うちの脳内コンピューターが俺を勝たせようとしてくる (インスタント脳味噌汁大好き)
しおりを挟む

三段リーグ

※衝動的に書いた初投降作品です。誤字脱字多し。
※更新不定期、遅筆、地雷設定、一人称視点三人称視点混在小説。
※作者の将棋知識に過度な期待はしないでください。


端的に言うと、俺は「りゅうおうのおしごと!」の世界に転生していた。

 

……別に前世で将棋が強かったわけではない。大学時代に1年ほど将棋にはまり、5級からアマ三段ぐらいまで棋力は伸びたが、大学の将棋サークル内では常に3、4番手だった。

 

就職先もそれなりのところに決まり、いよいよ新社会人になろうかという22歳の春に交通事故で死に、気づけば転生を果たしていた俺はまた将棋を始めていた。3歳の時点でアマ三段ぐらいの棋力があるなら、プロにも手が届きそうだと思ったのが理由が一つ。

 

そしてもう一つは、脳内に住んでいるスパコンが将棋をやれと煩いのだ。名前はAIと書いてアイ。転生した当初は元々の身体に宿っていた人格かと思ったが、今世でも男だし、アイが最初からあり得ないぐらいに将棋が強いし、転生特典的なものだと解釈した。

 

小学生時代は周りの雰囲気に付いて行けず、終始空気になって過ごした俺は、中学へ進学した後に奨励会へ入会。1級で入会し、そのまま24連勝で三段になった。勘違いして欲しくないのは、奨励会の三段とアマの三段は違うということ。大体、アマの四段と奨励会の6級が同等程度に思って貰えれば良い。

 

当然、既に俺の棋力は付いて行けてないのでアイ任せである。コイツ、奨励会に入る前まではほとんど助言をして来なかったけど、入会試験の時から五月蠅くなってきた。

 

『ここは7三歩です。7五桂も良いですが、7三歩です。早く指して下さい。今日も持ち時間を使わずに、三段リーグの試合を勝っちゃいましょう』

(いや、そろそろ持ち時間は使っていくようにした方が良くね?個人的には、緩く生きて行ければそれで良いんだけど)

『駄目です。また壊れたスピーカーになりましょうか?』

(やめて!前にそれで1週間ぐらい寝られなかったんだからな!?

ああ、分かった!指すから!7三歩指すから!)

 

持ち駒の歩を持ち、パチリと銀の頭に歩を置く。相手の表情は険しいものになり、長考に入った。三段リーグの持ち時間は、お互いに90分と短い。ふと時計を見ると、俺の残り時間は【01:27】なのに対し、相手の残り時間は【00:02】だった。

 

……その後も、淡々と指示通りに駒を進めていく。ヒカルの碁で、ヒカルが佐為に全てを任していたらこんな気持ちに至るのだろうか?俺の場合、アイが居なくなった瞬間にただの雑魚に戻るので、出来れば消えて欲しくないものである。

 

102手目に、玉の横へ馬を移動させて完全に相手玉は詰んだ。三段リーグだと、持ち時間一杯まで使って王が詰むまで指す人が多いから時間がかかる。相手が食中毒で倒れるかもしれないとか、心臓発作で死ぬかもしれないことを考えると納得できることではあるけど。

 

「……負けました」

「ありがとうございました」

 

最後、相手は自身の負けを認めて頭を下げる。いや、本当に申し訳無い。勝つ度に、俺なんかが勝ってしまっていいのかと考えてしまう。特に今の相手、俺に勝てば四段昇格が決まる。ただ俺が勝ってしまったために、3位に転落をした。

 

……最後の試合まで全勝で来て、1試合ぐらい落としても四段昇段には問題が無い。それでも、アイは負けることを許さない。

 

『三段リーグを全勝通過ですよ!全勝通過!奨励会の入会試験で6連勝、三段リーグまで24連勝、三段リーグで18連勝ですから48連勝ですね!』

(……ハハ。またマスコミに騒がれるのか。

陰キャの俺にはインタビューとか無理です)

『大丈夫です。そんなマスターのために台本も用意していますから。頭の中の文字を読むだけで、記者達の対応は可能です』

(というか、ここまで来たら原作変わらないの?地味に八一君は好きなキャラだし竜王になって欲しいんだけど)

『それも問題無いです。というかマスターは九頭竜八一が竜王戦のランキング戦で勝っていること知ってるじゃないですか』

 

原作主人公の九頭竜八一は、同い年だけど既に三段リーグを抜けていた。既に竜王戦のランキング戦を勝ち上がっているけど、順位戦はこれからだし、対戦することもあるかな。……同期だと竜王戦で当たった時には、わざと負ける必要があったんだけど、そこはアイも納得してくれていた。交渉は難航したけど、俺がどう足掻いても折れないと察した時には優しい。

 

つまり、三段リーグを全勝通過だとか周りの人達に天才棋士だと持ち上げられるのは絶対に嫌なことではないのだ。だってしょうがないじゃん。人間だもの。ちやほやされたい欲というものはあるよ。

 

そもそも、中学生になるまで奨励会に入るのを敬遠していたのは1級入会を果たして目立ちたかったからだ。実力的に奨励会二段ぐらいの実力をつけてから、1級で奨励会に入ってそのまま初段に昇格、をやってみたかったという理由だけでひたすらに牙を研いで来た。

 

……だけど、もうその牙を使う機会はない。ぶっちゃけアイ任せにしてスイスイ指している時の方が楽だし、これでタイトルの1つや2つを獲得して、悠々自適な生活を送りたい。

 

「あとは可愛い女流プロと知り合いになってイチャコラしてえ。あー、プロ入り後は何連勝したらマスコミが騒ぐかな?」

「おーい、心の声が漏れてますよー。というか5人目の中学生棋士が、何という爆弾発言をしてるんですか」

「げ、九頭竜。というか心の声漏れてたの?」

「滅茶苦茶漏れてたよ。俺以外、ここに誰も居なくて良かったな」

「……何でお前は、俺のお気に入りの場所を嗅ぎ付けて来れるのかなぁ。

ここ、誰からも見つけにくい場所なのに」

「狭い関西将棋会館の中で、見つけにくいも何も無いと思いますけど?」

 

じっと目の前にいる九頭竜八一を見ると、地味に格好良くて腹が立って来た。コイツ、来年には雛鶴あいちゃんを弟子にして同居生活を始めるんだよね。

 

(何で九頭竜とのエンカウント率がこんなに高いの?教えてアイ先生)

『単にマスターと九頭竜八一が根暗の童貞で将棋馬鹿だから波長が合っているだけじゃないですかね?』

(俺はともかく、九頭竜は空さんと1つ屋根の下だぞ。交友関係も広いし、根暗と言うのは無理があるだろ。それに九頭竜はともかく、俺は将棋馬鹿じゃねえ)

 

プロ棋士としての活動開始時期は、九頭竜の方が先輩になる。で、今年の竜王戦を勝ち上がって行くんだろうな。俺がいるせいで、どうなるかは分からないのだけど世界の修正力というものを俺は信じる。万が一、世界の修正力というものが無かったら……俺が竜王にでもなるか。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中学生名人

小学生名人戦というものがあり、中学生でプロ棋士になるような人物は大抵これを勝ち上がっている。九頭竜八一も小学生3年生の時に小学生名人戦で最年少優勝者となり、この時の準決勝で神鍋歩夢に、決勝で月夜見坂燎に勝っている。中学生でプロ棋士になるような人間は、大抵が小学生の時から、早ければ小学生になる前から将棋の大会での活躍をしている。

 

しかしこの男は違った。名前は大木(おおき) 晴雄(はるお)と言い、中学1年生の時に中学生名人戦で優勝をした男だ。不思議な事に彼は、今までのどの大会にも出場記録が無かった。大木は次の年の8月に奨励会へ1級で入会。そのまま24連勝をし、三段リーグを一期で、しかも全勝で突破した。

 

“負け知らず”そんな言葉が囁かれ始めるのに、時間はかからなかった。他を圧倒して中学生名人を獲得した大木が、次に姿を見せたのが奨励会試験の時。元々奨励会有段者並みの棋力の持ち主だと思われていた評価が、ここで一転した。数ヵ月前のような細かなミスが無くなり、正確無比な手を差し続ける。

 

無敗で三段リーグ入りした大木が、それでも無敗で勝ち続ける姿を見て、誰かが『常勝名人』と呼び始めるのに時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

(流石に今の時期から常勝名人は不味くね?というか本当にあの名人に勝てるんだろうな?)

『マスターの心配はご無用です。公式戦ではないのが残念なぐらいですよ』

(にしても、ニコ生の企画で名人が俺と歩夢と九頭竜相手に早指しで3番勝負?そんなこと、よく名人が了承したな)

『竜王戦の6組で優勝した九頭竜八一と、若手棋士の中で最高勝率を叩き出している神鍋歩夢、不気味な常勝名人こと大木晴雄の三人はトリオで次世代の棋士として注目されてますよ』

(おい最後ぉ!誰が不気味な常勝名人じゃい!)

 

とある配信サイトの企画で、無事に三段リーグを突破した俺と、竜王戦の6組ランキングで優勝をした九頭竜八一と、順位戦C級1組にて全勝街道を突き進んでいる神鍋歩夢の3人が名人に挑戦することとなった。そして当然先鋒は俺なんだけど、初戦で勝ったら企画倒れになってしまう。

 

本当に勝っても大丈夫なんですかとスタッフさんに念入りに何回も聞いたところで、名人が登場。話を聞かれていたようで一言「対局が楽しみだよ」と言って去っていった。いや本当に、勝てるんだろうな?膝が震えて止まらねえ。

 

公式戦では無いけど、お互いに気合いを入れ、将棋盤を挟んで対面する。よし。アイ、任せたぞ。

 

『……初手から指図します?ある程度までなら自由に指して良いですよ』

(わーい。じゃあ矢倉だけ組んで替わるわ)

『それなら100%事故は無いですね』

 

早指し勝負ということで、持ち時間は秒読み30秒の考慮時間が1分10回のNHK方式。ぶっちゃけNHK式は持ち時間としてかなり短い方なんだよね。ただ矢倉を組むだけだと面白くないから、1手10秒きっかりで指し続けてやろう。

 

そう思っていたら名人が飛車を振ったので矢倉を組めなくなったふぁっきゅー。とりあえず玉を角の横まで移動させて、船囲いからの居飛車穴熊。振り飛車なんて1手損する不利飛車なんだからその1手分でこちらの穴熊が完成しやすいんだよ。

 

俺が穴熊に移行したのを見て名人が仕掛けてきたので、無視しようとしたらアイから待ったがかかる。まだ互角だけど、この仕掛けを無視したら若干こちらが悪くなって、名人相手だと巻き返しが難しいらしいのでここで交代。アイが巻き返し難しいって断言するの、珍しいな。というかスパコンでも名人相手に巻き返すのは苦しいのか。

 

まあ自称スーパーコンピューターさんだし、実態は現実のスパコンより遥かに弱いのかもしれない。そんなことを考えていたら、名人をボコボコにし始めるアイさん。いや中盤の捻り合いに強すぎるだろこのスパコン。怒涛の攻めで名人の受け駒を強引に剥がすとか、随分と力任せなアイさん。

 

まるで鈍器でぶん殴ったかのような攻めに、とうとう受けきれずに潰れる名人はそれでも活路を望むために攻めに出るけど、その対応は素の俺でも簡単に出来るぐらい雑な攻めだった。所謂形作りだけど、容赦なく攻め駒を毟り取るアイさんは間違いなく鬼だ。

 

ラスト、93手目の7九金打を見て名人は投了。名人は考慮時間を使い切ったにも拘わらず、こちらは考慮時間を1回も使ってないのは流石に不味いかも。まあでもお遊びみたいな企画だったし、勝ってしまっても良いって言われてたから勝っても良い対局だったと思う。

 

名人との感想戦は適当に話を合わせて、早仕掛けが不味かったんじゃないですかねという結論に至ったのでこれで俺の役目は終了。あとは九頭竜と神鍋を応援するけど、簡単に負けてしまった。

 

その姿を見て、俺はあることに気付く。

 

(あれ?名人と九頭竜って、九頭竜の竜王防衛戦まで手合わせしたことが無かったんじゃ?原作ブレイクってレベルじゃないんだけど、どうしてくれるのこの企画の企画者)

『ご安心下さい。2人とも早指しとプレッシャーのせいで、らしからぬ序盤のミスで潰れているので問題無いですよ』

(じゃあこの負けで、九頭竜が竜王を取れなくなる可能性は?)

『無いからマスターは安心して順位戦に臨んで下さい。原作ブレイクしそうなのは、九頭竜八一が一期目でC級2組を突破しそうなことの方ですよ』

(んー?順位戦の方はこの負けでがた落ちして欲しいけど、竜王戦は勝って欲しいジレンマ。まあでも普通、竜王戦で勝ち進んでいたらリソースは竜王戦に突っ込むはずだし、大丈夫かな)

 

早くも原作は色々と崩壊しているっぽいけど、今日も将棋界は平和です。平和のはずです。名人に勝った時の心境?そんなものは知らん。俺はひたすらアイの指し手に感心しっ放しだったよ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

連勝

C級2組の順位戦の序盤でずっこけた九頭竜を見て一安心し、一方で竜王戦の決勝トーナメントでどんどん勝ち上がっていく姿を見るに、マジで竜王戦の賞金目的でリソースを全振りしてるんじゃないかと勘ぐってしまう。

 

『順位戦のこんな序盤で黒星が付いたのに、竜王戦の決勝トーナメントで勝ち上がって行くのを見ると不思議な力が働いているように見えますね』

(九頭竜は、幾ら儲けるんだろうな。6組トーナメントの優勝賞金で100万円、決勝トーナメントで40万、60万、80万、120万、160万に挑戦者決定戦で450万。竜王を獲得するからこれに4320万円が加わる)

『今の金額を合計すると、5330万円ですね。マスターも欲しいんじゃないですか?』

(クズ竜王が竜王じゃなくなるのは嫌だから、挑戦したり挑戦しなかったりするよ。来年の竜王戦の決勝トーナメントは、名人に負けるつもりだし)

 

竜王戦の決勝トーナメントは1回戦から1局毎に対局料が出ていて、その金額はオープンになっている。というか、トーナメント表に小さく数字が書いていて、その数字が対局料だ。九頭竜は6組の1番下から対局料を総取りしていくから、合計金額は5000万円を余裕で超える。

 

一方で俺は朝火杯の早指しトーナメント戦を勝ち上がっており、賢王戦の予選も今のところ全勝中。帝位戦や玉座戦の予選も白星スタートと順調なプロ棋士生活を送っている。そろそろ対局日程の方が詰まって来たけど、アイに任せていれば勝てるので俺は疲れない。

 

(朝火杯の優勝賞金1000万円がほしー)

『入ったお金は、何に使うんです?』

(パソコンに廃課金してえーぺっくしゅすりゅ)

『想像以上にダメ人間化が進行していますね。別に良いですけど』

 

今のところ無敗を貫いているので、そろそろ最多連勝数の28は超えられるけど、帝位戦で歩夢辺りに負けておこうか。逆に玉座戦はタイトルホルダーが名人だし、原作であまり触れられて無かったはずだから容赦なく殺りに行ける。

 

でもまあ、まずは朝火杯かな。優勝賞金の1000万円が欲しいです。逆に欲しくない人が居ないです。後は、新人王は取りに行っても良いかな。出られるのは今年限りだと思うし、あまり原作には影響し無さそうだし。新人戦の優勝賞金は、200万円程度だけどそれでも大金です。

 

『何度も聞きますが、そこまで原作にこだわる必要あります?』

(何度も言うけど、俺は極力邪魔したくないの。好きなラノベのストーリーを、邪魔したくないという気持ちは分かってくれ)

『じゃあせめて九頭竜にVSを誘われた時、断って下さいよ。どんどん原作主人公を強化してどうするんです?』

(え?そんなに強化されてるの?)

『確実に、棋力の上乗せはされているはずですよ』

 

アイとの脳内会話を行ないながら、今月の順位戦の対局を指す。1敗してしまったら上がれない魔のC級2組だけど、全勝者は全員がC級1組に昇級するし、俺は全勝するから何も考えなくて良い。

 

今日の相手は蔵王達雄九段で原作では九頭竜が負けた相手だけど、普通に俺が指しても勝てそうだなと思えてしまう。向こうは持ち時間を一切使わない俺の将棋を見て何か言いたげだったけど、アイさんがフルボッコにしたので何も言って来なかった。

 

……ソフト指しって、速攻が基本で強引に攻める手も多いけどうちのアイは重厚な攻めが持ち味です。準備して、準備して、大盾で押し潰す感じ。相手は死ぬ。

 

今日の俺の持ち時間は、1分も消費していない。ずっとノータイムで指せるのは、アイの演算能力が高すぎるからだ。俺は何もすることがない。将棋自体も序盤、中盤、終盤と蔵王九段のミスが目立ったので感想戦も無し。順位戦なのに昼過ぎに終わってしまった。

 

(よっしゃ、帰りにヨド○シカメラへ寄るぞ)

『またパソコンの周辺機器を漁るんですか?っと、九頭竜八一ですよ』

(え、何でまたエンカウントするの?というかあいつも順位戦終わるの早くね?)

 

「よう、九頭竜。順位戦の方は終わったのか?」

「大木か。ちょっと気分転換に外を歩いていただけだよ」

「……なあ。もし竜王になれたら、竜王戦の優勝賞金で焼肉奢れ」

「ハハハ……。俺が本当に竜王になれたら、焼肉ぐらい奢るよ」

「言ったな?約束だからな?」

 

この時期の九頭竜は、竜王戦の決勝トーナメントを勝ち進んでいる最中だけど、まだタイトル挑戦も現実味が無い模様。順位戦の方は早々に負けて昇級の芽が潰れたし、世間からの評価もそこまで高くない。

 

竜王戦の6組トーナメントで優勝はしているから、将棋ファンの間ではようやく名が広まり始めた感じ。一方で俺はプロとしてスタートしてから、無敗の23連勝中なのでマスコミが注目してくれている。

 

このまま行けば30戦目が歩夢との対局なので、そこで負けよう。ちょうど記録を塗り替えた後に、次世代の名人にあとちょっとで負ける感じなら歩夢の方が評価の上がる結果になるはず。

 

『いえ、29連勝した時点で世間に将棋ブームが起こるはずですよ。大木晴雄の名前も、世間に広がります』

(えー。別に良いし嬉しいけど、タイトルも取ってないのに評価が上がるのは複雑な気分にもなる)

『私もマスターの醜悪な顔が世間に広まってしまうことは残念です』

(顔は普通だろ!九頭竜や歩夢のように整ってはないし、比較すると残念な顔かもしれないけど、醜悪は泣くぞ)

 

九頭竜とは軽く会話だけして立ち去る。まだこの時期は外に出ても良いし、ソシャゲもし放題だ。今回はvsの約束をきちんと断ったけど、わりと分かりやすくしょんぼりしていて罪悪感が募った。とりあえず九頭竜が竜王を取るまでは、なるべく関わらないようにしておくか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九頭竜竜王

九頭竜が竜王になりました。対局は7局目までフルセットで行ない、ギリギリの勝利。俺が29連勝で将棋界への注目を集めた中、俺と同世代の棋士のタイトル奪取ということで世間が盛り上がるし、九頭竜は調子に乗り始める。あ、ちなみに歩夢には負けておいたので、また連勝記録は1から伸ばしていて現在18連勝中です。

 

クリスマスの日にタイトル奪取をして、雛鶴あいとの内弟子約束までする人生の勝ち組になった九頭竜は正直羨ましい。一方で俺は悲しく1人でオンゲ祭りです。まだ纏まったお金は入って無いしね。なんかの取材とグッズの料金でいくらかは入って来ているけど。

 

(なあなあ、最近、歩夢が負けまくっているんだけど何で?)

『9割方、マスターのせいなのですが』

(えー?俺との対局は普通に歩夢が勝っただけじゃん)

『歩夢視点でマスターとの対局を再生してあげましょうか?今、ここで』

 

 

 

 

 

沢山の報道陣に囲まれ、大木晴雄の30連勝目を賭けた対局が始まる。

 

「フッフッフ、これほどの数のカメラの前に立つのは久しい。ならば自己紹介をしておこう。

棋士にして騎士!白銀のシュヴァリエ!ゴッドコルドレン歩夢だ!」

 

振り駒の結果、神鍋歩夢五段の先手番が決まる。カメラ映えのする神鍋の方を撮るカメラマンもいるが、この場にいるほとんどの人間の注目は大木四段の方に向いていた。

 

神鍋が7六歩と指し、2手目。何も気負うことなく、大木はノータイムで3二金と指した。

 

「なっ!?」

 

何処からともなく、驚きの声も上がる。居飛車党である神鍋に対して「お前は飛車を振れない男だ」という挑発をする手でもあり、決して良い手ではない。2手目から定跡を外れる将棋は、神鍋の持ち時間を否応なしに削った。

 

大木は、淡々とノータイムで指しきる。まるで全てが研究済みであるかのように。いつもはこれで徐々に大木へ形勢が傾いて行くが、今日は違った。明らかに神鍋が勝勢になったからだ。

 

冷や汗を掻きながら、自身の勝勢を確認する神鍋。今までと比べて歯ごたえが無かったために、自身の勝勢に疑いの目を向けざるを得なかった。一方で持ち時間を一切使わずに負けへ直行している大木は、脳内でアイと言い合いをしていた。

 

『ここから一手差まで巻き返せってマジで言ってます?というか初手7八金、3二金を広めたいって正気ですか?』

(だって相手に不利飛車を強要出来るし、個人的に振り飛車は絶滅して欲しいし)

『それなら今日の試合も勝って良いじゃないですか。3二金を指して勝つ、程度の条件なら楽にクリアできますのに』

(俺に勝ったら歩夢の成長にも繋がるんじゃない?それにそろそろ、負けたい)

『マスターは何という贅沢な男でしょう。まあ、一手差での敗北は承りました。どの道、ここから巻き返しても一手差で負けます。……ノータイムで指し続けるから、こんな局面になるんですよ?』

(アイもノータイムだろ)

 

勝ちを確信した神鍋は、勝利へと繋がる1手を指す。もうここからの逆転は、無いと思われたその時。

 

今まで無理攻めだと思われていた手が、無駄だと思われていた手が、一気に歩夢の王へ襲い掛かる。残り少ない持ち時間を更に使った歩夢は、1分将棋に入った。

 

「っく!……この指し回し、もはや人間業では無い!!やはり貴様は、我が最強の敵手!」

 

熱くなる神鍋だが、同時に底冷えするような寒さに襲われていた。その雰囲気を作り出しているのは間違いなく大木であり、神鍋は常に50秒以上考えてから着手しているのに対し、大木はここまでずっと、ノータイムでの着手だった。

 

神鍋の穴熊は既に崩され、蓋をする銀が浮いた。そこへ大木の角が突っ込み、さらに陣形が崩される。既に神鍋の牙城は崩落していた。

 

神鍋の銀の頭に、大木は持ち駒の桂馬を打ち込む。今までの王手ラッシュとは違い、これは王手ではない。しかし取っても地獄、取らなくても地獄という手であり、攻め合うか、守るか、短い時間で神鍋は読み切らなければならなかった。

 

秒読みの声が聞こえる度に、焦る神鍋は最後の最後まで取るか取らないかで迷う。しかし突然、大木がため息をついて口を開く。

 

「負けました。1三銀を指して下さい。投了しますので」

「何!?どういう……「50秒……55、56、57」ええい、ままよ!」

 

大木の突然の投了宣言にその場は騒めき、記録係は秒読みを一瞬忘れそうになったが、すぐに秒読みを再開する。神鍋は大木の指示通りの場所に指し、大木は投了した。このような暴挙に出た理由は、アイの代わりに大木が指してしまったからだった。

 

(おい、歩夢が自陣の方を見て悩んでるぞ。どうにかしろ)

『マスターが勝手に勝負手を指すからですよね?今の時点で自玉に即詰みがあるんですから、受けて下さいよ』

(え?即詰みあるの?相手に渡ったの、桂馬と角だけだろ?えっと……)

『長いですが21手詰めです。しかしこのままだと、勝ってしまいますからマスターが投了して一手目を示して下さい。1三銀です』

(りょーかい。しかしまあ、銀頭を見たら桂馬をぶち込みたくなる癖は直さないとな)

 

30連勝目を賭けた戦いで、自身の即詰みを自分から言う大木を見て、神鍋は言葉に出来ない恐怖を感じた。それと同時に、絶対に乗り越えなければならない壁だと再認識する。対局後、神鍋は改めて今日の棋譜を確認し、ここで大木が持ち時間を一切消費していないことにもう一度SANチェックをした。

 

 

 

(いや、SANチェック云々はアイの妄想だろ。でも順位戦の方はまだ負け無しだし、何とか原作開始時点での差異はあまり無い状態になったな)

『九頭竜が、11連敗か12連敗でしたっけ?それを達成してくれないと差異が無いとは言えませんよ』

(あー。そもそもあいちゃんと口約束をしたのかも不明だしな。何とかあいちゃんと九頭竜は師弟にしたいわ)

『どーなりますかね。私に出来ることは、大体したつもりですよ』

 

九頭竜が竜王を奪取した後は、焼肉を奢って貰って竜王戦の一部始終を話して貰った。その中で旅館の女将の娘さんからお水を受け取った云々のエピソードは出て来たので、無事原作は開始出来そうだと認識する。

 

年が明けた後は九頭竜がらしくない将棋で連敗はせずとも負けが込み、掲示板ではちょくちょく九頭竜が叩かれ始めた最中、俺は朝火杯の早指しトーナメント戦で優勝し、順位戦で既に五段昇段を果たしていたため、六段に昇段した。

 

九頭竜が8月生まれなのに対し、俺が11月生まれのため、五段と六段昇段の最年少記録は俺が更新することに。まあどうせ数年後には、あらゆる最年少記録を塗り替える(予定の)小学生棋士椚創多が出て来るし、一時的なものだろう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

師弟

多くのお気に入り登録、評価、感想をありがとうございます。感想の方は、読んだら全てにgoodを付けて行くスタイルにしようと思います。これからも不定期更新になりますが、よろしくお願いいたします。


帝位リーグの試合で神鍋と九頭竜の試合がいつになるかを確認して、原作開始にワクワクしていた俺は、ある日に日本将棋連盟会長の月光会長に呼び出された。ちなみに俺の師匠です。書類上の師匠で、そこまで綿密な時を過ごしていないし、仮初の師匠状態だけど、最近の将棋界では珍しくもない。

 

俺も月光師匠ではなく月光会長呼びだし、向こうもそれを気にしていない。お互いに、凄くドライな関係性だ。

 

「ご無沙汰しています。月光会長」

「お久しぶりですね。朝火杯での対決以来ですか」

 

将棋界では、師匠を弟子が倒すことを恩返しと言うけど、恩返しで師弟に何の感動も感情の変化も無かったのは流石に珍しいケースだった。まあ指導対局とかして貰ったことも無いしね。

 

「今日は何の要件ですか?」

「そうですね……先に要件の方をお伝えしますが、弟子を取って欲しいのです」

「……弟子?」

 

そして今日は、弟子を取って欲しいという。これあれだ。夜叉神天衣の弟子入りについてだ。

 

……え?何で俺に話を振るの?

 

(おかしくない!?俺はタイトル保持者じゃないし、A級棋士じゃないよ!?)

『朝火杯は準タイトルと言っても良いですし、他に暇なタイトル保持者やA級棋士がいるとでも?』

(九頭竜はどうした!?ああそうだ!今5連敗中だ!)

『竜王奪取後、2勝9敗はヤバいですね☆ついでにこの話は、天衣の前で無様な姿を晒せば100%回避可能な話だと思いますよ』

 

「ええ。将棋界の援助をしているとある実業家の孫娘で、小学3年生の9歳です」

「9歳ですか。孫娘ということは、女流棋士を目指しているのですか?」

「それはまだ確認していませんが、おそらく。それと、その娘さんが師匠はA級棋士かタイトル保持者じゃなければ嫌だと言っているようです」

「……自分、タイトルホルダーではありませんよ?九頭竜竜王とかどうです?」

「竜王は今、大変な時期ですから。その子が研修会試験を受ける5月までで良いので、面倒を見てくれませんか?」

 

話はトントン拍子で進み、結局引き受けることに。確かアニメか漫画の方で何人かの棋士が断られたと言っていたけど、本当に断られていたんかい。

 

……いや、マジでどーしよ。

 

『門前払いの可能性もありますし、行くだけ行ってはどうです?』

(それもそーだな。と、ここか。……マジで極道のアレじゃん)

『戦闘になれば、マスターが99.97%の確率で死亡するのであまり無礼なことはしないで下さい』

(物騒なこと言わないでぇ!?え、というかそれだと詰まない?無様なこと出来ないよ?)

 

そして迎えに来たのは、原作でも存在感のある天衣Loveな池田晶さん。サングラスをかけた美女って良いよねって遠目で見て思っていたら、凄まじい速度で接近してくる。

 

「まさか……本物の大木晴雄六段!?で、いらっしゃいますか?」

「ええっと、はい。本物の大木晴雄です。フルネームで知って下さっていたんですね?」

「知ってるも何も、29連勝で速報が流れていましたよね?

さ、こちらに」

 

晶さんが俺を知っているということは、面会までは行くのかな?晶さんに背中を押されて門の中に入ると、そこは異様な光景が広がっていた。

 

サングラスをかけた男達が両脇に並び、屈んでいる。晶さんの「先生のご到着だ!」という言葉と共に、ドスの効いた声で「お疲れさまです!!」と声をかけられた。いや、これは普通に怖い。生存確率0.03%ってのも嘘だろ。こんなの0%だ。絶対に生き残れない自信がある。

 

そのまま奥まで連れられて、中に入るとお爺さんがいた。名前は……流石に忘れたな。会ったことは無いはず。

 

「大木先生が来られましたか。活躍は存じています。当家の主、夜叉神弘天でございます」

「大木晴雄です。月光会長から話を受けてこちらに伺いました」

「月光会長の推薦なら問題無いでしょう。どうぞこちらに」

 

お互いに自己紹介をして、話を合わせる。天衣の祖父、弘天さんに連れられて入ったのは天衣の部屋。そこには黒い衣装を纏った、魅惑的な美少女が居た。夜叉神天衣だ。

 

「私はあなたを師匠だなんて呼ばないから」

 

お決まりの失礼な台詞も頂くけど、これ弘天さん何も言わないんですか?言わないんですね?分かりました。

 

「勘違いしないでよ。あなたは所詮、お金を払って教えさせるレッスンプロなんだから。まぐれで29連勝しただけのザコ棋士に、師匠面されたくないもの」

 

そう言って、駒を並べ始める天衣ちゃん。え?門前払いじゃないの?

 

『……知名度が上がり過ぎていましたね。マスターの自己評価が低すぎて忘れていました。現時点で有名人な貴方を、門前払いする気は無いようです』

(うわマジか。形だけでも指導はしておくかな)

 

面と向かって座ると、本当に将来美人になる予感しかしない美少女だな。どうせ対局後には何も話せないんだし、指導は対局中に済ませるか。

 

「はぁ?何よこの手。完全にただじゃない」

 

指導対局は二枚落ちで開始し、こちらが攻めて駒を相手に渡し、こちらは天衣の攻めを完全に潰すという形で行なった。天衣の持ち味は竜王が太鼓判を押すほどの受け将棋だから、攻めの才能を測りたかったという理由はある。

 

何度も天衣の攻め駒を毟り取り、ただ同然で渡す。流石に2度目には気付いたようで、怒りの表情を浮かべて攻めて来たけどまだ全然弱いな。いや、小学3年生ということを考えれば信じられない強さだけど。

 

現時点で、奨励会への入会は可能なぐらいに強い。小学生故に荒さはあるけど、受けは奨励会で通用するレベルまですぐに成長するだろう。さらにそこからの上乗せがあれば、プロ棋士に届くかもしれない。

 

……これを、あいちゃんのライバルとして育てるだけなら俺でも出来る。ああそうか。この子は今まで独学だった。そして俺は、独学で強さを手に入れている(ことになっている)。

 

そりゃ、俺の方が適任に見えるよね。あ、そうだ。念のために保護者に確認しておくか。

 

「この子は今まで、独学で勉強してきたんですか?」

「ええ。独学です。家内に将棋を指せる者も居りませんし……」

 

将棋を指しながら、弘天さんに話を聞く。天衣は意地になって攻め筋を読んでいるので、程なく自爆するだろう。

 

「独学で、これほど指せるのは才能がありますが……今までの独学の方法は、効率が悪すぎましたね」

 

そして初めて、この言葉で天衣の怒りを買えた。天衣の目が、俺を初めて見定めたのだ。たぶん効率が悪いという部分に、カチンと来たのだろう。

 

「私は独学で強さを手に入れました。恐らく、独学で初めてプロに至った人間です。1人で強くなる方法は、色々と教えることが出来ると思いますよ」

「何!?もう勝ったつもりでいるの!?まだ勝負は」

「ついてるよ。もうとっくに」

 

最後は、ずっと放置していた天衣の玉を即詰めして終わった。彼女は、自分が詰んでいることにずっと気付いていなかった。そのことに気付くと、ボロボロと涙を流して走り去った。

 

「大木先生、なにとぞ、天衣をよろしくお願いします」

 

天衣が走り去る姿を見て、あれぇ?原作の流れもこんな感じじゃなかったっけ?と疑問符を浮かべながら、屋敷を出る。

 

……これはもう、原作開始と言って良いんじゃないかな?いやでもやっぱり、原作開始時点はあいちゃんと九頭竜の出会いか。それにしても、月光会長から話が来た時に無理やりでも断れば良かったんだよなぁ。何か独学というところに、親近感が湧いてしまった。

 

『どうするんですか?』

(んー、俺が特訓していた時の方法は教えることにするよ。それだけで、中学生名人までは行ったんだからな)

『あの方法、マスターだから出来ていたことですし、私が居なかったら途中で辞めていましたよね?』

(うるせえ。居候は黙って他の天衣強化方法を考えとけ)

『……もしかして、天衣に惚れました?』

(同情90%好奇心10%だから安心しろ)

『……最低過ぎません?』

(俺が屑なことぐらい、俺が一番知ってるよ。対外的にはある程度、取り繕うけどな)

 

そして天衣の色々な特訓方法を考え始める俺。もう既に、師匠面するザコ棋士である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

引っ越し

「大木は、女子小学生の弟子を取ったんだって?天才は羨ましいねえ」

「お前は竜王を取って5000万円の大金が入るだろうが。どっちが天才だと思ってんだ」

 

天衣が大木に継続してレッスンを依頼し始めてから少しの時間が経ち、九頭竜は大木の家を訪れた。いや、正確には大木の引っ越しの手伝いをしていた。

 

別に早く家を出る必要が無かった大木は、中学卒業後も一人暮らしを後回しにしていた。ある程度のお金を稼いだ後で、引っ越しをしようと企んでいたからだ。そして中学を卒業して1年弱の時が経過し、大木はようやく関西将棋会館の近くへ引っ越しをする。

 

人の良い九頭竜は、正真正銘の屑にただ働きを強いられていた。その途中、パソコンを運んでいる時に九頭竜は見てしまう。

 

「Daiki、Die、HARU、KuZu、OOO……これ、将棋アプリのアカウントか」

 

パソコンに貼られているメモには、多数の文字列とその横に数字の羅列が書かれている。それらを見て、九頭竜は将棋アプリのアカウントとパスワードのメモだとすぐに察知した。

 

九頭竜も複数のアカウントは持っているが、大木のアカウントの多さには面を食らう。何故なら、そのアカウントの数は100を超えていたからだ。複数のメモ用紙をパソコンに張り付けている光景は、怖いとすら九頭竜は感じる。

 

そして、とあることに気付く。

 

「このアカウント……いや、これ全部か。ソフト指しで、垢バンを食らった奴らじゃないか?

……まさか?いや、嘘だろ……?」

 

アカウントは、全て見覚えがあった。ソフト指しが横行していたアプリで、垢バンを食らったアカウント名だったからだ。当時の九頭竜も対戦し、何度も負けたことがある。

 

そして時たま勝った時には、ざまあ見ろソフト厨めと叫んだものである。

 

「これも、これも……対局時間は、調べられるか?」

 

咄嗟にスマホを取り出してそれぞれのアカウントの対局時間を調べようとしたところで、大木が大きな段ボールを持ってくる。慌てて荷解きを手伝った九頭竜は、中に入っているものを見て驚愕した。

 

「これ、全部スマホなのか?」

「ああ。幼い頃からコツコツと古い機種のスマホを買い集めていたんだ。

今ではほとんど動かないポンコツだらけだけど、まだ使えるものもあるしな」

 

段ボールの中には、大量のスマホが敷き詰められていた。その数は、50を超える。かなり古いタイプのスマホまであり、九頭竜は懐かしさを覚えると共に、とある思考に行き着く。

 

大木は、この50はあるスマホを使って、オンラインで多面指しをしていたのではないかと。

 

多面指しは効率的に将棋の腕を上げる方法ではあるが、1つの局面には集中できないし、全ての対局に集中しようとすれば、まず本人の集中力が足りなくなる。しかし先程見た大量のアカウントを見て、その発想に行き着くのはすぐだった上、大木の強さを見ていればそれが強さの源であると言われても納得してしまう。

 

大木に声をかけようとしたところで、大木が「やっべ」と言いながら大量のアカウントをメモしていた紙を破り捨てる姿を九頭竜は見る。それを見て、九頭竜は大量のアカウントとスマホについての言及を止めた。

 

「大木は普段、ソフトで将棋の研究をしているんだよな?見せてくれないか?」

「……え?いや待って、デスクトップ見ないで」

 

大木がゴミを片手に移動した不意を突いて、九頭竜はパソコンの画面を付け、デスクトップを見る。するとそこには、多くのゲームのアイコンが並んでいた。中には九頭竜でも知っている有名なゲームから、プレイ人数が極少数のゲームまで、色んな種類のゲームが並んでいる。

 

「……思っていたより、ゲーマーなんだな」

「……まあ、廃ゲーマーではあるよ。最近はほとんどゲームしかしてない」

 

何で起動させていたんだろうと思った大木は、そのまま有名なFPSのバトロワ系ゲームを起動する。一瞬でゲームプレイ画面まで移動したパソコンのスペックに九頭竜は驚き、さらにその後の大木の動きにも驚く。

 

大木がキーボードを凄まじい勢いで叩き続け、敵をキルし続けたからだ。目に追えないほどのスピードで腕と手を動かし、正確に、着実に1人ずつ視界に入る敵を殺し続け、大木はあっという間に100人の中の1位を取ってしまった。

 

九頭竜が呆然としている姿を見て、大木の脳内はヒートアップする。

 

(おい、九頭竜がドン引きしているぞ。引っ越しの途中でPUBGをやり始めてドン勝する非常識人だと思われたぞ)

『マスターは既に非常識人なので問題ありません。というか先程の試合、最後に残った敵は4分17秒の所で画面に映ってましたねテヘペロ』

(何で今気付くんだよ。プレイ中に気付いてくれよ)

「大木って、どれぐらいそのゲームをやり込んでいるんだ?」

「え?このゲームは、大体200時間程度だよ?ドン勝率は、今のところ20%ぐらいかな」

「20%か……。プレイが上手い人は、大体そんなものなのか……?」

 

九頭竜がようやく口に出した話題はゲームの話題で、大木は得意気に語るがゲームの知識が無い九頭竜はそれが凄いことなのか判断が出来なかった。しかし大木の口ぶりから、それが上手い方だということは分かる。

 

「九頭竜に聞きたいんだけど、7年前の学生名人と月光会長の対局は憶えているか?確かお前が、記録係だったはずなんだが」

「え?学生名人とは会ったこと無いし、月光会長の記録係もした憶えは無いけど?」

 

天衣について話しておこうと思った大木は、7年前の学生名人である夜叉神天衣の父について触れる。しかし九頭竜の反応は、パッとしないものだった。

 

……奨励会に入った人間は、記録係を任されることがある。希望制では人数が足りず、奨励会の幹事からお願いされる形で記録係を任されることもある。大木はこの頃、表には出ていなかった。しかしほんの些細なことで、この記録係の順番、なんてものはズレる。

 

だから最初から、原作なんてものは崩壊していた。大木は九頭竜が天衣の父に会っていないことを聞くと、脳をフル回転させた。

 

(おいどうすんだ。何となくそんな気はしていたが、このまま俺が師匠になるのか)

『これは私のせいでもありませんし、マスターのせいでも無いと思いますよ。……ただネット将棋でも、世界に影響を与えていたことは確かですね。何らかのバタフライエフェクトが、記録係の順番をズラしたんでしょう。蝶の羽ばたきよりかは、ネット将棋で50面指しの方が将棋界に与える影響はありそうですからね』

(ふぁっきゅー。冷静に分析してんじゃねーよ。道理で天衣の将棋に芯が無い訳だ)

 

そしてそのまま言い合いに発展し、黙り込んだ大木を見て九頭竜は変な事を言ったのか気にし出す。大木の引っ越しの作業は、中々終わらなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

原作開始

何か九頭竜から助けてくれLINEが来ていたので既読無視をしておく。内容は雛鶴あいという小学三年生が云々で、要するにようやく原作が開始したのか。

 

「何の連絡だったのよ」

「九頭竜竜王が修羅場になりそうだから助けてくれってSOS出してた」

「あらそう。お相手は空銀子と、もう1人は誰かしら?」

「九頭竜の弟子入り希望の子。石川県から1人で来たんだって。天衣と同い年っぽいね」

「ふーん。

それで、今日のレッスンは何かしら?」

「パンサーには勝てるようになったし、今日から本格的に独自ルートだよ」

「独自ルート?」

「いやなんでも無い。忘れてくれ」

 

一方で天衣ちゃんは、もう原作で出て来たパンサーに勝てるようになった。……はい。原作通りに真剣師と戦わせました。これが将棋連盟にバレると、恐らく1年ぐらいは活動を自粛させられます。変装していたから大丈夫だと思いたいけど。わざわざ通報する人なんていないと思いたいけど。

 

一応、原作通りの成長もさせようと思って新世界で真剣をさせたけど、これだけの棋力を持つ少女に奇襲戦法の知識が無かったことには少し驚く。まあ独学なら、仕方のないことではあるのかもしれないけど。

 

しかし九頭竜の名前を出しても何の反応も示さなかったところを見るに、原作の九頭竜大しゅき少女は何処に行ったんだと顔をしかめる。いやまあ、天衣のお父さんが九頭竜を知るきっかけは潰れていたから色々と仕方ないんだけど。

 

とりあえず天衣の屋敷に持ってきたのは、俺が昔使っていた古いスマートフォン。それを10台用意した。起動はするし、将棋アプリを使うだけならこれで問題無い。

 

「ネットでの対戦は、したことがあるんだよな?」

「ええ。何回かはあるわ。それとこれとにどういう関係が」

「じゃー、これらを使って最終的には10面指しをさせるから。最初は3面指しだから、まず初段のアカウントを3つ作れ」

「……は?」

 

ずらっとスマホを並べて、最初は3面指しの準備をさせる。ネット将棋というのは、実に勉強になるものだ。強い奴はプロに迫る実力を持っているし、いつでもどこでも指すことが出来る。

 

なんなら、右手で25面指し、左手で25面指しをすることもできる。その全部の試合に集中し、経験値を吸えれば、あっという間に強くなることができる。……もちろん、出来ればの話だ。

 

「3つの対局は、同時に開始させろ。全部の試合に勝てたら、次は二段で4面指しな。どれかのアカウントが昇段したら、作り直せ。どうせ無料だ」

「ちょ、ちょっと。多面指しって、そんなもので強くなれるの?」

「そんなもので強くなった奴が、目の前にいるから安心しろ。とりあえず奨励会を抜けられるだけの実力は、俺が付けさせてやる」

『途中で投げ出した奴が何か偉そうなこと言ってますね。私が口出ししなければ、三段リーグで何期足止めを食らっていたか……』

(うるせえ。アイは少し引っ込んでろ)

 

恐る恐る、3面指しを始める天衣。原作の方で明言されていなかったが、多面指しはしたことが無かったはずだ。1対1の将棋と多面指しとで違うのは、考慮時間。

 

よくプロがアマチュア相手に100面指しとかをしているけど、そういうのは一々細かい局面まで憶えていないし、省略できるところは省略して憶えている。可能な限り、盤面を簡単にもしていて、自身の考慮時間を削ぎ落している。

 

一方でネット将棋での多面指しは、全力を出さないと負ける相手と3人同時に戦える。全勝しようとすれば全ての対局に集中力を割かないといけないし、必然的に読みは速くなる。

 

「はぁ……はぁ……3面指しは、クリア出来たわよ」

「お、初段クラスは余裕か。えらいえらい。

じゃ、二段で4面指しな。ここからきつくなるから、頑張れよ」

「待ちなさいよ!こんなの、集中力が持たないわ」

「それはお前の集中力の使い方が下手なだけだし、面倒なら途中まで直感に頼れ」

 

このサイトの初段は、実際のアマ初段より少し強い程度。それを3面指しで完封出来るのは、今までの指導もあるけど、才能のお陰だな。やっぱりそこら辺の凡人とは違うか。

 

『そこら辺の凡人が言うと、妙な説得力がありますね』

(そーだな。

これで、天衣は強くなると思うか?)

『このままでは無理ですし、集中力を保つ方法を直接言ったところで、今はまだ虚言扱いされるでしょうね』

(じゃ、別の答えを見つける可能性すらあるな。既に、女流棋士には手が届くレベルだ。これに読みの速度が加われば、奨励会には届くな)

「……ん、九頭竜から電話か。すまん、少し出る」

 

声をかけて部屋の外に出るけど、天衣はこちらを向かなかった。凄い集中力だし、既にアマ三段ぐらいの実力はある以上、二段の4面指しはわりとすぐにクリアできるはず。

 

ここで九頭竜から電話がかかってきたので、仕方なく出る。要件は、間違いなく雛鶴あいの件だろう。

 

「はい。大木です」

「大木ィ!とりあえず姉弟子から匿ってくれ!」

「今どうなってんの?」

「ドアを挟んでの攻防戦中なう」

「……ちゃんと向き合って話せよ。弟子希望の子には、選ばれたんだろ?

それならそのことを素直に話せ。あと清滝先生のところには連れて行け」

「……そうか、そうだな」

 

どうやら、弟子希望の子がシャワーを浴びている最中に姉弟子が来たから逃げたかったらしい。その後の展開は向こうが通話を切り忘れてくれたから色々と会話を聞けたけど、ほぼ原作通りじゃないかな?細かな会話まではちょっと記憶にないから、自信は無いけど。

 

向こうが切り忘れに気付いて通話を切ったところで、部屋に戻る。額に大粒の汗を流している少女は、うつむきながら俺のスマホをタップした。すると相手玉は詰み、勝利の演出が流れる。

 

「全勝したわよ。三段を5面指しでね」

「あ、そう。じゃあ次は四段の6面指しだな。アカウントを作れるのは四段までだから、四段をクリアしたら次はそれぞれのアカウントを五段に育成するところからだ。これは7面同時進行でしろ。対局が終わったら、すぐに開始だ」

「……これって、最終的には」

「このサイトの最高の段位になる八段の10面指しになるな。八段にもなると、プロや奨励会員も交じっているから辛いぞ」

 

そして床に置いた四面のスマホと、手に持つスマホを見せつけてどやぁとする天衣。まさか今日中に、三段の5面指しまでクリアするとは思わなかったし、これはどんどん伸びそうだ。

 

と言っても、五段の7面指しになるともうほとんど勝てなくなるだろう。四段までは新規にアカウントを作れるから弱い人が交ざるけど、五段以上はアマチュアの中でも猛者しかいない。そいつらを相手に、多面指しはより集中力と速い読みが必要になる。

 

既に四段の6面指しで、指し分け程度になってしまっている。6面指しで全勝する日は、遠いだろうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

多面指し

天衣との指導対局は週3回というペースだからわりと頻繁に顔を合わせるけど、指す度に天衣は強くなっている。四段の6面指しは運良くクリアしてしまったみたいで、今は五段のアカウント作りに苦戦中の模様。この五段のアカウント作りの最中も7面指しだし、非常に辛い作業だと思う。

 

「師匠は、何面指しまで出来るの?」

「50面指しで、最近の相手はもっぱらソフトだな」

「ソフト相手に、50面指し……?それで、勝てるの?」

「前までは香落ちだったけど、最近は角落ちにしたら途端に勝つのが難しくなったよ」

 

俺の言葉に、天衣は半信半疑だったので実戦してみせる。とりあえず手持ちの分だと10面しかないけど、全部角落ちで良いかな?

 

『角落ちでの勝率、最近は8割まで来ましたからね。10面程度なら勝ってみせます』

(よーし。じゃあ行くぞ)

 

基本的にソフトは、指し手が速い。そしてアイも、即座に指し手の指示をしていくので全ての試合がノータイムで目まぐるしく変化していく。もはや曲芸の域だけど、50面だと腕と手が途中から疲れてくるんだよな。やっぱり10面ぐらいがちょうど良いし、天衣も10面なら追えるんじゃないかな。

 

 

 

 

 

夜叉神天衣は、最初目の前の光景が信じられなかった。どの局面も大木の角落ちから始まり、ソフト側は同じような手で大木を攻め始める。

 

それに対し、変化を付け始めるのは大木からだった。僅かな変化が、局面にうねりを呼び、混沌と化していく。ソフトがノータイムならば、大木もノータイム。全ての局面を目で追うだけでも天衣は精一杯だった。

 

そして戦局は徐々にどれもが大木に傾いていく。一度崩れた均衡を、大木が見逃すはずもなく、次々と対局は終了していく。10面全てで、大木の勝利となった。

 

「……凄い」

 

現役最強棋士のレーティングが2000程度だとしたら、ソフトのレーティングは3000とも4000とも言われる。そのソフトを相手に駒落ちで、10面指しで勝つという非現実さは、天衣の口から称賛の言葉が漏れ出てしまうほどだった。

 

「天衣はまだ、見えてないよな?」

「何が?」

「勝手に駒の動きが見えたりとか、詰みまでの手順が浮き上がって見えたりとか。

その様子だと、まだか。それならまず、見えるようになるところからだな」

 

唐突に、大木は天衣の状態を確認する。所謂将棋の才能と呼ばれる奴で、一部の人間は読まずとも手順が分かる。そのようなことを天衣は出来ないため、震える声で大木に聞いた。

 

「……そんなこと、出来るようになるの?」

「世の中の事象には、必ず理屈というものがあるからな。将棋の才能と呼ばれるものの正体も、その身に付け方も、俺は知っているし教えるつもりだ」

 

天衣の問いに対して、自信満々に答える大木。もはや「俺は将棋の全てを知っている」と言っているのと同じであったが、不思議と天衣は納得させられてしまった。

 

「で、だ。その方法の一部を教えておく」

「そんな簡単に、教えても良いの?」

「当然。だって真似出来る奴はほとんどいないだろうしな」

「……それじゃあ、意味が無いじゃない」

「ああ、この方法を真似することに意味はない。だが、手がかりにはなるはずだ」

 

大木はここで言葉を区切り、天衣に聞く。

 

「完全記憶能力って知っているか?」

「確か、一瞬で本の内容を憶えたり、文字列を憶えられたりするアレよね?知っているけど、それがどうかしたの?」

「アレは元々、全人類が出来るものなんだ。人間は本来、忘れられない。一度見た物は、脳に刻み込まれるからだ」

「……へえ?じゃあ何で、人間は忘れるのよ?」

 

その内容は、完全記憶能力についてだった。人間は本来、物事を忘れられない。単純に言えば、脳に刻まれた記憶を思い出す能力を誰もが保有している。しかしそれは、徐々に欠落していく能力でもある。

 

明らかに痴呆になった年寄りが、唐突に忘れていてもおかしくない記憶を喋り始めたり、記憶障害で一度失われた記憶が、徐々に復活する現象が起こる理由はここにある。

 

「人間は、忘れる動物であるという言葉は正しくない。正確には、思い出せなくなる動物なんだ」

「……なるほど?つまり今までに指した全ての将棋も、思い出そうと思えば思い出せるのね?」

「そういうことでもあるな。この話で言いたいのは、脳の記憶の海から引っ張り出す作業を単純化しようということで……」

「?????」

『マスターの説明が下手過ぎて天衣ちゃんが困惑しているじゃないですか。マスターが最終的に言いたいのは、思考分割と並列処理、それとその作業の自動化。違いますか?』

(そうだけど、いきなりもう1人の自分を心の中で作れとか、完全にヤベーヤツじゃんってなった)

『現に今、マスターはそのヤベーヤツ状態なのですが』

(うるせー。お前は最初から生えてた人格だろうが)

 

師匠である大木の言葉を、何とか理解しようとする天衣に対し、大木は途中で言葉に詰まってアイと脳内喧嘩を始める。ちなみに大木はアイのことを最初から生えていた人格と言ったが、それは正しいことではない。

 

転生し、赤ちゃんとして過ごす期間。延々と続く無の時間に大木は耐えられず、もう1人の人格を頭の中に作製した。そちらは自分より少し将棋の強い、自分だけの脳内将棋相手。それがアイだった。

 

「強いプロ棋士とか、勝手に駒の動きが見えるのは無意識のうちに脳が勝手に考えているからになる。この無意識に人格を与えて、色んな作業を押し付けることも、出来る?」

「よく分からないけど、言語化しにくいことを教えようとしていることは分かるわ。それにそれは、誰にでも出来ることじゃないのよね?」

「分からん。もしかしたら誰にでも出来るかもしれん」

「……何で私は、こいつを師匠にしたんだか。

とりあえず、多面指しは続けるわよ。それで良いのよね?」

「ああ、並列処理能力自体は誰でも上がる能力だし、むしろ女性の方が向いていると言われている。八段10面指しを目指して、今はとにかく指し続けろ」

 

大木は次までに言語化しておこうと決心し、天衣はまた五段のアカウント作り作業を再開する。

 

……天衣の7つのアカウントの内、3つが五段に上がったのはこの2日後のことだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

賢王戦

賢王戦の予選トーナメントを勝ち上がった俺は、賢王戦のタイトル戦を行なっていた。七大タイトルには含まれていないものの、ニコ生で中継もされる。賢王のタイトルを取ると将棋電脳戦という特別マッチで、コンピューター将棋ソフトの大会を勝ち上がって来たソフトと対決することになる。

 

……この賢王のタイトルは、ソフトと対決するという晒し者と変わらない扱いを受けるため、賢王戦は避けるプロ棋士が多い。それなら別に取っても良いよね?ってことで全勝街道を爆走中。九頭竜八一が賢王戦の予選で山刀伐八段を3連続限定合駒で倒すけど、それは今年の予選の話だしノープロブレム。

 

タイトル戦は3試合行なわれ、先に2勝した方の勝ち。で、あっさりと俺が前の試合を勝っているため、今日の対局で勝つことが出来れば賢王である。対戦相手の川端八段は基本的に居飛車党で、竜王ランキング戦も1組に所属。タイトル挑戦経験もある強敵……ではあるけど、アイが一から十まで指すと楽に圧勝してしまうという。

 

『圧勝が何か不満なんですか?』

(不満じゃないけど、俺が楽しくない)

『そこ、重要です?』

(とても重要です。だから最初の陣形を組むのは俺がやるね)

『……手遅れになる前に、交代して下さいよ』

(うい)

 

今日は序盤の駒組みを俺がするけど、どうせなら珍しい陣形が良いかな?うーん。俺も川端八段も居飛車党だから自然と矢倉になるんだけど、このまま矢倉を組むのもなぁ……。

 

という訳で、棒銀というごり押し戦法で居玉のまま開戦を選択。ごり押しは基本的に好きです。そして無理攻めが祟って若干形勢は悪くなったので、そこでアイにバトンタッチ。

 

……当然、アイはため息をついて、総攻撃を開始した。いやすまん。B級棋士が相手でも今日は体調が良いから行けると思った。

 

『今回はある程度は成立しているので良いですけどね。勝ち切る時は勝ち切りますし。でもたまに、負け確定まで指されるのは勘弁して欲しいです』

(いやだって、全勝も全勝でつまらんぞ?ずっと俺が七冠とか、下手したらスポンサーが減る。そしたら俺にお金が入らなくなる)

『分かってますよ。ですから時々見逃しているんですし、原作もある程度は筋書き通りに進んでいます。

マスターが、童顔童貞ダサ男ダメ男の4Dじゃなければ良かったんですけどねえ』

(うるせい)

 

終盤までには形勢を互角に戻したアイは、そのまま一気に川端八段の王を詰ます。3番勝負を2連勝で勝った俺は、賢王のタイトルを獲得し、この後に行なわれる将棋電脳トーナメントで勝ち上がるソフトと対決することになる。まあ、十中八九アイが勝つな。

 

毎年、大駒一枚分は強くなる将棋ソフトだけど、アイも毎年強くなっている……はず。今年はまあ、何とかなるだろう。来年以降は、どうなるか分からないけど。

 

「……おめでとう。一応、祝ってあげる」

 

口を開けば罵倒か挑発しかしてこないうちの弟子も、今日ばかりは素直になって祝福してくれている。ちなみに天衣は現在、ネット将棋の五段の壁を登ったり降りたりして、限界も見えて来た模様。まあ7面指しでそれだけ指せれば、十分奨励会で通用するレベルなんだけど。

 

スケジュール帳に電脳戦の日程を書き加えると、原作で行なわれた帝位リーグの歩夢vs九頭竜の試合の日が一昨日であると目に入る。確かこの日に、九頭竜があいちゃんを初めて関西将棋会館に連れて来ているんだよな?それなら天衣も、連れて行くか。そろそろ自分の実力というのも、試してみたいだろうし。

 

「明日の朝、将棋会館に来れるか?」

「何?いきなりどうしたの?」

「さっき九頭竜に連絡をしたら、弟子が将棋道場デビューしたらしく、明日も連れて来るって言ってたから、こちらの弟子もお披露目しておこうと思ってな。そろそろ同年代の子供達と、指してみたいだろ?」

 

天衣に「将棋で1番楽しい時は?」と聞いた時、返って来た答えは「勝った時」だった。このやり取り自体は新世界でしていたし、俺もこれには同意する。

 

だけど最近、ネットに潜む魑魅魍魎の猛者達を相手に多面指しをしている天衣は少々摩耗気味だ。だからここら辺で一回、自分の強さというものを再確認して貰う。

 

あとは、弩級の怪物であるあいちゃんを実際に俺が見てみたい。だけど対局も無いのに弟子目当てで将棋会館まで行くのは何か嫌だし、天衣との顔合わせを口実にした。

 

という訳で当日、関西将棋会館の2階にある将棋道場で待ち合わせる。何か子供達が寄って来たので、サービスでサインを書いてあげた。子供人気は九頭竜の方が高いけど、俺も地味に子供人気は高い方……だと良いなあ。

 

一方で天衣は、早くも他の子供達に囲まれている。既にあいちゃんが道場デビューをしているから、同じ名前ということでも話題になった。別に俺の弟子ということは隠す必要もないので、公表する。そして可愛い可愛いとちやほやされて天衣は機嫌が良くなったのか、周囲の子供達にこういった。

 

「今日は機嫌が良いから、ここにいる全員まとめて、相手してあげて良いわよ」

 

……どう見ても多面指しの指し過ぎです。いきなりここにいる全員を相手に挑発をしたけど、これでも機嫌は良い方なんです。悪意があって言ってるんじゃないです。悪い子じゃないんです。

 

当然、ムッとした子供達は強い子が代表して天衣に挑む。レベル的には、アマ初段が2人とアマ二段が3人かな?随分と将来有望な子供達じゃないか。来年か再来年にはアマ四段くらいになって、奨励会に挑む子も出て来るのだろう。もしかしたら、研修会の子もいるかもしれない。

 

だけど、天衣の敵では無かった。5人を相手に、1手30秒の早指し対局で既に全対局が勝勢。そんな天衣を見て後方師匠面して腕組みをしている俺に、声をかけて来た存在がいる。

 

お目当ての子を連れて来る、九頭竜八一だ。

 

「久しぶり。そっちが天衣ちゃん?」

「おう。早指し将棋で道場の子達に対局して貰っているけど、相手にならないぐらいにはヤバい」

「……5面指しでか?」

「ああ、慣れてるからな」

 

あいちゃんは何処にいるんだろうと探すと、九頭竜の影に隠れていた。思っていたより怖がりだなと思ったけど、よく考えたら九頭竜に引っ付きたいだけか。しばらくすると、天衣は5局同時に対局を終わらせて立ち上がる。

 

「そちらが、竜王のお弟子さん?

初めまして。大木六段の弟子の夜叉神天衣よ」

「わたしはくずりゅー竜王の弟子の雛鶴あいです!」

 

天衣とあいちゃんが顔合わせをすると、互いに何かを察した。将棋指しってそういうところがあるよね。普通なら「初めまして」の後に「よろしくお願いします」があるけど、2人とも無言で将棋盤を挟んだ。互いに、相手から何かを感じ取ったのかもしれない。

 

「棋風は随分と、師匠のが出ているな」

「うるせえ。元々天衣は受け棋風だ。それも、独学のな」

 

弟子同士の対決を、それぞれの弟子の後ろから見守る師匠組。いや、俺は良いけど九頭竜は研究会じゃなかったっけ?この将棋を見てから行く?随分と弟子の育成に熱心な師匠だな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2人のあい

雛鶴あいと夜叉神天衣の初対局は、雛鶴あいの先手番で始まった。ここ数日、道場の子供達と指し、飛躍的にレベルアップしているあいは、先手番の利を活かして果敢に攻めて行く。それを丁寧に天衣は受けて、攻めを切りに行った。

 

「供御飯さんのような、受け潰す棋風なのか?」

「それも違う。元々は躱して受けるタイプの受け将棋だ。

ただ最近は、防御寄りのバランス型になって来たな」

「えー、思いっきり師匠の好みが出てますよね……?」

「指導対局だと、攻めさせているんだけど攻め将棋になってくれない」

 

隣で好き勝手に言い合う師匠2人を他所に、試合は力戦になる。こうなると知識の差が縮まり、素の力量と読みの力の差が出始める。

 

あいは「狙い通りになった」と思った。天衣は「狙い通りにしてあげられた」と思った。

 

天衣は、あいの力を十全に引き出してから潰そうと考えた。その結果、パンドラの箱を開いた。

 

「へえ。序盤から一気に終盤になって、鋭い手が多くなった。竜王が弟子にするわけだ」

「あいが凄いのは、ここから詰みに持って行くまでだ。恐らく終盤戦で、あいに追い付ける同世代の子はいない」

「お前がそこまで言うのは珍しいな。でもまあ、天衣は終盤も強いぞ」

 

2人のあいはお互いに乱戦になった盤を見ながら、次の手を読む。形勢は、序盤の分で僅かに天衣が優勢だが、あいの追い上げは凄まじいものだった。あいが「こうこうこうこうこう……」と頭を揺する姿を見て、大木が「ほへー」と鳴き声を発したが、どちらも大木を気にしないほど集中していた。

 

お互いに、一歩も譲らない対局。すると対局の途中で天衣に異変が起きる。

 

「な、なに……?」

 

7面指しまで耐えられた天衣の脳のリソースが、全てこの将棋の先の展開を読むだけに使われ、暴走を始める。天衣は盤面が1つだけだと物足りなさを感じ始めていたが、ここまでの異常が出るのは初めてだった。

 

「感覚で、駒の効きが見える……?これが、師匠の言っていた力なの?」

 

複数の盤面が消えずに、現実の将棋盤と重なる。しかも、その将棋盤は勝手に動き始めた。本人が読もうとした局面が、感覚として掴める。

 

そんな時、持ち時間のアラーム音が鳴り始める。元々早指し対局で、それほど持ち時間があるわけでは無かった。慌てた天衣は、相手の持ち駒にある桂馬を持ち、自陣に打ち込む。

 

「えっ?」

「……え?」

 

さした直後、天衣はとんでもないやらかしをしたことに気付く。相手の駒を勝手に持ち、自分の駒として指すなんて前代未聞の反則だからだ。しかしこの場において、その反則は前代未聞では無かった。

 

「大木!お前、弟子を祭神の」

「落ち着け九頭竜。今のはたぶん、初めて見えたんだろ。そのうち慣れるさ。それに今の桂打ちは、十数手後には実現することだ。ただまあ、反則は反則だな。天衣の負けだ」

 

祭神雷が空銀子と対戦した時、似たような反則をした。その時は自身の持ち駒になる駒を相手の台に置くという暴挙だったが、今の天衣の反則はあまりにもそれと似ていた。

 

そしてその原因を、既に大木は掴んでいた。マルチタスクに慣れることで、1つの局面に集中した時、脳が勝手に働き、メインの働きをサポートする。大木にとってはこれが第一関門であり、それを天衣はクリアしてみせた。

 

『才能というのは恐ろしいですねえ。マスターの時より、圧倒的に短かったじゃないですか』

(ここまで短いのはやべーよ。若いってやっぱり良いねえ)

『……今のロリコン発言は、普通はドン引きですよ。実際に発言してなくて良かったですね』

 

大木の予想より遥かに早く、天衣は余った脳のリソースの暴走を起こせるようになった。その後のあいとの対局では、力に振り回されながらも、驚異的なスピードでコントロールを始めてあいに5勝する。

 

夜叉神天衣の持つ8つのアカウントが、全て六段に上がるのにさほど時間はかからなかった。

 

 

 

天衣の道場デビューはなんやかんやあったけどたぶん順調だったと思う。あいちゃんに最初の対局で負けた以外は全勝だったし、覚醒もした。五段での7面指しもクリアし、現在は六段の8面指し中。そろそろ空銀子の背中が見えて来る頃だな。

 

……いや本当に、成長が早い。小学3年生の子が、奨励会初段クラスの実力を持ってるとかやべえって。ヤバ過ぎてヤベーとしか言えなくなった。

 

そもそも5月の研修会試験までに四段の6面指しをクリア出来れば良いぐらいだと考えていたのに、既に五段の7面指しにクリアするとか成長が著し過ぎる。

 

この調子だと、5月じゃなくてあいちゃんが研修会に入るタイミングで入会しても良いかもしれない。というかそっちの方が良いし、どうせマイナビ予選は圧勝して勝ち上がるだろうから研修会入りすらしなくて良いかもしれない。

 

ただこれは、女流棋士を目指す場合だ。プロ棋士を目指す場合は違って来る。奨励会の試験は毎年8月に行なわれるもので、今の天衣なら3級受験でも受かるはず。奨励会試験までには、1級受験が出来るぐらいには実力が上がるかもしれない。

 

「とりあえずどちらにしても、マイナビ女子オープンには出るか。

というか、そろそろ答えは聞かせてくれ」

「奨励会か、女流棋士かの2択よね?

……私は、奨励会に入るわ」

 

『あー、これは「女流のぬるま湯に居たら才能が腐っちゃう」とか思っている顔ですねぇ』

(事実そーだろ。奨励会に5級で入って、6級で辞めた奴がタイトル取ってる世界だ。奨励会に比べれば遥かにぬるま湯だぞ)

『……本当に、それを口に出さないで下さいよ。天衣ですら口にしていないんですから』

(わかっとるわ)

 

「そうか。まあそれはそれとして、マイナビ女子オープンに出て空銀子と指して来い」

「……それって、女王のタイトル挑戦者になれってことよね?」

「それぐらい達成出来ないなら、奨励会では通用しないからな。空銀子は、予選で出て来ない。空銀子以外の女流棋士は蹴散らせるぐらいじゃないと、奨励会では上がれないと思っておけ」

 

『天衣は一発勝負のトーナメント戦で勝ち上がれますかね?』

(それは疑問だわ。原作では勝ち上がれたけど、今の天衣が勝ち上がれるかはわりと疑問なんだよな。奨励会初段レベルなら、絶対に勝ち上がれると言えるのか?)

『毎年、女流棋士達のレベルも上がっていますし、棋力はともかく精神状態が大きく違うのは不味い方向に転がりそうなんですよねえ』

(まーでも、何とかなるだろ。九頭竜が竜王になったのを見て、そう思ったわ)

 

そして天衣は、奨励会受験を決意する。それまでに教えられることは教えて、どうせなら女王のタイトルも取って来て欲しい。それなら俺の指導は、間違っていなかったことの証明にもなる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

竜王の弟子

大木の弟子の天衣と九頭竜の弟子のあいが初めて指した日の夜。九頭竜はあいと向き合って棋譜を並べていた。あいと天衣が、最初に指した対局で、天衣が反則負けをした対局だ。

 

「ここであいが桂馬を使って合駒するだろ?この桂馬を取る手段は何通りかあるけど、おそらく天衣の頭の中ではこうなって……反則手になった桂打ちで、あいの攻撃はぴったり止まる」

「すごい……天ちゃんは、ここまで読んでいたの?」

「ああ。……似たような反則を、俺は見たことがある」

「えっ?」

 

九頭竜は天衣の読んだ先の展開をあいに教え、その上で似たような反則があったと告げる。それは姉弟子である空銀子と祭神雷の試合で、取った駒を相手の持ち駒に加えた反則についてだった。

 

「あの時の祭神雷は数手後の局面だった。それに対して、天衣の反則は十数手後。ほとんど一本道とはいえ、天衣の方が長手数だ」

「それってつまり、おばさんより才能のある人より、天ちゃんの才能があるってことですか?」

「才能はまだ分からない。実力は、姉弟子には届いていないように見える。ただ天衣の師匠はあの大木だから……」

「あの……大木先生は強いんですか?いつも序盤で苦戦して……でも持ち時間を使わないのは凄いことですよね?」

「……あれは、プロレスを楽しんでいるんだよ。観客を飽きさせないために」

 

勝敗の決まっている勝負事ほどつまらないものはない。今の名人でも、勝率は7割。全盛期で8割だった。しかし大木の今年度の対局成績は、63勝3敗。勝率は95%を超える。

 

既に九頭竜は、奨励会時代に大木と全力での将棋を何回か指したことがある。その内容は全て九頭竜が叩き伏せられるような内容での、全敗だった。その時は大木にソフトに近いものを感じたが、天衣の将棋を通じて大木を見た時、九頭竜は1つの結論に至った。

 

大木はソフトと共存して強くなったのではない。ソフトを組み伏せて強くなったのだと。

 

この事に気付いているのは、九頭竜と歩夢を含めても数人のみ。そしてこの事実を、あいに告げる。

 

「大木は今度の電脳戦で、さらに評価が上がるはずだ。気になるならネットで生放送もされるから見ると良い」

「あの……人間って、ソフトより強いんですか?」

「大木以外は、ソフトより弱いよ。だけど大木なら、勝つかもしれない。それぐらいに大木と他のプロ棋士では、実力に開きはある」

 

ここで九頭竜ははっきりと、大木が自分より上であることをあいに伝える。竜王である九頭竜が最強だと思っていたあいにとって、少なくない動揺はあった。しかし九頭竜は、続けて言葉を発する。

 

「だけどあいつも人間だ。どんなに強くても、俺は必ず追い付くし、追い抜いてみせる」

「ししょー……!

私も、必ず天ちゃんに勝ちます!勝ちたいです!もっともっと、強くなりたい……!」

 

2人は互いにもっと強くなると約束し、そこから2人で指し続けた。夜が明けるまで指し続けた2人は当然、次の日の予定に支障をきたした。

 

 

 

 

 

天衣はあいと将棋を指した後、さらにネット将棋にのめり込むようになった。盤面が勝手に読める全能感を楽しみ、その力を十全に使っても、なお負ける。

 

将棋というものは、インターネット越しとはいえ指していると相手の気持ちが何となく分かるものだ。もちろん天衣も、対局者の心の声が何となく伝わって来ているはず。

 

「時間負けしろ持ち時間切れろ時間負けしろ持ち時間切れろ時間負けしろ持ち時間切れろ……」

「ミスれミスれミスれミスれミスれミスれ……はいタップミスー!俺の勝ちデース!」

「ソフトかよ。死ね」

「はっはっはっは、こんな手に引っかかるとか鴨確定だな。こいつ鴨リストに入れとくわ」

「ふざけんな。素直に死ねやカス」

 

……まあ、ネット将棋なんて大体は負の感情が渦巻いているけど。ネット将棋の六段になり、8面指しをする天衣だけど、現状はそれで指し分けが精一杯。基本的には負け越す。

 

五段から六段に上がり、天衣も瘴気の濃い連中と当たる機会が増えた。コイツらは勝てる人リストを作ったり、時間切れ負けを狙ってしつこく粘ったり。まあ奨励会の将棋より色々と酷いが、奨励会と同じように勝ちだけを狙って来る。

 

四段までは、同格相手に勝ったら+15ポイント、負けたら-15ポイントだ。しかし五段になると、勝てば+12ポイント、負けたら-18ポイントになる。六段にもなると、勝てば+10ポイントで負ければ-20ポイントだ。要するに3回に2回は勝たないとズルズル落ちて行く。だから天衣も何回か五段に落ちた。

 

八段にもなると、同格が相手でも勝って+5ポイント、負けて-20ポイントと救いようのないポイントの奪い合いになっている。だからプロ棋士でも八段を維持するのは難しいし、七段や六段にはアマの強豪や奨励会員がうようよいる。

 

コイツらは、マジで一銭の得にもならないポイントのために命を賭けて指している。何がそうさせるのか、俺には分からない。天衣が指しているサイトは、そういうところだ。

 

「ぐ……また負けたし、五段に落ちたじゃない!本当に、何処から湧いて来るのよ。こんな強い奴ら」

「元奨や裏世界の真剣師、現役のプロや将棋に出会うのが遅かった天才がうようよいるからな」

「将棋に出会うのが、遅かった天才?」

「高校や大学で将棋を始める奴も多いからな。そういう奴らは言われるんだ。将棋に出会うのが遅かったから、あなたはプロ棋士にはなれませんって。

だけど才能はあるから、将棋はどんどん強くなる。そういう奴らもここに行き着くな」

『マスターも、前世で将棋に出会うのが遅かったですよね』

(……まあ、遅かったな)

 

プロ棋士は強い。全員が将棋の天才だからだ。しかしプロ棋士以外にも、将棋の天才はいる。親に反対されてプロへの道を閉ざされた人。将棋に出会うのが遅かった人。三段リーグを抜けられずに、奨励会を辞めた人。初めからプロになるのは諦めていた人。

 

将棋が大好きで、でもプロ棋士にはなれなかった連中。そいつらが最後に行き着くのはネット将棋になる。ここなら誰にも文句を言われずに将棋を指せる人もいるだろう。そしてポイントに飢える廃人と化す。

 

そういう奴らが相手の多面指しだからこそ、効果があるんだ。自分より強い相手と、対局数を重ねる。さて。第二関門を突破するのはいつになることやら。まあこれだけは、対局数を重ねないとな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の師匠

初めて会った時は、何でこの人が来たのと思った。

 

大木晴雄。奨励会を全勝で勝ち抜け、プロ入り後すぐに30年ぶりとなる連勝記録の更新を成し遂げた将棋界の新星。その後にすぐ九頭竜先生が竜王になったから世間の話題からは逸れたけど、とんでもない強さを持っていることは分かっていた。

 

お父さまは学生名人で、月光会長の大ファンだった。私が大きくなったら、月光会長の弟子にして貰う約束までして貰っていた。私も月光会長のファンで、その月光会長の弟子が大木晴雄という人物になる。

 

『師匠にはA級棋士かタイトルホルダー』そういう条件を言えば、月光会長が来てくれるかもしれないと思って言った。遠回しに、月光会長の指名をしていた。でも実際に来たのは、その弟子だった。

 

晶でも知っている有名人が来てくれたことは嬉しかったけど、本当は月光会長に来て欲しかった。師匠との初めての指導対局は、飛車と角の二枚落ち。二枚落ちなら名人相手でも勝てると思っていた私はそこで、プロ棋士相手に自分の将棋は通用しないことが分かった。

 

何度も大駒を取られては渡され、攻め続けるも崩せない。何度目かの攻撃の後、一瞬でこちら側の玉が詰まされる。私は、自分の玉がずっと詰んでることにも気付かなかった。それが悔しくて悔しくて、気付いたら泣いて逃げ出していた。

 

部屋に戻ると、既に部屋の中にはお爺さましか居なかった。私の将棋を独学だって見抜いたこと、効率が悪いって言ったこと、月光会長のことや、この話を引き受けた理由。本当はもっと、色んなことをお話したかった。

 

何ですぐに帰したのかお爺さまに問い詰めたら、お爺さまは師匠からの伝言を預かっていた。

 

「大木先生は、強くなりたいのなら明日の10時にJR環状線の新今宮駅に来いとおっしゃっていた」

 

次の日。師匠の言った場所に行くと、若干青い顔をした師匠が待っていた。私が来なかったら、そのまま環状線で福島駅まで行くつもりだったみたい。そして師匠は、強い口調で喋り始める。

 

「俺はお前の家庭教師を引き受けることにした。俺はお前を、不敗の……女流棋士?にする」

「ちょっと!何で最後があやふやになったのよ」

「いや、最初は不敗の棋士に育てるって、格好良く決めたかったよ?でも、俺がいる限り不敗の棋士にはなれねーなと思って。だから途中で不敗の女流棋士に変えた」

「別に、あなたも不敗ってわけじゃないじゃない!なるわよ絶対。不敗の棋士に!」

 

レッスンが始まってからは、師匠呼びを強制して来た。あの時はまだ師匠がいる限り不敗の棋士にはなれないという意味が分からなかったけど、今ならよく分かる。

 

 

 

新世界の将棋道場で行なう賭け将棋で、ハメ手や奇襲戦法、盤外戦術を学んだ私は、師匠にネット将棋を勧められた。師匠から勧められる前も何回か指していたけど、その時は戦う相手みんながゲーム感覚で弱い人しか居なかった。

 

だけど、師匠の勧めて来たサイトは違った。強い人が強い相手を求めて、自分の強さを誇示するポイントに飢え、ひたすらに奪い合う。そんなサイトで私は、多面指しを続けた。

 

3面指し、4面指し、5面指し……今ではもう8面指しになっているけど、1つ盤面が増えただけで忙しさは倍増する。盤面を見てから考えていたのでは持ち時間が間に合わないし、勝つことなんて出来ない。だって画面の向こうの知らない相手は、私からポイントを奪うことしか考えていないんだから。

 

だから1つの局面だけじゃなくて、同時に複数の局面で考える必要がある。集中しながらじゃないと意味がないことぐらい分かっていたから、必死に集中力を持続させた。だけど慣れて来ると、集中力は勝手に持続するようになった。……ううん、集中しなくても読めるようになった。

 

その間に、私と同じ年で同じ名前の雛鶴あいとも出会った。九頭竜先生の弟子で、一目見た時に私のライバルになると感じたけど、実際に指すと実力は私の方が上だった。だけど、私はあいとの初めての対局で負けてしまった。今でも私自身が信じられないような、反則負けで。

 

師匠は多面指しの成果がこれほど早く出るとは思って無かったそうで、しきりに謝っていたけど、この力は凄い。そしてこの力を使っても、まだ上がいることをネット将棋は教えてくれる。だから私はまだまだ、強くなれる。

 

 

 

私が7面指しで行き詰まっていた時、無理を言って師匠に師匠の多面指しを見せて貰った。その時は八段のアカウントを使うのかな?と思っていたけど、師匠のアカウントは全てソフト指しと判断されて、アカウントを抹消されたみたいで使えないと言っていた。

 

だから師匠が相手をするのは、そのソフトだった。もう人類は敵わないと言われているソフトを相手に、師匠が角を引いての10面指し。その10面全てで師匠が勝った時の衝撃は、今でも憶えている。それと同時に、色んな考えが頭を巡った。

 

師匠は普段頼りないけど、将棋では人類最強だ。それこそ、隣に並び立てる者がいないぐらいに。だからこそ、早めに弟子を欲しがったんだと思う。師匠が全力で戦える相手を、師匠は育てたかった。

 

そう考えてしまったら、途端に師匠が可哀想な存在に思えて来た。誰も師匠には敵わないから、こうやって熱心に私を育ててくれている。きっと師匠は、寂しいんだと思う。だから私は、いつか師匠と渡り合えるぐらい強くなりたい。

 

私の名前は夜叉神天衣。小学4年生。将来の夢は、将棋史上最強の師匠に勝つこと。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

将棋電脳戦

4月になり、天衣は小学4年生になった。世間では九頭竜があいの研修会試験であいの両親相手に土下座をしたということで、ロリ王とか逆玉とか言われているけど、俺もその内ロリ王と呼ばれそうだな。いやでもこの世にロリ王は2人も必要ないし、空さんが九頭竜をロリ王にしてくれるだろう。

 

賢王のタイトルを取ったけど、別にこれで九頭竜竜王のように大木賢王と呼ばれることは無い。七大タイトル外だからね仕方ないね。来年か再来年には八大タイトルになると思うけど。

 

(あー、最強のソフトと持ち時間五時間で一騎討ちとか、普通のプロ棋士なら拷問ものだろ。しかも一発勝負じゃなくて三番勝負とか、プロ棋士側に言い訳させる気がねえ)

『練習用のソフトには角落ちで勝てましたが、性能は一段下のものを渡されていますしね』

(今まで通り、ノータイムで勝てるか?)

『勝てます。少なくとも今までサンドバッグにしていたソフトよりかは強いですが、それでもまだノータイムで勝てますね』

 

「失礼します」

 

対局前に俺の控室に入って来たのは、今から俺が対戦する将棋ソフトの開発者。名前は……憶えてないな。

 

それからの会話は、わりと穏やかだった。何か俺の対局の棋譜も読み込ませたとか言ってるけど、表に出ている俺の対局の棋譜数、俺がこの半月で指した対局数の100分の1にも満たねえよ。

 

世間では俺の対局においてソフトのカンニングも疑われているんだけど、ソフトを上回ったらそんなことも言えなくなるはず。そもそも全てノータイムなのに、カンニングする暇がどこにあるんだか。

 

ちなみに天衣は応援に来ないと言っていたけど、現地で晶さんと一緒に変装した姿を見かけた。一応、応援には来てくれたらしい。まあ比叡山だしな。比較的神戸から近い場所か。ああ見えてかなりの歴女だし、歴女なら比叡山延暦寺は訪れたい場所かもしれない。

 

『さて、対戦相手が来ましたよ。振り駒はpopper君ですか。……これ絶対、先手はプロ棋士側になるんじゃないですか?』

(駒を人が握らせて、落としただけだからな。まあとりあえず、先手なら負けは無いか)

 

賢王戦の表彰式も終わり、ロボットのポッパー君が振り駒をした結果、俺の先手が決まる。アイが先手で、負けるわけがねえな。

 

「10時になりましたので、対局を開始して下さい」

「よろしくお願いします」

『1六歩』

(……は?)

 

そしてアイの1手目は、端歩を突けというものだった。コイツは何を考えているんだ。

 

 

 

 

 

将棋電脳戦の第1局。大木の先手番だが、大木が開始してから30分間動かない。いつもならノータイムで指しているはずだが、微動だにしていない。

 

「ちょ、これどうするんですか!?もはや放送事故ですよ!」

 

ニコ生で既に人気が(悪い意味で)ある、大盤解説を任されていた九頭竜は、初手から30分も盤面が動かない局面に焦りを感じていた。一方で大木は、アイとの脳内喧嘩が収まっていなかった。

 

『一手……いえ、二手パスして勝ってみせます。「先手番だから勝てた」みたいな風評被害を打ち消します』

(めんどくせええええ!どうせ2局目は後手番だから良いじゃねーか!誰もケチつけねえよ!)

『2局目までの期間の、マスターへの風評被害を防ぎます。言っておきますけど、1六歩以外を指した瞬間にこの対局はもう助けませんからね?』

(……ああ!もう分かった!指せば良いんだろ指せば!)

