

 

「敵を減らすのは無理。先輩方、まだ走れますか?」

 

「た、多分……どうするの? まさか降りろって言うんじゃ」

 

 立花の不安を、少女は否定して打ち消した。

 それだけは絶対に無い、と彼女は言う。

 

「安全を確保してから予定通りにエリアI-7で下ろすのは無理です。一度視界から隠した隙に皆さんを下ろし、車輌科に回収させます」

 

『ボンド、話は聞いた。武藤だ。今学園島を出るとこだが、何か手伝えるか?』

 

 スマートフォンホルダーにはまだ立花の端末が置かれ、グループ通話は繋がったまま。

 先程の車輌科生徒を予定外に付き合わせるには時間が足りないが、ここに武藤が絡んだのは運が良かった。彼を動かせれば、乗客を近場で下ろせるかもしれない。

 彼女たちを下ろせば、少女もまだ無茶は出来る。

 

「武藤先輩、車は?」

 

『サファリだ。四人だろ? 乗れるぞ』

 

「……私のGPS地点からグリッドL-3移動した地点に、地下駐車場があります。そこからならヘリの奇襲をさばける」

 

『すぐに向かうが、それじゃそっちのが早く着いちまう。どうする?』

 

 再び少女がステアリングを切った。今度は左折。立花の目に一瞬ではあるものの、先に地下駐車場入口があることを知らせる看板が飛び込んできた。

 だが、車は入口から遠ざかるように右折。再びの銃撃がリアフェンダーパネルで火花を散らせる。このまま銃撃を受けてガソリンタンクでも撃ち抜かれれば、一貫の終わり。かなりエンジンを回したものの、生憎と燃料計はまだ余裕の位置を示している。引火しやすい状態だ。

 

『到着まで回る気か。急ぐから、お前も死ぬんじゃねぇぞッ!』

 

 端末から音声が止んだ。あとは武藤が到着を告げるまでに、脅威から距離を取ること。

 ヘリコプター、SUVに対しアドバンテージがあるとすれば、少女の駆る車のフットワークしかない。

 少女が駆るインプレッサWRXとはラリー競技車輌の元だ。それに、多少の無茶はまだ利かせられる程度に強化もしてある。

 とにかく意表を突かねば。少女の左手が、ハンドブレーキレバーへ伸びた。

 瞬間、また車体が180度反対を向く。素早い反応でギアを落とすと、少女は突撃を仕掛けるSUVをスラロームでかわし、元来た道を戻る。ヘリコプターの旋回も容易ではない。時間は稼げる。少女は確信していた。

 

『こちら武藤ッ! 地下に入った! いつでもいい、来いッ!』

 

 武藤が到着を告げる。ほぼ同時に、いよいよ追手の短機関銃がリアウィンドウを捉えた。

 クモの巣状に複数のヒビが入り、遂には穴を空けられる。車内に悲鳴が反響した。

 

「全員、ダッシュ準備!」

 

 少女が叫ぶ。地下駐車場へ車体を飛び込ませると、彼女はシルバーの大型車を見つける。

 日産サファリ。最近街中ではめっきり見ない車。その横へ車体を滑り込ませると、少女はCVR生徒たちに降りるよう告げた。

 積み替えは幸い手早く済み、武藤が運転するサファリは敵に見つかるより早く地下駐車場を脱出。突入してきたSUVを場内で引きずり回した少女は、武藤たちの出ていった方角とは逆に入口から脱出する。

 

『ヘリは来てねぇ、多分大丈夫だ。もうすぐ狙撃科連れて、こっちもヘリが来る筈だ。持ちこたえ──』

 

「しまった……!」

 

 武藤の願いより早く、少女の愛車は限界を迎える。摩擦に耐えかねたタイヤはバーストし、車体はバランスを崩す。

 ハンドブレーキを引き上げ、リバースギアに叩き込んで後退することで咄嗟に衝突は回避したが、既に車は限界だった。もう幾分も走れない。

 

 スピードの落ちた車体へ、SUVの一台が追突。体勢を崩したところへ、更に一撃。

 都心の広大な車道で、少女の愛車は二転三転と転がり、上下逆さまで停止した。

 

「げほっ……」

 

 思考が回らない。頭を打ち付けたのか、少女の視界はひどく歪んでいた。

 複数の足音さえ遠くに聴こえる。身体の痛みも酷く、銃を抜くことすら難しい。

 命が終わる。少女は明日の朝陽を拝むことなく散るのだろうと目をつむる。

 

「……あれ?」

 

 三十秒経ったが、足音が消えた。代わりにヘリコプターのローター音と複数の銃声が遠退く意識の中でも聴こえた。

 

『ボンド、狙撃科が間に合った! 任務完了だ、聴こえるか!?』

 

 立花が置いていったスマートフォンから、武藤の声がした。任務完了の報せを聞いて、少女から初めて緊張が解ける。

 意識が瞬く間に遠退いて、応答できない。だが少なくとも、死ぬことはないかもしれない。少女はどこか、その表情に安堵を浮かべていた。

 

 □

 

 事件解決から数時間。少女は救護科の治療を受けていた。

 一命は取り留めた。車体の高められた剛性が、間違いなくドライバーを救ったのだ。インプレッサといえば、この手の話題に事欠かない。

 崩落するトンネルから脱出した個体が有名だろう。今では修復され、またドライバーと共に走っているという。

 

「名前は言えますか?」

 

 それはそれとして、少女は救護車の後部に腰掛けて診断を受ける。

 救護科生徒の問いに、彼女は応えた。

 

「ボンド。エレノア・ボンド」

 

「何か、感覚に異常は?」

 

「無い。身体が痛いだけ」

 

 強く頭を打ち付けてしまったが故に、脳に関する異常ばかりが疑われる。

 エレノアは特に異常が無い旨を告げ、救護車から立ち上がった。ずきりと足が痛んだが、歩くのに支障はないようだった。

 すっかりボディの変形した愛車を眺める武藤が彼女に気付き、振り返る。

 

「全く、インプレッサも一応備品だったんだぜ? ボンド姓は備品を壊すのがデフォなのか?」

 

「それは各地のボンド家に謝るべきかと」

 

「ま、何にせよお前は生きてたんだ。インプレッサに感謝だな。直らないと思うが」

 

 脱出を共にしたシルバーのスポーツセダン。比較的落ち着いたデザインに纏められていたそれは、今では骨組みまで歪み、サイズすら縮んでしまったようだった。

 

「今は休みたいです。車については後になりませんか」

 

 意識こそなかったが、エレノア自身も体力は限界だった。頭に異常がなくても、立っているのは辛い。

 手足に巻かれた包帯が痛々しく惨状を告げていた。

 

「寮まで送るぜ。南野さんたちも、どうやら収穫ゼロじゃなかったらしいからな。ここからは探偵科に情報科、んで強襲科の出番だ。ウチらは休ませてもらおうぜ」

 

 武藤と共に車へ乗り込んだエレノア。

 東京武偵校のある人工島、通称『学園島』へ向かう内に彼女は眠りに落ちていた。




 帰ってきてしまった、緋弾二次の世界へ。
 今回は今まで書いてきたシリーズへの決別と、新たな旅立ちを意識して、全く新しいオリジナル世界線でのお話です。
 これ、毎回言ってた気がするけど。

 ボンドはもう居るじゃないか?
 それでも、チャレンジしてみたいのです。


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002.それでもまた陽は昇る

 朝はどんな時もやって来るものだ。

 例え身体が痛んで、学校を休みたくても関係なし。

 

「ダルい……」

 

 エレノアは痛む身体に、寝起きの低い血圧から来る倦怠感を引き摺りながらベッドからのそりと起き上がった。

 見れば、遮光カーテンの下から朝日が漏れている。

 東京武偵校の学園島──台場の人工島にある寮に彼女は住んでいる。本来はルームシェア前提であるが、彼女にはルームメイトがいない。

 あまり友達が多いとも言えないし、彼女にとってすれば気も休まって都合が良い。代わりに私生活は多少乱れ気味だが、それでも女性として最低限身嗜みくらいは繕う。

 とはいってもやることと言えばそれくらいで、先日救出したCVR学科の生徒で、友人の立花からはルームメイトへの立候補もあった。立花曰く、ちゃんと食べていなさそうと言うことらしい。

 母親か何かか、とエレノアはただため息を吐くしかなかったが。

 

 支度を終え、着替えも終えると彼女は武器のチェックを始める。

 ワルサーP99自動拳銃が彼女の愛用だが、最近は少々ポリマーフレームに味気無さを感じている。

 弾倉を引き抜いて数度スライドを引き、調子を見る。滑らかに操作は出来る。大きな事故の後だったが、銃器へのダメージは無かったようだ。

 すっかり慣れた操作。スライドを戻し、上面のデコックボタンを押し込む。鋭い金属音と共に、撃鉄が前進する。

 弾倉を戻し、机の上に転がったサプレッサーへふと視線を向けた。

 

「いらないか」

 

 サプレッサーを押し込んでからケースを閉めて、彼女は呟く。反応する者は誰もいないが。

 エレノアの持つP99は、通常の物に加えてスライド右面に特殊な刻印が彫られたサプレッサー装着可能モデルだが、一度も装着したことがない。

 武偵は自身である程度武装の調達を行い、然るべき機関へ公認を取る。しかしエレノアは、このP99を自身で購入した訳ではなかった。

 

 彼女は両親がいない。物心ついてから孤児院で暮らしていた。

 ある日武偵への進学を院長に勧められ、孤児院を出るためと武偵附属中学を受験したところ、見事に合格したことが全ての始まり。

 孤児院を後にする前に、初めて彼女には、既に作られていたという銀行口座の通帳とキャッシングカード、貸金庫の鍵が渡された。

 曰く、定期的に何処かからの入金があるとして、預金額にはエレノアも目を丸くしたのを覚えている。誰が入金しているのか三年経過した今も分からないが、まだ入金は続いていた。

 そして貸金庫に収められていたのが、ジュラルミンケースに収納されたP99だった。まるで誰かが意図したかのような都合の良さに、彼女も違和感を抱かざるを得なかった。だが、何も知らなかった彼女にはその作られたような都合に頼る他無かったのも事実。

 

 それから、貸金庫にはもう一つ、拳銃以外に預けられていた物があった。

 

「結局、これは何なんだろ」

 

 キーケースに収めた鍵を眺め、エレノアは毎朝そう呟くのが習慣になってしまっている。

 貸金庫に預けられていた鍵。ヒントはなく、どこの鍵かも分からない。探偵科や詳しい人間を頼り、何かのシャッター用とおぼしきものだとまでは辿り着いたが、それだけだ。

 それを使うシャッターは日本に気が遠くなるような数が存在していたし、都内の物と絞り込めなくては意味がない。

 

「あ、やばっ! バス乗り遅れる!」

 

 時計は既に出発予定時刻を回っていた。鞄を引っ付かんで、エレノアはばたばたと部屋を後にした。

 

 □

 

「間に合った!」

 

 空気による操作音と共に、バスの乗降口が閉められた。

 バス停留所は遠くないが、何しろ走った。エレノアの全身がまさに空気を求めていて、息も絶え絶え。座席が空いていなければ倒れていたかもしれない。

 

「ギリギリだなぁ、おまえー」

 

 まさに上から、見下されるような憐れむような声がした。

 

「このバスに乗ってる時点で君もでしょ」

 

 息を整えつつ、エレノアは自身を見下す存在へその視線を向ける。

 綺麗な黒色の髪をショートボブで揃え、切れ長の瞳はにやにやとエレノアを見つめ返す。背中には立派な狙撃銃が剥き出しのまま背負われており、場所が場所なら即座に通報されるような出で立ちだ。

 

「なんだよー。言うやん、エリー」

 

「うるさい、美夜(ミヤ)

 

 八重歯を見せながら笑う少女は数少ないエレノアの友人で、狙撃科一年の佐々野美夜。

 幼い頃関西圏に居たらしく、たまにからかうときは“それらしい関西弁”が出たりする。

 背中に背負う砂漠色のFNバリスタは、まさに彼女の象徴とも言える銃だ。入学時に大枚を叩いて買った、とは美夜自身の言葉。

 両親は忙しく、滅多に家に居ない。おかげで自炊が大変らしい。しかし、狙撃科での成績は上々で、武器の扱いに慣れていない一年生にしては珍しく、戸惑いやすいツーステージトリガーを巧みに使いこなすと上級生が噂する。

 

「また車潰したんだろー。次は何乗るのさ」

 

「反省文終わって頭オーバーヒートなんだからやめてよ」

 

「言うて、前はオーバーヒートするまでベタ踏み(フラットアウト)かましたんやろー」

 

 けたけた笑う美夜。もはやこうなっては何言っても通じやしない。のらりくらりかわされ、十倍を百倍にされるだけ。

 ふて腐れたように窓の外へ視線を向けるエレノア。駆ける生徒の中に、茶髪のツインテールが見えた。クラスメイトの姿だ。

 

「あかり、またガンチラしてる」

 

「んー? 油断しとるんちゃうん?」

 

「焦ってるだけでしょ……って、顔近い」

 

 やはり武偵校の制服はスカート丈が短いのでは。クラスメイトのスカートからホルスターが見え隠れする様を見てそう思ったエレノア。だがそれよりも、窓を覗き込む美夜の横顔がすぐ目の前にあったことに思考を奪われる。

 

「照れてるのー? ボンドなんてファミリーネームしとるくせに」

 

 また構ってしまった。後悔よりも早く、美夜はまたからかい口調だ。

 

「だから、私はそういうボンドじゃないって」

 

「遠慮せんでもええって。言うてみ?」

 

「やかましいっ」

 

 エレノアから一喝が飛んだ。

 ちぇー、と美夜がふくれる。

 気付けばバスは武偵校前を案内していて、乗っていた生徒たちは降りる用意をしていた。

 鞄を持ち上げるエレノアに、狙撃銃を背負い直す美夜。バスを降りると、ピンク色の長いツインテールが目の前を遮る。

 

「アンタ達、あかりのクラスメイトでしょ? ダメよ、遅刻ギリギリ!」

 

 立ちはだかったのは二人よりもずっと背の小さい少女だった。腰に両手を当て、眉をつり上げ二人を睨む。

 

「すいません」

 

「さーせーんっす」

 

 特にアンタ、と立ち塞がる少女が美夜を勢いよく指差した。

 

「上級生への評判はいいけど、口悪いって噂あるわよ。血の気多い先輩方なんて、シメるなんて言ってるんだからね」

 

「気ィつけまーす」

 

「ま、忠告はしたわ。次は自分で何とかしなさいよね」

 

 去っていく少女。上級生の強襲科二年、神崎・H・アリアの名前は世界に轟く。

 武偵が目指せる中で最上位になるSランク、逮捕99人連続失敗無し。武偵の鑑で、憧れない人間は居ないだろう。

 

「あれによく戦姉妹(アミカ)通したなぁ、あかり」

 

 ぼんやりとアリアの後ろ姿を見送る美夜。エレノアもたまに思うことではあったが、クラスメイトのことはクラスメイト。特に深く考えることもない。

 たまに車輌科の手を貸すために出向く事はあったが、現場では年相応な女子トーク等と言うわけにもいかないわけで。

 

「急がないと本当に遅刻するわよ、美夜」

 

「おぉっとアカンかったわ。走ろ、走ろー」

 

 バスは既に走り去ってしまった。

 立ち尽くす二人を遅刻寸前の生徒たちが訝しげに眺めていたのに気付くと、エレノアにはいよいよ居たたまれなくなってしまった。

 結局二人が教室に着く直前、チャイムがあたかもゲームオーバーを告げるように、学園島へ鳴り響く。

 

 □

 

 結局、一般学科のホームルームに間に合わず、エレノアと美夜はこってり絞られた。

 蔑むような笑いを受けながら席につき、授業の用意をする。

 武偵校とはいえ、高校は高校だ。全生徒は一般教育学科に参加し、必ず一般的な授業を受けることになる。

 武偵校故の異常性は、この時点ではまだ無い。せいぜい教室のあちこちに実銃や真剣が置かれているくらいなもので、比較的平和な部類である。

 

 昼になると、エレノアと美夜は屋上で昼食を揃って摂ることになる。というのも、最近は美夜がエレノアの分の弁当を用意してくるのだ。

 曰く、作りすぎただとか、練習台になれだとか美夜は言うが、エレノアが食べられなかった事はない。むしろ、彼女を料理上手と評しても良いくらいだった。

 

「今日はどうかなぁ?」

 

「美味しいよ? また味付け少し変えた?」

 

「わかる? 愛情込めて作ったからね」

 

 昼休みの屋上はやはり騒がしい。上級生もいるし、物騒な言葉も聴こえてくる。

 しかしそれが武偵校なのだ。彼女達がそこへ身を投じた時点で、同じ場所に立っているのである。

 それを普通と受け入れるには、二人にはまだ若干早いだけ。

 

 昼休み終了のチャイムが鳴ると、午後が始まる。

 放課後からはそれぞれの学科で専門の講習を受けることになるため、エレノアと美夜は離ればなれになる。

 空になった弁当箱を美夜へ返すと、彼女はほのかに嬉しそうな笑みを浮かべる。エレノアは気付いているが、つつくとからかわれそうなので触れない。

 

 綺麗に弁当箱を包んで仕舞い、美夜はエレノアと共に教室へ。

 この先からが、武偵の本分である。




あらら、急に短く……。
まあ本来の長さがこちらですゆえ、お許しを。

今回はクラスメイトの佐々野美夜が登場。
掴み所無さげなキャラクターですが、狙撃科。
昔だったら主人公が兼任してました。そこも含めて、いままでとは違うものになります。

次回もよろしくお願いいたしますー!


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003.週末と赤い跳ね馬

 エレノアが属する車輌科(ロジ)には主にサーキットが宛がわれている。入り用とあれば車や船舶、果ては航空機までを操縦するのが車輌科の仕事である。

 主に目立った活動こそ自動車メインではあるものの、上空はヘリコプターなども飛行している。エレノアも勿論、車以外に様々な乗り物の操縦を勉強中。

 

「はぁ……」

 

 明るい生徒達が乗り物を動かす状況から翻って、盛大にため息を吐いたエレノア。先日の事件から、てっきり車からは遠ざけられると思っていたのに、目の前には全高の低いスーパーカーと言うべき車体が停められていた。

 その名もフェラーリ488ピスタ。イタリアの名門自動車メーカー、フェラーリアウトモビリが製造した限定車だ。そこらを走る車とは明らかに雰囲気が違う。ボディを包むシルバーメタリックの仕上がりは勿論、ドアウィンドウから覗ける室内までスパルタンかつ優雅な雰囲気が漂う。

 ボディ中央を突き抜けるダークブルーのストライプに、空気を取り入れるため曲面の多いボディのあちこちに作られたエアインテークも、異質さの表現に一役買っている。

 

「エレノア、来てたんだ。今回はこれだってさー」

「貴希……私に何があったか、勿論知ってるでしょ?」

「っていっても、預けてこいってあたしも言われてるし?」

 

 ずしりとエレノアにプレッシャーがのし掛かる。問いに問いを返されても困るだけだ。

 渡したからね、とクラスメイトは言う。

 サーキットに響く様々な乗り物の音さえ遠くに聴こえるほど、エレノアは意識をどこかへ飛ばしてしまっていた。

 

「おっと。とにかくやらないと」

 

 ふと我に返る。逃避している場合ではないと思い直した。

 前回全損させた車もそうだったが、恐らく今回もこの車とそれなりに長い付き合いになるのだろう。といっても、前回は数週間だったが。

 今回は全損など有り得ない。なんと言ってもフェラーリの限定車だ。4000万円以上もする車体を、仮に爆発で吹き飛ばすなどといったことがあれば、東京湾に身投げでもしなければならなくなりそうだった。

 

「おーい、ボンド! 知り合い来てるぞ」

 

 練習でもしようかとドアを開いた時、車輌科生徒に名前を呼ばれた。

 

「あー、そのままそのまま。気にせんでよい」

 

 上級生に入れてもらったのか、来客は既にエレノアの視界にいた。

 

「いやー、先日は災難じゃったな。街頭カメラではいいセン行っておったんじゃが……」

「鈴那、何しに来たの」

 

 来て早々に語り出す少女も、エレノアの友人だ。五十鈴鈴那、情報科一年である。

 一年生にして強襲科まで兼科する、意外なやり手だったりもする。赤い髪、頭の天辺で立派に反り返ったアホ毛が目を引く。目下の悩みは“鈴と鈴”で続く名前。

 

「おー、そうじゃったそうじゃった。前に調べておったろ。あのー……例の鍵」

「……これ?」

 

 使い道の分からないシャッターキーを取り出すと、鈴那は肯定する。

 独特な言葉遣いがエレノアには未だ慣れない。どうしてそうなったかさえ、鈴那は語らないのだ。

 

「借りても良いか? もしかすると、アタリくらいは付くかもしれんのじゃ」

「本当に? 前は『諦めろ』だったけど?」

「そうは言ったが、やはり気になるじゃろ!? あれからわしも、方々を回って多少絞り込めた自信はある」

 

 無い胸を張る鈴那。シャッターキーを手渡すと、余らせた袖をぶんぶんと振り回しながら去っていった。

 美夜も鈴那も、まだ半年も付き合いはない。エレノアからアプローチしたわけでもないが、気付けばこの交友関係が出来上がっていた。

 

「……整備しておくか」

 

 すっかり走行する気は失せてしまった。

 車を動かし、割り当てられたピットに仕舞うとエレノアはすぐに整備体制に入る。

 帰りは車で帰れる。フェラーリで帰ることになるとは思わなかったが、降ってきた幸運を払うような人間ではない。

 高級車故に複雑で手の出しにくいパーツに苦戦しながら、彼女は点検と整備の終了を上級生に報告する。

 

 専門学科は基本的に一般学科の終了後、つまりは放課後に行われる。終われば挨拶だけをして直帰だ。

 結局フェラーリを預けられるのは変わりがないらしく、低い運転席に腰を下ろし深く息を吐く。フェラーリのイメージカラーである、鮮烈な赤色のキーデバイスをホルダーに置いて、ステアリングに備えられたエンジンスタートボタンに手を伸ばす。

 

「んっ?」

 

 エンジンを掛けるその直前に、エレノアのスマートフォンが振動した。マナーモードにしているせいで、スカートのポケット内で暴れまわる。

 慌てて取り出すと、画面には美夜からの着信が示されている。受話ボタンをスライドして、応答。繋がるとすぐに美夜が泣き付くような声を上げた。

 

『アカン! アカンわー! 寂しくて死ぬ』

「……はい? 何言ってるの?」

『明日休みやん? 土曜だし。泊まり行っていい?』

 

 絡まれてしまった。エレノアはそう思ったが、既に手遅れ。彼女は必死に頭脳を回す。泊まりは吝かではないが、美夜を相手取るのは少々手間だ。

 鈴那ならまだしも、美夜を相手にするとなると休みにならない。

 

『なーんで返事に時間かかってんだよ』

 

 返答に迷うと、美夜は声を低めて囁いた。

 その言葉にはどこか刺がある。顔が見えていたら、膨れているに違いない。

 

「いや、なんでだろうね」

『私泊めたら良いことあるよ? 南野先輩言うとったんやろ、飯喰ってへんて』

「それはそれであって……」

『晩飯と明日の朝飯は保証するけど』

「今どこ?」

 

 問答の後、即答。悩んだ時間が水泡に帰した。

 なんだかんだ言って友人であり、美夜の食事は美味しい。エレノアが簡単に意思を曲げることになる程度には。美夜がなぜ、自信も無さげに練習だのと理由を付けて食べさせるのか、第三者からすれば分からないほどだ。

 

『んー、今ちょうどスーパーにいるし……そこまで来てもらうか』

「待った。今私の車、荷物積めない」

 

 提案されかけて、改めてエレノアは自身が腰掛けるシートと助手席に記されたエンブレムを眺める。

 何しろフェラーリだ。本来は日常使いするような車ではなく、荷物を積むスペースなど存在しない。

 車、と美夜は反応を示す。

 

『まさか、もう車貸与されたんかお前』

「フェラーリをね……」

『荷物積めへんやんけ』

「だから言ったんだけど?」

 

 通話口の向こうから、美夜の唸り声が聴こえてくる。

 美夜は車に詳しい訳ではないが、付き合いのある相手がエレノアだ。彼女と過ごせば少なからず覚えることはあったし、フェラーリと言われれば多少はイメージも出来ている。

 

『最近出てるとかいう、4人乗りとかワゴンみたいなフェラーリの可能性がまだワンチャン……』 

「いや、488ピスタ」

『名前からしてそれはちゃうな。あー、もう! いいや、買い込んで足にとか考えたけど、夜と明日朝の分買うか』

 

 危うく足に使われるところだった。エレノアは心中ほっと胸を撫で下ろす。フェラーリ様々だ。

 電話口からは献立を悩む美夜の声が漏れていた。

 

『まあ、メニューは考えとくわ。取り敢えず、いつものスーパー来てー』

「了解。あんまり買いすぎないでよ?」

 

 ほいほい、と美夜から気の抜けるような返事が返ってくる。いつものことだ、アリアを相手にしても態度に大きな差は出ない。差と言えば、口調が砕けながらも敬語に変わるか否かくらいだろう。

 通話を切ると、エレノアは真っ先にエンジンを始動させた。セルモーターの回転がエンジンへ伝わり、タイムラグも無く運転席の真後ろに搭載されたV8エンジンが唸りを上げる。

 紛れもなくそれは騒音だろう。否、確かに喧しいが、聴く人間が変われば意見の変わる音とも言えた。音量は前回のインプレッサよりずっと大きいが、それでもエレノアには不思議と悪い気はしなかった。

 

 □

 

「遅いわ。時間かけすぎ」

 

 学園島の外にあるスーパーまでひたすら車を飛ばし、到着したエレノアに美夜は冷ややかな言葉を投げた。

 

「急いだんだけど?」

「もー、かなり待ったよ。腕が千切れるー」

 

 気だるげな美夜。両手にはいっぱいに食材が詰め込まれたエコバッグが握られている。

 

「バリスタ一挺の方が重いでしょ」

「それとこれは別。身体の一部だし」

 

 けろりと美夜は答えた。背中に背負われた狙撃銃は登校時と違い、ソフトケースに覆われていた。一般人への配慮だろう。

 行きに何故ケースが無かったのかは、恐らく問いただしても美夜は答えない。

 

「しっかし、本当に“フェラーリでーす”ってヤツだなぁ。ホンマに荷物積めへんやん」

「だから言ったでしょ」

「ま、買う量は抑えたし抱えて乗れば……」

 

 不意に、美夜がその発言を止めた。そして背中の狙撃銃を肩越しに眺め、暫し沈黙。

 

「アカン、どないしよ。バリスタ背負っとったら車に乗れへん」

 

 今更か、とエレノアが深いため息を吐く。

 

「分解して乗れば?」

「それだ! 多少嵩張るけど、行けるやろ」

 

 ほい、と美夜はエレノアへ買い物袋を預けて、ソフトケースから狙撃銃を取り出し分解していく。

 エレノアは周囲に視線を配り、一般人が来ないのを確認。テイクダウンを終えた狙撃銃を手に助手席へ腰を下ろし、美夜は買い物袋を膝の上に受け取った。しかし今度は車内スペースを取りすぎて、シートベルトが締まりそうにない。

 

「美夜、せめてベルトして」

「このシートから出た変なベルト? どうすりゃええの」

「リュックみたいに、左右に腕を通したら、腹のところのバックルで留めて」

 

 エレノアの指示通りにベルトを締める美夜。特に戸惑うことはなかったが、彼女にふと疑問が湧いた。

 

「確か、日本って三点式無いと違反だったような」

「そんなの着いてないわよ。ベルトしたわね、よし発進ー」

 

 あっさりと美夜の疑問を受け流したエレノア。

 車はしばらく徐行した後、リアタイヤをスピンさせながら大通りを急加速していった。

 

「おぉー……! 速い速い! ゆっくり行って!」

 

 エレノアからすればさほど飛ばしてはいないものの、助手席からは悲鳴にすら近い懇願が聴こえる。

 

「そんな飛ばしてないよ?」

「バカ! そりゃ車輌科視点や、ボケナス!」

「君、いつもヘリから狙撃したりしてない? 一年で現場出られる生徒、珍しいって……」

「今はええねん、そんな話!」

 

 美夜はあまりに必死だった。エレノアの話は事実だが、そんなものは助手席で震える少女からすれば、どうでもいいものらしい。ヘリコプターの方がよほど速いのは事実なのだが。

 仕方なく、エレノアはいつもよりも速度を落とす。巡航レベルから、文字通りの速度制限遵守レベルへ。

 

「そういや、南野先輩から聞いてる? 例の武器密売」

 

 速度が落ち着いて、美夜自身も余裕を取り戻したのだろう。運転席へ視線を向けつつ、エレノアへ問う。

 

「なんのこと?」

 

 エレノアはなにも聞いてはいなかった。聞き返すと、美夜は呆れたようにかぶり振る。

 

「例の武器密売、CVRが盗んだ情報だと幾つか盗まれた痕跡があるらしいぞー」

「情報が? 武器が?」

「武器だっての。といっても、拳銃程度らしいけどな」

 

 ふーん、と興味無さげにエレノア。

 背後のエンジンもつまらなさそうに唸っている。

 四点式シートベルトにバケットシートのホールド性も相まって、美夜が反論しようにも身体が動かない。ちょっかいを出すにしても、膝の上には買い物袋、片手には分解したライフル入りのソフトケースだ。狭い車内で暴れては大変なことになりかねない。

 

「腹へったー。寮着いたらすぐ飯にするからな」

「やった。楽しみにしてるけど、ご両親は?」

 

 美夜の両親は健在である。仕事で忙しく、滅多に家に居ない。一人暮らしと変わらない、とは美夜がいつかエレノアに語った言葉だ。

 

「今度は旅行だってさ。まー、いいけど」

「なるほどね……。ウチには大したものないけど、まあ持て成しくらいはするわ」

「おおきにな、エリー。本当にアンタとスズくらいだわ、私に良くしてくれんの」

 

 美夜は車窓から外を眺めつつ、目を伏せる。

 彼女の態度と異例の扱いから、一部で疎まれているのをエレノアは知っていた。もっとも、美夜を疎む連中には誇るほどの技術も無いのだろうが。

 彼女の狙撃技術だけで言えば、上から数えた方が早い。Sランクの一個下であるAランクでも、エレノアからすれば異論はなかった。

 だが故に、美夜は上級生に疎まれた。それでも彼女は滅多に弱音を吐きはしない。弱音を吐けば思う壺だと知っていたから。

 

 フェラーリは首都高速へ乗り、学園島へ入った。センチメンタルな美夜もその頃には影を潜め、献立を次々に羅列していく。

 疲れはするが、悪くない休みになりそうだ。エレノアはステアリングを握りしめながら、小さな笑みを浮かべた。




時間かかった……。
今回は更なる新キャラが登場致しました。

第四話は武装神姫二次を更新したら書きますので、暫しお待ちくださいませ。
次回もよろしくお願い致します。


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004.週末夜より愛を込めて

「たっだいまーっ!」

 

 寮へ飛び込んだ美夜が玄関先で、両手を元気よく挙げつつ、開口一番に叫んだ。

 美夜の明るさとは反対に、電気もなにもつけられていない真っ暗な廊下が、二人の前にはただただ広がっている。

 

「私の部屋なんだけど」

 

 買い物袋を押し付けられたエレノアは、不機嫌さを隠すこともせず美夜の背後で抗議の声を上げた。

 

「いいじゃんいいじゃん。ほい、エリー。手紙来てるよーん」

 

 地面に落ちていた手紙を拾い上げ、美夜は背中越しにエレノアへ差し出す。しかし、それを取る手は無く。

 美夜が振り返れば、そこにはしっかり買い物袋を両手に握り締め、睨み付けるエレノアがいた。手紙など受け取れるわけがない。

 

「すまん」

「許す」

 

 あまりにも重い空気を背負いすぎていた。お調子者な美夜でさえ、瞬時に謝罪する程度には。

 そしてエレノアもまた、秒速で美夜を許す。食事は彼女が作るのだ、ふてくされても仕方ない。

 

 

 美夜が料理を作り出すと、エレノアにはとてもではないが、キッチンは立ち入れない空間に変わってしまう。

 美夜もエレノアには寛いでいるように話しており、仕方なく受け取った手紙を開いた。

 

「また手紙か」

 

 何気なく渡されたが、便箋は海外郵便のもの。発送国はイギリスだ。

 同じような海外郵便は過去に幾度も受け取っている。今回も普段と変わらず、様子をうかがうような手紙だった。

 差出人はいつもと同じく『ドゥシャン』とあったが、変わらずエレノアには聞き覚えのない名前だ。鈴那に調べてもらっても、ヒットすらしない。

 

「全く……」

 

 こんなものを寄越されたところで、感謝のしようなど無い。差出人のことは知らないし、何か世話をされた覚えもない。

 いつもなら捨てる手紙。実際そうしようとしたとき、エレノアは手紙に記された異変に気付いた。

 

『J Koto N.26』

 

 エレノアを気遣う手紙の最後に、そう記されていた。いつもはなかったものだ。

 首をかしげ、意味を考える。キッチンから聴こえてくる音はいよいよ仕上げに入ったような雰囲気だった。

 

「Koto……江東? んー。Jって何?」

 

 全くのノーヒントから繰り出された謎かけだった。クイズにもなりはしない。

 

「何悩んでんの?」

 

 料理を作り終えて、食卓へ運び始めた美夜が不思議そうにエレノアを覗き込んだ。

 手紙のことを話してみたが、彼女も少々大袈裟に悩むだけで、答えは導き出せそうに無いようだった。

 

「ま、飯食ったら頭も働くって。食お食おー」

 

 食卓に並ぶ焼き魚定食。美夜いわく、武偵校の学食で食べてから気になっていたらしい。

 彼女なりにアレンジを加えたのか、どこか洋風な味付けになっていた。

 

「あれ? 他の食材は?」

「冷蔵庫。使わなかったモンは好きにしていいよ」

 

 大量に買い込んだ食材はどうやら余ったらしい。朝食分はあるが、それでもかなりの食材が余るだろう。

 好きにしろと言われても困るのだが、全く料理をしない訳でもない。エレノアは魚をつつきながら、素直に礼を述べた。

 

 食事を終え、食器を下げて食洗機に放り込み一息つく。

 美夜も流石に銃器のメンテナンスを始めており、エレノアもそれに続いていた。

 高精度のボルトアクションスナイパーライフルであるバリスタ。美夜は普段使いに.308ウィンチェスター弾を使用する。距離次第では.338ラプアマグナムへ換装することも考慮して、ボルトとバレルの交換は特に早い。

 あっという間にシャーシフレームを分解し、オイルを注していく美夜。ふと彼女はエレノアのワルサーP99が気になった。いや、普段から気にしてはいたが、訊ねる機会がなかったという方が正しい。

 

「なあエリー。そのP99の刻印、なんか意味あんの? 特別仕様?」

 

 美夜が指差したのはスライドの刻印だった。

 特徴ある紋様は、リボルバーなどを装飾するエングレーブとは異なった雰囲気だ。まるで何かの組織に使われるような、そんな雰囲気。

 

「さあ。私がこれをもらった時、もう入ってたし」

「んー、納得いかねー!」

 

 もやもやとした疑問が残る返答。美夜が自身の髪を掻き乱す。

 

「納得行かないっていったって、私だって知らないんだから仕方ないでしょ」

 

 点検整備を終えたエレノアはP99を組み上げ、スライドを数度引いてオイルに慣らしていく。

 小気味良い金属音が部屋に響いて消える。それと同時に、エレノアのスマートフォンが着信を告げた。

 

「今日はよく電話が鳴るなぁ」

 

 着信は鈴那から。受話ボタンをフリックすると、すぐさま声が上がる。

 

『出たか出たか! んむ……もしや夕飯じゃったか?』

「いや、違うけど。さっき終わったし」

 

 ふむ、と声を漏らす鈴那。

 

『美夜も一緒じゃろう。スピーカーにしてくれ、お主らの力を借りたい』

 

 どこからバレたのか。しかし鈴那に関して言えば、考えるだけ無駄だった。

 先日のCVR救出でさえ一部始終は見られていたのだ、情報科にいる彼女に隠し事は出来ない。

 スピーカー出力に切り替え、テーブルへスマートフォンを置く。美夜はバリスタを組み立てつつも、注意をそちらへ移したようだった。

 

『明日は土曜日じゃが、すまぬがピラミディオン台場へ行ってはもらえぬか』

「ちょ、スズ! 明日休みやん!? なんで私らが行くん?」

 

 ライフルパーツをやや乱暴にテーブルへ置くと、端末に噛みつかんばかりに身をのりだし抗議する。

 電話口でも困惑の声が聴こえていたが、咳払いと共に調子を取り直す。

 

『単なる警備……と言いたいのだが、不審な動きがあってな。先日盗まれた密売武器も判明して、ちょっとな』

「盗まれたのは?」

『グロック19が四挺。それからシュタイアーTMPが複数』

 

 鈴那の情報を聞いたエレノアが小さく笑った。

 

「随分いい銃ばかりね」

『笑ってはおれぬ。直後にピラミディオンが利用する警備会社の制服が紛失しておる。その会社がメインにしておるのが、グロック19じゃ』

 

 なるほど、と美夜が手を叩いた。

 彼女の中で物事は繋がったようだった。

 

「要するに、ピラミディオン台場をペテンに掛けるとか、何か良からぬことをしようとしてるアホがいる。それもとんでもない規模で」

「でも、ピラミディオンへ何をしに? カジノでしょう?」

『カジノには何が集まる? 答えは単純、金じゃ』

 

 鈴那はさらに言葉を紡いでいく。

 

『先輩方が大立回りをしてから、ピラミディオンも変わった。最新型の地下金庫セキュリティシステム、金属ドア……その奥にはいつもはち切れんばかりの金がある』

「……決行される日は?」

『わからぬ。明日頼みたいのは、その辺りの偵察も含めておる。南野先輩に衣装を頼んでおくから、CVRへ寄ってからピラミディオン台場へ行ってくれ』

 

 事件の匂いがあるのはエレノアも美夜も理解はした。しかし、折角の休みを潰してまで一年である彼女たちを利用する意味がわからない。

 

「私らを使う理由は何?」

 

 美夜が端末に向かって問う。エレノアが彼女へ視線をくれると、ライフルが組み上がっているのがわかった。

 

『一年は警戒されづらい。わしらはひよっこじゃからな、犯人が仮にお主らに気付いたところで、一年程度しか動いていない──としか思うまいよ』

「……わかった。美夜も連れて明日行くけど、鈴那たちは?」

『南野先輩は別な車で。わしはカメラ映像のチェックじゃ』

 

 仕事は決まってしまったようだ。恐らく、鈴那側でピラミディオン台場へ警告はしているのだろう。

 武偵校からも依頼受諾のメールが二人へ届いた。これで、武偵として公認の仕事になる。

 

 通話を終えると、美夜はすぐに机へ項垂れた。

 お陰で休みは潰れてしまった。武偵として事件を見逃すことはしたくないものの、休みは休みとしてゆっくりしたかった。それはエレノアも同じだった。

 週末の特権、ちょっとした夜更かしも無しである。

 

「しゃーねー。風呂入って寝よか」

「だから、ここ私の部屋なんだけど。ルームメイトいたら怒鳴られてるからね?」

 

 呆れるエレノア。とはいっても、やることは美夜の言う通り程度にしかない。

 夜も更けていく中で、仕方なくエレノアは項垂れる美夜に従った。




今回の事件、もしかすると「おや?これは?」と思ってしまった方もいるのではないかと……。

はい、モデルにしてます(笑)

次回はガーリーエアフォース二次の後になるかと。
次回もよろしくお願いいたします?


