アンダードッグは彼女の横で (島流しの民)
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Scene1:負け犬

よなちよとうとぃ…


 スポットライトが私を照らす。暗闇の中、ぽかんと大口を開けたその光が私を見つめている。私は上を見上げ目を細めた。

 これをスクリーン越しに見る観客達は、あとからCGで付け足されたオーロラを見るのだろう。

 だが私の目に映っているのはただの緑の幕。背景色のために飾られた、なんの変哲もない、ただの布。こんなものを見ながら演技をしろなんて、正気の沙汰ではない。

 だが私には見える。ハッキリと、あのオーロラが。

 

 

 

 ああ、なんて綺麗!

 柔らかな静寂と、煌めく夜の中に力強く存在する、その美しい光! まるで私の手に届きそうな程に溢れる、その圧倒的な開放感! 

 ゆらゆらと揺蕩う色鮮やかなカーテンを脳裏に映し出しながら、私は演じる。

 

 演じる、演じる、演じる。

 

 

 

 不意にスポットライトが消えた。いや、移動した。

 先程までは微動だにせず私を照らしていたスポットライトが、横に移動した。

 ちらりと横目で盗み見ると、私と同じくらいの背丈の少女がスポットライトの真ん中で立っていた。白っぽい髪をツーサイドアップにした、小学生くらいの女の子だった。

 百城千世子(ももしろちよこ)。それが彼女の名前だった。

 私と同じくらいの年齢であろう少女は、ゆっくりと手を伸ばした。

 

 

 

 ──まるで、空に散らばる無数の銀砂を掬うような──

 

 世界が一転した。今まで私が思い描いていたオーロラが吹き飛び、代わりに、暴力的とも言える程の勢いで百城千世子の描くオーロラが、私の……いや、私達の脳内に描き出された。

 

 吐息が白く霧のように虚空へと消えていく。固く踏み締めた地は白く、どこか頼りない。当たり前だ、オーロラが見えるということは、ここは極寒の土地なのだから。今着ている服までも、防寒着のように思えた。

 空を見上げる。雄大な夜空が私の前に広がった。あまりの重厚さに、圧し潰されてしまいそうだった。

 散りばめられた星々は夜空で燦然と煌めき、その存在感をじゅうぶんに発揮している。

 しかしそれよりも、それらの星々が霞んでしまうほどのオーロラ。

 夜空に描き出されるオーロラは、不可思議な文様を描きながら生き物のようにうねる。静かに、それでも美しく。まるで日本舞踊のような鮮やかさに、私の目は眩んでいた。

 息をすることも忘れて、ぼうっと緑色の幕を眺めていた。

 それが緑色の背景色だということすら、忘れていた。

 私達を評価する人々も、また、百城千世子自身も。

 

 しんと冷えわたる空気と、恐怖すら覚えてしまうほどの静寂。そんな中に、彼女は存在していた。

 

 演じきっていた。

 

 本能でわかってしまった。

 ああ、私は彼女に敵わない。

 

 

 私はこの時初めて気づいた。気づいてしまった。

 私は主人公(ヒーロー)になれないんだ、と。

 

 

 ▼

 

 

 目を覚ます。いつもの見知った天井が私を見下ろしている。

 身を起こすとカーテンの隙間から差す朝日が顔に当たる。手を翳しながら時計を見ると、既に八時を回っていた。

 

「遅刻だ」

 

 ぽつりと、そう零した。遅刻だというのに何故か頭は驚くほど冷静だった。

 どうせ急いでも遅刻なので、ゆっくりと支度をすることにする。

 顔を洗い、歯を磨き、制服に着替えて朝食を摂る。

 コーンフレークにミルクを注ぎ、朝食のついでにとテレビをつけると、姦しい音が溢れだしてくる。

 清涼飲料水のCMらしい。一人の少女がペットボトルを傾けて水を飲んでいる。

 ごくりごくりと飲料水を嚥下する度に、彼女の細く白い喉が艶めかしく動く。唇の端から漏れ出た一筋の飲料水が、彼女の顎を伝い、首筋を通って、白いワンピースの中へと吸い込まれていった。

 背景には雄大な入道雲。眩しいほどの青空と太陽が、CM内の季節が夏だということを知らせてくれる。蝉の声が聞こえてきそうだった。

 眉の上で切り揃えられた綺麗な白髪。ふわりとしたショートボブのような髪型が、背景と合わさって、爽快感を生んでいた。

 ぷは、少女の口がペットボトルから離れる。水滴が宙に舞う。ふわりと髪が靡く。そしてカメラを向いて、満面の笑みを浮かべた。琥珀色の瞳が眩しそうに細められた。

 

『やっぱり夏には、○○が合う』

 

 テレビの中の彼女が、その透き通った声音で宣伝をする。

 その声音に微かな嫉妬を覚えながらも、コーンフレークを半ば流し込むように食べる。

 彼女の名前は百城千世子。大手芸能事務所"スターズ"に所属する若手女優である。

 弱冠17歳にしてスターズの広告塔であり、その演技は大人すらも唸らせるほどのもの。

 

 私はテレビの電源を消し、鞄を持って玄関を出た。

 

 見上げた空は快晴で、気持ちいいほどの春日和だ。新学期にはちょうどいいと言える天候だろう。遅刻しているが。

 しばらく歩いていると、大きなデパートが見えてくる。デパートの外壁には、これまた大きな看板が付けられていた。

 

「百城千世子……」

 

 口の中で、その名前を転がした。少し苦いような気がした。

 看板から顔を背け、歩みを進める。

 

 勘違いして欲しくないが、私は何も百城千世子が嫌いな訳では無い。いや、寧ろ逆だ。私は彼女が好きなのだ。彼女を愛していると言ってもいい。

 だがそれでも……彼女のことが大好きでも、彼女の活躍を素直に喜べない理由がある。

 

 不意に、ポケットの中に入れてある携帯が震えた。取り出してみてみると、メッセージが届いていた。送信者の名前は、『百城千世子』。ドキリとした。

 メッセージアプリを開いてみると、そこにはとても簡素な文章で、今日学校が終わってから会えないかと書かれていた。ポンと、付け足されるかのように、百城千世子の顔のスタンプが送信される。

 いいよ。送信。すぐに既読がつく。

 溜息を吐いて携帯を仕舞う。

 

 私、犬山千景(いぬやまちかげ)が百城千世子を素直に応援できない理由は、とても簡単だ。

 

 

「ちょこ、頑張ってるなぁ」

 

 それは、私が彼女の幼馴染であるから。

 そして──

 

「…………すごい、よなぁ」

 

 私が、彼女に完敗し、役者を辞めてしまった、敗北者であるから。

 

 

 

 

 

 アンダードッグ(負け犬)は今も尚、彼女の後ろ姿のみを眺めながら、その後ろを歩いている。

 

 



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Scene2:レーゾンデートル

「遅れました」

 

 職員室に入り、近くに座っていた教師を捕まえてそう言った。

 二年生に上がったので、自分の組と教室を聞くためでもある。

 そう言うと、教師は何やらファイルを取り出してそれを見た。

 

「えっと、犬山さんは……五組ね。ちょうど一時限目が終わった辺りだから、先生に説明したらいいと思うわ」

「ありがとうございます」

 

 簡潔に述べられた言葉にお辞儀をして、職員室を出た。

 一階には既に生徒はおらず、閑散とした雰囲気が漂っている。きゅっきゅと上ずった上履きの音だけが響く空間で、私は静かに階段を上って行った。

 

 五組の扉を開けると、生徒らの視線が一瞬こちらに集まって、それから霧散した。どうやら二時限目が始まったばかりらしい。

 少々の気まずさを感じながらも、遅刻したことを教師に告げる。どうやら私の席は右から二番目、窓側の横の横である。

 腰を下ろす。春とはいえ、長時間放置されていた木製の椅子はひんやりと冷たく、募っていた眠気が消えていく感じがした。

 ふうとため息を吐く。新学期初日から色々と忙しかったが、これで一息つける。

 

 ちらりと横目で隣の席を見た。

 小さいときに聞いた、私の幼馴染の趣味。誰かの横顔を見て、その、誰かに見られているなんて思いもしていない、無意識の表情を見て楽しむという奇行。

 それを聞いた時、ぞっとした。ぞっとしたが、同時に尊敬もした。彼女は確固たる何かを持っていたから。私とは違って。(負け犬)なんかとは違って。

 

 ──いけない、思考が乱れてしまった。

 

 深呼吸をして、改めて隣の席を見る。

 

 息を呑んだ。

 

 肩甲骨辺りまで伸びた、少し癖の強い黒髪。旋毛から伸びる一本の長い髪。雪のように白く、陶器のように滑らかな肌。柳の葉のような眉。憂いを帯びた、どこか虚空を眺めているかのような瞳。座っていてもわかるほどにすらりとした体つき。

 

 隣の席には、美少女が座っていた。

 

 思わず、じっと見つめていた。見ていることがバレてしまうなんてことも考えていなかった。

 しかし驚いたことに、顔を彼女に向けて目を逸らすことなくじっと見ているというのに、彼女は私の視線に気づいている様子はない。どうやら何か考え事をしているようだった。

 

 別に、普通の少女だ。顔立ちは驚くほど整っているし、そのたたずまいも少しおかしいが、それでもただの一般人なはずだ。

 それなのに、なぜか興味が沸く。

 知らず知らずのうちに、私の口は開いていた。

 

「ねえ、あなた、名前は何て言うの?」

「……?」

 

 ゆっくりと、少女がこちらを向く。授業中に話しかけられるとは思っていなかったのか、その表情はどこか驚きを含んでいるような気がした。彼女の無表情以外の表情が見れたことに、私は微かな喜びを感じていた。

 麗らかな春の陽光が彼女を照らす。まるで後光が差しているようだった。どこか神秘的な少女は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……夜凪景」

「夜凪景……さん。ふぅん、私は犬山千景。よろしくね、夜凪さん」

「…………」

 

 愛想笑いを浮かべ、そう言うが、夜凪さんはそれ以上は何も言うことなく、再び黒板の方を向いてしまった。その瞳は先ほどと同じく、どこか虚空を眺めているもの。私のことなんて気にもかけていない態度。どうでもいいものと切り捨てられてしまったかのような。

 

 まるで私を、ただの背景の一部としてしか見ていないような──

 

 顔を顰める。身体が強張っていく。机に伏せる。

 嫌なことを思い出してしまった。

 

 忘れたいとは思っていないが、特に思い出したくもない記憶。いうなれば、背中の面皰みたいな存在。特に気にする理由もないけれど、あるだけで鬱陶しいモノ。

 

 

 

『助演ばかりの女優。略して助優。犬山千景』

『百城千世子の二番煎じ、負け犬山千景』

 

 

 

 何度も聞いた──否、聞かされた、私の蔑称。私の心をへし折った、人々の容赦ない言葉。

 

 まあ、否定はできない。

 

 事実、私、元子役の犬山千景は一度として主演を務めたことがない。

 与えられる役はいつも助演ばかり。どうでもいい名前で、すぐにでも忘れられてしまうほどに影の薄い存在ばかり。都会に咲く花みたいに、どこにでもいるような存在。

 子役だから仕方がないという輩もいた。まだまだ未来があるさと希望論ばかりを語った馬鹿もいた。

 だが、私と一つしか変わらない子役、百城千世子は同じ時期に何本もの映画やドラマで主演を務めていた。私とは格が違う演技力で、様々なオーディションを勝ち取っていた。

 

 悔しかった。彼女と仲が良いという事実が、更に私の心を黒く染めた。

 申し訳なさそうな表情で紡がれる、ごめんねの一言が更に私を抉った。謝るくらいなら、最初から私の目の前に現れて、私から演技を奪っていくなと、何度も思った。

 悔しかった、憎かった。

 

 

 ……けれども、大好きだった。

 

 百城千世子という少女を、私は嫌いになれなかったのだ。

 

 結果的に、私は役者を辞めた。人々から投げつけられる罵詈雑言と、目の前を歩く百城千世子の背中が眩しすぎて。

 

 再びため息を吐く。ため息を吐くと幸せが逃げていくと言う。きっと、私の中にある幸せは全て出て行ってしまったのだろう。

 夜凪さんの横顔を見てみる。先ほどと同じく、美しい横顔だった。

 千世子がこの行為のどこに楽しみを見出しているのか、私にはわからなかった。

 

 やはり私は千世子ではない。その事実が痛かった。苦しかった。

 

 視線を黒板へ向ける。数学の授業らしい。黒板には見たこともない数式が書き連ねられている。

 

 

 ──千世子も私ではない、なんてきれいごとを言うつもりはない。

 実際、千世子なら(脇役)を演じることだって容易いだろう。

 彼女が何時も身に着けているその仮面で、私のことを一から百まで真似することが出来るのだろう。

 

 

 

 ……なら、私の存在価値は? 

 

 

 目を瞑る。開ける。黒板を見る。

 

 

 

 

 

 答えはどこにもない。

 

 

 



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Scene3: Les Misérables

 

 

 放課後になった。

 私はぼうっと椅子に座ったまま、天井を見上げていた。

 夜凪さんは既に帰ってしまっている。先ほど一緒に帰ろうと提案すると、「今から用事があるから」という一言で切り捨てられてしまった。なんとも悲しい話である。

 

「あ、そういえば、この後ちょこと会うんだった……」

 

 若干の憂鬱に浸りながらぼそりと呟く。千世子ファンからすれば垂涎の的だろうが、先ほどまで彼女に対し黒い感情を抱いていた私にとっては、あまり楽しい時間とは思えない。

 

 少し時間を潰そう。

 鞄を取って立ち上がる。横顔を照らす陽光が眩しい。

 放課後色に染まる廊下には、何人かの生徒が疎らに見えた。友人もいたので適当に挨拶をして通り過ぎる、元子役なので、敬遠されがちな私だったが、有難いことに友人はそれなりに存在している。

 宛もなくぼんやりと彷徨っていると、図書室のプレートが見えた。

 そういえば去年は入ったことがなかったなと思い、スライド式のドアを開ける。

 図書室は寒気がするほどに誰もいなかった。埃と古い紙の匂いが充満していた。

 電気は点いておらず、窓から差す光だけが唯一の光源だった。溶けるように山々の峰に落ちていく太陽にあわせて柔らかくなっていく光に照らされた埃が、古臭い図書室を幽玄な空間に変えていた。

 ゆったりと歩き、本棚を見て回る。何やら小難しいことが書かれた書物がずらりと並んでいる。

 

「何を探してるの?」

 

 不意に、そんな声が聞こえた。

 振り向くと、ほんの貸し出しスペースであるカウンターの向こうに、一人の生徒が座っていた。図書委員のようだ。

 何度か話したことはあるが、そこまで仲の良い友人といえるほどの間柄でもない、所謂知り合いの友達というやつだ。

 図書委員の少女は何も応えない私を訝しんだのか、徐に首を傾げた。肩から前に垂らされた、鳩尾辺りまで伸びる三つ編みが美しい。

 カウンターに積み上げられた書物越しに見える彼女は、その大きな黒縁眼鏡のせいか、ひどく知的に見える。

 退廃的な美しさに酔う私に、図書委員は再度問いかける。

 

「何を探してるの?」

「……特に探してるものはないかな。何か面白いものがあれば読もうかなって」

 

 その言葉に少女は手を顎に添え、少しだけ俯いた。どうやら私におすすめの本を脳内で見繕っているようだ。

 暫くして、顔を上げる。

 

「海外の作品の方がいい?」

「日本の陰鬱な名作よりかは、海外の方がいい」

 

 私の皮肉交じりの言葉が面白かったのか、図書委員の少女はくすくすと笑う。肩に乗った一房の髪が小さく揺れていた。

 

「じゃあ、ヴィクトル・ユーゴ―の『噫無情』とかは?」

「映画を見たことがあるけど、ファンティーヌの最期が切なすぎるからあまり好きじゃないわ」

 

 美しいブロンドの髪を持つ美女、ファンティーヌ。愛娘コゼットの養育費を稼ぐために全てを失くした悲劇のヒロイン。

 髪を切り、歯を抜き、自らの身体までも売り払った彼女の結末は、あまりにも惨いものだった。

 信じた男、マドレーヌがジャン・バルジャンという犯罪者であると告げられ、ショックで命を落とした彼女は、果たして死を迎えるその瞼の裏で何を見たのだろうか。

 愛娘コゼットの将来だろうか、それとも、自らを騙し裏切ったマドレーヌへの怒りだろうか。

 

 初めて噫無情を見た時、そのあまりの理不尽さに憤慨した記憶がある。

 

 全てを失い絶望の淵にその命を落とした一人の女性、ファンティーヌの死を見たというのに、すぐにシーンは切り替わる。まるで、それがただのワンシーンだと我々に言い聞かせるかのように、劇中のファンティーヌはすぐに忘れ去られていく。皆は皆の生活を送っていく。

 

 確かに彼女は脇役だ。コゼットという少女を輝かせるための、一人の登場人物に過ぎない。

 だが、だからといって彼女を蔑ろにしていいはずがない。彼女は生きているのだ。生きていたのだ。鮮やかに散っていったのだ。

 それなのに、彼らはもう忘れている。

 彼女が生きていたことすら忘れて、日常を送る。これが理不尽以外のなんであろうか。

 

 私も──百城千世子を輝かせるためだけに存在していた役者犬山千景のことも──人々は忘れ去っているのだろう。

 私に罵詈雑言を吐き捨てて、その精神を削り取った輩たちも、いなくなった途端に過去の人物として扱うのだろう。

 なら、私はどうすればいい? 

 ファンティーヌの怒りは、どこにぶつければいい? 

 

「犬山さん?」

 

 黙り込んだ私を心配したのか、図書委員の少女は声をかける。その声で現へと引き戻された私は、大丈夫だという意を込めてにっこりと微笑んだ。

 

「大丈夫。『噫無情』は遠慮しとくわ。他に何かある?」

「うーん……なら、サン=テグジュペリの『星の王子様』は?」

「あれ、児童書じゃないの?」

「大人でも楽しめるよ」

「へえ、じゃあ借りてみようかな。読んだことないし」

「ならよかった」

「ほかには何かある?」

 

 カウンターから出て来た少女は、私の傍を通り過ぎる。どうやら星の王子様を探しに行くらしい。

 後ろ姿のままの少女が私の言葉に応える。

 

「ツルゲーネフの『初恋』は? 読んだことある?」

「初恋……読んだことはないけど、甘酸っぱいラブロマンスはあんまり好きじゃないのよね」

「あれはラブロマンスなんかじゃないよ」

 

 くすりと笑って、少女がこちらを見る。

 蜜色の夕陽が、浅い角度から図書室の中を照らし、その温かみの残った光をリノリウム製の床に落とす。その濡羽色の瞳に生気が吸われているような気がした。

 

「……そうなの? てっきり作者の半自伝的な優しい恋の物語だと思ってたわ」

「確かに、タイトルからはそう思われがちだよ。けどね、あれはそんな美しいものじゃない。あれは──」

 

 こちらをじっと見つめたまま、彼女は目を細める。逆光で少女の顔の凹凸すらも見分けにくいが、細められた瞳の光だけが、ナイフのように鋭く光っていた。

 ぞっとした。

 少女の艶めかしい唇から放たれる言葉に、ぞわりと鳥肌が立った。

 

「──あれは、歪みに歪んだ、エゴと愛欲が交差する、男と女の話だよ」

 



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Scene4: 百城千世子

 

 桜が散っている。

 風に吹かれその身を減らす校庭の桜を見ながら、私はぼんやりと歩いていた。

 肩にぶら下げた鞄の中には、先ほど図書委員の子にもらった二冊の本が入っている。

 『初恋』は借りるつもりはなかったのだが、彼女の熱いまなざしに負けて、結局借りることになった。期限は二週間。それまでに読み終わるかどうか、桜の樹を見るともなく見ながら私はそんなことを考えていた。

 

 桜を見ると、この世界の縮図を見た気になる。

 

 私がそう言うと、たいていの人間は訝し気な表情で私を見る。

 そして知ったような口調で「栄枯盛衰のことを言っているのかい?」なんて宣ってくる。

 そうではない。咲いて、散る。確かに人間のように見えなくもないが、そんなことはどうでもよいのだ。

 私が言いたいのは、桜の花弁のことである。

 

 見上げれば、満開の桜が目の前にある。

 見下げれば、散った桜の花弁が落ちている。

 

 簡単な事実。惨憺な事実。

 成功の裏には、失敗が隠れている。

 一つの笑顔のボートは、何千もの涙の湖で浮かんでいる。

 

 薄紅色の海となって人々を感動の渦へと誘う花弁もあれば、桜の一部になることなく、地べたに落ちて踏みつけられる花弁もあるのだ。

 

 歩くたびに、校庭の砂に塗れ汚くなった花弁が目に入る。

 この花弁も、つい先ほどまでは枝について、その美しさを誇っていたのだ。

 それが、風に吹かれただけでこのざまである。

 

 ああ、なんて残酷。人々の目に映る美しさはたった一握りだけなのだ。

 有象無象の存在は散り堕ちて、人々の頭の中からその存在さえも忘れ去られてしまう。

 

 大きくため息を吐く。いけない、今から「彼女」の家に行くのだ。幼馴染の家に行くというのに、あまり暗い顔しているわけにもいかないだろう。

 

 何も考えないように大きく深呼吸をして、歩き始めた。

 

 

 ▼

 

 

 都内にある高層マンション。本来なら高校生が一人暮らしするような場所ではないその一室に、私の幼馴染である百城千世子は一人で住んでいる。

 凄まじい勢いで移動するエレベーターの中で、私はちかちかと点滅しながら移動する階数を見ていた。

 相変わらずすごいところに住んでいる。一体、私が何年何十年働けばこんな場所に住めるのだろうか。

 詮無いことを考えているうちに、百城千世子が住む階に到着した。

 軽い音を立てて開くエレベーターのドア。フロアは驚くほどの静かだった。やはり、金持ちたちは日々の暮らしも優雅なのだろうか。

 

 百城千世子の部屋の前まで行き、合い鍵を取り出す。中学生くらいの時に、彼女があっても意味がないからと私に押し付けて来た代物である。

 鍵を開きドアを開けると、何やら高級そうなカーペットが玄関に置かれているのが見えた。やはり金持ちは身辺のファッションやらにもうるさいらしい。

 

 玄関を通りリビングに入る。ソファの上に、彼女がいた。

 

