Prologue/
「知ってる? この木は十年桜って言って、『ここでまた会う約束をした人たちは、十年後に再会できる』っていう言い伝えがあるんだって」
桜の下。少女は優しく微笑みながら、そう言った。
「だから約束。いつかまた、必ず
◇
The story begins/
春うらら。荒川の河川敷に植えられた大きな桜の下。そこに響くのは、アコースティックギターの音色と、桜の枝を止まり木とする鶯たちの声。
その穏やかな一風景の中で、ひとつ深呼吸をする。
温かさを思い出した季節の空気が肺に取り込まれ、身体に蟠っていた何かを、少しだけ浄化してくれる気がした。
「こんな感じ、かな」
傍らに置いていた大学ノートに思いついた歌詞を記し、それからコードを奏で、そのメロディに乗せて、唄う。
この歌が他者に、どのようにして聴かれているのかは分からない。それもそうだ。今は平日の真昼間。こんな時間に、桜の下でノスタルジックに溺れながら作曲をしている男なんて、きっと日本中を探しても俺ひとりしかいない。
「曲名は…………何にしよう」
鉛筆の尻を顎に当て、独り言を呟く。素敵な春の景色を眺めていたら、意外とすんなり歌詞とそれに合うコード進行は浮かんできた。ならばタイトルも同じようにすぐ思いつく、と楽観的に考えていたのだが、そう上手く行かないのが世界の理。春は今年も俺にスパルタらしい。
そうして頭を悩ませたまま、時はゆっくりと、しかし確かに前へ進んで行く。その事実を、少し離れた場所に流れる川が教え諭してくれているようだった。
「そうだ」
川の流れを見つめていると、家を出てくる前にテレビに映るお天気キャスターが言っていた、ある言葉をふと思い出す。あれは、確か。
「あ、あのっ」
そうして曲名が頭の水面に浮かび上がりそうになった時、誰かの声が聞こえてくる。
顔を向けると、肩に浅葱色のトートバッグを掛けた一人の女の子が、桜の下に座る俺を見つめて立っていた。
臙脂色の長い髪に、琥珀色の瞳。女の子にしては背が高く、水色の七分丈ジャケットとクリーム色のロングスカートから伸びる細い四肢の肌は、きっと雪でも驚くんじゃないかと思うほど白い。右のこめかみに付けられたパールのバレッタは、夏休みの朝に降る控え目な雨みたいに、彼女の純朴さを程よく引き立てていた。
春の妖精。気配も無く、突如として俺の前に現れたその子は、この目に映した瞬間から、そんな表現をしたくなるほど儚げな容姿をしていた。
数秒間、沈黙が落ちる。ただそれは、気まずさを生じさせる類の無音では無い。少ないボキャブラリで形容するならば、構成の中で敢えて音を失くす休符のように、曲を完成させるためには必要な静寂。そんな風に思えた。
「こんにちは」
俺はそう言って、閑静を破る。すると声をかけて来た女の子は少し戸惑う仕草をしてから、口を開いた。
「その……今の歌」
「うん? ああ、聴いてたんだ」
俺の言葉を聞いた女の子はこくりと頷く。
「ごめんなさい。素敵な歌声だったので、つい」
「はは、ありがと。お世辞でも嬉しいよ」
「お、お世辞なんかじゃありませんっ」
女の子は強い口調でそう返してくれる。視線の先にあるのは、真剣な表情。それを見て、彼女が嘘を吐いているとは口が裂けても言えなかった。
「じゃあ、本当にありがとう」
「あ。いえ、それは私の方こそ」
「君は、何をしに来たの?」
問いかけると、女の子は俺が凭れかかっている大きな桜の木を見上げる。
「桜を、スケッチに」
「へぇ、絵が描けるんだ」
「はい。あんまり上手じゃないですけど、少しだけ」
「そっか。邪魔だろうから、俺は移動した方がいいよね」
気を遣ってそう言ったのだが、彼女は首を横に振った。
「邪魔じゃありません。むしろ、私こそ邪魔しちゃってごめんなさい」
「謝らなくていいよ。君みたいに可愛い子なら、いくら近くにいたって邪魔にはならない」
「──か、かわっ!?」
「あはは、冗談冗談」
「か、からかわないでくださいっ!」
「ごめんごめん」
「もう…………」
「あ、可愛いっていうのは冗談じゃないよ?」
「──────っ!」
女の子は顔を赤くし、こちらを睨んでくる。こんな軽い冗談で必死な顔をされると、嗜虐心が擽られてしまう。純粋なのかな。それも見た目どおりだけど。
「それで、俺はここで歌ってていいのかな?」
「はい。声をかけてしまって、ごめんなさい」
「いいっていいって。良い絵が描けるように、頑張って」
そう言うと、女の子は頷いてから踵を返す。
その後ろ姿を見て、俺はさっき言われた言葉を胸の中で反芻する。それから一度、Gのコードを鳴らした。
「…………素敵な歌声、か」
そんな風に誰かに褒められたのなんて、一体いつ以来だろう。すぐに思い出せないところからして、だいぶご無沙汰な気がする。それが嬉しくない、なんて事をもし閻魔様に言ったら、問答無用で地獄に送られてしまう。
「なら」
ここからはもっと丁寧に歌おう。聴いているあの子が、少しでも良い桜の絵が描けるように。
河川敷に春風が吹く。それは、頭上にある桜の葉と目線の先にいる桜色の女の子の髪を、そっと靡かせた。
◇
それからまた作曲に集中し、一時間ほど経過した。
こんな穏やかな小春日和の中にいるから、だろうか。いつもより良いアイデアが頭に浮かんでくる。さっきあの女の子が聴いてくれた曲も、あと少しで完成する。
「ふぅ」
しばらくのあいだ夢中になっていた所為で、腹が減っていた事に気づかなかった。いい加減にしろ、というように腹の虫は鳴き、その事実を思い出させてくれる。
抱え続けていたアコースティックギターを桜の幹に立て掛け、三月の空を見上げてながら欠伸をひとつ。涙で潤んだ視線の先には、一本の飛行機雲が伸びていた。
おそらく時間は正午過ぎ。昼ご飯を持ってこなかったので、ここにいたままでは腹の虫を満足させてやれない。
そろそろ帰ろうと思い、離れた芝の上にレジャーシート広げてそこに座りながら、桜をスケッチしている女の子の方へと顔を向ける。彼女は真面目な表情で、手元にあるスケッチブックと向き合っていた。
「あ…………」
邪魔をしないように黙ってその場を去ろうとしたのだが、絵を描いていた女の子が顔を上げてこちらを見た。
視線が交わり、また春の静寂が訪れる。俺が作曲をやめたのが分かったのか、それとも彼女が自身のスケッチに区切りをつけようとしたのかは、分からない。
女の子は俺を見て、何か思いつくような仕草をする。それからスケッチブックを閉じ、傍らに置いていた浅葱色のトートバッグを持って立ち上がった。
そして、ゆったりとした足取りでこちらに歩いてくる。
「あの、お昼ご飯は持ってきていますか?」
桜の下に座る俺の前に立ち、女の子は訊ねて来た。
「ううん。この通り、ギター以外なにも持って無いよ」
両手を横に拡げて何も持ってきていない事をアピールすると、彼女は安心するように微笑んだ。そして、肩に掛けていたトートバッグから茶色い長方形の箱を取り出す。
「じゃあ、一緒にサンドイッチを食べませんか?」
「いいの?」
「はい。作り過ぎちゃったので、一人じゃ食べ切れないんです。だから、どうぞ」
彼女はそう言って、サンドバスケットの蓋を開け、そこに入ったサンドイッチを見せてくれる。確かに、女の子ひとりで食べるにしては少し量が多いかもしれない。
ちょうど腹も減っていたし、せっかくこの子が誘ってくれたのだから、ここは素直に頷いておくのが道理だろう。
「なら、お言葉に甘えようかな」
「ぜひ。ああ、でもお口に合わなかったらごめんなさい」
「それは大丈夫。俺はなんでも食べられるから」
「嫌いなものが無いんですか?」
「まぁね。隣、座る?」
何気なくそう言い、桜の下のスペースを空ける。女の子は、少々ぎこちない様子で頷いてくれた。
「は、はい。ありがとう、ございます」
彼女が左隣に腰掛けると、そよ風に乗って甘い香りがした。それが彼女の香水の匂いだと脳が認識した時、心臓がほんの少しだけ鼓動の速度を早めた。
春の妖精。この言葉が、脳裏に浮かび上がってくる。
「では、どうぞ」
「ありがとう。じゃ、いただきます」
バスケットの中に入ったサンドイッチをひとつ手渡され、そう言ってから一口食べる。
彼女がくれたのは、玉子サンド。ほんのり甘めで、好みの味付けだった。
「うん、美味しいよ」
「本当ですか? 建前じゃありませんか?」
「はは、心配性なんだね」
「……男の人に料理を食べてもらうのなんて、初めてだから」
桜色の女の子は視線を斜め下に向け、そう返して来る。
「そっか。じゃあ本音を言ってあげる」
「は、はいっ」
そう前置きを置くと、女の子はシャキっと背筋を伸ばし、緊張した面持ちでこちらを見て来た。
その純粋さを心の中で笑いながら、俺は口を開く。
「もし、俺が治らない病気に罹ったとして、寿命が尽きる直前にこれを食べられたなら、きっと笑って死んでいけると思う。それくらい美味しいよ」
二流の純文作家の散文のような表現でこの玉子サンドの美味しさを形容してみる。隣に座る桜色の女の子はよく分からない、というような表情を浮かべていた。
「それは、褒めてるんですか?」
「もちろん。もうこれ以上ない、ってくらいに」
素直にそう言うと、目に映る顔は再び笑顔に変わる。
「ふふ。そんな風に褒められたの、生まれて初めてです」
「やった。じゃあ俺は君の初めての人なんだね」
「そ、そうですけど。その言い方は、ちょっと……」
俺の冗談に、桜色の女の子はまたもやピュアな反応を返してくれる。なかなかからかい甲斐があるな、この子。
そうして穏やかな春の空気の中。俺たちは話をしながら、そのサンドイッチを食べ進める。
俺は、この子と今日初めて会った。それは間違いない。なのに、話をしていると何故かそう思えなかった。懐かしい感じ、とでも言えばいいのか。そんな感覚が心に芽生えているのを、無視するわけにはいかなかった。
「そういえば、さ」
「はい?」
「桜の絵は描けたのかな?」
両手でサンドイッチを持ち、二等辺三角形の頂角を小さな口で食べている女の子に問いかける。どうでもいいけど、食べ方が女の子っぽくてとても可愛らしい。
桜色の女の子はこくりと頷き、サンドイッチを飲み込んでから答えてくれる。
「おかげさまで、いつもより上手に描けました」
「それならよかった。ほんとは邪魔になってるんじゃないかと思って、心配してたんだけど」
「いいえ。上手く描けたのは、きっとあなたの歌を聴いていたからです」
「はは。そんなに褒めると、嬉しくてうっかり何かしちゃうかもよ?」
「な、何をするんですか?」
ひしっと身体を隠すように両手で抱く桜色の女の子。しかし残念ながら、俺にはこんな可愛らしい女の子に何かをできるほどの甲斐性は存在しない。
「嘘だよ。言葉の綾ってやつ」」
桜色の女の子は頬を膨らませる。その表情も俺の悪戯心の脇腹を擽っている事を、彼女は知らないんだろう。
「良かったら見せてくれないかな、その絵」
それを見たくない、と言うのはきっと、空腹時に目の前の大好物を食べたくない、と嘯く事と同義。
俺の言葉を聞いて、桜色の女の子はトートバッグの中に入っているスケッチブックを取り出し、あるページを開いてそれをこちらに差し出してくれた。
「…………」
「プロの人と比べたら下手かも知れないけど、私にとってはここ最近で一番の絵が描けました」
女の子は、絵を眺める俺に向かって言う。謙遜が含まれたその言葉。だけど、それすら虚言に聞こえてしまうほどに、この目が映しているモノクロの絵は綺麗だった。
そこに描かれていたのはやっぱり、俺たちが寄りかかるこの大きな桜の木が中心にある風景画。
だけど、その一部分にはそこに入らなくてもいいはずの登場人物が描かれている。
「これって、俺かな?」
大輪の桜の下で、ギターを抱えている一人の男。それが自分である事に気づくまで、長い時間は要らなかった。
問い掛けると、桜色の女の子は少しだけ申し訳なさそうな顔をして、こちらを見つめてくる。
「ごめんなさい。どうしても、歌っているあなたの姿をこの絵の中に入れたかったんです」
少しの間を空けて、彼女は続ける。
「綺麗な春の中に、あなたが自然に溶けていたから」
そして、困ったような表情を浮かべたまま微笑んでくれた。それが褒め言葉なのかどうかは、玉虫色。だから、俺がここで言うべき言葉はこれしかないと思った。
「そっか。ありがと」
三月に咲くの桜のように、あまりにもありきたりな感謝。けど、この言葉以上に感情を上手く表現できる気がしなかった。だから、これでいい。
俺の言葉を聞き、スケッチブックを返された桜色の女の子は、数秒間そこに描かれた絵を見つめてから何かを閃くような顔をした。
「そうだ」
「?」
そう言ってトートバッグの中から一本の鉛筆を取り出し、絵に何かを書き加える。
そうして、桜の絵が描かれたページをスケッチブックから外し、それを俺の方へと差し出してきた。
「よかったらこの絵、あなたにあげます」
「いいの?」
「はい。素敵な歌を聴かせてもらったお返し、です」
桜色の女の子は笑顔を浮かべる。そう言われて、断るなんて俺にはできやしなかった。
そのページを受け取り、もう一度絵を眺める。すると、右下にさっきは書かれてなかった文字を見つけた。
「桜内、梨子」
「それが、私の名前です」
遅れた自己紹介をする桜色の女の子、もとい桜内梨子さん。見た瞬間、ペンネームなのかと思ったけれど、彼女の言い方からして、たぶんこれが本名なんだろう。
やっぱりこの子は、俺の前に突然現れた春の妖精。そう思い込まないと、彼女の存在を受け入れられなかった。
「これは、この絵の名前?」
桜内さんはこくりと頷き、そうだと教えてくれる。
それは奇しくも、俺が作っていた歌の名前と同じで、少しだけ笑ってしまった。こんな偶然もあるのか、と。
サンドイッチをご馳走になって、嬉しい事を言われて、自分が描かれた絵をもらった。ならば、何かを返さなければならない、と思うのが人間の心情ってやつだろう。
でも、俺には彼女のように形になる何かが描けるわけじゃない。金があるわけでもない。だったら、この瞬間にしか与えられない何かを、彼女にあげるしかない。
「桜内さん」
「はい?」
「お礼、させてくれないかな」
そう言って、俺は桜に立て掛けていたアコースティックギターを手に取る。それを見て、隣に座る桜内さんも俺が何をするのかに気づいてくれたらしい。
「はい。ぜひ、聴かせてください」
「うん。じゃあ、心を込めて」
この歌は、この桜色の女の子だけに向けて歌う。彼女が描いた、素敵な桜の絵と同じタイトルの歌を。
河川敷に春風が吹く。芳しい花のような香り。それは薄紅色の花びらと共に北へと運ばれて行く。
日本列島におけるソメイヨシノの開花日の等期日線。その花が同時に開花する場所はこの線上に分布し、おおよそ南から北へと進行するという。
その花の開花日を地図上で一本の線で結んだ言葉を、俺と彼女はそれぞれの作品に名付けた。
「聴いてください。曲名は────」
◇
────Song, Birds, Wind, and Moon
────────サクラゼンセン────────
次話/再会
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再会
第一話/再会
◇
四月の夕暮れ時。駅前は家路を辿る雑踏で賑わっていた。目の前を通り過ぎる人々は、皆それぞれ違った目的地を目指して足早に歩いて行く。だから一人で路上ライブをしている男なんて、きっと視界にすら入らない。
「…………はぁ」
最後の歌を歌い終わり、改めて辺りを見渡す。当然、見物人はいない。歌っている最中も、せいぜい待ち合わせの時間に少し早く着いてしまった女子高生が、暇つぶしに聴いてくれた程度。たまに缶コーヒーを奢ってくれる前歯の無いおっさんも、今日は現れなかった。
お決まりのため息を吐き、途方も無い虚しさを感じながら楽器類を片付け始める。もちろん、そんな俺に話しかけてくる奴は皆無。下町の駅前で肩を落としてるシンガーソングライターを気にかける人間なんて、残念ながらこの町にはいない。
「何やってんだろうな」
エレアコをギターケースに仕舞いながら、無意味な独り言をポツリ。それは誰の耳にも入る事なく、無数の雑踏の中に溶けて行った。こんな事を嘆いたってどうにもならないのは、俺がいちばん分かってるのに。
「さーて」
惨憺たる路上ライブの片付けが終わり、飲みにでも行くか、と思いながらギターケースを抱えて立ち上がる。
ライブの後はいつも全身が重い。心が沈んでいると、身体も無意識にそれを感じ取るのかもしれない。
「あのっ」
背後から声が聞こえてくる。けど、それが俺に向けられたものではないのは、振り返らなくても分かる。
この町──東京に約千七百万の人間が住んでいるのだとしたら、それと同数の目的や意思がある。当たり前のように、俺なんかに声をかける意思を持っている誰かは、何処を探しても見つからない。だってそんなの、喋らない小石に語り掛けていた方がまだ有意義だろうから。
「一之瀬さん」
しかし、今日はその理論に僅かな綻びが生じた。
行きつけの居酒屋へ向けていた足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、臙脂色の髪をした女の子。清楚な出で立ちの女子大生、と表現するのが最も分かりやすい。もちろん、東北のど田舎に生を受け、二十歳までそこで育った俺にそんな知り合いはいない。
だけど、そこにいた女の子には確かに見覚えがあった。
「桜内、さん?」
「はい。お久しぶりです」
数週間前に桜の下で出会った女の子の名前を口にすると、彼女はぺこりと頭を下げて来た。
「久しぶり。どうしたの、こんな所で」
また会えた嬉しさはあるけど、それ以上になんでこの子がこんな寂れた下町の駅前なんかにいるんだろう、という疑問を感じる方が早かった。
俺が問い掛けると、桜の下で出会った女の子──桜内さんは目を逸らし、事あり顔を浮かべた。
「それは、その……いろいろとあって」
「もしかして、新しくできた彼氏の家に遊びにでも来たとか?」
朗らかに笑いながら思いついた推理を口にすると、それを聞いた桜内さんはボッと顔を真っ赤にする。
「ち、違いますっ! なんでそうなるんですか!?」
「だって俺、いつもこの時間にここで歌ってるからさ。もし長いこと付き合ってる彼氏がいたなら、もう何回も会ってるだろうからね」
そう言ってみせると、赤くなった桜内さんは大きな目を少しだけ丸くした。でも、すぐにまた俺を睨んでくる。
「た、確かにこの駅で降りたのは初めてですけど、ここに来たのはそんな理由じゃありません。か……彼氏、だなんて、今までいた事も無いのに」
「え、マジで? 別にいいって、そういう冗談は」
「本当です。もう、一之瀬さんはイジワルです」
桜内さんは赤い頬を膨らませてそっぽを向く。この子が嘘を吐くような女の子じゃないのは分かってるし、そもそも俺にそんな嘘を吐いてもメリットの欠片も無い事実を鑑みて、その言葉は真実なんだろう。逆に東京の男共は何やってんだ。こんな素敵な女の子に手を出さないとか、お前らの理想はどんだけ高いんだよ。星でも撃ち落とそうとしてんのか。
「そっか。ごめん、見た目で判断してた」
「どんな目で見てたんですか」
「いや、彼氏なんて両手の指を全部使っても数え切れないくらいいるのかなー、って」
「さようなら、イジワルな一之瀬さん」
「待つんだ桜内さん。今のは冗談。冷静になろう」
まぁ四、五人くらいはいると思ってたけども。
「この前も言いましたけど、あんまり私をからかわないでください」
「ごめんごめん。今度から気をつける」
ジトっとした目で見上げてくる桜内さん。うん、全然信用されてないな俺。ぶっちゃけ今のは嘘だったし。
「でも、本当に偶然だね」
「私もビックリしました。聞き覚えのある声だなって思ってたら、まさか本当に一之瀬さんだったなんて」
「そう言うって事は、見てたんだね」
「あ…………はい。ごめんなさい」
桜内さんはバツが悪そうに謝ってくる。でも、今は思いっ切り笑われた方がいくらかマシな気がした。
「謝らなくていいよ。客が集まらないなんて、いつもの事だし」
桜内さんが笑わない分、自分で言って笑ってみた。
ああ。でも、こっちの方が虚しいかもしれない。
「でも、一之瀬さんの歌声は素敵です。この駅前で聴いていても、綺麗な声でした」
「そう言ってくれるのは桜内さんだけだよ。けど、ありがとう。少し元気出た」
あの日と同じように褒めてくれる桜内さん。けど、その言葉がお世辞じゃないのが分かるほど、ある事実を突きつけられている感じがして、余計に悲しくなる。
歌声は良い。なのに、客が集まらない。それはつまり、曲が全然ダメっていう事なんだろうから。
「そうだ、桜内さん」
「はい?」
「夜ご飯はまだ食べてないよね?」
そう問いかけると、彼女はこくりと頷いた。
「なら、一緒に食べに行かない? 奢ってあげるからさ」
「え、でも……」
「この間もらったサンドイッチのお礼って事で。何か用事があるなら仕方ないけど」
そう言うと、桜内さんは申し訳なさそうな表情を浮かべる。そんな顔をされると、何もしてないのに何故か悪い事をした気分になってしまう。
「いいんですか? 本当に」
「もちろん。袖振り合うもなんとか、っていうじゃん」
そう言って俺は笑う。もちろん、こんなのダメもとだ。たまたま駅前で会ったからって、一度会っただけの男に飯を奢られる筋合いはこの子には無い。
でも、今は誰かと一緒が良かった。こんな日にひとりで酒を飲んでも、美味いわけが無いだろうから。
「……それじゃあ、ごめんなさい。お言葉に甘えます」
そんな事を考えていると、桜内さんはそう言った。
完全に断られる気でいたから、一瞬彼女が何を言ったのか分からなかった。でも、ここで狼狽えたら誘っておいてなんだ、と思われてしまう。それは何となく憚れる。
「よし、じゃあ行こうか」
「あ、待ってください一之瀬さん」
そう言って、誰も見向きもしてくれない駅前から立ち去る。それはいつも通りの事。けど今日は少し違う。
たった一人だけ、
次話/居酒屋の〇さん
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居酒屋の凛さん
第二話/居酒屋の凛さん
◇
それから十分ほど歩き、俺たちは目的の店に到着する。
「お店って、ここ?」
「うん。俺の行きつけの居酒屋だよ」
駅前の目抜き通りから外れた路地に佇む、一軒の古びた中華居酒屋。周辺にはキャバクラとかスナックが軒を連ねてるので、店に近づくにつれて桜内さんの顔が段々と渋くなっていったのを、この目は見逃さなかった。
「
店先に置かれた巨大な招き猫を見て、桜内さんは言う。
「常連は猫あかりって呼んでる。店長が猫好きな人でさ、店の中にも猫がいるんだよ。桜内さんは猫、大丈夫?」
「あ、はい。ネコは大好きです」
「ならよかった。あ、そうだ」
「?」
「一匹だけでっかい猫もいるから、気をつけてね?」
店のドアに手を掛ける前に、いちおう忠告しておく。桜内さんはよく分からない、というような表情を浮かべながら首を傾げていた。無理もない。
その顔を見てから、俺は店に入る。
「こんばんわー」
「あ。拓ちゃんっ、いらっしゃいませだにゃーっ!!!」
「…………? え? え?」
店内に足を踏み入れた瞬間、俺たちを出迎えたのは超ハイテンションな店員の奇抜な挨拶。案の定、桜内さんはその場に立ち尽くしたまま呆気に取られている。
俺たちの前に立つのは、黄色のチャイナドレスを身に纏い、頭頂部付近に二つのお団子の髪飾りを付けた橙色のショートカットの綺麗な女性。初めてこの人を見て驚かない人間は、この広い世界にもそうそういまい。
「お疲れさまです凛さん。今日も元気っすね」
「もっちろんっ! って、あれ? 拓ちゃん、今日はお連れ様もいるのかにゃ?」
チャイナの店員は、俺の後ろに立つ桜内さんに気づく。
「はい。さっき駅前で偶然会って」
「拓ちゃんが女の子を連れてくるなんてめずらしいね~。いらっしゃいっ! ゆっくりして行ってにゃっ!」
「は、はいっ。よろしくお願いしますっ!」
テンパった桜内さんはそんな返事をする。よろしくされるのはどっちかというとこっちなんだけどな。
「あっ、ちょっ、あの……」
「へー、とっても可愛い子。拓ちゃん、一体どこでこんな女の子を拾って来たのかにゃ?」
「拾ってませんよ、人聞きの悪い。この前、荒川の河川敷で歌ってる時にたまたま会ったんです」
桜内さんの近くに行き、匂いを嗅いでどんな人間なのかを知ろうとする猫のように彼女の全身を眺めるチャイナの店員。当然、桜内さんは困った顔をしてる。でも、この人に目をつけられたら諦めるしかない。
「でも、本当に可愛いね。まるで、
「────っ!?」
「ほら凛さん、そんな舐めるようにジロジロ見られたら困りますよ。離れる離れる」
「えー。久しぶりに美少女を見られて嬉しかったのに~」
「はいはい。凛さんも十分綺麗ですよ」
「ホントっ!? えへへ、拓ちゃんに褒められたぁ」
桜内さんから離れさせながら軽い感じでそう言うと、チャイナの店員は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「驚かせてごめんね、桜内さん。こちら、この猫あかりでバイトをしてる凛さん」
「星空凛でーすっ。よろしくねっ!」
俺が紹介すると、チャイナの店員──凛さんは桜内さんの手を握ってまたスキンシップを取りに行く。桜内さんは未だに凛さんのハイテンションについて行けず、目を丸くして前に立つチャイナ娘を見つめていた。
「さ、桜内、梨子です」
「梨子ちゃん、っていうんだにゃっ! 可愛い見た目にピッタリな名前だねっ」
凛さんは握った桜内さんの手をぶんぶんと上下に振る。それから手を離して、その小さな身体を軽やかに翻した。
「じゃああっちのお席にご案内するにゃーっ」
そうして凛さんは俺たちを窓際の席へと案内してくれる。まだ時間が早いからか、店内にいる客は俺たちだけだった。冷静に考えればそれもそう。常に酒が入ってるんじゃないか、ってくらいのハイテンションで絡んでくるこのチャイナがいる所為か、ここを一件目に選ぶ奴はまずいない。常連でも一、二件のウォーミングアップを入れてから来るんだから。素面で凛さんと絡める客は、俺を含めても数人しかいないと思う。
「じゃあお冷とメニュー持ってくるねーっ」
俺と桜内さんが席に腰を下ろすと、凛さんはそう言って厨房の方へと消えて行った。それでようやく騒がしさが落ち着く。桜内さんは黙って厨房の方を見つめていた。
「気をつけてね、って言った意味が分かった?」
「は、はい。ちょっとだけ、ビックリしました」
「はは、驚かせてごめん。凛さんはあんな感じでいっつも騒がしいけど、良い人だから心配しなくていいよ」
俺がそう言うと、桜内さんは頷いてくれる。
「それは、なんとなく分かります」
「そうでしょ。凛さんは俺の二つ上の先輩でさ、プロのダンサーになるためにここでバイトをして、アメリカに留学するお金を貯めてるんだって」
厨房の方から凛さんの中国語と笑い声が聞こえてくる。たぶん、店長とまたバカ話でもしてるんだろう。
「…………二つ年上、ダンス」
「うん? どうかした?」
「ああ、いえ。なんでもないです。ただ、」
桜内さんは凛さんがいるであろう厨房の方を見つめて口を開く。
「あの人、どこかで見た事あるような────」
◇
それから食べ物と飲み物を注文し、俺はビールを飲みながら桜内さんと話をしていた。彼女が飲んでいるのはオレンジジュース。初めて会った男の奢りで酒を飲むのは、ちょっと憚られるか。単純に飲めないのかもしれないけど。
「そういえばさ」
「はい?」
そう言うと、俺の向かいの席で春巻きを咥えている桜内はこちらを見てくる。さっきは流してしまったけど、酒が入った今なら訊ける気がした。
「なんであの駅で降りたのか、そろそろ教えてくれたりしない?」
桜内さんは一度箸を置き、春巻きを咀嚼しながら何かを考えるような表情を浮かべる。彼氏の家に来たのでは無ければ、何のためにこんな下町に来たのか。それが気にならないと言えば嘘になる。
「一之瀬さんも、この辺りに住んでいるんですか?」
「まぁね。駅から五分くらいの所にあるおんぼろアパートで、寂しく一人暮らししてるよ」
質問に質問を返され、そう答える。俺が住んでいるのは築五十年、木造二階建て、線路目の前、小学校目の前、ゴキブリ出放題、家賃五万五千円、駅から徒歩十分、トイレ風呂付、六畳一間で大家の婆さん以外、入居者がいないスーパーボロアパート。
桜内さんはまた口を閉ざし、向かいにいる俺の顔を琥珀色の目でジッと見つめてきた。
「…………大学の友達以外には秘密にしようって思ってたんですけど、一之瀬さんになら教えてもいいです」
桜内さんはそんな前置きをしてから、話し始める。
「実はこの前、私が通ってる大学の寮が火事になってしまったんです」
「…………ん?」
なんかニュースで見たような気がする話だな、と思うが、俺の様子に気づかない桜内さんは話を続ける。
「私の部屋は無事だったんですけど、大部分は燃えてしまって、その修繕が終わるまでの三か月間、学校が借りてくれたアパートに住む事になったんです」
ふぅ、と小さなため息を吐く桜内さん。その決定に納得いっていないのは彼女の顔を見ればすぐに分かった。
「それで、そのアパートがここら辺にあるんだ?」
「そうみたいです。いつまでもホテルに泊まるわけにもいかないので、今日から住まなくちゃいけなくて」
桜内さんの言葉を聞いて、彼女が駅前にいた事に関しては腑に落ちる。だが、また気になる事ができた。
「ちなみに、桜内さんが通ってる大学って」
「聞いた事あるかどうか分からないですけど、秋葉にあるO大、っていう美術大学です」
「マジか…………」
「?」
驚愕を隠さずにそう呟くと、桜内さんは首を傾げる。
彼女が通っているという大学は、都内でも有数の超お嬢さま学校。詳しい事はよく知らないが、そこに通う女子大生は軒並みガードが硬い事で有名だった。一般人が合コンでもしようものなら、自己紹介をした瞬間に相手が全員帰ってしまう、という恐ろしい都市伝説も聞いた事がある。
そこの寮が不審火によって燃えたニュースは、数日前にテレビで話題になっていた。まさか彼女がそこの学生だったなんて。いや、見た目は確かに通ってそうだけども。大丈夫だろうか。フリーターがこんなハイレベルな女の子と中華料理屋で安い飯を食ってていいのか?
