大海を統べる (茂上軒二)
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第1章 黄昏
第1話


 

 壁面に設置された小型スクリーンに、わずかに老いの影が見える男が映し出されている。男は、つつましく贅のほどこされた椅子に座っており、そのウェスト・ショットの左腹部の辺りには、帝国公用語と旧同盟語による字幕が付されていた。男のいる場所は、彼の居住空間であるのか、その部屋の壁には旧帝国の軍服と、新帝国の軍服とが仲睦まじそうに並んでいた。

「私がリッテンハイム侯による“攻撃”を受けて重傷をおったとき、かの赤毛の提督があらわれたのです。彼は私の乗艦に——」

 スクリーンという彼の独占する場において、コンラート・リンザーと名乗った男は、そう語っている。

 その姿を、注視といかないまでも見つめる女性の姿があった。目立たないがたしかな気品を思わせる金髪と、和氏の璧という数千年前の故事をわざわざもちいてそのうつくしさをたたえられる、ブルーグリーンの瞳をもつ彼女は、新銀河帝国に居をかまえるものならば、だれもがその顔を知悉している。

 ヒルダことヒルデガルド・フォン・ローエングラムは、コンラート・リンザーの饒舌を見ながら公事用の礼服に着かえ、そして執事の報告を聞くという、みっつの仕事を同時にこなしていた。そしてその聴覚と視覚から脳を刺激する情報のことごとくを、あますところなく把握しているのである。彼女の脳髄は、彼女自身が全盛と認める十数年前と、いささかも変わりがないように見える。しかし、皇妃ヒルデガルド・フォン・ローエングラムとして彼女を知った者はその限りではないが、皇妃となる前の彼女を——ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフとしての彼女を知っているいくばくかの者にとっては、その刃のような鋭さにわずかな刃こぼれを、理性ではなく本能で悟ることもあった。

 “獅子帝を想う”と題された連続のテレビプログラムは、故ジークフリード・キルヒアイス大公の章にさしかかるにあたり、銀河における視聴率を五割以上にのばしていた。これは民間の放送局が制作したもので、帝室や新銀河帝国政府は、取材は受けたが協賛や補助金等を施したわけではない。それなのに——このプロパガンダ性はどうしたものか、とヒルダは思った。むろん、ところどころに懐かしさを感じる情報はあるが、彼女がマリーンドルフの姓を名乗っていた頃の経験は、あらゆる点で、テレビプログラムで語られる情報を凌駕していた。

 キルヒアイスがリッテンハイム侯を打倒する終末として、ガルミッシュ要塞を陥落させたところで、コンラート・リンザーの話は終わった。その頃、私はなにをしていただろうか。時の元帥からマリーンドルフ家の財産と栄達を公文書によって保障され、旧都オーディンにてその庇護者たるにふさわしい人物を待ち受けていたはずだ。その時の私には、不安など露もなかった。ただ騒がしい未来への期待と、自身の才覚とを両翼にして、銀河へと羽ばたきたい。その憧憬だけがあったのだ。

 姿見に自らの全身をうつし、その頭の先からつま先までを確認する。そこには、いささかの服装に乱れのない、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの姿があった。しかし、いくら服を着かえたところで、彼女自身は獅子帝の皇妃と、新銀河帝国摂政という衣を脱ぐことはできないのだ。その衣は、銀河を圧すほどの重さで、彼女のヒルダとしての過去と内面を、たしかに疲弊させつつあった。

 その疲労を思う時、彼女はかつての自身の庇護者であり、上司であり、そして夫であった青年の姿を脳裏に浮かべずにはいられない。神からの恩寵を一身に受けた絵画的美しさをもつ肢体、暁闇を切り裂く光条のごとき金髪、眼差しを受けた者を時に凍てつかせ、時に服させる蒼氷色の瞳。彼にしても、新銀河帝国初代皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムにしても、この疲労に頭を抱え、明るい過去と暗い未来の両方に心を砕いていたのだろうか。

 いいえ、それは違う。彼女の自問は続く。あの方は、疲れではないべつのものによって蝕まれ、そして斃れたのだ。孤独という名の蛇によって。

 しかし、私は孤独ではない。なぜなら——。

 彼女の大脳を舞台とした議論に、解決によるものではない終止符を打ったのは、部屋の扉が叩かれる音だった。彼女は自分を呼ぶ声に返事をすると、最後にスクリーンを見やった。

 ひとつの大きな石がある。それはだれかの墓で、それに刻まれている文字を、彼女は知っている。それはひとつの称号である。銀河において、ほかのだれもが手に入れることができなかった、みっつの称号の一つ。わが姉、わが妻、そして——わが友。

 スクリーンには、変わらずに二つの言語による字幕が付され、故人の偉業がたたえられていた。その字幕の隙間から、供えられた花が見える。大きく開いた蘭と、彼の髪と同じ色のバラである。

 彼の墓は、依然オーディンにある。ラインハルトの墓は、熟議の結果、首都星フェザーンに置かれていた。だから、ジークフリード・キルヒアイスの墓は、彼のための墓以外のなにものでもない。だれかによって手入れが施されているのか、墓石はかつてヒルダがそこを訪れた時のままであった。

 スクリーンを消すのに、何の感慨もわかなかった。手にしたコントローラーをデスクに置き、ヒルダは立ち上がる。

 部屋を出、長い廊下を歩く。後ろには、執事ほか数名の親衛隊が、彼女を凶弾から守護せんとしている。すくなくとも、からだの外からやってくる脅威に対しては、彼女は安心していた。自分の身を守るすべは教科書の通りおぼえており、そして親衛隊の実力は、前の親衛隊長のころからいささかも変わっていないのである。

 廊下の先からは歓声が聞こえ、それは一歩すすむごとに大きくなってゆく。彼女が廊下の果てへと辿り着き、不意に開けた視界には、数万人の群衆が、さまざまに声をあげていた。

 フェザーン中央公園の中心、新銀河帝国第一体育館は、首都星第一のスポーツ・イベントの祭場であり、ひるがえって銀河第一のイベント・スペースである。フライングボールの宇宙大会も開催されるこの施設の中央には、この二週間だけ特別なステージと立体スクリーンが置かれ、それを取り囲むように人々は声をあげていた。

 宇宙艦隊のモジュールをもちいた仮想模擬艦隊会戦。今日から始まるイベントはそれである。競技者は、軍の未来を担う、新銀河帝国幼年学校と士官学校の今期卒業者である。幼年学校の部と士官学校の部にはそれぞれ一週間ずつが与えられ、全日程二週間のうち前半が幼年学校にあてがわれる。今日は、幼年学校の部の初日であり、ヒルダはその天覧のために出席したのだ。士官学校の部でも、それは同様であり、ヒルダは幼年学校の部の閉会式と、士官学校の部の開閉会式の、合計四回はここに足を運ぶ必要がある。

 もっとも、彼女の関心は、こと幼年学校の部に払われていた。いや、彼女だけではない。旧銀河帝国と自由惑星同盟の滅亡、そして新銀河帝国の成立における動乱期を生きた軍人にとっては、この仮想会戦は、ある意味では待ちに待ったイベントであるかもしれないのだ。

 幼年学校の部の仮想会戦では、二つのチームにそれぞれ一万艦があたえられ、チームリーダーには幼年学校の成績一位と二位がわかれる形で据えられる。それぞれのリーダーは、幼年学校最終学年の一年間を通して、同期生を選んで部隊を編成し、戦線を構築する。むろん、一兵卒まで生徒でかためるわけにはいかないから、チームリーダーを大将相当とし、その下に新銀河帝国の組織図にのっとった、体系的な組織を構築することになる。こうして、比較的じっさいの会戦に近い模擬演習が可能になるのだ。

 ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの座したとなりには、おさまりの悪い蜂蜜色の頭があった。帝国主席元帥をあらわす赤いマントは、この日のために新調したのか、やや彩度がつよく感じられた。

「元帥、シャツがはみでておいでですよ」

 あわてて腰回りを確認した彼の名は、ウォルフガング・ミッターマイヤーといい、新銀河帝国が誇る才英の粋である。

「おたわむれを」

 むろん品行方正で清廉な彼である。シャツはおろか、身だしなみには乱れひとつない。

 かつて戦場でもっともおそれられ、そして勇気と不動の心を人のかたちにかたどった彼であっても、今日だけは凡庸なひとりに見える。

「エヴァ殿は、どちらへ?」

 彼の夫人の姿がないので、ヒルダは凡人に問うた。彼は凡人らしく右手で頭をかくと、柔和にほほ笑んだ。

「妻は、家でこの模擬会戦を見るようです。いつ息子が帰ってくるかわからないから、と」

 通常なら、この模擬会戦は一週間ちかく続く。初日からこれか、とヒルダは内心苦笑せざるをえない。

 会場が沸いた。競技者の入場である。となりの凡人が、さらに背筋を伸ばすのが、はっきりとヒルダにはわかった。

 三百人ほどの競技者の先頭には、艶やかな黒髪をたずさえた、青色の瞳をもつ精悍な青年が歩いている。彼の視線はこちらにむかって注がれており、それが果たして、自分に向けられているのか、彼の父のためのものなのか、ヒルダには知るすべがない。

 とにかく、その少年——フェリックス・ミッターマイヤーの姿を見るとき、ヒルダは次の年の我が子を思わずにはいられない。来年は、あの子もあそこに立ち、そして私は凡人になる。

 ヒルダは、そっと瞼を閉じた。ひとりの少年が、彼女の瞼裏に輪郭を結ぶ。顔こそ母によく似ているが、黄金の髪と蒼氷色の瞳には、たしかに獅子の遺伝子を感じさせる、至尊の少年。

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。いまは遠く、銀河のどこかにいるだろう。来年には幼年学校を卒業し、そしてこの場に立つ。チームリーダーなぞでなくてもいい。ただ元気に、だれか友を連れて、そこに立ってくれればいい。

 彼女は自らが凡人になってしまう前に眼を開け、開会スピーチのために立ち上がった。

 

 

 ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの開会スピーチが終わると、カール・エドワルド・バイエルライン上級大将艦隊旗艦ニュルンベルグの艦橋は、しばしのあいだ心地よいしじまにつつまれた。艦橋には、動力部その他操艦に必須となる諸機関に配されている乗員をのぞいた、すべての乗組員が整列している。成文化されたきまりはないものの、これは帝室のスピーチを拝聴する際におけるバイエルライン艦隊の通例となっていた。

 整列者のなかには、バイエルライン付きの幼年学校の生徒も含まれており、この艦には二人が配属されている。この二人は、模擬会戦の中継を気にしながらも、バイエルライン上級大将の一挙手一投足にも眼を向けなければならないという、難事業の最中であった。じっさいに模擬会戦を行っているのは、彼らの一年年長者であり、憎悪の成分をごく微量にふくんだ敬愛を向けるべき相手であり、そして彼——アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムにとっては、得難い友であった。

 ヒルダのスピーチの後、艦橋スクリーンには、いつものように艦前方にひろがる星海が映し出されていた。アレク様はその海に母のおもかげを探しているのではないか。バイエルラインは、少年の蒼氷色の瞳が、名状しがたい光をはなっているのを感じていた。

 バイエルライン艦隊は、担当区をもたない遊撃艦隊であり、その任務は各管区の巡回警備にくわえ、区を担当する部隊の綱紀粛正にある。むろん、統一から十数年の新銀河帝国には、多少の反発はあるものの大きなほころびはない。しかし、その保たれた統制には“まだ”という副詞をつけるべきであり、未来においてさらにどのような接頭辞が付されるのか、バイエルラインには予測ができない。彼の任務は、その不吉な接頭辞を未然に取り除くことでもあるのだ。

 明文化されたルールではないから、解散の号令もない。たいていは、各員が持ち場に戻るか、次の指示を出すので、整列はそれによって自然に解除される。幼年学校生に対しては後者なのだが、バイエルラインはそれが行えずにいた。スクリーンを凝視する蒼氷色の瞳。そしてそれが訴える言葉が、痛いほどにわかるからだ。母であるヒルデガルド・フォン・ローエングラムを呼ぶ訴えではない。むしろその瞳が映すはずであったのは、その後に模擬会戦を行う、フェリックス・ミッターマイヤーの姿であろう。ダークブラウンの髪に、大気圏上層の色をした瞳をもつ少年。バイエルラインは、彼の父に薫陶を受け、そして上級大将にまでのぼりつめたのである。彼も彼なりに、一万艦のモジュールの大軍を率いるわが師の息子が、気がかりであるのだ。

「フランク・ドレイク」

 彼はもうひとりの幼年学校生に声をかけた。小気味よい返事がして、黒髪の少年が直立する。

「きみたちは、すでに昼食を終えただろうか?」

 むろん、部下のタイムスケジュールを把握していない彼ではない。冗談の成分を多量にふくんだ問いかけであった。

「いえ、まだです」

「では、君たちにはこれより一時間の休息を与える」

「一時間後には、昼食の時間になりますが」

「そうだな。つまり、昼食の時間を一時間のばすと言っている」

 ドレイク少年が敬礼をした。それに続いて、黄金の髪の少年が敬礼をする。バイエルラインはふたりの背中を視界の端で見送り、ニュルンベルグのシートの深く座り込んだ。

 もし、スクリーンを凝視する少年が、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムでなかったら。幼年学校の卒業と同時に、士官学校に進むでもなく、准尉となって赴任するでもなく、正式に皇帝の座に就く至尊の存在でなかったら。自分は、ドレイク少年の助力なしに指示を与えただろう。

 ミッターマイヤー元帥が見たら、失望するにちがいない。バイエルラインは、自嘲によって自らの自尊心に傷をつけようと努めた。彼の師、ウォルフガング・ミッターマイヤーは、幼年学校校長として、また主席元帥として、アレクの幼年学校入学時、全校および全軍に彼を特別扱いしないように厳令を発した。それをじっさいに遵守するのは困難のきわみにあり、ことに彼の父をよく知る者にとっては苦行ですらあった。

 バイエルラインは、主席元帥に直々に指名され、現在アレクを預かるに至っている。彼もまた、苦行をこなす修行僧のひとりであった。むろんアレクの成長を見守るのは至上のよろこびであったが、正しく成長させる責任は自分が負っている。そのことは、彼の精神を高揚させもしたが、同時に胃を痛めもした。

 ともかく、と彼は艦橋スクリーンを見やった。フェザーンに帰投するまで、残り二か月である。それは、アレクと同じ艦でくらす時間と同値だった。

 

 幼年学校生の部屋には、艦の外とつながる端末はない。あるのは、最もちかい位置にある士官との連絡用の通話機、司令官からの指示を流すスピーカー、そして個人用のベッド他許可された私物がいくつかである。ベッドは一人につきひとつがあてがわれており、この部屋には、通話機ひとつ、スピーカーひとつ、そして縦にならんだベッドふたつを小世界とするふたりの少年が生活している。

 上のベッドに横たわるフランク・ドレイクは、寝相がひどく、ベッドがきしむことのない新しいものでよかったと下の住民であるアレクは思う。ふたりの少年は、突如与えられた休息を、完全に持て余していた。

「まったく、こんなことなら模擬会戦でも見せてくれればいいのによ」

 ドレイクの悪態に、アレクは心の底で同意した。母の顔を見られたのはよかったが、それ以上に眼に焼き付けたいのはフェリックスの勇姿である。『獅子帝伝・序』と表題された書物を繰りながら、彼は一歳年長の友の、艶のあるダークブラウンの髪を思い出していた。そしてそれは、書物によって脳内に現前する映像よりも鮮明で、かつ魅力的だった。

 上段で衣擦れの音がして、さかさまのドレイクの顔が現れた。彼は、体こそ幼年学校で鍛えられているが、どういうわけか顔は真円にちかい。彼を呼ぶのに、ほかの幼年学校生は名前ではなく、顔だちの特徴をもってするのは仕方のないことだと思える。しかし、いたって真面目であるのに、教官に“ばかにしているのか”と嫌疑をかけられたことがあるのは、彼の不幸を思って涙するしかない。

 そんな丸顔のドレイク少年は、その血統につよい誇りを抱いていた。彼の家系図を、二千年ちかくさかのぼれば——その時代は人類がいまだ太陽系第三惑星にしばられていた——、ひとつの惑星のすべての海を手に入れ、無敵艦隊と呼ばれていた艦隊を打ち破った海賊へとつながる。そして、彼のより近い祖先は、アーレ・ハイネセンの“長征一万光年”の随行員であり、彼自身も惑星ハイネセンでうまれた。

 しかしこの話は、生来のほら吹きである彼の性分もあって、ほとんどの者が信じていなかった。彼の祖先の来歴すら怪しむものもいて、それは以下のふたつの理由による。ひとつ、彼の家に伝わるもので、ハイネセンゆかりのものが何もないこと。ふたつ、現在惑星ハイネセンは、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンを主席とする共和自治政府が治めており、そこは軍隊も保有していることから、ハイネセン出身者が新銀河帝国幼年学校に入学してくるのは道理に合わないこと。前者に関しては、数百年前の人物にゆかりのある品物など、平凡な小市民家庭にあるのは考えにくく、もしあったとしても博物館行であろうから、反論の余地は大いにある。しかし、後者に関してはなかなかの説得力をもち、そのことについて問われたドレイクは、珍しく何の言葉も持ちえなかった。ハイネセン出身の幼年学校生は、ドレイクがはじめてであるといううわさも聞いたことがある。

 だが、彼の名誉のためでなく、自身の印象に基づく見解を述べれば、ドレイクの話は本当であるとアレクは思っていた。なぜなら、彼は彼の顔とその性分いがいのことでそしりを受けていたことはなかったし、なによりアレクが彼を好いていたからだ。フェリックス・ミッターマイヤーを先天的な友とするならば、フランク・ドレイクは後天的な友であった。アレクは、彼のほらによって、授業がないはずの教室で先生を待ったことが何度かある。それでも、アレクは自身がどういう存在かをよくわきまえていたから、自分にほらを吹けるドレイクをなにより貴重に思っていた。

 ともかく、そんなドレイクの丸顔がさかさまにあらわれたので、アレクは噴き出る呼気を我慢できなかった。ドレイクはすこしばかり大げさに唇をとがらせてみる。

「なんだい、きみもおれの顔を笑う輩か」

 アレクとドレイクの間に敬語はない。それはアレクが望んだことで、その願いにドレイクは過不足なくこたえている。

「きみの似顔絵を、コンパスで描いたことを思い出したんだ」

 幼年学校で、一時期同級生の似顔絵を描くというのがブームになったことがあった。ドレイクの顔だけは、だれもうまく描くことができず、ついにアレクはコンパスを持ち出して彼の顔を描出しようと試みたのだ。結果としてその試行は大成功を見、めずらしくドレイクが腹を立てたのだった。三年ほど前の話であるから、すこし懐かしいような気もする。

「おまえ、輪郭だけじゃなく、顔のつくりまでコンパスで描きやがって」

「もう時効だよ」

 丸顔がいたずらっぽく笑う。この顔をした数分後には、彼はいつも先生の拳骨をくらうのだ。

「なあ、探検しようぜ。いまはほかの乗組員も仕事中だ。きっとばれないよ」

 暇を持て余したドレイクの考えそうなことなど、アレクはすでにわかっていたから、この申し出に驚いたわけではない。だが、暇なのはたしかな事実で、それをどうにかしたいとは思っていたから、その言葉は甘美なひびきをもっていた。

「だめだよ、ドレイク。中将以上の艦は、機密中の機密なんだから」

 ちぇっ、とわざとらしく大きなため息をついて、ドレイクの顔が引っ込んだ。むろん、アレクが見たいと言えば、ほかの乗組員はそれを断ることは難しく、むしろすすんで見せようとする者まであらわれるだろう。ドレイクは知っているのだ。アレクが、彼のその肩書きによって他者の意思を捻じ曲げることを嫌うのを。

 結局ふたりは与えられた休息を、惰眠をむさぼるか本を読むかで費やした。模擬会戦のようすは、なにも気にする必要はない。一万艦どうしの戦いは、ふつうならじわじわと続いていく。昨年も同じ模擬会戦があったが、それは一週間で決着がつかず、残った艦の多い方が勝者となっていた。

 昼食を終え、午後の任務も滞りなく務めた。そして就寝の一時間ちかくまえ、バイエルラインのはからいにより、士官専用のクラブルームで、クリームたっぷりのコーヒーを飲んでいたふたりは、置かれていたスクリーンを通じて、驚くべき光景を目にする。

 フェリックス・ミッターマイヤーが、大勝をもって模擬会戦を終了させたのである。

 

 

 

 開会の式典の後、それぞれの職務を終えた元帥たちは、その日の夜、“獅子の泉”の高級士官用のクラブルームで、微量の酒とともにフェリックス・ミッターマイヤーの行進について語り合っていた。彼らはフェリックスの出自を知悉しており、少年の成長を、彼の親と同等に気にかけている。

「俺はあのすました態度が気に入らんな。もっと少年らしく、緊張を見せればいいものを」

 言葉のとげと表情とに格別の差があるのは、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥である。猛攻の将の黒色槍騎兵艦隊は健在で、いまもなお銀河最強の誉がたかい。彼のオレンジ色の頭髪はやや禿げ上がり、七元帥の中で十数年後の未来を一番憂いているのは彼であろう。

「これだけの大舞台で、緊張をしないはずがありますまい。それを隠し通したのはりっぱなものです」

 ビッテンフェルトが声をかけるのは、この砂色の瞳をした青年である。ナイトハルト・ミュラー元帥は、この場にあつまった四人の元帥のなかでも年少で、また若々しい顔立ちもあって、ともすれば幼く見える。しかし、彼もまた銀河を統べる驍将のひとりであって、その守りに秀でた戦いぶりは“鉄壁”と評される。彼は短期で血の気の多いビッテンフェルトと対照的な人物でありながら、それゆえに反発もしないのである。

「しかし、父によく似ているものだ」

 この言は、“芸術家提督”ことエルネスト・メックリンガーによるものである。この発言にはさまざまな感慨があり、その特殊性も彼は理解していたため、これは独語にちかく、だれの聴覚を刺激することもなかった。ただひとり、エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥を除いては。

 “沈黙提督”の異名をもつ彼は、静かに白ワインのグラスをかたむけただけで、その視線は模擬会戦を中継するスクリーンに向けられていた。時刻は、フェザーン標準時でまだ十九時のすこし前である。

 

 バイエルライン上級大将は、航行宙域に不安がないのを確認して、部下の半数に臨時で休息を許した。これは部下が欲していたわけではなく、彼自身の興味によるものである。しかし当の模擬会戦は、旧ミッターマイヤー艦隊の半数ちかくを受け継いだバイエルライン艦隊のほぼ全員の気に掛けるところで、一刻も早くワインとともにその中継を見たいというのが全員一致した本音であっただろう。

 むろん、休息は交代しておこなわれるものであり、一刻も早い休息を得るために、定められたシフトをコイントスで勝手に変更する者もいた。これは後にバイエルラインから叱責を受けることになるのだが、それはまた別の話である。

 ともかく、バイエルラインはフェザーン標準時と同期している艦内時間十九時をもって、自らもクラブルームへ足を運ぶことに決めていた。ふたりの少年も同行させる予定であり、それは彼のささやかな越権行為でもあるのだが、それを咎める者はいなかった。

 

 ウォルフガング・ミッターマイヤーは、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムが退出した後も会場に残り続け、自分が校長をつとめる幼年学校の生徒の活躍を見守っていた——というのは三流ジャーナリストの言で、おそらくそのジャーナリストはミッターマイヤーが相当のえこひいきをする人物であることを知らない。ミッターマイヤーの関心は、彼の息子の動作ひとつひとつに注がれており、それ以外はほぼ眼中になかった。

 そのことを知っているのは、ミッターマイヤー自身と、その右に座るアウグスト・ザムエル・ワーレン元帥だけであっただろう。ワーレンは、職務の後にクラブルームではなくこちらに駆けつけていた。ワーレンは、士官学校の校長を務めており、今年度の幼年学校の卒業生の下見に来ていた。士官学校への進学は希望制だが、幼年学校を卒業したもののほとんどは進学を希望する。ワーレンにとっては、次に来る生徒にどのような者がいるのかを知る、いい機会であった。

 ワーレンの好むアナログ時計の短針が七を刺したころ、彼の左手側から、嘆息に似た独語が聞こえてきたのを、ワーレンの耳殻はあまさずとらえていた。

「フェリックス、おまえ……」

 声は、“疾風ウォルフ”のもので、それは十数年前の彼の全盛を思わせた。凡庸な父親の声ではない。間違いなく、銀河を蹂躙しつくした覇者のものである。ワーレンは、背筋の凍る思いがして、あわてて会場中央のスクリーンに眼を向けた。

 このとき、ウォルフガング・ミッターマイヤーは、彼の息子の用兵と、その用兵によって示される心理的意図を正確に看破していた。そしてその意図を思う時、彼の脳裏にはひとりの青年の姿が、十数年の後になっても姿かたちのかわらない、フェリックスとおなじ髪の色、おなじ色の瞳とちがう色の瞳をもつ友の姿が、はっきりと結ばれている。その名と顔を知らぬものは、この宇宙にはいない。どの学校の歴史の教科書に、必ず載っている、新銀河帝国唯一の反逆者。オスカー・フォン・ロイエンタールは、ミッターマイヤーの脳髄の中で、彼にその傲岸な笑みを投げかけるのである。

 ロイエンタール。ミッターマイヤーは、彼の名を、彼が生きていたときのように呼んでいた。あそこにいるのは、間違いなく卿の子である。フェリックスがミッターマイヤー家の息子と名乗るのは、彼の名誉ではなく、俺の名誉である。彼は、彼自身の才覚と努力によって、その父のきわみに手をかけたのだ。

 勝敗は決した。艦運用が本格的になる前に、ミッターマイヤーは心のうちでそう断じた。このとき、宇宙でミッターマイヤーとおなじ境地にあったのは、彼とフェリックスを除いて、非公式に三名いたと伝えられる。共和自治政府の軍事指導者ユリアン・ミンツは、この中継を見ていなかったとされているから、じっさいはふたりである。そのふたりは、いま宇宙においてミッターマイヤーの弟子のもとではたらいているため、模擬会戦の会場内には、だれもいなかったことになる。

 

 フェリックス麾下の艦隊は、大きく三部隊に分けられた。六千の中央艦隊、両翼二千ずつの左右艦隊である。中央艦隊は横隊を形成し、その後方に二千ずつが控える。天球上から鳥瞰すれば、全体的に横に広い陣形をつくりつつ、前進していた。

 フェリックスの相手となったのは、ツェーザル・フォン・リッペという少年だった。彼は旧銀河帝国の首都星オーディンの出身であり、幼年学校において第二位の成績を有していた。学友フェリックス・ミッターマイヤーに刺激を受けながら、彼の才知の学友における第一の理解者でもあり、そしてそれに嫉妬するものでもあった。彼はごく自然に、どこかでこのダークブラウンの髪の同期生に勝ちたいと思っていた。そして、今回模擬会戦で司令官をつとめるという栄誉を得、フェリックスを打倒するために周到な準備を重ねてきた。彼の努力は涙ぐましいものであり、勝利の女神が同情して、彼に微笑みかけてもなんらおかしくないと思われた。

 だが、彼の反対側に立つ少年は、浮気性の女神の寵愛をだれよりも受けており、少年の右腕に抱き着いた女神は、彼に接吻を求めんありさまであった。

 ともかく、このときのツェーザル少年は、女神は自分についているものと誤認していた。フェリックスは兵力分散の愚を犯し、それも大隊とその遊撃ではなく、中規模の隊がみっつである。こちらは一万で一隊を形成しており、隊同士でむかいあった際の兵力は圧倒している。したがって、こちらは補給を十全におこなったうえで三連戦を挑めば、勝利は疑いない。

 彼は頭の中ですばやく計算を行った。その末に、三連戦でも兵力は十分であり、どのように補給をおこなえばいいのかの解を導き出した。その点で言えば、彼はなかなかに非凡な才をもつ戦術家で、また部下にとっても慕うべき指揮官でもあった。

 ツェーザル少年は、全艦に紡錘陣形をとるように命じた。前方の六千の中央艦隊を突破し、背面攻撃を仕掛けるのである。その際、両翼の計四千が背面で待ち構えている可能性を考慮しなければならない。この危険を鑑みて、彼は作戦行動の前に偵察をだした。その結果、驚くべき報告を耳にする。左右両翼の二千は、中央艦隊から遠く離れた位置に布陣している——。

 ツェーザル少年の決断は早い。稚拙な包囲作戦の途上にあるのかもしれないが、このまま全速で前進すれば、その両翼は間に合わない。彼は紡錘陣形のまま、突撃を指示した。一週間の時間があったが、そんなに時をかける必要はない。一日で決着をつける。そして、自分は模擬会戦の最短決着記録を打ち立てるのである。

 彼は、自らの傍らに女神がいることを疑わなかった。疑う余地がなかった。おたがいの艦砲射程に入る一時間前、ツェーザル少年の補給構想は実現し、そして彼の理論的な説明によって彼の艦隊の士気は絶頂にあった。この時、フェザーン標準時は十九時を指している。

 そしてその時は、“獅子の泉”では四人の元帥たちが、宇宙においては少年たちが、そして会場内においてはフェリックスの父とその僚友が、同時にスクリーンを注視していた。

 ツェーザル・フォン・リッペ少年は、歴史に刻まれるであろう自分の名前を、心の中で唱えた。リッペという姓はあまり好きではなかったが、なかなかどうして、いいひびきをもっているものだ。

 艦砲の射程圏内に入る直前、彼は仰々しく右手を挙げた。

「撃て!」

 彼の精神は高揚し、そしてそれに応えるように艦砲から白銀の条光が発射される。相手からの応射もあったが、やはり六千の横隊ではうすい。無理なく眼の前の艦隊を突破して、そのまま背面攻撃に移り、勝敗を決する。その構想はここにきてだれの眼にも明らかで、そしてその成功も疑いないものに見える。

 中央突破の最中にあって、それにしても、とツェーザル少年は思う。応射が軽すぎやしないか。そして、ぶつかる直前、横隊が小さくまとまるように見えたのは、気のせいであったのか。

 その時、ツェーザル少年の眼に飛び込んできたのは、艦隊の砲撃によるものではない光の爆発であった。

 

 

 

 “獅子の泉”は、工部尚書ブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒが、その類まれなる才覚をもって設計構想を練り、そして建築計画を立てたものである。しかし彼は新帝国歴二年に地球教徒によるテロリズムによって夭逝し、その仕事は時の工部次官グルックに引き継がれた。シルヴァーベルヒの構想は大胆でありながら微に入り細を穿ったもので、グルックはそれを十全に理解するのに一年あまりを要した。その間に、“獅子の泉”を住まいとすべき皇帝ラインハルトは斃れ、建築計画は無期限的に延期された。

 竣工が開始されたのは、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムが、二代皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの摂政として地位を確立した後で、その間の皇室の居住はフェザーン内の高級ホテルを転々としている。

 新帝国歴五年には、帝室の居住部分が完成し、ヒルダとアレクはようやく安住の地を得た。いっぽうで彼女らは高級ホテルにおいても、その過剰な扱いに辟易していたから、さまざまな意味で腰を落ち着けることに成功したと言える。

 シルヴァーベルヒの構想は、皇室の居住空間としての役割のみを“獅子の泉”に与えてはいない。彼の構想を端的にあらわすなら、“獅子の泉”は居住施設であり、政治施設であり、軍事施設でもある。帝室の居所と、政治中枢の役割を果たす会議室と軍事中枢の役割を果たす作戦指令室は等間隔で結ばれ、それは皇室の居所から徒歩で数分の圏内にある。さらに会議室と各省庁の事務室は至近の距離にあり、いっぽうの作戦指令室と軍事上必要な施設も背中合わせのようにしてある。この構造は、政治と軍事の両方を掌握する皇帝の役割を象徴的にあらわしたもので、かつ機能性にも富んでいるという、まさに皇帝ラインハルトが理想とした大建築物であった。

 その軍事施設の一隅には、高級士官向けのクラブルームがあり、ここは特別な場合をのぞき、少将以上の士官が使用を許されていた。普段ならば、上下の垣根をこえるような談笑や諍いが聞こえる場であるが、この日は異様な緊張感をはらんでいた。

 その緊張の中心には、四人の元帥がいる。新銀河帝国には七人の元帥がおり、ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥を主席として、以下の六人には等分の権限が与えられる。ナイトハルト・ミュラー元帥、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥、エルネスト・メックリンガー元帥、エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥、アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥、ウルリッヒ・ケスラー元帥の六名である。そのうち、ミッターマイヤーとワーレン、ケスラーを除いた四名がこの場に勢ぞろいしており、このようなシーンは新年の朝賀の儀以外には前例がない。そして、その四名はみな、スクリーンをきびしく眺めている。会場内にいるミッターマイヤーから遅れること数瞬にして、彼らはスクリーンに映る少年の深慮と遠謀の一端を解するに至った。

 緊張の渦は、まだクラブルームを席巻している。その流れをせき止めたのは、どの元帥の声であったか。あるいは、新たに注文を受けたバーテンダーであったかもしれない。当時そこに居合わせた者は忘我の数瞬の途上にあり、アルコールの霧はその温度と拡散を急速におとしていた。

 

「おめでとう、フェリックス」

 そのささやきを捉えたのは、その艦内でただ二人しかいなかった。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムのとなりに座る彼の友と、その向かいに座っていた艦隊の司令官である。カール・エドワルド・バイエルライン上級大将は、思わずスクリーンから黄金の髪の少年に眼を移し、その真相を問いただしたい欲求に襲われた。彼とおなじ幼年学校の丸顔の少年も、小さく頷いている。この者たちは、モジュール艦隊の進む未来について何を見ているのか。

 ツェーザル・フォン・リッペの艦隊は紡錘陣形を取り、フェリックス・ミッターマイヤーの中央艦隊を突破しつつある。犯しつつある艦隊の司令官は、理想的な補給構想を実現させ、犯されつつある艦隊の司令官は、兵力を分散し、幼稚な包囲攻撃を行おうとしたのであった。すこしでも軍事に造詣のある者ならば、必然的に前者が勝利の美酒をなみなみと注いだ杯を掲げる姿を想像するはずである。しかし、眼の前の少年たち——まだ自分の年齢の半分も生きていない青二才たちは、後者にたいして賛辞を送っている。

 爆発音がして、バイエルラインはスクリーンを見やった。スクリーンは光に包まれ、そしてクラブルームを静寂へと導いていった。

 

 この模擬会戦におけるフェリックス・ミッターマイヤーの用兵意図を正確に理解していた者として挙げられるのは、新銀河帝国においては彼の父ウォルフガング・ミッターマイヤー、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム、そしてフランク・ドレイクの三名である。ここに、共和自治政府の軍事指導者ユリアン・ミンツが加わるのは、次の伝説による。

 共和自治政府にたいする友好をしめす使者に指名されたある高級士官が、ユリアン・ミンツとおなじテーブルを囲み、ハイネセン産のブランデーをなめながら、その美酒の肴として、亜麻色の髪の青年に尋ねた。

「貴方は、Bの艦隊の司令官として、Aの艦隊を撃滅せしめるにはどうすればよいか」

 その高級士官は卓上のペーパーナプキンに、胸ポケットにさしてあったペンを走らせ、艦隊の陣形を略式的に記した。両艦隊はそれぞれ一万艦。Aの艦隊は紡錘陣形を取り、Bの艦隊は中央艦隊と左右両翼に兵力を分散している。A艦隊はそのままB艦隊に突入せんとする様相で、こちらの両翼の部隊はその中央突破の迎撃に間に合わない。まさに、ツェーザル・フォン・リッペとフェリックス・ミッターマイヤーの模擬会戦をそのままに、それを若き軍事指導者をなかば試すように突き付けたのである。

 ユリアン・ミンツは、その際にいくつかの質問をしたとされる。ひとつ、この戦いにおける戦術目標はなにか。ふたつ、この戦いにおける戦略目標はなにか。みっつ、これはどの星域における戦いで、そして各艦隊はどこから補給を受けているのか。よっつ……。

 高級士官が答えたのは、ひとつめの質問だけである。戦術目標は、ただ敵艦隊を撃滅せしめることのみで、あとは自由に考えてしまって構わない。

 ユリアン・ミンツは、このやり取りの後、自分はフェリックス・ミッターマイヤーの模擬会戦を見ていないことを白状した。そのはずである。なぜなら、共和自治政府にはこの模擬会戦の様子が中継されていなかったからだ。

 亜麻色の髪の青年は、ベンチに座って日光浴をたのしむように、やわらかく微笑むと、こういった。そしてその言こそが、ユリアン・ミンツがフェリックス・ミッターマイヤーの用兵意図を看破していたと言われるゆえんである。

「私なら、中央艦隊をオート・パイロットで無人にし、かわりに機雷を満載します」

 

 爆発が起こった時、アウグスト・ザムエル・ワーレンは反射的に立ち上がり、ウォルフガング・ミッターマイヤーは厳しい視線を、その立体スクリーンに注いでいた。

 爆発はひとしきり続き、それがようやく霧散すると、ツェーザル・フォン・リッペ少年の艦隊はほぼ壊滅していた。残ったのは千に満たない数であり、ツェーザル艦隊の旗艦はその指揮能力を喪失している。そこに爆発の範囲外に布陣していたフェリックス・ミッターマイヤーの両翼二千ずつの艦隊が襲いかかる。あのあばずれ女をののしる時間すらツェーザル艦隊には与えられず、またたくまにフェリックスの勝利が決した。

 会場内は、艦隊に満載された機雷の爆発以降、深く重い静寂につつまれている。人々はなにが起こったかわからないが、とにかくフェリックス・ミッターマイヤーの艦船モジュールが、四千ほど残っている状況があるという、言い換えれば、イコールの右側のみがわかっていて左側がまったく空欄にされた数式を見ているような状況にあった。場内のアナウンスを担当する者も、勝利者は決まっているであろうが、それをコールすることができずにいる。

 この驚愕と忘我の奇妙な均衡のもとに揺れる静寂は、永遠に続くものと思われた。その均衡を崩す権利を、自らが有していると考える者がいなかったからだ。

 ワーレンも、その権利を自覚しない者のひとりであったが、しかし、彼のとなりには、それを有しているばかりか強権的に発動すべき者がいる。一度そう考えてしまえば、それ以外にないと思われた。模擬会戦の開始直後から微動だにしない、赤いマントの男。かつて敵軍に最も恐れられた男の、その蜂蜜色の髪がゆれている。

 ウォルフガング・ミッターマイヤーは、彼が責任を持つべき——生徒としても、親としても——少年が現出せしめた静寂を打ち破るため、また彼自身の思いを打ち明けるため、立ち上がった。

「新銀河帝国幼年学校校長、ウォルフガング・ミッターマイヤーである」

 彼は彼の名と、幼年学校における役職以外を、衆目に対する惹句として用いなかった。彼のほかのささやかな役職は、赤いマントが悠然と物語っているからである。

「本模擬会戦はこれで終了とする。双方、よくたたかった。本日の振り返りほか、各自における反省等はおっておこなうものとする。この場はこれにて解散せよ」

 数万人の安堵のため息によって、会場内の二酸化炭素濃度が刹那の上昇を見せた。ワーレンは、彼自身その濃度上昇に加担した者のひとりだが、彼のため息には安堵以外の成分が含まれている。彼もまた、“疾風ウォルフ”に数瞬遅れてフェリックス・ミッターマイヤーの思惑を洞察した者のひとりであったからである。彼は翌日からの僚友の苦労と、そして次週からの自らのそれとを思い、その緊張をため息によってやわらげようとしたのである。

 半日前に入場したゲートから、生徒たちが退場していく。その最後のひとり、ダークブラウンの髪の少年が、こちらを見上げている。いや、彼の視線の先にはひとりしかいない。大気圏上層の色の瞳のなかには、さらにその上層の漆黒を蹂躙しつくした男の姿がある。その男の網膜にも、自らの無二の友とおなじ髪の少年が刻まれているはずだ。

 ウォルフガング・ミッターマイヤーがマントを翻し、会場内から姿を消した。ワーレンはそのあとに続き、観衆の声が遠ざかったのを確認して、もう一度ため息をついた。

「血は争えんものだな、ワーレン」

 廊下を歩きながら、ミッターマイヤーが言う。その背中には先ほどの覇気はない。小柄な背中が、さらに小さく見える。

「フェリックスは、間違いなくロイエンタールの子だ」

「ミッターマイヤー、それは……」

 フェリックスの出自は、一応機密ということになっている。新銀河帝国唯一にして最大の反逆者の子を、当時のもうひとりの元帥が養っているなど、民間に知られたら軍部のスキャンダルとして報じられるであろうからである。

「あの子は——フェリックスは、反逆して見せたのだ。制度に、そしてこの模擬会戦の誤謬に。この模擬会戦にさしたる意味などないことを、その用兵によって暴いて見せたのだ……」

 ワーレンは、ミッターマイヤーの横顔を瞥した。そこには、“疾風ウォルフ”の面影はない。あるのは、父として、師として、子どもの未来のために悩む男の徒労だった。

 

 

 

 華美すぎるものを病的に排除し続けた結果、残ったものは高級ホテルから購入したベッドひとつ、マホガニー製のデスクと椅子、そしてマリーンドルフを名乗っていたときから使っていた化粧台だけであった。それだけがこの部屋を構成する原子たちであり、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの居住空間だった。

 “獅子の泉”は、フェザーンの他の建築物とくらべて大きいだけであって、旧銀河帝国の王宮と比較して、政治施設や軍事施設をふくめても、その百分の一に満たない規模である。それだけでも彼女には十分すぎるほどであり、それ以上のものは望まなかった。

 彼女の部屋に、夫をしのばせるものは少ない。ラインハルト・フォン・ローエングラムはみずからの偶像化を嫌い、自身を描いた絵画や彫刻、銅像その他のいっさいに興味を示さなかった。その暗黙の弾圧によって、彼が憎んだ旧銀河帝国のどの皇帝とも違う歴史を刻んでいる。

 ゴールデンバウム王朝——。いまや歴史上の存在となったその名を、ヒルダは痛烈に意識せざるを得ない。つくづく、歴史というものは過去と現在とを対話させるなかで語るべきものであり、歴史を考えるという行為は、無限に拡大していく現在と未来とに思いを馳せる行為なのだ。

 ヒルダは、ラインハルトの部下として、妻としての数年間を、いまでもつぶさに思い返すことができた。そしてそれ以上に、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの母親として、摂政として生きた十数年を思い出すことができる。はじめの数年間は、ゴールデンバウム王朝の旧弊を打破することだけを考えればよかった。それが革新であり、良き政治と定義することができた。銀河における人々の経済活動は活発となり、銀河は発展を続けている。しかし、ゴールデンバウム王朝の刷新に成功した今、革新と進歩とはなにかという壁がある。いまの政治を続けることは、単なるシステムの保守点検である。システムにほころびが出ないように、故障が生まれないよう、ただそれだけを考えることなのだ。ラインハルトであれば、銀河にさらなる推進力を与えることができたかもしれない。新銀河帝国は、その革新性によって支えられ、正当性を付与されてきたのである。

 いまの銀河は、平和である。その平和を疑う者はいない。大きな武力叛乱は十年近くおきていないし、犯罪率は毎年過去最低を記録している。ヒルデガルド・フォン・ローエングラムを未来の人間が評価する場合、まず悪評は書かれず、それどころか彼女を賛美するサーガが歌われるであろうことは、彼女を取り巻く人間ならば確信をもつことができた。

 黄金樹は倒れた。そののちに枝をのばし、葉を広げた緑の森は、たしかに美しく見える。しかし、その黄金樹から吸い出される養分がなくなったとき、その森は地下茎から腐り始め、やがて枯れ木に満ちていく。その枯れ木が不要になったとき、それらは燃え、そして新たな森が育つ——。それが何年後のことなのか、ヒルダにはわからない。しかし、このままでは、そうなる未来は避けることはできないだろう。

 歴史に問いかければ、必ず返ってくる答えがある。滅びなかった国家はない。ただしみずから滅びを希求した国家もない。すべての国家は栄達をねがい、そしてそのねがいのために滅びていったのだ。ならば、栄達をのぞまなければどうか。国家が国家の栄達をのぞまなくなったならば、それを国家とは言うまい。

 窓の外には、フェザーンの日の出がある。その日の出は、いまのヒルダにとっては眩しすぎた。それでも、彼女は地平線を見つめる。その輪郭の向こうには空があり、そのさらに向こうには果てしない銀河があり、そしてそのなかにはわが子がいる。元気にしているだろうか、と問うても、答えは返ってこない。一年の宇宙行で、背はどれだけ伸びたのだろう。宇宙は重力がないから、背が伸びやすいというけれど。食事はきちんと摂っているかしら。苦手なチシャのサラダがでて、上官に見つからないように友にあげてはいないかしら……。

 摂政としての自分と、母親としての自分は、交互にやってくる。今は、そのどちらもがヒルダを孤独にさせた。どちらかの仮面を——できれば前者の仮面を、できるだけ早く、彼女は取り払ってしまいたかった。

 

 新銀河帝国軍幼年学校のある一室では、昨日に続いて超長時間的な会議が行われている。幼年学校校長として、ウォルフガング・ミッターマイヤーもそこに同席し、そのとなりには士官学校校長のアウグスト・ザムエル・ワーレンがいる。

 士官学校は、幼年学校よりも年長の生徒が在籍するが、軍における重要度は幼年学校の方が上であり、したがってミッターマイヤーが校長を務めることになっている。

 幼年学校を卒業してそのまま軍へ入隊した場合、階級は准尉となり、その数か月後には少尉への昇格が約束されている。士官学校卒業後は少尉として入隊できるが、より年少で少尉に昇進できるため、幼年学校と士官学校のどちらかのみに在籍した者では、幼年学校在籍経験者の方が優遇されていることになる。最も理想的な軍への入隊方法が、幼年学校から士官学校へ入学し、大過なく卒業することである。また、幼年学校卒業者は、士官学校への入学の難度が下げられ、自動的に入学するわけではないが、ほぼ問題なくそれが可能であるということになっていた。

 臨席した両校の校長をはじめ、主だった教員たちは、みな同様に眉をしかめている。議題はただのひとつであり、それは模擬会戦におけるフェリックス・ミッターマイヤーの、その勝利の方法であった。

「フェリックスの勝利を認めるべきではない」

 とする主張もなかにはあった。模擬会戦は、幼年学校で習熟した技術を、より実践にちかいかたちで試行するものであり、そこにただ純粋な勝利は求められていないからである。本来の目的を遂行したのは、むしろツェーザル・フォン・リッペの方であり、奇策によって敗れたとはいえ、彼の戦術的判断と、それを支える補給構想は、教員たちを満足させるものだった。

 別方面の意見もまた存在する。

「フェリックスの作戦構想の見事さは、その結果における人的資源の節約にある」

 フェリックスの配置した中央艦隊六千には、人員がだれひとりいなかった。六千艦すべてがオート・パイロットによって操作されていたのである。すなわち、六千艦という物的資源の浪費だけで戦闘を終了させたのだ。

 しかも、それは無線を利用した遠隔操作ではない。事前にすべての動きが決定されていたのである。ここには、フェリックスがいかに戦闘を予測し、鳥瞰的に戦場を把握していたのか、その能力があらわれているというのである。じっさい、ツェーザル少年はフェリックスの読み通りの作戦行動を行い、そして悪魔的な未来予知能力によって支えられた奇策を避けることができなかった。

 議論は紛糾していた。彼らの主張にはどれも義があり、完全に否定されることはほとんどなかった。幾度目かの小休止を終えて、完全に意見の出尽くした彼らは、その上座にすわる蜂蜜色の髪の男が口を開くのを待った。

 ミッターマイヤーは、その視線を感じると、だれにも悟られない程度の息を吐いた。彼もまた、悩める者のひとりであり、しかし彼には決定の義務があった。

「フェリックスは四千艦を残し、ツェーザルは全滅した。その事実に対し異論のある者はいるか?」

 幼年学校校長の言に、手を挙げて反抗する者はいない。その事実だけは疑いようがないからである。むしろ、この議論は勝利者に対し、その資格を与えるか否かが分かれ目であるのだ。

「もし、この模擬会戦がなかったとして、フェリックスの主席卒業に対し、異論のある者は?」

 これも手は挙がらない。フェリックスが幼年学校でおさめた成績は、その十数年の歴史のなかでも頭一つ抜き出たものであって、彼がウォルフガング・ミッターマイヤーの子息であることを鑑みて、成績を厳しくつけようとしても、それは決して覆るものではなかった。

「……ここは、昨年の例にならうとしよう。戦闘終了時点で、残存艦数の多い方を勝者とする。おおやけにはそれを発表し、会戦の細かい反省については、幼年学校で行う。次週からは士官学校の部が始まるが、それは模擬会戦の趣旨をよく話したうえで行うというのはどうだ?」

 ここまで歯切れの悪い“疾風ウォルフ”ははじめてだ、ととなりにすわるワーレンは思う。彼は“疾風ウォルフ”の家庭での姿を知らないがゆえにその感慨を抱くのだが、これは戦場でのミッターマイヤーをよく知る者ならば、だれもが抱いたものであっただろう。

 会議は無難な着地を見せた。戦闘の細かい振り返りだけならば、それは教員たちの本業であるから、比較的容易に行える。

 散会となった議場で、ミッターマイヤーは眉間のしわを指でかるく伸ばした。

「ワーレン、このあと、ワインでも付き合ってくれないか?」

「奥方の元へは帰らなくてもいいのか?」

「遅くなる、と伝えてある」

 ミッターマイヤーの愛妻家ぶりは、軍内部でも評判となっている。

「奥方の前では、やつは子猫だ」

 とは、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトの言であるが、それは周囲の提督たちの苦笑を買った。ビッテンフェルト自身は、家庭に関しては徹底した秘密主義であり、その事実をミッターマイヤーに突かれると、戦場でも見たことのない撤退を見せたのである。

「戦術の教科書に載せたいくらいだ」

 そう独語したのはエルネスト・メックリンガーであったか、ミッターマイヤーであったか、ワーレンは憶えていない。おそらく、酔いが聴覚と大脳をつなぐ小径にふたをして、だれもそれを記憶することはなかっただろう。

 “獅子の泉”の高級士官用クラブルームは空いていて、ほとんど貸し切りと言ってもよかった。それは彼らにとって好都合だったようで、二人は最も眺めのいい席を確保しながら、ザワークラウトとヴルストという古典的な肴を注文した。

「ワーレン、卿は正直なところ、どう見る?」

 四一〇年物を開けるべき時ではないので、ごく普通の高級ワインを飲みながら、ミッターマイヤーが言った。

「無難なところに落ち着いたのではないか?」

「そうではない。フェリックスのあの用兵についてだ」

 艦隊に機雷を満載するというのは、ワーレンの見知っているなかでは、これで二度目の戦術である。

 ……それは、旧帝国歴四八九年のことである。第一次ラグナロック作戦において、ラインハルト・フォン・ローエングラムは、オスカー・フォン・ロイエンタールにイゼルローン要塞の攻略を指示した。そこでの戦闘の一つに、ヘルムート・レンネンカンプが旧同盟の策略にはまり、二千艦ほどの犠牲を出したことがあった。その戦闘を、ワーレンはフェリックスの用兵から想起しなかったわけではない。

 ワーレンは、そのことをミッターマイヤーに打ち明けた。ミッターマイヤーは小さく頷くと、その蜂蜜色の頭をゆらした。

「たしかにそうだ。そうなのだが、フェリックスの用兵は、ただそれだけではない」

「模擬会戦の、誤謬というやつか?」

 そうだ、とミッターマイヤーは小さく嘆息した。

 模擬会戦の誤謬、それは、局地的な戦術的勝利などただの一つの意味ももたないということである。むしろ重要なのは戦略的な優位をいかに確保するかであって、戦闘というものはそれがじっさいに行われるまえに、ほぼ決着がついているものである。

「フェリックスは、われわれに、その戦略的勝利の重要性を自覚せよ、と言っている」

「……考えすぎではないのか?」

 蜂蜜色の頭が振られる。

「おれにはわかる。おれは、あの子の親をだれよりも知っているからな」

 ワーレンの脳裏にも、ひとりの男が像を結んでいた。その髪、その両目。忘れうるはずもない金銀妖瞳が、不敵な笑みを投げかけてくる。

「おれはな、ワーレン。思わずにはいわれぬのだ。あの子の父の遺伝子を、あの子の右目が、黒く染まってしまうのを」

 ミッターマイヤーは続けた。それは友が押し付けてきた宿題を、うらみごとを述べながらこなす子どもにも見える。なぜかそのさまを笑うことができず、ワーレンはいつもより多くの量の赤い液体を口に含んだ。

「あの子が浮かび上がらせたのは、おれたちの驕りなのだ。いまのおれたちに、戦略的な敗北はない、という驕りをな」

 ようやく、ワーレンにも見えてくるものがあった。ミッターマイヤーは、おそれているのだ。かつて自らが討った友と同じ道を、フェリックスが歩むのを。模擬会戦がただ戦術的作戦能力を問うているのは、新帝国に比肩しうる戦略構想を練ることのできる主体が、銀河において存在しないからである。それは、新帝国に住む人間ならば抱くはずのない懸念である。この大帝国がたおれるはずがない。その驕りこそ、フェリックスの用兵が暴いたものだったのだ。

 なぜフェリックスはそれを暴くことができたのか? その不吉な疑問について、ワーレンは解をあたえることができない。

「ミッターマイヤー、卿はあの男について最もよく知る男であるはずだ」

 ワーレンの言葉に、ミッターマイヤーは頷いた。

「ならば、思い出すべきではないかな。おれたちは、やつほどうまく発音できない言葉があることを」

 ミッターマイヤーの眼がひらかれる。ワーレンの頭の中に居座る、金銀妖瞳の男の声が聞こえた。

 “わが皇帝”。ミッターマイヤーは、何度か独語すると、ワインを一息に飲み干した。

「あの子の発音を聞いたことは?」

「毎年聞いている。年々うまくなってきているが、まだまだおれたちのほうがうまいな」

 “わが皇帝”。あの言葉は、皇帝ラインハルトに対する敬愛と忠誠の表象である。ロイエンタールは、だれよりも皇帝ラインハルトを認め、彼の中で信仰すべき偶像を作り上げていた。だからこそ彼は叛したのだ。矮小な者たちに侵されるべきではない、自らの誇りと皇帝ラインハルトの誇りとを守るために。