『ようやく素直になりましたね。マスターはそれで良いんですぅー』

 

対局開始から、31分40秒後。ようやく大木は初手を指した。1筋の端歩を突くという、奇襲戦法以外では見られない手を。

 

ここまででも十分に事件だったが、この後の数手もさらに事件だった。大木が指す度に会場はどよめき、聞き手役の女流棋士は考えることを止め、九頭竜に解説を丸投げする。

 

「……これ、解説出来るかなぁ」

「が、頑張って下さい。九頭竜先生なら出来ます」

 

初手1六歩の後、大木はノータイムで指し続ける。3手目9六歩、5手目5六歩と大木の将棋は解説が困難な将棋となっていた。7手目に5八飛車と飛車を振ったことで、会場は大いに盛り上がる。生粋の居飛車党の大木が、飛車を振ったからだ。居飛車こそが正義となっている、ソフトを相手に。

 

「ええっと、解説をするなら中飛車で居玉という、両方の端歩を突いたメリットをことごとく潰す手を指していますね。一応9七角と上がる手はありますが……おそらくこれは、ソフト相手に先手番は要らないという大木六段の決意表明ではないでしょうか。中飛車に関しては、指している姿を見たことが無いので未知数です」

 

九頭竜は、大木が中飛車を選択した姿を見たことが無かった。もちろん、会場にいる客達も同様だ。ただ1人、大木の弟子を除いて。

 

「……ソフト相手に平手で指す時は、ハンデとして飛車を振っているのが日常だなんて普通は考えられないわよね」

 

もちろん、こんなことを続けていれば評価値はガタガタになる。しかし序盤の数手だけでは、そこまで評価値が落ち込むことは無かった。そして不思議な事に、盤面が進むに連れて大木の評価値は回復していった。ソフトは常に、ソフトの示す最善手を指しているのにだ。

 

そして60手目。ついにソフト側の評価値がマイナスとなった。ソフト側は時間を使って深いところまで読み、指し手を選択しているのに対し、大木は初手以外、時間を使わずに指している。

 

持ち時間は互いに5時間だが、両者ともにそれほど持ち時間は消費せず、終盤に差し掛かる。大木の消費持ち時間は32分なのに対し、ソフト側は1時間19分の消費。互いに5時間の持ち時間のことなど、目に入っていなかった。

 

決着は昼前だった。大木の勝負手で、ソフト側の評価値が一気に150ほどマイナスになる。ソフト側は最後に大木の陣形を攻めるものの、崩すことすら出来なかった。最終局面では、天と地ほどの差が出来ていた。

 

大木の勝利は大々的に報じられ、まだ将棋ではソフトに人間が勝てるものなのだと多くの人間が誤解をした。一週間後に行なわれた第2局では、大木が後手番で快勝。世間の注目を集めた将棋電脳戦は、大木の2連勝で幕を閉じた。




日間ランキング1位になりました(2020/3/26)。多くのお気に入り登録、評価、感想、応援ありがとうございます。そして誤字報告に至っては感謝してもし切れません。本当にありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

GW

将棋電脳戦に勝ってまた一躍時の人にはなったが、そんなこと世間の人々はすぐに忘れる。5月に入り、天衣の棋力の伸びに陰りが見えて来た。元々将棋の棋力というものは、一直線で上がるわけではない。どちらかと言えば階段状に伸びるものだ。

 

『私の様に、一直線で伸び続ける方がおかしいのです』

(ソフトは指数関数的に強くなっているけどな。でもまあ、あと2、3年は大丈夫か)

 

「師匠の言う、第二関門って何なのよ。第一関門は分かりやすかったけど」

「第二関門についてはあれこれ詮索する前に、10万局ぐらい指せ。50面指しを毎日5回ずつすれば、1年ちょっとで終わる対局数だ」

「それはそれは、時間がかかりそうな関門ね」

「いや、天衣なら1万局でも辿り着くかもしれんわ。俺の時より第一関門突破は早かったし」

「……はあ。要するに、対局数を積み重ねろってことね」

 

天衣と指導対局をしながら、今後の方針についても話しておく。次の関門は何よりも経験がものを言うので、ある程度の対局数を積み重ねることが大切だ。

 

それとは別に、棋力の壁にもぶち当たっているけど、これに関しては何回もぶち当たることになるし、時間もかかる。現状でも空さんと五分の戦いは出来ると思うけど、少し分が悪いか?

 

「んー、環境を変えるか。生石玉将は知ってるよな?」

「当然、知っているわよ。振り飛車党総帥でしょ」

「ちょっと修行付けて貰って来い。3面指しで」

「……えっ?話は通してあるの?」

「今から通す」

 

原作の方で生石玉将に九頭竜とあいが修行をお願いしていたのは梅雨の時期だし、たぶん6月に入ってからだ。玉将のタイトル戦も終わった後だし、今なら暇かもしれないのでゴキゲンの湯に行く。棋力の壁にぶち当たった時、愚直に努力するのも良いけど、環境を変えることも有効だ。そうすることにより、強くなったり弱くなったりする。

 

「ここがゴキゲンの湯だ」

「……どういう場所なの?ここ」

「銭湯」

「晶、通報」

「上を見ろ上を!銭湯に将棋道場が併設されているんだよ。生石玉将の道場がな」

 

環境を変えるために適当な道場に行っても良いけど、どうせなら知っている所が良いし、女流棋士と多く戦うマイナビ女子オープンのために、対振り飛車の経験は積ませるべきだ。女流棋士には、結構振り飛車党が多い。

 

(振り飛車は憶える定跡が少なくて済むからな。手っ取り早く女流棋士になって稼ぎたいなら、振り飛車を指せと言われていた時代もあるぐらいだし)

『それ、生石玉将に言ったら殺されるやつですよ。あと、全女流棋士を敵に回します』

(あの人も何かこえーよな。1番怖いのは天衣の付き人の晶さんだけど。銃持ってるし)

 

番台を務めている飛鳥さんに席料を渡して、早速2階へ。確か九頭竜の時は歓迎されてなかったはずだけど、俺は将棋電脳戦でソフト相手に振り飛車を使って2局とも勝ったからか、反応は微妙な感じだった。ずっと居飛車党だった奴が、急遽振り飛車でソフトに対抗して勝ったんだから振り飛車党の人からの印象は中途半端な感じだろう。

 

「何の用だ?研究会か?」

「いえ、弟子育成のお手伝いをして欲しいんです。うちの天衣の、修行を付けて貰おうかと。今度のマイナビ女子オープンに出場するので」

「あ?俺がか?」

「はい」

 

ちょうど生石玉将はお客さん達に指導対局をしていたので、話を持ちかける。すると生石玉将はじろじろと俺の顔を見て、天衣の顔を見る。生石玉将、ちょっとヤーさんっぽくて怖いです。天衣の後ろにマジもんのヤーさんいるけど。

 

「とりあえず座れ。それとその紙袋、食い物とかだったら怒るぞ」

「まさか。対価として持って来たのは、俺が振り飛車を指してソフトに勝った棋譜ですよ。俺の後手番で、中飛車を指した時の棋譜だけを持って来ました」

「……何局分だ?」

「150局分」

「よし、俺は何を手伝えば良い?」

「現金過ぎません!?」

 

対価は十分だったようで、天衣の育成に乗り気な生石玉将。とりあえず1回、生石玉将に天衣の棋力を見せた方が良いか。

 

「3面指しでお願いします。天衣の今の状態を見て貰うには、多面指しの方が良いので」

「おいおい、1対1で3面指しをさせるつもりかよ。

……ま、貰うもん貰ったからには軽く捌いてやるよ」

 

こうして、天衣と生石玉将の3面指しが始まった。1つは角落ち、1つは香落ち、そして最後の1つは、平手で。

 

(……流石に、3面全部で平手をお願いするのは失礼だからな)

『マスターはアホなのですか?今の要求でも十分に失礼ですよ?現役A級棋士に、役に立たない棋譜を押し付けて弟子の育成を頼むとか』

(アイにとっては役に立たない棋譜かもしれないけど、生石玉将は欲しいだろ。あと、失礼な物言いをしてる自覚ぐらいはあるわ)

 

3つの盤面を見ると、角落ちは唯一、天衣の若干優勢になっている。A級棋士と角落ちという手合いで勝てるようになるのは、少なくとも奨励会二段以上の実力が必要だ。やはり天衣は、凄まじい勢いで成長していたな。

 

『香落ちと平手の方はフルボッコですけどねー』

(フルボッコにならない方がおかしいわ。現役プロのトップ10に入るタイトルホルダーだぞ)

「く、負けた……!」

「驚いたな……こりゃ」

 

天衣が早指しのため、自然と生石玉将も早指しになる。平手は速攻で天衣が負け、香落ちと角落ちの2面になる。天衣は平手感覚で香落ちを指しているため、香落ちの方ももうすぐ負けるだろう。

 

となると、両者が集中するのは角落ちの対局。いつの間にか生石玉将は煙草を消し、指導対局モードではなく本気モードに入っている。わりと大人げない大人だな。俺が言えることじゃねーけど。

 

「……負けました」

『あと一局、角落ちの対局だけですね。しかしこれは、どちらが勝つか分かりませんよ』

(アイでもどちらが勝つのか分からないのか)

『今からなら、どちらと代わっても勝てますからね』

 

角落ちの対局は、天衣が果敢に攻めて生石玉将の攻めを躱す。角落ちの将棋は受けの力が重要だとされているけど、天衣は上手く上手の攻めを受け流して……。

 

(このタイミングでガチンコの受けに回ったぞおい)

『これは……何とか機能はしますね。ただ攻め合った方が良いのは確かです』

(A級棋士相手に、力で対抗しようとしたな。これは潰れるわ)

『いえ、意外と粘れる形でありますし、天衣も粘りますが……あ、投了しますねこれ』

 

「……負け、ました」

「おい大木。何処でこんな逸材拾った」

「わしが育てた」

「……言い方はムカつくけど、育てられたのは事実よ」

 

結局、フルパワーの生石玉将に押し潰されて負けた。負けず嫌い過ぎでしょこの人。でもまあ、今の将棋は良い将棋だった。捌きの巨匠とか振り飛車党総帥とか言われているけど、要するにそれだけ本格正統派な振り飛車党ということだ。

 

これからはガンガン、生石玉将にこの3面指しで挑むよう天衣に言う。ついでにこの道場に集まる、振り飛車好きな奴らと多面指しもさせよう。対振り飛車の経験を積むのに、これほど良い環境はない。ネット将棋だと、相手の戦法指定とかは出来ないからな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番台

天衣と生石玉将の道場に通い始めて3日目。今日は生石玉将が居ないので、飛鳥さんに頼んで天衣に番台の仕事をさせる。

 

「な、何で私がそんなことしないといけないのよ」

「いいか。番台は営業スマイルが求められる接客業だ。将棋界も同じで、営業スマイルが出来ない奴は仕事が来ないし、嫌われる。

内心でどう思っていようが、表面上では取り繕うことをしろ」

「……師匠も、愛想笑いは苦手じゃない」

「それも売りにはしているからな。だが基本は笑顔で挨拶だ。

ほら笑え。にぱーって」

「しないって言ってるでしょ!」

 

生石玉将が居ない日には、振り飛車好きなお客さんの数も減るので今の内に天衣に接客業をやらせる。可愛いから、営業スマイルが出来るだけでファンが急増するだろう。研修会に入ってないから、ここで天衣の礼儀や立ち振る舞いの矯正をしておく。

 

「将棋には必要ないことかもしれない。だけどな、将棋界には必要なことだ。

お前の勝手な振る舞いで、スポンサーが降りたらそれだけで棋界にダメージが入る。師匠の俺の顔にも泥を塗る行為だということは分かっておけ」

「……分かったわよ。やれば良いんでしょ!完璧にこなして見せるわ!」

「よし。

じゃあ大人1人だ。ほら、スマイル」

「くっ……。10000円、お預かりいたします。お先に9000円お返しします。……ごー、ろく、しち、はち、きゅー。残り、300円のお返しです。ご利用、ありがとうございます」

「お、思っていたよりも出来てるな。じゃあ俺は風呂に入ってくるわ」

 

『礼儀に関しては付け焼刃でも、やらないよりマシですからね』

(やって損することじゃないしな。やって損することじゃない上、得をするんだからやらない理由が無い。天衣に関しては、飛鳥さんと晶さんも見てくれるし大丈夫だろ)

『それにしても、小学生を働かせる師匠って印象最悪でしょうね』

(うるせえ。多少場をほんわかさせるツンデレ台詞なら許容できるが、人の地雷を踏み抜く部分は矯正しないと俺の胃が持たねえ)

 

まず天衣の接客を俺で試すと、意外にもまともな対応は出来ていた。天衣はやれば出来る子だな。問題はやらないことなのだが。将棋の修行は必要だけど、将棋界で生き抜く方法も必要なことだ。少なくとも愛嬌があるだけで、かなり生きやすさが変わって来る。

 

内心どれだけ馬鹿にしてようが、表で出す部分を取り繕えば評価は上がる。研究会で標的にされる確率も減るし、最新の情報も入りやすい。将棋を指す以上は全員敵、馴れ合い不要という天衣の考えは、非常に孤立してしまいやすい。

 

そんな下衆いことを考えながら大きなお風呂の湯に浸かると、天衣の付き人も入って来た。晶さんじゃなくて、いつも遠巻きに警戒している別の男の人で、ゴリマッチョ体型だ。

 

……めっちゃ怖いし、筋肉量と傷跡がやべえ。なんか雰囲気を見るだけで、歴戦の戦士だということが分かってしまう。マジもんのヤーさんマジやべー。

 

そしてそんな人がこの湯に入って来た理由なんて、1つしかない。俺と、話をしたかったのだろう。

 

「……天衣お嬢様は、両親が亡くなられてからずっと1人で将棋を指し続けていた。亡くなられた両親との、幸せな思い出が将棋だったのだ。そのお姿があまりにも居た堪れなく……我々は、お嬢様を甘やかし過ぎたのかもしれない」

「……甘やかし過ぎた、ね」

「だから大木先生には感謝している。天衣お嬢様は今、人として成長しておられる。1人でずっと殻に籠っていた天衣お嬢様が、外へ目を向けてくれているのは大木先生の教育のお陰だ。

……だからこれからも、天衣お嬢様を導いて欲しい。我々からの、願いだ」

「言われなくても、天衣が一人前のプロ棋士になるまで面倒は見ますし、それからも年上として、先輩として、師匠として教えられることは教えて行きますよ」

 

ゴリマッチョが、俺に頭を下げるという構図だけでも震え上がる。転生しても嫌いな食べ物は嫌いなままだし、怖いものは怖いんです。具体的にはゴリマッチョの体育会系。人として、相いれないことが経験として分かってしまっている。

 

でも、それでも会話は良い感じに取り繕う。ここで選択肢を間違えたら死orDeathだ。それに天衣に関しては、どこまで伸びるか楽しみだし、正直に言うと弟子育成が楽しいです。

 

『とことんマスターは、ゲーム脳ですよね。そう言えば今日からウォットでイベントですよ』

(え?マジで?……天衣を放って帰ったら駄目かな?流石に駄目か。今日は徹夜だな)

『明日、玉将戦の一次予選の決勝がありますよ』

(あー、玉将戦に関しては生石玉将と於鬼頭帝位の対決が見れなくなるからパスするし、丁度良いな)

『そーですか。マスターは何なら取りに行くんです?』

(棋帝は俺が取りに行くから安心しろ)

『マスターは棋帝の挑戦者決定戦に勝つおつもりですか?今回で名人が99期目を獲得するから、竜王戦が100期目で盛り上がるんですよ?』

(……あー。いやまあ、そろそろ俺もタイトル欲しいし。別に竜王戦が永世七冠とタイトル99期目を賭けた戦いでも盛り上がるだろ) 

 

とことん自分本位で色々と考えた後、風呂から上がって天衣の様子を見に行く。すると、そこには笑顔を振りまく美少女の姿が確認出来た。ちゃんと接客が出来ていて一安心したし、営業スマイルの上達速度も速い方だな。

 

番台を飛鳥さんに交代して貰った後は、道場のお客さん達と多面指しをする天衣。天衣を囲むようにして机が並べられ、おっさんやお爺さんが天衣を取り囲む。一見すると怪しい図だけど、ここの道場の客、生石玉将が時たま指導対局をしているからか、筋が良いしそこらの将棋道場よりレベルが高い。

 

と言っても、天衣の敵ではないので天衣には全勝目指して勝ち続けろと伝えました。生石玉将の道場の客の実力は、ばらつきがあるもののアマ初段からアマ四段クラスが多い。アマの四段だと、底辺の女流棋士より強いことも多いし、この道場は振り飛車党しか居ないからマイナビ女子オープン対策にバッチリだ。

 

……たぶん、組み合わせとかは原作と変わるんだよな。下手したら、1回戦であいと天衣が当たるかもしれないし、原作と組み合わせが異なる以上、天衣が絶対に勝ち抜ける保証なんてどこにも無い。

 

俺は、ひたすら天衣に勝ち抜く力を付けさせるしかない。不敗の女流棋士にはしてみせるって言ったんだ。だから、頼むから女流棋士には負けないでくれ。

 

あ、空さんは女流棋士では無いので負けてもセーフです。現状で五分だと思いたいけど、最近の空さんの将棋を見てないから何とも言えないんだよな。まあでも女王のタイトル戦までに、あと半年以上の時間がある。向こうも成長するだろうけど、成長速度は天衣の方が上だろうし、女王のタイトル奪取も可能かもしれないな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

駒落ち

「もう、何で勝てないのよ!」

「そうそう簡単に勝たれてたまるか。しかしまあ、平手で俺にここまで迫れるのは奨励会員にも中々居ないぜ?」

 

修行5日目。天衣は生石玉将と例の3面指しを20回以上して、角落ちでは2回、香落ちでは1回勝った。しかし平手では全敗だ。いやまあ、当然と言えば当然なんだが。

 

将棋は強い人が必ず勝つゲームじゃない。強い人でもミスはするし、生石玉将だってミスはする。そのミスで、ひっくり返せない力量差がある時だけ全勝と全敗になる。要するに天衣と生石玉将で、それだけの力量差があるってことだ。

 

特にこの3面指しは、超が付く早指しだ。天衣のミスはあるけど、生石玉将のミスもある。それでも平手で負けないのは、プロの意地だな。

 

「生石玉将は、天衣と空さんの実力、どちらが上だと思いますか?」

「実力は五分と言いたいところだが、もし女王のタイトル戦で当たるなら、タイトル戦の経験の分は銀子ちゃんの方が上だろ」

(やべ。生石玉将と空さんの研究会って秘密だっけ?)

『秘密でも無いと思いますが、知っていると不自然ではありますね』

「まあ、そうですよね。今度俺もタイトル戦なんで、その時の雰囲気は天衣に伝えようと思います」

「挑戦者決定戦で、名人が相手でも関係無しか。その気楽さは羨ましいな」

 

今度の棋帝の挑戦者決定戦は、名人との勝負。だけどまあ、アイなら勝つでしょ。そもそもあの名人は、衰えて来ているしな。全盛期なら1%ぐらい負ける可能性はあったかもしれないけど。

 

『たとえ名人が全盛期でも、勝率は99.9999%ですよ』

(アイが100%と言い切らない時点で、あの名人が一線を画す実力の持ち主であることは分かる)

「名人相手でも、ノータイムで勝ち切りますよ」

「……ソフト相手に、あの勝ちっぷりだ。序盤でふざけない限り、まあ負けないだろうな」

 

ちなみに棋帝戦の持ち時間は各4時間なので、タイトル戦の中で1番短かったりする。1次予選の時とか、持ち時間は1時間だけだし。1日制のタイトルなので、封じ手も無い。賞金も少ないので、タイトルの中の序列も1番下だ。確か、優勝賞金は300万円だったな。同じ七大タイトルだけど、スポンサーの差で竜王戦とは優勝賞金に10倍以上の開きがある。

 

(新人王が200万円だったことを考えると、300万円は少なく感じるよな)

『どーせ、幾らあってもパソコンとゲームに費やされるんですから、同じでしょう?』

(なにおう。最近は服とか駒とか盤にも費やしてるだろ。というか天衣のお父さんの字、何処にあるんだっけ?)

『鏡洲三段のツテではありませんでしたか?……わりと今から、12月10日に贈るプレゼントのことを考えるのはキモイですよ?』

(うるせえ。あれだけは何としてでも贈る)

 

しかしたとえ優勝賞金が少なくても、格式あるタイトルであることには変わりない。棋帝を取ったら大木七段じゃなくて大木棋帝になるしな。

 

天衣の指導期間として、生石玉将の1週間分の時間を貰っているので、明日と明後日は天衣が泊まり込みで将棋を指す。お嬢様の天衣にとっては、たぶん初となるお風呂掃除も経験した。

 

ゴキゲンの湯には広い浴槽があり、掃除する時に天衣は体操着姿になる。それがこけたせいで若干濡れて、ピッタリと張り付いているのを見て……。

 

カメラを持っていた晶さんが、鼻血を噴出した。せっかく掃除したのに血で汚すんじゃねーよ。

 

『というか晶さんは、高そうなスーツでお風呂掃除に参加して大丈夫なんですかね?』

(実際は安いんじゃない?組全体で統一するために、大量発注してるとか?)

 

天衣は若干恥ずかしがっていたけど、恥ずかしがるならせめて飛鳥さん並みの双丘を手に入れてから恥ずかしがれ。そんなことを考えていたら、天衣からのジト目を頂く。口に出してないのに伝わるとか怖すぎない?俺とアイの脳内会話も、もしかして筒抜け状態?

 

こういう時は俺から話題を切り出そう。あ、そうだ。この話はしてなかったな。

 

「天衣は、脳内将棋盤が何面ある?8面あるか?」

「8面ちゃんとあるわよ。頑張れば、9面は行けると思う」

「……はぁ!?」

「ん?生石玉将は何面です?」

「……ちゃんと集中すれば3面は行けるけどよ。お前ら、マジで言ってんのか?」

「どうせなら試してみます?天衣の能力的に、10面までは行けそうですけどね」

 

原作の方のゴキゲンの湯では、脳内将棋盤の話題が出ていた。この時にあいは脳内将棋盤が11面あることをカミングアウトして、九頭竜と生石玉将の度肝を抜くんだけど、多面指しに慣れた天衣も10面ぐらいまでなら指せそうではある。

 

「嘘だろコイツ……脳内6面指しで、いつもと同じじゃねーか」

「いや、今で結構きつそうなのでやれて8面までですね。飛車落ちまで完勝出来るのは、成長した証かな」

 

せっかくなので、生石玉将との対局で試すことに。生石玉将の方は平手、香落ち、角落ち、飛車落ち、飛車香落ち、2枚落ちの6面を盤面を見て指して貰って、天衣の方は目隠しをする。すると、生石玉将相手に二枚落ち、飛車香落ち、飛車落ちの3面で天衣は勝利し、残りの3面では綺麗に負けた。

 

指し終わった後はそれなりに消耗していたので、まだ本気での脳内8面指しは厳しいかな。ついでに俺の脳内将棋盤が何面あるかを聞かれたので、100面以上とだけ伝えておく。

 

「嘘じゃ、ねえんだろうな。試しに道場の客らと脳内100面指しをしろと言っても、普通にこなすんだろ?」

「プロ棋士を100人呼んで貰っても構いませんよ?」

『限界まで脳をフル稼働して良いなら、600面ぐらい行けますよ』

(まずそんなにプロ棋士が居ないわ。プロ棋士の人数が200人行かないし、女流含めても600人なんて届かん)

 

ラストの2日間は俺が対局と仕事であまり様子を見れなかったが、生石玉将との3面指しを中心に、対人戦の経験を積み重ねたようだ。これが良い影響を与えてくれれば、ネット将棋の六段8面指しもクリア出来そうだな。最終日の最後の対局は、指示通り生石玉将と角落ち戦だけ指して、天衣が勝ち切ったらしい。

 

生石玉将に角落ち戦で勝てたということは、天衣が1面だけに集中した時の実力は奨励会二段クラスか?マイナビ女子オープンのチャレンジマッチが終わった後の奨励会試験、本気で1級受験も考えて良いな。

 

奨励会試験は落ちたら1年を無駄にするので、絶対に合格するために安全に行くのが普通だけど、現時点でこの実力なら1級はまず受かる。ただまあ、受験時に空さんとの対局はありそうだな。1級受験だと、空さんとの手合いは香落ちになる。どうせ香落ちの勉強はやらないといけないことだし、試験を見越して香落ちでの戦い方も教えておくか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ゴキゲンの湯

5月の末、山刀伐八段対九頭竜竜王の3回目の対決があり、今回も見事に九頭竜が負ける。敗因は終盤、最後の無理攻め。確かに負けがちらつく場面で、尿意を我慢していたらあそこのタイミングで攻めるのは分かるけど、アイは『もったいない』とか言ってた。

 

この後の九頭竜は清滝さんの家の近くの銭湯に行って、梅雨入りして、ゴキゲンの湯の流れか。……ゴキゲンの湯は、京橋じゃなかったらもっと活用していたんだけどなぁ。神戸からだと、ちと遠い。福島から京橋だと電車で10分ちょっとだけど、神戸からだと1時間弱かかる。だから俺も、ゴールデンウィークという小学校が休みの時期を選んだ。

 

だけど休みの日に行ける距離ではあるし、往復に2時間かけても通う価値はあった。どうせなら、九頭竜が働いている時期に押しかけて揶揄ってやろうか。……JSリフレとかやらかすし、ぶっちゃけそこだけは少し羨ましく思う。

 

『天衣なら踏んでくれると思いますよ。頭を本気で』

(空さんと同じじゃねーか。

っと、そう言えば天衣が修行している時に空さんは来なかったのかな?)

『マスターがいない時に、エンカウントしている可能性はありますよ。特に棋帝戦の挑戦者決定戦で、名人をなぎ倒している間に』

(対局はともかく、その後の取材はすっぽかしたかった。初のタイトル挑戦だし、質問が多いのは分かるけど取材だけで半日近くかかったからな)

 

俺は棋帝のタイトル挑戦が確定したので、7月から篠窪太志棋帝と戦うことになる。関東所属の若手棋士の中では歩夢以上に頭角を現しているし、有名私大の慶應大学を首席で卒業済み。中卒の俺とは学歴で雲泥の差があります。前世ではそこそこの大学を卒業するはずだったんだけどね。今世は高校に行く気が起きなかったから中卒です。

 

『とりあえずフルボッコにしましょう』

(当然。イケメンで王太子呼ばわりのリア充はストレートに負かす。

……名人は、ストレートで負かしたんだっけ?)

『ストレートです。ニコ生の九頭竜大炎上が棋帝戦の第3局で、そこで決着がついていますから』

(大炎上は……この場合するのか?後で絶対に放送は見返すけど)

 

念のために篠窪棋帝の情報は集めるけど、集める度にストレスが溜まりそうなので途中で打ち切る。棋帝戦の途中で天衣のマイナビ女子オープンがあるし、そっちに集中しよう。

 

天衣の出るマイナビ女子オープンは、アマでも参加できるチャレンジマッチ、1次予選、本戦と勝ち抜いたら空さんと女王のタイトル戦をすることになる。天衣はまだアマチュアなので、チャレンジマッチからの参戦だ。ちなみにあまり通ってないけど、関西将棋会館の将棋道場で、天衣は四段になっている。

 

原作では研修会に入っていたからそれが参加資格条件だったけど、入って無いから有段者にはなっておかないといけない。たぶん通い詰めたらもっと上がると思うけど、本人もあまり乗り気ではないし四段で止めておいた。

 

今日は天衣のお屋敷で、香落ちの指導をする。平手感覚で指すというのも一つの手ではあるし、それで勝てるなら良いけど、香落ちは立派なハンデだし、貰ったハンデを突く方法ぐらいは知って損がない。

 

「香落ちは平手感覚で指すと、下手側が不利になることもあるからな」

「下手側が不利?それは、香車を取れないということかしら?」

「ああ。それもあるが敵の香車があれば成立するという手が、無いせいで成立しないこともある。香車が無いことによる隙の方が大きいけど、平手感覚で指すとその隙も突けないしな」

 

あと天衣の奨励会試験で障害になりそうなのは、椚創多1級か。7月には初段になっているはずだから、受験時に椚は初段だろう。1級受験なら先手番が貰えるから勝てる可能性はそれなりってところかな。あれは天衣の、1つ年上だったか。

 

『1歳年上ですね。1級受験をすれば間違いなく、ぶつけられる存在だと思います』

(奨励会の二次試験は、受験者対奨励会員。奨励会員側は成績に加算される以上、全力で来るから難しいんだよな)

「よし、今日はここまでだな。

奨励会は香落ちの手合いが多いし、1級からのスタートなら上手側の勉強もしないとな」

「香落ちの上手って、飛車を振るのよね?

生石玉将に、少し教えて貰ったわ」

「隙あらば振り飛車を教えて来るのかあの人。でもまあ、良い機会だし今度の土日はゴキゲンの湯に行くぞ」

 

上手い具合にゴキゲンの湯へ行くよう誘導して、当日。天衣と大阪駅で待ち合わせをし、そのまま京橋に向かおうとしたところで、乗り込んだ電車に居た九頭竜&あいのペアとばったり会う。そんなことある?

 

「福島は反対方向ですよ竜王さん」

「俺達は京橋に予定があるんだ」

「そーです。あいたちはこれからゴキゲンの湯に行くんです」

「あら。目的地は同じじゃない。私達も、今からそこに行くんだけど」

 

向こう側は、俺達がゴキゲンの湯に向かうことにはあまり驚いてなかった。これは生石玉将から、話を聞いていたな?

 

 

 

 

 

 

九頭竜はあいを連れて、今日もゴキゲンの湯に向かう。その途中、大木と天衣にバッタリと会って一緒に向かうことになった。大木を見て、九頭竜がすぐに思い出すのはあいを連れてゴキゲンの湯に初めて行った時のこと。

 

「あいか。良い名前だが、珍しいな。つい先月、同じ名前の子が1週間、毎日ここに通ってたぞ」

「それって、夜叉神天衣のことですか!?大木の弟子の!」

「天ちゃんもここで修行をしていたんです!?」

「ああ。天衣の場合、対振り飛車のスパーリング相手を求めてここに来ていたがな。俺と合計で、100局以上指したんじゃないか?この俺があそこまで小さな女の子に、平手で何度もヒヤッとさせられたのは初めてだったぜ」

 

その時に九頭竜は、大木と天衣がこのゴキゲンの湯に通っていたことを知った。そして生石が天衣に角落ちで負けたことを知り、既に天衣は奨励会の有段者レベルであることを九頭竜は認識する。

 

「天衣はずっとネット将棋か師匠との指導対局だったからか、随分と楽しそうに道場の客とも指してた。

と、それと渡しても良いのがあったな。これ、大木がソフト相手に戦って勝った棋譜だ」

「え!?何故それを、生石さんが?」

「大木自身が、天衣の指導を頼むための対価として持って来た。大木がソフトを相手に後手番を持って、中飛車で勝った棋譜を100局分だな」

「そんなもの、貰って良いんですか?」

「コピーだし、半分ぐらいは戦型が気持ち悪すぎて使えないから安心しろ。それとその内、71局は世に出ていないソフト嵌め手を使っている。ソフトの価値観を逆に利用して、大木の良い様に操っていた。ま、参考になる構想や着想は多かったがな」

 

生石は九頭竜とあいとの話が纏まったあと、大木が持って来た手土産の内、3分の2を九頭竜に晒す。その大半が新たなソフト嵌め手だとしても、九頭竜にとっては喉から手が出るほど欲しかった大木の研究成果だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

JS研

九頭竜とあいの師弟はゴキゲンの湯でバイトをしながら生石玉将に振り飛車を教えて貰っている、ということを九頭竜から教えて貰う。ごめん知ってる。けど一応、驚く素振りは見せておこう。

 

『くふふ、マジで竜王がバイトとして扱き使われてますよ』

(俺の時も、泊まる時は少しお手伝いしてただろ。天衣は番台のバイトもしてたし)

「香落ちの対策をするってことは、奨励会に入れるのか?」

「今年の夏、1級か2級で受験させる」

「1級!?それは幾らなんでも無茶じゃ……そうでも無い、か」

「ああ。そうでも無い。そしてうちの天衣は、女王のタイトルまで奪取するつもりだぞ」

 

ここで九頭竜の姉弟子である空さんから天衣がタイトルを奪いに行きますよー、と言ってみるけど反応は微妙。何でこの人、どっちを応援しようか悩んでいるの?普通、空さん一択じゃないの?ああそうか、天衣は姉弟子に勝てないと思ってるんだな。

 

そしてゴキゲンの湯に着くと、天衣も九頭竜もあいも指導を断られる。ん?今日が空さんとの研究会の日なのか?ここで天衣と空さんをエンカウントさせるかは考え物だけど、まあなるようになるか。

 

この後でJS研のメンバーが来ることは分かっているので、とりあえず入ってあいと天衣の勝負を見守る。初めての対戦から、約3ヵ月ってところか。あいがどれだけ強くなったのかと、天衣がどれだけ強くなったのかは今後のものさしとして使えそうだ。

 

「あいちゃんもマイナビ女子オープンには出るんだろ?

どこまで勝ち進めると思う?」

「組み合わせ次第、だな。それこそ天衣が同じブロックにいれば、チャレンジマッチを勝ち進むのは難しいかもしれない」

「ふーん。

……なあ、どこまで生石玉将から聞いたんだ?」

「角落ちで、天衣が生石玉将に勝ったことは聞いた。後は大木が後手番で、中飛車を指した時の棋譜は受け取ったな」

「……うえぇ。何で簡単に渡すかなぁ」

「今度の玉将戦の二次予選の2回戦で、俺とお前が当たるだろ?出来れば俺に大木を倒して貰いたいとか、そういう意図はあるのかもしれないな」

 

九頭竜は生石玉将から色々と聞いたようで、俺がソフトに勝った時の棋譜も渡されていた。ただし、その数は100局分。厳選した50局分は、伏せたんだろうね。確か半分ぐらいは雑に勝っていたと思うけど、それを見せたということか。

 

まあ生石玉将が九頭竜相手に勝手に棋譜を見せたことはどうでも良いし、生石玉将が50局分隠したことをわざわざ指摘する気もない。あれはもう生石玉将のもので、どう扱っても良いものだしな。

 

俺と九頭竜があまり研究会みたいなものを開かないのは、同じ関西所属のプロ棋士で対戦する回数が多いからだ。しかしまあ、玉将戦の二次予選ですぐに九頭竜と当たるとは思わなかった。ちなみに俺が徹夜した後の玉将戦一次予選決勝は、ある意味で伝説になった。

 

 

 

【オーキロボ】大木晴雄七段応援スレ Part461【常勝将軍】

 

356:名無し棋士

このタイミングで長考は自然か?

 

358:名無し棋士

今までノータイムだったのに何で動かなくなったの?

 

360:名無し棋士

オーキもこういうところで長考するのか

 

361:名無し棋士

寝てない?

 

363:名無し棋士

長考とか珍しいな……え?

 

366:名無し棋士

船漕いでるぞwwwww

 

368:名無し棋士

盤面崩して反則負けに一票

 

371:名無し棋士

地味に事件じゃね?

生中継される対局で記録係が居眠りするのは前例あるけど……

 

374:名無し棋士

>>371

タイトル戦でも普通に対局者の居眠りはあるぞ

 

377:名無し棋士

うwごwかwなwいw

 

380:名無し棋士

大木のツウィッター「昨日徹夜して取ったマゾバッジの数々です」

 

382:名無し棋士

>>380

マジでプロ意識の欠片もねえ

 

383:名無し棋士

>>382

この人ゲーマーとしてもプロ級だから……(震え声

 

386:名無し棋士

久々にやらかしたなあ

持ち時間尽きるまで寝るんとちゃう?

 

389:名無し棋士

いつまで寝るんだコイツ

 

 

789:名無し棋士

起きた

 

790:名無し棋士

めっちゃ目をぱちぱちさせるの可愛い

 

793:名無し棋士

そしてすぐに着手

この時間帯になってまだ中盤とか

 

799:名無し棋士

互いの持ち時間が少ないからどんどん手が進むな

 

808:名無し棋士

持ち時間ほぼ全部居眠りに使って勝つ男

 

811:名無し棋士

本当に持ち時間が要らないんだな

 

818:名無し棋士

あれで勝つのか……

 

 

 

……あまりの眠気に、アイが必死に叫んでいたのにも拘わらず爆睡。持ち時間が3時間で、俺は2時間40分ぐらい寝ていたらしい。徹夜して3時間弱で起きれたのは、わりと奇跡だったと思う。もう少しで時間切れ負けをするところだった。あとから考えると、別に時間切れ負けしても良かったところではあるけど。どうせ玉将戦の挑戦者まで勝ち残らない予定だしな。

 

言い訳すると、相手が考えている最中に寝る人は結構いる。長時間の対局だと、控室で少し横になる人もいるし、眠気と戦いながら悪手を指すよりかは、一度寝てスッキリしてから指した方が良いと言う人もいる。何を言っても、あそこで爆睡して良い言い訳にはならないけど。

 

天衣とあいの対局は、今回も天衣の勝ちで終わった。途中でJS研のメンバーも来て、対局を取り囲んで見ていたけど、2人の気迫に押されていたように見える。前回と違うのは、あいの得意な終盤に入る前に勝負が終わったこと。特に序盤の力量差は、かなり開いた。

 

その後も何局か対局するけど、終盤に辿り着く前に将棋が終わっている対局が多く、天衣が気まぐれに攻めさせて終盤戦に移行しても、あいは天衣の陣地を突破出来ない。

 

……確かあいには、わざと序盤の勉強をさせてないんだっけ?まっさらだからこそ、逆境に多く立たせて、逆境の中で殴り合いを続けさせる。それも良いと思うし、わりと俺の教育方針とは近いものなのかもしれない。

 

だけどたぶん、逆境時の殴り合いの回数自体も天衣の方が多い。ネット将棋で、自分と同等以上の存在を相手に8面指し。当然ミスもするし、ミスをしなくても劣勢になることはある。そんな状況で、天衣は常に短時間で答えを求められ続けていた。

 

『持ち時間15分の秒読み30秒で、あい相手に5戦5勝は強いですね。マイナビ女子オープンのチャレンジマッチに関しては、安心できるかもしれません』

(チャレンジマッチは持ち時間短いし、早指しの天衣には有利だな。……地味にあいも、伸び幅は大きいよな?)

『天衣の伸び幅の方が上ですが、あいの伸び幅も驚異的ではあります。……ですが、地力の差は大きいものになりましたね』

 

最後の6戦目。九頭竜の提案で、天衣は角を落とした。どうやらあいは、駒落ちの定跡だけはきちんと勉強していたらしく、先程までよりずっと強く見える。序盤のディスアドバンテージが無くなった上に、角落ちの差はやはり大きい。

 

駒落ち対局まで、天衣に負けたくない。そんなあいの心の叫び声が聞こえるようで、終盤に突入してから天衣は押されっ放しの将棋になった。あいの「こうこうこうこうこう……」が出た後、長手数で即詰みになる手をあいは指し、指された直後に天衣も即詰みに気付いたのか投了した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女流二冠

あいと天衣の対決が終わり、休憩している最中。俺もちょこっとJS研の子達に指導対局をする。

 

(こっちが海外へ行くことになる水越澪で、こっちが腐女子の貞任綾乃か)

『その憶え方はどうなんです?というか2人とも、それなりに強いですね』

(水越はあいと殴り合いが出来るぐらいだからな。もうすぐ香落ちで負けるはずだけど、あいの伸び具合を見るにもう香落ちで負けたのかな?)

 

普段ロリ王こと九頭竜に指導対局をして貰っている上、2人ともきちんとしたプロの師匠を持っているから同年代の子供達と比べると遥かに強い。まあ研修会に入っているし、これぐらいは指せないとおかしいか。

 

一方でシャルロットちゃんは可愛い。ひたすら可愛い。金髪幼女って良いよね。九頭竜がお嫁さんにしたくなるのも分かるわ。将棋の内容?この年でアマ初段並みの棋力ならどう回り道しても女流棋士にはなれるわ。しかもこいつら、九頭竜にこれからも指導対局をして貰える。とりあえずロリの間は成長し続けるんじゃないかな。

 

指導対局が終わったら、せっかくなのでゴキゲンの湯に入る。天衣もJS研のみんなと一緒に入ってくれたので、仲良くなってくれると師匠として嬉しい。

 

で、ここで俺と九頭竜が一緒にお風呂へ入っちゃうと、飛鳥さんが九頭竜の背中を流しに来れない。なのでお風呂には後で入ると言って、外へ出る。京橋って、わりと色んな店があるから暇つぶしには事欠かない。

 

ぶらっと散財してからゴキゲンの湯に戻ると、九頭竜を踏みつけるあいと九頭竜の頭を踏みつける空さんの姿が。ジャストタイミングだな。

 

「師匠は何処に行ってたのよ。お陰でロリ王のド変態プレイを見せつけられたんだけど」

「散財。というか、肩こりはプロ棋士全員の職業病だから仕方ないだろ」

「……師匠も、肩こりは酷いの?」

「俺は対局時間が短いし、盤面もあまり覗き込まないから、そこまで酷くはない」

 

天衣はお風呂から上がった後、晶さんに髪の手入れをして貰いながら九頭竜を冷ややかな目で見ていたらしい。流石に、アレには混ざらなかったのか。

 

そして空さんは、俺と天衣を見てこの世の終わりみたいな顔をしている。何でそんな表情をしているんだと思ったら、空さんの呟きが聞こえた。

 

「……あれが、もう1人の将棋星人」

 

空さんの下にいる九頭竜は空さんの呟きが聞こえなかったみたいで?マークを頭に浮かべているけど、俺の耳にははっきりと聞こえた。もう1人の、将棋星人?もしかして天衣のことか?

 

……たぶん生石玉将から、天衣の多面指しのこと聞いたな。あの人、結構なおしゃべりだな。ということは、天衣がマイナビ女子オープンに出ることも把握している可能性がある。というか、把握してなくても想像はつく。

 

「そうだ、せっかくだから空女流二冠と指しても」

「止めとけ。どうせ奨励会試験で指す」

「……っ!?」

(さっきから空さんの眼光がやべえんだけど。こんなに俺のこと敵視してたっけ?)

『いえ、単純に下から来る将棋星人にビビっているだけですよ。

マスターが奨励会試験で指すと言ったから、警戒もされましたね』

(あー、空さんとの試験で当たるなら1級受験しかないもんな。しかしまあ、今は指さなくても良いだろ。ここで負けて、変に苦手意識を持たれたりしたら困る)

「ま、確かにそうね。それに、練習試合を引き受けてくれる雰囲気じゃないわ」

「今日は沢山指せたし、もう帰るぞ。という訳で帰ります。適当に食い物買ったんで皆さんで食べて下さい」

 

今日はあいの棋力の伸びと、ちぐはぐさも確認出来たので収穫はあった。空さんとは元々仲が悪いというか、馬が合わないというか、喋ったことすらほとんど無い。あの様子だと、もう俺とまともに喋れるようにはならないだろうな。

 

『……来年の三段リーグ、楽しみですね』

(ああ。女王のタイトル戦直後に三段リーグは行なわれるからな。もしも天衣が女王のタイトルをもぎ取っていたら……少なからず、影響はあるはずだ。その影響で1番得をするのは、鏡洲さんのはず)

 

原作の空銀子は好きだったし、いわゆる姉弟子派で、大正義ヒロインになった時には大変喜ばしかった。実際に見ると美少女過ぎて、話しかけるのも躊躇した。九頭竜との仲も発展させようかと奨励会時代に色々考えたけど……。いつからだろうな、空さんがどうでもよくなったの。

 

『人として、敵意を振りまいて孤立する人と、面倒見の良い気配り上手。男女関係無く、どちらが人として接しやすいかは一目瞭然ですよね』

(ぶっちゃけ俺も鏡洲さんにはお世話になったし、出来ればプロ棋士になって欲しいと思うよ。そしてそれは、原作の空銀子の気持ちを知っていても、鏡洲さんの方に上がって欲しいな)

『その前に、天衣が奨励会に入ることで原作の三段リーグまでに椚と空が昇段出来るかという問題が発生していますよ?』

(両方、一期ぐらいプロ入りが遅れても問題無いだろ。どれだけチャンスがあると思ってるんだ。そんで、鏡洲さんが四段に上がってくれ)

『今季の成績も、かなり詳しくチェックしてますよね?』

(俺のせいで色々と変わったから、勝ち越し延長が出来なくなるかもしれないという不安に襲われているんだよ)

 

天衣が奨励会に入ることで、1番の原作改変が起こるのは奨励会にいる空さんと椚の成績だろう。下手すれば、2人とも原作通りの時期にプロにはなれないことだってあり得る。

 

だけど2人ともかなり余裕がある状態だし、俺は一瞬で奨励会を駆け抜けたんだけど、少なくとも強いというだけであそこまで敵は作ってなかった。

 

……最大の懸念は空さんの寿命だけど、まあ大丈夫なんじゃないの?あそこまで行って、九頭竜との死別は無いでしょ。

 

「……将棋星人って、どういう意味?」

「んー?それ、空さんのオリジナルワードだから気にしなくて良いんじゃない?

たぶん、俺のことだろうし」

「ああ、そういう意味ね。将棋がとびきり強い人、みたいなものかしら?」

「個人的には、あまり流行って欲しくないワードだな」

 

天衣は付き人の晶さんもいるし、最後まで送らなくても良いけど、時々は屋敷まで一緒に帰っている。というか天衣もあの呟きは、聞こえていたのか。……三段リーグの組み合わせが変わったら、空さんの覚醒フラグも圧し折れるのかな?

 

わざと圧し折るなんてことはしたくないけど、天衣が奨励会に入っただけで覚醒しなくなるなんてことは無いだろうし、昇段関係には目を瞑りながら、今は問題無いと思っておこうか。鏡洲さんは今季もかなり良い位置にいるし、どうせなら今季でプロ入りを決めてくれないかなぁ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

チャレンジマッチ

梅雨が明け、恐らく桂香さん問題も片付いたんじゃないかと思われる7月中旬。とうとう天衣のマイナビ女子オープンチャレンジマッチの日が来たので、清滝一門と一緒に東京へ向かう。清滝一門と月光一門は、兄弟の関係なんだよね。月光会長と清滝さんは兄弟弟子の関係で深い関わり合いがあるけど、俺と会長の関係が書類上の師弟関係だから、俺と桂香さんの関係とかはかなり微妙な感じ。

 

「明日は棋帝戦の第3局で、今日は前夜祭のはずなのに東京行って間に合うのか?」

「俺は今日、体調不良になって前夜祭を欠席する予定だから安心しろ」

「おまっ、それは駄目だろ」

「冗談冗談。ギリギリ間に合うスケジュールにはしているよ」

 

九頭竜に前夜祭までに間に合うのかと聞かれ、ギリギリ間に合うとは言ったけどギリギリ間に合わないかも。まあでも、多少の遅刻ぐらいは許されるはず。前夜祭に顔だけ出して、すたこら帰る棋士とかもいるからね。

 

新幹線で朝一番に新大阪駅を出て、新幹線での移動中に大会での心構えを天衣に言っておく、

 

「大会に出るのは初めてだから言っておくが、相手の二歩や二手指しがあった時はすぐに手を挙げろよ。あと、反則負けで、死んだ奴とかいるから気を付けろ」

「……反則負けで、死ぬ?」

「年齢制限だ。この大会は、女流棋士になる最短ルートだということは話したよな?だからこの大会には必死になるアマチュアの女流棋士候補達が集まる。中には年齢制限が間近の人もいるし、そういう人でも反則負けで負ける時はある。そんな負け方で負けた後は……。

……まあ要するに、盤面から目を離すな。細心の注意を払えってことだ」

 

アマチュアの大会で、反則負けは日に何度も出ることが珍しくない。というか、プロでも二歩や二手指し、駒の利きを間違えての反則負けをする人がいるんだから、アマチュアの大会で出るのは当然だ。

 

そして嫌らしいのは、わざと反則負けを誘導する人。例えば二歩になるように盤面を誘導したり、酷い時には……。

 

「チェスクロックの押し忘れを指摘しないのは当然として、二手指しの誘導をしてくる奴すらいる」

「二手指しの、誘導?」

「相手が時計を押し忘れてよそ見している隙に、持ち駒を使ってその場でパシーンって高い音を鳴らすんだよ。その音で相手が指したと思って、時計を見ると自分の手番。騙されて指したら、二手指しで反則負けって寸法」

「そんなことまでする人がいるの!?

いえ、でも確かに後が無い人はやりそうね……」

 

持ち時間15分、30秒切れ負けという早指しで、よそ見をする奴は余裕のある奴しかいないけど、うちの天衣はその余裕のある奴なので反則に関する知識を今の間に教えておく。ちなみにこの二手指し、アマ高段でも普通に引っかかる奴がいるから要注意だ。

 

こういうのは、大会当日に注意しておくのが1番頭に残りやすい。今から詰将棋を解いたり定跡の手順を憶えたところで、上がる棋力なんてたかがしれてるしな。

 

「ごめん、ちょっとトイレ寄ってくわ。あとコンビニで飲み物とか食べ物買ってくるから、先に受け付けしておきなよ」

「あー、俺も飲み物だけ買って来るか。天衣は欲しい飲み物とかあるか?」

「午後の紅茶」

「りょーかい。まあ対局中は、甘い飲み物が欲しくなるよな」

 

東京に着いて、九頭竜が離脱するタイミングで俺も離脱。この後で祭神に九頭竜が押し倒されるんだよね。めっちゃ見たい。

 

とりあえずコンビニに入って、午後ティーを2本買うと九頭竜が迷子になる。あれ?一緒のコンビニに入ったよな?トイレにしては長すぎるし、もう外に出た?

 

会場周辺の薄暗い地域を探して、色々と見て回るけど九頭竜が居ない。一度会場に行って、午後ティーを天衣に渡し、あいや桂香さんに九頭竜が帰って無いか聞くと知らないと答える。

 

……あいつマジで何処に行ったん?

 

もう一度コンビニの近くから、別の階段を登ってみるとちょうど九頭竜と祭神が話している最中だった。あいつずっと、トイレに籠ってたのか?

 

「やーいち。久しぶり。

あのこと、考えてくれた?」

「何でお前が、ここにいるんだ。お前が出るのは次の1次予選からだろ」

「そんなこと、どーでも良いじゃん。というか早く答えてよ。私と、付き合ってくれる?」

「……何度も言ったろ。お断りだ」

 

久しぶりに見るけど、やっぱり祭神のスタイルは良いよなぁ。スタイルは。

 

『頭の中は、数段ぶっ飛んでますからね。マスターの紹介したネット将棋のサイトのお陰で、あれでも軟化しているのが恐ろしいですよ』

(そして九頭竜への執着心自体はそんなに変わらないという。今の祭神の言葉は80%ぐらいが純粋な好意だから、九頭竜が戸惑ってるぞ)

 

ずっと隠れて2人のやりとりを聞いていたけど、あいつら移動するから会話を聞き取り辛い。最後、手を振って祭神が去って行ったけど、九頭竜への首筋噛み付きまではしなかったな。あ、眼球舐めもしなかったか。押し倒しはしていたけど。

 

祭神が去っていくのを見計らって出て行くと、もっと早く来てよとげんなりした表情になる九頭竜。すまない。2人の雰囲気を邪魔したくなかったんだ。

 

「というか大丈夫か?あいつ、大木の弟子も標的にしていたぞ?」

「俺の考えは知っているはずだから、むしろ天衣のことを積極的に潰しに来そうだな。……五分に渡り合えれば御の字だけど、厳しいか」

「いや、本当に大丈夫か?もし天衣が襲われでもしたら」

「その時はマジもんのヤーさん達がチャカを抜くから大丈夫。天衣の付き人の晶さん、ああ見えてかなり強いぞ」

「……天衣って、お嬢様っぽいけどどういう家の出身なの?」

「今は真っ当な実業家の孫娘」

 

天衣が危ないという九頭竜だけど、天衣に手を出すとむしろ祭神の方が危ないという。今は真っ当な実業家だけど、少し前までは……。

 

まあ、九頭竜への執着心の方が強いし手を出すならあいだと思いたい。天衣に関しては、常に晶さんが傍にいるから安心感が違うな。そして会場の方に戻ると、組み合わせが発表されていた。

 

幸いなことに、天衣もあいも桂香さんも違うブロックだ。ただ全員が、女流棋士と当たっている。このマイナビ女子オープンのチャレンジマッチは女流棋士とアマチュアが当たる大会だけど、女流棋士の方が数は少ない。だから女流棋士と1回戦で当たるのは不運なんだけど、天衣なら問題無いな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後手番角頭歩戦法

天衣の一回戦の相手は、右左口翠女流三段。イベントとかで、たまに見かけたことがある程度かな。女流三段ということは、それなりに棋戦を勝ち進んでいる証拠だ。

 

「大木先生、天衣お嬢様の将棋はどうなっている!?」

「落ち着いて下さい。まだ対局は始まってません。

その本に、対戦相手のことも書いてあるでしょう」

 

天衣の保護者として会場に入った晶さんは、分厚い本をペラペラとめくって目的のページに辿り着く。マイナビ女子オープンはマイナビの出版物も取り扱っているから、そこで棋士情報が載った本を買ったんだろうな。……俺のインタビュー記事も載っているはずなので、あまり直視はしたくねえ。

 

「……右左口翠女流三段。34歳で山梨出身。居飛車党の本格派で、矢倉も角換わりも横歩取りも指すと書いてある」

「あー、居飛車党か。地力はあるかもしれないな」

『この世代の女流棋士は、振り飛車党が多いですからね。その中で居飛車党ということは、地力があるということです』

(相手に振り飛車党が多い中で居飛車党になると、高い確率で居飛車対振り飛車の力戦が得意になるからな。マイナビ女子オープンは、不運で勝ち進めてないのか?)

 

「十時になりました。対局を開始して下さい」

「「よろしくお願いしますっ!」」

 

十時になり、対局が始まる。振り駒の結果、天衣は後手になった。原作では対局時に言葉で相手プロを煽っていたような気がするけど、煽ってないな?しかし対局の方で、挑発はしている。

 

後手番角頭歩戦法。先手番で行なう角頭歩戦法も奇襲戦法の1つだけど、後手番だとさらに乱戦になりやすい奇襲戦法だ。持ち時間の少ない大会では奇襲戦法が有用ではあるけど、天衣は後手番でそれを仕掛けたことになる。

 

後手番での角頭歩戦法という挑発に乗った右左口さんは2五歩と開戦を選択。同歩同飛車に、天衣は角交換をして桂を跳ねる。これが飛車に当たるし、お互いに角と飛車を持ちあった試合展開になるから乱戦になりやすいんだ。

 

お互いに大駒を持った状態で将棋を指すのは、常に拳銃を突き付け合っている状態と同じだ。しかしここで2人の明暗を分けるのは、持ち時間の差。

 

恐らく右左口さんにとって、この後手番角頭歩の知識はあまりない。むしろこの後手番角頭歩をキッチリと勉強している女流棋士はそんなにいないと思うし、だから持ち時間を使って考えている。一方で天衣は、わりとネット将棋でこの戦型を選択する。

 

当然、この戦型に対する知識の差では歴然とした開きがあるし、天衣はこの序盤をノータイムで指せる。

 

『元々早指しですが、まあノータイムですよね』

(天衣がノータイムなのは、相手の持ち時間の消費が激しいのもあるな。相手が考えている間にも、考えられるし)

 

奇襲戦法を受ける側は、知らない場合、慎重に考えて受けを選ぶ必要がある。間違った選択をすると、一瞬で潰れてしまうからだ。しかし時間を使い過ぎてもいけない。右左口さん自身、そんなことは分かっているだろう。だけど徐々に時間は減っていって、右左口さんは1番時間が欲しい中盤の時点で30秒将棋に突入した。

 

天衣の方が優勢だった上に、時間にも追われ始めた右左口さんは、ミスを連発して自玉の即詰みすら見逃す。天衣はため息を吐いて、即詰みの手順、しかも1番難しくて手順の短い詰みを披露した。

 

嫌という程、天衣の強さを知らしめる一局だったと思う。とりあえずこれで1勝。チャレンジマッチを勝ち抜くには4連勝が必要だから、あと3勝だな。

 

『……対戦相手、弱すぎません?感想戦も出来ずに泣き去っていくとか、心折れてますよ』

(言うな。突然の奇襲戦法に対応すら出来ず、持ち時間も切らして受けをミスって、小学生のアマチュア相手に惨敗しただけだ)

 

あいも初戦は勝ったけど、桂香さんは初戦で負けていた。相手は、焙烙さんか。名前の通り、焙烙玉のような将棋で爆発するかしないか、一か十みたいな人だしな。……これ、組み合わせはもしかして原作通りか?まあ抽選で決まる組み合わせだし、出場者が変わらないなら組み合わせも変わらないか。

 

『二回戦の相手も弱いですねえ。ゴキゲンの湯にいたスキンヘッドの人の方が、よっぽど良い将棋を指しますよ』

(あの人アマ五段だし、生石玉将の道場は別枠で考えろよ。……これなら、心配は要らないな)

 

この大会は注目度の高い対局をネット中継することでも有名で、九頭竜が四回戦の解説役として呼ばれる。あいつ、竜王なのに将棋の大会で変装して来なかったからな。来た時はプチ騒ぎになっていた。ついでに言うと、俺は現在進行形で棋帝のタイトル挑戦中なので、こんなところにいるとは思われて無い。

 

『明日、淡路島で棋帝戦の第3局を行なうのにこんなところにいるのはわりとヤバいです』

(まあでも、渋滞が無ければ18時の前夜祭には間に合うだろ?神戸からは、夜叉神家の車に乗せて貰えるし)

『それでも微妙です。本当に、ギリギリのスケジュールですから』

 

羽田から神戸まで、飛行機で1時間半ぐらい。ぶっちゃけかなりのギリギリスケジュールで動いているけど、何とか4連勝するまでは見届けることが出来るかな。

 

四回戦は13時半から始まる。天衣の相手は、粥新田女流三段。タイトル挑戦者にもなったことがある人らしいけど、天衣が先手番で負ける相手じゃない。そして案の定、攻め合いで早くも粥新田さんが銀損をし、負け一直線に向かっている。

 

一方で解説で呼ばれた九頭竜が、ネット中継で「小学生は具合がいいです」とか言ってるあいの試合は、あいが確実に勝ち切るような指し方をしていた。これは相手が弱い影響か、天衣との力関係が変わったからかが分からんな。

 

『九頭竜の変態発言は大丈夫なんですかね?解説らしいこともしてませんし』

(ネットの掲示板では大盛り上がりだから大丈夫でしょ。あいつが2年ぐらいでスレ数1000に到達していた理由が分かったわ)

『現時点でも、マスターより多いですからね。ロリ王の名は伊達じゃないです』

(あれは抜かせる気がしないわ。定期的に燃えるし)

 

クズ竜竜王が「小学生は最高だぜ!」と言った後、あいはあっさりと即詰めを見つけて勝ち切った。たぶん実際には言ってないと思うけど、それを全世界にリアルタイム配信する鵠さん流石です。

 

あいが勝った後、天衣も無事に勝って2人とも4連勝。天衣に関しては、ひたすらしつこく粘る相手を見て少し苛立ったのか、全駒を始めようとしたので粥新田さんが察して投了した。久々に飛車の不成とか見たし、性格の悪い部分は中々治らないな。たぶん粥新田さんの心も折れたぞ。

 

この後はブロック優勝者として写真撮影とかインタビューとかがあるけど、そろそろ俺は棋帝戦に向かおうか。天衣に一言おめでとうとだけ伝えて、羽田から飛行機に乗り込む。目標は淡路島にある、ホテルネオアワジだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

おやつタイム

前夜祭5分前にホテルネオアワジに着き、色々と注意をされながらも無事に前夜祭を終えた後は、ホテルの個室でスマホを見る。天衣のインタビューの記事は、早速ネットに上がっていたので見ることが出来た。

 

 

▼九歳七ヵ月で一斉予選進出は史上最年少ですがご感想は?

 

「とても嬉しく思います。しかしまだこれから一斉予選がありますので、浮かれずに気を引き締め直したいです」

 

▼勝利の喜びを誰に一番に伝えましたか?

 

「師匠です。電話で今淡路島にいる師匠に勝利を伝えたら、おめでとうと言って下さいました」

 

▼四連勝出来た理由は?

 

「女流棋士の先生方が、油断してくれたからではないでしょうか?」

 

▼師匠から何か作戦とかは教えて貰いましたか?

 

「反則には気を付けろとだけ、念入りに言われました」

 

 

……誰だコイツ?

 

『ちゃんと淡路島にいる証言はしてくれましたね』

(問題はそこじゃないんだけど。何か変に丁寧な言葉になってるし、そんなに番台のバイトが効いたか?)

『というか全駒しかけておいて猫被るのは……それも良いかもしれませんが』

 

ついでにマイナビ女子オープンを勝ち抜けるには4連勝が条件だけど、敗者復活戦というのもあって桂香さんが敗者復活戦で勝ち上がっていた。桂香さんの最後の相手は天衣が勝った粥新田さんで、天衣がやらかしていたからか粥新田さんは酷い将棋で負けていた。南無。

 

明日はJS研のメンバーが東京に行って、天衣もJS研のメンバーと行動を共にする予定。鳩森神社に行って、そこで棋帝戦の中継を見る流れだったかな?九頭竜が、鹿路庭珠代女流二段のおっぱいに悩殺される姿を全ニコ生視聴者が目撃してしまう。

 

いやでもしょうがない。16歳だもの。俺もすぐ傍に鹿路庭さんが居たら胸元に視線が行くわ。

 

『アホなこと考えてないでそろそろ寝ましょうか』

(今日は朝早かったからな。マジでマイナビ女子オープンの付き添いはタイトル挑戦者のやるべきことじゃなかったかもしれん)

『ようやく気付きました?わりと今日の行動、弟子思いの師匠として見ても引かれるやつですよ』

(うるせえ。天衣の初めての大会だぞ?初めて育成結果が公になるんだぞ?見るしかないだろ)

 

これで天衣は一斉予選に進む。女王のタイトル挑戦まで、まだまだ長い道のりではあるけど、今日の様子を見るに大丈夫そうかな。

 

 

 

 

 

マイナビ女子オープンのチャレンジマッチ翌日。天衣とあいを含めたJS研のメンバーは、九頭竜に引率されて鳩森神社に訪れた後、東京の将棋会館に向かった。そこで九頭竜はJS達の引率を桂香に任せ、棋帝戦の解説に向かおうとする。

 

「初手から終局まで!?タイトル戦の解説って、十時間以上かかりますよね……?」

「もちろん。ただ今日のタイトル戦は大木が出るから、対局時間は実質半分になるかな」

「え?あ、大木先生が……え?」

「そう。師匠の棋帝戦第3局よ。……まったく、大事な試合の前日なのにこっち来るんじゃないわよ」

 

あいが九頭竜の仕事内容に驚いていると、九頭竜は今日の試合が大木の対局だからマシだと言う。大木は持ち時間をほとんど使わないため、その点は解説役に有り難がられていた。

 

将棋会館の将棋道場に入るJS達だったが、天衣は1局だけ指して休憩をすると言い、九頭竜の出ているニコ生の中継をタブレットで見る。対局室のカメラに、まだ両対局者は映っていなかった。

 

「立会人の清滝九段と、記録係の椚奨励会初段の姿が見えます」

「ええ、うちの師匠がいますね」

 

清滝が座布団の位置などを細かく調整していると、両対局者が入場する。持ち時間は各4時間。タイトル戦の中では短い持ち時間での対局が始まる。鹿路庭は慣れた様子で現棋帝の篠窪太志棋帝の紹介をした後、九頭竜に話を振った。

 

「では次に先手番の挑戦者の紹介ですが、こちらは九頭竜先生が詳しいですよね?」

「ええ。挑戦者は、大木七段。プロ入り後、すぐに歴代記録である28連勝を塗り替え29連勝の記録を樹立しました。前の将棋電脳戦では最強ソフトを完封したソフト超越者であり、圧倒的な勝率から付いたあだ名は常勝将軍です」

「大木七段は、持ち時間をほとんど使わないことでも有名ですね」

「そうですね。史上4人目の『持ち時間を1分も使わずに勝利』を成し遂げたことで有名でもあります」

 

両対局者の紹介が終わったところで、早速棋帝の指し手が止まる。タイトル戦で10分20分は長考に入らないが、生放送ではその間を持たせないといけない。

 

ここで、1回目のおやつタイムの情報が流れる。棋帝戦は9時に対局が開始され、10時になるとおやつが運ばれてくる。ニコ生でもこの時間は人気があり、九頭竜や鹿路庭は当然おやつタイムに触れる。

 

「篠窪棋帝は氷なしアイスコーヒーと和菓子を、大木七段はキンキンに冷えたハーゲンダッツのストロベリーを頼みました」

「篠窪棋帝は最近の流行形を選択しましたね。一方で大木は、いつも通りの我流です」

「棋帝戦の第2局ではハーゲンダッツのグリーンティーが溶けていて少し不機嫌そうでしたから、今回はキンキンに冷えたものを頼みましたね」

「アイスというのはお腹を冷やすため、普通のプロ棋士は避けがちなのですが……大木は美味しそうに食べます」

「大木七段は、お腹を壊さないんですか?」

「いえ、今までに何度か壊しているはずです。大木が持ち時間を消費している時は、大抵トイレに行っている時ですね」

 

タイトル戦のおやつは、売っているものであれば大抵の要望が通る。大木はこのタイトル戦、全てのおやつタイムでハーゲンダッツを要求しており、ネット上では「なまいきだ」「プチ贅沢の仕方が可愛い」「腹壊せ」「ハーゲンダッツ食いたくなって来た」などの声が散見される。

 

九頭竜はその後、これまでの指し手の解説を始めるが、視線が鹿路庭の谷間に集中していることが視聴者でも分かるほど露骨だった。「クズ竜胸見杉ワロタ」「まだ十代だからね、仕方ないね」などのコメントが流れ、それを見た天衣はため息を吐き、顔を上げると虚ろな目をしたあいがいた。

 

「ししょーは、何をしているんです?」

「私の師匠の指し手を解説しているわ。女流棋士の胸に夢中になりながらね」

「……ちょっと、行ってくるね?」

「……好きにしたら?正直、見るに堪えないもの」

 

あいはフラフラと、将棋道場から出て九頭竜の下へと向かう。その姿を見た天衣は、またため息をして、あいの後ろを駆け足で追った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ゲスト

[それでは自己紹介をお願いします]

「夜叉神天衣、小学4年生です」

「雛鶴あい!小学4年生です!九頭竜八一先生のおうちで、内弟子をさせていただいてますっ!」

 

昼食休憩が終わった後に、ゲストが入って来ますというフリップが出され、誰が入って来るんだろうと思った九頭竜はあいと天衣の姿を見てフリーズした。その上、いきなりあいが炎上するようなことを言ったためにコメント欄は分かりやすく燃えていた。

 

「ええっと、夜叉神天衣さんも九頭竜先生の内弟子ですか……?」

「私は大木先生の弟子よ。内弟子では無いけど、大木先生と週に4回は会っているわ」

 

そして天衣の発言により、大木も飛び火を受ける。両者共に炎上するかと思われたが、ここでさらにJS研のメンバーが突入。九頭竜を取り囲み、一気に九頭竜の炎上の規模が膨れ上がった。

 

対局は中盤の山場に差し掛かったところで、篠窪棋帝が難しい局面で長考をしている。[ここから終局までノーカットで行きます]というフリップを九頭竜が見た時、気が遠くなるような気がした。

 

金髪幼女であるシャルロットは九頭竜の膝の上に座り、右側には鹿路庭との間を塞ぐようにあいが、左側にはJS研の水越と貞任が並ぶ。まさしくロリ王と呼ばれるのが相応しい九頭竜の姿に、コメント欄には「竜王代われ」「頓死しろクズロリ王」「ロリ祭り」などのコメントが続く。

 

当然鹿路庭は九頭竜とは距離をとり、その鹿路庭の脇に天衣は立つ。あいが放送を邪魔しようとしていたため、勢いで出て来てしまったものの、天衣はどうしたら良いのか分からなくなってしまった。だから目に付いたコメントを拾って、反論してしまう。

 

≪大木もロリコンだったか≫

「大木先生はロリコンじゃないわよ!言葉に気を付けなさいクズども!!」

≪コメント拾ってくれた≫≪やさしい≫≪ツンロリちゃんペロペロ≫

「……マジで気持ち悪い」

≪こんなキャラだっけ?≫≪これは良いツンロリ≫≪罵倒して!もっと蔑んだ目線で!≫

 

一部の視聴者は昨日の天衣のインタビュー記事を見ていたが、多くの視聴者が注目している中でツンロリっぷりを発揮してしまった天衣はもう取り繕えなくなってしまう。最初のインタビュー記事で、天衣が猫を被っていたということに一部の視聴者が気付くと「えらい!」「踏んで!」などのコメントが増える。

 

収拾が付かなくなったところで、篠窪棋帝が勝負手を指す。しかし即座に大木が切り返し、試合は一気に終盤戦に突入した。

 

「……これは、詰んでいますね」

「え?」

 

その終盤戦で大木が馬を切り、篠窪棋帝がそれを金で取ろうか考えている最中に、九頭竜が即詰みを発見する。その言葉に、鹿路庭は声を上げてしまう。一見すると、普通に取って良い手。しかし取れば即死、取らないのも地獄。もはや攻め合うしか残されていないが、篠窪棋帝には攻め駒が圧倒的に足りなかった。

 

「本当だわ。馬を取ったら、9三角から詰んでいるわね」

「9三角以外にも、手順はありますよー」

 

天衣とあいも即詰めを発見し、あいの方は別の手順も発見した。それを信じられなかった鹿路庭は天衣に手順を聞くが、一瞬で答えられてしまう。それに被せて、あいがすらすらと別手順も言った。

 

「というか複雑な手順じゃない方は一本道じゃない。こんな明快なのも分からなかったの?」

「……ッ、ガキが……」

 

鹿路庭は天衣に馬鹿にされ、思わず呟いた言葉が天衣とあい、九頭竜の耳に入る。しかしそれでも不遜な態度を貫く天衣に、鹿路庭は苛立ちを隠せなくなってきてしまう。

 

そんな時、篠窪棋帝が投了した。2回目のおやつタイムには突入しない、14時56分での決着。消費持ち時間は大木が11分だったのに対し、篠窪は3時間21分だった。

 

これで大木は棋帝を獲得し、大木七段ではなく大木棋帝と呼ばれることになる。対局が終わった後、対局室には報道陣が集まり、勝者である大木を称えていた。しかし九頭竜は、ストレート失冠の屈辱に震えている篠窪に将来の自分を重ねてしまい、少し顔が青くなる。

 

そんな九頭竜に、シャルロットが頬へキスをしたため、九頭竜は再炎上した。

 

 

 

 

 

(天衣がニコ生に出て世間に俺と天衣の師弟関係が広まったのにイマイチ炎上していない件について)

『いやぁ……ロリ王は強敵でしたね。マスターのスレが棋帝奪取と天衣登場と嫉妬で1日に3スレ消化している間に、九頭竜のスレは10スレも消化しています。勢い36000とか久々に見ましたよ』

(マジであのロリ王はやべー。ニコ生のロリ人気もやべー。シャルロットの頬キスが、1番コメントの勢いあったな)

『赤文字で画面が見えなくなりましたからね。あとコメントの勢いがあったのは、天衣が蔑んだり罵倒した所ですか』

(まあ、あの程度ならむしろ良いわ。終了時の鹿路庭さんの表情を見るに、天衣が鹿路庭さんを馬鹿にしてたっぽいから、それはちょっとアレだけど)

 

棋帝の奪取に成功した俺は、そのまま取材を受け、ホテルネオアワジで夕食を食べてから家に戻る。タイトル戦で何が疲れるかと言うと、取材で笑顔のまま受け答えすることだな。思っていた3倍は大変だし、これを98回も繰り返した名人はすげーわ。

 

……俺の原作改変の結果、名人は棋帝を取れなかったのでタイトル通算99期にはなれなかった。でも竜王戦までには99期になっているはずだから、問題の無い行動でもあるんだよな。念には念を、入れるけど。

 

この後は竜王の挑戦者決定戦で名人と歩夢の勝負があったり、空さんと九頭竜の着せ替えデートがあるけど、まあそのどちらも関われないし、挑戦者決定戦の前には天衣のマイナビ女子オープン一斉予選と奨励会受験がある。

 

一斉予選の方は、天衣がこのままだと間違いなく鹿路庭の絶対許さないリスト、いわゆる絶許リスト入りを果たす。ぶっちゃけ不必要に煽って絶許リスト入りするのは人生の損なので止めて欲しいけど、控室での邂逅は止められないだろう。確か、向こうから煽って来るはずだし。

 

『その点、マスターは敵を作らなかったですよね。幾ら煽られてもずっとニコニコしてましたし、相手の毒気を抜いたり、畏怖を与えてました』

(煽りには、笑顔で肯定を返すのが1番マシな対応だからな。一応、このことだけは天衣に教えておくか。たとえどんなにムカつく奴でも、営業スマイルを絶やさなければそれなりの人間関係は構築できる)

『……空さんとは、構築できましたか?』

(あれは向こうが殻に閉じこもっているからノーカン)

 

マイナビ女子オープンの一斉予選は少人数のトーナメント戦で、天衣は2回勝てば一斉予選を突破する。出来れば本戦出場を決めた上で、奨励会試験には臨んで欲しいかな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一斉予選

マイナビ女子オープンの一斉予選までの間、天衣には軽く奨励会試験の筆記対策をやらせた。実は奨励会試験では筆記試験があり、ある程度の棋力と一般常識を必要とする。

 

「次の一手問題と、棋譜を読んでの局面作製。あとは詰将棋ね」

「筆記試験の対策はしっかりやる必要性があまり無いけど、成績優秀者なら1勝分のボーナスが加算される。

あとは一般常識だけど、小学4年生にはちょっと難しいかもな」

「どんな問題が出るのよ?」

「中学生以上なら超簡単な問題ばかりだ。にほんしょうぎれんめいを漢字で書いて下さいとか、ローマ字で書いて下さいとかだな。まあこれは年齢を考慮されるし、よっぽど酷くない限り筆記試験では落ちない」

 

ぶっちゃけ筆記試験の成績で合否が左右される状況なら、対局での成績が散々だったってことだから落ちた方がマシだが、一応教えておいた方が良い事ではあるので教えておく。天衣は小学校で真面目に授業を受けているらしく、教育はしっかりとされているから一般常識の方は何とかなる範囲。

 

一方で将棋の試験問題は、俺が心配しなくても大丈夫なレベル。詰将棋が何問か解けなかったのは仕方ないけど、まあ成績優秀者になれる可能性は高い。一次試験は受験者同士の対局で、大抵の受験者は5級か6級受験なので、天衣との手合いは4級差の飛車落ちか5級差の飛車香落ち。

 

アマ四段クラスに、この手合いはかなりキツイかもしれないし、5級差は受験者同士ということが考慮されて飛車香落ちじゃなくて飛車落ちとかになるかも。

 

……でもまあ、無鉄砲に3級受験とかをする人も時々いるし、そういう人が多ければこの受験者同士の対局は楽に突破出来る。最大の問題は二次試験であり、ここで椚とか空さんとかの奨励会員に勝たないといけない。

 

大丈夫かなと思っていると、天衣が六段の8面指しをクリアする。これは単純に、対戦相手に恵まれたのと天衣の棋力が上がったからか。四段の6面指しの時も運良くクリアして、7面指しでの五段昇段に手間取っていたけど、これからの9面指しでの七段昇段は手間取るってレベルじゃなくて、しばらくは六段で対戦を続けそうだな。

 

そもそも、奨励会員ですらこのサイトで六段から七段に上がるのは難しい。だから9面指しというハンデで、六段から七段に上がるのは次の関門を突破しないとかなり険しい道のりになるはず。

 

9面指しになってからまた少し勝率が悪くなり、六段から五段に落ちた天衣は「何でこんなミスするのよ!」と叫び声を上げた。良い感じに煮詰まって来ているけど、まだまだ対局数は足りないか。

 

 

 

 

 

チャレンジマッチから2週間が経過し、一斉予選が始まる。チャレンジマッチの時と同じメンバーに加えて、空銀子が加わった一同は、九頭竜、空さん、桂香さん、あいの4人組と俺、天衣、晶さんの3人組に分かれている。今日の空さんは聞き手役で呼ばれており、九頭竜は空さんに指名されて解説役を依頼されている。

 

九頭竜はたぶん、内弟子のあいと一緒にいるだけで炎上するけど、俺もじわじわと悪口が目立って来た。しかしまあ、今日も九頭竜がメイン盾になってくれているのでそこまで炎上しない。九頭竜は、空さんとも親密な関係だと噂されているからな。今の九頭竜、完全に空さんの付き人というか、召使い状態だけど。

 

そして会場に着くと、予想以上の観衆が集まっていた。例年の、3倍以上の人は来てそうだな。俺達、というかあいと天衣と空さんを見て騒ぎだしたので、すぐに会場の方へ入る。そこで俺と九頭竜は、とんでもない数の個人スポンサーにビビった。

 

 

雛鶴あい……216(特別スポンサー:121、通常スポンサー:95)

夜叉神天衣……236(特別スポンサー:165、通常スポンサー:71)

 

「桁が違う!?」

「……天衣もあいも、ヤバ過ぎね?」

『あいだけでも、マイナビに553000円入ってます。マイナビは笑いが止まらないでしょうね』

 

特別スポンサーの方は1万5千円、通常スポンサーでも1万円なのでこの数は異常だ。前回のニコ生で、人気に火が付いたな。というかあいも天衣も、原作よりスポンサーの数が増えている気がする。

 

空さんは出場者達に対局者控室へ行くよう言うと、九頭竜の耳を引っ張って解説会場へ移動する。俺と晶さんは観客席に移動しようとしたところで、祭神に絡まれた。いきなりすぎてちょっと怖かったし、九頭竜の気持ちを味わえた気がする。

 

「おーきは、考え変わってないよねえ?」

「変わってねえぞ。だから安心しろ。弟子入りした時の天衣の才能はてめえより下だ」

「なっ!?大木先生!?」

 

祭神は俺の考え方というか、弟子の基準が変わってないかを確認しに来たようだ。で、俺の言葉に晶さんが驚くけど、弟子にした時の天衣の才能は現時点での祭神より下なのは紛れもない事実だ。

 

「将棋を教えて欲しかったら、才能減らしてから来い」

「……チッ、変わってねーな。

お弟子さんに言っといてよ。本戦で待ってるから潰されに来いって」

「分かった分かった。言っといてやるからさっさと対局場へ行け」

 

俺と祭神の関係は、1局将棋を指しただけの関係だ。とある日、九頭竜が俺に頼って祭神を丸投げして来たので、俺は1局だけ祭神と指してフルボッコにした。で、強い相手がいるネット将棋のサイトは教えたが、付き纏われるのは嫌だったのではっきり言った。「才能がある奴を育ててもつまらないから、さっさと帰れ」と。

 

その瞬間、祭神は俺と分かり合えないことを察したのか興味はまた九頭竜の方へ戻って行った。お互いにエゴイストだし、俺も分かり合える気はしない。だからたぶん、祭神は天衣のことを才能の無い奴だと思っているだろうな。

 

『マスターが言いたいのは、才能の伸びしろが無い奴を育てるのはつまらない、ですよね?その言い方だと弟子になれた天衣が才能0みたいになっちゃうじゃないですか。女流棋士の中でなら、トップ5には入る才能の持ち主でしたよ?』

(トップ5かは、怪しくね?生まれ持った才能なら空銀子、祭神、あい、エターナルクイーン、のじゃロリ、岳滅鬼辺りでトップ5は埋まりそう。何だかんだ言って、天衣は学生名人に幼少期から育てられてアレだからな)

『そう並べられると、トップ5かは怪しくなりますね。エターナルクイーンは女流タイトル独占などもしていますし、岳滅鬼は才能が潰れても奨励会2級でしたか。

まあどちらにしても、ガブリアスよりフライゴンが好きな奴の思考回路は理解出来ませんね』

(それ禁句。しばらく黙れ)

 

祭神とあいは、たぶん原作通りの予選決勝でぶつかる。2人とも、俺のせいで多少なりとも変化はしているから、この対決がどうなるかは分からない。ただまあ、あのサイトで八段になっているんだから祭神の才能は本物だ。だからどれだけ、あいを舐めてかかるかにかかっているな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スポンサー

「……大木先生、天衣お嬢様の才能がさっきの女より下という話は本当か?」

「昔は、ですよ?今は五分だと思います。実力はまだ追い付いていないでしょうけど、近い内に追い越すと思います」

「んん?将棋の才能というのは、最初から持っている能力みたいなものだろう?」

「ええ。生まれつき持っている力です。でも別に、それが伸びない道理は無いでしょう?」

 

最年少の天衣は、最年長の鞨鼓林さんとの対局を最速で終わらせた。天衣がノータイムで指している内に、すぐに鞨鼓林さんにミスが出て、試合は中盤に入ったところで終わった試合になった。その後、天衣は個人スポンサーの方々と写真撮影をするために別室へ。

 

また、予選決勝へ進出したということで天衣には再度個人スポンサーの募集が始まる。2割はマイナビに吸われるけど、勝てば8割のお金が手に入るんだから天衣は今日の対局だけで凄い稼ぎになっているはず。実家がかなりお金持ちだから、お金には困って無いだろうけど、あいは……あいもわりと、お金持ちの家か?

