TSヤンデレもの (サラメンス)
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プロローグ

コ〇ナの影響で暇になったので


 俺の名前は佐藤雄二(さとうゆうじ)。特に特筆することは無いほどに普通な人間だ。勉強もスポーツも、そこそこできるがそれ以上にはならない。ただ、そんな俺にも親友くらいはいる。

 

季節はまだ初夏だというのに、疎ましいほどジリジリとした太陽が窓越しにこちらの体力とやる気を奪ってくる。日は落ちかけ、朱が射してきてもこれなのだから、日中の暑さは想像に難くないだろう。

 

気が付けば部活動等の事情が無い生徒は帰宅する時間になっていた。俺に特段用事は無い。ただ人を待っているだけだ。

 

俺は最早誰もいない教室で彼、いや今は()()が来るまで何をするでもなくボーっとしている。いつもの感覚からして、もうすぐだろうか。或いはこの座っている体勢のまま机に突っ伏して寝てしまおうか。そう思い始めたところで丁度教室の扉がやや早めに開かれる。

 

「すまない。かなり待たせてしまっただろう。いつも僕の為に待っていてくれてありがとう」

 

艶のある真っ直ぐな黒髪の割に左右にはねた前髪がどこかアンバランスさを感じる。そしてそのやや垂れ下がった気の弱そうな大きな瞳。全体的に華奢で凹凸の少ない身体だが、それでも年頃の少女らしくストッキングに包まれた太ももはどこか肉感的な印象を受ける。夕暮れを背にする彼女はどこか幻想的に思える。

 

個人的にも、そして客観的に見ても美少女な信楽葵(しがらきあおい)はどこか申し訳なさそうにこちらに頭を下げる。

 

「前から言っているだろう。俺はあくまでも自分の意志で勝手に待っているだけなんだ。だから、そんなに思いつめたりしなくても良いから」

 

彼女は生徒会で放課後毎日仕事をしている。この前、何故そんなことをするのかと聞いてみた。すると最初ははぐらかされたのだが、根気よく聞いてみると、目を逸らしながらボソッと人の為になる事がしたいからと呟いた。きっと恥ずかしかったのだろう。

 

「僕はね、雄二。物事に対しては言葉だけでは意味がないと思っているんだ。何かをしてもらったらその分対価として何かをする。それが当たり前だろう?」

 

どこか粘り気を持った粘着質な声が俺たち以外誰もいない教室に響く。腰を上げて席を立とうとするといつの間にかすぐ側に近づいていたことに少し動揺し、行動を起こす事が出来なかった。

 

綺麗な顔が間近に迫り、反射的に顔を仰け反らせる。そしてその判断は間違っていなかったことが分かった。彼女の瞳は黒く、まるで底無し沼の様に澱んでいた。目を猫の様に細め、露骨に不機嫌そうな表情になる。

 

「何故拒む?お前は昔よく言っていたじゃないか。性的な雑誌を見てこの女とどうしたいだのと。横に今すぐ好きに出来る()がいるんだぞ。おもちゃにしてそのまま捨ててもいい。何でもしてやる。もしかして恥ずかしがっているのか?心配するな。僕に任せてくれればいい」

 

先程とは反対に今度はゆっくりと、今度はこちらを気遣うように優しく触れてくる。いや、このままではマズい。俺はこんな形になるために彼女と接しているわけじゃない。それにここは人通りがあまりないとは言え、そもそも学校の、しかも誰でも入る事が出来る教室だ。

 

彼女は非常に頭がいい。そんなことを考えていないはずもない。だが正気だとも思えない。何が彼女をこうしてしまったのだろうか。わからないが、流されてはいけない。

 

「やめろ。ここはそういう所をする場所じゃない。そして俺は葵とそういう関係を望んでいるわけじゃない」

 

彼女の触ったら崩れてしまいそうなほどか細い両肩を持つ。これで伝わってくれればいいんだが。ところが、彼女の恍惚として蕩け切った表情を見るに、全く伝わっていないどころか、寧ろ逆効果にすら思えてきた。

 

「お前も僕と同じ気持ちだったんだな。ああ、嬉しい。嬉しいよ。今だったら何でも出来そうな気がするよ」

 

やはり彼女はどこか錯乱しているようだ。会話が噛み合っていない。そしてこのままでは彼女の大事なものを奪ってしまいそうになる。俺は反射的に彼女を突き飛ばす。

 

そしてその衝撃を受け、お尻からペタッと座り込む。彼女はポカーンとしていたかと思うと、堰を切ったかのように大粒の瞳から涙をこぼし始めた。

 

高さも無いし、後ろにぶつける物もないため特に怪我はしていないとは思うのだが、もしかしたら痛かっただろうか。もう葵は女なのだ。いつまでも昔のように考えてはいけないと何度も心の中で反芻したはずなのだが、どうにも結果はついてこない。

 

「突き飛ばしてしまってごめん。あのままだとダメだと思ったんだ。どこか痛いところはあるか」

 

ドキドキしながら問い掛けると、俺の言葉に気が付いたのか、徐々に涙を引っ込め、平静を取り戻し始めたように思える。

 

そして今気づく。彼女は何よりも俺に拒絶されることに対して大きな恐怖を持っていることに。そしてその恐怖を俺は解消できただろうか。

 

「いや、痛くはない。お前の気遣いを感じたよ」

 

首を振りながら俺の問いを否定する。そうか、良かった。じゃあ何故泣いたのだろうか。とにかく今俺に出来ることは彼女を拒んでいないと伝えることだ。

 

「じゃあ「でもな。僕は心が痛かった。客観的に見ても僕は正しくない。だってそうだろう。こんな元男に迫られるなんて気持ちが悪い。それに女性的な身体でもない。否定する要素しかないんだ。大体にしてお礼がしたいというのもただの口実だ」

 

話しを遮り、一方的にまくしたてられる。いつも穏やかで普段は一緒に居ると安心するのに、何故だか今は恐怖しか感じる事が出来ない。

 

「本来なら優しくて頼りになる男だ。もし僕さえいなければもっと楽しくて彼女とかも出来て、毎日楽しく過ごせただろうに。でもね。僕には君しかいないんだ。嬉しかったよ。自分を否定され続けたのにそんな僕でも良いって言ってくれたのが雄二なんだ。だから、これは謝罪。ごめんなさい。でも絶対に逃がしてやるものか。この幸せを誰かに渡してたまる物か」

 

もうすっかり日は沈んでしまった。そこにいつもの微笑みは無く、そこにはいない誰かに対しての大きな敵意が見て取れた。こうなってしまい壊れてしまった彼女だが、それでも月明かりに照らされた彼女はとても綺麗だった。



