俺達のブチャラティが童貞なわけないだろ!いい加減にしろ! (点=嘘)
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今明かされる衝撃の真実(捏造)
「ゆ、許してくれよォォ〜〜……た、たった一回魔が差しただけですって……もうしませんッ! あーっやめてくれェ──ッ!!」
目の前でいかにも大袈裟に騒ぎ立てる小汚い男を見て、ブローノ•ブチャラティは相手に聞こえないように小さくため息を吐いた。
「ブチャラティ、一応見張りにナランチャを出しておきました。——始めますか?」
「いやフーゴ、もう終わった」
「それはまた……根性の無い。やっぱりあんたが出るまでもなかったじゃあないですか」
部下のパンナコッタ•フーゴが呆れたような反応をするのを見て、全くだとブチャラティも思う。少し痛めつけてやったらすぐコレだ。
相も変わらずヒーヒーうるさい男のすぐ後ろには年端もいかない少女が見える。その格好から察するに——まぁ、商売女とみて間違いない。
みたところ十五、六歳くらいだろうか? 間違っても成人には見えない。といっても、それが問題だからブチャラティたちが男を痛めつけに来たのかと言われると、別にそうでもない。正義の味方じゃああるまいし。
ブチャラティはギャングだ。
より厳密には、イタリアギャング”パッショーネ”の構成員というべきか。ざっくり言えば、この男はパッショーネの所属でもないのに勝手にポン引きなんぞやらかしたのだ。当然、シマを荒らされたと思った——事実その通りではある——パッショーネのとある幹部が、ナメた野郎を締め上げてこいとブチャラティに命令した。だからここに来た。つまりそういう話である。
「もうしないって! あれが初犯だよォ〜……知らずにやったんですゥ……」
「で、この男……どうします? こいつの場合、後腐れなく殺っちまっても問題は無いでしょうが」
「そ、そんな。……冗談、冗談でしょう! そうですよねッ?!」
いっそ何も言わないほうが可愛げがあるってぐらいこちらに媚びへつらってくる惨めな男をみて軽く頭痛がしたのか、額を抑えながらフーゴが質問してくる。どうでもいいことに対してよくブチ切れては暴れるフーゴは、こういう時には冷静だ。
無論、こういう場合でも普通にキレて暴れる確率も半々くらいにあるのだが——と、つらつら考えながらブチャラティも返答する。
「処遇については、今回はポルポの命令通りにやる。確か……『懲りたようなら指の二本や三本で許してやっても構わんが、そうでないなら殺してしまえ。その辺の判断は君に任せるよ』だと」
「こり……懲りました! 反省しました、指もやります! 命だけはァァ〜〜〜……ッ」
「あのな、僕たちはお前の指なんかが欲しいわけじゃあないんだよ。決めるのはブチャラティだ。……どうするんです? こう言ってますけど」
冷や汗をダラダラ流している男の顔をジッと見つめたブチャラティは、男へおもむろに問いかける。
「てめーはさっきから『初犯だ』だの『知らなかった』だの勝手に喚いていたが……どうだ、それが本当だったら今日のところは許してやる」
「……あんたはそういう所が甘いんだ、ブチャラティ。口だけだったら何とでも——」
「は、はひぃ! 本当の本当なんです、だから……」
まずい。ブチャラティはそう思ったが、事前に止めるには遅すぎた。「横から口を挟むとは、いかにもフーゴがキレそうな事だ……」とフッと頭によぎった瞬間、
「うるッッッッッせぇぞテメ──ッッ!!!!! いまオレが喋ってる途中だってのがわからねーのか!!! そんなに死にてぇんならその腐った脳ミソをもっとグズグズに………………」
そらきた。
「ぐげえええ」
「やめろフーゴ! 本当に死んじまうだろうが!」
「……わかりましたよ」
男の喉元を絞めて殺しかけながら怒鳴り散らすフーゴに静止の一言をかけて、なんとか落ち着かせることに成功した。今のところ、ブチャラティはキレたフーゴを——“そこそこ”の確率で——落ち着かせられる数少ない存在の一人である。
「げ、おげェ──っ」
「で、何でしたっけ……? そうそう、『口だけだったら何とでも——』言えるじゃあないですか」
言葉を邪魔されたという事実すら無かったことにして前の発言から言い直したフーゴに呆れながら、ブチャラティは一言。
「別に指で許すこと前提で言ってるわけじゃあない。少なくとも俺は命令通りにやるつもりだ」
「……というと?」
あまりピンときていないフーゴを置いて、ブチャラティはうずくまっている男の髪を引っ掴み、一つ一つ確認するように問いただしてゆく。
「ひィ〜〜っ、やってねぇって言ったろ、助けてくれよォォッ」
「もう一度だけ言う。それは本当だな?」
「だから……そう言ってるじゃねぇかぁ……」
そうか、とブチャラティが呟いた直後——男が突然泡を吹いて倒れた。
脈を測れば、男の心臓が今をもって停止してしまったことが分かるだろう。その心臓が「出血もなく真っ二つになっている」とまで分かる者は流石にいないだろうが。
「……意外ですね、あんたが感情に任せて人を殺すなんて。僕じゃあるまいし」
「いや、こいつが嘘を吐いている事は分かっていたさ」
「あー、汗を……久しぶりに見ましたよ、それ」
いつからか身につけていた「嘘を汗で見抜く」という特技。パッショーネに入った時に身につけた『能力』とは別モノだが、これで中々役に立つものだ。
「…………………………」
そしてこの場にいるのはギャング二人と商売女——というには若すぎるかもしれないが——の三人。
これだけ騒いでいるのにピクリとも動かない、うつろな目をした少女だ。どんな目に合ってきたかは知らないが……ともかく、「どうにか」しないといけないのだけは確かだろう。
「それでそれで? どーしたんだよ、その商売女?」
「ナランチャ、首を突っ込むのは構いませんが、手は動かしてくださいね」
いまやブチャラティチームの溜まり場と化しているリストランテにて、フーゴは今回の仕事についてメンバーと話をしていた。
といっても、同僚であるナランチャ•ギルガに勉強を教える片手間に話す程度のことであり、ハッキリ言って雑談とそう変わりはない。
「いいじゃねーかよォ〜〜……オレだってその任務に参加してただろ? それってオレも関係あるってコトじゃん」
「つってもオメーは外で”立ちんぼ”だったがな。……”商売女”だけに!」
「……プッ」
「…………」
「……それでフーゴ、結局どう片付けたんだ? その女」
イチゴのケーキを食べているチームのガンマン、グイード•ミスタに先を促され、フーゴはナランチャを諫めつつも続きを語る。
「ブチャラティが何とかしてくれましたよ。孤児院に預けるとかどうとか。詳しくは聞いてませんがね」
「か──っ、お優しいこって。それって保証人だの何だの、いろいろ用意しなきゃなんねーってことだろ? いちいちそんなことで足を止めてりゃ、出世の道も遠のくってモンだぜ!」
よく知りもしないで「保証人だの何だの」というセリフをノリで言ったミスタに対し、フーゴもまたどーでも良さそうに答える。
「知りませんが、そういう積み重ねが信用を作って地位に繋がるんじゃないですか? 現にブチャラティもそろそろ幹部昇進が見えてきましたし。……まあ、彼もそういう俗な考えで人助けなんかやってるわけじゃあないと思いますけどね。知りませんが」