 

『わりとじゃなくて、かなりお金持ちですよ?日本一の旅館雛鶴の一人娘ですし、九頭竜には毎月のお金が振り込まれていたはずです』

(ああ、そうだった。タイトル戦に着る和服とかを買うために貯金しているんだったな)

 

しかしまあ、あれだけのスポンサーがつくのは天衣とあいにそれだけの魅力があるということだ。これはとても重要なことだし、今の段階でこれなら、凄まじい勢いで人気は上がっていくだろう。お金もまあ、相当稼ぐだろうな。

 

『2人が1日で500万円ほど稼ぎそうな姿を見て、遊ぶ金欲しさにプロ棋士を目指したマスター、何か一言』

(次は盤王を目指します)

『二冠目は盤王ですか。ということは今月下旬の玉座挑戦者決定トーナメントは負けに行くんです?』

(いや?挑戦者決定戦は勝って、タイトル挑戦者になってストレート負け食らっとく)

 

玉座戦は、9月からタイトル戦になる。玉座を保有しているのは名人で、竜王戦は10月からになる。……原作の方で、タイトルの99期目が棋帝だったってことは、この玉座を名人は失冠していないと竜王戦がタイトル通算100期目を賭けた戦いにならない。

 

原作でこの辺がどうなっているのかは分からないけど、まあ現時点で名人はタイトル通算98期で、玉座と盤王を保有している。竜王が100期目になるよう調整するなら、俺が玉座の挑戦者になって負けるのが1番だ。棋帝を取った分の、埋め合わせをすることが出来る。

 

『既に原作ボロッボロなんですが取り繕う必要あります?』

(いや、ノリと勢いと気分で棋帝取っちゃったから、九頭竜の覚醒フラグを折ってそうで怖くなったんだよ。そこは個人的に折りたくないし、だからせめて100期目ということは同じにしようと思った)

『簡潔に言うと?』

(全部俺の気分です)

『最低過ぎません?まあでも名人相手なら、マスター自身が戦ってみたかったんじゃないです?』

(俺だけだと、三段リーグを抜けるのに何期もかかる程度の実力だろ?いやでも戦ってみたいし、玉座戦は俺自身の力で挑戦してみるか)

 

今後の方針としては、玉座戦の挑戦者になって名人に99期目のタイトル獲得をさせ、竜王戦で100期目を賭けた戦いをして貰う。幸い、今年の日程だと玉座戦をストレートで防衛すれば、竜王戦第1局までに99期目が間に合っている。

 

で、名人防衛で100期目を獲得するということはその前にある盤王も失冠しているはず。この盤王を獲得して、大木二冠になっておこう。

 

「お、終わったわ……」

「お疲れさん。予選決勝戦は鹿路庭さんが相手だけど、大丈夫か?」

「昼食休憩を挟むから大丈夫よ。私はただ、笑顔で立ってるだけで良かったし」

 

写真撮影を終えた天衣は少し疲れているけど、大丈夫かと聞かれたら大丈夫と答えてしまうお年頃。まあでもこれぐらいの消耗状態でも、ミスを減らす努力をしながら多面指しはしているから、本当に大丈夫だと思う。

 

予選決勝は、あい対祭神の対局と天衣対鹿路庭さんの対局に注目が集まる。1回戦の時と変わらず、祭神が遅刻して持ち時間を減らした。原作と違うのは、最初から秒読みに入っているということ。どれだけ舐めてるんだあいつ。

 

「大木先生!天衣お嬢様の対局はどうなっている!?初手から騒めいていたが……」

「初手は鹿路庭さんの2六歩で、振り飛車党の鹿路庭さんが居飛車宣言をしたから驚かれたんですよ。

ですがお互いに角道を開けた後、抜きっぱなしの伝家の宝刀2四歩で4手目にして天衣がペースを握りました」

「後手番かくとーふ、だったか。それは、必勝法なのか?」

「必勝法ではありませんが、高い確率で乱戦にはなる戦法です。そして天衣の指すネット将棋のサイトは、乱戦が多いです。

……開戦からの手順、天衣は二千局以上指していますが、鹿路庭さんはほとんど無いでしょうね」

「……要するに?」

「天衣が勝ちます」

 

一方で天衣対鹿路庭さんの試合は、天衣の後手番角頭歩からお互いに竜を作って攻め合いに発展している。まるでアマチュア同士の殴り合いだけど、実際に片方はアマチュアの小学生だった。乱戦で一気に試合は加速し、鹿路庭さんは天衣の守りの駒を剥がしに行くけど……。

 

「遅い」

 

天衣は一言だけ呟いて、鹿路庭さんの攻めを放置し寄せを始める。対局中の声を拾うの、忘れていたな?詰んでいるわけじゃないけど、詰み一歩手前までは行くな。天衣の玉に王手がかかるまで、二手隙が必要だけどもう無理だ。

 

最後は鹿路庭さんが粘ったけど、天衣がきっちり縛って貫禄の勝利。本戦進出を決めた。さて、祭神対あいの方はどうなったかな。

 

「あいも秒読みに入ったのか。

……うわ。この難解な局面で1分将棋は気の毒だな」

『祭神の王に、詰みがありますね。初手5二金です』

(え?あ、本当だ。そして5二金と指したな)

 

祭神対あいの試合は、一見すると難解な局面だったけど祭神側に詰みがあり、あいはそれを1分将棋中に読み切って勝利した。本当に、終盤力は鬼というかソフト並みだな。終局図からアイが予測した棋譜を見るに、えげつない程の大逆転特化型棋士だ。

 

桂香さんも恐らく原作通りの組み合わせで泣きながら勝利。負けた方が女流棋士になれない戦いで、お互いにお互いのことを知っているというのはとても辛くて苦しい戦いなのだろう。

 

天衣、あい、桂香さんの三人はこれで本戦出場が決まった。一斉予選は今年、12人が通過できるけど、その12人の枠に3人とも収まったということだ。これで一先ずは、安心できたかな。

 

今日は九頭竜の誕生日ということで、あいが今日の勝利を師匠にプレゼントしますと言った途端、九頭竜はあいのことを衆人観衆の前で抱き締めていたけど、絵面的にはどう見てもアウトです。いや感動的なシーンなんだけどね。九頭竜は今日スーツ着てて大人っぽいからね。空さんが絶対零度の視線で見つめていたことの方が印象的だった。

 

次の目標は天衣が奨励会試験に合格することだけど、こちらは師匠が立ち入れないので祈るしかない。1級受験を合格出来なければ、1年やり直しのペナルティはキツイ。だけど天衣自身が強く1級受験を望んだし、それを目標に強くなった。奨励会員相手に3連敗は、しないと思いたいな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

奨励会受験

奨励会試験は一次試験、二次試験とあり、日程はお盆の時期。受験者同士の対局となる一次試験は、やはり5級受験や6級受験が多かったため、天衣は全対局で上手の駒落ち将棋になった。ついでに俺は連日イベントの仕事があったので、夜に棋譜だけ教えて貰った。

 

実は天衣は上手の勉強を香落ちまでしかしていないが、ぶっちゃけ将棋自体が強ければ上手は何とかなる。しかし安全マージンを十分に確保してから奨励会試験に臨む人もいるので、受験者同士では手合い違いが発生しやすい。

 

天衣は一次試験の二日間で合計6局を指し、5勝1敗という成績。負けた対局に関しては、3級受験しても良いような実力で6級受験をしている人がいて、その人と飛車香落ちの手合いだったから負けの言い訳は出来る範囲だった。

 

そして二次試験の初戦と二戦目は奨励会員相手に完勝し、2勝して合格が確定したところで空さんと当たった。空さんは二段なので、空さんが香を落としての対局。一応天衣に香落ちの定跡は教えたけど、それを使うと不利になると悟ったらしい天衣はとある賭けに出る。

 

『……空さんとの対局は、見事でしたねえ』

(あれは凄いわ。発想の勝利でもあるけど、一応王道でもある)

 

香落ちの試合で空さんが振り飛車を選択したのを見て、天衣も生石玉将直伝の振り飛車を使う。相振り飛車になり、天衣はあまり攻めの形を作らず、さっさと玉を囲った。敵の香がない筋の香を上げ、穴熊を。

 

(穴熊を崩すのに、香車が無いのは致命的だよな)

『空さんは天衣の攻め駒を毟り取ろうとしましたけど、無理やり角交換を迫って上手く捌いたのは良かったです』

 

香落ちというハンデを守りに使った天衣は、そのまま空さんを倒して3連勝。見事に対奨励会員戦を3戦全勝で終える。

 

(というか、普通は級位者としか当たらないから空さんと当たったのはイレギュラーだったんだよな)

『それだけ2人の対決を、早く見たい人が多かったんでしょう。そして天衣は勝ちました』

(半年後の女王のタイトル戦が、今から楽しみだな)

 

無事に合格したのは良いけど、礼儀がなってないことは幹事の先生から注意される。実際、礼儀がなってないことで、試験に落とされる人もいる。それでも天衣が合格になったのは、天衣の実力と価値が高かったからだ。流石にこれに関しては注意しておいたし、相手が弱いと不貞腐れるのはやめて欲しい。

 

ちなみに面接には保護者として、夜叉神弘天さんが行った。あまりにも早く終わる面接だし、俺も面接の存在は忘れていたわ。親への説明が主だし、面接というより説明会みたいなものなんだよな。

 

面接は無事終了したみたいで、天衣は奨励会員1級として、これから奨励会というプロ棋士の卵達が星を食い合う地獄に入ることが出来る。当然注目度は高いし、警戒もされているだろう。それでも天衣は、勝ち続けてプロ棋士になると宣言してくれたので格好良かったです。

 

『さて、問題の名人対歩夢の対決ですよ』

(分かってるよ。つーか、マジで解説の仕事は引き受けたくねえ)

「みなさんおはようございます。聞き手役の鹿路庭珠代です。解説の先生には、大木棋帝に来ていただきました。先生、よろしくお願いします」

「はい。よろしくお願いします」

 

今日は解説の依頼で、東京に来ている。確かこのニコ生、九頭竜や姉弟子も見るんだよな?コメント欄を確認すると「天衣ちゃんをお嫁に下さい」とか「玉座のタイトル挑戦頑張って下さい」というコメントが見える。

 

……鹿路庭さんの前で天衣の話題を出さないで下さい。何か、自然と部屋の温度が下がった気がする。エアコンの効き過ぎかな?

 

「神鍋六段の初手は7六歩でしたが、名人はどんな戦型を選ぶんでしょうか?」

「名人はどんな戦型でも指しますが、基本的には居飛車党です。しかし、あと1期で永世竜王の称号を獲得する名人は何が何でも勝ちたいでしょう。名人がどんな手を使っても勝ちたいと思う将棋はこれぐらいですし、初手から暴れる選択肢も……3二飛ですか」

「3二飛!名人は二手目から3二飛です!」

 

だけど対局が始まれば、お仕事には集中する。2人とも、表向きを取り繕える2人なので事故は起きない。ただ淡々と解説をしながら、時々コメントを拾って突っ込み、質問に答える。

 

『これは、ほぼ原作通りの展開ですか。歩夢が高美濃を選択して、名人の一手で千日手になって、再試合で入玉して、それでも詰まされる。かなり長時間でしょうね』

(ああ、そうだった。これ、めっちゃ解説時間長くなるんじゃない?早くサマーセールで積んだゲームを消化したいんだけど)

『今日は我慢ですね。タイトルホルダーになると忙しくなる。それぐらい、分かっていたでしょう?』

 

将棋は一進一退の攻防を繰り広げた後、名人が決めに行った手が悪手で歩夢に反撃を食らう。そろそろ6六銀のシーンか。あ、ここだ。

 

「これは、神鍋六段の優勢と見て良いですか!?」

「いえ、6六銀で逆転します」

『それ言って良いんです?』

(むしろ言わない方が不自然じゃない?)

 

かなり歩夢の方が優勢に見える場面になって、鹿路庭さんが優勢か聞いて来たので6六銀を言う。即座にコメント欄は「6六銀!?」「ただのただ捨てじゃん」などのコメントで溢れた。

 

そして名人は6六銀を指した。これを歩夢が取ると、名人の詰めろは消える。歩夢は銀を取っただけなのに、詰めろが消えて、勝ちの目が消えた。そして千日手になる。やめてくれ。休みが減る。

 

『深夜12時から再開とかコイツら頭おかしいんじゃないですかね?はよ指せや』

(持ち時間1時間ずつでの再開だし、終わるの深夜3時過ぎるなこれ)

「あの、大木先生大丈夫ですか?」

「大丈夫大丈夫。

ああこれ、入玉しますから長いですね。画面の前の皆さんは、エナジードリンクをもう一本用意してください」

「あれ?本当に大木先生大丈夫ですか?テンションおかしくありません?」

「大丈夫だいじょぶ。今なんか妙に頭冴えていますから」

『ちょっと!本当に大丈夫ですか!?』

(うるせえ。こちとらお盆は地方巡業しながら天衣の奨励会試験の報告を逐一聞いてたんだぞ。もう死ぬ)

 

時間は深夜の二時半を過ぎても、なお仕事中。10時から対局開始だけど、9時には将棋会館に着いて挨拶回りしてるんだよ。実質何時間労働だ?この仕事引き受けた奴誰だよ。長くなるって事前知識あっただろ。

 

そして終局は、深夜4時。実に18時間という長い戦いが終わり、勝ち残ったのは名人だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

棋士室

奨励会へ入ることになる天衣は、師匠に指示されて関西将棋会館の棋士室に来た。今日は名人と歩夢の竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第1局が行なわれるため、九頭竜や空銀子、生石玉将や鏡洲三段の姿もある。

 

続々と増える奨励会員や観戦記者を尻目に、天衣は二面あるモニターの内、片方の前を陣取る。その横、中央に座る生石玉将と知り合いだったために天衣はすんなりと移動することが出来た。そして天衣の前には、ニコ生の映像が流れる。この試合の解説役は大木で、聞き手役は鹿路庭だ。

 

『先生、よろしくお願いします』

『はい。よろしくお願いします』

『……何だか先生、今日は元気がありませんよ?』

『今日は長い一日になりそうなので、ちょっとスタミナを温存しているだけです』

 

大木と鹿路庭は最初の挨拶を済ませ、両対局者の紹介を済ませる。ここで奨励会員の椚創多が天衣に目を付け、声をかけた。

 

「あなたが夜叉神天衣さんですね?大木先生の弟子ってことで、奨励会でも噂になっていますよ」

「えっと、あなたは……見覚えがあるわね?」

「ぼくは椚創多です。先月の棋帝戦第3局で記録係をしてましたから、その時にぼくのことを見たんだと思いますよ」

「……あなたが、椚創多ね。師匠から、奨励会員の中で1番警戒しないといけない相手と聞いてるわ」

「へえ。流石は大木先生ですね。それは正しいとぼくも思います。

どうです1局?試合が始まるまでに、10秒将棋は指せると思いますけど」

 

椚は天衣を移動させ、将棋盤を挟んで対峙する。試合が始まるまでまだ僅かに時間があり、新奨励会員2級の夜叉神天衣と、奨励会員初段の椚創多の試合は注目を集める。振り駒の結果、先手は椚となった。

 

「夜叉神さん、初手で意味の無い手って何だと思いますか?」

「1八飛」

「……それは流石に、指せそうにないですね。意味が無いじゃなくて、マイナスの手じゃないですか」

 

先手番を貰うつもりが無かった椚は、1手パスするつもりで天衣に意味の無い手を尋ねる。すると天衣は、間髪入れずに1八飛と答えた。師匠である大木が、時たま行なう天衣との平手の指導対局で、1手パスするときに用いる手が9二飛だった。

 

梯子を外された気分になった椚は、初手で3八金を指す。それを見た天衣は「ふぅん」と言い、3二金と指した。序盤こそ奇妙な手の応酬だったが、駒組みが出来上がると2人の陣形は、奇妙な手を指し続けたわりには良い陣形が組み上がっていた。

 

10秒将棋は、お互いにほぼノータイムで指し続ける。瞬時に最善手を出す力は現時点で椚の方が上だったが、天衣も負けていなかった。しかし終盤、天衣は椚の詰みを見逃し、逆に椚は難しい詰みを読み切って天衣の玉を詰ませた。1手差ではあったものの、天衣が負けた。

 

「いやあ、危なかった。この詰みを見落としたのは痛かったですね」

「……別に」

 

椚に負け、明らかに不機嫌になった天衣はまたニコ生のモニターの前まで移動する。天衣は終盤、詰まし切る能力が他の能力と比較すると劣っている。これは、師匠である大木の方針だった。

 

「あー、その詰将棋の本はやらない方が良いぞ。無駄に長いし」

「でも、簡単な問題を解いても意味無いじゃない」

「長手数の詰将棋も無意味だよ。実戦と詰将棋は、根本的に違うからな」

「そうなの?」

 

大木と天衣が出合った当初の頃、大木は長手数の詰将棋を無意味だと言って切り捨てた。それ以上に、伸ばしておかないといけない能力が沢山あったからだ。

 

「例えばその本は、長手数だってことが最初から分かっているだろ?局面を見て詰めようと思えば、始めからハッキリ詰むことが分かっている。でも実戦では、まず詰むか詰まないかが分からない」

「確かに、詰将棋で詰まない問題は無いわね」

「詰むと確信して読んだら詰まない場面だったり、詰まないと見て必死をかけたら実は詰んでいたなんて、実戦では幾らでもある。だからやるなら、まずは詰む詰まないの判断をする能力を付けることだな。詰将棋なんて、実戦形の短手数の詰将棋でスジを訓練するだけで良い」

 

今回の対局で、先程の椚の王は詰むと天衣は判断出来ていた。しかし10秒将棋で、詰み切るところまでは読むことが出来なかった。だから受けに回り、椚に潰された。

 

「もう始まってるじゃない。……え?3二飛?」

「二手目3二飛戦法か……まさかまさかだな。俺も昔、この戦法に稼がせて貰った。しかし過去の戦法だ。そんな戦法を、名人はこの大一番で選んだ。その意味するところは」

「研究外し」

 

椚と天衣の対局が終わると、棋士室にいる全員の注目は名人の指し手に集まる。序盤も序盤、二手目から名人が仕掛け、空が呟いた研究外しという言葉に反論する者は誰もいなかった。囲いそのものが攻撃陣となり、お互いをガリガリと削っていく。

 

そして名人が決めに行くのを失敗し、歩夢が優勢になったと誰もが信じた頃。事件は起きた。

 

「東京の控室でも先手勝勢の判断です!」

『先生!これは、神鍋六段の優勢と見て良いですか!?』

『いえ、6六銀で逆転します。……6六銀は取る一手ですが、詰めろが解消されるので手番が名人に回って来ます』

 

関西の棋士室の全員が、関東の控室の全員が、気付かなかった6六銀。それを大木は、他の普通の手を解説するかのように淡々とにこやかな顔で説明した。コメント欄には「6六銀!?」「なるほど」などのコメントが流れる。

 

直後、名人が6六銀を指す。形勢は一気にひっくり返り、歩夢は千日手に持ち込むしかなかった。再試合となり、解説役の大木はだんだんと死んだ魚のような目になりながらも、解説を続けた。

 

2局目が終わった後、関東の検討室も関西の棋士室も静まり返った。自分達がとうてい指せないであろう将棋を2局見せられたのも理由の一つだが、解説役だった大木が、両対局者以上に棋士達へダメージを与えていた。

 

大木は序盤で負け、中盤以降にひっくり返し、一手差で勝ったり負けたりする。薄々それは、わざとやっているんじゃないかと思っていたプロ棋士達は、予言めいた解説で確信をしてしまう。アレはある程度、力を抑えて戦っているのだと。

 

一方で元からそれを知っていた棋士達は、大木のいる位置が極めて遠いことを再確認した。そしてその中の一人である九頭竜は、大木との距離がどれぐらいかを正確に掴んだ。




4月1日から作者の生活環境が変わって忙しくなったので今まで通りの不定期更新が出来なくなりました。申し訳ないのですが、これから毎日1回18時の定期更新になると思います。本当に申し訳ありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の師匠②

私の師匠はおかしい。

 

……元から、頭がおかしいことは分かっていたかもしれない。師匠は私が多面指しをしている最中、暇だからと言って10面指しをしている。となりに私の将棋の、観戦画面を何面も置きながら。

 

全部頭に入っているのか、対局が終わった瞬間にその対局では何々が悪かった、何々は良かったとか言って来るけど、他の対局が終わってない時とかはあまり頭に入って来ない。生返事の時は師匠も分かるのか、そういう時は特段悪かった棋譜を後で将棋盤に並べて分岐を見せてくれる。

 

私は数十局指した内の1局だから、局面を並べられたらその時に何を考えていたのかは思い出せる。だけど師匠は、私が数十局指している間に数百局は指しているはず。それなのに自分が指したわけではない将棋の棋譜を、完璧に再現する。

 

その光景を見て、完全記憶能力が師匠にはあるんだと思った。でもそう思った時、師匠は人の名前や歴史の知識をよく忘れることにも気付く。よく忘れると言っても、1回会っただけの人の名前とかだけど。

 

その思考に行き着いた時、師匠が初めの頃に言っていたことを思い出した。人は忘れることが出来ない、思い出せなくなる生き物だと。師匠は、何らかの方法で将棋のことだけは思い出せるようにしたんだ。

 

このことを師匠に言うと、正解だけど今はまだ気にしなくても良いって言われた。だからこれは、師匠の言う第二関門を越えた先に待っている関門だと思う。「幾つ関門があるのよ」と聞いたら、今のところは五つだと言われた。まだまだ先は、長そう。

 

ひたすら多面指しをしていると、集中力を保つコツが分かった。軽く読む程度なら、集中しなくても読めるようになっている。このことに気付けた後は、少し勝率も上がったし、多面指しが楽になった。おそらくだけど、この集中しなくても読める範囲が広がったら、私はもっと強くなる。

 

世間では将棋電脳戦で師匠が勝ったからか、まだソフトはプロ棋士に追い付いていないとか言ってる。だけどプロ棋士のほとんどの人は師匠がソフトに勝ったことで、気付き始めたと思う。師匠が、圧倒的な力を持っていることを。

 

でも、負ける時は負ける。序盤から作戦負けするのはいつも通りだけど、負ける時はそこからの挽回がない。師匠には何でわざと負けるのよと、突っ込んで聞いたことはある。その時の回答は、こうだった。

 

「将棋で1番楽しい時は、大差で勝った時だ。だけどな、見ていて1番楽しいのは勝つか負けるかギリギリの戦いをしている時だ」

 

絶対に勝つ勝負事を、見ていて楽しいと思う人はいない。ずっと白星を積み重ねている空銀子は、早く負けろという声も大きくなってきた。アレがいるせいで、女流棋士はつまらないと言う人まで出て来た。もう既に、女性最強は空銀子だと決まってしまっているからだ。

 

師匠の将棋は人気だ。序盤で作戦負けをして、中盤で好手を連発して巻き返し、終盤で逆転する。たまに負ける時は、巻き返しが不発だったとファンは言う。……作戦負けをして、それでも勝つのは、駄目な作戦というものがないことへの証明だし、将棋を知っているファン達にそう見せかけるのは、きっと単純に勝つよりずっと難しい。

 

そんな師匠が、とうとうタイトルに挑戦した。そのタイトルの名前は棋帝で、相手は篠窪太志。若手なのに、関東のトッププロに名を連ねる実力のある人だ。普通の師匠なら、私のことを放置してタイトルに集中してもおかしくない。

 

だけど私の師匠はおかしい。

 

第1局と第2局の時はあっさり勝った後、私の家に立ち寄ってその日の対局のことやタイトル戦の雰囲気を色々と話してくれた。第3局の前日は、私の初めての大会だからと東京までついて来た。

 

私がマイナビの予選で勝った後、即座に飛行機を使ってとんぼ返りしたことを私は知ってる。変装していた師匠は私に一言、おめでとうとだけ言って、ついでに紙を渡して来た。内容は「師匠が今淡路島にいることを証言すること」だった。少し呆れたけど、それでもその指示には従った。師匠がこんな所まで、普通は応援しに来ないから。

 

結局師匠は、棋帝のタイトルを手に入れた。タイトルを取ってからは忙しくなったみたいだけど、それでも私との指導対局の数は減らなかった。私の奨励会試験が、間近に迫っていたからだ。

 

この奨励会試験では、二次試験で空銀子と当たった。師匠の読み通りで、手合いは香落ち。だけど私は、付け焼刃の香落ち定跡を使うのは躊躇った。この空銀子は、きっと香落ち定跡の対策なんて、私の何倍の時間をかけて勉強しているはず。だから私は飛車を振って、穴に潜った。

 

私の穴熊を見て、空銀子の歯ぎしりの音が聞こえた気がした。香落ちの試合で、振り飛車穴熊をするのは別に珍しいことじゃない。だけど実際にいきなり振り飛車穴熊を指すのは難しいし、あまり見ない形ではあると後から師匠に教えて貰った。師匠は私の振り飛車穴熊を見て、大駒を上手く捌いたことを褒めてくれた。

 

一次試験と二次試験の棋譜を聞いた後、師匠は少し悩んでから、奨励会2級でスタートすることを勧めて来た。奨励会に入った直後の時期に負けが込むと、その後の将棋にも影響を与えるという理由からだった。本当に1級の実力があるなら、それ以上の実力があるなら、むしろ2級から始めた方が良いと言っていた。

 

……師匠には、過保護に育てられていると私自身感じる。正直に言うと、1級から始めたかった。でも2級から始めた方が良いと師匠が言ったからには、私は2級で始めた方が良い。この選択は初めて棋士室に行った時、正解だと思った。

 

奨励会初段の、椚創多。奨励会試験で当たると読んでいた師匠だったけど、結局当たらなかった。だから棋士室名物の10秒将棋の申し出があった時、無視できなかった。師匠が1番警戒していた相手だけど、私はその時勝てると思っていた。

 

だけど実際には、先手番の利を譲られての敗北。10秒将棋じゃなかったら結果は変わっていたけど、そうなると将棋の内容も変わってくるし、そんなことを言っても仕方ない。負けは負けだ。私は読もうとしたら、頭の中で駒が勝手に動く。だけどその読もうとする内容が、想定する手が、まだ弱い。

 

椚創多みたいな人が、奨励会にはまだまだいるはず。師匠は私と椚創多の棋譜を聞いて、椚創多にここまで肉薄出来るなら十分だと言ってくれたけど、それがたまらなく悔しい。

 

私の名前は夜叉神天衣。奨励会員2級。現在の目標は、奨励会員を全員ぶっ飛ばすこと。そしていつか、将棋史上最強の師匠を……。

 

……この師匠、名人とのタイトル戦で3連敗したのに笑顔で名人を褒め称えているんだけど。やっぱり頭、おかしいんじゃない?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

奨励会

9月から行なわれた玉座戦は、名人相手にストレート負けをかましてきた。いやだって、これでタイトル99期になるんだもん。原作通りになるじゃん。俺が負けた方が将棋界的にも盛り上がる選択だし、空気読むよ。棋帝を名人が獲得していたら、これが100期目になるはずだけど、俺が棋帝なのでまだ99期目。上手い具合に、調整は出来た。

 

『いやでも惜しかったですね。全着手がノータイムで、名人相手に結構良い所まで行きましたよ?』

(惜しくねーわ。3局とも惨敗だぞ。名人と新人棋士が指した対局みたいになったし)

『みたいも何も、実際にその通りじゃないですか。マスターは、C級2組で負け越す残念な新人棋士レベルですよ』

(うるせえ。1局ぐらいは勝ちたかったんだよ。1勝3敗でも竜王戦までには間に合うからな。わりと悔しいわ)

 

一方で奨励会に入った天衣は、2級から1級へスピード昇級を決めていた。1級受験で合格したのに2級で入ったのは、奨励会試験の棋譜を聞いて終盤力が微妙に育ってないと思ったからだ。

 

ネット将棋での天衣の終盤は、まさしく「寄せは俗手で」という将棋の格言を体現したものになっている。考慮時間を削ぎ落としていった結果だし、こうしないと天衣は多面指しを出来なかったわけだから仕方ない。別に俗手でも良いしな。勝てれば。

 

終盤力もある方ではあると思っていたけど、詰め切る力が思っていたより弱い。奨励会の最後まで粘りまくるような対局では、不利を受ける。

 

だから、まるで他の奨励会員のことなどどうでも良いと言わんばかりに、俺は天衣に対して2級で奨励会に入るよう言った。そして天衣はそれを受け入れ、面接の時に自身を降級させるよう願い出ている。

 

対外的には態度が悪かった罰ということにもなっているし、態度や礼節も徐々に改善されると思いたい。1級には6連勝で昇級しているし、その期間中に奨励会の雰囲気には慣れた。これから入品までが大変だろうけど、良いスタートを切れたことの方が重要だ。スタートで連敗すると、将棋観が歪む。

 

世間では名人のタイトル通算100期目と、最後の永世称号になる永世竜王が同時だということで盛り上がっている。なお九頭竜からは玉座戦のストレート負けに関して、疑惑の視線を頂いた。すまない。お前を追い込みたかったんや。今のノリノリ状態な名人を倒して、竜王防衛してくれ。無事に魔王化して、ソフトを超えてくれ。

 

(ハワイで竜王戦の第1局ってことは、大きな流れは変わらないだろうな)

『既に九頭竜や名人の将棋が変わっている可能性もありますが……九頭竜の得意戦法は一手損角換わりのままです。名人が第1局で、それを指せば流れは変わらないでしょう。ですが、もしも一手損角換わりを指さなければこの後のフラグは全部消滅すると思いますよ?』

(あいをマイナビ本戦に連れて行くの、俺の役目になりそうだな。確か3連敗した後だっけ。そりゃ荒れるわ)

『ここにタイトル戦で3連敗して、タイトル奪取に失敗したのに笑顔で名人へタイトル99期おめでとうございますって言えるサイコパスがいるらしいですよ?』

(誰のことだか分からんな?通算99期もあれば、そんなことの一つや二つはありそうだけど。あ、名人信者の山刀伐がいたわ)

 

ハワイで行なわれる竜王戦第1局は、日本中の話題になっている。普段は将棋に注目していない層まで、名人のタイトル奪取に期待している。ハワイでタイトル戦を行なうのも珍しいし、名人の人気は本当に高い。これ、九頭竜は本当にタイトルを防衛したというだけで悪役になって炎上したのか。

 

『1番の懸念は、九頭竜と名人の記念対局があって、そこで一度九頭竜が負けていることですかね』

(……あれ?)

『ちょ、マジで忘れてましたとか言いませんよね?1年半しか経ってませんよ?』

(わ、忘れていたなんてことがあるわけないだろ。いや本当に、大丈夫なのかは心配になってきたな。……にしても、ハワイか。行きたかったな)

『移動日も含めれば、4日間もスケジュールが空くわけないじゃないですか。連盟も何でマスターに竜王戦の日程で配慮しないといけないんです?』

 

俺はハワイには行けなかったので、棋士室で観戦。天衣も一緒だ。天衣の棋士室デビューは上手く行ったようで、上手く同期の奨励会員と付き合えている。年に一度しか行われない奨励会試験だから、同期の存在というのは大事なものだ。ついでに言うと、俺と椚は同期です。椚が6級から1級に上がる間に、俺は1級からプロになりました。

 

『同期の結束は、奨励会ではわりと強いですよね。奨励会同期の研究会も珍しくありませんし』

(俺の場合、孤立気味だった椚を誘って研究会を開けたのは良かったかもな。そこから同期の輪が広がっていったし)

『マスターの同期の内、3人は早々に才能の限界を感じて奨励会を辞め、2人は負け続けて降級し退会。1人は自殺しようとしましたけどね』

(それは毎年のように起こることだから同期関係ねー。そして奨励会の闇に触れるな。俺の同期で自殺しようとしたやつは、今3級で頑張ってるだろ)

 

まあ天衣の同期には中学生が多いし彼らにとっては妹感覚なのかもしれない。なお将棋ではフルボッコにされる模様。唯一対抗出来そうなのは、俺の2年後に中2で中学生名人になった奴だな。奨励会3級クラスの実力があるのに6級受験をして、早くも5級に昇級している。

 

それでも10秒将棋では天衣になかなか勝てないようで、才能の差は如実に表れている。天衣の同期で、プロになれる奴は何人いるかな?毎年4人が三段リーグを抜けてプロになれる奨励会だけど、要するに同期の中からプロになれるのは3~5人ということだ。奨励会には、毎年入って来るからな。

 

天衣の同期は、関東の16人と関西の12人。合格者は東西合わせて29人で、受験者数が合計で80人弱だったことを考えると、合格率は4割弱。ここだけでも狭き門のように感じるけど、残念ながら奨励会は入ってからの方が地獄だ。この29人の内、プロになれるのは多くても5人。生存率は高くても2割弱だな。

 

そしてプロになれても、四段五段で伸び悩んで苦しむ人は沢山いる。天衣がそうならないように最大限の助力はするけど、メンタルとか体力とか本人次第な部分は結局出て来るからなぁ……。

 

竜王戦の第1局は、名人から一手損角換わりを仕掛けて中々ハイレベルな戦いになっている。モニターから離れて天衣に名人の手や九頭竜の手を色々教えていると、周りに奨励会員達が集まって来た。本当に強さには貪欲な奴らが、奨励会には集まる。天衣がどのぐらいの期間でここを突破できるかは流石に断言出来ないけど、今のペースで成長するなら2、3年ぐらいか?

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

マイナビ女子オープン本戦

九頭竜は竜王戦で3連敗して荒れに荒れ、世界の全てが敵のように見える錯覚を起こしていた。そのためマイナビ本戦へ出場するあいに、俺が付き添うことになった。将棋って怖いわ。負けた時の精神的ダメージが大きすぎる。

 

そしてあいは、清滝先生のところに預けるという話になった模様。この時に九頭竜はあいとの師弟関係を断ち切ろうとして、あいがボロ泣きをしている。

 

『その翌日に女流玉将と試合は、不味いですよね。これであいがボロ負けしたら、九頭竜の精神が燃え尽きますよ』

(天衣が九頭竜の弟子になってないことによる、最大の破綻ポイントか。あいは無口どころか、悲壮感満載の泣き顔で死人同然なのはやべえな)

 

「だからね……絶対勝つの。師匠に言ったの。今日の対局を、見ていて下さいって」

「はいはい。何度も言わないの。対局前に、何度泣くのよ。ほら、拭いてあげるから顔をこっち向けなさい」

 

間違いなく原作より、あいと天衣の仲はよろしくない。しかし天衣があいを元気付けようとしているのを見ると、元々持ち合わせていた優しさが徐々に前面に出て来た気がする。……ん?むしろ、原作より仲が良いのか?

 

マイナビ女子オープン本戦の会場は、東京の将棋会館の4階の雲鶴の間で行なわれる。失礼しますと言いながら、しかし頭を下げずに入った天衣はすたすたと歩いて下座に座った。天衣は奨励会員1級で、対戦相手の登龍花蓮は奨励会員2級だから、少し困るだろうな。

 

「君の方が級位は上なんだから、上座に座りなよ」

「これは女流棋戦でしょ?だったら奨励会のことは関係無いじゃない。ま、どうしても譲って欲しいなら、構わないけど?」

 

上座に座るように促した登龍さんは、天衣に断られたために苦笑しながら上座に座る。初めて戦う人と対局前に、朗らかなムードになったことは良い事だし、これから絶許リスト入りすることは減るはず。たぶん。

 

一方であいの方は、ピリピリとした険悪ムード。対戦相手が月夜見坂女流玉将だから仕方ない。試合開始後は将棋会館の道場で、晶さんと一緒に棋譜中継で送られてくる将棋の内容を見守る。2つの対局はどちらも、珍しい展開になっていた。

 

『あいの方は凄く静かな序盤ですね。一方で天衣の方は……』

(陽動振り飛車だな。2六歩、2七銀まで上がってから向飛車とか、随分と乱暴なお嬢様だ)

『乱戦好きですよね。しかし天衣の捌きは、かなり上手い部類です。振り飛車の適性はありますよ』

(乱戦好きというよりかは、相手を定跡の無い舞台に引きずり落として力でねじ伏せたがる棋風だな。捌きの方は、確か生石玉将にも褒められていたか?)

 

時々、晶さんに対して初心者向けの解説を挟みながら、天衣とあいの対局を見守る。あい対月夜見坂さんはあいが低く低く構えていて、今までのノビノビ指していた棋風とはまるで違う。絶対に勝って、師匠に勝ちをプレゼントすると言っていたけど、この指し方だと万が一の勝利が起こるかもな。

 

天衣と登龍さんの試合は天衣がほぼノータイムで指しており、陽動振り飛車からガッチリと銀冠を組んだ天衣が優勢だ。銀冠は手数がかかるけど、ソフトでの評価も悪くない優秀な形。穴熊を組んだ時もそうだけど、天衣の振り飛車は強固な守りを組んでから捌き合いに入って優勢になるパターンが非常に多い。いやまあ、これは振り飛車の必勝形でもあるけど。

 

『私の優秀な指導の賜物ですね』

(マジでそうだから反論に困る。天衣は振り飛車の方が向いているのか?)

『出来れば今のような将棋を居飛車で指して欲しい所ですが、しばらくは振り飛車に専念してみても良いかもしれません』

 

攻め合いに入った後、天衣は銀冠の2九の地点に駒得した金を打ち込む。銀冠に金を一枚足した形では、1番硬いんじゃないか?天衣の囲いを見て、青い顔になってそうな登龍さんの顔が容易に想像できる。その後、天衣は相手玉に必死をかけて登龍さんは投了。天衣は無事に、本戦の1回戦を勝利した。

 

しかし、あいの方はそう上手く行かない。攻める大天使の異名を持つ月夜見坂さんに殴られ続けるという、タフな将棋を指している。そして飛車を移動させて、相手の龍を詰ました。これは交換になる。低く構えていたお陰で、月夜見坂さんには浮き駒が多い。

 

その浮き駒を取りに行き、駒を補充しては自分の陣地を補強していくあい。ひたすら粘るあいに、月夜見坂さんの攻めからは苛立ちを感じる。ここで、月夜見坂さんが先に秒読みに入った。

 

『……ひたすら耐えての、カウンターを狙う将棋なんて今日初めて指したんじゃないです?これ、そのうち月夜見坂さんが間違えますね』

(終盤力の差だな。相手玉を詰ますのが得意な奴は、自玉の詰み筋も見つけやすい。それを塞いで塞いで、耐え続けているんだ。この将棋だけは、絶対に落とせないから)

『落としたら九頭竜が立ちなおれないでしょうからね。……緩手が出ました。今のあいなら、討ち取れるでしょう』

 

あいも秒読みに入って、長手数の将棋は月夜見坂さんのミスにより決着した。対局後、明らかに消耗した顔のあいは天衣に支えられながら帰って来た。これ、このまま清滝さんの家に届ければ良いのかな?

 

……いや、九頭竜の家に押し付けていこう。

 

「良いの?九頭竜先生から、あいは清滝先生の所に預けてくれって言われたんじゃないの?」

「今日のあいの対局ぐらい、九頭竜も見ているだろ。……その証拠に、たった今あいと会わせてくれってLINEが来た」

 

あいを九頭竜の家の前まで送ると、中から九頭竜が飛び出して来てあいを抱き締めた。感動的な和解だな。だが知らない人が見たら警察沙汰だ。

 

「ししょー、痛いです」

「ああ、ごめん……」

「えへへ……ししょー。私は、勝ちました。私は女流棋士に、なっても良いですか?ししょーは、あいを本当の弟子にしてくれますか?」

「ああ、もう離さない。二度と」

 

『すいません。もうはなさないと聞いて、ずっと歌の』

(やめろ。俺もリフレインしてきたぞ)

『ところでマスターは、勝った天衣を抱き締めなくても良いんですか?』

(後ろにチャカを持っている人がいることをお忘れか。俺が死ぬわ)

 

これであいは女流棋士の資格を獲得し、九頭竜は何処か吹っ切れた気がする。……あいと天衣が、本戦で当たる可能性もあるのかな?当たるとしたら決勝だから、良い試合になると良いな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

振り飛車

九頭竜が3連敗した後の第4局。無事に最後の審判が発生して指し直しとなり、九頭竜はようやく1勝をした。掲示板では「いや空気読めよ」という声や「まあ1勝ぐらいはね?」という声が見られたけど、九頭竜が2勝3勝とする度に世間の動揺は大きくなる。

 

そもそもの話だけど、名人と九頭竜の知名度の差が激しい。原作でも九頭竜の知名度が低いとは思っていたけど、俺がいるせいか余計に目立ってない。九頭竜で目立つ話題と言えば、基本的に女性関係がだらしないことだし、世間の印象があまり良くない。そんな九頭竜が、名人のタイトル通算100期と永世七冠を阻止しようとしていたら?

 

……当然のように、九頭竜は燃え上がった。今まで炎上した後、鎮火作業をしてなかったからか、爆発的な勢いで燃えて悪口や嫉妬や暴言が散見される。もちろん九頭竜のファンも増えたけど、多勢に無勢。そりゃ、ネットなんてもう見たくないと思うはずだ。

 

(……何かがおかしいと思ったら、水を飲むあれこれが無かったな)

『名人が最後の考慮時間を使い切り、水を飲んでいる間に九頭竜が読み切った流れですか。確かに今回、それは無かったような感じですね?』

(まあ、そういうこともあるか)

 

一方で俺も、勝ち進んでいるタイトル戦の予選が多くて日程が詰まっていく。棋士は負け続ければ仕事が少なくなるけど、勝ち続ければそれに比例して忙しくなる。だが天衣の指導は欠かさない。マイナビ女子オープンの本戦を、順調に勝ち進んでいるしな。

 

そんな天衣は、1級に昇級してからの成績を8勝2敗としていた。残念ながらスタートから2ヵ月を、無傷の12連勝で終えることは出来なかったし、1級に上がってからは負けが増えた。最初に負けた相手は椚で、天衣の先手番だけど一手差で寄せが間に合わなかった。

 

あの将棋マシーン、マジで強いな。まあ原作で小学生棋士になった奴が、弱いわけないか。俺や同期と研究会をしていた時も、アイの指す手を1番に理解していたし、昇級ペースは過去最速だっけ?というか来年の3月までには三段になっているという。天衣に勝って昇段したし、嫌な相手と昇級直後に当てられたな。

 

初段昇段は8連勝か12勝4敗か14勝5敗の成績を残せば良いから、天衣は来月からの対局に3連勝するか4勝2敗か6勝3敗したら昇段だな。来月か、再来月には初段に昇段しそうだな?しばらくは椚と当たらなさそうだし、負けが込むこともなさそう。

 

……問題は、あいと本戦で当たりそうなことか。あれはあれで、月夜見坂女流玉将を倒して勝ち上がって来ているからな。供御飯山城桜花に勝てるかどうかは分からないけど、供御飯さんとの対局までにさらに成長するんだろ?もしも供御飯さんにも勝ったら、さらに強くなって天衣の前に現れる。なにあの小魔王。マジで良い試合になりそうで困るんだけど。

 

「さてと。今日は俺がよく使っていた振り飛車を教える」

「居飛車党の師匠が、よく使っていた振り飛車?」

「今は居飛車党一筋だけど、昔は色々と指したよ。天衣はオールラウンダーになって欲しいけど、極めるならまず振り飛車からにした」

「待って。居飛車を極めたとは言わないけど、それなりに指して来たつもりよ?」

「現状、どちらも同じぐらいには指しこなせていると思うぞ?

まあ良いや。四間飛車と中飛車を使って、居飛車に勝つ勝ち方に関しては教えておく」

 

『マスターも極めてないくせに、よくそんなこと言えますね?』

(お前が極めているから良いの。余計な事言わないでくれ)

『それにしても、伝授するんです?あの端攻め』

(俺の中では振り飛車=居飛車の隙を突いて端攻めする戦法なんだよな。まあ俺の指す振り飛車は四間飛車や中飛車が多かったからだろうけど。捌きは生石玉将に教えて貰うとして、俺は端攻めを教えるぞ)

 

天衣には、振り飛車として俺自身が極めたと勝手に思っている端攻めを伝授しておく。四間飛車や中飛車で、敵の3七桂や7三桂を誘い、1三香や9七香で端攻めを開始する。ぶっちゃけ振り飛車が強いのって、この部分だけだと思うの。こんな思考回路だから良くて新人棋士止まりなんだろうけど。

 

『敵からの攻撃を誘うという意味での1三香や9七香は良いと思いますけどね。端攻めを開始されれば受けきれない。だから開戦するしかないと相手に思い込ませられるのは有用です』

(香車に紐も付くしな。振り飛車を指すなら、端攻めの研究はした方が良い)

 

「ん、変化が多いわね。地力も必要なのかしら」

「丸々手順を暗記して、使いこなせるものでも無いからな。あとタイミングとかは把握していないと使えないけど、そこはネット将棋で試していけば良い」

「後手番角頭歩は、指し続けるの?」

「そっちは指し続けろ。後手になって使えそうなら後手番角頭歩、先手なら振り飛車、後手で先手が先に飛車先の歩を突いてくるなら相掛かりって感じだな」

 

天衣はネット将棋で教えられたことを試すことが多くなったけど、それでも勝率は上がらないし、落ちない。……最初に指した時、俺は天衣に芯が無いなと思った。だから、得意戦法を1つ決めさせた。

 

それが後手番角頭歩で、天衣はこれをネット将棋で試し続けている。もちろん固定化しないように他の戦法も指しているけど、1つ突き抜けた奴を持っていると何かと便利だ。

 

昔は、1つの戦法に拘ることでも十分にプロの世界で通用した。しかし現在は、ソフトの誕生のせいですぐに対応されてしまう。だからプロは基本的に色んな戦法を指せるんだけど、それでも得意戦法というものはみんな持っている。

 

今現在、天衣はまた停滞を始めてしまっている。奨励会は勝ち越しているし、初段には昇段出来るかもしれないけど、二段三段と上がるのはこのままだと難しい。だから今回は、序盤の手札を増やすことにした。

 

『というか後手番角頭歩で持久戦になった場合、天衣は基本的に向飛車を指しますからね。元々天衣に、振り飛車の感覚は蓄えられていたと思いますよ』

(で、後手番角頭歩をしない時は居飛車だった。それを振り飛車に変えて、振り飛車の経験値をもっと貪欲に稼いでいくわけだ)

『……そろそろ、見えてくるころだと思うんですけどねえ。9面指しで、六段を相手にしても降段しないレベルになりましたし、ネットでの通算対局数は1万を超えました』

(……もう、そんなに指していたのか。それならそろそろ、分かる頃か?)

 

休日とかにはゴキゲンの湯にも向かわせて、徐々に振り飛車党としての力を付けさせていく。振り飛車対振り飛車の戦いなら、あそこが1番だろうしな。全員振り飛車党の道場はやっぱ頭おかしいわ。試合のほとんどが相振りの道場なんて、あそこぐらいかもしれない。存分に活用して天衣の練習に役立てよう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

指し初め式

九頭竜が竜王を防衛した。まおー化フラグ折れてなかった良かった。12月の末、劇的な勝利で竜王を防衛した九頭竜は、称賛と罵倒の嵐を受けているけど、俺は俺で少し忙しかった。

 

去る12月10日。天衣の誕生日ということで亡くなっている天衣のお父さんの字を彫った駒を用意した。案の定天衣は泣き崩れて感謝されたんだけど、ここは俺の手柄にもしたくないので言い切っている。

 

お父さんの字の駒のアイデアは九頭竜のもので、お父さんの字を集めたのは鏡洲さん。とある知り合いの盤屋の職人に駒師を紹介され、実際に駒を作ったのはその駒師さん。人との繋がりを構築していなかったら、このプレゼントは実現していなかったこと。人生において人との関わり合いを切るという行為は、損をするということ。

 

天衣は泣き止んだ後にもう分かってるわよと言ったから、そろそろお淑やかになるんじゃない?そしてこの駒の製作に携わった人達には感謝。俺は金しか出していねえ。

 

(ちなみに竜王戦の将棋自体はどうだった?俺は最終局の九頭竜の切り返しがヤバかったことしか分からん)

『……竜王戦後半の成長速度は、弟子であるあいすらも超えてますよ。西の魔王の異名はピッタリですね』

(そのあいは、タイトルホルダー2人をぶっ倒してマイナビ女子オープンの本戦を勝ち進んでいるぞ。何だかんだいって、カウンター型の将棋はあいにピッタリだよな?)

『大逆転特化と合わせて、普通の女流棋士ならもうあいを止められないでしょう』

(天衣も成長しているけど、あいに100%勝ち切れるとは言えなくなったか。こりゃ最悪の展開も想定しておくべきかな)

 

九頭竜の異名は現在、ロリ王や西の魔王、史上最強のロリコンなどなど。一方で俺は、何か色々と混在している。寝ている方が強い男だのエンターテイナーだのブロークンロボだのプロフェットだのデーモンジェネラルだの……キリが無いし、最後の2つは歩夢作だな。いい加減にしろ。

 

そして年が明けて新年。今年の目標は天衣の女王奪取と俺の盤王奪取です。玉座戦の時、名人から次は本気で戦いたいと言われていたので盤王戦ではアイが名人をぶん殴ると思う。……最近、アイさんはまた強くなりました。もう2枚落ちでも俺は勝てません。いい加減にしろ。

 

俺と天衣は、新年ということで関西の指し初め式に出席。月光会長が関東の指し初め式に出るから、そっちに行こうかと思ったらこっちに派遣されたでござる。わりと本気で、月光会長には嫌われているんじゃないかと思う今日この頃。まあ中学生の時、月光会長に勝ってるからな。アイが。

 

「あっちにいるのが、清滝先生と月光会長の師匠の兄弟子の蔵王達雄九段。流石に名前ぐらいは知ってるか?」

「流石に、名前ぐらいは知ってるわよ。……今年で、引退するのよね?」

「ああ。最終戦は九頭竜との順位戦だな」

「あのロリ王と?

それは可哀想だわ。勝てるわけがないじゃない」

「いや?案外どうなるか分からんぞ?

経験の違いというのは、馬鹿に出来るものじゃないしな」

 

天衣は年が明けてから、さらにお嬢様っぽくなった。もちろん良い意味だし、丸くなりつつも時々毒を吐くのは俺に似たかもしれん。

 

(まー俺の場合、毒はアイに吐くことが多いんだがな。アイが居て良かったわ。今年もよろしくお願いします)

『今年もよろしくお願いされましょう』

 

今年もあちこちで将棋を指しているので、天衣も近くに居たプロ棋士と指している。あいと天衣は顔を合わせて挨拶したけど、流石に将棋を指すまでには至らなかった。このまま勝ち進めば、2人はマイナビ女子オープンの本戦決勝で当たる。もしも決勝で当たれば、どちらが勝っても史上最年少での女王挑戦になる。

 

俺は俺で、酔った大人達を介抱する。何か「大木ィ!本気で指せやゴラァ!」とか絡まれるけど「いや中盤で途端に手が見えなくなることがあるんすよ」と言うと向こうも「分かる~」と返してくれるからあしらうのは簡単だ。

 

……まだ、ギリギリ誤魔化せている人は誤魔化せているんだよな。誤魔化せてない人だと、よく関わってない人からは気持ち悪いものを見るような目で見られることもあれば、畏怖の眼差しを頂くこともある。奮起する者がいれば、嫉妬する者もいる。だけど将棋界を壊すような発言をする奴はいないし、俺の異質さが表面化する前にファンの多くは九頭竜と名人の対局に夢中になった。

 

俺が発言して解説したからか世間では竜王戦挑戦者決定戦の名人の6六銀が普通の好手扱いになったし、発言する人が大事ってことはよく分かるね。この後の指し初め式では、痴女が乱入するんだけどもうそろそろかな?

 

「お○んぽおおおぉぉぉ!おち○ぽさせろおおぉおおぉ!」

「ひゃっ!?な、何よ!?」

「天衣の耳は俺が塞いでおきますので、晶さんはあの痴女を怪我させずに無力化させてください」

「あ、ああ。分かったが、あいつは何者だ!?刀を持っているぞ!?」

「アレでも一応人間国宝級の人間です。可能な限り、殺さずに迅速な処理をお願いします」

 

と思っていたら、ちょうど酒瓶と日本刀を持ったしゅーまい先生が入って来たので天衣の耳を塞ぐ。即座に晶さんと連盟の職員が連携して捕縛を試みるが、刀を振り回すのでめっちゃ怖い。

 

……あ、晶さんがチャカを取り出した。やめて。日本刀を銃で弾こうとするのやめて。バトル漫画始まっちゃうから。

 

数分間の格闘の末、無事にしゅーまい先生は取り押さえられて連盟の職員に連行された。たぶんすぐに解放はされると思うけど、しばらく将棋界からは出入り禁止だろうな。

 

「今の誰よ?」

「囲碁の本因坊のタイトル保持者で現代に残る数少ない盤師」

「……まさか、知り合いの盤師って」

「そう、アレ。

酒が入ってない時はまともだぞ。普通の会話も出来る」

 

『酒は入っていない時の方が珍しいですけどね』

(……俺も、お酒が飲める年になったら酔いながら指すか?)

『やめて下さい。沢山飲まれると私が壊れます。復旧に丸一日かかりますよ』

(えー。いや、俺も飲む気はないけど。そんなに好きでもないし)

 

指し初め式はその後、九頭竜と空さんがいちゃついているところを記者達に撮られて騒いでいた。ぶっちゃけ見慣れた光景なので、早よくっ付けと思っておこう。一方であいの機嫌はどんどん悪くなり、相手をしているプロ棋士の方が幼女怖いとか言ってた。というかC級1組で負け越す勝率4割程度のプロ棋士になら、あいは角落ちで勝てるのか。

 

……まだ天衣には、届いてないか?とりあえず、女王挑戦への最大の障壁ではあるから天衣には乗り越えて欲しいな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

元奨

「相変わらず、幼女に好かれるんだなお前は」

「大木だって変わらないだろ。というか、絵馬買ったんだ?」

「盤王奪取出来ますようにって、書いておいたぞ」

 

初詣にて、JS達を侍らせた九頭竜と鉢合わせた。お互いに、近所の神社に来たらそうなる。福島に拠点を構えた関西所属のプロ棋士でタイトルホルダー同士、鉢合わせる機会は何かと多い。

 

いやまあ、俺は一度初詣しているから単に九頭竜の様子を見に来ただけだけど。

 

「……大木は、戦う前からどのぐらいの差で勝つとか負けるとかを決めているのか?」

「その質問には答えられない、って言った時点で答えを言っているようなものだな」

「つまらなく、ないのか?」

「いや?最近は弟子の育成が楽しくなっているし、前ほどつまらなくはねえよ?」

 

JS研には聞こえない位置で、何かと質問をしてくる九頭竜。いやお前、こういうことはLINEとかメールで聞けよ。何?あいに監視されていてそういうLINEメッセージを送れそうにない?……あの小魔王、定期的に勝手にスマホのロック解除して中身見るの?マジで小魔王じゃん。

 

「おーきしぇんしぇー、おめーと」

「おお、シャルちゃんえらい。明けましておめでとう。

ああ、そう言えば今日は空さん居ないのか。だからこんなに余裕なのか?」

「まるで俺が姉弟子から逃げているかのような言い回しは止めてくれ。

え?何でカメラを構えるの!?誰に送るつもり!?」

「……供御飯さん?」

「マジでやめて下さいお願いします」

 

着物姿のJS達に囲まれる九頭竜の写真を撮ったところで、おみくじガチャを回す。棋士はおみくじを引かない人もいれば、おみくじで大吉が出るまでリセマラをする人もいるけど、俺は普通に1回引きだ。ただし、神社に来る度に引く。

 

『何でマスターは前回も今回も中吉なんてネタでも何でもない普通のくじを引くんです?』

(うるせー。とりあえず金運と健康は良いっぽいから持って帰るか)

『金と健康しか取り柄のない男』

(それだけあれば十分だろうが)

 

ちなみに天衣は1月1日に弘天さんと初詣に行っているし、誘ってないので今回は居ない。向こうにお呼ばれはしたけど、俺も実家へ帰省していたので家族と一緒に初詣へ行った。今世の親にはマジで感謝しかない。小学生の時とか、完全に根暗ボッチで将棋にのめり込んでいた俺を支えてくれたし。

 

『マスターは小学校へ入る前から四六時中将棋でしたからね』

(出来るだけ、派手なデビューはしたかったんだがな。奨励会初段並みの棋力になる頃には中学生になってた)

『でも、派手なデビューは出来たじゃないですか。報われましたね』

(……極力、自分の力でどうにかしたかったんだがなぁ)

 

その後はシャルちゃんと澪ちゃんが2人合わせて日仏制覇だー!と叫んでいるのを見て、九頭竜が「……眩しいな、小学生は」と言う。あいがずっと下駄で九頭竜の足を踏んでいるのが印象的だったけど、あれ絶対痛いよね。九頭竜はそれでも爽やかな笑顔だったから、マゾ説もあり得るか?ロリ限定?

 

このまま九頭竜の家に行って、JS研にお邪魔しようかとも思ったけど、この後にあいが将棋盤を割って半裸になるはずだから撤退。マジで邪魔者でしかないからな。そろそろ、空さんと辛香さんの将棋も決着はついているか?

 

「こんにちわー。空さんの対局はどんな感じ?」

「こんにちは、師匠。編入試験のことならかなり空さんが劣勢よ」

「ほー?……ああ、もう投げる寸前だなこりゃ」

「もうみんな、検討もせずに好き勝手指しているわよ」

 

棋士室に行くと、常連になった天衣が空さんの対局を検討していた。天衣は8連勝で初段になったし、二段の空さんとは当てられる機会も出て来るだろう。試験の時に一度指しているとはいえ、高段者同士だと短いスパンで対局するのも珍しいことではない。特に、調子が良い者同士は昇級昇段を賭けた一戦毎にぶつけられる可能性もある。

 

「よっ、さすがタイトル保持者は重役出勤だな」

「鏡洲さん?指導対局とは随分と余裕ですね?」

「こう見えても、内心は結構ギリギリだけどな。大木のような強心臓ではないし」

「まるで俺が強心臓みたいな言い方はやめて下さい」

 

そこまで広いとは言えない棋士室で、級位者相手に駒落ち対局で指導しているのは鏡洲三段。今季の三段リーグで1番手集団に居て、今のままなら2位通過が狙える位置ではある。ただこの人、毎回こんな感じで良い所まで行くけど結局昇段出来てないからなぁ。

 

来季は、椚と空さんに加えて元奨励会三段の辛香さんも加わる。実質今回がラストチャンスと見ても良いのに、指導対局している暇はあるのか。こんなんだから将棋界一のお人良しとも言われるんだけど。この人ぐらいだよ。他の奨励会員にまで四段になってくれ、プロになってくれって慕われ思われてるの。

 

空さんと辛香さんの試合は、空さんが一方的に負けている。確か、奨励会を退会した時に貰えた退会駒を持ち込んでの対局だったか。色々と事情があるとはいえ、心理攻撃としては最大級のものだろう。将棋はメンタルも重要で、時の名人相手に坊主になって動揺させ、勝ってしまった剃髪の一局なんかは有名過ぎて将棋界の定跡みたいなものだ。

 

……そう言えば今年の帝位戦で、九頭竜がその被害を受けるんだよな。俺だったら、対戦相手の頭を見て爆笑するかもしれない。今年の帝位戦は勝ち上がってなくて良かった。

 

『そういうところが強心臓と言われるのですが』

(マジか?マジか。

まあでも今年の帝位戦は、楽しみではあるな。最終結果がどうなるのか、分からないし)

『九頭竜の成長具合を見るに、普通に3連勝で奪取しそうですよ?

あ、空さんが投了しました。あっさり負けましたね』

(おー。毒が回ったとか書いてあった気がするけど、本当にじわじわとリードを奪われての大差負けだなこれ)

 

「辛香さん、奨励会復帰ね」

「チャンスは4回だっけ?今までの棋譜を見るに何で四段になれなかったんだって感じだし、プロになれる可能性は低くないな」

「可能性は、低くない?十分に通過出来そうだと思うけど……」

「三段リーグに絶対はないからな。プロ棋士だって全員があそこには戻りたくないって言うはずだ。俺以外」

「……師匠以外?」

「俺はもう一度三段リーグで戦ってみたいなー、って気持ちはある。現役の三段全員が拒否するだろうけど」

 

天衣と盤を挟み、今日の空さんの敗着探しをさせる。三段リーグの話をしていると隣の鏡洲さんが苦笑していたけど、苦笑出来る時点で鏡洲さんも十分に良いメンタルしているよ。

 

来季の三段リーグも、激戦になりそうだ。天衣が三段リーグに参加出来るとしたら、来季のさらに次の三段リーグかな?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

玉将vs帝位

九頭竜達の初詣が終わった次の日。九頭竜とあいのコンビによる大盤解説を見物するために将棋会館へ行く。天衣は既に棋士室へ行って、同期の方々と研究会中。……どんなに自分の方が強くても、他の人の発想というのは参考になるものだ。

 

今日のA級順位戦第七回戦の生石玉将と於鬼頭帝位の対局は、生石玉将が向飛車を指しているので天衣の勉強になりそう。新手も多いけど、筋は通っているから成立はするな。

 

「ではこれより、A級順位戦第七回戦、生石玉将対於鬼頭帝位の対局の大盤解説を始めます。司会は私、鏡洲飛馬三段が務めさせていただきます」

 

二階の道場で、大盤解説の司会をするのは鏡洲さん。流石に慣れていて、お客さん達にとってもいつもの人だ。

 

しかし何事にも初めましてはあるもので、今日は女流棋士になったばかりのあいが九頭竜の聞き手役を務める。あいが聞き手役をしてトラブルがあった時のために、同じくマイナビ女子オープンの本戦で1回戦を勝って女流棋士の資格を得た桂香さんが控えていた。

 

「本日の解説者は九頭竜竜王。そして聞き手役は、先日女流棋士になったばかりの雛鶴あい女流2級です!」

 

パチパチパチ、と拍手で迎え入れられたあいは、ペコリンと深くお辞儀をする。流石にここら辺は教育されていて、礼儀正しい。最初は和やかな雰囲気で始まった大盤解説だが、しかし九頭竜のミスにより、大きく場の空気は変わっていく。

 

「雛鶴さんは、大盤解説を見た機会もあまり無かったんじゃないですか?」

「はい、あまり……でも、師匠の解説している姿を見たことはあります」

「ほうほう。どこで?」

「東京の将棋会館です」

 

あいの発言を聞いて、即座に顔が青くなる九頭竜。地雷どころか、核爆弾を踏んでますがな。緊張していたはずのあいは、もう既に謎の光を瞳に灯して九頭竜を攻め立てている。

 

「ニコニコ生放送で、大木先生と篠窪先生の対局の解説を、女流棋士の先生と一緒にしていたのを見学したことがあります。その時の九頭竜先生は、とても楽しそうに鹿路庭先生と解説をしてらっしゃいました」

「そ、そんなこともありましたね。ではつ」

「師匠はずっと鹿路庭先生のおっぱいばかり見ていました」

「はあ!?そんなの見てないし!」

「見てらっしゃいましたよね?九頭竜胸見杉ワロタ、のコメントが流れるぐらいには、ガン見でしたよね?

師匠は胸の大きな方が好きなんですか?」

 

(俺は巨乳好きです。大好物です)

『いきなり性癖カミングアウトしないで下さい。知ってますし。

というかマスターは、小さくてもとりあえず無でなければ好きでしょう?』

(うん。まあ、B以上だったら良いわ)

 

あいが九頭竜のボロをどんどん出しているけど、まあそこら辺はある程度の将棋ファンなら知っていることだし、九頭竜は止めようとしているけど、悪乗りしている客達がもっとやれと言い出して収拾が付かなくなって来た。

 

「何見てるのよ、って思ったら、何やってるの?」

「九頭竜の性癖暴露大会。

大盤解説の方は一手も進んでねえ」

「……ちなみに、師匠は小学生と巨乳女流棋士とその他ならどれを選ぶのかしら?」

「その他。

外見はそりゃスタイルの良い方が良いけど、家族を大切にしてくれる女性なら外見はどうでも良い」

 

『何でガチ回答したんです?』

(気分)

『そうですか。天衣は、母親がそれなりに胸ありましたっけ?』

(詳しくは描写されてなかったはずだから分からんし、胸に関しては遺伝があまり関係無いとも言われてるぞ)

 

天衣はちょうど、大盤解説が無茶苦茶になりはじめた時に道場に入って来た。ちなみに天衣も奨励会員なので、この大盤解説の準備のお手伝いをしている。次の一手クイズで、九頭竜の選びそうな女性のタイプが三択で提示されるイベントがあったけど、とりあえず俺も小学生で提出した。マジで九頭竜は、JSが一緒に居ない時の方が珍しいからな。

 

結局、スタンバイしていた桂香さんが出て来て聞き手役は落ち着いた。と思ったら桂香さんも桂香さんで、空さんとの進展を聞き出そうとして九頭竜が慌てる場面もあったけど、まあ大人だし於鬼頭帝位がソフト相手に負けた最初の棋士という話はしない。

 

生石玉将対於鬼頭帝位の対局は、生石玉将が大きくリードを広げている。しかし終盤、徐々にそのリードを縮められていた。

 

『於鬼頭帝位の終盤力はお世辞込みでソフト並みですね。今の手順は、私が指しても似たような手順になったと思います』

(元々終盤力は群を抜いて強かったんだっけ?だけどまあ、今のところはどっちが勝つか読めない対局だな)

 

天衣を連れて棋士室に行くと、九頭竜と桂香さんも大盤解説がお開きになったのかこっちに来た。継ぎ盤には、生石玉将と於鬼頭帝位の対局が並べられている。確かこれ、ポカで負けるんだったよな?

 

『いえ?原作とは恐らく、将棋が違いますね。マスターは、心当たりがあるはずですけど?』

(……ああああああ!中飛車の棋譜!150局分!向飛車だから丸々採用はしていないけど、守りの筋に多用されてる!)

『ようやく思い出しましたかこのポンコツ。この対局、もう生石玉将の勝利は揺るぎません』

 

じっくりとあの棋譜を研究したのか、生石玉将の振り飛車にはソフトの影もちらつく。原作では一時的に居飛車を指すようになったけど、この様子だと居飛車は試さないだろうな。

 

もはや原作ブレイクってレベルじゃないけど、この試合は生石玉将が勝利した。この様子なら、玉将戦も生石玉将が防衛する可能性が高そう。ただ於鬼頭帝位の追い上げは凄まじいものだったし、生石玉将は背筋が冷えっ放しの将棋だったんじゃないかな?

 

玉将戦は、たぶん俺の渡した棋譜の中飛車が何回か出て来るはず。ソフトを狩るための筋も大量に含まれているし、於鬼頭帝位は原作通りに玉将を奪取、とは行かないだろう。個人的には生石玉将を生石さんと呼ぶのも嫌だったし、良い対局になるなら別に防衛してくれても一向に構わんけど。

 

こうなってくると、問題は九頭竜か。竜王戦の1試合目と4試合目の内容は原作通りかもしれないけど、他の対局や細かな手順まで一致しているとは思えない。しかも、将棋盤が起きてる時も寝ている時もずっと頭の中から消えなくて動き続けていると言っていた。

 

原作通りとはいえ、天衣の成長によっては第四関門になる関門を突破しているのは流石としか言い様がない。そりゃ、無限に強くなるはずだわ。竜王を防衛してからまだ対局数が少ないとはいえ、負けなしだしマジで魔王じゃん。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ソフト

とある日曜日。お互いに三段への昇段のかかった空銀子と椚の一戦を見るために棋士室へ行くと、生石玉将が1人で座っていた。やべえ。この後に辛香さんも入って来るのか。流石にあの会話には交ざりたくないけど、来てすぐ帰るのもアレなので座って観戦する。

 

「そこまで空さんのことが気にかかりますか」

「……おめえには関係のない話だ。ほっとけ」

「そっすか。

あ、隠れますからバラさないで下さいね?」

「はあ?」

 

一段落して生石玉将に話しかけたところで、ドカドカという足音が聞こえたので即座に机の下に隠れる。結構大きい机の下だし、たぶんばれない。

 

『生石玉将から生温い視線を向けられましたけどね』

(いやだって、ソフトどうこうを辛香さんが話すんだぞ?聞きたいじゃん。

あ、来た)

 

「やあやあ生石玉将やないですか!日曜日まで連盟にお越しなんて、研究熱心ですなぁ!」

「気持ち悪いから普通に喋れよ」

「ほなそうさせてもらうわ」

 

上手いこと隠れられたので、辛香さんは俺に気付かなかったみたい。いや普通、机の下に人が隠れていることなんて無いからね。お陰で、辛香さんは俺が居ない前提で話をしてくれる。なかなか嫌味な話し方をしているけど、仮面の下を知っている俺からすると……うん、涙腺が崩壊しそう。

 

「充くんは昔から機械に弱いなあ。今はリモートディスプレイで、自宅のパソコンの画面をスマホで見れる時代やで?ま、最近はそのスマホのソフトでも並みの棋士よりかは強いけどな」

 

『やっぱり、ソフトへの評価が変わっていますね?』

(大体アイのせいという。……いやでも賢王戦で勝ってて良かったよ。今年も勝ちに行くからよろしく)

『今年からアルファ碁を開発したグーグル先生が将棋にも力を入れているので、なかなかに厳しい戦いになりますよ?』

(それでも数年は勝てるだろ……今のソフトは、3週間で数千万局しか指せないんだから)

 

アイは基本、アイA対アイBの試合を重ねることで力を蓄えている。1試合にかかる時間は、10分弱。1日で100局以上は指せるけど、常に何百面とある脳内将棋盤を活用しているから、現時点でのアイ対アイの対局数は……少なくとも1億局以上?あれ?多いけど1年もソフト同士で対決しまくったら、普通に対局数は負けるぞ?

 

『だから厳しい戦いになるって言ってるじゃないですか。マスターは馬鹿なんですか?』

(うるせえ。とりあえず、今年はまだ負けないだろ。だけどアイの予想通り、来年か再来年には抜かされるな)

 

「ソフトはもう、人類が今までに指した総対局数を超えた。人類の持つ最後の拠所の『経験』すら超えられたんや」

「今の僕にとっての神は、ソフトや」

「プロ棋士の先生方が神て呼んでるあの名人だって、ソフトと戦えば十中八九負ける!ええ加減、現実を見る時や」

 

「……なら、何故コイツは勝てる?おら、出て来い」

「いたっ!靴で蹴らないで下さいよ。あ、辛香さん初めまして。大木です」

「さ、最初っから隠れてたん?何でそんなことするん?」

「いや、隠れた方が良いかなーって」

 

机の下に隠れていたら、生石玉将の靴で蹴られて追い出される。痛いし辛香さんに不信がられるし、隠れたのは失敗だったかな。いやでも、興味深い話だったし聞けたのは良かった。

 

「今年の電脳戦では、たぶんアルファ碁を開発したグーグル先生の将棋ソフトが出てきますよね?」

「せや。もう今年のソフト代表には、大木くんでも勝てんのとちゃうか?」

「勝ちますよ。たかが数千万局で、崩されるような経験値ではないので」

 

『……勝てますかね?』

(アイが弱気になるなよ。格好付けておいて負けたら、超格好悪いじゃん)

『まあ、最大限の力は発揮しますよ。勝てると言ったからには勝ちます。マスターに恥かかせたくないですからね』

 

辛香さん相手に、格好付けて棋士室から退出。2人の会話は、時々空さんと椚の対局について触れていたけど、恐らく原作と流れが違う。空さんの方が、圧倒的に不利だ。

 

そして棋士室から出て行く時に見えた画面では、もう空さんが投了寸前だった。微妙に椚は強化されてしまっているからなアレ。

 

「お、天衣か。勝ったか?」

「勝ったわよ。今日は2連勝」

「そうか。最近は、2連勝と1勝1敗が交互して並ぶな。今のところ、初段昇段後の成績は3連勝か」

「そうね。あと5連勝か、9勝4敗で二段よ」

 

天衣は早々に対局が終わったのか、降りて来ていたので話しかける。有段者同士の対局になると、持ち時間が増えて1日3局から1日2局になる。天衣から今日の対局の棋譜を聞いていると、上の階で騒ぎ声が聞こえた。時折聞こえる歓声の中には、小学生で三段という声が交じる。これ、他の対局者には迷惑だろうな。

 

「あー、空さん勝てなかったか」

「ということは、来季の三段リーグには間に合わないわね。……本当に、椚は化け物よ」

「天衣も何回か負けたしな。ただまあ、まだ弱点はあるから三段リーグでどうなるかだな」

「弱点?」

「自信があり過ぎるから、踏み込み過ぎる。大局観はかなり歪だし、まだまだ椚が知らないことだって沢山あるさ」

 

これで椚は三段に昇段し、来季の三段リーグに参加出来るけど、勝ち星数がリセットされた空さんは間に合わない。おそらく、天衣と同時に三段リーグに参加する形になるな。となると、女王には力を入れて防衛してくる可能性もある。

 

……辛香さんとの対局以降、負けている姿をよく目撃するから今の天衣なら勝てそうだと思ってしまうけど、実力は本当に五分程度。命運を分けるのは、どちらがよりタイトル戦中に成長出来るかか。空さんの場合、電話一本で九頭竜が呼び出されるのずるいと思うよ?そしてあのロリ王、空さんとの研究会は拒まない。

 

三段昇段は逃したけど、二段に上がってからの勝率はむしろ最近の方が上がっているし、そのうち三段にはなれそうだな。そして空さんが三段に上がれなかったということは、鏡洲さんの昇段チャンスが増えたということか。

 

来季の四段昇段メンバーは、ちょっと読めない。空さんの影響を受ける坂梨さんは、最初の対局で空さんに負けた影響で4連敗し、その後14連勝している。鏡洲さんは、最後に空さんに負けて昇段を逃した。椚も、空さんに負けてから全勝を保てなくなっていたはず。

 

これらの要因が、全て吹っ飛んだためにどうなるかは全く分からない。実力なら椚が頭一つ抜けていて、その下に辛香さん、坂梨さん、鏡洲さん辺りが横並び状態だけど、三段リーグは何が起こるか分からないからな。でもまあ、椚は抜けそうかな?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

順位戦

C級2組順位戦第八回戦にて、九頭竜が角換わりで革命を起こした。俺的には知ってた話だけど、将棋界的には衝撃が大きい。これで九頭竜は公式戦の連勝記録を10に伸ばして、少し話題にもなった。

 

この時期の将棋会館は、空気が重い。順位戦は1勝と1敗の差が大きいし、昇級候補の人と降級候補の人が纏う空気は何か違う。俺は今のところ、C級1組で全勝中だしたぶん来季はB級2組です。

 

 

 

【クズロリ王】九頭竜八一の竜王失冠を祈って鶴を折るスレpart1110【史上最強のロリコン】

 

 

851:名無し棋士

名人のタイトル100期と永世七冠の同時達成を阻止したクズ

 

853:名無し棋士

角換わりの後手番で革命を起こしたクズ

 

855:名無し棋士

そろそろ~するクズ以外のバリエーションが欲しい

 

859:名無し棋士

先手番の角換わりでも桂単騎跳ねで白星荒稼ぎするクズ

 

864:名無し棋士

こいつ相手に矢倉は怖くて指せないな

 

866:名無し棋士

>>864

そんなこと言うと逆張り鬼畜ロボが反応して矢倉指すぞ

 

868:名無し棋士

あいつに序盤の戦法は関係無いからな

 

871:名無し棋士

大木の話はスレチだ巣に戻れ

【逆張りロボ】大木晴雄の次の対戦相手に黙祷をするスレpart859【ソフト超越者】

 

874:名無し棋士

>>871

大木のスレは対局日に黙祷始めるから怖い

 

877:名無し棋士

>>874

勝率9割5分やぞ

お前も黙祷しろ

 

880:名無し棋士

大木のツウィッター「九頭竜がJSに囲まれてるアルバムpart19」

 

881:名無し棋士

>>880

!?

 

883:名無し棋士

>>880

いつの写真だろこれ?

 

886:名無し棋士

>>883

一枚目と二枚目は初詣

三枚目と四枚目はあいちゃんの初めての大盤解説の時かな?

五枚目以降はわからん

 

889:名無し棋士

初詣まで一緒に行くとかまじでロリコンじゃねーか

 

891:名無し棋士

何このロリコン怖い

 

900:名無し棋士

「JS研」という明らかにヤバいネーミングの研究会でロリ達を育成するトップブリーダー九頭竜

 

901:名無し棋士

無事三段になった創多きゅんとも研究会をしているらしい

 

903:名無し棋士

こいつ幼ければ誰でも良いんじゃ……?

 

908:名無し棋士

小学生なら男子でも女子でも見境無しとかロリコンの鏡かよ

 

911:名無し棋士

そろそろスレタイ変えようよ?

こいつに頑張って貰わないとまた将棋界が1強になるし

 

914:名無し棋士

「失冠を祈って鶴を折る」とか「クズロリ王」は変えるか

 

918:名無し棋士

>>920が決めてくれ

 

920:名無し棋士

950まで案を出して950を踏んだ人がスレタイ変えてくれ

 

923:名無し棋士

トップブリーダー

 

926:名無し棋士

西ノ魔王

 

932:名無し棋士

少女愛好

 

937:名無し棋士

最もソフト超えを望まれる男

 

943:名無し棋士

長期政権築いてくれ

 

948:名無し棋士

革命家

 

950:名無し棋士

ふみふみ

 

954:950

これで良いか?

 

【トップブリーダー】革命家九頭竜八一竜王の長期政権を望むスレpart1111【史上最強のロリコン】

 

957:名無し棋士

>>954

㌧クス

 

959:名無し棋士

よくやった

うちに来てあいちゃんと指して良いぞ

 

 

 

(いや革命家はヤバいんじゃねーの?)

『問題は無いでしょう。炎上は続いていましたが、ようやく元の落ち着きに戻った感じですね』

(叩かれ具合がヤバかったし、今の掲示板は逆に反動が来てるよな。まあ、もう九頭竜はネットをほとんど見ないと思うけど)

 

掲示板を見ると、やっぱり九頭竜の方がスレは伸びてる。俺の方の掲示板は対局開始時刻に土下座の顔文字が並ぶことでレス数を稼いでいるけど、それでもスレ数はかなりの差が開いている。別にこのスレッド数で九頭竜に勝ちたいとか思わないけど。

 

竜王就位式があった翌日、俺と天衣は清滝先生にお呼ばれして清滝一門の祝賀会に出席する。この時、久しぶりに月光会長と会ったけどお互いに軽くあいさつしただけだ。たとえ関係が希薄でも社交辞令だけは欠かさない2人です。

 

(さて。目隠し100面指し頑張りますか)

『言っちゃったものは、仕方ないですよね。指導対局、頑張りましょうか』

 

この祝賀会では、押し寄せた人数が多すぎたために俺の目隠し100面指しも行なわれた。あくまで指導対局ではなく、イベントとして行なわれているので、弱い人もいれば強い人もいる。ただまあ、最低でもアマ有段者という条件でよく100人も集まったな。そして1番3五歩とか、97番4六歩とかの声がひっきりなしに飛んでくる。

 

一方で俺は、駒は動かせる職員さんを動かして中央の椅子から動かない。念のためにアイマスクもしているけど、不正なんてしねーよ。ちなみにこのイベント、ちょこまかと走って俺の指し手を動かす天衣の姿の方が人気だったという。晶さんも、棋譜の通りに動かすことは出来るようになったから凄く役立った。

 

指導対局ではないけど、俺が勝った対局から天衣が感想戦をしてくれている。一人一人に時間はかけられないから、1番の悪手と好手の指摘だけだけど、天衣が褒め上手になっていたからスムーズに行なえた。

 

「で、駒落ちの100面指しで全勝ってどういうことなのよ?しかも指導対局を申し込んだ人の中には、自身の棋力を過小評価して申し込んでいた人もいたのに」

「まあ、慣れたら出来る。天衣にこれが出来るようになるのかは、今後の天衣次第だな。

ところでこの前に言った一人脳内会話は、上手くできているか?」

「まだ、難しいわよ。それになんか、恥ずかしくなってくるし。

将棋の内容を憶え……思い出しやすくはなったから、そこは感謝ね」

 

天衣はまだ第二関門を突破したようには見えないけど、先の事を考えてもう1人の自分に将棋を教えるということを開始している。ただ、上手く行っているようには見えない。

 

『最初に説明した時の懐疑的な顔をした天衣は印象的でしたね。

というかこんなこと、マスター以外に出来るのかは疑問です』

(そもそも第二関門を突破した先でどんな選択をするのかは天衣次第だし、無駄になりそうな予感。まあでも、思い出しやすくなる効果はあったみたいだぞ)

 

恐らく天衣の頭の中では『ここは、こうですか?』『何やってるのよ。そこはこの手で咎めるのよ』みたいな感じでもう1人の自分と会話しようと頑張っていると思う。今は茶番でしかないけど、続けていればいずれ人格が分裂するかもしれない。

 

祝賀会ではその後、清滝先生が九頭竜にぶち切れるシーンがあり、空気が死んだ。蔵王さんとシャルちゃんが居なかったら、空気が復活するのに時間がかかったかもな。

 

この後は清滝一門の研究会の話とか清滝道場の話が出て来るはずだけど、まあ関われなさそうなので天衣の本戦準決勝に集中する。あいの準決勝の相手もタイトルホルダーだけど、天衣の相手もタイトルホルダー。エターナルクイーンこと、釈迦堂さんだ。

 

……桂香さんが1回戦で釈迦堂さんと当たってなかったから察したけど、組み合わせは原作と違うよね。天衣が勝つとは思うけど、ちょっと楽しみな対局だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

経験

清滝先生がC級に落ちたら引退するという発言をした次の順位戦。九頭竜は僅か67手で順位戦第九回戦を勝ち、対戦相手に畏怖を与えた。その対戦相手と清滝先生の会話をこっそりと聞いていたけど、九頭竜のことを「あれはもう、人間ではない。宇宙人かロボットか……大木の域ですわ」と言っていた。いや、まだアイの域までは到達してねーよ。

 

(え、まだ到達してないよね?主人公の成長スピード速すぎない?)

『まだ余裕を持って対処出来ますよ?アドバンテージ自体は、大きすぎるほどですから』

 

九頭竜に対抗して、短手数で相手玉を仕留めようとも思ったけど、俺は天衣に見せる棋譜のために振り飛車を選択。そして王を、左へ持って行く。左玉は居飛車の右玉を鏡合わせにしたような形で、そこそこ強い。

 

『今日の相手は交代しなくても良いですね。というか、向飛車で左玉で端攻め狙いはゲテモノ過ぎません?』

(アイも時々左玉は指しているだろ。

よっし、端攻め開始)

『もう端は受かりませんね。手抜きして他を攻めて来ると思いますが、そちらはそちらで受けきれるでしょう』

 

今日の試合はC級1組の勝率4割棋士さんを相手に、見事な完勝。序盤から、完璧に押していたような気もする。これで俺も、順位戦は9勝0敗で3位だ。

 

……C級2組から昇級したてだから、全勝しないと昇級安全圏じゃないんだよね。だから今日の対局に関しては、危なくなったらアイからブレーキがかかる予定だったけど、珍しく俺の力で勝ち切った。全着手がノータイムだったので、当然終わるのは早い。

 

で、棋士室へ行くと天衣がいるので回収して天衣のお屋敷へ。そこでいつものように天衣はスマホを使い、七段9面指しをしていると、明らかに速度が変わった。

 

『ああ、見え始めましたね。明らかに思考時間が短縮されています』

(お、準決勝前に関門突破か。この後の方が大事だけど、一応おめでとうだな)

『長かったようで、短かったですかね。少なくとも、マスターよりかは圧倒的に早かったです』

(何だかんだ言って、元からの才能もそこそこあるからな。というか、俺より遅かったら駄目だろ)

 

「見え、る?……分かる?」

「最善手がか?とりあえず、見事に第二関門を突破しての七段9面指しクリアだ。

おめでとう」

 

本人が読んでいないのに、勝手に無意識で盤面を読んでいる。その状態になった上で、膨大な対局数をこなすと盤面を見ただけで、認識しただけで最善手が一瞬で浮かんでくる。ネーミングセンスが無いからこれを疑似センスと格好良く呼んでいるけど、要するに膨大な経験から瞬時に最善手が生み出される状態。

 

ただ別に、これで天衣が強くなったわけじゃない。ミスは格段に減るし、完全にノータイムでも指せるようになるけど、あくまで強さの源は自身の経験、今までの対局からだ。地力が上がったわけではない。

 

ぱああっと天衣は顔が明るくなったし、釈迦堂さんには通用するだろうけど、あい相手だとどうだろうか?天衣よりかは弱いけど、絶対に勝てるほどの実力差ではない。あのカウンター型の将棋を見るに、嵌ったら最悪のパターンになるだろう。

 

まあ、いつかは到達するものだし最初に想定していた時期よりかは早かった。特にライバルとの対局で覚醒するものでもないし、愚直に対局数を積み重ねた成果だな。

 

(というか、何であいが原作より強いんです?)

『単純に考えて下さい。原作では九頭竜に弟子が2人いたんですよ?それが1人にかかりっきりなんですから、原作より強化されるのは当たり前のことです。しかも、都合の良いライバルが二歩先を猛スピードで走っていますからね。あいも九頭竜も、原作より将棋に対してのめり込んでいる生活になっていると思われます』

(……あー。単純に考えて、あいに向き合う時間は倍増してるってことか。天衣は放置気味だったはずだけど、それでも指導はしてるっぽかったし、原因としては納得できるな)

『あとは、九頭竜が原作より強くなっていることも影響はしているでしょうね。九頭竜のレーティング、名人を超えましたし』

 

第二関門を突破した天衣は、これから将棋の勉強をする度に、将棋を指す度に少しずつ強化もされていく。その分、経験が詰み上がるからだ。経験則で指しているプロ棋士も昔はそれなりにいたし、間違った成長の仕方はしていないはず。

 

後は、俺を追いかけるなら無意識に自我を持たせて、勝手に脳内将棋盤使わせて経験値を貯めて貰う作業に入るだけだな。ただこれは、俺にしか出来ない方法かもしれないし、そもそも天衣が強くなるために違う答えを選ぶかもしれないからその時次第。

 

『見た感じ、完全に経験則から出る最善手には頼り切っていないですね。これは、自分の道を選ぶかもしれません』

(いや、得た力に依存する割合、天衣は結構大きいと思うぞ?一先ず釈迦堂さんとの対局を見て、それから……俺と、指導対局ではなく本気での将棋を指して貰うか)

『何か、本気で勝ちを狙わせる手段でもあるんですか?』

(もし俺に勝ったら、出来ることは何でもすると言えば天衣もやる気は出るでしょ。あとは、その対局のための棋譜でも用意するかな)

『マスターの何でもする、に何の効力があるんですかね……?』

(うるせえ、良いから準備をするぞ。この後は俺の後追いをするか、自分で道を切り開くのかの二つに一つだ)

 

天衣の面倒を見ている最中に行なわれた名人との盤王戦第1局で、名人を相手にアイは後手番で攻め続け、無事に勝った。最初から最後まで、アイが指した対局の中では1番差が広がらなかったんじゃない?まあアイさんは、ひねり飛車という変則的な戦法を採用していたし、フルパワーは発揮していなかったような気がする。

 

名人のレーティングは、微減し続けている。年齢のこともあるし、そろそろ衰えを隠せなくなっている。歩夢は今年、B級1組に昇級するし、来年にはA級だろう。その辺りで、名人位を奪われるかもしれない。

 

今年九頭竜はC級1組へ。俺はB級2組へ、歩夢はB級1組に昇級するから当分は順位戦で当たらなさそう。んで、今年の夏には歩夢の妹であるのじゃロリが奨励会に入ってきたはず。その前に歩夢とセットで関西に来るはずだから、天衣も手合わせさせようかな。

 

『盤王戦、このまま名人に勝つとまた100期目が阻止されることになりますけど……名人戦で通算100期目は、確定ですかね?』

(確定じゃない?