「どうかしました?」
「あ、ああ。いや、なんでもないよ。大変だったんだね」
動揺を隠しながら何とか返事をする。今からでも凛さんに頼んで高級なフカヒレでも頼むべきだろうか。それで彼女が満足してくれるかは微妙だが、格安の春巻きや麻婆豆腐よりかは断然マシだろう。金は無いのでまた凛さんにツケてもらう事になってしまうだろうが。
「はい。でも、そのおかげでまた一之瀬さんをお会いできましたから、よかったです」
うっ、笑顔が眩しいっ。どんだけ良い子なんだ。
「そ、そうだね。俺も嬉しいよ」
「じゃあ、今度は私が訊いてもいいですか?」
誤魔化すようにビールに口をつけると、桜内さんは俺に向かってそう言ってくる。
「いいよ。何かな?」
「その、一之瀬さんはあの駅前で毎日歌ってる、って言ってましたよね」
「うん。そうだよ」
「それは、何のためにですか?」
桜内さんの問いを聞き、俺は少しだけ黙る。自分で言ったのだから、答えづらいというわけじゃない。ただ。
「プロのミュージシャンになるため、かな」
ほとんど初対面の女の子に大袈裟な夢を語るのは、なんとなく心苦しい気がしたから。
「……プロの、ミュージシャン」
「途方も無い夢だけどね。そうなれたらいいな、って思って、二年前に上京してきたんだよ」
そう言えば、初めてこの町に来たのも四月だった。そんな過去を思い出して、ちょっとだけセンチな気持ちになる。まいったな。酔った所為だと思おう。
「もちろん、そう簡単に叶う夢じゃないのは分かってる。でも、何もせずに田舎で燻ったままなのは嫌だったんだ」
「だから、東京に来たんですか?」
「うん。さっき見てもらった通り、結果は散々だけどね」
桜内さんにそう言ってからまたビールを飲む。
口の中を流れるそれは、いつもより苦く感じた。
「でも、素敵な夢だと思います」
沈黙の後、桜内さんはそう言ってくれる。けれど、素直さを失った酔った頭はその言葉を否定しようとする。
「夢がどれだけ素敵でも、叶わなきゃ意味は無いよ」
「それは、分かります。でも、明確な夢がある生き方っていうのは、とても素敵だと思うんです……私には、もう」
桜内さんはそこまで言って、ふるふると頭を左右に振る。その仕草が何を意味するのかは、知る由も無かった。
「そんな風に言われたの、初めてだよ」
「ふふ。なら、私が一之瀬さんの初めての人、ですね」
笑いながらそう言った途端、それが誤解を招きそうな言葉だったのに気づいたのか、桜内さんは顔を赤くする。
「ありがとう、桜内さん。また元気出たよ」
「い、いえ。お気になさらず」
「俺の初めての人は桜内さん、って事でいいのかな?」
「それは忘れてくださいーっ!」
真っ赤な顔を両手で隠す桜内さん。彼女の恥ずかしそうな仕草を見つめながら、残ったビールを飲み干す。
何だかさっきより、苦味が薄くなった気がした。
次話/桜色の物語
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桜色の物語
第三話/桜色の物語
◇
「それじゃ、この辺でいいかな」
「はい。今日はご馳走さまでした」
俺と桜内さんは、二時間ほど猫明亭で話をしてから店を出た。凛さんから『また来てね!』という熱烈な勧誘を受けていた桜内さん。おそらく、彼女がこの辺りに住むのであれば再びあの店に行く機会があると思う。
ゆっくりと来た道を辿り、先ほど再会した駅前のロータリーに到着する。アパートまで送って行ってもよかったけれど、出会ったばかりの男にそこまでされる筋合いは彼女には無いだろう。だから、今日はここまで。
「もし、また歌ってるところを見かけたら声をかけてよ」
「もちろんです。今度はもっと近くで聴かせてください」
桜内さんはそう言って微笑む。なら、彼女がいる時は必ず聴いてくれる人がいるって事か。そんな果たされるかどうかも分からない約束をしてくれる人が一人でもいてくれるだけで、安いこの心は満たされてしまう。
「じゃあ、気をつけてね」
「はい。一之瀬さんも」
そう言い合って別れ、それぞれの家路に着く。俺たちはアパートの場所はもちろん、連絡先すら交換していない。何かを気にしてそうした訳じゃない。ただ、この二度目の偶然を利用して彼女と知り合いになるのは、なんとなく違う気がしたから。
駅前を離れ、いつも通りの閑静な住宅街を一人歩く。最悪な一日の終わり。でも、今日は少しだけ心が高揚している。それは、あの子にまた会えたおかげなのか。
「…………違うな」
そうじゃない。そんなのは言い訳に過ぎない。俺は酒の力を借り、その上で何か理由をつけて、沈んだ気分を無理やりサルベージしようとしていたに過ぎない。
結局、誰と会おうが何を話そうが、現実が変わるわけじゃない。だからこそ、俺は今日も一人で誰もいない夜道をボロアパートに向かって歩いているんだろう。
『でも、素敵な夢だと思います』
出会ったばかりの桜色の女の子は、俺の途方も無い願いを聞いて、そう言ってくれた。気を遣ってくれたんじゃないのは、琥珀色の両眼を見ればすぐに分かった。あの子は、本当に心からそう思って言ってくれた。
けど、いくら夢や目標が格好良くたって、それを追う俺の価値が変わるわけでは無い。豚に真珠、なんて諺があるように、才能の無い凡人が綺麗な大志を抱いたって醜い事は絶対に変わらない。むしろ抱えているものが美しければ美しいほど、醜さが引き立ってしまう。
「何やってんだろうな、俺」
何度言ったか分からない、その無意味な独り言。聞く者は誰もいない。唯一、周囲に漂う春の静寂だけが、虚しさという無言の返事を返してくれた。
アパートの近くにあるコンビニの前を通りかかる。その明かりを見たら急に煙草が吸いたくなり、外に置かれた灰皿スタンドの傍らで、俺はメビウスに火を点けた。
「…………」
口から吐かれ、すぐに宙に消えて行く白い煙を見つめる。十六の頃から吸い続けているこの味。これを吸う度に、地元で馬鹿ばかりやっていた頃の事を思い出す。
あの頃が一番楽しかった。なんて、ダサい事は思わない。だけど、今よりも充実していた事だけは確かだ。
先の事なんて何も考えず、ただ仲間と一緒にギターを弾くのが楽しかった。
「……これさえあれば、どこでも幸せに生きて行けるって、本気で思ってたんだけどな」
灰を落とし、足元に下ろしたギターケースを見つめる。
夢だけで食っていける世の中じゃないってのは、地元を出てくる前に腐るほど聞かされた。でも、俺はそんな大人の戯言には耳を貸さずに、この町に来た。
あれから二年。何も変わらない、自分の身のまわり。それを改めて自覚すると、もしかしたらあの言葉が正しかったんじゃないか、と思ってしまう時がある。
「それでも」
あの大人たちを認めたくない。この町のどこかには、俺と同じような境遇で成功した奴らがいる。だったら、自分にもそれができなければおかしい。
分かってる。こんなの、痛い奴が考える無謀な思考だって事は。だけど、それでも。
「あれ、一之瀬さん」
答えの見つからない問題とともに煙草の火を消した時、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
顔を上げるとそこには予想通り、さっき別れたばかりの桜内さんが目を丸くして立っていた。
「どうしたの? また何か用でもあった?」
「いえ。実はアパートがこの辺りみたいで、コンビニの前を通りかかったら、一之瀬さんがいたから」
彼女の手にはピンク色のスマートフォンが握られている。あれで場所を確認しながら歩いてきたんだろう。
「偶然だね。俺のアパートもこの辺なんだよ」
「そうなんですか。意外と近くなのかも知れませんね」
桜内さんの言葉を聞いて、もやっとした何かが心の隅に生まれる感じがする。かなり抽象的だけど、確かにそんな感覚があった。なんだ、これ。
「なら早く帰った方がいいよ。この辺、たまに悪い奴が現れたりするから」
「そ、そうですね。じゃあ今度こそさようなら、です」
ぺこりと頭を下げて、桜内さんは俺の前から立ち去る。そう言うなら送って行けばよかったかもしれない、と少し思うけど、何故かその言葉が口から出てこなかった。
「…………まさか、な」
俺のアパートがある方向へ歩いて行く桜内さんの背中を見つめながら、そう呟く。それから脳裏に浮かんだIFを掻き消すように、頭を軽く左右に振った。
いくらあの子と会う偶然が多くたって、流石にそれはあり得ない。ここまでは本当にたまたま。ただの巡り合わせがよかった、くらいに考えておこう。
それからコンビニで煙草とミネラルウォーターを買い、アパートへ帰る。ちなみにそれらを買ったのに深い意味は無い。ただ、心の隅に生まれたもやっとした感覚が俺にそうしろ、と訴えてきたから従っただけ。断じて、あの子と帰るタイミングをズラすため、なんかじゃない。
そう自分に言い聞かせ、アパートが建っている道の最後の角を曲がった。
そして、俺は心に生まれた感覚の正体を理解した。
「…………何してるの、桜内さん」
「え?」
アパートを見上げている女の子に声をかけると、彼女は驚いた顔でこちらを振り返る。
そんなはずは無い。そう言い聞かせる度に、心はそうだ、と答えを返して来る。
「そこのアパートに、何か用でもあるの?」
「はい。やっと見つけたんです、今日から住むアパート」
安心するような微笑みを浮かべる桜内さん。
しかし、俺の背中にはダラダラと汗が流れていた。
「…………邪な考えとか無しに訊くけど、ちなみにそれはどこなのかな?」
「えっと、このアパートの二階の東から二番目の部屋、みたいです」
スマホの画面に表示されているであろう情報を読み上げ、桜内さんはその部屋を指差す。
残念ながら、そのアパートには見覚えがある。
いや、そんな表現ではまだ甘い。
だって、そこは。
「桜内さん」
「はい?」
何も知らないであろう女の子の名字を呼ぶ。彼女は俺が浮かべている苦笑いの意味が分からないというように、首を可愛らしく傾げていた。
ここまで来たら腹をくくるしかない。っていうか、もう誤魔化したってどうにもなる問題でもない。
街灯の下。俺は一度深呼吸をして、目の前に立つ桜色の女の子と向かい合う。
────これは、俺と彼女が過ごした数カ月の記憶。
「その部屋の隣、俺の部屋だよ」
数秒の沈黙。桜内さんは無表情で再びアパートの二階に目をやり、それからまた俺の方へと顔を向けてくる。
そして。
「ええええええええええええええっ!!!???」
桜色の女の子は、深夜の住宅街に絶叫を響かせた。
────そんな何気ない春に始まった、桜色の物語。
第一章
終
次話/〇木〇真〇
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第二章
西木野真姫
第四話/西木野真姫
◇
夜の帳が落ちたいつもの駅前に、今日もアコースティックギターの音色を響かせる。風が少し強いらしく、離れた所に咲いている桜の花びらが、歌っている俺の所まで運ばれてきた。そんな儚い薄紅色を見つめながら六本の弦を弾き、メロディに合わせて歌を歌う。言わずもがな、この弾き語りに耳を傾ける聴衆は皆無。
つまるところ、普段のバイト終わりの光景だった。
最後の曲のアウトロを弾き終わり、周囲に静寂が流れる。それだけ聞けば詩的な表現に感じるかもしれないけど、俺が欲しいのはこんな静けさじゃない。一生懸命歌ったんだから拍手くらい欲しい、と思ってもバチは当たらないだろう。
雲に覆われた夜空を見上げ、息を吐く。疲れた所為、それもある。でも今のは五割くらいがため息だった。
────バイト終わりにこうして、いつもの場所でいつも通りに路上ライブをする。これも俺のルーティン。
いくら下町の駅前だからと言っても、路上ライブをするには警察の許可がいる。俺が歌ってるスポットの数十メートル先にもバリバリ交番があって、そこの前には明らかに学生時代柔道とかレスリングをやっていたであろう、ゴリゴリのガタイをしたおっかないお巡りさんがこっちをガン見して立っている。許可をもらわずにライブをすると、あのゴリラみたいなお巡りさんに御用になるのは今どきの小学生だって分かるだろう。
だが、俺の場合はそうならない。何故か? 答えは簡単。許可なしでライブをやりまくって、そのやった回数分、あの交番にお世話になったから。言ってみれば、俺は前科を何百回と重ねた犯罪者。だが、誰の迷惑にもなっていないし(そもそも誰も聴いてくれない)、ロータリーの端っこだから通行の邪魔にもなってない。
という言い訳を吐き続けたところ、こうして許可なし+お巡りさんにガン見されてる状況で路上ライブをしても、お咎めを受けなくなった。というか、罪を重ねすぎてお巡りさんも痺れを切らしたんだろう。台風だろうが大雪だろうが、何が何でも毎日必ず現れるフリーターの情熱が、正義に勝ったってわけだ。ちなみに、あのゴリってるお巡りさんとはたまに凛さんの店に飲みに行くほどの仲になった。これも怪我の功名、ってやつか。違うな。
「気は済んだ?」
空を仰いでいると、誰かがこちらに歩み寄りながら声をかけて来る。俺は顔をその人の方に向け、口を開いた。
「すんません、真姫さん。寒かったですか?」
「いろんな意味でサムかったわよ。あんた、よくこの雰囲気であんな風に熱唱できるわね」
切れ長の藤色のジト目に見つめられる。これは間違いなく呆れられてる。四月になったからとはいえ、夜はまだ冷えるのだから仕方ない。この人がサムイと言ったのは気温の事だけじゃないのは分かってるけど。
「そんなんいちいち気にしてたら、ライブなんてやってらんないっすよ」
「バカなのあんた。いい? ライブってのはね、アーティストとオーディエンスがいて成り立つもんなのよ。あんたがやってんのはただの音害じゃない」
「真姫さん。今の俺にそれはちょっと辛辣すぎっす」
ただでさえ痛い傷口に塩を投げてくるその女性。幕内力士でもドン引きするんじゃないか、と思うほどの塩の量だった。この人は俺を殺そうとしてるんだろうか。
「あんた以外に言わないわよ、こんな事」
「それは真姫さんが俺に期待をしてくれてる、って受け取ってもよろしいので?」
「図が高いわ。反省として土下座をしてからあたしの靴でも舐めなさい」
「いや、いくら真姫さんの靴でも美味しくは無いかと」
「誰がいつ味の話をしたのよ」
赤いトレンチコートを着た女性はため息を吐く。それを見て、少しだけ申し訳ない気持ちになったりした。
薔薇色の髪をした釣り目の女性────西木野真姫さんは、俺のバイト先の先輩。歳は凛さんと同い年で、なんと二人は高校の同級生だったらしい。世間って広いようで狭いよな、マジで。
歳は上だけど、現在大学四年生。二浪してから国公立医大に入った自称・苦労人。実家がデカめの病院を経営してて、本人も頭が悪いわけでは無いらしい。なのに二回も落ちた理由をこっそり凛さんに訊いたら『真姫ちゃんは色々あって、音楽から離れられなくなっちゃったのにゃ!』、という謎の返答をもらった。
簡潔に言えば、悪い時期に音楽にハマってしまって、受験勉強に身が入らなくなったって事だろう。残念だ。ちなみにその所為で実家を追い出され、今は恵比寿にある高級マンションで一人暮らしをしてるみたい。
見た目も超綺麗だし、実家も大金持ちの医者を目指してるお嬢さま。なのになんか色々と残念な人。
それが、この西木野真姫さんっていう女性。
「あんた、いま失礼なこと考えてなかった?」
「いえ、真姫さんってうちの楽器屋じゃなくてSMクラブとかの方が稼げそうだな、ってこと以外は何も」
「ふーん。そんなにあたしに踏まれたいの、あんた」
「いだだだ、もう踏んでます真姫さん。ヒールはやめてっ。足の甲にゴルフカップみたいなのができちゃう!」
「大丈夫よ。そしたらあたしが治してあげるから」
「何その新手のプレイ…………って、ちょっ、真姫さんマジでやめっ、ああ────っ!」
閑話休題。それから二分程、俺は真姫さんが履いてるパンプスのヒールに足の甲を踏まれ続けた。穴は開かなかったが、たぶん明日そこが黒くなると思う。なんてこった。俺にそういう性癖は無いってのに。
「まったく。あんたはあたしを何だと思ってるのよ」
腰に手を当てて、足を抑えてる俺を呆れ顔で見下して来る真姫さん。天然SM嬢ですね、という本音が声帯の一ミリ手前まで来たが、次また踏まれたらマジで穴が開くので、死ぬ気で言いたい衝動を堪えた。
「ほら、終わったんなら早く片付けて店に行くわよ。予約の時間、過ぎじゃうじゃない」
真姫さんはそう言って、路上ライブの後片付けを手伝ってくれる。可愛い後輩を容赦なくディスりまくるくせに、こういう優しさを持ち合わせてる。そんなところも、この人を西木野真姫足らしめている所以なんだろう。
医者になる夢を追いながらも、音楽を手離さない不器用な女性。音楽だけを追い駆けている俺とは違う、強い人。俺もいつかこの人のようになりたい、と思う時がある。
「真姫さん」
「なによ」
マイクスタンドを畳んでいる真姫さんに声をかけると、彼女は不機嫌そうにこちらを見てくる。
「夢って、どうやったら叶うんですかね」
本当に何気なく、雑談として俺は真姫さんにそう言った。そんな質問に答えが出せるなら、この世界に夢で悩む人間はいなくなる。それは理解してる。
でも、この路上ライブをした後はいつもこんな事ばかりを考えてしまう。答えの無い堂々巡りを繰り返して、自分勝手に落ち込んで、また明日もここで歌う。
それが、現時点の俺の人生。
真姫さんは片づけをしていた手を止め、こちらを黙って見つめてくる。その藤色の瞳は、目の前に立つ才能の無い男の心を見透かしているような気がした。
「知らないわよ、そんなの」
駅前の通りを救急車がサイレンを鳴らして通り抜けて行った後、真姫さんはぶっきらぼうな口調でそう言った。それから彼女は片付けを再開する。
俺は胸の中で蟠った何かをため息とともに吐き出し、ギターをケースの中に仕舞った。
次話/酔っ払いに飲ませる薬はウコンだけ
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酔っ払いに飲ませる薬はウコンだけ
第五話/酔っ払いに飲ませる薬はウコンだけ
◇
「真姫さん大丈夫っすか? マンションまで歩けます?」
「なぁに言ってんのよあんたわぁ。まらまら行けるにきまってんれしょぉ?」
駅前で路上ライブをし終わった後、真姫さんが行きつけのバーに向かった。しかし、店を出る頃には彼女はこんな有り様に。俺とサシで飲みに行くと、真姫さんはほとんどの確率でこうなる。弱いなら飲まなきゃいいのに。
「じゃあ拓海くん、真姫ちゃんをよろしくね」
「はい。ほら真姫さん、マスターに挨拶して」
「じゃあねぇますたぁ。また来るわよぉ~」
出入り口まで見送りに来てくれたバーのマスターに、舌足らずな感じで言う真姫さん。普段がキリッとしてる分、酔った時の彼女はなんというか、ギャップがすごい。そして、この状態の真姫さんどう扱っていいのか、未だに分からないままでいる。
マスターに別れを告げ、俺はべろんべろんになった真姫さんに肩を貸して駅へと向かって歩き出す。今日は吐かないでくれよ、マジで。
「そんじゃぁ次いくわよぉ、今日はまだかえさないんらからぁ」
「それは酔ってない奴が言うセリフです。駅はまで送りますから、なんとか一人で帰ってくださいよ? また外で寝たりしたら今度は本気で怒りますからね」
数カ月前の事を思い出し、忠告する。こんな綺麗な人が道端で寝てたりしたらどうなるのか。そんなの深く考えなくたって分かる。ここは東京。世界一平和な国の首都だとしても、悪い事を考える奴なんて幾らでもいる。
「なぁんであんたにそんなこと言われらくちゃいけないのよぉ」
「心配だからに決まってんでしょうが。あなたみたいに綺麗な人が泥酔してるのを見て、よからぬ事を考える奴がこの世にどんだけいると思ってんすか?」
よろよろと歩きながら、ちょっとだけ説教する。どうせ明日になったらこの人は何も覚えてない。もし覚えてたとしても、間違った事は言ってないんだから別にいいだろ。
そう言った途端、真姫さんは急に立ち止まり、肩を組んだまま横にいる俺の顔を見つめてくる。
紅潮した頬に、艶めかしい朱色の唇。それに、ローズマリーの大人っぽいハーバルな香水の香り。それらを至近距離で見たり感じたりさせられたら、嫌でも心拍数が上がって行く。尊敬してる先輩だからと言ったって、俺が男でこの人が女性である事には変わりない。少しだけ広くなったその胸元に目をやるな、と言う方が罪深い。
「あんた、今あたしのことを女として見てる?」
「なんでそうなるんすか。いいから早く歩いてください。終電逃したらどうするんですか。恵比寿までのタクシー代とか、俺の生活費三週間分くらい吹っ飛びますからね」
呆れながら言うが、真姫さんは足を動かそうとしない。ヒールの高いパンプスを履いてる所為で身長が同じくらいだから、俺たちの視線はほぼ平行に交わる。真姫さんは俺の目を藤色の両眼で見つめながら、艶やかな唇を開いた。
「あんた、いま彼女いないの?」
「は? ちょっと真姫さん。そういうのいいですから」
「いいから答えなさい。いるの? いないの?」
真姫さんに見つめられながら問いかけられ、誤魔化そうとしてもダメだった。この人は頑固だから、俺が答えなければ絶対にここから動こうとしないだろう。いつもはこんな事言わないのに、今日は過去最高に悪酔いしてしまっているらしい。なんてこった。
「…………いませんよ。東京に来てからは、そんな暇も余裕も無かったですし」
どうせ明日になれば忘れてる、と自分に言い聞かせて仕方なく俺は答える。すると真姫さんは予想通りだ、というような表情を浮かべた。
「そう。じゃああたしを部屋に泊めたって、誰も怒らないわよね?」
「な…………酔ってるからって、興味ない男にそういう事あんまり言わない方がいいですよ」
妖艶な微笑みを浮かべてそう言ってくる真姫さんに、もう一度説教を食らわせる。今度は男としての忠告。俺なんかがこの人に触れて良い訳が無いのは重々承知してる。だけど、何かの拍子でタガが外れてしまう可能性だって考えられなく無い。だからこそ、そういう誤解を生みそうな言葉は慎んでほしかった。
俺の言葉を聞いた真姫さんは少し笑い、それから急にぐいっと顔を近づけてくる。
「本当に興味の無い男を、あたしが飲みに誘うと思う?」
そして、耳元で囁かれる蠱惑的なその台詞。それを聞いて、俺の中にある男の本能が反応する。でも、冷静になれ。俺はこの人の事を何も知らない訳じゃない。
「だから、そういう事を軽々しく言っちゃダメですって」
真姫さんが俺をからかっているのはお見通し。人差し指で頬を突いて近づいてきた顔を離すと、彼女は不機嫌そうにその頬をむっと膨らませた。
「もう、だからダメなのよあんたはぁ」
「はいはい、ダメで結構ですよ。ほら歩く歩く」
そう言って、肩を貸した状態で再び歩き出す。真姫さんはまだ隣で『あんたはあたしの事を何にも分かってない』とか、『この意気地なし』とか言っていたけど、俺はそのほとんどを聞き流していた。酔っ払いに飲ませる薬はウコンだけ、と相場が決まってる。一夜の衝動で関係が崩れたらそれこそ後悔する。だから何もしないのが正解なんだ。……そりゃ、したくないわけじゃないけど。
そうして俺たちはようやく駅前に到着する。時刻は既に零時を過ぎている。終電は間もなく来てしまうので、早くこの人をホームまで連れて行かなければ。
「真姫さん、もうちょい早く歩いてください。乗り遅れますよ」
「だからいいのぉ、今日はあんたの家に泊まるのぉ」
「まだ言ってんすか。寝言はベッドに入ってから言ってください」
「だ、誰があんたと同じベッドで寝るのよっ、いみわかんないっ」
「誘ってんのかそうじゃないのかどっちなんすか」
駅の構内に入り、そんな会話をしながらホームへと向かう。すると下り線の終電が来たらしく、乗客が次々と改札を通って来る。恵比寿までは上り線に乗らなければならない。下りの終電が来たのなら、その五分後に上りの終電がくるはず。
そう思いながら、酔っ払った真姫さんを改札の前まで連れて行こうとしたのだが。
「あ……」
「ん? あ……桜内さん」
改札を出てきた桜色の女の子に、またばったり出くわす。この子とは度々こんな感じの出会い方をするので、もうなんとなく慣れてしまった。
しかし、今日はいつもと同じではない。俺の隣にはこの厄介な酔っ払いお姉さんがいる。
「こ、こんばんは、一之瀬さん」
俺と真姫さんを見るなり、ぺこりと礼儀正しく頭を下げてくる桜内さん。真面目な彼女らしいな、とは思うけど、今日は気づかなかった振りをして立ち去ってほしかった。理由は、隣を見れば分かるだろう。
「あっ、ちょっと真姫さん」
「………………」
「……え? あ、あの」
気を抜いた一瞬の隙に真姫さんは俺から離れ、突然現れた桜内さんの方へと歩み寄って行く。それから彼女の頭から足先までを舐めるように観察し始めた。当然、桜内さんはめちゃくちゃ困った顔を浮かべている。その姿はまるで、テリトリーに入って来た子猫の匂いを嗅ぎ、実力を見定めるボス猫さながら。ていうかそのもの。
「なによあんた。こいつと知り合いなの?」
「は、はいっ。知り合い、というか、隣人というかなんというか…………」
「隣人? なによそれ」
「ご、ごめんなさいっ!」
何も悪くないのに、桜内さんは初対面の怖いお姉さんに向かって頭を下げた。気持ちはよく分かる。
すると真姫さんは後ろにいる俺の方を振り向き、明らかに不機嫌そうな眼差しをこちらへ向けてきた。
「ちょっとあんた。それ、どういう事よ」
「話すと長くなるので、とりあえず今日のところは帰ってください」
「帰るわけないでしょ。こんな可愛い子と隣人ですって? いみわかんないっ。理由を聞くまでぜったい帰らないんだからっ」
「や、そんな自信満々に宣言されても……」
改札の前でそう言い、腕を組みながら仁王立ちする真姫さん。答えなかったら最早そこに寝始めるんじゃないか、というほどの勢い。改札を出てくる人たちは何事か、という目線をこちらへ送り、早足に通り過ぎて行く。
真姫さんの背後にいる桜内さんは突然始まったこの状況に動揺して、なんかあわあわしてた。
「だから、この子は近くに住んでるだけで、別に変な関係とかじゃないですから」
「ふーん。近くに、ね」
「そうですよ。変な誤解しないでください。あと、早く帰って」
俺がそう言うと、真姫さんはまた振り返り、背後に立っていた桜色の女の子の方を向く。再び目をつけられた桜内さんはビクッと身体を反応させ、薔薇色の髪をした女性(泥酔)を涙目で見つめていた。
「それ、本当なの?」
「ほ、ほほほ本当ですっ。一之瀬さんとはこの前出会ったばかりで、偶然同じアパートに住んでるだけですっ」
「おーなーじぃ、アパートぉー?」
やばいな。真姫さんが完全にキマった目でこっちを見てくる。そして背後に修羅みたいな幻影が見えた。俺も飲み過ぎたか?