かくいうこの場にいる全員が、そのブチャラティの人徳に人生を救われてここにいる。前置きまみれなフーゴの言葉もそう間違っていないのだろう、と全員が頷いたところで——今まで黙って話を聞いていた最後のメンバー、レオーネ•アバッキオが口を開いた。
「にしても売春か……最近どうも増えてきたな。つってもまあ、そいつに限った話じゃあねーがよ」
彼らのギャング組織、パッショーネはかつて”義賊”のような活動をしていた。ギャングという事に変わりはないが、法律では裁けない犯罪への「報復」を請け負ったり、麻薬を陰ながら取り締まったりなど。
それが最近方針が変わったのか、もしくは最初から方便だったのかは定かでないが、とにかく現在のパッショーネは極めて強い拝金主義へと形を変えた。それに伴い治安は悪化、犯罪も増え、麻薬をはじめとした裏取引も増えたというわけである。
「アバッキオはその流れにこういう犯罪も絡んでると考えてるんですか。……まあ、なるべくしてなっているという所でしょうね」
「嫌な世の中になったもんだ」
と、ここまでは割とシリアスな話の流れであった。
だが内容はあくまで「売春」について。そうなると、チーム内でも随一のお調子者であるミスタのせいで話が下世話な方向へ向かっていくのも無理はないわけで……
「そういえばよォ、ブチャラティって童貞なのかな?」
「ブッッッッッッッ!!!」
ちょうど口に含んでいた紅茶を思いっきり吹き出したのはナランチャだ。
「うわっ汚ねえなオイ!」
「ばっ、ばばバッカお前、……オレたちのブチャラティが童貞なわけないだろ!いい加減にしろ!」
ナランチャは、実の父親よりも真剣に自分のことを叱ってくれたブチャラティに憧れている。そして、それこそがギャングの道に入った切っ掛けなのである。彼にとってはそれこそ父親に等しいほどの存在であるブチャラティをそんな風に言われたらナランチャも怒る。怒るし、なんか複雑だ。
とはいえ、ミスタも別に考え無しに言ったわけでは全然無い。むしろ自身の推理力に感心すら覚えてしまったほどである。
「いやよォ、今回拾ったのって、ガキとはいえ一応商売女だろ? それなのにあ〜んなことやこ〜んなことを考えもしないでヨソに預けちまうなんてよォ……
これにはアバッキオも十五、六相手に欲情はしないだろ、と飛躍しすぎな発想を割と冷めた目で二人のやりとりを見ていた。
一方で、十五、六歳を”ガキ”呼ばわりされたフーゴ(16)は幸運にも何の反応も示さなかった。といっても、例えるならば「足元をチョロチョロ歩き回る地雷が踏み抜いた足を偶然避けてくれた」ようなもので、一歩間違えればブチ切れていたのは言うまでもない。閑話休題。
「ま、それは流石に冗談としてもだ。ブチャラティって誰にでも
「ぶ、ブチャラティが……そんなまさか……」
ミスタの詭弁に煽られてこの世の終わりみたいな顔をしているナランチャ。それを流石に哀れに思ったのか——勉強の手が止まっているからである可能性の方が高いが——フーゴは助け船を出すことにした。
「いや、それは無いと思いますよ」
「「え??」」
途端に静まり返るミスタとナランチャ。
いきなり割って入ってきたかと思えば、何の根拠があってそんな事が言えるのだろう。そう思った二人だが、直後に放たれた衝撃の一言によってそれらの感慨は吹き飛んだ。
「だって彼、彼女いますから」
何の気なしにそう言ったフーゴをマジマジと見つめた後——二人が同時に発したのは、驚嘆による絶叫だった。
「「え、えええええッッ!?」」
「僕はこの中で一番ブチャラティとの付き合いは長いですからね、彼女さんとも何回か会ったことはありますよ」
それを聞いていたアバッキオは、そういえば、といった感じで思い出した事を口にする。
「あー、俺もそれ聞いたことあるな。付き合ってる女がいるって、確か一つ年上だったか?」
「ちょ、ちょっと待て! お前ら何で知ってて当然みたいな感じに言ってんだよ! 特にアバッキオ、お前はオレより新入りだろーが!!」
「ハッ、お子様には話せないようなこともあるって事さ」
アバッキオの物言いにナランチャは軽く憤慨したが、それよりも興味の方が先行したようで、それについての話を勉強そっちのけでセガみ出した。
「ぐ……なぁアバッキオ〜、ブチャラティの彼女ってどんな奴なんだよ? あとさぁ……」
「その女とは『どこ』まで行ったんだ? なあ教えてくれよォ、減るもんじゃねーんだしさ!」
「そうそれ! 結局のところそれが知りたい!!」
ナランチャに便乗してまで話を聞き出そうとするミスタ。そんな彼らに一瞥をくれてやった後、アバッキオは否と答えた。口外はしないで欲しいと頼まれた話も少なからずある。彼はその見かけによらず義理堅い性格なのだ。——まあ、単純にそう易々と教えてやっても面白くない、といった考えもあったことは否定できないが。
「イヤだね。そんなに知りたきゃあ本人から直接聞くんだな」
「なんだよ、ケチな奴だな。……じゃあフーゴ、フーゴも何か知ってるだろ? 教えてくれよ!」
唐突にこちらへ矛先を向けられて少々辟易としたものの、表向きは平静を取り繕ってフーゴは答える。
「ナランチャ、さっきからずっと手が止まっているじゃあないですか。勉強を教えてくれと頼んできたのは君なんだから、僕がこんな話をしていて滞るなんて本末転倒ですよ」
いきなりド正論をかまされたナランチャは言葉に詰まる。ギャングの癖にこんなまともな事を言うなんて……そんな意味不明な考えが頭によぎるが、それで諦められるほど軽い話題ではないのも確かだ。
「これじゃ気になって身が入らないって! ……そうだ、名前。名前だけ教えてくれたら勉強もするから、なっ?」
「……はぁ」
精一杯の譲歩として、これだけは是非とも聞きたいところだ。
フーゴも一理あると判断したのか、はたまたこれ以上とやかく言っても仕方が無い、と思ったのかは定かではないが——不承不承といった様子で、これだけ答えた。
「カッサンドラ。カッサンドラ•グレコ……それが彼女の名前ですよ。さあ、もう十分でしょう? そろそろ勉強を再開してください」
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【悲報】JOJO要素、地名のみ
夜の帳はとうに下り、街々を宵闇が覆っていた。
日中を良く遊び、或いは良く学び、或いは良く働いて過ごした善良なるネアポリスの市民達はこの時間、その殆どが明日に備えて寝静まる。
南ヨーロッパの温暖な気候で日々を過ごす彼らの一日は日没と共に終わりを迎えた。
そして、それが意味するのは乱れ切った裏の社会にとっての”夜明け”だ。
賭博、裏取引、水商売。真っ当な生き方を知らない爪弾き者どもが寄り集まり、その野卑な欲望が夜闇を拭う街並みの明るさとなる。
ただ当然の事ながら、影の濃さに強弱があるように、夜の街にも”深度”の違いというものはある訳で。
これは一般市民も気楽に立ち寄る事ができる、とあるスナックバーでの一幕である。
スナックという単語を聞いた事も無いという人はあまり居ないだろうが、どういった意味であるかまでは知らない、という人も居るはずだ。
説明しよう。“スナックバー”とは何か?
