北郷英雄譚(旧題:七天の御使い†一刀譚) (にゃあたいぷ。)
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第一話.占い

 揚州九江郡、寿春。

 郡の名称に江という文字が使われている通り、淮水*1に接する土地で交易の要所として知られている。そして此処、寿春には、少し離れた場所には港があり、今は多くの商業船が停泊していた。

 その城壁で私は夜空を見上げている。

 此処から見る空は綺麗だった。星々は今にも零れ落ちてきそうな程にくっきりと浮かんでおり、手を伸ばせば届いてしまいそうだった。まんまるの満月を眺めながら呷る酒は格別で、酒と肴がとてもよく捗った。今日も頑張った私に乾杯! と盃を夜空高くに掲げて、注いだ酒を一息に飲み干した。そして万感の意と共に酒気を帯びた吐息を吐き出す。

 この一杯の為に生きているんだ、と感極まる思いで、もう一杯と盃に酒を注いだ。

 

梨晏(りあん)、あまり飲み過ぎはいけませんよ?」

 

 ふと後ろから穏やかな声色で話しかけられる。

 真っ白な髪に青白い肌、もこもこに衣服を全身に着込んでいながらコホッと咳を零した。

 私の真名を呼ぶ、彼女こそが揚州刺史の劉耀。字は正礼、真名は喜媚(きび)と云う。

 

「貴方は我が陣営の要なのですから」

 

 言いながらストンと私の隣に腰を下ろした。

 コホッと乾いた咳を零す彼女に「それは買い被りだよ」と寄り添うように身を寄せる。

 手を重ねる、冷たい。

 その手は血ではなく、水が通っているのではないかと思うほどだった。

 

「……相変わらず、貴方の体は温かいですねえ」

「いやいや、たぶん、喜媚が冷たすぎるんだよ」

「貴方は私にとっての篝火のような存在です」

 

 呟きながら真摯に私のことを見つめてくる中秋に、重過ぎるなあ、と思いながら頰を掻いた。

 今の御時世、何処も彼処も賊徒で溢れかえっている。それは誰かが扇動したという話ではなく、度重なる災害で大陸全土の民草を賄えるだけの物資が足りていないという意味だ。その為に民草は自分の食い扶持を確保するには他所から奪うしかないという状況に陥っている。略奪に次ぐ略奪で大陸全土の生産力が落ちているから、その結果、更に少なくなった食い扶持を残った者達で奪い合うというのが今の漢王朝だ。

 うん、終わってるね。漢王朝、閉店間近だね。

 そして揚州刺史を務める喜媚は人柄が良いだけの凡庸な人間だ。民草が飢えないように試行錯誤を繰り返しているが、その政策は対症療法が多く、根本的な解決に繋がるものがほとんどなかった。他所にいる呉太守の孫堅の評判が良いことから人望も失いつつあった。そのことを喜媚本人も自覚している。喜媚を見限った役人共が出奔し、孫堅の下に集いつつある。

 冷静に考えれば、それも致し方ない話だとは分かっている。

 揚州には山越と呼ばれる異民族が存在しているのだが、揚州の刺史と太守は山越相手にてこずって討伐をできずに居たのだ。そこに颯爽と現れたのが新たに呉郡太守として任命された孫堅であり、彼女達はいとも容易く山越を追い払ってしまった。この一件で揚州における孫堅の名声はうなぎ登りとなり、揚州にいる人材はこぞって孫堅を頼るようになった。

 それに孫堅はかつて会稽郡で起きた叛乱を鎮圧し、一度、揚州を平定したことがある実力の持ち主だ。

 権力闘争によって各地を転戦させられてきた揚州の英傑が、この土地に戻り、その直後に民衆の期待に応える戦果を挙げたのだから人気が出ないはずがなかった。

 おかげで揚州は、何処も彼処も孫堅の噂で持ちきりだ。

 

「……貴方には呉郡の郡境に向かって貰おうと思っています」

「どうして?」

「そうした方が良い、と。占いの結果が出ましたので」

 

 喜媚は儚げに笑ってみせる。

 彼女は追い詰められていた。隣に来た孫堅と比べられることが増えた彼女は次第に陰口を叩かれるようになり、元より弱かった体は心労によって日に日に衰えるようになっている。それこそ占いなんかに頼ってしまう程にだ。私には政務がよく分からない、少なくとも現状を打開するような手は思い付かない。あくまでも私の本質は武官であり、戦うことでしか彼女の力になれないことを重々に承知していた。だからといって占いに頼るというのも――いや、首を横に振る。

 喜媚のやつれた姿を見て、しっかりと頷き返した。

 

「絶対に何かを掴んでくるよ」

 

 そう自らの胸を叩いて応える。しかし喜媚は首を横に振った。

 

「いえ、貴方の無事が第一です。絶対と約束するのであれば、貴方が帰ってくることに誓ってください」

「……うん、分かったよ。絶対に帰ってくる」

 

 喜媚の冷たい手を両手に取って、強く頷き返した。

 にへら、と笑う彼女の表情は今すぐにでも消えてしまいそうに儚く感じられた。

 

 

 姓は太史、名は慈。字は子義。真名は梨晏(りあん)

 戦と知れば、滾る性質を持っていることから自分の本質は武官だと自覚しているが、かつては官吏を務めていた経験もあることから文官として働けなくもない。戦を行うには政という下地があってと気付いてから学んだだけに過ぎないので、得意と自負する程ではない。事実、政務をするのが嫌なので喜媚(劉耀)の下では武官という立場を取らせて貰っている。

 そういう事情もあって、数日程度の遠出は痛手にならない。

 近頃は喜媚(きび)が拠点に据える寿春近辺の賊を討伐する為に動き回っていたこともあり、槍や剣を振るうには困らなかったが遠駆けするのは久し振りだ。今まで溜まっていた鬱憤を晴らすかの如く夜道を駆け抜ける。中秋は気前が良く、私には淮南郡でも随一と称される駿馬を誂えてくれたこともあり、相棒に駆けさせるのは気分が良かった。彼女がいうには、九江郡で最も優れた将には最も優れた装備と馬が必要、とのことだ。

 喜媚は私の体は温かいといつも言う。そのせいなのかは分からないが、夜風が気持ち良かった。

 

 そうして駆け続けること半刻、

 その道中に淮南郡と呉郡の境を遠駆けしていると夜空に巨大な流れ星が飛来した。

 それは二つあり、一つは呉郡にある城塞都市の中に、もう一つは近場の草原近くに落ちる。

 あそこは微妙に淮南郡の内側か、とりあえず行ってみよー! と意気揚々に馬を駆けさせた。

 

 現場に来た、そして見た。故に勝った。

 孫堅軍の誰かしらが様子を見に来るとは思ったが、現場には今、私一人しかいない。ああ、そういえば、先程の流れ星は呉郡にも落ちていたか。その対応に追われているのかも知れない。

 ともあれ、今は目の前にある不思議物体をどうするか考えるべきか。

 流れ星の落下地点には、球体状に光を放っている何かが落ちていた。それは光る繭のようなもので覆われているようにも見える。さて、これは触れても大丈夫な物なのだろうか。それとも剣を突いて様子を伺うべきか。いやはや、しかし、いくら揚州の夜空が綺麗だからといって、本当に星が零れ落ちてくるとは思いもしなかった。夜空に浮かぶ星々は丁度、今、目の前にある光球程に大きいのだろうか。それとも、もっと大きいのだろうか。なるほど、遠い。手を伸ばした程度では届かない訳だ。

 そんなことを思いながら、くつくつと肩を揺らしていると少し離れた場所からパカラと馬の駆ける音がした。

 

「何奴!?」

 

 その言葉に無言で偃月刀を構えた。

 

「それはこっちの台詞なんだけどねー? 私は揚州刺史、劉耀配下の太史慈だよ。流れ星の調査に遣わされた」

 

 弓を構えた褐色女はチッと舌打ちを零す。

 

「九江の土地で何をしてくれているのかな? 場合によっては……」

「いや、事を構えるつもりはない。命を受けておってな、そこの白く光っているものを回収しに来た」

「残念。それ、私も持って帰ろうって思ってたんだよ。命を受けているからね」

 

 構えた弓を外す相手に、偃月刀を握り締め直した。

 

「名乗りなよ、それとも身分も開かせぬ卑しい身の上なのかな?」

「私は孫堅殿の名代の下に……」

「それなら黄蓋だね、知ってるよ。なら尚更のこと帰ってよ。此処は劉耀様の庭だし? 太守は刺史の言うことを聞くものでしょ」

 

 星の前に立ち、彼女を睨みつける。

 例え彼女の弓が揚州一と呼ばれるものだとしても、正対してのこの距離なら叩き落とせる自信がある。

 むう、と黄蓋は唸るように俯き、私から距離と取った。

 

「仕方ない、ここは譲るとしよう」

「仕方ないもなにも譲って当然なんだけどね? まあいいよ、今回の件は目を瞑っといてあげる」

 

 手綱を握り、ハアッという掛け声と共に黄蓋は駆け去っていった。

 ふうっと息を零す。こちらとしても揚州一の軍勢を持つ孫堅と事を構えるつもりはなく、落とし所を探っていたので助かった。これが孫堅本人とかだったりしたらこうは上手く行かなかったはずだ。

 彼女らについてはさておき、背後で未だ輝きを放つ白い光球に目を向ける。

 これをどうやって持ち帰ろうか、そう思案していると「あれ?」と急に強い光を発し始めた光球にひやりとした汗を感じた。弾けるように光は霧散し、とりあえず自身の体に悪影響がないことを確認した後、その光球があった場所を見やる。

 そこには一人の男の子が倒れていた。

 

「あれ〜? もしかしてアレが天の御使いって奴?」

 

 それは可愛らしい顔をした少年だった。

 物珍しい衣服を着ているようだが、しかし見た目があまりにも凡庸過ぎた。天の御使いという程だから霊獣辺りを想像していたし、もし仮に人の形をしていたとしても仙人のようなものだと思った。いやでも仙人は不老長寿の術を持っているから若い姿で居続けられるかも知れない。ん〜、と額に人差し指を当てながら悩んだ後、よし分かんない! とペシッと御茶目に頭を叩き、とりあえず彼を持って帰ることに決めた。

 肩に抱えていざ行かん、寿春、つまり喜媚の下へと馬を駆けさせた。

 

 

*1
河の名称、現代では淮河。長江、黄河に次ぐ三番目の大河のこと。




雪蓮リテイクとがっつり絡む時間軸。
あ、別に片方読まなかったら面白くないとか、そういうことはないと思います。

喜媚→羈縻→羈→羈絆 ←絆←Lien←梨晏


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第二話.天の御使い

 俺の名前は北郷一刀。聖フランチェスカ学園に在学する極一般的な男子生徒だ。

 ちょっと他と違う点があるとすれば、実家が剣術道場を営んでいるってことかな。

 問題なのは直近の記憶が曖昧な点だ。そして付け加えるならば、此処がどこなのか分からない。

 

 見慣れぬ天井、いや、本当に見慣れない。

 何処だよ、此処。見渡す限りでは古代日本、いや、中華風といったところか。

 精巧に出来ているなあ、と現実逃避染みた思いを抱いてみる。

 いや、本当に何処だよ、此処。

 

 誘拐されたという可能性も考えたが、それにしては良い部屋をしているし、拘束しているという感じでもない。

 むしろ部屋の調度品なんかを見る限り、丁重な扱いを受けていることがわかった。少なくとも自分が誘拐するとして、誘拐した相手を閉じ込めておく部屋に飾りや生け花を用意したりはしない。尤も元から用意してあった部屋を活用したということであれば、それも考えられるだろうが――いや、しかし、そんな丁重な扱いを受ける家に生まれた訳ではない。そして自分が女であれば、まだしも男である。誘拐の線は薄いという結論を導き出したが、しかし一抹の不安が残る。