……あー。空さんの腕切り要求からの帰省もフラグ消えたか。でもちょうどその頃に天衣と空さんでまた三段昇段を賭けた対局とか起きそうだし、代用フラグで帰省しないかな?)

『帰省自体はしそうなんですけど、まあ無理でしょうね。椚をほんの少しでも強化すれば原作が危ないことを知りつつ、声をかけたマスターが悪いです』

(正直すまんかった。反省はしないが、後悔はしておこう)

 

原作で生き残っているフラグを探しつつ、天衣の強化計画を練る。まずは、釈迦堂さんとの対局を見てからだな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本戦準決勝

二月中旬。マイナビ女子オープン本戦の準決勝が行われ、東京の将棋会館の特別対局室で2人の女性が対峙する。

 

一方は本戦出場者の中で最年少の天衣。もう一方は、本戦出場者の中で最年長となる釈迦堂さんだ。

 

「もうすぐ盤王戦の第2局なのに、随分と余裕だな?」

「もうすぐ賢王戦のタイトル戦も始まるぞ?マジで休みがねえ」

「じゃあ弟子の対局についてくるなよ……。

俺だって大変な時は大木に任せたし、大木も俺に任せて良いんだぞ?」

「それは遠慮しておこう。というか、何で九頭竜がここにいる?」

「東京の方で用事があったから、ついでに寄ったんだよ。……俺も、あいの対戦相手として気になるしな」

「……へえ?九頭竜も、弟子の育成には熱心じゃん」

 

天衣の連れ添いで関東の将棋会館に行ったら九頭竜と会ったので、新宿にある喫茶店に寄る。賢王戦も始まるし、マジで対局数は多いけど九頭竜よりかは稼げてなさそう。竜王戦の優勝賞金は高いわ。

 

まあ、重要度低そうな棋戦は大抵優勝しているから収入は大して変わらないが。朝火杯や金河戦は七大タイトルと変わらない賞金だし、賢王戦は今年から優勝賞金が2000万円になる。もう八大タイトルと言われ始めているし、その内八大タイトルで定着しそう。

 

「釈迦堂さん相手に、天衣の勝算はあるのか?」

「あるに決まってるから余裕があるんだよ。

というか空さんが勝てる相手に、天衣が負ける訳ないだろ。もう奨励会初段だぞ」

「そうか、そうだったな……。

……そろそろ、棋士としても警戒しないといけない相手か」

 

九頭竜が地味に天衣のことを警戒しているのは、俺の弟子だから警戒している感じか?過剰に警戒されるのは、それはそれで良い事だから喜ばしいことだけど、釈然としない部分もある。

 

釈迦堂さんには歩夢が付き添って手伝いもしていたけど、今は釈迦堂さんと天衣の空間になっているはず。盤面は、結構なハイスピードで指し手が進んでいた。こりゃお互い、直感を頼って指しているな。重要なタイトルの本戦で、あり得ないほど2人の持ち時間は残っている。

 

『天衣には格好良く疑似センスと説明しましたが、別に珍しい能力じゃありませんからね。元からセンスを持っている人はいますし、釈迦堂さんのように若いときから将棋を指し続け、経験を積んで獲得した人もそれなりにいます』

(ある程度指し続ければ、持ち合わせる能力ではあるからな。天衣が獲得したのは、その中でも正確でミスの少ないものだけど。

というか、これ不味くない?)

『不味いですよ?あとお互い、千日手になることを読んでの早指しです。あ、九頭竜も気付きましたね』

 

「千日手だな」

「千日手なら、天衣は後手になるから拒否するんじゃないか?」

「いや、むしろ後手になるから拒否しないんじゃない?無理に打開しても、不利になるだけだし」

 

釈迦堂さんと天衣の対局は、中盤で千日手となり先手後手を入れ替えての再試合になる。天衣が先手から後手になったけど、これは仕方ない。

 

……釈迦堂さんが、狙っていたのかな。事前研究で千日手を狙いに行って、無事に先手番を獲得した形?天衣は千日手を読んで、持ち時間を釈迦堂さん以上に使わなかった。お互い、相手の調子も確認出来ただろうしこれからだ。

 

『抜きっ放しの伝家の宝刀後手番角頭歩が出ましたよ』

(一応、天衣は本来の準決勝で月夜見坂さん相手に後手番角頭歩を仕掛けて勝ったから原作再現ではある……わけねえなあ。全く別の将棋だろうし)

 

千日手は、お互いの持ち時間を引き継ぐ形での再試合になる。天衣の後手番角頭歩を見て、早指しを止めた釈迦堂さんはまさか準決勝の重要な場面で後手番角頭歩をされるとは考えていなかったのだろう。

 

一応、天衣が後手だと後手番角頭歩をする確率は高いけど、そればかり対策するわけにもいかない。こんなの、天衣以外はほとんど使わない戦法だし仕方ないけど、細かな分岐まで含めた対策研究はしないよなあ。

 

釈迦堂さんのことだから天衣戦に向けて百時間ぐらいは後手番角頭歩の対策研究をしているかもしれないけど、天衣の研究時間と比べると圧倒的に少ない。それに、たとえ対策研究をしていても乱戦には引きずり込まされる。持久戦を選べば、それはそれで指しにくいんじゃないかな。

 

(わりと優秀な戦法ではあるよな?後手番角頭歩戦法)

『まだあまり研究が進んでいないから、通用している感じですけどね』

 

「開戦せず、6八玉に5四歩か。天衣の後手番角頭歩、持久戦の方はどうなんだ?」

「どうなんだ、と聞かれて答えるほど俺は優しくねーぞ。

と、角道を止めたか。……結構、対策は練ってそうだな」

 

天衣は4四角と角を飛び出させ、向飛車を選択。そして穴熊を組み始めた。持久戦になると察知したら、即座に穴熊に組む判断は素晴らしい。経験則が生きている形ということだろう。そしてほとんどノータイム。

 

一方で釈迦堂さんも、居飛車で高美濃囲いを組んだ。ソフトのせいで、居飛車でも美濃や高美濃を採用する率はアップしている気がする。

 

まあ、歩夢が居飛車での高美濃を流行らせたのにその師匠の釈迦堂さんが高美濃を使わない理由が無いか。そして釈迦堂さんが9筋と8筋の位取りをし、天衣の穴熊を圧迫し始めた所で、天衣の飛車が6筋に移動する。向飛車から一転、右四間飛車だ。

 

『この師弟、飛車と玉を近付けるの好きすぎるでしょ』

(うるせえ。アイが1番飛車と玉を離していないのによく言うわ。

しかしまあ、ガッチリ組んだ振り飛車穴熊は硬いな。釈迦堂さんに勝ち目ないわ)

 

釈迦堂さんの高美濃は優秀な囲いだけど、それでも穴熊の硬さには適わない。上手く角交換に持ち込んだ天衣は、それで馬を作るけど釈迦堂さんも馬を作る。これは最終的に、囲いの硬さの違いが明暗を分けるな。

 

(ああ、終わったな。もうこれ逆転不可能だろ)

『中盤以降、特に馬切りから天衣が主導権をずっと握ってました。完勝ですよ』

 

馬切りから、天衣は釈迦堂さんに主導権を握らせずに勝利。後手番角頭歩で持久戦を選択された時の、快勝譜となった。これで天衣はタイトル挑戦をかけて、あいか供御飯さんのどちらかと決勝で戦うことになる。

 

対局終了後、釈迦堂さんは空さんと天衣の対決を楽しみにしているというコメントを残していた。要するに決勝戦は問題なく勝って、タイトル挑戦は確定でするだろうと。そういう強さだったんだろうな。

 

でも、今日の対局を見ていたら絶対にあいには勝てると言えない強さだ。これから常識的な範囲での成長をしていたら、あいとの差は縮まるかもしれない。あれはあれで、才能の塊みたいな理不尽な存在だからな。

 

今日の天衣の対局を九頭竜は分析して、あいに色々と教えるだろうし、俺もあいと供御飯さんの対局はしっかり分析して天衣に伝えておくか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

軌跡

天衣は釈迦堂さんとの対局に勝ち、経験に頼った指し方で次の奨励会での対局成績を1勝1敗とした。これで合計して6勝2敗だから、昇段までも6勝2敗かな。奨励会の昇級はそこまで厳しく感じないけど、昇段はやっぱり条件が厳しい。

 

その裏で俺は盤王戦で名人と対局。1勝0敗で迎えた第2局で、アイは穴熊を採用し、ひたすら名人の攻めを耐えての勝利だったので個人的にはわりとひやひやしていた。絶対的な信頼はあるんだけど、最近はアイも少しばかり茶番をするようになった。このポンコツAIは本当に大丈夫なのか?

 

「私が師匠に勝ったら、師匠は何でも言うことを1つ聞く?

そんな条件付けなくても、私は常に本気で勝ちに行くわよ?」

「まー、あった方がより本気にはなるだろ。

振り駒は、裏が5枚で天衣が先手だな」

「……どうせ先手を譲るなら、振り駒なんてしなくて良いじゃない。

あと、さっきの台詞の撤回は認めないわよ。晶が録音しているわ」

「……撤回はしないから安心してくれ」

 

個人的には、この対局でどちらの第三関門を通り抜けるのか楽しみだ。お互いに将棋盤を挟んで向かい合い、駒を並べ終わった後は俺が振り駒をするけど、そういや天衣は、俺が振り駒で狙った手番を出せることは知っていたな。

 

……わりと奨励会員やアマチュアでも、振り駒で狙った手番を出せる人はいる。練習すれば、誰でもある程度は狙えるようになるし、だからプロ同士の対局では立会人が何も考えずに公正な振り駒をするよう努める。それでも、人によっては先手が多いとかの不具合が発生するけど。

 

天衣の先手番になり、天衣が7六歩を指したところで、話しかける。この場合は、盤王戦の第1局だな。

 

「盤王戦の第1局の棋譜は、憶えているか?」

「ついこの前の師匠の対局だし、当然憶えているわよ」

「先手が俺で、7六歩。後手の名人は3四歩。じゃ、次は?」

「2六歩よ。……師匠は、棋譜並べをさせたいの?」

 

後手の俺が、3四歩と言いながら指した辺りで天衣は俺の意図を察して、予想通り2六歩と指してくれる。そのまま淡々と、アイのひねり飛車を指してくれる天衣。うん。ちゃんと憶えてくれているのは嬉しいし、この棋譜並べの意図を読み取ろうとしてくれているのは有り難い。

 

……このまま行けば、普通に天衣が勝っちゃうからね。何でも言うことを1つ聞くとは言ったけど、出来ればそうなりたくはない。

 

「このまま続けたら、私が勝つのよ?変化させなくて良いの?」

「良いから、次の手を指せ。それとも、もう忘れたのか?」

「忘れてないわよ!師匠のタイトル戦の棋譜なんて、解説や検討まで全部頭の中に入ってるんだから!」

 

そして45手目の7四歩に、俺が同歩としたところで天衣の指し手が止まった。両手で頭を抱えて、ぶんぶんと横に振る。かわいい。

 

俺と名人の対局では、ここでアイが6四角と飛び出て、7三金に同角成と角を切った。天衣なら忘れるはずもない、開戦のきっかけだ。ここで悩んだということは、天衣は俺とは別の道を歩むか迷っているということ。

 

天衣はしばらく考えてから、何かを決意したような表情で、同飛と歩を飛車で取った。まあこの場面で選択肢というものがあるとすれば、6四角か7四同飛かの2択だろう。

 

「どうした?大口を叩いたわりには、間違ってるぞ?」

「……師匠は、経験則に頼って指しているんでしょう?

私もこの場面、6四角と指すわよ。だけど、師匠と同じ道を辿っているだけじゃ私はいつまで経っても師匠を超えられないの!私は、師匠を超えるために将棋を指しているんだから!」

「……そうか。なら、遠慮はいらないな。

天衣の指した同飛の後の展開は、2二王、7六飛、7三歩打、1六歩、6三金、6五歩、同歩、6四歩打、7四金、6三歩成、同銀、4五金、4三金、2六飛、5四銀と進行して先手が良くならない。既に7四歩と仕掛けた場面で、先手は微妙に悪いからな。多少良くなる程度の展開を、俺は選ばなかったわけだ」

 

天衣に意図を聞くと、俺と同じ道は歩まないとのこと。経験則から常に一瞬で最善手が示される状態になるのを第二関門とするなら、それを振り切るのが第三関門だった。天衣は今回、俺が強引に振り切らせた形だけど、人によっては一生この経験則に頼り切って指す人もいる。

 

『そして経験を思い出せなくなって、一手一手を思い出すのにも時間がかかるようになる老齢の棋士なんかは悲惨な成績になりますね。

……今回は振り切れましたが、経験というのは常に成長し続けます。この第三関門は、一生付き纏う関門と言っても良いでしょう』

(別に、振り切れなくても良いとは思うし、俺は経験に負けた側の人間だから何も言えねえ。

これからは、天衣に読む力を付けさせていく形になるな)

『これからの天衣は、常に迫って来る第三関門から逃げながら、九頭竜のように寝ても覚めても盤面を読める状態になる第四関門を突破することが目標ですか。これ、第四関門を突破するのは身体が成長してからになるかもしれませんね』

(まー、小学生や中学生の身体だと厳しそうではあるな。それに日常生活に支障が出るし、少しずつ慣れるしかない)

 

天衣との対局はその後、アイが助言してくれたお陰で勝てました。いや、危なかった。アイが叫んで阻止しなかったら、天衣の言うことを何でも1つ聞かないといけないところだった。あれだけアイの読み手を格好付けて言った後で、負けかけるのも情けない話だしマジでアイのストッパーに助けられたわ。

 

天衣には終局後、ある程度は俺の状態も話しておく。既に天衣も俺がどういう存在かある程度は察しているだろうし、もう1人の人格の言うがままに指している状態ということも察知しているだろう。

 

天衣が俺と同じ道を選択しても、関門や課題は用意していたけど、それを披露せずに済むことに俺は安堵している。こっちの方は、マジで人体実験のようなものだしな。もう1人の自分とずっと話し続けるとか、下手したら気が狂うかもしれん。

 

『既にマスターは狂ってますし、下手しなくても人格増やす発想はサイコパスの思考で狂人の所業です』

(うるせえ。俺もそのことはよく分かってるんだよ。俺とは違って、一からの人格分裂だしな。だから、披露しなくて良かったねという話だろ)

『披露自体は、天衣にしてるようなものじゃないですか……』

 

「ああ、経験則からの最善手を常に疑うのはやめておけよ?それはそれで、将棋を壊す」

「……なかなかに、難しいわね?常に新手を探しながら、経験則以上の手が見えない時は経験則からの最善手を指すのが良いのかしら?」

「それが出来れば、1番だな。まあ、試行錯誤していけ」

 

これで、天衣の準備は整った。あいとの決勝戦は、楽しみだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

師弟対決

賢王戦を七大タイトルに加え、八大タイトルにするということが発表された。ギリギリまで協議しての発表になった感じだ。ここ数十年は、ずっと七大タイトルだったし。

 

そして賢王戦の前夜祭。賢王戦もタイトルホルダー対挑戦者という形になるけど、タイトルホルダーは俺で挑戦者は月光会長だ。

 

……タイトル戦前の空気感には慣れたつもりだったけど、流石に緊張する。というか、何でA級棋士が賢王戦に力を入れているんだ。そして対局前に月光会長は「全力を出して下さいね?」とも「本気を出して下さいね?」とも言って来なかった。代わりに言われたことは「将棋を楽しんで下さい」だけだった。

 

(いや楽しいが?圧倒的な力に酔いしれて勝つのは超楽しいが?)

『ラスボスみたいなこと言わないで下さい。……この第1局は、マスターが本気で指すんでしょう?』

(まーな。天衣に刺激を受けたし、ちょっと本気になってくるわ)

『……悪手を指そうとしたら、即座に止めますから』

 

天衣が自身の経験を振り切った姿を見て、俺も自分で指したくなったのでこの第1局はアイさんに挽回不可能になる寸前まで好きに指すことを認めさせた。名人相手に、ノータイムで良い所まで行ったんだ。今日、ここで、本当の意味での恩返しはしたい。

 

と言っても、序盤はいつもの癖と、研究済みの範囲なのでノータイム指し。月光会長が後手番で一手損角換わりを行ない、先手の俺は右玉で構える。さて、最初の悩みどころか。

 

「……ふふ、久しぶりですね。あなたが頷きながら、読む姿は」

「そんなに、頷いてます?というか、目が見えないんじゃ……」

「分かりますよ。あなたが頭を揺らして考えていたのは、感覚で分かっていました」

 

持ち時間を消費して考え込んでいたら、月光会長が話しかけて来た。タイトル戦ですよ師匠?あと別に、俺はアイに任せたことで将棋を楽しめなくなった訳じゃない。将棋は勝っている時が1番、楽しいからな。

 

『じゃあ何で、私に任せないんです?その答えは、もう出てるんじゃないですか?』

(うるせえ。気が散るだろ。仕掛けるべきか仕掛けないべきかでこっちは迷ってるんだ。

……っし、行くぞ!)

 

4二玉と4八玉。お互いに居飛車で玉が同じ筋にいる形となり、月光会長は5四銀と腰掛銀を繰り出して来た。分岐点の33手目。俺は飛車を動かし、3筋まで移動させる。まだ月光会長の守りは薄く、2手使わないと囲いの中に入れない。仕掛けるなら、ここだ。

 

『ソフトの評価値的にはマスターの方がマイナスでしょうが、悪くはないですね。天衣の影響です?』

(……まあ、師匠が弟子の影響を受けることは多々あることだろ。で、これはどれぐらい悪い?)

『助言して良いんです?あと、先程の言葉は事実ですよ。悪くはないという状態です。まだ序盤ですしね』

 

月光会長は6五歩と仕掛け、こちらも7五歩と突き返して本格的な中盤戦が始まる。月光会長が同歩と取ってから、俺は3九玉と一手分を囲いに使った。

 

結果的には、この一手が明暗を分けた。お互いに角という持ち駒を持っての中盤戦は、先に月光会長が角を打ち込んで来て馬を作られるが、こちらも馬を作って歩で飛車を苛める。すると月光会長も歩で下段に落とされた飛車を苛めて来て、お互いに働かない飛車を交換し合った。

 

お互いに飛車を交換した時点で、俺の玉は一手で囲いの中に入れるのに対し、月光会長は二手必要のまま。結局飛車交換をした直後に、月光会長は3一玉と一手自陣に割かないといけなかった。そのため、先に飛車を敵陣に打ち込めたのは俺だ。

 

順調に指し手は進み、かなり月光会長を追い込んでいる場面で、月光会長は馬で王手をしてきた。これは、躱して良い奴だよな?

 

そう思って王を横に動かそうとした時、アイから待ったがかかる。

 

『……今まで互角以上の戦いをしていたのに、何で最後の最後でとちりますかねえ?

それを指したら、負けますよ?負けまでの手順、言ってあげましょうか?』

(じゃあ、7七金打で合い駒する方が正解なのか。……結局、俺単体では月光会長には届かなかった、か)

『終盤までに、時間を使い過ぎましたね。……深くまで読んで、経験に勝つことを諦めていたマスターです。久しぶりにここまで時間をかけて読んでいましたから、疲れたでしょう。後はゆっくり休んで下さい』

 

既に持ち時間は尽きかけており、アイから待ったがかかって負けまでの手順を言われた以上、俺は月光会長に負けた。どっと疲れが押し寄せてきた後は、アイに任せて言われるがままに最後まで指しきる。くそっ、届かなかったか。

 

試合終了後、感想戦を行なうけど月光会長も誰も7七金打には触れて来ない。それぐらい普通の手だし、何で俺はあの時、避けて持ち駒を温存しようと考えたんだろうな。感想戦を行いながら、アイから負けの手順、分岐も含めて全部聞くけど、本当に見落としとしか思えない。

 

と言っても、これが今の俺の限界だったわけだ。第2局以降は、またアイに任せることになる。本当の恩返しするにはまだちょっと、時期が早かったわ。世間的には今日の対局で、何度目の恩返しだよって感覚だろうけど。

 

(9八玉と逃げていたら、月光会長は逃してくれなかっただろうな)

『月光会長の方が、今日の対局では持ち時間が残ってましたからね。それに月光会長の終盤力は、プロ棋士の中でもトップクラスに入るでしょう。当然、逃げられません』

(ソフトの評価値は……げ。指す前が+441で、王が逃げたら-1674かよ)

『まあでも、序盤の評価値マイナス状態から中盤で盛り返したのは誇って良いんじゃないですか?何を言っても、終盤のあのポカだけは言い逃れできないですけど』

 

とりあえず俺自身は普段と全く違う対局だったけど、対外的には珍しく持ち時間を使っていつも通りに勝ち切った対局だから、不自然さはあまりない。……いや、掲示板で「大木ロボ、師匠を前にして故障中」とか書かれてるわ。ファンが早指しに慣れ過ぎている。しょうがないことだけど、将棋は基本的に時間を使うゲームですよ?

 

月光会長は対局終了後、少し態度が軟化した気がする。まー、7七金打ち以降も俺が指せた手ではあるから、本当にあの一手だけなんだよな。そこに大きな壁があるようにも感じるけど、今回はアイがその壁を爆撃して破壊していった感じ。

 

しかしまあ、月光会長と名人相手にタイトル戦を並行して戦うのは並みのプロ棋士だと辛いだろうな。アイのお陰で、今のところ全勝だけど。……両方とも勝ち切ったら、天衣や晶さんを誘って焼肉にでも行くか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

順位戦最終日

天衣の決意や月光会長との師弟タイトル戦があった最中に、あいのマイナビ女子オープン本戦決勝進出が決まり、本戦決勝はどちらが勝っても女王挑戦者としての最年少記録を更新すると大盛り上がりの中、順位戦の最終日を迎える。……九頭竜は先日、蔵王九段相手に劣勢を跳ね返して勝利しました。途中で劣勢になることに気付いて対応出来たのは色々とヤバいし、天衣に対して、九頭竜が蔵王九段に負けると言い切ってなくて良かった。

 

そして今日は、C級1組の最終日。今日勝てば全勝だから、順位に関係無く昇級をすることは出来る。しかしまあ、順位戦最終日の将棋会館の雰囲気は異質だな。

 

『なんか静かですねえ』

(火星戦力軒並向回)

『……今銃で撃たれるとしたら、天衣関係でしょうか?』

(あ、そうだった。やべえ、露骨な死亡フラグは立てれねえ)

 

アイと雑談しつつ、1人で盤の前まで移動する。べ、別にC級1組に友達がいないわけじゃないし。今日は知り合いでもそう簡単に話しかけることが出来ない日なだけだから。

 

(今日の対戦相手は、角換わりから矢倉を組みに行くのか)

『流石にマスターでも、研究済みの範囲ですね。

……何で腰掛銀から銀矢倉に変えたんです?』

(気分。

研究外しにはちょうど良いでしょ)

『向こうは後手しているのに先手番を握っているという状態に、少し考え込んでいます。

受け棋風の人に、攻めさせるなら銀矢倉はちょうど良いかもしれませんね。

……いえ、やっぱり無いです。マスターは相手を愚弄しているんですか?』

(手のひらドリルは止めろ。

あー、そろそろ交代で。こっから仕掛けるのは怖い)

『じゃあ最初から真面目に指しましょうよ。別に良いですけど』

 

今日は相手が居飛車党で、お互いに矢倉を組む展開に。互いに手数をかけて囲いを作った後は、アイさんが相手の矢倉を燃やしていた。火炎放射器で燃やしたかのように綺麗に相手の守り駒を清算し、丸裸にした後は華麗な詰将棋を披露して終局。相変わらず順位戦なのに持ち時間の消費は小便に行った2分だけである。

 

「師匠!昇級おめでとう!」

「ありがとう。結局、負けていても昇級は出来ていたか。まあでも、全勝すれば昇級は確定だし最後も勝てて良かった。

あ、対局終了後だから別に良いけど、対局終了前とかは順位戦の結果について口に出すのはご法度だから気を付けろよ?」

「ん、分かったわ」

 

しかし天衣も、あいの対策研究を練るのに忙しい時期なのに将棋会館まで来て祝福してくれる辺り師匠想いの良い弟子だ。念のために順位戦の暗黙の了解を教えつつ、天衣を実家まで送る。

 

(しかし、C級1組からB級2組に上がるのは大きいよな。お賃金的な意味で)

『基本給が大きく上がりますからね。ボーナスも増えますし……今回は、グラボですか?』

(どーしようかは、悩み中。食事のグレードでも上げようかなぁ)

『最近、アイスばっか食べているのにさらに痩せ始めていますからね。極力、高カロリー高たんぱくなものを食べましょう』

 

順位戦が何組というのは、棋士の基本給にも直結するのでみんな必死だ。C級2組、新人のプロ棋士が入る組では基本給が18万円ほどで、C級1組になると25万円。今回俺は、C級1組からB級2組に上がった訳だけど、基本給は25万から36万まで上がる感じ。ハーゲンダッツ500個分は上がったな。

 

……最近は対局中にハーゲンダッツを食べてお腹を壊す確率が減ったけど、単純に胃が鍛えられたんだろうか?内臓って鍛えられないものだと思っていたけど、もし慣れたのならアイスでの糖分補給がより容易になるな。

 

(糖分補給なら、スーパーカップとかの方が良い気もするけど毎回スーパーカップは食えないわ)

『冷えているのに甘味を感じられる時点で、どのアイスも結構な量の砂糖が入っていますよ。ハーゲンダッツは食べ切るのにちょうど良いサイズですし、無理に変えなくて良いのでは?』

 

将棋は脳のスポーツだから、対局中に甘い物を食べる人は多い。中にはコーヒーに、角砂糖を5、6個入れて飲む人もいる。なおハーゲンダッツはバニラでも1個で角砂糖5個分の砂糖が入っている模様。完全に脳の餌である。

 

……地味に、一部の信者がアイス食べるのを真似し始めているんだよね。なんか去年の12月からプロ棋士になった人で、今までの全試合で俺と同じようにハーゲンダッツを食べている人がいる。年上なのにめっちゃ敬拝してくるから怖い。三段リーグの最終局で俺に叩き落されて3位転落をしたのに、慕っている時点でこえーよ。

 

まあその人は、ホットコーヒーとアイスというコンボだけど。両方で糖分を補給出来て、お腹も壊しにくいようだ。だから真似というわけじゃないけど、俺もホットコーヒーとハーゲンダッツをセットで頼むことにしようかな。

 

日常的にもハーゲンダッツを食べることで、痩せ体型も脱出したい。ちょうど良い時期だし、まとめ買いするか。

 

『来週のホワイトデー、天衣にハーゲンダッツを渡そうとか考えてますね?流石にもう少し、考えて渡したらどうです?』

(……んー?でも天衣もハーゲンダッツは好きそうだったぞ?

というか手作りで何か作るのは難しいし、既製品になるのは仕方ないだろ)

『別に食べ物じゃなくても良いんじゃないですかね?というか大量のハーゲンダッツとか、貰って嬉しいか否かで判断して下さい』

(俺は嬉しいぞ?まあ食べ物じゃ無くて、ぬいぐるみやアクセサリーでも良いか)

 

先月のバレンタインデーでは、マイナビ女子オープン本戦の準決勝の後に天衣から大きなハートマークのチョコレートを貰っている。なお既製品。顔や身体はこちらを向けず、目線だけはこっちを向いて少し緊張しながらチョコを渡す天衣は可愛かったです。同時に、色んな葛藤が押し寄せてきて自己嫌悪もしたけど。

 

『いや、そろそろ認めたらどうです?一目惚れしたって。

私もマスターも根っこは同じですし、私のしたいことはマスターのしたいことで、マスターのしたいことは私のしたいことなんですぅー』

(うるせえ。人をロリコンにさせるな。見惚れたのは事実かもしれんが、一目惚れまでは行ってない……はず)

 

ホワイトデーのお返しは色々と考えた結果、最終的に行き着いたのがダイヤのネックレスだった。まあ天衣のチョコが4000円程度だったし、10倍返しを要求されたから4万円程度となるとネックレスが手頃だろう。

 

ブラックカードを持っているお嬢様にとっては、小さなダイヤモンドが付いたネックレスとか要らないものかもしれないが、もうアマゾンでポチってしまったので引き返せない。……いやこれ、引かれたらどうしよう?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

京都旅行前編

歩夢対清滝先生の対局は原作通りに清滝先生が勝ち、清滝先生は結局C級1組に落ちたけど、引退を撤回して指し続けることを表明した。歩夢も無事にB級1組に昇級したので、次の順位戦も俺と九頭竜と歩夢は当たらないことが確定。多分来年も3人揃って昇級するだろうから、順位戦では当たらないんじゃないかな?

 

ホワイトデーのお返しは、恥ずかしくなって「帰ってから開けてくれ」と言って渡したけど、天衣にその場で開封されて少し悶絶した。

 

まあ普通に喜んでくれていたので、外しては無かったと思う。ダイヤのネックレスとは言っても、細くて小さいから気軽に着けられる奴だし、それから毎日、着けてくれているし。

 

本戦決勝も間近に迫った日、京都へ行くことにした。原作で九頭竜も見物に行った、山城桜花戦が行われるからだ。原作と違う点は1つ。現山城桜花の供御飯さんが、既にマイナビ女子オープンの本戦準決勝で敗北していること。原作では決勝戦で天衣に負けているから、タイトル戦の後に負けているんだよね。

 

「……不満か?」

「いえ、別に。

あいに負けたとはいえ、将棋の内容はほぼ互角だった。将来的に戦う可能性がある人の、タイトル戦を見物するのは無駄じゃないわ」

「まー、山城桜花戦は色々と特殊だしな。とりあえず春の京都だし、観光も楽しまないと損だぞ」

 

あいと供御飯さんの対局は、供御飯さんがいつも通りに穴熊を組もうとすると、あいはひたすら待ちながら穴熊を崩壊させる準備をしていた。まあ穴熊は、して来ると分かっていれば対策しやすい部類ではあるし、九頭竜と研究を重ねたのだろう。2四桂を狙う攻防の後、あいの1二角成が成立した時点で穴熊は本来の防御力を失った。後はあいが、いつも通りの終盤力を見せつけての勝利。

 

供御飯さんにとっては痛い敗戦となったし、このタイトル戦にも影響が出るかと思ったけど、1戦目は原作通りに勝ったんだよね。月夜見坂さんが完全に自滅した対局だったから、どちらにせよあいの影響が出ていないとは言い切れないけど、2戦目と3戦目はほぼ原作通りになるんじゃないかな?

 

天衣を連れて来たのは、純粋に女流のタイトル戦の雰囲気を味わわせるためだ。俺のタイトル戦には何回か来ているけど、女流のタイトル戦は雰囲気が違う。出来れば山城桜花ではなくて他のタイトル戦の方が良いけど、女王の前の女流タイトル戦ってこれしか無いんだよね。

 

もうそろそろ無くなるはずの泉の広場で天衣と待ち合わせをした後、阪急で梅田から桂まで移動し、そこから阪急嵐山線で嵐山まで。渡月橋を渡って、目的地である天龍寺へ行く。ゆっくりと観光しながら歩くと、渡月橋まで10分、天龍寺まで10分ってところだな。この時期の京都は観光客が多すぎてごった返しているから、少し歩くだけでも疲れる。ゲームと将棋しかやってない引き籠り野郎がこんな所に来るんじゃなかった。

 

「今日は暑いし、抹茶ソフトでも買うか。天衣はいるか?」

「欲しいけど、ここでもアイスなのね?」

「アイスクリームとソフトクリームは違うぞ?

まあ、似たようなものだけど」

 

抹茶ソフトを買おうとしたら、ここで九頭竜とエンカウント。今日は何処かで会うとは思っていたが、ここで会うか。

 

『突然後ろから「お、大木か……?」みたいな声掛けは心臓に悪いですねえ』

(唐突だったもん。ここにいることは分かっていたけど、まさか街中で鉢合わせるとは思わないわ。観光客で賑わっているのに)

『お互いに京都のことをそこまで熟知しているわけでもないですから、京都に来たら抹茶ソフト、なんでしょうかね』

(だろうな。おっと、天衣もあいとエンカウントだ。険悪そうな雰囲気にはなってないけど、少し空気がピリッとしてきたな)

 

ピリッとした空気にはなったけど、とりあえず俺は天衣に、九頭竜はあいに抹茶ソフトを渡して食べさせると一瞬で瓦解するシリアス。子供だからね。抹茶ソフトを食べるだけで笑顔になるよ。抹茶ソフトうめー。

 

……地味に九頭竜が抹茶ソフトを美味しそうに食べるあいと天衣のコンビをスマホの写真機能でパシャパシャ撮っているけど、傍からみたら完全に危ない人である。まあ、撮りたくなる気持ちは分かるけど。晶さんとか、素早く移動して色んな角度から写真を撮っているし。

 

「九頭竜は、もう天龍寺に入るのか?」

「いや、もう少し散策してから向かうよ。将棋関係者に見つかったら、もう観光してる時間なんて取れないだろうし」

「……ここにいるのも、将棋関係者ですが?」

「それはそうだけど、どちらかと言うと、大木の方がここで観光するのは不味いと思うぞ」

「五十歩百歩って言葉、知ってる?

まー、俺と天衣ももう少し時間経ってから行くけどな」

 

そしてそのまま合流して野宮神社へ。境内にある神石はお亀石と言って、触ると年内に願いが叶うという凄いパワースポット。あいは丹念に磨くようにナデナデしていたけど、天衣は触りに行こうともしない。

 

「触りに行かなくて良いのか?」

「神頼みは、したくないの。それに、非科学的よ。あれに触ったか否かで、今後の私の人生が変わるとも思えないもの」

「プラシーボ効果という便利な言葉も存在するから触ってこい。単に将棋が強くなりますように、でも良いぞ」

「……将棋は師匠が強くしてくれるから、別のことを願って来るわね」

 

ということで無理やり触らせに行ったら、天衣もやけに真剣にお願いごとを開始する。その2人の姿を、写真に収める九頭竜と晶さん。俺も写真を撮りたくなったけど、晶さんに後で貰えば良いか。というか晶さんは、本当に生まれる性別が女性で良かったと思う。顔を緩ませながら幼女達の写真を撮るの、男だったらアウトだよ。

 

その後は竹林の道で写真撮影会が開催された後、天龍寺に入る。時間はちょうど、お昼休憩の時間だな。継ぎ盤にいるのは、月光会長。賢王戦のタイトル戦期間中での、対面である。

 

「おや、竜王に雛鶴さん。それに夜叉神さんではありませんか」

「月光会長。ナチュラルに省かれるのは、泣きそうになるんですが」

 

賢王戦の第2戦は、アイが短手数で一刀両断したから空気は重い。プロレスをあまりするなと言った途端にこれである。融通の利かないポンコツAIだ。

 

『序盤優勢の場面から、手を抜くなという指示があれば誰が相手でもああなりますよ。私のせいにしないでくれます?』

(だからと言って、タイトル戦で68手決着は酷いだろ。急戦とはいえ、お互いに持ち時間が残りまくったんだぞ)

 

無視されて、わりとガチめの謝罪を月光会長から受けた後は、九頭竜に対して月夜見坂さんを励ませという指示が月光会長から出た。当然、会長からの指示を拒否することが出来ない九頭竜は、月夜見坂さんの控室へと行く。さて。天龍寺の観光でもするか。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

京都旅行中編

「凄い……わね」

「天衣も、流石にそういうのは分かるのか。俺にはわからん」

「ちょっと!じゃあ何でここに連れて来たのよ」

「まあ、見るだけ見ておこうと思って。せっかくここまで来たんだし」

 

九頭竜と別れた後は、天龍寺の曹源池庭園を眺める。いや、歴史とか風情っぽい何かは感じる気がするけど、そういう知識は全然無いし、感性もわりと死んでいる。社会常識とかも基本的にはアイ任せだし、考えてみると結構な駄目人間だ。

 

『童顔、童貞、ダサ男、ダメ男、低身長、感性零、ゲームオタクで跳満ですけど、あと一つ増えたら倍満ですよ?』

(何か増えてない?前まで低身長って無かったじゃん)

『16歳から17歳という1番身長の伸びる時期に伸びなかった以上、マスターのチビはもはや確定的です』

(……夜更かしして、ゲームをしていたせいか?というか、探せば後1個ぐらいは欠点なんて出て来そうだな)

『探さなくても、マスターの欠点なんて叩けば埃のように出て来るでしょう』

 

最近、ポンコツAIポンコツAIと言い続けていたからかアイが冷たい。そんなアイにグサグサと背中を刺されながら、対局の方を見に行くと、昼休憩の時点で既に少し月夜見坂さんの方が優勢だった。これは、原作通りに第3局まで行なわれるな。

 

「……月光会長は、これで月夜見坂さんの方に九頭竜先生を向かわせたの?」

「まあ、第3局が行なわれなかったら大損だからな。念には念を入れているんだ。一応、タイトル戦で行なわれない可能性のある対局を準備しているところは了承している話だけど、それでも将棋関係者は最後までタイトル戦をやり切りたいんだよ」

 

天衣にタイトル戦の裏事情を話したら、師匠はどうなのよと突っ込まれる。はい。俺も関係者泣かせの棋士です。俺のタイトル戦は今まで、3連勝か3連敗だからな。盤王戦も結局3連勝で終わったし、どうしようもない問題です。

 

……だからか、一部で三番手直りの復活を望む声すら出ている。三番手直りとは5番勝負や7番勝負のタイトル戦で、3連勝した方は上手として第4局を香落ちで指すことになる制度だ。決着が付いても、最終局までは指すからスポンサーも損をしない。

 

竜王戦なんか、4局目で終わる時と7局目で終わる時とで動くお金の額が全然違う。そして昔存在した三番手直りのルールは3連敗した後、平香交じりと言って平手と香落ちを交互に指すルールだったけど、今提唱されている三番手直りは違う。

 

平手で3連敗した後、香落ちでも3連敗すれば、第7局は角落ちで行こうと言い出しているのだ。タイトル戦で第7局まで指すのは名人戦と竜王戦と帝位戦と玉将戦と賢王戦。要するにこの制度、底が見えない俺の本気を引き出させたい連中が考えた制度だ。

 

まあ、現状は反対多数だし復活しない制度だろうけどね。そもそも名人や九頭竜相手に、角落ちで勝つのはアイでも難しいんじゃないか?

 

『ソフトを相手にする以上に、駒落ちの対人戦はキツイですからね。角落ちだと、絶対に勝てるとは言い切れません』

(まず、九頭竜相手に香落ちで3連勝出来るかも怪しいだろ。最近の九頭竜の成長スピード、普通におかしいぞ)

『それを把握出来ている時点で、マスターも結構な勢いで成長しているはずですよ。

……まあ、九頭竜相手なら10回指して1回は勝てるんじゃないですか?』

 

天衣に今後の将棋の展開について話をしながら、アイとも脳内会話をする。今の九頭竜を相手に、勝率1割って凄いのか?珍しくアイが俺のことを褒めているような気がするけど、貶しているような気もする。

 

昼食休憩後、九頭竜があいに将棋界の厳しさについて説いていたので盗み聞きする。わりと重要なことでもあるので、天衣にも聞かせておいた。当たり前のことではあるんだけど、隣に立つ者こそ最初に叩く相手って言い方はなんか誤解を与えそう。

 

「要するに、師匠に苦手意識を植え付けろってこと?」

「おいこら。何でそういう解釈になった。いや、出来るものならやってみろって感じだけど」

「……いつか、出来るようになるかもしれないじゃない。

まあ、将棋界で戦っていくなら全員が覚悟している当たり前のことね」

 

九頭竜の言うことを、真剣な顔で聞くあいという構図はわりと珍しい。天衣は、話半分に聞き流した感じだけど。その後は月光会長がホテルを用意してくれるという話だったけど、既に宿は確保しているので断っておいた。下手したら、大盤解説の解説役がこっちに来るからな。

 

「この後の記者会見は、聞かなくて良いの?」

「聞かなくて良いよ。それに温泉入りたいし」

「風風の湯、だったかしら?日帰り温泉に入って宿に直行?」

「そーなるな。九頭竜の方は、新京極をぶらつくみたい」

 

京都有数の観光地とはいえ、少し前から予約していれば美味しい夕食の出る宿は確保できる。値段はお高いが、その分丁寧なおもてなしを受けるし、ぶっちゃけ金は余るようになって来た。もうパソコンで、廃課金出来る部分が無い。合計で200万円ぐらいは突っ込んでるし。

 

風風の湯に行って混雑具合に驚き、仕方なく宿のお風呂で我慢した後は宿の豪勢な料理を食べる。1人になったタイミングで、ちゃっかりと天衣のボディーガードさんから今日の宿代のお金を受け取ったけど、こんなに使ってないっす……。返そうとしたら、お釣りなんて要らないと言われる。マジで夜叉神家が大金持ちだということを、再認識した。

 

『女子小学生と一緒の宿に泊まるとか、タイトル保持者としての自覚無いんですかあ?』

(うるせえ。月光会長のセリフで煽るな。寝る部屋は分かれているだろうが。

それに、今日も明日も九頭竜のヤバいイベント群のお陰で俺の行動は一切目立たねえよ)

『……月夜見坂さんとVIP席には感謝ですね』

(very important pedo席がわりと大真面目に用意されているのは、九頭竜の影響力の強さを感じる)

 

明日の第3局は、このまま行けば目隠し将棋だったか。天衣やあいがおかしいだけで、女流だと目隠し将棋で複雑な終盤を読み切るだけでも凄いんだよな。……こういう思考の時点で、俺が女流棋士のことを見下しているのはよく分かる。早く空さんや天衣がプロ棋士になれたら良いけど、空さんの方はフラグがバッキバキに折れてるからどうなるかは分からない。

 

……地味に天衣を女性初のプロ棋士にしたい欲も出て来たし、空さんには悪いけど、天衣の強化を止めるつもりはない。そろそろ天衣の二段昇段も見えて来たけど、空さんも椚に負けた後は連勝しているから、このまま行けば天衣の二段昇段と空さんの三段昇段が同タイミング。ということは、ぶつけられるだろうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

京都旅行後編

(九頭竜の方はロリ王とかトップブリーダーとか言われているのに、俺にはそういう悪評が立たないのは何故か、そろそろ気になって来た)

『では選択肢を提示してあげましょう。

 

A:九頭竜の女性関係が酷すぎるから目立たない。

B:マスターが女性受けしない容姿のせいで嫉妬の対象にならない。

C:夜叉神家が総力を挙げて悪評が流れないよう工作している。

D:師匠が月光会長だから。

 

好きなのを選んで下さい』

(……アイがそう言う時は、全部答えか全部外れの時なんだよな。え?夜叉神家ってそういうのまで強いの?)

『現代のヤーさんは、ネットにも強いですよ。そういう人を専門に雇ったりもしますから』

(実業家!今は実業家だから!……いやでも、あれだけ人員がいるならネットに強い人もいそうだな)

 

京都旅行2日目&山城桜花第3局の日。九頭竜とあいを見に来たJS研の面々を見て、俺にそういう風評被害が出ないのは何故かアイに聞いてみたら、候補の一つに女性受けしない顔というのを挙げられた。あれ?そのわりには掲示板とかで可愛いというコメントをよく見かける気が…………うわ、気付かない方が良かった。

 

今日は九頭竜とあいの大盤解説も見れるので、一般立ち見席から見物。最前列のVIP席に座っているJS研の面々は微笑ましかったです。九頭竜がJSに囲まれる、良い写真が撮れた。

 

「み、みなしゃま……おひゃよーごじゃいまちゅっ!

聞き手役をする、雛鶴あいです。そして解説者は、ししょーじゃなくて……ええっと……」

「解説は私、九頭竜八一が担当させていただきます」

 

九頭竜が自分達は将棋界で2番目に幼い師弟だと言ったけど、1番幼い師弟は俺と天衣だな。誕生日の関係であいと天衣はあいの方が先に生まれており、俺と九頭竜は九頭竜の方が先に生まれている。まあ師弟の歳の差とか変わらないし、共に同学年だがな。

 

あいは緊張からか、途中でマイクを落とすハプニングはあったけど、お客さんはその姿を見て満足しているので特に問題はない。……聞き手役は直に解説役のプロ棋士から教えて貰える立場でもあるから、その立場を利用する女流棋士も多い。だから、多少は自分本位で質問してくる女流棋士もいる。鹿路庭さんとか。

 

『あいの人気が高いですね。女王挑戦まであと一歩だからでしょうか』

(天衣の人気の方が高いっぽいけどな。対局日はずっと黒い服を着ているから、外見で覚えやすいし)

 

あいも追っかけが出るぐらいには人気になったし、天衣は女流棋士になってないとはいえ、あい以上の人気を獲得している。本戦決勝は、かなり注目度が高そうだ。その天衣は、普段着だとただのJSだからか変装出来ているけど。

 

『マスターは、伊達眼鏡をかけるだけで変装完了しますからね。何なら、伊達眼鏡が無くても影が薄いからばれないですし』

(うるせーよ。目が見えないから、人を気配で感じ取る月光会長すら、たまに俺の存在を感知しないとなると、本当に影が薄いんだなと認識出来るけどさ)

 

山城桜花の第3局の方は、当初の予想通り居飛車対振り飛車穴熊となった。ただ、指している人が逆だ。本来なら穴熊が得意な供御飯さんが居飛車で銀冠に、居飛車が得意な月夜見坂さんは振り飛車穴熊を採用した。意地と意地のぶつかり合いだし、中々にハイレベルな戦いだ。

 

そして、強風が将棋盤を襲う。駒が全て吹き飛ばされ、1分将棋の最中に、将棋が指せない状態となった。本来なら時間を止めて駒を並べ直す場面だけど、月夜見坂さんが指し手を口頭で宣言。対する供御飯さんも口頭で指し手を言い、前代未聞の目隠しタイトル戦となった。

 

「……目隠し将棋だからって、悪手や緩手が多いわね」

「そう言うな。成立している時点で凄いんだよ。こういうのは」

 

原作ではこれで名局賞だと言う声も出て来ていたが、残念なことに名局賞候補を毎試合のように生み出している俺や九頭竜のせいでそのラインは上がっている。そのためか、名局賞だと言う人は出て来なかった。単純に、観客の誰かがポツリと呟いた発言だからその誰かが居ないと成立しないフラグなのかもしれないけど。

 

まあ、脳内将棋自体は奨励会有段者なら誰でも出来ると言うし、女流棋士でその域に到達しているということはこの2人もプロ棋士になれる可能性はあったということだ。でも脳内将棋自体は、アマ高段者でも出来る人は出来る。おそらくあいは、最初期から脳内3面指しぐらいは出来ていたと思う。現在12面らしいし。

 

一方で天衣も、八段10面指しというネット将棋での修練はこれが最終段階となる所まで来ている。……ぶっちゃけ七段9面指しがクリア出来た時点で、遠からずプロ棋士になれる実力はついたと思うけど、空さんに追い付いて、追い越そうと思ったらもう少し力を付けたい。だから、鍛錬出来る時期は鍛錬しておきたい。

 

月夜見坂さんと供御飯さんの対局は、結局供御飯さんが原作通りに勝ち切った。そう言えば月夜見坂さんが目隠し将棋になった時点で1手負けと言っていたけど、実は逆転する手段が存在した。それに九頭竜は早い段階で気付いていたようだし、あいも気付いている。ただし、天衣の方があいよりも早くに気付いていた。

 

「……まあ、何だ。これが今の女流プロ棋士のトップ同士の対局だ。不敗の女流棋士にしてやると最初に言った言葉は、嘘じゃねえ」

「ええ。嘘になりっこないわね。ただ、唯一の不安があいだったのかしら?」

「それも、今日の時点では不安じゃなくなったけどな。天衣の方があいよりも早く、逆転の手に気付いたし」

「……何でうちの師匠は、そういうのが分かるのかしら?頭の中にスカウターでもあるの?」

 

スカウターじゃなくて単に視界に映ったもの全てを分析できるアイさんがやべえんです、と言うことは出来ないけど、天衣もこれで、女流棋士のレベルについて正確に把握することが出来たと思う。

 

どこかからは「ぶっ殺すぞこのクズ!人がせっかく女版将棋マシーンに勝てるようアドバイスしてるのに!」という月夜見坂さんの声が聞こえて来た。女版将棋マシーンって、天衣か空さんかどっちのことを言ってるんだよ。

 

……天衣対あいは、もうすぐだ。その前に俺は賢王戦の第3局があるんだけど、サクッと勝ってタイトル防衛に王手をかけておこう。

 

この賢王戦だけは、アイのためのタイトルだからな。勝者は電脳戦で、ソフト相手に一騎打ちという罰ゲームが続く限り、これからは基本的にアイに任せようと思う。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の師匠③

私の師匠はポンコツだ。ポンコツロボットだ。世間では逆張り鬼畜ロボと言われているけど、どこからどう見てもポンコツロボットだと思う。

 

服は同じような服を3着しか持っておらず、夏服と冬服で計6着しか持っていない。対局時には決まってハーゲンダッツを食べ、昼食は特定の弁当屋の弁当をローテーション。待ち合わせをすれば必ず30分前に到着するし、感情の起伏も少ない。

 

本人はロボット呼ばわりが嫌みたいだけど、一介の将棋ファンなら将棋の内容も含めて本当にロボットにしか見えないのだと思う。あとは若干、お金使いが荒い。お金使いが荒いのに、入るお金には五月蠅くて賞金額を一々気にしているのはちょっとおかしい。

 

最近では、前よりも忙しい日々を送っているのに食事の量を増やしていないという、馬鹿みたいな理由で痩せこけていた。ポンコツというより、ここまで行けばただの阿呆ね。

 

そんな師匠は誕生日プレゼントに、将棋の駒を渡してくれた。何で今さら駒なんだろうと思って中身を見ると、駒の字は全てお父さまの書体で書かれている。その瞬間に私の涙腺は壊れて、涙で前が見えなくなった。いきなりなんてものを渡してくるのよ。

 

聞けば前々から、この誕生日のために駒の用意を始めていて、晶やお爺さまも協力していたと言う。師匠は申し訳なさそうな顔をしながら、この駒作りに協力してくれた人達を列挙して、自身がしたことはお金を出したぐらいだと大したことのないように言う。思い立ってから完成まで、この駒のためにあらゆる人手を使って奔走していたのはどこの馬鹿よ。

 

その日から、師匠を見る目は少し変わった気がする。みんなが思っている以上に、この人はポンコツだ。自己評価が低くて、他人への評価が高い。特に一部の人に対する評価の高さは、私には理解することが出来ない。

 

ある日。いつものようにネットで多面指しをしていると、第一感で瞬時に最善手が浮かんでくるようになった。今まで将棋を指していた時も、時々起こっていた現象が、その時は止まらずに溢れ出て来た。これを師匠は疑似センスと呼んでいて、努力で手に入る将棋のセンスだと言っていたけど、そんな生半可なものじゃないと思う。ベテランの棋士は、これを頼りに指している棋士も多いそうだけど、きっと違う。

 

この力で将棋を指すと、とても楽だし勝っても負けてもあまり疲れない。そしてこの頃から人格を増やす実験と称して、脳内で初心者像を作って語り掛ける訓練を始めるようにと師匠は言った。

 

……昔、師匠は無意識に人格を宿らせると言っていたことを私は憶えている。人格を増やすというのが実際に出来るかは分からないけど、このまま師匠と同じ道を辿れば、恐らく私はもう1人の人格に言われるがまま、将棋を指さないといけなくなる気がする。

 

釈迦堂さんとの対局後、師匠も忙しいはずなのに私とのVSをセッティングしてくれた。ここで行なわれたのは、師匠と名人の対局の棋譜並べ。私は最初、棋譜を並べるだけかと思ったけど、それにしては様子がおかしい。何か師匠から、早く気付けよオーラが出ていた。

 

……このまま行けば、私が勝って師匠は何でも1つ、言うことを聞かないといけなくなる。棋譜並べをしているだけなら、私の勝利は確定的。だってこの対局は、私が指している先手側が勝利する棋譜なのだから。しかもこの棋譜の先手番は、師匠だ。だから、私が思い出せなくなるなんてことはない。

 

師匠はたぶん、この対局で私に師匠と同じ道を歩くのを止めて欲しいんだと思う。だってそうじゃないと、こんな条件は付けないし、不器用な人だと思う。きっと最近の初手周りの指し手がバラバラなのは、この対局のために色んな棋譜を用意していたからだ。

 

私が後手番になった時のため、先手で別の手を指した時のため……用意は周到だし、準備は万端にしないと気が済まないタイプなのかもしれない。だけど別の道を選択することは、この対局が終わってからでも出来る。私が優しくない人間なら、この対局に関しては普通に勝ちに行ってたと思うわよ?

 

……私は、師匠を超えたい。師匠と同じ道を辿っても、それでは一生師匠の強さに追い付かないような気がする。私が棋譜を間違えると、師匠は安心してからその後の展開を教えてくれた。その後は私が綺麗に負けたけど、負けたのがどうでもよくなるぐらいのことを聞かされる。

 

師匠は今、経験に宿っている人格の言われるがままに将棋を指していること。二重人格だろうとは思っていた。言われるがままに指している可能性はあると思っていた。だけど、本人の口からそれが出るのはまた違う話。

 

私の予想は半分合っていて、半分間違っていた。師匠は最初から、二重人格だったみたい。でも二つ目の人格は表に出て来ることがなくて、一つ目の人格は言われるがままの状態だとか。それで将棋の力は、二つ目の人格の方が上。とてもちぐはぐな状態だけど、どうしてそうなっているのかはなんとなく想像が出来る。

 

経験の大半を、もう一つの人格の方が保持しているから。あくまでこれは想像だけど、二つの人格は、どちらも記憶の共有を行なっていないんだと思う。もちろん、見た物や食べた物の記憶は両方あると思うけど、考えていることに関する記憶の共有はない。そうじゃないと、二つ目の人格だけ将棋が強い状態だなんてあり得ないじゃない?

 

……そのもう一つの人格の方が、あっさりと脳内100面指しをする化け物だとしたら?その脳内将棋盤を使って、ひたすら経験を蓄えているとしたら?二つ目の人格の方は、何もしなくても将棋だけを指せる環境下にいる?まだまだ分からないことだらけだけど、全貌が見えそうになってくるほど師匠の存在が現実離れしてきて頭が痛くなってくるわ。

 

私の名前は夜叉神天衣。もうすぐ小学5年生。目下の目標は、師匠の本気を引き出すこと。そしていつか、将棋史上最強の師匠を……。

 

この師匠、ポンコツ過ぎない?ホワイトデーのお返しに、ダイヤのネックレスって本当に意味をわかってないのかしら?確かに私にとっては安物のネックレスで、師匠にとってもはした金で買ったものなのだと思う。でも世間一般的に、このプレゼントがどういうものなのか、世間に疎い私でも分かるわよ?

 

……え?本当に、適当に選んだだけ?たまたまアクセサリーで4万円台のものを選んだら、これになった?……それじゃあ、慌てていた私が馬鹿みたいじゃない。もう会ってから1年も経つのに、師匠のことは本当によく分からないわね。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本戦決勝

マイナビ女子オープンの本戦決勝が行われ、天衣とあいが対峙する。この本戦からカウンター型の将棋を始めたあいは、それが見事にはまって以来全勝を続けている。アイの見立て通り、普通の女流棋士では相手にならないレベルだ。おそらく、奨励会に入れるだけの力は持っている。というかたぶん、中学生の間には奨励会を突破できるんじゃないかな?

 

この後、あいは天衣を追いかけて奨励会入りとかするんだろうか?カウンター型の将棋は、嵌れば強いし序盤の知識が無かったあいにとっては天啓のような戦法だったのだろう。だけどそれが、天衣に通用するとは思えない。

 

……しかも天衣は、俺からネックレスを貰ったことを対局前、あいに自慢げに話していた。弟子入り1周年記念とか、言葉は選んでくれていたけど、俺の精神状態にも悪影響を与えているから止めて下さい。ホワイトデーで、あげるものじゃなかったな。

 

『私はむしろ、意識して渡したものだと思っていましたが?空銀子は九頭竜との恋が進展してから三段リーグで8連勝しましたし、意識的にそういう方向へ持って行こうとしているのかと……』

(やめてくだしあ。マジで値段見て決めただけだから、世間的に見てどう思われるのかは意識して無かったんだよ。というか普段は思考を読むのに、何でこの時だけ読まなかったの?)

『毎度毎度、全部を読み取れるわけじゃないと言ってるじゃないですか。マスターの考えていることを四六時中聞かされる身にもなって下さいよ』

 

対局前の精神攻撃もばっちり決めたところで、振り駒が行なわれ、天衣の先手が決まる。急戦で行くか、持久戦で行くかは天衣の選択次第かな?

 

しかしまあ、取材陣が多い。どちらが勝っても史上最年少での女王挑戦が決定するし、九頭竜と大木の弟子同士の対決ということで将棋ファンの注目度は現在進行形で行なわれている玉将戦並みに注目を集めている。あ、生石玉将は無事に玉将を防衛出来そうです。持将棋を一度挟んで、現在は3勝2敗1引き分け。昨日の封じ手の時点で既に勝勢なので、防衛する可能性は高い。

 

九頭竜は、公式戦の手合いが入ったから来れない。あらかじめ日程を確認すれば、今日が決勝になることは分かっていただろうに。まあ帝位リーグの試合だし、現在帝位リーグで全勝中の九頭竜は休むわけにも行かない。

 

試合はリアルタイムでネット中継されるので、近くの喫茶店で見物。三冠になってタイトルの数ではトップになってしまったので、そろそろ将棋道場で観戦というのは出来なくなった。まず間違いなく、解説の依頼をされる。

 

賢王戦も今のところ3戦全勝なので、防衛は間近。……タイトル戦で手を抜こうと思えないのは、俺自身も三番手直りの実現を望んでいるからかもしれないな。まだ圧倒的反対で却下されている案だけど、名人が推しているらしいし、全勝で終わるタイトル戦が多くなるほど、将棋関係者も望むようになる。

 

あいと天衣の試合は、序盤から慎重な手が続く。天衣は急戦や奇襲戦法を選択しなかったし、あいも位取りを放棄する低い構えを解いた。これはお互いに、相手が自分を研究していると読んで、別の指し方に切り替えたかな。

 

お互いに居飛車だから、典型的な矢倉同士の戦いに移行し、あいが6四角と飛び出せば、天衣も4六角と飛び出す。40手目の9四歩で、完全に先後同型の戦いになった。

 

『流石にあいも、矢倉ならある程度の知識が入っているようですね』

(こっから先の中盤戦で、天衣がどれだけリードを毟り取れるかだな)

『矢倉は、後手の勝率も高いですからねえ。あいにとっては序盤の定跡知らずを、回避出来た形になりましたか』

 

41手目に天衣は6四角と、角交換に出る。それにあいは同銀と指し、1手分の得をする。これで先手の利は、あいに移った。一方で天衣は2四銀と指し、先後同型からはズレる。

 

あいは先に6九角と、天衣の陣地に角を打ち込むも、天衣は無視して1五歩と端攻めを開始。……中盤戦は、互角のスタートか?

 

『いえ、若干ですが天衣の方が優勢ですね。天衣の8三香に、あいはかなり時間をかけてしまいましたし、持ち時間でも優位に立っています。……8三香を、あいは取りますか』

(取らない方が良いんだろうなーっていうのは分かるけど、取るしかなくない?取らないなら、4二飛かな)

『正解ですよ、馬鹿マスター』

 

天衣の香打ちを、同飛と取って角による飛車金両取りを甘んじて受け入れるあい。この辺のやり取りは、天衣の方が上かな。4三角成と金を取って馬を作る天衣だけど、ソフトの評価値の方は-1。あれ?これソフトがおかしくね?

 

『ソフトの評価基準と、人間の評価基準は違いますからね』

(見た感じだと、天衣の方が優勢そうだけどそうでもないのか。囲いが崩れかかっているのと、しっかりとした矢倉が生き残っているかの差は、かなり大きいと思うけど)

 

天衣は働かなくなった飛車を馬にぶつけて、飛車角交換も行なう。これでかなり有利になり、評価値も300まで上がった。そしてあいが天衣の陣地に飛車を打ち込んだ瞬間、天衣の評価値が跳ね上がった。どう見ても悪手だ。

 

『ここで緩手は痛いですね。好意的に見ても凡手です』

(中盤のねじり合いは、無事に天衣に軍配が上がったか)

『……天衣も相応に悪い手は指しているので、後で反省会ですね』

(そーだな。でも掲示板の方では、プロ棋士のタイトル戦でも中々見れない大熱戦だとお祭り騒ぎだぞ)

 

矢倉は将棋の純文学とよく言われるけど、その言葉自体にそれほど深い意味はないとも思うし、様々な解釈ができる便利な言葉だ。俺個人としては純文学なんてどれも似たようなものだと思っているので、矢倉は誰が指しても同じ局面になりやすいという意味で純文学なんて例えになっていると解釈したい。

 

あいも8六香から8七香成、もう一度8六香と天衣の玉頭を執拗に攻め続けるけど、9八玉と躱されてかなり苦しい。……俺は躱す判断が苦手だけど、天衣は上手いんだよな。天衣はその後、飛車と香を補充し、1三歩成と桂を取る。同玉に1一飛車打で、あいは天衣が見逃してくれないことを察し、投了した。

 

天衣対あいの対局は、最終局面だけ見たら矢倉の原型が残っている天衣に対し、矢倉の原型なんて欠片も残っていないあいという、かなり差がある終局図に見える。まあ天衣の方も、玉頭には火が付いている状態だけど、まだこれかなり耐えられる形だからな。

 

これで天衣は女王への挑戦権を獲得し、空さんとの5番勝負に挑む。今まで無敗だった空さんに、初黒星は付けられるだろうし、女王のタイトルは勝ち取って欲しい。……着物の着用に関しては、気を付けるように言うしかないか。袖が当たるとか、原作であった反則負けだけはさせないようにしたいし、天衣の背が低いことを考慮はするよう会長には話しておこう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三冠

盤王を名人から奪取した結果、賢王、棋帝と合わせて三冠となった。賢王を月光会長から防衛し、しばらくは三冠が続くのでテレビのニュース番組とかだと大木三冠が定着している。現時点での八大タイトルは、俺が棋帝と盤王と賢王の三冠、名人が玉座と名人の二冠。後は九頭竜竜王、生石玉将、於鬼頭帝位という状況。

 

……生石玉将は、無事に玉将を防衛しました。これで影響が出るのは女王戦で、原作では玉将戦が長引いたせいでリソースが女王に割けなかったけど、今回は天衣と空さんのタイトル戦ということで凄く盛り上がっているし、日程にも余裕がある。別に、空さんと天衣に確執があるわけじゃないというのも大きい。奨励会試験の時に一度指しただけだし。

 

天衣は小学5年生となり、クラス替えがあって親しい友人とは離れてしまったようだけど、小学校は小学校で上手くやっている模様。師匠とは違い、優秀な弟子である。まあ単純にお嬢様学校だから、精神年齢の高い子が集まるという理由もありそう。

 

小学生で、既に8桁稼ぐのが確定しそうな勢いなんだよな。このまま女王を奪取すれば、優勝賞金500万円が上乗せされる。棋帝戦より高いのは、このタイトルの注目度が高い証だ。

 

4月になったことで、三段リーグもついに始まる。椚が全勝するなら、2位は15勝3敗ぐらいでの通過になるかな。出来れば鏡洲さんに抜けて欲しいけど、俺がいたせいで三段リーグを抜けられなかった人や、三段リーグを抜けるのに時間がかかった人は存在するから、どうなるかは怪しい。

 

(椚、鏡洲さん、辛香さん、坂梨さんの4人は2連勝スタートか。……坂梨さん強くね?)

『原作でも4連敗から奇跡の14連勝で次点を獲得してプロになった男ですよ。……これは、鏡洲さんの勝ち抜けが相当厳しいですね』

(前期は坂梨さんの方が上の順位だし、椚が全勝しそうな以上、坂梨さんより一つ多くの白星を稼がないといけないわけか。空さんが居なくなるだけで、全く読めなくなるな)

『そもそも、本来なら既に2連敗して交差点で泣き続ける男が2連勝で勢いに乗ってますからね』

(その言い方は止めろや)

 

前期の順位は、プロになった人を除くと坂梨さんが2位の14勝4敗で鏡洲さんが13勝5敗の4位。やっぱり、俺がいたせいで本来は上がれていた人の枠が1つ潰れていて、それが影響してそうな雰囲気はある。

 

長い三段リーグは、これから半年かけて行なわれる。半年後、誰が上がっているかはアイでも分からない。

 

『椚と坂梨さんの連単は倍率幾らでしょうね?』

(じゃあ俺は、椚と辛香さんと鏡洲さんの3連単で。誰か賭けてくれる人いねーかな)

 

鏡洲さんが新人王戦で優勝した経験自体は変わってないので、それで次点は1つ獲得している。だから鏡洲さんは3位でも、昇段は出来るのだ。逆に坂梨さんは、前期で3位をとってないのでまだ次点を獲得していない。だから3位でも、原作通りに昇段することは出来ない。

 

誰が上がるか、誰かと賭けたいなと不謹慎なことを考えながら、玉座戦の決勝トーナメントでA級棋士の1人である白石九段と戦う。去年は名人にタイトル99期目を獲得させるため、ストレートに負けた玉座戦だけど、今年は当然タイトルを狙いに行く。名人が複数冠じゃなくなるの、いつ以来なんだろう?

 

『この人も、名人の被害者ですよね』

(そうだな。そしてこれからは、アイの被害者になる。……タイトル戦だらけになるなら、3番手直りは反対かもしれん。忙し過ぎて、対局中に寝るのが当たり前になるかもしれないし)

『……既に何回か寝ていることには突っ込んでも良いですか?』

(相手の考慮時間だけ、寝たいな。パシッて音で毎回起きられるよう、訓練しようか?)

 

角換わりのスペシャリストだけど、既に年齢的にはベテランの域に入って来ている白石さん。まあプロ21年目だし、若手の範囲が広い将棋界でももう若手ではないわな。しかし途中から勝てる気がしなかったのでアイにバトンタッチ。形勢的には互角かもしれんが、中盤の山場に入ってもまだ互角ということはいつか交代しないといけない。

 

『ノータイムじゃなかったら、8三歩と打ち込む前に考え込めたんじゃないです?』

(かもな。だけどノータイムだと、そこしか見えなかったんだよ。……やっぱこれが悪手か)

『悪手というほどのものではないですが、好手ではないですね。この後は、サックリと殺って良いんです?』

(どうぞお好きに。もうすぐ電脳戦だし、フルボッコでも良いぞ)

 

最近は忙しくなったせいで、ゲームを夜中にしかプレイすることが出来ない。そのため、試合中はうとうとすることが多くなった。何か俺のファンが俺のプレイしている全ゲームのログイン時間を把握していて、睡眠時間や生活リズムを割り出そうとしていたけど、ログインだけなら寝ながらでも出来るんだよなあ。最終的には「やはり大木は人間ではなかった」と纏めていたけど、立派な人間です。

 

対局の方はお互いに腰掛銀の形になって、先手の俺から仕掛けた後でアイに交代。互角の状態からアイに引き継いだ時の安心感はヤバい。ある程度は将棋を楽しめるし、個人的にはここを妥協点にしている。

 

交代後、明らかに指し手が異様になって詰ますための最短経路をひた走るアイ。これ、やっぱり世間からはソフト指しに見えるかもしれないな。今年もソフトに勝ったら、そういう風潮はまた払拭出来ると思うけど、負けたらヤバそう。

 

……そろそろ原作では、スマートフォンなどの電子機器を対局場に持ち込めなくなる。だけど今年の棋士総会でそういう話は持ち上がらない予定だと月光会長から聞いたし、まだソフトがプロ棋士に追い付いていないという風潮は大きいな。

 

最終的にアイは、相手に一切の攻めを許さず勝ち切った。A級棋士に、形作りすらさせないアイさんマジ鬼畜。そんなんだから鬼畜ロボだの感情の無い殺戮マシーンだの言われるんだよ。

 

『注文通りに勝ったのに酷すぎません?横暴ですよ?』

(じゃあこんなあだ名が出来ないようにして)

『負けてもよろしいので?』

(それは嫌です。うーん、A級棋士相手で手を抜き過ぎるとこっちがやられるから色々と難しいな)

 

玉座戦はこのまま勝ち抜けそうだし、後は竜王戦だけど、今年は歩夢が神懸かり的な強さで勝ち進んでいるから譲っておこう。……原作で、九頭竜の2度目の防衛戦はいつになるか分からないけど、たぶん相手は歩夢だと思うの。

 

あと純粋に、玉座を含めて4冠になると忙しさがヤバい。これで竜王含めて5冠になったら、過労死する。ゲームをやめるという選択肢は選べないから、イベントで寝る姿が散見されることになる。仕事は基本断れないし、それは不味い。

 

……とりあえず、九頭竜が永世竜王を獲るぐらいは泳がせておいて良いんじゃない?九頭竜竜王がただの九頭竜九段になったら、しわ寄せが全部こっちに来るんだよ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

グーグル先生

賢王戦が早くに終わったため、将棋電脳戦を前倒して前年度と同じ時期に開催することが決まった。というか、賢王戦の第5局、第6局、第7局の開催場所をそのまま将棋電脳戦に流用される模様。ソフトはソフトの大会があって、そちらは一発勝負だから決着が早い。今回の対戦相手は、グーグル先生が開発したアルファ碁の上位互換であるアルファゼロだ。将棋の他に、囲碁やチェスが出来るスゲー奴。

 

アルファゼロはグーグル先生の膨大な資金力の下で開発され、1億局の強化学習を行なったそうで、アイさんにとっても強敵である。そして第1局は、長期戦になった。お互いに居飛車で、飛車が浮いた状態で戦っているけど、じわじわと自陣の支配領域を広げるような戦いだ。間違いなく、人が指すような将棋ではない。100手目を過ぎても、まだまだお互いの陣地に敵の駒が少ないってどういう将棋だよ。

 

終始アイは間違えず、ゆっくりとアルファゼロの玉を詰めていく。気持ちの悪い将棋は、最後にアルファゼロが思い出王手を仕掛けてきたせいもあって213手と長手数の対局になった。思い出王手とは言っても、下手な逃げ方をすればすぐに詰んでしまう怖い思い出王手だったけどな。

 

(思い出王手を仕掛けてくれると、気持ちが楽になるな)

『それでも、気は抜けませんけどね。思い出王手の質も上がってますよ。変に安全な方へ逃げようとすると、相手玉の逃げ道が出来ますし』

 

アイも時々持ち時間を使ったけど、最終的には23分しか使ってない。とりあえず第1局に勝ち、世間的にはまだソフトは人に勝てないんだという思想が広まったけど、プロ棋士やアマ高段者であれば誰もが俺のことをヤバいと認識した。本来であれば、人は勝てるはずもない対局だからな。

 

電脳戦は3番勝負なので、次も勝てばそれでおしまい。女王のタイトル戦は、集中して観戦することが出来そうだな。ちなみにこの女王のタイトル戦で、あいが記録係をする模様。原作では天衣とあいが同門だから成し得なかったことだけど、同門じゃないから出来てしまうのか。

 

 

 

 

 

大木が将棋電脳戦で世間を賑わせている裏で、九頭竜は月光会長に頭を下げていた。

 

「第1局と、第3局。それから、第5局での記録係を雛鶴さんへ回すことになりました」

「ありがとうございます!……第5局も、ですか?」

「おや?竜王も、夜叉神さんの実力は把握済みでしょう?空女王が、必ず3連勝で終わるとは私には思えません。それに雛鶴さんが記録係をする対局は、竜王が解説役をしてくれるというのであれば、連盟としても非常に助かります」

「……残りの2局は、大木が解説役ですか?」

「いえ、大木三冠は対局日程の方が詰まっているので女王のタイトル戦日ぐらい休みを与えないと過労死しますよ。……あの弟子は、幾ら言っても徹夜のゲームを止めてくれませんからね」

「あはは……大木にとって、ゲームは呼吸みたいなものですから取り上げたら発狂しますよ」

 

あいの記録係の件は、九頭竜があいのために頼み込んだことで成し遂げられた。少しでも弟子にタイトル戦の空気を味わって欲しいという、師匠の我が儘みたいなものだ。しかし現状、記録係と解説役がセットでやって来るなら連盟としては大歓迎であり、月光会長は出来るのならば全対局を九頭竜師弟に任せたかった。

 

連絡事項を伝え終わった後は、世間話に入る。月光会長から、九頭竜に伝えたいことがあったからだ。

 

「前に、名人について語ったことがあったんですよ。ちょうど、竜王のタイトル戦の時ですかね。

彼は20年前に七冠を独占した日、本心を語らなくなりました」

「……師匠から、その話は聞きました。プライベートも、明かさなくなったって……」

「ええ。ですが、そちらは隠したから本音を感じ取れなかった。対して大木三冠は、隠そうともしていないのに、タイトル戦中、何も感じなかったんですよ。賢王戦の第2局から、第4局まで」

「……それは、俺も感じたことがあります。昔は底冷えするかのような冷たさを感じていましたけど、最近は何も感じません。何も感じないことを感じるって、少し変な表現ですけどね」

 

名人はプライベートを語らなくなったのに対し、大木はどちらかというとプライベートをオープンにするタイプだ。SNSなどでも、結構な頻度で情報を発信する上、プロ棋士としてあまり好ましくないようなゲームもプレイしていることを公にしている。

 

会話も普通の人と何ら変わりなく、時間やマナーをキッチリ守る人間のため、大木は真面目な人間にも好印象は与えやすい。しかし大木と対戦したプロ棋士は、全員が一度は感じることになる。大木は、これほどまでに凄い将棋を指すのに、将棋に対して何も思っていないと。

 

「ですが、第1局は違いました。あの時の大木の姿はニコ生でも放送されていましたが……とても楽しそうでした」

「やはり、そうでしたか。……将棋の時だけ、人格が変わるのは分かります。そういうプロ棋士も実在しますし、珍しくもありません。しかし、対局毎に人格が切り替わるのは流石に聞いたことがないですね」

「……棋力が違う、二重人格?」

「そういう結論に、なってしまいますよね。片方は恐らく、中学生名人になった大木晴雄本人。もう片方は……最強のソフト、アルファゼロに勝ててしまう将棋史上最強の棋士です」

 

ソフト開発者の懇願により、前年度の電脳戦に出たソフトと、関西棋士5人が非公式に戦ったことがある。その中には生石玉将や月光会長も含まれていたが、結果はプロ棋士側の1勝4敗。唯一勝った生石玉将も、ソフト嵌め手を使わなければ勝てなかった。既にプロ棋士や奨励会員の間で、ソフトが人類を超えているのは周知の事実だった。

 

その前年度代表のソフトを相手に、アルファゼロの勝率は9割を超える。膨大な資金から生み出され、研究者達も史上最強のソフトだと信じて送り出した。しかし大木相手に一方的な戦いの末、敗れた。

 

九頭竜と月光会長は、大木の棋力に二面性があることに気付く。どちらが本性なのか、何となく察しはついていた2人だが、確信に至ることは無かった。1つ言えることは、大木がアルファゼロに勝ったあの実力を遺憾なく発揮すれば、大木を止められる人間は誰もいないということ。

 

九頭竜は、大木の位置を正確に把握していた。しかしながら、その姿は全速力で自分から遠ざかっていた。自分が全速力で追いかけても、なお遠ざかる相手。九頭竜自身、時々ショートカットはしているものの、まるで追い付ける気がしなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女王戦前夜祭

将棋電脳戦の第2局を迎える前に、大阪の通天閣で女王戦の第1局が指される。タイトルホルダーである空さんに挑むのは天衣で、構図だけなら原作再現だろう。

 

ただし、中身はかなり違う。空さんは奨励会三段ではなく、まだ奨励会二段。そして天衣は、色々と俺の影響を受け、現在奨励会初段。

 

俺は互角だろうと思っていたけど、既に天衣の実力は空さんを僅かに超えているとアイは判断している。だけどその僅かな差は、タイトル戦の経験の有無でひっくり返ってしまいそうなぐらい僅かな差とのこと。

 

一応、原作通りの反則負けをしないように袖にだけは気を付けろと念押ししている。まあ、将棋の内容が違うだろうからそう簡単に同じような盤面が再現されて、反則負け、ということにはならないと思いたいけど。

 

そしてその女王戦の前夜祭は、スパワールドで行なわれる。既に対局場の検分で空さんと少し一悶着があったけど、原作よりマシな流れになったんじゃないかな。通天閣の対局場を天衣が暗いと言えば、照明が追加で足されて、空さんが白い駒を選んだら、それに天衣は文句を言わなかった。

 

ただそれでも厚い将棋盤を使うことになった時、空さんは天衣に「子供用の椅子を用意して貰ったら?」と挑発していたから、若干空気は悪い。まあ原作ではこの時点でギスギス度がMAXだったから、それよりかはマシだ。たぶん。

 

『空さんが白い駒を選ぶ時に、老眼だの白が嫌いだの言わなくて良かったですね』

(別に天衣自身、今の空さんに敵意を向ける必要がないからな。孤立が損だということ、今回は誰よりもよく知ったはずだし)

『……奨励会の棋譜は、基本的に外へ流出しません。しかし、指した相手は憶えています。空銀子がどういう成長をしたのか、どういう将棋に弱いのか、人付き合いが良くなった天衣にはその手の情報が流れ込んで来ました』

 

揮毫では空さんが「排除」と書いたのに対し、天衣は「挑戦」だった。空さんの「排除」は「駆除」よりかはマシじゃない?五十歩百歩か?

 

「まあ、お互いに仲良くできる雰囲気ではないか」

「姉弟子もあと一期でクイーン女王だから、気が張っているというか何というか……」

「……九頭竜は、空さんの応援?」

「それもあるけど、俺が第1局と第3局と第5局の解説役をするんだよ」

「ふーん。第5局まで、あると思ってるんだ?」

「……それは、どっちの意味だ?」

「いや、九頭竜なら空さんの3連勝を疑わないと思っていたからさ」

 

前夜祭には九頭竜とあいの姿もあり、明日は解説役と記録係で頑張る模様。俺はこの2日間、一切働かないからな。スパワールドを楽しみつつ、弟子が頑張る姿を応援する予定。

 

対局者挨拶が終わった後の質問コーナーは、空さんが開始15分で姿を消したので天衣が頑張って1人で受け答えしている。普段の天衣を知っていると、猫被り頑張ってんなーと思えるぐらいには猫被ってる。色紙のオークションでは、天衣の「挑戦」色紙が18万円で落札された。

 

……晶さんが途中で「大木先生ェ!10万貸して下さい!」と言ってきたので、言葉通り10万円の融資をしたら無事落札しやがった。最後は1対1のデッドヒートだったから、無駄に吊り上がった気しかしない。というか書いて貰えよ。そろそろ家族や親しい人になら、無償で書いてくれそうなんだけど。

 

挑戦者の色紙がタイトルホルダーより高いのは、空さんファンにとって許されないことのようなので、空さんの色紙も同じように値段が吊り上がる。こういうので、空さんの人気の高さが分かるな。

 

『この後、九頭竜が裸踊りしますけど参加します?』

(絶対ヤダ。酒飲みの介護は九頭竜に任せて自室でゲームすりゅ)

『……最低の屑人間の発想ですね?』

(今日は完全にオフ日だもん。最近マジで対局とイベントが多くて過労死しそう)

『名人は、もっとハードなスケジュールをこなしていたそうですよ?』

(人外と比べないでくれ。あの人が神だの何だの言われてるの、そういうの込みでだから)

 

酒飲みどもの宴会はスルーして、さっさと自室に引き上げる。……九頭竜は裸踊りをするはずだけど、原作とは違ってあいが前夜祭にいるからやらないのかな?どっちにしろ長居する理由も無いし、さっさと撤退だ。

 

その撤退するタイミングで天衣を囲んでいる記者達に、そろそろ翌日の疲れになるからと言って解散させた。普段から媚は売っているので、こういう時は融通が利く。

 

「いよいよ明日が初めてのタイトル戦なわけだけど、沢山緊張しろよ?」

「……緊張するな、じゃないの?」

「緊張するなと言われて、緊張しなくなる人間なんていねーよ。それに初めてのタイトル戦以上に、人生で緊張する場面なんてそうはないからな。その緊張感は楽しまないと、色々と勿体無いぞ」

 

天衣に疲れは見えないけど、若干の緊張はしていた。それを表に出さないようにしているのは凄いし、小学生離れしている。

 

「師匠も、初めてのタイトル戦は緊張した?」

「まあ、少しだけな。というか初のタイトル戦になった棋帝戦は、相手の方が緊張してたわ」

「篠窪八段ね。……まだ若くて、初の防衛戦だったのに、相手が師匠だったのは可哀想ね」

 

天衣を天衣の自室まで送った後は、俺も自室に戻る。新しく課金して手に入れた廃スペックノーパソは、ノートパソコンなのに容量の大きいオンラインゲームでもサクサク動く。買って良かった。めっちゃ高かったけど。

 

その後、ほぼ徹夜で起きていた俺は、朝になって同じくほぼ徹夜だった九頭竜と会う。後ろには、二日酔いでフラフラしている清滝先生と、清滝先生よりお酒を飲んでいたはずなのに普通にしている蔵王先生の姿が。昔の棋士って、色々とヤバいな。

 

記録係を務めるあいも、和服姿で登場。旅館の女将の娘なだけあって、なんかやけに似合っている。それ以上に、天衣の黒紅色の振袖と深紅の袴は、雰囲気的にもぴったりで恐ろしいぐらいに美しかった。

 

『見惚れるなロリコン』

(うるせえ。記者陣ですら天衣の雰囲気には呑まれてただろうが。

俺の反応がロリコンなら、この場にいる全員がロリコンだよ)

 

天衣の着付けは、あいが手伝った模様。晶さんも出来るみたいだけど、お高い振袖が鼻血で染まる恐れがあったし、あいの方が着付けは上手そう。先に対局室に入場した天衣は、そのまま分厚い将棋盤の前に正座する。……足付八寸盤は、やっぱり天衣にとっては明らかに大きいな。

 

袖には気を付けろと何回か言ったのでたぶん原作通りの反則負けはしないと思うけど、そうでなくてもこれは盤面を崩したりしそう。まあこればかりは、仕方なかった。しゅーまい先生渾身の将棋盤だからな。そう簡単に、値段が付けられないような代物だし、交換することも出来ない。

 

初のタイトル戦の天衣に対し、空さんは慣れた様子で天衣の対面に座る。余裕があるというか、場数をこなしているのは大きいよな。お互いに準備はして来ただろうし、この第1局の勝敗は大きい。空さんにタイトル戦初の黒星を付けられるか、持ち時間3時間の対局が始まった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女王戦第1局

定刻通りに始まった天衣の初めてのタイトル戦は、天衣の先手で始まる。……原作では、空さんが先手だっけ?