スナックバーは”バー”の形態の一種であるが、その実明確な線引きがあるという訳でもない。“スナック”の概念は世界中に存在し、国や地域によって定義も様々だという。
その上で一般的な共通認識を明言するとするならば、ズバリ「女性が接待してくれる飲み屋」となるだろう。
俗な言い方でまとめると、
•お姉さんとお酒を飲んだり、軽食をとったりする
•お姉さんに話を聞いてもらえる
•(場合によっては)彼女らの飲み代は客が支払う
といった感じで間違いない。
“トゥッティ•ジョル二”はこういったスナックバーのルールに漏れない、比較的健全な飲食店として認められている。裏社会の人間よりかは、ハメを外した表社会の大人達が思い切って遊びに来るような場所に近い、と言えば分かりやすいだろうか。当然「そういう関係」を
裏社会との繋がりといえば、ここら一帯を仕切るギャング”パッショーネ”にスナックとしての「みかじめ料」を払っていることぐらいで、それにしてもこの辺りで商売をやっている店にとっては当たり前のことだ。特筆すべき点とは決して言えない。
そんなぬるま湯のような”遊び場”は、いつもと同じように幾らかの客で賑わっていた。
「うーい……ボクの地元じゃさァ、みんなしてお酒はこーやって飲んどったモンだよ。ちょっとホラ、見て見て!」
カウンターテーブルを挟んでいるのは二人の男女。
中華系の脂ぎった顔をアルコールで真っ赤に染め上げた中年の男と、それを向かいに座って接待している店員の
「ええ、見ていますわ。……どうなさったのかしら?」
レースをあしらった
ブロンドの髪がややくすんで見える事を差し引いてもその容姿は端麗で、透き通るように薄い金色の瞳は殊更に目を引いた。
中途半端にウイスキーを注いだグラスを持って何をするつもりなのだろうか? 興味深そうな表情で注目する彼女を満足げに横目で見つつ、男はおもむろにビールの缶を手に取り、それを先のグラスに注ぎ始めた。
「蒸留酒を〜……醸造酒で、割る……」
カラカラと、どっからか引っ張り出したプラスチック製の安っぽいマドラー(カクテルなどをかき混ぜるために使う棒みたいなもの)を酒に突っ込み、男は得意げに講釈を垂れていく。
「こーするとォ〜? ……度数がさっ、ビールの味わいのままでェ……ブッたまげるほどに上がるのよっ! 『爆弾酒』の出来上がりってね——これを飲めなきゃあ男じゃないぞォ!!」
「まあ、タンさまは何でも知ってらっしゃるのね。素敵ですわ」
少女の微笑みを伴った素直な称賛に自尊心を満たされて気を良くしたのか、名前を呼ばれた男はニタリと笑った。
「——そのとぉりだ! ボクは何でも知ってんのよォ? だってぇのにこの国のクソ野郎どもと来たら、コゾってボクを馬鹿にしやがる……ボクは賢いんだぁ! 頭も良ければ顔も良い!」
「まったくその通りです。周りの方々が間違っていますのよ。見る目というものがありません」
側から見ればバカバカしい会話だが、少なくとも男にとっては深刻な話題らしい。
「そうだ!! 今に見てろ、あのッ、あのカスどもォ……いつか絶対にぶっ殺す……嘘やハッタリじゃないぞッ、これからァ、男ってのがどういうものかを見してやる……!!」
そして、この酔っ払いは例の”爆弾酒”をイッキ飲みすることで男らしさを証明できると信じているらしく、一つ深く息を吸い、目一杯グラスを『グーッ』と呷った。
「グーッ……ブハァ──! みらかぁ、ボクはすごいやつなんら……」
「ええ、素晴らしいですわ。これで誰もが貴方を認めてくれるでしょうね」
「キャシーちゃあん……好きっ、好きだよォ……」
「ええ、タンさま。私も同じ気持ちです」
クダを巻いた中年の酔っ払いほど醜いものはそうそう無いだろうが、そんなものに愛を囁かれたにも関わらず、”キャシー”と呼ばれた少女は彼にとっての理想的な返事を——嫌悪感など微塵も感じさせない様子で——寄越してみせた。そして、それによって男の眼光がにわかに色めき立つ。
ローマ数学があしらわれた店内の壁掛け時計をチラッと一瞥した後、キョドキョドと辺りを見回しながらこう言った。
「ああ〜そうだろぉとも……しかし、キミはなんとゆーか、大丈夫なのかぃ?
周りの店員と比べ、キャシーは断トツで幼いように見える。話をしている間はそういった事も気にならない程落ち着いた雰囲気をしているのだが、俯瞰してみるとやはりおかしい。
“少女の身の上を案じて”というよりは”そんなものと関わる事によって
「……それ、今日だけであと何回言うつもりですの? もう一度だけ言いますけど、私、今年で十八ですわ。立派な大人ですのよ」
「んんっ、いやわかってるさ。ゴメン! さっきのは、うん、忘れてくれ……そんなにツンツンしないでよぉ、ねっ!」
こんなオイシイ目を逃してなるものかと、若干の妄執さえ感じさせる口調で男は目の前の”女”を宥めようとする。
すると一転、キャシーは瞳を潤ませ、頬を上気させ、上目遣いでこう呟いた。
「……めい、してください」
「ええ?」
「男なら、嘘やハッタリは無しなんですよね? それなら、先程強いお酒を飲んだみたいに、できるはずです。”証明”を」
「うん……?」
締まらないことにこの男、元々鈍いことに加え、酒も回った頭でこの文句を理解することができなかった。
キャシーにとってもそれは予想外だったらしく、ボケーッとした男を前に内心困惑しながら、何をするでもなく十数秒間見つめ合うという謎の時間を過ごしてしまう。
「ですから、その……」
だが、そこは彼女もさるもの。すぐに心持ちを取り成すなり、改めて”誘い”の文句を口にした。
「今夜はどうか、私を……キャシーを愛してくださらないでしょうか……?」
流石にこれで意図を掴めないようなら、もはや人として終わっているといっても過言ではなかろう。
この男も流石に何を言っているのかを理解し……何なのだろうか、頭をポリポリかいたり、意味もなく周囲をキョロキョロと見回したり。ここに来てやたらと落ち着きのない仕草が目立ってきていた。正直見ていて滑稽ではある。
「フゥ〜〜……そっかあー、ン。そーゆーことね、ハイハイハイ……」
「あの、どうなさったんですか……?」
「あーうん! そーだそーそー分かってるよ。……よぉし、よおおしッ」
普段イタリアの情熱的な男達を相手にしている手前、ここまであからさまな反応を見るのも珍しいのだろう。混迷極まるといった面持ちで動向を見守るキャシーを前に、とうとう踏ん切りをつけたらしい。彼女の手を取るや
「行くよキャシーちゃん。……マスター、会計を!」
必要以上にハリ上げた声はヤケに芝居がかっていた。格好つけているんだか何だか知らないが、彼の期待していたであろう効果が得られなかったという事実だけはここに記しておこう。
そもそもここの店主、別に”マスター”などと呼ばれているわけでもない。その時点で各方面に恥を晒しているわけだが、男がそれを知る機会は永遠に訪れないのだった。閑話休題。
「……お客さん、随分と呑んでらしたね。えー、飲み食い合わせて十万五千リラと七十チェンテシミになりますよ」
「ああ、これで……確かに」
「分かってらっしゃる……ええ、
少々呆気にとられていた様子の店長だが、支払われた”金額”を確認するなり、意味深にほくそ笑んで声を上げた。