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出会い

 幼稚園児の朝は早い。俺は一人慣れた足取りで歩みを進める。少し前まではお母さんと一緒に通っていたのだが、断った。こんな姿を見られるのはもう御免だったからだ。

 

きっと明日なら、そのまた明日ならと期待をするのにも疲れてしまった。俺はもしかすると自分では気が付いていないだけで何か変なのかもしれない。

 

目的の場所が近づくにつれ、落ちていた気持ちがより一層深く沈む。周りには友達同士でじゃれ合ったり走り回ったりしながら仲良く通園している。羨ましいな。そう思いながら門を潜り抜けた。

 

 

 

いつも通り、大部屋の中ははしゃぐ子供たちでいっぱいだった。しかし、今日はどこか落ち着かない様子だ。

 

色々と聞き耳を立ててみるに、新しい仲間が来るとかなんとか。どこか少し肌寒くなってきたこの時期にはやや珍しい。

 

少しして、ガラガラという音がして引き戸が開かれる。それまで騒がしかったのが嘘のようにシーンとする。

 

入ってきたのはいつも明るい先生と黒い漆のような黒髪を真っ直ぐに伸ばして堂々とする顔の整った少女だった。

 

「はーい、静かにしてねー。今日は皆のお友達が新しく増えます。じゃあ自己紹介してみよっか」

 

「僕の名前は信楽葵と言う。親たちの都合でこんな時期に来たわけだが、まぁ空気のようなものだと思っていてくれ」

 

形式的に頭を下げ、その場から自分たちのところに来る。すぐ横を通った。一目ぼれだった。一瞬ではあったが遠くを見て何かを諦めたような瞳のあの子はなんとなく寂しそうに見えた。

 

「あー、少し緊張しちゃったかな。みんなは葵くんといっぱい遊んであげようね」

 

先生が何かを言っていたが、そんなことよりもこの胸の高鳴りを抑えられそうにない。こんな事初めてだ。

 

 

 

何となくわかった。俺たちは普通じゃない人やモノに対して過剰に反応し、避けてしまうということを。いつも通りに皆思い思いに遊んでいるが、そこに信楽葵はいない。

 

一人でいる彼女に何となくそうなってはいけない気がして、俺は目の前に立つ。反射的に彼女は俺の方を向く。

 

「キミ、そんなところで何してるの」

 

「別に、何をしていようが関係ないだろう。空気のようにしてくれと言ったはずだ。暇なら先生のところに行くといい」

 

特になにも考えずに来てしまった。顔に熱が籠り、心臓がドクドクと波打つのがうるさい。積み木に似た何かに彼女は一人集中している。遊びを邪魔されたためか、やんわりと拒否される。

 

「俺もそれで遊びたかったんだ」

 

嘘だ。どちらかというと外で走る方が好きだ。現に俺たち以外は皆砂場で遊んだり鬼ごっこをしている。だからと言って俺が混ざることは出来ないのだが。

 

それにしても家族以外とこんなに話せたのは始めてかもしれない。俺はどうやら人見知りと言うものらしい。頭では何をするのかわかっているのに口に出せない。そんな俺を見て気味が悪く思ったのか、いつの間にか周りに人はいなくなっていた。

 

「わかった。じゃあこれは」

 

そう言いながら、手に持っていたものをこちらに渡してくる。若干不服そうだ。

 

「ほら、お前のものだ。これで満足だろう」

 

そしてまた何かを探しに行った。俺も同じように立ち上がり後ろをコソコソと着いていく。彼女は振り向く。俺は止まりきることが出来なかった。あの遊びなら俺は負けだ。何だか楽しいぞ。

 

「何がしたいんだ?玩具はもうお前に渡した。何故だ」

 

心の底から不思議そうに首を傾げる。俺が近づいた訳、言ってしまっても良いだろうか。いや、しかしそんなどうしようもない理由を受け入れてくれるとも思えない。俺は喋るのが上手いわけでは無いし、かと言ってこれから何か言い訳を考える時間があるとも思えないし、どうしようもない。

 

「何だ、いきなりだんまりか。ええと、なるほど。どうせ罰ゲームで僕にからかって来いとかそういうものだろう。この通り面白みもないから次からはやめてくれ。じゃあ」

 

納得がいったのか俺に言い聞かせるようにそんなことを言い放ちまたも立ち去ろうとする。無論変わらぬ無表情で。そういうつもりではないんだ。俺は、本当は。

 

しかしうまく言葉が出てこない。こういう時どうすればいいかなんて誰も教えてくれなかったし。諦めるしかないのか。ん?

 

「!???」

 

いつの間にかこちらを振り向いていた彼女は何故だか顔を真っ赤にさせながらこちらを睨みつけている。何故だろうか。それどころかこちらにぐんぐん顔を近づけて俺に迫ってきた。

 

「お、お前は人を見ていきなり好きだとか言う非常識な奴なのか!?大体僕は」

 

「え、え、声出ていたの」

 

赤面しながら無言で頷く彼女に伝染したのか俺も顔が一気に熱くなってくる。やってしまった。ああもう全部台無しだ。

 

ここから逃げ出したくなってきたが、もう開き直ることにしよう。

 

「そうだよ、一目ぼれしたんだよ悪いかあああああ!」

 

ムキになって自分では考えられないほどの大声が出る。穴があったら入りたい。

 

「残念だが、僕はその言葉には応えられない」

 

気が付くと恥ずかしいのは俺だけになってしまったようだ。そして何故か笑われている。ちょっとどころか大分凹むが、そんなことは関係ない。だって今俺は彼女と喋れているのだから。

 

「だって僕はね。男だからさ」

 

「え?」

 

 

 

「くふふ。今も笑えるよ。だって髪が伸びていて若干小さいからってお、女に間違えて、しかも告白するなんて」

 

「忘れてくれませんかね。ほんと」

 

あれから少し経って二人で遊びながら的確に葵は俺の心を抉ってくる。気のせいじゃなければその時の話をしているときはやたらと嬉しそうにしている。恥ずかしい。

 

「なんにせよ。恋人にはなってあげられないけど」

 

そうだよな。俺たちはもう、

 

「トモダチにはなってあげよう」



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不穏

 窓から差し込む光によって自然と目が覚める。まだ覚醒しきっていない頭と身体を無理矢理動かし半分寝ぼけながらも服を着替える。

 

最近、毎日が楽しい。朝起きるのも憂鬱になっていた日々が少し懐かしく思えてくる。

 

「おはよう」

 

