特別になれない (解法辞典)
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第一話 少年のある日の思い出

初めましての方は初めまして、解法事典です。
習作を完結させてから幾らか経って年まで跨いでしまいましたが、習作の方で学んだことなどを生かして頑張りたいと思っています。
出来ることなら習作のブレイブルーの二次創作「哀の果てに」の方も完結してそれほど経っていないので読んでいただいて批評などの感想をいただけると幸です。

話の展開をし易い様に原作の設定を一部捏造している部分があります。
そういう物が好まれない方は注意してください。



『もし私が神だったら、私は青春を人生の終わりにおいたであろう』とは、かのアナトール・フランスの言葉である。過去の偉人の名言について意味を考えるのは今の人間の特権だ。それこそ本人の意思など関係なく、現代の人間が意味を決める。学校の試験、特に現代文などの国語に関する出題における、問題の作成者の一存によって答えを決められてしまう事と大差はない。

 ここでのこの言葉の意味、青春というものは人生の中で最も彩のある時期で最高潮にあるので、楽しいものは最期に持っていきたい、という事にしておく。最も、青春が人生において灰色だったという人も少なからずいるだろう。その場合は辛いことを最期に置くことで、それまでの人生を満喫することを意味するかもしれない。老いてしまって元気のないままに死ぬより、健康なままに死にたいのかもしれない。

 話は変わるが、一説には人生の折り返し地点は体感時間によると十七歳だという。青春の定義が何歳からなのかというのは置いておくとして、青春は短く、その中でも表現として使われるほど人生の貴重な部分を占めているだろう。だが、価値があるから最期に置くというのは些かおかしく不十分だろう。つまりは若いからこそ意味があるんでは無かろうか、と仮説を立ててみる。

 正直どうでもいい。

 長々と話して済まないが、俺の個人的な考えとしては人生の配置に関係は余り必要では無く。積み重ねた時間や人との触れ合いが、一人の人間を形成していくのではないだろうか。誰しも人生を変える様な出会いというものがあり、その過程が有りより良い方向に導かれるのだ。その引き合いとして、この名言並びに高名であるアナトール・フランスの話を出しただけであって別に彼の言葉が気に食わないだとか、そういう理由ではないのだ。順当に進んでいく人生において急に若返ったりしても、違う人間として過去に行くわけでもないならば、積み上げた人間関係などがあって人生の深みが増していく事に変わりはないのだと、考える。

 再度確認するが、アナトール・フランス個人が嫌いなのではなく。ここでは単なる引き合いでしかない。

 つまり言いたいことというのは、今回、これから話すことは、俺のそれなりに長い人生におけるターニングポイントと言えるべき、正に人生を変え、人生に多大な影響を与えた出会いのことである。

 

 

 

 

 

 年齢にして僅かに六歳、小学生の一年生であり、青春というには流石に無理のある年齢のことだった。

 当時、俺が通っていた学校は、かの高名な武の総本山、川神院があることで知られている川神市において二番目に生徒数の多い小学校だった。一番生徒数が多い方の小学校に比べると少しだけ治安が悪い場所が近いくらいのもので施設や教員の質、共に大した変わりはなかった。とは言っても、実はその時の俺を含めた家族は二年ほど前に越してきたばかりでそれ程までに深くは理解できていなかった。全く理解できていなかったのは飽くまでも俺だけの話であって、父も母も、そして五つ年上の姉も、一帯の治安が良くないことは、その二年間である程度は知っていた。

 というのも姉の人間関係に起因してくることなのだが、その点については俺も無関係ではなくなるのだ。それこそ、俺の人生におけるターニングポイントに直接関わってくることになるのだが、そのためにはもう少しだけ話しておくことがいくつかある。

 俺が通っていた小学校が川神市において二番目の学校だと話した理由の一つとして、俺の家に関することを言わなければならない。一番の小学校に通えなかった理由である。先程も言った通り、この川神市には川神院という武の総本山がある。そこの次期後継者である川神百代がそちらの学校に通っているというのだ。その結果、市の特色である川神の名に釣られてどんどん子供がそっちの学校に流れていってしまったらしい。

 実は俺の家もそれなりに有名な武家である。つまりは、川神市のパワーバランスを保つために、態々新しい道場まで作って俺たちの家は川神市に越してきたのだ。どうも川神市のパワーバランスが崩れるのは大変不味い事だったらしく、引っ越すこともそれなりに前から決まっていたらしい。勿論、俺の家が、という話ではなくバランスが取れて、尚且丁度良い年齢の子供がいる武家が対象だった。頼まれたら断れない性格の父はこれを承諾して、引っ越すことが決まったらしい。更に幼かった引越しが決まった時の事など、ろくすっぽ覚えていないが母の話を聞く限り姉は、嫌だ、嫌だ、と言ってトイレの鍵を閉めて泣いていたらしい。小学校中学年だった姉には友達と離れ離れになることの心の痛みを伴っただろう。姉の前の学校の友達が転校の際に、姉に送ったメッセージプレートの様なものは今でも姉の部屋に飾ってある。しかも、離れていても友達、という半ば定型文と化した言葉を転校の際に貰ったらしい。時たま、姉はその友人に手紙を出したりしている。子供の頃は資金が無く、移動手段がなかったが、高校の時は何度か会いに行っていた。

 因みに、元々それなりに有名だった俺の家はこれを機に、保証金だのなんだの、難しい理由をつけてくすねた金がそれなりに手に入ったのだが、これについての説明をするのは機会があった時にしよう。

 話を戻して、俺の小学校一年生の頃の話。それも入学式の話である。

 一年生の時のことなど殆んど覚えてはいないが、その時の光景や匂いなどは鮮明に覚えている。

 朝、その入学式の日までに何度か背負ってみたランドセルと通学用の帽子をかぶって、入学式に参列する両親と共に家を出た。姉が遊びに行っている時に何度か、姉の部屋に置かれている姉の赤いランドセルを背負ったことはあったけれども、女の子の色とは違う真っ黒いランドセルを見ると当時は心が踊ったものだった。その姉は、六年生にもなって両親と一緒に登校するなんて恥ずかしい、なんていって俺が家を出る前から学校に行ってしまっていた。後で知ったことだが、新入生は在校生よりも登校時間が遅く、その時は本当に姉は心底恥ずかしがっていたのかと思っていた。

 しかし、言った通りに俺の入学は、姉の転校とは違い、川神とのパワーバランスを取るには十分なまでに注目を集めていたらしい。姉が恥ずかしがるのも当然というものだとも、子供ながらに思った。その姉でさえ、時間をずらして登校したのにも関わらずクラスメイトから質問にあって、酷く狼狽えたらしかった。特に姉の親友と呼ぶべき人でさえも熱心に質問をしていたと言う。この質問と言っても、川神関係でなく、単純に姉の友達は、弟に興味があっただけらしい。

 そういった盛り上がりや、何度も言うように川神とのパワーバランスを取るために、もう殆んど俺が家を継ぐことは決まっていたことらしい。姉に才能がなかったわけではないが、際立って俺の才能の方が上回っていたらしい。誤解のないように言っておくが、才能があるといっても、それなりにである。将来において、かの武神と呼ばれる川神百代とのパワーバランスを取れ、なんて言われても役者不足であったのは言うまでもないことである。比べられなくなった理由はほかにも存在するのだが今は触れずにいよう。

 俺は、その一時において注目を集めるには十分に責務を果たせるだけのネームバリューがあったというだけのことである。現在において俺はそのことをどうにも思っていない。だが、優しい父の性格を考えると、負け戦だと分かっていて、息子を武神の当て馬にしてくれないかと頼まれた時、どのように考えただろうか。

 名乗るのが遅れたが、対抗馬が川神だからといって俺の名字は山神なんていうようなしょうもないダジャレでは決してない。今のタイミングで俺の名前のことを話すのには、今度こそ話の核心を突くような内容でありそれこそ名前が違ったならば、俺の人生の大部分が変わってしまっただろう。

 その最たる理由としては、この小学校というのが、出席番号を五十音順で決めるというオーソドックスな手法で決められるものだったからだ。人生で一度も他の出席番号の決め方を経験したことがないが、聞いた話によると誕生日によって決め方をすることもあるらしい。ところで、殆どの人が知っている通り年度初めの学級の席順というものは出席番号で決まる。

 ここが全ての岐路となった。

 話を戻して、俺が始業式の前にクラスに入って担任の先生を待っていた時のことである。

 廊下で教師から視線を感じていたため、教室に入る時、周りを見渡しながら、心音が分かる程緊張をしていた。引っ越して間もない頃であったため知り合いという知り合いも多くないので、他の同年代の子供たちが席を立って同じ幼稚園出身の知り合いと喋り合っている中、静かに席に座っていた。他の子供たちもまだ幼いということもあって、俺がこの学年においてどういう立ち位置であるかを理解していなかった。理解してないといっても、俺の家柄を気にして過ごしていたのは小心者の先生だけだったかもしれない。つまりは、まあ、無駄に気にしてたから、暫くの間、俺は教室で一人だったのであった。

 そして、ここからだ。

 俺が、姉の本棚から借りてきた本を読んでいた時のことだった筈だ。

「なあ、黒田くん。」

 俺の名字が黒田であり、知っての通り席順のおけるカ行は大体が二列目で、一列目はア行ある。つまりは右側から、一列目の人から声をかけられたのだ。

 オレンジ色の長い髪。翡翠色の大きな瞳をこちらに真っ直ぐ向けている。関わったことのある女性といえば母と姉くらいなものだったので遺伝的に肌が若干浅黒い家族に比べて、透き通るように白いその女の子から目が離せなかった。訳も分からないまま幼い頃から丁寧に扱われてきた俺は、その子が俺と対等の立場の言葉遣いで話しかけてきたことが物珍しくて、知らないうちに、その一瞬にして、その子を特別だと心の奥底で感じていた。

 思えばその時点でもう既に俺は目を離すことが出来なかった。

「黒田くんのお姉さんってさ、ウチの姉貴と友達だろ。」

 その子の胸に安全ピンで付いている名札を見ると、確かに姉の話に聞いていた姉の友人の名字と一致していた。そういえば同年代の妹がいるらしいと聞かされていた、と後になって思い出した。俺は相違ないと判断したので、小さく首を曲げながら、うん、と一言返して肯定の意を示した。

「だからさぁ、ウチらも友達になろ!」

 にこやかにそう話す板垣天使から、目を離すことができなくっていた。

 

 俺こと、黒田高昭の一目惚れによる初恋である。

 

 

 

 

 

 

 

 終業のベルが学校全体に響く。

 登校こそ新入生のみが遅かったが、この入学式の日は下校は全学年共通で午後には帰る。全学年が同じ時間に帰ることは、入学式の他に、始業式、終業式、卒業式、運動会などの学校行事に限られる。一、二年生の間は長くても週四回の5時限目までだ。三、四年生は週二回の6時限目に増える。五、六年生はその全てが6時限となり、このように早く帰ることが出来るのはとても嬉しいことなのだ。

 それは黒田高昭の姉である黒田紗由理も例外ではなかった。

 少し前まで、最後の一年を頑張るよう、と話していた担任の挨拶なんぞに気を留めることもせず、紗由理は出かけた溜息を一つ飲み込んで堪えた。別に、嫌いな担任だったからだとか、クラスの編成にいちゃもんがある訳ではない。実は、この小学校五年生から六年生にかけてはクラスの再編成がないため気にはしていなかった。担任も悪い人ではないし、ある程度あたりの先生である。というのも転校してきた紗由理によく気をかけてもらった事がそれなりに嬉しかったのだ。転校して直ぐに作った友人も、相変わらず隣の席に座っている。次いで仲のいい友人も近くに座っている。学校生活には、何の不満もなかった。

 朝、友人を含めた幾人かに、今年入学する弟のことを聞かれもしたが、紗由理自身は弟の高昭は好きなのでまるで自分のことのように鼻高々に話していた。ついでに、親友の妹も紗由理の弟と同じ学年なので二人で会話に花を咲かせたりしていた。

 それでも億劫なのは、両親が、忙しいから高昭を連れて帰ってきてくれ、と紗由理に頼んだことだった。面倒くさい訳では無く、その程度のことを自分に頼む両親のことが、率直に言って嫌いなのだ。勿論、高昭は彼らに甘やかされ、手塩にかけられ育てられたから、両親のことは好きなのだろう。だから高昭の前で親が嫌いだ、と言ったことは無い。

 愚痴を言おうにも、大親友である板垣亜巳には、板垣の家には、両親がいない。その状態をなんとかしようと奮闘して、そのうちにお互いに心を開いたのだが、そんなことまでしておいて紗由理の親の悪口なんて言えない。しかも、紗由理が板垣家に助力していると言っても、紗由理のお金ではなく結局は親の金なのだ。紗由理の知る中で、唯一と言っていいほど親がしてくれた助力である。普段紗由理以外にはトコトン優しい両親であるが、その板垣家の一件で紗由理が困っている人を助けるだとか、心を通じ合わせる能力だとかを過信し過ぎている親を好きになれなかった。

 しかも、元々娘の意思に関係なく無理矢理引越しまでしておいて今更好きになれるわけがない。

 そういった事を鑑みると、弟の高昭が後継たる才能があるのは紗由理にとって恐ろしいまでに都合の良い事でもある。紗由理は主に引越しが原因で、住んでいる人はともかく、この街自体を好きになることは一向に出来なかった。将来は、県外の有名な大学にでも行って、家の有り余っている親の金には頼らずきちんとバイトをして、ゆくゆくは、県外の、親の手の届かない所に就職をしたいと考えている。出来れば、結婚相手も武家には関係無い一般人が望ましい。

「紗由理、ボケっとしてないで一年生教室に行くよ。始業式から教室に戻る時見てきたけど紗由理の弟も私の妹も同じ教室だったから一緒に行こう。」

 今年三年生になった双子の辰子、竜兵を迎えに行って来た亜巳が紗由理に話しかける。紗由理のもう一人の友人はというと、流石に用事もなく付き添いで一年生の教室に行くのは気恥ずかしいらしく、今日は先に帰っている。とは言ってもこのあとはその友人の家で紗由理と亜巳は遊ぶ段取りになっているので、寧ろ紗由理たちが早く用事を済ませないと、申し訳がないとまで思っている。

 その友人も、紗由理が亜巳の抱える問題を解決する際に何度か紗由理と亜巳のすれ違いがあったのだが、その度に仲裁してきた。

 紗由理と亜巳の騒動の原因は、引越しに伴う両親への怒りを募らせていた紗由理に亜巳が、立派な親を持つ子供は出来が違うだの、と煽ったのがそもそもの発端である。その時の席も今と同じく、弟たちと同じく、席が隣同士だった。

「そうそう遊びに行く時、下の子たちはうちで預かるわ。送りも亜巳が帰る時間に合わせて高昭が一緒に送ってくれると思うから。」

 その日新たに配られた教科書を入れて今朝より重くなったランドセルを背負いつつ紗由理は亜巳にそう告げた。

「噂の弟君はそこまで有能なの?凡そ一年生には思えないよ。」

 亜巳は大げさに驚いたジェスチャーをして溜息を吐いた。紗由理は名前を呼びながら擦り寄ってきた辰子の頭を何度か撫でてから教室を後にした。紗由理は少しだけ亜巳に顔を向けて確認を取るように話した。

「高昭も板垣家とはこれから深く関わることになるだろうし、天使ちゃん可愛いからもしかしたらの場合も考えて、ね。そういう関係じゃなかったとしても仲が良いに越したことはないでしょ。」

 それを聞いて亜巳は、妹の天使が御当主様のお嫁さんか、と思いつつ黒田家の財産等と少し打算的なことを考えたが、寧ろ自分が頑張って、紗由理の両親の援助なく家族が暮らせるように頑張らないと、と奮起した。



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第二話 人は人の心を考える

完全な私事になりますが、ブレイブルーのアーケード版のカグラが殆んど死んだも同然らしいです。
もう盆踊りでもいいから、攻撃をガードされなくても構えに移行でいいんじゃないかと思います。
新キャラなのに参入と同時にやれること減らしてどうするんだって、良くて中堅程度なのにアッパー調整じゃなくて火力減らすだけ減らしてどうするんだって、コマ投げからの火力減らしたいなら構え移行削除だけで十分なのに構え解除を鈍化したら元も子もないだろって、カグラが何をしたんだろうかと思う今日このごろ。
アークの社員さんが見ているとは思いませんがどうにかして欲しいです。



感想お待ちしています。


 いたる所で、物と物とがぶつかり合う音がしている。時には甲高い音、時には鈍い音。其れだけでなく人々の奇声や音量の調整が間違っているであろう音楽も聞こえる。少し離れた所には一人黙々と集中して事に当たっている人や、若い集団も見える。

 ここはボーリング場だ。

 中学二年生の紗由理たちは下の子たちも連れて遊びに来ていた。お金は黒田家が全額負担しており天使に遊びに行きたいとせがまれた高昭が断れるはずもなく、それを頼むと黒田の両親も断れるはずもなく、お金の管理や安全面で心配があったのかその分のお金と紗由理たちも遊べる分のお金を紗由理に渡したのだ。

 黒田家の二人、板垣家の四人、そして紗由理と亜巳の友人、合計七人である。

 その内六人がスコアを競い合っており、友人一人がまったりと応援しているという状況だ。その友人はというと、自分のボールを取ろうとしたところに吐き出された重いボールが当たってびっくりしている。友人の玉の重さは10ポンド、ぶつかった玉の20ポンドだ。

 友人が玉を取り終わった所で更に玉が吐き出されて鈍い音を奏でながら他の玉にぶつかっている。初めの20ポンドは辰子の玉、次いでぶつかったのは竜兵の20ポンドの玉だ。

 天使と友人以外は全員が20ポンドを使っている。御蔭で紗由理と亜巳の腕はもう疲労がたまってきているのだ。元はといえば、辰子が何気なしに20ポンドのボーリング玉を持ってきて男の子の二人がそれに対抗、竜兵に煽られた亜巳が更に持ってきて、じっと見つめてくる高昭に耐え兼ねた紗由理も20ポンドを使っているのだ。

 高昭が入学してから黒田家に来ることが多くなった板垣家は、お戯れで武術を教えてもらっているのだが、全員紗由理と大差がないほどに才能がある。勿論、才能だけではどうにもならない世界が有るのだが、その中でも辰子は高昭を含めてもずば抜けて力がある。この力とは文字通りのパワーのことである。

 その結果、下らない意地が極地的に発生しているのだ。

 元々、天使にいいところを見せようと頑張っている高昭は身の丈に合わない重い球を使っていてもそれなりに良いスコアを残していて、天使に自慢したり、アドバイズをそれとなく送っている。年長者二人は大人気なくハイスコアを叩きだしている―――実際は重い玉のせいで余裕もないのだが。板垣家の双子はというと、なれない事であるボーリングであるのでどっこいどっこいだ。時たまにストライクが出るので一番楽しんでいる様にも見える。

「良かったね、下の子たち仲がいいみたいで、二人の時とは大違いだよ。」

 初めは8本次はガーターという結果を出してきた友人が紗由理と亜巳の隣に座る。丁度ゲーム一回分が終わったので、年長者三人はスコア表から除名をして子供たちが精一杯遊べるようにしている。

「そうだったっけ?私は友好的だったと思うがね、紗由理。」

 少しにやけた顔を紗由理に向けて亜巳が言った。

「あら、どの口がそんなこと言えるのかしら。敵意むき出しだったのは亜巳でしょうよ。」

 吐き捨てる様に紗由理が言う。イラついている訳では無く、今からしてみれば下らない事で揉めていたものだなと、改めて懐かしんでいるのだ。

「私からしたら、二人共大差なかったと思うけどな。」

 友人がオレンジジュースを飲み干して、そう言ってからゴミを捨てに席を立った。その後ろ姿を見ながら紗由理はポカリを亜巳はコーラを買ってくるようにと、声を投げかけた。友人は溜息を付きながら歩いて行った。

 そういえば四年も経ったのか、と亜巳が呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紗由理は酷く苛々していた。

 本当なら時間、あの友達と一緒に、あの通学路を歩きながら、クラス替えのことや、昨日のテレビのことなどを話しながら歩いていたのだろう。そう思いながらここに居ない親への鬱憤を晴らす対象もなく、ただ胸中に募らせていた。

 職員室でも何度か、心配をしてくれていた担任の先生の後を歩きながら未だに慣れない廊下の風景を忙しなく、見つめていた。少しでも気をそらしていないと、今朝のようにまた涙が溢れてしまいそうだった。正直学校に行きたくはなかったけれど、あんなに抗議して聞かなかった両親が今更になって行かなくていいなんて言う筈がなかった。元住んでいたところの近くには祖父の家があったからそこに住まわせてもらえば十分通うことは可能だった。可能だったのに。

 ままならないことだらけだ。でも、幾ら苛つくからといって、自分のために親身になってくれているこの担任の好意を無駄にしてはならないことも紗由理は分かっていた。だから、最低限の事はするつもりでいた。

 それでも、私の親友はあの子、私の故郷はあの町、それだけを心の支えにして、紗由理は担任の促すように教室へと入っていった。

 

「家の都合で転校してきました、黒田紗由理です。此方の土地勘や学校のことなどわからないことが多いので教えてくれると助かります。」

 貼り付けた笑顔で、自己紹介をした。

 家の都合では無く、親の都合と言いたかった。皆には緊張している風に見えただろうか。私は感情を押し殺す事に精一杯で雑音すら拾えていなかった。唯、空いている自分の席となる場所に向かう。横から二列目、前から三列目の席。

 腰を落ち着かせて前を見ると、此方のことなど気にせずに口早に喋る女の子がいた。それから長い付き合いになる彼女だが、その時私の頭の中は真っ白で、最後に言われた、宜しくの言葉だけしか聞き取れず、その子の名前はまだ分からぬままに、少しの間が空いてから此方こそと返したのだった。

 そんな事をしている間に一時間目の授業の予鈴がなっていた。

 転校生に興奮している目の前の女の子は少し遅れて教室に入ってきた担任の先生に注意をされるまで途切れることのない質問を私に浴びせていた。

 その子とは、転校の初日で十分に仲良くなった。紗由理が今まで会った同年代の子供の中で一番に性格が良かった。それでも紗由理は、前の学校の友人の事が頭に浮かんで、その子が友人であることを心から認めることは出来ずにいた。それでも話をしている分には楽しいし、初日の放課後に教室に残って駄弁っていた。

「なあ、あんた達。喋るなら他所でやってくれよ。」

 不意に教室の後ろから声をかけられて吃驚した。

「板垣さん。」

 友人が震えた声で、声の主の名前を呼んだ。

 板垣亜巳、今日は一言も話していないが確かに隣の席に座っていた。長めの箒を手にしており如何にも掃除の邪魔だ、と言わんばかりに此方を見ている。睨むでもなく、懇願するでもなく、何も映していない目で此方を見ている。

 怖がっているのかと思った友人は退出を促すわけでもなく。板垣さんから目をそらしている。何回か様子を伺ってもいる様であり、何か気になるところでも有るのだろうか。私もじっくりと観察をしてみることにした。どうせ家に帰ってもストレスが溜まるだけだから掃除でも手伝ってから帰ろうかと思った。

 しかし、そのことを直ぐに言い出すことは出来なかった。代わりに気にかかった事を口にする。

「板垣さん、他の掃除当番の人はどうしたの。」

 今週の掃除当番は一列目のはずだ。その一言で、教室の時間が止まってしまったかの様な気がした。虚ろな目をしていた板垣さんの目には感情が入ったように見え、私の隣の友人は息を止めている。掃除をしていた板垣さんは手を止めて改めて私たちを見た。

「帰った。」

 板垣さんは妙に強い口調で吐き捨てる様に言った。自分を見ていない両親が怒るのとは訳が違う。正面から感情を叩きつけられた私は、怖いと感じていた。でも、しっかりと剥き出しの敵意の様なものをぶつけられたのは初めてだ。転校が決まった時私自身が親に感情をぶつけたことは有ったが、感情をぶつけられたこと自体初めてだったかもしれない。板垣さんはさっきとは違い、私たちのことをしっかりと認識しているみたいだった。

「板垣さん、掃除手伝うよ。」

 できるだけ私の気持ちが伝わるように、最大限の笑みを浮かべて提案をした。私の提案に便乗する形で友人も、か細い声で手伝う、と言った。板垣さんは、少し困ったような表情をした。

「全く、いい親に育てられると言うことが違うね。」

 板垣さんの精一杯の皮肉だったんだろう。

 だが、幾ら冗談でも言っていい事と悪いことがある。その時、私が実は苛ついていた事も、私の家族の事も知らなかっただろう。私からしてみれば、板垣さんには親がいない事も、虐めに発展しかねない危ない状況だと言う事も、担任の先生から聞かされていた。同時に、隣の席だから気にかけてあげて欲しいとも聞いていた。

 だが、その時の私にはそれだけは、笑えない一言だったのだ。

「巫山戯ないでよ、あんな親から学ぶことなんて一つもないわ。」

 お互いに、爆弾を放り込んだ。

 

 

 

 明白に機嫌の悪くなった板垣さんの顔が伺える。今にも箒の柄を握りつぶさんとばかりに力が入っていて腕が震えているのが良くわかった。

「へえ、黒田さん。それは私への当て付けかい?」

 対する私も、板垣さんと向かい合う様に、教室の後ろ側の少し余裕のあるスペースに歩いた。

「まさか、あの親に自慢する部分なんてないわ。」

 ここまで他人に対して饒舌になるのは、引っ越してきて初めてだ。それ程までに親への不満が溜まっていたのが嫌でもわかった。同時に親がいない人に対して、なんて最低な事をしているのだろうかと自己嫌悪をしていた。それでも歯止めをかける事はできなかった。

「親がいるだけで十分だろ、その洋服だって靴だってご飯もガスも電気も、水も、家も、歯ブラシも薬も、なんでも。十分に幸せでしょ!」

 丁度置いてあったちりとりの上に板垣さんの涙が滴り落ちていく。それを見た私はそれ以上何も言うことが出来ずにいた。それでも板垣さんの言葉が私の逆鱗に触れた事は紛れもない事実である。私の、行き場のない怒りもまた目から溢れていた。

 他人に弱みを見せたのは何時ぶりだっただろう。

 弟ができてからは頼れる人間になりたいと願い、大人らしく心がけた。弟の才能が分かり私に興味を示さなくなった両親を見て、立派な人間になろうと決意した。転校の一件で両親を完全に見限った私は、人の心を考えることを知った。

 それでもこの結果だ。

 私は子供だったのだと痛感した。

 これでは両親と同じではないか、そう思い、只管に自分に腹が立った。行き場のない感情であったが既に涙は収まっていた。それは板垣さんも同じで、お互いに話す切っ掛けが分からない。私程度の人生経験で優しさを知ったならば、彼女は既に知っている。

 私よりも彼女は大人だ。

 それでも私と同じ様に子供でもある。

 つまらない事で言い争った事は、二人共分かっている。これから先触れてはいけないナイーブな問題でもある事も十分に承知している。非がある事も分かっている。しかし、謝るためにタイミングを掴み倦ねていた。板垣さんの顔を見る勇気がなかった。私と同じく早く顔を洗いに行きたいと思っているだろう。早く帰りたいだろう。

 声をかけるのが怖い。人に嫌われるのが怖いと感じたのは、嫌だと感じたのは、始めてだった。私たちのせいで、主に私のせいで、終わっていなかった掃除を友人が黙々と片付けている。失望されて見放されてしまったかも知れない。もう友人なんて呼べないかもしれない。

 掃除ロッカーを閉めた友人はランドセルを背負った。

「二人共早く帰ろ。」

 極自然にそう言いながら、私と、板垣さんの机に置いてあったランドセルを持ってきて私たちに手渡した。

「先生に見つかると面倒だから、早く仲直りしようよ。」

 そう言って友人は私の右手を掴んで、板垣さんの方に引っ張った。切っ掛けを作って、促してくれた友人に感謝をしつつ、板垣さんに頭を下げた。

「板垣さん、配慮が足りなくてごめんなさい。」

 この期に及んで少し上から目線の言葉が出てきてしまった事を猛省しながら、心から謝った。

「私の方こそごめん。」

 友人に引かれて握手の様な形になっていた私の手を握り返して、板垣さんが言った。

 

 その日の帰り道、お互いを名前で呼ぶようになった。

 

 

 亜巳が新聞配達で殆どの生計を立てている事を知って、手伝うかと提案するとそっちは余裕があるから放課後に特売などを手伝って欲しいと言っていた。他人の力は出来るだけ借りたくないと言っていたが、私たちとしてみれば少しでも負担は減らしてあげたかったし、他人ではないと思っていたので亜巳の生活の支援をすることを約束した。

 きちんと友達になって初めての週末に私たちは亜巳の家に、使えそうなものを持って行って無駄な歳出を抑えるようにした。例えば着れなくなった服を持って行って、亜巳の妹にお下がりとしてあげる事にした。特に私の家など、放任主義なので今までの服は全て私の部屋のタンスに入っている。いきなりなくなっても滅多に母は入ってこないし、元々片付いている部屋なので変に弄られることもなくバレる事はまずないと言って良かった。

 私よりも荷物が少ない、あげる物が異常に多い私の方が世間一般的に考えても可笑しいのだが、友人は私よりも早くに亜巳の家に着いていた。友人は裁縫道具やタオル、私と同じ様に衣類など、腹の足しにでもなれば、と大量のお菓子やカンパンなどの非常食を持ってきていた。私が板垣家に着く頃には入れ違いになっていて亜巳が言うには、近くのスーパーの無料で水が汲めるところに行っているとのことだった。

「お邪魔します。」

 インターホンで一頻り亜巳との会話を済ませて家の中に入る。想像よりも綺麗だった。無駄にするものがないと言うべきだろうか。

「よくそんな量の荷物を持てるね。」

 出迎えた亜巳は私の背負ってきた物を見てその様に嘆息した。無論、そういうリアクションが欲しかったということもあるが、単純に亜巳の事を考えると妥協をしたくなかったのだ。家の人に見つからずに家を出るのは大変で、道中で珍しいものを見る様な視線が集まっていたことを思うと少し堪えたが、やるなら全力でした方が良い。欲を言うなら友人もいれば、良い笑い話にできたのに、と思ったがこれはこれで都合が良かった。

 ポケットから取り出した封筒を亜巳に差し出す。亜巳は少し怪訝な顔をしたが、納得のいったように私を見てから溜息を突いた。

「紗由理。一応聞くけど、それは何だい。」

 当たりがついている事は分かっているので亜巳が聞きたいだろうことだけを話す。

「私のへそくり。本当だったら、あんな両親から貰った金だから成人したら叩き返してやろうって考えてたんだけどそれなら亜巳の役にたてたほうが良いと思ってね。それなりに生活が楽になる分はあると思うから。ああ、私のお小遣いに関しては問題ないよ。家の仕事手伝い、特に人前で演舞したりとかをして貰った正当な報酬分は私の手元にあるから安心していいからね。」

 そう言って封筒を亜巳に押し付けた。いざとなれば亜巳の下の子たちにでもあげれば、姉の負担を和らげたいと思うだろうから素直に受け取ってくれただろう。まあ、そんな事をするまでもなく、亜巳は受け取ってくれた。面倒くさい言い争いはもう懲り懲りなのは亜巳も同じのようだ。それでも煽るような事をしている私に溜息を吐いていたのだろう。私としては仲直りの証のつもりでしたブラックジョークだったのだが、お気に召してくれなかったみたいだ。今後は言わないようにしよう。

 

 

 

 

 

「あの頃が一番楽しかったかも知れない。」

 もう少しで終わりそうな下の子たちのゲームを眺めつつ、私は同意を求めるように二人に話し掛けた。

「私は安定している今の生活の方が楽でいいけどね。」

 亜巳は微笑みながらそう言った。

 今の生活は、私の家から板垣家に援助金を出している形になっている。というのも亜巳の特売に付き合うと帰るのが六時過ぎになってしまい、一介の小学生にしては遅い帰りなので親にしつこく原因の追求をされたのだ。面倒だったので嘘偽りの無い事実のみを伝えると、娘の成長が喜ばしいだのと言って感動し、板垣家にお金を出すようになったのだった。正確にはもう少し自分たちが育てた風な口調だったので、例に漏れずその時も私は苛々することになった。

「亜巳ちゃんの妹ちゃんと紗由理ちゃんの弟くんは本当に仲が良いね。」

 友人が二人を見ながらそう言ったが、私と亜巳は苦笑してしまった。

「仲はいいんだけどね。それだけっていうか、何と言えばいいのか分かんないけど。」

「まだ子供だからそういう事に疎いのは仕方ないけどね。それでもあそこまで気づかないと高昭君が可愛そうだよ。」

 あの二人が知り合ってから二年が経つが、まだ関係は進んでいない。入学式の放課後に迎えに行った時から高昭が天使ちゃんのことが好きなのは一目瞭然だった。家の関係を考えると長い間の付き合いになるだろうから、二人の仲を保ったままに、出来ればくっつけてしまうのが手っ取り早かった。関係が崩れてギクシャクするよりは余程ましだが、居た堪れない。

 まだ知識が備わっていないだけで、一番仲が良く家族を含めても一日で一番一緒にいる時間も長いはずだからその内どうにかなるのだろうが、少し心配だ。

 



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第三話 暖かさはそこに

日常編は難しいですね。
小説がきちんと書ける人は凄いなと再確認しました。
ストレス発散でちまちま書いているのですが、思ったより書きづらくモチベーションが上がらず遅くなりました。
もっと投稿のスパンを短くしたいです。

誤字報告などありましたら訂正しますので感想に書き込んでください。
感想、批評お待ちしております。


 迷子。

 それが現在の板垣天使の状況であった。ボーリングを終えたあとで年長者の三人が支払いを済ませているので、そのフロアの目立つ柱の近くで待っているように天使と高昭、辰子、竜兵は言われていた。上の兄弟二人が高昭を苛めて遊んでいて、天使はすることがなく暇であった。

 当然、ショーケースの中にたくさんのお菓子が積まれている所謂UFOキャッチャーという物を現物で見たことがなかった天使にとって、それはとても感動的な物に思えた。そのまま同じフロア内に存在するゲームセンターの方面に足が進んでいても致し方ないことだった。お菓子やぬいぐるみなどに加えて、雑多な音が飛び交う天使の見た事のない娯楽用品がそこには多く存在していたのだ。

 生憎と家の経済事情も相まって自分の財布という物を持っていない天使は、元々ボーリングというものをやりに来るだけの予定だったため、ポケットには小銭の一つすらも入ってはいなかった。渋々誰かがそれらをやっているところを遠目に見ることで、好奇心を満たすことにした。

「天ちゃん、心配させるなよ。」

 天使のことを探していた高昭が、見つけてそう言った。心配して身の凍る思いをしていた高昭の心は知らず、天使はこれは占めた、と考えた。高昭ならば自分の財布を持っている。まして自分の頼みを高昭が断ったことがない事もなんとなく分かっていた。

 天使の目論見通り、高昭は仕方がないと言いつつも百円玉を一つだけ差し出した。それ以上の時間を費やすと姉たちが心配すると言って、高昭は枚数だけは譲らなかった。今はある程度黒田の家の御蔭で改善されてはいるが貧しい事に変わりはない家に生まれた天使はその一つの百円玉が、高昭がそれをくれた事が、堪らなく嬉しかった。

 天使は、姉である亜巳と違って、名前の様に純粋であった。最もそう願った両親は蒸発しているし天使自身は気に入ってなどいない。実際に親しい高昭にも「天ちゃん」という愛称で呼ばせる程度に自身の名前が嫌いであった。しかし高昭の根回しでクラスメイトに名前で虐められる事もなく、紗由理の御蔭で亜巳が家で荒れることもなくなったので、穏やかな時間を過ごせている。持ち合わせているお転婆に、高昭が振り回される事も多々あるが、人間の怖いところを限りなく見ないで育った天使の心は純粋そのものだ。

 惚れた弱みで断ることはできない高昭は、たとえ一枚でも姉は心配をすること、後で怒られることがわかっていたが天使に百円玉を渡す。ありがとうと言って満面の笑みを浮かべる天使を見て高昭は顔が熱くなっていると自覚していた。ボーリングでのクールダウンで体温は元の状態に戻っていたはずなのにと、高昭は満更でもないのに、自分に対して言い訳をする。気づかれる程の変化でもないのに、気づかれないようにと口数が少なくなる。

 そんな高昭ことなどいざ知らず、あれをやりたいと言って天使は高昭の右腕を引いている。

 天使が指をさした筐体では向かい合った男二人が向かい合っていた。丁度画面の中のキャラクターも向かい合って居る。天使たちが覗き込んでいる方の男の筐体の上にはその人の財布が置いてあり筐体そのもののレバーとボタンもあるのが伺える。

 天使だけでなく、こういう娯楽を知らないのは高昭も同じであった。

 男は、後ろで目を輝かせながら見ている子供二人をチラと見て腕をまくった。

 画面の中のキャラクターは相手目掛けて走って行く。明らかに攻撃とみなせる行動をキャラクターは行っており、武道の家の高昭も一応習っている天使も共に、その単純に見える戦いにどんな駆け引きがあるのかが良くわかった。現実のような拳を一つ打ち込めば勝敗が殆んど決する物ではない。敢えて自分の動きを読ませてそれを更に読んで攻撃を当てる。普通は有り得ない跳躍、空中での移動や攻撃でその読み合いは幾重にもなる。

 何より、現実では凡そ再現が不可能である華麗な連撃。

 二人は目を奪われていた。

 

 

「高くん、おはよう!」

 何時ものように天ちゃんと通学を一緒にするために板垣家で合流すると、いつにも増して天ちゃんの機嫌が良かった。そして、昨日から俺に勝ち誇った顔を浮かべる。

 あの後俺と天ちゃんとで一戦交えたのだが、結果は俺のボロ負けだった。見ていただけである程度動かせた天ちゃんが凄いだけであって、必殺技の出し方は未だに分からないが、それでもやったのはたった一度だから結論を出すにはまだ早いと思う。再戦を望もうにも、勝手に遊んでいたお叱りを喰らって暫くはゲームセンターの方にも行けないだろうからこれからは天ちゃんに勝ち誇った態度をとられるのだろう。

 機嫌が良いというだけで別段困ることもないのだが、負けっぱなしなのは居心地が悪い。

 辰子さんがいつもの様にまだ爆睡しているとの事なので、竜兵さんは今日も遅刻しかけるのだろうと思いながら、いつもの様に天ちゃんと通学路を歩いていく。俺が会う時はそれほど寝ているイメージはないのだが、天ちゃんや竜兵さん、亜巳さんの話を聞く限り一日の八割方寝ているといっても過言ではないほどらしい。寝る子は育つといった具合に少し前まで竜兵さんより背も高かったがこの頃は竜兵さんの背も高くなってきた。二人とも同じ年の子と比べて頭ひとつ抜けているらしい。

「天ちゃん、割烹着忘れてる。」

 週明けに忙しく家に戻っていく姿を見るのも、三年間で見慣れた光景だ。

 

 

 学校についてから始業のベルが鳴るまでのおよそ三十分程、クラスの皆とサッカーをする。その日の昼休みも引き続きの点数計算だ。本物のゴールは六年生と五年生が占有しているので下の学年は緑のネットをゴールに見立てている。キーパーは無し、曖昧なフリーキックなど。発達しきっていない子供だからこそ均衡の取れるルールだ。

 俺だけでなく、身体能力の高い天ちゃんも参加している。流石は天下の川神のお膝元なだけあってちらほら女子でも身体能力が発達しているので、男子に混ざって遊ぶ人も多い。

 態々運動着に着替える必要もない、私服登校というのは本当に便利だと思う。姉たちに中学の制服を着せられていた天ちゃんは可愛かったけれど、基本的に小学生で制服が似合うのはなかなかにいない。天ちゃんが可愛いのは、俺の主観であって、制服が似合っていたかといえばそうでもなかったし新鮮味があって反応に困った事も起因しているだろう。後何年かすれば慣れるほどに見る事になるだろう。天ちゃんの私服は基本的に亜巳さんたちのお下がりや昔姉が着ていたお下がりが多いけれど誕生日には姉がプレゼントとして送った物もある。

 そういえば、今年の天ちゃんへの誕生日プレゼントはどうしようか。昨年は天ちゃんの誕生石を送ったけれど、着けているところなんて何度かしか見たことがないし少しチョイスを間違えたのだろうか。いつも男子に混じって漫画の話しなどしているし、好みに合わなかったのだろうか。かと言って漫画といっても、いつものように「本棚に入りきらなくなった」と嘘を言って好みに見合ったのを渡しているし、代わり映えがしない。女の子にそんな物を誕生日のプレゼントとして渡すのもどうかと思う。見てわかるほど値の張ってしまう物は気を使わせてしまうだろう。俺のように誕生日が冬ならば手袋などを買ってあげられるのだが、天ちゃんの誕生日は五月の一日。特別な季節でもないし、悩むところである。今の天ちゃんが興味を持っている物といえば、昨日遊んだアーケードゲームな訳だが、あの筐体を買うことなんて出来ない。

 しかしこの世の中は上手く回っている様でアーケードゲームの家庭版という物があるらしい。ゲーム本体、ソフト、二人分のアーケードコントローラー、全部で六万円程するが今年のお年玉の半分を削れば問題は無い。ただし問題が一つあって、プレゼントをそれにするとして板垣家の電気代は大丈夫なのだろうか。結局お金を出すのは黒田家だが、それでも亜巳さんからしてみれば現状でも申し訳なく思っているとの事だし、それなら俺の家に置いて遊びに来てもらっても同じ事だ。

 

 今年の誕生日は普通に着物をあげた。喜んでくれた。

 

 

 画面に映るK.O.の文字。

 夏休みに突入してから殆ど毎日天ちゃんとゲームをしているが笑えないくらい勝てない。竜兵さんも一緒にするようになったのだが、天ちゃんと竜兵さんは五分。俺と竜兵さんは五分。にも関わらず俺は天ちゃんに一度も勝てていない。必殺技を出せるようになって、一通り動かせるようになったが俺とやりあうときに限って、天ちゃんの集中力が凄まじい事になっている。

 確かに唯一、俺に勝てた事だが、気迫が入りすぎている。ここまで来ると俺も意地でしかないが竜兵さんに何度か使用キャラを替えればいい、と言われたが替える気は無い。竜兵さんが天ちゃんに有利なキャラを使っても五分の戦いをされている事を考えて何度かキャラを替えたくなったけれど、自分の実力が無いのをキャラのせいにするのはお門違いだ。自分にそう言い聞かせてモチベーションを保っている。

 別に天ちゃんは一番強いとされるキャラを使っている訳でもないんだ、そう思うのだが、飛び道具を足払い技でかわされた時は思考が停止するほど驚いた。出来るとは聞いていたけど実戦で安定させられる様なものではないと思っていたので、感心もした。

「そこまで動かせるお前ら二人とも凄いけどな。」

 寝そべって漫画を読んでいる竜兵さんがそんな事を言ったので、またも勝ち誇った様な笑みを浮かべた天ちゃんがもう一回やるかと聞いてくるので、結局夕飯に呼ばれるまでゲームをしていた。勿論部屋は明るくしていたし、テレビからもきちんと離れていたので目は悪くならないだろう。午前中は稽古で体を動かしたので運動不足ではない。やる事はきちんとやってから遊んでいるのだ。

 余談だが、姉と亜巳さんと辰子さんは夏休みの初めに宿題を終わらせる派だ。隣の姉の部屋で勉強をしているらしく、曰く明後日頃には終わるらしい。姉は貰った日に終わらせていて手伝いや残った作文などをしているらしい。

 

 

 夏の終わりには、夏祭りが開催される。丁度夏休みの最終日の一日前である。今の俺たちにとっては三日後の事になるのだ。他の皆も根は真面目だが、俺も例に漏れず寝る前に少しづつ進めていたので自由研究以外を大体終わらせている。実を言えば、毎年この時期には天ちゃんは終わらせていないので手伝うために早く終わらせたという事でもある。

「抜け駆けはずるいと思うんだけどな、高くん。」

 そんな風に愚痴を言う天ちゃんが面倒くさそうに数学のドリルを解いている。幸いにも三年生の宿題は少なめだから、天ちゃんは余り無理をしなくても大丈夫そうだ。

 ちらと視線を動かすと辰子さんに監視をされている竜兵さんが見える。つい先ほどまで答えを見ながら宿題を消化していたところを、態々お菓子を持ってきてくれた時に隠し損ねて没収されてしまった。勉強は苦手じゃないのだから普通に終わらせれば良いというのに、少しでも早く終わらせたかったのかそんな事をしてしまったがために説教を含めて無駄に時間を浪費する結果となっている。

 天ちゃんのやる気が下がっているのも、近くでその説教をしていたという事も一因である。別の部屋か廊下ですれば良いのにと思ったが、飛び火するのがいやだったから黙っていた。

 最近、組み手をするとき辰子さんの一つ一つの攻撃が重くなってきた気がする。手加減ではなくて俺が笑って済ませられる限界を覚えたみたいなので、相手にすると無駄に体力を使ってしまう。偶に反論したりすると、締め上げられたりするので辰子さんの前では基本的にイエスマンになっている。

 身長が伸びてくれない事には体術では分が悪い。それに試合でもないのに気を使用した攻撃なんてしていいわけが無いし、ムキになる事も無い。辰子さんの事は嫌いではないから、何をされてもいいというのは無いが、ある程度は許せてしまう。辰子さんに限らずある程度親しい人には強く出れない。皆が引き際を心得ているということも会って然程ストレスを感じたことも無い。

 作文の内容を考えるふりをしていると、天ちゃんが頭めがけて消しゴムを投げてきた。大人しくそれをヘッドバッドで天ちゃんにたたき返す。解けない問題が出てきたなら口で伝えればいいし、そんなことしないでもそこまで同じページで固まっていたらいくら考え事をしている俺でも気づいていたのだが、と思ったらどうも上の兄弟二人のせいで雰囲気が重いから喋ろうとのお達しだった。

 竜兵さんは結局夏休みギリギリまで終わらなかったが、俺と天ちゃんは次の日の四時ぐらいから何時もどおりゲームをしていた。

 俺は皆ほど夏祭り自体を楽しみにしてはいない。

 好きな季節は冬だ。

 しかし天ちゃんと一緒にすごせて、その天ちゃんが夏祭りを楽しみにして機嫌が良く、喜んでいる姿を見るだけでお腹はいっぱいだ。価値のあるものだと思える。誕生日にあげた着物の事を思い出してはそわそわしているところを見ると、プレゼントして良かったと、天ちゃんが喜んでくれていて良かったと心から思える。

 

 

 夏祭りの日。近くまで皆で来たが、いの一番に竜兵さんが型抜きの屋台に走っていった。今年こそは団子形を成功させてお小遣いを稼ぐのだ、と息巻いていた。去年一緒に参加したが俺も天ちゃんも成功する気配がなかった。今年はその分のお金を射的に回して元を取ろう、と天ちゃんが言っていたので竜兵さんも気になるが天ちゃんと二人で祭りを回る事にした。

 辰子さんは姉たちの集団に混ざっている。

「辰子が寝たらあんたたちじゃ連れてこれないから。」

 亜巳さんがそんな風に言ったが、唯一辰子さんがそこまで寝ている印象を持っていない俺はなんとも言えなかった。まあ、天ちゃんと二人きりで回れる事で頭の中がいっぱいだったので、自分からそんなおいしい話を崩すわけも無かった。

「高くん次あれ食べよう!」

 二本目のチョコバナナを食べ終わった天ちゃんが綿飴屋を指差して急かすように俺の背中を押す。人ごみの多い中で歩きづらい着物を着ている天ちゃんは俺を人避けに使っている。必然的に手を引く形になっていて、天ちゃんは着物でいつもと違う雰囲気を纏っているので、鼓動がわかるほどに左胸が動いている。そのせいで小さな声でしか応答が出来ない。天ちゃんが何気なしにする行動が俺をどぎまぎさせる。この時期の薄着や学校でおんぶしてと言って背中に飛びついてくる事、家で漫画を読むとき俺のお腹に頭をおいて枕にする事など。

 夏の気温とは関係無しに顔が、耳の辺りまで熱くなる。

 天ちゃんがお店の人に綿飴の注文をして、俺は財布からお金をだす。お金を受け取った人が、まじまじと俺の財布である巾着袋を見ていた。この頃だと見かけないのだろうか。少しでも落ち着くために天ちゃんから気をそらした。天ちゃんは機械の中で回されている竹串に綿状の物がついていく様を見て口を半開きにしながら感嘆のため息を漏らしている。

 思ったよりも大きく作ってくれた綿飴を貰って上機嫌な天ちゃんは次に射的をしたいらしい。食べることに夢中な天ちゃんが怪我をしないようゆっくりと歩いていく。天ちゃんがさっきから甘いお菓子しか食べていないので射的をした後に食べれそうな焼きそばや焼き鳥の出店の場所を覚えておく。チキンステーキやじゃがバターの出店もあるんだな、と思いつつ眺めていると、俺が空腹で見渡しているのだと勘違いした天ちゃんが千切った綿飴を口元に差し出してきた。

 このまま食べろという事なのだろう。

 ここまでしてくれているのに手で受け取ってから食べる選択肢は無い。気恥ずかしいと思いつつ口を少し開けると、綿飴をねじ込まれた。見た目より多かったので租借するのに少々時間がかかったが勢い余って少し唇に天ちゃんの指が触れた事に対する気持ちの整理をするには足りなかったかもしれない。

「ありがと。」

 はっきりと天ちゃんに聞こえる様に言う。

「どういたしまして。」

 天ちゃんはそう言って綿飴を千切った手の指を舐めた。そうしたら天ちゃんは繋いでいた手を汚した事に気づいて、ハンカチ貸して、とはにかんだ。

「あっちに水道あるから先に手を洗いに行こう。」

 洗えば大丈夫だからと言って、俺は天ちゃんの手を握って水道場のほうへと歩いていく。

 心臓は、これ以上に無いくらい早く動いていたが、これ以上ないくらい時間はゆっくりと進んでいるように感じられた。



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第四話 惚れた弱みは恐ろしい

構想を練れば練るほど相対的に主人公が弱くなっていく気がしてなりません。
今回から格闘ゲームの話が多くなります。
特に今回は多いので後書きに軽い解説を書いておきます。


 一礼をして道場を後にする。

 すっかり辺りは暗くなっており、道場の電気を消すと廊下には光さえなかった。廊下の角まで歩けば母がいるはずの茶の間の明かりが見えるはずである。長年培った勘と経験で暗闇を歩く。夕飯を食べると帰っていく板垣家の面々が去った後、姉が風呂を出るまでの時間はこうして体を動かすようになった。早朝にも修行をしているので夜は主に技についての修行だ。

 黒田の技は異常に少ない。

 開祖が作ったとされる奥義が四つと秘奥義が一つ。これ以上に優れた技以外は黒田の技ではなく単に黒田が伝承する才能の一部と考える。事実間合いやタイミングさえ間違えなければその奥義だけで十分に闘いに勝つことが出来る。それを生かすのが黒田の才能であり、勘であり、経験であり、読みであるのだ。

 そしてその奥義を確実に決める為に作るのが各々の技だ。

 父は奥義そのものを練磨する。

 姉は武器を絡めて相手の行動を制限して確実に叩き込む。

 祖父は気で作った分身を使うらしい。

 では俺はどうするのか。

 丈夫に作られた廊下をしっかりと踏みつけて、跳躍をしてみる。本気を出せば天井に触れることが出来るがそこまで力をいれずある程度体に自由が利く様にする。己の気で固めた空中の足場に乗ってもう一度跳躍をする。はじめに飛んだのは垂直に、次に飛ぶのは後ろ方向に、更に空中に壁を作って前方に飛ぶ。

 意外と便利なものだと考えつつ、事の発端の二年ほど前のことを思い出す。

「高くんもこれ出来るの。」

 そう言いながら天ちゃんがテレビの画面を指差していた。画面にはふわふわと画面を漂う物があって、所謂格闘ゲームの飛び道具といわれる技であった。画面の格闘家が出しているのはその中でもオーソドックスなもので、自らの気を固めて打ち出す技だ。

 大体の格闘ゲームのキャラクターや技は、この世の中本物の武術家たちの技を基盤としている。この頃は化け物のキャラが出てきたり、話が盛られているが、この世界の人間で再現できるものが殆どだ。目に追えない速度の居合い、雷を打ち出したり、ヨガを極めて間接を伸ばすなど。人には無限の可能性が秘められている。

 どれも一朝一夕で身につくものではない。

 それ故に体感できる格闘ゲームが世界中で人気である事にもつながっている。当然ゲームであるからバランスはとられているが、近代的な武器を使うキャラはそこまで強くはない。それは実際の武術家は銃弾さえも跳ね返すので、現実に即しているのである。

 最近はそんなことでは国家を守れないということで、軍隊も格段に強くなっている。

 しかしゲームにおいては銃を使うキャラは火力が弱いのが様式美になりつつある。火力だけがすべてではないので一概に弱いとは言えず、バランスが上手くとられているのだ。

 話を戻して、その気弾だけでなく色々な格闘ゲームの技を再現していた所、更に天ちゃんが疑問を持ちかけてきたのだ。

「なんで武術家って空中で行動しないんだろ。」

 格闘ゲームをしていて、近しいところに武術家がいる天ちゃんならでは疑問だった。

 ゲームにおいて動きが遅かったり、地上での制圧力が高いキャラと戦うと不利になることがある。それを解消、和らげるために空中でも行動が出来るのだ。いつしか空中でもう一度跳躍することが出来る二段ジャンプや、跳んだ後に急接近するために空中ダッシュ、画面内の端である壁際と呼ばれる場所で使うことが出来る壁張り付きと三角とび。これらによって更に取れる行動の幅が増えて読み合いが深まった。

 元々はゲームのバランスをとる為のものだったのだ。

 ゲームの元が武術家の動きという先入観に囚われていた俺には気づけなかったことだった。敵が空中にいない以上此方が飛ぶ必要性はないと思っていた。だが、今のままでの俺は前後左右を動いていただけで上下左右を動く画面のキャラたちと変わりがないのではないだろうか。

 正に棚から牡丹餅であった。相手が此方の機動に対応しても相手が同じ土俵に立てない限り、優位は揺らがないものとなる。空中に作る気の塊は俺の足場となり行動の幅が増える。逆に相手の邪魔な物質として使うことも出来る。

 足場として機能するだけの硬さがあり、それだけ集中しなければ使えないものである。故に反復練習をしなければならなかった。どんな場面でも出せるように、反復して何度も何度も、練習をしている。そのために夜にも修行をする様になったのだ。天ちゃんが言い出したのが、四年生の春頃。一年近く繰り返し修練をしていたが、決まった流れでしか安定して出すことが出来ないかった。それに思った以上に気の消費が激しい。初めは二十分もしないうちに気がそこをついてしまっていたが、今は半分ほど残せるようになってきている。

 それに伴った空中から出来る技の種類も増やさなければならなかった。なにせどの武術の型も地上での戦いしか想定していて、空中から地上の相手に放つ技なんてあるわけがないのだ。例外の現存しているとび蹴りなどだけでは相手に対応されてしまう。足場がなければ踏ん張りが利かず速度が主だった威力の源になる。

 速度をつけようとすればそれだけ単純な軌跡を描く。そうすれば相手に攻撃を読まれてしまう。単発の攻撃が多いのもネックだった。

「高くん、ロマキャンが見たい。」

 ロマンキャンセル、通称ロマキャン。

 本来強力な必殺技を出すために必要なゲージを使って通常の攻撃の隙をキャンセルしてしまうというものだ。相手の反撃を食らわないようにしたり、攻撃を誘ったり、本来繋がらない連携が繋がるようになるなど、多彩な効果がある。

 天ちゃんが何気なしに言った事であったが、前述の棚から牡丹餅があるので、とりあえずやってみることにしたのだった。何より二段ジャンプや空中ダッシュが出来るようになって、見せると凄く喜んでいたので断るわけにもいかなかったのだ。

 目指すのはとにかくどんな攻撃をした状態からでもニュートラルな体勢に戻すことだ。かつ反撃を受けないようにしなければならず、攻撃を受け止められた時も使えなくてはいけない。だから攻撃の勢いで体を一回転させる訳にも行かず、動く体を押し戻すようにしなければならない。自分の体を自分で押すためには気を使わなければならず、気の消費が酷い事になってしまった。

 今でこそこなれてきたものの、最初にやったとき、空中での気の固め方に慣れてしまっていた為に、体を押す気が硬すぎて体中が痣だらけになったのは良い思い出である。それと、体を押さなければならないので時には少しおかしな方向に体を曲げることがあり、体が柔らかくなった。せざるを得なかった。思い返せば一年近く、必死にりんご酢などの体が柔らかくなるらしいものを試していた。

 動作中に違うことを空中でするよりも、基本の自然体に戻すだけの此方のほうが断然楽だと感じている。応用すれば相手の攻撃もずらしたり出させなくする事が出来そうだが、そんなことにまで使っていたらば俺の気の総量では持たない。

 使っているうちに何も、全ての行動を元に戻すことがないことに気がついた。本来、参考にしたロマンキャンセルを使わずとも繋がる攻撃があったのだ。格闘ゲームにおけるチェーンコンボという名前のものだ。当てた攻撃に、決められた攻撃であれば続けて当てることが出来るというもので、近年の格闘ゲームのコンボはこれが物差しになって作られている。攻撃の硬直にチェーンコンボによって決められた技でない発生の早い技を当てるという意味になっている目押し技術もあるのだが今話すのは現実での格闘の話だ。

 何度も同じキャンセルをして練習に励んでいるうちに最低限の動きを模索できるようになり、少しだけ間が空いてしまう連携も気を使って高速化を図り、演舞の様な流れる動きに擬似的にすることが出来たのだ。隙を消すだけならば基本姿勢まで戻す必要はなく、次にとる行動に移行しやすい体勢に変えるだけで良い。右腕で大振りの攻撃をしたならば腰を少しだけ元の位置に戻せば、隙を見せて相手の攻撃を誘いつつ反撃を受けることもなく防御が間に合う。更に相手に攻撃を叩き込むことも出来る状態を保てる。

 

 

 齢、僅か十歳にして俺は黒田家で一番の実力を有してしまった。姉が後継者に選ばれなかった理由が自分の高すぎる能力にある事。才能とはこれ程までに残酷である事を実感していた。

 天ちゃんが見つけた方法が優れている訳ではない。再現できてしまった俺が優れてしまっているのだと理解せざるを得なかった。姉には筋力が足らず、父には独創性がない。俺はその全てを才能として、黒田の血を色濃く受け継いでいる。隔世遺伝や両親から直接、それらの才がこの身という器に注がれている。

 姉や父が弱い訳ではない。黒田には届かないにしても、高い能力を持つ板垣家の面々は修行に来た他の黒田の道場の門下生を倒す実力を持つ。天ちゃんはまだ組み手をさせて貰えていないが、武具に秀でる姉に修行をつけてもらった亜巳さんの棒術、怪力では説明が足りない程の力を保有する辰子さん、パワーファイターながらも細かい芸を多彩に使用する竜兵さん。

 板垣家の皆も高い戦闘能力を保有して武芸者としても将来有望だが、黒田の才能には届かない。

 その才能に経験も積み重ねた父でさえ、更に上を行く才能には敵わなかった。

 しかし、その俺でさえ研磨し続けなければならない。上には上がいる。いくら才能があってもこの身は所詮人の身だ。それ以上を望むことは出来ない。知り合いで人知を超えた怪力を持つ辰子さんは神に愛された存在だろう。この先幾ら代を重ねてもあの力には届かない。人は神にはなれないのだ。辰子さんの力は神にも届く、神をも超える可能性がある。とは言っても超えるのは怪力のみに限る。

 武神川神百代。

 神は神たる能力全てを持つ。

「今はまだ手の施しようがあるが、完全に出来上がれば勝ち筋はない。」

 手合わせに川神院に行って帰ってきた姉はそう言った。

 その言葉は姉のことではなく、おそらく黒田の全員に向けたことだ。技ではなく、才能で負けている事。それは黒田の根幹に関わる問題であった。黒田の武術は早期完成。加えて技は少なく対応されることは即ち負けを意味する。初代の考案した技が一筋縄で突破できる代物ではないが、自分たちが出来るように、相手もまた才能によって突破口をこじ開けない筈がない。

 それ故の原点回帰。相手に技を見切らせない為の努力だ。そこに至って初めてわかった黒田の奥義の素晴らしさ、完成度。人の作る技で、これ程までに完璧に仕上がるものなのか、という初代黒田への尊敬の念がこみ上げてくる。

 その技をもってして、突破しかねない武神の才。

 姉が当て馬だといっていたことをいやというほど実感する。

 聞けば辰子さんたちと同じ年だというのだから嫌になる。

 出来れば一生不干渉で戦いたくない。

 

 

 月日が進んで欲しくないと思っても次の日は必ず来てしまう。

 今までの日々の楽しさが何れ来る武神との戦いの代償だとしたら、無事で楽しい平穏の代わりに命さえ落としかねない。実際に辰子さんだって俺の内臓を破壊しかねない攻撃を組み手の手加減した状態で平然と打ってくる訳だから、本気の試合での武神の攻撃なんて喰らったら人間の命の灯火は消え失せてしまうだろう。

 武神の当て馬だなんて話を聞かされずにいたならば、こんな鬱蒼とした日々を送らずにすんだかの知れないのに、なぜ死刑宣告の様な仕打ちを受けなければならないのか。今の俺なら夜中に父のしたの名前を叫びながら何かを殴る音がした時の隣の部屋の姉の気持ちが良くわかる。加えて姉が優しくしてくれた理由の大半も分かった気がする。姉は元々優しい人なので理由としては半々程度かもしれないが、感動は薄れた気がする。全部父のせいだろう。

「高くんどうしたの、ため息なんてついて。悪い夢でも見たのか。」

 俺の生きる気力の源である天ちゃんが心配してくれている。クラスの男友達からは、最近大人しいな、と言われるまで気勢がそがれているが、天ちゃんの前では何時も通り明るく振舞うことが出来ている。俺の身長も大分大きくなってきたが、学校で習った通りに女子のほうが成長が早く、天ちゃんも大人びてきた。

 詳細な事を言えば、俺のほうが背が高く、少しでも疲れると昔からおんぶをするようにせがまれるのだが、この頃少し意識が削がれてその時の天ちゃんとの会話に集中が出来なくなっている。天ちゃんが大人になってきているのと、俺も年を重ねて色々と無駄な知識が増えてしまったということなのだろう。

 内心嬉しいのだが、それと同時に男として意識されていない事に気づいて悲しくなってくる。天ちゃんに俺よりも仲のいい男子はいない。そう分かっているのだが、こんなに長く一緒にいるのにここ数年の対応と変わっていない事に、少し傷ついているのも確かだ。

 事情を知っている友達には、告白しろだとか言われているが、そんな勇気があったらしているしそもそも今から交際する事になっても成人するまで続く保障も自信もないし、仮に振られたら毎日会うのに気まずい。

 というか武神の件だってやりたくはないし、正直逃げたい。しかしもし天ちゃんが俺が敵前逃亡をしたなんて知ったら、当然天ちゃんの性格から考えて評価はだだ下がりする。それに加え俺の周りの人間の中で、ゲームではあるが唯一俺に完全に圧倒している、という天ちゃんのアイデンティティーを守らなければならない。

 だから、せめて勝てないまでも引き分ける程度の実力は有さなければならない。

「ウチも怖い夢見たな、高くんが一方的に殴られてボロボロになるの。」

 生返事で、怖い夢を見た、と返したら天ちゃんが空恐ろしい事を言った。豪く的確に、俺の心情を抉ってくる言葉だ。昔から勘がいいのは知っているが、未来予知までしてくるとは思わなかった。何も負ける事を前提にしてたら努力なんてしないが、心の安寧である天ちゃんと一緒にいる時までにそんな事を言われると心臓に悪い。

「それって、俺に勝ち目あった。」

「勝ち目ない試合なんてないでしょ、現実で体が消える無敵技なんてないだろうし。対戦ダイアは最低でも九対一以上はあるだろうから勝ち目はあるんじゃないの。」

 見たところ九対一だった、という事だろうか。そんな事を言ったら、姉さんと竜兵さんの組み手は十対零だろうに。それは多分年齢とかの影響だから大丈夫、と天ちゃんは言うが年の差が縮む事は無いし、竜兵さんは今でも十分に体が大きくなってきていると思う。

 天ちゃんも大分格闘ゲームに毒されてきている。この頃漸く勝利を勝ち取ったけれど、どんどん辛い対戦が続いている。この前店の大会で優勝してた。天ちゃんは目立つミスがない、変なあたり方がしてもアドリブでコンボをつなげられるからダメージレースで勝てない。真っ向からプレイヤースキルで打ち破る他ない。

 そんな天ちゃんの有難い助言がまた増える。

「対戦ダイア負けてても勝ちたいなら、ワンチャンで勝てればいいじゃん。」

「現実だとコンボなんてないから引っ掛ければ勝ちはないよ。」

 即死コンボは愚か、コンボ自体が不可能な現実でそんなに美味しい話はない。

「一撃必殺じゃだめなの。」

 天ちゃんの言う一撃必殺とは、黒田の奥義の一つで相手に防御されても殆ど勝ちが確定する様な相手を屠る事のみを追及した技のことである。しかしながらしっかりとした土台がある道場などでしかまともに使えず、攻撃範囲も限られていて、かつ相手に一度背を向けるので、使う状況は限られている。使えるように相手を誘導するのも必要になってくるので地力で負けている相手を仮定した時は使わない方がいいだろう。

「高くんがそう言うと思って今回はきちんと考えてきたんだ。」

 考えてきたって言っているから、何時もの様に格闘ゲームの技なのだろう。今までのだってまだ煮詰まっていないのに、また新しい事をしなければならない。

「本当は小パン刻んでバスケとかやって欲しいんだけど流石に無理があるから、ブースト使えば良いと思うんだ。ブースト一撃も出来るし、地上は無理だけどブーストが有れば現実でも空中コンボが出来ると思うんだけどやってみてよ。」

 天ちゃんにしては珍しく、きちんと理論立っているプレゼンテーションだ。思いつきで兎に角やらせてみてお蔵入りになった技もいっぱいある中で今回のは比較的まともだ。

 それにしても、気を使わないで再現可能な技を提案してくれないと俺の気の総量では全然足らなくなってしまう。諦めて修行に瞑想を取り入れるしかないのだろうか。

 

 天ちゃんが嬉しそうだからもう細かい事は考えない。




格ゲー用語説明

二段ジャンプ、空中ダッシュ……空中でもう一度ジャンプしたり、空中で一定距離横に移動すること基本的に二段ジャンプすると空中ダッシュが出来ず、どちらかを一回ずつとなっている。

ロマンキャンセル……攻撃があたった時に、超必殺技を打つ為のゲージを使ってニュートラルな行動可能な状態に戻すこと。攻撃の隙を消して不利な状況を作らないようにしたり、普段出来ない攻撃を繋げてコンボのダメージ量を底上げするなど多彩な使い道がある。

チェーンコンボ……通常技を弱、中、強の順に入力することで硬直をキャンセルしてコンボを繋げる事。元々これは目押しコンボと呼ばれていた。

目押し……本来はパチスロ用語とされている。キャンセルをせずに戻りの早い技から発生の早い技を当てる事。難しいがリターンは大きい。速度を求める場合ずらし押しという事もある。

対戦ダイア……有利不利の事。決まった定義は特にないが、九対一は相手にミスがない限り勝てない十対一は勝ち目がないとされている。負けた時の文句として使われる事が多い。

一撃必殺……ゲームによって違うが使用条件を満たし、相手にヒットすれば相手を倒せる技の事。たいていの場合条件が厳しい。

ブースト……AC北斗の拳のシステム独自のブーストゲージを使って前進する。消費によってキャンセルも出来る。

小パン……しゃがんで出す弱攻撃

バスケ……AC北斗の拳のバグ。攻撃を当て続けると浮き方がおかしくなって、無限に連携が繋がる。一応全キャラが使える。


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第五話 先入観で判断するな

今回は戦闘シーンがあります。

おかしな点や誤字などございましたら教えてください。


 知らない大人について行ってはいけない。学校の先生がそのように言っているが、俺からすれば危ない大人程度ならば封殺できる自信があり、基本的に一緒にいる天ちゃんも安全だと断言ができた。勿論そのことは皆が知っている事で、生まれてこの方防犯ブザーというものを持ち歩いた経験は皆無であるし、ましてや学校もない休日に持っている筈もなく、一緒にいる天ちゃんも、用事が駄菓子屋であるので、当然そんなものを持っていなかった。

 危ない人間と怖い人間では、感じ方が違う。カッターでも持ち歩いていようものならそれは危ない人間である。見た目でも文章でも、危ない事がわかるだろう。しかし怖い人間というのは受け手の尺度が絡んでくるが、見た目が普通でも本能的に何か良からぬものを察知する。例え文章で三十代くらいの無精髭のおっさんと書かれても怖さはない。

 俺の出会った、釈迦堂刑部という人物はその様な、怖い人物であった。

 

 

 駄菓子屋で声をかけられた。

「そこの餓鬼ども、お前らいいもん持ってんじゃねぇか。」

 明らかによれよれのシャツ。店の前でスルメを食べている見知らぬおじさんが声をかけてきた。怪しいだけでなく、どこか俺たちとは違う世界の住人のような、地に足がついていない人だった。休日の午前中から一人で駄菓子屋に鎮座している成人を超えた男性がいる。それだけで警戒するための判断材料は十分にあった。

 天ちゃんも明らかに常軌を逸しているその男から身を潜めるように俺の背後に回った。

「おうおう、朝からお熱いな。っと、そんなことを言いたい訳じゃないんだった。」

 頭を掻き毟りながら、あたかも反省している素振りをして、へらへらとしたにやけた顔をこちらに向けてくる。

「おじさん武術に詳しいんだけどよ。お前たちの才能が素晴らしかったからついつい声かけちまったんだ。オレの名前は釈迦堂刑部って言うんだが、どうだ、オレに弟子入りする気はねぇか。」

 そんな怪しい勧誘でついて行く人間がいるだろうか。

 酒でも入っているのか知らないが、俺を前にして、身のこなしがわからずにそんな言葉を吐けるんだからよっぽど大した腕の持ち主なのだろう。それとも俺をおちょくっているのか。そのどちらにしても目の前の人物が危険であることには変わりはない。天ちゃんがいる中で戦いになったとしたら真っ先に天ちゃんが危ないので、戦いを回避するか、先手を打つか。

「奇遇ですね、俺も武術家なんですよ。黒田高昭っていうんですけど。」

 へぇ、と一言発した釈迦堂からは先ほどとは比べ物にならない威圧感が感じられた。

「お前が黒田の、ね。面白いな、おい。」

 急に笑い出した釈迦堂は、一度大きく息を吐き出してから俺に向かって仕合をしてくれないか、と頼んできた。久々に骨のある相手と戦えるから嬉しいと言っている。黒田というビックネームとやり合えるのが、嬉しくて仕方ない、そう言って返事も待たずに戦う気でいる。

「良いですけど、あまり面白いものではありませんよ。」

 俺は一言そう言った。

 

 

 近くの川原まで移動して向かい合うように立っている。

 小学校六年生にもなって駄菓子を買うだけではどうにもならなかった天ちゃんは、釈迦堂に千円札を二枚ほど貰い、大人しく見学していてくれるそうだ。俺は家に帰っていてもいいと言ったのだが、一人じゃつまらないと言われてしまった。

「それじゃ、そっちのお嬢ちゃんに合図して貰ったら始めようか。」

「始め!」

 間髪いれずに合図を出した天ちゃんの声を聞くと同時に距離をとる。どちらかが動かない限りどちらの攻撃も当たらない、大きく離れた所だ。

 早すぎる天ちゃんの掛け声に対応できなかった釈迦堂は、漸く構えたといったところで、攻め込まれなかったことに対して一先ずの安心をしている。攻めあぐねている状態を見る限りでは黒田の技に関する知識はそこまでないだろう。揺さぶりをかける為に少しずつ前進していく。相手の流派がわからない以上先に相手から動かす必要がある。

 相手の反撃を釣る気はないが、細かい技を使わなければ一気に流れをつかまれかねないのが辛い。できることなら先に手を出して欲しいがそこまで相手も馬鹿ではないだろう。自分から攻められない流派では未完成だ。使い手がその部分を埋めるのは並大抵の努力では不可能で、どの武術でも当身くらいは存在する。大まかな奥義以外を自由に決めていい黒田でも、奥義のなかに自分から攻める為のものはある。

「びびってんのかよ!」

 痺れを切らしたのか、それとも様子見か。釈迦堂の上段蹴りが飛んでくる。リーチは明らかに相手のほうが上だ。然程体重の乗せていない攻撃なので、腕で受け止める。脇は締めて、腹部の防御を意識しているように見せる。

 素直に引いて仕切りなおしなら同じ事をすれば良い。かすかに前に踏み込んだ足を見てこちらがカウンター狙いだと読んでくれるならば御の字。知らずに弱腰の攻撃を打つのならばそのまま逆に相手の腹部にこちらの拳を沈ませるだけだ。

 蹴りを放った足を引いて一旦後ろに下げたと見せかけた釈迦堂は引いた時の弾みを利用して、もう一度俺目掛けて蹴りを撃ってきた。

「くあっ。」

 鋭い一撃に対して、何とか避けきった、と思わせる為に声を出して、目一杯跳んでかわす。言うまでもなく跳んでかわすのは悪手。上段蹴りで相手の重心を低くさせる咄嗟に足による蹴りのブロックを抑制する巧い戦い方だ。間違いなくこの釈迦堂は強い部類の人間だ。恐らくこの後に、空中の俺を捕らえた攻撃を出してダメージを蓄積しつつ、俺が攻めなくてはならない状況を作る気だろう。黒田の、または俺自身の技を見る為に確実に当たる攻撃に誘導したのだろう。相手の攻撃が空振り、俺が空中にいる。相手の復帰の方が明らかに早い。

 俺が素直に着地をするつもりなら、の話だ。

「そらよ。」

 三度の蹴りが飛んでくる。完全な慢心だ。下段ならいざ知らず、空中の相手を狙う大上段の蹴りなんてガードされても反撃を食らう。ましてその防御すらも打ち破ろうとする全力の蹴りなんて、俺にとっては格好の餌食だった。

 俺が空中で動ける事なんて釈迦堂が知る由もないわけで、予測できる判断材料なんてない。誘導されていたのは逆に釈迦堂のほうだったのだ。

 空中に作り出した足場を踏み台にしてもう一度跳躍。攻撃の動作に入っている釈迦堂の頭上を飛び越える。空中の相手を見ながら蹴りを出そうとすれば仰け反りすぎて反動で倒れてしまう。つまり釈迦堂は今、俺のことを見ていない。

 地上に降りた俺は、背を向け、バランスを崩した釈迦堂の背中に狙いを定めて掌底を叩き込んだ。

釈迦堂からは空気の抜けたような音がして、勢いのまま数歩前進している。よろけた釈迦堂との距離を離して様子を伺う。演技でもなく、攻撃が直撃したことを確認してから攻勢に出る。

 確認をしなければならないこともある。飛び上がりその勢いのまま空中ダッシュで距離をつめる。このままならば未だに俺に背を向けている釈迦堂にもう一度直撃させることができる。

「舐めるなよ餓鬼がぁ!」

 後ろ向きのまま繰り出された攻撃は俺の行く手を阻み、俺はもう一度空中で翻り地面に着地する。釈迦堂もこちらを向いているために、やっと仕切り直しとなった。遠くの方で天ちゃんが、サマソだサマソだ、と騒いでいて可愛いが今はそれを気にしている場合ではない。

「足払いの蛇屠りに、サマーソルトの鳥落とし。おっさん川神流だったのか。」

「別に隠してた覚えはねえよ。お前の飛行術は黒田の技か。」

 息を整えた釈迦堂が返答した。あの程度では利かないか、わかってはいたが相当な手練れだ。

「あれは俺の技だよ。黒田の奥義じゃない。」

「そうか、じゃあ、オレもオレの技を見せてやる。行けよ!リングゥ!!」

 至近距離、踏み込めば届く距離から放たれたその攻撃は、釈迦堂の両手によって凝縮されてリング状になった高密度の気弾だ。当たれば人間の体なぞ粉々に砕け散ってしまうだろう。その攻撃が至近距離から放たれた。俺でさえ撃ちだす瞬間にリング状になっていた場面しか見えなかった。まして着弾する瞬間、撃ちだすこと自体を読んで避けることはできなかった。

 当然、あたり一帯に轟音が響く。

「あーあ、やべえわ。ありゃ死んだかもな。まあ肉片すら残んねぇけどな。」

 そして、騒然、土煙の中から無傷の俺が現れる。

 

 

 釈迦堂刑部は今まで生きていて初めて、自らの目を疑った。

 あの川神百代でさえ瞬間回復を持ちながらもこの、リング、の技を直撃すればただでは済まなかったというのに目の前の黒田高昭は平然と生きている。川神の禁じ手、富士砕きに届かない威力にしても壁を超えた武術家を基準にしても殺人的な威力である。それを高々小学生に易々と止められるなんて悪い夢を見ているようだった。

 釈迦堂が唖然としていると高昭がしゃべりだした。

「捉えることの許さぬ、烈風。霜林、掴むことかなわず。瞬にて敵を討つ、閃火。剣山、時として最大の攻勢。これが黒田の四つの奥義、攻防一体の風林火山の構え。今その攻撃を防いだのは山の構えだ。」

 釈迦堂が高昭を見ると取っているのは一見普通の自然体。しかし体表に蠢く大量の気が見える。原理はわからないままだが、リングを防いだのは事実だ。恐らくあの構えのときに威力の高い攻撃でも意味がない、駄目だ。そうすればどうする。まずは間接技が利くかどうかを試さねばならない。

 自然体といえどあまりにも無防備だった。釈迦堂の実力があれば十分に目の前の首をへし折ることなんて容易いことだ。釈迦堂は先ほどの空中で高昭が自由に移動していたのが気に関係するものだと気づいている。今、高昭の体表に気が集まっていても空中に気の溜り場はない。今度こそ逃げられるわけがない。攻撃を当てる、釈迦堂のその自信は間違いなく実力に裏打ちされたものである。事実あの川神百代の天賦の才を以ってしても容易ではない。川神師範代であるルー・イーでさえも避けることは難しい。

 それだけの実力を釈迦堂には有る。

 釈迦堂の心には、幾ら手合わせ、最終的に手加減をする仕合でも、負けるわけにいかない、という感情が芽吹いていた。ずっと年下の武神に負けることも幾度かあった。同期の同じ師範代と実力はこちらが数枚上手だった。その程度、釈迦堂にはどうとでもなかった。

 あの名高い川神院で実力者、世界で上から数えたほうが早い人間。現状に満足もしていないが、男ならば夢見る、最強、自分がそれに近いことに少なからず誇りを持っていた。その誇りを傷つけられぬように、飄々として生きてきた。態々本気を出すまでもない、必死に何かをする必要もない、力さえあれば生きていける世の中だ。

 だが目の前の現実は違う。たった数日前川神の総代から事実上の破門を言い渡され、持ち合わせで何とか生活していた。貯蓄はあったのでまだ数日間たもつだろう。それでもたった数日だ。仕事はなく現在のように毎日銭湯に通えるかすら怪しい。

 それでも誇りは残っていた。強いのだと、自分は負けないのだと、そう自分に言い聞かせていた。だとしたら目の前の現実はどうなる。自らが編み出した奥義は、釈迦堂刑部の代名詞たる奥義、リングは武神より更に幼い餓鬼に打ち破られた。あの技が、こんな餓鬼に破られた。

 年端も行かない子供に、良い様にあしらわれるのが最強か。

 川神が最強ではないのか、オレは強いのではないのか。

 釈迦堂の頭には冷静な判断ができる余裕はない。

「林の構え。」

 技をかけようと突き出した腕が空を切る。釈迦堂の攻撃は完全に避けられた。掴むことはおろか触れることすら叶わない。いつの間にか変わっていた高昭の構えにも気づかぬまま、釈迦堂はもう一度攻撃を仕掛ける。しかし、攻撃は当たらず、逆に一発、反撃を受ける。

 頭に血が上っている。自分でわかっている。冷静にならなければ勝てない。

 釈迦堂は、自分でも久しぶりだとわかるほどに勝利に拘っていた。負けたくないと感じ、他人を見下すことなく、対等な相手として見ていた。

 釈迦堂は理解した。先ほどの、山の構え、をしているとき以外に攻撃を防ぐ手立てはないだろう。相手の攻撃は幸いにも重いものではない。対するこちらは恐らく一撃、相手に直撃させればこの仕合に勝てる。仕合に応じたからには対等で、年齢や体格に関係なく勝てば良い。相手の動きは未だに理解ができないが、あの動きを可能にするには、体の回りに浮かぶ大量の気が関係している。そのおかげで威力は大きくないのが幸いだ。

 自慢ではなく、釈迦堂自身が相当タフである。高昭が絶対に何時か痺れを切らして大技を撃ってくる筈だ。釈迦堂はそこに大きくコンパクトで最速の一撃、自分の体に良く馴染んだ技。川神流、大蠍撃ちを叩き込む。

 

 

「火の構え。」

 重心を低く、溜めるようなこの構え。黒田の奥義で最も強力な一撃を叩き込む技。この構えから飛び出すのは後ろ回し蹴り。上段、中段、下段の何れかを放ち相手の防御を無視して叩き込む。天ちゃんに言わせて、一撃必殺のこの技は、単純な軌道でありながらも完成された一撃である。先ほどの釈迦堂のリングを防いだのと同じく黒田の奥義である、山の構えすらも貫く、正しく劫火。

 三度目の反撃を入れて、少し重心の揺らいだ釈迦堂目掛けて振り下ろす。どてっ腹を狙った中段蹴りで、高昭はその過程で釈迦堂にちょうど背を向ける。

「大蠍撃ち!」

 よろけた振りをして攻撃を誘った釈迦堂は、待っていたその大振りの攻撃が到達する前に決着をつけるべく右の拳を叩き込む動作は完成されていた。完全に読み勝った。強いといえどもまだまだひよっこだ。経験の積んだ相手であればここまで巧く嵌ることもなかっただろう、と釈迦堂は自分の勝利を疑わなかった。

 ただひとつ、忘れていたのは黒田も才能の塊だということ。

 勝利を確信してしまったことで、技を打つのが早すぎた。

「ロマンティック。」

 高昭が反応できてしまったことが、唯一の釈迦堂の敗因だった。攻撃の挙動に入っていた高昭の体が気の力によって押し戻されていく。ロマンティックキャンセル。技を出始めであるがために釈迦堂の攻撃が届く前に自然体へと体勢が戻る。

 釈迦堂の腹部にはカウンター気味に入った高昭の肘が深々と突き刺さっていた。

 高昭は一言、ありがとうございました、といってこの仕合を締めくくった。

 

 

 川原で一人煙草をふかしながら、釈迦堂は痣になったであろう腹部を撫でていた。今はただそれだけで、他に何をしようというやる気が起きなかった。

「手ひどくやられたな、馬鹿弟子。」

「じじいか、なんの用だ。」

 釈迦堂の後ろには嘗て、数日前まで師であった川神鉄心がいた。

「昼間から馬鹿でかい闘気が二つ、片方はお主で百代が煩いから見にきただけじゃよ。」

 釈迦堂は何も答えない。

「今代の黒田はすごいのう。或いは百代にも届くかも知れぬ。」

「届くかも、じゃねえだろ。対等でこその当て馬だろう。」

 鉄心の言った言葉が少し気にかかった釈迦堂は問い詰める。鉄心はまるで黒田では届かないと言っている様なものだった。

「黒田は強い。技も、才能も、それこそ上限一杯と言って差し支えないほどに強い。少なくとも初代の黒田はそうだった。今代の黒田高昭と同じようにな。」

 釈迦堂は鉄心の話に耳を傾けている。

「それは人間の限界だった。当時の武術家はこぞって挑み、そして負けていった。お主が感じたように黒田の技は生半可では突破できない。速く威力もある風。すべての攻撃にあわせて反撃をする林。防御をも破る火。いかなる攻撃も通さない山。そのすべての構え、そして才能。黒田は強かった。」

「今の最強は川神なのにか。」

 携帯灰皿に煙草を捨てて、寝転がった釈迦堂は鉄心に尋ねる。

「黒田は人間の限界だったが、それ以下でもそれ以上でもなかった。何時しか黒田より速い、巧い、力強い、堅牢な武術家が出てきた。黒田の技は徹底して対策をすれば敗れないものではなかった。誰もが勝てるわけではなかったが、誰にも負けぬ無敵ではなかった。いつしか黒田は人間の限界、壁、と呼ばれるようになったのじゃ。」

「オレは壁越えですらないわけか。」

 意味もわからず自分は強者だと勘違いしていた、井の中の蛙でしかなかった。釈迦堂は、己がどれほど小さい存在なのか、ぼんやりと考えていた。

「わしも小さな存在じゃよ。百代も未熟。ルーも一子も、黒田の人間も完全ではない。唯一、心は成長し続ける。釈迦堂よ、お主の才能は腐らすには矢張りおしい。その気があるならもう一度川神院の門をたたくのじゃな。」

 釈迦堂は考える。壁超えですらない自分が今まで、でかい顔をして教えてきた百代や一子に合わす顔があるのだろうか。それとも恥を忍んでルーや他の門下生に謝り、下に見られたままあの生活に戻るのか。

「男だったら、目指すは最強だよな。」

 答えはすでに決まっている。



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第六話 感情アンインストール

「天、帰るよ。」

 亜巳さんの声が聞こえる。もう随分と周りから音が聞こえなかったから俺はどこか遠くに行ってしまった気でいたが、どうもそうではないらしい。先程からうっとおしい時計の針の音も現実のものであり、夢であればどんなに良いことだったのか。そんな俺の考えは甘いものだった。

「ウチはここにいるよ。」

 扉の向こうから聞こえてくる声は聞き間違えようのない。長年付き添ってきた天ちゃんだ。今年入った中学でも隣の席だった。もう、八時を回ろうとしているのに依然として帰ろうとしなかった。

「天、明日も学校があるでしょ。」

「休む。高くんいないとつまんないし。」

 その会話の後、勝手にしなさい、と一言言った亜巳さんは辰子さん、竜兵さんを連れて帰っていったみたいだった。天ちゃんは、俺の部屋の前から動こうとしなかった。何時からそこにいたのかは知らないが長く居ることには違いなかった。

 俺は何をしているのだろう。

 自分の部屋に閉じこもって何ができるというわけでもなく、何も解決できるわけではない。ジジ、と音を立てるハロゲンヒーターはこの部屋の中の唯一の明かりで、灯油の入っていないストーブが動かない以上、この部屋で暖を取る残された方法だった。

 天ちゃんにはそれすらもない。廊下にずっといる。

 俺はなんてことをしてしまったのだろうか。

 或いは自分でどうにかできただろうか。否、毎日毎日風呂場で動け動けと念じて熱湯を当て続け、残ったのは軽い火傷だけだった。

 或いは悟られなければどうにかできたのか。否、現に今朝姉からの牛乳を掴みそこない発覚してしまった。問題を先延ばしにしていただけだった。

 或いは気づけただろうか。夏のあの日、夜中に腕を攣ったことがそもそもの原因で、その日に指が動かしにくかった程度で異変とは呼ばない。まして俺はまだ若い。

 

 この右腕が、動かない。

 

 医者が告げた病名は、平山病。

 細かい原因は不明で、神経に関するものらしい。左は無事だが、右はもう、もう。

 その医者は言った。

「良かったですね。なにせ、絶対的な理由が分かっていませんから、実利を追い求める医者だったら首の手術を勧めていたかもしれません。いるんですよそういう輩がね。命が助かれば良いと思っている連中が。そんなことをするために医者になったのかね、そういう人たちは。知り合いのリハビリの先生を紹介しますね。その人が詳しいですから。」

 正直、ぞっとした。

 首にメスを入れて、治らない可能性もあるらしい。

 そして安心もできなかった。この右腕は今動かない。

 

 初めて、右腕の動かし方を考えた。

 親指は曲がらない。

 物が持てない。

 腕を上げるにも、こんなに重い腕だったか、と思うようになった。

 

 自分は恵まれていた。だからこんなことになるなんて微塵も考えなかった。どうにかできると思っていた。目の前にいる人は他人でしかなく、障害を持つ人のことを考えたことなんて、ただの一度もなかった。

 こんなにも辛く、こんなにも無力で、何も分からない。

 生まれつき不幸な人は、俺と同じように幸福を落としてしまった人は、もしかしたら、いやもしかしなくとも、俺以上に不幸な人は多いだろう。それを俺は蔑ろにして、いざ自分が同じ目にあえば自分が不幸だ、なんて。

 最低な人間じゃないか。

 右腕が痙攣している。俺にはどうしようもできない。

 俺が不運になったときだけ、嘆いている。

 天ちゃんや姉さんや皆に心配される資格なんて俺にはない。

 

 でも辛い。辛い。辛い辛い。

 俺には何も残されていない。当然武術はドクターストップ。俺の未来はこれで終わりだ。大学受験を控えた姉さんの邪魔にしかなってない。黒田はどうなる。そんなの知らない。今は兎に角、辛い。ただそれだけだった。

 右腕も辛く、こんな屑に優しくしてくれる皆の厚意が兎に角辛い。

 それでも、右腕のほうが辛いかもしれない。

 

 ああ、どうやって動かしていたのか。

 

 

 

 

「天ちゃん、お布団持ってきたわ。」

「あ、紗由理さんありがとうございます。」

 夏休みとかに何度か使ったことの有る来客用の布団を紗由理さんが持ってきてくれた。ウチも廊下で寝る日がくるとは思わなかったが、多分高くんはもっと想定していなかっただろう。

「ごめんね、高昭が心配かけさせちゃったみたいで。」

「当たり前ですよ。いきなり家の電話に『高昭は病院に行くから今日は学校行けない』なんて言われてしかも右腕が動かないなんて心配するに決まってるじゃないですか。」

 右腕が動かないなんて言われても、その気持ちはウチには分からない。高くんの苦しみがウチには全然分からない。

「心配もそうだけど呆れちゃうよね。頼ってくれなかった高昭も、こんな事になるまで気づけなかった私たちも。」

 紗由理さんがウチの横に座る。

「今朝ね、牛乳貸してって言われて手渡したらそのまま掴めずに牛乳パック床に落としてた。病院に連れてったお母さんが言うには、右手で紙も捲れないんだって。」

 思い当たる節がなかった訳ではない。高くんは元々器用で両利きだったが、秋ごろから授業中も給食の時も左手しか使っていなかった。それに何時からか、ノートを使わずにルーズリーフを使っていたのは右手でページを捲れなかったせいだったのだろう。体育は男女で分かれていたから知らなかったがもしかしたら、休んでいたのかも知れない。

 でも実感が湧いてこない。昨日だっていつもと同じように笑っていた。気づかせない努力だったのかも知れないけど、今になってここまで高くんが塞ぎこむ様な素振りは一切なかった。診断結果が余程悪かったのか。少し前まで聞こえてた鼻をすする音がその事実を物語っていたが、ウチには高くんの辛さがまるで理解ができなかった。

 どんな気分なのか、そう思って右手を握ってみる。開いてみる。

「治るんですよね。」

 どれほど黙っていたのか、単に居辛くなったのか、紗由理さんが部屋に戻ろうと立ち上がったときにそれとなしに聞いてみた。今日、黒田家に来ても高くんの病気が発覚して閉じ篭っていると聞かされただけで、それ以上のことを伝えられていなかった。

「聞かないであげて。」

 紗由理さんは教えてくれなかった。

 

 

「天、心配なのは分かるけど学校はちゃんと行きなさい。」

 翌日の朝、高くんの部屋の前で座っていると亜巳姉が制服とかばんを持ってきていた。行く気がないって言っているのにどうして分かってくれないのだろう。亜巳姉は自分ができるからっていつもウチが同じことをできる前提で物事をさせようとする。能力の高い上の二人はそれでも付いて行ける。でもウチが辛いと思っていることを知らないんだろう。亜巳姉に限ったことではない。

 ウチは皆ほど優秀ではないことは薄々分かっている。ウチ以外の家族全員頭は良いし、腕っ節もウチより断然強い。高くんが自分の宿題が終わっていても、ウチが終わるまで終わってない振りをして待っていてくれる。ちゃんと後ろを見て、付いてこれているかどうか確かめて、付いてこれるように手助けもしてくれる。それがいい事か、悪い事かはさておき高くんはちゃんと見てくれている。

 ウチは皆ほど強くない。高くんが辛い思いをしているのに、学校に行って友達とお喋りをしているなんて耐えられる訳がない。そもそも、一日学校にいること自体が耐えられない。

「黙っていればどうにかなると思ってるんでしょ。高昭君が心配なのは分かるけどね、あんただってちゃんと勉強しないとだめでしょ。いつまでも黒田家の皆に迷惑かけるわけにいかないでしょ。」

 無言を貫いていても、亜巳姉が諦めない。まるでウチが、勉強が嫌だから高くんを出汁にして学校をサボろうとしている、と言っている様だった。

 反論はできない。してしまえば自分がサボろうとしていると言っている事と同じだ。何より、今の自分が亜巳姉を言い負かすことなんて到底できない。客観的に考えて、あっちが正論でウチが間違っている。感情論だけで世界が回っているわけではない。人の気持ちを考えない輩なんていっぱいいるし、人を足蹴にしてたくさん儲けている人はたくさんいる。慈しみの心からは現物は生まれない。生きるために、綺麗事は殆ど役に立たないのかもしれない。