 とりあえずベッドから這い出る。すると自分が制服を着たまま寝ていることに気付き、うわっと思わず声を上げてしまった。

 なんとなしに気持ち悪い。パジャマに着替えてから寝ることが当たり前になっている人生で、その日に着た衣服のままで寝るというのは、なんとなしに気持ち悪かった。まあ寝ている内に着替えさせられているというのも、それはそれで気持ち悪い。どちらにしても気持ち悪いのであれば、先ずは自分が囚われているのかどうか確認しようと思って部屋の手を掛ける。

 鍵は掛けられておらず、扉は簡単に開いた。

 

「あっ」

「ん?」

 

 その先には白髪の美少女が居た。少しの間、見つめ合った後に「こふっ」と少女は血を吐いた。

 

「大丈夫ですか!?」

「……うー、大丈夫、大丈夫。いつものことですので……」

 

 少女は何事もなかったかのようにハンカチで口元を拭い取った。

 そして振袖から薬包紙を取り出すと薬らしき白い粉を口に含むと、更に懐から竹の水筒を取り出して水と一緒に飲み干した。たぶん水だと思う。うー不味い、と少女は爽やかに笑ってみせると、もう一杯、と薬包紙をもうひと袋、取り出してみせる。

 いやいや、それはやめておきましょうよ。と思わず止めてしまった。

 

「……えー、まだ若干、体調が悪いのに?」

「飲んだばかりで体調が改善するものでもないでしょう」

 

 こういうのはある程度、時間が経たなければ効果が現れない。医療とはそういうものだ。

「そういうものなの?」と首を傾げる白髪の少女に「そういうものです」と丁重に返した。

 

「でも華佗君の時は、元気になれ! で一発でしたよ?」

 

 なにそれ怖い。

 身振り手振りで教えてくれる少女の話を聞くと、その少年は本当に氣を叩きつけることで病気を治しているようだ。

 現代医学に対する挑戦状かな?

 

「慢性的な虚弱体質までは治せなかったようで体調が悪くなった時用の薬を頂いています」

「体調が悪くなった時?」

「全身の倦怠感や関節痛、眩暈、ふらつきが起きた時に飲むように言われているのですが……」

 

 ふうっと溜息を零してから続きを口にする。

 

「……そんなのだと毎時、毎分で飲まなきゃならないので、吐血の時に飲むようにしています」

「いや、おかしくないかな!?」

「薬だって安くはないんですよ? これは砂金を飲むに等しい所業――民草の血税で賄っている以上、節約はしなくてはなりません」

 

 さておき、と少女は部屋に上がり込むと中にある椅子に腰を下ろす。

 そしてまた、ふうっと溜息を零してから俺に向き直る。

 

「どうぞ、天の御使い様。私は揚州刺史の劉耀、字は正礼と申します」

「てんの……え? りゅう……よう? あざな?」

「ああ、天から来た身であれば、この地のことも知らないのも当然といえば当然の話ですね」

 

 とりあえず腰を掛けてください、と促されるまま、部屋に備え付けてあった椅子に座った。

 さて、と少女は語り始める。この世界が後漢末期と呼ばれる時代であり、現代日本においても有名な三国志と呼ばれる時代の一歩手前にある。劉耀という名前は知らないが、劉備の名前なら知っている。その名を出すと首を傾げられたので、この時はまだ筵でも織っているのだと思った。お隣を統治する呉郡太守、孫堅の名は知っている。曹操はまだ有名ではないようだ。

 話を聞けば、聞くほどに信じられない話。しかし目の前に座る病弱の少女が嘘を吐いているようにも思えなかった。

 悪い顔色に蘭と輝かせる瞳、なんというべきだろうか。その熱を込めた視線は異性に対する――それとは違って、憧れでもなく、そうだ。部活の先輩が後輩から受ける期待と似ていた。ただ重みが桁違いだ。なんというか人生が壊れるほどの債務者が、これしかないと縋るような重圧を感じられる。

 そして、その期待の真意は先ほど聞いた天の御使いという言葉にあった。

 

「黒天を切り裂いて、天より飛来する一筋の流星。その流星は天の御使いを乗せ、乱世を鎮静す。管輅」

 

 詩の最後に、みつを、と付けるのと同じノリで、管輅、と付け加えた劉耀はキラキラと輝く瞳で俺のことを見つめる。

 

「貴方様が淮南郡と呉郡の境に天より流れ落ちてきたのです」

「天って、空から?」

「はい、頭上高く、星空を駆け抜ける流れ星が地上に落ちたのを誰もが見ました」

 

 いまいち信じられるような話ではない、だが彼女が嘘を言っているようにも思えない。

 仮に空から流星が落ちたとしても、俺がその天の御使いだとは思えなかった。なんせ俺は極一般的な学生だ、少し歴史が得意なだけの生徒だ。二次創作でよくあるなんちゃって常識人でもなければ、「俺、またやっちゃいましたか?」とイキっちゃうようなチートもない。そもそも神様のような存在と会った記憶もない、唐突にトラックに轢かれた訳でもない。

 本当に、気が付けば、ここに居た。それだけの人間だ。

 

「あの〜……」

 

 とりあえず誤解を解かなくては、と思って話し掛ける。

 

「はい、なんでしょう」

 

 と星空のように目を輝かせながら問い返してくる。

 なんだろう、これ。凄く切り出し難い、まるでサンタクロースを信じるお子さまに真実を伝える時と同じくらいに伝え難い。

 しかし今、真実を伝えなければ、どツボに嵌るのは目に見えている。

 意を決して、苦虫を噛み潰す思いで伝える。

 

「俺、期待されているような存在じゃないと思いますよ?」

「……え?」

「仮に天から落ちてきたのが本当だとしても、俺、そこまで特別な存在ではありません」

「またまた〜、太公望の書物を預かったりとかしているんでしょう?」

「ないです」

「……いや、謙遜しているだけで貴方自身が太公望だったりとか? あ、仙術とか天の国では常識だったりとか?」

「いえ、使えません。普通の極一般的な男子生徒です。少なくとも周りよりも特別に秀でた能力とかはありませんでしたよ?」

「ほんとに?」

「ほんとにほんとに」

「ほんとにほんとにほんとに?」

 

 力強く頷き返す。すると劉耀は固まり、数秒後、ゴフッと血を吐いて床に倒れた。

 

「メディーック!?」

「どうしたの!? って、喜媚(きび)ッ!? 君、何をしたのさッ!!」

「何もしてない! 俺は無実だ!!」

「皆、最初はそう言うんだよねーッ!!」

「どうしろって言うんだー!?」

 

 その後、偃月刀を構える相手に何も抵抗もできないまま、胸のでかいお姉さんに床に叩きつけられた。

 流れるように荒縄で縛られてからの投獄。

 拝啓、母上様。北郷一刀は異国の地とはいえ前科者になる不孝をお許しください。

 

 

 シャバの空気は美味いぜ。

 まさか、この台詞を自分が使うことになるとは思わなかった。

 そして目の前には俺を捉えたお色気の姉様、ある意味でビキニアーマーのように過激な衣服を着た少女が頭を下げている。

 隣には白髪の少女、劉耀が御立腹といった様子で頰を膨らませていた。

 

「まったく、この娘は……時折、先走るのが悪い癖ですね」

「やー、だってあれは仕方ないでしょー。どう考えたって、血を吐いて倒れているのが悪いよー」

「いやまあ倒れた私も私ですが……話を聞くくらいはしても良かったかと」

 

 謝罪は何処へ行ったのか、あっはっはっはっ、と笑う少女に機嫌を直さない劉耀。

 

「まあまあ直ぐに出してもらえたし、気にしてもないから……」

 

 本当はちょこっと気にしてる、だって投獄とか始めての経験だったし。

 でもまあ今は話を進める方が先だと思って促すと「そうですか?」と劉耀は気を遣うように流し目で俺のことを見つめてきた。

 いや、なんつーかもう、その顔が見られただけで良いかな。うん。

 

「ほら、気にしないって言ってくれてるしさ。さっさと話を進めようよ」

 

 お色気の姉様の言葉に「もう」と劉耀が溜息を零す。

 ちなみに、この女戦士の名前は太史慈って言うんだぜ? すごいよな、中国四千年。後世に伝わる猛将も美少女に早変わりだ。むしろ日本の悪い文化に侵食されていないだろうか? いやはや、まさか! だって中国四千年だぜ? 劉耀も州を治めるお偉いさんのようだし、この調子だと有名処はみんな可愛い女の子になっていたりするのだろうか?

 だとすれば、流石にこの世界は俺が知る歴史と同じとは思えない。この世界線では円卓の王様が実は女の子だったり、織田信長が信奈とかいう名前だったり、魔王ルーデルが牛乳片手に戦闘機へと乗り込むような幼女だったりするのかも知れない。もしかすると、この世界も何処かでゲーム化されており、何処かの世界線で物語として売り出されている可能性も――いや、まさか、ないか。ははっ、考えすぎだ。

 太史慈の名前で思い出したのだが、劉耀は、確か孫策との一騎打ちで恥を晒すことになる人物が、そんな名前だった気がする。

 

「……とりあえず貴方様はまだ状況を理解できていない御様子。暫く城に泊まり、今後の身の振り方について考えてみるのは如何でしょうか?」

「ん、構わないのか?」

 

 天の御使いという言葉から、もっと積極的に利用されるかと思っていた。

 

「人ひとりを養う程度の蓄えはありますよ。まあ、何時までも、という訳にはいきませんが……」

 

 そういうと劉耀は人差し指を立てる。

 

「とりあえず一週間、街を見回ったりしてください。それでもう一度、話し合うのが良いかと」

 

 元の世界に帰る為、旅に出るというのであれば多少の金銭は融通する。

 此処に残ってくれるのであれば、仕事を与える。寝床も用意する。

 あまりにも俺にとって都合の良い条件に、思わず問い返した。

 

「それだと、劉耀達にメリットがないのでは?」

「めりっと?」

「ああ、利益のことだよ」

 

 カタカタ語が伝わらない辺り、異世界に来たという気がする。何故か日本語は通じるけど。

 

「城まで連れてきた手前、何も施しをせずに追い出すと私の名に傷が付きますので」

 

 気にする必要はありません、と彼女は笑ってみせた。

 

「その間の護衛は太史慈に任せます。彼女、賊退治以外では暇をしていますので」

「そこは待機って言って欲しいなー。緊急時に何時でも出られるようにしているんだよ」

「ええ、そうですね。彼女の待機中の暇潰しに付き合ってあげてください」

「あれー? 私が付き合ってあげる方じゃないのかなー?」

 

 道案内をお願いするよ、と太史慈に伝えると、了解! と彼女は大きな胸を張って応える。その時に胸が揺れた、目に毒だ。

 

「針で刺したら割れませんかね、あれ」

「……喜媚(きび)って時々、怖いこというよね」

 

 呆れるような、苦笑するような、そんな声が太史慈から溢れる。

 そういえば二人は時折、二人が名乗った名前以外のもので呼び合うことがあった。それは字でもなくて、太史慈には梨晏(りあん)、劉耀には喜媚と言った風にだ。問い掛けると、この世界には真名と呼ばれるものがあるそうだ。それは産まれた時に付けられる名前であり、心から信じられると決めた相手に預けるものらしい。ちなみに許可なく相手の真名を呼べば、その場で斬首されても文句を言えないとか。