「どーいうことか、詳しく説明してくれるわよねぇ?」
「だ、だからその。知り合った後にたまたま彼女が俺のアパートに越して来て……とにかくっ、俺とその子はただの隣人なんですってっ」
「嘘言いなさいっ。そんなメロドラマみたいな話があるわけないでしょっ!?」
「俺もそう思いますけど、マジなんですよっ!」
手短に経緯を説明すると、予想通り真姫さんは怒り出した。あと、その話を自分で言って嘘臭いと思ってしまったのは仕方ないと思う。
「…………ただの、隣人」
ぼそっと桜内さんが何かを呟く。視線を向けたら不機嫌そうな感じでそっぽを向かれた。俺が何をした。
「あんた、歌が売れないからっていかがわしい事とかに手を出したりしてるんじゃないでしょうね」
「してるわけないでしょうが。逆に訊きますけど、俺がそんなことすると思いますか?」
俺が訊ねると、真姫さんは目線を斜め下に向けてもじもじしながらその質問に答え始める。どうした。
「…………だ、だってあんた、別に顔は悪くないし、まあまあ性格だって良いし……だから、こういう純粋そうな女の子が騙されたり、とか…………」
「え? なんか言いました?」
「うっさいバカっ!」
「何故だっ!?」
よく聞こえなかったので訊き返したら思いっ切り足を踏まれた。しかもさっき踏まれた所。もうそろそろ足の甲にゴルフカップができたかもしれない。理不尽すぎる。
「…………」
どうすりゃこのタイラントプリンセスを止められるんだ、と踏まれた足を押さえながら考えている時、真姫さんとの間に入り込むように、誰かが俺の前に現れた。
「なによ。その男を庇うってことはあんた、やっぱりそいつといかがわしい関係を持ってるんじゃないの?」
「違います。私と一之瀬さんはそんな関係じゃありません」
「桜内、さん」
彼女は凛とした佇まいで真姫さんと向かい合い、迷いの無い声で言った。この子は今、俺を助けようとしてくれている。こんな事に巻き込まれた理由もよく分かっていないだろうに。
「じゃあその証拠を見せなさい」
「そういうものは、まだ出会ったばかりなので在りません。でも、一之瀬さんは悪い事なんてしません」
桜内さんがそう言うと、真姫さんは面を食らった表情を浮かべる。けど、すぐにいつもの切れ長の目に戻った。
「あんたにこいつの何がわかるっていうのよ。言っておくけどね、あたしはこいつが住んでる部屋の畳の下にいーっぱいいやらしい本や物があるのを知ってるんだから。こいつの趣味はすごいんだからね? 知ったらあんたもビックリするわよ。例えば────」
「真姫さんストーップ! つーかなんで知ってんすか!?」
「あんたがあたしに隠し事するなんて、千年早いわ」
「説明になってないっ?! なんか顔が赤くなってるけど、違うよ桜内さん。嘘だからね? こんな酔っ払いが言う事を信じちゃダメだからねっ?」
「ビックリするくらい、すごい趣味……」
「だから違うんだって…………っ!」
口元を手で隠しながらごくり、と唾を飲む桜内さん。もうやだ。お嫁に行けない。帰ったら隠し場所を変えよう、と強く心に刻んだ。
「で、どうなのよ。あんたはこいつの何を知ってるわけ?」
再び真姫さんがそう問いかける。数秒の沈黙。問われた桜内さんは十分な間を置いてから、静かな声で答えた。
「…………分かりません。でも、一之瀬さんがとても良い人だということは知っています」
「…………」
「だから、一之瀬さんは悪い事なんてしません」
桜内さんがそう言った途端、真姫さんはフラフラとおぼつかない足取りで俺の方へと歩み寄ってくる。
そして、そのまま俺に抱きついてきた。
「なっ。ま、真姫さんっ。急にどうしたんすか!」
「はわわわっ。こ、こんな公衆の面前でそんな…………し、失礼しましたっ!」
「桜内さーんっ! お願いだから逃げないでーっ! …………って」
頭を下げてからダッシュで逃げようとした桜内さんを呼び止めたところで、俺はある事に気づく。
もしかしなくても真姫さん、俺に抱きついてきたんじゃなくて。
「……寝てる?」
俺の身体に凭れ、小さな寝息を立てている真姫さん。
おそらく、この人はだいぶ前から限界を迎えていたんだろう。そんなタイミングで桜内さんが現れ、燃え尽きる前のロウソクのように、最後に大きな灯りを放ってから意識の灯火を消した。あんな訳の分からない戯言ばかり吐いていたのも、その所為だと信じたい。
「あんたは、誰にも……」
「はぁ、仕方ないっすね」
寝言を言う真姫さんの寝顔を見ながら、少し笑う。眠った途端、ようやく美人な女性の顔に戻った。ずっと寝てればいいのに、と思ってしまったのは仕方ない。
「ごめんね、桜内さん。変な事に巻き込んじゃって」
「い、いえ。それにしても、この方は」
「ああ、この人は俺のバイト先の先輩、西木野真姫さん。今は酔ってるからあれだけど、普段はしっかりした人だから、誤解しないであげて」
まぁ今後会うかどうかは分からないけど、という言葉は口に出さずに胸の中に仕舞っておいた。
「西木野……真姫、さん?」
俺が寝てる真姫さんを紹介すると、桜内さんは悩むような顔を浮かべて呟く。それはなんとなく、どこかでその名前を聞いた事がある、というような表情だった。
「じゃあ早く起こさないと────」
そう言った瞬間、俺は超重要な案件を忘れていた事に気づく。
「桜内さん」
「はい?」
「今って何時か分かるかな?」
首を傾げている桜内さんに訊ねる。彼女は左手首に付けた銀色の腕時計に目を向け、質問に答えてくれた。
「えっと、零時四十二分です」
それからまた首を傾げる。無理もない。この駅の近辺に越して来たばかりの彼女が、終電の時間を把握しているわけが無いのだから。
そう、この駅の終電時間は零時三九分。つまり。
「どうしよう。終電、行っちゃった」
「あ…………」
本日の運航は終了しました、という文字が流れている電光掲示板を見つめ、俺は言う。当然の如く、肩には恵比寿に住んでいる酔っ払いが未だに寄りかかっていた。
俺たち以外誰もいない駅の構内に、沈黙が流れる。
しかし残念だが、どれだけ現実を直視せずにいても、過ぎ去った時間は戻ってこない。
「桜内さん」
「はい」
俺は傍らに立つ桜色の女の子の名前を呼び、少しの間を空けてから言った。
「……一生のお願い、使ってもいいかな?」
そうして、夜は更けて行く。
次話/隣の部屋の桜内さん
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隣の部屋の桜内さん
Monologue/
人の一生は、生まれた場所では決まらない。
あなたは、そんな言葉を耳にした事があるだろうか。
耳障りがいいだけの、偉人たちが残した格言の臭いを醸し出した、その戯言。俺はそんな言葉を聞く度に、耳の穴に蠅が入った時のような痒みを覚える。
だってそうだろ? その言葉が真実なら、俺たちはどこに生まれたって努力さえすればどんな夢だって叶える事ができる。まるで、舞踏会に行く事を願っただけでその夢を叶えた、貧しいシンデレラみたいに。
けど、それは現実ではあり得ない。海が近くに無い町に生まれたあの子が、プロのサーファーになれないように。雪が降らない町に生まれたあいつが、クロスカントリーの選手にはなれないように。日本で生まれた俺たちが、どう足掻いても大統領にはなれないように。生まれの所為で叶わないものが、この世界には確実に存在する。
だから、俺たちは生まれた環境に合った夢を見る。街に少年野球チームがあるなら、頑張ればプロ野球選手になれるかもしれないし、サッカークラブがあるのなら、努力さえすればサッカー選手になれるかもしれない。だから、俺たちは叶わなそうな夢を口にする。たとえ、それが叶わなくても、その夢を見る事はできるのだから。
そう。かくいう俺も、何も無い田舎に生まれて、その環境下でも見られる夢を見て育った。
小学生の時は、博士になりたかった。中学生の時は、プロのバスケットプレーヤーになりたかった。もちろん今はそのどちらも目指していない。理由は夢を諦めた他の誰かと同じ。どこかの時点で、どう頑張ってもそれにはなれない事を痛いほど気づかされたから。
才能の無い俺には、どれだけ勉強をしたって、どれだけスリーポイントシュートの練習をしたって、秀でた能力が身につく事は無かった。これも生まれの所為にしようとすればいくらでもできる。塾が無かったから博士になれなかった。小学生の時からバスケができるチームが無かったから、俺は上手くなれなかった。そんな風に。
でも高校に入った後、俺は生まれて初めて、育ってきた環境が夢を叶える事に影響しないものに出会った。
それはたぶん、この日本のどこに生まれてもできる事。いや、むしろ何も無い田舎だからこそ、それにのめり込む事が出来るのかもしれない。
それが、音楽。才能や生まれた環境が必要なものの中で、唯一努力だけで栄光へと這い上がれるもの。俺は今でもそうだと認識している。
俺は一人の男と出会ってから、音楽に夢中になった。来る日も来る日も、そいつと楽器を鳴らして、歌った。こんなに楽しい事がこの世にあるのか、と思うくらいに。
……なのに、生まれはまた俺の邪魔をした。生まれっていうイデアは、俺から音楽以外のものをすべて奪って行った。人生に音楽以外のものはいらない。そう口を滑らせただけで『じゃあ、それ以外は
俺に残ったのは、音楽だけだった。
だからこそ、俺はそれだけを抱えて
そうして、意味も無く歌い続ける日々を繰り返して、今に至っている。
Monologue/end
◇
第六話/隣の部屋の桜内さん
「………………」
朝。俺は、近くで聞こえるピアノの音色で目を覚ました。もちろん、俺にそういう習慣は無い。アラームなんてスマホの初期設定のままだし、むしろ目覚ましをセットして寝床に入る事の方が少ない。
じゃあ、なんで今日はピアノの音が聴こえてくるのか。それを確かめるため、布団に寝転んだまま、視線を電子ピアノが置いてある方へと動かした。
「…………え」
作曲用にいちおう置いている安物の電子ピアノ。俺は基本的にギターでしか作曲をしないから、そこの前に座る事はほとんど無い。たまにシンセとかの音を出したい時に電源を入れて鳴らす、くらいのもの。
だと言うのに、今はそこの前に座って音色を奏でる誰かがいた。いや、その前にこの部屋に他の住人がいる方がおかしい。だから、俺はその人影を見て思った。
「天、使……?」
「あっ。お、おはようございます、一之瀬さん」
寝ぼけていたから、だろうか。思った事が理性のフィルターにかからず口から零れ落ちてくる。
俺の声を聞いたピアノの前に座る天使は演奏を止め、焦った様子でこちらを向く。願わくばもう少しだけ、鍵盤を弾いていてほしかった。その優しい音色を聞いていれば、また夢の世界へと墜ちて行ける気がしたから。
「…………って、あれ?」
時が進むにつれて、段々と目が覚めてくる。それとともに、ピアノの前に座っている人影が誰であるのかを認識する事ができた。
臙脂色の髪に、白い肌と琥珀色の瞳。数日前に隣に越して来た桜色の女の子が、何故か俺の部屋にいる。
「おはよう。ごめん、すっかり寝てた」
「私こそごめんなさい。その、起こしてしまいましたか?」
「ううん、大丈夫だよ」
顔を赤くして謝ってくる桜内さんにそう言い、欠伸をしてから掛け時計を見る。朝の八時前。彼女と一緒に帰って来て、色々してから約六時間が経過してる。
「昨日、というかさっきはごめんね。無理やりあんな事させちゃって。本当は嫌だったでしょ」
「い、いえ。ああいうのは初めてではないので、別に」
「へぇ。じゃあ結構よくしてたんだ?」
「はい。高校生の時は、友達と毎週のように」
「毎週? それはすごいな。まぁ、桜内さん優しいから、したい人はいっぱいいたんだろうね」
「そ、そうでもありません。一度に八人くらい一緒だった事はありますけど」
「マジか。桜内さんも、そりゃキツキツだっただろうね」
「そうなんです。一時間ごとに代わりばんこで一人ずつ私のベッドに入ってきたりして」
「はは、そっか。じゃあ俺も今度しちゃってもいいかな?」
「は、はいっ。ちゃんと綺麗にしておくので、その節はよろしくお願いしますっ」
「ふふ、それは俺の台詞だよ」
そこまで言ってから、俺は一度伸びをして続ける。
「でも、本当にごめんね? 急に真姫さんを泊まらせてほしい、なんて言っちゃって」
謝ると桜内さんはすぐに首を横に振る。彼女が誰かを部屋に泊めさせるのが、初めてじゃなくてよかった。
「終電を逃してしまったのなら、仕方ありません。…………それに、いくら仲の良い先輩でも、一之瀬さんの部屋に泊めるわけにはいけませんから」
桜内さんは視線を逸らしながらそう言う。最後の方が尻すぼみになって聞こえなかったけど、別にいいか。
────数時間前。終電をギリギリで逃してしまい、しかも突っ立ったまま眠ってしまった真姫さん。
彼女をどうするべきか悩んだ挙句、俺はナイスなタイミングで近くにいてくれた桜内さんに真姫さんを一晩泊めさせてほしい、とお願いした。
最初は戸惑っていたけど、土下座をする勢いで頼んだらコンビニのプレミアム玉子サンドを買ってくれるならいい、という条件を出され、俺はダッシュでその玉子サンド×3(計千五百円)をダッシュで買って来た。今さらだけど、なんで一個五百円もすんだよあのサンドイッチ。金箔でも入ってんのか?
桜内さんに了承してもらった後は、眠ってしまった真姫さんをおぶってこのアパートまで帰ってきた。そんで、桜内さんの部屋にあるソファに真姫さんを寝せ、何かがあったらすぐに俺の部屋に入って来られるようにと、桜内さんには合鍵を渡しておいたのだった。まさか、本当に入ってくるとは思わなかったけど。
「真姫さん、寝ぼけて暴れたりしなかった?」
「…………だ、大丈夫でした」
なんだ、今の微妙な間。明らかに何かがあった感じがバリバリ出ている。昨夜の大立ち回りから引き続き、今度は何したんだあの人。
「本当に大丈夫だった? 気を遣わなくてもいいからね」
「ほ、本当に何も無かったですっ。ただ、西木野さんと話した内容が、一之瀬さんには言えない、というか」
「?」
「とにかく、何も無かったので安心してください。それに、西木野さんとも少しだけ仲良くなれました」
桜内さんはそう言って微笑んでくれる。その顔に偽りは隠されているように見えない。でも、二人が何を話したのかはちょっとだけ気になった。
「話をしたって事は、真姫さんはもう起きてるの?」
「はい。今はお風呂に入っています。その間に一之瀬さんを起こしてくるように、と言われて、ここに来たんです」
「なるほど」
その説明でだいたいは理解した。そうだよな。何も無いのにこの子が俺の部屋に突入してくるわけが無い。
それより、今はある事の方が気になっていた。
「桜内さん、ピアノ弾けたんだね」
そう言うと、電子ピアノの前に座ったままの桜内さんは一瞬表情を凍らせ、それから口を開いた。
「…………少しだけ、私も音楽をやっていたので」
「そうなんだ。凄く上手だったから、ビックリしたよ」
小さな頃からピアノを習っていて、綺麗な衣装を身に纏って発表会に出ている幼い頃の桜内さんの姿が、簡単に想像する事ができた。きっと裕福な家庭に生まれて、実家には綺麗なピアノがあったんだろうな。
質問に答えた後、桜内さんはしばらくの間、電子ピアノの鍵盤に手を乗せたまま動かなかった。その不自然な様子の意味が分からず、彼女を見つめて首を傾げる。
「どうかした?」
「あ……いえ、何でもありません。それと、ごめんなさい。勝手に弾いたりして」
「いいっていいって。まぁ、桜内さんの声で起きるのもそれはそれでよかったけどね」
「ふふ。次の機会があったら、私が起こしてあげます」
「うん。楽しみにしてる」
そう言って俺たちは笑い合う。この雲のような感じがする春の朝に、いつまでも包まれていたい、と思った。
「────邪魔するわよ、って、もう起きてるじゃない」
「うわっ…………なんだ、真姫さんか」
「なんだとは何よ、なんだとは。人を強盗みたいな目で見ないでくれるかしら」
「昨日は強盗より性質が悪かったですけどねー」
「なんか言った?」
「待つんだ真姫さん。マグカップは飲み物を入れて飲むもので、決して人に向かって投げるものじゃない」
インターホンも押さずに部屋のドアを開けて入ってくる、赤いコートを着たの女性。どうやらこの人には
「西木野さん。用意は終わったんですか?」
「ええ、おかげさまでね。シャワーとか諸々貸してくれてありがと、梨子」
「いえ、お役に立てたならよかったです」
いつの間にか真姫さんが桜内さんの事を名前で呼ぶようになっている。俺が起きる前に話をしたと言っていたが、そんなに距離を縮めるくらい気が合ったのだろうか。というか、これは桜内さんが底抜けに優しいおかげか。初対面であんなにメンチを切られたり罵倒されたりしたら、二度と関わりたくないと思うのが普通だろうに。俺もこの二人が険悪な関係になるんじゃないか、と心のどこかで心配していたので、ちょっとだけ安心した。
「ほら、あんたもいつまでも布団の上にいないで早く準備しなさい」
「え? どっか行くんですか?」
布団の上で胡坐をかきながら考え事をしていると、真姫さんはそう言ってくる。今日は俺も真姫さんもバイトが休み。どうでもいいけど、休みが重なる日だけ、俺たちは一緒に飲みに行く。それもほとんど無いんだけど。
「そうよ。話を聞いたら、この子も大学が休みで空いてるらしいのよ。だからその、昨日は迷惑をかけちゃったみたいだし、何かお礼をしなきゃと思ったの」
「ああ、そういう事ですか」
腕を組みながらバツの悪そうな表情を浮かべる真姫さん。どうやら桜内さんは昨夜の説明をしてくれていたらしい。真姫さんの記憶は忘却の彼方に消えたみたいだが。
そういえば二人とも既にメイクを終えていて、出かける準備は済んでいるように見える。というか。
「三人で行くって事は真姫さん、俺にもお礼してくれるんですか?」
「んな訳ないでしょ。あたしはこの子にお礼をするのよ。あんたはその付き添い」
「ですよねー」
淡い期待をしたのだが、即座に一蹴された。そりゃそうだ。今回、迷惑をかけてしまったのは桜内さんに対してだったんだから。……飲みに行く度に介抱してる俺にも、たまには何かをくれてもいいんじゃないか、と思わなくもない。だが、この人にそんな事を期待するだけ無駄だ。
「早くしなさい、ぐずぐずしてると置いて行くわよ」
「それは言われなくてもしますけど。いいんですか?」
「何がよ」
「いや、ここ俺の部屋なんで、普通に着替えたりしますよ、って話です」
「────ッ!」
そう言うと、真姫さんの代わりに桜内さんの顔がコンロに火を点けるような音とともに赤くなる。
「二人がそれでいいなら、俺は別にいいですけど」
「あたしは別にいいわよ。ああ、梨子。悪いけどちょっとテレビ点けてくれない?」
「い、良いわけありません! わわわ私たちの前で一之瀬さんが着替えるだなんてっ、そんなの絶対ダメですー!」
ソファに腰掛けてくつろぎ始める真姫さんとは対照的に、桜内さんは顔を紅潮させてそう言ってくる。真姫さんも真姫さんだけど、桜内さんの反応はなんとなく予想通りだった。逆にそうじゃなかったら俺が混乱してた。
桜内さんは真姫さんの腕をグイグイと引っ張って立ち上がらせ、この部屋を出て行く事にしたらしい。
「わ、私たちはあっちの部屋で待っていますので、一之瀬さんは準備が終わったら来てくださいっ」
「了解。じゃあ、また真姫さんをよろしくね」
「何よ梨子。こんな奴の裸を見るくらい、別にいいじゃない。何も減るものなんてないわよ」
「あるんです! むしろ大ありですっ! お、おおお男の人の裸を見るだなんて……!」
「ピュアなのねぇあんたも。まぁ見た目どおりと言えばそうだけど。でも、あんまり純粋さをアピールし過ぎても今どきモテないわよ? 特に、ああいう鈍い男はちょっとくらい積極的じゃないと気づきすらしないんだから」
「いいから行きましょう西木野さんっ。じゃあ一之瀬さん、またあとで!」
「う、うん。それじゃあ」
そんな会話をしてから、桜内さんは真姫さんを引き連れて俺の部屋を出て行った。
そうして俺は一人、部屋に取り残される。それを自覚し、深く息を吐いてから、出かける準備に取りかかった。
次話/内浦の海
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内浦の海
第七話/内浦の海
◇
準備を終えて隣の部屋へ行くと、真姫さんは唐突に『あんたたちは何も言わずについてきなさい』とか言い出し、断る理由も無かったので俺と桜内さんはそれに従う事に。桜内さんはまだしも、付き添いの俺に発言権はおそらく無い。今日のところは(というか毎回だが)、飼い主に忠実なラブラドールみたいに、大人しく真姫さんの後をついて行こう。わん。
俺と桜内さんが住んでいるアパートを出て、一行は駅へと向かって歩く。空には青い絵の具しか持っていない水彩画家が、絵筆を水で洗った後のような快晴が広がっている。風も穏やかで、駅へと続く桜の並木道は小春日和の柔和な朝日を浴びながら、傍を通る人々に向かって「おはよう」と、声の無い挨拶をしていた。
満開を過ぎた薄紅色を見上げ、真姫さんの少し後ろを歩く。左隣には視線の先にある花と同じ色彩の空気を帯びた女の子が、俺の歩調に合わせて足を前へ進めていた。
「そういえばあんたたち、桜は好きかしら」
「「?」」
目抜き通りを歩いていると、出し抜けに真姫さんが後ろにいる俺たちにそう言って来た。質問の意図が分からず俺と桜内さんは互いに顔を見合わせ、首を傾げる。
「どうなのよ。好きなの? 嫌いなの?」
「そりゃ、その二択だったらもちろん好きですけど」
「私もです。桜は一番好きな花です」
俺たちは迷いなくそう答える。ていうか、桜が嫌いな日本人なんてこの島にはほぼいないと思うんだが。
その答えを聞いた真姫さんは、頭上に咲く花をちらりと一瞥し、それからまた前を向いた。
「そ、ならよかった。きっと楽しめると思うわ」
そう言い、真姫さんは赤いトレンチコートのポケットに両手を入れて桜並木を進んで行く。俺と桜内さんはまた揃って首を斜めに傾けた。
それから駅に着き、俺たちは山手線内回りの電車に乗った。平日の通勤ラッシュを過ぎた時間帯だからか、乗客はそこまで多くない。真姫さんが座席の角に腰を下ろし、その隣に桜内さん俺の順で座る。
どこに行くんですか、という質問はしない約束なので、俺たちはたわいもない世間話をしながら、真姫さんがどの駅で降りるのかだけを気にしていた。
そうして三十分ほど電車に揺られ、次は恵比寿駅、というアナウンスが流れた時、真姫さんは立ち上がった。
「マンションに帰るんですか?」
「違うわよ。いいから黙ってついてくる」
恵比寿には真姫さんが住んでるマンションがあるので、もしかして部屋に招待して料理でもご馳走してくれるのか、と想像したんだけど、どうやら違ったらしい。だったらそもそも桜が好きかどうか、なんて質問はしてこないだろうしな。ていうか真姫さん、料理できないし。
恵比寿駅の東口から外に出て、駅前通りを真姫さんはマンションがある方向とは逆方向へと歩いて行く。どうやらやっぱり、目的地は別の場所みたいだった。
アメリカ橋公園とかいう小さい公園の前を通り、T字の交差点の向こうに見えた西洋風の赤茶色の建物の横を抜けて、ようやく真姫さんは足を止めた。ここは。
「東京都、写真美術館?」
その建物を見上げ、桜内さんが名前を呟く。
「ここが最初の目的地よ。有名な写真家の展示会、今日が最終日だったの。どれも滅多見られない写真ばかりなんだから、来られたことをありがたく思いなさい」
真姫さんはそう言って受付の方へと歩いて行く。垂れ幕には、知らない写真家の名前と『春霖と花鳥風月』なんていう写真展のタイトルが書かれていた。
「こういう所に来た事ある? 桜内さん」
「はい。大学が芸術系の学科なので、絵画展はよく行きます。でも、写真展はあまり来たことがないです」
「そっか。恥ずかしながら、俺は初めてだよ」
「ふふ。一之瀬さんもアーティストを志しているのなら、もっと他の芸術にも触れるべきですよ?」
桜内さんは微笑みながらそう言ってくれる。確かにそうかも知れない、と思い、頭を掻いた。
「なに突っ立ってるの。早く行くわよ」
受付で入場券を買って来てくれた真姫さんに促され、俺たちは並んでその美術館に入った。
◇
三階に上がり、写真展が行われているホールに足を踏み入れる。さっきも桜内さんに言った通り、俺は美術展なんていう高貴な人間が好みそうなものには訪れた事が無い。
音楽も芸術の一部、と言われてしまえばそれまでなんだが、腕に刺青を入れたやんちゃな兄ちゃんたちがゴリゴリの重低音に合わせてダイブとかモッシュをしているライブハウスの光景を芸術だ、というのは無理があると思う。
いや、ジャズとかピアノのコンサートは芸術の趣が強いとは思うよ? けど、俺が好きなジャンルの音楽はどっちかというとエンターテインメント性が強い感じがする。
「わぁ……」
「へぇ」
俺と桜内さんはそこにある光景を見て、同時に感嘆の声を零した。
ホールの壁には当然の如く、数々の写真が並べられている。さっき垂れ幕に書いてあったタイトルの通り、この展示会は自然がテーマになっているらしい。
朝露に濡れる菫の花に、夜の闇間に隠れて木の枝の上で寄り添っている二匹のミミズク。遠くに聳える雪山の手前に咲き乱れた黄色の菜の花畑と、夜風に揺れるすすきの延長線上に浮かぶ、大きな満月。
その一枚の写真の前に立っているだけで、自分が実際にそこにいるかのような感覚を覚えたりした。
「どうかしら。素敵な写真ばかりでしょ?」
隣り合って写真を眺めている俺と桜内さんに、真姫さんが小声でそう言ってくる。
「こういうの初めてですけど、もっと前に来とけばよかったって後悔してたところです」
「とっても素敵です。ここにある写真に写ってる場所に行って、スケッチを描いてみたくなります」
各々の感想を述べると、真姫さんは満足そうに頷いてくれる。有無を言わさずに連れて来られたけど、なんだかんだで俺たちが楽しめるか不安だったのかもしれない。
「ならよかったわ。あたしはこの写真を撮った人に挨拶してくるから、あなたたちはゆっくりまわってなさい」
真姫さんはそう言って部屋の奥の方へと歩いて行く。さっきも言っていた通り、あの人はこの写真展を開いている人と知り合いらしい。真姫さんは色んな方面の交友関係が広いし、そこまで驚く事じゃないんだけど。
それから俺と桜内さんは二人で写真を見てまわる。彼女も大学で芸術を学んでいるからか、写真を見つめるその目は真剣そのもの。カメラとペンでは使うものがだいぶ違うけれど、瞬間を切り取るという作業自体に対した変わりはない。だからこそ、これらを撮った写真家の心情なんかをトレースできるんだろう。
音楽しか知らない俺には、そこまでの想像はできない。できるとすれば、写真に合ったコード進行や嵌りそうな歌詞を思い浮かべる事くらい。音楽とはだいぶ異なったジャンルかもしれないけど、それに触れて得られるものは、確かにある。
「あ」
「ん? 桜内さん?」
そんな事を考えながら写真を見進めていると、ある写真の前で桜内さんが足を止めた。少し驚いた表情。よく分からず、俺も彼女が見つめているその写真へと顔を向けた。
「…………」
「綺麗な海だね。どこの写真なんだろう」
桜内さんが見入っていたのは、海の写真。美しい群青と新緑が織り成すそのコントラストは、何故か心の中にノスタルジアを生み出して来る。簡単に言えば、夏休みを全力で謳歌している小学生の時に感じていたあの感覚を、疑似体験しているような気分になった。
確かに綺麗な写真だけど、彼女がどうして声を出して足を止めたのか。それが気にならないと言えば、嘘になる。
「…………これは、静岡県沼津市の海です」
「あ、本当だ。凄いね桜内さん。一目見ただけで分かるだなんて」
桜内さんの言葉を聞いてから、写真の右下にある説明文にもそう書かれているのを確認する。写真のタイトルは『夏の思い出』。写真家がどうしてこの写真にその名前を付けたのかは、頭の悪い俺でもなんとなく理解できた。というか、それ以外に見合う題名が思いつかない。
「高校時代、この辺りの学校に通っていたので」
「そうなんだ。なら、桜内さんの地元なの?」
「いえ。私は生まれも育ちも東京です。高校二年生の時、両親の仕事の都合でこの町に引っ越したんです」
「じゃあ、実家は静岡にあるんだ?」
「はい。そうなります」
俺の質問に答えた桜内さんは、再び口を閉ざして写真を見つめる。そのどこか物憂げな横顔を見ていると、また問い掛けたい衝動が生まれた。
ただ、それは少しだけ彼女のパーソナルな部分に入り込む事。彼女の方から話さないのなら、黙っていた方がいいのかもしれない。でも、感情に素直なこの心はそれを知りたいと喚き出す。まるで、欲しいものはすべて手に入れなければならない、我が儘なお姫さまみたいに。
「変な事、訊いてもいいかな?」
そう言うと、桜内さんは何も言わずに琥珀色の瞳をこちらに向けてくる。その両眼が質問を許しているように見えたから、思いっ切って口を開いた。
「桜内さんはどうして、東京に戻って来たの?」
沈黙。最初から静かだった広い部屋の一部分に、ひと際深い静寂が流れる。こうなるのは、質問をする前からなんとなく分かっていた。
答えてくれないのなら、それでいい。誰にだって他人に言いたくない事の一つや二つはあるもの。逆に言えば、それが無い人の人生はあまりにも退屈だ。
砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだ、と有名な作家も小説に書いていた。心という広い砂漠のどこかに隠された泉があるのなら、俺たちはその泉がどれほど綺麗なのかを想像する。
だからこそ、ミステリアスな人には魅力がある。たとえ、その人が抱えている泉が美しくなかったとしても、それをイメージしている間は綺麗である事を無意識に期待するのが、人間という生き物なのだから。
「…………私は、自分の夢を選んだんです」
桜内さんはポツリと呟き、また写真へと視線を向ける。
哀愁に染まり出したその横顔にはもう、何も問い掛ける事はできなかった。
次話/十年桜
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十年桜
第八話/十年桜
◇
それから俺たちはゆったりとした足取りで写真を見進めて行く。すると、部屋の一番奥に真姫さんの後ろ姿を見つけた。隣には白髪の男性が立っていて、どうやら二人はある写真の前で何かを話しているらしい。
「真姫さん」
「ん? ああ、ようやく来たわね」
名前を呼ぶと彼女は振り向き、隣にいた男性もこちらを向いた。真姫さんと話していたその人は、髪こそ白いが容姿は若く、見た目では年齢が読めなかった。五十過ぎ、と言われれば信じるし、二十代後半と言われても納得してしまう。なんというか(稚拙な表現かもしれないけど)、不思議なオーラを漂わせているダンディーな男性だった。
「こちらがこの写真展を開いた方よ」
真姫さんがその男性を俺たちに紹介してくれる。言われる前からなんとなくそんな気はしていた。
俺と桜内さんは会釈をして、その白髪の写真家と向き合う。彼は顔に羊雲のように穏やかな笑みを浮かべ、俺たちを見つめてくる。
「初めまして、佐伯と申します。西木野さんのご友人、でしょうか?」
「はい。まぁ、そんなところです」
「はぁ? 誰があんたの友達なのよ。踏まれたいの?」
「待つんだ真姫さん。美術館では静かにしないとダメなんですよ」
「分かったわ。じゃあ静かに踏むから」
「残念ながら俺が言いたいのは踏み方の問題じゃないです」
「ふ、二人とも。ちょっとうるさいです」
そんな俺たちのいつも通りのやり取りを見て、佐伯さんは笑っていた。なんというか、笑い方も超エレガントだった。桜内さんはなんかオロオロしてる。
「はは。でも、西木野さんに年の近い友達がいて安心したよ。彼女には私のような一回りも二回りも年上の知り合いしかいない、と思っていたからね」
「ああ、分かります。この人、自分より年上の人としか酒は飲めない、とか言うんですよ。まったく、同年代を見下してるっていうかなんていうか。そういうのは中二までに卒業しててくださいって話ですよね」
「あんたは後で泣かすから覚悟してなさい。今日は何がいいかしら? 縄? それともまた首輪かしら?」
「どっちも嫌に決まってんでしょうが。つーかまたって何ですか」
「な、縄……首輪……ごくり」
「桜内さん。なんか顔を赤くしてもじもじしてるけど、違うからね。そんなのやられた事ないからね」
俺と真姫さんがヤバそうな事をしてると勘違いしてるであろう桜内さんに弁明する。佐伯さんにあっては声を上げて笑ってる。あと、数人の客がこっちに不審な目を向けてるんだけど、大丈夫かな。写真展を開いた本人が怒られる、とか無いよね。
「ふふ、西木野さんの違った一面も見られて私も嬉しいよ。もし君が西木野さんの恋人だったなら、今夜ディナーでも連れて行ったのに」
「佐伯さん。その気持ちは嬉しいですけど、踏まれている俺の足を守るためにお断りさせていただきます」
佐伯さんの爆弾発言を聞いた直後、俺の右足はパンプスのヒールの餌食に。なんてこった。桜内さんは『こ、恋人……っ』とか言いながら頬を両手で隠している。
「それで、そこの綺麗な彼女も、西木野さんのご友人なのかな?」
それから佐伯さんは俺の隣にいる桜内さんに顔を向ける。彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべて、その言葉が間違いだと言うように、顔の前で手を左右に振った。
「い、いえ。私はその、ただの知り合いで」
「そうだったのかい……それにしても君、どこかで」
桜内さんの声を聞いた佐伯さんは、手を自身の顎先に付けながら彼女の顔を凝視する。その言葉からして、彼女をどこかで見かけた事があるのかもしれない。
そうして数秒後。佐伯さんは何かを思い出した、みたいな表情を浮かべた。
「不躾な質問で申し訳ないけど君、名前は?」
「桜内、梨子です」
「ああ、やっぱりそうだ。まさかこんな所で会うだなんて。実は、娘たちが君の大ファンだったんだ。会えて光栄だよ。来てくれてありがとう」
桜内さんが自己紹介すると、佐伯さんはそう言って彼女に手を差し出す。まるで、有名人と顔を合わせた時のように。だが、俺にはその意味が何ひとつ分からない。
佐伯さんの娘さんが、桜内さんのファンだった?