 それでもウチはここから動く気はなかった。

 時間の無駄だと思ったのか、それとも呆れられたのか、亜巳姉はそれ以上は説得をする気もないようだった。だが一言

「今日中には一度家に帰ってきなさい。その時ちゃんと話をしてもらうからね。」

 そう言って、持ってきたウチの荷物はそのままに亜巳姉は紗由理さんと学校に行った。

 今、ここの空間にはウチと高くんしかいない。他の皆は学校で、おじさんもおばさんも今回の事で色々と忙しそうだった。生活スペースの家の二階にいるのは、二人だけだ。

「高くん、起きてるでしょ。」

 確証はなく、単なる勘。それでも、何気なしに当たっている気がした。

「夏休みとかでも高くんたちって帰省とかしないから、丸一日話さなかったのって初めてかもね。」

 返事は聞こえない。ウチなりに、話がしたいと言ってみる。高くんなら言いたいことを分かってくれるだろう。でも応じてくれる保障はどこにもなかった。

 昨日と同じく、時計がなく、時間の進みが分からない。

 どれだけ沈黙していたか。いつまで黙っていようか。冬で、ろくに防寒もしていないと言うのに、手汗をかいてしまっている。

 食い入る様に扉を見つめても動きはない。

 鍵もかからない引き戸を跨いですぐそこに、高くんがいる筈なのに、律儀に待たずに開けてしまってもいい筈なのに、これ以上近づくのが怖かった。踏み入って、高くんに拒絶されてしまうのではないか。昨晩にも何回も思っていたことが、今になって堂々巡りして、心臓に悪い。

 まして声すら返ってこない。

 目の前に何もいない事がこんなにも怖い。

 扉が開いていく。

 扉の前に置いてある朝食をどかすのを忘れてたとか、寝巻きのままだったとか、くだらない事ばかり考えてしまって、昨日のうちに纏めておいた思考がまたこんがらがっている。

 一日ぶりに見た高くんの顔は、泣いた痕がはっきりと分かり充血している。いつものように明るい高くんはそこにいない。

 唯無表情だった。

 でも、高くんには違いなかった。

「灯油入れてきて。中で話すにも寒いから。」

 そう言った高くんは左手で、ストーブの灯油入れを手渡した。

 右手はポケットの中に入っていて分からなかった。

 

 

 部屋の中がたったの一日変わったところなんてある筈もなく、部屋の雰囲気が違うのは紛れもなく高くんの纏っている雰囲気が、一昨日とは全く違うからだった。どこから話せばいいんだろうね、と言った高くんは、普段はしない溜息を盛大にしていた。ストーブのおかげで随分温まってきた部屋の中で高くんの右腕はポケットの中から出ているが、ウチは痛々しくて見ていられなかった。

 握られても、開かれてもいない高くんの手のひらは力なく膝の上に置かれている。親指と薬指と小指がピクピクと小刻みに震えている様を見ていられなかった。

 冗談を言って場を和ませたりするのが得意な高くんとは思えないほどに無表情で寡黙だった。

「天ちゃん。」

 何の心の準備もないままに名前を呼ばれて驚く、と同時に変わらずその呼び方をしてくれている事に安心をした。目の前にいるのが本当に高くんなのだと、今更ながら実感をした。

「どうしたの、高くん。」

 ここは普通に、いつも通りに返さなくてはならない。そんな気がした。この時のウチは高くんが変わらずにいつもと同じだった安心感から、ウチが高くんが閉じ篭ってから初めてに話す相手だとか、高くんの右腕の事をすっかり考えていなかった。

 もう少し頭が良ければ、余計な挙動をしたら高くんがどう思うか、まで考えてこの行動をしたのだろう。結果的に問題のない行動をできていたから良かったものの、家族とも話さずに、ウチと話している。その心境を考えていたなら、もう少し落ち着いて行動を取るべきだった。昨晩もそう考えていたが、安心しすぎて、昨晩の心配の心は吹き飛んでいたのかも知れない。

「俺はどうすればいいのかな。」

 話す内容が気になっていたこともあって黙って聞いていた。

「右手はまともに動かない。物なんて何も持てない。ペットボトルだって左手一本で開けてた。一応考えてたことは当たってて、寒くなるとシャーペンすら持てないから左手で書いてた。暖かくすれば直るんじゃないかなって思って、毎晩風呂場で、動け動けって、蛇口から五十度くらいのお湯当ててたんだ。右手が動かなくなったらどうなるのか知ってたから、力入れて、動けって。どうしようもなかった。医者からは、武道は当分の間駄目だって、ドクターストップかかちゃって、別に武道をしてたからこんな事になったなんてわかんないのにね。」

 高くんの目から涙が頬を伝っている。表情は変わらないまま、見ているこちら側まで辛い。

「リハビリの先生が言うにはさ。手術すれば元通りなんてこともないし、リハビリしても回復はするけど完治はないってさ。もしかしたら元の握力に戻るかもって言ってたけどさ。今の握力、計ったら八キロだって、八キロ。左が六十キロ越えるのに右がさ、こんなってさ。」

 落ち着くためか、何度か深呼吸をして、まだ続ける。

「一番得意な武術で、右手が駄目になって、できなくなって。だったら他の仕事なんて尚更じゃん。今更、受ける大学を決めて、将来の夢も決まってる姉さんに変わってなんて言いたくない。姉さんだけじゃない、亜巳さんも辰子さんも竜兵さんも今年受験なのに、気を使わせてもし足を引っ張ってたらと思うと辛い。これから先、皆の重荷になってしまうんじゃないかって思うと申し訳ない。」

「高くん。」

 名前を呼ぶ。話を途中で切られたことに驚いたのか。目を白黒させている。今日初めて見た表情の変化がこれだった。これで表情もいつもと同じ。

「お腹空いてるだろ。冷めちゃうから早く食べなきゃ。」

 作ってあるのは冷めにくいうどんだ。高くんは疲れてるんだろう。

「ウチも昨日から眠れなかったから、高くんが一晩ずっと、皆が眠ってから泣いてたのも知ってる。右手で精神的にも参ってるのに休憩も取ってないんじゃ後ろ向きな事しか考えられないだろ。飯食って風呂入ってちゃんと寝て、それからもう一度話をしよう。」

 ウチは風呂だけはきちんと入ったから大丈夫だが、高くんは昨日一度もこの部屋から出ていないのだろう。昨日から何も食べていないで、寝ないで、その上自分から一人になっていったんだから心細かったに違いない。

「それとさ、来客用の布団ってやっぱ硬くて寝にくいから高くんが風呂から出るまで布団かしてくれないかな。ウチも結構眠いや。」

 そう言うと高くんは、少しやわらかくなった風に見える面持ちで溜息をついた。

「汗臭いかも知れないから止めとけって。」

「ウチらの担任ほどじゃなければ大丈夫だし、高くんは臭くないから大丈夫。」

 比較対象が酷いからか、高くんは無言でうどんを啜り始めた。

 十分、安心して眠れそうだった。

 

 

 ストーブが利いているからか、既に掛け布団を蹴飛ばしている天ちゃんに掛け布団を戻してあげようとするが左手一本では中々に難しい。何とか掛けようとすると、ぐっすりと眠っている天ちゃんの寝顔が目と鼻の先の距離にあった。うどんを食べていなければ、罰が当たらない程度に何かをしたかもしれないが、どうも精神的にも乗り気にならなかった。

 そういえば、天ちゃんは寝巻きだったんだな、と思い如何に自分が周りを見えていなかったのかという事を再確認させられた。結局一晩泣いていたせいで、今朝の亜巳さんがしていた会話や、昨晩天ちゃんと姉さんが話していた内容、先程まで自分が何を話していたのかさえおぼろげだ。確かにさっさと風呂に入って寝てしまった方がいいのかも知れない。

 こんなに恵まれた環境で育って、優しい板垣家の皆とも知り合って、姉も俺のことをこんなにも考えてくれている。両親は、姉さんが強く扉を閉めて枕を殴る音が隣の部屋から聞こえてくる程度に、いい人とは言えないけれども、俺としてはこれぐらい放置しててくれた方が気が楽でいい。頼めばそれなりのお金もくれる。

 この不幸さえなければどんなに良かった事か。

 永久に終わらなくなるのでこの程度にしないと、また天ちゃんに注意されてしまうので思考を終わらせるが、この右手を好意的な解釈なんてできそうもない。上手くいっていた人生は過去のことで、今は人生こんな物か、と悲観することで折り合いをつけよう。

 中学生になっても大人に近づいた気配さえなかったが、この一件で少し視野が広がった気がする。元々誰が悪いでもない、病気が原因なので八つ当たりなんかしてもしかたないし、目を逸らしきれないほど重要な問題だ。嫌なことには、変わりないけどどうにかしないといけないだろう。

 辛いけど、やらなきゃいけないことがある。大なり小なり、皆それは変わらない筈だ。

 

 ……、さっさと歯を磨いて風呂から出れば天ちゃんと一緒に寝れるかも知れない。




ヒロイン未定、とかいうタグをこのごろ見かけますが、物語の途中から決めてストーリーが成立するのか疑問ですね。
怖くて見れないのですが、自分は前作は特にヒロインと主人公がメインだったので、ヒロインがない状態から物語を作ってヒロインを綺麗に導入するなんて到底無理ですね。
ヒロインを募集している人に限っては、救いようがないので考えません。
人をモノか何かと勘違いしているんでしょう。

そんな風に物語を書く上で欠けてはいけない部分ヒロイン以外に、訴えかける事があると思うんですよ。
その中でも二次創作に限らず、商業紙にしても、隻腕がどうの隻眼がどうのって言っていても焦点がずれていたり、自分のことなのに気にしなさ過ぎるだろ、って思うことが多々あるんですよ。
人によって感じ方はそれぞれだから作者の経験だけを押し付ける訳にはいきませんが、少しだけ触れて最終的に大丈夫だったり、本人が気にしてなかったりするのは、なんだかなぁと思います。
義手かっこいいなら、全身サイボーグでいい。
知識と、見られているって事を念頭において欲しいものです。

誤字などございましたら報告してください。


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第七話 埋め合わせ

主人公はそのうち戦うので安心してください。
でも、腕がぶっ壊れて直ぐに「片手でも戦えるぜ、ヒャーハー」には決してなりません。
きちんとリハビリをすれば早くて三年くらいでまともに動けるようになるので頑張りましょう。


誤字等ありましたら教えてください。


 特別、閑散としている訳でなく、いつもと同じく大勢の人間が武術を習い、お互いに切磋琢磨している川神院においてこの場所この一瞬だけは凍りついた様な静けさに包まれていた。時代を感じさせる黒電話、その前に立ち受話器を取っているのは他の誰でもない、川神院の総代である川神鉄心その人であった。

 普段は優しい老人で、時折冗談も織り交ぜながら話をするが、この時ばかりは黙っていた。世界最強を名乗っていた頃も有る川神鉄心が、絶句したのは何時振りだっただろうか。自分の弟子の不甲斐ない格好を見ようと、自分の孫の人として至らない部分を目の当たりにしようと、動揺する程度のものではなかった。齢にして百をゆうに越える鉄心は、長い人生の中で様々な経験を積み、武術だけでなく精神も鍛え上げてきた。そのつもりでいた。

 弱弱しい返事で会話を終わらせて、電話の前から踵を返した鉄心は、先程の会話をしていて一番初めに気になった人物の元へと歩を進めた。

「釈迦堂、居るか。」

 師範代として川神院に戻ってきた釈迦堂刑部の部屋に入る。部屋の中は煙草の臭いが染み付いていて、今も正に喫煙の最中だった。

「おい、聞くなら返事ぐらい待ってから入ってきて欲しいもんだな。」

 本日の修行は既に終わらせた釈迦堂は、少なからずこのリラックスのできる僅かな時間を鉄心に壊された事に多少の怒りを覚えていた。いつもならばそんな事をする筈もない鉄心の心境に気づかずにいる。その鉄心もまた冷静ではなく、いつもならば、それだからお主の精神は不完全なのだ、と小言の一つでも言うだろうところを黙っていた。

 真面目な話か。そう思った釈迦堂は火を消して鉄心へと向き直った。

「何か、重要な話なんだな。」

 その様に問うた釈迦堂に上手い返答も思い浮かばず、鉄心は無言を肯定の意として口を開かず釈迦堂に目で語りかけた。暫く沈黙していた鉄心は、自分が言わなければ始まらぬ事できっかけを作って貰おうとしていた己に気づき、自嘲した。

「黒田では、もう百代の相手はできない。」

「んな事は分かってるよ。百代は強いさ。純粋に馬力が違う。黒田の餓鬼じゃジリ貧なのはあの時から知ってる。なんだじじい、今更分かったのか。」

 鉄心を馬鹿にして笑う釈迦堂。説明が悪かったのだ、と理解した鉄心は、簡潔に分かりやすく釈迦堂に事実を述べる。

「その黒田の右腕が使い物にならなくなってしもうた。具合までは分からんが、この先百代とは戦わせられない。」

「嘘だろ。」

 丁度新しい煙草を咥えようとしていた釈迦堂の指からは、煙草の箱が滑り落ちた。

「おい、じゃあオレは一生壁越えできないのかよ。一生ただの武芸者止まりだってのか。ずっと年下の餓鬼に負けて、そのままだって言うのかよ。」

「落ち着くんじゃ釈迦堂。元よりこんな事誰も望んでいなかった。誰も予想をしなかった。」

 熱くなりすぎた事を自覚した釈迦堂は、自身に対して軽く舌打ちをした。

「完全に死んだ訳ではないらしい。加減のできぬ百代と戦わせる事はできないが、他の人間なら或いはといった感じらしい。何時、回復するかはさて置いてな。」

 鉄心のその説明を聞いて釈迦堂は、鉄心が自分を怒らせるためにこんな話を態々話に来たわけでないと、理解した。

「どちらかと言えば問題は百代の方か。百代と互角とは言わずともあの餓鬼は十分粘れる実力はあったからな。制限をつけた仕合なら、五分に立ち回れた筈だ。それと同じ実力者をまたどこかから引っ張って来ないといけない。言いたいのはそういう事か。」

「そうじゃ。」

 釈迦堂は部屋の中の何かを見ているわけでもないのに突然後ろを向いた。

「どうした釈迦堂。」

「いや、珍しくあいつが居ないと思ったらそういう事か。ルーの野郎がいたら、見捨てないで信じてあげろ、とか言い出すんだろうからよ。」

 高昭と顔見知りという理由だけではないな、そう考えていた釈迦堂の指摘は正に図星であった。鉄心は否定せずに頷く。

「やけに素直だな。」

「わしも無駄に年を重ねている訳ではない。この世界の神が不平等なのは知っている。片腕が使えない程度と言うのはおかしいが、それより酷い仕打ちを受けた人間も知っている。彼らにとって自分でもない、苦しさの分からない人間に頑張れと言われるのが一番堪えるのじゃ。ルーは間違いなく言うじゃろう。わしとてこれだけ生きても、全てに正答をできはしない。」

 誰しもが完全ではいられない。そう言った鉄心の言葉を受けて、釈迦堂は考える。自分は、師は、ルーは、一子は、一度はオレを追い出した門下生は、そして百代は、どれだけ足りない箇所があるのか。正しいと思うから反発して、綺麗事だけを言うルーを考える。今、鉄心は完全にルーの思いやりの心を否定した。オレや今の黒田高昭の様に、普通とは感性が違ってしまう人間は存在する。鉄心は分かっていて、尊重するために、オレを束縛から解き放とうとしたのだろう。釈迦堂はそう考えた。

「それで、どうすんだよ。九鬼のお嬢さんはそろそろ相手してくれなくなる。あれ以上は流石に無理だろうから、完成してない未熟な年下を選んで、百代を誤魔化すしかないだろう。」

 それならば、自分を貫いてやろうと、釈迦堂は思った。いい加減で皆からは白い目で見られる人間になろう。人の気持ちを考えた上で、他人を困らせない程度に自分のやりたい事だけをする、自由な人間になろうと思った。

「そうじゃのう。当てはあるんじゃが、受け入れてくれるかどうか。川神院に泊める訳にはいかないから、消去法で黒田で下宿して貰う他ないからのう。」

「ああ、一応川神の技って門外不出だったな。どこの家に頼むんだ。」

 鉄心は深い溜息を吐いて長く生えた髭の中にある顎を弄る。

「黛が受けてくれるといいんじゃがのう。」

 

 

 いよいよ冬も本番という時期、板垣家の四人のうち三人が受験を迎えるという事で家の中は緊張した雰囲気に包まれていた。天使の頭の出来はお世辞にもいいとは言えず、その為早い段階から資金に余裕を作るために、頑張っていた辰子と竜兵は特待生としての入学が殆ど決まっている。それでも絶対に大丈夫ではないのできちんと自身の部屋で勉強をしている。黒田家を面々は気にしなくて良いと言い、実際使う事もないので板垣家に金を無償であげてもいいのだが、亜巳は返す気でいる。何よりだからといって必要以上のお金を借りるわけにいかない。亜巳は高校ではバイトをして、足りない分を黒田家に貸してくださいとお願いしていたのだった。

 辰子と竜兵が部屋に閉じこもって勉強しているのは受験があるからだけでない。唯一、人生がかかった受験に望む亜巳が最近ぴりぴりとしているからだった。自分たちからは首を突っ込まないように部屋の閉じこもっていた。

 大学になればバイトの時間も増やせる。辰子と竜兵もバイトが出来るため負担が減る。そして良い大学に行って、良い会社に就職すれば、皆を養ってあげれる。その一心で頑張る亜巳は、自分を追い詰めすぎている風に見える。

 素直で純真だった天使は、中学生という不安定な時期にあり、最近自分の名前が可笑しい再認識していた。四月の初めにクラスメートにそのことを指摘されて、勉強は難しいと感じていて家族の中で自分だけ取り残されていると思っている。心の拠り所であった高昭は、自分よりもどん底に転落してしまい、寧ろ天使が高昭を勇気付ける日々を送っている。

 その亜巳と天使の二人はこの頃お互いのストレスをぶつけ合うかの様に毎日言い合いをしている。

 お互いに気持ちを知っているが、自分の気持ちを察してくれていないかのような言動をお互いにしてしまい、言い合いに発展するのだ。

 そのうち夜になるまで天使が黒田家から帰って来なくなった。

 そんな日々を何度も送り受験まで一週間を切った頃だ。

「ただいま。」

 今日は黒田家ではなく、女子の友達と遊んでいた天使の帰りは早く、板垣家の晩御飯よりは遅いもののいつもと比べれば十分に早かった。

「お帰り。」

 茶の間で本を読んでいた亜巳がそっぽ向くでもなく、普通に返した事に違和感を覚える。台所で洗い物をしている辰子には水の音のせいで聞こえなかったようで、一度茶の間を通り、台所まで行って聞こえる様、ただいま、と言った。

 もう一度茶の間を通る時、息を潜めて歩く天使に向かって亜巳が声を掛ける。

「荷物置いたらでいいからここにきて。少し話すことがあるから。」

 天使は、うんでもなければすんでもなく、返事をしないままに自分の部屋に行って荷物を置いて足早に茶の間に戻ってきた。

 台所では、嫌な形で巻き込まれたな、と辰子が溜息を吐いている。

「話ってなに。」

 自分たちでもこの頃不仲だと分かっているのに、呼び出すと言う事は、余程大切な話なのだろう。思いつついつもの様に、天子の亜巳への態度は悪かった。

「天が今日、友達と遊んでくるから晩御飯いらない、って言ったでしょ。いつもは高昭くんと遊んでるから言うまでもなく黒田でご飯食べてくるから、天にも高昭くん以外に友達いたんだなって。」

「喧嘩売ってるの、亜巳姉。」

 極めて和やかな亜巳の態度からそうではないだろうというのは分かっているが、喧嘩を吹っかけてきているようにしか見えなかった。表情の見れない辰子からすれば特に喧嘩をしているようにしか思えず、茶の間を経由しないと台所からも出て来れないため、早急に会話が終わるのを望んでいる。

「高昭くん以外にも話せる相手が居るんだったらもう少し他の子とも遊んでもいいんじゃないかなって思っただけだよ。他のことにも顔を向けないと。」

「何が言いたいの。」

 段々と苛ついてくる天使。いつも口論をしているのに、こんな時だけ余裕そうな顔をしている亜巳に腹を立てていた。

「天、あんたが何か考えてるんだったら別にいいけど、そういうのもないんでしょ。一生養ってもらうわけでもないんだから、ちゃんと勉強もしなさい。もしあんたが本当に玉の輿狙ってたんだとしても高昭くんの右腕は、あんたが思っている以上に負担の大きいものかも知れない。それに……」

「ウチは高くんをそんな風に思ったことなんて一度もない!」

 立ち上がった天使は入り口のドアを力任せに閉めて、廊下をドタドタと走る音が聞こえる。その後廊下で竜兵のびっくりした声が聞こえ、小さく謝る天使の声も聞こえた。

「どうしたんだ、天の奴。家から出てっちまったぞ。」

 風呂上りに天使と遭遇したのであろう竜兵が茶の間に入ってくる。

「アミ姉~、あれは流石に酷いよ。勉強をサボってるのも分かるけど、天ちゃんなりに高くんの事を気遣ってあげてるのに~。」

「分かってるよ、そんな事。でもいい加減子供じゃないんだから、男と女がどういうものなのか考えないと駄目だろう。意識するならそれで良いし、好きなら好きで良いんじゃないか。嫌いって事がないにしても、付き合うのかどうかは結局天次第なんだから。」

 冷蔵庫の中の水を取り出してなくなるまで一気飲みしていた竜兵がそれを聞いて質問をする。

「それだとしてもあそこまで怒らせる必要はねえだろ。家族のために仕方なく人付き合いをしてあげてるなら止めろって言ってるのと変わんなかったぞ。」

「良いんだよ。お前たちは中々世話がかからなくて楽だったけど天くらいの年は、何かしらに反発させて置かないと抱え込んだままになっちまうだろ。」

 竜兵は、最近になって天使と亜巳の仲が悪かった事に合点がいき、この姉には頭が上がらないな、と思った。

「そうだよね、一人で抱え込むのは辛いよね。」

 辰子の言った言葉が誰の事を指した言葉なのか、この場に居る三人は良く分かっていた。抱え込み誰にも悟られる事なく、静かに破滅してしまった高昭の事だ。高昭の右腕が病気だったと伝えられたあの日、亜巳、辰子、竜兵、そして紗由理は、受験を控えている自分たちに心配をかけないために隠してきたのではないかと疑った。そして隠していた理由がそれでなくても、高昭なら負担になると気づいてしまうだろう事も分かっていた。実際は、受験だからといってそこまで切羽詰っている程ではない。だが逆にこのままの状態で会えば、例え亜巳たちがどう言おうと、高昭に重い心労を負わせてしまう。それは高昭の姉である紗由理が感じている事であり、紛れもない事実だった。

 そして、唯一高昭が安心できる話し相手が天使だ。天使はそのことに気づかず、皆に比べ勝るところがないと考えている。自分が高昭にどう思われているのか、その事を天使が分からないのは、周りの皆を考えるとき、自分がプラスに働かないと決め付け、無意識に自己を否定している。自分自身の良いところを見つけようとすらしない。

「あの子達は二人とも自分の事を考えなさ過ぎるんだよ。」

 呆れたように言う亜巳の口元は緩んでいた。だからこそ微妙なバランスが取れている二人だともいえるのだが、見ていて危ういので要らぬおせっかいをしてしまう。育って欲しいと思いつつも手を出して助けたくなるのは、亜巳が天使を好いているからだろう。

 

 

 黒田家に着いて、ウチを玄関で出迎えてくれたのは紗由理さんだった。

「亜巳と喧嘩したんだってね。天が家出した、って電話かかってきたわ。」

「電話って亜巳姉がしたの。」

 亜巳姉の名前が出ただけで動揺してしまい、普段から紗由理さんに使っている敬語もなくなってしまった。敬語のまま話していたとしても、最後が尻込みしてしまったために、聞こえていなかっただろう。

「竜兵くんだったよ。休みの間に頭冷やして置くように言っておいてくれ、って頼まれちゃったけど気にしないで良いわ。嫌な事があったら反発しないと駄目。悩んでるなら悩み倒すくらいじゃないとだめよ。」

「あ、はい。」

 ひどく的を得ない、漠然としたアドバイスに対して、気の抜けた返事しか返せなかった。そしてこんな事を言われるのも、意外だった。

「紗由理さんが悩むところなんて、想像できません。ウチの家の事にしても普通の生活が出来るきっかけを作ってくれましたし、何でもそつなくこなしてます。」

「誰だって悩むわ。私だって天ちゃんだって、亜巳も、高昭も、たぶん神様も、誰だって大なり小なりの悩みは持ってるの。それと、私はそこまで素晴らしい人間じゃない。板垣家の問題を解決できる素質はあったかも知れないけど、きっかけは私じゃない。もしそのきっかけがなかったら私も亜巳を見てみぬ振りをしてたかも知れない。」

 そこまで話した紗由理さんはとりあえず二階に上がるように促した。家出用に背負ってきたリュックサックを降ろさないウチを見て、いつもとあまり格好が変わらないと言っている。いつも、というと遊びに来ている時の事を言っているのだろう。替え下着と洋服をつめて他には財布くらいしか入っていない。確かに家出ではない。ここに来れば匿ってくれるだろうという、根拠のない自信があったのだ。

 今居るこの紗由理さんの部屋だったり、高くんの部屋だったり、ウチの家と同じくらいの時間を過ごした場所である。家出してきた、そんな背徳感はない。自分の家の延長線にあるもののように考えていた。そして、過ごしなれたこの黒田家に逃げてきても、同じく亜巳姉も過ごした黒田家である。亜巳姉の考えに反発して家出をした、というよりか亜巳姉の言う事から逃げ切れもせず目をそらしているだけの気がした。

「さっきの話になるけど、きっかけは大切なのよ。変わるにしても、変わらないにしても、自分を見つめなおす為にはね。今のままでは駄目なのか、このままが良いのか。決めるのは何時だって自分だからね。ああなさい、こうしなさい、そう言われてなすがままにやっても文句は言えない。嫌ならやらない、そんな選択肢もあるの。自分はその時に選択をしたのか、しなかったのか。やならかった後悔なんてなくて、あるのは後悔する事を選択した自分だけ。だから。」

 もし後悔しているならそれは自分のせいだ。紗由理さんの言葉にはその様な続きがくる気がした。ウチが目をそらしている、その事を言われている気がした。何から目をそらしているのか。それすらよくわからない。

「だから、気が済むまで考えなさい。丁度明日から土日だし、それまでは泊まっていって良いわ。」

「はい、分かりました。」

 そう言って紗由理さんは満足したのか、大きく息を吐き出して部屋で寝転んだ。ウチも足を崩して胡坐をかく。考えるにしても、今は少し心がごちゃごちゃしているから、寝る前に考えよう。

「あっ、そうだ。言い忘れてたけど、天ちゃんが泊まるのは私の部屋だからね。今日からあの空き部屋は使えないから。」

 あの空き部屋といえば、ウチが黒田家に泊まるときに使う事があった部屋だ。板垣家全員でお泊りをするときなどに使っていた何もない部屋で、この頃は全員で泊まりに来る事もなかったので存在も忘れていた。

「何かあったんですか。」

「黒田家に居候が来るらしいわ。なんでもあの人間国宝、黛十一段の娘さんが来るんですって。高昭と天ちゃんは同い年なんだって。」

 黛十一段といえば、人間国宝として有名で帯刀すらも許可されている。現在の日本の侍と呼ばれる中でも兎に角有名だ。おまけにウチのやっている格ゲーの剣士キャラにも、黛流がモチーフとなったキャラがいる。友達になれたら、すごく嬉しい。その子にも格ゲーをやらせてみよう。

「友達になってあげてね。その子がこの家に来る頃には、私も引っ越してるから。転校とか、居候とかって、辛い事だから支えてあげてね。家の両親はそういう辛さは分からないの。高昭が面倒を見てくれるとは思うけど、高昭だって右手の事辛いだろうから。」

「分かりました。任せてください。」

 返事をした時のウチは笑っていただろう。結局この後、土日を挟んでも自分の将来の事とかは分からなかった。それでも、態々喧嘩のタイミングを見計らっていた亜巳姉には心の底からの謝罪ができたし、紗由理さんの様な立派な人間に役割を受け渡されて、しっかり代役として頑張るためにこの日から心の持ち方が変わった。

 考えてみれば、高くんより早くに生まれているんだからウチが年上なんだ。今度来る黛の子も多分ウチの方が生まれが早い。大きな心で見守ろう、そうしよう。



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第八話 新しい風

遅くなってすみません。
プロットを見直していたら、若気の至りのような気に食わない展開があったので練り直している内に時間がたってしまいました。
まだ練っている途中ですがとりあえず更新が遅れすぎてもいけないと思いました。
本当はラストシーンに合わせて伏線を張ったり、矛盾が出ないように微調整しているのですが余りに遅くなったので失踪してないアピールをしておこうという意思の形です。
本当にすみません。

誤字等ありましたら報告してくれると嬉しいです。


「人間国宝である黛十一段とゆっくり話し合える機会があるなんて光栄です。」

 客間にて剣聖、黛大成十一段と対面している高昭は、開口一番に率直な感想を述べた。嘘ではない限りない本心を以って、大成を黒田高昭として迎えた。

 先日から届いていた黛由紀江宛の荷物は、今日から由紀江の部屋となる場所に運んであり、現在手伝いに来た天使、辰子、亜巳と共に由紀江が荷解きをしている筈だ。漸く受験の時期も終わり、板垣の面々も前のように黒田家に入り浸っていた。今日までに箪笥などの大きい家具を運んでいた竜兵は今日は高昭の部屋でテレビゲームをしている。既に紗由理は一人暮らしを始めているため亜巳が態々黒田家に来る気は無かった。それでも黒田家に来た理由は、世話になっている黒田の手伝いをしたかったから。そして下宿という形で黒田家に来る、天使たちと同い年の由紀江に挨拶くらいはしておこうと思ったからだった。

 元々の板垣家の面々来た理由は人間国宝の大成を一目見ようと集まり、願い通り先程サインを貰っていた。

「そんなに畏まらなくて良いよ。黒田も黛と同じく長い年月を刻み、重要な責任を負っている素晴らしい家系だ。それに私と君のお父さんは昔からの知り合いだ。」

 大成はその様に言って優しく笑った。会ってから形式上の挨拶のみを交わしていた二人は、相手が物腰の柔らかい人物だと分かり、安堵した。

「家柄ではなく、大成さん自身を尊敬しているんです。武人としての心構えも実力も、それら全てを知った上で、こういう風に話しています。一度見れば分かりましたよ、なぜ剣聖なのか。」

 高昭は自分で淹れた茶を少し口に含んで、喋り易い様に口を潤した。

「居合い。正確には抜刀術でしたか。」

「細かい事は気にしなくて良い。広義的には同じ事だ。人と同じく、言葉も移り変わっていく。気にせず続けて話して貰って構わないよ。」

「では居合いと呼ばせていただきます。黛の剣術が居合いを極めていると言って過言ではない、その様に伺っていたのですが。想像を超えていました。急な戦闘に対する護身術、二の太刀で倒す剣術だと思っていましたが、二の太刀いらずですらなく、一の太刀すらいらない。正に活人剣。鞘の中の勝利をこの目で見ました。戦わずとも壁越えだとわかりました。」

 長きに渡る鍛錬により研鑽された精神は、自然と体から滲み出る。常人から見れば威圧。武芸者が見れば感嘆の声が漏れる。ただ強いだけでなく、精神的にも研ぎ澄まされた闘気。

「それは、恐らく私だけでなく娘の由紀江の事もだね。」

 褒められた、そう捉えてはいない。高昭が少し遠回りに持っていこうとした話題を大成はずばり言い当てた。

「そう、ですね。同じ年とは思えません。噂の武神があれ以上と言われるのが凄いのか。それとも由紀江さんが、もしや武神と並び立てる力があるのか。」

「あの娘は、私を遥かに凌駕する才能が有る。後数年もすれば武道四天王には確実に入れる。」

「そして、そうなる必要があります。黒田高昭が故障して回復が何時になるか分からない、だから代打として黛にも話が行ったのですから。武神と対等に戦える人材として。」

 大成は少し唸った。高昭を見据えて言い放つ。

「元々黛も候補に挙がっていた。それでも候補ではなく、実際にその人物として抜擢されていたのが君だ。黒田には元来『壁』を務める役割があるにも関わらずだ。」

 高昭は口を結んで大成の話を聞いている。

「私も、君のお父さんに聞いただけの話だが、黒田は何も基準だった訳ではない。黒田の初代は途轍もなく強かった。無敗だった。黒田の奥義を破るには、一定以上の能力を持たなければならず、十分に対策を練った上で無ければならなかった。生半可では打ち破れない。正しく壁。君はその初代よりも強いかもしれない。」

「その俺がこんな有様だから、最近の黒田が不甲斐ないから、手合わせもなしに能力だけで壁越えを判断されるようになった。一族をもう一度世に至らしめる事もできずに、です。」

「それは君の考えではないだろう。君のお父さんは良き友人であるけれど、良き両親ではない。そんな男の考えを丸呑みする必要もない。私は代々の黛を尊敬しているが、親に反発した事もある。娘は心優しいが、私を間違っていると思えば文句を言ってほしいと思っている。ここで私と向かい合っている君は、当主として、『壁』となる事を決めたのは、少なくとも親に言われてではない。実力もその意思も卑下するものじゃない。」

 大成はそこまで言ってから、冷え切っているお茶に漸く手をつけた。

「まあ、君はまだ若いからね。黒田の事も自分の事もゆっくりと考えればいい。『壁』を受け継いだと言ってもその責務を果たすのはまだまだ先だ。誰もが急いで壁越えを挑む訳でもない。」

 高昭は何も答えずに大成の言葉の意味を考えていた。いくら早期に成熟する黒田といえども精神面では同年代の子供と然程変わりは無い。特に姉よりも年齢の高い大人の心遣いに触れた事がなかったため更に混乱をしていた。

「随分と話がずれたね。由紀江の話だったかな。」

 苦笑いをした大成は、高昭に謝って話題の修正をする。

「実力に関しては問題無いと思いますが、もし必要なら奥義以外の技ならばお教えしておきます。」

「黒田に手を貸して貰うのは嬉しい限りだが、私が心配しているのは武術ではないんだ。由紀江はあがり症が酷くてね。新しい学校で上手くやれるか心配だ。」

 溜息を吐く大成を見て、信じがたいが本当のことなのだろうと理解した高昭。

「大丈夫だと思いますよ。少なくとも一人にはなりませんから。」

高昭が言うと、大成は含んだ笑いを零した。

「させませんではなく、なりません、か。それは多分先程の女の子たちの事かな。君がその様に信頼を寄せているなら、私は信じてみるよ。」

「此方こそ、気の利いた事を言えなくてすみません。」

 大成の湯飲みにお茶を注いだ高昭は、自身の父親を呼びに行った。

 

 

 荷解きという作業を続ける亜巳は、久しぶりに頭を抱える事態に直面していた。元より指揮を執って効率よく終わらせ様とは思っていたが、よもや自分一人で任されるとは思いもしなかった。同い年の子供が来ると言ってはしゃいでいた天使はまだ理解が及ぶが、その天使と共に辰子がいなくなるとは思いもしなかった。いなくなったとはいえ、隣にある紗由理の部屋で喋っているのだろう。

 黛由紀江、自分で名乗ったのではなくその父である大成が紹介した、その女の子は今朝この黒田の家に来た時、誰が見ても分かるほどに緊張をしていた。気づかなかったのは、元より他人が意識の外にある高昭だけだった。意識の外にある、というが無関心な訳ではない。由紀江がこの家で下宿をする内に関わりは当然有る筈で、今急いで仲を取り持つ必要を高昭は感じていないからだ。それは長年の間で誰にでもある様な日常の中で育んだ板垣家との繋がりが、自分をここまで思ってくれる人たちがいると感じた経験が、高昭にとって信頼とは時間を掛けてじっくりと自然に構築するものだと思わせるからだ。

 しかし、板垣家の皆から見れば由紀江が緊張して、話をする事すら儘ならない状況であろう事は容易に察せた。知らない土地、知らない人物に囲まれて暮らす事となった由紀江は戸惑いで余裕などは一切無かった。友達作りのために普段から行っているぎこちない笑顔すら出ていない、全くの無表情で佇んでいた。

 実際の由紀江はそれよりも切羽詰った状態であったのだが知るのは由紀江一人だった。本当の由紀江は佇んでいた風に見えて、予想外の事態に気絶しかかっていただけだったのだ。聞かされた情報では、黒田家の黒田高昭という同年代の人物とは仲を良くしておいた方がいい、それだけだった。その高昭の事情も色々と聞かされていて、今までの友達作りよりも無駄にハードルが高いと感じていた所。話にもあがらなかった知らない女の人、それも三人に囲まれて由紀江の思考回路では処理しきれていなかった。友達のいない由紀江にとって女友達もいないのに、同い年の男の子と仲良くならなければならない。それだけでいっぱいいっぱいだったのに、情報でも知りえない人たちは予想外であった。由紀江は大成が助け舟を出してくれると思っていたが、由紀江の反応を見ていつもと違い落ち着いている様に見えたため、娘が頑張っているのだと勘違いしてしまったのだ。

 結果として由紀江は知らない三人と共に荷解きのために、同じ部屋で対面する事になった。由紀江が今日まで考えてきた男の子用の話す内容はあっても、その状況を打破するには何の意味も有していなかった。しかも先程から由紀江には、長らくの間年下の子に接する機会が減っていて退屈をしていた辰子が圧し掛かっている。加えて、由紀江ほどではないが亜巳にして高昭以外に友達が居たのか、と言われるほどである天使も友人の獲得のチャンスとあって忙しない動きをしていた。無論辰子も天使も荷解きの事など頭の片隅にもなかった。

 その様子を見ていて、話をするにしてもこのままでは無理だろうと判断した亜巳が少しの間荷解きの任をすべて受け持ち、疲れもあるという名目でゆっくりと由紀江と天使を休ませる事にしたのだった。辰子もそのまま部屋を出て行ったのは亜巳にとって誤算であったが、瑣末な事を気に留める事すら面倒くさいと感じ始めていたので、黙って見送った次第だった。思っていたよりも荷物自体は少ないので一人でも問題は無い。

「あの年代の子達は、皆あんななのかね。私たちの時はもっとすんなりと友好関係を築けたと思ったんだが。」

 一人呟いた亜巳は、自分の頃はもっと楽に友人を作れていたと考えていたが、思い返せば自分も紗由理が来るまでは友人と呼べる人物は居なかったのだと思い出した。そして亜巳は今日からここに住む少女、由紀江の顔を思い浮かべながら、由紀江のここでの暮らしが自分たちの様に人生を好転させるものになる事を願った。

 

 

 重い沈黙。

 未だ慌しく視線を左右に動かしている由紀江は背中に張り付いている辰子の事も忘れるほどにどうすればいいのか分からない状態だった。新たな友人作りたいと思っている天使は先程から話しかけようと画策しているのだが、由紀江の反応は今まで出会ったことのないもので、話しかける内容もタイミングさえ分からないで居た。

 無論、由紀江が天使と友達になりたくないと言っている訳ではない。むしろ同い年の子供が居ると聞いてチャンスだと思い息巻いていた。しかし、用意していた、想定していた話題が女の子用ではないため、いよいよ喋る事すら混乱を生んでいる。由紀江が終始こんな具合だから自己紹介すら一言たりとも交わしていない。

 辰子の寝息のみが聞こえる部屋の中、天使が遂に意を決して口を開いた。

「う、ウチは板垣天使って言うんだけど。」

 他の皆が自然と暮らしているせいで忘れがちになってしまうが、天使は自分の名前を非常に嫌って居る。なにより読み方もそうだし、兎に角自己紹介で自ら口にするのは論外だ。あと何日かすれば春休みも終わり、中学生で進級すればまた新たなクラスメートに自己紹介をしなければと思うと億劫になるのだ。予行演習と思っても辛く、目の前の黛の娘と友達にならんと欲すればこそ、天使が名乗るまで理由であり、決断であった。

「わわわわ、わた私は黛由紀江でし。」

 切っ掛けを逃すまいと追随した由紀江の自己紹介は少しばかり空回ってしまった。折角のチャンスであり普段の癖である、父の作ってくれた馬のストラップ松風との会話、それすら余裕のない今ではできないため逆に冷静に近い由紀江は更に畳み掛ける様に自己紹介を続けた。

「えっと、漫画とかは、お好きでしょうか!」

「お、うん好きだよ。」

 無駄なまでに力のこもった質問に若干の戸惑いを見せる天使。それもその筈で、質問を受けるのが天使であったから問題なかったものの、由紀江のこれから続く話は全てまだ見ぬ男の子用に何週間も前から準備してきた話題だからだ。男勝り、男性寄りの趣味が目立つ天使だからこそ合う話であって本来であればミスチョイスなのだが様々な偶然が重なって話はそれなりの盛り上がりをみせていた。想定していた機械的な由紀江の発言と天使の発言が異様なまでの噛み合いを見せる中で、口下手の由紀江も緊張がほぐれて、年頃の女の子の振る舞いを見せている。

 そしてこの時初めて、自分が目の前の天使と喋っている風景が、自分が眺めていた友人同士の語らいと似ていると思った。由紀江には友人が居なかったので友人の作り方も知らないが、自然とこんな風に和やかな雰囲気を作り出せる関係が友人なのだと、気づいた。

「やったな、まゆっち!初めての友人だぜ!」

「やりましたね松風!目標まで後99人です。」

 自覚して舞い上がった由紀江は普段と変わらない平常運転をこなせるようになったが、他の人からしてみればいきなり自分に自分であだ名を付けてまで語りかける事は普通ではなく、天使がその光景を見て目を丸くするのも無理は無かった。そして聞こえた声質から腹話術だろうと判断した天使は由紀江の掌に乗った馬のストラップをまじまじと見ながら話しかける。

「えっと、まゆっち?で良いのか?すごいなその腹話術。」

「おう、まゆっちはまゆっちでいいぜ。それとオラは腹話術じゃなくて、九十九神の松風ってんだ。これからよろしくなー。」

 少し前からまどろみの中のからの脱出を果たしていた辰子は突っ込み所満載の二人の会話を聞きながら微かに微笑を浮かべていた。今日来た由紀江がこんな風に自然体で居てくれる事も喜ばしい事だしなにより、あの時から高昭が急に大人しくなった、どちらかと言えば大人っぽくなった、そのため天使には騒ぎ足りない状態が続いていた風に思えた。その二人が打ち溶け合って笑い合えている所を見ると、辰子にとっては自分ではない、妹と今日まで知らなかった女の子の事だが、なぜだか笑みがこぼれてしまう。

「まじで!九十九神なのか!ウチも随分超常的な皆に囲まれてると思ったけど、やっぱり世界って広いんだな。よろしくな松風。」

「おう。オラにもはじめての友達が出来て嬉しいぜ。」

 はたから見るとふざけている様に見えるが、天使は本当に松風の事が九十九神だと信じている。由紀江も実は、今までの経験から少なからず苦しいいいわけだと気づいていて誤魔化せるとは思っていなかったが、目の前で笑っている天使を見て純粋な人なんだな、と感じた。

「あれー天ちゃん。その言い方だと私や高くんたち含めて由紀江ちゃんも超常的な、普通じゃない人たちみたいに聞こえるよー。」

「辰姉起きてたんだ。」

 急に声をかけた辰子に反応する天使は普通に声を返しと、後ろに引っ付いていた辰子が起きていると知らなかっただけに飛び上がるほどに驚いてしまった由紀江は松風を手のひらから落として慌てている。

「でも辰姉が起きたって事はそろそろ晩御飯の時間か。楽しみだな、今日はまゆっちのためにおいしい食べ物がいっぱい出される筈だからな!」

「楽しみすぎてこんな時間まで私の事を忘れてたのかい、あんた達は。」

 夕方に差し掛かるまで荷解きをしていた亜巳が呆れつつも部屋に入ってきた。謝ろうとして体を動かそうとする由紀江だが、辰子ががっちりとホールドされて動けずにいる。天使とは談笑していた由紀江だったが辰子とは一言も会話を交わしていないので、声をかけられず放して欲しいという主張もできない。

「ごめんねーアミ姉。私は後で亜巳姉を手伝おうと思ってたんだけど、天ちゃんが起こしてくれなかったんだー。嘘じゃないからねー。」

「辰は起こしても起きないだろう。そんな調子で春から高校生になって大丈夫なのかい。」

「由紀江ちゃんの抱き心地が良かったからしょうがないよー。高校に枕は持っていかないから隣の席の人が起こせる程度の眠りの深さだとおもうよ。」

 これ以上は話をしても意味が無いと判断した亜巳は天使のほうへ目を逸らしてみるが辰子が本当に高校で上手くやっていけるのか、大丈夫なのか心配になってきた。

「別に気にしてはないけど、配置とかあるから由紀江ちゃんを呼びに来ただけだよ。天と辰はちゃんとリュウと高昭くんにそろそろ晩御飯だって伝えといてね。」

 はーい、と返事をする天使と辰子をちらと見た亜巳は由紀江の手を引いて、暫定由紀江の部屋へと赴いていった。

 

 

「由紀江、入るよ。」

 皆で夕飯を取り板垣一家が家に帰った後、大成が由紀江の部屋にノックをして入ってきた。

「どうだい。私は明日学校のほうに挨拶をした後で帰ってしまうがこの家と板垣さんたちの方々とは上手くやっていけそうかい。」

「はい。皆さん優しい方ばかりです。まだ黒田家の方々とは時間が取れていませんが、板垣天使さんと辰子さんと亜巳さんとは、今日はたくさんお話が出来ました。」

 家族に他人の話をこんなにも嬉しそうに話す娘の姿を大成は初めて見た。外から新たな刺激を受けて武術的な成長をしてくれると思い、川神からの願いを受け入れたのだった。だがそれ以上にここでなら由紀江は精神的にも大きく成長できるのではないかと、大成は由紀江の姿を見て思うようになった。人との関わりを通して成長して欲しい。特に黛と同じく歴史ある黒田家と聞い話によると辛い道を歩んだ過去のある板垣家。そして武術家として貴重な体験を、挫折とも言えぬ絶望を味わった黒田高昭。心優しい由紀江ならば、傷口を広げる様な真似をする事もないだろう。そう思いお互いの家の利に繋がればという思惑もあった。

「元々、口出しはする気は無かったがその分だと大丈夫そうだな。由紀江、いっそ黛の家の事は忘れても良い。一人の武芸者として学生として学ぶべき事がたくさんある。例えば友人もその一つだ。」

 そして就寝の挨拶をして大成は部屋を出て行く。

 由紀江は、恐らく自分に友人が居なかった事を父は知っていたのだろうと、気づいた。友人が居なければ分からない事がある、それは由紀江にとって未体験の事でこれからの生活の楽しみであった。大成に言われて再度その事に気づいた由紀江は、天使が明日も来ると言っていた事を思い出して、生まれて初めての友人の様な会話を思い出し、友人が居るのが夢でなく本当なのだと嬉しくなり布団へと体を投げ出した。

「やりましたね、松風。本当に嬉しいです。」

「おうまゆっち。明日は高昭くんと仲良くなれるように笑顔の練習を欠かさずにやろうぜ!」



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第九話 新しい季節

また後書きに格ゲーの用語解説を書いておきました。
もう少し格ゲー関連の割合を増やしたいのですがキャラの技とかを弄るわけにもいかないし、この作品の設定上バランスも気をつけないといけないので難しいです。
プロットは大半が纏まりつつあるのですが、元々の設定などもあって収拾をつけるための微調整が大変です。
纏められるように頑張ります。
誤字等ありましたら報告してください。


 どういった訳か、俺、黒田高昭は黛由紀江に怖がられているらしい。天ちゃんの話を聞く限り普通の女の子で、板垣家の皆とは会話を交わすのだ。しかし俺と喋ろうとすると急に口下手になってしまっているのだった。俺を含めた黒田の面々はそもそも黛さんに関わりを積極的にとろうはしていない。ここに居ない姉さんは言うまでも無く対象から外しているが、両親に限っては黛の家は代々壁越えであるため会い辛いのが本音だろう。

「竜兵さんが怖がられているのは、それなりに納得が出来るんですがね。」

「悪かったな、顔と体がごつくてよ。」

 テレビ画面に食い入りながらも竜兵さんは俺の軽口に付き合っている。姉の部屋で談笑している女性陣とは別に俺と竜兵さんは俺の部屋で遊んでいた。天ちゃんならば竜兵さんがゲームをしている間はこの部屋の漫画を読んだりして時間をつぶせるだろう。だが黛さんの様な女の子はやはり姉さんの部屋にある様な乙女チックな本が好きなのだろう。

「それにしてもあの黛って奴は姉貴たちには良く懐いてるが、それ以外にはろくすっぽ会話が成り立たねえな。大丈夫なのか中学だって週明けには始業式が始まるだろ。」

「天ちゃんと喋れれば一人になる事はないし、俺が男友達と喋ってれば残った二人で喋れます。」

 俺は読んでいた漫画を床に置いて腰を上げた。竜兵さんは画面を見ながら唸り声を上げている。天ちゃんの目論見で、黛さんにも格闘ゲームを仕込むらしく、小さいトーナメントを開くために竜兵さんも特訓している所だ。そしてその事に対して何も言わずにしたがっている竜兵さん。言葉に出さずとも分かるが、その天ちゃんの夢を何時か実現できる様に頑張っている。正確には、頑張るようにと俺に無言で語りかけているのだ。

 幾ら経験があっても、積み重ねてきたものがあっても、今の俺には何も無い。右手ではない左手で正拳突きをしようとしても違和感があるのだ。左右の筋肉のつき方の違いだ。今の俺の右手は体についた贅肉に等しい。動作をするにも遅れてついてくる。

 武道に限った事ではない。指がまともに曲がらない今の状態。携帯ゲーム機を持つ事すら儘ならず親指でボタンを押す事はまず無理だ。少なくとも今のままでは、無理だ。

 それでも、どれだけ時間がかかろうと待つ。板垣家の皆はそう言っているのだ。

「竜兵さん、冷蔵庫から何か飲み物取ってきます。」

「ああ、お前のだけ持って来い。無理して落として、炭酸が振れたら洒落になんねえからな。俺はこれが終わったら自分で取りにいく。」

 顔を見せなくともネットで対戦が出来るとはなんとも便利になったなと思う。竜兵さんのやっているゲームの画面を見ながらそう感じた。ゲームセンターに行かずとも対戦が出来るようになったが、有線で繋いでもラグが発生している。天ちゃんに言わせれば家庭用では対戦をしたくないそうだ。でもいずれそういう欠点も無くなり、元となるアーケードと遜色なくなった時に、オリジナルたるゲームセンターはどうなるのか。そこに人同士の関わりはなくなる。

 最近耳にする、九鬼財閥の近未来的な計画。例えば、作れるとは思っていなかった自立型の人間とコミュニケーションを取るロボット等。安全を謳っているが、いざ牙を剥いた時に一般人では太刀打ちできない。空想でしかないが、人の手がかからない物は恐ろしくて仕方ない。古くからの家に生まれたから、それだけの理由だと思うが肌に合わない。

 人間を越えたと言われる、現代に広く浸透している意味で言う、壁越えの人間ならば危険性は皆無だろう。もしくはそれに近しいか、その人と親しいか。どちらにせよ実力を持たねば淘汰されてしまいかねない。黒田の先祖が、他の武家が生きながらえて血を受け継いで来れたのは、力を持っていたからに違いない。出なければ戦乱の世を体験して生きながらえる事は不可能だった。

 だから今の人間は、力が無くても生きていける様な世界を作り、皆が安心して暮らせる未来を望んだ筈だった。現実としてそうなのか。

 親が居なくなり、金も無く、貧しい板垣一家を救った姉さん。でも姉さんが居なかったら、救わなかったら、そして救う前はどうだったか。亜巳さんが一生懸命知恵を絞って、働いていただろう。当時がどうだったかは詳しくは知らない。でも、そのうちどうなるか。もう子供とは言えない俺は少なからず最悪の事態も分かる。何せここらの近くにはそれなりに治安の悪い場所があって、そこには平和な日常の裏側がある。そこの人たちの格好を見たことがある。右腕が病気になってから色々と一人で考える時間が増えたとき、机に立てかけている写真を見て安心と共に恐怖を覚えた。

 もしこの夏祭りやテーマパークの写真に写っている天ちゃんの姿が、あの治安の悪い場所の人たちと同じ格好をしていたかも知れないと思うと、ゾッとする。天ちゃんじゃなくても、俺が同じ境遇ならば、或いは友人が同じ境遇だったらどうするか。

 何より、それを考えつつも俺はなんでその人たちを救おうとしないのか。それは俺だけでなく家族にも言えることだった。板垣家にも、恐らく言えることだった。

 姉さんが一人暮らしを始めるために家を出発する前に話をした。他愛も無い雑談だ。姉さんと板垣家の話をすると、必ず限って一度は。

「私が救った訳じゃない。」

 そんなニュアンスに近い事を言う。では誰が救ったのかと聞けば、難しいことを聞く、と言って決まって姉さんは黙るのだが俺からしてみれば姉さんたちだろうと自己完結をしてその話を終わらせていたのだ。

 偶然、偶々、何かの要因が噛み合ったのだと姉さんは言った。

「黒田が越してきたのも、クラスで亜巳に合ったのも、黒田家が裕福だったのも、亜巳が私に話しかけたのも、私がやる気になったのも、神様の悪戯でしかない。」

 でなければ、それほどの偶然が重なって、やっと人を一人救えるかどうか。それほど、簡単に何でも出来るわけではない。

 仲直りは簡単に出来る。それは本来は一対一でできる事だ。でも怖くて友人に相談をする。結果として詫びの品として何かを店で買うことに至るとする。この時点で柵がたくさん出来る。関わった人間やかけた金銭。それが大きくなっていって、繋げれば人の輪が見える。その全てが上手く、思い通りに動いてくれない場合。大元の仲直りが出来るかどうか。友人が相談に乗ってくれるかどうか。それは自分ではどうにもできないのだ。

「少なくとも亜巳は私たちと仲良くしたかった。友達が欲しかった。それで私たちが友達になったら全部解決した。そんな素敵な事が起きた。それでいいじゃない。」

 姉さんはそう言って笑っていた。

 思えば、俺は姉さんの人生観を聞いて育ったのだった。その事を思い返して改めて自分の価値観のおおよそが分かる。自分の考えが固まって自分がするべき行動の裏付けが出来た。

 結局はなる様になる。しかし行動しなければ起きる事も起きない。それだけの事だ。とりあえず九鬼はロボットの前にワクチンでも作れば良いと思う。

「高昭、まだ飲み物を選んでたのか。」

 呆れた口調の竜兵さんが台所にやってきた。時間的に考えると、一度誰かに負けて次に勝ってから気分を良くして降りてきた、そんなところだろう。

「天ちゃんは今めちゃくちゃ強いですよ、オンラインで負けるようだと竜兵さんじゃ無理なんじゃないかな。」

「へっ、よっぽど相性悪くなきゃ俺だって負けねえよ。大体な、あの会社のゲームがバランス調整ミスってんだよ。」

「そりゃあ竜兵さんの使ってるキャラは徹底されたらきついですもんね。」

「ま、いいんだけどな。俺の判断基準は火力だけだからな。」

 コーラを一気飲みしながら竜兵さんは笑っている。竜兵さんも俺も体格や家柄でそれなりに学校で腫れ物扱いに近い待遇を受けている。まあ、男友達からの受けが悪いわけではない。大人が勝手に怖がっているだけだ。それでも生徒の中でも怖がっている奴らが居るわけで、特に竜兵さんは根性のある男が同じ学年に居ないので友人が少ないらしい。

 竜兵さんは家に関系ある特待生の話以外にも、武道に力を入れている川神学園に少なくとも期待しているらしい。骨のある実力ある人物が居るだろうと、気骨のある人物がいるだろうと期待しているのだと言っている。

 学年としてはあの武神と同じだそうだ。とりあえず竜兵さんや辰子さんに武神の力量を測ってもらえるとありがたいが、無理に頼む必要も無いだろう。今となっては黛さんが居るから俺が態々考える必要も無い。

「そういえばクラス編成はどうなったんですか。」

 金曜日に一日だけ高校に通学した竜兵さんに聞いてみる。

「噂の武神は違うクラスだし俺のクラスは、がり勉が多くて駄目だな。何人か面白そうな奴がいるからあたってみるが、最悪姉貴と同じように学校では寝てるかもな。」

 この後も部屋に帰って漫画を読んだりしていたが、結局今日も黛さんとは話をしなかった。

 

 

 二年生に進級する今日。どうせ入学式を午前中にやるだけで授業は無い。春休みの間にやっておけと言われた宿題は既に終わらせてあるが今日持っていく必要は無く、登校の際に背負っていくリュックサックには筆記用具のみが入っている。もしかしたら教科書を渡されるのが今日だったかも、と思い荷物入れとしてリュックサックを持つが、どうせ家にある参考書で事足りるので学校に全て置いていっても構わないのだ。しかし、天ちゃんが真似をするかも知れないので止めておく事にする。

「高くん、まゆっち。おはよう!」

 黛さんが下宿しているので、登校を一緒にするのに天ちゃんが来るようになった。天ちゃんが来るまで玄関で待っているのだが、まだ黛さんとは打ち解けていないため、俺は一言も交わさずに棒立ちしていた。

「天ちゃん!おはようございます!」

「おはよ。」

 我が意を得たり、といった具合に急に元気になった黛さんは天ちゃんと談笑を始める。腹話術の、本人は九十九神だと言い張る、松風というストラップの声も聞こえる。しかし先程までも松風の声は聞こえなかった訳ではない。むしろ喋っていなかったのは俺だけだったのだけで、黛さんは一人芝居といった感じで独り言を喋っていた。

 その内容が、と言うよりか俺の耳にする黛さんの話す内容の殆どが、友人を作るための方法の模索だったりするのだ。俺とも仲良くしたいとは言っているものの、直接話しかけては来ない。さっきに限らず態とその内容を聞かせながら俺のほうを伺うように何度も見ていたのだが、そこからのもう一歩を頑張らせないで甘やかす訳にもいかないので、見て見ぬ振りをしていたら今日になっていた。

 学校が始まる今日の朝から仲良くし始めても仕方が無いので―――決して面倒な訳ではない。天ちゃんに委ねる事にした。

「まゆっち学校にも刀持っていけるのかっこいいよなー。」

「父が学校にも交渉してくれたらしいです。」

「前の学校は誰も怖くてオラたちに近づいてこなかったんだけどな。」

 黛さんは剣聖と同じく帯刀を許可されているらしい。ある程度のレベルを超えれば武器を持っているかどうかなんて関係が無いと言ってしまえばそれでお仕舞いだが、帯刀許可というのは実力だけでなく精神的にも国に認められているという事だ。武道が全面的な理解を得られているこの日本という国でも素晴らしい事で、海外で言う侍のイメージもあながち間違いでもない。

 かといって、黛さんが言っている様に全員からの支持を得られる訳ではない。まだ俺が仲良くなっていない状態で考える事でもないが、一応のフォローの方法は考えてあるのでクラスには馴染めるだろう。

 そして天ちゃんと黛さんの他愛も無い会話を聞いている内に学校に着く。

「おお、皆同じクラスだぜ。また高くんとは隣の席だな。」

「良かったです。私一人で一年間過ごす事になったかと思うと……。」

「いや、そこはせめて友達作ろうぜ。まゆっち。」

 そんな事を教室に入ってから天ちゃんたちが駄弁っているところを眺めていると、知り合いに引っ張られた。

 何も廊下に出る必要性はなかったと思うが邪険にする様な仲でもなかったので軽く流してそいつに応対をする。

「何だ、委員長も同じクラスだったのか。」

「まあな、二年間宜しくな。」

 去年俺のクラスの委員長を務めていた男友達だった。別に名前が分からない訳でもないが、あだ名で呼んでいると急に呼び方を変えろと言われても難しいものだ。

「二年間?この学校って三年に上がるときクラス替え無いんだっけか。」

「そうだよ。それよか、誰だあの子。転校生の割には仲がいい友達が居るなんて珍しい事もあったもんだなぁ。なあ高昭。」

「そうだな。」

「なんで学校で帯刀してるんだろうなぁ。なあ高昭。」

「剣聖の娘だからだろ。」

「剣聖ねぇ。人間国宝の娘さんか。変な奴がいると思ったら、やっぱり黒田の関係者じゃねえか。お前と関わると碌な事がねえな。」

 そう吐き捨てた委員長はクラスに戻っていった。何がしたかったのだろうか。俺のクラスに戻ろうかと思ったが、折角なので水を飲んでから戻る事にしよう。

 口を潤していると委員長が戻ってきた。

「高昭、お前さっき剣聖の娘って言ったか。」

「言ったけどなんだよ。去年に比べて、乗り突っ込みのキレがなくなってんぞ。」

「純粋に驚いてんだ、馬鹿。というより何だよ、あの子めちゃくちゃかわいいじゃねえか。何でお前の周りにばっかりかわいい子が集まるんだよ。不公平だろ!」

 言われて俺の周りの人間でこいつが合った事のある人物を思い浮かべるが、天ちゃん、辰子さん、黛さん、それ以外が思い浮かばない。

「言うほど人数はいないだろ。」

「数の問題じゃなねーよ。気が変わったぞ高昭。お前の恋路を応援してやるから手を貸せ、いや貸してください。」

 委員長の気が変わったというよりかは態度が変わっている。こんな謙った負け犬根性を働かせる奴ではなかった。まあしかし、こいつは去年から口から出る事の大部分が冗談であった。今回の事も何割かは本心だろうが、余り本気ではないだろう。

「何にだよ。また委員長に推薦してくれってか。それとも生徒会長の応援演説か。」

「両方とも自力で狙うからいいけどさ。あの子を副委員長に推薦してくれないかなー、なんてさ。」

「直接頼みにいけばいいだろう。」

 そして今度は俺がこいつを引き連れて行く。ここまでは予想通りだ。唯一俺と天ちゃんの共通の友達なんて顔の広かった委員長しかいない。天ちゃんには悪いが友人は少ないし、俺に限っては女の友人は居ない。だから、黛さんの友達作りを手伝って貰おうというのだ。 こいつ自体も俺たちと仲が悪いわけでもないし、男子の仲でも俺とこいつは一番話す機会が多い。勿論、俺の周りの女性の人数がどうのこうのと話していた様に、俺の家に何度か遊びにも来ている。その際に姉や辰子さんや竜兵さんと面識をもっているのだ。俺が右手を壊してからは俺の家にくるのは流石に重苦しいものがあったらしい。そのため、天ちゃんの友達が少なくなったのでは、と板垣家の人たちは天ちゃんを心配したりもしていた。

「おーい天ちゃん。委員長連れてきたぞ。」

「でかした高くん!今だまゆっち特訓の成果を見せるんだ!」

 天ちゃんは委員長を指差しながら黛さんを応援している。黛さんも委員長の前に立って精神統一をしている。道場で見せる集中と同じくらい真剣な眼差しで委員長を見ている。少し殺気が漏れている様に見えるが気のせいだろう。委員長が気に当てられて膝が震えているが気にしないでいよう。

 天ちゃんと黛さんが自己紹介の練習のような何かをしていた事は知っているが、余りの可笑しさに笑いを堪えるのが大変だった。

 そして目を見開いた黛さんが言葉を発する。

「ヘーイ!」

 そう言葉を発すると同時に委員長に向かって指でコインを弾く。綺麗な放物線を描いたコインは委員長の額に当たって床に落ちていた。後ろでは天ちゃんが小さな声で、カウンタッ、と呟いていた。そして再び訪れる静寂。

「ヘーイ!」

 もう一度黛さんがコインを弾く。委員長も俺の家で遊んだ事があるので黛さんが何をしているのかを知っている。というよりかこれを知らない相手にやっても意味が無いから、意味が分かる委員長を連れてきたのだ。ここに皆が共通で知っている格ゲーの居合いの達人の物真似だ。普通の人は分からない。そこも後で天ちゃんに教えておかなければならない。

「よし、まゆっち二回コインを当てたから最大コンボを叩き込んでやれ!」

 俺の方をちらと見る委員長の額にはコインの当たった痕と滝のように流れる冷や汗が見えた。このまま放っておいても、黛さんの事だから天ちゃんの教えた通りに居合いをする事もない筈だ。俺の隣で天ちゃんがさっきから。

「いい~的だぜ。」

 と何度も呟いているが気にしないようにしよう。決して俺も、この状態からなら壁も近いからダメージを稼ぎつつ起き攻めに移行できる、なんて考えたりもしていない。天ちゃんの呟き以外俺たちは喋っていないが、教室の中でもあるため周りは騒がしい。幾ら目立つと言っても注意を引き付け続ける訳でもないから、結局は刀も引けずにこの流れで気の利いた事が思い浮かばない黛さんが床に落ちたコインを拾い始めた。

「高昭、これって俺が悪いのか。」

「ネタとして分かっただけで上出来だよ。ネタとしても微妙だから天ちゃんは黛さんと反省点を話し合っててくれ。」

 納得のいかなそうな天ちゃんに黛さんを任せて、またも委員長と共に廊下に出る。水道場に行って口を潤した委員長は然も生き返ったという様な表情をしている。素人相手に形だけでも本気を出していた黛さんのせいだろう。刀を抜かずとも委員長を殺したの同然だった。

 しかし黛さんは融通の利かない性格なのだろうか。ゲームのキャラの真似事だといっても居合いの動作に関しては譲れないものがあったのだろう。俺も黛さんの居合いの範囲内に居たから背筋が凍った様な気分だった。普段の行動を知っているからこそ、安心しきれた。黛さんは、有事であっても最後まで刀を抜かずに済む方法を考えるのだろう、と思えるほどに人を傷つける事を好まない。

 今日まで、道場で鍛錬をするところを見かけたことはあるが組み手はしていないようだ。実力で拮抗するであろう辰子さんは組み手に向かない。肝心の辰子さん自体が、俺が回復するまでまともに体を動かせる相手が居ないので息抜きもできず気の毒なのだ。辰子さんは戦う事が余り好きじゃないがこれからはバイトで忙しいだろうからストレスの発散方法ができればいいと思うのだが、今のとこr考え付かない。

「なあ高昭。さっきの話は忘れてくれて構わない。」

「何の話だっけか。」

 もう少しでチャイムが鳴ろうという時間であるのに俺たちはまだ廊下に居た。教室を覗くと天ちゃんの席の近くで二人が話をしている。他のクラスの皆は黛さんの腰に携えてある刀が怖くて近づいていかない。ある意味で当たり前の反応と言えた。

「あの子を副委員長に、の話だよ。いや嫌いになったとか、だいぶ板垣に毒されているからとかじゃなくてだ。クラス委員同士での集まりとかで、あの子をフォローできるほどの仲でもないし、できる自信がない。」

 心底申し訳なさそうに頭を下げる委員長。こいつは本当に友人関係における義理人情を重んじる人格者なのだ。中学生らしく学校に不要な物も持ってきている事もあるが、あだ名が委員長になるくらい昨年度も皆のまとめ役をしてくれた。

 まあ当然天ちゃんもそれなりにこいつを信頼してるわけで、多分黛さんもこいつから滲み出る良い人の雰囲気を感じ取れたのであろう。

「委員長、手遅れだ。」

 教室の二人の会話を聞くまでも無く、黛さんはこの学校での最初の友人作りのターゲットを俺の隣に居る男に決定したらしかった。




格ゲー用語説明

居合いの達人……この話で出たこの人物はギルティギアシリーズの「ジョニー」の事。ヘーイ!は本来挑発の際のセリフ、コインを相手に当てると固有のレベルが上昇して必殺技の居合い切りの性能が上がる。天使の言った「いい~的だぜ」のセリフは上中下の三方向の居合い切りの内、中のボイスとなっている。

カウンタッ……カウンターヒットの事。相手の攻撃の出掛かりに技を当てる事で攻撃側が有利な状態になる格ゲーの仕様。威力が上がったり、復帰可能までの時間が長くなったり、通常とは異なる状態を誘発して追撃を可能にしたり等。

起き攻め……ダウンした相手の起き上がりに合わせて攻撃をする事。パターン化したものはセットプレイと呼ばれる。昨今の格ゲーにおいては特に重要な読みあいが発生する。


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第十話 秘なる奥義

気づけばもう十話になりました。
早く高校編を書ければいいと思うものの、この頃少しずつ分量も増えているので登場人物が増えたらもっと分量が増えるのだろうと戦々恐々してます。
昔から比べれば喜ばしい成長なんですけれども、何分書き方がくどいのでたまにはすっきりした文章を書きたいものです。

誤字等ございましたら報告ください。


 静寂に包まれた道場に礼をして一人一人が踏み入ってくる。神聖な道場であるから家に来ていた委員長には無理を言って家の道着を貸して着てもらっている。

「高昭、せめて俺が遊びに来ていない時でも良かったんじゃないのか。」

「固いこと言うなよ。日本に名を連ねる武道家の技を間近で見られるんだから損は無い。それに、黛の奥義を見れるなんて名を連ねた武道家でも珍しいんだ。一般人ならまず頼んでも無理だ。運がいいんだぞお前は。」

 折角の入学式で午後放下なのにこんな場所に連れてこられて、委員長としてはさぞ不服だろうが仕方ない。それにしても今朝におふざけとはいえあれだけの事をされてもまだ黛さんの道着姿を盗み見ているのだから、委員長も俺の家に来たこと自体は満更でもないのだと曲解しておこう。雰囲気に呑まれていただけなのでまだ軽症だが、この後の黛さんの抜刀術を見た後で平常心を保っていられるだろうか。未だ黛の剣を実際に見た事のない俺にも言えることだが、抜かれるかも知れないといった形を作られるだけであれだけ肝が冷える。それを抜いた後の情景まで見えるようになってしまったら面と向かう事も出来なくなりかねない。

「武道を知らない委員長のために、軽く武道について説明をする。これからの事は委員長の常識では有り得ない様な事だから頭で知っておいた方が良い程度のものだ。俺にも利点があるから遠慮はしなくて良い。まあ、自分の知識や技術を他人に伝えるというのは委員長は特に勉強と同じと思ってくれれば分かりやすいだろう。インプットしたものを他人にアウトプットするのはお互いにとって良い経験になる。」

「武道ってのは体に覚えこませるものじゃないか。優れた人たちはその上で考える事があるだろうが見ている分には問題ない。」

 甘く見ている訳ではなく、見れば分かるのだから早くしろと言う委員長。付き合いは浅くなく、非常に優れた人物であるところは認めるが、何かと喧嘩腰な口調で話すのが特徴だ。能力があるので自信家でもあり、人の意思を纏める事に関しては右に出るものはいないとまで、昨年の校内合唱祭の時に豪語していた。

「安心していいよ。頭の良いお前なら説明だけで理解してくれると思うからするだけだ。逆に頭の良いお前が悩まないで済むためのものだからな。武道の常とは日常と比べて次元が違う。」

「次元ねぇ。お前らは時間でも巻き戻すのかよ。」

 委員長が冗談で言ったセリフに対して俺は、右足で蹴りを放ち、脚が伸びきる前に即座に引き戻して見せた。正面に居る委員長からすれば、時が戻った様に錯覚しただろう。

「誤解はないだろうがこういうトリックの事じゃない。確認までに言うが三次元から四次元になるわけでもない。例を挙げて説明する。日本に居る武神が海外のジョークで日本の核なんて言われる所以は、既存の兵器に負けないほど強いからだ。武神に限らずその強さの要因として気の運用が挙げられる。一般人も一切使っていない訳ではないが、比べて大きく恩恵を享受するのが武道家だ。」

 こんな感じになと言って、気で作り上げた足場の上にのる。一般人の常識では知りえない状態を見て呆けている様だが説明を続ける。

「気の細かい運用法は後日に聞いて貰えば話すが、こんな具合に形として使う事もできる事を頭においておけば良い。不定形な運用法も出来る。技にのせる、纏わりつかせるイメージで使えば金属をも穿つほどに強力だ。でなければこの時代に栄えない。」

「それなら武器なんて要らないと言えないか。その、気を使えれば結局は何でもできるんだろ。生身で十分じゃないか。費用もかからない。」

 恐らく、その疑問には黛さんの刀の事も含めている。態とそういう風に聞いているのだ。委員長の悪い癖で、相手の意図を先回りして読んで相手の喜びそうな質問をぶつける。何時も数学や英語の時間に先生の解説したい部分を先回りして質問をするので、授業を潰す気かと怒られている。

「気を纏わせるのは体だけではなく、道具にもできる。強力な銃弾にも、試した人は居ないがミサイルにもできる筈だ。でも気というのは精神状態に大きく左右されるために古くからの型がある武術的なものの方が付加させやすいんだ。勿論価値観の問題だから英国ではレイピアだったり、昔はアメリカのガンマンも弾に気を込めれたらしいから難しいんだがな。難しいものを使わずに誰でも運用できる兵器も栄えた。」

 そうして武器倉庫から一つ持ち出してきた。

「これは辰子さんがたまに使う狼牙棒なんだけど、勿論鉄製だ。そしてこれを辰子さんが使えば戦車の装甲すら貫く。ところで委員長はナイフを投げて戦車の中の人を刺し殺す自身はある?聞かなくても分かる事だ。ナイフじゃ貫けないと思っているだろ。じゃあなぜ辰子さんはこの狼牙棒でできるのか。もしくは俺が素手でできるのか。それは後で黛さんの抜刀術で分かるから見れば良い。」

 黙っていると言う事は理解してくれたのだろう。そしてこれから俺が言う事の予測も大体できている様だった。

「そして、そんな攻撃を武術家が受けてもある程度平気なのも、気があるからだ。また鉄を基準にするけど、鉄より硬いもので殴られたら、もっと硬いもので防げばいい。簡単に言ってそういう事なんだ。体に限らず、武器にも道具全般にも言える事だ。特にこの道場自体も気を巡らせるように出来ている。吸収することで威力を抑えて床などの負担を減らしている。吸収したものを使って頑丈にもなる。使う俺たち武道家だけでなく、武器や建物を作る人が気の技術を使うことがある。これ以外にも色んな特性があったりして、例えば業物や妖刀なんかは作った人の気による場合が多い。」

 分かりやすいように先程乗っていた気の塊を地面に降ろすと床に吸い込まれて消えた。狼牙棒を試しに床に叩きつけるが、傷はついていない。

「普段から武道家が鍛錬をする道場だから染み込んだ気の保有量は多い。そして濃密な気に囲まれて修練を積む事でより研ぎ澄まされた精神を得る事ができる。道場が神聖な場所のように感じるのはそれのお陰だ。それでも気を留める事は簡単ではないし、一度に溜める量にも限界はある。人間と変わらずにな。」

「道具も人間もその保有量で優劣が決まるんだな。」

 実際には技に加えて、気、なのだが現実として武神に限らず何らかが宿っている辰子さんにしても気の総量が多ければ強い事は事実だ。最終的な差も気によって決まるが元々の地力も気の量によって決まる事がある。

「まあ後は見て貰うのが一番だ。」

 狼牙棒を壁に立てかけて、精神統一をしている黛さんの方を見る。天ちゃんに持ってくるように頼んでいた物も運んである様だし、そろそろ始めてもいいだろう。

 この道場にいるのは、俺と天ちゃん、黛さんに委員長。黛の奥義を見せていただくに当たって部外者が入り込まない手筈だ。バイトがなければ辰子さんや竜兵さんにも見せたかったのだが仕方が無いだろう。

「じゃあ黛さんの準備も出来たみたいだからやって貰う訳だけど、その前に。唯でさえ人の目に晒すことの無い黛の奥義を実践していただくから、黒田の技も見せようと思う。」

「高くん、ウチじゃ『風』も『火』も受け止められないよ。それに高くんは奥義を使っても大丈夫なのかよ。」

 天ちゃんが心配をしてくれている様に俺が今の状態で『火』を全力でやれば右手がいかれるのは明白だ。道場は気が篭っているので、季節に関係なく温度は一定に近いので防寒具もつけていない。外気に晒している俺の右腕は見て分かる程に痩せこけている。親指と人差し指の間は陥没していて、未だ戻らない握力のせいで不自然に開いていて、痙攣もしている。道着にはポケットも何もないので出しているが見せている俺の精神にも辛いものがあるので本当ならば隠したいところだった。

「心配してくれてありがとね、天ちゃん。でも大丈夫だよ。確かに今の俺は黒田の奥義を全力で撃つことなんて出来ないけど、やるのは奥義じゃないから。」

 戦いの時には出す技なんて奥義程度しかない。別に見せてもかまわないような黒田の奥義を見せても意味は無い。黛の奥義を見せてもらうのにはいささか釣り合いが取れていない。だから右手に負担がかからないのであれば、黒田の決定権は今は俺にあるのだから、何を見せても構わない。

「黒田、秘奥義。」

 俺は皆に危害が加わらないような方向に左手を向けた。

 

 

 自分で出した技による耳障りな音も消える。予想以上に頑張ったせいかそれとも久々に運動をしたせいなのか。間違いなく技自体の消費が一番の要因だが、俺の息は絶え絶えだった。傷一つついていない道場の強度は流石と言ったところだろう。

「黛さん、準備は大丈夫か。」

 皆が黙って呆然としているので俺が口を開く。天ちゃんも委員長も今起きた事に目を疑っている風に見える。初めて見たならば無理は無い、こんなに無茶をする技を俺も他に知らない。

 しかし黛さんが口を結んでいた理由は違うらしく、いつもの落ち着きのない顔ではなく真剣な眼差しで俺を見ていた。

「黒田は、なぜそれを秘するのですか。」

 簡単な質問ではない。これを秘するには惜しい技でもあり、他の流派にはない強力な武器になりえるのは見れば分かる。単に他流派との仕合で使っていれば、黒田は川神の名に並ぶほどだったろう。

「本当は壁の役割なんて欲しくなかったんだ。信念を曲げる事になるからな。」

 だが見れば分かるはずだ。少なくとも、秘奥義と今の俺の状態は黒田という理念を表している。過去の黒田が目指した形。壁になる前から受け継がれた理想を。

「黒田の秘奥義は、失われてしまった古い考えを後世に伝えるためだけにある。カモフラージュのために戦闘でも使える程度にはなっているんだがな。」

 今出来る話は終わりだ。これ以上二人を待たせても申し訳ないので、この話を切り上げる。天ちゃんに運んで貰っていた鉄柱を道場の真ん中に置く。非常に優れた武道家であれば鉄を砕く、引き裂く事は容易に出来る。黛の力量を完全に把握できていないため、顔に泥を塗らない程度の攻撃対象で用意できたのが鉄というだけだ。名目上演舞を見せて貰うので、そこまで気にかける必要も無いのだがなるべく最高の技を見せて貰いたかったのだ。

 黒田の秘奥義をみせたというのも、物の準備が十全ではなかったのが理由の一つとなっている。価値で言えば、仕合では使用経験のあるらしい黛の奥義より、黒田の門外不出の秘奥義の方が上だが、切らせる物の用意が鉄柱になってしまった無礼を詫びるため仕方ない部分もあった。

「ではこのままだと釣り合いが取れないので此方も黛の秘奥義を見せましょう。」

 そう言った黛さんは、刀に手をかけたまま押し黙った。元より静まりかえっている道場の空気は更に張り詰める。黛さんの纏う気と雰囲気は、未だ姿を見せない刀を表しているかの様だ。

 未熟な天ちゃんは言うまでも無く、委員長も、黛さんの放つ威圧感に飲み込まれていた。俺でさえ黛さんの集中に釣られて、先程の自分の演舞の時よりも神経を鋭くしていた。鼓動の音すらも聞こえず時間の経過すらも忘れて、唯一点。黛の太刀筋を見切ってやろうと考えている。

 恐らく、一瞬にも満たない時間だ。黛を相手取った時、瞬きをする間に何度切りつけられるものか分かるはずもない。分かる事と言ったら、緊張の糸と同時に命が事切れるだけの話だと言う事くらいで、未だその国宝と謳われる剣術をこの目に収めた事はなかった。

 視界に納められた黛さんの佇まいは、恐ろしい。本能がそう告げている。その構えをされて踏み込む勇気、掻い潜るイメージが未熟な俺には出来なかった。その刀を抜かずとも仕合を決する居合いの極意、活人剣である黛の剣。食らわずとも分かるその必殺の一撃が、目の前で解き放たれる。

 既に、この場に居る全員が鉄柱なんて気にも留めていなかった。あれを切れるのか、なんて無粋な疑問を持つ事は出来ない。ここにあるのは、今から黛さんが刀を横薙ぎに一閃するのだろうという事実だけだ。それがどのような軌道を描き、どのような音を奏でて、何を魅せてくれるのか。通過点にある鉄屑なんてもはや空気にも満たなかった。凡そ切れないであろう物を用意した方が失礼にならないだろうと思っていた少し前までの俺の考えは全てが間違いだ。

 剣の軌道上に何かを置いて、切れるかどうかの思考実験。これこそが失礼そのものだ。黒田家当主の俺が自信を持って断言しよう。黛の剣に切れぬものなどないだろう。あれは、何があるとか、どのように切るとか、どんな軌道を描くとか、それら全てを既に切り捨て終わっている。間にある過程を全てをだ。これから先にあるのは、初心と残心だけ。

 悟りの境地だ。

「黛流秘奥義、涅槃寂静。」

 その名を告げるために要した時間。それも居合いと比べれば遥かに時間がかかるだろうと踏んでいたが、口を開いたその瞬間には既に残心であった。鞘に収まっていた刀を確認するだけでなく、技を放った事を確認する手立ては無かった。遅れて金属の擦れる音がしたかと思えば、綺麗に地面と水平に切られた鉄柱が床に倒れ落ちている。これほどの技ならばまさかする人間も居ないと思うが、武を理解しない者の様に、ここで拍手でもしなければこのままの余韻に何時までも浸ってしまいそうで空恐ろしかった。黒田の血生臭さの拭いきれない技とは違う。

 刀を抜くまでの時間の経過が分からない場の雰囲気だったのと同じく、刀を抜いた後の残心のまま動かない黛さんが何時まで止まっているのか。道場に注ぎ込む光の量を見て時間を計るなんて無粋な事は出来るはずも無い。

 俺でなくとも誰であろうと、この光景を見た万物は心から賛辞を呈するだろう。

「今の凄いなあ、黛さん。」

 委員長がここで言葉を発したのは礼節を弁えないからではなく、単純に感動したからであり、礼節がどうしたと言っている俺よりも素直な賛辞の言葉を送る委員長のほうが、礼を弁えている風に思えた。武芸者である俺の友人でありながら、今まで見てきたのは純粋に俺の運動神経や天ちゃんの発案したものだけだった。本当の武術を見たのは初めてで、それも武芸者ですら唸らせるほどの芸術とも呼べる技を目の当たりにした。俺が心を満たされたかのように息を吐き緊張がほぐれたのに対して、委員長は爛々と目を輝かせている。

「その刀を見せてくれないか。」

 彼も、魅入られてしまった人間の一人なのだろう。

 

 

 その後黛さんと委員長は少しばかり話をしていたわけだが、外から聞こえてくる五時を知らせるサイレンを聞いて歯切れ悪く委員長は帰っていった。聞けば、黛の秘奥義は使うための集中に一時間もかかるのだと言う。今回に限っては、黒田の秘奥義の後だったので短い時間で集中できていたらしいが果たして俺たちはどれほどの時間を費やしていたのだろうか。

 夜も修練をしていた黛さんが階段を上がってくる音がする。

 右手がこんな状態では修行も何もないので、俺は晩御飯を食べて風呂に入って寝るだけだ。黛さんとの兼ね合いで、俺と黛さんの間に母が風呂に入る事になっていて黛さんが修練をするから、俺は一番風呂に入れるようになった。だからなんだと言えばそこまでだが、前向きに生きていかなければ毎日が辛いのだ。小さな幸福を噛み締めるのがどれほど大切な事か。

 この時間は天ちゃんが居ればゲームをしているのを見ながら雑談をするだけだし、今日の様に居ないなら少し前まで勉強をしてから、腕を暖めるために布団の中に入る。読書をする気も無いし、特別見たいテレビ番組も無いので今日も布団に入って眠るまで唯ひたすらに静かにしている他にする事がなかった。こんな日はいつもなら下らない事を考えていたりする。

 例えば自分の右腕の事だったり、天ちゃんの事だったりする。俺の立場だから下らないなんて言えるが特にその二つは他人に下らないと言われれば堪忍袋の緒が切れるだろう。俺が下らないと総評するのは何をしたところで変わる訳がないからだ。右腕にしても、天ちゃんとの関係にしても考え方に変わりは無い。

 俺の右腕がすぐさま治るのだったら、俺だけでなく他の患者もすぐさま治して欲しい。俺と違う病気の人も含めて、全員。これも他人に言われれば当然怒るのだが、俺なんてまだ回復の余地があるから良いほうだ。不幸な中でも幸運だ。これだけ心が弱っている中で思考実験をすると、最悪に場合は脈絡無く心臓麻痺で死ぬよりましだとさえ思う。

 天ちゃんが近くに居るだけで、俺には十分過ぎる幸福だ。常に最善の選択肢を選べるように心がけているが、時には傷つける言葉だって言ってしまう。逆に言われて落ち込む時もある。それらを含めて天ちゃんと過ごせるだけで充足した毎日なので下手な行動をして崩すくらいならば、このまま過ごせるだけで良い。普段の登下校もこのまえの誕生日に貰った手袋も何もかもが今の俺にとって、これ以上にない幸福だ。天ちゃんは唯一俺に温もりを与えてくれる存在だ。

 今の俺は天ちゃんが居ればいい。

「高昭さん、起きてますか。」

 ドアをノックする音に吃驚する。この頃の心の脆さと涙脆さのせいで滲んでいた涙を拭って黛さんに自分が起きている事を伝える。

「あ、あの差出がましい事で無ければ聞きたいのですが、非常に動揺してなさった様ですが何かの邪魔でもしてしまいましたでしょうか。」

 扉越しでも気が乱れれば分かってしまうだろうとは思っていたが、看破されると気恥ずかしいものがある。目元が赤くなっていないか気になるところではあるが、何か用事があってきたのだろうから早目の返事をして邪険に扱ってはいないとアピールしておくべきだろう。そして動揺していないと言ってみるべきだ。

「いや、少し眠りかけていただけだ。話は聞ける。」

「なーんだ。オラはもしかしたら高昭がうら若き乙女に見せれないことでもしてて、まゆっちがノックして来て慌ててるのかと思ったぜ。」

「ななななんて事を言ってるのですか松風!」

 自分で言って自分で突っ込みを入れて自分で恥ずかしがる。なんて高度な事をしているんだろう。俺は、人並みにそういう方面にも興味はあるが家にいる時も学校にいる時も基本的に天ちゃんが一緒なので、情報は疎い。知っている知識と言っても、小学校の時男子の更衣室代わりに使っていた図書館で友人が百科事典などを駆使して集めた程度しか知らない。今黛さんもとい松風が言った事が自慰行為をさしているのは分かったが、中学の保険の授業で友人たちが喋っていた事は知らなかったし耳にした事もなかった。後で委員長含めた友人から意味を聞かされたが、多分生きていく上で知る必要も無い事ばかりなのだろう。それにしてもうら若き乙女の黛さんまでそんな事を知っていると言う事は俺の常識はおかしいのだろうか。

「それで昼間の、秘奥義の話の続きかな。」

 相手にするとどつぼに嵌りそうなので無視する形で話題の確認をする。

「いえ、あのですね。お願いがあって来たんです。」

「まゆっちからの直々のお願いだから心して聞けよ。」

 お願いと言われても、役立てるものなんて出来そうもない。大体にして黛さんは俺と同じくらい能力が高い。そして俺に出来る事だったら、黛さんと同姓の天ちゃんでも問題なくできるだろう。

「俺で出来る事なら何でもどうぞ。」

 邪険にする理由もないので、軽く受け答える。

「では、お願いします。あの委員長さんと言う方を今年のあのクラスでも委員長にして下さい。推薦の程をよろしくお願いします。」

「そんな事で良いならやるよ。」

 名前聞いてないのかよ、という無粋な事は言わないでおく。学校までのあいつだったら怒られそうだが居合いを見てからのあいつの様子を見る限りは問題ない筈だ。実際は俺も見切れなかったのだがこの際は言葉遊びはやめておく。それに元より俺が委員長に止められたのは、黛さんを副委員長に推薦する事だ、委員長自体はあいつがなる気でいるだろう。

「そしてまゆっちが副委員長に立候補して手堅く友達二号をゲットするんだ。ゆくゆくは立場を使って交友の幅を広げて目指せ友達百人!」

「学年全体で百人を超しているので十分に狙えますね、松風。」

 そう良いながら頭を下げて部屋を出て行った。

 これだけ話せるなら俺を友人のカウントに入れても良いと思う。委員長を二号に沿えると言う事は辰子さんたちも友人には数えてないのだろう。黛さんの友人の基準はどこにあるのか。

 今日の暇つぶしの思考実験の題材はそれになった。



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第十一話 武家に無きもの

タイトルで殆ど分かった人もいるかと思いますが、本作品の天使はゴルフクラブを使いません。
ゴルフクラブでの戦闘とか書ける気がしないのでしかたないと言えばしかたないのです。
今回は意識して会話を増やしてみたのですが、文章を書くのは難しいと改めて認識しました。
出来れば会話量バランス等踏まえて感想いただけると嬉しいです。

誤字などございましたら感想で伝えてください。


 新しい学年に上がってから最初の一月が過ぎた。目論見通りに事は進んだけど、中学校における委員長副委員長なんて号令くらいしか仕事が無いので、黛さんの名前と顔はクラスの皆に覚えられても友人と言える仲の人間はできていない。

 俺の予想は外れていたみたいで、黛さんへの苦手意識が芽生えてしまっている風に見える委員長からは、クラスの役員決めが終わった後で胸倉を掴まれる程度に感謝された。なんでも、委員長が興味が湧いたのは刀にであって、黛さんにでも、剣術にでもないそうだ。俺には違いが分からない。黛さんとしては天ちゃん以外に話し相手が見つかって嬉しいようで、委員長も好意を抱いている人間を邪険にするほどの悪党ではないので仲良くしている風に見える。あくまで見えるだけであって掃除の時間やトイレなどで愚痴を聞かされる。

 天ちゃんはどうにかして黛さんの友人を増やしてあげたいと言っているが、俺自身も人気者というわけでなく友人が特別多いわけではないので身のある話し合いができない。肝心の黛さんは、この春の連休を利用して一度実家に赴いている。気の許せる同姓の遊び相手が居なくてこの連休中、天ちゃんは暇そうにしていた。この連休はどこも混んでいるので正直動きたくない。俺に限らず天ちゃんも面倒くさいらしく同じ考えだった。

 実を言えばそう言っている天ちゃんに同調して詰まらなさそうに見せているだけで、俺自身はこの連休を毎回のごとく不安と期待を胸に募らせている。今回に限らず、毎年の事だ。楽しみだというところでは天ちゃんも同じで、このゴールデンウィークにある自身の誕生日を心待ちにしている事だろう。

 今日は天ちゃんの誕生日なのである。

 寝過ごすわけにいかないので、普段よりも三十分ほど早くにかけた目覚まし時計のお陰で起きて直ぐだと言うのに俺の頭は非常に冴えている。押入れの中に入れて隠しておいた天ちゃんへの誕生日プレゼントを出しておく。もしかしたら不備があったかも、そう思って今日まで何度も中身に不備が無いかどうかを確認してきたため、これ以上はする必要はないだろうと思うもののついつい気になって覗いてしまう。

「よし、問題は無いな。」

 再三確認しているが何の問題も無いみたいだ。それにしても包みのあるものじゃなくて良かった。店の人のような綺麗な包装は俺には出来ないから、今回のように何度も確認ができずに余計に不安を募らせただろう。

 まだ天ちゃんたちが来るには早い時間だ。今日は天ちゃんの誕生日だから皆、バイトも無く集まれると言っていた。姉さんも久しぶりに家に顔を出すようだ。亜巳さんと姉さんは大学が終わってから晩御飯に合わせてくるらしい。辰子さんと竜兵さんは天ちゃんと一緒に、もう少ししたら来る。

 バイトが休みのときは、竜兵さんと辰子さんは家の道場を使って体を動かす。天ちゃんもそれに混じっているのだが、竜兵さんと辰子さんはそれなりにがっつりと組み手などをするのだ。天ちゃんが弱いわけじゃないが、その二人と同じ事をするとなると如何せん身体的なリーチが足りなくなってくるのだった。だから前までは俺がついていって天ちゃんの修行を見ていた訳なのだが、この頃は黛さんが行くようになっていたので、俺としては久しぶりだ。

 行かなくなった最大の理由の俺の体のこともあって気を使ってくれているのも分かるが武道面での面倒を見ていたのは俺だったから、教えたりできなくなって少し寂しい思いもしていた。

 まだ随分と時間に余裕がある。とりあえず朝食と歯磨き、ついでに髭も剃っておこう。

 

 

 玄関で今か今かと待ち続けるのは、流石に阿呆らしかったので結局茶の間で時間を潰していた。こういう時、特に十分程度の空き時間だと特にする事がないので無為に時間を浪費してしまう。

 この家にもインターホンはあるが、そんな事をしなくともこの家の敷地に誰かが入れば、気を感じる事で分かるので、意味をなしていなかった。板垣家の面々も最近はめっきり押さなくなった。返事が無くても入ってくる。別段、黒田家も怒ることも無い。それだけ板垣家の出入りが多いのだ。皆の年齢が高くなっているとは言っても、天ちゃんは殆ど毎日来ているし、なんだかんだ竜兵さんも辰子さんも少なくとも一週間に一度は来て体を動かしている。