「あら雄二、おはよう。自分で起きられるようになって偉いわよ。さぁご飯食べましょ」

 

「はーい」

 

お父さんは仕事で俺が起きる前にいなくなってしまっているので朝は基本的にお母さんと二人だ。今日もご飯が美味しい。

 

 

 

「じゃあお母さん。行ってきます」

 

「本当に大丈夫?雄二なら大丈夫だと思うけど、もし何か嫌な事とかあったら言ってね。約束だよ」

 

心からこちらの身を案じてくる言葉に少し前までなら胸が痛んでいた。でももう大丈夫だ。もう嘘をつかなくてもいい。

 

「心配しなくていいから。それに、友達と今日も遊ぶんだ」

 

俺は見慣れた玄関のドアを開いて、足に力を込めて歩き始めた。

 

 

 

俺たちは紙を使って絵を描いたりする遊びをよくしている。気まぐれで書いていた葵の絵がとても上手かった。それを見たかったが為にお絵かきを俺がしたいと言い、それから遊びの中心はそうなって行った。

 

いつもはお互いの絵が描けてから見せあいをするという流れなのだが、今回は俺が早く描けてしまったのでチラチラと葵のそれを覗き見る。

 

普段風景や物を題材にする彼にしては珍しく、人をテーマにしているようだった。まだ途中ではあるが誰かに似ている様な気もする。どこか優しそうだ。もう少し近くで見たらわかるかもしれない。

 

そう考え、もう少し覗こうとすると突然視界に彼の顔が映ってびっくりする。目を細め口をとがらせている。心なしか顔も赤い。

 

これはムッとしている時の表情だ。頭で理解した瞬間やってしまったと思う。こうなると中々機嫌が直らないのだ。鉛筆から手を離して身体を伸ばしてからこちらに話しかけてくる。

 

「見過ぎ。そんなんじゃ僕も集中出来やしないじゃないか。妨害しているわけではないんだろうが、そんなんじゃ恥ずかしいだろう」

 

「わかった、ごめんね。そういうつもりじゃなかったんだけど」

 

「ああ、大丈夫。君がそういう事をしないって言うのは分かっているから。それにこれは完全にこっちの問題だし…」

 

それで話は終わったとばかりに机に転がされていたそれを握り、再び描き始める。今度は邪魔しないようになるべく見ないようにしよう。

 

でもどうしても気になる。黙々と手を動かしている。顔も無表情で真剣さが見られ、いや違うな。これはいつも通りか。

 

そう時間が経たないうちに手が止まる。先ほどまではサクサクと動いていたのだ。原因は間違いなく。

 

「はぁ。お前は本当に…」

 

もう声だけでわかる。今の葵はきっとゴミを見る様な冷めた表情でこちらを見ているに違いない。そしてそれを直視する勇気は俺にはない。

 

 

 

俺のせいで気が散ってしまったのだろう。結局絵が完成することがないままに帰りの時間になってしまった。一応明日また描けばいいのだが、こんなことは今まで無かったのでかなり責任を感じている。

 

謝るにしてもそもそもどう話し掛ければよいのか。一度嫌だと言われたことを繰り返してしまったのだからどうしようもない気もする。

 

「なぁ、今日の事で君は僕に申し訳ないと思っているか」

 

「もちろん。集中できなかったよね。ほんとごめん」

 

「な、なら今日は僕の家に遊びに来ないか。続き、描きたいし。ああ、決してそれ以上の理由は無いからな。ただやっていたものを途中で投げるというのが好きじゃないというだけで」

 

おずおずと上目遣いでそう言う。あー、可愛い。あんなことを言われた今でも本当に男なのか信じられない。

 

「行くよ。ここからそんなに遠くないんだよね。でもお母さんに帰りが少し遅くなるって連絡だけするから」

 

「そうか。来てくれるのか。じゃあ僕は玄関前で待っているからな」

 

心なしか弾んだ声で葵は素早くここからいなくなっていった。じゃあ俺も電話するか。連絡先は両親と祖父母だけだが。

 

三コール目で聞きなれた声が聞こえた。言うまでもなく自宅にいる母だ。

 

『うん、そう。だから今日は帰るのがちょっと遅くなるかも。今度紹介するから。帰るときにもう一回電話する。じゃあ』

 

声がやや上ずった気もする。帰ってきたらきっとお母さんに根掘り葉掘り問い詰められるだろう。こちらとしても願ったりかなったりだが。

 

やることは終わったので俺も葵と同じく玄関まで駆けだした。

 

 

 

「お、来たか。思っていたよりも早かったな」

 

「おまたせ。それじゃあ行こうか」

 

葵の小さい身体にはやや手に余る、大きめの画用紙を抱えながら一緒に歩き始めた。小走りで俺の少し前を先導する。ここからそう遠くないと言っていたか。

 

いつもは夕方になる頃には互いの家に帰っている。なのでこの時間に二人でいることに少し非現実感があって楽しい。

 

「急ぐぞ。あまり遅くまで遊んでいたら君の親が不安になるだろうし、ほら」

 

そう言いながら手を握られ、そのまま引っ張られる。自分とは全然違う手の感触に少しドキドキしながら先を急いだ。

 

 

 

「ここだ。あまり綺麗な家では無いが、我慢してくれ」

 

「お邪魔します」

 

幼稚園から徒歩で5分ほどの近所にあるアパートだ。外装もそこそこだが、思ったよりも家に何もない。

 

何というか生活感が無いのだ。グルっと見渡してみても普通はあるはずの家具も見当たらない。

 

「ここに面白いものなんか何もないぞ。それより早く描くぞ。君は、明日の分でもしているといい」

 

それだけ言ってフローリングの床に向かって絵に集中し始めた。流石にここまで来て邪魔するわけには行かないので、大人しくしていようと思う。

 

ん?あそこにある紙束はもしかして。部屋の隅にあったのはこれまでの絵だった。昨日俺が描いた太陽の絵もある。相当下手なので出来れば捨ててくれるとありがたいのだが。

 

他のも確認してみると、あの日の分もあった。カラフルな色彩で街路樹が描かれている。かなり前の事だが、つい最近の事にも思える。

 

そうして昔に思いを馳せていると、後ろから何やら気配がする。振り向くと当たり前だが葵がいた。顔には清々しさが見て取れる。

 

「終わったぞ。待たせてしまって悪いが折角だし見てくれ」

 

「寧ろ見させてください」

 

そうして紙にたたずんでいるのは女性、だろうか。髪も長くて消え去りそうな儚い笑みと言い、そうだと思うのだが確信は持てない。でもこれ葵に似ている気がする。

 

「ねぇ、これって」

 

ドンドンドン!