 なにそれ怖い、その初見殺しに引っかかってる奴って絶対に居るよ。

 

「それだったら俺はどうしたらいいのかな?」

「一刀っち、どうってのは?」

 

 獄から出された際に自己紹介を終えていたので太史慈は俺の名前を知っている。

 

「いや、俺ってさ。北郷一刀以外の名前って持たないんだよ。俺は構わないんだけども文化的に一刀って呼ばせるのは不味いのかなって……ん?」

 

 太史慈がサアッと顔を青褪めさせる。

 

「なにそれ怖い」

 

 そっと劉耀が呟いた後、太史慈が流れるような動作で両手を床に着いて、ゴツンと額を打ち付けた。

 

「訂正しますぅぅーっ!!」

「頭上げてください! 気にしてないからーっ!?」

「君が気にしてなくても私が気にするからぁーっ!!?」

 

 わーわーぎゃーぎゃーとひと悶着を起こした後、なんやかんやあってみんなで真名を交換することになった。

 こんなんで良いのかな。よくわからないけど、良いと思うことにした。

 

「それで他の人に名乗る時はどうしたら良いと思う?」

「んー、張三李四で良いんじゃない?」

「いや、露骨過ぎでしょう」

「張三李四って?」

「何処ぞの誰かさんという意味です」

「ああ、名無しの権兵衛ね」

 

 話し合いの結果、他には北郷とだけ名乗ることになった。

 

 

 揚州九江郡、寿春。

 と文字だけで起こすとあっさりするが、実際、その場に放り込まれた身としては凄まじいものがある。

 ほんの数日前までは現代社会で日常を謳歌していた極一般的な男子生徒、その文化の違いには驚愕する他にない。舗装されていない道に、ずらりと並ぶ商店の数々、車や自転車はなく、代わりに馬車が道を走っていた。ちなみにコンビニもなければ、公衆トイレもない。では、何処でしていのか。人の迷惑が掛からない草叢などでする人がいるという話だ。なにそれ怖い。まあ中世ヨーロッパでは糞尿を窓から投げ捨てていたらしいからね、そのことに比べると汚臭は漂っていない。臭くないことは良いことだ。ちなみに街人からは汗を発酵させたような臭いがする。いち早く、お風呂の文化を広めなきゃ……(使命感)

 手洗いうがいは大事、隣を歩く太史慈こと梨杏からは良い匂いがする。歩く度に揺れる胸は驚異的であり、男女問わず道行く人を視線を向けられる。そのことに多少の恥じらいはあるのか「みんな私の胸ばっかり見るんだよねー」と太史慈が困ったように告げる。いやあ、その露出度の高い衣服がいけないんじゃないですかねえ? 見るよ、誰でも。同性でも見るよ、でかいもん。ええい、劉耀の配下は化け物か! とか言ってるよ。知らんけど。劉耀こと喜媚はぺたんこだけど。

 さておき、見た目だけならいざ知らず、ここまで空気や臭いが違っていると異世界に来たんだなっていう実感が湧いてくる。

 胸が疼いた。寂しさや不安から、だろうか。

 

「一刀っち、大丈夫?」

 

 梨晏(りあん)に問われて、大丈夫、と答える。

 

「やっぱり自分が生きていた場所とは違うんだなって改めて思っただけだよ」

「ん〜、そういえば一刀っちって、急にこの世界に落ちてきたんだったよね?」

「そういうことになるのかな?」

 

 落ちてきた、という実感はないけども。今も空に寂しさを感じることはなかった。

 

「どういう場所だったの?」

「……どういう場所って?」

「たぶん、此処とは全然違う景色や光景だったんでしょ?」

 

 教えて欲しいな、という言葉に俺はポツポツと語り始める。

 何処にでもトイレがあって、毎日のように風呂に入る。自動で洗濯や食器を洗う機械がある。陸を走る機械があり、海を渡れば、空をも飛んだ。建物は四角くて細長いのが多くて、ひとつの建物に何十人、多くて何百人もの人が生活を営んでいる。二十四時間営業している店もあったりして、ちょっと割高だけどもなんでも取り揃えていたりもする。子供はみんな学校という場所に勉学を学ぶ、義務教育は十五歳まで、でも大半は高校生、今は半数以上が大学に進学している。王はいない、朝廷はまあ似たものならあるけども政治の実権は握っていない。政治は国民の投票で選ばれたものが実権を握り、国の行く末を差配する。その者にも任期っていうのがあって、四年に一度、再選される。もっと詳しくいえば、選挙で当選した者達で更に選挙を行う形になるのだけども、その辺りはまあいっか。ともあれ、俺の時代では実権を持った王族や皇帝はほとんどいなくなった。

 そんな話をすると梨杏は「んー?」と頭に手を当て、「全然違うねー」とあっけらかんと答えた。

 

「これから大変そうだね」

 

 と梨晏が告げる。首を傾げると「まあまあお姉さんに頼りなさい」と背中を叩かれた。

 

「連れてきた手前、ちょっとくらいの責任は感じてるからさ」

 

 耳打ちするように告げられる。気遣ってくれているのだろう。

 ありがとう、と返すと、どういたしまして、と笑い返してくれた。

 

 

 



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第三話.軽率に

 言葉が通じるのに文字が読めない。

 そのことに気付いたのがこの世界に来た翌日の話、それでは不都合が多いだろうと名乗り上げた梨晏(太史慈)に文字の読み書きを教えて貰うことになった。それで今は同じ部屋、男女二人きり、何かが起こるはずもなく、無心で筆を動かし続けている。やっていることは写生だ、梨晏(りあん)が持っていた詩集を意味を教えてもらいながら延々と写す。妙に恋愛関連の詩が多かったりするのは、やはり彼女も女の子ということか――チラリと視線を上げれば、呼吸と共に大きな胸を揺らしながら淡々と報告書のようなものを作成する彼女の姿が目の前にあった。

 喜媚(劉耀)は彼女のことを暇だと言っていたが、とてもそのようには思えない量の書類の束が彼女の机の端に積まれている。もしかしたら迷惑を掛けてしまっているのだろうか。それにしても胸が大きいな、ダイナマイト級だ。いや、違う。駄目だ、やはり彼女の胸は目に毒だ。修行僧の気持ちで写生を試みる。恋愛ばかりなのが困りものだけど、例えば桜の木の下で想い人に気持ちを伝える女性の話とか。橋で何処かへと旅立った想い人を延々と待ち続ける話とか。未亡人になった女性が新しい男性に心を惹かれる話とか。甘酸っぱいものが多い中、時折、やけに生々しい詩が混じる。そして、それを解説してくれるのが目の前の女性である。正直、詩集には興味が湧かないが、詩集に関して生き生きと解説する梨晏には興味津々だ。可愛い。

 話が脱線する、全てはあのおっぱいってやつが悪いんだ。おっぱいには夢がある、浪漫が詰まっている。

 頭を振り、何回か彼女に気付かれぬように深呼吸をする。爺と共に行った精神鍛錬、雑念を振り払い。煩悩を殺す。心頭滅却すれば乳もまた柔らかし。駄目です、駄目でした。爺ちゃんとの修行も、あの胸の戦闘力を前には無力だったよ。今までの努力はなんだったんだろうね、ははは。助けてください、お姉さんから凄く良い匂いがする。股間に力を込めて、息子を宥めるので精一杯だ。こんなの思春期の男性には酷過ぎるよ。なんでそんなに露出の高い衣服を着てるの? こんなのいちころですよ、瞬ころですよ。ころころされましたよ。むしろ、これでころころされない男性諸君がいたら教えてください。俺がチラチラといやらし視線を向けていると、ん〜? と首を傾げてくるんだ。んで誤魔化すように紙に齧り付くと、ふふって笑みを浮かべてくるんだ。無自覚で無防備なのが、本当にもう、本当に! ……最高かよ、最高ですね! もう死にたい、死ぬしかない。いっそ、殺せ! 誰だよ、この無差別無自覚悩殺兵器を野放しにしたのは!? 喜媚(きび)さん、もっと自覚させたげてよぉっ!!

 

「んー、どうしたの? 集中力が欠けてるよ? あ、もしかして私に見惚れちゃった?」

 

 梨晏はにんまりと笑った後に、なんちって、と舌先をチロッと出しながらペチンと自らの頭を叩いてみせる。

 拝啓、母上様。今、俺は夢に見た美人なお姉さん家庭教師と勉学に励んでいます。先立つ不幸をお許しください。

 

<暗転>

 

 驚くほどに集中できた。

 人間、危機に瀕すると絶大な集中力を発揮するというが、それは本当だったようだ。煩悩断つべし! と百八回くらい唱えている内に文法をマスターしていた。人間って凄い、人類って凄い。よくぞ耐え抜いた鼻の毛細血管、エロスに耐えてよく頑張った俺の息子よ。感動した、今夜は自家発電だ。いつもよりも多く出すことができそうだ。爺ちゃん、この精神修行は爺ちゃんと共にやった座禅よりも苛烈で過酷で刺激的だったよ。

 さておき、美人な家庭教師も溜まっていた書類仕事を終えたようで御茶と甘味を用意してくれている。

 家事もできるとか天使かよ、女神かよ。世界三大美女はクレオパトラと楊貴妃、小野小町に加えて、今後は太史慈も加えて世界四大美女として語り継ぐべきではないだろうか。文明だって四大文明なんだし、美女だって四大美女でも良いじゃないか。美女は文化だよ、文化遺産だよ。違うだろ、書類仕事も忙しそうなのに俺に付き合っても良いのか心配するんだろうが。でも口に出せない。何故なら今、俺の欲望が他者への思いやる心を抑え込んでしまっている。くそっ、この程度だったのか。俺の自制心、爺ちゃんと一緒に鍛えた自制心は美人なお姉さんとワンツーマンで勉強会という一大イベントを前には無力だというのか!