「お邪魔しまーす。」

 天ちゃんが元気な声で自分がきたことを告げている。何時も元気な天ちゃんだが、今日は三割り増しぐらいで元気だ。

「誕生日おめでとう、天ちゃん。」

 誕生日プレゼントを渡しながら挨拶をする。

「ウチの持ちキャラのぬいぐるみだ。高くんありがとう。」

 凄く喜んでくれている。辰子さんに裁縫を習って一から作った甲斐があったようだ。

「あー。高くんまた背ぇ伸びたねー。リュウと同じくらいだ。」

 そう言って辰子さんが自分の頭頂部から手を水平に動かすといった古典的な身長の比べ方をして、ぺしぺしと俺の顎のあたりを叩いている。

「少し前までは餓鬼だったのにな。天と同い年なのが信じらんねえな。」

「リュウ、同い年じゃなくて今日からウチの方が年上なんだよ。謂わばお姉さんだ!」

 余計信じられない、と言った竜兵さんに天ちゃんがつっかかっている。黒田の血筋は体が大きい人が多い。姉さんも背が高いし、父さんも2メートルは越えている。その事もあってか無駄に視線を集めるからと言って父さんは滅多に外に出ない。

「二人とも遊んでないで、お昼も近いからさっさと鍛錬して午後からだらけようよー。」

 口喧嘩している二人を引きずりながら辰子さんは道場の方へと歩いていく。

 一年前もこんな事があったなと思いながら俺も道場へ向かう。

 

 

 軽く体を動かすといった感じで、竜兵さんも辰子さんも本気で殴り合ってはいない。体の動かし方を確認する、黒田の考え方に従った鍛錬になっている。黒田の奥義に限らず、伝えられている事。そして教えられる事は武術の基本的な動きだけだ。この二人のような体格に恵まれて重い一撃が繰り出せるならば、攻撃の捌き方を教えて組み手の中で自分にあったような戦い方を模索してもらう。

 師に相談してもらえるならば、最適化した動きを共に徹底して考える。それが黒田の教え方であり板垣家への教え方だ。竜兵さんも辰子さんも一撃に重きを置いた戦い方が馴染んでいるのでお互いの組み手を多くして、考えの機会を増やすようにしている。亜巳さんは棒術が馴染んでいたようで武具に長けた姉さんと鍛錬をしていた。

 天ちゃんは思いがけないくらいに器用なのだが、力が強いといったわけではない。かといって武器を持たせてみたが手に馴染むものが無いと言っている。教えられる事を繰り返し丁寧に教えて天ちゃんのできる行動に幅はできたのだが普通の動きだと竜兵さんと余り大差が無くなってしまう。そうすると背の高い竜兵さんが勝つに決まっている。実力に差が余り無くても組み手だと無茶もさせられないので顕著に体格差がでてしまう。

 であるからして、俺の代わりを務めた黛さんが何を教えていたのかが気になるのだ。

「何を教えてもらってたんだ。外から来た武芸者だから面白い話でもあったか。」

「よくぞ聞いてくれた、高くん!ウチの修行の成果が実るときだ!」

 天ちゃんがいきなり語りだしたけど面白そうだから静かに聴いていることにした。

「苦節数ヶ月、教えている途中で松風と他の話を話し始めるまゆっち。そして初めは一切理解すらできなかった説明を乗り越えて、ウチが手にした力。」

 無駄に力説をしているがそれだけ大変だったのだろうか。とりあえず黛さんも天ちゃんに技術を教えようと頑張ってはいたのだろう。

「さあ見てごらん、ウチの炎。」

 紫炎が天ちゃんの両手に纏わされる。気の扱い方の上手さが格段に上がっている。黛さんが教えてくれたのだろう。

「すごいな天ちゃん。俺じゃそんなに綺麗に炎にできないぞ。出来ても温度変化くらいだ。」

「ふふーん、すごいだろ。なんとこの炎!自由に出し入れ可能だから火災も発生しないし、元々が気で作っている炎接触判定もあるし、燃え広がったりもしない優れものだぜ。普通の火みたいに酸素が薄い下のほうは熱くないなんてこともない。しかも脳波コントロールできる!ふふふ、凄かろう。」

 確かに凄い。今まで散々格闘術を仕込んできたから加えて遠距離、中距離での牽制手段が出来るとなれば一気に戦闘に幅ができる。まあ、気を用いた戦闘の中でも放出しながらの戦闘はは完全に俺の専門外なのだが。

「じゃあ竜兵さんと五分ぐらいにはなれたんだな。」

「あー、それはちょっとな。前に少し試しにやってみたんだけどね。」

「その猪口才な攻撃を全部無視して突っ込んで、殴り合いに持ち込んで俺の勝ちだったぜ。」

 組み手を終えたらしい竜兵さんがこっちの話に首を突っ込んできた。

「リュウ、なんで言っちゃうんだよ。」

「高昭、姉貴が先に鍛錬切り上げて風呂借りてるけど問題ねーよな。」

「大丈夫ですよ、俺はもう少し天ちゃんの修行を見てあげないといけないみたいだし。」

 天ちゃんは余計な事を言ってしまった竜兵さんの足を蹴っている。仲が良いのは悪い事ではないが少し天ちゃんが可愛そうなので助け舟をだそうか。誕生日だし出血大サービスだ。

「駄目だろ天ちゃん。相手の機動力を削がないとなんだから、もっと腰を入れて蹴らないと。模範演技をするので竜兵さん上手く捌いて下さい。」

 言って、俺が構えを取ると竜兵さんは目に見えて焦ったような素振りを見せる。

「おいおい、待てよ。姉貴の相手してて俺の足は既にがたがたなんだぞ。お前の蹴りなんか食らったら明日一日歩けねえよ。腕治ってねぇんだから無理すんな。おい待て馬鹿。」

「冗談ですよ、本当にやるわけ無いじゃないですか。」

「笑えない冗談だなおい。じゃあ俺も切り上げるからな。天は俺に勝てる程度には頑張ってくれよ。まあ無理だと思うけどな。」

 竜兵さんはそう言いながらもちゃんと一礼をして道場から出て行った。

 隣を見れば天ちゃんが項垂れている。せっかく頑張ったのに、その結果たる技をあんな風に頭ごなしに否定されてしまったらしょぼくれてしまうのも仕方が無いのだろう。折角の誕生日なのに気落ちさせたままにはしておけない。

「天ちゃん、竜兵さんとの組み手の時絶対に牽制に炎を使っただろ。」

「当たり前だろ、飛び道具として優秀だからな。燃えろぉー!ってな具合にな。」

 天ちゃんが当時の再現であるだろう身振りをして、その手から放たれた炎は地面を這いまわって進んでいきやがて消えた。

「そんなに大きな動作だったら相手が飛び込んできても迎撃が間に合わないだろ。牽制なんだったらもっとコンパクトに打たないと。」

「それでも必殺技だったら派手にしたいじゃんか。ウチはシャープな格好良さより派手な演出が出て見た目が映える奴がいいんだよ。」

「じゃあ牽制は普通今まで通りでいいんじゃないか。その代わりに炎を使って高威力を出せれば近寄り辛くもなるし、高威力が嫌なら広範囲にすればいい。炎だから場持ちもいいし自分が動くところだけを操作すればデメリットもないだろ。」

 頭の中だけで考えた机上の空論でしかない事をつらつらと述べてみる。きちんと考えれば可笑しい部分も多々見つかるだろうが、それは実際に技を編み出してから修正していけば良い。結局は錬度が大切なのだから使えない技でもてこ入れしていく内に十分実践で通用する技になる。

「そうなー。色々試したい事もあるし地道に考えるか。ウチは開発とかは苦手なんだけどな。コンボとかも大体誰かの流用だし。でも高くんが手伝ってくれるなら大丈夫かな。」

「自作の補正切りをがんがん使ってくる天ちゃんが言える事じゃないだろ。まあ一人で暇つぶしするのも限界だから今度からみんなの鍛錬を見に来るかな。ちゃんと指導しないと天ちゃん火事を起こしそうだし、黛さん頼りなさそうだし。」

「ウチらの修行もマイペースだからな。まゆっちも本当なら終わりまで真剣にやってけじめをつけるんだろうけど、如何せんウチは黙ってると逆に集中が持たないんだよな。まゆっちが話に付き合ってくれるのは嬉しいけど結局は時間が延びちゃってるだけだしな。でもその話をしていた時間があったからこそ、この炎も出せるようになったし一長一短なのかな。」

 喋っていても黙っていてもパフォーマンスの変わらない天ちゃんもある意味では一種の珍しい才能を持っていると言えた。今となっては炎を出せるようになったりしていてそっちの方がこれからは特色と呼ぶべきなのだろうか。しかし黛さんの鍛錬の妨げになっている可能性も今の天ちゃんの話から示唆された訳だし、結局は俺も道場に脚を運んだほうがいいのだろう。

 それにしても感覚的には然程武術、並びに指導から離れていた様には思えかった。目に見える程の変化があった天ちゃんにしても、ちらと見ていた竜兵さんと辰子さんの組み手にしても、皆少なからず成長している事が良く分かった。よく考えれば俺の右手が可笑しくなってから半年近く、リハビリに通うようになってからの事を考えても随分長い時間が経っていたのだと改めて思う。

 周りも変化している、そんな事より身近な変化があるのにもかかわらず俺は長い時間が経っていた気がしなかった。身近な変化、天ちゃんの事と比較すれば小さい事かもしれないが、リハビリのお陰で一応病気の進行は止まって未だに実感できるほどの効果は出ていないが少しずつ回復している。

 当時の事を思い出せば、トイレで無理して右手を腰の方へ動かしたらその格好のままで右手と、筋肉の繋がっている右半分の背筋を攣ったのは苦い思い出だ。今となっては落ち着いたもので筋が攣る事もめっきりと無くなった。

 動かし方は未だに明確には掴めずに居るが、リハビリの後で右腕が以上にだるくなる事に右腕の人としての機能が、つまりは感覚がまだ通っているのだと密かに感動したのも記憶に新しい。相変わらず意思とは関係ない形で薬指や親指が痙攣しているが、痙攣とは違う自分の意思で人差し指がピクピクと動くようになった時、今まで味わった事のない妙な感覚だった。

 痩せこけていた右手にも少しではあるが肉付きが良くなった風に見えてしまう。

 少しずつ修行を続けていた天ちゃんがコツなのか、或いは黛さんが来たというきっかけなのか。どちらにせよ大きな転機、それも良い方向へ転がっているのは間違いが無かった。

 俺も何らかの感覚を掴めば、また昔のように自らの十全な武を揮う事ができるのだろうか。

 そんな心配をするまでも無く、リハビリを続けていけば何時の日か昔と同じようになれると信じてきたわけだった。だが、暫くぶりにこうして昔のように修行を積んでいるみんなの姿をこの道場で見ていたら、俺は武が好きだったのだなと思い知らされた。

「あ、でも無理はしなくていいからな。道場に来ないならそれでも良いし、ウチの我侭で高くんの右手が悪化したら後味悪いから。でもこれから、もう少し高くんと話をする時間を作れるだけでウチは十分だから、無理だけは絶対にしないで。」

「気にしすぎだ。俺が大丈夫だと言ってるならそれは俺の自己責任だ。特別動くわけでもないし、片手が無かろうが天ちゃんたちの攻撃なら捌ける。」

「折角人が心配してるのにその言い方は酷いだろ。一回ぐらいなら辰姉が当ててるの見たぞ。」

「誰が武術を教えたと思ってるんだ。辰子さんの攻撃は掠っても致命傷になりかねないけれども、避ける事だけに気をかければ当たる事なんてない。それに当ててるだけなら竜兵さんのほうが多い。」

 竜兵さんと天ちゃんの掛け合いと同じように、こうして軽口を叩きあえる。後で思い返せば、少し前まで天ちゃんが態々喋る機会を増やそうと言っていたように、こんな風に喋る事が少なくなっていた。今は、右腕を話題に出されても落ち着けている。結局、俺に心の余裕が無かったのだ。話し相手が天ちゃんという要因も大きいが、ある程度、回復している実感が湧いてきたので右腕を話の種にされても余裕が出てきたのかもしれない。

 普段は格闘ゲームの話を、鍛錬が終われば武術の話をしていたあの頃と同じように過ごせる日に戻りつつあった。

「今日の鍛錬は終わりだな。そろそろお昼も近いから先に汗を流してこい。辰子さんも上がってるだろうからな。」

「辰姉寝てるかもな。この頃はバイトで帰りも遅いから疲れてるみたいだし、リュウ曰く学校でも寝てるらしいけど風呂場で寝てる事もしょっちゅうなんだよ。」

「じゃあ尚更俺が風呂場にいけないな。天ちゃんが起こさないとだから。鉢合わせたりでもしたら大変だからな。」

「家でも一度リュウが殴られてたな。風呂場だと逃げ場が無いんだ、って言ってた。」

 

 

「ああ糞ったれ。姉貴のせいで風呂に入れねえじゃねえかよ。」

 案の定と言った具合に、待てども辰子が風呂場から出てくる気配が無かったので竜兵は家に戻り汗を流す事にしていた。

「姉貴のせいでこんな事してるのに『洗濯物増やさないで』なんていうんだからたまったもんじゃねえよな。俺に道着を着たまま町を闊歩しろって言ってんのか。」

 汗をかいたままの状態で着てきた服に着替えている竜兵の手には、帯で無造作に繋ぎとめられた道着があった。いくら陸上の選手でも、ユニフォームでロードワークをしないのと同じく、竜兵も道着の状態で街中を歩くというのは憚れたのだ。別段、竜兵はそんな姿を見られて恥ずかしいと思うような性格はしていないが、面倒事は避けたいのだ。この川神という地は、武神への果し合いや道場破りにくる地方の武術家も少なくはなく。道着を着ている人間なんて居たらば、肩慣らしだといわれて戦いを申し込まれても文句を言えない。唯でさえ、こうやって道着を持っているだけでも声をかけられた経験が竜兵にはあって、それも一度や二度では済んでいない。

 辰子が風呂場で寝ているだけで、こんな仕打ちにあい。その上小言まで言われるのだ。竜兵はその事に、割に合わないとは思うものの、普段家の火事全般をこなしている辰子には頭が上がらないのであった。

 体は疲れているが、相容れない連中に会った時は精神的にも疲れてしまうので早足で帰りの足を速めるのであった。竜兵は、武術家の全員が高昭や紗由理のように不必要なまでに他人に気をかける人物だったらどれほど良かったか、と思う事が多々ある。

 しかし、その度に自己中心的なのは武術家に限った事でもなく、寧ろ自分がそれほどまで出来た人間でもない。そう考えて自分の行動を省みようと思うわけだが、気の短い性分はなかなかに厄介なもので、風呂に入れない程度の事に悪態を吐く始末だ。

「おいそこのお前道着を持っているという事は武道家だろ。」

 竜兵はその呼び止める声に反応する。

「護身術を身につけるための習い事だ。武術家なんて大それたものじゃない。」

「おいおい、幾らなんでもその図体で『習い事です』っていう言い訳は無理があるだろ。ん?お前確か板垣の弟か。」

 そうのたまってきたのは黒い髪の、竜兵とそこまで年の変わらない女性だった。

「誰だてめえ。姉貴の知り合いか。」

「一応同じ学校に通ってるんだけどな。この完璧美少女に見覚えが無いと言うのか!」

 言われて竜兵は学校での記憶を思い出そうとしてみるが結果は得られず、首を横に振る事で知らない事を伝えた。

「本当に知らないのか。武神も地に落ちたものだな。がっくり。」

「ああ武神なら知ってるが、お前が武神だったのか知らなかった。すまんな、帰らしてもらう。」

 そう言って竜兵は武神に背を向けて帰ろうとする。

「おい待て、私は川神百代だ、武神だぞ。お前も武術家なら挑戦状とか戦いたいとかないのか。」

「俺の知り合いは武術家だが生憎と俺は違う。帰らせろ。」

「じゃあ、あれだ。私は美少女だぞ。ムラムラきたとかないのか。」

「俺は女に興味はねえ。さっさと帰れ。」

 竜兵の発言に驚き一歩退いた武神を見て竜兵は歩を進める。

「話はそれだけか、俺は帰るからな。」

 律儀に竜兵が声をかけると武神が生返事をする。

 今度こそ帰ろうとすると後ろからまたも声をかけられた。

「待て、最後に一つだけ聞かせろ。」

「なんだよ。さっさとしろ。」

 少し前の考えとは裏腹に苛々してきた竜兵は口調を強めて催促した。

「釈迦堂刑部、この名前に聞き覚えはないか。」

「誰だそれ。知らない奴だな。」

 竜兵が聞き返すと武神は軽く説明をした。

「川神院、家の師範代なんだが私くらいの年代の男子に負けたと言っていてな。聞いたは良いのだけど情報を教えてくれなくて困ってるんだ。私のじじいも教えてくれえないし、でも釈迦道さんが武に前向きな姿勢を見せるようになった切っ掛けになって奴らしいからコテンパンにやられたんだろう。そんな奴がいるなら、と思って探してるんだが見つからないんだ。」

「しらねえな。じゃあ俺は帰る。」

 強い男子、竜兵がそう聞いて思いつくのは高昭しか居なかったが、高昭の病状ならば今武神に可能性を伝えても意味が無い。そう考えて何も喋らなかった。

 高昭の右腕の病気を思うと、何の力にもなれない自分の無力さに悲しくなってくる。

 そして竜兵は武神を目の当たりにして、その体から溢れる気の総量、絶対的自信、言葉とは裏腹に自分の事など歯牙にもかけぬような言動に、多少の怒りを覚えたのだった。




持ちキャラ……格闘ゲームをする中で重点的に使う、若しくは一筋に使うキャラクターの事。二番目に使うキャラをサブキャラと呼んだり、持ちキャラを変えることをキャラ替えと言う事がある。
飛び道具……攻撃判定を遠くに飛ばす武器やそれを行う技自体もさす事がある。特殊な判定(飛び道具判定)となっているゲームもある。必殺技としてポピュラーなカテゴリの一つだが、飛び道具判定の通常技もあったりする。


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第十二話 幸福の一つの形

今回で前置きは終わりです。
次から原作に入れます。

ちなみに、主人公を除くオリキャラに関しては名前を与える気は無いです。

誤字等ありましたら感想にて伝えてください。


 時の流れというのは早いもので、もう一年以上の時間を過ごしていた事になる。昨年の夏休みが終われば後期の生徒会選挙があってどこぞ委員長のあだ名が会長に変化した。それからは俺にとって辛い冬が訪れ天ちゃんが編んでくれた指なしの手袋にカイロを入れて寒さを凌いだ。中学校の最高学年になってから一月も経たない間に修学旅行に旅立ち、そしてそれが終わるとクラスに関わらず受験の自覚が芽生え始めた。

 そんな受験生の長く苦しい夏休みも既に終盤に差し掛かっていた。

「ああ~、暑い!高くんエアコン、エアコン点けて。」

「そのページ終わらせたら今日の分は終わりなんだからサボり癖を治すためにも後二問だけ終わらせろよ。」

 かれこれ三十分はそのページと睨めっこしていた天ちゃんは集中が切れてきたのか、暑さで苛々しているのかテーブルの角をシャープペンシルで叩きながら俺に催促をしてきた。

「わっかんねーよ。食塩水の濃度なんか求めて人生の何の役に立つんだっての!こんな問題できなくても誰も困らないだろ。」

「受験には必要だろ。それに今正に天ちゃんが困ってる。」

「ううう。」

 うめき声を上げながら天ちゃんはテーブルに頭を伏せている。流石にお手上げなのだろうか。ノートにはぐちゃぐちゃになった何かの図が書かれている。個人的にはこういう数学の問題は、四苦八苦しながらも自身の閃きを以ってして解く事によって立式の方法を覚える事ができると考える。

 何らかの問題で行き詰る度に天ちゃんには何度も、図示しろと声をかけてきた。逆に言えば、この夏休みに入るまでには基礎的な事をみっちりと教え込んだ事が、無駄になっていなかったのは喜ばしい。アドバイスが図示しろ、といった問題は中学の範囲で言えば関数だったり、立体だったり、後はややこしい問題文の時くらいなものだろう。

「なんでウチが茶の間でこんな暑い思いをしてるのにまゆっちと会長は二階で涼んでるのさ、不公平にも程があるだろ。」

「夏休み前の実力テストで会長は県内でトップ10。天ちゃんは川神学園の特進科がB判定。特待入学するんだったら当然だろ。英語を詰め込んで、国語も、地理も歴史も理科も詰め込んだから残りは数学の発展問題を頑張れば次はS判定に届くだろ。」

「それで、覚えたと言い切っても、この勉強漬けの毎日は何時まで続くんだよ。まだ公民も終わってないし、英語も反復でほぼ毎日だし、まだ半年あるし、……暑いし。」

 そういいながら天ちゃんは突っ伏したまま自分のノートを俺に突き出してきた。答えを写さないように俺が採点するようにしているのだが、こうして丸付けをする事は勉強にもなっていて、復習としてこの役目を利用させて貰っている。ジュースの入ったコップを天ちゃんに差し出すと中身を全部飲み干して俺に無言で渡してきた。もう一度渡すと、半分くらい飲んでから天ちゃんは自分の傍にコップを置いた。

「復習のために間違えたところは明日だな。」

 声をかけてみるが、上の空といった感じで天ちゃんは反応を示さない。夏バテだろうか。

 もう晩夏だというのにそんな事もないだろうが、一応気にかけた方がいいだろう。学校からの課題は夏休みの初めに終わらせてあるし、この夏で潰しておきたい基礎問題も粗方終わらせたから休息として何日か休みを入れた方がいいのだろうか。しかし天ちゃんが自分から、家計を助ける目的として勉学にやる気を出しているのだから受験までは頑張らせるべきなのだろうか。

「……、高くん。」

 少し顔を上げた天ちゃんが話しかけてきた。

「高くん、祭りまで後何時間くらいだっけか。」

 言われて思い出した。今日は夏祭りだったのか。道理で日に日に会長の黛さんに関する愚痴が増える訳だ。未だに距離感がつかめないのであいつに丸投げしたら、きちんと対応してくれたまでは良いが黛さんがべったりになってしまったようだ。

 べったり、といった表現は間違いかもしれないが俺たちは四人で一つのお友達集団だ。そのお陰で班単位の活動のときにあぶれないで済んだ。だが、何年もこの土地で学校に通っていた俺や天ちゃんや会長とは違い、黛さんは来て間もなかった。そのため、色々な人たちと関わる機会が少なくなってしまったと言える。

 まあ、その程度の事で友人が出来ないわけもない。結局のところクラスの大半は、転校生は頼りになる委員長に任せておけば良いと思っていた薄情者だということだ。川神市で育った人間の全員が、帯刀している程度の事に恐怖する訳が無い。視界に入れても何の興味も、感想も持とうとしない。

 散々言っているが俺だって今となっては、小学校の頃の友人でしかも違う学校に言った奴ら全員の健康を気遣ってやるほどに気をかける人間ではない。

 友情すら芽生えてなければそんなものだ。切っ掛けもないのにいきなり旧友のように語らえとは言えない。しかも、その切っ掛けを潰しているのは俺たちかもしれないというのに、だ。

 それを知っていてどうにかしようとしない理由なんて分かりきっている。

 面倒なだけだ。今のままで十分。俺らにしても、四人で居るのが楽だし、他のクラスの人たちにしてもコミュニティーに余計な人を入れるのは快くないだろう。

 だから、で済ます程度なら良かった。

 半分は俺のせいなのだが、とりあえずの弁明をする。あいつが生徒会に入っていたとすれば仕事のある日はあいつ、つまりは会長の帰りは遅くなる。放課後、俺の家に居るのは三人だけだ。天ちゃんと黛さんが二人で遊んでいて俺が一人で居る分には良い。だが、俺のところに天ちゃんが来た途端どうだろうか。もしくは俺の部屋で二人がゲームしてる時、天ちゃんが俺に話しかけてきたら。その条件下だと高確率で俺と天ちゃんの真面目な話が始まる。黒田が来る前の昔の板垣の話だったりと重い話だ。

 当然黛さんは話に参加できないし、巻き込まれたときは逃げられない。

 その為の逃げる場所が会長だ。

 態々、生徒会に立候補して放課後も会長と一緒にいる事で重い話に巻き込まれないように退避。そして、その分あいつの負担が倍増した。まともに意思疎通ができないのに生徒会に入った黛さんの仕事のフォローまでしている始末だった。サポートをされる側の人間だというのに、こればかりは心底かわいそうである。しかしまあ本音を言えば俺と天ちゃんが二人きりになれる時間が増えているから俺からすれば万々歳なのだが、これは心のうちにしまっておく。

 だからこうして俺が勉強を付きっ切りで教えている時、彼らは彼らで遊んでいて、その事があいつには少し辛いらしい。俺は黛さんに詳しくないから知らないが、変なところで真面目な会長は行動力が増してきた黛さんの、有体に言って色仕掛けもどきに、困っているらしい。もどき、の所以と言うと、何でも松風が事あるごとに騒いで、結果として黛さんによる一人芝居が始まり暫く待つと思い出したかのように、また訳の分からない行動が始まるのだと言っていた。

 黛さんの奇怪な行動自体は、あいつも健全な学生であるから、体が触れ合ったりするのは役得であるらしいのだが、周りの目が痛く、会長としての威厳も何もあったものではないらしい。

 中学校の生徒会演説で当選するためには笑いを取りにいったりして生徒全員に覚えて貰わなくてはならず、あいつと、応援演説者を頼まれた俺は演説の内容を考えるのに苦労して、恥を捨てて捨て身の覚悟での当選だったのだ。その為、元々塵ほどにもない会長の威厳であるのに、ただ浮ついているだけの人間という評価をなされるのは、幾らあいつと言えども生徒の代表としていけないだろうと思い続けてきたのだった。

 あいつがその様に思い続けて半年以上が過ぎている。

 会長自身にかかる迷惑と、欲望(あいつの場合は黛さんと仲良くする事で将来刀鍛冶になれるかもしれない、と考えている。あくまで青少年としての欲望はおまけなのだ。とあいつの名誉にかけて言っておく)を天秤にかけた時、欲望が勝ってしまっている。

 閑話休題。

「祭りまであと二時間はあるけど、部屋でゲームでもしてるか。」

「いや、ちょっと寝るからいい時間になったら起こして。」

 テ-ブルに突っ伏したまま、天ちゃんは寝てしまった。

 せめて飲み物くらいは飲み干して欲しかったが、起きた時に飲むかもしれないので少し遠いところに避けて、そのままにしておく。

 

 

 もう少しで夏休みも終わりだと言うのに、毎年毎年蝉の忙しない鳴き声が聞こえる。

 夏休みに限らず、一日一日と少しずつ時間が過ぎていく。

「天ちゃん、元気ないですけど夏バテですか。」

「ん~、寝すぎただけ。」

 着物を着付けているのでいつもはこの後に続く松風の言葉は無い。今松風は床に置いてある。

 流石のウチもいい加減松風が九十九神ではない事くらい分かった。それでもあのレベルの腹話術を

使えるまゆっちは十分に凄いとは思う。

 元気が無い、というのはあながち間違いのではなかったりするのだが、まゆっちに言うほどのこともないだろう。言ってもどうにかなる事ではなく結局はウチがどうにかしないといけない事だ。

 あの時は眠かったには眠かったが、その行為に逃げただけだった。

 コップをつかめるようになったんだ、と唯それだけの事を高くんに喋る勇気が出てこない。コップをつかめる事になった事に限らず、箸をつかめるようになったり、ドアノブを回せるようになったりする度にその事について喜びはしたものの、直接本人に伝える事はしなかった。

 高くんにとって右手がどれほど大切な問題なのか、皆分かっていない。誰より近くで見ているウチ以外の全員が、だ。リュウも、辰姉も、そして紗由理さんも分からないだろう。高くんにとって命の尊厳にも等しいであろう右手の事。

 以前、馴れ馴れしい体育教師との事だった。

 どの生徒も下の名前で呼ぶ、どこにでも居るような体育教師だ。若い、とは言いがたいが年老いた老人というほどでもなく、明るい先生であるので生徒からの評判は悪いものではなかった。だが人生経験は少なかったのだろう。

「どうだ、黒田。右手は良くなったのか。少し先生の手を握って見せてくれ。」

 言うに事欠いて、その先生はそう言ったのだ。

 リハビリに通いだして半年にも満たない頃だった。

 勿論、その先生は善意で、心配しているからやった行動なのである。だから高くんも断る事だけは決してしなかった。

 その時の、いやその後背を向けた先生に見せた高くんの表情をウチは忘れる事ができない。

 どれだけの惨めな思いをしたのか、ウチには分かるわけもなかった。

 力ない右腕。それを差し出す事は、野生の獣が相手に腹を見せて服従を示す事と同義であった。

 まして人間が、しかも武芸者が、生き残りたいという本能よりも誇りを優先し、命よりも重い魂の尊厳を守る人種が、それを差し出したのだ。

 そして晒した、自分の無力を。力の入らない右腕では、見せろといわれた『握る』行為すらできないのだと、これほどまでに惨めな姿だ、と。

 怒りとも悲しみとも取れない高くんの顔が、頭から離れない。

 ウチが踏み入っていい問題なのかも分からない。

 唯一、ウチだけが高くんの右側にいる事が許されている事を、皆は知らない。それに関しても、教室の席の配置上仕方なかったりして妥協しているのかも、と考えた事もあるが違った。

 高くんは、歩くにしても右側通行を貫いている。道路交通法を慮っている訳ではない。高くんは自分の右側に誰かが居るのが怖いのだ。ウチには分からない。何故、車両側に立つのか。何で、もっと弱い存在である人間に右側を侵されるのが怖いのか。

 高くんのパーソナルスペースは右半分に広い。

 病気に関係して、だから足の部分は関係がないのだが。それでも、右腕に限らず、右肩、首筋、背筋、胸筋と神経性の病気のために影響のある部分は全て、触れようものなら、高くんの心に土足で踏むいっている事に等しい意味を持つ。

 触れられずとも、右側に居られる事を快く思ってはいない。

 しかし、それならば何でウチの事だけは許すのか。

 言ってくれれば、右側にも立たない。聞き訳がないわけではない、寧ろ誰よりも高くんに気をかけている自信さえある。

 高くんが、ウチに心を打ち明けてくれていないのではないか。

 その事実は、ウチが高くんにとってどの様に思われているのかを分からなくさせる。ウチを家族の様に思ってくれているのか、いつかの亜巳姉の冗談のように異性として好いてくれているのか、ウチに限らず誰にも心を開いていないのか。

 自惚れでは無い。

 高くんと一番心が通っているのは、黒田家の誰でもない、赤の他人である筈のウチである。

 近しい筈の黒田家に限らず、皆が、あれだけ抱え込ませておいて尚、今の高くんの気丈な振る舞いを見てそれをよしとする。

 分からないのだ。高くんが成長して、大人びて見えるがゆえに。

 あの日の嘆きも、あのときの苦痛の表情の一端にも触れていないために、分からないのだ。

 ウチでさえ怖くなる。皆に右腕の事をひた隠していた時の高くんは、何でもない振りをしていた高くんは、どれだけの苦痛を一人で背負っていたのか。

 気づけなかったウチらをどんな目で見ていたのか。

 怖い。

「何時まで着替えてんだお前ら、置いてくぞ。……っと高昭、幾ら俺でもどさくさに紛れて覗きにいく訳ないだろ。」

「小学校でプール終わりに女子更衣室に入ろうとした馬鹿ならやりかねないだろ。」

 着替え自体は終わっていたが、時計を良く見ていなかったらしい。

 まゆっちも松風との作戦会議をしていたらしく全く時間の経過を気にしてなかったみたいだった。何の作戦会議なのかは言わずもがな、会長がらみだろう。

 玄関に出ていた高くんたちと合流する。

「オラと違って最近の男子は本当に色気ねーよな。祭りの日なのに普段着だもんな。」

「年中一張羅しかない松風が言えた事かよ。それに色気も糞も、艶めかしい男とか気持ちわるくてしょうがないよな、まゆっち。」

「ええええ、えっと偶にはいいんじゃないんでしょうか。」

 艶めかしい男ってなんだよ、と言いたいところではあるが松風の問いかけをまゆっちに打ち返す事に関しては流石としか言いようが無い。

 自分で松風に喋らせたのに、色気のある男子の例を挙げられなかった時点でまゆっちの負けだ。仮に話し始めたとしたら、それはそれでドン引きなので、まゆっちに勝ち目は無かった。

「着れる服も限られるからな。」

「それは高昭だけだろ、体がでかすぎるんだよお前は。来年には二メートル越すんじゃないか。」

「えっと、高くんが二メートルだとウチよりどんだけ高いんだ。」

「板垣、勉強のしすぎで引き算もできなくなったのか。かわいそうに。」

 目頭を押さえながら会長は泣いている振りをしていた。会長はいちいちむかつく事ばかり言う。でもまあ、反論しても面倒くさい事になるし無視するのが一番だろう。触らぬ神にたたりなし、だ。ここで反応して、面白いリアクションをするから余計に弄られる事になる。丁度まゆっちみたいに。

「しかし良かった。板垣の兄貴がいると背筋が寒くてしょうがないからな。勘弁して欲しいぜ、同性愛者を否定する気は無いけどよ。俺に関わりの無いとこで勝手にやっててくれ。」

「今日は安心していいぞ。リュウは今年も型抜きやってるからな。」

 そんな事を毎年一人でやってるのは流石にどうかと思うが、リュウ本人が好きなんだから気にしないでおく。

 友人でもなんでも募って、自分で屋台を出したほうが絶対に儲けられる。

 しかしリュウの目的は金稼ぎではなく型抜きをする事なのだ。別にリュウに友人がいないとかそういう理由ではない。

 しかし、一人で型抜きしてるような奴に友達ができるはずもないだろう。学校でどのような振舞いをしてるかなんて知らないし、学校生活のことなんて聞いたこともないが、こんな日にまで一人だという事はそういう事なのだろう。

 と雑談してる間にもう屋台が見えるところまで来ていた。

「ああー、みんな遅いなー。もうはじまってたのにー。」

 辰姉が入り口辺りで、声をかけてきた。

 手には焼き蕎麦があり、ウチの知らない女の人と一緒にいる。高校の友達だろうか。

「なんだこいつら、辰子の知り合いか。って一人阿呆みたいにでかいのがいるぞ。」

「妹と、その友達だよ。百代ちゃん。」

「妹の友達って、私より年下なのかこのでかぶつは。」

 その人は高くんを胡散臭いものを見るような目で見ている。

 この人の気の量も大分胡散臭いと思うのだが。

「うん。辰子の知り合いっていうなら、これくらいあって当然か。一人は違うけど三人ともかなりの実力があるな。今日が祭りじゃなければ戦いたいんだけどな。じじいからも騒ぎだけは起こすなって止められてるし、今日は諦めるか。」

 辰姉の友達が溜息を吐いているところ、人見知りである筈のまゆっちがウチたちの中で初めて口を開いた。

「あのう、つかぬ事をお伺いさせていただきますが、その膨大な気の量。もしかしてあの武神さんでしょうか。」

 にたりと口を歪ませたその人は少しだけ、体から気を漏らす。

 ある程度の実力者にしか分からない威嚇の方法に、まゆっちは目を細め、高くんはウチが反応するよりも早くウチとその人の間に割って入っていた。

「うんうん、気に入ったぞお前たち。いかにも私が武神、川神百代だ。そっちの子は、帯刀の許可が下りているって事はかの黛の家系だな。そっちのでかぶつは、どこの家だ。」

「黒田。」

 ぶっきらぼうに告げた高くんは、名乗りだとかそういう事どうでもいいと言っている風だった。

「年上のお姉さんにそんな態度取るのか。最近の子は冷たいなー。今なら組み手で川神の技を見せてあげたって良いんだぞ。」

「前に見た。」

 高くんが言った言葉に反応して、百代さんの目つきが変わった。

「なあ、お前。釈迦堂刑部って、聞き覚えないか。」

「前に一度、川原で。」

 そうか、と一言漏らした百代さんは、目をぎらつかせたかと思うと急に悲しい顔をした。横目で高くんのポケットに納まっている右手に視線を送ってから辰姉と一緒に人ごみの中に戻っていった。

 

 

「高くん、少しあそこに腰掛けよう。」

 ウチは少し屋台から遠くにあった石段を指差して高くんの方を見る。微かに頷いて、高くんも石段の方へ歩を進めた。

「それにしても凄い人の量だったな。浴衣しか着てないのに暑くてしかたない。」

「そうだな。」

 応答した高くんは飲み干したラムネのビンを手で弄んでいた。感覚を確かめるように、ポケットから出していた右手で。

「なあ高くん。」

「んっ、なんだ。」

「その、右手、大分よくなってきたんだな。物とか、持てるようになったみたいだし、さ。」

 ウチの言葉が意外だったのか、高くんは少し呆けたような顔をした。

「なんだ、暑さで頭でもやられたか。」

「紛れもない本心で、高くんの事を心配してんだよ。」

 茶化そうとした高くんの思惑には乗らず、極めて真剣に視線をそらさずに見つめる。

「そっか。口に出さなくても、気にかけてくれてたんだな。」

「あれだけ、普段から右側に殺気を出してたらいやでも気になるっての。ウチだけには右側のポジションに居てもお咎めは無かったけどな。」

 ウチが意地悪な事を言うと高くんは、恥ずかしくなったのか頭をかいて言葉を詰まらせた。

 その様子が、背の高くなった高くんに似合わず、思わず笑ってしまう。

「何だってそんなに慌てるんだ。家族だろ、ウチらは。ウチからすれば、亜巳姉たちより高くんの方が余程仲がいいし、別段気を許してたっておかしい事じゃない。」

「そうだな、もう人生で一番長い時間一緒にいるからな。」

 花火の打ち上げを告げるメガホンや、客の呼び込みの雑音が、遠くの方で聞こえる。

 木の生い茂っているこんなところでは花火なんて綺麗に見えず、祭りに来ている客は入り口のほうへと流れていっている。先程まで近くに居た子供連れの親子も子供に引っ張られて、花火を見るためにどこかに行ってしまった。

「なあ、高くん。」

「なんだよ、天ちゃん。」

「右手、触られるのってやっぱ嫌なのか。」

「そりゃあな。俺にとってどんなに大切なものか、他の奴らにはわからないからな。」

 高くんは弄っていた空のラムネの瓶を左側に置いた。そして、右に座っているウチに、右手を差し出してきた。

「でもこれまでずっと、気を使ってくれていた天ちゃんはどれだけ大切なものか分かってるだろ。今までと同じように、優しい天ちゃんには、俺の右を許してるよ。」

 ウチは差し出された右手を、両手で、壊れないように優しく包んだ。

 世間一般で言えば、手を繋ぐという行為なのだろう。

「ウチ、やっぱり暑さで頭やられてるかもな。」

「ばーか、俺たちは家族だろ。」



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第十三話 曇りときどきブルマ

話を練りに練ってたら方向性が分からなくなってきました。
タイトルだけで落ちがついてるのも考え物です。
見れば見るほど酷いタイトル。

今回は説明するほどの事でもないので格闘ゲームの用語解説は省きます。
この話に出てくる知識が間違っていた場合は教えてください。
また、誤字等ありましたら感想にて伝えてください。


 騒がしい音が鳴り止まない店内。それにつられて大きな声で会話をする人々。

 受験が終わってからというものの、俺はここのゲームセンターに入り浸っていた。少なくとも週に二回以上は来ている。

 まだまだ、俺にとっては肌寒い季節であるが、それでもこの右腕は十分に日常生活を送るのに支障がないだけの回復をした。医者にはまだ右腕を武術に使う事のドクターストップを受けているが、今年中には、それも解除されると思われる。

 俺の体躯や左腕の力と比べて考えると、右腕の力は非力なものだが、天ちゃんたちとこうして遊ぶ事に関する障害はなくなった。

 いっぱいに入ったペットボトルでさえ昔と同じように持てる。

「ほら、委員長。就任祝いの飲み物だ。」

 そう言って俺は、高校生になっても委員長の立場に立つことができた友人に飲み物を投げる。

「あぶねえな。もっと丁寧に扱えよ、仮にも祝いの品だろうが。あーあ泡立ってるよ。」

 投げる事を見越して、炭酸は控えたのだがお茶も振れば面倒になる事を失念していた。謝ろうかとも思ったが、俺の金で買ったものなのでどう扱おうが俺の勝手だろう。

「いやあ、ありがたいな。懐が寒いから少しのお金が浮くだけでも十分な好意だよ。」

「勝負事のほうは手を抜けないからな。」

 委員長の懐が寒くなった原因としては、俺や天ちゃんが今日のゲームで勝ち越しているからだ。大体にして今日だけで委員長は7クレは使っていた。

 午前で終わる高校初日であるが、昼飯も食わずに俺たちはゲーセンに来ている。

「気に病むことはないだろ、俺だってキャラ対しても天ちゃんにはかなり負け越してるからな。」

「あいつに勝つのは論外だ。でもお前は楽だよ、中段混ぜれば崩れてくれるから。」

「めくり対応できない奴に言われたくないな。」

 こんなところで油を売っていてもゲームが上手くなるわけではないが、こうして頭にある程度血を上らせておかないと、モチベーションを常に高めていられない。

「そういや、板垣はどこ行ったんだ。」

「北陸の拳をやりにいったと思うぞ。確か今週の水曜が店舗大会だったからな。」

「俺も昔は、1フレ当身だけで倒されてたな。」

「天ちゃんがダガキャンできないだけましだろ。理論値でいえばあっちキャラのが糞ゲーだ。」

 北陸の拳。少年誌の漫画が原作の格ゲー。自由度が高い分、面白いといえば面白いのだが、上手く生かすのも難しくある程度なれないと上級者には手も足も出ない。結局は難しいゲームなので、このゲームを研究し尽くした人の場合は、もっとキャラの数が多い他の格闘ゲームの全キャラの反確を覚えているのに等しい。やる気さえあればそこまで大変なことではないが、大半の人は上級者に狩られて止めていってしまうのだ。

「しかし、委員長は本当にお茶しか飲まないな。こんな年から健康にでも気を使ってるのかよ。」

「お茶は日本の心だぞ。愛国心と呼べ、愛国心と。」

 馬鹿馬鹿しい事を言っている。

「お前の場合あながち嘘じゃないなさそうだけどな。でも、お前が好きなのは国じゃなくて、国の文化だろう。外人の中途半端な知識じゃなく、委員長は無駄に詳しいもんな。」

「まあな。興味があることだから細かいところまで知りたいだろ。日本の歴史はめちゃくちゃ深いんだぞ。それこそ、日本って呼ばれてから何年だと思ってんだ。歴史上、名前がちらほら隋とか唐とかって変わる近くの国とか世界の大国とかと比べてもめちゃくちゃ長いんだ。」

「へー、そうなのか。言われれば確かに、つい最近までアメリカとかは無かったんだもんな。」

 委員長の語りぶりに素直に感心してしまう。

「最近ってほど近くも無いけど、まあそんな感じだな。一概に長けりゃ良いって事もないんだけどな。だけど、一つの国いくつもの出来事があって、文化の形態があって、色んな人が居たって事は面白いだろ。歴史があるから、伝記物も面白いんだよ。まあ昔に限らず、今の俺たちもその一部なんだ。お前の家にだって歴史はあるし、歴史を担ってるんだろ。」

「そうだな。」

 歴史を担うと言われても実感は湧かないが、委員長の中ではその様に解釈しているのだろう。

「温故知新と言うけどな。お前ら武家的にも関わりのある武器一つ取っても凄いんだ。鉄ってあるだろ。あれの製鉄技術ってのは昔の技術のほうが今より優れてたりするんだ。昔の鉄のほうが良くできてたりするんだぞ。刀然り。」

「マジかよ。今のほうが、なんか、科学的に構造がどうのこうのってやってるから良いものができてるのかと思ってたぞ。」

「ところがどっこい、日本で例えるとだ。江戸時代の頃には刀狩があって、その影響で刀を作る技術を一新せざるを得なかった。ワンオフから量産を重視する方向にな。そのときにはすっぱりと昔の技術はなくなっていた。しかもその頃の刀なんぞ武士が形ばかりで脇差するだけだから、出来栄えとかより量産性。だから、戦国時代とかの頃にあった刀の製造技術は失われていて、今の職人に伝えられてきた技術で作るのは不可能とされている。」

 熱くなりすぎたかな、と言って委員長は自嘲気味に笑う。

「だから、委員長は刀を作りたいのか。」

 まるで自分の夢を話しているかのように目を輝かせる委員長に、少し意地悪だがそんな質問をぶつけてみる。

「まさか、高校の面接の時の為に考えといた話だ。」

 委員長は笑いながらそう言って俺の事を馬鹿にする。肩透かしを食らって、言葉も返せなかった。

「初めて俺がまゆっちにあった時、今にも切りかかりそうな感じだっただろ。刀の、金属の擦れる音も鳴っていて、びびったよ。なんて生々しい重い音を出すんだろうって。その後で、居合いを見て、鉄柱を切っているのを見て感動した。」

 まだ話したりないといった感じで、委員長は一人で語りを続けた。

「歴史がどうのこうのってのも純粋に夢のある話だけど、結局は建前だよ。俺も男だからああいった刀とかには憧れがあった訳で、あんな風に見せられて心が揺れ動かない訳がない。」

「だからまゆっちには感謝してますってか。」

「感謝ってのは余所余所しいけどな。あとは松風との漫才を止めてくれれば、周りの俺たちも白い目で見られずに済んで、あいつも完璧なのに。」

 ある程度のどを潤せたのか、委員長はお茶を鞄に仕舞った。

 その後少し溜息を吐いた。

「それにしても、高昭も強制させられたのか。」

「何がだ。」

 委員長の言葉の真意を分かってはいるものの、とぼけた風に聞き返してみる。

「だからその『まゆっち』だよ。訳わかんないよな。『友達はあだ名で呼んでこそだと私は思うので呼んでくれないと困ります。』っていわれてもな。俺なんか板垣も高昭も唯呼び捨てにしているだけだぞ。」

「女子の感性なんか分からねえよ。天ちゃんが少し特殊なだけだ。でも、いいんじゃねえの、友情の確かめ方なんて人それぞれだろ。リアルでも、引っ越したところの友達とずっと友達だからって未だに仲良くしてる人だって居るんだ。……ああ、まゆっちの事じゃないぞ。」

「分かってるよ。あいつに友達なんか、俺たちくらいだろ。」

 欠伸をしながら、まるで常識を語るかのように委員長は断言した。

「ああ、でも心理では同じなのかもな。離れて居ても友達でいて下さいって所だけは。実際引っ越した訳だし。」

「驚きはしたな。」

 

 

 今年の二月頃、俺たちはまゆっちに大事な話があると言われて集まっていた。

 集まると言っても、基本的に勉強をするにしても俺の家、つまりは黒田家に居るので、茶の間に場所を移しただけだ。

 因みに、この頃には高校の一期試験の結果が通達されていた。

 内申点の高かった委員長(当時のあだ名は会長)や武家であったため川神学園にとっては推薦で行くことが出来た俺はこの時点で内定を貰っていて、内申点が足りなかった天ちゃんと案の定面接が上手くいかなかったまゆっちは二期試験に向けて猛勉強していた。

 そんな頃の事だ。

「今日は皆さんにお話があって来たんです。」

 十分近く、松風に促されて深呼吸をするというコントを見せられた後、やっと本題に入ろうとしてくれた。天ちゃんに限っては、冬なのもあって、皆が入っていた炬燵の上に乗っていたみかんを二個ほど食べ終わり、三個目を剥いている途中であった。

 皆で炬燵に入っているとは言ったものの、体の大きい俺が入ると邪魔になるので右手の先端のみを炬燵に入れて、後は普段からの防寒の用意で以って寒さを凌いでいた。右腕を冷やさないようにする意図もあるので普段からかなりの対策はしており、室内でもカイロをつけている事もざらにあった。

「なんとなく聞こえてはいたから分かるんだけどよ。早く言ってくれ。」

 無意味な時間を過ごしてしまった、そんな顔をしながら委員長は言った。

 いつもならここでもう一度松風との漫才を挟むところだが、今回ばかりは真面目な話だという自覚が強いようで、依然として真剣な面持ちでまゆっちは話を続けた。

「私、高校生になったら寮生活をしようと思います。」

 口出しをできる立場でもなければ、その意志の固さを察している俺以外の二人は話しに参加する意思を見せなかった。まゆっちの当時の下宿先の家主、つまりは黒田家の人間である俺に対しての発言である事は明らかだった。

 しかし俺以外の二人とて、少なからず驚いている事は確かだった。

「何か理由でもあるのか。もし、此方側の不備があって嫌気が差しての事なら言って欲しい。」

「いえ、不備なんてとんでもない。黒田家の居心地は良かったです。こうして下宿という体験をさせていただいた事で大きく人間として成長できたとも感じています。」

 頭を深々と下げるまゆっちは、心よりの感謝を述べていた。

 顔を上げて話を進める。

「ですが、それと同時にもっとたくさんの経験を積みたいと感じたのです。ここに来た当初、顔見知りでもない私に話をしてくださった委員長さんが居たから、私も一緒に役職についてみようかなと思えました。それは後の生徒会でも同じです。自分ができる行動の幅がひろがっていく事が嬉しいんです。勿論、今までの助けがあっての事でしたので、これからは自分ひとりの力で自立していければと思いました。高校生で、遠方から来ているというこの自分の状況下であるからこそできる寮暮らしというものを経験してみたかったという理由もあります。」

 言い終わったまゆっちは少し顔を上げて俺の様子を伺っていた。

 俺は特に悩んだりするわけでもなく、その考えを肯定する意思を示した。

「いいんじゃないか。家の方からの承認は得られているようだし、黒田は部屋を貸してるだけだからそちらに判断に任せるよ。そこまで、綺麗に整えた文章も考えてきたみたいだしな。」

「おーい、まゆっち。オラたちがカンペしてたのばれてるぞー。」

 何度も視線を下に向けていれば、気づかれるだろう。それに炬燵を囲んでいたのだから、正面の俺以外の二人からは良く見えていただろう。思えば、そういうところが見えていたから、二人は最初から真面目に話が聞けなかったのだろうか。

「寮に入るのは分かったけど、それって自立する事に直接関係あるのか。ウチたちに改まって喋る様な重大な話でもなかったし。」

 天ちゃんの追求にまゆっちは声を詰まらせた。

 多分、必死になってカンペとして使っていたメモ帳を捲っていたのであろうところを、委員長に指摘されていた。

「なあまゆっち、もう場の雰囲気も崩れてるんだ。そんなものに頼らず、自分の言葉で語ってもいいんじゃないか。」

 ひょいとメモ帳を取り上げる委員長。何か見られてもいけない事でも書いてあったのか、刀を振る速度と見間違える速さで取り返していた。

 そして何事も無かったかのように仕切りなおした。

「私は川神学園で、S組に入るつもりが無いんです。前々から、エリート意識の強い所って聞いていたのでそりが合わないだろうな思って、悩んでいたんです。寮に入ろうかな、と思い立ったときに、それならいっそ高校に上がったら皆さんに頼らずに頑張ろうと思うんです。」

「ええ!まじかよ、まゆっち。高校でも皆と一緒のクラスになるためにウチは頑張ってたのに。」

 口を尖らせた天ちゃんは見て分かるほどに抗議を申し立てていて、恐らく炬燵の中でもまゆっちの足を叩くなりをして訴えかけているようだった。

 普段、誕生日早いから自分の方が年上だとかお姉さんだとか言って威張っているが、こういうところを見ると何を根拠に年上と言えるのか分からない。少なくともこの時においては、自分の決めた事を曲げようとしていないまゆっちの方が大人に見えた。

 いつもなら二人共同程度のレベルだとは口が裂けてもいえなかった。

「俺らがどんな風に思おうが、黒田がその考えを止める事はないぞ。さっきも言ったが、部屋を貸しているだけだ。」

 そして、まゆっちの高校での寮生活が決まったのだ。

 

 

 思い出話をして時間を潰していたが、ゲーセンに来ているのに少し遊んだだけで帰るのもつまらないので、散財覚悟で天ちゃんと対戦でもしようかと思っていたところ、不意に声をかけてくる人物がいた。

「やっと見つけたわ。あんたね、クラスの仕事放り出しておいてこんなところで遊んでるって、どんな神経してるのよ。」

 委員長に噛み付いてきたその女子の名前は、……なんだったか。確か委員長に投票で負けて副委員長に成り下がった人だった気がするので、以降は副委員長とでも呼ぼうかと思ったが、流石にそれは失礼だろう。

 しかし、名前を思い出せない以上は仕方が無いので、名前を思い出すまでは会話に参加しないように心がけよう。

「はあ、初日から仕事なんてあったのかよ。さっさと帰ったから知らなかった。」

「知らなかった訳無いでしょうが、入学前のガイダンスで説明もあったわよ。今月の終わりにある学校行事について。そこのでかぶつも、知っててこんな所でサボってるんでしょ。」

 面倒だから天ちゃんのところまで逃げようとも思っていたが、逃げ切れなかったようだ。

 つい先程、会話に参加しないようにと思った途端に話を振られてしまった。答えないわけにも行かないだろう。

「知らないな。川神学園の行事なんか決闘だの、戦いだのといったものが大半だろう。真面目に参加するつもりはない。それに俺は元々、クラス委員をやっているお前らみたいに真面目じゃない。」

「ふん、こんなサボりをしている委員長と同じにしないでよ。プレミアムな武蔵小杉こと私と、こんな勉強しかできなさそうな冴えない男を一緒にしないでくれる。何でこんな奴に負けて副委員長なんかに甘んじてるんだか。絶対このプレミアムな私のほうが相応しいのに。」

 地団太を踏み自分の世界に入り浸っている目の前の人物を見て、委員長がドン引きしている。その前にこいつが川神学園の体操着でゲーセンに来ていることのほうがドン引きなのだが。

 学園長の意向によって川神学園の女子の体操着はブルマなのだと聞いていたが、どうやら本当に女子はブルマだった。考え方というか趣味思考が少々古臭い。

 着ている服なんかを見て喜ぶものの、突き詰めて言えば着ている人がかわいいかどうかの問題だろう。逆に、かわいいならどんな着ていても問題はない。勿論例外はあるが、そんな事を気にしていたら話は終わらなくなる。

 つまり、一刻も早く、ブルマを穿いているこの人から離れたい。いくら学校指定の服だろうと、本当に、一緒の空間に居たくない。なにより見た目が、着ている服が、ブルマは危ない。男子二人と女子一人、しかも女子がブルマという構図が不味い。

「あれ、なんで副委員長がここに居るんだ。」

 飲み物を買いに来たか、両替をしに来たのか、こっちに来ていた天ちゃんが俺らに声をかける。天ちゃんがこのゲームセンターで負ける事もないと思うので、対戦相手が座ってくれなくなり、プレイ時間が終了したのだろう。

 いよいよ天ちゃんがこちらに来たことで逃げ場がなくなってしまった。

「こんにちは板垣さん。委員長が仕事をすっぽかしたから連行しに来たの。」

「はあ、連行ってことはまだ仕事が残っていて、学校に戻れってことなんだな。」

 さも当たり前のように副委員長、武蔵小杉は言う。

 委員長はまた学校まで戻るのが嫌な様で、文句をたれている。

「初日から仕事なんて大変だな。何の仕事なんだ。」

 自分には関係の無い事だと言わんばかりに、天ちゃんが明後日の方向を見ながら質問した。何度確認しても、北陸の拳の筐体には誰も座ってないらしく諦めて再度武蔵小杉を見た。

「皆知らないのは流石におかしいと思うのだけど。」

 呆れて物も言えない彼女は、額を押さえて溜息を吐いて見せた。付き合ってられないと語外に言っているようだが、これから一年、この委員長の下で働く事でも考えたのか委員長を一睨みした。

 委員長が小声でまた変な奴に目をつけられてしまったと呟いている。

「説明するのも面倒くさいから、あなた達全員ついてきなさい。」

 返答も待たずに歩き出している。

 逃げるわけにもいかないのだろうか。

「高くんは行かなくていいだろ。どうせ川神学園の行事なんて戦いしか無いんだから、居ても暇するだけだろうし先に帰ってていいんじゃないか。」

「そうだな。あいつには俺が言っておくから高昭は家でのんびりコンボ開発でもしてろ。」

 そう言って二人は俺を置いて店から出て行った。

 

 一つ溜息を吐いてから、店を見渡してみる。

 誰も俺らのほうなど見ずに各々のやりたい事を楽しんでいるようだった。俺にとって彼らが有象無象であるのと同じように、彼らにとっての俺らも背景に過ぎない。

 俺を気遣った上での会話だとしても、二人の突き放すような言い方で、俺の心が傷ついていようと誰も気づいていない。

「あちぃな。」

 まだ冬も明けたばかりだと思って、着ている長袖の肌着のせいで汗をかいている。寒くて腕の動きが鈍るより幾分かましであるが、それでも鬱陶しい事に違いなかった。

 この右腕は、どこまでいっても邪魔でしかない。皆と常に一緒に居たい、それほどまでに高望みはしない。でもこんな日くらいは天ちゃんたちと遊んで一日を終わらせたかった。

 高校生にもなったので天ちゃんはアルバイトを始める。流石に、勉強に加えバイトまであればこれまでと同じように遊ぶ事できないだろう。

 遊びでなくとも、一緒に居られる時間が減る。ああして、学校に関係する事でも関われなくなるとすれば、いったいどれほどの時間しか共に居られないのだろう。

 武術というものを取り上げられて久しい。俺の心を埋めているものは何もない。

 説明する言葉があるとすれば、空虚以外の何ものでもないだろう。

 道場に行って体を使い、黒田の教えの通りに動きをする点では武道をしていると言えるのかもしれない。もしも俺以外の誰からもそう思えて、俺が立ち直ってきている風に見えるのだろうが、それは違う。

 黒田家に、壁の役割を持ってこの世に生まれ出でたこの命。

 戦わずして、何を示せると言えようか。

 衝動に駆られるわけでもなく、戦闘に惹かれている訳でもない。戦闘と言えるものもたった一度、あの時釈迦堂刑部と行った川原での組み手のようなものが言えなくもない程度で、段取りの取った武術家との壁越えのための戦いは未だに無い。

 俺の価値は、あるのだろうか。武術家としての現在、価値は無いに等しい。

 S組に居て分かった事。皆が自分の努力、夢、実力に自信を持っている事。天ちゃんにも大分無理をさせるように勉強をさせた。

 対する俺は、右手以外は何の苦労も、努力もなしに唯生きているだけだ。

 否、右手と武術を失って、元々他に何もなかった俺は生きていないのではないか。

 人ごみの中に一人で居ると、度々そんな錯覚に陥る。

 

 

 ぼうっと座っていると俺の前に一人、人が現れた。見覚えも無い女の人のようだ。

「あなたが黒田君ね。」

 少し顔を上げてその女性を見てみたが、学園の生徒なのだろう。この人も川神学園の体操着を着ている。学園では体操着が流行っているのだろうか。

 先程の委員長のように、それを見て鼻の下を伸ばす輩ばかりだというのに、川神学園の女性の感性は変わっているのだなと思う。

「えっと、どちら様でしょうか。」

 黒田君、そういった俺の呼び方から推測するに恐らくこの人は先輩なのだろう。

 あなたが、なんて言い方をするのだから少なからず誰かに俺の事を教えてもらったのだろう。思い浮かぶのはまゆっちだけだから、寮生の人だろうか。

 それとも、武道の関係者か。

「アタシは川神一子って言うの。黛さんにあなたの事を教えてもらって探してたのよ。」

 武神、川神百代は知っていてもこの人の名は知らなかった。

 そして、黛さんが俺を紹介した理由も一目で理解できた。

「才能で届かないのは分かってる。それでもお姉さまの傍に居たい。川神院の師範代になりたい。無茶でもいいの。壁を越える方法さえ教えて貰えれば。」

 明るく喋る先輩の目は澄んでいた。一歩も引かない、引く事のできない、張り詰めたような覚悟と力強さを感じた。



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第十四話 黙する友 語らう友

 川神大戦。

 川神学園を二分にして戦う現代の合戦だ。生徒間のトラブルを解決するためにある学園特有の決闘システム、それを最大の規模まで大きくしたものだ。決闘が生徒間であるのに対して、大戦は学級同士のいざこざや、学年同士の問題などに使われる事がある。基本的には、学年に関わらず仲の悪いS組とF組の喧嘩に用いられるらしい。

 今月の終わりに行われる大戦も名目上は二年生のその二クラスのいざこざが原因とされているが、始業式に配られた今月の学校行事に記載されている辺り、学校に入学したての一年生への洗礼として行うのだろう。

 まだ派閥も何もない一年生はどちらの勢力に入るのも自由である、といったルールが設けられていて、そのお陰で校舎内は大いに盛り上がっていた。

 部活の勧誘に加えて両陣営の勧誘が入学式が終わった翌日から解禁され、一年生の教室の前は他の学年の人、つまりは先輩方で埋め尽くされていた。トイレに行くにも一苦労するような状態である。

 昼休みになろうものならば、食事をするのも一苦労で、さっさと教室から逃げなければ休み時間が終わってしまうのだった。

 だからこそ、参加する気が無く、そもそも出来ない俺も一目散に逃げようとしていたのだが、なぜか先輩に捕まってしまった。

 そしてその先輩は馴れ馴れしく俺の名前を呼び捨てするのだった。まず俺の名前を知っている時点でおかしいと考えたが、黒田として川神学園に入ってきた以上仕方の無い事なのだろう

「頼む、黒田。F組の軍に参加してくれ。」

「そう言われましても、参加する気はありませんよ。」

 今俺の前で頭を下げているのは、二年生の直江先輩だ。Fクラスのスカウトマンなのだろうか。はたまた権力のある人なのだろうか。

 ここまで丁寧に頭を下げられると、礼節を重んじる武士道精神に則ってついつい首を縦に振りそうになってしまうのだが、こんな右腕の状態で、軽い気持ちでそんな事をしたところで役に立てない事は俺が一番良く分かっているので止めておく。

 別段、どちらの陣営につく気も無いので断っているのだが、なかなかに引いてくれず、交通の邪魔になっているのは目に見えて明らかであった。俺自身、通行の妨げになっているのを申し訳なく思うのだが、この先輩も粘り強く説得をしてくる。

「ですから、訳あって右腕が使えないので川神大戦に出れないのです。」

「それだけの体躯があれば右腕なんて使わずとも雑兵程度なら倒せるだろう。」

「幾ら格下が相手であろうと、万全な状態で相手をしないのは、武士道に反する行いです。それに戦闘の程度が軽ければ良いという問題でもない。第一、医者から止められている。」

 そこまで言っても先輩は引かず、次の言葉を捜すように唸っている。

 いい加減開放してもらわなければ昼飯にもありつけないのだが、まだまだ放してくれないようだ。

「戦闘指南のお願いでも駄目か。それなら当日に居なくてもいい。戦闘にも参加しなくて済む。」

「それは論外です。一月も時間が無いのに何を教えられると思いますか。右腕云々は関係なしに絶対に引き受けません。そもそも他の武術家で十分ですので、俺がやる意味がありませんから。加えて戦術指南は一年生に任せてもまず意味が無い。誰も従おうとしないでしょう。」

 派閥が無いといっても俺はS組なのだ。F組軍の方々が素直に話を聞いてくれる事はまずありえないと言っていい。加えて一年坊主だ。

 何をこんなに評価してくれているのかは分からないが、どんな条件だろうが俺は断る。

 そうだ。ここまで俺を評価する理由が分からない。

「ここまで俺が戦えないと言っているのに、何で執拗に俺を引き込もうとするんですか。どちらの陣営にも就く気は無いですよ。」

「そう言われてもな、単純に君を引き入れれば一年生の大部分が傾くぞ。黒田の名前はそれほどまでに重いことは分かっているんだろう。」

「本人を前にしてそこまで言うんですか。」

 言いたいことは解らなくもない。

 やはり家名か。

 川神ほどじゃないにしても黒田の名前は浸透してきているのだろう。それなら同じくらい有名な黛でも良いと思うが、まゆっちに統率力なんてあったものではない。

 消去法でいけば俺なのだろう。

「もしかして、先輩は寮生ですか。」

「そうだけど、いきなりどうしたんだ。」

「いえ、そうでなければ俺じゃなく黛の名のほうが重い。迷わずにまず、まゆっちを勧誘するだろうと思いまして。」

 体格の大きい俺がまゆっちと言ったのが相当衝撃的だったのか、先輩は少しの間呆けていた。

 仕方の無いことではあるが、目の前で狼狽されると多少傷ついてしまう。

「驚いてごめんな、でもなんで急にそんな事を聞いたんだ。」

「普通だったら黛家の方が名前は有名ですから、俺を執拗に狙う必要も無いでしょう。聞いての通り俺とまゆっちは知り合いですから、あの性格で統率姓の無いのも知っています。先輩がまゆっちの性格を知る機会を得ていて、部隊を率いる素質がないであろう事を知っている理由が先輩が寮生である事以外に思いつかなかったので。」

 その事が知られているということは、まゆっちは取り敢えずは寮生の人に話しかけようという努力はしているのだろう。決心は固いと思ってはいたが、この様子ならば彼女なりに頑張れている筈だ。

「あいつは、寮で上手くやれてますか。」

「それは何とも言い難いな。黛さんが頑張っているのは分かるんだけど、寮生とその友人の間で集団みたいなのが既にできているからな。かく言う俺もその一員なんだけどな。」

 では、まゆっちの寮暮らしはそこまで成功を収めている訳でもないのだろうか。今更になってどうにかする事もできないので、上手くいかないのも人生だと思ってまゆっちには耐えてもらうしかないのかも知れない。

 しかし、恐らくその集団の一員である川神先輩が先日まゆっちの名前を出したという事は話はできている事を意味するのだろうか。若しくは、まゆっちをその集団に入れようとしているか、まゆっち自体が入ろうと努力しているのか。

 ますます以って分からなくなってきた。心配する必要はあるのかないのか結局は分からない。

「なあ、作戦を一緒に考えるだけでもいいからこっちの陣営に入らないか。」

「入りません。そこまで言うなら、武術家の俺である意味も無いでしょう。」

「そうか?俺は君の能力も評価しているからこうやって声をかけ続けているんだけどな。」

 嘘ばかりだな。

 結局は学校行事を盛り上げるための下準備だろう。こうやって俺に話しかけているのはこの直江先輩の策略だろう。最低でも今回の大戦が互角程度になるように、といったところか。武神がF組につくのだから妥当、いや当然のことか。

 頭の切れる先輩方なのだと感心する。

 彼らとは違い、少し出来の悪い人たちもいるようだが。

「うおぉー、直江大和。覚悟しろ。」

 そう言ってこの人ごみの中、直江先輩に襲い掛かってきた生徒が三人ほど。

 不測の事態、予想していない事だったのか直江先輩は転がり込む事で攻撃を避けている。

「先輩、もしかして戦闘は不得意ですか。」

「知り合いのお陰で回避だけは上達するんだが、反撃はからっきしだ。」

 闇討ちに対する護衛も居ないという事は、俺へのスカウトは独断なのだろう。

 左腕を上げる俺に対して先輩が声をかける。

「万全じゃなきゃ格下とも戦わないんじゃなかったのか。」

「川神大戦は突き詰めれば大規模な決闘でしょう。正式な立会いで相手を馬鹿にする事はしませんがこうして闇討ちをするような輩には力を行使しますよ。武術は護身術でもあるんですから。」

 歯ごたえの無い相手だった。

 一人叩きのめしたところで、残りの人たちは蜘蛛の子の様に散っていった。

「昼休みも終わってしまいかねないので、そろそろお暇させていただきます。どちらの陣営にも就かない事は約束しますので安心してください。」

 返事も聞かずに廊下を歩く。屋上辺りなら静かに過ごせると当たりをつけて角を曲がった。

 そこには、予想した通りにS組の陣営であるだろう先輩が立っていた。直江先輩と同じく参謀を任されていると思われるその人は、浅黒い肌で眼鏡をかけている。

「戦力の調整、大変そうですね。」

「ええ、二年生三年生は派閥なども分かりやすく、戦力頒布は大体予想はつきますから。これを機にS組とF組の確執を取り除こうとしている先生方には申し訳ないのですが、対立させないと武神の名前に皆が靡きかねないので。」

「倒れてるあの先輩は回収しておいて下さいよ。」

 それだけを告げて俺は昼食を取るため、歩いていった。

 

 

 昼休みになればどこのクラスも騒がしくなるが、今日のこのクラスは頭が割れるほど煩かった。

 高くんは、こんな煩いところには居られないと言って教室から出て行ったが、そのときよりもずっと騒がしい。

「なんだなんだ。騒がしいな。」

 席を外していた委員長が教室に帰ってくると、騒ぎを見て怪訝な顔をする。

 ウチの座っている席の前に陣取って説明してくれと言ってくる。

「随分時間がかかったんだな。やっぱ廊下は人が凄いのか。」

「まあな、部活の勧誘と川神大戦の勧誘で人がいっぱいだからな。それに、立ち止まって勧誘してるから邪魔で仕方ない。」

 購買で買ってきたのか、委員長はパンの包みを剥がすと袋の中に強引に詰め込んだ。

「で、なんでこのクラスの連中は騒いでんだよ。特に副委員長がご乱心みたいだけど。」

「聞いてりゃ分かるよ。」

 ウチは副委員長のほうを見るように言った。

「……私たちは馬鹿にされてるの。見たでしょあのF組の人がこのクラスを素通りして行ったのを。確かに黒田くんは優秀でしょうね。名のある武家で、S組に居るって事は私たちと同じくらい頭も良いのは知ってる。」

 そして我らが副委員長、武蔵小杉は右腕を高く突き出して声を張り上げた。

「でもその後よ。黒田君に声をかけた先輩は私たちのスカウトにも来なかった。私たちS組を素通りしたって事は眼中にも無いって言われたの同然よ。分かるでしょ、私たちは馬鹿にされてるの!プレミアムに能力の高い私や、同じS組に居るあなたたちの才能も努力も、誇りも貶されているんだわ。こんな事が許されると思わないでしょ!」

「当たり前だ。」

 クラスの誰かが声を上げる。

「私はS組の陣営につくわ。あなたたちはどうするの。」

「馬鹿にされたまま終われるか!」

 違う誰かが怒声をあげる。

 それをさっきから何度も何度も繰り返していた。

 委員長が呆れた風に、乾いた笑い声を出している。

「楽しそうだなあいつら。」

「そうだな。」

 弁当箱をしまいながらウチは生返事を返す。

「あそこまでまんまと乗っかってくれると先輩方も楽しいだろうな。お陰で俺の就く陣営は決まっちまった訳だが、仕方ないか。」

「委員長はどっちでもいいんだろ陣営は。」

「俺は戦闘はからっきしだからな。一年坊じゃ作戦の立案もさせてもらえないだろ。そしたら、いよいよつまんねぇぞ。」

 辰姉たちが居るから、ウチはそっちにつく気で居たが、そう言われれば委員長は当日何をするのだろう。伝達係だろうか。

「加えて相手は武神様がいるだろ。誰が止めるんだよ。」

「時間稼ぎなら出来る人くらい居るだろうけど、上手くぶつけられるかって言われれば難しい事くらい誰でも分かるしな。」

 そこまで言って思い出す。

 武神を足止めできる実力を持つ人物。

「そういえばまゆっちはどうするって言ってた。」

「なんで俺に聞くんだよ。」

 なんで、と言われても理由なんて明白だ。

「だって委員長、さっきまでまゆっちの所に行ってただろ。」

「俺はパンを買いに行ってたんだよ。」

「随分、購買は混んでたんだな。」

「廊下も凄い人ごみだし、大変なんだぞ。購買に行くだけでも。」

「ふーん。」

 ウチは委員長の持っているビニール袋を取り上げて、さっき捨てていたパンの袋を見る。

「コンビニのパンにしか見えないな。」

「あー、あれだ。食事時にお手洗いってのも下品だろうと思ってさ。」

 トイレね、反対側の扉から入ってきたように見えたのだが気のせいだったか。これ以上追求する必要も無いだろう。

「じゃあ、ウチは食べ終わったからまゆっちの所に行ってこようかな。」

「悪かった。行ってきたよ、まゆっちの所にさ。別にいいだろが、あいつが一人でやれてるかどうか心配したってよ。」

 即座に謝ってきた。

 悪いなんて言ってないが、素直に認めない委員長が面白かっただけだ。

 何をそんなに向きになってまゆっちと会っていた事を否定する必要があるのか。

「それで、まゆっちはどっち側に就くって言ってたんだ。」

「武神が攻めて、剣聖が守る。これほどまでに恐ろしい事は無いと、俺は考えるんだがどうしたものかね。勝ち筋はどれほどあるか。」

 まゆっちはあちら側についたのか。

 それは悲しくもあるが嬉しくもあった。

「何笑ってやがんだよ、板垣。俺らは敗色濃厚なんだぞ。」

「まゆっちがあっち側だって事は、寮の先輩方に誘われたって事だろ。上手くやれてるようで良かったって思ってさ。」

「そりゃまあ、俺も思ったよ。皆楽しそうだなって。でもさ。」

 言葉を切った委員長は、目を伏せたかと思うと頼りない声で呟いた。

「ここまでの馬鹿騒ぎ。高昭も一緒にやりたかっただろうに。いや、俺があいつと一緒に騒ぎたかっただけなのかもしれないがな。」

 いきなり、真面目に話をする委員長。ウチは相槌も打てなかった。

「板垣だって分かってんだろ。」

「何がだよ。」

「あいつが仏頂面だって言っても、それで説明できる範疇はとっくの昔に超えてる。」

 黙るしかない。

「俺らで馬鹿やってて、高昭が隣で鼻で笑う事もあった。でも、あいつが馬鹿やってる所見た事あるかよ。あいつが腹抱えて笑ってる所を思い出せるか。」

 高くんはウチを喜ばせようとしていたが、ウチは高くんを笑わせてあげれていたのか。

「高昭に一切の感情がないとまでは言わない。それに今すぐどうにかできる問題だったら今頃は解決できてるさ。でも、高校生にもなると常に一緒に居て、だらだら遊べる訳でもない。」

 委員長は最後にこう締めくくった。

「こうやって『委員長』やれるのも残り三年くらいだ。役割演じて関係壊さないのも良いけど、いい加減に腹割って喋らねえとあいつも心を開くタイミングが分かんなくなってんじゃないか心配になってくる。まだ手遅れじゃないと信じたいんだが、如何せん俺にはそんな全てを曝け出せる勇気は無いんだよ。」

 

 

 校庭からは叫び声が聞こえる。

 こんなに忙しそうな時期でも、大戦の準備よりも決闘を優先する事が多い人が多いらしい。この短時間で少なくとも三つもの決闘が行われていた。

 俺が屋上に逃げ込んできたのも遅かったので、もっと多くの決闘が執り行われていただろう事は容易に推測できた。

 こんな所で燻っている俺とは違い、高校生の有り余るエネルギーをきちんと発散している。

 もう慣れたものだが、唯武術の型をなぞるのみの鍛錬を続けている俺は、最後に気を発散させたのは何時だったかも忘れてしまっている。

 それこそ今すぐにでも爆発してしまいそうなほどだ。

 この程度の気の量でこんな弱音を言っているのだから、まだまだ精神の鍛錬が甘い。規格外の気を持つ武神も、今この間にも学生として振舞えているのだ。さぞ素晴らしい忍耐力を持つのだろう。

 俺も耐えなければならない。

 何があろうと揺るがぬ信念を、持たねばならない。

 誰に何を言われようとだ。

「どちら様でしょう。」

 俺は屋上の入り口を見て、扉を開けようとした人物に問うた。

 看破された事など気にも留めない様子で勢いよく扉を開けた人物は、その衣服は文字通り黄金の輝きを放っている。金ぴかのスーツを身に纏っていた。

「S組陣営総大将九鬼英雄、顕現である!」

 歩みを止めず近づいてくるその人物。後ろにはお付のメイドが居る。

 間違いなく、世界に名高い九鬼財閥の御曹司その人であった。

「いい目をしているな黒田高昭。我を前にして真っ直ぐに見つめ返す度胸、褒めてやる。」

「どうも。」

 つかつかと歩き、遂には俺の隣まで来た。

「あずみ、我はこの者と話がある。昼休みが終わるまで、ここには何人たりとも近づけるでない。」

「承知いたしました。」

 扉を閉めると、そのメイドは気配を鎮めて俺たちの邪魔にならぬよう努めていた。

 しばしの静寂。

 俺からは話す事もなく、九鬼先輩が口を開くのを待つ。

「話は聞いている。あいつらの様なやり方ではお前のような人間が靡くわけも無い。」

 あいつらとはさっきまでしつこかった直江先輩と廊下の角にいた先輩の事を指しているのだろう。

「我にも良く分かる。自分の気心を知らぬ輩に何を言われようが、心など動く道理も無い。まして我のように民の声を聞く必要性の無い立場ならば尚更だ。」

 俺は体を校庭に向けて決闘を眺めていた。

 先輩は、俺の左側に立っている。そして、半身になって校庭を見ている。

 先輩の右腕は、俺と一番遠い位置にある。

 無論俺の右腕も先輩と一番遠いところにある。

「分からないだろうな。体の一部が失われる気持ちなど、夢が潰える気持ちなど。」

 心の儘に全力で肯定したかった。

 声にして、同意を示したかった。

 だが、出来ない。何もかもが同じではないのだ。

「我には、夢があった。今でこそこうして九鬼の跡取りの役割を果たしているが、昔は野球をしていた。夢は大きく、メジャーリーガーだった。その頃は子供だった我には上手かったかどうか分からなかったが毎日が楽しかった。好きな事を好きなだけやっていた。」

 俺は、その話を自分の事の様に聞いていた。

 結末は大体分かっている。すぐにでも泣き出しそうな話だ。

 だが、俺には流す涙は枯れきっているのだ。

「下手ではなかった。試合では常にレギュラーであった。監督が御曹司の我に気を利かせてくれたのではない。純粋に実力で勝ち取ったのだ。チームメイトも認めてくれた。夢はいつのまにか、目標になっていた。手を伸ばせば届くのではないか。子供ながらに、我はそう思った。理由も無い確信ではあったが、勝算はあると信じていた。」

 先輩は右腕を見つめる。

 誰が見ても脈絡もないように見えるが、少なくとも俺と先輩は分かっている。

「テロだった。」

 言葉には感情もこめない。

「我自身のオーバーワークだったらどんなに良かった事か。事実を知ったとき我は、親に初めて暴言を吐いた。生まれを呪った。自分は悪くないではないか。我が、我だけがこのような。このような仕打ちを受けなければならなかったのか。」

 空を仰ぎ見た先輩は一言呟く。

「我は初めて挫折を知った。これ以上無いまでの、挫折だった。」

 先輩は続ける。

「今でこそこうして動くが、それでも万全ではない。無理をすれば痛む。その時は抱えの医者を呼ぶのだ。」

 九鬼英雄は体をこちらに向ける。

「我は夢を諦めざるを得なかった。いや、諦めてはいなかったが、結果として今の道を選んだ。」

 この人は俺とは少し違うみたいだ。だが、根底は同じ。

「俺には、夢も無かった。知っていますか。黒田は川神の当て馬になるためにこの地に越してきた。負ける事は前提として、です。せめて恥じぬ戦いをしなければ。そんな使命感を背負って鍛錬を積んでいました。」

 心を落ち着かせるため、溜息を吐く。

「中学一年生ある日の夜、人生で初めて腕を攣った。体のどこも攣った事のない俺は、こんなものなのだろうと思った。右腕に走った激痛を、誰にも伝えなかった。伝えるほどの事じゃないと思っていた。朝起きると薬指が震えていたけど、いずれ治ると、収まると思っていた。」

 未だ少し震えるこの右手の指を見る。

「冬が近づく程に、右腕が衰えた。風呂に入ると幾分か良かったのも少しの間で、少しずつ力が抜けていくのが理解できた。日に日に痩せこけていく右手、温めようと熱湯をかけても元に戻らない。火傷の痕が残って、筋肉の衰退した右腕は誰にも見せれなかった。周りの皆には心配なんてかけられなかった。」

 そして、手遅れだった。

「俺には武術しかなかった。他に何もなかった。誰にも頼らなかった俺なのに、周りの人はそれでも心配してくれる人たちだった。心配されるたびに束の間の喜びを味わった。そして、罪悪感に押しつぶされそうになる。俺に優しくしてくれる周りの人たちだからこそ、心配をかけたくなかった。結果として、最悪な形にはなった。自分の厚かましさには嫌気が指す。」

 懺悔にもならない声が漏れる。

「もう少しで、武術は再開できるらしい。でも、その時になって昔と同じように右腕を振るえるのかは分からない。振るう勇気があるのかも分からない。もし、何かに打ち付けた拍子にまた力が抜けてしまう事もあるかもしれない。」

 二人して押し黙る。

 俺たちは人間だ。どんなに偶然起こっても全てが同じわけがない。

 だが、そこらの人よりも、今語られた話を理解できる自信はあった。

「我は挫折を知る王である。民の心に従うつもりは毛頭ないが、民の心を分かる王になりたいと思っている。使える気はあるか、否か。」

「今になって、先輩になら仕えたいと思いました。ですが。」

 分かり合えても、何もかもを頷く事はない。

「残念な事にどちらの陣営にも就かぬと言葉にしてしまった。もう、俺は嘘を吐きたくはない。」

 先輩は目を瞑り、そうか、と一言呟いた。

「仕方あるまいな。ではそれとは別に提案がある。」

 先輩は俺に右腕を差し出す。

「我がここまで理解できた相手もお前を置いてそうは居ない。家柄、年齢、関係はないだろう。この身に降りかかった不幸が巡り合わせた数奇な仲であるが、我を『英雄』と呼ぶことを許す。」

「では俺のことも『高昭』と。」

 そして俺は差し出された腕に右腕を伸ばした。

 俺の治りきっていない右腕では力いっぱいに握り締める事はできないが、ここまで固く結ばれた握手は、存在しないだろう。

「しかし、高昭を引き込めないとなるとあの武神、どの様にして倒すべきか。我には皆目検討がつかないな。」

「それは過大評価しすぎだ。当て馬にされかけたと言った。」

 そんな事言いながら英雄大声で笑っている。

 いったい何時、合図を送ったのかは知らないが屋上の扉の裏側に居たメイドが戻ってきた。

「英雄様、その策は後ほど練りましょう。」

 メイドがそう進言すると、英雄は少し低い声を出す。

「あずみ、まさか我が友となった高昭が情報を漏洩するとでも言うのか。」

「いえ違います。ご友人とは一切関係なく、五分も立たずに予鈴がなってしまわれますので、今から考えを巡らせるのには時間が足りないかと思われます。」

「ううむ、それも一理あるな。仕方あるまい、戻るとするか。」

 教室へ戻ろうとする英雄は足を止めて俺の方へ振り返った。

「高昭、今回の大戦。どこでも好きなところから見せてやろう。全てを見渡せる空中でもいい、データ化して逐一どんな動きをしているのかを見せる事も可能だ。」

「英雄、それには及ばない。」

 隣を歩きながら俺は告げる。

「武士の仕合には興味があるけれど、戦には興味が無いんだ。俺は武士でなく武芸者でしかない。」

「そうか。だが気になったらいつでも言うと良い。最高の環境を用意してやる。」

 

 

 その日、黒田高昭と友になった九鬼英雄。才を認め合って友となった葵冬馬とは違い、理解し会える友人に出会い、心のうちを吐露した。幾分か軽くなった心を持ち、また九鬼としての激務に臨むのであった。

 一方、黒田高昭。新たに友人を得る事で英雄と同じく幾分か心が軽くなった。しかし、中途半端に掻き出してしまった己の心の中にある汚泥に以後苦しむ事になる。




次回から川神大戦を書く予定です。
主人公は当分お休みになります。
物語的にも、主人公視点は少なくなってくるかも知れません。

誤字等ございましたら感想にて教えてください。


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第十五話 川神大戦

今回から主人公は暫くお休みです。
川神大戦のお話はそれなりに長くなるので、主人公のキャラを忘れないようにしたいです。
あと、原作キャラを出来るだけ目立たせるように心がけます。


誤字等ございましたら感想にて教えてください。


 この一ヶ月は本当に楽しかった。

 私の我侭で寮生になって、黒田の方々や天ちゃん、委員長にも迷惑をかけたが寮に住んでみて本当に良かったと断言する。

 先輩方は優しい。

 初めに声をかけてくださった気の良い先輩の島津岳人さん。寮生他、数人のグループを纏め上げている風間ファミリーのキャップ、風間翔一先輩。島津先輩もその一員で、島津先輩の親友である師岡卓也先輩、グループの頭脳である直江大和先輩、直江先輩にぞっこんの椎名京先輩、武神の川神百代先輩、その妹の川神一子先輩がメンバーだ。

 そのグループには入っていないが寮生の源先輩は、初めはその容貌や素っ気無い態度から怖い人に思えたがとても優しい先輩で他の先輩方と馴染めるように手引きしてくれた。

 百代先輩が私の事を知っていたのも、皆さんに馴染めた大きな要因の一つだ。

 学校が始まってすぐに直江先輩から、黛としての私を川神大戦の戦力として数えるさせて欲しいと言われた。あの時は、声をかけて頂いた事が嬉しくて詳しい話も聞かずに返事をしていたのを覚えている。その次の日くらいには委員長にどちらの陣営に就くのかを聞かれて昼休みの半分を弁解のために使ったような記憶もある。

 その頃までは戦力としてしか考えられていなかったが、外国からの転校生であるクリス先輩が入寮して、風間先輩が私とクリス先輩にファミリーに入るように話を持ちかけたのだ。

 まだ全然仲良くなれていないが、これから皆さんとの親睦をもっと深めていきたい。

 そして高校生活が始まって一ヶ月がたった今、私は川神大戦の戦場に立っている。

 作戦会議の集まりの時、直江先輩がこの大戦を軍人将棋みたいなものだと説明していた。

 決められた範囲内で、人員を配置してから戦闘準備を行い、合図が出るまで待機するのが一番初めの決まりごと。この大戦の舞台となるこの地形は、思ったよりも大きい土地である。だから初めの配置はとても重要である。

 此方の陣営には百代先輩がいるので陣形を考える必要はないかのように私は考えていたが、百代先輩が負けないにしても相手が何らかの方法で百代先輩を足止めすることは確実なようだ。足止めさせない配置、逆に百代先輩の足止めに戦力を集中させる事で他の部隊が進行しやすくする必要でてくる、と言っていた。

 私が任されたのは総大将の護衛。

 直江先輩は、本陣に突っ込ませるまでもなく相手を完封すると言っていたが、私だけは保険として残しておくらしい。

 私の実力が完全に信用されている風には思えない配置だ。

 風間ファミリーに加えてもらったものの、実際には一月すら在籍していないのだから信を得られていない事は当然の事だと言えるが、少し悔しい気もする。

「ここで完璧に仕事をこなして、信用をアップさせましょう。」

「頑張れまゆっち。オラも応援してるぜ。」

 あわよくば、今回の大戦で活躍すれば友達になりましょうと声をかけてくれる人が出てきてくれるかもしれない。

 ああ、遠くから雄たけびが聞こえる。

 川神大戦が開戦した。

 

 

 判断し易いように陣営を東西に分けた川神大戦。

 北側、F組陣営にとって右翼側の部隊には風間ファミリーから三人配置されていた。

 リーダーの風間翔一と島津岳人。

 そしてその二人より先行している武神、川神百代だ。

「大和の予想は外れたな。」

 F組の軍師直江大和が百代に伝えた作戦は、出来るだけ多くの敵を引き付けてくれ、といった簡素なものだった。連絡の取りにくい戦いの最中で百代が暴れる事で不安感を煽り、腕に自身のある猛者を全員一手に引き付ける。恐らくS組陣営の全軍を相手にしても五分の戦いができる百代。

 人数ではS組側が圧倒的に多いので、飛びぬけた戦闘力を持つ敵将クラスの人間をどれだけ百代が惹きつけて大人数を相手に出来るか。それが今回の大戦において、F組の勝ちに繋がる。

 のだが、F組の陣営、つまりは百代の方に向かってくる敵の内で百代に太刀打ちできる敵将クラスの人物は僅か三人。

「舐められたな。」

 百代が走る速度をあげる。

 相手も一人先行してくる。

 相手の速度は百代よりも速く、結果的にF組の陣営が押し込まれる形になる。

 百代はこの相手を知っていた。

 こちらに来る残りの二人も良く知っている。

「相変わらず速いですね、橘さん。」

「スピードだけは武神にも負けないつもりでいるからな。」

 出会い頭に橘天衣の攻撃を受け、足を止める百代。

 僅かに足を止めた隙に、S組陣営の敵将の残り二人が姿を見せる。

「九鬼揚羽、降臨である!」

「こういう戦場においては職業柄で隊を率いたいのですが武神の相手というのも悪くないですね。」

 S軍が百代に対抗するために送った駒は、武道四天王の橘天衣、九鬼揚羽、そしてドイツ軍の兵士マルギッテ・エーベルバッハ。

 いずれも世界に名を連ねる実力者。

 だが、百代は世界一の実力者だ。

「私を三人程度で止められると思いますか。」

 世界レベルの手練れを前に戦いたくて堪らない心情を抑え、百代は問いかける。

 過去に百代はこの三人の中で、四天王である二人とは戦い勝利を収めている。百代は未だ若く戦った当時と比べても強くなっている。残る四天王の一人、鉄乙女を加えられても百代は勝つ自信があるのだった。

 しかし、その鉄乙女はF軍に配属されている。

 対戦前の話し合いで、戦力調整を行うために四天王は両軍均等に分ける必要があるとして、S軍もこれを認めた。それの意味するところ、S軍はこの戦力で川神百代を止める気でいる。

 やはり舐められている。

「確かに私はお前に一度負けた。お前にリベンジを果たすために、本当は一対一で勝負したいところだが、次に機会があったらそうするとしよう。」

 今回は勝ちに拘る、天衣は百代に向かって地を蹴った。

 他の四天王と比べて頭一つ飛びぬけている百代。しかし、速度に関してのみ百代よりも速い人間がこの世に居る。それが、橘天衣。

 武神と言えど、その猛攻を防ぎきるのは至難の技。百代は瞬間回復の回復力に頼って刺し違える事を繰り返せば有利に戦えるが、それも一対一の時のみの話。

 敵は天衣の他にも二人いる。

 天衣の手数が単純に百代の倍あるとしても、百代には戦いで負けた。しかしそれがもっと多い数だとすれば或いは届くかもしれない。

「普段なら有象無象を吹き飛ばすお前だが、我ら程の実力ならばそうもいくまい。集団戦が単なる戦闘力の足し算ではないと教えてやる。」

 最速を誇る天衣が攻撃すると同時にマルギッテがナイフを投擲する。

「ナイフが私に利くか!」

 頭突きでナイフを叩き落す百代。背後に回った天衣の攻撃を迎撃するために回し蹴りを放つ。

「何秒前の私を攻撃しているつもりだ。」

 百代の攻撃が空を切る。容赦なく頭部目掛けて撃ち出された天衣の攻撃。百代はその攻撃を受けて仰け反った。

 次いで天衣から放たれた蹴りが、百代の腕を打ち上げる。

「小癪な手を!」

 打ち上げられた腕をそのままに蹴りを放った体勢のままである天衣に向けて正拳突きの構えを取ろうとする。取ろうとしたところ、揚羽とマルギッテの狙い澄ました攻撃が飛んでくる。百代は無理やり自身の攻撃を中止して身を翻した。

 誰かの爪が擦れたのか、百代の頬からは血が一滴流れていたが、その傷口は既に塞がっていた。

 瞬間回復。

 百代が最強である所以の一つ。百代の代名詞ともいえる技だ。

「ところで、準備運動は出来たのか百代。」

 揚羽の声に百代は答える。

「そうですね。そろそろ本気でやりあいましょう。折角こんなに広いところで戦えるんだ。」

 百代はお返しとばかりに正拳突きを放つ。狙いはマルギッテ。

 マルギッテは普段、力を抑制するため眼帯をつけているが、今回は開戦した時から外している。視界は良好、幾ら武神の攻撃だとしても単発の攻撃に当たる気はさらさらなかった。獲物のトンファーで受け流して、鋭く百代の顎を目掛けて腕を突きだす。

 加えて、正拳突きの隙を狙ったかのように天衣が背後から攻撃する。

 だがその程度、百代はいとも簡単に避けきる。

 その後百代は反撃をしようとするが、天衣が追随している。揚羽も向かってくる。

 避けても避けても、天衣に追いつかれてしまう。

 迎撃しようと立ち止まれば他の二人の攻撃を食らう。だが、百代はこのまま押し込まれるわけにもいかない。

「これでどうだ!」

 百代は大量の気弾を打ち出し、辺りには砂埃が巻き上がる。目視した限りマルギッテには当たっていたが他の二人の足を止めるには至っていない。

「遅いな。」

 百代は気を抜いてなどいなかった。今の攻撃の隙に近づかれ、三連撃。

 揚羽はまだ百代に攻撃できる位置にはいない。当然攻撃してきたのは天衣であった。速度のみでならば武神をも凌駕する。

「どうした百代。私のスピードはまだまだ限界ではないぞ。自分で言ったんだ、本気をだせ。」

「言われなくても!」

 武道四天王クラスの戦い。

 本人たちにとってはここまでは唯の打ち合い程度。

 一般人からしてみれば、土が抉れ衝撃波の飛び交う未知の領域。

 後ろからやってくる風間ファミリーの二人及びその部隊は、別次元の戦いに割り込めず、進軍できずに足止めを食らってた。

 

 