 

話し掛けようとしたところで玄関から乱暴な大きな音が響く。押し売りだろうか。

 

「あぁもうなんでこんな時に来るかな。申し訳ないが、今日はここでお開きだ。そこにいるのは僕の父だ。部屋の中に入れるからそこの隅に隠れて、隙を見て帰って欲しい」

 

露骨に不機嫌な表情で、それでいて焦りを感じる。

 

「何やってんだ葵!早く開けろよ!」

 

「ほら、急いでくれ」

 

返事をする時間すら惜しく、俺は言われた通りにそこに身を隠した。それとほぼ同時に扉が開き、床から嫌な振動が伝わる。

 

「何で直ぐ開けなかったんだ。クソガキが」

 

「申し訳ない。こんなに早く帰ってくるとは思わなくてね」

 

「理由になってねえよ。大体お前のその気持ち悪い口はどうにか治んねえのか」

 

「これも物心ついた時からのものだ。礼儀は母の腹の中に置いてきたよ」

 

「お前舐めるのもいい加減にしろよ」

 

鈍いくぐもった音が部屋の中いっぱいに聞こえる。足がすくむ。怖い。馬乗りにされて何度も葵が感情をぶつけられている。拳で。足で。そんな俺に葵は目線で訴える。行け、と。

 

再度鈍い音が響くのを合図にしたかのように急いで玄関に走る。無我夢中のままに葵を見捨てて、逃げた。

 

 

 

家の前にはどうにか着くことが出来たが、どういう風についたのか全く記憶にない。夜になっても眠ることは出来ず、そのまま夜を明かした。




ちなみに園児のくせにやたらと成熟している二人ですが、雄二君の方は単に書き分けが面倒で出来ないだけでよくいるあほの子だと思っていてください。
葵はあのまんま。


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潜む者

 朝が来た。外の眩しいほどの日差しとは裏腹に俺の気分は全く晴れていない。結局あれは夢だったのか、現実だったのか。分からないし、思い出したくもない。でも、知らなければいけない。

 

「ちょっと、昨日は何であのまま部屋に籠って」

 

「ごめんなさい。ちょっと、色々あって」

 

「色々って。何か悩んでるみたいだけど、本当に大丈夫なの。もしかして昨日言っていたお友達と何か」

 

「大丈夫だよ!!」

 

自分の中でもわかる。今の態度は絶対にこちらに非があった。誤魔化すように、にへらと頬を緩ませる。先ほどの事なんか何も無かったかのように。俺は上手く笑えているだろうか。

 

大体あんなにムキになってわざわざ自分からそれが関係しているとばらしている様なものだろう。大丈夫、大丈夫だ。今日もいつも通りあそこに行ったら、ちょっと仏頂面な彼が俺に気付いて少しだけ目が優しくなるんだ。

 

不穏な視線から逃げるように準備を済ませて外に出る。あれは俺の見ていた夢では無いだろうか。だって、親が子どもに対して、あんなことをするわけがないから。気がちょっとだけ楽になる。

 

俺はいつもの道へと進む。根拠はないけど、大丈夫。

 

 

 

「ああ、雄二。おはよう。外は本当にいい天気だな。今日は何をして遊ぼうか?」

 

良かった。今日もいつもの葵だ。大人びた口調の割に高めの声も、自信がありそうに見えて本当は臆病なところも。

 

それに、彼もそのことに対して何ら触れてこようともしていない。もしあのことが現実にあった事であれば、言わない理由がないじゃないか。だから、あれは悪い夢だ。くよくよしていても仕方が無い。

 

「うーん。いい天気だし外で遊ばうよ」

 

「そうだな。僕は走ることに関して自信があるんだ。鬼ごっこでもなんでも負ける気はしないぞ」

 

何となく、自信満々な彼の顔を見て見返したいなと思った。何とか負かしてやりたい。しかし、勝てる気がしない。そこまで言うという事はよっぽどなのだろう。なら。

 

「じゃあかくれんぼしようよ。中でも外でもありで」

 

「かくれんぼか。なら僕が隠れる役でいいよな。遊びはそっちが決めたんだし。あと負けたほうは罰ゲーム有りで」

 

「もちろん。それじゃあ、30数えたら探すから」

 

足音が離れていき、一つ一つ数字を数え始める。負けられない理由が出来た。別にこれが得意という訳でも無いが、葵よりはここにいる歴が長い。どちらかと言えば有利だと思う。

 

彼の身体は大きい方ではないので、こちらの思いもよらぬところにいるという事もあるだろう。しっかり念入りに探そう。

 

不必要なまでに念入りに頭を動かす。そうしなければいけない。もう時間だ。さあ、葵を探しに行こう。そういえば、今日は季節の割にとても暑い。なのにどうして長袖を着ていたのだろうか。

 

 

 

「やれやれ、参ったよ。まさか僕が出て行くまで見つけられないなんて。少し本気を出しすぎたかな」

 

「も、もう一回!今度は俺が隠れるから」

 

胸を張り、得意げになるのを見て悔しくなる。まさか直ぐ横にあるロッカーの中にいると思わなかったのだ。

 

返事を待たずにそこを後にする。急いで場所を探さなければいけない。待っているときは長く感じた時間だが、いざ追われる立場になるとなるとやけに短く感じる。

 

ええと、時間がない。結局何の捻りもなく戸棚の陰に隠れることにした。

 

ここは部屋の隅にあるので案外見つかりにくいかもしれない。また、物が陰になっていて周囲の状況も見る事が出来る。そう考えてみると意外と悪くないところに思えてきた。

 

そーっと、音で気付かれないように注意しつつ葵の動きを探る。あ、いた。どうやらそこそこに苦戦してくれているらしい。額にへばりついた綺麗な黒髪からそれが分かる。勝ちの目が見えてきた。

 

でも少し、いや大分焦っている様に見える。頭をしきりに動かしている。目からも焦燥感が伝わってくる。どうやらかなりの負けず嫌いらしい。俺に負けるのはきっと悔しいのだろう。

 

時間が経ったがまだ見つかっていない。彼は見当違いな方向である外に出て行っている。まだ油断して良いはずだ。俺が見つかるまでの時間はとっくに過ぎた。出て行って勝利宣言でもしようか。

 

分かりやすい位置に移動すべく腰を上げようとする。しかし目の前に見知った人物がこちらを見下ろしているのを見て、その動作を止める。表情は暗くてよくわからない。

 

「やっと見つけた。しかしよくもまあ僕がいいと言っていないのに逃げてくれたね。このままいなくなっちゃうかと思って、でもいて、本当に良かったよ。うん。よかった」

 