 ぐぬぬ、むぐぐ、と煩悩相手に必死に抗っていると「ごめんね」と梨晏(太史慈)が呟くように話し掛けてきた。

 

「君からしたらさ、傍迷惑も良いところだと思うんだけどね。それでもあの子には少しでも長く夢を見ていて欲しいんだよ」

 

 梨晏(りあん)が困ったように笑ってみせた。

 きっと彼女は俺のことを見ていない。だから、ごめんと謝ってみせる。自分勝手で身勝手な想いを俺に背負わせることを彼女は申し訳なく思っている。だが、それは自分の為ではない。彼女が慕う喜媚の為に俺を利用すると彼女は言った。そのことに嫌悪感はない。彼女が誰かの為を想うのは勝手だ、その為に俺を利用したいというのなら手を貸したいと思った。天の御使い、それだけが今の自分の利用価値。でも、それで彼女との縁を繋げることができるなら、今少し彼女の手助けを続けたいと思った。それは下心満載の決断で、もっと彼女と近しくなりたい、というだけの想いだ。

 きっと褒められた選択ではない、軽率には違いない。騙されているのかも知れない。でも騙されても良い、むしろ全力で騙されたい。もういっそ夢を見せてくれるのなら良いんじゃないかな、という思いすらある。

 欲望のままに俺は答える。

 

「こんな俺で良ければ……」

「えっ、本当に? でもでも、しんどい思いをさせることになると思うよ? ぶっちゃけここって泥舟だし」

「良いよ、別に。できることがあれば、手助けしたいって思ったんだ」

 

 一宿一飯の恩義とも言うしな、と最後に付け加えたのは目一杯の見栄だった。

 胸に釣られたとは流石に言えない。

 

 

 



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第四話.劉耀正礼

前話の末尾を少し移動しています。


「こちらの生活には慣れましたか?」

 

 喜媚(劉耀)の執務室、白髪の少女が積み重ねられた書類に目を通しながら問い掛ける。

 とりあえず、ある程度は文字を読めるようにはなった俺は、時間に暇ができた際に彼女の執務を手伝うようにしていた。彼女からは天の御使いとしての名を使わせてくれたら良いという話をされているが、穀潰しになるつもりはなかった。梨晏(太史慈)にも良いところを見せたい気持ちもある、できる範囲で手伝えることは手伝わせて欲しい。中途半端な人間に仕事を与えるのもひと苦労だということも理解しているが、無理を言って手伝わせて貰っている。

 それでも喜媚(きび)は計算能力があるだけでも使い道があると言ってくれた。

 報告書を整理し終えた後は資料にケアレスミスがないか、算盤の珠を打ち鳴らしながら手早く確認する。現代社会には電卓という便利な代物があるけども、算盤でも使い方に慣れてしまえば同程度の速さで数字を導き出すことができる。それは四六時中、数字と睨めっこをする文官と遜色ない速度ですね、と喜媚も褒めてくれた。

 褒めてくれながらも彼女は報告書の文字を目で追い続ける。

 

「よくして貰っているからかな。思っていたよりも苦労はしていないよ」

「ええ、不便がある時は屋敷の者に言ってくださいね。梨晏(りあん)から聞いた話だとあまりにも文化が違いすぎるようでしたので……ええ、ええ、かくいう私も洛陽から揚州へ移動を命じられた時は苦労した者です。引き継がれない執務、挨拶回り……使い物にならない資料、不明瞭な地図……その上で山越は侵略してくるし……ぶつくさぶつくさ」

「お、おう……」

 

 すぅっと喜媚の瞳から光が失われるのを見て、どうにか話題を変えられないか思案する。

 

「あ、お茶でも淹れようか?」

「ええ、お願いします。調理場にいる者に頼むと用意して貰えますよ」

 

 私の名前を出してください、と言われて俺は頷き返した。

 

 ただ一人、城の趣向の凝らされた廊下を歩いていると、此処が異世界に来たんだなと実感する。

 現代日本では、未成年だった俺も此処では立派な成人として扱われる。半数以上の人間が大学に卒業してから働いているというのに、今の俺はお手伝いとはいえ役人だ。現代社会なら公務員で安定して高収入を得られる勝ち組である。近頃は、そんなこともないようだけどね。

 調理場の使用人に声を掛けて、御茶と菓子を頂いてから部屋に戻る。

 

「……黄巾党、山越……襲撃……こふっ…………」

 

 そこには丁度、血を吐く主人の姿があった。

 これにも、もう手慣れた俺は盆に乗せた薬と水差しを持って彼女に手渡した。

 それから数分、彼女の背中をさすり続ける。

 

「ありがとうございます、もう大丈夫ですよ」

 

 そういうと彼女は幾分か悪くなった顔色で笑ってみせる。

 梨晏が言うには、喜媚が胃痛を抱えることになったのは最近の話のようだ。元から病弱で、吐血することも多々あったようだが、今のように頻繁に血を吐き出すことはなかったらしい。その話の真偽はどうであれ、州刺史という役職が身を削る役職というのは傍目から見ているだけでも分かる。俺が彼女の世話になってから喜媚の下に届けられる報告は良いものがほとんどない。山越が現れた、孫堅が暴れた、王朗が山越と交渉を始めた。徳王を名乗る猫娘が集落に現れた。その類の話を聞く度に喜媚は小さく吐血する。そして日に二、三度、倒れてしまうのが彼女の日常だった。

 何故か数十分もすると復活してるけど、彼女曰く、慣れている。慣れでどうにかなる問題なのだろうか。

 

「休むわけには行きませんからね」

 

 彼女は筆を手に取ると命令書の作成に移る。

 出来上がったそれを届けるのもまた俺の仕事だった。

 

 俺の知る歴史では、劉耀――正史では劉繇か。

 劉繇なる人物は言ってしまえば、孫策の噛ませ犬だった。孫策の揚州統一、即ち小覇王と呼ばれるに至る快進撃の道すがらに倒される人物であり、敗北した後は役目を終えたように病死する。そのことを知っている俺は、目の前で血を吐きながら政務を執り続ける彼女を見つめながら、どうにかその未来を回避できないか思案する。例えば、州刺史として孫堅に命令を下すことはできないか、とか。

 結論を云ってしまえば、それはできない。との話だ。

 

「孫堅には野心があります。最低でも揚州統一、あわよくば大陸全土の征服。彼女は誰かの下に着くような人物ではなく、ましてや野心を持たない私に彼女が着く道理もありません。そもそも野心を持っていないのであれば、私を避けて、袁術と繋がりを持つような真似もしないでしょう」

 

 孫堅が袁術との繋がりを持っていることは歴史から知っている。

 

「彼女と私の手を取り合う時、それは私が彼女の配下になる時でしょうね」

 

 それではいけない、と彼女は続ける。

 

「漢王朝が健在の今、武力に任せた勢力の拡大は決して許容されるべきものではない。野犬如きに漢王朝の築き上げた秩序を壊されてなるものですか……ええ、それが道理、それが筋というものです。今の世の中が漢王朝という秩序で成り立つ以上、力に任せて道理を押し通すような真似を許して良いはずがない」

 

 今にも倒れそうな色白い顔で瞳だけはギラギラと輝かせる。

 きっと彼女もまた群雄割拠と呼ばれる時代で、群雄の一人として数えられる人物だったのだと思い知らされた瞬間だった。孫堅と手を取り合うことはできない。そして孫呉という強大な勢力を前に、きっと彼女は膝を屈する日が来るかも知れない。それでも彼女の側に居たいと思った瞬間でもあった。

 気付けば、俺は拱手で喜媚に応えていた。

 

 

 此処、私室。梨晏(太史慈)の。

 部屋は全体的にこざっぱりと綺麗にされており、棚には詩集の他に可愛らしい小物の類が多く置いてある。隅には武具と手入れ道具が纏められていた。そして女の子らしさと猛将らしさが同居する部屋の主人は今、眼鏡を掛けた張り切りガールっぷりで教鞭片手に家庭教師役を務めている。ふふん、と得意顔を見せる梨晏(りあん)は普段見せる陽気っぷりとは裏腹に勉学は驚く程によくできた。書類仕事をしている時もそうだったが、彼女はとにかく要領が良い。

 そんな彼女が教鞭を振りながら教えてくれるのは現在、俺達の置かれている状況についてだ。

 

 揚州刺史、劉耀。真名は喜媚(きび)

 彼女は揚州の政務を担当する漢王朝の行政官ではあるが、実質的に支配できている土地は然程多くはない。

 今は全六郡ある内の四郡が彼女の支配下にあるが、その中でも実効支配できているのは九江郡と丹陽郡の二つだけだ。まず揚州には喜媚に従わずに独自路線を取る勢力が二つあり、片方が呉郡の孫堅。もう片方が会稽郡の王朗になる。それを許すのは喜媚の抱える将兵が弱い為だ。呉郡、会稽郡は共に山越と呼ばれる異民族からの侵略を受ける土地であり、これを守る力が喜媚にはなかった。ついでに云えば、豫章郡も山越の侵略を受け続けており、これを喜媚が持つ兵力の八割方を使うことで侵攻を食い止めているのが現状だ。豫章郡と河で繋がる廬江郡にも山越が略奪に来ることもあり、それで一度、手酷い被害を受けた経緯がある。今は孫堅に将兵を貸してもらうことで廬江郡の守りを固めているという話だ。孫堅の名声が日に日に上がる一方で、喜媚の評判は日に日に落ち込んでいる。

 今では名ばかりの大将と呼ばれる程に。

 

「それもまあ仕方ないんだけどね」

 

 梨晏が声色を弱めながら告げる。

 統治者とは即ち、外敵から領地を守ってくれる存在のことだ。それが最低限、その上で満足に食べさせてくれる者に民草は従う。例え、文字通りに血反吐を吐く程に政務を頑張っていようが戦が弱ければ、民草から統治者としての資格がないと見られてしまうのだ。

 この時代は弱いと云うだけで罪になる、民草は常に強い統治者を求めていた。

 

「頑張っているから、なんて言い訳にもならないことは分かっている。統治者である以上、既に一人の責任では済まなくなっている」

 

 それでも、と梨晏は続ける。

 

「たった一人でも良い、最後まで寄り添ってあげられる人が一人だけでも居てあげても良いんじゃないかなって思うんだよ」

 

 梨晏は理解している、喜媚に先がないことを知りながら仕えている。

 その覚悟は、人によっては愚かと云うかも知れない。それでもだ、俺は彼女の決意を尊重したいと思った。そこに感傷があったことは否定しない。それ以上に、きっと彼女が抱いた思いは尊いもののはずだから、可愛い女の子の為に、そんな軽い調子で此処にいることを決意した俺が穢して良いものではなかった。

 忠誠ではなく、恩義でもなく、義理立てする訳でもなく、ただ一つ、縁故に彼女は此処に残っている。

 

 それは当事者ではないものに否定して良いものではない。

 

 喜媚専用の執務室、

 それは書類整理を手伝っている時のことだった。

 

「お隣で州刺史をしている劉表と連絡を取っているのですよ。同じ皇族ですし、漢王朝の臣下ですし、彼女は私と違って強いですし……助けてくれないかなーって?」

 

 喜媚は手紙用の紙を広げながら藁にも縋る思いで救援要請を綴る。

 

 力なく笑う、その瞳には強い意志が込められていた。

 しかし、それも束の間、バタンと執務室の扉が開け放たれる。

 何事かと問えば、緊急事態だと文官らしき男が告げた。

 

「丹陽郡にて、我が軍は黄巾党を名乗る賊徒に大敗! その領地の半数以上が奪われました!!」

「……え? ……あ、うん。そっか、あはは……そう来るかー……」

 

 渇いた笑い声を零した後、喜媚は特大の血を吐き出して地面に倒れ伏した。

 

 

 数時間後、執務室には元気に政務を続ける喜媚の姿があった。

 いや、元気そうではない。口の端から血を垂らしながら文を綴る、宛先は劉表。内容は豫章郡を奪還する為の援軍要請だ。魂を削る想いで書き終えた文を喜媚は巻物として誂えるように配下に指示を送る。巻物が出来上がるまでの間、喜媚はまた違う政務に取り掛かった。床を血で汚しながらも彼女は政務の手を止めない。止めることができない、その気迫に身が竦んだ。

 こんなにも彼女は頑張っているというのに、どうして報われないのだろうか。努力、それそのものには価値がない。それでも彼女には報われて欲しかった。

 

「良いんですよ……所詮、私は皇族というだけで州刺史に就いた身ですので……過分な地位だったん、ですよね……」

 

 ごくり、と喜媚は口に水を含んでも居ないのに喉を大きく立てる。

 

「この一枚が誰かを不幸から救うかも知れない、この一枚が誰かを幸せにするかも知れない。この一枚が誰かの命を救うかも知れない……そう考えたら、手を止めることなんてできるはずがないじゃないですか……」

 

 喜媚は元々病弱だった。

 しかし、吐血するほどに体を悪くしたのは州刺史に任じられてからだと云う。梨晏が云うには、彼女の政務に特筆すべき不備はないとのことだ。賄賂こそ横行しているが、他郡のように無法地帯になっている訳ではない。少なくとも喜媚の目が届く範囲での不正は行われていない。今が平時であれば、きっと喜媚は優れた為政者――とまではいかないが、優秀な部類には入っていた、と梨晏は評価する。