「あ、来たんだ。久しぶり」

「久しぶりって、三日前に会ってるじゃん」

「三日も会ってないんだよ。久しぶりでしょ。ね、ワンちゃん」

「ワンちゃんはやめてってば……ちょこ」

 

 ぐるんとこちらを振り向く幼馴染、百城千世子。琥珀色の瞳が私を捉える。

 ワンちゃんというのは、百城千世子が私を揶揄う時に使うあだ名。犬山の犬をとって、ワンちゃん。あまりセンスがあるとはいえない。まあ、私のちょこも大概だが。

 

 こっちにおいでよと手招きする百城千世子。

 ソファに座る。高いだけあって、柔らかいソファである。

 改めて、膝丈までの机を挟んで座る百城千世子に話しかける。

 

「それで、何の用?」

「用なんてないよ。ただ私が千景ちゃんに会いたかっただけ」

「あ、そう……」

 

 百城千世子は楽しそうに……それはそれは愉しそうに笑う。無垢に、無邪気に、まるで幼子のように。

 だが、幼馴染である私には、その瞳の中に明確な怒りの色があることに気が付いた。理由はわからないが、彼女の仮面の裏に、怒りが見え隠れしている。

 けらけらと笑う百城千世子の瞳をじっと見つめ、再び尋ねる。

 

「なんか聞いてほしそうな顔してるから、なんかあると思ったんだけど」

「聞いてほしい話ならあるよ。最近暖かくなってきたからいっぱい羽化してさ。すっごい綺麗なんだよ。見る? 見たい?」

「それは遠慮しとく」

 

 彼女のペット……というか、もはや友人の域に存在している個性的なメンバーとは出来れば顔を合わせたくないというのが私の本心である。ていうか、先ほどから隣の部屋ががさがさとうるさい。一体何の音だろうか。いや、無駄な詮索はよそう。

 

 百城千世子はあくまでも話したくはないようだ。

 暫くの間、百城千世子と見つめ合う。先に視線を外したのは向こうだった。

 

「……オーディションでさ、面白い子がいたんだ」

「なんのオーディション?」

「映画の。デスアイランドっていう、漫画が原作の映画」

 

 その題名は聞いたことがある。なんでも今人気急上昇中の漫画だそうだ。友人がおすすめしていた気がする。

 内容としては、とても単純なデスゲームもので、無人島に漂流した二十四人の生徒達が最後の一人になるまで殺し合うといった、少しグロテスクな内容を含んだ漫画である。

 しかし私は、そんな漫画より、楽しそうな表情をする百城千世子のことが気になった。

 

「ふーん……どんな子だったの?」

「不自然なくらいに自然な演技をする子だったな。見てるこっちが不安になるくらい」

「不自然なくらい、自然な演技を……ね」

「自分と役をシンクロさせてる、とでも言えばいいのかな。キャラクターが自殺をする役だったら迷うことなく自殺しちゃいそうな演技だった」

「メソッド演技、ってやつ?」

「極められたメソッド演技、だね。役に憑りつかれてるみたいで、びっくりしちゃった」

 

 メソッド演技法とは、キャラクターと自分を重ねて、本当に感情を動かしながら演技をする方法のこと。

 百城千世子が言っている面白い子は、そのメソッド演技法を極めている、という。

 役に憑りつかれていると、彼女はそう言った。

 役者というのは、フィクションをノンフィクションへと変える仕事だと、私はそう思っている。

 誰かの妄想、想像を、自身を犠牲にし形にして、一般の大衆にわかりやすく伝える仕事、それが役者。

 自分とは違う、見たこともない誰かを演じるには、当たり前だが役に入り込むことが重要である。

 自分とそのキャラクターを重ね合わせる。それが役者にとっては必要なことなのだ。稀に、役に入り込むことなく演技をする役者もいるが。

 兎に角、演じるうえで役に入り込むという行為はある程度必要な事なのだ。

 

 

 しかし、もしその行為が行き過ぎると、それは危険なものになる。

 

 自分ではない誰かを背負い、自分を殺す。

 役に入り込むせいで、自分が誰だかわからなくなってしまう。

 そのせいで壊れていった役者を、私は何人も知っている。

 

 それを知ってか、百城千世子は更に楽しそうな表情で笑う。

 

「映像で見て、面白いなーって思って、今日会いに行っちゃった」

「あれ、今日は撮影じゃなかったっけ?」

「撮影を巻いて行ったんだよ」

「ふーん……それで、どうだった?」

 

 私が尋ねると、百城千世子は少しの間黙り込んで、不意にこういった。

 

「ねえ、ワンちゃん。私って、幽体離脱出来るように見える?」

「……どゆこと?」

「なんでもない。忘れて。……面白い子だったよ、そりゃあもう」

 

 急に放たれた頓珍漢な質問に、私は思わず間抜けな声で聞き返してしまった。

 しかし百城千世子は答えをはぐらかし、にっこりと笑った。

 

「……どんな風に面白かったの?」

 

 再び尋ねる。

 しかし百城千世子はその質問に答えることなく、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取りテレビの電源を入れた。

 そこに映っていたのは、一人の少女だった。

 思わず声を上げてしまったのは、私がその少女のことを知っていたからだ。

 

 テレビの中、見慣れた制服に身を包み、エプロンをしてキッチンに立っていたのは、何を隠そう夜凪さんだった。

 夜凪さんは、おっかなびっくりといった調子で野菜を切っている。

 ──まるで、初めて包丁を握っているかのような……。

 

 どうやらこれはシチューのCMのようだ。父の日に、いつもの感謝の気持ちを表そうといった内容らしい。

 慣れない包丁を使っているからか、夜凪さんは指を切ってしまう。見ているこちらが痛くなってしまうほどに鮮やかな切れ目だった。赤い線から、思い出したかのように血液がぷっくりと浮かび上がる。

 痛みに数舜顔を顰める夜凪さん。しかし、次の瞬間、彼女は微笑んだ。

 まるで、こんなのはなんてことないことなんだよと、誰かに言い聞かせているような。

 

 

 

 ああ、嫌だ。

 

 

 思い出してしまう。

 

 百城千世子に完敗して、彼女が描く劇の世界に引き込まれた、あの日を。

 

 私にできないことを、コイツらは容易くこなしてしまう。

 脇役なんかには目が行かないほどの、名演技。

 

 なら、主役以外の人々はどうなる? 

 人々に忘れ去られた私たちには、一体何が残るというんだ? 

 

 テレビの中で微笑む夜凪さんが憎かった。それと同時に、羨ましかった。

 どうすれば、そんな愛情の溢れる表情が出来るのか、私にはわからなかった。

 学校ではあんなに無表情なのに。これがメソッド演技法を極めた者の演じる世界なのだと、無理やり叩きつけられたような気分だった。

 彼女が作ったシチューは、美味しそうなものだった。暖かい湯気が食欲をそそる。彼女の愛が、優しさが、清らかさが、画面からにじみ出ていた。

 

「すごいでしょ」

「……」

 

 何も応えなかった。否、応えられなかった。

 今応えたら、私が何かを失ってしまいそうで。何かが決壊してしまいそうで。

 

「芝居とはいえないクオリティだよ、これは」

「……まるで、録画したビデオを見返しているような感じ」

「そう、そんな感じ。ね、知ってる? この人、実際にこのシチュー、初めて料理した時と同じく焦がしちゃったんだって。そんなところまで似せる必要あるのかな」

「……必要があるんじゃない。そうすることしか出来ない演技法なんだよ。夜凪さんはそういう演技をしてるんだ」

「あれ、私この人の名前言ったっけ?」

「同じ高校」

「へー、すごいや。いつもはどんな感じなの?」

「…………」

「ワンちゃん?」

 

 何も考えられない。

 胸を焦がす激しい怒りだけが渦巻いている。

 何故かはわからない。だが、百城千世子が夜凪さんのことを話すその楽しそうな横顔が、許せなかった。

 

 果たして、私はどちらに怒りを抱いているのだろうか。

 私を打ち負かし、間接的にとはいえその役者生命を終わらせた百城千世子にだろうか。

 それとも、その百城千世子が興味を持っている、私のことを一部の背景と同等に見た夜凪さんにだろうか。

 

 わからない。

 だが、悔しかった。

 

「あとね、時代劇でエキストラもしてたみたいだし、オーディションの時の映像もあるんだよ。それがまた面白くてさ。これ見てよ、ほら、この演技が──」

 

 彼女のことについて話すときの、百城千世子の横顔。

 悔しい、悔しい。

 

 あなたにその顔をさせるのは、私のはずだったのに。

 

 ()()()()()()()()()

 

「自然すぎるよね。まるでありのままの自分を曝け出してるような感じ。あんま好きじゃないな、私は。そういう演技」

 

 結局私は、彼女の仮面に罅を入れることが出来なかった、有象無象の役者や監督たちと一緒の存在なのだ。

 彼女を独りぼっちにして、そのまま消えてしまった。

 大衆のための仮面を被り、他人に好かれる役を作る彼女を、助けられなかった。

 その横顔を変えることは、叶わなかった。

 

 幼馴染だから傍にいる。それだけの存在。もし私がただの知り合いだったら、彼女は私のことなんて歯牙にもかけないのだろう。

 まるで、助演。

 その役がなかったのなら、見向きもされないような、適当なキャラクター。

 その事実が憎く、痛かった。

 

 

 ▼

 

 

 気が付けばテレビの電源は消されていた。見ると、百城千世子が出前を取っていた。当たり前のように二人前である。私もここで食べていかなければいけないらしい。

 

「今日、泊まっていくの?」

「どうしよう。まだ決めてない」

「泊まるんだったら、あっちの部屋貸してあげるよ」

「あっちの部屋、さっきすごい物音聞こえて来たんだけど、大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫、ちょっと夜行性の子たちがはしゃいでるだけだから」

「それが一番心配なんだよなぁ」

 

 何故かはわからないが、彼女は気持ちの悪い虫ばかりを好んでいる。むろん、彼女は本気で可愛いと思っているらしく、以前気持ち悪いといってしまった際には珍しく拗ねていた。

 いや、けどロイコクロリディウムは気持ち悪い。

 

「けど、他の部屋にはベッドないよ?」

「なんでよりにもよってあの部屋にベッド置いたのさ……」

「ちょっと疲れた時はあの子たちがいる部屋で寝るの。そしたら朝には元気いっぱい」

「こわっ」

「失礼だなぁ」

 

 

 





百城千世子は好きな子に合い鍵をあげてそうという他愛もない妄想。
お気に入り、感想、評価よろしく。



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Scene5 : 情けない

ハッピーバースデー百城千世子


 結局、百城千世子と同じベッドで寝た。

 一人で寝るには大きすぎるベッドに並んで見上げた天井は、──やはり高級マンションだからだろうか──とても清潔感のあるものだった。

 

「もう寝た?」

 

 不意に、隣から小さな声が聞こえて来た。ちらりと横を見ると、百城千世子が目を細めてこちらを見ていた。

 

「寝てない」

「だと思った。ワンちゃんがこんな高価なベッドで寝れるわけないもんね」

「どういう意味、それ」

「なんでもない」

 

 楽しそうに彼女は笑う。彼女の髪が少しだけ揺れ、こめかみに乗っていたひと房の前髪が滑り落ちた。ベッドのスプリングが小さく軋んだ。

 

 静寂が私たちの間に横たわる。部屋の隅に置かれている鏡台の黒さが不気味だった。

 

「ねえ、千景ちゃん。もう一回役者しようよ」

「え?」

 

 ぼんやりと、揺蕩う眠気を見つめていると、突然百城千世子がそんなことを言った。

 私はその言葉の意味がわからずに、思わず間抜けな声を出した。

 

「もう一回、役者。やっぱり千景ちゃんがいないと楽しくないからさ」

「もう一回やろうって言われても、私もう引退したし……」

「大丈夫、私がアリサさんに話してあげるし」

「めちゃくちゃコネじゃん。なんかやだなぁ」

「スターは作り出すものなんだよ」

 

 楽しそうな声が静かな部屋に響く。私もつられて少し笑った。穏やかな空気が流れていた。

 

「まあ、考えとく」

「おっけー」

 

 

 ▼

 

 

 暫くすると、隣から寝息が聞こえてくる。

 横目で見ると、ぼんやりとした灰色の中に、彼女の凹凸が見える。

 目を瞑るが、眠れない。瞼の裏に鮮明に描き出されるのは、先ほど見た夜凪さんの演技と、学校での彼女の表情。

 ……そして、百城千世子のあの表情。

 

 未だに燻る思いが、私の眠気をかき消していた。

 寝返りをうつ。私の愛おしい幼馴染が視界いっぱいに入る。

 少しだけ開いたカーテンから差す月光が一直線にこちらに向かって伸びている。細長い月光は百城千世子の胸元を真横に横断しており、彼女の穏やかな寝息に合わせて上下する薄手のパジャマが薄らと見えた。月光は私の目の前で微かに揺れるカーテンと連動して、細くなったり太くなったりを繰り返していた。

 彼女のクリーム色のパジャマが月光に照らされ灰色に見える。青白い光がしみ込んだパジャマはつんと冷えているような気がして、確かめてみようとつい彼女のパジャマの胸元に手を伸ばしそうになったが、何とか理性を働かせ手を戻す。

 

 トイレに行こう。

 

 百城千世子を起こさないように、ゆっくりとベッドから滑り降りる。冷えたフローリングに足の裏が悲鳴を上げた。

 

 寂寞としたリビングは、まるで世界に私一人しかいないのではないかと疑ってしまうほどに悲し気だった。

 ぞくぞくと背筋を刺激する恐怖のため、素早く用を足し部屋に戻ろうとする。

 しかし、部屋に戻る途中で、私はふと一つの部屋の前で立ち止まった。

 立ち止まってしまった。

 

 

 それは、彼女のペットの部屋。気持ちの悪い虫たちが縦横無尽に飛び回る、未開地。

 流石に虫かごぐらいはあるかと思いながら──何を考えていたのか──私はその部屋のドアを開けた。

 

 暗闇が満ちている。それが、その部屋に対する第一印象だった。

 

 何も見えない。しかし迂闊に足を踏み出すわけにもいかない。私は棒立ちになったまま、ぼうっと暗闇の部屋の中を眺めていた。

 

 耳を澄ますと、何やら音が聞こえてくる。

 何かが這いずる音。

 何かが翅をこすり合わせる音。

 そして何かの鳴き声。

 

 絶えず、ひっきりなしに、何かしらの音が部屋から溢れ出している。

 電気を点けてみてやろうか。そんな考えが私の頭に浮かび上がる。

 

 ……やめておこう。それは流石に可哀そうだ。

 私は一歩後ろに下がると、静かにドアを閉める。閉めきる前のドアの隙間から、虫特有の、情けない鳴き声が聞こえて来た。

 

 ふと、リビングで足を止める。

 頭に思い浮かんだのは、先ほどの百城千世子の言葉。

 

「私がいないと楽しくない……か」

 

 果たしてそれは、彼女の本心なのだろうか。彼女にとっての私は、彼女の仮面を壊してくれる人間の候補のうちの一人というだけの存在なのではないだろうか。

 第一、 本当に彼女は私がいないと楽しくないと思っているのか? 

 先ほどの、夜凪さんについて語っていた彼女の顔は、これ以上ないくらいに楽しそうだった。

 役者を再び始めたからといって、果たして私が百城千世子に同じ表情を浮かばせられるだろうか? 

 もしかすると、彼女は自分よりも格下の存在を手元に置いておきたいだけなのかもしれない。夜凪さんに負けても、自分よりも下がいるのだと保険をかけ、安心したいだけなのかもしれない。

 

 ため息を吐く。それに応えるかのように、虫の鳴き声が再び響いた。

 

「……情けないな」

 

 虫か私。どちらの方が情けないのだろうか。

 

 

 

 

 わかりたくもない。

 

 




幼馴染と一緒に寝る百城千世子いいよね。

お気に入りと評価よろしくお願いします^^


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Scene6 : 夜凪景

 緊迫した空気がその場に流れている。

 静まり返ったその場には、野次馬に囲まれた二人の人間が立っていた。否、一人は立っていない。あまりの恐ろしさに、腰を抜かしているのだ。

 恐ろしさに震え、目尻に涙を溜めているのは、まだ小さな少女。

 市松模様の着物の少女は、普段は快活に笑みを浮かべているであろうその顔を恐怖に歪めている。その瞳は不安に揺れていた。

 彼女の目の前には、一人の武士らしき人物の姿。少女の何倍も大きなその男は、きらりと鈍く光る刀を少女に向けて振りかざしていた。

 

 私はそれを見ながら、静かに、大きく息を吐いた。

 ドラマのワンシーンだと知っていても、ハラハラする場面である。

 

 だが、私のハラハラは、少女が斬り伏せられるシーンを見なければいけないという絶望感からのものではない。むしろその逆だ。少女が生きるという選択肢が今まさに現れるからだった。

 

 刀を振りかぶる武士。その切っ先が少女に向かう。

 

 次の瞬間、一つの影が飛び出した。

 女性にしては長身なその体躯を鮮やかに駆使し飛び上がったその影は、何を隠そう夜凪さんだった。

 夜凪さんはあろうことか、着物姿のまま飛び上がり、少女を斬り伏せようとしていた武士に向け飛び蹴りをかましたのだ。

 静まり返る画面の中。野次馬の唖然とした表情が特徴的だった。

 夜凪さんが立ち上がる。彼女は平然とした表情で言った。「大丈夫?」

 その言葉に、斬り捨てられる役であるはずだった子役が泣き始めた。台本とは違う唐突な展開に驚いてしまったのだろう。まだ二桁もいっていないであろう年齢なら、仕方のないことだ。

 

 

 私はリモコンの一時停止ボタンを押し、画面を止めた。

 このシーンを見るのは、既に七回目だった。何度見ても彼女の行動は私にとって新しく映り、その圧巻の演技に呆れながらも尊敬してしまうのだった。

 

 やはり彼女は他の役者とは違う。私は固まった画面を見つめながら、そんなことを考えていた。

 

 百城千世子はまだ寝ている。彼女は寝起きが悪いのだ。

 大きく伸びをすると、パジャマの向こうから骨が鳴った。先ほど注いだコーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。

 

 彼女の演技は、何度見ていても飽きない。見る度に、今まで気づかなかった新しい事実が目に入ってくるのだ。

 

 例えば、その表情。

 例えば、その口調。

 例えば、その佇まい。

 

 全てにおいて、彼女は他の役者とは一線を画していた。

 まるで引き込まれるような。まるで連れ出されるような。

 

 彼女の演技を見る度に、彼女に対する興味が沸いてきた。

 

「ちょっと話してみようかな」

 

 そう思い、まずは朝食を食べなくてはと、テレビを消した。その際に、左下に表示されていた時計が目に入った。

 

 

 既に八時を過ぎていた。

 

「あ」

 

 二日連続で遅刻だった。

 もう、笑うしかなかった。

 

 服を着替えるために寝室に戻ると、スターズの天使こと百城千世子が無邪気な顔で眠っているのが見える。

 何時もは大衆のための仮面をつけ、本当の自分を隠している彼女も、当たり前の話ではあるが寝顔まで作ることはできない。

 年相応の寝顔を晒す幼馴染を起こさぬようにそっとハンガーにかけられている制服を取り、手早く着替える。彼女は役者をしているので、学校にはあまり顔を出せていない。今日も撮影やらが色々とあるのだろう。

 

 支度をして、外に出る。朝食を食べる時間はない。コンビニで買えばいいだろう。

 エレベーターを降りて、外に出る。どうせ遅刻なので、そこまで急ぐ必要はないだろう。

 

 

 ▼

 

 

 教師に遅刻しましたと告げると、怪訝そうな表情をされた。まあ、二日連続で遅刻をするやつがいたら私だってそんな表情をするだろう。しかし今日は二時限目が始まる前に教室に入ることが出来たので、そこまで注目の的になることはなかった。

 席に着く。それと同時に隣の席に座っている夜凪さんを見る。

 今日もまた、ぼんやりと虚空を見つめていた。まるで、失ってしまった自分自身を探しているかのような。

 

 ふと、教室がざわついているのに気が付いた。生徒達が、なにやら携帯を弄りながらこちらをちらちらと見ている。

 いや、見ているのは私ではない。夜凪さんだ。彼ら彼女らは驚いた表情で夜凪さんをじっと見つめていた。

 何かあったのだろうかと思っていると、誰かの声が聞こえて来た。

 

「一般公募組十二人のキャストの中に、うちのクラスの奴がいんだよ!」

「……え」

「夜凪景? って、あの夜凪さん!?」

「ちょ、声かけてこいよ!」

「えー、なんか怖いな」

 

 徐々に騒がしくなっていく教室の中。競い合っているかと疑ってしまうほどにヒートアップしていく生徒達を止めれる者はいない。

 すると、今さっきまで夜凪さんについて喋っていたグループのうちの一人がおずおずと夜凪さんに声をかけた。

 

「よ、夜凪さん。『デスアイランド』出るって本当?」

「うん」

 

 恐る恐る投げかけられた質問に、夜凪さんは平然とした態度で答える。

 その言葉を聞いた途端、教室が沸いた。

 

「うんって言った! おおお!!」

「じゃあさ、千世子と会った!? 生千世子と!」

 

 生千世子とはなんとも奇怪な言い方である。生チョコか。

 夜凪さんは、騒ぐ生徒達をおっかなびっくりといった表情で見渡しながら、小さく「会ったわ」と答えた。

 その解答が今まさに興奮の渦の真ん中にいる生徒達を更に焚きつけるものだったことは言うまでもないだろう。

 

「うおお、すげえ! どうだった!? どうだった!?」

 

 私は、ひっそりと横目で彼女のことを見ていた。彼女が百城千世子に対してどんな感情を抱いているか、知りたかったのだ。

 夜凪さんは思い出すかのように手に持っていた本を閉じると(よく見ると、デスアイランドの台本であった)、両手で頭を抱え震え始めた。

 

「と、とても綺麗だったわ……」

 

 どう見ても怯えている。百城千世子に何か意地悪でもされたのだろうか。

 しかし、百城千世子はどちらかというと初対面の人間にはあまり踏み込まないタイプの少女だ。いくら興味があったからといって、夜凪さんを怯えさせるほどのことをするだろうか? 