「今夜は飲もう、ミッターマイヤー。中年の男が二人酔いつぶれたところで、宇宙は滅びたりせんよ」

 フェザーンの夜は更けていく。いまは、酔いの波にひたっていよう、とワーレンは思った。その波音が亡き僚友への恨みだったとして、それを咎めるものはいないのだから。



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第2話

 

 カール・エドワルド・バイエルライン上級大将の艦隊は、予定されていた航路を順調に運行していた。各管区の綱紀に緩みはなく、新銀河帝国の統治はじゅうぶんに行われている。

 予定航路の前半は、旧自由惑星同盟領を通るというものであったが、そこでも問題はなく、バイエルラインはイゼルローン要塞がその視界に入った時、思わず胸をなでおろしてしまった。その後も巡航は進んでいて、フェザーン回廊の旧銀河帝国側の要塞、“三元帥の城”まで、残り二週間という行程だった。

 旗艦ニュルンベルグに付くふたりの幼年学校生には、たびたび驚かされることがあった。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、その父と母を知悉しているぶんもあり、その優秀さには納得がいくのだが、もう一人、丸顔のフランク・ドレイク少年は、その優秀さに説明がつけられないだけ、驚きは何倍にもなった。

 しかし、アレクのそばにいるというだけで、ドレイク少年にあたえる影響は、計り知れないのかもしれない。アレクは常にドレイクの範としてあり、それに比肩しうる人物となるためには、ドレイクは研鑽を怠るわけにはいかないのだ。

 ドレイクの出自は、旧同盟首都星ハイネセンであるということもあり、幼年学校では相当綿密な調査を重ねていた。その結果、彼の出生は、新銀河帝国歴三年の五月であり、バーラト星系のある小さな有人惑星からハイネセンに向かう途上の、宇宙船内における小さな出来事だったらしい。妊婦の恒星間飛行の胎児にたいする影響はたびたび指摘されているが、民間ではその周知は徹底されていない。フランク・ドレイクの母も、それを知ってか知らずか、もしくはやむを得ない事情があったのかもしれない。ともかく、フランク・ドレイクの出生の記録はそのようであり、出生後一番初めに入った病院の所在地を、赤子の出生地とする法のために、彼はややこしい運命を歩んでいる。

 ドレイクの父はバーラト星系を拠点とする商人で、それなりの成功を収めている。その成功を測る指標の一つに、ドレイクの出生後に、ハイネセンが自由惑星都市の首都星であったころ、そのなかの中枢として栄えていたハイネセンポリスの一隅に、一軒家を購入した事実がある。息子の誕生後に、宇宙を飛び回る生活から脱し、腰を落ち着けたのだろう。

 これだけではドレイクが新銀河帝国軍幼年学校に入学してきた理由は見えてこないが、ここで新銀河帝国のドレイクに関する調査は終了している。考えてみれば、ハイネセンを始めとするバーラト星系の諸惑星は、共和自治政府のもとにあるといっても、その自治政府が新銀河帝国の承認のもとにあり、両者の関係は子と親のようなものであるから、ハイネセン出身者が新銀河帝国側の軍幼年学校に入学してきても不思議はないのである。むしろ、勢力図を考慮すると、より栄達をのぞむのなら、正しい選択とも思える。

 ここまではバイエルラインの彼自身の理性と合議したうえでの考察だが、彼の本能の意見を聞けば、ドレイクのその出自を理由に疑う必要はないと感じている。それどころか、将来的には新銀河帝国に必要な人材となりうることも考えられた。それだけ彼は秀才と言ってもよく、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムはよき知己を得たと断言できる。

 平時の艦橋において二人に教えられることは、もうほとんどない。二人の少年は、バイエルラインの教示を吸収しつくし、そして知識に対して無限なまでの欲望を示している。それは好ましいことで、バイエルラインはその結果に満足していた。

 ただひとつ満足できないことがあるとすれば——バイエルラインは右手のコーヒーカップに眼を転じた。これはアレクが気を利かせて淹れてきてくれたもので、主君からそのようなものを受け取るのはわずかな引け目を感じたが、バイエルラインはありがたく頂戴した。彼はここでは幼年学校生として上等兵待遇であり、バイエルラインは司令官だからである。それはそうとして、このコーヒーの味はどういうことなのだろう。飲めないということはない。だが、上品な苦みと香りこそがこの飲料の利するところであるのに、その苦みを逆方向に引き立て、かつ香りを完全に消し去る技量に関して、アレクを上回る者はいないだろう。そう思わせるだけの違和感が、このコーヒーにはある。

 コーヒーの淹れ方は、幼年学校で学ぶものではないし、ニュルンベルグ艦内において師と仰ぐべきコーヒーの名手はいない。むしろそれは家庭において学ぶものであって、そこにはアレクの師になれる者はいなかったのだろうか。バイエルラインは、この事実に、微笑ましいまでの帝室の一面を見る。あるいは、無欠に見えるヒルデガルド・フォン・ローエングラムの、決して嘲笑されるべきではない欠点と言うべきか。

 カップ半分ほどのコーヒーを喉へ流し込み、嚥下していく違和を食道と胃に感じながら、バイエルラインは二人の少年を呼び寄せた。教えることはもうほとんどない。ただし、なおひとつだけ、彼には主張すべきことがあった。それは彼の誇りであるか、あるいはエゴイズムの一端であるかもしれない。しかし、無駄なものではないという確信が、銀河における最大の動乱期を生き抜いた彼にはあった。

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、この宇宙戦艦を好ましく思っていた。人員は能動的でありながら自律し、しかし過分なほど厳格ではない。行き届いた規律は艦内の清潔さとなってあらわれ、個々人の人格は活気となって現前する。なにより司令官バイエルライン上級大将は、元帥に最もちかいという評判に過不足なく応えるものであり、彼から教示されることはすべて理にかない、そして新鮮さと驚きに満ちていた。

 そんな彼から、ただちにフランク・ドレイクとともに艦橋へ来るよう、指令があった。フェザーンまではのこり二週間と少しであり、艦を離れる名残惜しさを自覚しつつある時分である。新しいことを教えてもらえるかもしれないという期待と、何か失敗をしていたのかもしれないという不安が、後者の方がわずかに優勢にあるという心持ではある。

 失敗と言えば、何だろうか。きょうの任務に特別なものはなく、それはすっかり手慣れたものであり、仕損じたということはないはずだ。あるいは、先ほど持って行ったコーヒーだろうか。あれはかなりうまく淹れられたはずであるが……。

 ニュルンベルクの艦橋は、背筋に粟が立つほどに緊張感に満ちていた。何かあったのだろうか。一年近い行程であったが、そのなかでこれほどの緊張感をたたえる一瞬はなかったはずである。

「ご安心ください、陛下。接敵などではございません」

 艦隊の司令官が、恭しく敬礼をして言った。

「こまります、閣下。私は上等兵です。陛下などと……」

「いいえ、ちがうのです、陛下。これより、私が艦隊に次の指令を出すまで、皇帝と臣下に戻らせていただきたいと思います。そのうえで、これから私がはたらくご無礼をお許しいただきたいのです」

 バイエルラインの眼光は鋭く、それは疑いようもなく、新銀河帝国における二万艦を率いる男のものだった。アレクは思わず息をのみ、そして冷静に言った。

「わかりました、バイエルライン上級大将」

 バイエルラインは微笑み、もう一度敬礼をした。

「陛下におうかがいいたします。率直におこたえいただきたいのです。このようなことをお聞きになったことはございませんか。『銀河最強の艦隊とは、ビッテンフェルト元帥ひきいる黒色槍騎兵艦隊である』と」

 取りつくろっていても仕方があるまい、とアレクは思う。バイエルラインの問いに、アレクは無礼を承知で頷いた。バイエルラインは再び微笑み、そしてすぐに上級大将のものへと表情を変えた。

「われわれは——旧ミッターマイヤー艦隊は、その評を聞くたびに、にがにがしく思っていたものです。いま、あえてこのように申し上げましょう。十数年前もいまも、銀河最強の艦隊とは、変わらずにわれわれであると」

 二万艦を率いる青年提督は、艦橋スクリーンに体を向けると、両腕を組んだ。

「全艦、最大戦速」

 艦内に緊張が走る。艦のコンソールに、乗組員たちの両手が目まぐるしく這いまわる。となりで、ドレイクが息をのむのが聞こえた。アレクは両脚のふるえを隠そうともせず、しかし艦橋スクリーンからは眼を逸らさなかった。

「陛下、これが、ミッターマイヤー主席元帥が“疾風ウォルフ”と呼ばれていたゆえんであり、そしてその薫陶を受けたわれわれが、みずからを銀河最強と定義する根拠でもあります」

 艦橋の照明が消え、空気はその温度を急速に落としていった。これは比喩ではない。じっさいに温度は落ちているのだ。アレクは寒さをおぼえ、緊張感によるものだけではないからだのふるえを感じた。

 バイエルラインは口を開かない。口を開かずとも、アレクには艦内がこうなった理由が説明できた。艦のエネルギーを、すべて動力部にまわしているのである。

 艦全体が、大きく揺れた。艦橋スクリーンが、数瞬漆黒に包まれ、そしてすぐに星々の輝きを映し出す。数瞬前とは違った星々の輝きを。

「バルス・ワープ、成功しました」

 オペレーターの声が聞こえる。今の一瞬で、とアレクは慄然とした。本来、ワープには慎重な計算が必要であり、細心の注意を払わなければ、亜空間に閉じ込められる。

「前方に小惑星」

 別のオペレーターの声。今度は、艦が大きく傾いた。水平維持装置まで、最低限の出力に抑えられているのである。

 よろめきかけて、アレクはバイエルラインを見た。彼は微動だにしておらず、依然艦橋スクリーンから眼をはなしていない。それどころか、

「ご無事ですか、陛下」

 と、アレクを気遣う余裕まで見せているのである。

 “神速にして、しかも理にかなう”とは、“疾風ウォルフ”の用兵を指して言う評価である。これはウォルフガング・ミッターマイヤー自身を賛美する言葉にほかならない。しかし、その用兵を可ならしめていたのは、麾下の艦隊によるものも大きいのである。アレクは眼前に広がるその事実に、それに気が付かなかった自身の狭さを恥じた。

 ミッターマイヤー艦隊の神髄とは、彼自身の用兵のたくみさのみにあるのではない。動力部にすべてのエネルギーを振り分け、それによって引き起こされるさまざまな現象のなかで、操艦を可能にする能力。度重なるバルス・ワープに耐えうる高度な計算能力、超高速においても小惑星のひとつすら見逃さない認識能力と判断力、低照度や低体温に対する順応能力および精神力、艦のゆれや傾斜に抗う筋力……。そのすべてを兼ね備え、有事においてもそれを実行できていたからこそ、“疾風ウォルフ”の用兵は可能となり、そして彼は新銀河帝国において主席元帥の地位を得るに至ったのである。

「小官は、ミッターマイヤー艦隊の大部分を受け継ぎ、おそれおおくも上級大将の地位をいただいております」

 予定されていた行程の半分の時間で“三元帥の城”に到着したバイエルラインは、その際にこのように語っている。

「声を大にしては申し上げられませんが、ミッターマイヤー艦隊こそが銀河最強であり、その強さを陛下に知っていただきたかったのです。これは、小官のささやかな誇りなものですから……」

 

 

 

 リビングと直結したキッチンから、軽やかな鼻唄と濃い魚介のかおりがただよってくる。そのどちらも彼は好ましく思っていたが、いまはそれらをたのしむ気にはなれない。この後にやってくる喜びと、それ以上の不安とを思い、彼は納税期におびえる農夫のように息を吐くと、手元の液晶端末に眼を移した。

 この農夫の名はウォルフガング・ミッターマイヤーと言い、本業は農地を耕すことではなく、銀河を統べる大帝国の全軍権を掌握することである。しかし彼にはもうひとつの仕事があり、それはある意味では農夫のそれとよく似ているかもしれない。新銀河帝国軍幼年学校という畑で、未来の優秀な軍人という作物を育て、それを社会にむけて出荷するのである。

 いま、彼は作物を収穫せんとしている。ことしのそれらの出来を問われれば、“極上である”と答えざるを得ない。彼がこの仕事に就いて以来、最高の収穫でもある。しかし、極上すぎる作物は、時としてその作物自体の概念を破壊してしまうものでもあるのかもしれない。

 彼は作物を育てるために、あらゆる肥料をまいたつもりであった。だが、まさか彼自身がその肥料になるとは思わなかったのである。そしてその肥料は、作物の種にやどる遺伝子を十全に引き出し、作物を極上よりもすぐれたものにしてしまった。

 彼がそのような評価をくだす作物は、まもなく、彼のもとに戻ってくる。そのことは、いまの彼にとって様々な意味を持ち過ぎているのであり、かつて敵軍に最も恐れていた男は、敵軍が抱いていた恐れをすべて合して数倍した程度のそれを自覚していた。

 ——漫然と液晶端末を眺めるなかで、彼は重大な見落としをした。それはそのような表象を研究することを専門とする者以外は気付けないように、あるいはよほどそのことに敏感なものでもない限り見つけることができないように、巧妙に隠されていた。今の状態の彼に、それに気付けというのはいささか酷な要求であるかもしれない。だが、それは、あの時代を生きた軍人ならば見落とすはずのない、見落としてはならない事項のはずであった。

 しかし、彼はそれに気付けなかった。といって、彼を責めることはできまい。いまの彼には、明日に放送されるテレビプログラムなどよりも、家庭の数十分先の一事件のほうが目下として重大な問題としてあったのである。つまり、彼はいま、あの時代を生き、銀河を蹂躙しつくした大艦隊の司令官などではなく、ただひとりの教師であり、そしてそれ以上に、ただひとりの父であったのだ。

「あなた、ちょっといらして」

 キッチンから、春の燕のさえずりが聞こえる。ミッターマイヤーはそのさえずりに反射的に立ち上がり、その発声者の方へ歩いていった。クリーム色の髪に、すみれ色の瞳。その燕こそが、悩める農夫のよき伴侶であり、極上の作物の母であった。

 エヴァンゼリン・ミッターマイヤーは、鍋一杯に煮詰まったブイヨン・フォンデュにスプーンを入れると、そのうちの少量をすくいとった。彼女のまとうエプロンは、ところどころに丁寧な修繕が施しており、彼女のエプロンへの愛着がうかがえる。それは彼女らの息子が初めて母に送ったプレゼントであり、エヴァはそれを生涯大事に使うと宣言していた。

「どう、おいしくできたかしら?」

 ミッターマイヤーは妻からスプーンを受け取ると、舌先でそれをなめた。

「きみの作るブイヨン・フォンデュは、いつだって絶品だよ」

 これは勘違いした貴公子が女性を口説く際に用いる台詞などではなく、彼自身の本心であった。彼は妻になんらかの思いを告げる場合、正直な感想以外の何も伝えることはできないのだ。

 そう、と妻は笑った。それだけで、ミッターマイヤーは救われるような気がした。

「あなた、ウォルフ」

 エヴァは、自身も彼女の夫が使用したスプーンで味見をした後で、鍋をかきまぜながら、その隣で立ち上る香気を吸い込んでいた男に言った。それはさえずりに似た声であったが、確かな意志を感じさせた。

「フェリックスのこと、お話しするの?」

 それだけで、ミッターマイヤーは妻が何を言おうとするのかを感じ取っていた。彼は蜂蜜色の頭を小さく振ると、料理の感想を告げた時のように言った。

「迷っている。どうすればいいのだろう……」

 この声には、“疾風ウォルフ”と言われた男の果断さはない。彼はいまひとりの少年の父であり、子育ての大きな岐路に立って悩んでいるのだ。

 彼の妻は、鍋を温める火を止めると、蓋をして、夫に向き直った。このように向かい合ってみると、初めて会った時と、その身長はまるで変っていない。少女のような面影を残しながら、老いと人生経験によって発される内面の美しさがそれと調和して、絶妙な均整を、目に見える部分にも表出させている。

「むかし、会議で、ビッテンフェルト元帥がおっしゃったことをおぼえていて?」

 忘れるはずがない、とミッターマイヤーは頷いた。

 フェリックスの処遇については、一度だけ会議が持たれたことがある。彼の父は新銀河帝国における唯一にして最大最高の反逆者であり、そしてミッターマイヤーの無二の友であった。その男と、ゴールデンバウム王朝の最後の実質権力者であるリヒテンラーデの縁者の子である。ローエングラム王朝にとっては、いくら親の罪が係累におよばないことを法で保障しているからといって、気にかけないわけにはいかない。

 会議の方向が、フェリックスの出自は公表しないというほうへ帰結しつつあるころ、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が、その為人と用兵に見合った意見を述べた。

「結局のところ、ロイエンタールのせがれのことを伏せるというのは、ただおれたちの保身でしかない。いっそのこと、ジャーナリストどもを使って、フェリックスがやつの子であることを打ち明けたらどうだ。誇り高き帝国軍が、その自らのつまらん自尊心のために嘘をつき続けるなど、おれはそもそも納得していないのだ」

 ビッテンフェルトは、粗にして野だが卑ではなく、そして阿呆でもない。彼は彼なりの譲れない哲学があり、その短絡的とも見える思考は、しばしば答えへの最短経路を、無意識的にも導き出すのである。

 ミッターマイヤーは、その意見に対して、有力な反論を持ちえなかった。ただ、

「これは銀河帝国軍のためでもあるが、フェリックス自身のためでもある。いずれ公表はなされるだろう。だがそれがいまであるかという話をすべきだ。むろん、卿の言うことも、わからないわけではない」

 と、逃げの論法をしただけである。

「ふん。わかるだと。わかるとはなんだ。おれの言うことをわかっただけで、卿は自らの考えを変えるつもりなどないのだろう」

 ビッテンフェルトはそれだけを言い、以降は口を閉ざした。

 会議では、フェリックスの出自は伏せるという決定が導かれた。会議の様子は当然エヴァにも伝えられ、彼女はその長大な議事録のすべてに眼を通し、そして決定にしたがうことを決めた。

「いつかフェリックスにも知らせなければならない時が来ます。あなた、それがいまかを考えているのでしょう?」

 彼の人生の半分以上をともに過ごしてきた妻である。隠し事はできないし、彼の心理は手に取るように知られているのだ。夫の方は、妻の考えを、その半分以下もつかむことはできないのだが。

 ミッターマイヤーは蜂蜜色の頭を小さくゆらし、頷いた。助けを乞うように、彼は彼の最愛の妻の瞳を見た。そのすみれ色の瞳に、彼はどのように映っているのだろうか……。

「あなた、ウォルフ。あなたがフェリックスに真実をうちあけるのは、だれのためですか。フェリックスのためですか、それとも、あなたのためですか」

 ミッターマイヤーは、妻の瞳に映る自分の姿を探した。蜂蜜色の頭。ある。しかし、こんなにも小さなものであったのか。

「あなたがあなたのためにフェリックスに真実を伝えたいのならば、耐えるべきです。だって、あなたはあなたのためにそれを隠したのですから」

 彼女は、“疾風ウォルフ”の妻であった。決して農夫に嫁いだ子女ではない。彼女は新銀河帝国の宇宙艦隊のすべてを掌握するたった一人の男に、四半世紀ちかく連れ添った、ただひとりの女だった。

 すみれ色の瞳。この瞳の、あたたかい陽光に何度魅せられ、そして救われてきたのか。

 ミッターマイヤーは、静かに妻を抱擁した。それは言葉以上のものを持つ行為であって、それを上回る愛の表明を、彼は知らない。

「ウォルフ、でもね、私もフェリックスにそれを告げないことに賛成したのよ。だから、あなただけの悩みではないわ」

「そうだね、エヴァ。おれは勘違いしていた。これは、きっと家族の問題なんだ」

「ええ。宇宙には、たくさんの家族があるのよ。そのうちひとつくらい、私たちのような家族があってもいいわ、きっと」

 彼らはしばらくそうしていた。そこは男と女のふたりだけの踊り場であり、ふたりの好物の香りが満ちていて、スポットライトは彼らだけに注がれている……。

 その踊り場を、ただのキッチンへと回帰させたのは、ひとつの手が叩かれる音だった。

 彼らがキッチンへと戻り、そして自身を夫婦と再定義したとき、キッチンの戸口にはひとりの青年が立っていた。

「ご夫妻、火を消してからそうなさるのは結構なことですが、また私はおふたりの抱擁の間に風邪をひいてしまうところでしたよ」

 彼の名はハインリッヒ・ランベルツと言い、ロイエンタールの近侍としてその最期を看取った人物である。当時はまだ幼年学校生であったが、いまではりっぱに成人し、伴侶を得てミッターマイヤーとは別の家に住んでいる。幼年学校卒業後は軍から離れ、一般の市民学校を出て数学の教師になっていた。

「あら、ハインリッヒ。おかえりなさい」

 エヴァは彼の夫を押しのけると、ハインリッヒが手に持っていたコートを受け取った。

「ただいま戻りました、母上」

 ハインリッヒは、自分の母の記憶を持っているはずだが、エヴァのことは母と呼んでいた。むろん、ミッターマイヤーのことも父と言うが、まず先に話しかけるのはいつもエヴァに対してだった。

「久しいな、ハインリッヒ。元気にしていたか?」

「はい。父上こそ、この前は青い顔をしておられたのに、お元気そうで」

 ワーレンと酒を飲み、酔いつぶれたところを地上車で迎えに来たのがハインリッヒだった。ミッターマイヤーはその時の酔いを思い出し、わずかに顔を上気させた。

「おまえに会いたかったのだよ、ハインリッヒ」

 わずかばかりの抵抗も、ハインリッヒの笑みによる無意識の残酷の前には意味がなかった。

 ハインリッヒが、妻の手伝いを始める。ミッターマイヤーの被保護者となり、幼年学校を卒業した後は、フェリックスの子育てを手伝いながら、エヴァと家事を分担していたのである。料理の腕もなかなかのもので、エヴァの手伝いをする分には全くの過不足がなかった。

 ミッターマイヤーは、すでに彼の領域ではなくなったキッチンから潔く撤退した。彼は引き際を心得ているのである。

 リビングの椅子に座ると、また期待と不安とが込み上げてきた。しかし、先ほどまでのおそろしさに似たものはない。期待を天秤の左に、不安を右に置いたとき、天秤は大きく左に傾斜している。

 玄関の戸が叩かれたら、だれよりもはやく、わが子を迎えに行ってやろう。まだあの子は、ロイエンタール家にはやらない。ひょっとしたら、いつまでもミッターマイヤー家のせがれのままでもいいのかもしれない。すくなくとも、今はそれでいい。

 エヴァが、彼の夫のためにコーヒーを淹れてきてくれていた。彼はそこにクリームをわずかに加え、その香気とともに一口をすすった。完璧な温度で、完璧に彼好みの濃さだった。

 玄関の戸が叩かれ、彼は立ち上がった。しかし、“疾風ウォルフ”の横を、野原の果てを目指すようにすり抜けていった燕がいて、彼は二番目に玄関に到着することになった。続いて、ハインリッヒも玄関にならぶ。

 戸が開かれる。大気圏上層の瞳に、ダークブラウンの髪。背丈は、すでに自分を越えていて、これからもその成長はしばらく続きそうだ。

「ただいま戻りました、母上」

 そう言ってフェリックスは、バラの花束を彼の母に渡した。

「あら、いい香りね」

 どのようにエヴァにプロポーズをしたのか、それを告げたおぼえはない。だが、フェリックスは、自分の母がバラに特別な思いを抱いていて、それを愛していることを知っている。

「おかえり、フェリックス」

 ハインリッヒが、フェリックスに抱き着いた。

「お久しぶりです、兄上」

 フェリックスは、ハインリッヒと自分に血のつながりがないことを知っている。それでも彼は、この十二歳年上の青年を兄と慕い、その数学の才の多くをハインリッヒに開花させてもらったのだった。

 二番目に着いたのに、自分の番が最後にまわってきた、とミッターマイヤーは思った。そのようなことを考えるのは情けないことかもしれないが、しかし彼はふたりの愛する息子を前にした父だった。

「……おかえり、フェリックス」

 彼は当初、父として、師としても威厳のある出迎えをしようとした。フェリックスを出迎える前はいつもそうしようと思うのだが、それが成功したことはない。いつでも妻の台詞を反復するように、月並みな言葉をかけるのがやっとなのだ。

「ただいま戻りました、父上」

 息子の返事も、月並みなものだった。ひとたび宇宙戦艦に乗れば、並ぶべき者のない男たちである。ひとりはそれを実績と経験によって証明し、もうひとりはそれを将来性と豊かな才能によって証明しようとしている。

 ミッターマイヤーは、フェリックスに二歩ほど歩み寄り、両手をささやかに広げた。息子の青い瞳が大きく開かれる。飛び込んでくる。大きくなった息子の頭に手を置く。それは宇宙における唯一の家族の、普遍的な父と子の姿だった。

 まだ、おれの手はフェリックスの頭に届く。ミッターマイヤーは思った。いつか、届かなくなる日が来るのだろうか。フェリックスは父を見下ろすようになるだろう。だが、それでいい。彼が自分の手が宇宙に届きうると錯覚し、この国を見下ろすようにならないかぎり。

 

 

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが、半年以上におよぶ宙域訓練からフェザーンヘ帰投したのは、新帝国暦十七年十二月二十三日のことである。これは予定よりも一週間ほど早く、彼が侍従したカール・エドワルド・バイエルライン上級大将は、幼年学校の教育課程に沿わない行動をしたとして、敬愛すべき上官から叱責を受けた。

 一方で、その蜂蜜色の髪をもつ上官は、彼自身の誇りをアレクに示すことができたと、心の内ではバイエルラインをほめたい気持ちにもなっていた。しかし、彼はその気持ちを表出させることはなく、かつての直属の部下に、幼年学校校長としての立場から批判を加えたのである。

 バイエルラインは、幼年学校校長の執務室を出た後、軍務省へ参するように要請された。

「どのような御用でしょうか、軍務尚書」

 彼は眼の前におかれたコーヒーの香気を吸い込みながら、対面した銀髪の男を見据えた。かつての軍務省では、コーヒーのひとつも出なかったものだった。ここも変わったものだ……とバイエルラインは思うが、それは眼に見える部分だけの話であって、新帝国軍の脳髄とも言うべき内面はいささかの変化がない。すなわち、有能な人物が有能な人物を一糸の乱れもなく統率し、職務を遂行するというその実力は、新銀河帝国が設立された当初から、何も変わっていないのである。

「卿の航行記録についてです、バイエルライン上級大将」

 軍務尚書と上級大将。お互いの呼び方も変わったのだ、と名を呼ばれた提督は思った。決して親しい仲ではない。むしろ、バイエルラインはその経験から、軍務省とそこに名を連ねる者たちを忌避している面があった。だが、自分とは異なる思考と経歴と能力を持っているこの男については、どこか腹の底まで見てみたいという気がしていたのである。

彼の名を呼んだ男の名は、アントン・フェルナーと言った。新銀河帝国における四代目の軍務尚書である。

 初代の軍務尚書はパウル・フォン・オーベルシュタインであり、彼は新帝国歴三年に地球教徒のテロリズムによって亡くなった。

「あのオーベルシュタインが生きていたら、どのように陛下の国葬を行ったのだろうか」

 この言は、ウォルフガング・ミッターマイヤーのものであり、それは皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムが逝去した際、前例を見ない大帝国を築き上げたただ一人の男をどう葬るかについて、残った者たちが頭を悩ませていた時に発したものである。旧例はかつての銀河帝国にしかなく、それに倣うのは故人の望むところではないことは確実だった。

「オーベルシュタインのやつめ、軍務尚書ではなく典礼尚書であったなら、地球教徒に殺されることも、おれたちに殺されることもなかっただろうよ」

 この発言者は、名を言うまでもない。そして彼の恨み言は、生者の口から発されるには、その彩度を欠いていた。典礼尚書は、新銀河帝国が樹立された際にすでに廃止されていたのである。

 オーベルシュタインの葬儀に関する手腕は、その智謀に関する手腕よりも諸提督に高く評価され、声には出さないまでも必要とされていたものだった。皇帝ラインハルトの葬儀は、最終的には皇妃ヒルデガルド・フォン・ローエングラムが計画を練り、それを実行した。

 二代目の軍務尚書は、エルネスト・メックリンガーであり、その後はウルリッヒ・ケスラーであった。彼らは二代続けて帝国元帥を兼任することになり、これには権力集中の批判を免れなかった。彼らがいかに廉直で、己の位置するところのものを濫用することがないとわかっていても、国家的・政治的論理のなかでは、一人の人物が多くの権限を振るうことは好ましくないのである。

 メックリンガーとケスラーはそれぞれ四年ずつ軍務尚書を務めたが、それを補佐する人物はただの一度も変わらなかった。その人物こそがアントン・フェルナーであり、ケスラー軍務尚書兼任元帥の代にあたっては、フェルナーが職務のほとんどを担当していた。これは三代目の無能を示すのではなく、ケスラーの兼任している業務が憲兵総監であったことに由来する。彼は軍務尚書に就任する以前は、憲兵総監と首都防衛司令官を兼任していた。しかし、後者の職務こそ、皇帝ラインハルトの主席副官であったアルツール・フォン・シュトライトをもって継承することに成功したものの、前者に至っては未だ適任者が現れなかった。したがってケスラーは職務を辞するわけにもいかず、憲兵総監として元帥の肩書を背負ったままだったのである。このことから、ケスラーは軍務尚書としては十全に能力を発揮できないであろうことが予想され、その結果としてフェルナーに実権がうつされたのである。

 フェルナーが名実ともに軍務省を束ねることになったのは、新帝国暦十二年のことであり、これは多くの帝国幹部から望まれていたことであった。彼は最も近くで、最も長い間パウル・フォン・オーベルシュタインのそばにあり、そしてその後の二人の軍務尚書のもとで新しい軍務省のすがたを目撃してきた。フェルナー以上に軍務尚書の適任となる者はおらず、彼の経験も実力も、その職にあって最大限の活用を見られるであろうからである。

 事実、彼は過去二人の旧例を反対者もなく破り、その在任はまもなく六年目を迎える。新帝国軍の機能は、それを発揮する機会に恵まれることは稀になったものの、十数年前のそれよりも飛躍的に増している。フェルナーはかつての三人の軍務尚書を的確に批判し、それを改善へとつなげる名手だったのだ。

 なお、フェルナーに軍務尚書の職権が移譲されるにあたり、変更されたことのひとつに、軍務尚書の軍内における階級が廃止されたということがある。これは、元帥号が“獅子の泉の七元帥”の編成に伴って、その称号に課される職掌が再編されたことにその理由がある。フェルナーの前任者はどれも元帥に叙されていたが、純粋に軍務尚書だけを務めていた元帥はパウル・フォン・オーベルシュタインのみであった。

 フェルナーは、自らが元帥になるのを望むことはしなかった。むしろ、彼は軍務尚書に就任する直前までは大将であったが、それを返上し、軍務尚書の役に就いた。この理由を問われたフェルナーは、

「なに、文官も務めてみたかっただけですよ」

 と語ったという。これはおおやけにはされず、一部の者が伝説的に語り伝えているだけである。なお、フェルナーの階級返上の件については、摂政であるヒルダとの議論の上で決められたということも、まことしやかに語られていた。

 

「予定された航路は辿り、問題がなかったことは記録にあったはずです」

 しかし——軍務省に出頭する際の緊張には、何も変化がなかった。フェルナーが、オーベルシュタインほどの酷薄さを持っているわけではない。だが、ここで務める者の多くに、脳細胞の質と数とで、バイエルラインは敗北を喫しているのである。

「いえ、問題はその過程と方法です。とくに、後半の二週間について」

 その一言で、バイエルラインはすべてを諒解した。彼は彼自身の誇りによってアレクに艦隊の最大戦速を見せたが、それは本来であれば必要のない資源を消費することになるのである。実は、最後の二週間の航行は、軍務省には詳細な報告をしていないのだった。フェルナーは、それを消費された燃料資源の項目から明らかにし、その説明を求めているのだった。

 だが、文書ではなく、対面をもってそれを求めたのは、フェルナーなりの気の遣い方なのかもしれない。彼はコーヒーを音を立てずに口に含み、その後でわずかにクリームを加えた。

 バイエルラインにとって、今の軍務省はかつてのものよりもいくぶん以上に好ましく、そしてフェルナーとの談義はたのしむべきものであった。一日に二度の叱責は恥ずべきことではあるが、そのどちらもが、バイエルラインには必要なものに思えた。

 

 “獅子の泉”の大会議場には、以下の人物とその参謀ほか、数人の上級大将が集まっていた。

 ウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥。

 ナイトハルト・ミュラー元帥。

 アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥。

 フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥。

 エルネスト・メックリンガー元帥。

 エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥。

 軍務尚書アントン・フェルナー。

 これら軍部における最高首脳陣が会議場の円卓を囲んでおり、その背後に彼らの参謀と、カール・エドワルド・バイエルライン上級大将を含む数名が座っていた。会議場の規模に比べて人数が極端に少ないのは、会議の機密性保持のためである。

彼らは、三名の人物を待っていた。

 まずは、国務尚書のユリウス・エルスハイマーである。彼は官僚としては短くない経歴を持っており、国務尚書に就任してまもなく四年目を迎えようとしている。

 国務尚書の職については、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの父であるフランツ・フォン・マリーンドルフが新銀河帝国における初代であるが、彼は娘の結婚に際しその職を辞そうとした。娘の結婚相手が皇帝であり、皇帝の義父としての自身の立場が強大になるのを避けるためである。彼は国家の運営論理と力学をわきまえ、それが破綻をきたさないように最大限の注意を払っていたので、抱くことも可能な野心とは無縁だった。

 国務尚書を辞すという彼の考えは、娘夫婦のもとにアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムという世継ぎが生まれ、とりあえずローエングラム王朝の存続が確実であると諒解された際に、さらに強化された。ラインハルトの母は死に、父はいないものと同然とされたため、皇帝の死後アレクの係累は母と祖父としかいないのである。フランツ・フォン・マリーンドルフが国家を滅ぼす野心家でないことは万人が承知していることであるが、それでも彼は彼自身に、権力をあやつる発言力が備わるのを嫌ったのである。

 しかし、彼は皇帝の祖父である以上に権力者の父だった。摂政となった娘に請われ、“新帝国暦八年まで”という条件付きで国務尚書を務めあげた。彼はヒルデガルド・フォン・ローエングラムの政策に対する最大の理解者であり、批判者にもなり得た。だからこそヒルダの政策はことごとく成功をおさめ、新銀河帝国の安寧に大きく寄与していた。

 フランツは後任に廉直なウォルフガング・ミッターマイヤーを推したが、被推薦者はそれを固辞した。彼は軍人であり、いまさら文官にはなれないというのである。だが、フランツにはミッターマイヤーの意図が分かっていた。彼は、彼の息子が軍人として一人前になるまで、軍という組織から離れるわけにはいかないのである。フランツは人生のうえでも、親という立場のうえでも、ミッターマイヤーよりも長い経歴と確かな実績を持っているのだ。

 最終的に、二代国務尚書にはマインホフが就任し、彼は内閣書記長職を後任に譲った。マインホフは能力であれば初代国務尚書を大きく上回っていたかもしれない。だが、ヒルダの理解者としての力量は数段およばないものであった。それでも彼が国務尚書を務めた六年のうちに、政治や経済が一切の遅滞を見なかったのは、ヒルダと彼の力量とが激しい相剋を示さず、適度な調和と健全な対立を続けたからである。

 ユリウス・エルスハイマーは三代目の国務尚書であり、新帝国暦二年時点では新領土の総督府民事長官の地位にあった。彼は当時の新領土総督であったオスカー・フォン・ロイエンタールを補佐する立場にあり、あの反逆事件が集結し、総督が交代した後もその職にあった。

 彼が新領土を離れたのは新帝国暦四年のことである。新領土の一部であるバーラト星系が共和自治政府に移譲され、その整理をしたのちに、彼はフェザーンへと招聘されたのだった。——なお、その際に彼はフェザーンへの旅程を数日遅らせ、妻とともに惑星ウルヴァシーへ寄った。ここは、彼の妻の兄である故コルネリアス・ルッツ元帥が戦死した地であり、その墓参りを兼ねたのである。彼は義兄を敬愛していたし、主君への崇高な忠誠心を心から尊敬していたのだ。

 エルスハイマーはフェザーンでも能吏として活躍し、またルッツの義弟ということもあり諸提督との関係も良好だった。彼にはロイエンタール反逆事件を防ぐことができなかったという悔恨があったが、むしろそれを薪として自らの燃料とし、そして自らも新銀河帝国の薪になろうとした。

彼を国務尚書へと推したのは、その座が空となるたびに推挙されるウォルフガング・ミッターマイヤーであった。エルスハイマーはそれを聞いて煩悶した。彼には悔恨があり、さらに彼自身はその償いのために一人の役人としての生を全うしようとしていたからである。

「この手紙をおぼえているか?」

 ミッターマイヤーはエルスハイマーを国務尚書へと推薦した後、自身の執務室へとエルスハイマーを招き、秘蔵のワインを並べた。その三十センチ上空で、一通の手紙が示される。それは、ロイエンタールがミッターマイヤーに送った、最後の手紙であった。

 その最後の手紙には、エルスハイマーの忠義の証明が書かれていた。

「忘れるはずがございません」

 彼はあふれ出る涙をそのままに、手紙を濡らし、そしてワインにもその一滴をこぼした。それが美酒の香気を立ち上らせ、一瞬にして、彼を国務尚書へと変えたのである。

 国務尚書となったエルスハイマーは、その能力を十全に発揮し、ヒルダを支え続けた。彼の的確な指示と斬新な着眼による施策は次々と功を奏し、

「まるで名射手だな」

 という評価を、主席元帥から得るに至ったのであった。

 

「それにしても、時間がかかっておりますな」

 エルスハイマーが到着し、残る二人を待つ会議場の中で、エルネスト・メックリンガー元帥が声を発した。軍務尚書も歴任した彼の言葉は重いひびきがあり、それはこの会議の主題が重要な事項であることを予感させた。

 残る二人のうち、一人はむろんヒルデガルド・フォン・ローエングラムである。摂政としての彼女は、どんなささいな会議にも必ず参加することになっていた。それは公的な規則というよりも彼女が自らに課した命題であって、それによって前例をつくろうという意図は、多くの者が畏れをともなった賛美を行うものである。

 もう一人については、これは運命的な何かを思うしかない。カール・エドワルド・バイエルライン上級大将が先日叱責を受けた原因が、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの出席を可ならしめた理由にもなったからである。本来の行程通りにバイエルラインが航行を行っていれば、アレクはこの会議には間に合わなかったのだ。

 ラインハルト・フォン・ローエングラムの面影を十分に感じさせるアレクの存在は、それだけで集まった人間を高揚させた。だから、この会議にはその議題以上のものがあるのである。

 このような時、最も先に体と口が動くのは、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥である。彼は戦場に遅参することを何よりの恥と見なす男であるのだ。

「おい、バイエルライン。卿のおかげで陛下が出席あそばされるが、なぜあんなことをしたんだ?」

 バイエルラインは、ビッテンフェルトの左後方に座っていた。真後ろには参謀長オイゲン大将が座っており、その咳ばらいを右耳に捉えながら、バイエルラインは説明した。

「恐れながら、陛下に、宇宙最速を知っていただきたいと思いまして……」

「ほう、それは良い考えだ。おれも陛下に宇宙最強を知っていただかねばならん」

 その一言で、ビッテンフェルトが戦いに飢えていることが全員の諒解するところとなった。彼の破壊衝動は、皇帝ラインハルト亡き後、十四年の時によっても打ち破られることがなかったのである。

 バイエルラインは曖昧に苦笑すると、再び咳払いが右の聴覚を刺激するのを感じた。

「みな、私語はつつしんでくれ。間もなくヒルダ様とアレク様がいらっしゃる」

 ミッターマイヤーの声は、広い議場でもよくひびいた。

 数分の後に、議場のドアが開かれ、ヒルダとアレクが入ってきた。全員が起立し、敬礼をする。二人は、そのまま円卓についた。その背後には、黄金獅子旗がかけられている。

 バイエルラインは、そのアレクの姿に、眼を奪われていた。巨大な黄金の獅子の前に座るただ一人の少年は、その蒼氷色の瞳が放つ光を議場に回遊させている。それが、獅子の放つ光のように見えるのである。その少年は、いまだ会議での公的な発言を許されていない。だが、その姿は間違いなく言葉以上のなにかを放っており、それは自らの内に由来するものであった。

「昨日、ケスラー元帥よりある報告を受け、その続きを、先ほどまで聞いていました」

 ヒルダの透き通るような声がして、バイエルラインは正気に戻った。

 ウルリッヒ・ケスラーは、この議場にはいない。彼は憲兵隊の一部とともに、この一か月ほどフェザーンを留守にしており、その間の本隊は別の人物が率いている。ケスラーには単独行動権が与えられており、殺害以外の超法規的措置を取ることが許されている。これは一般には極秘の事項であって、しかもその行使には憲兵総監の責任が伴う。ケスラーを糾弾するのは別の部署の役割であり、その危うい均衡のなかで彼は強烈な自制心をもって行動していた。

「内容は……。いえ、ここでは、どこから報告を受けたのかをまずお伝えすべきでしょうね」

 ヒルダの眼に、刹那のかげりが見えた。

「ケスラー元帥がいらっしゃるのは、惑星ヴェスターラント。いまからお話しすべきことは、あの惑星で起きた出来事です」

 ——議場の空気の温度が急降下を見せた。十数年前の惨劇を知らない者は、この議場にはいない。それどころか、ほとんどがそれに居合わせた者であって、それぞれの脳髄にはその惑星名が血文字で刻まれている。

 惑星ヴェスターラント。リップシュタット戦役において、ブラウンシュヴァイク公による熱核兵器が落とされた地である。そして、皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの生涯における楔となり、半身と魂とを蝕む病の源となった大地……。

 



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第3話

 

 その二人が出会ったのは、まったくの偶然だった。

 新帝国暦一五年一二月のある日のことである。ある惑星の酒場で乱闘騒ぎがあり、ひとりはそれに巻き込まれ、もうひとりはそれを眺めていた。

 眺めている男はルーカス・クリーガーといった。かつて“泥の色”と揶揄された濃い茶髪の持ち主である。彼は酒場の隅から乱闘を眺めており、彼が憂慮していたのはその騒ぎがこちらに飛び火してくることで、期待しているのはこの隙に無銭飲食ができないかということだった。しかし、野次馬は酒場の中央から出入り口まで厚い壁をつくっており、その期待はかないそうにない。したがって、彼は騒ぎを傍観することによって退屈を紛らわせていたのである。

 巻き込まれた黒髪の男の名前は、ウィル・メイヤーである。この乱闘において彼はむしろ被害者だった。そして乱闘騒ぎの原因となった、ほんのささいな火種を知っているふたりの人間のひとりだった。彼以外のもうひとりは、今ウィルに赤くはれた拳をかざしている。

 五分ほど前のことである。静かにブランデーをなめいたウィルは、となりに座っていた、すでに十分すぎる酒精を身体にみなぎらせた中年の男に声をかけられた。

「宇宙暦七九九年のバーミリオン星域会戦における勝者はだれか」

 それは多くの帝国国民にとって酒談義のテーブルに添えられる定番の肴のひとつだった。しかし、かつて自由惑星同盟と呼ばれていた宙域の、その心臓部であるバーラト星系で生まれたウィルにとっては、その肴はぶあついメニュー表の片隅にものるはずがないのである。彼は多くの同盟市民にとって同様にある人物の信奉者であったし、その人物がとった行動に完全な納得をせずに憎悪を蓄積させたひとりでもあった。

 ウィルがその人物とであったのはいつであったか。正確な時間を、彼はおぼえていない。その人物も同様であろう。なぜなら、その時のウィル・メイヤーはまだ五歳で、父を戦争でうしなった悲しみの足かせを取りはらうことができずにいたからである。彼の祖母は同盟の滅亡を目の当たりにすることなくこの世を去ったのだが、その間際まで祖母が言いつづけたことがあった。

「ウィル、あなたはヤン・ウェンリー提督とおはなししたことがあるのですよ」

 それに続く言葉を、ウィルは記憶していた。——あの時、まだ提督は准将だったかしら。いいえ、それよりも大事なふたつの称号があったわ。“エル・ファシルの英雄”、“アスターテの英雄”……。あの方が、あなたのパパの讐をうってくださるから……。

 祖母は決して熱心な愛国者ではなかった。自由をたっとぶ同盟への卑劣なる侵略者にたいして、息子を殺害された恨みと、みずからを孤独にした哀しみをぶつけているだけなのである。その感情は、当時の同盟市民にはごく自然なものであった。

 彼は十五歳の時に共和自治政府士官学校へ入学し、卒業と同時に軍籍に身を置いた。中尉となったいまは、休暇で一人旅を満喫していたところなのだ。たまたま立ち寄った酒場で、たまたまうまい酒と出会い、それを楽しんでいる最中に、たまたまとなりに座っていた男に話しかけられたのである。

 かの中年の男の問いにたいして、ウィルは迷うことなく返答をした。

「バーミリオン星域会戦の勝者は、うたがいなくヤン・ウェンリーである」

 男はその返答にたいし、冷笑をもってこたえた。

「じゃあ、なぜそのヤン・ウェンリーとやらは生きていないんだ? 戦争の勝者が生者でないなんて、そんなばかな話があるか」

 濃いアルコールにみちた空気のなかで、何人かが男の言葉に同調した。ウィルは全霊の忍耐によっておのれのうちにわきでた怒りという火薬の爆発をおさえながら、バーミリオン星域会戦の推移とともに、彼がヤン・ウェンリーを勝者とみなす理由をのべた。それは理路が隊列を組んで見事な行進を見せた論であり、それに反するには相応の隊伍をならべた理論が必要なはずであった。しかし、男はそのような論をあやつる司令官などではなく、ふだんは肉屋をいとなむ、ごく平凡な小市民だった。

「それで、その空想小説は売れたのかい?」

 男の下卑た高笑いに、ついにウィルの火薬庫は爆発した。彼は男の言葉を買いたたき、そして男もウィルの乱売する挑発を買い占めた。このふたりを颶風の中心点として、小さな酒場は荒れに荒れた。騒動をきらう者は中心点から遠ざかり、また騒動を外から好むものはその中心には近づかないながらもそのまわりにたゆたい、内から好むものはみずから中心に殺到した。嵐は徐々に大きさを増していき、警察が出動する事態へなっていった。

 ウィルは数人の男に袋叩きにされながらも、軍人の矜持が手を出すことを許さず、だが同盟市民としての意地が採算度外視の挑発を止めることを許さなかった。彼は軍人らしからぬボキャブラリーの豊富さによって、男たちの怒気を刺激したのである。

 その光景を遠巻きに眺めていたルーカス・クリーガーは、次第に殴られている男の不屈さにたいして敬意を抱くようになった。殴られ、蹴られても、ヤン・ウェンリーが勝者であることを主張し続けていたのである。

「こいつはつかえるかもな……」

彼は呟き、となりの客が頼んだチップスをばれないように口におしこむと、飲むべきときを逃してぬるくなったラガーを右手に立ち上がった。

「おい、あんたやめときな」

 まわりの客がルーカスを制止しようとしたが、それらに軽い笑顔をふりまくと、嵐の中心点へと近づいていった。そして、殴られて顔が二倍ほどにふくれあがった黒髪の男と眼をあわせると、彼への加害者のさびしい頭頂部に琥珀色の滝を落とした。

「外でやろうぜ。おれはこいつに加勢するが、文句はないよな?」

 男の暴力に対する情熱を鎮静化したばかりか、髪の毛の先からしたたるラガーとともに男の火にさらなるガソリンを注いだようだった。男は非言語的な咆哮とも区別のつかない奇声をあげると、人だかりによってできた包囲網を突破していった。むろん、包囲網のほうから男の脱出路を開けたのだが。

 男が酒場のほうを振り返ると——そこにはさっきまで情熱的な暴力をあたえていた男と、自分の頭に琥珀色の水をまいた男の姿が、すっかり消え去っていた。

 

 路地を駈けながら、ウィル・メイヤーはアルコールでにぶった自分の脳を叱咤した。こいつはいったい、どうなってやがる? 身体じゅうが痛いのは殴られたり蹴られたりしたせいだとして、右手が痛いのはへんな男に腕をひかれているからだ。それにこいつ、とんでもなく足が速い!

 彼は酒場の店主にたいして、店を荒らしたことと無銭飲食をはたらいたことを詫びねばならないのだが、そんなことは彼の思案の外にあった。ともかくも、彼は今の状況を整理することに脳細胞を集中させなければならず、それは酔いと身体の痛みとによって難事業になりつつあった。

「大丈夫だ。おれもあの店に金は払っていない」

 この男は、おれの思考を読むことができるのか? ウィルは内的に作成した難事業のリストに、男の特別な能力を解明することを加えた。忙しい、と彼は思った。

「まあ、そろそろいいだろう」

 ようやく男の手が離され、思わずウィルはその場に座りこんだ。激しくピストン運動をする自分の胸を見ながら、彼は長らく不足していた酸素をけんめいにとりこもうとした。

「あんたは?」

 やっとの思いで出した言葉は、難事業のリストにおいて一番先頭にあった問いだった。

 泥色の髪をもった男は、ルーカス・クリーガーと名乗った。どこか軽薄そうな感じのする男だが、自分を助けてくれたことはたしかなようだった。それに、とんでもなく足が速い。士官学校では運動能力でもかなり優秀な部類だったが、それでもついていくのもやっとというところである。

「まあ、まずは助けてやった礼をしてもらわんことにはな」

 ルーカスがにやりと笑った。ウィルは自分の呼吸がようやく整ってきたことを確認して、からだの節々の痛みに耐えながら立ち上がった。

「危ないところを、助けてもらった。ありがとう」

「なにを勘違いしているんだ? おれは言葉なんて腹の足しにもならないものに興味はないのさ」

 ウィルは自分の難事業リストが更新されたことを感じた。いや、そんな悠長なことを言ってはいられないかもしれない。彼の二三年間の人生経験が告げていた。

 逃げられるか? いや、こいつの足の速さを見ただろう!

