キャスタウェイ (Bingo777)
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第一話

 青春を過ごしたニューアーク。麗しの摩天楼。北米の都。そんな謳い文句ばかりを覚えている。

 

 幼い頃から一緒だった娘とは、カレッジを卒業したら結婚しようと誓いあっていた。学校のジョックスどもは彼をナードだと笑ったが、そんなものは少しも気にならなかった。

 

 情報工学を修め、彼女を連れて月のフォン・ブラウンにある、アナハイムエレクトロニクスに行く。僕はシステムエンジニアとして必ず成功してみせる。人生とは、いち早く目標を立て、時間と努力の適切な投資によって幸せになれるものなんだ。すでに成功している父の言葉に嘘はない。彼はそう信じていた。

 

 だが、突然に戦争が始まった。

 

 政府も軍も大慌てで対策を協議し、臨時ニュースが毎日モニタに飛び込んでくる日々が始まった。しかし、それは宇宙(そら)の上でのことだ。月よりずっと向こうの連中のことであって、噂好きの学生がランチプレート片手にカフェでおしゃべりする話のタネにすぎない。彼はそう思っていた。

 

 しかし、西部から押し寄せた巨大な攻撃空母(それが『ガウ』と呼ばれる兵器だと彼が知ったのは、ずいぶん後のことだ)と、そこから飛び降りてくる一つ目の巨人によって———街も、大学も、みな炎と瓦礫の廃墟と化した。

 

 僕はすべてを失った。

 愛する家族。生まれた時からずっと一緒だった老犬。そして、愛しい幼馴染。成功するはずだった人生。すべてが燃えてしまった。痛む体を引きずって大学から歩き通し、瓦礫の山となり果てた彼女の住むアパートに辿り着いた彼は、見間違いようのないリングをはめた右手を前にして———血を吐くような悲鳴をあげた。

 

 その光景が強く思い出に刻まれて、刻まれ過ぎていて、どうやって自分が大西洋を越えてイギリスへ逃げのびられたのかは、よく覚えていなかった。次にはっきり思い出せるのは、地球連邦軍ベルファスト基地に隣接する徴募事務所で、軍務に服すと宣誓していた自分だ。

 

 大学で情報工学を学んでいたことと、卒業論文に選んだ内容によって軍の人事部は彼に後方勤務の研究職を打診した。人事部の少尉は前線に立つ兵士も大切だが、兵の役に立つ兵器を開発することでも十分に貢献は可能だと語ったが、彼は受け入れられなかった。

 

「はい、いいえ少尉殿。自分は前線勤務を切望いたします。僕…いいえ、自分を最前線へ連れて行ってください。あのジオンの、宇宙人どもの顔が見える場所で、それに向けて引き金を引けるなら、どこだっていい!」

 

 その少尉は彼の表情を見て、いたましそうに首を振った。しかし、希望は受理された。

 

 ベルファストの基地で新兵教練を受けた彼だが、一度ならず実戦を経験しながらも消火作業や負傷者の救護といった任務ばかりであった。故郷から逃げのびた先でも、炎と瓦礫が追いかけてくる。宇宙人どもは、いったい何を考えているのか。黒煙が空を覆いつくし、日食のように暗い。やがて、すす混じりの黒い雨が降り出してきた。

 

 ああ。彼女の右手も、こんなふうに黒い雨に濡れていた。彼女の指輪はドッグタグの鎖に通して、いまも胸にある。その時の傷跡も、いまだ生々しく肩と脚に残っている。ジオンへの憎しみはあの日よりずっと強く、タールのようにどす黒く、煮えたぎっている。

 

 しかし、彼は———心の底からジオンを称する宇宙人を憎悪する彼は、胸にある指輪の持ち主が、なんと言う名だったのかを思い出せなくなっていた。彼女が彼を、どんな声音でなんと呼んでくれたのかさえも。

 

◇ ◇ ◇

 

 大昔からの伝統らしく、新兵は入営に際してバリカンで髪を剃られる。娑婆と縁を切る意味だと教練軍曹に告げられたが、よく分からない理屈だと彼は思った。

 

 かなり促成の教練を終え、彼が実動部隊に配置されたころ。

 戦争の舞台は宇宙になっていた。いや、戻っていたというべきだろうか。黒海沿岸に位置するオデッサで連邦は大規模な反攻作戦を敢行し、多大な犠牲を払ったがジオンを打ち破った。その報せを耳にした時は宿舎で快哉を叫んだ。

 

 教練が済んだとはいえ、いまだ初陣を迎えられずにいた彼らにとって自軍の勝利ほど心沸き立つものはない。

 

「おい、アッシュ! 次は俺たちの番だ、そうだろう!? さあ乾杯だ、勝利に!」

 

 乱暴に肩をどやされ、抱きついてビール瓶を打ち鳴らす相棒(バディ)。まだ『戦友』とは呼べないが、あまり笑うことができなくなっていた彼の分まで良く笑う男だ。

 

 彼は『アッシュ』と呼ばれていた。元は黒髪だったが、故郷での心的外傷のせいか白髪が急に増えてそう呼ばれることになった。あまり気分の良いあだ名ではなかったけれど、相棒が屈託ない笑顔を向けるせいで異議を唱えられなかった。

 

 アッシュが相棒とともに、モビルスーツパイロットとして初陣を迎えたのは『星一号作戦』だった。

 

 ミノフスキー粒子が高濃度散布された戦場では、連邦宇宙軍が得意としていた艦隊決戦ドクトリンは通用しない。各艦の稠密な連携が不可欠となる統制射撃が行えず、打撃力を欠いてしまうのだ。

 

 そして旧世紀において航空機が洋上艦による大艦巨砲ドクトリンを過去に押し去ったように、モビルスーツが押し寄せる宇宙戦艦・巡洋艦の間を自在に飛び回り、毒蜂のように致死の一撃を加えていく。

 

 これがルウム戦役で露呈した、連邦宇宙軍の脆弱性であった。

 しかし連邦は、アッシュが拠り所とする連邦軍は、そのパラダイムシフトを受け入れて我がものとした。それが初の量産モビルスーツ、RGM-79。通称『ジム』である。

 

「よおジム、今日は俺たちの初陣だ。いっちょ派手に行こうじゃねえか、なあ相棒」

 

「あと三時間で出撃予定だってのに、ビールなんか飲んでたら隊長にぶっ飛ばされるぜ?」

 

「アッシュよお、固いこと言うなよ。だいたい、こいつはノンアルコールだ。いくらやっても酔えやしねえさ」

 

「それでも炭酸が入ってるだろ。戦闘機動でGがかかったとき、腹から戻ってくるぞ。自分のゲロで溺れたいのか?」

 

「ハッ! ジオンが怖くて飲めるかってんだ」

 

 そう言って不敵な笑みを見せた相棒は、戻ってこなかった。

 スカートつきのジャイアントバスーカに直撃された相棒の名を叫んだことは覚えている。しかし、その名は記憶の彼方にかすんでしまった。

 

 宇宙世紀0079年が終わる日に、戦争も終わった。

 連邦は勝利した。それなのに、アッシュが失くし、狂おしく願ったものは———何一つ取り戻すことができていなかった。

 



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第二話

 宇宙世紀0087年、8月。

 

 白いパイロットスーツを着ていたアッシュは、いまは濃紺の軍服に袖を通していた。

 

 ティターンズ。

 

 それが、『一年戦争』と味気ない名で呼ばれることになった日々を生き延びた彼が志願し、厳しく選抜され、所属する部隊の名だった。

 

 単独撃墜、七。

 共同撃墜、二十三。

 階級は、准尉。

 

「促成教練上がりの坊やにしちゃあ、まあまあってとこだな」

 

 配属された部隊の中尉は皮肉屋らしく、出頭したオフィスで彼が手渡した軍歴の一部をいやみっぽい声で読み上げ、唇の端だけで笑った。

 

「准尉。俺もお前のことを、親しみを込めて『アッシュ』と呼んでも良いか?」

 

「はい、中尉殿。光栄であります。どうかそのようにお呼びください」

 

「よろしい。ではアッシュ、配属早々だが我が中隊は出動命令を受けている。貴様は欠員補充だ。わかっていると思うが、ティターンズに無能はいない。義務を果たせ。言うべきことも、やるべきこともそれで十分だ」

 

「はい、中尉殿。義務を果たします」

 

「明朝0600にブリーフィングを行う。せいぜい今夜は娑婆で羽目を外してこい。なに、MPなんか気にするな。もし口出ししてくるやつがいたら…こう言ってやれ。『誰が地球を守っていると思っていやがる』とな」

 

 敬礼を交わしオフィスから退室したアッシュは、上官に言われた通りベルファストの市街に向かうことにした。新兵教練を受けた思い出深いはずの街並みだが、感慨も感傷すらも湧き上がらない。

 

 自分の心は凍ってしまったのか。何を見ても色が薄く、何を食べても味がなく、すべてが遠い出来事のように感じる。この七年間で髪の色は黒く戻った。けれど、心を廃墟に置き去りにしてしまったのだろうか。

 

 任務に就いている時は、それがただの体力維持訓練であっても、命令を受けてそれを遂行している時は悩まずに済む。しかし、日も傾いていない時分から『娑婆で羽目を外せ』と言われると———どうしていいか、わからない。

 

 退屈とは違う。待機することは苦にならない。任務があれば、命令であれば何日でも待機できる。反面、曖昧な命令は困ってしまう。私服に着替えて久しぶりの余暇に浮き立つ他の兵士たちの中で、ひとりだけ軍服のまま余暇の使い道を真剣に思い悩む。それに違和感を覚えることさえも、彼はどこかに置き忘れていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 アッシュは基地と市街を往復するバスから降りた。旧世紀の石畳を残すメインストリートを歩き、かつての風情を醸そうと苦心の跡が伺えるデザインの街灯を見上げ、歩き回ってみた。

 

 気持ちはとうに疲れ果てた。しかし体感時間と腕時計から、たった一時間しか経過していないと告げられて暗澹たる心地になる。市街に降りて、命令の半分は達成した。だが『羽目を外せ』という部分が、ひどく難しい。

 

「そこの軍人さん、暇なのかい?」

 

 途方に暮れた、という気持ちが背中ににじんでいたのか、後ろから声をかけられた。聞くからに軽薄で調子のいい男の声だ。

 

「そう、あんただよ。あんまり見ない軍服だけど、階級章は少尉…いや、准尉さんか。若いのに大したもんじゃないか」

 

「あなたは?」

 

「あっしは…そうだなあ、疲れた男たちに休息を与える仲介業者ってところさ。あなた、なんて丁寧に呼ばれたのは初めてだけどな」

 

「休息を与える仲介業者、と伺いましたが…」

 

「そう、それだ。あんた、疲れた顔してるよ。うん、相当疲れてる。あんたは心が疲れてるよ」

 

 心が疲れている。

 

 それは、単にポン引きの男が受け持ちの娼婦をあてがおうとする際の常套句に過ぎない。今のご時世、この戦況下。疲れていない兵士など、ただのひとりもいない。

 

 しかし、アッシュにはその言葉が刺さった。軍医の言うPTSDという便利で役に立たない病名より、よほど心に響いた。だから、普段なら眉をひそめるほど馴れ馴れしく肩を抱いてくる男にも、その煙草臭い息にも気付かないまま路地裏に連れ込まれることになった。

 

「よう、お前に客を連れてきたぜ。しっかり癒して差し上げろよ」

 

 そこはいつ建てられたのか判然としない建物だった。一年戦争の戦火を耐え抜いたのが奇跡のような、外壁に焼け跡の残るアパート。鼻を衝くアンモニア臭がこびりつき、捨てられた注射器も掃除されないままの階段を三階まで上らされ、押し込められた部屋にはベッドと小さなテーブル。そして、窓際に立つ———幽霊のような女がいるだけだ。

 

 じゃあ、ごゆっくり。男は愛想笑いを深くしてドアを閉じた。

 

「ようこそ、かわいいひと」

 

 光の加減で透けてしまいそうな服の女は、そう言ってアッシュに危なげな足取りで近付いた。ゆっくりとした動作だが、裸足の左足が普通とは違う。そして、彼女の目は自分の方を向いているが、見ていない。いや、見えていないのかもしれない。

 

「ごめんなさい、どこにいるの? かわいいひと」

 

 片言で自分を探す女に、推理が裏付けられた。

 

「かわいいかどうかは分からないけど、僕はここにいるよ」

 

「こっちにきて、かわいいひと。あなたを抱きしめたいの」

 

 靴音が近付き、女はアッシュの胸に手を添えると指先を這わせて首に腕を回す。その後を追うように女の唇が押し付けられ、舌が口の中に滑り込んでくる。温かくぬめる肉に歯茎を舐め上げられ、突然の刺激に目を剥いた。

 

「のっぽさんなのね、かわいいひと。だいじょうぶ、ぜんぶ…してあげる」

 

 気付かないうちに———唇の刺激に意識を奪われているうちに、アッシュは上半身を裸にされベッドに押し倒されていた。

 

「僕は…なぜ、いつの間に服が? 君だって、どうしてそんな!?」

 

「あわてないで、だいじょうぶ…」

 

 慣れた手つきで自分の服を脱いだ女の胸があらわになる。こんな状況は大学の授業でも、軍の教練でも教えられていない。ありとあらゆる状況を想定する演習でも、単独行動中に女に組み敷かれた時の対処方法などは、文字通りの想定外だ。

 

 女は蠱惑的にくすくす笑いながら再度アッシュの唇をむさぼり、その指先を耳から首すじ、肩の傷跡を愛おしむように辿って胸へと下ろしていく。訓練を重ね、詩的な表現では火の試練と言われる初陣を経て、苦痛には慣れた。

 

 その自分の肉体が、未知の感覚にわなないている。心拍と呼吸が異常だ。体中の皮膚が発汗し、発熱も感じる。風邪をひいていても関係なく、重さ二十キロを超える歩兵の装備を身に着けて、十キロ走る訓練を飽きるほど繰り返したはずの体だ。それなのに、たやすく息が切れる。

 

 なにより、この背筋をちりちりと這い上る電流が、腰を勝手にくねらせてしまう。

 

「だいじょうぶ…だいじょうぶよ…」

 

 自由落下による無重力状態にも似た、寄る辺ない不安感が募り———女の指先が股間に伸びた瞬間。アッシュは爆発し、泣き叫んで女の胸にとりすがった。喉から出るのは理性による言語ではなく、ただの叫び。それも、軍人として規律を叩きこまれた鋼の男ではなく、抑制のかけらもない絶叫だ。

 

 新兵ならば死に際に母に助けを求めることも、珍しくない。だが、彼はティターンズだ。大地を背負い立つ神話の巨人、タイタンの名を冠する部隊の一員だ。能力と忠誠心に裏付けられた、誇りある兵士。

 

 それが、幼児のように泣いている。アッシュがその気になれば、枯れ枝を折るよりも容易く砕けそうな女の細い肩にすがり、その胸に顔をうずめている。

 

「つらかったのね、かわいいひと…」

 

 アッシュが『辛い』という言葉の意味を咀嚼したのは、黒髪を梳くように撫でられるうちに眠って、目覚めた後だった。

 



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第三話

 宇宙世紀0078年がもうすぐ終わる日。

 

 彼女は付き合い始めたばかりのボーイフレンドとの逢瀬を心待ちにしていた。クリスマスは例年通り家族と過ごしたが、新しい年へのカウントダウンは彼と過ごしたい。口うるさい母親を説得し(父は頬にキスするだけで十分だった)、カフェのアルバイトで貯めた軍資金をはたいて———初めての旅行に出かける予定だった。

 

 そうなってしまったら、どうしよう。旅行先で求められた時に下着が上下で揃っていなかったり、ちょっとほつれていたりしたら、きっと幻滅されてしまいそうだ。

 

 いや、彼に勘違いさせてはだめだ。自分はそもそも、そんな軽薄な女ではない。二度や三度のデートで体を許してしまうなんて、あってはならない。それを期待しているような素振りなんて、もってのほかだ。

 

 だけど、せっかくの旅行なのだ。家族でも友人とでもなく、ボーイフレンドと行く、はじめての旅行。許す気も勘違いさせる気もない。これは自分へのご褒美。それ以上でも以下でもなく、ただ必要だと思うからそうするのだ。

 

 行きつけのランジェリーショップで、じっくり時間をかけて厳選を重ねた数点の下着。

 

 同じく、お気に入りの靴屋でたっぷり時間を費やして選び抜いたブーツ。

 

 さすがにコートまで新調するのはためらわれたが、一目ぼれしてしまった白いファーのマフラーだけは譲れなかった。

 

 そのままだと背中にかかるくらいの髪は、もう少し伸ばすつもり。母親譲りの癖が強い髪質で、トリートメントに気を使ってもブラシをかけるたびに嫌になる。だが仕方ない。本当はもっと短くしたいが、彼がポニーテールが好きだというのだから、仕方がないのだ。

 

「ごめん、待たせちゃったかな?」

 

 シリンダー状の内壁に大地が広がる、スペースコロニーの端にある宇宙港のロビーで午前九時ちょうどに待ち合わせ。クリスマスの飾りと新年を観光スポットで迎えようと誘う広告が目を飽きさせないから、八時前に到着していても退屈ではなかった。

 

 あたしもさっき来たところだから、なんて旧世紀の恋愛ドラマですら使い古されたセリフが、まさか自分の口から出る日がこようとは。しかし、嬉しそうに笑うボーイフレンドの顔を見ると、まんざらでもない。

 

 彼女たちが住み慣れたサイド2『アイランド・イフィッシュ』からサイド7に向かったのは、午前十一時のことだった。その時の彼女たちは知らなかったのだが、午後のシャトルはすべて欠航となった。理由は宙域の安全確認のためと告知されたが、本当の理由は別の要因だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 宇宙世紀0079年、1月3日未明。

 

 精神的な疲れで、シーツに包まった彼女は眠りつけずにいた。

 サイド7は見どころも何もない、まだ建設途上の『ど田舎』だった。カレッジの学生であるボーイフレンドは安定した収入を見込めるコロニー公社への就職を望んでいて、ぜひ君にもそれを見せたいと熱弁していた。

 

 あまり流行っていないテキサス・コロニーで乗馬体験でもしていた方が、まだ楽しめただろう。これでも、二年までハイスクールのチアリーダーを務めたのだ。今でもエクササイズを欠かさず、食事にも心を配り、容姿には十分に気を使っていて———自信だって多少はある。

 

 だから、情熱的に、ロマンチックに誘ってくれたなら流されても良かった。

 

 けれど、あろうことかデートコースは建設現場だ。ほこりっぽい空気にせき込み、せっかくのマフラーがざらざらになった。それでも顔だけはニコニコさせて「そうなんだあ」「知らなかった!」「すごいすごい!」と三つの単語を駆使して場をつないだのだ。

 

 この忍耐は賞賛されていいはずだ。いや、賞賛されてしかるべきだ。それなのに、男ときたら安宿(!)の部屋に入るなり「ボクもう我慢できないよ!」などと言うや否や、まだコートさえ脱いでいない自分のスカートをめくり上げようとする。

 

「我慢できないのはあたしの方よ!」

 

 男とは別の方向に我慢の限界を迎えた彼女は、怒りに任せて彼の股間に膝を食い込ませた。本当なら宇宙港のベンチで寝ることになろうと構わず、さっさと帰るつもりだったが———チケットが、取れなかった。

 

 きっと新年を別の場所で迎えようとする人が多いんだよ、だってここは建築途中のコロニーなんだからさ。彼はそう言ったが、新年を迎えても、その次の日になってもチケットが取れない。もう出発前に予約済みの便で帰るしかないのかと暗い気持ちになった。

 

 唯一の救いは、男が詫びとともに別部屋を取ってくれたことだ。もっとも、それだって同じ安宿なのだが。股間に膝蹴りを入れ、男をバスルームで寝かせた翌日から二人の間には微妙な空気が流れていたが、もはやそんなものはどうでもよくなっていた。

 

 あの男は、まだ自分を口説けると思っているのか。どこまで頭が悪いのだ。もしかしたら、母親が言っていたように男は下半身で思考する生物なのかもしれない。人並みかどうかは分からないが、自分にだって性欲はある。そのための機能は、とっくに体に備わっている。

 

 だが、男と違って女の行為はリスキーだ。相手を慎重に選ぶに越したことはない。特に、初めての相手は極めて重要だ。同級生なんかは願い下げだ。年下は話にならない。やはり、年上が良い———そう思っていたからこそ、この旅行に来たのだ。

 

「チアだから男なんてとっかえひっかえで、遊び慣れてるとか思われたのかなあ」

 

 シーツに包まったまま内側に溜まった形容しがたい感情を言葉にすると、悔しくて涙がにじんできた。今回は間に合わなかったけれど、次のデートまでに髪を染めようと思っていた。彼が好きだと言っていた、ハニーブロンドに。

 

 シーツに包まったまま、めそめそ泣くなんて自分ではない。まだ夜明け時間ではないが、今日の夜には家に帰るのだ。家族に心配させてはいけない。そう思って、気分転換に熱いシャワーを浴びようかと服を脱ぎ捨てたとき。

 

「大変だ、起きてくれ! 僕らのコロニーが!」

 

 突然にドアが叩かれ、男の焦り声が廊下に響いた。

 

 その勢いに飲まれ、あわてて着たガウンの帯も結ばずにドアを開けると、彼の顔は血の気が引いて蒼白だった。ふらふらと部屋に入った男が備え付けのテレビをつけると臨時ニュースが流れていた。

 

《……繰り返しお伝えします。かねてより連邦政府との関係が不安定であったサイド3、ジオン共和国は、先ほど『ジオン公国』を称して連邦政府に宣戦布告いたしました。そして現在、ジオン軍がサイド2を襲撃したという情報が入っています。詳細については…》