 

 そういえば忘れていたが、昨晩の百城千世子の瞳の中には怒りの感情があった。何か、夜凪さんと関係があるのだろうか。後で聞いてみよう。

 私は鞄から本を取り出して、読み始めた。

 

 

 ▼

 

 

「夜凪さん、一緒に帰らない?」

 

 放課後、チャイムが鳴るなり帰宅の準備をし始めた夜凪さんに話しかける。

 夜凪さんは目を上げ、私を見ると、少しだけ首を傾げた。どうやら私のことを覚えていないらしい。

 

「えっと……」

「犬山千景。あなたの横の席に座ってるんだけど」

 

 そう言うと、夜凪さんは少しだけ申し訳なさそうな顔で頭を下げた。

 

「ごめんなさい。私、これから用事があって」

「映画の撮影? それとも台本でも読むの?」

 

 困ったような表情を浮かべる夜凪さんを見ながら、私は自分の行動に内心首を傾げていた。

 何故私はこれほどまでに彼女に執着しているのだろうか。百城千世子のお気に入りだとしても、彼女の演技が特別上手くても、私が彼女と仲良くなる必要はないはずだ。

 しかし、何故かはわからないが、彼女と話がしたい。そう思っていた。

 教科書などを鞄に詰め込み終わった夜凪さんは、立ち上がる。

 私より少しだけ背の高い彼女は、私の額辺りを見つめながら言った。

 

「ちょっと疑問があって、話し合いをしなきゃいけないの。だから、ごめんなさい」

「どこに話に行くの?」

「え、ええ……?」

 

 余りにも引き下がらない私に、夜凪さんは明らかに困り顔だ。対する私は、にっこり笑顔を張り付けたまま微動だにしない。

 暫くの間視線を彷徨わせていた夜凪さんだったが、観念したのか、口を開いた。

 

「ちょっと、演技の稽古をするためにスタジオに……」

「そう、じゃあ私もついていくね」

「………………え?」

 

 

 




千世子の家のどこにコーヒーフィルターがあるのか理解している幼馴染が尊い。


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Scene7 : 大黒天

 

「誰だソイツ」

 

 はてなマークを大量に浮かべた夜凪さんと共に帰路に就き、彼女の目的地であるスタジオに入ると、無精髭を生やした目つきの悪い中年男性に睨まれた。整った顔つきをしているが、その殺人すら平気で行いそうなほどに鋭い目つきのせいで、恐ろしい印象を抱かせる。

 私は彼のことを知っていた。

 黒山墨字、映画監督。

 日本国内での知名度はあまり高くないが、作品への評価はとても高い少し珍しい監督だ。写真は見たことあるが、実物は初めて見る。緊張。

 

 彼の撮った映画を見たことがある。何かのドキュメンタリー映画だった。紛争地帯の兵士の物語だった。

 それを見た時、私は驚愕した記憶がある。

 まるで、そこにはカメラなんて存在していないのかと思ってしまうほどに、自然に撮られた映像。私たちが目の前で広がる現実をそのまま自分の目で見ているかのような。

 ただ単に映像を撮っているのではない。カメラマンが役者と感情を合わせて動いている、ダイナミック且つ繊細な技術。ただのカメラマンに出来るようなことではなかった。

 その黒山墨字が、何故こんなところにいるのだろうか。答えを求め夜凪さんを見る。夜凪さんも困ったような表情でこちらを見ていた。

 

「クラスメイト?」

「なんで疑問形なんだよ……」

「あ、初めまして。夜凪さんのクラスメイトの、犬山千景です」

「犬山……?」

 

 どうやら黒山さんは私のことを知っているらしく、怪訝そうな表情でこちらを見た。

 

「どっかで聞いたことある名前だが……」

 

 いや、知ってはいなかった。どうやら名前は知っているみたいだが、そこまで詳しくはないようだった。まあ、助演ばかりでもう引退してしまった役者のことを覚えている監督なんていないだろう。そうだ、私は百城千世子ではないんだ。私のことなんて、皆すぐに忘れてしまうのだから。

 

 そんなことを考えていると、すぐ傍から別の声が聞こえて来た。

 

「犬山千景。元スターズの子役ですよ」

「ああ、そういえばそんな奴いたな」

 

 振り向くと、一人の女性が椅子を回してこちらを見ていた。

 肩口まで伸ばした髪をアシンメトリーに編み込んで結わえた、燻んだ灰色の髪の毛。その髪型は、どこか不安定で、しかしその不安定さがまた綺麗だった。残った髪は後ろで小さく纏められている。旋毛からぴょこんと飛び出している髪の毛が可愛らしい。

 椅子を回してこちらを見ている女性は、にこりと笑い「こんにちは」と挨拶をしてきた。愛想のないジャージのような服装だが、それもまた彼女に似合っていた。多分、どんな服を着ても似合うのだろうと、ぼんやりと考えた。

 とても綺麗な女性だった。

 ほっそりとした体躯に、無邪気そうな顔つき。下手をすれば未成年と間違えられそうだが、ここで働いているということは二十歳以上なのだろう。

 挨拶を返す。なんだか、柔らかな雰囲気の彼女の前では、どんな明るい挨拶もぶっきらぼうに思えて仕方がなかった。

 

 何故彼女は私を知っているのだろうか。そんな思いが頭の中に浮かび上がる。

 その視線で察したのか、彼女は口を開いた。

 

「ああ、ごめんね。私は柊雪。スタジオ大黒天の映像作家です」

「あ、こちらこそすみません。犬山千景、えと……夜凪さんのクラスメイトです」

「よろしくね、千景ちゃん。私、映像作家だから、勉強のために色んな映画見たりするの。それで千景ちゃんのこと知ってたの。あっちは黒山墨字。一応このスタジオの代表で、監督」

 

 柊さんは黒山さんの紹介を雑に終わらせる。それが気に食わなかったのか、黒山さんは眉根を寄せた。

 

「なんだその適当な説明は」

「間違ってはないじゃないですか。ていうか、映画監督のくせになんで役者の名前も覚えてないんですか」

「あ? 無名の子役なんて一々覚えてられっかよ」

「本人目の前で何て事言ってんだお前! ……ごめんね! この人ちょっと頭がアレだから」

「え、あ、ああ。大丈夫です」

「おい! なんだ頭がアレって! てかお前も納得すんな!」

「事実じゃないですか」

 

 矢継ぎ早に交わされる会話についていけず、私は夜凪さんを見た。夜凪さんもこちらを見ていた。

 

「あなた、子役だったのね」

「まあね……全然有名ではなかったけど」

「けど、役をもらえていたんでしょう? ならそれだけですごいと思うけど」

「そんなことないよ。所詮助演ばっかりだったし」

 

 そう言うと、夜凪さんは首を傾げた。

 

「助演だとしても、演技をしたんでしょう? ならそれは誇らしいことだと思うわ」

「……そうかもね」

 

 静かに笑う。純粋な瞳でこちらを見る夜凪さんが眩しすぎた。

 何も言うことが出来ずに、私は静かに彼女を見つめていた。彼女もまた、私を見つめていた。まるで世界に二人きりみたいだった。

 

 ひそかな静寂を破ったのは、黒山さんの声だった。

 

「それで、その犬山とやらはウチに何の用だ?」

 

 ちらりと視線を動かすと、面倒そうな表情の黒山さんがこちらを見ている。言葉に棘はあるが、怒ってはいないようだ。

 

「夜凪さんに興味があったので、ついてきました」

「興味があってねぇ……まあうちの看板役者である夜凪は今忙しいからな。クラスメイト如きに時間を割く必要はないな」

「嫌味な言い方。ちょっとくらい一緒にいさせてあげてもいいじゃないですか」

「邪魔はしません。ただついてきただけなので」

「……あっそ。勝手にしろ。ただし忙しいってのは嘘じゃないから、変な事はすんなよ」

「わかりました」

 

 柊さんが空いた椅子を勧めてくれたので、ありがたく腰を下ろす。

 夜凪さんは黒山さんと何か話している。どうやら稽古を始めるらしい。

 

 黒山さんが何か指示を出し、夜凪さんがそれに従い徐に目を瞑った。

 

「あの……何をしてるんですか? 彼女たち」

 

 横に座っている柊さんに尋ねてみると、彼女は苦笑しながら言った。

 

「幽体離脱の稽古……かな」

「幽体……離脱」

 

 そういえば、昨日百城千世子がそんなことを言っていた。自分は幽体離脱が出来るような人間に見えるかどうか。それと彼女が今行っている稽古、何か関係があるのだろうか。

 

「黒山さん、何この稽古?」

 

 夜凪さんも疑問に思ったのか、目を瞑ったまま目の前にいる黒山さんに尋ねた。

 黒山さんのぶっきらぼうな返事が飛ぶ。

 

「いいからさっさと答えろよ。何が視える」

「何って、何も見えるはずないでしょ。目を瞑っているんだから」

「知ってるよ! 目が開いてると想像して答えろ!」

「……資料の並んだラックデスクにチェア」

「──そうだ。今お前の目玉はお前の背中についている」

 

 その答えに、私はなるほど、と心の中で頷いた。

 理解した。黒山さんが何をしたいのかを。何を彼女に教えたいのかを。

 

 百城千世子は、夜凪さんの演技は不自然すぎるくらい自然だと言った。それの意味が今、やっと理解できた気がする。

 

 彼女は自分を客観的に見ていないのだ。飽くまでも主観的に、自分を中心に物事を考えて、演技をする。だからこそ、その演技は鋭いほどの自然さを伴い人々を驚かせるわけだ。

 

 もちろんそれは、他の役者からすれば迷惑極まりないことである。自分が今何をすべきなのか、どう視られるべきなのか、それを彼女は理解していないからだ。

 自分勝手に演技をする、諸刃の剣の演技。

 

 自らに仮面をつけ、大衆のために自分を捨てた百城千世子が『白』だとするのならば、自分の目で見て行動を起こす彼女は『黒』なのだろう。

 

 ああ、なんて面白い。

 

 私は食い入るように、目の前で稽古を続ける夜凪さんを見つめる。項がゾクゾクする感覚に身を任せ、拳を強く握りしめた。

 なんて下手くそで、美しくて、粗削りで、滑らかで、滑稽で、煌びやかで、巧妙な、素晴らしい役者なのだろうか。彼女は! 

 

 彼女の演技をもっと見ていたい。彼女をもっと愛していたい。

 もっと近くで、もっと近くに。

 観客席で見ているだけでは収まらないこの興奮は、どうすれば収まってくれるのだろう? 

 

「──私も千世子さんみたいに『商品』になればいいの?」

 

 不意に、そんな言葉が耳に飛び込んできた。

 見ると、夜凪さんが不安げな表情でソファに座る黒山さんを見ていた。

 どうやら、彼女は選択を余儀なくされているようだ。

 

 百城千世子のように、大衆に向けラッピング、コーディネートされた新商品になって仮面の演技を見せるか、今のまま、不安定なまま自分を尖らせて周りに迷惑をかけながらも自分なりの演技を突き詰めていくか。

 商品になるのなら、もちろん彼女の今の演技は無駄といえる。役に深く入り込みすぎる演技をしながら周りのことを気にすることなど不可能だからだ。

 自分の二つしかない目玉を潰し、仮面をつけるか。

 

 むろん、私は二つの目玉で演技をする夜凪さんを見ていたい。まるで自分がその役になったかと思ってしまうほどにハラハラする演技を、間近で見ていたいと思う。

 

 ぞわりと、思い浮かんだ自分の考えに鳥肌が立つ。

 

 そうだ、私はこの演技を目の前で見ていたいんだ。

 他のどこでもない、彼女の目の前で。彼女と共に。

 カチンコと共に彼女の演技に酔いしれて、カチンコと共に現実に戻ってくる。

 

 私は、彼女と共に演技をしたい。

 

 そんな考えが、ふと私の頭の中に浮かび上がってきたのだ。

 あり得ない。第一、私は既に引退した身だ。今更彼女と共に役者をするなんて不可能だろう。

 

『大丈夫、私がアリサさんに話してあげるし』

 

 ふと、百城千世子の言葉が頭の中に浮かび上がったが、すぐに消し去る。

 

 また私は、地獄を見るつもりだろうか? 

 百城千世子に加えて、今度は夜凪さんもいる。そんな中に私が入って行けば、どうなるかは火を見るよりも明らかだろう。

 ぞわりと粟立つ二の腕を抑えて椅子の背もたれに深く凭れかかる。

 先ほどまで興奮で熱くなっていた胸が嘘だったかのように冷めている。

 危なかった。もう少しで淡い夢に呑まれて茨の上を歩くところだった。そうだ、私は脇役なのだ。主演の笑みが向けられるのは、私ではない。私以外の誰かなのだ。

 もう夢は見ない。悪夢に苛まれている現実だけでじゅうぶんだ。

 

「なりたいか?」

 

 黒山さんが、鋭い視線を夜凪さんに投げかける。辺りに緊張が張り詰める。

 緊迫した空気の中、夜凪さんは珍しく表情の中に焦燥を見せながら言った。

 

「私はもっと……知らない自分を演じたい。もっと自由に」

 

 夜凪さんは力強い瞳で黒山さんを見据え、言い放った。

 

「私は私のまま天使みたいになる」

「だから『盗め』つってんだ。全部吸収して取り込んで来い」

 

 その言葉に、黒山さんがにやりと笑った。

 多分、彼女の演技はこれから化けるだろうと、私はぼんやりと思っていた。百城千世子から技術を盗むのは簡単な事ではない。彼女は並々ならぬ努力を重ねた結果、今の仮面を手に入れたのだから。

 だが、夜凪さんならそれが出来ると、私は何故かそう思っていた。

 落ち着いていた心が再びざわめきだす。抑えきれない興奮が、どくんどくんと私の心臓を加速させている。

 何とか抑えようと我慢するが、歯止めが効きそうにない。

 

 

 私はもう一度、演者をやりたいと思っていた。

 

 

 ▼

 

 

「その前に、お前に一つミッションを与える」

 

 唐突に、黒山さんがそんなことを言い出した。

 話し合いは終わり、さて帰ろうかと思っていた時に急に放たれたその言葉によって、夜凪さんが首を傾げる。肩に乗っていた髪がさらりと滑り落ちた。

 

「ミッション?」

「そうだ。お前が役者を続けるのに必須の課題だ」

「……レッスンとか?」

「そんな簡単なものじゃない。夜凪、このミッションはお前にとっては何よりも難しいものかもな。ちなみに出来なかったらお前は役者を辞めることになる」

「ちょ、ちょっと墨字さん。なんでそんなことを急に……もうデスアイランドの撮影近いのに」

 

 急な発言に、柊さんは焦燥気味だ。まあ、今から売れにいく準備をしている役者の卵に、難題を押し付け出来なければ役者を辞めさせると言われれば、困惑もするだろう。夜凪さんも眉根を顰め黒山さんを見ている。

 

「意味がわからないわ……なんでいきなりそんなこと」

 

 夜凪さんの冷静な言葉に、柊さんが強く頷く。

 すると黒山さんが嘲るように鼻で嗤い、言った。

 

「まあ、怖いというなら今じゃなくてもいいが。素人役者に負わせるには重すぎる荷だしな」

「やってやろうじゃないの!」

 

 即答だった。全然冷静じゃなかった。あんなクールな見た目をしているくせに案外煽りに弱いようだった。

 いやまあ、夜凪さんの演技がもっと上手くなるなら私的には大歓迎だ。私赤の他人だし。傍から見て楽しければ問題ない。

 すると突然、黒山さんがこちらを向いた。その飢えた野獣のような鋭い目に、怯えてしまう。

 そして彼は、にやりと笑って言い放った。

 

「よし、よく言ったぞ。ならお前のミッションは、そいつと友人になることだ」

「…………は?」

 

 





ちょっとずつ話が動き始めてきました。それはそうと柊雪が可愛い。


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Scene8 : わかんない

「自分の定義を増やせ。それがお前の課題だ」

「……は?」

「課題だよ。お前をより強くするための」

「……それで、友達作り?」

「そういうことになる」

 

 静まり返ったスタジオ大黒天の中を、二人の言葉が飛び交っていく。

 柊さんは目を点にして黒山さんを見つめている。多分、私も同じような表情になっているだろう。

 私の場合、いきなり話題に引きずり込まれたという驚きのせいでもあるが。

 

「全く、舐められたものね」

 

 不意に、夜凪さんが言った。その顔からは自信が溢れ出している。それに同調するように柊さんが口を開く。

 

「どんな難題が押し付けられるのかと思えば……まあ、確かに墨字さんにとっては友人作りは至難の業でしょうけど……」

「お前サラッとディスってんじゃねえ」

 

 徐々にざわめきを思い出し始めたスタジオの中、私だけが固まったまま動けないでいる。

 友達になるって、どういうこと? 

 頭の上に? マークを大量に浮かべる私を置いて、スタジオ大黒天のメンバーたちは話を続ける。

 

「要は、私は犬山さんと友達になればいいだけの話でしょう? なら簡単だわ」

「言い切ったぞこいつ。絶対できないから見とけ」

「意味はよくわかんないけど、そんなことなら一瞬よ」

「一方通行の友人関係築くつもりかお前?」

「一週間で親友になってみせるわ」

「明日から収録だろお前」

「謀ったわね!」

 

 あの、と声をかけてみるが、熱論を繰り広げている二人(主に一人だけだが)には届いていないようだ。そんな私を見かねてか、柊さんが話しかけて来た。

 

「ごめんね、勝手に決めちゃって」

「え、あ、ああ……別に友人になるくらいなら大丈夫なんですけど……けどなんでいきなりそんな話が?」

「うーん……私も全部理解できてるわけじゃないけど……けいちゃんの演技のためじゃないかな」

 

 演技のために友人を作る。字面にすれば何やらいかがわしい雰囲気が出ているが、多分彼女にはそれが必要なのだろう。

 高校の彼女を見る限り、彼女に友人はいない。彼女の中に、普通の人間が送る人生という定義は存在していないのだ。

 黒山さんが彼女にしようとしていること、それは、彼女の中の定義を増やすこと。彼女がメソッド演技によって自分の帰る場所を忘れてしまわないために、目印を作ろうとしているのだ。

 何だか食い物にされているような気がしてならないが、まあよしとしよう。

 

 

 私としては夜凪さんの演技がより良くなるのならば、なんだってするというものだ。というか、そんな課題なしにしても夜凪さんとは仲良くなりたいと思っていたし。

 

 すると、黒山さんと夜凪さんの会話が終わったらしく、夜凪さんがこちらを向いた。その目はぎらりと光っている。

 そして足早にこちらに向かってくる。その形相に、私は思わず身を固くした。柊さんがサッと逃げた。裏切られた気分だ。

 夜凪さんは私の目の前に仁王立ちすると、こちらを見下ろしながら。大きく息を吸った。

 そして覚悟を決めたかのように、先程まで柊さんが座っていた椅子に腰をかけ、キャスターをフル稼働してこちらに近づいて(肩が当たっている)、私の横顔を至近距離から見つめながら言った。

 

「隣、座ってもいい!?」

「…………うん……」

 

 彼女の必死な表情を見れば、もう座っているではないかとは言えなかった。

 私の言葉を聞いて、夜凪さんが黒山さんとその隣にいつの間にか移動していた柊さんに向かって徐に親指を立てた。黒山さんが腹を抱えて笑っている。謀ったなヒゲ。

 夜凪さんは再びこちらを向いて(嬉しいのか、その顔は少しばかり綻んでいる)、興奮のため紅潮した頬を隠そうともせずに再び口を開いた。

 

「私たち、友達にならない!?」

「……ア、ハイ……」

 

 言いたい。今どきそんな友達の作り方をするやつがあるかと言いたい。けど言えない。彼女の純粋な瞳の前では、私は口を紡ぐことしか出来ない。なんだかその純朴で無垢な表情の前では、私は、私自身が酷く矮小な存在に思えてきてしまった。

 夜凪さんが遠巻きにこちらを見ている二人に再び親指をあげる。今度は柊さんも袖で口元を隠しながらもはっきりと笑っていた。笑い方が可愛いので許す。

 

 すると、笑いによる涙を拭った黒山さんがこちらに近づいてきた。

 

「ま、そういうことだ、犬山とやら。悪いがこいつにちょいと付き合ってくれ」

「そ、それくらいなら構いませんけど……」

「そうか、それは有難いな。な、夜凪」

「友達なんだから一緒に帰りましょ!」

「話聞けよ」

 

 夜凪さんは既に黒山さんの話を聞いていないらしく、私の手を掴んで立ち上がった。白魚のような、ほっそりとした指は滑らかで、しかし同時に柔らかでもあった。

 

「じゃあ、私たちは帰るわ」

「お邪魔しました」

「じゃーね、けいちゃん、千景ちゃん」

 

 柊さんに手を振り返しながら、夜凪さんに手を連れられてスタジオ大黒天を出る。春の暖かな陽気が私を包んだ。

 

 スタジオ大黒天を出てから、私たちはゆっくりと歩き始める。帰り道は同じ方向らしく、スタジオ大黒天からそのままお別れという悲しい結果にはならずにすんだ。

 

 暫しの間静寂が流れる。

 先にそれを破ったのは夜凪さんだった。

 

「黒山さんの課題、どういうことだったのかしら」

 

 どうやら、彼の下したミッションに今更ながら疑問を感じたらしい。まあ、無理もないだろう。友達を作らなければ役者を辞めさせると言われたのだから。

 しかし、その解答を私の口から言う訳にはいかない。これは、夜凪さんが自分で見つけ出さなければいけないものだろうから。

 

「まあ、黒山さんにも色々あるんだと思うよ。夜凪さんのためだろうし」

「それはそうなんだろうけど……謎だわ」

 

 ため息を吐く夜凪さんに愛想笑いを浮かべ、私はぼんやりと辺りを見回した。この辺りはあまり来たことがないので、目に映る全てのものが新鮮に見える。

 翠の生い茂る街路樹も、桜の花に彩られ薄紅色の冠を被った信号機も、人々が優雅に午後のティータイムを楽しんでいる喫茶店も、テーブルに置かれたガラス製のティーポットの中を静かに沈んでいく紅い茶葉さえも。

 なんだか、世界が新しくなったようだった。隣にいる彼女のおかげで、全てが美しくなった気がしていた。

 

「夜凪さんは、なんで役者をやろうと思ったの?」

 

 知らず知らずのうちに、そんな言葉が口から転び出ていた。夜凪さんはちらりとこちらを見て、少しの間考え込んだ。

 

「妹が、私に向いてるって言ってくれたから……かな」

「……そうなんだ」

「犬山さんは、どうして子役をやろうと思ったの?」

 