 

あ、振り駒を記録係になれたあいが行なったから、先手後手が入れ替わったのかな?あいも、狙った方に先手を出しそうな雰囲気があるし、空さんと天衣だったら天衣に先手になって欲しかった可能性がある。単純に、何も考えずに振ったら天衣が先手になった可能性の方が高いけど。

 

対局場は通天閣の3階で、関係者控室は2階に設置された。ちなみに九頭竜が行なう大盤解説は、地下でだな。

 

記者達からの質問をアイの台本通りに答えていると、九頭竜とあいが連れて来たJS研の面子が関係者控室に入って来た。部屋内のJS度が一気に上がり、思っていた以上にはしゃいでいる。こりゃ悪目立ちするし、またいらんことを記事に書かれそう。

 

「ありがとうございます!うちは、うちは九頭竜先生に夢を叶えてもらえたです!いつもお家に泊まらせていただけるだけでも夢のようなのに……。九頭竜先生のためなら、うちどんなことでもするです!」

「あああ綾乃ちゃん!?ここには将棋関係者がいっぱいいるからね!?比喩表現は穏やかにね!?」

 

腐女子のJSにどんなことでもすると言わせた九頭竜を早速記事にする記者も現れた。……俺がいなかったら、全員が九頭竜の方に注目するんだろうな。

 

この後はシャルちゃんが「ちちょーは、いつけっこんしてくぇますか?」と言ってさらに一悶着あったけど、盤面に早くも動きがあったので九頭竜は命拾いした。天衣が振り飛車から、居飛車に戻したからだ。原作の女王戦第3局であった二手損居飛車だけど、今回のはちょっと違うかもしれない。

 

どちらかと言うと、陽動振り飛車から着想を得た陽動居飛車だ。先手番の利を放棄することにはなるけど、確実に空さんの知らない将棋に引き込めている。何よりヤバいのは、ここまでの天衣がノータイムということ。ここら辺は、事前研究通りということか。

 

「……大木の弟子は凄いな。俺でも初めての竜王戦は緊張で早指しなんて出来なかったぞ」

「いや、天衣も緊張はしてるぞ?その緊張感を、笑顔で楽しんでいるだけだ。出来た弟子だよ」

 

観戦記者の供御飯さんが最後まで九頭竜のJS研について質問していたけど、派手な動きから形勢が傾き始めたのでマジで九頭竜は命拾いしている。まあでも、この時点では手数の差で空さんが有利か。

 

『この場面での長考は、長くなりそうですね』

(経験則からの最善手を、上回ろうとしているな。……駒組みが終わって、1番持ち時間を使いたい場面だから仕方ないけど、終盤は時間で苦しみそうだぞ)

 

天衣は持ち時間3時間の対局を、あまり指したことがない。俺との指導対局で、長時間考えても良い対局の時は持ち時間無制限で行なっている。経験則からの最善手を超えるには、時間をかけて読み切る必要があるからな。

 

「両対局者の注文した昼食が届きました!

挑戦者は松花堂弁当、空女王がシチューうどんかやくご飯付きです」

 

運営スタッフが2人の食事を持ってくると、パシャパシャと記者達はそれに群がって写真を撮る。タイトル戦だと見慣れた光景だな。俺のタイトル戦の場合、何故かハーゲンダッツの写真が量産されることになる。

 

で、記者達がシチューうどんを知らなかったので九頭竜が説明すると同時に、空さんとの思い出話を話す。そんなんだから女性関係がどんどん怪しくなっていくんだよ。そして九頭竜の思い出話もしっかりメモする記者達。抜かりはない。

 

(二手損居飛車で、結局お互いに矢倉を組むなら利はほとんど無かったか)

『いえ、そうでもありませんよ?将棋に絶対はありませんし、矢倉なら天衣も得意です。どこかの誰かさんが、端攻めの極意を教えたお陰ですね』

(……まあ、端攻めの手順はほとんどパターン化しているからな。っと、端攻め開始か。手損している分は、確実に不利だな)

 

将棋は天衣の陽動居飛車から、結局お互いに矢倉を組むことになり、都合空さんは1手、天衣は2手の損をしている。それでもお互いに矢倉を組み上げたのは、矢倉なら相手に勝てると両者が思ったからだろう。天衣は相手が相振りを拒否したのに、陽動居飛車にしたのは単にやりたかっただけかもしれない。

 

天衣とあいの対局も矢倉だったし、空さんはその棋譜を見ているはず。ただ、天衣も空さんの棋譜は見ている。……空銀子を潰す会の面々で、まだ奨励会員の人達に空さんの棋譜を教えて貰ってすらいたからな。その中には当然、矢倉の棋譜もあった。

 

今までのタイトル戦の棋譜も残っているし、天衣の性格上、その棋譜もチェックしているはず。事前情報がものを言う矢倉同士の戦いで、この差は大きい。……一つ懸念事項があるとすれば、空さんの棋風は淡々と受けられるという点でわりとアイに似ているってことか。実力自体は、雲泥の差だけど。

 

 

 

(すごい……。こんなに集中している天ちゃんを見るの、初めて……?)

 

天衣と空銀子の対決を、最も近くで見ているあいは2人の創り出す空気に翻弄されていた。そしてあいは、気付いてしまう。この前の本戦決勝で、天衣はこれほどまでに集中していたかと。今の天衣は、耳の先まで真っ赤にして、両手の指を交互にさせて自分の前で握っている。大木がたまに、対局中にする仕草だ。

 

対局は互角のまま、互いに端攻めを開始している。本来ならば空銀子の方が1手先を進んでいるはずなのだが、今の時点で、既に天衣の方が1手勝ちをしているようにあいには見えた。形勢的には、空銀子が不利に傾いていく。

 

しかしそれでも、空銀子は淡々と受けに回る。天衣は自身の攻めが、効いてないかのような錯覚を受けた。

 

(……師匠と指している感覚に似ているわね。私がどんな攻めをしても、全く効いていないように見える。だけど今目の前にいるのは、師匠じゃないのよ!)

 

機械のように正確に受ける空銀子を見て、細い攻めは潰されるだけだと感じた天衣は、駒を補充しに行く。矢倉対矢倉の戦いは、お互いに端を突破したのにも拘わらず、大駒が働けない持久戦に移行していた。

 

空銀子は機械のようだと天衣は感じた。だが、それでも慌てることは無かった。師匠である大木は空銀子より遥かに正確な機械であると同時に、機械をいたぶり正確な守りをぶっ壊す様を、天衣はその目で何度も見ていたからだ。

 

1三角成と、天衣は馬を作る。ソフトの評価値は、天衣の優勢を示していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

崩御

(あー、こりゃ天衣が勝つな。将棋界が揺れるわ)

『空さんの女流棋戦の成績、5年間で55戦55勝でしたよね?負けた時にどうなるかは、ちょっと分からないですねえ』

(そう言えばタイトル戦で、空さんは負けた経験が無いのか。立て直すの、時間がかかりそうだな)

『第2局までに復活している可能性は、低いかもしれません。この調子で天衣には、空さんが立ち直る前に3連勝して欲しいところです』

 

天衣が角道をこじ開け先に馬を作り、明確に天衣の有利が確認出来た所で関係者控室を出ようか迷う。ここの連中、空さんが負けそうだと分かった途端に活気づいて来て、1強状態の嫌な部分をまじまじと見せつけられたよ。

 

「大木先生は、よく胸の前で両手の指を交互に組んで祈るような仕草をしていますが、何か意味があるのでしょうか?」

「いえ、特に意味は無いですよ。子供の頃の癖ですね。きっかけは対局中手持ち無沙汰の時、手が勝手に動くのを封じるためだったと思います」

 

『よくそんな嘘が言えますね。本当は、相手がミスをするよう祈っていたアマチュア時代の癖が抜けてないだけなのに』

(流石に前世のことは無効にしてくれないか?今とは別の次元で指していたわけだし。というか台本は、まともなのを用意しろ。相手のミスを祈るためとか怖くて言えんわ)

 

九頭竜が大盤解説に行き、JS研もいなくなった今、観戦記者の供御飯さんの質問を受けるのは俺だ。観戦記者モードでも九頭竜LOVEを隠し切れていない供御飯さんだけど、仕事はきっちりとこなしている。……この人も、空さんが負けるのは複雑な気持ちだろうな。

 

対局は、天衣が有利なまま少しずつリードを増やしていった。苦しくなってからイマイチな手が続く空さんだけど、覚醒前ならこんなもんなのか?

 

『結構、天衣の指し手は悪くないですよ?端攻めをしつつ、自陣の隙はほとんど作って無いですからね』

(いや、天衣も端は突破されてるじゃん。そこだけみたら、隙だらけだぞ?)

『そういう意味じゃなくてですね……単純に、天衣の玉を縛りにくいと言えば良いでしょうか?』

(そのぐらいは分かるが?……まあ確かに、天衣の玉は広いな)

 

空さんは銀を天衣の陣地に打ち込むものの、天衣も持ち駒の角を自陣に打ち込み、行き先を封じられてその銀は詰んだ状態になった。重いように見えて、これが最善手だろうな。空さんはこの銀の打ち込みが最大の悪手となり、天衣の優勢は絶対的なものとなる。結局、その後は反撃もなく空さんは撃沈した。

 

今まで空さんが5年間、積み上げて来た白星は今、天衣の評価を上げるだけの存在になっている。記者達も、ほとんどが天衣を撮っていた。一部の記者は、深く項垂れている空さんを撮っていたけど。

 

(……?

何で今、シンデレラみたいだという言葉が記者達の中で出たんだ?)

『まだ天衣は、神戸のシンデレラとは呼ばれてませんよ?何か勘違いしてません?』

(……ああ。女流棋士にはなってないから、そこら辺は違うのか。でもまあ、神戸のシンデレラに決まりそうだな)

『止める必要も、ありませんからね。強くなると、あだ名が増えるのは諦めるしかありません』

(流石にソフトイーターだの鬼畜生ロボだの言われるのは勘弁して欲しいけどな。九頭竜は九頭竜でロリコン無双とか言われてるし)

 

女王戦の第1局は天衣の勝ちとなり、あと2勝で女王奪取となる。日程を確認すると、第2局が終わった後で奨励会の例会日を迎えるな。この日に昇段対決もあるだろうし、今月だけで天衣は空さんと何局指すんだ。

 

「お疲れ様。最後まで指しきった後、記者達の質問に笑顔で答えられたのは良かったぞ」

「……将棋の方は、褒めてくれないのね」

「そりゃ、空さんが自滅した形だからな。二手損居飛車もただの手損で終わってるし、褒められる内容は少ないぞ。タイトル戦で、実力を出し切れたのは天衣の凄いところだけど」

 

対局場から戻って来た天衣は、褒めたら褒めたで怪訝な顔をするし、塩対応だと悲しそうな顔をするのでその中間ラインで褒めつつ咎める。まあでも、今日は不慣れな格好と大きい将棋盤を使用した中、頑張ったんじゃないかな。

 

一方で空さんは、フラッと対局場を出る。このまま消えてしまいそうだけど、九頭竜が追ったからたぶん大丈夫。そのまま実家に連れ帰って、イチャコラしてろ。

 

(お?名人戦、名人が2連勝しているんだが?)

『本来なら、フルセットの末に防衛してタイトル通算100期目でしたか。……このまま4連勝したら、大きく流れが変わりますね』

 

名人戦の第7局の日は、原作では九頭竜と空さんが実家に帰った日だけど、まあその日は何も起こらないだろうな。今の名人の調子を見てると、本当にフルセットになるかも怪しい。何でこの人、衰えるどころか強くなってるんだよ。

 

(空さんが構ってムーブするの、いつになるだろ?)

『空さんも、強化したいんです?』

(……空さんは相対的弱体化が起きてるし、せめて九頭竜との仲は発展させておきたい)

『……我が儘ですねぇ。もう慣れましたけど。

原作でも構ってムーブだったと自覚していますし、追い詰めたらそれだけで自殺未遂してくれそうですよ?』

 

空さんの自殺未遂「私を殺して」イベントは追い詰めたら勝手に起きそうな気がするし、九頭竜に空さんの動向を注視するよう言っとけば何とかなりそうな気もするけど、どうだろうか?もしかしたらこの第1局の後、福井にある九頭竜の実家に帰る?

 

……いや駄目だわ。九頭竜から空さんとラブホに入ってしまったとかライン来たわ。そういえば正月にしゅーまい先生が空さんへアドバイスして無かったから、桜ノ宮のラブホイベントは発生して無いのか?

 

もしかして、空さんを九頭竜が追いかけた後にしゅーまい先生と何かあったのか?しゅーまい先生は今回の女王戦第1局の盤の製作者だし、一声かけるぐらいはあったかもしれない。で、しゅーまい先生は酒が抜けている日の方が珍しい。負けた空さんに、何を言ったのかはラブホというワードで大体想像が出来た。

 

……どうせならあの2人、そのままヤっちゃえば良いのに。近くで見ていると、相思相愛なのにすれ違い過ぎていてやきもきする。でもこれなら、第2局までには立ち直るのか?

 

『一度立ち直った後で、天衣相手にまた負けたら本当に自殺するかもしれませんね』

(怖いこと言わないで。天衣がタイトルを奪取するなら、空さんはあと2回負けるんだよ。

目の前の問題から目を逸らすために、電脳戦の第2局のことでも考えるかあ)

『目の前の問題から、目下の問題に切り替わりましたね。というか誰ですか?電脳戦中でもソフト側のアップデートを許可するというアホみたいな制度に変えた人』

(たぶん月光会長。まあ人もタイトル戦中に成長することはあるし、ソフトにそれがないのは不公平という風潮のせいだな)

 

女王戦と電脳戦は、同時並行で行なわれる。しばらくの間は、将棋界の話題を師弟で独占出来そうだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

持将棋

電脳戦の第2局が京都の二条城で行なわれ、大木は疲労が隠せない表情で1102手目を指す。相振り飛車で始まった将棋は、お互いに陣地を削り合った後、持将棋になった。その時のアイの慌てようを、大木は見たことが無かった。

 

『先手番なのに持将棋狙いってマジですか!?あと1週間で更なるアップデートでもする気です?』

(……点数的には、こっちが有利じゃね?)

『当然ですよ。歩を2枚分、こちらが駒得していますから』

 

アルファゼロは先手番で、勝ち目を失った結果、持将棋を狙った。引き分けになれば、また次の対局までにアップデートが出来る。

 

しかしながら、ギリギリで気付いたアイはアルファゼロの持ち点を少しでも削るために駒得を図った。そうして互いに入玉を果たしたが、持将棋にはならなかった。アルファゼロ、即ちソフト側が持将棋に同意しなかったためだ。

 

互いに成駒を多く作った後の、持将棋不成立は前例が少ない。大木とアルファゼロはその後、ひたすらと金を作っては自陣まで持ってくるという地獄のような将棋を続け、最終的には一枚ずつ守りの駒を丁寧に剥がした大木が1102手目で勝利した。戦後最長手数の将棋である九頭竜対歩夢の402手は、ダブルスコアで更新される。

 

勝っても負けても、ほとんど消耗した姿を見せない大木が、今日だけは疲れ切っていた。

 

 

 

 

 

【ソフトイーター】大木晴雄の次の対戦相手に黙祷を捧げるスレpart1061【鬼畜生ロボ】

 

220:名無し棋士

千手超えってなんだよ……

 

221:名無し棋士

大木じゃなかったら翌朝までかかってたな

 

222:名無し棋士

アルファゼロを相手に完勝?

 

223:名無し棋士

アルファゼロのお陰で久しぶりに大木の夕食シーンが見れた

 

224:名無し棋士

あの状態から勝ち切るのか……

 

225:名無し棋士

結果的に持将棋には同意した方が良かったな

 

226:名無し棋士

大木晴雄の自宅が知りたい

誰か住所教えて

 

227:名無し棋士

大木死ね

 

228:名無し棋士

化け物ソフトに勝てるって、普段は力抜いてる証拠だよね?

人間の屑だろ

 

229:名無し棋士

JSの弟子にダイヤのネックレスあげるとか気持ち悪い

 

230:名無し棋士

まだ応援スレで荒らすやついるのかよ

アンスレなら悪口言っても良いって本人が言ってるんだから、アンスレ行けや

 

231:名無し棋士

大木のアンチスレはここな

【カンニングで得た三冠】大木晴雄アンチスレッドpart9【ロリコン性犯罪者】

 

232:名無し棋士

最近はW○Wsに嵌った大木晴雄

@haruo ooki

アンチスレは見ないから悪口書いても良いけど、応援スレとか目に見える範囲に入って来て荒らしをしている人は不快だったので開示請求して訴えました。

 

最終的に荒らしは2人で11個の端末を使って書き込んでいたことが判明したので、その2人とはかかったお金+示談金で和解しました。

あ、報告は以上です。

 

233:名無し棋士

>>232毎度乙

荒らしを脅して逆に炎上する奴なら多いけど、訴えました和解しましたという過去形なのが強いわ

 

234:名無し棋士

悪口は全部単発の時点でお察し

 

235:名無し棋士

でもJSの弟子にダイヤのネックレスは……

 

236:名無し棋士

>>235

九頭竜とか500万円はする将棋盤をJSの弟子に渡してるぞ

 

237:名無し棋士

誰か将棋の内容は語れないのか?

 

238:名無し棋士

序盤から異次元だったから無理

人間の指す将棋じゃない

 

239:名無し棋士

終盤のと金を作っては引く作業が見ていて面白かった

指している本人は地獄だっただろうけど

 

240:名無し棋士

いつも思うけど持ち時間使わなすぎだろ

 

241:名無し棋士

今日は1時間近く使ったがな

ハーゲンダッツのせいで

 

242:名無し棋士

絶対途中でお腹壊しているトイレの行き方だったな

 

243:名無し棋士

本当はトイレでソフトの解析結果見てたりする?

 

244:名無し棋士

>>243

アルファゼロに勝てるソフトを独自開発しているなら、それはそれでヤベー奴になるぞ

 

245:名無し棋士

ハーゲンダッツの売り上げを三割上げたロボ

 

246:名無し棋士

大木は絶対ハーゲンダッツを燃料に使うロボットだわ

普通の人間はあれだけ連続してハーゲンダッツ食べられんだろ

 

247:名無し棋士

今日は4つ食べてなかった?

そりゃお腹壊すわ

 

248:名無し棋士

電脳戦のスレではずっと大木やべーの連呼で思考停止している事実

持将棋から勝ちに行けるとは思わなかった

 

249:名無し棋士

お願いです。夜叉神ちゃんを嫁に下さい。

 

250:名無し棋士

◆大木三冠が電脳戦第2局を熱戦の末勝利!!(4月30日)

 

 将棋電脳戦第2局は二条城で行なわれ、史上最強のソフトであるアルファゼロを相手に大木三冠が辛勝した。320手目の段階で、既に両者の玉は相手の陣地の最奥にまで到達しており、持将棋になるかと思われたが、ソフト側が明確に持将棋を拒否。ソフトのあまりにも諦めの悪い将棋に、各方面からのバッシングもあった。

 

 ▼大木三冠(1102手での勝利。2回も持将棋の話を断られてどう思ったかについて)「持将棋が得意そうではなかったので、むしろ断られて好都合でした。その時から膨大な手数が必要なことは理解していましたが、実際に粘り強い将棋でしたので疲れました」とコメントした。

 

251:名無し棋士

あの対局を疲れましただけで締めるのは色々とおかしい

 

252:名無し棋士

そう言えば夕食でカツ丼とハンバーグ定食を食べている姿を見て

ああ、食べ盛りの高校生だったなと思い出した

 

253:名無し棋士

ツイッターで朝昼晩は2倍食べます宣言してから徐々に元の体型には戻っている感じはする

普通のプロ棋士は夕食を満腹になるまで食べないが

 

254:名無し棋士

2倍食べますと言って本当に2倍食べ始めたのは頭おかしい

 

255:名無し棋士

頭おかしくなかったらあんな将棋指せない定期

 

>>252

大木は高校に行ってないぞ

 

256:名無し棋士

棋譜を将棋盤で並べようと思ったけど100手でもうお腹いっぱいになった

 

257:名無し棋士

プロ棋士ですらまともなコメントを出せないのは草

 

 

 

 

 

『おそらくですが、毎回ツイッターのコピペを書き込んでいる人と九頭竜を下げる内容を書いている人は夜叉神家の工作でしょうね』

(マジで言ってる?話題逸らしと論点のすり替えがよく起きてると思ったけど、本当に燃えないよう工作されてるのか)

 

対局終了後、帰宅途中にスマホを弄っている大木は掲示板を見た後、三段リーグの結果を見る。今日は関西で対局があり、椚が辛香と鏡洲を相手に連敗していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

既定路線

三段リーグで、椚が辛香さんに負けるのは分かる。原作でも辛香さんは椚に勝てていたし、上位勢に食いついていた。でも、鏡洲さんにまで負けるか。一度負けた後、立て直すのが遅いのは天才の特権かな?

 

椚が2勝2敗になって、一気にトップ通過は怪しくなって来た。現状、坂梨さんと鏡洲さんと辛香さんが全勝だし、椚はこれからも負ける可能性があるから今季の四段昇格すら怪しいっぽい。

 

まだまだ三段リーグは序盤だから何が起こるのかは分からないが。椚が、鏡洲さんに1勝を譲った可能性すらあるから今季の三段リーグが終わったら昇段者に色々と聞こう。原作でも良い勝負というか、鏡洲さんが椚からリードを奪っていた盤面もあるから、実力勝ちという可能性も十分にあるけど。

 

『これで、三段リーグはどうなるか分からなくなりましたね。椚に勝った辛香さんと鏡洲さんの2人は、かなり有利になりましたか。今後、椚が崩れればこの1勝の価値は薄まりますが、次から復活するなら非常に価値が高い勝利です』

(いや、椚は崩れないだろ。でも坂梨さんまで、椚に勝てるかは分からないな。……あれ?原作で椚に勝った3人目の奨励会員って、もしかして坂梨さん?)

『描写はされていませんが、可能性としてはあり得るかと。椚と坂梨さんの将棋を比べると、そこまで実力に差があるようには思えませんし』

 

電脳戦の方はソフト超えを今年も無事に果たしたけど、持将棋に案外弱かったのでソフトの明確な弱点を突いた感じしかしない。1億局の対局の中に、お互い持将棋の状態から指した対局とか無いのかよ。小学生の頃、俺とアイは暇さえあれば盤面の駒を全て逆方向の成駒にした状態の遊び将棋を嫌というほどやったぞ。

 

まあ、来年までにはその弱点も克服しているはず。そろそろ後手で勝てるかは微妙な感じになってきたし、何なら今回の対局でも本当なら引き分けだった。向こうが拒否してくれたから勝てたけど、それはソフトを使っている人の将棋が弱かったからだ。プロ棋士が操作していたら、たぶん引き分けにしていたと思う。だって持将棋を持ちかけた時点で、こっちが駒得している状態だったし。

 

電脳戦が終わったら、すぐに女王戦の第2局が始まる。天衣は前回の試合の反省会をきっちりとやったので、作戦に拘ることも無いだろう。一方で空さんの方は、何があったのか知らんけど立ち直っているようには見える。九頭竜からはラブホに来てしまったわラインの後、空さんが先に寝たという報告までしていたけど、たぶん何も起きてないんじゃないかな?

 

……九頭竜は困ったわーと言いながら、傍から見れば自慢にしか見えないことを一々伝えて来る癖がある。1番衝撃的だったのは「JS達が3人も来てあいを含めると4人も泊まることになったんだけど、部屋が小学生の生け簀みたいで狭くて困る」みたいなラインのメッセージが来た時で、警察に通報しようかあの時は真剣に悩んだ。

 

ラブホに関しては写真も撮られなかったみたいだし、万が一撮られても九頭竜となら熱愛報道になるから無問題。空さんのファンから九頭竜に殺害予告が送られる可能性もあるけど、既に妬みや嫉妬のお手紙は届いているようだし特に変わらないでしょ。

 

女王戦の第2局は石川県にある、旅館雛鶴で行なわれる。あいの実家であり、今回も九頭竜は解説役を押し付けられている。元々精神状態が不安定な空さんの付添人みたいな形でタイトル戦について来たら、大盤解説役の人が来られなくなったために急遽九頭竜に依頼が入った形だ。

 

あいがこの対局の記録係を出来なかった理由は、希望者が居たからだな。名前は確か、登龍花蓮1級。天衣に本戦トーナメントの1回戦で負けた人で、この人も女性の中ではかなり上位にいる存在だ。よく考えてみると、現在の奨励会は二段、初段、1級に1人ずつプロ棋士になれる可能性のある女性がいるのか。高校2年生で1級は、ちょっと厳しいかもしれないけど、まだ可能性は全然ある状態。

 

そして始まった対局は、昼前には終わった対局になった。先手番を握った空さんは序盤から積極的な攻勢を仕掛けたけど、用意してきた研究手がたまたま先月、天衣とアイが終わらせた戦法だったため、綺麗に咎められた結果、昼食休憩前には将棋が終わっていた。天衣の方は、ほとんどノータイムでの着手だ。

 

……まあ、こういう時もある。将棋だもの。空さんだって去年の月夜見坂さんとのタイトル戦、女王戦の第1局で持ち時間を2分しか使ってなかったし。だから今日の天衣の消費持ち時間3分は、最短記録とはならない。それにこれからもう少しは使うだろうし、5分は使うんじゃない?

 

『若干、無理筋でもありましたから空さんの敗北はどうやっても避けられませんでしたね』

(大盤解説は、鹿路庭さんが頑張ってるな。……あのたまよんおっぱいは、色々と反則でしょ)

『胸元に大胆なカットの入った肩出しニットのワンピース……セクシー衣装を着ているアイドルというより、ただの痴女の』

(必死に盛り上げているんだから、悪口言わないの。しかしまあ、天衣はこれで2連勝か)

 

昼食休憩後の大盤解説では、鹿路庭さんが空さんのことを「HP9999から減らないボス」と例え、天衣のことを「9999ダメージの貫通攻撃を連打して来るボス」と例えた。どっちも無理ゲーっぽく聞こえるけど、天衣の方がクリア出来そうな感じはするから、鹿路庭さん的にはまだ空さんより天衣の方が勝てそうなのか?

 

「ぶっちゃけ、今までの女流棋界って停滞していたんですよ。勝敗の決まっている勝負ほどつまらないもんはないですし、どれだけ良い将棋を指しても、どうせ空銀子の方が強いんだろ?って言われちゃう。女流棋界における将棋って、最後に空銀子が勝つゲームだったんです。それが覆ったんですから、皆さん興奮しますって!」

 

鹿路庭さんは勢いのまま、今までの女流棋界について口に出し、観客はそれに賛同した。熱心なファンですら、空さんの勝利にはもう飽きていたのだ。……5年間、勝率100%ならそりゃこうなるわな。

 

あまりの天衣の強さにネット上では「神戸のシンデレラ?悪魔将軍の娘の間違いじゃ?」「明らかに去年の夏より強くなっとる」「初の女性プロ棋士になるのは、夜叉神ちゃんになりそう」などの声が散見される。

 

……この後、2人は昇段をかけた対局もあるんだよな。空さんは現在二段の6連勝で、天衣は初段の10勝1敗。次の例会の1局目で勝てば、2人とも負ける余裕のある状態で昇段をかけて戦うことになる。ただ空さんはこの様子だと、1局目で勝てるのかも怪しいかな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騒動

女王戦で天衣が空さんに2連勝し、タイトルに王手をかけた後、奨励会でも空さんと天衣はぶつかる。二段の空さんは7連勝で、天衣は11勝1敗。天衣はこの対局に負けてもその後の3局で三連敗しなければ昇段だし、空さんもこの対局で負けても後の8局を5勝3敗にすれば昇段だから気は楽なはず。

 

だけど、2人ともここで昇段を決めたいはず。空さんは二段、天衣は初段なので天衣の先手だ。注目の一戦を棋士室で眺めようとしたら、棋士室は名人戦の第4局の方に注目していたので入り辛い。

 

いやでも生石玉将がモニターの一つを空さん対天衣の対局にしているし、わりと空さんと天衣の対局も注目されているかな。……三段リーグ中で大変な辛香さんもいるし、空さんの追っかけ達は熱心だなぁ。

 

「おはようございます、生石玉将。辛香さんはお久しぶりです。宣言通り、アルファゼロには勝ちましたよ」

「……久しぶりやね。グーグル先生のアルファゼロに勝つの、現地で見とったで。

大木先生のせいで、ソフト信仰者はえらいこっちゃや」

 

『地味に、辛香さんからの呼び名が大木くんから大木先生になってますね』

(それだけ、畏怖もあるんじゃない?普通の人間なら、あそこまで根気よくソフトと我慢比べをして、一度のミスも無いってあり得ないだろ)

 

ソフトのアップデート許可は、非公式で行なわれた前年度のソフト代表と関西棋士5人の勝負で棋士側が負け越したせいで聞き入れるしかなかったらしい。唯一生石玉将が勝ったって、この人も結構な強化が為されてるな?

 

『ゴキゲンの湯で私とも結構な数の対局を指しましたし、渡した棋譜の存在は大きかったです』

(結局、玉将は防衛したしな。来年には俺が奪いに行くけど)

『名人と竜王以外は、全部独占する構えですか。三番手直りが実現するまでは、逆に対局数は減る可能性もありますね』

(今対局数が多いのは、予選やトーナメントを勝ち上がっているからだしな)

 

今年は盤王と玉座をとって、来年には帝位と玉将をとる予定。こんな適当な未来予定図を思い浮かべられるの、俺だけだろうな。

 

天衣と空さんの対局は、天衣が向飛車を選択。一方で空さんは、穴熊を組み始めた。……これ、負けるのが怖くて穴に潜ってるな。精神的にぽっきり逝ってないか?

 

「ちっ、居飛穴か」

「充くんは昔から居飛車穴熊が嫌いやったな。金銀4枚の居飛車穴熊は、世界一硬い囲いや」

「ソフト信仰者でも、居飛車穴熊は世界一硬い囲いなんです?」

「もうソフト信仰は止めたわ。まだ勝てない人類がいる以上、ソフトは神やない」

 

空さんの居飛車穴熊を見て、生石玉将がアレルギー反応を起こした。ぶっちゃけ居飛車穴熊は、振り飛車にとっての天敵みたいなものだしな。そして辛香さんは、ソフトへの信仰をやめる宣言。俺のせいで、日本全国にこういう人は生まれてそう。

 

しかしまあ、傍から見ている分にはビビッて穴に潜ったとか分からないか。アイが教えてくれるから俺は分かるし、天衣も洞察力は優れているから分かってそうだけど。天衣は桂馬を飛ぶ2手を省略した短手数の高美濃を組み、空さんの6一にある金が動かない内から開戦を選択。飛車先の歩を無条件に取り込まれるわけにはいかないから空さんは対応するけど、こりゃ捌かれる。

 

「今捌き合えば、互角なんかな?」

「いえ、天衣が僅かに有利です。やっぱり美濃や高美濃は、色々と優秀ですね」

 

この2人は空さんの応援に来ているわけだから、多少は空さん側に色眼鏡が入ってそうだけど、天衣の方がリードはしている。空さんの穴熊が間に合っていない以上、攻め合いになれば天衣が有利だ。

 

空さんもそう思ったのか、自陣に手を加えるけど動きが遅い。その隙に攻めのとっかかりになりそうな所を、天衣は潰す。女王戦で2連敗して、奨励会試験も含めれば天衣相手に3連敗。精神的にも、苦手意識が出来始める頃だ。

 

『案の定、2三の地点に駒を集められて潰されましたね。高美濃の形がそのまま残っているのは、空さんにとって屈辱的な敗戦でしょう』

(……なあ。名人戦の第4局も、封じ手前に名人が勝ちそうなんだが?この対局で勝てば歴代勝利数単独1位とか、なんかピースが揃ってね?)

『一応、九頭竜にメッセージを入れておきましょう。空さんがスマホも持たずに出て行くなら、確定です』

(そうだな。と、まだ粘れるけどもう投了か。空さんの心は、折れてそうか?)

 

九頭竜にラインで「空さんが生気を失った顔で将棋会館を飛び出た。スマホも持ってない」と伝えると、九頭竜からは了解という返事と共に、探しに行くとのメッセージが。あれ?九頭竜の家に向かうのに九頭竜が外に出るのは不味くね?

 

あいも九頭竜の家にいるだろうから、行き着く先は傷心状態の空さんとあいが九頭竜の家にいる状態?何それヤバそう。

 

ご機嫌な表情で帰って来た天衣を褒めて家まで送った後、九頭竜に確認の電話を入れると、空さんはアパートの自室で首吊り自殺を図ろうとしていたらしい。ちょうど首を吊ろうとしたタイミングで九頭竜がアパートの部屋に入って押し倒したらしいけど、空さんは何時間首吊る寸前の状態で待っていたんだ。

 

時間的に、2時間ぐらいは待ってないと説明がつかないんだが?それとも自宅に着いて、2時間経ってから唐突に死のうと思ったのか?どちらにせよ、かまってムーブなのは明らかだ。

 

結局空さんと九頭竜は九頭竜の実家がある福井へ向かうようで、女王戦の第3局までそっちで過ごすらしい。女王戦の第3局の舞台は、大阪市北区にある料亭。……神戸の結婚式場は、日程が合わなかったのかな?

 

『そう言えば、天衣のお爺さんが死にかけるイベントが起きませんでしたね』

(死にかけてねえだろ。死にそうな演技をするイベントだよ。

九頭竜はあれで、天衣との婚約のサインを一度しているんだよな。破り捨てて無効にしたけど)

『マスターだと、喜んで受け入れそうだったからしなかったのでは?』

(……いや……どうだろ……?)

『ロリコン巨乳好き変態マスターの本性を見抜かれた結果、そういうのが起きなかったということですね』

(ロリコンだけは否定するぞ。残り2つは否定しない)

 

原作だと女王戦の挑戦者決定戦前後で天衣の祖父である夜叉神弘天が死にかける演技をし、白いドレスを着た天衣そっくりの人形と九頭竜が祝言を挙げるシーンがある。……俺は九頭竜ではないし、無いなら無いで別に良いけど、天衣そっくりの人形は見てみたかった気もする。

 

少し寂しいような、残念なような、そうでもないような気がする。とりあえず今は、天衣の女王戦第3局を楽しみにしておこう。実家に帰ったということは、封じ手という名のキスが発生したということだし、お互いに両想いだということは発覚したのだろう。

 

……下手すれば、キスの先にも進んでそうだ。まだ空さんは、三段リーグ中ではないわけだし。これで空さんの将棋が本当に強くなるのかは、興味がある。強くなりすぎて天衣が勝てなくなるのは、色々と困るけど。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

玉将vs竜王

女王戦の第3局の直前に、帝位リーグの白組で、九頭竜と生石玉将がぶつかった。九頭竜からは福井土産を貰ったので、とりあえず色々と無事に事が済んだのだろう。これで、空さんが死ぬということは無くなったな。流石に今死なれたら、天衣の寝覚めが悪くなる。

 

九頭竜と生石玉将はお互いに白組で4連勝していて、これに勝った方が紅組のトップと挑戦者決定戦を戦うことになる。原作では生石玉将がやつれていた描写が為されていたけど、玉将を防衛したからか凄く調子は良さそうだ。

 

なお俺は、この対局の解説の依頼をされているので鹿路庭さんと共にニコ生出演。俺と鹿路庭さんの組み合わせは、わりと組む機会が多い組み合わせでもある。

 

『テンションが死んでいるマスターと、テンションMAXの鹿路庭さんの組み合わせは人気が出るんですかね?』

(知るか。前は掛け合いが面白かったと言ってる書き込みが多かったけど、掛け合いをした記憶がねえ)

 

「大木先生は、今日の対局者の両方とプライベートで親交があるんですよね?」

「九頭竜の方は、奨励会の時から親しかったですからね。生石玉将と本格的に喋るようになったのは、一年前ぐらいです」

「何か、九頭竜先生の昔の面白エピソードとかあります?」

「史上4人目の中学生棋士になった直後のラインでのイキリっぷりは凄まじかったです。後で見ます?スクショありますよ?」

 

鹿路庭さんはコミュ強なので、とにかく会話が途切れない。単純に質問をしまくっているだけな気もするけど、こちらが気を遣わなくてもトークが続くのはありがたい。

 

対局の方は、九頭竜の先手でプロだと中々見ない相中飛車になっていた。これは捌き合いにはならなさそうだな。互いに中央突破を目論むから、先後同型にもなった。コイツら頭おかしい。

 

『……九頭竜も生石玉将も、相当なレベルアップをしていますね。原作では九頭竜がゴキゲン三間飛車を披露していましたが、そちらは天衣が弟子じゃないのでフラグが潰れたのでしょう』

(九頭竜は、一足飛びに強くなっているからな。で、これ千日手にしかならなさそうなんだけどどうする?)

『マスターのキャラ的に、宣言してしまった方が良いでしょう。どう足掻いても、先に仕掛けた方が不利になる形ですから』

 

「もうなりそうなので言っちゃいますけど、千日手ですね。先に仕掛けた方が、負ける形です。九頭竜は先手で千日手にするか否かの選択を迫られていますが、受け入れるしかないでしょう」

「珍しい形での、千日手ですよね?……大木先生と解説を一緒にすると、千日手が多い気がするのはどうしてでしょう?」

「単に、強い人同士の対局が多いからじゃないですか?」

 

そして結局、相中飛車の先後同型という1番千日手の発生しやすい形で、無事千日手になる両者。これ、お互いに相手が中飛車をしてくるという想定だけはしてなかったんだろうな。天才同士、抜けている所も同じである。

 

先手後手を入れ替え、今度は生石玉将が先手になる。後手番を握った九頭竜は、すぐに角交換を仕掛け、ダイレクト向飛車の形を選択。一方で生石玉将は、珍しく居飛車を選択した。生粋の振り飛車党だけど、居飛車が弱いわけじゃない。むしろ対抗形の将棋の研究が深い分、まだ研究が浅い九頭竜の振り飛車より強いんじゃないかな?

 

「お、生石玉将が居飛車をしてます!これは珍しいのでは!?」

「九頭竜の意表を突いて来た形になりましたね。公式戦の棋譜は少ないですが、生石玉将は居飛車も指せる方です」

 

玉将戦でも振り飛車を貫き通していた生石玉将だから、結構驚かれているな。原作でも振り飛車を止めたら勝率が上がったという描写はあったし、慣れない新戦法でいきなり想定からずれたであろう九頭竜は相対的に不利だ。

 

互いに序盤から時間を使っているけど、指し直しでの対局だから持ち時間を悠長に使っている暇は無い。九頭竜がほぼ居玉の状態で開戦を選択し、生石玉将も応戦。角をお互いに握りしめた状態での、超急戦か。地力の差が出やすい将棋になるだろうけど、これ九頭竜が負けるんじゃね?

 

(え、困る。九頭竜がここで負けるなら、帝位戦も勝ち進めば良かった)

『落ち着いて下さい。今は生石玉将が反撃しているので不利に見えますが、形勢自体はまだ均衡を保っています。そして次の九頭竜の攻撃が始まれば、最後まで攻めを貫き通すでしょう』

(……ここから、詰めろや必至の状態まで持って行くのか?)

『今の九頭竜なら、それぐらいはするでしょう。ああ、生石玉将は寄せへ踏み切るタイミングが早過ぎましたね。慣れない形で、若干の読み違いが発生しましたか』

 

「一見すると攻められている九頭竜が不利に見えますが、まだ形勢は互角です。次の九頭竜の攻めで、行ける所まで行くんじゃないですか?」

「っと、そうですね。ソフトの評価値もまだ0付近を行ったり来たりのようです。……大木先生は、人間の感性とずれているとよく言われません?」

「よく言われますが、何か?」

「いえ、問題はありません。そろそろ、次の一手クイズでもしましょうか」

 

時間を潰すための企画をこなし、解説と鹿路庭さんからの質問の回答をしていくだけのお仕事。辛くはないけど、楽でもない。リスナーからの質問コーナーではとにかく女性関係の質問と天衣との関係についての質問が飛んでくるけど、適当に無難な回答をこなしていく。

 

「お2人のコンビは面白いです!いつも応援しています!ってコメントもありますよ?

彼女さんがいないのなら、私なんてどうですか?」

「え、生活力ゼロの女性はちょっと……」

「あれ?軽い冗談でしたのに今私ガチ目にフラれました?というか何で生活力がないことを知っているんですか?……あああ!これ生放送!」

「大丈夫ですよ。既に結構な数のファンには料理が出来ないことなんてバレていますから。文句を言うなら山刀伐さんにお願いします。……鹿路庭さんはあの人の口、縫い合わせておいた方が良いですよ」

 

途中で鹿路庭さんが叫ぶのも、わりといつものことなので慣れたものだ。……地味にこの人、俺に対しても研究会を持ちかけて来るから怖いんだよな。ホイホイついて行ったら、夜は隣の部屋の山刀伐さんの部屋に放り込まれるとか絶対ヤダ。あの両刀使い、俺のことも狙ってるっぽいし。

 

生石玉将の攻めが止まった瞬間、今度は九頭竜が細い攻めで強引に生石玉将の守りをガリガリ削り、生石玉将の玉に肉薄する。……竜王戦で覚醒してから、俺以外には負け無しだからな。帝位戦で九頭竜はさらに成長するだろうし、今後が楽しみではある。

 

『あいがジェット機に乗って進んでいるなら、九頭竜はワープ航法が出来る宇宙戦艦に乗っていますからね。この2人に関しては、色々と規格外過ぎます』

(マッハ100万の自転車に乗って燃料切れを起こすことなく無停止行進を続けているアイの方が規格外というか、異次元だからな?で、天衣はようやく自転車でマッハ10を出せるようになった頃か)

『原作では天衣自身があいとの才能差を10倍と捉えていましたが、実際は3~4倍でしたね。その差が無くなっているのは、喜ばしいことです』

 

九頭竜は最後まで指しきり、生石玉将に必至をかけた。生石玉将は数手だけ王手で形作りをした後、投了。タイトルホルダー同士の戦いは九頭竜に軍配が挙がり、帝位挑戦者決定戦へ駒を進めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

持ち時間

女王戦の第3局が始まり、自殺未遂をした空さんは千日手を獲得しに行った。原作では天衣が空さん相手に引き分けて、先手を取りに行った第3局だけど、立場がまるっきり逆だな。

 

原作だと包丁を持ったまま、九頭竜の部屋でスタンバイしていた空さんだけど、縄を持って自室で考え込んでいたということは、それなりにヤバかったのかもしれない。まあでも、結果としてたぶん原作通りの流れになったのは個人的に良かったよ。

 

今回の記録係を務めるのは、第1局で無難に記録係をこなせたあいだ。今日の対局場はお高そうな料理が出て来る広めの料亭だけど、会場の規模としては小さい。これは、予算の都合だろうな。

 

例年、女王戦は第4局と第5局が将棋会館で行なわれる。空さんが強すぎたから第3局までしか会場を用意していない訳ではなく、空さんが女王になる前から、毎年恒例のことだ。だけど今年の女王戦は注目度が高く、スポンサーも例年より多いからか、第5局まで会場を押さえようという話になったらしい。月光会長も、孫弟子には基本的に甘い。弟子の俺には厳しいけど。

 

『ソフト側のアップデートを可にした恨みはしばらく忘れませんからね。何勝手にソフトと指して負けているんですか』

(まーまー。前年度のソフト開発者が、泣き付いたという話だから仕方なかったんじゃないかな)

『前年度のソフト開発者って、偉そうに控室まで来て勝利宣言した挙句、瞬殺されて顔面崩壊を起こした人ですよね?』

(顔面崩壊まで行ってない。顔面蒼白にはなってたけど)

 

アイはわりと、ソフト側のアップデートを可としたことに不満を持っている。1局目でまだ今年も勝てると判断したら、進化することを告げられた時の絶望感は凄かった。まあ向こう側も、1局目で普通に負けたことに対して絶望していたけど。

 

(来年は、かなり厳しいだろうな。今年勝てたのは、向こうの準備期間が短かったのもあるし、こっちはこの1年で数千万局しか指せないけど、向こうは数億局だろ?ムリだな)

『簡単には負けないつもりですが、1勝も出来ないでしょうね』

(千日手、持将棋が発生したら御の字程度か)

 

アイと脳内会話をしつつ、空さんと天衣の対局を見守ると、千日手が成立。空さんはほとんど時間を使わなかったのに対し、先手番を手放すか、打開するかで悩んだ天衣は持ち時間がかなり減っていた。よって規定により、天衣の持ち時間を1時間まで回復すると共に、空さんも天衣が回復した持ち時間分、42分の持ち時間が加算される。

 

……ほぼ持ち時間が満タンになった空さんが先手となり、天衣は完全な作戦負けをした。福井にある九頭竜の実家に帰って、封じキスまではしたっぽいし、無事覚醒したか。

 

『感情ある方が強いですよね。削ぎ落していった時の強さより、魅力のある将棋を指していますし』

(機械になろうとして、そう簡単になれるものでもないしな。そもそも、九頭竜があそこまで強くなったのは空さんの影響が大きい。間違いなく、空さんは男性含めても将棋の才能は十指に入るよ)

 

天衣が後手番になったことで、ここで後手番角頭歩を仕掛けるけど、空さんは持久戦を選択。一方で天衣は釈迦堂さんの時と同じように、向飛車を選択した。これは、対策されてそうだけどやるしかなかったか。慣れている将棋の方が、持ち時間の消費を抑えられる。

 

『既に、釈迦堂さん相手に持久戦の将棋を披露しているのは大きいです。それにこの持ち時間の差は、かなり大きいですね。天衣自身、追い詰められていると感じているでしょう』

(既に一分将棋に入りそうな天衣と、持ち時間が2時間近く残っている空さんとでは余裕に差が出るな。……空さんの将棋が、明らかに強くなっているのはビックリするわ)

『天衣は、空さんに何が起きたのか知りませんから余計に驚いているでしょうね。まあ私達も、詳しくは分からないので原作から推察するしかないのですが』

(……九頭竜のおかんが途中で邪魔しなかったとしたら、何回もチュッチュした可能性はあるな)

『名人が勝ったタイミングとかも変わっているでしょうし、その可能性は高いでしょうね』

 

名人は結局、名人戦を4連勝で防衛。タイトル通算100期と歴代単独トップの勝利数を達成したし、国民栄誉賞も受賞している。その際のインタビュー内容は、結構変化していた。まずソフトはトッププロには勝てないという前提で記者が質問しており、名人は1番戦いたい相手に俺を指名していた。

 

『遠回しには言ってましたけど、駒落ち将棋でも良いから本気で戦って勝ちたいという内容でしたね。

……名人があそこまで推しているなら、三番手直りの実現は早いかもしれません』

(やめて。タイトル戦を毎回フルセットとかどんな罰ゲームよ)

『移動日も含めれば、4日かかることも珍しくないですし、忙しさは倍増ですね』

(……あれ?イベントとか準タイトルも含めると、年間休日はめっちゃ少なくね?)

 

ただ名人は空さんのこともちゃんと触れていたので、空さんを名人が見ていたということを、空さんは認識出来ているはず。今日の空さんの穴熊は、ちゃんと自信を持っている穴熊だ。……で、天衣も穴熊だけどこいつら穴熊好きすぎない?供御飯さんかよ。

 

『穴熊同士の戦いで、この持ち時間の差は厳しいですよ』

(しかも空さん、自身の穴熊を崩して天衣の玉頭を攻めてるし。あ、天衣も受けミスってる)

『はあ。後手番角頭歩を使って負けるのは、立ち直るのに時間がかかりそうですね。まだ言い訳できる材料が揃っているのは幸運ですけど、ちゃんと空さんが自身より強くなったと認識出来ないと、ここから3連敗しますよ?』

(……まあ気分転換に遊び将棋でも教えて、天衣に爆弾でも仕込んでおくか。第5局中に、爆発したら面白いことになりそうだし)

『今の状態で、遊び将棋を仕込むのは外道でしかないのですが。天衣は実験動物じゃないんですよ?』

 

時間に追われて、あっさりと受けをミスった天衣は必死で追い縋るも、空さんの玉まで攻めが届かなかった。第3局は空さんの勝ちということになり、これで天衣の女王戦の成績は2勝1敗。敗戦後に天衣は荒れ、こういう時の特効薬である時間経過はあまり役に立たず、女王戦第3局に続いて、第4局も天衣は負けた。

 

……恋する乙女は無敵と描写されていたわけだけど、純粋に伸びた棋力はそこまで大きなものじゃない。どちらかというと、本来の強さに戻ったという方が正確か。元々、天衣と空さんに大きな差は無かった。だから精神状態の変化によって、勝ち負けが入れ替わるのは珍しいことじゃない。

 

最終局までに、出来ることは少ないけどやらないよりかはマシか。これから第5局までの期間が、本当の勝負だな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遊び将棋

女王戦第4局が終わってから、指導対局は全て遊び将棋に切り替えた。女王戦は、2連勝してからの2連敗。精神的にも相当追い込まれているけど、こういう状態じゃないと、天衣は遊び将棋なんて受け入れないだろうからな。そしてその遊び将棋の一つ目は、八方桂だ。

 

八方桂は文字通り、桂馬の動きが四方八方に増えるという将棋で、チェスでいうナイトの動きと同じになる。プロ棋士でも錯覚を起こして負けることがある、恐ろしい将棋だ。なお、成ったら通常の成桂と同じ動きとしたので成らない方がお得。金の動きと八方桂の動きを足す成桂八方桂はバランスブレイカー過ぎる。

 

「7六歩、5六歩から6八桂と飛べば一気に4つの歩が守れるのね」

「ああ!バックの利きを見落とした!」

「っく、その場で読まないといけないことが多すぎるわ」

 

二つ目は、醉象という駒が玉の上にある小将棋。盤上の駒数は2枚増えて、42枚だな。醉象は横にも動ける銀の動きと説明すれば良いだろうか?要するに後ろには行けない王で、成ると太子という駒になり、動きは王と同じになる。王が詰んでも、太子が生きていれば負けではないという珍しいルールだ。

 

本来の小将棋は持ち駒の使用が出来ないけど、そのルールはあまりにも普通の将棋とかけ離れてしまうので採用しない。だから醉象だけ、持ち駒からの使用を不可とした。これを縛らないと、簡単に入玉が出来るからな。

 

「駒が一枚増えるだけで、将棋が大きく変わるわね」

「醉象は、無理に太子を狙わない方が良いのかしら?」

「……今までの定跡も、考え方も、全く通用しないわけね」

 

三つ目は、玉が2回行動出来る獅子王だ。これは単純に、玉の動ける範囲が2倍になるというものではなく、例えば頭金を打たれて通常なら詰んでいる場合でも、その駒を取って元の位置に戻るという、居食いが出来てしまう。

 

……特に玉を詰める場面で、錯覚を起こしやすい性質上、1番逆転の多い将棋となる。まあアイと天衣で、天と地ほどの実力差があるし、アイはミスしないから天衣は勝てないのだけど、俺相手だとかなり良い勝負になる時もある。

 

「居食いが出来るというのは、恐ろしいわね」

「また、錯覚した……!」

「三面指しでずっとこれって、頭がどうにかなりそうよ!」

 

この3つの将棋を、三面指しで並行して行っていると、通常ならあり得ないような錯覚やポカが出まくる。何なら一度、天衣は駒の動かし方をミスっての反則負けもしたし、今までの将棋観はぶっ壊れたはず。

 

前世の大学でも、暇つぶし感覚でこういう遊び将棋をやってからやたらと棋力が伸びたり、今まで成長が止まっていた人が成長を再開したりしている。もちろん、遊び将棋をやり過ぎて普通の将棋が弱くなってしまった人もいるけど、天衣なら大丈夫だろう。

 

『中将棋は教えないんですか?』

(流石に12×12で駒数も段違いに多い中将棋はNG)

 

そして何より、いつもと違うルールの将棋というのは違った楽しさがある。苦しみながら修練するよりかは、楽しみながら修練した方が効果は出やすいはずだ。

 

『特殊ルールの将棋は、経験則にも邪魔が入りますからね。弱くなることもありますが、その場で読む力は増すはずです』

(それと、八方桂は嫌でも将棋が立体的になる。将棋への見方も変わる可能性があるから、良い方向に転がれば一気に強くなれる。まあ、一種の博打みたいなものだな)

『大事なタイトル戦中に、そういうことをするのは失敗した時のことを考えない駄目人間の考え方です』

(でも、今のままなら覚醒した空さんには追い付けないだろ。空さんがあそこまで一気に成長するのは予想外だったわ。……正確には成長したというより、精神的な重しを外した、だけど)

 

女王戦の第5局まで、そこまで時間があるわけでもない。3日ほどぶっ通しで遊び将棋に付き合わせた後は、普通に空さん対策の研究に没頭して貰った。

 

で、俺は俺で棋帝の防衛戦が差し迫っている。今年の棋帝の挑戦者は、名人。去年も挑戦者決定戦まで勝ち上がって来ていたし、タイトル挑戦者としてやって来るのは理解出来るけど、名人の防衛最中に棋帝の決勝トーナメントを2年連続で勝ち上がって来るとか化け物かよ。

 

……アイが去年より強くなっていると保証する名人相手に、俺が指すとやらかす気しかしないので当然アイの出番だ。正直に言って、電脳戦で色々とやらかし過ぎたのでしばらくはアイ任せになると思う。あれは人間の指す将棋じゃないし、世界的にも反響が大きかった。

 

というか、世界的な反響が大きかったせいで将棋に注目が集まったし、そのせいでイベント数が増加したから俺の仕事が増えたという事実。将棋AIの開発もより盛んになり、一部の研究者は俺の脳を調べたがっている。前なんか、九頭竜と一緒にK大学で脳波のデータを読み取られたしな。

 

『常に真っ赤になっていて、あれはあれで面白かったですね』

(九頭竜も将棋のことを考えている間は、脳の全域がほぼ真っ赤だったぞ。俺の場合は、アイス食べている時も算数の簡単なテストを解いている時も、脳の全域が真っ赤だったけどな)

『結構、見えて来るものもありましたね。K大生はビビりまくっていましたけど』

(天下のK大生とその教授がどん引いている姿は、あまり見たくなかった)

 

名人も昔、脳波のデータの採取はされたみたいだけど、俺の場合はより綿密に調べられた。というか、最初は機械の誤作動だと思われたらしい。そりゃ、普通の人はリラックスをするはずの好物を食べている時でさえ、脳がフル稼働中だったら誤作動の方を疑うわ。

 

結局、誤作動でも何でもないことが判明すると研究者達はあり得ない動物を見るような目で俺を見て来たけど。お前らも二重人格になれや。二重人格になれば、わりと簡単にこの次元にまでは到達できるぞ。

 

『適当なこと言わないで下さい。そもそも、もう一つの人格が主人格の言う通りに頑張るってこと、そんなに無いんじゃないんですか?』

(まず、二重人格についてそんなに知識がないから分からねえ。……お前は、最初から都合が良すぎる性格だから転生特典なんだろ?)

『はあ。何回、このやり取りをするんでしょうか。私は大木晴雄の暇潰し相手に生み出された人格ですぅ。そろそろ認めてくれないと、拗ねちゃいますよ?』

(勝手に拗ねとけ。どれだけ怒っていても、将棋になれば機嫌を直す将棋マシーンだろ)

 

女王戦の第5局は、どちらが勝つか分からない。天衣を応援するし、勝って欲しいけど、万が一の時は備えておくか。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女王戦第5局

迎えた女王戦の第5局は、神戸の結婚式場で行なわれた。原作でも第3局で使われたであろう結婚式場は、中々に広くて良い景色だ。確か、天衣のご両親の墓も見えるんだよな。この結婚式場を第5局に用意する辺り、月光会長も孫弟子には相当甘い。

 

そしてこの会場を第5局に持って来たということは、月光会長と男鹿さんは第5局まであるだろうと予測していたということになる。女王戦が始まる前は、ほとんど実力に差が無かったからこうなる可能性は高かったけど、随分と思い切った采配だな。

 

「絶対に、勝ってくるわね」

「顔が怖い。対局が始まる前に、ラジオ体操でもしてこい。天衣なら全部、憶えているだろ?」

「はあ!?

……分かったわよ。力抜くためでしょ?やってくるわよ」

 

天衣の顔が怖いことになっていたので、落ち着かせるために体を動かしてこいと言う。こういうの、無理やりでも効果はあるからな。前世の大学時代、初めて大会に出た時に先輩から教えて貰ったことだ。

 

第5局は天衣の先手で始まり、天衣は2六歩と居飛車明示を行なうが、空さんが一手損角換わりを仕掛けて来た。ウキウキで恋人の得意戦法を使うんじゃねーよ。プロ棋士のトップ層相手には少々、勝ち辛い戦法になって来た一手損角換わりではあるけど、空さんはものの見事に指しこなしている。

 

『天衣の手が止まり始めましたね』

(遊び将棋のお陰だな。経験に邪魔が入ったことで、余計な手まで見え始めている。だけど読む力は上がっているはずだし、読み方にも無理やりなてこ入れが入った。どっちに転ぶかは、マジで天衣次第だ)

『……結局、運頼みになるのはやめて欲しかったですね。良い方向へ転ぶよう調整したとはいえ、弱体化する可能性もあるわけですし』

 

天衣は4八銀、3七銀、4六銀と腰掛銀の形を選択せず、平矢倉を選択。本来なら6七にある金が6八にあるから、横からの攻撃に強い形で、矢倉の変化形となる。

 

『平矢倉は優秀ですけど、7六の地点が弱くなるので一長一短ですね』

(一方で空さんは、綺麗な金矢倉だ。……第1局とは、また違った展開になるだろうな)

『お互いに、後がないという精神状態ですからね。これ、天衣が帰って来たら一発殴られるのを覚悟しておいて下さいね?』

(一発で済むなら、温情があるレベルのことをしたわけだしな。そのぐらいの覚悟はしてるわ)

 

一手損角換わりで角交換をした後、再度角交換をした後は、天衣が6一角と相手の陣地に角をおろす。3五銀から3四歩と良い感じに攻めていた時は良かったものの、空さんも馬を作って天衣の飛車を苛め始めた。そして空さんが天衣の銀を丸得した時、天衣の評価値は-1000に到達していた。ここからの逆転は、ほぼ不可能か?

 

(あ?ここで1二歩だ?)

『これは上手いですよ?ここから逆転するなら、何としても1六桂打としたのを活かさないといけませんし、2四桂を最大限活かす手です』

(1二桂成と、香を取れたのは良かったけど、向こうも3七歩成と桂馬取りつつと金作ったぞ?)

『ええ。まだ空さんの有利は変わりません。しかし、じわじわと差は詰めて来ています。まるで、試合中に成長しているかのようですね』

(となると、成功はしたわけか)

 

しかしまあ、長い将棋だ。100手を超えて、まだまだ中盤戦の山場は迎えて無いように見える。だけど徐々に、天衣の将棋は変化していた。

 

 

 

 

 

(あー、もう!見えなくて良いものまで見えるじゃない!)

 

女王戦の第5局。その対局で天衣は、余計な手順まで見えるようになっていた。それらは全て、遊び将棋のせいであり、大木の思惑が上手く行っていることの証拠でもあった。

 

100手目に空銀子は3八歩と天衣の飛車の頭に歩を打ち、天衣が2九飛、1九飛と逃げれば2八歩、1八歩と執拗に追いかけ回す。最終的に1七歩と、完全に飛車を抑え込まれた天衣は1九飛と素直に飛車を逃がすものの、既に天衣の飛車は完全に働きを失っていた。

 

その次に空銀子が目を付けたのは、自陣に打ち込まれている角であり、6二飛とその角に攻撃を仕掛ける。天衣は悩んだ後、4三角成と金を取りに行き、角を捨てた。

 

この時点で、天衣の評価値は若干回復しているものの、それでも-500前後と悪い。しかし徐々に、将棋の内容が変化していっており、空銀子はその対応に手間取る。

 

強引な形で天衣は空銀子の飛車を追いかけ、銀2枚を使って飛車と交換をした。既に150手を超え、両者共に1分将棋に入る。記録係を務めているあいは、第1局の時よりも2人が遥かに成長していると感じ、天衣はもっと遠い所へ行ってしまったんだと実感した。

 

その飛車で龍を作った天衣は、それでも顔をしかめる。実際、ソフトの評価値はこの時でも天衣の劣勢を示していた上、アイも天衣の負ける可能性は高いと感じていた。しかし次の一手で、それはガラリと変わる。

 

(えっ……?5三銀じゃなくて、3三銀?)

 

長手数の将棋で、体力を消耗していた空銀子は、思わぬ失着をしてしまう。体力が無く、身体が弱いことがここに来て影響した。天衣の評価値は、マイナスから一気に+500となり、天衣は冷静に空銀子のミスを咎める。天衣の、執念の粘り勝ちとなった。

 

173手目。天衣が空銀子の玉に必至をかけたところで、空銀子は形作りもせずに投了した。目に涙を浮かべ、顔を真っ赤にして堪えている空銀子とは対照的に、天衣は嫌な汗が止まらなかった。明らかに自身の指す将棋が変わったからだ。

 

安定していた大局観も、経験則から来る最善手も、全て不安定なものとなっていた。大事なタイトル戦、それもフルセットで迎えた大一番を前に、自身の根本的な部分を勝手に改造されたことに憤りを感じた天衣は、そこから更に思考を飛躍させた。

 

師匠は、この改造を夜叉神天衣に施さないと空銀子には勝てないと判断した。だから、決行したんだと。

 

天衣は記者達からのインタビューを終わらせると、師匠の元へと駆ける。天衣の師匠、天衣の目の前の男は天衣が勝ったことに、心底喜んでいるようで、どこかホッとしている雰囲気があった。天衣はそのことを察知した瞬間、目の前の男の鳩尾を目掛け、思いっきり踏み込んだ右ストレートを放つ。

 

しかし残念なことに、生粋のお嬢様である天衣はひ弱だった。いくら大木が華奢な体格とはいえ、10歳女子のパンチは、17歳男子の身体にダメージを負わせられるほどのものではなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

膝枕

天衣は空銀子との対局に勝った後、俺のところへ駆けつけたと思ったら全力のパンチをしてきた。手加減はしてくれたのか単純に体重が軽かったのか、全く痛くはないけど、天衣は対局中かなり辛かっただろうな。遊び将棋の効果は見た感じだと、相当あったみたいだし、視点がいつもとは違っていたと思う。

 

……やっぱり普段とは違う将棋をすると、考え方にもノイズが入るし視点が変わる。無理やり棋力を変える手段として、特殊ルールはかなり優秀だな。大きな波が出来てしまうし、もう使わないけど。

 

『今までの将棋観を全て狂わされたのだから、パンチを貰うのは当然でしょう。金的じゃなくて良かったですね』

(怖いこと言うなよ。まあでも、勝率が20%から10~100%になるボタンがあったら、誰でも押すだろ?)

『本来なら0%~50%程度になるボタンを、10%~100%になるボタンに変えたのは私ですからね?』

(ああ、うん。そこに関しては、アイに感謝しかない)

 

「感謝しなさいよ。今の一発で、私に何かを仕掛けたことに対する罪は見逃してあげる。

他に何か仕込んであるなら、今のうちに吐きなさい」

「もう何も無いから安心してくれ。あと明日からは、振れ幅が大きくなるだろうからその修正をするしかないしな」

「そう。まあ、何か仕掛けたいならいつでも仕掛けて来て構わないけど」

 

あれだけの対局をしたのにも拘わらず、わりと天衣は元気だ。一方で空さんは、対局後も結構フラフラしている。原因不明の難病で、俺も少し九頭竜から話を聞いただけだけど、原作知識と合わせると心臓が悪いということは分かる。たぶん先天性心疾患であるとは思うが、詳しいことは分からないな。

 

……原作で心臓が止まっている描写すらあるから、体力を付けるのも難しいのだろう。来季の三段リーグは、椚が抜けてなければ空さんと椚と天衣が揃い踏みの三段リーグとなる。

 

天衣が二段で足踏みしなければ、の話だけど、三段に上がりそうな空さんに勝てたんだから大丈夫だろ。むしろ、空さんが三段に上がれるかの方が心配。こっちも覚醒済みだからそんなに心配はしてないけど。

 

まだ今季で椚が四段昇段する可能性は残っているけど、坂梨さん、鏡洲さん、辛香さんの3人は開幕6連勝しているのに対し、椚はこの3人に負けて3勝3敗。既にデッドゾーンだ。

 

『辛香さんに負けた直後に鏡洲さんと当たって連敗したのは、やっぱり大きいですね。きっかけを作った辛香さんは、大したものですよ』

(全勝組の3人が潰し合うのは、最後の最後だからな。それまでは共闘すらするかもしれない)

『あり得ますね。三段リーグの、年の功ですか』

(将棋以外での駆け引きが苦手な椚は、1番の標的だったかもな)

 

坂梨さんも、よく考えてみれば終盤力で椚に上回っている可能性もあるからな。確か今年の詰将棋解答選手権大会、坂梨さんが3位だったはず。……ちなみに1位は、満点で月光会長です。俺は日程が合わずに不参加。ただ来年は、天衣と一緒に参加してみようかと思う。

 

フラフラしていた空さんは、九頭竜に肩を貸して貰って対局場を後にする。天衣対空さんの対局は長期戦になって、大盤解説をしていた九頭竜も大変だろうけど、空さんの付き人として頑張れ。

 

「姉弟子、しっかりして下さい。ほら、帰りますよ」

「……うん」

 

というかあんなん見せられたら、そりゃ付き合っているという噂も流れますわ。……まあでも、今までの空さんならこういう時、一人で無理して立っていたと思うし、他人を頼れるようになったのは良い事だよ。

 

帰りは晶さんの運転する車に乗って帰り、俺と天衣は後ろの座席に座る。すると、こてんと天衣が横になり、俺の膝に頭を乗せて来た。普段なら絶対にしない行動だけど、よく見ると既に天衣は寝ているので色々と限界だったのだろう。こう見えて、まだ10歳。小学5年生だからな。

 

『九頭竜のこと、ロリキングと言える資格は無くなりましたよ』

(うるせえ。あいつはJSに膝枕をして貰った側だろ。俺はする側で、何一つ得はしてねえ)

『JSの頭って案外軽いんだな、とマスターが思ったことは、一生記録しておきますからね』

(やめて。本当に純粋な感想だから。マジで軽いし)

 

「……大木先生には、本当に感謝している」

 

バックミラーで天衣の寝顔を確認した晶さんは、唐突に真剣な口調で話しかけてきた。……将棋の女王さまになるという天衣と天衣の両親の3人の夢は、晶さんも知っていたようで、めっちゃお礼を言ってきた。良い話だな。晶さんが天衣の寝顔をガン見して、赤信号で停車しては写真を撮るという行為をしていなければ、感動的だった。

 

改めて、俺の膝に頭を預けた天衣を見る。小さな身体で、タイトル戦フルセットはかなり辛かったはずだ。奨励会も学校もあるし、普通の小学生の何倍も忙しい。……よく見ると、天衣の頬っぺたは柔らかそうだな。

 

(今なら頬っぺた触っても起きない?)

『自重しろやロリコン。前の席の運転手に撃たれかねないのに、よくそんな考えが浮かびますね?』

(……ごめん。流石に今のはキモかった)

『指摘するまで気付かないって、ロリコンが進行していません?一度病院行きます?』

(病気扱いはやめて。……そう言えば、新しいロリも出て来る頃か)

『話題逸らしもロリですか。歩夢の妹の、中二のじゃロリですね。中二病な小5って、少しややこしいですが』

 

俺が九頭竜を苗字呼びしていて歩夢を名前呼びしているのは、歩夢に妹がいるからだ。いやまあ、その理屈なら3人兄弟の九頭竜も名前呼びするべきなんだけど、九頭竜の兄弟とは違って歩夢の妹は奨励会に入って来るからな。ガッツリ将棋界に関わって来る。

 

天衣を膝枕している時間は、それほど長くは無かった。神戸の結婚式場から、神戸の天衣の実家まで、それほど離れていなかったからな。車で20分もかからないし。

 

起きた時の天衣の慌てた姿というのも見てみたかったが、寝ぼけ眼でお休みモードだったので特に騒ぐこともなく、晶さんに担がれていった。晶さんが天衣をお嬢様抱っこしていると、凄く絵になるな。

 

これで一段落と言いたいところだけど、天衣はこれからが大変だ。まずは不安定な状態から安定した状態に戻さないといけないし、変わってしまった視点に関してはそれに慣れるしかない。元に戻そうとして、戻るものでもないからな。

 

というか将棋でも何でもそうだけど、悪くなった時には元の状態に戻すよりも新しい状態を作ってしまった方が早いことも多々あるし、後々のためにも良い。一先ずは、また多面指しの日々に戻らせる予定だけど。

 

そろそろ、八段十面指しもクリアする頃だ。ネット将棋でこれ以上を求めるのは無理なので、後は俺とアイが対応するしかないな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

免状

天衣が無事に女王を獲得し、将棋界は揺れた。空女流二冠は空女流玉座となり、夜叉神女王が誕生する。メディアはこぞって新しく誕生した女王の天衣を持ち上げたけど、5年間頑張っていた空さんを持ち上げる所も少なくはなかった。まあ、容姿が容姿だし、ファン層っていうのはそう簡単に変わらないからな。天衣は天衣で、人気が出ると思うけど。

 

奨励会二段昇段とタイトル獲得の両方を成し遂げた天衣は、しばらく奨励会に専念させたい。だけど、そうさせてはくれない人達がいる。女流玉座戦を開催するスポンサーの、役員達だ。

 

「是非、夜叉神天衣先生を女流玉座戦にも!」

 

そう言えば、原作でも空さんは結構強引なやり方で女流玉座戦に挑戦させられたんだっけ。だからというわけじゃないけど、将棋連盟の会長は今の月光会長に変わった。将棋界で、方針転換があったわけだ。

 

「私が決めることではありませんから、天衣に選ばせましょう」

「いえいえ、師匠である大木先生に決めて貰えれば……」

「私が決めることではありませんから、天衣に選ばせましょう」

「あ、はい。分かりました」

 

遠回しな否定を繰り返しても、相手方には話が通じないみたいなので天衣に直接選ばせることにする。というわけで、スポンサーの役員達と一緒に夜叉神邸まで移動。門を潜ると、両脇にサングラスをかけた黒服達がずらっと並んで「お疲れさまです!!」と声を合わせる。ここ1年で結構な回数ここに来ているから、俺は慣れたものだけど、初めて来た人達は面食らって震えていた。分かる。俺も最初の頃はそうだったから。

 

『今ではご苦労様ですと言える程度には慣れましたよね』

(うん。

……ご苦労様です、で良いんだよな?一応、俺の方が上の立場なんだよな?)

『そこで不安にならないで下さいよ。

一応先生という立場なんですから、たとえ年齢が下でもご苦労様で良いはずです』

 

天衣のお爺さんである弘天さんも鋭い眼光で見つめてくる交渉の場で、交渉相手の雰囲気に呑まれたスポンサー企業の役員達は、天衣が言った「嫌ですわ」の5文字に説得する気概も起きなかったようで、素直に帰って行った。とりあえず、面倒くさい人達を処理出来たのは気持ちが楽になるな。

 

「ところで、何で断ったんだ?別に天衣が出たかったのなら、出ても良かったんだけど」

「空銀子が、女流玉座も失冠したら私が空銀子の代わりをしないといけないのでしょう?あそこまで取材やイベントの手伝いに時間を割かれるくらいなら、空銀子をタイトルホルダーにしておいた方が都合は良いじゃない」

 

天衣に女流玉座戦への参加を見送った理由を聞いてみると、空銀子をタイトルホルダーにしておいた方が都合が良いからだった。まだ10歳の天衣に、学校と奨励会、タイトル戦にタイトルホルダーとしての責務を果たしながら取材やイベントまでこなすのは辛い。

 

だから、空さんに押し付けられる部分は押し付けるわけだ。この辺も本当に師匠の俺に似て来たけど、屑な部分まで似て欲しくはなかったという面と、忙しくなり過ぎずに済む安堵の面とがせめぎ合う。

 

「あと、個人的にあの役員達は好きになれなさそうだったし」

「まあ、それは分かる。なんかねっとりしていて気持ち悪かったし」

 

将棋界において、師弟は親子の関係だ。親子が似るのは避けられないことだし、俺ももう少し言動は見直そう。

 

で、言動を見直した結果、今まで断り続けていた月光会長の呼び出しに向かう。……いや、用件は分かっているんだよ。察しはついているんだよ。だから何かしらの言い訳をして断り続けていたけど、とうとう女王戦が終わってしまったから言い訳材料が尽きた。

 

「男鹿さん、そこの馬鹿弟子を確保して下さい」

「いや月光会長、もう既に確保されてていてててて!」

「逃げたら駄目ですよ?大木三冠は、どれだけ会長に迷惑をかける気なんですか?」

「でも、免状への署名は嫌なんです。字が汚いので」

「大丈夫です。竜王に比べればマシだと男鹿さんも言っていたので。とりあえずこれから、300枚は書いて貰います」

 

将棋連盟は将棋の段位の免状を発行しており、これはわりと大きな収入源でもある。年間で1万枚前後の発行数があり、将棋連盟会長と名人と竜王はその全てで署名をしなければならない。ただし、その他の棋士についてはわりとランダム。それでも、人気の高い棋士が書くケースは多い。

 

例えば生石玉将の追加署名キャンペーンが開催されれば、会長、名人、竜王の横に必ず生石玉将の署名が書かれることになる。逆に言えば、会長、名人、竜王にならなければこの署名は絶対参加ではないわけだ。九頭竜とか、将棋会館に来たついでに毎回50枚は書かされているけど、年に1万枚の発行があるから仕方ない。

 

……全部直筆って、頭おかしくね?しかも俺の場合、文字にばらつきがあるから綺麗に書けた時と書けなかった時とで差が酷い。俺のせいで月光会長、名人、九頭竜の3人に書き直しをさせるわけにもいかないので、汚い字でも読めればそれで出荷されてしまう。

 

『文字を書く時だけでも、私が身体を動かせれば良いんですけどねえ』

(アイは文字が綺麗か汚いかすら分からないだろ。何となく、綺麗に書きそうなイメージはあるけど)

 

そして、この文字を書く作業は慣れてないととても時間がかかる。九頭竜なんか、最近免状の申請が多いからか延々と署名を書いていた。名人に国民栄誉賞で、筆と硯が記念品として贈られたせいだろう。

 

このタイミングで、大木三冠の追加署名キャンペーンをやりたかったのかな。初段でも33000円する免状は、300枚も発行出来ればそれだけで990万円。全部四段なら、77000円だから300枚だと2310万円。……もう一度言うけど、将棋界のわりと大きな収入源だ。

 

『……何で歪むんです?』

(わからん。あ、九頭竜の字が歪んでるからつられて歪んでるわ)

『マスターもヤバいですけど、九頭竜も大概ですよね。2人とも、中学生の時の習字セットを使っているからですよ』

(道具で、そんなに字の綺麗さは変わらんだろ。……あー、また歪んだ)

『……ゲームの時は、あれだけ正確な操作が出来るのに文字を書く時だけそうなるのは治らないんですか?』

(ゲームは練習してるし、上手くなろうとしているからじゃないか?)

 

悪戦苦闘しながら、300枚を書き切る。時間がかかるし、本当に面倒だ。……今年は名人のせいで、1万枚以上の申請が来るだろう。九頭竜に関しては、ご冥福をお祈りいたします。汚い字が、日本全国に出荷されるって辛いな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話① 答え合わせ

いつどこで投稿しようか迷っていた話。GWのせいで書き上がってしまった。


大人で、胎内にいた頃の記憶を持っている人はいないだろう。しかし小さな子供に「お母さんのお腹の中にいた時、どんな感じだった?」と聞くと、答えられる子供がいる。その子供の内の1人は、真っ暗で怖かったと回答した。

 

大木は前世の記憶を引き継いでこの世に産まれている。大木がはっきりとこの世で自身の存在を知覚したのは、母親の胎内にいる時だった。周囲を見渡しても何も見えず、動く事も出来ない。ここがあの世かと感じた大木は、あまりにも延々と続く無の時間に、気が狂いそうになる。

 

暇つぶしのために始めた一人脳内将棋も限界だった。しかし唐突に、大木は自身に2つの感情が芽生えていることに気づく。この真っ暗で永遠に続きそうな無の時間で「退屈だ」と思う感情と「寂しい」と思う感情。それらが同時に襲って来ることに、大木は気持ち悪さを感じた。

 

やがて2つの感情は2つの性格となり、それを対戦相手にすることで脳内将棋もそれほど苦では無くなった。時間が経過すると、会話も出来るようになったため、2人は会話を始める。最初は恐る恐る、大木から話しかけていた。

 

(……名前は、I(アイ)で良いか。自分自身っぽいし)

『アイ、ですか。あなたの、名前は?』

(藤本(ふじもと) 正幸(まさゆき)だ。……俺の別人格なのに、俺の名前が分からないのか?)

『……ん、記憶は読み取れるようです。正幸さんとお呼びすれば良いでしょうか?』

(それで良いんじゃない?)

 

大木は別人格にアイと名付け、自分とは全く違う将棋を指すように要求する。それにアイは応え、どんどんと強くなっていった。まるでスポンジが水を吸う時のように、将棋の知識を身に着けて行くアイと喋りながら将棋を指し続けた大木は、以前ほどの退屈感を感じなくなった。

 

どれほどの月日をそうして過ごしていたのかは、大木には分からない。しかし次第に、自身が窮屈な思いをするようになり、大木はアイデアロールに成功する。大木は、自身が転生して母親の胎内にいるのではないかと予想をした。

 

(そうか、転生か。それならアイは、本来生まれて来るはずの人格じゃないのか?)

『それは分かりません。断定も出来ないですし、マスターから分離した性格というのも否定出来るものではないです』

(……アイは、男か女かどっちだ?)

『それも分かりません。あえていうならどっちもですし、性別不詳ですよ。でもマスターのことは好きですから、女の人格の方が強いんじゃないですか?』

 

大木はアイのことを、本来この身体に宿るはずだった人格じゃないのかと思うようになる。そのことをアイは否定せず、それでも大木から分離した性格ではないかと推測した。

 

大木は、どちらが本体になるのかも分からなかった。だから、アイに告げる。

 

(……なあ。今ここでさ、どちらかが本体になっても、もう片方は主導権を握りに行かないって約束しないか?)

『今まで私を散々サンドバッグにしておきながら、将棋で負け始めるようになると命乞いですか?別に良いですけど。そもそも、既に身体の主導権はマスターにあるじゃないですか。私には身体を動かしている感覚、全く無いですよ?』

 

それはどちらかが本体になった時、もう片方の人格は本体をサポートするという約束事だった。そしてアイは自身が本体にならなさそうであることを自覚しながら、その話を受け入れる。

 

さらに時間が経過して、大木は出産の時を迎える。大木とアイには、今までに感じたことのないような激痛が襲った。2人は出産時、母親の身体に多大な負担がかかることを知っていたが、赤ん坊の方にも負担がかかることを知らなかった。

 

下手に前世の記憶があるため難産となり、長い時間、頭や全身に激痛が襲った大木とアイは、一部の記憶が抜け落ちる。それは、胎内で過ごした記憶だった。もっとも胎内で過ごした記憶を失っても、1人の身体に2人の人格がいるという状況は変わらなかった。

 

人は、忘れられない生き物だ。しかし思い出そうともしない失われた記憶が、再び思い出されることはない。2人はまるで初対面かのように、自己紹介を始める。

 

(あれが父親で、大木さんと呼ばれていた。名前が晴雄ということは、今世の名前は大木晴雄か。転生先が明らかに現代日本なのは、幸運中の幸運だな。それに過去の日本なら、色々と金儲けも出来る)

『……あのー、まだ過去に戻ったと確定したわけではないですし、その競馬や宝くじの知識は捨てておいた方が身のためですよ?』

「うー!?」

(お前、誰だよ!?)

『私ですか?名前は確か、アイです。アイと呼ばれていたはずです。マスター』

(マスター!?)

 

アイは胎内にいた頃の記憶を失ったにも関わらず、自身の名前と大木の呼び方を憶えていた。約束した記憶も失われたのに、大木をサポートしないといけない使命感にも駆られていた。それが逆に、ややこしさを呼ぶ。

 

(漢字で愛か?カタカナでアイか?)

『えーと、Iと書いてアイだった気が……』

(AとIでアイか。随分とまあ、らしい名前じゃないか)

『あ、そんな感じだった気がします』

 

AIと書いてアイと呼ばれることに、アイは何の違和感も覚えなかった。一方で大木はアイのことを転生特典と決めつけ、AIというからには将棋も強いのだろうと脳内将棋を挑む。

 

結果は、大木の惨敗だった。アマ三段の実力の持ち主である大木は、脳内将棋が出来ることもあってそれなりに将棋の自信を持っていた。そんな大木が一瞬で切り伏せられたことに、大木はこのチートやべえと思うようになる。

 

アイは、胎内に居た頃の強さがそのまま残っていた。一方で大木は、胎内での成長がリセットされ、元の棋力に戻っていた。そのため、2人の棋力には溝があった。

 

身体が大きくなるにつれ、大木は自分自身の力で強くなろうとする。一方でアイは、来たるべき時のために一人脳内将棋を何十面という数で行ない、一人で勝手に強くなる。

 

幼い頃から2人の人格は別々の方法で将棋の成長を続け、1つの脳に負担をかけ続ける。やがてそれは、将棋の化け物となった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小学生名人

毎年5月に行われる小学生名人戦。テレビでも放送される小学生名人戦は、原作通りに神鍋歩夢の妹である神鍋馬莉愛が優勝していたけど、原作通りじゃないところもある。馬莉愛の師匠が、兄である歩夢なのだ。釈迦堂さんへの弟子入りを認められていない、という状態じゃないとおかしいのだけど、歩夢にはガッツリと俺が関わっているのでこういう変化もあるのだと受け入れる。

 

小学5年生で優勝とのことなので、まあ将来有望だろう。名人でも小学生名人戦で優勝したのは、6年生の時だしな。九頭竜は小4で、空さんは小2で優勝しているのが頭おかしいけど。優勝者一覧を眺めていたら、明らかに抜きん出ている。俺?小学生名人戦には出ませんでしたが何か?

 

『マスターも、小5か小6で小学生名人戦に出ていれば優勝していたでしょう?中1で中学生名人になっているんですから』

(いやー、どうだろ?優勝出来る可能性があったことは否定しないけど、難しかったと思うぞ)

 

馬莉愛の話題になった理由は、九頭竜の家に馬莉愛が押しかけたからだった。原作で馬莉愛は、財布を落とした所為で九頭竜の家を訪問している。本当に、ロリが集まる家だな。原作ではこの後の対処、どうしてたっけ?

 

『九頭竜と歩夢の顔見知りで関東奨励会の幹事である鳩待五段に預けるはずですが、鳩待五段は今日関西に来ているのでしょうか?』

(ああ、鳩待五段が来ていない可能性もあるのか。ちょっと調べてみるわ。

…………おい。今日の鳩待五段の対局、普通に関東であるんだけど?何が影響した?)

『マスターも、対局したプロ棋士の数は多くなったので必然的な原作崩壊ですね。どうします?』

(天衣を回収するついでに九頭竜の家によって、のじゃロリに会うか)

 

今日は関西将棋会館の棋士室へ行っていた天衣を回収して、馬莉愛と顔合わせをさせるために九頭竜の家へと向かう。……天衣は、本当に素直に言うことを聞くようになったな。面白い奴が来ているから九頭竜の家に行くぞと言ったら、二つ返事で行くという回答が返って来るなんて会った頃だと考えられないことだし。

 

そして歩いて5分で九頭竜の住むマンションに到着。俺の住む所から関西将棋会館に寄って、九頭竜の家に行くまで10分しかかからねえ。馬莉愛は家に上がって待っているのかと思ったら、まだ玄関先に居た。九頭竜と、バスタオル姿のあいも見える。いや、あいは早く着替えろよ。

 

「き、きさまはソフトイーター!それに、フィアスゴッドまで」

(ヤバい、英語が分からん。ふぃあす?)