 

 戦争? 襲撃? あまりにも突拍子のない話に現実感を喪失し、彼女は胸元を押さえていた手を落とした。薄暗い部屋の中でテレビの明かりがはだけた乳房を照らすが、それに気付くことすらできなかった。

 



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第四話

 宇宙世紀0080年が始まった日。

 

 サイド7は建設途中だから、戦略的な価値なんてない。戦場とは縁遠いから平気さと請け負った男の言葉は、彼の希望が多分に込められていたのだろう。事実、宇宙世紀0079年が始まってしばらくは平穏とは言えないまでもショッピングモールには品物が並び、生活することはできていた。

 

 故郷であり、家族や学校の友達が暮らしていたサイド2『アイランド・イフィッシュ』はこの世から消えてしまった。その事実に打ちのめされ、数日を泣いて過ごし、数週間を自失したまま暮らした彼女だった。

 

「エリーゼ、言い難いことだけど…僕、ここを出ていくよ。サイド1にいる叔母と連絡が取れたんだ…」

 

 もしよかったら、と言葉を続けようとした男に首を振って彼女は微笑んで見せた。自然に見える笑みだったのかは鏡を見るほかないが、きっとぎこちないものだったに違いない。

 

 サイド7の建設業者向けの狭いアパートを借りたのも、泣いてばかりで役に立たないどころか八つ当たりを繰り返してしまった自分を見捨てずにいてくれたのも彼だ。それが自分の体という見返りを期待したものであったとしても、客観視したときに献身的と言っていい行為だった。

 

「ありがとう。でも、あなた一人で行って。あたしは…きっと、大丈夫だから」

 

 そうして、エリーゼは一人になった。

 彼と別れてしばらくの間はメールでのやり取りが続いた。しかし、ふた月も経つと途切れがちになり、9月に入る頃には情報端末の画面上に新着メールの通知を見ることはなくなっていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 宇宙世紀0079年9月18日

 

 アパートの窓から身を乗り出し、彼女は洗濯した衣類を干し終えた。アッシュブロンドの髪は染める機会を失ったまま、腰に届こうとしていた。洗濯物には変質者よけのために男物の下着も吊るしているが、いつも同じものなので気休めに過ぎない。

 

 そこに思い至って、ずっと気を張っていた自分に気付いて、エリーゼはその年になって初めて声を上げて笑った。自分はどんなに滑稽で、みじめで、哀れなんだろう。去って行った男の顔も忘れてしまった。たった9ヶ月、人生の十分の一にも満たない期間が不幸に満ちたものであったからといって、この先の人生まで泥の中に投げうつような真似をしてよいはずがない。

 

「ばかなあたし。どうしようもなく子供で、身勝手なお嬢さん。十分思い知ったでしょう? それなら、もう立ち直らなくちゃいけないよね」

 

 まずは、サイド7にあるハイスクールに編入する試験を受けよう。単位不足で二年生をもう一度やり直しても仕方ない。10月の新学期に間に合うかどうか問い合わせなきゃ。

 

 情報端末を叩いて最寄りのハイスクールの電話番号を調べ、受話器を持ち上げて———爆発音が響き、窓ガラスにひびが入った。

 

 窓から顔を出すと、さほど離れていないコロニー建設現場の方角から黒煙が上っている。事故でも起きたのかと眉をひそめたが、低層建築物と空地が多い(生活には不便だが見通しは良い)区画に住んでいた事が幸いした。

 

 爆発は事故ではなく武器を携えた緑色の一つ目巨人が、爆炎と破壊を撒き散らしていた。エリーゼは巨人の正体を知っている。毎日テレビを見ていれば、嫌でもその名前と暴威を覚え込まされる。

 

 ジオの軍隊が使っているモビルスーツ、その名前は———

 

「ザク…あれが、あいつがあたしの家を…サイド2のみんなを…」

 

 1月に勃発し、しばらくして『一週間戦争』と呼ばれることになった事件は『ブリティッシュ作戦』という名のコロニー落としで幕を上げた。新年の浮かれた空気を文字通り吹き飛ばした戦乱は、メディアによってその単語を耳にしない日がないほど連日連夜報道された。

 

 それは失意に沈み、泣き暮らしていた彼女の意識の底にも刻み込まれていた。しかし、憎んでいても恐怖はそれに勝る。暴力の化身を思わせるザクの姿は、エリーゼのちっぽけで密度の薄い憎しみの視線など歯牙にもかけなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 宇宙世紀0079年9月18日に発生したジオン軍の攻撃は、連邦軍が秘密裏に持ち込んだ新兵器の実験に起因するものであった。これは連邦政府とサイド7の間に軋轢を生じさせる問題に発展したが、彼女にとって政治の話は日々の暮らしより優先されるものではなかった。

 

 傷病者の救護、孤児となった子供の世話、住む場所を失って難民化した市民への炊き出し。ボランティアの手を必要とする場所は建設途中で人口の少ないサイド7であっても、無数にあった。

 

 エリーゼは思考を放棄するため、がむしゃらに働いた。常に二つ以上の仕事をかけ持ち、止まることと眠ることを極端に嫌がるようになっていた。誰かから、泳ぐのをやめると死ぬ魚のようだと言われた。彼女に色目を使って、手ひどく振られた別の誰かは彼女の髪の色を揶揄して『魔女と出会えないシンデレラ』と言っていた。

 

 彼女は逃避のために働き、何度か倒れ、いつのまにか救護する側からされる側に回っていた。

 

「君をベッドに縛り付けてでも安静にしてもらう。次に君が倒れても、もう私は手当をしないからな!」

 

「…ごめんなさい。でも先生、あたし…」

 

「悪いことを考えてしまうから手持無沙汰な時間が怖い、悪い夢を見るから眠るのが怖い。君がそうなのは知ってるよ。でもね、医師ではなく君の友人として言わせてもらうよエリーゼ。君はまるで、燃え尽きようとしているマッチだ」

 

 唇を噛んでうつむく彼女に、医者は処置無しと肩をすくめて薬剤のカプレットが収まったシートを取り出した。

 

「ねえエリーゼ。私も妻も、君のことが好きだ。君が何に耐えているのか私たちは良く知らない。けれど、君が自分を大切にしてくれないと私たちは悲しいんだ。だからどうか、私たちのために休んでくれないか?」

 

 あんまり薦めたくないけれど、と医師が手渡したシートには鎮静剤に近い作用をもつ睡眠薬だった。多用することで内臓、特に肝臓への負担が大きく、処方には慎重な判断を必要とするものだ。常用することは、命を縮めることに他ならない。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 睡眠薬を服用し一時は安らかな眠りを得たエリーゼだが、医師が危惧した通りの結果になっていた。薬がないと限界まで酷使された肉体が意識を手放すまで眠らず、数時間後には再び動き出すのだ。

 

 もちろん、薬の副作用もあった。慢性的な貧血と生理不順に始まり、肝機能の低下や骨密度の低下などだ。半年が過ぎ、一年が経過し、やがて一年戦争が終結してから三年が経とうとした頃。彼女は変わり果てた姿になっていた。

 

 宇宙世紀0083年。

 

 あまり自覚がなかったが、エリーゼは孤児となっていた。未成年で、両親が生死不明で、他に身寄りがないのだから当然と言えば当然だ。そのことを指摘され、今さらのように「どうしよう」と呟いた彼女に苦笑しながら手を差し伸べたのは救護所で知り合った医師の夫妻だった。

 

 同年の者たちより二年遅れてハイスクールを卒業した彼女は二十歳になっていた。

 かつてはチアリーダーとして溌溂とした印象を与えていたが、今は違う。蒼白としか表現できない白い肌と、異常なまでに澄んだ青い瞳との対照がエリーゼを『美しい』というよりも『不気味』や『幽霊』という印象に染め上げていた。

 

 はかなげな容姿に心を奪われる男子生徒は珍しくなかったが、その想いを伝えようと行動に移せた者は絶無であった。

 

「卒業おめでとうエリーゼ。この先のことは、ゆっくり考えると良いよ」

 

「もうエリーゼは二十歳なのよ? 子ども扱いしちゃだめよ」

 

 この人たちに会えてよかった。彼女は養父母として肉親と変わらないほど愛情を注いでくれた医師夫妻に心から感謝し、愛してもいる。けれど、愛でも時間の経過でさえも癒せない心の傷は残り続けている。

 

 表面上は愛想を振りまくことができるようになった。しかしガーゼを剥がすように自身の内側を覗き込めば、じくじくと膿んで爛れた傷が憎しみと嘆きを流し続けている。

 

 エリーゼの憎しみが向かう先は、非戦闘員を含む無差別攻撃という一点に収束していた。つまりはサイド2の虐殺者であるジオン軍なのだが、彼女に触れることができたニュース情報では、すでにジオンの戦争指導者らは滅び、わずかな残党が小規模なゲリラとして細々と抵抗を続けているとしか思えなかった。

 

 この傷を一生背負っていくと諦観し、どのみち長く生きられないであろう体を冷笑し、この世のどこにも存在しなくなってしまった故郷を想い嘆息する。復讐に狂えたなら、身を焦がしても良かった。しかし、矛先をどこに向ければいいのか分からない。

 

 そんな彼女の内心に気付いたのか、話題を変えようと養父がテレビのリモコンを操作したとき。ジオンの軍服を身にまとい、エギーユ・デラーズと名乗る禿頭の男が画面に現れた。

 

《地球連邦軍、並びにジオン公国の戦士に告ぐ。我々はデラーズ・フリート!》

 

 見つけた。

 おまえが、あたしの敵だ。

 

 こぼれ落ちそうに両目を見開いて、食い入るように画面を凝視する彼女はぎしり、と奥歯を鳴らした。しかし、養父母もまたデラーズの演説に目と耳を奪われていたために———彼らの娘の瞳に宿った狂気を見逃していた。

 



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第五話

 宇宙世紀0087年8月7日。

 

 イギリスらしい冷えて湿った空気の早朝。

 ベルファスト基地は連邦軍の基地であり、部隊規模として比較するとティターンズは少数側になる。しかし、形式として『間借り』しているが部隊が占有、または優先権を持っている施設は多数に及んでいた。

 

 アッシュが他の隊員たちと共に席についている会議室も、本来の部隊規模から考えると不適当に大きなものだった。

 

「よう、新入りってお前だろ? よろしくな。俺と組むことになるぜ」

 

 軍では階級が同じであっても、先に隊にいる者が『先任』という立ち位置になる。先任は学生で言えば『先輩』に近く、アッシュの経験では居丈高になる者も少なくない。だが、その男は(東洋系の顔立ちなので、まだ少年と言っても良い年齢にも見える)気さくに微笑んで右手を差し出した。

 

「よろしくお願いします。自分はユージン・マクソン准尉です。アッシュと呼ばれることもありますが、どちらで呼んでいただいても構いません」

 

「じゃあ、アッシュだ。俺は——っと、挨拶はまた後でゆっくりな」

 

 会議室の戸口に控えていた従卒の伍長が「中隊長殿、入室!」と大声で怒鳴り、直後に会議室にいた全員が起立し、敬礼する。

 

「ご苦労。諸君、クソ仕事だ。ああ、いや済まない、言葉が過ぎたな。参謀本部の青二才…ああ、またうっかり本音が漏れてしまった」

 

 皮肉屋の中尉といい、この中隊長といい、ティターンズの幹部は揃って口が悪いのだろうか。それとも、これが英国流の話術というものなのか。その後は作戦概要、作戦空域の説明、予想されるエゥーゴ等の抵抗勢力についての情報などが通達された。

 

「———以上だ。要するに我々は本隊のケツをカバーするオムツという訳だな」

 

「なるほど、確かにクソ仕事ですな大尉殿」

 

「本隊が漏らさなければ、花火大会を特等席で優雅に見物してるだけで終わるが…最近のあいつらときたらエゥーゴになんぞに出し抜かれて、オイスターにあたったみたいに漏らしまくっていやがる。諸君、そういうことだから油断するな」

 

 中隊幹部がおどけたやり取りをしてみせて、中隊長が最後に締める。軍隊ではこういう、一種の茶番めいたジョークがどこにでもある。たいてい下品なものだが、緊張している兵士には不思議と受ける。

 

 皮肉屋の中尉もにやつきながら肩をすくめたが、すぐに切り替えて良く通るバリトンの声を張り上げた。

 

「機体の搭乗割は各自の端末で確認せよ。衛星軌道上で機体受領後、作戦空域まで移動する。解散!」

 

 ブリーフィングの後、新しい相棒と握手して少しばかり話をしたアッシュは携帯端末で自分の搭乗するモビルスーツについて確認し、目を見張った。何かの間違いではないのかと数度確認したが、どうやら間違いではない。

 

 試験運用が終わり、実戦配備が開始されたばかりという新型機が割り当てられているのだ。添付された機体概要を見るとボウワ製BR-87Aビームライフルは乗り慣れたハイザックの兵装と変わらないが、新型はジェネレータ出力が倍ほども違う。

 

「先行量産ってところか? それにしても…」

 

 アツシュはなぜ自分に割り当てられたのか、と口に出そうとして言葉を止めた。この基地に配属されるまでの経緯を考えれば、だいたいの察しが付く。あの中尉は自分が軍に入る前のことや入隊後のことも知っている。

 

 彼は大学で情報工学を専攻し、卒業論文のテーマは『異なるOS間の高効率な蓄積データ変換と共有』に関するものだった。モビルスーツパイロットとしては水準よりやや上、というアッシュだが、一年戦争当時にジオン兵から『白い悪魔』と恐れられたエースの機体運用データを自機にフィードバックする技術はしばしば評価されていた。

 

 自分では個人芸の域を出ないと考えていたが、中尉は何かを期待しているのだろう。ならば、義務を果たすまでだ。作戦がどうであろうと、自分の手でなかろうと、いずれ宇宙人どもに思い知らせてやれるなら、それで構わない。モノアイ機体は、やっぱり少し気に入らないけれど。

 

◇ ◇ ◇

 

 ベルファスト上空の曇天を突き抜けて、パイロットスーツに着替えたアッシュたちを乗せたSSTOが軌道まで到達したのは現地時間の16時。この基地の良いところは、宇宙に上がっても協定世界時のおかげで時差ボケにならずに済むところだと相棒は笑った。

 

「おっと、見えてきたぜ。あれがクレメンタインか? …ちぇっ、どう見ても『愛しのクレメンタイン』って船じゃあねえな」

 

 旧世紀の音楽にそういうものがあるとはアッシュも知っていた。つまらなさそうに口笛でメロディを辿る相棒の視線を追うと、二つの箱をつないだ双眼鏡のようなコロンブス改級の船が標識灯を点滅させながら浮いているのが見える。

 

 型式番号RMS-108、マラサイ。

 

 相棒には悪いが、彼の心は割り当てられた新型機に向けられていた。

 一般的な感覚では『新しい機体』と『優秀な機体』はイコールで結ばれがちだが、こと兵器に限って言えば逆の場合がある。なぜテストパイロットに優秀な人材が採用されるのかと言えば、新しいものは信用できないからだ。

 

 料理をまともに作ったことがない、という者が作った食事を口に運ぶのが躊躇われるように、信頼できない兵器に命を預けたがる兵士は多くない。アッシュの経験から言えば、貧乏くじを引かされたと嘆く者もいた。

 

「楽しみだな、新型。どんなものなんだろう」

 

 しかし、誰にも聞こえないほどの小声で呟いたアッシュの心はささやかに浮き立っていた。笑顔を作るのが苦手な彼の唇が、ほんの少しだけ上がっていた。

 



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第六話

切りの良いところまで、と思ったら…ちょっとだけ長いです。
相変わらず暗い内容ですみません。


 宇宙世紀0083年10月31日。

 

 その日はエギーユ・デラーズ率いるジオン残党軍『デラーズ・フリート』が地球連邦に対し宣戦布告した日として歴史に刻まれることになった。そして、エリーゼも胸の内で彼らに対し宣戦したのだ。お前が、敵だと。

 

 彼女は携帯端末からプリントアウトしたデラーズの写真を、まるで恋焦がれる乙女のように頬を上気させて見つめる。だが、その瞳ににじむ色は殺意。唇に浮かぶのは狂気だった。癒えない心の傷をかきむしるように彼女は計画を立て、養父母にも告げないまま動き出した。

 

 その計画は11月13日に『デラーズ・フリート』が連邦軍と交戦の末に壊滅したと報じられても、止まる事はなかった。ニュース報道に少なからず動揺したものの、ジオンは滅んでいなかったからだ。アクシズを称するジオン残存兵たちが存在する。デラーズが死んでも、まだ敵はエリーゼの前に立っている。復讐という名の暗い炎は、傷口からしたたる膿みを糧に燃え続けた。

 

「おじ…お父さん。お願いが…あります」

 

「どうしたんだい、エリーゼ? 私をそんな風に呼んでくれるなんて…」

 

 養父となった医師は、薄々感づいていた。自分の養女とした娘は、おそらく人並みの幸せを手に入れることは難しいだろうと。かつて救護所のボランティアとして、負傷者や病人の汚物にまみれながらも笑顔を絶やさず働き、ひとり物陰で歯を食いしばって泣いていた娘だ。

 

 エリーゼを引き取りたいと妻に打ち明けたとき、彼女は子を産めない自分を責めているのかと言わなかった。ひとりの大人として、医師として、娘と同じ女性として、夫の提案に抱擁とキスで賛意を示した。

 

 彼は当時のことを思い出しながら、まずはコーヒーを二人分丁寧に落としてエリーゼを書斎に招いた。平穏の中に生きる目標を見つけて欲しいという本心。しかし、それは望めないであろうことも———心の片隅で理解していた。

 

 この家を出ていくと告げ、自分の頬にキスして書斎から去るエリーゼの後姿が戸口の向こうに消えた。手を付けられないまま冷えてしまった彼女のコーヒーカップを眺めた医師は、いつか聞いた言葉を思い出した。

 

『魔女と出会えないシンデレラ』

 

 幸せになれない、そのきっかけを運命から与えてもらえない娘。はじめてその言葉を聞いた時、正直に打ち明ければ怒りに震えた。そんな暴言を吐いた若者をめちゃくちゃに殴りたかった。

 

 だが、今はその言葉が違う意味に思える。エリーゼはもう『そういうもの』ではなくなっている。瞑目した彼は自分たち夫婦が、彼女を幸せに導く魔女の役目を果たせなかったことを悔いた。

 

「ごめんよ、エリーゼ。君を愛している…幸せになって、ほしかった」

 

◇ ◇ ◇

 

 宇宙世紀0084年。

 

 エリーゼの計画。それは平和な時代であればハイスクールを卒業しただけの少女には無謀なものだった。しかし、時代の要請がそれを後押ししていた。

 

 相次ぐ戦乱により労働人口が激減していた地球連邦はこの時期、史上まれに見る復興の活況に湧き上がっていた。本人が望みさえすれば、かなりの無茶もまかり通る。傷痍軍人だろうと戸籍も定かでない流民だろうと、動ける者は誰でも採用していた。

 

 その一方で、拡大の一途を辿る地球連邦軍も人手不足に悩まされていた。前線の兵士については、戦車や航空機と言った既存の兵器からモビルスーツへの機種転換訓練を推進することで定数を充足できた。

 

 それでも、一部の職種は人手不足が深刻であった。従軍医師と看護師である。エリーゼはそこに目を付けた。ボランティアとして働くうちに、簡単な縫合ならば自力でこなせる技量を身に着けている。

 

「ええと、ミス・エリーゼ・イズミカワ…気を悪くしないでくれ。君は日系人なのかい?」

 

「いいえ、イズミカワは養父の姓です。あたしの両親は…サイド2で」

 

「そう…でしたか。申し訳ない、立ち入ったことを聞いてしまった。それで、看護師を志望されていますが…資格は持っていない、と」

 

「はい。以前、救護所でボランティアをしていました。養父は医師で、そこで。私は養父のような医師になりたいと考えています。けがや病気だけでなく、傷ついた心も救える者に。そのための第一歩として———」

 

 彼女はあらかじめ考えていたセリフを注意深くつむぐ。平時であれば軍の徴募事務官というものは観察力に裏打ちされた嗅覚を研ぎ澄ませ、軍におかしな意図を持ち込む輩を排除するのが任務だ。あと半年ほど前か、後であれば事務官も本来の能力を発揮していたであろう。

 

 エリーゼには好都合なことに、人手不足という猛烈な臭気にさらされていた彼の嗅覚は、ひどく鈍っていた。その場で申請書類に採用のスタンプを押した事務官は、次の書類に目を落としながら彼女に明朝のシャトルで軍の医学校へ向かうよう告げた。

 

 だから———エリーゼの唇が亀裂のような笑みを浮かべたことに気付かなかった。

 

 そして1年半が経過した宇宙世紀0085年8月2日。

 

 コロニー落としの被害が比較的軽微であった地域の軍医学校を促成課程で卒業し、エリーゼは連邦宇宙軍のサラミス型巡洋艦『サザーランド』にて勤務する看護師となっていた。地球での生活が刺激となったのか、計画が進行している充実感が良い方向に作用したのか、彼女の健康状態はわりあい安定していた。

 

 血の気を取り戻した肌はみずみずしく、薄化粧をおぼえて一層魅力的になっていた。結果として『サザーランド』の独身男性から熱い視線を集めることになったが、一定のラインを踏み越えようとした者はことごとく股間に膝をめりこまされる羽目になった。

 

 艦内の独身男性はエリーゼを『ミス・マジノ』と呼んだ。それは旧世紀のフランスがドイツとの国境に構築した、難攻不落の大要塞である。

 