「おいキャシー! お前さんのお客様がお帰りになられる。ベロベロに酔ってて心配だしよ、送ってやんな! ああ、そろそろ店仕舞いにすっから今日はもう上がっていいぞ」
「言われなくてもそうするつもりでしたわ。さっ、タンさま……」
「うん、行こうか……!」
駆け寄ってきた彼女の肩をそっと抱くと、男は覚束ない足取りで出口へ歩き出した。
しかし相当に酔っているのが祟ったのか、外へ出たところでボスッと誰かにぶつかってしまう。
よく見ていなかったが、どうやら自分より相当背の低い相手らしい。……ちょうどこの腕に抱くキャシーと同じくらいだろうか? 何にせよ、諸々の事情で気が大きくなっている男にとって、”自分より小さな相手“というのは”いちゃもんをつける相手”として申し分なかった。
「おいガキャァ! どこに目ェ付けて歩いてんだっ!! ぶっとばされてぇ、の、か……?」
ところがどういうわけか、そこには誰もいないのだった。
辺りを見回すも、そこには耳を押さえるキャシーがいるだけ。そこで男は我に帰った。
「ど、どうなさったのですか……?」
「あ、あれぇ? 今、絶対何かがぶつかってきたんだけど……き、気のせいかな。ハハッ」
こんなツマラん事で折角の機会をフイにすることはあるまい。そう思い直し、一抹の疑念を残して場を後にするのだった。
(あれ? なんだか体が重いなぁ……すこし太ったかな?)
——一抹だろうが二抹だろうが、酔った頭にとっては変わりは無いのかもしれないが。
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俺が書くオリキャラ二面性あるやつ多杉内?
「ねェん、キャシーちゃあん……ボクもう疲れちゃったあっ! 早く早くぅ、中入ろっ!」
「はいはい。さぁ、上着を脱いで……」
さて、気が緩んだのだろうか。玄関に辿り着くなり保っていた——本人はそのつもりであった——体裁を崩し、男は甘えるようにキャシーへ寄り掛かる。
むわっとした酒臭さが鼻につくのだが、それを受けた本人の顔は涼しいものである。部屋に着いた安堵とこれから起こる事柄への期待で男の体温がにわかに上昇していくのを肌で感じつつ、そういえば、といった様子で問いを放った。
「タンさま、その前に一つよろしくて?」
「んごっ? なん、何だい?」
「その……ベッドに入る前に、一度シャワーを浴びませんこと? 私は別に、タンさまが今すぐ事に及びたいとおっしゃるのであれば構いませんが」
「…………」
これに男は羞恥に顔を赤らめた。自分が早く楽しみたいという欲望だけを先行させて、他に全く気が回っていなかったのだ……。ここで逆上したりしないあたり、この酔っ払いは根が悪いのではなく、ただの小心者なのかもしれない。といっても、彼が色を求める単なる醜い中年だという事に変わりはないのだが。
「あー、ウン。そりゃ分かってるとも……勿論。つまり、始めッからそうするつもりだった訳で……じ、じゃあね。行ってきまーす……」
「行ってらっしゃいませ。ベッドの準備はしておきますので」
そそくさとシャワールームへ駆け込む姿は無様としか言いようがないが、キャシーはまるでそのような事を思っていないみたいだ。ニコニコと柔らかい微笑みをたたえ、自分が先ほど言った通りに寝室へと向かうのだった。
ギィ……とやや不気味に軋む木製の扉を開けるなり、キャシーはざっと周りを見渡した。
いやはや、何度来ても驚かされるのだが……この部屋だけは外観と雰囲気が違いすぎる。
寂れたアパートというだけあり、この寝室以外の部屋や廊下などはひどいものだ。壁には幾らかのシミがあるし、クモの巣なんて張っていて当然。ホコリもそこそこ積もっている。だが、ここはどうだ?
当然ここはキャシー、ないし男の住んでいるアパートの部屋などではない。にも関わらずキャシーは彼をここに連れ込んだ。となると理由は別にあるはずなのだが……まぁ、それはさておき。
「…………」
何を思ってか、キャシーは今しがた入ってきた扉に耳をそばだてる。シャワーの流れる音と男の下手くそな鼻歌が聞こえてくるだけなのだが、それを確認できただけでも彼女にとっては十分だった。
「ん〜〜っ」
瞬間、その身に纏う雰囲気がガラリと変わる。
「あ〜あ。……特にないのよね、この部屋で準備することなんて。分かっちゃいたけど」
目一杯大きな伸びをかまし、あまつさえ無防備に欠伸までかくその姿には先程までのお嬢様然とした佇まいは微塵も感じられない。
しかしその様はあくまで”歳相応”、ある意味では違和感が抜けたと言ってもいいかもしれない。
「あーっと……? おお、今日はアタリね。リキュール、カクテルは気分じゃないから置いとくとして——あっ! シャトー•カノンの八年モノじゃない! えへへっ」
戸棚をガチャガチャと漁ったかと思えば、割とぞんざいな手つきで酒瓶を引っ張り出していく。
彼女は窓際の小さなテーブルにどかっと腰掛け、あらかじめ用意しておいた氷の入ったグラスにワインをとくとく注いでいった。
「ふー。毎度毎度、客が上がって来る間までとはいえ……んっ、ふぅ。この一杯のために生きてるなぁー!」
結構な上物であるハズのそれが、勿体ぶる様子を欠片も見せない一人の少女によってグビリグビリと消費されていく。
実際、勿体ぶってなどいないのだ。彼女は「どれが何となく美味いか」という感覚や「どれが何となく高いか」という知識は知っているものの、細かい拘りはあまり持っていなかったりする。これでは飲まれる方も浮かばれないだろうに……そう考えた事も彼女自身何回かはあるものの、結局のところやはりどうでもいい、という結論に達してしまう。
とにかく酔えれば何でも構わない。なにしろ酒の味を知ったのもつい最近……
「ふぃー。……あと3年、かぁ。あのジイさん、今頃何やってんのかなぁ」
ふと、右手の窓から空を眺める。
暗闇の中で淡く光る三日月だけがそこにあった。
「お待たせいたしました……ただいま上がりましたわ」
男と入れ違いにシャワーを浴び、バスローブを羽織って寝室に入ったキャシー。慣れないガウンを着て何をするともなく呆けていた男は、彼女が入室するなり途端にソワソワし出す。
「ふふっ、緊張していますの?」
「ああいや……そんなこたぁないさ! ボクも、えー、経験豊富なオトナってヤツだからねっ」
「大丈夫ですわ。さあ、肩の力を抜いて……」
キャシーはそっと彼の手をとり、そのままベッドの縁に座らせる。
何か言いたげな男の様子には気付かないフリをして、彼女もまた、その隣にちょこんと腰掛ける。
「…………」
「…………」
奇妙な沈黙がその場を支配していた。男から行動を起こす事はかなわず、さりとて、キャシーにも動く気配は見られない。ドクンドクン、激しく脈を打つ鼓動の音は一体どちらのものなのか。
「……タンさま」
どれくらい時間が経っただろうか、先に動いたのはキャシーの方だった。
どこかうっとりとしたような、そんな熱を孕んだ表情を浮かべ、まっすぐ男へ向き直る。その瞼はそっと閉じられており——まるで何かを待っているかのようだ。当然、それが何を意味するのかすら察する事のできない男ではない。
(こっ、こここれはぁ!? き、き、きす……!)