 ただ彼女には致命的な才覚の欠落があった。彼女は戦に勝つことができなかった。

 絶望的に運が悪かったということもある。それに加えて、彼女は戦を差配することができず、また彼女の知恵袋として活躍してくれる者も居なかった。彼女が求めたのは知恵者、つまり軍師。それは太公望、もしくは張良といった存在だった。猛将はそこまで求めていなかったと云う。梨晏が居るだけで恵まれ過ぎている、と。

 普段の政務に加えての戦準備、喜媚に休んでいる時間はなかった。

 

 書状が届く、彼女はそれを配下から受け取ると俺を見つめた。

 

「劉表の元に書状を絶対に届けなくてはなりません」

 

 白髪の少女は今にも消え入りそうな、しかし命を燃やすように私を見つめる。

 

「梨晏と共に届けてください」

 

 そういって出来上がったばかり巻物を受け渡される。

 

「梨晏なら一人でも大丈夫じゃないか?」

 

 それは遠回しに、俺も政務を手伝うという申し出だった。しかし喜媚は首を横に振る。

 

「私には、貴方を守りきれませんから……貴方は自分の価値をまだ知らない、此処に残るよりも梨晏の隣の方が安全です」

 

 まだ日も経たぬ内に申し訳ありません、と彼女は小さく頭を下げる。

 

「必ず届けるよ」

「ええ、ええ、是非そうしてください。でないと私、今度こそ倒れますよ?」

 

 今にも消えてしまいそうな笑顔で彼女は俺のことを見送ってくれた。

 それから、喜媚が倒れたまま動かなくなった、という報告を受けたのは揚州から荊州に入った時のことになる。

 

 

 



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第五話.援軍要請

 九江郡から蘆江郡を経て、荊州の夏江郡。その西陵と呼ばれる城都に辿り着いた。

 夏江郡は荊州刺史である劉表の影響が強い土地であり、郡太守は黄祖。史実では確か、揚州から侵略する孫堅の襲撃を幾度と凌ぎ、孫堅に引導を渡すことになる男だったはずだ。それだけの功績を持っている者であれば、この世界のことだ。当然、女になっていてもおかしくはない。だから覚悟は決めていたつもりだった、並大抵のことでは動じないつもりでいた。

 しかし目の前の人物は、少々パンクが過ぎている気がするのだ。

 

「ああ? なんだ孺子、ジロジロと物珍しい顔で見やがって……」

 

 長駆の女性、耳には鈴と錨のピアスを付けている。

 髪は全体的に左から右に流しており、右目が前髪で隠している。また左側頭部に剃り込みを入れているのか、傷があるのか、生え際を幾つもの羽飾りで隠している。その印象は武将というよりも不良、暴走族で頭をやっていそうな雰囲気を持っていたが、しかしヤンキーと呼ぶには大人の魅力があった。なんというか惹かれる者は吸い寄せられてしまいそうな妖艶な雰囲気を身に纏っている。

 良くも悪くも過激で刺激的な風貌をしていた。

 

「圧倒されていました」

 

 素直に答えると、ふん、と俺から目を逸らして梨晏(太史慈)を見る。

 

「……貴様が太史慈か、用件はなんだ?」

「揚州刺史が劉耀の遣いとして荊州刺史の劉表に封書を携えて来ました」

「届けるだけなら私が預かっても良いのだが――まあ違うのであろうな」

 

 黄祖は舐め回すように梨晏(りあん)を見つめた後、片手で顎を撫でてみせた。

 劉表が居を構える城都は、蘆江郡を超えた先の南郡にある。余所者が勝手に郡内を横断するのも、劉表にいらぬ猜疑心を持たせることになり兼ねない為、蘆江郡を通行する前に郡太守を務める黄祖まで挨拶しに来たのが、九江郡を出て今日までの流れになる。

 最初、不機嫌そうにしていたので歓迎されていないと思ったが、梨晏を見る時の顔は満足げだった。

 武人は武人同士で通じるとかあるのだろうか。

 

「これとは(つがい)か?」

「えっ、何言ってるの!?」

「違うなら、それで良い」

 

 黄祖は俺達に背を向けると「ほれ、行くぞ」と目配せだけを向ける。

 

「あのぅ、要件とか聞かなくても良いのかな?」

「そんなもの分かっている。丹陽郡の兵が黄巾党に大敗し、その上、豫章郡にも厳白虎の部隊が攻め込んでいるのだろう?」

「えっ、豫章にも攻め込まれているわけ!?」

「なんだ知らなかったのか?」

 

 まあいい、と黄祖は俺達に背を向けて歩き出した。

 

「大方、劉表に援軍の要請しに来たのだろう? ここから先は我ら江夏水軍の庭のようなものだ、船を使えば江陵まで早く着くだろうよ」

 

 江陵とは荊州南郡にある城都のことであり、劉表が居を構える場所でもある。

 荊州では江賊の影響で水路を使えなかったからありがたい申し出だ。

 黄祖は胡散臭く感じる女ではあったが、その提案からは純粋な好意しか感じられなかった。

 

「残念ながら私は西の警戒をしなくてはならんのでな。必要ないとは思うが――蘇飛、居るか?」

「……うん、居るけど?」

 

 黒い外套を身を包んだ少女が大鎌を背に抱えながら歩み寄ってくる。

 

「こいつらを江陵の城都まで道案内してやれ」

「うん、わかった」

 

 黄祖の指示に蘇飛と呼ばれた少女は頷くと、こっちだよ。と勝手に歩き出してしまった。

 地面を擦りそうなほどに長いポニーテールを揺らす彼女の後を梨晏と二人で追いかける。

 

 

 船上での旅路は決して快適とは言えなかった。

 江陵に着くまでの期間、揺れに揺れる船上で船酔いに魘され続けた。その時、梨晏(太史慈)が看病をしてくれたのだが、あんまり記憶にない。世界が回る、胃が掻き回される。う〜ん、と呻き声を上げ続けること数日、「情けない奴」と蘇飛の冷たい視線を浴びせられながらも船旅は順調に進められた。数日後、流石に体も慣れてきたのか、ふらつく足取りに頭を抱えながら甲板に出る。

「まだ慣れないのか」と黒い外套で身を包む少女が、じっとりとした目を向けられた。

 

「迷惑かけてごめんな、船に乗ったのは初めてなんだ」

「別に、最初から陸の人間には期待してないし」

「逞しいな」

 

 不安定な足場、少しの失敗でも沈没する危険のある船上で生き続ける者達だ。

 陸という揺るぎない地盤の上に立って生きることに比べると危険で過酷な環境にある。船は常に波に揺らされて、水流に流され続ける以上、一時も落ち着けることなく、四六時中、気を張り巡らせているのだろう。誰一人、自らの仕事に手を抜かない。同じ船に住む者同士、家族とも呼べる仲間を、失敗一つで命の危険に晒すことを知っている為だ。そんな人達が逞しいのは当たり前だった。

 賞賛するつもりもなく、ただ思ったことが口から溢れた。それだけの話。

 

「看病されて、膝枕されて、ずっと魘されてばかりの貴様は情けないな」

 

 蘇飛の辛辣な言葉に、苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

 だが、情けなくとも足を止める訳にはいかない。

 九江郡寿春に残った喜媚(劉耀)が倒れたという報せを聞いている。それだけなら何時も話だが、今は寝台から一歩も動くことができないそうだ。すぐに引き返すべきか迷った俺に先に進む決心をさせてくれたのは梨晏だった。「早く行かなきゃね」と短く告げた言葉には強い決意が込められていた。俺達の役目は、劉表から援軍を出して貰うことだ。それが一番、喜媚(きび)の助けになると信じて歩み出す。

 水流に乗って吹く風は冷たい。艪を漕ぎ、水流を遡る。

 

 

 荊州南郡にある江陵県、その城都。

 長江に面した交易の要所であると同時に、南郡における行政の要所だ。

 他でも都市でも同じことが云えるのだが政治の要所というのは交易の要所に構えられることが多い。それは人や物資、情報が集まるという意味でも重要だが、もっと重要な意味合いが込められている。それは情報伝達の速さだ。交易の要所ということは陸路にせよ、水路にせよ、道が整備されているということ他ならない。江陵は南郡全土を蜘蛛の巣を張るように川が流れており、南郡と同じく劉表劉の支配下にある紅夏郡とも長江で繋がれている。また劉表には蔡瑁と黄祖が鍛え上げた優れた水軍がある為、揚州に棲息する紅賊に頭を傷めることも少なかった。

 そして紅賊が少ないということは、商船を思う存分に動かせるということでもある。

 これで発展しないはずもなく、蘆江郡や九江郡と比べて随分と活気があった。それは異民族や賊徒、仮想敵国の盾とされている江夏郡よりも更に発展していた。港付近では毎日のように朝市が開催されており、毎日のように新鮮な魚貝類を食べることができる。加えて週に数度、他所から持ち込まれた商品を売りさばく為に市場が解放されることもあり、こちらもまた賑わいに満ちていた。荊州と揚州では何処も彼処が飢饉に悩まされる今の御時世であるにも関わらず、南郡の民草には飢えた様子がない。

 港町を歩きながら「凄いね」と呟く梨晏(太史慈)に頷き返す。

 

 道案内役、蘇飛の勧めで入った食事処。

 運ばれてくる食事は、揚州で支払ってきた金額と同じ量であるにも関わらず、倍近い量の御飯盛りで運ばれてきた。ここまでの境遇の違いには流石の梨晏(りあん)も驚きを隠せなかったようで、いただきます、と食事の前で御丁寧に両手を合わせる蘇飛に問い掛ける。どうして此処はこんなにも物資が潤沢なのか、と。

 蘇飛は焼き魚の骨を器用に取り分けながら、ああそれね、と軽い調子で話してくれた。

 

「うちの刺史様が続けてきた珍妙な研究成果が身を結んだって話だよ、詳しくは知らないけど」

 

 農業研究は刺史様の趣味だしね、と焼き魚の柔らかい身を口に入れる。

 荊州刺史、劉表。文官としては優秀だが、乱世よりも治世に向いた人物という印象はある。しかし彼、もしくは彼女に農業における功績や逸話は記憶にはない。しかし記録や伝承に残っていないだけ、という可能性もあるかも知れない。

 とりあえず焼きたて、炊きたての食事を冷めないうちに、と箸を伸ばした。

 あ、美味しいな。これ。九江郡の食事よりもずっと美味しい。

 

「……農業関係者を誰かうちに引っ張って来れないかな」

 

 食事を口にした梨晏は真剣な顔付きでそんなことを呟いていた。

 

「秘匿されてないから、そんなことをしなくとも大陸全土に広まると思うよ?」

 

 蘇飛の呆れた顔に、むむむ、と梨晏は唸ってみせる。

 その気持ちはよくわかる。

 でも援軍要請が先だ、喜媚(劉耀)も待っている。

 

 

 港町を経て城都。

 後漢末期、時代の大都市は外敵からの備えとして都市全体を城壁がぐるりと囲んでおり、その中心には行政機能としての内城が建てられていた。内城を囲む城壁の門を潜り抜ける時、「あれ?」と幼子が一人、話しかけてきた。「蘇飛、この人達って見ない顔だけど?」と問い掛ける幼子に「この方達は劉耀からの使者の太史慈と北郷です」と蘇飛は丁寧に返した。ふぅん、と幼子は興味深そうに太史慈を見つめた後、「劉表様なら謁見の準備をして待ってるよ」と言い残して何処かへと立ち去ってしまった。