「どうすればいいんだ?」

 ウィルは、慎重に言葉を選んだ。体内にまわったアルコールは、こういう肝心な時はきちんとどこかに消えてくれる。冷静になりつつある脳には問題がなさそうだった。懸念があるとすれば、さっきまで暴力の風雨をあびつづけたこの身体だけだ。しかし、それが一番大きな障壁なのであるが。

「もちろん、そのからださ」

 聴覚の刺激に脊髄が反射して、ウィルの両足を歩幅いっぱいに動かした。だが、すぐに襟首をつかまれて、彼の脊髄の徒労は無為におわった。

「勘違いをするな。おれのためにはたらいてほしいと言っているんだ」

 ルーカスの口から発されることばの羅列が理解できず、ウィルはルーカスの顔を見ようとした。

 だが、彼の眼に映ったのは、またしても自分にたいして振り下ろされる拳だった。

 

 

一〇

 

 どれほど経済が発達し、文明が成熟をむかえたとしても、普遍的な真理というものは変わりがない。だれかを愛し、幸福な生活を営むことを人々が永遠不変の是とするように。それはひとつの技術においても同様である。宇宙の隅々を見通す望遠鏡が開発されたとて、だれもそれを手放そうとはしなかった。人々がまだ地球というちいさな惑星の、小さな文明にとじこめられていた時代に生まれ、以降歴史の表舞台から決して消えることのなかった技術――すなわち、紙である。

 その植物繊維の結合体の年齢は四〇〇〇歳近くにならんとしている。だが、人々はその老人の酷使をやめなかった。どれほど技術が無制限に発達し、物理的な保存や永続性の点にかんして、個別にそれを凌駕するなんらかが現れても、それらを総合的に鑑みた時、情報伝達手段において、紙の完全な代替となるものはついぞ現れなかったのである。さらに、紙という媒体が消失しなかったことで、手紙という文化は人々の感心を遠ざけることはなかったし、したがって郵便屋という職業も、衰退こそあれ滅亡をまぬかれたのである。

 しかし、郵便屋の性格は、その運営主体の面で大きな変化を果たしている。地球時代にはまだ国家によって運営されていたそれは、西暦二〇〇〇年を前後として市民の手にゆだねられたのである。その事実は、郵便の権力における不干渉を示したのだ。人々は自分の郵便の秘密が国家によっておかされたなら、抵抗することが法によって保障されていた。その諒解は、人々の活動域が宇宙に移っても変化がなく、むろん新銀河帝国においても同様であった。すなわち、暴力革命を望むものにとって、傍受されかねない電子媒体による通信は忌避すべきであり、郵便はいまだ主力的通信手段であったのである。

 銀河中にあまねく張り巡らされた郵便網は、銀河の端から端までの通信を可能にする。ただし、それには物理的に多大な時間と費用がかかる。前者に関しては、その策略が遠謀であればあるほど問題にはならない。そして後者については——その郵便屋という職業者が暴力革命的思想をもつならば、これまた問題にならないのである。

 郵便網全域を支配することは不可能である。したがって主要な複数の星域を確保することが肝要になるのだが、かれらは辺境の星域などを拠点に定めなかった。それはかれらの合理性と智謀と無謀の大なるを示すものであったのだが、とかく暴力革命家たちがその中心に据えたのは、イゼルローン要塞とその周辺諸星域であったのだ。

 銀河系全体を天球上から俯瞰したとき、西側に旧自由惑星同盟、東側には旧銀河帝国が置かれる。そのふたつの領域をつなぐふたつの回廊であるイゼルローン回廊とフェザーン回廊は、北南にならぶようにふたつの架橋となる。そのうちの北側であるイゼルローン回廊と、それを支配するかのごとく鎮座されるイゼルローン要塞は、かつて両国の間でいくつもの戦争の舞台となった。それを奪わんとする側と、守らんとする側が散っていった末にうまれた屍は、新帝国暦三年から十四年近い平和のなかで、幾度かの清掃作戦が決行され、いまではほとんど見ることはなくなった。しかし、目に見えるかたちが失われたと言っても、その歴史までは消えることがない。それは、ここに散った兵士たちの遺族の記憶も同様であるのだが。

 イゼルローン回廊をはさんで、アスターテとアムリッツァのふたつの星域を結ぶ航路は、暴力革命家たちにA‐A航路ないしA‐A郵便網と呼ばれていた。イゼルローン回廊周辺の星域は大きな会戦の舞台となることが幾度もあったが、とりわけこの二つにかんしては、ある金髪の若者の踏み台となったことで、人々の大脳の最表層に近い部分に記憶されているだろう。

 

 なぜこの地域を根拠地として選んだか。ある豪雨の夜、ルーカス・クリーガーなる泥色の髪の青年が家にやってきて語ったことを、フランシス・ドゥランは鮮明に記憶している。ルーカスの名を知るまで、フランシスは一介の郵便局員にすぎず、彼の人生は、アムリッツァ星域の小さな惑星にとじこめられ、家族と妻子の遺影に花をたむけ続けるだけのルーティーンにとどまっていただろう。

 まだ帝国暦に“新”という形容句がつく前、フランシスは軍人となることを潔しとせず、たまたま求人のあった郵便局に勤め始めた。郵便局員の収入は、同一惑星むけ郵便と、他惑星むけ郵便とで異なる。前者の収入はすくなく、老いた両親と妻、そして生まれたばかりの乳児を支えるには不足していた。したがって彼は、ごく自然に惑星間郵便の業務に親しみ、そして一家を養うに足る収入を得るに至ったのである。

 ある日、彼は大きな仕事を得ていた。彼の生涯でも二、三度しか経験のない、当時の首都星オーディンに向けた郵便である。長期間の拘束になるものの収入はよく、彼はだれよりも熱心にその仕事を志望した。基本的に、長期的な航行には危険が伴う。しかし、彼は軍からもスカウトがあったほどに宇宙船の操舵がうまく、技術面での航行の不安はなかった。宇宙海賊の出現についても、各惑星とオーディンを結ぶ航路は厳重な警備がしかれるし、また郵便は金にはなりえない。したがって憂慮の必要はない。考えられうる最後の可能性――すなわち、外敵の侵攻についても、彼は特に憂うべきことはないと判断していた。

 アスターテ星域におけるラインハルト・フォン・ローエングラム上級大将の大勝によって、同盟軍はその数を減らし、時を置かずに攻勢をかけてくるであろうことは予測しがたく、なにより自由惑星同盟と銀河帝国の間にはあのイゼルローン要塞がある。イゼルローン要塞! それは自由惑星同盟にほどちかいアムリッツァ星域の唯一にして最大の防波堤であり、あの漆黒の球体があるかぎり宇宙のこちら側の安全は保障されているのである。

 フランシスはたしかな打算とともにアムリッツァ星域を離れた。たよりのない太陽は彼にとって慣れ親しんだもので、不吉の予兆など一切を感じることがなかったのである。

 オーディンまで残り一週間という行程のさなか、彼はオーディンへむかって航行中の全船舶にたいし、至近の惑星に立ち寄るべしという指令を受けた。この手の命令は軍によって幾度となく発令されてきたものであったが、通信の節々に感じられる通信手の狼狽ぶりには、さすがに違和感を禁じえなかった。錯綜する通信のなかで、彼は民間船にしてはほぼ最速といっていいほど、その情報を手に入れるに至ったのである。

「イゼルローン要塞陥落!」

 フランシスが信じるものは、眼の前にある札束と、通帳に記されたゼロの数のみである。妻のベッドでの愛の告白も、はじめて聞いたときは疑ったほどだ。そんな彼は、当然のようにその情報の真偽を疑ってかかった。しかし、手に入る言説も、立ち寄った惑星の宇宙港内部における官吏の落ち着きのなさも、すべてがある単一の情報を是とすればつじつまが合うのである。彼は確信した。イゼルローン要塞が、あのどんな洪水にも顔色を一つも変えずに耐え抜いてきた虚空の防波堤が、矮小なる叛徒どもの手に落ちたのだと。

 その事実を認めた時、彼の脳髄に浮かんだのは、老いた両親と妻子の顔だった。自由惑星同盟を発生源とした洪水は、ちかい将来に間違いなく押し寄せる。その波濤の手が真っ先に伸びるのはどこか。彼が生まれ、育ち、妻と子を手にした星域にほかならない。

 いますぐにアムリッツァにむけて舵を切り、保管庫にある手紙をすべて廃棄して、かわりに家族を乗せて逃げ去りたかった。だが、彼の操る船は、オーディンへ向かう目的の確認を終え、その確実性が証明されると、帝国軍の“庇護”という監視のもと、それまでの半分以下の船足で目的地へと向かわざるを得なかったのである。

 オーディンへ到着したフランシスは、アムリッツァへと送られる郵便を回収しなければならなかった。そしてそれにはいつもの数倍の時間がかかった。後年、彼はこの無駄な時間の原因を知ることになる。イゼルローン要塞は、ヤン・ウェンリーなるものの奇策によって陥落し、それは内部から混乱を生じさせられたうえでの出来事だったのである。帝国は、これも滑稽なことであるのだが、オーディンから出ていく情報とオーディンへ入ってくる情報のすべてを管理しようとしていたのだ。“非常事態”という名目のもと、郵便物はほとんどすべて内容が明らかにされ、あやしげなものは差出人も含めて検閲の対象となった。

 フランシスがかぎりないいらだちをおぼえてオーディンを発ったのは、宇宙暦七九六年、旧帝国暦四八七年八月二〇日である。それは、自由惑星同盟の宇宙港から、三千万の将兵が銀河帝国へむけて飛び立つ、まさに二日前であった。このとき、フランシスの頭脳は、一刻もはやくアムリッツァの家族のもとへむかうという難事業に取りかかりきりであり、大戦争を前に急転する社会情勢に洞察をくわえる精神的猶予はもはやなく、また時間的猶予もなかった。彼は、家族とおなじくほの暗い太陽を見上げるべく、茫漠たる星海へ乗り出したのである。

 ……フランシスはもちうるすべての才幹と能力、そして財をもちい、労力的にも金銭的にも帳簿に赤字を刻みながら、最短のルートを駈けた。故郷の星へのこり一週間、彼の乗る宇宙船に備え付けられた望遠鏡が、なつかしむべきたよりのない太陽をかすかにとらえたとき、——望遠鏡ではなく、宇宙船の丸窓から――見えたのは、フランシスが向かう先から逆行してきた数千隻の軍艦である。その側面には、誇り高き帝国軍の紋章が刻まれていた。

 一週間後、彼が故郷ではじめに目撃したものは、宇宙港ではためく三色旗であった。それはまごうことなく、彼と彼の家族が自由惑星同盟の被支配民になったことを示していた。フランシスはその日の職務をすべて放り出し、おそらく人生最大の速度で家族のもとへと走った。彼がふたつめに目撃したものは、“戦時の習い”という不文律に沿って殺されたという、彼の妻の姿だった。それだけではない。おそらく彼女を守ろうとしたのであろう、彼の両親も大怪我を負っていた。そして二日後にはそろってヴァルハラに旅立ったのである。

 フランシスは完全な自失を経験した。彼は深い迷宮のうちにいた。その妻と両親を喪った恨みの鋭槍をだれにたいしてむけるべきか。かれらの命をうばった同盟軍か、それとも――。

 しかし、彼にはまだ守るべき子供がいた。妻の面影を半分、自分と両親の面影をもう半分に残すその赤子は、なんとしても守り切らなければならない。だが、物資は完全に同盟軍の支給にたよっている。宇宙港に同盟旗がはためいて以来、物資が満足に届いたことなどないのだが。彼がその旗に見慣れ、それまでの帝国軍旗ていどに親しみをおぼえはじめたころ、支給される物資が極端に少なくなってきた。彼は自分の食べるものにも困窮しながら、なんとか赤子の世話を続けた。しかし、女神のなんと無慈悲なことだろうか。みるみるうちに赤子は衰弱していき、その年の十月十日に死亡した。

 ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥率いる銀河帝国軍が、アムリッツァ星域に同盟軍との最後の戦端をひらき、それをほとんど徹底的といっていいほどに撃滅する数日前である。

 民衆に歓呼のうちにむかえられる帝国軍宇宙艦隊と、宇宙港にふたたびはためくこととなった帝国軍旗を見上げながら、フランシスはその心的鋭槍をかまえた。彼の脳裏には、アムリッツァを捨てて逆行していく帝国軍艦の姿があった。そして、妻の亡骸と、両親の亡骸と、わが子の亡骸と——。彼のかまえた槍は、本来石突とよばれる場所にも刃をほどこしたものであった。すなわち、彼の恨みは、銀河帝国にも、自由惑星同盟にもむけられたのである。とりわけ、彼は立体TVに映し出されるある青年の姿を、明確に敵と認識するようになった。すべては、あの男が行った作戦が淵源であったのだ……。

「赦してなるものか、ラインハルト・フォン・ローエングラム」

 

 

一一

 

 ひとりの人間の行動をひとつの颶風のようなものとするならば、それには絶え間のない潜熱の供給が必要である。生命維持活動であれば、食事があればよい。労働であれば、その意欲があればよい。だが、それが革命であるとするならば、どうか。革命という、爆発と拡散をともなうエネルギーの奔流。ルーカス・クリーガーは、あるふたつのうちいずれもがあれば、と思う。

 ひとつは、行動を喚起させる感情がほっするカロリーを、定期的に供給することである。時間という絶対者がもたらす癒しは、どんなに強い感情であっても、一条の水流がやがて谷を刻むように、ゆっくりと、しかし確実に破壊させていくものだ。つまり、その絶対者による支配にあらがうために、その感情を想起させてやるのだ。特に、それが恨みという負の情動であるならば、かれらの臥す場所はけっしてあたたかなベッドではなく、時としてみずからの背をも傷つけかねない薪の上であるということを、語り続けなければならない。

 もうひとつは、革命が活動者のライフ・サイクルを構成する鎖の一輪となることである。活動が生活と乖離してはいけない。完全な趣味となってもいけない。革命が生活を支えることはなく、革命を支えるのが生活であるのだから。

 ルーカスにとって、フランシス・ドゥランはひとつのモデルとなるべき存在であり、また通信という、活動の一切を支える最も重要な一因を担っている。これは、ルーカスがその商業活動のさなかに見つけてきた点と点とをつなげ、加速度的にルーカスたちの歩みを進ませているのだった。

 銀河全域に、革命の土壌はある。国が建つときというのは、多かれ少なかれ、人が死ぬ。人には家族がおり、友人がおり、恋人がいる。ひとりの死が一〇人の心に影を落とすとすると、数千万の死は数億の影を落とすことになる。ルーカスの役割は、その影を縫いながら、影の創造者に――かれらにとっての死神をたばねる冥界の王に、かれらが叛すための一足を促すことだった。

 新銀河帝国は、かつての人類の歴史に類を見ない屍血と山河に浮かぶ巨大な船だった。その船は、ひとつひとつの建材と水夫とが、忠誠というつよい結合によって手をとり、屍血にあって不沈をほこっている。人々は、その甲板で朱い波にゆられながら、みずからを乗せた船が、いつかそのおぞましい海域をぬけ、美しく澄みわたった海原へとたどり着くものであると信じている。ただ信じているだけだ。はたして、一〇年近く血は流れなかった。今だけだ、とルーカスは思う。みずからを過信する過剰に巨大な船は、その処女航海の道先に、氷山の群れが待ち受けているものとは考えないものである。

 ルーカスは、旧銀河帝国の僻地に生まれた。豊かでも貧しくもない惑星の、富裕でも貧乏でもない家庭のひとり息子。それが彼だった。彼のひとつだけ他とことなる、尋常の範疇でははかりきれないであろう点は、彼のこの世のすべてにむけるまなざしが、おもしろさという極彩色の色彩をつねに求めていた点である。それに関していえば、彼の境遇は完全なモノクロであった。

 そんな彼の目の前にあらわれたのは、黄金の髪をもつ、彼と同年齢の若者だった。その若者は、またたくまに“老朽船ゴールデンバウム号”の舵を奪い、そして船そのものを壊し、あらたな巨大船をつくりあげた。船長職の別名は、新銀河帝国皇帝。立体TVにうつった若者の姿は、ルーカスのまなざしのなかで、極彩色をこえてかがやいていた。

「そうだ……。これだ、これなのだ。おれが求めていたものは」

 新帝国歴一年。彼はそう独語して、これまでの短い生涯のなかでためた資金を手に、フェザーンへ赴いた。ちいさな船窓から無限の暗闇と数億の星々を凝視する。それらがいままでとちがう色彩を帯びていることに、万感の思いを抱きながら、彼は脳内で知能による格闘をはじめていたのだった……。

 彼は皇帝になりたかったのである。これに勝る革命の動機があるだろうか?

 

 ウルリッヒ・ケスラーは、憲兵総監の職にあって独立行動権と超法規的な危険人物の殺傷を許可されている。彼の存在はあらゆる意味で巨大ではあるが、ケスラーは一度としてそれを悪用したことがない。この事実は、未来においても同様であろう。彼は目的のためならあらゆる手段を講じ、それを実行する勇気とみずからを統御する悟性をもちあわせていたが、卑怯と蒙昧、そして無用な悪とは出生時から袂を分かっていたのである。

 彼はある人物を追っていた。けっして危険人物の筆頭というわけではない。ケスラーのそばに常駐する数名の憲兵をのぞいたほかは、たとえば連続殺人者とか、旧自由惑星同盟領における反新銀河帝国派などを調査しているはずだ。ケスラーがあるひとりの郵便配達員を追うのは、彼の直観に拠るところが大きい。

 フランシス・ドゥランは、ひとりの善良な小市民として、だれの目にもうつる。あの十数年前の激動の時代が起こした荒波にさらわれて、その中途に家族と永遠にはぐれ、それでも懸命に生きる青年に見える。だが、彼の郵便ルートにおいて、しばしば計上される郵便税に誤差が報告されているのである。それはごくわずか、砂場の砂粒の多寡を比較するような途方もない値における誤差であるが、その誤差の発生点にしるしをつけていったとき、ある航路に集中しているのだった。銀河を天頂方向から俯瞰し、東に旧銀河帝国、西に自由惑星同盟をおいたとき、アスターテ星域とアムリッツァ星域をむすぶゆるやかな曲線に、である。

 これは偶然だろうか。集中といっても、あるいは統計上のかたよりであるかもしれないし、フランシス・ドゥラン以外にもこの航路を担当する者は何名もいる。だが、ケスラーは思考よりも行動の人であった。可能性があり、それが机上で解決できないと知るならば、逡巡もなく立ち上がり、なお衰えをみえない四肢をするどくのばして、不可視であるならば聴覚と嗅覚、触覚を駆使して、不可触であるなら視覚と嗅覚を駆使して、なにもかもをあきらかにしようと試みるのである。

 憲兵総監が、あるひとりの市民を追っている。当事者たちの思惑と労苦をしらぬ第三者がこの光景を見たならば、滑稽にうつるかもしれない。だが、ケスラーには、いつでもブラスターを抜く覚悟ができていた。

 フランシス・ドゥランのほうも、まさか憲兵総監であるとは知りえるはずもないが、自分の影をふむように、ひたひたと何者かが追跡者と化しているのを洞察していた。ルーカス・クリーガーの手助けもあったが、フランシスはすんでのところでケスラーの追跡をかわし、みずからが暴力革命の従事者であることを隠し続けてきている。その点で言えば、フランシス・ドゥランは並みの人間ではなく、ある水準以上のすぐれた力量をもった男であった。

 そして、その事件は逃走と隠蔽、追跡と執念のはざまで起きた。

 惑星ヴェスターラントにおける、大規模な反帝国デモ行動である。

 

 大火事の発端は、あるいは常に些細な見落としとちいさな火種にあるのかもしれない。しかしその火種は、相対性のなかで語るべきであり、火種と比較されるのは新銀河帝国という巨大かつ絢爛な建造物であった。

 “獅子帝を想う”と題された連日のテレビプログラムは、かなりの好評を示しており、故ジークフリード・キルヒアイス大公のリップシュタット戦役における活躍の章では、視聴率は過半数をこえるに至った。新銀河帝国の中枢が鼻白まざるをえなかったプロパガンダ性は、人々の支持によって皮肉にも隠蔽されつつあった。しかし、その厚いヴェールを取り去ったのは、隠蔽者とはべつな人々による行動であった。

 “獅子帝を想う”は、ジークフリード・キルヒアイスの悲劇によってリップシュタット戦役に対する語りを終えている。そのなかで、惑星ヴェスターラントをおそった悲劇はどのように語られたか。――いや、語られなかったのである。“獅子帝を想う”の制作者たちは、ヴェスターラントについて触れもせず、あたかもその記憶が抹消されたかのように一連の映像をつくりあげた。

 当然、ヴェスターラントの悲劇を知る活動家や、その土地に住まうもの、あるいは犠牲者の遺族たちは、その事実に反発した。そして、次のように声高に主張したのである。

「“獅子帝を想う”――あの歴史の一部分のみを照射し、それによって語られる歴史を第一の是とするおろかなテレビプログラムを、我々はみとめることができない。かつ、その後ろ盾にあろう新銀河帝国が、みずからの歴史を記した文字のインクがなにであるかを忘れたかのような姿勢を、我々はゆるすことができない」

 ここには、民衆の無知があらわれているかもしれない。“獅子帝を想う”に、新銀河帝国政府はまったく関与しておらず、その制作についても表現と言論の自由が法によって保障されているのであるから、その内容が政府にすりよったものであったとして、政府そのものを非難するのは、やや道理から外れている。

 だが、いっぽうで、かれらの無垢さも同時に見て取らねばならない。かれらは活動によって、無意識のうちに弾劾したのである。いまの新銀河帝国が、安寧のうえにあぐらをかき、国家が歴史を語る義務をおろそかにしているということを。“なにも言わない”という国家の行動そのものが、ヴェスターラントにかんする歴史の語りを容認しているとかれらは解したのであった。

 大規模デモが、まだ市井における数人の演説の域にとどまっていたころ、ケスラーは数名の部下とともにヴェスターラントに着到していた。むろん彼が追っていたのはちいさな火種ではなく、彼が直観に拠って火薬庫の導火線の先端であると洞察した男である。あくまでケスラーがヴェスターラントにいたのは偶然であった。偶然? あるいはケスラーが、数名の演説家のなかにルーカス・クリーガーの姿があることを認めていたならば、それは運命をつかさどる神のいたずらなどではなく、ある男によって丹念に形成された陰謀の縦深陣にさそいこまれていただけだったということを知りえたかもしれない。だが、ルーカスはいまだ歴史の表舞台には登場せず、彼の心のうちに至高の玉座が燦然と輝いていることを、宇宙に住まうだれもが知悉しないでいるのである。

 

 ヒルデガルド・フォン・ローエングラムがケスラーから報告を受けたのは、小さな火種が子どもの背丈ほどの煙火へと変わったタイミングである。そしてすぐに、その炎は惑星を巻き込んでしまった。

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが出席する会議において、なぜ軍人も出席を要請されたのか、ウォルフガング・ミッターマイヤーはその理由を洞察せざるをえない。ヒルダは、これが惑星にとどまらず、全銀河をまきこむまではいかないにしろ、ひとつふたつの星系をまきこんだ騒乱になると予測しているのだろうか。そうなれば、軍隊は出動する。そして軍隊が出動すれば、その軍隊の親率者たる皇帝は、総旗艦ブリュンヒルトに乗り込み、宇宙を駆ってその胸をさらし続けなければいけない。それは先帝ラインハルト・フォン・ローエングラムが世継ぎに残した最大の訓戒であり、ローエングラム王朝における黒鉄の掟だった。

 皇帝アレクは、口を開くこともなく、御前会議のようすを見ている。発されることばをひとつひとつあまさずききとり、自らの畝を耕す肥料とするだろう。しかし、その蒼氷色の瞳に、どんな像が浮かび上がっているのか、ミッターマイヤーは見て取ることはできない。

 願わくば、この騒乱も犠牲者がでないうちに終わってほしい。いまはそれでいい。まだ幼年学校も卒業していないたったひとりの少年が、宇宙を統べる軍兵のまえで黄金の獅子の旗を振るなど、重すぎる責任と未来と現実とに双肩をおさえつけられるようなものだ。

 そのような主席元帥の深刻だが打開をみない思案の渦の外で、アントン・フェルナーはきたるべき最悪の事態を想定していた。彼の脳髄は絶対零度ではないが、それに限りなく近い温度を推移している。最悪の事態――それは軍の出動にともなう皇帝アレクの戦闘参加ではなく、軍が出動したうえで、局地戦にしろ緒戦にしろ、帝国軍が敗れることである。

 彼はまず基礎の確認から行った。すなわち、ヴェスターラントがどの元帥・将校の担当官区であるか、その数千度目かの復習である。

 憲兵総監ケスラー元帥をのぞく六元帥のうち、まず、ウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥は、まだ成人していない皇帝と、軍人待遇ではあったが艦隊や部隊をひきいたことのない先帝皇妃の代理として、皇帝直属の艦隊を率いる。彼の麾下ではカール・エドワルド・バイエルライン上級大将が分艦隊を率い、総勢は三万隻である。

 また、ナイトハルト・ミュラー元帥はフェザーン回廊における旧同盟側の要塞“影の城”と逆側の要塞“三元帥の城”を管轄する。ミュラーは実質的なフェザーン回廊の防衛司令官であり、最大の責任者だった。ふたつの要塞にはそれぞれ一万ずつの艦隊が駐留し、ミュラー自身の直属艦隊が五千であるから、総勢二万五千隻が彼の指揮下にある。

 アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥は、旧同盟領の管轄と共和自治政府の交渉窓口を担当する。麾下の艦隊は一万で、旧同盟領の各星域にさらに一万が散らばっている。したがって、ワーレンが最大で動員できる艦隊は二万隻であった。

 フェザーン回廊とならぶもうひとつの要衝であるイゼルローン回廊には、エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥がいる。彼は要塞と駐留艦隊の司令官を兼任するが、その下にはフォルカー・アクセル・フォン・ビューローがおり、分艦隊を指揮していた。アイゼナッハも、同様に最大で二万の艦隊を動員できる。

 エルネスト・メックリンガー元帥は旧銀河帝国領を管轄することにくわえ、旧帝都オーディンの防衛を担っている。メックリンガーの動員できる艦隊も総勢二万隻であるが、彼にとっては後者の任務のほうが大きい意味を持つかもしれない。旧帝都オーディンの防衛、すなわち、大公妃アンネローゼ・フォン・グリューネワルトの居所の防衛である。アンネローゼの存在は、現在の皇室において重大な意味を持ち、あるいは国母ヒルダ以上に、新銀河帝国の“生みの親”であるかもしれない。……ともかく、メックリンガーはアンネローゼの要望の如何にかかわらず、あまりオーディンを動くことがない。

 残るフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥は、遊撃艦隊として、基本的にはフェザーンとオーディンを行き来している。その艦隊は一万五千隻と他に比べて少ないが、より機動性を重視した結果であるため、当の元帥は不満をもらしたことがない。なにより彼の黒色槍騎兵艦隊は、すべてが漆黒に塗装され、その威容と名声は銀河にとどろいている。

 惑星ヴェスターラントは、旧銀河帝国領にある。したがって、その管轄はメックリンガーだが、実戦指揮はビッテンフェルトであろう。かの初代軍務尚書ですら扱いに手を焼いた彼である。

 それぞれの元帥が担当する管区は、ミッターマイヤーとケスラーをのぞく五名の元帥が、はじめの数年は持ち回りで担当していた。しかし、現在ではほぼ必要のない限り固定化され、それがもっとも最適なかたちであるとされている。フェルナー自身もそう考えることがあったのだが、ようやく安定をえてきたといってよい時期に、この騒乱であった。

 あるいは、とフェルナーは思う。この時期をねらってきたというのだろうか?

 彼もまた、騒乱を裏で操る人物を知らない。この騒乱が偶発的な出来事であるのか、それ以外であるのか、フェルナーははかりかねている。その深淵を感じれば感じるほど、彼の理性と思考は温度をさげていくのだった。

 

 

一二

 

 先帝皇妃と皇帝をまじえた御前会議は、新帝国歴一七年一二月二八日に行われ、同日夜七時に終了した。さしあたってはエルネスト・メックリンガーが騒動の鎮圧にあたり、先帝皇妃と国務尚書は“獅子帝を想う”と国家の関連を、あらためて明確に否定することに決まった。それでは、根本的な解決にはいたるまい――と、生来の正論家たる主席元帥は思うのだった。

 ウォルフガング・ミッターマイヤーは日ごとに重量をましていく不安を背負いながら、家の戸をあけた。

「かえったよ、エヴァ」

 ミッターマイヤーの帰宅の声は、エヴァンゼリンとむすばれたころから、なにひとつ変わりがない。ふたりの関係性がかわらないかぎり、このあいさつもかわることがないだろう。

 いつもなら、半ば小走りに妻が駈けてくるのだが、この日は違っていた。

「おかえりなさい、父上」

 妻よりもはやくエントランスに駈けてきたのは、彼らの息子であるフェリックスだった。フェリックスは、まだ彼が自分の両親と信じる夫婦と血のつながりがないことを知らない。

もしフェリックスが自らの出生について知ったならば、体内に流れる血を呪うだろうか。新銀河帝国における最大の反逆者、オスカー・フォン・ロイエンタールの血を。

 ミッターマイヤーは、そろそろ自分の背を越しそうなまでに成長したフェリックスの頭を軽くなで、あらためて帰宅を告げた。

「エヴァはどこにいるんだい、フェリックス?」

「母上は、買い物にでかけられました。帝国全体の新年の祝賀をするまえに、まずはうちでお祝いしたいそうです」

「そうか。じゃあ、またブイヨン・フォンデュがたべられるかもしれないな」

「はい。でも、それよりも大事なことがあるとか」

 フェリックスは一五歳になっていた。幼年学校の主席卒業も決まり、いまは配属前の最後の休暇である。ならば、おとなになるための最初の通過儀礼をしなければならない。

 ロイエンタールはおよそ酒癖がいいとはいえなかったな、とミッターマイヤーは思う。何度、酔っぱらった末に殴り合いのけんかになったことか。ロイエンタールの過去について聞いたときも、彼は深く酔っていた。なぜかいつも、彼の記憶は酒とともにある。あるときは黒ビールで、あるときはワインで。おたがいに飲み干さない酒はなかった。ただ一杯、たった一杯のウィスキーをのぞいては。

 フェリックスの年齢は、ロイエンタールと離れた時間とおなじである。だから、フェリックスとおなじだけ、ロイエンタールの記憶も歳をとる。フェリックスとの記憶が増えていくだけ、ロイエンタールの姿が遠くなる。それがかなしいことなのか、ミッターマイヤーは考えない。この世で最も残酷なのは時間だ、などと人は言うかもしれない。だが、ミッターマイヤーは、フェリックスと、エヴァと、そして時折ハインリッヒの時間がまじりあう、この幸福が好きだった。

「さて、ではフェリックス。どれほど三次元チェスが上達したか、見てやろう」

「はい、父上」

 フェリックスがほほ笑む。まっすぐな子に育ったと思う。もう、どこにだしても恥ずかしくはないだろう。たとえそれが戦艦の一乗組員でも、どこかの惑星の一軍人でも、フェリックスはりっぱにやるにちがいない。それが、ミッターマイヤーには誇らしかった。

 ほぼ一年ぶりの三次元チェスが、ミッターマイヤーの優位のうえに終盤へさしかかったころ、エヴァンゼリンがハインリッヒ・ランベルツを連れて戻ってきた。

「おかえり、エヴァ」

「あら、あなた。帰っていらしていたのね」

 そういってエヴァは、ミッターマイヤーに春の陽光のようなほほ笑みをくれるのだ。

「さて、ブイヨン・フォンデュをつくらなくちゃ」

「なんだか、ついこのあいだも食べた気がしますね」

 ハインリッヒが貝類の入った籠をおきながら言う。彼は名手とまではいかないまでも、じゅうぶんに料理ができる。今回も、エヴァを手伝うつもりなのだろう。ハインリッヒには、明確に両親の記憶があるが、それでもミッターマイヤー夫妻のことは父母のように慕い、フェリックスのことは弟のようにかわいがっている。

「何度も言うがな、ハインリッヒ。エヴァは、おれが生きて帰ってくるかぎり、毎日でもブイヨン・フォンデュをつくってくれるのだ」

 ほこらしげなミッターマイヤーを、ハインリッヒが笑った。でも、肥ると嫌われるんでしょう、と。

「父上、そろそろ続きをしましょう」

 食事までにはまだ時間がある。フェリックスはそれまで父との時間をたのしみたいようだった。

「負け戦をつづけるか。潔いな」

「窮鼠だって猫をかむのです。私なら、狼すらもかんでみせます」

「ほう。チェスに機雷はしこめんぞ。どうするつもりだ?」

 やがてフェリックスが必敗の様相を呈してくると、キッチンから何とも言えないにおいがただよってきた。

「あなた、ワインをおねがい。そろそろできあがりますからね」

 エヴァの声が聞こえてくると、ミッターマイヤーは勢いよく立ち上がった。これが今日のメイン・イベントであるのだ。フェリックスがおとなになるための通過儀礼、それはワインをたしなむことだった。

「では、フェリックス。この勝負はどうする?」

「おとなしく撤退しますよ」

「さすがに名将は引き際を心得ているな」

 どこかで同じような会話をしたことがある、とミッターマイヤーは思うのだった。

 家族四人がテーブルを囲むと、ミッターマイヤーは特別なワインをあけた。新帝国歴一年に建国を記念して醸造され、先の皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムから下賜された特別なワインである。当時の准将以上の軍人か高級官僚のみに渡されたものだが、なかには家宝として半永久的に保存しようとする臣下もいた。

 目の前であけられたワインがどれほど貴重なものであるか、フェリックスはよく知っていた。だから、当然のごとくミッターマイヤーの手を止めようとしたのだった。

「フェリックス。酒には飲みどきというものがある。それは酒そのもののタイミングというより、酒を飲む人間のタイミングで決めるべきだと思うのだ」

「しかし、物が物ですよ」

「おれは、おまえとともに飲むことで、このワインをより貴重なものにしたいのだよ」

 フェリックスは感激したようにゆっくりと頷いた。おそるおそるというふうにかかげられたグラスに、ミッターマイヤーは手ずからワインを注いだ。

「きょうの佳き日に」

「フェリックスの卒業に」

 ミッターマイヤーとエヴァが順に祝辞を述べると、フェリックスは照れ臭そうに笑った。いくら幼年学校を圧倒的な成績で卒業し、銀河を統べる驍将のもとで育てられたといっても、まだ一五歳なのだ。彼は少年であってもいい。そのような時期があってもいい。両親の愛情につつまれて、そのあたたかな幸福のなかに身を浸す時間が。

「では、乾杯」

 ミッターマイヤーがグラスをかかげると、フェリックスはそれにならった。そして、人生ではじめて酒との邂逅をはたした身体にとって、ごく自然で普遍的な反応を見せた。彼はむせたのである。ミッターマイヤーとエヴァとハインリッヒがそれを見て声をあげて笑う。

 二時間後、フェリックスはその地の白い顔を健やかに紅潮させ、全身を酔いの波に漂わせていた。すでに先帝から下賜されたワインは瓶を残すのみとなっており、エヴァが持ってきた二本目の白も同様になりつつある。すこし飲ませすぎたか、とミッターマイヤーは思った。自分の適正量をわきまえさせえるのも大事であるが、まずは初回からそれを行うのも問題であるのかもしれない。

「さて、そろそろお開きかな。フェリックスも、幼年学校では忙しくて、寝ている間も訓練だったろうから」

「そうですね。きっと、夢をみる暇だってありませんわ」

 ここは自分の仕事だろうな、とミッターマイヤーが立ち上がり、フェリックスの肩を持とうとした。彼が近寄ると、わずかに体をゆらしたダークブラウンの髪の少年は、瞳の焦点を結ばぬまま、アルコールにとかされたような声で言った。

「父上。父上はほんとうに、あのオスカー・フォン・ロイエンタールと無二の友だったのですか?」

 ミッターマイヤーは、少年の青い瞳を凝視した。平穏ならざる発言である。視界の隅で、エヴァンゼリンとハインリッヒが手を止め、こちらを見ているのが分かった。

「ああ、そうだよ」

 彼は短くそう言った。ある意味で、彼は本心を言っていない。オスカー・フォン・ロイエンタールは、ミッターマイヤーの無二の友で、彼とともに過ごした時間は、ほかのなによりも貴重であった。だが、そのことは言えない。言わせないなにかが、フェリックスの瞳にはあった。

「そうか、だから学校では、ロイエンタールのことを悪く言わないのですね」

 それは悪意のこもった発言であったのだろうか。ミッターマイヤーは、一五年の時をともに過ごし、知らぬところはないと思っていたわが子の、尋常ではない部分を見るような思いがした。

「フェリックス、どうしたのだ、急に……」

「ずっと疑問に思っていたのです。オスカー・フォン・ロイエンタールは、この国にとって反逆者です。重大な犯罪人なはずだ。かつての味方とそのときの味方を殺し合わせ、自らも殺しました」

「やめろ、フェリックス。ロイエンタール元帥の名誉を重んじられたのは、ほかならぬ先帝陛下だ。その御意に叛意をしめすのか」

「陛下の御意、という方便を、ほかならぬ父上がお使いになるのですか」

 ミッターマイヤーは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。いつのまにか、自分がもっとも嫌っていたはずの論法を、みずからが使用していたのだ。そしてミッターマイヤーは、気付く。フェリックスの言にたいし、自身が有力な反論を有していないことに。

「ロイエンタール元帥は、りっぱなお人だったのだよ、フェリックス」

 ハインリッヒが、諭すような口調で言った。フェリックスは、ハインリッヒがかつてロイエンタールの侍従を務めていたことを知っている。

「そうですね。先帝陛下に剣のきっさきを向けるほど、りっぱなお人です」

「もうよせ、フェリックス」

 思いのほか強い声が出て、ミッターマイヤーは二の句の威を弱めるのに苦労した。

「父さんだからこそ知っていることなのだがな、フェリックス。ロイエンタールは最期まで……そう最期まで、先帝陛下への忠義を失わなかった。陛下もロイエンタールを信じていたからこそ、元帥号を返与なさったのだ」

「そのことばは、ロイエンタールと父上が過去を共有していなかったら、生まれていたでしょうか?」

 言葉に詰まる。たしかに、ミッターマイヤーはロイエンタールと過去を共有し、そのえこひいきの念を完全に排することはできない。だが、だれよりもフェリックスの口から、出てほしくはなかった。本来なら、フェリックスの全過去こそがロイエンタールと共有され、現在も、未来をもそうされるべきなのだ。それを奪ったのは、ミッターマイヤー自身であるかもしれない。ロイエンタールの死の責任を感じずにはいられない彼である。自責の念は、おそらく死ぬまでつづく。ロイエンタールの死と、フェリックスの生にたいして。

「生まれていなかったでしょうね」

 暗雲を光条がつらぬくように、するどい声が三人の虚空をはしった。声の主のほうを見る。エヴァンゼリンがこんな声をだしたことが、いままであっただろうか?

「そう、だれよりもウォルフガング・ミッターマイヤーという方は、ロイエンタール元帥との時間を共有されています。だから、その時間が、ウォルフの口を開かせているのかもね」

 わが子にむける声とまなざしは、一瞬ごとにやさしくなる。エヴァンゼリンは、主席元帥の妻であり、フェリックスの母なのだった。

「でもね、フェリックス。ロイエンタール元帥がいたからこそ、いまのお父様があるのよ。もしいなかったなら、お父様は主席元帥になられていないかもしれないし、もしかしたらどこかで命を落としてしまったかもしれなかったのよ」

 フェリックスが押し黙る。瞳にやどった炎が、少しずつ小さくなっているようにも見えた。

「さあ、フェリックス。おまえは頭のいい子だ。酒のおそろしさも知っただろう」

「……はい、父上」

 ミッターマイヤーは、ふらつくフェリックスの肩をもつと、ともに寝室へと歩き、フェリックスをベッドに寝かせた。すでに少年は眠りの神の抱擁のうちにある。

 フェリックスのダークブラウンの髪を、ミッターマイヤーはなでた。幼いころはよくこうしていたな、と思う。フェリックスは大人になりつつある。だが、眼を閉じたその姿は、まだ一五歳の少年のものだった。

 ロイエンタールの遺伝子は、まことに御しがたいものだった。時折、はっとするほど父の面影を見せることがある。さきほどのことや、模擬会戦の様子などは、ミッターマイヤーを身ぶるいさせるほどだったのだ。

「フェリックス……」

 ミッターマイヤーは、フェリックスの額に手をおいたまま、つかのま重なったロイエンタールの顔を振り払うように、そう独語した。

「酒にはいくら酔ってもいい。だが、夢には酔うな。酒の酔いにさめた後にやってくるのは頭痛だが、夢のあとにやってくるのは……」

 フェリックスの寝息が聞こえ、ミッターマイヤーは深く息を吐いた。

 リビングに戻ると、エヴァとハインリッヒは食事の片づけを始めていた。ミッターマイヤーの姿を認めると、ハインリッヒがそばに来た。

「義父上、フェリックスは……」

「もう寝たよ。すこしばかりあせったが、酒癖は似てはいけないほうに似たのかな」

 ミッターマイヤーは苦笑したが、ハインリッヒの顔はいつも以上に真剣なものだった。

「思わず、あの日のことを思い出しました。ロイエンタール元帥の最期の日を……」

「“わが皇帝、ミッターマイヤー、ジーク、死”……」

 口をついて出たのは、ロイエンタールの最期のことばだった。むろんミッターマイヤーはそのことばを聞いていない。彼は間に合わなかったのだ。“疾風ウォルフ”の、生涯におけるただひとつの遅参だった。

「私は思うのです。ロイエンタール元帥の最期で、眼の前にあらわれたのは、友の姿であったのだと」

 ミッターマイヤーは、おどろいてハインリッヒの顔を見た。いまだかつて、だれにも口を開くことのなかった、ハインリッヒの解釈である。彼は唯一ロイエンタールの最期に立ち会い、そしてそのことばを書き取ったのである。

 “わが皇帝”、“ミッターマイヤー”、そして“ジークフリード・キルヒアイス”。かつてゴールデンバウム王朝の打倒を誓ったあの日のことを、ミッターマイヤーは忘れたことがなかった。そのころから、四人は友となったのだ。

「死が、最期に友の列に加わったのか。あるいは、ロイエンタールにとっては、死はつねに背中合わせの朋輩だったのだろうか」

 それは独語に近かったが、ハインリッヒにはじゅうぶんに聞こえただろう。

 彼の背に死が寄り添っていたのなら、それを取り除くのは自分の使命であったのかもしれない。おれはその役目をおこたったのだ。ロイエンタールが自分の背をまかせるのはミッターマイヤーだけであったし、ミッターマイヤーにとってもそれは同じだった。だから、戦場でふたりが向かい合った時、どちらかには死の来訪が決定されたのである。

 おれはひとりになっちまったよ。そう独語してから、一四年も経っていた。それが長いことなのか、つかの間考えて、やめた。時は、絶えず自分を過去に押しやろうとする。だが、彼には妻がいて、ふたりの子がいる。それらすべてと血のつながりはない。それ以上にたいせつでゆたかなものをこそ、ミッターマイヤーは貴重に思うのだった。

 

 流れる映像がある。思い出すにおいがある。

 どういうわけか、フェリックスは客観的にそれを眺め、感じ取ることができた。

 よく晴れた春の午後だった。この時期に家にいるということは、まだ自分は幼年学校に入学していない。父は仕事へ行き、母は買い物に出かけている。ハインリッヒは大学のためにひとりで暮らしていたから、自分は家のあるじたちの留守を懸命にまもっていたことになる。

 ドアのベルが鳴らされた。母には、客人にたいして出る必要はないといわれていたが、自分はほほえましいまでの勇気をふりしぼって、エントランスへ行き、背伸びをしてドアノブに手をかけた。

 外にはひとりの女性がいた。陽光を背にしていたから、フェリックスにはその顔がよく見えない。

「こんにちは」

 女性がそう言った。声はふるえていたかもしれない。それ以上に、自分の声はふるえていただろう。

「こんにちは」

「……おとうさまか、おかあさまはいらっしゃる?」

「どちらもでかけています」

「そう……」

 顔は見えないが、こちらを見つめているのはわかる。不思議とおそろしくはない。どこか、なつかしさのようなものを感じるだけだ。

「あなた、お名前は?」

「……フェリックス。フェリックス・ミッターマイヤーです」

 もしこのとき、フェリックスがすこしでも心理学に長じていたのなら、この女性が“フェリックス”よりも、“ミッターマイヤー”という名に過敏なまでの反応を示したことを察しえたかもしれない。この女性は、陽光のなかでいかずちに打たれていたのだ。少年が、“ロイエンタール”と名乗らなかった事実といういかずちに。

「……さようなら、フェリックスくん。おとうさまやおかあさまと仲良く、そして健やかに育ちなさいね」

 女性が身をひるがえした。その刹那であった。陽光が女性のほおを照らし、一条のきらめきを放ったのだ。それは流星のようにも見えた。流星は美しいものではあった。だが、遠いどこかで、ひとつの巨大なものが、炎をあげて燃え尽きたことにはかわりがないのである。

 フェリックスは、女性が地上車に乗り、遠ざかっていくまでを眺めていた。音すら聞こえなくなっても、その残影を探し続けていた。

 眼を覚ますと、ひどい頭痛がした。これがふつか酔いか。のどがかわいている。酒以外のなにかで、それをうるおしたいと思った。

 リビングへ行くと、父がいつもの席に座ってコーヒーを飲んでいた。キッチンのほうからは水の流れる音が聞こえる。

 フェリックスは、父の向かいに座ると、すこしためらってからその顔をのぞきこんだ。昨晩、ベッドに運ばれるまでのことを、彼はすべておぼえていたのである。自分が何を言ったか、そしてどのような鞭で父を傷つけたか。

「……申し訳ありませんでした、父上」

 父はちらりとこちらを見ると、やわらかく微笑んでこう言った。

「……なんのことだ? まるでおぼえていない」

 彼はそういう父親だった。

 



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第4話

一三

 

 銀河のある一点でフェリックス・ミッターマイヤーという偉大な才能が開花したいっぽう、その反対側ではあるふたりの幼子が、にわかに勢力を拡大した寒気のなかでじゃれあっていた。

 女の子のほうはもうひとりの手をひっぱって砂場に連れていこうとし、男の子のほうは手をとられながらもかたくなにベンチに座って本を読もうとしている。時おりかれらのすぐそばを人が通りかかっていたのだが、その全員に、ふたりはだいたい同じ歳くらいの子に見えただろう。その予想はあたっていて、ふたりは全く同じ歳であるばかりか、生まれた日、場所、時間がすべて一致する。女の子のほうがわずかにはやく生まれたが。かれらは二卵性の双子だった。

「あなたって、どうしてそんなに本ばかりをよむの?」

「とってもおもしろいから」

「あっちのほうがおもしろいわよ! ほら、いきましょう!」

「ここは自由の国だよ。ぼくは本をよむ自由をつかっているだけ」

「じゆう? じゆうってなに?」

「パパがいつもいってるじゃないか」

「なによ、パパなんて。あんなにひよわで、むずかしそうな顔ばっかりして!」

 まわりからはほほ笑ましい日常の一ページに見えるが、本人たちにとっては、あるいは宇宙の存亡よりも真剣で向かい合うべき問題であった。生まれたときも場所も、生活するときも場所も同一なかれらは、しかし行動までは一致しないのである。

 数分ちかくつづくその問題をようやく解決に導いたのは、ひとりの女性だった。

「ロミー、ウェンリー、どこにいるの?」

 ひとりの女性――かれらにとっての母の声が聞こえ、ふたりが同時に振りむいた。ロミーと呼ばれた女の子が、ウェンリーと呼ばれた男の子の手をはなし、声のほうにむかって駆け出していく。

「ママ、おしごとおわったの?」

「ええ。さあ、早く帰りましょう。今日はパパもすぐに帰ってくるみたいだから」

「ほんとう⁉」

 今度は男の子が駆け出していく番だった。赤い髪をしたかれらの母親――カーテローゼ・フォン・クロイツェルは、右手にウェンリー・ミンツの左手を、左手にローゼマリー・フォン・クロイツェルの右手をとって、やや暮れかけた陽ざしのなかを、みっつの影をつくって歩いていく。

 女の子がひよわと言い、男の子がほんとうと言ったその父の名は、ユリアン・ミンツと言った。

 

 惑星ハイネセンをふくむバーラト星系が、旧イゼルローン共和政府に返還されたのは、宇宙暦八〇二年、新帝国暦四年のことである。惑星ハイネセンは、その前年に発生した“ルビンスキーの火祭り”と呼ばれる爆破テロからの再建の最中であって、新銀河帝国からの支援金を元手に都市のリデザインをはかった。結果としては、まだ銀河の半分が自由惑星同盟と呼ばれていたころの首都のすがたを取り戻しただけであったが、それでもひとつの星系の中心都市としてふさわしい景観を得るに至った。宇宙暦八○三年のことである。

 フレデリカ・グリーンヒル・ヤンを主席とし、テルヌーゼンにおかれていた共和自治臨時政府は、政治機能をハイネセンへうつし、ここに正式な共和自治政府をひらいた。宇宙暦八〇三年十一月である。その移転宣言ののちに、フレデリカは国家主席を退くことを表明し、総選挙の結果が公表され、次期主席が決定しだい、ひとりの市民へと戻ったのである。

 第一回議会が招集され、議員の顔ぶれのなかには、かつての統帥作戦本部長シドニー・シトレや、自由惑星同盟最期の瞬間まで良心的な官僚であり続けたホアン・ルイの姿もあった。

 はじめの主な論題は、憲法の制定にあった。むろん、臨時政府が運営されていたときから憲法は施行されていたが、それは自由惑星同盟時代のものをそのまま使用していただけだったのである。

 新憲法は、旧自由惑星同盟のものをベースとしながら、細部に調整をくわえるだけで終わった。だが、時間を費やしてひとつひとつの条文が討議され、議事録に記されたことは大きな一歩である、とユリアン・ミンツは考えた。彼は武官であり、議会には参加できても正式な発言権はない。文民から求められる意見を、軍事の専門家として回答するのみである。だが、うまれてはじめて、憲法というものが生まれていく過程を目撃したのである。皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムにむかって、憲法をつくれと言いながら、自分ではそれをつくったことも、その作業現場を見たこともなかったのである。

 こうして新政府が少しずつ安定を取り戻していく間に、ユリアンは今後の共和自治政府のあり方を考えなければならなかった。バーラト星系は、帝国の支配にあった、たった三年間のうちに、にわかに専制政治の無批判な信奉者になりつつあったのである。かれらは専制政治の迅速さ、そして楽さに慣れてしまっていた。第一回選挙の投票率は約六〇パーセントであり、しかも全市民がイゼルローン共和政府の参入をよろこんだわけではない。多くの市民にとっては、たった四、五年のうちに二回も政治政体の変化を経験しなければならなく、しかもその一回目は劇的で、民主主義があえて取り除こうとしなかった国家の腫瘍を、すべて迅速な決定のうちに消し去ってしまったのである。これが専制政治の美点でもあり、同時に陥穽でもあった。オスカー・フォン・ロイエンタールと、アウグスト・ザムエル・ワーレンと、そしてパウル・フォン・オーベルシュタイン。それぞれ有能な総督で、彼らがハイネセンにあったとき、政治はいっさいの遅滞と後退を経験しなかった。

 あるいは、それがはじめの試練であるかもしれない。民主主義を普遍なものにするには、専制政治がもたらしたものを超克し、相対化していかなければならない。ラインハルト・フォン・ローエングラムは難儀な宿題を押し付けたものだ……。

 そう考えている間に、宇宙暦八〇四年、新憲法が公布された。その序文を見て、ユリアンは自分の眼が熱を帯びたことを悟った。

「……われわれは、切に平和を希求し、その価値を永遠に普遍なものにすべく努力していくことを誓い、ここに憲法を制定する。われわれの使命と意志は、つねにアーレ・ハイネセンとヤン・ウェンリーの魂ともに、自由・自主・自律・自尊の精神をたっとぶところにあるのだ。」

 

 国家の大きな潮流が、名もなき小さな市民に移譲されつつある折、ユリアン・ミンツは惑星フェザーンへと招待された。宇宙暦八〇六年、新帝国暦八年である。軍事顧問として二度ほどフェザーンへは行っていたが、先帝皇妃と皇帝から私的に招待されたのははじめてだった。ユリアンは、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンと、カーテローゼ・フォン・クロイツェルと数名の付き添いのもと、フェザーンをおとずれた。

「ユリアンが、遠い異国の地でハーレムを築こうとしている」

 と毒づいたのは、自治政府において元帥の地位を獲得したダスティ・アッテンボローであったが、あるいは付き添いに選ばれなかったことにたいしてすねているのかもしれない。

「まあ、浮気はせんだろう。なんたって恋人をおつれだ」

 このところもともと低かった冗談の水準がさらに低下をみせたのは、アレックス・キャゼルヌである。彼の舌鋒は、ほかのだれかに向けられ、しかも向けられた側もするどい舌鋒をもち、お互いに渡り合わない限り、研がれることがないらしい。彼は、臨時政府の移転後に退役届を出し、称号は退役大将となっている。デスクワークだけで大将にまでのぼりつめた彼に、後ろ指をさすものはだれもいない。だれしもが、彼がいなくなって彼の才覚を悟ったからである。

 ともかく、新帝国暦八年五月末日、フェザーンに着到したユリアンらは、摂政となっていたヒルデガルド・フォン・ローエングラムから直々の出迎えを受けた。そばには、もはや銀河に並びなき驍将となったウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥と、ユリアンらの知己と言っても良いナイトハルト・ミュラーの姿があった。彼を呼び寄せたのは、ヒルダの好意であったかもしれない。

 そして――ユリアンは忘れることができない。ラインハルト・フォン・ローエングラムの面影を濃く残した、ひとりの少年の姿を。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムはいまだ五歳であった。彼の蒼氷色の瞳が、じっとこちらを見つめている。その姿に、ユリアンは身がふるえる思いがし、幼いからといって皇帝をあなどることはできそうにないと確信した。もっとも、ユリアンは自身がかの皇帝の子孫をあなどるとは微塵も想定していなかったが。

 ユリアンらの滞在するホテルに客人が訪れたのは、新帝国の主だった面々との会食を済ませた夜である。

 ドアを開けると、新帝国の軍服に身をつつんだふたりの青年が立っていた。階級は、大佐と大尉である。ふたりは、ユリアンを見て、美しいほどの敬礼をした。

 新帝国軍の将校が来たとあって、一行に一時緊張が走った。ユリアンとしては、聡明な先帝皇妃を信頼していたから、なにか特別な用事があるのだと見抜いていた。

「アロイス・フォン・リリエンクローン大佐です、閣下」

「閣下はよしてください。ぼくはいま軍服を着ていませんし、その呼び方に慣れることができそうもありません」

「では、ヘル・ミンツとお呼びいたしても?」

 ユリアンはほほえみ、頷いた。そういえば、ミュラーも同じ呼び方をする。そのほうが、ユリアンとしても親しみがあった。

「こちらのかたは?」

 敬礼したままの大尉に向かって、ユリアンは言った。

「申し遅れました。クルト・ジングフーベル大尉です。実は……」

 クルトと名乗った大尉は、わずかに言いづらそうに声をくぐもらせた。

「どうされたのですか?」

「実は、フロイライン・カーテローゼ・フォン・クロイツェルに御用があって参ったのです」

 

「フロイラインはよしてください。私だって軍人で、中尉の階級をいただいています」

 歩きながら、カリンはそう言いはなった。突き放すような言い方だが、あまり親しくない相手に対する機先の制し方なのだ。クルト大尉は、まだかなり若かったが、時折見える肌には傷があり、なかなかの戦場を潜り抜けてきたように思える。

 ホテルを出て地上車に乗り込むと、クルト大尉はなぜカリンを呼んだかを語り始めた。彼は、シヴァ星域会戦においてワルター・フォン・シェーンコップに戦斧による傷を与え、彼の死の直接の原因をつくったというのだ。その話を聞いたとき、ユリアンはカリンの顔をちらりと覗き込んだ。カリンは、無表情を貫いており、ただいくつかの質問をするだけだった。

「なぜ、ワルター・フォン・シェーンコップが私の父だと、お知りになったのですか?」

「シェーンコップ殿は、装甲服の内側に、このようなブロマイドを貼っておいででした。故人の遺品を持ち出すわけにはまいらず、小官が勝手に撮影したものになりますが……」

 クルト大尉が、軍服のポケットから取り出した写真には、血の付いた装甲服と、その真ん中にブロマイドが移っている。そのなかにいたふたりに、ユリアンは見覚えがあった。オリヴィエ・ポプランの髪には、新年を祝うクラッカーのごみがついている。空戦隊の仲のいい者どうしが集まって、いつかの新年のパーティーで撮影したものらしい。カリンはそこにちょっと不機嫌なようすで立っていた。

 カリンは何も言わず、その写真を凝視している。

「それで……この女性が、すこしシェーンコップ殿に似ておいででしたので、もしかするとご子女ではないかと思ったのです」

「似ている? 私が、ワルター・フォン・シェーンコップと?」

 カリンの怒りの成分が多量にふくまれた声をうけ、クルト大尉がすこしひるんで見えた。ユリアンは、カリンをたしなめることもできた。だが、それをすべきではないとも思うのである。彼女は、思わぬ形であらわれた彼女の過去と対峙している。その葛藤に、口をはさむべきではないのだ。

「はい。それで、のちに思ったのですが、小官はどこか、この女性に見おぼえがあったのです。シヴァ星域会戦が終わり、先帝陛下が崩御される直前、客人としてむかえられた方々のなかに、この女性がいたはずだ、と」

 クルト大尉の声は、それでもはっきりしていた。彼はちらりと、同席していたリリエンクローン大佐に目をやった。

「そして、上官にあたるリリエンクローン大佐に、この女性を見たことがないか、とうかがったのです」

 沈黙をたもっていたリリエンクローン大佐が、ようやく口を開いた。

「小官は、先帝皇妃様の親衛隊長を務めさせていただいております。皇妃様に近づかれる方の顔とおなまえは常に把握させていただいており、それでカーテローゼ・フォン・クロイツェル殿を思い出したのです」