「…………? …………???」
「こ、こちらこそ、ありがとうございます」
「いやぁ、帰ったら娘たちに自慢できるよ。今は違うグループを熱心に追いかけているみたいだけれど、始まりは君たちだったんだ。とても喜ぶと思うよ」
嬉しそうにそう語る佐伯さん。だけど、桜内さんはどこか恥ずかしそうな表情で俺の方をチラチラ見てくる。どうしたんだマジで。桜内さんと佐伯さんの娘さんの間にいったい何があったんだ。超気になるぞ。
「この写真展に来てくれたって事は、内浦の写真も見たかい?」
「はい。とても綺麗で、見ていてなんだか懐かしくなりました」
「はは、そうかいそうかい。あれは去年の夏、娘たちと沼津に行った時に撮った写真なんだ。君に見てもらえて本当に嬉しいよ」
そうして佐伯さんと桜内さんはそんな会話をする。真姫さんは薔薇色の髪を人差し指でクルクルと巻きながら二人の話を聞いている。なんとなくだけど、この人も佐伯さんの言っている事を理解しているみたいだった。つまり、俺だけが蚊帳の外にいるっていう事。なんで?
「ごめん、桜内さん。どういう事?」
「ん? なんだ君、彼女の知り合いなのに知らなかったのかい? 高校生の時、彼女は有名なスク────」
「あああああっ! 一之瀬さんは聞いちゃダメです!」
佐伯さんの言葉を、真っ赤な顔をした桜内さんは俺の耳を塞いで聞こえなくしてくる。どうでもいいけど顔が近い。あと、めちゃくちゃ良い匂いがする。
「すいません佐伯さん、もう一回言ってもらってもいいですか?」
「だ、ダメですっ。一之瀬さんにはまだ早いですっ」
耳を塞がれたまま、桜内さんにそう言われる。まだ早い? なんだそれ。もしかしていやらしい事なのか? でもこの子がそういう事をするとは到底思えない。あくまでも今の俺が見ている桜内さんは、だけど。
そうやって俺たちが不毛な争い? をしていると、呆れ顔の真姫さんがこちらに近寄って来た。
「ほら、やめてあげなさい梨子。ていうか、そもそもは何も知らないこいつが悪いんだから、あんたは何も気にしなくてもいいのよ」
「え、俺が悪いんすか?」
「そうよ。あんたは少し音楽以外の文化を知りなさい」
俺の耳に付けられた桜内さんの手を退かし、そう言ってくる真姫さん。そしてなぜか怒られた。理由はもちろん分からない。俺が無知な所為、なのか?
そんな俺たちのやりとりを見て、佐伯さんはぽんと拳を手のひらに乗せ、何かを納得するような仕草をする。
「なるほど、そういう事か。気を遣わなくてすまなかったね桜内さん。私も少し興奮していたものでね」
「……だ、大丈夫、です」
佐伯さんに謝られた桜内さんはそう言って、安堵の表情を浮かべる。秘密がばれなくてよかった、とその綺麗な顔に書いてあるような気がした。
「とにかく、あんたはこれ以上なにも訊かない事ね」
「なんでですか。教えてくださいよ」
「いいから言う事を聞きなさい。それともあんた、この子に嫌われてもいいの?」
「嫌われる?」
言葉の意味が分からず訊き返すと、真姫さんは桜内さんの方を見て彼女に向かって口を開く。
「ねぇ梨子。もしこいつがしつこくあんたの事について訊ねてきたりしたら、あんたはこの男をどう思うかしら」
「嫌いになります」
「そういう事よ。ほら、まだギリギリ嫌われてないんだから泣かないの。男でしょ」
「俺が何をしたっていうんですか…………っ!」
真姫さんの質問に、無表情で心無い答えを返す桜内さん。初めて見る彼女のその顔は、それが偽りではない事を物語っていた。つーか、そんなにヤバい事なのかよ。そこまで言われたらもっと気になるじゃん。残念だが、今日の夜は悶々として眠れない事が決定した。
理不尽な状況に耐え切れず真姫さんに慰められながら涙を流していると、何かに気づいた桜内さんが俺たちの横を通って前に歩いて行く。
「………………この写真」
「ああ、そういえば紹介し忘れていたね。これが、この写真展を開くきっかけになった写真だよ」
桜内さんの言葉に、佐伯さんはそう答える。二人の声を聞いて、俺もようやく顔を上げ、そこに飾られている写真を見つめた。
そして、同時に息を呑んだ。
「これって」
「もしかして君たち、この桜を見た事があるのかい?」
俺と桜内さんの反応を見て、佐伯さんはそう訊ねてくる。俺たちは同時に頷き、その問いに答えた。
「なんだ、そうだったの。あんたたち桜が好きだっていうから、この写真を見せたら驚くかと思ったんだけど」
少しだけ残念そうな声のトーンで真姫さんは言う。でも、それは少しだけ間違っている。
俺も桜内さんも、もう充分驚いているから。
「この桜は十年桜と言って、写真家の中では有名な桜なんだ。他の人たちからすればマイナーなんだけどね」
「…………十年」
「桜…………」
「そう。どうしてそんな名前になったかは知ってるかい?」
俺は首を横に振る。桜内さんもどうやら知らない様子だった。それを見て、佐伯さんは再び語り始める。
「これは言い伝えなんだがね。遥か昔、一人のお姫さまと彼女に仕える侍の少年がいたらしいんだ。二人は立場の壁を越えた恋人同士で、他の誰かに見つからないようにお互いの事を愛し合っていた」
突然始まったその話に、俺たちは耳を傾ける。
「けれどある時、姫さまの父親に二人が恋仲だという事が知れ渡ってしまう。それで、侍の少年は遠く離れた土地へと移り住まなければならなくなってしまい、姫さまは外に出る事を禁じられてしまう」
それは、どこにでもありそうな昔話。
でも、何故かその話には心が惹かれた。
「離れ離れになるその日。お姫さまの家の中にあった桜の木の下で、『十年の月日が経った後、この桜の下でまた会おう』と、二人は約束を交わした。それから姫さまは遠くに行ってしまった少年を想い、来る日も来る日もその桜の下で少年とまた会える事を願った。
そして、十年が経ったある日。約束通りに二人はこの桜の下で再会して、幸せな日々を過ごしましたたとさ」
めでたしめでたし、と微笑みながら佐伯さんは語る。
俺と桜内さんはその話を聞いた後も、目の前に飾られた美しい『十年桜』の写真を見つめ続けていた。
次話/元スクールアイドル
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元スクールアイドル
第九話/元スクールアイドル
◇
写真美術館を出た後、真姫さんは次に俺たちを昼食に連れて行ってくれた。恵比寿駅の近くにある、外観からして超高級そうなフレンチのお店。ランチなのになんで一人五千円某も払わなければならないんだろう、と思ってしまったのはきっと、俺が庶民の感覚をしっかり持っているから。そう自分に言い聞かせながら、生まれて初めて目にしたフォアグラやエスカルゴを食した。
ちなみにお代は全部真姫さんの奢り。今日は桜内さんがいるから、金持ちの本気を見せつけているのかもしれない。俺と飯に行く時は凛さんの店のラーメンくらいしか奢ってくれないくせに。
そのお洒落な昼食の後、真姫さんは再び電車に乗るよう俺たちに告げた。どうやらまたどこかへ連れて行ってくれるらしい。朝の宣言通り、今日の費用は真姫さん持ちみたいだし、断る理由も無いので黙ってついて行く事を選択。桜内さんも申し訳なさそうな顔を浮かべながらも、素直に真姫さんの後を歩いていた。
「真姫さん。秋葉で降りて今度は何するんですか?」
俺たちが次に降りたのは、サブカルチャーの聖地・秋葉原。なんというか、そういうオタクの文化にはめっぽう疎いので、ここに来るのはなんとなく敬遠していた。事実、上京してから今日はじめて足を踏み入れた。うお、すげぇ。本物のメイドさんがいる。
「また見せたいものがあるのよ。ま、今度のはあんたは何回も見た事あるでしょうけど」
「? 俺は見た事あるんですか?」
「そうよ。今日は梨子に見せるために来たの。あたしの自己紹介も兼ねてね」
平日の日中だというのに大勢の人で賑わっている中通りを進みながらそう訊ねると、そんな答えが帰ってくる。そういえば、真姫さんの実家は外神田とか言ってたっけな。それと関係あるのかは分からないが。
「桜内さんの大学は秋葉にあるんだよね」
「はい。小・中・高・大、全部秋葉の学校に通ってます。高校だけ卒業したのは別の学校ですけど」
「へぇ、そりゃすごい。じゃあ静岡に引っ越す前はどこの高校に通ってたの?」
「………………」
「桜内さん?」
「え? あっ──ご、ごめんなさい。それは、えっと……」
俺の質問を聞いた途端、妙な反応をする桜内さん。何か答えられない理由でもあるのだろうか。そして、何故か彼女の目は前を歩く真姫さんの方へと向けられていた。
「大丈夫よ梨子。こいつ、本当に何も知らないから、答えたって気づきはしないわ」
すると真姫さんは、桜内さんの方を見てもいないのにそう言った。まるで、彼女が何を気にしているのかすべて把握している、というような口ぶりで。
桜内さんは真姫さんの言葉を聞き、疑り深そうな顔で俺の顔を見上げてから、その小さな口を開く。
「…………私の母校は、音ノ木坂学院高校といいます」
そして、ある方向へ視線を向け、桜内さんは続ける。
「その高校は私が入学する前、廃校の危機にあったんです。でも、ある人たちの努力のおかげで音ノ木坂は救われたんです。……その人たちがいなければ、きっと」
桜内さんはそこで言葉を止め、前を歩く真姫さんの方へと再び目を向ける。それから口元に笑みを浮かべた。
「きっと、私はここにいられなかったと思います。だから、その人たちには感謝をしてもし切ないんです」
「そうなんだ。凄い先輩たちがいたんだね」
「はい。……でも、本当に知らないんですね、一之瀬さん」
「そんなに有名な話なの?」
「たぶん、私たちと同年代で知らない人は、この日本でも指で数えられるくらいしか居ないと思います」
「マジか。じゃあ真姫さんは知ってるんですか?」
「…………」
「おーい、真姫さーん。聞いてますー?」
桜内さんの言葉が本当なのか確かめるために訊いてみようとしたのに、真姫さんは何も答えてくれない。と思ったら不意に足を止めて、こちらを振り返った。
「う、うるさいわよ……ばか」
「? なんで照れてんすか?」
「て、照れてなんかないわよっ。いいから黙って歩きなさいっ」
ふん、と鼻を鳴らして顔を逸らすように前を向く真姫さん。口ではそう言ったものの、やっぱり後ろから見える耳が赤くなってる。真姫さんの照れてる顔なんて、普段はあまり見られるものじゃない。
でも、なんでこの話の流れで急に照れたんだろう。俺にはよく分からん。
「ふふ。一之瀬さんも、いつか分かる時が来ればいいですね」
「えー。いつかじゃなくていま教えてよ」
「そ、それはダメです。私たちのプライバシーにかかわるので」
「じゃあ真姫さんに訊こ。真姫さん、教えてください」
「うっさいバカ!」
「辛辣ぅ!?」
訳を知っているであろう二人に訊いたらそれぞれのやり方で突っ撥ねられた。真姫さんにあってはマジで理不尽極まりない。俺が何をしたっていうんだ。
そうして二人にしつこく訊ねながら秋葉原の中通りを進んで行くと、ある店の前に長い行列ができているのが目に入った。
歩きながら遠巻きに眺めていると、店の奥からメガホンを持った店員が現れ、その行列に向かって大声で何かを言い始めた。
「それではこれからμ'sラストライブin秋葉ドームの完全限定版Blu-rayと、Aqoursの完全密着ドキュメンタリー付きライブBlu-rayボックスの発売を開始しまーすっ!」
「「──────ッ!!!???」」
店員の叫びに呼応するように、歓喜のシャウトを響かせる行列に並んでいる集団。よく見ると、なんか泣いてる奴らもいる。そんなにヤバい事なのか?
「…………ラブ、ライブ?」
その店の看板にはどデカい文字でそう書いてある。聞いた事はあるけど、どういうものなのかは知らない。そしてどうやらそこは、スクールアイドルというジャンルを専門とするショップだったらしい。
「ねぇ、あれって────」
ちょっと気になったので訊ねようとした瞬間、女性二人組は俺の腕を片方ずつがっちり掴み、それと同時にどこかへ向かって走り出した。なんだなんだ。
「ちょっ、急にどうしたんだよ二人とも!」
意味が分からず問いかけても、二人は前を向いたまま無言で走り続けている。
なんというか彼女たちの行動は、どうしても見せたくないものから俺を無理やり遠ざけているように思えた。
その理由はもちろん、謎のままだけれど。
次話/あれが、西木野真姫
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あれが、西木野真姫
第十話/あれが、西木野真姫
◇
そうしてなんやかんやありながらも、俺たちは真姫さんが連れて行こうとしていた目的地に到着する。そこに入ったと同時に、俺は真姫さんの言葉の意味を理解した。ここに来た事は無いけれど、他の場所なら何度もある。客席のみならず、ステージの上にも。
「一之瀬さん。西木野さんはどこへ行ったんですか?」
「ああ、さっきも言ってたよね。真姫さん、桜内さんに自己紹介をするって。多分、その準備じゃないかな」
「? こんな所で自己紹介をするんですか?」
「そ。あの人あんまり話をするのが上手じゃないから、言葉じゃないもので挨拶をしたがるんだよ。俺と会った時もそうだったし」
「?」
俺の言葉の意味が分からないのか、桜内さんは首を傾げて不思議そうな顔をしていた。無理もない。こんな所に急に連れて来られて、今から自己紹介をされる、なんて予告をされたら誰だって混乱する。
俺たちがいるのは、秋葉の片隅にあるライブハウス。狭いし観客こそ少ないが、悪くない雰囲気の箱だった。ステージを見ていると、そこに立って歌いたくなってくる。
真姫さんはこのライブハウスに着くなり、俺と桜内さんを置いてどこかへ消えた。訳が分かっていなければ二人とも途方に暮れていただろうけど、俺にはその意味がちゃんと分かっているから何も問題ない。
「桜内さんはこういう所に来るの初めて?」
「初めて、ではないです」
「じゃあきっと、真姫さんがなんで詳しく説明しなかったのか。その理由がよく分かると思うよ」
俺がそう言った直後、ステージ上に設置されたスピーカーから爆音のSEが流れ始める。桜内さんは何かを言いかけていたけれど、それもすぐに掻き消された。
『今日は梨子に見せるために来たの。あたしの自己紹介も兼ねてね』
初対面の人間に自己紹介をする時は、誰もが真っ先に『言葉』というツールを使いたがる。それは言葉を使う以外に、自分という人間がどんな人間なのかを、俺たちは簡潔に表現できないから。
香水を集めるのを趣味としているならば、その誰かは初対面の人間に対して『自分は香水を集めるのが趣味なんです』と言う。そしてここから徐々に話を拡げて行き、コミュニケーションを図ろうとする。これが普遍的な初めましての会話だろう。何もおかしい事は無い。
だが、言葉というのはどんなに熱く語ろうが、緻密に鮮明に背景を描写しようが、他人の目に見えるものではない。だからこそ、嘘もまかり通ってしまう。
初対面だからこそ、その人が歩んできた背景が掴めないため、いくらでも虚言を吐いてしまえる。自分という人間を大きく見せたがるのは、人間の本能ともいえる行動。つまり、嘘も方便、というやつだ。
だから俺はあまり『言葉』を信用しない。その人が語る言葉が真実だ、という確証が自分自身の中で持てるまで、本当の心を開く事ができない。
なら、どうすれば初対面の人間に自分はこういう人間だ、という事実を理解させる事ができる。見栄などではなく、本当に自分がこれを愛している人間なのだと知ってもらうには、どうすればいい?
『────行くわよッ』
ライブハウスのステージ上に現れた、数人のバンドメンバー。そのフロントに立つギターボーカルの赤い髪をした女性がシャウトをした瞬間、かき鳴らされる重低音と心臓を揺らすようなドラムの連打。それが奏でられた直後、ライブハウス内に散り散りになっていた少ない客たちが、一斉にステージ前へと移動し歓声を上げ始める。
「………………」
眩い照明の下でギターを弾きながら熱いロックサウンドを歌う、さっきまで隣にいたはずの女性。彼女を見て、桜内さんは驚愕の表情を浮かべていた。どうやら彼女は見事に真姫さんの思惑に嵌ってくれている。ステージの上からでも、その顔がしっかり見えているだろう。案の定、真姫さんはこちらを一瞥し、小さく微笑んだ。
──自分が何を一番大切にしているのか。何を最も愛しているのか。それを他人に強く理解させるには、実際にその姿を見せてやればいい。言葉なんて形無い物じゃなく、行動として、形として見せてやればいいんだ。これ以上に自分を他人に分からせる方法は、この世界に存在しない。
だから真姫さんは、言葉ではなくこのライブという方法で今の自分を桜内さんに魅せている。彼女が今、何を最も大事にしながら生きているのかを、そのギターで、歌声で明確に表現している。
「あれが、西木野真姫さんっていう人だよ」
曲が終わったタイミングで、桜内さんの耳元にそう語りかける。その言葉の意味がよく分かったというように、彼女は笑顔を浮かべてこくりと頭を頷かせる。そして、次の曲を歌い出した真姫さんの方へと、再び目を向けた。
◇
ライブが終わり、俺と桜内さんはすぐにフロアから出て演奏を終えたメンバーを出迎える事にした。出入り口には既に数十人のファンの塊ができている。プロのミュージシャンと比べたら少ないかもしれないけど、このバンドにもファンが存在する。この光景を見る度に俺もいつかは、という願いに熱が帯びる。
そうしてしばらくすると、汗だくになったバンドメンバーが外に出てくる。それからファンと軽い会話を交わしたり、写真を撮ったりし始める。これもインディーズならではのファンとの距離感。
他のメンバーとは少し時間を置いて、最後にメインボーカルが出てくる。途端、待っていましたというように出待ちをしていたファンたちからひと際大きな声が、その女性に向かって投げられた。
赤い髪を汗で濡らし、肩に白いタオルをかけたボーカルの女性は、満更でもなさそうな顔をしてファンの要望に応えていた。そのカリスマ的な姿を見ていると、あの人が少し遠くにいるような感覚を覚える。さっきまで近くにいたあの女性は、別の誰かだったのではないか、と思ってしまうほどに。
だが、その人は俺の思惑を裏切るようにファンの群れを掻きわけてこちらへと向かって歩いてくる。
そして、彼女は俺たちの前で立ち止まった。
「これが私よ。よろしくね、梨子」
真姫さんはそう言い、出会ったばかりの桜色の女の子に向かって、優しく微笑んだ。
次話/桜色の奇跡に
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桜色の奇跡に
第十一話/桜色の奇跡に
◇
真姫さんと別れて秋葉原から電車に乗り、それからいつもの駅で降りる。いつの間にか日は暮れ、春の闇に包まれる住宅街には幾つもの夕餉の香りが漂っていた。
俺と桜内さんは並んでアパートに向かって歩く。何か目的があってそうしているわけじゃない。これはただ単に、俺たちの住んでいるアパートが同じだから。理由なんてそれだけ。以上でも以下でもない。
「…………」
ライブハウスを出てから、俺たちはほとんど会話を交わしていない。と言っても、別に気まずいわけでもない。何気ない話題を振って雑談をする事は、やろうと思えば利き手で箸を持つ事くらい簡単にできた。
でも俺はあえてそうしなかった。桜内さんは真姫さんとの出会いで感じるものがあっただろうし、俺も久しぶりにあの人のライブを見て思うところがたくさんあったから。
「すごかったですね、さっきのライブ」
人気の無い公園の前を通りかかった時、桜内さんは言葉を零す。ようやく口を開いたという事はきっと、彼女の中で今日という一日の整理がついたのだろう。
「そうだね。本当、真姫さんはすごいよ」
「はい。まさか西木野さんがあんな激しいロックを歌うだなんて、思いませんでした」
「はは、そっか。でも、俺も初めてあの人のライブを見た時はそう思ったかも」
「一之瀬さんと西木野さんはどこで出会ったんですか?」
「渋谷にあるライブハウスだよ。対バンした時に、偶然ね」
「そうだったんですか」
「うん。俺が一番最初だったんだけど、もちろん客なんて全然いなくって。ほぼ一人で歌ってた時、リハ終わりの真姫さんがフロアで腕を組みながら俺の歌を聴いててくれたんだ。そんで俺の番が終わった後、挨拶も無しに『あんた、なんであの状況で最後まで歌い切ったのよ。意味わかんない』とか文句言われてさ」
「その質問に、一之瀬さんは何と答えたんですか?」
桜内さんの問いを聞き、二年前を思い出して俺は言う。
「あなたが聴いててくれてたからです、って言ったかな。そしたら『あたしが音楽ってものがなんなのか、あんたに教えてあげる』って言われてさ、その時のライブも今日みたいにすごかったんだよ。その真姫さんを見て、『ああ、確かにこれが音楽だな』、って思ったのを覚えてる」
「…………」
「その時、俺はまだ上京したばっかでバイトも見つけてなかったんだ。でも、そのライブの後、真姫さんが今のバイト先を勧めてくれてさ。それからあの人とはなんだかんだで長い付き合いになってる、ってわけ。あの時、なんで俺に話しかけてきたのかを訊いても答えてくれないんだよ、あの人。なんでだろうね」
思い出しながら語ると、桜内さんはくすりと笑った。
「ふふ。私は分かりますよ、西木野さんの気持ち」
「え、マジ? なになに、教えて?」
「ダメです。一之瀬さんはもっと、目の前にいる誰かの事を見るべきです」
「? どういう事? 俺はちゃんと見てるけど」
よく分からない事を桜内さんに言われ、途方に暮れる。俺の返事を聞いても、彼女は信じてはくれなかった。
「とにかく、私には分かるんです。でも、そのわけは教えてあげません」
「えー、桜内さんの意地悪ー」
「意地悪で結構ですっ。たまには私も仕返ししますっ」
そう言って、ぷいっとそっぽを向く桜内さん。この子がこんな事を言うのはめずらしい。しつこく訊けば答えてくれるかもしれないけれど、嫌われてしまったら嫌なので知りたい衝動は口にせず、胸の中に仕舞い込んだ。
「でも、うらやましいよね。本当に」
街灯に照らされる夜桜を見上げながら、主語の無い言葉を吐く。桜内さんは急におかしな事を言い出した俺の顔を、よく分からなそうな表情で見つめてきた。
「西木野さんが、ですか?」
「うん。真姫さんがいないから言うけど正直、あの人のライブを見る度にズルいな、って思っちゃうんだ」
相槌を打たず、桜内さんは無言という方法で『喋り続けてください』と訴えて来る。
「見た目が綺麗だとか、実家がお金持ちだからそう思うんじゃないよ? ただ、あの人がしてる生き方は俺の理想に限りなく近いんだ」
アスファルトに落ちている一枚の桜の花びらを踏み越えて、俺は続ける。
「医者を目指して毎日頑張りながら、自分のやりたい事をやって自由に生きてる。それって、ほぼ完璧だと思わない? 他人のためになる仕事に就くために努力をして、自分のやりたい事でも誰かに感動を与えられてる。そんなの、どう考えたってズルいとしか思えないんだよ」
「…………」
「確かに、普通の人なら大学を卒業したらやりたい事を続けられるかは分からないけどさ、真姫さんは何が何でも音楽にしがみつくと思う。そういう人だから、あの人は」
夜空を仰ぎ、浮かんでいる細い月を見つめる。その不格好な形は、完璧な満月とは程遠い誰かのようだった。
「真姫さんは、俺が欲しいと思うものを全部持ってるんだ。奇跡でも起こらない限り、俺はあの人を越えられない。だから」
そこまで言って、俺は咳払いをする。自分がおかしな事を言ってるのは自覚してる。それを聞かされる桜内さんの気持ちを、あまり考えていなかった。
「はは、ごめんね。変な事を言っちゃって」
頭を掻いて笑いながらそう言うと、桜内さんは首を横に振る。そして俺の顔を見上げながら口を開いた。
「いいえ。全然、変な事じゃないです」
真面目な表情と真っ直ぐな琥珀色の瞳。それらが嘘を吐いているとは、どうしても思えなかった。
「なんで、そう思うの?」
「私も、一之瀬さんと同じ事を思っていたからです」
「同じ事?」
問い掛けると桜内さんはこくりと頷く。
「……恥ずかしいですけど、西木野さんが歌っている姿を見て最初に思ったのは『すごいなぁ』、なんて事じゃなかったんです。私は西木野さんを見て『私もあんな風に歌ってみたい』って、そう思ったんです」
桜内さんは目線を下げながらそう言い、続ける。
「私も、それなりに本気で音楽をやっていましたから。そう思ってしまうのも、仕方ないんです」
「桜内、さん……」
「意外、ですか? 私だって、本当は我が儘なんです。自分に無いもの、自分が欲しいものを持っている姿を見せられたら、ズルいって思うのが普通じゃないですか。だから、一之瀬さんが思っている事は全然変じゃないんです」
彼女はそう言って、優しく微笑んでくれた。その言葉と表情に心を動かされなかったと言えば、嘘になる。そして、様々な感情と同時に生まれた疑問を、俺はフィルターに通さないまま桜内さんに向かって問いかけた。
「桜内さんは、なんで音楽をやめたの?」
静かな住宅街の道路にあった足音が、ひとつ消える。それを奏でていた桜色の女の子は、顔を伏せてその場に立ち尽くしていた。
肌寒い夜風が吹く。それは離れた所にある臙脂色の綺麗な長い髪を嬲り、春の夜へと溶けて行った。
「…………仕方、なかったんです」
数秒の沈黙の後、小さな声が耳へと届く。
「どっちが正解かなんて、私には分かりませんでした。だから、私は大切な友達が背中を押してくれた方を選んだんです」
その囁きのような言葉には、後悔や悲痛という感情しか含まれていない。たったそれだけの言葉で、彼女が今の選択を悔やんでいるのだ、と理解できたほど。
朝、俺の部屋でピアノを弾いていた彼女は、音楽をしていた事を自分から語ろうとしなかった。写真展で母校がある町の海の写真を眺めている時も、なぜ東京に帰ってきたのかを口にしなかった。
そして今、どうして音楽をやめてしまったのかを訊ねても、桜内さんはやっぱり多くを語ろうとしない。ここで俺が彼女のパーソナルな部分に足を踏み入れれば答えてくれるのか。それは分からない。
けど、現時点で分かる事は二つある。
ひとつは、その理由を訊ねたら瞬間、彼女が俺から離れて行ってしまうという事。
そして、もうひとつは。
「桜内さん、まだ音楽を諦め切れてないんだね」
彼女の言動と表情から溢れ出る、その思いだった。
「…………はい」
掠れるような声で、桜内さんは肯定する。ここで否定されても、彼女が嘘を吐いているのは火を見るよりも明らかだった。だから、素直に頷いてくれて安心した。
「なら、またやってみればいいんじゃない?」
「それはダメです。中途半端に音楽をやるだんて、そんなの私を送り出してくれた人たちの事を裏切ってしまう事になります」
俺の提案を即座に一蹴する桜内さん。けど、そのレスポンスの早さは、彼女が本当は音楽をやりたいと願っている事の裏返しとしか思えなかった。
「じゃあ、中途半端じゃなければいい。そうすれば、桜内さんはその人たちを裏切らなくて済む。そうでしょ?」
「…………でも、今さら一人でやっても。どうせ」
桜内さんは頑なに俺の提案を否定してくる。意外と頑固なんだな、この子。
だけど、音楽を愛する人間の前でそんな言い訳が通用すると思っている方がどうかしてる。
「一人じゃないよ」
「え…………?」
俺がそう言うと、桜内さんは顔を上げ、丸くした目をこちらに向けてくる。無理もない。
「残念だけど、君が引っ越して来たアパートの隣の部屋には、音楽しか生き甲斐の無いフリーターが住んでるんだよ。知らなかった?」
桜内さんは首を縦にも横にも振らず、ただ目の前にいる隣人の男の顔を見つめていた。
「そんな奴が、隣に住んでる可愛い女子大生のやりたい事を応援しないわけがないでしょ?」
「一之瀬さん、それって」
「一人で中途半端に終わるのが嫌なら、俺が一緒にやる」
桜内さんに向かって本音をぶちまける。これでも諦めるなら、結局はその程度だったと思えばいい。たとえそうだとしても、俺たちの関係が変わる事は無いのだから。
俺の言葉を聞いて、桜内さんは数秒間、何かを思案していた。俺なんかが吐く戯言で彼女の感情を揺らせるとは思わない。それでも、俺は嘘なんて吐いてない。絶対に間違った事だけは言ってない。
「…………もし」
ポツリと桜内さんが呟く。俺は黙って、彼女の言葉の続きを待った。
「もし、一之瀬さんが歌う曲を私が作ったら、一之瀬さんは歌ってくれますか?」
そして、彼女は俺が予想もしない言葉を口にした。
「桜内さんが作った曲を?」
俺が──歌う?