 その質問が来ることを、私は大体予想していたにもかかわらず、すぐに言葉を返すことが出来なかった。まるで見えない誰かが私の首を絞めているかのような、苦しさ。

 いや、誰かなんて曖昧な言い方はよそう。私はもう理解しているんだ。

 いつだって、私の首を絞めているのは私自身。醜いプライドや自尊心が、必死にその言葉を言わせまいと、私の喉を締め付けているんだ。

 一度、大きく深呼吸してから、口を開く。

 

「もうずっと前のことだから忘れちゃったけど……多分、負けたくなかったのかもね」

「誰に?」

「百城千世子に」

「……」

 

 空を見上げる。青い空はどこまでも澄んでおり、そこには一切の穢れを見出せない。私の心も、これほどに清くなれたのなら、心からの笑顔で百城千世子と友人になれたのだろうか。

 

「夜凪さんは」

 

 頭の中の考えを振り払うかのように、私は口を開いた。

 

「ちょこのこと、どう思ってる?」

 

 夜凪さんは「ちょこ……?」としばらく考えて、それが百城千世子であることに気づき、おずおずと口を開いた。

 

「うーん……少し苦手、かしら」

「それは、なんで?」

「あまりにも人間味を感じないから」

 

 その率直な物言いに、私は思わず噴き出してしまった。確かに、演技をしている百城千世子からは人間味を感じることはできない。

 

「確かに、そうかもね」

「機械みたいな、そんな気がしてしまうの」

「わかるよ、わかる。ずっと見てきたから、わかる」

 

 横目で見た夜凪さんの表情は微かに不安げだ。多分、百城千世子とちゃんと共演できるだろうかと、不安に思っているのだろう。

 

「夜凪さんはさ、ちょこが本当に中身のない機械みたいな人間で、ただただ演技のことだけを考えているように思える?」

「……正直、思ってしまうわ。彼女の表情を見ようとしても、仮面のようなものしか見えない。けど、そんな人間って、存在しているのかしら……」

「いないよ」

 

 ポツリと私が言った。自分に言い聞かせるように。

 

「いないよ」

「……」

 

 二回同じことを呟いた私を、夜凪さんはそっと見つめてくる。その視線を感じながらも、私はずっと前を見ていた。

 

 もしも百城千世子が本当に機械のように、演じることだけしか考えていなかったのなら、どれだけ良かっただろうか。

 私のことをなんとも思ってもいないような、血も涙もない非人道的な人間であったのなら、どれだけ良かったのだろう。

 

 エゴサーチや研究を重ね、その小さな体躯に負担をかけながらも自らの演技を極めていく姿を、私はずっと見ていた。

 オーディションで私から役を勝ち取った時に見せる辛そうな表情と、その口から紡ぎ出されるごめんねの四文字に幾度となく苦しめられた。

 彼女は人間だ。どうしようもないほどに人間なんだ。

 ただ、背負っている。周りの期待や、民衆からの視線を、その細くて頼りない背中で、全て。自分を周りから切り離し、一人ぼっちになりながらも背負っているのだ。

 百城千世子の幼馴染である私は、そんな彼女を助けるべきだったのだろう。彼女の仮面の中身を理解して、そっと寄り添うべきだったのだ。

 だが私はそれを理解出来なかった。自分のことだけを考えて、被害妄想に酔いしれて、彼女の目の前から去ってしまったのだ。

 あの時の私は、子供だった。百城千世子の気持ちなんて理解していなかったんだ。

 

 ……いや、子供なのは今尚、か。

 今だって、私は百城千世子の気持ちなんてわかってはいやしない。ただ自分の想像を彼女に当てはめているだけだ。

 

「一つ、聞きたいことがあるんだけれど」

 

 不意に夜凪さんがそう言った。ちらりと見ると、背筋をぴんと伸ばし顔だけをこちらに向けた夜凪さんと目があった。

 

「あなたにとって、千世子ちゃんの存在は何?」

「私にとって……」

 

 幼馴染。そう答えられたのなら、どれほどに簡単だったのだろうか。

 だが、何も言えない。何も応えられない。

 そんな私を追い詰めるかのように、夜凪さんは言葉を継ぐ。

 

「何故犬山さんは、そんなに千世子ちゃんに執着するの? ほかにもいっぱい役者はいるのに」

「なんで……だろうね」

 

 確かに、彼女の言う通りだ。仲のいい役者友達なら何人もいたし、百城千世子に執着する必要はなかったはずだ。彼女のことを幼馴染というのなら、同期の子役たちも全員幼馴染だろう。

 だが、私にとっての幼馴染は百城千世子だけだ。他の誰でもない、彼女だけなんだ。

 私にとっての彼女とは、どんな存在なのだろうか。彼女にとっての私は、どんな存在なのだろうか。

 

 口を噤んだまま、二人で歩く。桜の花びらを踏んだ。私みたいな花びらだった。

 

「犬山さんは、千世子ちゃんのこと、好きなの?」

 

 首を傾げて、夜凪さんが問う。私はきっかり七歩歩いてから答えた。

 

「わかんない」

 



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Scene9 : 世界で一輪の薔薇

可愛いわんこの動画見てたらいつの間にか一か月経ってました。


 

 静かな部屋の中に、頁をめくる音が幽かに響く。

 暖かな日差しを遮るカーテンの傍で、私は椅子に浅く腰掛けてなるべく背筋を曲げぬように読書を楽しんでいた。

 図書室で借りた本は二冊。『星の王子様』と『初恋』。

 今私が読んでいるのは星の王子様。初恋から読んでもよかったのだが、少し難しそうだったので簡単な方から読むことにしたのだ。

 星の王子様は簡単で、なおかつ深みのある作品だ。読んでいくうちに、様々な思想や価値観が心の中に入ってきて、沈殿していく。それらは澱のように心の底に溜まり、やがて私たちに馴染んで、血肉となって、生き方へと影響していくのだろう。

 

 星の王子様の粗筋を簡単に説明すると、砂漠の真ん中に不時着した主人公が、そこで出会った異なる星から来た小さな王子様と仲良くなり、彼から様々な星の話を聞く、といったものである。

 この作品の中で重要なポイントは、子供の時の気持ちである。

 作品の最初に、一つの挿絵がある。主人公曰く、それはゾウを飲み込んだボア(蛇らしい)なのだが、大人たちはそれを見るたびに帽子と言う。主人公は嘆き、大人と子供の違いに気づくのだった。

 実際挿絵に描かれているものは完全に麦わら帽子だし、どこから見てもボアとやらには思えなかった。多分、私も作中に出てくる「大人」と一緒なのだろう。

 それを読んでいた時ふと、私には幼い頃、自分が滑稽な夢を抱いていたことを思い出した。自分でも忘れてしまっていたほどに朧げで、恥ずかしい夢。

 本をテーブルの上に置き、手を開く。親指の付け根あたりに黒子が見えた。

 

「掌の黒子で雷を捕まえる」

 

 それが幼い頃の私の夢だった。今考えると馬鹿馬鹿しいが、当時の私は真剣だった。

 だが、大人にそれを言うと優しい笑みを浮かべられるだけだった。頑張れと、心のこもっていない応援にうんざりした私は、大人にその夢を語ることをしなくなったのだった。

 

「そういえば、ちょこも本気だったな」

 

 他人は私のこの夢を散々馬鹿にしたが、百城千世子だけは絶対に馬鹿にしなかったことを覚えている。いつか捕まえようねと、一緒に指切りをした。多分、彼女は覚えていないだろうけど。

 

 兎にも角にも、星の王子様の中にははっとさせられるようなストーリーが幾つもある。

 

 作中でとても大切なシーンは、王子様が狐と出会うシーンだ。

 自分が住んでいた小さな星の住人である薔薇にうんざりして星から出た王子様。様々な場所を放浪しながら地球にたどり着いた彼は、そこで彼の星にいた薔薇と同じ花の群れを見つけ、ショックを受ける。何故なら、彼の星に生えていた薔薇は、自分はこの世に一輪しかない花だと、自分で豪語していたからだ。ところが蓋を開けてみれば、同じ花々がそこかしこに生えているのだ。世界でたった一つの財宝を持っていると思っていた王子様だ。それはショックも受けるだろう。

 

 そんな時に、彼は狐と出会った。

 狐は王子様に話しかけるが、決してちかよろうとはしない。何故なら、彼は王子様に『懐いて』いないから。

 王子様は尋ねる。「なつくってどういうこと?」。

 狐は答える。「絆を結ぶということだよ」。

 

 王子様に懐いていない狐にとって、王子様はそこらへんにいる少年となんらかわりない、ただの少年だ。王子様にとってもそれは同じことだろう。

 だが、もし狐が王子様に懐いたのなら、その関係はガラリと変わる。

 

 狐は王子様にとってなくてはならない存在になるし、その逆も同じようになる。お互い、世界でたった一つだけの存在になるのだ。

 

 狐を懐かせた王子様は、別れの際に狐に大切なことを告げられる。

 彼の薔薇が本当に、世界でたった一輪のものであるという証拠だ。

 再び薔薇の庭園に行った王子様は、驚愕する。何故なら、それらの薔薇は、王子様の星にいるものと全く似ていなかったからだ。

 庭園に生えている薔薇は、王子様にとってどうでもいいもの。あってもなくても同じ存在。

 だが、彼の星にいる薔薇は違う。

 彼が育て、彼が愛情を注ぎ、虫から守ってやった、世界で唯一の花なのだから。

 

 その後、狐は王子様に秘密を教える。

 

「一番大切なことは、目に見えない。君の薔薇をかけがえのないものにしたのは、君が、薔薇のために費やした時間だったんだ」

 

 この箇所を読んだ時、ふと、夜凪さんの言葉が頭の中をよぎった。

 

「あなたにとって、千世子ちゃんの存在は何?」

「何故犬山さんは、そんなに千世子ちゃんに執着するの?」

 

 あの時は答えられなかった。自分の中で、確固たる答えがなかったからだ。

 だが今なら、それらしきことなら言えるはずだ。

 

「百城千世子は、わたしにとって、なくてはならない存在だ」

 

 はっきりと、一文字ずつ区切るように自分に言い聞かせる。

 作中に出てくる狐のように、私は千世子に懐いていたのだ。愛しているのだ。

 私にとって、彼女は世界でたった一人の役者であり、私の幼馴染であるのだ。

 

「彼女がどう思っているのかは、わかんないけど」

 

 まだ子供だった私は、作中の王子様と同じく、煌びやかな薔薇にうんざりして、その前から姿を消してしまった。幼かった私は、その裏にある、彼女の愛情に気づくことができなかったのだ。

 

 本を閉じると、緩やかな倦怠感が体を包む。知らぬ間に読書に没頭していたようだ。

 大きく息を吐き出す。もう今日は読書の気分じゃない。何をしよう。何もやることがない。

 

 百城千世子と夜凪さんが映画『デスアイランド』の撮影地へ行って、すでに数週間が経った。その間葦のようにぼんやりと過ごしていた私だったが、本の返却期限が過ぎていることに昨晩気づき、今日一気に読んでいるのだった。ちなみに今日は土曜日なので、『初恋』は明日読めばいいだろう。月曜に返せば、図書委員の彼女もあまり怒ることはないと思う。そう信じたい。

 撮影で忙しいのか、最近は百城千世子からの連絡はない。夜凪さんは携帯自体を持っていないらしく、この間連絡先を交換しようと言った際は、その端正な顔を哀愁色に染め上げて「私、携帯持ってないの……」と返された。あの時の気まずい空気を私は一生忘れまい。

 というわけで、暇だ。

 もちろん時々私に連絡を入れてくる学友もいるが、それも彼女らが暇だからという理由に過ぎない。

 ベッドに倒れ込み、静かに息を吐く。唇の右下に出来た小さな面皰が少し痛んだ。

 

「役者だったなら、今頃一緒にいれたのかなぁ……」

 

 呟いて、ゾッとする。私は今何と言った? 

 背筋が寒くなり起き上がる。茫然とベッドの上で胡座をかきながら、私は力なく笑った。

 

 まだ、そんな夢を見ているのか、私は。

 もう無理だと気づいたはずだ。だから辞めたんだ。

 初めて引退をしようと決意した夜、一人で布団の中に潜った時のあの惨めさを忘れたというのか。

 

 自分にそう何度も言い聞かせるが、心の高まりはそれを聞いてくれやしない。熱く大きく心臓を叩き続け、おぼろげに浮かぶ妄想を煌びやかに飾り立てていく。

 頭の中に浮かぶのは、夜凪さんと一緒に演技をしている私。百城千世子からオーディションを勝ち取った私の姿。彼女の悔しそうな表情、瞳、涙声。

 

 ああ、私は何て醜い女なんだろうか。百城千世子の幼馴染面をしているくせに、考えていることはこんなことばかりだ。いつも、頭の中で百城千世子を見下そうとしているのだ。

 実際は、そんなことありえないのに。私が彼女に勝つだなんて、不可能に決まっているのに。

 私がベッドの上で燻っている間にも、彼女はどんどんと遠ざかっている。

 

 手に持っていた本を机にそっと投げ、ベッドに倒れこむ。静かな耳鳴りがした。

 

「ちょこの、存在」

 

 私は百城千世子を愛している。それは間違いない。彼女は私にとって大事な存在だし、私も彼女にとって大切な存在だと思っている。

 だがそれでも、劣等感は消えない。嫉妬はなくならない。人間という生物は卑しく、浅ましいのだ。

 今なおテレビで活躍している百城千世子を、私は憎んでいる。私に出来なかったことを平然とやってのける彼女が憎い。

 愛している。愛している。けど、憎んでる。

 

 わけわかんない。

 

 

 目を閉じる。浮かび上がってくるのは百城千世子と、その正面に立っている夜凪さん。今頃誰もが息を呑むような演技をしながら、周りを驚かせているんだろうななんて考える。

 

 ホント、全く……

 

「天才はいいよな……」

 

 そんなこと言っている自分が一番情けない。そんなことわかってる。けど、だったらどうすればいい? 全身を刺す劣等感は何がぬぐい取ってくれる? 

 

 大好きなはずなのに。一緒にいたいはずなのに。

 彼女の喜ばしいニュースに喜ぶことが出来ない。彼女に降りかかる不幸をいつも願っている。

 

 いっそ消えてしまえばいいのに、こんな人間。

 

 頭がだんだんと冷えていく。先ほどまで胸中で燃え上がっていた炎がなくなった。私は演者にはなれない。

 

 才能がないから。

 人気がないから。

 コネがないから。

 技量が足りないから。

 馬鹿だから。

 醜いから。

 何もできないから。

 何もしようとしないから。

 

 

 ……何よりも、勇気がないから。

 

 

「寝よ」

 

 

 呟いた声は情けないくらいに惨めで、閑散とした部屋に大きく響いた。

 そんな私を引き留めるかのように、携帯が震える。手を伸ばし床に落ちていた携帯を拾うと、画面には大きく『百城千世子』という文字が浮かんでいた。眉を顰める。今一番見たくない名前だった。

 

 電話のようだが、今は彼女の声を聞きたくない。通話ボタンへと伸びていた指を止め、再び携帯を床に置いた。

 暫くの間震えていた携帯だったが、やがて部屋には静寂が戻る。すると、鼬の最後っ屁のように、携帯が一度だけ小さく震えた。多分、私が電話に出れないと思った百城千世子が、用件だけを簡潔にメッセージで書き込んだのだろう。

 

 私は既読をつけないように携帯を機内モードにしてメッセージを読んだ。どうやら百城千世子は誰かの連絡先を私に送っていたようだ。

『夜凪景』。連絡先にはその名前が書かれていた。

 

「夜凪さん、携帯買ったんだ」

 

 ぼんやりと呟いて、電源を消す。あとで友達追加でもしておこう。今はもう眠い。

 私は汚い自分から逃げ出すかのように、ベッドの上で丸まって意識を放り出した。

 




暗い話です。

評価、感想お願いします。


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Scene10 : デート

特に理由もなく柴犬の里親を決めるサイトを眺めていたらこんなに時間が経ってました。


 

 

『デスアイランドの収録、とても面白かったわ!』

 

『それはよかったね。いつ帰るの?』

 

『もうクランクアップ? したから明日帰る予定!』

 

『へえ、もう帰るんだ。なら今度会った時に、授業の内容写したノート渡すね』

 

『ありがとう! あ、これ千世子ちゃんのスタンプ。可愛いでしょ?』

 

『可愛い。私も持ってるよ』

 

『あとこの写真! みんなでバーベキューした時の!』

 

『いいね』

 

『あとこの画像見て! みんなで枕投げした時の写真!』

 

『楽しそうだね』

 

『あとこの──』

 

 

 携帯を閉じた。

 ひっきりなしに震える携帯を机の上に置いて、私は大きく息を吐いた。

 

「夜凪さん、やばくね」

 

 百城千世子から夜凪さんの連絡先をもらい、一緒に会話してみたのだが、夜凪さんのはしゃぎっぷりがすごい。いや、まあ初めての携帯なのではしゃぐ気持ちもわかるが。

 数日前までデスアイランドの撮影地を台風が襲っていたらしいが、どうやら無事に撮影は終わったらしい。夜凪さんのテンションは初めての撮影によって最高潮まで達していた。何だか、初めて彼女の横顔を眺めた時には考えられないくらいにはしゃいでいる。

 未だに震える携帯を横目で眺めながら、私は静かに目を閉じた。

 

 ここ数日は百城千世子に会わなかったためか、何だか酷く不安定だった。嫉みや妬みが心の底から溢れてきて、ひっきりなしに百城千世子と夜凪さんを責め立てていた。そしてその後に押し寄せてくる後悔と自己嫌悪の波。

 凹んでは立ち直り、テレビをつけて百城千世子を確認しまた凹む。

 そんなこんなで幾日かを過ごしていた私だったが、幸いなことに夜凪さんのマシンガンの如きトークに付き合っていたせいで、暇だとは思わなかった。というか、思えないくらいずっとメッセージが来ていた。何だか怖い。

 ちなみにずっと凹んでいたので『初恋』を結局読むことが出来なかった。これ以上延滞していると本気で怒られそうなので、私は泣く泣く二冊を図書室に返したのだった。

 

 さて、先程からひっきりなしに震えている携帯をいつまでも無視する訳にはいかないだろう。

 ゆっくりと携帯を拾い、画面を見てみる。夜凪さんから二桁ほどのメッセージが届いていた。

 しかしそれよりも私の目を引いたのは、その下に表示されていた名前であった。

 

『百城千世子がメッセージを送信しました』

 

 メッセージアプリを開く。そこには、簡潔に「明後日会おう」という文章が書かれていた。

 

「…………」

 

 私は何も返信せずに、再び携帯の画面を閉じる。

 そして意味もなく立ち上がり、そこら辺をウロウロしてから後、椅子に座った。座ったからといって、百城千世子に返信する気は起こってこない。

 私は未だに彼女から逃げている。いや、ここ数日だけではない。あの日、私が役者を辞めると決断した日から。

 

「臆病だね」

 

 呟く。返ってくる言葉はない。

 返ってきていたのなら、ある程度はこの倦怠感を拭い去ってくれていたのだろうか。

 まあ、どうでもいいけれど。

 

 椅子から立ち上がり、ベッドに倒れこむ。もう今日は何もしたくない気分だった。携帯がまた震えた。見なくてもわかる、百城千世子からだ。

『大丈夫? 何かあったの?』

 そんな文章に涙が出そうになった。そんな自分が惨めだった。

 

 早く夜凪さんに会いたい。彼女に会って、少しでもこの虚無感を消し去りたい。

 胸を圧迫する嫌悪感と苛立ちを忘れるかのように、私は目を閉じた。どうせ眠れないけど、少しはその気分になりたいのだった。

 

 

 ▼

 

 

 部屋に小さく響いたベルの音で目が覚めた。

 寝ぼけた頭を揺らしながら、玄関まで歩く。

 そのままドアを開けようとしたが、その瞬間に目が覚めた。

 

 一体誰だろう。時計を見ると朝の七時だった。どうやらベッドの上に倒れこんで、そのまま一日中寝ていたらしい。身体の節々が痛んだ。

 ドアに付いているのぞき穴を覗くと、そこには片方の目を閉じて同じくドアののぞき穴を覗いている夜凪さんの顔があった。のぞき穴のレンズによって不自然に歪んだ彼女の顔は、それでも美しかった。何だか、下手くそなウィンクをしているようだった。

 

 ……というか、何故夜凪さんがこんな時間に私の部屋の前にいるのだろうか。

 恐る恐るドアを開けると、当たり前だがそこには夜凪さんがいた。

 

「……おはよう」

「おはよう、犬山さん。今日はいい天気ね!」

 

 本日の夜凪さんのファッションは、何やらよくわからないキャラクターがプリントされたTシャツとショートパンツという、なかなかに個性的なファッションだった。

 ショートパンツを履いているせいか、彼女の長い脚が更に強調されており、まあ……なんだ、見ていて悪い気はしないですね。

 夜凪さんは目をキラキラと輝かせながら私を見ている。寝起きで瞼がむくんでいる私と対峙している姿は、さながら光と影のような構図だった。

 夜凪さんが何故私の家に来たのか未だに理解できていない私は、ぼんやりとした返事をする。

 

「ああ、うん……そうだね」

 

 その返事を待たずに、夜凪さんが私に詰め寄ってくる。よく見ると、彼女はリュックサックを背負っていた。

 ずいと私に近づいた夜凪さんは、目を爛々と輝かせながら言った。

 

「い、いきなりだけど、今日一緒に遊ばない?」

「……今日?」

「今日」

「今から?」

「今から」

「…………ちょっと準備させて」

 

 大きく頷く夜凪さん。先ほどよりも目が輝いている。

 とりあえず彼女を家にあげる。夜凪さんはそんなに私の部屋が気になるのか、しきりにキョロキョロと辺りを見渡していた。

 

「あの、そんなに大した部屋じゃないから、じろじろ見られたら恥ずかしかったりするんだけど……」

「ああ、ごめんなさい。私、友達の家とか来るの初めてだったから、つい……」

 

 わりかし悲しい理由だった。そんなことを言われたら、見るなとは言えない。

 夜凪さんは背負っていたリュックを下ろすと、床に正座をして再び私の部屋を見始めた。

 

「何もないわね……」

「まあ、あんまり趣味といった趣味はないからね……」

 

