風は吹かず (空気風船)
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現世発現世行き

疲れてるので




バスを見て、哀しい思いをするようになったのはいつからだろう。

 

 

 

よく通る道にはバス停が一つあり、朝は通勤通学のために人が集まっているのをよく見る。

 

 

 

夕暮れ、帰り道でそこに止まるバスも何度見たことか。

 

 

 

昔は、当たり前だが、何とも思わなかった。

 

 

 

『あ、バスが来た』と。

 

 

 

それが乗りたいものであったのならばいざ知らず、特に何の用事もない時などちら(・・)と気にするだけで、すぐに意識の外へと走っていくだけの存在だった。

 

 

 

そのはずだったのだが。

 

 

 

いつからか、横を通り過ぎるバスをずっと目で追うようになっていた。

 

 

 

乗る用事があるわけでもないのに、置いていかれたような気分になっていた。

 

 

 

一緒に乗せて行ってくれと、思うようになっていた。

 

 

 

気がついたら、心の中でバスとは『自由』の代名詞となっていた。

 

 

 

普通だったら、鳥だとか猫だとかになるはずなのに。

 

 

 

自由とは、バスのようだと感じていた。

 

 

 

しかしそれはおかしい。

 

 

 

頭を捻って、やっぱりおかしい。

 

 

 

バスって、バスに限らず公共交通機関って、ダイヤに縛られた『不自由』な存在だ。

 

 

 

鳥と違い、移動に制約がある。

 

 

 

猫と違い、自由気ままに動けるわけでもない。

 

 

 

というか、そもそも移動手段としてバスは好きじゃない。

 

 

 

道の状況によって簡単に遅れるし、行き先はハッキリしないし、同じバス停に別の行き先なバスが止まるし、なにより値段が分かりにくい。

 

 

 

電車のほうがそこらへん明快で、好きだ。

 

 

 

じゃあなぜバスなのか。

 

 

 

鳥や猫じゃないのは理解できる。

 

 

 

ぶっちゃけ、動物は好きじゃないし。

 

 

 

ならば、電車じゃない理由は?

 

 

 

ぼんやり考えてて、バスが交差点を曲がっていったときにはた(・・)と思った。

 

 

 

『あのバスは何処に行くのだろうか』

 

 

 

それが答えだった。

 

 

 

電車には、レールがあり、路線図がある。

 

 

 

明瞭で、平易だ。

 

 

 

一方、バスは目的地こそ明かせど、道にレールがあるわけではないし、路線図も細かく道順まで書いてあるわけではない。

 

 

 

バス専用レーンとかあるけど、それはそれとして。

 

 

 

先に挙げた不満点が、そのまま『バス』の神秘性に繋がっているのだ。

 

 

 

そこまで気がついたら、心の悲鳴により具体的な『声』がついた。

 

 

 

『この無間地獄から連れ出してくれ』

 

 

 

『ここではない何処かへと逃げさせておくれ』

 

 

 

思わざらず(・・・)立ち止まった。信号が赤だったから。

 

 

 

それに気がついて以降、未だにバスに乗る機会はない。

 

 

 

同時に、バスの神秘性(・・・)も保たれたままである。

 

 

 

今日も待ち人が列を作って待っているのを盗み見た。

 

 

 

彼らは家路に着くのだと理解しつつも、思わずにはいられない。

 

 

 

『この中にどうか、この世ならざる神秘がありますように』

 

 

 

いつかそこに行くことを夢見ながら、今日も地下鉄の階段を降りていく。

 

 

 

バスとは、『自由』の代名詞ではなかった。

 

 

 

しかし、『自由への案内人』として、今日も隣を走り抜けていく。




逃げ出せない人間

探せる世界

見えない首輪


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夜の五歳児

寝れないので。




 

 

夜、寝るぞと思って瞼を閉じた後、ぼんやりと考え事をしてしまう。

 

 

今日はこんなことがあったとか。

 

 

明日はあんなことをやろうとか。

 

 

そういやぁ昔そんなバカやらかしたなぁとか。

 

 

一通りぐるっと一周した後、必ず辿り着く場所がある。

 

 

『寝るときって、どんな感じなんだろう』と。

 

 

ふわっと昇っていく感じなんだろうか?

 

 

すとっと落ちていく感じなんだろうか?

 

 

眠りに落ちる(・・・)とか言うし、後者の方が近いんだろうなって。

 

 

気になる。

 

 

色々予想をしてみて、やっぱり気になる。

 

 

そうだ寝る瞬間を見てやろう、と意気込む。

 

 

暫くそうしていると、意識を保とうとして絶対眠れない事を理解する。

 

 

正しく、『気になって夜も眠れない』。

 

 

しかし違うのだ。

 

 

気になるのは、知りたいのは、好奇心からではない。

 

 

怖いのだ。

 

 

得体の知れない、理解の外にある『寝ている自分』が。

 

 

未知とは好奇心の種であるからして、起源は同じもの。

 

 

分からないから、知りたい。

 

 

しかし生物にとって、未知とは恐怖である。

 

 

分からないから、怖い。

 

 

違いは、その未知に近づくか、遠ざかるか。

 

 

怖い(・・)もの知らず(・・・)だけが好奇心を持てるのだ。

 

 

分からないから怖い。

 

 

ならば怖さを克服する為には?