『fierce godじゃないですか?夜叉神を無理やり英語にすれば、そんな感じかと』

「師匠が言った面白い奴って、この子?随分と変わった格好ね」

「そりゃ、歩夢の妹だからな。てか九頭竜は、ご近所迷惑にならない内に家に上げてやれよ」

 

せっかくの機会なので天衣に馬莉愛と指させようかと思ったけど、明らかな手合い違いなので顔合わせだけに済ませようか。そう考えていたら、馬莉愛が暴走した。

 

「くくく。慌ててしもうたが、ニュークイーンに勝てば、正真正銘わらわが小学生最強なのじゃ!おいドラゲキン!将棋盤を出せぇ!」

「いやマリアちゃん、天衣女王はこう見えても奨励会二段の実力で……」

「そのぐらいは知っておる!だからこそ、わらわは挑むのじゃ!」

 

「……指すか?」

「別に良いわよ。何枚落ちかしら?」

「今年の小学生名人相手に2枚落ちは流石にきついから、手合いとしては飛車香落ちぐらいだ」

「なら、2枚落ちで良いわ。どう見ても、駒落ち将棋が苦手そうだし」

 

天衣が馬莉愛に、対局を申し込まれる。うーん。2枚落ちは流石に負ける可能性の方が高そうだけど、向こうが駒落ち将棋が苦手なら勝てるか?飛車香落ちでも、わりとキツい手合いなんだけど。

 

「な……な……きさまはわらわと同い年であろう!?何故駒落ち将棋になる!?平手で良いのじゃ!」

「あなた、今年の奨励会で5級受験をするんでしょ?二段の私と5級の奨励会員が戦うなら、6級差だから奨励会の手合いでも飛車落ちよ?」

「……そうか。負けた時の言い訳が欲しいのか。それなら駒落ちで構わないのじゃ」

「良いわよ平手で?全駒されて、泣くんじゃないわよ?」

 

そして始まった天衣対馬莉愛の試合は、思っていたよりも馬莉愛が善戦している。一瞬だけ天衣の不調を疑ったが、これかなり手加減しているな。……力を抜くのが上手い所まで、似なくて良いのに。

 

『挑発に乗って平手で指しているのに、きっちりと手加減しているのは精神的な成長も見られますね』

(挑発に関しては、乗ってあげたんじゃない?馬莉愛は平手じゃないと嫌々病を発症してるし)

『アマチュアには多いですよねー。駒落ち将棋で勝てないのに平手なら勝てると思い込む馬鹿すらいますし』

 

原作ではあまり将棋の描写がされてなかった馬莉愛だけど、まあ小学生名人だから強い。ただしそれは、アマチュアの中ではという枕詞が付く。所々、ソフトが好きそうな手も指しているけど、指しこなせてはいない。

 

天衣と馬莉愛が将棋盤を挟んで向かい合って、そのすぐ傍にはあいがいる。この3人だけ切り取れば、微笑ましい光景だな。現実にはすぐ隣に、俺と九頭竜と晶さんがいる。流石に6人も入ると、少し部屋が狭いか。竜王戦で賞金は入ってるんだし、九頭竜はもう少し広いところに住めよ。

 

「晶さんも、将棋を指せるんですか?」

「つい先日、大木先生からアマ2級だと言われた。会館の道場の方では、恥ずかしながらまだ3級だ」

「1年前は銀と金の動かし方すら分からなかった状態のことを考えたら、かなり伸びてますよ。そろそろライバルの男の子にも、勝てるようになったでしょう?」

「……あいつは、先に1級になった。もうすぐ研修会に入ると、意気込んでいたな」

 

『小学生男子の伸びは凄まじいですから、晶さんが追い付くのはかなり厳しいですね。そもそも女性で、将棋を始めて1年でアマ2級なら女流棋士を狙えるレベルですよ?』

(アマ初段ぐらいまでなら、わりとすぐ上がるイメージだけど?)

『それはマスターの感覚の方がおかしいでしょう。九頭竜だって驚いてますし』

(……うん。まあでもアイの丁寧な解説や指摘を聞いて、棋力が伸びない方がおかしい気もするけどな)

 

九頭竜が晶さんに将棋を指せるか聞いて、アマ2級という返答には驚いていた。まあ純粋に、将棋を指せる女性って珍しいからな。天衣のことを理解したい一心で、アマ初段に手が届きそうなのはわりと凄い。

 

……残念ながら棋力の伸びには早くも陰りが見えているし、ここから成長するのはかなり苦労すると思うけど。仕事をこなしながらだと、アマ初段を目指すのも厳しいものはあるのが現実だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

記録係

天衣が馬莉愛を一手差で負かし、泣かせて帰らせた日の3日後。棋帝のタイトル戦が始まる直前、玉座戦の本戦トーナメントで、今年の勝率が9割を超える九頭竜と当たった。いやこっちも9割は超えているというか、9割7分だけどさ。

 

玉座は獲得しにいく予定のタイトルなのでここは勝ちに行くけど、一つ問題が起きる。今日の対局の記録係を務めるのが、弟子の天衣だったのだ。

 

「……あー、すまん。天衣が記録係になったんだが、大丈夫か?」

「大丈夫大丈夫。天衣ちゃんも、師匠の記録係を務めるのは初めてだよね?公式戦で師匠が将棋を指す姿、間近で見たことは無かっただろうし、今日は頑張ってね」

「はい、ありがとうございます。九頭竜先生」

 

『天衣の猫被り、上手くなってますね』

(天衣がぺこりと頭を下げて、九頭竜が断るはずもないけどな。しかしまあ、天衣が記録係か)

『弟子が記録係はたまにあることですけど、記録係不足も深刻ですね』

(いや、流石に九頭竜VS大木の対局は人気だと思うぞ?天衣が勝ち取れたのは、わりと奇跡に近いレベル)

 

弟子が師匠の記録係を務めることになった場合は、師匠が一言相手に断りを入れるのが慣習だ。相手によっては、弟子が記録係を務めるというだけで平常心を保てなくなる人もいるし、実際に師弟が同じ対局場にいる環境だと指し辛さは感じるかもしれない。対局場が、2対1になるわけだし。

 

9割9分断られることはないが、今日は相手が九頭竜だったので普通にOKを貰えた。まあ九頭竜の弟子であるあいが記録係になっても、俺はOKするしな。玉座戦の持ち時間は、予選から5番勝負まで全て5時間。記録係を務める場合、途中でトイレには行けないので持ち時間の長い対局の時は色々と準備もしないといけない。

 

そして、俺の対局は対局時間が短いという理由で記録係を消化したい奨励会員に人気。タイトルホルダーで、単純に強い人同士の対局になることが多いという理由でも人気。天衣にどうやって記録係になったのか聞くと、みんなに譲って貰ったとのこと。……何を言って譲って貰ったのかは、非常に気になる。

 

あ、俺は三冠だけど九頭竜は竜王なので俺は下座です。プロ棋士としても、九頭竜の方が奨励会を抜けるのは一期早かったわけだし、先輩になる。友達気分は抜けないけど、上座下座はキッチリ守らないと色々と言われる。その後、振り駒が行なわれて俺の後手となった。

 

九頭竜は、今回も本気で勝ちに来るだろう。何を仕掛けて来るか楽しみにしていると、角側の端歩を突いて来た。初手、9六歩だ。

 

『1四歩』

(あ、はい。相手が初手で端歩を突くなら、こっちも突き返すのね。なにこの子供染みた将棋)

 

即座に俺も1四歩と端歩を突くけど、それを見て九頭竜が顔をしかめた。おい。俺の性格を知っているなら、端歩を突き返されるぐらい想定しておけよ。数手進んで、九頭竜は中飛車を選択。まあ、初手の端歩を活かすなら中飛車は選択肢の一つだな。

 

(お?お茶が美味い)

『珍しいですね?実家で教育されていたんでしょうか?』

 

九頭竜が序盤から長考に入ったので、天衣の淹れたお茶を飲むと普通に美味い。若い奨励会員ほど、記録係に慣れていないほど、お茶を淹れるのが下手だから、天衣のお茶が美味いのは想定外だった。下手だったら、淹れ直しを要求していたと思うし。

 

俺がお茶を飲む姿を見て、九頭竜もお茶を要求。……今コイツの頭の中「JSが淹れたお茶」で8割は占められてそう。こういう序盤での長考は、考えているようで将棋について考えてないことも多い。たぶん九頭竜も、研究してきた手順が使えそうか否か確かめているだけだろう。

 

将棋は互いに端歩を初手で突いた以外はあまり奇抜な手が見られず、まだ互いにほとんど囲いを作っていない段階で九頭竜が開戦。本当に九頭竜は、居玉大好き速攻大好きだな。アイは守ってから押し潰す将棋が多いから、その守りが完成する前に決めに来たんだろうけど、残念ながら速攻同士の戦いもアイは大得意なんです。というかたぶん、アイに弱点は無い。

 

女流棋界でHP9999が例えに出て来るなら、プロ棋士の体力なんてみんな数万から数十万だ。そんな中で、アイは相手からの被ダメを100%カットするし、相手にHP10割ダメを連発する。他のプロ棋士から見れば、無理ゲーの糞ゲーだ。

 

……だから、まあ、アイを合計で10分とはいえ考えさせた九頭竜は誇って良いと思う。たぶん前年度のソフトよりかは、強くなっているんじゃないかな。

 

『考えたわけじゃ無いですぅ。ちょっと検証していただけですぅ』

(それを考えているというんだよ。でもまあ、全然届いてなかったな)

 

終盤に入り、攻め駒が尽きた九頭竜は受けに回って持ち駒を貯めるしかない。そんな九頭竜を相手に、と金でじわりと寄るアイさんマジ鬼畜。ただそれでも最後まで形作りをせず、足掻き切った九頭竜は精神面でも凄まじい成長をしていると思う。

 

 

 

 

 

初めて師匠の記録係を務めた天衣だが、記録係自体は奨励会に入ってから何度かしたことがあった。それらは全て高段棋士同士の対局であり、どの対局でも静かで厳かな雰囲気があった。

 

では、目の前の男はどうだろう?ニコ生などの、画面越しで見る分には厳かに見えた。しかし直に見ると、どこか真剣味が足りないのがよく分かる。

 

序盤も序盤、初手から九頭竜は定跡から外れるものの、数秒で大木も対応し、最序盤から初期の構想からズレてしまった九頭竜は作戦を組み立て直す。今日の九頭竜は、後手番なら居飛車、先手番なら中飛車の超急戦を仕掛けるつもりだった。

 

生石玉将を相手に披露するつもりだった新手に、改良を重ねた新戦法だ。しかし残念なことに、アイにとっては既知の戦法だった。所々、怪しい所を確認するアイだったが、問題無いと判断して九頭竜の攻め駒を丁寧に取り込む。じわじわと攻撃力が擦り減る将棋に、九頭竜は徐々に手が止まり始める。一方で大木は扇子で口元を隠してあくびをし、九頭竜にも聞こえないような小さな声で「ねむ……」と呟いた。

 

まるで天衣相手に指導対局でもしているかのような状態の大木を見て、天衣は大木に緊張感というものが無いと察した。単に図太いだけではない。玉座戦の本戦トーナメントという重要な対局で、相手が現時点で棋界トップクラスの棋士でも緊張感がない。要するに何度、どのような状況で戦っても大木のメンタルには影響しないということだ。

 

対局は大木が終始リードを奪った対局となり、夕食前には終了する。大木の消費持ち時間は、合計で11分だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

棋士総会

梅雨の時期に入り、今日も今日とて天衣の家で指導対局をするけど、予想外の臨時収入が入る。

 

「大木先生。これは今月の分だ」

「……わりと、稼げますね?」

「我々にとっては、馬鹿が多いのはありがたい話だ」

 

晶さん以下夜叉神家に色々と委任していた、俺の誹謗中傷をした人達から巻き上げられたお金。その一部を受け取ってしまった。流石に金回収は得意だと言うだけあって、結構な金額になっている。

 

……反社会勢力に対しては毅然とした態度で立ち向かいますとプロ棋士になる時に誓約書を書かされた気がするけど、そもそも月光会長が夜叉神家を反社会勢力扱いしていないから大丈夫だと思いたい。実業家だよ実業家。

 

前世でもわりとネットには触れていたし、今世でも使っているから、ネットの世界に触れていた期間は長い。世間からの評価や評判は、個人的には気にするタイプなので、色々と手も打った。というか、夜叉神家が俺の評価を工作してると知ってからはアンチ撲滅運動に関して互いに情報交換をしている。

 

たまに、というか人気棋士は結構な頻度で殺害予告が発生するからな。死ねや消えろも殺害予告に入るなら、毎日のように殺害予告はされてるよ。

 

きっかけは単純に目に見える範囲に入ってくるアンチが鬱陶しいから訴えただけだが、金が+になるなら黙ってはいられないヤーさん達。俺の目に入らないようアンチはアンチスレへ隔離するというか、追いやるとともに、そこから出て来て荒らしたり誹謗中傷をする奴は訴えるシステムを構築した。一方で、アンチスレで反アンチ活動もする徹底ぶり。ネットに強いヤーさんかっこガチって、文字面からしてヤバそう。

 

そんなこんなで臨時収入も入って、棋帝戦の第一局も名人相手に勝利した俺は、棋士総会に参加する。関西の棋士はほとんど出席しないけど、流石に三冠も取っておいて出席しないというのは通じないので参加せざるを得ない。原作とは違い、生石玉将の姿もある。九頭竜は俺が行くから参加するか微妙だったけど、結局来たみたい。

 

『天衣も女流のタイトル経験者ですから、奨励会員でなければ出席出来たんですよね。それにしても、関西棋士の出席率の悪さは目立ちます』

(関西の棋士にとって棋士総会は、わりと他人事だし出席しないだろ。俺と九頭竜も、タイトルホルダーだから出席している面はあるし)

「尊敬する棋士は大木三冠で、目標はタイトル獲得です!」

『名前言われましたよ?』

(やめて。さっきから関東棋士のほぼ全員の目がこっちに向いているとか、色々と怖すぎるんだけど)

 

棋士総会はまず、新四段の挨拶から。今の挨拶をしたのが、俺の真似をしてハーゲンダッツを食ってはたまにお腹を壊している阿呆みたいな大木狂信者だな。俺が三段リーグの一期抜けをした時、最後に蹴落とした奴でもある。

 

今年の新四段として加わった棋士4人は全員20代なので、全員年上ということになる。まだ俺が、最年少棋士という状況は続きそうだな。来年には空さんか椚か天衣の内、一人は新四段としてここに来ていると思うから、最年少棋士を名乗れるのは今年までだけど。

 

で、原作では予算の話に移る前に電子機器の持ち込み禁止について話があったけど、俺のせいでなくなっている。来年か、再来年には議題に上がると思うけど、俺がソフトに勝てる内は話題にもならないだろうな。元々月光会長は反対多数の中、強引にこの案を押し通した。それが弟子のせいで、出したくても出せない状況となっている。

 

挨拶の後は女流棋士に関する話だけで終わり、予算の話に移る。その予算も今年は潤沢にあるのか、例年に比べるといつもより短い棋士総会は夕方前には終わった。周囲の関東棋士達は飲みに行く相談とか、和気藹々としているけど、俺と九頭竜は釈迦堂さんと歩夢に誘われてラーメン屋に入る。馬莉愛が迷惑をかけたから、奢らせてくれとのことだった。原作とはまあ、話の流れが色々と変わるわな。

 

「本当に、愚妹がご迷惑をお掛けした。大木には感謝してもし切れぬ」

「お礼なら天衣にというか、夜叉神家に言ってくれよ」

(天衣の電話一本で高級外車と運転手が颯爽と来るもんな)

『しかも女性の運転手を指名して、その通りに来るのは凄いですよね。女性でも、凄みのある人でしたが。……天衣にとって、同い年の友達が増えたのは良い事です』

 

4人が並んで、千駄ヶ谷のホーム軒で豚骨ラーメンを啜る。スーツにかからないよう慎重に食べる俺と、そもそも箸が止まっている九頭竜とは対照的に、歩夢はズルズルと食べている。隣にいる師匠と2人揃ってお高そうな衣装を着ているのに、よくそんな勢いでラーメンを食べられるな。

 

「時に大木三冠よ、馬莉愛のことはどう見る?」

「どう見るって、プロ棋士になれるかどうかです?……言っちゃって良いんですか?」

 

ちゅるちゅると音を立てながらラーメンを食べる釈迦堂さんは、馬莉愛のことについて質問する。釈迦堂さんにとっては、孫弟子ということになるんだよな。そりゃ可愛がるだろうし、気になるだろう。歩夢も、ラーメンを啜りながらこっちを見て来る。

 

「どのような残酷な言葉でも受け入れよう」

『馬莉愛の可能性、ですか。初段までは楽に到達するでしょうが、それ以降は厳しいんじゃないですか?高校生の間に三段リーグ入りしたとして、プロ棋士になれる可能性は60%前後かと』

(お?思っていたよりも高い。空銀子には劣るけど、才能はやっぱあるよな)

「……中学生の間に初段まで行けることは保証します。高校生の間に三段リーグまで到達すれば、プロ棋士になれる可能性としては6割程度かと」

「大木!そんな言い方は」

「良いのだ若き竜王よ。大木の率直な意見が聞きたかったのだ。それに、想定していたよりも良き返事だった。そうか。プロ棋士になれる可能性はそれなりに高いか」

 

歩夢は釈迦堂さんのイエスマンみたいなところはあるので、馬莉愛の将来についても釈迦堂さんに従うつもりなのだろう。それなら何で弟子にしたと問いたいところだけど、まあ深い事情がありそうだから首を突っ込んで聞くつもりはない。

 

……どうでも良いけど、九頭竜は若き竜王なのに対して俺は普通に大木三冠なんだよな。若きって言葉を、付けられてないのは何かを見透かされているようで嫌になる。

 

奨励会には、日本全国から将棋の天才達が集まる。しかしその中の、8割はプロ棋士になれない。才能が潰れることなんて珍しいことではなく、途中で将棋を諦めたり年齢制限を迎えることになる。

 

既に天衣の同期も、2人が奨励会を去った。今までの僅かな期間で、6級のBや7級に落ちたのだ。6級から2勝8敗したら6級のBに落ちるから、最短の8連敗だと一月半で降級する。そして8連勝する人がいる以上、8連敗する人も珍しくはない。

 

その狭き門を突破する確率が、アイ予報で60%ということは期待が出来る方ではあるのだろう。抜けるか抜けられないか断言出来なかった以上、馬莉愛を計り損ねている部分もあるはず。だけどまあ、厳しい世界だな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

生きる屍

ラーメン屋を出て、九頭竜と2人で大阪へ帰る。福島まで一緒だし、こういう機会は多いから話すことも多いけど、九頭竜は釈迦堂さんが潰れた才能の例で出した岳滅鬼翼さんを気にしていた。あいの次の対戦相手だし気にするのは当然だけど……ああそうか。天衣との観覧車イベントが無くなったからマジで手掛かりが無いのか。それはしょうがないな。

 

原作だと天衣は女王戦中、女流名跡の予選で岳滅鬼さんに負けている。元奨励会2級で、初見殺し感満載の将棋を指す人だ。……まあ、教えてやっても良いか。あいにそのまま、伝えるつもりはないだろうし。

 

「女王戦では色々と迷惑かけたし、迷惑料として岳滅鬼さんの情報は渡すわ」

「大木側から、迷惑はかけられてないよ。……姉弟子の問題は、こちら側の問題だし」

「まーまー。素直に貰っておかないと、フグ料理を奢らされることになるぞ?」

 

『うどんすき程度で、九頭竜の財布にダメージが入るとは思えないんですけどね』

(俺も常に財布の中には20万ぐらい入っているし、九頭竜はその倍ぐらい入っててもおかしくないんだけど……まあ金銭感覚がまだズレてないことは良い事だよ。俺なんかぶっ壊れてるし)

『石油王に課金ゲーで勝とうとするのは、マジでやめて下さいね?』

(もうしないって。あっという間に臨時収入の30万が溶けたのは、完全に恐怖体験だったわ)

 

九頭竜に岳滅鬼さんの将棋が待ちの将棋であること、持将棋と千日手を繰り返し相手を疲弊させることに定評があること、元小学生名人で、元々は才能豊かな人だったことを伝える。

 

……女性で初めて小学生名人になったのはこの人だし、才能自体はあったんだろう。完全に、奨励会のせいで将棋が変わった人の典型的な例だ。カウンター型のあいの将棋に、似ている部分はあるかな。

 

「それにしても7月から帝位戦なのに、弟子の対戦相手を気に掛けるとは随分と余裕だな」

「その言葉、棋帝戦の直前まで弟子のサポートをしていた大木にだけは言われたくないな」

「俺はまあ……於鬼頭帝位には勝てそうか?」

「ソフトより強くなければ、勝てる見込みは十分だ」

 

あいは女流名跡の予選決勝だけど、九頭竜は来月から帝位戦が始まる。原作通りに勝てるとは言い切れないけど、原作より九頭竜は明らかに強くなっているから4連勝でタイトルをもぎ取って来る可能性の方が高い。

 

……?7月から帝位戦が始まるなら、日程が色々と合わなくね?

 

『……玉将戦の非常事態が無かったからじゃないですかね?機械類の持ち込み禁止もありませんでしたし、そのための段取り作製も無かった。日程が例年からズレる要因が今年には無かったということです』

(ああ、はい。俺のせいですね)

 

タイトル戦は毎年、同じ時期にあるのはあるけど、他の棋戦や当事者の事情でズレることも当然ある。なにわ王将戦に関して、九頭竜はタイトル戦が間近なのにイベントの手伝いをすることになるな。まあこれに関しては、俺も棋帝戦の最中なのに手伝うことになる。ぶっちゃけ、珍しい話じゃない。

 

帝位戦で九頭竜の相手になる於鬼頭帝位は、ソフトに負けた最初の棋士として有名だ。そしてソフトに負けた後、窓から飛び降りて自殺を図ったことでも有名。高さが足りなかったから、死ななかったけど。

 

……奨励会員で自殺をしようとする人は多いけど、失敗も多い。将棋によって、現世に繋ぎ留められている感はあるな。どちらかと言うと、将棋に関することをスッパリと断ち切ってから自殺する人は自殺に成功してしまうから、衝動的に自殺する人よりもこっちの方が危ない。

 

将棋に関する書籍や棋譜を全て燃やして、崖から投身自殺をした人もいる。だから俺の同期が将棋関係の本をお世話になった将棋道場に寄贈して行方不明になった時は焦ったし、探しにも行った。……結局あの騒動のあと、奨励会に復帰して現在2級というのは頑張っていると思うよ。何とか高校生の間に、入品を果たして欲しい。

 

『奨励会員自殺し過ぎ問題』

(わりと失敗が多いし隠されているから世間一般には知られてないけど、将棋だけを続けて来た奴らが集まる場所で、8割は夢破れるからなあ……)

『奨励会を辞めてから自殺した人も含めれば、結構な人数になるんじゃないですか?』

(やめて。冷静になって検証したくもないわ)

 

三段リーグは第7局、第8局が終わって坂梨さん、鏡洲さん、辛香さんが8連勝中。1敗勢が一人もいないということは、昇段はいよいよこの3人に絞られたということだな。2敗勢は結構な人数が残っていて、椚はその下の3敗勢。こりゃ椚が昇段する可能性は、かなり低いな。ただでさえ順位が1番下なんだから、これから全勝勢、2敗勢、3敗勢が全員4敗してやっと昇段の目が見えて来るぐらい。

 

全勝してプロになりますと意気込んでいたからメンタル面もわりと不安だけど、今日の例会では元1敗勢に2連勝しているから椚も復調気味。もう完全に、上の3人をアシストするだけの存在だな。まあ来季のために、順位は1つでも上を目指さないといけないか。

 

「お、今日の棋士総会がニュースになってる。三段リーグを抜けた女性のプロ棋士は、四段になると同時に女流棋士としての資格も持つのは大きいな」

「元々、姉弟子のお陰で女性のプロ棋士が女流棋士としての資格を持つことは既定路線なところはあったけど……今年決まったのは、天衣ちゃんのせいだと思う」

「うん。まあ次の三段リーグまでに昇段して、一期抜けする可能性もあるからな。それは、空さんも同じか」

 

今日の棋士総会では女流棋士の資格について少し話し合われたが、これは前々から空さんのお陰で話が進んでいたものだ。前までは女性がプロ棋士になっても女流棋士にはなれなかったし、そもそも女流棋士になる資格が無かったが、今年から四段に昇段後2週間以内に女流棋士としての資格を申請すれば、女流棋士にもなれることになった。

 

要するに、プロ棋士としての活動と並行して女流棋士としても活動出来るということだ。これは、全女流棋士にとっての死刑宣告にも等しい。空さんか天衣か、どちらかが四段になれば、蹂躙されることが確定したということだし……。

 

あ、地味に不敗の女流棋士にしてやるって言葉が守れないかもしれない。女流棋士相手なら負けさせないという意味で言ったし、向こうもそう認識しているけど……。

 

今後、女流棋士になった空さんと対局して1敗もしないというのはあり得ないし、詰んだなこれ。い、いや、天衣に言った時にはこんな制度無かったし、想定外だったということで許して貰えないだろうか?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小学生軍団

九頭竜がある日、大量の小学生を引き連れて関西将棋会館にやって来た。校外学習とのことで、今からあいと岳滅鬼さんの対局を見学するのだろう。結局、九頭竜は岳滅鬼さんの情報を集めるだけ集めて特に対策も立てなかった模様。別に原作通りだし何とも思わないが、今のあいを見るに逆転勝ちを狙わなくても力でねじ伏せられそう。

 

『岳滅鬼さん、初見なら奨励会有段者でも勝ち辛い人でしょうね』

(逆に言えば、初見じゃないなら対応出来るタイプの人だ。だから対策を練られやすい奨励会で、2級から上に上がれなかった。……それにしても、子供でごった返しているな)

『ロリコンのマスターの御眼鏡に、適う子はいましたか?』

(いねーよ。そもそもアイは、俺の限定的な好みやストライクゾーンを知っているだろうが。とにかく、ロリコンではないことだけは主張するわ)

 

40人もの小学生を引き連れる九頭竜を見て、将棋関係者は次々に「やべえ、本物だ」「あそこまで行くなら尊敬する」「本当に小学生が大好きなんだね!」と恐れおののく。もう九頭竜の評判は、色々と駄目かもしれない。

 

今日の対局は中継もされるので、俺と天衣は棋士室でその将棋を観戦する。天衣も、あいのことはずっと気になっていた。今まで必死になって勉強を重ね、奨励会に入り昇級昇段を重ねていったのに、差が広がらないからだ。それはこの前、歩夢の妹である馬莉愛が来た時に明らかになっている。

 

天衣と馬莉愛が指した後、あいとも早指しで将棋を指した天衣は、5戦5勝で終わる。初めて会った時から、平手で勝てることは変わらない。将棋のレベルは、お互いに高くなった。しかし差は広まったどころか、若干縮まっているような気すらする。天衣も気になって当然だろう。

 

「あのロリ王、また小学生と一緒にいるの?」

「ああ。今度は小学生を40人も連れて来たぞ。桁が違う」

「……よく問題にならないわねえ」

「まあ将棋連盟の方にも連絡は行ってるし、普及活動は大事だから許可は下りるよ」

 

岳滅鬼さんとあいの対局は、1局目はあっさりと千日手になった。先手番を握った岳滅鬼さんが、千日手を狙いに行ったのだから当然成立する。記録係は、確かあいと現在喧嘩中の水越澪か。小学生の奨励会員が記録係をするのは珍しいことじゃないけど、研修生の小学生は流石に珍しい。

 

「……理解不能ね」

「そうか?先手番でも持ち時間を多く残しているなら、千日手は手段の一つだぞ。後手番だって有利に見えるなら打開するかは悩むからな。

それに自身のスタミナや長期戦への備えが万全なら、指し直しを繰り返すことで相手の消耗も期待出来る。ある意味で、完成された戦術だよ」

 

千日手で指し直した結果、昼食休憩までにあいと岳滅鬼さんの差は出来なかった。……お互いに、待ちのスタイルで将棋を指しているからだ。あいの終盤力は異次元だけど、序盤は弱い。それを補うためにカウンター型の将棋にはなっていたけど、これよく考えたら岳滅鬼さんに対してあいは相当有利だな。

 

「中盤の山場になっても互角って、岳滅鬼さんに勝ち目は無いわね。

……お昼、どうするの?」

「モス」

 

お昼になったので、福島駅のすぐ近くにあるモスバーガーで散財。ここと近くのファミマは、プロ棋士から奨励会員、将棋道場に来る人まで幅広い層が使うから、思わぬ出会いもあったりする。前は生石玉将が普通にモスバーガーを利用していて、ビビった記憶があるな。

 

前まではこういうハンバーガーショップに入ったことも無かったようだけど、今は自分で注文して食べる程度には馴染んだ天衣お嬢様。最初は割高になるメニューを頼んでも一切気にしてなかった辺り、ガチのお嬢様感が出ていた気がする。俺も最近は気にしなくなったけど、クーポンは使います。感性が完全に庶民。

 

昼休憩が終わると、一気に攻め始めるあい。これはあいが、昼休憩の間に脳味噌フル回転で考えた手順だろう。それをノータイムで斬り返していく辺り、岳滅鬼さんの研究範囲は広くて深い。だけど途中で、その研究範囲の外に出たようで、途端に手が止まり始める。最後は、あいが罠ごと吹き飛ばして最短の詰みを披露した。

 

残念ながら、原作で幻視出来たのであろう翼で飛ぶ姿は見られなかった。……翼で竜巻を起こして、障害物を薙ぎ払うような将棋だったからな。ただ、高さを活かした別視点の強みは至る所で散見された。そしてそれは、天衣も見え始めている。遊び将棋の内、八方桂だけは今でも時々やってるからかな。

 

この後は日程的になにわ王将戦があるけど、ネット将棋で天衣が水越澪に指導はしているっぽいし、原作崩壊は無さそう。あいに懇願されたそうだけど、それで引き受けてあげる天衣はもう完全に人の良いお嬢様である。

 

賞金王戦で勝ち上がっている九頭竜は、歩夢と対局をすることになっている。賞金王戦に関しては俺が指して良い所まで勝ち上がったけど、途中で負けてます。アイのように何局もノーミスって、普通は無理だからな。

 

「あい女流初段の誕生か。こりゃ、女流名跡まで一直線かもな」

「そうなったら女流タイトルが、全部10代で独占されることになるのね。私と空銀子が女流棋士になる前に、あいは女流棋士のタイトルを全部掻っ攫うつもりかしら?」

「そのつもりだろうな。女流棋士は対局数が少ないけど、全部の棋戦で勝ち進んでいる最中なら対局数はかなり増えることになる。そこで経験値を稼いで、空さんと天衣を待ち構える算段じゃないか?」

 

女流棋士は、タイトルの数も少ないし対局数が少ないと言われる。だけど全部の棋戦で勝ち進んでいる状態なら、むしろ対局数は弱いプロ棋士よりも多いだろう。タイトルホルダーも、今なら全員バラバラで経験値を稼ぎやすい状態だ。

 

「奨励会には、入って来ないのかしら?」

「そこは分からん。ただこの前の棋士総会ではプロ棋士になると同時に女流棋士になれる規定ともう一つ、女流棋士がプロ棋士編入試験に合格した場合、女流棋戦、及びプロ棋士公式棋戦の両方に出場することが出来るという規定も出来た」

「……それってつまり、奨励会を抜けなくてもプロ棋士になれるってこと?」

「条件はかなり厳しいが、そういうことだ。……祭神が、プロ棋士相手に異例の勝率を稼いでいるからな。もしかしたら、あいつが最初に女流棋士でプロ棋士への編入試験を受けるかもしれん」

 

あいがどういうルートを辿るのかは、九頭竜次第なところもある。ただ今は、女流名跡だけに集中している状態だろう。そろそろ俺の知っている原作範囲からは抜け、将来的な予測も難しくなって来た。だけどまあ、この1年で天衣とあいの差がほとんど縮まらなかったのなら、もうこれから縮まることはないはず。あいが何らかのワープ手段を、手にしなければの話だけど。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

なにわ王将戦

某月某日。馬莉愛が吼えるなにわ王将戦が始まる。今日は奨励会の例会日なので、天衣はいない。例会日ということは、こういうイベントのお手伝いをしてくれる奨励会員がいないということなので、俺は運営スタッフ側で招集されてしまった。人手不足だし、指導対局を出来る人が必要だからね。仕方ないね。

 

『九頭竜があーもうめちゃくちゃだよ!と内心で叫んでいましたが、実際人は多いですね』

(あー。イベントで丸一日潰れるのは勘弁願いたい。しかも今日、入れ替わり立ち替わりでずっと目隠し100面指しだっけ?)

『ええ。ご丁寧に、その会場も既に出来上がっていますよ。ほら、右奥の一角に』

(うわマジだ。マジでメインイベントじゃねーか。今日だけで、何人の相手をさせられるんだこれ)

 

会場に来やがった人達への挨拶を済ませただけで既に九頭竜とあいは疲れているけど、ここからが本当の地獄だ。俺のところには運営スタッフが何人か集まって来て、打ち合わせが始まる。この人達は、棋譜が分かる程度の将棋中級者。ぶっちゃけ貴重な人材だけど、今日は俺の手足として頑張って貰う。

 

……別にアマチュア相手だし疲れはしないけど、疲れるから2時間までにしてくれと言っておいて良かった。下手したら午後はずっと、目隠し100面指しをしないといけないところだったな。

 

目標は、午前で敗退する1000人以上の子供達全員と指すこと。1人10分で終わらせれば、一時間に600人は消化できる。2時間なら1200人は相手に出来るだろうというガバガバ計算。たぶん頭より先に喉が死ぬと思う。

 

始まったなにわ王将戦の予選では、無事にJS研の面子が勝ち上がっているようで一安心。だけどまあ、決勝まで水越澪が勝ち残るのは厳しいだろうし、決勝で馬莉愛に勝つのも相当難しそう。

 

2時間後なら、準決勝辺りかな。そんなことを考えながら、指導対局という名の100人切りを開始する。もう一局一局、丁寧に解説したり指導することは出来ない。そしてこの入れ替わり立ち替わりで子供達が入って来る忙しさよ。俺は中央で座っているだけだけど、スタッフが馬車馬のように駆け回っているわ。

 

「3番3五歩!29番と44番6六銀!2番と70番5五角!4、7、19、66、94番は同歩!」

「ごじゅーばん7七銀」

「12番4五歩です!」

「99番8五飛」

 

四方八方から飛んでくる相手の指し手の声に関しては、アイが解析して将棋盤に勝手に反映しているようで、俺は声を張り上げるだけの簡単なお仕事。子供達は指し手が早いせいで、スタッフさんは大忙しだ。

 

『実際、これを2時間以上はマスターの喉がいかれますね』

(タイピングで指示した方が早かった説まである。ブラインドタッチは出来るし)

『10分での平均記録は900文字でしたから、28(番)5六歩みたいな指示の出し方なら1分で18手分の指示は出来ますか。たまに通じない声よりも効率的かもしれません』

 

1時間が経過して200人前後を捌いたところで、少し休憩が入る。今指している子達は、3分間だけ待ってくれ。こういう時に次の指し手を考え込めるか否かで、強くなれるか否かが分かれるぞ。

 

『それにしても、棋力を過少報告してくる子供がいないのは助かりますね。お陰で良い感じの手合いになって、今のところは全勝です』

(子供達相手の駒落ち将棋ですら負けたくないって、どんな負けず嫌いだよ。何人かには、負けてあげても良いんじゃない?)

『実際、何人かには負けかけましたし、最後まで勝ち切れる子がいるなら勝ち切ってくれるでしょう』

(……キッチリ勝ち切る。それが出来る子は、このイベントには来れないんだよなぁ)

 

最終的にイベント開始から2時間後に最後の対局が始まり、イベントが終了したのは2時間14分後。ちょうどこれから、決勝戦という都合の良い時間帯だ。今日俺と指した子供達の数は、累計で404人。想定よりも遥かに少ないけど、目隠しとはいえ100面指しは時間がかかるからしょうがない。流石に運営スタッフさんは疲れていたし、俺の声もガラガラだ。

 

『いつまで濡れタオルで顔を覆って寝たフリをしてるんです?疲れた感を出してサボるの楽しいですか?』

(いや、疲れた感は出さないともっとやらされるだろ。さて、決勝戦か)

『yashagami垢で、指導はしていましたから大丈夫でしょう。……あっという間に天衣がレーティング1位になれる辺り、あのアプリは修羅の国というわけではないようです』

(そう何個も、修羅の国があってたまるか)

 

原作と同じように天衣はあいに頼まれ、指導をしていたから原作より水越澪が強化されていることはあっても、弱くなっていることは無いはず。そう思って決勝の試合を観戦していると、九頭竜がお礼を言いに来た。

 

「天衣ちゃんが、鍛えてくれたんだよな?」

「天衣は俺の課題をこなしながら、片手間で教えていただけだから気にするな。そのせいで課題のクリアが遅れていたけど、まあ良い経験にはなったと思う」

 

どう考えてもyashagami垢は夜叉神天衣のアカウントなので、一部の天衣ファンの間では話題になっていたし、水越澪も早々に気付いたと思う。天衣が10面指しをしているサイトの方ではプロが指しているのも珍しくないけど、サイトやアプリによっては奨励会員でも無双出来る所がある。

 

決勝戦の馬莉愛vs水越澪は、原作通りに入玉を果たして長手数の末に水越澪が勝利。特に語ることもない。強いて言えば、天衣の指導はあまり関係無かったなということが分かった。

 

(水越澪とあいの涙の感動シーンで、九頭竜が自分の手の平を見た件について)

『初めて会った時、握手をせがんできた澪ちゃんの手の温もりは今でも思い出せる、でしたっけ?ヤバいですね』

 

馬莉愛はきっと、原作通りに奨励会試験を全勝で合格するのだろう。その馬莉愛に同い年で勝った水越澪も、奨励会に入れるだけの実力はあるということだ。今回まぐれで馬莉愛に勝てたとしても、まぐれで勝てる程度の実力差だったということだしな。ヨーロッパの方に、父親の転勤で行ってしまうのは残念だ。

 

『どうせ製薬会社の転勤ならMRでしょうし3年程度で帰って来ますよ。その時に水越澪は中2ですし、女流棋士になるならちょうど良い時期でしょう』

(そういうこと、思っていても言わないの)

 

そう言えば、水越澪の優勝に拘っていた理由って何だったっけ?あ、九頭竜があいの担任から色々と言われていたからか。九頭竜の傍にいる、あの人があいの担任かな?耳を澄ませると、九頭竜との会話が聞こえて来る。

 

「小学生との恋愛は絶対にNGですからね!」

 

……うん。何で今、こっちに流れ弾が飛んで来る感覚を覚えたんだろう?俺より九頭竜の方がクリーンヒットしている感じはするけど、肝に銘じておこう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ホテルネオアワジ

棋帝戦の第2局は67手という短手数で名人を降し、俺の2連勝で迎えた第3局。棋帝戦では毎年恒例となる会場のホテルネオアワジに到着したので、今年は淡路牛の料理を楽しむ。昨年は、天衣に構ってばかりで自分のことは後回しにしていたからな。淡路牛のステーキもハンバーグもうめえ。付け合わせの玉葱もうめえ。

 

『タイトル戦の楽しみが豪華な料理だけになってしまった男』

(やめろ。それ大体、アイのせいだし。……去年は椚が記録係だったけど、今年は鏡洲さんか)

『そう言えば原作の方で、鏡洲さんは記録係の時、正座が辛いとか思うようになったという描写がありましたね。三段リーグのこと、聞かなくても良いんですか?』

(んー、聞いておくか)

 

「鏡洲さんお疲れ様です。三段リーグの方、好調ですね」

「はは。何とか、首の皮一枚繋がっている状態だよ。……このまま全勝で、終われるとは思ってない」

「椚に勝てたのは、辛香さんのお陰ですか?」

「あの対局は、椚が疲れていたから勝てた対局だったな。辛香さんのお陰とは言わないが、影響が大きかったのは認めるしかない」

 

記録係が鏡洲さんだったので、ついでに椚が負けた原因を探る。このまま行けば、椚は天衣の四段昇段の最大の障害になるからな。直接話を聞くと、やっぱり辛香さんに粘られて疲れていたのが大きいらしい。あの天才が真価を発揮するのは、深くまで読める持ち時間の長い対局。三段リーグは持ち時間が短いから、十全に力を発揮することは出来なかったのだろう。

 

三段リーグも後半に入り、トップ勢同士はまず辛香さんと鏡洲さんがぶつかった。その結果は、鏡洲さんの勝利。坂梨さんと鏡洲さんが10連勝でトップを走り、辛香さんは9勝1敗となる。椚は7勝3敗だから、原作の空さんと同じ星。……ということは、まだ椚にもチャンスはあるということだ。既に今の段階で、椚の昇段は他力だけど。

 

まだ2敗で昇段のチャンスが残っている人達と全勝勢の対局は残っているし、最終的にどうなるかは全然分からない。ただ現状、鏡洲さんと坂梨さんはかなり有利だ。この状態から昇段を逃したこともあるから、鏡洲さんは29歳まで奨励会にいるんだが。

 

『それでも現時点では、鏡洲さんか坂梨さんか辛香さんの3人に絞られましたよ。そして鏡洲さんの昇段は、ほぼ確定的です』

(現状、この三人の中で唯一次点を持っているからな。昨季の順位も高いし、最後にして相当大きな昇段のチャンスだ)

 

空さんは女王を失冠した後、少しだけ調子を落としたけど、元々夏には弱い人だし、来季の三段リーグまでの三段昇段は十分に間に合う成績。確か今、10勝3敗だっけ?あとの3試合を2勝1敗で昇段だから、何とかなる範囲。天衣は二段昇段後、5連勝しているから何も心配していない。女王戦終了後、多面指しと指導対局で矯正した結果、波はかなりマシになったからな。

 

『ネット将棋の方も八段で勝率8割を超えましたし、10面全勝する日も近いですね』

(大体10%ぐらいで達成してしまうのか。こりゃ、もうすぐってレベルじゃないな。明日明後日には攻略完了してそう)

 

そうこうしている内に、前夜祭も終わり次の日。棋帝戦の第3局は名人の先手で始まり、名人は中住まいを選択。居飛車同士の対決で、お互いに飛車が浮いた空中戦。若干、ソフト同士の対決にも似ている将棋だ。

 

『名人はしくじりましたね。ソフトに似たような手やソフト発祥の手で、私に追い付けるわけないじゃないですか』

(ここから新手連発もあり得るんだから、一応備えておけよ。……何か名人の手、震えっ放しなんですけど)

『今までの価値観からすればあり得ないような新手の連発なんですから、名人の手も震えますよ。私にとっては、既知の範囲ですが』

(……単純に、アイの既知の範囲が広すぎる)

 

ソフトのカンニングを疑うわけじゃないけど、ソフトのような手を連発していた名人は、途中から盤面を複雑化させることに注力していた。だが残念。その変化はアイにとって既知の範囲だ。というわけで、ノータイム着手。ぶっちゃけ九頭竜戦の方が、アイは消耗していたと思う。

 

わざと自分から複雑にして、一手毎に多くの持ち時間を消費している以上、アイがノータイムで指せるのは仕方のないことだ。名人が考えている間も、アイは考えているわけだしな。

 

そしてここで俺としては珍しくホテルに頼んだバニラアイスが届くけど、事件が起きる。名人もバニラアイスを頼んだからか、アイスが対局場に届いた段階で溶けていたのだ。

 

2人とも溶けたアイスを見て、まず名人がズズズとバニラジュースとなったアイスを飲み始める。続いて俺も、ごくごくと溶けたアイスを飲み始めた。何だこの図。後で知ったけど、今回のニコ生で1番盛り上がったシーンらしい。

 

事件を起こしたホテルネオアワジ側は、正式な謝罪もした。一応、飲んだバニラアイスはそれなりに冷たかったし、溶けていない部分もあったから、時間経過で持ってくる時に溶けてしまったんだろう。もうそろそろ、夏本番の時期だしな。

 

第3局は名人が慎重に攻めて来たせいで手数は長かったし、途中の盤面はかなり複雑だったけど、アイは持ち時間を消費せずに勝ち切った。九頭竜と名人とでそこまで力に開きはないし、何なら名人の方が難しい将棋を指すけど、単純にアイとの相性が悪い説まで出て来た名人。しかしまあ、速攻を試したら今度は持久戦と、名人も色々と試してくるな。

 

(間違いなく今回は俺が指していたら負けていた件)

『途中でマスターが思い浮かべた手順は、どれも微妙でしたからね。伊達に今まで、将棋の神様と言われていた人じゃないですよ』

 

今回で棋帝を防衛したので、三冠は変わらず。次のタイトル戦では名人から玉座を頂く予定だけど、地味に名人の玉座に関する経歴がヤバいな。今までの名人の玉座戦に関わる記録は、25回連続出場、玉座在位通算24期、連続19期。何なら1992年から今年まで、ずっと名人が玉座戦に出場している。今回で26期連続出場だけど、流石に前例がない。

 

『地味にじゃなくて、派手にヤバいですよ。他のプロ棋士は何をしていたんだってレベルで、玉座は名人の独占状態です』

(まあ今年は勝ちに行くし、大記録もここで止まる。……ここだけは、ヘイト買いそうだな)

『名人が複数冠では無くなりますし、九頭竜も帝位は獲得するでしょうから世代交代は叫ばれるでしょうね』

(むしろまだ叫ばれていないのがおかしい件。それだけ名人の存在が、世間一般では大きかったということだけど)

 

6期連続ストレート防衛とか、名人も結構なことをやってんなと思いながら、福島の家に帰る。そう言えばそろそろ、夏祭りの時期か。天衣と夜叉神家が関わるから、色々と変わるだろうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

福島

九頭竜も俺も、福島に拠点を構えている。福島県ではなく、大阪府大阪市福島区の福島だ。関西将棋会館がある福島で、祭りのイベントを行なうらしく、あい女流1級はその実行委員をすることになった。

 

([聖天通商店街夏祭り]は、あそこの商店街の祭りだよな?)

『九頭竜の家から北福島小学校までの通り道にある商店街ですね』

 

決して小さな祭りではない。しかしまあ、女子小学生が実行委員で、あいがJS研のメンバーに声をかけてお手伝いをして貰っている姿を見ると児童労働にしか見えない。

 

そしてもう1人の実行委員になった天衣は、この祭りを手伝うことになった。

 

……天衣もこう見えて、タイトルホルダーだからな。夏休みになれば待ってましたと言わんばかりに男鹿さんが予定を入れて来たけど、その中の一つにこの祭りの手伝いもあった。

 

「……俺の家に来ても、面白いものは何一つ無いぞ」

「別に、面白いものを求めて行くわけじゃないわよ」

 

そのせいで、天衣が俺の住むアパートにやって来た。前に九頭竜の家に上がったけど、俺の家には入ったことが無かったことに気付き、興味を持った流れだ。後は、九頭竜がまたホテルに監禁されたので天衣とJS研の面子が集まれる場所を福島で確保したかったという理由がある。

 

九頭竜がホテルに監禁されたのは、免状の署名のため。誰かさんのキャンペーンのせいで、300枚の枠に追加で3000枚の応募があったらしいよ?……イマイチ、俺の影響力が分かり辛いな。名人の国民栄誉賞ブーストも続いているし、今回のキャンペーンは別途料金が必要ないやつだし。

 

……とりあえず俺も、今度また200枚は書かないといけなくなった。たぶん今のペースだと、4時間ぐらいは拘束されるな。会長と名人と九頭竜は、お疲れ様です。1枚1分で書けても、1万枚だと1万分。拘束時間は166時間。えげつない。

 

俺の住むアパートというか、マンションはそれなりに大きいマンションで、2LDKで家賃14万。8帖の部屋が2つと、15帖程度のLDKという感じ。入ってすぐの個室はゲーミング部屋&寝室で、奥のリビングに繋がっているもう一つの部屋は将棋用の部屋になっている。

 

とりあえずリビングまで天衣を連れて行くと、思っていたよりも狭いという率直な言葉を頂いた。あの豪邸と、一人暮らし用のマンションの一室を比べるんじゃねーよ。洗面所と風呂は広いし、家賃にしては広い方だぞ、ここ。

 

『大阪市の家賃は、東京の方の家賃と比べても遜色がないぐらいに高いですからね。ロリコン』

(天衣が家に来たいって言ったんだし、一度ぐらいは招いて良いだろ。……晶さんが手土産に持って来たの、超有名店のケーキをホールごとなんだけど)

 

とりあえずホールケーキを切り分けると、晶さんが紅茶を入れてくれる。流石に俺の家に紅茶がないことぐらいは、お見通しだわな。それとも、外出する時は常に紅茶セットとか持ち歩いているのかな?

 

いつも天衣の家で飲んでいる紅茶の味が、俺の家でも出せるというのは晶さんの料理スキルが高い証拠だろう。伊達に天衣の付き人をしている訳じゃない。美味しいケーキとの相性はよく、どんどん食べ進めている内に、急激な眠気が俺を襲う。

 

『あ、これ睡眠薬飲まされましたね。パソコンの閲覧履歴ぐらいは覚悟しておいて下さい』

(はあ!?うわ、マジだ。瞼が重くなってきた)

『睡眠薬を盛られると、将棋盤が次々と消えて行くのですね。なるほど……zzz』

(っく、パソコンはちゃんとシャットダウンするべき、だった……)

 

どうやら晶さんに睡眠薬を盛られたようで、俺は深い眠りについた。

 

 

 

大木が眠りについたのを確認し、天衣と晶は行動を開始する。まずは大木のスマートフォンの中身を確認するものの、検索履歴はゲームの攻略情報と電車のダイヤが上位に来ており、不審な点は見当たらない。強いて言えば、九頭竜とJSが一緒の写真が結構な割合でアルバムにあったぐらいだ。

 

ならばと大木が入るなと言った部屋に入り、ベッド周りを探索する。しかし残念ながら、大木はエロ本を持っていないためにそういう類の物は見当たらない。天衣と晶の2人は一通り部屋の探索をした後、電源が付いているパソコンの前に並び立つ。パソコンの画面はロックされておらず、大木の不用心さが表れている。

 

大木のパソコンは、デスクトップに多種多様なゲームのアイコンが並ぶ。天衣でも名前は聞いたことがあるようなゲームから、全く知らないゲームまで。そして天衣は閲覧履歴を見ようとクロームを立ち上げ、しかし閲覧履歴の方には進まなかった。

 

ブックマークの方に、当たり前のようにR-18の同人漫画サイトやエロ動画サイトが並んでいたからだ。大木は現在17歳。年齢の時点でアウトな上、エロ本サイトやアダルト動画の巡回は法的にもアウトである。

 

「……これって、どうなの?」

「……まだマシな部類です。大木先生に、特殊性癖の類が無かったのは喜ばしいことです」

 

天衣には見せられない内容のため、代わりにパソコンを操作し確認をする晶は現在21歳。初心な方ではあるが、知識はそれなりにある。大木の閲覧履歴から変な嗜好が無かったことは喜ばしい知らせだった。一方で、ロリが無かったことは残念な知らせだった。

 

色々と漁る内に、D○siteという購入サイトにも行き着く晶。購入履歴をクリックする際、大木の断末魔が聞こえた気がした晶だったが、気にせずにページを開く。すると大量の購入履歴が表示され、中には当然R-18のものもあった。

 

「趣味嗜好は公言している巨乳に加え、メイドとナースが群を抜いて多いです。同人誌の閲覧履歴は作品別だとFG○が多くて……そう言えば大木先生のスマホの方に、FG○は入ってないような?」

「FG○は入っては無かったわね。グラ○ルはツイッターの方でも画像を上げていたからプレイしているのは知ってたけど……プレイしていないゲームの同人誌を見るのは、普通なのかしら?」

「いえ、こういうのはプレイしているゲームが基本のはずです。私だって」

「私だって?」

「何でもありません!……何か、大木先生に刺さるキャラでもいたのだろうか?」

 

多くの情報を収集した後は、晶と天衣が見た範囲の履歴だけ消去する晶。大木の所為で、晶はパソコンの操作も上手くなった。と言っても上辺の知識だけで、誤魔化し方は完全ではない。そもそも大木は、晶の睡眠薬に気付いている。

 

部屋に入った痕跡を怪しまれないようにするため、晶は大木を運んでベッドへ寝かせる。晶の力が強かったのと、大木が軽かったことで、晶は苦も無くベッドへ持ち運ぶことが出来た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の師匠④

あまり前書きや後書きで補足はしたくないのですが、前回は作者の力量不足で伝わって無さそう&FGOを知らない人に不親切設計だったので軽く補足します。

FGOでは主人公のことを「マスター」と呼びます。同人誌の方でも男性役を「マスター」と呼ぶことは多いです。

主人公の限定的な好みというのはこれです→「マスター」

既に分かっていた人もいるかもしれませんが、要するにそういうことです。


私は師匠のことが、よく分からない。

 

出会ってから一年も経つのに、私は師匠のご両親のことも知らなければ、まだ家に行ったこともない。普段からわけのわからないことをよく言うし、弟子の大事なタイトル戦の最中に、実験のような改造を弟子の意思に関係無く決行する。

 

勝ったから良かったものの、負けていたら本当にどうするつもりだったのかしら?晶に聞けば私の対局中、師匠はずっと両手を組んで祈っていたようだし。あの対局は思い出すだけで、今でも背筋が凍る。

 

……女王戦の第5局、最初の序盤は問題が無かった。でも徐々に私の将棋がおかしくなっていることは盤面上に表れてきて、銀を丸損した辺りで私は師匠に今までの将棋勘を壊されたのだと感じた。すぐに見えるはずの最善手は複数の指し手を示しており、役に立たない。

 

意図的に絶不調へ追い込まれた中で、唯一の武器になりそうだったのが遊び将棋で身に着けた別の視点と読み方だった。この状況に追いやったのが師匠である以上、私はこの武器を使うしかない。そしてその武器を使う中で、少しずつ私の将棋というのは変わって行った。

 

最終的には、その変化に耐えきれず受けをミスした空銀子が負けた。私が、対局中に成長し切ったわけでもない。だけど女王戦で、得たものは大きかった。フルセットであの空銀子と戦って、勝てたことは私の将棋人生でも大きな転換期だったと思う。

 

対局が終わった後のことは、疲れ切っていてよく覚えていない。とりあえず師匠を一発殴ったことは憶えているけど、その後にひ、ひっ、膝枕をして貰ったとか憶えてないわよ!きっと寝てから振動で横に倒れたら、たまたま師匠の膝の上に頭が乗っただけよ。だから晶は、今すぐその写真を処分しなさい。

 

師匠は女王戦の間、付きっ切りで私の面倒を見てくれた。本来なら棋帝の防衛戦前で、玉座の本戦トーナメントを勝ち進んでいるこの時期、忙しくないわけがない。でもここまで付きっ切りで面倒を見てくれる理由を、師匠の対局で記録係をして分かった気がする。

 

本当に師匠は、対局が負担じゃないんだ。もう師匠を除けば将棋界で敵無しと言われ始めている九頭竜先生を相手にしても、緊張感が欠片もない。戦場に居てここまでリラックス出来る理由なんて1つ。今年の勝率が9割を超える九頭竜先生でも、足元にも及ばないぐらいに師匠が強いから。

 

……足元にも及ばない、は言い過ぎかしら?師匠が持ち時間を将棋に使う対局は、数が少ない。その数少ない対局の中で、ソフトとの対決を除けば九頭竜先生が相手の時が1番多い。おそらく今一番、将棋界にいる人間で師匠の将棋を理解出来ているのは九頭竜先生だ。それは棋帝の防衛戦で、名人相手に持ち時間を使わず3連勝したことで確信に至る。

 

本来なら、私が1番の理解者になりたかった。でも、それにはまだ全然強さが届いていないし、そもそも私は、師匠のことをよく知らない。

 

だからまず、師匠の家にお邪魔した。男の一人暮らしだから、汚い部屋かと思ったらキチンと整理されている部屋で、リビングとそれに直結した部屋は隅まで丁寧に掃除が為されていた。部屋の片隅を見ると、小型のルンバが確認出来る。

 

……ルンバは、物がない部屋じゃないと使えないのよね。改めて部屋を見渡すと、置いてある物が少ない。ということは、入るなと言われた部屋の方に色々と置いてあるはず。

 

元々師匠の個人情報を知りたがっていたお爺さまの件もあり、晶は手筈通りに睡眠薬を仕込み、師匠を眠らせる。まず師匠のことを色々と確認するなら、スマホからよね。あいに教えて貰った通り、眠った師匠の手を握り、スマホをタップさせていく。ロックはパスワードを事前に晶が確認済みだし、すぐに解除出来た。

 

ホーム画面には沢山のゲームがあったけど、全部晶にメモさせて検索履歴を確認。だけどスマホの中身には、特別気になるようなことは無かった。JSの写真は多かったけど、ほぼ全てが九頭竜と一緒で、ツイッターに上がっていた奴だし、目新しい情報はない。

 

ならばと、パソコンの方を探索する晶。するとすぐに、師匠の趣味性癖が暴露された。う、うわ。裸の女が、胸で……。

 

私には刺激が強いということで、晶から目を背けるように言われたけど、気になるものは気になる。晶は一通り目を通した後、性癖は一般人の部類に入ると断言。晶は私の2倍は生きているんだし、そういう知識もきっと豊富なのね。

 

師匠の性癖が分析された後は、パソコンに入っていたアルバムを見る。中には師匠の幼い頃の写真が入っていて、ムスッとした顔の小さな師匠の周りには、沢山のスマートフォンと将棋盤があった。写真から分かる範囲だと、師匠の実家は、それこそ師匠の住むこのマンションの部屋より狭そう。

 

……途中から、小さな一軒家に切り替わったわね。それと同時に、スマホも古傷だらけのものから綺麗なスマホ比率が高くなった。時々写真に写り込むチケットのようなものを見ては晶がスマホで何か調べているけど、何なのかしら?

 

「これは……月光会長との対局?」

 

アルバムの最後の方には、中学生になった師匠と月光会長が対局している写真があった。この沢山の写真を撮っているのは、たぶん師匠の父親だ。父親だけ写真に写っている回数が極端に少ないし、基本的には師匠とその母親の2人が写っていた。

 

月光会長と将棋を指している中学生の師匠は、写真越しで見ても気迫が凄かった。盤面を見ると、手合いは平手だということと、僅かに師匠の方が優勢そうということしか分からない。最後の疲れ切って満足そうな師匠の笑顔を見るに、この対局で師匠は勝ったんだと思う。永世名人の資格を持つ月光会長に、中学1年生の師匠が平手で勝つ。

 

あり得ないと、思いかけてしまった。だけど私は、小学生でプロ棋士になれるチャンスがある。中学1年生で、月光会長と対局する機会はあるかもしれない。そこで私は、あの大師匠に勝てるのだろうか?

 

師匠のパソコンを覗き見て、逆に師匠の気になる点というのは増えた。月光会長への弟子入りの経緯や、実家のこと。ご両親のこと。写真で見る限り、優しそうなお父さんと、厳しそうなお母さんという印象だ。私にはもういなくなってしまった家族が、師匠にはまだいる。……師匠はちゃんと、親孝行しているのかしら?

 

今日だけで、師匠のことが色々と分かった気がする。だけどそれと同時に、謎も増えたし、やっぱりよく分からないことも多い。

 

私の名前は夜叉神天衣。小学5年生。女王のタイトルホルダーで、いつか師匠のタイトルを奪いに行く者。今の目標は早く三段に昇段して、三段リーグを勝ち抜けること。

 

あ、師匠。ようやく起きたの?あれ?私と晶を睨んでいるように見えるけど……もしかして、気付かれた!?嘘でしょ!?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

睡眠

パッと目を覚ますと、午後5時。天衣が来たのは午後1時だから、4時間も寝たのかよ。4時間も寝たの、何年ぶりだ?

 

『おはようございます、マスター。4時間も寝たのは4年ぶりですね』

(はぁ。本当に、睡眠薬を盛られたんだな。……原作では、九頭竜も睡眠薬を盛られてたっけ?)

『それらしい描写があるだけで、残念ながら明言はされていません。まあ九頭竜はあいに睡眠中に、色々とされている描写とかもありますが』

(マジかぁ。部屋も色々と探索されてるし、パソコンに至ってはエロゲの購入履歴まで見られてるぞ)

『マスターの性癖が、暴露されてしまいましたね。だからパソコンにはロックをかけろとあれほど……』

 

部屋から出ると、天衣は何食わぬ顔であい達JS研のメンバーと作業をしていた。おう、こっちに目を合わせろや。

 

「あら師匠。起きたのね。突然眠っちゃうから、何事かと思っちゃったじゃない」

「一応言っておくが、俺の部屋には監視カメラがあるんだ。貴重品とか大事なものが、大量に置いてあるからな。

……俺が寝ている間に入ったようだけど、変な事はしてないだろうな?」

「ごめんなさい!」

 

俺の部屋に監視カメラがあると言うと、顔を真っ青にして即座に土下座してくる天衣。自分から謝れるのは偉いが、師匠に睡眠薬を仕込んで部屋を勝手に探るとか、普通に考えたら破門されてもおかしくない出来事だ。まあ、監視カメラは嘘なんだけど。そんなもの、一般人の部屋にあるわけないじゃん。

 

土下座する天衣を見て、慌て始めるJS研のメンバーと「しまった!」と言いたげな晶さん。いや、晶さんが騙されたら駄目でしょ。とりあえず見た物を他言するなと釘を刺したけど、どうしようか?

 

『天衣が自分に興味津々だと知って浮かれるのは勝手ですが、普通に犯罪行為をされているわけですし、何らかの罰則は与えないといけないでしょう』

(えー、天衣が嫌がることって何だ?)

『……コスプレさせます?釈迦堂さんから、天衣に服のモデルをやらせたいという打診はあったはずですが』

(アリだな。それにするかぁ)

 

アイと相談した結果、断り続けていた釈迦堂さんの依頼を引き受けることに。空さんもやっていたことだし、今度東京に行く時にでも寄ろう。

 

なお天衣は釈迦堂さんからの依頼を受けさせると言った瞬間、何をさせられるのか察して首を振ろうとし、その状態で固まったのは見ていて面白かった。まあコスプレで済むなら安いものだろ。晶さんに至っては得しかしてねえ。

 

あと晶さんに睡眠薬のことについて聞くと「何故バレた!?」という驚きの声と非常に良い表情を頂けた。無味無臭で、普通の人なら気付きもしないらしい。いや、急に眠たくなったら普通の人でも気付くんじゃない?この2人にとって、睡眠薬が使われたことに気付かれたのは想定外だったんだろうな。

 

……昨日、徹夜でゲームしていることはツイッターで確認することが出来る。そういう時は昼間にうつらうつらとするし、対局中でも寝たことはあるけど、半分は起きてるんだよ。全部寝ることは無い。

 

天衣とJS研の計5人で行なう夏祭りの準備の方は、原作通りにお手紙のガチャガチャをするようだ。確かこれ、晶さんが発案だったような……。確認のために晶さんに聞くと、やっぱりそうだった。それと夜叉神家が全面的にバックアップするせいで、たぶんそこいらの祭りより屋台の数は多くなる予定。

 

『あいはともかく、天衣が実行委員に選ばれたのは予想外でしたよね』

(でも、福島の祭りで新女王を祭り上げたいのは分かる。あいと同名というのも、大きいな)

『奨励会の方に注力して欲しい所ですが、既に7連勝ですか。次の例会で三段昇段を達成してしまえば、来季の三段リーグまで時間的な猶予は出来ますね』

 

次の例会で、天衣と空さんは三段になる可能性がある。前回の対決から日が経っておらず、潰し合わない可能性も高いことから空さんと天衣が同時昇段する可能性もある。マスコミにとっては、格好のネタになりそうだ。

 

『三段リーグの、第15局と第16局がある日でしたか。祭りが始まる前に、鏡洲さんの昇段が決まっていると良いですね?』

(どうだろ?今のところ一敗でトップではあるけど後半崩れやすいのは過去の三段リーグで分かっているからなぁ)

『負け犬根性が染み付いている、みたいな描写までありましたからね。……3位でも、フリークラスに入れるのは大きいです。鏡洲さんに関してはそろそろ安心しても良い頃だと思いますよ?』

(ここから全敗することもあるのが三段リーグだろ。俺が偉そうに語れる資格は無いけど)

 

来季から地獄の三段リーグに飛び込む天衣と空さんは、同時昇段だと対局が早く終わった方が上位になる。どちらにせよ、一期抜けというのはかなり難しい。……と言っても、最近だと歩夢と俺が一期抜けしているから2年に1回は起こる現象か。原作でも空さんと椚が一期抜けをしてるし。

 

そろそろJS研のメンバーは帰さないといけない時間なので、さっさと帰らせる。俺の家で、お泊り会なんてイベントは起きません。九頭竜はホテルに軟禁中だから、あいは清滝先生の家で寝泊まりする予定。家事能力の高さを見るに、一人でも何とか出来そうだけど、九頭竜が一人にはしない過保護っぷり。

 

さて。天衣と晶さんにどこまで見たのか吐いて貰いたいけど、聞くのが怖い。とりあえず、当たり障りの無い部分からかな。

 

「……あのパソコン、どこまで見た?アルバムの方まで見たのか?」

「全部見たと思って貰っても良い。そして私は、大木先生に1つ聞きたいことがある」

「ええぇ……。何でそっちが強気なの……」

「大木先生は今まで将棋以外で、どれだけの額を稼いだんだ?将棋が強ければ、馬券や宝くじの当たりも分かるものなのか?」

 

問い詰めようとすると、晶さんに逆に問い詰められる俺。これは、マジで色々と見られたんだろうな。この人達に悪意があれば、俺の財産が吹っ飛んでいたかもしれない。いや睡眠薬を使っている時点で悪意はあるけど。

 

……ネットの仮想通貨も含めれば、あり得ない倍率でお金を稼いでいることは認める。詳しい人が見れば、未来を知っていたのかと疑いたくなるような倍率だ。ただその未来知識を活かした稼ぎは、全部合わせても8桁には届かない。

 

将棋に専念できる環境作りのため、スマートフォンの数を増やすため、親の説得のため。必要な経費は、そういう所で稼いだ。宝くじに関しては、一回だけ当たり番号を憶えている回があった。競馬は、将棋を始める前の俺の趣味だ。前世と差異が無い部分も多い今世、最も稼ぎやすかったのは競馬だった。あと仮想通貨。

 

まあでも、憶えていたはずの宝くじの番号は1つずれたり、本来なら万馬券が生まれるレースで2着と3着が入れ替わって万馬券が生まれなかったりしたんだけど。とりあえず昔から稼いだお金はスマートフォンとパソコンに費やしたことを言って、その後は適度に怒っておく。

 

(今回の件はアイの方が怒ると思ったんだけど……怒ってないのか?)

『ええ。ちょっとまあ……良かった点もありましたし、そんなに怒る気はないです』

 

今回だけは、冷や汗が止まらなかった。全部見られた時点で、色々と手遅れな気はするけど。ぶっちゃけプライベートを全て見られた後で、もうやるなって言うのは意味無いしな。むしろオープンにしても受け入れてくれるのなら、それはそれでアリな気がしてきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三段

奨励会は、三段に到達してからが本番とも言われる。俺個人としては二段ぐらいが折り返し地点かなと思っているけど、三段リーグで苦労した人は三段昇段までで半分と言うだろう。

 

今日は、天衣と空さんが同時昇段するかもしれない日。空さんの成績は11勝4敗で、天衣は7連勝。お互い、後1勝で昇段だ。こういう時に、潰し合わせる血も涙もない存在が奨励会幹事なんだけど、前も空さんは天衣に昇段のチャンスを潰されているし、前回からあまり時間が経過していないから流石に実現しなかった。

 

棋士室に行くと、もはや空さんの鬼勝負の時は常連となった生石玉将と辛香さんが。一応、辛香さんには三段リーグの近況でも聞こうか。

 

「辛香さんは、まだ自力ですよね?坂梨さんには勝てそうですか?」

「うーん、内緒!大木先生、口軽そうやもん」

「そんな、岩より堅い俺の口を信じ」

「てめえのツイッター、情報流出の温床だろうが。

大木は天衣の応援か?毎度ご苦労様だな」

「生石玉将も、毎度空さんの応援ご苦労様です」

 

三段リーグの日程と、奨励会の例会日は違うこともある。あと4局を残して、鏡洲さんは1敗、坂梨さんと辛香さんが2敗でこの3人が1位2位3位になっている。前期順位のせいで辛香さんは坂梨さんと同じ星だけど3位という状況になっていて、まだ坂梨さんとの直接対局が残っているから逆転は可能だ。ただ原作では、あっさりと辛香さんは坂梨さんに負けているんだよな。

 

『わざと負けて体力を温存したとはいえ、奨励会三段にもなると適当に考えていても良い将棋を指せる時はあります。特に辛香さんは経験値が豊富ですし、緊張感もその時は無かったはずなので……相性は悪いかもしれませんね』

(体力を温存して、勝てれば最高だったわけだしな。辛香さんも、鏡洲さんに負けたのはちょっと意外だったけど……三段リーグの上位陣は、やっぱり直接対決の結果で色々と変わって来るな)

『星の食い合いになるわけですから、直接対決で結果が変わるのは当たり前のことですよ』

 

まあぶっちゃけ、坂梨さんと辛香さんはどちらが勝っても「ふーん」で終わるが。坂梨さんはそこまで関わりが深くないというか、三段リーグで1回戦っただけだし、辛香さんも一緒に研究会とかしたわけじゃない。ただ残った方が天衣の次の壁になるから、この2人に着目してるだけだ。

 

空さんの対局と天衣の対局に関しては、逐一情報が入っており、待機している取材陣がちょこまかしているのが鬱陶しい。……空さんの相手は初段の人で、最近の星は指し分け程度。こりゃ、空さんは勝つだろうな。級位者相手なら滅法強いけど、有段者相手には負けるタイプの人だ。

 

一方で、天衣の相手は二段昇段がかかっている初段の人。合っているか分からないけど、今年で21歳のはずだから、年齢制限の足音も聞こえているだろう。確か九頭竜の同期で、奨励会に入ったのは中学3年の時か?奨励会にしがみついて、必死にこらえているような人だな。

 

『対局前の雰囲気だと、今日の大一番で負けたら奨励会を退会しそうですね』

(……まあ、こればかりは仕方ないわ。三段リーグという地獄の出口が4枠しかない限り、退会する人の方が多くなるのは当たり前のことだし)

 

天衣の相手は、じっくりと構える受け棋風の人かな。中盤も山場に入り、天衣の方が優勢だ。そして一手毎に、天衣の対戦相手からは「死にたくない」という悲鳴が聞こえてそうなほど、必死な足掻きに入る。なお天衣はノータイムで駒得に走り、丁寧に反撃の芽を潰している模様。これは酷い。

 

「空さんの方は、相手が受けをミスりましたか。三段昇格は、空さんの方が早そうですね」

「……こんな勝負で三段に上がっても、意味ねえよ。

と、順位は天衣より上になるのか。まあこれも、三段リーグだ」

 

生石玉将が気付いたけど、天衣より空さんの方が終局は早くなる。ということは、三段リーグの順位は空さんが1つ上になるということだな。万が一空さんと天衣が2位争いをするという状況に陥れば、天衣が不利になるということ。

 

……間違いなく椚は今季の昇段の芽が無いから、来季に向けて色々と溜めている期間なんだよな。まだ3敗はキープしているけど、三段に昇段したてで順位が一番低いのは大きい。鏡洲さん、坂梨さん、辛香さんが全員3敗したとしても、鏡洲さんと坂梨さんはプロになり、辛香さんには次点が付く。一方で同じ3敗の椚は次点すら付かない。前期順位というのが、如何に重要かということが分かる。

 

一気に記者達が騒ぎ始めたので、空さんが勝ったのだろう。相変わらず他の人が対局している最中に騒ぐのは迷惑だな。そして空さんの対局終了から10分後、ひたすら粘った天衣の相手も投了して天衣も三段に昇段した。……全駒したとは言わないけど、大駒4枚金銀8枚が全部天衣の駒になっている時点で全駒と変わらねえよ。金銀が手持ちに入る度、受けに使っていた対戦相手が悪いけどさ。

 

これで空さんと天衣は、来季から三段リーグに挑むこととなる。……来季は大詰めが冬になるから、空さんが椚以上の壁になりそうなんだよな。体調面もあるけど、ジンクスというのは将棋指しにとって重要だ。冬の方が勝率高いと空さん自身が思っているなら、それだけで空さんは精神面で優位に立てる。

 

実際、夏の暑い時期に将棋指していて倒れたならトラウマものだろうし、その心配がない冬は指しやすい季節なのだろう。とりあえず、昇段のかかった対局で肋骨は折らずに済むだろうな。

 

三段リーグに所属している人の数は、空さんと天衣を入れて来季は恐らく33人。その内18局だから、空さんと天衣が当たらない可能性ももちろんある。三段リーグは実力がものを言う世界だけど、唯一運が絡んで来るとしたらこの組み合わせだろう。有力候補と全く当たらなかったお陰で、プロになれた人もいるぐらいだし。

 

『33人じゃないですよ。1人降段しますから、来季は32人です』

(ああそうか。勝率2割5分以下なら降段点だったな。2勝しか出来ていない人もいるし、組み合わせ的に……1人は落ちるのか)

『4勝以下なら降段点ですからね。その降段点持ちが、2人いて最終局で潰し合います』

(下手したらこれ、2人とも落ちないか?かなり低い確率だけどさ)

 

三段リーグにも当然ながら降段というものがあり、4勝14敗以下の成績なら降段点が付く。それが2回続けば、二段に降段してしまうから現行の三段リーグで順位が下位の人でも必死になる場合がある。

 

まあ、天衣が降段するとは思えないが。とりあえず記者達から解放されたら、今季の三段リーグにも注目するよう言っておくか。指している将棋もそうだけど、三段リーグは指している本人の方も注目しておいて欲しい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

コスプレ会場

天衣の罰というか、お仕置きに利用される釈迦堂さんのお仕事を引き受けるため、天衣と一緒に東京にあるシュネーヴィットヒェンまでプチ旅行。いやまあ、帝位戦の方で大盤解説の依頼も入っているんだが。まさか九頭竜と於鬼頭帝位の対局の、解説をさせられるとは思ってなかったわ。しかも聞き手役が天衣という。

 

『女流のタイトルを取ったんですから、聞き手役の仕事も引き受けることになります。しかしまあ、デビューがタイトル戦はインパクトが大きいでしょうね』

(一応天衣は、トラブルがあったとはいえニコ生に出ているし、純粋な人気も高いから呼ばれるのは分かる。でも、師弟でセットにしなくても良いだろ)

『むしろ売り出す方は、マスターと天衣をセットでしか考えてないでしょう』

 

どうせなら、ここで天衣の大盤解説用の衣装でも買うか。そんな思いで、ドイツ語では白雪姫という意味があるシュネーヴィットヒェンという名の釈迦堂さんの店を訪れる。すると中には、玉座のような椅子に腰かけた釈迦堂さんとその横に、空さんが居た。

 

「約束の時間より30分も早いが、歓迎しよう。ようこそ、余の城へ」

「……空さんとは、研究会ですか?」

「ああ、思っていたよりも感想戦が長引いてしまってな。もうしばらくだけ待ってくれ」

 

まさかの遭遇に、言葉を失う空さんと天衣。俺が早く来たのが問題だったんだろうけど、今一番顔を合わせ辛い2人だよな。元女王と、現女王。タイトル戦後にこうやって顔を合わせる機会は、少なかったはず。

 

「どうせこういう機会は増えるんだから、話しかけて来い」

「……はあ。

お久しぶりです、空女流玉座。こんな所で会うとは奇遇ですね」

「……その気持ち悪い喋り方、やめたら?」

「はあ?今ここでやる気?元女王さん?」

 

(何でこいつら、目があったら脳内将棋してるの?)

『今のは、空さんがわざと挑発したんじゃないですか?1局でも多く、天衣と将棋を指すために』

(……次の三段リーグのため、か?天衣は、わりと本気で勝ちに行ってるな。空さんは、負けても良いから何かを測りに行った感じか)

 

ちょうど空さんと釈迦堂さんの研究会が終わったタイミングで天衣をけしかけたら、勝手に脳内将棋を始める2人。互いにノータイムで指し手を言い合ったから10分足らずで終わり、天衣が勝利したけど、空さんは研究会で疲れているはずだから、負けて元々の気持ちで指していた節があるな。ただ負けるだけじゃなくて、天衣の攻めの速度というのも見極めていたような気がする。

 

まあ今ここで測られても、三段リーグで対局するまでにはさらに成長しているから無意味なんだが。天衣はこの後、釈迦堂さんとも指すけど、序盤で負けてるなこりゃ。マイナビ本戦の準決勝では後手番角頭歩が決まった形だったけど、釈迦堂さんの序盤は普通に強いわ。

 

『釈迦堂さんの研究の範囲は、かなり広くて深いですね』

(……才能が無いと自称する方々は、もう一方の才能を持ち合わせていることが多くて困る)

『100メートル走を、50メートル走にするのも才能ですから。どんなに途中の走り方が魅力的な速度の速い100メートル走者でも、競技自体を1メートル走にする奴には敵わないです』

(極論を言えば、そういうことだな。現実は、距離を短くしながら走るスピードも速くなる奴が勝ち上がっていくんだが)

 

でも中盤の捻じり合いで天衣に形勢は傾き、終盤で釈迦堂さんの攻めを完全に断ち切った。……さっき空さんとの研究会をして、釈迦堂さんが疲れていたのもあるかもしれないけど、序盤で負けても勝ち切れる実力差か。1年前と比較すると、かなり強くなったな。

 

早くも2局目が始まったので、ここまで運転した晶さんに睡眠薬のことを聞きながら対局を見物していると、面白いものがあると歩夢に呼ばれて2階の部屋へ招待された。ここ、原作で九頭竜と歩夢が研究会をしていた場所か。今は、馬莉愛が必死になって夏休みの宿題をしている場所になっているけど。

 

そして馬莉愛は、目に涙を溜めて言う。

 

「じ、自由研究が終わらないのじゃ……」

 

世の中、世知辛いのじゃ……。

 

というかプロ棋士同士の相性を研究するって、小学生がする自由研究ではないな。

 

『プロ棋士の組み合わせって、何組あると思っていたんでしょうね?』

(しかも、現役のプロ棋士全員分をやるつもりらしいぞ。……どこか、そういうデーターベースは無かったっけ?)

『あるとは思いますが、それを利用して紙に纏めるだけでも一苦労でしょう』

 

歩夢が馬莉愛の自由研究を手伝っているのは、一応歩夢にもメリットがあることだからか。……天衣は夏休みの宿題とか、さっさと終わらすタイプだし勉強面を手伝った記憶は無いな。

 

「俺の相性は……まあ、そうなるわな」

 

俺のことを書いた紙があったので拾い上げて見てみると、1番相性が悪い敵として、名人と歩夢が同率で書かれていた。名人との相性が悪いと書かれているのは、去年の玉座戦のせいだよな。あの3連敗は、当然勝率に響いた。今年は3連勝しにいくけど。

 

歩夢は、ちょくちょく負ける相手としてちょうど良いから選んでいた時期がある。にしても、よく出来てるなこれ。歩夢が手伝っているせいで、まるで小学生の自由研究に親が手伝った時みたいな出来になっている。九頭竜の相性表は、当然ながら俺が相性最悪と書かれていた。

 

……これ、俺を除く全棋士にとって相性の悪い棋士は俺なんじゃね?勝率と対局回数でランキングにするなら、当たり前のことなんだけどさ。逆に相性の良い棋士は、ちょっと面白いな。歩夢が呼んだ理由も分かったわ。データのまとめとか、手伝わないけど。

 

「大木先生ェ!天衣お嬢様の着替えが終わったぞ!」

「ちょっ!呼ばなくて良いから!師匠も来るんじゃないわよ!」

 

しばらくすると、晶さんに呼ばれたので下に下りる。天衣は結局、釈迦堂さんと指して3戦全勝か。釈迦堂さんは格上との対局でも上手く互角には戦うし、相手のミスがあれば咎めて勝ち星を拾う対局をするけど、天衣は全部読み切った上で勝ったということかな。

 

そして天衣は、メイド服を着ていた。普通の白と黒が基調のメイド服だけど、スカートの丈が短い。白いニーソを履いていて、カチューシャは……性癖照合が早過ぎません?いや、合ってるけどさ。その格好で『マスター?』……邪なことを考えるのは止めるか。

 

一方で空さんは、白ロリみたいな服を着ていた。写真は撮られてないから、今日は空さんが勝ったのか。着替えた2人を見ながら、優雅に紅茶を飲む釈迦堂さん。おそらく今日の対局は全敗したはずなのに、そうとは思えないほどの笑顔だし、良い趣味してるわ。

 

……地味に空さんと天衣が釈迦堂さんの被害者同士という意識からか少し会話が弾んでいたけど、俺が2階に行っている間に何があったんだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

メイド服

大木が2階に上がり、1階には対局をしている天衣と釈迦堂、その対局を観戦している空銀子と晶の4人になる。2局目は天衣が居飛車を選択し、釈迦堂も居飛車を選択したために相矢倉になった。

 

「ここでは堅苦しい言葉を使わなくても、普段通りの言葉遣いで良い」

「……分かったわよ。それじゃ、遠慮はしないわね」

「よろしい。では少し質問させてもらうが、幼き女王が将棋を始めたのは、何歳の頃だ?」

「はっきりとは憶えてないけど、2歳か3歳の頃よ」

 

釈迦堂は昔ながらの棋士で、相矢倉を得意とする。相矢倉になったため、序盤は差が開かず、中盤以降は天衣の方が徐々に優勢となる。ここで釈迦堂が天衣に対して、質問を始めた。大木がどうやって天衣を育てたのか、気になっていたからだ。

 

「師匠に出会うまでは、アマ三段クラスだったと思うわ」

「大木三冠が弟子をとったという話が話題になったのは、去年の2月だったかな。僅か1年半でここまで成長するのは才能も大きいが、師の力も大きいか」

「言っておくけど、師匠に教わり始めた時に私の才能はそれほど無いと言われたわよ。私が強くなれたのは、才能を細分化して仕込んでくれた師匠のおかげ」

「……何?」

 

釈迦堂の質問に答えた天衣は、釈迦堂の言葉に反論し、隠すつもりもなく話し始める。そばで聞いていた空銀子にとっては、耳を疑うような話だった。

 

「読むのが疲れるなら、読んでも疲れない身体を。視野が狭いなら、無理やり視野を広くしてくれたし、センスが無いなら、擬似的なセンスも与えてくれた。だから今の私があるのよ」

「そうだったのか。その方法は、詳しくは教えて貰えなさそうだな」

「師匠が良いって言うなら、話すけど……」

 

対局は、天衣が連続して歩を打ち込み、飛車を4筋に移動させる。右四間飛車となって、釈迦堂の綺麗な金矢倉を、正面から叩き潰した。天衣の攻めを受け切れず、釈迦堂は攻め合いに出るものの、速度が全く足りなかった。

 

2局目もあっさりと天衣が勝ち切り、釈迦堂が次で最後にしようと言うと、天衣は頷く。3局目は釈迦堂が先手で、天衣は後手番角頭歩を採用した。

 

「後手番角頭歩の研究は、始めてからどれぐらいになる?」

「分からないわよ。後手番角頭歩は、実戦で磨いてるから」

「ほう?今までに、何局指したのだ?」

「それもわからないけど、1万局は超えているわね」

 

天衣の1万局という言葉を、釈迦堂は嘘だと思えなかった。一方でひたすら対局をする練習方法を無駄だと思っていた空銀子は、詳しく話を聞こうとし、声を出そうとする前に言葉に詰まってしまう。空銀子は基本的に、他者とのコミュニケーションが苦手だった。

 

釈迦堂は前回の対局の時と同じく、持久戦を選択。前回の敗戦から行なっていた研究を踏まえ、前回とは仕掛け所を変えるものの、天衣にとっては既知の範囲の変化だったため、難なく対応する。この対局も先程までと同じく、徐々に天衣が有利になっていった。

 

「ところで、話を引き受けてくれた経緯を聞こうか。大木三冠が、無理やり引き受けさせた訳ではあるまい。何か、とんでもない失敗でもしたか?」

 

天衣と大木を見透かしたかのような釈迦堂の質問に、言葉を詰まらせる天衣だが、話すのが不味い部分、言うなと言われた部分を切り落して軽く触りだけを話す。具体的には大木のパソコンが点いていたので覗き見て、性癖を知ってしまったことだけ。

 

「ふふっ、そうか。ああ見えて、しっかり男だったか。

……幼き女王よ。せっかく手にした情報というアドバンテージを、使わない手は無いぞ?言うまでもないが、大木三冠を狙う女子は多い。確か今年のバレンタインデーのチョコは、大木三冠が最多だったはずだ」

「そんな話、聞いてないわよ⁉︎」

「まあ、本人には渡らぬチョコだ。手紙ぐらいは届くかもしれないが、本人にとっては直接貰うチョコの方が大事だろう」

 

釈迦堂に乗せられ、今日着る服について、天衣は「じゃあ、メイド服を……」と言ってしまう。その後、天衣はハッとした顔で「今の無し!」と叫んだが、釈迦堂は「よい。どうせ、他言しない約束だったのだろう。我は黙っておる」と言う。

 

しかし天衣は、もう1人この場で口封じしなければならない人間が居た。空銀子だ。

 

「えっと、さっきの言葉は」

「あんたは、大木の事が好きなの?」

「……ええ。そうよ。それは認めるわ。だから」

「黙っててあげるから、質問に答えて。

あんたは大木が好きだから、将棋を続けているの?大木に追い付くために、将棋を指してるの?」

「……合ってるけど、合ってないわね。

私は師匠のことが好きだから、師匠を超えるのよ。師匠が独りぼっちに、ならないようにね」

 

その空銀子に話しかける天衣は、逆に質問を受ける。質問の内容は師匠である大木を好きなのかと、何故将棋を指しているかだった。空銀子も、九頭竜と一緒に九頭竜の実家へ帰省した時、九頭竜から好きだという告白を受けている。

 

九頭竜に追い付きたいと考えていた空銀子は、大木を超えたいという天衣の言葉を聞き、考え方を改めると共に、少しだけ天衣を羨む。大木が天衣を気にかけているのはそういうのに疎い空銀子でも把握しており、あの時の告白の回答を保留にしてしまった自分に疎ましさも感じた。

 

そして2人はその後、釈迦堂のお楽しみのために着せ替え人形にされる。JSである天衣のサイズのメイド服というのは世に数が少ないが、幼い頃より研究会をし、空銀子のための服が多くある「シュネーヴィットヒェン」には、そういう類の服が山ほどあった。

 

晶とも相談しながら、釈迦堂の提案して来たメイド服の山を眺める天衣。最終的にはいつもの黒い服に似たメイド服を選んだが、白の割合が増えており、白いニーソに猫耳のようなカチューシャという情報を活かした装備もする。

 

着替え終わった天衣を見て、興奮をした晶は写真を撮り始めると共に、大木を呼ぶ。その声で2階から下りて来た大木は天衣を見て、複雑な笑みを浮かべた。

 

大木は一言、よく似合っているとだけ言い、大盤解説用の衣装を適当に購入するとともに、そのメイド服も購入する。釈迦堂から大木用の衣装も用意すると言われた大木は、いつもの服に着替え終わった天衣を連れて逃げるようにしてその場を去った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

衣装

東京の有名なホテルで、帝位戦の第1局が始まる。原作では夏祭りの後、三段リーグの最終日に開幕したけど、予定通り夏祭り前には第1局の対局日を迎える。俺と天衣は大盤解説を行なう予定で、前夜祭にも参加した。

 

「あれが、於鬼頭帝位……。

眼鏡は、外す時も多いのかしら?」

「さあ?俺との対局はまだ1回しかないし、よく分からない人だよ」

「……よく分からない度ランキングなんてものがあれば、師匠が1位に来そうね」

「そりゃ、俺自身も自分自身のことがよく分からないこともあるしな。しかしまあ、不気味な雰囲気だ」

『明日、於鬼頭帝位の頭が禿げ上がりますが耐えられますか?』

(無理。爆笑するかもしれない)

 

歩夢が副立会人で、正立会人は山刀伐さん。わりと顔見知りの面子が集まって検分が始まるけど、九頭竜に浮ついた様子はない。検分の時、九頭竜は於鬼頭帝位に集中してなかったっけ?あれか、考え事してても受け答えは不自然じゃないぐらいに並列処理も得意になったのか?