 川神大戦南側。F組の進軍が止まらず、S組の前線は崩壊。S組右翼の全戦力から考えても部隊は半壊と言えるほどの損害が出ている。

 F組の作戦である両翼の電撃戦による突破。

 右翼を任された武神は足止めを食らっているが、左翼を任されたこの男は止まらなかった。

 熊飼満。

 一定時間食を絶つと無差別に暴れまわる巨漢。

 武術家にとっては取るに足らない人物だが、一般人からしてみれば恐怖。横幅が自分の倍ほどある人間が考えられない速度で走ってくる。

 加えて、蓄えられた脂肪に対しては通常の打撃は意味を成さない。

 付け焼刃で戦場に出てきた一般兵はなすすべもなくやられていくのだ。

「お腹すいたよ~!」

「なんなんだよ、このデブ!」

「くそぉ、止まらないぞコイツ。うわああ!」

 順調すぎる快進撃。

 S組の部隊の腹まで食い破ったF組の攻撃は、十分すぎる戦果を挙げている。大戦の前、単純な人数はS組の二倍と言われていたが、この戦場においてはその数も逆転した。

 どんどん先行する熊飼。こぼれた敵を処理するF組右翼部隊。最大戦力は熊飼を含めずに二人、風間ファミリーの川神一子。そして同じくF組に所属する源忠勝。

「一番槍は譲っちゃったけど、敵の首級を初めに倒すのはアタシなんだから!」

「しかし幾ら百代先輩がいるにしても珍しいな。直江の奴が伏兵よりも部隊の戦力確保を優先するなんてよ。」

「お姉様が居るからこそ、右翼だけでなく全体の圧力が必要って言ってたわ。相手が焦る前から策を使う必要性がないって。」

 雑談をする余裕さえ出てきたF組の二人。

 熊飼は二人よりも前に行っているが、手筈よりも上手く戦闘が運ばれているため部隊を分散させても問題ないと結論付けた。

 本来であれば有名どころが出てきても良い頃合だが、出てくる気配すらない。

「血気盛んな九鬼英雄も出てこないとなると中央に人が集まってると見たほうが妥当か。」

 戦況を先読みしようとする忠勝の分析に一子が疑問をぶつける。

「九鬼くんって相手の総大将でしょ。だったら方向転換して横っ腹叩いた方がいいのかしら。」

 中央を任せられているF組の部隊は風間ファミリーのクリスティアーネ・フリードリヒと椎名京。

更に、川神学園の弓道部が率いる弓兵部隊。武道四天王、鉄乙女。

 中央と右翼に戦力を固めたF組の陣営。

 一子と忠勝は伏兵を活かすための部隊で、相手部隊の混乱を煽る役目なのだが、難なく相手の防衛線を食い破れてしまいそうなのだ。

 確実に何かがある。

 そう考えていた矢先、先行していた熊飼の動きが止まった。

 そして聞こえてくる男女二人の声。

「リュウ~、男の子が好きなんだったら走ってきた子くらい受け止めてあげればいいのに~。」

「あのなあ、姉貴。俺は確かに男が好きだが、俺にだって選ぶ権利はあるんだよ。」

 熊飼の体が吹き飛んだ。その先にいた両陣営の生徒が避けられずに直撃して、無事な生徒の数はどんどん減っていった。

 聞こえてきたS組軍屈指の実力者の声に、F組軍は立ち止まった。

 特に、竜兵の声を確認した男子生徒たちは青ざめた顔をしている。

「板垣兄弟。」

 誰が言ったのか。板垣とは、川神学園でも有名な人物の名前だ。

 実のところ、本気で戦ったところを誰も見た事がないが、川神学園に通う人間ならすぐさま分かるほどの実力者だ。

 周りの人が吹き飛ぶほどの川神百代とのじゃれ付きを受けてもびくともしない、辰子。

 真性の同性愛者として、実力以外の理由でも川神学園の凡そ半数ほどを恐れさせている、竜兵。

 まだ他学年には浸透していないが、一年生間では有名で、名前を笑った人物は例外なくぼこぼこにしている、天使。

 その板垣のうち、上の二人が此方の戦場にいる。

「葵の頼みだからな、仕方ないが少しは本気でやるか。」

 歩み寄ってくる竜兵。いや、にじり寄ってくると言った方が正しいか。

 その恐ろしさからF組の生徒の何人かは腰を引かせて逃げようとしている。

「てめえら下がれ。俺が食い止める。」

 全員の前に立って、竜兵へ拳を突き出す忠勝。

 付き合いが長い一子は目の前に立っている忠勝が無茶をしてでも皆を逃がそうとしているのが良く分かった。恐らく、部隊の皆だけでなく、幼馴染の一子も守ろうとしてくれている。

 忠勝の方が、一子よりも実力が劣っているのにも関わらず。

 鈍感な一子は気づいていないが、敵味方関係なく見ていた周りの人はなんとなくだが忠勝の起こした行動に察しがついた。

「おい、起きてんだろお前。何時まで死んだ振りしてんだ。」

 倒れ付していたS組軍の生徒の胸倉を掴み竜兵が引き起こす。

 その生徒は一年S組の委員長。

「止めてくださいよ、竜兵さん。このまま大戦が終わるまで寝ていようと思ってたのに。」

「何でお前がここにいるんだ。非戦闘員だろうが。」

「その筈だったんですがね。捨て駒部隊の指揮官の振りをしろって言われちゃったんですよ。いやあそれにしても辰子さんたちが来てくれたんなら俺もお役ごめんでしょうし、本陣に帰りますね。」

 乾いた笑い声を出す委員長。やんわりと竜兵の手を引き剥がそうとするが、竜兵は胸倉を掴んだままだった。

「あの、竜兵さん。そろそろ放していただけると嬉しいんですが。あと、顔が近いです。」

「……、おいあの二人は付き合ってんのかよ。」

 小声で委員長に話しかける竜兵。委員長は顔だけを一子と忠勝の方へ向けた。

「見た感じだと片思いじゃないですかね。どっかで見た事ありませんかね、あんな関係。」

「そうか、じゃあ手は出せねえな。無理矢理は趣味じゃねえからよ。」

 委員長を解放した竜兵は再度F組軍の方へ向き直った。委員長は急いでS組軍の本陣の方角へ駆けていく。

「そこの二人は俺がやる。姉貴は本陣に向かってくれ。」

 構える竜兵。

 緊迫する雰囲気に、一子と忠勝も構えをとって集中力を高めていく。

 両軍ともに誰も動き出さない。

 竜兵も一子も忠勝も、そして辰子も動かない。

 辰子が、動かない。

「姉貴?」

 訝しげに竜兵が辰子の方を見る。

 辰子は鼻ちょうちんをつけ、寝息をたてている。直立不動のまま寝ていた。

「おーい姉貴起きろ。」

 竜兵が肩を揺するが辰子が起きる様子はない。

 戦場ではあるものの両軍ともこれには苦笑いを隠せなかった。

 一向に起きる素振りを見せない辰子に対して青筋を立てる竜兵。

「起きろって言ってんだろうが!」

 腰の入った右拳が辰子の後頭部目掛けて放たれた。鈍い音が辺り一帯に響く。目を瞑りたくなる程の攻撃であったが、受けた当の本人は少し頭が動いた程度で身じろぎもせずに目を擦っている。

「おはよー、リュウ。」

「おはようじゃねえよ。さっさと本陣向かってくれ。」

「りょうかーい。」

 どんどん皆から離れていく辰子。

 それを見ていた竜兵は足元にある石を拾って投げた。

 直線を描いた石は見事に辰子の頭に当たる。

「なんで俺らの本陣に行くんだよ!話の流れからして、F組の本陣に行くだろ普通は!」

「寝てたから話の流れなんて知らないよ~。」

 頭をさすりながら辰子が戻ってくる。

 竜兵は説教を始めようかと思った矢先、板垣の両名は急にF組軍の方を向いた。

「姉貴が馬鹿なことしてるからF組側の新手が追いついてきちまったようだな。あーあ、姉貴が馬鹿なことしてるから。姉貴が!」

「む~、分かったよ。私がやればいいんでしょ。」

 辰子はそう言って、この戦場に近づいてきた人物の元へと近づいていった。

 自分たちの横を通り過ぎていく辰子をF組の軍団は横目で見ていた。

「戦場で随分と余裕だな。」

 低い声で挑発する忠勝。

 仕切り直しとばかりに竜兵は拳を鳴らす。

 ゆっくりと近づいてくる竜兵に一子は相手が一種の余裕を持っている事を悟った。

「そう、慌てなくてもいいさ。フェアにやろうぜ。真正面から殴り合って、最後に立っていたほうが勝ちでいい。分かりやすいだろ。」

「分かりやすいも何も、普通の戦闘ってそんなものでしょうよ。」

 変な物言いをする竜兵に疑問をぶつける一子。

 その言葉を聞いて竜兵は目を丸くしたかと思えば、いきなり笑い出した。

「何よ、アタシ間違った事でも言ったかしら。」

「いや済まないな。姉貴以外の周りの奴らがまともに俺の攻撃を受けてくれるような人間じゃなかったから俺の感覚が壊れてたみたいだな。」

 まともに受けてくれるような人間が居ない、その一言が一子に火をつけた。

 その意味は一子だけが知っている。

 そして、ふと考えが口から漏れる。

「でも、これほどの使い手の拳がまともに当たらない連中っておかしいわ。」

「別にそいつらに負けてるとは言ってない。強さは抜きにして俺はまだまともな方だ、って事を言っただけだ。」

 二人に対して隙を見出せない竜兵は相手の出方を待ち、この戦闘に関しては数的な優位にある二人は先に動く事に躊躇いを見せた。

 しかし川神大戦という広い目で見たとき、竜兵は援軍が来るまでこの戦線を持ちこたえれば良いのだから、無理に動く必要はなかった。

 その援軍がくれば、竜兵が戦うまでもなくここでの戦いは終わる。

 竜兵は勿論、辰子が向かった新手の人物に大体の予想が出来ている。そのことがわかっている以上は、このままではF組の援軍の方が素早く到達してしまう。

「さっさと始めようぜ。無粋な水差しが入るのはごめんだからな。」

 構えを崩さないで、擦り寄ってくる竜兵。

 一子は獲物の薙刀を構えて、忠勝は拳を握り締める。

「水差しってのは、援軍の事だろう。いいのかよ先輩。そんなにぺらぺら喋っちまって。」

 失態、には見えない竜兵の言い方に引っかかりを覚えた忠勝が問う。

「良いも悪いもねえよ。お前らが俺に負けるか、そいつらに負けるかの違いしかない。」

 竜兵の安い挑発を聞いても、二人はピクリともしない。目の前の敵に、その竜兵の話す内容に集中している。

「お前らの軍師、直江大和も今頃気づいてる筈だぜ。武神、川神百代とそれに拮抗する実力の人間が真正面から戦えばどれほどの規模になって、どの程度の実力があればその横を通り過ぎる事ができるのか。S組の左右の部隊は川神百代を抑えられるだけの面子がそろえてある。大戦が始まった瞬間に武神目掛け橘天衣が走ってくれば丁度良い戦力比になる。そして残ったもう一部隊は、敵の戦力を引き込む。お前たちを引き込んだようにな。」

 あたりを見渡すF組軍。

 熊飼のお陰げかS組の策略か、随分と深くまで切り込んできている。今すぐに援軍を呼んでも届かない場所まで。

「だが、あんたの言うように俺たちがここに誘い込まれていたとしても、百代先輩についていた部隊も中央の部隊も合流すればとんでもない戦力だ。それを止める人員も割いていて、尚且つここにも人員を送るってだけの事なら、俺たちが先輩を倒せば状況は五分だろ。」

 忠勝は自分でこのように口走っておきながら、後悔していた。F組の軍師直江大和の事は良く知っている。例えば、こんな程度の状況ならば忠勝の考えよりも効率的な方法で優位にしてしまうほどに優秀だ。

 だれでも思いつくような相手の作戦。しかし、相手の軍師がこんな生易しい作戦程度で済むだろうか。直江大和ならその程度では終わらせない。

 それは恐らく、S組の軍師葵冬馬にも言える事だから。

「進路を塞いでくれたのは、そっちの川神百代だろ。こっちの作戦に協力してくれてどうもありがとうって訳にもいかないだろ。だからよぉ、お礼に俺たちは中央の進路を塞いであげたぜ。お前たち、F組軍へのお礼にな。」

 中央の進路だと。

 そんな馬鹿でかい広域を塞ぐ事なんてできる訳がない。

 はったりに決まってる。

 と、F組軍の中からそんな声が聞こえる。

「呆ける暇はないぜ。」

 竜兵の不意打ちとも取れる攻撃を受け流しつつ忠勝は攻撃の反動で後退しつつ、やる気満々の一子へ合図を送る。

「先輩よ。不意打ちのお礼に、中央で何が起こってるのかくらい教えろ。」

 便乗して説明を求める集団は竜兵の言葉を聞いて絶句する事となる。

 普段から川神の地で不可思議な現象を目の当たりにする全員が、だ。

「中央は今、燃えてるよ。」

 その言葉を聞いて、数人が走り出した。

 手入れもされていない道を走って、木々の間を抜けて、森の外で見た光景。

 平原で、木の一本もない平原で、炎が燃え盛っている。



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第十六話 炎のさだめのクリス

天使を原作設定から遠ざけた理由の一つがこのタイトルが書きたかったということです。
格ゲーの主人公といえば炎、というのも理由の一つですが、原作でもKOFのネタとか使ってますし少し遊んでみたかったんです。


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 時は戻って、開戦して間もない頃のF組の中央隊。

 川神大戦が始まると同時に、広がってきた炎。ゆらゆらと揺れる紫炎がその場にいた全員の視界を埋め尽くしていた。

 その炎の広がりを見た瞬間に武道四天王、鉄乙女は左翼に展開している部隊に助力すると言って他の人間の意見も聞かずに駆けていった。

 椎名京はそんな内容を大和に電話で伝えている。

 普段事あるごとに大和に対して、結婚しようとか愛してるとかと言ってラブコールをする京もこの時ばかりはしなかった。炎が一面を覆っているという想定外の事態であったため、直江大和に連絡して対策を聞く事しか頭になかった。

 足止めが目的だった中央部隊を駐屯させたまま、電話越しに聞こえる大和たち参謀本部の騒がしい音に耳を傾ける事しか京にはできなかった。

 天下五弓の椎名京と弓道部部長の矢場弓子が率いる弓部隊。クリスティアーネ・フリードリヒ率いる遊撃部隊。そして、先程居なくなってしまったが中央の最高戦力であった四天王の鉄乙女。

 目の前の炎が全ての作戦を無駄にした。

 物が燃えてるわけではない。

 妖術のようなそれは、その場に居る全員に不信感を抱かせる。

「京、こんな所で足止めを食らっていて大丈夫なのか。分かっているとは思うが、こうしている間に仲間たちは戦っているんだぞ。」

 クリスの問い質すような言い方に京は少しむっとして答える。

「それは分かってるけどここを手薄にしてもいいのかどうかは、全体の戦況が把握できない私たちがしていいことじゃない。大和の指示を待つべき。」

 言われなくても分かっているのだろう。

 クリスが言いたいのはもっと別の事であるのだが、京は聞き入れる気がない。

「私たち以外のところは概ね作戦通りにすすんでいるから、相手の動向を読む事が大切だって大和が言ってる。」

「相手の動向なんて分かりきっているだろう。中央の道を塞いで、北側の戦場もモモ先輩たちの戦いのせいで結果的に塞がれているんだ。一箇所に兵力を集めた総力戦を狙っているに決まっている。」

 そんな事はお互い分かっている。だが、仲間の戦況を確認できない事、目の前の炎をどうにも出来ない無力さがクリスを苛立たせていた。

 軍師からの連絡も来ない。

 全軍の進行状況を考えれば、有利に見えるF組陣営であるが、戦略では後手に回っている気がしてならない。

 この時中央部隊の全員が、全てが相手の策略で、もう戻れないところまで来ているのかも知れないのだと考えた。

 冷徹になりきれない仲間と、軍師が判断を鈍らせているのはクリスは容易に考える事が出来た。

 元々、鉄乙女を除けば単独で野戦における戦力になるのはクリスだけだ。そしてそのクリスは、ドイツ軍人の家系。戦略的に何が一番効果的なのかは心得ているつもりである。

 腰に挿していたレイピアを横に一閃したクリスは、炎に近づいていく。

 炎にレイピアをかざして、自分でレイピアの刃を握って温度を確かめる。

「本物の炎とは言い難いな。」

「クリス。」

 見つめながら、京は呟いた。

「京、大和に伝えておいてくれ。今から二十分の間、連絡がなければ再度中央に人を配置するなりの対応をして欲しい。自分はこれから単独で中央を突破。背後に控えているであろう敵部隊の撃破及びこの炎の発生源を絶つ。」

「クリス。」

 再度呟く京。

 その決心の強さを目の当たりにした仲間として、クリスを止める事が出来なかった。

「それくらい自分で言って。」

 京は、大和と電話の繋がっている自分の電話をクリスに投げる。

「大和か。ああ心配しなくていい。本物の炎ではないみたいだからな。手品の類だったらこのまま本陣を急襲してやるさ。」

 

 

 手元の時計では、既に開戦してから五分の時が過ぎている。自らの出した紫炎の中で、ウチは飽きを感じてきていた。こんな見るからに危ないところに踏み込んでくるような酔狂な人間なんて居るとは思わない。そこまで思考が働いていたならば、こんな役目を請負う事はしなかった。若しくは暇を潰せる何かを持参したかもしれない。

 自分の兄弟や高くん、まゆっち以外の人に技を試すいい機会だと思ったのだがこんな調子では誰も寄ってこないだろう。

「後、何時間こうして居ればいいんだろ。」

 何度も言うようだが、こんなに炎を燃え滾る、あからさまに怪しい場所に突っ込んでくる人間が居るとは思えない。

 立会い、一対一の仕合ならば話は別だ。リュウや高くんは、炎なんてお構いなしに歩を進めてくるような人間だけど、そうそうそんな人間がいる筈がない。

 今回に限っては、戦いの最中に炎を打ち出す訳でもない。辺り一面が火の海なのだ。

 それでなお突っ込んでくるのなら、頭の螺子が飛んでるか、高くんくらいの実力者なのだと思う。

「高くんレベルの武芸者があっちの戦力にまだ残っているなら、今回は敗色が濃厚だしな。」

 携帯に届いた情報によれば、武神は予定通りの面子が対応。四天王の鉄乙女は南に向かっているらしい。まゆっちは本陣で総大将の護衛をしている。他には、強い人間が居ない事を祈っていよう。

「しかし、まゆっちが護衛に回っているならウチの心配の種はないも同然だな。」

 いつも手合わせをしていたから、まゆっちの手の内を知っているからと言ってもまゆっちと五分以上の戦いが出来るわけではない。

 高くんにも協力してもらって努力はしているが、今のところウチの技なんか一定以上の実力者には奇策にしかならないらしい。技の使い方が今のままでは対応されたら勝てる見込みは一気に薄くなってしまう。

 あくまでも今のままではの話ではあるが、今日いきなり強くならない限りは勝ち目は薄い。

 最も、まゆっちもウチの手の内を知っているのだから実力差で負ける。

 だから、まゆっち以外が来てくれて良かった。

 自分で出した炎だから、誰かが触れれば自然と分かる。

「負けはないと思うんだけどな。」

 ないとは思うが、身内以外に技を振るうのは初めてだ。考えもしない様な方法で突破されるかもしれない。

 あれだけ苦労して編み出した技。簡単に破られるものではない、と高くんは言ってたがリュウや辰姉との組み手の勝率は芳しくない。

 もしも高くんが励ましているだけだとすると、ウチは子供のままだ。

 褒められて喜ぶだけの子供。その程度の実力しか身についていないのならば、ウチは高くんに謝らなければならない。高くんの苦労や努力に比べてウチの修練は少ない。

 それなのに、弱い事を何度か嘆いた。

 それだけで見限られてもおかしくはない。生真面目な高くんは何事においても黙々とこなすので、ウチの趣味である格ゲーも文句の一つも言わずに付き合ってくれる。

 その格ゲー、ウチの生き甲斐の一つであるので、ゲーセンで大した努力もしていないのに負けて文句を言っているような人を見ると苛々する。

 高くんから見れば、ウチもそんな人間と大した変わりはないのだろう。

 なのに鍛錬に付き合って、戦い方や技を最適化する方法を一緒に考えてくれる高くんの優しさにウチは応えなければいけない。

「ウチは負ける気ないんで、負けてくださいよ。」

「生憎とこちらも負ける気はしない。F組の勝利のためにここは突破させてもらう。」

 

 

 先に動いたのはクリスだ。

「はああああ!」

 既に抜き放っていたレイピアを天使の眉間目掛けて突く。

 いくら刃がつぶれている模造品、川神院の特別品である武器のため衝撃が全て痛みに変わると言っても、大戦のルールで峰撃ちをするように警告されているにしては躊躇のない一撃だ。

 天使はそれをバックステップでかわす。

 クリスはそれ以上の追撃はせずにじりじりと距離を詰める。クリス身の回りの紫炎は物を燃やすでもなく、天使を守るでもなくただ揺らめいてている。何のための炎なのか。クリスにはまだ判断がつかない。

 天使から仕掛けてくる様子はなく、後手に回る事を良しとしていた。

「来ないならば、もう一度行くぞ!」

 クリスが連撃を放つ。

 いずれも速い、速い突きだ。

「……、リュウより速いけど高くんほどではないな。」

 正面のあらゆる位置、角度から撃たれる攻撃を天使は冷静に捌いていく。

 天使の両腕に纏ってある紫炎。攻撃を捌く際にレイピアに触れても燃え移るような事はない。クリスにとってこの炎に意識を持って行かれ過ぎている。もし、この炎が見てくれだけのもので精神的にこの炎の中に入れない、と訴えかけるだけのものなら今すぐに隙を見て引き返した方が良かったのだろう。

 だが、クリスにしてみてこの相手は中々の使い手だ。クリスの描く武術家像からは、ここまでの手練れが見てくれだけの狡い手を使うとは思えなかった。絶対にこの炎は何かがある。それも戦いを優位に進めるための秘密が、必ず。

 そして同時に今ならば勝算があると思えるだけの理由がある。

 クリスが攻撃して天使が防いでいる間、天使が出している炎はより大きく揺らめいた。それは動きが活発になった訳ではなく、維持のし辛い情況になっていることを意味している。所々炎が剥げて地面が露出している部分もある。

 防御しているとき、何かの理由で炎の操作が疎かになる。

「集中できていないようだな。」

「何言ってるか聞こえないよ!」

 クリスが更に相手の動揺を誘おうと声を出すが、北から南から響く轟音のせいでその声はかき消されてしまう。武神たちの戦いはより過激さを増し、南では鉄乙女と誰かが戦闘を始めている。

 鉄乙女と戦う人物。天使には大体の予想がついていた。

 天使の姉、辰子だ。

 良い勝負をするというだけの話ならば、辰子以外にも連想できる人物はいる。例えるならば竜兵もその一人だと、天使は考える。

 だが、今回の戦いばかりは辰子以外に考えられない。

 ちらりと横を見れたのならば、その火中からでも戦闘の熾烈さを理解できただろう。

 北、武神のいる方角からは時折、宙に向けて気弾が飛んでいる。

 南、鉄乙女がいる方角からは大地の崩れる雪崩のような音が聞こえる。

 その轟音を出しているのが鉄乙女なのかその乙女と戦っている人物なのかまでは分からないが、天使が思いつく人物の中ではその轟音をだせる能力と防ぐ力を兼ね備えるのが辰子しかいない。

 戦っているのが誰か、戦闘中にそんな事を考えていればクリスが言うように防御が疎かになってしまう。勿論この事に集中力を割く理由はあるのだが、それはクリスはまだ知らない事だ。

 天使は他人の戦闘にも気をかけているが、熾烈と言えばこのクリスの連撃。

 一撃一撃毎に速さを増している。避ける天使も流石だが、この連撃も流石の一言に尽きる。突きだけでなく横払い。首筋から足元まで多種多様な攻め。少しずつ少しずつ速度が上がり天使の表情も辛いものへと変わっていく。

 戦場の中央。丁度、ど真ん中で邪魔立てに一切ない中での激しい攻防の二人。

 攻撃を避ける天使は、その想像以上に速くなる攻撃に必死になる。

 対する攻めるクリスは急いている。

 相手の表情は曇っていくが、辺りに燃え盛る炎は少しずつではあるが落ち着きを取り戻している。

 天使本人は攻撃に晒されて苦悶の表情を浮かべている。しかし、炎は落ち着きは取り戻している事から、天使自身にも少しずつ余裕が出来ているとも考えられる。

 時間を掛ければもっと相手に分が出来るかも知れない。そう考えるクリスは足を前へ前へと運ぶ。

 

 まだまだ約束の二十分には満たない時間。火中にいるにもかかわらず、漸く汗が滲み始めてきた頃。クリスは足に違和感を覚えた。

 炎で足元が見えないとはいえ小石に躓いて少し連撃に隙間ができた。足の力が弱っているようにも感じられた。

 何かをされたと思いクリスは、足に力を思い切りのせて後ろに飛びのく。

 だが、その飛びのく様は普段と遜色ない最高のパフォーマンスであった。

 何かがおかしい。

「燃えろぉー!」

 飛びのいて距離が離れた瞬間。その数瞬まえまで防戦一方だった天使がこの時初めて攻勢に出る。

 振り上げられる腕、巻き上がる炎。爆風にも見える火炎がクリス目掛けて殺到する。

 であるが、クリスには考えがあった。

 足に覚えた違和感は、確実にこの辺り一帯を燃している炎にある。それ以外の原因は考え付かなかった。川神百代に限らず、武道に通じる人間の中には気を体外に出して攻撃に使う人間が居るという。恐らくは、先程足に感じた違和感の正体は、気で出来た炎に実体を持たせ足に引っかけたからだろう。

「だとするならば、この炎は切れる!」

 炎を切り裂くべくレイピアを一閃。

 十中八九そうであろうと思ったが、正にその通りだ。振るう腕には確かに実態の感触が残る。クリスの思い通りに、天使の放った炎は二つに分断された。クリスは切られた炎の断面を確認する。

 だが、その炎の断面から相手の姿を見る事は叶わなかった。

「そいつを切るには獲物の長さが足りないみたいだな。」

 クリスの予想以上に長さがあった炎、加えて炎の目晦ましを利用して天使はクリスの側面に移動していた。

 前方からは炎が、側面からは天使が、複数方向からの同時攻撃がクリスを襲う。

「高々横薙ぎの一回程度で隙が出来ると思うなよ。」

 クリスは手首を捻り、迫り来る炎をもう一度切り上げ、次いで天使への牽制の一撃を繰り出そうとした。

 一度目、炎に向かって放った斬撃に感触が残らない。当然炎は切れずに残り、クリスへと殺到する。物理的な感触の一切ない。先程まで切ることができた炎が、足元に敷き詰められている紫色の炎と同じように体をすり抜けて、クリスの視界を埋め尽くす。

 天使からの攻撃が来る。

 クリスには自分の失態を戒める時間すらない。そこに敵がいる筈なのだ。ここまで手玉に取られている。逆にここで攻撃するくらいしなければ、この先勝ち目はないだろう。

「そこだ!」

 クリスはコンパクトな突きを繰り出す。

 自分で生み出した炎の中から突如飛び出してきた右腕に、天使は驚き、その攻撃を腹部に受ける。

 ファーストタッチはクリスだ。

 攻撃の勢いをそのまま痛みに変えられる特別な川神大戦用の武器で突かれた天使は、声も上げずに歯を食いしばる。そして次の局面を考える。相手が知っているのは当たった感触だけだ。未だ視界は開けていない。攻撃を見切れる訳がない。だからこそ自分はここで引かずに攻撃する。痛みを堪えて足を前に出すのだ。

 クリスの視界はまだ塞がれたまま。

 天使は更に一歩踏み出した。

「ボディが、お留守だぜ!」

 天使の繰り出した拳は、炎が通り過ぎる事で段々と体が現れてくるクリスの腹部を狙っていた。まるでお返しだと言わんばかりに力の入った攻撃。

 そう、馬鹿正直な一撃だ。

 腹部の攻撃に対する返答が腹部への攻撃。ばればれだと言わんばかりにガードをするクリス。思わず口元がにやけてしまっている。

 ばればれだからこそ、一定以上の実力者ならば避けるところだ。絶対に何かがある。

 この場には居ないが、高昭ならば天使を叱るだろう。そこまで教える必要はない、何も分からせないまま倒す事に徹底するようにしろ、と。

 ここでクリスは気づけなかった。

 天使の狙い通り、クリスのガードは意味を成さない。

 クリスの体は防御もろとも吹き飛ばされる事になった。

 

 

 腹部に走る激痛。

 倒れた拍子に肺から空気が排出される。

 自分は確かに攻撃を読みきって防いだ筈だ。それなのに何故こんなにも痛く、立ちあがった後も足がふらふらとするんだろう。

 ただ分かる。この後、自分は勝てないだろう。こちらが相手に与えた苦し紛れの攻撃ではない。自分が受けたのは完璧な体勢から放たれた一撃だ。この攻撃がどれほどのダメージを与えたのかなど、一番良く分かっている。

 衝撃に耐え切れなかっただけじゃない。

 力が抜けているこの体は、結局は立ち上がれずに膝を折り、相手よりも低い位置に自分の目線がある。

「ウチの炎が気でできている事に気づいていたのは、良かったんだが実体化だけが技じゃない。ウチの気を燃やして作るこの紫炎は、他人の気を燃料により強く燃え上がる。」

「自分は気を使えないぞ。燃料となるものなどない筈だ。」

 嘘じゃない。目の前の炎のようなものなんて言うまでもなく、気を使えた試しも、使おうと思ったこともない。

「人間なら誰しも使っているんだよ。転びそうになれば咄嗟に気を使ってバランスを立て直そうとしたりする。微妙な体の動きのズレも気を使う事で矯正している。つまりはある程度体が動かせる人間は知らず知らずのうちに気を使用しているんだ。」

「それを燃やして、優位に立つのか。」

 卑怯とは言えない。明らかに勉強不足を否めない。

「それだけじゃないんだよ。燃料が誰の気であろうと結局はウチの炎だから、どんどんウチの炎は大きくなる。入れ物は有限だから全部を体に戻す事は無理だけどな。」

「これほどの規模を出しておいて、余裕を持って戦っていたのはその為か。」

「いやいや、始めはふらふらだっただろ。」

 それでもこの規模の炎だ。

 もしや川神大戦が始まって間もないのに、既に何人かを屠っているのか。

 いや、これほど炎出していてここまで余裕なのはやはりおかしい。

「ここまで調子が良いのも、燃料があるからだけどな。」

「燃料か、中央地帯全部を埋め尽くす規模の炎を出すために何人分の気を使ったのだ。」

「今のところは五人か六人か程度だろ。北から南から、気が阿呆みたいに流れてくるからな。」

 間違いなく、モモ先輩や鉄乙女さんが戦っている事を指している。

 なるほどモモ先輩のような人間が戦っているのなら、消費した気が空気を伝って流れてくるのも納得が出来る。これだけの規模の炎を維持する事も可能という訳だ。

 今回の負けは純粋に実力不足だ。

「っと、まだ足がふらつくな。日ごろから自らを知ろうとしなかった付けが回ってきたか。」

「先輩肩貸しますか。」

「いやそれには及ばないさ。色々と学ばせてもらったからな。」

 大戦のルールで峰打ちまでしか認められていないから、不完全燃焼になるかとも思ったがここまでしてやられると逆に清々しい。

 自身の実力を悔いる前にするべきことも有る。

「自分の事を先輩と言っているのだから、ある程度こちらの事は知っているんだろ。」

「そうですね。転校してきたときは学校全体が校庭にいる先輩を見てましたから。」

「しかし、剣を交えた仲だ。敢えて名乗らせていただく。クリスティアーネ・フリードリヒだ。差出がましいようだが戦った相手として、名前を交換してもらえないだろうか。」

 そう言うと、先程まで戦っていた相手は何ともいえない表情をした。

 相手にとってはいい戦いではなかったのだろうか。

「名乗りたくないならそれでもいい。自分の騎士道に基づく自己満足でしかないからな。」

「板垣です。」

 この後輩の名前は板垣か。

 強さと苗字から考えるに三年生の板垣さんたちの妹さんなのだろう。

「下の名前は言いたくないのか。」

 また、黙りこくってしまう。

 何か気に障ることをしてしまったのだろうか。

 暫くの沈黙の後また口を開いてくれた。

「笑いませんか。」

「ああ、笑わない。騎士道に誓う。」

 ここまで言い渋るのは、名前にコンプレックスを抱えていたからなのだろう。

 最近はどこの国でもおかしな名前をつける人間が居る。祖国ドイツではそういった名前がつけられないような配慮がされているが、そうでない国があるのは嘆かわしい事だ。日本もその一つなのだろう。世界には自分の子に悪魔の名前を与える不届き者もいる。

 目の前の彼女もその一人なのだろう。

「……、板垣天使(えんじぇる)。」

 エンジェルか。

 なんと言えばいいものか。ドイツの感覚だとそれほどおかしなものではないから、どの様な反応をすればいいか分からない。姓名の方にかかるからおかしいのだろうか。

 はっきりと言おう。

「すまない。その名前がおかしいのかどうかは、自分の感覚では分かりかねる。寧ろ普通とまで思えてしまう。名前から分かっていると思うが日本人の感覚とはずれているからな。日本人にとってその名前が恥じるものかさえ分からないのだ。」

「そんな頭を下げるほどの事じゃないですよ。ウチにとって言い難かっただけです。ただ、本名で呼ばれるのは抵抗があるってだけで、本当に、先輩が謝るほどの事ではないんです。」

 そこまで必死に弁解されると、自分が空回りしているみたいで恥ずかしくなってくる。

 いや、言い渋っていた板垣も自身が空回りしていたと思っているのか慌てている弁解しているからお互い様で良いだろう。

「ふふ、お互いにそこまで必死になることもなかったな。つまりこれからはあだ名で呼べば問題はない、という事で間違いないか。」

「はい、天と呼んでくれればいいです。」

「ではこちらもクリスで構わない。自分は年功序列だとかは気にしないからな。堅苦しいと思うならばその敬語も止めてくれていい。」

「いえ大丈夫です。」

 ふむ、日本人の謙遜の心か。

 悪い気はしないから無理に強制しないでこのままでもいいだろう。

「では敗者は大人しく去るとするか。また機会があれば手合わせをお願いしたい。」

「その時はウチの家族や武道を教えてくれている人も紹介します。」

「それは楽しみだな。」

 勝負には負けたが足取りは軽い。

 気持ちを新たに修練に励もうと思う。

 もし次に川神大戦があったら最後まで残れるだけの実力をつけよう。



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第十七話 中央突破

お久しぶりです。
身の回りのごたごたが一段落ついたので投稿します。

次回は未定です。すみません。
エタる事だけはないので許してください。

誤字等ございましたら感想にて教えてください。


 武神川神百代を除けば、F組軍の半数以上の戦力が集中している南の戦場。

 少しずつ押され始めているが、それでも竜兵は十分と言えるだけの働きをしている。その身一つで弓兵から放たれる矢を受け、同時に歩兵たちの攻撃も捌いている。一見力技を得意としそうな竜兵であるが、単純に戦っていては勝てない事は理解している。特に姉である辰子との組み手を通して、才能そのものを意識するほどに、痛く理解していた。

 だからといって、心は折れなかった。

 元々竜兵は武術で生計を立てる気はさらさらない。幾ら誰かに勝てなかろうと我慢をすればいいだけの話なのだ。

 しかし、男という生物の中には難儀な生き方しか出来ない人が居る。強くあろうと思うのだ。頭では諦める方が得策だと分かっているが、竜兵もその一人であり、負けて黙っていられる性質ではない。

 辰子との力関係もその一つであるし、現在の戦況に関しても、竜兵にとって我慢できるものでは決してない。

 勿論、竜兵一人では多勢に無勢であるため、突破されるのも時間の問題である。現在も少しずつ突破されているが、それでも首級は本陣に向かわせていない。それだけでも戦果は十分ではあるが、竜兵が満足できる内容ではない。

「手加減しながらだと飽きてくるな。」

 竜兵としては言うまでもなく負けるのは嫌なのだが、中途半端にしか実力を出せない川神大戦という戦場に飽きを感じていた。

 先程伝令に来た者の話によれば、風間ファミリーの男子二名が武神たちの戦いの横をすり抜けて本陣を強襲しているらしい。

 それは、竜兵に援軍が来ない理由でもあるのだが、竜兵にとってはそれ以上の興味がある。

 そういった気概ある漢と仕合いたいのだ。

 一度引き受けた事を投げ出すような無責任をする気はさらさらないが、防衛という行為が思った以上に性に合わない。特に今回の場合、陣営全体の作戦に関わる事をしているので戦いだけに没頭できないのも苛立ちを掻き立てていた。

 加えて、敵方の戦い方が上手いのだ。

 集団戦なんかした事もなかった竜兵にとって、連携で戦線維持されているこの状態。相手に少しずつ押されているのが辛抱ならないのだ。

 相手からしてみれば、それにたった一人で対抗している竜兵も大したものなのだ。

 しかし、互いが極端に手加減をしなければならないこの戦場においては元の実力がそのまま戦力に直結する事も少ないだろう。

 故に竜兵は、

「あの時姉貴じゃなく、俺が迎撃に行けばよかった。」

 と考えていた。

 武道四天王が相手なら本気を出しても問題はない。高昭でさえ、百代を含めた四天王ならば腕の一本くらい奪ってくるぐらいが丁度良いと言っていた。

 この戦場から少し離れた場所で、本気の辰子と四天王の鉄乙女が戦っているのが、その惨状から良く伺える事ができる。遠く離れた武神が戦っている場所からも轟音が響き、目の前の敵の更に奥からも木々がなぎ倒される風景が見えた。

 此方の戦闘から比べれば随分と派手な事をしているらしい。

 無駄に見掛けだけが凄いだけという事にならなければ、と竜兵は思ったがその考えはすぐさま訂正する事となる。

 何しろ自分たちが形式的には師事している事になっている黒田高昭という男、並びにその姉である紗由理はそれなりに礼節には煩く、態と手を抜く事や相手を格下に見る事を嫌う。だからその教えを守り、竜兵や辰子、天使は戦いでは手を抜かない。

 まして今日に限っては相手を怪我させないように、その考えを曲げてまで言い聞かせれてきた、本気になるな、という約束が、条件付ではあるが解除されている状態の辰子だ。竜兵は初めから辰子の心配なぞしてはなかった。

 先程から感じているように、退屈であるのだ。だが、天使や辰子が真面目にやっている手前で自分だけ手抜きをする気にもならないのだった。

「さっさと役割を終わらせるか。」

 辺りを見渡し、戦況をある程度把握した後、竜兵は相手部隊の最後列に位置している弓兵部隊の頭である椎名京を戦闘不能に追い込むべく走り出す。

 その無数の矢を打ち込むことで足止めできていたかのように思われていた竜兵がお構いなしに突っ込んできたことで、F組軍部隊の遊撃部隊は判断を遅らせる。

 椎名京自身は反応していて、彼女も武士であるから多少は迎撃も出来たが、それでも本分は弓兵であるため二、三発の攻撃を防ぐ以上の事はできなかった。

 一般兵を務める生徒がまずここまでの攻防を終わってから、竜兵が切り込んできたことに気づく。そして身構えは時には事態は収束していた。

 多少なりとも武を習っている弓兵部隊は一目散に竜兵を無視して走り出し、川神一子と源忠勝が繰り出した攻撃を竜兵が防いでいた。

 竜兵は全面的に無視。一子、忠勝両名に任せ、他の部隊員はS組本陣を目指して進軍している。

「押し込んだ割りに随分時間を使っちまったが、大和が指示した時間を考えれば許容範囲内だろう。」

「うん。あとはこいつをアタシたちで倒すだけね。」

 竜兵を見据える二人。

 その二人の様を見て竜兵は含み笑いをした。

「フフフ、俺を倒すのもいいが他にやることがあるんじゃないか。」

 小馬鹿にした口調で話す竜兵に一子は飛び掛りそうになったが、忠勝がそれを制す。そして竜兵はそのまま話を続けた。

「さっきまでお前らと一緒に居た奴らは今頃あの森を通っているだろうな。見晴らしの悪い中を。」

「なんだ、伏兵でも居るってのか。」

 忠勝がその様に言うと、また竜兵は笑い出した。

「何がそんなに可笑しいのよ。」

 仲間を馬鹿にされた事に一子は怒りを見せる。

 だが、竜兵が真に馬鹿にしているのは目の前の二人両方であった。

「まだ気づかないのかよ。中央地帯の炎がとっくに消えていることに。お前らの仲間が向かったところに果たして俺らの大将はいると思うか。」

 

 

 黛由紀江は異変に気づけたわけではなかった。

 勿論、ずっと気づけなかったという事ではない。もう少し相手の動きが遅ければ間違いなく気づいて完全な状況で迎え撃つ事ができたのだろう。それは当然のことながら迎え撃てなかったという事ではないのだが、それでも敵が上手だったのは否定できるところではない。

 中央には炎が燃え盛っていると聞いた時、由紀江はその炎の出所は友人である板垣天使の仕業だと理解していた。そして相手の陣営は此度の戦いを両翼の戦いに限定したいが為のものだとある程度は感じていた。

 その考えを覆されたとしてもその燃え盛る炎は視界に映っているのだから動きがあればこの線上に居る誰でも反応できる。それが数秒かかるのか数十秒かかるのか。どちらにしても、その僅かな時間が命取りになりかけた。いや、相手からすればその隙で以って大将の首を刈り取るはずだったのだ。

 由紀江の視界から炎が消えたその数瞬の間に、風の切れる音が聞こえた。それは由紀江自らが刀を振るうよりも鈍い、もっと大きな物体が起こす音だ。

 由紀江自身それが人間だと気づいたのは、刀で切りつけた後の事だ。幸いな事に、開戦してからというものの由紀江は常に居合いの構えを取っていたのだ。

 元々、由紀江は本陣の護衛であるから周りにも人は居た。だが由紀江が刀を抜いた瞬間は、試し切りだろうか、などと暢気な事を考えていた。厳密には、抜いた刀など見えるわけもなく数回由紀江が空を切りつけた頃、それなりの実力がある人間だけがその程度に思っていたのだ。

 それでも、由紀江以外は気づいていなかった。この事を考えると、例え攻勢の戦力として信じ切れなかったからだったとしても、軍師直江大和が由紀江をここに配置したのは不幸中の幸いであった。

 まず数回の攻撃を見事避けきったところで、その人物は漸く姿を見せた。

 正確には、黛の剣技と同様に見えなかっただけなのであるが、結局は同じ事だった。

「峰撃ちであるのに恐ろしく速い。果し合いなら私の腕は今頃そこいらに落ちていたかもな。」

「武道四天王の橘天衣。噂には聞いていましたが、速い。」

 じりじりと摺り足で移動する由紀江に対して、天衣は構えは取っているもののその殆どが自然体であった。

 しかし由紀江も必死である。

 先程こそ天衣は中央から真っ直ぐに来たため迎撃が出来たが、今一度見失えばF組の大将は戦闘不能になるのは確実だ。唯でさえ攻撃速度が同じであろうと、体の移動速度は天と地ほどの差がある。今でさえも回りこませないように必死、というわけであった。

 対する橘天衣も十分に必死だ。

 初撃は見事に避けきったが、速さは四天王最高だと言えど耐久性能は他の四天王と比べれば一段階劣ってしまうのだ。ましてや黛の剣術などまともに食らわずとも防ぐ事など、四天王といえど困難極まりない。

 先に動いたのは由紀江だった。それを見て天衣も動き出す。

 由紀江は、大上段に構えなおしたかと思えばすぐさま振り下ろした。その剣速も斬撃も見る事はかなわず、その斬撃の被害を見て、周りの人間はやっと事態の深刻さを理解したのだった。

 振り下ろしたと思った一瞬の間に由紀江は既に四回以上の剣撃を撃ち放っていた。

 天衣の耐久力を考えれば十分な威力を誇り、更に例え武神であっても全てを防ぐ事は出来ないと由紀江が思えるほどに上出来な連撃と言えよう。

 だが、この天衣はほんの数秒、数瞬前まで武神を相手に十二分な働きをして、その戦いの中で完全に出来上がっていた。体の速度はトップギアに入り、集中力も最高潮に高まっていたのだ。

 たったの二回、これはこの連撃を避けるために天衣が行った方向転換の回数だ。そして即ちそれは由紀江へと辿り着いた事と同意であった。

 由紀江はこの時、まるで迎撃の技を出していなかった。天衣の速度を考えれば、由紀江でさえ反応できていないのは仕方のないことである。

 たったコンマ数秒の遅れが招いた結果であった。

「余興は終わりだ。」

 由紀江の耳元で天衣はそう呟いた。それは攻撃の合図ではなく、気づけば天衣は由紀江と離れた場所で正対している。

 天衣が攻撃もせずに距離を取った理由をこの時の由紀江は分からなかったが、それでも天衣が速い事は十分に分かった。迎撃は出していたが、気づけば天衣は由紀江の前で攻撃をする為に立ち止まっていて、振り払う前には今の場所に居る。

 そう、

「気を抜いた瞬間にはやられる。それは私もお前も変わらない。」

 天衣が由紀江に話しかける。奇襲を仕掛けた側である天衣が、だ。

 もし同じ土俵で戦っていない人、つまりは由紀江以外の人間が、この話を聞けば何かを企んでいると勘ぐるだろう。

 それは無粋。武士にしか分からない領域での話しだ。

「お前が私を攻撃できているのは、私と言えど少なからず立ち止まらなければならないからだ。」

 天衣が端の切れた服を持ち上げて見せる。

「そして、あなたが懐にもぐる事が出来たのは黛の剣術に鈍さがあるから、そう言いたいのですね。」

 そこまで喋り確信した。自らの剣をいつも通りの形で鞘に収めた由紀江は目を細めて天衣を見る。

「最速を名乗る私が、峰打ちで生じた隙を突いて勝ったとしても、それは寧ろ恥じるべき事だ。最速ならば、振るわれる剣速よりも疾く動いてみせよう。」

「私も、手加減された状態で最速を譲り受けるのは本意ではありません。」

 応じる由紀江が笑みを浮かべると、天衣もま笑って返す。

「分からないだろうな。この戦場を見ている川神鉄心にも、あの武神にも、この瞬に終わる戦いの意味は。」

「極めようと思わなければ、分かりません。極めなければ越えられない、見えない地平の彼方がある。」

 向かい合う両名からは笑みが消え、天衣は程よく拳を握りこみ体を低くしている。

 そして由紀江は鞘に納まる刀に手をかけている。天衣に向かって刃の向いた姿勢で時が来るのを待っている。

「橘天衣だ。」

「黛由紀江です。」

 

 

 戦場の遥か上空。

 そこには一台のヘリコプターが飛んでいて、今回テレビ放送されている大戦の一部始終を収めようとするカメラマン、アナウンサーが乗っている。

 そして解説役として川神院総代にして学園長である川神鉄心と川神院師範代のルー・イーが同乗していた。

 勿論解説としてだけでなくもしもの時、割って入る為に上空に待機している。

「鉄心さん、先程まで劣勢だった武神川神百代がどんどん優勢になっています。何かあったんでしょうか。」

 アナウンサーが鉄心に聞く。

「そうじゃな。先程まで三人がかりで百代と戦っておったのが、中央の炎が消えた時に一人、橘天衣が離れて奇襲に行ったからパワーバランスが崩れたのじゃろう。」

「という事は先程まであった炎は道を塞ぐ為のものだったのですか。」

「恐らく誰かしらが気を用いて作り出した筈じゃ。」

 一頻り鉄心に質問したアナウンサーは川神大戦の戦場の説明をする為に少し移動してカメラマンは持つカメラの方向を変えている。

 解放された鉄心は溜息を吐く。

 その体には大量の脂汗が滲んでいて、それは鉄心だけでなくルーも同じであった。

 この戦場に居る武人が全員気がついた筈の鋭い殺気。

 一瞬とも言えない程に瞬間的で、それでいて鋭い、鋭い殺気だった。

 上空に居ながらも首に刀を押し付けられた様な、それでいて腸が抉られてしまいそうな恐怖を感じた。

「あ奴ら、加減をする気が一切なかった。」

「本当に危なかったですネ。余りの速さに割り込めなかっタ。」

「もしもの事が有った時の為に居るというのに、とんだ体たらくじゃ。」

 そう、殺気が出たのは一瞬で、気づいた時には事が終わっていた。

 唯一良かったと言えるのは双方が大怪我をしなかった事。これに関しては運が良かった訳ではなく、単純に黛由紀江と橘天衣の実力が素晴らしいとしか言えなかった。

 そして、一合で決着をつけてくれた事に感謝する他ないだろう。

 結果を言えば、黛の勝ち。立っていたのは黛由紀江、倒れ付したのが橘天衣。それ以外に起こった事は余りにも速すぎて目視はおろか理解すら出来なかった。

 中央で燃えていた炎が消えた瞬間に戦況は目まぐるしく変化している。

「ああーっと、たった今川神百代と戦っていたマルギッテが戦闘不能になりました。対するS組軍の板垣辰子が四天王の鉄乙女を撃破、中央地帯を前進するS組本隊に向かって動き出しました。」

 単なる偶然なのか、それとも必然だったのか。

 どちらにしても戦況が大きく揺れ動いている事に違いなかった。

「武道四天王が続けざまに二人も撃破されましたネ。ワタシも正直驚いていマス。」

「黛は兎も角として、板垣の方は才能を持っているのは知っておったが、きちんとした武道が出来るとは思いもよらなかったわい。」

「それでもまだ伸び代は十分で、完璧と言えるのは小手先だけでしたネ。」

「その小手先は、黒田の影響じゃろうな。」

 鉄心とルーの頭に浮かぶのは川神学園の第一学年の所属する怪物、黒田高昭だった。

 随分前に高昭の姉、紗由理がこの川神学園に通っていたが、その時の比ではない。高昭こそが、黒田と名乗るのに相応しいのだ。

 右腕の知らせを聞いた時、鉄心の心には陰りが有った。

 だが今は違う。あれは間違いなく「壁」、黒田の血を引く人間だ。

「数年前に釈迦堂が彼に負けたと聞きましタ。それに加えて板垣さん達の武の師である彼は一帯どれほどの力を持っているのカ。」

「それを知るのも、後少しの辛抱じゃよ。彼自身、今年中には医者の許可が出ると言っておったわい。」

 この大戦に参加している猛者の中、果たして何人が「壁」を越せるのだろうか。

 

 

「伝達します。先行する板垣妹は間もなく相手の本陣へと到達する模様。」

「相手作戦本部に動きあり注意されたしとの連絡が来ています。」

「板垣姉は相手を撃破。此方に向かって来ています。」

 駆け抜けるS組本軍は寄せられる情報に対応する暇など無かった。

 唯前へ前へと兵を進める。

 従者であるあずみが引く人力車に乗る男こそが、総大将の九鬼英雄だ。

 本来今回の作戦は、どんな手練れが守護をしていても、橘天衣の奇襲を退けられないとした上で実行した。

 勿論失敗した時の事を考えてはいた。だが現在本軍が進軍している理由は、失敗した時の追撃ではなく、引き寄せた相手から逃げる為なのだった。

「英雄、若からの連絡だ。本陣のあった場所まで来ていた敵さんが俺らが居ない事に気づいたらしい。追って来ている敵の戦力の主だった奴らは風間、島津、椎名、そして背後から単騎で奇襲に来ていた生徒会長の南條先輩だ。」

 今回、護衛部隊である井上準が若と呼ぶ男、葵冬馬から通達された一番最新の情報を自軍の総大将である九鬼英雄に伝達している。

「我らの妨害部隊はどれだけ居る。」

 視線を前に据えたまま英雄は問うた。

「はい、不死川心と榊原小雪が率いる部隊が待機しています。」

「そういう訳だ。少なくとも決着までは余計な横槍は入らない。」

 井上の注釈に英雄は少しの間考える素振りを見せると、命令を下した。

「我らS組の作戦は変わらず電撃戦とする。此方に向かっている板垣辰子は至急相手本陣へと向かわせろ。」

 元より逃げ場の無い進軍だ。

 英雄の手元にいる人間で戦力になるのは、従者である忍足あずみと井上準、そして信用するに足りない一、二学年の有象無象だった。

 広い意味で考えれば、それなりの実力を持っていると言える人間もいるだろう。しかし、この集団に必要なのは、迫り来る武神を僅かな時間でも足止めが出来る人材だ。

「くそ、あのホモは何やってやがる。」

 英雄に聞こえないようにあずみが呟いた。

 丁度同じ事を確認していた井上が確認の為に伝達をする。

「板垣兄は、たった今戦闘を終了させたそうだ。どうする英雄、今からじゃどこの戦場にも間に合わないぞ。」

「好きにやらせればいい。今回の大戦に限って、奴の働きとしては十分だ。」

 未だ敵本陣は見えない。

 新しい情報も無く、前へと進むしかない。

 時同じくして、どこの戦場も混乱している頃なのだろう。情報を伝える時間も無い。

 集中し、緊張するが故の閉口だが、周りの状況が掴めない以上は不安が積のるのは仕方の無い事である。

「英雄、相手の本陣まであとどれくらいだ。」

「それを知っておくのは臣下の役割であろう。我よりもお前の方が知っている筈だ。」

「いやなに、聞いただけだ。」

 会話の合間に、溜息を吐く井上。

 それが疲れなどが理由でない事は、英雄にもあずみにもよく分かった。

 普段のおどけた表情ではなく真剣な顔になる井上。

「武神に関する情報が途絶えた。恐らく、こっちに向かってる。それで……、」

「言わずとも理解した。時にハゲ、どれだけ持つ。」

 ハゲ、とはスキンヘッドの井上のことであるが、英雄はこの場面でふざけている訳ではない。人柄の良い井上に、英雄が心を許している証拠であった。

「長くても一分が限界だ。」

 一分。

 時速30キロで走ったとして、一分に走れる距離は500メートル。

 一般的に考えれば、追っ手を振り払うのには十分すぎる距離を稼げるが、相手は武神であり、一般には程遠い存在だ。

 そもそも今武神が居る場所は、英雄が居る場所から考えて500メートル程度で済んでいる筈が無い。

 当然、井上の言った「一分」という時間は、冷静な自己分析の下に叩き出した数字であるのは間違いない。

 だからといって井上自体、その程度で終わる気は毛頭ないのだが、しかし現実が非情である事は皆分かっていた。

「無理は言わん。だが、言ったからにはきちんと一分耐えて見せろ。」

「そう言ってくれると助かる。俺だと、敵さんの総大将は倒せそうに無い。」

 F組軍の総大将、二年の甘粕真与は小柄な女の子である。

 それこそ高校生には見えないほどの。

 井上は世間でいうところのロリコンであるが故の発言だ。

「ハゲ、それは武神を相手取るよりも恐ろしいものか。」

「ああ、恐ろしいね。あんないたいけな子を手にかけるなんて考えただけでも血の気が引く。」

 そう言って笑う井上の顔は、また険しいものへと変わる。

 人力車を引くあずみも、心なしか速度を速めている。

「じゃあ、俺らの総大将の事頼んだぞ。」

「言われなくてもその心算だ。英雄様には指一本触れさせない。」

 本軍が過ぎ去った後、そこには井上と、川神百代だけが残った。



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第十八話 暴走とヒーローと

今回で川神大戦は終了。
大した複線も落ちもなく、川神学園の人物紹介みたいな感じになってしまいました。

次回からはやっと主人公を出せる、筈です。

誤字等ございましたら感想にて教えてください。


 川神大戦も終盤。

 戦況は、お互いに戦場を移動する総大将を討ち取るのみとなった。

 二人の総大将のうち、九鬼英雄は自らこの戦いに終止符を打つべく突撃。もう片方、F組総大将の甘粕真与は本陣を離れ、逃亡中だ。

 本軍を率いて前進してきた英雄たちの他に、先んじて本陣を落とそうとした人物が二人。板垣辰子、天使の両名だった。

 その二人と対峙したのはF組軍の最終防衛戦力である、黛由紀江。

 天使を除く二名が武道四天王との戦いで、疲れを残していた。特に由紀江は、まだ対峙していた二人には気付かれていなかったが、怪我を負っていた。

 しかし、この戦場での戦いは黛由紀江も板垣辰子も周りに居た一般生徒も、何もしないままに終わった。

「もう、面倒くせえのは無しだ!」

 そう叫んだ天使は回りの被害など考えずに技を出す。

 由紀江と天使が真っ向から戦えば、十中八九由紀江に軍配が上がるため、この時の天使の判断は間違っている訳ではなかった。

「大・炎・上!」

 天使の体内にある気、それを全て炎に変えて放出した。大戦の中盤まで戦地中央の道を塞ぐほどの範囲を炎で埋め尽くしていた天使。

 あれほどの大規模ではないが、周りの人間をその炎に包む程度の規模であった。大規模な広さでないからこそ近くに居た人間が逃げ出せない速度で火の手が広がっていく。

 地に広がる炎ではない。大きな火柱が天使の周りの人間を飲み込んでいく 由紀江だけでなく辰子も、周りの一般生徒も、敵味方関係なく火に飲まれた。

 当然、熱量を持った炎ではなく、気のみを燃やす炎である。火傷を負う事も、大怪我をする事もない。しかし、体全体が飲み込まれてしまえば大量に気を有する由紀江や辰子でさえも、体の中の気を殆ど奪われてしまうのは必然だった。

 時間を置けば回復はするが、所謂峰打ちで以って倒された状態であるため戦線離脱は逃れられなかった。

 対する天使も体の中の気を燃やして、その全てを放出した為、天使の気を含め一帯の人間の気は全て空へと昇っていった火柱と共に霧散していってしまった。故に天使も他の人たちと同じくその場に座り込んでいる。戦闘の続行は不可能。

 自爆と言って差し支えない所業だった。

「救護班、救護班!」

 炎に飲み込まれていた。その部分のみを視覚的に捉えてしまった無事だった生徒が騒ぎ出す。

 川神という町に生きる人間ならば、然程珍しい光景ではないかも知れないが、だからといって人間的な驚きや本能的な恐れが麻痺している訳ではない。

 特に川神市外部から来て、学園に入って間もない一年生は特に顕著だったのだろう。

「皆さん、大丈夫ですか!」

 そんな風に言いながら顔を真っ青にして近づいてきた女生徒。由紀江と同じクラスに所属する大和田伊予、その人であった。

 今回大戦に戦闘員としての参加は義務付けておらず、その他の生徒は救護班として動いている。勿論川神学園の生徒は血気盛んな為、殆どが戦闘に参加しているのは言うまでも無い事である。

 伊予は外部からの生徒であり、且つ由紀江と違い武道を目的に来ている訳でもないのでこの大戦では、救護班に回っていたのだった。

 序に言えば外部から来たという事もあり、伊予には友人はおろか知り合いも少ない。であるから同じくクラスで浮いていて、同じクラスに友人を持たない由紀江ならば友人になれるのではないかと思ったのだろう。大戦当日に怪我の手当てを理由に友達になれれば、と行動していたら行き成り目の前で巨大な火柱が立ち上り唯一の知り合いが飲み込まれたとなれば血相を変えて飛び出すのも無理はなかった。――知り合いといっても一方的に気にかけていただけであり、その時点では大和田伊予の知り合いは学校内に唯の一人も居ないと言える。

 生来の優しい気質に任せて急いで飛び出したのは良いが、見てみれば一人も火傷すら負っていない。加えて飛び出したのが伊予だけであったので、非情に気まずい雰囲気が漂ってしまった。

 巻き込まれた生徒の大半は気を失っていて、一人ではどうしようもなく。寝ている風にも見える横たわった生徒達をどうにかする必要があるのかすら分からなかった。更に言ってしまえば、倒れた人のところまで一人で行った伊予が動かずに居るため、周りの救護班の人間も今更駆け寄って行くには間が悪くなっていた。

 少しの間一帯が沈黙に包まれていたが、他の戦場では刻一刻と戦況が変化居ている様で、遠くから聞こえた雄叫びを聞くのを区切りにして、救護班は正常に動き始めた。

 ここで漸く、伊予は当初の目論見通りに由紀江と接触する事に成功したのだ。

 そして、この伊予と由紀江のファーストコンタクトは、井上準が川神百代と接触してから丁度二分たった頃の事でもあった。

 

 

 丁度二分。

 それだけの時間を持ちこたえて尚、井上準は未だ地に伏す事はなかった。

「正直お前がここまでできるとは思いもしなかった。」

「そりゃそうさ、今まで実力は隠してたんだ。」

 言葉のみを聞けば二人とも余裕がある風だが、川神百代は殆ど無傷。対する井上は致命傷はないものの滲む汗の量が、限界が近づいている事を示していた。

 勿論、百代が井上との戦闘を態と長引かせているのではない。

 百代は川神大戦におけるルール、峰打ちをする、を忠実に守っているからこそ長引かせてしまった訳だ。

 峰打ちの為の最低限度の力、それを見誤ってしまうほどに井上の実力は百代の目星から大きくずれていた。

「どうもそれなりに本気を出しても問題なさそうだな。今日は本当に素敵な日だ。まどろっこしい手加減なんかせずにのびのびと戦える。その点では井上、お前にも感謝しているんだぞ。」

「へっ、武神様に褒められようが嬉しくはないな。俺を油断させるには十年遅いぜ。」

 井上が言い終わると同時に、百代は鋭く踏み込んだ。対する井上は最早避ける事諦めて己の身を守る事に集中した。

 まだ全力ではないとは言っても、百代の攻撃は手心を加えたものではなかった。

 その拳が井上に直撃すると同時に、井上の体は地面と水平に吹き飛ぶ。

 なんとかして空中から制動をかけようとして地面に足をつけようとするが、勢いは納まる事を知らずに、先行していたS組の大部隊の後方に配置された一般生徒を巻き込んでようやく勢いが止まった。

「すまねえ、英雄ここまでだ。」

 井上のその言葉に一瞬、部隊は足を止める。

「立ち止まるな!」

 味方が思考する暇を与えずに、英雄は最前列から叫ぶ。

「今ここで我らが止まれば井上の稼いだ時間は水泡に帰すのだぞ!」

「しかし、今の衝撃で部隊はばらばらに……。」

 周りを走っていた生徒が弱音を吐く。

「そんなもの知った事か。我は九鬼、九鬼英雄だ。王だ。我が前進すれば民がついて来るのは道理だろう。民が傷つけば、我も心を痛めるのが道理であろう。」

 それ以上の言葉を発する事無く、英雄は敵の総大将を目指して走り続けた。

 だが遮る人間が居なくなった途端に、そこは百代の射程圏内であった。

「ふむ、威力を抑えれば問題はないか。」

 百代は腕に気を溜めて、放つための準備をしている。百代は度重なる満足のいく戦いの中で高揚しすぎたのだろう。抑えている筈の気の量は常人に多大な被害がでる事は容易に想定できる程のもので、上空のヘリから様子を見ていた川神鉄心が今、正に止めようとしていた。

 だが、百代の準備も、鉄心の心配も、何もかも気に留めず、そこに向かってくる人間が一人だけいた。その人物は戦利品である薙刀を百代に投擲した。何のためらいもなく、全力で。

 完全に油断していた百代は避けきれず、横腹の皮一枚分ほどを切ってしまう。

「てめえの妹だったか。そいつの持ってた獲物だ、返してやるよ。」

 不敵に笑いながら、板垣竜兵がゆっくりと歩を進めている。

「不意打ちとはいえ、私に傷を負わせた事を褒めてやろう。」

 言葉は穏やかな風に装いつつも、百代の心中は煮えたぎっていた。一子の持っていた薙刀をぞんざいに扱われたのだ。

 百代の長い髪の毛がまるで逆立って見えるほどに気が荒立っている。

「ところで、これは私に喧嘩を売っているという事で間違いないな。」

「はあ?何で態々そんなもの売らないといけねえんだよ。今は大戦中だろ、不意打ちだろうとなんだろうと勝ってなんぼだ。俺は何か悪いことでもしたか。」

 おどけた口調で話す竜兵に、百代は怒りを募らせた。

「黒田はそんな事を教えてるのか。それともお前の独断か。」

「高昭が今回の戦いの前に俺に言った事は一つだけだ。」

 一呼吸置いて、竜兵は真面目な顔をして百代と向き合う。

 二人は、次の竜兵の言葉が開戦の合図になる事を互いに了解したのだった。

「俺があいつに言われたのは、機会があれば武神にどこまで通用するかを試して来い、という事だけだ。」

 その後の二人の動きは速かった。

 先に動いたのは百代。竜兵が現れる前から溜めていた気の一切を放出すべく両手を前に突き出した。

 竜兵は、何が来るかを細かに予想できた訳ではないが、確実に竜兵の射程外からの攻撃が来ると考えた。

「かわかみ波!」

 飛び道具なんてものではない。砲撃。それも飛び切りの、最上級のもの。百代の手から迸る光線は、竜兵目掛けて突き進む。

 無論、避けるだろうと百代は考えた。故に殲滅する程、長くの時間をかけた攻撃ではなかったのだ。竜兵を肉薄するべく、右か左か、竜兵の避ける方向を注意深く見ていた。

 竜兵は踏み込んだ。力強く、地に減り込む程に。

 それからやった事は、かわかみ波に対して、拳に気を纏い、体のばねを精一杯に使ったアッパーカットであった。

 人の体よりも太い光軸が竜兵の居場所を境に上空へと向けて垂直に曲がっていく。

 その光景を見て驚いたのは、丁度横の辺りを通り過ぎて肝を冷やした上空のヘリに居た人間に限らず、川神百代も同じだった。

 板垣竜兵がここまで強かったとか、よもや殴ってかわかみ波を回避したとか、そもそも世界最強たる武神に喧嘩を売るとか、そんな事よりなによりも、竜兵は、かわかみ波が撃ち出されるよりも早くに、既に数歩踏み込んでいたのだ。

 そして今も、立ち止まる事なく、百代を打ち倒す為に近づいてくる。

 何に驚いたのか。

 動きを見れば武道の動き。だが竜兵の戦い方はその実、唯の殴り合いだった。真っ向からの殴り合い。退く気がない。

 川神大戦中盤まで敵の弓兵を伴った部隊と衝突した際も、避ける事無く、歩を進めて近づいたら攻撃するのみだった。

「黒田高昭が竜兵に教えたのは殴り合いの技術だって事か。」

「喋る暇はねえぞ。」

 百代が思考に浸っていると竜兵は滑るように飛び込んできた。

 竜兵が今まで高昭から学んだ技術、いや盗んだ技術とも言える。黒田の奥義、風林火山の内で速さの象徴である烈風、それを真似た飛び込み。更には気を用いた姿勢制御術。

 つまりは竜兵は百代から見れば、届かない距離から、滑りながら、上段蹴りを放ってきたのだ。

 事実その動きは、気を扱えない人間には出来ない動きだ。故に常識外の動き。初めて見れば、思考は一瞬でも止まってしまうのは仕方のないことだった。

「ぐううあああ。」

 頭に直撃すれば、脳は揺れる。これは当たり前の事だ。混乱している最中に、脳も揺れ、百代は正常な判断は出来ずに居た。

 今が大戦中で、手加減が必要な事を考慮する余裕はない。

 ましてや、完全に直撃を貰ったのだ。少なからず、己の、武神という呼び名に誇りを持つ百代は、一瞬我を忘れる程に憤怒した。

 その対象が自分の不甲斐なさなのか、竜兵なのかは、百代にも正常には分からなくなる。怒りとはそんなものなのだ。

 そして、次に繰り出した一撃。それは武神の技を、力を以って、それで居て十分な殺意の篭った攻撃だった。

「川神流無双正拳突き!」

 たかが正拳突き、されど正拳突き。

 武の頂に居る人間が放つ攻撃は全てが奥義、全てが必殺。

 加えて、殺意の篭った一撃だ。

 今の二人の間合いは百代の歩幅で換算して高々二歩分しかない。

 だが竜兵はその攻撃を体を高速で捻り、受け流す。攻撃の余波が見えない衝撃波のままあらぬ方角へ飛んでいく。

 これは、まだ開戦の合図でしかなかった。

 黛由紀江と橘天衣のほんの一瞬の間に起こった殺し合いに続き、この川神大戦において二度目となる殺し合いが勃発しようとしていた。

 元々竜兵は自身の衝動を抑える気がない。

 対する百代は、大戦中久々に武道四天王たちと殆ど全力を出せる環境で戦い。その後の足止めに来た井上準も、予想以上の実力者であった。普段、平穏を生きるために抑えている戦闘衝動が緩んでいた事もあってか、もう殆ど暴走している。

 だが百代も誇り高き武人。

 思考は殺意に塗れていても、心の根底には最低限の理性が残っていた。

 百代は、先程竜兵が投げた一子の薙刀を手に取った。これは大戦用の武器であるため刃は潰れており、川神院製の特殊な武器であるため、威力は全て傷みに還元される。

 何とか怪我をさせないようにと、己を律するだけの思考は残っていた。

「川神流大車輪!」

 百代は薙刀を旋回させながら、竜兵を横や縦から切りかかる。

 どんどん速度を増していく攻撃を前に、竜兵はここで初めて後ろに下がった。薙刀の回転が増すほどに、速度も威力も増してくる。

 竜兵はその回転を弱めるため、百代が切りかかる度に薙刀の柄を攻撃する。

 至極冷静に。

 百代が薙刀を持ったとしてもその間合いのアドバンテージは竜兵にとって意味を成さなかった。その理由は二つ。

 一つは、百代は決して薙刀を得意としている訳ではないからだ。幾らある程度は出来たとしても常日頃から使ってなければ、細かい微調整が利かない。それは相手の懐に潜り込んで、どちらが先に悪手を打つかどうかの戦いを好む竜兵にとって脅威とは言えなかった。

 もう一つは、薙刀を以ってしても普段竜兵と修練する高昭の方が長い間合いを持つからだった。高校生になり、更に背丈の伸びた高昭は二メートルは優に超える。竜兵と比べても三十センチメートル以上は背の高い人間と戦闘経験を積んでいるのだ。

 そのお陰か、攻勢に回っているのは百代だが、優位に立っているのは竜兵だった。

 無理に反撃をする事もなく、涼しい顔をして百代の攻撃を捌いている。捌いているが竜兵は後退はしなくなった。少し後ろに下がったかと思えば、意地になって踏み込んでくる。

 お互いに引く気が一切ないので、結果として獲物に即さない距離で戦っている。そのせいで百代は不利になっていると言えなくもないのだが、既に百代はそんな損得感情で動いていない。

 真正面から来た敵を、真正面から捻り潰す。

 今の二人にとっては、それが全てだった。

 

 

 武神や武道四天王。その他にもこの大戦中で武功を挙げた黛由紀江や板垣辰子。それらの実力者がここまでの川神大戦を盛り上げたが、終止符を打ったのはその中には居ない。

 だれもが、川神百代が九鬼英雄に追いつけるかどうか、それが勝敗に大きく関わると考えていた。

 両軍の軍師、直江大和も葵冬馬も。

 そして、実際に今回の勝敗を決した人物をこの戦いの最中に見た者も、彼らが勝敗に大きく関わるとは夢にも思わなかったのだった。

「もっと速く走れー!」

 こんな叫びが響いたのは、百代と竜兵が戦い始めた頃の事だった。

 声の主は風間翔一。風間ファミリーのキャップ、その人だ。

「これでも全力で走ってんだよ。俺様の百二十割の力だぜ。」

 その前を走るのは、同じく風間ファミリーの島津岳人。

 その二人はあるものを担いで走っていた。

「それじゃ千二百パーセントの力になる。ガクトは本当に馬鹿なんだ。」

 元々はS組軍の名家不死川のご令嬢の不死川心が移動用に使っていた御輿のようなものだった。

 二人はそれを強奪。そしてその上に弓兵の椎名京を乗せて全力疾走している最中だ。移動砲台となって英雄を狙撃するのが、彼らの目的だった。

「大和からの最後の指令。作戦本部も含めた残存勢力全員で足止めをするから、その隙に九鬼英雄を戦闘続行不可能にする事。そしてそれが最後の機会。」

 指令となるメールを見終えると、京はケータイをしまった。

 そして弓に手をかける。

「おいおい敵が見えるまでもっとリラックスしててもいいんだぞ。まだ敵は射程圏内に入っていないだろ。」

 息を切らし始めている岳人が呆れたように言った。

「そんなに余裕もないみたい。二人の背丈が違うから足場は傾いてる。本当は狙撃の足場は水平が良かったけど、そんな贅沢も言ってられないから集中しないと。ガクトとキャップはは兎に角速く走る事だけを考えて。どんなに最悪の足場でも私の方で微調整をして必ず当てるから。」

 京は静かに弓を持って、矢を構えた。

 今は森の中を駆けている。未だ京の目にも九鬼英雄は見えていない。

「安心しろ、いざとなったら俺とガクトが止めを刺してやるからな。」

「当たり前だ。」

 翔一とガクトの言葉を最後に三人は黙った。

 森を抜けると弓兵の京の目には英雄を捉える事ができた。他の二人は騒がしさを頼りに進んでいく。

 相手はまだ気がついていない。仮に気付かれていたら、この作戦はご破算だった。最悪の事態だけはなかった。それだけでも京の気持ちは大分軽くなった。

 作戦の合否は、勝敗に直結するといっても間違いではない。

 京たちだけでなく、英雄を足止めしている残存兵力が不穏な動きを見せれば勘付かれてしまうだろう。

 その前に作戦を行わなくてはならない。

 気付かれてからでは遅いのだ。

「もう時間がないから撃つよ。私が撃ったら投げ捨ててもいいから外れた時の場合に備えて走ってね。」

 口を噤んだ京を中心に静寂が訪れる。

 弓はしなってぎりぎりとした音を出す。弓だけではない、京が集中すればするほどに周りの空間が軋んでいる風に思われた。

 無論、武神でもあるまいし空気が軋むほどの暴力的な気を使っているわけではない。寧ろ京の気は精錬されたものであるが、百代ほど量は多くない。しかし、空気が軋んでいる風に思えるのは、美も求める弓道と違って武を追い求める弓術であるので、無骨さは拭いきれないからだ。

 だが、研ぎ澄まされたものはたとえ武でなくても美しく見えるのだから、突き詰めれば人を惹きつける魅力があるのは間違いない。

 それが本当に美しさなのか、それとも別の何かに魅入られているのかはさて置き。

 京の射は言わずもがな素晴らしいものであった。

 川神大戦用の先端が吸盤のようになっている矢は、多少の配慮はしてあるが、それでも本物と比べれば真っ直ぐに飛ばない。

 怪我を避けるためには仕方のない仕様であるが、一定の力量を超えた人間にとって煩わしさを感じる仕様であった。

 特に弓兵にとっては、矢の違いは顕著に影響を表す。空気抵抗や重さ、それらは正確な射撃を要求される弓兵の死活問題であるのだ。いやしかし全く、本人たちでなくても、それが多大な影響を与える事は分かる。分かるのだ。

 にも関わらず、椎名京の、そんな劣悪な状況での射撃は、真っ直ぐに九鬼英雄の頭部目掛けて吸い込まれるように飛んでいったのだ。

「英雄様!伏せてください!」

 英雄の従者のあずみがいち早く気付いたが、それでも矢を打ち落とす余裕はなく、身を投げ出して身代わりになる他に英雄を救う手立てはなかった。

 元々英雄の頭に当たる筈の矢は、あずみの頭に当たった。英雄を助ける事のみに必死になっていたあずみは、威力を和らげる事もできず、意識を刈り取られていた。

 あずみの体が崩れ落ちるのを抱きとめた英雄はゆっくりと地面に寝かせた。

「我は今、非情に腸が煮えくり返っている。我の臣下が、我の体を張って我の進路を切り開こうとしている。」

 英雄の声は戦場によく響いた。

「我の臣下が、望むからこそ、我も目を瞑っていたが最早限界だ。あずみだけではなく多くの仲間が、我のために倒されている。確かにここで敵の総大将を追いかければ、敵が我に追いつくよりも先に、我が勝ち旗をあげる事が出来る。皆はそれを望み、我のために体を張っている。しかし、これ以上皆が傷つくのを見てみぬ振りをして、敵に背を向けて走り出すのは、幾ら臣下が望もうと、王たる我には出来ぬ。」

 英雄は戦う意志を見せて、自軍の先頭に立った。

「皆の者、我の我侭を許してくれ。勝ちを拾うために敵の総大将のみ倒すなどといった女々しい考えは捨てろ。我々は、総大将も、武神も含めた全ての敵を殲滅し、その上で勝つ!」

 英雄の決死の大号令を聞き、S組軍は高めた戦意のままに突撃を始めた。

 その残り少ない戦力で。

「ガクト、周りの奴らは頼んだぜ。俺は英雄をぶっ飛ばす!」

「っち、しょうがねえなキャップは。いっつも良い所を全部持っていくよな。」

 嬉しそうに話す岳人と翔一。

 二人だけでなく、腸が煮えくり返っていると言った割には英雄たちも楽しそうに見えた。

 この長い大戦で疲れている筈なのに、まるで公園で遊ぶ子供のような晴れ晴れしい顔で戦っている。

 少し離れた所に居た京は、英雄を狙っていた弓を下ろした。

 今なら確実に矢を打ち込めるが、そんなことはしない。

「……しょーもない。」

 京がそう言って腰を下ろす。

 中央の百代が戦っている場所からは、時たま轟音が響いていた。

 いったいモモ先輩は誰と戦っているんだろう、京がそんな事を考えていると何時の間にやら空には祝砲が鳴り響いた。

 京が少し、ぼうっとしている間に、大戦の決着がついたようだった。



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第十九話 表と裏と裏

後書きに格ゲー用語解説とまじこい公式サイト風人物紹介を書いておきました。
今後続けるかどうかは別にして、今回は主人公の紹介。

紹介文含めて今回は伏線大目です。

何度も言うようですがエタる事だけはないので気長に待ってください。
更新が遅れてごめんなさい。

誤字等ございましたら感想で伝えてください。




 川神大戦終了後、夕方は過ぎ徐々に暗くなりつつある空の下で、川神学園の生徒たちは学園に集まり、その日の功績を称え合いながら宴会を催していた。

 当然、活躍した人物の近くには多くの人間が集まる。学年なんて関係なく。

 だから、一年生の天ちゃんやまゆっちの近くにも多くの人だかりが出来ていた。

「やっぱり、俺が来ても意味ないな。」

 皆は今注目の的、幾ら天ちゃん達に呼ばれたからといって川神大戦に参加すらしてない俺が来るべきではなかった。

 こうして隅で一人、黒田家遺伝のでかい図体を隠すように、食事をする訳でもなく、飲み物すら持たずに立っている。

 つまらないかと聞かれれば、それは否定する。近くに居ようと、遠くに居ようと皆を眺めるのは嫌いではない。退屈はしない。

 例えば天ちゃんは、この前転入してきた二年生の金髪の外人の先輩と談笑しているところだったり、まゆっちがいつも通りおどおどしていても、俺の知らないまゆっちの新しい友人に励まされていたり、竜兵さんが男性をナンパしてたり、辰子さんが武神とじゃれあっていたりするのは、見ていて飽きない。

 それでも、黒田高昭というオブジェクトがここに有るのは、周りから見れば随分と不釣合いで、不恰好な、つまりは邪魔なものなのだろう。

 しかし居心地は悪いが、別段俺が彼らに抱く嫌悪感もない。彼らは数分もしない内にこの会場の中にまた溶け込んでいく。俺が何か行動を起こす事もなければ、彼らが詰め寄ってくることもない。

 やはり俺はここにおいて、彫像の様なものでしかなかった。

「あー、いた!」

 と、元気な声が響いた。

 多少、驚いた。酔狂にも俺に話しかける人間は、そもそもこの学校で俺と面識のある人間は随分と限られる。天ちゃんの次くらいに元気な声を出す人間となれば、まあ、一人くらいしか居ないのだ。

「こんばんは、川神先輩。」

「うん、こんばんは。黒田君。」

 川神一子先輩。

 前回と違い今日は、というより今は学校の制服を着ている。

「そんなに気にかけて貰わなくても大丈夫です。一度しか会ってないのに、態々挨拶をしに来なくても構わいません。それこそ、この間川神先輩にお伝えできた事なんて黒田の秘伝でもなければ、直ぐに武器になる情報ではなかったでしょうに。」

 川神先輩とは知り合いというだけで親しくもないから突き放すような言い方をしてしまった。離れて欲しいという意味を含めたつもりだった。

 だが、先輩は気にした様子もなかった。

「直ぐに身につく武なんて、本当の武じゃないわ。それに『人の武の壁』と呼ばれる黒田の知識や技術、修行の方法を幾つか教えてもらって、完全な調子ではなくても黒田の武の動きを見せてもらっただけでも十分以上の成果だったんだから。」

 快活な笑い方をする川上先輩からは、武に対する真摯な思いだけが感じられる。

「そうですか、安心しました。黒田の武は未だ女性向とは言い難い。俺の姉も黒田の武術を十分に使いこなせる訳ではありません。以前お見せした技が川神先輩のお役に立てていると聞けただけでも十分な報酬です。」

 俺はそうやって、胸に手を当てて安心しているように見せた。

 川神先輩は、オーバーリアクションな俺の動きを見て笑っている。そんな川神先輩から視線を外して周りを見る。

 案の定、と言うべきか。妬みに近い感情の篭った視線が向けられている。

 川神先輩が人気のある人物だと聞き及んではいたが、ここまで露骨に周りが反応を示すとは思いもよらなかった。

 女性と男性が一対一で話していれば、要らない詮索をする人間も居るのだろう。まして皆から好かれている川神先輩が関わっているとなれば、この状況になるのも予想できた筈だった。

 自分の判断能力の低さを実感しながらも、それ以上に悲観する事はなかった。

 怪我の功名と言うべきか。衆目に触れているからこそ弁明できるチャンスが、噛み砕いて言えば、事態の収束をしてくれそうな人物が此方に向かってきていた。

 この場面をぐちゃぐちゃに掻き回して、先程までの事をなかった事にするくらいにインパクトのある人物が二人。

「あっ、お姉様だわ!」

 川神先輩は、小走りで此方に来る武神に向けて手を振ってる。

 そして次の瞬間には、武神は俺たちの目の前に移動していた。流石に目で捉えられないなんて事はなかったが、難しい技であるのに簡単であるかのようにやってのける武神の技量に感心するばかりだ。

「丁度良かった。黒田の事を探してたんだ。」

 武神は、妹である川神先輩を撫でながらそんな事を言った。

「どうかしましたか。」

「見れば分かるだろ、私は今非情に困ってるんだ。早急に対応してくれ。」

「何を、でしょうか。」

 武神は何も言わずに自分の腰に纏わり付いているものを指差した。

 それは紛れもなく辰子さんだ。

「ほら、辰子って寝るとなかなか起きないだろ。いつもは竜兵が処理してくれるんだが探しても見つからなくってな。付き合いが長いなら対処法を知ってるだろ。」

「辰子さん起きてますよ。」

 起きている事が知られ、武神の腰の辺りで少し震えた辰子さんは、恐る恐る顔を上げる。武神はそれを見て溜息を吐いた。

「ほら辰子さん、しっかりと自分の耳で聞いていたんですから。」

 だから武神から離れるように、そんな意味合いを持たせて辰子さんに言った。しかし普段は竜兵さんがこの役目を引き受けている以上は、この程度の説得で辰子さんが素直に首を縦に振らないのは明白であった。

 何度も説得を試みても、辰子さんは武神から離れなかった。竜兵さんが説得しないとどうにも駄目な様である。力ずくで引き剥がすのは、極力避けたかったので、そのままどんな言葉をかければ良いのかを考えていると、武神が口を開いた。

「もういい。今日だけは辰子の好きにさせるさ。」

 武神は、川神先輩の頭を撫でているのと逆の手を辰子さんの頭に置いた。

 ミシミシと辰子さんの頭が音を立てているが、辰子さんが文句を言っていない以上はいつもと変わらないやり取りなのだろう。

 その後、川神先輩も武神に抱きつき始めて、本格的に武神が助けを求めてきたが、救援が終わる前に電話がかかってきた為、武神には申し訳ないと言ってから会場を出て電話に出ることにした。

 

 

「……であるからにして、ドイツの誉れ高き軍人の中でもマルさんは特別に素晴らしい人間なんだ。」

「すっげー。マルギッテ先輩ってそんなに格好良い人なんだ。それにドイツって凄いところだし。いつか行ってみたいぜ、です。」

 人差し指を立てながらクリスは祖国について豪語した。それを聞く天使も目を輝かせていて、クリスの話を心の底から楽しんでいる。天使が聞き上手という事もあってか、クリスの祖国ドイツ、またドイツ軍に関する自慢話は留まるところを知らない。兼愛してならないマルギッテや自慢の父親の話が延々と続けられている。

 クリスと親交の深い、同じ風間ファミリーの人間がこの状況に気付いたならば、やんわりと注意しただろう。だが、遠くから見ている分には仲良く話している様子しか分からないので、ストッパーが入ることはなかった。それでいて、天使はまだまだ聞き足りないという様子であるので実際に止める必要もなかった。

「無理をして敬語でなくとも良いと言ってるだろう。しかしそうだな。学生の内は難しいかも知れないが、いつかドイツに旅行する時は言ってくれ。自分が案内しよう。」

「じゃあ今はクリスが日本に居るから、ウチが日本を今度紹介しないと。」

「それは、是非。」

 日本を紹介して貰える、その言葉にクリスは目を輝かせる。実際に日本に来た事で、日本に来る前のクリス自身の持っていた知識は、ほんの一部しか知らないことに気付いたのだった。風間ファミリーやクラスメイトにも多少は案内をして貰ったが、今日までこの川神大戦の準備が忙しくゆっくりと日本について教わる機会がなくなってしまっていたのだった。

 運の良い事に、天使には日本に詳しい友人が居るというのでクリスの期待は高まるばかりであった。

「それと、川神院ほどではないにしても、文献としては非情に価値がある武家の家も見て回れる筈です。ウチが高くんに頼んでおくから。」

「その高くんというのが、戦いの後に言っていた天の師匠で合っているか?」

「まあ、同い年だから師匠かと言われると少し違うけど。」

 クリスはそれを聞いて驚いていた。

 天使に武道を教えた人物、それは勿論板垣辰子や竜兵に武を教えた人物である事と同義である。その人物が自分とそれほど変わらない年齢だと思っていなかったのだ。

「高くんもここに連れてきたから紹介するつもりだったんだけど。」

「黒田高昭なら先程会場から出て行きましたよ。」

 返事が返ってきたことに天使は驚き、声の主が居る方へ視線を向けた。そこには先程話題に上がっていた人物が立っている。

「マルさん!」

 親しい人物が来た事で無意識に笑顔になったクリスが、今までより少し大きな声をだしてマルギッテの名前を呼んだ。

「名前を呼ばれていた気がして近くまで来たのですが何か御用でしょうか。お嬢様。」

「いや、親しい人物として名を出しただけだ。迷惑だったか?」

「お嬢様に親しいと思われている、それだけで身に余る光栄です。」

 従者の様な立ち振る舞いをするマルギッテだったが、目を瞑ってクリスに感謝の言葉を漏らす姿は、本当に感動に打ち震えている様子だった。

「マルギッテ先輩は高くんのこと知ってたのか。」

「日本の黒田家、『人間の壁』といえば、世界でも有名です。私もいずれ壁越えには挑戦しようと思っていましたので、どんな人物なのか見に行ってきました。」

 それで出て行ったことを知っていたのか、と納得する天使。しかしなぜ会場から出て行く必要があったのか、それが天使にとって気がかりであったのだ。

「今度日本を案内してもらう事になったのだが、マルさんも一緒にどうだ。此方に来てからも任務が忙しくてまともに見て回る機会がなかっただろう。一緒に出かければ護衛の任務とやらも出来るから一石二鳥だ。」

「お気遣いありがとうございます。その時はご同行させていただきます。」

 クリスとマルギッテが仲良く喋っている。

 天使はその後も少し続いた会話が一段落ついてから、マルギッテに話しかけた。

「あの、マルギッテ先輩。高くんはどこに行ったんですか。」

「電話をしながら、恐らくは校舎の方へ向かって行きました。」

 この催しの会場は基本的に体育館で行われているものである。だから校舎に行く生徒は居ない筈だ。体育館から出た、ではなく校舎に向かった。高昭は、マルギッテがそこまで判断できるような移動の仕方をした。

「それ以上の詳しい事は分かりませんが、もし気になるのなら近くに潜伏させている部下に様子を探らせますが。」

「ウチが自分で行くから良いです。じゃあ、クリス詳しい話はまた今度。」

「分かった。ではまた学校で会おう。」

 天使は胸の内に幾つかの疑問を抱きながら校舎に向かった。

 

 

 声が聞こえる。

 暗い校舎の中で、今ここにはウチと高くんしか居ない。ウチは少し遠くから、ばれないように高くんとは距離のある場所に居る。ウチが見ている廊下の角を曲がったところに高くんがいる筈だ。ここは高くんの電話をする声が良く聞こえた。

「ああ、その件については良く分かった。安心しろ俺は不利益になる事はしない。知られて得する事がない。」

 喋っている内容から、電話の相手が推測できないが、こんな所で喋っているという事からも分かるほどに後ろめたい内容である可能性が高そうだった。

「それでもう一つの用件というのはなんだ。」

 もう一つという事は、初めの一つの話は既に終わったのだろう。そちらも気になるが今から始まる話を聞くために集中する。

「それくらいは知っている。いや、説明は細かい方が良い。続けてくれ。」

 それから少しばかりの間、高くんが相槌を打つ声しか聞こえなかった。聞こえた情報は少なく、現在の持ちえる情報だと、誰かに知られると困る情報を電話の相手と共有している事。

 そしてそれは川神学園の誰にも聞かれたくない事であるらしかった。

「俺にその解決を協力してくれというのか。」

 解決という事は、何かしらの問題点が。協力の要請という事は、既に結託された組織的な動きではない筈。少なくとも高くんが所属していることは無い。もしも高くんが悪い事を任されていたのなら、もしも悪事に後ろめたさを感じていたなら考え直す時間がある。

 まあ、まだ高くんが悪い事をしていると決まったわけじゃない。それに、寧ろそうじゃない方が良いに決まっているのに、こうして探偵みたいな事をしていると自然と思考がそちらに向かってしまう。

「そうだな。可能な限りは協力するが、俺より適任な人物がいる。俺の姉だ。」

 協力を承諾した事、それは仕方の無い事として受け入れる。

 しかし、高くんが「姉」と言った以上は悪い事をしている可能性は低くなった。高くんの事を信頼しているのは当たり前だが、紗由理さんが悪い事に加担するわけが無い。高くんも自身の姉の事なのだから知っているだろう。

「そうだ。姉さんの方が適任だ。ああ、俺の方から頼んでおく。」

 紗由理さんの名前が出た以上は、何も心配をする事はない。

 あとは高くんが電話を終えるまで待っていればいいだろう。

「詳しい話は、また今度だ。これだけ分かれば十分だ。それに」

 

「少し用事が出来た。」

 静まり返った校舎の中で、通話終了を告げる電子音は良く響いた。どんな聞き方をしても何らか不測の事態が起きた結果、高くんは通話を終えたのだ。詳しい話は今度にと言った。聞かれて不味い話なのだろうか。

 この静まり返った校舎の中で高くんとウチしか居ない筈だ。

 その聞かれては不味い話を聞かれてしまう可能性。考えなくても分かるだろ。この場面で邪魔者なのが誰なのか。

「こんな所で奇遇だな、天ちゃん。」

 廊下の角から、高くんが出てくる。窓から入ってくる月の光が微かに体の輪郭を映し出していた。暗く、誰も居ない校舎。高くんの実力はウチが一番知っている。逃げる事は絶対にできない。

 ウチですら何も知らなかったのだから、他の誰かが、ウチがこんな状況になるなんて予想もしないだろう。

 頭がお花畑のまゆっちは、夜の校舎に男女で二人と聴いただけでふしだらな妄想でもしているかもしれない。

 ウチは、現在こんな事になるなんて思いもしなかった。

「残念だ、俺はこんな事をしたくは無かったんだ。しかし、まあ、仕方が無い。」

 歯切れの悪い言葉を漏らしながら、立ち止まっているウチに向かって高くんが近づいてくる。この時のウチは、高くんを信じているから立ち止まっていた訳ではなかったのだと思う。考えもしなかった事が起きて混乱し、近づいてくる高くんが怖い。

 高くんだから、では無い。暗闇の中、夜の学校で、体の大きな人間が、うっすらとした輪郭で、ゆっくりと歩み寄ってくるのが、怖い。

「寧ろ、他の人間がするくらいなら、いっその事、俺がやれて良かった。」

 その言葉とは裏腹に、高くんの口元は大きく歪み、白い歯が月明かりに反射しているのが良く分かった。

 高くんが笑うところを久しぶりに見たかな、と思いつつ、こんな怖い笑い方をする高くんはやっぱり見た事は無かったと改めて思うのだった。

「嘘だよな、高くん。」

「当たり前だろ。」

 まさかの即答だった。

 暗い学校という雰囲気のせいで、ちょっぴりだけ怖かったが高くんがそんな恐ろしい事をするわけが無かった。ウチは信じてた。あー良かった。

 別に高くんが悪い事していると思ってはいなかった。それでも、もしもというものが有るだろう。いや決して信じていなかった訳でなく、可能性として、無くもないかもと思う程度だったのだ。