いや、確かに今度こそ察する事ができはしたが、代わりに頭が沸騰してしまったか。ここに来てガチガチに固まってしまい、もうどうしたらいいのか分からなくなってしまった。情けなさすぎる。
(い、いや……ダメだ。ここで諦めるなんて、絶対ダメだ!!)
だが……ここで男は考える。今この瞬間を逃げてやり過ごせば、成る程それはそれで気は楽になることだろう。
しかし果たして彼は、それを選んだ彼自身をこれからの人生で許せるだろうか? 一生このまま何者にも負け続け、何一つ誇れるものなどありはしない人生を忸怩たる思いで過ごす事に耐え忍ぶことが出来るだろうか?
否。断じて否!
(うッ、うおおおおッ! やってやる!! やってやるぞ──ッ)
「ん〜〜〜…………」
一世一代の勇気を振り絞り、力強く唇をすぼめる中年の童貞。
相手の、濡れたように薄く輝くピンク色のそれが段々と迫ってくるのを感じる。初めての感覚。その息遣いさえ伝わってきそうだ——
という、その刹那。
「……まっバるぼげァ──ッッ!?」
「…………は?」
ドスッ、ボグギィッ!
目を閉じながらもその壮絶な悲鳴と物音を聞いていたキャシーは、あまりの出来事に少々呆然としてしまっていた。
恐る恐る声が飛んで行った方向を見てみると、そこには苦しそうにゲロを吐く男の姿が……いや、
そんなものは、もはや目に入らなかった。
「まったく、目についたヤツに
ジジジィ、ズパッ……
細かい金属が擦れ合うような硬質な音。そして未だ変声期すら終えていないような年端も行かない少年の声だけが仄暗い室内に響き渡る。
そればかりか、のたうちまわる男の体から何者かのシルエットが徐々に浮かび上がってくるのだ。それがキャシーの目にはまるで蠢く肉塊から得体の知れないモノが羽化するかのようにすら見えた。
「き、キャァァ──ッ!?」
青ざめた表情で叫び声を上げるのは当然の帰結と言えただろう。しかし男を突き破ってあらわれたその影は彼女を一瞥した後、興味を失ったように男へと向き直った。
「おい、貴様にいくつか質問がある。正直に答えろよ」
「ぐっプ、なんおっえ……なん、だれだ!? このクソガキ……んボバァッ!」
いつの間にか馬乗りになってこちらを見下ろす少年に対し、訳が分からないなりにも必死こいて悪態をつこうとした男の気概はその顔面と共に潰された。
何の感情も見せない無表情から容赦なくパンチを繰り出した彼——若きブローノ•ブチャラティ少年は、尚も機械的に男へと問う。
「なぁおい……てめーはそこの女を『トゥッティ•ジョル二』から連れてきたな?」
「ひッ、ひィィィィ! あ……アンタ、何言ってッ」
未だ混乱の極地にいる男だったが、ブチャラティが拳を大きく振りかぶったのを見るなりようやく状況を察してきた。
これは
「そッ……そうだよ! それが何だってんだ!!」
泡を吹きながら必死に言葉を絞り出す男に対して、ブチャラティは静かに語る。
「あそこは何の変哲もないスナックバーだ……そういう事になってる。いや、
「……ぁえ?」
「『飲食店』としての
みかじめ料。飲食店や小売店などが出店する地域における反社会的勢力へ支払う場所代、および用心棒代である。
当然ながらその料金は店舗の形態によってまちまちだが——大抵の場合、飲食店に比べ
そしてそこまで説明され、さすがに男もブチャラティが何者なのかを察しはじめた。
「ま、まさかパッショーネのもんか!?」
「ふん、『注文』の仕方を知っていただけはあるな。あの店が何処の管轄かぐらいは知っていたわけか」
察したからって何かがある訳ではないのだが。こんな時期にあそこを紹介してくれた職場の同僚をただ恨むしかない。
(どうせアイツも近いうちガサ入れされる事を知ってて……ボクを陥れたに違いない! ふざけやがって、クソッ!)
「無作為に選んだ手前……その運のなさには同情するが、てめーにはこの件に関する証人になってもらう。言っておくが『拒否権』なんてものはないんだぜ」
今更ながら事の重大さを本格的に認識してきた男はあまりの理不尽に目眩がしてきた。なんでこの自分が? よりにもよって、ずっと機会に恵まれなかった人生における初めての情交を目前にした今、この時に!