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005.カジノ偵察

 東京、台場。夜の帳が下りても、この場所はいつも明るい。

 ピラミディオンと呼ばれる、ピラミッドのような建物の合法カジノが出来てからは尚更だ。

 

 エレノアが駐車の順番待ちをする周囲の車も、とてつもない高級車ばかりになっている。フェラーリにメルセデス・ベンツ、アストンマーティンなどなど。

 フロントウィンドウ越しに見えるリムジンには、先輩である六花が運転手付で乗っていた。エレノア、美夜の二人もまた、無用な警戒心を客に抱かせないよう、指定されたドレスに着替えている。

 銃撃戦は想定されていないが、武偵校制服に使われる防弾繊維が編み込まれた特注品だ。そういった事情もあって、美夜も今回は目立つ狙撃銃を置いてきている。

 黒いワンピースタイプのドレス。その太股に、FNX-45ピストルだけを装備する。スカート部分でホルスターごと隠れるため、下手な動きさえしなければ見つかりはしない。いざとなればスリットを作れるよう、ジッパーも隠されている。

 そして同じようにエレノアもまた、深紅のドレスにP99ピストルのみだ。年相応ではないと騒いだのだが、エレノアもハーフ。見た目だけで言えば、その辺りの男の目すら引いてしまう。

 

「いい? 美夜。銃は無し」

「あいあい。分かってるって、チャカにナイフは無しやろ。エリー、車。前出せ」

 

 順番が回ってくる。走り去っていくリムジンにあわせて入り口へ488ピスタを乗り付ける。

 完全停止と共に、六花と目があったエレノア。六花はまばたき信号で先へ行く旨を告げ、巨大なカジノへ足を踏み入れる。

 バレーパーキング式のピラミディオン。美夜とエレノアで車を降り、駐車係へ鍵を渡す。引換券を受け取って、二人は漸く現場入りを果たした。

 

 

 広い店内は水の演出も使われた、豪華絢爛で涼やかな空間だ。

 チップの交換は事情を説明し、スキップ。あくまでもビジターになりつつ、二人は広大な空間から異変を探さねばならなくなる。

 

「すっげぇ。こんなん私、映画でしか見たことないわ」

 

 見渡せばあちこちでルーレットやポーカー、ブラックジャックなどに興じる客がいる。騒がしい歓声に、チップのぶつかる音が混じり合う感覚は、美夜には不思議としか表現出来ない。

 慣れないドレスを気にして浮き足立つ美夜。対するエレノアは冷静で、すぐにロビーへ下りていく。

 

「行くよ、美夜。南野先輩とは一旦別で、私たちも探さなきゃ」

 

 振り返り、手を差し伸べるエレノア。明るい照明にさらけ出された白い肌、青い瞳。金色の長い髪がさらりと揺れる。

 すらっと長い指に綺麗な手。それが真っ直ぐに、美夜へ向けられていた。

 

「なんか、ズルいわ」

「何が?」

 

 思わず見とれてしまった自分を戒めつつ、美夜はその手を取った。ほんのりと暖かい手が、美夜の手を優しく握り締める。

 

「ボンドガールってこういうことなんかな」

「だから、私は違うって」

「にしたって、慣れてへん? もうちょい落ち着かない感じしないん?」

「何でだろ。別に何も? ドレスもサイズいい感じだし」

 

 どうやら答えにはならなさそうだ。美夜は嘆息しつつかぶりを振る。

 ピラミディオンロビーを抜けた二人は、スロットコーナーを通過する。無限に現金を呑み込むこの機械は、カジノを知らない二人からすれば得体の知れない怪物だ。

 

「そういえばさ」

 

 美夜がふと、右を歩くエレノアへ声をかけた。

 

「なんかあるかもしれないってなら、閉鎖すりゃええんと違うの?」

 

 美夜の話も尤もだ。

 強盗とは人の目が多いこの場で口には出せないが、強盗に狙われているのは事実。

 それでもピラミディオンは恐らく普段と変わらずに営業しているのだろう。行く先々で、二人は人をかわして歩かなければならなかった。

 

「閉鎖すれば向こうが感づく。そうしたら、ターゲットは別な場所になる。それなら分かりやすくピラミディオンを使った方が良いでしょ」

「ふーん。それは武偵の考えだな」

「勿論。要請あるから手を出し、無用な被害は極力出さない。悪は逃がさず、必ず捕まえる。今回はやり方分かってるし」

 

 犯人は恐らくバックヤードを抜ける。二人の歩く先にスタッフオンリーの扉があった。

 セキュリティカードが必要なタイプだが、近くの関係者に声をかければ手を貸すと、条件には含まれている。

 そこで詳しい情報を洗う。六花は念のためカジノエリアを捜索し、鈴那へ情報を送る手筈だ。

 

 スタッフルームへの扉に辿り着き、二人はそれぞれ分かれて関係者を探した。

 幸いピラミディオンは広大な敷地に充分なスタッフを配置しており、苦無くバックヤードに入り込む事が出来た。

 扉が閉まると、一気に喧騒とは掛け離れた重苦しい空気に包まれる。通常営業のようで、バックヤードは巡回警備が増えているようで、訝しげにエレノアたちを追い掛ける視線もあった。

 

「出入り口は金属探知機、監視カメラは多数か」

 

 警備員に紛れつつ、美夜は周囲の状況を観察。一通りのセキュリティシステムは揃えられていた。

 通常なら侵入する気も起きないような数のカメラに、巡回まで。それを抜ける手段を向こうは用意しているのか。

 

「警備会社の制服が盗まれてるし、紛れる気なんだろうけど……」

 

 エレノアが呟く。セキュリティシステムは厳重だ。

 銃撃戦で突破すれば大騒ぎになるし、見つからずにピラミディオンへ近付くのも至難の業。となれば、関係車両で裏に乗り付ける手段しかないだろう。

 ならば、それがあるとすれば? エレノアは近くの警備員へ身元を明かしつつローテーションを訊ねる。

 

「えっと、近々貴方の会社で警備人員の入れ替えだとかあったりしませんか?」

 

 エレノアの問いに、警備員の男は暫し視線を泳がせつつ、だが思い出したのか声を上げた。

 

「確か、金庫室の定期メンテナンスだよ。うちの人員が、作業員についていくことになってるな」

 

 その答えに、エレノアが美夜へ振り返る。美夜もしっかりと頷いた。

 

「その警備員、名前は?」

「いや、その時に行ける人間が行くことになってる。勿論、身元示せるようにカードはあるが。こんなのさ」

 

 警備員は首に提げた社員証を見せる。

 だが、盗まれたのは()()()()か? 

 

「その定期メンテナンス、いつですか?」

「明後日だな。その頃には業者とうちのスタッフとも顔は合わせてるだろ」

 

 エレノアの中で、かちりとパズルのピースがハマった。

 忠告をすべきか迷う。忠告をすれば、間違いなく警備員が厳戒体制に入るだろう。下手をすればピラミディオンも閉鎖されかねない。

 警備員が急に増えれば、犯人も怪しむ。だが、伝えないのは正義ではない。

 

「強盗の話は聞きましたか?」

「ああ。だから、こうしてる」

「もしかすると、その金庫室のメンテナンスが狙われるかもしれません。ただ、私たち武偵としてはここで犯人を捕まえたい」

 

 エレノアは拳を握りしめ、警備員へ訴えた。

 

「だから、このままで居てください。明後日には私たちも任務で付きます」

「それを聞かされて、俺個人で『はい、そうしましょう』とはな……」

「ピラミディオン側とこちらの人間は既に話をしています。今の状況も、仲間は見ていますから」

 

 エレノアは自身の胸元を親指で指し示す。装備科(アムド)謹製の超小型ボディカメラが、その指先にある。そのカメラの向こうには、情報科の鈴那と数名の通信科(コネクト)がいる。

 既に状況はピラミディオンに回されているはず。盗みに入るには、そこしかない。

 

「私たちは一旦引き上げますが、警備は緩めないでください」

「勿論だ」

 

 エレノアは美夜と共に、バックヤードを後にする。

 スタッフオンリーの扉からピラミディオンカジノエリアへ戻り、スマートフォンを取り出した。

 ロックを解除すると、同時にメッセージを受信する。送信者は鈴那だった。

 

『ご苦労じゃったな。ピラミディオンとは現在協議中で、今夜には結果も出るじゃろ。我々は引き上げじゃが、エレノアは一度わしと会ってくれ。報酬を渡そう』

 

 依頼自体はさほど難しいものではなかった。むしろ本番は明後日、恐らく強盗が入る当日といえる。

 しかし、鈴那の記す報酬とは何なのか。エレノアは訊ね返すが、応答はなかった。

 

「エリー、美夜ちゃん。終わったみたいね」

 

 純白のドレスを着こなす六花が二人へ合流する。

 

「話は行きましたか?」

「えぇ。明後日でしょう? CVRでは手出しできないから、あなた達に任せちゃうけど」

「問題ないです。私たちは帰りますが、南野先輩は?」

「またリムジンよ。一応、そういうロールだから……。またね」

 

 ひらひらと手を振り、六花はカジノエリアから去っていく。

 エレノアは美夜と顔を見合わせ、その後を追うようにピラミディオンを後にする。今はすることもない。カジノに興じる依頼ではないし、むしろ今は準備が先だろう。

 引換券を駐車係に渡して、車を待つ。

 車へ乗り込んで、台場を出る頃には美夜は少々眠そうに船を漕いでいた。

 

「美夜、学園島着くよ」

「ん……。りょーかい、ちょっとエリーの部屋で休ませて。少ししたら帰るし」

「わかった。私は少し出掛けるから、自由に使って」

「ん」

 

 美夜からの返事は単純だった。寝息を立てているようにも聴こえる。

 学園島への出入りに、エレノアはちょっとだけ気を遣いつつ車を運転して帰った。

 

 □

 

 美夜を自身の寮まで連れていき、それから鈴那が指定した広場へ。

 首都高速に向けて巨大な看板があるこの広場は、もっぱら武偵同士の私闘のリングにされている。

 強襲科も履修する鈴那にそんな場所へ呼び出されて警戒するが、彼女は騙し討ちをするような人間ではない。報酬が何か、それはまさに今現れた彼女が明かそうとしていた。

 

「鍵の謎が解けた。ほれ、今回の報酬は謎の鍵の答えじゃ」

 

 鈴那がエレノアへ放って寄越したのは、長年使い道もわからず放っておいた鍵だった。

 新しく鍵には質素なメモホルダー兼用のキーホルダーが付けられていて、鈴那の物であろう殴り書きが為されていた。

 

『江東区、26番倉庫』

 

 読みづらい字ではあったが、解読は可能だ。そして、その字の並びにエレノアの記憶が既視感を生む。

 

「江東……N26。ナンバー26……そっか、倉庫の答えだったんだ」

「そのようじゃな。わしは手紙までは見とらんが、それを残したお主の父親は、流石に業を煮やしたのではないか? いつまでも解き明かせないものだから」

「仕方ないじゃない。でも、それじゃあ『J』は何?」

 

 エレノアへ届いた手紙には、その答え以外に記された文字があった。

 Jとただ一文字。

 

「行けばわかるじゃろ。少なくともわしは、驚きはしなかったが。行け、エレノア」

「……ここに答えがあるの? Jの答えが」

「行ってみてのお楽しみじゃ。時間も遅い、行くなら早く行くか明日へ回すかじゃぞ?」

 

 既に日は沈み、日付すら跨ごうとしている。

 エレノアには、もはや日を改める余裕は無かった。488ピスタに乗り込むと、やや乱暴にアクセルを踏み込む。

 砂利を飛ばしながら急発進した車を遠目に見送りつつ、鈴那は呟く。

 

「本当に、こんなことがあるんじゃな。付いてきて正解か……。のう、エレノア」



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006.What's your name?

 江東区へやってきたエレノア。漸く長年の謎が解けるのだ、気持ちが高揚していないといえば嘘になる。

 既に時間は深夜一時をとうに回り、二時へ迫る。

 

「この辺りかな」

 

 メモには住所も記されていた。エレノアが見つめる先に、整然と倉庫が並ぶ。

 車を降りて目的の倉庫を捜すその時だった。

 エレノアの背後で重たい何かが落ちたような音がする。接触の音は無機物のそれではない。さらに殺気を感じて、彼女はP99を引き抜き、振り返った。

 

「誰!?」

 

 人影があった。長く大きめな房になったポニーテール、あやめ色の髪。170cm以上はあろう長身の後ろ姿に、同じほどの長さの刀を地面に立てて。

 そのシルエットはもはや刀でなく、物干し竿のようだ。エレノアは最大限の警戒と共に、P99のスライドを引く。初弾が薬室に送られた。ここからは、容易く人を殺せる凶器に変わる。

 

「あなたは?」

 

 問いに返しは無い。聞き直すと、人影はゆっくりと振り返る。

 月明かりに照らされたその人物は、端整な顔立ちの女だった。ジーンズパンツにキャミソールと少々露出の高い服装から、大振りの刀など似合わない、良く締まった腕が見えている。

 笑みを浮かべ、月夜を背に佇む姿はあたかも挑発をしているかのようだ。エレノアは警告を投げ掛ける。

 

「私が武偵だと、分かって立ちはだかってるの?」

 

 P99の照準には女を捉えたままだ。それでも、相手は不敵な笑みを隠そうともしない。

 答えはなく、エレノアは引き金を引く。勿論警告射撃だ、足元を狙っている。

 

(警告にもひるまない……?)

 

 相変わらず、女は刀を携えたまま立っている。P99が発砲を終え、銃口から硝煙を上げていて、相手の足元にはそれによる弾痕が出来たにも関わらずだ。

 不意に女が刀を構えた。鞘ごと左腰に持っていくスタイルは、いわゆる居合い斬りだろう。しかし、居合いで抜刀をするサイズの刀身ではない。

 突如、月夜に何かが煌めいた。すぐにそれは剣閃であったとエレノアは知る。刀は地面を軽く抉るが、女が刀を抜いた素振りは視認出来ない。

 あまりにも早い抜刀。自分の身長とほぼ変わらない刀身の刀で、いとも容易くやって見せたのか。だとすればもはやただの人間の域ではなく、遠慮している余地ははない。P99を構え直し、人体の無力化を狙って関節へ銃口を向ける。

 

 二発の銃声と共に、同じ数だけ金属音が闇に響いた。女は相変わらず刀の柄に手を掛けたままだ。

 銃弾は弾かれたとでもいうのか。音速で飛ぶ銃弾を、刀の抜刀で二発とも弾いて見せたのか。エレノアに戸惑いが見え始める。

 圧倒的な実力差。いくら長大な刀相手とはいえ、その切っ先の届かない有利なはずの距離で、エレノアは勝つことが出来ない。勝機を見出だすことが出来なかった。

 ふと女の姿が消える。否、消えたと錯覚するような二歩一撃。エレノアの懐に飛び込んで、女は刀を引き抜いた。

 

(ヤバイッ!)

 

 エレノアも武偵校の制服に着替えはしている。ネクタイは防刃、服の生地も多少の刃には耐えるだろうが、この女の異常性の前にはわからない。

 拳銃を咄嗟に構え、だが懐への侵入を許したまま刀は月明かりを受けて輝いた。

 

「その刻印は……」

 

 白刃が完全に鞘から姿を表す直前、女がP99に刻まれた刻印を見てその手を止めた。

 すかさずエレノアは女を蹴り飛ばし、反動を使ってバックステップ。再び距離をとる。

 

「喋れるのね」

 

 再びピストルを構え直し、女へ軽い冗談めかして吐き捨てる。

 

「ごめんごめん! 26番を狙う不届きかと思ってさ!」

 

 女は放っていた雰囲気に反して、殺気を夜闇に解けさせると明るい語調で話し始めた。

 しかし、彼女は26番倉庫を知っているようだ。エレノアは警戒を緩めることなく、銃口は向けたまま問い掛ける。

 

「倉庫には何が?」

「ヒミツ。私が守っている理由も、今はヒミツかな。でもそうだなー、ようやく待ち人は来たって所」

 

 再び刀を地面に立てて、女はエレノアを見据える。

 

「意外や意外。まさか女の子だったなんて。私もそこまで聞いてなかったし」

「何を言ってるの?」

 

 何やら意味ありげに呟く女に対し、一歩踏み出しつつエレノアは問いを投げる。

 

「まあ、とにかく26番に行っておいで。君は資格を示した。いや、危うく斬り飛ばしちゃうトコロだった私が言うのもなんだけど……」

 

 軽く刀を持ち上げ、肩に担いだ女は居たたまれない様子で空を仰いだ。

 

「そう。良いんだ、行って」

「じゃなきゃ、あのまま斬っちゃってるよ。仲間がいるなら呼んだ方が良いかもしれないから、そこはお任せで! じゃ、お姉さんは帰ろっかなー!」

 

 やっと長い仕事から解放された、などと女は呟きながらエレノアへ背を向けた。所属不明の謎の女だ。まだピストルは仕舞っていない。

 今なら撃てる。しかし、武偵の仕事は殺しではない。それに、銃を相手に背を向けるだけの余裕を見せる相手に、不意討ちすら通用するとは思えなかった。

 P99をデコッキングして撃鉄を戻し、ホルスターへ収める。それからエレノアは、再び目的地へ向かって足を進めた。

 

 最早邪魔は入らない。今度は簡単に目的地へ辿り着く事が出来た。

 26の数字がシャッターに記された、大きな倉庫。一体何が入っているのか、想像も出来ない。もしかしたら戦闘車両の一台でも収まっているかもしれない、とすら思えた。

 なにしろ、あれだけ腕の立つ剣士が守っていた倉庫だ。それくらいの想像は出来る。

 

 念のため車輌科で頼れる武藤に失礼を承知で連絡すると、彼はすぐに向かうと返答した。

 それから、すぐに倉庫は開けるなと助言もあった。

 

 助言を受けて倉庫前で武藤を待つエレノア。時間にして深夜三時。風も冷たく、全体的に薄着な武偵校女子制服では寒さを凌げない。

 上着を持ってこなかったのは失敗だったと後悔していると、見慣れた日産サファリがやってくる。ライトの明かりに目を細めるエレノア。

 降りてきたのは武藤だ。深夜ということもあって、彼一人しかいない。しかし、彼女の抱えていた秘密が一つ明らかになるとなっては、気にならない訳がなかったらしい。

 

「早速開けてみようぜ。ただ、気を付けろ」

「はい」

 

 シャッターの鍵穴に、幼少から持っていた鍵を合わせる。吸い込まれるように鍵穴に入り込んだシャッターキー。捻ると、今までの障害があっさり吹き飛ぶように、軽く鍵は回った。

 深夜には少々大きな音を上げ、シャッターはエレノアの手から離れる。天井に回り込んだシャッターの向こうの空間は、暗闇に包まれていた。

 

 エレノアが一歩、倉庫へ足を踏み入れる。

 すると、天井に取り付けられた電灯が奥から順番に、まるでずっと待っていたエレノアを迎えるように点灯し、内部が明らかになる。

 

「……マジかよ」

 

 倉庫の中身を見て、武藤は驚愕に声を漏らす。

 LEDの青白い明かりに照らされた内部にあったのは、車が一台とガンラックが一つ。

 

「アストンマーティンV8ヴァンテージか! しかも70年代の古い方じゃねぇかよ!?」

 

 チョコレートブラウンの車体は少々古めかしい。今時の曲線を帯びた機能美というよりは、メーカー特有のデザインセンスに戦闘力が上乗せされているような厳つさがある。

 少々小径のメッシュタイプホイールに、今時では使われることも少ない高扁平の分厚いタイヤ。

 ボディ全体も大柄で、灯火類も古めかしい。フロントは丸目二灯式で、顔立ちを作り出すグリル部分はボディ同色のパネルだ。そこに丸い追加ライトが二灯装着されている。

 

「すげえ……。ホンモノだぜ」

 

 四十年以上の時を経て変わらない、伝統のアストンマーティンバッジ。スカラベをモチーフにしたウイングバッジが、時代を感じさせる角形のテールランプ左右の間とフロントボンネットの前方に取り付けられている。

 武藤も様々な車を見てきたが、旧型のアストンマーティンなどほとんど見たことがない。それも、至るところで話題に上がるようなボンドカーと変わらない仕様のモデル。

 窓ガラスは防弾強化ガラス。流石に武装は着いていないが、FMラジオ部分に警察無線チューニングボタンがある。

 

「ボンドお前、ずっとこの車を預けられてたんだ。意味わかるか」

「いえ。だって私、両親はいなくて……」

「中に手紙があるぜ。それ、読んでみろ。俺は他に何か無いか見てくるからよ」

 

 鍵は掛かっていない。武藤がドアノブを引くと、容易くV8ヴァンテージは二人を迎え入れた。

 武藤が倉庫の奥へ消えていく。

 右ハンドルの車内は、紛れもなく英国仕様の証だ。何しろ70年代では、アストンマーティンは日本仕様など作っていないのだから。

 助手席には無造作にメモが置かれていて、置き手紙になっている。エレノアは運転席に腰掛け、中身に目を通した。

 

『親愛なる我が娘へ。君が武偵として、この車を見つけたことを嬉しく思う。いくら娘といえ、君に多くを語ることはできない。ただ一つ確かなのは、君は自分の本当の娘だ。とある組織の一員ではなく、自分という人間の本当の我が子だ。どうか、置き去りに孤児院へ入れたことを許して欲しい。君を危険には巻き込めなかった』

 

 エレノアの頭はただ混乱していく。しかし、手紙はまだ先に続いていた。

 

『君にこの車を。だがもし、君が楽園の戦士を求めるのなら、自分の足下を一度見てみることだ。自分とは、この先も会うことはない。それが君の幸せだと考えた。君は君として、一人の人間、武偵として生きるんだ。ミサキが加減を間違えて、君に怪我をさせていないことを祈る。親愛なるエレノアへ、ジェームズより愛を込めて』

 

 読了。嘘だと思った。何処かで誰かが、ドッキリの看板でも担いでいるのではないかとすら思った。

 しかし常識的に考えて、生まれてから抱えていたものに、そんなドッキリなどあるわけがない。

 だから思う。よく語られるあの名前の人物と単なる同姓同名とは考えが至らない。彼の男の象徴たるワルサーのピストルを預けられ、そして今度はアストンマーティンまで。更には腕の立つ女剣士に何年も倉庫を守らせていた。

 単なる父親ならば、ここまで手の込んだことはしない。重大な秘密があったからこそ手間を掛けたのだ。

 

「……でも、今更どうしろって」

 

 ステアリングに顔を埋める。十六年だ。十六年越しに秘密を明かされたって、今更立ち居振舞いなど変えられようもない。

 いや、『父』はそれを望んでいないのだろう。たとえ正体が知られていようと、彼は一人の人間として互いに振る舞うよう願い、記していたようだった。

 だから、これらはそんな父親からの最後のプレゼントなのだろうと。エレノアはそう考えることにした。

 

 車を降りて、ガンラックへ。ワルサーではなく、意外にもベレッタ製のピストルが一挺だけ収められている。

 薄いシャンパンゴールドのような独特な表面仕上げ、上面を切り抜かれた特徴的なスライドから覗くバレルはつや消しブラックのデュアルトーンとなっている。

 

「これは……」

 

 ワルサー以外にも、ベレッタはいくつも触ってきたエレノアだが、このベレッタは他の92シリーズより重かった。

 スライドの右サイドには92Xの刻印がある。

 ベレッタ92X、それがこの銃のモデル名であるようだ。

 

「プレゼントなら、もっと簡単な場所に隠しておいてよ」

 

 この先会うことのない父親へぼやくエレノア。92Xに弾が入っていないことを確かめると、P99から弾を抜き、装備を92Xに入れ換えてV8ヴァンテージのグローブボックスへP99を押し込んで閉める。

 ホルスターは汎用タイプで、少し調整するだけで簡単に収める事が出来た。重量が変わりすぎて少々違和感はあるが、いずれ馴れる。

 

「ボンド、読んだか」

 

 倉庫の奥から戻ってきた武藤へ、頷いて答える。

 

「そうか。まあ、お前が何だって変わらないさ。お前は武偵で、仲間で、ダチだからな。お前もそうだろ?」

「ええ。十六年も経ってから言われたって、今更あんな風にはなれませんから」

「だな。よし、エンジン掛けてみようぜ」

 

 武藤は興味津々にV8ヴァンテージを眺める。目を輝かせて、その心臓部に火が入るのを待っているようだ。

 幸い鍵は車内に置かれていた。ボンネットを開け、武藤はバッテリーへ配線を戻す。車内ではエレノアがキーシリンダーへ鍵を挿し込み、武藤の合図を待った。

 

「いいぞ!」

 

 武藤の声に反応して、エレノアがキーを捻る。現代の車とは燃料噴射方式が違うせいで、簡単にエンジンは掛かってくれなかった。

 セルモーターの回る音を何度も聴きながら、アクセルペダルを慎重に踏んでいく。咳き込むような音が数度、倉庫に響いた。

 さらにもう一度、鍵を捻りながらアクセルペダルを踏み込む。

 エンジンの振動が車体を揺らす。けたたましいV8エンジンの咆哮が倉庫内で轟いた。

 

「これだよこれ! 古いV8サウンドの低い唸りッ! たまんねぇ!」

 

 武藤はすっかり興奮してしまっているようで、何かにつけV8ヴァンテージを褒め称えている。

 

「ヴァンテージか……」

 

 間違いなく、自身の愛車。488ピスタには敵わないスペックだが、ウッド調のパネルを配したキャビンも何もかも自分のものだ。

 エンジンを吹かすと、古めかしいスミス製のクロノメトリックメーターが少し遅れて針を跳ね上げる。旧い構造である機械モーター式特有の、腕時計のような動きと、内部で鳴っているギアの音。秒針が時を刻むような音は残念ながらエンジンを回せば負けてしまうが、落ち着かせれば再び聴こえてくる。

 

「そろそろ朝早いヤツは起きてるな。積車出せるか、当たってみる。コイツは持ち出していいのか、ボンド?」

 

 助手席から運転席のエレノアへ訊ねる武藤。エレノアは躊躇うことなく頷いた。

 父親からのプレゼントだ。彼女に遠慮はないが、想定外のプレゼントに高揚感は隠しきれない。

 武藤が片っ端から車輌科生徒に電話する横で、彼女は愛おしそうにV8ヴァンテージのステアリングを撫でた。




本当は、あと一話引っ張りたかったです。
タグ追加は次の話から行います。

次回もどうか、よろしくお願いいたします。


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007.The name is Bond. Eleanor Bond

 武偵校は車輌科に運ばれたV8ヴァンテージは、そのままエレノアたちの手で整備されることになる。

 しかし、完全に放置されていた訳ではなかったようで状態はむしろ良好。今すぐにでも全開走行しても問題無いような状態であった。

 ただ、時代に合った車ではない。エレノア自身、自分の車が旧式になるとは思っておらず、電子制御の無いハイパワー後輪駆動の扱いの難しさに困惑していた。

 

「全然タイヤが食わない……」

 

 現代のハイスペックなタイヤからすれば、いくら上級モデルのタイヤでも70年代の旧式では路面への食い付きが全く違う。

 ステアリングは重く、タイヤは路面の上をずるずると滑っていく。

 コース上でスピンした車を停め、シートに深く寄りかかり嘆息するエレノア。こうなったのも、一回目ではない。

 

「もうっ!」

 

 トライアンドエラー。どんな物であれ、それに慣れ、調整するにはそれしかない。だが彼女は少々根を詰めすぎていたらしい。

 ガレージに戻ると、クラスメイトが心配そうに声を掛けてきた。

 

「ボンドさん、大丈夫? 少し休んだ方がいいよ」

「そうする。少し、他の科とかも見てこようかな」

 

 潮風に髪を揺らしつつ、エレノアもクールダウンしていく。

 武偵校専門履修科はそれぞれが島全体を使い、遠く離れた場所にある場合が多い。

 V8ヴァンテージに慣れるためにも、乗っている時間は増やしておくべきだと彼女は考え、別の科への見学を考える。

 

「それだったら、強襲科は? 今なんか、面白いことになってそうだけど」

「面白いこと?」

「蘭豹先生の知り合いが遊びに来てるんだって」

 

 どうも要領を得ない語り口。エレノアも折れんばかりに首をかしげる。

 蘭豹といえば、荒くれ者揃いの武偵校でも一、二を争う狂暴さの教師である。その知り合いとなれば、まともな人間ではないだろう。

 しかし一度刺激された知的好奇心は止まらない。エレノアは生徒に礼を言うと車へ乗り込み、強襲科棟へと向かった。

 

 基本的に放課後で、エレノアも今は車に慣れるための走り込みをするくらいしかやることはない。近々ヘリコプターの操縦訓練は予定されているが、それまではある意味、車さえあれば自習とすら言えた。

 少し車を走らせると強襲科が割り当てられた体育館に行き着く。外観はどこの学校にもある体育館に近く、しかし一度足を踏み入れれば荒くれ者の巣窟とすら言える空間だ。

 強襲科の卒業率は97.1%と言われ、百人のうち三人は生きて卒業出来ないとされる過酷な学科だ。しかし、前線を駆け抜ける彼らは武偵の花形。強く在れば、それだけ将来の選択肢も増えるのには違いない。

 

 エレノアが車を停めて体育館へ近寄ると、人だかりに行く手を阻まれた。

 内部で何か起きているようだが、それを確かめようとしても人垣で見えない。

 

「エレノア、こっちこっち!」

「うわっ……! って、ライカ?」

 

 人垣の中からエレノアの手を引っ張ったのは、エレノアの普通学科のクラスメイトである火野ライカ。

 少々粗野な印象があるものの長身の美人で、体術に優れ、男子生徒相手の組手でさえ一歩も引かない。それが火野ライカという少女だった。

 

「ウワサ聞き付けてきたんだろ?」

「まあね。何が起きてるの?」

 

 エレノアが問うと、ライカは窓を指差して覗くよう促した。それで全てが判ると。

 促されるまま、エレノアは体育館の窓の向こうに広がる景色に目を向けた。

 

 □

 

「冗談だろ……」

 

 強襲科の男子生徒は脇腹を押さえつつ、痛みに顔を歪め呟く。

 

「蘭豹の知り合いだっていうから警戒はしたけど……」

 

 別な女子生徒は身体を起こせず、片肘をついて上半身を支えながら皆の中心に立つ人物を睨んだ。

 

 体育館は地獄絵図だった。

 精鋭揃いの強襲科生徒が床に転がり、その中心に立っていたのはエレノアと対峙したあの女だった。

 長刀を携え、余裕の振る舞いすら見せる。

 

「どうしたんやお前ら! もう終わりかいな!」

 

 響く怒号。2メートル近い長身の女は強襲科顧問、蘭豹。全てが規格外の、まさしく武偵校の化物だ。

 

「全く、居合わせたのは運の尽きかのぅ」

 

 女へ赤い閃光が駆け抜けた。鈴那だ。彼女はカランビットナイフを抜き出し、女へ向かう。

 だが女はあくまでも余裕。刀を構え、右手を柄へ添える。

 剣閃が走るより早く、鈴那はジャンプしていた。女の牽制をかわし、更に懐へ。ここまで近づけた生徒は他にいない。強襲科生徒から歓声が上がる。

 

「やるねー! じゃあ、ちょっと本気ッ……!」

 

 刃が三度の煌めきを見せた。瞬間的な三連抜刀。鈴那もこれはカランビットで受け流し、距離を取る。

 

「ならば、次はわしの番じゃな……!」

 

 低く、低く。床を滑るほど低く駆け出す鈴那。女が抜刀するより早く懐へ飛び込み、カランビットナイフを下から力の限り振り上げた。

 女はそれを上体を反らしてかわし、鈴那の腹部へ強く柄頭を打ち込んだ。

 容易く吹き飛ばされる鈴那。地面を数度転がり、しかし素早く体勢を立て直す。

 

「蘭豹先生の知り合いだから相手をしろというからやってみれば、とんだインチキ人間じゃな……」

 

 鈴那も腹部を押さえ、遂に膝をついた。

 強襲科が落ちた、と体育館の外で野次馬をしていた生徒の一人が呟く。

 いや、落ちてなどいない。生徒の訓練は終わりだ。ここまで自身の教え子を叩きのめす様を見せられて、蘭豹が昂らない訳がなかった。

 

「次はウチが行ってもええよな?」

「そこまで予定無かったけど?」

「予定は予定……ここに来た以上、ウチがルールやッ!」

 

 蘭豹は背中に背負った斬馬刀を振り抜き、体育館が揺れるほどに強い一歩を踏み出す。

 間合いは刹那に縮まった。上段から斬りかかる蘭豹を、女は居合いの型で待ち構える。

 

「そらッ!」

 

 衝撃すら走るような斬馬刀の一撃。女はそれを振り抜いた刀で弾き、素早く距離を取る。

 

「らんらんと戦いに来たんじゃないんだってばー。捜してる人がいたの!」

「じゃかぁしい! こない戦い見せられたら、ウチの血ィ騒ぐんは理解しとったやろ……!」

「そもそも『相手してやれ』っていったのそっちじゃん!」

 

 何気ないやり取りの合間に打ち合われる刀剣。刃は火花を散らし、床を削った切っ先は容易く体育館の床を抉る。

 

「……あ!」

「……ん?」

 

 ふと、打ち合う女とエレノアの目線が結ばれる。

 間違いなく反応があった。女は刀の打ち合いから間合いを取り、観戦していたエレノアへ歩み寄る。

 

『探したよー。名前もなにも聞いてなかったしさ』

「いや、探したもなにも……」

 

 後ろから襲い掛かる蘭豹を往なし、体育館の壁向こうから女は訊いた。

 

『私は杠ミサキ。貴方の名前は?』

 

 重たい斬馬刀の一撃を、ミサキは目視すら不可能な抜刀で弾き飛ばしてエレノアへ向き直る。

 エレノアはイレギュラーな状況に戸惑いつつ、ミサキへ名乗った。

 

「私はボンド。エレノア・ボンド」

 

 ミサキに名乗ってから蘭豹が落ち着くまで、日が暮れる程度には時間がかかったがそれは別な話である。



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008.ダイバロワイヤル

 強襲科での一悶着を終え、エレノアとミサキは体育館を後にする。

 おっと、と何かを思い出したのかミサキは足を止める。

 

「ピラミディオン台場だっけ? 次は」

 

 ぞわりとエレノアの背筋を寒気が走り抜けた。なぜ赤の他人であるミサキが、武偵の次の依頼について知っているのか。

 

「どこでそれを?」

「私もただの女じゃないよ? 007を日本で補佐したのは、私の母親だし」

 

 けろりとした雰囲気でミサキは明かす。どうやら、ただ単にエレノアの父の知り合いというわけではなかったようだ。

 

「ただまぁ、最近いろんなところで盗みが起きてるからねー。嫌でも耳には入るよ」

 

 ミサキはエレノアの一歩先を行くと、手を振りそのまま歩き去ってしまった。

 自由気ままな女だ、とエレノアは思う。

 とにかく明日はピラミディオン台場での依頼になる。様々な専門科参加の下、何としても強盗を止める。

 エレノアは父親からのプレゼント、V8ヴァンテージでカジノへ潜入することに決めていた。

 本来ならば外で待った方が良いのだろうが、エレノア個人の戦闘能力を鑑みてそういう作戦になっている。

 

「……これ、任務で使ったりしてないかな」

 

 ふと、エレノアはV8ヴァンテージの車内を見渡して呟いた。

 007の映画は有名だ。しかし、まさか英国諜報機関の活躍がそのまま世に出ているとは思えない。とはいえ、彼女に渡された車もその映画で使われている。

 アームレスト部にスイッチパネルでも仕込まれていないかと思ったが、特にそんな事もなく。

 

「バカみたい」

 

 世に出回る『ジェームズ・ボンド』がカバーストーリーであったとしても、知ったものかと込めつつ、エレノアは吐き捨てる。

 車はゆっくりと走り出す。寮へ向かって。そして明日行われる任務へ向けて。

 

 □

 

 ピラミディオン台場、夜九時。

 建物の裏口は全て武偵が張っている。美夜が狙撃銃を構え、狙う扉は一番重厚で大きく、重要な意味を為していることが一目で判る。

 

「警備車輌一台。ターゲットじゃない、一人だけ」

 

 近くのビルからじっとスコープを覗く美夜。高所の風が彼女の黒いショートボブを揺らす。

 彼女の相棒、バリスタは台場の街の明かりを受けて鈍く輝く。しかし、決して反射はしない。反射止め加工によって、明るく色が変わる程度だ。

 

 場所は変わり、ピラミディオン台場店内。

 変わらずきらびやかな空間に、強襲科の生徒たちも紛れている。特別製の防弾スーツに防弾ドレス、年齢はともかく浮いてはいない。

 

「全く。裏口から入るって分かってるのはいいけど、本当にこれでいいのかしら」

 

 少々不機嫌そうな緋色の髪をした少女。不相応に小さな背丈だが、立ち居振舞いは良く出来ている。

 神崎・H・アリア。彼女の血が分かる一面でもある。

 エレノアは展示台に置かれた高級車、ブガッティの側で周囲を探索していた。

 

『ジャガーが一台、私が張ってるポイントAに接近』

 

 美夜からの通信に、エレノアが小声で返す。

 

「そんな裏口にジャガー? 怪しすぎでしょう」

『ありゃあ確かXKRだな。……通り過ぎた。気のせいかな』

 

 特に異状があった訳でもなく、再び警戒体制へ戻る武偵たち。

 途中、何度も警備会社の車両は何台も出入りしている。美夜もその都度通信は入れていたが、未だに怪しい車両は現れない。

 武偵入りがバレたか、と空気も変わろうとした時だった。

 

『来た。警備員三名、それから別なスタッフ二名。──セキュリティメーカーの制服』

 

 美夜の報告で、武偵たちに緊張感が走る。

 残念ながら車ごと内部に入ってしまうため、美夜が狙撃して止めることは出来ない。狙うならば外に出る時だ。

 そして現行犯を取るために、盗みはさせる。相手もわざわざ正面から脅かして入るのではなく、手間のかかる裏口を選んだのだ。無用な殺しをして、見つかる危険性を上げるのは避けるだろうと武偵たちも踏んでいた。

 

「美夜、私は外に出る。それから近くに怪しい車がないか探して」

『了解』

 

 足早にエントランスを通り抜けるエレノア。途中、アリアとすれ違う。

 軽く会釈して通過。ピラミディオンを出て、他所に隠していたV8ヴァンテージに乗り込みピストルを準備する。

 相手もバカではないだろう。何時間も強盗に時間は掛けないはず。安全装置は幾重にも掛けられているのだから、やるならば一瞬だ。

 

『警報だ! フェイルセーフに掛かったぞ!』

 

 エレノアのインカムからけたたましい警報音が漏れる。武偵たちも動き出したらしい。

 V8ヴァンテージのエンジンに火を入れ、追跡に備える。刹那、美夜からエレノアへ交信があった。

 

『ポイントA、XKRが張ってる。狙えない』

「わかった、私が行く」

『こちら強襲科チームA! 強盗が発砲してきたッ! 警備の車両でトンネルから外に向かってる!』

 

 事態は混迷を究めている。エレノアはV8ヴァンテージのギアを入れ、アクセルペダルを強く踏み締めた。

 

『こちら美夜。ポイントAにて、戦利品をジャガーに積み替え。エリー、狙うのはジャガーだ』

「わかった。美夜はヘリへ移って上から狙って」

『あいよ。互いにミスらずいこーな』

 

 勿論、とエレノア。

 重たい車体を暴れさせながら一般車の隙間を抜けていくと、明らかにスピード域の違うスポーツカーが視界に入った。

 ジャガーXKR。エレノアの70年式V8ヴァンテージよりも新しく、まともに張り合っては勝負にならない車だ。

 

「おっ……!?」

 

 エレノアがXKRに接近すると、乗員からの発砲に見舞われる。TMPサブマシンガンの銃弾をフロントガラスにまともに受けたが、流石007のプレゼントか。傷ひとつ付きはしない。

 よほどの重火器でもなければ問題ないと踏んで、エレノアはXKRのリアへフロントノーズを近付ける。だが、少しの直線で簡単に引き離されてしまう。

 300馬力オーバーのV8エンジンも、500馬力オーバーのスーパーチャージャー付V8エンジンの前では勝負にならない。

 

「回り道もないし……ヘリはまだ掛かる。このままじゃ見失う……!」

 

 XKRのテールはどんどん離れていく。

 まもなく見失うだろうという時、純白のスポーツカーが二台の間へ滑り込みXKRの追跡に加わる。

 グラマラスな流線型に、戦闘力をありありと示すようなゲート型リアウィングが良く目立っている。音もV8二台とは異なる、直列六気筒の甲高い唸りだ。

 

「あれは……まさか、トヨタ3000GT? いったい誰が……」

 

 エレノアが疑問を浮かべると、まるでそれを理解していたかのように運転席から手が振りだされる。

 ドライバーはミサキだ。なにはともあれ、トヨタスープラベースの改造車ならば、XKRとも勝負になるかもしれない。

 

「狙撃科各チームへ、白のスポーツカーは味方。射撃禁止、繰り返す。射撃禁止」

 

 通信を入れ、エレノアは更にアクセルを強く踏みしめる。

 スープラと並ぶように走り、XKRの後を追う。荷物は積み替えられている、逃がすわけにはいかない。

 加速では追い付けない。銃撃も止まず、市街地に於ける二次被害の危険が高まってきている。エレノアは必死に考えを巡らせるが、なにも浮かんでは来ない。

 

 個として生きることは互いに望んだ。だがしかし、父ならどうするのだろう? 

 かの『007』ならば、この状況をどう覆す? 