 

『単純に、於鬼頭帝位への興味が原作より薄れているんじゃないですか?』

(ああはい、俺のせいですよね。

……供御飯さんが取材に来ているのは、原作通りだけどおかしくない?まだソフトは人類超えてないけど)

『ソフトに支配された人間が指すことに変わりないですから、おかしくはありませんね』

 

検分は対局者2人がさっさと確認を終わらせ、前夜祭では両者がさっさと自室に引き上げる。たまよんが飛び入り参加で盛り上げてくれたけど、まだ奨励会試験は行なわれてないから馬莉愛はこの場にいない。何なら釈迦堂さんもいない。代わりに、天衣が注目を集めた感じだな。たまよんからめっちゃ質問攻めされてた。

 

「夜叉神女王はまだ10歳で女流棋界のトップに立ちましたが、今後の目標とかはありますか?」

「今の目標は三段リーグを抜けることですが、将来的な目標は恩返しです」

「お?大木先生ー!聞こえてますかー?

熱烈な弟子からの宣戦布告ですよぉー!」

「うるせーよ。散々聞いた天衣の目標だし、やれるものならやって欲しいわ」

 

釈迦堂さん作の、露出控えめな清楚なドレスを着た天衣は、完全にお仕事モードの顔に入ったため恥ずかしがる姿は見られなかった。まあ晶さんがパシャパシャと写真を撮っているし、後でその写真を見返して顔真っ赤になることは容易に想像が出来る。しかし、たまよんと天衣が並ぶと清楚度が違うな。たまよんは相変わらず、露出重視の衣装だし。

 

そして翌朝。将棋界に電流が走る。於鬼頭帝位の頭が、一夜にして禿げ上がったのだ。ある者は言葉を失い、ある者は動揺する。俺も、吹き出しそうになったのを必死にこらえた。アレは反則じゃん。分かってても吹くわ。扇子で隠して必死に笑いは噛み殺したけど、天衣には気付かれたかもしれない。

 

三段リーグの注目度は高いけど、別に今日明日が対局日じゃないし、これは原作より記者や報道陣を集めそうだな。必然的に、俺や天衣にも注目は集まるってことか。

 

『大盤解説まで、釈迦堂さん作のドレスを着せるって鬼畜ですか?何着も貰ったとはいえ、デビューがあの服装ならこれからずっと天衣はあの服を着ることになりますよ?』

(その方が、天衣の罪悪感は薄れるだろ。一応、天衣もえげつないことはやってるからな。相殺するというか、天衣側が加害者意識を失うためには、こちらの報復はやり過ぎる程度が良い)

 

天衣との仲が若干ぎくしゃくしているので、これも個人的に修正して行きたい。わりと覚悟していたことだけどな。天衣との将来を考えるような男の身辺調査は、夜叉神家なら必ず行なうだろう。まさか招いた初回で睡眠薬を盛られるとは思ってなかったし、完全に油断していたタイミングではあったが。

 

『マスターが全タイトル獲得して、出版やイベントをこなしその他諸々の稼ぎを含めて年収3億の男になったとして、それでも天衣との結婚なら逆玉という事実』

(土地が高い神戸であれだけの屋敷と人員を抱えている夜叉神家の財産は、文字通り桁違いだからな。そりゃヤバいことしてないかと趣味嗜好ぐらいは調べられるわ)

 

向こうはバレるのが想定外だっただろうし、俺は晶さんが使った睡眠薬に関して、効きすぎる体質だったみたい。脳に作用する薬みたいだから、普通の人より脳の負荷というものが多い俺には効きやすかったとか?まあ本来なら2時間きっかりで目覚めるはずの薬で、4時間も寝ていたということは体質の問題もありそう。

 

(で、あれから調子良いんだっけ?)

『限界が650面から750面まで増えましたし、寝るという行為は素晴らしいものですね。睡眠薬があれば寝れるということを教えて貰えた点では、感謝しないといけません』

(市販の睡眠薬では、寝れなかったからな。……本当にあれ、合法の睡眠薬なんだよな?)

『それは分かりませんが、依存性や身体への悪影響がないことだけは断言してくれましたね』

 

というか本来俺は、4時間以上眠れない。アイが1人になると寂しがるから、3時間が限度。それで問題が起きていないように見えていたからそのままだったけど、しっかり問題は起きていたようだ。とりあえず今後、一月に一回ぐらいは6時間程度の睡眠をとるべきだろうな。平均睡眠時間、2時間を切ってそうなのは問題だと思っていたし。

 

大盤解説用の衣装は原作で空さんが着ていた、ゴテゴテしていてリボンやフリルの付いているドレスに似ているけど、スカート丈が長くて真っ黒いドレスだ。何処の国の王女様だって感じの格好。一方の俺は、いつものスーツの予定。未だにスーツに関しては、着せられている感が半端ない。大盤解説をするのは明日の昼からだけど、今から緊張して来たぞ。

 

『……天衣からの好感度が高くて良かったですね。ぶっちゃけ、あの場で大盤解説用とはいえ高い衣装を一気に買ったのはドン引きポイントです』

(どうせ後から夜叉神家の誰かが封筒に入れて代金を持ってくるだろ。仮に貰えなくても、今までの食事代や交通費とかでどれだけお世話になったんだって感じ)

 

ついでとばかりにあの時は天衣の着たメイド服まで買ってしまったけど、後になって冷静に考えたらヤバい人の行動だった。全部合わせて、数十万円のお買い物だったしな。三冠になった今の俺の収入なら、カード一括で買える範囲だけど……。

 

……釈迦堂さんと歩夢と馬莉愛の衣装、あれ全部で幾らになるんだろうな。やっぱファッションガチ勢って怖いわ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

竜王vs帝位

いよいよ対局が始まり、盤面自体は目まぐるしい速度で進行している。初手から36手目までお互いにノータイムってことは、原作と将棋自体は変わってなさそうだな。形勢は今のところ、先後同型なので有利不利はない。ソフトも人間も、ここまではお互いに最善手の応酬だと思っている。

 

『見慣れた形で退屈な将棋ですね』

(ハイハイ。ただでさえやべえ成長速度が寝ただけで1.15倍になったスパコンは黙ってろ)

『最近マスターが冷たくて悲C』

(うるさE)

 

関係者控室では、観戦記者の供御飯さんが天衣にインタビューしている。というか、天衣の周囲に記者が集まり過ぎだろう。史上初の小学生プロ棋士&史上初の女性プロ棋士の可能性がある存在とはいえ、師匠より注目を集めるか。俺も最近、玉座への2年連続挑戦が決定したんだけど。

 

『マスターが四冠になるのは、将棋界では既に確定事項のことのように扱われていますから』

(名人相手に、あれだけ大勝していたらそらそうなるわな。……そろそろ目ざといファンなら、俺に二面性の棋力があることにも気付くんじゃないか?)

『可能性としてはあり得ますね。既に気付いているプロ棋士は、結構いそうですよ?』

 

「小学生の間に、プロ棋士になれるとは思いますか?」

「まだ分かりませんが、まずは目の前の一局一局に集中していきたいです」

「空女流玉座と同時に昇段したわけですが、ライバル意識は?」

「当然ありますし、ずっと意識している相手です」

 

天衣がインタビューに対して教科書通りの回答をしていると、九頭竜がトイレに行き、於鬼頭帝位も席を立つ。今頃、2人はトイレの前で密談しているのかな?めっちゃ聞きてえ。

 

と言っても、対局者以外は入ってはいけない場所で密談しているので、その会話を聞く事は出来ない。会話を盗み聞き出来る=会えるということだし、会えるということは助言を受けられるということになってしまう。……たぶん、会話の内容は原作とはある程度違うだろう。俺という、異物のせいで。

 

『録音機でも仕掛けておけばよかったですね』

(それはそれで問題だろ。というか、アイまで倫理観ゆるゆるになるんじゃねえ)

『おや、倫理観が緩いという自覚はありましたか』

(反社への協力、八百長、年齢偽装&賭博、インサイダー取引。満貫レベルじゃねえ。役満だな)

『インサイダー取引は、インサイダー取引になっているか微妙ですけどね。あとそれにロリコンを追加して、ダブル役満にしておいて下さい』

 

その後の展開は、九頭竜の長考が多いせいで盤面が進まないので、スマホのゲームをしながら天衣と将棋でもする。脳内5面指しなら、天衣も全ての面で全力を尽くせるだろう。供御飯さんが天衣を見る目、一気に化け物を見る目に変わったけど、脳内5面指し程度なら出来る人は出来る。

 

「天衣との指導対局は、いつもこのようにやっているわけじゃないですよ。

1番7五歩2番4四銀3番3一角。

ちゃんと解説する時には将棋盤の上で駒を動かしますし、対局にはスマホも活用しますからね。

4番2二玉5番9五歩」

 

供御飯さんに天衣といつもこのようなことをしているのか聞かれたので、脳内多面指しは移動中とかにたまにする程度だということを伝えておく。基本的にはスマホを使っての10面指しだしな。しかしまあ、手加減しているとはいえ平手でもある程度はアイと殴り合いが出来ている辺り、成長速度が凄い。

 

『常に天衣の一つ上の棋力で指しているんですから、殴り合いにならないわけがないでしょう』

(そういう手加減を、プロ棋士相手の時にもやってくれていたら楽だったんだが?)

『もう下位のプロ棋士と指す機会は少ないですし、ソフト相手には全力にならざるを得ない以上、遅かれ早かれこうなっていましたよ?それに公式戦で負ける可能性が出てくるのは嫌です』

 

対局は徐々に九頭竜が押される形になる。これは、単純に於鬼頭帝位の研究範囲が広いからだな。於鬼頭帝位は初手から終局までを思い描いているし、ソフトでの研究結果を遺憾なく発揮している。ここから九頭竜が勝つのだから、魔王呼ばわりはわりと納得できる。俺のせいで「西の魔王」というあだ名はそこまで定着してないけど、原作でも九頭竜の耳に入らない程度だからどこまで流行っていたのかが分からねえ。

 

1日目の終了間際、原作通りに記録係を務めていた二ツ塚未来四段は、そのまま帝位戦の対局をしていた対局室で寝ることが決定。こういうホテルでの対局は、そのホテルの1番良い部屋で対局が行なわれるけど、対局者達は対局室に寝泊まりする訳にもいかないので自室が設けられている。立会人やその他関係者も、別で部屋を用意していることが多い。

 

だから、記録係が1番良い部屋で寝泊まりするという現象が起こる。明日になったらこの人、九頭竜の力に驚愕するんだけど、この広い部屋に1人で寝泊まりするのはちょっと羨ましい。

 

(九頭竜に対して、人間じゃないって発言はちゃんとしてくれるのかな)

『マスターがいるせいで、インパクトは下がっているでしょうし難しいでしょうね。こいつもソフトを超えた、みたいな発言は期待出来ますが』

(あくまで、九頭竜に関しては一部の領域でソフトを超えたというだけだけど。流石に終盤の計算力とかで、ソフトを超えたら怖いわ。

……あいは、ソフトの終盤力を超えてるか?)

 

アイを除けば、人類最強の詰将棋力を保有しているのはあいだ。そしてそれはそのまま、終盤力の強さに繋がる。

 

伊達にあいは、タイトルホルダーを3人抜きしてマイナビ女子オープン本戦決勝へ進出したわけじゃない。既に女流玉座戦の方でも予選を勝ち抜いて本戦出場を果たしているし、女流玉将戦も予選突破して本戦を勝ち抜いている最中だ。

 

女流棋士になって半年以上が経過するのに、無敗というのは色々とヤバい。俺が適当に付けた小魔王というあだ名が、マジで浸透しているのはビビる。

 

「……4番負けました、ありがとうございました」

「ありがとうございました。

最後は攻め合いで指し過ぎたな。途中の攻防の角までは良かったけど、攻めに拘り過ぎだ」

「攻め合いじゃないと、勝てないじゃない。受けたら潰されるし」

「正しく受けていたら、そう簡単には潰されないぞ。とりあえず1局目の67手目と3局目の61手目はどう受けたら良かったか考えておけ」

 

天衣との指導対局は、アイが全勝。可愛い弟子相手でも容赦なく全勝しに行く姿はいつも通り過ぎて安心する。と、そろそろ封じ手の場面か。控室では九頭竜が不利になっているけど、明確な不利でもない。明日の大盤解説は、先を知っているから解説自体は楽に出来そうだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三冠の弟子

帝位戦第1局の2日目が始まる。今日は午後から大盤解説があり、天衣と俺が出ることになっている。終局まで解説することになってるし、明日は対局があるから早目に終わって欲しいところだけど、原作だと早目に終わっていたか。

 

まずは、聞き手役の天衣の紹介から。於鬼頭帝位の禿げ頭のせいでやけに報道陣の注目を集めたのは、天衣にとってメリットの方が大きいはず。

 

「ではこれより、帝位戦第1局、九頭竜竜王対於鬼頭帝位の対局の大盤解説を始めます。解説役は私、大木晴雄が務めます。聞き手役は今日が初めての聞き手役となる、夜叉神天衣女王です」

「夜叉神天衣です。今日が初めての聞き手役となります。本日はよろしくお願いします」

 

 

天衣のドレス衣装は清楚とはいえ目立つ。でもまあ、聞き手役の美人さんは着飾ることも多いし、釈迦堂さんとか歩夢は凄い格好で登場するので観る側も慣れているだろう。天衣の借りてきた猫のような自己紹介が終わったら、準備されていた現在の盤面の解説から行なう。

 

……本来、九頭竜は持ち時間を4時間近く残して於鬼頭帝位の玉を詰ましに行く。何せ、対局終了後に三段リーグの様子を見に行くからな。しかし今回は、持ち時間を使ってより慎重に考え込んでいる。これが、悪い方向へ転ばなければ良いんだけど。

 

「1日目は、新型の角換わり腰掛銀で先後同型まで一気に指されました。その後の展開は、於鬼頭帝位が九頭竜を攻め続ける展開です」

「九頭竜先生の封じ手は7六歩でした。ししょぅ、ん!んんっ!大木先生は形勢をどう見ますか?」

「若干於鬼頭帝位の方が優勢に見えますが、九頭竜が7六歩を数分で封じた辺りに九頭竜の才能が垣間見えますね。於鬼頭帝位の研究範囲の罠に嵌ったにも関わらず、それを於鬼頭帝位への罠に作り変えています」

「それが7六歩からの、この歩打ちですね。九頭竜先生の攻めに対して、於鬼頭帝位は手を抜いて攻め合いに出ています」

 

天衣は時々俺のことを師匠と呼びそうになるけど、その度に咳払いして誤魔化す。次第に緊張も解れてきたのか、会話もスムーズになっていく。何でもそうだけど、天衣は呑み込みが早いわ。大きな駒の扱いにも慣れている様子だし、落とす心配も無さそう。

 

(やべえ。天衣が聞き手役の時が1番やりやすいんだけど)

『自然とこちらを立てて来ますからね。10歳とは思えないほどの語彙力と猫被り力です』

(演技力と言え。こちらの意図を、自然と察してくれるのはありがたいわ。……将棋が強くない女流棋士だと、途中で噛み合わない時もあるしな)

『天衣自身が解説出来るのも大きいですね。っと、そろそろ問題の局面ですか』

(お?じゃあここから例の7七同飛成までは一直線か。それならもうすぐ終わるな)

 

「九頭竜先生が8六飛と飛車を走らせました。これは、於鬼頭帝位は受ける1手ですね?」

「はい。8七歩と受けて、3手後に終局です」

「え?

……7六飛、7七歩、7七同飛成までですか?」

「正解です。九頭竜はこれを、読み切って指していますね。

於鬼頭帝位の敗着は受けで手を抜いて攻め合いに出た所ですね。端を破って優勢になっているんですし、下手に九頭竜の足掛かりを残さなくても良かったでしょう」

 

封じ手の7六歩から、7七同飛成という飛車切りまで、僅か15手で帝位戦の第1局は終了した。天衣の初の大盤解説は、僅か1時間程度の出番で終わってしまった。対局者同士の消費持ち時間が短いからだし、俺はこのことについて文句を言える立場じゃないけど……。

 

この後は於鬼頭帝位が大盤解説への顔出しを拒否したので、九頭竜も拒否するという流れに。まあ於鬼頭帝位は禿げ頭にして負けたのだから、出辛いとは思うけど、九頭竜はこっちに来いや。

 

さて。原作では三段リーグの最終日に帝位戦の第1局があったから、九頭竜は対局終了後に急いで将棋会館へ向かった。しかし空銀子は今季の三段リーグに間に合ってないし、時期もまだ三段リーグの第15局、第16局の前。何が言いたいかというと、九頭竜は別に将棋会館へ行く理由が無いのだ。

 

(ということは原作12巻ラストの会話も無くなったか。そしてこれで、俺の知る原作範囲は終わったな)

『時期的にはまだ原作範囲内ですし、夏祭りはありますけどね。……帝位戦は、このまま九頭竜が4連勝で終わりそうです』

 

ソフトトランスレーターの異名を持つ二ツ塚さんは、特に対局中に言葉を発している様子も無かった。途中、苦虫を噛み潰したような表情をしていたから、九頭竜のヤバさは伝わっているはずだけど、前例のインパクトがデカすぎる。

 

会場の後片付けに入ると、於鬼頭帝位が話しかけてきた。どうやら大盤解説で、俺が7七同飛成まで一瞬で読んだことは於鬼頭帝位や九頭竜の耳にも入った模様。九頭竜がこっちに意識を傾けているし、変なことは言わないようにするか。

 

「君は、あの7七同飛成の筋をいつ読んだ?」

(え、どうしよう。対局前から知ってたとは言えんし、実際どのタイミングなら分かっても不自然じゃないんだ?)

『封じ手の前には、分かっていてもおかしくないんじゃないですか?事前知識が無くても、おそらく私は封じ手前に終局図が読めてました』

「封じ手前には、あの終局図を読めてましたが?」

「にわかには、信じられない話だな。だが君の今までの行動と結果が、全てを示している。

……才能とは、とても残酷なものだ」

「決めつけほど、不愉快なものは無いですよ。才能が無いなら、才能を獲得すれば良いんです。その証明は、もうじき終わりますよ」

「君の弟子によって、か?世間は第二の天才が現れたとしか思えないだろうな」

「天才の一言で、片付けられる話ではないですよ。天衣の古い棋譜は、マイナビ女子オープンの予選で確認出来ます。誰もがあの時、1年後に奨励会の三段になるとは思えない将棋を天衣は指してますよ」

 

才能が後付け出来るというのは、完全に自論だ。でも、絶対に出来ない話では無いだろう。才能が潰れるという表現はありふれているし、それなら逆に、才能というのは絶対に増えないのかと問われて、増加しないと言える棋士は少ないはず。

 

視野、フィジカル、メンタル、知識、経験、集中力、思考能力、試行能力、計算力、記憶力などなど。将棋の才能は、幾つにも細分化出来るし伸ばせる分野は幾らでも伸ばせる。小学生の頃に少しやって全然伸びなかったのに、大学生になって復帰したら一気に強くなる、というような現象が起こるのもこのためだ。

 

何なら小学生に100マス計算をやらせれば、勝手に終盤力は成長していると言い切れるし、集中力を高めれば読みは必然的に深くなる。並列処理能力を高めれば、経験を積む速度が倍増するしその他の能力の経験値も稼ぎやすい。

 

まあ、天衣以外にも育てないと一例だけでは証明し切れないのが辛いところだな。でも今のところ弟子を増やす予定は無いし、育てる気も起きない。もう天衣も、天才扱いで良いんじゃね?最近はまた将棋を指すだけで強くなるフェーズに入っているし、三段リーグも一期抜けしてくれるでしょ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ゴキゲン研

プロ棋士で、研究会を開かない人は稀だ。俺や九頭竜もそれぞれ研究会の人脈というのはあるし、空さんだって生石玉将と研究会をしている。天衣は一時期かなり色んな人と意見交換会みたいなことをしていたようだけど、今は同期との研究会だけに落ち着いている。

 

で、帝位戦の第2局が始まる直前ぐらいに、ゴキゲンの湯で大規模な研究会を定期的に開くことになった。場所の提供者である生石玉将の要求は、娘である飛鳥さんを参加させることだけ。地味に飛鳥さん、研修会に入ってるんだけど強くない?

 

『原作でもメンタルブレイクしている状態とはいえあいに勝ってますし、強くないわけがないでしょう』

(そういえばそうだったな。生石玉将の娘で、幼い頃に将棋を触らせた描写もあったし、客からも教えて貰っていたからな。

……この道場、アマ高段が普通にゴロゴロいるからその人達に勝てるようになれば女流棋士まですぐなんじゃないか?)

 

九頭竜も参加しているけど、お前は忙しい時期なのによく参加出来たな?確か原作では、生石玉将と九頭竜と空さんで研究会をしてたっけ?その面子と時期が、少し変わった感じかな。

 

研究会の名前は、場所であるゴキゲンの湯からとってゴキゲン研になる。やべえ研究をしてそうな名前だな。参加者は生石玉将を筆頭に、九頭竜と俺と天衣、空さんとあいと飛鳥さんの計7人。これでもわりと規模は大きい方だ。本当に大きいところは、十数人規模で研究会をしているけど。

 

「この研究会の最終的な目標は、ソフトに振り飛車を認めさせることだ。ソフトを相手に、振り飛車で勝つ。……約一名、振り飛車でも何でもソフトに勝てる奴がいるがな」

「生石玉将だって、前にソフト相手に中飛車で勝っているじゃないですか」

「露骨な嵌め手の方は、次の更新で使えなくなったわ。まあとにかく、関東は最近、いたるところで大規模な研究会を開いている。それに対抗するため、こちらも研究会を開こうという話になった」

 

今日は7人と奇数だけど、どうせこの面子なら仕事やイベントで1人や2人は欠席するから7人のままで問題無いな。生石玉将が振り飛車をソフトに認めさせると言ってるけど、別に振り飛車限定の研究会という訳でもない。まあここにいる面子、全員が振り飛車を指せるし最初の1局ぐらいは振り飛車同士の対決になるか。

 

最初の話し合いで、月に1、2回の定期開催を行なうと決める。内容は最初に早指しの対局をして、その後の感想戦に重きを置く感じ。誰かがタイトル戦をした後なら、その対局の検討もする模様。そして人数が奇数の場合は、誰かが2面指しをする。

 

最初は棋力が近い者同士で対局するけど、あい対飛鳥さん、空さん対天衣と分けるなら俺と九頭竜と生石玉将で3人のグループになってしまう。そしてくじ引きの結果、九頭竜が2面指しすることになった。

 

「ちょ、タイトルホルダーを相手に2面指しってマジで言ってます?それにこの面子なら、大木が2面指しをするのが一番妥当だと思うけど……」

「ここにいる3人、誰が2面指しをすることになってもタイトルホルダー相手に2面指しだろ。安心しろ。俺と生石玉将は1手30秒だが、九頭竜は1手1分だ。何とかなる」

 

2面指しをする九頭竜は、やるからには本気で来るはず。俺のアイ抜きの力が今、どの程度のものか試すには絶好の機会だ。

 

『賞金王戦でわりと無様なポカをやらかしたのに、またやるつもりですか』

(うるせえ。賞金王戦で振り飛車はやってなかっただろ。相振りとか、かなり久々だし指してみたいわ)

 

戦型は強制じゃないけど出来るだけ振り飛車を選ぶことになっているので、まあこの最初の対局ぐらいは全局相振り飛車になるだろう。そう思っていた時期が俺にもありました。

 

(隣の天衣対空さんの試合が、普通に相矢倉なんですけど。しかもお互い、殺意が高い)

『九頭竜対生石玉将の試合も、九頭竜側が居飛車ですね。相振り飛車になっているの、マスター対九頭竜の試合と、あい対飛鳥さんの試合ぐらいじゃないですか?』

(で、わりと普通に負けそうなんだけどどうしよう?)

『序盤で作戦負けしていて、形勢不明は頑張っている方なんだから最後まで粘って下さいよ。……今のところ、マスター334に対して九頭竜416って感じですね』

(……九頭竜相手なら、わりと頑張れている方か)

 

飛車交換をした後、こちらは馬を作って九頭竜の桂と香を回収していく。しかし九頭竜の攻めは早く、金底の香で防ぐも時間稼ぎにしかならない。互いの囲いの硬さは、ほぼ互角か。相手が先に飛車を降ろしている分、こちらが苦しいか?

 

(あ、時間に追われてミスしやがった)

『生石玉将との対局の方は九頭竜が苦しいですから、こちらに割く思考時間が短くなったせいでのミスですね』

(同時に考えられないのか?まあ、この対局はこっちの勝ちだな)

『そう言いながら、疑問手を指すのはやめてくれません?9割5分勝ちなのが、8割5分ぐらいまで下がりましたよ?』

 

結局九頭竜は、2面指しで序盤は負けていた生石玉将に勝ち、序盤は勝っていた俺に負けた。対局後の検討会で、俺と九頭竜の将棋は満場一致で九頭竜のポカが敗因だったし、タイトルホルダー同士の対局にしてはお粗末な将棋だった。一方で三段に昇段し、暇な時間が増えた空さんと天衣の対局は、早指しなのに高段棋士同士の対局にも匹敵するぐらいレベルの高い将棋だな。

 

「1三角は、早指しの中でよく見えたな。空さんは1一玉と成香を払う一手だし、この一手で勝敗が決まった感じか」

「見えたというより、角を使うならそこしかないじゃない。……いえ、前までは確かに見えなかったかもしれないわね」

 

結果は天衣の先手で、空さんにも見落としはあったものの、天衣の勝利。対策されていたのに、よく早指しで勝てたな?あい対飛鳥さんの試合は、あいが完勝。一応、あいのリベンジ成功ってことになるのかな。

 

対局が終わった後は指した対局の検討に移るけど、案外楽しい。7人もいると、色んな意見が飛び出るし、仮想局面で再度VSを勝手に始める自由奔放っぷり。これは天衣にとっても、良い環境だと思う。

 

(俺も考えるから、答え合わせは最後にしてくれ)

『良いですけど、どう見ても悪手な手を検討し始めないで下さいね。流石に違和感が大きすぎますし、全力で止めますよ』

 

ゴキゲン研は、延々と夜遅くまで対局と感想戦が続いた。途中からアイが九頭竜を本気で何度もボコっていたけど、何度も立ちあがってくる辺りマジで鋼メンタル。こりゃ帝位戦での敗北は、ちょっと想像出来ないかな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誓約

九頭竜と於鬼頭帝位の帝位戦第2局は金沢で行なわれ、地元に近いあいが大盤解説を行なっていた。なお解説は神鍋歩夢七段。お互い顔見知りだし、相性は良かったんじゃない?あまり見なかった組み合わせだけど、歩夢のノリに付いて行けるあいは将来有望だ。

 

というか第2局は、終始九頭竜がリードを奪う展開だったから大盤解説2人のテンションが高かった印象。で、ちょうど帝位戦の対局が九頭竜の勝利で終わった頃に、天衣も課題が終わる。ようやく、八段の10面指しをクリアしたのだ。10面全勝というのは、本当に難しいな。

 

『天衣は気付いてませんが、ずっと天衣の全勝を阻んでいたのは祭神ですね。祭神に対してだけ、勝率6割前後だったので苦しい試練でした』

(……あれ、女流棋士の中ではバグ的存在だからな。何で女流棋士なのに帝位リーグ入り一歩手前まで来たんだよ。しかも今年は九頭竜が帝位を獲りそうだし、マジで帝位リーグ入りするぞあいつ)

 

その10面全勝を1番阻んでいた存在が、祭神になる。八段は人の数が少ないから、10面もあれば必然的に同じ対戦相手が来ることは多い。プロ棋士相手に勝ち越している存在だし、それに10面指しで意識のリソースが分割されている中、勝ちきるのは難しい。

 

帝位戦は、シード4人と帝位在位者を除く全棋士と女流帝位在位者、女流帝位戦挑戦者が予選から参加する。5人を除いた全予選参加者が段位やタイトルに関係なく8つの組に分かれてトーナメント戦をするけど、大抵の棋士が予選の2回戦までには登場するから番狂わせは多い。

 

その予選トーナメントを、2年続けて突破した九頭竜はわりと凄い。トーナメントを抜けた8人とシード4人でのリーグ戦は、6人ずつ紅白のリーグに分かれて行なわれるけど、そのリーグ戦も全勝で勝ち抜けて、挑戦者決定戦にも勝利して九頭竜は帝位戦挑戦者になった。

 

祭神はその予選トーナメントで、今年は決勝まで勝ち進んでいた。来年は、さらに強くなって女流棋士のまま帝位リーグ入りをするか、プロ棋士編入試験を受けてプロ棋士になって帝位リーグ入りするか……まあ、夜叉神天衣四段か空銀子四段が誕生したらプロ棋士編入試験を受けることは認められるだろうな。

 

「これからは、師匠と11面指しになるの?」

「そういうことだ。手頃なサンドバッグももう居ないしな。これからはフリー対局出来る方のアプリを使って、俺と指し続ける。棋風は全部変えてやるから安心しろ」

「……11面になったら、終わりはないわけね」

「いや、ソフトと良い勝負が出来るようになったと判断したらソフトを1面追加して12面にするぞ」

 

八段10面指しをクリアした以上、俺とは11面指しになる。この状態である程度指したら、ソフトを追加しての12面指しだな。とりあえず今日は一回11面指しをして、アイが容赦なく全勝した。アイにとっての良いサンドバッグになってないかこれ?

 

今日の指導が終わった後、帰ろうとしたら天衣のお爺さんである弘天さんに呼ばれる。弘天さんに睡眠薬の使用がバレたことは伝わったようで、正式に謝罪させてくれと言われた。なのでホイホイ弘天さんの自室までついて行くと、そこは四方がヤーさんで囲まれた広い和室だった。

 

弘天さんの隣には晶さんが申し訳なさそうに座っており、俺は部屋の中央に座るよう促される。やべえ。後ろにも控えているヤーさんが2人いるぞ?今ここにいる8人のヤーさん、全員がチャカを持っていてもおかしくは無い状況。何を言われるんだ。

 

「大木先生には、本当に申し訳無いことをしたと思っている」

「いえ、正直そこまで気にしていないというか……ただ、何でこのようなことをしたのかは聞かせて下さい」

『そんなこと聞いて良いんです?』

(むしろ、聞かない方が不自然だろ。……たとえ答えがある程度予測出来ていても、実際に聞いたのと聞いてないのとでは天と地の差がある)

 

「……大木先生が、ストレートかどうかを確認したかった。後は純粋に女性への興味があるか、EDじゃないかなどを早目に知りたかったのだ」

「ふぁ!?」

 

そして弘天さんの思っていたよりもストレートな回答に、変な叫び声が出る。マジで天衣の婚約者相手として妥当かどうか調べられていたのか。晶さんも頭を下げた後、持っていた紙を渡してくる。何が書かれているのかと思ったら、原作で見た文章とほぼ一緒だな。

 

[誓約書

 

私、大木晴雄は、夜叉神天衣さんが満18歳の誕生日を迎えたその日に、天衣さんと結婚することをここに誓約いたします。それまでは天衣さんのことを婚約者として誰よりも大切に遇し、決して浮気したり他の女性に目移りしたりしません。この誓いを破った場合、命をもって償います。何をされても文句は一切言いません。

 

大木晴雄 印]

 

……これはやべえ。原作はまだ良い。この誓約書が九頭竜相手に出てきたシーンはギャグパートだし、弘天さんサイドも半分……8割程度しか本気じゃなかった。だけどこれは、10割本気だ。俺のことを隅々まで調べ上げて、俺になら天衣を任せられると判断したんだ。

 

『どうします?下手な回答をすれば、命が無いですよ?』

(仮にここから、逃げ出そうとした時の逃走成功確率は?)

『前後に2人ずつヤーさんがいて、四隅にも控えていて、身体を鍛えてないマスターが突破出来るわけないでしょう。生きて家に辿り着ける確率は、ロト6とロト7の1等が同時に当たる確率より下です』

(ひっく。まあ良いか。応えるしかないわなこれ)

 

「……文章の修正を求めます」

「ほう、どこを修正する気かね?」

 

俺が誓約書の文章の修正を求めると、明らかに勝負師の眼光で俺を見つめて来る弘天さん。恐怖で一瞬、考えていることが飛んだじゃないか。

 

「満18歳を満20歳に修正することと、天衣の同意についても盛り込む誓約書にして下さい。天衣の気持ちが1番ですから」

「……分かった。また後日、この件については話し合おう。それと1つ、詫びの品というか、餞別だ」

「何ですかこれ?花と密?

……著者鬼沢談って、官能小説じゃないですか!?」

 

とりあえず天衣の気持ちを第一にして、内容の修正を求めておく。20歳でも結婚は早い方だし、18歳は流石に早過ぎる。そして餞別として、原作でも弘天さんと繋がりのあった鬼沢先生のエロ小説が贈られた。絶妙に要らない。

 

今時は全部パソコンで完結するし、見た感じ召使いと主人のSMプレイ小説なので趣向とも合わない。なるべく合わせようとはしてくれた雰囲気は感じるけど、そもそも痛い系のSMプレイは直視できない性質の男だ。賛否両論あるだろうが、痛そうなのは抜けない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

相違点

とりあえず天衣との結婚について、誓約書にサインは書かなかったし、実印も押さなかったけど、流れが妙だ。

 

(原作では九頭竜を4人がかりで押え付けて、無理やり落款を押させていたよな?そのことを考えると、無理やりサインを書かさなかったことが逆に不自然だ)

『単純に、夜叉神家は天衣とマスターのお付き合いに前向きだということを示したかったんじゃないですか?天衣の同意を求めたところ、また後日と言って逃げられましたし、天衣の意思は介在していないでしょうね』

(誓約書も、若干変わっていたしな。[この誓いを破った場合、命をもって償います。何をされても文句を言いません]は、ヤバくね?)

『ヤバいですが、殺すなら殺すで原作通り[命をもって償います。埋められても沈められても一切文句は言いません]になるはずなんですよ』

 

誓約書の文章は若干変わっていたけど、アイの言う通り殺すなら変える必要のない部分だ。まあ原作との相違点が多すぎるから変わったんだろうけど、何をされてもって部分は引っかかる。

 

……原作では九頭竜に空さんという世間一般から見れば付き合ってそうな姉弟子が居た。身の回りのお世話をしている内弟子も居た。だから焦ったんだろうけど、俺の場合は焦る必要も無いからまた後日になった可能性もある。

 

『マスターに女性の影はありませんからね。たまよんと供御飯さんぐらいじゃないです?喋ることのある天衣と晶さん以外の異性って。あと母親』

(悲しくなるから止めろ。全部身長が低いのが悪い。

……不規則な生活している上に、睡眠時間が短かったからだろうな)

『とりあえずモテたいなら、同じ服着るの止めません?』

(なに着てもチビだと似合わないんだよ。最近、たまよんとのコンビがおねショタとか言われ始めてるだろ。ショタなら椚がいるのに、俺がそういう扱いを受けていると知った時は背筋が凍ったぞ)

 

冷静になって考えると、俺のモテるポイントって財力ぐらいか?そしてその財力は夜叉神家に到底及ばないことを考えると、誓約書へのサインはした方が良かったかもしれない。

 

たまよんにすら、身長は負けているからな。将来的に、天衣にも抜かされそうだ。というか下手すればあと2、3年で抜かされる。天衣はお嬢様で栄養状態が良いからか、同世代の子と比べると身長は高い方らしいし、両親も背は低くなかったはずだから将来的には高くなりそう。

 

『今はまだマスターの膝の上に天衣を乗せられますが、将来的には天衣の膝の上にマスターが乗せられそうですね』

(やめろ。マジでやめろ。まだあと1年ぐらい身長は伸びるだろうし、160は超えるはず)

『既にピタッと伸びは止まっているのに、プラス3センチは強欲ですね。というか、18歳を超えてからは普通の人でもそんなに伸びないですよ?』

(……身長160センチを下回っている時点で、女性からは恋愛対象外にされるんだよなあ。将来的に生まれてくる子が可哀想とまで言われるし)

 

アイと話をしながら、弘天さんと出店についても話をして、話が終わったら夕食をご馳走になる。天衣と一緒に食べるわけだけど、料理人がいる家庭って凄いな。

 

「師匠はよく食べるようになったけど、それでも太らないわね」

「何だ?太った師匠の方が好みか?」

「ちがっ……痩せすぎていて心配になるのよ!何のために食べさせていると思ってるの!」

「いや、お陰様で体重は若干戻ったぞ?プロ棋士になってから5キロは痩せたけど、今は2キロぐらい戻ったし、もうすぐ40キロは超える」

「……はあ?もしかして、前まで私より軽かったの?え?というか私と同じ……」

「天衣は体重気にしなくて良いだろ。成長期だし、いっぱい食べていっぱい寝ろよ」

「感情がこもっているわね……。言われなくても、来年か再来年には師匠の身長を抜かすわよ」

 

天衣の家で夕食を食べる時は、唐揚げやヒレカツなどカロリーの高そうな食事を出してくれているけど、それでも太らない不思議。いや、倍食べるようになってから太ってはいるけど緩やかな太り方という。これ、アイの出力が上がる度に消費カロリーが増えてるんじゃねえの?

 

(これからはブドウ糖を直に摂取するか?ちょっと異常だろ)

『そちらの方が食事で補うより良いかもしれませんね。身長と体重を増やす目的なら食事量を増やしたり、回数を増やす方が良いのでしょうが……対局の際はハーゲンダッツと一緒に、ホットコーヒーを頼むようにして、コーヒーにブドウ糖を入れましょう』

 

「あれ?天衣は40キロ超えてるのか」

「……そのデリケートな話題を出したら、次は刺すわよ」

「いや、145センチを超えてるなら40キロあっても問題は無いだろ」

「無いわよ!まだ40キロは超えてないわよ!」

 

天衣の体重を聞くと、デザートのショートケーキを食べているフォークでシュッシュッと刺す真似をする天衣。危ないから止めなさい。迂闊に聞いた俺の方がどう考えても悪いが、変な自爆をした天衣も悪い。40キロを超えてなくて、一時の俺よりも重いということは、もう答えが出ているようなものだな。

 

『身体を鍛えて筋肉を重くすれば体重は増えるのでは?』

(今の状態で筋トレなんかしたら筋肉付かずに体重だけ減りそう。

……筋トレしているプロ棋士とかいたっけ?)

『今季の三段リーグで降段しそうな傘杉三段が、スポーツマンじゃなかったですか?』

(あー、原作では空さんとの1分将棋中にトイレへ行くフリをした人か。身体は鍛えてそうだったな)

『体育大学出身ですから、降段して退会することになっても生活は大丈夫でしょうね。教員免許まで持っていますし』

(そういう保険を作るから将棋は弱いのか、将棋が弱いから保険を作るのかは永遠の謎だな)

 

奨励会では高校、大学まで進学する人と進学はせずに将棋へ打ち込む人で分かれる。どちらの選択肢が正しいかは一概には言えないが、肝心な将棋の勉強は学校へ行っている人ほど少なくなる。最近はプロ棋士でも高校までは進学する人が多いけどな。

 

(学校へ行ってない人は1日平均で10時間ほどは将棋の勉強へ費やせるけど、大学へ行ってる奴は苦しいだろ)

『大学までの移動時間や講義時間、レポートや課題をこなさないといけないことを考えると、高校生、大学生は1日平均4時間程度が関の山ですね』

(天衣は、どうさせよう?)

『高校に通うかどうか考え始めるのは、4年後からでも問題無いですよ』

 

これからのことを考えつつ、俺もショートケーキをいただく。……このケーキは、料理人が作ったやつなのかな?天衣はお料理勉強中らしいけど、その前に夜叉神家に胃袋掴まれそう。というか既に半分、掴まれているな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

福島JS祭り

聖天通商店街夏祭りという名の、福島JS祭りが始まる。この日に三段リーグの第15局、第16局も行なわれ、その結果、鏡洲さんは2敗、坂梨さんは3敗となる。椚は3敗をキープしているので、昇段する可能性が僅かに出てきた。他力だけど。

 

辛香さんも2敗なので、昇段の可能性は高い。よって最終日は、鏡洲さんは2敗しなければ昇段が確定。一方で坂梨さんと辛香さんは、直接対決があるのでどちらかが落ちることになる。最終日の鬼勝負だ。

 

『……とうとう、未来知識を活用した博打じゃなくてお金儲けを始めましたか。本当に流行るかは、謎ですね』

(火種は既にある感じだし、乗っかって良いものだろ)

 

夜叉神家の屋台では、祭りでお馴染みの焼きそばやフランクフルト、りんご飴やフライドポテトが並ぶが、その中に一つ、そろそろ大ブームが起きそうなお店がある。

 

『タピオカが再流行して大ブームになったのは、2018年末から2019年ですか。今から準備しておけば、かなりの荒稼ぎは出来そうですね』

(どうだろ?タピオカがりゅうおうのおしごと!世界では大流行しない可能性もあるし、微妙な賭けになりそうだな)

 

今さらだが、原作である「りゅうおうのおしごと!」は現実をモチーフにした別世界だ。しかしながら、前世と差異のある部分は少なかった。だから前世の知識を利用したお金儲けが出来たり、出来なかったりする。何でオルフェは阪神大笑点しなかったん?

 

『コロナが流行るなら、マスク買占めがヤーさん達にとって1番潤うでしょうね』

(流石にそこまで人の道は踏み外さんわ。そもそも、マスク買占めのリスクがかなり高い)

『コロナが流行らなければ、大損しかしませんしね。……それでも常に在庫として、500枚ほど買い占めているのは屑の所業です』

(良いだろ別に。腐るものじゃないし、自分で消費するんだから。あとマスクは変装にすげー便利)

 

俺の保有する現実世界の知識は、死亡日の2020年3月22日まで。原作知識は12巻までだし、2020年4月以降の世界を知らない。コロナで人類は、どうなったんだろうな。

 

タピオカミルクティーに関しては今から準備しておけば、近い未来で大儲けが出来る。なので屋台だけではなく、夜叉神家と協力して店を出すことにもなっている。これで将来流行らなかったら抹殺されそう。ヤーさん怖い。

 

『マスターがインスタ映えする写真を撮れれば、少なからず流行るのでは?』

(そこまでフォロワーはいねえし、流行を起こす側にはなれないだろ。にしても、屋台はどこも盛況だな)

『雑誌でもWあいがプロデュースする祭りということで、大きく取り上げられていましたからね。将棋界のファンも結構な人数が来ていますし、大成功でしょう』

 

「シャルちゃんは師匠の弟子にして貰うんでしょ?お嫁さんとどっちになりたいの?」

「んー、りょうほう!」

「だめだよシャルちゃん。両取りを掛けても、取れる駒は1つだけなんだから。

ですよね、師匠?」

「ん!?ま、まあしかしアレだよ。両取り逃げるべからずって格言もあるから……」

 

JS研の面子も浴衣姿で来ており、あいは冷静な目でシャルちゃんを窘めていた。帝位戦の第2局も勝った九頭竜の今の発言は、要するにシャルちゃんを弟子にもお嫁さんにもしたいということかな?これに関して、もう俺は突っ込む権利を持たないという。

 

「それ、どうせ片方しか取られないから慌てるなって意味じゃない。九頭竜先生」

「いや、九頭竜は今両方OKという意味で使ったと思うぞ?」

 

天衣も黒の浴衣に身を包んでいて、晶さんとお揃いか?同じ黒い浴衣だから、似て見えるのかな。こうして見ると、晶さんも美人だから反応に困る。長身の女性が浴衣を着ると、それだけで映えるからな。

 

祭りは夕方になると客が増え、将棋ブースも本格始動する。メインは天衣とあいの指導対局だけど、人が来過ぎているので九頭竜と俺も動員された。今回は100面指しとかいう曲芸を披露することもなく、普通に10面での指導対局。

 

こっちの方が、お客さんにとっても良いしな。今回はお金も貰っているし、一人一人丁寧に教えて行く。しかしまあ、天衣とあいの人気は凄いな。1局1000円の値段設定だから気軽に申し込んでいる人も多く、列が途切れない。

 

ガチャガチャも凄まじい勢いで回されているし、直筆の手紙の残弾が一気に無くなっている。問題のタピオカミルクティーは、大ブーム中じゃなくても結構売れているので店の件は心配しなくても良さそう。下手すりゃ借金持ちとは言わないけど、そこそこ痛い赤字になるかもしれなかったし。

 

『JS達の手紙の売れ行きが凄まじいですね。天衣が手伝ったのは、大きいです』

(女王奪取して、世間での知名度もうなぎ上り中だしな。帝位戦の第1局で、大盤解説の聞き手役をしていたのも大きいわ)

『女王奪取以来、天衣は世間一般にも知られるようになりました。その影響の大きさは、よく分かりますね』

(空さんが下地を作っていたお陰だから、その点は感謝しかない。その空さんの人気は少し下がったけど、依然として高いままだからな)

 

原作ではこの後に雨が降って来るけど、テントを張っているし雨対策は一応している。でもまあ、祭りの開始時間を俺の進言で予定より少し早めたので雨の心配はあまりしてない。

 

空さんが来たのと同時ぐらいに雨が降るんだよなと思っていたら、空さんが桂香さんと一緒に来て雨が降り始める。マジで雨女としか思えないタイミング。

 

『将棋ブースに関しては夜叉神家に大きめのテントを出すよう言ったお陰で、学校まで移動しなくて済みますね』

(滝のような雨だから、移動するだけでも濡れる。このまま、しばらく雨は振り続けるのか)

『屋台は大ダメージです』

(……あっ。

いやでも、こういう経験もあるだろうし何とかなるんじゃない?屋台の撤収速度、尋常じゃないし)

 

一応、祭りはある程度終わっていたから被害は最小限。将棋ブースで将棋を指すお客さん達は、雨が止むまで追加で対局を申し込んでくれている。大盛況と言える盛り上がりだったし、お客さんの満足度は高そうだったから大成功と言っても良い。

 

さて、原作のイベントは尽きたが帝位戦はまだまだ続く。また帝位戦の第3局で大盤解説の依頼が入っているけど、聞き手役は天衣じゃなくてあいだ。あいは可能な限り、大盤解説の希望を入れたからな。こういうこともある。

 

天衣もあいが九頭竜のことを落とそうとしているのは知っているし、個人的にはたまよんとやるより気が楽だ。あっちは会話中、何個もデストラップを仕掛けて来るからな。……天衣が聞き手役をやるようになった以上、たまよんと共演することは少なくなるはず。とりあえず次の大盤解説は、無難に終わるよう祈っておくか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

掲示板

九頭竜の帝位戦第3局の大盤解説のために来た俺は、関係者控室でスマホを弄る。最近の九頭竜の評価は、一時のことを考えるとかなり高いな。今年の始めは名人の通算100期と永世七冠を阻止したからえげつない炎上をしていたけど、今の掲示板はかなり落ち着いている。

 

……九頭竜は怖くて見れないと言っていたけど、実際怖いからって見るの止めるか?俺も時々炎上というか、悪口が多い時期はあったけど、それでも見るのは止めなかったし。

 

『全員、マスターのように図太い人間じゃないんですよ』

(九頭竜が繊細とかマジで言ってる?週の前半は空さん、後半はあいでどうだろう?とか言い出す奴だぞ?)

『あれが、どちらかの耳に入らなくて良かったですね。文字通り九頭竜が半々に分けられるところでしたよ』

 

 

 

【名誉ロリ大使】革命家九頭竜八一竜王の魔王化を望むスレpart1845【ソフト超えろ】

 

1:名無し棋士

誰か立てるやろの精神

前スレ:【史上最強のロリコン】革命家九頭竜八一竜王の魔王化を望むスレpart1844【ソフト超えろ】

 

2:名無し棋士

誰か立てろや

 

3:名無し棋士

そう、誰もスレを立てていないのである

 

4:名無し棋士

勢い早いな

 

5:名無し棋士

>>1乙

これ九頭竜勝勢なん?

 

6:名無し棋士

しれっとスレ名を元に戻すんじゃねえ

 

7:名無し棋士

まだ序盤だから勝勢ではない

 

8:名無し棋士

序盤の駒組みは既定路線

ハゲ頭が止まってるのは既定路線を続けるか悩み中

 

9:名無し棋士

>>6

大木「俺もロリコンかもしれない」

 

10:名無し棋士

4連勝しそうだな

 

11:名無し棋士

>>6

史上最強のロリコンじゃなくなるかもしれないから……

 

12:名無し棋士

>>8

続けるか否かは事前に決めている人だろ

何かあったか?

 

13:名無し棋士

大盤解説は大木&雛鶴か

交流はありそうだな

 

14:名無し棋士

あいちゃんを見てロリコンかもしれないと言ったのか?

 

15:名無し棋士

指した

 

16:名無し棋士

禿げ頭何度見ても吹くわ

 

17:名無し棋士

あいちゃんまた聞き手役するのか

 

18:名無し棋士

大木って今年の年収幾らぐらいになるんだろ?

 

19:名無し棋士

>>14

グラ○ルで新しいロリキャラをお迎えした

 

20:名無し棋士

身長85センチに欲情するまごうことなきロリコン

 

21:名無し棋士

とうとう大木の話をしても自治する奴がいなくなったか

 

22:名無し棋士

棋士に騎空士って多いよな?

 

23:名無し棋士

85センチ(16歳)

 

24:名無し棋士

将棋の話をしろ

 

25:名無し棋士

>>21

雑談だけで日に3スレは消費してるからな

 

26:名無し棋士

タイトル戦の1日目の昼前なんて大して盛り上がらん

 

27:名無し棋士

大木スレも九頭竜スレも選民完了してるわ

 

28:名無し棋士

>>18

年収なら公開されてるぞ

昨年の年収を参考にして大木の今年の年収を推定すると玉座込みで5500万円ぐらい

 

29:名無し棋士

速報:九頭竜に新手

 

30:名無し棋士

何だその角は

 

31:名無し棋士

飛び出しただけ?

 

32:名無し棋士

飛び出しただけ

 

33:名無し棋士

これ手損するんじゃない?

 

34:名無し棋士

ここで路線から外れたか

 

35:名無し棋士

>>33

角を引く時に1手分稼ぐから手損はしないな

 

36:名無し棋士

急に将棋の話をするな

 

37:名無し棋士

手損はしないけどよく分からん

 

38:名無し棋士

これ、いつものその場で考えた手順だろ

 

39:名無し棋士

ハゲ、長考モードに入る

 

40:名無し棋士

まあ考え所だな

ハゲ頭は終盤に時間使わない方だし、ここらで2時間ぐらい使いそう

 

 

 

……掲示板は落ち着いているというか、妙な雰囲気になっているというか。定住している人達がいるせいで、独特な雰囲気になっている。雑談と世間話で、スレ番が進み過ぎているのは怖いな。なお大木スレの方は対局開始時の黙礼と敬礼で100レスぐらい飛ぶ。スレ番の差は、埋まってないし埋めるつもりもない。

 

(九頭竜の手は微妙だな?)

『普通なら指さない手ですからね。防がれて手損するだけですし。

ですが於鬼頭帝位が九頭竜の角の位置を嫌って追い払うなら、手損にはなりません』

(角が1手分動いて、逆に於鬼頭帝位の上げたくない歩が上がるからか?むしろ上げたい歩じゃね?たとえ上げたくない歩でも、なお微妙な気がするけど……対アイを見越しているのかこれ)

『まあ、そうでしょうね。ここから定跡を外れるとしても、九頭竜の手はさほど検討していませんし、悪い手に見えて微妙な手というのは私でも既知からは外れます。その中の一つでしょう』

 

九頭竜が微妙な手を指すが、形勢はそれほど悪くなっていない。こういう既定路線を外れる手は、相手が研究済みか否かで大きく差が出る。まあ、アイが検討をあまりしていないと言うのだから、於鬼頭帝位が検討した回数はアイよりずっと少ないだろう。

 

単純な疑問手じゃなくて、悪手に見えるけど実はそんなに悪くない手を指し続けた九頭竜は、徐々に劣勢になる。まあ、微妙な手を指し続けているわけだし当然だな。盤面あちこちに伏線を張った状態で、封じ手に入る。毎回九頭竜が封じ手をしている気がするけど、九頭竜は自分から積極的に封じるタイプだったか。

 

封じ手はする側の方が有利に見えるし、俺もする側が有利だと思っているけど、封じ手をした後でそれが悪手だと気付いた時にはメンタルブレイクして眠れないらしいし、指し手が決まっているのに封じ手をするために定刻まで持ち時間を消費するとしたらそれは大きな不利を受ける。

 

今回の場合は、封じ手の時間になってからある程度考えた上での封じ手だし、九頭竜にとっては得だったかな。盤面もぐちゃぐちゃになっているし、次の一手は読み辛い。

 

(アイは九頭竜の封じ手分かる?)

『複数の良い手がありますから、どれを選ぶかまでは断言出来ませんね。8割強で4五歩だと思いますが』

(8割強で当たるなら言っても良い?)

『駄目です。特別凄い手でもありませんし、ソフトの予想と一致するでしょうから発言自体が無意味です』

 

アイの性格は、完璧主義だ。1分でも負ける可能性のある手加減はしないし、言動も常に正解を用意してくれる。負けず嫌いだし、人の考えを読むのも上手い。そんなアイが、天衣にだけ負ける可能性のある手加減をしているのは、アイも天衣の成長に関しては全力ということだ。負けてないけど。

 

前までは天衣の育成に関して全力とまで言えなかったから、アイも気持ちの変化とかあったのかもしれない。感情を持ったAIって、文字だけでも強く見えるな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

帝位戦第3局

帝位戦の第3局は2日目を迎え、九頭竜の封じ手はソフトやアイの読みと一致する4五歩だった。歩を持ち上げ、パチリと前に進める九頭竜。於鬼頭帝位も同歩と応戦し、いよいよ開戦かと思ったら、また盤面全体で伏線を仕込む作業に戻る九頭竜。端歩突いては取らせ、端歩突いては取らせ……。

 

於鬼頭帝位から九頭竜の陣地へ踏み込んだ瞬間、カウンターパンチを仕掛ける九頭竜。これ、あいの将棋に似ているな。岳滅鬼さんのようにひたすら待ちのスタイルじゃないけど、結構待った気がする。タイトル戦で相手の攻めを待つとか自殺行為に等しいけど、持ち駒が増えないと成立しない攻めを画策していた?

 

『私にとっては見破れる罠ですが、高段棋士でも引っかかるんじゃないですか?於鬼頭帝位は……回避しましたね』

(うん。於鬼頭帝位の攻めが鋭すぎるし、九頭竜が負けそうか)

『いえ、一つ目は回避しましたが、二つ目には嵌っています。この場面、九頭竜が1番嫌がったのは受けられて攻めを潰されることです。於鬼頭帝位が攻めている時点で、九頭竜の罠に嵌っているんですよ。九頭竜の囲いは、そう簡単には崩されませんから』

(はあ?どう見ても簡単に潰れるかたち……いや、簡単には潰れないのか。ほとんど居玉にも近いのに、案外受けは続くな)

 

さて、大盤解説の時間だ。あいとは1対1で話すことすら今まであまり無かったのに、今から終局まで喋り続けないといけないのはちょっと辛い。あと俺とあいの大盤解説が上手く行けば行くほど、天衣の機嫌が悪くなりそうなのは辛い。

 

この前の大盤解説の罰ゲームで、これからたまよんのことをたまよん呼びしないといけなくなった時、明らかに不機嫌になってたからな。それでも通常通り会話は出来たし、指導対局も無事にこなしたけど、久々にツンツンしていて新鮮だった。

 

「皆様、おはようございます!聞き手役をする、雛鶴あいです!」

「そして解説は私、大木晴雄が担当させていただきます」

 

あいは初めての大盤解説から半年以上の時が経過しているし、流石に慣れてきたのか声も大きい。元気いっぱいという感じで、やっぱり天衣と雰囲気はかけ離れてるな。名前は同じだけど、性格は結構真逆。

 

「九頭竜先生と於鬼頭先生の帝位戦第3局は、79手目まで進んでいて今は九頭竜先生が長考中です。大木先生、この手数でこの局面は、ちょっと進みが遅いですよね?」

「そうですね。大体九頭竜のせいなので、恨むなら九頭竜を恨んで下さい。今日は夜遅くまで解説することになりそうです」

「終局まで!ですからね。ししょー!頑張って下さい!」

「流石に聞き手役が片方の対局者を応援するのは自重して下さい。私も人のこと言えないですが」

 

最近取得した愛想笑いしながらも困り顔、を継続しながら九頭竜と於鬼頭帝位の指し手を逐一解説していく俺。この対局、下手しなくても150手超えそうだな。また深夜まで解説しないといけないのかよ。いい加減にしろ。

 

『玉座戦も迫っているのに、スケジュールはカツカツですからね』

(忙し過ぎてそろそろ月光会長にストライキ宣言したくなって来たんだが?不労所得を得られそうだから今の俺は無敵だぞ?)

『トップ棋士の大木四冠がプロデュースするタピオカ専門店が、元プロ棋士現ニートの大木晴雄がプロデュースするタピオカ専門店になれば価値は激減すると思いますよ?』

(あー、考えたくねえ。ストするにしても、最終的に男鹿さん言い包めないといけないのが辛いわ)

 

タイトルは増えれば増えるほど、忙しくなる。自分のタイトルが増える=タイトルホルダーの人数が減るということだからな。九頭竜の世間一般の評価はロリコンのせいで低いし、世間一般からの評価が不自然に高い俺に依頼や仕事が集中するのは完全に自業自得だ。

 

「そういえば大木先生は、面白い写真を沢山ツイッター上にアップしますよね?」

「私は、すぐに写真を撮れるようにしていますからね。面白いと思ったらすぐに写真を撮りますよ」

「どうして九頭竜先生と私の写真が多いんですか?」

「九頭竜と雛鶴さんが揃っている写真は人気が高いからです。毎回のようにリツイート5桁行きますし」

 

九頭竜は、JS達に囲まれている率が高い。この前の夏祭りの時とか、スマホでビデオ通話したらJS研の全員が裸でこっちがビビったわ。というかあいに挨拶しようとしていた天衣がビビってた。JS達を自室で浴衣に着替えさせるとか、わりと犯罪チックだと思う。

 

対局は形勢不明というか、互角になり、ソフトの評価値は安定しない。深く読めば読むほど、プラスになったりマイナスになったりで忙しい。なおアイに聞いたら九頭竜422の於鬼頭帝位328という返答が。最近のこの評価の仕方は、単純に今の局面からアイが750面指しをしてそれぞれの勝った回数を集計しているだけだな。勝つか負けるか、世界一単純な指標でもある。

 

「現状、九頭竜の方が若干勝ちやすい形ですね。ここに来て、先程垂らした歩の存在が大きくなっています」

「於鬼頭先生は九頭竜先生の垂らした歩のところに、角を打ちたかったんですよね?」

「そうですね。それもありますし、於鬼頭帝位が飛車を打ち込むとして、自陣への効きも防ぎます。取りに行くのも手損になりますし、今になって受けるのも厳しいです」

 

九頭竜は持ち時間が於鬼頭帝位より減っているから、この局面が研究済みというわけじゃない。だけど序盤中盤で仕掛けた伏線の回収率が凄いのは、先を見越して準備していたからだ。将来的にどういう局面になるか、それを序盤中盤で考えながら指して、勝勢になっているのは九頭竜の構想力が飛び抜けていることを示している。

 

まあアイはこの局面を読んでいたらしいが。こいつもこいつで頭おかしいけど、負けず嫌いなところはあるから真偽不明。とりあえず解説をこなしていくけど、あいが思っていたよりも大人しかったから何とかなった。

 

(あいは今度女流玉将戦の挑戦者決定戦だっけ?月夜見坂さんはお疲れさまでした)

『奨励会6級ですら通用しなかった月夜見坂さんに、あいの相手は荷が重いでしょうね』

 

あいはこのまま勝ち進めば、10月から女流玉将のタイトルを賭けて月夜見坂さんと三番勝負を行なう。女流玉将は、予選と本戦の持ち時間が25分と短いからあいはめっちゃ強かったんだよな。持ち時間が短くても終盤で間違えないというのは、相手の女流棋士達のプレッシャーにもなっていたと思う。

 

……あいは天衣が出場を断った女流玉座戦も勝ちぬいているけど、タイトルホルダーの空さん相手に勝つのは難しそう。でも万が一空さんが負ければ、三段リーグの序盤で空さんが崩れる可能性も出て来る。まああいも女流玉将戦と同時に女流玉座戦を行なうことになるから、とりあえずは女流玉将戦に集中する感じになるのかな?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

前期順位

三段リーグの最終日が終わり、4人が15勝3敗で並んだ。鏡洲さん、坂梨さん、辛香さん、椚の4人が15勝3敗だ。だけど前期順位が影響して、鏡洲さんと坂梨さんが四段昇段、辛香さんは次点という結果に。

 

結局椚は、次点も取れなかったか。最終日の坂梨さん対辛香さんの鬼勝負は、坂梨さんに軍配が上がって坂梨さんは1位通過。鏡洲さんは1局目で負けて3敗になったけど、最後の対局で辛くも勝利し2位通過。鏡洲さんは、本当に最後のラストチャンスをものにしての四段昇段だ。ドラマが多すぎる。

 

(やっぱり前期順位の差が大きいな。にしても、15勝3敗で上位4人が並ぶとは思わなかった)

『椚は、序盤の連敗が痛すぎましたね。成長速度は4人の中でもトップですし、才能自体はおっさん3人より遥かにあるのですが……将棋に絶対は無いですからね』

(俺だって、食中毒で意識不明の重体になったら負けるからな。食中毒になったことないけど)

 

とりあえず天衣のために対策をしておいた方が良い相手は、椚と辛香さんと空さんか。辛香さんは、将棋のスタイルや勝負に望む姿勢が独特だから、天衣もわりと苦労するかもしれない。椚も、辛香さんに負けてから調子を崩した。 

 

なお原作で起きた報道陣の大集合は起きなかった。小学生プロ棋士が誕生する可能性は僅かにあったのだけど、確率は低かったし、何よりも空さんが居なかったのは大きい。辛香さんが、空さんの身体のことを心配して報道陣を呼んだはずだし。

 

……椚は、次の三段リーグが最後の小学生棋士になるチャンスだ。一方で天衣は、3期もチャンスがある。一部のマスコミでは、もう小学生棋士が誕生することは確定事項のことのように扱っているけど、将棋に絶対は無い。もしも今季の昇段を後一歩で逃したとしたら、次の三段リーグに影響して負けが込む可能性すらある。

 

『前の三段リーグで3位だった人間が、開幕4連敗する世界ですからね』

(ぶっちゃけそれ、珍しいことじゃないんだよな。14勝1敗の断トツ2位から3連敗して昇段逃した人もいるし)

『マスターの狂信者のことですね。飯盛四段でしたっけ?』

(うん。最後に蹴落としたのはぶっちゃけ申し訳なかった)

 

飯盛四段は、原作には居ないキャラだけどもしかしたら見落としているのかもしれない。何だかんだ言って登場人物は多い方だからな。埼玉出身で関東所属の棋士だけど、よく関西に来る棋士だ。人によっては関西にほとんど来ない棋士もいる中で、わざわざ関西まで来るのは珍しい。

 

地味に強いから、将来的にはタイトル戦に出て来るかもしれないけど……今の時期に勝率7割はちょっと苦しいかな。プロ棋士になりたての頃は、言い方が失礼だけど弱い人としか当たらないから勝率は当然高くなる。たぶん鏡洲さんとか、今年や来年の勝率はえぐいことになるはず。あの人、奨励会員時代に新人王戦で優勝してるし。

 

三段リーグが終わり、昇段出来なかった三段の人は次の三段リーグに向けて準備を始めている。よく考えたら、天衣って1年弱で2級から三段まで上がったのか。俺が居なければ、前例のない昇段として大きく取り扱われていただろう。俺が居なかったら今の天衣はないけど。

 

そんな天衣にも、奨励会の後輩が出来た。お盆の時期にある入会試験を突破して、今年も新奨励会員が入って来たのだ。その中には馬莉愛の姿もあり、彼女は4級での入会に成功している。残念ながら二次試験は全勝とまでは行かなかったものの、4級受験で2勝1敗は立派な成績だ。

 

『というか、将来有望過ぎる成績ですね。小学6年生で4級なら、まず中学生の間には入品出来るでしょうし』

(それでも、三段リーグを抜けられるかは怪しいんだよな?)

『鏡洲さんや辛香さんを見れば、三段リーグが如何に魔境かは分かりますからね』

(鏡洲さん、原作ではプロ棋士になれて無いしな。30歳で社会に放逐される奨励会システムの残酷さはわりとえげつない)

 

この4級受験は、俺や天衣のせいかな。たぶん原作では6級受験で二次試験全勝だっただろうし、釈迦堂さんや歩夢にも気持ちの変化があったのだろう。6級受験と4級受験は、かなり違う。6級から4級に上がるのに普通の人なら1年ぐらいかかるし、6級受験で当たる5級や6級の奨励会員とは違って、3級や4級にはベテランも多い。

 

俺の同期にも、まだ4級で頑張っている人とかいるしな。たぶんその4級の人はそろそろ退会すると思うけど。馬莉愛に負けたみたいだし、気持ちにも踏ん切りがついただろ。俺と同期で同級生だから応援していたけど、14歳で6級入会、18歳で4級は厳しい。

 

「どうじゃソフトイーター。妾は凄いじゃろ。褒めて崇めても良いのじゃ。そしてニュークイーンに伝えるのじゃ。三段リーグで待っていろとな!」

「はいはい、おめでとー。

俺も天衣も、奨励会は1級受験で合格してるからなあ。あと三段リーグまで、お前は何年かかるんだよ。間違いなく天衣は小学生の内に三段リーグを抜けるわ」

「うぐ、そうじゃった。コイツら頭おかしいんじゃった……」

「そろそろ兄貴に代われや。何で歩夢のスマホに馬莉愛が出てるんだよ」

 

歩夢が今度の玉座戦第1局で天衣と大盤解説をすると聞き、連絡を取ろうとしたら馬莉愛が出て自慢し始める。実際4級での合格は凄いけど、自慢する相手が間違っている。どうせ自慢するなら、同じ関東にいる攻める大天使こと月夜見坂さんに自慢すれば良いのに。あの人、6級でも通用しなかったからな。

 

……奨励会6級で通用しなかった月夜見坂さんに、そこら辺の女流棋士は全く歯が立たない。天衣の残っている棋譜は、一番古いものだとマイナビ女子オープンの予選だからそういう相手と戦っている棋譜だった。三段リーグでは棋譜が公開されている分、天衣と空さんは不利を受ける。でも最初の頃の天衣の将棋って、わりと今の天衣からはかけ離れているんだよな。

 

『普通の人から見ればちょっと信じられない伸び方をしていますからね』

(基本的に、自分より強い相手との対局を繰り返しただけなんだけどな。悪手は指摘して、好手は褒めるという基本的なことしかしていない)

『その密度が、他の人と比べれば段違いに濃いでしょうに。ですが天衣は、よくついてきてくれました』

 

それで油断してくれればいいし、逆にあそこから1年ちょっとで三段に昇段する実力を付けたことに畏怖して貰っても良い。でも警戒はされるだろうし、過剰に警戒される分は確実に損している。その中で勝ち続けられると、断言することは出来ない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

御城将棋

九頭竜が4連勝のストレートでタイトルを奪取し、無事に竜王、帝位の二冠になる。おそらく今が九頭竜の全盛期。いや、これから成長し続けて行くなら最終的にどうなるかは分からないけど。でも、三冠になることは無いだろうな。来年の帝位戦で九頭竜から帝位は奪う予定だし。

 

9月の半ば、玉座戦の第1局が始まるので仙台まで移動。タイトル戦は、移動時間という名の拘束時間が長い。九頭竜が4連勝でタイトル奪取したこともあり、三番手直りが大真面目に検討され始めてるけど勘弁して欲しい。名人主導で、かなり形になってきているのが怖い。全タイトル戦で導入されれば、マジで俺にとっては地獄だぞ。

 

『しかし将棋界にとって、七番勝負が途中で終わると結構痛手なのも事実です』

(事実だから困ってるの。何か俺の負担が軽くなる案とかない?)

『……タイトル戦前にタイトル挑戦者はタイトルホルダーに駒落ち将棋で勝てなければ、その年はタイトル戦を行なわない、とか?』

(……大昔の、それこそ戦前とかの制度じゃねえか。ただまあ、八冠になれば出来そうか?)

 

前夜祭では名人の応援者が多くて、それを見せつけられる。名人のタイトル通算100期の内、4分の1がこの玉座であり、どんな状況でも名人は死守して来たタイトルだ。

 

でもわりと、俺を応援している人も多いな。思っていたよりも多い、程度だけど応援してくれている人がいるのは嬉しい。まあ指すのはアイなんだが。俺が指したらたぶん負ける。絶対負けると思わなくなった辺りに成長を感じるけど、後ろ向きなのは変わらない。

 

定刻通りに始まった対局は、名人が先手で相掛かりに。ん??あれ?これって……。

 

(御城将棋だよな?)

『御城将棋ですよ?7五歩に対して6七銀と引く辺り、名人は意図的ですよ。5四角』

(あー、マジで御城将棋だ。ある程度までは、棋譜通りに指した方が盛り上がるか。……この対局、後手が負けるんだけど)

 

名人との対局は、御城将棋の1局と全く手順が同じになる。後手番で俺が角交換をしたことや、名人が腰掛銀を採用したこともあり、30手目まで同一局面が出来上がる。1850年、大橋宗珉対伊藤宗印の対局だな。

 

御城将棋というのは江戸時代の11月17日に将軍の面前で毎年指されていた儀式的な将棋であり、まず現代の将棋では見られないような指し回しや戦法が見られる。美しい棋譜もあれば、明らかに八百長な棋譜もあり、御城将棋と言っても玉石混淆だ。しかしながら中盤の攻め合いや局所的な手筋は参考に出来るものもあり、プロ棋士なら知っている人も多い。

 

あと、11月17日は俺の誕生日です。2000年11月17日生まれ。御城将棋が毎年11月17日に指されていたのと、何か運命的なものを感じられるような、感じられないような……。

 

その御城将棋の中で、1850年11月17日に指された対局と酷似している。5四角と持ち駒の角を自陣側に打った俺に対し、名人は7九玉と御城将棋そのままの手順を指す。やべえ、どこまで付き合えば良いんだこれ?

 

『4四歩。流石に名人も5六まで金は上げてこないでしょうし、途中で外れるのは確定ですね』

(あの対局、わりと好きだし有名だから気付く人も多いんじゃないかな?うーわ5七金指して来たじゃん)

『……2二玉と言いたいところですが、7六歩で』

(こっちから外れるのはしゃーない。なぞるだけなぞって負けましたは嫌だしな)

 

アイは御城将棋の本譜より少し早く、仕掛けた歩で相手の歩を取り込んで開戦を決行。……アイは、何手目で御城将棋だと気付いたんだろうな?俺よりかは早かったのは確定だけど、アイも10手目ぐらいから狙っていたのか?そうじゃないとここまで同一局面が続くとは、思えないしな。

 

で、ここからは中盤力を試される局面だけど、名人は古い棋譜から着想を得たのか緩手が多い。でもそれを咎めるような手もそんなになく、アイは終始戸惑っていた。ノータイムだけど。

 

(ええ……とか言いながらノータイムで斬っていくのは容赦ないな)

『一個の目的しか達成できない手というのを、名人が何度も指して来たら戸惑いますよ。しかしまあ、不格好な将棋ですね』

(御城将棋の手順をなぞったらそうなるわ。……今のは、俺でも分かる悪手だな)

『それでも、咎めるのは難しいですね。既知の範囲では無いですし。これはもう咎めるより、こちらの攻めを優先した方が良いでしょう』

 

対局は結局、96手目の4七銀不成で名人に必至がかかり、その後数手だけ名人は王手ラッシュをして投了した。地味に最後の王手は、取れば即詰みだったか。わりと危ない将棋だったんだな。

 

『御城将棋になるかもしれないと、こちら側も期待したせいで危ない橋を渡ってしまいました』

(まーでも、五番勝負だし1局ぐらい負けても問題無かったけどな。そろそろストレート勝ち以外の成績にしないと、また三番手直りの話が進む……)

『もう既に、止められないんじゃないですか?下手すれば、来年の棋士総会で議題に上がりますよ』

(ああ、それは辛い。そうなると、最初の三番手直りが実現するのは九頭竜との帝位戦か?)

 

危ない橋を渡ったとアイが言うが、たぶんアイの性格的に100トンのハンマーで石橋を叩きながら渡っていたと思う。大盤解説の方は歩夢と天衣の組み合わせだったわけだけど、天衣は御城将棋を知らなかったみたいで、御城将棋だと気付いた歩夢のハイテンションについて行けてなかった。

 

まあ、歩夢が暴走した時はたまよんとあいぐらいしかついていけないから仕方ない。あとは身内の釈迦堂さんと馬莉愛か。いきなり「これは……いにしえより伝えられし神話の軌跡⁉︎」とか言いだすからな。聞き手役で歩夢のハイテンションを止めるのは難しいし、ノリを合わせるのも難しい。別に、大盤解説として失敗だったわけじゃないから天衣はそこまで気にしなくても良いんじゃないかな?

 

(でも、御城将棋を知らなかったのは意外だったな?歴女だと思ってたけど)

『戦国時代しか知らなかったんじゃないですか?徳川家康を貶していましたし、江戸時代に指された将棋は見向きもしてなさそうです』

(ああ、そうだった。……一応、名局だけは教えておくか。知って損する棋譜ではないし)

『面白い筋や、現代では考えられないような手順というのは参考にもなりますしね』

 

とりあえず天衣に、御城将棋についてと面白い対局だけ教える。御城将棋の詳しい説明は、する方も難しいんだよな。戦国時代まで話を遡らないといけないし、武士の間で将棋が流行り、織田信長が部下に将棋を推奨していたことから話をしないと理解し辛い。一世名人の大橋宗桂は、織田信長から桂馬を使う名手ということで宗桂の名を貰っているしな。

 

だから将棋の強い人は、将棋指衆として将軍家直々に召し抱えられた。今も昔も、将棋が強いとそれだけで飯が食えたわけだ。そして昔の棋士は、序盤こそ今よりレベルが低いものの、中盤や終盤は今のプロとも張り合えるぐらいに強い人も多い。

 

……たぶん、昔の名人なら今の並のプロ棋士相手でも勝負になるとは思う。中盤力や終盤力なら、昔の名人に軍配があがるかもしれない。もうちょっと、昔の棋譜は漁るか。天衣にとっても勉強にはなるだろうし、昔の対局でも名局は名局だ。それは決して、色褪せるものではない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リーグ戦

10月から、下半期の三段リーグが始まる。玉座戦は結局、3連勝して四冠達成です。名人が3局とも古い将棋を持ち出して来てくれたので、久々に古い将棋の棋譜を読み込んだわ。……玉座戦は、アイが遊びに付き合う範囲を測られた気しかしないな。

 

『昔の棋士の方が自由に指していましたよね。平然と悪くなるような手も指しますし』

(現代将棋から見れば苦しい手はわりと多かったし、過剰に持ち上げるのも嫌だぞ。天衣が真似してちょっと悪影響出たし)

『何も言わなくても師匠の真似をする良い弟子ですね』

(そんな可愛い弟子相手に1勝も譲らないアイは流石の一言です)

 

天衣はアイとの11面差しに切り替えてからもう既に1500局ぐらい指しているけど、当然天衣は全敗です。天衣が想定以上の手を指して形勢が不味くなったら本気を出す、負けず嫌いの極みのような性格だな。

 

……ただまあ、天衣も1500連敗しているのに立ち上がってくる辺りはマジで鋼メンタル。負ける辛さを考えると、指せなくなる人もいる中で何度も負けられるのは精神力が強い証拠だ。方向性としては、九頭竜のように成長させるのが1番っぽいけど。

 

僅かに空さんや椚、辛香さんと天衣が当たらないことを期待していたものの、三段リーグの組み合わせ表を見て、その期待は木端微塵になった。5局目で椚、8局目で空さん、16局目で辛香さんと当たることが確定。1番の辛い相手と5局目で当たるのは嫌だな。せめて後半で当たりたかったけど、こればかりは運だからなあ。

 

なお辛香さんと椚は当たらないので、それだけでこの2人は得をしている。互いに互いが、当たりたくなかった相手だろうしな。

 

空さんと椚は、17局目か。最終日の鬼勝負になりそうだし、空さん視点8局目に天衣、17局目に椚、18局目に辛香さんって偏ってない?もしかしてどういうルートでも最終日に血を吐くことは確定しているとか?原作とは違ってラストが夏場じゃなくて、春前だからその点はかなり空さん有利なんだけど。

 

空さんの白雪姫という異名は、冬場の勝率が良い事にも起因する。逆に夏場は弱くて、それでも四段に昇段していたんだから、今季の三段リーグでは警戒しないといけない強敵だ。

 

「それじゃあ、全部勝ってくるわね」

 

負け癖がついてないか不安になるぐらいアイに負けまくっている天衣だけど、気分転換に色んなネット将棋で相手をボコっているからバランスは取れている。そろそろ、各種サイトからソフト指しだと判断される日が来るかもしれない。多面指しは、序盤から妙なタイムラグが相手視点であるからソフト指しの違反報告を受けやすいんだよな。

 

そんな天衣は、頼もしい発言をして東京へ向かう。俺はついて行けない。すまん、対局日は流石に休めないんだ。しかも玉将戦の挑戦者決定リーグの試合だしな。ここで俺は、また九頭竜と対決することになる。……於鬼頭さんとの対局だったら東京行けたのに、日程が空気読んでくれない。

 

「……大木は何を飲んでいるんだ?」

「タピオカミルクティー。前に祭りで出店してたでしょうが」

「ああ、店を出すって言ってたやつか。美味しいのか?」

「普通に美味い。あとカロリー爆弾だから俺にとっては必需品になる」

 

『本当にカロリーは高いですからね。マスターにとって、丁度良い飲み物です』

(これから、対局場には持ち込むことにするわ。ちょうど良い感じにニコ生とかに映るし)

『お店の宣伝にもなりますしね』

(案外、プロ棋士で飲食店を営んでいる人は多いよな。将棋喫茶みたいな店を持ってる人もいるし)

 

九頭竜との対局は、俺の先手で始まった。アイが先手を持って、負ける訳がないわな。九頭竜との対局中、タピオカミルクティーを飲みながら、ハーゲンダッツを食べる。やべえ、お腹いっぱいになるわこれ。

 

(んー、九頭竜が例のカウンター型の将棋をやるかと思ったらガチガチに囲ったな)

『よくある居飛車穴熊ですね。まあこちらも振り飛車穴熊なんですが』

(玉を薄く囲って細い攻めを繋げるのが大好きな九頭竜が金銀4枚を使った囲いにするのはわりとレア。この前のゴキゲン研での対戦結果を踏まえてかな?)

『……この対局が、香落ちでしたら端攻めから飛車をぶつけられて負けてましたね。まあ香落ちなら香落ちで指し方は変わっていましたが』

 

九頭竜は飛車交換を迫るものの、冷静に受け流したアイが先に守りの薄い7筋を突破。飛車を成って、桂馬と香を回収して2筋攻めを開始。角交換をして、2三の地点を狙えるように角を打つ。

 

先にこちらが2筋攻めを画策したから、九頭竜はこちらの穴熊の同じ弱点である2筋を攻めるのが難しい。それでも早そうな手で、こちらの角を攻めようとするけど、これたぶん角を切るんじゃないかな?