 ベッド、箪笥、クローゼット、テレビ、机、椅子。

 以上、私の部屋にある家具一式。

 肩越しに夜凪さんを見ながら着替え始める。級友の前で肌を晒すのは何だか恥ずかしかったが、当の夜凪さんが私の素肌のことなど全く気にもしていないので、私も気にしないことにした。

 

「親御さんは、いらっしゃらないの?」

「一人暮らしだからね。両親は健在。実家に住んでる」

 

 シャツに頭を突っ込む。白地の生地のその向こうに、両親の顔が見えたような気がした。

 

 両親に無理を言って始めた役者人生。途中で挫折して引退した時も、彼らは私を責めることなく、優しく慰めてくれた。

 けれどそんな同情が辛くて、自分の無能さを突き付けられているようで、私は逃げるように上京した。

 一人暮らしがしたいと両親に言った時も、彼らは反対することなく、心配そうな瞳をこちらに投げやっただけだった。あの瞳の奥底にどんな感情があったのか、私には理解できない。だが、一人娘をぽんと自分たちの手の届かないところへと送り出す両親の気持ちなら、私にだって多少は理解できる。

 理解できるからこそ、余計に惨めな気分になる。そんな両親から逃げ出した自分が嫌になる。

 

 ああ、また陰鬱な気分になってしまった。

 私はそんな気分を振り払うかの如く、シャツに頭を通した。シャツの中の籠った空気から抜け出して、新鮮な空気を取り入れる。夜凪さんは相変わらずぼんやりと辺りを見渡していた。

 

「それで、今日はなんでいきなり?」

「い、犬山さんと一緒に遊びたかったから!」

 

 それこそメッセージか何かで知らせとけよと思ったが、何も言わない。どうせ送ろうとしたが断られるかもなんて思って当日に有無を言わせぬスタイルで押しかけてきたのだろう。案外乙女である。

 私が何も言わないので不安になったのか、夜凪さんは瞳を揺らしながらこちらを見る。

 

「……ダメだったかしら?」

 

 そんなことを言われて断れるほど、私の心は強くはない。

 

「いいよ。どこに行く?」

 

 再び夜凪さんの瞳が輝く。何だか子犬のようだった。

 夜凪さんはうきうきとリュックサックを開き、何やらパンフレットを取り出した。

 

「あのね、私この映画が見てみたくて!」

「あ、これ最近有名なやつだよね。私も見たかったんだ」

 

 脱いだパジャマを畳んでベッドの上に置く。いつもは放り投げるだけなのだが、夜凪さんの前でそれをやってのけれるほど、私の面の皮は厚くない。

 今日はそこまで暑くはないがショートパンツだと冷えそうなので、ガウチョを履くことにした。そうなるとシャツとあまり似合わない。私はシャツを脱いで、代わりにオフショルダーのブラウスを着ることにした(脱いだシャツはそのままベッドに放り投げてしまった)。

 

 更に髪の毛のセットやら洗顔、化粧などその他もろもろの準備を終わらせ、リビングで相変わらずキョロキョロしている夜凪さんに声をかけた。

 

「準備終わったよ。行こっか」

「ええ、行きましょう」

 

 夜凪さんは半ばスキップにも似た足取りで玄関へと向かっていく。Tシャツにプリントされているよくわからないキャラクターも喜んでいるようだった。

 外に出ると、鬱陶しいくらいの熱気が私の身体を包んだ。この間まで春だったというのに、季節というものは随分と早く流れるものだ。

 

「私、友達とお出かけするのって始めてなの! 何だか新鮮だわ!」

「あ、ああ……そうなの……」

 

 衝撃のカミングアウトに、なんと言えばいいのかわからないので適当に相槌を打っておく。こういう場合は笑っておけばいいのだろうか? 

 夜凪さんは燦々と輝く太陽の下を大股で歩いて行く。対する私は、なるべく日陰の中を歩くようにしている。

 

 光と影、私たちの距離はこんなにも近いというのに、まるで断絶された世界にいるかのようだった。

 実際、私と夜凪さんは似て非なる存在だ。私はただの一般人で、彼女は天才女優なのだから。

 

 足元を見つめる。アスファルトの亀裂の隙間から小さな野花が咲いていた。それを踏みつけた。

 

「そういえば、夜凪さんのそのシャツって、どこで買ってるの?」

「これ? ああ、いいでしょ?」

「……あー、うん。まあ色んな角度から見れば、良いとはいえるんじゃないかな」

 

 私の質問に、夜凪さんが満面の笑みを見せた。私は何も言うことなく、顔を背けたのだった。

 彼女が気に入っているのならば、私から何か言う必要はあるまい。今日一日のプランの中に服屋へと赴く必要が出来たくらいだ。

 

「夜凪さん、今日私がよく行く服屋に行こうよ。見繕ってあげる」

「ホント!? ぜひお願い!」

「うん、任せておいて」

「なんだかこれって、すっごく充実してる生活なんじゃないのかしら!」

 

 夜凪さんはよほどうれしかったのか、ぴょんと一度スキップをした。濡羽色の美しい髪がはらりと舞った。一本一本に生命が宿っているのではないかと疑ってしまうほどに柔らかく艶やかな髪の毛が陽光に照らされ静かに輝いた。

 

「まずは映画館にしよう。時間も決まってるし」

「そうね! 給料も入ったことだし、これで思う存分映画も見れるわ!」

「……それはよかった」

 

 涙が出そうになる話を聞かされた気がしたが、気にしないでおく。他人の家庭事情にまで口を挟むほど野暮な人間になったつもりはない。

 

「それにしても、意外だったな。夜凪さんが恋愛映画を見たいだなんて」

「うん。そのうち、恋愛する役をもらうかもしれないから、今のうちにその時のために練習しておこうと思って」

「ああ、そういう……」

 

 てっきり色恋やらそういう類の話に目覚めたのかと思っていたが、どうやらもっと冷めきった理由だったらしい。

 暫く歩いていると、ショッピングモールが見えて来た。服屋はもちろん、映画館もモール内にあるので、ここだけで今日一日なら過ごすことが出来るだろう。

 モールに入ると、かすかな涼しさに包まれる。どうやらもう冷房をつけているらしい。

 

「私、ポップコーンを食べながら観てみたいわ!」

「私もポップコーン食べようかな。二人用の買って、一緒にシェアする?」

「し、シェア……! なんだか友達らしい響きだわ!」

「うん、まあ、友達だし」

 

 そんなことを言いながら映画館の中へと入る。明るく爽やかなモールとは違い、映画館の中は薄暗く、何だか落ち着いた雰囲気が漂っている。

 

 チケットを購入し、二人用のポップコーンとジュースを手にシアターへと向かう。

 なんだか先ほどから夜凪さんが隣でそわそわしている。

 無視しようと思っていたが、どうにも気になってしまって仕方がない。恐る恐る尋ねることにした。

 

「……どうしたの?」

「い、いえ……ただでさえ映画館って緊張するのに、友達と一緒だから……どうすればいいかわからなくて」

「シアターの中に入って椅子に座ればいいと思うよ。あとは勝手に映像が流れるから」

「そ、そうね! その通りだわ! ありがとう!」

「……どういたしまして」

 

 

 




次は一週間以内に投稿したいと思います……多分、きっと。

評価感想お気に入りをよろしくお願いします。


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Scene11 : 私の知らない貴女の横顔

犬種はシベリアンハスキーが好きです。


 感動系の恋愛映画の出来はそこそこ良かった。全米が泣いたとまではいかないが、そこそこに自信ありげなキャッチコピーの通り、ラストシーンでは不覚ながら少しだけウルっと来てしまった。

 夜凪さんはあまり感情移入出来なかったのか、ぼんやりとした瞳でモニターを見つめ続けていた。毒々しい光によって浮かび上がった彼女の横顔は、とても朧げで、まるで霧中に滲みながらも鮮やかに咲く街灯の光のようだった。

 

「いい話だったねー」

「うーん……いい話だったけれど、やっぱり登場人物の心情があまりわからなかったわ」

 

 シアターから出て、チケット売り場のある広場まで戻っている途中。どうやら夜凪さんは劇中の男女の愛が理解出来なかったらしく、しきりに首を捻っている。

 

「何がわからなかったの?」

「……例えば、映画のラストシーンの、主人公が病気のヒロインのために自分の臓器をドナーとして提供しようとするシーン、なんで彼は彼女のためにああまで出来るの?」

 

 私達が観た映画は、所謂「ベタベタ」な感動ストーリーものだった。

 主人公とヒロインが恋に落ち、様々な試練を乗り越えて愛を育んでいくが、実はヒロインは大病を患っており、それが後半から悪化していく。最期は寝たきりになってしまった彼女を助けるために、主人公は自分の臓器をドナーとして提供しようとするが、彼女に断られる。結局彼女は死に、残された主人公が医者になって彼女が患っていた大病を治す薬を発明する。

 細かいキャラクターの設定などを挙げていけばキリがないが、端的に説明をすればこんな感じである。

 夜凪さんはこの映画のラストシーン間際、主人公が彼女のために自分を犠牲にしようとしたシーンで疑問を感じたらしい。

 

「それは、彼が彼女を愛していたからじゃないの?」

「まだ会って数ヶ月なのに、自分の命すらも差し出せるほどに彼女を愛していたの?」

「……一目惚れとか?」

「だとしたら、自分の命を犠牲にするなんて馬鹿馬鹿しい話だわ。自分が死んだら、彼女が生きていたってなんの意味も無いもの」

「そんなことないよ。彼女は主人公のことをずっと覚えてくれるだろうしさ」

「覚えてくれたって意味ないわ。彼女の隣にいないなら、記憶なんて塵芥に等しいものだもの」

 

 彼女の持論に反論しようとしたが、よく考えたら私があの映画を擁護する必要は無い。私はそうだねと頷いて、映画館を出た。

 

「じゃあ、服屋に行こうか」

「いいわね! ぜひ一緒に服を選びましょう!」

「うん。夜凪さんスタイルいいから、カッコイイ系の服とか似合いそう」

 

 下りのエスカレーターに乗る。夜凪さんは私より一段下に乗ったため、今の時間だけは私の方が高い世界を見ていることになる。

 眼前にある彼女の旋毛をぼんやりと眺めながら、そういえば百城千世子のメッセージに返信していなかったなと思い出す。

 何か言っておいた方がいいのだろうか。

 

「…………」

 

 いや、別にいいだろう。帰ってからなにか返信しよう。

 

 再び夜凪さんの旋毛に視線を向ける。彼女は今、私よりも下の世界にいる。彼女には見えないものだって、私には見える。彼女ができないことだって、私には出来る。

 

 エスカレーターの段差が平らになっていく。もう下の階に着いたようだ。夜凪さんがぴょんと小さく前に跳んで、しっかりとした地面に着地した。次いで私もエスカレーターを降りた。

 先程までの立場は逆転し、私は夜凪さんを見上げなくてはならなくなった。

 私と目線を合わさるために、夜凪さんが小さく見下げてくる。彼女は普通に私を見つめているだけなのだろうが、見られている方からすると、その瞳にはどこか私を見下している色のようなものが見えているような気がしてくる。

 

 百城千世子も、私のことをこんな風に見つめているのだろうか? 

 

 

「……くだらないな」

 

 口の中でその言葉を転がし、飲み込んだ。

 せっかく夜凪さんと一緒にいるのだ。楽しいことに専念しよう。

 私は頭の中の考えを振り払い、目の前を歩く夜凪さんを追った。

 

 

 ▼

 

 

「犬山さん、こんなのはどう?」

「今すぐ返してきて」

「…………」

 

 結論から言うと、夜凪さんとの服屋ショッピングは難儀を極めた。

 まず彼女、絶望的に服のセンスがない。いや、むしろ前衛的とも言えるほどだ。

 とにかく誰が何の目的で誰のために作ったのか皆目見当がつかないような摩訶不思議なシャツをどこからか見つけて来ては、爛々と目を輝かせながらこちらに持ってくる。その度に私は返してきてとお願いし、夜凪さんは悲しそうな瞳をこちらに寄越しながらシャツを返しに歩いていく。

 これは私が悪いのだろうか? 

 

「犬山さん! このシャツはどう!?」

「夜凪さん。私が服選ぶから、夜凪さんは待っててね? あとそのシャツは返してきて」

「…………」

 

 ……多分私が悪いんだろう。

 

 

 ▼

 

 

「似合ってるよ! すっごい似合ってる!」

「そ、そうかしら……なんだか落ち着かないわ」

 

 試着室のカーテンの向こうには、恥ずかしそうに俯きながら自分の服を見つめている夜凪さんがいる。

 私が選んだコーディネートは、黒のレザージャケットに麻の白シャツ。下は濃い青のリップドジーンズである。かなり簡単なファッションだが、シンプルなりの格好良さが滲み出ている。特に、夜凪さんはスタイルがよく脚が長いので、少々破けたジーンズと相俟って妖しげな色気が溢れ出ている。

 しかしそんな格好良さを一気に可愛さへと変えているのが、恥ずかしそうにしている夜凪さんの表情である。どうやら破れているジーンズが恥ずかしいらしく、しきりに手で隠そうとしている。

 同性の私でさえその可愛さにクラクラしているのだ、男が見ればまず間違いなく惚れるだろう。

 

 パシャパシャと写真を撮っていると、恥ずかしがった夜凪さんが試着室のカーテンを閉めてしまった。似合っていたのだが、もったいない。

 

「やっぱり私はこのシャツがいいわ」

「もったいないなぁ、似合ってたのに」

 

 数十分後、またどこから見つけてきたかわからないシャツを片手に夜凪さんは満足気な表情を浮かべていた。

 これを買うわとレジに向かっていく夜凪さんについて行きながら、ふと彼女の私服が気になった。

 

「夜凪さんって、普段どんな服着てるの?」

「どんな服って……こんな服?」

「え、こういうの毎日着てるの?」

「こういうのってどういうの……?」

 

 虹色の吐瀉物を吐く蛙とか、熊のイラストが載ってあるシャツのことである。

 どうやら夜凪さん、こういった前衛的なシャツを私服にしているらしい。天才はどこか抜けていると聞くが、それは本当らしい。まあ、夜凪さんは何を着ても似合うのだが。

 

「あ、けどこの前皆にサインしてもらってすっごくオシャレになった服があるの!」

「サインしてもらってオシャレになった?」

 

 唐突に、彼女はそんなことを言い出した。

 そしてポケットから携帯を取り出して、これ! という言葉と共に私に突きつけてくる。

 

「『デスアイランド』の打ち上げでね、皆が書いてくれたの!」

「…………へぇ」

 

 携帯の中では、今着ている服と同じようなものを着た夜凪さんがこちらに向けてピースをしている。

 しかし唯一違うところは、彼女のシャツに様々なサインが書かれているというところだ。

 だが、そのような有象無象の文字の塊は私の目には入ってこない。

 

「…………ほんと、すごいね」

 

 息が止まる。視界の端がぼんやりと滲んでいく。

 

 私の視線は、写真の一部分でピタリと止まって動かない。

 彼女のシャツの胸元に大きく書かれた、百城千世子のサイン。

 

「…………」

 

 何も喋れない。喋りたくない。

 

 多分、百城千世子にとって、夜凪さんはヒーロー(主人公)みたいなものなんだろう。

 誰も暴いてくれなかった、ずっと独りで背負っていた仮面を、打ち砕いてくれるであろうヒーロー。自分に新しい世界を見せてくれる唯一の存在。

 そこに私はいない。私にだってその資格はあったはずだ。彼女の仮面を誰よりも知っているのは私なんだから。彼女の仮面を剥がすのは、私の役目だと思っていたから。

 だが実際には、私の居場所はそこにはない。

 逃げ出した私の代わりに、百城千世子は夜凪さんを選んだのだ。

 

「……ちょことは、仲良くなった?」

 

 苦し紛れに尋ねる。

 何も話したくない。喋りたくもない。けど、夜凪さんにこの心情を気付かれたくない。

 仮面を被っているのはどちらだ。

 百城千世子の美しい仮面とは違う、汚く醜い仮面。

 

 夜凪さんは笑顔で答えた。

 

「ええ! とても仲良くなったわ!」

「そう、それは、よかった」

 

 声が掠れているような気がする。いや、私の耳がぼんやりとしているだけか。

 夜凪さんの声が聞き取り辛い。

 

「千世子ちゃん、クールだけど、ホントは誰よりも熱心でひたむきに演技について考えてるの! 台風で撮影できないかもってなった時も──」

 

 

 知っている。彼女は小さい頃からそうだった。誰にも悟られないように、誰よりも必死に練習をして、誰からも認められるような人間になっていったんだ。知っている。小さい頃から知っている。

 

 

「けどね、ちょっとおちゃめな部分もあって! 私が撮影の時に緊張してた時に、わざと冗談を言って和ませてくれたり──」

 

 

 知っている。彼女は何時でも他人のことを考えている。私のことを考えて、私のために行動して。

 彼女の中心に存在しているのは自分自身ではない。大衆、即ち自分以外の誰かなのだ。ただ、周りから誤解されやすいだけの、少女なのだ。

 知っている。私は知っている。私が知っている。

 

 

「けどやっぱり怒ると怖いの……私がうっかり失言しちゃった時、静かな瞳でこちらを見ていたの。その時、ホントに怖くて……」

 

 

 知っている。彼女は天使でもなんでもない、少女なのだ。心無いことを言われると怒るし、なんでもない事で笑う、一人の女の子なのだ。ただ、周りからの期待と畏敬の眼差しを背負っているだけ。

 知っている。全て知っている。私は彼女の幼馴染なんだから。私が知っている。私は百城千世子のことを誰よりも理解している存在なんだ。私は彼女の全てを理解しているんだ。

 同期の役者よりも、星アリサさんよりも、夜凪さんよりも、誰よりも、誰よりも。

 

 

 

 

 

「けどね、映画のラストシーンで、初めて彼女の仮面の下の素顔を見れた気がするの! あの時の彼女の横顔、映像で見たけど、本当に綺麗だったわ!」

「………………え?」

 

 

 

 

 ──それは、知らない。

 

 

 息が止まった。ぼんやりと耳鳴りがする。

 

 

『覚えてくれたって意味ないわ。彼女の隣にいないなら、記憶なんて塵芥に等しいものだもの』

 

 

 先ほどの、夜凪さんの言葉がサイレンのように頭の中で鳴り響く。

 ずっと彼女の後ろにいた私のことを、百城千世子は覚えているだろうか? 

 

 

『なつくってどういうこと?』

『絆を結ぶということだよ』

『一番大切なことは、目に見えない。君の薔薇をかけがえのないものにしたのは、君が、薔薇のために費やした時間だったんだ』

 

 

 私にとっての唯一の薔薇。世界で一輪の花。百城千世子。

 私にとって、彼女はなくてはならない存在だ。かけがえのないものなんだ。

 

 なら、彼女にとって私の存在は? 

 

 

「百城千世子の……横顔……」

 

 

 私が今まで見て来た彼女の顔は、どんなものだったのだろう。

 何時もの仮面越しに見える、うっすらとした表情のみだったのではないだろうか。

 

 私の知らない彼女の横顔。

 それを向けられたのは、(脇役)ではなかった。

 

 

 もしも私が女優をしたのならば、彼女はその表情をこちらに向けてくれるのだろうか? 