故に男は考える。このまま素直に引き下がってなどいられるか、せめて一発ヤる所まで絶対にこぎつけてやる! ……と。
「まっ、待て! 良く考えてもみろ! あの店が、その……『そういう事』を斡旋してるって証拠はあるのか!?」
「……?」
「だってそうだろうが! ボクとキャシーちゃんは好き同士だからここにいるの! あの店にお金を余分に払ったのなんてそれと全然関係ないし、たまたま勤務時間が終わったあの子がボクを送ってくれて、それでそのまま……って流れじゃん! あの店にはアンタらが言ってるような事実は……一ッ切ないから!!」
捲し立てるようにベラベラと自論を並べ立てる男の言い分は一見出鱈目で、なんとも無理がある話のように思える。
だが、これこそが『トゥッティ•ジョル二』のやり口なのだ。その場で売春行為の斡旋が行われているという事実を”公然の秘密”としつつも、大義名分としては”その場で形作られた客と店員だけの関係”とする。そうして『飲食店』としての”みかじめ料”を払い、『風俗店』としての”利益”を得る。
言ってしまえば
「……なら、この『寝室だけが豪華な部屋』はなんなんだ? こんな不自然なアパートがあの女の家なわけは無いだろうが。大方、てめーのような男を招き入れるために店の方で用意でもしたんだろう」
「そ、そう思うのはアンタらの勝手だろ!」
そら、こう言われればおしまいなのだ。
たしかにその理屈を突き崩すのは難しいことだろう。こうした下らない建前に相手が手を
「一つ勘違いしてるようだから言っておくが」
「は……?」
何事にも例外はあるものだ。
「
「な、にを」
氷のように冷たい少年の目が自分を見下ろすのを感じると同時に、男は必死こいて先程披露した無敵の理論が意味を為さなかったと理解する。それは一体どういうことか、つまり——
「俺たちは警察だとか裁判官じゃあない。ギャングだ。俺たち無法者が楯突く連中を粛清するのに理由や証拠がいるか?」
「…………」
これはある意味では傍若無人とも言えた。とはいえ、筋が通らないという点では『トゥッティ•ジョル二』側の屁理屈も同じとも言える。そしてブチャラティという”力”に対抗する術がない以上、男は大人しく彼に連行されるほかない。
もうこの男には退路すら残されていない。汗でベタベタになった顔をそのままに「うーうー」とうめき声を漏らしながら情けなく頭を垂れる彼を横目に、ふっとブチャラティは息を吐く。
(後はこいつと——そうだな、こいつを連れてきたあの店員にも話を聞くか。……必要かどうかと言われれば、違うのかもしれないが)
任務はほぼ完了した。この男から得られる証言以上のものはここに無いだろう。ただ……どうしても『引っかかる』ものがある。
(この男は目先の事に囚われて疑問を持とうともしなかったようだが、こんな仕事をするにはやはり彼女は幼すぎる。成人は確実にしていないだろうに……まぁ、俺が言えた義理は無いかもしれないが)
齢十五にしてギャングの任務を受け持つブチャラティが言えた事では本当に無いが、ともかく。
任務は遂行したのだ、これ以上下手に探りを入れる必要は無い。——だからこれからは根が真面目である彼自身の、言わば
床に倒れ伏している男が逃げる様子を見せない事を確認すると、そう思い立ったブチャラティは早速キャシーと呼ばれていた少女へ視線を向けようとする。……ところが。
「…………ん?」
ベッドの上で訳もわからず震えていたはずの少女が、忽然と姿を消していた。
「なっ……!?」
薄暗い周囲を慌てて見渡すと……なんて事はない、月明かりが漏れていたからすぐにわかった。唯一部屋に備え付けられていた窓から外へ飛び出そうと足をかけていたのだ。
それだけならまだわかる。逃げ出そうとしているのも、何も無い場所から突然現れた人間を見て気が動転してしまったとかの理由は幾らでも思い当たるからだ。
重要なのは、そう。
ブチャラティは思わず「ぞっ」とする。
「オイッ、何やってんだてめ──ッ! そこから足を下ろせッ!!」
「わっ! やばい!」
叫び声で呼び止めたのはほとんど反射だった。それで気付かれた事を悟ったのか、彼女はチラッとブチャラティへと向き直り——そのまま窓から飛び出した。
「クソッ!」
その時かろうじて視界に入ったのだが、どうも彼女は何やら一抱えほどもある布袋のようなものを肩にかけていたようだ。
それが彼女の荷物なのか何なのかは知りようもないが……それを部屋のどこかから回収するほどの余裕すらあったとなればつまり、考えられる答えはもはや一つしかない。
(あいつ『キャシー』は……
そうなると何故あれほどの”やり手”がこんな商売で日銭を稼いでいるのかが理解できない。そのチグハグさが彼の疑念をこの上なく高めるのだ。
もはやブチャラティに彼女を追わないという選択肢は存在しなかった。もし『トゥッティ•ジョル二』が彼女のような人員を複数擁していたとなれば——その脅威はパッショーネ全体にとっても未知数なものになり得る。
「スティッキー•フィンガーズッッ!!」
声高に叫ぶは彼の有する『能力』の名前。
そばに現れ立つ
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あ、あれぇ!まさか君の正体はぁ!?(すっとぼけ)
今にもこちらへ走り寄ってきそうな追手の少年を撒くために、少女キャシーは猫のような俊敏さで颯爽と飛び降り——
「よい、しょっと!」
狙い定めるは下階層。その細い指先を1階の窓枠へ引っ掛け、肩に提げていたズタ袋を一寸の迷いなく振り下ろす!
ばぎぃン! と。袋にそれなりの硬さと重量を持った物体が入っている事実を示唆するように、対象のガラスはいとも容易く砕け散った。
室内にいたらしい年若い男女の悲鳴が響き渡るのもお構い無しだ。グルリと縦に身を捻りつつ、重たい袋を支点に遠心力を得た身体の加速を器用に操って飛び込む姿は、ショウジョウ科の動物が樹上を移動する際に見せる滑るような動きを彷彿とさせた。
「うわぁ!? 何だお前は!」
「き、キャシー? アンタ客はどうしたの……」
「あら、ジェシカ? お楽しみのところ悪いけど急いでるの。チャオ!」
おそらく二度と合わないであろう同僚の姿を認めたキャシーは、そのまま嵐のように出口のドアを開けて走り去っていった。
『——もし、敵から逃げる時にあまり長い距離を素早く移動できるような状況にない場合……距離を離すことを考えてはならん。わかるな? その場合は、おまえの持ち味を活かすしかないのだ……』
「んー、そうね。この格好で、外に出歩けるわけないしなぁ。靴もまだ履けてないし、一旦ここで隠れてよーっと」
冷静に考えてみれば、キャシーはたった今シャワーを浴びてきたばかりであった。
悪意渦巻く
加え、素足であるというのが何よりの問題である。足の保護や補助の面を大きく担う、靴という”装備品”を持たないというのが『走る』という動作にあたって一般の認識以上に支障をきたし、それで数々のシロートどもが”取り返しのつかないような失態“を演じてきたという逸話は、彼女自身も耳にタコができるほど聞かされてきたものだった。
「まったくもー……肝心なところでバッチリ役に立つことしか言わないんだもん。これだからジイさんの話はムカつくわっ」
擦り切れた文字で”stanza 107”と銘打たれた焦げ茶色のドアを開けつつ、キャシーはブツブツと文句を垂れながら部屋を後に——
——ジジ ジ ジ
「……はっ?」
視線を感じた。
音もなく、何が
————ズジィ──ッ!!
「うそ、上から直接っ!?」
ところで。
キャシーは一体、どのような状態で窓を割り抜け、室内へと押し入ったのだったか?
そう、素足でだ。
そのハンデを抱えて外に出られなかったのは、徹頭徹尾「走る速さが違うから」でしかない。
その為だけに、キャシーは砕け散った窓の奥へと飛び込んだ訳だが。
もう一度言おう。
部屋に突入、着地する際。つまり飛び散ったガラス片の中に転がり込めば、少女の柔肌がたちまちのうちに血塗れとなるのは避けられない事だった。
最も——卓越した反射神経を持つキャシーは、無作為に散らばるそれらの中になんとか足を傷付けないように済むだけの
そもそも、の話。
それこそ無作為に散らばるガラス片の中に都合良く安全な着地ができる
『屋外へ飛び出せば逃げきれない、だからこうするしかなかった』という理屈は確かにあるだろう。しかし、……もしも運悪く、ガラス片の配置に避けるだけの余地がまったく存在しなかったら?