 『サザーランド』は定期パトロールの任について規定の航路を進んでいたが、何も情報がないまま突然に航路変更の指令を受けた。サイド1宙域の侵入を禁止する、と。指令の発信元はティターンズの艦で、それは指揮系統の侵犯行為だと艦長は抗議した。

 

 しかし彼らは指揮系統の優越権を主張するに留まらず、これ見よがしに艦載砲の砲塔をこちらに指向すると「これは依頼でも勧告でもない。命令だ」と言い放ち、それでも受諾しない艦長と『サザーランド』に向けて主砲の照準用レーザーを照射するまで行った。

 

 それは拳銃を相手に突きつけ、引き金に指をかける行為に等しい。連邦軍同士が相撃つ事などあってはならない。味方殺しは軍人の絶対的な禁忌だ。それを平然と踏み越えようとするティターンズの暴挙を前に、怒りに震えながら艦長は操舵主へ転舵を指示した。

 

 もともと高血圧の気があった艦長は、酒量の制限と定期的な服薬を軍医に約束させられていた。エリーゼは転舵を指示した後は副長にすべて任せると吐き捨てて自室に引き籠ってしまった艦長へ、ブランデーとサンドイッチ、それと薬を届けに行くよう軍医から指示を受けた。

 

「…ミス・イズミカワか。そこに置いといてくれたまえ」

 

 艦内にあって「しばらく独りにしてくれ」と言う艦長の言葉に従わなくていいのは、指揮系統が異なる軍医とエリーゼだけである。ティターンズと同様、彼女たちへは要請と依頼のみ行え、それを受諾するかは個別の判断となる。

 

「いいえ艦長、入ります」

 

 ドアはロックされていたが、ロックパネルに医療関係者専用の非常用コードを入力し、強制的に開錠してエリーゼは部屋に入る。ことの経緯は軍医を通してある程度聞いていたが、艦長の部屋は竜巻の被害に遭ったように荒れ果てていた。

 

「いい大人が八つ当たりなんかしている所を見られたくなかったんだ。特に君のような若い女性に見られると、自分がジュニアハイの子供に戻ったような気分になる」

 

 ばつの悪そうな表情で艦長が頭をかいた。その姿は———いなくなってしまった父に重なって、不意に彼女を悲しみの淵に連れ戻そうとした。目頭が熱くなり、喉から嗚咽が溢れそうになるのを抑え込み、倒れて転がっているテーブルを起こして軽食と薬を置く。

 

「艦長、もしお邪魔でなければ…あたしにも一杯、いただけませんか?」

 

「ああ、いいとも……独りで飲む酒は味気ない。こんな気分の時は、特にな」

 

 娘と酒を飲める日を楽しみにしていた父の代役にしてしまうのは心苦しいが、エリーゼにもそうすることが必要だと思えてならなかった。

 

 荒れた部屋の中で二人はグラスを挙げ、何に向けたものか判然としない乾杯をした。艦長のデスクの上に飾られた家族写真の中には微笑む少女がいた。それぞれが、それぞれの代用品か。代わりになれる者など、いないのに。エリーゼは勢いよくブランデーを飲みこみ、初めて飲む火のような液体が喉を焼く感覚にむせこんだ。

 

「おいおい、大丈夫か?」

 

 そう言って背中をさすってやろうと立ち上がった艦長だが、タイミング悪くデスクの端末が緊急呼び出しのアラームを鳴らす。彼は受話器を取らず、スピーカー出力にして呼び出しを受けた。それで、エリーゼもその報せを耳にすることとなった。

 

《艦長…サイド1の30バンチのことはご存知ですか》

 

 スピーカーから副長の声が響いた。士官学校を出た職業軍人らしいモラルを持ち、ウィットも兼ね備えた好漢だ。しかし、その声はいつになく沈み、震えていた。

 

 以前からサイド1は連邦政府への抗議デモが拡大していた地域だった。自治体も当初は平和的な解決を試みたが、要求がエスカレートするに連れて対立が激しくなり、先日は武装警察が催涙弾を発射するなどの事態に発展していた。

 

 デモを主導している市民活動家が次々と逮捕・拘禁されたが状況は鎮静化せず、対立は激化の一途をたどっている。ニュースでも、軍の広報でも、そのように伝えていた。

 

《30バンチで...『激発性の伝染病』が発生し、住民1500万人が...死亡したとのことです。そんなデタラメ、あるわけがないでしょう!?》

 

「落ち着け、その情報はどこから入手したものだ? 1500万もの人が、そう簡単に……まさか!!」

 

《そのまさかです。艦長、私の同期が目撃しています…ティターンズが、30バンチに毒ガスを注入した一部始終を! 奴らは、市民を…うわああああ!!》

 

 副官の絶叫が室内にこだまし、その声にエリーゼは白衣の下にある心臓を握り込んだ。

 

 毒ガスだと!? ティターンズ、おまえたちもジオンと同じなのか!? ジオンを滅ぼすために、あたしは軍に入ったというのに…おまえたちも敵か! あたしのサイド2を犯したように、また繰り返すのか!!!

 

 内心の叫びが脳裏を荒れ狂い、血の気が音を立てて引き、彼女はまた———幽霊になった。だがエリーゼは忘れている。かつてサイド7で彼女を守り、去った男がどこに行くと言っていたのかを。彼は、サイド1に行く。そう言っていたのだ。

 




コロコロと主人公が変わって腰が落ち着かねえなこの話。
だけど、なんというかアレです。
ようやく舞台が整ってきました。次あたりから本編というか、そういう感じになります。
よかったら感想など頂けると嬉しいです。


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第七話

 宇宙世紀0085年7月31日。

 

 この時代のスペースコロニーは、一基がひとつの大都市に匹敵する規模だ。そこには自治体があり、街があり、公園や学校や病院など、人の社会にとって必要なものはすべてそろっていた。ただひとつ欠けていたものは、政治だ。

 

 連邦政府はコロニーで生まれた住民に『連邦議会選挙』の投票権を与えていない。それは地球に住まう者たちにとってコロニー住人は、スペースノイドは事実上の二級市民であると言い放っていることと同義であった。

 

 宇宙移民が棄民政策だと喝破したジオン・ダイクン。その叫びはザビ家によって歪められ、選民思想の形でプロパガンダとして利用された。しかし終戦から5年が経過してなお、コロニー住人は『待遇の良い家畜小屋』で暮らすことを強いられていた。

 

 風通しの悪い、逼塞した地球社会に宇宙からの風を届けよう。スペースノイドに市民権を、しからずんば独立を! 活動家のアジテーションに煽られ、群衆はシュプレヒコールを叫び、メインストリートで放火や略奪行為を繰り広げた。

 

 連邦政府から暴動鎮圧の任を受けたティターンズが選択した、もっとも効率の良い手段とは、何だったのか。

 

 二度と暴動が起きないようにするには、外科的な手法が最もよろしい。

 

 反動勢力の根がどこまで浸透しているのか不明なら、致し方ない。

 

 対象を限定できないのならば『住民すべて』を対象とするほかあるまい。

 

 以上が後に『30バンチ事件』と呼ばれることになった虐殺事件の概要だ。ABC兵器の使用を禁じた南極条約は、あくまでジオン公国を名乗る者たちと交わしたもの。彼らはジオンではない。ならば、条約違反ではない。実動部隊の作戦指揮を執ったバスク・オム大佐は作戦内容について他の将校から受けた質問に対し、そう語ったという。

 

 この事件の衝撃は徹底した報道管制によって一般市民への流出がほぼシャットアウトされたが、それでも地球連邦政府や軍の中には広く深く染み入った。

 

 ティターンズはもはや文民の統制下にある軍ではない。軍閥化し、軍事独裁を目論む、極めて危険な集団ではないか。そのように危惧した一部の軍関係者やジャーナリスト、そして実動部隊の有志たちが結成した組織。

 

 それが Anti Earth United Government. 反地球連邦政府という言葉の頭文字を取ってAEUG。エゥーゴの成立であった。

 

 エリーゼが乗っていたサラミス級巡洋艦『サザーランド』もまた、30バンチ事件の間接的な目撃者として艦長以下、ほぼすべての乗員がエゥーゴへの加入を希望することとなった。

 

 ジオンは完全とは言えないが滅んだ。それは正義がなされたからだ。だが彼らどうだ? サイド2で行った暴挙を、より悪質に繰り返したティターンズは? いまでもこの世界に我が物顔でのさばっている。彼らを放置することは、次の30バンチを黙認することだ! 許してはならない、見過ごしてはならない! 軍人としての禁忌を犯すことになろうと、絶対に!

 

 艦長は『サザーランド』の乗員たちへエゥーゴへの加入を問う艦内放送で、そう言って演説を締めくくった。それはエリーゼの内側に広がる、復讐心という名の瘴気のあぶくを生むタールの沼に『大義』という火を放つものだった。

 

 『魔女と出会えないシンデレラ』と揶揄された彼女が、やっと運命に与えられたものは呪いのような奇跡。

 

 エリーゼが飛び乗ったのは、戦場へ向かうかぼちゃの馬車。

 

 エリーゼが望むのは、モビルスーツというガラスの靴。

 

◇ ◇ ◇

 

 宇宙世紀0087年8月1日。

 

 二年の歳月を費やし、エリーゼは看護師ではなく連邦宇宙軍の軍曹としてパイロットスーツに身を包んでいた。所属は変わらず『サザーランド』だったが、気心の知れたモビルスーツ乗りからはもう『ミス・マジノ』とは呼ばれていない。

 

 いま、彼女のあだ名は『ナイトハグ(夜の抱擁)』。それは魔女の隠喩であった。

 

「軍曹、腕を上げたな」

 

「はい、少尉殿。あなたのご指導の賜物です。それより、今夜…お部屋に伺いたいのですが、よろしいですか?」

 

「……構わないが、ここでその話はまずい。ちょっと来たまえ」

 

 エゥーゴは実戦部隊としての規模が小さく、かつて軍に入った時以上に人手不足であるとはいっても、ただの看護師がパイロットを志望して認められるわけがない。普通ならば。

 

 だから、エリーゼは普通ではない手段を行使した。

 

 モビルスーツデッキに積まれたコンテナの物陰に身を潜めた二人は、待ちきれないとばかりに唇を重ねてむさぼりあう。粘膜が触れ合う淫らな水音はモビルスーツ整備の騒音にかき消され、少尉がエリーゼの乳房を乱暴にこねあげた。

 

「あっ…もう、慌てないでかわいいひと。もう少ししたら、あなたの上でいっぱい踊ってあげるから…ね?」

 

 男の頭を胸に抱きよせ、耳がとろけるような声音で囁くエリーゼだが、その瞳は性的な興奮とは程遠く———不気味なまでに澄んでいる。

 

 深夜、男の上で煽情的に腰をくねらせ、胸を揺らすのはシンデレラではなく魔女。肉体関係を餌に己の願望へ、復讐へひた走る魔女だ。パイロットとして非凡な才能が認められた今でも、焦燥に駆られると男を求めてしまう。それなのに、海水を飲むように抱かれるほど心が渇く。

 

 その夜もエリーゼは自分が搾り尽くした男の部屋から抜け出して、シャワーで情事の痕跡を洗い落とすとパイロットたちの詰め所でひとり、膝を抱える。どうせ眠れないのだから、ここでいい。

 

 出撃命令はいつだろうか。少尉からの推薦という手回しで割り当てられたRMS-099『リック・ディアス』という堅牢なガラスの靴を履いて、戦場で奴らを躍らせてやりたい。彼女が考案し、情夫が検討し、エゥーゴ上層部が試験配備を許可した、すてきに愉快なびっくり箱。あれも使ってみたいものだ。

 

 それは『試作・情報機雷』と味気ない名前になってしまったが、その効果は斬新にして辛辣と評され、愛機の背に数十基の機雷が詰まったコンテナが取り付けられている。

 

 思い知るがいい。呪われるがいい。あたしが、おまえたちの死だ。

 




ごめんなさい。
次回になっちゃいます…


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第八話

 宇宙世紀0087年8月10日。協定世界時 午前3時00分

 

 旧世紀の宇宙開発に携わった科学者の名を冠した月面都市、フォン・ブラウン。その軌道上に、ティターンズの部隊は配置を完了していた。

 

《イーストウィング、エコーリーダーより各中隊へ通達。情報部よりエゥーゴの部隊が月軌道への遷移を行った可能性が高いとの連絡が入っている。交戦の可能性、大。側面からの強襲に警戒せよ》

 

《エコー・デルタ・ワン了解。デルタ・ワンより各機。聞いての通り、クソ仕事に張り合いが出そうで何よりだ。そうだアッシュ、どうだ新型は?》

 

「デルタ・スリーよりワン。問題ありません。会敵の際は自分が突貫し、攪乱に努めます」

 

《隊長ォ、なんで新入りがいきなり新型なんですか?》

 

《お前がハイザックの運用データを新型にちゃんと調整して組み込めるなら、そうしていたんだがな》

 

 連邦のモビルスーツは運用データを定期的に収集し、南米ジャブローなどの重要拠点で集積・解析を行って機体動作や制御の最適化を行っている。これは一年戦争で初の量産モビルスーツ『ジム』が設計された時から続き、練度や技量の不足しているパイロットのサポートや新機体の設計など、ビッグデータとして様々に活用されていた。

 

 ただ、問題が全くないとも言えなかった。ニュータイプと評されたスーパーエースがRX-78『ガンダム』を扱ったデータを、そのまま『ジム』に転用できるわけではない。ある程度の調整が不可欠となるのだ。

 

 一年戦争以降の連邦はモビルスーツの開発を強力に推進し、結果としてさまざまな機体の運用データが統一性を欠いた状態で集積されることとなった。教導団が機体特性を活かしたデータを十分に蓄積する前に、次の新型が上から降りてくる有様で———ありていに言えば新型モビルスーツとはソフトウェアが未成熟な機体であり、口の悪い者に言わせると欠陥品である。

 

「調整パラメータはコンピュータ上で検査しただけの状態ですが、マクロ化してデータバンクに保存してあります。あとはそれぞれ、自分の機体調整パラメータに落とし込めば…そこまでテスト飛行に時間をとられないかと」

 

《了解だ、中隊長もお喜びになるだろう》

 

《アッシュ、お前さんはソフトエンジニアか? よくそんなことができるな》

 

「大学の頃、すこし齧った程度だよ…始まったようですね」

 

 自転、公転とも27日周期の月は、夜が約13日も続く世界だ。ミノフスキー粒子が散布され、実質的に電波誘導の兵器が使い物にならない戦場では熱源から放射される赤外線か、可視光線に視覚の情報量を制限される。つまるところ、夜戦は砲爆撃の命中精度を無視できないレベルで低下させるのだ。

 

 そのため月面都市フォン・ブラウンを制圧する『アポロ作戦』は、都市が月面の昼の側に入るタイミングで実行された。攻撃本隊の艦砲射撃が都市の防空設備を狙い撃ち、クレーターに縁どられた街に毒々しいオレンジの光を咲かせる。

 

《ヒュウ、パーティが始まったぜ。お楽しみってやつだ…エゥーゴなんかに肩入れする馬鹿な犬にゃあ、誰が主人か教えてやらなくちゃあな》

 

 近距離無線から聞こえる相棒の言葉に無言で頷き、アッシュはモニタに映っているフォン・ブラウンを睨みつける。お前ら、スペースノイドのくせに独立や自治を要求できる立場だと思っているのか。

 

 お前ら、地球にどれだけ養われたと思っている。コロニーを作る材料も、技術もぜんぶ僕らの地球から持ち出したものだ。ジオンは、その恩を仇で返すクズのペテン師だ。そんなやつの笛に踊らされる連中に言葉は通じない。

 

 そうとも、30バンチは第二のジオンだ。コロニーを落とすような真似を三度も許すものか。死者がたった1500万で済んだのは、僕らティターンズがいたからこそだ。もし連中がまたコロニーを落としていたら、その100倍か、もっと多くの市民が犠牲になった。

 

「そうさ、そうとも。宇宙人が何人くたばろうと、知ったことじゃあないさ」

 

 砲撃の爆炎と、都市の要所を制圧に向かう友軍モビルスーツの噴射炎が色彩の褪せた視界に映る。いいぞ、もっと撃ってやつらを叩き潰してやれ。ティターンズの、僕らの正しさを思い知るがいいさ。

 

◇ ◇ ◇

 

 宇宙世紀0087年8月10日。協定世界時 午前3時05分

 

 焦燥にはらわたを炙られる感覚というものは、何度経験しても慣れるものではない。冷たく脂汗がにじみ、パイロットスーツのインナーに染みこんでいく。

 

 サラミス級巡洋艦『サザーランド』の甲板に係留されたリック・ディアスのコクピット内で、エリーゼは膝を抱えて出撃の時を待っていた。

 

 情報部からの緊急報によって、ティターンズのフォン・ブラウン襲撃を知ったエゥーゴは作戦行動可能な実動部隊に招集を発した。寄り合い所帯の艦隊というデメリットは、それぞれの艦長へ『信ずるところの最善を尽くせ』という訓令を与えることで———各艦が互いの独断専行(スタンドプレー)を最大限に活用する軍集団となっていた。

 

 一歩間違えば壊滅、半歩のミスさえ許容されないような薄氷を踏み渡る軍集団。それがエゥーゴだった。しかし、彼らの士気は高い。反ティターンズという一点において、彼らの意思に乱れはなかった。

 

《こちらは艦長。モビルスーツ隊は180秒後に発進し、ティターンズ空母『ドゴス・ギア』の側面から攻撃せよ。攻勢圧力で戦力を逸らし、アーガマ隊を側面支援する。いつも貧乏くじを引いてくれる彼らの肩の荷を減らしてやろうじゃないか。後詰の待ち伏せが予想されるが、その場合は誘引し本艦の主砲射程圏に誘い込め》

 

《了解、まるで美人局ですな》

 

《はっはっは! ポン引きに転職とは、なかなか刺激的ですなあ!》

 

「了解。キスでも投げてあげましょうか」

 

 上品とも洒脱とも程遠い兵士のジョークにも慣れ、軽口を返せるようになっていたエリーゼは全周モニタにウィンドウ表示されている小隊の仲間にウィンクを送った。とたんに爆笑が起こり『サザーランド』の艦橋スタッフからも陽気な声と口笛が聞こえる。

 

《イズミカワ軍曹、その辺にしておきたまえ。私はモンローよりヘプバーン派なんだ》

 

「失礼しました。でも艦長、女はどっちにでもなれるものですよ? ハロウィンパーティで御覧に入れましょうか」

 

《降参だ軍曹。では、ハロウィンを楽しみにするとして仕事にとりかかろう。発進60秒前、モビルスーツの係留を解除! 諸君、叩きつけてやれ!》

 

 エリーゼの『リック・ディアス』を先頭に、二機のRGM-79R『ジムII』が左右から甲板から浮かび上がり、カメラアイを光らせる。さあ、踊りなさい。炎に焼かれる蛾のように。

 

 発進時刻のカウントダウン表示を見つめ、ゼロになった瞬間。

 彼女は、嚆矢となって月軌道を飛翔した。

 




蛇足的に用語解説

イーストウィング:旗艦を中央としてみたときの左翼部隊
エコー:フォネティックコードで「E」のこと。この場合はイーストのE
デルタ:同じくフォネティックコード「D」のこと
デルタ・ワン:D小隊の一番機(=小隊長)

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最近、googleの広告にプレバンの割合が高くなってきました。
ティターンズとか検索してるせいですなこりゃ。
欲しくなるから目の毒で困りものです。。。


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第九話

 よく覚えておくといい。真空の宇宙で星は瞬かない。作戦中に、もしも視界の隅で『瞬く星』があれば———それは兆しだ。そこにお前を狙う誰かがいるぞ。

 

 一年戦争当時、セイバーフィッシュでザクを四機撃墜したという叩き上げの少尉が、安いバーボンのボトルと引き換えに教えてくれた言葉だ。

 

 しばしば経験則は理屈を超えて、言語化できない説得力を持つ。彼の言葉を素直に受け止めて警句として捉えたアッシュは生き残り、鼻で笑ったかつての相棒は死んだ。

 

 そしていま、アッシュが見つめる星々の片隅に———ちらりと何かが瞬いた。

 

「敵襲ーッ!!」

 

 静止状態から機体を真横に投げ出すようにバレル・ロール機動を打つと、一瞬前まで自分がいた場所を二本のビーム光条が薙ぐ。

 

「デルタ・スリーよりワン! 敵襲、敵襲、敵襲!」

 

《デルタ・ワンよりエコーリーダー。PAN-PAN。戦域警報の発報要請。ボギーから攻撃を受けた。ボギー規模は不明。デルタはこれをバンディットとして邀撃する》

 

《エコーリーダー了解。デルタの判断を承認する。イーストコントロール、戦域警報を要請する。ブラボー、チャーリーはデルタを支援せよ》

 

《こちらイーストコントロール。戦域警報。イーストウィング、デルタにてボギーとコンタクト。コントロールはこれをバンディットと認定する。デルタ・ワンは観測情報を……》

 

 奥歯を噛み締め、耐G呼吸を繰り返すアッシュが左右に機体を振るシザーズ機動を繰り返す最中でも軍は機械的な冷静さでRoE(交戦規定)に基づいた連携を行い、淡々と手続きを進める。

 

「デルタ・スリーよりワン、バンディットの数は3。当機はバンディット3機を認む。うち1機は———ちぃッ!」

 

《スリー、アッシュ! ひとりで突っ込むな!》

 

 モビルスーツのアイカメラは可視光線の画像だけでなく赤外線なども捉え、コンピュータが自動的にライブラリ内のデータと照合する。そして合致した機体の3Dモデルをリアルタイムに画像処理し、モニタに表示する方式だ。

 

 一見すると迂遠だが、輪郭を強調表示したり周囲の光量に左右されないといった利点が評価されて軍用機には一般的な機能となっている。

 

「うち1機は『リック・ディアス』! エゥーゴの一つ目だ!」

 

 V字のフォーメーションをとって高速で肉薄する敵の先頭に立つ重モビルスーツ『リック・ディアス』。その左肩に小さく描かれたエンブレムはガラスの靴。

 

「死ねよッ!!」

 

 殺意を乗せたトリガーを引き、マラサイのビームライフルが吼えた。

 

◇ ◇ ◇

 

「こいつッ!」

 

 フットペダルを蹴りつけ、機体を側転させて眼前の銃口を避けたエリーゼは奥歯を噛み締める。相対速度を考える理性が残っていれば、まず選ばない手を使ってくる敵だ。誘爆が怖くないのか、ティターンズの新型は!