 

 

 どくんと、心臓が大きく跳ねた。

 




だんだんと話が進んでいきます。ちなみに柴犬も大好きです。
評価感想お気に入りよろしくお願いします。


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Scene12 : 決心、またの名を蛮勇

遅くなってごめんなさい。
後半、ちょっと無理やり感が否めません。


 

「タピオカってある意味芸術だと思うわ」

 

 ずぽぽぽぽぽぽ。私の隣の席に座る夜凪さんは、普通よりも太いストローでプラスティックカップの底に溜まったタピオカを一掃しながら言った。

 

 場所は変わって、ここはショッピングモール内にあるカフェ。

 一緒にお茶でもしばきましょうとカフェに突撃したところ、夜凪さんが今話題のタピオカとやらに目を付けてリスのように頬を膨らませながら飲んでいるという状況だ。

 

 

 

 ……いや、どんな状況なんだ。

 

 私はとりあえず夜凪さんの顔を写真に残すべく、携帯の電源をつけた。

 映画館では電源を消していたため、ロック画面になるまでに時間がかかる。その間にも夜凪さんは驚くべき速度でタピオカを消していく。

 何故か分からないが焦っていると、ようやく携帯の電源が付いた。

 早速カメラアプリを起動させようと指をボタンに伸ばした瞬間、軽快な音が響く。見れば、メッセージアプリの通知だった。

 誰か、なんて考える意味もない。私は大抵の人間の通知をオフにしているので、こうやってロック画面に現れるということは、このメッセージは彼女からのものに違いないということだった。

 

 読んでみようかと通知へと指を伸ばすが、止める。

 返信するのは後ででもいいだろう。今は夜凪さんと遊ぼう。

 

 顔をあげる。夜凪さんはタピオカを飲みつくしていた。

 プラスティックカップの底に溜まった薄茶のミルクティーが三日月のような形で微かに揺れていた。

 

 

 ▼

 

 

「犬山さんは、千世子ちゃんとどういう風に出会ったの?」

 

 タピオカを飲み終わり、少し休憩をしてから外に出ようということになって、窓に接しているカウンターテーブルに肘をつきながら外を眺めていると、唐突に夜凪さんがそんなことを言い出した。

 横を盗み見る。夜凪さんも外を眺めていた。無駄に高いバーチェアのせいで綺麗な脚がぶらぶらと揺れていた。まるでそよ風に揺れる初夏の葉桜のしなやかな枝のようだった。

 私はその質問に対する答えを考える時間を作るため、先ほど買ったドリップコーヒーを取り口に運んだ。苦くて飲んでいられなかった。

 

「私とちょこ?」

「うん。どういう風に幼馴染になったのかなーって」

 

 少し考えこんでみる。私と百城千世子の出会い。

 

「忘れちゃったな」

「……そうなの」

「うん、忘れた。けど、碌なものじゃなかったっていうことは覚えてる。酷い出会いだった」

「……」

 

 夜凪さんは何も答えない。答えれないのか、答えにくいのか、どちらかはわからない。わかったところで意味はなかった。

 再び横を見ると、夜凪さんは何やら難しい顔で窓を薄く睨みつけていた。

 天井にぶら下がっている小さな電灯の淡い光によって、大通りを見ることの出来る大きな窓は半透明の鏡のようになっていた。

 夜凪さんの前には、同じ顔をした夜凪さんが彼女を見つめている。

 夜凪さんが演技をするとき、彼女の中ではこんな風景が広がっているのだろうかと詮無い妄想を繰り広げてみるが、どうにも集中できなかった。

 

「けど今まで特に大きな喧嘩もせずに来れたってことは、案外仲いいのかもね」

「……そうかも」

「まあ、百城千世子がどう考えてるのかは、わかんないけど」

 

 呟いて、前を見る。私と同じ顔をした誰かがこちらを見ていた。

 

「犬山さんは、千世子ちゃんのことが嫌いなの?」

「────っ」

 

 不意に尋ねられたその質問に、私は息が出来なくなった。

 今度は横目ではなく、体ごと動かして夜凪さんの方を向く。夜凪さんもこちらを見ていた。その黒目勝ちな瞳は、私の後方にある電灯の光を受けて燃えるように輝いていた。

 

「……どういうこと?」

 

 なんとか息を整えて尋ね返す。夜凪さんは特に表情を動かすことなく口を開いた。

 

「犬山さんは、千世子ちゃんのことが嫌いなの?」

 

 先ほどと同じ質問。しかしそれはシンプルだった。

 シンプルだからこそ、答えにくい。

 

「嫌いじゃないよ。嫌いだったら、幼馴染なんてやってないもん」

「……そうなの」

 

 咄嗟に口からついて出た嘘。胸がむかむかしてくる。再び私の顔を見てみる。先ほど飲んだコーヒーにも負けず劣らずの苦い表情を浮かべた人間がそこにはいた。

 

「まあ、百城千世子がどう考えてるのかは、わかんないけど」

「……」

 

 再び夜凪さんが黙り込む。

 私はコーヒーカップに口をつけ、しかしそれを飲むことなく、再びテーブルに置いた。

 

「夜凪さんはさ、ちょこのために死ねる?」

「え?」

「ちょこのために、命を投げ捨てることが出来ると思う?」

 

 軽快な音が店内に鳴り響く。天井を見上げると、四隅に小さなスピーカーが設置されており、そこから何かの音楽が流れているようだった。

 

「わからないわ。その時にならなきゃ、わからない」

「……まあ、そうだろうね。けど私は、夜凪さんならちょこのために命を捨てられると思ってる」

「……そうなのかしら」

「あくまで想像だけど、ね」

 

 夜凪さんがプラスティックカップを強く握る。べこりと凹む。蓋が外れる。

 今まで全く気にしていなかった、人々の囁きが俄かに押し寄せてきた。

 ヒロイン(主人公)のために命を投げ捨てるヒーロー(主人公)。夜凪さんはその気持ちがわからないと言った。

 だが、私は夜凪さんは他人のためにそれが出来る人間だと思っていた。

 生まれつきの、主人公。それが夜凪景。

 私はそんなことはできない。できっこない。

 

「私は、百城千世子のために自分の命を捨てることはできない……と思う」

「…………」

「ごめん、さっきの嘘。もしかしたら、私は百城千世子のことが嫌いなのかもね」

 

 夜凪さんの視線を感じる。私は頑なにそちらを見ない。コーヒーを飲む。苦くは感じなかった。ただ、痛かった。

 いけない、何だか話が重くなってしまった。

 私は話題を変えるべく、わざと明るい口調で夜凪さんに尋ねた。

 

「次、どんな仕事やるの?」

「へ?」

「次も映画撮ったりするの?」

 

 私の言葉の意味がわからなかったのかぼんやりとした表情をしていた夜凪さんだったが、すぐにはっとして首を振った。

 

「わからないわ。黒山さんが何かしてるって雪ちゃんから聞いたけど……」

「じゃあもしかしたら次はオーディションじゃないかもしれないんだね」

「だったら嬉しいわ。またデスアイランドみたいなオーディションだったら、間違えて人を殺しちゃいそうになるもの」

「……あ、そうなの」

 

 どんなオーディションをしたんだと尋ねたいが、やめておく。

 夜凪さんは楽しそうな表情で言葉を継ぐ。彼女の話をぼんやりと聞きながら、私はじっとその横顔を見ていた。

 

 ──本当に、変わった。

 

 あの日、初めて夜凪さんの横顔を見た時からは考えられないほどに柔らかい表情。

 多分、彼女はだんだんと進化していっているのだろう。

 撮影という荒波に呑まれ、他共演者たちと鎬を削ることによって、彼女は日々成長していっている。

 

 焦りが私の心を焼いていく。

 

 私はどうだ。いつもいつまでもベッドの上で腐って、才能のある奴らばかりを目の敵にしている。ダメ人間なんだ。

 

 この劣等感はどうすればなくなってくれる。どうすれば消すことが出来る。

 

 

 どうすれば、私は彼女の横に並ぶことが出来るのか。

 

 

 

 答えなんて簡単だ。変わるしかない。いつまでも腐っているわけにはいかない。

 

 

 私だって、変われるんだ。

 

「ねえ」

 

 静かに問いかける。夜凪さんは空になったプラスティックカップを凹ましながらこちらを見た。

 大きく息を吸う。心臓が跳ねる。

 

 ──だが言葉が出てこない。私は息を吸って、特に何もすることなくそれを吐き出した。

 夜凪さんが心配そうにこちらを見る。濡れ羽色の瞳が微かに揺れていた。

 

「どうしたの?」

 

 言葉が詰まる。

 なんだかその瞳の前では、私如きが役者をやりたいだなんて言うことすらも烏滸がましく思えてしまい、私は小さく首を降った。

 

「……いや、なんでもない」

 

 コーヒーのカップを一口飲む。香ばしいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。喉元を熱く苦い液体が通り過ぎていくのを感じながら、私はもう一度ため息をついた。私の心情みたいに苦い息だった。

 

「犬山さん」

 

 しかし、夜凪さんは黙った私を許さなかった。

 机に置いていた左手に暖かな感触。夜凪さんがそのすらりとした右手を私の左手の上に置いていた。

 

「私たち、友達でしょう? 何か言いたいことがあったなら、なんでも言ってちょうだい」

 

 吸い込まれるように夜凪さんの瞳を見る。先程まで不安に揺れていたはずのその瞳には、言葉に出来ない力強い何かが灯っていた。

 ああ、私はなんて弱い人間なんだ。夜凪さんの優しさに溺れてしまう。

 まるで自白剤のようだ。

 誤魔化すようにコーヒーを飲もうとカップを口に運ぶ。コーヒーはもうなかった。

 私は自分の口が私の意思とは関係なく動くのを感じた。

 

 

 

「──私がもう一回役者やりたいって言ったら、どう思う?」

 

 

 




ようやく話が動かせます。長すぎました。
評価感想お気に入りよろしく。誤字報告もありがとうございます。


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Scene13 : 嘘吐きは人生の終わり

【ハーメルン知恵袋】

Q.これからの人生に柊雪が出てこないってマ?

A.マ。


 

 

 

 

「──私がもう一回役者やりたいって言ったら、どう思う?」

 

 さざめいていた人々の声が消えた。私がそのことに驚いたのは、それらの声がすぅっと引くように消えていったのではなく、急にぱっと聞こえなくなったからであった。

 夜凪さんがこちらを見ている。その瞳からは何も読めない。

 暫くの間、静寂が続く。やがて人々の声がぽつりぽつりと聞こえ始めたころ、それを見計らっていたかのように夜凪さんが口を開いた。

 

「もう一回、役者を?」

 

 一文字一文字噛み締めるかのようなその復唱に、私は小さく頷いた。

 

「そう、役者を」

「どう思うって、どういうことなの?」

 

 ゆっくりと、まるで地べたに這いつくばり何処かに埋められた地雷を探し回る軍人のような慎重さで、夜凪さんは尋ねた。

 

「……変じゃないかなって」

 

 その言葉は、正しくない。

 私は知っているからだ。夜凪さんがそんな酷いことを言うような人間ではないことを。

 否定されないことを知っていながらも、あえて聞いてしまう。何て弱い人間だ。

 

「別に、変じゃないと思うわ」

 

 私の予想通りの言葉が返ってくる。

 だが私はそれに頷くことなく、自嘲気味に笑みを漏らした。

 

「夜凪さんは変じゃないって思うかもしれないけど、周りはどうかわからないよ。私なんかがまた演技始めたところでって、言われるかもしれない」

 

 自分の言葉に吐き気を催す。

 私はただ、逃げ道を作りたいだけなのだ。

 再び役者を始めて、失敗した時、ほれみろと自分で自分を嘲笑う準備をしているだけなのだ。

 

 ほれみろ、やっぱり無理だったじゃないか。

 やっぱり、私には才能なんてなかったんだ。なかったから売れなかったんだ。

 

 そう言いたいだけなんだ。

 

 自信満々に役者を再開出来るほど自惚れてはいないが、かといって役者がやりたくないわけではない。

 なんていう道化。醜い足掻き。

 いっそのこと、否定してくれ。私に役者なんて無理だと、正面から言ってほしい。

 しかし夜凪さんはそんなことを言ったりなんかしない。彼女はどこまでも優しくて、どこまでも残酷だからだ。

 

「周りなんて、関係ないわ!」

 

 語尾を強め放たれたその言葉に、私はぼんやりと頷いた。何故頷いたのかは自分でもわからなかった。何だか自分が滑稽に思えて、顔が熱くなってきた。

 

「犬山さんがやりたいと思ったのなら、周りが何て言おうったって関係ないじゃない。犬山さんは自分を貫いていればいいのよ」

「…………」

 

 紡がれる言葉は、私にとってずしりと重いもの。

 私がやりたいからする。

 その言葉の責任は、私に返ってくる。もし私が役者を再び始め、それが失敗した時、周りの人間は私のことを馬鹿にするだろう。そしてその罵倒を防ぐ盾は私にはない。

 私がやりたいと願ったのだから、しただけ。そしてそれが失敗しただけ。全て悪いのは私自身。

 それに気が付かない夜凪さんは、にっこりと笑った。

 

「それに、犬山さんのことを悪く言う人たちがいたら、私が言い返してあげるから」

「……ありがとう」

 

 かろうじて礼を述べることは出来たが、自分の声かと疑ってしまうほどに掠れていた。

 だがそれとは反対に、私の心の中の欲望は水を吸ったスポンジのように重く、どしりと心臓の上に鎮座していた。

 

 もう一度、役者をやろう。

 

 私は静かにそう決めた。

 

 

 ▼

 

 

 

「今日はありがとうね、色々」

『ううん、私こそありがとう。とっても楽しかったわ』

 

 耳に当てた携帯電話から、実際に聞くよりも若干低い夜凪さんの声が流れ込んでくる。

 あの後、無事様々な服屋を冷やかした私たちは、数着の服を購入し帰宅した。夜凪さんも何着かTシャツを買っていた。個性的なデザインだったことは言うまでもないだろう。

 よほど嬉しかったのか、夜凪さんは今日買った服を試着した画像を先ほど送ってきていた。当たり前だが似合っていた。

 

「明日は学校来るの?」

「ううん、明日はちょっと予定があって、行けないの」

「へぇ、演技の練習とか?」

「いや、千世子ちゃんとデートするの」

「……ふぅん」

 

 いきなり耳に飛び込んできたその言葉に、危うくせき込みそうになるが、何とか我慢して相槌を打っておく。何だか自分が思っていたよりも低い声が出てしまったせいで、威嚇しているような声音になってしまった。

 しかし夜凪さんは私の声の変化に気づいていなかったのか、明るい口調で明日の予定のことを話しこんでいる。

 そういえば、百城千世子に返信しておかなければ。ふと、そんなことを思い出した。

 

「明日、頑張ってね。そろそろ切るね」

「あ、うん。ありがとう……それと、犬山さん」

「うん? どうしたの?」

「……今日の話のこと、応援してるから」

 

 今日の話。それはもちろん、私が再び役者をやると言ったことだろう。ゆったりとした、それでも力強い夜凪さんの声に、焦燥していた私の心が落ち着いていく。

 

「……ありがとう」

「私こそ、ありがとうね。じゃ、バイバイ」

 

 軽い音が鳴り、通話が切断される。私はしばらく数十分ほど通話したのだという会話の履歴をぼんやりと眺めながら、百城千世子のメッセージについて考えていた。

 

「……電話するか」

 

 メッセージで何かをタイプするより、口で直接伝えた方が早い。

 私は百城千世子のメッセージ画面を開き、緊張で微かに痙攣する指で通話ボタンを押した。

 ぷるるる、ぷるるる。

 電子音が鳴り響く。聊か冷たいとも思えるコールが四回鳴った後、百城千世子が通話に出た。

 

『もしもし、千景ちゃん?』

 

 懐かしい幼馴染の声に、私は心が癒されていく思いがした。

 

「もしもし、今大丈夫?」

『大丈夫だよ。ちょっと待っててね』

 

 通話口からごそごそと音が聞こえてくる。どうやら場所を変えているらしい。

 暫くしてドアが開く音がした。どうやら一人になれる場所に来たらしい。

 

『お待たせ。大丈夫だったの? ちょっと前から返事なかったけど』

「うん、ごめんね、ちょっと忙しかったから」

『そうなんだ、それで、今日はどうしたの?』

「……」

 

 百城千世子に、再び役者をやると伝える。

 簡単だと思っていた報告が、何だか難しい。気恥ずかしさやらがどっと襲ってきて、私の口を縫い付けてしまった。

 黙り込んだ私に何かを察したのか、百城千世子が言葉を継いだ。

 

『あ、そういえば私、明日夜凪さんと一緒にデートに行くんだ』

「……ああ、そういえばそんなこと言ってたね」

『夜凪さんが?』

「そう」

『夜凪さんと連絡取ってるんだ』

「うん。ていうか、今日一緒に遊びに行ってたからね」

 

 沈黙。

 私の言葉に、百城千世子は少しの間黙り込んだ。

 気まずさが電波となり私の耳の中に入り始めたころ、ぼそりと百城千世子が呟いた。

 

『……聞いてないな』

「ちょこ?」

『……ん、いや、なんでもない。ワンちゃんもデートしてたんだ。どうだったの?』

「楽しかったよ。色々と夜凪さんのこと知れたし」

『……ふーん』

「夜凪さん私服がすごい独特でさ、見ててすっごい面白かったんだー。それでも似合ってるんだから、美人はいいよね」

『…………』

「……ちょこ?」

 

 私の問いかけに対しても、百城千世子が返事をすることはない。

 数秒後、何かしらの気まずさを覚えた私がテレビをつけた瞬間、彼女の声が耳に飛び込んできた。

 

『随分と、夜凪さんと仲良くなったんだね』

「ん? うーん、そうだね。まあ夜凪さん、あんまり壁作る人じゃなかったからさ」

『まあ、それはそうだね。それで、結局電話してきた理由は何だったの?』

 

 何だか強引に話を戻されたような気がしなくもないが、いずれかはこうなることだった。

 私は静かに息を吐きだして、緊張で声が震えぬように意識しながら口を開いた。

 

「実はさ……私、もう一度役者、やろうと思ってるんだ」

『…………そうなんだ』

 

 私の一世一代の大報告を聞いてなお、百城千世子の反応は薄かった。自惚れていたわけではないが、もっと大喜びすると思っていたので、若干の恥ずかしさが残る。

 熱くなってきた頬を誤魔化すために咳ばらいをする。

 

「一応、ちょこには伝えておいた方がいいかなって思って」

『うん、そうだね。ありがとう』

「だからこれからは同業者となるわけだから──」

 

 一緒に頑張ろうね。その言葉が言えなかった。果たして私が頑張ったところで、彼女に追いつけるのだろうか。そんな詮無い考えが頭の中をよぎって、結局私が口にした言葉は、「よろしくね」というなんとも簡素なものだった。

 

『あ、そうだ。じゃあアリサさんに話しといた方がいい? 多分私が言えばもう一回雇ってくれると思うけど』

「うーん、そのお誘いはありがたいんだけど……やめとこうかな」

『自分からスターズのオーディション受ける感じ?』

「いや、私、スターズには入らないつもりなの」

『……え?』

 

 素っ頓狂な声が耳元で響く。素の百城千世子の声を聞いたのは、何だか久しぶりな気がした。

 百城千世子は何か考え込んでいるのか、黙り込んでしまった。

 

「もう一回スターズに入ったら、コネだと思われちゃうからさ。だから、違うところで頑張ろうと思ってる」

 

 もちろんこれは言い訳だ。

 もし再びスターズに入れば、否が応でも比べられてしまうから。かつて百城千世子の二番煎じと馬鹿にされた役者が戻ってきたところで、辿り着く場所は同じなのだ。

 それに、同じ事務所なら、彼女の活躍を間近で見なければならない。それは、今の私には耐えられないことのように思えてしまった。

 

 百城千世子の控えめな声が聞こえてくる。

 

『……もう、どの事務所に入るとか、決まってるの?』

「ううん、まだ。けど、目星はつけてる。明日にでもお願いしに行くつもり」

『……ねえ千景ちゃん』

「うん?」

『千景ちゃんがもう一度役者をやるのってさ……』

「……」

『…………』

 

 続く言葉はない。

 沈黙が滲み、その輪郭がぼやけて消えたころ、百城千世子は小さな声で何でもないと呟いた。私はわかったと応えた。

 

「じゃあ、そろそろ切るね」

『うん、私も、そろそろ用事があるから、じゃあね』

「また今度、遊ぼう」

『ふふ、今度会うときはお互いライバルかもしれないね』

 

 そんなことは起きるはずないだろうと思ったが、楽しそうな百城千世子の手前、否定するわけにもいかないので曖昧に笑っておいた。そんな自分に腹が立った。

 

「じゃあ、バイバイ」

『うん。バイバイ』

 

 通話を切る。部屋の隅っこへ追いやられていた静寂が俄かに勢いを増して部屋の中央に吹き荒れる。

 私はベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めた。

 

「役者……か」

 

 まだ事務所に入れるかどうかもわかっていないが、漠然とした不安が胸に募る。

 だが、もし入れたとしたら──

 

「今度は、頑張ろう」

 

 ぴたりと閉じられたカーテンを見ながら、私の意識は朦朧としていく。

 私は落ちてくる瞼に逆らうことなく、意識を手放した。

 

 




書き溜め自体は後数話分あるんですけど、投稿するのが面倒くさくてサボっちゃってます。

評価感想お気に入りをよろしく。


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【幕愛】真っ赤な空を見ただろうか

遅れました(大遅刻)
今回は百城千世子視点の番外編みたいな感じです。百城千世子がどんなことを考えているのかが全くわからなくて難産でした。


 

 

 思えば、私たちの年齢が二桁にも満たないころからの付き合いにも関わらず、私は彼女の横顔を見たことがなかった。

 犬山千景。それが彼女の名前だった。初めてその名前を聞いた時、とても美しい名前だと思った。

 肩甲骨辺りまで伸ばされた、直ぐな薄墨色の髪の毛は、手入れをしている様子を見たことがないにも関わらず美しく、見ているだけで魂を抜かれそうになるほどのもの。手櫛をしても引っかかることのないほどに細かく柔らかい絹のような髪の毛は、少々ウェーブのかかった髪質の私からすれば羨ましいものだった。

 あまり感情を表に出さない彼女は、仏頂面で、だからこそ周りから誤解されやすい人間だった。もちろん無表情というわけではないが、いつも眠たげな瞳をしているので、不機嫌だと思われやすいのだった。

 私よりも頭一つ分背が高い彼女は、凛としているので可愛らしいというよりかは綺麗、中性的な見た目をしている少女だ。しかし話してみるととてもユニークで面白い性格をしているので、そんな彼女の性格が好きな私との関係も今までなんだかんだありつつも上手くやれている……そんなように思っていた。

 

 思っていた。

 

 

 数日前からメッセージを送っても彼女の返事が来ず、頭の隅で彼女のことを考えながら映画の撮影を行っていた。

 ありのままの自分を演じる夜凪さんと共に撮影した映画は、ボロボロの出来だったが、案外楽しいものではあった。

 

 そしてその撮影が終わり数日後、次の仕事のスケジュールを確認しながら我が家の虫たちのお世話をしていると、彼女から電話があった。

 

『もしもし、今大丈夫?』

 

 久しぶりに聞いた幼馴染の声は、通話越しということもあって、何だか新鮮に感じた。

 大衆のための仮面(百城千世子)を被り続けている私ではあるが、もちろん幼馴染の前ではそんな面倒なことはしない。私は虫の世話を一時中断して、リビングに戻った。

 

「お待たせ。大丈夫だったの? ちょっと前から返事なかったけど」

『うん、ごめんね、ちょっと忙しかったから』

「そうなんだ、それで、今日はどうしたの?」

 

 私の質問に対し、帰ってきたのは沈黙のみ。

 どうやら言いにくい話題らしい。

 しかし何時までも待っているわけにもいかない。何か言いたいことがあったのなら後で言ってくれるだろうということで、私は違う話をすることにした。

 

 自慢ではないが、私の幼馴染である千景ちゃんは私のことが大好きだ。

 

 幼いころから、彼女の横顔を見たことがない。

 勿論彼女が私に横顔を見せないほどに私を警戒しているというわけではないし、私が彼女のことを嫌っていて顔を全く見ないというわけでもない。

 

 私が彼女の横顔を見たことがない理由、それはとってもシンプル。

 彼女が私から目を離さなかったからだ。

 ずっと、いつ私が彼女の顔を見ても、ばっちりと目が合った。聊か怖くなってしまうほどに、彼女は私を見ていた。

 勿論私だっていつも彼女の顔を見ようとしていたわけではないし、時には仕事で忙しく彼女に会えない日々が数日続いたことだってあった。

 だが会えた時、ふとした瞬間に彼女の横顔を盗み見ようとしたときなどは、必ず彼女の眠たげな目に捉えられていた。

 そんな時は、その眠たげな瞳の奥にちらちらと見える何かに、背筋がぞおっとするのだった。しかし同時に、私に向けられているその瞳が苦しいほど愛おしくも思えるのだった。

 

 勿論私も彼女のことは大好きだ。かつては同業者として鎬を削っていたし、役者を辞めた今も良き友としてかなりの頻度で交流している。

 

 私は彼女の横顔を見たことがない。だが、それはそれでよかった。彼女の顔を、瞳を、その睫毛を微かに隠す前髪を見ていると、そんなことはどうでもいいと思えていた。彼女の瞳が私を捉えているという事実が、狂おしいほど嬉しかった。

 