 

「右に曲がる……ならっ!」

 

 XKRは右折しようと姿勢を変えていた。エレノアは更にその内側をまっすぐ突き抜けるラインを描き、公園を突っ切って追跡車両の横っ腹に車を突っ込ませる。

 フルスピードで押し出されたXKRはコントロールを失い、エレノアの車両共々スピンしながら車道を滑っていく。

 

「しっかりしろ私……車輌科だろ!」

 

 アウトオブコントロール。エレノアの視界はぐるぐると回っていた。壁が近い。

 しかし、彼女はそのままアクセルペダルを踏み直してリアタイヤをスピンさせる。

 抵抗が生まれたことでスピンが止まり、V8ヴァンテージは小さく前進した後にブレーキ操作によって停止する。

 

『エリー動くなよ』

 

 インカムに無線が飛び込む。上空にはヘリコプターが待ち構えていて、キャビンの扉を開け放ち、美夜が狙撃銃で狙っている。

 瞬間、リズミカルに二発の銃声が夜空に轟いた。音の主は美夜のバリスタだ。XKRの車内から、手首を押さえて転がり出てくる強盗犯。

 

「おっと、逮捕逮捕!」

 

 エレノアも一瞬どこかへ意識を飛ばしていた。慌てて我を取り戻し、手錠をかけていく。

 多少無茶もあったし、V8ヴァンテージに関してはフロントのダメージが痛々しいが直せないレベルではない。

 なにはともあれ、事件はこれで終わりを告げた。

 ミサキの姿はもはや無かった。助けに入ったのか、野次馬に来たのかこれではわからない。しかし、悪意がなかったのは事実か。

 エレノアは自身の実力不足を痛感すると共に、先人の知恵を借りることを心に決めた。




ミサキが乗って来たのは伝説のTRD3000GTです。
選んだのにも理由があるのですけど、カッコいいですよね。


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009.孤独な彼女

 ピラミディオンでの一件から、エレノアの愛車であるヴァンテージの強化改修が急務になっていた。

 重たい車体に300馬力のV8エンジンは当時としては問題なく、むしろ強力な部類だっただろう。しかし現代では通じない。2トン近い車重を引っ張るエンジンとしては、今や力不足だった。

 車に突っ込ませた為にひしゃげたフロントセクションを腕組みしながら眺め、エレノアは改造計画を練る。先輩方はかの007の愛車に手を加えられると、協力は惜しまない姿勢だった。ならばやれることをやろう。

 

「まずボディ補強。それからエンジンパワー、タイヤにブレーキ。サスペンションも」

 

 正直に言えば、改造範囲は全てだ。重たい車体だが、補強しているために重いわけではない。ボディサイズ、材質、構成に何よりエンジン含め全てが重量増に繋がっている。

 補強を進めれば、車重は更に増える。ならば軽量化も平行するのが一般的な理論だ。ヴァンテージのボディパネルはアルミだが、何よりサイズがある。同じアルミを利用し、1.2トン程度に納めたホンダNSXとは訳が違う。

 車内で使わないものを取り除いたり、材質を変えるだけで50キロは軽量化出来るだろう。しかし、エレノアは車輌科だ。他に人を乗せる可能性がある以上、一番の重量物であるリアシートを取り外せない。

 

「運転席はセミバケット入れるとしても、それで減らせるのはせいぜい1キロかそこらだし……」

 

 運転席はスポーツ用シートを入れるなり、好きに出来る。だが所詮、シート一脚だ。効果も小さい。補強してしまえばプラスマイナスはゼロだろう。

 だとすれば、ダッシュボードの材質を丸々変えてしまうのが一番効果がある。ウッド調のインテリアパネル、高級感のあるコノリーレザーを剥がす。しかし、エレノアはそれを思い止まった。

 

(それじゃあ、もう007じゃない)

 

 スマートかつワイルドなジェントルマン。その007の看板であるヴァンテージ。見える部分を変えれば、確かに多大な戦力アップになるだろうが、それではこの車である意味がない。

 ならば考えを変えるしかない。1.8トン──約2トンの車体を確実に止め、曲げ、加速させる脚回りと心臓を用意する。

 

 エレノアはひしゃげたボンネットを開ける。ぎしりと金属が削れる音がして、ボンネットが丸ごと外れた。

 収まっているのは綺麗な自然吸気式V8DOHCエンジン。ヴァンテージの初登場時、DOHCエンジンというものは贅沢な仕様だったという。

 まずはこのエンジンのパワーとレスポンス、トルクを上げる。数値上では巨大な車体を引っ張るに相応しいものになるはずだ。

 パーツが出ないか先輩方へ訊ねに行こうと振り返ったエレノアだが、ガレージの入り口には一人の少女が立ち塞がっていた。

 

「ずーっと呼んでんのに、なに無視してんだー?」

 

 美夜が頬を膨らませ、じっとりとエレノアを睨み付ける。

 

「え、呼んでた?」

 

「ライン、見てみろ」

 

 言われて、エレノアはスマートフォンを取り出す。通知欄を引き出して、彼女は目を丸くした。

 

「通知39件!? ……って、全部美夜だし」

 

 中身は怒りのスタンプが連打押しされていた。遡って用件を確かめたが『暇だから見に行く』といったはっきりしないものだ。

 

「ずーっと車とにらめっこしてるけど、勝負着いたんか?」

 

「生憎とまだ延長戦の最中」

 

 美夜の横を通り抜け、ガレージの外で暇そうな先輩を探す。少しして通り掛かったのは、武藤だった。彼ならルートやコネクションも多いかもしれない。

 声をかけると決めるのに、さほど時間は掛からなかった。

 

「武藤先輩!」

 

「ボンド? どした、パーツ足りねぇのか?」

 

 あながち間違っていない。エレノアは驚きつつも、武藤へヴァンテージのパワーアップに関する用件を伝える。

 

「なるほどな。エンジンを手っ取り早くパワーアップしたいなら、やっぱ過給器だろ。スーパーチャージャー辺りが一番良いだろうが、ボンネットを多少加工しなきゃならねぇかもな。なにせギチギチだからな、ヴァンテージは」

 

 エレノアと考えは変わらない。ターボチャージャーではパワーは出ても、街乗りに向かなくなる。パワーの出方が極端になって、扱いは難しくなる。

 スーパーチャージャーならば控えめだが、トルクを上げつつパワーアップも望める。排気ガスでタービンを回さないスーパーチャージャーは、代わりに駆動にエンジンベルトを介するせいで高速域ではパワーロスが出るものの、全体的に扱いやすくなる。

 最大パワーだけを求めない今回のプランにはピッタリといえた。

 

「それから、エンジンのキャブレターもインジェクター化した方が良いかもな。となると、同じV8から新しいエンジン引っ張った方が早いかもだ」

 

 武藤が腕組みしつつ語る。

 ヴァンテージはキャブレター式と呼ばれる燃料噴射装置で、端的に言えば制御コンピューターが無い。楽しめるエンジンだが、今の時代ではエンジンの掛かりが悪くなったり頻繁なセッティングが必要と、良いことは少ない。

 インジェクター化し、コンピューター制御化しなければ過給器を着けても最適な燃料噴射が得られないだろう。それではエンジンがフルパワーを発揮できない。

 しかし、そこまでのプランとなると、もはや純正エンジンでは古すぎる。ボディ加工を覚悟で、新型のV8エンジンに載せ換えた方が早いというのが武藤の意見だった。

 現代のV8エンジンならば、ハイスペックバージョンでスーパーチャージャーを初めから搭載している物も少なくない。そうなれば、エンジンパワーは300馬力から600馬力、高ければ800馬力以上まで跳ね上がる。

 ただ、逆転した発想をすればエンジン自体を小さいものに載せ換えて軽量化も出来る。良いエンジンならば、V型6気筒ターボで600馬力くらいまでは狙えるだろう。

 単純計算二倍でしかも軽くなる。しかし、エレノアはそれには賛同しなかった。あの車はV8ヴァンテージだ。V8エンジンで走ることに意味がある、名前に嘘を吐かせてはいけないと思った。

 

「何か探してみます。武藤先輩、よかったら手を貸してくれませんか?」

 

「任せろ。載せ換えなら、ボディの補修は少し待った方が良いな。アテが出来たら連絡する」

 

 そう言うと、武藤は何処かへ電話を掛けながら何処かへ去っていった。

 

「えーれーのーあー……」

 

 直後聴こえたのは、恨めしそうな美夜の声だ。

 

「お前ー! さっきから呪文みたいな会話しやがってコラァ!」

 

 がばっと抱きつく美夜。刹那、エレノアの身体をくすぐりだした。

 必死に身をよじり逃れようとするが、じゃれ合いでは美夜が上だった。

 

「狙撃科暇やから見に来い言おう思ったのに、シカトしやがってコノ!」

 

「あはは! 美夜、やめ……ひゃんっ!?」

 

「なんやえぇ声出すやないかー!」

 

「ちょっと……本気で撃つよ!?」

 

 思わずエレノアの手がホルスターに伸びる。美夜はそれを見て、阻止しようとエレノアの手首を掴んだ。

 二人はそのままバランスを崩し、あたかも美夜が押し倒したかのようにその場に倒れ込んだ。

 

「……美夜」

 

「エリー……。いや、ワルい。ちょっと私もやり過ぎたわ」

 

 離れる美夜。手を差し出すと、エレノアを引っ張り起こす。

 申し訳なさそうに俯く美夜を見て、エレノアも怒鳴るに怒鳴れなかった。彼女の家庭環境が最近余計に複雑なのは知っている。恐らく寂しいのだと、推測は簡単に出来た。

 

「車弄るにも少しアテを探さなきゃいけないし、今日は早引けする?」

 

「ええの? 今から車屋回るなり、出来ひん?」

 

「だから、付き合ってもらう。美夜、今日ご家族は?」

 

「仕事。どーせ、三日四日詰め込みやろ」

 

「うん、わかった。じゃあ前のお礼に、美夜の家に行っていい?」

 

 エレノアが言うと、美夜の表情が微かに明るくなった気がした。

 

「泊まりか?」

 

「出来るの?」

 

「任しとき! いこ、エリー!」

 

 手を引っ張る美夜をなんとか制し、エレノアは車輌科からハイブリッド小型車のアクアを借りて学園島を後にする。

 静かな助手席では、美夜が今晩の献立を考えているようだった。

 独りの辛さは、エレノアも分かる。武偵になってからは特に、彼女はずっと一人だった。ルームシェアが無くて楽ではあるが、迎えがないのは心身に響く。

 だから、エレノアは美夜に付くことにした。自動車工場にいくつか立ち寄って、それから美夜の自宅へと車は走っていった。




色々候補はありますが、なんのV8使おうかな……


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010.二人の夜

 佐々野宅は近年よく見る、モダンな一軒家だ。

 立派なカーポートには車がなく、美夜は遠慮なくそこへ停めていいとエレノアへ言った。甘える形で車を停車させ、美夜の後について家へ入る。

 

「ただいまーって、居ないか」

 

 まだワックスも剥げていない綺麗なフローリングの廊下。リビングへ続く廊下は真っ暗で、その先から灯りが漏れている事もない。

 しん、とした静かで寂しげな空気は家が無人であることを改めて二人に突き付ける。

 

「いつもこんな?」

 

 高校生とはいえ、まだ一年。一人で暮らすにはまだ少し早くもある。だが、雰囲気はもはや放任だ。

 エレノアが訊ねると、美夜は頷いた。

 

「仕事、仕事。たまに旅行。私のことなんて頭に無いやろ」

「美夜……」

 

 実の親にネガティブな感情を抱く。それは親の姿を見たことがないエレノアには良く分からなかったが、寂しげに伏せられた瞳を見れば、どういった状態かは理解できた。

 引っ張らなければ。エレノアはぱっと空気を入れ換えるようにして、声をあげる。

 

「さて、美夜。何しよっか?」

「そうだなぁ……まず、軽く冷蔵庫見よー。少し食わんとなー」

 

 ぱたぱたと玄関から上がっていく美夜の背中を見て、エレノアも後へ続いた。靴を揃えて、灯りのついたリビングへ入る。

 LEDの灯りは目に優しく、だが明るい。食卓に薄型テレビ、家具類などは一般家庭らしいもので揃えられている。

 

「おっ、飯は作れそうやん。エリー、好き嫌いなかったよな?」

「食べられる時に食べないと。武偵足るものね。何か手伝う?」

「いや、頼むから座ってて。前に消し炭錬成しおったしな、お前」

 

 ギャグ漫画じゃあるまいに、と少々厳しめに美夜が返した。こういうゴタゴタがあっても、きちんと食事を作るのは美夜の優れた点だった。

 食事を疎かにすれば、武偵の任務への即応性に悪影響が出る。空腹で動けないなどと、前線に出た兵士ならまだしも普段は自由な武偵が口にしてはならない。

 だから美夜は、他より抜きん出ている。例え狙撃の腕が無かったとしても、心構えは出来ているのだ。

 

 リビングで待っているエレノア。暇潰しにスマートフォンを取り出すと、ちょうど車輌科から電話が掛かってくる。

 迷うこともなく電話に出ると、電話口から武藤の声がした。

 

『今いいか、ボンド』

「少しなら」

 

 美夜は調理に夢中だ。数分なら問題ない。

 武藤は彼女の返答に、「よし」と声を漏らす。

 

『ヴァンテージのエンジンについて話してる時に、装備科の連中が来てな。本物の007の車だって知ったら、ヒートアップしちまってよ』

「話したんですか?」

『わりぃ、押し切られちまってな……』

 

 申し訳なさそうに武藤は謝罪するが、車のオーナーからすれば堪ったものではない。

 装備科はあらゆる意味で変人の集まりだ。何をされるか、エレノアにだって分かりはしない。

 

『それで、提案だ。ヴァンテージのエンジンを、V8から直6にダウンサイジングする。OS技研チューンのRB26改RB30DETTが、いい感じに手に入りそうなんだ』

 

 待ってくれ。エレノアは思わず制止する。V8ヴァンテージだからV8を使う。その拘りを、今になって捨てると言われても許可は出来ない。

 アストンマーティンは確かにV8以前のモデルは直6──直列六気筒エンジンを使用していたが、それではまるっきり性格の違う車になってしまう。

 そうするならするで明確な理由をエレノアは欲した。

 

「どうしてRB型に?」

『装備科が、ヴァンテージを本物のボンドカーに変えたいらしい。エンジンスペースを空けるために、エンジンを小型化する。アストンマーティンは直6使ってたからな。本当は直4にしろとか言われたんだぜ?』

 

 電話を持ったまま、エレノアは頭を抱えた。

 とんだ巻き込み事故だ、と。

 

『ただ、予定してるのはフルチューンのRBでな。ローブーストでも600馬力はいくし、なにしろ前が軽くなる。軽量化にもなるぜ』

「そうですけど……」

『安心しろ、元のエンジンは残しとく。気にくわなかったら、俺らも車輌科の先輩方も責任持って再加工するように話はついてる』

 

 武藤は言うが、エレノアの心はざわついて仕方ない。

 電話口が騒がしい。どうやら装備科も場にいるようだ。ミサイルがどうだ、などと物騒な単語が聴こえたがエレノアは聴こえなかった事にした。

 

「なら、一度試します。先輩方を信じます」

『あぁ、任せろ。極力オリジナルは残すようにしてやる。そこは装備科とも話がついてんだ。007らしく、だからな』

 

 じゃあな。武藤はそう言い残し、通話を切った。

 

「なんや、悩ましそうやな」

 

 出来立てのシチューを食卓にならべつつ、美夜はエレノアは語る。心配していそうには見えないが、気に掛けてはいるようだ。

 

「なんか、いよいよ周りの期待が恐ろしくなってきたわ」

「ん? まぁ、そうやろな。──よし、食おう食おう!」

 

 美夜はそれ以上の追求をやめた。エプロンを脱ぎ捨て、エレノアの横の椅子に腰掛けて手を合わせる。

 

「いっただきまーす」

「いただきます。ありがとう美夜。今度は押し掛けたの、私なのに」

「えーってえーって。泊まってってくれんのやろ? だったら良いよ」

 

 そう言って、はにかんで見せる美夜。少なくとも、寂しさは無いように見えた。

 食事中も会話は弾み、エレノアの愛車についても話をすることがあった。美夜は車に詳しくはないが、聞き上手だ。横槍を入れることもなく、黙って聞いていた。

 

 □

 

 美夜の自室は、シンプルに纏まっていた。散らかっている様子もなければ、趣味のものが埋め尽くしている様子もない。

 ガンラックと弾薬ケース、そこにサブのスナイパーライフルが数挺。ただ、あくまでもバリスタ一筋なのだろう。箱は開けられたのだろうが、袋は被ったままだ。

 

「なーんもないだろ」

「意外ね。もっとこう……前衛的かと」

「散らかしとる思うとったんかー?」

 

 美夜の普段の接し方を考えれば、仕方ない。むしろ綺麗に纏めている几帳面さは、スナイパーらしいといえばらしい。

 銃の手入れ、下見。全てを確実にこなせてこそ、プロの狙撃手だ。当たり前を当たり前にこなす、という意味では正しい。

 

「あー、パジャマどうすっかな。エリー、意外と背でっかいからな」

 

 衣装ケースを上から下まで引っ張り開けていた美夜が、エレノアを振り返りつつ悩んでいる。

 

「別に、制服で寝るけど?」

「アホ! そんなんで疲れがとれるか!」

 

 まさか怒られるとは。エレノアは思わず萎縮した。

 確かに制服では休んだ気にはならないだろう。身体が楽になった気はしない。

 

「うーん。ちょっとこれ、着てみ。私にはでかかったパジャマなんだけど」

 

 ほい。美夜が放って寄越したパジャマを受け取り、制服と着替える。

 可愛らしい柄ということもなく、普通の軽い生地で出来たシャツとパンツだ。

 

「キツくないか?」

「うーん……制服で寝るよりはマシかな」

「締め付けられるとか」

「胸はちょっと……」

「裸で寝るかー? このヤロウ」

 

 胸囲格差。美夜よりエレノアの方がバストサイズがある。双方ともにスレンダーだが、それでもエレノアはよりモデル体型に近いと言えた。

 六花からもCVRへスカウトを受けたことがあったが、ハニートラップはエレノアの趣味ではなかった。車を運転できればそれでいい。そう思っていた。

 ジェームズからの手紙を読むまでは。

 

「よーし、まあ寝間着も決まったな。風呂沸かすか」

「いいの?」

「エリー相手に今さら遠慮なんかするか。だから、そっちも遠慮せんで来たらええよ」

 

 美夜はエレノアに部屋で待つよう告げると、風呂を沸かすために部屋を出ていった。

 一人残されるエレノア。きょろきょろと周囲を見渡すが、何かあるわけでもない。

 

「勝手に漁るのも良くないか……」

 

 ベッドに腰掛けていたエレノア。遠慮するな、という言葉に甘えてそのまま身を横たえる。

 疲れたわけでもないが、ふかふかに保たれたベッドはエレノアを眠りに誘おうとする。

 

「まずい、寝ちゃう」

 

 襲い来る睡魔を振り払うように、飛び起きる。

 ベッドのスプリングが激しくたわんだ。

 一瞬、車輌科でいじくり倒される自分の愛車が目に浮かんだ。車輌科が総出で手掛けるような雰囲気だった、恐らく明日にはエンジンに火が入る。車輌科全員の力が合わさるのなら、それすら容易い。

 各部を対応パーツに置き換えられて、どこまで原型が残るのか。武藤は問題なさそうに語ったが、やはり気になるなら向かうべきなのだろう。

 

「車は気になるけど……」

 

 車は単純に言えば、替えが利いてしまう。友人は替えなど無い。確かに美夜に、『今から学園島に行く』と言っても止めはしないだろう。

 ただ、彼女は弱さを表になかなか出さない。

 

「ダメだ。やっぱり美夜が優先」

 

 ノックダウンだ。再びベッドへ倒れ込む。

 

「何が優先だって? 風呂沸いたぞー」

 

 そしてナイスタイミングだった。美夜が扉を開け、怪訝そうにエレノアを眺めている。

 

「あれ、先入ったら良いのに」

「んー、ちょっとやることあるし後で良いわ。一番風呂譲ってやるよ」

「……? まぁ、それならお言葉に甘えようかな」

 

 美夜の言葉に何か含みがあるような気がした。しかし、それが何か分からない。噛みついて聞くような事ではないかもしれない。

 エレノアはベッドから起き上がって、美夜の案内で風呂場へ向かう。

 

 身体を洗い、湯船に浸かって一息吐く。

 身体をゆったりと伸ばせる、広い風呂。疲れがまるで湯に溶け出すようだった。

 

「ふぁぁ……」

 

 暖かさにエレノアの表情も蕩けていた。

 しっかりと手入れされ、湯水も綺麗に見える。匂いからして入浴剤も入っているだろう。

 

「日本が誇る最高の文化よね、やっぱ……」

 

 あとどのくらいで交代しようか。そう悩んだ時だった。

 浴室のすぐ外にある脱衣所に置いたスマートフォンが、周知メールの着信を告げる。

 

「こんな時に……!」

 

 少々乱暴気味に湯船から上がり、バスタオルで水気を取ってからスマートフォンを手に取る。

 周知コードは原則二年以上の行動を記していた。幸いとすることは出来ないが、少なくとも一年であるエレノアたちに出番は無さそうだった。

 

「おい、エリー! ──あー」

 

 閉め切られていた脱衣所の扉が開く。

 バスタオルを胸の前に当ててスマートフォンを眺めていたエレノアを視界に入れると、扉を開けた美夜は静かに戸を閉めた。

 

「別に良いのに」

 

 異性じゃあるまいに、そんなに気恥ずかしいものはない。恐らく扉の向こうにいるであろう美夜へ向けてエレノアは語るが、返答はない。

 

「う、さむっ……。もうちょっと暖まったら交替するからね、美夜」

 

 身体を震わせて、再び浴室に戻るエレノア。前回美夜が泊まりに来た時は鈴那からの依頼でゆっくり出来なかったが、今度は何もない。

 先輩方が解決するのを待つしか無く、一年生はゆっくり出来る。今は甘えるしかない。

 湯船で再び身体を暖め、エレノアは美夜と交替した。

 

 リビングに戻ると感じた涼やかな風は、エアコンによるものだ。

 ソファに寄りかかり、全身の力を抜く。気掛かりなのは、周知メールの内容が原則二年以上を記したことだ。

 つまるところ、相応の戦闘技能を有した生徒でなければ務まらない任務ということ。それだけの大事件だ、美夜が慌てたのもわかる。

 

「明日、少し聞いてみるか」

 

 今日は平日。明日も学校はある。

 ヴァンテージを見に行くついでに、幾らでも話を聞く機会はあるだろう。

 考えているうちに、エレノアはうつらうつらと眠りに落ち始めていた。




007シリーズで使用されたボンドカーは、実際にプロップ用の武装を内部に格納するために実車よりエンジンが小さかったりしたそうですよ。

なぜそんな話をするかって?
さあ……((


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011.武偵憲章

 美夜の部屋で目を覚ましたエレノアは、肝心の部屋の主がいないことに気がついた。

 遮光カーテンの向こうからは朝日が漏れていて、スマートフォンの時計も起床時間アラームの数分前を示している。

 

「美夜……?」

 

 借りていた布団を畳み、部屋から出る。人の気配は無く、彼女はもとより彼女の両親が帰宅した様子も無かった。

 佐々野宅のリビングには、朝食と弁当箱。それから、メモ書きと鍵が置かれている。

 

『悪い、今日は朝から依頼入ってて先出てるわ。メシ用意したから、弁当持って学校来いよ。鍵はスペア貸すから、今度返せ』

 

 少々乱雑な書体。エレノアが見る限り、美夜の筆跡で間違いなかった。

 学校へ行くにもまだ時間があったし、朝食も用意されていたから、エレノアはそのまま食卓についた。朝食は目玉焼きとソーセージ、冷めてはいるが白米も用意されていた。

 

「いただきます……っと」

 

 ラップを剥がして、朝食を進める。

 ゆっくりと食事をとっていると、スマートフォンのアラームがけたたましく鳴り響いた。登校開始のアラームだ。

 今回は学園島から少し離れた場所からの登校のため、エレノアは手早く食器を洗って片付けると、支度を済ませて足早に佐々野宅を後にした。

 

 □

 

 一般教科の間も、美夜は現れなかった。

 ぽつんと空いた席を眺めつつ、エレノアは右手に握り締めた鍵を手の内でころがす。

 聞いて回った話では、彼女は依頼(クエスト)で出ているようで学校にも連絡は行っているらしい。恐らく、本日は休みになるであろうということを含めて。

 美夜の置き手紙通り、機会が来たら返却出来るように鍵は預かっておこう。そう決めて、エレノアは車輌科へと向かう。

 

 車輌科は相変わらずの喧騒だった。それに加わること無く、足早にまず向かったのは自身の車が保管されているガレージ。

 シャッターは開けられていて、その中でヴァンテージはエレノアを待ち受けていた。

 外観に大きな変化は無い。わずかに車高が低くなり、タイヤ周りに変化が見られる程度。ホイールはどうやって調達したのか、大径化した純正のような形状を残すメッシュホイール。ブレーキも大型化されていたから、合わせてタイヤサイズも上げたのだろう。

 

「どれ……っと」

 

 ボンネットを開けると、中はスカスカにスペースが空いていた。元々大型のV型8気筒を収めていたエンジンルーム内には、日本はおろか、世界でも優秀と名が挙がる直列6気筒エンジン『RB26DETT』がそのまま縦向きに収まっていて、不思議な光景だ。

 カバーだったグリルはメッシュグリルに変えられ、スパルタンな表情を作り出すと共に前置きの冷却装置(インタークーラー)に充分な空気が送られるよう改造されている。

 とにかく、イギリスのヴィンテージマシンに、日本のエンジンが収まっているのはやはり異様だった。

 ボディ下部などを見て回るが、本当に一日で全てやり遂げたようだ。エレノアはドアを開け、運転席に座る。

 

「すごい……違和感ほとんど無いよ」

 

 座った位置から見る景色に、変化はさほど見受けられなかった。溶け込むように配置されたブースト計や燃圧計などは増えていたが、補器類が増えることは仕方がない。

 シフトノブもノーマルを意識したシックな物だ。

 

「ステアリングは……まぁ、いっか」

 

 エレノアが難色を示したのは、唯一現代らしいスポーツライクな雰囲気を醸し出すステアリングホイール。アストンマーティンと国を同じくする、イギリスはプロドライブ製のスポーツステアリングホイールだ。

 しかし、ノーマルのままでは不都合も出てくる。ステアリングホイールは代えが利くため、エレノアはあえて見ない振りをした。

 

「掛かるかな、エンジン」

 

 キーは既にシリンダーに刺さっている。明らかに踏力のいる、重くなったクラッチを床まで踏み込み、ブレーキペダルも右足で踏み込む。

 セルモーターの回る音に、明らかな金属を震わせるような旋律が交じっていた。強化したエンジンに合わせ強化クラッチに変更されているのは、その音と自らの左足に伝わる感覚からも明らかだった。

 数回始動にチャレンジすると、エンジンは綺麗なハイトーンサウンドでエレノアを受け入れた。クラッチから足を離し、休息。当然ニュートラルポジションに入っているから、エンストは無い。

 

「不思議だなぁ。イギリス車からGT-Rの音がする」

 

 軽くアクセルを踏み込むが、やはりそれはヴァンテージの音ではない。追随を許さない戦闘力を思わせる、力強くも美しいサウンドだった。

 まだ全開は早いだろうか。どれほどの物になったのか、好奇心が湧いてくる。今すぐ練習用サーキットへ向けてアクセルを踏み込みたくなる。

 

「ボンド、客だぞ! ソイツは飛ばしても良いけど、南野さんの話聞いてからにしとけ!」

 

 ガレージに飛び込んできた先輩の声を聞いて、エレノアは目を丸くする。

 去っていく車輌科上級生のあとから、ひょっこりとガレージに顔を覗かせたのは、CVRの南野六花だった。

 友人の、それも先輩が顔を見せたとあっては無視出来ない。エレノアは仕方なく、エンジンを停止する。

 

「ごめんね、エリー。これから練習だった?」

「いえ。少し調子見てただけなので。どうかしたんですか?」

 

 車のドアを閉めつつ、エレノアは問う。CVRという特殊な科に所属する生徒が車輌科に顔を出すとは、珍しい。

 

「前のカジノ警備、お疲れ様って言ってなかったなって。それと、美夜ちゃんはまだ依頼?」

「──みたいですね。何してるんだか」

 

 車に寄り掛かるエレノア。ガレージの天井を仰いでいると、傍に六花もやってきた。

 

「私、嫌な予感がするのよ。ピラミディオン事件も、あまりにあっさり終わりすぎてるし」

「だからって、調査になんて動けませんよ。それは先輩の憶測でしょう?」

「そうだけど……。エリー聞いてないの?」

「何をですか?」

「美夜ちゃん、最近妙な依頼ばかり回ってきてるの。依頼主は同じで、基本は狙撃手による護衛。でもお使いみたいな雑用もさせられてる」

 

 まさか。六花へ視線を向けたが、彼女は至って真剣だった。

 

「ねぇ。私たち武偵は、受けた依頼を断れない。それがもし、巧妙にフェイクを掛けられた犯罪行為だったとしても」

 

 美夜はまさか犯罪に手を貸しているのか。エレノアが聞く限り、そう捉えるしかない発言だ。

 

「美夜ちゃんは知らなくても、知らされてなくても……そういうことって、ゼロじゃないよ。武偵の依頼制度を考えればね」

 

 重たく告げる六花。刹那に二人のスマートフォンがけたたましい音を上げた。

 周知メール。内容を開いてみると、爆破事件とあった。エレノアたちに出番は無さそうだ。

 

「ふぅ……。最近周知メールが来る度に、気が気じゃなくなるの。美夜ちゃんの名前が出てきてしまわないかって」

「まだ危ない橋かの断定も出来ません。今は待ちましょう」

 

 納得いかない様子の六花。しかし、それしかない。情報は全て憶測の域を出ない。エレノアの言う通りだ。

 

「そろそろ戻るわ。美夜ちゃんに会ったら、よろしくね」

 

 そう言って、六花はガレージを後にする。意味深な事を告げられた。とはいえ、今それをどうにか出来るわけでもない。

 気付けば車を走らせる前に、車輌科の履修時間は終わりに近付いていた。サーキットも追い込みを掛ける生徒で行列が出来ている。満足な走行は難しいだろう。

 エレノアは近くを通りかかった生徒に、先に帰ることを告げてヴァンテージに乗り込んだ。

 帰りに学園島を出て、首都高速湾岸線辺りを流せばテストにはなるだろう。馴らしもあるし、最初から全開は現実的ではなかった。

 

 □

 

 夕日射し込む湾岸線。車の流れは良く、ドライブにはちょうどいいスピードだ。ストレスも無く、無理もさせられない。

 エンジンは快調に回り、電子制御も問題無し。サスペンション周りの改修によって、路面へのパワー伝達や路面追従性も発見時より上昇しているようにエレノアは認識していた。

 圧倒的パワー、それでいて気を張らずに乗れる快適性。たった一晩でそれを両立させるのは、どれだけの困難か。エレノアはまだ巡航程度にしかアクセルを踏んでいない。床まで踏み込んだとき、どれほどの性能を発揮するかはまだ未知数だ。

 ふと、エレノアの電話が鳴った。ワイヤレスイヤホンのボタンを押し、通話を開始。掛けてきたのは美夜だった。

 

『あぁ、わりい。運転中か』

「別に。ハンズフリーだし、流してるだけだから」

『そっか。朝、急に居なくなっててゴメンな』

「最初は困ったけど、依頼なら仕方ないよ。押し掛けたのは私だし」

 

 エレノアはステアリングを握りつつ、しかし違和感を抱いた。なにも感じないようで、どこかおかしいと。

 

『……私さ。ずっと先輩方にウザがられてたじゃん? エリーも強いし、スズも強い。南野先輩なんて、私より美人だしさ』

「……美夜? 何か変なモノ食べた?」

『ずっと考えてた。私が皆に並べる要素ってなんだろうって。狙撃? それだけ?』

 

 やっぱりおかしい。エレノアの疑念が確信に変わろうとしていた。

 

『だから変な依頼だと思っても頑張ったんだ。単位取っとけば、練習に集中出来る。……でも、ダメだった』

「美夜? 何を──」

『ウチ、バカだったんよ。とんでもないアホやった。でも、何としてもやり遂げる。エリー──スマン、次は殺し合いになる』

 

 静かな敵意というべきか。美夜の言葉から感じたのは、やはり敵意だ。

 

「美夜? 美夜ッ!」

 

 切断音。刹那、周知メールの受信をスマートフォンが告げた。だが、走行中に読むわけには行かない。エレノアは僅かにアクセルを踏み込み、焦燥に駆られるままパーキングエリアまでその速度を上げて向かった。

 しかしパーキングエリアへの到着を待つこと無く、六花からの着信。エレノアは迷わずに受けた。

 

『エリー、周知メール見た?』

「運転中で、まだ。ただ、嫌な予感は当たってたみたいですね」

『……ううん、美夜ちゃんは関係無かったの。でも、調べてみたらやっぱり彼女の依頼主が犯罪行為に荷担してるのは間違いないみたい』

「そうですか。鈴那に繋いでみます。彼女なら何か知ってるかも」

『ええ、わかった。こっちもCVRなりに調べてみるわ』

 

 通話を切り、次に鈴那へと通話を繋ぐ。情報科である彼女なら、何か知っているかもしれなかった。

 

『やはり来たか。何となく読めておったが』

「ということは、何か知ってるの?」

 

 電話口で、鈴那は『ふむ』と少々悩むような声を漏らす。

 

『今回は不発だったんじゃが、爆弾がな。置かれたと見られる時間のあと、美夜の姿が街頭カメラに映っておった』

「爆弾?」

『ピラミディオン事件は始まりに過ぎなかった。まだ連中、手を考えておるようじゃ』

「それで爆弾? 大騒ぎになるわよ」

『裏の裏は表、ということじゃな。裏口からコソ泥して、次は表から堂々と。武偵が絡んでることもバレたから、立場を隠して協力させた。最後までやらせる気じゃな』

 

 大きなため息がエレノアから漏れる。美夜が気付いた頃には、恐らくもう引き返せなかったのだ。だから、彼女は最後までやり遂げる事にした。どんな依頼であれ、武偵憲章に乗っ取って。

 

『エレノア? 大丈夫か?』

「……なら、私たちも武偵憲章で戦いましょう。第一条『仲間を信じ、仲間を助けよ』」

『無論じゃ。美夜も最初は知らんかったハズじゃからな、自棄になっとる可能性もある。作戦を立てる前に、わしらで任務の申請をしよう。希望のメンバーはおるか?』

 

 美夜を助けるためのメンバー。自分と鈴那は当然、内容次第では六花もいると楽かもしれない。

 いざというときに信頼できる仲間がまだ足りない。しかし、当てがない訳ではなかった。

 

「同じクラスの間宮あかり、火野ライカ、佐々木志乃。可能ならアリア先輩たちも」

『待て待て。一年だけで行くのも難しいが、神崎先輩らに協力を取り付けるのはもっと難しい気が……。やってはみるが、いつ戻る?』

「……なるべく早く戻る」

 

 ギアを落とし、回転を上げる。その音が伝わったのか、鈴那は静かに通話を切った。

 

「全く、あのバカ。勝手に突っ走ってんじゃないわよ」

 

 ぐん、と速度を上げるヴァンテージ。後ろに傾く車体。ぱさりとホッチキス留めされて纏められたメモ帳がサンバイザーから落ちて、エレノアの膝の上に乗った。

 読む余裕など無い。今は一刻も早く、台場に戻らなければ。夕日の首都高速を、チョコレートブラウンの車体が走り抜ける。

 まずは仲間を助けなければ。エレノアの語る通り、次は武偵憲章のぶつけ合いになる。

 焦る心を落ち着けながら、エレノアは学園島へ向けて車を飛ばす。



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012.作戦会議、そして――

 学園島に戻り、武偵校本校舎の前に車を停めたエレノア。校門前にいたのは、鈴那、六花。そして間宮あかりだけだった。

 

「すまぬ、エレノア。都合がついたのはここに居る人間だけじゃ。どう思う?」

 

 申し訳なさそうに鈴那は話すが、そもそも揃ってくれただけでもエレノアからすれば大変に助かる話だった。

 

「このまま行こう。あかり、鈴那と後ろに。南野先輩は助手席に乗ってください」

 

 シートから身体を動かし、助手席の背もたれを倒す。リアシートへ二人を導くと、あかりと鈴那の小さな身体は綺麗に収まった。

 

「美夜が大変だっていうのは聞いたけど……具体的にこれからどうするの?」

 

 あかりが前席の間から顔を出して、エレノアへ問う。ハッキリ言えば決まってなどいない。とにかく友人を捜し出す。それだけだった。

 車を走らせながら、エレノアは唇を噛む。何も策はない。

 

「まだあやつが何かをしでかした訳ではないしのぅ。()()()()事件が起きた時、近くに居たに過ぎない」

 

 鈴那の語ることは間違っていない。全て偶然で片がつく。しかし、何らかの犯罪に巻き込まれているという可能性は払拭出来ない。

 車のギアをゆっくりと変え、話を聞きながらエレノアは学園島を流す。

 

「美夜から挑戦状が来た。『次は殺し合いになる』って。彼女は彼女なりに、依頼を果たす気でいるはず」

「でも、犯罪だって分かってるなら契約破棄しても……」

 

 リアシートから身を乗り出しつつあかり。

 彼女の言い分ももっともではあるが、武偵は受けた依頼が絶対なのだ。だが、武偵にはまだ憲章がある。鈴那がシートに寄り掛かったまま、腕を組んで語った。

 

「『任務は、その裏の裏まで完遂せよ』──もしかすると、あやつなりに考えはあるのかもしれんが……」

「だからって、相手はピラミディオンに強盗に入る連中よ? 放っておけないわ」

 

 焦り気味に六花が語る。まるで心配性の母親のようだ。

 

「不発の爆弾に、狙撃手……。それから強盗団か」

 

 強襲手段の爆弾に、暗殺手段や後方支援の狙撃手。これらの繋がりがあまりに薄い。エレノアも袋小路に差し掛かってしまったようで、ただ苛立ち気味に舌を打つ。

 

「エレノア、前じゃ!」

 

 不意に後部座席の鈴那が叫んだ。瞬時に注意を前方へ向けると、エレノアは道路の真ん中に人影を見た。

 慌ててブレーキを踏み込む。タイヤがロックして路面と激しく擦れる。クラッチを全開まで踏み込むと同時に、ブレーキを踏み直すことでロックを外し、車体前方をわずかに人影から逸らして停車する事が出来た。

 

「はー……!」

 

 シートにもたれたエレノアの心臓が早鐘を打っている。スピードを出してはいなかったが、注意は完全に逸れていた。危うく重大事故で仲間どころでは無くなるところだ。

 車道で立ちはだかっていたのはミサキ。物干し竿を思わせる巨大な大太刀を片手に、数センチまで車が迫ったというのに涼しい顔で上着を右肩に掛けている。

 

「久しぶりー。その様子だと、まだ知らないみたいね」

 

 運転席の窓を開けさせたミサキは、ドアに腕を乗せて車内へ頭を突っ込んだ。

 前髪がエレノアの顔を撫でてこそばゆい。思わず助手席側へと身を仰け反らせる。

 

「どういうこと?」

 

 腰に負荷を感じつつ、エレノアはミサキの顔をまっすぐに見つめて問いを投げる。あまりに近いのか、助手席の六花がエレノアの背中を支えた。

 

「奴等、今度は派手にやるみたい。ブローカーによる車の調達が活発なの。取引先があのときの奴等なら、このヴァンテージと私のスープラに対策をしてくるわ」

「要するに、前のジャガーより速くなるってこと?」

「その認識であってるけど、爆弾だとか狙撃手を使ってる辺り、それだけでもなさそう。それはまだ、調べがついてないからまたね」

 

 ミサキは軽くエレノアの肩を叩くと、ゆっくり車から離れた。

 車内でミサキに会釈する少女たち。車はゆっくりと発進していく。

 

「爆弾……警戒が強まるけど、台場の話じゃない。ピラミディオンをまた襲うって話じゃないのかしら」

 

 やはり犯人の目的が読めない。エレノアは苛立ち気味にステアリングをノックする。

 

「やっぱりもう少し洗った方がいいんじゃ……。ん? 南野先輩、足元に何か落ちてます」

 

 悩ましげな表情を浮かべていたあかりが、不意に助手席の足元に何かを見つけて指差した。

 六花は足下を探り、メモ帳を纏めたような冊子を拾い上げた。

 

「ガジェットガイド……? これ、エリー宛だわ」

 

 ガジェットガイドをエレノアに手渡すと、彼女はゆっくりと車を減速させた。すっかり忘れていたことに、思わず頭を抱えそうになる。エンジン載せ換えの理由は元はといえばそれが目的だったのだ。ただ戦闘力を上げるためではない。

 

「ちょっと空き地に向かうね。悩んでても仕方ない、私たちはいざというときの為に万全を尽くすしかないわ」

 

 曲がり角を曲がり、方向を変える。向かうのは学園島空き地。テストにはそこがピッタリだ。

 

 空き地に車をそのまま乗り入れ、エレノアは同乗者を車から下ろした。

 

「アームレストを開ける……」

 

 説明書ともいうべき冊子の通り、エレノアは運転席で左手側のアームレストを触れる。蓋が後ろへスライドしたかと思えば、中には物々しいスイッチ類を備えたパネルが鎮座していた。

 

「本当に仕込んだんだ……」

 

 エレノアが感心する間も、外にいる友人たちは不思議そうに首をかしげていた。車は特にまだ変わった動きを見せていない。

 

「これは?」

 

 メタルのスイッチパネルにテープで『RKT』とだけ記されたボタンを押す。

 フロントウィンドウにHUDが立ち上がり、戦闘機のような近代的なレティクルが表示されるが、すぐにブザーと共にエラーが表示された。

 

『ERR/ROCKET AMMO:EMPTY』

「ロケット? 弾切れみたいで良かった……」

 

 車にも動きがあったのか、六花が驚きを見せている。

 HUD上はロケット弾の弾切れを知らせる文字が点滅していて、仮に発射してしまっていた場合武偵校から大目玉を食らうところだ。

 

「あとはラジオ──」

 

 操作すると、普通のラジオから自動的に警察無線にチューニングが行われた。オートチューニングされた周波数では事件は告げられていない。至極平和のようだ。

 

「それと防弾ガラスは装備。──で、これは?」

 

 装備一覧にはまだまだたくさんのガジェットが記されていたが、『オートドライブ』と書かれた部分にはQRコードが記載されていた。

 試しに読み込んでみると、自身のスマートフォンにアプリケーションがダウンロードされる。ウィルスの類いではないようだが、起動すると車体のカメラ映像が端末画面に映し出された。車体前面にカメラが仕込まれているのか、まるでレースゲームのように鮮明な映像だ。

 試しに車から降り、軽く画面を下から上へなぞる。すると、車はゆっくりと前進して自動的にブレーキを掛けて停車した。

 エレノアの口角が愉快そうにつり上がる。察したのか、仲間たちは車からすぐに距離をとったようだ。

 画面をなぞり、左へ旋回。テールスライドさせつつ前進。右、左とスラロームさせ、エレノア自身に目掛けて車を加速させる。

 

「エレノアッ!」

 

 轢き倒される。そう考えたあかりが叫ぶ。だが、外部操縦のヴァンテージはエレノアの直前でピタリと停止していた。

 

「肌が合いそうね」

 

 眉ひとつ動かさず、涼しい顔でエレノアは笑った。

 仲間を救うには充分な武器、そして仲間たちだ。あとは美夜を救うだけ。

 空き地の向こうに掛かるレインボーブリッジを睨み付ける。あれやこれやと手を考えてもダメだ。エレノアは仲間たちを見回して告げた。

 

「犯人が戻ってくるとは限らない。けど、台場に行こうと思う」

「理由は?」

 

 鈴那が少々厳しめに問う。

 

「奴等は前の失敗でピラミディオン内部と考えうる戦力を知った。他の銀行やらを襲う下調べの手間が省けるわ。それに、美夜が向こうにいる。私たちが出てくることも知ってる筈」

「つまり、やっぱりまたピラミディオンを襲うってこと?」

 