 

《軍曹、上だ!》

 

 全周モニタの天頂方向を仰ぎ見るより早く機体を後退させ、頭頂部のバルカン・ファランクスを自動照準にして牽制射を加える。ハイザックは仲間に任せて、いま新型から目を離しちゃいけない!

 

《こちらサザーランド。モビルスーツ隊、聞こえるか? ティターンズの増援を確認した! 二個小隊、数は六! こちらの増援は180秒後に到着予定だ、持ちこたえられるか?》

 

《敵の増援次第だな。到着予想は?》

 

《こちらより早い。90秒後だ》

 

 通信に耳を傾けながらマラサイと切り結ぶエリーゼは焦れた。ティターンズの増援が来る前に、この新型を片付けられそうにない。ビームサーベルで何度切り込んでも、受けられる。こいつは単騎で戦うより連携を重視するタイプで、弾薬をケチるしみったれだが継戦能力は高い。そうなると戦力バランスが崩れたとき、一気に持って行かれる。

 

「少尉、使います!」

 

《例のびっくり箱か!》

 

《やるなら急いでくれ、こいつ…ぎゃあっ!》

 

 撃破された仲間の悲鳴と、その名を叫ぶ少尉の声。ハイザックのライフルが放ったビームでコクピットを撃ち抜かれたRGM-79R『ジムII』が、球状の炎と化して周囲を照らす。視線移動を検出したモニタが自動的に仲間を撃墜したハイザックの姿をズームすると、敵はエリーゼへ「次はおまえだ」と言い捨てるようにモノアイを光らせた。

 

◇ ◇ ◇

 

《デルタ・ワン、一機撃墜。素人だな、他愛もない》

 

《イーストコントロールよりデルタ。ボギーの増援が接近中。コンタクト予想120秒。増援規模は不明》

 

《こちらエコー・ブラボー・ワン。当小隊で増援の規模を確認し、そのまま牽制攻撃を具申する。コントロールの判断を請う》

 

《イーストコントロールよりブラボー。提案を承認する。チャーリーはデルタと交戦中のバンディットを撃破後にブラボーと合流されたし》

 

《ブラボー了解》

 

《デルタ了解》 

 

《チャーリー了解》

 

 皮肉屋の中尉が素人だと評した敵について、アッシュも同意見だ。チキンレースじみた近距離からの射撃で、あきらかに動揺していた。あんなものは挨拶代わりだ。重モビルスーツは飾りか? 素人がのこのこ出てきていい戦場じゃあない。

 

 戦場はプロフェッショナルのもので、感情の抑制もできないアマチュアがしゃしゃり出てくるべきではない。感情でどうにかなる場所ではないのだ。そして、どうにもできない者は代償を命で支払う羽目になる。

 

 これまでのやり取りで『リック・ディアス』パイロットの技量は把握した。弱兵であり、素人だ。データバンクにない背中のコンテナ状の装備が気になるが、その前に落とせばいいだけの話。

 

「スリーよりワン。こいつは自分が仕留めます。中尉はツーの援護を!」

 

《へへっ…よお、気張るじゃねえかアッシュ!》

 

《了解だ。ツー、背後を突く。シザーズで振り回せ》

 

 あいつが背負ってるコンテナは、積載位置からも形状からも近距離装備ではない。中距離射撃戦でのクレイバズーカは散弾だけに警戒すべきだ。ならば、サーベルの距離で!

 

 『マラサイ』の背と脚のスラスタ推進軸を一直線に揃え、頭から飛び込むように加速するアッシュは右肩のシールドを展開して身を隠す。左手はすでにサーベルを掴んでいるが、あえてビーム刃を生成させずにタイミングを計る。

 

「くたばれよ、宇宙人ッ!」

 

 見かけに反して軽快な運動性が小癪な機体だが、それも油断ならない手練れが乗っていればの話だ。こちらの機動をただの体当たりだと思ったのか、半身を開いてビームサーベルを抜く以上の対応ができていない。

 

 『リック・ディアス』のビームサーベルをシールドで受け、溶断されるまでの数瞬を稼ぐ。アッシュは左腕のサーベルにビーム刃を生成させると敵の右腕を付け根から切り飛ばし、同時に頭部の60mmバルカンを至近距離で斉射。

 

「もう一丁!」

 

 『マラサイ』はバルカンの集中射で敵のアイカメラを破壊し、ひるんだところに回し蹴りを叩きこんで強引に引きはがして距離を取った。格闘戦で相手ともつれたまま戦いにのめり込むことは危険だ。攻撃は複数の手段を同時に叩き込み、一撃離脱を堅持。

 

 エースに憧れるな。彼らは非凡だ。自分とは違う。

 

 一撃必殺を求めるな。華麗に戦うな。敵の戦闘力を削れ。動揺を誘え。連携を忘れるな。

 

 これまでの軍歴で培った戦訓とパブで語られる警句がアッシュの持つ財産の全てだ。決して多くないが、生き残るには十分なそれを駆使して戦ってきた。

 

《スリー、こっちは片付いた! 援護するぜ!》

 

「助かる!」

 

 残るはお前だけだ、ざまあみろ。

 




蛇足解説
セイバーフィッシュ:MS開発前に連邦軍が採用していた戦闘機。わりとマイナー。
バレルロール/シザーズ:戦闘機動のひとつ。
ボギー:敵か味方か識別できない勢力
バンディット:敵勢力

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生身での戦闘シーンも相当ですが、MSになると輪をかけて難しい...


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第十話

 そんな、あっけなさすぎる。ティターンズと自分たちで、ここまで違うなんて。『ジムII』の仲間たちだって一年戦争の生き残りで、艦長が保証すると請け合った腕利きだ。

 

《こちらサザーランド! モビルスーツ隊、爆発の閃光がふたつ確認できた! 状況を報告されたし! 聞こえるか、少尉!?》

 

「こちらイズミカワ、少尉と曹長は…落とされました!!」

 

《了解…軍曹、退くんだ! まもなくそちらに敵の増援が到着する、1対6で勝ち目なんかない!》

 

 三機がかりの包囲から逃れようとクレイバズーカの散弾で牽制しつつ、エリーゼはパイロットシートのコンソールに手を伸ばせずにいた。操縦スティックから片手でも離せば、次の瞬間に容易く狩られるに違いない。

 

 隙が欲しい、わずかな間だけでいい。考えろ、何か手が———これだ。『リック・ディアス』左手の甲に内蔵された多目的ランチャー。右手のトリモチは腕ごと失ってしまったが、左のダミーバルーンが残っている!

 

 バルーンの造形は本物と比べるとチープだが、おおまかな形状が似ていればコクピット内のコンピュータが『本物』と誤認して画像処理をする。

 

「これで…!」

 

 悪あがき以外の何物でもない一手だが、それでいい。コンソールを操作する1秒を稼げれば、それでいい! 回避と牽制を続けるモビルスーツのコクピットは、まるでミキサーの中に放り込まれたように脳や内臓をシェイクする。

 

 極度の緊張から過剰分泌されるアドレナリンのせいか、鼻血が止まらない。彼女は回避機動の半分以上をコンピュータの補助にまかせ、左の操縦スティックの親指位置に配されたセレクタを操作すると躊躇せずボタンを押し込んだ。

 

 連続して射出されるカプセルに収められた自機のダミーバルーンが展開し、ティターンズの動きが数瞬だけ鈍った。狙い通りだ。あたしは賭けに勝った! コンソールのボタンに手を伸ばし、エリーゼは『情報機雷』のコンテナを解放する。

 

 それは一辺が30cmの立方体。その角にアンテナのような8つの接触センサが生えている、という外見だ。コンテナには数十個が収められ、ガス圧によって機体前方120度の範囲に投射される。

 

 機雷といっても高性能爆薬を内包しているわけではなく、物理的な打撃力は皆無。モビルスーツの装甲を貫通するどころか、ノーマルスーツを着た人すら殺傷しえない。小さく、脅威たりえないデブリを撒くだけ。だから、誰もこんなものを避けようとは思わない。

 

 だが、それは彼女が考えた仕様の通りだ。装甲に覆われた頑丈な機体構造に対して物理的な破壊を企図したものでなく、システムの脆弱性を狙い撃つ機雷。

 

 ミノフスキー粒子散布下でも利用可能な、機体を接触させての通信。

 ティターンズも連邦軍の一部であり、機体制御に利用するOSは共通している。

 モビルスーツに搭載されている学習型コンピュータは、定期アップデートを繰り返す。

 

 ならば、そのアップデートを偽装したウィルスプログラムを接触回線で注入すると、どうなる? OSの対ウィルス防疫機構は、エゥーゴもまた連邦の一部である以上———十二分に、知り尽くしている。

 

 思想がどうであれ、機体そのものは友軍。エゥーゴ上層から辛辣と評された毒。それがエリーゼの『情報機雷』だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 この期に及んで引っかかるわけがないバルーンダミーを見て、往生際の悪いパイロットだと相棒が舌を打つ。敵増援の牽制に向かったブラボー小隊が思いのほか苦戦しているという報告に、デルタ小隊長の中尉も少しだけ焦れていた。

 

《こちらチャーリー・ワン。デルタ、ずいぶん手間取ってるな!》

 

 なかば揶揄するような色を含んだ問いかけに、皮肉屋の中尉は自尊心を傷つけられたのか歯噛みしながら部下に突貫を指示する。アッシュは規定通り戦闘力の過半を喪失した敵へ、救難チャネルで降伏勧告を送ることをちらりと考える。

 

 しかし相棒は衝動のままに突入し、ダミーバルーンのひとつを跳ね除け———そのままの姿勢で機体が硬直した。

 

《なんだ!? いったい何が起こっている!? 機体のコントロールが!》

 

《ツー、何があった!? 今行く、報告しろ! アッシュ、続け!》

 

「了解!」

 

《チャーリー・ワンよりデルタ、天頂方向から援護に入る。何かヤバそうだ、各機警戒せよ》

 

 士気が高い軍隊は、絶対に仲間を見捨てない。逆に言うと、仲間を見捨てる軍は士気が低く、容易に敵の調略に乗ってしまう。ティターンズとは、言うまでもなく前者である。

 

 軍歴のない者は損切りをせずに二重遭難のリスクを冒すのは愚かだと断ずるが、それは非人間的なリスクマネジメント理論に身勝手を装飾した戯言だ。窮地の仲間を見捨てる者は、次に見捨てられるのが自分かも知れないという想像力を欠いている。

 

 戦場で互いに命を預け合う者たちの紐帯とは、ロマンチックな幻想ではなくシビアな現実主義が導く帰結なのだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 だが、どんなものであっても———それがいつでも正しいとは限らない。エリーゼの毒はそういう者たちへ向けた冷笑であり、嘲笑であり、痛罵。

 

《あは、あはははははは!》

 

 救難チャネルの近距離通信から、だしぬけに若い女の哄笑が耳朶を打つ。アッシュが『リック・ディアス』のパイロットと声の主を結びつけた時、彼もまた毒の餌食となった。

 

 割れ響く鐘のような狂笑とともに『マラサイ』の全周モニタに異変が生じる。ダミーバルーンを大量に散布されたように、前後左右、上下までも敵機が続々と表示される!

 

《こちらデルタ・ツー、敵だ! 大部隊だ! 包囲されているぞ!》

 

《こんな馬鹿なことが...!? どこから出てきた、ありえない! 撃たれている!》

 

《ははははは! あははははははは!》

 

《この声は誰だ!? 誰が笑ってい——》

 

《ブラボー・ツーがロスト!》

 

 わずか数秒でティターンズの二個小隊が、六人のプロフェッショナルが混乱の坩堝に叩きこまれる異常事態。悪質なジョークというより、悪夢に近い何かだ。アッシュは敵がコンピュータに介入し、虚像を表示させているのだろうという推論を立てる。

 

 しかし、たちの悪い手品のタネが割れたところで虚像の中に紛れて反転攻勢に出た『リック・ディアス』の女を識別することはできない。いや、仮に識別できたとしても———虚像の大部隊から放たれるビームの弾雨をかい潜らずにいられない。虚実の判別がつかない以上、すべて避ける覚悟で動き続けなければ本物の弾に落とされる!

 

「あーっはははは! 踊れ踊れ、ティターンズ!」

 

 混沌の戦場でただひとり機雷の効果を受けていないエリーゼは、全能感に満たされていた。生殺与奪の権利を手中にする神になったような高揚に頬を染め、見当違いの方向にライフルを向けたり滅茶苦茶な回避運動を繰り返す者たちを嘲い、手近な者からバズーカの砲口を向けてトリガーを引く。

 

「パパ、ママ! サイド2のみんな! あたしのすべて! 全部ぜんぶ、お前たちが!」

 

 死ね、死ね死ね死ね! 燃えてしまえ! そして償え! 

 

《ふざけるな! 全部、お前たちが始めた戦争だ、スペースノイド!!》 

 

 エリーゼの叫びに応える怒号は強烈な横殴りの衝撃とともに彼女の意識を一瞬飛ばす。衝撃の源を視線で探ると、破損したメインカメラの視界を補填するサブカメラの粗い画の中に赤いモノアイが光っていた。

 

《見つけた、見つけたぞ! 仲間の仇! 僕の...俺のすべてを返せ! いますぐに!》

 

 無機質なはずのモノアイに、どす黒い炎が見えたのは錯覚だろうか。言い知れない恐怖に突き動かされ、エリーゼはフットペダルを踏み抜くように押し込んでスラスターを最大噴射して『マラサイ』を引き離そうとする。それに抗うアッシュもまた、同様に加速し———二機はもつれあったまま、月軌道から離れて行った。

 



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第十一話

 モビルスーツの動力はミノフスキー・イヨネスコ型熱核反応炉によって、年単位での供給が可能です。四肢を動かしたり、コクピット内のモニタや各種のセンサーを動作させることについては、よほど特殊な状況下でなければ心配する必要はありません。

 

 ベルファストでパイロットの初等訓練を受けていた頃。座学の講師はきれいなクイーンズの発音と眠気を誘う語り口で話す、上品で穏やかな老紳士だった。続けて彼は指を立てて言った。『しかし諸君、注意することです。機体の推進剤と空気は動力とは別でありますよ』と。

 

『諸君、よろしいかな? 宇宙空間で戦うモビルスーツパイロットは、帰還不能点を常に意識しなくてはなりません。見極めることが大切です』

 

『諸君は死ぬためではなく、生きて、諸君の子供たちが平和の中に暮らすためにこそ、戦うのです。では、今回の講義はここまで』

 

 帰還不能点、ポイント・オブ・ノーリターン。旧世紀の軍用航空機であっても、最新型のモビルスーツであっても———燃料や推進剤という要因が作戦行動限界を規定するのは変わっていない。

 

 アッシュの『マラサイ』は『ハイザック』と比べればより長時間の作戦行動が可能になっているが、艦船のそれとは比較にならない。ましてや、いまの彼は哨戒飛行とは推進剤の消費量が桁一つ違う戦闘機動を行い、その上で暴れ馬のようにもがきながらスラスタを最大噴射する敵機を捕獲しようとしている。

 

 だからポイント・オブ・ノーリターンは、とうに過ぎ去っていた。しかし直線的な軌道で帰還できないことは、さほど大きな問題ではない。宇宙空間であれば航空機のように墜落することはないからだ。

 

 母艦である『クレメンタイン』は月のフォン・ブラウンを見下ろす軌道に位置している。最短距離での帰還が無理なら、月を一周して戻る軌道に乗せれば済む話だ。これだけ加速を続けてしまうと減速に使用する推進剤が心もとないが、それも味方モビルスーツの手を借りることで解決できる。

 

「いま、いちばん大事なのは…こいつを逃がさない事だ」

 

 エゥーゴはモビルスーツの全周モニタを制御するコンピータに、実在しない敵を描画させるウィルスプログラムを作ったのだろう。あの『リック・ディアス』が背負っていたコンテナに詰められていたのは、そういう兵器だ。

 

「たぶん、大量の敵機をむりやり描画させる処理速度を優先した結果として、赤外線映像の方まで作り込んでいなかったんだ…くそ、こいつどこまで逃げる気だ!?」

 

 タネが割れてしまえば、ごくつまらない手品だった。ウィルスの中身を解析したら、きっと大部分は訓練シミュレータ用のプログラムを転用したものだろう。だが、その効果を体験した者として言えば———十分以上に脅威たりうるものだ。

 

 ある程度の経験を積んだパイロットなら、敵モビルスーツの挙動に不自然な点を見出せる。しかし、すべてが虚像ではなく本物の敵が紛れているところが悪辣だ。

 

 アッシュがこのウィルスの仕掛けに気付けたのは、まったくの閃きだった。そして全周モニタの設定を戦闘中にデフォルトから赤外線映像へ切り替えられたのは、機体受領から出撃前まで機体パラメータや設定画面をいじり回していたおかげだ。

 

 赤外線で映した場合、画質の粗いモノクロ映像になるが虚像の大軍に惑わされずに済む。急場をしのぐ打開策としては十分と言えたが、ごく短時間でそのような操作が可能な者がどれだけいることだろう。

 

 もっと大規模に、たとえば地雷や機雷源のように散布されたら? 守勢ではなく攻勢戦術にも活用方法が見出されたら? ウィルスの情報は必ず報告しなければならない。ミノフスキー粒子がそうだったように、戦争の仕組みを変えてしまう危険すらある。

 

 ティターンズがそのパラダイムシフトに追いつけなかったら、いったい誰が地球圏の安全保障を担えるというんだ。

 

「エゥーゴのパイロット、聞こえるか! もう貴官に勝ち目はない、投降しろ!」

 

《誰が投降なんてするもんか! 人殺しがあたしに触るな、ティターンズ!》

 

「我々は捕虜へ南極条約に準拠した待遇を保証している! その機体でスラスタの噴射を続ければ、熱融解で自爆するぞ! 無駄死にしたいのか!?」

 

《そんなでまかせで、騙されるとでも思っているのか!》

 

「嘘なものか! 機体の熱分布を確認しろ、そんなことも知らないでパイロットのつもりか!?」

 

 ウィルスプログラムの情報源として、このパイロットをどうにかして連れ帰りたいアッシュだが、軍人としてもパイロットとしても、ど素人丸出しだ。そのうえ、苦手なタイプの女ときている———もっとも、得意なタイプなどいるはずもないが。

 

 女の返答を待ち、じれったい時間が流れる。回線を開いたままの通信に耳をすませば「どうして」「なんで」という独り言と、せわしなくコンソールを操作する音が小さく聞こえた。

 

「状況が理解できたか? こちらで見る限り、貴官の機体は限界寸前だ。最後の勧告だ、投降しろ。承服しない場合…そちらを撃墜する」

 

《…投降、する》

 

「よし。武装を解除し、フライトレコーダのメモリを持ってハッチを開いて両手を上げて出てこい。互いのために、おかしな真似は控えるよう忠告する」

 

 了承の返事ではなく、舌打ちの音がしたのは聞き間違いではないだろう。往生際の悪いやつだ。ウィルスの情報を確保したいという思惑があるので、善意で救出したと言い張るつもりはない。だが、放っておけば間違いなくMIA(戦闘中行方不明)リストに名を連ねる羽目になるところを助けてやったのに、という思いも偽りない本音だ。

 

 そんな気持ちを飲み込んでアッシュが『リック・ディアス』の側頭部にあるコクピットハッチから目を離さずにいると、損傷でヒンジが歪んだのか爆発ボルトで強制排除された円形のハッチが吹き飛んだ。

 

 逆光の中に、女のほっそりとした輪郭が浮かぶ。飛来する破片に対して、ある程度の防御性を有するパイロットスーツを着ていても、なお細い。彼女がモビルスーツの首元に立って両手を上げる姿を確認した彼は、制式拳銃のスライドを引いて弾丸の装填を確認してからシートベルトを外し『マラサイ』のハッチを開放した。

 

「いまからそちらに行き、拘束させてもらう。抵抗するな」

 

《あたしも、この子も…そんな元気、もう残ってないわ》

 

 機体を軽く蹴り、パイロットスーツのバックパックに内蔵された推進装置でエリーゼの元に飛んだアッシュは『リック・ディアス』の脚部スラスタを見て眉をひそめた。すでに装甲の一部が白熱化して融解が始まっている。噴射の制御ができない状態だとしたら———かなり厄介だ。

 

 しかし、急ぐあまり手順を飛ばして相手につけ入る隙を与えては本末転倒。決断したなら迅速に行動する。それが最も確実で安全だ。

 

「通告する。これより貴官は我々の捕虜となる。捕虜には南極条約に準拠した待遇を保証する。これより貴官を拘束するが、抵抗なきよう願う。やむを得ない場合、貴官を射殺する」

 

《通告を受け入れる…お約束はこれでいいでしょ。するなら早くして》

 

「この機体はもう持たない。急いで離れるぞ」

 

 大人しく樹脂製の手錠をかけられた女だが、憎まれ口をたたく体力は残っていると見えた。アッシュは彼女の腋と腰、脚とブーツの順にボディチェックを手早く済ませ、脚のポケットからマルチツールのナイフを見つけて放り捨てた。

 

「手間をかけさせるな。必要なら、躊躇せず射殺する」

 

《好きにするといいわ。あんたたちは人殺しが仕事なんだから、そうしたらいい》

 

 彼にとってティターンズとは、自身の誇りより尊重されるものだ。部隊に対する侮辱は断固として許容できないが、そのような状況でもない。殴りつける代わりにエリーゼの体を乱暴に突き飛ばし、二人は『マラサイ』のコクピットに向けて短い距離を飛ぶ。

 

「いいか、言葉に気をつけろ。部隊への侮辱は許さない。捕虜への暴行は禁止されているが、脱走を企図する言動に対する規定はない。いつでも貴官を射殺できることを忘れるな」

 

 開けたままのコクピットハッチに取りつき、先にエリーゼが内側に押し込まれた瞬間。彼女の『リック・ディアス』は熱的限界を超えて融解した脚部スラスタ基部が球形の炎とともに爆発し、その破片が榴散弾のように二人を襲う。

 

「まずい! 伏せろ!」

 

 濃密な対空弾幕を思わせるそれはアッシュの体にいくつか食い込み、ヘルメットのシールドバイザーが砕かれる音とともに———彼の意識は暗転した。

 




この連休は、ひとつ温泉にでも浸かりながら作品の構想でも練ってやろう。
ふふん、なかなか良い塩梅じゃあないか…と、文豪ごっこに繰り出しました。

ですが、入り慣れていない温泉に身を浸すと…もう、これが実に良い気分で。
あんまり良い気分過ぎて、なんにも考えられませんでした。
これじゃダメだ、ごっことはいえアイデアのひとつも出ないのは格好がつかん。

そう思って布団の上を転がることしばし、天啓のように降りてきたものは…

『ええっ、島耕作が宇宙世紀に転生なのかいカツオ君!?』というマスオさんの声。

アナハイムの子会社に入社した島耕作が、ビスト財団の未亡人の情夫となることと
引き換えに出世街道を歩きだす。
一年戦争が始まる直前に兵器開発部門の課長補佐として本社勤務の辞令を受け、
ミノフスキー博士の亡命やV作戦の立ち上げに尽力する島耕作…!
あとデラーズ紛争の時にはシーマ・ガラハウと一夜を共にする島耕作!
やばい、すげえ読みたい。

だれか、書いてくれませんかね?