 蘇飛は「早馬で先に報せてました」と告げて、俺達を先導するように門を潜った。

 

 客間で待たされること十分程度、すぐに謁見の間まで通されることになった。

 

 荊州刺史、劉表。字は景升。

 最近になってから州刺史に任じられた人間であり、南郡を平定した後、黄祖を配下にすることで江夏郡を実効支配する存在だ。

 その彼女が今、謁見の間にて俺達から受け取った書状を片手に悩ましげな溜息を零す。

 

「んー、実際にどうなのでしょう?」

 

 梨晏(太史慈)にも勝る胸囲の戦闘力を誇る彼女が劉表、その人である。

 見た目はおっとりとした雰囲気を持つ大人のお姉さんといった印象であり、母性に満ちた容姿に加えて、些かのんびりとし過ぎているようにも感じられた。正史においては、謀略は好むが決断力に欠ける優柔不断の人物として語られる。実際、官渡の戦いが起きていた時、曹操の背後を攻めるには絶好の機会であったにも関わらず、静観を決め込んで好機を逃している。だが喜媚(劉耀)が紛れもない英傑の一人であったのと同じように彼女も何か牙を隠しているのかも知れない。風評は参考程度に留めて、実際に目の前にいる彼女を見極めた方が良い。

 劉表は頰に手を当てながら考え込んだ後、側近の一人を見つめた。

 

「周不疑、思っていることがあるなら言っちゃいなさい」

「はっ、若輩の身で恐縮ですが意見を述べさせて貰います」

 

 南郡江陵にある城の評定の間、緊張感のない間延びした声に答えるのは見た目、小学生ほどの幼子であった。

 周不疑、知らない名前だ。某戦略ゲームで何度か劉表を触ったこともあるが、周不疑という名前に見覚えはない。歴史に埋もれた人物の一人か、それとも歴史が変わってしまったのか。もしくは偽名を使っているのか、だって周不疑とかあからさまに偽名臭いじゃないか。もしかしたら自分と同じように現代から落ちてきた人物かも知れない。

 見た目に騙されないように彼女の言動を注意深く観察する。

 

「結論から述べますと、援軍は送った方がよろしいかと」

「それはどうしてかしら?」

 

 問い返すと周不疑は言葉を詰まらせることなく、口を開いた。

 

「はい、揚州刺史の劉耀に破滅されると次に揚州の覇権を握るのは孫堅になります。そして孫堅は我らに恭順的な態度を取らない袁術との繋がりがあり、我らは北と西から挟まれることになりましょう。まだ荊州南部の平定もなっていない現状、今、劉耀が破滅されるのは避けなくてはなりません」

 

 ここまで一息に喋ると、少女は深々と頭を下げる。だそうよ、と劉表は私達に向けて柔らかく笑ってみせた。

 

「送る将兵に関しては周不疑、貴方に任せるわ。黄忠に確認を取ったら、それで進めちゃって頂戴」

「はっ!」

「もう下がっても良いわよ。早めに取り掛かってね」

 

 周不疑はもう一度、深々と頭を下げてから評定の間から立ち去った。

 この場に残されたのは俺と梨晏、そして劉表の他に護衛が多数。

「あの子、良いでしょう?」と劉表は我が身の如く、自慢げに笑みを深める。

 

「水鏡女学院が誇る四神の一人なだけあるわ」

「……水鏡女学院ってあの司馬徽が学長を務める、あの?」

 

 梨晏(りあん)の言葉に劉表が頷き返す。

 司馬徽というのは俺でも知っている。諸葛亮と龐統、徐庶の師とされる人物であり、何に対しても「好し!」と答えた事から好好先生と呼ばれた人物だ。好好爺とは違って、あまり良い意味ではなかったことは覚えている。

 私塾を開いていたことは知っているが、それがこの世界では女学院になっているようだ。

 

「臥龍の諸葛亮、鳳雛の龐統。籠亀の劉巴、伏虎の周不疑。今が戦乱の世にあれば、一人で天下に手が届き、二人で天下を手中に収めることができると呼ばれる俊英ですよ」

 

 過分に誇張が含まれているでしょうが、と劉表は楽しそうに目を細める。

 

「あれ、徐庶は含まれていないのか?」

 

 思わず、聞いてしまった。よく知っていますね、と劉表は微笑んだ後、何処ぞに視線を漂わせながら気不味そうに答える。

 

「……あれのことを司馬徽は浣熊(あらいぐま)と評していましたね」

「先の四人と比べると随分とスケールが低くなった気が……」

「すけぃる? まあ、意味は害獣ですね」

「害獣?」

「ええ、罠に掛からぬ狡猾さで田畑を荒らし続ける害獣です」

 

 もしくは白蟻とも、と彼女は告げる。

 あまり深くは聞かない方が良さそうだ。ともあれ援軍の要請は達成することができた。

 劉表から部屋を用意すると言われたので、好意に甘えた俺達はそのまま体を休めることになった。

 

 

 



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第六話.蜻蛉返り

前話に加筆あります。
主に南郡に辿り着いてからにワンシーン、謁見直前にシーン追加。
あとは微調整です。


 揚州九江郡から荊州に入り、江夏郡から南郡江陵県を経て、揚州へと蜻蛉返りになった。

 案内役の蘇飛には「帰るついでだから」と再び船に乗せて貰って今、江夏郡の邾県に入る。邾県とは、黄祖と謁見した西陵県から最も近い場所にある港と隣接した城都と云えば分かりやすいだろうか。劉表と謁見する為、江陵県に向かう時も邾県を経由していた。

 その邾県だが、物々しい雰囲気に包まれている。

 というのも戦闘用と思われる船が港に多く停泊していた。質量で敵船を押し潰すといった軍船の隙間を潜り抜けて、桟橋の近くまで到着した時、俺達を出迎えてくれたのはパンクな御姉様こと黄祖であった。

 彼女は船から降りた俺達を見やると、チッとおもむろに舌打ちしてみせる。

 

「黄叙、貴様まで来たのか」

 

 その言葉に周りを見返すと、幼子がちょこんと立っていた。

 

「えへへ、来ちゃった♪」

「猫を被るな、気持ちが悪い」

 

 人懐っこい笑顔を浮かべる幼子を黄祖が忌々しげに睨みつける。

 確か、この幼子は江陵県で会った事のある子で、妙に印象に残っている。

 

冬月(とうげつ)、どうしてこいつを乗せてきた?」

「は、はい! その……私も気付いた時には乗り込んでいて、姿を現したのが数日経ってからで放り出す訳にも行かず……」

 

 たじたじする蘇飛にチッと大きく舌打ちする。

 

「まあまあ怒ると皺が増えるよ?」

 

 うるさい。と黄祖は怒気を込めた声で幼子を睨みつけた後、ハッと思いついたように恐る恐ると問いかける。

 

「……まさか貴様までもが揚州に行くとか言うんじゃないだろうな?」

「行くつもりですよ、じゃなかったら此処に来る訳ないでしょ?」

「黄忠はどうした?」

「お母さんは南陽郡の袁術に対する備えで移動しました、ちなみに魏延は荊州南部の備えで屋敷は空っぽです」

「……鬱陶しい、貴様は蘇飛の船に乗れ。絶対に私の船には乗せないからな」

「えー、つれないですねえ」

 

 むうっと頰を膨らませる幼子に、ふんっと黄祖が鼻を鳴らして背を向けた。

 

「あー、機嫌損ねちゃいました。ほんっと素直じゃないですよね?」

 

 そんな調子で流し目で同意を求めてくる幼子に「えっと」と誤魔化すように頰を掻いた。

 黄叙と呼ばれた幼子、蜀漢の五虎将軍として有名な黄忠のことをお母さんと呼んでいた。関羽と張飛の息子はそれなりに有名だったので記憶にはある。しかし黄忠に子供なんて居ただろうか? いや、黄忠程の人物であれば、一人や二人、子供が居ない方がおかしいか。それが歴史的な偉業を成し遂げたかどうかはさておきとして、もしかすると純粋に娘である可能性もある。

 聞きたいことは色々とあるが、今の状況、どうすれば良いのだろうか?

 チラリと梨晏(太史慈)を横目に流し見ると困ったような笑みで返された。

 

「あ、そういえば、この軍船の数はどうしたのかな?」

 

 梨晏がこの空気をどうにかする為に蘇飛へ問いかけた。

 

「それは、この状況を黄祖が読んでいたからですね」

 

 しかし教鞭を振るうように人差し指を立てながら答えたのは黄叙だった。

 

「少し前までの劉表様であれば、日和る可能性もあったかも知れませんが――今は優秀な軍師様が付いていますからね、選択を間違えることはありません。そして袁術と荊州南部の豪族に備える為にお母さんと魏延を出すとなれば、必然、揚州に派遣されることになるのは江夏軍となる訳です。東に向かうのであれば、賊と異民族の心配もありませんしね」

 

 ふふん、と鼻を鳴らす黄叙に困り顔を見せる梨晏と蘇飛。近頃の子供は賢いなあ、古代中国だけど。

 

「それはそうと黄祖はもうちょっと愛嬌があれば良いと思います。まあ、そこが可愛いところでもあるのですが……」

 

 ね? と私達に振り返る黄叙に俺達三人は共に引き攣った笑みを浮かべた。

 

 

 船旅が続く……。

 長江を下って荊州に入って最初にある港の都市、豫章郡柴桑県。そこで早馬から報された情報のは、そのまま丹陽郡の救援に向かって欲しいと云うものだった。この情報を黄祖達と共有した時、よほど状況が悪いようだな、と黄祖は顎を摩りながら告げる。

 それから情報を聞いてからずっと落ち着きのない梨晏(太史慈)に向けて声をかけた。

 

「このまま向かうのは良いが、兵が使い物にならなくなるな」

 

 その試すような物言いに、梨晏(りあん)は目をギュッと閉じて考え込んだ後、黄祖に向けて頭を下げた。

 

「これが無理なことだというのは分かってる」

 

 けど、と梨晏が最後まで続ける前に、わかった。と黄祖が告げた。

 

「え……っ?」

「二度言うつもりはないからな」

 

 そう言うと再び舌打ちを零し、とある場所に視線を向けた。

 その先には、にまにまと笑顔を浮かべる黄叙の姿。いまいち二人の関係性がわからなかった。

 分かることは、黄叙は見た目通りの幼子ではないということだ。

 

 劉表軍の不穏分子、不確定要素の多さに不信感を募らせる中――今は仲間内を疑っている場面ではないと考えを改める。

 

 それから暫くして梨晏が黄祖から船室まで呼び出された。

 俺の隣には大鎌を携えた蘇飛と背中に弓を担いだ黄叙が居座る。蘇飛はさておき黄叙の方は、構って欲しいのかな、とも思ったけども、万が一の為の護衛だよ、と彼女はにかりと笑って告げられた。こんな幼い子が護衛か、と微笑ましく思っていると黄叙は背負っていた弓を構えて、ギリギリと頭上高くに狙いを定めて空高くに矢を射ち放った。バシッと弦が震える音、矢が風を切り裂く音が鳴り響いて、矢が空へと吸い込まれる――その十数秒後、ドサッと鳥が甲板に落ちてきた。そこには矢が突き刺さっており、彼女が背負っていた弓と矢が実戦用の本物であることを知る。

 思わず、黄叙を振り返れば、どうよ、と幼子が胸を張ってみせた。

 

「黄叙に関しては深く考えない方が良いと思うよ」

 

 若干の諦観が込められた声で蘇飛が告げる。

 