 あかりの問いに、エレノアはハッキリと頷いて見せた。奴等はまた来る。確かに、彼女はそう伝えていた。

 警備状況も、安全装置も、考えうる戦力も。そして周辺の状況も犯行グループは知ったのだ。逮捕された実行犯がほんの手先程度ならば、十二分に考えうる。ピラミディオンも、『失敗した強盗は無い』と油断していないとは言い切れないのだ。

 

「まぁ、ここで油を売ってるよりはマシね。行きましょう、エリー」

 

 六花はエレノアの肩をそっと叩いて、ヴァンテージの傍らに立つ。それはエレノアを信用する──その意思表示に他ならない。

 あかり達を車に乗せ、六花も乗り込んだ車をエレノアは台場に向けて走らせる。この先が外れか当たりか、とにかくぶつかってみるしかない。

 エレノアに父のような切れる頭脳は無い。スマートでもなければ、ダーティでもない。だが、仲間を想う気持ちは負けない。だから必ず美夜を連れ戻す。ステアリングを操りながら、彼女は確かに心の内でそう誓った。



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013.Gold bar

 夜の台場はやはり人の出入りが多い。平日だというのに、アクアシティ近辺は渋滞だった。

 

「何かあるのかな? こんなに混んでるなんて」

 

 後席から身を乗り出して、あかりは周囲を見渡した。きらびやかな街は人でごった返している。平日とは思えない様相だ。

 その中を、車は気だるげな音をあげつつゆっくりと前に進んでいる。

 

「ハマった……。駐車場は別な場所探しましょうか」

 

 遂に車が停車した。前方車両との距離が詰まりすぎた為だ。エレノアはため息を溢す。

 車を置くなら、万が一に備えてすぐに出入り出来る場所に置くべきだ。これでは出られない。

 エレノアはウィンカーを点灯させ、列から慎重に抜け出した。

 

「改めて訊くが、エレノア? 何かわしらを納得させられるような理由があって、台場に戻ったのじゃな?」

「……ごめん、あくまでも勘。けど美夜は『次に会った時は』と言った。そして何も告げずに切った。次の行き先が分かっていないか、もしくは同じ場所に戻る──その挑戦状だった、と思ってる」

 

 勘だと語るエレノアに、鈴那は『やはりな』とそれだけ返した。それからスマートフォンを開き、じっと画面を眺め始める。

 

「一先ずここで待機ね。ピラミディオンに近づきすぎる訳にもいかないし」

「もし本当なら──だけどね……」

 

 あかりまでエレノアを疑うような視線を向けるようになってしまった。当然、普段より混み合っている以外の動きはない。

 ただ、眺めているうちに違和感を覚えるエレノア。

 

「随分混みすぎじゃない? 平日だけど、まるで休日かイベントだわ」

「確かに……。この混みようは異常だけど、それだけじゃ確証にならないわよ。エリー?」

 

 六花の鋭い意見に、エレノアも言葉を呑み込む他なかった。だが違和感が抜けない。エレノアは絶えず行き来する人々に絶えず視線を向けていた。

 

「この人たち……ピラミディオンに向かってる」

 

 人々の進行方向を目で追い、そしてエレノアは気付いた。

 その先に合法カジノ、ピラミディオン台場があること。富裕層でないように見える人間でさえ、ピラミディオンに向かっていること。

 

「……どうやら当たりじゃな」

「え? 五十鈴さん、それって──」

 

 あかりが鈴那に訊ねようとしたその刹那。空に巨大な花が咲いた。

 同時に炸裂音と強烈な閃光──花火だ。

 

「花火……。不発弾ってまさか──」

 

 六花が空を見上げて目を丸くした。

 散見された不発弾事件。それは、爆弾でもなんでもないただのデコイか。専門の花火職人が作った物ならともかく、それ以外の人間が()()()()作ったならどうとでもなる。

 そして、花火大会だと勘違いした群衆はピラミディオン周辺を塞いでしまう。エレノアも車を出せない状況だ。

 ではもし、今ピラミディオンを襲ったなら? 内部に残るのは一部の客、スタッフ、警備員だけ。花火の音に銃声は掻き消され、騒ぎも漏れない。仮に警察が来たとしても、この混雑ではすぐに近付けない。それに、相次ぐ爆弾騒ぎで警察もそちらに人員を割いているに違いない。

 不発弾の意味が、全員の中で繋がった。

 

「やられたッ! 今度は陽動なんて……!」

 

 ステアリングを殴り付けてエレノア。車を動かそうとしても、先程よりも人が増えている。ピラミディオンに近付くのは難しい。

 いや、それでは美夜は何の仕事を受けたのか。

 

「美夜の奴め。恐らくじゃが、脱出ルートの監視じゃな。スナイパーはその性質上、遠くを見る。監視にはピッタリじゃ」

 

 スマートフォンを弄りながら、鈴那は悔しげに歯噛みする。

 

「五十鈴さん? 何見てるの?」

「GPSじゃ。美夜がオンにしたままじゃったからな」

 

 鈴那の言葉を聞いて、エレノアは後ろを振り返った。

 

「どうして言わなかったの!?」

「言ってもこの人だかり……動けないのに変わりは無い。エレノア、恐らくピラミディオンに間もなく動きがある。美夜の信号が動いたようじゃ」

 

 行くしかないぞ。鈴那は言う。

 エレノアも反応した。エンジンを吹かし、クラクションを鳴らしながらゆっくりとピラミディオンへの道を開く。

 人が道を塞いでいて、まるで壁だ。しかし無理に押し通る訳にもいかない。

 

「どうするの!? エリー?」

 

 六花は焦り気味にエレノアへ訊ねる。これが本当に陽動なら、時間はない。

 エレノアの視線は、道端に停められていたキャリアカーに向けられていた。荷下ろしが済んだまま放置されているようで、都合良くジャンプ台のようになっている。

 

「待って待ってエレノア、まさか飛ぶ気じゃないよね!?」

 

 エレノアの視線から意図を汲み取ったのか、あかりの頬を冷や汗が伝う。

 あかりの問いに答える代わりにアクセルを吹かし、センターコンソールを開ける。ロケットモーターと記されたスイッチに指をかけ、エレノアは運転席から空へ向けて発砲した。

 荒療治だが、人を退かすにはそれしかない。案の定、危険を察知した人々はエレノアの車から逃げるように距離を置いた。

 

「全員掴まって!」

 

 直ぐ様ロケットモーターオン。車両後端下部に備わったゲートが開き、噴射口が現れてラグもなく火を噴いた。

 シートに叩き付けられるような凄まじい加速。ガソリンエンジンだけでは不可能な速度でキャリアカーに乗り、エレノアの愛車──ヴァンテージは空を飛んだ。

 

「このあとどうするの──!?」

 

 宙を舞う車内であかりが叫ぶ。それと同時にエレノアはボタンを押し、畳まれていたジョイスティックを引っ張り上げた。

 このまま着地してはボディフレーム、サスペンションに大ダメージを与えてしまう。なんとかソフトランディングさせねばならない。

 六花たちが外を見ると、車体下部から飛行機の翼めいたウィングが飛び出している。操作はジョイスティックのようで、丁寧なことにエルロンなども連動している。

 空を飛ぶ車。観客は大勢居て、歓声が上がっていた。

 着地する飛行機そのものの様子でソフトランディングを決めたヴァンテージ。キャリアカーの向こうは警備会社による誘導が入っているようで人も少なく、車を思う存分に振り回せた。どうやら、一区画に人が固まりすぎていたようだ。

 

 ピラミディオンまで、ここまで来れば早い。車を飛ばすエレノア、付き従う仲間たちのスマートフォンがメッセージ受信を告げる。

 

「周知メールッ!」

 

 六花が内容を読んで声を上げた。

 

「ピラミディオン台場で立て籠り発生! 至急強襲科及び狙撃科、二年次生徒以上の武偵に出動の要請よ!」

「じゃあ、やっぱり奴等はまたピラミディオンを襲ったんですね」

 

 つまり、美夜も何処かにいる。鈴那の話からしても、そう遠くはない筈だ。

 相手の出方をうかがう為に車の速度を落とすと、不意にリアガラスが何かの衝突音を立てた。

 すぐにもう一度。

 

「何!?」

 

 あかりが後ろを見るが、何かがぶつかった痕跡はない。

 車は停止し、エレノアはサイドミラー越しに輝くものを見た。ふと高所から煌めいたそれは、狙撃用のスコープだろうと彼女は解釈する。狙われている、それも恐らく友人に。

 

「美夜……!」

 

 すぐにサイドミラーが弾丸に粉砕された。流石に構造的に脆い部分を防弾化はしなかったようだ。

 

「美夜ちゃん、本当に殺す気なの!?」

「いえ、多分違います」

 

 六花の叫びを、エレノアは冷静に否定した。ミラー越しで距離もあった為不確かだが、違和感はあった。

 

「美夜は多分、立射(スタンディング)で撃ってきてます。普通のスナイパーなら、そんな不安定な状況で撃たない。第一、棒立ちで撃つなんて素人じみた真似、彼女はしません」

「じゃあなんで……!?」

「依頼は拒否できない。だから私たちを撃つしかない。だけど、美夜は裏切ってなんていない。姿を見せたのだとすれば、それが証拠です」

 

 エレノアは語るが、狙撃は続いている。完全防弾化されたボディパネルは火花を散らして弾丸を弾いているが、どこまで完璧かは分からない。ピラミディオンにも駆け付けなければ。

 どうにかして、一度目をくらませる必要がある。

 

「煙幕とか無いの!?」

 

 継続される狙撃に身を伏せながら、あかりが叫ぶ。

 促され、エレノアはスモークのボタンを押したが反応がない。二度押したが、やはり変わらなかった。恐らく配線されていないか、充填されていないのだろう。一部のガジェットは問題無く作動したことを考えると、充填されていない方が確かか。

 しかし何にせよ、これでは撹乱する方法がない。

 

 ──これが普通ならば。だが。

 

 エレノアはステアリングを右にいっぱい切り込むと、力任せにアクセルを踏み込んだ。

 リアタイヤはグリップを瞬く間に失いスピン。テールスライドを誘発させ、素早いステアリング操作でスライドを継続させる。

『定常円旋回』と、業界では呼ばれる。リアタイヤを滑らせる、ドリフトの練習に採り入れられる技術だ。同じ半径の円を、リアタイヤを滑らせたまま描き続ける高等技術。エレノアでさえ、まだ綺麗な円は描けない。しかし、それでいい。

 ぐるぐると回るうち、タイヤが巻き上げる白煙は周囲を濃く覆っていく。これなら美夜も車の正確な位置は把握できない筈だ。

 

「よし、射線は切れたはず。ピラミディオンに向かいます!」

 

 定常円旋回をスロットルの開度とステアリング操作で終了させると、白煙を残したまま、ヴァンテージはエンジン回転のリミッターを作動させながら前進する。

 摩擦熱によりタイヤの内圧が増し、グリップが緩くなっているが、問題は大きくない。エレノアは構わずピラミディオンへ車を向かわせようとした。

 

「エリー、左ッ!」

 

 六花に言われ、視線を向ける。鮮烈なブルーの車体がまさに今通過しようとしていた。慌ててブレーキを踏み込み、難を逃れる。

 

「今のは……?」

 

 あかりが去っていくテールランプを見送る。彼女には見慣れない形状の車体だった。それにとてつもなく速い。だが、エレノアには見覚えがあった。六花にもだ。

 

「エリー、あれって……」

「はい。多分、ピラミディオンの展示台に置かれていたブガッティシロン。無傷なら三億円以上の価値になる車です」

 

 ピラミディオンの最初の事件で、エレノアは展示台にその車が展示されているのを見ている。特別な反応はしなかった。普通は動かないように、バッテリーなどは外されている筈で完全にマーク外だった。

 しかし、それを何とかする方法があったなら、唯一金庫の外に置かれた巨大な走る金塊に早変わりする事になる。それも、乗りこなす腕があれば誰も追い付けない速さを備えた金塊だ。

 

「どのくらい速い?」

 

 鈴那が問う。

 

「この車が今600馬力なら、向こうは約2.5倍。1500馬力、最高速度は時速420キロ。完全停止から時速100キロまで2.5秒」

「400──!? そんなの、どうしたら!?」

 

 止めようなどあるのか。あかりが運転座席にしがみつく。

 ブガッティを追うべきだろうが、ピラミディオンの方も気がかりだ。幸い人数はいる、戦闘を行える人間を武偵の援護に回すことが出来そうだった。

 

「鈴那、あかり。ピラミディオンで仲間の応援を待機して、事件を鎮圧出来る? 私は南野先輩とブガッティを追いたい」

「……そうじゃな。その采配に賭けよう。近くで下ろしてくれ」

「やってみる!」

 

 異議は無かったようだ。車を動かし、ピラミディオン近くに鈴那とあかりを降ろす。

 ブガッティはどんどん離れていくだろう。エレノアは下車した二人に手を上げ、早々に車を出した。

 

 盗まれた車が走り去った方角を割り出し、追うエレノア。六花は助手席で通信科、情報科に追跡車両の現在位置調査を依頼する。幸い目立つ車体だ、情報は然程待つことなく共有された。だが速度が段違いに速い。距離を離されては、ヴァンテージに搭載された秘密兵器も意味がない。もっとも、そのどれもが残弾無しなのだが。

 六花がGPSマップを表示し、ダッシュボードのスマートフォンホルダーに置く。既に首都高速に乗ってしまっている。逃走車両は悠々とその距離を離していた。

 

「どうするの? エリー」

「……ガス欠を待ちます」

「え……?」

 

 あまりに単純過ぎる反応に、六花が思わずすっとんきょうな声を漏らす。

 ガス欠を待つ? 本当にそんなことで大丈夫なのか。エレノアの方が確かに車は詳しいだろうが、車がそう思う通りにガス欠しないのは一般人である六花も分かっている。

 

「それまで犯人を走り回らせるの?」

 

 だから、彼女はエレノアに訊ねた。

 

「展示台から無理矢理に動かした車体なら、ガソリン満タンは難しいと思います。それに、かなり飛ばしてる。シロンの燃費は高速道路通常巡行で燃料1リットルあたり約6キロです。燃料タンクは100リットル。これを満タンにしてても、一度フルパワーで走りつづければ七分も持ちません」

「それってつまり……」

「付かず離れず付いていけば、いつかは向こうから止まります」

 

 安心すべきか、そうではないのか。六花は頭を抱える。

 通り過ぎる一般車は軒並み速度を落としている。恐らく暴走する逃走車を避けようとしているのだろう。エレノアは無理に加速せず、ゆっくりと一般車を追い越していく。

 

『対象車両、停止! 被疑者は車を乗り捨てた模様!』

 

 通信科の通信が知らせる通り、表示されるGPSマップの光点はつい先程とはうって変わり、同じ場所を記し続けていた。

 

「ウソでしょ……」

 

 まさか本当にガス欠なのか。六花が驚愕に目を丸くした。

 いや、ならば被疑者はどこに行ったのか? 停止した光点と現在位置はみるみる内に近付いて、ようやくシロンの異質なテールランプが視界に入った。

 横一本に走った赤いテールランプ、低くワイドなボディ。何より存在感は他の追随を許さないものがある。

 値段にして三億円超。走る豪邸とも例えられる車は、ドライバー不在のまま、首都高速湾岸線の端に停められていた。

 

「……誰もいない?」

 

 ハザードランプを点灯させ、盗難車の後ろで車を停める。湾岸線に徒歩で下りられるような道はない。しかし、ドライバーの姿は現に何処にもなかった。

 

『該当エリアにて、不審なバンと対象車両から降りたドライバーが合流する様子が目撃されています。恐らく仲間が回収したものと思われます』

 

 通信科の生徒が告げる。情報が正しいなら、捕らえるべき人間はもう既にここには居ない。

 

「どうするの? エリー」

「……まず車を確保しましょう。乗り捨てたということは、戻る確率は低いと思いますが」

 

 たとえ乗り捨てられていても、立派なピラミディオンの財産だ。回収して、本来あるべき場所に戻さなくては。

 車は幸いにして動かず、三角板を設置すれば危険は回避出来そうだった。応援到着までさほど掛からない。

 エレノアは六花に残るよう頼み、自身は犯人を探すため湾岸線へと合流していった。

 

 □

 

 ピラミディオン台場を襲った強盗は展示台のブガッティシロン、金庫室の現金を狙ったが、武偵の展開により失敗。

 鎮圧された強盗の他にいる筈だった、シロンのドライバーは事件から一週間経った今も見つかっていない。

 そして、美夜もまたそれから姿を消していた。

 

 ──東京都内、某所オフィスビル。

 夜の帳が下り、デザイナーズ風のオフィスは窓から射し込む東京のネオンに照らされていた。

 スーツを着た一人の男が、一際豪奢な部屋の扉を開ける。どうやら社長室のようだ。

 室内の電気を点けると、いつもは彼が腰掛けているのだろう椅子は彼に背を向けていた。違和感を覚えた男は、懐に手を差し入れる。それより早く椅子はくるりと回転する。椅子には、一人の少女がサプレッサーの着いた拳銃を構えて座っていた。

 

「お前……。ピラミディオンにいたガキだな」

 

 男は現れた少女に問う。相変わらず拳銃は向けられたままだ。

 

「上手くやれば、武偵同士殺し合ってくれるかと思ったんだが……。オイ、仕事だ」

 

 男が合図をすると、黒髪の少女が躍り出た。

 

「美夜……」

 

 椅子に座った少女──エレノアに躊躇いが生まれる。構えた銃が迷いに震える。

 

「やっぱり知り合いか。このガキ、仲間に俺らの計画を横流しするような真似しやがって……」

 

 男は少女──美夜の首に腕をかけると、そのまま盾にするように自身の前へ引き寄せ、美夜のこめかみに懐から取り出した拳銃の銃口を押し付ける。

 椅子から立ち上がり、両手で拳銃を構え直すエレノア。しかし、男は動じない。

 

「武偵ってのは人殺しが出来ないんだろ? コイツを助けたきゃ、頭を撃つ以外無い」

 

 男の言う通りだ。エレノアは小さく息を吐く。

 照準の先──男を無力化するには、急所を撃つしかない。それ以外は美夜の身体が盾にされてしまっていた。せめて武偵校制服なら信頼がおけただろうが、服装は変えられている。会社に合わせたようなタイトスーツだが、防弾では当然無いだろう。そうであれば、撃てば銃弾が抜けてしまう。

 

「エリー、撃て。私は良いから」

「……美夜。私たち、友達よね?」

「は? そんなの……」

 

 言い淀む美夜。裏切った罪悪感が、彼女に即答させまいとしている。

 

「私は君を信じる。君は?」

 

 エレノアの問いから五秒ほど経って、美夜は答えた。

 

「……信じるに決まってるだろ。エリーも、皆もこんな私の為に来てくれた。何が起きても責めない」

「分かった。ありがとう、美夜」

 

 美夜の瞳から、甦った熱を感じ取ったエレノア。構える拳銃からも、迷いが消えていた。

 

「まさか味方ごと撃つ気か? 防弾装備なんか着けさせてねぇ。撃ったら死ぬぞ」

「大丈夫。私は彼女の友達だから。彼女は私を信じてくれたから」

 

 一発の銃声が響く。

 銃弾は美夜の右肩を突き抜け、威力が弱まった状態で背後の男に命中した。

 

「いってぇ! やっぱいてぇ! もうこんなバカな真似やらんわッ!」

 

 落とした武器を拾おうとする男から、美夜は悪態をつきながら拳銃を奪う。

 

「やっといつもの君に会えたわ」

「……そうだな。落ちるとこまで落ちると思ってた。騙されたこと知って──『ならいっそ』って、思っちゃったんだよな」

 

 遠くからパトカーのサイレンが迫ってくる。

 

「なぁ、エリー。私に……帰る場所ってあるのかな」

 

 出血する右肩を押さえながら、美夜は不安げにエレノアを見つめる。

 

「例えみんなが否定しても、私が受け入れる。私が君の居場所になってみせるよ」

「お前……よくそんな台詞吐けるな。でも、ありがと。ちょっとだけ楽になった」

 

 パトカーのサイレンがビル前で止まると、美夜は膝から崩れ落ちた。意識を手放した訳ではなく、緊張の糸が切れたのだろう。

 プロの武偵と警察官が突入してくると、ようやく事件の終わりを感じた。物々しい装備の警察官に囲まれ、美夜は無事な左手を掲げた。男もその場で逮捕されたが、まずは病院行きのようだった。

 

 □

 

 ピラミディオン台場強盗事件は、各メディアで大々的に報じられた。

 合法カジノを狙った大規模強盗事件の一つとして、ニュースではコメンテーターたちが口を揃えて警備の一層強化を唱えている。

 事件から二週間が経った。美夜は肩の傷で入院していたが、既に退院していた。

 聴取がキツい、とはエレノアに送られてきた美夜のメッセージの一文だ。しかし、事件の片棒を担ぐ事になった重大さは彼女も理解しているようで、あらゆる計画があった事を警察に語ったようだ。

 潜伏している強盗団一味も、次々に逮捕されていた。これも、美夜が探り当てた情報に基づいたものだったらしい。

 

 エレノアが時計を見ると、既に夕刻。夕飯を食べに行こうか迷っていると、スマートフォンに電話が入った。主は武偵校の教務科──つまり、教師から。

 曰く、エレノアの部屋に新しいルームメイトが入るため清掃を行え、との事。

 足を伸ばせる一人暮らしも終わりかと思うと、途端に部屋が狭苦しく思えてきた。

 

 粗方掃除機を掛け終え、自分専用だった冷蔵庫なども整頓した。

 額の汗を拭い、一息ついたところで部屋の鍵が開いた。

 

「おーっす」

 

 玄関先に現れたのは、漆黒の髪色の少女。ショートボブの髪が少々汗に濡れていた。

 大きなリュックに、スナイパーライフルを固定してエレノアへ手を振っている。

 

「美夜? まさか、ルームメイトって君の事?」

 

 そこにいたのは、確かに佐々野美夜本人だった。

 

「そうや? 家出しちった──ってのは冗談だけど、親も特に反論無かったしな。エリーの部屋空いてんの知ってて先生方に申請したんだけど、迷惑だったか?」

 

 まただ。美夜は不安そうにエレノアを見る。

 気丈に振る舞っても、やはり彼女は脆い。エレノアは首を横に振る。

 

「まさか。知らない人間より、君の方が安心する。よろしくね、美夜」

「うん。改めてよろしくな、エリー。部屋の用意したら、すぐ夜飯作るから待ってて」

 

 静かだったエレノアの部屋。しかし、美夜との同居が始まると転じて賑やかになる。

 夜は更け、次の朝が訪れて、エレノアは美夜と共に車で通学する。少なくとも、美夜が寂しそうな顔を見せることはエレノアの見ている限り、無くなっていた。

 車を降りる直前、美夜はエレノアへ語った。

 

 ──もうバカな真似はしない、と。

 

 エレノアは小さく笑って答えた。

 

 ──当然でしょ、と。

 

 そうして武偵校一年生の一日が、また始まる。




なんか最終回みたいになってしまった。
まだまだ続きます。


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クロームの秘密
014.いつもの日々-変異-


 授業が終わり、エレノアは自身の所属科へ向かう。

 そこで待ち構えていた装備科や車輌科の先輩に車を止められ、漸く彼女はつい最近の事件でのガジェットの扱いを咎められるのだった。

 

「ガジェットの説明もしてないのに!」

 

 そう叫んだのは帽子を被った装備科女生徒。

 

「ごめんなさい。メモがあったので、それで良かったのかと……」

 

 詰め寄られては、エレノアも小動物のように小さくなるしかなかった。

 実際、説明を受ける事無くさっさと車を乗り回したのは彼女なのだ。致し方無かったとはいえ、言い訳も出来ない。

 

「まぁでも、大方予想してた動きはしてたよな」

 

 別な装備科生徒が語る。

 台場では見事なフライトを見せた。ロケットモーターにも異常はない。考えれば、今さら説明の必要はないようにも思えたが。

 

「それこそ映画みたいに、廃車になって戻ってこなくてよかったよ」

 

 多少のダメージはあれど、エレノアのヴァンテージは無事だ。映画では毎回廃車になっているということをイメージしてしまえば、やはりマシもマシ。

 

「ガジェットに関しては考えて使ってね。使いどころさえキマれば、最強だから!」

 

 装備科生徒たちにそう念押しされ、エレノアはこくこくと頷く。

 少しして、車輌科の生徒がエレノアを呼びに来た。今日はヘリコプターの操縦訓練だ。訓練といっても、まだ一年生。シミュレーターによる仮想体験となる。

 残念ながら、今日は武偵たちも静かではなかった。暴力団の抗争で鎮圧に当たっていた警察からの要請で、強襲科と狙撃科が出ている。通信科は言わずもがな。情報科も動いているかもしれない。

 先輩にシミュレーターを起動してもらいながら準備をしていたエレノアだったが、ふと車輌科生徒の世間話が耳に入ってきた。

 

『なぁ。今回の警察からの依頼、武偵校(ウチ)の一年が巻き込まれてるってマジなん?』

『マジらしいよ。強襲科の……なんだっけ? あの小さいヤツ』

『いや、あそこ抜きん出て小さいヤツ三人はいるぞ。でも一年なら神崎じゃねーよな』

『赤い髪のヤツだよ。ボンドと良く話してるヤツ』

 

 世間話を聞いて、エレノアが動きかける。だが押さえた。今は動く時じゃないのだろう。

 それに悪いニュースばかりが聴こえてきた訳でもなかったのだ。

 

『まぁ、問題無いさ。三年の強襲科もとっくに動いてるって話あるし』

『あそこが動いてるなら問題ねーか。あの一年もそこそこやるって話だし、ウチらは車の支度でもするかァ』

 

 いわく、もっともプロに近い、最高学年の強襲科が動くらしい。エレノアはひとまず安心する。噂に上った一年生は恐らく鈴那だが、噂通り強襲科はあくまでも“兼科”でありながら、実力はBランクにも匹敵する。

 胸を撫で下ろし、エレノアは一旦目前のシミュレーターに集中する事にした。

 

 □

 

「ふむ……囲まれてしまったな」

 

 場所は変わり、東京都内。赤い髪についたゴミを払い落として、五十鈴鈴那は自分が飛び降りたビルの窓を見上げた。

 所詮簡単な依頼だと、油断が無かったとは言わない。それが暴力団の乱入によって暴力団同士の抗争に発展し、慌てて二階の窓から路地裏のごみ溜めに飛んだのが、つい二分ほど前。

 依頼自体は単純なお使いだった筈なのだが。

 今も怒声に銃声、ガラスや壁の壊れる音が聴こえてくる。武器を抜いておくべきだろうと鈴那は判断した。

 

「帯銃が義務で良かった。危うく何も出来ぬところじゃった……」

 

 ホルスターから抜いた拳銃はベレッタ86。小振りすぎず、だが大きすぎず。バレル跳ね上げ(チップアップ)機構によってマガジンを抜かずスライドを操作せずとも薬室に装填、抜弾が出来る。普段使いにはこれで充分だった。

 跳ね上げた銃身から弾を込め、撃鉄を起こす。愛用のカランビットも確かめたところで、鈴那は敵の接近を感知した。どうも抗争に絡んでいると思われたのだろう、味方と取るには難しい苛立ちの言葉ばかりが耳に入った。

 裏路地は広くないが、敵は一方向からしか来ていない。声のする方へ銃を向けて、鈴那は備える。

 

「やれやれ……」

 

 鈴那は確かに一年だが、肝は据わっていた。拳銃で武装した、屈強な男二人に怒鳴り付けられても呆れたようにかぶりを振るくらいには。

 銃を向けられる前に駆け出し、塞がれた道を右へ。パルクールの要領で壁を蹴り、身体を捻りつつ飛び越えると、鈴那は直ぐ様後ろから敵対者の膝裏を拳銃で一発ずつ撃ち抜いた。

 

「依頼は果たした。撤収するとしよう──」

 

 いや、駄目だ。撤収しようとした鈴那は踏み出そうとした足を止める。

 まだ敵は来ていた。どうあっても彼女を逃がす気はないようで、数にモノをいわせて突撃してきている。

 これが普段なら鈴那もまだ返り討ちには出来る。だが、9mmショート弾(.380ACP)の非力な拳銃とカランビットナイフだけで十数人の暴力団員を相手取るのは難しい。何しろ、強襲科での組み手と違い、相手には戦闘の常識が通じないのだ。一人に組み付かれでもしたら、残った敵から袋叩きに遭う。

 先に進めないのなら、建物を回り込むか。

 迷ってる場合ではない。鈴那が踵を返そうとしたその時、瓶の栓を抜くような音がした。すぐに周囲は濃い煙に包まれ、視界は無くなっていく。

 刹那、煙の中から人が飛んできた。鈴那の行く手を阻んだ暴力団員の一人だった。決して軽くはないだろう大柄なその身体は、あたかもダンプにはねられたかのように軽々と鈴那の横を飛び、壁に激突する。

 何かがいる。腰を低くし、カランビットと拳銃を交差させて構える。

 

 スモークを振り払い、何者かが抜け出てきた。鈴那が拳銃を構えるよりも早く、その懐を許す。

 

「しまっ──」

 

 一瞬の焦り。しかし、鈴那はすぐさま持ち直した。

 相手の眉間へと拳銃の銃口を向ける。引き金は引けないが、普通ならば抑止にはなる。

 

「……!」

 

 飛び込んできた相手が、鈴那を見て何かに気付いたように目を開く。

 瞬間的な反応で拳銃を逸らし、鈴那の制服に付けられたネクタイを引っ張った。

 

「このっ……!」

 

 拳銃を再び向け直そうとするが、鈴那の身体はあまりにも軽すぎた。すぐに天地が引っくり返り、鈴那は敵に組み敷かれていた。眉間にはクロームメッキの巨大な自動拳銃──デザートイーグルが向けられている。

 闖入者を良く観察すれば、儚げな雰囲気を持つ少女だ。白髪で切れ長の眼だが、厳つい顔立ちではない。哀しげに物を見るように、少女は鈴那を組み敷いていた。

 

「わしを殺すか……?」

「……いいえ。殺しません」

 

 艶やかな唇。デザートイーグルの向こうに見える少女が語ったのは、鈴那への敵意ではなかった。

 まだ暴力団員は残っているが、少女は鈴那に馬乗りになったまま、振り向きすらせずデザートイーグルで敵を撃つ。

 .50AE弾を使用する最強の自動拳銃。重量2kg、弾頭エネルギーはソビエトのAK-47と同等。反動は史上最大とも言える拳銃が、少女の手によってまるで身体の一部のように制御される。

 近距離でその銃弾を受ければ、防弾装備の無い人間なら即死。良くて重傷は免れない。

 巨大なスライドがロックすると同時に、暴力団員たちは血の海に沈んでいた。

 

「お主……!」

 

 目の前の人間が暴力団員を射殺した。いくら鈴那にとっての敵対者でも、射殺は許されない。それが武偵だ。いかなる状況においても、殺傷は許されない。

 現場には警官も張っている筈だ。狙撃科のスナイパーも見ている。

 

「ボンドに伝えてください。シノが貴方を探している、と」

 

 鈴那を解放すると、少女は背を向けてそう言い残した。

 立ち去ろうとする少女に、鈴那は拳銃の銃口を向ける。逃がさない。逃がしてたまるか。

 

「逃げられると思っておるのか? 現場には警察も、スナイパーもいるぞ」

「知っていますよ。また会いましょう、五十鈴鈴那さん」

 

 教えた覚えの無い名前を呼ばれ、鈴那は目を丸くする。一体彼女は何者なのか。

 少女の姿が再び焚かれたスモークに消える直前、彼女は地面に何かを落としていった。

 

『スズ! 無事か?』

 

 インカムに飛び込んできたのは狙撃科、美夜の声だった。

 

「なんとか無事じゃ。……法化銀の十字架か」

『なんだって?』

「後で話す。エレノアへの連絡を頼む」

 

 鈴那が知る限り。“アレ”は武偵ではない。見た目に似合わぬ圧倒的な筋力は人間のそれではなかった。

 武偵にはCVRの他に、超能力捜査研究科(SSR)と呼ばれるオカルトのようなものを学ぶ学部がある。秘密主義が徹底されているが、鈴那は一部のニュースにアクセスしたことがある。

 隠されたニュース、消されたニュース、既に過去となったニュースに残された映像。

 

 この世界には、人間以外の“異形”がいる。

 偉業を成し遂げた人物がいるのはエレノアで証明された。

 そして今、立ち尽くす鈴那は少女の眼を思い出してもう一つの仮説も立証しようとしていた。

 

「バケモノめ……」

 

 現場は片付いた。鈴那はゆっくりと表通りに目掛けて歩みを進める。

 気付けば、見慣れたチョコレートブラウンのクーペが停まっている。

 

「乗って、鈴那」

「エレノア……。わざわざ来たのか」

「そりゃね。美夜から話は聞いたから、部屋に向かうけど良い?」

「んむ。それで良い」

 

 騒がしい現場を立ち去る二人。

 一体何が待っているのか。窓から外を眺めて黄昏る鈴那には分からない。だが、何かある。だから少女は接触してきたのだと。

 そして、それはエレノアに関係してくる。理由は分からないが、それが確実なのだ。




お疲れ様です。
最近なんだか色々忙しくて書く暇が無かったです。

デザートイーグル、私の小説で出したのは久し振りですかね。
この世界だから許される、という感じであります。


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015.Q

「さて、エレノア。まずはシノという女に覚えはないか?」

 

 武偵校学生寮、女性棟。エレノアと美夜の自室は過去に類を見ない密度だった。

 鈴那に六花も加わって、四人がテーブルを囲んでいる。

 まず鈴那が問うのは、少女が語った名前についてだ。エレノアは暫し首をかしげて悩んでいたが、覚えがない。

 

「知らない」

「孤児院での知り合いは?」

「……もう覚えてないわ」

 

 少なくとも、エレノア直系の知り合いではないのか。鈴那は追及を止めた。

 

「──そもそも、どういうヤツだったの? 私は現場を見てないし」

 

 エレノアはコップに注いだ麦茶を一口含む。空気が重かった。笑いなど起きそうにない、胃が痛くなりそうな空気だ。現場に出る前のブリーフィングに近い。

 鈴那は見たことをそのまま語る。見た目は少女であること、怪力であること。そして──

 

「ヤツは平然と人を殺した。武偵ではない」

 

 ──殺人者であること。

 

「現場に落ちていたものを拝借した。十字架じゃ」

「……銀の十字架か?」

 

 美夜はテーブルに置かれた十字架を手に取る。シンプルな十字架でしかない。アクセサリー関係のようなデザイン性は皆無だが、ラテン語の刻印が彫られている。

 

「それは法化銀で皮膜処理した──言うなれば『悪魔払いの十字架』じゃな」

「悪魔払いって、冗談でしょ? S研でもなきゃ分からないわ、こんなの」

 

 現実離れした話。六花は頭を抱えた。自分の知識にも限界があった。

 S研──SSRと六花のCVRことC研は特殊捜査という面においては近いものがある。加えて六花は二年次。S研の知り合いには奇跡的にも一人だけ、当てがあった。

 

「──星伽さんに連絡してみる? もしかしたら、教えてくれるかも」

 

 六花が挙げた名は武偵校でも屈指の実力者、星伽白雪。大和撫子の振る舞いから男子生徒の人気が高く、六花も彼女とよく話をしていた。

 何も分からないよりは良い。エレノアたちは満場一致で六花の案に乗った。

 スマートフォンをハンズフリーに。星伽白雪を呼ぶ音が部屋中に響き渡る。

 

『もしもし?』

 

 対応はかなり早かった。ハッキリとした声音で応対している。

 

「星伽さん? ごめんね、急に。ちょっと訊きたいことがあって……」

『南野さん? どうかしたの……? 答えられることなら、任せて』

 

 噂通りの優しい人物のようだった。対応に刺がない。

 六花は十字架を取り上げて、眺めながら白雪に訊ねた。

 

「今日、後輩が法化銀皮膜処理っていうのを施された十字架を拾ったの。持ち主はもう一人の後輩──エレノア・ボンドを捜してる。法化銀の十字架と、その意味って分かる?」

 

 問いから少しだけ間が空いた。白雪も迷ったのだろうか、少しして返答があった。

 

『その十字架、何か刻まれていませんか』

「ラテン語が刻まれてる」

『……今からする話は、そちらに居られる方たちの中だけでお願いします』

 

 白雪は重々しく語り出す。

 

『それは、吸血鬼狩りの十字架です。そして恐らく、その持ち主も吸血鬼です』

「吸血鬼……?」

 

 そんなバカな。エレノアが面食らってしまった。

 

『厳密には吸血鬼と人間のハーフです。純血の吸血鬼ほどの力は無いけれど、その大半が代わりに日射しに耐性を持つとか。力は無いと言っても、人間では相手にならない程度の力はあります』

 

 少し待って欲しい。エレノアが項垂れつつ、その場の面子を手で制した。

 吸血鬼? 人間では相手にならない? そんな化物がなぜ自分を捜しているのか。それがさっぱり分からない。

 

『特にその十字架は多分、吸血鬼狩りの“教会”の物の筈。南野さん、誰かに心当たりは無い?』

 

 白雪に問われ、六花が周囲を見渡す。当然だが、全員に覚えがない。それぞれがそれぞれの反応で首を横に振るだけだ。

 

「心当たりは無いって」

『そうですか……。だとするなら、教会は無用な敵対行動はしないはずだよ。彼らの任務はあくまでも、吸血鬼を狩ること。人間狩りではないって話だから』

 

 白雪いわく、敵対はしていない。ならばなぜ、エレノアを捜すのか。エレノアを釣り上げるなら、鈴那を使う手はいくらでもあった。

 先刻の現場ではあっさり彼女を組み敷いていたし、人質にしても、殺して無理矢理エレノアを引きずり出す方法もあったはずだ。

 それをしなかったということは、白雪の言う通り敵対する気はないのかもしれない。エレノアを探す理由は、やはり分からないままなのだが。

 

『でも、“教会”が捜してるということなら気を付けて。吸血鬼の類いも周囲を彷徨いている筈だから』

「……なんだってそんな」

 

 急激に現実離れしていく内容に、エレノアは頭を抱える。

 吸血鬼のハーフに捜索されているらしい、という話だけでも満腹なのに、純血の吸血鬼まで周りを徘徊している可能性があるなんて、自身の父親の正体以上にショッキングかもしれない。

 しかし、所詮はまだ姿の見えないモノだ。エレノアたちのやることはあまり変わらない。危ないものには頭を突っ込むな──危険な世界で生き抜くための基本だ。

 

 結局話はそれ以上膨らまず、解散。ただし、全員周囲に気を付けるよう決めた。

 話も終わり、美夜と二人でエレノアもやっと休息というところで、エレノアのスマートフォンに一通のメールが届いた。

 

『明日、見せたいものがあるので、放課後に装備科まで来るように』

 

 装備科の人間が送ってきたメッセージのようだった。今はやることもない。呼んでいるなら、出向いた方が暇も潰れるだろう。

 メッセージを眺めていると、美夜が横から画面を覗き込んできた。

 

「なんや、楽しそうやん。ついていっていい?」

「美夜……。人のスマホを見ないでよ」

「あ、わりぃわりぃ。気になっちゃって」

 

 咎めはしたが、別に隠すことでもない。美夜が暇なら、一緒に連れていってもいいだろう。

 

「まぁ、多分大丈夫じゃない? 明日の放課後、装備科で待ち合わせね」

「おっけー。──っと、夕飯にするか! ちぃと手伝ってー」

 

 時計を見て、夕食の支度を始めた美夜。エレノアはその後について、キッチンに足を踏み入れた。

 

 次の日、放課後。

 装備科棟は地下にあるため、車で乗り入れることは出来ない。手近の駐車場に停め、美夜と合流する。

 

「ごめん、待たせたね」

「いや、ウチも今来たばっか。何を見せてくれんだろうなぁ」

 

 他愛の無い世間話を交えつつ、エレノアと美夜は装備科棟へと足を踏み入れる。

 試作武器の並ぶ通路を抜け、目的地を探す。スマートフォンには『大型倉庫』と目的地の指示が来ていた。

 大型倉庫──つまり、小さな武器を見せるわけでもないらしい。迷路のような装備科棟を練り歩き、ようやく二人は巨大な鉄扉の前に辿り着いた。

 プレートには『2番大型倉庫』──他にもあるのだろうが、人の気配はここからしている。ノブを捻り、重たい扉を押し開けると、そこには地下とは思えない広大な空間が広がっていた。

 大型火器、装甲車輌なども生徒達が調整しているようだ。

 

「あー! やっと来たのだ!」

 

 エレノアたちの存在を確認して、一人の少女が声を上げる。

 

「平賀先輩? あれ、でもメッセージは平賀先輩っぽくなかったような……」

 

 エレノアたちに声を掛けたのは平賀文。高度な銃器カスタマイズを得意とするが、ずさんで割高。

 文は「何を当たり前な」と言いたげに言葉を返す。

 

「そりゃあ、メッセージを送ったのはあややじゃないからなのだ。今担当と代わるから、ちょっと待っててほしいのだ」

 

 とてとてと可愛らしく走り去っていく文。美夜と顔を見合わせつつ待つと、すぐに別な女子生徒が現れた。

 

「やぁ、ボンド。待ってたよ」

「あなたが私を?」

「その通り。目的地はもうちょっと奥だから、話ながら行こう。お連れさんもどうぞ」

 

 美夜にも手招きすると、生徒は歩き出す。エレノアたちは後に続いた。

 

「君の噂を聞いてヴァンテージを改造したけど、実は装備科内で『Q』を作ろうって話が上がってね。主に生徒全般へのガジェットを提供する部門──」

 

 生徒は置かれていた装備を避けてから、続ける。

 

「──っていうのは表向き。私のことも、そのままQでいい。私たちは、君の活躍をもっと見たい。そして協議の結果『エレノア・ボンドにも唯一無二が必要だ』という事になったんだ」