明るいところに出て彼が泣いていたことに気が付いた。目元が若干腫れている。外に出たときに目に砂でも入ったのだろうか。そんなこと言われても恥ずかしいだろうし、俺は何も言わないことにする。

 

何故俺は少し怒られている感じなのだろうか。これは交代交代でやっていくものだとばかり思っていたが、そこの意識の差が原因かもしれない。なら役割を決める意味も無かったし。これは反省しよう。

 

「そういえば結局お前は僕の事を見つけられなくて僕は今見つけたよな。それなら今回は僕の勝ちだよな」

 

「いや、それはどうだろうか。寧ろ俺の方が隠れた時間は長かったと思うぞ」

 

痛いところを突かれたとばかりに途端に押し黙る。苦虫を噛み潰したような顔をして目を吊り上げて睨んでくる。全然怖くない。

 

「それは、そうだけど。それを言うなら僕が出て行かなかったら一生探し回っていただろう」

 

「でも時間にしたら俺の方が長いぞ」

 

「…分かった。何をしてほしい」

 

そういえばすっかり勝負の事を忘れていたが勝った、よな?そういう事にしておこう。うーん、別に何かしてほしいわけでは無いし特に何も考えていない。

 

そうだ、俺も知りたいことがある。逃げてはいけないしはっきりさせる必要がある。腕を守るように身を縮めるのを見てよりそう思った。

 

「じゃあさ、俺の家来てよ。お母さんに今度友達紹介してって言われてたんだ」

 

「えっ、あ、うん」



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要求

クッソ短いけど許して


 いつもの道、いつもの風景。何度も通ったはずの所が随分新鮮に感じられる。それもこれも全部後ろからとことことついてくる彼、葵のおかげだ。

 

負けた弱みにつけ込んだ俺の急な誘いだったが快く受けてくれた。いずれ機会を見てこうするつもりではあったが、それが少し早くなっただけだろう。

 

それにしても不思議な気分だ。足が自然と早くなる。身体が動揺を訴え、心臓もうるさい。分かった。だから落ち着いてくれ。

 

大体な話、あちらの家には一度行ったのだ。それの逆をするだけで何もおかしなことは無い。

 

いや、もしかしたら葵も昨日いつも通りのクールな表情で取り繕っていただけでこう思いながら色々考えていたかも知れない。

 

希望的観測ではあるが、思うだけこっちの勝手だ。いずれ俺の中の葵は現実とは似ても似つかないポンコツになってしまいそうだ。

 

自分としては真っ直ぐ家に向かっていたつもりだったが、一本道を間違えてしまっていた。こんな事初めてなんだから仕方ないはず。多分。

 

このままいくと回り道になってしまうので迂回をしようか。そんなことを考えていると自然に足が止まってしまっていたようで。

 

「わっ、急に止まらないでくれ。びっくりする」

 

俺の背中にもたれかかるようにしてそのままぶつかる。体重が感じられないほどに衝撃が少ない。足で踏ん張る必要すらなさそうだ。

 

昨日の事を思い出す。そこまで隅々まで見渡したわけでは無いが、パッと見て食べ物はどこにも見当たらなかった。その辺も含めて今日色々聞かないとダメそうだ。

 

葵は小柄だ。俺なんかよりもずっと聡明で、何もかも優れているが何となく守ってあげたいな、そう思った。

 

 

 

「ここ、ここ。着いたよ」

 

「あぁ、ここがお前の家か。うん、覚えておくよ」

 

ひとまず次回がありそうでほっと一安心する。お母さんには何も言っていなかったが大丈夫だろうか。大丈夫じゃなくてもここまで来させてしまった以上どうにかしなければいけないが。

 

ノブに手をかけて、開く。言う言葉はもう既に決まっている。

 

「ただいまー」

 

「おかえりー。今日はどうだったーってあれ、この子は友達かな?」

 

「こんにちは。僕は信楽葵と申します。雄二くんにはいつもお世話になっていまして、今日はお邪魔させていただきます」

 

「お母さん、この子がこの前言っていた友達。急だけど家で遊んでもいいかな」

 

言い掛けながら迎え入れた母だったが、俺の横にいる葵を見て少しびっくりしている。特に何も言っていなかったのでそうなるだろう。

 

俺もこういう時にどうしていいか分からなかったけど、大事なことは伝えたつもりだ。大事な友達だという事を。

 

横にいる葵は慣れたようにペコリとお辞儀をして挨拶をしている。転入してきてたまたま馴染めなかっただけで前はよくこういう事をしていたのかなとか思うと少しもやもやした。

 

しかし、しきりに目を泳がせる姿を見て虚勢を張っているだけなんだとわかると逆に心が温かくなってくる。

 

「勿論いいよ。葵ちゃん雄二と遊んであげてねー」

 

「いや、お母さん葵は」

 

「ありがとうございます。ほら、早く部屋に行くぞ」

 

あの時の俺の様に女の子と勘違いしているお母さんを見て訂正しようかと思った。だが、何故かは分からないけど葵が強引に話を遮りそのまま部屋に行くことになった。

 

きっと葵も遊ぶのが楽しみで、結果として急いでいるという事なのだろう。普段はどんなくだらない俺の話でも最後まで聞いてから返してくれるので、やはりワクワクしてくれているのだ。

 

そんなことを考えながら、俺の部屋が分からないのに手を引っ張って進む葵。しばらくそこらをウロウロしているという珍しい葵の変な一面を見る事が出来た。そんなに広い家でもないので見つかったことは見つかったけど。

 

 

 

「ところで、今日は何で僕を誘ったんだ。いや、別に嫌だったとかそういう訳じゃないが、急なものでとにかくびっくりしたかな。何をして遊ぶ」

 

目を輝かせ、ソワソワした様子で聞いてくる。残念ながら、そういう事じゃなくて。部屋の鍵をしっかり閉めたことを確認してから言う。

 

「ちょっと今から服脱いでくれない」



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葛藤

「えっと?な、なにを言っているんだ?」

 

やや紅潮した顔でこちらを半分上目遣いで見ながらそう聞いてくる。相当恥ずかしいのだろう。男同士とは言え、見た目は女の子のそれだ。その姿を見て自分から言ったことなのにやや罪悪感を感じてしまう。

 

でも、もう行ってしまったことは変えられないし、反省はしているが後悔はしていない。とりあえず、確認がしたい。

 

「そのままの意味だよ。人目につくところだとまずいと思ったから」

 

その言葉を聞いた葵は案の定、更に顔を真っ赤にする。家の中だし、俺しか見ないというのにちょっと恥ずかしがり過ぎな気もするけど。

 

それからしばらくしても葵は何もしようとしない。言葉も発さずに俯いている。しかし時折頭をぶんぶん横に振ったりしているので俺の言う事が聞こえていないという訳でも無いだろう。

 

このままでは埒が明かない。仕方が無いがもう少し強く聞いてみるべきか。

 

「葵、これは本当に大事な事なんだ。嫌だっていうのは伝わってきているけど、それでもダメ?」

 

しかし葵はこれに答えてくれることは無く、だんまりを決め込んでいる。お互いの間に気まずい空気が流れる。

 

 

 

何ともなしにふと時計を見てみると既にかなりの時間が経っていることがわかる。日を改めたほうがいいか?