 ぶっちゃけ怖いものは怖いのだ。

「驚かすなよな、ワラキアみたいな顔しやがって。」

「何だよその分かりにくい例えは。てか天ちゃん泣くほど怖かったのか。」

「何言ってんだよ。ウチは泣いてない、泣いてないからな!」

 ウチは高くんが差し出したハンカチを受け取ると、さっさと目元を拭う。

「何も疚しい事をしていないんだから口封じなんてしないぞ。」

 高くんがそんな言葉と共に差し出したのは、先程までの通話履歴の映った携帯電話。そこには登録名が「委員長」とされている人物からとの通話履歴があった。

 哀れ委員長、だがウチもアイツを本名で登録していない。

「なんで委員長との電話で、校舎の中まで来る必要があるんだよ。やっぱり疚しい事でを話していたんじゃないのかよ。」

「電話とか関係ない。会場に居るのが辛かっただけだ。」

「じゃあなんで電話で紗由理さんの名前を出してたんだよ。」

「委員長が友人の相談事を手伝って欲しいって言ってたんだが、その相談がどうにも女性関連の事らしいんだ。俺じゃ分かんないから。」

「女性ってだけならウチでもいいだろ。」

「委員長が態々俺に聞いたって事は、それこそ姉さんに取り次いで欲しいって事だ。天ちゃんじゃ分からないと思ったんだろ。」

 まるでウチが女性らしくない様な事を言っているので取り敢えず高くんのお腹を殴っておく。委員長も次に会ったらぼこぼこにしてやる。

「でも委員長へそんな相談する奴っていたか。四六時中一緒に居るわけじゃないけど高くん以外に委員長と仲が良い男友達を見た事がないぜ。」

 唯一、ウチが疑問に思ったのがそこだった。もうすっかり高くんの事を疑っていないので普通に会話に興じているが、寧ろ委員長の方が疑わしい。そう言えば会場で委員長の姿を見ていなかったな、と思い出した。まゆっちは、今日の川神大戦後に友達になった大和田伊予ちゃんと談笑していた。だから、委員長は他の誰かと喋っている筈なのである。

「ああ、俺も気になったから聞いておいたんだ。」

 高くんはそこまで気にする様な事でもない、と言っているかの様な口調だ。本当に気にする様な事ではないのだろう。

「唯一気になる事は、あいつに外人の知り合いが居た事だな。」

「外人?委員長にそんな知り合いが居たのか。どんな名前の奴だ。」

「マロードって名前らしいぞ。」

「ふーん。」

 本当に大した事もなかった。あの会話から激動の予感がしていたんだが、全然そんな事はなかった。高くんがしていたのはなんでもない会話だったらしい。少し涙目になってしまったが、損をした気分だ。勿論、この時には既に、高くんが他人に聞かれたくない話をしていたという情報は、頭に残っていない。

「なーんだつまんねえの。高くんは何か面白い隠し事とか無いのかよ。」

「面白い隠し事ってなんだよ。」

 そういえばそうだな。

 ウチの家は物が無さ過ぎて、家族全員が隠す事もない。かといって、高くんの家は皆がいつも行くから隠せている物がないのだった。何故か、こっちの方が申し訳なく思えるくらいに、高くんにはプライバシーの権利が無いように思えてきた。

「面白くはないけど、隠す事なら一つある。」

 そして、高くんの口調は先程までの軽いものでは無くなっていた。

 真面目な話。後で考えると、高くんはこの事ををウチに伝える為に校舎の中まで来たのではないのか。そう思えてならないのだ。いや、態々伝えなくても良かった。ウチならば、高くんの考えは良く分かる。だから嫌でも、その内に気付く事だった。

 でも高くんは自らの口で伝えたかったのだろう。

「一ヵ月後に、東西交流戦があるのは知ってるよな。」

 東西交流戦の事は、この会場に生徒が集まりきったタイミングで、学長が生徒全体に伝えた内容だ。当然ウチも聞いていた。

「まだ俺と学長、そして川神学園の師範代しか知らない事だ。その後で、俺は川神院師範代の釈迦堂刑部の『壁越え』の挑戦を受ける。」

 一瞬、高くんの正気を疑う。

 高くんは強い眼差しで、ウチを見ていた。

「嘘だろ。」

「嘘なんかじゃないさ。」

 優しく、諭す様な声色で、高くんは喋る。高くんの決心はウチの言葉で揺るがす事はできないのだろう。

 それでもウチは、嘘だ嘘だ、と言い続けるしかなかった。願うしかなかった。思い直して欲しかった。

「だって、高くん。腕がきちんと治っていないじゃないか。」

「そうだ。だから俺と天ちゃんの隠し事だ。」

 今度は本当に、泣き出してしまう。

 高くんがどれだけ、どれだけ苦労して、ここまで回復させたのか。その努力を高くんは赤の他人が『壁越え』という称号を手に入れる為に、投げ出すと言うのだ。

 もしかしたら、高くんの方が強くて、誰もその称号に辿り着けないかもしれない。そしたらいよいよ、高くんの頑張りの意味が無い。誰も、報いてやれない。

「俺のこの体という資本は、そもそも天ちゃんが言う赤の他人の『壁越え』というものの為にある。天ちゃんが、他の人がどんな感じ方をするのかは分からない。だけど俺にとっては、『黒田』にとってそれは何もおかしな事じゃないんだ。」

「でも、高くんは怖くないのかよ。また動かなくなるのが。」

 衝撃を受ければ、当然腕には良くない。攻撃を受けるのは言うまでも無く、その手で、攻撃できるのかすら怪しいだろう。

 それでもやる。

 強がりなのか。それとも、本当に『黒田』として何も感じていないのか。

 どちらにしても、それは呪いだ。結局高くんが『壁』をやる事は変わらない。

「泣くな、天ちゃん。俺は大丈夫なんだから。」

 そう言いながらウチの頭の上に置かれる高くんの右手。

 病状なのか、それとも恐怖からなのか、微かに震えている。




格ゲー用語解説

ワラキア……メルティブラッドシリーズに出てくる人物。正式名称はワラキアの夜。元の格ゲーが型月作品であるのでキャラの詳しい設定は長いので割愛。初期シリーズでは投げから十割とかする壊れキャラだった。必殺技でカットカットとか廻せ廻せと連呼するのが印象的。ドットの顔や特定の超必殺技の後にでるタタリマークが怖い。


まじこい公式サイト風の人物紹介

「越えてみろ、壁を」
黒田 高昭(くろだ たかあき)

身長      223センチ
血液型     B型
誕生日     1月22日
一人称     俺
あだ名     高昭、高くん、でかぶつ
武器      全身(黒田流武術)
職業      川神学園1-S 人間の壁
家庭      両親、一人暮らし中の姉
好きな食べ物  すじこ
好きな飲み物  スコール
趣味      格ゲー(天使の影響)
特技      器用さ
大切なもの   家族、板垣一家
苦手なもの   天使のお願い(惚れた弱み)
尊敬する人   高順

武術家の実力の基準とされる黒田家の現当主。壁。
遺伝である体つきは人間最高の体格であり、見ただけなら最強。
歴代当主の中でもトップクラスの実力だった。

中学の頃に、右腕が病気になり、色々と思いつめた挙句に自身に失望して、以来感情の起伏が殆どなくなっている。普段見せている顔は繕った演技であるが、最近は自分でも自分の本心が分からなくなってきた。その頃から怒る、泣く、憎むことをしなくなり、負の感情は心の底に封じ込めたらしい。ようするに我慢している。

板垣一家とは家族ぐるみで仲が良く。末妹の板垣天使には一目ぼれしている。天使を除いた三人と姉の受験期に腕の病気が発覚した事から、負担になったのではないかと負い目を感じている。実の姉を除けば、板垣一家にだけ感情を見せる。

天使に告白しないのは理由があるらしい。


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第二十話 『壁越え』前編

お久しぶりです。

前編と後編に分けての投稿になりますので、後編は迅速に投稿する所存でございます。

誤字等ございましたら感想で伝えてください。


 西の天神館。

 川神学園と並ぶ武闘派ぞろいの学校である。高校であるのに武闘派が必要かどうかはさて置きとして、その二つの高校が東西交流戦を行った。学年毎に戦って三本勝負で勝ち数の多い方が総合的な勝利を得る。

 既に今日のこの日に決着はついている。

 一学年の部は川神学園側の剣聖の娘、黛由紀江の奮闘むなしく、指揮官及び軍師足りえる人物の不在が響き、天神館の勝利。

 二学年の部、天神館の虎の子、西方十勇士と呼ばれる才能溢れる十人の戦士が奮闘。しかし、先の川神大戦で強い結束を得た川神学園側が士気、策略、連携で上回り西方十勇士を打破し、勝利を掴む。

 三学年の部、天神館が何かを仕掛ける間もなく、武神と板垣姉弟に陣形を食い破られて終了。川神学園の勝ちとなった。

 備考するならば、二学年の終止符を打ったのが源義経のクローンであったり、三学年の天神館が合体奥義を使っていたりしたのだが、勝敗に大きく関係しなかった。

 そして、それらのインパクトは、この後に行われるものに塗り替えられる事は必至である。

「諸君、伝達した本日の東西交流戦はこれで終了となる。しかし、もう少しだけこの場に残っていて貰いたい。」

 川神学園の学長、川神鉄心が喋りだすと、生徒がざわめきだす。

 この日の日程、多少長引く事も考慮されたもので、本来であればあと数時間かかると思われていた。しかし、一学年、三学年が大きく時間短縮をしたために、一般生徒の中には早く帰れるのを喜んでいた生徒も居た。

 逆に、天神館。

 修学旅行の一環でこの川神に来ている。前日の内にこの後の日程は話されていた。特に西方十勇士を含めた武闘派は交流戦と同じくらい楽しみにしている日程だった。

「本来であれば、見世物でもなく、単に見るだけでも一般の人間が見るのにタダというわけにはいかないのじゃが、今回は特別に許可を出してくれた。」

 鉄心が喋っている間にも川神院の修行僧が何人も出てきて陣形を組んでいる。

 その陣形を知っている人間はすぐに、彼らが結界を張る準備をしているのだと気がついた。では何故そのような事をするのか。

 単純な話、被害を抑えるためである。では、何の被害からなのか。

 川神学園、天神館の人間ならばすぐに分かる。あれは、人災から人間を守るためのものである。

「川神院師範代、釈迦堂刑部の『壁越え』を今より二十分後に開始する。」

 壁とされる人物の紹介は、勿論無く、越えられるべき対象として、結界の中に立っていた。

 

 

 特等席である結界のすぐ近く、そこに行けなかった人間は仕方が無く校舎に入って窓から眺めている。それができるのは、校舎に近いところで戦ってくれているからであり更に言えば川神院の修行僧が結界を作ってくれているお陰である。

 勿論、川神学園と天神館の実力者は、結界の近くの場所を勝ち取っているが、そもそもの人数が人数なので、普段関わりの無い人が近くにいるのも仕方の無い事であった。

「ところで壁越えって何だ?」

 実力者揃いの風間ファミリー、そのキャップである翔一が疑問を口にする。風間は野次馬根性を出して、他の武闘派メンバーについてきただけなので、これから何が始まるのかを良く理解していなかった。

「一定以上の実力、つまり人間の限界の力を持っているとされる黒田家の人間を越えた者に送られる正真正銘の化け物の証よ。」

 気分が最高に高まっている一子がそれに答えた。

「彼を倒すと手に入る称号と考えていいのかな。」

 ファミリーの一人である師岡卓也が、先程の言葉を噛み砕いた解釈をして、間違いないかを聞く。

 しかし武神、百代は首を振った。

「『壁越え』の基準は五つ。速さ、技術、力、防御で上回る事。若しくは純粋に黒田に勝つことだ。仮に勝てずとも周りが見て明らかに異常に突出している部分があれば評価される。」

 一対一で戦っても評価を受けれない弓兵の為には、代わりに天下五弓というものが作られたのだ、とその言葉に続けて説明しようとした京は話を逸らす事になるし、自慢するのは柄でもないと思い、結局何も喋らなかった。

「じゃあよ、俺様のパワーが認められたら『壁越え』と認められるのか!」

 岳人が、少し考えれば否定される事も分かるような質問をする。

「ガクト自慢の体格よりも黒田のが優れてるのにどう考えたら勝てるって思うんだ。」

「俺様にだって勝てる部分は、あるはずだろ。探せば一つくらい。」

 岳人は、大和に指摘されて、多少弱気な返答をする。

 と、近くに居ながらも黙っていた人物が岳人の発言に口を挟んだ。

「てめえが高昭に勝てる部分なんざ、年齢だけだ。探すだけ無駄だから教えといてやるよ。」

「リュウー、いきなり悪口は良くないよ。」

 竜兵の暴言を辰子が咎める。特等席を取ろうと前列に来ていた板垣一家が幸か不幸か、風間ファミリーの近くに来ていた。

「随分と黒田の事を買っているんだな、竜兵は。それに同性愛者のお前が男に悪口なんて珍しい。」

「俺が多数の面で勝てない相手は姉貴たちと高昭だけだからな。それに、あいつには戦闘以外の強い部分が色々あんだよ。」

 百代の質問に答える竜兵。言葉だけを聞けば弟分の自慢をしている風にも思えるが、竜兵の浮かべる表情は笑顔ではなかった。

 能天気な岳人と同列に並べるな、と言外に強く含ませていた。

 

 

 周りでそんな風に喋っているうちに、結界の中には道着に身を包んだ二人が、すっかり準備を終わらせて向かい合っていた。

 成人男性である釈迦堂よりも一回り以上体の大きい高昭。一応正式な仕合という枠組みであるので二人とも正装。綺麗に髭まで剃ってきている。そのため、外部の天神館の一部の生徒はどちらが釈迦堂でどちらが黒田か分からない程だった。

 かといって、態々名を呼ぶ、取り仕切る人間は当然居ない。

 全てが『壁』である黒田高昭において決定される。

 これは一種の儀式である。

 二人の間には既に凄まじい闘気が溢れていた。二人の間、ではあるのだが、正確に言えば釈迦堂が大半を占めている。

「後二分だ。」

 およそ爽やかではない、殺気の込められた笑顔をしながら釈迦堂は呟く。

「てめえをぶっ潰す。そうすれば俺は漸く一歩、武の頂に近づける。」

「随分と低いところから登り始めるんだな。」

「俺がてめえに負けたあの日から、全てを一からやり直した。ガキに負けたからだとかそれまで気の緩みがあったとか、理由は幾らでもある。」

 釈迦堂は、自身を落ち着かせるように深く息を吸い込んで、強い眼差しで高昭に対峙した。

「何より、幾らガキだろうと完成が早熟な黒田が相手だろうと他の奴らだろうと、負けっぱなしで引き下がるのは、許せねえ。」

 残り一分。

 お互いに構え始める。

「『壁越え』の挑戦者、釈迦堂刑部に問う。」

 高昭の喋り始めると、そこには二人の武人が立っているだけで、他の人間が入り込む余地の無い世界が出来上がる。

「敵を捉える速さは磨いたか。」

「ああ。」

「己の信じる技術は。」

「言われずとも磨いたさ。」

「敵を屠る攻撃は。」

「今度はどてっ腹貫いてやるよ。」

「身を守るための盾は。」

「言われなくても。」

 最早、開始時刻は関係ない。後は高昭が合図を出すだけである。

「分かっていると思うが、黒田との戦いにおいて運は一切絡まないと思えよ。一度負けたお前は今回勝てなければ次回以降も絶望的だ。」

「次はねえよ。」

「では、挑戦者釈迦堂刑部。越えてみろ、壁を。」

 

 

「行けよ、リングゥ!」

 開始早々二人の間に閃光が走った。

 釈迦堂のオリジナルであり、最も信頼の置く技、リングが打ち出された。その攻撃の速度は凄まじく、釈迦堂が言い終わる前に着弾した。

 しかし、着弾地点は高昭の体ではなく、それを通り越して結界に当たっていた。

 観衆はワンテンポ遅れて気がつき、そうでなくても驚きの声を上げたのは着弾してからの事だった。

「避けただと!」

 一番驚いたのは、百代だった。

 同じ川神流の百代は、釈迦堂の武術を見ている。一世代前の『壁越え』の実力から考えれば、釈迦堂は余裕を持って勝てるだろうと信じていた。

 その釈迦堂の必殺技とも言えるリングを遠くない距離で避けた。

 信頼していたからこそ、驚く。それとともに、高昭の実力が急に底知れないものと感じてしまう。

 疑念を持ったのは百代だけではない。

「高くんはどうして避けたんだ。」

 過去の高昭と釈迦堂の対戦を唯一知る人物。天使が、他の人物には分からない驚き方をしていた。過去の戦いでは、高昭は釈迦堂のリングを食らっても無傷からだろう。

「今の釈迦堂さんのリングを耐えるなんて自殺行為よ。昔の螺旋回転と違って空洞の内側に向かって回っているわ。あんなの当たったら体が抉り取られて、風穴ができちゃうわよ。」

 一子が説明するも、結界に張り付くリングは削岩機をも凌ぐ音を出していて聞こえない。結界を張る川神院の人間は先程よりも険しい表情を浮かべている。

「おらおら、どうした!」

 二発、三発、四発と攻撃を放つ釈迦堂。対する高昭は最小限の動きで回避している。もともと集中していた、と考えればそれまでかもしれないが、高昭は戦いが始まる前と今の状況とで表情に差異が見られない。

 対する釈迦堂は、面白い状況ではなかった。

 リングですら牽制にしかならないのでは、と考えていた。現在、そこまで悲観する内容ではないが、相手のミスが出るまで撃ち続けられる技ではない。加えて、黒田がそんなミスをする訳が無い。

 釈迦道が昔の戦いの反省をした時、高昭はミスを幾つかしていた事に気付いた。しかし、今釈迦道の前に立っている黒田高昭にはその時のような幼さは一切感じられない。

 『壁として』釈迦堂の前に立っている。

「動くぞ!」

 高昭の前方に集まった気。それを見た竜兵は、高昭が攻勢に転じると理解した。釈迦堂にも見覚えがある。空中で気の塊を生成する事によって空中で姿勢制御する技。それの予備動作である。

 リングの射出を止める事を見切った高昭が地面を蹴った。

 前方に飛び上がり、再度足を動かす。空を切ったかに思われた足は、即座に作り出された空中の気の足場を蹴り、二段階のロケットスタートによって爆発的な速度を得る。

「あの巨躯であれだけの速度をだせるのか。」

「でも角度が甘い、あれじゃ通り越すわ。」

 正面から殴りにかかれば、リングを撃たれて終わりだ。故に左右か上方向に避けながら接近しなければならない。

 しかし、高昭は釈迦堂の頭を掠める軌道よりも、大幅に上方向へ飛んでいる。これは素人目に見ても――本当に素人であればこの時の高昭の姿は追えないのだが、軌道がおかしいのは明らかであった。

 そして皆の予想通りに釈迦堂の頭上を通り越す。

 対戦相手である釈迦堂は当然、この戦いを見る人間は片時も高昭から目を離さない。以前の経験のある釈迦堂や、先程の加速を見て気がついた人物は同じ様な考えをしていた。

 先程見せたように空中で制動をかけてくるだろう、そう考えていた。

 しかし、外れ。

 高昭、つまり黒田は人類の壁であり、その程度では務まらない。他人の限界がどれ程なのかを見極める人間が、自身の最高のパフォーマンスを見極めていない筈が無い。高昭は持てる力の限界を引き出して、見極めて、活用している。

 その全てを活用しているのだ。

「フッ!」

 飛び越えた瞬間、釈迦堂の背後の一部が死角になるその一瞬。常人では届かない距離から、高昭の蹴りが釈迦堂へと放たれた。身長二メートルを越える高昭は、無論腕や足のリーチは非情に長い。そのリーチ、攻撃範囲の最大まで伸ばした一撃は釈迦堂の皮一枚を抉るかのように炸裂した。

 思わず、その攻撃が終わってから暫く、誰も言葉を発する余裕が無かった。戦いに集中する釈迦堂は皮を削がれた程度の損害である事に安堵した。少々興奮気味の天使は、低ダ百合折りでめくった、などと内心で喜んでいるが、他の観客は違う。

 釈迦堂を含めた全ての武人が、あの飛び込みの後、気の壁を作り空中でもう一度方向転換してから攻撃するものだと思い込んでいた。速さは、近づくためのものでしかないと思っていたのだ。しかる後の攻撃がどれ程の威力があるのだろうか、そのくらいにしか考えていなかった。

 だが、実際は違った。

 あれだけの速さで、空中での制動ができて、リーチは桁違い、態々後ろに行く必要もない。それだけの条件が有りながら確実に攻撃を当てる為に最善を尽くす冷静さ。何より、軸足が無い体が浮いた状態の蹴りであそこまでの威力がある。

 勿論、比べるまでも無く、釈迦堂の連発していたリングの攻撃力は桁違いであるのだが、当てていない攻撃と当たった攻撃では印象が違う。実際、殆ど戦いに影響しない釈迦堂の傷。しかし、道着と皮膚がそがれた部分は痛々しく見える。それ故に、観客は印象付けられてしまったのだ。

 黒田が、人間の壁が、見掛け倒しではない事を。

「風の構え。」

 高昭の低い声が、静まった観衆の耳に吸い込まれた。

 その体を緩ませた高昭が、宣言した奥義は『風』。攻防一体、黒田の奥義で最速を冠する技。その構えから打ち出される攻撃速度は正に最速。加えて、その攻撃は威力を捨てる事はしていない。緩んだ体から繰り出される一撃は、踏み込む足から腕にかけて綺麗な線を描き、力を逃がす事無く、最短の道を通る。

 そして繰り出されるのは暴風の如き猛撃だ。

 移動速度、攻撃速度を共に最速にまで引き出した攻撃を避けきれる術も無く、釈迦堂は結界の端まで吹き飛ばされた。

 無論、素人目には何が起きたのかすら分からない。否、それこそ壁越えの資質を持つ者しか見切れる筈がない。 

「何よ、今のプレミアムな攻撃は。」

 由紀江や天使と共に観戦していた武蔵小杉が声を震わせながら周囲の代弁をした。この場であの光景を見切り、理解できたのは、百代と由紀江だけである。それと、予備知識のある板垣姉弟と一子だ。

「あの技は体の力を前後左右に完全に動かす事で繰り出す最速の技だ。攻撃が外れる度に逆の軸足にエネルギーがスムーズに流れるから、外部からの干渉が無い限り、高昭の射程圏内では何度でも、何度でも、あの速度での攻撃が可能。」

「止めるには大人しく防御をしてエネルギーを受け止めるか、カウンターを決めるかの二つしか無さそうだが、あの速度に反撃は自殺行為だ。」

 竜兵が知識を、百代が実際に見た感想を述べた。百代は、普段のバトルジャンキーな一面が前面に出ていて、二人の戦いを目を輝かせながら見ている。

「懐に入られたら一発食らうのは確定ってあいつもえげつねえ事するな、まゆっち。」

「そうですね、松風。攻撃速度だけで言ったら、橘さんと遜色ないほどです。しかし、釈迦堂さんも三回は避けていました。精進すれば何か打開策があるかも知れません。」

 何時になく真面目な由紀江と松風の会話が終わると、また場面が切り替わりだした。

 

 

 釈迦堂刑部は、何も考えずに吹き飛ばされた訳ではなかった。敢えて端を背負う事によって後ろからの攻撃を相手の選択肢から外す。逃げ道も格段に減ってしまうが、先程入った不要な情報に戸惑うくらいならばいっその事考えなくても済む方向にしたのだった。

 仕切りなおしになった事で、戦いが始まった瞬間に行われる筈の独特な時間が発生する事となった。

 相手がどの様に近づいてくるのか。どんな攻撃手段があるのか。今、相手とどれ程離れていて、自分が行える行動は何があるのか。動くべきか動かすべきか。

 考える人間によって、それぞれである。

 しかし、釈迦堂が初めに考えたのは勝敗に関わる事ではない。

 ――右腕で、殴ってきやがった。

 それは、釈迦堂が顔を歪ませるには十分な理由となった。釈迦堂が口角をつり上げた根幹の理由は定かではない。高昭の体に対する安心でもないし、完全な状態の高昭を、自身の道を妨げていた岩を今ならば取り除けるからといった喜びでもなかった。

 一番近い理由を挙げるならば、苛立ちだったかも知れない。

 勿論、勝つ気でいる。だが、高昭は強く、釈迦堂でも難しいのは事実だ。

 高昭が、釈迦堂が強いと認める人物が長きに渡って腕を振るう事が出来ずにいた。戦えないというだけでなく、事実として右腕を動かせなかったのだろう、と釈迦堂は推察する。

 それは、辛かったのだろうか。苦しかったのだろうか。しかし、高昭はそれを乗り越えて、壁として、今ここで釈迦堂に立ちはだかっている。釈迦堂には、今しがた受けた攻撃が病を患った人間のものだとは到底思えない。その攻撃は、黒田の名に恥じぬものだった。人類の最高位に位置づけられる攻撃だ。

 釈迦堂はその上で考えなければならなかったのだ。この様を、背中に傷を負い、怒涛の攻撃を避けきれず吹き飛ばされた現在の釈迦堂刑部という人物の様を、立ち返らなければならなかった。不甲斐ない姿だと、釈迦堂は思う。無理を通して、黒田高昭と最初に戦わせてもらって、この様だ。

 故に、苛立つのだ。

 そして、釈迦堂は心に刻む。黒田高昭を妥当すると、必ず圧倒する、と。それは今まで、何度も心に思い浮かべた目標だった。勝つだけではない、奴の奥義を、風林火山を打ち破り、その上で勝利を掴み取るのだ、と。

「いけよ、リング!」

 釈迦堂から再度放たれた砲撃は、初めに撃っていたものよりもずっと速く、回転数もあるものだった。余波によって地表を削りながら動くリングは、見た目よりずっと攻撃力が秘められている。

「林の構え。」

 余りの速度に、動かない高昭が貫かれてしまったものと、周りの観客が思っていた。

しかし、高昭は無傷。流石に肉片が飛び散るだろうと考えた観客が身構えていた悲鳴の代わりに辺りに響いたのは、結界にリングが衝突した事による二次被害の声、川神院の修行僧の呻き声だった。

 見れば、高昭の足元は大きく削れていた。高昭の居場所を境に多少曲がって見えるリングの通り道に加えて、円を描くような傷が地表に増えていた。

 受け流す事。武道における防御の基本となる技術だ。それに避ける技術を加え、極限まで突き詰めたのが、黒田の奥義、風林火山の一つである林の構えだ。

 風に続いて、林。

 単なる偶然であるのだが、仕合が始まってから高昭の繰り出した奥義は、その名前の順番に準じたものを出している。攻防攻防の順番に並ぶ、黒田流奥義。それを知っている人物は、次は高昭が攻勢に転じる筈だ、と思った。

 順当に行けば、次は火の構えが繰り出されるだろうと思うのは、当然だ。

 釈迦堂が、攻撃の手を緩めなければ、の話であるが。

「星殺し!」

 光の帯が高昭の体を包む。

 釈迦堂の放ったレーザー状の攻撃は巨体の高昭を難なく包み込む程の極太であり、幾ら高昭が速く動けようとも、避けきるのは困難であった。

 体に当たらない星殺しの余った部分が、結界に直撃する。思いがけない直撃に、又もや修行僧の表情は、険しいものになる。

 釈迦堂のリングは未だ消えず、結界の至る所に張り付いている。

 今の状況を言い換えるならば、修行僧達が防御に徹しているところに川神院師範代が攻撃をし続けている状況、と言える。

 川神院総代の川神鉄心も、流石に無茶だと判断したのだろう。もう一人の師範代であるルー・イーに目配せすると、結界の維持の為に手助けを始める。

「そらよぉ!」

 釈迦堂は星殺しを撃ち終わると、止めと言わんばかりにリングを放った。途切れた星殺しよりも、数段速く進むリングは星殺しを掻き分けながら進んでいく。高昭に直撃しようがしまいが、あのリングだ。

 この時点で、修行僧達の頭の中には、あの光線の中に高昭がいる事など吹き飛んでいた。さらにあのリングが当たっても結界を維持して、周りに被害を出さないように、と考えるのに精一杯だったのだ。

 無論、誰もが高昭を貫通して結界に直撃するだろうと思っていた。

「嘘だろ、化け物かよ。」

 それは誰の言葉だったのか。

 星殺しが過ぎ去った後、確かに高昭はそこに立っていた。足を肩幅に開き、軽く踏ん張る姿勢。山の構えである。

 星殺しによるダメージは見受けられないが、リングを受け止めたであろうその腹部には、円状の傷。体を貫通される事はなかったものの、無傷とはいかなかった。

 態と山の構えで受けさせて、その上でより高威力の技を重ねて防御を抉じ開ける。

 目論見は成功。釈迦堂は、先程とは打って変わって、真に喜びから表情を歪めた。




格ゲー用語解説

低ダ……ジャンプと同時に最速で空中ダッシュを出す事。基本的には出し易さの関係から前方向のジャンプと空中ダッシュを同時入力する。相手への接近手段やコンボパーツとして使われる。

百合折り……KOFシリーズの八神庵が使う空中でキャラの後ろにリーチの長い攻撃判定の蹴りを出す技。後述するめくり専用の技で、前方に攻撃範囲が無いのが特徴。

めくり……前方ジャンプの後、攻撃判定が真下、又は後ろにも出ているジャンプ攻撃を使う事で相手のガード方向を逆にする行動。地上で、移動技などによって相手のガード方向を逆にする行動は裏まわりと呼ばれる。


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第二十一話 『壁越え』後編

後編です。
当初のプロットではこの辺りで完結だったので、綺麗に纏まっているのではないかなと思います。

新しいプロットで考えるとまだまだ本当に完結できる日は遠そうです。
でも絶対に完結させます。

誤字等ございましたら感想で伝えてください。





 静寂。

 再び睨み合う両者に加え、観客はそれ以上に押し黙っていた。その理由は誰もが心に思い浮かべているのだが、この静けさの中で口に出す勇気はなかった。

 あの直撃で、黒田高昭は何故生きているのか。

 要するにそれが疑問なのだ。

「姉さんもあの技を防げる?」

 風間ファミリーの軍師、大和が、少ない時間で、真相に近づく為に考えた質問を百代に投げかける。少し挑発的とも捉えられる質問だった。

「防ぐ、か。そう言われれば、黒田はあれを防いだと言えなくもない。」

 なんともはっきりとしない物言いで百代は答える。それに、その言葉は大和の質問の答えにはなっていなかった。

「避ける他に選択肢を持つのは、強みか。恐らく、辰子はあっちの方が向いている。いや元からあんな戦い方も教えられているんだろうな。」

 珍しく、思考にふける百代の姿に、風間ファミリーの男勢が困惑した。そもそも言っている事が理解できないし、結局大和が聞きたい事を明言してくれない。全員がやきもきしている中で一番に困惑しているのは、引き継いで説明を始めようとするも言葉が見つからずにあたふたしている由紀江であった。

 今の説明で理解できてしまった一子はしきりに頷くだけで、此方も説明する気がない。説明できるか、と言われれば別のはなしであるのだが。

 そんな状況を見かねた京が、大和に助け舟を出す。

「大和、道着の袖が焦げているのは見える?」

 無論見える訳がない。だから、京も返事を聞かずに説明を続ける。

「釈迦堂さんのあの技、凄く速いし威力もある。でも一番危険なのはあれが途轍もない勢いで回転している事なんだ。彼は一旦受け止めて、回転に逆らった攻撃を当てる事で無力化させたんだと思う。」

 それで、無理やり回転を止めたから袖口が焦げている。大和や岳人を筆頭に、一般人からしてみればその防ぎ方は破天荒なものに思えた。だが、武術側の人間が言うには、常に全ての攻撃が避けられるとは限らない中で、特に釈迦堂のリングのような一撃必殺になり得る攻撃の対応策が一つでも多くあった方が良い、との事らしい。

 武道に順ずる人間は、言われなくても分かる事だがと前置きをして、リングを一瞬でも受け止める技術も回転を止めるのと同じくらい難しいのだ、と言った。

 その次元の話になってくると一般人には分からない。

「そうなのか。」

 大和が適当な返事をしてしまうが、実際それ以上に言える事がない。大和や岳人たち一般人は互いにアイコンタクトと取り、今は下手な事を言わずに大人しくしている事を決めたのだった。

 結界の中の両者は依然として、睨み合いを続けている様で、時々構えを変化させているのはフェイントに他ならなかった。

 大和の様子を見た京は、話についていけずに不貞腐れているものだと思い、出来るだけ噛み砕いた説明をする。

「基本的には避けるのが第一だって事だよ。でも彼みたいな方法も出来るなら、見せておく事で相手が連発しないように牽制もできるの。」

「牽制って事は、黒田もあの技は撃たせたくないのか?」

「それは当たり前。さっきは上手く対処してたけど、対処に必要な腕に当たったりとか油断している時だったりすれば、やっぱりあの技だと体に穴が開いちゃうから。」

 そんな物騒な事を平然と言い放った京は、やっと動き出し攻勢に転じた高昭を、他の武士娘に比べると興味無さげに見ながら大和と話をそのまま続けた。

「でも、どうなんだろうね。」

「どうしたんだ京。それだけじゃ俺には分からないぞ。」

「回避能力、空中での姿勢制御とそれを使った加速、攻撃のリーチ、攻撃速度、防御能力。話を聞いていると、残すところは攻撃の威力くらいだから、攻勢に転じたんだろうけど。」

 大和は、そこまでの話を聞いてある程度は京の言いたい事が分かった。だが、上手く言葉で表現する事は叶わなかった。

 京も、それ以上の表現ができないのか、それとも口に出すのが憚られたのかこれ以上言葉を繋げなかった。

「『壁』としての持てる最大限の実力をその場に応じて示す。それに何か問題でもあんのかよ。」

 不意に天使が呟いた言葉。

 確かに、何もおかしくはない。それも、一つの戦い方である。

 しかし、高昭、『壁』の戦いには駆け引きが無い。いや、勿論フェイントなどは使っている。だが、本来の戦いに必ずある、考慮すべきものが欠けている。

 奥の手。

 その存在が有るからこそ、相手の力量を確かめながら戦う。それが、京の考える歩兵の戦いと弓兵の戦いの最たる違いだと思っている。

 にも関わらず、黒田の戦いにはそれがない。

 『壁』として実力を示す存在として常に全力で戦う。持てる力の全てを使う。その示した力を上回れるかどうかを判断するのが、今回の戦いである。

 黒田が全力を示す理由は、武道に関係する人物は知っている。基準である『壁』を理解して、それを目標にするからだ。『壁越え』を目指して腕を磨く者もいるし、黒田の武を研究して『壁越え』をする者もいる。

 敵を知り己を知れば百戦殆うからず。

 情報を分析して勝ち筋を形成しようとするのは何も悪い事ではない。黒田に挑む以上は最低限の実力を備えているのは当然である。故に、その上で敵を知る為に誰もが黒田の戦い方を研究をする。黒田の武は、人間の壁と言われるのは武道に関わる以上は誰もが知るところだ。その動きは理想的で無駄を極限まで省き、人間に可能な動きを全て網羅しているとも言われる。

 研究しなければ勝てない相手だが、対策があれば糸口は見える。加えて、戦いの初めに高昭は釈迦堂に対して『二度目はない』と言っていたが、挑戦自体は何度でも可能である。

 高昭があのような事を喋った理由は、釈迦堂は既に完全に仕上がっている武芸者であり、一度高昭とも戦った経験がある。自分は以前に釈迦堂と戦った時に使った以上の技を持たず、新たに覚えた技がないと伝えると同時に、身体的成長や技の精度の向上程度を推測していないのならば、一生勝てはしないと言っている。

 閑話休題。

 つまりは、黒田は武芸者から研究される立場にあり、寧ろその実力を知られるべき人物であるという事だ。目標とされ、研究されるが故に『壁越え』の出来る人物は少なくはない。

 それが、通説の話。

 大和が京の話を聞いて辿り着いた結論はそこまでだ。

 だが、京が感じたのは、常に全力を出しても読み合いがなくなるわけではないが情報において不利になるから、というものではない。白兵戦を専門とせず、その上で十二分な武道の腕を持つ京だけが感じた事。高昭は、恐らく『火の構え』見せるために、自分から仕掛けた。今日が初めての『壁』としての戦闘になるからだろうか、持てる全ての力、技術を『見せる』為にあらゆる場面で発揮する高昭の姿は、まるで――

 血に縛られ、役割を全うする発条仕掛けの人形の様に見えた。

 

 

 ボクシングにおけるロープ際と同じように、背後に障害物を背負いながらの戦いは好まれるものではない。にも関わらず、釈迦堂は敢えて高昭が攻めてくるまでそこから動こうとはせず、当初の予定道理、その位置で戦いを続行させた。

 『風』に続いて『林』と『山』を見せている。高昭が見せた黒田の奥義は三つだ。残りの『火』を勿論攻撃の技。おまけとばかりに釈迦堂が居る位置は壁際。攻撃を仕掛けるにはお誂え向きの場所。釈迦堂は、背後からの不意の攻撃という選択肢を高昭から奪う事に成功したが、同時に自身の退路を失った。

 どうぞ攻撃してください、と言っている様なものだった。あからさまなカウンター狙い。

 しかし、高昭は攻撃を仕掛ける。出来るものならやってみろ、と。越えられるのならやってみろ、と。迷いなく駆けていく。

 先程から戦っている様に、男二人が飛びまわれる程度のスペースがある結界だが、それでも本気で走れば端から端まであっという間に着いてしまう広さしかない。高昭と釈迦堂の攻撃範囲が重なり合うまでの時間は一瞬だった。

 高昭の攻撃範囲に入るとすぐに、釈迦堂は攻撃範囲の差の分だけ距離を詰める。逆に高昭は自身のみが攻撃できるように後ろに下がりながら相対距離の調整をする。お互いに牽制をしながら距離の調整。高昭は飛び込むタイミングを計りながら、釈迦堂は相手のタイミングを先読みして反撃をする準備。

 態々背後への攻撃をさせない様に立ち回っていた釈迦堂は、一見矛盾して見える相手の懐に入り込むという戦法を取っていた。無論、カウンターを確実に決めるのは狙っているが、それ以上に高昭が自由に動くのを嫌った。カウンターを撃つ為には相手が攻撃しなければならないのに対して、相手の自由を阻害する動きをしなければ逆に一方的にやられてしまう。加えて、折角近づいてきた高昭を離してしまえば、体格に差がある釈迦堂は攻撃を当てる事すら儘ならない。

 現在は釈迦堂の目論見通りの展開であるが、周囲から見れば高昭の動きに振り回されている様にしか見えなかった。

「動いたぞ!」

 見ている人間の誰もが何かしらの声を上げ、目を凝らした。高昭が遂に仕掛けた。釈迦堂が壁際に居て、お互いにとって悪くない状態と場所。先の印象もあってか、高昭は風の構えで攻めるだろう、と誰もが考えていただろう。

 壁際と言えば逃げ道がなく、その場に留まらせ易い事に直結する。故に有効なのは直線的で、手数の多い打撃。そして、それは釈迦堂が待ち受けている獲物であると皆も考えていた。

 しかし、高昭が繰り出したのは打撃には程遠い技だ。

「絞め技だと!」

 高昭は釈迦堂の道着の襟を掴み、持ち上げた。簡素な絞め技であるが、柔術に長けた人間の絞め技は数秒もかからない間に相手の意識を刈り取る。一度完全に極まってしまえば脱出はほぼ不可能であり、壁に押し付けられた釈迦堂は身を捩りながら拘束を解く手段も使えない。

 これは、仕合が終わってしまった。そう思われた瞬間、高昭は釈迦堂の身から飛びのいた。

「つまんねえ事してんじゃねえよ。」

 その技は、釈迦堂の手からこの戦闘の中で何度放たれただろう。

 リング。

 後一歩、避けるのが遅れたら高昭の腹部は空洞が出来上がるところであった。当然、リングは結界に当たり、結界を維持させる川神院の人間は表情を歪めた。

 カウンターとは言えない一撃。肉を切らせて骨を絶つ為の狙い済ました攻撃だった。端から避ける気がなかったのではないか、とも思わせる釈迦堂の一撃は、試合開始から表情を崩さない高昭に冷や汗を掻かせるには十分だった。

 ――リングの生成速度を偽ってやがった。

 高昭が肝を冷やした原因はそれだった。山の構えで攻撃を防ぐに至った一件において釈迦堂の攻撃は、リング、星殺し、リングの順番だった。高昭が星殺しを防いでいた時間、つまりはリングとリングの攻撃の間。その間隔は、仕合の初めに牽制としてリングを放っていた時と殆ど同じ間隔であったから、てっきりその間隔であると高昭は勘違いしていた。だが、それは釈迦堂の仕掛けていた罠。

 自身を欺いた『技術』は十分、と判断した高昭は『壁越え』の判断材料を満たした釈迦堂に一層の注意を払って、距離を詰める。

 

 

 危うく、高昭の体に穴が開いてしまう場面。釈迦堂が仕掛けた高度な罠には観客の誰もが気付かないまま、戦いは進んでいる。先程、戦いにおける奥の手について口に出していた京でさえ、気付けなかった。

 しかし、別の事に気付いた人間は居たようであった。

(リュウも、辰姉も、仕合に夢中で気付いてない……。)

 先程も粗暴な言葉遣いをしてしまった天使であるが、当然の如く、高昭が戦っている姿を見るのは気が気でなかった。天使は、観衆の中で唯一、高昭の右腕が完治していない事を知る人物だ。

 竜兵と辰子は、高昭が大丈夫だ、と言った言葉を信じきっている。勿論、高昭の右腕の動作は日常生活を完全にこなせる程に回復している。釈迦堂を吹き飛ばした様に、殴る事も可能だ。

 それでも、全てが完治した訳ではない。

(釈迦堂って人は気付いてるんだ。だから、ちゃんと反撃したんだ。)

 天使がそう考える要因。高昭の右腕の、完治していない部分が主な理由であった。握力、及び指力。物を握ったり、指を引っ掛けたりする力が、今の高昭には欠けている。

 だから、釈迦堂に仕掛けた絞め技は確かに意表を突く攻撃だったかもしれない、釈迦堂があと少し行動が遅かったならば仕合が決まる行動であったが、実際は脱出可能な奇策にも満たない行動だった。

 そして、高昭も釈迦堂が難なく絞め技を抜けると考えたのだろう。

 その様に、全員に見えるはずだった。『壁』として、黒田として、その弱点も含めた実力を全員に示そうとした高昭の行動は結果として釈迦堂に潰された。釈迦堂が取った行動の理由が、何からきたものなのかは釈迦堂以外が分かる事ではない。だが、あの時釈迦堂は高昭の右腕の事を分かった上で、敢えてリングを放った。

 もし、釈迦堂が拘束を外していたとする。そうすれば、高昭は必然的に多少は体勢を崩す事になって、追撃も避けられる事はない。拘束を外す、それを行うだけで、先程のリングも当たっていたかも知れない。

 たられば、は語っても仕方の無い事である。

 しかし、釈迦堂は明らかな目先の勝利を捨てた上での行動をした。

 人間の頂点の黒田を、欠陥一つ無い『壁』を真っ向から打ち破り、勝利を目指す。観衆の目の前で高昭に何度殴打されようとも決して膝を折らず、その目の光は消える事無くギラギラと輝いているその人間。釈迦堂のその姿勢、その雄姿。

 純粋な武士娘ではない天使は、此処に至り漸く理解した。

 これが『壁越え』だ、と。直向に目標とされる『壁』を目指し、目の前の高昭ではなく自分の描いた理想を越える為に足掻く。結局、高昭はそこで戦っているだけなのだ。挑戦者はそこに自分の目標を重ね、打ち勝つ。だから、勝敗に関係なく『壁越え』の判断を下す事も可能なのだ。黒田は、一番近くで挑戦者の目指すところを見定めて、この仕合の中で乗り越えられるかを判断する。その為に、高昭はあんな状態であっても、あの場所に立つ事を望んだ。

 『壁越え』。

 実力という最低限の基準に加え、勝利、目標、理想など、様々なものを目指し、苦難に乗り越えるべく努力し足掻き渇望し、一切の妥協の無い武士の挑戦。それは観る人間を惹きつけ、美しいとまで思わせる。

 そして、この戦いを観た人物の中には、新たな目標が出来た人もいる事だろう。

(高くんが、自分の身を削ることになっても、『壁』であろうとした理由が分かった気がする。高くんからは、見えないかも知れないけど、皆が夢中になって観てる。)

 天使が感動している様に、高昭と釈迦堂の戦いはこの場に居た人間を魅了し、いつの間にか、誰もが釈迦堂の『壁越え』心から応援していた。

 

 

 全力を尽くして戦う二人の姿は既に痣だらけで、互いに傷口からの出血のせいで道着の色も変色していた。互いに一度も膝を地面につける事は無く戦ってきたが、限界が近づいてきていた。もう一度大技を放てば力尽きてしまう程度にしか力は残っていない。

 壁際で行われていた攻防も終わり、再び中央に戻って一度距離を置き、向かい合う二人。これから行われるのが正真正銘の最後の攻防である。

 先に動いたのは高昭。

 初めに攻勢に転じた時と同じく気の足場を生成するかに思われた。高昭と釈迦堂の周りには不自然な気の塊が作られた。どれを使用して攻撃するのか。一体、上下左右前後のどこから攻撃するのか。誰もが、息を呑んだ。高昭は釈迦堂へ向かって走り出し、目の前には気の塊。

 まだ飛ばない、いつ飛ぶ、飛ぶぞ、飛ぶ。

 高昭が走っている間、そんな観衆の心の声が聞こえてくる様だった。

「火の構え。」

 釈迦堂との間にある気の塊の前に来た時、不意に高昭は背を向け始めた。それは釈迦堂には見覚えのある構えだ。丁度、前の戦いもこの技を絡めた攻防だった。

「嵌めやがったなこの野郎!」

 釈迦堂が喚いたところで遅かった。

 足場として配置されたかの様に思われた気の塊。プラフも含めて多く配置されていたかの様に思われたそれらは、当然の如く、初めに高昭が見せた最大のリーチがギリギリ届く程度に釈迦堂と離れた位置に配置されていた。逆に言えば、釈迦堂の位置に高昭が居た場合、綺麗な球を描く様に配置されている。

 もし、仮に、高昭が釈迦堂の位置に居たとして、加えてその気の塊がある場所に釈迦堂が居たとしたらどうなるか。

 当然、逃げる事は不可能である。

 高昭以外の、釈迦堂を含めた全員が、立体的な攻撃でガードを揺さぶってくるものだと思っていた。だが、高昭は、真っ向から釈迦堂の防御を打ち破ろうとした。

 大上段から振り下ろされる踵落としには、高昭のボディバランスの上で初めて成り立つ回転に上乗せされた威力に加え、その巨体から繰り出される事による質量エネルギーも加えられている。

 高昭の攻撃は、人間最高の威力として、釈迦堂に振り下ろされる。

 最早逃げる事が不可能だと判断した釈迦堂は、振り下ろされる足を目掛けて左腕を思い切り叩きつける。同時に、高昭の軸足を崩す為に技を繰り出す。

「蛇屠り!」

 不完全な体勢で放たれた攻撃であり、高昭の足を掬う事は叶わなかったが、体勢を崩す事は成功。一方で釈迦堂は、左腕を犠牲にして、自分から吹き飛ばされた。目論見通りだったのは、周りを囲んでいた気の塊にぶつかる事で、勢いが軽減され、体勢を立て直す事に成功した事だった。体勢を立て直した釈迦堂の目の前には、決死の攻撃を受けてバランスを崩した高昭。

 正真正銘、最後のチャンスだった。

「行けよ、リング!」

 釈迦堂の右腕から放たれたリングは、真っ直ぐ高昭へと進む。無理に避ければ更に体勢が崩れる、と思った高昭だったが、向かってくるリングを視界に納めた瞬間。その体は反射的に避けていた。

 放たれたリングは、今までの内側に抉りこむ回転ではなく、外側への回転。突然の事態に対する混乱を避ける為、高昭は、多少無理をしてでも回避を選択した。

 そして、釈迦堂の奇策も尽きたと考えた高昭が次の攻撃に備える為に釈迦堂を見ると更なる衝撃に襲われる。

「続けてショット!」

 釈迦堂は攻撃を受け、骨が折れかけている状態の左腕で、更なるリングを放とうとしている。誰が見ても正気の沙汰ではなかった。

 撃てば、確実にその反動で折れる。だが、釈迦堂は撃つ。この瞬間から高昭は、釈迦堂刑部という男の、勝利を渇望する気迫に圧倒され始めた。

「うおおおおお!」

 必死。

 撃つ釈迦道も、避ける高昭も必死だった。身を投げ出す様に何とかリングを避けた高昭の体勢は崩れ、釈迦堂が一歩、先に動けた。

 高昭が立ち上がった時には、釈迦堂は目の前に来ていた。

「川神流、」

「山の構え!」

「無双正拳突き!」

 既に避けれる距離ではないところまで来た釈迦堂の攻撃を高昭は防ぐほか無かった。

腹部へと突き刺さろうとする釈迦堂の右腕。高昭は必死に体中の気を集めて防御する。互いに最後の気力を振り絞った攻防。

 その競り合いの最中、釈迦堂は口元を歪める。長く戦った釈迦堂の体は既に限界を向かえている。加えて左腕に伝わる衝撃は、視界が霞むほどの激痛だ。

 だが、高昭が拳を受け止めた瞬間、釈迦堂は勝利していた。

 釈迦堂の最後の奇策。

 戦いの間、リングは放たれる度に回転したまま結界に貼り付けられ、川神院の修行僧達を苦しめた。その回転はこの戦いが終わるまでずっと、続いていた。そして最後に撃たれた二発のリングはそれまでのリングと逆回転。結界まで到達した二つのリングは、それまで結界に張り付いていたリングに当たり、弾かれる。

 結界から、高昭へ向かって再発射された。

「ぐああああ!」

 二発のうち一発が、高昭の左脇腹に着弾する。前方の釈迦堂へ防御を集中させていた高昭がその攻撃を防げる筈がなかった。高昭の体を貫通したリングは、釈迦堂の背後の結界に辿り着く前に消滅した。

 一度膝をついた高昭は、脇腹から大量の血を流しながら立ち上がる。

 観衆は、それでも高昭が立ち上がった事に驚いたが、釈迦堂は高昭を見向きもせずに同じく、最後の力を振り絞り歩いていた。

 既に勝敗は決している。

 高昭は、『壁』としての役割を最後まで果たす為に気力を振り絞って立ち上がった。だから釈迦堂が成すべきは、仕合の開始と同じように、この結界の中央で、道着を直して立っている事だった。

「ありがとうございました。」

「ありがとうございました。」

 仕合の後には、相手に感謝の気持ちを伝える。

 そんな当たり前の挨拶を終えて、釈迦堂の『壁越え』は達成されたのだった。 



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第二十二話 使わざるを得ない

お久しぶりですといわざるを得ない。

この口調の解説が後書きにあると誘導せざるを得ない。

誤字等ございましたら感想にて教えていただくようにお願いせざるを得ない。



 昨日は東西交流戦、及び俺と釈迦堂刑部による『壁越え』を行い、誰もが心身共に疲弊した日であったが、その次の日、つまり今日は平日である。生徒は疲れた体を学校へと運ばなくてはならなかった。しかし、その足取りは重いものではない。通常通りに学校があるのは勿論、それ以外にも生徒たちを動かす原動力となる大きなニュースがあった。

 九鬼財閥が本日発表した過去の偉人のクローン。

 その三人、源義経、武蔵坊弁慶、那須与一が川神学園に通う。通称武士道プランと呼ばれる行いは川神学園の人間は言うまでも無く、日本中、世界中から注目を集めている。聞くところによれば、九鬼は二十年近く前からヒトクローンの技術は持っていたらしい。それが倫理的に問題なのかどうかはこれから偉い人たちが考えるのだろう。

 そんな訳で、昨日の疲れが残っているにも拘らず、元々真面目な生徒も多い事に加え、クローンたちへの興味が働き、本日の出席率は殆ど完璧らしかった。

 朝に行われた全校集会で、転入と言うべきか編入と言うべきかはさて置き、この学校に新たに通う生徒が紹介された。

 三年生には、オリジナルとなった歴史的人物が不明の葉桜清楚。

 二年生には、今朝から話題になっている源義経、武蔵坊弁慶、那須与一。

 一年生には、九鬼英雄の妹であり飛び級で入って来た九鬼紋白、その従者であるヒューム・ヘルシング。

「俺らの学年だけひどくないか。他の人たちが良かったとか、他の学年に行く人に既に一目ぼれしたとか、そんな訳じゃ決してないんだけどな。せめて年齢ぐらいは合わせて欲しかった。」

 一学年に来る二人が俺らのクラスだとわかった時、委員長がそんな事を言っていた。あの老執事、ヒュームが聞き耳を立てている中でそんな事を言えるだけの度胸があるのは感心するが、果たして委員長がその言葉のせいで若干目をつけられていると知るのは何日後になるのだろうか。

 その集会の後、教室に戻ってから改めて自己紹介が行われた。九鬼紋白の自己紹介の時、副委員長でもある武蔵小杉がわけの分からない難癖をつけたのを皮切りにクラスの殆どが決闘を申し込んだ。プライドの高い連中は、例え相手が九鬼の人間であろうと、実力を示されないまま踏ん反り返られるのは頭にきたのだろう。

 因みに九鬼紋白は、将棋、長距離走、料理、歌唱力など、クラスの人間の様々な得意分野での勝負に応じ、その全員を下している。

「高くんは何の勝負にするんだ。ウチは全然思いつかないなー。」

「おいおい、板垣。仮にも委員長の俺の前でいじめを助長するな。高昭が本当に得意分野で決闘したらあの餓鬼泣いちまうぞ。」

「天下の九鬼だぞ、泣くわけないだろ。それに心配してもらわなくても、生憎とこの後の昼休みも、放課後も忙しいから俺はパスだよ。」

「放課後に用事って事は、今日も『壁越え』の挑戦者がいるのか。」

 委員長の推察の通り、この日の放課後は以前から予定されていた挑戦者と戦う事になっていた。昨日の釈迦堂の戦いを見て、その上で俺に挑む人間という話なので相当な実力者なのは間違いない。それと自信もあるのだろう。

 逆に、今日の挑戦者以外のこれまでに予定されていた挑戦者の人々は、昨日の戦いを見たせいなのか、『壁越え』は当分見送るという話だ。武士道プランの影響もあってか此方の注目度は低くなっているらしく、今日の挑戦者の予定がキャンセルにならなかっただけでも御の字と言えるだろう。

 それこそ、次に挑戦者が現れるのは何時になるのか。

「今日の放課後に戦えるって、高くんは昨日の怪我はもういいのか?大分手酷くやられていたみたいだけど。」

「川神院の技で治療してもらったよ。いやはや、黒田にはああいった秘術は無いから助かった。それに、あれだけ強力な回復手段があるなら、武神の回復前提の強引な戦闘スタイルも納得できる。」

 最も、並みの武術家が相手なら、あの武神に瞬間回復を使わせる事すら叶わない。

「なら高昭は転入生との決闘は無しか。板垣はどうすんだ。」

「じゃあ、ウチも放課後はバイトだからパスで。」

 天ちゃんは、本当に決闘をする気が無くなった様で、Sクラスらしく単語帳を開いて勉強を始めた。真面目なのは良い事だとは思うが、クラスメイトの決闘を無視するのは褒められたものではないだろう。

「――と思いながらも、結局高昭だって板垣の事しか見ていないから、似たもの夫婦というかなんというか。おーい、お前らが目を離している間にムサコッスが天井に突き刺さってるぞ。助けてやれよ。」

 

 

 そんな訳で、俺は転入生とは特に関わりを持つ事も無く放課後を迎えた。

 天ちゃんもバイトに行って、委員長は仕方なくクラスの奴らを取り仕切る為に教室に残っている。

「しかし、映像に残したくないから場所は用意すると言われたが、九鬼に関係があるとは思いもしなかった。だが、武士道プランとは関わりがないように思える。どういう事だろうか。」

「おや、予定より早めに着ていただきありがとうございます。本日は色々と、九鬼の人間は多忙でして、前倒しできる予定はできるだけ終わらせたいと思っていましたので感謝感激です。」

 案内として九鬼の従者部隊の人間が建物の中から出てきた。

「おっと失礼、私は桐山鯉と申します。挑戦会場までの案内をさせていただきます。」

「どうも。ところで、ある程度の説明はお聞かせ願えますか?」

 今回の挑戦相手と九鬼との関係。

 その関係を俺に教えた上で、依然として挑戦者が戦いの記録を漏洩させないように努めている理由。

 そして、それらを教える事で『壁』である黒田を恐らくは抱き込もうとしている事。

「そんなに怖い顔をしないで下さい。我々はあなたを下に見ている訳でもなく、単に今回の事について黙秘していただければ良いのです。確か、黒田に対戦相手の力に関して秘匿させる権利がありましたでしょう。」

「今日の相手が実は公にされていない九鬼の生み出したクローンだった、とでも言いたいのか。」

「いえいえ、彼女の武器に関して、少々九鬼が手助けをしただけです。その武器自体と九鬼との関係が周囲に知らされると余りよろしくないので、といっても知られて困るのはごく一部の人間に限られてくるのですが。」

 であれば、俺が干渉する必要もない。

 どうせ武神関係の話であろう事は容易に想像できる。

「おや、あれだけ目に見えて不機嫌でしたのに随分とあっさり引き下がるのですね。」

「必要以上に此方に干渉して来ないなら構わない。特に俺が黙っているだけで済む問題であるなら、黙ってれば良いだけの話だからな。」

「納得していただけたようで良かった。」

 それからは特に会話らしい会話も無く、九鬼の建物の地下まで案内された。

 

 

「いやーどうもどうも、態々来ていただいて申し訳ない。松永燕の父であります、松永久信です。今日は『壁越え』よろしくお願いします。」

 そう言いながらその日の『壁越え』の挑戦者、松永燕の父である松永久信は高昭に向かって握手を求めてきた。

 差し出してきた手は右腕。

 高昭が久信の後ろに居る燕を見ると、悪びれもしない、そして隠す気も無い表情が伺えた。

「俺の心を揺さぶる心算なら止めておいた方がいい。あんたらが付け入ろうとした右腕の病気。そもそも、それが原因で俺の感情も動かなくなってる。」

 高昭は表情一つ変えずに、差し出された腕とは反対の左腕を差し出した。

 久信は苦笑いをしながらその手を取り、握手を交わす。

「『壁』としてはっきりと宣言する。昨今において武芸者は、車を受け止め、銃弾を掴み、戦車を引き裂く。故に、兵器の有無は戦闘における絶対的な優位とは言えない。黒田は、『壁越え』の際に兵器は武器の延長線上と考える。そして、『壁越え』の判断に必要な勝利以外の四つの条件の内、技術として、その武器を評価する。」

 高昭は燕を見て告げる。燕は深く頷き、条件の確認を終える。

「じゃあ、おとん。頑張るね。」

「ああ、頑張って家名をあげるんだぞ。」

 久信が安全な場所まで移動したのを確認してから高昭と燕は相対した。

 燕は初めから装着していた『平蜘蛛』の最終確認をしている。腕につけている物のほかにも、高昭から見て燕の後ろに鎮座している物があった。巨躯の高昭から見ても身の丈以上の大きさの兵器。

「あれは今日使わないから無視してもいいよん。一回撃つと充電に一年くらいかかる代物だから。」

「別に手を抜こうが構わない。それに何度も言うようだが俺に挑発をしても意味が無いと言っておく。」

 互いに興味なさげに話をして、後は高昭が合図をすれば直ぐにでも戦いが始められるような雰囲気だった。多少は効果があるかと期待していた燕の小細工は意味をなさず、逆に能面の様な高昭の表情を見て、必要以上に警戒させてしまった事を悔やんでいた。

「一つだけ忠告しておく。」

「んっ?なにかな。」

「別に自分の実力を隠すために映像に残さないのも構わない。それに他の人間に被害が出ない場所で戦うのも、兵器を使うのも構わないが……。」

 一呼吸おいて高昭が告げる。

「兵器を使う奴が相手なら、黒田の秘奥義を使わざるを得ない。」

 

 

 戦闘開始と同時に燕は素早く右手の手甲部分とベルトを素早くチューブで繋いだ。

「スタン。」

 機械音声が響く。

 手甲はバチバチと音を立て、俗に言う電撃属性を帯びている。燕は不敵に笑い、高昭はそれを見て表情を歪めた。電撃は体全体に伝わり、蓄積させれば体の機能を麻痺させる。神経性の病を患う高昭にとって、弱点という言葉程度では片付かない程に脅威的な攻撃であった。

 燕がその拳を振るうと、高昭は飛びのく。

「感情はないみたいな事を言ってたけど本能はちゃんと働いてるみたいだね。」

 馬鹿にするような燕の発言。勿論煽りであるし高昭は無視をするのだが、しかし燕の攻撃は無視できる類のものではない。

 対策を練って戦う事で有名な松永燕が記録の少ない高昭を相手に『壁越え』を挑み、勝利を掴み取る為に見つけ出した『壁』の綻び。それは釈迦堂との戦いで見せたものを根拠にしたものでは無かった。

 長らくの間戦う事が出来なかった原因そのもの。

 要するに、燕が第一に考えた攻略法は、高昭の右腕に漬け込んだ作戦だった。

「腕から繰り出される打撃ではあるけど、見た目以上にリーチのある攻撃だからね。加えて君の大きな体。二つの条件が合わさる事で、避けるには常人よりも必要以上に動かないといけない。」

 続けて攻撃を繰り返す燕に対して、高昭は反撃を出す事が出来なかった。高昭の体は大きく、故に攻撃範囲が広い。だが逆に、強襲をかけるには近く、かと言って高昭をしても届かない絶妙な中距離に陣取られるのは、恵まれた体格の高昭が初めて経験するであろうインファイターの弱点であった。

「それに、この攻撃は一回たりとも受けたくないだろうしね。」

 燕が言う通り、高昭は自身の恐怖心によって必要以上の回避行動を行っているように伺えた。だが燕にとって、高昭の右腕が治ったから『壁』が復活したとか、完治はしていないが隠して『壁』を行っているとか、そんな事はどうでも良かった。

 戦いに出てきた以上、容赦はしない。こうして拳を交える意志を見せた以上は、後になって言い訳をしようが、何をしようが遅いのだ。だから利用できるものはするし、必要があれば、自分の身だって利用する。

 これが燕の考えだ。

 そして、自身を犠牲にしても構わないと思える燕だからこそ、高昭が態と大げさに避けている事も予測できていた。恐らく高昭が電撃属性による攻撃を受けても構わない覚悟でクロスカウンターを狙っている事は容易に想像できた。

 だから、高昭が燕の『スタン』を受け止めつつ攻撃するのは必然であったし、一手先を読んでいた燕がその攻撃に対して左腕による攻撃でカウンターを決めるのは当然と言えた。

 完璧な一撃を顔の側面に叩き込まれた高昭はその巨躯を空中へと吹き飛ばされた。それでも幸いだったのは、高昭の脳が揺れていない事である。普通、頭に攻撃が当たればほぼ確実に意識を刈り取られるが、高昭は攻撃を受ける一瞬で判断を下し、最低限の被害で済ませる事に成功していた。

 左腕を地に伸ばし、突き上げ、一回転しながら高昭は着地する。

 この一連の流れから、或いは昨日の釈迦堂の戦いから、挑戦者である燕は何を警戒するのか。

 反射神経だ。

 黒田はその恵まれた体格に加え、現代武術における気の運用を除いた全ての才覚に秀でている。それが反射神経であり、判断能力であり、自身を犠牲にしても勝ちを目指す冷酷さであり、はたまた後世の黒田に武を伝える指導の上手さであったりする。それは武の人間にとって、修行ではどうにもならない差である。勿論、『壁越え』においてはその差を埋めるだけの武術を求められる。

 その中でも特に勝敗に影響を及ぼすと燕が考えたのが、反射神経だった。

(昨日の釈迦堂戦。あれだけ高性能な飛び道具を見てから避けられる程の超反応。黒田の攻略法は遠距離攻撃で間違いないけど、恐らく私が遠距離戦を仕掛けても避けられるだけだ。だったら……。)

 距離が離れた事を理解した瞬間燕は平蜘蛛のチューブを素早く取り替える。

「スモーク。」

 燕が撃ち出したのは煙幕。高昭の反射神経が脅威なのであれば、そもそも反応させない。それが、燕の考えた最良の一手。

「アイス。」

 続けて機械音が響く。

 燕が遠距離戦に持ち込んだ事は、高昭も承知している。昨日の釈迦堂との戦いは見ている筈であり、気の壁を生成できる事は知られている。故に高昭は考える必要があった。今から放たれる攻撃は、その防壁を貫通するのかしないのか、逆に防ぐと不味い類の攻撃なのか。この状況を燕が作り出した以上は、防壁を作って不利になる可能性がある。だから思考する必要があった。

 この時、高昭は慢心していた訳ではない。先程行動を読まれたからこそ、慎重に動こうと考えたのだ。何らかが撃たれれば反応できる自信と、対応できる力量は持ち合わせている心算でいた。

 戦いの中で一度読み違え一手遅れるというのは、主導権を奪われる事だ。だから高昭は熟考する事を選択した。それは間違いとは言い切れない。その場合の選択肢の一つである事は確かだ。

 その結果、今回、裏目に出るとしても、間違いとは言い切れない行動だった。

 間違いでは無かったが、もし、何か高昭に落ち度が有ったとすれば、それは経験不足に他ならなかった。高昭自身も、燕も気付かなかったその弱点は、当然と言えば当然なのである。

 高昭は、右腕の病のせいで、何年もの間組み手すら行わなかった人間である。他の武術家と比べても、経験に差が出るのは仕方の無い事であった。昨日の釈迦堂と五分の戦いが出来たのは、過去に釈迦堂と戦えた偶然の産物だ。それほどに経験は大切だ。

 だからといって、高昭が悪い訳ではないのは誰もが知るところであるし、そもそも頭脳戦で秀でている燕は高昭にとって天敵だった。

 しかし、結局のところ、燕が一枚上手であるだけの話であり、何か突出している部分があれば、時として『壁越え』があっさりと終わってしまうのは、有り得なくもない事なのである。例えば、恐ろしい威力を持つ釈迦堂のリングが一度でも当たれば勝負が着いた様に。

 そして、今回の様に、遠距離戦をすると思われていた燕が突如目の前に現れ、機械音声では『アイス』とコールされたが実際は『スタン』であったりして、加えてそれが腹部に、物の見事に叩き込まれた時点で、この戦いの勝敗は兎も角として、松永燕の目標であった『壁越え』自体は殆ど達成されたのであった。

 

 

 それから燕は、『スタン』によって動きの鈍くなった高昭に対して、『スモーク』の効果が終わる前に、加えて数発、攻撃を叩き込んだ。

 煙が無くなる頃には、高昭は自由に体を動かす事が出来なくなっていた。動きにキレの無くなった状態で使える奥義は『山の構え』のみで、今度こそ遠距離に陣取った燕に対して、的でしかない。

 釈迦堂戦で見せた接近する術も、体が動かない状態では使う事も出来なかった。

 余裕の笑みを浮かべる燕に、高昭は口を開いた。

「忠告はしたぞ。」

 高昭は徐に左手を燕に向ける。その左手には、高昭の気が全て集まり、何かを撃ち放とうとしている風にしか見えなかった。

 ――兵器を使う奴が相手なら、黒田の秘奥義を使わざるを得ない。

「不味い!」

「シールド。」

 咄嗟に燕はチューブを取り替えて障壁を張る。

 次の瞬間には、高昭は攻撃を放っていた。

「秘奥義、渦雷。」

 初めに高昭の掌から、一本ずつ細長い気で出来た鞭状のものが出てきた。それらは高昭の左手を中心に高速で回り始め、伸び続けた。少しずつ本数が増える中、初めに生成したものの速度が途轍もない程速くなり、そして音速を超え、空気を叩き、衝撃波を出し始めた。

 恐らく、高昭もその全てを完璧に制御しきれない程の大量の鞭。それらは空気を叩いて、お互いに叩いて、衝撃波を生み出しながら、大量の鞭の殆どがその中心へと押されていく。

 手の矛先である燕へ向かって飛んでいく。

 その渦の中は激烈。

 気が遠くなる程の大量の気で出来た鞭、回転する内に恐ろしい速度を得たそれら自体が殺傷能力を持った攻撃。更に、その量を上回る衝撃波。

 衝撃波によって衝撃波が生まれ、それらは鞭の進路を妨害し、故に鞭同士がぶつかり合い、衝撃波は生まれ、衝撃波が生まれる。

 繊細な気のコントロールに加え、中より生じる無数の衝撃波を押さえ込む力技。渦の中では高昭も想像する事が不可能な不規則な攻撃が生じている。ありとあらゆる方向からの攻撃に耐えるには、単に力が有ったり、卓越した技術が有ったりするだけでは防ぎきれない。

 何か内なるものを乗り越えようとするのではなく、強さのみを追い求めて『壁越え』を行う人間への試練。即ち、今回の場合、極まった気の運用により生み出された暴力を以って、人間の知恵が生み出した兵器が上回るかどうかの判別を行う。

 それが秘奥義、渦雷。

 兵器であれど人が何日も悩みぬいた傑作。その努力に対する返答は全力であり、要するに高昭のこの攻撃は、体内の気を全て消費して放つ技である。

 衝撃波による爆音が収まっていた時、燕が立っていたならばその時点で燕の勝ち。もしも立っていなければ、そもそも生きているかさえ危うい。

 戦う意志を見せた以上は容赦はしない、とは良く言ったもので、燕が容赦なく電撃属性の攻撃を行った事で、自らも制御しきれず加減の出来ないこの秘奥義を高昭が放つ決心になった。

 武士たるもの、何時でも命を落とす覚悟は出来ている。その誉れを高昭は持っているのだろう、と燕に行動で示された。だから高昭はこの技を撃つ事で返答としたのだ。

 麻痺した肉体に鞭を打って、この技を放ったのだ。

「リカバリー。」

 高昭が秘奥義を打ち終えると直ぐに、その電子音が響いた。

 松永燕は立っていた。

 流石に無傷とはいかなかったようであったが、瀕死という程ではないようだった。

「全く、『リカバリー』を二回使ってなお半殺しって、確実に一回は死んだ計算なんだからね。」

「しかし立っている。それだけで十分だろう。」

「私自身の認識も甘かったって事なんだろうね。他の人と戦う時はもっと万全の準備をしてからじゃないと体が持たない。」

 高昭は道着を直しながら立ち上がり、燕は手甲を取り外して、お互いに向かい合う。

「ありがとうございました。」

「ありがとうございました。」

 礼をして、高昭が顔を上げると燕が手を差し出し握手を求めてきた。それを見て高昭も手を差し出す。

 燕は右腕、高昭は左腕。

 当然、同じ腕同士でなければ握手は成立しない。散々体に電撃属性の攻撃を打ち込まれた高昭の燕に対する好感度は人生最低に好ましくない人物であり、殺されかけた側である燕もまた高昭の印象は最悪のものであった。

 お互いに愛想笑いすらしないままに、手を差し出し続け、結局は久信が冷や汗を垂らしながら仲介する事でこの日は別れる事となったが、その後この二人は生涯においてこの日以降に言葉を交わす事すらなかった。

 何はともあれ、松永燕、『壁越え』達成。




格ゲー用語解説をせざるを得ない

使わざるを得ない……全文は「武器を持った奴が相手なら、覇王翔吼拳を使わざるを得ない」であり、初代「龍虎の拳」でリョウ・サカザキが妹を救出するために、バイクで軍港施設へ乗り込む際に言い放ったセリフであると言わざるを得ない。つまりはシュールな絵面で言い放ったセリフがネタになっていると説明せざるを得ない。因みに、元ネタの意味は「奥義を使えば銃を持った集団にも勝てる」なので、この小説の主人公はオマージュしきれていないと言わざるを得ない。


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第二十三話 こんなにも平和で居られるのなら

お久しぶりです。
忙しかったのと、本当なら全部書き上げてから投稿していきたかったという気持ちでした。しかしながら自分で決めていた二年という時が過ぎようとしていたので投稿した所存です。

あと前回がちらっと日間ランキングにあがっていました。ありがとうございます。

兎に角エタる気は無いので気長に待っていただけたらと思います(自分以外にこの作品が好きな人が居ればの話ですが)

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 夏休みとは、誰もが望んで止まないものであろう。学生であれば普段出来ない事を行える程に長い時間を確保できる。既に学生でない人間からすれば、そんな暢気な頃の自分を望んで止まないものだ。

 高校生になってから俺にとっては初めての夏休みとなっている今日この頃。

 例の武士道プランの弊害は少なからずあるものの、『壁』としての責務を果たさなければならないこの身は然程のんびりしていられない。加え、板垣家の面々も夏休みという比較的実入りの良いバイトを行える期間であるので、寧ろ例年よりも時間がない様な気さえするのだった。

 故に、遠出する事も出来ず――つまりは何時も通りに黒田家に数人の友人で集まって遊ぶくらいのものである。今年になって特別変わった事といえば、まゆっちの友人である大和田伊予さんが遊びについてくるようになった事だ。まゆっちとは友達が少ない同士の友達であるらしく、まあ実際俺の周りの人間は委員長以外の殆どが友人の少ない人たちばかりなので、その点では割と俺や天ちゃんとも意気投合出来ていたりする。因みに、同じクラスの武蔵小杉は友達ではない。少なくとも俺は。

 そんなこんなで、ゲーセンに連れて行くくらいには大和田さんは天ちゃんともそれなりに仲良くしているのだ。逆に、高校になって出来た友人と言えば、俺にとって九鬼英雄は友人であるが、現状は会えば話す程度のものである

 そして、天ちゃんにも友人が出来ていた様で、家主に承諾を得る前から何故か黒田家で遊ぶ手筈になっていたのだった――まあ、板垣家にも事情があるので断るような事はしない訳だが。

 

 

「ここが黒田家か。」

 天使に書いてもらった地図を片手に呟いたのはクリスだった。半歩後ろには、同じく天使の友達としてこの家に呼ばれたマルギッテの姿もある。

「よもやTVゲームをする為に此処に来るとは夢にも思いませんでした。」

 声色はおどけている様に話しているマルギッテの表情は苦々しいものであった。理由は二つある。天使が友人を遊びに来る様に誘ったのが黒田家であるという、板垣と黒田の家族関係と一般との価値観的な歪み。そして、武家に訪れる目的が遊びに来る為という、吐き気を催す様な歪みであった。特に此処が『黒田家』であるから尚更であった。

 これは、マルギッテが黒田の人間の良識性を知らないが故に感じる事であるのだが、しかし、それを知ったからといって、何れにせよ驚く事となるのだ、その内に。

「お邪魔します。」

 クリスが玄関に入ると、他の人たち、由紀江と大和田伊予、委員長と呼ばれる男も丁度この家に着いたところだったのだとわかった。

 この前、つまりはこの二人をゲームセンターに連れて行くという試みの際に、既に高昭以外の人とは知り合いになっていた。その時に上手く出来なかったから練習も兼ねて遊びに来たのが、この日集まることとなった原因の一つであった。プライドが高く負けず嫌いなクリスとマルギッテにとって負けたまま、下手なままに終わる事は出来なかった。

 無論、遊びであってもだ。

「どうも始めまして、最近天ちゃんがお世話になっているみたいで。」

 天使に小突かれながら、苦笑い混じりに出迎える高昭を見て、マルギッテは不意を突かれてしまった。

 天使との会話の中で高昭の話は聞いていたものの、仮にも武家の、それも『黒田』の人間である黒田高昭の事だから、話半分に信じていたマルギッテにとっては目の前の光景はにわかに信じがたいものだった。

 クリスは、由紀江からも話を聞いていた分、マルギッテ程の同様は無かったがそれでも動揺するのには十分な光景であるのには変わりなかった。

 目の前で、釈迦堂との死闘を見た人間であるならば、そして高昭の事情や黒田家も知る人間ならば、クリスやマルギッテの様な反応をするのであろう。

 悲劇の『壁』であり、一度は右腕を故障を経験し、挫折から立ち直った黒田高昭が、同年代の人間と冗談交じりに会話している様子はその巨躯も相まって、違和感を覚えるものだった。武道から余りにかけ離れた言動が、釈迦堂と同等に渡り合うまで這い上がった男とはかけ離れて見えた。

「ところで、天ちゃんがしているのと同じような接し方で良いでしょうか。年上には敬語を使うように心がけているのですが。」

 高昭は、未だ混乱しているクリス達に、声をかける。

「あ、ああ勿論だ。天の友人なら自分の友人でもある。そんなに硬く話されても困るし、気軽にクリスと呼んでくれ。」

「私はドイツ軍人である以上、此方の口調を変えはしませんが、お嬢様の許可が下りた今、遠慮は要らないと知りなさい。」

 そんな最低限の人間味がある会話をしている内に、マルギッテの不安は小さくなっていた。だからこのまま二階へと上がるのに一切の警戒を持たなかったところで、委員長が必要もない一石を投じたのだ。マルギッテだけに聞こえるように呟いた。

「警戒する必要はありませんよ。あいつは今『壁』として居ないし、もし何かあれば、まゆっちが切り伏せる方が早いですからね。」

 半分笑いながらの委員長の言葉は、ある意味でマルギッテを安心させたが、同時に何か底知れなさというものをこの男に感じさせた。特に意味のないやり取りに頭を捻る軍人を見て、男はケラケラと笑っていた。

 

 

 合計七人を押し込んでなお遊べているのは部屋が広く快適であるからではなく、各々が楽しめているからであろうこの部屋。無論、高昭の部屋なのであるが、夏真っ只中であり、冷房をつけても暑いものは暑いのであった。

「だからな、まゆっち。一番人口が居て且つ取っ掛かりが簡単なやつの方が良いだろ。ああ、高くんは二人にキャラ選ばせといて。」

「しかしですね。天ちゃんは格ゲーが好きだから良いかも知れませんが、クリスさん達をゲームに馴染ませる目的なら他のジャンルとも付随しているものの方が良いのではないでしょうか。」

 そういってちらちらと伊予を見る由紀江に気づいて、伊予は苦笑いを浮かべる。

「まあオラが推察するに、どこぞの野球少女が飽きない様に、野球キャラがいるゲームの方が良いんじゃないかっていうまゆっちの思いやりなんだぜ。」

「そんな気をまわさなくていいよ、まゆっち。ほら、私はあの選手好きじゃないけどGGだから野球に無関係とも言い切れないし、ね。」

 由紀江の伊予に対する遠まわしの思いやりを、松風に喋らせ自ら暴露した――由紀江本人は幾ら感謝される事態に陥っても松風が九十九神である設定を貫き通す。故に、目線を合わせずに白を切ろうとする由紀江を見ながらも伊予はその言葉を嬉しく思っている様で、少し恥ずかしげにしていた。

「うん!自分はこの騎士っぽい奴に決めたぞ。マルさんは決まったか?」

「このトンファーもどきを獲物にしているのにするか、それともこの軍人か。お嬢様はどちらが良いと思われますか?」

 クリスとマルギッテは画面を見ながら唸ったり、話し合いながら楽しんでいた。戦いに身を置く人間であるから、こういったゲームには興味があるよう、というのは強引なこじ付けではないのだろう。以前の時に天使が、高昭もこういったゲームから影響を受け武道にも活かしている、という嘘でも本当でもない言葉が利いていた可能性もゼロではない。

 だが、何にせよ今は純粋に遊ぶ事に集中している様で、皆が友人と遊ぶ事に夢中であった。

「高昭よお、てめえのお部屋のエアコンは壊れてんじゃねえのか。何だってこんなに暑いんだよ。」

「テレビを二台置いて、ハード本体二個置いて、この人数で真夏に一つの部屋でこの人数で遊んだら暑いのは当然だ。『遊べる時間は有限だから効率を考えろ』と言ってハード持ってきて、テレビを運ばせたのはどこのどいつだ。」

「高昭、ドイツがどうかしたのか?」

「いやクリス、高くんが言ったのはそういう意味じゃなくてな。」

「そいつはオラんだ、なんつってな。」

「しばくぞ、松風。」

 暑さのせいで、それなりに気の立っている委員長の、怒り半分冗談半分の言葉で一連のボケに落ちがついたところで、伊予が疑念を投げかけた。

「まあ、暑いのもそうだけど、こんなに色んな電化製品とか一度につけてて、黒田くんの家は大丈夫なの?遊んでる時に聞くことじゃないかも知れないけど。」

「それなら自分も聞きたい事がある。日本の武家はどうやって生計を立てているんだ?興味があるんだ。」

 便乗する形でクリスが質問を重ねると、高昭は暫し考え、由紀江に視線を送る。すると少し伏し目がちに首を振っている事に気がついた。

 それはつまり、余りべらべらと喋りすぎるな、という警告でもあったし、語るならば自分の家に留めておいた方が懸命だ、という通達でもあった。

「黒田家はその歴史で以って、食い繋いでいる。正確に言えば、記録だがな。」

「何が、食い繋ぐ、だ。高昭のが俺の家よか余程良い暮らしをしてるだろうに。」

 委員長が、至極どうでも良い部分に食いつく。言うまでも無く、高昭はそれに答える事をせずに言葉を紡ぐ訳だが、軽口が挟まれたせいで、これからの話はあくまで世間話に過ぎない話となり、高昭としてもそのつもりだった。。

 指し示したかの様な無駄な言葉は、一方で周りの緊張を無くし、しかし一方でマルギッテに警戒心を再度抱かせるのであった。そして、その実、先の一言はマルギッテに要らない動揺、疑心を誘う委員長の戯れである。

「長い間、『壁』としてつけてきた記録は、色々な武術のルーツを辿るのに重要で、失われた武術が記されているものもあるから、価値があるんだ。」

「へえ、じゃあ開かずの間には、その資料があるんだな。」

「開かずの間?」

 天使の呟きに興味を示したのか、クリスが聞き返す。

「おじさん、高くんのお父さんが作業してるらしかった部屋なんだけど、ウチらも紗由理さんも入っちゃ駄目なんだってさ。あ、そうだ高くん。紗由理さん今日帰って来んだよな。」

「夕方までには着くって言ってた。少し用事を済ましてから来るってさ。っと、どこまで話したっけ。」

 高昭はどこか上機嫌になった天使のせいで折られた話の腰を戻した。

「開かずの間、についてだったぜ。しっかりしろよなシニョール!」

「……あのねまゆっち、クリスさんたちに合わせたのかもだけどシニョールはイタリア語だよ。」

「い、今喋ったのは松風であって、私では無くてですね。待ってください、皆さんなんでそんなに優しい目で私を見るんですか!」

 元々残念な目で見られているというのに普段よりも可愛そうなものを見る目で微笑まれた由紀江はぷんすかと怒っている。しかし、実のところ友達っぽい会話ができているな、と内心で喜ぶ由紀江であり、満更ではないと感じていた。

「中途半端な人が見ると危険だからな。姉さんは表向きは一般人だし、そうでなくても黒田の技を真似して昔怪我したどっかの誰かさんも居るから俺と父さんしか入れないようにしてるんだ。」

「どっかの誰か……。一体なに兵さんなんだ。」

「つーかリュウの事だろ。」

 今となっては笑い話であるが、当時、黒田の奥義を見様見真似でやって筋繊維をズタズタにして怒られていたリュウを思い出して、天使は苦笑いを浮かべていた。

「達人なら大丈夫って事は、まゆっちなら見て良いって事?」

「そんな達人だなんて恐れ多い!私はまだ修行の身の上ですので!」

「そうだぜ伊予っち、そんなにまゆっちの事煽てても何も出てこないぜ。それにオラ的にもまゆっち的にも、黒田の書物必要ないしな~。」

 松風の――つまりは由紀江が断言した『必要ない』発言に、クリスやマルギッテは、普段見せない由紀江の自信だと勘違いして唖然として、委員長はそれを焚きつける様に由紀江を煽り立てようとする。

「まゆっち、これは『壁越え』の挑戦も近いって事かな?」

「いえいえそういう訳じゃなく、必要ないのもそういう訳じゃなくってですね。いやでも自信がない訳ではないのですが、その、ですね。」

 ばつが悪そうに話す由紀江を見て、女性陣は微笑ましく見つめ、高昭は溜息を吐き、委員長はケタケタと笑っていた。

「まゆっちは家の資料は本当に必要ないんだよ。」

 結局高昭が助け舟を出す事となる。

「黛の活人剣と違って、黒田の武術は殺人拳だから。」

 

 

 真夏。その暑さから逃げて来た人が集う喫茶店で、三人の男女が向かい合っていた。

 一人は紗由理。『友達の友達』の相談を聞いて欲しい、と高昭に頼まれてここに居る。その時は、つまりはそれは『自分』の事の相談なのではないか、と考え、あの時から頼る事をしなかった高昭に内容も聞かず受けた訳だが、勿論そんな訳がなかった。それでも頼られた事には変わりなく、十二分に嬉しいのは事実であった。

 残る二人は葵冬馬と井上準。彼らからしてみても、全くの無関係の人が相談に乗ってくれて戸惑っているが、経歴や他の人の話を聞く限り適任である事は分かったし、『彼』にしては上手い事取り次いだものだと、呆れていた。

「ごめんなさいね。貴方達は色々教えて貰ったみたいだけど、あの子は私に待ち合わせ場所くらいしか教えなかったから。どっちが、マロードくん?なのかな?」

「ああ、私の方ですね。そっちはあだ名の様なものでして、本名は葵冬馬と申します。こっちは井上準です。」

「どうも。」

 紗由理の不意打ちに、二人は一瞬閉口しかけてしまった。いや、正確には『彼』が仕組んだ事ではあるのだ――紗由理は何も知らないのだから。そしてそういう悪戯を止めない程には高昭も冬馬達の事を良くは思っていないのだろう。何せ、彼らと黒田は対立していたと言えない事ない時期もあったのだから。

 それは紗由理も板垣も伝えられていない事であり、これからも伝えられる事もない。黒田家にとっては些事であり、『彼』が、九鬼に介入されて火遊びも終わりだ、と高昭に伝えた時も興味無さげに相槌を打っただけらしかった。

「なんかコードネームみたいだね。」

「男子だからガキの頃はやったりしますから。特に『あいつ』はそういう事やってるのが好きだったみたいで。」

「委員長くん、そういうの好きそうだもんね。」

 紗由理と準が話していると、あからさまに次の話題に入りますよ、といった具合に冬馬が口をつけていた飲み物を置いた。

 紗由理も佇まいを一度直す。

「相談と言うのは友人の事なんです。小雪という女の子なのですが、どうにも私や準に依存しているようでして……。」

「依存?」

「ユキ、小雪は子供の頃に俺らに近しい人の養子になったんです。そういう事情とか、加えてその頃からずっと一緒に居たからなのか、依存、するようになってしまって。」

 今度は、乾ききった口を潤すために持ち上げていた飲み物をおろして、冬馬が言う。

「でも、結局、だからといって、どうすれば正解なのか分からないんですよ。そこで黒田家の話を思い出したものですから、不謹慎ではありますが、意見をいただきたくて。」

 少し、紗由理は考え込んだ。そして、値踏みするように二人を見ると、注意するように話し出した。

「深く、知られたくない事情があるのかもしれないけど、その程度の情報しか教えてくれないなら的確なアドバイスもできないわ。」

 的確に急所を突かれた二人には動揺が走る。

 出来るだけ、隠したものの、冬馬とてバレずに済んだとは思えない。

(相談だけが目的でない事がバレている?だが、この人は裏の事情に関わっていない筈であるし、仮に知っているとすれば黒田高昭が私や準にそれを教える事に何のメリットが?)