 

 Qと呼べ、と語った生徒は途中で再び文と合流し、壁際の何もない空間の前で足を止めた。

 

「何が見える?」

「壁が見えます」

 

 ふむ。エレノアの回答に、Qは腕を組んで声を漏らす。

 

「今目の前にあるのが、我々『Q』の最初のプロジェクトで、かつ最大のプロジェクトだよ。一年にここまでするなんて、本来は有り得ない」

「悪い冗談では?」

「映画のQと同じさ。嘘はつかないと決めてる。さあ、見てくれ──」

 

 Qが手元のスマートキーらしき端末を操作すると、音もなく目の前に車が現れた。ダークグリーンの車体に、複雑なメッシュ形状の大径ホイール。

 大きな車体だが、流麗で厳ついボディスタイルだ。バッジはスカラベ──アストンマーティンの証だ。

 丸目のLEDヘッドライトは巨大なフロントグリルの内側に配置され、アストンマーティンらしくないバッドフェイスを演出している。

 

「──アストンマーティン、ヴィクター。公道仕様車としてはただこの一台のみで、エンジンは過吸器無しで840馬力。マニュアル6速ミッションで、最高時速は320km/hオーバー」

 

 ヴィクターと呼ばれた車は、スマートキーの操作で獰猛な唸り声を上げる。

 

「マシンのボディには超小型カメラを全面に配置し、反対側を投影することで視覚的には透明に見える」

 

 Qは再びスマートキーを操作する。車が消え、エンジン音のみが響き渡っている。

 再び操作を加えると、車は現れた。少々ラグがあるが、車を隠せるのは大変な強みだろう。だが、Qは車を渡すにはまだ早いとエレノアへ釘を刺した。

 

「ヴィクターはまだ開発途中でね。ここから武器の搭載内容や位置を考えるんだ。テクニックも必要だ。この車は君のだが、まだ掛かる」

 

 それまでヴァンテージで腕を磨くように。Qはそう語ると、エレノアたちを出口へ送る。

 倉庫を出る直前、Qはエレノアを呼び止めた。

 

「これを」

 

 エレノアに渡されたのは、ノキアの携帯電話だった。スマートフォンの時代には些か時代遅れのモデルだ。

 

「……専用回線ですか?」

 

 エレノアの問いに、Qは頷いた。

 

「それから、その端末はかなりシビれる。意味分かる?」

「なんとなく」

 

 スイッチを操作すると、端末下部から金属が現れた。電極のようだが、放電はしていない。

 

「今良く分かりました。ありがとうございます」

「それじゃ、気を付けて」

 

 Qの見送りに、エレノアと美夜は頭を下げつつ装備科を後にする。

 美夜は終始黙っていたが、驚きのあまり声がでなかったようだ。『目の前で繰り広げられたやり取りはまるで映画のようで、それが実在しているのが信じられない』──彼女は装備科から出るとそう語って、エレノアの車に静かに乗り込んだ。

 エレノアは装備科入口を振り返る。

 アストンマーティンヴィクター。あのスペシャルマシンのステアリングを、いつか握る日が来るのか。父の背中を追わなくても、やはり何処かで追わずにいられない。

 エレノアは複雑な心境を覚えながら、美夜に続いて愛車のヴァンテージに乗り込んだ。



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016.美夜

 Qと呼称する部門の発足を知ってから、エレノアは毎日のように車輌科で車を乗り回すようになった。

 カスタム後からあまり走っていないヴァンテージも、今では調子良く走っているようだった。

 

 佐々野美夜はそんなエレノアとヴァンテージを見届けてから、狙撃科へ向かう。

 狙撃科で学ぶのは無論、狙撃の極意だ。あらゆる状況でターゲットを待つ忍耐力、長距離の敵を撃ち抜く腕。特に、弾頭に働くコリオリ力や重力、弾頭自体の重さや口径の違いによる狙いのズレを修正する方法も勿論学ぶ。

 狙撃科とは強襲学科でも『他人を巻き込む可能性の高い科』である。その役割上、どうしても必要とあれば味方の近くの敵を撃たなければならない。この時に、弾が逸れれば味方に当たってしまう事もある。

 狙撃科とは、ある意味最も『セルフコントロール』を学ぶ科でもあるといえる。

 

 狙撃科棟シューティングレンジは埋まっていた。最近の事件続きで、依頼の難易度が上がっている。いるのは依頼を受けられない一年生ばかりだった。

 腰に手を当てて、ため息をつく。これでは練習にならないと。

 並んで狙撃姿勢を取る生徒たちを眺めていくと、ふと一人の女生徒に目が留まった。

 浅葱色のショートカットが輝いて見える。使っているライフルはSVD──ドラグノフ自動狙撃銃。それも、SVDSなどといった近代化が施されていないウッドストックモデル。

 セミオート。つまり、自動で次弾が装填される狙撃銃は標的を外したり、多数の標的を釘付けにする際、素早い対応が可能だ。反面、精度では美夜が使うような手動装填式のボルトアクションに劣る──というのが通説。

 近年の自動狙撃銃にはボルトアクションにも劣らない高精度な専用モデルが出回っているが、非常に高価で、入学したての中等部インターンや一年生が購入することはほぼ無いだろう。

 それでも、狙撃に慣れるまでは自動化されたそれらを薦められる事がある。美夜たちのように、頑として手動を選ぶのは現代武装探偵において、稀な存在といえた。

 ドラグノフは自動狙撃銃の中でも有名な、ソビエト製モデル。AKアサルトライフルをベースに再構成され、7.62mmリムド専用弾薬を使用。美夜の見る限り、女生徒のモデルはPSO-1スコープを搭載している。拡大率は4倍率。一般的な狙撃用スコープだ。

 近年見る2キロメートルを超える超長距離狙撃は難しいが、およそ1.2~1.3キロメートルは狙える。

 ただ、問題はその精度。

 

「……すげぇ。気持ちいいくらいだ」

 

 狙撃科はその役割上、通常のシューティングレンジより圧倒的に奥行きがある。場合によっては屋外まで使われる。

 女生徒が狙っているのは約1キロメートル先のターゲットだが、撃つ度に真ん中へ必中している。まるで一度空けた孔へ次弾が吸い込まれるようだ。

 ドラグノフは六十年近い歴史のうちで、『長距離狙撃には向かない』と通説が出来た。様々な要因に基づく諸説はあるが、その古さと設計にあるとするのが大半だ。

 そう言われる狙撃銃を使いこなすのは、広い学園島にも一人しかいない。

 

「レキセンパイ、やっぱすげぇ……」

 

 美夜が嘆息する間にまた一発、中心に弾丸が命中した。

 ふと、女生徒の横のレンジが空いた。すかさず美夜が滑り込む。背負ったバリスタを下ろして準備し、弾倉を叩き込む。

 女生徒は気にしない。スコープを覗けばそこは自分と敵しかいない。距離は手慣らしに600メートル。

 深く息を吐き、そして吸ってから止める。呼吸による銃のブレさえ、狙撃時には手痛いズレを起こす。心拍でさえそうだ。人間が生きるために行っている、あらゆる当たり前の行動が、狙撃には邪魔になる。

 引き金を引き、重さが変わったところで一旦止めて一気に引く。

 銃声と共に、重たい反動が肩を殴り付ける。止めていた呼吸を再開し、肺に新鮮な酸素を取り込んだ。

 観測手がいないためターゲットをスコープで見るが、感覚とのズレはほぼ無し。中心に命中だ。

 距離を更に離して設定する。次は隣の女生徒と同じ1キロメートルだ。ボルトハンドルを操作して排莢、装填して再び体勢に入る。

 引き金の重さが変わるまで引いて、また止める。そこで暫く待ち、再び呼吸を止めて撃つ。

 弾は少々右に逸れた。中心からは数センチメートル程度だが、小さい標的なら当たっていない。更に距離を離せば、その着弾のズレは数十センチメートルから数メートルに広がっていく。

 一年にしては筋がいいと言われる美夜だが、やはり有名な隣の女生徒とは何もかもが違う。

 

「少々力みすぎです。もっと力を抜いて、銃と一体になるつもりで」

 

 次を撃つつもりでスコープを覗くと、静かに風が吹くような声がそう囁いた。

 声の方向に顔を向けると、そこには先ほどの女生徒。まさか自分に声をかけるとは美夜も思っておらず、目を丸くした。

 

「どうかしましたか?」

 

 女生徒──レキ、と美夜が呼ぶ先輩は無表情のまま訊ねる。

 

「あっ──あー、いや何でも無いッス。自分に声を掛けるなんて思ってなくて」

「私をじっと観察していたので、助言が欲しいのかと」

「うえっ!? バレてた……」

「周囲にもある程度は気を配ってください」

 

 手厳しい言葉が送られた。少々落ち込み気味に、再びライフルを構える。

 

「もっと力を抜いてください。脱力ではありません。反動をただ受けるのではなく、身体全体で受け流すように」

 

 レキの言葉をひとつひとつ実践していく。銃と一つに、余計な力は抜く。心拍を落ち着かせると、同時に呼吸も落ち着いていった。

 射撃。刹那に反動が肩を突き抜けるが、先ほどよりも跳ね上がりが小さい。

 

「命中です」

 

 レキがそう語った。弾痕は中心を的確に射抜いたことを示している。

 それから二発、同じように続けて撃った。若干ズレが出たものの、数ミリメートル程度にまでは抑えられている。

 

「狙撃時は、迷いを捨ててください。射手の迷いは弾丸をも迷わせます」

「分かりました。……センパイ」

「レキで構いません。また狙撃を見せてください。……では、また」

 

 ドラグノフを背負って、レキはシューティングレンジを立ち去っていく。その背中を見送って、美夜もブースから立ち上がった。

 余計な弾薬を使うほど経済的な余裕は彼女に無い。家を出て、エレノアと暮らす前までは精神的にすら追い詰められた。死ぬ度胸は無いから、どうにでもなれと思った。

 ただ、エレノア達が強盗を追って現れるのを知って迷った。最後、エレノアに肩を撃ち抜かれて決めた。

 こんな生活なら、無くなっても構わない。学校でエレノアや鈴那、六花。クラスメイト達と笑っていた時間こそ本物だった。

 経済的に苦しくても、あの金色の長い髪を靡かせる彼女(エレノア)についていく。彼女の横で笑って、彼女が背負った重圧も分けて半分にしたい。

 

 狙撃科棟を出ると、目の前に一台の車が停止した。

 

「お迎えに上がりましたよ」

「なんや、ソレ。似合わんで、エリー」

「ジョークでしょうに」

「つまらん」

 

 楽しい。今はただ、全てが楽しい。

 隣で車を運転する彼女と、他愛の無い話で笑い合いながら帰るのが楽しい。だからだろうか、先日現れたという“シノ”と言い残した者には警戒心を抱いている。

 シノが日常を奪い去るのではないか。エレノアを奪っていくのではないか。外を眺め、同じように帰る生徒達を眺める。エレノアの知名度も、かのジェームズ・ボンドの実子と知られてから、なかなか上がってしまったらしい。武偵校の噂の広がりは恐ろしいもので、一部の生徒はエレノアたちへ何か叫んでいるようだ。隠しても何処からか漏れ出てしまう。

 しかし、日常には変わらない。ジェームズ・ボンドとファミリーネームが一緒だからとからかっていたのが、本当だったと分かった今でも美夜は付き合い方を改める気はないし、エレノア自身がそれを望まない。

 レキに見抜かれた力の入りは、そうした日常を脅かす存在が現れたからでもあった。

 

「今日は豚丼でもすっかぁ! 豚肉買ってあったし、本場風で!」

「いいね。また何か手伝うよ」

 

 ──この日常を壊すなら、美夜はその照準をシノの頭へ向けるつもりでもあった。

 今は首を突っ込まないと決めているが、絶対に向こうからやってくる。車の外を眺める美夜は建物の屋上に目を向けた。

 人影がある。()()()()()()()()()()()()に、明らかに人の影がある。美夜達を見ているのか居ないのか判断は出来ないが、美夜はその人影をじっと睨み付けていた。




007のテーマ、実はポール・オークンフォールドのリミックス版が好きです(いまさら)


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017.疑惑の渦中

 ある日。エレノアは単位が足りないことに気付き、緊急的に依頼を引き受けた。

 内容は預かった品を、時間内に届けること。今までの仕事がキナ臭すぎた為に彼女も身構えたが、何の事はない。今流行りのオンライン宅配のようなもの。自家用車の使用も認められていたから、エレノアには都合が良かった。

 

 依頼主から預かっていた注文の品を、無事に配達先へ届けたエレノア。依頼完了の報告を依頼主と教務科に行って、彼女は自販機で飲み物を買おうと車から一旦離れた。

 

「どうしようかな……」

 

 目の前の自販機を眺めて、エレノアは少々悩む。依頼の報酬で自販機の飲料くらいなら余裕を持って買えるが、彼女には特別好きな飲み物があるわけでもない。逆に嫌いな物があるわけでもない。

 その時々で買うものを決めているが、今日に限って少々悩み気味だ。

 

「お困りですか?」

 

 ふと、鈴の鳴るような声がエレノアに訊ねた。

 いつから居たのだろうか。気付けばさらりとした長い白髪が特徴的な少女が横にいた。気配など感じなかった。

 物憂げに自販機を眺めてから、少女はエレノアへ微笑みかける。気まぐれな風が、少女の髪を靡かせる。綺麗な毛髪は夕暮れの陽を受けて輝く。

 

「……いえ。少しばかり悩んでいただけです」

「そうですか」

 

 少女が立ち去る様子はない。しかし、飲み物を買う素振りもない。まるで()()()()()()()()()()()()()()かのように、ほのかな笑みを浮かべてエレノアを見つめてくる。

 気味が悪い。エレノアはそう思った。飲み物は後にして、場を立ち去ろうと自販機に背を向けようとした時だった。

 風が、少女のスカートを少々乱暴にはためかせた。見えたのは、ホルスターに収まったクロームメッキの拳銃。

 エレノアは察した。そこにいるのは“シノ”だ、と。だが、格闘術に長ける鈴那さえ手も足も出なかった相手に掴みかかったところで、意味がないのは火を見るより明らかだ。

 少女は幸いにもエレノアが察したことには気付いていないようだった。ならば、素直に撤退すべきだ。彼女の下した判断は至極単純だった。

 

「失礼」

 

 エレノアは少女へ軽い声かけをして、車へ向かった。

 

「エレノア・ボンド……。捜しました」

 

 少女は気付かれていた事を理解していたようだ。エレノアの背後で急激に殺気が膨れ上がる。

 刹那の反応で、エレノアは拳銃をホルスターから引き抜いて振り返る。正面には、クロームメッキの自動拳銃を構えた少女がいた。

 

「君がシノね」

「伝言は伝わっていたようで、何よりです。ミズ・ボンド」

「気を付けなくても、私は既婚者じゃない」

 

 会話の合間にも、エレノアは少女の武装から脅威査定を繰り返す。武器は、鈴那の話したクロームメッキのデザートイーグルではない。

 M1911ガバメント系のカスタムモデルのようだった。マッチタイプの、ウェイトを兼用したコンペンセイター。マガジンバンパーと拡げられたマグウェルから本気の度合いが伝わってくる。もっとも、それがスポーツやマッチシューティングに使われているとは思えなかったが。

 

「それより、どうして私を捜してるの?」

 

 照準器越しに、エレノアはシノを睨み付けて問う。

 

「私も、ジェームズ──ミスターボンドには助けられました。私の素性も訊かずに、重傷を負っていた私を助けてくれたんです」

 

 そう語るシノから感じ取れるのは心酔。エレノアからすれば、知ったことではない話だ。そんなことで、面倒ごとを持ち込まれても困る。

 

「父と私は関係無いわ。あの人だってそう言っていた」

「けれど、背中は追っている。違いますか?」

 

 エレノアが言葉を呑み込んだ。図星を突かれた。確かに父親とは別の道で生きると決めはしたが、何処かで彼女は父の背中を追おうとしている。

 矛盾を突かれ、メンタルに余裕を失ったエレノアの動きに固さが生まれる。

 

「貴女を守るために、私は来たんです。教会ではなく、一人の人間として」

「人間? 半分吸血鬼なんでしょう?」

「貴女はそう仰るのですね」

「私はジェームズ・ボンドじゃないと言ったわよね」

 

 エレノアの返答に、シノが嘆かわしげにため息をつく。

 

「はぁ……。流石に信用に値しませんか」

「人殺しに頼む事もないからね。仲間が目撃してる」

「鈴那様ですね。……確かに、武偵に見られてはいけないところでした」

 

 自らの失態を嘆くように、シノは首を左右に振る。

 ただあくまでも、狼狽するような様子は無い。銃口もエレノアへ向いたままだ。

 シノの目的がわからない。助けられたから、恩返しをしたいだけ? それすらも今は信用に値しない。

 

「信用が欲しいなら、態度で示して」

 

 エレノアが導いた答えが最も単純で、それでいて確実な答えだった。何かを企むなら、いつかはボロが出る。誤魔化せない部分が露呈する。

 話を聞いたシノは構えていた拳銃をくるりと一回転させると、ホルスターへと滑り込ませた。

 

「分かりました。では、また今度お会いしましょう。ミス・ボンド」

 

 銃を向けられたまま、シノは悠々と歩き去っていく。エレノアは後を追うことはせずに、シノの姿が見えなくなるまで銃を向け続けていた。

 

 エレノアとシノが邂逅し、それから数日後。

 一般教科を受けるためにエレノアは教室にいた。勿論美夜も一緒で、予鈴にはまだまだ時間がある。他のクラスメートも世間話に花を咲かせているが、その一部はいつもより一つ多い机と椅子にその話題を向けていた。

 エレノアたちも例外には漏れなかった。

 

「転校生か?」

 

 美夜が頬杖をついて増えた机に目を向ける。

 

「そうらしいぜ。ウワサだと、結構美人だってよ」

 

 クラスメートの火野ライカが会話に加わる。金色の髪をなびかせて、彼女は得意気に語った。

 

「だから男子たち、あんなに騒いでるのね」

 

 エレノアも周囲を見渡していたが、特にそわそわした様子を見せるのは男子生徒だった。恐らく、手続きで既に登校していた転校生を、誰かが発見して噂を立てたのだろう。

 また命知らずが転校してくる。少なくとも、エレノアのクラスはその話題で持ちきりだった。

 

 そして予鈴が鳴る。

 男子生徒たちは浮き足立つようにしつつも、自分の席へと戻ったようだ。エレノアも席につき、正面の黒板をぼんやりと眺める。

 担任教師が入ってきて、いつも通りのホームルームが始まる。その途中だった。『転校生の紹介をする』と語って、教師は廊下で待っているらしい転校生へ語り掛けた。

 ドアが開き、入ってきた生徒を見てエレノアは手持ち無沙汰に回していたシャープペンシルを危うく落としそうになった。

 細やかな長い白髪、淋しげな瞳。儚げな雰囲気を纏った転校生は黒板に細やかな筆跡で名前を記して、姿勢正しく礼をする。

 

「櫻羽詩乃と申します。どうぞ皆様、宜しくお願い致します」

 

 頭を上げた転校生──詩乃はその視線を、目を丸くするエレノアへ向けた。

 直ぐ様に頭を抱えるエレノア。確かに『態度で示せ』とシノに話はしたが、まさか武偵校にまで来るとは思っていなかった。

 男子生徒からの質問責めに笑顔で答えるシノ改め、詩乃を眺めてエレノアはひどい頭痛すら覚えた。

 鈴那が知ったら大変な事になる。今日は朝から情報科に籠っているようだが、時間の問題だろう。

『信用が欲しければ態度で示せ』とは言ったが、違う。そうじゃない。エレノアの心の叫びは、当然誰にも届く事はない。

 その後はすぐに授業で詩乃からの接触は無かったが、昼休みになると彼女はさも当たり前のようにエレノアの傍らにいた。

 “シノ”という名前から、当然美夜も警戒している。

 

「お前がシノか……」

 

 屋上へ向かう前に、既に戦闘の前触れが訪れていた。

 殺気をはらませる美夜を見ても、詩乃は全く意に介さない。

 

「貴女が私を殺したいほど警戒しているのも、存じ上げています。ですが、私はエレノア様方の友人になれたら──と思って此処に居るのです」

「ふざけるなよ、人殺しが。エリーをなんで狙う?」

「恩人の娘だからです」

 

 けろりとして語る詩乃。美夜は余計に喧嘩腰になっていく。エレノアはまず美夜を制し、それから詩乃に訊ねた。

 

「その名前は? 偽名?」

「いいえ、本名です。エレノア様方に、私は嘘を吐きません」

「恩人なのは父でしょう? どうして私に入れ込むの?」

「……何故でしょう。ですが、ジェームズ様に言われたのです。『娘がいる』と。養子の他に、実子が居られると」

 

 どこか要領を得ない詩乃の返答。信用が無いなら、無いなりにゼロから築こうとしているのは本当のようだが、エレノアの周囲があまりにも彼女を警戒している。

 

「……君がどうしたいのか私には分からない。だから好きにして。もし本当に敵意がないのなら──その時に決める」

「おい、正気か!? エリー!? コイツ、人殺しとるんやぞ!?」

「私がデザートイーグルで撃った相手は、吸血鬼ですよ。美夜様」

「……なんやと?」

 

 場が静まり返る。

 詩乃が語るに、デザートイーグルは“教会”から持ち出した武器で銃も弾丸も法化銀皮膜処理を施されたカスタムメイドの対吸血鬼武器。

 鈴那が巻き込まれた暴力団の抗争に、数体の半吸血鬼が紛れていたという。詩乃と同じ『デイウォーカー』で、太陽の影響は受けない。だが、“教会”は危険と判断し、詩乃へ抹殺の指示を下した。彼女はそれに従った。

 詩乃の言い分はそれだけだ。信用されないなら、エレノアの言う通り、好きにするようだ。彼女は出会うエレノアの友人一人一人に説明するのも辞さない様子で、ただただエレノアに付き従う。

 

「調子狂うわ……」

 

 屋上に上がってから、美夜は苛立たしげにそう呟いた。鈴那の報告以上に、それらしくない少女櫻羽詩乃。

 彼女が何を考えているのか、さっぱり分からないまま昼休みは過ぎていく。

 ミステリアスに現れた少女は、優しげな笑みを浮かべてエレノアたちを見つめていた。何を言うでもなく、ただ、じぃっと見つめていた。




詩乃のモデル、実はとある薄い本からインスピレーションを受けています。
次話で武偵になった彼女を少し掘り下げる予定です。


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018.詩乃

 エレノアからの信用を得るために東京武偵校に入学した櫻羽詩乃。自身の語る通り、彼女は嘘偽り無く、信頼を勝ち取るため身近にやってきた。離れたまま得られる信頼など限られている。

 学校生活という日常を共にして、詩乃は初めて信頼を得られると考えた。

 希望履修科目は尋問科(ダギュラ)を希望した。ただ、外部の人間が突如『入学したい』と言っても怪しまれる。

 それに、吸血鬼狩りの“教会”は既に武偵の間ではかなり有名だった。詩乃も下っ端ではなかったから、尚更だ。

 東京武偵校に情報通の綴梅子という教師が居たのも、詩乃の評価に影響した。

 

 入学の二日前、詩乃は尋問科の尋問室に居た。

 マジックミラーの向こうに、尋問を受ける男が見える。対する武偵の尋問担当は苛立ちも露に資料を机に叩き付け、怒鳴り声を上げていた。

 

「……櫻羽ァ。お前、アイツの尋問代われ」

 

 怪しげな煙草を吸いながら、マジックミラー向こうの状況を見て綴は淡々と告げる。

 既に二時間は膠着状態だ。最初は通常の尋問の体は成していたが、男側の黙秘に武偵が痺れを切らしている。

 

「私がですか?」

「だからここに来たんだろ? ここでヤツから何も引き出せないなら、大人しく吸血鬼狩りに戻れ」

「やってはみますけれど……」

「いいから行ってこい。アタシらがしっかり見ててやるからよォ」

 

 煙草の煙を詩乃に吐き掛け、綴は尋問を担当した武偵に交代を呼び掛けた。

 代わりにマジックミラーの向こうへと向かう詩乃。扉が閉まれば、余計な騒音はなくなった。

 詩乃は対する人間の罪状も聞いていた程度でしか知らない。ここからは、無から有を得る一対一だった。

 

 男の正面の椅子を引き、静かに座る。無造作に置かれたままのファイルを引き寄せると、詩乃は静かにそのページをめくった。

 

「先程の担当は少々うるさかったでしょう」

 

 詩乃の第一声は、全く事件とは無関係の言葉だった。

 勿論、その言葉に反応は無い。とことん黙秘を貫いているらしい。

 

「罪状は殺人の容疑。警察が踏み入る前に、武偵に捕らえられた、と」

 

 静かに。ただ静かに、詩乃はファイルに記された情報を読み上げる。

 マジックミラーの向こうでは綴たちが見ている。不正や拷問は当然無しだ。詩乃にはそんなつもりもないが。

 

「黙秘権は確かにありますが、否定はすべきかと思います。そこに誤りがあるのであれば、謝罪すべきは此方になります」

「……アンタはどう思うんだ。さっきの野郎みたいに、俺を怒鳴り散らして終わらせたいか?」

「いいえ。私は嘘を無くしたいだけです。それは此方の嘘も、貴方の嘘もです。平等に行きましょう」

 

 ファイルをめくる手が止まる。両手を開いたファイルの上に乗せると、詩乃は変わらず静かに尋問を始めた。

 

「まず、貴方は容疑を否認するのですね?」

「当たり前だ。そこのファイルにも、書いてんじゃないのか?」

 

 応答の通り、殺人の容疑は否認している。ファイルにも追記されていた。

 

「そうですね。被害者との面識も無い──と」

「そうだ。殺しなんかやってない」

 

 否認の言葉に頷きながら、詩乃は冷静な手付きでファイルのページを更にめくる。

 殺人の方法は刺殺とある。その凶器に詩乃は着目しつつ、一度それを伏せて正面の男に視線を合わせる。

 

「ご家族は?」

「情に訴えるなら無駄だぞ」

「世間話をしたいだけです。私は両親ともに先立ちましたから、そちらの話も伺えたらと」

 

 男が怪訝そうに詩乃を睨む。しかし、三十秒ほどして口を開いた。

 

「バツイチだ。嫁には逃げられたし、一人息子の親権も取られた。単なるサラリーマンにゃ、ツラい額の慰謝料もあるさ」

「それは……。そうですか。サラリーマンですか……」

 

 男の供述を反芻するように詩乃が話す。あまりの静けさに、時計の針の音さえ大きく聴こえる程だった。

 

「慰謝料をお支払するのも苦労されているサラリーマンが、何処から刃渡り26センチものサバイバルナイフを手に入れるのですか?」

 

 場の空気が凍り付いたようだった。触れてはいけなかった何かに触れたようで、静かだった尋問室がにわかに殺気立つ。

 

「それは俺のじゃないッ!」

「指紋が出ていますね。これについては?」

「それは……」

「面識の無い被害者に、貴方の指紋がついたサバイバルナイフ。指紋は複製できません。貴方が嵌められたと仮定しても、どちらにせよ正当な理由無く刃物を持ち歩く事は法律違反。そして、中でも刃渡り6センチ以上の刃物は、銃刀法に違反します」

 

 静かに。だが、確かに詩乃の語調が強くなっていく。

 

「もう一度お訊ねします。凶器のサバイバルナイフについた貴方の指紋は、どう説明されますか」

「……キャンプで使った時の指紋だろ。嫁と別れてから、ソロキャンプが趣味だった」

「指紋は明らかに、事件の直近についたものだと鑑識が調べをつけています。貴方は生活の苦しさから、苛立ちを誰かにぶつけたかったのではないですか?」

 

 手錠を付けられて机の上に乗せられていた男の手が、叩き付けられた。

 目を見開き、男は憤りもあらわに言葉を荒げる。

 

「証明出来るのか!? 俺がやったとッ!?」

「はい。残念ながら、貴方はもう詰んでいます」

 

 詩乃はファイルに挟まった写真を数枚取り出し、机の上を滑らせた。

 防犯カメラの映像には、サバイバルナイフを持った被疑者の姿。ソーシャルネットのスクリーンショットには、同型のサバイバルナイフを掲載し犯罪をほのめかす投稿。

 

「どうして先程の担当からこれが出なかったのか、少々不思議ですね」

「でっち上げだッ!」

「では本当に貴方が嘘を吐いていないか、試します」

 

 椅子を立ち上がった詩乃はホルスターから拳銃を抜くと、男の後ろから抱き着くようにして拳銃の存在を知らしめる。

 スライドを引くと、金色の弾丸が姿を見せた。

 

「この拳銃はドット45口径。どちらにせよ、至近距離で撃たれれば即死ですが……」

 

 男から離れた詩乃は、眼前にある男の後頭部へ向けて銃口を押し当てる。

 

「脅迫かよ……!?」

「貴方が本当にやっていなければ、怪我をせずにすみますよ」

「こんな尋問、あっていいと思ってるのか!?」

「最初に言いましたよね。『お互いに嘘は無し』と。私は誠実に対応したつもりです。次は、貴方の本心を聞かせてください。命を懸けた、貴方の本心を」

 

 尋問室は一転してパニック状態の被疑者に銃を突き付ける詩乃という、尋問を超越した状態となった。しかし、綴からストップは入らない。

 詩乃の世界は広がる一方だった。

 

「5、4、3──」

 

 突き付けた拳銃が構え直される。非情なカウントダウンは止まることはなかった。

 

「──2、1……」

「やった! 俺がやったッ!」

「本当に? 助かりたい一心で、媚びようとしていませんか?」

「本当だ! 捨てアカでSNSに投稿したのも間違いないッ! 頼む、撃つなッ!」

 

 詩乃は被疑者のパニック状態を更に悪化させたようだった。暴れる男から銃を離し、それからマジックミラーの向こうにいる綴を見た。

 

「終わりました」

 

 拳銃に安全装置を掛け、ホルスターに押し込む詩乃。泣きじゃくる男を一瞥することなく、彼女は部屋を後にした。

 

 無論、部屋を出てからすぐに彼女は綴に捕まる。

 椅子に無理矢理座らせられ、苛立ちを隠すことなく煙草を灰皿に押し付けた綴は詩乃へ詰め寄った。

 

「お前なァ! 今回は拷問じゃねェ、尋問だ! 最後のありゃなんだ!?」

「リラックス状態から一気にストレスを掛けると、人間は驚くほどあっさり防衛に動きます。もしあれでも『知らない』と言っていたら、私は素直に謝罪していましたよ」

「チッ……。まぁ、悪かァないか。結局ヤツもゲロったワケだしなァ」

 

 綴は連行されていく被疑者を見送りつつ、煙草をもう一本取り出して火を点ける。

 クリームのような濃い煙が充満しても、詩乃は顔色一つ変えなかった。

 

「よし。分かった、手続きは進めとく。ただ一つ聞かせろ。なんでボンドを気にする?」

 

 綴の気にするところは最早一つ。半吸血鬼のヴァンパイアハンターが、普通の武偵校一年生であるエレノアを追うのかだ。

 

「簡単ですよ──」

 

 詩乃は顔の前で手を会わせると、満面の笑みを浮かべて告げた。

 

「──恩人の娘だからです」

 

 そう語る詩乃は、やはりボンド家に心酔しているように見えた。




銃刀法はちょっと調べつつ書きましたが、割と曖昧な所はフィクション流で書かせてもらってます。

そういえば、ここまでしっかり原作キャラ出したの初めてかもしれませんね。
蘭豹と綴、大好きです。


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019.彼女を知る

 結局、詩乃の処遇を美夜たちに決められる訳もなく時間は経過する。

 教務科が通した以上、詩乃はもう武偵だ。彼女に武偵憲章を守る必要があると同時に、エレノアたちも詩乃に対して武偵憲章を適用しなければならない。

 彼女はもう“仲間”なのだ。何かあれば彼女を信じ、助けなければならない。

 

「はー……疲れた」

 

 自室に戻ったエレノアは、珍しく美夜への挨拶はそこそこに済ませていた。

 詩乃は正直薄気味悪い感じではあるが、恐らく敵ではない。ただ、自身はともかく、友人たちは詩乃を信じていない。エレノアはどちらかといえば、板挟みにされているようだった。詩乃を突き放す事も出来ないが、味方だと友人たちに説得出来るような材料もない。

 結局、いつもの数倍程度の疲労を抱えてベッドに倒れこんだ始末だ。

 

「こんな時、あの人ならどうするんだろ」

 

 浮かぶのは見たこともない父の背中。その幻。きっと整ったタキシードで戦っているのだろう。場合によっては脱いでいるかもしれないが。

 映画での活躍は本来のものではないだろう。しかし、実際に人脈がある。贈られた車は間違いなく劇中にも登場していた。

 人脈。そう、人脈だ。エレノアは、がばっとベッドから身体を引き剥がす。

 

「そうだ、ミサキさん!」

 

 杠ミサキの名前が真っ先に浮かんだ。詩乃はジェームズを知っている様子だったが、ミサキはジェームズから長らくヴァンテージの置かれていた倉庫の番を任されていた。

 どちらも自身の父を知っていることに共通性がある。

 幸い、電話番号は登録している。というより、気付いたら入っていた。すぐに電話を掛けると、意外にも応答は早かった。

 

『はいはいー。エレノアちゃん、久し振りー!』

「お久しぶりです。今、少し良いですか」

『モチロン。お姉さんに何か用事?』

 

 いつもの調子らしいミサキに、詩乃について幾つか質問を投げ掛ける。現在知りうるありったけの情報を渡すと、ミサキは少々悩ましげに唸った。

 

『うーん。私は彼から倉庫番を頼まれただけなの。流石にあの人自身が何をしていたかまでは知らないかな……』

 

 申し訳ないといった雰囲気が通話越しに伝わってくる。

 空振りだったか、とエレノアも頭を抱えようとした時、ミサキから声が上がった。

 

『あ、でもあの人が色んな女性に対して紳士的だったのは事実。助けられた人は沢山いるんじゃないかな?』

「その中に、なんか怪しい団体みたいなのは?」

『……“教会”でしょ? 別に隠さなくたって良い。関わりがあったのは確かみたい』

 

 ミサキにまで教会の存在は知れ渡っていた。一体どれ程の規模を持つ組織なのか、恐怖にすら似た何かを抱かざるを得ない。

 

「敵なんでしょうか。その“教会”は」

 

 不安から思わず、そう口にしてしまった。

 吸血鬼狩りを生業とするような組織だ、敵だとするなら明らかに実力不足。倒せるような相手ではない。

 電話向こうのミサキは言葉を選ぶようにしながら、それでもハッキリと伝える。

 

『うーん。なんていうか、その“教会”の関係者が君についているんだから、気にしなくて良いんじゃないかな』

「そうなんでしょうか……」

 

 やはり払拭されきらない不安。そんなエレノアの声を聞いてか、ミサキは強気に放つ。

 

『大丈夫! お姉さんがついてるから! 何かあったら、また連絡して』

「はい。すみません、ありがとうございます」

 

 軽い謝罪の後、終話。解決にはならなかったが、ミサキの言うことにも一理ある。スパイの可能性は捨てきれないものの、そもそもエレノアたちをスパイする理由が無い。

 少なくとも今は、敵意の無いものとして見るしかないのだろう。美夜から夕食に呼ばれると、エレノアは少々足取りを軽くして部屋を出た。

 

 時間は過ぎ、次の日。美夜は変わらず詩乃を警戒し続ける。

 放課後。エレノアは全員で依頼を受けようと提案するも、重たい空気のままだ。単位制度は詩乃にも適用される。出来るだけ単位を稼いでおくに越したことはないのだが、感じる重圧から、提案したエレノアの心から先に折れてしまいそうだった。

 こんなことではいけない、と気を取り直し向かった先は都内のビルだった。人気は無く、何かあるようにすら見えない。

 

 ──否。()()()()()、何かあると思えてしまうような雰囲気だ。

 

「美夜、狙撃位置を捜して配置に。着いたらインカムに。南野先輩は、美夜と一緒に観測手と彼女の護身を。良いですか?」

「私は良いけど……」

 

 六花はエレノアたちの先輩だ。選択権はあって然るべきだが、彼女に異論はないようだった。だが、ちらりと横目に美夜に視線をやる。

 狙撃は貴重なスキルを要する、極めて重要な仕事であると共に、一番現場から離れる仕事でもある。その配置に選ばれては、エレノアの近くにいるのは美夜にとって信用ならない詩乃ということになる。

 

「スナイパー、必要か? エリー」

「念のためよ。依頼主はここを調べるように指示を出した。何かあるのは間違いないから、視野を取れるスナイパーは重要なの。分かって」

 

 説明されても、美夜自身の納得はいっていないようだ。しかし、反論しようもない。不承不承といった雰囲気で美夜はライフルを背負い直す。

 

「鈴那と詩乃は私と一緒に。ここで情報を見回る意味はないと思うから」

「わかった。お主につく。──念のためにもな」

 

 鈴那すら、疑心な視線を詩乃に向ける。しかし詩乃は全く気にしない様子で了承した。

 人数を分け、エレノアたちはビルへと足を踏み入れる。埃まみれのビル内部は今にも倒壊しそうなほど老朽化していて、すえた匂いが鼻腔に突き刺さる。

 一体こんなビルに何があるのか。歩みを進めれば進めるほどに、エレノアはその問いを繰り返す。

 

『配置についた。西側から見てる』

 

 インカムに届く美夜の声。窓はあるが、エレノアの視線の先に当然彼女らの姿は見えない。

 

「美夜さん。私に照準を向けるのは構いませんが、備えてください」

 

 ふと、エレノアの傍らについていた詩乃が語りかける。

 

『私はお前を信用してないからな。何かエリーたちに仕掛けてみろ──』

「美夜、落ち着いて。何かあったらちゃんと報告するから」

 

 武偵は常在戦場の心を持って生活する。その戦場で喧嘩をしている場合ではない。照準を味方に向けるなど、もってのほかだ。

 詩乃がハッタリを利かせたのかはともかく、美夜は本当に照準を彼女へ向けていたらしい。エレノアは制するが、先が思いやられる。

 ビルを進むと、不意に何かが目の前を横切った。

 

「何かいる……」

 

 エレノアを始めとして、鈴那も武器を構えた。だが詩乃はM1911を抜いていなかった。

 

「お二人とも、下がってください。ここは、()()()の住処だったようです」

 

 エレノア、鈴那に声を掛けて二人の前に出る詩乃。右手を振り上げると、彼女は何かを掴むかのように手を握る。そこに握られたのは、人の手首。フードを目深に被った何者かが、詩乃へ攻撃を加えようとしていたらしい。詩乃がそれを止めたと見るや、襲撃者は詩乃を蹴り飛ばし、強引に距離を取る。

 

「詩乃!」

 

 ベレッタ92Xを襲撃者へ構えるエレノア。しかし、詩乃はあくまでもエレノアたちには攻撃させようとしない。

 それどころか更に前へ踏み出し、襲撃者を睨む。

 

「教会のヤツがこんな所に……」

 

 襲撃者はフード越しに詩乃を睨んだ。目は陰になって見えないが、確かに睨み付けている。それだけの雰囲気をはらんでいる。

 声は女性のようだったが、低く殺意の籠った声だった。

 

「教会は関係ありません。私はもう武偵です。吸血鬼であろうが、我々には貴方を殺すことはできません」

「フン……。教会の人間は嘘が得意だから、信じられないね」

「では、掛かってきてはいかがですか? 貴方には武偵法はありませんし」

 

 言われなくとも。襲撃してきた吸血鬼はまるでその場からかき消えるようにして滑走する。

 鋭く伸びた爪を突き立てようとするも、詩乃は軽く身体をスウェイさせると軽々と回避してみせる。それから二擊、三擊。次々と迫り来る攻撃さえ、詩乃には触れる事さえなかった。

 

「お二人共、周囲警戒を。吸血鬼は彼女だけでは無い可能性があります」

「言われるまでもないわ」

 

 襲撃してきた吸血鬼らしい人物の攻撃をかわしながら詩乃は言うが、当然鈴那たちも準備出来ている。

 ただ、先に進まない事には依頼も先には進まない。詩乃は攻撃こそ受けていないが、反撃もしていない。このまま遊ばせておくわけにも行かない。

 

「詩乃、その吸血鬼を捕らえるわ。公務──ではないけど、依頼遂行の妨害で」

「かしこまりました」

 

 上体を大きく仰け反った詩乃。そのままバック転で襲撃者との距離を置くと、彼女は制服から手錠を取り出して拳に握り締める。まるで即席のナックルダスターのように。

 手錠は法化銀処理済みの対吸血鬼用。相手からすれば、焼きごてで殴られるようなものになるだろうか。

 

「では、貴方を逮捕します」

 

 詩乃が地面を踏み締めると、瞬く間に襲撃者の懐へ飛び込んだ。既に反撃が可能な位置ではない。近すぎる。

 左足でブレーキをかけ、襲撃者の胃へ法化銀手錠によるストマックブロウを叩き込む。いくら吸血鬼が相手だとしても、詩乃も半分は吸血鬼だ。

 衝撃は相手を浮かせ、胃の中身を吐き出させる。

 

「抵抗は出来ませんよ。──すぐに追い付きます、エレノア様方は先に」

「わかった」

 

 ダウンした襲撃者に手錠を掛ける詩乃を流し見て、エレノアと鈴那は先へ進む。

 暫く警戒と共に歩みを進めると、美夜が通信を入れた。

 

『……妙な車が一台来てる。速度を落として──停まったぞ』

 

 美夜からの報告は続く。

 

『敵だ。あまり訓練されてるようには見えないけど、数はいる。ギャングあたりの下っ端っぽいな』

 

 敵が接近している。狙撃手が言うのだから、間違いはない。

 幸いにして、現在ビル内部には敵らしい気配は無く、先ほどの吸血鬼だけが住み着いていたと考えられた。

 