きっとそれは、待っているのは地獄のような苦痛のはずだ。出血夥しく、得意の隠密すら儘ならないだろう。
それでも彼女は迷わなかった。
ただそれは、きっと”覚悟”というにはひどくアッサリとした、明日の天気でも予想するかのような気軽さだった。
暫しの動揺を挟んだものの、流石に復帰は素早かった。
天井にポッカリと空いた、穴とも隙間とも知れない空間から半身を覗かせるブチャラティだが、キャシーの反応速度は彼の予想すら上回っていた。『能力』による必殺の間合いに踏み込む直前——バッと、少女は辛くも転がるように
当然、みすみす標的に距離を取らせるような真似をするほどブチャラティは甘くない。より近距離へと間合いを詰める少年に対し、しかしキャシーはあくまでも取り乱す事無く——
「——!」
パンパンパン!! と、……冷たく湿った夜の空気へと染み込むように、乾いた発砲音が響き渡った。
慣れた手付きで拳銃を扱う少女に対し「いよいよカタギという線は無くなった」と考察しながら、ブチャラティ少年はそのスピードとパワーに優れた『能力』を操り——都合三発の銃弾を危なげなく弾き飛ばす。
「げっ」
その様子を観察するようにジックリと見つめていた少女の発言に、ブチャラティは軽い驚きを覚える。
「やっぱり、やっぱり
「……何のことだ?」
「何って、あんた
“やっぱり”という少女の発言からすると、どうやら彼女はブチャラティの持つものと同じ『能力』……スタンド能力者ではないようであった。
個々人の『能力』が形作る
「……どうやら……聞きたいことが次から次へと増えやがる」
だからこそブチャラティは驚いた。スタンド使いにあらずしてスタンドの存在を知る者は相当に限られているからだ。
「大人しく話を聞かせてくれれば、今すぐには危害を加えないと約束しよう。どうだ? もし
「お生憎サマ、こちとら言うも憚る乙女の事情ってもんがあるのよ。簡単に捕まってあげるわけにはいかないわね」
つい先程まで……この世の全てを差し置くほどに”乙女”という言葉から対極に位置する仕事に従事していた人間の口から発せられた台詞とは思えないが、ともかく、少女は素直に従うようなつもりは無いらしい。
飄々とした態度を見せながらもその実逃げ出すチャンスを抜かりなく窺っている彼女に対し——ブチャラティは次なる手札を切り出した。
「……この際、そちらの立場は問わない。スタンドを持たないとはいえ、お前ほどの
自らの名前を口にされた少女はピクリと眉を動かしたが、別にそれはどうという事ではない。
どのようなスタンド能力によるものかは定かではなかったが、キャシーは目の前の少年が揺らめく影のようにして、例の男の姿と重なるように突然現れたのを確かに見た。である以上、やたらと彼女の名前を呼びたがっていた男の口から、その名前を盗み聞くことは容易いことだったのだろう、と。
だが、しかし。
次なるブチャラティの、なぜだか
「キャシー……いや、本名は”カッサンドラ•グレコ”。そう呼ぶべきだったか?」
一転、先程までの余裕が含まれた態度が完全に霧散した。
「……あ”ーッ、ちっくしょうめ……あんのクソおやじ……」
”キャシー”は若干くすんだ金髪をガシガシと掻きながら、不機嫌そうに言い放つ。
「あのさ、その名前は嫌いなの。もし差し支えなければだけど、気軽にキャシーって呼んでくれると嬉しいなぁ」
「『もし差し支えなければ』だが、理由を聞いてもいいか? そこまでは”吐かせられなかった”んだ。……
「そんなやっすい煽りに……本気で乗ると思ってる?」
「さあ? ……だがその様子では、言ってみる価値はあったかもしれないな」
手応えあった——ブチャラティはそう思った。
何が琴線に触れるのかは定かではないが、”聞き出した”限りでは十分に挑発するに足る話題だと判断できたもので、そしてそれは正しかった、と。
(……あー、やばいなぁ)
無論、それもキャシーにとって我を忘れるほどの激情を煽るほどの事ではないという事も確かである。
とはいえ、おそらくは少年の思惑通り——唐突に振られた話題に気を取られ、真正面に向き合った体勢は逃走の機会を失いかけていた。
正に一触即発。
この
対するキャシーはといえば——常に隠し持っている布袋、そこに納められるぐらいの細々とした武器ならば幾らか残ってはいる。ただ、強力な近距離型スタンド相手ではいずれも決め手に欠けると言わざるを得ないだろう。
下手に先手を取れば手痛い反撃を喰らうかもしれない……そんな可能性を危惧するブチャラティと、そもそも決め手に欠けるキャシー。
刹那。硬直した状況下に於いて、先に動き出したのは——果たしてどちらだったのだろうか。
『アリィッ!』
“スティッキィ•フィンガーズ”の射程距離は僅か半径2メートル。
あるいはブチャラティがその”能力”を十全に理解していれば、その射程を大幅に伸ばす『裏技』とすら言える技術を行使できていたかもしれない。
「——ふっ!」
「!」
しかし彼はあくまでスタンドを得て間もないが故に——絶妙な距離を保つキャシーに対して”たったワンアクションの遅れ”を許してしまう。
(——いや、問題無い。逃げに徹しようが攻撃してこようが、スタンドを持たないコイツに出来る事はないはずだ)
ここまで距離を詰めてしまえば素足のキャシーをブチャラティが見逃すことなどあり得ない。そして、スタンドを攻撃できるのは同じスタンドだけだ。キャシーが隠し持っている程度の火器で対抗できないのは火を見るより明らかで、取れる手段は一つもない、と。
次の瞬間。
ブチャラティは如何にその判断が甘く、如何に自分が未熟であったかを身をもって思い知らされる事となる。
ふわっ、と。
「な……?」
握り拳大ほどの大きさの、何やら黒い塊に見えた。
いっそ攻撃の意思があるかも怪しい、場違いなほどゆったりとしたスピードの物体が放り投げられている。
それは、ほとんど偶然だった。
投擲された”何か”に対して注意を向けていたブチャラティは、チラリと視界の隅に入ってきた光景を見た瞬間背筋が凍りついた。——言い換えれば、”その時点で身に迫る危機を察することが出来た”とも言えるのだが。
物体を放った張本人であるキャシーが、
「バカな……っ、しまった! ”スティッキィ——ッ」
「————、」
音の消え失せた世界にて。
「————、——ぁ、ぁ──あ! ……はぁぁ」
「んぁー、まだ耳がジンジンするわぁ。……ま、初めて使ったにしては上々ね」
スタングレネード。
もしくはフラッシュバンなどと呼称されるそれは、巨大な爆発音と閃光で相手を無力化する非殺傷兵器の一つだ。
脇目も振らずに距離を取ったのにも関わらず——
「近距離型スタンドってのがどれほどのものかは知らないけど、普通の手榴弾を投げなくて正解だったわね——っと」
先に述べたように、スタンドに物理的な衝撃は通用しない。爆風が我が身へと返ってくる可能性を考慮すれば、本体だけを叩くために音や光を利用するのは冴えたやり方だった。
そうキャシーは満足げに自己評価を下すと、目の前に配置されたボタンの中から『