 彼女は私のことが好き。これは疑いようのないことだった。事実、彼女は私に隠し事なんてしたことはなかった。悩みも、痛みも、喜びも、全て分かち合ってくれた。

 だからこそ、彼女が言いづらそうにしているからといって、それを急かす理由なんてなかったのだ。話しているうちに、自分から言ってくれるだろうという、信頼の現れだったからだ。

 

 何故なら、彼女は私しか見ていないのだから。

 

 

 

 

 ──しかし、それが間違いだということに、私は気づかされた。

 

 

『ていうか、今日一緒に遊びに行ってたからね』

 

 世間話にと話題に出した夜凪さんの話。彼女は夜凪さんと同じクラスだったので話しやすいかと思って口に出したこの話題だったが、その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目をぱちくりさせてしまった。

 

 眠たげな瞳であまり感情を出さない千景ちゃんだが、特に人見知りをするタイプではないので知り合いくらいにはなっていると思っていたのだが、まさかここまで仲良くなっているとは思っていなかった。

 

 この感情は何なのだろうか。

 まるで快晴だった青空にいきなり暗雲が立ち込めて来たかのような、ほの暗い憂鬱は。

 顔に浮かんでいた笑みが消えていくのを、まるで他人事のように感じていた。部屋の隅に置かれた鏡台に映る自分が、何だか自分のように思えない。

 

「聞いてないな……」

 

 そんな言葉が口から転び出ていた。

 不審に思ったのか、千景ちゃんが私の名前を呼ぶ。私は心の中にかかった靄のような感情を振り払い、無理やり明るい声を喉から捻りだした。

 

「デート、どうだった?」

『楽しかったよ。色々と──』

 

 続く言葉が耳に入ってこない。

 ぎり。気づけば携帯を強く握っていた。赤くなった指先が諧謔的にこちらを見つめていた。

 この惨めで哀れな感情は何なのだろうか。それはわからない。

 

 ──だが、忘れてたまるものか。

 

 頬が吊り上がっていく。気が付けば、私は笑っていた。

 哂っていた。

 

 誰を、何に、なんてことはわからない。だが、確かに笑っていた。

 

『……ちょこ?』

 

 何も答えなくなった私に不安を抱いたのか、彼女が細い声を出す。

 何かを言おうと思い口を開くが、まるで言葉が意思を持ったかのように、口元から外に出ようとはしない。ふと、通話口の向こうで何やら騒がしい音が聞こえ始めた。どうやらテレビをつけたらしい。私はその雑音に紛れさせるように、ぼそりと呟いた。

 

「随分と、夜凪さんと仲良くなったんだね」

『ん? うーん、そうだね。まあ夜凪さん、あんまり壁作る人じゃなかったからさ』

 

 ぼんやりと、夜凪さんとデートをしている千景ちゃんの姿を頭の中に思い浮かべる。

 

 

 そこには、満面の笑みを浮かべた彼女の横顔があった。

 その瞬間、私を何よりもまず衝撃が襲った。

 彼女のその横顔が──十数年も見続けて来た彼女の、初めて見る横顔が──あまりにも美しかったから。

 思わず見惚れていた。私は、この横顔を今まで見逃していたのか。そんな衝撃が私を襲った。

 

 しかし、私は、彼女の初めての顔を見れた喜びよりも、その顔を引き出したのが私ではなく、夜凪さんだったことが少しだけ引っかかった。

 

 なんてことない、ちょっとした感情の変動。それが私にとって何よりも大きなものに思えた。

 何故か心が苦しい。そこに立っているのが私でないことが、こんなにも痛い。けれども、もし私が夜凪さんの立っている場所に立っていたとしたら、私は千景ちゃんの横顔は見れないのだろう。いつものように、その端正な顔をまっすぐ見ることしか叶わないからだ。

 

「まあ、それはそうだね。それで、結局電話してきた理由は何だったの?」

 

 なんだが私は感情を抑えることが出来ず、聊かぶっきらぼうに言葉を繋いだ。この話をあまり聞いていたいとは思えなかった。

 すると、電話越しの彼女は少しの間黙り込んだ。窓の外に見える夕陽は恐ろしくなるくらいに真っ赤だった。

 雲一つない空にぽっかりと浮かぶ真っ赤な太陽は、ともすれば中空に開けられた穴のようにも見える。私はぼんやりと、地球すらちっぽけに思えるほどの大きさのコルク抜きが、ぐるりぐるりと地球のオゾン層に穴を開けている場面を想像した。

 

(あんなに真っ赤な夕焼け空だから、明日は晴れだろうな)

 

 片耳で彼女を待ちながら、そんなことを考える。

 すると、小さな声が聞こえて来た。

 

『実はさ……私、もう一度役者、やろうと思ってるんだ』

「…………そうなんだ」

 

 それは私にとって衝撃的な告白だったにも関わらず、私の口から出て来たのは淡泊な返事のみだった。

 それは、私が心の隅っこでは微かに理解していたからなのかもしれない。

 いずれは、彼女が再び役者をやるということを。そしてそれを、私に伝えてくることを。

 

『一応、ちょこには伝えておいた方がいいかなって思って』

「うん、そうだね。ありがとう」

『だからこれからは同業者となるわけだから──』

 

 一拍置いて、彼女は『よろしくね』と続けた。

 いくら淡泊な返事をしたからといって、嬉しくないかと問われるとそうではない。それはそうだ、私の愛する幼馴染が再び役者をやるというのだから。私は弾む心のまま、彼女に尋ねた。

 

「あ、そうだ。じゃあアリサさんに話しといた方がいい? 多分私が言えばもう一回雇ってくれると思うけど」

『うーん、そのお誘いはありがたいんだけど……やめとこうかな』

 

 申し訳なさそうに、彼女は言う。自力で入らないということに、罪悪感を感じているのだろう。

 私はそんな幼馴染の姿に微笑みを滲ませ、頭の中で彼女と一緒に出社している自分を描いてみた。

 それは、とてもとても楽しいものだった。

 

「自分からスターズのオーディションに受ける感じ?」

『いや、私、スターズには入らないつもりなの』

「……え?」

 

 しかし、その妄想は、一瞬のうちに砕かれた。

 その言葉に、私は自分を取り繕うことも忘れ、素っ頓狂な声をあげてしまう。

 スターズには入らない。その言葉が、ずしりと私の心の上に置かれた。

 

『もう一回スターズに入ったら、コネだと思われちゃうからさ。だから、違うところで頑張ろうと思ってる』

 

 その言葉に、そんなことはないよと言いそうになるが、慌ててその言葉を押さえ込む。

 多分、彼女は何か考えがあってスターズに入らないつもりなのだろう。ならば、私が引き下がっては彼女を困らせてしまうだけだ。

 言葉を失くした口先が作り出したのは、大して興味もない質問だった。

 

「……もう、どの事務所に入るとか、決まってるの?」

『ううん、まだ。けど、目星はつけてる。明日にでもお願いしに行くつもり』

「……ねえ千景ちゃん」

 

 ぼんやりと、上手く働かない頭を抱えたまま、口を動かす。

 

『うん?』

「千景ちゃんがもう一度役者をやるのってさ……」

 

 沈黙。

 静寂。

 箝口。

 緘口。

 

 何も言えない。

 

「誰のため?」そんな簡単な一言が口から出てこない。

 私は諦め、なんでもないと言葉を濁した。

 

『じゃあ、そろそろ切るね』

「うん、私も、そろそろ用事があるから、じゃあね」

『また今度、遊ぼう』

「ふふ、今度会うときはお互いライバルかもしれないね」

 

 適当に言葉を繋いでいくが、私の心は既にこの会話に存在していない。

 少し会話を交わして、通話を切る。彼女のアイコンに設定されている画像を見つめながら、私は目を閉じた。瞼の裏に、先ほど見つめた太陽の赤さが残っている。

 

 

 夕焼け空だから、明日は晴れ。

 月が滲んでるから、明日は雨。

 

 

 手の届かない天気についてはよくわかるのに、手の届く彼女の気持ち一つわからない。

 

 目を開くと、赤い太陽が未だにこちらを向いている。その赤さがどこか虚ろに思えて、私は忌々し気に電気を点けた。

 

 私の愛おしい幼馴染は、果たして今、私と同じ景色を見ているのだろうか。見ているのならば、教えてほしい。貴女が何を考えているのかを。

 そんな詮無い疑問を振り払うように、私はカーテンを閉めた。黒々とした感情が心の中で渦巻いていた。

 




自分で書いててなんか違うなぁと首を傾げております。


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Scene14 : オーディション

もう未完でもええかなぁと思ってましたが感想が来てしまったので一応投稿します。感想催促じゃないので悪しからず。


「何の用だ」

 

 只今、スタジオ大黒天。

 百城千世子との通話を経た私は、思い立ったが吉日スタイルでスタジオ大黒天へと赴いていた。まあ、翌日ではあるが。

 目の前には、スタジオ大黒天の代表である黒山墨字が椅子に座りながらこちらを睨みつけている。遠くから柊さんが心配そうな視線をこちらに投げかけていた。

 

「率直に言います。私をこのスタジオで雇ってください」

「……意味がわからん」

「もう一度役者をやりたいと思ったので、ここに来ました。それだけです」

「いやだからそれが意味わからん。スターズ行けよ」

「スターズは嫌です」

「ワガママかよ! ていうか、なんでウチなんだよ」

「ここが一番良いと思ったからです」

「嘘つけ」

「嘘じゃありません」

「嘘つけ」

「……嘘でした」

「嘘なのかよ! なんでウチに来たんだコイツ……」

 

 黒山さんが疲れたように左手で顔を覆う。ストレスでも溜まっているのだろうか。

 すると、そんな黒山さんを助けるためか、柊さんが音を立てずに近づいてきた。

 

「えっと、つまりは、千景ちゃんはスタジオ大黒天と契約したい、ってこと?」

「そういうことです。大黒天の専属俳優になりたいと思ってオーディションを受けに来ました」

「これってオーディションだったのか? なら不合格だぞ」

 

 相変わらず疲れた様子の黒山さんが言った。机の上に置かれたマトリョーシカの笑みが不気味だった。

 

「第一、なんでまた急に役者なんてやりたがったんだ。今の生活で満足しろよ」

「また、演技をしたくなったからです」

 

 そう言って、黒山さんの目をしっかりと見る。ここで雇ってもらえなければ、私にはどこにも行く場所なんてない。

 情けないことなんて百も承知だ。私は友人のコネを使って役者を再開しようとしているのだ。

 だが、そんなことどうだっていい。

 もう一度役者をやれるのなら……百城千世子を蹴落とす可能性が少しでもあるのなら。

 

「……そんなふざけた理由で──」

 

 黒山さんは呆れたように私を見やり、そして私の目の中に光る何かに気づいたようだった。静かな……ともすれば何も見ていないのではないかと思ってしまうほどに静かな目で、黒山さんは私の瞳を見る。常に怒っているような表情の彼にしては珍しく、その表情は真剣なもの。柊さんが、いきなり黙り込んだ私たちを訝し気に見つめていた。

 暫く私を見つめていた黒山さんは、やがて徐に立ち上がると、机の上に置いてあった車の鍵を手に取り歩き始めた。そして数歩歩き、肩越しに私を見て言った。

 

「まあいい、とりあえずお前、来い」

「……私ですか?」

「お前に決まってんだろ。ちょっと行くとこあるからついてこい」

 

 行くところがあるからついてこい。なんて怪しい言葉なのだろうか。

 ついていくべきか迷っていると、柊さんが苦笑交じりに言った。

 

「誘拐されることはないから、行ってみたら? 多分、墨字さんなりの気遣いだと思うし」

「気遣い、ですか……わかりました」

 

 それが何に対する気遣いなのか、私にはわからなかったが、とりあえず頷いておく。そして柊さんに手を振って黒山さんについていく(柊さんは溶けかけのアイスのように柔らかな笑みで手を振り返してくれた)。

 大股で歩く黒山さんについていくために、私は適宜小走りになる必要があった。

 

「あのっ、どこ行くんですか……っ」

「あ? そんなの着けばわかるだろ」

「到着する前に知りたいです」

「めんどくせえな、ほら、乗れ」

 

 駐車場に到着し、黒山さんがスタジオ大黒天と大きなロゴが書いてあるバンの助手席のドアを開けてくれた。そういう紳士的なところはあるらしい。滑り込むように乗り込むと、いつもよりも高い視点に少しくらくらした。

 しかし黒山さんは、どうやら質問には答えてくれないようで、私はため息を噛み殺しながらシートベルトを締めた。

 

 すぐにバンは発進し始める。緩やかな揺れを楽しみながら窓の外を眺めていると、不意に黒山さんが言った。

 

「それじゃ、さっきの続きするか」

「……さっきの続き?」

「オーディションのだよ」

「あ、これ、オーディションだったんですか?」

「目的地に着くまでがオーディションだ」

「帰るまでが遠足じゃないんですから……」

 

 私の言葉に、黒山さんはほっとけと返す。ちらりと横目で見ると、黒山さんは日差しが眩しかったのか、サングラスをかけていた。完全に不審者である。

 

「ほかに誰かがいたら話しづらいこともあるだろうからな」

「……」

 

 黒山さんなりの気遣い。

 先ほどの、柊さんの言葉。それはどうやら間違いではなかったらしい。私がいきなり役者を再開したいと言い出した本当の理由を、黒山さんは聞くために私を連れて来たらしい。

 ありがたいと思うと同時に、何だか申し訳なく感じてしまう。私のワガママのために、迷惑をかけてしまっているような気がした。気がしたというか、迷惑をかけているんだけれど。

 

「ここには俺とお前しかいない。だからまあ、本音で喋れるだろ」

「……ありがとうございます」

 

 一応、礼を言っておく。掠れた声だった。

 黒山さんは何ともない顔で運転を続ける。等間隔で鳴り響くウィンカーの音だけが車内に響いた。

 

「礼は別にいい。それで、なんでまたいきなり役者をやりたいと思ったんだ」

 

 サイドミラーを見ながら黒山さんが問う。何だかその行動がとても大人っぽく見えて、私は少しだけ感動した。何に感動したのかはよくわからない。

 

「……見返してやりたかったんです」

「誰をだ。大衆をか?」

「百城千世子を」

「……ほお」

 

 ちらと、黒山さんがこちらを見る。私はそれに気づかないふりをして、前方の車のナンバープレートを見つめ続けた。

 

「アイツ、お前のこと見下してたのか?」

「いえ、別にそんなことはないと思います」

「……そうか。見返して何になるんだ?」

「……さあ。私が気持ちよくなるだけだと思います」

「正直者だな」

「臆病者なんです」

「そうともいう」

「そうとしかいいません」

 

 静寂。段差に乗り上げたのか、大きな揺れが車内を襲う。後部座席で何かが崩れる音がした。黒山さんが慌ててハンドルを切る。

 

「お前には未来が見えていない」

 

 そして、そのついでに、並みの軽さでそんなことを言われた。私は弾かれたように顔をあげ、黒山さんを見た。黒山さんは前を見ていた。

 

「未来が見えていないって、どういう」

「目先のことしか見えていないってことだ。手前の感情で動いて、その後のことを全く考えていない」

「……それでも、動いてます」

「そんなものはハリボテだ。その後に何もない」

「…………」

「もし万が一お前の目標が達成したとする。お前は百城を下し、ヤツの役者生命を終わらせたとする」

 

 黒山さんの言葉が続いているのにも関わらず、私はその言葉を聞いて、目を見開いた。

 百城千世子が役者を辞める。その言葉が、ずしりと私の肩にのしかかった。

 違う、私は百城千世子を引退に追い込みたいわけじゃない。ただ、私の存在に気付いてほしいだけなんだ。一緒に並んで、見たことない彼女の横顔を見て、共に歩くだけ。それが私のしたいことなんだ。

 彼女が役者を辞めるだなんて考えられない。辞めたら私はどうなる。果たしてその時、私は私でいられるのだろうか。

 

 黒山さんが言葉を継ぐ。

 

「そしてその後、お前はどうする?」

「その後……」

「ポスト百城として、芸能界に君臨でもするつもりか? 違うだろ」

「…………」

「お前は結局、何も考えていない。ただただ、憎しみに駆られているだけだ」

「…………」

「そんな奴に俺は仕事を与える気なんてない。そんなことをすれば、手前が勝手に手前の重荷で潰れていくだけだからな」

 

 何も言えなかった。ただ恥辱だけが私の心の中に積もっていく。

 こんなはずじゃなかった。こんなことになるはずじゃなかった。

 涙が出てきそうだ。いっそのこと、出してやろうか? それなら、黒山さんも考えを変えるかもしれない。

 

 ──ああ、情けない。腹が立つ。そんなことを考えてしまう自分が腹立たしい。

 私は、迫りくる恥ずかしさから逃げるために目を瞑った。今すぐドアを開けてバンから飛び降りたい気分だったが、できなかった。怖かった。

 

 

結局、私はただの臆病者なのだ。




ずっとシリアスじゃないか?


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Scene15: 売り込み

遅くなりました。


「ほら、着いたぞ。降りろ」

 

 暫くの後、静まり返っていたバンに声が生き返った。それと同時に停車。どうやら目的地に着いたようだった。

 

「ここ……どこですか?」

 

 バンを下りた私が見たものは、何だか大きな建物だった。

 市民会館のような見た目をしているその建物は、威圧感と同時に何処か親しみやすい明るさを携えているように思える。私はぼんやりと大きな建物の屋根あたりを見つめながら、バンの鍵をかける黒山さんを待った。

 

「劇場だよ。劇場」

「劇場、ですか? 映画とかの」

「まあそうだな。だが映画じゃない、演劇だ」

「演劇? それって、芝居ですよね? なんでまたいきなり……」

「うるせえ、とりあえずついてこい」

「え、ついて行くんですか?」

「当たり前だろ。なんでバンから下りたんだ」

「そこらへんで時間潰しとけってことなのかと……」

「んなわけねえだろ。とりあえず、ついてこい」

 

 そう言い終わると、黒山さんはさっさと歩き始めてしまう。気遣いなど全く感じられないほどの早歩きだった。どこから取り出したのか、その手には鞄が握られていた。

 小走りになりながらも劇場の中に入ると、その暗さに驚く。電気がまるでついていない。

 生気を感じられない劇場の中を、黒山さんはずんずんと歩いて行く。薄暗い中、足元にぼんやりと見える、まっすぐと伸びたレッドカーペットが不気味だった。まるで、死の舌の上に立っているかのような錯覚を覚えた。

 しかしそんな長い廊下もすぐに終わる。黒山さんが不意に立ち止まり、目の前にあった劇場のドアを開けた。古臭い見た目をしている割には滑らかに動くドアだった。

 劇場内に入った私は、薄暗闇の中に存在している美しさに息を呑んだ。

 今日は休みなのか、劇場内には誰もいない(電気がついていない時点で察するべきではあったが)。

 講堂のような造りをしている劇場は驚くほどに広い。ざっと見ただけでも、千席以上はある。

 人間が存在しない劇場の中は、まるで時が止まったかのように美しく、厳かだった。また、ひっそりと並ぶ椅子たちの囁き声が聞こえてきそうなほどに静かだった。

 

「すごいですね……」

 

 私の呟きに、黒山さんは静かに頷き、そのまま壇上に向かって歩き始めた。柔らかなカーペットが音を吸収し、くぐもった足音が静かに響いた。

 ふと、舞台上に誰かが腰掛けているのが見えた。暗闇でよく見えないが、かなり慎重の高い、男性だった。暗闇の中に浮かぶそのシルエットが不気味で、思わず黒山さんの背中の影に隠れた。

 

「なんの用だ」

 

 不意に、低い、男の声音が暗闇を裂いて飛び出した。重厚感のある声だった。しかしそれと同時に、どこか色気のある声だった。何故かわからないが、水をたっぷりと含んだガーゼが思い浮かんだ。

 

「ちょっとした売り込みだ」

「売り込みだと?」

「ああ。あんたの最後の舞台に相応しい役者を見せに来た。……話し合いをする前に、電気をつけてくれ」

 

 舌打ちが響く。シルエットが立ち上がり、そのまま舞台袖へと歩いて行った。次の瞬間、暗闇が群生していた劇場内に明かりが灯った。

 慣れない明かりの痛さに目を瞬かせている私の耳に、革靴が舞台の上を歩く、どこか軽快な音が聞こえてくる。

 急いで目を開けると、そこには一人の老人が立っていた。

 身長は高く、老人とは思えないほどに真っすぐな背筋のせいで、どこか恐ろしい雰囲気を醸し出している。

 年季を感じさせる、真っ白な口髭と顎髭。目尻の皺が今まで彼が歩んできた道の厳しさを物語っている。頭髪はなく、舞台の照明で滑らかな地肌が白く光り輝いているが、そこには恥ずべき禿頭の惨めさはなく、頭髪が一本もないその頭こそが彼の本来の姿であるとさえ思えた。

 

 ──どこかで見たことのある顔だ。

 多分……というか、絶対有名な人間なはずなのだが、生憎私は劇場とか、芝居などといった類の分野は明るくなく、名前どころかどんな人間なのかさえ知らなかった。

 

 舞台上の老人がちらりとこちらを見る。何故私がここにいるのか、疑問に思っているのだろう。厳しさがひしめき合っている──それでも、その中に静かな優しさが存在している瞳だった。

 

「その役者ってのは、お前の後ろの女か?」

「あ? ああ、こいつじゃないさ。こいつは雑用係」

 

 いつの間にか雑用係にされてしまっていた。なんか腹立つ。

 黒山さんの背中を睨むが、睨まれている本人は全く気が付いていないのか、手に持っていた鞄から一台のノートブックパソコンを取り出した。

 カチャカチャと何かを打ち込んでいる彼の背後から覗き込むと、画面の中にはエプロン姿の夜凪さんがいた。

 

 シチューのCMの時の夜凪さんだった。初めて彼女に出会い、その、世界の何にも興味を持っていないといった感じの表情に驚かされていた時に見た、画面越しの彼女だった。誰かに向けてシチューを作るその横顔は、慈愛と喜びに満ちていて。包丁で指を切ってしまった際に、なんでもないよといった感じに微笑むその姿。

 

 不意に、百城千世子を思い出した。夜凪さんについて熱心に語るその瞳に殺意を覚えた。

 

 黒山さんが老人にパソコンを向ける。彼は舞台に腰掛けながらそれを見る。真剣な瞳だった。この場において、夜凪さんだけが認められていた。

 

「感情ってのは臭うもんだ」

 

 老人が口を開く。その口から飛び出た言葉に、私は耳を傾けた。

 

「俺が欲しいのは臭ぇ役者だけだ。確かに、この女は俺の舞台に出る資格があるかもしれねえ」

 

 その口から出たのは、肯定の言葉。そうだ、やはり夜凪さんは誰からも認められるんだ。夜凪さんだから。夜凪さんだったから。

 路傍の石ころみたいに追いやられた私には出番なんてない。誰にも目を向けられることなく、腐って消えていく。この怒りはどうすればいい? 私の──私達の怒りは誰が代弁してくれる? 