「ご、ごめんなさい、偉そうなことを言ってしまって。今のは忘れてください」
顔を赤くして謝ってくる桜内さんの言葉を無視して、俺は問いかける。
「桜内さん、もしかしなくても作曲ができるの?」
「一応は。…………高校時代、自分でも呆れるくらいたくさんの曲を作って来たので」
「マジか」
ここでまさかのカミングアウト。俺はてっきり昔ピアノを習ってた、くらいにしか思ってなかった。でも、桜内さんがこの手の冗談を言うとは思えない。
「実は、あのアパートに引っ越して来てから一之瀬さんに歌ってほしい曲をイメージして、何曲か大学の講義中にノートに書いてたりしてました」
「それ、本気で言ってる?」
「ご、ごごごめんなさいっ!」
俺の言葉を履き違えて再び謝ってくる桜内さん。だが、俺は別に怒ったのではなく、彼女の言葉が単純に信じられなかったからそう言っただけ。だって、そんなの。
「桜内さん」
「は、はい」
「本当に、作ってくれるの?」
確認するように言うと、彼女は迷う事無く頷いた。
「…………さっきも言った通り、一人じゃ中途半端になってしまいます。でも、一之瀬さんと一緒なら私は本気で一之瀬さんのために曲を書きます。そうすれば、私も中途半端にならない自信があるから」
俺を見つめるその琥珀色の瞳は、言葉以上に真実を語っていた。
────奇跡なんて、現実には起こらない。それはドラマや映画の中だけで起こる、空想の産物。たとえ実際に起こったとしても、俺の前にはやって来てくれない。どれだけ強く願っても、その美しい音は聴こえない。
でも、自分の身に起こったあり得ない偶然を奇跡と呼ぶ事は許されてもいいと思う。流れ星を待ちながら星空を見上げている時に、たまたま流星が流れた瞬間を奇跡と形容しても、誰も怒ったりしないように。
だから、俺はこの偶然の出会いが鳴らした音をあえて
「一之瀬さんはさっき、奇跡が起こらなければ西木野さんを越えられないと言いました」
俺が頷くと、桜内さんは一歩こちらに近づいてくる。
この日、旋律は奏でられた。
「なら──私が、その奇跡になってはいけませんか?」
俺が長いあいだ探し続けていた奇跡の音は、春の訪れとともに────この耳まで届いてくれた。
第二章 終
次話/隠された才能
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最終章
隠された才能
第三章/
Monologue/
私は、『一緒にいたい』と言ってくれた大切な人たちを裏切った。自分の夢を追う、ただそれだけのために。
でも、仕方なかったんです。まだ幼い私には、この世界に並べられた無数の席のうち、どれが正解かなんて分かるはずが無かったから。
夢か、友情か。私の目の前にあったのは、そんな二つの椅子。多分そのどちらを選んでも、いずれはどこかのタイミングで後悔していたと思います。そういうものが誰にだってあるのは、そこに座る前から理解していました。
私はその椅子のどちらかを選ぶ時、世界中の若者がするのと同じように、自分よりも広い視野を持っている大人を頼ってアドバイスを求めました。
『ねぇねぇ、ウサギさん。私はどっちの道を行けばあの場所に辿り着けるの?』と。深い森の中、美しい宝玉の在処を探して歩く、おとぎ話の貧しい村娘みたいに。
けれど、大人たちは宝玉の在処を私に教えてはくれなかった。答えてくれなかった訳ではありません。ただ、その答えがあまりにも不明瞭過ぎて、私には彼らの言葉の意味を正しく受け入れる事ができませんでした。
後悔している今なら、その理由が分かります。きっとあの大人たちも、私と同じようにどちらの椅子が正解かなんて分からなかったんです。
子どもの私でも分からない事が、大人たちにも分からない。だったら、もう答えなんて何処にも無い。それを知ってるのは神様だけ。そう考えたら、どうすればいいのかが自然と分かって来ました。
どちらの椅子を選んでも正解で、どちらを選んでも不正解。なら、もうどっちだっていい。いくら悩んだって、そのどちらかにしか運命は転ばない。
だから私は、他者との繋がりの糸を切って、一人になる事を選んだ。一人で東京に戻り、自分のやりたい事をやって、叶えたいと思う夢を追う事を選んだ。
いいんです。それで正しいとか、間違ってるとか誰かに言われなくても。だってそんなのを決めるのは結局、どこの誰でもない──私自身なんですから。
じゃあ、私はこの椅子に座っているのが幸せ?
………………そう自問したところで、私は最終的に、哀れな自分を擁護する答えしか生み出さない。『いいんだよ。あなたは正しい。大好きな人たちと別れてまで、自分の夢を選んだんだから。きっと幸せになれるわ』
なんて、中年を過ぎてからもいつか自分の前に素敵な王子様が現れるのを待っている、夢見がちな独身女性みたいな事ばかりを考えてしまう。それが間違っているのは、世界中で一番私が知っているのに。
でも仕方ないじゃない。この寂しさから目を逸らすには、そう言い聞かせるしか方法が無いんだから。ここで折れてしまったら、この頼りない背中を押してくれたみんなを裏切ってしまう。それだけはいけない。絶対に。
そう思うのに、弱い私はいつも一人を怖がってる。自分の選択を後悔して、それでもこの現状は間違ってない、とマントラのように繰り返している。
私はこれから大人になって、夢を追って生きて行く。自分で決められるのは、自分の運命だけ。その原則から逸れず、私の道は私が決めて生きて行く。
……うん。
きっとそうなんだって、本当に思っていたんです。
桜の木の下で、あの人と出会うまでは。
Monologue/end
◇
第十三話/隠された才能
真姫さんのライブを見た日から二週間が経ったある日の夜。季節はまだ春だけれど、気づけば桜は散り、木々は寂しさを醸し出す緑色へと色彩を変化させていた。
あれから俺には専属の音楽パートナーができた。俺の奇跡になる、と言ってくれた彼女は、その言葉の通り奇跡そのものみたいな音を作った。
メロディを彼女が作曲し、俺が歌詞を載せる。本当はもっと複雑な作業を繰り返したけれど、言葉にしてみればたった一行で表現できてしまうのがもどかしい。それからSNSを使って、不特定多数の人たちにその歌を聴いてもらい、いつもの路上ライブの告知をするようにした。
するとなんと、一週間で十数人のファンができた。歌を聴いた誰かが誰かに広めてくれているらしく、その数も日に日に増えているのが目に見えて実感できるほど。
そして今日もライブが成功した。こんなにライブ後の後味が良いのは、音楽を初めた高校の時以来。
それもこれも全部、この桜色の女の子のおかげ。
「ふふ。今日も楽しそうだね、拓海くん」
「ん? いや、そりゃ楽しいよ。ライブはやっぱこうでなくっちゃね。梨子ちゃんも嬉しいでしょ?」
「うん。二人で作った曲だもの、聴いている人が口ずさんでくれたりしてたら、すごく嬉しいよ」
いつもの路上ライブの後、俺たちは凛さんが働いている猫明亭で祝杯を上げていた。
出会ったばかりの頃、この子は俺の奢りでも絶対に酒は飲まなかったけど、最近は少しずつ飲むようになってくれた。ちょうどお互いの名前の呼び方が変わった頃くらい、だったか。少しでも心を開いてくれた証なのかな、とか思い込んで勝手に嬉しくなったりしてる。
「でも、本当に思わなかったな」
「何を?」
何気なくそう言うと、向かいの席でファジーネーブルを飲んでる梨子ちゃんは首を傾げる。
「梨子ちゃんがここまで良い曲を作るだなんて、超予想外だったって話」
「そう、かな。自分ではまだちょっと自信が無いけど」
「だって、俺が作った曲だと誰一人立ち止まってくれなかったのに、梨子ちゃんの曲を歌った瞬間、ほとんどの通行人がこっちを見てくれたんだよ? ああ、あの時の衝撃はしばらく忘れらんないね」
数日前、彼女と一緒に作った初めての曲を路上ライブで歌い出した時の事を思い出す。あれは衝撃的な出来事すぎて、歌いながら泣きそうになった。
最初の曲で近づいてきた女子高生二人が最後まで聴いていて、また今度も来る、と言われた時は膝から地面に崩れ落ちそうになったほど。ちなみにその子たちは学校の友達にも俺の存在を広めてくれたらしく、SNSアカウントのフォロワーも徐々に増え始めている。
やっぱりトレンドをキャッチする速度はいつの時代も女子高生が一番早いらしい。それについて梨子ちゃんに語ったら少し不機嫌になられた。何故だ。
「……拓海くんのために作った曲だから、私には誰に届くかとかは分からないよ」
視線を机の上に下げる梨子ちゃん。彼女の頬が桜色に染まっているのは、きっと酔っているからだろう。
「でも、結果的に誰かの心にもしっかり届いてる。俺もよく分かんないけど、梨子ちゃんが作る曲と俺のギターと歌は合ってるのかもしれないね」
「それは私もいつも思ってるよ。こんな歌を歌ってほしい、って考えるとね、拓海くんの歌声に合うメロディラインがすぐに浮かんでくるの。不思議だよね」
嬉しい事を言われ、今度は俺が少し照れる。
人間として彼女に俺という人間が理解されてるとは思わないが、シンガーとしてはちゃんと分かってもらえてる。それは決して俺がすごいのではなく、この子の作曲家としての手腕が優れているからに他ならない。
でも、彼女はどうしてここまでの腕を持っていながら音楽ではなく芸術の道に進んだのか。それについては訊けず終いでいる。訊ねればもしかしたら答えてくれるのかもしれないけど、簡単に捨てられるような才能では無いのが身に染みて分かってしまうからこそ、そこには深い理由があったのではないか、と勘繰ってしまう。
「はーい、激辛麻婆豆腐お待ちにゃーっ」
そんな事を考えていると、大皿に乗った麻婆豆腐を凛さんが届けに来てくれた。この人は今日も今日とてバイトらしい。真姫さんはプライベートでも割と関わりがあるけど、この人に関しては私生活がほぼ謎。バイトとダンスの練習してる以外は何してるんだろ。
「んー? なーんか最近、拓ちゃんの顔色がよく見えるにゃ。なんか良い事でもあったのかにゃ?」
「ああ、まぁいろいろと。ね? 梨子ちゃん」
「う、うん。そうだね」
「えー、なぁにー? 凛にも教えてー?」
別に隠す事でもないが、狭い部屋の中で男女が一緒に作業をしている事実を、どう表現すればいやらしさを含んだ言葉ではなくなるのか。残念ながら俺の頭では分からない。だから、凛さんには悪いけど濁す事にした。
「まだ秘密です。そんな事よりほら、仕事に戻る戻る」
「むぅ、なんか怪しいにゃ。梨子ちゃん、もしかして拓ちゃんと何かあった?」
「な、何も無いですよ? 全然、変な事は何も」
「えー? ほんとにぃ?」
そして今度は俺ではなく梨子ちゃんに絡んで行く凛さん。嘘を吐けない優しい梨子ちゃんの表情や仕草は、確かに何かあった感がバリバリ出ていた。
これ以上訊かれたら素直に答えちゃいそうだし、ここは梨子ちゃんに助け舟を出そう。
「だから何でもないですよ。素敵な凛さんと会えて肌の艶がよくなってるだけです」
「もー、拓ちゃんは話を誤魔化すのが上手なんだからぁ。凛だって本音と建前くらい分かるんだからね?」
「建前じゃないですって。俺は嘘を吐きません」
「ふーん。じゃあ、拓ちゃんが凛のものになっても、梨子ちゃんは怒らないよね?」
「──────っ!?」
「ちょっ、何やってんすか凛さんっ。離してくださいっ」
凛さんはよく分からない事を言ってから急に俺の右腕に抱きついてくる。咄嗟に拒絶したものの、しばらくこのままでもいいかな、と思ってしまったのは許してほしい。なんか石鹸の良い匂いがする。あと、柔らかい肌が当たってるのを自覚したら無意識に心が乱されてしまった。
「ふふ、どうするにゃ梨子ちゃん。何も無いっていうなら、本当に拓ちゃんを凛のものにしちゃうよ?」
凛さんは俺の腕を掴みながら梨子ちゃんに向かって言う。俺がこんな事をされていても、この子にとっては死ぬほどどうでもいいだろうに。
そう思っていたのだが、梨子ちゃんは徐に立ち上がり、俺の方へと歩いてくる。
そして、空いている俺の左手を両手で控え目に握った。
「…………だ、ダメです。拓海くんのパートナーは、私なんですから」
梨子ちゃんは俺の左手をくいっと引きながら、反対の腕を掴んでいる凛さんに向かってそう言った。
顔が赤いのはやっぱり、酒に酔ってる所為だろう。
次話/唐突な壁クイ
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唐突な壁クイ
第十四話/唐突な壁クイ
◇
「…………」
「…………」
猫明亭を出て、俺と梨子ちゃんは並んで家路を辿る。しかし、店を出てから会話は一切無い。
さっきの凛さんとの一件から、梨子ちゃんはどうやら少し怒っていらっしゃるようだ。何故、俺が凛さんと親しくしているのを見て彼女が不機嫌になるのか。そのわけを考えていたら、自然と無言の帰り道になってしまった。
数日前に儚く散った花びらを恋しんでいる裸の桜を見上げ、人気の無い深夜の住宅街を歩く。聞こえるのは俺が履くボロボロになったアディダスのスニーカーと、斜め後ろにあるフラットシューズが奏でるそれぞれの足音。寝静まった町を起こさぬよう、俺たちは慎ましくアスファルトを踏みしめながら目的地を目指す。
そうして最後まで会話が無いまま、俺たちはアパートに到着する。ここで急に饒舌に喋り始めても、梨子ちゃんの機嫌が直るとは思えない。だから今日のところは潔くさようならをして、また明日改めて会えばいい。時間っていうのは意外と簡単に色んな事を解決してくれる。それが、この世界にある法則のひとつなんだから。
「じゃあまたね、梨子ちゃん」
二階の端にある部屋の前に来た時、俺は振り返って背後にいた彼女にそう言った。アパートの通路に設置された切れかけの電球の淡い灯りに照らされる彼女は、やっぱりへそを曲げている。けど同時に、何かを俺に物申したい、というような顔もしていた。それに気づいたところで、彼女自身が話さない限りこちらから訊ねる事は無いが。
「…………うん、おやすみなさい」
「おやすみ。今日は寒いから、風邪ひかないようにね」
梨子ちゃんにそう言い、俺は鍵を開けて先に部屋に入った。どうせ明日になれば会うんだから、名残惜しいとかは思わない。何か用があれば隣の部屋のドアをノックすればいい。そうすれば俺たちはすぐに顔を合わせられる。
部屋に上がって電気を点け、背負っていたアンプやギターケースを床に下ろす。今日も朝から晩までバイトをした後に駅前で路上ライブをしたから、少し疲れてる。このままシャワーを浴びて布団に潜り込みたいけど、その衝動はグッと堪えた。自分で決めたルーティンは守らないと。
「やるか」
机の前に胡坐をかき、ギターケースに入れていた大学ノートを取り出す。そこには作りかけの詩が書き殴られている。それは、あの子が作ってくれた新曲に乗せる歌詞。メロディは出来あがってるから、あとは言葉と声を付け足せばこの曲は完成する。できれば明日、いつもの路上ライブで初披露したかった。だから、無駄にできる時間は無い。
今はとにかく、たくさんの曲を作って、もっと多くのリスナーを増やしたい。旬なんてものは、咲いたと思えばすぐに枯れる花のように、あっという間に過ぎ去るもの。できるだけ長く咲き続けるためには、必要な量の水を与え続けなければならない。
六畳間の真ん中で頭に浮かんできたワードをノートに書き、傍らに置いていたアコースティックギターを軽く鳴らして小声で歌う。普通なら近所迷惑になると思うのだろうが、ここなら何も問題ない。耳が遠くなった大家の婆さんはマイクを通してシャウトでもしない限り起きて来ないだろうし、隣に住んでる可愛い女子大生は、たとえ聞こえていても怒ったりはしない。たぶんだけど。
「…………ん?」
半刻ほど作詞作業を続けていると、部屋の外から誰かのくしゃみが聞こえてきた。集中していても聞こえてきたのは、このアパートが相当ボロいのと今が深夜だからだろう。けど、そもそもくしゃみをするような人がこんな時間に部屋の前にいるとは考えられない。
きっと気の所為だと自分に言い聞かせ、また作業に戻る。あとは最後のサビの歌詞さえ浮かべば完成。眠いけど、もうちょっと頑張ろ────
「…………」
そう思った直後、再びくしゃみが聞こえてくる。今度はくしゃみをした人物が女性である事も分かった。それも若い女の子。そこまで理解して、それが誰であるのかを連想するのは小学二年に習った九九の暗算よりも簡単だろう。
ギターを壁に立て掛けて立ち上がろうとした時、センターテーブルの上に置いていた携帯が震える。
ロックを外してディスプレイを見ると、そこには『一晩くらい外にいても、風邪はひかないよね?』、なんていう意味深なメッセージが表示されている。差出人の欄にはもちろん、桜内梨子という文字。何やってんだ、あの子。
「あ…………」
「何してんの、梨子ちゃん」
玄関を開けると、隣の部屋のドアに寄りかかってしゃがんでいる桜色の女の子を見つけた。彼女は身体を微かに震わせながら、現れた俺の顔を見上げている。
「こ、こんばんは拓海くん。今夜、かなり冷えるね」
「いや、そんな格好で言われても自業自得としか言えなんだけど」
「あはは、そうかも……」
梨子ちゃんはまたくしゃみをする。寒いのを全身で体感してるのにも関わらず、なぜ部屋の中に入らないのか。その意味が一ミリも理解できない。もしかして、飲み過ぎて鍵の開け方まで分からなくなったのだろうか。それならそもそも、ここまで辿り着けていないと思うんだけど。
「で、なんで部屋に入らないの?」
「実は、その。大学のアトリエにうっかり鍵を忘れちゃったみたいで」
「…………続けて?」
「この時間じゃ終電も終わっちゃってるし、歩いて取りにも帰れなかったから…………えへへ」
めずらしく自虐的な笑いをする梨子ちゃん。笑う理由は何ひとつ分からないけれど。
「はぁ……それなら早く教えてくれればよかったのに」
「ご、ごめんなさい。本当は何回もノックしようと思ったんだけど」
と、そこまで言って梨子ちゃんは目を逸らす。ほんのりと朱に染まったその横顔には、少しの照れと恥じらいのようなものが見受けられた。
「まぁいいよ。とりあえず俺の部屋に入って? そのままじゃ本当に風邪をひいちゃうから」
「いいの?」
「当たり前じゃん。もう何回も入ってるんだから、別に気を遣う必要もないでしょ」
「でも、その……」
俺がそう言っても、梨子ちゃんは首を縦に振ってくれない。何か憚られるような問題でもあるのだろうか? 俺たちはもう初対面でもないし、彼女は作曲作業をする度に俺の部屋に足を踏み入れている。だというのに、今さら何を気にしているんだろう。
「ほら、いいから入る」
「あ────」
このままでは埒が明かないと思い、俺はしゃがんでいる梨子ちゃんの右手首を掴んで立ち上がらせ、部屋の中に引き込んだ。少々強引かもしれないけど、別にやましい事をしようとしているわけじゃない。隣に住む友達を部屋に泊まらせたところで、罪に問われたりはしないだろう。叫ばれたりしたらヤバいかもしれないが。
ドアを閉め、梨子ちゃんが外に行かないよう鍵を閉める。彼女が開ければ出て行けるけど、その行為を見た直後に開けようとは思わないだろう。
「…………っ」
「もう逃げちゃダメだよ。梨子ちゃんに風邪をひかれたら、俺も困るんだから」
左手で彼女の右手首を掴んだまま、逃がさないように空いている右手をドアに付けながらそう言う。これは所謂、壁ドンとかいうやつ。成り行きでこんな格好になってしまった。しかし、ここまですれば梨子ちゃんも外で一晩を過ごすのを諦めるに違いない。
「ん? なんかさっきより顔が赤くなってない?」
「な、ななななってませんっ! 光の加減でそう見えるだけですっ」
明らかに顔を真っ赤に染めた梨子ちゃんはそう言ってくる。急に立ち上がった所為で酒が回ってしまったのかな。それ以外に理由が思いつかないので、たぶんそうなんだろう。ちょっとだけ申し訳ない。
「そっか。じゃあ、中に入ってよ」
「…………た、拓海くん」
「うん? どしたの?」
そう言って手を離そうとした時、梨子ちゃんに名前を呼ばれる。俺より少し背の低い彼女は顔を赤く染めたまま、潤んだ琥珀色の瞳で顔を見上げてくる。それはなんというか、飼い主にエサをせがむ子犬のような目だった。
そうしてその姿勢を保った状態でしばらく沈黙が流れる。急に突き飛ばされて出て行ってしまったりしないかな、とか心配しながら、何故かもじもじしてる梨子ちゃんを見ていると、彼女はようやく口を開いた。
「そ、その……変なこと、お願いしてもいい?」
「ん? よく分からないけど、別にいいよ」
「……じゃ、じゃあ」
俺がそう言うと、何かを言い淀んでいた梨子ちゃんはひとつ深呼吸をしてから、再び口を開く。
「こ……この姿勢のまま、私の顎をくいっと上げてください」
「……………………???」
「や、やっぱりなんでもないっ! なんでもないから忘れて!」
勝手に言っておいて勝手に無かった事にしてくれ、と頼まれたのは二十年以上生きてきて初めての経験だった。なんでそんな事を俺にして欲しいのかは不明だが、それで彼女の気が済むのなら別に悩む理由も無い。
「こう?」
「────ひ、ぁっ」
言われた通り、左手をドアに付けたまま右手で彼女の小さな顎をくいっと上げる。すると梨子ちゃんは幽霊を見た猫のように大人しくなった。でも、この行為に何の意味があるんだろう。他人の部屋に上がる前にしなきゃいけない儀式、みたいなものだろうか。そういやあったな。葬式に行った後は家に入る前に塩水でうがいをするやつ。もしかしたら、こういうのが女子大生の間では流行ってるのかもしれない。除霊的な意味で。
「拓海、くん」
その姿勢のまま、とろんとした目で俺の名前を呼んでくる梨子ちゃん。なんかだんだんといけない事をしている気がしてきた。いつになったら除霊されるんだ。ていうかなんでこの子に幽霊がついてんだよ。どの辺で拾って来たんだ。犬鳴村のトンネルに肝試しでも行ったのか。
「も、もういいでしょ? ほら、上がって上がって」
このままでは梨子ちゃんについてるお化けが俺に乗り移ってしまうと思い、顎に触れていた手を離す。彼女もこれで満足してくれた、と思っていたのだが。
「……むー」
「いや、なんでまた怒ってんの」
離れた瞬間、梨子ちゃんは不機嫌そうに頬を膨らませる。酒に酔ってるからなのか、今日のこの子の行動や思考が突飛すぎてついて行けない。
「私の気持ちが分からない拓海くんなんて、嫌いです」
「マジか。ごめん、これからは分かるように頑張るから、嫌いにならないで」
「ふんっ…………もういいです」
梨子ちゃんはそう言って靴を脱ぎ、部屋に上がる。
彼女が怒った理由は、やっぱり分からないままだった。
次話/もっとこっちを見て
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もっとこっちを見て
第十五話/もっとこっちを見て
◇
それから梨子ちゃんにシャワーを貸してくれ、と言われ、その間また作詞作業に戻った。自分以外の誰かがこの部屋のシャワーを使うなんて滅多に無いので、なんだかちょっと落ち着かない。気にしていても仕方がないので、その居心地の悪さはギターの音色で誤魔化す事にした。
「ふぅ…………」
何かアートに触れている人なら分かるかもしれないけど、一度切れた集中力を取り戻すのはけっこう労力と精神力を使う。再び集中しても、大抵は一度目より長く続かない。俺の脳も例外なくその法則から外れず、すぐに思考の飽和点に達してしまった。
いつもなら一度寝て、起きてからまた作業に戻ろうと思うのが常だが、今夜はそうする事ができない。というか思考は既に、梨子ちゃんが風呂場から上がって来たらアドバイスをもらえばいいや、という、いつもの他力本願な状態に切り替わっていた。
「…………長いな」
時計に目をやり、呟く。女の子のシャワーは異常に長い、みたいな話はどこかで聞いた事があったような気がするけど、どうやらそれは真実だったらしい。この部屋の風呂場にはシャンプーとボディーソープと洗顔用の石鹸くらいしかないんだが、女の子には男の俺が洗わない場所があるんだろうか。謎だ。
ボーっと天井を見上げ、梨子ちゃんが風呂場から出てくるのを待つ。水の音は聞こえないから、もう出てきているのかな。その姿を想像してもいいけど、ここでそれを思い描いてしまったら悶々して眠れなくなるので、やめておく事にした。梨子ちゃんにも悪いし。
そんなバカな事を考えている時。
『きゃああああああああっ!!!』
「────っ!? なんだ?」
突然、風呂場の方から梨子ちゃんの絶叫が聞こえ、弛緩させていた身体に自然と力が入った。え、ていうか何。なんか変なものでも風呂場に置いていただろうか。それともマジで幽霊がこの部屋に入って来たのか? それは非常にマズい。明日から俺もお化けに怯えながらここで暮らさなければいけなくなる。
立ち上がり、駆け足で風呂場の方へと向かう。それと同時に、バスタオルで身体を隠した梨子ちゃんが風呂場のドアから飛び出てきた。
そして彼女は勢いをそのままに、俺に抱きついてくる。
「どうしたの梨子ちゃんっ。お化けでも出たっ? もう一回さっきのやるっ!?」
首に両腕をまわしてきたバスタオル姿の梨子ちゃんにそう言うと、彼女は首を横に振った。濡れたままの髪の毛先が頬に当たって、ちょっとくすぐったい。
「ち、ちがうのっ。あああ、あれが、あれがいたのっ!」
「? あれ?」
彼女は俺に抱きついたまま、風呂場につながる洗面所の方を指差している。しかし、そっちを見ても何もいない。なんだ。本気で幽霊が鏡に映ったりしたのか? それなら俺もあっちに行くの嫌なんだけど。
何かを怖がっている梨子ちゃんに力強く抱き締められながら、俺は洗面所の方に向かう。すると、そこには。
「ああ。今度はここに出たかゴキ」
「それ以上は言っちゃダメーっ!!!」
「うおっ!? 苦しいっ、苦しいって! ナチュラルに首を絞めないで梨子ちゃんっ!」
洗面所の床を徘徊していたこの部屋の住人二号を見つけ、その名称を口にしようとした瞬間、梨子ちゃんにチョークスリーパーをキメられた。ほぼ裸の女の子に抱きつかれているんだから、男の欲望的なものが出てくると思ったんだが、俺がいま感じているのは生命の危機。まったくもって興奮なんてしない。誰か助けてくれ。
「ああああ、見ちゃった見ちゃったよぉ。あれは都市伝説だと思ってたのにぃ…………っ」
「このアパートに住んでて、あれと出会わないのは絶対無理だよ。野良猫よりもエンカウント率高いんだから」
俺はもはや奴をこの部屋の住民として扱っているまである。なので、見つけた時はいつも殺さないで外に返してあげてる。無駄な殺生をしたら夢に出てきそうだからな。
俺はティッシュを掴み、カサカサと床を散歩してるその住人第二号を捕まえる。それから洗面所の窓を開け、外に放してやった。またな。いつか会おうぜ。
「………………っ」
「もう大丈夫だよ、梨子ちゃん」
住人第二号を追い出してもなお、梨子ちゃんは俺の首に両腕をまわした状態で固まってる。俺としては別にいいんだけど、女の子的に気の無い男にいつまでも抱き着いているのはちょっとダメな気がする。
「ほ、本当にいない?」
「うん、いないよ。だからその、できれば早く服を着てほしいなー、なんて」
「────はっ!?」
そう言うと、梨子ちゃんはようやく今の自分がどんな格好をしているのかに気づいたらしい。顔がみるみるうちに赤くなって行く。なんだか見ていて面白い。
同じシャンプーを使っているはずなのに、目の前にある臙脂色の髪からは何故か嗅いだ事もない良い香りがする。シャワーから上がったばかりの火照ったその華奢な身体からは、花のような甘い匂いがした。
「………………」
「梨子ちゃん?」
名前を呼んでも、彼女は動こうとしない。俺の身体に密着したまま、その場に立ち尽くしている。そんなに奴が怖かったのだろうか。まぁ、生まれて初めてあれを見たのなら怖がるのも無理はない。
そうして、静かな時間が薄暗い台所に流れる。そんな状況をどうすれば抜け出せるのか、と考えていると、梨子ちゃんはその
「…………拓海くんは、ドキドキしないんだね。こんなに近くにいるのに」
「え?」
「なんでもない」
呟きの意味が分からず疑問符を頭に浮かべると、梨子ちゃんはやっと俺から離れて行った。でも、また頬を膨らませてる。今日は怒ってばっかりだな、この子。
それから彼女は背を向け、洗面所へと戻って行く。そして、
「拓海くんは、ちっともこっちを見てくれない」
そう言い残し、ドアを勢いよく閉めた。
次話/夜空に凛と輝く、あの星のように
九輪
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夜空に凛と輝く、あの星のように
第十六話/夜空に凛と輝く、あの星のように
◇
いつものルーティンである路上ライブを終え、今夜はどこにも寄らずにアパートへと帰る。
今日も沢山の人が聴きに来てくれた。梨子ちゃんと一緒に作った曲を歌うようになってから約一カ月。彼女の提案で、最近はSNSだけでなく動画サイトにもアカウントを作り、定期的に歌や告知を上げるようにした。
その試みが功を奏し、わずか数日でフォロワーやチャンネル登録数は数千を越えた。一人ではとうてい読み切れないほどのコメントが押し寄せ、実際に駅前のライブに訪れてくれる人たちも爆発的に増えている。
急に人気が出始めた所為で、あの交番のゴリラみたいなお巡りさんも超驚いていた。まだ注意されるほどの人数では無いものの、百人とかを越えたら流石に場所を移動しようか、と梨子ちゃんとは話していた。
あの駅前のロータリーに、俺の歌を聴きに来てくれる人が百人集まる。そんな光景が、いつか見られたらいい。
「星、綺麗だな」
数時間前に沈んだ太陽の代わりに現れた月と、黒いキャンバスに落とした白いペンキの飛沫のような無数の瞬き。
東京は光が多いからその煌めきが薄れる、とどこかで聞いた事があったけど、それも日によるみたいだ。今日はいつもより、はっきりと恒星たちの光が見える。
真姫さんと梨子ちゃんと三人で写真展に行ったあの日から、音楽以外のものにも目を向ける癖をつけるようにした。今までも興味が無かった訳じゃないけど、意識してそれらに目を向ける事は無かった気がする。
誰かに見られなければ、どんなものにも価値は無い。道端にひっそりと咲いているハルジオンのように、それは確かに咲いているのに、誰にも気づかれなければ花として生まれた意味は無い。だからこそ、俺はそういう些細なものに目を向ける努力をし始めた。
誰にも見られないものでも、俺が目にすればその何かには価値が生まれる。誰にも気づかれない流れ星に願いをかければきっと、星は俺の願いだけを叶えてくれる。
自分自身がそういう存在だからこそ、もっと視野を広くして、誰も知らない美しいものを見つける。そしてその俺だけが知ってる美しいものから、音楽に繋がるヒントを得られればいいと思っている。
「あ」
そんな事を考えながら夜空を仰いで駅前を歩いていると、西の空に一筋の線が描かれた。人の往来が少なからずあるこの場所で、今の流星に気づいたのはきっと俺だけ。そう思ったら、すごく良いものを見つけた気がした。同時に、次の曲のテーマもぼんやりと浮かんでくる。
「帰ったら、梨子ちゃんに話してみるか」
あの子にこの話をしたら、また良い曲ができるんだろうな。そんな予感が噴水のように溢れてくる。たまには俺の方から歌詞の雰囲気を提案するのもいいかもしれない。それを思うと、家路を辿る足がさっきよりも軽くなった。
駅前を抜け、住宅地を進む。人気は無くなり、離れた所にある国道を通る車の音だけが、微かに聞こえていた。
「…………ん?」
近所の公園の前を通った時、園内から音楽が聞こえてくる。ここは街灯も少なくて夜になるとかなり暗くなるので、この時間帯にはほどんど人はいないはず。だからこそ、ギターの練習をするのには最適な場所。俺もこの公園で歌う時があるので、ここで人前ではできない練習をする人の気持ちがよく分かる。
少し気になったので、何気なく公園の中に足を踏み入れる事にした。まだそこまで遅い時間でもないから、梨子ちゃんも俺の帰りが遅くても心配はしないだろう。
夜風に揺れる背の高い針葉樹が立ち並び、鬱蒼とした雰囲気を醸し出す夜の公園。目的が無ければこんな場所に入りたいとは嘘でも思わない。突然誰かが出てきたりしたら驚いてそのまま失神してしまいそう。