 冬馬の読みは間違っていない。

 しかし、その思考は黒田の事情を少なからず知っているからこその思考であり、紗由理がそれらの実家の事情を何も知らない、という事を知らない故の愚考であった。

 そして紗由理は、冬馬と準が考えるよりもずっとお人好しであるのだ。だから、自分が板垣達と仲良くなった経験と、高昭の右腕に気づけなかった経験に思いをはせながら口を開く。

「でも、あなた達がその娘をどれだけ考えてるのかは、伝わってきた。だから、もしかしたら役に立たないかも知れないけど、ちょっとしたアドバイスはしてあげられる。」

 元から、そのつもりで来ている紗由理と、複雑な思考のせいで肩透かしをされた冬馬と準の様子は、何とも歪である。だが、過去の自分を重ねて見る紗由理にとっては、彼らの後ろに高昭の姿を幻視する。ぎこちなく表情を変えようと努めるようになった実の弟の姿を思い出してしまう。

「もし、一度距離を置こうと考えるにしても、お互いに本音をぶつけ合おうと思っても、絶対に軽はずみではしない事。後悔をしないと心に誓ってからする事。私たちと違って偶然の事故に対処するのじゃなくて、自発的に解決するんだったら余計に責任から逃げられないから。それに……。」

「私みたいな一般人と違って、あなた達みたいな人は危ない方へ進んでいくでしょう?自分の事を蔑ろにする人が他人を喜ばせられないって事だけは心に留めて置いてね。」

 

 

「なんか、普通に良い人でしたね。準。」

「そうだな、ざっと十年前に出会いたかった。」

 相談事を終えて暫くたってから二人は喫茶店から出た。

 禅問答の様な質問を、同じ様に返されたお陰で、考える時間が必要だったが、少なくとも準は納得のいく答えが出た様子で、すっきりとしていた。

 対する冬馬は、まだ悩む素振りを見せている。

「しかし我ながら要領を得ない質問でしたが、良く答えてくれましたね。」

「まあ、多少本筋からずれた様なアドバイスだったけどな。結果として参考になる考えが聞けたから、ちょっと思い込みが激しい程度は目を瞑るよ、俺は。」

 誰かさんと違って、と暗に言い含めた準が目配せすると、冬馬は肩を竦める。

「最近色々ときな臭いですから、私たちの弱点を晒しつつ、一番怪しい黒田へ牽制のつもりだったのですが……。」

「目論見でも外れたか?」

「いいえ、判断材料が増えすぎて、寧ろ黒田が怪しくなく思えてくる。というより、恐らく私たちが結論を導くには何か大切な部分が足りない。」

 冬馬はケータイを弄りながら半ば諦めたように呟いている。

『はい、もしもし。遊びに行ってるの知ってて電話かけるの止めてくれませんかね、マロード。』

「いい加減その名で呼ぶのは勘弁して欲しいのですが。自分は『委員長』である事に執着しているのに、大人気ないと思いませんか。」

『……。』

 都合が悪くなると喋らなくなった委員長に対して冬馬は、電話越しの相手にも聞こえるように溜息を吐く。

「子供じゃないんだから黙らないで下さいよ。」

『――役割の中でしか何も成し得ない。』

「どうしたんですか、いきなり。」

『マロードなら分かってると思いますが、川神の地で何かが起こる。俺たちがかつて起こそうとしていた事よりも危険な何かが。』

 そこまでの言葉を聞いていた準が、冬馬からケータイを引っ張った。

「お前なぁ、何を知ってんだかわかんねえけど、俺らの心配すんのもいいけどよ。俺たちだって心配すんだからな。こんな回りくどい真似しねえで、ちゃんとユキにも伝えてやれよな。」

『……。』

「じゃあな。」

 準がすっきりした顔で冬馬にケータイを返すと、冬馬は呆れていた。

「まっ、細かい話は今度皆で直接って事にしようや、若。」

「そうですね。機会があれば、久しぶり彼とも直接話したいですね。」




格ゲー用語解説

GG……言わずもがなギルティギアの事であって、G.G.ではない。作中ではプレイ人口が云々と言っているがそんな事実はなく、本当の理由は初心者に嬉しい機能が充実しているからである(初心者向けとは言ってない)。


クリスとマルギッテが言っているキャラについて……上記にあるギルティギアに登場するカイ、レオ、ポチョムキンの事である。


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第二十四話 崩壊をつげるもの

お久しぶりです。
最近は(最近じゃない)投稿するたびにこの挨拶をしていますが、最低限想定していた分は既に書き終えました。
推敲し次第、投稿していきます。

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。



 夏休みが終わり何日も経ったその日、高昭と天使は普段の様に学校へと歩を進めていた。しかし、二人ともその口数は少し前と比べて減っている。この休みの間に高昭は多くの挑戦者と戦い、目に見えて、体は傷ついていた。

 最早、天使以外も勘付く程に、高昭の右腕は、その動きが鈍くなっていた。

 度々天使は、高昭に何かを言おうとして、その言葉を喉から吐き出せずにいた。周りの人間の中にはその姿を見て表情を歪め、しかし自らも踏み込んだ話が出来ない者もいる。

 天使が、高昭に何も言えないのは、勇気が無いわけでも、高昭を思っての事でもなく、幼稚であるからである。それは同時に無知である事と同義である。

 つまるところ、高昭について、何も知らなかったのだ。故に履き違えている。それは危うさでもあり、同時に、天使が高昭に一番近い事を表していた。

 時は、夏休みに遡る。

 

 

 その日は珍しく、板垣家の全員に予定が無く、高昭は挑戦者の下へ赴いていた。紗由理が帰省しているのもあり、高昭を除く全員が黒田家で寛いでいた。

「折角みんなで集まれそうだったのに高くんがいなくてさびしいなー。」

 辰子が、季節のせいで三割り増し間延びした声でぼやいていた。

「全くだ。こんなクソ暑い中で仕合とか正気じゃねえな。最近は誰も勝てねえのにな。」

「しょうがないわよ、高昭は強いから。」

 竜兵の言葉に反応した紗由理の呟きと腕を組んだ姿を見て、その場の全員が呆れた様に紗由理を見た。

「……何よ。」

「紗由理さんってなんだかんだ高くんの事好きなんだなって思って。」

 天使が言うと、紗由理は亜巳を睨み付ける。亜巳は手で口元を隠して笑っている。

「だって、ねぇ。普段は高昭ともあんまり喋んないし、両親の事を馬鹿にしたりするのに影ではこんなに優しいお姉さんだもの。ちょっと前なんて『高昭から頼みごとされちゃった。高昭もやっと他人を頼る様になったのね。』なんて言ってはしゃいでいたからね。」

「おじさんとおばさんにも、なんだかんだ誕生日プレゼントとかあげてるしねー。」

 亜巳と辰子に煽られる紗由理は顔を赤くして、拗ねる。

「普段表情一つ変えない高昭の頼み事なんだから、嬉しくって当たり前でしょ。」

「まあ今の、冗談でも笑わねえ高昭にしては、十分すぎる感情だからな。人に手伝って貰おうとするのは。」

 竜兵の話を聞く皆の反応を見て、天使は一瞬眉を顰めた。そして、何事も無かったかのように会話に参加する。

「でもやっぱウチらよりかは、同じ家の事情を知ってたりする紗由理さんのほうが相談しやすいんだろうな。」

「おや、天。紗由理に嫉妬してんのかい?」

「そんなんじゃねえよ。」

 今度は天使が拗ねると、クスクスと笑い声が生まれる。

「でも、私は皆が思ってるほど家族の事知らないわ。武術は教えて貰ってたけど、家の事情はさっぱりなのよ。知ってるのは少しばかり小金持ちな事と、両親の仲が良い事くらいだから。」

「じゃあ、あの部屋も知らないのー?」

 辰子が聞くと紗由理は頷く。

 あの部屋。普段は両親も入らない開かずの間。最近は共に居る事の多い両親だが、高昭が当主になる以前は先代である高昭の父も良く入り浸っていた。恐らく、当主を襲名した人物しか侵入を許されていない。

「私は入った事もないけど、高昭も数える位しか入った事がないんじゃないかしら。皆が見た事がないなら、最後に見たのは右手を壊して暫くした頃だったかしら。」

「じゃあウチらと同じくらいしか知らないのか。」

 少し喜色の混じった声で天使が相槌を打つと、また笑われた。

「……なんだよ。」

 天使は口を尖らせていじける。

「やっぱり嫉妬してんじゃねえかよ。」

「天ちゃんは高くんの事がほんとーに好きだねー。」

「止めな、辰。見てるだけで暑い。」

 夏真っ盛りで暑苦しいのに天使に抱きついている辰子と、それを咎める亜巳。なんだかんだ言って、平和な時間が過ぎていた。

 

 

 しかし、思い返せば思い返す程に天使がその時抱いた感情は単なる嫉妬であった。黒田の事にしても、天使と同じくらいの知識しかない紗由理が、高昭から頼られたのに対して、天使があの日共有した秘密は周知の物となっている。

 天使にしてみても、紗由理は亜巳たちと遊んでいて、自分が高昭と一番長くいた筈なのに――同年代と遊ぶのは当たり前の事であるが。高昭の事を一番良く分かっているのは事実として天使であるし、天使が分からない事を、高昭本人以外の他の人間が知っている訳が無いのだと思いたいのが当然だった。

 どんな感情を以って、そうさせたのかは定かではないが、天使にはそういった自負があるのは確かだった。

 そういう事で、天使は機嫌が悪い。

 この年は、高校に進学した事もあり、出会ってから初めて、長く一緒にいれなかった。その原因とも言える、高昭の責務というべきか、使命というべきか。『壁』にしても、日々右腕を酷使する高昭を見るのは、天使にとって気が気ではないし、今になって高昭を止めておけば良かったのではないか。そう考えていた。

 勿論、そうしても誰の為にもならない事くらい、天使は分かっている。だが、もう天使も子供のままではなかった。天使は自分の気持ちには整理がついているし、長い付き合いを思い起こせば、高昭が天使の事をどのように思っているのかも十分理解していた。

 だから、分別のある大人として、高昭の思いも汲み取らねばならないと頭では分かっている。その一方で、天使は、自分を優先して欲しいという、幼稚でありながら大人の女性の考えを孕む、そんな感情がどうしても生まれてしまっていた。

 様々な感情が胸中に渦巻いて、結局、天使は高昭に漏らしたい言葉を見つけられず、不機嫌なのであった。

 

 

「ふぎゅ。」

 不意に、高昭が立ち止まると、考えをぐるぐると悩んでいた天使はぶつかってしまう。

 普段ならば些細な事でも天使に謝る高昭は、この時は、そうしなかった。手に持っていた学生鞄を地面に投げ捨てると、天使を守るように半歩踏み出して構えを取る。

「天ちゃん。下がって。」

 言われて天使が退くと、高昭の肩越しに女の姿が見えた。

 学生が多いこの時間に――というよりそんな格好の人間は滅多に居ない。見れば、服は露出が多いが、剥き出しの武器を持っている。明らかに戦闘態勢の人間。

 それなりの実力しかない天使でも分かる強者。

 そして、高昭に『壁越え』を挑みに来た様子でもなかった。

「合計2300Rってところか。しかも弱点二つ持ち。運が良いなー、わっちは。」

「何者だ。」

「ああ、お前と戦うときは名乗りを上げるんだっけか?わっちは梁山泊の史進。世界一の棒使いさ。」

 自信に満ち溢れた様子の史進。高昭は全く気に留めず、ただ向かい合っていた。

「傭兵もどきのその精神性は『壁越え』に値しない。潰されたいか。」

「なるほど、弱点込みの差し引き有りで2000R越えか。面白い。」

 高昭の威嚇に舌なめずりをした史進は、少しずつ、距離をつめる。その狙いは迷い無く高昭の右腕であり、更には余裕があれば後ろの天使を庇わせようともしていた。

 史進は武人であるが、仕事に徹底する梁山泊であった。

 例えば、川神院のルーが語る様な精神性を踏みにじってでも。例えば、目の前の高昭を戦闘不能にする為に、右腕と足手まといである天使を狙ってでも。任務遂行の為に手段を選ばない。傭兵としての精神を併せ持つ人物。

「そらァ!」

 容赦のない打撃が高昭の右腕を襲う。

 高昭の後ろには、天使が居る。もし、高昭が避ければ、史進の攻撃は天使に及ぶ距離になり、高昭を無視して、天使に攻撃ができるようになる。

 そんな事をすれば、次の瞬間には高昭の攻撃が史進の体に突き刺さるだろう。それは他に人間だったらあり得ない事。誰が考えても、ありえないと言うだろう。

 しかし、高昭はその可能性を無視できない。高昭にとって、右腕よりも大切なものは二つだけある。家族と板垣家の人間だ。

 もしも後ろに居るのが、単なる友人であったり、単なる知り合いであったりすれば容赦なく、史進を叩き伏せる為に利用したかもしれない。

 高昭はその攻撃を受けとめる。

 続く腹部を狙った突きも避けられない。

「どうした、拍子抜けだぞ!黒田高昭!」

 加えて、言うならば、高昭にとって右腕とは大切な物ではなかったのかも知れない。結局のところ、『壁』として振舞う必要のない高昭が、普段と違う部分。それは取り繕う部分の有無なのだろう。天使たちの前、『壁』として振舞わなければならない時。高昭は常に何かを演じてきていた。

 今の天使にとって、高昭は自分を右腕を犠牲にしてまで守ってくれている、としか感じられない。それ以上の余裕が無いのは事実である。言い換えれば、憤りだ。理不尽に襲ってくる相手。自分の無力さ。それらへの怒りが心の中で暴れだす。

 そんな天使を背後に守り、一歩たりとも後ろに引けない状況で、少なくとも高昭は上手く攻撃を捌いていた。大した力の篭っていない牽制のみに直撃しに行き、迎撃を匂わせておいて、追撃をさせない。高昭にとって、怖いのは史進への援軍が来る事である。だから迂闊に攻めて仕留め切れなかった場合、戦闘を長引かせかねない。

 倒すならば一撃で仕留める。その為に高昭は、一度たりとも攻撃に転じなかった。相手の目を此方の攻撃に慣れさせない為に、防戦一方で凌いでいる。

 だが、そんな目論見など、天使は知らない訳である。

 

 

「調子こいてんじゃねえぞコラァ!」

 高昭が史進の攻撃を受け止めたタイミングで、天使が滑る様に前に出た。驚いたのは史進もであるし、高昭もであった。恐らくは天使にしか出来ないであろう。高昭本人ですら驚くほどに、ぴったりと高昭が攻撃を受け止める瞬間を見計らって攻勢に転じた。

 高昭もそれに反応して受けとめていた右腕では無く、左腕で棒を持ち、無理やり史進の棒を固定した後に体を捻り、史進の体幹を崩した。

 人一倍優れる反射神経でもってして、高昭は史進より速く反応できたのか。それとも高昭と天使との間にある一種の神がかり的なシンパシーによるものなのか。

 どちらにせよ、気による炎を纏わせた天使の拳が、史進に直撃するまで残された時間は殆どなかった。もし史進が棒を手放し、天使の攻撃を避けたとしても、恐らく追撃してくる二人の攻撃を獲物無しで捌くのは難しいだろう。逆に棒を離さなければ、天使が傷つく事を徹底して避けようとする高昭は、みすみす敵に獲物を返す事はしない。そうすれば受ける攻撃は天使一人分で済む。

 史進は、甘んじて天使の攻撃を受け入れるしかなかった。

「オラァ!」

 攻撃は、人体の急所である正中線上にある鳩尾を的確に貫いた。如何に非力な天使の攻撃とはいえ、高昭と天使の二人という数的有利を前にして、戦闘続行するべきではないと史進に判断させるには十分な攻撃だった。

 大仕事を控えている史進としては、こんな早い段階から余計に消耗する戦闘は控える必要がある。ここで逃げても、情報としては十分なものを確保する事はできた。高昭の右腕は既に殆ど使い物になっていない。それこそ、『壁』を越える資格がある者には特に顕著であろう事。

 勿論、史進は今の状態の高昭に単独で楽に勝てるなどとは考えない。しかし、この戦いを見る限りは高昭は多人数で戦う事には慣れていない。数的に勝るにも拘らず攻勢に転じないのは悪手という言葉すら生ぬるい。

 それだけの情報を理解できれば、史進には十分な戦果であった。

「このっ!」

 史進は極めて苛立った風に呟くと、塞がっている両腕ではなく、足を、ピクリと動かした。それだけで、高昭を煽るには十分だった。何より、天使に傷ついて欲しくない高昭は当然のように、史進は懐に入った天使を退けようとする、と考える。

 半ば体に染み付いた習性の如く反応した高昭を見て、その隙に史進は素早く棒を引き抜いて距離を取ると、棒を地面に押し付け、しならせて、その反動で以って大きく後ろへ後退していった。

 無論、高昭はそれを追いかける筈も無く、口に溜まった血を地面に吐き出そうとして、天使が居ることに気付き、飲み込んだ。

 

 

 たったの一発では怒りの収まらない天使は、史進の逃げた先を暫く睨み付けていた。睨みながらも、自身の行動を振り返り、血の気が引いた。間に高昭を挟まずに史進に対峙した時、頭に血が上っていたために、臆せず拳を振り切れた。だが、あれだけ実力の離れた人物に明確な敵意を向けられたのは初めてだった。

 武道家と向き合う時の威圧とは明らかに違う敵意。それが天使に向けられたものか、高昭に向けられたものかは関係なかった。天使は、今になって気圧されていた事に気付き、そして緊張の糸が解けた事で、少しふらついた。

「天ちゃん、大丈夫か。」

 高昭が天使を支えようとすると、天使は体勢を立て直し、高昭と向き合う。

「……怒んないのかよ。」

「一体何を?」

 天使から言わせれば、せっかく高昭が体に傷を刻みながらも身を挺して守っていたのに無視して敵の前に躍り出た事、そもそも直ちに逃げなかった事、力量の差が分かっていながら意味の無い攻撃をした事など、怒られてしかるべきであった。

 だが、高昭は責めない。

「無事で居てくれれば、それでいい。」

 そう言って高昭は右腕で天使を手繰り寄せて抱きとめた。天使は力の入っていない右腕に導かれるように、そう見えるように、高昭の胸に頭を埋める。天使は、誰にも見られないように、高昭の制服を濡らした。

「高くん、その、右腕は。」

「気を滾らせなければ、こんな程度だ。天ちゃんたちなら知ってただろうけどな。」

 高昭が自嘲気味に呟く。

「皆を守る為なら、右手がどうなろうが良かったし、立場だって利用する。」

「どうでも良いわけなんかないだろ。」

「川神大戦で、力を示した皆を守るには、俺が注目を集めるしかなかった。『壁』としてな。」

 四天王を倒した辰子、武神相手に果敢に挑んだ竜兵、派手に立ち回った天使、少なからず有名になるのは当たり前だった。

「その理由が有っても、決心がつかなかったのは、俺の心の弱さだろうな。直ぐにでも力を示して、板垣の皆に武を教えた人間として、注目を集める必要があったのに、だ。」

「でも、高くんは『壁』として十分に役割を果たしてただろ。」

「役割は、どうだろうな。文献から類推すれば、初代の黒田は、今の武神の有り方に近かったのかも知れない。噂を聞きつけた有象無象も、今と違って何の柵も無かった実力者も、時には格上とも戦ったから。頂点ではなかったが、最上位の武道家だったんだろう。時代の流れか、そうじゃなくても、洗練されすぎた殺人拳に人を惹きつける力はないんだろうな。」

 高昭は、より一層力を込めて天使を抱きしめる。

「もう、黒田は意味を成せず、右腕の壊れた俺もその内に、何者にもなれないだろう。だからせめて、皆を守る事をさせてくれ。」

 その言葉に、天使は戸惑った。今すぐにでも叱咤してやりたい気持ちを押さえ込んで、どう受け答えればいいものかと頭を捻る

 ――右腕がどうでもいいなんて冗談が過ぎる。

 現に、黒田の役割云々は兎も角として、まるで高昭自身が役立たずの様な言い方を見るに、右腕を壊したあの時の事、これまでの事を引き摺っているのは間違いなかった。

 もし、天使がここで高昭に怒鳴り、間違いを正せば、高昭が迷惑をかけていた事を肯定したと捉えられかねない。実際、あれはどうしようもない話ではあったけれども、一人で抱え込んでいた高昭が悪くないとは、言い難かった。

 今この場には天使と高昭以外居ない。登校時間はとっくに過ぎていた。

 だとしても、天使にさえ、高昭が自分の心の内を吐露するのは、随分と久しぶりの様に感じさせた。恐らくは、天使にも、多少の演技の混じったいつもの態度とは違う高昭自身の言葉。

「高くんはいつも、そうだ。ウチらがどうしようも無くなってから、力が貸せない状況になってから、全部伝えんなよ。そんな決心を語んなよ。」

「……ごめん。」

「なんでもっと早く言わねえんだよ。相談くらいしろよ、馬鹿。馬鹿。高くんの馬鹿。」

 高昭は自嘲して呟く。

「『壁』になろうとした決心にしても、今になって話す気になった決心にしても、俺は何かの後押しやきっかけが無ければ進み出せない臆病者だ。だから――。」

「いいよ、もう。十分わかった。」

 天使は目元を拭って立ち上がる。そして、はっきりと高昭を見つめる。

「高くんが嘘つきなのは分かった。もう、高くんが何を言おうが勝手にするからな。勝手に高くんを助けるからな!ウチは、絶対に!」

「ごめんな、天ちゃん。」

「ウチは今回は謝らない。そう決めたからな。」

 天使は高昭に背を向けて歩き出そうとする。そして少し振り向く。

「でも、ありがとうな。高くん。」

 

 

 高昭たちが到着する頃には、川神学園も慌しかった。二年生の修学旅行中に生徒に対して襲撃してきた梁山泊。先生は勿論、生徒には被害者も出ている事もあって、学園中が騒がしかった。

「高昭!無事、とは言い難いな。酷い怪我じゃないか。」

 教室に入ると、委員長が高昭に話しかけてくる。このクラスに限った話ではないが、空席が目立った教室になっていた。

「委員長、ムサコッスは。」

「あいつもやられた。」

 天使が聞くと、痛ましげな表情で委員長は答える。

「あれほどの実力がありながら、無意味に襲う理由は分からないがな。」

 高昭が、言葉を零すと紋白が近づいてくる。

「天、黒田、無事であったか。我も心配しておったぞ。」

 紋白の傍にはいつも居るヒュームは控えていなかった。

「執事が出払ってるという事は……。」

「うむ。今は川神と九鬼で協力して犯人の根城を探しているところだ。」

「まあそういうこった。高昭が今日このまま来なかったら、この地区縄張り的に黒田が怪しまれてたんだろうな。」

 委員長が特大級の自虐をすると、高昭は溜息を吐く。

「その様子だと、お前たちでも無いみたいだな。」

 そんな事を言っている間に、天使と紋白は勝手に話し始めていた。

 委員長は、この日は裏の事情が入った話をする気も無いらしく、教室から出る素振りも無く、高昭と会話を続ける。

「まゆっちは戦う前に逃げられたと言ってたが、高昭がそこまで苦戦するとなると、連中も強いのか?」

「恐ろしい。なにしろ梁山泊には躊躇がない。増援が背後に迫ってきている可能性を常に考えなければならないからな。」

 高昭が言うと、委員長は頭を抱えて呆れた風に聞き返す。

「お前、もしかして一人で……。」

「当然だ。俺は、常に最悪の場合を考えなければならない。」

 返事をする高昭だったが、委員長にはその心は揺れているように見えた。

「まゆっちに聞いたんだが、川神先輩と松永先輩とまゆっちで、拠点が見つかり次第攻勢に転じるらしいが、お前はどうするんだ。」

「言うまでもない。」

 高昭は無表情のまま委員長を見つめ返す。

「姉さんたちも守らなければいけない以上は、この身が幾つあっても足りない。敵が梁山泊のみと断定できない現状では、護衛を疎かにはできない。」

「そうかよ。じゃあ、まゆっちにはそう言っとく。」

 委員長が携帯を弄りだすと、高昭は手近な椅子に腰掛ける。

「なあ『委員長』。お前は楽しいか。こんな奴が傍に居て。」

「どうだかな。でも、漸く答えはだせそうだよ。俺は、な。」

 

 

 

 

 

 

 運命は傾き、時計の砂は流れ始める。

 歯車は軋みをあげて回りだす。




格ゲー用語説明

暗黒地獄極楽落とし……「調子こいてんじゃねえぞコラァ!」という成功時ボイスが印象に残る1フレーム投げ。KOFのキャラクターである乾いた大地の社の超必殺技で、何度も言うが投げ技である。今回は印象的なセリフのみ抜粋。



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第二十五話 吹き荒ぶ風のゲイ

これくらいの頻度であげれるといいんですけどね。
次回も出来るだけ早く投稿できるように頑張ります。

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


「ああ、うん、わかったー。そっちも気をつけてねー。」

 辰子の間延びした声が板垣家のリビングに響く。携帯を置いた辰子が目配せをすると、竜兵も、天使も、同じ情報を手に入れたのがわかった。

「しかし、天下の川神院に攻め込むか、普通。」

 呆れたように竜兵が言うと、二人も概ね同じ考えだったのか頷いた。

 辰子は、この日に梁山泊への強襲を行う事を、百代から聞いて知っていた。天使も由紀江から聞いていた。まるで梁山泊の襲撃に関わろうとしない人間が知っている程の話。情報の漏洩が有ったのかは知らないが、ここまで綺麗なカウンターパンチが決まったとなると十中八九、作戦は読まれていたのだろう。

 釈迦堂を運転手として、百代、由紀江、燕を動員していたものだから、川神院だけでなく町全体の守りが手薄であるのは確かだった。

 それでも、総代の鉄心、師範代のルーがいる川神院が落ちる等、誰も考えない事であるが、大事をとって対策を取るべきだった。

「亜巳姉は、今は紗由理さんと大学にいるらしい。」

「護衛の為にそっちの周辺で待機してた高くんは急いでこっちに戻ってくるって。」

 あの日、天使の決意を聞いた高昭が考えた結果、辰子と竜兵と天使、三人でいるならば高昭が護衛に居なくても良いだろうと判断した。

 高昭と板垣家の三人が梁山泊のビンゴブックに書かれている以上、紗由理と亜巳、加えてその友人も狙われていないとも言い切れなかった。亜巳は、自宅通いであるから最近は、駅までの道を高昭が護衛し、同様に紗由理も黒田家から通っていた。

「このまま家に篭るか、黒田家に逃げこむか。」

 どうしたものか、と竜兵が悩んでいると、辰子は既に電化製品のコンセントを抜き、出立の準備をしていた。

「辰姉、外に出て大丈夫かよ。」

「川神院も、狙われてるなら黒田家も危ないかもしれないからー。おじさんとおばさんも心配だしねー。」

 天使の迷ったような口ぶりに、この場の最年長者として、辰子は毅然と答えた。

 川神院が襲われた事で、今までの道行く武道関係者のみを狙うとされていた梁山泊のスタンスへの解釈が変わった。故に、どこが襲われてもわからない。

「バラバラで居るよりは良いか。高昭にもそう連絡しておく。」

 そうして、家を出発して暫くした頃、コンセントの抜かれたテレビでは、一連の事件の首謀者たちが電波ジャックした放送を行う筈であった。

 板垣家から黒田家までの道のりは然程遠くは無い。自転車に乗れば十分もしないで着いてしまう程に近かった。

 果たして、戦闘に備えて歩いていたのが原因であったならば、自転車であれば免れたのか、と言われれば、違うのだろう。

 コレは、言うなれば不慮の事故であり、悪意が発端でもあり、必然でもあったかもしれない。

 悪意が絡んでいるからといって、善意が無いわけではない。少なくとも、こうして天使が高昭と居なかったのは悪気あっての事ではないし、それを信じた高昭は咎められない。

 そして、コレが全ての始まりを告げる撃鉄になったのだろうか。

 

 

 前に立っていたのは天使と辰子で、後ろを警戒するように竜兵は歩いていた。戦闘技術は高昭に見て貰っていたが、達人が行う気の感知なんぞはからきしな竜兵は目を凝らす以外に警戒する術を知らない。

 天使は出来なくもないが、いざやるならば、その方法は随分と乱暴な調べ方になるのだろう。辺り一面を火の海に沈める事になる。

「フッ。」

 高々、近くに出歩く程度の事なのに、どれだけ神経質になっているのだろうか。そんな考えに至り、竜兵は自身を鼻で笑った。まるで、川神院が攻め落とされると考えてる事が馬鹿らしくなったのだろう。

 竜兵も、辰子も、恐らくは川神学園の誰もが、梁山泊が川神院に勝てるとは思っていなかった。何せあの二人が居るのだ。

 地面に膝をつく姿は想像できない。

 ――ほら、だってあそこに居るのは。

「あっ、ルー先生じゃん。」

 能天気に天使が手を振っている。

 竜兵が事態の異常さに気付くよりも少し早く、曲がり角から出てきた人物と辰子は動いた。

「天ちゃん!」

「ストリウムファイヤー。」

 赤い炎が殺到し、庇おうとした辰子も天使も巻き込まれ、近くのブロック塀を突き破った。この場に立ち尽くし、残されたのは射角から外れた竜兵だけだった。

「天、姉貴!」

 竜兵が駆け寄ると、辰子に庇われた天使も昏倒しているようであった。そして庇った辰子は言うまでも無くボロボロであり、その背中には痛々しい傷が見える。。

「いや、行幸だな。この体の試し打ちが出来て、加えてそこの二人もビンゴブックに載っているじゃないか。」

「テメェ。」

 まるで悪戯の成功した子供のように笑うその人物に、竜兵は極めてキレていた。その見た目や出で立ちなどは関係なかった。

 胸ぐらを掴む竜兵を気に留めた素振りも見せず、その人物――ルー師範代に憑依した公孫勝は馬鹿にしたように話し続ける。手を出すまでも無いと思っているのだ。

「ハンデありとはいえ、四天王を倒した板垣辰子が地に伏しているというのにお前が何をできる。」

 払い除けるように公孫勝が手を動かすと竜兵はされるがままに距離を離す。ルーが決してしない、人を小馬鹿にした笑いをしている。

 だがそんな事はそもそも問題ではなかった。竜兵がとる行動は単純なものであり、そしてなにより竜兵は我慢の限界だった。

 それでいて、公孫勝は見誤った。

 公孫勝の憑依は、極めて素晴らしい技だ。しかし、対象者の能力を十分に使う事は出来ても、十二分に使いこなす事は出来なかった。酔拳の達人でもあるルーの無意識による反応は凄まじく、並みの人間が知覚できない攻撃にも反応する。その点では、反射神経に優れない公孫勝の憑依相手としてはこれ以上の無い相性と言えるはずだった。

 同時にそれが敗因であった。

 あの技について知識のあるルーであれば、敢えて防ぐ事が正解であると知っていた。無論、避けきれるのであればその方が良い。公孫勝もそう考えたのだろう。しかし、無意識に任せて避けきろうと考えるのには浅はかであるのは間違いなかった。

「……済まねぇ、高昭。俺は家族も守れない上に、これから言いつけを破ろうとしている。でもな、コイツだけはぶっ飛ばさないと気が済まないんだよ!」

 竜兵の体が軋む。所詮は真似事であり、身体への負担から高昭には止められていた行為であるのは間違いなかった。そもそも、この時世に一子相伝の奥義なんぞは、遺伝子的な適正がない人間が使って良いものではない。

 だが、相違なく、竜兵の放った技は、吹きすさぶ『風』であった。

 

 

 

 無意識下でも二度は避けたルーの体を褒めるべきであるのか。それとも、体の負担がありながらも三発目を繰り出せた竜兵を褒めるべきなのか。

 何にしても、無意識の下で攻撃を避けるルーの体に笑いを堪えられないといった考えであった公孫勝は結果として、その後の思考に耽る事はなくなった。

 既に体の負担が重く、間接等の痛み感じ始めているにせよ一撃で沈めたのは竜兵だった。

「男の顔も殴らないって決めてたんだがな。」

 当たり所は良かった。運よく、気絶したルーを見ながら竜兵は呟いた。

 公孫勝の術は、一度対象が気絶すれば解けてしまう。竜兵がその事を知っていれば、この場から離れる選択肢もあった。だが、他人の体を乗っ取るような真似をする奴が、大人しくやられるとは考えられない。方法が分からない以上、例えば、同じく気絶している天使に乗り移る事も懸念されない訳ではなかった。

「姉貴は、天を守れたんだな。」

 辰子の腕に収まる天使は、直撃を受けたとは思えないほど軽症であった。対照的に痛々しい傷を負った辰子を見て、竜兵は握る拳をよりきつくする。

 まだ、竜兵は戦わなければならないから。

「ストリウムファイヤー。」

 躊躇無く、遠方から放たれた攻撃は気絶していたルーの体に直撃する。先程見た赤い炎とは違って青い炎であった。

 竜兵たちに届いた情報が遅かったのも勿論であるが、それでもこの場にこの三人が居るのは明らかに早すぎた。

 不足の事態は既に起きている。しかし、どんなイレギュラーが起きているとしても、竜兵がすべき事はきまっていた。

「覚悟決めるしかねえな。」

 異国の服を纏った三人を見て竜兵は呟く。

 ここ数日での情報から梁山泊の事は知っていた。まとめ役であり、恐らく一番の実力者である林沖。あらゆる技を模倣する青面獣、楊志。高昭と天使を襲った棒使い、史進。

 一人ずつタイマンでも厳しい相手。どう足掻いても勝ち目は無いが、竜兵は少しでも戦力を削らなければいけない。

 辰子のお陰で傷の少ない天使。気を取り戻したら立ち向かいかねない。加えて、傷を負っているとはいえ辰子は自身を犠牲にしてでも家族を守ろうとする。竜兵もそうだが、仮に見逃して貰えたとしても、そうはしない。家族をやられた以上、理屈ではないのだ。

 故に、竜兵は一人でも多くに、少しでも多くの手傷を負わせるか、大事な家族が気絶している間に、自分か相手を、やるか、やられる他なかった。

 先にやられる。分かり切った結末は竜兵にとって気分の良いものではない。だが、自分がやられて家族を助けられるというのなら、平気で体だって酷使できる。

 竜兵はそういう人間だった。

 何より見下す態度が気に入らなかった。竜兵は、二人が受けた傷以上の痛手を食らわせてやると覚悟を決めていた。

「オラァ!」

 先日の恨みも加味して、竜兵が殴りかかったのは史進だった。三人を相手取るのは不可能と本能的に理解している竜兵は、体が持つ間に全力で戦おうとしている。一人でもやられてくれれば万々歳、二人が気を取り戻す前に自分がやられれても十分。

 無論、自滅でも十分だった。

「……歯ァ食いしばれよ、俺。」

 竜兵は再度、『風』を放った。高昭は躊躇無く使う技では有るが、粗悪と呼ばれてもいいほどの竜兵の攻撃の練度は、急速に体を痛めつけていた。

 体への気の浸透方法や、そもそもの体格、体作り。何もかもが、十全ではなく、筋繊維は悲鳴を上げて、間接も何時壊れてもおかしくなかった。

「なるほどねー。」

 二回の空振りを挟んだ後、腹部に直撃させた所で、背後から楊子が呟く。その声は聞こえなかったものの、竜兵はその殺気を感知する事が出来た。

 ――火の構え。

 竜兵が背面へ繰り出した攻撃は相打ちに終わる。接近を仕掛けてきた楊子はしきりに頷いているようであり、『火』で以って迎撃した竜兵は酷く汗をかいていた。

 元より迎撃の技ではない、後ろ回し蹴りがベースである『火』。衝撃を逃がしきれなかった竜兵は度重なる『風』の過度の仕様に加え、今の迎撃で股間接がバカになりかけていた。

「ゴメン、史進。試したいから譲ってね。」

 楊子は言ったと同時に動き始めた。竜兵はその攻撃に見覚えがある。本家のものより下手な型でありながらも、脅威となり得る攻撃。竜兵が使った『風』であった。

 脱力から最高速度までノータイム行い、上半身にかけての力のラインに淀みが無い。

 それを竜兵は経験で避けていく。左右交互の攻撃を、避ける。一撃でも受ければ、今の状態では体がバラバラになってしまう。

 時間にして六秒、二十回以上の攻撃を避けられた時点で楊子の分析が終わる。

(ただ避けるだけか。『林』も『山』も見られないなら、コイツから引き出せそうな技はもうないな。)

 必死の形相で避ける竜兵に対して、楊子の表情は涼しいものであった。

 それもその筈なのである。或いは筋肉痛の様に、直ぐには症状には表れない。竜兵はなんだかんだと言っても、川神大戦の時のように言いつけを破って、これまでも使ってきていたから二、三回程度でもガタがくる。

 楊志は、使うのが初めてだ。例え、何百回でも撃とうが、気付けはしない。なにせ動かしている分には、問題が無い。この技は止まった瞬間に一気にくる。

 楊志の放つ攻撃が避けられる。振るった右腕はそのままに、体が流れていく。楊志自身も、驚く程に。今までの連撃とは違う動き、だが、体が壊れた訳ではない。

 寧ろ、楊志の才能が勝手に体を動かした。左右の攻撃が当たるまで交互に繰り出される『風』。竜兵は体に染み付いた癖のようにそれを避けるが、だからこそ。

 左右の繰り返しの攻撃が、右右や左左のように片側だけが連続で放たれたらどうなるのか。そもそも、防御不可の攻撃を。

「火の構え。」

 無意識であったのだろう。『風』の勢いをそのままに、更に一回転して放つのは防御不能とまで評された技。

 楊志の才能が、黒田奥義のコンビネーションを撃たせた。

 常人ならば反応できない速度で放たれた『火』の空を切る凄まじい音が竜兵に迫る。

「そんな甘えが通るかよ!」

 竜兵は、なんとなく読んでいたし、誘導もしていた。何より、最善の一手であるのは、誰が見ても明らかだった。

 高昭ならそうすると、ぼんやりと体が動いていた。

 一点読みに近い反応速度。

 楊志は、繰り出した体を更に捩り、繰り出す。体はおよそ一回転強。

 竜兵は、引いた体をそのままに繰り出す。体はおよそ一回転弱。

 どちらが早いかは明白で、足を伸ばしきった状態で差し込まれる事の意味。それだけでなく楊志の体は、本人が知ることは無く爆弾を抱えている。無論、竜兵の体もボロボロだが、それで良かった。

 竜兵は自爆上等。相打ちで十分目標が達成できるから。

「火の構え!」

 楊志の技の出がかりに、竜兵の攻撃が決まる。互いの足がぶつかり合い。互いの体から嫌な音が響く。骨に亀裂が入る程度の問題ではない。竜兵は、踵が砕け、股間接からミシリと聞こえ、反動で左肩が逝った。

 楊志は、膝から不快な音が鳴り、骨盤の周りに大きな亀裂が入る。

「ぁぁああ……。」

 崩れ落ちる両名。

 先に動いたのは、動けたのはどちらだったか。

「瞬、間、回復。」

 どうにか、気を搾り出した楊志は、川神百代から盗んだ技で、回復して見せた。素早く、腰から刀を手に取ると、竜兵に袈裟から切りかかる。

 そして、その強力な技の反動で、体がふらつく。決してタダでは負けないと強い覚悟を持った目の前の男と違って、楊志は、全身全霊で相手にしなかった。技の試し打ちが目的として戦った事。敗因はそれだけだった。

「死ねオラァ!」

 竜兵の一撃は、楊志の意識を刈り取った。

 

 

 気絶する楊志。見た目ではどこにも傷は無い。勝者である竜兵は、面と向かえばその胴体が赤く染まっているのがわかり、地面には噎せ返るほどに血溜まりができている。加えて、片腕は折れていて、歩き方からも間接はガタガタであることが見て取れる。

 立つ事すら難しい状態で、竜兵は役目を果たそうとしていた。

「次はどっちだ。かかって来いよ。」

 竜兵が感知するのは霞む視界。目を細めても尚、収まる事のない揺れる世界。足取りも儘ならず、出血は無視できない程であった。

 残る梁山泊の二人の姿を捉えているわけがなかった。

 相手が武人であれば、その姿に敬意を表し、一撃で意識を奪っただろう。だが、相手は梁山泊。非情であり、仕事を最優先とする集団。

「楊志を回収して引き上げる。史進、異論はないな。」

「追っ手が来ても困るしな。楊志はわっちが背負うよ、ケガしてても平気でセクハラする奴だからな。」

 林冲は、そうか、と呟くと視線を竜兵から遠くへと移す。

 そこには吹き飛ばされた。二人がいた。

「片方は傷が浅いようだな……。」

 槍を手に取った林冲を見ると、竜兵は襲いかかった。もう、倒れこむと言う方が正しい突進を林冲は手で払いのけて、歩を進める。

「やめろ、決着はついてんだろ!」

 そのまま倒れこんだ竜兵が振り絞って声を出すと、楊志を背負った史進に足蹴にされる。

「わっちらの仕事は敵の無力化だ。なーに、手足の一、二本使えなくするだけだ。」

 それを聞くと竜兵は何とか立ち上がろうとするが、史進に背中を踏みつけられる。単に押さえつけられているだけで、体を捩る気力すらなかった。

 祈るように、やめろ、と叫ぶ竜兵を見て、梁山泊の三人は何も感じなかった。散々見てきた光景だった。

 ただ、命乞いの類にしては、特に生き死にを決めるものでもないのに、妙に恐れている。そう感じたのは、楊志だったか。抱えられたままの楊志の体勢では、林冲の方を見るのに苦労がいる。だから何となしに薄れる意識の中で竜兵を見ていたに過ぎない。

「頼む。やめてくれっ。」

 林冲が槍を振り上げたその瞬間まで、竜兵は祈っていた。その姿は、懺悔のようにも見える。

 

 

 林冲が振り下ろす。突き刺した先からはボタボタと血が滴り落ちている。

 梁山泊の誰よりも早く、竜兵は言葉を紡ぐ。

「違う。」

 竜兵は薄れゆく意識の中で振り絞った声をだす。

「違うんだ、高昭。俺らが見たかったのは、取り戻したかった表情は、そんなじゃない。もっと、もっと――。」

 槍の穂先を握りしめるのは、憤怒の形相で涙を流す黒田高昭であった。

 竜兵が言葉を最後に気を失うのを見ると、高昭は更に強く拳を握る。一層に槍の刃先が手のひらに食い込む。

 

 

 ――ぱたり。

 冗談のように、ゆっくりと人が倒れ伏す。

 倒れこんだのは林冲だった。

 史進は、目の前で起こった光景が信じられない。史進の目には何も起こったようには見えず、ただ、林冲が槍を持ち、その刃先を高昭が握っていた筈だった。次の瞬間、林冲は倒れ伏した。否、理解すら及ばない光景であった。踏んだのは虎の尾なんてかわいいものではなく、ナニカ、恐ろしいものを目覚めさせてしまったのでは。

 楊志を地に下して構えを取ろうと、そうしなければと思い至った矢先。

 史進が最後に見たのは眼前まで迫った血だらけの掌だった。

 

 

 

 

 

 

 渦巻く感情は運命の囚われ。

 これが破滅へ近づく一歩なら、踏み出した理由も錆びて忘れた。




格ゲー用語説明

吹き荒ぶ風のゲーニッツ……KOFに登場するキャラクターで前話の説明に登場した社と同じく「オロチ四天王」の一人。牧師風の服を着た男。
 ボス時のCPUがえげつなく強い。昔の格ゲーのボスは強いという代表例。


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第二十六話 決別

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 病室に赤みがかった光が窓から差し込む。

 天使は鼻につく臭いで目を覚ました。はっきりしない意識の中で病院であるらしいと分かると、より一層臭いが濃くなったような気がして、近くの温もりを探し当てて顔を埋めた。一度開いた目は直ぐに閉じていた。

 然程柔らかくない感触。だが、その温もりと匂いは、天使を安心させるにはこれ以上ない存在である。ただ、最近は長く近くに居られなかったから――いや、これほどまで近くに感じるのは何年振りだっただろう。

 徐々に覚める意識の中で、しかし天使は寝ぼけたように、高昭の腕の中に納まるのであった。頭を高昭の腹部に擦り付ける。

 安心を求めるように体を動かす天使を見て、そのような精神状態に追い込んでしまったのだと、高昭は己の無力を悔いる。天使もそうであったように、高昭にとっても、こうまで近くに温もりを感じるのは久しぶりであった。だからこそ日常を壊した無力さに打ちひしがれる。

 年を重ねるにつれて互いに羞恥心に目覚め、こんな風に体を預けなくなっていた。それでも、これだけ近くに居ても不快さをまるで覚えない関係であるのは間違いない。

「ごめんな、俺が不甲斐ないばかりに。」

 まだ、寝こけていると思っている高昭は、天使を優しく抱きしめた。そして、安心させようと、震える右手で天使の頭を撫でた。

 天使は恥ずかしそうに身を捩って、ベッド横の椅子に座っていた高昭へ背中から体を預けた。高昭の膝の上に、向かい合って天使が座る体勢になる。

「苦しい。」

 自分から身を埋めておきながら、高昭を非難するように、天使は自分の頭で高昭の胸部を軽く叩いた。

「脳震盪で倒れたんだ、無理をしないでくれ。」

「あーそれで頭が働かなかったのか。」

 天使は悪びれた様子もなく、自分の行動を意味づけた。

「ごめんなー高くん。ウチらが弱くて。」

 極めて何も気にしていない口調で話す天使に、高昭は不意を突かれた。何より早く謝るべきと思っていた失態、それをまるで高昭の関係のない話題のように言われて暫くの間思考を停止した。

「違う。」

 高昭は決めつけるように吐き捨てた。

「俺が悪いんだ、だから皆が怪我をして……。」

「それならそれでも良いよ。」

 天使にとって、高昭がどう言おうが関係なかった。もう過ぎた出来事を掘り返して話すつもりはなかった。

 ただ天使にとって、今は、抱きしめてくれた事が嬉しかった。

「助けてくれてありがとう。ウチは、それ以上に何も思わないから。」

 背中を預けながらも、しっかりと、真っ直ぐに合わされた視線は、純粋で素朴であった。それは、今の高昭にとって自身の後ろめたさを浮き彫りにする恐ろしさがあり、気恥ずかしくあるものも感じさせる。

 高昭は、何かを言おうとして、喉元まで出かかって止めた。

 その姿は、天使にとって馴染み深いものだった。最近の、嘘を被せた言葉とは違う。子供の頃、高昭は天使に何かを告げようとし、そして諦めたように笑うのだった。

「ほら、高くん笑えって。」

 天使が肘でつつくと、高昭はうっとおしそうに身を捩った。急に五感が戻って来たように、高昭の鼻を天使の髪が、その匂いが、くすぐる。

「笑えよ~ほら~。」

 強引に顔を向かせようとする天使から逃れる為に、高昭は目を瞑った。普段の無表情と違い、少し必死に天使の頼みを回避しようとする姿を見て、天使が笑みを零す。

「わ、笑うなよ。」

「だって、高くん必死なんだもん。」

 態と笑い声を漏らす天使を見て、高昭は眉を歪ませる。年相応というには少し幼い、だが意図的ではない天使の行動を見て、高昭はもう一度天使を撫でた。

「……懐かしいな。」

 独り言ちた高昭の息遣いを感じた天使は少し悪戯な笑みを浮かべて首を動かし、高昭へと視線を向ける。

「今、笑ったな。」

「笑ってない。」

「絶対『フッ』ってなってただろ。」

「なってない。」

 ズイっと顔を近づけ問い詰める天使と目線だけ逸らす高昭。天使は高昭の顔を両手で挟んで強引に回す。

「ほら、ちゃんとウチの事見ろよ。」

 満更でもない高昭はそのまま見つめる。天使は自分がやった手前、引き下がれないが、段々と恥ずかしくなってくる。二人の距離は、その親しさを以っても近すぎる。

 天使の目線が少しずつ泳ぎだすと、それを見て高昭が笑った。

「ククッ。」

「笑うなよ!」

 耳まで赤くした天使が高昭の胸板を軽く叩く。

「いや、少女漫画の男みたいな事いうな、と思って。」

「あぁん?」

「『俺の方をちゃんと見ろよ!』みたいな。」

「うっせ、バーカ!」

 恥ずかしさが頂点に達して、天使はベッドに顔を埋めようとした。

 そのせいで、高昭の表情を見れなかった。

 この掛け合いで、更に心を開きかけて、何かを伝えようとした高昭は少し思案する素振りをみせた。天使が見ていれば、高昭が良くやっていた仕草も二度目である事に疑問を感じて、理由を聞いただろう。

 悩むにしては長い時間、高昭は言葉を躊躇う。同時に天使も、自分がやった事が恥ずかしくて、自分から話しかける事は無い。

 そして、高昭は諦めるように、天使に見えないように微笑んで、病室のドアに目線を向けるのであった。

「寝てるか、天ちゃん。」

 気恥ずかしさか。天使は答えなかった。

 寝ているかどうか、背を向けて横たわる天使の様子からは、高昭には分からない。疲れていない筈がない天使を思い、高昭は天使が眠っている事とした。

 高昭が掛布団越しに撫でると、天使は心地よさそうに、寝息を立てる振りをする。

「天ちゃん、好きだ。」

 脈絡もなく言った言葉は、狸寝入りしている天使には、どうにも反応出来るものではない。頭は枕に埋め、目を瞑っているが、眠りにつける状況ではない。寝ていた事を嘘と明かそうにも考えが纏まらずにいる。

 しかし、静けさを切り裂いたのは、思い切りドアを開ける音だった。

 息を切らせて、ノックもせずに入って来た紗由理と亜巳は少し目が赤らんでいる。

 高昭が視界に入らないかのように病室に入った亜巳は、他の二人の家族より怪我の酷い竜兵を見て歯を食いしばるようだった。

 天使だけではない。竜兵も辰子もこの部屋で入院、療養していて、ベッドの上に居る。今はまだ気を失っている二人を見て、亜巳は肩を震わせる。

「なんで。」

 紗由理が漏らした声は病室の空気を急激に重いものに一変させる。その空気を感じ取った高昭は改めて自分の罪深さを噛みしめるように顔を伏せた。

 梁山泊の強さを知らない二人は、それ故に結果しか知ることが出来ず、天使のように割り切れなかった。

 静寂に包まれた病院で、固い布団の上に水滴の落ちる音が響く。

 天使は、それでも高昭が助けてくれた事を訴えよう顔を上げた。しかし、亜巳の表情から、普段の厳しい振る舞いで隠している深い家族への愛情を感じられて、口を挟むことができない。その愛は上の兄弟だけに向けられている訳でない事くらい天使にも分かった。

 しかし、亜巳と紗由理の感情は、天使にとって何処か違和感が拭えないものだった。

 この場に来た二人は、行き場のない怒りとも言える感情に支配される可能性も、自身の無力さに打ちひしがれる可能性もあった。事実、紗由理は高昭へ不当に怒鳴りつけ、頬を叩きかねない程の怒りが、胸中にはあった。

 もし高昭が居なかったら事態はもっと悲惨になっていた事を、二人は知らなかった故の感情。紗由理にとって感情を吐き出すのに、高昭のせいにするのが楽な選択なのは間違いなかった。

 しかし、亜巳はもっと直情的であったし、また冷静でもあったのかもしれない。

 紗由理が感情を爆発させて高昭に殴りかかろうとするよりも早く、亜巳は高昭の両肩を強く握った。

「これをやった奴らは何処にいるんだい。」

 必死に感情を押し殺しながら、亜巳は、問い詰める。だが、言葉から滲み出る殺意は隠しきれていないようでもあった。

「そいつらは俺がけりをつけました。」

 高昭はゆっくり、傷つけないように肩に食い込んでいる亜巳の指を外すと、病室から出ていく。

 そして、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。

「……俺が全てのけりをつけないと、か。」

 

 

 高昭が病室を出ると、紗由理と亜巳の鳴き声がどんどん遠くなるようだった。理由無く近辺を歩こうとすると、前方から見知った顔の男が来るのが見えた。

「お前の傷は大した事ないのか?」

「俺はどうだろうが構わないさ。」

 男はその言葉に含まれた意味を十分に汲み取った。高昭の決意の固さは、男が止められるものではないと分かるには十分すぎる言葉だった。

 暫し無言のまま歩いていた二人だが、不意に一室の前で立ち止まる。

「こっち陣営の作戦本部だ。」

 高昭に呼びかけはするが返事を聞こうという素振りすらないままに、男はドアを開けて中に踏み入っていった。

「遅れてすんません。」

「遅いぞ委員長。」

 この場にそぐわないにやけ面を見て、総指揮を執っている紋白が呆れた風に委員長の態度を咎める。高昭が部屋を覗くと、紋白と、お付きのメイド、その他にも此方の中心人物が座っていた。二年でも頭がキレると名高い大和に加え、風間ファミリーから京と由紀江。天神館からは大友が腕を組んで待っていた。

「しかしまあ、俺が来る必要ないでしょ。ここに居る一年の最高戦力さん方を除けば、次点のムサコッスは療養中だ。それらに連絡する意義がない上、俺ってばそんなに顔も広くない。」

 委員長は椅子に腰かけながら、紋白にぼやいた。高昭は壁にもたれかかって目を瞑る。

「紋白は全体の指揮を執るんだ。一年の手綱くらい握って貰わないと作戦も何もない。」

 大和が正論ぶった意見を述べると、大友も続けて喋る。

「大友は作戦を考えたりはしないが、意思疎通は重要だと考える。仲間がやられて棘が立つのは分かるが団結なしに勝てるほど敵も甘くない。」

 棘が立つ。そう聞いて由紀江は高昭を見る。思ったよりも落ち着いて見える姿からは、梁山泊を前にして感情を爆発させたとは思えなかった。普段通りの鉄面皮。否、ここに居る殆どの人間は、そういった想像や高昭の感情の変化に気が付く事すら難しいと思わせる程度には、高昭と過ごした時間は少なすぎたのだ。

「察しが悪いなあんたら全員。」

 いきなり、委員長が暴言を吐いた時、反応したのは京であった。話の場に弓を持ち込むような無作法は行わずとも、歩兵として十分な能力があるのは確かだ。

 そもそも無作法な輩がどちらか、言うまでもない。

「……そのしょーもない台詞、もう一回言ってみろ。」

 学年は違えど、FクラスとSクラスによる確執は完全に取り除かれていない。加えて、漸く仲間と認めた由紀江の近しい人物となれば、相応しいかと疑ってかかるのは当然であった。高昭たちにとって友人であるように、風間ファミリーにとって溺愛すべき後輩であるからだ。

 紋白の護衛に緊張が走り、大友も少し腰を浮かした。一触即発の雰囲気は、高昭にとって些事であった。

「成程、初めからそういうつもりでしたか。」

 由紀江が目を細めるが、委員長は動じずに言葉を返す。

「おうともさ。誰もこいつの手綱は握れやしない。だったら俺はこいつに力を貸すだけだ。お前らに力を貸すよりは筋が通ってる。」

 委員長が視線で急かすが高昭は気に留めた様子もない。ここに居る皆が注目したからという理由で口を開く訳がなかった。

 唯、誰もが黙れば即時告げるつもりで居ただけだった。

「降りかかる火の粉は勝手に払わせてもらう。奴らの始めた戦争に、身の丈以上の仲良しごっこなんぞ必要ない。」

 指示を聞くつもりはないという宣言。それをする為だけに高昭は此処に来た。余りにも自分勝手であるが、これが高昭なりの最低限の通すべき筋。

「そんな見殺しにするような真似を看過できるものか。」

 紋白が睨み、言い放つが、既に高昭は背を向けて出ていった後であった。

「んじゃまあ、見殺しにする気ないんで俺も行きますよ。」

 軽々しく死地へと高昭を追いかけていく委員長を、この場に居る誰もが止められなかった。

 由紀江が目を逸らしてきた薄々感じていた高昭への嫌な予感は、本人に何も聞けぬままになってしまう。このままだと悪い方向に事が進むと勘が告げている。だが、第六感が告げなくとも、動かねばならないのは分かっていた。

 

 

 そこは戦場には相応しくない場所であった。

 夜の河川敷で少し前まで蛍が鑑賞され、項羽でもあり清楚でもある少女は、京極という一人の人物にその内面を大きく揺れ動かされていた。項羽が総大将として戦争を起こしたと知って、それでも普段と、清楚と名乗っていた時と変わらず接してくる男。

 そんな青春の一幕を作り出したのが、項羽である。だが、同時に、大きな引き金を引いてしまったのも項羽であるのは、本人が一番理解していると思っていた。

 項羽が手に獲物を握って、襲撃者を睨む様子から、この場での襲撃は予想の範囲内であるのは確かだった。

「孤立を狙った策は上出来だが、単騎で挑むとは感心しないな。」

 暗闇に混ざる浅黒い肌は遺伝によるもので、一層に白い道着を浮かび上がらせる。かつての覇王をも見上げさせる巨躯は、その手に武器を持たずとも十分な殺人道具であった。

 襲撃というには堂々とした佇まい。死地に踏み込む事に戸惑いが無い。

「自ら起こした戦争に一から十まで文句を言うとは良い身分だな。」

「文句が言いたいなら存分に言えば良いぞ、黒田。力を示した後で、な。」

 話し合いは無用であり、襲撃者への項羽の回答は、体に滾らせた闘気から分かるように、駆逐である。

 奇襲を手放した輩に、先手を譲る必要はない。項羽が横に力を振るえば、世界が割れる。武器を振るうという表現に納まらない現象は、技などない力任せであっても、災害そのものであった。

 余波は高昭へ襲い掛かる。まだ単なる脅しの一撃は、直撃はしないものの、当たりさえすれば致命傷になりかねない。

 少女は、名も力も覇王を受け継ぐ、真の強者であった。見た目の大きさなど意味をなさない間合いと破壊力を兼ね備える。高昭から見ても圧倒的である。目の前に居るのは、『壁越え』と戦わずして言い切れるであろう同年代の人間。

「近づけもしないだろうな、黒田。」

 優位に立つ項羽は高昭を見下す。項羽と高昭の距離は、高昭の間合いの二倍は離れている。項羽から動く必要はなかった。

「如何に誰にも告げず此処に来たとはいえ、総大将が居なくなれば監視をつけない程、此方の軍も無能ぞろいではない。そうしている間にも貴様の余命は無駄に費やされているぞ。」

 項羽が言うように、反乱分子とはいえ元々は九鬼。トップクラスの実力者も中心に居るだけあって、大規模作戦の練度は低くない。項羽程度の不確定要素は、余りある戦力さえあれば巧みにコントロールできる。

 近づけない高昭へ何度も牽制を放つ項羽にとって、時間は幾らかかってもいい。応援が来るのは時間の問題であるのは間違いではなかった。

「どうでもいいよ。雑兵が幾ら来ようが物の数にもなりはしない。」

「吠えたな。部下を雑兵と言ったか。」

「冗談。お前も雑兵だ。」

 高昭が仕掛ける。項羽の攻撃が周囲を守る障壁だったとしても、人の身で繰り出す以上は隙が生まれる。

 項羽は力を籠め横薙ぎを振るう。

 高昭は、空中に気で足場を作り一息で項羽の頭上まで駆け抜ける。巨体が下す影を認識すると項羽は頭上へと斬撃を放つ。

 怒りを孕んだ一撃は、鈍かった。

「『火の構え』。」

 空中で気で生み出した足場を軸に放つ一撃は、項羽の斬撃に押し勝つ。だが、それ以上の結果は残せなかった。挑発が無ければ項羽は相打ちで終わる程度の斬撃より強く震えた筈である。落ち着いていたなら、高昭は直撃を叩き込めた筈である。

 続く項羽の上段切りは飛んで避け、再度仕切り直しの形となる。

「雑兵、雑兵と良く吠える。言葉もそれしか分らんように、戦い方もゼンマイ仕掛けの骨董品とくるからお笑いだな。」

「なんだと。」

 明らかに見下す項羽の呆れ顔。高昭は真意に気付かれないように問いただす。

「瞬発的な加速を用いた奇襲、攪乱。次いで決め手は相打ち上等の技の打ち合い。全てが最強であればそれでも良いだろうが。貴様は所詮『壁』に抑え込められた凡夫だ。力押しで純粋に勝てぬ覇王を前に、どんな小細工も意味など持たん!特に心の平静も保てないような輩には絶対だ。」

 項羽が高昭へ向けて武器を振るう。それだけで、地は抉り取られ、衝撃波は高昭へと迫る。単に腕を振るうだけの項羽に対し、走り回る高昭。どちらが優位に立っているのか、それを表すかのように、項羽の表情から怒りの気配がなくなってくる。

「どうした、黒田!得意の奥義とやらでこの単なる攻撃を捌いてみせろ!」

 更に数回の斬撃を放ったところで、項羽はあたりに散らばる光に気付く。

 ――この戦闘の最中に蛍か?

 戦いの場で、そんな馬鹿な話がないと項羽は分かっていた。可能性としては水か。だが水面に向かって攻撃を撃つばかりでは水飛沫が此方に来る道理はなかった。月光が反射する何かは、虫と例えるには鋭く、動きが直線的過ぎた。

 何事かと目を凝らせば、その一つが項羽の眼球の目掛けて一直線に飛来する。

 それは、初めて項羽が根ざした地から足を動かし、然程も致命傷にも至らないまでも、背に冷や水を打つには充分であった。

「含み針だとぉ!」

 頬に刺さった針を抜きながら、項羽は目の前の男に激怒した。一対一、真剣勝負とばかり思っていた項羽にとって、暗器と理解した時点で腹積もりは決まった。

「黒田の拳は殺人拳だ。だが安心しろ、致死性の毒なんざ塗ってはいない。」

「貴様は何をしたのか分かっているのか!」

 高昭に怒鳴り、地を踏みしめる力が増す項羽に対し、高昭は静かだった。行動に対して、高昭の心の水面は波一つ微動だにしない。

「勝手に戦争を始めといて、心得もなしに喚くかよ。俺は貴様を殺しに来たんだよ。」

 高昭は含み針を吐き捨て道着を振って、これ以上の暗器がないと項羽に見せつけると佇まいを直す。

「親切ついでに教えてやる。貴様だけじゃない、戦争だろうとなんであれ、その手段を良しと黙認して俺の大切な人を傷つけた全ての人間を、俺は救いようのない危険と見なし、排除する。」

 項羽は、後ずさった。力量による恐怖ではなかった。力量は、高昭の天井は、武に理解のある皆が知る『壁』であるのは項羽も、清楚である頃から分かっていた。

 含み針は抜けているにも関わらず、項羽は肌に針が刺さったような錯覚を覚えていた。高昭に感情は十分見られるが、それは項羽に対して微塵も向けられていない。殺意というには軽すぎる。頬から滲んだ血は、含み針と同じ鉄の臭いだった。

 生存本能に死が迫っている警告を響かせるのに、十分なサインだった。

「針なんぞ元より必要ない。俺は、黒田高昭は、これより何より鋭利な『修羅』となるからな。」

 纏う雰囲気が変わる。

 にじり寄る高昭を、項羽の感覚器官は拒絶したいと泣き言を言っているようだった。得体の知れない何かを振り払おうと構え直した時、今度は闇の中を幾つもの紫が空を走るのが見えた。

「何だアレは。」

 人型で空を飛ぶ機械は高昭の放つ異様な雰囲気とはまた違う非日常を連れてくるようだった。

「打ち上げようと思って用意していた花火を、残すと何時使えばいいか分からなくなる感覚って共感できるか。あいつは結構楽しみだったらしくてな。」

 項羽には高昭の言葉を少しも理解できなかった。だが、水を差されたお陰で、高昭に敵意を向ける程度には平静を取り戻せた。

「あの紫共がどれ程かは知らんが、精鋭ぞろいの増援を食い止められると思うな。」

「あいつも戦ってるんだ。互いに横槍は要らない。それに――」

 項羽が鳩尾目掛けて放った突きを、高昭は裏拳で刃の側面を殴り逸らしてみせる。

「一騎当千の将兵だろうが、万の軍勢だろうが、何が駆けつけようが俺は最期まで立ち続け、這いつくばるのは貴様らだ。」

 

 

 

 

 

 

 張りぼての覇道と支離滅裂な修羅道が交差する。

 単に力をぶつけ合う意味が仇討ちの為だと誰が決めつけたのか。



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第二十七話 思いの形は違えども

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 場所は川神城。九鬼の重鎮、マープルを筆頭に反旗を翻した軍勢は明日に始まるであろう戦いに備えていた。各所で戦力、戦術の確認を入念に行っているのは、今の状況が思わしいものではなかったからだった。最たる原因として、マープル側の戦力に少なくない影響を与えていた梁山泊の三人。林冲、楊志、史進は黒田高昭と戦闘を行ったと推察された後、連絡が途絶。

 加え、日は沈み、総大将でありながら城から姿を消した項羽が戦闘態勢に入ったと連絡が入った事で川神城は一気に慌ただしくなった。

 その相手は、またも黒田高昭であった。

「弁慶は何をやってるんだ!」

 電話越しに怒る義経を見て、与一は一つ鼻で笑って見せた。普段与一が弁慶から受ける仕打ちを考えれば、怒鳴られるのは良い気味だと与一がせせら笑うのもおかしくない事だ。例え、項羽と名乗ろうと、義経たちが姉のように慕っていた清楚が窮地に一人で戦う状態にある中で、呑気に川神水を飲んでいると聞けば、温厚な義経でも怒らない理由がない。無論、与一も清楚に対して心配が無い訳ではなかった。だから与一がもう一度誰にも見つからない程度に笑うと、戦士の顔つきで敵を、空を睨む。

 クローンである自分たちの元となった人物と同じく、遊撃を任されている三人にとっては、これ以上にない程の活躍すべきタイミングで、足並みが揃わない。

「漆黒の空を染め上げるか。陽動にしては中々独創的なタイミングだが。」

「与一も少しは真面目にやってくれ。合流するまで義経と二人で救出に向かうんだ。」

 義経が与一を見上げながら不満を漏らす。だが、言動はおかしいものの、与一は真剣そのものであり、意を示すように真っ直ぐに弓を構えた。

「道は俺が開こう。後は好きにしてくれ。」

 返事を聞かずに更に見晴らしのいい高台を目指す与一に小言を言おうとするが、与一の横顔をチラリと覗くと、義経もまた、戦士の顔になる。

「背中は預けるぞ。」

 義経は逸る刀を鞘に納め、真っ直ぐに駆けだした。

 ハッキングされたマガツクッキーは両の手を五人分で数え切れない程であり、与一が交戦を始めてやっと、川神城の陣営は敵の気合の入れ方を見誤ったと悟った。

 戦線に出てきたのは反乱の首謀者たち。仕えるべき主から離反した九鬼の従者部隊だった。元を辿れば、彼らも、宙を舞う機兵も、九鬼に所属する戦力であったが、今は主の手の内にない者同士だ。

 制空権を取られて尚、従者部隊の練度、組織力の高さから、互角に張り合っている。そうなれば与一が確実に一機落としていくだけで、勝利は確実なものだった。

「これ以上ないタイミングで、死兵のみを増やすばかり。」

 与一は、弓兵としてのずば抜けた才能を発揮し、地を駆ける義経と、離れた位置の住居から正に出発する瞬間の弁慶の姿を捉えていた。隙を突いた奇襲にしては、少なすぎる戦力を相手に、与一は義経の道を開く事に成功を収めた。だが、違和感が拭いきれないままであった。

 思考に沈む直前に背後に感じた気配を悟り、与一は弓を向ける。そして味方だと分かると直ぐに戦闘体勢に戻る。

「済まないな、俺は組織に狙われる身だ。次に許しを得ずに背後に回ってみろ。頭ごと消し飛ぶぞ。」

「ハハハ、勘弁してくださいよ。私は伝令に来ただけですから。」

 急な来訪者である桐山が苦笑いすると、与一は一層に目を細めた。

「マガツクッキーだけでなく、此方の通信施設もクラックを受けているようで、指示を逐一出せません。戦闘の続行の判断は現場に任せるとの事です。」

「気に入らないな。」

 与一は、敵に弓を向けて、殲滅戦を再開するとそのまま話を続ける。桐山は背を向けたままに話す与一の無作法を咎めようともせず、ニコニコと笑っている。

「と、言いますと?」

「大人の言う事を馬鹿正直に聞くあいつらも、聞いてる振りで付き従ってる振りしてるアンタも気に入らねえって話だ。」

 桐山は張り付けた笑みを一瞬消すと、与一に悟られぬよう元の表情に戻す。

「おおっと、申し訳ありません。話していたいのはやまやまですが、私これからハッキングの対処にとやらに手を貸す予定ですので。」

 与一は背を向ける桐山に舌打ちをすると、また一機の頭を射抜くのであった。

 

 

 陽動に次ぐ陽動は川神城の警備を薄くするのに十分であり、仮に内通者が居なくとも鼠一匹が入り込むには充分であった。

「うげっ操作利かねえじゃん。電波疎外とはやる事みみっちいぞ。」

 外の傀儡に命令をしようとした所で、委員長は自分の失態に気付く。幸い、荒事に備えて連れてきた一機のマガツクッキーが正常に黙ってついて来る事に安堵した。外の陽動部隊は、撤収命令の出ない特攻部隊に成り下がっている。

 外では戦闘が起こっていて手薄になっているとはいえ、通り道がやけに静かなのは、内通者もなしに乗り込んで来た委員長にとって心臓の鼓動を早めるのに十分な理由であった。だが、実際にトラブルがない以上は、本来の目的を以外の事に思考を割く余裕は無い。

 立ち止まった一室の入口にマガツクッキーを配備すると、委員長は深呼吸をしてから中に入った。

「お久しぶりです。冬馬さん、準さん、ユキさん。」

 部屋は捕虜を集めている場所で、その捕虜の中には委員長の事を良く知る人物がいた。

「どうしてお前がここに。」

 冬馬が反応する前に、外が騒がしくなった事を察して警戒を続けていた準が質問を投げかける。だがその声も少し喜色の混じった動揺の色が混じっている。、

「あれぇ、一度きちんと話したいって言ってませんでしたっけ?。」

「その為にこんな所に、こんなタイミングで、ですか。『委員長』くん。」

 呆れた風に笑う冬馬は委員長に手招きをして近くに座らせる。

「まあ、ここまで来れてもそれから逃げられる算段なんて無いので、本当に話すために来ただけなんですが。」

「やーい、結局捕まってるまぬけー。」

 冬馬や準と共に捕虜になっていた小雪が笑うと、他の二人も委員長を笑う。他の捕虜となっている人々はそんな様子を見て興味を失い、急な来訪者への警戒を解いた。

「取り合えず、すいませんでした。」

 委員長が頭を下げると三人は目を丸くした。彼らの記憶では、もっと聞き分けのない悪ガキだった人物が、こんな殊勝な態度を取る理由も無く、頭を下げるのが信じられなかった。

「おいおい、いきなりどうした。」

 珍しく本心から動揺した準が服を掴んで無理やり委員長の頭を上げさせる。

「そうですよ。私達が謝る事があっても、貴方が謝る必要なんてないでしょう。」

 冬馬が優しく微笑みかけると、委員長は不思議そうに首を傾げる。互い認識が齟齬している事が分かると、冬馬は少し言葉を詰まらせてから、周りに聞こえにくいように言葉を続けた。

「共に悪事に手を染めていたというのに、私達だけが先に救われてしまった事です。」

 家柄も、年も近かった四人は、冬馬と準が親から強要されていたものに手を貸す形で小雪と委員長も進んで悪事を行っていた。マロードとは、その時の冬馬のコードネームのようなもの。冬馬はこの年度初めに友人である九鬼英雄の力を借りて、さっぱりと足を洗ったが、唯一委員長にだけその事を言わずに事を進めたのであった。

 冬馬は、委員長が自身をマロードと呼ぶ事に、自身を『委員長』と呼ばせる事に固執する事から、自分達と違い、過去との離別が出来ていないと考えていた。そして、冬馬はその原因を作り出してしまったと後悔していた。

「……踏ん切りがついてないのは、間違いないです。でも、それは俺が逃げてたからであって冬馬さんたちが悪い訳じゃない、です。」

 委員長が心の内を吐露すると、冬馬は一つ安堵の息を吐いた。同時に、こうして直接会った事で冬馬と準、小雪は委員長にとって昔と変わらず頼れる存在であると認識できた。そしてそれは一方向のものではなく、頼りあう関係の修復でもある。それは悪事に手を染める前より続いていた気の置けない友人としての関係。

「まあ、世間話は全部終わった後だな。」

 真剣な顔つきになった準は、委員長に言葉を促す。

「何が起きようとしてるのですか。態々こんな時に来た理由があるのでしょう。」

 冬馬が重ねて聞くと、委員長は静かに口を開いた。

「高昭は『修羅』に落ちようとしている。」

「修羅?」

 小雪が聞きなれない言葉をオウム返しすると、冬馬も疑問をぶつける。

「確かに私達では聞きなれない言葉ですが、恐らく、何か良くない事が起ころうとしているんですね?」

「板垣達が梁山泊に大怪我を負わされてから、いや初めの襲撃からこの数日は高昭はずっと様子が変だったんですよ。」

 正確な回答になってない返答であるが、三人は黙って聞いている。委員長は一呼吸おいて、言葉を続けた。

「『修羅』という言葉自体、高昭の家に仕掛けていた盗聴器から拾った言葉で詳しい意味は分かりません。文献も殆ど見つからなかったのですが、殺人衝動のようなものだと思います。普段の高昭なら、学園長を打ち破ったという情報を知った上で、それだけの実力を持つと考えられる項羽に勝負を仕掛けるなんてありえない。」

 更に、考えたくはないがと、前提をおいてから委員長は付け加えるように話す。

「あいつは単に撃退と言っているけど、梁山泊の連中は消息不明のまま安否の確認は取れていない。あいつはもう取返しのつかない事をしてしまった可能性も。」

 そこまで言うと、委員長は滲んた目を誤魔化すように咳払いをする。小雪はその頼りない背中をさすり、冬馬はかけるべき声を見つけられずにいた。

「若、俺達の予想とは随分かけ離れてる話だ。」

「どういう事ですか準。」

「俺らは元々、川神市で不審な動きがあるから、コイツに頼んで黒田高昭の姉と直接会う機会を設けて、会話して探りを入れたんだったよな。」

 冬馬は、準の言葉を聞いて眉を上げた。

「今回の騒動は、九鬼の一部が反乱した事に起因するもの。つまり、私たちが調べていた異変に関わりがない、という判断から見過ごした黒田は別の事情を抱えている可能性はあるという事ですか。」

「怪しいのは間違いなかったからな。」

 冬馬は暫くの間、黙って考え込んだ。その様子を他の三人は見つめていて、四人はこの雰囲気にどことなく懐かしさが感じられた。今、考えるべきが悪巧みの類でなくても、懐かしかった。

「準、そもそも黒田を怪しいと感じる原因となったのは何故ですか。」

「黒田家の周りの治安維持を任されていたのに、当時の俺らの動きを知っていたのに関わらる素振りが無かった。加えて大抵の犯罪グループに制裁を殆ど行わなかった事。」

「でも、俺の事情をガキの頃から高昭が知っていた辺りから、裏の情報はきちんと調べていた事は確実。」

 準と委員長、二人の答えに満足したように冬馬は微笑んだ。眼鏡を拭きながら冬馬は更に言葉を続ける。

「そして、その当時、小学生の時から黒田高昭は十分に注目を集めていた為、私は今までミスリードをし続けていた。」

 正に川神百代の当て馬として、高昭が引っ越してきてから周りの武家や大人連中は『黒田高昭という黒田家の跡取り』への関心は非常に高かった。

 そこまで聞くと委員長も、冬馬と同じ考えに至る。

「その時、高昭は黒田の当主ではなかった!」

「済まん、もう少し分かりやすく説明してくれ。」

 飛躍する二人の話についていけなくなった準が、眉間を抑えながら考えるも理解に及ばなかったと言う。小雪は初めから理解するつもりがなく、三人を見てニコニコと笑っていた。

「トーマたちと似てるかもしれないってことでしょ?」

 頭を捻る準に対して、小雪が何でもない事のように答える。すると、準は導き出した答えを冬馬に投げかけた。

「もしかして、先代の黒田当主である父親が原因かもしれないという事か。」

「とは言っても不審な要素があるというだけです。当て馬として注目を集め、腕が壊れれば当主を譲り、『壁』としても活動させた。勿論注意を逸らされていたが故に、その肝心の人物に関する情報は全く知らない訳ですが。」

 冬馬の言葉を受けて準は頭を掻いた。情報が足りない為に、考察の余地が少なすぎた。そもそも高昭が暴走したとしても、委員長は正面から止められない。そうなれば高昭を止めるには原因から解決する必要がある。

「何か少しで情報はないのか?」

 準が問いかけると委員長は小さな声で返す。

「まゆっちの父親と知り合いだって話くらいしか思い出せませんね。」

「あの剣聖に来てもらうには時間が足りねえか。」

「もっと早くに気づけないと無理だったね。」

 準と小雪が諦めるような口調で喋っていると、急に冬馬が委員長に目を合わせた。

「もし、身内が襲撃された事によって突発的に『修羅』になる程の殺意に芽生えたのではなく、黒田くんが元々修羅に落ちる可能性が既にあったとしたら。」

「考えましたよ。そんな人格を変えるような出来事なんて、高昭が右腕を壊した事しか思いつきません。でも、アイツの根っこは何も変わらずにいます。」

「それでは、彼の父親が疑わしい事と結びつきません。」

 諦めるように吐き捨てていた委員長は、冬馬の顔を見て何かに気づいた風に声を上げた。

「まさか、もっと前。俺や板垣たちと出会う前から、修羅に落ちる可能性があったとしたら!」

「彼の父親の不審な行動とも関連付け出来るかもしれません。」

「裏の事情をまだ収集していたとすれば、今回の事件を裏で手引きしている可能性も捨てきれない。いや、していなくても情報だけ知っていて、紗由理さんも狙われている可能性があっても自分が態と動かずにいたとすれば、板垣が襲われる可能性を放置したとすれば、高昭の暴走も計算がついていた可能性も出てくる。」

 委員長は、親友の不幸な境遇に無力な自分に怒り、固く拳を握りしめる。

 二人の会話を聞いて準は、顔を青くした。

「親しい人間を危険に晒して『修羅』に目覚めさせるのが目的だとすれば、本当に何も知らない紗由理さんは、今危険な状態なんじゃないか。だって実家で寝泊まりしてるはずじゃ……。もし、完全に『修羅』へとならなかった時に次に狙われるとしたら――。」

 

 

 義経は、やっと項羽と高昭の戦闘を確認できる位置まで来ていた。そして同時に、道を遮る者が目の前に現れたのを見て、刀に手を伸ばした。

「そこをどいて貰えるか?義経は仲間を助けに行くんだ。」

 義経が問いかけるも、相対する者の返事は抜刀であった。義経も剣を抜き放った。抜き身の刃は鋭く、近くの草花がはらりと舞った。

「なら、私は義経さんが彼に傷つけられないように、此処で止めます。」

 黛由紀江は、その剣に覚悟を込めて切っ先を義経に向ける。だが、相対する義経にはその刃は、由紀江の心を映し出すように揺れて見えた。

「その有様で、か。」

 野外であればこそ、二人の足運びは静寂の中で大きな音と感じる。本来であれば、年頃の娘には重すぎる刀は、月光に照らされて軽やかであるようだった。

 挨拶代わりに振るわれた由紀江の一閃は僅かに義経の髪を揺らすだけに留まるが、火蓋を切るには十分だった。

 遠くから聞こえる鈍い破壊音と違い、一合ずつ刀が重なり合うたびに甲高い音が響き、散らす火花で互いの顔を照らしていた。

「友が暴走していると分かっていて、何故止めようとしない。」

「目的すらなく動く人に言われる筋合いはありません!」

「家族同然の人を思うなら、やり方が間違っていると義経は言っているんだ!」

 夜の澄み切った空気や月光とは裏腹に、由紀江と義経の覚悟には間違いなく陰りがあった。だが、研鑽を重ねてきた二人の剣の冴えを曇らせるには至らず、戦いの勢いは止まる事を知らなかった。

「退いて下さい。私は、義経さんが彼に傷つけられるのを見たくはありません。これ以上、犠牲を増やすわけには……。」

「そんなもの、何も解決していない!」

「それは、貴女があそこに行ったところで同じ事です!」

 鍔迫り合いが拮抗し両者が打開策を考える最中、頭上から爆発音が聞こえた。それは、委員長の支配下から自力脱し撤退する正常に戻ったマガツクッキーが、与一の弓によって射抜かれた事を意味していた。

「予定より撤退が早い。もしかして何かトラブルが。」

「他人の心配をするの余裕があるのか!」

 油断した隙に刀を弾いた義経が由紀江の腹部を蹴り上げる。素早く体勢を立て直した由紀江は義経に向けて再度、剣を構える。

「この程度で諦める訳にはいかないんです。」

「何故、立ち上がるんだ。義経には理解が出来ない。一度に色々なものを見ようとして、どうにかしようとして、何も本質を追えていない。」

 義経は構えを解いて、真っ直ぐに由紀江を見つめる。尚も警戒する由紀江を見て、溜息を一つ飲み込んで義経は納刀してみせた。

「何を。」

「今日は義経に任せておけ、という事だ。」

 義経の瞳から交戦の意志が欠片も感じられない事が由紀江には分かった。

「名前に恥じぬように心掛けている心算だが、身の上の話をされてしまえば、どうにも黒田高昭のように心のままに動くのは叶わないな。」

 由紀江はその言葉から、義経の自分より一回り小さな体には多くの責任が重くのしかかっている事が分かった。戦場に立つ義経の姿は、冷静になった由紀江の目に大きく映る。

「私も少なからず、冷静では無かった。彼を止めるべきだったのでしょうか。」

 由紀江が刀を鞘に入れながら、視線を下げ後悔を口から漏らすと、義経は首を横に振るった。

「此方側が負う責の分、今日は義経達が止める。だが、一時的な処置でしかない以上は――。」

「その時が来てしまったら、黛の名に誓って止めてます。」

 由紀江の覚悟が灯った目を見て義経は軽く笑う。

「そうならないように信じてやれば良い。それにその時は、立ち向かう答えをはっきりと見つけ出して、叩きつければ良いだけだ。」

 

 

「遅いぞ、弁慶、与一。」

「これでも急いだ方なんだけどね、うん。」

 悪びれた様子もなく笑う弁慶であるが、義経には彼女が錫杖を握る手に力が入っているのが良くわかった。

 目の利く与一が進行方向を見て顔を顰めている理由も、普段より少ない口数から察していた。

 あの項羽が居るにも関わらず、終わらない戦い。この日一番長い戦闘に終止符を打つべく、三人は獲物を抜き放った。

 

 

 

 

 

 

 その資質が英雄たらしめるなら、かの者を修羅をたらしめるのは才能か、それとも血の呪縛か。

 真実を見誤ること勿れ、過去を辿ろうと、終着点の修羅たるナニカは救えない。



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第二十八話 壊れゆく

このペースで投稿していければ三月中に完結は出来そうですが、推敲したい部分があるので四月の頭までかかるかもしれません。
それでも、小説自体が作者の自己満足の塊ですので、投稿頻度くらいは呼んでくれる人の為に頑張りたいな、と今更ながら思う次第です。

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 項羽は勝ちを確信していた。どうにも、肩透かしをされたような気分だった。それと同時に相手の有り方に納得をした。

「成程、『壁』とは良く言ったものだ。」

 高昭が作り出した絶妙な間合いを、上回る暴力で一蹴しながら項羽は笑った。

「お前の最大の攻撃で、俺の本気の防御は貫けない。逆に、お前が俺の本気の一撃を避けるのは、どうあがいても防ぎきれないからだろうな。防御力さえ底が知れてる。残念だが、人間の身で一等賞を取ったところで、覇王の尺度で羽虫と同格程度ではなぁ!」

 間合いの外から放たれた項羽の斬撃を、高昭は飛んで回避した。更に距離を詰める項羽と、空中に気の足場を作り肉薄する高昭の攻撃が衝突した。

 殺意を込めた高昭の貫手は項羽の喉元を狙った一撃だった。冷静に身を捩った項羽は攻撃を受け流しながら高昭の顔面を鷲掴みして、後方の地面へと叩きつけた。

「負けを認めろ。万策練ろうが、届くまい。」

 仰向けに倒された高昭の眼前に迫る項羽の獲物は、近づけすぎたのか、頭から叩きつけられたからなのか、項羽には高昭の焦点が武器に定まらないように見えた。

 攻めに回れば一瞬で終わると、項羽が勝ち誇ったように高昭を見下ろしていると、高昭は何でも無いように上体を起こし始める。目と鼻の先に迫った獲物に気付いていないかのように、高昭は頭を上げる。

 反射的に項羽が高昭に当たらぬように、刃を退けると、高昭は流れるように項羽へと左拳を振りかぶった。

「『風』を喰らえ。」

 高昭にとって最速の一撃。

 寸前で防御を間に合わせた項羽は、多少のダメージを負う事を覚悟して、距離を置く為に吹き飛ばされた。高を括るように、値踏みしながら戦っていた項羽は、目の前の男が正気でないと、漸く気づいた。殺人を許容しない理性が存在する事を、許容せざるを得なかった。何よりも理解できないのは、殺す事に躊躇わない事ではなく、死ぬ事に躊躇いが無い事。

「死ぬ気か?何の躊躇いもなく頭を上げて――。」

「その理論が正しければ、刃が脳天貫けた筈だろうに!」

 宙に五枚の数、気で出来た足場を生成した高昭は、不規則な動きで項羽への距離を詰める。項羽の必殺級の一撃であれば、周りに浮かぶ足場も含め辺り一面を吹き飛ばせる。先刻まではそれで良かったが、高昭の先ほどの行動が項羽の判断を鈍らせた。

 昨日まで日常で過ごした項羽――葉桜清楚にとって命を、蝋燭の火を扇ぐように消すのは本能が拒絶を起こしてしまっていた。

 それは恐怖に似た感情。自身の手を血で汚してしまう事への躊躇い。

「伏せろ!」

 聞き馴染みのある声で恐慌から抜け出した項羽は、指示された通りに伏せる。背後から迫る矢の雨から身を守る為、高昭は空中に、気で出来た足場をばら撒き、簡易的な盾として攻撃をしのぎ切った。

「増援か。」

 距離はまだ遠いが、高昭は向かってくる武士が三人見える。立ち上がった項羽との距離が開かぬように、高昭は再度空中に足場を作り、空中で留まる。

「形勢は一気に傾いたが、まだ続けるか。」

 人数で上回り、駆け付けた武士共の頼もしさから心に余裕が出来た項羽が問いかける。だが返事をした筈の高昭の声は聞こえなかった。口は動いているものの一切音として認識できなかった。

 代わりに、轟音と共に少し離れた地面が少し抉られている事に、項羽は気づく。

 増援からか項羽は一旦緩んだ緊張感をそのままにしている。駆けつけた三人の内でも、事の重大さが分かったのは与一だけだった。与一は、矢筒の残りをありったけ打ち放つ準備を一息で終わらせると、多少でも事態を好転させる為に、普段出さない程大きな声をだした。

「パラボラだ!横に飛べ!」

 与一の、全身全霊を込めた一斉射が放たれるのと同時に、高昭が叫び声を上げる。高昭を巨大なエレキギターとするならば、知らず、宙に敷き詰められていた気で出来た足場も巨大なアンプリファイアであった。

 ――パラボラ兵器。

 高昭の出す音の波形を全て一箇所の収束させ、エネルギーによる爆発を起こす荒唐無稽、絵空事のような出来事。高昭はそれで以って、項羽の上半身を消し飛ばす算段だった。気の壁の緻密な配置だけでなく、声帯に気を馴染ませてより大きな音を出す技巧は流石であった。

 しかし、与一の目にも止まらぬ早打ちもまた、神業。次々に放つ矢の一つ一つに気を込めて、着弾する矢に新しく矢を射って積み上げる。高昭の音速の攻撃と比べて、その音速に狙いを定める僅かな微修正を入れる間、その僅かな隙をついて行動を開始した決断力。項羽が守れる程の壁として矢を組み上げ、作り上げた技術と精神力。英雄の名に恥じない功績だった。

 攻撃は阻まれた。

 砂埃が薄れてくると、立ち上がる項羽と、与一が築いた矢による壁がかろうじて一部残っているのが分かる程度であった。

「良くやったぞ与一。」

「うん。正直見直した。」

 義経と弁慶が、息を切らす与一を労う声をかけると、与一は余力を振り絞って高昭を狙って弓を絞った。

 対する高昭も左腕を地面と水平に上げ、その掌を銃口のように向けている。

「あんな架空兵器をここまで仕上げれば十分だが、即席の防御も貫通できない程度が本命であるものかよ。」

「来るぞ!」

 項羽が声を上げると、義経と弁慶は与一を守るように衝撃に備えた。

「渦雷。」

 高昭の呟きは轟音にかき消された。

 夜の闇を走る光の線は、少しずつ数を増やす。地面を抉り、殺到する渦雷は、辺り一帯に轟音を響かせながら、高昭の目の前を全て吹き飛ばす為の一撃。まず、与一の放った矢が、無残にも砕かれる。項羽が迫ってくる数本を切り刻むが、高昭が生成する速度には追い付けない。粗雑に吐き出された様に見えるが練り上げられた気の鞭は、差し出された左手の掌を中心に回転しながら、項羽達に殺到する。

「背後に回るものは義経たちがやる。清楚は正面から!」

「言われなくても!」

 先に展開されていた漂う気の壁は、脆く、高昭の渦雷で粉々に砕け散る。だが、一回鞭が当たるごとに生まれる衝撃波が渦雷の真の威力を引き出す故に、外側に出た気の鞭が反射して内側に戻る回数が増える事は、それだけで直撃に晒される項羽への命の危険が跳ね上がる。

 小さい裂傷が増える中、項羽は歩みを止めない。一歩を踏みしめながら、自らの獲物である方天戟を振るい続ける。渦雷に飲み込まれながらも項羽は、その轟音の只中で、背後から自身の名を呼ぶ声をしっかりと胸に刻んでいた。

「そうだ。俺は、旗印としての項羽としてではない。昨日を生きていたたった一人の人間として、覇王であることも背負って生きる為に、こうして戦いの最中に立っている。」

 項羽の振るう斬撃は、遂に渦雷より激しくなる。渦雷より先に、宙に浮く気の壁を打ち砕き、背負う仲間に届かぬ程に、渦雷を切り刻んだ。高昭との距離が、後一足で間合いに入ろうかという所で、項羽は足を止める。苛烈を極める高昭の技を真っ向勝負で討ち果たすと覚悟を決めたのだ。

「聞こえているかは知らんが、根競べだ!」

 目にも止まらぬ、項羽の武器捌き。比べて、高昭はこうなれば体から気を捻り出して応戦するしかない事は、この場の誰もが分かっていた。だが、項羽は、後ろに義経たちが居るというだけで、負ける未来が思い浮かばない程だった。流れは着実に、項羽のものになりつつあった。

 

 

「ガス欠か。」

 獲物を肩に担ぎながら、項羽は高昭を見下ろしていた。気を使い果たした高昭は、膝を折り、武人でありながら、肩で呼吸する程疲弊している。

「まだ続けるつもりか。」

 項羽が問いかけると、高昭は立ち上がり構えを取る。

「無論だ。」

「その有様で、か。」

「黙って構えろ。」

 項羽だけではない、義経たちも、高昭の構えが意味を成していない事を理解した。

 気を滾らせる事で、騙し騙し動かしていた高昭の右腕は、拳を握る左腕とは違う。だらしなく下ろされる右腕は、固く拳を握る事が出来ず、数本の指は痙攣を起こしている。

 気を使い果たした上で、立っている事すら本来であれば異常だった。普通の武道家でさえ、あらゆる行動に知らず、無意識に気で補助をしてしまう。項羽でさえ、気が半分も使えなければ格段に戦闘能力は落ちる。元より、昼間に川神鉄心を戦っていなければ、もっと早くに高昭を沈めていただろう。

 項羽は、尚も戦おうとする高昭を止める為に、方天戟を構えた。

「今、楽に寝かしてやる。」

 軽く殴って気絶させようとする項羽の判断は間違ってはいなかった。気の尽きた高昭に全霊の一撃を喰らわせれば、命ごと吹き飛ばしかねなかい。

 しかし、項羽は何もかも見誤った。

「俺は、『修羅』だと、言った筈だ!」

 項羽の予想を遥かに上回る速度で、高昭の左拳が唸った。まるで衰えていない一撃。油断していた項羽の顎を無慈悲に打ち抜く。項羽は、予測してない出来事に加え脳震盪を起こして、思考を停止させていた。

「這いつくばってろ、今、そこで。」

 油断に溺れた項羽に対して、高昭には容赦も、武人として不意打ちした事の恥も持ち合わせない。高昭は、『火』を放つと、完全に項羽の意識を刈り取ってみせた。地に沈む項羽を見てやっと反応できた義経だったが、気絶した項羽が高昭の足元に伏せっている事を理解すると、刀を鞘に戻して足元の落とした。

「義経たちに交戦の意思はない。だから……。」

「こんな腑抜けに興味はない。」

 高昭は項羽を義経に向けて投げる。慌てたように弁慶が抱え込むのを、高昭は佇まいを直しながら見ていた。そして、高昭の右腕を見て、義経は高昭が油断を誘う為の演技をしていた訳ではない事が分かった。今も、力なく垂れている。

「理解できないね。」

「何がだ。」

 弁慶がぶっきらぼうに告げると高昭は聞き返す。

「急に冷静になって気味が悪いんだよ。」

「弁慶なんてことを言うんだ。」

 口の悪い弁慶に義経が注意をするが、弁慶の視線が高昭から離れる事はなかった。弁慶だけでなく与一も不測の事態に備えて弓に手をかけているのが相対する高昭にも分かる程だった。

 実際、戦いを続行すれば軍配が高昭に上がる可能性は無い。

 それでも与一と弁慶が攻撃を仕掛けないのは、項羽を見逃した事への義理が理由ではない。傍から見れば支離滅裂な高昭の行動が、理解不能である為である。

 怒りに支配されていた筈の高昭は、今や落ち着いている。容赦は無いが、『修羅』と呼ばれる程に狂暴とは決して言い切れない。

「そっちの陣営に個人的な恨みがあるのが一つ大きな理由。もう一つは『修羅』がざわついたのが理由だ。敵の本丸を狙った理由はそれだけだ。」

「倒したから冷静になったと、信じろと?」

「違う、捨て置いても良いと考えたからだ。」

 興味なく答える高昭に義経は眉を顰め、声を低くして問いた。

「捨て置くだと?」

「本質的に間違ってなけりゃ振るう拳もありはしない。項羽自身が人を殺める機会を二度も見逃した事から、俺が項羽を殺す意味が無くなった。」

「殺す、と言ったか。」

 何でもないように吐き捨てる高昭に与一は聞き返す。底冷えするような言葉を聞いて弁慶は再度警戒を深める。

「危険な奴は全員死ねばいいと思ってるさ。殺してやりたいともね」

 それだけ答えると高昭は義経達に背を向けて歩き出した。高昭の行動はこの場に居る誰もが共感も理解も出来ない。させようとしない。

 高昭が善人ではないと分かっても、義経は自分たちも同じように善人から踏み外している事を自覚している。自らの行いが自分たちだけでなく他の人にも痛みを伴うのは受け入れなければいけない事実。しかし清楚を一人にする事と天秤にかけた時、知らない誰かよりも清楚への思いが勝る。例え間違いであっても、少しでも肩代わりを出来るのならという思い。それは義経だけではなく、与一も弁慶も感じた事。

 義経は、右腕を抱えて歩く高昭を見て声をかける。

「辛いなら言った方が良い。親しい友人だって、家族だっているだろう。」

 それは義経にとって、清楚がそう感じていた時に言って欲しいと思っているが故に、口から出た言葉。既に始まってしまったこの戦いとは違う。高昭が何かを起こそうというのなら、同じ思いをする人間が出るかもしれないという警告に似た思いだった。

 高昭は、その言葉を聞いて少し立ち止まり、返事もせずに夜の闇に消えていった。

 

 

 家に着いて、高昭が見上げるといつもは明かりの差さない部屋に人影が映るのが分かった。紗由理が部屋に居るというだけで、数年ばかり昔を思い出した高昭は玄関に入って呟く。

「ただいま。」

 返事は無かった。

 着替えを済ませて、茶の間で腰を落ち着かせていると、紗由理が二階から降りてくる足音が聞こえた。高昭は、震える右手を机の下に隠して待った。

 もう日付が変わろうとしている頃である。

 寝間着姿の紗由理は入口で立ったまま、暫く言葉を紡がなかった。そして、高昭に目線を合わせずに紗由理は小さな声で心の内を語る。

「私だって、皆の敵を討ちたかったよ。」

 紗由理は自分の無力さを思って、固く自分の服を掴んでいた。

「本当は、私が弱いのが悪いんでしょ。高昭が辰子ちゃんたちを守れなかったのも、私が家を出て一緒に戦うのを許して貰えないのも。」

 知らず、心が弱っている姉の姿を見て、高昭は困ったように笑う事しか出来なかった。

「随分、笑い方が下手になったのね。」

「そうかな。」

 表情を崩した高昭を久々に見て、紗由理の表情に少し明るさが出てくる。高昭に向かうように座った紗由理は目線を合わせようとして、座高の違いからか疲れたように視線を下げた。そして、一切の物が置かれていない机の上に、紗由理の腕が無造作に乗る。

「父さんに、何か言われた?。」

「『明日の夜まで家を出るな』って言ってたわ。子供じゃないのに、あの人は頭を撫でれば良いとでも思っているのかしらね。」

 溜息を吐く紗由理の様子を見て、高昭は愛想笑いをするばかりだった。

「今の当主は高昭なんだから、高昭が許可を出してくれれば私も明日は乗り込んで見せるのに。」

 紗由理は、わざとらしく肩を落として見せた。だが、高昭から直接止められていない以上は、家に留まったのは紗由理の意思だ。

「でも、姉さんは心配されて、父さんがそう言ったんだろ。」

「そうだけどさ。」

 昔の記憶より優しく接してくる両親に、紗由理はまだ慣れない。思い返してもどの時期からとは紗由理も覚えていないが、高昭に当主を譲ってから父親との会話は増えたのは確かだった。それまでは忙しかったから親としての責を果たせていなかったとも考えられた。もしかしたら、そうではなくていつの間にか良心の考えが変わっていたのかも知れない。愛が殆ど感じられず、武術も最低限しか継承して貰えず、関わりさえも絶とうとしてきた風に見える両親。古い記憶の姿と比べれば、原因が何にしても紗由理にとっては、今は多少なりとも良い両親である事には変わりない。

「でも、何か昔は反りが合わなかったというか……。」

「姉さん。そんなに呆けてどうした。」

 高昭の呼びかけで紗由理は我に返った。意識が深くまで落ちてしまいそうだった。何か忘れているものを、何か思い出してはいけないものを、心の内に封じられているような妙な感覚だった。

 紗由理にとって考えたくもなかった両親。最近になって、その両親を考えると、頭の隅で何かが引っかかる。

 ――そっちに行っては駄目!紗由理は知らなくて良い事なんだから!