 数奇にみえる運命にも、きちんとひもがついていて、それをたどればはっきりとした原因があるのだと思わざるを得ない。カリンも丁寧にそのひもをたどり、その運命に衝撃を受けながらも、感情はそれに押し流されまいと抵抗している。

 地上車はいくつかのゲートをくぐった。繋留されている巨大な宇宙戦艦の間に舗装された道を、ずっとたどっているのだ。ここは、おそらく新帝国軍の軍港であることだろう。なれば、行き先は、ひょっとして……。

 地上車が止まる。ユリアンとカリンは、リリエンクローン大佐にうながされて、外に出る。目の前には、夜を圧さんばかりの純白の巨鳥が、星々の光をうけて静謐に輝いていた。

「航行訓練のために、外に出されているのです。いつもは、“獅子の泉”のすぐそばにある地下軍港に置かれているのですが」

 そしてユリアンは、今度は穴をうがつこともなく、正規の入り口から、新帝国軍総旗艦ブリュンヒルトに搭乗した。初の搭乗から、ちょうど五年後のことになる。

「シェーンコップ殿は、それは比類なき強さでした。小官は当時、いまだ軍曹にとどまっておりましたが」

 クルト大尉は、思い出を懐かしむように語っている。ユリアンとクルトは、決して戦友などではない。敵として向かい合ったのである。ひょっとしたら、いちど戦斧をかよわせたこともあったかもしれない。しかし、あの時代、あの戦乱を生き延び、そしていまここで再会を果たしている。それも数奇な運命だが、そのひもをたどってみようとは思わない。ただ数奇な運命としてよろこびたかったのである。

 やがて、クルト大尉の足が止まった。上階へとつながる階段の前である。

「ここに、ワルター・フォン・シェーンコップ殿は座っておいででした。われわれを見下ろすように……」

 見下ろす! ユリアンは、内心でシェーンコップに喝采を送った。あの男に、地に伏して死ぬということは似合わない。彼はいつだってなにかを見上げるということをしなかった。だから彼はだれにも膝を屈しないし、なにかを手に入れるときも実力によって達成してきたはずだ。最期まで、ワルター・フォン・シェーンコップはワルター・フォン・シェーンコップ以外の何者でもなかった。――ただひとつ彼らしくなかったのは、彼が最後に死神の誘惑を受け入れたことだ。きっと、たいそう美人な死神だったのだろう。

「そう……。ここで、あの男が眠ったのね。あの男が眠るのは、どこか知らない女のベッドの上だけだと思っていたのに」

 カリンは、目の前のきざはしの一段を凝視していた。そこに、自分の父の姿を見たのだろう。傲然と座る、憎らしいまでの父の姿を。

「ワルター・フォン・シェーンコップが、最期に何と言ったか、お聞きになりましたか?」

「……いえ、残念ながら」

 カリンが、ユリアンの服の袖をきゅっとつかんだ。

「リリエンクローン大佐、クルト大尉。すこし席を外していただけませんか?」

 ふたりの青年は敬礼して、その通路から出ていった。新帝国総旗艦の通路に、異国からの旅行者だけが残された。

 ユリアンのとなりで、カリンは肩をふるわせていた。その肩を、ユリアンはそっと支えた。ひとつ、ふたつとそろって階段をのぼる。

「ずるいわ、そんなの」

 青紫色の瞳に、さざ波が起こった。カリンの目に満ちたそれは海となり、ちいさなしずくをあふれさせる。しずくはほおを伝い、形のいいあごの先から、そのきざはしへと落ちた。――ふたりは、ワルター・フォン・シェーンコップが最期に望んだものを知らない。だが、カリンの瞳の海から落ちたしずくは、彼女の父の願いにじゅうぶんにこたえるものだった。

「ユリアン、ペンを持ってない?」

 ポケットからペンを取り出し、カリンに渡した。どんな媒体にも書くことができる、特殊なインクのペンだった。

「銘を、刻んであげなくちゃ」

 カリンは彼の父が眠りについたそばにしゃがみこみ、そしてペンを走らせた。彼女がそこに残した言葉は、あるいはワルター・フォン・シェーンコップが、なによりも望んだものだったかもしれない。

 それは、いまもブリュンヒルトにおける唯一の同盟語として、ふたりの士官の努力によってたいせつに保存されている。――“くそ親父”と。

 

 ブリュンヒルトを出て、宿泊先のホテルに戻ったふたりは、部屋のベランダから星々をながめた。帝国の信仰では、死者はワルキューレによって天上へ運ばれるらしい。それに類する信仰は歴史に数多く、空を見上げるという行為は、死者に思いをはせることと同一と言っていい。いまのふたりは、なにか目的があって空を見上げているわけではない。ただそこに、無意識的にふたりの父親たちの姿を認めようとしていたのかもしれない。

「カリン」

「なに、ユリアン?」

 その名で呼び合うことについて、疑問をもつことはなくなった。むしろ、それ以外の呼び方は、永遠にすることはないだろう。

「結婚しよう」

 すこし遠回りをしすぎたかもしれない。けれど、いまこうして、ふたりの父親たちの同意をえたのだ。

 カリンは頷き、ユリアンに身を寄せた。

 夜は更け、星々はその輝きを増していた。日付が変わる。六月一日。ふたりの新たなスタートは、いつもこの日だった。

 惑星ハイネセンで結婚式をおこなった二人は、夫婦で別の姓を名乗ることにした。ユリアン・ミンツはユリアン・ミンツであったし、カーテローゼ・フォン・クロイツェルはカーテローゼ・フォン・クロイツェル以外の何者でもないからである。

「男の子が生まれたら、ミンツの姓を名乗らせましょう。女の子が生まれたら、クロイツェルを名乗らせるから」

 それはカリンの提案だった。

「シェーンコップじゃなくていいのかい?」

「ばかね、ユリアン。どうしてミンツとクロイツェルのあいだに、シェーンコップが生まれるの?」

 そうしてふたりは笑った。カリンの懐妊が判明するのは、そこから少し時を待たねばならない。男女の双子が生まれたのは、宇宙暦八一〇年のことである。

 ユリアンとカリンの子孫が残ることを最も喜んだのは、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンであったかもしれない。彼女は他薦による選挙のすえに議員に当選し、次期共和政府主席の有力者と目されるいそがしい身でありながら、子どもの誕生にたいし手紙を送ってくれたのだ。

 こうして、ユリアンとカリンのもとにふたりの男女が誕生した。男の子のほうは、父譲りの亜麻色の髪をもって生まれ、女の子は、母方の隔世遺伝によるのだろうか、灰と茶のあいだの色をした髪をもっていた。子どもたちの両親は、すでに名前を考えていて、迷うことがなかった。両親はおたがいの腹案をのべると、議論の余地もなくそれに決定されたのである。

 女の子は、祖父の矜持をとって“ローゼ”を含むローゼマリー。男の子のほうは、ある小市民の名前をとってウェンリー。こうして、ローゼマリー・フォン・クロイツェルとウェンリー・ミンツは銀河にもたらされ、運動を好む活発な女の子と、読書を好む物静かな男の子が、日々惑星ハイネセンをにぎやかにしているのである。

 

 

一四

 

 ユリアンの結婚に関して、もっとも大きな喜びを見せたのはフレデリカ・グリーンヒル・ヤンであるが、かつてほのかな悪意とともに“ヤン・ファミリー”と呼ばれた者たちも、同様に喜んでくれた。むろん、かれらは無制限で無屈折な歓迎をしたわけではない。

「夫婦というのはな、ユリアン」

 披露宴のパーティーにおいて、もっともらしく高説をたれたのは、すでに軍を退役し、ふたりの娘の成長を見守るだけになったアレックス・キャゼルヌである。

「ささいなことからけんかになる。うちの場合は、まあ、だいたいはおれが悪い。だがたまに、責任がどちらに帰するかわからない水掛け論的なけんかになることもある。そうなっちまえば、勝つのは先に声をあらげたほうだ。これもだいたいは妻の勝利に帰するのだが、これに男が勝ったところで野暮というものさ」

「ははあ、なるほど」

 後半は負け惜しみのカテゴリーに類するものかもしれない。しかし、人生経験の面でも、夫婦という共同体経験の面でも先輩であるキャゼルヌの言葉は、胸の中心にはなくとも片隅にはおいておこうとも思うのである。

「ユリアン、あなたたちなら、きっとそうはならないわ」

 ふたりの娘をつれたキャゼルヌ夫人が、亭主のわきを小突きながら言う。

「おい、オルタンス。おまえこのところ、おれにたいするあたりが強いんじゃないか?」

「いつも後方でデスクワークばかりしていた人が、家庭では前線にでてこようとするんですもの。それまでの前線指揮官との衝突はさけられませんわ」

 ふたりの言い合いを見ながら、このふたりのように仲良くやれたらな、とユリアンは思う。もっとも、カリンとの間に戦端をひらいたら、ユリアンの戦略家としての資質がうたがわれるであろうが。

 披露宴の会場で、ユリアンはかつてのヤン・ウェンリーの僚友たちを探していた。シェーンコップ、フィッシャー、パトリチェフ、メルカッツ……。たとえ生存者のリストから名を消したとしても、ユリアンの記憶からは姿が消えることはない。彼らなら、どのような祝い方をしてくれるのだろうか。

「辛気くさい顔をしているな、ユリアン」

 この瀟洒な声は――と振り返る。彼は、もはやアイボリーホワイトのスラックスに深緑の軍服をまとってはおらず、したがってスカーフも巻き付けてはいない。かつてはこの人のスカーフの巻き方が、自由惑星同盟のファッション・トレンドとなり、軍内でささやかな問題になったものだ。

「そんなんじゃ、女はひとりしか寄ってこないぜ?」

「ええ。ぼくはそのひとりと歩み続ける決心をしたんですから」

 にかりと笑った顔は、記憶にある最後の姿とあざやかに一致する。紺色のシャツの肩に白いジャケットをかけた、オレンジの髪にグリーンの瞳。オリビエ・ポプランそのひとであった。

「やっぱりおまえは、不肖の弟子だ」

「理想的な反面教師がたくさんいましたからね」

「ああ、とくにヤン・ウェンリーとワルター・フォン・シェーンコップはひどかったな」

 こっそりと自分の名を外すあたりが、この男らしい。苦笑いのような顔を浮かべていると、ポプランがどこからかシャンペンをとってきて、ユリアンを促した。

 パーティーの隅にふたつの椅子を置いて座りながら、ユリアンはさまざまなことを話した。ポプランは、宇宙を浦々に旅をしながら、サイオキシン麻薬のグループを追っているらしい。個人の活動には限界があるが、個人だからこそできることもあるようだ。

「世のご婦人がたに愛をささやくのは、おやめになったんですか?」

「わからんのか。そっちが本業だよ」

「軍人のころから、やはりお変わりがないですね」

 そして、かつてのようにユリアンは笑った。こうしていると、昔に戻ったような気さえしてくる。足りないのは、ユリアンにとって大切な何人かだけであるのだ。

「結婚おめでとう、ユリアン」

「ありがとうございます、ポプラン中佐」

「中佐か、それもいい」

 呟いて、ポプランはシャンペンを飲み干した。わずかに、グリーンの瞳が、とかされたような光彩をおびる。この光を、ユリアンは知っていた。

「ユリアンもカリンも、優秀なパイロットさ。もし子どもが生まれたら、おそらくはそうなるだろう。だが、宇宙第一のパイロットにはなれん」

「世界第二のパイロットに師事しても、ですか?」

 ポプランが、声をあげて笑う。口だけは立派になったものだ、と前置きをして、宇宙で並び無きパイロットは、瞳にそのままの光彩をたたえたまま、言った。

「宇宙第一のパイロットは、戦死して墓のなかだからな」

 そうだ――ポプランのこの瞳は、けしてアルコールによってとかされたものではない。それ以上に豊かで美しくたいせつな、騒々しい記憶によってとかされたものであるのだ。

 時は戻らず、いまを生きる者たちは、いつまでも歩み続けなければならない。だが、ときおりこうやって立ち止まってもいいだろう。記憶は呼吸せぬ石板に刻まれるものではない。その人たちはたしかに生きていて、ユリアンたちのまえにさまざまな姿で立ち現れるのだ。

 今夜は、しばしその人たちと対話をしていよう。そういう夜が、一度だけあってもいい。

 

 

一五

 

 ユリアン・ミンツは、カーテローゼ・フォン・クロイツェルとローゼマリー・フォン・クロイツェル、ウェンリー・ミンツがハイネセンポリス市内の官舎に帰った一時間後にそこへ合流した。まだ夕方の入り口であり、このような時間帯に帰宅できたとき、ユリアンはかつて保護者にコックへなることを嘱望された腕をふるうのである。

 アイリッシュ・シチューの仕上げのスパイスをふりかけながら、ユリアンはかつての保護者のことばを思い出す。軍人よりも、コックになったほうがよほど社会の役に立つ。あの人は、いつもそう言っていた。

 ぼくは、社会の役に立ちたいわけではありませんよ――それが、自分の器をはるかにこえた願いであることはわかっていた。自分は、社会の役に立ちたかったのではない。たったひとりのために、役に立ちたいと思っていたのだ。ただひとり、自らの料理をほめ、紅茶をたのしみ、存在価値を認めてゆたかに育ててくれた、ヤン・ウェンリーのために。

 だが今は、この腕は家族のために役立っている。それだけでも、うれしいと思えた。

 鍋ごとリビングへもっていくと、すでにロミーとウェンリーは席につき、カリンは食器の用意を終えていた。

 ロミーは鍋からたちのぼる香気をいっぱいに吸い込み、母親にそっくりの顔で、満面の笑みをつくった。ウェンリーのほうは、じっと鍋を見つめている。このふたりの一番の好物なのだ。ユリアンのつくったアイリッシュ・シチューに、近所に最近できたパン屋のバゲット。これが、ユリアンとカリンの家の一番の贅沢だった。

「そういえば、カリン」

 食事の途中で、ユリアンはロミーの頬についたシチューをふき取っていたカリンに声をかけた。

「なに、ユリアン?」

「そろそろ、フェザーンに行く準備をしなくちゃ」

「ああ、先帝皇妃と皇帝に新年のごあいさつね」

「政府と軍の上層部は、全員が行くことになっているからね。そのあいだ、家のことは頼むよ」

「言われなくても、キャゼルヌ夫妻と一緒に遊んだりするから、大丈夫よ」

「それなら、よかった」

 キャゼルヌ家のふたりの令嬢は、すでにどちらも家を出ている。姉はハイネセンポリス市内で働き、妹のほうはテルヌーゼンの大学に通うために下宿している。夫妻は、イゼルローンへの移住前と変わらぬ家に住み続けていた。キャゼルヌ邸は、“ルビンスキーの火祭り”の影響はなんとか逃れており、イゼルローンに住んでいた間も他人の手にも渡っていなかったために、ほとんどそのままの状態で残っていたようだ。

「そのままで残りすぎるのも考えものだな、ユリアン」

 新帝国暦四年、宇宙暦八〇二年にハイネセンに再び帰ってきて、キャゼルヌ家の荷物整理を手伝っていたとき、形式的家主のアレックス・キャゼルヌがひとり言のように言ったものだった。

「食器も、椅子も、うちには家族の人数より多い数がそろっている。ときどき飯をたかりにくる憎らしい後輩がいたからな」

「ついに、その後輩は自分の舎弟を連れてくるようになりましたものね」

「残したままにすべきだろうか、これらは」

「ええ。家族がこれからも増えるかもしれませんし」

 ユリアンの言葉に、キャゼルヌは数秒ほどあごに手をあてて考えるしぐさをした。言葉の意味をはかりかねたようである。やがて表情をほんのりとこわばらせると、

「娘たちに男ができて、そいつらが座ったり使ったりするかもしれんのか。可及的すみやかに、捨てるべきだな」

 と勇ましいことを言ったのだった。しかし、まだ“可及的すみやかに”の範囲に至っているわけではないらしく、その椅子や食器類は残ったままだった。いまでは、ユリアン一家がキャゼルヌ家を訪れたときにそれらは使われ、家主は孫を見る気持ちでその光景を眺め、ときおり人生の年長者として助言を授けてくれる。育児の責任のない者は、いつもこのようなものだ。ユリアンは、ありがたく家主の妻の助言は聞くようにしていた。

 キャゼルヌ家ならば、カリンたちを出迎える用意もあるだろう。実質的家主のオルタンス・キャゼルヌは、三人を歓迎して、自慢の料理をふるまってくれるかもしれない。いくら自分が料理の名手と言われようと、彼女には絶対にかなわないのだ。

 カリンがふたりの子どもたちをきちんと見てくれているので、ユリアンは広大な宇宙に思いをはせることができる。バーラト星系の共和自治政府は、いくら新銀河帝国の保護下にあるとはいえ、その軍事力は量的には十分の一に満たず、質的には百分の一に達することもない。駆逐艦一隻を新造するにも、軍事顧問としての新銀河帝国の許諾が必要であり、新技術の開発も新銀河帝国と共同で行われているのである。開発資金は潤沢であっても、それを実現し、量産化をはかる資金調達は困難になるということもあった。

 シヴァ星域会戦後に結ばれた講和条約は、政権はそのままに、イゼルローン要塞と引き換えにバーラト星系が共和政府側に譲渡されるという、ユリアンたちにとって最大の要望はとおすことができた。しかし、国家の運営、とくに軍隊の保有については、新銀河帝国側の要求はすさまじく苛烈だった。すこしでも抵抗を見せれば、一撃のうちにたたきのめす、ということなのだろう。いかにも、ときの軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタインが考えそうなことであるが、実質上の宗主国と属国関係を示す、なによりの制度である。

 共和自治政府は、形式上ひとつの独立国であるが、それを新銀河帝国と相対させた場合、属国であるということが見えてくる。その関係を端的に示しているのが、政府首脳や共和国軍が参加する新年の朝賀――すなわち、“新年のごあいさつ”だった。ユリアンたちはそう呼んでいるが、その儀式における新銀河帝国の思惑は、宇宙全域を見渡す遠眼鏡や、ブラックボックスの中身を見る透視能力をもたない者にとっても、明らかすぎるものであった

 ユリアンやフレデリカ・グリーンヒル・ヤンは、けっして新銀河帝国の臣下ではない。だが、来賓として朝賀の儀に参加し、皇帝にあいさつをするということ自体が、新銀河帝国と共和自治政府の上下関係を、視覚的かつ象徴的にあらわしていた。

また、この朝賀の儀は、首脳の護衛のためと称して、軍隊も参加することから、これを事実上の軍役ととらえるものもいる。ユリアンもその認識をもつ者のひとりであり、この制度が誕生したその日の日記には、次のように記されている。

「朝賀の儀における軍隊の出動は、かつて地球で西暦が使用されていた時代、一七世紀から一九世紀にかけて極東のある国家で使用されていた制度に酷似している。パックス・トクガワーナとも呼ばれるその時代、“参勤交代”という制度が存在した。その極東の国家においては隔年の行事であったが、きょう成立したこの制度は、参勤交代を、費用的にも期間的にもごくミニマルなものにしただけにすぎない。ただし、その効果は絶大である。なぜなら、朝賀の儀に賓客として参加するということ自体が、全銀河にあまねく、両国の宗従関係を表出させるからである。」

 しかし、ユリアンは同時に安心してもいる。この制度がおよぼす威光があるかぎり、けっして新銀河帝国から直接的な武力介入はないだろうとも考えられるからである。この制度は、皇帝がその至高の玉座に座しているからこそ成立するのであり、ローエングラムがひとたびその玉座から腰を上げ、共和自治政府に歩みだすということがあれば、この関係性はたちまちのうちに砂上の城と化すのだ。

 たしかに、さまざまな制約はある。だが、それは辛苦ではない。なにより重要なのは、共和制が眼に見えるかたちで存在し、その正当性が保障されているということなのである。

「パパ?」

 自分とおなじ髪の色をもつ息子が、ユリアンの顔をのぞきこんでいた。ユリアンはあわてて笑顔をつくり、それに応じた。かれの思考は、かれの保護者と同じく、いかなる場においても、瞬時に星の海へ飛躍する翼をもっているのである。それは悪いくせであるのか、抗いようのない性であるのか、ユリアンは苦笑せざるをえない。

「自由ってなんなの、ですって」

 小さく笑いながら、カリンが言う。ユリアンが宇宙に想いをはせていたということも、すべて悟っているかのような声だった。“わたしは知っているわよ”とでも言いたげな。

「きょうね、ウェンリーが言ったの。“ぼくは本を読む自由をつかっているだけ”って」

「自由というのはね」

 と言って、ユリアンは考える。かれの思想の大半は、保護者のDNAを色濃く受け継いでいるものであり、そのDNAの流れぬものにたいして、ユリアンは途端に不安になるのだ。自分の考えは、正しいものではないのかもしれない。そう思うと、狼狽を隠すことで精いっぱいなのだった。

 ヤン・ウェンリーはどう考えていただろうか。自由とは、かれがもっとも尊ぶところにあったもののはずだ。

「……あとで一緒に、辞書をひこうか」

 眼を輝かせたのは、ウェンリーだけだった。ロミーは、くちびるをとがらせて不満げな顔を浮かべている。

 やや冷めてしまったアイリッシュ・シチューを、スプーンですくって口に運ぶ。その動作の途中、カリンがじっと見つめているのが見えた。この眼は、いつもユリアンの本質を突きとおしてくる。

 ユリアンの迷いも、カリンは知っているだろう。なすべきことはたくさんあるが、子どもたちの疑問をそのままにしておく理由には、けっしてならないはずだ。



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第5話

一六

 

 共和自治政府の軍事指導者ユリアン・ミンツおよび同軍元帥ダスティ・アッテンボロー、政治指導者フレデリカ・グリーンヒル・ヤンを乗せた宇宙船団は、一二月三〇日のフェザーン到着を期して惑星ハイネセンを出立した。その行程の途上で、アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥の管轄星域を通過するため、ワーレン歓待の一部と合流をはかるはこびとなった。バルスワープも進歩しており、約二週間ほどの旅程になりそうだった。

 ユリアンらが、ホルツバウアー大将ひきいるワーレン分艦隊に新帝国領ランテマリオ星域で迎え入れられたのは、航行日程も順調に消化していた折だった。旧自由惑星同盟を知る者にとっても、新銀河帝国を知る者にとっても、さまざまな感慨のあるこの宙域は、惑星ハイネセンと惑星フェザーンとを結んだ線分の軌跡にあり、万人がみとめる交通の要衝である。

 ホルツバウアーの剛健な敬礼と、ユリアンやアッテンボローの柔和な敬礼とが一切の摩擦なくかわされていた時刻とほぼ同じくして、宇宙のある一隅、惑星コルレオーネには、数人の男たちが円卓を囲うように座していた。そのうちのもっとも扉側、つまり来客用に置かれた席には虚空があるのみであり、他のものたちはその空席に座すべきひとりの人間を待っているのである。

 惑星コルレオーネとは、惑星の発見者の名をとってそう呼ばれるようになったのであるが、けっして公称ではない。いや、この惑星には、公称などというものは存在しない。規模としては、惑星フェザーンの十分の一に満たない小さな惑星である。いくつかの巨大な人工物があるよりほかは、果てのない土漠と急峻な山岳があるだけなのだが、この惑星最大の特徴は、惑星全体に外部からのあらゆる干渉を防ぐ妨害波が張り巡らされていることであろう。そのため、この惑星には、この惑星のことを知り、かつ居住者に許可をえないかぎり、大気圏への突入すらままならないのである。

 この惑星の来歴は、古くはルドルフ・フォン・ゴールデンバウムにまでさかのぼる。――この表現はあまり正確ではない。むしろ、惑星の存在は、ルドルフというその身と器に比して過剰な自信にあふれた男の、さらに小さな脳髄にたしかな領域をえているにすぎなかったのである。

 アントニオ・コルレオーネは、西暦末の地球におけるまことに小さな島に来歴をもつ資産家の末裔だった。その資産は、けっして由緒を語ることのできるものではなかったが、彼は父の死によってその莫大な資産をみずからの管理下に置いた。彼自身すらもあるときまで自覚することはなかったが、アントニオ・コルレオーネは、幾度となく古典文学で語られたような“無能な金持ちの御曹司”などではなかった。彼は天才的な投資の才能をもっていたのである。その投資先は、大企業でも、国家でもなく、ただのひとりの個人だった。

 その個人の名は、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム。当時、彼は新進気鋭とはいえ、体躯が圧倒的に他をしのいでいただけの、銀河連邦のちいさな一将校にすぎなかった。あまりに厳格な軍隊の綱紀粛正によって、危険すぎる海賊討伐の任に就いた彼に、アントニオは天啓を受けた。生来の無神論者であった彼が、その刹那だけは、神の存在を知覚し、同時に忠実なしもべとなったのである。彼は天啓のままに討伐計画に腐心するルドルフへ近づき、あらゆる支援を約束したのである。莫大な資産と、裏社会にどこまでも伸ばしうる、見えざる触手を有していたアントニオは、情報によってルドルフを厭う軍人連中や、宇宙海賊を制圧し続けた。そして、ルドルフは宇宙海賊を一掃し、ならびなき権勢をえる契機をつくったのである。

 アントニオとルドルフの協調関係はおおやけにはされず、資産家の当主は情報と資金の提供によってルドルフの覇道と独裁、政敵の抹殺などすべての活動を支え、皇帝は影の支援者の存在を隠匿し、その活動を黙認することによってアントニオの栄達を支えた。いっぽうが成長すれば、もういっぽうにさらなる力を与える、というサイクルの繰り返しで、両者は表裏の両面から銀河を制した。ルドルフはアントニオには活動の拠点として、アントニオ自身が発見したひとつの惑星を与えられた。現在の惑星コルレオーネである。

 その惑星は、全宇宙をえがいたとされる星図からは意図的に抹消され続け、ルドルフの死によって人類の記憶から忘失されることになるのであった。人々、というにはあまりにも少ない数の人間がそれを思い出すのは、帝国暦三七三年を待たねばならない。すなわち、フェザーン自治領の成立である。コルレオーネ家は、代々フェザーン自治領主を観察し、近づくべき器をもった領主に対してはあらゆる支援を惜しまなかった。

 コルレオーネという呪われた姓をもつ者たちの脳髄の空虚を満たし続けたのは、そのような政略と陰謀の潜熱であっただろう。だが、血と肉をうるおし続けていたのは、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムやフェザーン自治領主による謝礼などではなかった。あるいは、惑星コルレオーネそのものであっただろうか。それも否である。荒涼とした惑星に産業などのぞむべくもなく、もしかするとその厚い岩盤のなかには、かれらの血肉の渇きをうるおすに足るなにかがあるのかもしれないが、かれらはそれよりも効率的に莫大な金をえる道を知悉していた。それはかつて、西暦の一九世紀にひとつの巨大な国家を滅ぼした外法である。――“麻薬”による人々の精神と経済の支配であった。

 サイオキシン麻薬と呼ばれる劇毒を染み込ませた蜘蛛の糸は、いまや全銀河へ張り巡らされている。いくらかまえのことであるが、自由惑星同盟と銀河帝国が密約をかわし、サイオキシン麻薬の一掃に乗り出したときには、多少なりにその網にほころびが生まれてしまった。だが、眼に見えぬコルレオーネ家の崇拝者は、数千万という単位で存在するのである。糸は、コルレオーネ家が直接手をくださなくとも、すこしずつ回復していった。そうして、元の通りに復元されていくのである。その蜘蛛の巣の劇毒を媒介としながら、莫大な富が、コルレオーネ家の金庫にはおさめられる。

 現在、コルレオーネ家の当主は八七代めのジョセフ・コルレオーネが束ねていた。小柄で線の細い男であるが、まず眼につくのはするどくとがった鼻である。眼は細く、その奥に見える瞳は、吸い込まれるような漆黒である。キャメル色の頭髪はしっかりとオール・バックにかためられ、猛禽を想わせるには十分な容貌だった。彼は自身が細身であるのにたいしややコンプレックスを抱いていたが、彼の気に入る濃紺のスーツは、そのコンプレックスをむしろ機敏でするどく光る刃にかえることに成功している。

 彼は、円卓の間の最奥、初代当主アントニオ・コルレオーネの肖像画がかざられたそのすぐ下に座っている。ジョセフの容貌と絵画の人物のそれとを比較しても、ジョセフが初代の血を色濃く受け継いでいるということがわかる。あるいは、その内面すらも、彼は精巧な模造品となりえているかもしれない。

「彼は遅いのかな、ザザ」

 ジョセフは、すこし癖のある帝国公用語で、左となりに座る金髪の男に話しかけた。ザザと呼ばれたその男は、日焼けした肌の中で光る青い瞳を数ミクロ動かしただけで、ジョセフのほうをむこうとはしなかった。

「からかってはだめよ、ジョセフ。ザザは右耳が聞こえないのだから」

 そう言ったのは、ジョセフの右となりに座るロゼッタである。ジョセフの妹であるが、外見はあまり似ていない。人並み以上には肥っていて、過剰なウェーブがかかった髪を、無造作にヘアゴムでまとめている。

「そうだったな。ザザ、聞こえているか?」

 今度はいくらか大きな声で、ジョセフが言った。

「彼、とはどなたでしょう、ジョセフさま」

 すこし間をおいて答えたザザの声を聞いて、くっくっとジョセフが笑った。根の暗い男ではないため、表情は乏しくない。無表情のときの彼は、怜悧な猛禽の鉤爪のごとき印象をあたえる。だが、彼をすこしでも知る者は、彼の表情のほぼすべてが、持ち主の意志が顔の随意筋を寸分あやまたず動かしつくした精華であるということを理解している。ジョセフの表情、所作、態度、声色……。それらすべてが、打算と意志のもとにあらわれているのだった。

「おもしろい男ではある。だが、残念ながらばかだ。むこうも、私たちのことをばかだと思っているだろう。つまり、似ている」

「あんた、一度会ってはいるはずだよ。五年ほどまえだけどね」

 ジョセフはちいさくほほえみ、ロゼッタが低い声をあげて笑った。

 五年ほど前、ということは――と、ザザと呼ばれた男は考える。彼が知っていることはただふたつだった。ひとつは、自分の名前が、ヴィンツェンツォ・ザザであるということ。もうひとつは、ここ数年に蓄積した経験のほかは、自分が何も知らないということだった。彼はあるときまでの記憶を失っているのだった。

 いくら考えても、自分の記憶にはない。ということは、自分は五年前の記憶は失っている。知っているのは、ジョセフと、ロゼッタと、ほか数名のジョセフが抱える私兵をひきいる何名かの将校だけである。それは、ここ数年のうちに蓄積した知識の断片だった。

 ザザのもつ記憶のうち、最も古いものは、自分が眼を覚ました瞬間のことである。白い天井に、今にも泣きだしそうな表情を浮かべたジョセフの顔があらわれたのである。いまとなっては、それも彼がコントロールする表情のひとつであるのかもしれないが、ザザにとっては、ジョセフが自分にとって大切な人間であるかのような想いを抱いた。そうして、ジョセフは自分のことをザザと呼んだ。

 意識を失っていた原因は、宇宙船の事故であったらしい。爆発をともなう事故で、ザザは大けがを負い、意識不明で病院へ搬送された。死すれすれの状態が何か月か続き、ようやく眼をさましたのだという。だが、代償に右耳の聴力を失い、左耳も補聴器なしではうまくきこえないという障害を負ってしまった。あまり不自由はしていないが、ふとしたときに反応できず、困ったりもする。

 ジョセフとザザは、従兄弟にあたるような関係であるらしい。惑星コルレオーネに住むのはコルレオーネ本家のみであるから、自分は分家の人間だということだ。ザザという姓は、かつて自由惑星同盟と呼ばれた領域において最大の領域を支配していたコルレオーネ分家が、世に紛れるために名乗っていたものである。広い領域を支配するだけに、本家との関係は深く、ジョセフとも何度か会っていたらしい。ジョセフ個人としても、“ザザ”ということばの響きが気に入っており、特別な思い入れのようなものを抱いているようだ。

 ヴィンツェンツォ、という名では、あまり呼ばれない。たんに長いから、というのが理由らしい。それはロゼッタも同様で、いまでは名を呼ぶ者のほうが少ない。

「おまえは自由惑星同盟の優秀な軍人で、出世こそ上官にはばまれていたが、能力だけは将官位をさずけられてもおかしくないものをもっていた」

 とは、私兵将校に引き合わされたときにジョセフに言われたことで、実際にザザはすべての将校とのヴァーチャルによる模擬艦戦に勝利した。自分が軍人であったことは、どうやら確からしかった。それも、並ではない軍人である。

 一度、コルレオーネ家の私兵の存在意義について、ジョセフに尋ねたことがある。ジョセフは一度だけたしかにほほえみ、そしてすぐに、宇宙を裏から支配する一家の当主のものに変えた。

「われわれは、いま窮地の瀬戸にいる。それが際に追い込まれるか、あるいはやつらを追い込むかは、おまえの働き次第なのだ」

 このジョセフのことばで、ザザは悟った。自分が、コルレオーネ家が抱える私兵軍隊の総帥の任を与えられたということに。断るということは、考えもつかない。二万とも言われる軍集団を、思うさまに操ってみたい。その欲求は、堪えがたいものがあったのだ。

「やつら、というのは?」

 わずかな自嘲とともに、ザザは問うた。戦いたい、などというのは、どうしようもない愚者の欲望であるだろう。だが、それを自分は疑いなく抱いている。ならば、その欲望をむける相手を、ザザは知りたかった。

「皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。われわれの敵は、新銀河帝国そのものさ」

 あの時、自分はたしかにふるえたのだ。強大な敵に立ち向かえることに。あるいは、不思議な感慨ではあるが、自分がなにものにも縛られずに闘えるということに。新銀河帝国に対し、ザザはいかなる感情ももっていなかった。恨みもなく、恩もない。だが、自分が軍人であったという、記憶の埒外にある確固としたものにアイデンティティを求めるならば、自分はそういう人間であるというだけなのだ。

「ジョセフさま、そろそろお見えになります」

 部屋に入ってきた、ジョセフの執事がうやうやしく頭を下げながら言った。

「さて、ご対面だな、ザザ」

「どういう男なのか、たのしみでもあります」

「そういうところが、私は好きだ。よく、似ている」

 誰に、とジョセフは言わなかった。なるほど、ジョセフ自身も、変化を嫌う性向をもつ男ではない。

「言ってしまえば、自分のことは傀儡師だと思っている。さしずめ私もおまえも、一体の人形ということだ。そう思い込んでいる。だが、やつは気づいてはいない」

「傀儡師もほかの見えざる糸にあやつられている、ということに、でしょうか?」

 ジョセフが高く笑った。ザザの回答は、彼を満足させるものであったらしい。

「そうだ。われわれは、その別のなにかであるのだからな」

 扉が開かれる。姿を現した男は、泥色の髪によくひかる瞳をたずさえていた。

 

 

一七

 

 新帝国暦一八年――。

 この年号は、マクロには後世の歴史家たちに永久に語られ、よりミクロにはひとりの少年の人生録を極太の線分によって画期することになる。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは一四歳、新銀河帝国軍幼年学校最終学年としてむかえた新年は、まばゆいばかりの光彩と、天を割る万人の喝采によって歓迎された。しかし、この新年の祝賀によって、少年の人生は画期されたのではない。この年をなによりもいろどってしまったのは、新銀河帝国史と少年の人生史とに刻まれた、新たなる深紅の碑文なのである。

「アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、新帝国暦一八年の段階では、形式の上で新帝国軍を統帥したが、それはけして実質的なものではなかった。彼はこのことを生涯の悔恨とするだろう。流血は多くの者にとってよろこびとなすべきものではないことはたしかだ。だが、われわれ(ここでの“われわれ”とは、筆者自身の所属団体、つまり軍をさすものではない)にとっては、あるいは、“簒奪王”を生む確固たる契機になったことを、ひとつのよろこびとなすべきなのだろうか。」

 『アレク伝』のこのような叙述で開始される新帝国暦一八年は、“獅子の泉”における祭礼場、通称“泉の間”にてたからかにはじまりが告げられた。たちならぶ文武百官に奸臣なく、その者たちが責任を負うべき政治経済にも一切に遅滞はない。新銀河帝国はその建国以来、一度たりとも文明の逆行を経験したことなどありはしないのだった。それを支えていたのは、この泉の間に集まった“多数精鋭”である。

 泉の間にそなえつけられた蒼氷色のステンドグラスが、さしこむ無色の太陽光を蒼く染めあげる。その蒼光の滝の最も下流、つまり泉の間の最上段に、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは座っていた。母ヒルデガルド・フォン・ローエングラムはいまだ摂政の地位にあり、少年に実質的な権力はない。しかし、この年、幼年学校の卒業とともに、権力は少年のもとへと集中するだろう。そのとき、百官のなかで、その地位と権力におもねる者も出るのだろうか。同一王朝における政権の交代のすきまとは、同時に不純物が入りこむすきまでもあるのだ。王権とは、そのようにして綻び、腐食し、たおれていくものである。ローエングラム王朝は、はたして、歴史上のさまざまな王朝と同じ経験をするのだろうか、あるいは――。そのような予感と不安とが一反の織物をかたちづくる、新たな年の幕開けであった。

 朝賀の儀は、一時間ほどで滞りなくおこなわれた。祭礼の簡素さは、もはや新銀河帝国の不文律となっており、百官もそれに慣れ親しんでいる。意図すれば、重厚さや荘厳さは無辺際に膨張させることができるが、そうして得られるものは、かりそめの権威であるのだ。それは演出の結果であって、真実のものではない。安物のワインのボトルに過剰な装飾がほどこされていたとしても、すぐれた舌をもつ者にはすぐ欺瞞をあばかれるのだから、重要なのはむしろボトルの中身であって、王朝の権威もその統治と国家運営によってしぜんに発現されるものであるべきだった。いまのところ、ローエングラム王朝はそれをじゅうぶんに満たしているだろう。

 その統治が、この年にどのような変化を遂げるのか。その挑戦を、われわれは見届けることになるのだろうか、とユリアン・ミンツは思う。彼は朝賀の儀がはじまる二日前にフェザーンへ着到し、簡単な手続きと準備を終えて“泉の間”を訪れていた。形式上ではあっても、外国使節ではあるのにかかわらず、この管理システムの簡素さは、新銀河帝国の技術の高さをしめすのか、慢心の深さをしめすのか、ユリアンにはわからなかった。おそらく前者であろう、と一般的な見解の賛同者になるのみである。

 皇帝アレクサンデル・ジークフリード、その母にして摂政のヒルデガルドに謁見したユリアンは、次いで帝国の“五元帥”とあいさつを交わした。不在の二元帥の名は、むろんユリアンも知っている。憲兵総監たるウルリッヒ・ケスラー元帥と、旧帝国領を管轄するエルネスト・メックリンガー元帥である。彼らがこの重大な儀式においても姿を見せないのは、彼らの不忠と不勤勉をしめすものではない。ユリアンは、持ちうる情報から、それを判断したのだった。

 フェザーンから遠く惑星ハイネセンにあっては、帝国の情報は入手しづらい。しかし、帝国側に不信感を抱かせるわけにもいかないから、密偵をしのばせることもできない。したがって、ユリアンらが情報をえるためには、三通りがある。ひとつは、帝国のジャーナリストや広報担当者が発する情報をしいれること。ふたつは、民衆の“風聞”を、たとえ玉石が入り混じっていたとしても貴重にすること。もうひとつは、これはかぎりなく密偵に近いのだが、フェザーン駐在総領事館ではたらく事務員のなかに、情報の専門家を紛れ込ませることである。現在、フェザーン駐在総領事の事務次官を務める男は、バグダッシュといった。ユリアンは、彼の過去を、知識としてではなく経験として知る者であり、一時はかぎりない怨恨と猜疑を抱いていた。むろん、バグダッシュの目論見は未遂で終わったものの、ユリアンとしては納得のいかないところが多かった。彼を貴重なものとして思うようになってしまったのは、ヤン・ウェンリーの死に際して、バグダッシュの双眸から流れるふたすじの滝を眼にしたからである。彼の能力だけはきちんと認めていたから、ユリアンはダスティ・アッテンボローらの提案に乗る気になったのかもしれない。

 バグダッシュは情報の専門家としての才能をいかんなく発揮しており、彼からもたらされる情報はどれも貴重で、ユリアンらの正確な分析をよく助けた。したがって、ユリアンはふたりの元帥が不在である理由を把握することができたのである。

 惑星ヴェスターラントの騒動が、かなり長引いている。民衆の偶発的な騒ぎであるなら、そのエネルギーの灯は意外に小さく、短い。食い物の不足に対する暴動は際限なく拡大していく、ということは、過去の経験と“後方担当者としては”偉大なアレックス・キャゼルヌから教訓を受けていたから、ユリアンも知っている。だが、今回の騒動の火種は、過去の歴史にたいしてであり、民衆としてはたまった負のエネルギーを発散できればそれでよいはずだった。しかし――。この騒動の違和感に、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムや新銀河帝国の有能な官吏たちのたぐいまれな触覚が反応しないはずはない。裏に糸を引く何者かがいるのかもしれない。

 メックリンガー元帥は騒動の鎮圧にあたり、ケスラー元帥は糸を引く首謀者の捜査に当たっている。そう考えるのが、最も妥当だろう。ここまでの分析を終えてから、ユリアンははじめて共和自治政府が、巨視的にいかなる役割を果たすかを考えるに至った。

 大きな役割を担うことは、まずないだろう。だが、今後なんらかの大きな行動があり、その余波をうけるかもしれないということは、想像ができる。では、その“なんらかの大きな行動”とは? ローエングラム王朝の開闢者以来の伝統を思うなら、“なんらか”の最も大たるものは軍事行動である。武断的措置をもってヴェスターラントの騒動を鎮圧するのである。だが、開闢者の遺志を受け継いだ者たちが、そこまで愚かであろうはずもない。民衆を制するに武をもってするなど、ゴールデンバウム王朝の再現ではないか。

 あるいは、皇帝アレクサンデル・ジークフリードが直々になにか行動を起こすだろうか。だが、彼には現在、実権というものがない。“母のスカートのすそをつかんで、銀河というおもちゃ箱にきらめく星々を、もの欲しそうにながめる男の子”と声高に非難するものもいる。それだけではなく、もっと下品で醜悪な表現をも。しかし、その醜聞を否定する能力や実績がないのもたしかなのである。ユリアンとしては、言うまでもなく、花の種をうえて芽が出る前にその花の美醜を決めるようなまねは、あまりに醜悪であると思うから、アレクサンデル・ジークフリードにたいして持ちうる見解はない。ただひとつ、単なる感想として思うなら、父親ほどの“芸術品として完成されたような容姿”には至っていないな、ということである。たぐいまれではあるが唯一無二ではない、といったところだろうか。だが、それは落胆や失望ではない。ラインハルト・フォン・ローエングラムに感じた犯しがたさ、届きがたさのようなものを、アレクサンデル・ジークフリードには感じないのである。使い古されたことばを用いるなら、親しみやすい。民のためにみずから輿を降りてくれるような、そんな皇帝の姿をすら思わせるのだった。

「ヘル・ミンツ。このような噂をご存じか」

 朝賀の儀ののちに開かれたパーティーにおいて、ユリアンだけに聞こえるような小声で話しかけてきたのは、ナイトハルト・ミュラー元帥である。彼とは長らく友誼をむすんでおり、師父が認めた良将でもある彼を、ユリアンは心から尊敬していた。噂好きの彼であるが、それを広める相手を誤ったことはない。むしろ、だれとでも物腰を柔らかく対話できる彼だからこそ、さまざまな人間から、噂という形で情報を集めてしまうのかもしれない。

「航行不能宙域に、抜け穴が存在するというのです」

 雷にうたれたような衝撃が、ユリアンを襲った。旧銀河帝国領と、旧自由惑星同盟領を結ぶのは、イゼルローン回廊とフェザーン回廊のみ、という戦略上の大前提が、その新事実の判明によって崩壊する。広大なふたつの領域を行き来するための、ただふたつだけの道であるから、両回廊は要衝となりえ、数千万の人間の血を吸ったのである。

「まさか、そのようなことが?」

 あくまで噂です、とミュラーは断りを入れたが、そのまなざしは真剣なものだった。

「いえ、これはふたつの回廊のように、川にかけられた橋にたとえられるものではありません。たとえるなら、小川の飛び石のようなもので、広大な航行不能宙域のなかに小さな航行可能宙域が点在している、というのです」

 たしかに、航行不能宙域はふたつの領域をへだてる川にたとえることが可能である。その両岸をむすぶ橋のように、イゼルローン回廊とフェザーン回廊があるのだ。その川に飛び石がいくつもあれば、石から石へ乗り移るように、飛び跳ねて越えることも不可能ではない。あくまで、理論上は、というていどではあるが。

「これは、軍事機密ではございません。いまのところは、という段階ですが」

「というと?」

「お恥ずかしい話ではありますが、私の部下が、バルスワープの計算を誤り、フェザーン回廊付近の航行不能宙域を着地点として算定してしまったのです。しかし、艦隊は無事でした。すぐにワープで戻ってきたので事なきをえましたが、ここから考えられるのは……」

「同じような航行可能宙域が、ほかにもあるかもしれない、ということですね?」

「おっしゃる通りです。まだわが艦隊のほうで分析が済んでおりませんので、先帝皇妃らに上梓するにいたっておらず、というところです。ですから、形式上は軍事機密にもなっておりません。部下には緘口令をしいてはいるのですが、ヘル・ミンツの耳には入れておこうと思いまして」

「ありがたいお話ですが、なぜそのような?」

 ユリアンの問いに、ミュラーは笑った。その笑みにわずかばかりの卑しさはなく、やはり真剣さは失われていない。戦略上の大転換をしいられるかもしれない重大事である。ミュラーとしても、談義の華としてもちいるためにこの話題を切り出したわけでもないのだろう。

「卿は、戦略家としてたしかな慧眼をお持ちです。そして、それを無益な覇をとなえるために用いない良識も。同陣営にいるかぎり、その智慧を借りたいと思うのは当然なことです」

 無益な覇ということばに、どこか彼の自尊心が見えないこともないが、おそらくそれは事実である。いまの新銀河帝国に比肩する勢力はないし、むこう数十年はあらわれないだろう。それに、銀河に名をとどろかせた驍将にこれほどまで称賛されると、いくらみずからに謙虚を強制したとしても、栄誉を感じずにはいられないというものだ。なにより、ミュラーの念頭には、ユリアンの師父であるヤン・ウェンリーの姿があるだろう。ミュラーはヤン・ウェンリーを畏れると同時に敬愛しているのだ。自分がほめられるより、ヤンがほめられたほうが、よろこびが勝るユリアンである。

「ありがとうございます、ミスタ・ミュラー」

 その後はごく普通の談笑が行われ、ここでもミュラーの噂好きがいかんなく発揮されたのであるが、それらはすべて取るにたらないものであった。

 ユリアンが、パーティーの場にヒルデガルド・フォン・ローエングラムとアレクサンデル・ジークフリードがいなくなっている、ということに気が付いたのは、ミュラーと別れてからすぐだった。不穏だったのは、主席元帥ウォルフガング・ミッターマイヤーと、軍務尚書アントン・フェルナーのすがたも、時を同じくして消えていたことである。その意味を洞察する前に、ユリアンはダスティ・アッテンボローとフレデリカ・グリーンヒル・ヤンに呼び出された。

 ……パーティーが終わり、舞踏が始まる。演者たちは剣をブーケとしてそれにのぞむだろう。演者の名がしるされたリストの先頭に、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの名はあった。

 

 

一八

 

 エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥がフェザーンに赴いている間、イゼルローン要塞の留守をまかされていたのはフォルカー・アクセル・フォン・ビューロー上級大将であった。彼はかつてウォルフガング・ミッターマイヤー艦隊の幕僚を務めており、ミッターマイヤーの神速をよく継承する提督のひとりだった。しかし、最も高く評価されていたのは、その堅実な用兵である。

 このふたつの長所は、いずれも彼が幕僚を務めたふたりの元帥に由来する。ひとりはミッターマイヤー、いまひとりはジークフリード・キルヒアイスである。後者の提督との交流は短いものであったが、ビューローは同僚であるハンス・エドアルド・ベルゲングリューンとともにその不敵かつ堅実な用兵をよく学んだ。キルヒアイスの死後、ビューローとベルゲングリューンはそれぞれウォルフガング・ミッターマイヤーとオスカー・フォン・ロイエンタールの幕僚となり、ベルゲングリューンは敬愛するふたりの上官を、ビューローはひとりの上官とひとりの友を喪ったのだった。

 ビューローは、一年のすえになると、必ずベルゲングリューンのことを思い出していた。僚友として申し分なく、競争相手としては絶対に負けたくないと思える男。副官として、彼ほど優秀な男はそういなかった。永遠に超えることのできない一枚の壁を隔てて、ベルゲングリューンは死んだ。彼のつくった血だまりの温度を膝に感じながら、ビューローはベルゲングリューンのぶんまで生き抜いてやろうと誓ったのである。彼の形見は、血にまみれた大将の階級章のみだった。ビューローはそれを胸ポケットにしまい、ほとんど片時も身から放したことはなかった。守護天使としてはやや髭にまみれていて見目に難があるのが、亡き僚友のただひとつの欠点であっただろう。

 イゼルローン要塞内の時間は、フェザーンと同期されており、フェザーンにおいて新年がむかえられれば、イゼルローン要塞内でもむろん新たな年があける。回廊両端が同一の国家となったため、要塞はもはや国家防衛上の要衝ではなくなったが、依然としてイゼルローン回廊の重要性はうしなわれてはいない。

「フェザーン・イゼルローン両回廊とその両端が、同一の国家によって治められるなら、銀河は、もはや東西ではなく南北に分割されて統治されることになるだろう。」

 新帝国暦三年にある政治史学者が出した論考には、銀河の統治における地理的条件がどれほど決定的に変化したかについての示唆があった。かつて、新領土とされた旧自由惑星同盟領は、総督が惑星ハイネセンにおかれており、天頂上から西側を新領土、東側を旧銀河帝国領としたとき、統治は東西にわかれていたといえる。だが、新帝国暦四年にバーラト星系が共和自治政府らに譲渡されると、この地理的概念は変容をみせた。フェザーンは首都として銀河の南半分を治め、イゼルローンはその出先機関として北半分を統括する。純軍事的かつ戦略的意義を失ったこの時点において、虚空に浮かぶ漆黒の要塞は、軍事的拠点から政治的拠点へと性格をかえたのである。

 よって、この要塞が機能不全におちることは、新銀河帝国の片方の肺が停止するのと同義であるのだ。

 イゼルローン要塞の指令室において、ささやかながら新年の祝賀が開かれ、この時のために皇室から下賜されたワインをグラスに注いだビューローの眼に、イゼルローン要塞の巨大なスクリーンを通じて無数の光点がとびこんできた。ビューローの脳はただちに十数年の時を飛び越え、動乱のただなかを生き抜いたひとりの軍人の記憶を呼び覚ませた。

「各員、配置につけ。まずは識別信号を送る。それから、フェザーンに超光速通信をいれろ」

 あれは敵である、と脊髄が告げていた。その宣告を、あやまたず四肢につたえていく。存在していることが問題であるのだから、無数の光点の出現元は、この際どうでもいい。現在、ビューローは一万五千の艦隊を瞬時に動員できるのだ。もし光点が宇宙艦隊の輪郭をおびてこちらにむかうというのであれば、そのことごとくを、彼は打ち破るつもりだった。

 識別信号に無言の応答がなされると、ビューローはすばやく部下に戦闘態勢をとるように命じた、新銀河帝国暦二年の回廊の戦い以来、イゼルローン回廊は血の塗料による補修を必要とはしておらず、それは永劫なものになると思われていた。だから、イゼルローン要塞の象徴たる“雷神の槌”は取り外されたというのに……。――これは、新銀河帝国のひとつの驕りでもあっただろう、だが、反面的には平和への期待のあらわれでもあったのである。

 定期的に欠かしたことのない訓練の成果か、あるいは軍人の血が沸き立っているのか、戦闘配置は滞りなく進んだ。どうやら光点が宇宙艦隊のものであると認識できたとき、ビューローはオペレーターから信じがたい報告を聞いた。

 艦隊は、旧帝国側と旧同盟側の二か所に同時に出現した。東に二万万ずつ、西に一万、合計三万隻の大軍であるという。

 ビューローは、出撃と発音しかけた口のままに表情を数瞬硬直させると、再び部下に超光速通信を命じた。

 

 

 なぜ自分が、これほどの艦隊運用が可能なのか、ヴィンツェンツォ・ザザにはわからなかった。記憶のなかにある数年間で、たしかにコルレオーネ家の私兵集団をモジュールとして操ったことはある。実戦の経験はないはずである。だが、脳が躰に命ずるのではなく、躰が動かしたことにたいして脳が追随するというような奇妙な感覚は、いったいなんなのか。しかも、二万艦の大軍である。分割される前は、航行距離が短いとはいえ、三万艦もの軍を率いていたのだ。疑念はあるが、しかし物事は流れる水のように滞りなくすすんでいく。いまは、大軍を動かすことができる、という事実を受け入れ、軍学に基づいて艦隊運用をはかるしかないだろう。

 ルーカス・クリーガーに与えられた策戦の骨子は、以下のとおりである。

 

 一、惑星ヴェスターラントを中心に、民衆の暴動というかたちで、新銀河帝国の耳目を集める。この際、ひとり乃至ふたりの元帥を、ヴェスターラントに釘付けにする。

 二、朝賀の儀に際し、ユリアン・ミンツ含む共和自治政府の主力艦隊と、帝国軍の残る五元帥が惑星フェザーンに赴任している一月一日乃至二日を作戦決行とする。

 三、航行不能宙域を抜け、イゼルローン回廊の両端に艦隊を配置する。

 四、旧自由惑星同盟領方面軍はバーラト星系に向けて進軍し、惑星ハイネセンを奪取する。

 五、旧銀河帝国領方面軍は惑星ヴェスターラントを避け、惑星フェザーンに向けて進軍し、皇帝軍と闘い、これを破る。

 六、なお、四・五に関しては、イゼルローン要塞駐留艦隊は出撃せず、後背を突かれる憂いもないという予測に基づく。この予測が立つ理由は、つぎのとおりである。

 a.新帝国暦一七年、イゼルローン要塞における主砲“雷神の槌”は新帝国暦八年以来解体され使用不可の状態にあるため、同八年以前より格段に同要塞は奪取しやすいと思われる。

 b.イゼルローン要塞における最高責任者たるエルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥は、新年朝賀の儀のために不在である。過去の通例に照らし合わせれば、イゼルローン要塞最高司令官は、最低でも五千の艦隊を率いて惑星フェザーンへ赴く。したがって、要塞に残留する戦力は最大でも一万五千であると考えられる。また、その指揮官はフォルカー・アクセル・フォン・ビューロー上級大将である。

 c.回廊の両端に計三万の艦隊があらわれたとき、一万五千の戦力を分散して二正面作戦を行うのは愚のきわみであり、ビューロー上級大将はそのような軽挙には及ばないだろう。また、同上級大将は現在のイゼルローン要塞の脆弱性を知悉しており、出撃して空城にするということも考えにくい。

 d.以上より、ビューロー上級大将及びイゼルローン要塞駐留艦隊は、無用の出撃をせずに、要塞内で防備を固めるだろうという予測が立つ。ゆえに、わが軍としても双方向への進軍途中でイゼルローン要塞駐留艦隊に後背を突かれる不安はない。

 

「机上の空論だ!」

 ルーカスの策戦にたいし、立ち上がって叫んだのは、将校のひとりであるミケーレ・ピノだった。彼は複数いるコルレオーネ家軍のなかでも最も年少で、かつ血の気が多い。猛将というべきだが、その将才は危険なほど猛に傾斜している。

「わが軍三万をイゼルローン回廊両端に移送するのは苦ではない。われわれだけが知る秘密の航路を用いれば、だ。だが、展開ののちは、これは」

「順を追って、くわしく話すべきかな」

 策戦を話し終えたルーカスは言う。それはまさに自らを宇宙の俯瞰者として定義しているような声で、不敵な音階によってかなでられている。

 ミケーレとしては、突如あらわれたこの泥色の髪をした男の、すましたような態度が気にいらない。コルレオーネ家は、きたるべき革命の日のために力をたくわえてきて、その旗をもつのはジョセフのはずであった。それが、当のジョセフすらもこの男を重用している。主人が信じたからといって簡単に改心できるほど、ミケーレとしてもジョセフにたいする信心はかるくない。

「きさまのイゼルローン要塞にたいする楽観は、ひとまず置いておこう。だが、きたえあげた精兵四百万をむざむざ死なせるようなまねは、絶対にしない」

 おそらくミケーレは、戦力を分散してこちらが二正面作戦をおこなうという点にたいして、強い疑問を抱いているのだろう。脳内において、すでに彼は帝国軍と艦隊決戦を行っている。あの巨大な、途方もない帝国軍と、なぜわざわざ兵力を少なくして戦う必要があるのか、という、問いにいたる成立過程を省いてしまっているのだ。過程を省くことができるのはひと握りの天才の特権か、それを理解しない愚者のむなしさであるが、ミケーレは残念ながら後者である。無能ではないが、頭のいい男ではない。

「そもそも、この策戦の目標はいずこに定められているのか」

 ぼそぼそと髭のなかだけで口を動かすように言ったのはサイード・サムエル・サンチェスであった。偽名である。宇宙海賊あがりのこの男のことは、ザザもよく知らなかった。わかることは、己の行動原理を信念と嗜好と義務に細分したアンケート用紙を彼に渡したとしても、サイードはそれぞれの空欄にただ“帝国マルク”と書きいれるだろうということだった。もっとも、彼にとって義務とは辞書をひいたとしてもそのことばの意味がわからないであろうが。彼は文盲で、“帝国”と“マルク”以外の単語を知らない。おそらくは“ディナール”も知っているだろうが、いまでは帝国マルクのほうがより実質的なのだ。彼のそばには従卒のようにひとりの少年がいて、その少年が文章をかわりに読むのである。少年は“サルバトーレ”と呼ばれているが、本名かどうか、ザザに興味はなかった。

「それにかんしては、ジョセフとおれとでは異なるので、なんとも言えないな」

 自分たちの主人が呼びすてにされたことに、何名かの将校が眼の色を変えたが、ルーカスは気付かなかった。気付いていて、あえて無視したのかもしれないが、それは些末なことだろう。聞き流すべきではないのは、ルーカスの目標のほうだった。

 ジョセフの目標のありかははっきりしている。コルレオーネ家の最大の財源であるサイオキシン麻薬は、腐敗した国家同士において流し込める神経毒であり、いまやその流通は激減している。ラインハルト・フォン・ローエングラムというすぐれた為政者の擡頭は、コルレオーネ家にとっては大きな損失だった。

 かつて存在したという地球教徒なるものにたいし、ジョセフは冷淡だった。多少なりに支援はしてやるが、宗教などという不可解で不明瞭なものを、彼は信じようとしないのだ。彼の投資の結果、地球教徒はあるところまでは成功したものの、結局はその活動を停止した。地球教団はコルレオーネ家にとってたんなる市場にすぎず、その市場活動の結果としてラインハルト・フォン・ローエングラムが排除されるなら、それはたんなる僥倖であり、宝くじに当選したようなものだ。どれほど期待するか、それも宝くじに抱くものと同じような熱量である。ヤン・ウェンリーがかれらの陰謀によって死亡したというのは、意外ではあったが、望外ではなかった。彼は権力というのものに一切の執着をしめさなかったから、コルレオーネ家にとってはなんら障害にもなりえないはずであった。ヤン・ウェンリーに期待するところがあるとすれば、それは戦場でラインハルト・フォン・ローエングラムという巨大な障壁を排除することであっただろう。

 むしろ、ジョセフが期待していたものは、フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーのほうだった。ルビンスキーは地球教徒と結託してはいたが、コルレオーネ家にとっていままででもっとも都合が良いフェザーン自治領主だった。しかし、そのルビンスキーも病におかされ、ラインハルト・フォン・ローエングラムに前後して亡くなった。彼の死にぎわに、惑星ハイネセンで大規模な爆発が起きたが、それはコルレオーネ家のハイネセンにおける拠点を消し去ったもので、ルビンスキーはコルレオーネ家にたいする最後の義理をはたしたわけである。

 こうして、他者と共謀してのコルレオーネ家再興は果たすべくもなくなった。再興、と呼ぶには、あまりにも現状保有している富は大きいが、それもやがて尽きるだろう。サイオキシン麻薬からのびる限りなく細いひもをたぐりよせて、最終的に新銀河帝国の手がいつこちらにのびてくるともわからない。まして、帝国には摂政ヒルデガルドや、あの七元帥がいて、そのなかでも最大の脅威となりうるものとしてウルリッヒ・ケスラーがいる。ラインハルト・フォン・ローエングラムは死んだが、その有能で忠実な臣下たちは健在であり。こと“治政”という面において、ヒルデガルドは人類の歴史においてもたいへんな軌跡を残しつつある。新銀河帝国は文字通り、その版図も人口も、歴史上最大の国家なのだ。

「なにもしなければ、ただ滅びる。なにかをすれば、まあ、ほとんどは滅びるだろうが、何厘かの確率で、生き残る。それだけのことだろうよ」

 ジョセフはザザにかつてこのように語ったことがある。そのときの彼の顔は、惑星コルレオーネの微弱な陽の光に照らされ、わずかに上気して見えた。

コルレオーネ家としても、この戦いはその存亡をチップにかえたギャンブルなのである。彼の手のひらの上においては、ザザやミケーレ、サイードにルーカスすらも、一枚のカードにすぎないのだ。

 ならばおれは――とザザは眼前に広がる星海をにらんだ。ジョセフを勝たせるために、わずかでも良いカードであろうとするだけだった。

 だが、ザザとしても疑問はある。ザザが現在率いているのは、二万隻の大軍である。そして、コルレオーネ家のたったひとつの切り札すらも、ジョセフはあずけてくれた。なぜ、おれのような男に、ジョセフはここまでの額をベットできるのか?