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第十二話

 負傷などで短時間に多量の血液を失うと、出血性ショックに陥ることがある。その初期症状は呼吸回数の増加、脈拍の増加、青くなっていく皮膚の色だ。サイド7の救護所でも、サラミス級巡洋艦『サザーランド』でも、この状態は何度も見た。

 

 早急な止血と縫合などの処置を行わなければ、この男は意識を回復することなく失血死するだろう。男を救う技術は習得している。だが———

 

「だからってティターンズを助ける? あたしが? こんな、何人も殺してる男を?」

 

 突然自分の上に覆いかぶさった男を押しのけ、その意図と状況を飲み込んでもなおエリーゼは困惑していた。

 

 ティターンズがサイド1の30バンチで行った、残虐や酸鼻という表現でも言い足りないほどの行為を知れば、誰だって目の前の男を助けようなどと言わないはずだ。人命が尊いのなら、それを無為に浪費する戦争を続ける者たちは何なのだ。

 

 宇宙世紀0079年から今日まで6年と少しの間、戦争に関係なく天寿を全うできた者はそうでない者の何分の一だろうか。

 

 『ブリティッシュ作戦』で殺された家族を含めたサイド2の住民たち、そのコロニーが落ちたオーストラリア東部の住人。その衝撃で発生した津波やコロニーの破片で死傷した者や気象の激変による二次被害。デラーズによって落とされたコロニーもそうだ。北米大陸の住人や穀倉地帯が甚大な損害を受けたことによって飢えた者も相当数に上る。

 

 そして、30バンチの1500万人。これだけ多くの非戦闘員の人命が失われたのだ。ジオンもデラーズも憎いが、ティターンズも同じ穴の狢だ。この男を見殺しにしたところで死者が生き返るわけではないが、そうしたところで誰が自分を責められるだろう?

 

「いい気味だわ。そうに決まってる。こんな連中、死んで地獄に落ちて当然なのよ!」

 

 吐き出した言葉は、誰の胸にも刺さらず彼女の胸だけをえぐった。大切な者を失う悲しみを嫌ほど味わい、そのために復讐を決めたのだ。それなのに、なぜ記憶の中にいる両親は笑ってくれないのだ。なぜ養父母のイズミカワ夫妻は悲しそうな顔をするのだ。

 

「あたしは今、こんな手錠で自由を奪われている! 銃だって向けられたのよ! どうして助けなきゃいけないのよ!? こんな状態で手当なんかできっこないじゃない!」

 

 鋭利な金属片が刺さったままの男。割れたヘルメットから見える顔色は、先ほどより青い。設備も道具もないこの場所では、一刻を争う状況だ。それに、気のせいと思いたいが———爆発の時にこいつは「伏せろ」と言った。まさか、ティターンズにかばわれた? 誰が? あたしが!?

 

「……ああ! もうっ! これで死んだら、絶対に許さない!」

 

 昏倒したまま意識が戻らないアッシュの装備を漁って手錠のカギを手に入れたエリーゼは、両手を自由にすると彼と自分のパイロットスーツに収められている救急キットを取り出した。

 

「サバイバルキットの場所はティターンズだってシートの裏で変わらないはず...あった。これだけあれば、なんとか...もう、本当に何やってるのよあたし...」

 

 手技の邪魔になるパイロットスーツとインナーウェアの上半身だけ脱ぎ、それを救急キットのハサミで切って止血帯や血を拭うための布切れを作った。続いてひじから先をスプレー式の消毒液で滅菌するが、その間エリーゼはずっと心の中で思いつく限りの悪態を並べていた。ティターンズの人殺しめ、これで死んだら絶対に許さない。

 

「聞こえてないだろうけど、これからあんたの止血をする。南極条約とやらに抵触するんなら、あたしを撃ち殺せばいい。それじゃ、始めるからね」

 

◇ ◇ ◇

 

 処置の完了と、集中力と体力の限界を迎えるのはほぼ同時だった。腕に二か所、わき腹に一か所、脚に一か所の計四つの破片を抜いて止血したエリーゼは血まみれの手を拭うと深いため息をついた。

 

「……なんなのよ、こいつ。こんな傷だらけで、よく今まで死なずにいたわね…」

 

 感染症を予防する抗生物質や電解質が入っている輸液パックと電池駆動の使い捨て投与ポンプを接続し、そこから伸びる透明なチューブ先端の針をアッシュの腕に差し込みながらエリーゼはもう一度ため息を漏らす。止血のためにパイロットスーツを脱がし、彼のアンダーウェアを切って処置したが———たくさんの火傷と切り傷の縫い痕、解放骨折の治療痕もいくつか。

 

「訓練中のもの…だけじゃあないでしょうね」

 

 そして胸に下げたドッグタグの鎖に通されている、女ものの指輪。

 

「結婚してたのかな…」

 

 花嫁に憧れていた昔の自分を思い出し、エリーゼは首を振って膝を抱える。自分のバージンロードに付き添ってくれる両親は、この世のどこにもいなくなってしまった。結婚を報告する墓すらないのだ。誰が祝福してくれるというんだ。

 

 ポンプを通して男に少しずつ投与される輸液パックの残量を眺めながら、エリーゼは二つ目のパックを自分の腹にあてて温めることにした。体温より冷たい輸液は弱った患者の体力を削るからだ。

 

「撃墜するのも撃ち殺すのも、望むところよ。だけど、ただ死んで楽になるなんて許さない。そう簡単に指輪の持ち主のところになんか、行かせてやるもんか…」

 

◇ ◇ ◇

 

 目覚まし時計のアラームに似た電子音が耳元で鳴っている。ベッドに潜り込んだ記憶がないのに、いつのまに眠っていたのだろう。何か夢を見ていたような気がするが、思い出せない。それに寝ていたはずなのに、やけに体が重くて頭もスッキリしない。

 

 ティターンズのパイロット課程で二週間のサバイバル訓練があったが、その時に貧血を起こした時のような状態だ。いや、待て。僕は作戦行動中だった。捕虜を確保して———そうだ、捕虜だ! あいつはどうなった? ここはどこだ!?

 

 勢い込んで上半身を起こしたアッシュは、その勢いでふわりと前方に回転し全周モニタの壁にぶつかった。

 

「…ふん、お目覚め早々に元気なことね」

 

 険のある女の声に振り向くと、パイロットスーツの袖を腰で縛り、アッシュブロンドの髪を長く伸ばした女が膝を抱えて浮いていた。

 

「…あなたは…?」

 

 

 そう言ってから、アッシュは自分が間の抜けた質問をしてしまったことに気付く。他に誰がいるというんだ。

 

「あんたの捕虜よ」

 

 論理的に考えるまでもなく、そんなことは自明だ。しかし、確認しなくてはならない。そんな強迫観念に近い思いが次の問いを口にした。

 

「僕…自分の手当をしたのは、あなたか?」

 

「他に誰がいるのよ。ああ、手錠は外させてもらったけど、脱走を企図した行為に含まれるのかしら? それと、『あなた』なんて呼ばないで。さっきみたいに『貴官』とか、『お前』とか言えばいいじゃない。ティターンズなら、それらしくしたらいい」

 

 まだ頭がうまく回らない状態のアッシュは、狭いコクピットのシートの向こう側で膝を抱えて目線を合わせようともしない女に対して、どんな態度を取ればいいのだろう。

 

 腕やわき腹の傷は丁寧に縫合されている上、輸液までされている。この場で処置できる最善の手当を受けたのは明らかだ。命を救われたと言って過言ではないだろう。

 

「…自分はユージン・マクソン准尉です。貴官の姓名を教えてくれませんか」

 

「それは尋問かしら? だったら、拷問されたって教えないけどね」

 

「いいえ。貴官を捕虜として確保しましたが、尋問は任務ではありません。軍人ではなく、人間として貴官に感謝しています」

 

「……エリーゼ。エリーゼ・イズミカワ軍曹」

 

「イズミカワ軍曹、貴官のおかげで命を救われました。心よりの感謝を」

 

「ティターンズに言われても嬉しくないわね。あんたが死んで楽になるのが気に入らなかっただけよ、マクソン准尉」

 

 捕虜に命を救われてしまった。それは想定の外だが、そのような状況はあるだろう。そして捕虜が非友好的なのは当然のことだ。しかし、非友好的な捕虜に命を救われたという現状は———どうしたものか。個人的な恩と軍務は切り離して考えるべきだ。

 

 もし彼女が軍法で裁かれることになるのなら、ささやかながら量刑が軽くなるように手を尽くすことで恩に報いる。マクソン准尉ことアッシュはそのように結論し、麻酔のせいか少し痺れる手でパイロットシートに座った。

 

 モビルスーツの全周モニタは機体の構造が許す限り大きく作られているが、これは居住性を良くしようというものではなく下方視界を確保するためだ。戦闘中のモビルスーツが被弾する大きな要因が、背後と下方からの攻撃という統計データがある。

 

 地上で生きていた人類の性質的に、正面と側面および上方については警戒心が十分に発揮される。だが背後は視野が及ばず、下方は本能的に警戒心の漏れ穴となる。ゆえに、パイロットの腕やシートの陰による視野の影響を可能な限り妨げないよう、ルックダウン性を考慮した設計となっている。

 

「イズミカワ軍曹は負傷していないのですか?」

 

「悪運は強い方なの…なにしてるの?」

 

「貴官を捕捉しようとして、かなり推進剤を使いました。PoN(ポイント・オブ・ノーリターン)を過ぎていますから、機体状況とあわせて月を周回して母艦へ帰投する軌道を計算しようかと…」

 

「現在位置、これって...」

 

「…機体も、ひどい状況だ...」

 

 モニタに表示させた『マラサイ』は、エリーゼの機体が爆発した衝撃でひざから下が吹き飛び、頭部のアイカメラと角状のブレードアンテナに深刻な損傷があった。背部ランドセル上部にマウントされた推進剤のプロペラントとメインスラスタは無事だが———

 

「こんなことって、あるの...?」

 

「軍曹、僕の手当にどのくらい時間がかかった? 僕が目を覚ますまで、何時間かかったんだ?」

 

「…四時間、くらいだと思う。それが…」

 

「君の四時間で僕は命を救われた。でも、その四時間で…僕らは、命を落とすことになるかもしれない」

 

 自重を超える推力を出すモビルスーツのスラスタは、最大噴射すると地球の1G環境であっても短時間の飛行を可能とする。あのとき、アッシュとエリーゼは二機で同じ方向へ互いの推力を足し合わせて加速した。

 

 元々の月軌道を周回しながら戦闘していた速度に、機体の熱的限界を超過した推力を上乗せしてしまったのだ。軌道を離脱してしまうデルタVを得るのは必然ともいえた。でなければ、今ごろは月に新しいクレーターを作り終えている。

 

「信じたくないけど...僕たちは、月軌道から離脱して...漂流、してる...」

 




切りの良いところまで、と思ってたら時間かかっちゃいました。
ようやくタイトル回収し、本編スタートといった感じです。


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第十三話

「漂流? 旧世紀の航海じゃないんだから、そんな馬鹿なこと…」

 

「事実だ。現に、この機体は月軌道を離脱してる」

 

「救難信号を出せば済む話よ。ティターンズでも連邦でもエゥーゴでも、受信したら救助するのが協定でしょう?」

 

「機体の状態が万全なら、どこかの艦が受信してくれているかもしれないがアンテナが根元からへし折れてる。それに月周辺は…残留ミノフスキー粒子や戦闘で遺棄された機体や軍艦の残骸なんかでデブリだらけだ」

 

 一年戦争終結後、地球と月の軌道上には気が遠くなるほどのスペース・デブリが散乱していた。それは激戦を物語るモニュメントと言うには、あまりに膨大で有害だった。地球軌道は大気圏に落として焼却できる物も多かったが、月ではグラナダやフォン・ブラウンなどの月面都市に落ちる危険があった。

 

 そのため、軍民問わず有人・無人の回収艇やモビルスーツなどを大量に動員して戦後処理に努力したが———総人口の半分が死傷する戦争の直後なだけに、人も企業も疲弊していた。暗礁宙域と呼ばれることになったガラクタの海を片付けるより、自分たちの生活を立て直す事に各種のリソースを集中したのだ。

 

 その判断は合理的だったが、結果的に正しかったのかは分からない。なぜなら、宇宙世紀0083年の地球圏に衝撃を与えたデラーズ・フリートが、そうして手つかずだった暗礁宙域に『茨の園』を作り、花開いた怪物だったからだ。

 

 紛争後に結成されたティターンズの最初期目標は、そういった暗い苗床から第二のデラーズが芽吹くことを阻止するためであった。しかしそれは『暗礁宙域の撤去』ではなく『敵が現れた時の迅速な撃滅』という方向に進められることになった。理由は、アナハイム・エレクトロニクスをはじめとする軍産複合企業の利益である。

 

「…結局のところ、軍は政府に支配されて、政府は企業に逆らえないってこと?」

 

「地球連邦は議会制民主主義だ。企業も市民である以上、議会は有権者の意向を汲む責任がある。独裁だったジオンとは違う。スペースノイドは全体主義に染まりやすい。ティターンズが地球と人類を守るために結成されたのは、そういうためだ」

 

「言ってくれるじゃない、あたしもスペースノイドよ。だけど全体主義なんてクソ喰らえだわ。ジオンはあたしの家族をサイド2ごと地球に落としやがった。殺してやりたいほど憎いと思ってる」

 

「…僕だって似たようなものだ。故郷をジオンに焼かれたよ。だから軍に入った。デラーズ紛争の時はソーラレイの護衛部隊で宇宙にいたよ…あんなのは、まともじゃない。まともな人間のやる事じゃあ、ない…!」

 

 一年戦争が始まる以前には、地球連邦政府から差別的な圧政を受けていたコロニー住民たちは、自分たちは棄民なのかと悲観論に傾き始めていた。思想家であり政治家であったジオン・ダイクンは、コロニーを故郷とするスペースノイドこそが次世代の人類『ニュータイプ』へ繋がると語り、時代の変革は辺境から始まると説いた。

 

 そしてザビ家の扇動者たちがジオンの思想を歪め、自らこそが優良種であると喧伝するに至った。旧世紀の歴史に悪名高いナチ党の手法を模倣したと史学者は分析したが、歴史がこうも短期間のうちに繰り返されるとは予見していなかっただろう。

 

「でもね、准尉。あんたたちティターンズだって同じだわ。30バンチでやったことを忘れているとは言わせない」

 

 サイド2『アイランド・イフィッシュ』でジオンが行った毒ガス注入という蛮行は、わずか数年後にサイド1の30バンチで繰り返されたのだ。

 

「30バンチは第二のジオンになり得る存在だ。軍曹、理性的に考えてみろ。コロニーが自治以上の権利を持てば、それを振りかざして必ずまた戦争になる。庇護を搾取と取り違えて、身勝手な独立論を唱える連中に未来を託すのか? 馬鹿げてる!」

 

「だからって非戦闘員の市民をガスで殺すことが正しいと思ってるの? 見せしめに1500万人を殺して、それが正義だと!? 市民を殺して、何を守るの? あんたは軍に入隊するとき、なんて宣誓したのか覚えてないの?」

 

 一般職の公務員でも軍人でも、連邦政府に属する者は服務の宣誓を行う。法秩序と市民への奉仕、そして職務に誠実であることを自らの良心へ誓う。また軍に限定されるが、忠誠の誓いも宣言する。

 

「ベルファストで宣誓した日のことは忘れちゃいない。良心に恥じるところなんかあるもんか。1500万もの人が死んだのは痛ましい事だけど、彼らは市民じゃあない。少なくともティターンズはそう判断した。その判断が正しかったかどうかは、後世の歴史が判じてくれるだろう」

 

「よくもそんな…ッ!」

 

「よくも? 考えてみろよ。第二のジオンが30バンチで生まれて、サイド3の連中と野合し、また戦争が起きたらどうなる? 後世の歴史どころか、今度こそ地球もコロニーも人が住めない死の世界になる。ティターンズは人類社会のために必要だと判断した。軍人である僕にとっては、それで十分だ」

 

 エリーゼは淡々と語るアッシュに怒りを感じる。だが、その怒りはどこに向かうものなのだろう。彼の言うことの全てではないが、一部は自分にも理解———むしろ共感できる。けれど、戦争で大切なものを失った痛みを知る人間が、同じ思いをする者を増やす行為に加担して良いはずがない。

 

「…マクソン准尉。あんたには、あたしが何に見えるっていうの? スペースノイドだけど、あんたには人間じゃあないように見えるの!?」

 

「…君は軍人だ、軍曹」

 

「軍人である前に人間よ! あんたは人間やめてティターンズの犬になったの!? 自分で考えずに、ジャミトフやバスクなんてろくでなしの言いなりになって、それでいいの!?」

 

「…いいだろう、本音を言ってやる! 僕はジオンが憎い! スペースノイドが憎いんだ! 故郷と家族と僕の全部を奪った、おまえら宇宙人が心の底から憎いんだよ!! 何百万人くたばろうと知ったことか!!」

 

 衝動的に銃を抜こうとして、パイロットスーツを脱がされていたことを思い出したアッシュはエリーゼの細い首を掴んで指を食いこませる。

 

 皮膚から伝わる指先の熱と圧力に、エリーゼは彼がその気になれば容易く骨を砕かれるだろうと知る。だが死ぬことは彼女にとって些細な問題に過ぎない。自分の体が取り返しのつかないところまで壊れてしまっているのは、看護師の教育を受ける前から気付いていた。

 

 静かに暮らせば、おそらく十年は生きられるかもしれない。いまの暮らしなら、二年もてば上々というところだ。ならば、思うままに生きて死のう。戦争で自分以外の全部をなくしたのだ。生き延びたところで、誰が待っていてくれるのか。

 

「なんとか言ってみろよ、軍曹!」

 

 瞳を燃やして自分を真っすぐに睨み据えるエリーゼに、怯えの陰は見えない。血流が滞って顔色を失っても、射殺すような光だけは衰えずに輝きを増すようだ。その眼はどこか、遠い昔に見たような色をしている。

 

 彼女の首を掴む自分の腕には、いくつもの傷跡がある。誰のものでもない、自分の腕だ。どの傷がいつのものか、すべて覚えている。だが、この真新しい傷は? これを縫ったのは誰だ? この傷を縫って、命を救われたのは誰だ?