 幼い頃、確かに紗由理は母親にそう言われた気がした。川神に来るよりも前の話だった。

「引っ越してくる前の事。」

 紗由理は自分の心に問うように呟く。大事な何か、忘れてはならない事を思い出せそうで、思い出せない。頭の中に靄がかかるようで、幼少期の事でも有ったので、大学に通う程に年を取った紗由理は忘れてしまった大事な記憶。それが、両親を嫌う原因だったのかも知れなかった。

「確か、そう、場所は。」

「姉さん。どうしたんだ。」

 不意に高昭に話しかけられて、紗由理は肩を震わせた。気が動転して見上げると、紗由理の目には心配そうに見つめる高昭の顔が映った。

「今日は色々あって疲れてるんだろう。眠いなら無理をしない方が良い。」

「別に、そうじゃないんだけど。」

 そう言った紗由理には二の句が思い浮かばなかった。自分が何を考えていたのか、思い出せなくなってしまった。覚えているのは、何かを思い出そうとしていた事だけだった。

「やっぱり疲れているみたい。おやすみなさい。」

「ああ、おやすみ。」

 

 

 修羅に堕ちる事が至極簡単な事だと、少なくとも高昭はそう考えていた。

 項羽と戦って高昭が分かったのは、命懸けで戦ったところでまるで実力が届かなかった事。油断に油断を重ねた相手に不意打ちしなければ勝ち目はなかった。何せあれだけの大口を叩きながらも、高昭はまだ修羅に落ちきれていないのだから当然でもあった。

「不出来なのだろうな。」

 武人として、高昭は『壁』の域を超える事は出来なかった。

 油断した項羽の意識を刈り取る事は一定以上の武人なら可能である。そもそも黒田の奥義、黒田の体術は気を一切用いないものである為、他の武道家と違い気による身体能力の強化を行わなくても普段と変わらぬパフォーマンスで威力を出す事が可能なのだ。あの行動は劣悪な騙し討ちに他ならない。修羅とは卑劣で卑怯な事とは違う。

 高昭は歴代の黒田の武術以上に自らの武を高める事が出来なかった。一族で一番素質がある、だが『壁』を超越する事はなかった。武人としてだけではない。高昭自身が至らないのは結局、人として心技体が欠けているからだと考える。

 そしてそれは、人として、武人として、『壁』としてだけではない。修羅へとなるにも高昭は出来損ないだと、自身で結論付ける。

「右腕、だけではない。俺は何より心が弱かった。」

 皆が寝静まったからこそ、高昭は声に出して懺悔を口から漏らす。

「怒りで我を忘れて修羅に落ちかける等、あってはならない事だ。それだけじゃない。『壁』として、人として規範的であろうとしたのに、俺はあの握手に応じなかった。」

 身を『壁』と捧げる覚悟を決めていた筈の高昭は、燕の握手を拒んだ事をずっと悔いていた。自分の勝手で、燕の武人たる精神性を示す行為を汚してしまったと、今も思い悩んでいる。

 一つ間違いないのは、高昭は、自分が修羅外道に落ちて当然の人間だと思っている事。

「こんな俺が一つでも何かを成せるというのなら、喜んで修羅に堕ちてみせる。人でなしの、中途半端な修羅に成りかけている俺が。例え全てを失ってでも。」

 食卓から高昭は視線を外す。もう、遅すぎる夕飯を食べる気分ではなかった。ゆっくりと立ち上がると、高昭は歩き始める。夜の静けさに廊下が軋む音が染み入る。乱れる事のないリズムは、歩みを止める気を持ち合わせない高昭の心情を表すかのようだった。

 進む先は、開かずの間と皆が呼ぶ部屋。黒田の当主でも滅多に入らない部屋であり、過去の歴代黒田が対戦した武道家の技が事細かに記されている資料の眠る部屋である。

 扉を開ける事で感じる埃っぽさに多少、高昭は目を細める。そして、高昭はびっしりと詰まった本棚の中から一つの本を取り出した。

「唯一、秘奥義は資料に無く当主自らが後継者に教えると聞いていたが――。」

 その本を高昭は集中して軽く気を流し込むと、淡く発光し始める部分が浮かび上がってくる。

「気を使わない事を真髄として教えながら、緻密な気のコントロールを要求する。初めて気づいた時に、漸く合点がいったよ。初代の残した五つの奥義と一つの秘奥義。」

 高昭は嬉しそうに、本の余白に浮かび上がった文字を口ずさんだ。それは黒田の秘伝の書であり、奥義の全てが記される代物。

「捉えることの許さぬ、烈風。霜林、掴むことかなわず。瞬にて敵を討つ、閃火。剣山、時として最大の攻勢。」

 

 

「秘なる奥義は、渦雷に非ず。禁伝・陰撃ち。死を以って死を制す。」

 

 

 

 

 

 

 地獄よりも深く堕ちようと、二度と曲げぬと覚悟が滾り、握りしめるは殺人拳。

 理想に殉じて踏み出した時には、運命を蝕む過去の不首尾が喉元に届き、覆水は盆に返らない。



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第二十九話 HEAVY RAIN

今回は少し短めです。

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 結果から言えば、マープルの反乱は一日でたったの一日の内に鎮圧された。実力者との連戦の疲労を回復しきれなかった状態で項羽が燕とイーブンの勝負が出来なかった事。筆頭の三人が消えた事で、付き従っていた梁山泊の精鋭が離脱した事。それらの理由は戦局に多大な影響を与えた。

 一騎打ちとなっていたヒュームと川神百代も今は傷の手当を受けている。長い戦いが終わるのだと、多くの人間は考えていた。

「そうか、では処分については後日話す。今日はもう大人しくするのだな。」

 ヒュームと連絡を取っていた九鬼英雄は電話を切ると集まった面々を向いて、佇まいを直した。

「私たちの処分は今ここで、という事ですかな。」

 目を瞑って英雄と紋白の言葉を待つクラウディオ。そして同じようにして、閉口するマープルといった主犯格を前にして、英雄は命令を下す。

「お前は、川神院に行け。修羅を、止めるように頼んでくれ。」

「はい?」

 クラウディオは、受けた命を聞いてに呆けてしまう。英雄が反乱の首謀者達にかける言葉は、全く予想だにしなかったからだ。

「マープルには聞かねばならぬことがある。まさかこの期に及んで話が聞けぬとは言うまいな。」

「いえ、直ぐに行って参ります。」

 クラウディオが居なくなると、皆の視線がマープルに集まる。九鬼の関係者だけでなく、そこには冬馬達の姿があった。

「まだ、隠していることは無いな?」

「あたしゃもう洗いざらい話しました。持っていたデータも全て渡したはずです。」

 英雄の後ろに控えるあずみに念を押されるが、マープルはきっぱりと言い切った。その言葉遣いからは、英雄への敬意が感じ取れる。

「今回だけじゃない。あいつが『壁』となるタイミングでもクローンは無関係ではなかった。」

 唯一、九鬼に関わりがない委員長が口を開くと、その場の全員が集中した。

「黒田が修羅に堕ちるように追い込んだってのかい?馬鹿馬鹿しいね。」

「理由はどうであれ。俺がまず知りたいのは、どうやって黒田は隠されていた情報を手に入れたのか。同じく高昭の親がどう知ったのか、です。」

 そこまで聞いて、マープルは不思議そうな顔をする。だが、委員長は自分の考えを話す事を止めなかった。

「高昭が修羅になり得る可能性があったと両親が知ってそのような行動を促すなら、高昭が何らか、クローンに関係がある可能性が――。」

「ちょっと待ちな。渡したデータはきちんと見たのかい?」

「ここに居る全員が隅まで調べた。」

 委員長の話を遮るマープルの言葉に、英雄が答える。事実として、委員長の考えを前もって聞いていた冬馬や英雄、紋白は隈なく調べていた。

 マープルが近くの端末で立ち上げて、該当する箇所を表示しようと試みる。

 しかし、マープルの余裕は消える事となる。

「馬鹿な、データが消されている!」

 らしからぬ大声を出したマープルの様子を見て、皆が眉を顰めた。

「やはり内通者か。」

 英雄の言葉に頷いてマープルは語りだす。

「まず、黒田高昭が誰かのクローンであることは無いと断言するよ。あたしゃ、この考えが外れてほしいと願うがね。」

「まず、状況を整理します。何のデータが消されたのか。」

 冬馬の言葉を受けて、マープルが答える。

「消されと分かったデータは二つ。松永燕と黒田高昭の決闘に関する全てのデータ。そしてクローン技術の基礎研究の一部。」

「その決闘に関係あるのはただ一人だ。内通者は十中八九、桐山鯉。だが高昭との接触を考えると時期がずれている。」

「マープル、簡潔に考えを話せ。」

 紋白の命令を受けて、マープルは一つ深呼吸して話を続ける。

「黒田高昭の母、あの研究者を忘れる訳がない。元々彼女は部下だったんだ。消された研究内容は彼女のものが殆どだった。」

「内容は?」

「クローンが一つの遺伝子を復元するのに対して、彼女が行っていたのは三つ以上の遺伝子を混ぜ合わせて一人の人間にする、所謂キマイラ。」

 道徳的に許されない行為。それを熱心に研究する人物を思い浮かべると、誰にとってもぞっとしない話であった。

「クローン技術の糸口になったのはその研究があってこそだけど、彼女は研究を技術として昇華させようとしていた。」

 

 

 二十一年前。

 研究室に入って来たマープルに気づかない程に、その研究者は自らの研究に没頭していた。その女性は、将来には高昭の母になる人物でもあり、この時点ではマープルの元で働く一人の研究者であった。

「こそこそと隠れて、何をやってるんだい。」

「隠れてなんかいませんよ、マープル。私は自分の研究に胸を張っていますから。」

 紙に実験結果を書き入れながらも、女性はマープルの方を向きながらも薄っすらと笑った。

「あんたの研究も根っこの一部になって、クローン技術は形になってきた。」

「でも私が生み出すのはクローンじゃない。私の『プロジェクトK』は人智を超えた絶対的な存在を作り出す事であって、焼き増しの英雄を作る事ではないのですよ。」

 人道に外れた発言をする女性に対して、マープルは否定出来なかった。クローン技術も褒められた研究ではなく、少なくともマープルは覚悟を持って続けていたのだった。世界に叱咤を入れる為に自分を犠牲にする覚悟があったから続けてきた。

「人類で最も武に優れた川神。人類で最も優れたカリスマの九鬼。そして、それらに引けを取らない過去の英雄である項羽。その三つの遺伝子を掛け合わせる研究。」

「少なくとも、現在の人類で最高水準を作り出せる自信はあるんですが、どうにも成功の糸口が無いんですよね。」

 溜息を吐く女性に対してマープルも溜息を吐いた。しかし、その理由は違った。

「あたしゃ、言える立場じゃないかもしれないけど、あんたは結婚してるんだろ?それなのにフラスコの中から自分の遺伝子のない子供を生み出すのはどうなんだい。」

 マープルは目の前の女性が黒田家の男と結ばれているのを知っていた。女性がこの研究をしている最中に結婚を決めた事から、マープルはどこかズレた感性を持っているのは承知の上だった。

「もし、このフラスコから悪魔が生まれたら、項羽の遺伝子を喜々として分けてくれたマープルも私と同じくらいの罪があるのでしょうか。」

「急にどうしたんだい。あんたらしくもない。」

 女性は深い笑みを浮かべると、嬉しそうに語り始める。

「化け物のような才能を詰め込むには相応の器が必要と結論付けたわ。人類で最も丈夫な体があれば私の研究はぐっと実現に近づく、そう思うくらい!」

 マープルは眉を顰めて聞き入る。

「こそこそと集めた遺伝子じゃ器に相応しくなかったんです。」

「あんたまさかその為だけに黒田に嫁いだってのかい!」

 マープルには女性が揺するフラスコに入っているものが黒田の遺伝子データだというのが良く分かった。目の前の女に限ってはあり得ない話ではないと、理解していた。

「そう、私にはこの研究しかないですからね。貴女のように人の役に立つものでもないし、単に結果が気になるだけなんです。」

 マープルが絶句していると、女性は資料を纏めて立ち上がった。

「研究は一人隠れて続けます。でも私は少なくともマープルに恩義を感じています。だから、もし善人でなく悪魔を生み出してしまったらその時は『彼女が研究データを盗んで勝手にやった』と言って下さい。」

 そう言って、彼女が出ていくのをその時のマープルは見ている事しか出来なかった。

 

 

「彼女の研究がその後、どうなったのかは知らないがね。」

 マープルがそう締めくくる。

「データが消されたのが九鬼の関係者を守る為だとすれば辻褄は合わなくはないですね。」

 冬馬の推測に誰もが納得してしまう。

「高昭の右腕の病気も遺伝子操作が原因と考えられない事はない。」

 英雄も顔を歪めて呟く。

 しかし、委員長は黙って部屋を出ていこうとする。

「委員長、どこへ行くんだ。」

「あいつは何も悪いことしてないんだろ。それだけ分かれば体張って止めるには十分な理由だ。」

 紋白の静止を振り切って委員長は、黒田家へと歩みを進める。そうする事が友人として正しい行為だと信じて、委員長は黒田家のある方向をじっと見つめる。

 その時だった。

 轟音と共に、天を穿つ一筋の光が見えたのは。

 

 

 マープル達が集まるのと殆ど同時刻に天使は病院を出ていた。未だ検査入院という形をとっている辰子と竜兵を残して、黒田家に向かっていた。二人の面倒を見ている亜巳もついて来ていない。

 高昭と紗由理を独り占め出来ると思い、天使の顔は微笑みを隠せなかった。

「皆が頑張って戦った後で不謹慎かな。ウチだけが楽しんで。」

 口ではそう言いながらも、天使は皆が守ってくれた日常に感謝していた。まだ避難していた人が戻ってない街は驚くほどに静かだが、襲ってくる敵が居なくなり、静けさによる恐怖より安心のが大きかった。

 そして、行かなければならない理由もある。

「返事、しないとな。」

 病室で聞いた高昭の思いを、寝ている振りで誤魔化すつもりはない。天使の心はきっともっと前から決まっていた。

 ポツリ、雨粒が天使の頬を打つ。

「昼間まで晴れてたのに雨か。高くんの家に着くまで振り出さないといいけど。」

 天使は歩く速度を上げて黒田家に向かう。戦いの後の平和を侵すように雨脚は早まっていく。天使は顔にかかった前髪をずらしながら空を見上げる。

「武神が空から降ってくるくらいなら、雨ぐらいそうでもないか。」

 ヒュームと一騎討ちをしていた百代。その場所が宇宙だったのは既に多くの人物が知っていた。空から人間が降ってくるのは、川神に住んでいる人にとっても中々に物珍しい事で噂がすぐさま広まったのだ。

 同時に、終戦も伝達され、天使はこうして高昭と紗由理に会いに出歩けている訳だった。

「なんだ?」

 天使は、雨粒の他に音を察知した。地響きにも似た音だった。

「まだ誰かが戦ってるのか?」

 息を殺した天使は、似たような音に覚えがあった。川神大戦で聞こえていた音に、強者同士がぶつかり合う音にそっくりであった。音の出どころを探そうとすると、天使は身震いする。昨日に喰らった攻撃の比ではない恐ろしさを感じたからである。

 爆発。

 天に上る光は、雨雲を巻き込みながら上昇する。穿たれた空は台風の目を見降ろしているような奇妙な感覚を覚えさせるものだった。放たれたものは多大なエネルギーを孕んでいて、悪夢のような上昇気流を、天使は怯えて、見つめていた。嫌な予感。心は折れかけていたが、足を止める訳には行かなかった。

 天使には爆心地が、黒田家だと分かったからだ。

「嘘だろ!」

 天使の駆けつける頃には、黒田家は無残な姿に変わり果てていた。居住スペースこそ無事であるが、道場は全壊。道路と家の区別がつかない程に道場から先に被害が広がっていた。

「高くん!紗由理さん!おじさん!おばさん!」

 叫びながら天使が近づくが無事な人物は一人として居ない。紗由理は頭から血を流して倒れ、高昭の父は腹部から血溜まりを作り、母は倒れてきた武器の類の下敷きになっていた。

 そして、この場に高昭は居なかった。

 

 

 病院に運び込まれた三人の止血が終わり、既にベットで眠っていた。医者は当たり所が悪かったら命に関わっていた、と言っていた。彼女らに、板垣家の皆にとって血溜まりに黒田家の人間が、紗由理が沈んで居たというだけで、心に釘が刺さったかのようだった。

 病院での処置が終わっても、誰一人として高昭は足取りを知らなかった。病室の外から時々聞こえてくる話し声から、誰もが高昭が犯人だと思っているようである事が聞こえるのは天使達にとって耳障りである。

 しかし、扉を開けて反論する気力すら無かった。

 紗由理の手を握って泣いている辰子。そんな姿を前にして亜巳は何かを言いかけては止めて、窓に視線を向ける。竜兵は椅子に腰かけて顔を抑えて微動だにしない。

「ちょっとトイレに行ってくる……。」

 天使は、そんな家族の空気が嫌になって病室から抜け出した。病院の手洗いの鏡に向かって少しばかり自身の泣き顔と向き合っていた。深呼吸をしながら無理やりにも口角を上げて自身に語りかける。

「なんつー顔してんだよ。」

 天使は沈んだ心を笑い飛ばそうとした。

 しかし、天使の整理がつかない頭では思考が渦巻き、呼吸は定まらなかった。どんどん表情はクシャクシャになって、家族の前では我慢していた感情を塞き止められなくなっていた。

「この件に手出しを禁じるというのはどういうことですか英雄様!」

 今にも大声を上げて泣き出しそうな天使は、化粧室の外から聞こえた大声で正気に戻された。野次馬根性が働いたのか、それとも泣いているのを気づかれたくなかったのか天使は意味も無く息を潜めて外の会話に耳を傾ける。

「あずみ、何度言えば分かる。我は黒田高昭に関する不干渉の命令を取り消すつもりはない。」

「しかし紋白様も納得をなされていません。英雄様も、彼の友人として――。」

「本当に我が助けられると思うか?」

 怒気を孕んだ英雄の言葉は、小さな声ながらも受け止めた全ての人間の心臓を縮み上げさせる。天使もその中の一人である。同時に、天使は少しだけ紗由理の惨状を忘れて英雄の話を聞くことが出来た。

「我は冬馬たちの話を聞いていた。人と修羅の間に揺れる高昭を、家族が止められなかったというのに、一年にも満たない友情で止められるものか。」

「英雄様……。」

「我でさえ高昭にとって家族以上の存在ではない。全くと言って良い程に浅い付き合いだ。仮にヒュームらが力任せに止めたとして、それで救われるものか。」

 その言葉を最後に英雄とあずみの会話は途切れ、天使の耳に聞こえるのは蛇口から出しっぱなしの水の音だけになった。

「多分、皆は紗由理さんの方が好きなんだろうな。」

 それは家族に向けた言葉。

 紗由理が板垣の事情に首を突っ込んでいた時、天使はまだ幼すぎた。その時のはっきりとした記憶はない。上の姉たちが独占する人だったから特別で、家の事を考えても大切な人間だった。

「でも、ウチにとっては高くんが、一番そばに居て欲しい人。」

 それは、今すぐにでも伝えたかった言葉。

 蛇口から流れ出す水を手で掬うと、顔に思いっきり叩きつけて、天使は一歩踏み出す。紗由理や亜巳が居る病室ではなく、外に向かって歩き出した。

「ウチが止める。高くんにとっても一番大切な人だって証明して見せる。」

 天使の目には先ほどまでの諦めや悲しみは無かった。外気の寒さに晒されつつも、天使の瞳に灯った決意の火は熱を失う事は無い。

「待て。」

 玄関を出ると、天使は声をかけられて止まる。はっきりと聞き取りやすい声で天使を呼び止めたのはクリスティアーネ・フリードリヒであった。

「クリス、絶対にウチは止まらないぞ。」

 天使の瞳にはかつてない程の覚悟が宿り、クリスには十分にそれが伝わっていた。そんな天使の人間として大きな姿を見て、クリスは口角を上げる。

「元よりそのつもりだ。自分は天の助太刀に来た!」

 腰からレイピアを抜き放ったクリスは、天使の横に並び立つと笑って見せる。

「良いのかよ。」

「友人を助けるのに、善悪を語る余地があるものか。」

 天使が拳を突き出すと、クリスも突き出して合わせてみせた。雨が降る中、二人は走り出した。

 

 

 紗由理たちが眠る病室では、暗い雰囲気が払拭されてなかった。泣き止んだ辰子も竜兵も、一言も話すことなく、高昭に言及する事も無かった。

 亜巳が窓から眺めていたものが視界から消える。すると体を二人の方に向けて呟いた。

「天のやつおそいねぇ。」

 はっきりと聞こえる大きさで喋るが、返事は無かった。心にすっかりと穴が開いてしまったように二人は微動だにしない。そうすると亜巳は竜兵に歩みよって行って優しく声をかける

「ほら顔を上げな。」

 竜兵が無気力に顔を上げる。

 ――パァン。

 亜巳は思いっきり竜兵の顔をビンタした。

 絶句して何も言えない竜兵と驚きで目を丸くする辰子。反応が鈍い辰子の胸倉を掴んで立ち上がらせた亜巳は同じように辰子に平手打ちをする。

「何すんだよ!」

 急に暴力を振るった亜巳に対して竜兵が抗議の声を上げる。抜け殻だった竜兵と辰子は目を覚ましたように、久しく身じろいだ。

「アンタたちこそ何かして見せたらどうだい!天はもうとっくに高昭くんを探しに行ったよ!」

「とっくに?」

 辰子が時計を見ると体感以上の時間が経過していた事に気づき、ばつが悪そうな顔をした。

「私らが信じないで一体誰が信じてあげるっていうんだい。」

 高昭だけが居なくなった事、行方不明の梁山泊に対して既に手を下したと考えられる事、それらだけでも高昭が暴走しているのは確実であった。だから竜兵も辰子も動けなかった。自分達が未然に気づけなかった以上、実力行使で止める事が出来ないからだった。

「あんたらも年上らしく、ガツンと言いたいことあるんだろう。」

 そう言いながら亜巳は気を失ったままの紗由理を背負いだした。

「何してるの亜巳姉?」

「近くに居ないと心配だからね。それに、皆で笑って終わらないとね。」

 辰子の質問にあっけらかんとした態度で答えた亜巳はウインクをして、ドアを飛び出す。辰子は竜兵と顔を合わせると、亜巳に呆れたように、笑って後に続くのだった。

 

 

 

 

 

 

 心せよ、闇に沈む修羅を救わんとする者共。

 真実は、降り注ぐ雨よりも身も心も凍えさせ、残酷である。



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第三十話 禁伝・陰撃ち

 昼間には目も眩む程の闘争が繰り広げられた川神市も、今は雨が下品にびちゃびちゃと音をたてるばかりだった。人の気配が感じられない無機質にくり抜かれた世界で、雨音に呼吸音がかき消された人物は確かに歩いていた。

 目は強く光るが、気持ちは灯っていない。だが、死人とは程遠い姿勢は、針金を通したように伸ばした背筋に留まらず、空気を張り詰めさせていると錯覚させる程だった。

 それが川神院の武道家が、高昭に抱いた印象だった。

「荒れ狂う激情とは、思って居なかったがここまで鋭いとは驚きじゃわい。」

「表情一つ変えないガ、剥き出しの『修羅』デスネ。」

 鉄心に並んでルーが立ち止まるが、彼らの見据えるターゲットが立ち止まる様子はない。道を阻むものが誰であっても、何人であっても、高昭の視界に入らないかのように、水浸しの道路に作られる波紋は規則的に広がっていた。

「あれが修羅……。」

 川神院の人間として鉄心や師範代と共に死地へと踏み込む決断をした一子は、刃先の煌めく薙刀をゆっくりと高昭へと向ける。

 次いで鉄心が構えを取り、ルーと釈迦堂も目を細めた。

「指折り数える必要もねえな。これだけ戦力に差があって止まる気は――。」

「お前は何を見ている。」

 釈迦堂の問いかけを聞き流して高昭が口を開いた。高昭の問いかけに誰もが身持ちを固くした。語りかけた釈迦堂ですら、高昭が言葉無く襲いかかると考えていた為、問いかけに反応出来なかった。

「お前らは、『修羅』と見るか?『生徒』と見るか?過去の自分を乗り越えた今、『用無し』に何も重ねて見るものなど無いだろうになぁ。」

「どういう事だ。」

「お前たちがやっているのは、汚泥に埋まるものが自分の予想に当てはまるものであると信じるのと変わりない、滑稽な振る舞いだと言っている。」

 高昭は、歩みも、口も止める事は無い。

「俺にとってもお前らにとっても、得る者のない戦いをするつもりであるのなら失うモノが無い俺は、拒む理由は無い。」

 大きな水飛沫が上がる。

 目にも止まらぬ速さで大きく踏み込んだ高昭に鉄心と釈迦堂が反応する。

「顕現の参・毘沙門天!」

「行けよリングゥ!」

 鉄心が闘気によって具象化した巨大な足は、如何に巨躯である高昭と言えど蟻と巨象であった。受け止めようとする高昭を地にめり込ませようとする鉄心の攻撃は、支える高昭の足元から道路を砕き、衝突で舞い上がったコンクリートによる砂埃が互いの視界を奪う。

 その砂埃を切り裂きながら釈迦堂の放った気弾――リングが高昭へと直線に飛ぶ。独特の回転をによって砂埃は蠢き、掻き分けるように、巻き込むように、高昭へと着弾した。

「ルー、撃てるな!」

「しかシこれ以上は彼の生命の維持ニ……。」

「奴は膝すらつい居ないわい!」

 視界が晴れてくると左腕一本で鉄心の攻撃を受け止める高昭の姿が見える。直撃は避けられない筈であったリングによる負傷は一切見られない。

「稲妻を喰らえ。」

 高昭は鉄心の攻撃を受け止めながら『渦雷』を放つ。如何に鉄心であっても、全身の気を全て放出する大技を抑えきる事が出来なかった。

 まず、鉄心の作り出した巨大な足諸共、天を貫く嵐が放たれる。

 振り下ろされた『渦雷』はたった四人に撃たれる規模ではない。戦闘の終盤に放たれるものとは桁違いの攻撃。燕や項羽達に放った『渦雷』と比べると、一切の消費を行っていない状態での『渦雷』は災害にも劣らない威力であった。

 神の名を冠する川神院の武道家へ落ちてきた神の鉄槌と思う程の規模を飲み込む攻撃に誰もが度肝を抜く。

「ストリウムファイヤー!」

 ルーの取った行動は、他の人間が逃れる為の時間稼ぎであった。全く拮抗のない技のぶつかり合いであるが、それでも少しばかり勢いを殺す事が出来ている。それは十分な時間稼ぎであった。何よりまだ高昭が人の道に戻れると信じているルーにとって、生身の人間に撃つよりは余程、気が楽だった。

 釈迦堂は一子と抱えて射線から脱し、鉄心は高昭へと肉薄する。少しでも防御へと気を引く事が出来れば、ルーの脱出も可能だと考え、加えて、これ以上戦いを長引かせない為の行動。。

 高昭は鉄心を迎え撃つ準備に入り、攻撃を中断する。他の誰よりも距離を離された状態だと厄介な鉄心が近づいてきた。高昭がそのチャンスを逃す道理は無かった。

 そして、この肉薄する事が失策であったとしても、鉄心が近づいた理由はもう一つ。

「釈迦堂、一子。ルーを連れて逃げるんじゃ!どんな奥の手が知らんがこやつは傷一つついておらん!」

 二度の直撃を受けて、高昭は無傷である。どんなに固くとも、鉄心と釈迦堂の本気を受け止めて無事で済む訳がないと、鉄心は経験から分かった。

 未知の恐怖。人間の理外の存在であると、目の前の存在が間違いなく『修羅』という人とは区別されるべき存在だと、鉄心が認識した時には、手遅れだった。

「『火の構え』。」

 自らが攻勢に転じたにも拘らず、会話に気を取られた鉄心には、その攻撃を避けるだけの猶予は無い。だが、幾ら昨日の川神院への襲撃で疲弊しているとしても、一子らが逃げるだけの時間を稼ぐ自信はあった。どんな攻撃も無傷に抑える防御の手段が有ったとしても、精々が必殺程度の攻撃は受け止められる筈だった。

 昨日の項羽との戦いこそが、高昭という人物の人としての力量に限界がある事を明確に示していた。

 しかし、鉄心は、その自信諸共砕かれて、膝を折る事となる。受け止めた腕に痣一つない。体の内側から何かが爆ぜたような衝撃と共に、地に倒れ伏す。痛みだけではない、理解不可能の一撃を受け思考が体の操作を受け付けない。

 痛みに低い呻き声を上げる鉄心に止めを刺すべく高昭は足を振り上げる。

「そこをどけぇ!」

 一子は、誰よりも早く高昭へと薙刀を振り下ろす。首元を狙った一撃を高昭は見切って躱す。ハラリと舞った髪の毛は、あと一歩で届いた証明ではなく、決して届かない事の暗示であるかのように一子の目に映った。

 修羅云々と考える以前に、一子では高昭との地力の差がある。

 それでも、一子は一歩踏み込むのだった。高昭の繰り出す右の上段蹴りを間合いを詰める事によって潰した一子は、軸足に重い蹴りを放つと半歩、身を引く。

 そこは互いの射程圏内。じりじりとした攻防など無く、一子が常に先に動き、高昭がそれに阻まれる。奇妙な事に、二人の戦いを支配していたのは一子であった。

 

 

 才能を努力で埋めるというのは生半可な事ではない。それでも川神一子は才能というものに必死に喰らいつかなければならなかったのだ。

 故に、この瞬間、黒田高昭と同等に戦う事が出来ているのは奇跡でもなく、しかし順当な結果ではなかった。

「俺らの癖からの経験則だと思って居たが……。」

 釈迦堂は戦いの様子を見ながら呟いた。

 才能を埋めた要因は、勘と呼ばれるものでもあり、経験則とも言えるものだった。一子は、強くなる為に何度も何度も戦った。強くなるという道程の中で、過去から累積して数えれば、格上と戦った回数の方が多いだろう。格上の取る行動。その最善手や布石、とどのつまりは取りやすい行動を経験的に体に刻み込んでいるのだった。『壁』として、模範も模範な立ち振る舞いが染みついた高昭を相手取るのにこれ程相性の良い人材は居なかった。

 その前提がある上で、一子の読みは冴えていた。未だに被弾はゼロで、浅いものの高昭に対して切り傷をつける事に成功している。もし高昭が此処に『壁』として立っていたならば、見守っている釈迦堂とルーは同門の弟子の成長に感動していただろう。だが、それは一子以外の人間にとって拭えない違和感でもあった。

「釈迦堂。彼は何故、気の壁を使わなイ?」

 息も絶え絶えながら外傷の少ないルーが釈迦堂に問いかける。

 鉄心の接近によって高昭の攻撃は中断され、まだ十分な気は残っている筈であった。だというのに高昭は状況の打開の為に新たな行動を起こそうとしない。

 牽制の攻撃は全て一子が上手く薙刀を使って受け流す。踏み込むか踏み込まないかの読みあいを全て一子は制して、高昭が引けば逃がさずに切りつけ、高昭が踏み込もうとすれば蹴りを用いて足さばきを阻害する。

 確実に、少しずつ一子が押している戦況であったが、高昭からは必死さが感じられない。ルーが指摘しているのは、そういった内容であり、釈迦堂も十分共感が出来る話であった。

「仕掛けてみるか。」

 釈迦堂がリングを打ち出すと同時に、ルーも動き出す。一子に当たらないように放たれた攻撃は高昭に躱される。だが、戦いを仕切り直した状態で、頭数で再び川神院が優位に立つ。間合いを量るルーであったが、一番疲弊している焦りからなのか、大切な情報を見逃していた。

 初め、防いだ筈のリングを高昭は避けた事に釈迦堂は気づく。だが、思考を巡らす時間は無い。一子はルーの動きに合わせて高昭の行動を制限するように立ち回る。ルーへと視線を向けようとする高昭の死角を、釈迦堂は徹底して位置取りをした。

 高昭が気配を追わなければならないのは、二人だけではない。

 風切り音と共に飛来した攻撃を、高昭は気の壁を展開する事で対応するが、即席の防御はすぐさま食い破られる。釈迦堂の放つ気弾は、この場の全員にとって、改めて説明する必要がない程に鋭く、速く、そして力強い。

 先程まで一子が独占していた修羅との攻防は、釈迦堂の一撃を皮切りに師範代二人と高昭との中距離戦へと移る。だが、中距離への明確な攻撃手段を持たない高昭は、壁を展開し、目にも止まらぬ速さで駆けるばかりで、一切の反撃を行わない。

 ルーも釈迦堂も一子も、反撃をさせる暇を与えない。師範代二人の遠距離攻撃が高昭を直接狙い、退路を塞ぐように一子が先んじて動く。

「しかし十分に失策だ。」

 高昭は我武者羅に動く訳もなく、全員を見渡せる位置に足を運ぶと、全員を視界に入れた。その左腕には不規則に蠢く、気の暴風雨。

「これだけ戦いを続けてもまだ、十全に撃てるだとっ!」

 釈迦堂が叫び声を上げるのも当然だった。『渦雷』は全ての気をつぎ込む事であれだけの威力を発揮するのだ。二発目を考えないからこその攻撃を、念頭に置くはずもなく。もしも、と考えた上で気弾を防がせたというのに、釈迦堂の策は全くの無意味となる。

 しかし、高昭が撃ち出すよりも早く、腹部を貫く拳があった。

「死に体の拳でもちょっとは効いたじゃろ。」

 鉄心の拳は高昭の拳に深々と突き刺さる。完全な奇襲は人体の正中線を的確に捉えた一撃である。並みの人間にとっての急所を鉄心が迷いなく選んだのは、目の前の男を止めたいと思う、その一心からだ。

 膝から崩れ落ち、気を失ったのはただ一人。

 そして、身をもって一つの証明は果たした。

「『渦雷』。」

 此処に居るのは、どうしようもなく『修羅』であるという証明であった。

 

 

 まるで嵐が過ぎ去った跡には、二人の大人が倒れている。師範代であるルーと釈迦堂だ。致命傷には至らなかったものの傷は浅くない。予め身構えていなければ、避けられるはずもなかった。寸前で防御しただけでも御の字だった。

 それでも戦いは続いている。

「まずは一発。」

 一子の薙刀は、戦いが始まって漸く直撃を喰らわせた。高昭の腹部から流れる血が、道着に染み入る。

 そこは互いの射程内。高昭が軸足を右足にスイッチして掴みかかろうとすると、それよりも早く、一子の攻撃が高昭の右肩を襲う。

 ――林の構え。

 高昭は、迫りくる斬撃よりも速く身を引いた。そして、完璧に躱すと、右足にかかっている重心を一気に前面へと押し出す。

 黒田の奥義の真髄は、全ての奥義同士の組み合わせである。加えて、高昭にはそれ以上に素早く動ける気の操作技術がある。体に纏わりつく気で以って姿勢を制御する。温い行動を刈り取る最高速のカウンター。それは、反応では確実に避けられない一撃。

「十字架討ち!」

 それも、読んだ上で、一子は一拍置いてから連続して攻撃を放つ。一撃目の横薙ぎとは違い、下から掬い上げるような斬撃は、襲い掛からんとする高昭に、逆にカウンターとなる。眼前へと迫る刃を視界に納めながら、高昭は拳を止める事をしなかった。

 高昭は、小さな気の壁を作り出す。目の前に出現させたその壁は、一子の攻撃を守るには意味をなさず、気休めにもならない程度のものだった。

 もし、一子の薙刀が先に当たればの話である。

 高昭はそれに思い切り頭を打ち付ける。

「キャアァァァ!」

 ただのヘットバットではあり得ない程の衝撃が壁も一子も吹き飛ばす。

 高昭の拳が一子に到達する事は無く、一子は衝撃で吹き飛ばされる。先読みで得ていたアドバンテージも、蓄積させていたダメージも、何もかもが一気に吹き飛ばされた。

「それでも一番、修羅に立ち向かう者として正しかった。」

 もう、戦いが終わったものであるかのように話す高昭。一子は、掠れる意識の中で、懸命に思考を巡らせていた。

 高昭の異常な強さの正体。

「余裕の違い。理由がそうであったとしても唯一『修羅』と定めて、殺してでも止めようと喉元に切っ先を向けられる。嗚呼、堕ちた事を実感できる。」

 高昭は、喜色の混じった声色で喋りながらも、表情一つ変えずに一子へと近づいていく。狂気の塊が、気絶した大人たちにも目もくれず、若き武人に歩み寄る。

「勘づかれたくないと、隠そうとして隠し切れないのは悔しいか。まあ、それは先輩以外が愚かにも『修羅』というものが分かってなかったんだろうがな。」

 高昭は、一子の首を掴みあげる。一子の瞳に映るのは、深い闇に沈んだ高昭の瞳。二人は目が合っているようで、見据えるものは全く違う。

 一子は、目の前の敵を見る。

 高昭は、今も、未来も、見ていない。

「折角、正解したというのに残念賞だ。貴女が暴いた『禁伝・陰撃ち』は冥途の土産に持って行くと良い。」

 首にめり込む高昭の指から逃れようとする一子。

「その手を離せぇ!」

 怒号と共に飛来した矢が、高昭の左腕に直撃する。驚きで高昭が手を離すと一子は水溜りの上に音を立てて落ちる。

「大丈夫かワン子!」

 バンダナを身に着けた男が――翔平が声をかける。その男を筆頭に、豪雨の中で駆けつけたのは風間ファミリーであった。中でも百代と京からは、怒りをも超えた感情が高昭へと向けられている。大切な仲間を傷つけられた事に対する怒りだけでなく、武道家としての憤りを感じるのは当然だった。

 しかし、未知の化け物を前に浅慮に飛び出す事だけはしなかった。それは翔平や岳人といった腕っぷしに多少の自身がある程度の人間でも分かる程、今の高昭は気味が悪く見えた。

 沈黙を破ったのは、一子だった。

「皆、逃げて……。これ以上戦えば、どっちかが、死んじゃうから……。」

 満身創痍でありながら、雨音に負けない声量で、一子は風間ファミリーに訴える。

「黒田君が、『修羅』であるのは、あらゆる衝撃を伝播出来るから。」

「そうだこんな風にな。」

 ――ドシャア。

 高昭は一子の頭を掴みあげるとコンクリート塀へと叩きつける。

 しかし、音をあげて崩れたのは、高昭の足元だった。一子の頭にも傷一つなく、しかし風間ファミリーの全員への挑発としては完璧だった。

「お前ぇ!」

 その光景を見て我慢できずに矢を放つ京。高昭はそれをあっさりと躱すが、最早導火線についた火は消えない。

「人の体の、どこにでも、衝撃を伝えるだけじゃないの。黒田君は、体の中で乱反射させる事で留めている。だから――。」

 体内に残っている衝撃のストックで一子の脳を揺らし気絶させ、口止めすると、高昭は百代達へと体を向ける。

 ただ一度の腹部への一子の攻撃を除いて、斬撃を、矢を喰らい、鉄心の攻撃を直撃しながらも無傷だった事。その衝撃を利用して、釈迦堂のリングと一子の十字架討ちを防いだ事。それらから完璧に判断した一子の残した情報。

「さあ『武神』。邪魔せずに去ると言うのなら、殺さずに見逃してやろう。」

「吠えたな、黒田ァ!」

 神の名を冠する百代の最高速は、高昭では及びつかない程の代物。如何に反射神経が優れようとも、全くの無策で対処出来る筈もない。

 否、問題は高昭ではなく百代の行動。

 これが考えの上なら高昭も迎撃に動けた。だが、怒りを煮え滾らせる百代の攻撃は、余りにも考えなしで、最短で、過剰であった。

「人間爆弾!」

 射程に収めるや否や、命すら微塵に吹き飛ばすべく、百代が炸裂した。

 

 

 市街地の喧騒が聞こえ出す頃。

 病院の一室の窓は大きく開かれたままである。外から入り込んで来た雨で、カーテンは濡れてしまっている。未だに目を覚まさない女性は、風に晒されて、心なしか顔色が悪かった。

「バラバラの家族か。」

 その病室に踏み入った委員長が呟く。

 先代の黒田である高昭の父は病室から逃亡している。その結果として、伴侶である女性の体に障るように窓を開いたままにして許容する事を良しとする。そんな父親が大黒柱であったらしい。

 息子は暴走。娘は友人に連れていかれた。父親は逃走。意識の戻らない母親も、そもそも、今回の騒ぎの原因を作った張本人である可能性が高い。

「この様子を見ると、親同士にも溝はあったんだろうか。」

 委員長が窓から見える曇天に語りかけると、わざとらしく鉄の擦れる音を鳴らしながら、由紀江が部屋に入って来た。

「風間ファミリーの一団として行かなくて良かったのか?」

「友人の目を覚まさせに行くのに、助力は要らないですから。」

 したり顔で返事をする由紀江に、委員長がはムッとした顔で答える。

「まゆっちの助力がないと親友一人助けられない俺への当てつけか。」

「当たり前だろバーカ。」

 松風がそっけなく返すと、委員長は返す言葉を探そうとした後、肩を落として唸る。

 由紀江はそんな事を気にもかけずに、ベットに横たわる女性を担ぐと、部屋を出ようとする。それを見た委員長は慌てて、それを止める。

「怪我人だぞ。連れてってどうすんだよ。」

「どうするかは、私たちが決める事ではありません。それに、当事者が蚊帳の外で終結しても癇に障ります。」

「まあ、俺らは会いに行くだけと言えばそれだけだからな。。」

 委員長が携帯を操作すると、窓からジェット音が聞こえた。鼻歌混じりの委員長を見て、由紀江は呆れた風に足を小突く。

「アイタッ。」

「昨日でそういうのから足を洗うんじゃなかったんですか。貴方は過去と、折り合いをつけたと先程聞いたのは嘘だったんですか。」

「一機だけ命令撤回するの忘れててさ。」

 小言を言いながらも、担いでいた女性を委員長の呼んだマガツクッキーに渡すと、由紀江は窓から身を乗り出す。

 一人では窓から降りる事も出来ない委員長は、由紀江に次いで、マガツクッキーにしがみつきながら降りてくる。

「あの人らが馬鹿正直に通路を闊歩して病人連れ出してなきゃ、俺らもこんな真似しないで行けたんだがな。」

「阿呆な事言ってないで早く行くぞー。おらもまゆっちも病院に迷惑かける気ないからな。」

「そりゃそうだな。」

 松風の催促に委員長は頷く。病院から出て、多勢から離れて走る二人は、闇夜に潜む襲撃者の正体に当たりがついていた。

 由紀江は、ゆっくりと刀を抜いて襲撃者に備える。

「まゆっちも色々言いたいことあるかもだけど、高昭に会ってから、いや全部が終わってから、あいつをみっちり説教してやろうな。」

「当然です。」

 

 

 

 

 

 

 漢が命を捧げた意味に、まず張り合えたのは人生を賭けた武道のみ。

 救うも、止めるも、戦うも、一心不乱で無いならば、修羅の命の意味さえ塵と消える。




正直な話、最後まで書き終わってるからそのまま載せればいいや、とも思っていましたが、自分以外の誰かが評価してくれているというだけで、より良いものにしようという活力が湧いてきます。
出来るだけ早く、良いものを投稿出来るように頑張ります。

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


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第三十一話 彼を知る者たち

残りの話の推敲が終わったら全話一気に投稿するか一話ずつもう一度見直しをするのか悩みます。
ネタバレ込みのキャラ設定とか後書きも書きたいけど時間が無いですね。

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 近づく程に地響きは大きくなる。荒れた天気によって揺れる木々や送電線さえも地響きの仕業と思ってしまうくらいに、人智を超えたナニカの存在を浮き彫りにしている。

 そうしてまた一つ、視覚にも訴える要素が、大雨の中で走る二人にも見えた。

 無数の線が空中で回り、叩きつけあう奇妙な光景。それは天使も見た事がある黒田家の秘奥義であると、そう教えられていた『渦雷』に他ならなかった。

「あれは高くんの……。」

「随分遠い、ペースを上げるぞ。」

 クリスの声を聞くまでもなく、天使は逸る気持ち抑えきれずに、周囲の警戒すらせずに走りを早める。クリスは逆に、一層に周囲へと警戒を強める。

「高くん!」

 意味も無く叫ぶが、天使の声に反応する者は無い。

 天使に走る理由を問うたとしても、はっきりとした答えはないと言うだろう。天使にとって、高昭に会う事を理屈立てて考えた事は無く、殆ど無意識的に傍に居た。

 そして、天使は誰よりも長く、高昭の傍に居た。

 故に、高昭が居る場所を求める、というのも間違いではない。

「でも、此処で止まってもらう。」

 民家の間を縫って飛来してきた特徴的な刃を、クリスはレイピアで受け流す。襲撃者は宙で一回転しながら、天使の進路へと着地した。

 行方知れずだった女。

「てめえは!」

「青面獣が何の用だ。」

 ひらりと舞い降りたのは、梁山泊が一人、青面獣の楊志。万全の体調ではないと、クリスは理解できたが、二人で挑んでも勝利を掴めるのかは難しい相手。

 自然とクリスはレイピアを強く握る。

「別に、やりあおうって訳じゃないんだから落ち着きなよ。」

「切りかかっておいてよく言う。」

 しかし、自然体の楊志を見て、天使もクリスも顔を顰める。実力的な余裕とはかけ離れて、全く戦意を感じさせない立ち振る舞いであるのだ。

「依頼で足止めしてるだけ。そっちのレイピアちゃんはパンツくれたら通してあげてもいいかも。」

「……それを報酬に通してもらうのは?」

「こっちの依頼は報酬先払いだったから、駄目。」

 薄く微笑む楊志。

 しかし、天使は時間が惜しい。今にも飛び出しそうな天使を見るが、戦意のない楊志ならば交渉で解決が望ましいと考えるクリスは、会話を続ける。

「同等以上の報酬で、手打ちに出来ないか?」

 首を捻る楊志を見て、クリスは注視した。もしも、交渉が成立するならば、友の為に全てをなげうっても構わないと思っていたからだ。それは、クリス自身の正義を貫くのが理由でもある。

「論理的な話をすれば、依頼人である黒田高昭は、命を取らない事と引き換えに『関わりのある人間』を近づけない事という、適当極まりない依頼をした。」

 依頼人の名前に反応した天使は、少々理性を取り戻して楊志の話に耳を傾ける。

「まあ怖かったね。自分可愛さに力を求めて修羅に堕ちようとする人間は居ても、怒りから堕ちかけながらも、命乞いを良しとして生き永らえさせてくれる修羅なんて、正しく理外の存在だから。」

 楊志は佇まいを直す。

「自分を正当化する為に力を手に入れる。そんな温い考えじゃなく、力があるから性善説を唱える、いや許容できる修羅。そんな奴がしたんなら、血族を傷つけようと、一概に間違ってはないと思うけど。」

 高昭を止める理由が無い。楊志はそう言った。

 クリスは二の句が出てこなかった。言うまでも無くクリスは、高昭とは会った事がある。だが、家に呼んで貰った時に黒田の親はそもそも会う事すらなくどちらも挨拶すらなかった。紗由理という高昭の姉に至っては少し名前を聞きかじった程度の認識である。

 どうして、あの高昭を悪と断じて他の被害者を庇う事が出来ようか。

 少し前まで『壁』として、多くの武道家が目標にする程に人格者であろうと努め、板垣家の人間が傷つけば涙を流して敵を討とうとする。

 クリスには、今の状況で高昭が悪い事をしてると、断じる事が出来なかった。

「話が長えし、どうでもいい。」

 一切の思考すらなく、天使は否定をする。眉を顰める楊志。虚を突かれたクリス。二人に気を留めた様子もなく、天使はきっぱりと言い放つ。

「そこどけ。てめえはお呼びじゃないんだよ。ウチはその先に、高くんに用があるんだ。退かないって言うんなら、ぶっ殺されても文句言うんじゃねえぞ!」

 会話が不要と、態度で示す天使。その態度に応えるかのように楊志は一歩引いて、肘を上げ、切っ先を天使達に向けて見せた。

 先手を取らんと動いたのはクリスだ。機動力を削ぐ狙いで、低い姿勢から足へ向けて突きを放つ。雨粒を掻き分けながら、空気を切り裂いて、音を立てながら襲い掛かる攻撃を楊志は刀の側面を使って逸らす。

 クリスの不用心な攻撃に、楊志は軽く蹴りで距離を離す程度の反撃に留まる。

「まあ、急いでるらしいし、電撃戦だろうと思ったけどね。」

 クリスの攻撃の間に、自身の死角に接近していた天使の行動を読んでいた楊志は、天使の反応速度を大きく上回る斬撃を放つ。

 咄嗟に腕を畳んで防御をしたものの、衝撃は抑えきれない。余りの威力に体が浮きあがった天使は、その勢いのままに、近くの粗大ごみ置き場に突っ込む。激しい音と共に、天使はごみの下敷きになり、近くの古びたコンクリート塀も衝撃からかパラパラ破片を飛ばす。

「刃の部分は使ってないから死にはしないだろうけど、一応恩義もあるしこっちも仕事な以上は本気だからね。」

 言うが早いか、楊志はクリスに切りかかる。甲高い金属音を奏で、鍔迫り合いに持ち込もうとする楊志。刀身の違いから、それを不利と見たクリスはレイピアの手数で迎え撃った。

「随分と疲弊しているようだな、青面獣!」

「昨日は絶賛死にかけだったもんでね!」

 確かに、楊志には疲労が見られた。気の総量も回復しきっておらず、まだ完治していない傷もある。クリスが、一回り以上実力のある楊志と真っ向勝負で拮抗できるのも、その要因が大きかった。

 しかし、楊志とクリスとでは持っている手札の数が違い過ぎるのも事実だった。

「死なないようにちょっと頑張ってね。」

 楊志が警告すると、刀を持たない手に気を集め始める。視覚にも分かりやすいその技は、クリスも見た事のある技であった。

「リングか!」

 釈迦堂刑部の代名詞であるその技をクリスが知らない訳がない。加えて楊志は相手の技、技術を盗む事は有名である。回転し、まばゆい光を放つソレを見れば、クリスの脳が危険信号を出すのは当然である上、脊髄も同様の判断を下すのも当然であった。

 伸ばした楊志の腕、その射線から逃れるように、地面に転がり直撃を避けようとするクリス。

 楊志は、リングを作り出していた筈の、打ち出すように伸ばした手を握りしめながら、クリスを見降ろし笑う。

「直接見てないものだから、少々見た目を真似る程度の一発芸に、これだけ特大が釣れる。」

 フェイク。

 楊志は単なる予備動作のみを真似ただけだった。

 刀を振り上げる楊志。それを理解しても、体勢を崩したクリスには避ける手立てが無い。故に、この攻撃を防ごうとするのは、唯一人だった。

 ガリガリと聞こえる。

 音を立てて、コンクリートの道路を転がり込んで来るのは、天使が吹き飛ばされた粗大ごみの山の中でも一際大きい冷蔵庫であった。まるで冷蔵庫自身が火を噴きながら楊志に向かってくるようである。

 炎によって押され、突撃してくる物体。

 小馬鹿にするように喋った時間が、楊志の判断する時間を削った。同時に突っ込んでくる人影の対処は後回しに、最低限の体勢を保ちながら避ける。

「幾ら策を練ろうが、斬撃を防げない相手に――。」

 余裕と共に繰り出した斬撃。先程のような手加減ではなく切り傷を負わせる為に振るった刃。だが、楊志が迎撃に繰り出した攻撃は、正面から受け止められる事となる。

「技の強度が同じならよぉ!」

 天使は流れるようなコンビネーションで、楊志の腹部を蹴り上げる。

 まともな一撃を入れられると思っていなかった楊志は、思考が一瞬停止する。加え、気の総量を確保する為に、これまでの怪我は完治させていない。

 傷を抉られた楊志は、天使の想定以上のダメージを負い、苦痛に顔を歪める。それでも天使が追撃をしてこなかったのは幸いだった。

「仕事である以上は此処を抜かせられないからね。」

 百代から盗み見た技を使い、気を使い果たす事と引き換えに回復。慢心なく構える楊志。

 相対するは、ゴミ捨て場から拾ったゴルフクラブを片手に睨む天使と、油断無く剣先を向けるクリス。

「天、来るぞ。」

「負けるものかよ。」

 気の一切を必要としない黒田の武術。

 楊志が本元より盗み見た技術が、立ちはだかる。

 

 

 戦火を目指して進むのは、天使達だけではない。姉弟である亜巳達もまた、高昭へと向かって走っている。

「姉貴、邪魔なら持つぞ。」

「大丈夫。私らの知る紗由理のものだから。」

 亜巳は紗由理を背負いつつもその手に握る鎖鎌を手放そうとしない。紗由理が使っていた鎖鎌。それだけが、昔を思い出させ、平和な記憶を繋ぎとめてくれる。そんな考えを亜巳がしているのは事実である。

 叱咤しておきながらも、亜巳の思考は定まらない。昨日まで享受していた抽象的な日常が感じられない雨の川神市。世界から取り残されたような感覚を振り切るように、亜巳は走っている。それだけではない。劣悪な家庭環境の亜巳は、何も知らなかった紗由理に救われて、逆に亜巳は、知っていた筈の家庭から紗由理を守れなかった。だから負い目を感じている。

 辰子はそれでも、亜巳を信頼している。

 竜兵はだからこそ、負い目を感じる。雨に打たれながらも、傷口が疼くのは寒さだけが理由ではなかった。

「姉貴は何があっても止まんなよ。」

 竜兵は急に止まり、その迷いない足運びで水飛沫をあげながら構えを取る。接近する二つの影を鋭い眼差しで捉える。満ち満ちた闘気が、完治していない竜兵の体を万全以上のコンディションに整える。言うなれば気合であるし、気迫である。

 そして、竜兵は理解していた。今の竜兵と同じく、高昭が命懸けであるのなら、命懸けの漢が導いた答えはきっと――。

「譲れねえから仕方ねえよなぁ!」

 脳天を割らんと獲物を振り下ろす襲撃者に、竜兵は思い切りの右ストレートをぶつける。正面衝突の余波で、竜兵と襲撃者に降りかからんとする雨粒は一瞬掻き消える。

 再び、竜兵は梁山泊と向かい合う。

 史進と林冲。彼女らも、竜兵らと同様に万全の体調ではなかった。見逃して貰ったとは言っても高昭に殺されかけたのは事実であり、楊志と違い効率の良い回復手段も持たないのが理由の一つである。

 そして、林冲の表情が浮かばないのは、他の理由がある。

「恥を忍んで頼みがある。」

 沈痛な面持ちで語りだす林冲。その筋書きを知らなかったのか、史進も驚き、殺気を抑えて、林冲の話に耳を傾ける。この場の殆どの人間は、耳を貸した。

「私は、命乞いをして此処に居る。自身の身の回りの人間が怪我を負う事の辛さを知っていた筈であるのに、同じ思いをする他人への理解が及ばなかったこと。そして一つの繋がりを壊してしまったこと。それらを許して欲しいとは言わない。だが、黒田高昭を修羅と堕とした一因である私の責任を、彼を止める助力という形で、どうか取らせて貰えないだろうか。」

 膝をついて謝る林冲に、亜巳と辰子も足を止め、史進も思わず振り返る。

「リン!言いたいことは分かるが、これは――。」

「存命を前金として受けた依頼。だとしても私には、血涙を流しながらも、修羅に堕ちながらも、奴が安全を祈った者達と引き離す真似は、できない。」

 無論、どんな背景があろうと、身内を襲撃した首謀者である以上は、初対面の辰子と亜巳の警戒を解く事は叶わない。

 しかし、竜兵は声を上げて笑う。

「面白いこと言ってるお前に俺からも三つ言いたいことがある。一つはそっちの事情なんか俺たちは毛ほども興味が無いっていう感情的な理由がある。もう一つは、口では止めると言って置きながらも反対しそうなお仲間じゃなく俺らに肯定して貰わないと行動する気がないというお前のおままごとに興味がない。」

 竜兵が肩を回しながら喋っていると、意図を理解した史進は眼差しを強め、辰子は困ったように微笑む。

「そして、最後は、負けっぱなしだと俺が恥ずかしくて高昭に会えねえってことだよ!」

 踏み込みを竜兵が行ったと判断した途端に、史進も遮らんと、無防備な林冲を守る為に飛びかかる。辰子は、手頃なバス停を掴むと、見開いた目を林冲に向けながら亜巳にひらひらと手を振る。

「本気でやっても良いけど、あんまり無茶するんじゃないよ。」

「亜巳姉ぇもねー。」

 今にも飛び出さんとする辰子を止める事は、亜巳には出来なかった。故に諦めて、紗由理を担ぐ手に力を入れて、駆け出す。

 辰子も精一杯の力で振りかぶった。

「こんなことをして何の意味がある。彼を救いたい気持ちは一緒の筈だ!」

 林冲が叫ぶが、竜兵も史進も止まらない。

 依頼から解き放たれて、伸び伸びと棒術を振るう史進の顔は曇天に似合わず、晴れやかである。竜兵もまた、性に合わない『守り』ではなく暴れられる事に笑みを浮かべる。

 何物にも縛られる事のない。これは単なる喧嘩。

「喧嘩に意味も、ルールも、あるものかよ!」

 辰子がそこに加わると、史進は攻撃が受けきれなくなる。それでも、そこに負の感情は無く、ただただ力比べであり、力以外が削ぎ落とされた純粋に前のめりな闘争である。

「お前らが俺らの家族ぶっ飛ばして、俺と、高昭がお前らをぶっ飛ばした。依頼だなんだか知らねえが、そもそも貸し借りはイーブンだ。それより、白黒つけようぜ。」

 林冲は、自分が真剣に悩んだ末に出した結論に自信があって、断られるとは思ってもいなかったのは事実である。

 戦いへのプライドは高昭に完膚なきまでにやられて、仲間を守れず、命乞いした事で折れ曲がっていた。それ故の、先ほどの言葉である。だが目の前の輩、竜兵と辰子は、林冲の考えもお構いなしに、踏みにじる。

 楊志に傷を負わせたのが竜兵であると、林冲は思い出す。

 自分の思い通りに事が運ばれない事に、林冲は思い至る。

「そうだな。冷静に考えてみれば、私はお前に槍を振るうだけの理由は十分だったな。」

「ぽっと出にやられた、なんて梁山泊の名に泥を塗るわけにはいかないよな。リン。」

 林冲と史進。二人は背中合わせになるように構え、竜兵と、辰子と対峙する。理由としては単に気に入らないから。だが、この場の全員にとって、戦う理由はそれくらいが丁度良かった。

「俺も姉貴も本気だ。んで、止めらんねぇくらいに本気だから、簡単にぶっ潰れてくれるなよなぁ!」

 

 

 戦火が広がる戦場がある一方で、収束しつつある戦場もあった。

 由紀江達が相手取った梁山泊の面々は、林冲らと比べれば数段見劣りする。背後に守るものがありながらも、由紀江は打倒して見せた。

「思った以上に数が多かったですね。」

「そうだな。俺ら以外にも足止めを放っていると考えると多すぎる。」

 由紀江と委員長は話ながらも、接近する人物に気づいていた。その人物も足止めをされるていた人間であり、つまりは高昭を救おうとする由紀江達側の味方であった。

「マルギッテさんも来てくれたんですね。」

「お嬢様に頼まれずとも、この状況で一人床に臥すなど出来ぬと知りなさい。それに……。」

 緊迫した状況でありながらも、恥じた表情をしながら、マルギッテは言葉を続ける。

「貴方たちも、黒田高昭も、友人ですから。」

 それを聞いて、由紀江は一層に気合を入れた表情に変わる。委員長は冷静に、マルギッテの視線の意味を考えながら状況を聞く。

「あっちは高昭の母親だ。んで、それだけじゃないか。」

「私は、そこのマガツクッキーの同型機に襲われた。行軍速度が出ないこちら側に一定数を断続的に仕向けてくるという事は、元より敵の狙いは分断だ。」

「昼の戦闘の消耗を引きずっているとはいえ、高昭くんを含めなければどう考えても私たちの方が戦力的には上です。分断する狙いは恐らく。」

「オラたちの各個撃破が不可能な以上は時間稼ぎだろうなー。一人ずつ高昭と対峙させるとしたら板垣を近づけない前提条件が崩れる。」

 松風――つまりは由紀江の指摘から、委員長とマルギッテは考え込む。

 幾ら考えても高昭の目的が絞れない以上は、行動の先読みが出来なかった。態々川神院の刺客と戦った理由も、風間ファミリーを足止めすら行わなかった理由も、想像すらままならない。

「シツレイ。」

 電子的な、マガツクッキーの声が聞こえると皆が振り向く。だが、その合図はマガツクッキーが策を提案するのではなく、機械的な反応であり、しかし事態が動く合図でもあった。

 それは全てを知る人物が意識を取り戻した合図。

「君は、委員長くんだったかしら。」

 今にも消え入りそうな声で口を開いたのは、黒田高昭の母でもあり、全ての事情を知っていると思われる女性だった。

「そうだ。あんたの息子の、高昭のクラスメートのな。」

 言いながら委員長は、高昭の母の胸倉を掴む。

 そして、今にも怒鳴り散らそうとする心を抑えながら、問い詰める。

「高昭の半生まで聞く気はない。だが、今日、あんたたちの家で、何が起こって、高昭に何があったのか。全部洗いざらい吐いて貰うぞ。時間がないんださっさとしろ。」

 委員長が手を離すと、女性は弱々しく座り込み、口を開いた。

 両手で顔を覆いながらも口を開いた。

「全部、全部私が悪いんです。あの人の信頼を裏切ったのも、高昭を修羅の身へと落としてしまったのも、紗由理を生んでしまったのも。」

 由紀江は理解が追い付かず、マルギッテは状況が分からない。だが委員長は今の言い方に少なからず違和感を覚えていた。

「懺悔なんて聞いていません。全てを詳細に話してください。」

 由紀江の言葉が耳に入っていないかのように、高昭の母は泣き崩れるばかりである。時折聞こえる言葉は断片的だった。

「私だけが責任を取れずに……。それなのに高昭は全員の咎の受け皿になって……。一人嘘を重ねる為に……。」

 必死に聞き取ろうとするマルギッテ。由紀江は、判断を下せず、委員長を見る。

 ただ判断しかねる事を視線で伝えるつもりであった。しかし、由紀江は、青ざめながらも、必死に口を動かそうとする委員長を見た。

 委員長は、考え得る限り最悪な事態が起こっていると、理解した。そして、酷い立ち眩みを覚えながらも言葉を紡ぎ出す。

「あんた、高昭に何をさせようとしていたんだ。言えよ。」

 怒りに震える声で委員長は、高昭の母を威圧した。

「違うの。私は何も出来なかった。いいえ、何もかもから逃げていた。あの人の考えを否定する事も、あの子たちの母親である事からも。」

「確認させてくれ。あんな気の良い、高昭の姉貴が、なのか。紗由理さんは、あんたの身勝手で用意された試験管から生まれたって言うのかよ!」

 目の前の人物にぶつけるべき怒りを、委員長は近くの塀を思い切り叩く事で和らげ、言葉を続ける。怒りで麻痺した脳からは、手の痛みを感じさせず、委員長は何度も何度も拳を打ち付ける。

 そして、女は殆ど聞こえない位の小さな声で答える。

「……はい。」

「少し距離感があっても、高昭も、紗由理さんも、認められようと必死に頑張ってたのを知ってんだろ!憎まれ口叩いてたけど、ずっと紗由理さんは両親に褒められた時の話を楽しそうに話してた。高昭だって、右腕をぶっ壊しても必死に、『黒田』だって、『壁』だって認めてもらう為に頑張ってたんじゃなかったのかよ。」

 委員長の拳には、表面にじんわりと血が滲んでいた。それでも、感情の爆発からなのか、痛みを感じることなく、委員長は行き場のない思いを道端の塀にぶつける。

「あいつは、高昭は、あんたが遺伝子弄って生まれた紗由理さんが、万一に暴走した時を、想定して、修羅へと望んで身を堕としたって言うのか!なんとか言えよ!」

「それは違うわ!私じゃなくあの人が――。」

 言葉を最後まで言い切ることなく、高昭の母は地面へと叩きつけられる事となる。

「マルギッテさん……」

 行ったのはマルギッテであるが、それは怒りからの行動ではなく、高昭と一番付き合いが短いが故の理性的な行動であった。一つ深呼吸をしてから、マルギッテは由紀江を見た。

「まだ言い訳を続ける、そういう人物だからこれだけの事態を放置出来たのだろうな。」

 マルギッテの感情は、それでも小さかった。否、他の二人の怒りが、マルギッテよりも大き過ぎる。

「お前は、活人剣の黛由紀江だ。そうあるべきであるし、高昭に救うならそのままの姿であるべきだと知りなさい。」

 高昭の母親に対して、今にも刀に手をかけようとしていた由紀江を、マルギッテは諭し、そして気絶した高昭の母を担ぐ。不必要な事を二人に考えさせないように、マルギッテは黙って行軍を進める。

 由紀江は心身を落ち着かせる為に松風を握る。

 そして、委員長は誰に隠す事もせず、嗚咽をあげるのであった。

 ――俺は、『委員長』という役割に逃げた。心の弱い人間だった。そうする事で、本来表舞台でいられない筈の自分に居場所が欲しかった。お前の事を知らずに同じく役割に逃げた男だと思っていた。でも、お前は『黒田』を、『壁』を、そして『修羅』さえも、そうあるべきと望まれてやったのだとすれば、誰かに強要されていたのだとすれば、俺はそれに気づけなかった事を、悔やんでも悔やみ切れない。だって、悪事に手を染めながらもお前と一緒に居たのは、心の何処かで救って欲しいと、ぶん殴って正しい道に戻して欲しいと思っていたからだ。

 ――でもな、高昭。俺がお前にとっての『親友』なのは、逃げたからじゃなく向かい合おうとしたからだ。そしてお前が俺にとって『親友』なのは。

「俺が望んだからじゃなく、お前自身がそうありたいと願ったんだ。皆が見捨てないのは、黒田高昭だからこそなんだ。絶対に、お前は一人なんかじゃないんだぞ。」

 

 

 

 

 

 

 昨日までの日常を望むだけの掌から零れ落ちていく。昨日までの停滞を慌てて掴むか、信じてその手を伸ばし続けるか、それとも。

 全てを救わんと欲すは、己が救われたいが為。幾ら堕ちても満たされず、気づけば一歩、また一歩と死地へと流れる。



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第三十二話 渇望より生まれし絶望

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「富士砕き!」

 百代の拳が、高昭の腹部に直撃する。だが、一瞬の内に、攻撃が通じたという感触は消え失せ、百代は本能から来る行動で、高昭の反撃を躱す。

 合計すれば、既に二桁を超える攻撃を受けながらも、高昭の外傷は殆ど無かった。

「無尽蔵とも言えるだろうな。気の総量がまるで読めない。」

 百代が目配せをすると、京は黙って頷いた。

 それは、他の皆が退避した事を示し、この戦場に残ったのが三人だけである事と今更ながらの警告であった。

「でも、タンクが優秀でも供給口が小さいなら……。」

 京が数発の矢を牽制で放つと、高昭は空中に足場を作り出し、避ける。

 追撃に百代が放つかわかみ波。それも避ける。だが、反撃を行う素振りは一切ない。

「こっちは、一日分疲労も溜まっているからな。一気に畳みかけるぞ。」

 百代が合図をすると、京は頷く。断続的に回避か、迎撃の行動取らせるべく、矢を放ち続ける。それは、高昭にとって致命傷にはならない攻撃ではあるが、行動を制限するには十分。そして、仮説が正しいならば、高昭の気の総量を減らすのが主な狙いである。

「かわかみ波!」

 高昭の逃げ先を潰すように、百代はかわかみ波を撃つ。高昭が万全の状態であれば『渦雷』で打破ずるべき局面であった。

 しかし、高昭はそれをしない。

「陰撃ち。」

 高昭は空中に作り出した壁を叩くと、体内にストックしておいた衝撃を、気の壁に向けて放出する。飛来する矢を粉々に砕きながら、衝撃波は空気を軋ませる。そして、既にコンクリートがひん剥かれ、土が露出している道路を抉り、土と雨粒を舞い上げる。

 疲弊を騙し騙しで戦う百代と京に対して、高昭は顔色一つ変えない。だが、その口からは血が流れ出ていた。

 外傷は無くも、その体の内側への負荷が既に見た目に表れ始めた。

 瞬間回復を三度残す百代であるが、京の限界を感じて、闘気を収める。

「流石は武神といったところか、既に絡繰りには気づいていたんだろう。」

「お前が『修羅』である以上は、いいや少し言い方が違うな。お前と同等の覚悟が無ければ、止められない。」

 最早お互いに戦意は無く、目的を達成した以上は百代達に軍配が上がっていると言える状況。しかし、元々の修羅討伐に主眼を置けば、高昭に軍配が上がっている。京は、乱れた呼吸を整えながらも、百代と高昭の会話に耳を傾ける。

「そうだ、死合と言えば聞こえは良いが、それでは単なる殺し合い。でも、そうじゃない。そんな事を口走る奴ほど覚悟は無い。誰も殺せやしない。お前たちや、川神院の奴らのようにな。」

「耐えきれる攻撃を実質的に無力化する術。それがお前の陰撃ちならば、相対する者が、私や京がお前の命を度外視しなければ、突破は殆ど不可能。」

「でも、私たちは、誰かを殺すことは……。」

「あの梁山泊ですら、躊躇った。項羽もだ。それを、人殺しを、出来ないなら俺には勝てない。俺は止められない。殺せないなら殺せまい。」

 妙に饒舌になる高昭に、京は違和感を覚える。だが、止められないと分かった以上、京と百代の目的は、高昭を止められる人物が来るまでこの場に留める事だった。例え、会話を続けるという手段であっても、である。

「武神。その点で言えばお前の妹の攻撃が俺の命には一番近かった。」

 高昭が無表情に自らの首筋を撫でて、もう少しで一子の薙刀が、高昭の命に届きそうだった事を表現する。

「奴は、俺を的確に『修羅』と捉えた。だから殺らねば殺られると、本能的に感じ取ったのかもしれない。しかし、他は駄目だ。『壁』であると、『黒田』のままであると信じ、まるで俺が奴らに興味があったかのように振る舞う。」

 戦う意思のない百代に視線を向けると、高昭は薄ら笑いを消して言葉を投げる。

「そもそも『当て馬』としての役割も担う筈であったが、武神の見識はどうも常人とは尺度が違うようだ。果たして、俺がどのように映っているのか気になりするが――。」

 高昭が振り向くと、そこには紗由理を背負った亜巳が近づいてくる姿があった。

 行動を咎められ、近しいものに止められる事を恐れているからこそ梁山泊を使い足止めをした。その筈であるというのに、高昭の表情には喜色が混じっている。

 背負う紗由理を、起こそうとする亜巳を見て、高昭は確かに口角を吊り上げる。

「亜巳?ここは……。」

 意識を浮上させた紗由理は、自らの足で大地を踏みしめながらも、辺りを見回した。

「亜巳、それに高昭。何がどうなってるの?記憶がぐちゃぐちゃで何も分からない。」

 弱々しく呟く紗由理。亜巳は肩を貸しながら黙っていた。

「待ち焦がれていたぞ、黒田紗由理。」

「高昭?」

 まず異質だったのがその呼び方。そして、好戦的な表情であった。

 紗由理はその真意が分からずに、何も言い返せなかった。何も分からなかった。目を覚ましたばかりで、頭が働いていない。

「若しや、あんたは自分に都合の悪いことを忘れるのが特技だったか?今日、何があったのかも忘れたんだろう。俺が修羅へと堕ちた時のことも忘れていたんだもんなぁ!」

 紗由理は、その言葉を受けて少しずつ記憶を手繰り寄せていく。

 

 

 この日、紗由理は両親に呼ばれて道場に正座していた。

 二、三十分待っていると父親とそれに従うようしている母親が入ってくる。そして、扉越しに背を向ける高昭が居た。

「父さん、話って何?」

 紗由理は両親の顔を見て、前向きな話題では無いと感じ取った。

「落ち着いて聞いてくれ。」

 父の忠告を受けて、紗由理は身構える。

「              。」

「えっ。」

 紗由理は、その言葉が理解出来なかった。

 聴覚の遮断。それだけではなく、嗅覚、触覚、或いは味覚も無かったのかもしれない。目に映る世界がとてもゆったりと見えた。

 呆けたように首を傾げる紗由理であったが、父親に肩を掴まれて、正気を取り戻してしまう。

「冗談でも何でもない。よく聞いてくれ。」

 

「お前は、俺たちの子供ではない。」

 

 今度は確実に、はっきりと聞き取れた。紗由理は、自分が何故だか冷静であるように思えていた。

「じゃあ、誰の子なのよ。」

 言葉を言い切ると、その答えを返す事無く、紗由理に、母親と思っていた女性が抱きついた。

「ごめんね紗由理。私が悪いの。」

 紗由理は抵抗も無く、そもそも力が抜けていて、ゆっくりと体を預ける。

「貴女は、色んな遺伝子を掛け合わせて生まれた人間なの。だから厳密には私や高昭とは家族ではないのかもしれない。でもね紗由理、貴方はお父さんの遺伝子は受け継いでるから、全くの無関係の人間ではないの。」

 返事も、反応も、紗由理は返さずにただ瞳を揺らすだけだった。

 そうしていると、紗由理の遺伝学上の父親が紗由理が長年に亘って母親だと思っていた女性を引きはがした。

「事実を、はっきりと言え。高昭を利用してデータを消させた以上、お前しか真実を知らない。紗由理と俺に、全てを説明しろ。」

「貴方が知ってるので全てよ……。紗由理は、九鬼と川神、中華の英雄である項羽、そして貴方の遺伝子から最良の人間を創るプロジェクトKの成功例。識別番号『K』。それ以上でもそれ以下でもない。」

 ――私が実験体?

「じゃあ何故、記録の一切を消去させた。」

「あのままマープルが負けたら遅かれ早かれ紗由理の事が知られてしまうからでしょ。不確定要素は取り除くべきだった。」

「そんな事をせずとも紗由理は暴走なんかするものか!」

 ――暴走?私はそんなに危険なの?

「もしもの為にと、高昭を修羅に堕とそうとした貴方が、危険性を語るなんて……!」

「その時は俺が止める。初代の残した書物を間違った解読をした俺にも責任がある。」

 そして紗由理は思い出した。思い出したくない記憶を、あの日何が起こったのかを。

 

 

「そっちに行っては駄目!紗由理は知らなくて良い事なんだから!」

 幼い紗由理は、母の静止を振り切り、無視を決め込んだ。高昭に物心が付き始めると両親は紗由理へのスキンシップが疎かになった。

 特に父親は、修行の為に高昭を連れて道場に籠る。紗由理はそれが楽しくなかった。武道から遠ざけられている事を、幼い紗由理は何となく知っていた。

 故に、紗由理は我慢しなかった。何故なら、その日は高昭と父親が居るのは道場ではなく書斎であったからである。

 武術でなければ、迷惑は無いだろうと、漠然と考える。

 そして、武道に詳しくない母親もまた、座学を邪魔をするくらいは旦那が抑えると思い、紗由理を追いかけるものの本気で止める事は無かった。

 そして、全てが間違いだったと思い知る。

「があああああ!」

 叫び声。

 当時、黒田本家に暮らしていた為、その声は紗由理だけでなく祖父母や、時間外に修行をしている門下生が居れば聞こえていただろう声。

 幼い男子の声であった。間違いなく物心ついて直ぐの高昭の悲鳴であった。

 紗由理だけでなく、母親も、何事かと走った。そして目にしたのは、部屋を舞う紙の類と、血に濡れた手を拭う父親と、血と共に倒れ、壊された丹田から気を噴き出す幼い高昭だった。

 この後に、川神の地に紗由理たちは引っ越す事になる。

 

 

 フラッシュバック。

 紗由理は、暴走をする。一度目は血を流す弟を見て、自分も同じ目に合わないように。二度目となる今回は、一度目を思い出したからであった。

 抑えきれない気。紗由理の体から放出される暴風となって室内を埋め尽くす。それは当然紗由理以外の人物に暴力として襲い掛かる。心得のない者が、壁に叩きつけられて呻き声を漏らすのは必然であった。

「違う、私は、そんなつもりで。」

 制御出来ぬは力のみであり、はっきりと意識を持つ紗由理は、自分が母親と二十年間信じていた女性が力なく倒れ伏すのを見ていた。

 過去に高昭がされたように、今度は紗由理が家族へと手をかけてしまった。そしてその事実が、混乱を生み、自省が自制を食い破ろうとしていた。過去の暴走は、未発達の体で今回と同じように気を放出しようとして――結果としては何も起こらなかった。暴走すれば自身の体すらを滅茶苦茶に壊してしまうと、本能が止めたからである。だが、今の紗由理は成熟した女性である。

 故に、本人は問題ないと錯覚し、本能は止めない。

 しかし、両親はそれが命を削る呪いだと知っていた。気の総量こそ規格外であっても、暴走を恐れて修行から遠ざけてきたのが仇となっていた。事実を知れば、今のように暴走しかねない。故にこの日に全てを打ち明けようとしていたのだ。

 このまま本気を出し続けていれば、紗由理の命は一週間と持たない事を両親は知っていた。本能は瞬間の命の危険は勘定しても、長期に見れる訳が無い。

「高昭。紗由理を止めてくれ。お前は『修羅』へと堕ちたのであろう!」

 父親に呼ばれて、高昭は傍観を諦める。

「駄目よ、高昭!家族を繋ぎとめるのに戦いで解決してはいけないわ!」

「無茶をするな!お前を避難させるにも、まずは暴走の足止めはしなければいけない。家族全員が無事で終える為にもここは――」

 言い争う両親を見る高昭は、微塵も興味を示さず、紗由理をちらりと見ると、拳を握った。

「家族か。」

 そして高昭は、笑みで顔を歪ませるのだった。

「家族にはこうするのだったなぁ!」

 高昭の拳は、父親の腹部に叩き込まれる。状況も何もない。夫婦そろって壁まで吹き飛ばされて蹲るのを見て高昭は口角を吊り上げる。

 紗由理にとって、自身の身に起きた事以上に、信じられない光景だった。

「なんで……!」

「おいおい、自分は母親ぶっ飛ばしておきながら、俺には是非を問うのかよ。」

 返事を聞くことなく、紗由理は高昭に向かって駆け出した。性質だけが修羅と堕ちた高昭と違い、紗由理はその潜在能力が化け物じみていた。

「渦雷。」

 高昭は接近すら許さない。全力で以って紗由理の接近を拒否する。余波で更に両親を傷つける事を知っても尚、紗由理は暴走し、高昭は自発的に力を振るう。

「あんたにとってもそうだろうな。『弟』か?『跡継ぎを代わってくれた存在』か?何にせよ、自分が自分勝手に、望み通りに動く為の『部品』と思っていたんだろうよ。そこに這いつくばる連中と同じだ。」

 均衡していた力は、高昭に傾き、紗由理は徐々に押され始める。

「俺はそこの女にとって『家族を繋ぐ為の部品』だった。唯一、血で縛る事が出来るのが俺だけだからだ。だが、それ以上の価値も無い。作り置きすらすることは無い。昨日、お前も目の当たりにしたな。あの卓上に何か用意でもされていたか?それとも疑問に思う事すら無いのかもな。あんたが一人暮らしを始めた後に、頼みを一つ叶えた昨日でさえ、食事は、愛すべき夫と娘の為だけだ!食事だけであるものか何もかもがだ!」

 高昭と紗由理がぶつかり合う衝撃から、二人の大人が身を守るように蹲っている。男は女を庇うが、最早その程度では暴威に対する手立てにはなり得ない。そもそも、意識を保っている訳ではない。先代の黒田は、無意識の内に、己が愛した伴侶を守ろうとしていた。

「そこの無様な先代は、『K』に対する手段として俺を『修羅』と落とそうとして、結果として初代が残した書物の解読に失敗し、俺の丹田を意味なく穿った。自らの過ちが明るみに出ないように俺を『当主』とさせ、お前がクローン技術に関心を向けぬように俺を『壁』とさせた。自らの力不足で初代が残した秘伝書を曲解し、責を擦り付けるような振る舞いで、俺がどれだけ傷つこうがお構いなしだ。何せ俺は、こいつらにとって『役』を担う存在以下、『部品』なのだからな!」

 怒声と共に高昭は、紗由理を道場の壁へと吹き飛ばす。『渦雷』に晒された紗由理は夥しい傷を負っているが、それは直ぐに塞がっていく。

「無尽蔵と湧く気の総量による無理矢理の回復。事実上の鉄壁か?実にあの女の最高傑作らしさがあるな。」

「でも、高昭。貴方の気はさっきの『渦雷』で尽きたでしょ。」

 突進。

 紗由理が行うは純然たる暴力の代行。全ての気を撃ち晴らした高昭に目掛けて、向けるべきでない怒りも、正当な怒りも、全部を叩きつけようとする。

「高昭ィ!」

 歴代で数えても最も殺人的と断定できる拳は高昭に目掛けて振り下ろされ――そして届くことは無かった。

 逆に殴り飛ばされながら、紗由理は原因が分かった。幾重にも設置された気の壁が、紗由理の速度を著しく落としたのだった。怒りに我を忘れていた紗由理には、暴走した化け物には、触れれば消えるものに注意を払う考えが無かった。

「そもそも、潰されて、丹田がない俺がどうやって気を扱っていると思う。答えは、全てをコントロールする事だ。普通の武人が丹田にしまい込むはずの気は、俺の場合は気を抜くと、文字通り気の抜けた炭酸水の如くだからな。故に丹田の跡地から作られた片っ端から制御して気で膜を作る。逃がさない。」

 高昭は、微塵も敗北の可能性を考えていなかった。何故なら、この場は高昭が作り上げた必勝の舞台だったからである。

「故に体外まで俺のコントロールが可能になった訳だが、それでも一度に貯蔵できるのは高々人間の尺度でしか不可能。だとすればこれだけの膨大な気は何処から調達しているのか。それの答えも単純だ。だって、此処には十年近い年月をかけて多くの気が貯蔵されているだろう。」

 道場。

 木材に染み込むのは臭いや汗、血だけではない。武道家の道場は簡単に壊れてはならないが故に、放出した気を取り込み、多少の傷を直し、頑丈になる機能を備える。言うなれば人為的に作った霊脈の一種とも言われる事がある程に、である。

 如何に人智を超えた化け物であったとしても、個体では全体には抗えない。力に目覚めたての紗由理が、過去を積み重ねた道場のバックアップがある高昭を打倒するのは不可能に近かった。

「あっけないな。単純なスペックで決まるのは優劣だけだ。命のやり取りで、表面化された能力だけが左右するなんて、児戯にも満たないお遊びだ。」

 高昭は笑いながらも紗由理を見下すような事はしなかった。それは笑うという表情ですらなかったのかもしれない。

 その眼には、何も映っていなかった。

「俺は、世界で一番強い奴を知っている。あれには勝てないが、殺せる。武神は人を殺さないが、俺にはそんな躊躇はない。」

 壁掛けから落ちた槍を拾うと、高昭は紗由理に向かって投げる。余りに自然な行動で、殺意も無く、害意も無かった。溢れる闘気で守られる紗由理に刺さる事は無かったが、直撃して初めて攻撃を認識する事が出来た。

 暴走する紗由理とは違い、何もかも壊れてしまっているのだと気づいた。

「何故?高昭が私に攻撃する理由なんてない筈。貴方に何の利点も無い筈でしょう!」

「おいおい、先に仕掛けてきておいて、旗色が悪くなると命乞いか?」

「家族を何だとおもってるの!」

 紗由理の言葉は、真理であった。高昭の暴挙の全てであった。

 

 

「わからない。」

 

 

 高昭の答えを聞いて、紗由理は言葉を失う。

「分からなかった。俺は、天ちゃんに家族だと言った。だが、家族とは何だ?俺は父さんも母さんも姉さんも愛していた。でも誰も俺という存在を見てくれなかった。誰も俺を愛してると言ってくれなかった。無償の愛が分からない。俺は家族も、愛も分からない。間違いなく俺は天ちゃんが好きな筈だった。でも、これは好きという感情で正しいのか?俺の愛への返答が無かったから、俺も返し方が分からなかった。愛がわからない。」

 高昭が、喋ったのは、まるで呪詛であった。

「故に答えが、一つある。俺には愛がなかった。俺の家族は、だから愛を返せなかった。そして板垣家の皆が優しかったのは、姉さんが居る時だけ父さんと母さんが優しいのは、姉さんへの愛から来る余剰分の愛。それでも、俺が天ちゃんを好きなのは間違ってないと信じたいが、この考えの方が妙にしっくりくる。何にしても結局、修羅へと堕ちたから、もう誰も愛してくれないと思うと、もう全てがどうにでも良くなった。」

「高昭、正気で――。」

「正気だ、この十余年で形成された紛れもない正気だ!」

 紗由理の問いを遮るように拳を振るう高昭。異様な雰囲気を醸し出す相手を前に、紗由理の本能は、暴走する紗由理は、過剰な迎撃を行う。

 高昭に避けられ、空を切る拳であったが、込められた気の量は人外そのものであり、一種の結界とも言える道場を軋ませる程の威力であった。

 道場から吸い上げる無尽蔵の気。それさえ潰せば勝機があると、紗由理は考え、暴走する本能も快諾する。

 全身から放出、それでいて出来る限り両親には危害が及ばぬように、道場の天井を貫く爆発。

 紗由理はそうして、気を失ったのだった。

 

 

 思い出すように、心に刻むように、言葉を紡いだ紗由理。

「そんな事が……。」

 百代はそう呟いて、高昭を見るが佇まいに変化は無かった。亜巳も、京も反応に困り、声が出ない。

「高昭、貴方は何がしたいの?」

「俺は何をするつもりもないさ。何か、何かに、納得できればそれで終わる。何もかも、な。」

 高昭の口調は、狂人にしては理性的に聞こえた。

「修羅道か、命か、果てに辿り着けばいい。どちらにしても俺が壊れてしまえばそれでいい。押し付けられた役割を掻き集めて、ガラクタなりに生きていたが、『壁』として決定的に間違え、騙し騙しのアイデンティティーが今も崩れている。」

 乾いた笑いを起こしながらも、この高昭の言葉は本心からの言葉だった。

「確かにぎこちなかったけれども、『壁』は、貴方は確かに人の心を動かした。完璧でなかったとしても間違えたとは、誰も言いやしない。」

 京がはっきりと、第三者の、単なる武道家の目線で答える。

 しかし、それは裏目に出る。

「そうだ。衆目の前でなら幾らでも振る舞えた。だが、俺は松永燕の握手を拒んだ。自分の右手の都合で、映像記録に残らないと逃げた。嘗て丹田を穿たれ、体より溢れる気で凌辱される狂気から修羅へと足を踏み入れても留まれたのは、俺が願望を受ける器と、己が身をガラクタと徹していたからだ。」

「高昭……。」

「俺は誰かを悲しませた。守れなかった。望まれるままのパーツとしても振る舞えず、家族としても扱われない。全ては俺が、何も果たせなかったからだ!故に果てる。立ち止まるものか!」

 紗由理には、亜巳には、雨に打たれる高昭が泣いているように見えた。枯れ果て、心すら死んだと思われていた高昭は、右腕を壊す前から、ずっと、ずっと、家族に認められようと胸中で泣き言も言わず、耐え忍んできた。

 認められぬのは至らぬ我が身のせいとして、必死になって、その心はいつの間にか深々と折れていた。

 雨だけが理由ではない。今の高昭には紗由理達の声は届かない。高昭は構え、紗由理へと構えを向けている。

 しかし誰もが知っている。高昭の戦意が、敵意が、決して紗由理への悪感情のみから生まれているものではない事を知っている。高昭の心に存在するのは、決してなくなる事の無い激情は、両親に押し付けられた責務が原因でもあり、姉への嫉妬でもあり、怒りでもあり、真実として高昭はこの感情だけに限らず思いの理解はツギハギで、自覚が出来ない。

 壊れた男は正に、紗由理を殺そうとしているのは、紛れもない事実。だが高昭は本心からそうしたいとは思わない。そうすべきでもないと知っている。

 それでも、高昭にはそうする以外にない。

「私は、謝りたい。こんな形でなく、戦いの最中でなく、正面からきちんと。だから高昭が高昭でなくなる前に、私の弟は絶対に止めて見せる。」

「紗由理、自分がやろうとしてることが――。」

「分かってるよ、亜巳。私は、私のまま救って見せる。だからこの衝動に飲み込まれはしない!」

 溢れ出す気の暴威。

 意図的な暴走は、『K』である事を、現代に生きるキマイラである事を受け入れた紗由理の覚悟であり、純然たる『修羅』である高昭に対抗するこの場で唯一の手段であった。

 

 

 

 

 

 認めたくないと、拒み、目を逸らすのは過去の事。自らの力も弟も、二度と否定をするものかと足掻くもの在り。

 足掻けども受け入れられず、あんなにも欲した温もりも、もはや、もはや、もはや、要らぬと心が息絶えたもの在り。



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第三十三話 さよならだ

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 黒田高昭が理性的である事は、この場の誰もが胸を痛める要因であった。せめて身の丈に合わない力を抱えての暴走であればと思ったのは、武術に長ける者に限らない。

 押し付けられた不可能に近い理想を目指し、足掻いた高昭にとって家族は、擦り減った精神を捧げるには程遠い存在であった。幾ら周りが高昭の心を癒そうと、求め続けた家族の愛が向けられない以上は高昭の夢は、悪夢は終わらない。

 折れた。諦めた。それだけの話だ。

 そして高昭は、立ち返って気づいたのだ。いつも貰ってばかりの自分の態度は、まるで肉親のようではないか、と。

 高昭は、家族との繋がりと、自身の存在を諦めた。

 それでも誰かが肯定してくれた気がしていた、そんな板垣の皆を、高昭は守れなかった。

 修羅に堕ちたとすれば、それは言うまでもなく丹田を穿たれた時に違いない。その上で高昭はゆっくりとゆっくりと壊れていった。もしも自分の暴走に顧みずに、存在を見失い暴走する弟の為に、恐ろしい力を受け入れて対峙する者がいたとして、仮に性別を女とする。

 なるほど出来すぎた展開であるのだろう、と感じたのは紗由理である。

 十余年。

 それは高昭が苦しんでいた期間である。筆舌に尽くし難い思いで過ごした事は、高昭が改めて語るまでも無い。故に、紗由理自身。自らが対峙するのは、本来であれば逆効果になるのは言うまでも無く、言葉や拳を交えての説得が効果的とも考えない。

 だから望みをかけるとするならば、理性的でなく、感情的な話である。

 道理を考えれば、高昭が家族に絶望するのは当然で、修羅であるのも覆しようがない事実であるのは言うまでも無い。

 それでも、高昭は修羅の道理で物事を考えながらも、友と笑って学業に励み、最後まで家族に愛されようとした。高昭が理性的であり感情で判断してないとすれば、梁山泊だけでなくあの場で肉親や紗由理が殺されないのは不可解であった。それは理性と感情の対称性の証明であるというのなら。高昭が自らの死を望むのが、他人を殺さずに狂気を満たす術だとすれば、それは高昭に願望が生きてたいと思う事と同じであるのだと、紗由理は考える。

 紗由理が今更改心しようが、高昭の奥底に眠る感情を撃ち震わす程に好意的に思われていないと、紗由理自身は断じて思う。

 高昭の感情を引き出し、自ら思い直してもらう為に、紗由理が行うべきは決まっている。

 挑発である。

 愛してると言うよりも先に――愛してるからこそ、高昭が喰いつく挑発をするのである。

「まあ、右腕の時もそうだったけどさ。」

 この挑発は、

「あれだけ近くに居て気づかないなんて薄情だよね。」

 火を見るよりも明らかに、

「友達、考えた方が良いんじゃない?」

 驚くほどに効果覿面であった。

 

 

「それを言える権利が、お前にあるものかぁぁあああ!」

 天使と委員長への侮辱と受け取って、高昭の頭は一瞬にして怒りに染め上げられた。

 高昭は、自分で語るように完璧な人間には程遠い。特に、感情のコントロールに関しては擁護する者無しと言っても良かった。

 幼き頃から、両親に無理難題を押し付けられ、奮起した事に始まり。道端で挑発され、釈迦堂との仕合に首を縦に振った事。由紀江が居候となれば、奥義に関しても張り合って晒して見せた。そして、燕に右手を差し出されれば、決して右手を差し出すことは無かった。

 高昭という男は、煽り耐性ゼロである。

 冷静さを無くせば、インファイターのパターンは明け透けである。一番気持ち良いフィニッシュブローを叩き込む事。それさえすれば、胸の靄は晴れる。

 高昭以外の誰もが、その行動だと分かっていた。

 風の構えより放たれる最速の攻撃は、左のフック。高昭の左腕は紗由理のボディに突き刺さる。加えて打ち出されるのは、右のストレート。常人では見切る事すら不可能なコンビネーションは、傍から見る百代や京でさえ、ボディへの攻撃に気を取られて、高昭の右腕の出始めを見失ってしまう。

 教え通りの完璧な連携。

 故に同門である紗由理には寸分違わず対処されていた。

 初撃を山の構えにて相殺。次いで懐に滑り込む。怒りもあってか、高昭は紗由理への反応に遅れる。

 がら空きの水月に紗由理の掌底が突き刺さる。女性にしては十分でも、高昭と並ぶと一回り小さい紗由理の体。件の『K』を受け入れた紗由理の一撃は、体躯の違いを笑い飛ばすような途轍もない一撃であった。

 巨躯と重さも理由の一つだが、地に足をつけてこれ以上なく巧みに戦う高昭が、攻撃に直撃して浮き上がるというのは、吹き飛ばされるというのは、なかなか見れない光景である。

 見た目だけに非ず、その衝撃波は空気をも揺るがす。紗由理の拳が当たった場所を起点に降り注ぐ雨粒が吹き飛ばされていく。数メートル離れた位置の亜巳でさえ、その空気から伝わる振動は痛さを覚える程である。

「一撃で決められないのは惜しいが、あんな攻撃を腹部に受けていつものように動ける筈がない。」

 吹き飛ばされて尚、立ち上がる高昭を見ながら百代は呟く。如何に武神なれど、先ほどの紗由理の一撃を自分が受けていたらと思うと、ゾッとしない話だった。

「そして『壁』として戦ってない以上、今の直撃は割り切れない。」

 京の評する通りだった。極端に言えば勝ち負けを度外視した『壁』としての戦いとは違い、高昭は負ける訳にはいかないという気迫がある。それは、紗由理への怒りは関係なくあるもので、百代や京と相対する時も、並々ならぬ雰囲気は感じ取れていた。