ブチャラティを行動不能にした時点で外へ逃げれば良かったのではないかと思うかもしれないが、聴力と視覚の大半を同様に失っていたキャシーが広い場所へと飛び出すのは危険が過ぎた、というのが実際だ。
一旦でも身を隠せる安全な閉鎖空間を咄嗟に考えた結果、頭の中に入れてある見取り図から手探りで入り込んだのがこのシャフトだったという次第である。
「はぁ……あのお店も明日行ったら潰れてるだろうし、どうしよ。……とりあえず、
今日はひどく疲れてしまった。
明日からどうやって暮らすかはさて置くとして、今はとにかく一眠りでもしたいような気分であった。ごうんと音を立てて動き出したエレベーターの浮遊感に身を任せ始めたところで——
——ジジ じ
その刹那。
「はっ? 嘘でしょ……ッ!」
少女にはコンクリートで構成されたその空間が”まるで一切の前触れも感じさせず”唐突に『切開』……というのだろうか、されたこの現象にまったく理解が及ばなかったが、この状況が非常にマズいということはすぐに分かった。
あえて逃げ込んだこの閉鎖空間において、スタンドを持たないキャシーに如何程の抵抗が許されるというのか、と。
「ッ」
ほんの少しだけで良い。幸い、このシャフトはあと数秒で屋上へ辿り着くはず。扉が開くまでの時間を稼がなくては——そう判断したキャシーは、先程から手にし続けていた拳銃の銃口を一秒の迷いもなく『隙間』の穴へ突っ込み、——パァン! と、容赦なく引き金を下ろした。
何発も、何発も。やがて弾倉に残った最後の弾丸が撃ち終えられるまで、閉じた空間に銃声が響き続けた。スタンド使いのブチャラティと言えどこれには本体を守らなければならず、それに数瞬だけ動きが止まったのを見計らうかのように——到着を告げるチャイムの音と同時、ようやく扉が開いてくれた。
「早く、早く開いてよッ……ぅくぐ、はあ、はあ」
転がるように外へと飛び出す。火照った体に心地よい夜風が当たるのも気にしておられず、咄嗟にどこか隠れる場所を探そうとするも……
「時間切れだ」
「…………」
息遣いさえ感じた。
些かの隔たりもない背後から耳朶を揺らすその声。
闇夜として広がる天蓋の下、煌めく月光に照らされた男女が対峙した。
「——随分と、お早いお着きで。どうやって”アレ”を避けたのかしら?」
「オレの”スティッキィ•フィンガーズ”は……触れた箇所に『ジッパー』を取り付ける能力。あの一瞬だろうと、切り開いた物陰に隠れてやり過ごす程度のことはできたのさ」
「あら、素直に教えてくれるのね」
「もうここから逃げられないお前に話したところで、オレに何か不都合でもあるのか?」
いまだ背を向けたままに問うキャシーに対し、ブチャラティは淡々と自分の能力を明かした。
「最も……ほとんど感覚を麻痺させながらもエレベーターまで移動するとは思わなかったがな。やり過ごしている間にお前を見失った時は少し焦ったが、それでもこうして追い付く事ができた」
「ええ、アナタの勝ちよ。……文句の付けようも無いほどにね」
ギラつく欲望に明るく照らされた夜の街を見渡せる屋上。その手近な欄干へと寄り掛かる少女は、至極あっさりと自らの負けを認めた。
「それはつまり、お前が『何者なのか』……それを話してくれるという事で間違いないな?」
「さあ、それはどうでしょう?」
クスクスと掴み所の無い笑みを浮かべる少女に対して、ブチャラティは解せないといった様子で眉を顰める。
「どういう事だ?」
「自分から名乗りもしないでレディの身の上話を聞こうだなんて、ちょっと礼儀がなってないんじゃあないの? それに……あんなに人がイヤだと言ってる呼び方で散々呼んでくれちゃってさ。図々しいとは思わない?」
「それは……」
確かに、隙を作るための咄嗟な機転によるものとはいえ少々意地の悪い駆け引きだったかもしれないと、暫しブチャラティはバツが悪そうに押し黙りかけてしまった。
「……いや待て。おかしくないか? なんでオレが、出会って間もないお前なんかに引け目を感じなくちゃならないんだ」
「ちぇっ」
しかし、よくよく考えてみればそれもおかしな話だった。危うく相手のペースに巻き込まれてしまいそうになった自分の未熟さを恥じつつ、ギャングの少年はジト目でキャシーを睨みつけた。
ただ次の瞬間、目の前の少女が放った言葉にブチャラティは今度こそ困惑する事になる。
「いやね、ちょっと話してみて分かったんだけど……キミって『いいひと』なんだなあって」
「……何だと?」
今、こいつは何と言った? よりにもよって、自分を確実に害するだろう『敵』に対して”いいひと”だって?
「そりゃあ、さっきは私みたいな女のコをワザと不快にするような事言ったしムカついたけど。少なくともそれを悪いと思って、今みたいなメチャクチャな要求にもうっかり真剣に考えちゃうような真面目くんをさ——悪い人とは思えないよ」
「…………」
「ああ、なんてったらいいのかな……キミみたいな人に今日出会えたことを、私はどこか嬉しく思ってしまっているのかもしれない。だからこれは、せめてものお願いってやつかな」
そこで、キャシーはおもむろにブチャラティへと向き直った。
淡い金色の瞳が、どこか楽しそうに少年を見る。
「……ブローノ•ブチャラティだ」
「いいね、素敵な名前。……私なんかとは違って、ね」
後半を伏し目がちに呟いたキャシーは、再び欄干の外へと目を向けた。
「なあおい、もうゴタクは十分だろう。いい加減、お前の話を——」
「だーめ。もうちょっとお喋りしたい気分なの」
「……時間稼ぎのつもりか?」
「ふふ、そーいうんじゃないったら」
不自然なまでに煮え切らない態度を取るキャシーを流石に怪訝に思ってか、万に一つも相手を逃す訳にはいかないブチャラティはその表情に険を強めた。
「……でもまぁ、そろそろ潮時かしらね」
「……?」
「ところでさ、この季節に珍しい事もあるものよね——外眺めてて気付いたんだけど」
「
「何を言って、——ッ!?」
言われた瞬間、ブチャラティは本気で何を言っているのか理解できなかった。なぜ今この時、そんな話題を振ってきたのか、一体それの何が彼女の琴線に触れたのか——と。
だが、
今の今までそのような兆候が見られなかったのにも関わらず、
「テメー、まさか……
「あ──ッ!! あんな所にUFOがぁ──ッッ!!!!」
「何フザけた事言ってやが……オレの後ろが何かがあるって事か? ……何がどこにあるって??」
『自分の後ろに何かあるかもしれない』……そんな
後にブチャラティが思い出すことができたのは、朧げに響くその”声”だけだった。
「……キミの名前が聞けて良かった。あれは紛れもない本心だったから」
声の主である少女は——軽い助走と共に、勢いよく屋上から飛び出した。
霧に遮られた三日月の光を一身に浴び、軽やかに体躯を捻り、そのまま屋根伝いに飛び跳ねるように去っていく。
「また会えるといいな——じゃあね、ブローノ!」
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