 

「……なぜ、僕を助けた?」

 

 エリーゼの瞳の色と、縫合された傷の存在がアッシュの力を揮発させた。手を振りほどき、背を丸めて咳きこむ彼女の姿に言い知れない罪悪感を覚える。

 

「……すまない。感情的になりすぎた」

 

「げほっ…スペースノイドが憎いのに、どうして謝るの? あのまま、あたしを殺せば良かったじゃない」

 

「違う、君はスペースノイドだけど、命を救われた。君こそ、どうしてティターンズの僕を助けた?」

 

「そんなの…あんたに、あたしは庇われたから…借りを返した。それだけ」

 

 二人にとって、お互いは復讐を誓った憎むべき敵。

 しかし、二人にとってお互いは命を救われた者でもある。

 

「そうか…なら、一時休戦しないか?」

 

「妥当ね。この状況で殺し合うのは、さすがに馬鹿らしいわ」

 

 どちらからともなく右手を差し出し、休戦を受け入れる二人。

 その表情は、どちらも困ったような苦笑だった。

 



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第十四話

 思えば、最後に女性と握手したのはいつだろう。部隊の仲間と拳をぶつけあったり、整備クルーとハイファイブをすることは日常だ。しかし目を合わせて手を握るという、政治的というか儀礼的な交流は将校でもなければ縁遠い。

 

 それに、なんて小さな手だ。自分の手がごつい革手袋のように思えるほど小さくて細い手だ。なのに、温かくて力強い。

 

「…なによ? あたしの手に、何か変なものでもついてる?」

 

「いや、そうじゃない。その、なんというか…すまない。この手が僕を救ってくれたのかと思うと…」

 

「天使の指先みたいだって?」

 

「そんな詩的な表現は出てこないが…言われてみれば、そんな気がするな」

 

「ちょっと、冗談を真に受けないでよ。相手と状況考えて。あたしは敵よ?」

 

 しげしげと自分の手を見られる気恥ずかしさを誤魔化すために言った軽口をすんなり肯定され、エリーゼはアッシュの手を振り払う。骨ばっていて、万力のような手だ。モビルスーツの操縦スティックを握るパイロット特有のタコが分厚く盛り上がっていて、それだけで技量の程がうかがえた。

 

「…それより、軌道計算はどうなってるの?」

 

「カメラが赤外線でしか使えないから観測精度は良くないけど、僕らはゼダンの門の近傍を通過する軌道を飛んでいるようだ」

 

「ゼダンの門?」

 

「旧ジオンのア・バオア・クー要塞だ。いまはティターンズの拠点になってる」

 

「それで、どのくらいで着くの?」

 

「……軌道を離脱する時に、月の重力にかなり速度が食われた。現状で、約2週間という計算になる」

 

「残ってる推進剤で加速したらどう?」

 

「その場合……ええと、9日まで短縮できるようだ…だけど」

 

 コンソールを操作しながら、アッシュは全周モニタに観測と計算によって導かれた軌道図をウィンドウ表示させて、地球と月、そして要塞やコロニー等の概略図と重ね合わせる。

 

「だけど?」

 

「二人分の水と食料、そしてコクピットの空気が持たない」

 

 モビルスーツを旧世紀の兵器で表現すると、航空母艦に搭載される戦闘攻撃機だ。母艦を中心に運用し、そこで適切な整備と補給を受ける前提で設計されている。増加プロペラントを装着して推進剤の携行量を増やしても、それは作戦行動半径を広げるためのものであって長期にわたる単独飛行は考えられていない。

 

 ゆえに、コクピット内に糧食を温めるレンジやドリンクサーバを備えたモビルスーツなど、あるわけがない。

 

「ひとりなら?」

 

「機体に積まれているのは、知ってるだろうけど食料も水も3日分だ。空気中の二酸化炭素を酸素に還元する触媒フィルタも、君らの機体と同じ規格だ」

 

「アナハイム製だもんね。じゃあ…ひとりだろうと、どのみち生き残れない…か」

 

「軍曹、先に言っておくぞ。僕は君が嫌いなティターンズだけど、命の恩人を見捨てるほど腐っちゃいないつもりだ。そして、この場において自己犠牲が尊い行為だとも思ってない」

 

「ずいぶんと人道的なティターンズもいたものね。帰ったら報告しなくちゃ」

 

「是非そうしてくれ。いいか? 不本意だろうが僕らは休戦した。二人で生き延びるか、二人で死ぬかのチームだ。どっちの船に救助されて、どっちの捕虜になっても恨みっこなし。そういうことでいいな?」

 

「了解。それでいいわ」

 

「じゃあ、さっそくで悪いんだが…チームメイトとしてひとつ、提案というか…頼みがあるんだ。ぜひ聞き入れて欲しい」

 

「なによ?」

 

「…その、言い難いんだけど…パイロットスーツを着てくれないか。下着姿でいられるのは…なんというか、目のやり場に困る」

 

◇ ◇ ◇

 

 人間というものは、相手によって鏡のように態度が変わる生き物だ。相手が友好的なら友好的に、敵対的ならばそのようになる。だから、アッシュにローティーンの初心な少年のような態度を取られてしまうと、エリーゼは羞恥を覚えずにいられなかった。

 

 男の前で生まれたままの姿をさらすことは何度も経験している。それに、戦闘艦に乗り込むパイロットは男女の区別をつけられるほど潔癖な環境で暮らしていない。

 

 『サザーランド』ではスーツの下に着るインナー姿で待機室の中をうろつくのは当たり前。色気のかけらもないオリーブ色のアンダーウェアが見えたところで、口笛を吹くような異性は一人もいなかった。

 

 それなのに、よりにもよってティターンズの士官から言われるとは。エゥーゴが寄り合い所帯で、軍紀が緩みがちだとは聞いていた。だが、敵からそんな指摘を『お願い』として受ける羽目になろうとは思いもしなかった。

 

「はい、着たわよ。もう目を開けてちょうだい」

 

「感謝する。場合によっては船外活動をすることもあるだろうし、スーツを着ておいてもらえると…いろいろ助かる」

 

 エリーゼはアッシュの肩の荷をひとつ降ろせたと言わんばかりの表情と、『いろいろ』という部分に多少思うところはあるが、状況を鑑みて追求しないことにした。

 

「船外活動って、何する気?」

 

「目的はふたつだ。ひとつは機体の応急修理。もうひとつは、この状況を改善できる資材の入手。僕のヘルメットはシールドが割れちまってるから、補修テープでふさいでも…あまり長く外に出ていられない。だから、君が頼りになる」

 

「なるほどね」

 

「コクピット内の空気は貴重品だ。無駄にできない。だから、船外活動は一度しか行えないと思ってくれ。そして、僕らが生き残るために君の助けが必要なことは、もうひとつある」

 

「あんたたちの機体をおかしくした仕掛けについて聞きたい、ってこと?」

 

「そうだ。機密なのは重々承知している。あのウィルスプログラムを解除できれば、通常のカメラを使って、もっと精度の高い軌道観測ができる。軌道修正の噴射の精度が上がれば、僕らが助かる可能性は今よりもっと高くなる」

 

 サイド7の救護所で、物資の乏しい中を苦心してやりくりしていた頃。後に養父となってくれたイズミカワ医師が『背に腹は代えられない』と何度も漏らしていた。本当に大事な目的の為なら、割り切らなければならないという東洋の古い格言だ。

 

 おそらく、今が自分にとってその状態なのだ。ひとりで死んで楽になれば、あとは知ったことではないと何もかもを放り捨てることは簡単だ。しかし、この面倒くさいティターンズはそれを許さないだろう。

 

「…少しだけ考えさせて」

 

 そう言って目を伏せたエリーゼを見て、性急すぎたかとアッシュは考えた。いや、そんなことはない。余計な口論で時間を使ってしまったのだから、状況の把握と適切な対策を考えて実行する事は優先すべきだろう。

 

 下着姿でうろうろされるのも、万が一コクピットの気密が漏れていた時に危険だからだ。彼女の曲線に目を奪われるからじゃない。彼女よりグラマーなポルノ女優なんて山ほどいる。

 

 だから、彼女の性格と同じくらい突っ張った胸の事は考えるな。オリーブ色の下着に浮いた汗の染みのことは忘れるんだ。これじゃあ盛りのついたローティーンのガキじゃないか。

 

「…頼むよ。それともうひとつ。エゥーゴの艦艇がこの辺を哨戒しているとか、そういう航路情報も知っていたら提供してほしい」

 

「ごめんなさい、そっちは知らない。パイロットの訓練と看護師の仕事にかかりきりで、他の艦がどんな作戦についているかは…ほとんど」

 

「かまわない。看護師でパイロットなんて、僕には務まりそうにない。それであれだけ動けたんなら、正直な話パイロットに専念されてたら…ここにいなかったかもしれない。飛行時間はどのくらいなんだ?」

 

「シミュレータで100時間、実機で120時間ってところ」

 

 肩をすくめるエリーゼにアッシュは複雑な心境だった。パイロットとして短くないキャリアがあり、ティターンズの実動部隊に所属している自分が、促成教育にすら届かない飛行時間の素人を落としきれなかったのか。

 

「たまらないな。君が同期だったら、きっと才能に嫉妬してた…まあ、それはいい。僕が把握している分だと、現在位置である月とゼダンの門の間は、ティターンズと連邦軍の共同哨戒エリアだ。でも、それほど厚いわけじゃない。薄く広く、という程度だな」

 

「続けてちょうだい」

 

「最も頻繁にこの宙域を通るのは、サイド3と月を往還する民間船籍のシャトルや定期便の貨客船だろう。残留ミノフスキー粒子の濃度次第だけど、彼らが救難信号を拾ってくれることを祈るしかないな。『冷たい方程式』よりは、いくらかましってくらいの状況だ」

 

「冷たい方程式?」

 

「旧世紀のSFノベルだよ…子供の頃に読んだ…麻酔が切れてきたのかな、傷が痛みだした」

 

 ぐっと奥歯を噛んで息を吐くアッシュを見て、エリーゼは内心で半分ほど呆れて、残り半分で安堵していた。もしかすると、痛みを感じない化け物なのかと思っていたからだ。四か所合わせて80針を超える裂傷を負い、輸液したとはいえ、かなりの出血で昏倒した人間が半日足らずで起き上がって平然と活動する

 

 そんなのは普通じゃない。輸血をして、最低でも三日は酸素チューブをつけて安静にしている必要がある負傷だ。人間ではなくて、まるでモビルスーツを操縦する部品のような気がしてくる。それなのに、おかしなところで紳士的———というより初心だ。

 

「残念ながら麻酔は使い切って残ってないわ。鎮痛剤は二回分あるけど、あんたの傷の痛みを消せるほどの効き目じゃない。あとは…賦活剤もあるけど、お勧めできないわね」

 

「…鎮痛剤はともかく、どうして賦活剤がいけないんだ?」

 

「麻薬だから。効き目も中毒性も高いやつね。あれの中毒になって資格を剥奪されたパイロットの話はよく聞いたわ」

 

「なんてこった。あれはビタミンなんかの栄養成分が入ってるんじゃなかったのか?」

 

「栄養成分も入ってる。それは嘘じゃないけど、主成分ではないってことね」

 

「ひどい話だ」

 

「ひどい話よ。戦争なんだもの、ひどい話に決まってる」

 

「…それも、そうだな」

 




三月中に完結できるな、なんて思ってました。
アカン(白目)


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第十五話

 会話が途切れてしまうと、コクピットの中はやけに静かだった。スピーカ出力にした救難チャネルの無線からは波音のようなホワイトノイズが流れ、全周モニタの正面には赤外線カメラによって輪郭がぼやけた月のモノクロ映像が表示されている。

 

「…情報機雷」

 

 色彩が欠けたモニタを背にして、エリーゼがぽつりと言った。道端の石ころを見て、石が落ちていると言うような平坦さで呟かれたせいで、機体の応急修理プランを考えていたアッシュには良く聞こえなかった。

 

「え? すまない、いま何て言ったんだ?」

 

「ウィルスプログラムのこと。あたしたちは情報機雷って呼んでる。モビルスーツの最適動作パターンのアップデートプログラムに偽装して、ニセモノの機影をモニタに表示させるように作られてる」

 

 コンコンとモニタの表面をノックしながら、ため息交じりに渋面を作るエリーゼは言葉を区切ってアッシュの反応をうかがった。顔の筋肉は兵士らしく固めているけれど、目が好奇心に満ちている。なんて分かりやすい男なんだろう。

 

 サイド7でしばらく一緒に暮らした男より可愛げがあるのは認めるが———待って。あたしは今なにを考えた? ティターンズのこいつに、可愛げがある? そうじゃないでしょ。

 

「シミュレーション訓練をしている時に、どういう仕組みなのか質問して…エゥーゴもティターンズも同じアナハイムが作ったものなんだから、システムに大きな違いはないって言うから…うん」

 

「ちょっと待ってくれ、イズミカワ軍曹…君が情報機雷の発案者なのか!? 看護師で、パイロットで、エンジニアなのか? 天才か君は!?」

 

「やめて。半人前の看護師で、素人パイロットなだけよ。エンジニアなんて上等なものじゃなくて、ただ思いついた物を上司に話しただけ。だから天才とか、そんなのじゃない」

 

「それでもだ」

 

「それでも、なによ」

 

「それでも…君に感謝を。今の話でかなり推測が裏付けられた。なんとかできると思う」

 

 そう言ってアッシュは自分の上唇を舐め、首をごきりと鳴らすとコンソールをキーボード表示に切り替え、勢いよく操作を開始した。全周モニタに次から次へと矢継ぎ早にウィンドウが開く。作業の邪魔にならないよう彼の正面から横に移動したエリーゼだったが、次第にウィンドウが彼女をパイロットシートの後ろまで追いやってしまった。

 

 ごつくて太い指なのに、まるでピアニストじゃないかと六割ほど呆れながら感心していると、エリーゼは彼の黒髪から脂汗がひとすじ垂れていることに気付いた。横顔を観察すると奥歯を噛み締めているし、体全体が汗ばんで発熱している。

 

「准尉…あんた、傷が相当痛むんでしょ? 無理しないで」

 

「問題ない。今は頭と手を動かしてるだけだ。僕らには時間がない。一分早く軌道修正の噴射ができれば、その一分で救助される可能性を上げられる」

 

「それはそうだけど…」

 

 何か手伝えることがあればいいが、アイコンをタップしたりせずにキーボードだけで見たこともない文字列ばかりの画面を凝視してるアッシュの作業は、正直なところ何をしているのかさえ分からない。

 

「…直接入力の作業は、見たことないのかい?」

 

「その、直接入力って言葉すら初耳よ」

 

「そっか、僕はこっちの方が性に合うんだ。ほら、情報機雷とやらの尻尾を捕まえたぞ。正規のアップデートファイルディレクトリに潜り込んで、更新履歴を偽装してるけどファイルサイズが不自然だ。やっぱり、かなり急いで作った感じで作りが雑だ。ただ、僕なら罠の一つ二つは仕込むな…」

 

 会話なのか独り言なのか不明瞭で、思考が口から漏れているかのようなアッシュにエリーゼは眉をひそめた。熱に浮かされた患者のうわ言ではない。意味はさっぱり分からないが、論理的な思考から出ているものなのだろう。

 

 つまり———

 

「あなた、ギーク?」

 

「そんなんじゃない。僕はエンジニア志望なだけで、ギーク呼ばわりされるのは心外だ。だいたいギークとかナードとか言ってくる連中の方がおかしいんだ。勉強しないでブルーカラーになるのは勝手だけれど、僕まで巻き込んでほしくないよね、実際の話さ! その点、このウィルスを作った奴は道理を解ってるよ。僕ならそうするって仕掛けを、小さなパッケージの中で良く作り込んでる…」

 

 つまり、この男はどうやら屈強な軍人の皮をかぶった少年だ。大人になりきれていないどこかの日で心の時間を停めてしまって、外側だけを鋼のように鍛えただけ。こうやってコンピュータの操作をしていると、それが表に出てくるんだろう。

 

 なんて滑稽で、むごい姿だろう。この男が妙に初心なのは、そのせいなんだ。マクソン准尉という男はティターンズの狂った選民思想の共犯者ではなくて、彼らのプロパガンダを馬鹿正直に信じているだけだ。

 

 少し前の自分なら、なんて愚かなことだと思ったに違いない。年齢とともに、まともな判断力を身につけたなら考えられない選択だと。しかし、理解できた気がする。ユージン・マクソンという少年の心は、今も火と瓦礫の海になった故郷の四つ辻で立ち尽くしているんだ。

 

 ティターンズのことは、今だって許せない。だが、鏡に映った自分を殴れないように、この男を憎み続けることはできそうにない。しかし、鏡の中の自分を抱きしめられないように、この男を受け入れることも難しい。なぜなら、自分も酷く———歪んでいるからだ。

 

 やっとわかった。あたしは———あたしも、壊れている。愛していた家族と故郷を奪われて、なりふり構わず復讐のために持っているものを全部叩き売って生きてきた。自分にはそれしかないと思っていた。針のように自分を鋭くしなければ、届かないと信じていた。

 

 でもそれは、どこに届かせようとしていたのだろう。もし針が届いたとして、その後に何が残るのだろう。ジオンやティターンズという組織に針穴を一つあけたとして、それであたしは満たされるのだろうか。

 

 エリーゼは独り言を呟きつつ作業を進めるアッシュの後頭部に目を落とし、黒髪の流れを追いながら思考に沈んでいく。歪んでいる自分、壊れている自分、狂っている自分。そんなのはとっくに分かっていたはずなのに、どうしてこんなに辛いんだろう。

 

「…おかしいね」

 

「おかしくない。ちっともおかしくない。こんな言い方は不適切かもしれないが、君とはもっと早く別の形で会っていたかった」

 

 意図せずこぼれた呟きに思いがけない言葉が返され、エリーゼは弾かれたように顔を上げる。だが、アッシュの目は相変わらずモニタに固定されていて、それ以上の言葉はない。

 

 きっと偶然に会話のようなものになっただけだ。心の内を読まれたわけではなく、ただの偶然。そうに違いないと頭で考えても、おかしくないと肯定されて心は不思議なほど軽くなったように感じる。

 

「そうね、もっと早く…別の形で会えていたら、良かった」

 

 この人が振り向いていなくて良かった。きっとあたし、ひどい顔してる。聞こえないように小さく鼻をすすり、エリーゼはアッシュの後頭部にブロック状の非常食とパック入りの飲料水を押し付けた。

 

「はいこれ、そろそろ一息ついて食べないと体力が持たないわよ。気休めだけど食後に鎮痛剤も飲みなさい。あと、熱冷ましに水のパックを首に当てるといいわ」

 

「うわ、冷たい! …あれ? あ、そうか…すまない軍曹。いただくよ」

 

 非常食のブロックを食い散らかさないよう口に運ぶ大男の姿というのは、後ろから見ても中々に愉快なものだった。最低限の栄養とカロリーを固めただけの味気ないものだが、打算も下心もない(ついでに会話もない)男との食事はしばらくぶりだった。

 

「じゃあこれ、鎮痛剤」

 

「ありがとう軍曹」

 

「エリーゼ」

 

「うん?」

 

「あたしたち、チームなんでしょ? だったら軍曹なんてもうやめて」

 

「…だが、それは…」

 

「何か問題でもあるの?」

 

「いや、問題があるわけじゃない。ただ…」

 

 チームなら、もっと距離が近くたって良いじゃないか。それとも、まだ何かわだかまりが残っているのか? 男のくせに、はっきりしないやつだ。そんな思いがエリーゼの声音を少し険のあるものに変えた。

 

「ただ、なんなのよ?」

 

「…僕は、女性をファーストネームで呼んだことが…たぶん、ない」

 

「はぃ?」

 



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第十六話

 コクピットの中に、まるで場違いな笑い声が響いた。軍隊だからといって、兵士がいつでもしかつめらしい顔つきでいるわけではない。むしろ、民間人よりずっとジョークを聞いたり口にする機会は多い。軍人は七割がジョークで、残りが命令と報告でできているとも言うくらいだ。

 

 同僚からお前はジョークが下手だとか、笑いのツボがズレているなどと言われるアッシュは、腹を押さえて体を丸めて笑い転げる女を見て眉根を寄せる。なにかそこまで変な事を言ってしまったんだろうか。笑わせるのは上手くないけれど、笑われるのは多少慣れたとはいえ気分が良いものじゃあない。

 

「そんなにおかしいことかい?」

 

「あははっ…はぁ、ああ、ごめんなさい。怒らないでね? でもユージン。あなた、その指輪の子も名前で呼んでなかったっていうの?」

 

 笑い過ぎたのか目元の涙をぬぐいながらエリーゼはアッシュの胸元を指さした。ドッグタグという俗称で知られる、首から下げた軍の認識票。その鎖に通した指輪の事を言っているんだろう。これは幼馴染の婚約者にあげた指輪で、彼女の遺品だ。これだけしか助けられなかったんだ。

 

 ———そうじゃない、名前だ。あの娘は、なんて名前だった?