「あれ」
奥の方へと進んで行くと、広場の隅にある野外ステージの上に誰かがいるのを見つける。どうやらあの人が音楽を鳴らしているらしかった。
さらに近づいて行くと、その人影が足元に置いた小型スピーカーから流れる音楽に合わせてダンスをしている事に気づく。めずらしい人もいるんだなと思い、離れた所から眺めていると、徐々にそのダンサーが見知った人のシルエットに似ている気がしてきた。
灯りが少ない所為でハッキリしないけど、背はあまり大きくない女性で、髪型はショートカット。七分丈のTシャツにサルエルパンツを履いている。
邪魔にならないよう、気配を消してステージへと歩み寄って行く。そのダンサーはよほど集中しているのか、俺の足音に気づく事無く、流れる音楽に合わせて激しい動きやステップを踏む。小川を流れる水のようにしなやかで、且つ空手家が形を表現しているみたいに力強さも感じさせる、その踊り。ダンスに詳しくはないけれど、その人が相当なレベルに達している事は感覚的に理解できた。
数段あるステージの下に来た時、俺の予感はやはり正しかった事に気づく。なぜこの人がここでダンスの練習をしているのかは、よく分からないけど。
「────にゃっ!?」
音楽が止まり、その人がダンスをやめた時、俺は拍手をしながらステージの階段を上った。
背を向けていたダンサーの女性はビクッと身体を飛び上がらせ、こちらを振り返ってくる。急に声をかけても驚いただろうし、どうせビックリさせるなら賞賛してあげた方がいいと思ったから、俺は彼女に向かって拍手をした。
「お疲れさまです、凛さん」
近づいて来たのが俺だとすぐに分かったのか、凛さんは肩の力を抜いてくれる。ただ、表情はまだ驚いたまま。
「な、なーんだ拓ちゃんかぁ。もう、ビックリしたにゃ」
「すいません。公園の前を通りかかったら音楽が聞こえたんで、なんだろうと思って見に来たんです」
「あはは、そっかぁ。そういえば拓ちゃんのアパート、この辺なんだもんね」
「はい。で、凛さんはどうしてこんな所で練習してたんですか?」
右手首に付けた黄色のリストバンドで額に浮かんだ汗を拭ってから、凛さんは口を開く。
「今日はバイトがお休みだったから、久しぶりに外で踊ってみようと思ったの。でも、人が沢山いる所だと緊張しちゃうからどこかいい場所ないかなー、って探してたらここを見つけたにゃ」
「え、凛さんのレベルでも人前で緊張するんですか? たぶんストリートでも大丈夫ですって。ダンスを知らない俺でも十分感動しましたから」
「えへへ。そう思うのはきっと拓ちゃんだけだよ」
本音をぶつけたら笑いながらそう返される。それは凛さんのダンスが上手だと言った事に対してなのか、俺が人前で気負わずにやりたい事ができるっていう事に対しての言葉なのか、判断がつきにくい微妙な返事だった。
「そうですかね。俺は本当にすごいって思いましたよ」
「ありがとにゃ、拓ちゃん。けど、凛はまだまだ下手っぴだから、もっと練習しなくちゃいけないの」
凛さんはそう言って、ステージの端に置いていたセカンドバッグの方へと近づいて行き、スポーツドリンクとタオルを持ってこちらに帰ってきた。
それから彼女はステージの階段に座り、ポンポンと隣に腰掛けるよう俺に示して来る。
「凛さん?」
「今日はもうおしまいだから、ちょっとお話しよ?」
そう言われ、断る理由も無いので俺は凛さんの言う通りにした。ふわり、と横から石鹸のような良い香り。ほんの少しだけ、心が行方不明になりかけた。
こくこく、と右隣で凛さんがペットボトルに入ったスポーツドリンクを飲む。それからぷはぁ、なんて、仕事終わりの中年サラリーマンが一杯目の生ビールを飲んだ時に発するような息を吐き、凛さんはそのペットボトルを俺の方へと差し出して来る。
「はい。拓ちゃんもどうぞ」
「いや、それは俺を試してるんですか」
「ん? 違うよ? 拓ちゃんも飲みたいかなー、って」
「まぁ、くれるなら飲みますけど」
街灯の灯りに照る凛さんの艶めかしい唇を見ながら、俺はそれを受け取り、ひとくち飲む。
「凛と間接キスできて嬉しい?」
「ぶぶほぉァっ!」
そして、ラブコメの教科書にでも載ってそうな王道のやり取りをしてしまう。もう、相変わらずこの人は。
咳き込んでいる俺を見て、凛さんはけらけらと笑っていた。いや、なんとなくこうなる事は分かっていたが、断ったら空気が読めない奴だと思われてしまいかねない。こんな綺麗な人が笑ってくれるんだ。だったら自ら道化にだってなってやる、と思うのが男という生き物だろう。
「あはは。やっぱり拓ちゃんは面白いにゃ」
「ごほ……マジでそういうのやめてください。悪いので」
主に心臓に。間接キスできた事にだけフィーチャーすれば、とっても良い出来事だったんだけど。
「ごめんごめん。たまには凛も拓ちゃんをからかいたくなったにゃ」
「ほぅ。で、その心は?」
「拓ちゃん、最近お店に来る時はいっつも梨子ちゃんと一緒だから、二人を接客する凛はそこはかとないジェラシーを感じちゃってるにゃ」
「それと俺をからかう事に何の関係が?」
「凛は拓ちゃんにもっとかまってほしいにゃ」
「なるほど」
そうは言ったものの、まったく腑に落ちてはいない。かまってほしい、という言葉の裏に遊んでほしい、という想いが隠れているならば話は分かる。
だが、俺と梨子ちゃんが猫あかりに行く事で、なぜ凛さんがジェラシーを感じなければならないのだろう。相変わらずこの人の考えている事は分かりづらい。単に俺が鈍いだけかもしれないが。
スポーツドリンクを凛さんに返した直後、彼女は再び何食わぬ顔でそれに口を付ける。髪の毛先から流れた汗で濡れているその綺麗な横顔を見ていると、些細な事を気にしている自分がかなりガキ臭く思えてきた。
「じゃあ今度休みが重なったら、またラーメン屋巡りでも行きましょうよ」
「ほんとっ? うん、行く行くーっ」
俺がそんな提案をすると、凛さんは嬉しそうにそう言ってくれる。でも、この約束が果たされるのはきっと、もっと先の事になる。
俺たちがこの会話をしたのは、今日が初めてではない。凛さんと出会ってから何度『いつか』、という言葉を使って話をしたか。それは俺も、凛さんも気づいている。
それぞれの夢を追い駆けている俺たちが、どちらかの休みにを合わせる事はほとんど無い。ほぼフルタイムでバイトをしている俺たちの休みが合う日なんて、それこそ流れ星を見つけるくらいの確率で少ないのだから。
俺とこの人の関係は、どこかに遊びに行くためだけに存在する友達ではない。色彩の異なった夢を見る、ただの似た者同士。自分の意思で群れを成さない、一匹狼。
だからこそ、俺はこの人と知り合いでいたいと思う。
「凛さん」
「ん?」
「ダンスの調子はどうですか」
頭上に広がる夜空を見上げながら、問いかける。
すると凛さんも星に視線を向け、数秒の間を置いてからその質問に答えてくれた。
「うん、順調だよ」
「そう、ですか」
それから沈黙。夜の公園に漂う静けさが、今の言葉に隠された真意を俺に教えてくれている気がした。
「拓ちゃんはどうなのかにゃ?」
「俺も、最近は調子がいいんですよ。だんだんライブに来てくれる人たちも増えてきて、ようやく東京もいいな、って思ってきたところです」
「へー。最近、拓ちゃんの顔色がよかったのはそれが理由だったんだにゃ」
「そんなところです」
「ふふ。お店の前でお腹を空かせて倒れてた二年前の拓ちゃんとは別人みたい」
「それはもう忘れてください」
「やーだよーぅ。忘れちゃったら、拓ちゃんは凛に救ってもらった恩を返してくれなくなっちゃうから」
凛さんにそう言われ、この人と出会った時の記憶をふと思い出す。
────二年前。ちょうど上京して一週間くらい経った日、だったか。まだ真姫さんにも出会ってなくて、バイトも見つけられてなかった時の事。俺はこの町でぼろいアパートを借りて、東京での生活をし始めた。だが、地元を家出同然の身で出てきた二十歳そこそこの男に、働かずに飯が食える方法などあるわけが無い。
俺はあの日。雇ってくれるバイト先を探し回りながら、猫明亭の付近を彷徨っていた(誇張ではなく、マジで腹を減らしたゾンビのような足取りで)。
ここで働かせてください、と頼み、断られ、頼み、断られを何十回も繰り返したのにもかかわらず、結局どこでも雇ってはもらえなかった。
そんな中、空腹で足をふらつかせながらあの中華居酒屋がある路地に入って行き、俺は遂にそこで力尽きた。
「あの時、出勤してきた凛が見つけてなかったら、拓ちゃんは今ごろネズミとカラスのエサになっちゃってたかもしれないね」
「怖いこと言わないでくださいよ」
でもなんかちょっとあり得そうだな、と思ってしまったのは、俺の頭がいつも以上に想像力を発揮してしまったからだろう。そうに違いない。
猫明亭の前でぶっ倒れていた男を、店長と協力して店の中に運んでくれた凛さん。俺が目を覚ました後、この人はタダでたらふく飯を食わせてくれた。そういう事もあって、俺は凛さんと店長には頭が上がらない。あの店が行きつけになったのも、それが理由だった。
「……でも、そっか。拓ちゃんも前に進んでるんだね」
凛さんはポツリと呟く。意図が読めず、俺は彼女の横顔に視線を向けた。右隣に座る橙色の髪色をしたショートカットの女性は、エメラルドのような瞳に頭上で瞬く数多の星々を映している。だけど、俺にはその両眼が見ているものがなんなのか、知る事はできなかった。
「凛はいつも応援してるからね。いつか拓ちゃんが有名になったら、凛は恩人としてテレビに出るんだから」
「凛さん」
「だから、諦めちゃダメだよ。他の誰かが諦めても、拓ちゃんは頑張り続けるにゃ」
凛さんは視線を下げ、俺の方を見て笑ってくれる。年上なのにどこか子どもっぽいその笑顔を見て、首を横に振る事など出来るはずが無かった。
「……それは、凛さんも同じですよ」
「え?」
でも、彼女が言った言葉に、少しの諦観が含まれていたのを俺の耳は聞き逃さなかった。
「俺も、凛さんにダンスをやめてほしくないです。上手く言えないけど、凛さんにはそう在ってほしいんです」
「…………」
「俺が誰にも見られない所で苦しんでる時、凛さんもどこかで頑張ってるんだ、って思うとまだ終われないって思うんです。目指す場所は違うけど、俺は心のどこかで凛さんをライバルみたいに思ってるのかもしれません」
公園に風が通り抜け、さわさわと周囲にある針葉樹が小さな音を立てて揺れる。きっとこの公園のどこかに星が落ちても、誰も気づかない。それくらい、辺りは静かな空気に包まれていた。
「一緒に頑張りましょう、なんて無責任な事は言いません。でも、俺が音楽をやめない限り、凛さんもダンスをやめないでほしい。…………たとえ、続けた先にどこにも辿り着かなかったとしても」
柄にも無く、クサい事を言ってしまう。たぶん、ここ最近歌詞ばかり書いている所為で、思考回路までアーティスト脳に侵されてしまっているのかもしれない。自分で言っておいて、少しだけ恥ずかしくなった。
凛さんは何も言わず、こちらを見つめてくる。その綺麗な顔を見つめ返す事は、俺にはできなかった。
「…………拓ちゃんは、凛がこのまま歳を取っても、凛を応援してくれる?」
「当然です。凛さんがダンスをやめない限り、俺が音楽を手離さない限り、ずっと見てますよ」
そう言うと、凛さんは目を大きく見開いて、視線を斜め下に逸らした。その白い頬が若干赤みを帯びているように見えたのは、おそらく街灯の灯りの所為。
「じゃあ、もし、ね」
凛さんは目線を逸らしたままそう言い、俺は彼女が口にする続きの言葉を待つ。
「もし、拓ちゃんが有名なミュージシャンになったとして、それでも凛はおばあちゃんになるまでずーっと今のままだったとしたら、その時は────」
宝石のように美しい瞳がこちらを向く。
そしてしばらくの間、時が止まった。
待てども待てども次の瞬間はやってこない。まるで、廃線になった駅のホームで電車を待っている少年のように、俺はこの時が動くのを待ち続けていた。
けれど、その続きは語られなかった。凛さんの真面目な顔は緩んだ糸のように解れ、そこにはいつもの愛らしい微笑みが浮かぶ。
「……えへへ。やっぱり、なんでもない」
「えー。そこまで言っておいて言わないのはズルいです」
「大人はみんなズルいんだよ? 拓ちゃんも、もうちょっと大人になりなさい」
凛さんはそう言って、俺の髪を撫でてから立ち上がる。顔を見上げると、彼女はまた満天の星空を見上げていた。
「あ、流れ星」
その言葉が耳に入り、俺も凛さんが見つめている方角に目を移す。一瞬で過ぎ去る同じ流星を誰かと見るのは、ほとんど奇跡に近い。
それでも、今夜はその小さな奇跡が起こってくれた。
「すげぇ」
「わぁ、綺麗だにゃー」
俺たちが見つめる西の方角に、無数の流れ星が流れて行く。星には詳しくないが、もしかしたら今夜は流星群が見える夜だったのかもしれない。
凛さんの横に立ち、どこから生まれ、そしてどこかに消えて行くその流星群を眺めた。
流れ星が流れている最中に三回願い事をするとその願いは叶う、と誰かは言った。現実的に考えればそれは不可能に近い。瞬きほどの速度で消え去って行く流星が見えている間に、三度祈るのは相当難しい。
けれど、あの幾つもの流れ星が見える今夜なら、その願いも叶えられるのではないか、と思った。
三度が無理ならば、一度でもいい。ひとつの流れ星につきひとつの願いをかければきっと、この祈りを流星群は叶えてくれる。
「…………」
だから、俺は願った。自分自身の無謀な夢ではなく────隣に立つこの人の夢が叶いますように、と。
「消えちゃったね」
一分ほどで流星群は姿を消し、夜空には小さな星々だけが淡く煌めいている。
「凛が何をお願いしたか、聞きたい?」
凛さんはこちらを振り返り、そう言ってくる。
俺が頷くと、彼女は口を開いた。
「凛はね──拓ちゃんの夢が叶いますように、ってお願いしたにゃ」
そして、彼女はまた微笑みを浮かべる。
夜空に凛と輝いた、あの星のような笑顔を。
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八輪
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夢への一歩
第十七話/夢への一歩
◇
春を過ぎ、初夏が季節の部屋の扉をノックする。東京に住む人々が薄着になり、時刻が正午を過ぎると茹だるような気温になる日数が増えてきた、今日この頃。
梨子ちゃんと出会い、二人で曲を作り出してから約二か月が経過した。最近はSNSで告知をすると駅前で路上ライブをする事ができなくなるほどのファンが集まるようになってきたので、梨子ちゃんと話し合って俺はあそこでのライブはやめる事を決断。
その代わり、真姫さんの伝手で渋谷の小さなライブハウスを毎週一回借りられるようになり、そこに集まってくれた人たちに安いチケット代を払ってもらい、ライブをするようになっていた。
まだライブハウスからはみ出るくらいの集客は達成できていないけど、一度のライブに百人規模の人が集まるようになった事は、四月の俺からすれば奇跡と呼んでもまったく差し支えない。というかそれそのものだ。
SNSで定期的に音楽以外の事も呟き、くだらない出来事にもレスポンスをくれるフォロワーが何百人を越えるようになった。俺はその辺のテクニックには疎いので、何を呟けばいいのかとかは現役女子大生である梨子ちゃんに任せている。ちなみに、彼女の存在は誰にも明かしていない。それは梨子ちゃん自身のお願いだった。
動画サイトにはレコーディングした新曲を載せ、少なくない反響をもらってる。SNSで知り合った動画クリエイターのフォロワーさんにリリック動画とかを作ってもらったりして、それが割と評判になったりもした。
俺が目指していた理想のアーティスト像とは少しかけ離れているけれど、これはこれでインターネットが普及した現代的なやり方でいいのかもしれない、と受け入れてはいる。梨子ちゃんからは『良い評判も広がりやすいけど、悪い評判はもっと広がりやすいから気をつけて』と口酸っぱく言われている。今のところ大きな炎上とかもしてないし、今後も大丈夫だとは思う。
「ん?」
窓を開け放ち、湿気と気温でムシムシした部屋の換気をしながら、アコースティックギターを抱えて曲の練習をしていた平日の事。そろそろやめてバイトに行くか、と思っていたところ、急に部屋のドアが誰かに叩かれ、音楽に集中していた頭が冷静になった。
家賃はちゃんと払ってるし、水道光熱費も最近は滞納してない。なら、新聞か宗教の勧誘か? 新聞はまだいいが、あのうさん臭い宗教の勧誘はどうにかならんのだろうか。『あなたはいま幸せですか?』と訊かれる度に『あんたはどうなんだ』と訊き返したくなる。
ドアの穴から見てそれっぽかったら居留守しよう、と心に決め、アコギを置いて玄関へと向かう。しかし。
ドアの外に見えたのは、桜色だった。
「た──拓海くんっ、い、いいい一大事だよっ!」
「? どうしたの梨子ちゃん、こんな時間に。大学は?」
扉を開くと、そこには隣の部屋に住んでいる女子大生が立っていた。しかし、彼女がこの時間にいるのはおかしい。昨晩も遅くまで俺の部屋で作業していて、明日は朝から大学に行って講義を受けてくる、と言っていたのに。
駅からこのアパートまで走って来たのか、息が上がり、臙脂色の長い髪も少しだけ乱れている。普段はおっとりしているので彼女が走っている姿は上手く想像できないが、どうやらそういう事で間違いないらしい。
梨子ちゃんは質問に答えず、乱れた息を整えてから、手に持つスマートフォンの画面をこちらに見せてきた。
「これは?」
「さ、さっき私たちのアカウントにDMが来たの。それがすごい内容だったから、拓海くんに伝えなきゃと思って、大学を抜け出してきちゃった」
「?」
梨子ちゃんのよく分からない言葉を聞いてから、ディスプレイに映っているDMとやらの内容を読む。
そしてすぐに、この子が汗まみれになりながら帰ってきた理由を理解した。
「これって……」
「そうっ。あの有名なレコード会社からのメールだよっ。すごいよ拓海くんっ!」
めずらしくハイテンションで梨子ちゃんはそう言ってくる。俺は彼女が持っているスマホに映っている文章を何度も読み返し、それが嘘ではない事を自分に言い聞かせてから顔を彼女の方へと向けた。
「オーディション…………受けてみませんか、だって」
俺が内容を呟くと、梨子ちゃんは何も言わずにうんうんと頷く。それから徐々に頭が現実を受け入れ始め、自分がいま置かれている状況を認識する事ができた。
そして。
「「────やったぁああああああああああっ!!!」」
俺たちは手を繋ぎ合い、同時に歓喜の声を上げる。恥ずかしがり屋で、普段は俺に触れようともしてこない梨子ちゃんが自分からこの手を握ってくれた。これはそんな些細な事が気にならないくらいの出来事だって事。途方に暮れるような努力が、ようやく形になった瞬間だった。
「やったよ梨子ちゃんっ。俺たち、レコード会社の人たちにも見つけてもらえたよっ!」
「うん! やっとここまで来たねっ。私も嬉しいっ」
心の底から溢れてくる喜びの感情を、梨子ちゃんと共に爆発させる。今が夜じゃなくてよかった。この時間帯なら多少騒いでいても咎められる事は無い。もはや海外映画のワンシーンのように、梨子ちゃんを抱き締めてくるくるとこの場を回りたい気分だった。
この約二か月、俺としては二年。死に物狂いで追い求めてきた夢へと、一歩近づいた。まだ何も始まってはいないけれど、これは俺の人生にとって革新に近い出来事。自分の歌やギターが誰かに認められるのがこんなに嬉しいだなんて、今まで本当に知らなかった。
「ありがとう梨子ちゃんっ。君がいてくれてよかった」
「私こそありがと────あ」
と、言った時、梨子ちゃんはようやく自分が大胆な事をしているのに気づいたらしい。握り締め合っている手を見つめながら、顔を赤くしていく。けど、今日はそれが分かっていても、俺は彼女の手を離さなかった。
「あ、ああああああのっ、拓海くん。その、手」
「うん? ああ、嬉しかったからつい」
「って言いながら、なんで離してくれないの?」
「うーん。嬉しいから?」
「り、理由になってない!」
そう言う梨子ちゃんだが、この手を振り払おうとはしてこない。俺もそこまで強い力を入れているわけでは無いのに、この手が離れる事は無かった。
そんな風に玄関前で手を繋ぎ合っていると、部屋の中から携帯のアラームが聞こえてくる。
「いけね。ごめん、梨子ちゃん。俺、もうバイトに行かないと」
「あ────」
仕方なく手を離すと、幸せな夢から覚めてしまったおとぎ話のお姫さまのような声が聞こえてくる。このまま梨子ちゃんを困らせ続けたい気持ちもあったが、バイトに遅刻したら真姫さんにお仕置き(物理)されてしまうので、今回のところはここまでにしておく。
部屋に戻り、財布と携帯を持って足早に外へと出た。
「ごめん梨子ちゃん、合鍵で部屋閉めててくれる?」
「え? あぁ、うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます。ふふ、真姫さんにもさっきのこと伝えておくからね」
鍵が見当たらなかったので、隣に住んでいるこの子に部屋は任せる事にした。盗まれるようなものなんてないし、そもそも梨子ちゃんはそんな事はしない。
俺は高揚した気分のまま、駅に向かって走り出した。
◇
side:梨子
彼が居なくなった部屋の前で、私は立ち尽くしています。二人の努力が認められた事が嬉しくて、柄にも無くはしゃいでしまいました。
「ふふ……なんだか、あの頃に戻ったみたい」
そんな、誰にも届かない独り言を呟きます。本当に、あの頃と同じ感情が私の中には渦を巻いていました。
彼に閉めておいてくれ、と言われた部屋の鍵。二人で作曲をするようになってしばらくして渡された、この部屋の合鍵。それを見ると、こんな私をこの人はそこまで信頼してくれているのか、と驚いた事を思い出します。
「あ……窓、開いたままだ」
扉を閉めて鍵をかけようと思った時、ベランダに繋がる窓が開いている事に気づきます。仕方なく部屋に上がり、忘れっぽい彼の代わりに窓を閉めてあげました。
「……拓海くんの部屋で一人になるのって、初めてかも」
当然ですが、私がこの部屋に入る時はいつも彼が居ました。だから、いつもと違って少し緊張してしまいます。
「そういえば」
自分が立っている畳を見つめながら、西木野さんと初めて会った時の事を思い出します。
彼女は確か、ここにいやらしい本があるとか言っていました。音楽にしか興味が無いあの拓海くんに限って、そんな事は無いと思うんだけど……。
「だ、ダメよ梨子。男の人の部屋を勝手に漁るだなんて」
私は自分にそう言い聞かせ、探したい衝動を抑えます。彼がすごい趣味を持っている、と西木野さんは言っていたので、それがなんなのかを知りたいと思うのは仕方ないと思います。……私の趣味も他人に言えるようなものではないので、それを隠す理由はよく分かります。
「…………?」
長居するのも拓海くんに悪いと思い、自分の部屋に戻ろうとした時、壁にかかったカレンダーに赤い文字が書かれているのに気づきました。確かこの前までは書かれていなかったはずの文字。
「命、日?」
明日の日付の欄にはそう書かれてあります。でも、いったい誰の命日なんでしょう。拓海くんは家族とは縁を切っている、と言っていましたが、もしかしたら親戚の誰かの命日だったりするのでしょうか。それとも、私の知らない大切な女性、だったりして。
「それは無い、かな」
二か月以上ほぼ毎日のように彼と接してきて分かったのは、あの人は女性にほとんど関心を持たないっていう事と、
それは、自分の夢と真剣に向き合っている所為だというのは分かっているのですが、あまりにも鈍すぎて私も腹が立ってしまう時があります。というか、一日に一回はムカムカしてます。
だから、このカレンダーにかかれた命日、という言葉に当てはまる人物が彼にとっての大切な女性であった可能性は除外されました。なら、それでは。
「ん?」
その場に立ち尽くして悩んでいると、私はセンターテーブルの上に手紙のようなものが置かれている事に気づきました。彼には申し訳ありませんが、出しっぱなしにしているのも悪いので、面と向かって謝りはしません。
そんな事を思いながら手紙を手に取り、私はそこに書かれている内容を読み始めました。
「え────」
そして私は、まだ知らない彼を知ってしまうのでした。
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七輪
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◇
それから時は流れ、オーディション当日を迎えた。
梨子ちゃんがレコード会社からオーディションの誘いが来た、と伝えてくれたあの日から約二週間。今日のために俺と彼女は死に物狂いで新曲を作り、それを完成させた。
審査内容は審査員と面接をして、それから制限時間内で実技をする、というもの。一次審査の書類審査は案外すんなりパスしてしまったので、実質本気で臨むのは今日の二次審査から。この二次審査が通ると、一か月後の最終審査へと進めるらしい。そこで実力と才能が認められれば、晴れてプロになれるというシンプルなもの。
でも、大して難しい審査じゃなくてよかった。ほとんどの奴らは書類審査で篩にかけられるけど、俺の場合は担当者から直接誘いが来たおかげで、最初から今日の二次試験に集中する事ができていた。ネットの情報だけで詳細は分からないが、俺のようなパターンの奴は面接でおかしな事を言ったり、審査員が聴くに堪えない歌を歌わなければ、大抵は最終審査に進めるという。
その点はまず大丈夫だとは思っている。面接はほぼ付け焼き刃だけど、歌には自信がある。その二つのうち、どちらにウエイトを置くかと考えれば、どう考えても後者。面接が標準的ならば、間違いなく通過できる。
「…………」
レコード会社の中にある廊下に並べられた椅子に座りながら、俺は小さく息を吐く。両隣には俺と同じように面接と実技の順番を待つアーティスト志望の男女がいた。でも、そこにいる奴らの中で楽器を持っているのは俺だけ。
多分、他の連中は歌やダンスで勝負しようとしているのだろう。そんな感じの見た目や格好をしている奴が多いので、そう判断した。要項に服装は自由と書いてあったから、俺は白のドレスシャツに細身のブラックデニム、スニーカーという割とラフな出で立ちで臨む事にした(他の奴らと比べたらきっちりしてるように見える)。
俺がやろうとしているのは弾き語りだけなので、特に服に関しては気合いを入れなくていい、はず。少なくとも、アイドルのようにビジュアルで売り出したいと思われるようなイケてる見た目はしていないので、気合いを入れる方向性はギターと歌だけに絞った次第である。
静かな廊下で自分の番を今か今かと待ち侘びる。当然、緊張はする。ここでしくじれば俺はまたしがないフリーターに逆戻りになる。せっかく掴んだチャンスだ。これを逃してしまったら、次はいつデビューの機会がやって来るかは分からない。
だから今回で合格し、プロの世界へと足を踏み入れたい。そうすれば、梨子ちゃんも真姫さんも凛さんも、そして
「それでは次の方、どうぞ」
扉の傍らに立っていた若い女性にそう言われ、俺はギターケースを持って立ち上がる。背中に視線を感じる。おそらく、廊下に座ってる奴らの視線だろう。
『なんでギターなんて持ってるんだ』、『楽器を使わなきゃ自分の良さが表現できないのかよ』、『しかもなんだよその格好。あいつはライバルにはならないな』、なんていう小声が聞こえてくる、気がした。被害妄想かもしれないが、中にはそう思っている奴が確実にいる。
だが、そんなのどうでもいい。俺は、ここにいる奴らとは違う。誰も聴いてくれない駅前で、何百回と路上ライブをしてきた。雨の日も風の日も、馬鹿の一つ覚えのように、性懲りも無くギターを抱えてあの場に立っていた。
そして、俺は春に奇跡と出会った。
あの子と積み重ねてきた二カ月半は、きっと無駄なんかじゃない。あの子は、燻っていた導火線に大きな炎を点けてくれた。その結果が、今の俺だ。
何も臆する事は無い。単純に、積み重ねてきたものだけを表現しろ。既に撮られた映画のDVDと同じ。心の再生ボタンを押すだけ。そうすれば自動的に、俺のすべてが歌として現れる。
これはただ、俺が今まで積み重ねてきたものを見せる作業に他ならない。だから頑張る必要も、臆病になる意味も存在しない。
何も考えず、心の再生ボタンを押せ。
「────失礼します」
◇
「…………遅いなぁ」
私は、自分の部屋で彼の帰りを待っていました。
ソファに座り、友達からもらった伊勢海老の特大クッションを抱きながら、掛け時計が時を刻むのをジッと見つめ続けています。
彼がアパートを出たのが、およそ五時間前。レコード会社の本社は都内にあるので、長くかかったとしてももうそろそろ帰って来てもいい頃です。
「はぁ……」
小さなため息を吐き、私はソファにごろんと横になります。それからクッションを抱き締めて、餌が出てくるのを待つ猫のように、そわそわと左右に揺れていました。
もし、自分がオーディションを受けている立場だったなら、きっとこんな気持ちにはなりません。でも、今はそうじゃない。私が高校や大学の受験に出かけて行った日、両親はこんな気持ちで私の帰りを待っていたんでしょうか。なんともどかしい。これならいっそ、彼の代わりに私がオーディションを受けた方がマシでした。
そんな風に、時が静かに流れて行くのを何もせず待つ。数時間前に顔を合わせたばかりなのに、今すぐ会いたいと思ってしまう。この感情は、いったい何なのでしょう。
「分かってるよ」
抱き締めていた伊勢海老のクッションに顔を埋め、独り言を呟きます。
私は、自分の感情にそこまで鈍感じゃない。高校生の頃なら気づけなかったかもしれません。でも、今はもう大学生になって、あの頃よりも広い世界を知って、自分がどんな人間なのかも少しずつ理解したつもりでいる。
だからこそ、今の私が彼に抱いている感情は、きっと普通ではない。普通か異常かの二択ならば、確実に異常である、という事だけは確かに分かるんです。つまり、それがどういう意味を持つのかも。
「…………でも」
この気持ちを言葉に出すのは、たぶん正解じゃない。自分が思っている事、抱いている感情をありのままに声に出していいのは、子どもの頃だけと相場が決まっています。何故かって? 大人は我慢ができる生き物だから、です。
一時の感情に流されてそれを言ってしまったら、これまで積み重ねてきたもの、これから積み重ねていくはずだったものが、すべて無に帰してしまう。
そうならないために、私は我慢をするんです。何度も打ち続けて硬く、鋭くなった刀のように、私の理性は彼にこの感情を伝える事を未然に防いでくれる。
それに、いま私がこの気持ちを伝えたところで、彼の心には届かない。それは近くにいる私だからこそ分かる事。彼が何を最も大切に思い、何のために生きているのか。彼の水晶体が何を映しているのか。私はこの二か月間、ずっと見つめ続けて来たんですから。
「…………」
私はソファに寝そべったまま、壁に掛けられたカレンダーを見つめます。
春に大学の寮が火事になり、私はこのアパートに越してきました。寮の修復には三カ月ほどかかると、大学からは言われていました。あと一カ月弱もすれば、私はこのアパートを出て、寮に帰らなくてはいけなくなる。
それも、形式的な事なんですが。
引っ越し先がこのアパートじゃ無ければ、私は迷わなかった。自分の意思だけで、前へ進めたはずでした。
けれど、私は出会ってしまった。
そして、その人の手を取ってしまった。
それが自分の未来にどんな影響を及ぼすかも、深く考える事もせずに。ただ、この人の力になりたい、というひとつの心情に溺れてしまった。硬く結んだ結び目が解けにくくなるのは、自分でも分かっていたのに。
「言え、ないよ」
私を無条件に信じてくれている彼に、告げられるはずが無い。でも、時は前にしか進まない。
私はその時、彼にすべてを伝えられるのでしょうか?