 そんなこんなで時間を潰すこと数十分、梨晏が甲板まで戻ってきた。

 話を聞くに、これからの方針を話していたようだ。とりあえず本隊は通常速度を維持し、少数の先行隊で丹陽郡を目指すことに決めたとのことだ。荊州の長江には江賊が蔓延っているが、これは黄祖と蘇飛が居れば追い払える。それに今回は何時もの紅夏郡に加えて、助っ人も来ているので錦帆賊が来ても安心とのことだ。

 錦帆賊? と問い返すと、長江で最も強い力を持つ江賊、と蘇飛が教えてくれた。

 

 先行隊を編成する途中、甲板で梨晏と二人きりになった際に「喜媚は大丈夫かな?」と呟いた。

 大丈夫だよ、と梨晏が答える。

 

「一刀が思っているほど喜媚は柔じゃないからね」

 

 山越に豫章郡を襲われた時も似た感じだったし、と笑ってみせる。

 その笑顔はなんとなしに強がっているように感じられた。

 

 

 




今回、短め。時系列的には呉√でいう虎と狐の直前辺りです。
プレイし直しながら書いており、数年前の記憶と違うのがあって、ちょいちょい修正を入れてるのは内緒の話。


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間幕.丹陽戦線異常アリ

 揚州丹陽郡、対黄巾党戦線。

 揚州軍、即ち劉耀軍は賊を相手に押し込まれていた。

 この時に劉耀軍を率いる将は張英という娘であったが、この事実は決して彼女の無能を示す訳ではない。そもそもの話をすれば、今の劉耀軍には黄巾党と戦えるだけの強さがなかった。理由は幾つか考えられるが、その中でも最たるものを挙げるとすれば、それは練度の違いにある。つまるところ劉耀軍には正規兵と呼べる存在がほとんどいなかったのだ。

 

 後漢末期、揚州の地において、兵力を持つのは豪族であった。

 温暖な気候の為、冷害の影響で大陸北部から食料を求めて南下する民草を保護したのは揚州と荊州にある地方豪族であり、民草は食料を得る代わりに豪族達の奴婢として労働力を提供した。また司隷から遠く離れた辺境の地である揚州では、朝廷の影響力が弱く、豪族による自衛手段として奴婢達は兵力として活用されることが多かった。自分の身は自分の身で守る為に豪族は自らの奴婢に訓練を施しており、彼らが持つ兵は官軍に勝るとも劣らない実力を持つようになった。

 その為、揚州における戦は如何に豪族から兵力を借り受けることができるのか、に尽きる。

 

 とはいえ、劉耀。つまり喜媚(きび)は戦下手として知られていた。

 ましてや喜媚は朝廷から派遣された刺史であり、地元の豪族にとっては外様の人間である。そんな彼女に虎の子の兵を貸したくないと考えるのは人情というもの、ましてや呉郡には地元の英傑であり、大陸随一の戦上手の孫堅が居るのだ。地元の豪族達がどちらに手を貸したいと考えるのか、それは火を見るよりも明らかであった。

 おかげで張英が率いる劉耀軍の九割以上が民草からの徴募によって集められた兵卒で構成されており、まともに訓練も付けられないまま実戦に投入されている。賊とはいえ、今や大陸全土を揺るがす黄巾党の陣容は幾度と戦いを乗り越えてきた古強者だ。その練度の差は察するに余りある。

 最早、張英には時間を稼ぐこともできなかった。

 

 

「まーじでー、これちょっと信じらんないんですけど〜?」

 

 鎧袖一触とは、正にこの事だ。味方陣形が抉るように打ち砕かれている。

 幾度と官軍相手に戦ってきた黄巾党の将兵の実力は最早、熟練兵の域に達しており、農民に剣を持たせただけの軍勢では太刀打ちできなくなっていた。それでも相手は真正面から突撃してくるだけの無能集団、策を弄すれば時間稼ぎ程度はできると思ったが――充分な訓練を受けていない兵では命令の伝達が遅く、大半が命令を理解してもくれなかった。だったらもう真正面に兵を並べて敵にぶつけるしかないのだが、それをした結果が目の前の惨状である。

 うわっ……私の兵卒、弱すぎ……?

 こんな惨状であっても無双の英傑が一人でも居れば、最前線で槍を振るうだけで持ち堪えられるのだが――残念ながら揚州郡でそれができるのは太史慈だけだ。そもそも私は地元の名士である親の七光りで武官に取り立てられた人間である。書類仕事とかマジ勘弁なんですけどー、ってことで回された部署になるが、これはちょっと想定外。そもそも私は優秀な副官でも見つけた後、後方勤務でぐうたらと副官に仕事を押し付けられたら良かったのだ。

 なのに前線の将が不祥事や、敗戦の責を取り続けた結果、こうして前線に駆り出されたのである。

 

「あーもー、やーだー。お風呂にはーいーりーたーいー! 髪はパサパサだし、爪の手入れもできてないしー!!」

「ちょ、張英殿。そんな大声で言われては……」

 

 さほど優秀でもない副官に窘められながらも愚痴が止まらない。

 

「私の人生設計では揚州刺史の劉耀配下になれただけで勝ち組だったんだけどなー?」

 

 何処で人生を間違えた、と思わざる得ない。

 ともあれ今回の戦は終了。敗北確定の戦いを続ける必要なんて何処にもない。そもそもだ、初陣の兵士が半分を超えている時点で勝ち目なんてなかったのだ。となれば、とっとこ逃げるに限る。それで敗戦の責を問われるのであれば構わない、こんな危険な場所から逃げられるのであれば大歓迎だ。副官に撤退の指示を出して、全軍が散り散りに逃げ出したのを確認してから馬の腹を蹴った。尻尾をくるんと巻いて、さっさと逃げる。唯一、正規軍とも呼べる太史慈配下の将兵が「殿は任せろー!」と言ってきたが、やめてください。敵の追撃で私が死んでしまいます。率先して死にたがる狂戦士の首根っこを掴んで、戦場から脱兎の如く逃げ出した。

 太史慈ったら早く帰って来なさいよ! と泣き叫びながらだ。

 

 

 結局の話、喜媚(劉耀)が戦下手なのは現場を知らな過ぎるところにあった。

 生まれつき病弱であった喜媚(きび)は子供の時から屋敷の外に出ることは少なく、朝廷でも執務室で引きこもるように書類処理に追われていた。その為、現場を知らずに育った彼女は、書面上の数字には強いが数字の質という点においては盲目的に見えていなかった。兵卒の数は揃えた、準備期間は与えた。兵糧と物資は送った。書類仕事を得意とする関係上、兵站という概念を重視していた彼女ではあったが肝心の現場については何も知らなかった。報告書には、作戦は滞りなく進行している。という文字列を信用し、必要な物を必要な場所に、必要な分だけを送ることに徹していた彼女には現場の惨状を想像できない。数字を見ている彼女に自軍の弱兵っぷりを推測することはできない。敗北した、という報告を聞く度に頭を悩ませて、時には現場が悪いと決めつけては将を立て続けに罷免することもあった。しかし改善できない、敗北を積み重ねる。彼女には敗北の理由が分からなかった。

 そんな最中、今回もまた前線からの報告書を受け取ると、今回もまた駄目だったよ、と寝台の上で吐血する。

 

「……ん?」

 

 しかし報告書の内容は何時もとは少しばかり違っていた。

 

 ――我が軍は負けるべくして負けた。

 

 口元の血を拭いながら報告書を睨みつける。

 送り主の名は張英。元々は後方支援を務めていた武官であり、近頃、最前線の将として抜擢された若者だった。「私は悪くないしー。っていうかー、なんていうかー、うちの御主人様って無能すぎなーい?」という張英の鬱憤を晴らす、目一杯の皮肉を込めた一文は喜媚の心を射止めた。それが例え、当人の望むものでなかったとしても喜媚を動かすことになった。喜媚は思考する。今すぐに呼び出して、我が軍の敗因を知りたい。しかし黄巾党に侵略を受ける今、それをしているだけの時間がなかった。考える。このままでは、また負けることになる。しかし打ち合わせをする時間はない。この状況下においてはもう、敗北は決定付けられているようなものだ。なら状況を変えるには博打を打つしかない、顔も人柄も知らない将に賭け金を積み重ねることはできるのか? いや、もう他に手はないのだ。私が考えたところでもう敗北は覆せない。

 負けて元々、勝てば儲けもの。職務放棄にも近い諦観の末に決意し、覚悟を固めて書を送り返した。

 

 ――必要な物があれば全て用意します、貴方の軍略に揚州を委ねます。

 

 人はそれを丸投げと云う。

 

 

「……つらたん」

 

 土埃だらけの髪を揺らしながらポロリと零す。

 両手に握られた書状は我が主君、劉耀からのものであり、中身は丹陽方面軍における全権委任状であった。いやいや待て、と。待ってよ、と。誰か止めなかったのか、と。張英は頭を振って、二度、三度と書状を読み返すが内容が変わることはなかった。貴方の軍略に揚州を委ねます、とか書いてあるけども軍略なんて何も持ってない。私の御主人様ってそこまで無能だったの? むしろ、節穴? 墓穴でも掘ってみます? 辛辣な言葉が脳裏を駆け巡るが、自分のやる事には変わりない。どうせ特別なことなんて何もできないのだ、と開き直った。ここから逆転することは不可能。もし仮にそんなことが出来るのだとすれば、それは数多の敗北を積み重ねた先にある。

 あーもう、と手入れを怠って荒れてしまった髪を掻き毟り、ボサボサの頭で覚悟を決めた。

 

「ふふふ……実戦に勝る経験なんてない……徹底的に嫌がらせをしてやるっすよ…………」

 

 こうなったら敵も味方も地獄の道連れにしてやる、と決意を改める。

 フゥーハッハァー! 前進だー! 遅滞戦闘だー、遊撃戦だー!

 こうなったら大陸史に残る領域で敗北を積み重ねてやる!!