 

 僕はあの子を何て呼んでいた? あの子は僕をどう呼んでくれていた? 待ってくれ、なぜ思い出せない? ハイスクールまでずっと一緒で、カレッジに入学しても頻繁に電話した。長期休みには必ず帰省したし、週末にバスを乗り継いで会いに行ったことだって何度もある。あるはずだ。

 

 この指輪だって、論文コンテストの賞金で買って贈ったんだ。きちんとタイを締めて、あの子の右手の薬指に僕がはめた。そのときの笑顔は———なぜ、思い出せないんだ。忘れちゃいけない、なにより大事な記憶だ。携帯端末は壊れて、クラウドサーバもデータセンターの建物ごと吹き飛んでしまった今となっては、自分の記憶の中にしかあの子はいないというのに。

 

「ねえ、どうしたの? 何か気に障るような事だった?」

 

「いや、何でもない。ちょっと…うん、もうちょっとだけ時間をくれないか? 作業もまだ終わってないし、必要なことを済ませてからにさせてくれ」

 

 鎮痛剤を飲み、再びキーボードに向かうアッシュの指先は淀みなくコマンドを入力する。情報機雷によってヤドリギが根を張るように広範囲に書き換えられたプログラムファイルを検索し、改ざん前のファイルに修復していく。

 

 その指先は熟練の時計職人のように精密に動いているが、心の中は竜巻のようにうねって荒れていた。

 

 どうして僕は彼女———エリーゼに言われるまで、あの子のことを思い出さなかったんだろう。いや、思い出していた。忘れた事はない。この指輪と、あの子と、両親と、犬の事はいつだって想ってきた。それなのに、写真の顔が黒く塗りつぶされたみたいに思い出せない。声もノイズが混じった無線みたいだ。

 

 軍に入ったのも、ティターンズに志願したのも、あの日から7年間すべて、あの子たちの敵討ちをするために捧げてきた。失くしたものを奪い返すために戦ってきた。そのためだけにトリガーを引いて、生き残ってきたんだ。

 

 暴力なんてものとは縁遠くて、あばらの浮いたひょろひょろの僕は、軍で文字通り生まれ変わった。胸板はタイヤゴムみたいに厚くて硬くなったし、何十キロだって走れる。モビルスーツの操縦もできるし、銃なんか使わなくても簡単に人を殺してしまえる強さと技術を身に着けた。

 

 そうとも。ジオン残党を始末する僕らの部隊が東南アジアに配置された時なんかは、スコールが降る中を低空侵入したミデア輸送機から、ジムに乗ったままジャングルのど真ん中に空挺降下してゲリラ化した連中を皆殺しにした。その後には仲間とビールとバーベキューのパーティで乾杯できるくらいには、強くなってたんだ。

 

 勲章だっていくつかもらった。士官学校に推薦してやろうって上官も認めてくれた。技術士官としてジャブローに来ないかと言ってくれた中佐だっていたさ。だけど僕はそれを断って前線に残った。敵の顔が見える距離で、あいつらの鼻っ面に弾丸をぶち込むためだ。兵隊でいる意味なんて、それだけだ。それ以外、なにもない。

 

 なのに、どれだけ敵を撃っても墜としても、何も戻ってこない。

 

 分かってるんだ、そんなのは。カジノでスロットを回すみたいに、当たればみんなが戻ってくるわけがないんだ。ムサイ級の巡洋艦を沈めたときに相棒と『ジャックポット(大当たり)だぜ、アッシュ!』なんて言ったり、ザクを撃墜したときに『ビンゴ!』なんて調子に乗ったよ。

 

 そんな大当たりを引いたって、5機めの撃墜でエースなんて言われてメダルを貰っても、僕のほしいものは何ひとつ戻ってこないんだ。それなのに僕は、ギャンブル中毒者みたいに、もっと戦えば、もっと敵を殺せば———いつか取り戻せる気でいた。一発でかく当てたら、神様があの子たちを僕に返してくれるんじゃないかって、本気でそんなことを信じこんでいたんだ。

 

 もう顔も名前も思い出せないくせに、どうしてあの子だと分かるって言うんだ。あの子の遺体から指輪を抜いたくせに、どうして戻って来られるんだ。何十人も殺したくせに、どうしてみんなが戻ってくると思ったんだ。

 

「僕は…ばかだな」

 

 アッシュがその結論にたどりつくのと、彼の指先が情報機雷の解除を完了させたのは同時だった。アイカメラのモードを通常に戻し、全周モニタの映像が鮮明な解像度の宇宙に戻る。

 

「解除できたのね! エンジニアは『そう簡単には解除できないぞ』って言ってたのに!」

 

「まあ、ね。戦闘中にこんな作業してられないよ。そういう意味じゃエンジニアの腕は悪くなかった。だけど、誰にロジックの指導を受けたとか、そういうクセが僕と似てたんだ」

 

「ふうん。そういうものなのね」

 

「もしかしたら、同じ教授の研究室にいたかもしれないな…」

 

 プログラムコードの上でしか知らないエンジニアも、僕と同じように戦争に何かを奪われたのだろうか。隣にいるエリーゼもまた、失くした者たちの復讐を誓ってここまで来た。僕らと彼はどれほど違うんだろう。

 

 自問に意識が戻りかけたが、アッシュは首を振って想念を払った。一分が大事な状況は変わっていない。自分たちを救うために、いまは行動するのみだ。カメラが正常に戻ったのなら、正確な現在位置の観測と『ゼダンの門』に到達する軌道計算、そして修正噴射のベクトルと噴射量の算出ができる。

 

 作戦行動中はエコーコントロールのような戦域管制官の支援を受けるので、ほぼ使うことのない航法アプリケーションをシステムから呼び出したアッシュは自動観測を実行する。全周モニタの死角をなくすため、モビルスーツの機体各所に取り付けられているカメラが一等星や太陽、月、地球といった標識を観測して正確な現在位置を算出した。

 

 航法アプリケーションは現在位置の観測を数回行って、移動量から速度を算出する。その情報から目的地に指定されている『ゼダンの門』の座標に辿り着くために必要な修正噴射のベクトルなどのデータがX軸、Y軸、Z軸の三軸に分解されてモニタへ表示される。

 

「…ええと…これ、手動で軸を合わせろってこと?」

 

「まさか。姿勢制御はコンピュータにやらせるよ」

 

「まるで魔法使いね。杖も無いしヒゲも生えてないけど」

 

「魔法使いってのは、もっと腕利きのエンジニアだよ」

 

 少しおどけたエリーゼが、両手の人差し指を鼻の下にあててヒゲの形にしてみせた。それはアッシュにとって、強烈な既視感を伴うものだった。

 

「そうかしら? いまの———」

 

 いまのあたしにとっては、あなたが魔法使いだわ。

 

 思い出せないどこかで、僕はその言葉を聞いたんだ。エリーゼと同じ仕草をして、そう言って笑っていたんだ。間違いじゃない、僕はそれを忘れちまってる。

 

 アッシュは自分の中にある瓦礫の山が崩れ始める音を聞いた。そしてエリーゼは、かつて『魔法使いと出会えないシンデレラ』と呼ばれていた自分を忘れていた。マシンの精密さで推進軸を自動調整したモビルスーツは、針の穴を通すように正確な軌道修正を実行する。

 

 しかし、そこに乗っているのは———これまで機械よりも執念深く復讐を求め続け、その果てに自身の姿と向き合い、機械ではいられなくなってしまった人間たちだった。

 



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第十七話

 かつて旧世紀の海がそうであったように、西暦に別れを告げた宇宙世紀とは言っても、星の海はいまだ人が征服したとは言いきれない場所だ。

 

 見かけ上の静止状態にある戦艦や暗礁宙域のデブリ、隊列を組む僚機や交戦中の敵機など、自機と比較の対象になるものがないと宇宙空間は速度の感覚がひどく掴みにくい。実際には秒速数十キロであったとしても、静止しているかのように感じてしまう。

 

 時間にしても、宇宙には昼も夜もない。戦艦の中でも標準時に沿って勤務シフトが設定され、照明の強弱をつけることで体内時計はほどほどに機能するが———漂流するモビルスーツのコクピットにそこまで望むのは無理が過ぎた。

 

「…どのくらい経ったかな?」

 

「…一時間前のようでもあるし、五分と経っていないような気もしてきたわね」

 

 パイロットシートの前方に位置するタッチパネル式のコンソール画面と、全周モニタの正面には現在位置と速度、そして『ゼダンの門』までの距離と到達予想時刻が表示されている。速度と予想時刻の数字は修正噴射したときの数字のままで、数十万キロという距離の表示だけが焦れったく減るだけだった。

 

 漂流している状態から、いまできる最善は尽くした。あとは救難信号を出し、信号弾を上げ、誰かが気付いてくれることと船外活動のチャンスが来ることを願うことしか、することがない。

 

「緊張しているせいか、動いていないせいなのか、空腹を感じなくて済むのは有難いな」

 

「黙っててもカロリーは消費されるわよ。ダイエットはまたの機会にすることね」

 

 飲み干した飲料水パックの数から、修正噴射を実行して2日が経とうとしていた。その間ふたりは、相手の傷に触れないように、恐る恐る指先で探るような会話をした。触れる場所によってある時はくすぐったく、またある時は痛みを伴う会話だった。

 

 その甲斐があったのか、ふたりは互いを名前で呼び合うことに慣れていった。譲れないものと許せないものを抱えながら、それでも相手を尊重し、出会っていなければ命を落としていたに違いないと考えていた。

 

「パイロットはダイエットなんかしなくても痩せるだろ?」

 

「まあね、演習いちどで2キロは落ちるもの。幸か不幸か、これまでの人生でいちばん食べまくってるのに体重が増えないわ」

 

「後方勤務の女性陣に恨まれそうな話だ」

 

「あら、そっちでもそんな話があるの?」

 

「そりゃあね。隊外の人にどう見られていても、僕らだって…ちょっと待て。エリーゼ、これを見てくれ!」

 

 全周モニタに表示された宇宙空間の一部がウィンドウに拡大され、粗いピクセルの映像が上から下にスムージング処理されていく。

 

「…なにこれ? 隕石…じゃないわね。マゼラン級…?」

 

「僕もマゼラン級だと思う。もうちょっとズームしないと分からないけど、熱分布から見て撃沈されたままだ」

 

「何かあるかもしれないってこと?」

 

「ああ。ほら、見てくれ。艦橋が潰されて分かり難いけれど…主砲塔の形状からすると一年戦争の後期に沈んだ船だ。モビルスーツの運用ができるように甲板も改装されているだろう?」

 

「あたしの乗ってる『サザーランド』も似たような甲板だわ。軌道要素はどうなの?」

 

「いまの速度と軌道要素を考えると…あの船は漂流してるんじゃなく『ゼダンの門』かサイド3宙域に向けて飛ばしてるんだろう。待ってくれよ…トランスポンダの電波が入ってきた…うん、無人回収中の船で間違いない」

 

 旧世紀の戦艦と同様、宇宙世紀の軍艦も建造には莫大なコストを投じている。それを人命と一緒に湯水のごとく浪費するのが戦争だが、戦いが終わって熱狂から醒めると国家理性というものは手のひらを返して財布のひもを締めるものだ。

 

 そんな中ではあるが、新造と同等以上のコストがかかるけれど、遺品の回収という名分が有権者の支持を得られると判断した地球連邦政府は宇宙軍へ『可能な限り回収せよ』という訓令を下した。かくして、損害のわりあい軽微なものから、訓練の標的艦にするしかなさそうなものまで———軍は各拠点ごとに手近なものから順に無人の回収機を飛ばした。

 

 すでに壊れているものなので、多少のデブリや破片と衝突したところで支障はない。それよりも回収と解体にかけるマンパワーとスクラップの置き場の問題から、これら艦艇の回収はそれなりの速度と、それなりの軌道で拠点の近傍に飛んで来てくれたら十分という適当さで実行されていた。

 

「幽霊船で宝探しってことね。まるでテーマパークだわ」

 

「女性をひとりで行かせるのは心苦しいけどね」

 

「ユージン、あなたはアンテナの修理があるでしょ。エスコートが必要なほどお嬢様じゃないの。それに、ホラーハウスが得意な顔してないわよ」

 

「実は怖がり屋でね、殴れないやつには近寄りたくない」

 

「ふふっ、ホラーハウスの従業員には嫌な客ね。うっかり脅かしたら、そのゲンコツで殴られるんだから。さて、あとどのくらいで幽霊船とランデブーできるの?」

 

「マゼラン級との相対速度はこっちが優速だ、1時間もしないで追いつくよ。ただ…できる限り減速したくないから、船内探索は往復も含めて20分で戻ってほしい。トラブルが発生した場合に備えて、これは厳守してくれ」

 

「無茶なこと言わないでよ。実質10分もないじゃない」

 

「探索を甲板上のモビルスーツデッキ付近に限定して、整備用の資材庫からコクピットの空気フィルタを探す。これを最優先とすれば間に合うと思うんだ。艦内に潜り込む必要はない。むしろ、それはリスクが高いから避けてほしい…距離と宙域の残留ミノフスキー粒子の濃度次第で、通信だって確実じゃない」

 

「はあ…心配性ねえ。でもいいわ、言う通りにする。あたしはアマチュアで、あなたはプロ。だからそんな顔しないで? はじめてのお使いに行くわけじゃないんだから」

 

「…そんな顔って、僕は普通の顔をしてるだけだ。それより、信号弾を持って行くのを忘れないでくれよ? トラブルがあったら、迷わないで打ち上げるんだ。すぐ助けに行く」

 

「はぁいママ、信号弾もハンカチもティッシュも持ったから心配しないでね」

 

 憮然とした表情で口をへの字に曲げるアッシュを見て、エリーゼは困ってしまった。彼との会話が、こんなにもくすぐったく、胸を温めるようになるなんて。これがストックホルム症候群なのか、それとは別の何かなのか分からないが———彼の視線が心地よい。愛されているのではなく、ただ純粋に案じられていると分かる。

 

 それは乾いた温かさで、まるでヘアドライヤーの風だ。いまは、それが心地よかった。

 

◇ ◇ ◇

 

《じゃあ、行ってくるわ》

 

《エリーゼ》

 

《なに?》

 

《気を付けて》

 

 開放されたコクピットのハッチに立つエリーゼは、ひらひらと手を振るとハッチを軽く蹴って飛んだ。その後姿を見送りながらアッシュは考える。手持ちのリソースは有限であり、ひとつだって無駄遣いしていいものではない。呼吸のひとつ、飲料水のひと口、すべてが貴重品だ。

 

 どれひとつ捨てて良いものは無いが、はっきりと優先順位がある。空気と水だ。人間は呼吸できなければ3分で窒息し、水がなければ3日で死ぬ。その両方があれば、食べ物がなくても2週間は耐えられる。

 

 この話は繰り返し聞かせたのだから、そこに問題はないはずだ。彼女がそうしているように、自分もやるべき事を終わらせてトラブルに備えるべきだ。アッシュはコクピット昇降用のワイヤーステップを引き出し、命綱として腰に巻き付けると『マラサイ』の頭部に飛んだ。

 

 人間なら額にあたる部分から長く伸びた一本角のようなブレードアンテナは、その基部からへし折れていた。応急修理とはいえ、これは骨が折れそうだ。パイロットスーツの船外活動許容時間には十分に余裕があるが、手分けしたのは失策だったかもしれない。

 

「一緒に行けば単純に計算して、二倍の探索ができた」

 

 そう言葉に出してみると、どんどん判断を誤ってしまったように思える。しかし、二人ともトラブルに巻き込まれた場合はどうなる。そこで、どちらも一巻の終わりだ。自分が残って万が一の時に備える、そう結論したのは自分ではないか。

 

「どれだけ考えても、完全な決断は不可能だ。決断を引き延ばした分だけ、死神が近付いてくる。二択に迷ったときは、楽じゃない方を選べ…」

 

 験担ぎにも思えるパイロットの間で語られる格言のような言葉を聖句のように暗唱しながら、アッシュは手を休めずにアンテナの応急修理を続ける。しかしその視線は数秒おきにエリーゼが探索している方に向けられ、焦りにも似た不安が募るばかりだ。

 

《エリーゼ、聞こえるか?》

 

 携帯端末に目を落とせば、もうそろそろ戻ってきても良い頃合いだ。彼女が出発したときマゼラン級の艦尾に追いすがる形だった『マラサイ』は、もう艦首付近まで追い上げている。あと10分もすれば追い越してしまうだろう。

 

《聞こえるか? エリーゼ、応答してくれ》

 

 ヘルメットのスピーカーからはホワイトノイズしか聞こえず、割れてしまったシールドを補修テープで目張りしたせいで視界は半分になっている。まさか、そのせいで信号弾を見落としたのか? いや、そんなことは無いはずだ。

 

 ならば、信号弾を打ち上げることもできない状況なのではないか。今すぐにでもモビルスーツごと救出に向かうべきなのではないか。取り越し苦労であっても、少しばかり減速する程度で済むのだ。

 

 『ゼダンの門』の近傍に到達するまでの時間が多少伸びたところで——彼女と、エリーゼと一緒に助からなければ意味がないんだ。彼女を見捨てることを軍法や倫理が許容したとしても、心の深い場所から沁み出る熱が、それを許さない。

 

《頼む、エリーゼ。頼むから返事をしてくれよ!》

 

 名を呼んでも返事が戻らない、その不安はアッシュの中で容易く恐怖へ変貌する。これじゃあ、あの時と同じじゃないか。ニューアークで助けられなかった、あの子と同じじゃないか! いやだ、あんな思いは二度とごめんだ! また同じ目に遭うくらいなら、死んだ方がずっとましだ!

 

《エリーゼ!!》

 

 顔を歪ませ、泣き出す半歩手前の少年のような表情を浮かべたアッシュは、深く呼吸をひとつ大きくして決意する。そうはさせるか、もう何も失うものか。僕たちはチームだ。何がなんでも、取り戻してやる。

 

 コクピットに飛びこんでシートのベルトを締めるより早く、アッシュは操縦スティックを握り込む。

 

《行くぞ!》

 

 姿勢制御をオートからマニュアルに戻すと、マラサイのモノアイがパイロットの意志に応えるかのように光った。

 



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第十八話

 再三の呼びかけに応答がなく、信号弾も上がっていない。それは疑いようもないトラブルのしるしだ。アッシュは操縦スティックを素早く円を描くように回し、入力された動作はモビルスーツの腕を大きく振りあげる。

 

 人間型モビルスーツには四肢を動かす慣性を利用して、補助的な姿勢制御を行うAMBACという手法がある。推進剤をわずかでも節約し、継戦時間を伸ばせるというメリットがあるためパイロットの技量を測る目安にもなるものだ。

 

 スラスタを使わず、一挙動でマゼランの甲板に機体の正面を合わせたアッシュはアイカメラの映像をズームし、エリーゼの姿を探した。目を見開き、どんな痕跡も見落とさないようにモニタを見つめる。

 

 だが、何も見つからない——いや、あれは何だ。ガラスか氷の破片のようなものが散っているように見える。

 

 その映像を確認した次の瞬間。アッシュは推進剤の残量のことも、ひざから下が吹き飛んだ機体であることも頭から蹴り飛ばし、彼女の名を叫びながら力任せにフットペダルを踏み込んだ。

 

 確信に等しい胸騒ぎがする、透明な破片が散っている場所めがけてモビルスーツは戦艦に白兵攻撃を仕掛ける勢いで飛び込んだ。

 

《エリーゼ! どこだ、返事をしてくれ!》

 

《……ユージン、あなたの声って…スピーカーを通すと…ふふっ、最悪ね。ひどい声》

 

《どこだって聞いてるんだ!》

 

《…オレンジ色で、モノアイの馬に乗った…へんてこな王子様は、わがままね…》

 

 破壊されたマゼラン級の荒れた甲板が、瓦礫と炎に埋め尽くされた故郷の風景と重なる。

 

 息苦しそうなくせに減らず口を止めようとしないエリーゼの声が、あの子の姿と重なる。

 

 いやだ! やめてくれ、どうしてこんな時に思い出すんだ僕は!? あの時とは違うんだ! それを証明するんだ、ユージン・マクソン!

 

 直感のままコンソールを叩き、モノアイのセンサからマゼラン級のモビルスーツデッキ周辺をスキャニングする。観測画像を処理し、赤外線の温度分布から不自然な熱源を——エリーゼの場所を探せ。パイロットスーツを着ていたって生きているんだ。周りよりいくらか温かいはずだ。

 

《…ユージン、聞こえる?》

 

 そうとも、彼女は生きて熱を放っている。そいつを探すんだ、1秒でも早く!

 

《…ああ、聞こえてるよ》

 

《…ユージン、あのね…》

 

 頼むよ、マラサイ。新型なんだろう? ジェネレータだけじゃなくて、センサもコンピュータの処理速度だって、ハイザックとは違うんだろ? 助けてくれ、頼むよ!

 

《あたしね…いま、怖いって思ってる…すごく、こわい…》

 

 早鐘を打つ心臓を殴りつけ、じれったい画像処理の速度に唇を噛み、アッシュはモニタを睨みつけて兆しを探す。

 

《ユージン…ユージン…おねがい、たすけて…! 置いて、行かないで…!》

 

 すすり泣くようなエリーゼの声が、ヘルメットのスピーカーではなく凝視するモニタの一点から聞こえた。アッシュには、確かにそう聞き取れた。

 

《誰が君を置き去りにするもんか! 見つけたぞエリーゼ! 君を見つけた!》

 

 瓦礫の故郷から遠い宇宙で、僕は君を見つけた! もう奪わせやしない、取り上げられてたまるか、エリーゼだけは取り戻してやる!