「あ」
玄関のドアが、誰かに叩かれる音が聴こえてきます。私は咄嗟に身体を起こし、玄関へと急ぎました。
そして、扉の外に立っていた彼に言いました。
「おかえりなさい」
◇
それから彼の部屋に行き、私はテーブルを挟んで彼と向かい合うように座りました。オーディションから帰ってきた彼は、何やら思いつめたような表情をしています。歌詞が思い浮かばない時によく浮かべている顔です。
「オーディション、どうだった?」
彼の方から語り始めるビジョンが見えなかったため、私から話を切り出す事にしました。すると彼は表情を変えないまま、私の目を見て口を開きます。
「うん。合格だってさ」
「ほんと? すごいよ拓海くん」
嬉しい報告を受けて、私は思わず微笑みます。ですが、それを言った彼の顔は浮かないまま。何かがあった、と思わずにはいられません。
「ありがと。来月に最終審査があって、それを通ればデビューが決まるみたいだよ」
その言葉を語る声にも、どこか寂寞たる雰囲気を感じます。なんというか、私に言いにくい事でもあるような。そんな声音をしていました。
「……でも、喜べない何かがあったの?」
「う……流石に分かっちゃうか。ダメだな、俺」
私が訊ねると拓海くんは右手の拳で自分の頬をこつん、と軽く殴ります。あんな顔をしておいて、私に隠し事をしているつもりだったんでしょうか。本当に、この人は裏表が無い真っ直ぐな人です。そんなところも、私は。
「何があったの?」
「うん。別に審査員にダメ出しされて凹んでる、っていう訳じゃないよ。歌もギターも、上に行っても通用しそうだって褒められたくらいだった」
「じゃあ」
どうしてそんな顔をしているの、と私が訊ねようとした時、その質問を遮るように拓海くんは口を開きます。
「けどね、一番褒められたのは────
「あ…………」
「審査員は、俺の歌やギターよりも梨子ちゃんが作った曲に耳を傾けてた。歌い終わった後、驚いてたよ。『こんなに良い曲が作れる新人がいただなんて』ってね」
彼の言葉を聞き、おおよその意味を理解しました。
「そう。俺をオーディションに誘ってくれた人も、審査員も、たぶんライブに来てくれるようになった人たちも。みんな俺の歌じゃなく、梨子ちゃんの曲を聴きに来ていたんだ。曲が良いから、それを聴きたいと言って集まってくれていた。俺はただ、君が作った曲をカバーしていたに過ぎない。今さらだけど、気づいちゃったんだよ」
拓海くんは静かな声で私に語ります。そうじゃない、と彼の言葉を否定する事は、できませんでした。
「でも、それは私が作った曲を拓海くんが上手に弾けて歌えるからであって」
「分かってる。けど、結局もとを辿ればはそうなんだよ。今まで俺が作った曲で人が集まらなかったのに、梨子ちゃんが作った曲を歌い始めてから一気に聴いてくれる人が増えた。それってつまり、俺がすごいんじゃなくて、曲を作った梨子ちゃんがすごいっていう事にしかならない。…………なんで、今まで気づかなかったんだろ」
自分の前髪を握り締めて、拓海くんはそう言います。彼のその表情が悔しさを含めたものに変わったのを、私は見逃しませんでした。
「拓海くん…………」
「一緒に作ったって言っても、俺が手掛けたのなんてほとんどない。九割が梨子ちゃんが作ったものだ。一を百にする作業は二人でやった。でも、ゼロを一にする一番大変な作業は、全部梨子ちゃんがやってくれた」
テーブルに視線を落とし、そう語る彼の姿を私は黙って見つめ続けます。
「もし、最終審査に通ってデビューする事になったとして、それからもずっと君と曲を作っていけるわけじゃない。だから」
拓海くんはそこまで言って顔を上げ、私の目を見つめてきます。
「梨子ちゃん」
「はい」
「最終審査で歌う曲は、最初から最後まで俺が作る。君の手を借りないで、俺が本当にプロのミュージシャンに相応しいか。それを────結果で証明してみせる」
そして、そんな確固たる決意を私に語ったのでした。
次話/太陽が西から昇っても気づけない
六輪
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太陽が西から昇っても気づけない
十九話/太陽が西から昇っても気づけない
◇
それから文字通り、地獄の日々が始まった。
誰の手も借りず、誰にも協力を求めないで最高の曲を作る日々。二か月前まではそれが当たり前だったけど、今は状況があの頃とは違う。プロになるまであと一歩。次に作る楽曲が審査員に受け入れられたなら、俺の夢は叶う。
長いあいだ見続けた夢が、手を伸ばせば届く所まで来た。ここまで来られたのは俺の力ではない。あの子のおかげで、夢の一歩手前まで来た。
だから最後の一歩は、俺自身の力で歩く。その一歩がどれだけ大きくても関係ない。自分のために、この壁を越えなければならない。
「すんません、真姫さん。俺のシフト、代わりに入ってもらって」
『悪気があんならまず結果を出しなさい。まぁ、いいわよ。終わったらあたしの分を働いてもらうんだから』
「ありがとうございます。終わったらまた飲みに行きましょうね」
『はいはい。ほら、あたしとの電話で時間を無駄にしない。さっさと切って作業に集中しなさい』
一カ月バイトを休む事を真姫さんに伝えたら、あの人は俺が入る分のシフトを自分のところに入れてくれた。勉強が大変だって言ってたのに、俺が本気になった事を分かってくれたのかもしれない。天邪鬼な応援をしてくれるところも真姫さんらしい。あの人はやっぱりいい人だ。
◇
朝、起きる。それから部屋の隅に置かれた電子ピアノの前に移動して、パソコンを開いて、思いついたコード進行をギターで弾く。歌いたい時は近くの公園に行って、平日の真昼間から自作の歌を歌うイタイ奴になっていた。現に近所の住人からは変な目で見られ(今までも結構そういう目では見られていたけど)、公園に遊びに来た小学生たちにからかわれたりもした。
でも、それがどうした。こんな一時の恥で夢が叶うのなら、俺はいくらでも恥をかいてやる。確かにその瞬間は嫌だけど、そんな理由で止めて後悔するのは、俺が誰よりも分かっていた。笑いたきゃ笑えばいい。それでも歌い続ける。そうやって音楽を続けてきたんだから。今日もそんな時間を過ごして、一日が終わった。
◇
朝、起きる。寝たと言ってもほんの数時間。カフェインの摂り過ぎで眠りが浅いからか、最近は確実に夢を見る。ギターを弾いて歌っている夢。夢の中でも作曲作業をしてる自分が馬鹿みたいに思えてくる。そんなエピソードを誰にも話す事無く、俺はまたピアノの前に座り、パソコンを開く。そしてギターを奏でる。そうして一日が終わる。
◇
朝、起きる。最近、というかあの決意をした日から梨子ちゃんとは顔を合わせていない。意図的にそうしているわけでは無いが、ほとんど家から出ないので必然的にそうなっているだけ。
この部屋の隣に住んでいるあの子はきっと誰よりも、俺が馬鹿げた生活をしてる事を知っている。朝早くからピアノやギターを弾いて、夜遅くまでそれが続いているのを、壁越しに聴いているのだから。申し訳なく思うが、あの子ならきっと許してくれる。そう自らに言い聞かせて、今日も作業を続ける。そうしてまた夜が来た。
◇
朝、起きる。今日は公園に歌いに行って、帰ってきたらドアノブにビニール袋が掛けられていた。中に入っていたのは、手作りの玉子サンド。
それを誰が作り、誰が置いて行ったのかは言うまでもない。俺がこの数週間、どれだけ栄養の無い食事を摂っているのかを、隣に住む女子大生は分かっているのかもしれない。ピアノを弾きながら、ありがたくその玉子サンドをいただいた。食べてる最中に寝落ちしてしまったのは、疲れている所為かもしれない。
◇
朝、起きる。身体が怠い。何もしたくない。布団に寝そべったまま天井を見上げていると、小さな悪魔が耳元で『そのまま寝てろ』、と囁いてくる。やめろ、と追い払ったら今度は小さな天使が『もう休んでいいんだよ』と、俺を唆しに来た。悪魔も天使も、どっちも俺を休ませようとしてくる。だが、俺は煩いそいつらを捕まえて握り潰し、またピアノの前に座る。買い置きしてた缶コーヒーを飲んだら吐き気がしてトイレで吐いてしまった。でも、飲まなければ起きていられないので、もう一本を一気飲みして、それからギターを爪弾いた。また吐いた。
◇
朝、起きる。もう起きているのか寝ているのかも分からない。身体は自動的に置き、ピアノの前に座り、鍵盤を指で叩く。感覚的にギターを弾き、誰が思いついたのかも分からない歌詞やメロディをパソコンに打ち込んでいく。
こんな状態で良い曲が作れるのかどうかは、もう分からない。分からないけれど、俺にはこの方法しか思いつかなかった。だからとにかく時間と労力をかけるしかない。才能の無い俺には、これしかないのだから。
◇
朝、起きる。遂に布団も押し入れに仕舞った。あれがあるとどうしても甘えたくなる。最近はもうギターを抱えたまま仮眠を取っている。これなら時間を音楽にしか使えないからいい。でも、どうしても眠気に耐えられなくなる時はある。そんな時は、氷水を敷き詰めた風呂に飛び込んで無理やり目を覚ますという方法を試した。ヤバすぎて叫んだら、深夜に起きていたであろう梨子ちゃんからメールが来た。今度会った時に謝ろう。
◇
朝、起きる。ここまで来ると逆に意識が冴えて、作業が楽になった。時間の感覚も無い。まるで水の中で生活しているかのよう。フワフワと、脳も身体も何もかもが自動的に動き、成すべき事を成してくれる。九日間、不眠で食事も摂らず、横にもならずにただひたすらお経を読み続ける、というお坊さんの修業があるとどこかで聞いた事がある。俺もそれに近いものを感じているのかもしれない。俺の場合はただ我慢してるだけだけど。
そんな、太陽が西から昇っても気づけないような生活を一か月間毎日繰り返し、俺は一曲の歌を作り上げた。
そうして、遂にその日が来た。
次話/黒猫と雨
五輪
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黒猫と雨
第二十話/黒猫と雨
◇
彼がオーディションの最終審査に出かけた日。私は、彼を見送る事はしませんでした。隣の部屋のドアが閉まる音を自室に籠って聞き、ギターケースを持った彼が駅の方へと歩いて行くのを、窓の内側から眺めていただけでした。
本当は、声をかけたかった。今日だけじゃないです。このあえて顔を合わせなかった一か月間、ずっと彼に何かを言いたかった。それは音楽的なアドバイスではなく、純粋に頑張っている人へかけるエールのようなものを。
けれど、私にはそうすることができなかった。彼の挑戦を妨げる事はどうしても出来なかったから。私が作った曲ではなく、自分一人で作り上げたもので夢を掴み取りたい。それをあんな真剣な目で語られたら、私なんかがその領域に立ち入る事など、出来るわけがありません。
だから、私は自分から彼に会う事を自制しました。そうする事を意図的に我慢しなければならないほど、私は彼の中に溺れていた。それが、この会えない日々でいたいほど強く分かってしまったんです。
彼は音楽のパートナーとして、私と会わないようにしていたかもしれない。
でも、私は違った。私は────
「…………雨だ」
彼がアパートを出て行ってから、数時間が経過した頃。私は外に響く雨音に気づき、窓辺へと歩み寄りました。
天気予報は見ていなかったから、今日の天気がどうなるのかは分かりませんでした。最後に見た彼は、傘を持っていなかった。もしかしたら雨に濡れて帰ってくるかもしれない。なんて、心配性の母親みたいな事を考えてしまう。
降り出した雨はすぐにこの町を濡らし、遠くの方からは雷が唸る音が聞こえてきました。季節は梅雨だから、こんなスコールが降るのも当然と言えば当然。今日じゃなければ、意識すらしていなかったかもしれません。
「外で待ってよう、かな」
以前と同じくらいの時間に彼が帰って来るのであれば、そろそろ出迎えてもいい頃です。そう思い、私は傘を持ってアパートの外へ出ました。
「あら」
そうして階段を下ると、一階の庇のある部分で雨宿りをしている一匹の黒猫を見つけました。
私が近づいても、その猫は逃げて行きません。むしろこちらへ歩み寄って来ました。エサでももらえる、と思ったのでしょうか? 首輪が付いていないので、たぶん野良猫です。
「こんにちは」
傘をさしたまましゃがみ、私は挨拶をします。ふてぶてしい顔をしたその野良猫はにゃお、と鳴き、返事をしてくれました。何か食べ物をあげたいですが、それでこのアパートに住み着いてしまったら困ります。大家さんに出て行け、と言われてしまいかねません。
でもまぁ、そんな事を言われなくても、私はもう少しで出て行かなければならないのですが。
黒猫はお行儀よくお座りをして、私の顔を見上げてきます。そして、私のその黄色の瞳を見つめ返しました。
「…………」
そうして数秒間、その黒猫と視線を交わしていると、ふとある事を思いつきました。
彼が帰ってきたら、あの事を伝えよう。
勇気を出して、今日言うんだ、と。
雨は降り続いています。雨粒が軒先から滴り落ち、地面には小さな水たまりを作り上げている。道路の向かい側にある家の前には、水色の鮮やかなアサガオが咲いていて、この驟雨を喜んでいるようにも見えました。
私は傘をさしながら彼の帰りを待ち、黒猫はこの俄雨が止むのを待ち侘びている。そうしてふたり、灰色の雨空を見上げてお互いが求めている瞬間が訪れるのを、ただ黙って待ち続けていたのでした。
「大丈夫、だよね」
独り言をぽつり。それは降り落ちる雨粒とともに地面へと零れ、透明な水たまりに擬態していきました。
大丈夫。私が心配しなくとも、彼はちゃんと報われる。だって、そうじゃなければおかしい。あんなに頑張っている人の夢が叶わないのなら、神様はどんな人の願いなら叶えてくれるのか。彼は絶対にその夢を掴んで帰って来る。私にはそれが分かる。
だから、私はその彼に伝えるんだ。
彼と出会って、決めた事。彼に出会わなければ決められなかった事。それを今日、ちゃんと口に出す。
それから半刻ほど経った時、駅の方から歩いてくる人影を見つけました。目を凝らすと、その人は傘をささずに、雨に濡れながら道を歩いています。
不意に、嫌な予感がしました。そんな事は無い、と自分に言い聞かせ、一度首を左右に振ります。
「…………え?」
気づくと、隣にいたはずの黒猫がいなくなっていました。辺りを見渡しても、どこにもいません。強い雨音で足音が掻き消されたのだとしても、気づく事くらいはできたはず。だというのに。
急に雨脚が強くなったと同時に閃光が瞬き、大きな雷鳴が町に轟きます。それが過ぎ去った後、再び雨音だけが響く静かな時間が訪れました。
「拓海、くん」
全身がずぶ濡れになった彼は、俯いています。声をかけなければ、おそらく私の存在にすら気づかなかったでしょう。雨に濡れた長い前髪がその表情を隠し、彼の視界のほとんどを奪ってしまっている。
それから数秒間の沈黙。辺りに響く雨音だけが存在する穏やかな時間が、私と彼が住んでいるアパートの前には流れています。まるで誰かがこの静寂を壊すな、と私たちに命令しているようにも思えました。
「………………」
「?」
その静けさを壊さぬよう、黙って雨粒を見つめていると、彼はポケットからある一枚の紙を取り出し、私の方へと差し出してきました。
雨に濡れてしまっている、その薄い紙。それが何なのかは分かりませんが、彼がそれを私に読んで欲しいと思っている事は、感覚的に理解しました。
私は紙を受け取り、破らないように拡げて、そこに書いてある文章を読み始めます。
そして、それを読み終わった後。
私は、この世界の神様を恨みました。
◇
梨子ちゃんが驚いている。開いた口が塞がらないっていうのは、今の彼女が浮かべている表情の事を言うんだろう。でも、どうせなら笑ってほしかった。哀れな俺を見て、腹を抱えてくれた方がマシだった。
あれだけの努力が、何もかも無駄になったのだから。
「これが現実だよ、梨子ちゃん」
顔を上げ、俺は目の前に立っている桜色の女の子に向かって言う。その声すら届いていないというように、彼女は何度も紙に書かれている文字を読み返していた。
そんな事をしても、俺の夢が叶わなかった事は変わらないというのに。
「俺は結局、才能の無い凡人なんだ。願った夢なんて何ひとつ叶えられない。死ぬ気で頑張ったところで、何も報われない。努力をしないで夢を叶える、才能のある奴らとは違う。生まれた時から死ぬまで普通から抜け出せない。そう定められた────ただの、人間なんだ」
頭で思った事が、そのまま口から零れ落ちてくる。理性なんて存在しないというように、止められない言葉の奔流が、声になって溢れてくる。
「俺、頑張ったんだよ」
それともに、目から流れる温かい何かが、雨粒と一緒に地面に落ちて行った。
「この一カ月だけじゃない。上京してくる前から、音楽をやり始めてから今日まで、ずっと。ずっと、プロになる事を夢見て、歌って、ギターを練習して、何度も何度も何度もライブをした。自分には才能があるんだって言い聞かせて、貧乏な暮らしをしながらも音楽だけはやめたくなくて、これだけにしがみついた」
背負っているギターケースを地面に下ろし、雨に打たれるそれを見つめて、語り続ける。
「なのに、全部無駄だった。いや、無駄で済んだならこんなに悲しくない。俺の歌は、無意味だ。誰も幸せになんてできない。聴く価値すらない……ガラクタだったんだ」
数時間前に審査員に言われた事を、自分の口でリフレインする。そうしたらなんとなく、あの人たちが言ってくれた言葉が正しかったんだ、と理解できた。
「…………違う。違うよ、拓海くん」
「違くない。俺が作る歌は、全部自己満足だ。誰の心にも届かない。俺の感情が動いたところで、この世界に生きる誰一人として俺の歌に耳を傾けてくれやしない」
梨子ちゃんの言葉を否定し、俺はまた言葉を吐く。
「その結果を渡されて、審査員に言われたよ。『君は、本当にあの一之瀬拓海くんなのかい?』って。それが何を意味するのかは、分かるでしょ?」
「…………」
「そんな事を言われるくらいなら、才能が無いって直接言われた方がよかった。俺は結局、君が作った歌に甘えていただけだったんだ。それを歌っただけで、自分がすごいんだと思い込んでいた。誰も、俺の歌を聴いてなかった。ギターの音色なんて、聴いてなかった」
そして、目の前に立つ彼女に向かって、言った。
「あの歌を奏でていたのは全部──君だったんだ」
そこまで言って、箍が外れたように涙が目から溢れてくる。情けないのは分かってる。それでも、壊れたこの感情の堰から流れ出すこの液体を止める方法が、俺にはもう分からない。
「そんな事な」
梨子ちゃんが俺に向かってそう言おうとした時、俺の中にあったもうひとつの何かが壊れた。
それはたぶん、ずっと押さえ続けていた感情。言いたくても言えなかった、理不尽な言葉。
今ならそれを言っても、これ以上最低な気分になりそうになかった。だから、すべてぶちまけてしまえばいい。
「君に、俺の何が分かんだよ」
「え…………」
「才能のある君に、凡人の俺が抱える悩みの何が分かんのかって訊いてんだよっ!」
足元にあるギターケースを蹴り飛ばし、俺は叫ぶ。
当然の如く、突然の激情を目の当たりにした桜色の女の子は、怯えるような目で前に立つ男を見つめていた。
「本当は君も分かってたんだろ? 俺がプロになるなんて、絶対に無理だって。君はそれを優しさで隠して、言わなかっただけなんだ。才能の無い俺に見かねて、自分の才能をひけらかそうとした。だから俺の手伝いをしてくれたんだろ? んだよ、それ。ふざけんなよ」
「た、拓海、くん」
「この世は才能がすべてだ。才能が無い奴は、どれだけ努力をしても才能がある奴に勝てない。夢を見ようとしても、それは絶対に叶わない。じゃあ、才能の無い俺はどうすりゃいいんだよっ!」
俺は梨子ちゃんに詰め寄り、また最低な言葉を吐く。
「君だってそうだ。俺がどれだけ努力をしたって届かないものを、最初から持っていた。初めに配られた手札に最高のカードがあったから、それに頼って生きて来られた。大した努力もせずに、その力を手に入れて、俺の前に立ってる。違うかよ、なぁ」
分かってる。こんな事を誰かに言ったところで、意味は無い。でも、今は無理だった。我慢をしたらすぐにでも潰れてしまいそうで、誰かに当たるくらいしか、この最低な場所から抜け出す方法が見出せなかった。
「なんでだよ。なんで何だよっ。なんで俺じゃダメなんだ! どうして君は俺に無いものを持ってんだっ! 俺が、寿命を差し出しても欲しいものを、なんで!!!」
もう、誰に叫んでいるのかも分からない。もはや叫んでいる意味すらも分からない。
でも、そうだ。
「頼むよ…………その才能を、俺にくれよ」
俺は最初から、そういう最低な人間だったんだ。
「…………せに」
パシャリ、と梨子ちゃんが持っていたビニール傘が地面落ちる。顔を上げると、彼女は。
「あなただって、私の事を何も知らないくせに」
彼女は、俺を見つめながら大粒の涙を流していた。
「もっとちゃんと────
そう言い残し、梨子ちゃんは階段を上って部屋に帰って行く。俺は彼女を引き留める事など出来ず、ただそこに立ち尽くしたまま、強い雨に打たれ続けていた。
「…………」
もう、何もかもどうでもいい。音楽のパートナーすら失い、夢も砕かれ、大切なものがこの手から消えて行った。
それを思うと、何だか悲しさを通り越して笑えてきた。自分が哀れで、情けなくて、どうしようもない。救いようの無い俺に手を差し伸べてくれる誰かはもう、この世界のどこにもいない。
地面に跪き、空を見上げる。無機質な雨空。それはこの心を映しているようで、見つめていると自分が空の一部になったんじゃないか、と錯覚してしまう。
「…………ぁ」
そうして一人佇んでいると、俺の近くに一匹の黒猫が歩いてきた。何故こちらに寄ってくるのかは分からない。 でも俺は、救いを求めるようにその猫へと手を伸ばした。
「痛、っ」
すると、黒猫は突然俺の指に噛みつき、それから素早い足取りでどこかへ消えて行った。
噛まれた箇所から少し、血が出てくる。それは雨に濡れ、ポタポタとアスファルトの上に零れ落ちて行った。
「…………はは」
でももう、何もかもどうでもいい。
この世界に俺の味方など──誰もいないのだから。
次話/無価値な日々
四輪
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無価値な日々
第二十一話/無価値な日々
◇
あれから俺はギターに触る事をやめた。ギターだけではなく、ピアノの前に座る事も、歌を歌う事も。バイトにさえも行っていない。
これが約一か月間、生活のすべてを音楽に捧げた反動なのか、と思うけれど、たぶん違う。もしそうだったなら、しばらく休めばまたそれらがしたくなるのが普通の反応。
でも今は一ミリたりともそんな事は思わない。音楽だけではなく、もう何もしたくない、と言うのが正しい表現かもしれない。
意味も無く朝に起きて、適当なものを食べて、適当な事をして時間を潰し、寝る。上京した頃では考えられないほど意味の無い生活をしている毎日。こんな生産性の無い毎日を過ごして、何の意味があるのか。俺にはそれを考える思考能力すら欠如していた。
人間が生きるためには理由がいる。
でも、今の俺にはその理由が無い。
だからきっと、今の俺は人間では無いのだろう。
あれから誰とも連絡を取っていない。バイト先の店長には辞めさせてくれ、と連絡は入れておいたが、かかってくる電話のすべてを無視していたので、それもどうなったのかは分からない。最近は面倒なので携帯の電源も落としている。そうすれば、このご時世ならある程度ひとりになる事はできるから。
貯めていた少ない貯金を切り詰めて生活しているが、それもいつ底を尽きるか分からない。たぶん、長く見積もっても一カ月が限界だ。それ以降はまた外に出て働いて、金を稼がなければならない。
けど、それでどうなる? バイトをして金を稼いで、その金で飯を食って、寝て、また次の日が来る。それを繰り返すだけの人生に、未来なんてあるのか?
……。……。……。……。……。
もう、考えるのはよそう。これ以上考えたら俺はまた人間から離れてしまう。いちおう人間なのだから、生きたいと思うのは当たり前なんだ。俺はただ、その本能に従っているだけ。
決して、夢から目を逸らしてる
「────っと」
「ってぇなこの野郎。前見て歩け、このクズが」
駅前のパチンコ屋から帰る途上、向かい側から来た若い連中と肩をぶつけた。今のは周囲に視野を拡げていなかった俺の過ち。
だけど、劣等感に押しつぶされ尽くした俺の脳は、そう捉えてはくれなかった。
「…………」
「おい、聞いてんのかてめぇ」
「なに睨んでんだ、殺されてぇのか?」
素直に謝らない俺に突っかかってくる不良共。それもそうか。明らかに悪いのは俺なのだから、こちらから謝罪しなければ向こうがキレるのも仕方ない。
「訂正しろ」
「あ?」
「俺をクズって言ったのを訂正しろって言ってんだ、クソ野郎」
そう言って、その不良に向かって拳を振るった。
◇
「…………」
誰もいない路地のゴミ捨て場。自分から喧嘩をふっかけておきながらボコボコにされ、しばらくの間そこにぶっ倒れていた。
ゴミの山に背中を預けて、頭上を仰ぐ。ビルに挟まれる細い灰色の空。今にも雨が降り出しそうなそれは、やっぱりこの心の色彩を映し出しているように見えた。
「何やってんだ、俺」
殴られた所為で口の中が裂けて、血の味がする。奥歯が二本、無くなっている感覚もあった。左目は腫れて開かず、右肩が外れかけている。こんな奴を見かけたら交通事故にでもあったのか、と思うに違いない。
パチンコで当てて増えたはずの持ち金も奪われて、これで遂に一文無しになった。残ってるのは口座に残ってる僅かな貯金だけ。まだ一カ月は生きて行けるはずだったのに、これではもう一週間も暮らせない。
「…………腹、減った」
人生の底辺にいても、人並みに腹は減る。どうして神様はこんな風に人間を作ったんだろう。普通に生きていないクソみたいな奴の腹は、一生減らないようにしてくれればいいのに。そうすれば何も食わないで済むし、何もしなくても生きて行ける。
「ああ」
そうか。そんな生きる意味の無い奴を作らないために、神様は俺たち人間の腹を空かせるように作ったんだ。腹を満たしたいのなら黙って働け、と。
それでも働きたくないのなら、黙って〇〇ばいい。空腹っていうのはきっと、その警告なんだろう。
でも、俺にはその意志が無い。生きる理由すらない。それでも、なんとなく生きてはいたい。
だったらもう、この町から去るしかない。全部諦めて、田舎に帰る。そうすれば働かなくとも飯は食えるようになる。いちおう人間として、生きてはいける。
「いや……」
けど、それは無理だ。派手に親と喧嘩をして、一生この家には帰らない、と言って東京に出てきたんだ。今さら地元に帰ったところで、俺の居場所なんてどこにも無い。友達はいるけれど、あいつらに迷惑をかけるくらいなら、この町と心中した方がマシだ。
じゃあ、どうすればいい。一体どうすれば、俺はこの出口の迷宮から出られる?