「鈴那、周囲警戒。引き離せないかやってみる」

 

 エレノアはそう語ると、スマートフォンのアプリケーションを立ち上げる。エンジンスタートボタンをタップし、ビル前に停めたヴァンテージのエンジンを遠隔始動。同時に、遠隔操作用の車載フロントカメラが起動した。

 

「美夜、集団は車に気付いた?」

『あぁ、群がっとるわ。本命は吸血鬼とやらじゃない。どうする気だ?』

「オモチャの再テストをね」

 

 端末の操作で車を発進させる。ピラミディオンから更に、ヴァンテージのガジェットはアップデートされている。シフトリンケージのアップデートとエンジン点火カットの自動化により、遠隔操作中にも車が自動で変速する為、速度もより出せるようになった。

 唐突に発進する車に、敵の注意が逸れたと美夜が告げる。

 

「鈴那、この辺りで情報探せる? 流石に手ぶらじゃ帰れない」

「任せろ。ならず者の溜まり場ならば、何かしらの手がかりは残っとるじゃろ」

 

 最早廃ビルを探索する意味はない。恐らく、詩乃が相手にしている吸血鬼はたまたまその場に居合わせただけなのだろう。本命は美夜が観測した集団の正体だ。

 

 暫く探索を続け、情報を入手する。

 どうやら警察に拘留されている仲間がいるようだが、それ以上は何も出なかった。

 道を引き返すと、詩乃は完全に吸血鬼を屈服させてしまったようで、膝をついて肩で息をする敵に対し、詩乃は涼しい顔をしていた。

 

「エレノア様、鈴那様。終わりましたよ」

「……念のため、逮捕しましょう。妨害された訳だし」

「かしこまりました」

 

 法化銀手錠が吸血鬼の手首に嵌められる。これで彼女も力を出せなくなった。

 SSRの応援を呼んで、逮捕した吸血鬼は厳重な監視のもと連行されていった。

 

「……美夜、まだ怒ってるの?」

 

 先ほどの集団は騒ぎに気づいて戻ってこない。

 なかなか戻ってこない美夜へ、エレノアが呼び掛ける。

 

『別に。怒ってへんよ。今戻る』

 

 そう語る美夜の言葉は、やはり刺を感じさせる。

 このままではいけないのだが。エレノアは夕方の風に髪を靡かせつつ、夕日に目を細める。

 詩乃はまだ何か隠しているかもしれないが、それもまだ分からない。傍らに立つ、透明感のある作り物のように綺麗な少女に何があるのか。

 エレノアはまず、それをハッキリさせるべきだと心に決めた。




なんと年末ですよ。
皆様良いお年を。

来年もまたよろしくお願いいたします。


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020.闇への入口

 廃ビルでの一件から一夜が明けた。

 吸血鬼を逮捕したエレノアたちは上級生から、無茶をしすぎだと大層叱られたが、同時に無事であった事を褒められもした。

 美夜が観測し、エレノアが撹乱した集団についてはヴァンテージに備えられたカメラ映像の確認作業を情報科が行っている。

『詳しい情報が入るまでは待て』と、全員が通達を受けた。

 ただ、相変わらず美夜は詩乃を目の敵にして動いている。

 

「ねえ、エレノア? ちょっと良いかな?」

 

 昼休み、クラスメイトの間宮あかりがエレノアに声を掛けた。

 

「どうかした?」

「どうかした? って……。美夜が気になんないの?」

「気にはなるけど……」

 

 今日は珍しく詩乃はエレノアについていない。自分の机で、デザートイーグルを組み立てていた。美夜はじぃっと詩乃の後ろ姿を睨みつける。

 その姿を横目に見つつ、エレノアは静かにかぶりを振った。

 

「正直、自分もどうしていいか分からないのよ」

「櫻羽さんが転校してきてからずっとあの調子だけど、何かあったの?」

「説明しようが無いわ。私も戸惑ってる」

 

 美夜が警戒するのも分かるが、何か目的があるなら動いていてもいい程度には日数も経過している。情報科にいる鈴那も詩乃を警戒し、出入りする場所や仕入れた物品などで追跡出来るものは追跡している。しかし、怪しい点は何一つ無い。武偵としての備えを行っているだけだ。

 

「危なっかしい気がするなぁ……」

 

 あかりは不安げに漏らす。

 

「勿論、出来る限り見ていくつもり。ルームメイトだし、話し合う時間はあるから」

「そうしてあげて。あのままじゃ苦しいと思うから」

 

 あかりの言葉を受けて、エレノアは頷いた。しかし、やるべきは歓迎会か? いや、それは美夜が強い警戒心を抱く以上、神経を逆撫でしかねない。

 ただ、やはり時間に任せるのも無理だ。今日、寮に戻ったら少し話し合ってみよう。エレノアがそう決意を固めると同時に、予鈴が鳴った。

 

 午後の授業が終わり、専門学科での授業でエレノアはヘリコプターの操縦について学ぶ。

 休憩時間。エレノアのスマートフォンが着信を告げた。ポケットから端末を取り出し、画面を見ると見慣れない番号が表示されている。

 無視しようかとも考えたが、彼女は敢えて応答する事に決めた。

 

「もしもし?」

『エレノアさん、ですね』

「……どちら様ですか?」

『狙撃科二年のレキです。今から一般教科棟、2年C組の教室に来てください。話があります』

 

 レキからの電話はそれだけで切れてしまった。レキといえば、美夜の先輩で卓越した狙撃技術を持つ狙撃手だ。あまり人と会話をする印象をエレノアは持っていないが、先輩からの呼び出しとあっては無視出来ない。

 事情を車輌科の先輩に説明すると、意外にもあっさりと許可が出た。エレノアは車に乗り込み、一般教科棟へ向かう。

 何故急にレキが連絡をしてきたのかエレノアはさっぱり理解できていない。まず、彼女との接点がないのだ。レキが何を考えているのか、自分は何をされるのか。考える以前に浮かびすらしない。

 

 車を一般教科棟の駐車場に停め、2年C組の教室へ向かうエレノア。六花への用事以外で滅多に来ることのない上級生の教室は、彼女には慣れない重圧を覚えさせた。ここは上下関係激しい武偵校なのだ、重圧は並みではないだろう。

 

「フゥ……」

 

 2年C組の教室は扉が閉められていた。放課後は大抵開放されているものだが、C組だけが意味深に閉められている。

 エレノアが教室の前でわざわざ深呼吸したのも、そんな異様さからだった。

 

「失礼します」

 

 約束の場所は間違えていない。ノックと共に教室へ入ると、浅葱色をしたショートカットヘアの少女がエレノアへ顔を向けた。

 表情の変化は小さい──いや、ほぼ無い。無表情のまま、待ち人は小さく頭を下げた。エレノアも慌てて頭を下げる。

 

「レキ先輩……ですよね?」

「はい」

「……私に何か用が?」

「……」

 

 全く会話にならない。前に先輩であるアリアが言っていた『エレノア一行は態度が悪く、シメる算段を立てる生徒がいる』との情報が頭に浮かんだが、レキほどの人間がそこまで感情的になるのだろうか。

 いや、ならない。少なくとも夕陽を背にエレノアを見つめるレキからは、そう確信できる何かを得られた。

 

「美夜さんのことで、お話があります。電話ではお伝えしづらかったので、こうして直接」

「美夜? 美夜が何かしたんですか?」

 

 美夜とレキは同じ専門科目だ。一度練習を見てもらった、と美夜はエレノアに語っていた。

 まさか美夜が何かしでかしたのだろうか。いや、ならば何故自分に話が来るのか。頭の中で疑問符がぐるぐると回る。

 

「違います。先程、事故で武偵病院に運ばれました」

「……え?」

 

 頭を回る疑問符など吹き飛んだ。事故とはどういうことなのか。エレノアの身体は思わず前のめりになる。

 

「狙撃訓練中、美夜さんの小銃が暴発しました。シャーシフレームから吹き飛び、ボルトキャリアが美夜さんを直撃しています」

「……美夜のバリスタが? それで、美夜は?」

「命に別状はありません。目や耳といった五感を司る器官にも、異状は無いそうです」

 

 本人は無事。そう聞けて、エレノアは胸を撫で下ろす。

 

「練習中の事故なので、教務科が美夜さんの御両親に連絡をしたそうなのですが、全く連絡がつかないそうです。エレノアさんはルームメイトと伺ったので、何か聞いていませんか?」

 

 レキに問われ、エレノアは暫し悩む。美夜の両親はかなりの放任主義のようだった。仕事で家を空け、旅行でも家を空けている。だが、娘の一大事にまで連絡を無視するだろうか。

 

「問題は両親に連絡がつかないどころじゃなかったわ。その両親の消息が、不明になっていることよ」

 

 不意に、緋色の光がエレノアを横切った。そこに居たのは神崎・H・アリア。伝説の武偵で、エレノアたちの先輩。クラスメイトである間宮あかりの戦姉妹(アミカ)だ。

 

「消息不明?」

 

 あまりに不穏な単語が聴こえて、エレノアはアリアへの挨拶すら忘れて問う。

 

「ええ。確かに放任しすぎだったのは否めないわ。けど、教務科の連絡にすら返答がなく、調べても足取りが一切掴めないの」

 

 腕を組みつつ、アリアは淡々と語る。

 

「ただ、直前に“教会”の動きがあった。それは調べがついてるわ」

「“教会”……!」

 

 教会といえば、詩乃のいる組織に他ならない。その組織が、美夜の両親失踪に関わっている可能性がある。エレノアには、アリアがそう話しているように思えた。いや、そうとしか思えなかった。

 

「詩乃に話を訊かないと……」

「彼女が答えると思う? あたしの経験から言わせてもらえば、笑顔で人を撃ち殺すタイプよ。彼女は」

「……でも、嘘は吐かないと彼女は言っていました」

 

 勿論、そんな確証はない。あくまでも本人がそう公言しているだけで、証明はないのだ。

 アリアの目も厳しい。詩乃に話を訊くという提案を押し切るには難しいように見えた。

 

「教会が美夜さんの御両親を巻き込んだというお話、確かのようです」

 

 また教室に生徒がやって来た。その姿を見て、アリアが咄嗟にホルスターに手をかける。

 やって来たのは詩乃本人だった。10インチバレルになったデザートイーグルを片手に、三人の元へゆっくりと歩みを進める。

 

「美夜様の容態を確認して参りました。お声をかけようかとも思いましたが、状況が状況ですので見に行っただけですが」

「それで? アンタはソレで何をする気なの?」

 

 アリアが詩乃のデザートイーグルを顎でしゃくる。

 詩乃は静かな動作で弾倉を抜き取り、薬室にも弾がない事を示してから返した。

 

「先日逮捕した吸血鬼の存在から、教会が動いている事が分かったので。無論、私にもハンティングへの参加要請が来ています──」

 

 ですが、と詩乃は続ける。

 

「──私はもう武偵です。殺しは出来ません。教会に問題があるのなら、武偵として美夜様の御両親の消息を探りに行こうと思います」

「ハンティングとやらに参加するんじゃないの?」

「誓って致しません。エレノア様、私と共に来ていただけませんか? 幸い、集合地点はさほど遠くはないのです」

 

 半吸血鬼からの誘い。しかも口振りからして、詩乃はエレノアと二人きりを想定しているようだった。

 アリアの表情は芳しくない。だが、武偵たるもの自立しなければならない。アリアから強くエレノアを止めることも出来はしなかった。

 

「分かった。いつ行くの?」

「──週末、深夜0時。武装は整えてきてください。何があっても生き残れるように」

 

 重苦しい空気。エレノアは思わず固唾を呑んだが、頷いて了承する。

 アリアとレキからの話ももう無いようで、会釈して教室を出る。詩乃は廊下で別れたが、エレノアには行く場所があった。

 

 Qの開発室。装備を整えるのなら、そこに行くしかない。今のエレノアには、時代遅れのノキア製携帯電話とベレッタ92Xしかない。

 もし想定する敵──吸血鬼相手では、あまりにも貧弱過ぎる。少しでも何かあれば、という思いで彼女は日の沈み始めた学園島を車で走り抜けた。



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021. ハンティング

 

 装備科、Qの研究室。

 車を置いたエレノアが向かったのはそこだった。

 

「なるほど……確かに、ハンドガンだけだとツラいかもしれないね」

 

 事情を説明すると、Qは深刻そうに腕を組んだ。何しろ相手は吸血鬼を含む可能性が高い。そうなれば、法化銀は無しにしても大火力で足止め出来る程度の武装は要る。

 しかし、そこは武偵。民間主体の組織であるため、本来フルオートや過剰な火力を持つ武装は違法だ。軽機関銃といった重火器は当然禁止。エレノアが今回求める『火力』とは、ルールがそもそも正反対にある。

 

「──なら、これを。レミントンM870をベースに、当たった相手に電気ショックを与える、ショックスタン弾を入れたものだ」

 

 力の弱い吸血鬼程度なら抑えられるはずだ、とQは話す。

 見た目には普通のM870ショットガンでしかないが、薬室を見るとシェルケースは黄色と黒のツートンカラー。ケースの色で区別出来るようになっているようだった。

 人間相手に使っても、配慮出来れば非殺傷を保てる鎮圧武器に仕上がっているように見える。

 

「それから、ヴィクターを一度預ける。コイツなら、きっと君を守ってくれる」

 

 Qの視線の先には、エレベーターに鎮座するブリティッシュグリーンのハイパーカーがあった。

 アストンマーティン、ヴィクター。『まだ預けるには早い』と言われていた、新世代のボンドカーのキーがエレノアへ手渡される。

 

「これは()()()な振りじゃない。ヴィクターは可能な限り、損傷を抑えて戻すこと」

「勿論です。ありがとうございます」

 

 ショットガンを片手に車へ向かったエレノアを、Qは一度呼び止める。

 心なしか、その表情には不安が見て取れた。

 

「ボンド、必ず戻ってくるように。勝手に盛り上がって、『Q』なんて設立した私たちが言えたことではないが……君はダブルオーエージェントじゃない。武偵校の生徒──その一年生。つまり、まだ見習いなんだ」

「はい。……そろそろ行きます。ヴィクターにも慣れないと」

 

 Qはヴィクターの返還も望んだが、同時にエレノアの無事も望んだ。彼女の言う通り、エレノアはエージェントでは無いのだ。同じ学校の先輩として、当たり前の望みだと言えた。

 

 エレノアはショットガンを助手席に放り込み、運転席に滑り込む。

 いっさいの調整機能が省かれたフルバケットシートは、彼女の身体をすっぽりと包み込む。上下方向の調整機能も無論無いが、元々エレノアは女性としては高身長の部類に入る。しっかり背中を預けても、メーターパネルで視界が遮られるような事はなかった。

 ステアリングホイールは一般的な乗用車ではまず見られない、楕円型。上部は切り欠かれ、あたかも旅客機の操縦桿のようだ。

 エンジンスタートボタンを含めたあらゆる操作が集約されているが、明らかに後付のボタンが見られる。その部分だけが、デザインとしての均整が取れていない。武装ボタンだ。ブリティッシュグリーンの内装に不釣り合いな、危険性を見せつけるような赤いボタンが存在する。

 

「……今は用無しね」

 

 武装スイッチから指を退け、エンジンスタートボタンを押す。一秒ほどセルモーターが回ると、スムーズにエンジンが始動した。エレノアが乗っていたヴァンテージが急造の戦闘車両だとするなら、ヴィクターは完璧で純粋な武装車両。車としても、エレノア用の戦闘車両としても流石に格が違う。

 エレベーターが上がり出したのを感じながら、エレノアは慎重にエンジンを吹かす。ヴァンテージに積んだ直列6気筒よりはるかに機敏な反応を示す、V型12気筒エンジン。官能的な高音を奏でるエンジンはアストンマーティンのレーシングモデルカーから利用される、由緒正しいアストンマーティン自社製自然吸気エンジン。

 あまりに急激に反応するせいで、アクセルペダルを踏み込む足に躊躇いが生じた。面白半分に回していいエンジンではない──エレノアは直感的にそう感じた。

 

 エレベーターが上がり切ると、駐車場に戻ってきた。ゆっくり車を出すと、先程見せた機敏さとはうって変わり、従順に操作へ追従する。

 停めておいたヴァンテージを横目に、エレノアは敷地から車道へ出ると、ゆっくりアクセルペダルを踏み込んでいった。

 830馬力という、怪物のような力を誇るエンジンが徐々にエレノアへ牙を剥く。しかし、それでも安定感は桁違いに高かった。ブレーキもよく効き、加速、旋回、減速全ての操作に対し従順な反応を示す。

 詩乃との約束まで、時間はさほど残されていない。美夜の両親の安否も掛かっている以上、失敗も許されない。エレノアはそのまま、ヴィクターで首都高速へと繰り出した。

 ドライビングに慣れるには、結局実際に走るしか無い。首都高速はそんな練習にはピッタリと言えた。

 

 □

 

 ヴィクターを走らせ、イメージトレーニングを行い──週末を迎える。

 いよいよ、『教会』の“ハンティング”に紛れる時が来た。この仕事を友人に明かすことはしなかった。危険を背負うのは自分だけでいい──エレノアはそう考えていた。

 気持ちばかり身体に馴染んできたヴィクターを運転しながら、学園島外の待ち合わせ場所へ向かう。吸血鬼狩りの仕事になると、何が起きるかわからない。エレノアの心臓も、待ち合わせ場所に近付くにつれて早鐘を打ち始める。冷静でなどいられない。装うことしか出来ない。だが、退くことはない。この作戦で、美夜の両親の安否を確認しなければならないのだから。

 

「……早いわね」

 

 待ち合わせ場所には、既に詩乃がいた。時間にはまだ猶予があったが、彼女は車を停めたエレノアを真っ直ぐに見つめている。『覚悟はできたか』と問わんばかりの雰囲気を纏いながら、路肩に佇んでいた。

 

「まだ時間には早いですよ、エレノア様」

「そういう君こそ、時間にはまだまだ早いわ」

「私は……そうですね。ある種、依頼者でもありますから」

 

 話を聞きつつ、ちらりとエレノアは腕時計を流し見た。23時30分を指している。あまりに早すぎたか。

 念の為、周囲警戒も怠らない。詩乃も完全に信頼を得られたとは考えていないのか、エレノアのそうした動きにも不平を唱えはしなかった。

 

「それで、ハンティングとやらに関して私はほとんど何も知らないんだけど……。教えてくれる?」

 

 エレノア自身が語るように、彼女は『教会』のハンティングについてはほぼ何も知らない。せいぜい『半吸血鬼による、吸血鬼狩り』程度の知識だ。どう動けばよいのか、このままでは何も計画が立たない。

 

「エレノア様の解釈で問題無いかと。教会による吸血鬼狩り──それがハンティングであり、教会のハンターの召集が行われるものです」

「……そう。今回は友達に話もしてない。援護はないけど、どうする?」

「もし手に負えないと判断した時の手段は用意してあります。……あまり使いたくはないですし、使わずに済むのならそれに越したことはありません。──そうだ、エレノア様はこちらを」

 

 詩乃がエレノアへ手渡したのは、イヤーピースだった。武偵が作戦行動の際に利用する、ミリタリースペックの小型高性能な代物だ。

 エレノアはそれを受け取り、耳にはめる。しかし、その真意がわからない。

 

「これを渡した意味は?」

「教会は外部の人間を嫌います。エレノア様はハンティング開始まで、少し離れた位置で待機してください。私は一度集合で顔を見せておかないと……」

「なにか企んでない?」

 

 エレノアは完全に詩乃を信用した訳では無い。一度彼女が監視の目を離れるような状況になるのは、避けるべきと判断する。だが、一方の詩乃は『信じてもらえないなら今はそれでいい』といった雰囲気で、企みについては否定しつつも強く言い返しはしなかった。

 

 ──そして時間がやってくる。

 車で近辺に向かい、集合場所らしい廃屋から少し離れた場所でエレノアは待機する。嫌な雰囲気を感じる場所、としか彼女には思い至らなかった。海外のホラー映画にでも出てくるようなロケーションとでも言うべきなのだろうか。その周辺だけは、まるで隔絶された陰鬱な空気があった。

 イヤーピースからは詩乃の話し声がしっかりと流れてきていて、現在は教会のハンターと話しているのか、獲物についての作戦会議中のようだった。

 

「何を言ってるのか、理解を超えてるわね」

 

 作戦会議に使われる用語はどうも専門的なものなのか、理解できて七割といったところ。場所も暗号によるもので、部外者のエレノアには理解できない。

 結局、今回は詩乃に従う以外クエストを有効に運ぶ手立てはないように思えた。

 

『ねぇ、今イイ……?』

 

 不意に、車の窓がノックされた。静かな問いに驚いて、エレノアは反射的に窓へピストルを向けた。

 暗がりに溶け込むような黒い洋服……セーラー服にも見えるが、トップスの裾あたりはボロボロになっている。同じく黒いパーカーはフードを下ろし、詩乃によく似た白髪を風になびかせる。エレノアを見つめる瞳は紅く、だが、どこか暗く濁っていた。

 

「……誰?」

 

 ヴィクターの窓は防弾だが、相手の異様な風貌と現在の現場を考えるに過信はできない。銃は下ろさないまま、窓越しにエレノアは問い掛けた。

 

『クリス。……クリス・イトシロ。この前はどうも』

 

 クリスと名乗る少女は、一度エレノアに会ったかのように振る舞う。エレノアに覚えのある少女ではなかったが。

 睨み付けたまま、ハッキリ伝わるようにピストルの安全装置を外して相手を牽制する。

 

『……詩乃に呼ばれてここにいる。聞いてないの?』

 

 幼さの残る大きな瞳が彼女の疑問とともに瞬いた。

 詩乃の名前が出たことで、エレノアに思い当たる人物が一人増える。

 

「まさか……あのビルで、詩乃が逮捕した──」

 

 詩乃が無力化した純吸血鬼。エレノアを知り、詩乃と繋がった上でこの場にいる人物がいるとするなら、あの時相手にした吸血鬼しかいない。

 クリスも小さく頷いて、正解を示した。

 

「なんで、こんなところに……」

『彼女に呼ばれたから。私があの場で外の世界に──奴等に一矢報いるには、この誘いに乗るしかなかった』

「つまり、今は味方?」

 

 撃鉄に指を掛けつつ、エレノアが問う。クリスは再び頷いた。撃鉄から指を離し、銃口をクリスから外す。

 何が起きているかエレノアに分かりはしないが、少なくとも最早ただの任務ではない。本来ならばSSRあたりの出番になる任務なのだろう。

 僅かだが張り詰めた空気が弛緩する。廃屋の周辺は最早異世界めいた雰囲気だ。恐らく時間は近い。外にいるクリスも、横目で廃屋の様子を確認している。

 

『奴等がいる』

「奴等って……」

 

 クリスの言わんとする事はわかる。吸血鬼がいるのだろう。

 一体どれだけの数が現れるのか──エレノアはショットガンに手を伸ばすが、クリスは告げた。

 

『違う……。これは、教会の狩りじゃない──あの建物の中にいる……!』

「なっ……!?」

 

 クリスが告げると共に、イヤーピースは騒々しい雑音が流れ出す。

 今すぐにでも耳から引き抜いて捨ててしまいたかったが、破壊音と銃声に紛れ声が聴こえたのがエレノアの手を止めた。

 

『ハンティングなど無い! 全ては裏切り者の排除のためだ、シノッ!』

 

 男の怒声と共に廃屋の窓が割れ、詩乃が飛び出してくる。受け身も取れないまま地面を転がり、起き上がらない。

 明らかに様子がおかしい。エレノアはイヤーピースを外し、ショットガンを手に車を飛び出した。




すみません、随分とお待たせしました。
恐らく大半の方が『エタったもの』と思われたかと思いますが、エタらせる気はないのです……。
活動報告にも書くのですが、最近体力と集中力がおちてきまして、なかなか筆が進まなかったのです。

また次話でお会いしましょう。
少し半端ですが、戦闘シーンに割きたいのでキリ良く。


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022.月下

「まさか、偽の情報とは……!」

 

 吹き飛ばされはしたものの、詩乃はすぐさま体勢を立て直す。デザートイーグルの安全装置を外し、初弾を片手で装填(エアラック)する。

 彼女にとって、教会が自身を排除しに掛かるという展開は想定に無かった。そもそもそれなりに自由な組織なのだ、何を以て裏切り者とするのかが分からない。

 

「詩乃! 無事!?」

「えぇ、なんとか。ご迷惑をお掛けします」

 

 ショットガンを手に、詩乃の元へ駆け寄ったエレノア。しかし、詩乃の前には居るはずの敵対者の姿がなかった。

 フォアエンドを操作して弾薬を装填し、敵に備える。

 重苦しい空気が一層厚くなったようにすら彼女には感じられた。敵が居なくなった訳では無さそうだった。彼女たちを狙う存在は明らかな敵意と共に二人を囲んでいる。

 

「あの男は傍観ですか。……エレノア様、危なくなったらすぐに逃げてください。教会は、その誓いを破りました」

「誓い……? 破ったって──」

 

 詩乃の言葉を、エレノアは理解できなかった。ほんの一瞬の間だけ。

 すぐにその意味を理解した。──周囲を駆け回る存在が、人間や詩乃と同じような存在などでもないことも。教会は純血の吸血鬼を狩る存在と詩乃はエレノアに話していたが、あろうことかその教会が、詩乃の排除のために吸血鬼と手を組んだ。

 クリスの発言の意味もわかった。彼女は同族の気配を感じ取ったのだろう。本来、居るはずのない場所にその気配があったことも。

 

「仕方ありません。援軍を呼びましょう。……向こうから接触はありましたね?」

「クリスのこと? 信用は?」

「……私より、よほど信用出来ます」

 

 自嘲する詩乃。クリスは詩乃の呼び掛けを待たず二人に割り込むと、本能のままといった雰囲気で吸血鬼たちへ向かっていく。

 吸血鬼たちも早かった。しかし、クリスは明らかにそれ以上だ。風のように駆け、そして一人一人を確実に倒していく。

 

「クリス……! 私達より、人間を選ぶというの!?」

 

 詩乃たちを狙っていた吸血鬼の一人が、クリスに問い掛ける。組み伏せられそうになるのを寸前で回避し、距離を置きながら。

 

「“私達”? お前らは私を、『所詮は余所者』と笑って蔑んだッ! 純血、混血の差別と何が違うッ!」

 

 叫ぶクリス。胸を押さえ、訴えかける彼女の気迫はエレノアに接触した時とはまるで違う。

 彼女は尚も叫ぶ。

 

「だから私も差別主義になった! 独りで故郷(ここ)に隠れてたっ! 私の願いは教会の打倒なんかじゃない、お前ら“ヨーロッパ産”の打倒だッ!」

 

 姿がかき消える──かと思えば、次の一瞬で吸血鬼一人の首から血が噴き出る。クリスの戦闘能力は、明らかに詩乃を狙う者たちより頭一つ抜きん出ていた。

 エレノアには目で追えない。何も出来ない。本来の目的すら果たせるかどうか。

 

「ボンドッ!」

「やばっ……!」

 

 別な吸血鬼がエレノアを狙っていた。名前も知られているらしい。

 鋭い爪が見える右手をショットガンでガードし、くるりと銃を反転させストックで顔面を殴打してやる。顔面強打で怯んだ隙に、エレノアは間髪入れずスタン弾を発射した。

 夜闇に目がちらつくような電光が一瞬走る。思わず至近距離に居たエレノアは腕で目をかばったが、吸血鬼はまだ立ち上がってくる。

 

「ダメか……!」

 

 襲い来るラッシュ攻撃を数回受けながらも、なんとか凌ぐ。スタン弾を撃つ暇も与えてもらえない。

 エレノアは美夜のように遠距離狙撃が得意なわけでもなければ、鈴那のように近距離戦と情報収集が得意なわけでもない。まして立花や偉大すぎる実父のように諜報が得意なわけもない。彼女には、まだ何もない。──いや、そうではなかった。

 

「伏せてっ!」

 

 詩乃の声だ。エレノアは慌てて頭を下げる。

 刹那、デザートイーグルが吼えた。巨大なスライドを前後させ、銃口からは火炎放射のような炎が上がる。エレノアを襲っていた吸血鬼は膝を撃ち抜かれ、もんどり打って倒れた。

 銀で出来た銃弾だ。吸血鬼にとっては、身を焼かれるのに等しい。しかし、詩乃も武偵。心臓を狙えば殺せはしただろうが、彼女は敢えて無力化という手段を取った。

 彼女の現在に秀でたものはなかったが、少なくともエレノアには仲間が居た。一人ではない。それが心強い。

 

「助かった、詩乃」

 

 頬を伝う血を拭い、エレノアは後ろに位置取りしていた詩乃へサムズアップを見せる。

 

「いえ、私も愚かでした。……美夜様のご両親が、ご無事だといいのですが」

「それだ。あのクリスって子も心配だけど、私の目的はそれ。何か情報は?」

 

 吸血鬼はクリスが一手に引き受けている。今は詩乃、エレノア共に敵の目から逸れていた。

 詩乃のしがらみはともかく、エレノアも目的があってこの場にいる。それを果たさなければ無意味であり、詩乃もわかってはいる。

 何か情報があったか、と問われると詩乃も悩まざるを得ない。今回の狩りに置ける所謂『ブリーフィング』は偽装されていた。詩乃自身を狩るためなら、詩乃に情報を流しはしないだろう。

 

「……今こそ5W1Hでしょうね」

「いつどこで、美夜の両親が何の目的で何故、どのように教会にさらわれたかってこと?」

「ええ。吸血鬼の根絶が教会の目的のはずです。わざわざ敵に人間を差し出し、敵を増やす真似はしないと思いますが──」

 

 言葉を切り、デザートイーグルを再び構える詩乃。銃口の先には、がら空きだったクリスの背後を狙う吸血鬼。

 間髪入れずに放たれた銃弾は、クリスへ伸びていた右手を的確に弾き飛ばす。

 

「──情報があるとするなら、あの廃屋です。ただ、私には美夜様のご両親の詳細が判りません。援護します、エレノア様が小屋へ侵入を」

「了解。すぐに動く。弾は?」

「ご心配為さらず。十二分に用意はありますし、最悪は徒手にて戦えます。こちらにはクリスも居ますから」

 

 心強い。エレノアはそう呟いて緊張を少し綻ばせたが、ショットガンのローディングゲートを確認すると共に再び切り替える。

 姿勢を低くする意味はない。詩乃へ合図を出すと、エレノアは足早に廃屋へ向けて駆け出した。

 銃を撃つ暇などない。援護が間に合う内に、詩乃が飛び出してきた窓から廃屋へ飛び込む。窓枠に残った鋭いガラス片が右股を切り付けたが、痛みに足を止める暇もない。

 建物に入ると、外の戦闘が嘘のように静かに感じられた。ショットガンを構え、左右上下とクリアリング。敵影はない。詩乃を攻撃していた代表格はどこへ消えたのか。一歩踏み出したその瞬間、暗がりからショットガンの銃身を強い力で掴まれる。

 

「愚かな。人間ごときが来るとはな」

 

 教会の半吸血鬼──詩乃を攻撃していた男はそこにいた。

 ショットガンはびくともしない。抵抗しようにも、まるで意味をなさなかった。

 

「美夜の……佐々野の人間はどこ?」

「質問出来る状況ではないだろう」

 

 ショットガンを奪われ、刹那に銃身のフルスイングがエレノアの側頭部を襲った。声を上げる間もなく、出入口の壁へ叩き付けられた。意識が瞬く間に混濁する。抵抗しなければ、本当に殺される。

 視界の焦点も定まらないまま、感覚のままホルスターからピストルを抜き、震える手で構える。壁に左半身を預けていたが、狙いなどまともに定まらない。発砲しても、案の定命中弾は一発もなかった。

 

「……く──」

「こんな弱々しい女の為にシノは教会を裏切ったか。──やはり所詮はただのオニか」

「ハ──本当に鬼がいたら、その場で戦争になりそうね……」

 

 エレノアが息も絶え絶えに笑う。もはやピストルを支える力も入らない。出来ることといえば、ただの一撃で戦闘不能に陥りかけている自分を嘲りながら、目の前の男へ意味のあるかも分からない悪態をつくことくらい。

 

「ササノ……といったか。何のことだ?」

「……嘘吐かないで。どうせ私を殺すなら、本当の事を言って」

「悪いな、本当に知らん。確かに日本人の夫婦は居たが……」

「──その人が……」

 

 その夫婦が、美夜の両親ではないのか。

 そう問う前に、エレノアの意識は闇へと落ちていった。

 

 □

 

「ん……んぅ──」

 

 頭部の激しい痛みと、手首の違和感に気付いたエレノア。あれから敵の前で昏倒したと考え至るには時間は掛からなかった。しかし、不思議とその割に生きている。

 手首は縄で縛られていた。縄抜けを試そうとするが、上手くやられている。もがけば余計に縄がきつくなった。

 

「私はこのような事をする為、教会を創ったわけではない」

 

 ふと、先程の現場には居なかった声がした。老人らしい男性の声だ。

 

「教皇、それではいけないのです。時代は進む。吸血鬼たちはどんどん狡猾になっていく」

「吸血鬼に教会の者を襲わせた輩が、言えた口ではないわ!」

 

 エレノアが覚醒すると、老人と先程の男が言い争っていた。詩乃もそこに居たが、クリスの姿はない。詩乃は特に捕縛されることはなく、教皇と呼ばれた老人の傍らに控えていた。

 

「今回の件、お前はどう責任を取る? 無関係の人間を多数巻き込み、教会の信者を襲わせた」

「信者? 彼女は裏切ったのですよ、教皇。間違えてもらっては困る」

「いいや、シノは掟に従った。……見せてやろう」

 

 教皇はエレノアへ足を向けると、ゆっくりと歩み寄ってくる。しかし、不思議と彼からは敵意らしいものを感じられない。暖かな空気が教皇を包んでいる。先程までの冷たく重たい空気感とは、まるで違っていた。

 

「すまないな、エレノア・ボンド。少し触るぞ」

 

 教皇もまた、エレノアの名を知っていた。彼はエレノアの防弾制服を軽く叩き、スカートのポケットから銀の十字架を取り出して男へかざした。

 

「これは教会の十字架だ。信者──もとい、我々の狩人が私の託す十字架を別の者に託す時、狩人は教えを離れる。お前も狩人だ、忘れたとは言わせん」

「しかし、教皇。シノの離れ方は些か納得が出来ません! 何故そのような人間に彼女ほどの狩人が付くのです!?」

「……彼女はジェームズの実子。いつかは、彼を超える日が来る。シノもあの男には世話になった身だ……そうだな?」

 

 教皇の問いに、詩乃は静かに頷いた。

 

「私は、エレノア様を通してジェームズ様へ恩を返すつもりでした。でも今は、エレノア様を直接お助けしたいのです。どうしてかは分かりません。彼女についていっても、ジェームズ様には会えないでしょう。でも──」

「もう良い。数日でも心が変わることはある。とにかく今は、此奴の処遇を決めなくては」

 

 教皇の言葉と共に、詩乃がデザートイーグルを持ち上げた。処遇とは、男の処刑だろうか。しかし、彼女の表情には迷いがあった。明らかに殺しをためらっている。トリガーへ掛けた指は震え、照準も正確とは言えない。

 

「──今は武偵だったな。お前が手を汚す必要はない、銃を貸せ」

 

 優しく、軽やかに詩乃からデザートイーグルを取り上げた教皇。しかし、彼は男へ一瞥もせずに発砲する。デザートイーグルの撃ち出した.50口径弾は、真っ直ぐに男の眉間を正確に射抜いていた。銀弾の処理もあってか、即死のようだ。仰向けに倒れた男は身動ぎもしない。

 

「この銃は返してもらうが、お前は自由だ。最後に迷惑を掛けたな」

「いえ、そのようなことは……。ただ教皇、一つだけお願いが」

「外の吸血鬼、か?」

 

 ハッとしたように詩乃が目を丸くする。クリスは純血の吸血鬼だ、教皇も教会としてならばクリスを殺す。

 

「あの吸血鬼は、()()()()だろう。年を取りすぎるのも良くない。──さて」

 

 教皇がエレノアへ歩み寄ると、装飾の入ったナイフで縄を切断する。

 

「佐々野の夫婦は、無事だ。しかし、狩りを目撃されたのは良くない。だから今晩見たことについては、忘れてもらった」

「どういうこと……?」

「今晩のことは、悪い夢だと思っている。教会に吸血鬼、そんなものはあの方たちには存在しない」

「無事なの?」

「それは保証しよう。しかしさっきも言ったが、記憶までとなるとそれは別だ」

 

 美夜の両親に今晩の記憶は無い。しかし、安全の保証はする。それが教皇の言葉だ。

 信用すべきか? いや、それ以外にない。

 

(教皇……。コイツ、さっきのハーフなんかよりずっと強い)

 

 反論など出来ない。教皇には圧倒的強者たる余裕があった。

 エレノアがちらりと詩乃へ視線を配らせると、彼女は小さく頷く。

 

「分かった。ただ、もし何かあったら──その時は」

「私はその罪を、自らの手で償おう。武偵の目の前で、人を殺した。そちらの目的を果たさせる代わりに見逃してもらうが、もしエレノア・ボンド──お前の思う通りでなければ、私は武偵局に自首をする」

 

 先程行われた殺人。その罪を担保に、教皇は改めて美夜の両親の無事を強調するようだった。

 

 気付けば綺麗な月の晩。教皇は現場を立ち去った。

 残されたのはエレノアと詩乃だけ。クリスもまた、姿を消していた。

 

「ねぇ、詩乃。この十字架って、そんなに深い意味があったの?」

 

 先程教皇が取り上げた十字架。エレノアはそれを掲げ、月に照らす。教皇の言葉を纒めるなら、忠誠の証とでも言うべきだろうか。それがエレノアたちへ渡った時点で、既に彼女は教会の者ではなくなっていた。教皇はそう言っていた。

 

「ええ。ただ、こうなるとは思っていなくて。この秘密も、本当は知られずにいるつもりでした」

「そして、君の本心を知るのも今や私と教皇だけ?」

「ええ。美夜様方には、変わらず敵対されるでしょう」

 

 “教皇”とまで称されるのだから、あの老人は教会のトップだろう。そんな存在にクリスを見逃させ、更には自身の身の自由まで認めさせた。それでも、詩乃は変わらず美夜たちには警戒される。

 なんと空しい結末か。何も詩乃を取り巻く環境は変わらないのに。

 

「でもそれで良いのです。エレノア様、美夜様、鈴那様、立花様──武偵校で過ごす日々が、これからの私の本物。シノはここで消え、普通の武偵校生、櫻羽詩乃として、皆様と歩むのです」

「たまにはクリスもね」

「……ええ。話を聞けば、彼女も私と同じ孤独の者でしたから」

 

 孤独の者──吸血鬼にも更に差別があるらしい。詩乃とクリスは少なくとも、その非難の対象になっているようだ。

 ヨーロッパ発祥の吸血鬼伝説。西洋発祥の怪異だからこそか、日本の血が入った吸血鬼は彼らの中でも位が低いらしい。しかし、それに類するであろう話は世界各地にある。

 今はただ、それを聞き流していく他にない。

 

「頭痛いな……」

「ヤツに強打されましたからね。運転出来ますか?」

「難しいかも。車輌科に連絡を──」

「私が運転しますよ」

「免許がないでしょ」

「やっぱり駄目ですか? ──でも、私も少し疲れたかもしれません。皆様がいらしたら、少し休ませていただきますね」

 

 詩乃が地面へへたり込む。彼女もかなりの実力者であるはず。この先こんな姿の彼女を拝むことはないかもしれないと思いつつ、エレノアも釣られるように座り込んだ。

 スマートフォンを取り出し、車輌科の援護を要請。積載車が到着し、荷台にヴィクターが積まれると、二人は武藤が乗ってきたサファリの後部座席で頭を寄せ合い、深い眠りに落ちていた。

 

「……結局、コイツらあんなところで何してたんだろうな」

 

 武藤だけでなく、武偵校生全員が分からないままだろう。吸血鬼狩りの『教会』──そのトップに会い、話をしたことも何もかも。

 いや、しかし或いはアリアなら──聡明な彼女たちならば、もしかしたら気づいているかもしれない。




ガジェット大合戦やりたいと思っても
気付くと普通に書いて終わってしまっている……


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023.経過報告

 武偵病院。学園島に存在する武偵の病院であり、救護科などの後方支援学科の生徒が駐在する施設。

 怪我をした武偵は基本的にはここへ運ばれ、治療を受ける。ライフルの暴発による昏倒で運ばれた美夜も、勿論ここに入院していた。

 今は目を醒まし、経過観察の為に入院が延びている状態だ。

 

「おはよう、美夜」

「おはようさん、エリー。なんやエラいことやらかしたらしいじゃん」

 

 椅子に腰掛け、美夜を見舞うエレノア。やはり武偵の噂は足が早いらしい。とはいえ、彼女は自分が役に立ったとは思っていない。ハッキリと自分の戦果だとか、そこから生きて帰ってみせたとか、そういう風に胸を張ることは彼女には出来なかった。

 美夜もそこを汲んだのか、素早い気の回しで本題を切り出した。

 

「──両親から電話あったよ。気付いたら家に居たらしくて、何もわからないって」

 

 教会の教皇は、美夜の両親の記憶を一部改ざんしている。吸血鬼や教会の存在を覚えていないのは確かのようだ。

 ベッドから身を起こして語る美夜の表情は、まだ優れない。

 

「でも、ご両親が無事で良かった」

「うん。あんなんでも、親だからな。ありがとな、エリー」

「私は何も出来てないよ」

 

 何かを成し遂げたとすれば、そう言及するに相応しいのは詩乃だ。ただ、美夜は詩乃の仕事については知らない。ここで彼女の名を口に出すのは憚られたし、詩乃も望んでいないことだった。

 話題を変えるしかない。エレノアは半ば強引に問い掛ける。

 

「バリスタは壊れたって聞いたけど、代わりはあるの?」

 