 

いや、しかし今日を逃してはそのままうやむやになってしまうのではないか。そんな考えが頭の中を支配していった、そんなときに耳にかすかだが、衣擦れの音が届く。

 

反射的に彼の方を向く。既に上半身には白い肌が顔をのぞかせ、それを隠すものもなくなっていた。しかし、それにより青黒く変色した皮膚がより強調され、際立ってしまっている。

 

葵は首だけを器用に後ろに向け表情を隠しているが、その顔を仮に見たならきっと一番真っ赤になっているに違いない。

 

「ほら、これで満足だろ。もう服を着るからな。全く、男の裸なんて見て何になるんだが僕はさっぱり意味が分からない」

 

それにしても、酷い。寒くもないのに何故か長袖を着ていた理由も今分かった。身体のいたるところが痣でいっぱいになっている。これでもう確信した。俺は葵を守らなければいけない。

 

いそいそと服を着るその姿を見て何故だか自分がとても滑稽に思えてくる。気付くためのヒントはいくつもちりばめられていた。

 

何となく葵が普通の家で産まれて、普通に生きていたわけがないとわかっていた。なのに、それを無意識に見てみるふりをすることで大丈夫だと思いたかった。自分が情けない。

 

「これだけやったんだから、ちょっとは嬉しそうな顔をしていてくれなきゃ割に合わない。それにしても何か身体がやけに熱いな」

 

「葵、服脱いでくれてありがとう。どうかしたか?」

 

「お前、何て顔しているんだよ。ちょっと怖いぞ。って、あっ」

 

俺の視線が捲っていて露わになっていた腕に向いていることに気が付いたのだろう。急いで戻すが、今更それに意味がないことに気が付いていないわけでは無いだろう。

 

しきりに喉が渇く。母の用意してくれたお茶を一気に飲み干す。やっぱりというべきか、それは既にぬるくなっていた。

 

「あー、もう。そういう事だったか。こっちだけ損じゃないか」

 

先ほどまでの恥ずかしがった顔は鳴りを潜め、今度はバツが悪そうにこっちを睨んでいる。あんまり怖くないけど。

 

これではっきりした。葵はあの親のようなもっと別の何かにひどい仕打ちを受けている。友達がこんな風になっているのは嫌だ。

 

「葵、ごめんね。今まで気づいてあげられなくて。今すぐあそこから逃げて」

 

俺の中では葵の反応について二つのパターンを考えていた。一つ目はこれで解放されるんだ、という晴れやかな表情。二つ目は、今更何を言っているんだ、とばかりにこちらを冷めた視線で失望の表情。

 

しかし、そのどちらでもない。俺の言葉を聞いて、聞こえていなかったとばかりに普段と変わらない様子なのだ。

 

俺にとっては大きいことだが、それを感じさせない葵がとても不気味に感じてくる。

 

「例えば、だけどね。あそこから逃げて、それでどうする?どこに逃げるんだ。お金もない。親戚だっていない」

 

俺は言葉に詰まった。そんな返し方をされると思っていなかったって言う事もあったが、それでも自分が何も考えていないことを思い知らされる。

 

「な。そういうことだろう。ちょっと聞いただけでもこれだ。どうせ無理だ。はいはいこの話はおしまい」

 

「で、でもこのままじゃ葵が」

 

どうにか言葉を絞る。このままじゃ、また俺は何も出来ないまま終わって、それで。

 

「はいはい。どうせ僕だからとかじゃなくて、たまたま虐待さている子どもがいたからだろう」

 

「でも、でも」

 

「わかった。もう大丈夫だから。じゃあね。僕は行くよ」

 

そう言い残すと、葵は部屋から出て行った。あれは葵の本心なのだろうか。分からない。

 

あの時の葵はとても遠いものに見えた。まるで初めて会った時みたいに全てを拒絶している様な、そんなような。

 

確かに俺にも何か出来るかもしれないと思ったはいいが、言われた通りだった。何も考えていない。先も見えていない。

 

彼の言うようにこの事にはもう触れないほうが良いのかもしれない。そう考えるようにもなった。だって、自分でもういいと言ったんだから。

 

そこまで考えて、最後に一瞬見えた表情がとても悲しそうで、それを思い出して再び悩んだ。



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始まり

お待たせしました。やっとです。


それから小学生、そして中学生になった。そして俺たちとそれを取り巻く環境は良い意味でも悪い意味でも特に変わっていない。

 

いや、一つ変わったことがあった。単純に会う時間が異様に減った。

 

小学校も大体中学年になった時くらいだったと思う。どこからか彼は本を見つけてきて、そしてそれから会う時間がかなり減った。勿論、絶対に見せてくれない。

 

俺は他に友達なんていないし、葵のことを友達だと思っている。だからそうなることはちょっと、いや大分辛かった。しかし、聞いてみても彼の言うことは一点張り。

 

『君には関係がないことだ。ああ、大丈夫だ。気にしなくても良い』

 

俺なんかみたいな奴に正直、彼の考えていることはよくわからない。だから仮に相談されたとしても上手く返せないだろう。

 

実際、俺は彼の地獄のような家庭について何をするわけでもなく、逃げた。だから俺に言っても無駄だと考えているのかもしれない。

 

でも、聞くことくらいならできる。俺なんかでも共感して、どうにか足掻いて、助けになれる。

 

結局、無力さを痛感するだけだった。時折服がはだけて見える痣に変わりはない。いつも通り話す。いつも通り笑う。でも、それがどこか歪に思えた。

 

 

 

「別に、どこでも良いじゃないか。僕は君の行くところに合わせるさ」

 

中学校生活もラストの一年になったが、彼の高校に対してのスタンスは全く変わっていない。どうやら県内で一番の高校にも入れるらしいが、そんなもの眼中に無いらしい。

 