 ……ヴィンツェンツォ・ザザは、ひたすらに帝都フェザーンを目指す。途中、哨戒と思しき帝国艦船を見たが、それでもザザは堂々と虚空を切り裂いて進むだけだった。ルーカスの策謀によって、この宙域を管轄するエルネスト・メックリンガーの艦隊は釘付けにされているはずである。したがって、アレクサンデル・ジークフリードとウォルフガング・ミッターマイヤーが率いる帝国中央艦隊との接敵は、一週間ほど先のことになるだろう。

 



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第6話

一九

 

 部下の口から流れ出す不器用にゆらめいた旋律を、アントン・フェルナーは眼を閉じてきいていた。困惑の波は会議場を満たしている。そのなかで、彼はひとつの不動の重石と化していた。軍務省は、いかなるときも理性に支配されていなければならない。本能で軍令をつかさどるなど、あってはならないのだ。

 イゼルローン回廊両端にあらわれた総勢三万の謎の艦隊、同時多発的に行われた旧自由惑星同盟領における帝国軍基地の連絡途絶六七箇所、惑星ヴェスターラントを中心とした市民の暴動……。混乱はあげればきりがない。しかし、それらはある一定の着地点を見ようとしている。皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの、人生における最初の出征。その事態は避けられそうにない。

「“影の城”と“三元帥の城”は、フェザーンを守護したもう要にあらず。」

 まったくもって奇妙な話であるが、この文言は新銀河帝国におけるひとつの不文律の軍規にもひとしかった。フェザーン回廊両端に築かれた砦は、あくまで皇帝が出征するための橋頭堡であって、敵の侵攻にそなえるためのものではないというのである。むろん、護りのための設備は最新鋭のものがそろっている。イゼルローン要塞では解体された、“雷神の槌”に匹敵する要塞砲もとりつけるだけの用意はある。だが、戦いにおけるもっとも重要なものは、艦隊決戦であると、暗黙のうちにさだめられているのだった。

 要塞に頼ることで、思考は硬直化される。かつてイゼルローン要塞に固執した旧銀河帝国と、おなじ末路をたどる必要はない……。それもひとつの思考の硬直化ではないか、とフェルナーは思う。新銀河帝国は、すべて先帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの理想であるべきなのだろうか。たとえば、ラインハルト・フォン・ローエングラム自身。あるいは、パウル・フォン・オーベルシュタイン、オスカー・フォン・ロイエンタール。ヤン・ウェンリーもそのひとりだろうか。フェルナーの疑問に解をあたえるべきであったはずの男たちは、すでにみな死んだ。残された者は、先帝ラインハルトの理想で“あったものと考えられるもの”を慰労なく執行するべき者である。フェルナーの疑問にこたえる可能性のある者は、新銀河帝国にはいないのかもしれない。

 フェルナーを含め、先帝皇妃ヒルデガルド、皇帝アレクサンデル・ジークフリード、五元帥を加えた会議は、事態の把握と早急な対応を協議するために集められたものだった。そこに共和自治政府の首脳も加わっていたのは、イゼルローン回廊旧自由惑星同盟領方面に一万の艦隊が出現し、どうやらそれがバーラト星系を目指していると諒解されたからである。共和自治政府の軍事指導者ユリアン・ミンツは、ヒルデガルドにドロイゼン、ジンツァー両提督の率いる高速艦船部隊を借り受けると、すぐにバーラト星系をめざして出立した。部下の報告では、旧自由惑星同盟領の帝国軍補給基地六七個所が、原因不明の機能不全に陥っており、その旅程は安全でないように思える。

 五元帥のうち、もっともはやくフェザーンを発ったのはアウグスト・ザムエル・ワーレン元帥だった。彼のうけた命は単純明快である。旧自由惑星同盟領の治安回復と、首謀者の特定である。前者は早急に、後者は軍務省・憲兵隊と共同して行うことになっていた。

 次いで首都星から飛び立ったのはエルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥である。混迷と不安とに支配された旧自由惑星同盟領を迅速に移動し、イゼルローン要塞に帰投、同要塞の指揮を執ることが彼の任務だった。フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー上級大将は、静観という消極的で独創性はないが、堅実で理にかなった対応をしている。今後、イゼルローン要塞駐留艦隊がどのような対応をとるかは、アイゼナッハに一任されていた。現状、同艦隊は、新帝国領をはいまわる三万の蚯蚓の後背を突ける立場にある。決定的な状況に追い込むためには、彼の艦隊の戦力が不可欠なのだった。アイゼナッハには、その適切な判断がくだせるだろう、という、全会の一致した見解だった。

「ミュラー元帥は、フェザーン回廊の防衛にあたってくれ」

 会議室には報告と伝令のために多くの人間が出入りしていたが、その静かだが重く苦しい喧騒において、ウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥の声は明朗にひびいていた。フェルナーの知るかぎり、この蜂蜜色の髪をした男は、一度として判断を誤ったことはない。そしてこれからもそれは同じであろうと思う。この男があるからこそ、新帝国軍は乱れなく精強でいられるのだ。

「御意」

 ナイトハルト・ミュラー元帥はそう言ったが、砂色の瞳には困惑の光がつよい。彼はどんなときでも、至高の玉座をその全身で護り続けてきたのだ。その体にまとった鎧は血でまみれているが、けっしてその血が不名誉の刃によって流されたことはない。

「ミッターマイヤー元帥、小官はどうすればいい?」

 不敵な笑みを浮かべながら、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が口を開いた。彼はいまだこの会議での発言がなかったが、自分以外のすべての元帥に指令が届いて初めて身を乗り出した。その思惑は明白だった。

「ビッテンフェルト元帥は、ただちに出撃の用意」

 提督のオレンジ色の髪が逆立つようだった。怒りによってではない。よろこびと覇気によってだ。新帝国軍の破壊衝動は、いまようやくエネルギーを全身にめぐらせたのである。あとは、その牙が敵を喰らいつくすまで、その衝動が熄むことはない。

 皇帝軍の編成は決定した。ヒルデガルド・フォン・ローエングラムは直接の軍指揮の経験がなく、アレクサンデル・ジークフリードもいまは実権をもたない。したがって、艦隊の直接的な指揮権はウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥に帰することになった。分艦隊司令官で主だった者は、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥と、カール・エドワルド・バイエルライン上級大将の二名である。合計四万艦で、いささか不足の感がぬぐえないが、これが限界だろうという判断だった。

「大将以下に元帥なし。」

 というのは、“獅子の泉の七元帥”が正式に任命されて以来、帝国軍でささやかれていたものである。これはミッターマイヤーの発言であるのだが、七元帥には一致した見解であったようだ。たしかに有能な人間は少なくないが、それは七元帥と上級大将にかぎってのことだった。人材の枯渇は顕著であり、今後平和へとむかっていくなかで、戦場における“たたき上げ”による人材の登場ものぞむべくもない。もっとも、人材の枯渇が問題でない世の中になればいいのだが……。しかし、実際にいま、こうしてその問題を正視しなければならぬ事態に陥っている。

 眼の前で次々と行われる重大な決定に対して、フェルナー以上の不動を保っていた人物がいた。動揺の色も見せず、かといって自らの分をわきまえない発言もない。――アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、その蒼氷色の瞳に、会議場で行われるすべてをうつし続けている。この泰然とした態度は、彼の無関心と不明をしめすものであるだろうか?

 ……いくばくもなく、皇帝の出征は決定された。白銀の美姫は、その寵愛をあたえた青年の手をはなれてよりはじめて、敵の血にまみえるためにその翼をはばたかせようとしている。新銀河帝国軍の象徴であり、その矜持。戦艦ブリュンヒルトは、艦隊の総司令部としての機能を、十五年ぶりに果たそうとしているのだった。

 議場は散会された。以降、“獅子の泉”は、新銀河帝国軍全体を統括する大本営がおかれ、この緊急事態にたいして、国務省等と共同して対応をおこなっていくことになる。軍務尚書アントン・フェルナーと国務尚書ユリウス・エルスハイマーが、その責任者であり、皇帝と摂政ヒルデガルドの代理人として、混乱の鎮圧にあたるのだった。

 

「主席元帥、この機をどう見ますか?」

 ミッターマイヤーの出立の直前、フェルナーは彼にそう耳打ちした。周囲では大本営機能の確認のために人員の往来が多く、奇妙な活気にあふれている。

「機、とは?」

 いささかフェルナーの真意をはかりかねたように、ミッターマイヤーが言った。この男は、軍務省の頂点に立つ男のことを、けっして心の底から信用することはすくない。これも、初代軍務尚書の残した遺産だろうか。

「銀河全体を、帝国に帰するための機ですよ」

 グレーの瞳に怒気が満ちた。フェルナーとしても、ミッターマイヤーの怒りをむろん予想していた。そして、彼がフェルナーの提案を心の底から憎むであろうということも、

「あまり出過ぎたことを言われるな、軍務尚書。卿の智は貴重だが、謀の必要なときとも思えん」

「共和自治政府は、さまざまな意味で、新帝国の障害でありましょう。それを、新たな敵に取り払っていただくまでです」

 言外のことであるが、ミッターマイヤーにはすべて諒解しているはずだ。

 不意にあらわれた未知の軍勢は、バーラト星系にも矛を向けている。共和自治政府軍の主力は、朝賀のためにフェザーンにあり、その距離は遠い。主力艦隊が間に合わなければ、未知の軍勢がバーラト星系を占拠することは確定といって良い。そうして敵の手にわたったバーラト星系を、新帝国軍の手によって奪還する。そうすれば、おのずと銀河のすべては新帝国へと併合され、名実ともに、銀河は統一される……。

「卿は歴史に名を残すだろうな、銀河を統一した軍務尚書として」

「もちろん元帥も、陛下もです」

「おれはそのようなかたちで歴史に名を残したくはないし、陛下もそれはおなじだろう。歴史に英名が残ったとしても、人々の記憶に卑怯者と刻まれては意味がないのだぞ」

 きびしい視線の矢に射すくめられながら、フェルナーは屹然と主席元帥を見つめた。わずかな自嘲とともに。これでは、まるで……。

「卿は、あのオーベルシュタインとともにした時間が長すぎたのか。しかし、あの男に私心はなかった。だが卿には、それが見え透いているという気がする。それがいつか身をと滅ぼすも、おれは知らぬ」

 そう言って、ミッターマイヤーはフェルナーの前を立ち去った。フェルナーは小さく一礼をして、同様に背を向けて歩き出す。

 私心。ふん、私心か。

 フェルナーは小さく笑った。オーベルシュタインに私心がなかった、それは新銀河帝国における神話である。彼はいかなるときも、無私の志で皇帝に仕えた、と。はたしてそうだろうか、とフェルナーは思う。たしかに、あの男は自らの栄達をのぞまなかったし、そのためにだれかを利用したこともなかった。彼はみずからが犠牲になることを厭わなかった。だが、なんのためにそうしたのか、フェルナーはついぞわからなかった。思案の果てに、ひとつの結論が、彼の目の前に形をおびたのである。

 パウル・フォン・オーベルシュタインは、銀河帝国へのかぎりない恨みで、ラインハルト・フォン・ローエングラムに仕えた。だが、その行動理由は、銀河帝国の実権がラインハルトにうつった時点で、燃え尽きるものではなかったか。その行動理由は、新王朝の運営に寄与することへ、矛盾なく、かつ際限なく接続するだろうか。となれば、彼はまた新たなエネルギーに身を燃やしていたのではないか。その新たなエネルギー、つまり、ラインハルトを、みずからの信奉するマキャベリズムの体現者、絶対的な支配者として導くために。

 そうであるなら、オーベルシュタインこそ、私心という強大な権力者の、だれよりも忠実なしもべではないのか……。フェルナーは、みずからの見出した地平が、灼熱の砂漠が見せた幻影であることを知っていた。これをだれに話すつもりもないし、このことを刻むための余白を人生録に残す予定もない。ただみずからをあざ笑うための、ひとつの観点にすぎないのだ。

 ……フェルナーの思惑の外で、銀河は回転する。幾千幾億の想い、あるいはたったひとつの野望をのせて。だがひとつの志は、その対極に位置する志を消し去るために、傷つき、血を流す覚悟すらも包有しているのである。

 新銀河帝国暦一八年一月。十数年前の動乱期を生きた者たちには、銀河はふたたび、多量の血を欲しているかのように感じられた。

 

 

二〇

 

 惑星ハイネセンでフェザーンからの超光速通信をうけたのは、軍首脳の留守を預かっていたスーン・スール大佐であった。彼は能力と実績で言えば将官に昇進していても不思議ではないが、朝賀の儀に将官以上の出席が義務付けられている以上、だれかしら留守を託せる有能な人材を残しておく必要があったのだ。彼はユリアンらの要請にこたえ、大佐以上への昇進を見送り、軍首脳の不在時に惑星ハイネセンの防衛における全責任を負うことになった。

 そんな苦肉の策は、杞憂のままで十数年が過ぎていた。しかし――。スーン・スールがバグダッシュから受けた報告は、彼の血液温度をマイナスにまで下げたように思われた。

 イゼルローン回廊より、一万の艦隊がバーラト星系へ向かいつつあり。未確認ながら、敵性艦隊であることうたがいなし――。

 ただちに、ハイネセンポリスの統合作戦本部に留守部隊の主だった者が集められた。スーン・スール自身に、ハムディ・アシュール中佐。十数年前の動乱期を生き抜いた主要な軍人はこの程度しかいなかった。士官学校であらたに佐官になったものも多いが、実戦経験がほとんどないなかでどれほど役に立つのか……。ユリアンらが帰投するまで、最速で二週間ほど、しかし道中の不確定要素をふまえると、三週間は耐え忍ぶ必要があるだろう。

 留守部隊の総兵力は、約五百艦だった。普段は、帝国軍と共同で防衛を担っているのだが、今回はその帝国軍が機能不全に陥っているのだ。つまり、この五百艦で一万艦の敵を相手に持久戦を展開しなければならない。

「しかも、魔術師はいない」

 スーンは、考えるべきでない最大の懸念を、あえて口にした。統合作戦本部の会議室である。いまや、むしろかの魔術師の時代に生きていた軍人のほうがすくない。多くは戦役で没したか、あるいは退役している。スーン自身も、魔術の信奉者であった時間は短い。だが、それでも、彼のもとにあれば負けることはない、と確信を抱くことができたのだ。

「そのようなことよりも、まず深刻なのは第六惑星までの居住民をいかに避難させるかです」

 厳格なまでに整頓された頭脳をもつハムディは、有事においてもきわめて冷静であり、一秒の感傷すらも許してはくれなかった。

「約一〇億の人口か。ハイネセンには受け入れる余地はあるか?」

「むろんありますが、生産能力その他の限界は遠からずあります」

「ならば、まずはハイネセンへ」

 当然の帰結だった。民主制における軍隊の役割など、第一には民衆の保護である。それを実行するためには、一か所に集めておくのと都合がいいのである。

 だが、短い時間のうちに、それほどの人員を移動できる才をもった人間は、もっかのところ留守部隊にはいなかった。

「スーン・スール大佐、面会をもとめるという方が……」

 と、部下が耳打ちをしてきたのは、政府と共同での移動計画の立案時だった。深刻だが打開の光の見えない思案のなかで、あるいはそれは、ひとつの気晴らし程度のものであったかもしれない。

「通してくれ」

 まもなく、会議室にあらわれた男の姿を眼にして、スーンは思わず立ち上がった。

「キャゼルヌ大将……」

 

 街じゅうの立体TVがけたたましく近将来的な敵の来襲をつげたとき、アレックス・キャゼルヌはまさに夕飯の買い出しの最中だった。年はつつがなく明けたが、妻のオルタンスが、ふたりの幼子の食べる量の計算をまちがえていたのだ。ふたりの父はそれほど大食漢でもなかったのだが、じつは母のほうはかなりの量を食べるのかもしれない。その父親は、こと女性にかんしては、まちがいなく美食家でありながら大食漢ではあったのだが。

 ユリアンが“新年のごあいさつ”に出かけている最中、ウェンリーとロミー、それからカリンの三人はキャゼルヌ家で過ごすことになっていた。カリンひとりでめんどうを見切れないほど、ふたりの子どもは手がかかるということはなかったのだが、オルタンスのほうがいたくユリアン家の三人を気に入っているのだ。

「気が早いけど、孫を見ている気持ちね」

 そう言いながら夕飯のクラムチャウダーをつくる姿に、

「そうか、オルタンスばあさん」

 と言って、そのまま敗北必至の戦争に突入したのは、一度ではない。

 キャゼルヌは、立体TVのなかの政府広報が話す姿を見て、不意に奇妙ななつかしさを覚えたのだった。こいつは忙しくなるぞ、と。だが、彼はすでに軍服を脱ぎ、一介のじいさん気取りの隠居にすぎないのだった。

「おい、オルタンス、カリン……」

 荷物を抱えながら走ったが、大きく息が切れるということはなかった。かつての軍隊での経験は、彼に心身的な老いを課すことを許さなかった。時折、運動と称してすくなからず体をきたえていたのである。

 まさか、さっきのニュースを聞いていないはずもあるまい。だが、家を出る直前まで新年のお祝いのために飾り付けられていた彼の家は、すでに様変わりをしていた。

「あら、おかえりなさい」

 オルタンスはキャゼルヌのキャリーバッグ、それも軍人用のキャリーに荷物を詰めている最中だった。壁にかけられた軍服は、かつての階級章と従軍星章がそのままにつけてある。

「おれは退役したはずだぞ」

「ええ、でも行くと思いますわ」

「行くって、どこに?」

 オルタンスは手を止めない。確信に満ちた手つきのまま、

「ユリアンたちがいない今、私が思うに、一番階級が高いのはあなたではなくて?」

 と言いはなったのである。

「もう一度言うが、おれは……」

「それに、一〇億もの人を、きっちりと避難させられる手腕をもつ人なんて、あなたくらいでしょう?」

 私は知っているんですから、と最後のひとことをキャリーに詰めると、オルタンスは軍服を差し出してきた。

「……カリンは?」

 ひとつだけ息をついてそれを受け取ると、キャゼルヌは最後の懸念を口にした。

「うちに避難する準備をしているわ。軍に戻ってもいまは足手まといだろうからって」

 こうしてキャゼルヌは家を追い出された。玄関の外には、少しばかり古い軍服に身をつつんだ中年の男と、大きなキャリーだけが残されている。男は、通りかかった無人タクシーを呼び寄せると、そのまま“統合作戦本部へ”とだけ告げた。

 

「それで、おれがこのまま家に回れ右をして帰るか、貴官のとなりに座るかは、スーン・スール大佐の一存なわけだが、どうする?」

 スーン・スールとしては、この危機に際してキャゼルヌの力が借りられるなら、これ以上ないことであるのだが、問題はハムディ・アシュールのほうだった。軍規に厳格な彼であるが、このイレギュラーを果たして許すかどうか……。

 スーンがハムディのデスクに顔を向けると、そこに持ち主の姿はなかった。

「願ってもない、よろしくお願いいたします、キャゼルヌ大将」

 ハムディは、スーンの決断よりもはやく、キャゼルヌにむかって歩き出し、一礼をしていた。そのあとでこちらを見やり、“判断が遅いぞ”と言わんばかりの目線をむけてきた。

 スーンとしては、これで断る理由がなくなったわけである。

「こちらこそ、キャゼルヌ大将がいてくれれば、と思っておりました」

 敬礼をする。マル=アデッタの時のようではないか。ひとつ違うのは、自分は三〇才をいくらか越えているということであった。

「参ったなあ、受け入れられるのか」

 キャゼルヌは右手で頭をかくと、ハムディに促され、さきほどまで彼の座っていた椅子に腰をおろした。移動計画の立案責任者のデスクである。慣れた手つきでコンピュータを操ると、抽斗から大量の書類を取り出し、眼を通し始めた。

「スーン・スール大佐、おれは三千万を食わせられなかった男だぞ」

 やがて、キャゼルヌがおもむろに口を開いた。

「しかし、イゼルローンの人々は、飢えるということがありませんでした」

「そうさな、考えてみるに、おれの限界はそのあたりにあるのだろう」

 キャゼルヌの書類をめくる手が早くなる。彼の脳内では、早くも物資と人員とが、三次元的に動き始めているのだろう。アムリッツァでの彼の苦悩を、スーンは知らない。だが、敗戦の責任を感じない彼でもないだろう。きっと、その悪夢は、たびたび彼を安眠の淵から崖底へと突き落としていたはずだ。

「だが、一〇億のなかには、おれの家族がいるんだ。三千万のなかにはいなかった、おれのたいせつな家族がな」

 

 ハムディ・アシュール中佐は、キャゼルヌに自分のデスクを明け渡したのち、ハイネセンポリス郊外へと地上車を走らせていた。街ではすでに避難計画の初期段階が進んでいる。ハイネセンポリス市内は、いわゆる“ルビンスキーの火祭り”以来、帝国軍による避難計画の抜本的な見直しがなされ、共和自治政府はその細部を修正するだけでよかった。むろん、その修正を担当したのはアレックス・キャゼルヌである。あざやかに整理されていく市内を見ながら、ハムディはうすら寒い思いにとらわれていた。自分には、ここまで鮮やかな整理を行うことができるだろうか。やはり、キャゼルヌは稀有な人材であるのだった。

 ハムディの目的は、交通整理や軍隊の編成などではない。前者は警察が行っているし、軍隊の責任はいまやスーン・スール大佐にある。ハムディ自身は、次の令がくだるまでは、事実上無役であった。だからこそ、いまのうちにやっておくことがある。

 たどり着いたのは、一軒の大きくもなく、小さくもない邸宅だった。ささやかな帝国様式のもとに建築されているのが、所有者の矜持をうかがわせる。

 所有者の名は、ベルンハルト・フォン・シュナイダーと言った。彼は、シヴァ星域会戦で敬愛する上官たるウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツの最期を看取ったのち、メルカッツの家族を見舞うために惑星オーディンへ帰っていた。だが、まもなく専制政治よりも共和制の水の味のほうが、みずからの体に合っていたことを知ったらしい。帝国と共和自治政府における市民の移動は自由であったから、彼は市民権を得ると、恩給で土地と邸宅を購入し、このハイネセンポリス郊外に腰を落ち着けたのである。

 チャイムを鳴らすと、すぐにくすんだ金髪の男が出てきた。かつて、イゼルローンに亡命してきたときは、甘いハンサムと女性兵にうわさされていたものだった。

 ハムディの姿を見て、シュナイダーは帝国式の敬礼をした。

「シュナイダーどの。突然の訪問をおゆるしください」

「これは、ハムディ中佐。なにかご用でしょうか?」

 シュナイダーは家のなかに招き入れるようなしぐさをしたが、ハムディはそれを固辞した。くつろいでいる時間などないのだ。彼の目的は、シュナイダーを地上車の空席に乗せて、ただちに統合作戦本部へ連れてくることだったからである。

「ニュースはご覧になりましたか?」

「ええ。たいへんなことになりましたな」

「単刀直入に申し上げます。統合作戦本部へお越しください。貴官には、少将待遇で一軍を率いていただく」

「少将⁉」

 わずかに取り乱したシュナイダーであったが、咳ばらいをひとつすると、いつもの平静さを顔にたたえた。

「まず、順序だってお伺いしたいのですが」

「地上車のなかでお話しします。貴官には、来るか、来ざるかのお答えのみ、この場でいただきたい」

「常に理屈のうえに立たれてきた貴官らしくありませんな」

 シュナイダーが柔和にほほえんだ。旧メルカッツ艦隊における彼らのはじめての邂逅は、けっしてほほ笑ましいものではなかったが、おたがいの為人を知るためにはじゅうぶんだった。親友というほどではないが、すくなくとも彼らは僚友だった。それも、双方に相当の信頼のおくことのできる友である。

「その私が、理屈抜きであたらねばならぬと考えたのです。市民のために、ぜひ、お願いしたい」

 ハムディは深く一礼した。……もっとも、当のシュナイダーのなかでは、もう決まっていた。旧帝国の軍服は、まだクローゼットの奥に、定期的にクリーニングをかけたままで眠っている。あるいは、そろそろ共和自治政府の軍服の貸与を受けてもいいだろうか。

「たしかに、私には、共和自治政府にたいして多大な恩があります。メルカッツ提督だけでなく、私のような者にも、ヤン・ウェンリー提督は寛大な心で迎えてくださった。私の忠誠心が、ヤン提督に向いていないにもかかわらず。その提督が残したものをお守りするのが、その恩に報いるというものでしょうか」

 メルカッツ提督すらが苦笑した理屈の信奉者のまえで、シュナイダーは結論のわかりきっている理屈をこねてみせた。

「承知いたしました。お受けいたします。ただし、私の待遇は、貴官と同じ中佐で」

 シュナイダーはふたたび敬礼をした。ただし今度は、共和自治政府軍の様式で。

 

 

二一

 

 新帝国軍総旗艦ブリュンヒルトは、四万艦の大軍のなかで、なおいっそうの輝きをもって宇宙を飛翔していた。純白の女王のその姿は、銀河を縦横にかけまわり、もっとも美しく輝く恒星と化していた一五年前といささかもかわりがないように見える。かわったのは、彼女の主であるからだ。

 かつて、皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムがみずからの玉座としていた指揮シートには、その子アレクサンデル・ジークフリードが座し、となりにはあらたに先帝皇妃たるヒルデガルドのシートが置かれている。ふたりのそばにひかえるのは、若き皇帝の代理人であるウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥であった。

 ブリュンヒルトの右翼にはフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥ひきいる黒色槍騎兵艦隊一万、左翼にはカール・エドワルド・バイエルライン上級大将の一万艦が配されている。この一万という数字は、ふたりが動員できる最大兵力ではない。首都星フェザーンの護りは“鉄壁ミュラー”がいるのだから、その防衛のために兵力を割く必要がないと考えられるため、ふたりが最大兵力を動員できないのには理由があった。

 その理由は、どうやら敵性艦隊は、航行不能宙域内を拠点にしているであろうと考えられるからである。霞のなかから不意に障害物があらわれるように、敵軍は神出鬼没の用兵をするかもしれない。つまり、いつ軍隊の側面・後方をうかがわれるかが不明なのである。その対応として、航行不能宙域をつねに監視するために、ビッテンフェルトとバイエルラインは、予備兵力と呼ぶには最前線から遠すぎる位置に、艦隊を設置したのである。兵力分散の愚を糾弾されるかもしれないが、それ以上に危険なことは、あらゆる“想定外”から、皇帝の命を守ることであるのだった。

 つまり、“帝国軍中央艦隊四万”とは、ミッターマイヤーが最前線に投入できる最大兵力を意味している。それでも斥候から確認できている敵性艦隊の二倍の数である。だが、ミッターマイヤーや、ふたりの艦隊司令官には、別な懸念があった。

「ひよっこが多すぎる」

 ビッテンフェルトに言わせればこのとおりである。軍隊がもっとも精強であった時期というのは、すなわち、戦争がもっとも多発し、それらを経験した有能な指揮官や熟練兵が数多く存在している時期なのだ。新帝国軍にとってそれは、いまから二〇年ちかく前、新帝国暦一年から五年ころまでを指していた。銀河の動乱期において勝利の花道を突き進み、その凱旋の結果得られた美酒によって、新帝国軍は末端の兵にいたるまで精強でありつづけた。

 だが、摂政ヒルデガルドによる治世が、歴史に類をみないほどの安定をもたらした新帝国暦五年以降、軍隊の存在意義は治安維持を中心としたものになり、かつてのような“立身出世をはたしたければ軍服を着ろ”という風潮は薄れつつあった。事実、統計的にも艦隊の出動回数は毎年過去最低を記録したし、将官級の軍人は固定化され、有能な人物が未曽有の出世をはたすこともなくなった。もし、ミューゼルの姓をいまわしく名乗っていたころのラインハルトが、五年以降の新帝国軍に入ったとしても、ともすれば佐官にすらおさまっていないかもしれないのである。

 平和な時代に、巨大すぎる軍隊は不要である。また、ラインハルト時代は、旧銀河帝国に接収した貴族財産や、フェザーン自治領・自由惑星同盟の併合による税基盤の拡大――つまり戦争による収入――によって財政が保たれていたが、いまやどちらも新たな財源にはなりえない。この二点より、新帝国の財政の安定化をはかるため、まっさきに見直されたのが軍隊だったのである。

 新帝国は、新帝国暦五年以降、段階的な軍備縮小をはかり、ラインハルト時代の軍事偏重主義を是正したのである。軍人からの反発は恐れていたほどではなく、逆に軍人恩給や退役後の生活の保障など、歓迎されることも数多かった。

 そのような大胆な血の入れ替えによって、現在の新帝国軍は、訓練は豊富に積んだが従軍経験が皆無な兵――すなわち、弱兵ではないが実戦でうまく動けるかが不明な兵が多数を占めるようになったのである。もしミッターマイヤーやビッテンフェルト、バイエルラインらの指揮が過不足ないものであったとしても、その効果が最大化されるかどうかは、三人にとって最も大きな懸念だった。

 いまのところ、航行中は、どうやらその懸念は杞憂に終わっている。だが、ミッターマイヤーとしては、“神速の用兵によって敵の先の先を占め、決定的な一撃をたたきこむ”という彼の神髄ともいうべき才はできずにいる。彼は先を急ぎたい理由もあったが、脱落者が多数出るかもしれない賭けよりも、四万を一糸の乱れもなく統率するという安定を採ったのである。むろん、もっとも得意とするところでなくとも、考えうる最大の結果をもたらしているのを見るに、ミッターマイヤーの能力の高さをはかるべきであろう。

 しかし、実戦というものは、訓練時における予測をはるかにこえる結果をもたらすものである。人は、それを理性では解していても、本能を追随させるためにはじっさいにそれを経験するしかない。実戦におけるさまざまな恐怖――死ぬ恐怖と殺す恐怖――は、人のあらゆる閾値を凌駕して心身をむしばむものであるのだ。それらを乗り越えてようやく、人が兵になるのである。

 斥候部隊からの報告が入った。敵性艦隊は、進軍の速度をゆるめ、陣形を組み始めたという。戦場の設定に関しては、機先をとられたかたちになる。

「バーデン星系か……」

 ミッターマイヤーははるか前方の星海をにらんだ。敵性艦隊の影は、まだ見えない。

 

 バーデン星系は、フェザーン回廊とイゼルローン回廊とを、旧銀河帝国領経由で結んだ曲線の、ほぼ中間地点に位置する星系である。九の惑星をしたがえる恒星バーデンは、ほぼ標準的な星系をつくる。しかし、その内実にかんしては、標準の域を大きく逸脱しているだろう。なぜなら、これほどの星系でありながら、居住民が通常考えられないほど少ないからである。その原因は、この星系の外縁部にあった。

 バーデン星系外縁部における最大の特徴は、アステロイドベルトにおける小惑星の数と密度である。それらはたえず衝突と分離、集合と合体を繰り返しており、宇宙戦艦の通行がひじょうにきびしくなるほどであった。ゆえに、このアステロイドベルトの“間隙”をうまく縫わなければ、バーデン星系における九つの惑星へ人が入っていくことは不可能なのである。まして、その間隙はわずかなものであるから、大規模な艦隊運動など可能であるはずがない。

 さらに、天頂上から銀河を見下ろし、東にバーデン星系を置き、西に航行不能宙域を置いたとき、ふたつの“壁”のあいだに生じる空間は極小なものになる。

「大軍の利のひとつが消えた」

 総旗艦ブリュンヒルトにおいて行われた作戦会議において、ミッターマイヤーは断じた。ミッターマイヤーが、本来であれば先を急ぎたかった理由がこれである。広大な宙域であれば、大軍において寡兵を包囲し、“衆寡敵せず”といった状況をつくりだすことができただろう。しかし、敵性艦隊に機先を制されて設定された戦場は、隘路といっても良い宙域で、縦横に艦隊運動はできず、単純な押し合いになるかもしれないのだった。ただしそれは、敵にとっても奇策を用いづらいということも意味する。

「しかし、大軍のもう一つの利は生かすことがかないましょう」

 もはや作戦立案においてミッターマイヤーに比肩する立場となったバイエルラインが口を開いた。数の押し合いであれば、数でまさるこちらが有利なのである。

「狼に率いられたとて、子犬の群れであれば、単純な撃ちあいもどう転ぶかわからんぞ」

 ビッテンフェルトが口にしたのは、兵の練度にたいする懸念である。そもそも、大軍の利という発想も、兵がうまく動くことを前提にしたものだ。寡兵が大軍に勝るというのは戦争における非常識だが、彼らはそれを幾度も眼にしているし、じっさいに苦しめられてきた。その多彩な魔術によって彼らを苦しめた青年はもうこの宇宙には存在しないが、次の魔術師が出てこない保証などどこにもないのである。

「この戦いでは、ビッテンフェルト元帥とバイエルライン上級大将が大きな鍵を握るだろう」

 ミッターマイヤーは短く言ったが、それは遊撃艦隊としての役割が長かったふたつの艦隊が、宇宙海賊などの小さい実戦を何度も経験していることに根差している。わずかでも実戦経験があることは、この際は何物にも勝るのである。

 当然だ、というふうにビッテンフェルトが頷く。黒色槍騎兵艦隊は、兵数における熟練兵の割合において、全艦隊でもっとも高い値を残している。これはひとつにはビッテンフェルトの方針があるが、ネガティブなものには、黒色槍騎兵艦隊は血の気が多すぎて、退役生活をどれほど穏健に送れるかについての不安があったという、笑い話にもならない理由が存在していた。強硬派であることの多かったビッテンフェルトという提督の人間が、かなりの度合いで浸透しているというのは、指揮官としては本懐かもしれないが、平和な統治をのぞむ人間たちにとっては、にがにがしい笑いの対象であり続けた。

 ただし、今回にかぎってはビッテンフェルトに感謝しなければならないだろう。恐怖の波濤はあらゆるものを飲み込んでいくが、黒色槍騎兵艦隊はそのなかでも不動石としてあり続けてくれるにちがいなかった。それが、恐怖を前にした兵にとってどれほどありがたいことであるか……。

 ミッターマイヤーは頭を振った。接敵までは丸一日以上ある。最悪と呼ぶべき状況が、予測の庇護下にあるうちに、考えられるものはすべて考えておきたかった。

「ミッターマイヤー元帥。卿の子は、やはり優秀だな」

 散会となった議場で、ビッテンフェルトが一杯のコーヒーとともに近づいてきた。

 フェリックスは、昨年のうちにビッテンフェルト艦隊へ配属が決定していた。これはフェリックス本人のつよい希望で、ビッテンフェルトもそれを歓迎したのであった。今回の遠征は、フェリックスにとっても、はやすぎる初陣なのである。

「やつこそ、まだまだひよっこさ。ちょっとばかり鼻が伸びているだろうから、はやめにたたきつぶしておいてくれ」

 フェリックスの名は、ミッターマイヤーの心を波立たせる。黒色槍騎兵艦隊にいるという事実もそれを際立たせていた。死にもっとも近いのである。それは、ともすればミッターマイヤーの指揮そのものに影響しそうだった。

「まかせておけ。決して特別あつかいなどせんよ」

 フェリックスをもっとも受け入れたがっていたのは、バイエルラインであった。しかし、旧ミッターマイヤー艦隊の大部分を引き継いでいるバイエルライン艦隊では、フェリックスになんらかの取り計らいがあるかもしれないのだ。バイエルラインを疑うわけではないが、兵ひとりひとりの人間性をあまねく把握するのは、いくらミッターマイヤーでも不可能である。

「おれの子だけではないさ、ビッテンフェルト。兵ひとりひとりは、必ずだれかの子なのだからな」

「ぶざまな指揮などできんというわけか、主席元帥」

 狼の牙は研いでおけよ、と言い残して、ビッテンフェルトは議場をあとにした。

 かつてのような指揮ができるだろうか、とミッターマイヤーは不安になる。たとえば、同盟の宿将であった、アレクサンドル・ビュコックという老人。ヤン・ウェンリーのもとへ亡命し、最後までこちらを苦しめたウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ。彼らは、間断のない戦争によって、人生の現在地がつねに能力的な最盛期であった。だが、自分はどうか。すくなくとも十四年、人狼の牙が血にまみれることはなかった。戦いにおける勘のようなものは、おとろえていなかろうはずはない。

 あるいは――自分は孤独であるのかもしれない。武人という生き物の悲しさである。戦いのなかで生きる喜びを、久しく忘れてしまったがために、みずからにたいして耐えがたい不安をおぼえるのだ。その不安は、道を知らぬ場所で、友とはぐれてしまった孤独に等しい。みずからのもっとも端的な在り方であった、武人というものの本懐を、おれはどこかに棄ててしまった。平和という未知の場において。これがあの男であったなら――ロイエンタールであったなら、耐えることなどできはしないだろう。猛禽は籠のなかではばたくことはできないのである。

 おまえは楽でいいな、ロイエンタール。そう呟いた先に、彼の知る男はだれもいなかった。

 



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第7話

二二

 

 自分がなにをしているのか、ウィル・メイヤーにはわからなかった。ルーカス・クリーガーと名乗った男はここにはいない。いるのは、サイード・サムエル・サンチェスという髭面の男と、サルバトーレという青年だけである。そして、自分は拘束されている。

 ルーカスには、顔面を殴られて気絶させられたが、すぐに和解してしまった。眼が覚めたとき、ウィルは病院のベッドに寝かされており、それはどうやらルーカスに運び込まれたらしい。すぐに退院することはできて、その足でルーカスと酒場にむかった。いくら飲んでもおごりだというのにつられたのである。

 ルーカスへの警戒は、すぐに解けた。殴ったことは素直に詫び、ヤン・ウェンリーへの崇拝にちかいウィルの考えに共鳴したのだという。それからルーカスはひとしきり新帝国への不満を述べ、

「おれは革命を考えている」

 とウィルに耳打ちした。

「革命⁉」

「大きな声を出すな。真の民主制は、圧制者の打倒によってかなえられる。違うか?」

 ウィルは何杯めかのワインをあおった。すでにボトルは二本が空になっている。

「だが……」

 ルーカスはウィルの言葉を手で制した。

「何も言わずに聞け。民主政治を打ち立てたくば、民衆は君主の首をみずからの意志で落とさなければならない。原始的な民主制というのは、そうやって打ち立てられたのさ。いまの共和自治政府を見てみろよ。ヤン・ウェンリーの意志を継ぐなどと言ってはいるが、ただ新帝国の保護下で民主制ごっこをやっているだけじゃないか。真の民主制の守護者でありたいなら、帝国にたいして闘いを挑むべきではないのか?」

 ウィルは、心のうちでぼんやりとしていたものが、ルーカスの言葉によって輪郭が帯びてくるのを感じていた。ヤン・ウェンリーは民主制の守護者であろうとした。だから、ラインハルト・フォン・ローエングラムから仕官の要請をうけたときも断ったのである。

 ――ウィルの考えは明確に間違っている。ヤン・ウェンリーは、民主制の守護者という称号にいっさいのこだわりをもたなかった。しかし、ヤンがただの一冊も著作を残さなかったのもまた事実である。彼が真に何を思い、考え、行動していたか。彼の本質は、彼の至近距離にいた一部の人間にしか知りえないのである。あるいは、一部の人間たちでさえも、彼の深淵の奥になにがあったのかを知らなかったかもしれない。したがって、ウィルのこの発想は、ヤン・ウェンリーを信奉する民衆にとって、無垢にゆがんだレンズが映し出す虚像だった。

「おれは新帝国を打倒したい。そして、世界中にあまねく民主制を広め、ヤン・ウェンリーの遺志を継ぎたい。おまえには、いっしょに闘ってほしいのさ」

 さらにワインを飲む。ウィルの肚はすでに決まっていた。

「それで、民主制を敷いたら、おまえはどうするんだ?」

 ルーカスはウィルのグラスにワインを注いだ。深紅の液体は、彼らの沸き立つ血の象徴であるかに思われた。

「隠居する。歴史に名前を残そうなんて考えないよ」

 ふたりは乾杯をした。その姿は同じこころざしを抱いていたように見える。ただし、ひとりは故人の虚影を見、ひとりはその映写主だった。

 ……いまになってようやくウィルはそれを理解した。自分はただ利用されたのだ。旧自由惑星同盟領における詳細な星図はウィルが作成をしたのである。彼の知るかぎりの新帝国軍の補給基地、バーラト星系への航路、なにより共和自治政府軍、新帝国軍の戦力。ありとあらゆる情報を、ウィルは話した。それもすべては革命のためだと思っていた。ルーカスは、あたかも自分たちが行っていることが、民衆の自由意思による革命だと見せかけていた。だが、じっさいにウィルの眼の前にあらわれたのは、マフィアを背後に抱えた私兵集団だったのである。そしてその集団は、ウィルの故郷であるバーラト星系を支配するつもりでいる。

 おれは、故郷の裏ぎり者になるなど、けっして望まなかったはずだ。おれがなりなたかったのは、尊敬するただひとり人物の、数多いたはずの後継者である。

「われわれはバーラト星系を楽に制圧できそうだ。貴官のおかげでな」

 サルバトーレが威丈高に言った。その顔面にむかって、ウィルは唾を吐きつけた。

「貴官などと軽々しく口にするな。この薄汚い犬ども!」

 唾はむなしく放物線を描き、サルバトーレの足元におちた。

「では、犬に利用されたおまえは何だ。すくなくとも、人のかたちはしているな」

「きさま……」

「貴官には特等席を用意したのだ。故郷の惑星が、ふたたび憎悪すべき者の手に渡るのを眺めているためのな。ポップコーンが所望なら、あとで部下に持たせようか」

 言葉と高笑いの残響のみを残し、サルバトーレは部屋を出た。もうひとり、サイード・サムエル・サンチェスに関しては、ウィルを見下ろそうともしなかった。これは敬意などではけっしてない。存在を知覚するまでもないというのか。

 そのサイードも、すぐに部屋を出た。部屋は明かりがついているが、それすらも暗いように、ウィルには感じられた。

 拘束されながらも、なんとか立ちあがろうとして、床に倒れこむ。奥歯がきしむ音がした。ぶざまだ、と思う。惨めでもあるだろう。英雄にあこがれた。エル・ファシルの英雄、アスターテの英雄。ひとりの青年との記憶を祖母づてに教えられ、ほぼ明白な天命のごとくに、その英雄にあこがれた。

 これが、そのなれの果てか。憧れによって、祖国を亡ぼすのか。

 ウィルの自嘲は、闇の中で反響と輪唱を繰り返し、そのたびに、ウィルを光なき淵の底へと落としていくのだった。

 

 バーラト星系。かつて自由惑星同盟の都として、宇宙の半分を統べていたその星系を前にして、サイード・サムエル・サンチェスは何の感慨もわかなかった。国家など、あらゆる光が混ざった結果、白く見えているだけなのだということを、彼は知っていたのだ。彼はけっして危険な思想をもち、それを実現するという目標を掲げていたわけではない。彼にとっての崇高な目標とは、眼の前にある現金のみであった。

 サイードは生まれながらにして宇宙海賊だった。民間の商船を拿捕し、軍からは逃げる。その繰り返しで生計を立てていた複数の集団を統括していた男を父に持っていたのである。本当の名前はあったはずなのだが、サイードは知らない。いや、知る前に父が死んだのである。宇宙海賊の幹部による謀殺だろう、と今は思うのだが、それについて深い考察を巡らせたことはない。軍隊が海賊船に乗り込んできた瞬間から、サイードはこれから先の十年を孤児として暮らすことが決定されたのだった。

 サイードが暮らした孤児院は、自由惑星同盟の辺境の辺境にあり、食糧も乏しければ、人の心も貧しかった。孤児院でもっとも重視されるものは盗みの才のみであり、忌避されたものは慈悲と寛容だった。一二歳になるまでに、サイードは千を超える盗みを繰り返した。その点で言えば、彼は辺境の王であっただろう。

 サイードという名は、孤児院の設立者の名前をとっている。今は亡きその崇高な使命を掲げていたであろうその男は、数十年の時をこえて、貧しい少年に名を引き継いだのである。……残るサムエルとサンチェスという名は、孤児院の近所にあった公園とパン屋の名前からとったのだが、それに気づく者はいなかった。

 転機が訪れたのは、その孤児院が、国家に隠れて、ひそかにコルレオーネ家によって買収されたときである。サイードは、子供ながらにして宇宙という特異的な環境への高い適性を示し、当時のコルレオーネ家当主に重用された。といっても、宇宙船の下働きていどではあったが、それでもサイードは働けば働くだけ金がたまるということに気付いたのである。

 そこから彼の出世は始まった。彼は名前すら満足に書けないようなありさまだったが、コルレオーネ家の当主たちはその才能を見落とさなかった。コルレオーネ家軍に決定的に不足していた、数千、数万の艦隊をあやつる将としての才である。

 事実、コルレオーネ家の“実戦”ともいうべき海賊行為では、サイードは目覚ましい戦果をあげた。彼の用兵は、弱点を徹底して突くという、戦のもっとも基本にして肝要なものを重視するという点に特徴があった。

 サルバトーレは、ジョセフ・コルレオーネの代になって、サイードにつけられた従者兼副官である。小悪党ではあるが、それ以上に頭の回転は速く、なによりも文字の読み書きができた。サイードは本来副官など必要にしない男であったが、サルバトーレとは気が合うらしく、自分のそばから離すことはあまりない。

「バーラト星系をうばい、“反帝国・民主主義擁護”の旗を掲げる」

 と、ある会議でルーカス・クリーガーは言った。そうして民衆を糾合して、あらたな革命の火種を作るのである。ルーカスの遠大な陰謀の骨子はここにあった。地球教団のようなテロリストによる暴力革命ではなく、太古において民主主義をなしとげた国家が用いた市民革命。いまの共和自治政府は、表面的には民衆の不満は小さいものであるが、それは市民が不満を自覚していないだけである。その不満を気付かせることが、ルーカスの陰謀の第一歩なのだ。

 そのために標的にされたのが、バーラト星系である。共和自治政府軍は、数が少なく、弱兵ばかりである。まして、ヤン・ウェンリーはいない。その二点だけでも、サイードには全宇宙のなかで、バーラト星系こそが新銀河帝国最大の弱点であるように思われた。

 ただ一点、気になる点があるとすれば……。ルーカスという男が、なにかの嘘をついているように思えることだ。この男は何を考えているのか?