 

 



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間幕.常敗将軍

 連戦連敗の戦場において、最も大事なのは士気の維持だと云われている。

 そうしなくては戦い続けることすら困難であり、兵達は死を恐れて逃げ惑うだけだ。彼の有名な高祖、劉邦はその人柄で縁を繋ぎ止め、主に士気高揚としての役割を担っていたのだろう。だが、この過酷な丹陽戦線においては士気高揚の必要ない。

 今日も元気に敗戦した劉耀軍は、適当な場所に集合し、私こと張英が音頭を取る。

 

「みぃーんなー、ご飯の支度ですよー?」

「ちょーえいちゃーん!!」

 

 部隊別に分かれた兵達は配給の食材を受け取ると、戦よりも手馴れた動作で食事支度を始めた。

 無理に士気高揚させる必要はない。何故なら、今は未曾有の飢饉なのだ。黄巾党に土地を踏み荒らされた彼らには明日を生きる糧もないが、兵站を知る劉耀からの補給が途絶えない揚州軍に所属していれば戦には負けるがまんまは食える。確かに戦さは怖いが逃げ出せば、今日の御飯にありつけない彼らには戦う以外に道がなかった。それでもまあ最初は一万も居た兵卒は数を減らして、五千にまで落ち込んでいるが――それでもなお残る将兵は数多の敗北を乗り越えた古強者だ。一日三敗北は当たり前、一日八敗北の時もある。揚州軍にとって引き分けは敗北のし損ない。時には奇襲成功で敗北も、一回の小競り合いで三回敗北する時もある。色々とおかしな文章が飛び交っているが、揚州軍にとっては当たり前の戦歴だ。敗北が当たり前になり過ぎて、黄巾党と引き分けた時は兵達が挙動不審になって士気が落ちたので敗北という事になったこともある。報告書には予定通りに負けました、という内容のものを既に五十通程度は送っている。

 それで付いた渾名が常敗将軍、如何に大陸広しと言えども私ほど敗北を経験した将はいるまい。いや、なんでまだ指揮官やっているのか分かんないけど、気付けば敗北時の損耗率が一分(いちぶ)を切っていた。一割ではなく、一分だ。それも復帰可能の傷病者による損耗である。

 勝利が知りたい(切実)。

 野営慣れした逞しい敗残兵諸君は意気揚々と木を切り倒して、自ら寝る場所を組み立てる。暇を持て余した将兵が山で鹿や猪を狩り、それを同胞達へと振舞ったりもしている。この姿を見ていると敗北慣れをし過ぎて、気落ちしている様子がないように見えるが――決して、鬱憤が溜まっていない訳ではなかった。

 彼らとて揚州の民草、中には丹陽郡の民草も多く加わっている。

 そんな彼ら、彼女らが黄巾党なる者達に地元を荒らされて良い思いをしているはずがなかった。揚州軍は鬱憤を溜めている、それが爆発しないのは太史慈配下の将兵が一度、新参兵を叩き伏せたことがある為だ。俺達にも勝てないのに数の多い黄巾党に勝てるはずがないだろう、と言い聞かせて、今は力を蓄える時だと身を以て理解させられている。

 そして、明日もまた敗北を重ねる為、戦いに出向くのだ。

 

 夜分遅くの仮設宿舎にて、灯台の明かりを頼りに地図を睨みつける。

 雑に書かれた丹陽郡の城都と主な街道、その中で北部にある城都のほとんどにバッテンが付けてある。これは黄巾党に落とされた城都を示しており、丹陽郡にある全十六城の内七城、北から江乗県、句容県、湖熟侯国、秣陵県、石城県、丹陽県、溧陽県が今までに占拠されたことを意味する。その全ての城都で私達は防衛戦に参加し、進軍経路で襲撃を仕掛けては撤退を繰り返し、その数は五十を超える。数だけで云えば、歴戦の勇士だ。

 しかし、それももう終わりが近付いている。

 次の戦いの場は蕪湖県、丹陽郡を横断する河に隣接した立地。この地を落とされると丹陽郡にある平原地帯の大半が黄巾党の手に落ちる。つまり丹陽郡を防衛し続ける実益が失われる。主君の劉耀は良くも悪くも現実主義者だ、名分があっても実益が失われては全軍の撤退を決めてしまう可能性がある。それはそれで構わないのだが、それでは今、自分に従ってくれている兵達が納得しないはずだ。勝つにせよ、負けるにせよ、一度、真正面からぶつかる必要があった。無闇に兵を減らす訳にもいかなかったので大きな被害を出さない内に撤退を繰り返してきたが――果たして、勝つことはできるのか。

 溜息吐いて、頰に手を当てるとカサッとした肌触りがした。

 

「肌荒れが酷い……もうやだなー。早く、お風呂入りたいなー……」

 

 乾いた笑い声を零しながら鑢で爪の手入れをする。

 これはもう精神安定剤のようなものだった。

 

 

 五十回にも渡る戦によりて鍛えられた兵達は、官軍の精鋭に見劣りしない機敏な動きを見せる。

 歩兵の働きの五割は走ることにあり、残る三割は野営といった陣地構築。そして一割五分は食事を作り摂る、といった生命活動に費やされる。戦働きは一割にも満たぬ五分程度の功績だと揚州兵は度重なる戦により理解させられていた。故に彼らはよく食べて、よく寝て、遊ぶ時は遊ぶことを心掛ける。その精神性は戦場であるにも関わらず、比較的ではあるが精神を健全に保ち続けていた。

 人が人を殺すことが当たり前の世界に放り込まれても、彼らは必要以上に悲嘆せず、ある種の諦観を以て戦場を見据えている。戦、そして戦、また戦。繰り返し行われる戦は彼らにとって日常に近いものになりつつあった。決して勝利することはなく、当たり前のように死線を超えて、当たり前のように修羅場から脱する。その事に慣れてしまった、それはもう彼らにとって特別ではなかった。だから今日もまた彼らは笑って、戦場に赴き、当たり前のように敗北して生き残るのだ。

 今、揚州軍に残っているのは百戦錬磨の敗残兵である。

 

 

 後世、丹陽の戦いとも呼べる戦はどのような評価を受ける事になるだろうか。

 此度の戦で劉耀が評価されるとすれば、奇襲、防衛、遅滞、遊撃といった五十以上もの戦に耐え得るだけの物資を前線に送り続ける事ができた点にある。では私はどうだろうか。後世に兵卒の質なんて分かるはずもない。ただただ敗戦を繰り返す私は無能な将として後世に語り継がれるに違いない。例えば、折角の水軍があるのだから河を使って翻弄すれば良かった、とか。そんな運用ができるだけの練度を持つ水軍がいないことを知らない者の言い分だ。

 蕪湖県、丹陽郡北部における最後の要所。此処を抜かれては世間から丹陽郡は黄巾党の手に落ちたと認識される。そうなると出てくるのは呉郡太守、孫堅。この地の攻防は丹陽郡の覇権における分水嶺、初めて敗北が許されない戦いになる。勝たなくてはならない。防衛戦ではなく、野戦にて分かりやすい勝利を求められた。

 正直、前線の勝ち負けなんて私の関係ないところで勝手にやって欲しかったんだけどな、と大きく息を吐き捨てる。

 

 政治は面倒臭い。云ってしまえば、政治なんて人間関係の延長線上にあるものだ。

 それが必要なことは理解できるが、それに巻き込まれることは御免だった。しかし社会人足る者、そういう(しがらみ)は少なからず存在する。それは人が俗世で生きる以上、仕方ないことだ。まあ上に戦えと言われたし? と諦観に浸かり切った頭で目の前できっちりと隊列を組んだ四千の軍勢に号令を掛ける。みんなー、行くよー。と鼓舞もせず、雑に進軍を促した。

 敵は今まで私達を悉く蹂躙してきた黄巾党。緩慢な動きで展開される敵陣に初戦以後、二度目となる正面衝突を決行する。

 

 鎧袖一触? ――それはない。

 

 幾度の敗北を積み重ねて、鍛え上げた兵は実力を付けている。

 こちらに動きに反応して仕掛けてきた黄巾党の勢いだけの初撃を受け止めてくれた。しかし地力で負けているか、それとも単純に数の差か、一万に膨れ上がった賊徒を相手ににじりじりと押し込まれる。それでも皆は堪えてくれている、此処から先は根気がものを云う戦いだ。不安要素はある、それは揚州軍にとって粘り強く戦わせるのは、これが初めてという点だ。だから私は真正面からごり押してくる相手に、冷や汗を流しながら笑みを浮かべる。ここで私が動揺しては戦線が崩れる可能性があればこそ強がってみせる。

 適当で良いのだ。興味なさげに、どうでも良さげに、戦場を見つめていれば良い。

 

「そろそろっすねえ……」

 

 ポツリと呟いてから数分後、千の兵卒が敵後方を横殴りに襲い掛かった。

 揚州軍に水軍はいないと言ったな、あれは本当だ。敵を翻弄できるほどの練度を持った水軍は存在しない。しかし、千の兵を敵後方まで送ることくらいはできる。所詮、敵は賊風情。つまりは烏合の衆、まとめている将を討ち取れば、統率を維持することは敵うまい。

 不意を突いた背後からの一撃は面白いほどに黄巾党を蹂躙した。笑いが止まらないっすね、と笑みを浮かべた――直後、ひやりと背筋に冷たいものを感じ取った。何かが変わった。前を見る、味方が蹂躙されていた。黄巾党の一部隊が釘を打ち込むように揚州軍の戦列を穿っていた。その戦闘に立つ者は黄色の頭巾を真っ赤に染めながら前だけを見据える。

 あれが敵将か。瞬間、ゾクリと体が震えた。

 視線が交わる、敵将が私を捉えた。血飛沫が上がる、真正面に私を目掛けて、剣を振り回していた。腕が飛んだ、首が飛んだ。胴が真っ二つに両断される。正しく血路を開くという勢いで揚州軍を蹂躙する。そんな彼らを追い立てるように敵陣後方を突き進む千の将兵、これはどうなる? 強がりで浮かべた笑みが引き攣った。

 見入られていた、目を背けることができない。濃厚の殺意が私一人に向けられている。

 膝が震える。一歩、また一歩、敵将が一歩、前に歩く度に誰かが死んだ、血飛沫を上がる。一切の慈悲なく、容赦があろうはずもなく、命が刈り取られる。ただ一人、私の命を目指して歩みを続ける。彼女らの背後から千の軍勢が彼らを蹂躙する。追いし追われる者は私の命に手を伸ばし続ける。その執念に、怖気を感じた。恐怖を感じた、狂気を感じ取った。

 気づけばもう目と鼻の先に彼女らが居た。

 

「貴様が大将だな」

 

 その底冷えする声は地獄から告げられたかのようだった。

 

「よし、死んどけ」

 

 答える間もなく振り被られた剣に、あっこれ死んだかな、と思った。

 時が引き延ばされる、今まで生きて来た過去が脳裏に駆け巡り――ガキッという金属音と共に時間の流れが元に戻る。尻餅を着く、目の前には太史慈配下の一人が敵将の剣を受け止めていた。

「此処が死に時ですな!」とカラッと笑ってみせて、敵将と対峙する。

 

「殿は任せろーッ!!」

 

 他の者に引き起こされ、そのまま後方へと引き摺られて馬に乗せられた。

 太史慈配下と敵将が打ち合う姿が小さくなるのを見つめて、そして、首が飛んだ。

 黄巾が風に揺れる。敵将は首を失った胴を押しのけて、私を睨みつける。

 

「逃げるな、お前が大将だろ! 戦え、そして潔く死ねッ!! 生き恥を晒してでも生きたいかッ!?」

 

 もう後ろを振り返る気力すら湧かなかった。

 

 負けた、完膚なきまでに負けた。

 敵後方を攻め込んでいた千の軍勢は黄巾の中に埋もれて、四千の軍勢は散り散りにされた上で蹂躙されている。嗚呼、負けてしまったのか。あまり実感が湧かなかったが、負けてしまったことだけは強く理解できた。死ぬ、皆が死んでいく、この一ヶ月余り、苦楽を共にした仲間達が皆、死んでいった。このまま私に何処へ逃げろというのか。生き恥をどうとか思うほど、私には自尊心がない。ただ、どうしようもない程に、嗚呼、終わった。という感覚だけがあった。

 気付けば、川辺に辿り着いていた。そこには用意していた船の他、見知らぬ軍船があった。

 

 身も心もボロボロになった体を受け止めてくれたのは、

 

「……よく頑張ったね」

 

 この敗戦続きの状況で、ずっと待ち焦がれていた存在だった。

 

「……シギーッ! 私……私は…………ッ! みんなを……!」

「もう大丈夫、後は私に任せて」

 

 彼女は優しく笑って、後ろに下がるように促した。

 その恵まれた体躯で戦場を見つめて、片手に持った偃月刀で周囲を薙ぎ払った。

 風が吹いた、土煙が舞った。

 筋肉質の逞しい背中は、見る者全てに活力を与える。

 彼女の存在そのものが生きる希望だった。

 

「我が名は太史慈、今より友軍を救う為に出陣するッ!!」

 

 揚州軍が誇る英傑が今、戦場を駆ける。

 

 

 



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