「そうだ」
ひとつだけあった。働かなくとも金を得られる方法。何も持っていない俺が、唯一持っているもの。それを手離せば、数日間の生活費くらいは稼げるかもしれない。
そう思い、俺はボロボロになった身体を立ち上がらせ、フラフラとした足取りでアパートへと帰る。すれ違う人たちからは相当変な目で見られた。けど、この町に救急車を呼んでくれる優しい人間はいない。それが、今は都合がよかった。気を遣われたくない時に誰かに気を遣われる事ほど、虚しい物事はこの世に存在しない。
長い時間をかけて家路を辿り、俺はようやくアパートに到着した。早速部屋に戻って、あれを売りに行こう。
あのギターやピアノを売れば、相当な金が手に入るはず。そうしてまた、意味の無い日々を送ればいい。
そう思っていたのだが。
「…………?」
アパートの前には、一台のトラックが停まっている。見るからに、それは引っ越し業者の車だった。
立ち止まり、遠巻きに作業をしている人たちを眺める。あのボロアパートにまた誰かが引っ越して来るのか。
いや、ちがう。
あれは。
「…………まさか」
俺は痛む身体に鞭を打ち、小走りでアパートへと近づく。そして階段を下りてきた青年に声をかけた。
「あ──あのっ」
「はい? どうしました?」
引っ越し業者の青年はこちらを見て、少し訝しむような顔をしたが、俺はかまわず訊ねた。
「誰の、引っ越し作業をしてるんですか?」
「? 失礼ですが、そういうのは個人情報でして、私たちがお答えするのはちょっと」
「俺はここの住人です。二〇一号室に住んでるんです。だから、まったく関係のない人間じゃありません」
「ああ、それなら私に訊かなくても分かるじゃないですか」
引っ越し業者の青年はそう言い、二階にある俺の部屋の隣を指差した。
「あなたの部屋の隣──二〇二号室に住んでる、桜内さんの部屋の引っ越し作業です」
青年の言葉を聞き、俺の思考は一気に白く染まった。
分かっていた。いつか彼女がこのアパートから居なくなるのは。分かっていたのに、俺は現実から目を背け、その事実を忘れようとしていた。
「…………」
「ちょ、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ? 怪我もしてますし、早めに病院に行った方が」
足元をふらつかせると、質問に答えてくれた青年が親切にそう言ってくれる。まだ東京も捨てたもんじゃないな、とバカな事を思うけれど、思考は白いままだった。
「大丈夫、です。ありがとうございました」
礼を述べて頭を下げると、引っ越し業者の青年はトラックの助手席に乗り、そこから去って行った。
ひとり、アパートの前で立ち尽くす。引っ越し作業を終えたという事は、俺の部屋の隣にはもう誰も住んでいない。今年の春と同じ状態に戻った、という事になる。
これでまた、俺は一人ぼっちになる。
階段を上り、昨日まで誰かが住んでいた部屋の前に立つ。扉の佇まいは何も変わらない。でも、この扉の向こうにはもう、何も無い。誰かが暮らしていた形跡も、誰かが寝泊まりをしていた記憶も。
「梨子、ちゃん」
俺は結局、あの子に別れを告げられなかった。一番感謝を伝えなければいけなかったあの子に、何も言えなかった。あの日に突き放したまま、別れが来るだなんて。
それも全部、自分の所為。優しいあの子の領域を踏みにじった、愚かな俺が犯した罪の罰。
痛む拳で一度ドアを叩き、自分の情けなさを文字どおり痛感する。せめてさよならくらいは言いたかった。でも、彼女も都内に住んでいるのなら、これから連絡を取って会いに行けるかもしれない。
俺の人生がどれだけ泥に塗れようとも、あの子と過ごした日々だけは汚したくない。だから。
部屋に戻って連絡しようと思い、鍵を開けようとした時、郵便受けに何かが挟まっているのに気づいた。
「…………手紙」
薄紅色の便箋。誰が書いたものであるのかは、読む前から気づいていた。
部屋の鍵を開けずに外から便箋を引き抜き、扉の前に立ち尽くしたまま、俺はその手紙に目を落とした。
次話/親愛なるあなたへ
三輪
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親愛なるあなたへ
第二十二話/親愛なるあなたへ
◇
『拝啓 一之瀬拓海さんへ
まず最初に、こんな手紙で別れを告げることを許してください。あなたが電話やメールに返事をくれなくても、勇気を出してドアを叩けば直接言うことができたはずです。
でも、勇気の無い私にはこうして手紙を通してあなたに想いを伝えるのが限界でした。優しい拓海くんなら、そんな不甲斐ない私を許してくれると信じています。
先日、ようやく大学の寮の修復が終わり、予定通り私はここから出て行く事になりました。
その前に、あなたにさようならを言いたかったけれど、それは叶わなかった。なら、大学に戻ってからまたあなたに会いに来て言えばいい。そう思っていたのですが、残念ながらそれも叶いそうにありません。
私は、このアパートから大学の寮に戻るのではなく、そのまま海外へ留学する予定を立てていました。
引っ越しのタイミングと私の決意が固まる時期が重なり、行くのなら今しかないと思ったからです。
今年の春までは、怖くてその一歩を踏み出すことができませんでした。私はこのまま芸術の道に進むべきなのか、それともちがった方向へ進んだ方がいいのか、と。どっちつかずのまま、毎日中途半端に生きていたんです。
でも、東京の桜が満開になったあの日。荒川の河川敷で拓海くんと出会って、駅前で再会して、このアパートで隣同士で暮らすようになってから、私の進むべき道筋の向こう側に、明るい光が見えた気がしました。
拓海くんは不思議に思うかもしれません。ですが、これは私があなたの生き方を見て、思ったことなんです。
大好きなことを大好きなまま、自分の好きなようにやる。私がいつしか忘れてしまったその大切な生き方を、拓海くんは綺麗に体現していました。
そんなあなたを見て、私はずっとうらやましいと思っていた。やりたいことがあったのに、その方向に進んだら誰かに文句を言われてしまうんじゃないか、とか。やりたいことをやって生きていたら、いつか誰かを傷つけてしまうんじゃないか、とか。そういう、他人にどう見られるのかばかりを気にしてしまって、私は自分が本当に何をやりたいのかを見失っていたんです。
だからこそ、あなたの自由な生き方がうらやましかった。音楽という大切なものがあって、そのプロの道に進みたいという明確な夢がある。
そして、そこにだけ向かって努力をして、充実した毎日を送っている。他の物事なんてどうでもいい。誰に笑われても関係ない。ただ目標に向かって自分がやりたいことをやる日々。それこそが、何よりも大事にしなければならないものだ、と。それを拓海くんは言葉じゃなく、生き方で私に教えてくれました。
音楽しか見ていなかったあなたはきっと、私がずっとあなたを見つめていたことになんて、気づいていなかったかもしれませんが。
拓海くんと出会って、一緒に音楽を作って、私はピアノを始めた頃の感覚を、少しだけ思い出しました。
あなたの姿を見て、忘れていた大切なことにもう一度気づいたんです。
だから私も迷わないと決めた。やりたいことをやることに理由は要らない。そう自分に言い聞かせて、海外に留学することを決めました。
あなたに出会わなければ、私はきっと今でも迷ったままでした。どこにたどり着くわけでもなく、大海原を彷徨うだけの北極星を見失った船のように、ふらふらと時間を無駄にして歩いていたはずです。
私に一歩を踏み出す勇気をくれて、本当にありがとう。
そして、ごめんなさい。あなたの音楽の夢に、自分勝手に介入してしまって。
私は、あなたが好きなことに触れるべきではなかった。結果的にあなたの夢が前に進んだとしても、そこに私の能力は必要なかったんです。
拓海くんが歌うべき歌は、誰かに聴いてもらうための歌ではない。本当に拓海くんが歌わなければならないのは、あなたが納得するための歌だった。
それを、私はこの手で台無しにしてしまった。あなたに振り向いてもらいたい一心で、あなたには合わないプレゼントを作ってしまった。そして、拓海くんに深い傷を負わせてしまうことになった。
分かってはいたんです。いつか私たちは、また他人同士になる。だから、一緒に曲を作ることに意味は無いって。最後にはあなたを傷つけてしまうことになるって。
それでも、私はあなたに夢を叶えてほしかった。
私が聴きたいと思う歌を作れば、それがすぐに叶うこともよく分かっていた。だって拓海くんは、歌もギターも、本当に上手なんですから。
私はあなたに大切なことを教えてもらった。でも、私はあなたに必要の無いものを与えてしまった。
私があなたと出会う意味はあったけれど、あなたが私と出会う意味は無かった。
あなたの隣の部屋に寄生して、あなたにまで悪いものを憑けてしまった私を、どうか許してください。
そして、できることなら全部忘れてください。
そこに、私がいたことも。
あなたの物語に、桜内梨子という登場人物は必要ない。私と過ごした三カ月をすべて忘れて、明日からは四月のあなたに戻ってください。誰の作る曲でもなく、あなたが作った曲だけを歌って、その素敵な夢を叶えてください。
世界中の誰ひとり耳を傾けなくても。あなたが、私という愚かな女の存在を忘れてしまったとしても。
私だけは、拓海くんを応援しています。
最後に、もうひとつだけ。ずっと言いたかった気持ちをここに記します。無責任で自分勝手かもしれないけれど、後悔しないために書かせてください。
私は、真剣に音楽と向き合っているあなたが好きでした。それはきっと、私だけが思っていることじゃない。あなたの周りにいる人、全員が思っていることです。
だから、いつまでも音楽を大好きでいてください。
何があっても、絶対にやめないで。
私が願うのは、それだけです。
さようなら。
こんな私と、出会ってくれてありがとう。
この想いが、親愛なるあなたへ届くと信じています。
桜内梨子より
追伸 空港に行く前、十年桜を観に行こうと思います』
次話/桜内梨子の正体
二輪
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桜内梨子の正体
◇
手紙の上に透明の水が溢れ落ちて行く。羅列された文字のインクが徐々に滲み、所々の文章が読めなくなった。
何故、俺はこんなにもバカなのだろう。どうして、こんなに後悔してばかりなんだろう。
目の前にある事しか目に入らず、自分を見てくれている人に視線を向けなかった。誰かの優しさに溺れて、それを与えてくれる人と向き合おうとしなかった。
「バカか、俺は…………ッ」
ひとりで傷ついた振りをして、自分より傷ついていた隣人に気づけなかった。あの子はあんなに近くにいたのに、部屋のドアはたった数mしか離れてなかったのに。
悔しすぎて、俺には泣く事しか出来なかった。こんな情けない男に、あの子ともう一度会う資格など無い。
いつか、この日が来ることは分かっていた。
なのに、自分が傷ついたからと言い訳をして、あの子に伝えるべき言葉をかけなかった。
取り返しのつかない事をしてしまった。すべては、俺が彼女を知ろうとしなかった所為。自分の事だけじゃなく、少しでもあの子の事を知る努力をすれば、きっとこんな事にはならなかった。だというのに。
涙は止まらない。殴られた傷の痛みなんて、今はもうどうでもよかった。楽器を売ろうとしようとしていた事も、何もかも馬鹿らしく思えてならない。
俺は、自分を終わらせようとしていた。すべてを棄てて、自分じゃない誰かになろうとしていた。あの子が好きだと思ってくれた自分を──殺そうとしていたんだ。
「何いつまでもめそめそしてんのよ、気持ち悪いわね。意味わかんない」
声が聞こえ、涙を流したまま振り返る。
そこには、赤いジャケットを着た真姫さんが呆れた顔をして立っていた。
「真姫、さん……っ」
「あたしはね、あんたを慰めるつもりでここに来たんじゃないわ。あの子に頼まれた約束を果たすために来たの。勘違いしないで」
不機嫌そうな顔で真姫さんはそう言う。主語が無い言葉だったけれど、その人物が誰であるのかは、言われなくともだいたい想像がついた。
「ほら、早く部屋に入るわよ。時間が無いのよ」
真姫さんは泣き崩れている俺の腕を取り、立ち上がらせてくれる。言葉の意味は分からなかったけれど、今の俺がこの人に指図できるわけが無い。
俺は言われた通りにドアの鍵を開け、真姫さんと一緒に部屋の中に入った。
◇
「いい? あんたはこれから何も言わずに、あたしの言う事を聞きなさい。これを流してる間、絶対にここから動かない事。瞬きひとつも許さないわ」
部屋に入った途端、真姫さんは俺をソファに座らせ、肩に掛けていたバッグの中から一枚のDVDを取り出してそれをプレイヤーに入れた。
「真姫さん、いったい何を」
「だからあんたは黙ってる。あたしがあの子にしてあげられるのは、これくらいしかないのよ」
「でも、説明も無しに」
「ああもう煩いわね。さっきも言ったけど、あたしは慰める気なんてないわ。でも、あの子は違うって言ってんのよ。あんたが今日まで立ち直ってなかったらこれを見せてくれって頼まれたの。
だからあたしは、
そう言って、真姫さんはリモコンの再生ボタンを押した。そして、同時にある映像が画面に流れ出す。
「スクール……アイドル?」
そこに映し出されたオープニング映像と文字を見て、呟く。これは
なぜ、こんなものをこのタイミングで真姫さんが俺に見せなければならない。まったくもって意味が分からなかった。他の誰かであれば嫌がらせかと思うかもしれない。でも、これを見るように命令しているのはあの西木野真姫さんだ。この人が意味の無い事をする訳が無い。
だからこれは、いま一番俺が見るべきものなのだろう。自分にそう言い聞かせて映像を目を向けた時。
俺は、言葉を失った。
「え────」
そこに、見知った女の子の姿が在ったから。
◇
第二十三話/桜内梨子の正体
『浦の星女学院二年、桜内梨子です。私は小さい頃からピアノを習っていて、主に作曲を担当しています』
カメラが捉えているのは、どこかの高校の音楽室。窓の外に見えるは鮮やかな青と
そこに置かれたグランドピアノの前に座る、一人の女生徒。窓辺から注ぐ日光に照る臙脂色の長髪は、まだ幼さが残る少女の容姿を華やかに飾っている。
『好きなこと、ですか? うーん。絵を描くのも好きだし、お料理も好きです。でも一番は、自分が作った曲をメンバーのみんなと歌うこと、かな。えへへ』
インタビューを受ける少女が浮かべる微笑みには、見覚えがある。この部屋で作曲作業をしている時、くだらない話を聞いて笑うあの子のそれとまったく同じだった。
だが、俺が知っているあの子と画面に映る少女の表情は、何かが違っているように思える。
『最近はラブライブに向けて、毎日練習をして、遅くまで曲を作っています。え? 辛くないか、って? いいえ。ぜんぜん辛くなんてないです。だって、これは大好きなことだから。大好きなみんなのために、大好きな音楽で、私は貢献したいんです』
画面が移り変わり、背景が屋上に変わる。黄色のTシャツを纏い、肩に掛けたタオルで額に浮かんだ汗を拭いながら、桜色の少女はそう語る。
その表情と、周囲に立つ彼女と同い年くらいの少女たちの楽しそうな笑顔。それを見て、今のあの子と画面に映る少女の何が違うのかが、少しずつ分かって来た。
『卒業後の進路…………今はまだ考え中ですけど、芸術の勉強もしたいとは思っています。どこの大学に行くとかはまだ決めてません。もしその道に進むなら、また東京に戻るかもしれません。でも、この内浦から離れたくない、っていう気持ちもあるんです』
再びシーンチェンジ。今度はどこかの砂浜の上で体育座りをしている桜色の少女が映し出された。その背後には眩い日光をキラキラと反射させる美しい青が広がっている。
春に彼女と出会ったばかりの頃、真姫さんに連れられて行ったあの写真展。あそこにあった写真の風景と、いま俺が見ている海の景色は、おそらく同じだった。
そこで少女が語っていたのは、未来の事。現時点で、彼女はそのどちらかを選んでいる。東京にあるこのアパートに住んでいた事実を鑑みて、少女は結局、内浦という場所を離れる事を選んだのだろう。
それが、あの子と画面に映る少女が浮かべる表情が異なる理由、なのかもしれない。
『え? す、好きな男の人のタイプっ? そそそそんななの無いですっ! そういう質問は女子高生にしないでくださいーっ! ………………ちょっとでもいいから答えてほしい? はぁ、そんなに聞きたいんですか? 私が答えたところで、喜ぶ人なんていないのに』
次に映された少女の顔は、俺が知っているあの子のものと同じだった。
恥ずかしがり屋で、純粋で。まるで永遠に穢される事の無い、薄紅色の花のような女の子。
そんなあの子の事が、俺は。
『…………分かりました。じゃあ私が答えたら他のメンバーには訊いちゃダメですからね。好きな男性のタイプ…………そうだなぁ。強いて言うなら、何に対しても一途で真っ直ぐな人、かな。そういう人を見てると、何だか支えたい、って思っちゃうんです。…………やっぱり今のカットしてくださいっ! もう、恥ずかしいよぉ』
そう言って顔を赤らめる姿を見て、少し笑う。見ている者の嗜虐心を擽る表情や声音は、たぶんあの子にしか浮かべられないし出せないだろうな、と思う。
何に対しても一途で真っ直ぐな人。
あの子がそういう異性がタイプなのは知らなかった。そう思うと同時に、今の自分が彼女の理想と相反した生き方をしている事を自覚して、チクリと心が痛んだ。
もし、彼女がそんな男性を好きだと最初から知っていたのなら、俺はこんな荒んだ生き方を選んだだろうか?
…………今はまだ、その答えは分からない。
『音楽の才能なんて、私には無いです。これは全部、小さな頃からの積み重ねなんです。最初からできる人も、何もやらずにできるようになった人も、どこにもいません。ただ好きなことを一生懸命やり続けた結果が、今の自分なんだって、私は思ってます』
また音楽室のシーンに戻る。彼女は真っ直ぐと琥珀色の瞳をカメラに向け、真剣な顔つきで語る。
それは、画面の向こうにいる
『こんな地味な私でも、こうしてアイドルになれたんです。やりたいっていう気持ちがあれば、きっとみんなどんなことだってできると思います。どんな物事でも、結局はそれがすべてだと思うんです』
そのすべての言葉が、無慈悲に刺さる。それは不良に殴られた痛みよりもずっと、ずっと痛かった。
叶えたい何かがあって、やりたい事があって、まだ自由に生きられる権利がある。なのにそれを自らの手で捨てようとしている
そこから流れ出る血は、まだ赤い。
俺はちゃんと────人間を演じられている。
『私は諦めません。自分で叶えたい、って思ったことは全部成し遂げたいんです。この願いがいつか、本当の桜内梨子を形作るようになるまで。誰かが私を見て、自分も頑張ろうって思ってくれるようになるまで。
何もかも、諦めたく無いんです』
そこで俺は初めて、桜内梨子の正体を知った。
◇
一時間ほどのドキュメンタリーが終わり、俺は茫然と暗くなったテレビの画面を見つめ続けていた。
何も言えない。感想を述べれば一億円を貰えると言われても、今のままでは何も答えられなかっただろう。
「これで分かったでしょ。あの子がなんで自分の過去をあんたに語ろうとしなかったのか。あんたがどんだけ、世間の物事に鈍感だったのかが」
真姫さんに睨まれるが、反応できない。彼女の言葉の意味が分かりすぎて、何も言えなかった。
あの子は確かに、自分を語ろうとしなかった。でも、俺が彼女の事を理解できなかった、一番の理由は────
「目を覚ましなさい、拓海」
立ち上がった真姫さんは俺の胸ぐらを掴み、言う。
「今のあんたにできることは何?」
そう言って彼女は首を左右に振り、言葉を訂正した。
「違うわ。今あんたが、
藤色の瞳に問われ、考える。
今の俺が、一番したいこと。できることや、しなければいけないこと、ではない。そのニュアンスは似ているけれど、意味は全然違う。
それは、俺の能力や責任ではない。俺自身の意思が、感情が、心が、何を望んでいるか、ということ。
そんなの、決まってる。俺は。
「──────ッ!」
何も言わずに立ち上がり、真姫さんを残して俺は部屋を出て行く。
間に合うかどうか。あの子がまだあそこで俺を待っていてくれているかどうかは分からない。
それでも俺は────あの子に会いたい。
◇
Interlude/意味わかんない
後輩の部屋に残された薔薇色の髪をした女性。
彼女は開け放たれたままになったドアを見つめてため息を吐き、先程まで後輩が座っていたソファに腰掛ける。
それから、リモコンの再生ボタンを指で押した。
「スクールアイドル、ね」
すると、テレビの画面には先ほどとは違ったアイドルグループの映像が流れ始める。
彼女はひじ掛けに肘をつき、そのスクールアイドルのドキュメンタリーを見つめていた。
『音ノ木坂女学園一年、西木野真姫。作曲を担当してるわ』
「…………ふふ。懐かしい」
画面に映る過去の自分を眺め、彼女は呟く。
「なんで、こんなことをしていたのかしら」
そして、口許に小さな微笑みを浮かべて、
「本当────意味わかんない」
学生の頃から変わらないその口癖を、ポツリと零した。
Interlude/end
次話/最終話
一輪
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桜色の別れ
◇
日が暮れかけた荒川の河川敷。そこにある大きな桜の下に、私は立っていました。
春が過ぎ、薄紅色から新緑へと色を変えた桜。その姿を見ていると、何故か無性に寂しい気持ちになって来ます。三か月前はあんなにも美しかったのに、今ではどんな色の花が咲く木なのかすら分からない。まるで、楽しい日々を過ごした後に必ず訪れる、あの細やかな絶望を、桜は体現しているように思えます。
もうどこにも咲いていない桜を恋しく思い、私は頭上の木を見つめます。
来年の春、私はまだ海の向こうにいるでしょう。この木が再び美しい花を咲かせる季節に、帰って来る事は叶わない。だからせめて、最後に想像しておきたかった。
また来年、東京に春が芽吹き、この十年桜が満開を迎え、その木の下で彼がギターを弾いているところを。
「ねぇ、知ってる?」
私は木の幹に手を触れ、どこにもいない誰かに向かって問いかけます。
「ここでまた会う約束をするとね、十年後に必ず再会できるんだって」
ある写真家が語ってくれた言い伝えを、私は呟きます。
売れない絵本作家が考えるおとぎ話みたいな伝説だけど、何故かそれを美しいと感じました。
だから、私は手紙の最後にここにいる、と記した。
自分で忘れてほしい、と願ったのにもかかわらず、彼がやって来てくれる事を期待している。そんな淡い希望を心のどこかで持ってしまう自分が、私は少し嫌い。
それでも、可能性が少しでもあるのなら、それに賭けてみたかった。そんな奇跡が起こるのならば、いつまでもここで待ち続ける。
でも、時間はそれを許さない。あと少しでここを去らなければならない。じゃないと、飛行機に乗り遅れてしまうから。
もちろん、それまでに彼が来てくれるかどうかは私の意思では決められない。けれど、そこに一縷の望みさえあるのならそれに縋るしかなかった。
……ああ。でももう、行かなきゃいけない。
やっぱり、奇跡は起こらない。あの時のように、奇跡は起きてほしい時にこそ、起こってくれない。
「…………さようなら」
桜の木の幹におでこを付けて、別れの言葉を口にする。
「梨子ちゃんっ!」
それと同時に、後ろから誰かの声が聞こえてきました。
最終話/桜色の別れ
十年桜がある河川敷に到着し、こちらに背を向けている女の子の名前を叫ぶ。
もう間に合わないとばかり思って、諦めながらここまで来た。でも、あの子はまだ待っていてくれた。
名前を呼んでも、彼女はこちらを向いてくれない。桜の方に顔を向けたまま、誰に気づいていないような佇まいで立ち尽くしている。
それでも、俺は彼女に言いたかった。
たとえこの声が届いていなかったとしても、言わなければ一生後悔すると思ったんだ。
「……俺は、何も知らずに君に酷い事を言った。君は才能だけで音楽を書いているって、ずっと思い込んでいた」
荒くなった息が治まるのを待たず、彼女の背中に向かって思いの丈をぶつける。
「けど、ようやく分かった。君は音楽が好きだったから、あの素敵な曲が書けた。俺なんかよりも何十倍も長い時間、音楽に触れてきたからこそ、人を魅了する事ができた。俺はバカだから、そんな簡単な事にも気づけなかった」
「………………」
「最初からそれに気づいていれば、あんな事は言わなかった。でも、君はあえて俺に教えてくれなかったんだろ? 努力をすれば、いつかこんな曲が書けるようになる、って。それを伝えるために、君は曲で諭してくれていた」
その意志を、俺は今さらになって理解した。
少し視野を拡げていれば、すぐに分かった事なのに。
「もう音楽をやめるなんて言わない。二度と言うもんか」
それに向き合っているあなたが好きだ、と言ってくれる人がいる。たとえこれからさようならをするのだとしても、世界のどこかにそんな人がいてくれるのだと思うだけで、進んで行ける。
「これが無くちゃ、じゃない────これが在れば、どんな世界だって生きて行ける。貧乏だって、ボロいアパートで暮らす事になったって、誰にも見向きもされなくったって。音楽さえあれば、
言っていて、心が熱くなってくる。あれ以来、冷めきっていた心の奥底の情熱に、もう永遠に消える事の無い炎が着火するのを感じた。
その火を点けてくれたのは、元アイドルの少女。
名前すらも知らなかったグループの中で、楽曲を作り続けてきたあの桜色の女の子だった。
「それともう一つだけ、君に言いたいことがある」
一歩。十年桜の方へと近づき、俺は言う。
これが彼女と会う最後だという事は理解してる。
口にしてしまえば、取り返しのつかない事もよく分かってる。言葉というツールは形には残らない。でも、誰かがその音声を耳にすれば記憶には残り続ける。
言葉はまるで、枝から離れた花びらのようだ。
切り離れてしまえば、二度とそこには戻れない。
それでも。
「言わなくちゃ絶対に後悔するから、聞いてほしい」
覚悟を決めて、そんな前置きを置く。
届かなくてもいい。返事をもらえなくてもいい。幻滅されてもいい。蔑まれてもいい。これが自己満足であろうが関係ない。
たとえ彼女がこの声に耳を貸さないとしても、俺は俺自身のために想いを口にする。
この先、何年もあの狭い六畳間で一人で生きて行くとして。数カ月だけ隣の部屋に住んだ誰かの事をいつか思い出した時、その記憶が美しい色彩であればきっといつまでも覚えていられる。
春の妖精のような彼女が、そこで音を奏でていた事を────別れても思い出せるように。
「俺、好きな人がいたんだ」
なんて、自分で言っていてもおかしいと思える言葉の使い方で話を切り出す。
もし自分以外の誰かがそんな事を言っていたら、それを聞く人の身にもなってみろ、とダメ出しをするかもしれない。それくらい突飛で勝手な言葉。そうだったとしても、今はこんな拙い伝え方しか選べなかった。
別れの前にする告白の仕方なんて、どんな恋愛の教科書にも載っているはずが無い。
だから今は、自分が言いたい事を言う。
「その人は俺にとって音楽と同じくらい、大切な人。本当は気になっていたのに、自分の気持ちに気づかない振りをしてた。この想いはずっと、ずっとここに在ったのに」
あまりにも近くに在りすぎたから見えなかった、なんて言い訳はしない。たとえ彼女が部屋の隣に越してこなかったとしても、その薄紅色は見つける事はできなかった。
俺が見ていなかったのは周囲にある世界のすべて。ただ音楽だけを見つめていた所為で、足元にずっと咲いていた美しい花にさえも気づかずに生きていた。一生懸命この目を惹こうとしていても、視線に彼女の本質が映る事は無かった。
どんな花よりも綺麗で、傍に咲いているだけで心を奪われてしまう桜のように。自分がその花を好きである事すら分からなくなってしまうくらい、俺は夢中になってしまっていたんだ。
桜内梨子という────桜色の奇跡に。
「好きだよ、梨子」
どれだけ自分勝手なんだろう。すぐそこに居てくれた好きな人と離れ離れになる前に、自分でも気づかなかった想いを伝えるだなんて。馬鹿な俺にはこれ以上の利己を思いつけなかった。
それでも、この言葉だけは伝えなくてはいけない。
「他の誰でもない、君が好き
そう言った瞬間、彼女はようやくこちらを向く。
────遠い、遠い春の香りがする。
風に乗って、どこかからあの花の匂いが届いた。
「ああ」
桜色の女の子は、泣いていた。
泣きながらでも、優しく笑ってくれていた。
「やっと、
近づくと、彼女は両手を身体に回してくる。
俺も、今度はその細い身体を抱き締めた。
それから唇同士がそっと触れ合うだけのキスをする。
離れると桜色の彼女は恥ずかしそうに微笑み、その顔を見てたら俺も照れくさくなって少しだけ笑ってしまった。
「私も」
そう言われ、今度は向こうから唇を塞がれる。予想外の口づけに驚きながらも、触れている場所から伝わる体温に意識を蕩けさせた。
数秒で離れていく柔らかな感触。彼女は琥珀色の瞳から流れ落ちる雫を手で拭い、こちらを見つめて一枚の花びらを落とす。
「大好き、だよ」
いつかは枯れる事を知っていながら咲いた、一輪の徒花。
風に嬲られ散り行くその花びらたちは、枝を離れて春の夢を見た。
そこにはきっと、もうどこにも咲いていないはずの────桜の香りが漂っている。
◇
Epilogue/サクラゼンセン
少女は言った。
「この桜はね、十年桜っていうの。この桜の下でまた会う約束をすると、どれだけ離れ離れになっても十年後にまた会えるんだって」
それから隣に立つ少年の手を離し、彼女は笑う。
「だから約束。いつかまた、必ずここで会おうね」
そして、少女は離れた場所に居る両親のもとへと駆けて行く。
隣り合って座っていた両親は、近づいてきた彼女に気づいた。
「お父さん、お母さんっ。ちゃんとあの子に教えてきてあげたよっ。これで私たちもいつかまた会えるのかな?」
ギターを抱えた父親は一度弦を弾き、少女の頭を優しく撫でる。その隣でスケッチブックを拡げる母親は、彼女の顔を見つめてそっと微笑んだ。
「もちろん。信じていれば、必ず会えるさ」
父親はそう言い、少女を隣に座らせる。
それからまた、アコースティックギターを鳴らした。
「ねぇ、お父さん。その歌はなんて言う歌なの?」
「ああ。これはお父さんが昔、あの桜を見て作った歌なんだよ」
「へぇ、私もそれ聴きたいっ」
少女は無邪気にそう言い、父親はこくりと頷く。
母親はくすくすと笑いながら、二人を見つめていた。
春風が吹く。臙脂色と、それによく似た色の少女の髪を揺らし、風は河川敷のどこかに消えて行った。
「じゃあ、今日だけ特別だよ」
小春日和に切なげな旋律が奏でられる。それは、日本各地に咲くあの美しい花の開花予想日を結んだ線と、同じ名前が付けられた楽曲。
十年前。河川敷に咲く桜の下で作られた、出会いと別れを唄う儚い恋の歌。
あの日。まだ小さな蕾だった花は、大輪の花を咲かせる事を夢見て、春風に揺れていた。
蕾を見つけた春の妖精は、その花がいつか可憐に咲き乱れる事を願い、遠い冬に祈りを捧げた。
月日は流れ、それでも上手に咲けない蕾は、諦めずに花を咲かせようと努力をした。
誰にも見られる事なく、誰にも知られる事のないその場所で、孤独に耐えながら夢を見た。
遠い季節へと飛び立った春の妖精を想い、そこで咲くためだけに陽の光を一心に浴びた。
枯れる事を恐れず、愚直に、ただ真っ直ぐに。
その花は、咲く事を願った。
「聴いてください」
彼はあの春の日と変わらず、隣に座る桜色の女の子に向かって、その曲名を口にする。
ひとつの歌はやがて日本中へと拡がり、各地で鮮やかな花を咲かせ、人々の心を打つ。
それはまるで、あの薄紅色の花びらのように。
だからこそ、彼はその言葉を歌に名付けた。
少しずつ。少しずつ。蕾は花開いていく。
春が来て、妖精は蕾に暖かさを餞る。
そして、花は日本列島を薄紅色に染め上げた。
その訪れを告げるため、鳥は楽しげに空を舞い、風は優しく凪ぎ、月は淡く輝く。
「サクラゼンセン」
そんな世界を眺め、歌は春を奏でた。
これは────桜色の出会いと別れの物語。
サクラゼンセン
終
We never meet without parting.
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