 エレノアの問いに、美夜は苦々しく笑みを浮かべる。『それを訊くか』と言わんばかりで、彼女はこめかみのあたりを指で押さえた。

 美夜のFNバリスタスナイパーライフル。暴発事故により、修復不能のダメージを負っているのはエレノアもレキの語り方で見当はついている。

 

「今、結構苦しいからなー。暫くは見学かもな」

「そうだったの?」

 

 エレノアには少なからず意外だった。寮住まいなら家賃はない。学費にちょっと上乗せがあるくらいだろう。

 美夜は決して裕福ではないのだろうが、佐々野家となれば別。彼女自身はともかく、実家自体は比較的裕福だ。──無論、それがあって尚、美夜が『苦しい』と言うのは、両親への不信もあるのだろう。

 孤児院育ちのエレノアには、少々理解し難い感覚でもある。

 しかし、それならば話も早い。エレノアは足元においていたケースを持ち上げて、美夜へ差し出した。

 

「なんや、このデカいケース」

 

 きょとんとする美夜。意味深なジュラルミンケースは二人の間の空気にしては、些か異彩を放っている。

 

「ちょっとプレゼントだよ。つまらないものだけど」

「そんなワケあるかい。どれどれ……」

 

 美夜がケースを受け取る。ずしりとした重さに、一瞬彼女の姿勢が揺らいだ。ケースを膝の上に置き、ロックを外して開ける。

 中に収まっていたのは、一挺のライフルだった。

 

「レミントンM700?」

「うん。私は狙撃って詳しくないけど、クルマの運転とかと変わらないと思うの。練習を疎かにすると、徐々にその感覚が消えていって、取り戻すのにまた時間がかかる。だから、もし美夜がライフルのアテがないっていうなら、これを渡そうと思って」

 

 エレノアなりに考えた結果だった。勿論、もっと良いライフルを用意する事も出来た。実際、相談した装備科や『Q』では自動狙撃銃のWA2000や、シャイタックM200などの長距離狙撃銃、秘匿しやすく、潜入などに向いたデザートテックSRSA1コバートライフルなど、あらゆる方向性から高性能ライフルを渡すべきだと薦められたし、彼女ならそれらを用意する事も出来た。

 それでも、彼女が用意したのはウッドストックモデルのスタンダードなレミントンM700だった。強いて言うなら、狙撃用スコープとスコープ搭載用マウントレールが付属しているくらいだろう。それ以外は、何の変哲もないM700ライフルだ。

 

「美夜ならもっと凄いライフルを使っても結果を出せるだろうし、正直こんなのじゃ満足しないと思う。ただ、私が……その──毎月振り込まれるお金があって、それは私のじゃない。普段それなりに困ってないのは、孤児院の院長に『施設を出たらそれで暮らせ』と言われたからなの」

 

 固まる美夜を、エレノアはちらりと不安げに見遣る。

 

「でも、友達へのプレゼントにそのお金は使いたくない。それに手を付けたら、それはもう私の気持ちじゃないから。──でも、そうなると意外と余裕なくて……。ごめんね」

 

 要らないと言われればそれでも良かった。後で捨ててくれても、エレノアは一向に構わなかった。

 しかし、美夜は目を輝かせてエレノアの手を取る。

 

「その気持ち、確かに受け取った。私さ、別にライフルなんて撃って当たれば何でもいいんだ。バリスタは、その時上手いことそそのかされたっていうか。でも、考え変わったわ。このライフル、世界一に仕上げてやる。結果原型残らんかも知らんけど──それは許してくれるか? エリー」

「勿論。それはもう、君のだから」

 

 エレノアの返事を聞いて、美夜はライフルケースを大事そうに閉める。

 数度愛しそうにケースを撫でたかと思うと、何かを思い出したようにエレノアへ向き直った。

 

「そういや、詩乃は? ──実は、先輩方からある程度聞いた。アイツ、教会に潜入したんだろ?」

「特に変わりはないよ。教会を抜けたくらい」

「抜けた……? どういうことや、ソレ」

 

 話せば複雑にもなる。あまり事件の内容を美夜に話したくはなかったが、エレノアは少し悩んで、詩乃についてを語ることにした。

 

「詩乃が鈴那に接触した時、銀の十字架を落としたでしょ? 鈴那は勿論ソレを拾って、詩乃が私を探してると彼女に告げた。現場で教皇って呼ばれていた老人と話をしたけど、その十字架を他者に──信頼の置ける人間に渡すことで教会を抜けることになるって」

「それは、その教皇とやらが説明したんか?」

「うん。嘘は無いと思う。勿論、美夜は信用出来ないと思うけど」

 

 むう、と美夜が唸る。確かに詩乃を簡単に信用するなど出来ない。しかしよく考えれば、エレノアをどうにかするならチャンスはあったのだ。それこそ、今回の事件でも彼女を嵌める事だって出来た。それをしなかった時点で、詩乃の気持ちがある程度本物なのだろうと推測は出来たのだ。

 そろそろ折れる時が来たのかもしれない。いつまでも子供のように意固地になっても仕方ないのではないかと、美夜も考え始めてはいた。

 

「はぁ……。私がぶっ潰れてる間に、何回か見舞いにも来てたみたいだしな。これだけ敵視されたのにな。──実はさ、知らない内に花瓶に花が差してあったんだ。誰に聞いても、答えは無かった。スズも、六花先輩も『自分じゃない』ってな。じゃあ、もう限られてるだろ?」

 

 詩乃の気持ちが純粋な物であると、美夜も認めざるを得なくなっていた。勿論、全てをいきなり信じるなど不可能だ。警戒を完全に解くつもりはないが、友人くらいにはなってもいいのかもしれない。美夜はそう考えるようになっていた。

 

「美夜に少しでも信じてもらえるなら、彼女も喜ぶと思う」

「……まぁ、これから付き合っていって、どう転ぶかやな。結構話したな。明日には寮に戻れるから、また頼むわ。今日は少しサボる」

「分かった。おやすみ、美夜」

 

 ライフルケースを床に置き、ベッド下へ滑り込ませると、美夜は再び身を横たえる。

 納得したように振る舞っているが、内心は詩乃への気持ちが綯い交ぜになっているかもしれない。エレノアは静かに椅子から立ち上がると、病室を後にした。



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024. 夕焼けに消ゆ

 美夜の見舞いから一日。久し振りに車輌科に顔を出したエレノアだったが、詩乃の来訪で自習は一旦中断していた。

 

「あのクルマはどうされたのですか?」

 

 詩乃はエレノアの背後に鎮座する車へ視線を遣りつつ訊ねる。

 停められているのはヴィクターではなく、いつものヴァンテージだった。

 

「返した。そもそも借り物だったし、アレはまだ私には早そうだから」

 

「そうでしたか……」

 

「それより、教会についてはどう? 本当に抜けられたの?」

 

 詩乃と話すことがあれば、エレノアには確かめたいことがあった。それが教会について。現場では教皇自身が彼女へ教えたが、実際組織としての動きは分からない。

 もしかすると、まだ教会に動きがあるのではないかと疑念が残っていた。

 

「教皇が語った掟は本当です。裏切り者も処刑されましたし、これでまた元に戻るはずですが──私にはもう判りません」

 

 詩乃はもう、教会のハンターではない。それはあくまでも変わらないようだった。

 そっか、とエレノアは呟く。

 

「じゃあ、クリスについては? 彼女、吸血鬼なんでしょ?」

 

「クリスは私の家に居ます。一応陽の光が当たらない部屋を用意できたので、そこで生活してもらって。もし機会があれば、また彼女にも動いてもらおうかと」

 

「武偵でないのに?」

 

 エレノアの問いに、詩乃は「だからこそです」と間髪入れず返す。

 

「──武偵には沢山のルールがあります。私もソレに従いますが、それだけでは足りない。彼女には衣食住と引き換えに、“ジョーカー”になってもらいます」

 

「ルールブレイカーか……」

 

「勿論、真の最終手段です。誰かの生命に危機が訪れでもしない限り、彼女は動かしません」

 

 下手にクリスを動かせば、詩乃も武偵のルールを遵守する意味がなくなる。彼女を使うのはあくまでも、武偵のルールでは仲間を守れないと判断した時──詩乃はそう語った。

 

「そっか。とにかく、面倒事は終わったのね」

 

「そうですね。美夜様からお話していただきましたし、私も少しは馴染めてこれたかなと思っています」

 

「面倒事って、そうじゃなくて……」

 

 なんだか勘違いというか、食い違いがある。とはいえ、仲間内でいがみ合うのも終わりになるとなれば、エレノアの気持ちも楽になるというものだ。

 彼女達はまだまだ勉強中の一年生である。学校生活で息を詰まらせれば、その勉強も捗らなくなってしまう。取り敢えず、当面それに悩まされるのは無くなりそうであるという意味では、一つ肩の荷が下りたと言っても良さそうだった。

 

 話題も尽きかけた頃、エレノアのスマートフォンがメールの受信を告げた。全く同じタイミングで、詩乃のスマートフォンにもメールが届いたようで、二人で画面を開く。

 

「発砲事件ね……」

 

 メールの内容は武偵周知メール。都心部にて、発砲事件を知らせるものだった。

 

「銃撃を行った犯人は逃走……。銃撃を受けたのはカージャック犯との報告──複雑そうですね」

 

 出動の要請はなかった。詩乃もエレノアも、スマートフォンを仕舞う。彼女たちに出来ることはない。余計な手出しは無用──それもまた武偵だ。

 夕陽が車輌科のピットに射し込む。詩乃が眩しそうに目を細めた。風になびいた白く細やかな髪は、あたかも光を反射するように輝いたようだった。

 

「……それで、父について調べるのは諦めたの?」

 

 一瞬彼女に見惚れた。それではいけないと、エレノアは軽く頭を振ってから訊ねる。

 

「諦めてはいません。この世界のどこかに、あの方はいる。ですが、“追う”ことならば諦めました。いつかあの方に、貴女は出会う。私はそこに立ち会いたいのです」

 

「無駄な話よ。私はジェームズにはならない。ううん、なれない。私は、あの人にはなれない。そして会うこともない」

 

「1パーセントでもあるのなら、私はそれに賭けるだけです。それについては諦めません」

 

 どうやら言って聞かないのは今も変わらないようだった。詩乃はやはり、ジェームズを追っている。エレノアと彼が邂逅することを、どこかで期待している。無論、エレノアにはジェームズと出会う気はないし、向こう側にも無いだろう。それでも、100パーセント無いとは詩乃に告げられなかった。

 エレノアは何処かで、やはり父の背中を探している。彼ならどう動くのか、どう戦い、どう凌ぐのか。彼女に分からない振る舞いを、ジェームズに求めている。エレノアからすれば複雑だった。モヤモヤして、答えを出せない自分にイライラする。

 

「まあ、好きにして。私は責任取れないけど」

 

「構いません。これは私が勝手に決めたことですから」

 

 詩乃が話し終えたところで、チャイムが鳴った。

 結局、話し込んだだけで授業が終わってしまった。

 

「詩乃は寮じゃないんでしょ? バス停までなら、乗せてあげるけど」

 

「お気遣い感謝いたします。ですが、今日は少し寄る場所があるので。お先に失礼致します」

 

 ぺこりと頭を下げると、詩乃はそのまま踵を返し車輌科を立ち去る。どこに行く気かはエレノアには分からないが、変なことは考えないように祈るしかない。

 

「おっと、美夜を迎えに行かなきゃ!」

 

 腕時計を見て、いつもの待ち合わせに遅れそうになっていることに気付く。美夜もようやく退院して、今日から再び一緒に過ごすことになる。送迎に遅刻したら、彼女の事だからネチネチと突いてきそうだ。

 ヴァンテージのキーを放り上げ、キャッチ。車に乗り込むと、エレノアはそのまま武偵病院へと向かった。

 

 □

 

「遅い」

 

 病院につくなり、美夜から飛び出したのは棘のあるそんな一言だった。

 

「ごめん。ちょっと詩乃と話し込んでて」

 

「ほーん? アイツと話してて、ウチは待ちぼうけ喰らわせてもええってことか」

 

 じっとりとエレノアを睨み付ける美夜。エレノアも思わずたじろぐ。

 

「ごめんって。意地悪はやめてよ」

 

「意地悪なんてしてないぞ。本当の話」

 

「今度なんか奢るから」

 

「──冗談だよ。ライフル貰ってんのに、すぐに物貰えるかよ。取り敢えず、帰ってベッドで寝たいかな。明日からまた学校やしな」

 

 ライフルケースを背負い直すと、ヴァンテージの傍らに美夜は歩み寄る。

 先程の呆れ半分のような視線は、もうエレノアには向けてこない。逆に彼女に微笑みかけるようにエレノアを待っていた。

 

「よし、じゃあ帰ろうか。ご飯無いから、今日は何か注文しよう」

 

「おっ……それなら久々に身体に悪いもん食いたいな。ピザとか行っとく?」

 

 二人で車に乗り込むと、エレノアは美夜の問いにくすりと笑って返す。

 

「ゆっくり帰るから、考えといて」

 

 キーを回し、エンジンを掛ける。甲高く勇ましいエンジンサウンドと共に、武偵病院前からヴァンテージがゆっくりと発進した。

 エレノアは美夜に話した通り、いつもよりゆったりとしたドライビングで寮へ向かう。

 病院で退屈していたのか、その間美夜からの会話が途切れる事はない。夕陽に向かって走る車内で、友人の話に相槌を打つ。分からない話があっても、エレノアは必ず応えた。彼女には久々のその時間がどうしようもなく楽しく、何処か愛おしさすら感じてしまうほどだった。




今、過去話の行間も空ける作業をしてます。
暫く混在しますが、お許しを……


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英雄にあこがれて
025. 新たな一日を


「なんか、市街は大騒ぎだったみたいね」

 

 美夜と共に帰った翌朝。東京武偵校の周知メッセージを確認しながら、エレノアは呟いた。

 メッセージには昨日の銃撃事件の続報が入っていて、そこには『被疑者逃走中』の文字が並んでいた。一年次であるエレノアたちに声こそ掛からないが、車輌科のグループトークも大騒ぎだ。

 

「大騒ぎだっつっても、結局私らが出る幕無いしな。──そろそろ学校行こうか」

 

「ん、了解」

 

 美夜の言う通り、要請のない手出しは出来ない。余計な足を引っ張るより、武偵としての学業に専念するのが先だった。──最近、それが出来ていたかとエレノアが問われるならば、首を傾げざるを得ない状況ではあったが。

 二人で車に乗り込み、学校へ向かう。島内の道路をいつも通りに流していると、不意に車からガラガラと異音が立ち始めた。

 

「何の音? 前こんな音したか?」

 

「何か引き摺ってる訳じゃないわね。下から……?」

 

 異状を探る間アクセルを緩めはしたが、どうやら一足遅かった。一瞬、エンジン回転数だけが上がり、刹那にエレノアはクラッチを切り、アクセルから足を離す。

 惰性走行により若干の自走は可能だったが、止まるのも時間の問題となる。エレノアは大人しくハザードを焚いて、路肩へ車を寄せた。

 

「──まさか、ドライブシャフト折れた……!?」

 

 エレノアの頬を冷や汗が伝う。横に乗る美夜も不安そうだ。

 

「……あー、それ走れんくなるヤツ?」

 

「うん……多分。本当だとしたら、かなりヤバいわ」

 

 学校に急ぎたくはあるが、不意に駆動系であるドライブシャフトが折れてしまったとなれば危険だ。何しろ600馬力のハイパワー車。異音が出た時点で、自走不能は時間の問題といえた。

 

「ゴメン、美夜。今なら間に合うから、先に学校行って。私はこの車、どうにかしないと……」

 

「そうは言ってもな……。大丈夫か?」

 

「車輌科のメンバーに声かけて、積車してもらうから大丈夫。遅刻にはなるかもだけど」

 

「うーん……。分かったわ、先行ってるな」

 

 美夜が車から降りるのを見送り、エレノアはトークアプリの車輌科グループへ救難メッセージを送信した。

 車を放置するわけにも行かず、しかし教務科に連絡を入れるも『なんとかして来い』と無茶振りを受けてしまい、誰かが来るのを祈りながら待機するしかなかった。

 

「よう、メッセージ見たぞ! 助けが要るんだろ?」

 

 短いホーンと共に、一台の牽引トラックが停車。運転席の窓から、男子生徒が顔を出した。

 

「紺田先輩? 確かに助けは要りますが、授業は……」

 

「さっき長期の依頼から戻ってきたばっかなんだよ。だから、学校側には『朝は出ない』で通ってる。で、クルマ止まったのか?」

 

 車輌科の生徒である紺田はトラックから降りると、エレノアと共に車を見回る。

 

「異音がしたと思ったら、駆動が伝わらなくなって……。ドライブシャフトかなって」

 

「──にしたって急だな。だからコイツに600馬力なんてムリだって言ったんだよ」

 

 呆れたようにため息をつく紺田。彼はどうやら、ヴァンテージの改造計画に不満があったようだ。

 どこに故障があるにせよ、まずは移動しなければ。

 

「とにかく、台車(ドーリー)あるから、積載車待たずにコイツで移動しちまおう。やっておくから、ボンドも学校向え。教務科辺りに無茶振りされてんじゃないか?」

 

 見透かすような紺田の言葉。エレノアも思わずどきりとしたが、教務科の無茶振りは何も初めてではない。全生徒必ず一回は通る道だと言ってもいい。

 

「すみません、この借りはいつか必ず」

 

「おう。行って来い」

 

 紺田に送り出され、エレノアは学校へ向けて駆け出す。既に始業チャイムもギリギリ。遅刻で怒鳴られるのも覚悟が出来始めていたが、少し走ったところでクラクションによって足を止めさせられた。

 

「乗っていくかい? ボンド」

 

 路肩に停められたのはポルシェカブリオレ。云わずと知れた高級外車であり、そのオープンルーフバージョンだ。故に、ドライバーの姿はハッキリと認識出来た。

 運転席に座るのは中性的な顔立ちの青年。エレノアはその正体を知っていた。

 

「ワトソン先輩? どうしてここに……」

 

「とにかく乗りなよ。本当に遅刻だよ? このままじゃ」

 

 ワトソンに言われて、腕時計を見る。武偵たるもの時間は正確に。時計は寸分の狂いもなく合わせてある。

 ──間違いなく、徒歩では間に合わない。

 ワトソンとは別に知らない仲ではない。お互いイギリス出身ということもあって、意外と話すことも多かった。決断するのに難しいことはなく、一礼と共に助手席へ滑り込む。

 

「キミがやっと父親の手掛かりに辿り着いたと聞いた時に、実のところ少し話はするつもりだったんだ」

 

 車が走り出してすぐ、ワトソンはそう切り出した。まるでエレノアの父親を知っていたかのような口振りに、思わず彼女も『へ?』と間の抜けた声を出してしまった。

 

「──父をご存知なんですか?」

 

「直接会った訳じゃないけど。一応、ワトソン家としてもボンド家の令嬢とあっては『よく監視すべし』といった感じでね」

 

「令嬢って……」

 

『ボンド家の令嬢』とは、流石のエレノアも初めて呼ばれた。そもそも生まれてすぐ孤児院だったのだ、令嬢と言われても実感がない。令嬢と呼ばれるほど、自身の家の位が高いと思ったこともない。

 

「でもね、ボンド。キミに注目してるのはボクだけじゃない。アリアもだ。知ってるだろ? 彼女のフルネームを」

 

「神崎・ホームズ・アリア──ホームズ家……」

 

 今になって実感が湧いた。アリアもまた、かの有名なホームズ家の息女。

 

「分かったかい? キミがどれだけ知らないフリをしたって、家柄は付き纏う。──ボク達と同じだ」

 

「……でも、父は──」

 

 それ以上、エレノアから言葉は出てこなかった。『父は他人として生きることを望んだ』──だから、なんだ。事情を知る他人からすれば、そんなこと関係無い。エレノアは立派なボンド家の娘。血筋とはそういうものだ。

 話がそれ以上膨らむわけもなく、学校に到着。もやもやとした感情を胸に抱えたまま、エレノアはワトソンと別れた。

 

 □

 

「また銃撃事件か……」

 

 昼休み。昼食の間にも、周知メールは届いた。再びの銃撃事件。エレノアたちに交ざって食事をとっていた火野ライカが眉をひそめた。

 

「昨日から続けてだよね? 何があったんだろう……」

 

 間宮あかりも自身のスマートフォンで確認しつつ思案顔だ。

 

「……ん? グループに動画が上がってる」

 

 エレノアはふと、車輌科グループトークに動画がアップロードされていることに気付く。『これスクープかも!』と題されたそれを、彼女は再生してみることにした。

 

『おい! 金だよ、金! 早く出せ!』

 

 一分にも満たない長さではあったが、夜の住宅街で撮影されたらしいそれは驚くべきものと言えた。

 強盗を働く一般人。通行人を襲ったのか否か。武器も、拳銃のようなものを構えているようにも見える。

 

「強盗の動画かぁ? エリーも趣味悪いなぁ……」

 

 スマートフォンの音声に気付いてか、美夜たちも画面に食い付いていた。

 

「違う違う! ……ん?」

 

 そのまま強盗が成功するのを見続けるしかないのか。そう思い始めた時、動画の画角にフレームインしてきた人物にエレノアの視線が奪われた。

 フードでシルエットを隠しているが、比較的小柄に見える。ポケットに両手を突っ込んだまま強盗へ歩み寄ったその人物は、おもむろにポケットから何かを取り出す。

 真っ直ぐに強盗へ向けられたそれは、紛れもなく拳銃だった。

 警告をすることなく銃声が響く。一発、二発、三発。強盗に銃弾が当たることもなく、構えもプロのそれとは言い難かった。しかし、突如発砲されて泡を食ったのか、強盗はそのまま走り去っていった。

 それを見届けると、フードの人物も動画からフレームアウト。動画はそこで終わっていた。

 

「この動画、最近の銃撃事件のものかしら。よくもまぁ、こんな腕前で向かっていったものだわ」

 

 扇子を広げ笑うのは、間宮あかりの友人である高千穂麗。今回は珍しくエレノアたちの昼食に交ざっていた。

 

「しかし、良くはないのう。この銃撃事件も古いものではないはず。犯人が同じ人物だと仮定すれば……」

 

 鈴那が思案に入る。人間には『ヒーロー』に憧れる意識は必ずあると言える。普段はそんな機会に恵まれる事はないが、もし何らかのタイミングでその快楽を知ってしまったとすれば。

 

「スズはまた銃撃事件は起きるって踏んでるん?」

 

「うむ。この予測が当たってほしくはないがな。こちらでも調べてみるとしょう」

 

 ヒーローになれるとすれば、また同じ事件は起きる。

 鈴那の予測が当たらない事をエレノアは祈りつつ、弁当箱を閉じた。

 

「あ、そうだ! 美夜も櫻羽さんとちゃんと友達になれたんだよね? 良かったら、放課後に皆でウチに遊びに来ない?」

 

 ふと思い立ったのか、あかりはパチンと手を叩いてそんな提案をする。

 

「えらい急だな。私は良いけど……」

 

 美夜に拒否する理由は無く、エレノアたちも同様。

 あかりがそう動くのなら、必然的に彼女の友人たちもついてくる。

 

「私も構いません。こういった付き合いには慣れていませんので、粗相をするかもしれませんが……」

 

 詩乃もすんなりとあかりの提案を受け入れた。

 漸く、美夜と詩乃も和解した。エレノアの周りにあった重たい空気も、あかりの招待でより明るくなってくれれば──エレノアもそう考えて、彼女の招待を受け入れる。

 

 約束は放課後。それぞれの履修学科が終わってから、間宮家に向かうことに決まった。

 

「行く前に、車をどうにかしないと……」

 

 エレノアには一つ、問題がある。自身の車が壊れたことだ。車輌科に言えば、また暫く貸してくれるだろうか。紺田に相談するのもいいかもしれない。

 昼休み終了のチャイムが鳴る前に教室へ戻り、エレノアは席につく。

 

 午後の一般教室学科を受け、エレノアは車輌科へと向かった。




時間掛かった……
色々やってると、どうしても小説が後回しに。

色々問題が起こりつつも、今回はより強くボンド家に触れた一話でもあります。

また次回も、宜しくお願い致します。


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026.覚悟

 車輌科につくと、紺田はまるでエレノアの来訪を予期していたかのようなタイミングで彼女を出迎えた。

 

「クルマは……?」

 

 挨拶もそこそこにエレノアが訊ねるが、紺田の反応は芳しくない。

 

「最悪の事態は免れてたけど、やっぱり身の丈に合わないパワーは持つべきじゃない。ボンドはどうだ? あのまま、600馬力のエンジンでヴァンテージに乗りたいか?」

 

 逆に問われて、エレノアは思わず空を仰ぐ。車を先輩方に任せたが故にこうなったのであって、ハイパワー化はエレノアが頼んだわけではない。しかし、拒否も出来た。それをしなかったのだから、エレノアには改造にあたった先輩たちを責める権利は勿論無い。

 だからこそ悩ましい。先輩方を立てるか、やはり違うと異を唱えるか。

 言葉に出せずにいると、紺田は察したのかエレノアへ語り掛けた。

 

「ヴァンテージはボンドのクルマだ。どうしたいか、ハッキリ自分で伝えるんだ」

 

 彼に言われて、エレノアも覚悟が決まった。

 

「このクルマを、元に戻してください。RBエンジンは、レシピエントがあるはずです」

 

「分かった。他の奴らにも話しておく。──代車はこれだ」

 

 紺田が何かをエレノアへ放って寄越す。胸の前でそれを受け止めると、車のリモートドアロックのデバイスがそこにあった。

 解錠ボタンを押すと、すぐそばからロック解除のアラームが聴こえる。

 シルバーのボディカラーに、低い車体。グラマラスな丸みを帯びたボディは小柄で、ヴァンテージのような大きな車から比べると可愛らしさすら感じた。

 

「エリーゼ……?」

 

 エレノアを待つのは、ロータスエリーゼ。イギリスの名門、ロータス社が製造していた軽量スポーツカーだ。

 

「クルマはトータルバランスだ。それに乗って、ハイパワーだけが全てじゃないってことも勉強しとけ」

 

 紺田はそれだけ告げると、手を振りつつもさっさと車輌科の奥へ引っ込んでしまった。

 ぼーっとしているわけにもいかず、エレノアは取り敢えず車に乗り込む。紺田が語る『トータルバランス』がどれほどのものか、何か依頼を受けて見てみてもいいかもしれないと考える。

 

 ドアを開け、運転席に座るとまず、その低さに驚いた。エレノアが乗ってきた車の中でも、かなり低い部類だ。まるで地面に座っているかのようにすら感じた。

 エンジンを掛ける。エリーゼは運転席の真後ろにエンジンを搭載するミッドシップレイアウト。エンジン形式は直列四気筒で、日本のトヨタ製のものを使用する。

 数度吹かしてみるが、その回転の吹け上がりはやはり少々かったるい。フルチューンのエンジンが積まれたヴァンテージからすれば、天地の差だ。まして詩乃の一件で一度運転した、ヴィクターの針のように鋭く吹け上がるエンジンとは、無論比ぶべくもない。

 

「依頼ねぇ……。何かあったかな」

 

 スマートフォンを開き、武偵校の生徒専用サイトにアクセスする。近年の通信デバイス整備により、こうしたウェブ上での依頼受託も可能になったのは生徒の間でも評判がいい。

 ひとまず簡単そうな、配達任務を受けてみようか。受諾しようとして、不意に通話が入る。

 画面には『ワトソン先輩』とある。朝の登校時間に、学校まで送ってくれた先輩だ。何かあったのだろうか。発進する前で良かった、ひとまずそのまま受話ボタンを押す。

 

『あぁ、よかった。放課後だから忙しいかなと思ったんだけど』

 

「それはそちらもでは……? まだ依頼は受諾していないので、予定は決まってませんけど」

 

『本当かい? それなら、依頼が終わり次第連絡を貰えるかな? ちょっと、二人きりで話がしたいんだ』

 

 二人きりで、とは随分と大事な用事らしい。その中身までは読めないが、少なくともワトソンは悪い人間ではない。彼女──ワトソンは男性のように振る舞うが、立派な女生徒だ──がそういうのなら、話を聞いてもいいだろう。

 

「分かりました。じゃあ、こちらの用事が終わり次第」

 

『うん、持ってるよ。それじゃあ』

 

 終話。ワトソンの用事が何なのかは気になるが、依頼を受けなければ。サボりになってしまっても良くない。

 依頼の受諾を改めて完了し、車を発進させる。

 道に出て、少しアクセルを強く踏み込む。なかなかどうして、先程のかったるいレスポンスが気にならないほどエリーゼは力強く、元気な加速を見せた。

 二速から三速。シフトアップももたつかず、再びパワーが盛り上がってくる。馬力にすれば200馬力もないかもしれない。だが、数字では現れない何かがエレノアの気分を盛り上げる。

 交差点を減速し、曲がる。そして加速する。何一つ気を配る必要がない。走り、曲がり、止まる。エンジンではなく、車自体のレスポンスが凄まじく良い。エリーゼはその車体の軽さで有名だ。馬力ではなく、軽さで勝負するのがロータスの車。ターボでは感じることの出来ないフィーリングと、軽さとパワーの『トータルバランス』──その実力は、確かにエレノアに伝わった。

 

 □

 

 配達依頼自体はなんてことはないもの。エレノアより下のランクでも受けられるような、裏も何もない単純な配達だった。

 単位を得るよりはエリーゼの性能テストだったが、ちょっとした小遣い稼ぎにはなった。依頼主も急ぎの配達が済んだと喜んでいたし、最近の事件に比べれば平和そのものだ。

 コンビニで飲み物を買い、駐車場の車内でワトソンへ電話を繋ぐ。

 

「ワトソン先輩? こちらの用事は終わりました。今、渋谷駅前です」

 

『お疲れ様。随分と早いところを見ると、あまり大した依頼ではなかったのかな。……渋谷駅前か。なら、ボクがそちらに向かおう。ちょうど用事で近くにいたんだ』

 

「用事……? ワトソン先輩が、渋谷にですか……?」

 

『──え? あっ……! な、なんだ? ボクが渋谷にいたらおかしいか? とにかく。すぐに向かうから、ちょっと待っててくれ』

 

 渋谷にいる事を突かれたワトソンは、何やら声を震わせる。何か恥ずかしい事を隠しているのか、彼女にしては、その返答は要領を得ないものだった。

 電話はとっとと切られてしまったが、彼女の行動にはエレノアも少々疑問を覚える。渋谷は若者の街というが、ワトソンのようなハイランクな人種が出入りする街とはあまり思えない。エレノアの返事に対し、一瞬虚を突かれたような声を漏らしたのも怪しい。

 

「……気になる。けど、誤魔化すってことはそういうことなんだろうなぁ」

 

 好奇心は猫をも殺すという。実際、それで首を突っ込んだ事件が大事だったことはエレノアの過去にもあったわけで。触れないほうが今回は身のためだろう。

 後付されていたドリンクホルダーに、コンビニで買ったペットボトル飲料を差し込み、シートに寄り掛かる。

 リクライニングがあるわけでもなく、ましてや乗用車のようにふかふかとした乗り心地でもない。ただ、長距離ドライブでは今座っているような、ホールド性が高いシートが絶対に楽なのだ。おかげでエレノアも疲れは感じていない。

 

 体感で十分ほどだろうか。待っていると、ワトソンのポルシェがエレノアの車が停まる横のスペースに滑り込んだ。

 場所を教え忘れていた筈だが、流石にワトソン家の娘か。少ない情報で探し当てたのだろうか。

 

「待たせたね、ボンド」

 

「いえ。むしろ、場所を伝え忘れていたので……」

 

「いや、それはいいんだ。スズナに連絡を取ったら教えてくれたしね」

 

 ワトソンからそう聞いて、エレノアは思わず周囲を見渡す。コンビニ前に監視カメラがある。防犯用だろう。彼女のことだ、そこでエレノアの姿を確認し、出庫が無いことを根拠にワトソンに居場所を伝えたのだろう。

 やはり彼女からは逃げられない。それにイギリスの名家、ワトソン家が組んだら鬼に金棒といったところか。

 

「場所を移そうか。結構長い時間占有しただろう? そろそろ店員に怒られるよ」

 

「それもそうですが、どこに?」

 

「車で移動しよう。先導するから、着いてきて」

 

 ワトソンがポルシェに乗り込むのに続いて、エレノアもエリーゼに乗り込んだ。車を発進させ、ワトソンの先導で道路を走る。どこに行くかは、エレノアには分かっていない。

 交通の他に、ポルシェの方向指示器にも気を付けつつ、車を走らせること暫く。ワトソンの車は人気の少ないカフェの駐車場に停まった。エレノアも後に続いて、横に停める。

 人気は無いが、雰囲気は悪くない店だった。隠れ家のような店というべき佇まい。モダンな外観の建物には、木目の綺麗なドアがある。ワトソンとエレノアは二人、その前に立った。

 クローズドの札が下がるその扉を、ワトソンは躊躇うことなく開く。ドアベルの音が二人を出迎えるが、肝心の店員の姿はない。

 

「……あれ? ここ、カフェじゃ? 店員は──」

 

「今は外してもらってる。客も来ないから、適当に座ってくれ」

 

 ワトソンの発言には、エレノアの頭上にもクエスチョンマークが浮かぶ。しかし、少なくともワトソンが何かしらの話をするために、わざわざ店を貸し切ったのだろう。それはエレノアにも分かった。

 問題は、何の用事があるのかだ。

 

「コーヒーは飲めるかい?」

 

「え? ええ。飲めますけど……」

 

 一体この店は何なのか。ワトソンは勝手知ったるといった感じで、コーヒーを淹れ始めた。『インスタントだけどね』と彼女は後で付け加えたが、エレノアからすればそれすら奇妙な雰囲気だ。

 それからまた少しして、ワトソンはコーヒーカップを手にエレノアの座るカウンター席の横に腰掛けた。

 

「どうぞ。あぁ、シュガーとミルクが必要なら左手側のケースに入ってるよ」

 

「あの……。この店、ワトソン先輩のお店なんですか? 随分と詳しいというか──」

 

 耐え切れず、直球に訊ねてしまった。

 対したワトソンは、少し悩む素振りは見せたものの、とくに何かを隠す様子は無いようにしながら返した。

 

「まあ、協力者かな。とにかく、ここなら邪魔は入らない。今回キミにコンタクトを取ったのは、他でもないキミの父君の事だ」

 

 何の話かと思えば。エレノアは身構えていたが、ジェームズの話となれば答えは決まっている。

 

「私はあの人について、何も知りませんし後を追う気もありません」

 

 毅然とした態度で言い放つエレノアに、ワトソンは『違うんだよ』と同じくらい強く返した。

 

「キミとジェームズ氏の関係は知っているさ。ただ、それでも父親だ。聞かされている以上、ボクには話す義務がある──」

 

 ワトソンは一呼吸置いて、コーヒーカップの縁を撫でる。それから、まっすぐにエレノアを見つめて告げた。

 

「──ジェームズ・ボンドは死んだ。つい最近の話ではないが、後任を立てる直前の任務でね。とある島の実験を止めるため、自ら犠牲になることを選んだそうだ。彼はMI6によって、英雄として葬られることになったらしい」

 

「……え?」

 

 “ジェームズ・ボンドが死んだ”。その言葉は、まるで狭い土管の中のようにエレノアの頭を殴り付けながら反響するように感じた。

 自身がジェームズの実子であることさえ、まだ完全には受け入れられていないのに、今度はその父が死んだ? 理解が追い付かない。会ったこともない父の死を告げられても、悲しみは込み上げない。涙も出ない。他人の死を聞かされているようにすら感じた。

 しかし、不思議と少しだけ心がざわついた。悲しみはない。しかし、嫌な焦燥感に襲われる。

 

「それを聞かされても、私はどうしたら……」

 

 焦れる気持ちはある。だが、それ以上にどうしようもないのだ。エレノアには戸惑うしか無かった。

 ワトソンからの返答はなく、カフェの壁に掛かったアンティークな時計が奏でる一定のリズムだけが寂しく響く。

 

「……ハァッ」

 

 不意に、ワトソンが大きな溜息を漏らした。

 

「そうだね。確かにキミとジェームズは違う人物だ。それにボクはね、キミの父親であるジェームズは、随分と007らしくないと思ってるんだ」

 

「え?」

 

「スマートに事を運ぶことが007だ。キミの父親の代で、それは大きく崩されたと言っていい。随分と問題も多かったようだ」

 

 ワトソンから溢れだしたのは、ジェームズへの誹謗だった。それもまだ留まることを知らない。

 

「確かに英雄として葬られたかもしれないが、結局は任務の失敗だ。これじゃダブルオーエージェントとしては、出来が知れてる」

 

「……先輩」

 

「ある意味良かったんじゃないか? その父親と絶縁になったんだ、キミまで同じ轍を踏む必要はないからね」

 

「先輩ッ!」

 

 気付けば、あろうことかエレノアは拳銃を抜いて、その銃口をワトソンへと向けていた。力強く握り締めすぎて、その銃口は震えている。ワトソンほどの実力なら、あっさり武装解除出来ただろう。しかし、彼女はそれをしなかった。

 

「ほら。キミはジェームズ氏を貶されて、感情に任せて銃を抜いた。理解は出来てないかもしれないが、ボンド。キミは、父君をしっかり尊敬している」

 

「な……? 何が言いたいんですか!? ジェームズが死んだといえば、急にバカにして。そしたら今度は私があの人を尊敬してる!? 貴方は何が言いたいんですか!?」

 

 叫ぶエレノア。向けられた銃口を目の前にしても、ワトソンは眉一つ動かさずエレノアへ告げた。

 

「キミは──自分の役割が曖昧になっている。そうは感じないかい? 彼にはなりたくないが、でも心の中では彼の背中を追っている。『ジェームズとは違う』というのは、自身への言い聞かせに過ぎないんだと。そう思い始めてはいないかい?」

 

「私は……」

 

 その先の言葉が出てこない。ワトソンの言う通りだ。ジェームズ・ボンドではないと公言しながら、あの手紙とヴァンテージを受け取ってから、確かに彼の背中を追い始めている。

 ワトソンがジェームズを誹謗した時には、怒りに任せて銃を抜いていた。関係無いと断言するなら、そんな動きはしない。

 

「ジェームズ氏は、確かにキミの父親なんだ。父親に憧れることの、何が悪い」

 

「でも、手紙には……」

 

「『自分の人生を歩め』──『自分になるな』とは書いていなかったはずだ。素直になれ、エレノア・ボンド。ボンド家の血を絶やしてはならない」

 

「──!」

 

 ボンドの血を絶やすな。ワトソンに言われた言葉が、強く頭の中で反響した。ジェームズの後を追わないということは、ダブルオーエージェントとしてのボンドの血は失われるということ。

 銃を下ろしたその先で、エレノアを真っ直ぐ見つめるワトソンは告げるようだった。

 

『今こそ、本当のエレノア・ボンド──ボンドの娘になる時だ』──と。

 

 さぁ──と、頭の中が醒めていく。一種の緊張感、焦燥感。それが纏めて消えていく。

 迷いが消えたといえば嘘になってしまうが、少なくとも覚悟は決まった。

 

「……いい眼だね。さっきは、発破をかけるには仕方ないとはいえ、キミの父親を馬鹿にしてすまなかった。だけど、それでボクに銃を向けた時の眼は──明確な怒りだった。……さて、もう一つキミには話があるんだ」

 

 すっかり温くなったコーヒー。それを軽く一口含み、飲み下すワトソン。

 

「キミには、ジェームズ氏から預かっている物があるはずなんだ。ヴァンテージ以外に」

 

 ヴァンテージ以外に預かっているものといえば、エレノアにはいくつかの心当たりはある。

 

「孤児院を出る時に、金庫に預けられていたP99とこの92X……。それくらいしか──」

 

「違う。まだあるんだ。彼がキミに預けた装備が、どこかに。──とはいえ、それが何処かは流石にボクも分からないし、色々圧迫感があってキミも疲れただろ? 今日はここまでにしよう。手掛かりを見つけたら、一応連絡してくれ。是非立ち会いたいんだ」

 

 ジェームズはまだ何かをエレノアに隠しているのだろうか。ワトソンの口振りから推察するに、そうとしか思えない。

 カフェを後にして、用事があるというワトソンと別れ一人学園島に向かうエレノア。一体何を隠しているのだろう? 美夜からのメッセージが鳴り止まないが、思考の半分はジェームズの装備に取られていた。

 

 学園島に着く頃には夜になっていた。美夜は自力で帰ったようだが、『来ないなら連絡を寄越せ』と恨み言がつらつらと書かれていて、思わず頭が痛くなる。

 寮に向かう車内。自分の決めた道に、不思議と後悔がない事にエレノアは一人静かに驚いていた。




だいぶ間が空きましたが、やっとエレノアも向き合う用意ができたようです。

それと、一話から『東京武偵校』に関する文字類が全て間違っていたので、修正していきます。
お恥ずかしい……。
次話はその修正が終わり次第開始します。


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027.動き出す時

 エレノア自身の問題に、最近頻発する発砲事件。後者はまだエレノアたち一年生には関わることがないであろう問題だが、肝心なのは前者だ。

 おかげで授業にもあまり集中出来なかった。

 

『キミは父君を尊敬している』

 

 ワトソンにそう言われた時から、なんだか自分の感覚がふわふわとして意識が定まらない感じだった。

 あの時は納得したように出てきてしまったが、やはりいざそう言われても実感が湧かない。別に今から秘密組織所属になるわけでもなく、エレノアの生活は普通通りに続くのだ。

 

「エレノア様……?」

 

「コイツ、今日ずーっとこんなやな」

 

「腑抜けてんなぁ……」

 

 詩乃にも、美夜にも、ライカにも。心配はされるし、呆れもされる。

 こんな状態で事件にでも巻き込まれたら、命も危ない。

 