 

 

簡単。

 

 

未知を既知にしてしまえばよい。

 

 

分からないから怖いなら、分かれば怖くないのだ。

 

 

分かろうとして、奮起しだす。

 

 

恐怖が好奇心に反転した、とはちょっと違う気がする。

 

 

『恐怖ゆえの(・・・)好奇心』と表現する方が適切だろう。

 

 

そうやって生物は成長していく。

 

 

そうして人間は技術を発展させてきた。

 

 

未知を既知へ。

 

 

既知を支配へ。

 

 

脳は人類最後のフロンティアなどと呼ばれているらしいが。

 

 

もし人間が睡眠を支配(・・)出来たとしたら、どうなるのだろう。

 

 

寝る時間と起きる時間を正確にコントロールできるようになるのか。

 

 

もしくは寝ていながら別な作業をできるようになるのか。

 

 

はたまた睡眠自体が必要なくなる生物になるのか。

 

 

いづれにせよ、こうして睡眠に怯える(・・・)日々とおさらばできるのは間違いなさそう。

 

 

夜も眠れない日から、夜は眠れる日へ。

 

 

しかしそれは遠い空想の世界の話で。

 

 

結局今現在の恐怖には全く影響しない。

 

 

ならばいっそ寝ないでやろうと意気込んで。

 

 

気付いたら朝を迎えているのだから始末に負えない。

 

 

寝ようとしたら寝れず。

 

 

寝まいとすれば眠る。

 

 

まるで駄々をこねる子供のよう。

 

 

案外、そういった明朗簡潔な事柄で、未知とは説明がつくのかも知れない。

 

 

そんな事をぐるぐる考えながら。

 

 

早く朝にならないかなぁというぼやき(・・・)を浮かべれば。

 

 

『睡眠』はそれだけを叶えてくれる。




理性と衝動

御者と馬

親と子供


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ランニングマシーン、またはハムスターが回すアレ

今日が始まったので。




明日(あした)があるさ、明日(あす)がある』

 

 

 

明日(あした)はきっといい日になる』

 

 

 

よくある応援ソングの一節。

 

 

 

これを聞いて奮起し、今日を精一杯生きる人は多いことだろう。

 

 

 

そうでなくとも、これを聞いて渋い顔になる人はそんなにいないと思う。

 

 

 

これを聞いて。

 

 

 

『あぁ、明日はきっと希望に満ち溢れているのだろうなぁ』と。

 

 

 

そんなこともあった。

 

 

 

でも、来ない。

 

 

 

明確に何かがあると分かっていれば、勿論来る場合もあるけど。

 

 

 

でも何もなければ、なにも起きない。

 

 

 

絶望の『今日』を乗り越えても、ただそれだけでは希望の『明日』は来ない。

 

 

 

理不尽だ、そう思うことなかれ。

 

 

 

考えてみることもなく、当然である。

 

 

 

だって、今日と次の日は地続き。

 

 

 

もっと言えば、今日の次に来るのは、単に次の『今日』なのだから。

 

 

 

今日が終わって、寝て日を跨いで。

 

 

 

起きたら始まるのは、次の今日。

 

 

 

日付上は次の日だが、文字通り夢見た『明日』ではない。

 

 

 

そして始まった今日の中で、また『明日』に希望を見出して頑張る。

 

 

 

これでは、鼻先にニンジンをぶら下げられた馬とそう変わらない。

 

 

 

『明日』を掴むには、ニンジンを口元まで運ぶ必要がある。

 

 

 

ニンジンを振り子にできる馬だけが、『明日』に辿り着けるのだ。

 

 

 

ニンジンを食べて、『明日』にたどり着いて、その後は?