 どうせ無理だ。どうせ無理なんだ、私なんて。役者をまた始めたところで、誰からも評価なんてされない。隣に並びたいなんて、思うだけでも烏滸がましいことだったのだ。彼女が私に顔を向けてくれることなんて、絶対にないというのに。

 

 私にとっての、唯一の花、百城千世子。だが、彼女にとって私は唯一ではない。有象無象の一人。誰かさん。知ってる他人。

 いっそのこと逃げてやろうか? どこに? どこにも居場所なんてない。じゃあ、死んでやろうか? 死んだら百城千世子は驚いてくれるだろうか? いや、驚くわけない。

 なら私はどうすればいい。誰が助けてくれるんだ。助けてくれる人なんているのだろうか。

 

 本当に、死にたくなる。なるだけだけど。

 




原作ではデスアイランド終了と同時期に夜凪景の売り込みをしていましたが、まあちょっとくらい遅らせてもかまへんやろという謎理論で少し遅らせました。まあかまへんやろ。


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Scene16 : おしるこ

あ、あれ?いつの間にこんな時間が経ってたんだ…?


 

 

 気が付いたら話し合いは終わりかけていた。

 黒山さんと老人は一人の役者について話しているようだった。

 舞台役者、明神阿良也。この名前は、舞台に疎い私でも知っていた。なんでも、凄まじいほど役に入った演技をするのだとか。舞台役者という存在があまり有名ではない日本において、彼の名前は百城千世子ほどの知名度を誇っているわけではないが、それでもかなりの有名人である。どうやら、彼と夜凪さんが共演をするらしい。そんな有名人と共演する夜凪さんが羨ましくもあったが、もし私が夜凪さんだったら緊張しすぎて死にそうなのでどちらかというと安堵の感情の方が大きかった。それに、剣のように鋭い演技をする二人が織りなす劇を、私は聊か楽しみにもしていた。

 話によると、明神阿良也は現在役作りのため狩猟に出かけているようだった。

 意味がわからない。

 

「ほら、帰るぞ」

「え、あ、はい」

 

 気づけば、黒山さんがこちらを見ていた。どうやら話し合いは終わったようだ。黒山さんは舞台に座っている老人に挨拶もせずに歩いて行った。

 残された私は、失礼のないようにととりあえずお辞儀だけする。先ほどまでは黒山さんに向いていた瞳がこちらを向いた。美しい瞳だった。

 このままここに居たら話しかけられそうなので、私は急いで黒山さんの後を追った。

 

 劇場から出て、長い廊下を歩きながら、私は黒山さんに尋ねる。

 

「あの、さっきの人、誰なんですか?」

「お前、役者やってるくせに知らねえのかよ」

「芝居とかそういうのは、あんまり詳しくなくて」

「巌裕次郎。日本の演劇界の重鎮で、舞台演出家だ」

「舞台演出家……ですか」

「役者の演技指導とかやってるやつだよ」

「ああ、なるほど……」

 

 不意に、黒山さんの歩く速度が少し落ちた。私は彼の横に並び、その横顔を見る。相変わらず不機嫌そうな表情だった。

 

「それで、夜凪さんがその巌さんの劇に出るんですか?」

「ああ、その予定だ。だが、別に知名度を上げるためじゃない。あいつの演技を更によくするためだ」

「……そうなんですか」

「ああ。明神阿良也との共演はあいつにとって有益なはずだ」

「…………なるほど」

 

 俯いたまま、ボソリと応えた。特に言葉の意味を考えて発したわけではなかった。

 何故私と夜凪さんはこうも違うのだろうか。私は拒絶され、夜凪さんは皆から重宝され。一体どこで道を間違えてしまったんだろうか。

 惨めで惨めで仕方がない。気を抜けば、涙が落ちてしまいそうだった。いっそのこと消えてしまいたかった。

 贔屓されているとは思わない。第一私に誰かを責める権利なんてないし、夜凪さんも黒山さんも、責められる筋合いなんてない。

 ならこの身を裂くような怒りはどこにぶつければいいんだ。私はどうすれば彼女に追いつけるのか。

 いや、追いつけるはずなんてない。私はまだスタートラインにすら立てていないのだから。

 

 百城千世子に、オーディションに落ちたと言えば、彼女はどんな反応をするのだろうか。そう考えると、惨めさで死にそうだった。

 

 

 

 駐車場に出る。閑散とした駐車場にぽつんと存在しているバンはどこか滑稽でもあった。

 黒山さんがバンの鍵を取り出し私の前を歩きだしたので、私は静かにそれに付いていく。

 

 しかし、俯きながら歩いていた私は、不意に立ち止まった黒山さんの背中に思い切りぶつかってしまった。

 数秒の間立ち止まっていた黒山さんは、俄かにこちらを振り向き、私を見下ろしながら言った。

 

「おい雑用係」

「……私、雑用係じゃないんですけど」

「いいだろ別に。どうせ職に就いてねーんだし」

「未成年ですし」

「うるせえな。とりあえず、自販機でコーヒー買ってこい。ほら、小銭」

 

 そう言って、黒山さんが小銭を渡してくる。私はそれを握りしめ、ため息をつきながら応える。

 

「……なんで今なんですか。帰ってる途中でコンビニにでも寄ってったらいいじゃないですか」

「今飲みたいんだ。早く行け。そこら辺の喫煙所にあるだろうし」

「副流煙とかどうするんですか」

「誰もいねえよ。はよ行け。余った金でお前のも買ってこい」

「……はぁ」

 

 言いあっていても意味がない。まあ、少し歩くだけで飲み物代が浮くのだ、そこまで悪い話ではないだろう。私は受け取った小銭をポケットに入れて、劇場内へと足を向けた。

 後ろから投げかけられているであろう視線をあまり気にしないように劇場内に入る。暗いので少し怖い。早く買わなければ。

 

 劇場内をうろうろとしていると、二階に上がった階段のすぐそばにバルコニーに続くドアがあった。ガラス戸には丁寧に喫煙所のマークが貼られていた。

 コーヒーはあるだろうかと思いながらガラス戸を開ける。すると、私の目の前をゆったりとした煙が流れていった。次いできつい煙草の匂いが襲ってくる。私は思わず咳き込んだ。

 

 涙目になりながら顔をあげると、喫煙所の端っこのベンチに先ほどの老人が座っていた。

 思い切り人いるじゃないかあのヒゲ野郎と心の中で毒づいて、とりあえず挨拶をしておく。私の挨拶を受けた老人、巌裕次郎は、一度大きく煙を吐き出してから煙草の火を消した。

 

「ここは喫煙所だぞ」

「えっと、その……自動販売機を探してて」

「……そこにある」

 

 巌さんが顎で指した方向には二つ自動販売機が並んでいる。礼を言って、あまり煙草の煙を吸わないように息を止めながら自動販売機の前に立った。

 

 

 

 

 ──黒山さんはコーヒーが飲みたいと言っていたが、果たして彼はブラック派なのだろうか。

 

 

 

 

 そんな詮無い考えが浮かび上がり、自販機に小銭を入れていた私の手が止まる。

 いや、詮無いことなどではない。もしこれで黒山さんがブラックが飲めない甘党だったらどうする。また怒られてしまう。かといって適当に微糖を買う訳にもいかない。果たして私はなにを買えばいいのだ。長考しすぎたせいで、せっかく止めていた呼吸を再開してしまい、煙を大きく吸ってしまった。

 自販機の前でうんうんと唸っていると、後ろから足音が聞こえてくる。振り向くと、すぐ後ろに巌さんが立って、自販機を眺めていた。どうやら何かを買うようだ。いや、それなら別の自販機に行って欲しかった。

 小銭を入れボタンを押す気配がない私に呆れたのか、巌さんの視線は心做しか厳しい。

 

「おい、何やってんだ」

「え、あ、ごめんなさい。黒山さんが何飲みたいかよくわかんなくて……」

「あァ? 黒山の飲みもんなんてこれでじゅうぶんだろ」

「あ」

 

 そう言うが早いか、巌さんは自販機の左下にあった温かい『おしるこ』のボタンを押した。

 まさかこんな暑い日におしるこを飲むイカれた人間がいるとは思っていなかったのか、自販機はガタガタと戸惑いを隠せないような音を出し、しかしそれでも命令通りの缶を吐き出した。

 放っておく訳にもいかないので、しゃがみこみおしるこを取り出す。思わず声が出そうになるほどに熱い缶だった。

 

「怒られるのは私なんですけど……」

「怒り返せばいいだろ、そんなもん」

 

 なんとも理不尽な爺さんである。

 私はため息をついて、自販機の前を譲る。巌さんは少し迷い、カラフルなサイダーのボタンを押した。不健康そうな飲料水だ。私は自分用のお茶を買い(巌さんに邪魔されないよう少し注意して)、喫煙所から出ようとする──が、その前に巌さんが私を呼び止めた。

 

「お前、名前はなんて言う」

「……犬山です。犬山千景」

「そうか。で、お前」

 

 結局名前で呼ばないのかよと些か呆れながら、巌さんの顔を見る。おしるこの缶が熱く、思わず持ち直した。

 巌さんは、しばらくの間何も言うことなく、ただ静かに目を細めていた。まるで視線で私の心の内を穿とうとしているかのようだった。

 

「お前、俺になにか言いたいんじゃないのか?」

 

 彼の視線の中に私から何かを探ろうとしている色が見えてしまい、思わず身構えていた私に肩透かしを食らわすかのように、巌さんが言葉を放った。

 その言葉の意味がよくわからず、私は巌さんの目を見た。

 

「何かを言いたい……ですか? 」

「俺に、というか、俺たちに、だな。黒山と話している時、えらく怨嗟の籠った瞳でこちらを見ていたもんで、気になっちまったのさ」

「それは……」

 

 巌さんは先程の話し合いのことを言っているのだ。

 

「……別に、何もないです。ただちょっと体調が悪かっただけなんで」

「俺の仕事は演出家だ」

「それは知ってます」

「最善の方法を選ぶのが俺の仕事だ」

「知ってます」

「じゃあなんで、お前はそんなに恨めしそうな顔をする?」

「…………」

 

 巌さんが喫煙所のドアの前で立ち止まる私の前を通り、ベンチに座って煙草に火を付けた。

 ゆらりと紫煙が揺蕩う。巌さんの草臥れた溜め息が微かに聞こえる。

 彼は知っている。気づいている。私の心に住まう悪魔に。

 心を丸裸にされた私は、最後の抵抗として、俯き黙り込んだ。

 

 ──こうすれば、みんな許してくれる。

 ──こうすれば、私は私のままでいられる。

 

 

 本当に、吐き気がする。

 

「俺の職業柄、お前みたいな奴からよく同じような視線を貰うことがある」

「…………」

「いい加減面倒くさいんだ。一々説明すんのも」

「……別に……」

 

 説明してくれなんて、言ってない。

 その言葉が出て行かない。

 多分それは、わかっているから。彼が私のことを全て理解しているのを。

 

 一縷の望みなんてない、その現実に。

 

「お前にゃ無理だよ」

 

 知ってるよ。だから妬んでるんだ。だから僻んでるんだ。

 

「……夜凪さんは可能なんですか?」

「知らん。だが試してみる価値はある」

「…………」

 

 ほら、やっぱり。

 夜凪さんはなんでも出来る。

 彼女は特別だから。彼女は天才だから。

 

 巌さんの視線を感じる。穴があったら入りたい気分だ。

 

「努力もせずに主人公になろうとするやつに、努力して脇役になった役者を罵る権利なんてない」

「……わかってます」

「わかってないだろう」

「わかってますよ……!」

 

 心の内側で暴れる悪感情が抑えられず、怒りとなって露呈する。

 巌さんは再び疲れたように溜め息を吐き、煙草の火を消した。まだ半分以上残っていた煙草は灰皿に押し付けられ、奇っ怪なオブジェのような形になりながら喫煙所に咲き誇った。

 そしてそのまま、肺に残っていた最後の煙を吐き出して口を開いた。

 

「悪いな、別に説教するつもりはなかったんだが」

「……いえ、私こそ声を荒らげてしまって、すみません」

 

 お互い黙り込む。どこからか鳶の声が鋭く鳴り響いた。

 

「おい、犬山」

「はい」

「お前、役者か?」

「……違います」

「違ったのか。じゃあなんでこんな所まで黒山に着いてきたんだ」

 

 言いながら、胸ポケットから煙草をもう一本取り出す。私がじいっと見ていると渋々しまいこんだ。

 

「役者になりたかったんです。けど、落ちちゃいました」

「その割には随分と平気そうだが」

「もともと、自分自身に期待なんてしてなかったです」

「自分に期待してないやつなんかいねえよ。いるとしたらそいつは自分自身に期待してる自分を知られたくないだけの馬鹿だ」

「……巌さんは、自分に期待してるんですか」

「してるさ」

 

 何ともないように彼は言った。その愚直ともいえる純朴さが羨ましかった。

 

「俺はもっとできる。俺ならできるはず。俺だからできる。俺は俺が舞台演出家になってから、ずっと自分自身を信じてきた。周りのヤツらの評価なんて、気にしてなかったさ」

 

 サイダーのキャップを開け、眩しそうに目を細めながらそれを飲む。昔を思い出している表情にも見えた。

 蝉の声が潮騒のように震えていた。

 閑散とした駐車場の中で、入道雲の影が静かに泳いでいる。

 左手に持っていたペットボトルに浮き出た玉の雫が滑り落ちた。花火のような紋様を地面に作り出した。

 

「ただ」

 

 巌さんが続ける。

 

「アイツらには、もっと期待してる」

 

 力強い言葉だった。

 アイツらというのが誰なのか、私には聞くことが出来なかった。言葉の中に滲む愛の前では、そのような事を尋ねること事態が野暮のように思えた。

 

「羨ましいです……」

 

 消え入りそうな自分の声が鳴る。果たして何に羨ましがっているのか、私にも分からなかった。

 

「夜凪景がこれほどまで皆から支持されていることがか?」

 

 鋭い言葉が胸を抉る。だが、否定することは出来なかった。

 

「そうなのかも、しれません」

「羨むのは悪いことじゃない」

「けどそんな自分が嫌いなんです」

「そうか」

 

 巌さんは適当に話を切り上げた。顔を上げると、彼の鋭い瞳と目が合った。

 

「お前は、演技のために命を捨てる覚悟があるか?」

「……どういうことですか」

「演技に死ねと言われたら、お前は死ぬ事が出来るか」

 

 巌さんの言葉の意味がわからず、私は少しの間黙り込んだ。

 

「…………わかりません」

「出来ないだろう」

 

 ばっさりと切り捨てられる。だが、彼の言葉は正しい。私自身も、私が演技のために死ねるとは思っていなかった。

 

「それがお前と夜凪の違いだ」

 

 巌さんはハッキリとそう言った。その瞳に、私は吸い込まれているような気分になった。

 

 



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Scene17 : エステル

 

 

「それがお前と夜凪の違いだ」

「私と、夜凪さんの違い……」

「感情は臭うもんだ」

 

 

 

 その言葉は、先程黒山さんにも言っていたもの。

 感情が臭う、その意味が私にはわからなかった。

 

 

 

「臭ぇ役者ってのは、役を演じている時にその役柄の臭いがするもんだ。殺人鬼を演じれば、そいつからは死と恐怖の匂いがする」

「……よく、わからないんです。その匂いという存在が」

 

 

 自らの心の内を隠さずに話す。巌さんの前では、隠し事など意味が無いように思えた。

 巌さんが私の目を見る。暗闇の中に広がる木々のように、静かで、力強く、見ているだけで不安になるような瞳だった。

 

 

「わからないんです。天才語が。感情なんて匂わないし、匂ったところで私にはわからない。巌さんがなんの話しをしているのかも、何も、わからないんです」

 

 

 それは、私が凡才だから。

 そして、彼らが天才だから。

 

 

 この世界は理不尽だ。生まれた瞬間に全てが決まっているのだから。私にはわからない何かが、私にはわからないままでどこか遠くへ行ってしまうような、そんな気分になる。

 

 

 巌さんは何も言わずに、手に持っていた炭酸を再び飲んだ。

 

 

「説明すんのは難しいんだが……要は、どれだけその役に入り切ってるかってことだ」

 

 

 

 ペットボトルのキャップを締め、喫煙所の磨りガラスをぼんやりと見つめながら、巌さんが口を開く。

 

 

「入り切る……ですか」

「言葉を変えるなら、取り憑かれるか」

「…………」

 

 

 沈黙が横たわる。巌さんは沈黙に耐えられなかったのか、煙草を取りだし火をつけた。着けてから私の方を見た。煙は嫌いだが、消せという訳にはいかない。私は大丈夫ですよといったふうに微笑んだ。

 

 

「お前、エステルって知ってるか?」

「エステル、ですか?」

 

 

 煙草をくゆらせながら、静かに遠くの山を見つめるその姿には、退廃的な美しさが充満していた。

 煙草の火種だけがこの世界に彩りを与えている、そんな気がしてならなかった。

 

 

「化合物のヤツですか」

「それじゃない。なんでそんなん知ってんだ」

 

 

 影が静かに喫煙所の中へと忍び込んでくる。上を見上げると、丁度大きな雲が太陽を多い隠そうとしているところだった。

 

 

「女王の方だよ、エステル。旧約聖書の登場人物だ」

「えっと……ペルシャ王国の女王でしたっけ?」

「そうだ。絶世の美女で、自分の民族を全滅の危機から救った救世主だ」

 

 

 巌さんはそこで大きく息を吸うと、煙草を灰皿に押付けた。押し付けられた煙草はゆっくりと倒れ、先程立てられた煙草を巻き込みながら灰皿の中で横たわる。

 

 

「エステルがなぜ、ああも美しかったのか、わかるか?」

「美しかった理由……ですか?」

「ああ。なぜエステルはこれ程まで後世に名を残すような、素晴らしい女王になったのか」

 

 

 その理由はなんだろう、私は喫煙所のベンチに腰を下ろして考えた。しかし、いくら考えても、美人だったからという理由しか思い浮かばなかった。自分の浅ましさが、少し嫌になった。

 そんな私の顔を見て、巌さんは苦笑を滲ませた。

 

 

「面が良かったからじゃねぇのかって顔してんな」

「え、あ、いや、まあ……」

 

 

 思っていたことを言い当てられ吃ってしまう。しかし、自分の全てが見透かされているというのは、恥ずかしいと同時に、どこか心地よいものでもあった。

 

「面が良いだけで名前が残るほど、この世界は甘くはない。それは今も昔も変わんねえ」

 

 それは、そうだ。

 

 容姿が良いだけで人気者になれるのなら、この世界にはスーパースターが数多くいるはずだ。しかし彼ら彼女らのうちの多くは、日の目を見ないままにその人生を過ごしていく。

 

 ならば、その基準はなんなのだろう? 

 人気者とそうではない人間との違いは、一体何なのか? 

 

 頭を捻りながらうんうんと唸っていると、巌さんが立ち上がって自動販売機の横に置いてあるビンカン用のゴミ箱にペットボトルを捨てた。

 

 

「我もし死ぬべくば、死ぬべし」

「……え?」

「エステルの言葉だ。もし死ななければならないのならば、死ぬ。10代そこらの小娘が、自らの民のためにこの言葉を吐いた。それが、エステルがこれほどまでに美しい理由だ」

「それが理由、ですか?」

 

 

 いつの間にか、影は喫煙所全体を覆っていた。熱されていた旋毛が急速に冷えていく。薄暗くなった辺りに紫煙が横たわっていた。

 

 

「エステルは美しかった。亜麻布のように煌めく毛髪、あどけなさを含む、赤らみを残した頬、蛭のように艶めかしく輝く唇、物憂げに伏された睫毛。その全てが芸術のようだった」

 

 

 頭の中でエステル像を描いていく。何故か、百城千世子になった。

 

 

「しかし、それらはエステルの本当の魅力の付属品に過ぎない」

「付属品、ですか」

「エステルの本当の美しさは、その危うさだ」

 

 

 巌さんの三白眼が私を射抜く。青白い白目が妖しく光っていた。

 

 

「危うさ……」

「他の人間のために命すら捨てるヤツがどこにいる? ましてや、それがガキとなればどうなる? 人々はその爆弾の如き危うさに恐れ戦き、そして崇めた」

「……」

「とすれば、人間を一番鮮やかに彩るのは、何だ? 化粧か? 容姿か?」

「…………危うさ」

 

 

 そうだ、と巌さん。

 夜凪さんの演技を思い出してみる。武士のような格好をした演者に飛び蹴りを喰らわせる、彼女の姿。

 危なっかしかった、ハラハラした。

 

 

 

 ──それでも、惹き込まれた。

 

 

 

「人は演技力で演者を見るんじゃない。その人間の魅力によってだ」

 

 

 

 何も答えられなかった。答えるべきだったのかもわからない。

 

 ただ私は、片手に持ったおしるこの缶を強く握りしめていた。熱さなんて気にならなかった。

 百城千世子も、そのような考えを持っているのだろうか。演技のために死ねるほどに、彼女はそれを愛しているのだろうか。

 

 

 もしそうならば、私は彼女に勝てない。追いつけるわけがない。

 

 負け犬はいつまで経っても負け犬のまま、努力している人間に吠え立てるのみ。

 ああ、なんて惨めなんだろうか。こんな脇役、いっそいなくなってしまえばいいのに。

 

 

「もし」

 

 

 知らず知らずのうちに、口を開いていた。

 

 やめるべきだ。口を閉ざすべきだ。もう自分自身を受け入れて、脇役のまま生きればいいだけだ。

 

 

 

「──もし」

 

 

 

 それでも、諦められない。

 

 百城千世子。夜凪景。

 

 遥か彼方に見える彼女たちの背中。それに、少しでも縋りつきたかった。

 

 

 

 私は彼女(千世子)に、追いつきたいのだ。

 

 

 

「──もし私が、演技のために死ねるのなら、私は彼女たちみたいになれますか」

 

 

 



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