「おーい! 速報だぞ、速報!」

 

 不意に、男子生徒が教室に飛び込んで騒ぎ立てた。エレノアの意識も、否応なしに惹き付けられる。

 クラスメイトたちも、『なんだなんだ』と注目し始めた。

 

「最近の発砲事件、とうとう昨日の夜に武偵とぶつかったらしい! ウチの学校の生徒が、病院に担ぎ込まれたってさ!」

 

 にわかに教室がざわつき出す。もし、最近の発砲事件の犯人だとすれば、その所作は初心者そのものだった筈だ。見習いとはいえ、仮にもプロから指導を受ける武偵校の生徒が病院送りとは、随分と話が違う。

 

「模倣犯かな……」

 

 エレノアは顎に手を当て、思案に入る。

 銃を扱う技術は、確かに見様見真似でも発砲くらいは出来るだろう。ただ、相手を無力化出来るようになるには一日や二日訓練しただけでは難しい。

 事件はだいぶ広まっていたし、模倣犯の可能性は十二分にあった。

 

「そういや今日、スズ見たか? いつも学校来たら合流するよな?」

 

 不意に美夜がそう切り出した。

 

「あれ、そういや見てないな。あのちっこい赤髪だし、見かけたらすぐ判るハズだけどな」

 

 ライカもまた、鈴那を見ていないという。

 休みだろうか? それなら良いが、教室の騒ぎもある。エレノアも、まさかとは思うものの不安が過る。

 少しでも不安要素は取り除きたい。その一心で、エレノアは男子生徒に問いを投げた。

 

「あの! 運ばれた生徒って、特徴は?」

 

 その問いをきっかけに、クラス中の視線がエレノアへ集まった。出過ぎた真似だったかと萎縮しかけるが、男子生徒は少し思案した後に彼女へ答えた。

 

「赤髪の生徒だって聞いたぞ。チビで赤髪で、でも強襲科じゃかなりやるって話らしいけどな……」

 

 その返答を聞いて、エレノアの顔から血の気が引いた。美夜、詩乃もそうだ。あかりたちも同じ。

 いても立ってもいられず、エレノアたちは困惑する生徒の静止も振り切って学校から飛び出した。

 

「まさか、スズじゃないよな!?」

 

 走りながら美夜がエレノアへ問う。

 

「信じたいけど、特徴が一致してる! 今はとにかく、武偵病院へ!」

 

 車に乗る余裕も無く、エレノアたちは武偵病院へ向けて学園島を風のように走り抜けた。

 

 □

 

「はぁ、先輩方も大袈裟過ぎじゃ」

 

 武偵病院で五十鈴鈴那の名前を出すと、一行はあっさりと病室へ通された。

 発砲事件の犯人から銃撃を受けたと道中聞かされ、不安もあったものの、病室では一行の心配に反して柔軟体操をする鈴那がいた。

 それから暫くして、体操を終えた鈴那が発したのが『先輩方は大袈裟だ』という言葉だった。

 

「でも、銃撃されたんでしょ? 無理しない方が……」

 

 言葉の出ないエレノアの代わりとばかりに、あかりが鈴那へ言葉をかける。

 やれやれ、とかぶり振る鈴那。

 

「ちょっと油断しただけじゃ。教務科には報告したが、相手はわしと大して変わらないか、年下の子供だったからのう」

 

「子供……!?」

 

 思わず院内なのを忘れて、声を上げてしまったエレノア。模倣犯どころか、相手は子供。まさか、そんな馬鹿な──そんな思考が彼女を支配する。

 

「子供だが、明確にわしを撃つ気はなかったといったように見えたな。ひったくりに出会したから追い掛けたんじゃが、その先におってな。発砲しようとしたから取り押さえようとして──」

 

 ──それで、このザマじゃ。鈴那は脇腹の包帯をエレノアたちに見せつけた。

 

「弾は制服が防いでくれたが、至近距離では流石にな……。わしとしたことが、犯人を逃がすとは」

 

「油断大敵だぜ、鈴那。お前も仮にも強襲科だろ?」

 

 一年の中では、最も強襲科向きな生徒とも言える火野ライカに言われ、鈴那は『面目ない』と頬を掻く。

 

「おお、そうじゃった。結局、あかりの家にお邪魔する話も放置になってしまったが……」

 

「あっ……」

 

 鈴那も人が悪い。思わず声を漏らしたエレノアだが、約束を忘れていたことを鈴那は知っていたのではないか。ワトソンとやり取りをしていたということが、その確固たる証拠だ。

 しかし、何にせよすっぽかしたのは事実。

 

「ごめん、あかり……! 本当に頭からすっぽ抜けてて……」

 

 隣に座るあかりへ、手を合わせるエレノア。

 

「あはは……。別に大丈夫だよ。あたしも、あの時は緊急でアリア先輩に呼び出されちゃってたし……。また集まろうよ」

 

「うん。じゃあ、今回の事件が解決したら……あかりの家で何かやる?」

 

「うえぇ!? 発砲事件のことなら、あたしたちは関われないような……」

 

 あかりが言い切ろうとして、エレノアの視線の先を見た。ベッドに腰掛ける鈴那と、彼女の包帯。エレノアはじっとそれを見つめていた。

 あかりも武偵高の生徒だ。エレノアの考えんとすることは分かる。

 

「お礼参り、する気なの?」

 

「……まさか。鈴那の言う通りなら、相手は子供。ただ、ちょっと火遊びが過ぎた。危ないオモチャは取り上げなきゃ」

 

 それをお礼参りというのでは。あかりは思わず心の中で突っ込んだ。

 

「お礼参りするほどのモノではないが、確かに危ないな。あやつ、自分に酔っておるように見えた。そのうち身を滅ぼすぞ」

 

「なら決まり。その子を止めないと」

 

 エレノアが椅子から立ち上がると、鈴那がそれを止めた。

 

「待て待て。何の情報もなしに、あの子供が見つかるとは思えん。わしが情報を洗うから少し待て。それに、武器もあの子に奪われたしな……。新しい武器を取りに行かねば」

 

「ちょっと待て、スズ。()()()()フルオート奪われたんか? 二挺とも?」

 

 美夜が問うと、鈴那は少々硬くなり気味に頷く。

 彼女の愛銃『ナナゴー』ことCz75フルオートは、文字通りチェコ製ハンドガンCz75をフルオート可能にした機関拳銃だ。そんなものが奪われたとなれば、犯人の脅威査定も変わってくる。純粋に火力が上がるのだ、危険性は飛躍的に上がる。

 しかも鈴那が語るに、犯人は自分に酔い始めている。更なる火力が手に入れば、大きな事件を起こしかねない。

 

「どちらにせよ買い替えるつもりではあったがな。あの銃は返してもらう」

 

 左脇腹を押さえつつ、鈴那もベッドから立ち上がった。

 

「じゃあ、鈴那。情報は君に任せる。私は……」

 

「何もしなくて良い。おぬしは少し休め。心此処に在らずでは危ない。わしのように運よく済めば良いが、最悪殉職するぞ」

 

 鈴那は撃たれた。犯人が武偵にその場の事件を任せるどころか、抵抗した証だ。下手に関われば死ぬ。これはそういう事件だという、れっきとした証明になる。

 

「……わかった」

 

 情報を集めることに関して、今病院にいる面子の中で鈴那に勝る者は居ないだろう。エレノアはひとまず、飛び出してきた一般教科の教室へと友人たちと戻ることにした。

 

 □

 

 昼休み。先程のこともあって、今はボンド家の問題は後回しだ。

 美夜の作った弁当に手を付けつつ、今回の事件をなるべく洗う。

 

「最近の銃撃事件の真犯人かはともかく、鈴那を撃った子は自分に酔っているらしい……か」

 

 場所は屋上。傍らでは詩乃と美夜が、スマートフォンで情報を探る。エレノアも同じだ。

 食事もそこそこに、色々なサイトを手分けして探っていた。鈴那の読み通りなら、今回の射手は自分に酔っている。何かソーシャルネットか、裏サイトの掲示板に自分を誇示するような書き込みでもないかと、エレノアは思っていたのだが。

 

「おい! これ、これ見てみエリー!」

 

 美夜がエレノアの肩を抱き寄せ、スマートフォンの画面を見せてくる。ふわりと髪先が頬をくすぐったが、まずは何より内容だ。

 スマートフォンに表示されていたのは、至って普通のソーシャルネットアプリの画面。裏サイトでもなんでもない、パブリックなものだ。

 そこに、恐らく登録時に割り振られたままのIDと適当なユーザーネームの投稿があった。

 

『死神が出るぞ。世の中の犯罪者には死を』

 

 ただ、その一文だけ。

 

「手掛かりには、甘くないですか……?」

 

 詩乃がエレノアに頬を寄せて一緒に画面を確認するが、確かに彼女の言う通りと言えた。デジタル化のこの時代、嘘も真も──虚言も真言もあらゆるものがごちゃ混ぜだ。

 毎日世界の終わりが来ると真剣に語る者もいるし、一方で、ただただフィッシングサイトに誘導しようとする悪質なアカウントもある。とにかく、死神が出るというだけでは銃撃事件とは結びつかない。

 

「見てみ、投稿場所」

 

 美夜は画面の一部分を指した。そこはGPS機能を利用した、位置情報が載るスペース。少なくともその記載は東京都内となっている。学園島から台場から更にバスで行ける位置。遠くはない。

 

「うーん……。君の気持ちもわかるけど、これだけじゃなぁ」

 

「くそー! いいセン行ったと思ったんだけどなぁ」

 

 美夜が髪をくしゃくしゃとかき乱すのを眺めつつ、だがその推理には少々舌を巻いた。ネットの海から、所謂『捨て垢』のようなものの発した情報を精査したのだ。それだけでも十二分に凄い。

 やはり鈴那を待つしか無いか。エレノアがそう考え始めた頃、詩乃が声を上げた。

 

「待ってください。美夜様の推理、強ち間違いとも言い難いかもしれません」

 

 詩乃がエレノアたちに見せたのは、匿名掲示板のスレッドだった。スレッドタイトルは『死神が出るぞ』──とシンプルなもの。

 その中身は所謂『死神』について語り合い、盛んに更新されていた。

 

『東京都内で犯罪を犯せば、武偵より先に死神が出るな(笑)』

 

『無能武偵より死神のほうがガッツあるだろ』

 

『でも問答無用で銃撃とか危なくね? 俺達も撃たれそう』

 

『武偵も変わんねーだろ(笑)』

 

 エレノアがざっと目を通しただけでも、掲示板内には死神支持派が多く存在することがよくわかった。

 とにかく武偵が信用されていない。確かに、ここ最近は武偵より先に銃撃によって結果的に犯罪を阻止されていた。武偵が銃撃者の後手に回っている、と言わざるを得ない状況なのは明らか。

 しかし、身内がやられたとあっては黙ってもいられない。

 

「詩乃、もう昼休みが終わる。その掲示板、少し張り付いてみて。何かあったら教えて欲しい。鈴那からも情報が来るはずだから、彼女の情報とも擦り合わせてみよう」

 

「はい。では、サイトは引き続き表示しておきます」

 

 チャイムが鳴る。昼休みが終わりを告げ、エレノアらも教室へ向かう。鈴那はどうなっただろうか。ちょっと気にはなるが、彼女もまだ情報は洗えていないだろう。

 もう暫く待つ必要があるかも知れない。

 

 □

 

 放課後。この後は生徒も依頼か、専攻科目の履修かで分かれ始める。中には帰り支度をする不良生徒もいる。

 ぱたぱたと武偵高生が行き交う最中。まさにエレノアはその中にいた。左に右にと行き交う生徒たちをただ見送るのは、鈴那に一因がある。

 彼女が放課後に会おうとアポイントを取ったのだ。美夜や詩乃、立花たちは専攻科目の履修に一足先に向かってしまったのだが、エレノアだけはそうもいかなかった。

 しかし、これで単位を落とそうものならどうしてくれようか。段々と苛立ちが足に現れる。パタパタとつま先を鳴らし、少々眉間にシワも寄って。

 

「確かに待たせたのは謝るが、かのボンド家の娘じゃろうに。あまりイライラしていては父上も嘆くぞ」

 

「君が待たせなければ、私は何も困らなかったんだけどね。鈴那」

 

 ひょい、とエレノアの脇から現れた鮮血を思わせる赤髪は鈴那だ。『やれやれ』と年相応でない仕草とともに、スマートフォンを取り出して操作し始めた。

 

「あの後少し洗ってみたんじゃが、どうもあの子供……。発砲する前の警告として『これは死神からの罰』だとか宣ったそうじゃ」

 

 鈴那が見せたのは、銃撃事件を捉えた防犯カメラ映像を更に解析したものだ。夜のため画像は変わらず不鮮明だが、音声は綺麗に抜き出せたのか、映像に対して違和感を覚えるほど鮮明に聴こえる。

 

『これは、死神からの天罰だ。犯罪者』

 

 エレノアにも、確かにそう聴こえた。刹那に三発の銃声。映像から確認するに、撃ったのは件の犯人だ。余韻もなく、その後直ぐ様悲鳴が響いた。

 

「陶酔してるわね」

 

「かなりな。これを受けて、武偵局側も動くことになった。何しろ自分らの手柄を横取りされてる挙げ句、全て後手に回っているときたからな」

 

 いよいよ武偵局が動く。鈴那が掲示板サイトを開くと、そこにはとてつもない数の犯罪予告があった。

 しかし、それ自体は過去のログからしても別に変わった様子では無さそうだ。

 

「これは全て、武偵の囮じゃ。わしらは少し動いて、品川に向かう」

 

「品川? なんでまた」

 

「そういう指示じゃからな……。ピットバイパーにも、出番はないかのう」

 

 鈴那は少々寂しげに新しく調達したであろうカスタムハンドガンを取り出して呟く。1911ベースのレースガンだろうが、スライド前方に斜めに切ったコンペンセイターが存在するおかげで1911らしいシルエットは薄れている。

 エジェクションポートや肉抜きされたスライドからは金色のバレルが覗く。

 ともかく、鈴那の語り口を紐解くに二人の向かう場所が当たりか外れかは全くの運らしい。スッキリしないが、武偵局が決めたことには逆らえない。

 

「じゃあ、先に現場向かおうか。車乗って、鈴那」

 

「うむ。──そういえば、おぬしの運転はあまり経験したことがないな? 安全運転じゃぞ」

 

「分かってる。人目を惹きたくないから」

 

 エリーゼに二人で乗り込み、学園島を出る。

 夕日に照らされる首都高速を走り、品川へ。一体どうなることやら、エレノアどころか鈴那にもそれは分かっていなかった。

 ただ、いよいよ武偵局も本気を出してきたことは確か。なるべくなら二人の現場が当たりであったほうが、手心も出来るというものだろう。




ちょっと間が長くなりました。
絵描く練習しながらゲーム用のモデルいじりつつ小説はなかなかハードですね(笑)


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028.知らないこと

 品川区へ入ったからといって、まだ事件が起きている訳では無い。

 いつもと変わらない交通の流れに乗り、エレノアはただ車を走らせる。

 

「どこかで適当に車を停めよう。そこのコンビニ、空いていそうじゃな。休憩ついでに駐車場を借りるぞ」

 

「了解」

 

 つい最近もこんなことがあった気がする。エレノアは少々気だるげに、駐車場へ向けてステアリングを切った。

 少し車を停める間に、鈴那が飲料と軽食にサンドイッチを買ってきた。その中から麦茶とたまごサンドを貰い、とにかく事件の手掛かりを待つ。

 今度は武偵の仕掛けた事件だ。一般人の被害者は出ないとはいえ、それはあまりにも賭け。しかし、銃撃事件は学園島からさほど離れていない区域で発生している。犯人が遠くに逃げない限りは、事件が起きるならこの近辺なのだろう。

 

「ふむ……少し車を降りるぞ。辺りを歩いてみよう」

 

「なにか動きがあったの?」

 

「……今のところは何も」

 

 何も無い。鈴那からの答えはあまり芳しいものではなかった。

 無論、事件が起きないことに越したことはないのだが、やはりここまで来て無駄足というのもモヤモヤと心の中に暗雲が立ち込めるような気分になる。

 

「ん……。エレノア、少し外す。ここで待て」

 

 突然、鈴那がエレノアをそう制止した。歩道のど真ん中で。特に何かあるような場所ではないはずだが、鈴那も不必要に冗談を言うような性格ではない。

 突如の別行動に、エレノアも一旦了承した。事件の知らせも入っていない。知らせが入れば、駆け付けるのみ。

 離れていく鈴那の背中を見送って、だが同時に違和感を覚えた。具体的にどんな違和感かはエレノアには形容しようがない。しかし、彼女の中で何かが囁くのだ。

 

『五十鈴鈴那から目を離すな』

 

 そう誰かに囁かれているようだ。そして突き動かされるように、エレノアは足を動かした。鈴那は既に角を曲がって路地に入った。

 どうしてだろう? エレノアは思う。この追跡を、鈴那に気取られてはいけないと考えている。角を出る前に、一瞬覗き込んでから後を追う。

 

「あれ……?」

 

 その先に、よく目立つ赤髪は見えなかった。まるで神隠しにでも遭ったかのように、こつ然と消えた。

 焦らず、短時間で行けそうな場所を探す。更に建物の裏へ折れたか? 一歩足を踏み出した時、パン、と何かが弾けるような音がした。武偵なら瞬時にその音の正体は分かった。

 

「銃声……!」

 

 気づいてから身体に染み付くままにベレッタを引き抜き、スライドを引く。銃声はかなり鮮明に聴こえた。距離は離れていない。音のした方角へ走っていき、その先へ拳銃を構える。

 

「終わったぞ、エレノア。こやつが『死神』じゃ」

 

 銃口の先には鈴那がいた。組み敷いていたのは、一人の少年だ。銃撃事件の犯人はやはり子供だったのか。いや、違和感がエレノアにはあった。

 

「鈴那、そういう割に君は手錠を掛けていないね」

 

 終わった、というにはまだ早い。鈴那ともあろう人物が、犯人に手錠も掛けずにいるのは異常だ。状況終了というには、明らかに早いのだ。

 

「……やれやれ。タイミングの前後ということで誤魔化せるかと思ったが……。すまぬエレノア、事情は後で必ず話す。約束する」

 

「どういうこと……?」

 

「──彼は、逃さねばならない」

 

 鈴那はそう言うと、アンダースローでエレノアへ何かを放った。

 転がってきたそれは、フラッシュバン。刹那エレノアの視界は眩い光に包まれ、聴覚は完全に奪われた。痛みすら感じる程の轟音を受け、完全に戦闘力を失ってしまった。

 悶え、苦しみ、次第に耳鳴りを伴いつつも視覚と聴覚は戻って来る。その頃には、少年もろとも鈴那は姿を消していた。

 ふらつきながら拳銃を取り、辺りを探るがエレノアに鈴那を見つけることは出来なかった。

 

「やられた……。でも、どうして鈴那が?」

 

 エレノアにあったのは、ただひたすらの混乱。なぜ急に犯人に手を貸したのか。事情は何なのか。

 結局事件は起きず、武偵局及び武偵高の一大作戦はそのまま幕を下ろす。

 事件が起きないということは、やはり鈴那が逃がした彼が犯人なのか。それともたまたまか。

 今はともかく、学園島に帰るしかない。この事態を報告すべきなのだろうが、エレノアにはそうするための気持ちの整理ができていなかった。鈴那が何を考えて、犯人を逃がしたのか。それを聞くまで、先輩方に何かあったか訊かれても、エレノアは真実を告げなかった。

 

 □

 

「オイオイオイオイ、そりゃマズいぞエリー」

 

 学園島に着いてから、事のあらましは信用のおける友人にだけ伝えた。美夜は目を真ん丸にして驚いてみせたが。

 

「確かにマズイわ。教務科に知られたら、エリーも鈴那もタダじゃ済まない」

 

 今回は立花も同席だった。先輩である立花としても、今回の状況はやはり楽観出来るものでは到底無かった。

 武偵は少し前の穏健な警察組織などではない。あらゆる手段で人妖問わず捕らえる組織。その中には武偵憲章ギリギリの手段に訴える者もいる。

 武偵の見習いである武偵高生にそこまではしない、と見ることも出来ないのだ。

 

「エレノア様は私がお守りします。元より、そちらが私の本懐。──ですが、鈴那様も裏切るような方ではないはずです。それも、素人の少年に懐柔されるなど……」

 

 詩乃が頭を抱える。鈴那のことは、彼女も彼女なりに見てきた。あの暴力団事務所での第一印象からしても、何かに心を揺さぶられる事はないという考えにしか至らない。

 何かに脅迫されるという弱みも鈴那には無いだろうと詩乃は踏んでいる。もっとも、詩乃の付き合いはほんの一ヶ月かそのくらい。隠された秘密でもあればお手上げだが、少なくとも彼女より付き合いの長い友人たちもその可能性には行き当たっていないようだった。

 

「五十鈴さんについて、何かもっと情報はありませんか?」

 

 今回はあかりたちも話し合いに参加した。その中から、あかりの友人である佐々木志乃が一歩踏み込んでエレノアへ訊ねた。

 

「……ごめん、私にもよくわからない。悪い人じゃないのは確かだけど、鈴那は気付けばどこからか見てるような人だから──」

 

 言い掛けて、エレノアのスマートフォンが振動する。

 鈴那か、と画面を開くと、思った通りの人物の名前が画面に表示されていた。

 場を手で制すると、素早く受話ボタンをタップした。勿論、スピーカー出力で通話を開始する。

 

「鈴那! 今どこ!?」

 

『すまぬが詳細は言えん。逆探知を防ぐために、今いる場所も目的地ではない。だが、あえておぬしらを信用するなら、わしは今大阪へ向かっておる』

 

「大阪……!?」

 

「大阪……」

 

 エレノアのオウム返しに、詩乃がふと呟いた。

 

『今、他に誰かおるか?』

 

「知り合いだけ。バレたら絞られる程度じゃ済まないからね」

 

『そうじゃな。じゃが安心しろ、少年から自白があった。管轄が変わるが、武偵局には必ず連行する』

 

 少年はやはり犯人で間違いなく、そして少なくとも鈴那と一緒にいる。

 

「鈴那様? 詩乃です。一つだけ……お聞かせください」

 

『事と場合によるぞ』

 

 エレノアに代わり電話口に出た詩乃が、鈴那へ一言突き立てた。

 

「貴方を動かしたのは、()()()()()()ではないですか?」

 

 詩乃の言葉に、周囲が固まった。何を言っているのか分からないといった感じで、あかりたちも首を傾げている。

 

『何故そう思った』

 

「大阪です。どうして犯人の護送にわざわざ関東から出て、関西へ向かうのかがわかりませんでした。ですが、もし……私の憶測が正しいのなら辻褄が合う。何故その取引が成立したかは判りませんが、貴方はコインで動いていませんか?」

 

 ますます周囲が混乱していく。コインとは何か? 誰もついて行けていなかった。

 

『敵わんな。博識な奴め。だが、今は何も言わぬ。また電話する』

 

 あまりに一方的な終話に、なんともしがたい重たい空気が辺りを包んだ。

 結局、鈴那は詩乃の追及を認めたのか? 端から聞けば、否定も肯定もない──否、肯定に寄った無回答とも言えるものだった。

 

「詩乃、コインって?」

 

 エレノアが問う。何しろ着信を受けた本人もついていけていないのだ。知る権利はある。

 

「『教会』が吸血鬼専門の暗殺組織なら、人にも。暗殺者が利用するホテルがあります。とはいえ、とうに、存在しない……」

 

「結局なんなんだよ? アイツは武偵として仕事するのか?」

 

 苛立ちを顕にライカが声を上げる。

 その言葉には、詩乃も頷いた。

 

「あの方は暗殺者ではありません。となれば、電話の通りでしょう。大阪の武偵局に犯人は送られるはず」

 

「その前に武偵局にバレたら?」

 

 美夜が訊ねるが、答えを待つまでもない。身内にバレれば、武偵三倍刑の掟で少なくとも長期懲役は免れない。

 

「……明日。明日、大阪に向かう。私は少し探しものがあるから、今日は解散」

 

「ハァ!? おい、エリー! 待てって! おい!」

 

 美夜の制止も振り切って、エレノアは友人たちの輪から離れた。

 校舎を出て、空を見上げる。今の彼女には、友人たちは巻き込めない。しかし、彼女には力もない。また鈴那に言い逃れされては困る。

 鈴那を知るためにも、エレノアは彼女に今回ばかりは勝らなければならなかった。しかし、どうやってか。それは、先日会ったワトソンが手掛かりをくれていた。

 

「ジェームズの隠し装備……。もし、それが見つかれば」

 

 今エレノアが持つものは、修復中のヴァンテージを除けば装備科製の007コピー装備しかない。もし、本当にMI6の秘密装備が彼女に残されているなら、使い方次第で助けになるに違いない。鈴那にも、一泡吹かせられる。

 先輩や教務科に突っ込まれないためにも、彼女の所在を突き止めなければ。

 ──しかし、問題はその装備の場所だった。

 

「はぁ……。どこにあるのよ、そんなもの」

 

 隠し場所はノーヒントの筈だ。少なくともエレノアは知らないし、知る人間もいないはずだ。こればかりは倉庫番をしていた杠ミサキも知らないだろう。

 ため息をつくと、カラスがカァと馬鹿にするようにひとつ鳴いた。少々虚しい時間が過ぎていく。

 

「おぉい、ボンド! やっと出てきた」

 

 校門でエレノアに手を振り、車輌科の紺田が駆け寄ってくる。右手に一枚の紙切れを持っているのが目に入る。

 

「お前のヴァンテージ弄ってるとき、グローブボックスで見つかったんだ。しっかり読んだわけじゃないけど、流し見た感じ大事な手紙っぽかったからな……。持ってきたぞ、ホラ」

 

 紺田から差し出された手紙を受け取るエレノア。思えば、この手紙からすべてが変わった気がした。

 今まで冗談半分だと思っていたものが、全て事実に変わった。この手紙からだ。

 

「そうだ……! 紺田先輩、ワルサーは?」

 

「あぁ、車輌科のガレージに置いてあるよ。内装もやり直すし、置いとくわけにいかなくてな」

 

「後で取りに行きます。すみません、また後で!」

 

 呆気に取られる紺田を余所に、エレノアは手紙を開いた。文章が変わるわけもないが、今思えばこの手紙には不可解な事が書いてあった。

 

『君にこの車を。だがもし、君が楽園の戦士を求めるのなら、自分の足下を一度見てみることだ。自分とは、この先も会うことはない。それが君の幸せだと考えた。君は君として、一人の人間、武偵として生きるんだ。ミサキが加減を間違えて、君に怪我をさせていないことを祈る。親愛なるエレノアへ、ジェームズより愛を込めて』

 

 改めて読む手紙の内容に変わりはやはり無く、父から娘への普通のメッセージに見える。

 しかし、明らかに関係のない事が記されているのだ。動揺が強かったあの時には気付かなかったが。

 

「『楽園の戦士』……『足下』──」

 

 その表現に違和感を抱いた。ただのメッセージにそんな物は必要無いし、何より、かのジェームズ・ボンドらしくない。

 足下と言われて下を見るが、見慣れた埋立地のアスファルトがエレノアを見つめ返すだけだ。

 

「あの場所に、何かあるんじゃないかい?」

 

「っ……!?」

 

 不意に声を掛けられて、エレノアは思わず身体を縮こまらせた。

 背後にはワトソンがいる。手紙を読んだわけではなさそうだが、彼女にはどうも誤魔化す手は通用しない感じがある。

 

「あの場所って、まさか──」

 

「キミの父君が残した、あの場所さ」

 

 ワトソンの言わんとする事はわかった。考える必要もないくらい、エレノアの記憶にもはっきりと刻まれている。

 

「江東区の倉庫……」

 

 何年も見張りを付けて守らせていた倉庫に置かれていた手紙だ。ジェームズ自身、手紙はそこで見つけられることを前提として記したに違いない。ならば、今は空のはずの倉庫にまだ何かあるのか。

 

「行くなら、ボクも行くよ」

 

「でも、実際に何かあると決まったわけじゃ……」

 

「きっと、あの人は何かを残してる。意味のない事は記さないさ」

 

 ワトソンの自信はどこから来ているのか。エレノアには知る由もないが、少しでも手掛かりがあるなら足踏みしている場合でもない。

 学園島を2台の外国製スポーツカーが飛び出していく。目的地は江東区の倉庫。手紙の通りの手掛かりとはエレノアには思えなかったが、今縋ることが出来るのもまた、その手紙しかなかった。




久し振りに上がりましたが、急に激動になりましたね。
次回をお楽しみに……!
なるべく早くお届けできればと思います。


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029.遺された物

 江東区某所。エレノアとワトソンは、巨大な二十六番倉庫を前にしていた。

 ここから、エレノアはただの姓名ではない『血脈』としてのボンドを背負うことになった。エレノアが望むまいと、ジェームズが望むまいと。征く道は違えど、結局エレノアはボンドの血族。イギリスが誇る最高のエージェント、ジェームズ・ボンドの実子なのだ。

 そうした場所だからか、エレノアにはこの倉庫から数倍のサイズ感にも感じる圧を感じていた。

 

「鍵はあるかい?」

 

 ワトソンは、あくまでも平静だ。名家ワトソンの血を引くものとして、ここはあくまでも見守る立場であるらしかった。

 幸い、エレノアはこの倉庫の鍵は肌身離さず持っていた。倉庫の所有者は、彼女の知らぬ間にエレノアへと移されていたのだ。完全に購入されたスペース故、利用料金は発生していないが、定期的な支払いはあった。

 所有者らしく鍵を取り出し、シャッターを開ける。電気が点くと、そこにはヴァンテージが消えたあとの、空になった倉庫しかなかった。

 やはり、何も無い。エレノアは少々焦れ始める。こうしている間にも、鈴那へ捜査の手が及ぶはず。そう簡単に捕まる彼女ではないだろうが、もたもたと時間も掛けられない。

 

「もう、一体どこにジェームズの装備が──」

 

 倉庫に踏み入ったエレノア。ヴァンテージが置かれていた辺りに足を置くと、その部分の足音が違う事に気づいた。

 勿論、ワトソンもすぐに反応を見せる。

 

「妙な響きがあるね。普通この下に音が響くような要素はないはず……」

 

 足音に妙な響きがある。コンクリートのように見えるが、コツン、コツンとらしくなく軽い音がする。明らかに普通の床ではないようだった。

 それも、ヴァンテージのあった下の床だけが、その音を発するのだ。

 

「……なるほど。ヴァンテージに乗り込むだけなら気付かない。クルマが邪魔で、そこに足を置くことはないからな。ボンド、手紙にもあったんじゃないかい?」

 

「“楽園の戦士を求めるなら、足下を見ろ”……。まさか、本当にそのままってこと!?」

 

 明らかな異変はそこだけ。ジェームズが『ヴァンテージに乗った状態のエレノアへ手紙を書いた』とまで見越しているなら、つまりはそのまま『ヴァンテージの下を見ろ』ということだろう。

 自分は父親に見くびられているのか、と思わず憤慨しかけて、何年も彼の謎解きを解けていなかったことを思い出して、思わず目を覆った。

 

「この床を開ける方法は? 書いていないのかい?」

 

「流石にそれは……」

 

 手紙にはあくまでも場所のヒントしかなかった。開ける方法は見当たらない。

 ヴァンテージを戻せば開くのか? いや、それならば倉庫の電源が入った時に床は開いていたはずだ。そうであれば、音や異変で気付く。

 

「手詰まりかな……」

 

 壁などに隠しボタンなどがないか、ワトソンと隈なく探すもそんなものはどこにもない。完全に詰みだった。

 時間がない。焦燥感がより強くなっていく。

 

「ダメだ、奥にも装置らしいモノはない。何か、キミにしか無いものがあるはずだ。ボンド、よく考えるんだ」

 

「そんなこと言われたって──」

 

 わかるわけがない。そう言いかけて、ワトソンの言葉に一つの引っ掛かりを覚える。

 エレノアにしかないもの。血? いや、ダークファンタジー小説じゃあるまいに、諜報員のジェームズがそんなものを捧げろとは言わないはずだ。

 倉庫を見渡してふと、ベレッタが置かれていたガンラックが気になった。壁や床にも何も無い。しかし、ヒントはこの倉庫以外を指しているともいえない。ならば、ダークファンタジーではなく、推理モノならどうだ。隠し部屋への入口があるとするなら──仕掛けがあるなら、ガンラックじゃないか?

 エレノアはベレッタをガンラックに戻してみるが、何も起きない。それも当然だ。ベレッタが鍵なら、最初から隠し部屋は開いていたはずだ。

 ガンラックからベレッタを下ろし、良く調べてみる。フックにピストルを乗せる形のラックだが、何かある。

 エレノアが注目すると、それはセンサーのようにも見えた。手をかざす、もう一度ピストルを戻す。そのどれも意味はなかったが。

 

「ボンド。そのセンサー、上に何か刻まれてる」

 

 ワトソンに視線を導かれ、刻まれたマークに目を凝らす。それを見た時、エレノアの中で謎が全て解けたといっても過言ではなかった。

 

「このマーク、私のワルサーに刻まれているマークと同じです。『私にしか無いもの』──父譲りのワルサー!」

 

 美夜たちにも何度かつつかれたことがある。彼女のP99に刻まれた、謎の刻印について。

 

「これは……小さくて判別が難しいが、MI6の刻印に見える。もしかするとアタリだぞ、ボンド!」

 

「学園島に戻りましょう! 拳銃は車輌科にあるんです!」

 

 □

 

 ワルサーを取りに戻り、再び倉庫へ。

 ワトソンも心做しか緊張しているようだが、エレノアはゆっくりとガンラックにワルサーを掛けた。

 暫く機械音が鳴ると、ガンラックから女の声が流れる。

 

『刻印を確認。ゲートを開放します』

 

 正解だ。エレノアが後ろにいるワトソンへ振り返る。

 二人して思わずテンションを上げてしまった。しかし、少しして開きかけたゲートが停止する。

 

『ゲート上に重量物を確認。ゲート開放を中断します』

 

 何らかのセンサーがゲート開放を止めてしまったらしい。エレノアはゲートの上にいない。つまり、残るはワトソンだが──

 

「ボ、ボクはそんなに重くないぞ!?」

 

「重量センサーですよ! ワトソン先輩、下がって!」

 

「ハッ……! そ、そうだよな! ボクとしたことが、そそっかしい!」

 

 慌てたようにゲートから退くワトソン。ゆっくりと、だが静かにゲートは開いていく。

 中から現れたのは、一本の階段だった。倉庫の電源が入っているからなのか、中が暗闇ということはなかった。

 ゲートが開き切るのを確認すると、二人で一度顔を見合わせて頷いた。エレノアを先頭に、一段また一段と階段を降る。ジェームズがこの階段に資金をどれだけを費やしたのかは分からないが、倉庫からでは終点を確認できなかった。二人も五分ほど階段を降り続け、ようやく機械式のゲートが立ちはだかったのを確認したところだ。

 

「随分降りてきたが、また扉か。電源が来てないのか?」

 

 扉は開かない。ワトソンが周囲を見渡すが、それらしいパネルがあるわけでもなかった。

 

「……うーん」

 

 エレノアは唸りつつ、扉に触れる。すると、電子音と共にロックの外れる音がした。

 とうとう扉が開いた。ごう、とその先の空間に籠っていた風が二人になだれ込む。

 

「掌紋認証……? ここでか……?」

 

「でも私、ジェームズにはあったこともないですし……」

 

 ジェームズに会ったことはない。掌紋など取れるはずがない──と、一瞬は思った。しかし、一箇所だけ思い当たる場所があった。

 

「孤児院……」

 

 エレノアの育った孤児院。院長は彼女の事情を、少なくとも知っているようだった。だからこそ、入金される金の使い方も、孤児院から旅立つ時の物資もエレノアに語られ、そして渡されたのだろう。

 つまり、院長がジェームズからの依頼で、幼少期のエレノアからデータを取った可能性があった。当時は彼女も幼かったから、検査の名目なら疑いもしなかった。実際、検査など何十回も孤児院の友人と共に受けた。どれがここの封印に関わっているかは、最早知りようがない。

 

「──ボンド、これはスゴいぞ。ボクの想像の遥か上を行く中身だ」

 

 扉の向こうは、また大きな部屋になっていた。それも、倉庫とは比べ物にならないほど近代的で広い。

 白一色の味気ない空間だが、自動車が確認できるだけで七台、バイクが一台存在する。カバーが掛かった一台とバイク以外、全てアストンマーティンと確認出来た。

 

「凄い……。2009年式DBS──多分色はクァンタムシルバー」

 

 車を見て回るエレノア。一台はすぐにでも動かせそうだった。それが彼女の見つめる、グレイッシュシルバーとも言える専用色『クァンタムシルバー』に身を包んだDBSだった。

 内装を見るが、劣化も全く無い。ブラックインテリアに、マニュアルギアボックス用のシフトノブも見て取れた。

 

「こっちも素晴らしいよ、ボンド。2001年式V12ヴァンキッシュだ──内装の兵器類のスイッチも生きてるように見える」

 

 シルバーの車体は変わらないが、色味は違う。DBSと比べると少しずんぐりした大きさだが、全体的な細かいデザインはDBSへ確かなフィードバックを感じさせる車体。それがV12ヴァンキッシュという、世界で最も有名なボンドカーの一台といえるマシンだった。

 

「楽園の戦士──そういう意味だったのね」

 

 エレノアの目の前に、二台の車が並んでいる。そのどちらも全高は異常に低く、比較的低い部類に入るDBSよりも更に低い。全体的に平べったいが、各部に無駄がない。空気の取り込み、排出、利用。その機能をフル活用するための車体。

 余分な物はなく、何一つ飾らないながら一目でアストンマーティンと判る流麗なデザイン。

 二台は兄弟車であり、『空力の鬼才』と異名を取る天才デザイナー、エイドリアン・ニューウェイがデザインした、アストンマーティン最強のモデル。

 

「ヴァルキリーに、ヴァルハラ……。こんなものまで」

 

「DB10に、DBXもあるよ。ジェームズはとんでもない物を残していたんだね。──そこのカバーには何が?」

 

 ここのモデルだけでも日本円にして20億円以上の価値がある。しかし、まだカバーを被った車が一台あるのだ。

 エレノアにはなんとなく予測がつく。しかし、鼓動はより高鳴っていく。ワトソンと二人、左右前方からカバーを捲っていった。

 

「コレは……とんでもないぞ」

 

 現れたフロントマスクを見て、ワトソンが目を丸くした。カバーを取り切り、エレノアさえその場に固まった。

 明らかなノスタルジックシルエット。低さはないが、メーカー独自の美しさが見て取れる。シルバーの車体、高扁平のタイヤに錆び付いたワイヤーホイール。一部欠損があり、車体はジャッキで上げられた状態で置かれていた。

 

「DB5……。ジェームズの、愛車」

 

 その価値は1963年生まれながら、今の時代まで新車同様(ミントコンディション)ならば一億円にすら届くと言われた、『世界一有名な劇中車』──その名は、アストンマーティンDB5。自走できる状態には見えないが、それでもそこに佇むDB5には有無を言わさぬオーラと美しさがあった。

 リアには仕舞い切られずに残された防弾プレートが、トランクフードから立ち上がったまま放置されている。

 つまり、これも本物のボンドカー。内部を開ければ、その装備はもっと出てくるはずだ。

 

「これが、エレノア・ボンドに遺された装備か……。ん……?」

 

 エレノアには時間がない。DBSで大阪へ向け出発をしようとする彼女の傍ら、ワトソンはDB5の車内にタブレットを見つけた。電源を入れ、内容を確認すると、秘密通路に車を向けたエレノアへタブレットを放った。

 

「ボンド! キミ宛だ!」

 

「え!? おっと……!」

 

 タブレットを胸元でキャッチし、画面を開く。PINコードが求められたが、試しに入力した誕生日で突破。すると、画面には『航空券の予約完了』の表示。

 

「航空券……? とにかく、行かないと! ワトソン先輩、車輌科と装備科にこのクルマたちを回収させてください」

 

「いいのかい? きっと、彼らは興味本位に分解するよ」

 

「大丈夫です。これは、もう私のですから」

 

 サムズアップをワトソンへ見せると、エレノアはDBSに乗り込んだ。専用のキーをセンターコンソールに挿入し、押し込む。調子の良いセルモーターの音と共に、長いボンネットフードの中に収まったV12エンジンに火が入る。

 

「ガソリンはほぼ無しか。途中で入れるまでは、アクセル踏めないわね」

 

 フューエルゲージはほぼ、エンプティを指している。バックミラーでワトソンを見遣り、エレノアはゆっくりと倉庫地下の秘密通路を走り抜け、外へと抜け出した。

 車の調子はかなり良い方だ。ガソリンを入れればもっとアクセルを開けられる。

 大阪への道のりは遠いが、エレノアは鈴那の元へ急ぐ。その目的だけは、あれだけの宝の山を見ても変わっていない。




今回は、大阪へ出発前の新車大量登場回です。
DB5をはじめとして、様々なアストンマーティンが登場します。

DBSは慰めの報酬で登場した、クァンタムシルバーの個体です。
あの時の劇中車はダニエル・クレイグ氏が撮影時、マニュアル免許をお持ちでなかったようでマニュアル風のオートマだったようですね。
すぐに壊れてしまった個体ですが、DB9からのDBシリーズでは一番スポーティーで好きです。
ちなみに、カジノ・ロワイヤルのDBSはカジノアイスという専用色だそうです。

ヴァルハラはノー・タイム・トゥ・ダイに一瞬登場したことで、ちょっとだけ有名になりましたね。
DBXは007に登場したことないんですが、PS2版ソフト、エブリシングオアナッシングのポルシェカイエンのオマージュです。SUV枠だけポルシェなのもおかしいですし。

次はいつになるか、確約ができません。
気長にお待ちいただければと思います。DBSをかっ飛ばすエレノアちゃんは早く書きたいです。


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