 しかし、それを考えることはサイードの領分にはない。彼はただ、コルレオーネ家から金がもらえればそれでいいのだった。それ以外に目標もなく、かなえるべき理念も、擁護すべきモラルもない。眼の前に金床があれば掘り、紙幣が落ちてればポケットに突っ込むだけのことである。

 ウィル・メイヤーという善良だがあわれな青年との面会から、五時間が経った。バーラト星系の最外縁に位置する惑星が視認できる距離にあって、サイードは五十年近い人生で、ほとんどはじめて自分の眼を疑った。だが、それもすぐに確信に変わり、わずかな感嘆を経て、失望となり、彼の表情には冷笑となって表出した。

「ほう、打って出るか」

 彼が外縁惑星越しに目視したのは、五百近い弱弱しい光点の群れだった。

 

 惑星ハイネセンに籠城することはありえなかった。“アルテミスの首飾り”は、ヤン・ウェンリーに弱点をあばかれ、破壊されて以降復元されていないし、それに準ずる軍事的ハードウェアも設置されていたわけではない。城壁も砲門もそなえない楼閣に立てこもることは考えられず、まして空城など論外である。

 ユリアン・ミンツが共和自治政府軍設立を発表した際に掲げた理念の最大たるものは、“不服従”であった。これは、惑星ハイネセンおよびバーラト星系を、二度と暴力的に服従させられるようなことがあってはならないということだった。その危機からバーラト星系とそこに住む市民たちを遠ざけるために、軍隊は出動する。

 したがって、戦闘はほとんどすべて宇宙空間で行われなければならない。むろん、惑星に立てこもったところで、惑星攻略などほとんど公式化されているものだから、相手に持久戦を強いることはできるはずもないのである。

 共和自治政府軍の行動には、大きな制約が付きまとっていた。第一に、軍隊の規模である。これにかんしては、

「老朽艦、破棄予定艦および民間に払い下げられた艦船を急造で再武装する」

 ことの承諾を政府になんとか取り付け、八〇〇艦ほどの戦力を確保するのには成功している。それでも、確認できる敵性艦隊一万にたいして、一〇分の一にも満たない数である。寡兵をもって大軍を破るのは用兵の華であるが、その華は屍血という泥濘にのみ咲くのであった。多くの用兵家がその華を咲かせることを夢に見、そのたびにあらたな屍血で歴史を塗布する。だからこそ、その華は美しく、かくも蠱惑的な薫りを放つのだ。

 スーン・スールはその華の美しさと薫りに惑わされることのない稀有な人材であったが、かといって、この危機的状況において、なんらかの打開策を見いだせる男ではなかった。彼は有能ではあるが、けっして天才ではない。副官に近い地位でのみ、自分の能力がもっとも引き出されるであろうことは自覚していたし、人望というものがないわけでもないが、ヤン・ウェンリーの魔術の威光への崇拝にくらべたら、絶望下において部下を勇気づける根拠に乏しいということも理解していた。

 当然のごとく、彼は自ら迷宮へと迷い込んだ。部下をむやみに死なせ、ハイネセンも占領される。住民の整理はなんとか成立しそうだが、ハイネセンが敵の支配下におかれたとき、それはむしろマイナスに作用するのではないか?

「あわてなさんな、スーン・スール大佐」

 昏く酸素も薄い迷宮にひびきわたったのは、自分より四つも上の階級にいる男の声だった。

「キャゼルヌ大将……」

「やることがかぎられているのなら、それをこなすしかないんだ」

「それは、わかっているのです」

 頭では、と言いかけて、スーンはあたりを見回した。幸い、部下は出ていて、会議室にはキャゼルヌとスーンのふたりしかいなかった。このような状況下で、上官がうろたえていては部下に不安を抱かせる。彼は、そのようなことはけっしてすまいと心に決めていたのである。指揮官はつねに泰然として、千の迷いがあったとしても、導き出す一は揺れ動くものであってはならない。

「なにをやるかもわかっていない、か」

 キャゼルヌが紙コップのコーヒーをひとくちのみ、ちょっと顔をしかめた。妻の淹れるものに比べたら、味も香りも劣るのだろう。

「はい」

 取り繕うということを、スーンはしなかった。虚栄によって理想的な真実を導くことはできない。虚栄があばくのは、眼をそむけたくなる現実で、それはたいてい、取り返しがつかなくなってから発生することだ。

「スーン・スール大佐がわからないなら、ほかの人物を想定するしかない」

「ほかの人物?」

「おれだったら、ヤン・ウェンリーならどうするかを考える」

 ヤン・ウェンリーなら! スーンはさらに迷宮の奥へ足を踏み込んでしまった。何度、そのことを夢想したことだろう。もし自分がヤン・ウェンリーだったら。あるいは、ヤン・ウェンリーの霊が突如として憑依して、脳裡に光条がはしるように、次々と天才的な魔術を生み出すことができたなら……。

「小官には、できません。ヤン・ウェンリーのように奇策をあみだすなど……」

「おまえは、ちょっと勘違いしているな。ヤンのやつは、いつも正攻法で戦うことを考えている男だったんだぞ」

「正攻法?」

「補給を十全になし、部下に上官の命令を過たず伝え、敵の六倍の兵力をもってこれにあたる。それがいつもできなかったから、やつは奇計にたよるほかなかったのさ」

 ぬるくなったコーヒーを飲む。不思議と甘い気がした。

「まずは、手札を確認しよう。おれたちには何ができて、そのうち何が実現不可能なのか。そうやって札をすてていく。それで残った札のことを、切り札というんだ」

 キャゼルヌが笑う。呑気にみえるが、これがかつて“不正規艦隊”と呼ばれた男たちのまとう空気なのだ。スーンは、むりにでも笑おうとした。伊達と酔狂。しばらく忘れていたが、たしか、そんな言葉があった。そんなものに、人の命や、自分の命をのせていたのだ。

「おれのアイデアを聞いてもらえるかな、スーン・スール大佐」

 キャゼルヌがおもむろに話し始める。はじめのうち、スーンはそれを眼を閉じて聞いていたが、やがて迷宮に光が差すような思いがして、まぶしさに驚かぬよう、ゆっくりと眼をひらいた。

 

 

二三

 

 ハイネセン宇宙港には、出動する六万の兵士たちと、その家族たちが見送りのために集まっていた。みな悲愴な顔をうかべ、平和な時代に一輪だけ花開いてしまった戦争の種子にたいし、言外の非難を示しているように見えた。しかも、敵の戦力は一万艦で、こちらは八〇〇艦の寄せ集めだという。いま手を振っている自分の恋人や子どもたちと、今生の別れになるという確率は、相当なものになるだろう。そして、いずれは自分たちも――。

 群衆の一隅に、アレックス・キャゼルヌとその妻オルタンス、長女のシャルロット・フィリスがいた。妹のほうは、避難先がハイネセンから遠く、そこでボランティアとしてはたらいている。父が統帥作戦本部に臨時で務めていることは知っているが、出征の事実までは知らない。直前までキャゼルヌがそれを伝えなかったからである。これは、心配をかけたくなかったという、キャゼルヌなりの不器用な配慮なのだが、当のオルタンスは、

「そ、じゃあ、生きて帰ってらっしゃい」

 とそっけなく答えただけだった。それで終わりなのか、とキャゼルヌは肩すかしをくらった気分だったが、結局は宇宙港にまでついてきたのである。

 出征の間際に、妻に見送られるというのは、一度ではなかった。オルタンスはかならず、キャゼルヌが宇宙船に乗り込むまでを見送り、夫を乗せた船が大気圏をこえていくまで、ずっと見守っていたものである。妻のほうからそう言ったことはないが、知り合いからきいた話だった。妻のこの行動について、キャゼルヌは一度として食事のテーブルに持ち出したり、口論における武器として使用したりしたことはなかった。

「どうして後方主任がいつも前線にでていくのかしら」

 夫のまがったスカーフを直しながら、オルタンスは言った。夫のほうが、あえてスカーフをまげて着けているのだが、それに気づいているのか、そうではないのか、オルタンスは口にしたことはない。あるいは、スカーフもきちんとつけられない夫に、かげでため息をついているかもしれなかった。

「すまんなあ」

 ヤンを支えていたときから、キャゼルヌはいつもヤンと同じ船に乗っていた。そのくせが抜けないのである。“後方の椅子に座ったままでは、前線で本当に不足しているものが見定められない”というのが、キャゼルヌの建前だった。

「ねえ、お母さん」

 シャルロットが、オルタンスを小突きながら、ひかえめに指をさしたそのさきには、若い下士官だろうか、恋人と接吻をかわしている姿があった。見つめあうふたりの瞳には、周囲の人間と同じような悲壮感と、深い愛をしめすような光があった。

「お母さんたちはあれ、しないの?」

「いい、シャルロット」

 シャルロットもすでに大人と言って良い年齢である。母が教えられることは数少なくなっているはずなのだが、娘の純朴な質問には答えてやるのが親というものだった。

「あなたは、小学一年生で習ったことを、六年生になっても勉強しなかったでしょう?」

「でも、中学生になったら、復習が大事だって教わったわ」

 シャルロットがいたずらっぽく笑う。あるいは――彼女は最後にヤン・ウェンリーとその妻がいっしょにいたところを目撃した者のひとりである。そのときと同じ質問をしたのは、偶然ではなかったのかもしれない。幼心にも母親の教えにたいするアンチ・テーゼを抱いていて、それを披露する機会を、ようやく得たのかもしれない。

 めずらしくオルタンスがだまりこんだので、キャゼルヌはオルタンスの肩をつかみ、いくらかぶりの接吻をした。そうやってはじめて、この日、妻が口紅を差していたことに気付いたのである。先ほどのふたりのように、見つめあうなどということはできなかったが。

「口紅がついたわ、あなた」

 オルタンスはポケットからハンカチを取り出すと、夫の口に押し当てた。口紅をふき取ったハンカチを、そのままキャゼルヌの胸ポケットに押し込む。

 その様子を、口に手をあて、驚いた表情をうかべたままシャルロットが見ていた。キャゼルヌは、どうしてもふたりの顔を正視できず、そのまま踵を返して、戦艦の搭乗口へと早足に向かっていった――。

 

 戦艦ホメロスは、強運の持ち主であった戦艦ユリシーズを模して建造された戦艦で、キャゼルヌとしては懐かしさを禁じ得ない。彼にとって戦艦といえば二隻である。ひとつはユリシーズ、ひとつはヒューベリオン。後者はすでに宇宙塵の一部となっているから、二度とその懐かしさを感じることはできない。

「おれは、ヤンのやつに訊いたことがある。“司令官席の座り心地はどうかね”と」

 司令官の席に座ったスーン・スールに向かって、キャゼルヌは言った。彼の席は戦艦内に用意されていない。昔のように、どこか空いた席に座ろうなどと考えていたのである。

「提督は、なんと?」

「何も答えなかったさ。思えば、やつは椅子になど座ってなかったからかな」

 デスクのうえに座った黒髪の青年の姿を思い出し、ふたりは笑った。

「小官には、すこし固く感じられます」

「それでいい。ヤンと同じことをしようと思わなくてもいいさ」

 オペレーターたちの手がせわしなく動いている。自分にやることなどひとつもなかった。スーンや何名かの参謀たちと策戦案を練って、キャゼルヌの仕事は終わったのである。それでも戦艦に乗ろうとするのは、ひとつは昔のくせであるかもしれないが、もうひとつは、策戦を建てた以上、それを実行する責任は、後方にいては果たせないと思ったからであった。

「スーン・スール大佐。貴官の司令官としての態度は、すくなくとも称賛に値するものだったんじゃないかね」

「自信がありません」

「そうかい。おれには、なんだか貴官がビュコック司令のようにも見えたが」

 ……スーン・スールが泰然としていた理由には、じつは彼がヤンのほかに崇拝に近い念を抱いていた、もうひとりの男があった。アレクサンドル・ビュコックは、つねに不動の巌のようで、しかし陽の光に当たり続けて熱をためたようなあたたかさを持っていたのだ。

 スーン・スールは、涙があふれ出ないよう、自分を叱咤した。まだ何も始まってはいない。涙を流しても良いのは、いまではないはずだ。

「まあ、気楽にいこう。おれも眼の前に要塞がワープしてきたときは度肝を抜かれたが、まわりの助けがあってなんとかなった」

 わずかに、肩の力が抜けた。たしかに、イゼルローン要塞の前に帝国軍の要塞がワープしてきたとき、ヤン・ウェンリーはそこにはおらず、アレックス・キャゼルヌを総司令として防衛戦を展開したのだった。キャゼルヌの采配は、見事とはとても言えないものであったのかもしれないが、じっさいに彼は優秀な同僚たちの意見をよく聞き、みずからの意見に固執せず、ヤン・ウェンリーの到着を待ち続けたのであった。

 だが、今回はこちらも決して無策ではなかった。

「うまくいきますかね、この策戦」

「わからん。だが」

 キャゼルヌの眼が、どこか遠くを見るように細くかたちを変えた。

「おれは、ヤンの戦いを、だれよりも長く、近くで見てきたんだ」

 

 五〇〇近くの光点。だが、それも一瞬だろう。戦いの本質は数である。ヤン・ウェンリーも、その弟子とされるユリアン・ミンツも、共和自治政府軍最高の指揮官として名高いダスティ・アッテンボローもここにはいない。残る主要な軍人も、みな死んでいる。ましてや、新銀河帝国の援軍も望みようもない。

「両翼を広げろ」

 サイード・サムエル・サンチェスは短く言った。大軍をもって寡兵を破るために最も有効で犠牲が少ない方法は、すなわち押し包むことである。横に大きく広がることで、厚みは減るが、五〇〇の艦隊にはたして何ができるというのか。

 すでに、再三の降伏も勧告している。得られた答えは、一貫して不服従だった。市民革命などという、サイードにとって不明きわまる論理も伝えてみたが、共和自治政府から得られた答えは否だった。理由は、“革命を訴えるならわれわれにではなく、新銀河帝国にたいして行うべし”という単純なものであった。

 バーラト星系を足掛かりにして、市民革命への道を歩む……。ルーカス・クリーガーが話したその目標にたいして、サイードは何も理解が及ばない。彼がなすべきは、ジョセフ・コルレオーネから莫大な報酬をえることであった。

 陣形は瞬く間に変わっていった。ヴィンツェンツォ・ザザが最高司令官になって以来、兵の練度は見違えるほど上昇した。それまでは、宇宙海賊に毛が生えた程度の実力しか備えていなかったのである。

 五〇〇の光点が、輪郭をはっきりと戦艦群へ変えたとき、サイードは右手をあげた。これが振り下ろされれば、一万のエネルギー・ビームの束が、彼らをそのまま五〇〇の火球へと変えるだろう。

 しかし、サイードの右手が振り下ろされることはなかった。陣形が崩れていたのである。……サイードのいる中央艦隊三〇〇〇のみが、わずかに、しかし決定的に、突出していたのだった。

 両翼からの“進行速度低下、原因不明”の通信を耳でとらえながら、サイードはその落ちくぼんだ両眼に、五〇〇の艦隊による突進を焼き付けていた。

 

 

二四

 

 想像を絶する新兵器というものは、基本的には存在しない。たとえば、はじめて鉄砲というものが発明されたとき、その発想の原点は“遠くにいる者を殺めるためにはどうすれば良いか”というものがあったはずだし、航空機が発明されたときは、“空を飛ぶことができたなら”というごく単純な憧憬があったはずである。それゆえに、その新兵器を眼の前にして、人が抱く感想は二つのうちどちらかである。

「ああ、やっぱり」

「なぜ、それが可能になったのか」

 人々はその発明を夢想していたはずであるし、それを実現する努力をもおこなっていたはずである。ただそれを先んじられただけのことなのだ。

 アムリッツァ星域会戦の翌年、自由惑星同盟が旧穀軍事会議のクーデターによって複数の陶片と化していたとき、技術開発局員だったニコ・ハッキネン博士は、帝国が指向性ゼッフル粒子を開発し、それを軍事利用したと聞いたとき、次のように叫んだと言われる。

「ああ、やっぱり。なぜ?」

 それから、ハッキネン博士は新兵器の開発に尽力した。博士は、歴史上に自分の名前を冠した軍事的発明品をつくろうとしたのである。凍てつく惑星で生をうけ、廃材を用いて高効率な暖房器具を五歳でつくりあげた、生粋の発明家であった彼である。尋常ならざる熱意で、彼は歴史書へ猛烈にアピールした。しかし、その努力は報われず、彼は宇宙暦八〇五年、新帝国暦七年に九二歳で死亡するまで、芳しい発明をすることはできなかった。彼の発明で唯一現在までかたちとして残っているのは、宇宙空間においてコーヒーをより香り高く、豊かな味にドリップする機械だけであった。ハッキネン博士は、コーヒーマシンなぞに自分の名前をつけるのは恥だと考えたため、その機械はついに名を与えられず、ある青年士官にはその努力を“泥水”あつかいされるという憂き目にあってしまった。もし博士が、紅茶をより香り高く、豊かな味に淹れる機械を発明していたのなら、史上最年少の元帥によって勲章を授与されていたであろうが。

 ハッキネン博士は、それでも膨大な研究をしており、その成果はダース単位のノートにまとめられていた。ハッキネン博士の遺品整理をまかされていたのは、同じく技術開発局員として勤務していたヨハン・コバライネン博士であったのだが、彼はその研究ノートからある粒子の生成方法を思いついた。宇宙暦八〇九年、新帝国暦一一年に発表された論文には、その粒子の効果について次のように記されている。

「この粒子は、高密度に散布することによって、触れた物体の挙動をコンマゼロゼロ数秒ほど遅らせることができる。」

 つまり――平地に比べて水のなかだと人間の動きが遅くなるように、この粒子は物体の挙動に抵抗をあたえるのである。この発明はただちに新帝国軍の知るところとなり、極秘で軍事転用のための技術開発が進められていた。

 コンマゼロゼロ数秒という非常に短い時間であるが、もし宇宙空間に高密度に散布できたのなら、その効力ははかり知れない。その効果が認められたとき、この粒子の命名権を、コバライネン博士は手に入れるに至った。彼はハッキネン博士の念願を知っていて、この粒子の着想は彼の遺産によるところが大きいことも知っていた。だが、コバライネン博士は迷わず、“コバライネン粒子”と、みずからの名をつけたのだった。彼は、ハッキネン博士が、毎日のように煙草の煙を吹きかけてきたことを根に持っていたのである。

 ユリアン・ミンツは、アレックス・キャゼルヌになかば強引に連れられて繰り出した酒場において、すでに退役した元上官に軍の情報をゆすられ、

「コバライネン粒子は、たとえばその散布密度に差をつけることによって、艦隊の行軍速度に差をつけることが可能でしょう。たとえるなら、泥濘に馬を横一列で走らせたとしても、そのなかに舗装された道が一本あったら、そこをとおる馬だけは速く走ることが可能です。つまり、相手にさとられず、陣形を乱すことが可能なんです」

 と答えた。キャゼルヌは、在りし日のコバライネン博士のように、ユリアンのその発言を、みずからの策戦に組み込んだのである。むろん、キャゼルヌにはユリアンにたいして根に持つところなどなかったので、スーン・スールに

「すばらしい発想です。ご自分で思いつかれたのですか?」

 と聞かれたとき、真剣そうに眉間にしわをよせ、荘重にうなずきながら、こう答えたのだった。

「ああ、たぶんな」

 

 ……キャゼルヌの提案した策戦は次のとおりである。

 一、敵軍左右両翼側にコバライネン粒子を散布し、行軍を遅らせる。

 二、このとき、中央艦隊はコバライネン粒子がほとんどない宙域をゆくから、中央と左右両翼で行軍速度に差が生じ、中央艦隊のみが突出する。

 三、混乱する敵軍中央艦隊にたいし、砲火を集中する。

 四、主力艦隊五百は、手薄になった敵軍中央を突破し、近接戦闘に入る。

 五、同時に、別動隊三百によって敵軍背面を攻撃する。

 こうして、キャゼルヌ案を基本骨子に、謎の敵性艦隊一万にたいする防衛戦線が構築されていったのである。

 そしてその策戦は、ひとまずは第三段階までは成就しつつあった。“不正規艦隊”以来伝統となりつつあった一点集中戦法は、もはやお家芸というべき代物であり、スーン・スール大佐ひきいる艦隊は、突出した敵軍の先端に、したたかな打撃をあたえることに成功している。

「では、あとはお任せします」

 混乱した敵軍を前に、スーンは別の将校に指揮権を委譲した。近接戦闘なら、“不正規艦隊”ではあの男の十八番だった。ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ。帝国から亡命してきた客将にして、伊達と酔狂に殉じた老人。堅実だが勇猛な指揮官だった彼の用兵を、もっとも高い純度で継承していたのは、ベルンハルト・フォン・シュナイダー中佐であった。

 シュナイダーは謹厳なまでの敬礼をひとつすると、スーンにかわって指揮を執り始める。

「突撃する。スパルタニアンを発進させ、近接格闘を展開せよ」

 われながら、数奇な人生だ。そう彼は思っていたが、それをおもしろいと思えるやわらかさが、今の彼にはそなわっている。

 メルカッツ大将、と心で告げた。あなたとともに、同盟へ来てよかった。私は、私の生を心ゆくまで愉しんでいます。

 むろん、戦況は予断を許さない。兵力の差は圧倒的である。左右両翼は、いまは混乱状態にあってほとんど機能していないが、中央艦隊はかなりの精度でまとまりを回復しつつある。敵の指揮官が、並でないことの証左だった。このまま、左右両翼が戦闘に加わることになっては、この一時的優位は刹那でくつがえる。シュナイダーがすべきことは、この“一時的”を、可能なかぎり延長させることにあった。

 

 ハムディ・アシュール中佐は別動隊を率い、敵軍の左翼後方へと回り込んだ。敵軍は指揮系統が乱れているのか、ほとんどこちらを向く艦すらいなかった。彼は用兵理論すらも舗装された道のうえを歩かせるたちだったが、今回ばかりは、常識にとらわれていては敗北する。いや、八〇〇が一万にたいして戦いを挑むことが、すでに常道からはずれているのだ。だから、彼は今回ばかりは、藪のなかを進む決心をしなければならなかった。

「横一列に砲門をならべ、時間差をつけて砲撃せよ」

 これで、敵に大軍がひかえていると誤認させる。三〇〇で大軍の用兵をするのだ。とにかく、敵を混乱させ続け、まずは“一旦退かせる”。それが、キャゼルヌらと考え出した策戦の、ひとまずのゴールだった。キャゼルヌの見立てでは、あと数日で、フェザーンへむかっていた本隊が合流するはずである。それまで、だまし続け、耐え続ける。

 だが、まだ敵軍右翼は放置してある。左翼は混乱に混乱をかさね、ほとんど指揮系統は機能しなくなっている。中央艦隊の様子は、アシュールからは見えなかった。スーン・スール大佐と、シュナイダー中佐を信頼するしかない。彼らも、自分のことを信頼してくれているはずなのだ。

 

「ぶざまだな」

 サイード・サムエル・サンチェスは口元だけで笑った。自嘲するさいの、彼のくせである。ぶざまなのは、みずからの軍の陣形と、敵軍の小細工だった。たしかに、敵軍の一点火力集中と、近接攻撃の迫力は、すさまじいものがあった。前者は、ほとんど教科書通りと言ってよく、それが長引けば対処も容易であったが、後者に推移するにあたり、その指揮は別人のように変わった。まるで、幾多の戦場を生き抜いたなかで編み出され、洗練されてきたかのような、重厚で老練、かつ勇猛な指揮なのだ。これほどの指揮官が、共和自治政府にいたのだろうか?

 単座式小型戦闘艇――スパルタニアンと言ったか。そのパイロットの技兩も、並ではない。三機がひとつの生き物のように連携し、つねに多対一の戦況をつくりあげる。こちらも小型戦闘艇をはなってはいるが、圧倒されていた。

 だが、戦いは数である。中央艦隊は、寸断こそ激烈なものがあるが、こういうときのまとまりかたも、ヴィンツェンツォ・ザザは何度も訓練していた。それが戦場でできるかできないかで、生まれる結果は大きく異なるのである。サイードも、そのやり方を頭にたたきこんである。まずは小さくかたまり、少しずつその塊を大きくしていく。けっして、一艦単位で孤立してはいけないのだ。

 砲火にさらされながらも、サイードは戦況を見定める余裕があった。中央艦隊は、訓練通りの動きができていて、しばらく耐えれば、またこちらの指揮が届くようになるだろう。そうすれば、再起はじゅうぶんに可能だった。

 左翼艦隊は、後方を敵の別動隊に攻撃されているが、その数は四〇〇に届かないだろう。いや、もっと少ないかもしれない。大軍の用兵をしているが、こけおどしというものだ。

「前進しろ。けっして回頭するな。蜂の巣にされて死ぬぞ」

 短く指示をする。あとは、分艦隊司令官がなんとかするだろう。できなければ、死ぬだけだ。

 右翼艦隊は、無傷である。敵が攻撃している様子もない。ならば、右翼艦隊は、航行速度が低下する謎の宙域を抜け、敵の五〇〇の艦隊に側面から砲撃を浴びせればいい。そのころにこちらも秩序を回復させることができれば、十字砲火によって戦況は一変する。

「落ち着いて行動しろ」

 指示はそれだけでよかった。

 すでに、こちらの艦隊は、五〇艦程度のまとまりがいくつかできている。あとはそれらをつなぎあわせれば、秩序は回復していくだろう。

「後退しつつ、陣形を再編する」

 共和自治政府軍の攻撃は続いている。だが、それも永遠に続くものではないだろう。人が酒を欲するように、男が女を欲するように、戦艦はエネルギーを欲するのだ。

 

 

二五

 

 敵味方の艦が巨大なモザイクを構成する乱戦にあって、共和自治政府軍のスパルタニアン部隊は、敵を圧倒するキル・レシオを誇っている。彼らには、体の奥底、末端の細胞にいたるまで“三位一体”の戦法がたたきこまれており、それは漁師が獲物を追い込むように、確実に敵のパイロットを宇宙の粒子に還元していった。

 ハートに矢印の刺さったマークの刻印がされたスパルタニアンが、モザイクのなかを飛翔する。持ち主であるクレア・ウィンスレット大尉は、たぐいまれな容姿とそれにみあう愛機の挙動によって芸術的な曲線を描くことのできる技兩をもっているが、その彼女が、息もたえだえの状態でようやく母艦にたどりついている。それは戦いの激しさと同時に、彼女の焦燥もあらわしていた。

 ウィンスレット大尉が荒々しくヘルメットをたたきつけながら叫んだ。

「敵に、とんでもないパイロットがいる!」

 彼女の言葉は、小隊全員がほぼ同じ経験をしていることから、もはや一致する見解にも等しかった。

 彼女らの経験は次の通りだった。ある敵にたいして、どんなアクロバットを披露しても、敵を補足するどころか、つねにコクピット・カメラの死角に入りこまれているのである。しかし、その敵はけっしてこちらを地獄へたたき落とそうとはしない。レーザーの一発も、ミサイルすらも、撃ちこんでこないのだ。幾度、撃墜と死を覚悟したか。だが、その覚悟はすべて無駄なものになってしまった。敵に、情けをかけられたのである。彼女たちはみなみずからの技兩に誇りをもっているぶんだけ、その悔しさも尋常ではない。

 後日、ウィンスレットはみずからの師に、このときの体験を話している。もはや二児の母となった彼女の師は、くちびるをかむウィンスレットのまえでくすくすと笑うと、すべてを察してこう言った。

「あなたがあと三人いたら、倒せていたかもね」

 技兩をあなどられた、と露骨に不服な顔をうかべるウィンスレットのまえで、カーテローゼ・フォン・クロイツェルは紅茶を飲んだ。そんなことができそうな男など、カリンにはひとりしか思いつかず、それはなぜか確信にちかかった。

 そう、それが彼の願いであったから――。

 ウィンスレット小隊の怨恨を一身に背負った男は、数千本のレーザーの格子のなかを、まるでダンスのステップをふむように飛翔していく。彼にとっては、このような戦況など、熱いシャワーをあびても酔いが抜けないほどの酒を飲んだ後でも、たやすいものであった。

 彼は、謎の艦隊の右翼部隊に配された戦艦に着艦すると、旗艦からの伝令と称して堂々と艦橋に乗り込んだ。ブルーグリーンの瞳に不敵な光をたたえながら。

「退却せよ。戦況は混沌としており、旗艦は被弾した。サイード提督も負傷されている」

 魔術師にでもなったつもりか? 彼は自分自身に問いかける。その答えは否である。その男は、ただ嘘つきであったに過ぎなかった。

 

 右翼艦隊の後退を見て、サイードは首をひねった。いや、これは後退ではない。たんなる退却である。中央艦隊は、戦況を回復しつつあるが、ここから優位を決定づけるためには、右翼艦隊の戦力が不可欠であった。

 戦線の再構築は、もはやこの場で行うことはできなかった。左翼への後退の指示はすでに伝達されているはずであるが、背面を執拗に攻撃され、困難であるようだ。中央艦隊も、近接攻撃の激烈さに押され、応戦しつつ後退することができなくなっている。

「仕方ない。一目散に逃げろ。バーラト星系外縁部で部隊を再編する」

 もはやサイードすら、戦況を完全に把握することはできなくなっている。敵は、中央と左翼だけに奇計をかけてきたわけではないのだろう。右翼艦隊には、なにがあったのか。それを確認するためにも、陣形の再編は急務である。

 敵艦隊の追撃もかなり執拗だった。補給線の限界まで攻撃をしてきているのである。それにたいして、こちらは統率のとれた反撃はすでに不可能になっていた。ようやく追撃を振り切ったとき、中央艦隊は二千近い犠牲を出していた。右翼艦隊こそ無傷であるが、左翼も八〇〇以上の艦を失っている。

 するどく舌打ちをしながら、サイードは陣形の再編を急いだ。

 

 シュナイダーの指揮権は、追撃戦の段階ですでにスーン・スールに返還されている。

 スーンは、味方の犠牲がほとんどないことに奇跡的なものを感じていた。しかし、それも一回だけだ。一度奇策にはめられたものは、次はよりいっそうの警戒をする。ヤン・ウェンリーの偉大さは、警戒状態の敵の心理をさらに利用した点にあるのだ、といまさらながら納得するスーンである。彼の精神は、開戦前にくらべていくらか落ち着いていられた。

 敵中央艦隊への急襲と、左翼艦隊への背面攻撃は、うまくいきすぎるほどうまくいった。敵には痛撃をあたえつつ、こちらの被害は最小限におさえられている。問題は、この次である。いったい、どのくらいの時間をかせぐことができるのだろうか。

「しかし、なぜ敵の右翼艦隊は無傷の退却をはじめたのでしょうか」

 シュナイダーが言う。それは、スーンも気になっていたところであった。無傷であるなら、そのまま中央艦隊の援護にむかうことも考えられ、それを念頭に置きながらシュナイダーは指揮を執っていたのである。

「わかりません。未知の戦況に対し、安全策をとったのかもしれません」

 中佐待遇の客将にたいし、スーンの言葉は丁寧だった。尊敬すべき相手にたいしては敬意を表しているだけなのだ。

「不可解ですな。近接格闘においては、敵将はかなりの者に思えたのですが」

 そのあたりの印象は、シュナイダーがもっとも正確だろう。彼はだれよりも近い位置で、敵の指揮を目の当たりにしているのである。冷静さを失わず、粘り強さにはかなりのものがあったはずだ。敵将が無能でないことは、スーンにもわかった。

 内紛だろうか。考えられそうなことはそのあたりだが……。

「いずれにせよ、まだ本隊の到着は遠いでしょう。敵の陣形の再編にどれほどの時間がかかるかわかりませんが、次は正攻法で耐えねばなりません」

 アシュールは攻撃の途中で旗艦が被弾し、左腕に包帯を巻いていた。

 シュナイダーが重々しくうなずく。明日以降に待ち受ける困難を予期しているのか、勝利の余韻にひたるものはいなかった。しかし、焦るものも同様にいない。焦燥は、けっして時計の針を先に進めはしない。平静もそれを遅らせることはないのだが、後者のほうが生きるためには有意義というものだ。

 

 サルバトーレに調べさせても、結局のところ、右翼艦隊が命令外の行動をとった理由はわからなかった。多くの艦が退却の命令をうけとっており、伝達の経緯のなかに問題があったのかもしれない。

 残存艦数は、七一八九艦だった。かなりの痛撃をうけた計算になる。陣形と命令伝達経路の再編のために、三日ほどを要した。悠長にしている時間はないが、それでも命令伝達が不十分なまま戦いをするのも避けたかったのである。

 また、敵軍の通信を傍受したところによると、敵将はスーン・スール大佐、近接格闘の指揮官はベルンハルト・フォン・シュナイダーであったようだ。帝国から亡命した客将が、ようやく民主主義に魂を売ったらしい。むろん、主義主張などというものと無縁であるサイードには、シュナイダーの転向によって彼の人間の価値をさげるということはしない。人間というものは、すべてひとしく無価値である。価値があるのは、金を持ち、自分に金をあたえてくれる人間だけだ。

「では、いこうか」

 サイードは金に眼のくらんだ亡者であったが、そのために盲目になることのない稀有な人物だった。彼はただ奇策を用いず、奇策をおそれず、まっすぐに惑星ハイネセンへの軌跡をなぞってゆく。

 

 スーン・スールは、ほとんど傲然に見えるほど直進してくる敵軍の姿に、思わず歯噛みしたくなる思いを抱いた。

 はじめ、彼らの考えた策戦は、“惑星ハイネセンよりも外縁の惑星の陰に隠れ、擬似的な縦深陣を形成する”というものである。要するに、敵から見えないところに艦隊を埋伏させ、直進してきた敵軍の両側面や後方を襲うというものである。

 しかし、この策戦にはいくつかの問題があった。ひとつは、すでに敵には自軍の全戦力が割れており、埋伏の計には乗らないであろうこと。もうひとつは、敵の行動開始が惑星の公転周期と合致しなければ成立しないことである。実のところ、昨日に攻めてきたのであれば、惑星の公転周期的には申し分ないものであったのだが、敵はどうやらその策すらも看破していたようだった。ハイネセン周辺に惑星や高密度のガスのない、ほとんど宇宙が平野になっていると言っても過言ではない状況を待たれてしまったのである。

 いま一度コバライネン粒子を用いて進軍を遅らせるべきか。いや、粒子の散布には時間がかかる。機雷を撒くにも、そもそも機雷を撒くために必要な工作艦の数が足りないのである。

 死ぬしかないか。玉砕を戦士の華と考えるような酔狂は彼にはないが、脳裡にそれがよぎるのをおさえることはできなかった。だが、六万の兵を道ずれにして?

「小官が、指揮を執りましょうか?」

 億や兆をこえる迷いの底に沈んでしまったスーンの意識を引き上げたのは、ベルンハルト・フォン・シュナイダーであった。スーンはほとんど反射と言って良いほどに首を横に振った。

「正直に申し上げると、とても魅力的な提案です。命の責任を負わなくてすむのですから。しかし、この責任から逃げることなど、できるはずもありません」

 理由を紡ぐことのできない彼である。いや、理由ははっきりしている。それを言うのがためらわれるだけなのだった。

 アレクサンドル・ビュコック提督であったなら。敬愛するかの提督は、眼の前の責任と、のちのちに生ずるであろう責任から逃れなかった。あの老人は、まさしく命をかけていたのだ。自分の命にそれほどの価値がないと知りながら、地位というものによって命の価値をわずかにかさ増しさせて。ビュコックと同様に生きることはできないし、死ぬこともできない。だが、選択そのものはビュコックと同じものを選ぶことができるはずだ。責任から逃げない、という選択が。

 シュナイダーはハンサムな顔に微笑を浮かべると、出過ぎた進言をしたことを詫びた。

 逃げることはできない。ならば……。

「どうするべきだろうか?」

 会議の席で、彼は素直に意見を求めた。アレックス・キャゼルヌが、要塞による侵攻を防いだ時のように、彼は信頼できる仲間の意見を求めたのである。だが、その時と違うことは、こちらにはまるで打つ手がない、ということだった。

 いっぽうで、投降を是とする者もいなかった。それが、スーンには心強かった。

「では、抵抗しましょうか。蟷螂も斧を振りかざす。われわれは蟷螂よりもわずかにましな生き物であるのですから、ちょっとくらいの抵抗はできるでしょう」

 スーンは、ごく平凡な陣を組んだ。陣形に指揮官の性格があらわれるというのなら、この陣だけでスーン・スールという人間は語り尽くせてしまうだろう。

 敵が迫ってきていた。まだ八千艦ちかい。スーンは覚悟を決め、遺言を送るべきだった家族の顔をわずかに思い浮かべながら、射撃体勢をとらせた。

 艦砲の射的距離まで数分という距離に敵が迫る。――永遠ともいえるその一瞬、スーンはたしかに視認した。敵艦隊の、またも右翼が、なぜか本隊と分離するような行動をとったのである。

 

 サイード・サムエル・サンチェスは、さすがに自制の限界を迎えて怒鳴った。

「右翼艦隊は何をしているか!」

 ただちに右翼艦隊との通信を開く。青ざめた顔で、司令官がスクリーンに登場した。

「しかし、さきほど、閣下からシャトルによって指令が……」

 サイードとしても、この不可解な事態は看過できなかった。再び退くか? だが、時間的猶予がどれほど残されているか――つまり、敵の本隊がいつ到着するかはわかりかねているのである。迅速に決着をつけなくてはならないという状況は、変わっていなかった。

 ……サイードが未知の状況に労を割いているその時、“シャトルに乗った伝令”は、割り当てられた単座式小型戦闘艇のなかで、秘蔵のウィスキーと接吻をしていた。むろん、彼の荷物の中には、愛人ともいうべき他のウィスキーが何本も収蔵されているのであるが。

「ひとつ貸しだぜ、ユリアン」

 単座式小型戦闘艇のなかでにやりと笑った彼の名は、オリビエ・ポプランと言った。

 

 

二六

 

 敵右翼の分離によって、わずかに戦力が削がれた。先の休止によって再整備されたであろう命令伝達経路が、ふたたびおびやかされたのである。動揺がちいさいはずもない。この機に、わずかでも形勢をこちらに傾けたかった。

 しかし、敵はまっすぐこちらにむかってきていた。

「右翼を捨てたか……」

 右翼艦隊が離脱してもなお、艦数はこちらが不利である。ならば、使えぬ味方を切り捨て、残存兵力で戦うというのだ。それは、突き詰めて考えれば行き着く当然の決着かもしれないが、それを瞬時に判断したのである。

「撃て!」

 ほぼ反射と言っても良い。スーンは陣形を変えるまでもなく、射程距離に入った敵艦にビームをたたき込んだ。だが、敵の応射もおそろしく重かった。どれだけ持つかはわからないが、そう遠くもないだろう。

 旗艦のそばをレーザーが通過する。死はつねに彼らのとなりにいた。

 

 閉鎖されているという営倉の前で、オリビエ・ポプランは立ち止まった。右翼に誤った情報を伝達したのち、彼は中央艦隊へ戻ってきたのである。ある戦艦でコーヒーでも飲もうかとした矢先に、営倉の噂を聞いたのだった。

 営倉の鍵は、たやすく手に入った。彼はオリビエ・ポプランであるが、彼の身分証はそうではなかった。えらそうに指示を飛ばしに来たサルバトーレとかいう少年のものを盗んだのである。少年は、司令官の側近だと言うが、司令官以外にたいしては居丈高で、あまりいい印象を持たれていないようだった。

 営倉のなかには、ひとりの青年が椅子に縛り付けられていた。ひどいにおいなのは、糞尿がほとんど垂れ流しだからだろう。早く立ち去りたかったが、案外ここは重要な場所なのかもしれない。

「おい、生きてるか?」

 ポプランは青年にむかって声をかけた。二秒以内に返事がなければ回れ右を、とも考えていたが、姿に反してしっかりした声が返ってきた。

「おう。あんたは?」

 ゆっくりと頭をあげた青年の表情が、半瞬ほどかたまり、救世主の爪先から頭蓋の頂点までを見上げた。

「ポプランどのですか?」

 ポプランは人差し指をたてた。自分が有名人かつ尊敬に値する人物あることは知っていたが、まさか敵軍から"どの"付きで呼ばれるとは思っておらず、その動作はほとんど反射にちかかった。

「おまえは?」

「共和自治政府軍ウィル・メイヤー中尉です」

「ふうん、知らんな。だがこっち側の人間か」

「ポプランどののことは……」

「言わなくていい」

 ウィルと名乗った青年を手で制し、ポプランは鼻をつまんで近づいていった。

「おまえ、出身は?」

 たしかに、体つきそのものは軍人に見えた。共和自治政府軍所属ということは、捕らわれて利用されたといったところだろう。独創性はないが、敵軍の進行速度と手際を考えるかぎり、内通者がいるだろうことは予測していた。まさか、内通者というよりも捕虜であったとは。拷問に耐える訓練はおろそかにしていたのだろうか?

 もっとも、自分としても美人が極上のブランデーとともに尋問をしてくるのなら、つい口をすべらせることもあろうが。

「ケイト、セレス、ヴァネッサ、ラウラ、クアイ。このなかに知ってる名前は?」

「いえ、おりません」

 他人に貸しをつくるとき、その返済義務の有無は、この問いへのこたえで決まる。どうやらウィル・メイヤーには返済義務がありそうだった。

「しかし、母の名前はエリスと言います」

 セレスとエリス。たしかにセレスの言葉にはやや訛りがあった。万が一にも共通の知人をもっている可能性がある場合、ポプランは心やさしい債権者と変身するのだ。

 刹那ではあったが、ポプランは時間旅行をたのしんだ。やや冷や汗をかきながらではあるものの、ポプランはセレスとの一夜――いや夕暮れから朝までの時間を思い出す。克明にそれをおぼえているのは、セレスが絶世の美女であったからではない。これはポプランなりの責任の取り方であった。一度でも情を交わした女のことは、けっして忘れないのである。"どうやらあの娘の父親らしい"などと推測文で言うのは、あまりにも礼を失しているというものだ。すこしでも心をひかれた女にたいして礼を失すれば、みずからの価値すらおとしめるのである。

 だが、もしセレスとの子であるならば、眼のまえの青年は齢一二で中尉にのぼりつめてしまった、ヤン・ウェンリー以上の天才でなければならない。

 ウィルを椅子に縛り付けていたロープを切ると、青年はややぎこちなく立ち上がった。何日かうごいていなかったのだろう。

「ありがとうございます、ポプランどの」

 ウィルに怪我はない。しばらくすれば、また問題なく動くことができるはずだ。しかしーーそこはあまり問題ではなかった。

「よし、まずは着かえた方がいいな」

 彼にとって一番の問題は、ウィル・メイヤー青年のそばにいると、女性がだれひとり寄ってこないであろうことだった。

 

 思うような艦隊運動ができず、サイードは怒気をおさえこむのに少々の労を割かねばならなかった。サルバトーレはどこかへ行ったまま帰らないのも、戦いに集中しきることのできない要因である。

 戦力差は約五倍であるが、それを生かしきることができない。命令の伝達が、どこかで滞るのである。だれかに邪魔をされているとしか考えられないが、共和自治政府軍にそれが可能だというのか。

 ただの正面からの撃ちあいという局面になっても、前列と後列の交代がうまくいかず、連続的な火力の集中が不可能になる。その間隙にビームを撃ちこまれ、犠牲が出るというのもしばしばだった。

 その隙を見逃さない敵将も見事というべきか。サイードは戦士でなく、敵を称賛する美学などとは無縁である。しかし、共和自治政府軍を率いる将は、堅実だがどこか老練という気すら感じるのだ。地形を生かすすべはサイードがよく用いるものであったため、封じることは容易だった。だが、隙を生じさせたときの攻撃の執拗さとそれをやめる潔さは、確実にこちらに出血を強いてくる。逆に、攻めないときは防御に徹しているので、犠牲そのものは少ないのだ。

 こちらが隙さえ見せなければ、消耗戦となって勝利はたやすい。しかしその前提を成立させるのがすでに困難なのだった。

 サイードはちいさく舌打ちをして、旗艦をすこしだけ前進させた。単純に、指揮をしやすくさせるためである。

 だが――この選択を悔いる時間を、サイードは与えられなかった。

 

 ウィル・メイヤー青年は、熱いシャワーをあびて皮膚のようになった垢をすべて洗い流すと、ポプランが奪ってきた敵の軍服に着かえた。生まれ変わったような気分さえまとわせながら、悠々と戦艦の廊下を歩く。

「それで、ポプランどのはこれからどうなさるのですか?」

 ウィルが耳打ちする。あえて偽名を名乗らないのが、ポプランなりの嘘の付きかただった。

「とりあえず、敵の後方を撹乱したい。奇策の常道さ」

 奇妙なレトリックではあるが、ウィルは納得したようだった。早足で歩きながらも、ふたりに気をとめる者はいない。戦時は、みな自分のことで精一杯なのだ。

 それにしても、とポプランは思う。どうやら、この軍の兵士たちは、たがいに顔見知りの関係であるのは少ないようである。緊急時に動員されたということなのか、これは末端の兵士だけなのだろうか。

「小官に、役割はありますか?」

「たぶん、ある。おれは仕方ないからある程度おまえを信用するが、おまえはおれを全面的に信用しろ」

「了解」

 艦橋までは楽に到着した。中型の戦艦だが、人員の数は少ない。

「おまえ、射撃は?」

「士官学校では、学年四位が定位置でした」

「ヤン・ウェンリーよりはましってことか」

 ヤン・ウェンリーの名前を出したとき、はじめてウィルの顔に笑みが浮かんだ。そういう男を見るたびに、ポプランは心にざわつきをおぼえる。

 ポプランはウィルにブラスターとエネルギー・カプセルを渡すと、

「おれも、正直なところ自信はない。だが、まあ、やるしかないからな」

 そう言い残して、まっすぐに戦艦の司令官席まで歩いていった。フライング・ボールの反則王として勇名を馳せたのは、遠い昔のことである。技術はおとろえても、精神はけっしておとろえない。たびたび、彼はその精神によって生きながらえてきたからである。

「司令官どの!」

 ポプランは、まるで作戦を進言する参謀のように歩み寄った。司令官の顔に疑問符がうかんだときには、その疑問に答えるための時間を永遠に奪っている。

 司令官を射殺すると、ポプランはこれ以上を求めようがないほどの効率で、周囲の四人の頭を撃ち抜いた。案外、心臓を狙って一撃で殺傷するのはむずかしいのである。

 指揮官のデスクに身を隠すと、そこにウィルが合流した。怪我はしておらず、奇襲は成功したように思えた。

「通信士とおぼしき者は始末しました」

「ふうん、やるな」

 もはや、組織的な抵抗はなかった。あっけなさすぎる、というのは率直な感想であるが、なにかがうまくいくときはたいていこういうものだ。

 コンソールはどうやら帝国の艦船をモデルにしているようで、操作じたいはむずかしくないだろう。問題は、どのように運用するかであるが、

「それで、どうするのです?」

 という軍後輩のすなおな疑問にたいして、ポプランは次のように答えるほかなかった。

「無計画だが、無問題」

 

 限界を迎えつつある戦線は、なんとか崖のふちのところでこらえている。スーン・スールは、もはや呼吸すらままならないと言えるほどの精神状態のなかで、責任という一語でみずからを鼓舞した。どうやら敵の動揺も相当なものだが、敵軍にも中核と呼べる部隊があるようで、その統率は抜群だった。その実力は、帝国軍の精鋭にもおとらないかもしれない。

 犠牲は、じわじわと出始めている。むりもない話であるが、道理の上ではまるで勝ち目のない戦いでもある。共和自治政府軍がここまで戦闘を続けるのは、軍と政府が掲げる不服従のためであり、それを頭では理解していたはずであるが、それすらも呪いたくなる気持ちになっていた。

 三〇を越えるのが、おそすぎた。奇妙なことだが、スーンは指揮をおこなう脳と神経経路とは別なそれらを自覚していた。おそらくそれは、生涯で最後の回顧のためにもちいられている。

 宇宙歴八〇〇年。まだ自分はおとなにもなれていなかった。だから、マル・アデッタへ連れていってもらうことがかなわなかったのだ。その戦場で、心の底から敬愛する司令官は死んだ。

 なぜ、連れていってもらえなかったのか。統帥作戦本部で司令官とその参謀長の背中を見送り、わずかな艦隊とともにイゼルローンへむかった。何度、進路を変更して司令官と合流しようと思ったのか。三寸の虫のささやかな抵抗となることは知っていても、地獄まで供をすることはできたではないか。その供まで断られたような思いがしたから、自分はかなしかったのだ。

 なぜ、と問う。たくされたからだ。もうひとりの自分が、答えた気がした。司令官に、たくされたからだ。民主制における軍隊の誇り、司令官みずからの誇り。

 ビュコック提督。私は、ようやく三〇をいくらか越えました。おとなになったでしょう。いまなら、連れていっていただけますか。

 不意にあらわれた老提督の姿は、笑ってなどいなかった。あの日、落陽と国家の滅亡との光にあてられた老提督の顔そのものだった。まだ、やるべきことがある。それをおこたる者は、ここへ来るべきではない。

 裏切られた、という気がした。老提督の厳しさであり、やさしさでもあるのだろう。

「アシュール中佐から通信。後列から援護するゆえ、しばしさがって補給されたし」

 通信士の声で、老提督の姿は消えた。

「全砲門をひらけ。一斉射撃ののち、わずかに後退する」

 指揮をおこなう頭は冷静で、その指示は的確なものであっただろう。だが、その行動は中途で断念させられることになる。

 スーンは敵軍後方にふたつの異常を感知した。ひとつは光条となって、もうひとつは無数の光点となって、その場にあらわれたのである。

 

 

二七

 

 ヤン・ウェンリーにあこがれること。それは、幼少期から思春期を経て青年になるまで、民主制の園芸施設で育った者であるなら、だれもが一度は経験する通過儀礼であった。彼の本性を知る人物がそれを告発したとして、彼を知らぬものが全く同熱量の崇拝を行う以上、本人による弁明が不可能なものとなっているために、ヤン・ウェンリーにたいする大いなる誤解は無限大に増殖していく。また、魔術師をもっともちかくで眺め続けてきた一部の人々も、それらについて積極的な言説を展開しなかったのである。人々はそれぞれ独自の"ヤン・ウェンリー像"を描出し、根拠なき信仰と陶酔にみずからをひたらせた。それは、思考停止という人間の犯しうる愚の最大たるとの双生児にあったにもかかわらず。

 "民主主義の擁護者"、"英雄"、"常勝提督"……彼を非難する言葉は数多いが、それすら星の数に劣るのと同様に、称賛する言葉の数にけっして勝ることはない。宇宙が膨張を続けるように、ヤン・ウェンリーという人物もまた、残された虚像を無辺際に延長させているのだ。

 ウィル・メイヤーは、はたして"ヤン・ウェンリー教の狂信者"のひとりであると言えるだろうか? 彼は軍人ではあったが、ひとりの市民である。だが、"ヤン・ウェンリー"という集合意識が放つ怪電波は、人間の内面へ強制的に作用するのだった。

 脱出用シャトルで虚空を回泳しながら、オリビエ・ポプラン――彼の名は戦艦で倉庫番をしていた男の名前となっているが――は爆発する戦艦を眺めていた。数分前まで、彼はある青年とそこにいたのである。青年は、敵艦に残っていた陣形のデータから敵旗艦の位置を割りだし、その方向にむかって砲撃を指示したのだった。名目は、"旗艦は敵に乗っ取られている"というものであった。

 砲撃は命中したが、しかし、撃沈には至らなかった。それどころか、乗っていた戦艦は"裏ぎりもの"として数本のビームの交叉点となり、艦橋にいたウィル・メイヤー青年の命をむしばんだ。

「逃げてください、ポプランどの」

 殺到する敵兵からポプランを逃がしながら、ウィルは言った。

「おれも、英雄になりたかったのです」

 シャトルの操作盤をはげしく蹴る。そのていどの衝撃で破壊することは不可能だった。

 英雄。ウィルの言葉が、脳内で反響する。それは不協和音と言っても良かった。耳障りな音楽だが、それを遠ざける努力は果てしないものが必要に思われた。

 だから、ポプランは見えざる背中にむかってこう呟く。

「見てるか、ヤン・ウェンリー。あんたのせいで、またひとり死んだぜ」

 

 はげしい艦橋の揺れをなんとか支えながら、サイードはオペレーターの言葉を聞きとった。旗艦を砲撃した味方の戦艦は、ウィル・メイヤーに乗っ取られており、すでに撃沈されている。

 たしか、ウィル・メイヤーはルーカス・クリーガーの協力者で、営倉に放り込まれていたはずである。それがどういうわけか脱出し、さらに一隻を奪うまでになった。協力者がいたのだろうか、まさかひとりで奪うなどということはできまい。

「後方に感あり!」

 オペレーターが叫ぶ。サイードは、現在自分が置かれている状況を把握するのに、数秒を要しなければならなかった。

 まさか、共和自治政府軍の本隊が到着したというのか? フェザーンから最低でも二週間、距離の暴力を克服する手段を、この短い時間で編み出したとでもいうのか。あるいは、想像を絶する新兵器が……。

 スクリーンに映し出された戦艦の姿を見て、サイードはすべてを納得した。そして、その後に控えるであろうみずからの敗北すらも。

「新帝国軍……」

 もはや、ハイネセンを奪う手段は絶たれていた。

 

 フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー上級大将は、イゼルローン回廊両出口付近に敵の艦影を確認した後、ふたつの艦隊の目的があきらかになったタイミングで、エンスルト・フォン・アイゼナッハ元帥からの指令を受信していた。

「イゼルローン駐留艦隊全軍をもって、共和自治政府軍留守艦隊の援護に向かうべし」

 万が一イゼルローン要塞は奪われても問題がない、という判断だった。もし、要塞が奪われ、再び難攻不落の城と化しても、その責任は元帥自身が負うというのである。

 ビューローの決断と行動は早い。すぐさま艦隊を動員すると、ミッターマイヤー首席元帥ゆずりの快足を飛ばし、移動と展開を敵が驚嘆する速度で可能にした。彼らの到着が数時間でも遅れていれば、惑星ハイネセンは敵軍の手に落ち、民主制体そのものが泡沫の夢と消えていたかもしれないのである。

 圧倒的優勢を築きつつある敵艦隊の後方にむかって、ビューローは全力で指令した。

「撃て!」

 落伍者はいなかった。それはすなわち、一万を越える光条の束が、敵艦隊への不可避の洪水となることを意味していた。

 しかし、おや、と思うほど敵の行動は迅速だった。一切の抵抗は見せず、感嘆するほどの手際で撤退していく。

「追撃は不要。それより、共和自治政府軍と合流したい」

 負傷者の救護や宙域の安全確保など、やるべきことは数多かった。

「急ぎすぎるな。だが、確実に実行せよ」

 

 新帝国軍の援軍を確認したとき、スーン・スールは思わず指揮シートに倒れこむようにくずれ落ち、そのまま眠りの神の抱擁に身をゆだねようとしてしまった。

 その心地よい抱擁から身を解き放ってくれたのは、自分の肩に置かれた、がっしりとした手だった。

「よくやったな」

 スーンはようやくといったふうに頭をもたげると、

「キャゼルヌ大将……」

 と、ようやく声を発した。

 ……キャゼルヌとしても、今回の戦いで補給を行うのは、かなりぎりぎりのところであったと言わざるを得ない。後方で民間船を動員しては、総力戦の批判をまぬかれないだろう。なるべく軍用艦だけで済ませてしまいたかったのだが、結局は有志の民間船を使用せざるをえなかった。

 大きく息をつく。額に浮いた汗をぬぐおうとして、ポケットからハンカチを取り出した。そこに残った赤い染みを見て、キャゼルヌは笑った。

「おや、どこかで怪我でもしたかな」

 キャゼルヌの補佐をしていた下士官が、となりでそのハンカチを見ていたのである。だから、軍でも家庭でもつねに後方勤務を命じられていた男は、つかなくても良い嘘をついた。

 後日、酒場でふたりの後輩に酒を"おごらさせた"彼は、戦いにおけるみずからの活躍をやや得意気に語ったのち、

「どうだい、おれの策は。魔術師には劣るとも、なかなかのもんだろう」

 と胸を張ってみせた。

 かつて"奇術師"と呼ばれたひとりの後輩は、魔術師の正当なる後継者と顔を見合わせると、肩をすくめながら、やれやれというしぐさを前置きしてこう言った。

「ま、いいとこ手品師ですな」



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第8話

二八

 

「見事なものだな」

 心の底から、ヴィンツェンツォ・ザザは嘆息した。おたがいの射程外に布陣した敵軍の偉容にである。堂々として、しかし毛ほどの隙もない。大軍の利を生かすことのできない宙域に、しかも航行不能宙域というこちらの利の最大たるをすぐそばにして、それすらも圧倒的な武をもって断じようとするかのごとき構えであった。あらためて、敵の畏怖すべき強さを、ザザは実感するに至った。

 軍に衆寡の差がある場合、つねに先んじて動くべきは寡の側である。だが、ザザは行軍の隙を狙うことも、布陣における動揺を狙うこともしなかった。ザザたちにとって、戦いの勝利と目的の達成は同一ではない。たとえ最後の一艦にまで撃ち減らされようと、敵の総旗艦に致命的な一撃をさえ浴びせられれば、目的は達せられる。

 白銀の美姫は、敵軍の中央に座しているだろう。王そのものであり、宇宙空間における移動する玉座。白き艦船は、新銀河帝国においてはただふたつのみである。ひとつは、"鉄壁"ミュラーの座する戦艦パーツィバル、そしてもうひとつは――ザザの視線のはるか先にその答えはあった。総旗艦ブリュンヒルト。もはや、それはひとつの伝説であった。

 ザザは待った。コルレオーネ家の影響が強い惑星から受ける補給は決して万全ではなく、不足こそないものの、むだな艦隊運動は避けるべきである。ルーカス・クリーガーがひそかに扇動している反乱が、いつ終息させられるかもわからない。千載、万載にあらわれた一遇の好機である。その終末の一点に、ザザは屹立していた。

 ザザの手の内にあるカードは、そのほとんどがブラフだった。バーデン宙域という挟隘な戦場、航行不能宙域という未知なるもの、衆に対する寡の反通例。残るカードは二枚である。自分自身と、そして……。

 苦笑する。勝ち目などなかった。だが、おれはただ武人としての誇りに生きたいのだろう。強大な敵に、全霊で挑む。それだけだ。その誇りに、ジョセフ・コルレオーネはみずからの命運をかけたのだ。

 四万の艦隊。虚空に浮く城塞のようにも、それは見えた。

 

 

二九

 

 かなり、やる。陣容を見て、ミッターマイヤーはそう感じた。二万の大軍との戦いは、彼の経験からしても稀有なものである。そして、その二万を意のままにあやつることができる人材というのも、同様に稀有だった。

 ラインハルト・フォン・ローエングラムに仕えるようになってから、ミッターマイヤーは幾度となく艦隊戦を経験してきた。そのなかでも、数的に劣勢だったことは一度ではない。新銀河帝国の黎明期には、そのほとんどの戦いで、敵との圧倒的な戦力差は保ったままだった。戦略的優位を確立してから砲火をまじえるというラインハルトの方針は、いつだって正しかったはずである。しかし、いまは、必ずしも数的優位がミッターマイヤーの後ろ楯となっているわけではなかった。未知の要素がある以上、それは数的優位をそのまま戦略的優位につなげることはできない。

 奇策への警戒は、つねに怠ることができなかった。左手に航行不能宙域、右手に高密度のアステロイドベルト。なにがあっても不思議ではない。そしてその確率は、新銀河帝国中央艦隊が敗北する確率とも近似している。

 ミッターマイヤーが組んだ陣形は、堅実ではあるが独創性に欠け、挟隘な地形のなかで、こと遊兵の数という点においては敵よりも多かった。しかしそれは、陣形の厚みというかたちで有利に働くということでもある。

「意外に消極的だな」

 不動の敵を見て、ミッターマイヤーは小さく舌打ちをした。もし、このまま凡庸な砲撃戦に移ったとして、敵側としては敗北が明らかなのである。単純な仮定だが、一対一で艦船の損耗があったとして、差し引きでこちらが二万残ってしまう。

 まして、敵はこちらに先んじて戦場を設定した。なにかを隠しているというのは疑い無いように思える。

「来い、ということか」

 ならば、とミッターマイヤーは不敵に笑った。敵にいかなる奇計奇略があろうとも、それを捩じ伏せる力を前してはどうか?