 

 

 

飼い主(世界)は新しいニンジン(『明日』)をぶら下げるだろう。

 

 

 

もう少し取りにくそうな場所に。

 

 

 

何もしなければ今日が死ぬまで続くだけ。

 

 

 

何かを為せば『明日』が今日に成り代わるだけ。

 

 

 

人間は進歩してきた。

 

 

 

『明日』を今日にしてきた(火を利用することを覚えた)

 

 

 

『明日』を今日にしてきた(食べ物の安定供給に成功した)

 

 

 

『明日』を今日にしてきた(熱と電気を扱う術を覚えた)

 

 

 

『明日』を今日にしてきた(0と1から別の世界を生み出した)

 

 

 

ずっと人間は、『明日』を今日にしてきた。

 

 

 

100年前の人は良い時代だと微笑むだろう。

 

 

 

1000年前の人は遠い異次元を見るような気分に違いない。

 

 

 

10000年前の人は最早何が起こるのかも理解できないかもしれない。

 

 

 

それが、『明日』になった今日の姿。

 

 

 

そして今日に生きる人々はいつか来る『明日』を見て、目ん玉をひん剥く筈だ。

 

 

 

なんたって、まだ誰も見たことがない『明日』なのだからね。

 

 

 

だから、馬は今日を走る。

 

 

 

『明日』を目指して、絶え間なく続く今日を。

 

 

 

この宇宙に時間(今日)という概念がある限り、休むことはないだろう。

 

 

 

ならばきっと。

 

 

 

この世が本当の意味で明日になることは永劫ない。




過去に生きる人は今日に意味を持たせられず


未来に生きる人は今日に価値を持たせられず


今日に生きる人は意味も価値も知らない



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死ぬほど生きていられない

年一有るか無いかの失敗玉突き事故を起こしたので。


『心が折れる』という表現かある。

 

 

 

心を一本の棒と見立て、それを折る事で『挫折』や『絶望』といった感情を表現する慣用句。

 

 

 

本来具体的な形を持たない心を、である。

 

 

 

これが別の単語であればなんじゃそりゃと一蹴できるのだが、これに関してはそう馬鹿にもできない。

 

 

 

実際、心が『折れる』音を何度も聞いているから。

 

 

 

ミシミシと撓んだヤシの木が、耐えかねてバキンと折れるのだ。

 

 

 

だがこれは過去を回想したときに当てはめた、具体的な表現。

 

 

 

より抽象的に表すのなら。

 

 

 

(しぼ)む』という表現が最もそれらしいだろうか。

 

 

 

頑張って頑張って頑張って伸びて伸びて伸びて。

 

 

 

それで見える景色が何も変わらないと気づいてしまった時。

 

 

 

あるいは。

 

 

 

光明が見えた途端に、横あいからぶん殴られた時。

 

 

 

自分の程度を知った時。

 

 

 

すぐ横道に平坦で楽な道があると知った時。

 

 

 

一切の事に意味が無かったと理解した時。

 

 

 

体より先に、心が萎む。

 

 

 

身体中から不満とやる気が零れ出ていく。

 

 

 

残るのは白い抜け殻とぐちゃぐちゃになった積み木。

 

 

 

世は全て事もなしと自分を嗤い嘲り蔑ましながらそれらしい形になるまで積み木をこねくり回す。

 

 

 

何度もあった。

 

 

 

何度も聞いた。

 

 

 

何度も萎んだ。

 

 

 

何度も折れた。

 

 

 

それでもなんとか穴の空いた風船にパッチを当てて。

 

 

 

何度も膨らまして。

 

 

 

破裂しても。

 

 

 

空気が漏れ出ても。

 

 

 

そうしなければ立ち上がれないから。

 

 

 

見せかけだけでも進んでるように示さないから。

 

 

 

そうしなければ殺されてしまうから。

 

 

 

死にたくないのか。

 

 

 

生きたいのか。

 

 

 

なぜそう願うのかがわからない。

 

 

 

萎むために空気を入れるのか。

 

 

 

崩されるために石を積み上げるのか。

 

 

 

死ぬために生きるのか。

 

 

 

ただ、死ぬ為には生きていなければならない。

 

 

 

死なないのならば、生きなければならない。

 

 

 

死ぬために努力するか、生きるために努力するか。

 

 

 

それなら確かに、『死ぬよりマシ』な生なのかもしれない。

 

 

 

死ぬ努力は面倒。

 

 

 

風船を膨らませる装置を廃棄する手間が必要。

 

 

 

積み上げる石を全部川に投げ入れなきゃならない。

 

 

 

その点、生きる努力とは楽だ。

 

 

 

破裂した風船をまた膨らませてやるだけでいい。

 

 

 

手元にある石をまた足元に置けばいい。

 

 

 

生きるだけの努力は簡単で、そのままであるだけでいい。

 

 

 

ただ、それがある瞬間から目的が変わるのがいけない。

 

 

 

より大きく膨らまそう。

 

 

 

より高くまで積もう。

 

 

 

ああ、本当に『二度あることは三度ある』。

 

 

 

ならば四度目も五度目もあるのも当然で。

 

 

 

『馬鹿は死ななきゃ治らない』とは良く言ったもの。

 

 

 

こんな馬鹿なことを死ぬまでやめられないんだから、そりゃ治らないはずさ。




生きる理由のない人生

死ぬ理由のない人生


ただ生きているだけで良いのなら。


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