俺だって彼の足枷になんかなりたくはない。折角そこに行けるのに俺なんかのためにレベルを下げては勿体無いだろう。

 

そして考えた。特にやることもないし、彼に少しで近づきたいと思ったから、勉強をそこそこ頑張り始めた。俺がそっちに合わせるという気概で、だ。

 

幸い?と言っても良いのだろうか、時間はかなり有り余っていた。相当無駄に使っていたのがちょっと悲しい。

 

その甲斐あってか、絶対無理という状況からどうにか可能性くらいは出てきた。まぁ、これからの頑張り次第という所ではあるのだが。

 

そんなことを考えていた矢先に事件は起きた。

 

 

 

「あー、今日信楽は休みだ。じゃあホームルーム始めるぞ」

 

いつも通りやる気の欠片も見えない担任の声で朝が始まる。普段と同じように聞き流そうと考えていたが、今日は聞き捨てならないことが耳に入る。

 

葵が学校を休むなんて珍しい。昔、『家にいてもつまらない』そう言い放ち、明らかな不調でも来ていたのが懐かしい。

 

昨日は元気そうにしていたのだが、何かあったか。形にはならないがもどかしい何かが心のなかで形成されていく。

 

あの時はいつもよりだいぶ弱々しくなっていた。息は苦しそうで、40度くらいはもしかしたら出ていたかもしれない。足元もおぼつかなくて寧ろよく無事だったと思うくらいだったんだけど。

 

その時は恩を返すチャンスが来たとばかりに頑張って看病したのだが、その日のことを話そうとすると途端に恥ずかしそうにするので彼にとっては思い出したくないことかもしれない。

 

まぁ、そんなことはいいんだ。そんなときでも来ていたのに、今日は休んでいる。葵の家に恐らくだが看病する人間は存在しない。

 

もしかしたら今も倒れているかもしれない。そう思うといてもたってもいられずに、結局早退することにした。

 

俺だって一応優等生風を気取っているのでまぁ、楽に行けた。保健室で無駄に休まされたが、その間もずっと胸に淀みのようなものを覚えていた。

 

 

 

慣れ親しんだ道を通る。足取りは自然と速くなり、いつの間にか全力疾走になる。冷たい切り裂くような風が吹き抜け、身を縮める。葉は既に落ち、すっかり朽ち果てていた。

 

学校をサボって若干の罪悪感を感じつつも、取り敢えず目的の場所へと着くことが出来た。コンビニに寄って桃の缶詰も忘れずに買っておいた。缶切りがあったかどうかはわからないけど。

 

何事も無いようにと祈りつつチャイムを押す。返事がない。もう一度押す。先ほどと何も変わらない。行儀が悪いとはわかってはいるが、扉に耳を当てて中の様子を伺ってみる。

 

微かに、しかし確かに助けを呼ぶ声がした。聞き間違えるはずもない。葵だ。

 

夢中になって扉に手を掛ける。袋なんか持ってる場合ではない。ギィーと嫌な耳をつんざく音を立てながらも開いた。中の様子が直ぐに鮮明にわかる。

 

そこには目いっぱいに涙を浮かべて必死に行為を拒絶する()()と、汚ならしい服装で、それでいて歪んだ笑みを見せている男がいた。

 

頭が、血が沸騰した。許せない。俺は、あいつを。壊さないと。

 

思い切り奴を蹴る。部屋の隅へ吹っ飛んだが関係無い。追うことにする。汚い何かがこちらを見てくる。醜悪な顔つきを更に歪ませる。殴る。拳に何かの液体が飛んでくる。気にする必要はない。もう一回。

 

今度は腹に。出っ張っているのだから、何度かやらなきゃ致命傷にはならないだろうが、なるまでやれば良いのだ。もう一度。もう一度。

 

「もうやめてくれ!」

 

反射で我に返る。横たわる葵の父は既に抵抗する意思など欠片も見えない。目には怯えが見て取れる。何となく、萎えた。

 

視線を少女に移す。剥ぎ取られた服と手首に付いた痣が痛々しい。そして、その少女は葵にとてもよく似ていた。整った顔つきはそのままに髪の毛を伸ばしたらそっくりだ。

 

何はともあれ、自分の上着を着せる。このままでは目に毒だ。こんなところに置いておけば、危険なような気がした。そうして、ここから移動することを決めた。

 

「えっと、大丈夫?じゃないだろうけど、取り敢えずここから離れよう。立てる?」

 

「あ、うん。大丈夫、かな」

 

弱々しく、作った笑みを浮かべて感情を殺そうとしていた。しかし、身体の方は無理なようで腰が抜けている。細身な彼女なら、簡単に持てそうだ。今は男性に対する恐怖については我慢してもらう他ない。

 

「あっ///」

 

思った通り、かなり軽かった。これなら俺の家まで5分とかからないだろう。兎にも角にもここから移動しなければ行けない。時間も平日の午前なだけに人に出くわさなかったのが救いだった。

 

 

 

俺の部屋に行っても、しばらくは心ここにあらずといった感じになっていたが、徐々に自分を取り戻してきたようで、落ち着いて話せるようにもなった。

 

「ありがとうね。助けてくれて。本当に、嬉しかったよ」

 

噛み締めるように、そう言う。笑顔がとても素敵で可愛い。特に目がくしゃっとなるところも本当によく似ている。

 

恐らくは妹か姉なのだろう。どういうわけだったのかはわからないが、生き別れた家族と感動の再開の予定があんなくそったれたことになったに違いない。

 

彼女は俺の部屋でどこかソワソワしながらも寛ぎ始めた。上着の匂いも嗅がれていて大分恥ずかしい。でもあれ脱いだら色々と見えたらいけないとこが見えてしまうから仕方ない。

 

「ええと、そんなに臭いかな?」

 

「いいや、全く。寧ろこの匂いはとても安心するよ。改めてだが、雄二。本当にありがとう。僕を助けに来てくれたんだな」

 

「全然。そう言えば、葵知らないかな?君には悪いんだけど、弟?兄?に用があってね。そうしたらあんなことになっていたから」

 

「そうか、わからないよな。うんうん」

 

「どういうことかな?」

 

訳のわからないことを言いながらもうんうんと頷いて一人で納得してしまっている。やはり天才肌なのか。そう考えていると、いきなり視界が天井を指す。

 

「僕が正真正銘、信楽葵だよ。まぁ、性別は変わってしまったがね。ごちそうさま」

 

遅れて自分が押し倒されていたことに気がついた頃には、唇が甘い感触によって塞がれていて、何も言うことが出来なかった。



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説明

「TS病?あれって本当にあったんだな」

 