 勝ちへの執着がある以上、たび重なる連戦の中で消耗している状態で喰らった紗由理の一撃は、肉体面だけでなく精神的にも、高昭にとって手痛い一発なのは間違いなかった。

 一度距離を取ろうとする高昭と、それを逃がさない紗由理。

 何か手を打たれる前に、思考の余地を与えぬように、被弾は覚悟で紗由理は一直線に高昭に向って駆ける。

「見くびるなよ!」

 高昭が吼えると同時に、紗由理は危機を察知して背後から襲う攻撃を避ける。

 狙いが定まっている訳ではない無差別な攻撃は、降り注ぐ『雷』のようでありながらも消える事のなく残り続ける。

 高昭と紗由理を囲うような直方体の外観の中で、絡まった蔦のように、気で作られた有刺鉄線が敷き詰められている。

「なんだい、あれは。」

 亜巳は、素人目でも分かるほどに悍ましく、言い表せない不気味さを帯びたナニカを目の前にして、戦う二人から目を離してしまう。

 異様な外観以上の理由で、百代は眉間に皺を寄せる。

 それは結界であった。

 茨のような結界の構成に触れたならば、体から気を吸いつくす類のもの。だがその強力さは同じような目的で作られる結界とは比べ物に出来ない。この結界は、中に居るというだけで、人間の気を吸収し尽さんばかりの勢いがある。

 普通の人間だったらものの数分で衰弱死する代物。

「あの結界を切り札とするならば私たちも殺されていた可能性もあったという事か。」

「内部、外部からの破壊は無理でも、あれだけの代物、彼の気の総量では全然足りない。それにあれだけの規模は一種類の気では作れない。手伝ってる協力者さえ突き止められれば。」

「無駄だ。」

 京の考えを百代は切り捨てる。

「結界を作っているのは、黒田高昭。ただ一人だ。」

「少なく見積もって三人は必要な結界を?」

「ああ、奴が態々ジジイや師範代、ワン子、そして私たちと戦っていたのは、他者の気を保持する為だ。内部から気を吸い取り維持が可能な構造なら、発動さえするのに必要な数、気を揃えれば良い。恐らく、丹田のない奴だからこそ出来る裏技だ。」

 そして、百代は悔いるように戦う二人を見つめる。既に介入の方法は無くなり、高昭の策に嵌っていた事を思い知るのみである。それ以外に出来る事は、何一つ無く、高昭と紗由理だけが、決着をつける事を許された。

「やはり初めから、姉に手をかける心算で……。」

 それでも、と亜巳は皆で笑いあった過去を思い出しながら、二人の無事を祈るのだった。祈るしかなかった。

 

 

 ニューロンのように張り巡らされた気の茨は、その棘の鋭さから紗由理だけでなく高昭にも多少の傷を負わせると思われたが、縦横無尽に駆け回る高昭が傷ついた様子は見られない。

「『壁』を放棄した俺が、あんなのをいつまでも使うようでは笑い種だろう。」

 今日この日まで使い、三次元の戦いを可能としていた技を、高昭は不要と断じた。元は誰かの為に生み出した技は、高昭にとって心の重荷でしかない。

 その放棄を決断させたのは、天使を喜ばせる為に作った技を捨てさせたのは、紗由理の煽るような言葉だった。それは、良し悪しに目を瞑れば、高昭の自発的行動を後押ししたと受け止めることも出来る。だが、死に近づく高昭に一歩踏み出させた事が、最善ではないと言い切れるのは事実であった。

「こんな小細工程度じゃ負けてあげる訳にはいかないわね。」

「……そういう態度まま死にたいならそうすれば良い。」

 高昭が紗由理の視界から消える。蓄積したダメージや疲労があって尚、身体能力頼りの紗由理では見切れない移動速度で、高昭は攻撃の機会を伺う。高昭が足場と使えるも紗由理には行動を阻害するばかりの邪魔な結界の一部分。

 不用意に紗由理が半身引いた時、高昭の飛び掛かりが視界に入る。

 全身の重みがかかる飛び蹴りは紗由理の体を大きく吹き飛ばす。周りの気で形成された茨にぶつかり、宛らプロレスのロープを使うように体勢を整えるが、紗由理が反撃に出る前に高昭は紗由理の認識できない攪乱を再開する。

「高昭が弱ってるのか。それとも。」

 まともに蹴りを喰らったにも拘わらず、紗由理は無傷だった。『K』の規格外な気の総量は、纏う紗由理に、傷一つ許さない。

「だが、それが例え何千、何万と俺の攻撃を防ごうが、果てがあるなら!」

 二発、三発と被弾するが、紗由理にダメージは無い。それどころか、紗由理自身も自らの気が総じて減っているのかすら分からない。

 高昭が本気で、斧を研いで針にするような行いで紗由理を打倒すると考えると、先ほどの一撃は十分な楔である。良い一撃を貰った状態で精細な行動を続けるのは難しい。

「少しがっかりした。私の前言を撤回させる為に戦ってるのに、時間が掛かっても良いような戦術なんてね。頭捻ってそんな程度しか思いつかないから、皆を守れなかったんでしょうに。」

 どこまでも、自分を棚に上げた紗由理の言い回し――演技。

 既に動機も振る舞いも一貫性のない高昭であっても、家族への失望と怒りは自戒の念と同じ程に心に根付いているのは変わりようがない。故に紗由理の言葉は劇薬に等しく、高昭への否定の言葉は特に、逆鱗に触れる事に他ならない。

 そもそも、気が長いとは言い難い高昭が、先の戦術を完遂する可能性は低く、遅かれ速かれ正面突破に切り替えるのは明白。

「黙れ!」

 挑発を受けるや否や紗由理の頭上から飛び掛かる高昭。それは紗由理の予想通りの展開。

「変則、火の構え!」

 高昭は紗由理を射程内に捉える前に、横薙ぎに吹き飛ばされる。巨躯による圧倒的リーチ差をひっくり返す紗由理の秘策。

 紗由理が握るは即席の鈍器。どことなく鎌に似たシルエットは、両手で振るうには小さく、紗由理の得意とする鎖鎌よりは大振りである。

 病衣を気で固めたソレは、ポテンシャルを十分に発揮した代物。上着を脱ぎ、上半身が下着姿であっても、間抜けさは微塵も無くその異様さは失われない。高密度の気を、病衣を媒介として留めた力業は、全くの非効率的でありながら、言うまでも無く、強力であった。

 高昭を吹き飛ばすついでに茨のような結界の一部を、攻撃の軌道上にあった全てを引きちぎった。気を吸い込む結界を、気の塊で壊す。それがどれだけ荒唐無稽であるか。仮にも武神が介入を諦めるような代物を、紗由理は力業で壊して見せた。

 体の奥に眠っていたのは、間違いなく化け物。

 そして、そのポテンシャルから繰り出されるのは、黒田の変則奥義。歴代の黒田でも珍しい獲物を主軸に使うスタイルに合わせた風林火山。如何に改悪であっても、戦闘に耐えうる完成度である。

「高昭に届きさえすれば。」

 今の一撃で、吹き飛ばされた高昭と紗由理を隔てるものは無くなる。高昭が立ち上がるよりも先に、紗由理が動き出す。

 単なる突進は、的の大きい高昭への有効な一手。高昭の攻撃が紗由理の装甲を貫けない以上は、接近戦になればなるほど紗由理に天秤が傾く。

 故に紗由理は、気の茨へと押し付けるように高昭にぶつかる。

「これで逃げ場はない。この体勢で私への有効打はないでしょう!」

 両手に自由があろうが、腹部から突き上げられるように拘束されてしまえば、高昭の攻め手は潰れる。あれだけ頭に血が上っても『陰撃ち』を使わなかったのは、使えない理由があるが故。

 梁山泊には通じても、項羽には油断が無ければ通じない。

 そんな事は高昭自身も分かっていた。

「技術も半端な俺は、初代のように気の防御を逆位相で相殺、出来ない。」

 腹を押し上げられながらも、高昭は声を絞り出す。

「防御不可の殺人拳を後世に伝えぬように、自らの丹田を潰し、二代目に『渦雷』を編み出させて、気を使用する奥義の存在を抹消。子孫に二度と過ちを犯させまいとした、高潔な初代が描いた理想から生まれたものとは程遠い。」

 高昭は、ゆっくりと後ろ動く。

 結界の一部を通り抜けた高昭。まるで気の茨が高昭の体を貫通しているかのような目を疑う出来事。紗由理は目の前に光景が信じられないのは、自分が決してすり抜ける事が出来ないからである。

 高昭だけが押し付けられていた気の茨をすり抜けて、紗由理は動きを阻まれ、追う事が出来ない。

 生物が気を少なからず持つ以上は、決して通り抜けられない筈であった。

「力だけの素人にもこんなザマで、普通にすれば人生かけても『壁』止まりが関の山なんだろうが、それは、真っ当に生きればの話だ。」

 襲い掛かってくる高昭を、紗由理は何度も迎え撃つ。 

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度だって。

 何度だって高昭は立ち上がる。

「なんて事はない。それをすり抜けるのは、気がない物質であれば良い。」

 空中戦、攪乱を止め、地上で戦う高昭は、結界を全て通り抜ける。それは高昭の体に気が通わない証拠であり、聞くまでも無く、紗由理はそれが分かっていた。

 唯一傷一つない右腕が、やはり動きが鈍い。それは高昭の騙し騙しの右腕の運用が出来なくなっている証拠。

 丹田の持たない人でなし。高昭の修羅たる理由。

「もう止めてよ。貴方には聞こえないの?亜巳は泣いてるのよ。私は憎まれて当然かも知れないけど、高昭は亜巳や竜兵くん、辰子ちゃん、天ちゃんを悲しませる為にやってるんじゃないでしょう。皆、高昭の為に、高昭を止めるために必死で――。」

「目を背けるのは、俺だけじゃない。ボロボロなのも、だ。」

 血を流す高昭は言うまでも無く怪我を負っているが、紗由理もまた、外気に晒す肌には多くの痣が浮かんでいる。

「人間が可能な最大限を黒田の奥義とするのなら、その出力を超えて使えば何も起きない訳がない。それは嘗ての先代が犯した過ちと同じだ。奴は武道家としての未来を絶たれたが、父子揃って同じ道を歩むとはな。」

「父さんが……。」

「強大過ぎる才能、気の総量を暴走させれば一週間で死に至る?馬鹿を言うな。そんな使い方をすれば一日と掛からない!」

 高昭が声を荒げると、紗由理は気圧され、一歩引いてしまう。

「故に!俺が殺す。死なせるものか、殺してやる。」

「戦いを止めれば全部済む話でしょ!?」

 接近する高昭に、紗由理は両手を下ろして見せた。紗由理から仕掛けた戦いとはいえ、散々に高昭の感情を揺さぶり、要所を語らないとは言っても、本音は引き出せた。

 紗由理が力を使わないのならば、高昭が拳を振るって殺しにかかる理由も無いと考えたからである。

 ――それに、高昭は私の防御を突破出来ない。

 その慢心を以てして受けた高昭の攻撃。

 紗由理の体を貫き通し、痺れるくらいに、目が霞む程の衝撃が襲い掛かる。

「えっ?」

 紗由理から呆けた声が漏れる。

 吹き飛ばされ、気の茨に叩きつけられる紗由理は、それでも実感が湧かなかった。体に上手く衝撃が流された事よりも、装甲も丸ごと打ち壊された事への理解が出来なかった。

 その装甲は確かに高昭の全力すら防ぐ筈で、全てのリソースを集中していた。だというのに呆気なく防御は打ち崩されてしまった。

 倒れこんでいる紗由理の首を掴み、高昭は持ち上げる。

「溜め込んでいた内、十六発分の衝撃だ。俺の全力よりも効いただろ。」

 高昭が態々攻撃を喰らっていたのは体内に衝撃を蓄積し、紗由理へと攻撃を届かせる為であった。数十発の攻撃を、そのまま体中で乱反射させ、留める高昭の皮膚は、紗由理とは比べ物にならない程の傷と内出血の痕が残る。紗由理は肌と道着の隙間からそれを見たが、喉を絞められて声を出せない。

 体と敵を阻む鎧が砕かれ、既に触れられてしまっている。紗由理の理解に映るのは、結界の外で懸命に声をかけ続ける亜巳。そして、亜巳を結界に触れさせないように抑え込む百代と京の姿。

「あの時丹田を潰された俺の体を走り廻った暴威が、体に衝撃を伝える感覚を染みつかせた。壊れた右手のせいで俺は、理性を持ちながらも体の動かし方を知っていかなければならなかった。本来の技術的な進化から生まれたものではない。これは人ならざる者の、忌むべき力だ。これも、後世に残してはならない陰撃ちだ。」

 そして、覚悟を決めるように目を瞑る高昭。

 修羅へ堕ちようと、どんな仕打ちを受けようと、高昭の思いは決して変わらなかった。

 結界の上部へと、紗由理を掴んだまま移動する高昭。結界の中であるのに、紗由理の頬に落ちた水滴は、外に振る雨には程遠い、血の通った暖かいものであった。

 そして高昭は諸共に飛び降りて地面へと紗由理を叩きつける。

 ――禁伝・陰撃ち。

 高昭のみが使うそれは、自由落下と、この戦いの衝撃を全て掌握する。結界が蓄えた気は既に、高昭に触れられている間に、紗由理の体内に形成された小さな結界へと使われている。

 それは、高昭のような修羅を生み出さないように行われた処置である。

 紗由理の腹部に手を当てた高昭。

 地面へと二人が落ちる寸前に、紗由理にしか聞こえぬように、高昭は呟ていた。

「姉さん、さよならだ。」

 

 

 高昭は間違いなく、『黒田紗由理』を殺した。

 丹田に穴を開け、『K』としての証明を失った紗由理は、間違いなく殺されたと言って差し支えなかった。一つの未来は殺された。

 体内から湧き上がる爆発は、いつの間に作られていた小さな結界で指向性を持って放出される。それは、紗由理を傷つける事は無いが、正面の全てを、天空に向けて吹き飛ばしてしまうだろう。

 結界も、高昭も全て。

「高昭、私は!」

 紗由理が伸ばした腕は、空を切る。光の奔流に呑み込まれた高昭を、紗由理から視認する事は不可能となった。

 たった数秒程度の出来事。川神市全域から観測された光の筋は、雨雲の一部に少しだけ穴を開け、次第に消えていった。

 仰向けの紗由理に雨が落ちてくる。

 頭を下に落ちる高昭の姿が遠目に、何とか確認できても、余りにも遠くまで飛ばされていて、百代ですら受け止める事が出来ない距離。

 紗由理は、手を伸ばした。

 もう届かないと知っても必死に、余波で上手く動かない体に鞭を打って、上体を起こして、伸ばした。

「馬鹿だな、私。止める止めないなんてどうでも良かったのに。ただ一言。あの子に、高昭に、愛してるって、大好きだよって言ってあげられなかった。」

「紗由理……。」

 亜巳が紗由理に近づくと、紗由理は亜巳に抱き着いて嗚咽を漏らす。

「本当に、自分勝手で、嫌な子だね。私なんかの為に、ああ。うわぁああ。」

 紛れもない本心であった紗由理の言葉。お互いに理解をする事は無くても、紗由理にとって高昭は大好きな弟であった。

 互いに一方通行の好意を持ちながら、本人たちはまるで通じ合えない。それでも、亜巳は二人が家族として大切に思っている事を知っていて、だというのにすれ違う二人を前にして何も出来なかった。

「少しは大人になれたと思ってたんだけどね。」

 亜巳が思い出すのは、大昔に紗由理と喧嘩した時の、初めて会った時の事。あの時、友人はどのように自分達の仲を取り持っていたのだろうか、と懐かしむ。

 そうは言っても、亜巳は自分のやり方しか知らない。

 泣きわめく紗由理の頭を撫でると、亜巳は溜息を吐きながら答える。

「馬鹿だね。あんたがボコスカ殴っても無事だったんだからあの程度で高昭くんが死ぬわけないだろう。」

「ふぇ?」

 それは、きっと紗由理に言い聞かせたのではない。高昭は死んでいないと思い込まないと、亜巳も心が押しつぶされてしまいそうだから。信じるしかないのだ。

 亜巳は紗由理の手を引いて、無理矢理立ち上がらせると地面に落ちた病衣を投げ渡す。

「ほら、さっさと連れ戻しに行くよ。」

「……うん。」

「伝えたい事あるんだろう?」

「うん!」

 

 

 

 

 

 

 もし、気付かなかっただけと言うのなら、自分もこんな形でしか愛を示せないのだろう。

 何も受け取らなくたって、こんなにも別れが惜しいのは、『家族』を求めたんじゃなく、貴方たちを求めたから。




格ゲー用語説明

ストライクドラゴンインパクト……アルカナハートのキャラクター、天之原 みのりの超必殺技。数回画面端を往復して叩きつけながら上昇、その後画面端を擦りながら叩き落す。その際のセリフが『さよならだ』である。


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第三十四話 BreakThrough

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 暗雲を晴らすかのような光の奔流が、見る者へ与えたのは、前向きな感情ではなかった。楊志と戦う天使やクリスが見たのは、その光が消えた後に地面へと落下する単なる人影と言い切るには大きすぎる姿。高昭の姿である。

 建物が倒壊する音もせずに落下した事を確認できる。高昭が道路に叩きつけられたのだと理解するに至るのは容易であった。

 猶予は一刻も無い。

「いい加減にしつこいんだよ!」

 何度目になるかわからない攻撃を楊志に止められ、天使の焦りはこれ以上になく高まっている。もう二度と、会えなくなってしまうなんて許せないから、天使はこんなところで踏みとどまっている訳にはいかない。

「あんな高さから落ちて、助かってる訳ないでしょ。馬鹿だね。」

 楊志は、クリスと天使の攻撃を捌きながら冷めた目で二人を見る。

「馬鹿はてめえだ。」

 天使が繰り出した攻撃は、楊志の右肩に直撃する。楊志の疲弊は既に限界に近く、荒れた天気の中で二人を相手に戦い続けるのは、無茶になっている。

「ぐぅっ!」

「高くんが誰かに後悔を残す死に方する訳ねえだろ。寿命か、自殺とかじゃなきゃ殺しても死なねえよ。」

「今日の天気なら可能性としては、どざえもんだろうな。」

「……。まあそんなところだ。」

 クリスの言葉は、天使は理解が出来なかったが、同意をしておく。

 一応の大勢は決まった。人数の利に加えて、十分な一撃が入った以上は、決着は時間の問題である。

 一層、天使が目の前の敵に集中しようとしたところで、楊志の表情が崩れる。痛みではない。安堵したような表情。

「こっちは、昨日の意趣返し。」

「天、危ない!」

 クリスが天使を守るように立ちふさがると、楊志とは別の方向から切りかかって来る何者かの攻撃を喰らってしまう。

 浅く受け、返しに蹴りを喰らわせたが、クリスも既に十分に疲弊している状態。この傷は、無視できない痛手となってしまう。

「増援、か。」

 挟まれる形になってしまった天使とクリス。対する増援は、楊志と比べれば実力は数段劣るものの梁山泊が三人。人数比が逆転し、加えて疲労の有無が戦局に大きな影響を及ぼすというのは、他でもない天使とクリスが楊志相手を打倒出来た理由であり、敗色は濃厚になった。

 恐らく、天使が一人突破しようとも直ぐに追いつかれてしまう。

「こうなったら。」

「駄目だ。天は力を温存して、使うべき時、使うべき人を考えろ。」

「でもこのままじゃ。」

 全力の放出で辺り一帯を焼き掃ってしまおうとする天使を、クリスは止める。

 クリスが述べるのは、飽くまでも理想論。天使に疲労をこれ以上溜めてしまえば、黒田高昭に辿り着く事も難しいのは事実。だが、このまま手をこまねいてはここで全てが終わってしまう。

 仮に辿り着いたとしても、天使が持つのは、切り札も万策も無い。ただ、高昭に向ける気持ちのみ。それでも、その踏み出した一歩が、他の家族を動かし、クリスを動かしたのは真実である。

 黒田高昭を、信じたいという決心を抱かせたのは、板垣天使の一歩である。

「なんだ?」

 楊志が声を上げたのは、封鎖されている筈のこの街に、この場所に向かってくるエンジン音が聞こえたからだ。雨を照らすヘッドライトは、真っ直ぐに伸びる。そして街灯はその人物を照らし出す。

 バイクの上で髪を靡かせる女、二人。

 一人は、この二日で川神市一有名な女。項羽――またの名を葉桜清楚。

 もう一人は、九鬼であり天使の友人である女。九鬼紋白。

「どけぇ!」

 強引な介入と同時に項羽は、まず一人の敵を吹き飛ばした。

「ここは我と清楚が引き受ける。天は構わず行くべきところに!」

 構えを取ることもなく、紋白は腕を組み、天使とクリスに背を向けて話す。実際、清楚が居ればそれだけで、他の武力が必要ない程に十分過ぎる戦力だった。

「でも、九鬼は手を出さないんじゃ。」

 その疑問は当然のもの。天使が病院で偶然に聞いたように、未だ九鬼が高昭に関して手を出す事は許されていない。紋白は鼻で笑って、自信に満ち溢れた声で反論する。

「黒田高昭を助けるなとは言われている。が、それを助けようとする者を助けてはならないとは言われていない。だから、こっちも援軍が来てる。」

「さっさと行け。奴を救って来い。俺は勝ち逃げは許さないからな。」

 項羽として語り掛ける清楚にも後押しされ、天使は駆けだす。

「行かせるわけには――。」

 立ちはだかろうとする楊志を止めたのは、クリスの一閃。

「殿は自分がやらせてもらう。天は、天の戦いを。」

「おう!」

 天使は、走った。振り返らず、高昭を目指して走った。今目指す場所は、先程の落下を見ていたという曖昧な情報でしか知り得ない。

 場所だけではない。高昭に何があって、何をしたいのかも知らない。修羅というモノも知らない。黒田家の事も、紗由理の事もそこまで詳しくない。

 ただ、天使は高昭が好き。

 他の何より、一番だから、天使は理由が無くとも高昭を目指す。会って何かをする必要は無く、天使は傍に高昭が居て欲しいだけ。だから天使は諦めない。

 

 

 高昭の墜落地点に、より近くを進む由紀江達、その行く手を阻むのはより多くの障害であるものの、大した足止めにはならない。

「量ばかりはわんさかと……。」

 マルギッテがぼやくように、脅威は殆どなくとも数は膨大。マガツクッキーと梁山泊は単純に道を塞ぎ、倒したとしてもその残骸、気絶した体が道を閉ざす。一般人二人を抱える状況において、一分一秒を急がなければいけない状況で、意図はしていない筈である敵の効果的な作戦に焦りが生まれていた。

 マガツクッキーに制空権を取られている以上は、無防備のまま戦闘が出来ない二人を抱えて民家の上を飛んで移動する事は少々リスクが高い。

 雨に濡れる携帯電話の画面を拭きながら、委員長が届いたメールの確認をする。

「援軍に源氏の三人が来てるらしいが、余裕ないよなぁ。」

「持ちこたえるのは容易いが、それでは彼には辿り着けないと分かりなさい。」

 委員長のボヤキに対し、マルギッテは冷静に返す。

 そして、近くの塀をトンファーで殴り、瓦礫と変える。これを合図に、他の全員が一気に動く。

 マガツクッキーは高昭の母を抱え、委員長と共に来た道に翻す。

 由紀江は刀を引き抜くと、居合の要領で以って斬撃を飛ばす。上空のマガツクッキーの何体かを墜落させると、その破片は崩れた瓦礫と共に追手の足止めになる。

「マルギッテさん。この場は任せます。」

「ふん。」

 鼻を鳴らす事で、返事としたマルギッテは、即席のバリケードを乗り越えて来る輩を次々に倒していく。無駄にかき集めた雑兵は一人倒されると更に後続の邪魔になる。

 こちらに向かう増援が、遠くから上空のマガツクッキーを狙撃しながら近づいている事もあり、この場は十分マルギッテで抑えられた。

 正面突破よりも迂回した方が早いと判断した由紀江と委員長は、高昭の動きに先回りすべく走る。

「あいつがどれだけ振り切った気になっても、絶対に割り切れる訳がない。未練タラタラの筈だ。」

「高昭くんは、増水した川へ身投げで命を絶つのが最終的な目的としても――。」

「ああ、絶対に黒田家に立ち寄る。あいつはそういう奴だ。」

 最短で高昭の落下地点を目指していても、妨害された場合を考えて行軍を進めていたのは幸いであった。本来であれば、流石に気を失うか、暫く動けない筈である高昭に一直線に走るのが最適である。だが、一度動いてしまえば、一般人では追いつけない。それを見越しての先読みの行動。

 援軍の知らせが無ければ無茶な行動であっても、場を持たせる戦いに変わってしまえば、マルギッテ一人でも十分にやりようはある。

「こういう時、力になれないのは歯痒さがあるものだな。」

 戦闘の音を聞きながら、委員長は独り言を漏らす。

「一朝一夕で身につかないものを思って後悔するくらいなら普段の事にもっと気をかけて取り組めばいいんです。」

「滅茶苦茶真面目にやってるだろ?皆が望むままに。」

「じゃあ、刀に興味があるとか言ってたのも、私の機嫌を窺って。でしょうか?」

「少なくともまゆっちが居なきゃ切っ掛けも無かっただろうな。」

 雨に揺れた前髪が目にかからないように抑えながら、委員長は言葉を続ける。

「俺が大衆寄りで『委員長』だから、原因は兎も角、結果は綺麗である方が望ましいとは思う。だが、高昭は事の初めから終わりまで全てが綺麗事じゃないと気が済まないみたいで正直面倒くさい。」

 委員長が高昭への苦言を言うと、由紀江は溜息を吐く。理由は単純に、自分の質問が躱された事に対してと、委員長の考えの浅い口の悪さに対してである。だが委員長の言葉が折角立ち直りかけた高昭の母親の地雷を踏みぬいた。

「やっぱり私たちのせいなのよね。」

 浮き沈みの激しい性格は――というより沈みしかしないような性格は、高昭に似ているなと、委員長は感じた。関係が薄かったとは言っても親子の繋がりがあるのだな、と思う一方で、息子と同じで面倒くさい人だと感じたのは、委員長だけに止まらない。きっと由紀江もそうだろうと、委員長が目を向けると、自分は関係ないように、手乗りした松風に話しかける由紀江が目に入る。

 はしごを外された委員長は一人で応対しなければならなくなった。

「それでも、あいつだって多少の成長はしてるんですよ。ちょっと現実が分かってきているみたいです。」

 自分の失敗と関係なく、息子が自立している風に言われ、母親として少し安心したのか、顔に血の色を通わせた高昭の母親は、まるで息子の学校の様子を窺うように問いかける。

「それは、どんな風に?」

「確証があるようなので、私も聞いておきたいです。」

 視線を浴びる委員長は普段より真面目な顔で話し始める。

「自分は完璧になれない。だから特別な皆の為の自己犠牲。証拠が全て消え去った今、誰が『K』であるか証明不可能。その言葉すら、誰かが口にしなければ明るみに出る事もない。故に、自分の姉が一般人として暮らせるように、両親の過ちが露呈しないように、あいつは単なる『修羅』として暴れて、咎を全て被って死ぬつもりなんだ。」

 あらゆる全てが完璧なものという理想から、少なくとも自分は完璧ではないという現実を高昭が知ったと、委員長は断じた。

「……それでも、世界は、周りは完璧であるというのは、高昭くんの願望でしょうか。」

「或いは、あいつの目には本当にそう見えてたのかもしれない。家族も板垣たちも俺らも誰もかれもが。」

 側頭部に手を添えながら渋い顔をする委員長。

「そこまで考えが及んでいるとして、考察するまでも無く高昭が死にたいために並べ立てた理由の解明なんざする価値がない、半分は真実だろうが半分は妄言に近い。俺らが考えるべきは、あいつの心を揺さぶれる行動。」

「若しくは、それが出来る人物が来るまでの時間稼ぎ。」

 

 

 時を同じく、高昭に一番遠い戦場。他と同じく両陣営に増援の兆しが表れていた。先行して近づいてきた梁山泊の下っ端は飛び掛かり、辰子に傷一つ負わせる事なく吹き飛ばされる。

 史進にして流石と言わざるを得ない辰子の防御力は、疲弊しているとはいえ、直撃さえしのげば史進の攻撃を受けても、両の手で数える内に倒れる事がないと断言出来る程度であった。

 竜兵と林冲は、この戦いが始まる前からの傷も深く、既に互いがボロボロになっている。ルール無用の泥仕合に転じていく中で何よりも目を引くのは、純粋な武闘家であり、傭兵である林冲が、竜兵のチンピラ染みた戦い方の土俵まで降りてきている所である。如何に二人が共に傷を負っているとはいえ、構えが崩れる程ではない。

 だとすれば何故、死力を解き放たないのか。

 理由は単純であって、正々堂々、である。フェアな喧嘩をする為の下拵え。

 互いの増援を黙らせてからが本当の勝負と考えているのは林冲。その為に、泥仕合の三文芝居を打って体力の温存に努めている。

 それを横目に眺める辰子と史進も、増援を片付けるまでは様子見であった。

「死ねぇ!」

 竜兵の突き出す拳は、林冲よりも遥か後方へ狙いの定めた拳。

 それを察した林冲も、竜兵の背後へと注意を向ける。

「助太刀に来たよん……。って危な!」

 上空から降り立ったのは松永燕。その頭を撃ち抜かんとする竜兵の拳を間一髪で避ける姿は、咄嗟であるのに流石の一言に尽きる程である。

 一方で、林冲は同様に梁山泊の増援に仕掛け、殲滅せしめた。準備万端とばかりに構えて待つ林冲。

 それを見て竜兵は、燕に背を向けて林冲へと標的を戻す。

「邪魔だ。どっか行ってろ。」

「何を馬鹿なこと言ってるのかな。私に任せて二人とも彼を助けに行きなって。」

「ガキじゃねえんだよ、俺もあいつも。誰かに説教される筋合いは無いし、責任くらいはてめえで取れる。」

 馬耳東風の竜兵。燕は顔に青筋を浮かべながらも渋々引き下がる。

 矢張り、四人。この場で決着をつけるべきが相対する。間合いは林冲に有利に働く程度であるが、そんなものは、黒田の奥義を真似る竜兵には小さな障害に等しい。

 全員がボロボロの体で、優劣は間違いなく気力が大きな要因となる。

 ルール無用のタッグマッチで、観客は増援に来たはずの面々。手加減して迎撃された梁山泊も、燕も、茶化す事はしなかったが、彼らの目的が分かると、もう殆ど野次馬でしかない。

 林冲が先に仕掛ける。一度も敵に流れを渡さない為の連撃を繰り出す。十八番である槍の連撃は身を打つ雨よりも激しく竜兵に襲い掛かる。

 一振り目を避ける。続く二、三撃目も避ける。今までとは違う体捌きで、竜兵は攻撃を避けていく。

「隠し玉!荒削りとはいえ、黒田の奥義か!」

「使えねえなんざ一言も言ってねえからなぁ!」

 ――林の構え。

 回避の奥義たるそれは、当然攻撃とは大違いな動き。攻撃よりも使う機会が多く、そして同時に、弱点を突かれれば瓦解する脆さがある。

 竜兵が模倣した不出来な奥義は、先に見せた技と同じく不完全で、大きく、体への負担を押し付ける。軋むのは当然。竜兵の体を濡らすのは、雨だけではなく、やせ我慢を示す冷や汗も含まれるのは対峙する林冲には十分に分かった。

「本家本元よりも的が小さい上に、視界が悪いな!」

「アイツと比べりゃ完成度は劣るがな――。」

 竜兵は避けると同時に構えを切り替える。流れるように『風の構え』になった次の瞬間には、放たれた拳が、林冲の腹部に突き刺さっていた。

「それでも十分にリーチと一撃の重さはあるんだぜ。」

「しかし、この間合いなら!」

 苦痛に顔を歪めながらも、林冲は握る槍を的確に竜兵の脇腹に突き立てる。浅いながらも傷を負わせると、怯んだ隙に林冲は竜兵を蹴り、互いの距離は更に離れる。

「痛ってーな、クソが!」

 大声を出して威嚇する竜兵であるが、対する林冲の顔は涼しいものであった。互いに受けたダメージは殆ど同じ、若しくは林冲の方が直撃を受けた分の不利を背負う。

 しかし、無理な動きで自分の体を虐めながら戦う竜兵の蓄積した疲労と負荷は限界に達していてもおかしくは無かった。

「恥ずべきなのかも知れない。こんなにも思っている人達がいる黒田高昭を見殺しにしようとしていた過去の自分を。」

 だから、林冲が勝ちに手を伸ばすのは、高昭が悪ではないと確信するからだった。死なせてはいけないと思うのは、生来の良心と武人としての心得によるところが大きい。故に林冲は戦う。

 主張があるのは竜兵と林冲。

 それでも急いているのは、辰子であるのは間違いなかった。竜兵とは違い割り切れず、どちらかと言えば紗由理にべったりだった辰子は、高昭をきちんと見ていなかったという負い目がある。

 そして、比較的怪我が軽く、竜兵の姉であるという責任。それら諸々の理由から、辰子が取った行動は、竜兵のターゲットに集中して攻撃を集める事だった。

「うおおおおおお!」

 林冲も史進も巻き込むべく辰子に地面へと叩きつけられたバス停は、コンクリート部分に亀裂を走らせながらも、十分な頑丈さを発揮する。

 その攻撃より生じる衝撃は、水飛沫だけに止まらず、砕いた道路を石礫として敵へと飛来させる。このパワーに加え、史進の攻撃を喰らって尚パフォーマンスを落とさない頑丈さが辰子の長所。

「リン、そっちの野郎よりこっちのが数段ヤバイ!」

 棒を回転させ、二人分の石礫を弾きながら、史進が林冲に告げたのは、手負いの虎よりも恐ろしい者の存在。この場にいる怪我人の一人でありながら、普段と変わらぬ動きを見せる辰子は、昨日背中に直撃を受けた人間であるが、武器を振り回す姿に背筋へのダメージを感じさせない。

 故に二人で対処するしかない。幸いにも竜兵は吹き飛ばされたままで距離はまだ遠く、辰子は合流を待つ素振りが全くない。そして、『壁』としての黒田高昭に戦い方を教わった竜兵や辰子への対抗策の一つとして、数的イニシアチブを取る事だと史進は判断する。

 事実として、一対一の戦いを前提とする方法では、梁山泊の連携を崩すのが難しい。

 それは、辰子も承知の上だった。

 バス停という鈍器を、林冲に投げながらも、辰子は一直線に史進へと駆けていく。横やりの一発くらいであれば喰らっても構わない。そういう捨て身姿勢による事実上の一騎打ちを成し遂げるべく、辰子は走っていった。

 瞬時に、林冲を狙う事が不可能と悟った辰子は、史進を倒す事を選ぶ。

「取った!」

 間合いに入った辰子は、勝利を確信したかのように、そう叫ぶ。大きく右足を踏み込みながら、辰子が見開いた双眸は史進を確かに捉えていた。

 しかし、その動きは史進に見覚えがある動き。即ち、軸足を踏み込む様は回し蹴りに近しく、最早語るまでも無く黒田の技。竜兵が使えるのなら、辰子が『火の構え』を出来ない道理は無いと、史進は断定した。

(一撃で決めに来たのなら失策!)

 不意をつけないのならば史進が、黒田の奥義なら兎も角、贋作に反応できない訳がなかった。攻撃に合わせたカウンター、回し蹴り出さんと伸ばされた足の膝を折り砕かんと握る棒に史進が力を込めた。

 極限まで高めた集中の中で、不意に史進は気づいてしまった。

 如何に男と女でのリーチ差があろうと、辰子のそれは、踏み込みは、余りに深すぎた。

「っあ。」

 どちらが漏らした声であったか。両者が崩れ落ち、消え入るようなうめき声は雨音にかき消される。

 背中に致命傷を抱えた辰子による決死の鉄山靠。それは、限りなく低かったこの戦いの勝利を手繰り寄せるために放たれた魂の一撃。

 両足で立ち、残ったのは林冲と竜兵であった。

「この喧嘩、どうやら俺の勝ちみたいだな。」

 竜兵は自信満々に笑って、林冲に向かって断言した。

「ハッタリじゃないぜ。何せ必勝パターンが既に思いついてるからな。」

「今更侮ったりはしない。」

 槍を構える林冲の険しい顔つきを見て、矢張り竜兵は笑う。

 余裕を見せる竜兵だが、体は既に限界が近い。それは林冲も同様で、次が最後の攻防である事は、何となく、経験から二人ともが感じ取っていた。

 動いたのは、当然、竜兵。

 姿勢を低く走る様を見ても林冲は眉一つ動かさない。予想を立てるまでも無く経験から導き出した答え。こういうタイプの輩は、最後は絶対に信頼のおける技を出すという事。竜兵が信頼を置くのは、技でも流派でも何でもない、家族。

 目の前の男は、絶対に、最後は、黒田の技で決めに来ると、林冲は確信していた。

 そう、『最後の最後』はそうすると確信していた。

「だぁああああ!」

 竜兵が地を蹴る。

 打撃に対する防御を固めて、槍を盾にしている林冲の、腰を槍諸共、捕まえた。そう、竜兵にとって最後とは、高昭を一発ぶん殴る時である。

 故に竜兵は、今、投げ技を選んだ。

 林冲は咄嗟に片腕を槍から離すと、竜兵の拘束に捕まる前に、腕一本だけ逃れる事が出来た。そして、投げを決めに来た竜兵の後頭部を殴打する。

 意識を刈り取る為に放たれた林冲の攻撃を受けて、竜兵の体が、フラリと傾く。

 傾くが、落ちる事は無い。

「浅かったか!」

 林冲は、竜兵の意識を刈り取るまで殴り続ける。二度、三度、殴られても、竜兵は意識を落とす事は無い。

 林冲の読みは完全に当たっていた。それでもこの瞬間において、竜兵の思いは、気迫は、林冲の実力を、確実に凌駕している。

「そうだ、お前らに負けっぱなしで、ここで倒れたら二回目だぞ。二度も、意識失って……。」

 竜兵は頭から血が流れようと、動きは止まらない。

「あいつを止められないようじゃ、かっこ悪ぃだろうがよ!」

 バックドロップで逆に林冲の意識を刈り取る竜兵。ふらつくも、決して膝をつく事は無かった。勝利を掴んだものの竜兵も重症である。だが、休む間もなく、竜兵は辰子を担いで歩き出す。

 高昭の居場所の見当すらつかないが、竜兵は足を動かさずにいられる性分ではなかった。故に、肩を掴んで止めようとする手を振りほどき、歩み進める。

「ちょっと!傷の手当するから止まりなって。」

 そういえば、こんな奴が居たな、と燕に視線を送る竜兵の顔はこれ以上になく歪んでいた。痛みと、面倒くさい女に絡まれた事が原因である。

「肩触んじゃねえよ気持ち悪い。」

「その気持ち悪いって言葉。超絶美少女、燕ちゃんに言ってるのかな?」

「女に興味は無いからな。見かけなんざどうでもいいんだよ。触るなどっかいけ。」

 静止を振り切って動き出そうとする竜兵。

 燕は、その背中に声をかける。

「彼の元に行ける方法、知ってるんだけどなー。」

 白々しく、しかしこの話自体は燕にも利があるが故にはっきりした声が、竜兵の耳に確かに聞こえた。

 振り向いた竜兵の目は、傷を負って尚、死んでいない。

 死んではいないが、普段であればこういう言葉をかけられれば直ぐにでも胸倉を掴む男は、姉を担いで歩くのがやっとであるようだった。

「意地悪する気はないからねん。だから取り合えず……。」

 竜兵は、目の前の燕が突きつける腕、その腕についた『平蜘蛛』をじっと見ている。

「応急処置、しよっか。」

 

 

 

 

 

 

 彼を止めんと行動する者、彼の望みを叶えんとする者、多くの思いが彼に向いているのは今日この時。

 故に、彼は問うのだろう。自らの行いは、間違っていたのか、と。



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第三十五話 友だからこそ

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 目を覚ました時、ただ、寒いと思った。

 姉さんとの決着を終えて、適当なところに墜落し、『陰撃ち』で衝撃を逃した。そして今は走っている。体はボロボロである事は、自分自身が一番わかる。それでも俺は、矢張り、女々しくも右腕に傷をつける事は出来なかった。もう、手を繋ぐ事はないと分かっていても、割り切れるものでは無い。

 そうだ。寒いのだ。

 悲願であった。誰かの役に立つのが、役割を遂行するのが、今まで出来なかった事。だが、今日初めて、俺が与えられた役割である『黒田紗由理を救う』という父さんから授けられた役割を全うする事が出来た。何も出来なかった俺が、やっと、両親の望みを叶えられた。

 だというのに、まるで達成感が無かった。

 不思議と、納得がいった。俺に心が狂っているのは、どうやら本当の事であるようだった。それが正解であるようだ。心から望んだ、両親の願いを叶える事。それは、全く俺の心に影響を及ぼさなかった。であれば、少しは納得がいく。

 どうやら、俺は死ぬべきである。

 丹田を壊されたあの日から、もしかしたら生まれながら、俺は狂っていたようだ。『修羅』であったようだ。

 だから、誰かに迷惑をかけないうちに、死ぬべきである。

「だから、道を開けてくれないか。」

 道を塞ぐ三人に、俺は、問いかける。

 委員長、まゆっち、母さんが、俺の行く道を阻んでいた。当然であるが、皆は俺と違って殆ど怪我を負っていない。だが、時間稼ぎのつもりか、暫く返答は無かった。

 そして、母さんが一歩、一歩とこちらへ進んでくる。

 元、とはいえ生化学者である。麻酔や睡眠薬の類を警戒しながらも、母さんの動きを見つめる。そして母さんは――。

 俺を抱きしめていた。

「母、さん?」

 思考が、定まらない。何故?何故だ?

 涙を流している。俺に謝っている。雨音がうっとおしくて、泣き声で、聞き取れない。

「母親、失格だった。ごめんなさい。」

 違う。

「私とあの人が間違っていたわ。」

 違う。違う。

「高昭に辛い思いをさせてしまって、許されるとは思ってない。でも、お願い、もう一度だけ家族として愛させ――。」

「違う!ふざけるな!」

 俺は、母親だったものを思いっきり突き飛ばした。

 地面に転がり、泥に濡れても、向ける視線が気に食わなかった。

「俺は、父さんや母さん、姉さんを、その言葉を信じて、その言葉の為に生きてきた。お前らの望むとおりに、認められる為に!」

「でも、私たちは間違っていた。」

「黙れ。」

「高昭は、高昭の基準では十分ではなかったのかも知れない。でも、間違っていた私たちと違って、板垣の皆や他の人は、貴方を評価していた。」

「黙ってくれ。」

 俺は、そいつの首を掴み持ち上げ、睨む。

 だというのに、どうしてそんなに優しい目をしているのか。俺は、目の前の人間が理解できなかった。

「俺の十余年はどうなる。母さんの目にはどう映っていたんだ。」

「そう、やっと高昭を見る事が出来た。これから貴方を知っていきたい。」

 ――シャラ。

 俺の耳に届いたのはそんな音。言い表せない感情の中で、やっと拾った音は、まゆっちが俺に切りかかる音だった。

「目を覚ましてください!実の親に手をかけるなんて。」

 そう、地面にたたきつけられた母さんは、身を震わせながら、雨にかき消されそうな、か細い声を絞り出している。死んでいない。寸前で、まゆっちが妨害したからだった。

「目は、覚めたよ。俺の、十余年にわたる、長い長い夢だった。」

 俺は笑った。この顔は笑っている筈だった。

 しかし、俺はもう、どうしてこの顔が笑っているのかすら分からなかった。

「家族ってのはさぁ。生まれ落ちた時から、無償の愛があって、その上で色んな事を経験する中で深まっていくと思ってたんだ。だから、振り向いてさえしてくれれば、俺に愛を、無償の愛を、教えてくれると思ってた。」

 でも違った。違ったんだ。

 俺は、幼き日に父さんが拳を振り下ろした時の顔を忘れない。

 それは無表情だった。

 俺は、夕方にすれ違う母さんの顔を忘れない。

 それも無表情だった。

 俺は、姉さんが亜巳さんたちに見せる笑顔を忘れない。

 それは、俺に向けられる事のない満面の笑みだった。

 そして、俺は分からなかった。

 そんな皆の表情の意味が、分からなかった。

「薄ぼんやりと、感情は理解できる。だが、本質的な、何もかもが俺の心にはない。それが理由かもしれないが、修羅の技を使おうと、過去の文献のような破壊衝動が無い上に十分に理性的に過ごしてきた。人でも、壁でも、修羅でも、出来損ない。」

 まゆっちと委員長を見据える。当然、二人も目を逸らす事は無い。

「そんな俺が一人死んで、誰かが救われるのなら、安いと思わないか?」

「思いません。」

「思わねえな。」

 はっきりとした否定。その言葉を聞いて、心に浮かぶ感情は、恐らく悪くないものであるのだろう。この感情を断定するには、俺は余りにも不出来だ。この感情を肯定するには、余りにも虫のいい話だ。

 なにより、これ以上生き続けるのは疲れた。

 相対するまゆっちは、刀を抜き放ったまま動かず、委員長は母さんを引きずって離れている。

「もし、高昭くんが死にたいという自分勝手を私たちに押し付けるのなら。私も自分勝手な理由で、この場に立っていて、ここでぶつかり合っても、文句はありませんか。」

「ああ、今更誰かの顔色を窺う気はない。」

「だったら。」

 納刀し、居合の構えを取るまゆっち。肌を刺す闘気は、この日初めて、俺の心臓を鷲掴みにする感覚を覚えさせる。

 俺を、『修羅』を止めに来た人は、今までこんな形の覚悟を持っていなかった。

「黒田高昭と、決着をつけさせて貰います。最初で最期の戦いであっても、ただ一人の黛由紀江として、絶対に負けません。」

「決着?負けない?どういう事だ。」

「明確な優劣を決めなければなりません。」

 まゆっちがこの場で賭けているのは命ではなく、武人としての誇りなのだろう。そして委員長がこの言葉を聞いても口を挟まずに母さんを引き摺って退避している以上は、俺を止める事が目的ではない事がよく分かった。

「武道四天王、知っていますね。」

「知っては居るさ。」

「新しい世代に受け継ぐ時が来たとして、少し前までなら、川神百代と松永燕、黒田高昭、そして黛由紀江であると、胸を張って主張できました。」

「俺は殺人拳だ、辞退するだろう。」

「そうですね。例え葉桜清楚が候補になろうと、高昭くんが辞退しようと、然程の変わりはありません。ですが――。」

 気迫が、まゆっちがの周りにある水滴を、水溜まりを吹き飛ばす。殺意ではない思いの力が、これ程までに強いものは見た事が無かった。

「きっと比べられてしまう。武道四天王という同じ土俵に立てなければ、そして貴方が死んでしまえば、同年代の黒田高昭より本当に強いのか、強かったのかと勘繰られてしまう。」

「故に、戦うのなら修羅である俺である必要があるという事か。」

「身体能力のみを追求する筈の黒田の奥義がありながら、あの日に、見せられた秘奥義の噛み合わない性質を見た時から分かっていました。貴方の本質が修羅であると。絶対に雌雄を決するのなら、修羅である黒田高昭と戦わなければ意味が無い。」

 一度も戦った事は無かったが、俺にとっても心残りの一つであったのかもしれない。確かにまゆっちとは戦わなければならない。

「未来に怯えない為に、未来の幻影も修羅である高昭くんも断ち切って見せます!」

「誇り共々、殺してやろう!」

 

 

 初手を仕掛けるべきは俺だった。

 居合を攻撃に打たせるのは悪手であり、迎撃に使わせて及第点。欲を言えば防ぐのが理想的だが、それは不可能に近い。万全であっても難しい。

 セオリー通りなら攻めるべき場面。だが、そうする訳にはいかない。

 明確な理由は二つ。右腕の不調で、攻撃の方向に当たりをつけられる事。そして攻めに行ける程、俺の体は万全では無いという事だ。

 如何に陰撃ちでダメージを軽減できると言っても所詮は軽減に過ぎない。体中に分散させて保持する以上は、満遍なく体が傷つく。それに、何戦だ?昨日から俺は何回戦った?

 体力も限界で、体はボロボロ。心を癒す手立ても無い。だというのにどうしてか俺の心音は速まっていく。

 漸く俺は、死へと向かっているようだと実感が湧く。

 高揚しているのだろうか。だから軽い気持ちでまゆっちを挑発したくなる。手をくいっと此方に曲げて、そっちから来いと、挑発したくなるのだ。

 見えやしない剣筋。ノータイムで放ってきた攻撃は、確実に勝負を決めに来た一撃であった。

 しかし、まゆっちの刀は俺が防御に使った左腕を切り裂く事は出来なかった。耳を劈くような爆音がまゆっちの攻撃を退け、ついでに当たりの水を巻き上げる。

 俺の仕掛けだ。

 見えない程に速いまゆっちの太刀捌きへの対処法。何時か戦いたいと思っていたのは俺も同様。故に対策は最低限持ち合わせている。

「疑似的な反応装甲ですか。」

「さあ、どうだろうな?」

 一見して看破する洞察力は流石と言わざるを得ない。気で作った膜を二層、体の周りに展開し、何かの接触と同時に爆発させる。攻撃を防ぐ為の手段としては三流も良いところで、左肘が御釈迦になりかけたが、俺にはこれで十分。

 何せ、体を駆け巡る衝撃は、陰撃ちの残弾なのだから。

 両の足で地面を踏みしめる俺と、反応装甲の爆発で腕が上がったまゆっち。のこのこ自分から俺の射程に入った標的には、最速を以て答えるのみ。

 その顔を伝う水滴を雨ではなく冷や汗で塗りつぶしてやる。

 ――風の構え。

 隙を突いた一発は、標的であった水月に当たる事は無かった。

 まゆっちは紙一重にて躱すなり切りかかって来る。上段から、今度は首筋に目掛けて振り下ろされる。初手より随分と遅い攻撃。剛の剣、普段使わないそれを俺が失念していたのは事実。攻撃単体で一番衝撃の出るチョイス。加えて此方は意思に関わらない反応装甲によって単に刃先が触れるだけでも十分にダメージを負う。

 まゆっちは二重の衝撃で俺の首をへし折りにくるつもりだ。折れずとも、脳が揺らさせると不味い。俺より一撃の速度に勝るまゆっちに、射程圏内で隙を見せるのは、論外だ。

 しかし、どうしてか。こうして命の瀬戸際に立っていると実感が湧くと、心が熱くなってくるような気がしてならない。生きる意味を失った俺は、どのように生きるかではなく、どのように死ねるかと考えてしまう。

 ただ首を刎ねるならば川神一子でも出来た。

 ただ防御を貫くだけなら黒田紗由理でも出来た。

 黛由紀江はどうだ?活人剣の使い手が俺を殺そうとするか?する訳がない。ならば選ばなければなるまい。首を折られて惨めに這い蹲って生き永らえさせられるのか、自決という甘い誘惑の為に死にかけの体に鞭を打って競り勝つのか。

 自問自答の是非も無い。

「甘い!」

 迫り来る剣戟。それを繰り出すまゆっちの軸足を蹴り砕かんと右足で前蹴りを放つ。相打ち上等の攻撃で、当たれば彼方の片足を不能にする。代償が脳震盪だろうと首の骨だろうと、よーいドンの殺し合いなら、気迫に勝る俺が勝つ。負けるはずがない。賭ける重みが、思いが違う。

 だからさっさと死ね。

「避けられない事はありません!」

 紙一重、俺の蹴りを避けるまゆっち。だが、まゆっちの攻撃も直撃は出来ず、俺の瞼の皮を切る程度という結果に終わる。

 嗚呼、咄嗟に目を潰そうとする判断は天晴れだ。直接殺す気は無くとも、俺を相手に五体満足を保持させたまま負けを認めさせようとしていたほかの連中とはまるで違う。

 流れる血が、左目の視界を奪う。あと僅か踏み込まれていたらぐちゃぐちゃになって居たのだろうか?背筋を震わせる怯えが、どうしようもない程に、俺を高ぶらせる。

「ぶふぅうう!」

 血霧を吹きつけた。

 俺だけ視界を狭められたのでは不公平で、気に入らない。故に使った程度の小技。こんな豪雨で血霧は役に立たないだろう。

 だからと言って、無価値ではない。今俺との距離を見誤ったまゆっちが攻撃を失敗する確率が少しでも上がればそれだけでよかった。

 ――カチッ。

 その音は、聞き間違いではない。相対する人物が刀を鞘に納める。

 

 

 切られた。

 

 

 小細工でどうにもならない絶技だ。反応装甲なんて全く意味もなく。俺は袈裟懸けに、二度、切られた。

 なるほど、認識できない攻撃は、『陰撃ち』という全霊の技術を用いてもダメージを分散できないみたいだ。俺が認識している時点では、まだ反応装甲による気休めの爆発も起きてない。大分ざっくりとやられたようだが、鮮血が舞うのも、もう少し時間がかかるようだった。

 まゆっちが剣を振るった残像すら、見えない。もしかしたら、俺は殺されたのかもしれない。そんな考えさえ浮かぶくらいに、頭の理解は追いついていないようだった。

 しかし、仮に死んでいて、それを受け入れる事は出来ない。何となくまゆっちには負けたくなかったし、死ぬのなら自らの手でしなければならない。

 取り合えず、一歩踏み出す。もう一歩、あと一歩踏み出す。そうだ偉いぞ、もう一歩だけ動かせ。そうすればだいたい俺の攻撃が避けられない位置になる。

 ――まず音が世界に戻って来る。

 右足を軸に、『火の構え』を放つ。

 ――反応装甲が誘爆を始める。

 その軌道は間違いなく、まゆっちの胴体を横薙ぎに捉えていた。

 ――体に二つの刀傷が出来る。

 ――そして、俺とまゆっちの体が、世界が、攻撃を認識した。

 

 

 体は、最早痛みを認識しなかった。その程度の問題ではない。多量を血を流し、限界を超えた動きをした体は、投げ捨てられた人形のように、動け、というシンプルな命令を無視し続ける。

 前のめりに倒れこむ。

 俺の攻撃は、まゆっちに届く事は無かった。

 外れたのではない。切られた事で、体が動かなかったからではない。行動を予測されていた俺の攻撃は、まゆっちの迎撃に阻まれたのだ。

 だとしても、立ち止まる訳にはいかない。霞む目で、正面の道が見えなくとも、俺は自分の手以外で死ぬ訳にはいかない。

「私の勝ちです。」

 刀を鞘に納め、まゆっちが俺に告げる。

 それは事実だ。俺は勝てなかった。疲労は理由にもならない。通用しなかったのだ。『修羅』としての技は使う事すら許されず、純粋に力量不足を思い知らされた。

「俺の負けだ。」

 しかし、まゆっちは間違えている。

 だからどうした。俺は生きて、こうして生きている。使える陰撃ちの残弾は未だに体を駆け巡らせている。その分散させつつも小さくは無い衝撃が俺の寿命を縮めても、俺以外に発散させる術は無い。

「それでも俺は止まる事は無い。四肢を切られようと、俺は死へ向かって進み続けるだろう。声帯を潰されようと、俺は諦めたと言う事にはならない。」

 右手は、まだ感覚があった。道路のコンクリートに指をひっかけ、体正面の切り傷が開こうが、這って、体を引きずる。

 目の前に、誰が立ちはだかろうと関係ない。

「そう、ですね。私が高昭くんをどうにか出来るとは思っていませんでした。それでも私は、一つ、高昭くんが死ぬ事に対しての悔いを残さなくて済みます。」

 悔い。そんなもの、俺にだってあるに決まっている。だけどきっと言えば決意は揺らいでしまう。

「俺には、悔いは分からないな。そういう気持ちが分かっていたらこんな事してないんだろう。」

「……そうですか。私は、貴方の母親を連れていきます。このまま野ざらしには出来ませんから。」

 まゆっちは、俺の背後に回り、何処かへ歩みを進めた。いつの間にやら、最初と立っていた位置が変わっていたようで、俺は目指すべき場所すら視認できず、ただ這いつくばるしかなかった。

 それでも俺は、くたばってはならない。俺が、誰かに殺されてはならないと心に誓っているからだ。このまま死ねば、まゆっちに殺された事になる。

 俺が唯一、自分の意思で選んだ、死という行動は、俺自身の手で行わなければならない。

 

 

 急に、体が、浮いた。

「聞こえっか、高昭。」

「何、してん、だ。」

 俺の左脇に体を入れて支えている人物。首も回せず、顔も見えないが、なんとなく誰なのかは直ぐに分かった。

「本当は、俺も止めるつもりだったんだ。でも、そんな事できやしなかった。なんつーかさ、そういうの肌に合わないんだ。板垣達には悪いけど、くそっくらえと思う。」

 耳を疑う言葉。

 こいつはこうやって、誰かの思いを、頑張りを、簡単に踏みにじれる奴だ。その性格が、俺は嫌いだ。常に打算で物事を考えているようで、自分の考えが変われば急に他人の都合を無視する奴である。

 だとすれば、俺に手助けをする意味はなんだ?

 俺が死んだとして、こいつが得をするのだとすれば……。いいや、誰がどのように考えようと関係は無い。俺は、自ら命を絶たなければならないという事実に揺るぎは無い。例えどんな手段でも、こいつの肩を借りてでもなさねばならない。

「高昭のしかめっ面を見てると懐かしいな。」

「懐かしい、何言ってんだ?」

「ああ、昔は板垣と一緒にいないときのお前はそんな顔してたんだよ。」

 昔か。無駄だった筈の十余年という人生が、振り返ってみると懐かしい。やり切った筈の、なし終えた筈の現在よりも、昔のがずっと、俺の心は満たされていたんだろう。

 俺は間違っていたんだろうか?何か、もっと良い選択を出来たの筈なのか?

「にしても、俺もこれからどうすっかな。ここまで堂々と手助けしたら皆から責められるんだろうな。」

「別に捨て置けば良かったんだ。俺は、一人でも行ける。」

「その忠告を聞くような奴はこんな所まで来ないだろ。友達に手を貸すって時に良し悪しの区別をつける必要があるのか?後先なんて考える前に体が動いちまう。」

 楽しそうに笑う声が聞こえる。

 こいつは、物事を真面目にしないが、他人への助力は惜しまない奴でもあった。与えられてきた事だけをやってきた俺とは違う。人の心の隙間に入り込む才能は、俺にはないものだ。

 しかし、今日、それを武器にここまで来たのだろうか。人脈を使ったと仮定するには、こいつとまゆっちは珍しく協調性が無かった。単独ここに来て、何故助ける理由なくこいつは、俺に肩を貸しているのか。

「そろそろ思いつめた顔やめろよ。」

「は?」

「お別れの時は笑顔って信条なんだ。だから笑え。ニコー。」

 態々擬音を口で言って、顔を向けてくる。視界は霞んで見えないが、俺には、脳裏に焼き付いたいつの日かの笑顔を思い出せる。

 こいつだけじゃない、皆の笑顔を思い出せる。教室で昼飯を食べながら、帰り道で話しながら、買い物をしながら、家でゲームをしながら、手を繋ぎながら、笑顔を見た事を思い出した。

 そうか、認められずに足掻いて苦しみながらも俺が生きてきた理由、これ以上にない値打ちものは、見落としていただけだったのか。人生に見出すべき価値は、もっと特別なものだと思っていたが、全然違った。

 今更、気付いて、だが後戻りはしない。出来ない。それでも、皆の笑顔という思い出は、俺が食いしばって歩く活力を与えてくれるんだろう。

 願うなら、俺の笑っていた顔が、皆の記憶に残っていて欲しい。

「ありがとう。あとは一人で歩いて行ける。」

「そうか。高昭が決めたことに口出しはしねえよ。」

 穏やかな口調だ。今も笑顔で居てくれているのだろうか。体はボロボロだが、もう少し歩く程度なら何とか出来る。

 感触を確かめるように少し歩いて、振り返った。目の前にいる人物の表情は、矢張り霞んで見る事は出来ない。

「なあ、高昭教えてくれ。俺はお前にとってちゃんと望まれた役割をこなせていたか?」

 役割か。俺にとっての当てつけ、と言い切る事は出来ない。俺は望まれた役割を殆どやり遂げる事が出来なかったが、こいつは俺の考えもしないような事を平気でやるような奴だった。

「きっとそうだったよ。」

「なら良かった。」

「じゃあな、『親友』。」

 不意を打たれた様な息遣いは、確かに、雨音に消されていた。目を丸くさせる為に言った言葉ではなく、俺の本心。

 俺が唯一、心底見下しているこいつは、偽りなく罵倒し合って、本心で語れる友人。

 生涯、最高の親友。

「そっか、そうだよな。」

 笑い声が聞こえた。俺たちが突飛な事をすると、決まって腹を抱えて笑うような奴だ。

「ああ、またな、親友。」

 なあ、俺は笑えているかい?

 

 雨は弱まる事なく、薄れゆく認識の中で辿り着いた場所の直下に流れる川の音も聞き取れる程の勢いだ。しかしもう、橋の上から飛び降りるには、体力が残っていない。倒れこむように橋の手すりに背を預けた俺は、一区画だけが崩れ落ちるように、体内に残しておいた衝撃を『陰撃ち』で打ち込むのだった。

 決して軽くは無い俺の体重がこの場を崩すまで、静かに待つ。これ以上に、出来る事は無く、もうする必要も無かった。未練は、あるのだろうか。十分に、身に余るほどの幸福を、受けてきたつもりだ。無価値な人生だったのかもしれない。俺は何も成す事は無かったし、思い通りにならない事だらけだった。

 それでも楽しかった。幸せだった。これ以上なく十分に満たされた。傷ついて壊れかけの心も、支えがあるから保っていられる。

 俺は姉さんのように、特別な事をして、誰かの特別になんてなれなかった。残したのは傷跡だけなのかもしれない。もう、前も見えない。辺りは血で染まっているのだろうか。願わくば、この雨が全てを洗い流して欲しい。

 俺という存在ごと、洗い流して欲しい。

 

 

 

 

 

 

 死なせたくないと願う事に、理由なんていらない。敢えて言うなら、形は違えど愛ゆえに。

 まだ生きていたいと少しでも願ったのは、君が笑ってくれたから。やっぱり君が好きだから。



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最終話 何も変えられない男

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


 殆ど動かす事の出来ない体。自由に出来るのは、皮肉にも一番正常に動かない筈の右腕だけである。こんな事をしておいて、俺は、右腕を守りたかったんだろうか。人生が終わろうとしているこの瞬間に、手があっても意味が無い事は分かっていた。

 霞む目で、右手を見てみる。無傷でも力なく痙攣するこの腕を、俺は――。

「高くん!」

 不意に耳に入った声を、聞き間違える事は無い。天ちゃんだ。

 返事をしようとして、口に溜まった雨水と血が絡んで咳き込んでしまう。

「無理してしゃべらなくていい。酷い怪我だ、どうしよう。このままだと高くんが死んじゃう……。」

 焦る声を落ち着けるように、天ちゃんが俺の右手を握る。握られたからか、多少の温かさで症状が和らいだのか、右腕の震えが弱くなる。

 それとも衰弱なのか。

 天ちゃんが一層に握る力を強くした。

「誰が高くんにこんな事を!」

 怒りに燃える天ちゃんの声を聞いて、死にかけだった俺の意識が戻って来る。

 今、なんと言ったか。まるで、俺以外に悪党が居るような口ぶりだった。そして、俺は思い出す。

 姉さんは俺の目の前で目を覚ました。

 事情を知っていそうな親友はまゆっちと一緒だった。

 いや、考え過ぎだ。俺が修羅に堕ちた事を知らない訳がない。その筈だ。

 駄目だ。わからない。俺は一番近しい人の考えが分からなかった。最早、思考を巡らせる程に意識を割く事が出来ない。

 痛みが思考を乱し、血が頭へと十分に回らない。

「天ちゃん……。」

「大丈夫だから、絶対高くんを死なせたりしないから。」

 漸く声を出す事が出来た。雨音に消される程のか細い声だが、天ちゃんの耳には届いたようだった。

 懸命に、俺を運ぼうとする天ちゃん。だが、俺の体を引きずる事すら、天ちゃんの力では難しい。

「いいんだ、俺は見捨ててくれ。」

「良いわけがない!亜巳ねえや辰ねえ、リュウも紗由理さんだって、まゆっちも委員長も、皆が待ってるんだ。だから一緒に帰ろう!」

 待っていて欲しかった人。それを全て振り切って、俺は此処に居る。

 今の言葉で確信を持った。天ちゃんは何も知らないのだろう。姉さんの事も、俺の事も、知らずに此処に来たんだろう。

 だとすれば何故、天ちゃんは来たのだろうか。

「俺が、何をしたのかは知ってるのか?だったら……。」

「理由なんて、後で探せばいいだろ。高くんがどっか遠くに行ってしまうよりはよっぽどマシだよ。」

 天ちゃんの手が頬に触れる。

 小さい手。手が次第に肩に回り、ぼんやりと天ちゃんの顔が近づいてくるのが分かった。

 そして、抱きしめられながら、天ちゃんは俺の耳元で、はっきりと告げる。

「返事、しに来たんだ。」

 足元に亀裂が走る。俺は、天ちゃんにだけは逃げてほしくて、声を上げようとした。

 でも、その口は、何かに塞がれて、言葉を紡ぐことは出来なかった。ままならない呼吸すらも遮られ、俺の意識は薄れていく。

「高くんが好きだ。ウチも好きだ。絶対に一人になんかさせない。だから絶対助けて見せる。」

 足場が崩れ行く中で、俺はその言葉を聞きながら、天ちゃんと共に落ちていった。

 

 

 川の流れ、その勢いは衰える事を知らない。

 そこへ落下するのは、天使と、気を失った高昭。ありったけ、天使の持てるありったけの気で作り出した球体は、二人を包み、落下の衝撃を防ぐ。川に沈むことなく流される球体。だが、天使には、激流から脱する術は無い。

 高昭にまだ脈がある事を確認すると、天使は、気の操作に集中する。天使の技量では、これだけの規模で扱うだけでも精一杯だった。

 どこまで流されるのか。どうすれば助かるのか。天使は考えなしであったが、それでも高昭を助ける為にはこれが最良であったと断言するだろう。

「思えば、守ってもらってばっかりだな。」

 天使は、気を失っている高昭に語り掛けるように口を開いた。

「梁山泊の時は二回か。昔っからだよな。初めて釈迦堂さんに会った時も、前に出て庇ってくれてたっけか。なあ、もしかしてその時から好きだったのか?」

 周りから天使の耳に聞こえるのは、ごう、という川の音と、雨の音だけだった。高昭の弱弱しい呼吸音は、それらにかき消されている。

「黙ってると、気が滅入ってしまいそうなんだよ。ずっと一緒だったから、居なくなるのなんか想像出来なくて。」

 密閉空間の中。高昭から流れてきた血が、天使の靴に染み始める。

 加えて、体温が下がっている。それは、高昭だけではない。天使も、雨に晒され続けて来た弊害が出てきている。

 このままだと命を繋ぎとめるのに猶予は無い。高昭にとって自分自身が、唯一許されていた行動は、自らが命を絶つ事だけ。それは、気を失っても尚、自らを縛り付けていた。

 だから、無意識にでも、由紀江に付けられた切り傷で死ぬ事を拒絶する。

 気の維持にこれ以上なく集中していて、それ以上の行動は天使の許容量を超える行動である。だが、無理をしてでも、体温を保つために天使が右腕に炎を出し――高昭はその腕を掴んで、自身の切り傷を焼いて塞ごうとした。

「――っ!」

「何やってんだよ、バカ!」

 気を失っていた高昭が起き上がった事も、自らを焼いた事も、天使にとって予想だにしていない事。気の制御が揺らめいて、バランスを崩す。

 しかし、展開した球体は直ぐに安定した。痛みで、目を覚ました高昭が、補助し、体に残った少ない気を用いて補強しているからである。

「天ちゃん、焼いて、傷を塞いでくれ。」

「そんな死にかけで何言ってんだ。出来る訳が……。」

「大丈夫だ。」

 高昭は、天使に向かって微笑む。

「だって、やっと生きる理由を見つけられたんだ。いいや、生きる理由は貰っていた筈なんだ。気付かなかっただけ。きっと生きてみせる。そうさせてくれるのは、天ちゃんだから。」

 笑顔を見せようとする高昭。だが、その顔には、まだ不安が隠しきれていない。家族から無条件の愛を受けられなかった高昭は、他人から受ける愛への答えを待ち合わせていなかった。だから、家族にしてきた以上に、望まれる行いをしなければならないという妄想に取りつかれていた。

 今ここで、高昭は死ぬ訳にはいかなかった。誰に止められても振り切ってきた筈の行動は、天使の前で行う事が出来なかった。

 死では無く天ちゃんによって俺の人生が報われるのなら、と高昭は考える。

 しかし、天使の返答は、高昭の想定したものとは違う。

「だったら黙って見てろ。ウチが助ける。」

 握られていた腕を剥がした天使は、未だに座った体勢の高昭の頭に手をのせる。

「守られる側だって、偶には悪くないかもだぜ。漸く回ってきた手番なんだから、ウチに全部任してくれよ。」

 その天使の言葉に言い返そうとして、しかし高昭は反論の言葉を紡ぐ事は無かった。ただ小さな声で――そうか、と呟く。

「なあ天ちゃん。」

「どうした?」

「子供の頃、姉さんの行動があって、きっと天ちゃんは俺に会う前から姉さんに好意的な感情を持っていたと思う。きっと俺に対しても悪感情は無かったと思う。」

「まあ、間違っては無いな。」

「誰かへの感情に、その誰か以外の、なんらかの要因が好意を向け始めた理由を占める時、それは呪いだと思うか?」

 それは、天使に向けての言葉では無かったのかもしれない。家族という言葉に縛られる高昭自身への言葉でもあり、しかし純粋な天使への疑問でもあった。

 同時に、何気ない言葉が高昭の歪みである。天使がその事に気づく事は絶対にない。気付けないが故に、天使は高昭の傍に居る事が出来る。一番関心を持っている筈の天使は、高昭の心に潜む闇への鈍感さがあってこそ、高昭にとって一番の理解者である。

「ガキの頃は覚えてないし、今好きなのは今の高くんだから。ずっと好きなままで居られるのって、絶対、高くんだから、としか言えないし呪いだとしたら随分と弱っちいんじゃないかな?」

「そっか。」

 きっと天使の答えは、万人が肯定をするものではない。

 高昭にとって、血の呪縛は煩わしかった。だが、それは家族への好意が消えない事ではない。どんな仕打ちを受けようと、高昭はずっと家族が好きで、皆を好きで居続けた。常人には異常と思われても、好きでいて良いという免罪符を、高昭は欲しかった。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で、高昭が望んだのは、くだらないと吐き捨てられてもおかしくないちっぽけなプライド。殆ど壊れたアイデンティティのたった一つ。家族や友人、板垣の皆、そして天使への感情がきっと愛だったのだろうという漠然とした、何処からか来た高昭本人が持っていた自信。

 天使の瞳に映る、死にかけの高昭の姿は、どこか幸せそうだった。

「もういいか高くん。頼むから安静にしてくれ。ウチも気が気じゃないんだよ。」

「どうだろうな。」

 曖昧な高昭の言葉を聞いて、天使は溜息を吐く。

「何かしたくてしょうがないってんなら、高くん。ウチの事を名前で呼んで。高くんになら呼ばれてもいいから。」

 うるんだ瞳で、天使は高昭を見つめた。それは演技でもなく、天使にとってこの状況は決してふざけた態度が罷り通る場合ではない。その天使の言葉は心残りだったのかも知れない。

 高昭は、天使の頭を右腕で撫でながら、やんわりと断る。

「それは、急きすぎだ。時間は、これから作っていけばいい。」

「ヘタレか、この野郎。」

「なんとでも言ってくれ。」

 互いに柔らかな笑みを浮かべる。そして、天使はその笑顔を見て、いつの間にか疲れも、不安も無くなっていた。何もしてなくとも、天使にとって高昭が一番の精神的な支えになる。だから天使は絶対に、高昭の命の灯は消させはしない

 

 

 この一帯へと辿り着いたのは、天使だけではない。

 天使より少し遅れて、川下からやって来たのは、紗由理と亜巳であった。二人は、橋の一部が落下し、川に流される何かを目視していた。

 明らかに橋の一部とは言えない丸い物体。その中に居るのが高昭と天使である事は、長年同じ時を過ごした二人には分かっている。

「あれを引っ張れば、川から引きずりだしさえすれば!」

「だけどどうするんだい。これだけ増水してたら泳いで引っ張るのは無茶だ。」

 此処に居るのは、丹田を封じられて普通の人間と同等の力しかない紗由理と、そもそも一般人の亜巳だけである。

 助ける為の策は限られている。二人程度の力で出来る事は少ない。だからと言って、最善を尽くすのは、紗由理にとっても亜巳にとっても当然の事。

「下流の橋を壊して引っかけるか。」

「駄目だね。高昭くんも天も、きっとそこまで持たない。」

 紗由理の提案は、亜巳に却下された。天使の状態は知らないとはいえ、高昭は違う。紗由理と戦っていた時点で高昭の傷は既に身体活動への影響を及ぼしかねない程の怪我をしていた。

 他の方法を模索するまでも無く、紗由理は固く目を瞑り、そして川を睨む。

「私がやるわ。」

 一歩、紗由理が前に出た。全くの素人とは言えないが、この場を打破する達人並みの実力は無い。

 それでも、紗由理は川の淵に立って、鎖鎌を構える。責任がある。義務がある。何よりも、高昭へ本心を伝えるという誓いを果たす為には、紗由理が自分自身で助けるという行動で示さなければならない。

「チャンスは、たった一回ね。」

「こういう時に黙って見ているだけなのは歯がゆいね。」

「でも亜巳は、私たちを精神的に支えてくれているじゃない。居てくれるだけで、少し心が軽くなるから。」

 二人は押し黙る。もう少しで、本当に最期のチャンスが終わってしまう。一度の失敗は救出の失敗に直結する。目の前を通り過ぎようとするタイミングはたった一回きりしかない。二度と追いつけなくなるかもしれない。

 大きく深呼吸した紗由理は、強く、自分の獲物を握りしめた。

「信じてるよ。紗由理。」

「誰にもの言ってるのよ。今の私は、心も、体の全て、細胞や血液に至るまで――。」

 この一日は、紗由理にとって大きな転換点。それでも紗由理は丹田を高昭に封印されたが故に、単なる黒田紗由理として変わらず此処に立てている。

 両親との関係が良くないのは昔から。

 きっと紗由理も、周りの誰もがそのままで居られるようにと願う。だから紗由理は今までの日常に手を伸ばさずにはいられない。

「黒田よ……真っ黒!」

 寸分の狂いも無く紗由理は鎖鎌を操り、そして希望を繋いだ。天使と高昭が中に居る球体に巻き付いて捉える鎖鎌を紗由理と亜巳は離さない。

 その手中に収めたのが希望であるのなら、そのまま手繰り寄せる事が出来るのは道理である。だが、同時に零れ落ちる可能性も孕んでいるのが、希望。

 じりじりと、二人の立つ位置は川へと近づいていく。鎖鎌を引く人間二人に対して、重りとなる人間も二人。急流を下る二人分の重さに、耐えられる筈がない。丹田を貫かれて日を跨いですらいない紗由理は、今まで生きてきて幾度となく行ってきた、力を入れて踏ん張る行いが上手く出来ていない。

 焦りが生まれる。

 高昭と天使を死なせてしまうのではないかという思いは、そのまま引きずられて死んでしまうという当たり前の考えを、紗由理と亜巳の頭から抜け落ちさせた。それが当然と言えるのは、この場にいる全員が、誰か一人でも欠ける事を想定すらしないからである。そのように考えるには幾分ばかり身勝手なのが、紗由理。親に捨てられてから人の温もりを思い出した亜巳は、誰かが欠ける未来を思い描けない程に幸せな人生を過ごせている。

 思いは、確かにこの場にある。しかし、気持ちだけで何かを成し遂げるには、世の中は少々残酷である。

 しかし、幸いにも、高昭たちがこれ以上流されるのを留める事は出来ている。立った二人の力と思うには奇跡にも等しい。

 鎖鎌でさえいつ壊れるのかわからない状態であって、それでも紗由理と亜巳は決して諦めない。二人の緊張を表しているかの様に張り詰める鎖鎌は、川を流れるデブリが天使たちを包む球体に当たる度に、揺れる。

「お願い天ちゃん。私たちと一緒に戦って!」

 そう、歯を食いしばるのは、紗由理たちだけではない。雨風に耐え、今ここまでやって来た誰もが、心と体の痛みを堪えている。例え、普段綺麗な川にデブリが流れていても異常だと判断できない位に精一杯だとしても、全霊を以て物事に対処している証である。

「高昭ィ!」

 辺り一面に響く声。

 血濡れになりながらも尚、力強い声で叫ぶのは、竜兵。辰子をわきに抱えながら、空を飛んで来た。飛ぶ、というには強引な、松永燕が平蜘蛛を使いぶん投げた二人は、その道中で制空権を抑えようとするマガツクッキーを壊しながら飛ばされて、やって来た。川にその残骸を落としながら、竜兵と辰子が目指すのは一点。高昭へ目掛けて一直線であった。高昭を助ける事や、紗由理と亜巳を手伝う事は二の次。

 何より優先すべきは、好き勝手やった高昭への鉄拳制裁。それが竜兵と辰子の合致した意見である。言うまでも無く軽い思いつき、冷静な考えではない。全身がズタボロで、勝った喧嘩の後で高まる気分のうちに、正常な判断が出来る筈もなかった。高昭を救うという目的の下では、最悪手に近い。

 ならば止めるか?竜兵と辰子にとっては否、これを止めるくらいであれば、そもそも飛ばして貰う事すらなかった。

 竜兵が、辰子を投げる。一直線に向かっていった辰子は躊躇なく、その拳を、球体に叩き込んだ。

 まず、中に居る天使は、急にやって来た衝撃に顔を歪ませた。球体の維持を出来なければ、たちまち全員が川に沈んでしまう。形成を保つ為、天使は最後の力を振り絞るように気を込める。そして、球体から水面へ、衝撃が浸透する。

 轟音。

 天使が感じた衝撃とは比べ物にならない衝撃が、水面に叩きつけられる。急に来た攻撃に、咄嗟の反応では、全ての力をぶつける事は不可能。

 高昭が『陰撃ち』を以てして、伝播する衝撃を、即時ではないが受け流した。一度体へと受け止めなければいけないという性質故に、全ての衝撃を水面へと送る事は出来なかい。それは、高昭が万全でないからではない。単に、辰子の全力を受けきる事が出来ないが故である。

 そして、衝撃の受け取りをする前から、この球体に巻き付いた鎖鎌より受ける力の方角を理解していた高昭は、辰子の一撃を受け流す事によって、川岸へと近づこうとする。

 ――バァン。

 更に水面が爆ぜる。

 推進力を得ると、浮かび上がった球体は、紗由理たちの居る陸地へと目掛けて飛んでいく。その上部に辰子と竜兵は着地する。

 四人分の重みを、先ほどの衝撃だけで届かせるのは無茶であった。飛び上がった事により、紗由理と亜巳が幾ら引っ張ろうと回転の支点にしかなりえず、遠心力に抗うだけで精一杯である。仮に、竜兵たちが紗由理たちと共に鎖鎌を引くような事をしていたとしても、事態は好転していなかった筈。

 だというのに、勢いは衰える事を知らず、皆の予想を裏切るように、天使たちは無事に、陸地へと辿り着く事が出来た。神風でも吹いたかのような出来事。

 鎖鎌で引っ張っていた時の拮抗も、飛び上がった時の不自然な勢いも、この場の誰もが言及する事は無い。単なる奇跡で言葉を閉ざしてしまう。

 しかし、紗由理は、対岸に目線を向けるとぼんやりと人影を見る事が出来た。川から出てきたその影は、常人よりも遥かに大きい見覚えのあるシルエット。だが今はそれが誰かを気にしている場合では無かった。

「高くん!高くん!」

 天使に黙って無理をした高昭の傷口は、より一層に開いていた。流れる血と傷の具合が悪い事、それは高昭以外にとって、何よりも重い真実。こうして生き永らえている内に向き合って、再会できたからと言って終わりにはならない。どうにかして、高昭の命を繋ぎ留めなければならない。

 板垣家の面々と紗由理は悲痛な面持ちで、考えを巡らせる。病院まで運ぶ手立てか応急処置。その術を、この場では誰もが持ち合わせていない。

 暫しの沈黙。その静寂に割って入るかのように、水を掻き分ける音がする。道路の水溜まりを掻き分けながら、ヘッドライトで道を照らす一台の車。近くで急ブレーキをかけると中から女が降りてくる。

「紗由理、運転変わって。私が高昭の手当をする。」

「母、さん?」

「呆けてないで早く!」

 母親に言われ急いで紗由理は運転席へ入る。

 天使と亜巳は高昭を抱えて後部座席に座らせる。八人乗りワゴン車の座席を倒し、横たわった高昭を実の母が手当てを始める。皆が乗ったのを確認して、紗由理はアクセルを踏んだ。

 生科学者だった母親に傷の手当てをされながら、高昭は病院へと運ばれていった。

 

 

 

 

 

 

 そうして、俺は今、生き恥を晒している。

 偶然とはいえ、人生の終着点を青春時代に置こうとした俺の試みは失敗した。どうやら、人というものは自分に死に様を自分勝手に決められるものではないようなのだ。

 そして、終着点でない以上は、俺にとっての日常というのはどうにも、太陽が昇ればすぐさま訪れてしまうらしい。

 全治何週間か。そんな診断も受けた気がしたが、そんなものにはきっと大した変化は求められない。何せ、俺の人生一番に好き勝手やっても、何一つ変えられなかったのだから。恐らく、ほんの少し前までと変わらない日常が待っている。

 あの時、誰にも気づかれないように俺らの居た球体を殴って押した筈の父さんも、駆け付けて応急処置をしてくれた母さんも、それが一晩の幻であったかのように、あの人たちは見舞いにも来る事は無い。

 それが俺にとってのいつも通りで、俺以外が望んだいつも通りなのだと思う。皆が望んだ日常の中で、俺に居て欲しいと望まれたから、俺は生き永らえている。ただそれだけの事が嬉しくて、思い止まるには十分な理由。

「何で、出歩いてんだよ高くん。安静にしてないとだろ。」

 振り返ると天ちゃんが呆れた顔をして立っている。鞄も持っているという事は学校が終わってからそのまま来たのだろう。

「飲み物くらいは勝手に買わせてくれ。」

「駄目に決まってんだろ!怪我で体中ズタボロなんだからちゃんとベッドで寝てろ。」

 俺の手からペットボトルをかっさらうと、天ちゃんは俺の手を引いて休憩室から連れ出す。相も変わらず震える右手を包み込む様に、ぎゅっと握られた天ちゃんの手は暖かい。

 病室に戻ると、天ちゃん以外にも来てた輩が二人見えた。

「またほっつき歩いてたのか高昭。」

「これだけ元気なら、直ぐにでも退院出来そうですよね。」

 委員長もまゆっちも苦笑いを浮かべている。学校が終わってから見舞いに来る事、数回。遠慮などは最早殆どなく、ベッド傍の椅子に座り、俺への見舞い品という名目で買ってきたのであろうお菓子をつまんでいる。

「そういえば明日は伊予ちゃんも来ると言ってました。」

「くれぐれもその怪我で出歩いて、一般人を驚かせないように。オラとの約束だぞ。」

「わかったよ。」

 松風にまで念を押され渋々ではあるが、勝手に動かない事を約束する。

 とは言え、入院している原因の八割以上は、まゆっちに付けられた切り傷であり、傷が開かない程度であれば、然程普通に生活するのも可能なのである。

 しかし、まあ、敗者であるのだから従っておとなしくするのも道理かもしれない。

「というか、高くんが入院してると屯する所がなくてな。

「まあ、俺らはそうかもだがな。」

「ですね。」

 もう何度も来ているのだからいい加減話題に尽きがくるかと思っていたが、どうにもそうではないらしい。意味ありげな笑顔を浮かべながら、委員長とまゆっちは天ちゃんを見ている。

「竜兵さんから聞いちゃったんすよー。二人ともおめでとさん。」

「私も風の噂で、聞きました。おめでとうございます。」

 二人の言葉を聞いて、俺の右手を弄っていた天ちゃんの手が止まる。そして恐る恐る、まゆっちに問う。

「……どこまで聞いた?」

「まあ、お前が竜兵さんにどこまで語ったのかは、言うに及ばずだろ。」

「少し注意した方が良いかもしれませんね。幾ら家族の事と言ってもあそこまで詳細に話さなくても良いんじゃないでしょうか。」

 友人たちからゆっくりと視線を外し、俺の脇腹に顔を埋める天ちゃん。耳まで真っ赤にして、恥ずかしさに悶えている。どうやら、あの日の事を一から十まで詳細に家族へと喋っていたようだった。

 竜兵さんもそうであるが、天ちゃんの口の軽さも大したものである。だとすれば当然、姉さんたちも知っているのであろう。

 いや、それ以前に竜兵さんや辰子さんの口の軽さは、折り紙付きである。

 加えて目の前の委員長もそうだ。

「言いたいことは分かるぜ、高昭。良いニュースと悪いニュースがある。良いニュースはこの話を知っている人は皆お前らを祝福しているって事。悪いニュースは、この事を知っているのは少なく見積もっても学園で八割を超えているって事だ。」

「そうか。」

 どうやら想定以上に、俺は恥を晒して生きているようだ。

 それでも、悪戯っぽく笑う親友がいる。

 少しだけ申し訳なさそうにしているまゆっちがいる。

 天ちゃんが傍に居てくれる。

 俺の生きる理由としては、生き恥を晒していても、十分すぎる。俺は、結局何も変える事は出来ず、特別な何かになる事もする事も出来なかった。

 だけど、皆と共に過ごす単なる普通な日常が何より大切なものだと、今なら言える。

 

 

 何故か実家暮らしを再開した姉さんと。

 未だに距離感のつかめない両親と。

 下らない事で笑い合える友人たちと。

 誰よりもしっかりしている亜巳さんと。

 相変わらず寝てばかりの辰子さんと。

 お節介焼きの竜兵さんと。

 そして、世界一大好きな天ちゃんと。

 

 

 皆と過ごす毎日を噛み締めて、俺は、幸せという筈の感情を心に刻んで生きている。




ここまで読んでいただきありがとうございました。
後書きに適当な事を綴っていますが、何よりもまず感謝を述べさせていただきたいと思います。

本当にありがとうございました。


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適当な後書き

ほぼ同時投稿ではありますが、この副題で間違える事もないと思いますが、一応書いておきます。

この話は最新話ではなく、最終話まで読んでいただいた上で、目を通していただきたいです(特に目を通す意味は無いかもしれませんが)。




 裏話と後書きに関して適当に綴っていきます。大分適当にするので、恐らく口語的な表現が多々含まれると思います。

 

 という感じで書いていきます。

 

 話すべきは、まず主人公が誰なのかという話。

 格ゲーが絡んだ話を書きたいと考えた時に、そもそもは、最終話にあった『黒田よ、真っ黒』がやりたかっただけの話。言ってしまえばそれをやろうとしたら主人公は女性な訳だけども、それを面白いと思って書くのかと言えば、個人的には没でした。

 じゃあどうしたかと言えば、下らない埋没するような何処にでもある、原作キャラを助ける人物――この話でいうところの紗由理という人物が、一定の物語を終わらせた上で、出てくるのが本作品の主人公である黒田高昭であるというのがそもそものコンセプト

 紗由理という原作に影響を与えた人物に対して、逆にそれ以上に影響を殆ど与えないのが高昭の、というより今作の話。

 よくある、二次創作で原作沿いというのがありますが、アレへのアンチテーゼに対するアンチテーゼをするのが目的として、多少はあります。

 全くもって意味のないものはないと言う話。

 毒にも薬にもならないようなものです。

 

 

 作中の人物に対する見た目の描写に関しては、敢えて少なくしたというのと、余り細かく描写をしたくなかったというのが半々でした。

 前者に関しては、見た目は文章の受け手にとって変わるものだから細かくする方がきっと煩わしいだろうと思ったから。

 後者に関しては、特に主人公である高昭に対して、愛着を持ちたくなかったというのが理由です。実際、高昭に関しては背がめちゃくちゃ高く、肌が浅黒い事くらいの描写しかしなかったと思います。

 先に述べた一番最初の没プロットではいなかった高昭ですが、最終的なプロットの前にもう一つ没プロットがありました。というか、投稿当初はそっちのプロットで書いていました。

 内容は殆ど変わりませんが、大きく違うのは、高昭くんが死ぬか、死なないかです。

 そこを転換点として、黒田家の歪みに対して紗由理と板垣家の皆が動いていくという二部構成を考えていました。

 話は逸れますが、この作品は起承転結をある程度意識していて、高昭の右腕を壊してから『壁』として復活するまでを『承』として、その後に、作中のように梁山泊から襲撃を受けるか、没プロットでいう高昭が急死するところを『転』としていました。

 じゃあなんでプロットを投稿してから変えたかという話。

 

 はっきりというと面白く書けないから。

 

 これは、その構成にすると詰まらないという訳ではなく、作者個人として無理だと判断したという事です。多分、話の纏まりを考えると、ハッピーエンドでなくとも、没プロットの方がよかったかもと考える人の方が多いと思います。

 しかし、まあ、人を殺すという描写が常人に出来るかと言えば違う話になるというね。特に物語の転換として使う場面、他の登場人物に大きな影響を与えなければならない訳ですから、一番の山場ということになります。

 そう考えた時に、自分が人の生き死にで何か心を動かされたかと言われると、ノー、といえるんです。死生観が、恐らく他人と合わない。少なくとも、作中の、現実世界よりも心が綺麗な人物たちと合致する事が無いんですよ。

 当然と言えば当然で、主人公が不幸な目に合う事が前提の物語を作っている時点で、無茶な事なんだって事。

 作者以上に頭のいい人物を生み出せないというのは、良く言われる話ですが、価値観に関しても同じことが言えると思います。

 そもそも、見た目に一切の気を付けないとか、他人に興味がないとか、そこまで性格が歪んでいないことを願うばかりです。

 

 

 それと、板垣家の面々に関しての年齢やその他諸々の捏造設定を重ねてお詫び申し上げます。特に年齢に関しては、それらを誤魔化しながら書く事が出来ないという作者の力量不足が原因でありますので、深く謝罪させていただきます。

 勿論、意図的に存在を悪い方向への改悪を行ったつもりはありませんし、こんなところまで読んでくださっている方々はご容赦してくださるとは思いますが、最低限の礼儀ですので書きました。

 

 心残りがあるとすれば、竜兵のホモっぽさが足りないところです。謝罪の割合としてはこれと、亜巳のSっけの少なさについて(書ききれなかった事)の方に重点を置いてするべきかもしれませんね。

 

 物語に対しての話としては、これで十分かと思います。そもそもこういう後書きを抜きで表現すべきだとも思いますので、初期案などの話に留めておきます。

 

 

 

 

 

 

 ところで、没プロットを経て、内容を考え直して、完結まで辿り着いたわけですが、二年という間を空けたというのにどうして書き続けようとしたのかという話でこの後書きを締めることとします。

 この話をする上で言わなければならないのは、重度か軽度かはさておき、作者も利き腕をぶっ壊した事あるんです。まあ、利き腕どころの話かどうかは此処では重要ではないという話。

 この後書きを、この部分まで読んでくれている人なら読み飛ばしは無いと思いますが、第六話『感情アンインストール』の後書きにおいて長々と書いてあったのを覚えているでしょうか。

 ああいった主張って人それぞれと思うんですね。実際、身体機能を損なった時、まあ例え話。殆ど感覚も無かったのに機能が戻ってきたころに何かの弾みで美少女のおっぱいに触れたとして、そんなの糞ほども嬉しくない。女性軽視ではなく、本人的には性的な部分に触れられるよりもデリケートな場合っていうのが当然あるんで、個人の感情を推し量って物事を言うべきとは思うわけです。

 で、意見はある訳ですから否定的な意見もあるはずなんですよ。それは当然。でもああいった主張を取り下げるつもりはさらさらない。

 ところで、作品に低評価が付くのは仕方ないと思っているんです。自分が好きな事を書いていて好き嫌いが半々いるのは仕方なくて、平均評価が5もあれば御の字と思うのは間違いない。

 

 だとして、さっき言った主張に対して意見が違うからと言って、作品に低評価をつけるのは違うだろ、というのが個人的な意見なんで。

 明らかにそういったタイミング(六話投稿後に)評価をつけられて、同じ物書きにそういう事やられたという。おっ、喧嘩売られたな、と。

 先に売ったのは明らかに此方ですが、土俵に上がってきたのは間違いないんですな。

 

 まあ、何年も前の事に怒っているのではなく。仮に完結しなければ筋が通らない。その上で心根は曲げずに書き切ろうという思いがありました。

 

 加えて、自分しか好きと思える作品ではなく、お気に入りやしおりをしてくれている他の人への感謝と、ハーメルンを使って、こうして投稿をさせていただいております以上は義理は果たさねばという思いでした。

 

 稚拙な作品でしたが、凄く楽しく、色々と学ぶことが出来ました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

 もし感想や評価をしていただけなら嬉しいです。

 本当にありがとうございました。

 



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