「ビッテンフェルト艦隊に伝令」

 総旗艦ブリュンヒルトの艦橋に緊張が走った。この言葉の意味を知らぬ者など、この場にはいない。それは、指揮シートに座る金髪の少年も同じであろう。

「黄金獅子の牙は何色か」

 それを、陛下に知っていただく秋が来たのだ。

 

「黄金獅子の牙は何色か」

 ふるえる声でミッターマイヤーからの通信文を読み上げたのは、ユルゲン・ハインツ・ベンヤミン少尉であった。彼は士官学校を優秀な成績で卒業した後に、ビッテンフェルト艦隊に配属された通信士官である。主だった功績はないが、"ハスキーだがよく通る声"の持ち主ゆえに、旗艦"王虎"の艦橋に席を得るに至った。冷静で我を忘れることがないという評判であったが、その彼の声が裏返っている。

 口笛を吹いたのは指揮シートにて足を組み、不本意な雌伏をしいられていたオレンジ色の髪の男である。彼は勢いよく立ち上がると、紅の烈火を瞳にやどし、叫ぶように告げた。

「突撃だ!陛下にわれわれの力をお見せするときがきた!」

 新帝国歴一八年一月一三日。虎の王の咆哮によって、銀河の一隅が深紅の特異点となることが決定した。

 

「黄金獅子の牙は、獅子が双頭の鷲の喉元に喰らいついたその原初より漆黒であった。」

 この戦いにおけるミッターマイヤーの言は、のちに引用され、上の一文をみちびきだすことになる。後世、『ビッテンフェルト元帥評伝』をあらわすことになるマクガフィン青年は、このときいまだ惑星オーディンの大学における戦史学部で助教授を勤めていた。彼は自由惑星同盟から、新帝国歴五年に移り住んできたのだが、それは帝国側の観点から、ヤン・ウェンリーという偉大な軍人を描出しようと試みたからである。しかし、彼は研究をすすめるうちに――ヤン・ウェンリーの研究が帝国でタブーでなかったにもかかわらず――、帝国のひとりの軍人に眼をつけた。それこそが、成功と失敗を繰り返し、だがどちらも大きいという特徴をもった、ある自称革命家によると"奇跡の人"、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥だったのである。

 "黄金獅子の牙"。その色を問われたとき、人はその獅子が描かれた栄光の軍旗を想像する。だが、マクガフィン氏にとって、それはただ描かれた紋章にすぎず、彼が歴史資料という剛脚を地面におろしたまま広げる、想像の翼を邪魔するものにはけしてならない。彼は知っているのである。フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトという男が、のちに皇帝となるひとりの青年の最古参の臣下であったということを。

 ビッテンフェルトは、ジークフリード・キルヒアイスの次にラインハルト・フォン・ミューゼルに召し抱えられ、常に自由惑星同盟との争闘、ひるがえっては、双頭の鷲の紋章を戴く旧銀河帝国の簒奪の先頭にたち続けてきた。

 マクガフィン氏に言わせれば、黄金獅子の牙とは次のようである。

「黒色槍騎兵艦隊あるかぎり、黄金獅子の牙は漆黒であり続けた。ラインハルト・フォン・ローエングラムは、黄金の翼で虚空を雄飛するたびに、漆黒の牙を朱にそめあげたのである。」

 ――だが、もし後世の人々が『ビッテンフェルト元帥評伝』を読み、新銀河帝国歴一八年の記述まですすんだ場合、うしろに控えるページの数は、残り少ないものになっているであろう。それを知るものは、移り気な神をのぞいて、その場にはあるはずもなかった。

 中性子レーザーの曵光が交差する。その光条の終着点では、つねに人命が消えていくのだった。

 

 黒色槍騎兵艦隊が動き出したという報は、ただちにコルレオーネ家軍全体に浸出していった。このままだと、まもなく左翼側がおそわれることになる。

「応戦せよ。手筈どおりに」

 コルレオーネ家軍の左翼はミケーレである。勇に大きく傾斜した指揮官であるが、ビッテンフェルトにくらべたらその絶対量は比較にならない。

 漆黒の艦隊は、紡錘の陣形を保ったまま、まっすぐに突っ込んでくる。恒星バーデンのアステロイドベルトに接触しない、ぎりぎりかつ絶妙な位置だった。

 たいするこちらは、紡錘の先頭の一点に向けて、火力を集中するのみである。双方に犠牲は出るだろう。だが、下手に動けば、次は本隊と右翼を噛みつかれる。

「ただ、耐える。やつらが隙を見せるまで」

 だれに向けて言ったのか、彼自身にも知れないことだ。脳内の思考の泉からあふれでた言葉が、ひとりごとというかたちで出てしまうのである。ザザの身の回りにいる男たちは、それを知っているのか、だれもなにも反応を示すことはなかった。あるいは自分に言い聞かせたのか。それすら、ザザは計りかねていた。

 

 グスタフ・イザーク・ケンプ中尉は、この戦いにおける総旗艦ブリュンヒルトの艦長補佐第三席であった。彼の父の名は、カール・グスタフ・ケンプという。

 ブリュンヒルトにはひとりの艦長のもとに何名かの補佐がおり、グスタフ・イザークは三番目の補佐として、航宙士らと連携をとりながら、重要な仕事に従事していた。仕事ぶりそのものは熱心で、次世代のブリュンヒルトの艦長は彼であろう、とだれもが思っていた。

 グスタフ・イザークの為人をひとことで表すなら、それは"武人"である――と、彼を一目みた者は口をそろえるだろう。だが、それは彼の外面だけをとらえて、すべてをわかった気になっているだけにすぎない。彼のほんとうの姿を知る者は、彼自身というたったひとりをのぞいて他にない。グスタフ・イザークは、カール・グスタフ・ケンプという偉大な武人を父に持ちながら、その遺伝子は外見的特徴のみを伝達していたのだった。

 彼の内面は、後天的な原因によって、この方向への進化を強制されたのである。その進化の方向性は、父親が経験したものとはかけ離れ、あえて言葉で表すなら"卑屈"こそがそれにふさわしい。

 尊敬すべき父カール・グスタフ・ケンプの死は、グスタフ・イザークの人生に影をおとした。いや、彼そのものが暗い道に迷い混んでしまったというべきか。父は、彼にとって巨大な太陽だったからである。その光を受けなければ、影が生まれようはずもないのだ。

 父の死後数年は、支払われた遺族年金と、"上級大将"という称号を誇りに思うことによって、グスタフ・イザークの心はなぐさめられていた。しかし、ラインハルト・フォン・ローエングラムが皇帝となり、"ジークフリード・キルヒアイス武勲賞"がおかれるにあたり、グスタフ・イザークはわずかに疑問を持ちはじめた。

 父は、たしかな武勲を挙げていたはずである。有能なパイロットであり、提督であったはずだ。それなのに、なぜ、元帥号も与えられず、表彰もされず、さらにのちの戦史家たちに、"捨て駒にして、無駄死に"とけなされることになるのか。

 少しずつ、グスタフ・イザークのなかで、父という黄金の偶像がひびわれはじめた。多くの人間から、カール・グスタフ・ケンプという塑像が、じつは金箔によって一枚皮をあたえられていたのだというそしりを、彼はうけた。グスタフ・イザーク少年は、彼の目の前で、少しずつ金箔をはがされ、その下に隠れていた父の暗い顔をあばかれていったのだった。

 彼の新銀河帝国にたいする疑心は、かくて沈積していったのである。この大帝国のいしずえには、まちがいなく父の亡骸があるはずだ。しかし、そのいしずえを思い起こし、亡骸に祈りを捧げるものがどこにいる?

 ……このような疑念を抱きながら、グスタフ・イザークは、それでもさだめられたかのように士官学校に入った。彼が目指したものは、父が勇名を馳せた単座式小型戦闘艇のパイロットではなく、戦艦の艦長だった。

「父の汚名をすすぐなら、それは息子の名をもってすべきだろう」

 彼は新帝国にたいして疑いをもっていたが、それ以上に、父の名をおとしめることはしたくなかったのである。

 そうしてみずからを研磨しつづけた彼がいま行っているのは、平面維持と呼ばれる計算だった。

 宇宙空間は、言うまでもなく三次元的に広がる空間である。しかし、宇宙船は三次元的な戦いを行えない。たとえば、X-Yという平面にたいし、垂直にひろがるZ軸があるとして、その空間内で戦艦どうしが撃ち合いを行うことを想定する。この場合、おたがいの戦艦が他方の戦艦にたいして、直線的に進んでいく砲撃を互角に命中させるためには、双方の艦が同一平面上になければならないのである。

 敵艦にたいして、垂直方向の位置を確保できれば、たしかにその艦は有利である。だが、その艦数が増えれば増えるほど、自分の艦にたいして、逆に相手の艦が垂直方向を位置取る可能性も増えるのだ。したがって、艦隊戦は、まことに奇妙な話であるが、相手に垂直方向を盗まれぬよう、おたがいがおたがいの同一平面を見立て、おたがいの同一平面に位置取りを続けることで成立するのである。

 艦船はたえず位置を変え続けるから、この平面維持のためには、敵と味方の艦船の位置を計測して、絶え間ない計算が必要なのだった。むろん、ある程度のことはコンピュータが自動で行うが、不意の要素にたいしての備えは、人間が行わなければならない。

 一般に、平面維持装置が耐えうる仰角・俯角の限度は、それぞれ宇宙船にたいして四五度とされている。それ以上をこえると、コンピュータによる自動計算が行われず、人間の頭脳に頼るほかなくなってしまう。

 人々が宇宙空間において平地と変わらぬ活動ができるようになったのは、いくつかの要因があるが、最も大きなものをあげるなら、この平面維持装置と疑似重力発生装置のふたつである。後者は、疑似引力とも言い換えられるが、すなわち、無重力である宇宙空間において、前後左右上下の別をもうけるために、人々の足や物が、戦艦の床に張り付くようにする装置である。

 これらの装置の発明は数百年前にさかのぼるが、すべてを完全に自動化することは、ついぞできないでいる。この事実は、宇宙という"大自然"が、あらゆるものを克服してきた人間にたいして課す、最大の試練かもしれなかった。

 そうした試練に、グスタフ・イザークは挑み続けている。彼のその闘争心は、皇帝や国家への忠誠を燃料とするものではない。彼の燃料は、ただ歴史の影におびえることを余儀なくされた、尊敬すべき父の、唾棄すべき屈辱であった。

「前進する」

 赤いマントをかけた艦隊総司令官からの指示に、グスタフ・イザークはすばやい両手の動きによってこたえた。ビッテンフェルト艦隊の行動開始から、やや遅れてのことである。このままだと、右翼が前進する斜線陣にちかい陣形で敵とぶつかることになるが、原始的な斜線陣の真髄は、火力の疎と密を意図的につくりだし、その火力の比重によって敵の戦線崩壊をねらうことにある。

 挟隘な地形では、しかし、兵の数によって火力の疎密をつくりだすことができない。ミッターマイヤーは、右翼のビッテンフェルト艦隊を前進させることにより、純粋な砲門の数差によって、火力の疎密をつくりだしたのだった。むろん、これは黒色槍騎兵艦隊が、敵よりも圧倒的な火力をそなえている、という前提に依ったものである。

 はたして、そううまくいくだろうか。味方でありながら、グスタフ・イザークはその成果に懐疑的だった。そこまで単純な敵であるならば、このようにのこのこと出てくることはないだろう。勝つために自分の手を惜しむことはしないが、グスタフ・イザークにとっては、みずからと父の名誉のために、戦いの勝利よりも優先すべきことがあったのだった。

 

 

三〇

 

 前進を指示したミッターマイヤーであったが、これで勝ちを確信していたわけではない。黒色槍騎兵艦隊の砲火をうけながら、敵はまったく陣形を崩すことがなかった。たえず戦線が崩壊しようとするところを、毛一本のところで耐えている。

 ミッターマイヤーの構想は、斜線陣によって敵の左翼を突破し、側面および後方に艦隊を展開するすることで、大軍の利を最大限生かすことであった。挟隘な戦場で、真正面からぶつかりあう必要はない。いたずらに戦力を磨耗するだけだろう。

 黒色槍騎兵艦隊の猛攻をうける敵左翼は、つねに戦線崩壊の危機にさらされているといっていい。しかし、けっして統率と集団を失わず、数十、あるいは百艦程度の小集団に分かれながら応戦している。

 謎の艦隊である。だが、練度という点でいえば、かなりのものがあるように思われた。指揮官も、けっして凡庸ではない。二万の艦隊を統率できるなど、非凡といっても良いだろう。

「敵にしておくのが惜しいくらいだ」

 ミッターマイヤーは素直に感嘆した。むろん、自身の敗退など微塵も考慮のうちにない彼である。それは、彼らの傲慢などではけっしてない。彼らは、考えに考えてたどりついた結論なら、その先に勝利があると信じているのである。

「敵艦隊、後退」

 通信が入った。ビッテンフェルト艦隊からである。

「そうだろうな。おれでもそうする」

 無意識のうちに、敵の指揮官をみずからと同列に並べていることに、ミッターマイヤーは気づいた。それは自己矛盾と自己陶酔の化合物ではないのか? 彼はそう束の間考えて、みずからのうちに湧き出でた疑念を振り払おうと、かるく頭を振った。

 ミッターマイヤーの心の内には、あるいは残虐と言ってもよい思いがひとつある。それは、新銀河帝国への挑戦者は、あの男以下であってはならない、というものである。あの男――オスカー・フォン・ロイエンタールになし得なかったことが、どうしてあの男以下の者に果たせようか?

 新帝国歴二年のあの戦いで、ミッターマイヤーは文字通り死力を尽くしてたたかった。そこには、数万にわたる会話に勝るなにかがあったはずだった。どちらかが果てるまで、そのたたかいは続くはずだった。いや、続かなければならなかったのである。おたがいがおたがいを、自分以上の実力者と定義しながら、背を向けた相手の方へミッターマイヤーが振り返ったとき、ロイエンタールの背中は、まったく予期し得なかった方向から、凶刃によって貫かれたのだった。

 おれは、たしかにあのたたかいを、心のどこかで愉しんでいたのだ。ロイエンタールへの怒り、陛下への忠誠、将としての義務……あらゆるものを差し置いて、どうしようもなくみずからに流れる武人の血が、強大な敵と死力を尽くしてたたかうことに悦びを感じていたのだ。それでも、おたがいに血にまみれながら、その最後の決着は、ミッターマイヤー自身の手からも、ロイエンタールの手からも、滑り落ちてしまった。

 強大な敵をこそ、ロイエンタールは求めていた。ラインハルト・フォン・ローエングラム陛下と、それからおれと。あるいは、ジークフリード・キルヒアイス、ヤン・ウェンリーと。みな同じではないか。その憧憬に、どこかで身を焦がしてはいなかったか。たたかいによって、充足を感じてはいなかったか。口では平和を望んでおきながら、抗うことができないまでに矛盾した感情。けっして満たされぬ、満たされてはならぬ孤独。あの日以来、おれは、心のどこかでそれに苛まれていたのだ。

 だから、名も知らぬ敵よ。ミッターマイヤーは言葉に出さず語りかける。簡単に打ち倒されてくれるなよ?

「ビッテンフェルトに通信。敵の誘いに、わざわざ乗ってやる由はなし」

 ミッターマイヤーは、ちらりと指揮シートに座る金髪の若者を見た。自分は斜め後方に控えているので、その表情は見えない。まだ少年の面影は濃く、それはあと数年は残り続けるだろう。だが、ときおり、はっとするほどの天稟がみえることがある。獅子帝の遺伝子は、この戦いの果てに、何を得るのだろうか。

 それから、あの子は――。

 

 後退していく漆黒の艦隊を見て、ヴィンツェンツォ・ザザはするどく舌打ちをした。一筋縄でいかないだろうことは事前に予想されていたが、実行する段階にいたったところで、困難は避けられるものではなかった。

 ザザが艦隊を退げた目的は、バーデン星系外縁と航行不能宙域による隘路の出口へと、敵艦隊をおびき寄せることにあった。隘路を出たところで、その出口にたいして半包囲陣形を敷けば、頭を出した敵艦隊に砲火のスコールを浴びせることができる。

 しかし、そんな誘いに乗るほど、帝国軍は甘くなかった。黒色槍騎兵艦隊ならば、あるいはとも思ったのだが、ビッテンフェルト元帥もまた百戦錬磨である。

「そう簡単にはいかないな」

 敵艦隊がこちらの射程外にさがったのを見て、ザザは艦隊に前進を命じた。敵艦隊の心臓にむけて喰らいつくのである。たえず圧力をかけ続ければ、どこかでほころびが生じるはずだ。

 横隊のまま、しかし中央艦隊に火力を集中する。ザザの真の狙いは、この段階では皇帝アレクサンデル・ジークフリードにはない。ザザが狙いをさだめたのは、敵の左翼ーー情報によるとカール・エドワルド・バイエルライン艦隊である。

「やつは二重の忠誠を抱いている。皇帝アレクサンデル・ジークフリードと、首席元帥ウォルフガング・ミッターマイヤーにだ。そして両者は、どちらもおなじ艦に乗っている」

 ザザは艦隊を前中後段のみっつにわけ、それらが入れ替わることによって連続的な火力の集中を可能にした。左翼のミケーレ艦隊に関しては、黒色槍騎兵艦隊を抑え込むために割かなければならなかったが。

 バイエルラインは、忠誠と敬愛の過剰なばかりに失敗をするタイプの軍人であるはずだ。もし敵の左翼がほころびを見せれば、そこにつけ入る隙があるだろう。

 

 バイエルラインは耐えていた。こちらのみっつの艦隊のなかで、もっとも格が劣るのは自分である。首席元帥とは比較にもならないし、ビッテンフェルト元帥とも越えがたい壁があるのは自覚している。それゆえに、次に狙われるのは自分であるだろうということも。だからこそ、バイエルラインは耐えねばならなかった。

 バイエルライン艦隊の長じるところは、ミッターマイヤー艦隊ゆずりの機動力である。ミッターマイヤーは、その機動力と戦術センスを合算することで、なにものにも並ぶもののない艦隊をつくりあげた。だが、自分はそのどちらもが模倣である。挟隘な戦場で機動を生かすすべは見つからず、自発的な艦隊運動はほとんど行っていない。

 バーデン星系を反時計回りに迂回して、敵の後方をつくことも考えた。だが、バイエルラインがそのような行動をおこしたところで、その瞬間に彼我の戦力は拮抗することになる。また、こちらの狙いも明白になりすぎる。奇策は、対抗するすべを編み出されてしまった時点で奇策ではなくなるのである。

 耐えろ。バイエルラインはみずからに言い聞かせる。ミッターマイヤーからの指令はない。いまは、動くべきではないということだ。しっかりと陣形を整え、各個撃破に専念しながら、反撃の機会をうかがう。

 第二次ランテマリオ会戦。おれは、そこでロイエンタールにしてやられたではないか。そこに、"まだ"という接頭辞をつける余地などなかった。完膚なきまでに打ち倒され、反撃もできなかった。おれは敗けたのだ。肩書きにこだわる彼ではなかったが、あの戦いは、元帥と大将とに横たわるへだたりを、象徴的にあらわしていたのである。

 三段にかまえた敵が、中央艦隊に火力を集中する。右翼のビッテンフェルト艦隊は、いまだ突撃を繰り返していた。つまり、ビッテンフェルト元帥は、中央艦隊が危地にあるとは思っていないのである。

 ミッターマイヤー首席元帥を信じるしかない。バイエルラインとて、また覇者の朋である。おたがいに背中を預け、預けられている以上、眼の前の敵は打ち倒してくれると信じるべきだ。

「提督、中央艦隊が……」

 進言してきた参謀長ケラー大将を手で制止ながら、バイエルラインは言った。

「なにも問題はない。こちらの陣形は崩れておらず、敵の牙は皇帝陛下の御元に届きようもなし。もしこのまま敵が中央艦隊のみを攻撃するのであれば、われわれは黒色槍騎兵艦隊と連携してそのまま敵両翼を破り、側面と背面を襲えばいい」

 参謀長がこくりと頷いた。すこし口元に笑みを浮かべているのは、バイエルラインの葛藤を見抜いたからなのか。

 バイエルラインは、賢明な参謀長に笑みをもって礼をなすと、ふたたび艦橋スクリーンに眼をやった。

 戦況は、まだ動かない。それは、自分の行動によって動くことがないということだ。敵か、あるいはミッターマイヤー首席元帥か、それともビッテンフェルト元帥か。自分の艦隊は、その決定的な場面で、役割を果たせばいい。

 

 バイエルライン艦隊が不動を貫くのを見て、ミッターマイヤーは小さく笑った。それは、校長として教え子の成長を見守るのに似ている。

 敵の狙いは、あきらかにバイエルラインにあった。ビッテンフェルトはいちはやくそれを見破り、手薄になり得る敵左翼に猛撃をくわえたのである。しかし、敵左翼はそのまま黒色槍騎兵艦隊のために割かれており、したがって中央艦隊に集中した火力も、ミッターマイヤー艦隊ひとつで耐えられないものではなかった。

 ミッターマイヤーのなすべきことは単純そのものである。崩壊しかける戦線を維持しながら、敵の浸透をはばみつつ、わずかな隙に砲撃をたたきこむ。中級司令官も、よくやっていた。このあたりは、動乱の時代を生き抜いた者たちがうまく動いてくれているのだろう。

 戦いは、まもなく二日目に差し掛かろうとしている。ここまでは、ほぼ無休だった。新兵たちの弱さがでるのは、このあたりかもしれない。新兵特有の興奮状態でいられる時間は、勝利のために必要な時間に比べて、あまりに短いのである。だが、それを耐えられれば、新兵も大きく成長するはずだ。

 艦隊を細かく動かしながら、ミッターマイヤーは祈っていた。戦力の差は大きいが、経験の差ではこちらが敗けていると考えるべきだろう。敵の動きは素早く、かつ統率がとれている。あきらかに、実戦経験を積んだ兵だった。

 小さな隙。しかし、それを突けるほど、こちらの動きは機敏ではなかった。こういうことが、この戦いでは何度もあった。陣形の維持こそ、兵力の多さによってぎりぎりのところで成立してはいるが、そこから逆撃に転じることはより高度だった。

 敵の攻撃は六時間に及んだが、ミッターマイヤー艦隊に大きな犠牲はでなかった。この間、ビッテンフェルト艦隊は敵左翼との相討ちにちかいかたちで後退を余儀なくされ、バイエルライン艦隊が敵中央艦隊の後退に合わせて追撃をおこなった。しかし、敵艦隊は整然と後退し、バイエルラインが深追いしていたのなら、痛撃をうけていたのはこちらのほうだったかもしれない。バイエルラインは絶妙な位置で追撃を停止し、ほとんど犠牲を出さずにミッターマイヤーと合流を企図した。

「さしもの卿もおとろえがあるかと思ったが、杞憂であったな」

 かなりの激戦だったはずだが、ビッテンフェルトの生気にかげりは見えない。やはりこの男は、戦でこそ輝くのだ。

 両軍が互いに後退したので、両軍が奏でていた狂想曲のなかに、ようやく短い休符がきざまれることとなった。ミッターマイヤーは、軍議のためにビッテンフェルトとバイエルラインを呼び寄せていた。ビッテンフェルトは早めに後退していたので、先に来ていたのである。

「新兵が、思ったよりもよく動いた。それが大きいだろう」

「謙遜するなよ、ミッターマイヤー。おれから見ても、卿の指揮は見事だった」

「こちらを心配する余裕などないように見えたのだがな」

 ビッテンフェルトは饒舌だったが、ミッターマイヤーの黙した態度に鼻白んだようである。

「おまえの息子は、よくやってるよ」

 予想外からの砲撃に、ミッターマイヤーはビッテンフェルトを振り向いた。

「フェリックスの話は、よしてくれ」

「ほう、首席元帥も親だな」

 本音を言えば、ビッテンフェルトが突撃を指示するたびに、ミッターマイヤーは内蔵のどこかが痛むのだ。ビッテンフェルトが無意味に花を散らすのを好まないということを知ってはいるが、戦場では、いつだれが死んでもおかしくないのである。それこそ、流れ矢にあたるように死んだとしても、だれに文句を言うことができるだろうか。

 やはり、矛盾している。あれほど、戦いに血を沸かせていたではないか。自由でいられたではないか。武人でいられる自分と、父親でいられる自分は、どうしようもなく交互にやってくる。

 子を持たぬ卿にはわかるまい、と言いかけて、ミッターマイヤーは眼を閉じた。この言葉は、ビッテンフェルトと自分との間に、越えがたい壁をつくりかねないのである。かつて、友と最後に交わした酒の酔いに任せてしまったときのように。

「子を持たぬおれにはわからぬ」

 そう独語が聞こえて、ミッターマイヤーは思わず顔をあげた。ビッテンフェルトが、腕を組ながらどこかをにらんでいる。

「だから、おれは所帯をもたんのだ。自分の命も、家族の命も惜しくなるからな。おれは人を死なせる覚悟がある。それ以上に、おれ自身を死なせる覚悟があるのだ。個人の命を惜しむようでは、黒色槍騎兵艦隊の指揮官など務まらんよ」

 結婚できぬ負け惜しみには聞こえなかった。ビッテンフェルトの覚悟。だれよりも敵を殺し、味方を死なせてきた男が、そういう生き方を選んだのである。それをそしる者がいるなら、ミッターマイヤーは全力でそれを殴りつけるだろう。ミッターマイヤーは、だからこそ、この男が嫌いになれないのだった。

「おれは、おれの命が惜しいよ、ビッテンフェルト」

「卿はそれでいい。卿の命は、陛下とともにあるのだから」

 ビッテンフェルトが笑ったので、ミッターマイヤーも笑った。彼らはつねにおなじ陣営で戦い、おなじ美酒に酔い、おなじ苦杯を呑み込んできた。

 従卒にワインを頼みながら、ミッターマイヤーは言った。

「では、フェリックスの話を聞かせてくれないか?」

「直接聞け、お父さん」

 むろん、ビッテンフェルトは知っている。フェリックスの実の父親が、ロイエンタールであることを。だが、彼は血のつながり以上に、いまの姿と能力を大事にしているようである。それはなにも知らぬ他の者にとってもおなじだろう。フェリックスが才覚を発揮している限り、あの子はミッターマイヤーの子でいられるのである。

 そんなふうに、己を縛りつけなくていい。だが、それは高望みというものだろう。フェリックスは、みずから選んでミッターマイヤーの子となったわけではない。むろん、ロイエンタールの子であるということも。だが、軍人という道を選んだのはフェリックス自身である。それがどういう意味を持つか、ミッターマイヤーは懇切に説いたつもりだった。それでも、あの子は選んだのだ。そして、得られた場で、あの子は才能を発揮しつつある。

 あれは、おれの子だぞ。そう叫びたい欲求を、ミッターマイヤーはつねに抑えてきた。知らせるべきは、ロイエンタールにだろう、と思うからである。あの男の血をうけた子を、みずからの子にしてしまっていいのだろうか。その葛藤に耐えたことは一度ではなく、耐えきれないと思ったことも同様に一度ではなかった。

「さて、バイエルラインが来たぞ、首席元帥」

 幸運なことに、ミッターマイヤーの葛藤は、迷宮入りの前に呼び止められた。

 戦いの最中である。帝国のためにも、自分のためにも、この戦いは勝たなければならない。

 バイエルラインが着席する。三人のなかでもっとも若いが、経験は劣らぬほどに豊かである。そして、よく耐えた。敵の狙いを完璧に読みきり、ミッターマイヤーを信じた。よく成長したものだ、と思う。

 やや遅れて、摂政ヒルデガルドと皇帝アレクサンデル・ジークフリードが入室した。立ち上がり、ふたりに敬礼する。さすがに、ヒルダのほうには疲労の色が濃かった。日頃の激務に加え、摂政となって初の戦争である。それに比して――この少年の涼やかさは、いかなるものか。

 彼の父親であれば、ラインハルト・フォン・ローエングラムであれば、戦を眼の前に頬を紅潮させ、瞬く間に勝利へとわれわれを導いてくれただろう。だが、その子の蒼氷色の瞳は、どこまでも温度を下げている。

 背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、ミッターマイヤーは今後の作戦案を語り始めた。

 

 

三一

 

 ミケーレの隊が、限界を迎えつつあった。よく耐えた、と思う。本来は、猛攻を得意とする指揮官である。それが、守りを一方的に強制される戦いで、あの黒色槍騎兵艦隊を相手に耐え続けているのだ。いまの戦線は、ミケーレに支えられているといっていい。だが、それもそろそろ限界を迎えるだろう。

 激戦に生まれた小休止のなかで、ヴィンツェンツォ・ザザは、帝国軍と同様に軍議を行っていた。犠牲の確認と、今後の方針決定のためである。犠牲は、ミケーレの隊をのぞけば、それほど多くは出ていない。

「敵がこの段階で休止を選んだということは、おそらくいまままでのような単調な撃ち合いを避けたいからだろう。むこうにはこちらの窮状が知られずにいるのだからな」

 ザザの発言に、みなが頷いた。もはや、ザザが指揮官であることを疑う者はいない。ザザはみずからがこの艦隊を統べる者であることを、実力によって証明したのである。

「敵がこれから行うべきことは、おそらく二つだ。ひとつは、陣形を変え、なんらかの奇策にうって出ること。もうひとつは、このまま単調な殺しあいを続けること。後者を選ぶならこの場で休止などしていないだろうし、おれとしては、おそらく前者ではないかと思う」

「では、その奇策とは?」

 将校のひとりが言う。苦笑した。それがわかれば、この戦いはすでに勝っている。

「わからんが、考えられるうちにできるだけ考えておきたい」

 逃げの回答ではあったが、納得させるには十分だった。

「もし、敵がこのまま殺しあいを続けたら?」

 発言したのはミケーレである。すでにいくつか死線をくぐりぬけてきたのか、数日前とは顔つきが変わっていた。

「その時は……」

 刹那、戸惑ってから、ザザは言った。指揮官である限り、勝利の夢は抱かせ続けなければならない。それが、たとえ発言者にとっては幻に感じられていたとしても。

「切り札をつかう。それだけのことさ」



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第9話

三二

 

「しずかだな」

 ヴィンツェンツォ・ザザは独語する。戦場は、凪のようにしずかだった。帝国軍は陣形を組んだ。だが、そこに、ビッテンフェルト艦隊はいない。

 バーデン星系を迂回する策を選んだのか。しかし、それでは一時的に戦力は拮抗する。黒色槍騎兵艦隊が抜けた帝国軍は、三万艦に過ぎない。いくらか減ったとは言え、こちらもまだ二万艦ちかい戦力を有しているのだ。皇帝という重荷を抱えた帝国軍が、そのような危険性を考慮の外におくとは考えにくい。まして、帝国には皇帝の嗣子が存在しないのである。

「この機を逃す手はない」

 ザザは陣形を横隊に保ったまま、前進を指示しようとした。しかし、その指示はかたちを得ぬまま虚空に消えていった。オペレーターの絶叫が、それを上書きしたからである。

「敵艦隊捕捉! 黒色槍騎兵艦隊です!」

 ザザの脊髄に稲妻が走る。指揮シートから立ち上がり、叫ぶように言った。

「馬鹿な。一体どこに!?」

「Xゼロ地点、Yゼロ地点――真上です!」

 続いてザザを襲ったのは、シートにつかまらなければ平衡を保っていられないほどの上下振動だった。

 

 まだ人間の戦場が地上か海上かにかぎられていた時代、人間は不屈の精神によって空を飛ぶ機械を生み出し、それはそれまでの戦争という非人道的行為に大きな変革をもたらした。戦闘機と名付けられたそれらは、あらたな破壊と殺戮の代理者としての地位をほしいままにしたのである。やがて、パイロットの技兩と科学の技術とが成熟するにいたり、彼らは戦闘機による破壊と殺戮をより高度化するために、効率的にそれらを可能にする"戦法"という概念を、戦闘機においてさえ延長させた。そのうちのひとつ、高々度からの一撃離脱戦法は、ひじょうに有用ではあるものの、地海上においては、その限界を早々とむかえることになった。戦闘機は、陸地や海洋に激突したら、たちどころに破壊され、乗員の命も失われるからである。したがって、一撃離脱戦法は、急降下ののちに急上昇という、一部の人間にのみゆるされた操縦によってしか成立しなかったのである。

 眼の前で起きたこれはなんだ――とグスタフ・イザーク・ケンプは眼を見張った。機械は人間に頼らずに、同時に人間は機械に頼らずに、宇宙空間において生存することは不可能である。人間の活動を、宇宙空間においても可ならしめたさまざまな装置。それらの臨界点を、ただ人間の勇気によって越えることが可能であるのか。

 敵軍が存在するXーY平面にたいして、ただ垂直に突撃する。黒色槍騎兵艦隊は、かつての一撃離脱戦法において唯一の弱点であった、"急降下、のち急上昇"の必要性を、宇宙というZ方向へ無限に広がる空間において克服したのである。それも、かぎりなく無謀に傾斜した雄図によって。

 敵の陣形に、風穴がいくつも開いた。黒色槍騎兵艦隊は、横に広がった敵陣を、思いもよらぬ角度から喰いちぎったのである。

「全艦前進。敵の動揺を衝いて制圧する」

 ミッターマイヤー首席元帥の指示が飛んだ。

 最終局面である。敵もかなり手強いものだったが、帝国軍はそれ以上だった。戦いの結末は、つねにこのようなものなのだろう。どれほど互角に戦おうと、その均衡がくずれるのは一瞬である。それがおとずれたとき、勝者と敗者が双生児というかたちをもってうまれてくるのだ。

 

 狂気の波濤は、人間の想像や技術の限界すらも凌駕し、あらゆるものを呑み込んで広がってゆく。人は狂気に身を委ねぬために理性をみがき、本能にさまざまなかたちで衣を被せる。その覆いを取り払うことができるのは、途方もない愚者か、たっとぶべき勇者か。あるいはそれらは、ひとりの人間がもつ両側面なのか。

 ヴィンツェンツォ・ザザは、自身のなかに恐怖がさざ波のように押し寄せるのを感じていた。みずからの死にたいする恐怖ではない。たがの外れた、常識では考えることのできない人間を眼の前にした恐怖である。

 陣形にいくつかの風穴があけられただけで、特筆すべき犠牲は出ていない。衝撃は旗艦にもおとずれたが、損傷そのものはなかった。だが、犠牲に比して被害は甚大である。どこを狙ってくるのかわからない天災のような攻撃は、陣形を組むものに多大な精神的負荷をしいるのだ。

 第二撃は、すぐに来た。漆黒の光条によって風穴はあいたが、それだけである。しかし、動揺は大きなものになった。この機を、あのミッターマイヤーが逃すはずもない。

「陣形を再編する。後退しつつ、上下三段に艦列をならべよ」

 上の一段が破られたとて、下の二段が敵の横腹に砲撃を加えることが可能になるはずだ。

 だが――、ザザもこの行動には大きな危険がともなうであろうことを承知していた。

 全力を出した戦いの最後が、賭けか。

 陣形がすみやかに再編されていく。ある脅威から早足で逃れようとするかのように。

 

 

三三

 

 敵の陣形が変わったのを見て、ミッターマイヤーはバイエルライン艦隊へ通信を送った。

「中央艦隊の背後を繞回し、敵側面を突け」

 敵の指揮官は、かなり優秀である。それも、いまの帝国軍において比肩するものはなかなかいないほどだ。敵にしておくのは惜しいが、敵のままにしておくのは危険である。ならば、その優秀ささえも思考のうちに入れて、作戦を練れば良い。

 ビッテンフェルトの非常識的な戦法は、あくまで陽動であった。派手だが、生まれる犠牲は少なく、対処そのものは容易である。優秀な指揮官ならば、そう考えるだろう。だが、一般の兵たちの動揺にまで対処するためなら、わかりやすく眼に見えるかたちを示さなければならない。すなわち、その対処に特化した陣形の構築である。いくつかあるだろうが、敵の指揮官が選んだのは、上下三段に艦隊をわけることだった。しかしそうすれば、艦隊はZ軸にのびざるをえない。したがって、挟隘な戦場において、敵の両翼の外側に、わずかな間隙ができるのである。

 バイエルライン艦隊を、左翼から右翼へ移動させ、その間隙に滑り込ませる。そうして、半包囲陣形を敷きつつ、航行不能宙域側へと敵軍を押しやる。ビッテンフェルト艦隊は、バイエルライン艦隊の繞回完了を確認してから、その半包囲に加われば良い。

 バーデン星系のアステロイドベルト側に押しやることも考えたが、航行不能宙域に敵の利がある以上、それを背にするのは避けたかったのである。

「さて。あとは、おれの仕事だな」

 ミッターマイヤーは艦橋スクリーンをにらんだ。ミッターマイヤー艦隊は二万。バイエルラインは繞回を終えるまで戦闘に参加できない。ビッテンフェルト艦隊は、戦列にはいない。つまり――敵軍と戦力が一時的に均衡するのである。

 敵軍が、まっすぐに突っ込んでくる。単純な押し合い。首席元帥という地位にあろうとも、愚直な、原始的な戦いをするのか。卿がいたら、笑うだろうな。いまは何の時代かと。だが、これがおれの戦いだ。そしてこれが、おれの生き方なのだろう。

 わずかな自嘲とともに、ミッターマイヤーは声を張り上げた。

「撃て!」

 光条が奔る。切り裂かれた虚空のなかに、友の姿を見た気がした。

 

 繞回運動の途中にあって、バイエルラインは左手に敬愛する上官の死闘を見ながら、背中に冷たい汗がつたうのを感じていた。

 ミッターマイヤーを疾風とするなら、バイエルラインはそよ風だった。ただ柔く肌をなでるだけの微風。みずからの無能非才を、これほど呪ったことはない。

 もともと敵の左翼にあった艦隊の攻撃が、激烈だった。いままで黒色槍騎兵艦隊を抑え込んでいた艦隊である。防御にたけた艦隊なのかと思っていたが、本質は攻めにあるようだった。

 ミッターマイヤー首席元帥は、バイエルラインを信じてこの作戦を決行したのだ。新兵だらけの艦隊で、敵の精鋭を抑え込む。それがどれほど困難なことか。それも、皇帝を抱えてである。

 一秒ごとに、火球が炸裂していく。黒色槍騎兵艦隊にさんざん乱されようと、敵は意に介さない。まだか。いや、焦りだけは友としてむかえてはいけない。ミッターマイヤー首席元帥は、ただ信じてくれた。おれも、彼を信じるだけだ。

 総旗艦ブリュンヒルトは後方だが、敵の砲火はそれにとどきそうな勢いで伸長してくる。おそらく、攻めているほうが犠牲は大きいはずだ。そういう攻めかたを、敵はしている。

 間に合え。アステロイドベルト。眼の前にあった。敵の側面は、すぐそこである。右手をあげた。猛烈に中央艦隊に侵入してくる敵軍の脇腹を、ようやくとらえた。

「撃て!」

 右手を振りおろす。その瞬間をもって半包囲陣形はここに完成し、勝敗は決した。

 

 間に合わなかった。耐えるだけ耐え、ようやくできた勝利の鉄扉が、音をたてて閉じていく。その音と、天上へ天使が奏でる角笛の音は、きっとおなじだ。

「負けたな」

 死力は尽くした。それでも勝てなかった。それならば、なにも悔いはない。ザザは全軍に指令を送った。

「後方の隊から退け。本星へ帰投せよ。旗艦はそれを援護する」

 猛攻が続かなくなったミケーレが、さがってきていた。あれだけ激戦にいたのに、運が良いのだろう。ミケーレならば、おそらくは退却も迅速におこなえる。

 退却を告げられたミケーレは、なにか言いたげであったが、ひとつだけ敬礼を残して、通信を切った。

 旗艦を中心に、砲門をならべる。一時的な火力の集中によって敵の浸透をはばみつつ、後方の隊の退却を支援する。バイエルライン艦隊からの側面攻撃は激しいが、かなり早足で移動したのだろう、一万が完全にはそろいきってはいなかった。だが、黒色槍騎兵艦隊が合流しつつある。

「旗艦の乗組員も、そろそろ離脱せよ。よくやった。礼を言う。ジョセフさまに、おれの死を伝えてくれ」

 オペレーターの何人かがたちあがり、何人かが座ったままだった。死にたいのなら、ここにいればいい。そういう酔狂は、嫌いではなかった。

「おれの仕事は、あとは突撃してスイッチを押すだけさ」

 おれも、ずいぶん狂人だな。小さく笑ったが、それに気づいたものはだれもいなかっただろう。

 一度、記憶を失った。失うまえも、ヴィンツェンツォ・ザザであったのかすら、はっきりとはしない。眼が覚めて、ザザという名を新たにあたえられてから、おれはずっとおのれが何者であるかわからなかったのだ。だが、この戦いでそれがはっきりとした。おれは、武人であった。戦いのなかでこそ、おれはおれでいられた。

 最期に、それがわかってよかった。同時に、武人としての矜持をすてる覚悟すら、持つことができたのだ。すてることは、もたざる者にはけっして許されぬ行為であるがゆえに。

 

 退却戦は、不得手なのかもしれない。いや、自分がロイエンタールを基準にしてしまっているからなのか。あの男にくらべたら、眼の前で起きているそれは、子どもの戯れにすぎなかった。

 バイエルラインが、よく動いた。おそらく、艦隊すべてが間に合わなくても良いという速度で迫ったのだろう。みずからを驕ることのない彼である。だが、"疾風"の後継者を名乗るだけの力量は、すでに有しているはずだ。

 ビッテンフェルト艦隊は、すでに殲滅戦に入ろうとしている。だが、そろそろエネルギーも限界だろう。戦艦のエネルギーだけでなく、人間のエネルギーもである。狂気の波濤のなかで満足げに死に行く者がいないのを、祈るばかりだった。

 最後まで退却戦を支援し続けるのか、敵の旗艦とほか数百艦の動きが怪しかった。前進してくるのだ。まさか、最後にブリュンヒルトにたいして喰らいつこうというのか。

 あがくのなら、それでいい。乞食が地にはいつくばりながら玉座に噛みつくことは、永遠にできぬのだ。

 もはや、追撃をあきらめた黒色槍騎兵艦隊が敵の背後に回っている。三方から攻め立てるかたちになった。それでも、前進してくる。

「優秀な指揮官だった。では、さらば――」

 撃て、と言いかけたミッターマイヤーは、艦橋スクリーンに映る大きな爆発のまえに、その言葉をのみこんでしまった。

 帝国軍の七〇〇艦ほどが、一瞬にして火球と塵になったのである。残ったのは、敵の旗艦と、その他数艦。艦のかたちをしたものは、ほかになにもなかった。そして、旗艦のまわりに、球体が回遊している。その数は十二。

 ミッターマイヤーはそれを知っていた。だから、脳内の資料庫をあさるまでもなく、ほとんど脊髄の反射によって、球体の名を看破したのである。

「アルテミスの首飾り……」

 

 

三四

 

 終戦の様相を呈していたバーデン星系外縁は、大軍による包囲の中心に数隻の戦艦をおいたまま、再び凪いだ。あと一手で、敵将の首に手がかかる。だが、その一手に多大な痛みがともなうことが予想されるのだった。

 アルテミスの首飾りは、かつてはカストロプ本星と惑星ハイネセンに設置されていた、衛生型の惑星防御装置である。その破壊力は数個艦隊におよび、ただ戦艦を猪突させただけでは破ることができない。

 ジークフリード・キルヒアイスが指向性ゼッフル粒子によって、ヤン・ウェンリーが氷塊によって、それぞれ破壊するにいたるまでは、無敵の防御システムであると考えられていたのである。しかし、これらの破壊方法は、動かない惑星に設置されていたがゆえに可能であったのだ。いまは、自由に宇宙空間を飛びまわる戦艦の周囲を、アルテミスの首飾りは回遊している。

 アルテミスの首飾りを戦艦の周囲にとりつけるという技術の発想じたいは、かなり昔からあったはずだ。しかし、たかが戦艦一隻に国家予算規模の装置をとりつけるだけでも、莫大なコストがかかるうえに、アルテミスの首飾りが自動防衛システムであるがゆえ、味方の艦船も巻き込みかねないという懸念があった。また、アルテミスの首飾りは衛星軌道上に備え付けるべし、という常識のために、処女神の歓心をひく努力すらしていなかったのである。戦艦には、衛星軌道も、惑星がもつような引力もないのだ。

 だが、眼の前の戦艦は、その歓心を一身にあつめ、処女神の抱擁をうけるにいたっている。

 包囲の途中にあるので、集まって会議をすることはできない。傍受されることは承知で、ミッターマイヤーはビッテンフェルトとバイエルラインと通信回線を開いた。

「アルテミスの首飾りは、あきらかに艦砲がもつものより長大な射程を有しています。敵は微速前進しており、あまり時をかけすぎると、総旗艦があやうくなるでしょう」

 バイエルラインは、アルテミスの首飾りによって四〇〇ほどの艦を失っている。三人のなかでは、もっとも多かった。

「微速前進ということは、おそらくその速度でないと、首飾りを置き去りにしてしまうからだろう。われわれが逃げればそれで終わりだが、のちのちが怖い。あの指揮官は、残念ながらかなり優秀だ」

 ここで打ち倒さぬ道理はない。ミッターマイヤーは、眼を閉じ、腕をくんだまま沈黙を保っている、ビッテンフェルトを瞥しながら言った。

「しかし、もうすこし前進したところで首飾りを展開されていたら、ブリュンヒルトもあぶなかった」

 バイエルラインの献身が大きかった。遅れていたならば、ミッターマイヤーも無事では済まなかっただろう。

「バイエルライン、やはり、敵は投降には応じないか?」

 ヒルデガルド・フォン・ローエングラムからは、敵を包囲するにあたり、再三の投降を要請するように命じられている。だが、敵はかたくなにこちらに回線を開こうとしないのだ。

「応じません。首飾りを頼りきっているのでしょうか」

 おそらくそれはないだろうが……とミッターマイヤーは思う。あくまで推測の域をでないが、あそこまでの武人が、最後にハードウェアに頼るとは考えにくいのである。指揮官の本意としては、艦隊決戦で雌雄を決したかったのではないだろうか。

「ビッテンフェルトは、何かあるか?」

 ミッターマイヤーが言うと、ビッテンフェルトはようやく眼を開いた。にやついているようにも見えるのは、気のせいではないだろう。

「おれからは何もない。だが、うちの隊の士官が、首飾りの出現を見てすぐに策を送ってきた」

「ほう、それはすばらしい部下を持ったな。それで、その策とは?」

「傍受されるのも癪だ。おれの伝令として、シャトルでそっちに向かっている。ちかいうちに着くだろう」

「承知した」

 ミッターマイヤーは、副官に命じて、ビッテンフェルトからの伝令役は、そのまま会議室に連れてくるようにした。

「まあ、じっくり聞いてやると良い」

 はっきりと、ビッテンフェルトがにやついていた。その真意を図りかね、ミッターマイヤーは会議を終わらせた。

 会議室で待つこと数時間、ビッテンフェルトからの伝令が到着した。ミッターマイヤーもいくつか策を考えてはみたが、どれも時間がかかりそうだった。士官の話を聞いてからでも、遅くはないだろう。

 ドアが開けられる。そこで敬礼をしていたのは、ミッターマイヤーがもっともよく知る少年の姿だった。

「フェリックス・ミッターマイヤー准尉であります、首席元帥閣下」

 ミッターマイヤーは、おどろいて飲んでいたコーヒーをひっくり返しそうになった。

「フェリックス、おまえだったのか」

「はい、父上」

 いまは、上官と部下の関係である。父と呼んだことについて、ほんとうは叱責しなければならなかった。だが、激戦のさなかでも生き延びていた安堵が、その責任に勝ったのである。

 ミッターマイヤーは、従卒にコーヒーを持ってくるように命じた。この従卒は幼年学校の生徒で、フェリックスのこともよく知っているはずだ。

「まさか、処女懐胎の伝説とまみえるとは」

 心の底からの感慨だった。眼の前にあらわれたアルテミスの首飾りは、かつてカストロプやハイネセンで用いられていた物の、ほとんどミニチュアである。処女神が子を産んだ、というのはやや安直な比喩であるが、疲労した頭ではそれが精一杯だった。

「しかし、うまれたのは神の子などではありません」

 すでに伝承者がついえ、書籍や絵画においてしか語られない古い伝説ではあるが、フェリックスは涼しげな顔で答えた。このような皮肉の言い方は、いったいだれに似たのだろうか。

「さて、卿が考えたという策を聞かせてもらおうか」

 フェリックスのもとにコーヒーがはこばれてきたのを確認して、ミッターマイヤーは言った。父が子にクイズを出すのではない。これは、敵を殲滅するにはどうすればいいのか、という純軍事的な問いだった。