「ああ、僕もまさか自分がかかってしまうとは思ってもいなかったよ」

 

先程までは少し錯乱していたのだろう。何故かこちらに向かってキスをしてきたがあのままだと俺の方も危険になってしまうのでどうにか理性を保って引き剥がした。

 

「…。いや、何も言うまい」

 

何故か睨んでくる。整った顔立ちからの射抜くような視線に一瞬怖くなる。だが、赤くなった頬を見てそんなことは杞憂だとわかる。

 

それにしても、改めて葵を見てみると前までの違いがはっきりとわかる。全体的に丸くなった造形は痩せているはずなのに何となくむっちりとしているようにも思える。

 

時折見せてくれる髪を耳をかける仕草などは変わらないが、それにしても本当に葵なのか半信半疑になってしまっている。

 

TS病は今のところ不明なことが多すぎる、とどこかのテレビでやっていたのを見たことがある。大体ここ数年でぽつぽつと症例が出始めている。何故、どこから、どうやってかかってしまうのか。何もかもが黒いベールの下に包まれている。

 

その病気にかかって身体に及ぼす影響は実にシンプルな一点のみである。性別が逆転してしまうということはとてつもないイレギュラーではあるが。

 

それに年齢、場所などは関係ない。全世界で100万人に一人程度の確率とも言われている。身体の変化自体も個人差はあるが一晩で終わることが多いようだ。近くにいる人にとってはある日、全くの別人が横に降って落ちてきたようにも思えるだろう。

 

死んでしまう事は今のところ確認されていないし、その変化に伴って何か重大な病気にかかりやすくなるなどといったことは一切ない。寧ろ変化する前に比べて調子がいいと言う人さえいるほどだ。直後は自分の変化に伴い混乱してしまう為大多数は何をどうすればいいのか分からないが。

 

一番の問題、容姿についてだが、大きく変わってしまう人も多いらしい。そしてほとんどが美男美女と化す。もっとも、年齢に変化はないため例えば老人が変化してロリババアに、というのは有り得ない。そして元の容姿に影響されずに大きく変化することが多い。

 

葵は昔から可愛かったということもあるのだろうが顔の大まかな作り自体にほとんど変化は見られない。勿論突き詰めていけば小顔になっていたりするのだろうが、それはまぁ見間違いだったで済む話だ。

 

大きな変化がない以上、あまり葵が変わってしまったと思う事が出来ない。全くの別人であれば逆に納得できるのかもしれないが、今回はそういう訳でもない。

 

そして、現実問題として極低確率であるこの事象が起こってしまう事が有り得るのだろうか。実は葵に双子の妹がいてドッキリでしたーなんて言われる方がずっとありそうな話だと思う。

 

可愛い。葵は可愛い。だが、男だ。なんだかんだで友達としてバカなことをしていた頃が最高に楽しかった。その関係が壊れそうで怖い。

 

「キミに一つ、聞いてもいいか」

 

「キミ、だなんて随分と雄二は水臭いことを言うじゃないか。僕とお前の仲だろう」

 

話せば話すほどに彼と重なる。心の中の俺が認めてしまえばいいじゃないかと囁く。いいや、まだだ。兄弟などであれば似ることもある。大丈夫だ。

 

先程までの上機嫌さから一転、目を吊り上げさながら烈火のごとき怒りを感じる。俺も親友である葵にそんな態度を取られたら嫌だろうな、とは思いつつも自分はそうしたくない。

 

「いいや、君は恐らく葵の妹である、ええとそうだな、蒼歌とかだろ」

 

「やれやれ。茶番をいつまで続けるつもりだ。僕だって驚いているが、これは紛れもない事実だ。女になった僕は抵抗できずに実の父に犯されかけていたところを君に助けられた」

 

熱を持った視線を向け、こちらの目の奥をのぞき込んでくる。罰が悪くなって逸らそうとしたかったが、そんなことをさせてくれるような彼女ではない。

 

正面まで近づいていた彼女に顔をひんやりとした細い両手で固定される。逸らすのは許さないとばかりに、深い深い闇に落ちていく。

 

「いいか。君にとっての僕とはなんだ。友達か?もしそうだとしても」

 

気付けば彼女は一糸まとわぬ姿になっていた。シミ一つない綺麗な肌には青黒い痕がはっきりと確認できた。

 

「お前は僕から逃げただろう」

 

やめてくれ。

 

「痛かったよ。何度も、何度も、理不尽を叩きつけられるんだ。わかるか」

 

もう、わかってる。

 

「女になって、非力になって、僕はわかった。やられる側だってことを」

 

ああ、そうだ。いつも怯えていたはずだ。

 

「なら、やる事はもう、わかるよな」

 

今度はもう。

 

「逃げない。前みたいには絶対にならない」

 

その言葉を聞いて満足したのだろう。穏やかな笑みのまま、こちらに倒れ掛かって来た。色々とあって疲れていたのだろう。そのまま眠り始めた。相変わらず軽いけど、それでも少しだけでも重荷を取れたら。そう思った。

 

 

 

ひとまず起こさないようにとベッドまで運んで急いで毛布をくるませる。枕元に今の彼女でも着られるであろう、俺のジャージを置いておく。

 

本当はそんなことないのに、いつも気を張って不愛想にしている。しかし今は穏やかな表情を見る事が出来る。憑き物が取れたかのように晴れやかな彼女を見て、根拠はないけどこれで良かったのかなと思った。

 

そんなところをのぞき見してしまい、何となく見てはいけない様な罪悪感に駆られる。今の葵はもう女の子なわけで、寝顔を見続けるわけにもいかないだろう。

 

別にこれは逃げたとかそういう訳じゃないからな。これじゃあ誰に言い訳をしているんだかよくわからない。何をするでもなく居間まで向かう事を決め、そそくさと移動した。

 

部屋の扉を閉め、ふと振り返る。いつもの見慣れた場所のはずなのにこの中に葵がいるのだと思うと、変な感じがする。やっぱり可愛いな。普段から礼儀正しいので立ち振る舞いも普通に女の子女の子していたように思える。

 

変な考えが出てきそうになったのでとにかくこの部屋から離れてしまった方がいいと判断し、階段を駆け下りる。そんな乱暴にしたら大体わかるだろう。足がじんわりと熱を持ちかなり痛い。俺はバカだな。玄関前にある鏡を見て気付いたが、俺は笑っていた。

 

こんなくだらないことで笑っている。そういえば最近楽しいことも無かったな。これからは二人で笑っていきたいな、なんてちょっと格好つけすぎだな。

 

 

 

「言質は取ったからな。ふふふ」



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