 

 マラサイの鋼鉄の腕が伸ばされた先にあるのは、あの時と同じように瓦礫に埋もれた右手だった。炎ではなく氷の塊に拘束され、力なく垂れさがっている右手だ。彼女はモビルスーツデッキの資材庫を見つけ、そのハッチを開けてこの状況に陥ったようだ。

 

《ゆっくりでいい。エリーゼ、状況を教えてくれ。資材庫のハッチを開けて、中から水か何かが出てきたってことなのか? このハッチを取り除いて、君が負傷することはないか?》

 

《たぶん…突然で良く分からないけど、そういう事だと思う。あっという間に凍り付いて…出血もしていないはずだけど…氷の圧力で、息が苦しいわ…》

 

 宇宙服を着ている限り、氷で体温を奪われることはない。しかし氷漬けになってしまうと身動きは取れないし、ノーマルスーツのように破片に対する防御を考えていないパイロットスーツは、液体が固体になる際に生じる圧力に耐える設計ではない。

 

《飲料水パックとか、冷却水やアクチュエータの潤滑油だとか…そういうやつが資材庫の中で漏れてたみたい…びっくり箱みたいに飛び出してきて…》

 

《もう喋らなくていい、ゆっくり呼吸するんだ。モビルスーツの腕でハッチを取り除く。少し衝撃があるから、舌を噛まないように気を付けるんだ。いいな?》

 

《わかった…》

 

《スリーカウントで行くぞ…1、2、3!》 

 

 鋼鉄の腕がハッチの残骸をめくりあげ、氷と金属の破片が水しぶきのように輝きながら舞った。ひと思いに放り上げてしまいたい衝動を押し殺し、ゆっくり持ち上げていくとハッチの裏側にはりつけられたエリーゼの姿が見える。

 

 ほぼ全身を氷で縛り上げられ、ひどい有様だが——それ以上の外傷は見られない。手足が骨折している様子もなさそうだ。忌々しい氷を砕けば、十分に救えるに違いない。コクピットを飛び出し、アッシュは腰のホルスターから拳銃を抜く。

 

《ユージン…》

 

《喋らなくていい、銃で氷を砕く》

 

 これまで引いてきた銃のトリガーは、すべて殺すためだった。敵を殺して、失くしたものを奪い返すために引き続けた。けれど、その末に何も戻って来なかった。モビルスーツに乗って戦場に立ち、銃口を敵に向け、数えきれないほど引いたトリガーでは誰も帰って来てくれなかった。

 

 氷に向けて拳銃を撃ち、弾切れになった銃のグリップでひび割れた氷を殴りつけ、少しずつエリーゼを奪い返す。

 

《ユージン…どうして、あなたが泣いてるの?》

 

《…わからない。ただ、どうしようもなく悔しくて……嬉しいんだ》

 

 上半身が解放され、涙の粒をヘルメットの中に浮かべるエリーゼの笑顔を見て、アッシュは雄叫びを上げて彼女を抱きしめた。弱々しく抱き返される腕の力を感じ、スーツごしに感じるはずのない熱に心を満たされる。

 

《エリーゼ、僕は…やっと、やっと取り戻せたよ…! この戦争から、君を取り戻したんだ…!》

 

◇ ◇ ◇

 

 子供のように泣くじゃくってしがみつく男に、エリーゼは彼の心に残る傷を知り、その力と痛みと熱を感じた。あたしたちは、本当に鏡合わせだ。だから愛せないと思った。それなのに、アッシュはあたしを抱きしめている。こんな自分を見捨てずに、置き去りにしないでくれた。

 

 サイド2の故郷が、『アイランド・イフィッシュ』が地球に落とされてから——あたしは誰かに『たすけて』という言葉を、一度も使わなかった。誰もそんなことができると思わなかったから。

 

 でも、それは違うんだね。あたしが言わなくても、助けてくれる人はいたよね。ありがとうって笑いかけてくれた人も、あたしを守ってくれたイズミカワさんたちもいたよね。ユージンは命がけで助けてくれたよね。

 

《…ばかね、あたしたち。こんな簡単なことに、どうして気が付かなかったのかなあ。こんなに遠回りして、こんな場所までこないと気が付かないなんて、本当にばかだわ…》

 

《そうだな…ばかだ。君はどうしようもない大馬鹿で、僕はそれに輪をかけたクソ馬鹿だ。だからエリーゼ、笑ってくれよ。僕は思いついたよ、生き残る方法を見つけたんだ。聞いたら、君もひっくり返って笑えるやつだ!》

 

《なによそれ…じゃあ、ユージン。賭けをしましょ》

 

《…なにを賭けるんだ?》

 

《もし、その方法で生きて戻れたら…キスして。思い切り抱きしめて、あたしにキスして》

 

《僕が思い切り抱いたら、君の背骨が砕けちまう》

 

《加減ってもんを知りなさいよ野蛮人。あなたに王子様の役なんて、もうめぐってこないわよ?》

 

《君みたいな跳ねっ返りにお姫様の役が回ってくるなら、僕にだってまだチャンスは残ってるさ》

 

 ぐいと身をそらしたエリーゼの唇は拗ねた形にとがり、握った手がアッシュの胸を軽く叩く。その仕草は少女のようだ。互いの目を見つめ合うこと数秒、砕けた氷と投げ捨てた拳銃の浮かぶ中で、また二人は強く抱きあいながら大声で笑いあった。

 



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第十九話

 故郷は燃えてしまった。あまり笑わない父と、花壇の世話とおしゃべりが好きな母は老犬と一緒に逝ってしまった。そして、鏡を見てはそばかすが消えないとため息をついていた、二つ年下の娘——会いに行くと、はにかんだ笑顔で僕を迎えてくれた君も、手の届かないところに去ってしまった。

 

「予備の空気フィルタ、早めに換えて正解だったかもね。気のせいかも知れないけど、息がしやすい感じがするわ」

 

「実際、二人分の二酸化炭素だからなあ。中毒症状が出る前に交換したのは妥当だよ。せっかく水も手に入ったのに、窒息なんかごめんだ」

 

「水もだけど、食料も…放射線汚染は大丈夫なの?」

 

「君が資材庫を開けるまでは防曝のハッチに守られてたんだ。心配なら、救助されてからヨードでも飲むといいよ」

 

「あの不味いヨード剤かあ…うぇ」

 

 納入企業の担当者はサディストなのか現場を知らないのか、地球連邦宇宙軍で定期的に服用を義務付けられている放射線対策の薬はひどい味だ。それにまつわる真贋定かならぬ噂やジョークには事欠かない。

 

 飲料水パックのストローを齧るエリーゼはヨードの味を思い出したのか、顔をしかめる。そんな無駄話ができる程度には、ふたりの近い将来に対する不安の影は薄らいでいた。空気と水の心配から解放されたのだ。

 

 空気中の二酸化炭素を吸着し、酸素に戻すフィルタの交換部材と破損していない飲料水パックのカートン、ブロック状の携帯食料を持てるだけコクピットに運んだからだ。固定することができないので、そこら中に浮かべるしかないが生存時間はずっと増えた。

 

「ねえ、ユージン。この船を探せば、もっと色々手に入れられるんじゃない?」

 

「それは考えた。でも、リスクを考えると難しいな…動力が落ちてるけど空気が残ってる区画だってあるだろう。安全を確保しないまま、うっかりドアを開けて吹き飛ばされたり…逆に閉じ込められる危険がある」

 

「そっか…そうよね。二人そろって、さっきのあたしみたいになったら終わりだわ。でも、惜しいなぁ…」

 

「うん。確かにこのままマゼラン級から離れるのは惜しい。だから、良いことを思いついたんだ。聞いてくれるか?」

 

「さっき言ってた話ね。もちろん」

 

 コンソールを操作して全周モニタにマゼラン級戦艦の概略図を表示させたアッシュは、くわえていたストローを指示棒にして艦尾の動力区画を指す。

 

「この艦は艦橋を破壊されて沈んだ。だからモビルスーツデッキ周辺は、他よりマシな状態だった。それと同じように、動力区画も損傷は少なかっただろう?」

 

「そうね。飛び移るときに少し見たけれど、パッと見た範囲では動いてもおかしくないように見えた。でも、だからって動かせるものなの?」

 

「もし正常だったとしても核融合炉が止まっちまってるし、僕はパイロットで機関士じゃない。そんなのは無理だ」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

「ぶっ壊す。ライフルで撃って、爆発させるんだ」

 

 あまりに飛躍した言葉に、エリーゼは目を丸くして固まった。もっと探せば、きっと役立つものが山ほど出てくるだろう宝の山に等しいものを吹き飛ばす。なにをどう考えたら、そんな考えになるのか。

 

「ええと、短気を起こしたり自棄になったわけじゃない。聞いてくれ。理由はいくつかある」

 

 ひとつ、十分な量の空気と水は確保できた。だが、それ以上に推進剤を使って減速してしまった。現在の速度で飛行した場合、生存可能時間内に『ゼダンの門』まで自力到達するのは計算上——かなり困難な状況である。

 

 ふたつ、マゼラン級から推進剤を取り出すことは不可能ではないが、リスクが許容できるレベルを超過している。モビルスーツの推進剤は、その分子構造中に酸素を抱えて自己着火性を有している。取り扱いには資格と訓練が必要な危険物だ。

 

 みっつ、このマゼラン級は連邦軍の艦船回収計画によって移動中である。無人機のトランスポンダが機能していることからも、定期的に位置確認されているものだ。その情報は宙域を哨戒する連邦軍とティターンズ双方に提供されている。それが爆発したなら、必ず確認が行われる。

 

 よっつ、ここに資源があると考えてしまうと、立ち去れなくなってしまう。それはリスクに対する意識を鈍らせ、いつか取り返しのつかない事態を招く。空気が残留している区画は死体から放出された細菌による感染症が、空気のない区画にも悪質な罠のように絡み合った残骸の危険がある。

 

「幽霊船は幽霊しか乗っちゃいけない。ミイラ取りがミイラ、ってわけね」

 

「そういう事だ。だから、すっぱり諦めて撃沈するのがリスクとリターンを考えると最良だと思う」

 

「決断力がパイロットの資質だと?」

 

「僕はそう思う。だからエリーゼにも決断してほしい。僕らはチームだ。納得ずくの恨みっこなし、そうだろ?」

 

 右手を差し出したアッシュの目には妥協や不安の色は見て取れない。あるのは決断と確信の光だけだ。何を知っていれば、この状況下でそんな目ができるんだろう。そして、マゼラン級での一件を境に彼のまとう雰囲気が少し変わったような気がする。

 

 いや、変わった。殺気がなくなった。それは相手があたしだからではなくて、渇きが癒されたような——燃え盛っていた炎が、灰に埋もれて熾火になったような。

 

「……わかった。ユージン、あたしもそれがいいと思う。やろう」

 

「ああ、やろう」

 

 エリーゼは彼の手を握り、おなじ確信をもって微笑んだ。あたしたちはチームだ。納得ずくの恨みっこなしなら、この男と死んでも悔いはない。

 

◇ ◇ ◇

 

 残りわずかな推進剤を噴射し、マゼラン級戦艦を斜めに見下ろす角度の右舷後方に位置どったマラサイは、ビームライフルの有効射程いっぱいまで距離を開けた。人が歩くような速度での移動にしたため、30分ほど費やすことになったが、それを利用して休息と合わせて攻撃の狙点となる機関部を詳細にスキャンすることもできた。

 

「傷の具合はいいの? 鎮痛剤があと1回分残っているけど…」

 

「正直、痛いけど我慢できないほどじゃないよ。体が痛いのは慣れてるんだ」

 

「我慢できなくなったら、ちゃんと言ってね」

 

 困ったような呆れたような、なんとも言えない表情でエリーゼは回収した資材の整理作業に戻った。基地の軍医なんかが、たまに似たような顔をするけど医療関係者は言葉を飲み込んだ時にそういう表情をする決まりがあるんだろうか。

 

 いや、違うな。あの子も——彼女はそう思ってなかったけど、僕はそばかすがチャーミングだって思ってたあの子も、あんな顔をしてたっけ。そうだ、僕と父さんが花壇の肥料をまこうとして、二人がかりなのに持ち上げられなくて、袋の中身をぶちまけたんだ。

 

 母さんとあの子は顔を見合わせて、二人ともそんな顔してたな。おかしいや。今になってこんなことを思い出してるなんてね。

 

 ねえ君。ずっと待っていたんだぜ、いつかみんな帰ってきてくれるって。僕がみんなを取り返してやるんだって思ってたよ。だけど、ばかな僕はみんなの顔も声も忘れて、殺し合いばかりしてたんだ。

 

 笑っちまうくらい、ばかな話だろう?

 ねえ君。僕の大好きだった君。指輪を受け取ってくれた君。僕に、もう一度だけ君の名前を教えておくれよ。エリーゼを取り戻して、みんなの顔を思い出したよ。もう二度と忘れたりしないって約束する。

 

 頼むよ、君の名前を呼びたいんだ。この指輪に触れるたびに、君を愛していたことを忘れないために。

 

 火器管制システムがマゼラン級の機関部にビームライフルの照準を固定し、アラームを鳴らした。あとはトリガーのボタンを押して、生き延びるための扉を叩くだけだ。

 

「すまない。君たちの戦争は終わったのに、僕は自分が生き延びるために…まだ死にたくないばっかりに、君たちへ銃を向けている」

 

「花のひとつも手向けてあげられないけれど、貴方たちへ敬礼を捧げます。ありがとう、どうか安らかに」

 

 ビームライフルの銃口からバースト射撃された三本の光条が走り、マゼラン級の機関部に吸い込まれていった。数瞬のタイムラグを置いて、白と黄、オレンジの混ざった球形の爆炎が眩く輝いた。

 

「僕はここだ、僕らはここにいるぞ! 誰か、この光を見つけてくれ!!」

 




次回で最終話となります。


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最終話

 爆沈するマゼラン級の放つ閃光は、わずかな時間ではあったが暗い世界をかがり火のように照らす。全周モニタに防眩フィルタの処理があってなお、目を灼く光は肌に熱を錯覚させた。

 

 それは救助者へ向けた合図であり、彼らの戦争の終止符であり、生存への絶叫だった。

 

「もう、武器はいらないな」

 

 惰性に近い感覚でマラサイの兵装を残してきたが、もう自分に戦う意志など残っていない。内側でずっと燃え続けていた、タールのような憎悪は尽きてしまった。

 

 失くしたものを奪い返すためにアッシュの戦争は始まり、その最前線で戦い続けた。しかし、彼の戦歴は失くしたものを何ひとつ取り戻せなかったという意味で、敗北の日々だった。それがいま、漂流という状況に陥って初めて、憎むべき敵であったエリーゼと出会い、彼女を取り戻して——彼は勝利できた。だからもう、戦う理由がなくなった。

 

 ビームライフルを投棄し、右肩のシールドを爆発ボルトで切り離したマラサイを外側から眺めたなら、みすぼらしい落ち武者のように見えることだろう。オレンジ色の装甲は焼け焦げて煤にまみれ、所々がひどく歪んでいる。なにより、両脚ともひざから下が脱落しているありさまだ。控えめに言っても中破、運が悪ければ爆散していても不思議ではない状態と言える。

 

「あなたって機体に愛着とか、ないの?」

 

「そういう奴もいるけど、僕はないね。それに、この機は今回が初搭乗だから愛着を持ちようがない。ここまで僕らを乗せてくれたことには、感謝してるけど」

 

「そう…そうね」

 

 武器を手にするために、自身の身体も含めて数少ないリソースを全て使って、なり振り構わず生きてきた自分に同じ決断ができるだろうか。男に生まれていればと嘆いたこともある。女としても、非力で弱い自分には武器が必要だった。

 

 『リック・ディアス』の割り当てが自分と知らされた時の高揚は、今でも忘れられない。まるで暴力と破壊の化身のようなモノアイの巨人を好きに動かせるなんて、と。左肩にガラスの靴を描いたのも、揶揄していた連中への意趣返しだ。

 

 魔法使いや王子様と出会えなくても、あたしは自分の力でガラスの靴を手に入れた。どんなもんだ、ざまあみろって思ってた。

 

 銃なら、肉体的な力の差を埋められる。モビルスーツなら、性の差はまったくと言っていいほど解消される。だからパイロットになって、そしてみんなの仇を討つんだと考えていた。彼と出会う前の自分なら、きっと死ぬまで武器を捨てられなかった。

 

 けれどいまは、その決断を自然に受け入れられる気がする。受け入れられた自分が、少しだけ嬉しいとも感じる。マゼラン級が最後に残した光が、まだ胸の中を照らしているような気持ちだ。

 

「ねえ、ユージン。救助されたら、何がしたい? 軍に戻るの?」

 

「軍は辞めるよ。もう僕は戦えない。ケガがどうこうじゃなくて、気持ちがね…もう、誰かを敵にできないんだ。理由がなくなっちゃったよ」

 

「そう…でも、戦争中に退役なんてできるの? ティターンズだと、その…」

 

「難しいかもね、きっと。良くて不名誉除隊で、悪くすれば逃亡罪…最悪は銃殺もありうるかな。このままMIA(作戦中行方不明)扱いになれば良いと思ってる。だけど、まあ…運次第だ。商船に拾われるのがベストで、エゥーゴの捕虜になれるのが二番目。最悪なのがティターンズの艦に拾われること、ってとこだね」

 

「この無重力じゃ、コインを投げて占うのも難しいもんね。ベストな結果だったら、その後は?」

 

「どこでもいいんだ。戦争と関わらない場所が今の世の中にどれだけあるのか知らないけど、できるだけ遠くで…暮らしたい。君は?」

 

 できるだけ遠くで、君と暮らしたい——なぜそう言わなかったんだ? 武器と一緒に勇気まで放り出しちまったのか僕は。ちくしょう。

 

「あたしは…そうね、養父母に許してもらえたら…サイド7に帰りたい。それが無理なら、どこでも構わない。どこかの病院で働くわ」

 

「看護師だもんな。手に職があると、どこでも生きていけるってのは羨ましい限りだ」

 

 どこでもいいなら、一緒に来てよ——と言いかけて、エリーゼは口をつぐんだ。この気持ちは、きっと今だけのもの。吊り橋に揺られて、抱き合っているようなものだ。だけど、こんなにも心が彼に抱きしめられたがっている。もう自分を叩き売るような生き方はしたくない。

 

 あなたの側にいたい。熾火の暖かさから離れたくない。あの力強い腕の中で眠れたなら、どれほど安らげるだろう。しかし、壊れてしまった自分にそれを望むのは、諦めるべきだ。養父母のもとに帰れなくても、サイド7のどこかで暮らそうか。幸いなことに両親の遺産が、ほぼ手つかずで残っているのだから。

 

 曖昧な笑みを交わして、そのまま会話が途切れた。

 切ないほどの静寂の中、救難チャネル周波数に合わせたままのスピーカーからは、波音のようなホワイトノイズだけが揺れている。その音に誘われたのか、エリーゼは膝を抱えた姿勢で寝息を立てている。だがアッシュは傷が痛んで熱を持って寝付けずに、モニタに映る星と彼女の髪を交互に眺めていた。

 

 君と暮らせたら、きっと僕は毎日笑ったり腹を立てたりするんだろう。君の細い体を抱きしめられたら、それは喜びに違いない。たまに——たぶん、しょっちゅう皮肉をぶつけられるだろうけど、そんなのは小さいことだ。

 

 けれど、僕にそんな幸せを手にする資格があるのか。いままで、何人を殺してきたと思っているんだ。僕は相手が人間だとすら考えずに、帰ってくるはずのない死人を呼び戻そうと殺し合いに明け暮れた男だ。ムービーに出てくる殺し屋より狂ってる。

 

 それが正気に戻れた。そのきっかけをくれたエリーゼに、これ以上を求めるのは欲張りだ。傷が痛いのは慣れてる。僕は兵士だから。きっと胸の痛みにも、いつか慣れるはずだ。それが今じゃないから、辛いだけだ。

 

 痛いと思うから痛くなる。痛みを忘れろ、と徒手格闘の教官が言っていた。それと同じだ。辛いと思うな、切ないと思うな。どちらも忘れてしまえ。忘れるのは得意だろう? あの子の口癖だって忘れちまう僕なんだ。そうだろう?

 

 喉の奥から情けない声が漏れそうなら、息を止めてしまえ。奥歯で噛み潰してねじ伏せろ。そうだ、全部そうしてしまえばいい。

 

 拳を固く握って息を殺し、噛み締めた歯がぎしりと鳴った。エリーゼが寝ていてくれて良かった。そう思いながら体の内側に溜まった熱を吐き出すように、ゆっくりと呼吸して——

 

 ——不意に感じた視線に目を向けると、エリーゼの青い瞳が自分を見ていた。

 

「いたいの?」

 

 半分ほど意識が眠っているのか、普段よりすこし幼げで無防備な声音。そのせいで、つい握り込んでいた手を緩めてしまった。

 

「…いたい。だけど大丈夫さ、我慢できるよ」

 

「どうして我慢するの?」

 

「だって、いたいんだ…君と一緒にいたいんだ…!」

 

 肺の空気をすべて絞り尽くして告げられた思いの言葉。白くなるほど握りしめたアッシュの拳に、エリーゼの手が重ねられた。

 

「困った人ね。我慢しなくたっていいのに」

 

「我慢しないと、君に迷惑がかかる。そんなのは嫌だ」

 

 意味が分からない駄々をこねる子供のような、それでいて意地を張っていないと膝から崩れてしまいそうなアッシュの表情。エリーゼはそれが愛おしく思えた。

 

「迷惑かどうかは、あたしが決めることよ。ユージン、あなたじゃないわ」

 

「だけどエリーゼ、僕は…」

 

 その言葉の続きをアッシュは言えなかった。脳裏に弾けた幼馴染と同じ言葉が、エリーゼの唇からこぼれたからだ。

 

『ごめんよ、エイミー。こんな僕が婚約者だなんて迷惑だよね』

 

『ユージン、あなた本当に困った人ね。迷惑かどうかは、あたしが決めることよ』

 

 ばつが悪そうに頭を掻く父に、母も同じように困った人だと微笑んでいた。老犬は僕らを見上げて楽しそうにしていた。エリーゼ、君がみんなを連れて来てくれた。暖かい思い出を呼び戻してくれたよ。

 

 エイミー。僕の大好きだった君。やっと君の名前を呼んでさよならを言える。エイミー、君たちを言い訳にして銃を握っていた、ばかな僕を君は許してくれるかい?

 

「あなたを迷惑だと思うのも、あなたを可愛いと思うのも、あなたを許してあげるのも、全部あたしが決めるの。ユージン、あなたじゃないわ」

 

 エリーゼとエイミー、二人の言葉が重なって聞こえ、唇が柔らかく触れた。

 

 

 

《……方のモビルスーツ、聞こえるか? そち…救難…号を…こちらは……繰り返す…のモビ…》

 

 暖かな静寂に、救難チャネルに合わせたままのスピーカーからノイズ混じりの声が響いた。

 

 

キャスタウェイ

END




本作はこれにて完結いたします。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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