「はい、閣下」

 フェリックスは、もう二度と父上という言葉を使わなかった。

 

 会議室には、ミッターマイヤーとヒルデガルド、皇帝アレクサンデル・ジークフリードのみが集まっていた。フェリックスが練った作戦をミッターマイヤーは全面的に認め、それに必要なリストを作成させていたのである。フェリックスは二時間ほどでそれを完成させ、そのリストはいまはヒルダが確認するにいたっている。

 フェリックスの作戦は単純だった。アルテミスの首飾りは小型であって核融合炉をそなえているとは考えにくく、したがって動力は有限である。そのため、無人艦を突撃させ、アルテミスの首飾りを絶え間なく起動させることで、動力切れをはかるのだ。リストは、それによって破壊させる老朽艦の名を記したものだった。およそ二千艦を、二〇回にわけて突撃させる。艦は無人なので、人命は損なわれない。

 この作戦案にたいして、ヒルダは異をとなえることはなかった。もともと戦いはミッターマイヤーに一任されているので、それじたいは不思議なことではない。だが、皇帝アレクが、そのリストを見たいと言ったのである。

 ヒルダから、アレクにリストが渡される。作戦立案者にフェリックスの名前があるのだから、それを確認したかったのだろう――ミッターマイヤーはそう思っていた。しかし、アレクは数分でリストに眼を通すと、

「首席元帥、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」

 と言った。この戦いにおいて、はじめてアレクが自発的な発言をしたのである。

「なんなりと」

「このリストに書かれているのは、艦齢二〇年を越えた老朽艦と聞きました」

「御意にございます、陛下」

「では、なぜ戦艦ブリュンヒルトの名がないのですか?」

 少年のまなざしは、あまりに純粋だった。ミッターマイヤーをからかうわけでも、本人の性根に問題があるわけでもない。心の底から、戦艦ブリュンヒルトがこの作戦に活用されないことを疑問に思っているのである。

 眼の前に座っている者が、ラインハルト・フォン・ローエングラムであったなら。ブリュンヒルトを虚空に散らすことをけっして是とはしないだろう。ブリュンヒルトは、彼にとってはつねに覇王の玉座でありつづけたのである。王が、みずからその玉座を燃やすことがあろうか。

「お言葉ですが、陛下……」

 ミッターマイヤーは、うまく言葉が継げなかった。ブリュンヒルトは特別なものと、彼はごく当然に考えていたのである。それを、その正当なる継承者によって、否定された。臣下として、その態度に不安をおぼえない彼ではない。皇帝アレクは、みずからの地位そのものに疑念を抱いているのではないか。その象徴として、戦艦ブリュンヒルトを手放すことを考えているのではないか。

「戦艦ブリュンヒルトには、旗艦としての設備が整っており、これを他艦へ移譲することは、たいへんな労力を要するのです」

 かろうじて、ミッターマイヤーは答えることができた。旗艦でなくとも、指揮自体はできる。事実、かつてナイトハルト・ミュラーは戦艦を乗り継いで指揮を続けたという歴史もあるのだ。

 しかし、旗艦の機能とはそれだけではない。戦艦ブリュンヒルトは、その白皙の横顔だけで、兵の士気をあげるのである。それは、代替のきくものではない。

 皇帝アレクサンデル・ジークフリードは、小さくうなずくと、出すぎた発言を詫びた。指揮権はないのに、それを脅かしかねない発言をしたのである。

 ここに、作戦は決した。

 

 第十三次無人艦突撃によって、アルテミスの首飾りは破壊された。歴史上に三度登場した自動迎撃システムは、三度とも、偉大なる用兵家によって破壊されたのである。三度めにかんしては、作戦指揮者がウォルフガング・ミッターマイヤーであったため、戦史には彼の名前が刻まれることになるだろう。

 完全な包囲にあって、敵の旗艦はなにも動く気配がない。ミッターマイヤーは、みずから通信回線をひらいた。

「敵将に告ぐ。もはや貴官にこれ以上の戦闘は不可能かつ無益である。願わくば、皇帝陛下の慈悲を求められんことを」

 これで、返事がなければ、一閃の砲火によってこの戦いを終わらせるのみである。

「敵将より返答。回線を繋ぐことを望んでいます」

 そう言ったのは、ブリュンヒルトの通信士長ティーモ・フォン・アンデルセン大佐であった。彼はすでに退役まであと二年を残すのみとなっているのであるが、ラインハルト・フォン・ローエングラムに心酔しており、その面影を強く残す現皇帝への忠誠もひじょうに高い。ミッターマイヤーもその名と為人をよく知っており、じゅうぶんに信頼に値する能力と実績、人柄を有していることも理解していた。

「よろしい、回線を開け」

 艦橋スクリーンの映像はひどく乱れていて、ティーモ大佐がいかなる操作をしてもそれは改善されないようだった。本来は、回線を開いた艦から映像と音声が届くはずである。

「通信設備の故障により、音声のみで失礼いたします。総司令ヴィンツェンツォ・ザザと申します」

 音声は、明瞭に聞こえた。男の声だが、その名に聞き覚えはなかった。

「ザザどの。貴官はどの軍の所属であるのか?」

「言えません。命にかえても」

 潔いほどの断言である。ミッターマイヤーは、もはや投降の道はないとさとった。

「おそらく私は死ぬでしょう。死ぬ前に、言っておきたいことがあるのです」

 言わせてやるのが、勇者にたいする礼儀だろう。死を前にした男の言葉には、聞くべきものがあるはずだ。

 ヒルデガルドのほうを向くと、彼女はちいさく頷いていた。

「皇帝陛下の御前である。無礼のなきように……」

 ザザの言葉は、すぐに始まった。

「皇帝アレクサンデル・ジークフリード陛下。わが軍は、この戦いで百万ほどの犠牲を出しました。陛下のお命を奪うために、それだけの命が散ったのです」

 ブリュンヒルトは、静かだった。

「では、陛下の軍では、どれほどの兵が亡くなったでしょうか。――いえ、お答えいただかなくともかまいません。わが軍の精鋭との戦いですから、けっして小さかろうはずもありません」

 この男の言葉は、すぐにでも止めたほうがいいかもしれない。ミッターマイヤーは危惧をおぼえた。だが、シートに座る少年は、微動だにしていない。

「陛下の父君のころも、このような戦いによって数万、数千万、あるいはもっとかもしれません。途方もない数の人の命が失われ、その血の海の上に新銀河帝国は浮かび、陛下の玉座も積み上げられた屍体のうえにおかれています」

 艦内がざわつく。だが、ヒルダもアレクも動こうとしなかった。まだ男の声を聞くべきだということだろう。

「陛下は、それ以上に多くの人間を幸福にした、という方便によって、その補償とするかもしれません。少数派の不幸の対価として、多数派の幸福を選ぶというのは、支配者がつねとする論理です。しかし、あなたや、あなたの身内が、その少数に加わっていたことが一度だってあるでしょうか」

 男の声には、たしかな熱がこもっている。心の底から、新銀河帝国を憎み、その矛先を、皇帝にむけている。しかし、これは皇帝にたいしてのみの刃ではない。ミッターマイヤーも、ビッテンフェルトも、バイエルラインも……フェリックスも、その刃がかえす光によって照らされているのである。

「陛下自身におうかがいします。あるいは、あなたの存在は、少数派の命と不幸によって守られるに値するでしょうか」

 男の批判は続いた。ミッターマイヤーは艦橋スクリーンをにらみ続けていたが、やがて驚愕によって眼が開かれた。漆黒の塗装を施した一隻の砲艦が、敵の旗艦に接近していたのである。攻撃の命令は出ていない。何が起こりかけているかは、だれの眼にもあきらかだった。黒色槍騎兵艦隊の過剰ともいえる忠誠。臣の過剰なる忠誠は、時として主君を損なう結果を生むのである。

 とめさせろ――ミッターマイヤーがそう発音しかけたとき、それを上回る絶叫があった。

「うつな!」

 立ち上がり、叫んでいたのは、指揮シートに座ったまま黙していた金髪の少年だった。

 そしてその絶叫は、忠誠のあついティーモ・フォン・アンデルセン通信士長にとっては、自分が心酔していたラインハルト・フォン・ローエングラムの天啓のようにも聞こえたのであった。彼はほぼ反射的に、その"指令"をすべての味方にむけて伝達した。

 

「緊急指令! "うつな"!!」

 ユルゲン・ハインツ・ベンヤミン少尉は、みずからの職命を完璧かつ完全に果たした。しかし、そうしてしまったがゆえに、指揮官から叱責を受けるという悲運にみまわれてしまった。

「"うつな"だと。それはいったい、だれの指示だ!?」

 ビッテンフェルト自身も、砲艦の単独行動にたいしてどのような対処をとるか図りかねていた。攻撃命令は出ておらず、しかし砲艦に敵を撃滅せんとする意図があるのはあきらかである。したがって、ビッテンフェルトの考えていた対処はひとつだった。旗艦"王虎"の砲撃によって、砲艦の暴挙を未然にくいとめるのである。

「指令者不明。ブリュンヒルトからです」

「ブリュンヒルトからだと!?」

 これまでの指令は、すべてミッターマイヤー首席元帥からの指令というかたちがとられていた。先帝皇后と皇帝には指揮権がないからである。だが、"ブリュンヒルトから"という指令に、なにか特別な意図を見出だすべきなのか。

 ビッテンフェルトはみずからの戒律を破った。逡巡したのである。ブリュンヒルトからの指令が、彼が考え、いままさに実行しようとしていた対処にたいしての"うつな"であったら、上官の命に背いたのはビッテンフェルト自身ということになる。

 そして彼の逡巡は、予期されていた最悪の結果を生み出すことになるのだった。

 砲艦から光条がのび、敵の旗艦に吸い込まれていく。

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、その光景を、ただ見ていた。蒼氷色の瞳に、極彩色のきらめきだけが残る。それは、彼の眼の前で、彼の手によって人命が散ったということを意味していた。

 

 燃え盛る艦橋の壁面に寄りかかりながら、、ヴィンツェンツォ・ザザはみずからに降りかかった塵を手で払い落としていた。この軍服は、ジョセフ・コルレオーネから直々にあたえられたものである。それを、いまさらになってようやく思い出したのだった。

「言い残したことは?」

 ザザは、眼の前で血にまみれている男にむかって言った。フランシス・ドゥランはまもなく死ぬだろう。ちかいうちに、自分もそうなる。血こそ流れていないが、船が燃えているのだった。

「たぶん、ないよ」

 ヴィンツェンツォ・ザザを名乗り、皇帝を罵倒していたのは彼だった。惑星間の郵便配達でつちかった知識と技術は、航宙士として申し分なかったのである。それゆえに、旗艦に搭乗していたのだった。

「ならよかった。おれはもうすこしゆっくりしてからゆきたいから、早いところひとりにさせてくれ」

「ああ、わかった。やっと、家族のもとへ行けるよ」

 穏やかな笑みを浮かべて、フランシス・ドゥランは絶命した。ザザはその瞬間を見なかった。彼はずっと、頭のうえに広がるはるかな星海をながめていたのである。

 思うさま、戦った。なにものに縛られず、死力を尽くして。おれは、それを望んでいたのだろう。ヴィンツェンツォ・ザザになる前から、ずっと。

 おさらばです、ジョセフさま。ちいさく呟き、彼は笑った。彼の走馬灯は、彼がヴィンツェンツォ・ザザであった時間と等しいので、年齢に比してあまりに短いものであった。

 ふと、懐かしいにおいがして、彼は眼を細めた。これは、土のにおいだろうか。へんだな、と彼は思った。ここに土などなく、ヴィンツェンツォ・ザザには土にまみれた記憶などない。きっと、ヴィンツェンツォ・ザザでなかったころの自分の記憶なのだろう。

 思うさま戦うこと。それは、ヴィンツェンツォ・ザザが望んでいたことなのか。あるいは、この土のにおいの持ち主が望んでいたことなのか。いずれにせよ――。

「たのしかったな」

 炎に包まれながらも、男は眼を閉じるということをしなかった。星のきらめきは、眼を閉じては知ることができないのだから。

 星海がひび割れ、赤黒い塊が落ちてくる。男が最期に見たのは、それだった。

 

 

三五

 

 まるで葬列のようではないか。葬儀の主賓たる骸はそこにない。いや、われわれこそが骸であるのか。そう思えるほど、新帝国軍のフェザーン凱旋は沈痛であった。歓呼としてこたえる民はあまりいない。これは戦争ではなく内乱の鎮圧であるからだ。それも、フェザーンに住む市民とはほとんど縁のない内乱である。

 グスタフ・イザーク・ケンプは、その葬列のなかでも数少ない生者のひとりだった。だが、彼もまた、ある少年のたったひとことの轟雷に打たれている。玉座に黙して座り続けていた少年が、ただの一度、みずからの越権の果てに導いた結末。ヴィンツェンツォ・ザザという男が叫びつづけていた帝国と皇帝への批判は、もう二度と虚空に響くことはない。

 のちに"バーデン星系会戦"と呼ばれることになる戦いは、帝国軍の圧勝のうちに幕を閉じた。いまだ"謎の勢力"と呼ぶ他ない者たちは、敵将のヴィンツェンツォ・ザザ以下二万艦が参加し、そのうち一万七千ほどが宇宙の塵と化した。どれほどの兵力が動員されたかは定かではないが、二〇〇万から三〇〇万が死んだのではないかとの調査結果が出ている。

 帝国軍は、四万艦のうち完全破壊された艦は八八九〇艦で、戦死者の数は六〇万二一〇二人であった。艦の損失にたいして戦死者の数が少ないのは、病院船の充実はさることながら、"アルテミスの首飾り"の破壊に際して老朽艦による無人突撃を行ったことに大きな理由がある。

 だが、その報告が会戦の参加者の精神を慰めはしなかった。至尊の少年のひとことは、ある老通信士によって全艦に浸透し、"ブリュンヒルトから"とされた通信が、のちに"わが皇帝より"と改められたからだ。老通信士はブラスターを引き抜いて自裁を図ったが、まわりの人間に止められている。彼が万が一処罰されるなら、その沙汰にはまだ時間がかかるだろう。

 グスタフ・イザークがフェザーン軍港に降り立ったとき、すでに"火竜"や"クヴァシル"、"フォルセティ"等各地に散っていた提督たちの戦艦が繋留されており、銀河全体を覆った反乱の業火は鎮圧したように見受けられた。

 じじつ、ヴィンツェンツォ・ザザの敗退をもって各地の暴動は急速冷凍され、暴動を指導した主犯とおぼしき者たち百名ほどが逮捕された。だが、先帝皇妃へのウルリッヒ・ケスラー元帥の言葉を借りれば、"真の指導者はこの中にいない"のであった。彼らが何者かに使嗾されたことはあきらかであり、その何者かをとらえないかぎり、暴動はまた発生するだろう。まだ彼の激務はつづくだろうが、その負担をわかちあうことのできる者は、戦後処理に人員を割かれているもっかのところ、新銀河帝国にはいなかった。

 戦後処理は、グスタフ・イザークの仕事にはない。彼はしらばらくのあいだ、惑星オーディンの生家へと帰ることに決めた。父の墓参りもしなければならない。彼は操艦においてそれなりの功績をたてていたから、それを報告しようと思ったのである。もし昇進するのであれば、それも大きな手土産になるだろう。

 

 フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が"三元帥の城"に到着したという報せが届いたのは、新帝国歴一八年一月二七日夜のことだった。戦後処理がつづくなかではあるが、決して戦時ではないため、旗艦"王虎"を駆っての移動ではない。ナイトハルト・ミュラーは、ビッテンフェルトを星海が望める私室でむかえた。

「久しぶりだな、ミュラー提督」

 いつもの軍服姿のビッテンフェルトは、三週間ほどまえに、朝賀の儀で会ったときとまるで変わりがなかった。ふつう、出征を終えたものは、いくぶんか顔つきが変わっているものである。彼にとっては、戦時こそが平時なのだろう。

 とはいえ、戦友の無事な帰還はよろこばしいことである。ミュラーは秘蔵のワインを取り出すと、ふたつのグラスに注いだ。どちらかというと赤よりも白を好むのは、七元帥のなかでもミュラーだけだった。

「まずは、ご無事でのご帰還を、およろこびします」

 簡単なあいさつをかわして、ふたりは乾杯した。攻守において対極とも言うべき用兵を得意とする彼らだが、ふしぎと馬が合うのである。

「卿が帝都をお守りしていたから、安心しておれたちは戦えたのさ」

「私としては、終わってみれば暇だったのですが、その言葉を聞けていささか慰められました」

 くっくっ、とビッテンフェルトが笑う。七元帥のなかで、暇であったと言えるのはほとんどミュラーだけである。むろん帝都防衛を担っていたミュラーが忙しくなるなど、未曾有の事態に陥っていることを意味するのだが、ことが終わってみれば笑い話にもなろうものだった。

「ところで、ビッテンフェルト提督。本日はいかような用事があったのですか?」

 ただ会いに来た、というのであれば、それでよかった。むしろ、ミュラー自身もそれを望んでいたのかもしれない。彼とて、新帝国歴三年までのうちに、多くの友を喪っている。友とは不意に、しかし決定的なほど唐突に消えていくものだ。それを知悉している彼にとって、友と過ごす時間はこれ以上なく貴重なものだった。

 束の間、ビッテンフェルトは窓外の星海を見た。その沈黙が、ミュラーをことさら不安にさせる。まさか、なにか凶報でも運んできたというのか?

「じつは、卿の好きな、噂とかいうやつをはこんできてやった」

 苦笑する。彼は噂がけっして好きというわけでもないが、なぜか彼のもとにはそういうものが舞い込んでくる。

「ほう、それはどのような?」

 ビッテンフェルトは、まだ星海を見つめている。

「フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が、退役を考えているという噂だ」

「根も葉もない噂ですな」

 ミュラーは断じた。ビッテンフェルトが退役する。それはありえない話だった。いや、ありえていい話ではない。

 笑い話にしてはたちが悪い。ミュラーはふたつのグラスにワインを注ごうとしたが、ビッテンフェルトのワインがほとんど減っていないことに気づいた。

 まさか――まさか、ほんとうに?

「煙というものは、かならず火に追従するものです。その因果を可逆にすることは、だれにもできようはずがありません」

 いまなら、まだ冗談のうちに済む。ミュラーはビッテンフェルトに、その最後のチャンスを示唆したつもりだった。それがわからぬほどビッテンフェルトは蒙昧なはずがない。だが――。

「そうさ。火はある」

 ビッテンフェルトは短く言った。そこには、猛将の本質を凝縮したかのような断固たるなにかがあった。

 ミュラーは、一息のうちにグラスを干した。ほのかな酔いの波にひたっていれば、この理性の土壁もゆるむだろうか。彼は信じることができなかったのである。だれよりも戦場にこだわり続けたこの男が、死以外の方法で彼の矜持と袂を分かとうとしていることが。

「なぜ、そのような?」

 だから、彼は問うた。納得がいかなかったのである。自分を、置いていくようなものではないか。なぜ、友はこうも簡単に、自分のもとを離れていくのか。

「おれは、おれ自身の愚昧によって、みずからの戒律を破ったのさ」

 ビッテンフェルトは語り始める。卑怯、消極、逡巡。黒色槍騎兵艦隊における忌避されるべきみっつの戒律。そのみっつめを侵すことで、バーデン星域での戦いは幕を閉じた。そして、それによって、自分は"わが皇帝"を深く傷つけた。

「感じたのは、みずからの老いでも、限界でもない。陛下がつくりたもう世界に、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトという男は不要であるということだ」

 ミュラーは、なにも言うことができなかった。ここで"そんなことはない"と言ったとて、言葉に本心を乗せることが不可能だと感じたからである。その言葉を理解させるには根拠が乏しく、信じさせるにはミュラー自身の信心がたりなかった。彼とて、アレクサンデル・ジークフリードの治世において、軍がどれだけの役割を果たすかをはかりかねているのである。

「おれは、陛下が征けと言われるなら、どこへでも征く。だが、どこにも征くなと言われるのなら、どこにも征かぬのだ」

 ビッテンフェルトの魂は、すなわち黒色槍騎兵艦隊の真髄である。彼らは黄金獅子の牙であった。もし、その獅子が生み落とした獅子に、牙も、爪も、あるいは翼さえもなかったならば、かつて獅子の意思のままに朱に染めあげられていたそれらは、枯れおとろえ、抜け落ちるほかにたどる道はないのである。枯れてしまうよりは、その鋭さをたたえられるうちに役割を終えたい。ビッテンフェルトは、そう思っているのかもしれなかった。

 もはや論議によって、彼の決断をとめることはできそうになかった。だから、ミュラーは言った。

「考え直してはくださいませんか。卿とともに戦えなくなるのは、小官にとってはいささかつらすぎます」

 彼は銀河においては名将のひとりに数えられるほどの男である。だが、この場において、その肩書きは無意味で、彼は無力だった。だからこそ、彼は友であろうとしたのである。ふたりのあいだで生まれていた友誼こそ、ミュラーにとってはふたりを繋ぎ止める唯一の蜘蛛の糸であった。

 ここまで単純化された会話の決着は、ビッテンフェルトの短い言葉であった。

「すまん」

 単純化された会話だからこそ、ビッテンフェルトは心の底から詫びた。そうすること以外に、彼が考えつく手段はなく、これ以上に誠実な方法もないからである。

 ミュラーは乱暴にグラスを干すと、ビッテンフェルトにもそれをすすめた。このような日に、秘蔵の安酒など似つかわしくない。こんなものは、さっさと空けてしまうにかぎる。

 ビッテンフェルトも、ようやくワインを飲み始めた。空になったボトルを床に置くと、ミュラーはラインハルトから下賜されたワインの栓をぬいた。

 ワインの香は、ふたりの精神を二〇年間の時間旅行にいざなった。そこでは、かつての友たちが生きていて、無限の語らいへと招き入れるのだ。

 酔っているあいだだけでいい。いや、酔っているからこそ、その旅路ははかなく、甘美であるべきだった。

 

 ビッテンフェルト艦隊に招集がかかったのは、新帝国歴一八年二月一日のことである。フェザーン軍港に集められた兵は、指揮官の新たな訓令を、直立の姿勢で待っていた。兵たちの先頭にひかえるのは、分艦隊司令官であるハルバーシュタット上級大将と、参謀長オイゲン大将である。彼らも、ビッテンフェルト艦隊が集められた理由を知らない。

 この時点で、ビッテンフェルトの決意を知るものは三名しかいない。ナイトハルト・ミュラー元帥と、ウォルフガング・ミッターマイヤー首席元帥、先帝皇妃ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフである。猛将の退役願は、この前日に首席元帥と先帝皇妃のもとに届けられ、同日中に受理された。ミッターマイヤーとヒルデガルドのうけた衝撃は半端なものではなく、彼らはむろん慰留をもとめた。だがビッテンフェルトの決意は固く、彼らにとっても曲げようのないことであることが悟られたらしい。ふたりは彼の決意を重くうけとり、"泉の間"において盛大な式典を行うことを約束した。

 ナイトハルト・ミュラーは、ジークフリード・キルヒアイス武勲賞の選考委員長であったから、ビッテンフェルトの生涯の武勲を称え、同賞の授与を推薦したのだが、当のビッテンフェルト本人がそれを拒否したのであった。

「フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト武勲賞なら受け取ってやってもいい」

 むろんこれは彼の冗談であったが、ミュラーには半ば本気ととられてしまっていたようである。ミュラーはビッテンフェルトの名を冠する賞の設置を上梓したが、主席元帥に苦笑をもってたしなめられている。猛将の名は、病院船のクルーを育てる基金にすでに用いられていたのだった。

 ビッテンフェルトとしては、言外に出さぬ思いがある。唯一、ミュラーのみが、その思いをはかるための言葉を聞いていた。

「ミュラー提督、シュタインメッツ元帥、ファーレンハイト元帥。みな、英名のほかに名を残す余地のない優れた指揮官だ。だが、おれは……」

 彼は味方を殺しすぎた。だからこそ、ビッテンフェルトは英名も悪名も受け入れる覚悟があったのだろう。ミュラーはそう推測するしかなかった。

 ……ビッテンフェルトは、兵の前に直立し、敬礼をした。全員がそれにならう。黒色槍騎兵艦隊は、その艦隊の特異性ゆえに、ほかの艦隊よりもつよい紐帯をもっている。彼らの敬礼には、一糸の乱れもなかった。

「おれからの最後の命令をくだす」

 ビッテンフェルトは、むしろ静かに言った。オイゲンが、ハルバーシュタットが、敬愛すべき上官のことばの真意をはかりかね、胸中にやや小さな不安を抱いた。

「これより以降、ハルバーシュタット上級大将を、黒色槍騎兵艦隊の指揮官としてあおげ」

 ざわめきの波濤が、兵の海のなかでゆれている。波濤は渦となり、またあらたな飛沫をあげてゆく。ビッテンフェルトは、直立したままそれを一身に浴びていた。

「おれは軍を退く。それだけだ」

 何故! という声が方々からあがった。ビッテンフェルトは掌でざわめきを制する。

「黒色槍騎兵艦隊の座右には何が刻まれているか」

 ビッテンフェルトの声は、波濤を圧してひろがってゆく。

 前進、力戦、敢闘、奮戦。足下で泥にまみれる言葉は、卑怯、消極、逡巡である。

 オイゲン大将のみが、その唱和のなかで、ただビッテンフェルトを見つめている。破壊衝動の集合体におけるほぼ唯一の知性人は、いつだって奔流のなかでみずからを律していたのだ。その彼にしても、両眸から流れ出るものを塞き止めるので精一杯であった。オイゲンは、バーデン星系での戦いにおいても、戦いの後においても、ビッテンフェルトのそばを離れなかった。猛将の無念を知りつくす第一人者をひとりあげるとすれば、それはオイゲンをおいてほかにない。

 ビッテンフェルトが、退役の理由を語った。それは先日ミュラーに話したものと同じであったが、違うのはわずかに声をふるわせていたことである。

 ビッテンフェルトの演説は終わった。だが、もはや行動の時も、権限も、彼にはない。望んで捨てたものではあるが、やはり、それらが身から離れていくのはつらいものであった。

「ハルバーシュタット」

 ビッテンフェルトの薫陶をだれよりも受けた上級大将である。師と同様、猪突し、破壊し尽くす用兵に長けた指揮官だった。今後の黒色槍騎兵艦隊は、彼が継ぐことになる。

「卿はおれに似すぎている。ゆえに、オイゲンの進言をよくきくように」

 ハルバーシュタットが敬礼する。オイゲンもそれにならったが、心の裡は穏やかとは言えなかった。まるで全責任を押しつけられたような理不尽に心がふるえていたのではない。間違いなく歴史に名を残すであろう猛将に、これほどまで信頼を寄せられていたよろこびに、彼はふるえていた。

 オイゲンは、長くビッテンフェルトのそばに仕え、参謀として何度も進言する立場にあった。だが――踵を返し、こちらに向けた上官の背中は、これほどまでに小さかっただろうか。そこではじめて、彼は上官の老いを感じたのである。まもなく五〇に届くであろう彼の、老いぬ気骨と肉体の不均衡が、オイゲンの眼の前で、かなしげな存在感を発していた。

 

 "泉の間"は蒼氷色にそめあげられ、たちならぶ百官のあいだを、ビッテンフェルトは歩いていた。彼はジークフリード・キルヒアイス武勲賞を辞した。よって、この式典は彼の元帥杖の返還をもって終了する。

 彼は先帝皇妃と皇帝のまえに歩み出て、ひざまずき、元帥杖を皇帝へと渡した。刹那よりも、短い時間であったかもしれない。彼は少年のままの皇帝と目線をあわせ、少年の表情にわずかな憔悴の色があるのをみてとった。

 "わが皇帝"。彼は心のなかで語りかけ、身をひるがえした。小官の辞するをもって、おのれの器量をおはかりになるなど、どうかしないでいただきたい。あなたは、おれがお仕えするに充分なお方であるでしょう。しかし――。

 ビッテンフェルトは、涙など流すつもりはなかった。だが、もし流れてしまえば、それを拭うつもりもまたなかった。そのときの自分に、任せれば良い。

 しかし、あなたがお作りになる世に、おれは必要ありますまい。

 扉が開き、ビッテンフェルトのまえの道が開いた。この道を進めば、みずからの身が蒼氷色にそめられることもなくなる。彼は、刹那も迷うことなく、一歩、前へ踏み出した。

 憔悴に身を焼き、心を焦がすのなら、棄ててしまえばいい。おれは、このように元帥という地位を棄てた。なにかを棄てることができるのは、それを手にしたものだけが得られる特権なのである。

 扉が閉じ、"泉の間"からひとりの男が消えた。

 新帝国暦一八年二月、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは四八歳。最も長く獅子帝に仕え、最も早く元帥を退いた彼は、血でまみれた人生録のなかに、卑怯の文字が入る余地を、最後まで許さなかった。

 未来の暦に歴史を書くことのできる人間はいないが、それを理由に安寧を確信することのできる人間もまたいなかった。はじめの二つの月で数億リットルの血を欲した新帝国暦一八年は、いまだ十の月を残しているのである。

 



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第2章 薄明
第10話


 

 暖炉の火が、みえざるものたちとたわむれていた。ゆらめくようなそのダンスは、不規則ながらも見る者の心をやすらげる。ちいさくもあたたかいその灯火のそばで、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムはコーヒーの香りをたのしんでいた。眠気覚ましのために飲むのではない。クリームをたっぷりと入れたコーヒーを、両手でつつみこむようにして持つその動作は、みずからの全身をゆだねるべき眠りの神への、ささやかな祈りに似ていた。

「それで、ヒルダさま。わたし、きいてしまったんです」

 部屋に満ちるものが暖炉の火のたてる音だけであったなら、その部屋は静謐と言ってよかった。しかし、それをうち破る女性がひとりいて、暖炉の音を伴奏に、五秒以上の休符をさしはさむことなく、話を続けるのである。

「"国とわたしと、どっちが大事なの"って」

「旦那さまは、何と?」

「"国家のなかには、きみも含まれているよ"、ですって!」

 ふたりのあいだに、はじめて五秒以上の無音が流れた。こういうとき、それを破るのはヒルダの役割なのである。

「……それで?」

「わたし、うれしくなってしまって。かっこいいなあって」

 絶えず変化する銀河のなかで、彼女だけが少女のままだった。姓のみが、"フォイエルバッハ"という、"なんだかえらそう"なものから、"ケスラー"という"途方もなくえらい"ものへと変わってしまったが。

 マリーカ・ケスラーは、結婚ののちも摂政ヒルデガルドを内面からよく支え、ときには話し相手として、ときには世話係として、ほとんどの場合は幼帝の遊び相手としてつかえた。本人としては、"乳母のような役割"らしいのだが、アンネローゼがその役割を十分以上にはたしていたために、彼女のおさまる役は、幼帝アレクの遊び相手だったのである。幼帝の友がそばにいないとき、マリーカほどそれに適任な者はいなかった。彼女の幼さは、この方面についてはたいへんに貴重だった。

 きのう、アンネローゼとともに、ジークフリード・キルヒアイスの墓参りからフェザーンに帰ったばかりである。ほんの数週間、フェザーンを留守にしただけで、ケスラー家には事件が絶えないようだ。そのほとんどの主犯はこの黒髪の少女で、元帥としてもどう思っているのか、ヒルダにはわからなかった。

「あまり、ケスラー元帥に迷惑をかけてはだめよ」

 このことばが、自己矛盾の産物であることは、ヒルダも気がついていた。ケスラーにたいして激務を課しているのは、ほかでもなく自分であるのだから。ケスラーほどの男であれば、本来はよき家庭人としての役割をこなすことができていただろう。しかし、ヒルダの矛盾に気づかぬほど、マリーカは愚鈍ではない。ヒルダの葛藤も、すべて噛みしめ、飲みこんだうえで、彼女はなお幼くいられるのだ。

「でも、"きみがいるから帰って来られるのだよ"とも言ってくださるんですよ」

 幸せそうに笑うマリーカをねたむことはなかった。あまりにみじかく、形式的かつ儀礼的であった自分の結婚生活にくらべたら、マリーカのそれははるかに長く充実したものだろう。みずからが得られなかったものにたいして、人はなんらかの黒い感情を抱くものであるが、ヒルダとマリーカの間には、そういったものは一切なかった。むしろ、ヒルダはマリーカの"惚気"をたのしみ、ウルリッヒ・ケスラーという空前の傑物の意外な一面を興味深く思っていたのである。

「ねえ、ヒルダさま」

 テーブルに体をあずけたようにしながら、マリーカは言った。瞳のなかで、炎がちいさくゆらめいていた。

「ヒルダさまの旦那さまって、どんな方だったのですか?」

 両手につつみこんでいるコーヒーは、まだ心地よくあたたかかった。カップを通じてその熱を感じながら、ヒルダはそっとふたつのまぶたを閉じる。暗闇のなか、テーブルの反対側に、金髪の青年が沈思の表情を浮かべている。記憶のなかの彼は、いつとこんな顔だった。

「とても、手のあたたかい方だったわ」

 全身は透きとおるように白く、瞳は天空を凝縮したかのように蒼かった。あの金髪の青年が生身の人間であることを知る手がかりは、両の手のあたたかさだけであった。病に犯されて、すこしずつ血の気を失っていくなかでも、青年の手はあたたかかった。それが冷たくなっていくのを知ったとき、はじめてヒルダは、この青年が死ぬのだと理解したのである。

 信じることができなかったのだ。"死ぬかもしれない"という表現から、推量の意味をとるのは用意ではなかった。それがはじめて推定にかわってから、確信、そして事実へとかわっていくのに時間はかからなかった。

 死ぬのね、この人は。最後にヒルダへおとずれた感情。それはあきらめだった。 政治を輔佐するものから、主導するものへ。その変化を、自分は受け入れざるを得なかった。

「すてきな方だったんですね」

 マリーカは、テーブルに頬杖をつくようにして、ヒルダのことばを待っていた。彼女の微笑のまえには、いかなることも些末で、しかしたのしいもののように思えてくる。

「ええ」

 ほほ笑みかける。それは、疑ったことがなかったからだ。あの青年以上に"すてきな方"は、全宇宙を、もしくは人類の歴史をさかのぼって探してみても、見つかるはずはないだろうと確信できた。

「なにか、だれにも話したことのない秘密とか、あるんですか?」

「秘密?」

「そうです。旦那さまとの、お惚気みたいな話です」

 秘蔵のいたずらをいままさに実行しつつある少女のように、マリーカは笑った。

 マリーカのいたずらにたいして、律儀にこたえる義務を、ヒルダは負っていない。マリーカの口の堅さというものは信用できぬものではなかったが、それでも、こたえてあげてもいいものだろうか、とヒルダは逡巡してしまった。

 その迷いをかえりみることなく、彼女の明晰な頭脳は、数年間の日々を丁寧になぞりはじめる。それは銀河の果てに存在をたしかに主張する星たちのように熱く、ひややかで、危うく、そして美しかった。

 金髪の青年は、ヒルダの庇護者だった。それが上官にかわり、至尊の皇帝へとかわった。しかしそれは青年が最後に手にいれた称号ではない。彼はのちに夫となり、はてには父となった。

 そう――彼は父になった。ヒルダがそう感じたのは、一通の手紙を受け取ったからだった。それはたったひとつの積み荷をのせた宇宙船である。積み荷は、新たに生まれる男児の名であり、宇宙船の名を示すように、あることばが書かれていたのだった。

 その宇宙船の名は、"ヒルダへ"というものだった。直接名前を呼ばれたことはおおくない。だが、黄金の髪をいただくひとりの男が、愛する妻にむけた大切な贈り物をとどける宇宙船に、そのことばを選んだのである。

「……おしえてあげない」

 沈黙はわずかであったにちがいない。マリーカはそれを待ったごほうびを期待して、わくわくしたような顔を浮かべていたが、すぐにそれは怒った少女のものにかわった。だが、それもすぐにもとのほほえみにかわる。その変化を促したのは、ヒルダ自身のほほえみだった。

「ヒルダさま、とてもいいお顔をしておいでですね」

 皮肉の成分を一ミクロンも含まないその論評は、その発言者がマリーカでなければできなかっただろう。

「そうかしら?」

「そうです。とてもいいお方だったのですね」

 マリーカは、そう言って"つまんないの"とおおげさに椅子によりかかって見せた。小気味良い音をたて、椅子がわずかにゆれる。

「愚痴のひとつでも聞けるかと思ったのに」

「愚痴?」

「そうです。"結婚して損した"とか、"もっと楽に結婚生活を楽しむはずだったのに"とか。そういうのを期待してるんですよ、みんな」

 本心でないのはあきらかで、マリーカのことばには嫌味が全くなかった。ヒルダはそっとほほえんで、

「みんなって?」

 と、いたずらをし返してみせた。ふたりは、ただ友だちだった昔に戻っているのである。

「それは、みんなですよ」

「たとえば?」

「わたしとか」

「たったひとりしかいないなら、みんななんて使わないわ」

「あ、ひどい、ヒルダさま。そんなにからかって」

「いいから、おっしゃい」

「わたしの負けです、ヒルダさま。愚痴とか、ぜんぜん期待してません」

「あら、あなた、私にうそをついたのね」

「もう、ちがいますよ」

 ふたりの笑い声が、暖炉の光もゆらしたようだった。その声が大きかっただけに、薪がはぜる音によってひきたてられた沈黙もまた、ひときわ大きくなる。あまりに大きな沈黙は、人をセンチメンタリズムの隷属者にさせてしまうらしかった。

「わたし、心配だったんですよ。ほんとうは、ご結婚そのものを後悔なさっているのではないかって」

 ヒルダもまた、暖炉の薪が奏でる不規則な音色に、感傷の念をゆすぶられたひとりであった。後悔、ということばが、渦のようにさまざまな情感をからめとっていく。だが、ヒルダの小宇宙に広がる大洋は、その渦の存在すらも許容していたのだった。

「後悔しているのかも」

 マリーカが息をのんだ。それは帝室のスキャンダルを眼の前にしたハイエナの動作ではない。彼女は、全生涯をかけて友人でありたいと思う麗人の、いままでだれのものにもならなかった心のうちをさらけだされた思いだったのだ。

「でもね、マリーカ。私はたぶん、あの方と結婚しなくても、後悔をしていたと思うの」

 火のはぜる音。そろそろ、薪を足さなくては。いや、そのまえに、眠りの神にささげる祈りが届くだろうか。

「だから、私は、どっちがより刺激的で、甘美なのかを考えるのよ」

 コーヒーの最後のひとくちを飲み、ヒルダは笑った。それにさそわれて、マリーカも笑う。いささか彼女のものにしてはぎこちないのは、さっきの緊張を引きずっているからだろうか。

「よかったです、ヒルダさま。ほんとうに……」

 ラインハルト・フォン・ローエングラムとの結婚について思いを馳せるとき、その述懐に後悔の成分は一ミリグラムも含まれてはいない。それは信念にも似た認識だった。あの方との結婚を、後悔してはいけない。すこしでもその疑念を抱いてしまえば、生まれてきたわが子を否定することにもなるのだ。

 だが、いまの地位と境遇とに疲弊しているのも、また事実だった。その疲弊を肉体的要因と精神的要因とに区別するのならば、その大きな比重を占めているのは後者である。その憤懣を、だれかにたいしてもらすことは、ヒルダにはできなかった。むろん、それはマリーカにたいしても。彼女ならそれを受け容れてくれることは疑いないものの、だからといってみずからがその呪縛から逃れることもできはしないのだ。

 さまざまな感情は、波のように日々のなかで繰り返される。まったくおなじに見えるそれは、ひとつひとつが質的にも量的にも違いがあるのだ。そして時には、暴風とともに岩をも削り、またおだやかになってゆく。

 あの子がおとなになるまで。わが子へ権力が完全に委譲されたのなら、この苦しみは消え去るのだろうか。だが、それはわが子へ苦しみをそのまま押しつけることではないのか。それは、あまりにも無責任ではないのか。責任と権力が一局へ集中してしまっているがゆえに、専制政治であるがゆえに、自分はこんなにまで悩むのだろう。

 マリーカが、ヒルダの肩をやさしくたたいた。きっと、葛藤が瞳に出てしまっていたのだろう。

「わたし、そろそろ眠りますね。あしたは、シェフにお願いしてヒルダさまの好きなものを作っていただきますわ」

 マリーカは、ヒルダの内面における葛や藤の絡まりをほぐすこともしなければ、むりやりにちぎることもしない。彼女はただそばにいて、ヒルダがみずからその蔓草のなかから歩みだしてくるのを待っていてくれるのだ。

「ありがとう、マリーカ。またあした、アレクとも遊んであげてね」

 食器を下げはじめたマリーカに、ヒルダは言った。マリーカはおとなの女性らしく柔和にほほえむと、ヒルダの良い夜を祈ることばを残して退出した。

 ひとりになった部屋に、暖炉の音だけが満ちていた。

 ヒルダは、しばらく暖炉の火を見つめ、それから薪を一本足した。火は半瞬だけちいさくなり、そしてまた新たな薪へ食らいついて大きくなった。

 

 

 

 親愛なる主兼友人に良き夜の来訪を祈ると、マリーカ・ケスラーはみずからにあてがわれた部屋へむかうために、“獅子の泉”の廊下を歩きはじめた。日付は、すでに変わっている。深夜帯においては低照度のままたもたれているあかりは心もとなかったが、勝手知ったる道を歩くには不自由を感じなかった。巡回のために歩いている者がいないのは、“獅子の泉”の警備システムがこれ以上ないほどに信頼できるものであることの証左だった。

 静かな廊下で、彼女はふと、自分の部屋への最短経路から逸れた。すこしだけ回り道をしようと思ったのである。たとえそれが短きものであったとしても、寄り道は旅の華である。彼女が一目でも見たいと思ったものは、ふたりの少年の寝顔だった。

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが惑星フェザーンに帰ってきたときのことである。だれよりも先に迎えに行き、からだを抱き上げてその帰還を喜んだマリーカの腕の中で、少年は、

「フェリックスに会いたい」

 と言ったのである。親心ならぬ乳母心を傷つけられた思いのしたマリーカであったが、主の願いよりも自分の心を優先させるわけにもいかない。彼女は少年を抱き上げたままくるくるとまわり、束の間の独占をたのしんでから、すぐに少年の欲求を満たそうとした。少年が待ち望んでいた相手は、母親とともにアレクの迎えに来ていたのである。

 マリーカの腕のなかで、アレクはそれを発見したようだった。彼女がゆっくりと地面におろすと、少年は一目散に駆けだした。そのまま一歳年長の黒髪の少年に抱きつき、そのままこう言った。

「“わが友”」

 それは熟練の職人によってつくられた金管楽器のもののように、美しい音色だった。音に深みはないが、それはこれから何度もその音を出していくにしたがって増していくだろう。

「どうされたのですか?」

 黒髪の少年は困惑し、それ以上に周囲の者もみな困惑していた。それはマリーカとて同様である。オーディンへ行くまえまでは、アレクは黒髪の少年のことを名で呼んでいたはずである。それが、いまでは称号によって呼ぶようになっているのだ。

 その真相を知る者は、ただふたりしかいなかった。少年の母と、その伯母である。マリーカはふたりから簡単に話をきき、そして彼が宇宙船の中で、伯母からその発音の手ほどきを受けていたということを知ったのだった。

 それから、アレクは友の着ていた服のすそを手放そうとしなかった。母親がいくら言っても聞かないので、しかたなく一日だけではアレクの好きにさせてやろうということになったのである。アレクは何度もフェリックス・ミッターマイヤーのことをその称号で呼び、フェリックスに返事をさせた。

「フラウ・ミッターマイヤー。今晩、フェリックスくんをお借りしても?」

「ええ、もちろん構いません。あの子もきっとよろこびますわ」

 ふたりの少年の母親はにこやかに挨拶をかわし、そうしてフェリックスの“お泊まり”が決定したのである。

 そんなふたりがどんな寝顔をしているのか、マリーカは気になってしまった。彼女としても、ふたりの美しい少年の乳母であり、姉であり、年長の友のような立場を、存分に利用してやろうという気持ちになっていたのだ。もちろん、そこには“お世話”という大義名分もある。もし毛布が落ちていたら、かけなおして差し上げよう、などと考えていたのである。年少の男の子の寝相というのは、どんな生まれであっても芸術的にすぎるのだ。

 アレクの部屋を視界に入れたとき、彼女はその違和に気が付いた。部屋のドアが、わずかに開いている――。マリーカは瞬時に最悪の状況を想定し、叫び声をあげる準備をしながら、忍び足でドアに近づいた。まさか、警備システムが破られたのか?

 そっとドアの隙間から部屋のなかを見渡す。ベッドのそばにあるランプはついていて、それだけでふたりがいないことがわかった。ふたり以外の不埒者の存在も、そこには感じられない。マリーカはすばやくドアを開けて中に入ってゆく。やはり、ふたりはいない。

「そんな、まさか……」

 誘拐? しかし、部屋に暴れたり、争ったりした形跡はなかった。あらかじめ計画されていたかのように整然とした空間のなかで、マリーカはクローゼットのなかを見てみる。そこで、彼女はようやく安心した。いつもクローゼットにかけてあるはずのカーディガンがなかったのである。ならば、ふたりがいなくなった原因は、ふたり以外の他者によるものではない。

 カーテンがあけられた窓からは、美しい星空が見えている。きっと、ふたりの少年は、この星空が奏でる歌声にさそわれて、それがもっともよくきこえる場所で寝転んでいるのだろう。ふたりにとって、その歌声は子守唄などではなく、宇宙へと赴くみずからを鼓舞してくれる行進曲なのだ。

 マリーカは、ランプのあかりを消した。それは彼女の足跡を残すようなものだった。それで、あの聡明なふたりならば、きっと、自分たちの小冒険が完全なる秘密のままに終わらなかったことに気が付くだろう。マリーカはふたりを叱るつもりはなかったが、完璧な成功体験のままに終わらせておくつもりもまたなかった。“次はもっとうまくやりなさいね”、と彼女は伝えようとしたのである。

 静かに部屋を出ると、規則的な足音がこちらに向かってきていた。

「あら、主席元帥閣下」

 思いのほか大きな声が出て、マリーカは手で口をおさえた。そういえば、叫び声をあげる準備をしていたのである。蜂蜜色の頭髪をいただいた男は、苦笑いをして、

「これは、フラウ・ケスラー」

 と声量をおさえて言った。

「どうされたのですか?」

 こんな時間に、主席元帥が“獅子の泉”にいることは珍しかった。

「すこし、軍の人事にかんする話し合いが長引きまして」

 アレクサンデル・ジークフリードは、皇帝である以上、新銀河帝国軍の統帥者である。しかし、それに責任と遂行の能力がないため、それらの役割は摂政であるヒルダにあずけられていた。だがヒルダも軍事的には素人に等しく、結局はウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥がその役割を一手に引き受けているのだった。

「それはたいへんでしたね」

「ええ、それで、心身が疲弊すると、わが子の寝顔が見たくなるものでしてな」

 弁解するように言って、主席元帥は頭をかいた。宇宙一の傑物のやさしい家庭人の側面が見えて、思わずマリーカは笑ったが、しかし、このまま彼が少年たちの寝室に向かうと、ふたりの小冒険が露見してしまう。そうすれば、叱責を受けるのはフェリックスのほうである。マリーカには、ふたりの少年が、どういうやり取りの末に現在の状況に至ったのか、手に取るようにわかるのだ。

「フラウ・ケスラーは、どうされたのですか? 陛下のご寝室から出られてきましたが……」

 マリーカはめまぐるしく頭を回転させた。主席元帥を部屋に向かわせず、納得して帰っていただくにはどうすればいいのか。

「それが、主席元帥閣下」

 必要以上に声をひそめ、ミッターマイヤーに耳打ちするように言った。

「わたしも、ちょっとおふたりのお顔を見てみたくなって、この部屋のまえまで来たのですが、そうしたらランプがつきっぱなしだったことに気付いてしまったんです」

「なんと。それはフェリックスの教育がなっていませんでしたね。わずかとはいえ、エネルギーの無駄は非難されるべきです」

「いえ、おふたりはまだ起きていらっしゃったんです。お泊りする子どもの心理ですわ、閣下」

 ミッターマイヤーは、あごに手を当て、考えるような仕草をした。

「ふむ、なるほど。それで、フラウ・ケスラーはふたりを寝かしつけてくださったのですね」

「はい、そうです。三〇分以上もかかってしまいました」

「そうだったのですね。いや、これは失礼を。せっかく寝かしつけてくださったのに、それを無下にするようなまねはできません」

「ありがとうございます、閣下」

 踵を返そうとするミッターマイヤーを見て、内心で深く胸をなでおろしながら、マリーカは言った。

「とても仲のよさそうな、きれいな寝顔でいらっしゃいましたよ」

 ミッターマイヤーがちいさく微笑む。やはり、それはやさしげな家庭人の顔だった。

 

 惑星フェザーンは、緑化された帝都を一歩外に出ると、そこには荒涼とした大地が広がっている。大地と星空とがまじわる一本の直線。それはとなりあう惑星と宇宙の境目だった。凝視する。みずからの視線が、惑星と宇宙のどちらに注がれているのか、フェリックス・ミッターマイヤーにはわからなかった。交互に行き来しているようにも、どちらか一方に注がれているようにも、それは感じられる。惑星と宇宙の境目は、まだ彼にとっては現実と憧憬の狭間だった。

 彼のとなりには、黄金の髪をいただく少年がいる。少年はフェリックスの服のすそをつかみ、フェザーンの夜のなかで寒さに身をふるわせていた。外に出よう、と言ったのは少年のほうだった。少年のからだのふるえは、小冒険を申し出た者と帰還を申し出る者とが同一になるのも遠くないことであることを示しているようにみえる。

 現実と憧憬の果てを眺めるフェリックスのよこがおを、アレクサンデル・ジークフリードが凝視している。少年にとっては、大地の果てや、その向こうに広がる銀河よりも、そばにいるたったひとりの友のほうが、現実と憧憬に満ちていたのである。

「ねえ、フェリックス。どこを見ているの?」

 アレクは、フェリックスの定まらぬ視点を見て取り、問うた。

「あの、一本の線を見ています、陛下」

 アレクはまだ地平線という言葉を知らないだろう、という配慮だった。フェリックスもまだ幼いが、アレクのために早熟でなければならなかったのである。彼はその年齢に比してあまりある知識を、すでに身につけていた。

 フェリックスは、アレクの左手をとって、地平線に指をむけさせた。その指さきは冷たかった。

「あの、一本の線から上が、宇宙。下が、私たちの星です」

 地平線をなぞるように、指を動かす。アレクは、じっとその指さきの向こうを見ていた。

「じゃあ、フェリックス。まっすぐあの線へ歩いていけば、ぼくたちは宇宙に行けるのかな」

「それは、できません」

「どうして?」

 惑星は球体だから、大地の果てへ歩けどもあるのは大地である、と言ったところで、アレクがそれを理解できるかも、信じてくれるかもわからない。それに、フェリックス自身も、その直線にむかって歩き出したこともないのだ。はたして、本当に惑星が球体であるのか、自分はこの眼でたしかめたわけでもないのである。

「宇宙へいくためには、宇宙船が必要だからです」

 いささかはぐらかした答えではあるが、今のアレクにはそれで十分であった。アレクは左手をフェリックスにあずけながら、ちいさくうなずいた。

「そっか、じゃあ、よかった」

 フェリックスの熱が移ったのか、アレクの指さきがあたたかさを増してくる。それはとても頼もしいようにも感じられた。

 手を放す。アレクの左手は、束の間、みずからの意志で直線のうえにあったが、やがてゆっくりとおろされていった。

「なぜです、陛下?」

 フェリックスはほほえみ、アレクの返事を待った。このような、知的生産とは無縁とも思えるやりとりを、彼は好んでいたのである。

「だって、宇宙船にのらなきゃ、フェリックスは宇宙へ行っちゃわないってことでしょう?」

 虚をつかれた思いがして、彼は息を止めた。少年のまなざしは、こちらへ向けられている。その蒼氷色の瞳は、どこからともなく届いたかすかな光を、強烈に照り返していた。その光に耐え切れず、フェリックスは眼をそらす。そらした視線の先には、現在と未来とを区分する直線があった。

「いつまでも、そばにいてよ、“わが友”」

 大地と銀河、現実と憧憬、現在と未来……一心にフェリックスを見つめる蒼氷色のまなざしをうけながら、彼の視線は両者のあいだをゆれうごいていた。たかが一本の直線。しかし、それを越えることが、どれだけの意味をもってしまうのか。

 もう一度、アレクへと向き直る。少年のまなざしは、微動だにしていなかった。はぐらかすことは、赦されるはずもなかった。

 ここには、父のように助言をあたえてくれる者もおらず、むろん相談すべき相手もいない。すべては自分の意志のうえで決定されなければいけなかった。しかも、かつてないほどの迅速さで。

 地平線を思い出す。そこに答えはなかった。それはどちらかの狭間であったから。

「はい、陛下」

 フェリックスはその言葉に本心をのせることができなかった。アレクはそれに気が付いただろうか。本当は、気が付いてほしかった。そのことばの空虚さに、自分のまなざしの先にあるものに。嘘だ、と問いただしてくれるのなら、どれほど楽なことか……。

 しかし――アレクは笑った。渇ききったのどが冷たい水で潤されたように、きょう一番の、輝くほどの笑顔で。

「ありがとう、フェリックス」

 自分ではない、フェリックス・ミッターマイヤーというひとりの少年が、微笑みかけている。本当の自分はそれより半歩だけうしろにいて、地平線に向かって、その上方で無限に広がる漆黒をながめているはずだった。

 ミッターマイヤーという姓を享けたこと、アレクサンデル・ジークフリードの友であること。それは、自分を縛り付ける鎖なのか。

 地平線。大地と漆黒。夜明けは、まだ先のことだった。

「そろそろ帰ろう」

 からだを震わせたアレクが、フェリックスの腕をつかんだ。手は、再び冷たくなっているようだった。アレクが風邪を引いては、父に叱られるのはむろん自分のほうだ。

 おれは、自由でありたいのかもしれない――。

 そう思って、最後にもう一度、地平線へ眼をやった。その下方と上方と、どちらを眺めていたのか、フェリックスにはわからなかった。

 



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