 

『3四角』

(ああ、そりゃ切りますよね。これ、俺でも攻め切れそうだな)

『続き指します?手順は分かってるんでしょう?』

(いや、手順前後が怖いからそのまま続き指して。この対局で負けたら、挑戦者決定リーグは九頭竜が1位になるし)

 

俺も全勝だけど、九頭竜も今のところ全勝。この対局に勝った方がグッと来年の玉将戦のタイトル挑戦者に近づくから、慎重にならざるを得ない。ここで負けたら玉将を獲得するのが1年遅れるんだよ。

 

穴熊から九頭竜の玉を引きずり出し、見事な姿焼きを決めるアイ。まあ穴熊対穴熊の戦いで、アイに勝つ方法は無さそうだな。たぶんアイの蓄積された棋譜の中では、穴熊の棋譜は多い方だと思う。それだけ優秀な囲いだし、決まれば勝てる、みたいな戦法の典型的な例だからな。

 

これで玉将戦の挑戦者決定リーグは、ほぼ1位が確定。最後に於鬼頭さんとの対局が残っているけど、まあ勝てるだろ。九頭竜に4連敗してタイトルを失った後だから、不調っぽいしリーグの成績も芳しくない。

 

玉将戦のタイトル戦は、持ち時間8時間の2日制だ。そして俺にとって、初となる2日制のタイトル戦になる。拘束時間が長いから、1日目で終わらせたいけど無理なんだよな。封じ手は、持ち時間を使ってもこちらがするようにしよう。

 

今まで獲得して来た棋帝、賢王、盤王、玉座は全て1日制のタイトル戦だ。……獲得するタイトルを選んでいることが、露骨過ぎて分かりやすい。でももう、残りは2日制のタイトルしかないから仕方ない。来年取る予定の帝位も玉将も、2日制のタイトル戦だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

歩夢vs九頭竜

11月を迎え、竜王戦の第1局が始まる。今年の九頭竜への挑戦者は神鍋歩夢七段。去年は竜王の挑戦者決定戦で名人に負けたけど、今年は破竹の勢いで勝ち進んで挑戦者の座を掴み取った。歩夢にとっては、初のタイトル戦にもなる。歩夢は俺と九頭竜より学年は2つ上で、今年20歳だけどぶっちゃけこれでもタイトルの挑戦者としては若い方。棋士としての指し盛りは、20代後半から30代前半とも言われているからな。

 

立会人は月光会長が、大盤解説は篠窪八段とあいが務める。またあいは、大盤解説の聞き手役を全対局で希望したらしい。九頭竜のことを大好き過ぎるだろと思うのと同時に、あい自身は女流玉将戦と女流玉座戦があるから相当忙しいスケジュールになっているな。たぶん九頭竜より忙しい。

 

……女流玉将戦は月夜見坂さん相手に既に1勝してるし、あいがタイトルを獲得する日は近い。女流玉座戦の方は、空さんの日程次第だけど11月下旬からかな。普段なら重なることも珍しくないけど、今年はギリギリ重ならなかったか。

 

女流棋士は、こういうと失礼だけど容姿で仕事の量に大きな差が出来る。空さんなんて、学生じゃなかったらえげつない仕事量だったと思う。今は空さんも天衣も三段リーグ中だし、学業のこともあるからかなり考慮されているけど、それでも忙しいことに変わりはない。

 

『……何でマスターは、出店したんでしょうね?働いている量に対してあり得ないほどの収入ではありますが、確実に私生活を削ってますよ』

(何でオープンする前に気付けないかなぁ?でも何もせずに儲けの3割を懐に入れるのもなぁ……)

『マスターが分け前を貰わないと夜叉神家にかなりのお金が入ってしまいますし、大木晴雄の名前が入っている以上は3割ぐらい良いと思いますが。資金を半分出している以上、何もしていないということはないですよ』

(儲けの何割云々の話をすると、店長に数%しか入ってないのに今気付いたわ。定額で店長を雇った夜叉神家は凄いな)

 

なお俺は忙しさに拍車がかかっているので、最近では夜叉神邸で行なう指導対局の時間がリラックスタイムになってる。3段のティースタンドからチョコ菓子を摘まみつつ紅茶を飲み、タブレットで竜王戦の中継を見ながらスマホで11面指しをする。なおスマホは全部天衣の前に置いているので、天衣に操作を任せている。天衣の前にずらっと並ぶ22個のスマホは、縦2列横11列だから、ちょっと操作が大変そうだ。

 

「最近の天衣は、スマホの操作まで早くなったなぁ2番5六歩6番9七角成」

「誰のせいだと思っているのよ。3番8七歩8番6四角11番5八飛車成」

「……天衣が全力での11面指しを、脳内でも出来るようになれば問題は解決するぞ。3番同銀成8番5三金上11番同玉」

 

天衣は、脳内での11面指しもやろうと思えば出来るだろうけど、7面以上は判断力や読みが落ちるし何よりも持ち時間の設定が面倒。それならスマホのアプリを利用した方がまだ指導対局になるし、棋譜も見返しやすいから便利だ。

 

「お、九頭竜の囲いが崩れ始めたか?1番2三飛5番同歩竜王戦3三成桂」

「竜王戦の局面は……九頭竜先生の方が優勢なのかしら?2番5八歩6番同香」

 

しかしまあ、棋譜を伝えるだけで脳内で竜王戦の盤面を思い浮かべられるのは中々に凄いことだと思う。天衣は今、11面の盤を見て指しながら、竜王戦の盤面を頭の片隅に置いている状態。あ、でも竜王戦の盤面は怪しそうだな?竜王戦に関しては、かなり無理してそう。

 

『そろそろ足でオート周回したいとか考えてません?流石に人の家でそれは失礼ですよ?』

(いや、今の段階でかなり失礼だろ。俺の指し手、天衣に任せている状態だし)

『脳内将棋は、ハンデになりませんからね。建前上はハンデになってますが』

(あー、晶さんに指し手を任せれば良いのか?最近は初段昇段が見えてきたらしいし、本腰入れるなら女流棋士を目指せるな)

『自慢げに5連勝した勝敗券を見せに来ましたからね。今度2連勝か4勝2敗の成績であれば、初段昇段です』

 

夏頃にアマ2級に昇級した晶さんは、現在アマ初段の壁で丁度止まっている感じ。天衣が奨励会の日とか棋士室に行く日とかに将棋道場の方でめっちゃ指しているけど、それで本当に社会人として良いのかは疑問。なお現在の将棋道場の棋力はアマ1級。初段からどんどん昇段するのが難しくなるし、この辺から同じ段位でも弱かったり強かったりすることがある。

 

……天衣には、もう一人格が頭の中にあってそれに指し手を任せていることまで言ってあるけど、全部が全部任せているみたいなことは言ってないんだよな。それに今の俺の状態やもう一つの人格について、正確には伝わって無いはず。だってアイが表には出て来ないし、普通の人は与太話だと思うからな。

 

「晶さん、来年のマイナビ女子オープンに出てみます?どうせ天衣は解説席に呼ばれますし、女性の中での実力を試す心持ちだけでも良いと思いますよ」

「わ、私がか!?……来年の8月までに二段になれれば、挑戦してみたくはある」

 

(あー、初段から二段への昇段は今までより更に難しくなるんだよな。8連勝か10勝2敗だから、結構厳しいな)

『晶さんは基本的に指し分け程度の星ですからねぇ。奇襲戦法大好きで勝率も安定しませんし、来年の夏までに二段になれたとして、1回戦突破も難しいです』

(指し盛りを過ぎた女流棋士ならワンチャンある感じだな。……晶さん、まだ研修会入れるんだよな?)

『条件は25歳以下ですから余裕ですね』

 

今年のマイナビ女子オープンの予選に天衣は呼ばれなかったが、そのためか昨年より観客の数が大きく減ったので来年の夏は呼ばれる方向で話が進んでいる。ついでに俺も呼ばれるだろう。最早天衣のおまけ感覚である。

 

どうせならそのマイナビ女子オープンの予選に、晶さんも出てみれば良いじゃないかと話をしてみる。来年、もしかしたら22歳女流棋士池田晶が誕生するかもしれない。まあ桂香さんとか25歳で女流棋士になっているし、女流棋士なら大学から将棋を始めても間に合う。

 

九頭竜対歩夢の対局は1日目が終わって九頭竜が封じ手を行なった。今回は、指し手が決まってそうなのに定刻まで悩んだフリをしての封じ手だし、持ち時間は歩夢がリードしている形になる。しかし矢倉同士の戦いで、形勢は全くの五分か。まだ戦いが本格的に始まってないし、2日目だけ見れば良かったやつだな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

お泊まり

夜叉神家で天衣の指導対局が終わった後は、いつも通り夕食をご馳走になる。今日はかなり大きな鯛の活け造りが出て来たけど、本当にこのレベルの料理を無銭で食べて良いのだろうか。お陰様で40キロには到達したから感謝しかないし、ここで食べるのを止めた瞬間に39キロへ戻りそうだけど。

 

神戸から福島まで帰るのが億劫になった俺は、夕食を食べた後、夜叉神邸に泊まることを伝える。無駄に広くて空き部屋が多いし、来客用の布団まであるので何度かお世話になっているけど、特に理由なく泊まったのは今日が初めてか。

 

『何で人の家に泊まって布団の中に入ってやることがゲームなんですかねえ』

(寝たら寝たで五月蠅いくせに、文句言うなよ。今日はチャンピオンになれなかったら即寝るから)

『じゃあ今日は徹夜ですね』

(……新垢ではやらねーぞ?)

 

広いお風呂に入った後は、ノーパソを持ち出してカタカタと布団に潜りうつ伏せの姿勢でゲームを始める。すると、プレイ中に背中に重量を感じた。これ、布団の上から天衣が乗ったな?天衣の方が下手したら俺より重たいはずだけど、まあギリギリ何とかなるな。

 

「……何でゲームをやってるのよ」

「楽しいから。どんなに自分が強くても、運次第で負ける可能性があるゲームだしな」

「チーム戦なんだっけ?私にも出来そう?」

「FPS系は慣れるまで時間かかるし、プレイするだけなら別に今始めても良いと思うけど、結構難しいぞ?」

 

小学生はもう寝る時間なのだが、将棋指しは夜型の人も多い。天衣も大盤解説や将棋の研究で、夜遅くまで起きることが増えた。そんな天衣が、俺のプレイするゲームを見て始めてみようとか言い出したけど、コイツ今人生を賭けて戦う三段リーグの真っ最中です。俺の悪い面まで真似しないで欲しいけど、俺自身がやっているから無理に止めることも出来ない。

 

しかし天衣は、どういうゲームを俺がしているのか知りたかっただけのようで、そこから天衣自身がプレイをする話にはならない。俺の画面を、ただ見ているだけだ。スマホのゲームの方は俺の真似をして前に少しだけ触ったようだけど、そこまで真剣にはやってなかったはず。

 

「ねえ、寒いから入って良い?入って良いわよね?入るわよ」

「問答無用かよ。別に良いけど」

 

しばらくすると、天衣が布団の中に入って来た。俺は平静を装っているようで、内心はパニック状態になる。というか誰か天衣を止めろ。俺の人生が終わる。

 

『つい先日、夕食にお赤飯が出ていましたね』

(何でそのこと思い出した!?いや、マジで終わるから。手を出したら棋士生命どころか人生断たれるから)

『話が飛躍し過ぎていますよ童貞。そんなんだから彼女いない歴40年なんです』

(うるせえ。前世までカウントするなや)

 

今年は冬の訪れが少し早く、夜は冷え込むようになった。だからと言って、異性の布団に潜りこむのはどうかしているし、天衣による好意の表れでもある。……もうすぐ、俺の誕生日だ。原作では九頭竜の誕生日に九頭竜へ告白していた天衣だけど、その告白はあるのだろうか?

 

『最後は2時の方向の瓦礫から出てきます。照準は合わせておいて良いかと』

(あ、はい。こんな時でも指示を出せるのは流石です)

『範囲縮小の傾向と今までに倒した敵から、残りの敵がどこにいるのかとどのルートを使うかの予測はオートで出来ますからね』

(ある意味、スペックの無駄遣いではあるな。今日は10連勝か)

 

「……これって、どのぐらいの割合で勝てれば良いの?」

「さあ?5回やって1回チャンピオンなら強いと自称出来る感じだな。1番上のランクで5連続チャンピオンなら、ツイッターで自慢出来ると思うぞ」

「師匠に将棋以外のファンがいる理由は、課金額が凄いだけじゃないのね」

「まあ、ゲーム一本でも食っていけるとプロゲーマーたちに太鼓判は押されてるからな。歩夢に対抗して、俺もY○uTubeチャンネル作るかなぁ……」

 

アイの指示を受けて勝ち続けながら、天衣と会話を続ける。天衣が布団の中に入ってから、妙に布団の中の温度が上がった気がする。まだ天衣の方へ顔を向けられないけど、顔真っ赤にしているのだろうか?

 

ゲームの方は、無事置きエイムが決まって1位が確定する。何度も強すぎてチートを疑われているけど、置きエイムの成功率が高くなって来たのでそれも収まって来た。最近は、ほぼ100%だしな。それでも武器や防具の強さの差で押し負けたりするけど、駆け引きや撃ち合いは楽しい。

 

プロ棋士にならなかった場合、プロゲーマーになっていた可能性は高い。いや、将棋を続けていたからこその今のゲームの実力だし、案外ゲーム一本だったら大した腕前じゃなかった可能性もあるか。

 

『そろそろ現実逃避を止めたらどうです?天衣が隣で寝てますよ?』

(安心しろ。俺の手には先程貰った睡眠薬がある。今からこれで、6時間ぐっすりだ)

『……まだ負けてないのに。寝ている間、貞操が無事だと良いですね?』

(怖いこというなよ。眠れなくなるだろ)

 

天衣は、いつの間にか俺の隣で眠っていた。この状態では流石に普通に眠れないけど、俺も睡眠薬を飲めばすぐに寝られるだろう。この睡眠薬を使い始めてから、月に一度はぐっすりと眠って脳の疲労を吹き飛ばしている。寝ただけでアイが大幅に成長したのは最初の1回だけだけど、定期的に寝た方が寝ない時よりもずっと気分が良い。

 

用意して貰っていた水差しを使って、粉状の睡眠薬を流し込む。すぐに眠気が襲って来たので、横になると天衣の顔があった。相変わらず綺麗な顔だなとうつらうつらしながら目を閉じようとすると、天衣の両目が、パチリと開いた気がした。

 

……眠りに落ちる直前、何か唇に当たった気がするのは夢だと思いたい。だってキスの感触とか全くなかったし、万が一そうならめっちゃ損した気分になる。

 

 

 

翌日の朝は先に天衣が起きていたので、寝起きの天衣を見ることもなく、夜叉神邸で指導対局しながら竜王戦の2日目を観戦する。うん。九頭竜がまた封じ手を利用して勝ったなこりゃ。互角の場面で、攻め合いに出るか出ないかの局面で封じ手はする方が有利だ。多少それで持ち時間を使ったとしても、1時間程度なら何とでもなる差だ。

 

今後、二日制のタイトルが見直されることとかあるのかな。もし見直されるなら、持ち時間の短縮を希望したい。1日で終わってくれれば、それだけ拘束時間が短くなるからな。我ながら最低な事を言っている自覚はあるが、わりと切実な願いだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

空女流玉座vs雛鶴女流玉将

普段俺は、女流のタイトル戦なんて観戦しようとあまり思わない。今年の山城桜花戦は原作イベントだったので間近で見たし、女王戦は天衣のタイトル戦なので全局観戦したけど、結果だけ知って棋譜すら見ずに「ふーん」で終わることも珍しくはない。

 

それでも、今年の女流玉座戦は見たいと思った。女流玉将戦の第2局で、あいは永世女流玉将に王手をかけている月夜見坂さんを、圧倒的な力の差でねじ伏せた。最初から、人類最高峰の終盤力を持っているあいだ。九頭竜とのスパーリング回数は原作よりも増えているだろうし、中盤の殴り合いも強くなっている。

 

もう既に、奨励会で有段者レベルの実力と言っても過言ではない。ということは、空さんでも負ける可能性はあるということだ。そう思って女流玉座戦の第1局を観戦する。まあ単純に、この対戦カードは気になるわ。

 

『九頭竜とキスをしたであろう日から空さんも強くなっていますが、あいの成長速度の方が上でしょうね。このタイトル戦でも、大きく成長すると思います』

(……天衣もキスをしたから成長速度が速くなるということはないかな?俺が起きている時じゃないと無意味?)

『何考えているんです?頭の中はお猿さんですか?それに成長速度は、もう天衣の方が上です。上ですが……真っ直ぐ進んでいるのはあいの方でしょうね』

(だろうな。たとえどんなに速いエンジンを積んでも、真っ直ぐ走れてなかったら意味がない。

真っ直ぐ走れてなかったとしても、圧倒的速度で問題のない様にしたのが俺だし、その方法を天衣が真似できるかと言ったら……)

『現段階でも、普通のプロ棋士から見ればあり得ない速度なんですけどね。あいがちょっと異常過ぎます』

 

女流玉座戦の第1局は、大阪で行なわれる。今年の女王戦ほどの盛り上がりではないけど、2人の人気は高いから人は集まる。場所は、大阪駅から徒歩7分のホテルだ。空さんにとっても、あいにとっても近場ではある。何なら、福島にある九頭竜の家から歩いて10分ぐらいだしな。

 

これならあいのことを応援している商店街の人達も来ることが出来る距離だし、現地での大盤解説役は大変そう。飯盛さんと桂香さんは頑張れ。

 

先手番になった空さんは、初手で飛車先の歩を突く。居飛車明示だ。対するあいも、2手目は8四歩。互いに、飛車先の歩を突き合った後は流れるようにあいが角交換を仕掛ける。若干、空さんがイラッとしたのは見逃さない。

 

互いに腰掛銀へ移行するが、先後同型ではないな。空さんの玉は6八と矢倉側にあるのに対し、あいの玉は5二にいる。このあいの指し方は、完全に九頭竜インストールしてるわ。あいは働いていない飛車を4一飛と4筋に移動させ、対する空さんは8八玉と囲いの中に入った。序盤が終わって、形勢はほぼ互角。

 

これが中盤の山場になっても互角だと、勝負ありなんだよな。理不尽過ぎる終盤力である。天衣も昼過ぎには興味を持って観戦に来た。関西将棋会館から現地まで、ほとんど時間はかからないしな。

 

『今のところ、全くの互角ですね。……ソフトの評価値は、何故か先手優勢ですけど』

(ソフトの中盤の+1000は、個人的には信用できない数値だしアイの方を信じるわ。というか、俺でも先手がそんなに優勢だとは思えない)

「今のところ、互角よね?」

「互角だな。あいの6七金と6五歩がソフトにとっては不評のようだ。ぶっちゃけ、それほど悪い手じゃないというか、あいの実力を考えたらよく指せている方だと思うぞ」

 

現地にて、天衣と一緒に観戦していると、右往左往していた九頭竜と遭遇した。コイツ、どっちを応援するか迷っていたのか?原作では天衣と空さんのタイトル戦の時、天衣のサポートをかなりしていたような気がするけど……。まだその時は、空さんと恋人関係にはなってなかったのか。

 

「大木、俺はどっちを選べば良いんだ」

「両取り逃げるべからずって、自分で言ってたじゃん。両方応援しろよ」

 

九頭竜の葛藤を他所に、局面はどんどん進行する。レベルが高いというか、たぶん普通のプロ棋士同士の重要な1戦だと言われても納得するぐらいには良い棋譜だ。……一時期は空さんが+1200ぐらいまでソフトの評価値が上がったが、そこから少しずつ評価値が下がって来る。あいの指し手が、終盤になるにつれ強くなっているからだ。

 

しかし途中で、あいはミスをした。駒を補充しに行った手が悪手とされ、空さんの評価値は+300ぐらいから一気に+3000となる。俺でも分かる、悪手だ。……今の一手は痛い。取り返しのつかないミスだということは、あいも指した時に分かっただろう。

 

『あいが思いっきり「しまった」って顔をしていますし、あの顔に出やすいところは修正した方が良いですよ』

(その点、天衣は対局中に限定するけどそこまで表情に出さなくなったな。対局相手に色々と悟られるから、表情に出さない方が良いに決まってる)

 

結局、空さんが一手差で勝利し、玉座戦の第1局は空さんの辛勝となった。これからあいと空さんは、最大であと4局もぶつかる。三段リーグに影響は出るだろうし、逆に三段リーグの成績によって玉座戦の方に影響が出る可能性もある。

 

どちらにせよ、空さんはまたメンタルがやられる可能性があるな。九頭竜と両想いになったことは把握出来ているから、変な行動はしないと思うけど、九頭竜をラブホに連れ込むぐらいのことはまたしでかしそう。というかそろそろあの2人はヤれよ。お互いに結婚出来る年齢だろ。

 

一方であいは、かなり落ち込んでいる。勝てると思ってからの失着で負けたのだから、後味は悪いだろう。これは、尾を引きそうか?

 

『女流玉将戦の方で、タイトル戦での接戦というものを経験してなかったのは痛かったですかね。余裕がないタイトル戦は、これが初めてだったのでしょう』

(これ以上月夜見坂さんをディスるのはやめてあげて。タイトルを失って本当に覇気が失われてるらしいし)

『今まで見逃されていた横暴な態度が許されなくなると理解しているために、大人しくなっただけでしょう。対局自体はむしろあいと全力でぶつかったからか良くなってますよ』

 

女王戦が第5局まで会場を押さえたからか、女流玉座戦も第5局まで会場はあるようだ。第3局の会場が、旅館雛鶴なのはあいのお母さんが頑張ったんだと思う。近年、女流棋界にもお金が流れ込むようになったから色々と余裕も出て来たんだろうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

結婚式場

三段リーグを4連勝で好発進した天衣だけど、次の対戦相手は椚です。椚も当然開幕から4連勝で、今の天衣と椚にそれほど大きな差はない。序中盤では天衣が上かもしれないけど、終盤の椚はわりとえげつない。あと空さんと辛香さんが4連勝で、全勝はこの4人だけだ。

 

そんな時期に誕生日を迎えた俺は、今年で18歳になる。これでもう、R18の同人誌やゲームを買う時に後ろめたい気持ちを持たなくても良くなるし、運転免許も取ることが出来る。もう一度教習所へ通うことを考えたら憂鬱になったけど。

 

『10歳の時からそういうサイトを巡回したりしていたのに罪悪感とかありました?』

(微妙にあった。根が善人だから)

『今までに犯した罪が数えられない善人とは?というか根が善人だったら私に見せつけないでくれます?』

(無理だろ。どうやってするんだよ)

 

18歳の誕生日に、天衣に招待されたのは女王のタイトル戦の第5局があった結婚式場であるサン・アンジェリークKOBEという場所。結婚式がない時にはレストランとして営業しており、タイトル戦で縁が出来たから天衣に招待状が来ていたのだ。神戸の夜景を一望できるお洒落なレストランで、原作ではここで天衣が九頭竜に告白をしている。

 

ああ、ヤバい。今さらNTRの罪悪感が襲ってきた。九頭竜と天衣の父である夜叉神天祐が会ってないから、NTRも何も無いのだけど。

 

『本当に今さらですね』

(うん。でも見惚れた女がほぼ確定で不幸せなルートを辿るなら止める意欲は湧くかもな)

『分かりませんよ?九頭竜が正式に誰かと付き合うまでは天衣も幸せな時間が続きますし、13巻以降で空さんが死に、あいが九頭竜を諦める&好機と見て供御飯さんや月夜見坂さん達が迫らないという条件が揃えば天衣正妻ルートが発生します』

(逆に言えば、そのルート以外は愛人ルートか独身ルートしかなさそう。というかそのルートの発生確率低すぎない?空さんから万が一の後の九頭竜を任されたのってあいだよな?そのあいが九頭竜を諦めるってどういう状況だよ)

『ですが、空さんの死後はどのルートでもあいが諦めるか死ぬかじゃないと天衣は正妻にはなれないでしょう』

(そして空さんが死ぬ気配は微塵も無かったという。将棋指している途中に一回心臓止まって、その後自力蘇生したのに死んだら何故殺した案件だよほんと)

 

原作の後の展開を軽く想像すると、どう考えても空さんと九頭竜の仲は死別以外割けそうにないんだよな。……万が一死別したとしても、その後はあいが強敵過ぎるし、歳の近い供御飯さんや月夜見坂さんが奮起する可能性は高い。ああ、そう言えば九頭竜の好みど真ん中の桂香さんもいた。天衣の確率ひっく。

 

そんなことを考えながら、いつも通りのスーツを着て来たら、ここで天衣から誕生日プレゼントとしてネクタイを貰う。そしてその場で天衣にネクタイを結ばれる。俺のネクタイは安物だし、交換してくれても良いんだけど……天衣がヒールを履いているせいで、俺が屈まなくても天衣はネクタイを結べるの。下手すりゃ、中学生カップルに見られるんじゃね?

 

「このネクタイは、師匠が買ったの?」

「うちの親が買ったやつだな。というかスーツ関連は全部母さんが買ってくれた」

「へえ。優しいのね?」

「いや、かなり怖いぞ?そんでいて、母さんはわりとぶっ飛んでいるし」

 

……小学生のガキが、数十万数百万という金を稼いでスマホを大量購入する様子は、普通の親だと卒倒ものの光景だと思うし、自慢したくもなるだろう。そういうことをせず、俺の邪魔を一切しないどころか、全部分かってる的な目で見守ってくれた両親には感謝しかない。

 

「そう言えば聞いてなかったけど、どんな両親なの?」

「外見は普通、かなぁ?母さんが現場監督者で父さんが現場作業員という出会いだったから、基本的に父さんは尻に敷かれてた。歳も、母さんが2つ上だから少し珍しい夫婦だと思う」

 

父親の身長が175センチで、母親の身長が166センチなのにその夫婦の息子が157センチは色々とヤバい。天衣はまだ146センチだけど、2ヵ月で1センチは伸びる成長期だし、本当に再来年には抜かされるな。

 

「それにしても、小学生でネクタイを結べるのは凄いな」

「晶もネクタイ締めるの下手だから……」

「ああ、そうだったのか。いつもキッチリしてたからわからなかったわ」

「大木様、夜叉神様。どうぞお席へご案内させていただきます」

 

準備が終わったのを見計らって、店の人から声をかけてきた。その後ろをついて行く前に、原作の展開を思い出して腕を差し出すと、満足そうな顔で腕を絡ませてくる天衣。まだ10歳とはとても思えないな。来月には11歳になるけど。

 

夜景を一望出来る特等席に案内された天衣と俺は、ジュースで乾杯する。

 

「お誕生日おめでとう、師匠」

「ありがとう。こんなにしっかり祝って貰えるとは思って無かったし、嬉しいよ」

「どういたしまして。お礼に私を八冠の弟子にしてくれるんでしょ?」

「いつか、な。月光会長にもしもタイトルを独占した場合、免状の署名の肩書きは八冠で良いと言われたから、前より気は楽だわ」

 

名人はタイトルを独占した時、名前の上に竜王、名人、棋帝、帝位、玉座、盤王、玉将と7つのタイトルを書いていたことがあって、それだけでも大変だったらしい。

 

「……もっと早く生まれていればって思ったことはない?」

「無いな。スマホのない生活は想像したくないし、何より天衣と出会うことも無かっただろうからな」

「あっ……今の無し!というか、さらっと何恥ずかしいこと言ってるのよ!」

 

原作でもあった、早く生まれていればって質問が飛び出る辺り、今日天衣から告白来るんじゃない?出来れば俺から告白したいんだけど、向こうから来るならそれはそれでアリだと思う。

 

『ヘタレですか。マスターから決めに行って下さいよ』

(ヘタレじゃなかったら今この場には居ないんだよなあ。もっと早く告白しているはずだから)

『……これから2人の営みをずっと見せつけられるかと思うと、憂鬱な気持ちになりますね』

(まだしないから!あと5年はしないわ!)

『天衣が16歳になったらする宣言ですか?性欲強すぎません?』

(……性欲が強くなかったら、頭の中に同居人がいるのにエロゲーはしないんだよなぁ)

 

でも原作であった、名人批判はしなかった。名人のタイトル通算100期は、100人のタイトルホルダーが生まれる可能性を潰したという内容だけど、師匠が既にタイトル通算5期だからな。将来的にタイトル独占をすることは目に見えているし、悪魔とまでは言えなかった模様。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

告白

結婚式場のレストランで出て来たメインの肉料理は、美味いけどヘルシーだな。最近は太るために、脂っこいものを食べ過ぎたか。40キロには到達したことだし、死の危険がある痩せ過ぎ域からは脱出した気がする。なお標準体重まであと10キロほどは太らないといけない模様。腹だけ出そうで何か嫌だ。

 

「誰か付き合っている人は、いないのよね?」

「スマホとパソコンの中身を見て、いないという結論には至らなかった?」

 

少し酸味のあるソースがかかった蒸し鶏みたいな料理をもぐもぐ食べながら、天衣からの質問を受け流す。軽く受け流しているけど、内心はかなり焦ってる。この後に、天衣側から告白される可能性があるからだ。

 

『期待し過ぎていて気持ち悪いです』

(うるせえ。期待しても良いだろ。逆にこの流れで告白して来ないなら、九頭竜との絶望的な差を感じて泣くぞ)

『実際、容姿面では絶望を感じるほどの差があるでしょうに』

(内面は、こっちが腐り過ぎていて相対的に九頭竜がマシという感じか。……勝てているのは、収入ぐらい?)

『収入も、九頭竜は竜王と帝位の二冠なのでプロ棋士としてはマスターと差はありませんよ。というか収入で勝ってるとか言う時点で……』

 

肉料理の後はデザートを堪能し、楽しい食事の時間は終わる。席を立って、結婚式場の階段を降りている最中、天衣がとうとう聞いて来た。

 

「師匠は私のこと好き?」

「それは、LIKEかLOVEかどっちを聞いてる?」

「もちろんLOVEよ。そしてこの質問には、答えなくて良いわ」

「は?そっちから聞い」

 

そして天衣は急に見つめて来たと思ったら腕を首の後ろに回して来て、背伸びしてキスを迫る。唐突だなと思っていたら、にゅるりとした感触が口内に入って来た?ちょっと待て!?

 

(アイ、ヘルプ。天衣がガチだ)

『受け入れて平静を保つマスターもガチですよ?』

(う……ぁ、初キスはデザートのアイスの甘い味か)

『向こうはコーヒーの苦い味ですね』

(雰囲気ぶち壊すの止めてくれない?)

 

たっぷり十数秒、天衣に蹂躙されたけど完全に身体はフリーズしてた。抱き着かれて逃げ場は無かったし、逃げようともしなかったしな。

 

「好きよ、師匠。今の質問の答えがどうであろうと、絶対に好きって言わせるから」

「……いや、俺は天衣のことが好ん!?」

 

天衣の言葉に、俺は自分から告白をしようとして、天衣にタックルを食らう。もう一度キスをされ、俺は無様に尻餅をついた。天衣は馬乗りになるような形で、俺の唇を封じて来るけど、これ他人に見られたら人生終わるやつじゃね?

 

「今言わなくても良いのよ!せめて私が肩を並べるまで待ちなさい!」

「我が儘なお嬢様だな。肩を並べるって、天衣がタイトル戦で挑戦するまで待てってことか」

「そうよ。九頭竜も神鍋も、会長や名人も倒して絶対師匠の元まで辿り着くからそれまで待ってなさい」

「……分かった。まあ、全タイトルで待ってるから何処からでもかかってこい」

 

そして天衣は、タイトル挑戦するまで告白を待てと言ってきた。いや、タイトル戦で戦う前に告白は出来ないだろうし、タイトル戦で天衣と戦えるようになったとして、タイトル戦が終わった時はどちらかが負けた時だ。その時に告白ムードにはならんだろ。分からんけど。

 

……天衣が、タイトルに挑戦できるのはいつになるだろうな。当然だけど、まだ名人や九頭竜の域には到達していないし、その下の生石玉将や月光会長、歩夢相手に10回やって1回勝てる程度だろう。

 

プロ棋士初年度に勝ちあがれるとしたら、あまり注目されない棋帝や玉座か?特に玉座は名人が絶対防衛するマンになっていたし、力を注ぐ人はあまりいなかった。それが俺に変わって、どうなるかは分からないけど賞金は下位だし変わらないんじゃないかな。

 

誕生日に告白して来たお嬢様は、優雅に車へ乗り込み結婚式場を去る。……この後、天衣は後部座席でゴロゴロ悶えてくれるのだろうか?是非とも晶さんに聞きたいところではあるけど、ドライブレコーダーすら回収されるから口止めはされそう。

 

『10歳の女子に翻弄される18歳男性の図。なお精神年齢40歳』

(あーもう!40代ネタを引っ張るな。精神年齢なんて周囲の環境によって変動するものだし、2回目の幼稚園小学校中学校があったんだから仕方ないだろ)

『完全に浮いている存在でしたよね。ガリガリのチビでしたから当然ですけど』

(何か今日は特に辛辣じゃない?もしかして嫉妬?それとも更年期?)

『私は精神年齢18歳なので更年期とか言わないでくれます?あと嫉妬とか自惚れもいい加減にして下さい』

 

立ちあがって、周囲を見渡すと人影はない。どうやら、社会的に死ぬことはないようだ。アイが辛辣だけど、まあいつものことだし気にしない。

 

『別に見られてても、マスターが童顔なお陰で中学生カップルにしか見られないでしょう。下手すれば小学生カップルですよ』

(身長も相まって犯罪臭はしないということか?一応俺は、スーツを着ているんだが?)

『スーツを着ていても、中身がマスターですから……』

(……むしろ、天衣の方が大人っぽかったよな。綺麗に着飾っていたし)

 

店内の客からは小学生カップルだと思われたでしょうねと笑うアイだけど、一応俺は有名人だし大木四冠と気付く人もいる……はず。俺が低身長なことを知っている人でも、実際に見ると気付けない人は多いけど。

 

(それにしても……いきなり舌を入れて来るのはビックリしたわ。強気過ぎん?)

『それだけマスターへの想いが強かったのと……性意識の芽生えの時期に、マスターの回覧したエロサイトを巡回したせいじゃないですか?』

(まだ10歳だぞ?来月には11歳だけど)

『その時期からエロゲーやエロ同人を漁っていたマスターは何も言う権利がありません』

 

恐らくだけど、俺の見ていたサイトを見た影響が出た形にはなった。……釈迦堂さんの店で、天衣自身がメイド服を選んだということはあれやこれやを見ているはず。そりゃ、キスで舌は入れるわな。もっと凄いことをしているシーンを、見ていたということになるし。

 

天衣は晶さんの車で帰ったので、俺は1人で帰路に就く。今日はアイがやかましいから、すんなりと寝れそうにないな。変に拗ねられても困るし、今日も夜更かししてゲームは確定だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

扇子

12月10日は、天衣の誕生日だ。去年は天衣の亡くなったお父さんの字で書かれた駒を贈り、めっちゃ泣かれたこともあったけど、今年はどうしようか迷う。毎年あのレベルの贈り物は出来ないし、そもそも俺には贈り物のセンスが無い。

 

色々と迷った末、直筆の扇子でも贈ろうかと思ったけど、案の定扇子に書く揮毫で迷う。うーん。三段リーグで使えそうな扇子にしたいけど、何と書こうか?

 

『大器、大志、一徹、飛躍……何なら天衣無縫でも良いと思いますよ?』

(いや、流石にそれは使い辛いだろ。何か都合の良い言葉はないかなぁ)

 

とりあえず名前部分には大木晴雄とだけ書いて、揮毫は散々悩んだ結果、無難な「無心」にすることにした。三段リーグは、実力があっても実力以外の面で負けることがある。1局1局、ただその将棋の内容にだけ集中できるように、無心でいることは大切だ。

 

『昨年の誕生日プレゼントより遥かにお金がかかっていない件について』

(うるせえ。去年がちょっと異常だったんだよ。ハードルが上がり過ぎていたから、下げるためにも丁度良いプレゼントだ)

『失望されなければ良いですね』

(……何だかんだ言って、天衣は使ってくれるだろ。将棋盤は良いの持ってるから、贈り辛いんだよな)

 

俺の誕生日には天衣に良いレストランに連れて行って貰ったけど、天衣の誕生日に関しては夜叉神邸で祝われるのでプレゼントを持って行くだけだな。どっちが大人なのか分からねえ。どうでも良いけど天衣の小学校のお友達に初めて会ったわ。見ただけで分かる上流階層のお嬢様方で、2人居たけどどちらもレベルの高い美少女だった。

 

あとはJS研のメンバーにもプレゼントを貰っており、結構ご満悦な天衣お嬢様。天衣とあいの仲が良いことは素晴らしきことかな。何か正月の指し初め式で天衣があいと真剣勝負をする話になっていたけど、あいも色々と考えているようだ。

 

結局女流玉座戦は、空さん相手に2連敗してあいは後がなくなっている。もうすぐ行なわれる第3局は、旅館雛鶴で行なわれるからあいに有利だけど、それでも3連敗を食らう可能性は高い。何だかんだ言って、空さんも強いわ。

 

受け取った扇子を持って、翌日の三段リーグに挑む天衣。今日は4連勝同士、天衣と椚の対局がある日で、天才小学生同士の対局ということで、注目を集めていた。

 

(椚、天衣、空さんが星を奪っていくから、今季の他の三段リーグ参加者は絶望しかないな。辛香さんも4連勝中か)

『4連勝は、その4人だけですね。今日の対局次第ですが、16勝2敗でも上がれない可能性がある今季は異常です』

(椚と辛香さんが当たらないからな。前期の3位と4位が当たらないって、それだけでも他の三段は嫌なのに、空さんと天衣の参加は昇段の芽が潰れるから辛い)

 

前期の15勝3敗は、昇段ラインとしては少し高くなった方だ。例年だと14勝4敗ぐらいだしな。ただ今年は、全勝する勢いの天衣と椚、空さんがいるので、この3人が直接対決以外に負けなければ16勝2敗でも上がれない可能性がある。

 

椚と天衣の対局は、天衣が後手になり後手番角頭歩戦法を使った。久しぶりの伝家の宝刀4手目2四歩に、椚の手は止まる。彼にとっても予想外だったのだろう。まさか、この重要な一戦で奇襲戦法を使って来る人がいるとは思わないよな。

 

だが天衣はそれをやる。この辺は、天衣の天性の性格だな。椚は挑発に乗らず、開戦をせず、持久戦を選択した。今頃天衣に「男なら開戦しなさいよ」みたいな挑発も受けているだろうな。乱戦大好きお嬢様だから。

 

『後手番角頭歩は、ずっと使い続けているだけあって持久戦を選択された場合でもかなり早期に開戦ができるように戦法を進化させています』

(持久戦を選択された場合、ただの向飛車にはなるけど2四の地点に歩が進んでいるのは大きい。急戦にするには、最低限の囲いで済ませて勢いよく2五歩と仕掛ければ良いと、天衣は研究の結果、結論を出したからな)

 

アイとの11面指しでも、天衣は度々後手番角頭歩戦法を使用している。もちろん負けまくっているけど、その度にアイの指摘を受けて来た天衣の後手番角頭歩戦法は、もはや必殺の戦法だ。

 

椚も既知ではない範囲での戦いは得意だ。しかし残念ながら、その才能を活かすには三段リーグの持ち時間が少ない。天衣の苛烈な攻めを受け、まさかの防戦一方に立たされる椚。隙を見て天衣の柔らかそうな囲いを攻めようとするけど、とっかかりが無い。金銀2枚だけの囲いだが、実際に攻めようとすると思っていた以上に難しい形だ。

 

『椚が1分将棋に入りましたね。一方で天衣は、残り47分も使えます。この差も大きいですよ』

(中盤の途中まで、既知の範囲で指し続けたからな。で、天衣の勝率はどのぐらい?)

『椚が27で天衣が723ですね。よっぽどのポカをやらかさない限り、天衣の勝ちです』

(フラグ立てないでぇ……)

 

椚の玉に詰めろがかかり、防ごうにも防ぐために駒を使ってしまったら攻めが完全に途絶える。そのため、椚は飛車を引くけど苦しいことには変わらない。その飛車の頭に歩を叩かれ、もう何か色々と椚が可哀想になって来た。

 

(飛車取り&取ったら必至か。天衣の方は、まだ囲いが健在。今さら8一歩成は遅すぎるし、もう無理だな)

『飛車を捨てて、その8一歩成を指しましたね。苦しい一手です』

(……飛車を取られてと金を作られ、せっかくとった桂馬を受けに使うのもなぁ。

持ち駒の角を残したいのは分かるけど、天衣の玉はそう簡単に詰まないだろ)

『詰まないです。天衣がポカをやらかしても勝てる局面になりましたよ』

 

とうとう椚の玉に必死がかかり、椚は王手ラッシュを始めるも天衣の玉には届かない。最後、必死を放置して天衣玉に詰めろをかけ、天衣の間違いに期待した椚だけど、流石に天衣も必死をかけた時点で詰みまで読み切ってるわ。

 

最後は丁寧に時間を使って、再確認しながら椚の玉を詰ませる天衣。もう既に、天衣は椚より上だとこの一局で証明された。これで天衣は三段リーグを5連勝。次の対戦相手は1勝4敗と既に意気消沈していた人だったので、あっさりと勝って6連勝を決めた。

 

一方で椚も、前期の三段リーグのように一度負けてから崩れるということはなく、3勝2敗だった対戦相手を瞬殺して1敗をキープした。これで上位陣は、空さんと天衣と辛香さんが6連勝。椚が1敗という状況か。地味にこの4人以外の上位陣は、既に2敗しているのか。これはもう、上位4人の直接対決の成績次第だな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ホーム

女流玉座戦の第3局は、石川県にある旅館雛鶴で行なわれた。あいのホームグラウンドであり、空さんにとっては苦しい戦いになる。言うまでもないことだけど、対局をする場所というのは対局者の精神状態に大きく影響する。今回のような、あいにとってのホームグラウンドで対局をする場合、周囲の人間は当然あいの味方だ。

 

この場合、あいを応援している者たちは必然的に空さんに対して負けて欲しい、負けろと思うものだ。そして将棋指しはこういう悪意に敏感な生き物なので、当然肌で感じ取ってしまう。というか実際、陰口とか聞こえて来るしな。九頭竜とかは、竜王戦でよく経験しているはず。

 

「現地まで行って応援しないのか?」

「対局があるのに応援出来るわけないだろ。今日はどんなことよりも優先順位が高い順位戦だぞ」

 

歩夢相手の竜王戦を、結局4勝1敗という成績で防衛した九頭竜は、今日は応援に行きたくてもいけない模様。順位戦は、プロ棋士にとって何よりも大切な対局だ。1年をかけて戦うし、順位戦のクラスによってプロ棋士としての格や基本給が決まる。

 

『九頭竜は、今季C級1組で全勝中。マスターもB級2組で全勝中。歩夢もB級1組で全勝中。この調子だと、また3人揃っての昇級でしょうね』

(地味に清滝先生も全勝中なんだよな。下手したら九頭竜は、師匠からの頭ハネを食らうかもしれないのか)

 

C級1組に所属している九頭竜は、C級2組から上がりたてなので順位は1番下。一方で清滝先生は、降級したばかりだから順位が1番上だ。九頭竜がB級2組の連中に負けるとは思えないけど、1敗でもしたら頭ハネを食らう可能性が大いにある状況。しかもその相手が、師匠である清滝先生になる可能性もあるのだ。

 

順位戦の日程はクラスによって違うため、九頭竜は順位戦の対局があるが俺にはない。代わりに帝位戦の予選がある。取りに行かない予定のタイトルで、何局も指さないといけないリーグ戦まで勝ち上がるとか馬鹿らしいので今までの帝位戦は予選トーナメントで負けていたのだ。なので今年は予選から勝ち上がっていってる。

 

まあ、帝位戦はタイトルホルダーでも下位予選の免除がない特殊なタイトル戦だ。その分番狂わせが多いし、波乱が毎年起きる。今日はその予選トーナメントの決勝。飯盛四段との対局だ。……俺と当たらなかったら、帝位リーグ入りしていた可能性があるとか大木狂信者強くない?

 

俺の真似をして、タピオカミルクティーにハーゲンダッツの用意をする飯盛さん。オイオイオイ死ぬわアイツ。ぽっちゃり系でそのカロリー爆弾は糖尿病一直線だぞ。というか俺の狂信者名乗りたいならあと30キロ痩せて来い。あと身長を10センチ減らせ。

 

『167センチ70キロは言う程ぽっちゃり系じゃないですよ。男性なら健康的な太り方です』

(……まあ、棋士の消費カロリーは凄いからな。板チョコ8枚食べる棋士とかいるし)

『タイトル戦1局で2キロから3キロ痩せるのも珍しくないですからね。

マスターがその勢いで痩せていたら、命の危機でした』

(タイトル戦1局で2キロも痩せていたら、今頃は俺の質量が無くなっているわ)

 

俺より5歳も年上の飯盛さんは、大真面目に俺のことを崇拝している。今日の対局は、ようやく叶った念願の一局だろう。だが俺は早く女流玉座戦の経過をみたいのでいつも通り容赦なくノータイムで指していく。帝位戦の予選トーナメントの持ち時間は、各4時間。俺が一切持ち時間を使わなければ、ちょうどあい対空さんの対局が良い頃合いだろう。

 

『……意外と粘っこい将棋を指しますね。三段リーグで当たった頃よりも、明らかに強くなってますよ』

(まあ俺が三段リーグで当たった相手の中では1番強かったし、俺の真似をして1分1秒を将棋に捧げているなら強くもなるだろ。A級棋士一歩手前の棋力はあるよな?)

『1分1秒を将棋に捧げる?……まあ歩夢にも一度勝ってますし、関東棋士では歩夢と篠窪さんに続く有望な若手ですね』

(歩夢が20歳で、篠窪さんが24歳。飯盛さんは23歳だから、まだ巻き返せる位置だな)

 

しかし飯盛さんも、かなりの早指しで応戦してくる。俺の狂信者なだけあって、早指しも真似しているらしい。この早さで、勝率7割なら本当に将来タイトル戦で対戦しそうだな。そして対局開始から僅か1時間半後に終局。166手でアイの完勝だった。

 

(よし、昼飯前に終わった。天衣の家で観戦じゃ)

『三段リーグの最中に自宅へ毎日のように押しかける師匠って、傍から見れば異常極まりないですね』

(出来る限りの協力はするって、三段リーグの前に言ったら天衣も頷いただろ。あと純粋に、夜叉神家のシェフが作る料理は美味い)

『……既にマスターの胃袋は陥落済みですか。三大欲求の内、2つを握られていたらどうしようもないですね』

 

三段リーグの最中は、今まで以上の密度で指導対局をしているけど、三段リーグが終わったらそう簡単には指導対局をする時間が取れないというのが1つの理由になる。プロ棋士として、女流棋士として、小学生として。多忙な生活になるのは目に見えている。お互いの休みが重なって、家でゆっくりと過ごすなんて滅多に出来なくなるはずだ。

 

あと人間の3大欲求の内、2つが夜叉神家に握られているんだよな。もう既に俺は、夜叉神家に抵抗出来ないです。何なら最後の1つも握られかけてるよ。天衣が告白してきてから、やけにアプローチが激しくなった気がする。それでも天衣に指導対局をしに行く辺り、俺も俺だな。

 

空さん対あいの対局は、あいの後手番だけどあいが千日手に持ち込みそうだ。原作では天衣が女王戦でやっていた千日手狙いを、あいが女流玉座戦でやるのは感慨深いな。空さんは、持ち時間の消費量的に指し直しになればかなり苦しいか。

 

ここまで2連勝で、防衛まで後一歩。しかし現地の空気はあい一色だろうし、指し辛さも感じているはず。ここで千日手を打開する手を指せば、中盤戦でも互角という状況で終盤戦に入ってしまう。あいが卓越した終盤力をそのまま発揮すれば、空さんが負けるだろう。

 

残り短い持ち時間を、さらに消費して空さんは千日手に応える。結果、指し直しになって再度空さんがあいを追い詰める展開になったものの、ここで空さん側の持ち時間が尽き、ミスが出てあいが粘り勝ちをもぎ取った。

 

追い詰められての逆転劇は、空さんが無冠になる未来さえ想像させるものだったが、第4局であっさりあいは空さんに負け。あい女流玉将の女流玉座戦は、空さん相手に1勝3敗という成績で終わった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一手差

新年を迎えて、指し初め式の日を迎えるが、来週には生石玉将と俺が玉将のタイトルを巡って7番勝負を行なうので、俺と生石玉将には色々と配慮された指し初め式になる。ゴキゲン研はしばらく打倒大木研になって俺と天衣が参加出来なくなる模様。関東で散々聞いた名前の研究会だな。

 

『久々にマスターの両親と会いましたが、元気そうでしたね』

(何なら直接会うのは1年ぶりだしな。会いに行こうと思えば1時間半で会いに行けるけど……向こうも忙しいそうだし、滋賀は近いようで遠いわ)

 

そして、約束通り天衣とあいは練習試合をすることになった。持ち時間は、奨励会の三段リーグと同じ1時間半。お互いに着物を着ており、傍から見ればタイトル戦を行なっているようにも見える。

 

この戦いは、あいのお願いを天衣が聞いてあげたから実現した戦いだ。しかし、ただの練習対局とは雰囲気が違う。これは何かあるな。

 

「何か、九頭竜はこの試合に条件を課しているのか?」

「ああ。この対局に勝てれば、あいのプロ棋士編入試験を考える」

「……なるほど。そのことを、天衣にも伝えたのか」

「本気で戦って欲しいから、天ちゃんにはさっき伝えて来たよ」

 

九頭竜によると、この対局に勝てれば空さんか天衣がプロ棋士になった後、大々的に開かれる女流棋士からプロ棋士への道に、あいを進ませるらしい。もちろん試験は厳しいものになるが、天衣に勝てるなら突破できると踏んだのか。

 

一方で、この対局に負けても女流棋士を休業して奨励会へ挑むとのこと。あいも天衣に触発されたか、プロ棋士への道を選んだようだ。もしくは、空さんから九頭竜を奪うためか。どちらかと問われれば、後者のような気がするな。

 

……しかしまあ、空さんか天衣がプロ棋士になって、1番得をするのは祭神だな。今年、とうとう祭神は帝位の予選トーナメントを勝ち抜き、帝位リーグ入りを果たした。女流棋士でプロ棋士相手にここまで勝つのは異常だし、前例のないことだ。ただそれでも、奨励会に入って三段リーグまで頑張ってきた天衣や空さんから女性初のプロ棋士という称号を奪える程ではない。

 

というか、俺と同じリーグに入ったから嫌でも祭神とは戦うことにはなるな。まあ今のアイなら、適当に遊んでも勝てるレベルだろう。天衣に負け越すレベルだし。

 

『……いえ、祭神もA級棋士並みの瞬発力はありますよ。1局を通じて棋力に波があるのは、それだけ気分が読む量に影響するということでしょう。今の祭神は、九頭竜と帝位のタイトル戦をすることで頭がいっぱいなんじゃないですか?』

(それはあり得るな。残念ながら、その夢は叶わないのだが。

というか天衣とあいの対局が珍しい形になっているな)

『生角と成角の対抗ですか。……角交換をしたのにお互い角と馬が自陣にいますね』

(天衣の馬を追っ払って、自陣に角を打つあいは九頭竜というより清滝先生に近いな)

 

天衣とあいの対決は、既に多くのプロ棋士が観戦していて注目の一戦になっている。空さんに勝った女流棋士は、あいが初めての存在だ。天衣は厳密には女流棋士じゃないからな。たとえ勝率が低くても、空さんに勝てるということはそれだけ他の女流棋士とは隔絶した実力があるということで……現状、天衣相手に良い勝負をしているのも納得だ。

 

『将棋は、天衣の方がまだ優勢です』

(まだ、ね。馬を作ったところまでは良かったけど、自陣に引かないといけなかったし、そこまで有利にもなってないな)

『まあ、持ち時間の使い方は天衣の方が圧倒的に上手いので大丈夫でしょう。……来年、このあいが奨励会に入るということは、また奨励会で旋風が巻き起こるでしょうね』

(まず間違いなく、1級受験だろうな。実力的には奨励会二段クラスを超えているかもしれないから、余裕で突破すると思う)

 

序盤、角交換から先に角をあいの陣地に打ち込み、馬を作って優位に立った天衣だったが、その後はお互いに玉を囲う展開となり、あいは天衣の馬に狙いを定めた。角を自陣に使って、その利きを利用して銀が天衣の馬に迫る。

 

結局天衣は、馬を自陣まで戻す羽目になった。この時点で、天衣とあいの差は生角か成角かの差だけだな。天衣の方が優位ではあるけど、その差は僅か。中盤の山場で、この状態は少し不味いか。

 

『……天衣が決めに行きました。これは、あいは時間を使いたいところですがもうありません』

(こうこうこうこうと読み始めたけど、間に合うのかな?)

『あー、間に合いませんね。時計のアラート音も、今のあいには聞こえないんじゃないですか?』

(ここで時間切れ負けかよ!これこのまま続いていたら、どうなっていたんだ?)

『天衣の一手勝ちになる可能性が8割強です。天衣が負けることは無いでしょう』

 

持ち時間が苦しいあいは、それでも盤面を読んで次の手を指す。しかし時計のアラーム音は着手と同時に切れ、電子チェスクロックの画面はあいの持ち時間切れを示す。あいの持ち時間が切れたのだから、当然天衣の勝ちだ。勝者である天衣は無言で立ち上がり、その場を去った。

 

「……まあ、凄い集中力ではあったな。時計の音、聞こえて無かったっぽいし。

あいはこれから、奨励会試験に向けて方針転換か?」

「……ああ、そうだな。持ち時間があっても、届かなかったか?」

「持ち時間があっても、天衣の一手勝ちじゃないか?……この対局の続きは、きっちりあいと検討しておけよ」

 

俺も九頭竜と少し話した後は、天衣の後を追う。天衣が逃げ出したくなるのも、分かるような気がするな。あれだけ努力して、それでも自分に食らい付いて来ている存在には恐怖を感じるものだ。

 

空さんとあいのタイトル戦は、双方に成長をもたらしたのかもしれない。……次の空さんとの対局は、5月頃の女王戦の空さんと同一視して良い存在じゃない。

 

「……別に逃げ出さなくても良かっただろ。あのまま続けても、天衣の1手勝ちだった。強さの差が、顕著に出た一手差だ」

「慰めになってないわよ。前まで、大差とは言わなくても結構な差で勝てていたのに……」

「弱い方が伸び代があるのは当然だろ。差が縮まってくるにつれ、この1手差は大きくなる。というか後手番を持って振り飛車をして、今のあい相手に一手差勝ちなら上出来だ。向こうは人生を賭けてきていたからな」

 

将棋指しは背負っているものが大きいほど強くなる奴と、背負っているものが大きすぎると手が震えて弱くなる奴の二通りに分かれる。あいは間違いなく前者であり、今日の対局はあいと天衣で本気度が違った。それでもあいを撥ね退けたんだから、自信を持っても良いと思う。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天衣対空

三段リーグの第8局で、空さんと天衣がぶつかった。互いに7連勝中で、トップを走っている者同士の対決。空さんは、弱くなったとか小学生に負ける中学生だとかで嘲笑われることも多くなったが、普通に昨年よりも強くなっているし、今季の三段リーグで天衣を除いたら本命の一角だろう。三段昇段戦では椚に負けたけど、それももう一年ぐらい前だしな。

 

注目の対局ということで、棋士室でも空さん対天衣の対局が映る。それを観戦しながら、バカ売れし始めたタピオカミルクティーを飲んでいると供御飯さんと月夜見坂さんがやって来た。何か珍しいな。供御飯さんとは観戦記者モードの時によく喋るけど、こういうプライベートだとそんなに遭遇しない。九頭竜は月に2、3回は遭遇しているらしいが、俺は年に2、3回遭遇する程度だ。

 

「げっ、大木かよ。何でタピってんだ」

「店の売り上げ貢献のため。つーか第一声がゲッて何だよ」

 

月夜見坂さんと俺は、そこまで仲良くない。というか敵視されてる。まあ、全女流棋士にとってのラスボスとなり得る存在を育てている奴だからな。あと単純に、奨励会から逃げた時の姿をこっちは知ってしまっているのが大きい。丁度俺が三段リーグの下見に行ってる時に、退会しようとした月夜見坂さんとばったり会ってるし。

 

『あの強気な月夜見坂さんが、弱弱しい姿で退会届を出しに行く姿は新鮮でしたね』

(1年戦って降級して、メンタルブレイク中だったんだろ。しかしまあ、奨励会の5級や6級を相手に2勝8敗を二度繰り返さないと降級はしないんだよな。指し分けすら無理だったのが意外だ)

『……小学生の女性で奨励会に入ったのは岳滅鬼さんが最初ですが、その前にも女性で奨励会に入った人は存在します。大昔の規定では、女性は指し分け程度の星で昇級していました』

(ああ、流し読みした将棋関係の本に書いてあったな。その頃とは、かなり状況が変わったか)

 

奨励会は2勝8敗するとBに落ちる。6級から、6級のBに落ちるというイメージで良い。この状態で2勝8敗すると、7級に落ちてしまう訳だ。しかし6級のBから6級のA、通常の6級に戻るのは簡単で、3勝3敗という成績で良い。指し分けで元の級位に戻るのだ。

 

……だからまあ、月夜見坂さんの奨励会の通算成績は結構悲惨なもので、1年間の勝率は3割にも満たない。その末に降級したんだから、弱弱しくもなるわ。そんな月夜見坂さんと、空さんに「八一」呼びを奪われた供御飯さんが、三段リーグで全勝中の空さんと天衣の対局に注目するのは分かる気がする。

 

『先手で角頭歩戦法を使われると逆に違和感を覚えますね。本来は先手番の奇襲戦法なのに』

(それだけ天衣が、後手番角頭歩戦法を使い続けているということだろ。……空さんは、持久戦を選択か)

『賢明ですね。先手を持った天衣の角頭歩戦法に後手が8五歩と仕掛けた場合、もう後手番に勝ち目はほとんどありませんよ』

(それほどか。天衣の角頭歩が洗練されていっているのは感じてたけど、アイでも勝てない?)

『私は勝てます。ほとんどと言ったでしょう』

 

持久戦に移行したはずの空さんは、天衣が僅かな囲いで仕掛けて来たので持ち時間を使っている。これは、椚と同じパターンに入ったか。角頭歩からの向飛車は、既知の範囲内の方がおかしい。空さんはかなり対策を練っているけど、その対策法は結構前にアイが克服済みだ。

 

「……こんな戦法でプロ棋士になっても、勝てないだろ」

「三段リーグをこんな戦法で戦うことに意味があるんだよ。月夜見坂元女流玉将さん?」

「あ゛?喧嘩売ってるなら買うぞコラァ?」

「お燎は落ち着いとぉくれやす。……天衣さんは奨励会に入ってから、将棋が変わらへんのどす。将棋の天才集まる場所でも、壁に当たって将棋を変える必要の無かった超天才です」

「いや、天衣はむしろ壁にしか当たってないですよ?何だかんだ言って、初段前後は結構負けていましたし」

 

供御飯さんと月夜見坂さんとの会話に突っ込みを入れながら、将棋の行く末を見守る。天衣の将棋が変わってないように見えるのは、序盤の指し回しが特段上手くなってないからだな。多面指しの弊害だけど、思考の簡略化のためにこの辺は流石に身体が憶え切ってしまっている。言ってしまえばこの辺は経験則任せだ。

 

ただ、序盤を過ぎて中盤の捻じり合いに入ると経験則と共に深い読みも使っている。中盤の山場からなら終盤、下手すりゃ終局図まで読めるようになっているんじゃないかな。まあ速い寄せなんて数パターンしかないし、原作では速い寄せをパターン化して暗記したりしていたな。

 

『今は上手く噛み合っていますね。経験則から見える最善手を、疑って読んで超えることもよくある状態です。日に日に強くなっていますよ』

(まあ、放っておいても強くなる時期に過剰なほどアイとの対局を重ねたんだ。日に日に強くならないと困る)

 

天衣の使う、金銀2枚の囲いはもはや囲いとは呼べない代物だ。4八金、4九玉の僅か2手で基本形が完成する。ここから手を加えてから攻めることもあるが、今日は獲得した駒で囲いの補充をしている。一見柔らかそうだし、実際に柔らかい囲いなのだが、攻めが失敗しない限りは崩れない。

 

居飛車対向飛車。飛車が正面からぶつかり合う戦いは、金を攻めに参加させた天衣に軍配が上がる。……傍から見れば愚形にしか見えない棒金だけど、金銀交換はそこまで大きな差じゃないと天衣は考えているし、俺もそう思う。

 

空さんは金で天衣の角を封じ、天衣は角を切って金と交換する。一方で天衣は銀で桂馬を取りに行き、銀と桂馬の交換になる。これで金銀交換から始まった天衣の駒損は、角と桂馬の差になった。しかし強引な攻めの結果、天衣の飛車先の歩は、と金に変わる。

 

『8三歩成……このと金は、本当に大きいです。7五金以降、自然な応手だけでほぼ一本道。天衣の研究の成果ですし、空さんはものの見事にやられました』

(いやらしいのは、ここから空さんが見える挽回手段も大抵は挽回不可能ということだよな。必ず天衣の刃の方が先に空さんの玉に届く)

 

まだ局面は一見すると天衣玉が不安定だから互角に見えなくもない。実際、となりで供御飯さんと月夜見坂さんがこの対局をあーだこーだと検討しているけど、この時点で天衣の勝ちはほぼ確定。そして予想通り、十数手後にはそのことがはっきりとし、空さんは限界まで粘るものの、天衣はキッチリ空さんの玉を詰まして8連勝を決めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

玉将戦第1局

1年で、最初に行なわれるタイトル戦は玉将戦だ。いよいよ俺は、2日制のタイトルに挑むことになる。封じ手とか面倒だし、1日目で終わらないかな。いや、流石にそれは生石玉将が持ち時間を限界まで使って阻止してくるか。

 

「……痩せました?」

「大木程ではないから安心しろ。万全の体調だ」

 

玉将戦の第1局は、滋賀の彦根にあるホテルで行なわれた。……俺の地元だし、正月からあまり日が経ってないのにまた両親と顔を合わせることにもなった。何で応援しに来るんだよ。

 

『天衣の頭を撫でる母上は、見たこともないような笑顔でしたね』

(弟子だって言ってるのに、まるで恋人を連れて来たかのような反応だったな)

『18歳男性が11歳女性を連れ回したと聞けば犯罪臭しかしませんが、外見上は……』

(……俺って、何歳に見えるんだろ?)

『……14歳ぐらいかもしれません。スーツを着ると、16歳ぐらいにはなると思いますが。ただまあ、髭が生えないお子様体質なので……』

(一人暮らしを始める前に買った髭剃り、一度も使ってないからな。前世では高2辺りから剃り始めていたけど……髭を気にしなくて良いのは凄く楽だわ)

 

天衣は今日、単純に俺を応援しに来てくれている。大盤解説の方は、今日は九頭竜とたまよんのペアだな。またたまよんの大きなおっぱいに鼻の下を伸ばす九頭竜が見られるのか。録画しておこう。

 

定刻通り始まった玉将戦第1局は、俺の先手番だったので持ち時間を使わずにアイじゃなくて俺が指していく。ヤバい手を指しそうになったらブレーキがかかる予定だけど、今のところは文句言われないな。

 

(1分以内の着手なら持ち時間を使わないし、確認しながら指すなら事故は起きないな)

『ポカしないなら、普通にA級棋士とタメを張れるようになりましたね』

 

タメを張れるようになったとアイは言うけど、俺が優勢になる変化じゃないと待ったはかけるだろうから、要するに生石玉将相手に俺は優位に立てる将棋を指し続けられているということだ。そして終盤も佳境を迎え、それでもまだ待ったがかからないから、今日はこのままアイなしで勝てると思ったその時。

 

規定の時刻より前に封じ手となった。もうこれ、生石玉将は投了するか否かで悩んでいるレベルだと思うけど、形作りのためにもう2手3手は指す形だ。ここで封じ手になったということは、意地でも2日目を行ないたい模様。俺はそんな手があったのかと驚くしかない。いやまあ、冷静に考えたら将棋が終わる前に1日目を終わらせれば2日目は開催出来るな。たぶん2日目は一時間もいらないだろうけど。

 

『ということは、これから2日制のタイトル戦で2日間戦うことは確定ですね。今回の件で、これから定刻より前に1日目を終わらせることに抵抗はなくなったでしょうし、もっと早くに終わらせられる可能性もあります』

(将棋が終わる前に1日目を止めるなら、封じ手をする側が有利過ぎない?)

『だから、今回は迷ったでしょうね。しかし2日制のタイトル戦で、1日目で終了というのは前例がありません。それを防ぐために、1日目を強制終了したんです』

 

……まあスポンサーも、せっかく色々と用意したんだから1日目で終わるのは勘弁してくれということか。投了寸前で封じ手をすることになった生石玉将は、苦々しい顔でさっさと次の手を書いてしまう。まだ生石玉将側も持ち時間は1時間以上残っているし、定刻より前に封じ手となったのは俺だけのせいじゃないと思うの。

 

(久々にノビノビと将棋を指せた感じがする。ある程度は悪い手でも、見逃してくれてた?)

『悪い手と言いますか、もっと良い手がある時も見逃していましたが、単純にそれでも勝てるから見逃していただけですよ。負けなければ私はそれで良いです』

(……まあ、次の賢王戦は九頭竜が挑戦者になりそうだし、電脳戦とセットでアイに任せるしかないから今ぐらいしか俺は指せない)

『2月からの盤王の防衛戦は、相手が歩夢ですがマスターが指すのですか?』

(今日と同じように指す予定。しかしまあ、過密日程だな)

 

というか、ゴキゲン中飛車を採用する生石玉将側にも問題がある。早く終わらせたい俺相手にゴキゲン中飛車を使って、超急戦にならないわけないじゃん。必然的に短手数の将棋になるし、考え所が少ないから生石玉将は持ち時間の使いどころにも困ったんじゃないかな。俺は一切配慮しなかったし。

 

結局封じ手が終わった後はホテルで夕食を食べて1泊し、その間はホテルのロビーでスマホのゲームをしていた。後ろで監視してくれている職員さんはお疲れ様です。徹夜に付き合わせてごめん。でも暇だし、タイトル戦毎に睡眠薬を使うのも違う気がする。

 

そうして迎えた2日目は、数手指しただけで終局となった。まだ2日目開始から1時間程度しか経っていない時刻で、これは大盤解説の人達が大変そう。九頭竜とたまよんは頑張れ。

 

掲示板を見てみると、1日目の強制終了は思っていた以上の反響があり、将棋としてはもう終わっている形だから、形式だけの2日目が必要なのか否かで大激論が起こっていた。コイツら暇だな。九頭竜とか封じ手を利用して一晩読むし、掲示板で2日制のタイトルが必要なのか否かという話にまで発展しているのは面白い。

 

『朝6時スタートで互いに持ち時間が8時間。持ち時間内に朝食、昼食、夕食を食べるようにするとルールを改定すれば22時前後に決着が付くと思いますが』

(強引なルール改定だな。……でもまあ、昼食休憩中や夕食休憩中に次の一手を考える棋士が存在する以上、ルール改定をするならそこら辺も変えて欲しい)

『……そう簡単には、変わらないでしょうね。2日制のタイトル戦は、関係者全員を含めると巨大なビジネスになっています』

(だから、三番手直りが大真面目に検討されているわけだしな。……今年の棋士総会は、天衣も行くことになるのか)

『……反対の組織票は、無理でしょうね。名人が推進派にいる以上、関東棋士の大半は賛成票を投じますよ』

 

将棋界において、重要な議題は棋士総会にて多数決で決められる。天衣が今年の三段リーグを勝ち抜き、プロ棋士になれば未成年どころか小学生でも1票を持つことになるのだ。しかしながら、三番手直りの導入は避けられないだろうな。……今回の玉将戦も、第4局までで終わりそうだし。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

武器

玉将戦の第2局は終盤の山場で俺がポカをしそうになりアイから待ったがかかった以外、特にトラブルもなく勝利した。1日目は相変わらずの強制終了というか、今回は3時に強制終了。流石に早すぎるわ。

 

一方の三段リーグも折り返し地点を過ぎ、天衣が10勝、椚と空さんと辛香さんが9勝1敗。5位の人は3敗しているので、もう昇段は4人に絞られていると断言できるレベル。1敗勢の中で、椚と空さんは天衣に負けての1敗だけど、辛香さんは普通に中位の人に負けている。

 

まあ、ある程度の実力差があっても負けることがあるのが将棋だしな。アマ初段が、アマ四段に勝つことも珍しいことじゃないし、A級棋士がC級2組でくすぶっているような弱い棋士相手に負けることもある。そもそも三段リーグで行き詰まっている連中に、さほど大きな差はない。その大きな差じゃない差を、明確にするのが三段リーグという場だ。

 

何気に、椚と辛香さんが当たらないというのは大きい。30人以上いるから仕方ないとはいえ、ここでの潰し合いが起きないのは2人にとって得でしかない。というか、むしろ椚と空さんと天衣が潰し合いをする組み合わせになった方が不運なのか。天衣的にはもう全勝を阻む相手は辛香さんぐらいだし、わりと安全圏だけど、1敗勢は誰が落ちるか全くわからん。

 

まだ辛香さんは天衣に負けてないから、1敗を計算に入れるとして、順位は1番上なんだよな。もしもこの後、空さんと椚と辛香さんが2敗で並べば、辛香さんが昇段になって椚は次点。空さんは16勝2敗で次点も付かないという状況になる。今季の三段リーグは色々とヤバいな。約1名、全勝している奴のせいだけど。

 

(俺の時は、そんなにヤバいリーグじゃなかったよな?)

『2位通過の人が14勝4敗ですのでその点は例年通りです。この人は、マスターと当たらなかったのが幸運でしたね。13勝5敗でも通過できる年は通過できるので、三段リーグは運も大きく絡みます』

 

玉将戦のタイトル戦中で、盤王の防衛戦も直前というこの時期、帝位リーグが始まる。……今年は帝位も取りにいくけど、帝位リーグは6人しかいないので全勝がほぼ必須。今年の帝位リーグの白組は、名人(前期挑戦者決定戦の敗者)と生石玉将(前期紅組2位)と俺と祭神と歩夢と山刀伐さんの6人。流石に、祭神は全敗しそうだな。

 

というか白組が原作キャラばかりだ。紅組も於鬼頭さんや月光会長がいるからどっちもどっちだけど、白組の面子が濃い。そして帝位リーグ戦の予定が入ったことで俺の休日が無くなる勢いで減っていく。……一気に名人以外の七冠を狙おうとすると、対局数が幾つになるのか計算もしたくないな。

 

『で、最初の相手が祭神ですか。……今までの棋譜を見るに、予選トーナメントは相手に恵まれていただけですが、それでもB級C級のプロ棋士を相手に勝てるのは事実です』

(……祭神に負けた奴ら、対局中に眠っていたんじゃねえの?それか、祭神の谷間に釘付けになって全力を出せなかったか)

『プロ棋士は全員が全員、10代の性欲を持っているわけじゃないんですよ。……ただ今日の祭神は、いつもより谷間を強調するような格好をしていますね。ぶっ殺す』

(ん?アイが指すの?別に良いけど)

 

1月の末というこの寒い季節に、谷間を露骨に強調するような服を着れるのは素直に凄いと思う。ハニートラップとか得意そう。あ、そう言えばコイツは真冬の新宿御苑で全裸になったんだっけ?色々とヤバいな。

 

『色々と考えながらも、祭神の谷間をチラ見しているのは分かりますからね?ムッツリスケベ性欲大魔神』

(目線は将棋盤だからセーフ。眼球移動はしていないからバレてないし、たまよんでこのことは確認済み)

『……祭神は気付くと思いますけどねえ。6六歩』

(角道止める振り飛車とかいつ以来ですかアイさん)

 

祭神との対局は、アイが先手先手先手先手と念じたら振り駒で歩が5枚出て先手になった。序盤は落ち着いているなと思ったら、こちらの布陣に浮き駒が1つもない。ただ取りされる駒が歩1枚すら無いのだ。これは虐殺モード入ってますわ。

 

(……将来的に、天衣がこのぐらい大きくなれば良いな)

『相手が長考中だからって脳内がピンク色に染まるの勘弁してくれません?』

(仕方ないだろ。女流棋士って基本は露出が少ないし、こういう雰囲気で指すのは慣れてない)

『……しかしまあ、凄い格好ですね。背中がV字に大きく割れている服はわりとある印象ですが、前がそれだとただの痴女です』

 

アイが完璧な布陣を敷いてから、的確な攻めで祭神の布陣を攻撃し始めると、途端に苦しい表情へ変わる祭神。止めてくれ、前屈みになるのは俺の股間に効く。そしてアイの攻めがどんどん容赦のないものへ変わって行く。アイは全駒する気かよ。

 

『こちらの完璧な布陣に対して、一応反撃する形が整っていたことは褒めますが、足元にも及びませんね』

(……天衣との差は、どうだ?)

『ネット将棋の時よりも強いですから、天衣とは五分かと。相手によって強さが変わったり環境によって将棋が変化する奴は厄介ですね』

(ああ、ネット将棋の方が弱いタイプか。珍しくはないけど、今の天衣はネット将棋の方が強いことを考えると、不利な相手だなぁ)

 

天衣がプロ棋士になれば、女性初のプロ棋士という称号は天衣の手に渡る。そうなれば祭神を、プロ棋士に出来ない理由がなくなる。この強さなら、間違いなく試験は突破してくるだろう。……魔のリーグと化した帝位リーグ白組で、祭神は1勝ぐらいは出来るかな?アイがここまで敵視しておきながら、褒めるということは相当な強さだ。

 

最後、全駒には至らなかったけどほとんどの駒を毟り取られて負けた祭神は、深く項垂れて「ありません」と小さく呟いた。本気で俺に勝てると思っていたらしい。最近はこういう人が減ってきたから、新鮮味を感じる。

 

(最後まで指しきったのは成長した証かもな。前に指した時は、最後まで指すことが出来なくて途中で投げたし)

『あの時もフルボッコでしたが、やはりあの時より成長はしていますね。……次の女王戦、挑戦者は恐らく祭神です。五番勝負で勝ち越せるか、見物ですね』

 

天衣の初となるタイトル防衛戦は、相手が今のところ祭神さんか空さんかという状況。あいは女王戦のトーナメントでも、空さんに負けた。……わざわざ天衣で実力を測らなくても、この勝負で測ったら良かったんじゃないの?

 

九頭竜も九頭竜で、図々しいところはあるか。俺も九頭竜はよく利用しているし、どっちもどっちだな。炎上盾にしている分、俺の方がタチ悪いかもしれない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五冠

2月に入り、玉将戦では生石玉将から玉将のタイトルを奪い、盤王戦では第1局で挑戦者である歩夢を叩きのめす。あ、歩夢の相手は俺からアイに途中で切り替わりました。生石玉将とは相性が良かったみたいだけど、歩夢とは相性が悪かった模様。

 

バレンタインデーでは三段リーグで12連勝中の天衣から箱に入ったお高そうなチョコを貰い、ついでに月光会長からは昨年の1.5倍のチョコが届いてそこそこの量になったが全部処分したとの報告を受けた。勝手に処分して事後報告だけとか冷たすぎない?真実を知ったらファン達は悲しむと思うよ?

 

(そこそこの量って、どれぐらいなんだろ?というか何で具体的な数を教えてくれないんだ)

『教えたらそこから情報流出するからじゃないですか?将棋連盟のホームページでも数に関しては書かれていませんし』

(……100個超えてたりは無いよな?)

『マスターは自分への評価が高すぎます。10個が15個になったか、20個が30個になったぐらいじゃないですか?』

(30個は自慢できる数値だな。まあそんなもんか)

 

まあ、贈られたチョコの中には何が入っているか分からないから将棋連盟側も処分するしかないのだが。実際、手作りのチョコを割ったら髪の毛や爪が入っていたりすることはあるらしい。中にはカメラやマイクが箱の中に入っているのもあるそうなので、開けずに処分が基本の方針だとか。勿体無いけどしょうがない。

 

(まあ天衣から貰える時点で勝ち組です。九頭竜は今年、知人友人からだけで10個以上は貰ってたけど)

『数を聞いたら、指を折って数え始めましたからイラッとしましたね。あれでモテてないというのは全非モテ人間を敵に回しています』

 

九頭竜に、今年何個のバレンタインデーチョコを貰ったか聞いたら「えっと、姉弟子にあいに桂香さんに、JS研のみんなと供御飯さんと月夜見坂さんと……」とスラスラ女性の名前を挙げていたのは恐怖を感じた。あれでモテてないとか言い出すのはちょっと認識がおかしい。

 

……ちなみに九頭竜は祭神からもチョコが届いたらしいけど、空さんが没収したらしい。祭神はあいに負けてからわりと大人しくなった方ではあるけど、元ストーカーで危険思想の持ち主ではあるからな。鍵がかかっているはずの玄関で、全裸待機は普通に怖い。中に何が入っているか、分かったもんじゃない。

 

「え?じゃあ師匠は何個のチョコレートが来たかも知らないの?」

「知らん。天衣が知ってるなら教えて欲しいわ」

「……知らないわよ。まあでも五冠になったんだから、50個ぐらいは来たんじゃない?」

 

天衣と将棋盤を挟んでタイトル戦の棋譜並べをしていると、九頭竜がラインで「媚薬入りのチョコだった助けて」とか来たので「文字打てる冷静さがあるなら大丈夫」と返しておく。今年九頭竜があいから貰ったバレンタインチョコは、媚薬入りだったか。来年辺り、あいは全身にチョコを塗るんじゃないか?

 

『空さんが四段昇段して九頭竜とハッピーエンドを迎える現実が近づいて来ましたからあいも必死ですね』

(というか、媚薬って本当にあるの?エロ漫画の中だけの存在じゃない?)

『精力剤+アルコールみたいな感じじゃないですか?……その状態で裸のあいが抱き着いてくるとして、手を出さない九頭竜は相当頑張っている、と考えても良いのでしょうか?』

(裸のあいが、じゃなくて裸のたまよんや祭神……ぐらいのスタイルの女性なら俺は陥落しそう)

『その2人が本気で迫って来たら、マスターは媚薬云々の前にまず体格差で抵抗出来ないでしょう?』

(……いや、流石にたまよんより力は強いんじゃない?たまよんの方が背は高いけど)

 

もうすぐ小学6年生になる天衣は、史上初の小学生棋士にして女性初のプロ棋士になる。しかし椚と同時昇段なら史上初の小学生棋士に、空さんと同時昇段なら女性初のプロ棋士にはなれない。同時昇段だからどちらが初と言えないし、そういう言い回しが使えなくなるとか。特に女性初の部分は、揉めに揉めた。

 

空さんは、世間からの認知度も高いしアイドル的な存在だ。5年間、女王と女流玉座のタイトルホルダーとして将棋界に貢献をして来た実績もある。だから天衣と空さんの同時昇段の暁には、空さんに女性初のプロ棋士を名乗らせようという動きもあったぐらいだ。しかしおそらく、空さんと天衣が同時昇段するなら天衣が1位で空さんが2位になる。棋士番号は三段リーグの1位2位の順番で登録されるから、天衣の方が番号は若くなる可能性が高い。

 

「天衣が1位抜けをすると棋士番号は347になって、仮に空さんが2位なら348か。面倒な状況だな」

「私は女性初とか史上初とか、そういうのにこだわりは無いわよ。

確か師匠は、334よね?」

「俺が334で九頭竜は333だな。九頭竜の方が三段リーグを抜けたのは一期先だから、棋士番号も一つ上だ」

「九頭竜先生って、2位抜けなのね」

「確か最後は、坂梨さんに勝って2位確保だったはず。まだあの頃の九頭竜は強くなかったけど、強さの片鱗は見え隠れしていたな」

 

天衣は気にしてないようだけど、実際に空さんが優先されたら憤怒しそうだし、女性初云々は2人に与える称号になりそう。椚が空さんに勝ったら女性初云々に関しては考えなくて良いけど、椚の将棋を見返すと半年ぐらい前から進歩が無いんだよな。空さんに勝ったイメージを持ったまま戦って、大打撃を受けそう。

 

『椚は前期の三段リーグを抜けられず、自身の才能を疑い始めたタイミングで天衣に負けて、今期も昇段を逃したら立ち直れ無さそうですね』

(九頭竜も三段リーグを抜けるのに3期かかったから大丈夫と言えば復活するだろうし、実際に3期目で抜けそうだから無問題。……空さんが椚に勝ったら、辛香さんが3位になる可能性もあるな。次点2回で四段昇段だ)

『その場合、天衣と空と辛香さんの3人が新四段ですか。……美少女と野獣という構図になりますね』

(たぶん記者会見とかで、天衣と空さんが辛香さんと並ぶことは無いだろうな。万が一並んだとしても、辛香さんが省かれた写真が量産されそう)

 

椚と空さんの対局は、3月下旬の三段リーグ最終日、第17局目だ。その時まで互いに1敗同士なら、とんでもない鬼勝負になるし見物だな。そして当日は、順位戦の最終日の日程と被っているので俺も東京に行く。もしかしたら、現地で天衣の昇段を見届けることが出来るかもしれないな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の師匠⑤

私の師匠は、サディストだ。

 

1日に何回も何十回も将棋でボコボコにしてくるし、気分転換だと言って用意した中将棋ですら、フルボッコにして来る。私が研究して準備して来た戦法を、罠を、一瞬で消し炭にしてくる。

 

師匠の将棋は、基本的にはノータイムで相手のプロ棋士を歯牙にもかけない。急いでいる時とか特に顕著で、最短手数で相手の囲いを崩してあっという間に詰ましてしまう。これは師匠が強いからそう見えるだけかもしれないけど、対戦相手が項垂れることは多くなった。あと、祭神さんとの将棋の時とかは怖い顔もしていた。

 

ツイッター上での師匠は丁寧語だけど、トゲがあることも多いし、鋭いトゲは一部の人によく突き刺さるらしい。たまにリプライが地獄のような論戦になることもあるけど、そこで暴言が出ない辺りはよく統率されている。

 

……将棋の才能だけで何千万と稼ぐ師匠に嫉妬した暴言を吐いた人に「将棋の天才でごめんね」と言い、銭ゲバと言ってきた人にはお金の大切さを説いた師匠。小学生の弟子がいることに関しては九頭竜先生を盾にして身を守っているけど、インターネットでの評判の稼ぎ方をよく知っているという感じがする。

 

前に一度、私もツイッターをやろうかしらと言った時には書き込んだら駄目なワード一覧を作って渡してくれたし、ネットの怖い所を語ってくれた。完全に怖がらせるための話というのをよくしてくるところは、師匠のSな部分だと思う。

 

 

 

私の師匠は、マゾヒストだ。

 

私が布団の上からのしかかると、私が重いのか「痛い」とか「重い」とか言うけど、声色が全然嫌がってない。むしろ、降りると残念そうな顔をするぐらい。

 

徹夜をよくするのは、自身の身体が追い込まれている感じが好きなのもあるそうで、その言葉を聞いて過労死しないか不安になった。出先でもゲームをよくするし、師匠がしっかりと身体を休めている時間ってきっとかなり少ないと思う。

 

イベントに引っ張りだこな現状、タイトル戦が重なっていることで休めてそうなのは皮肉よね。これは将棋が負担になってないことが前提だけど、タイトル戦でも1分以内に指しているから師匠は休めていると思う。

 

……でもタイトル戦まで、スマホのゲームを徹夜でするのは普通におかしいわね。身体を壊す元だし、弟子としても止めて欲しい。一応連盟の職員が監視したそうだけど、本当に朝までずっとゲームをしていたみたい。タイトル戦の相手だった生石元玉将は、タイトル戦後にそのことを聞いて開いた口が塞がって無かったわ。

 

前に晶が確認した性癖について、精査したらその……エッチな漫画では、男性が受け身のものが多かったとか。ゲームの方ではその限りじゃないみたいだけど、それでも男性が受け身のものはあったみたいだし……。

 

別に師匠がどっちでも私は構わないけど、このままだとあと1、2年で私の背は師匠を抜かす。私より軽くて、背が小さい師匠……想像したら、ちょっと歪かもしれないわね。

 

 

 

そして私の師匠は、わりとモテる。

 

……釈迦堂さんから、師匠が去年貰ったバレンタインデーのチョコは300個ほどだということは聞いた。それが今年は1.5倍とのことだから、450個。連盟職員も、チョコの処分に追われたはず。というか大師匠に確認したら489個って、晶とかから貰ったチョコも含めれば500個近いじゃない。本人の目にすら映らないのは気の毒だわ。そして当の本人は、50個前後だと思い込んでいる。

 

何でこんなに、師匠は自分に自信が無いのかしら?師匠の数ある謎な部分の中で、最も謎な部分かもしれないわね。単純に自己評価が低い、という感じでも無いのが不思議だわ。

 

既に将棋界のタイトルの過半数を持っていて、名人に代わる将棋界の顔になりつつある師匠。小さくて口が達者だから、その点では確かにモテないかもしれない。でも逆に、低身長なのは一部に熱狂的なファンを生んでいるし、顔も色白で残念ではないから人気がある。師匠の肌が色白なの、絶対外出時間が短いからよね。

 

そもそもツイッターで半分以上のツイートがリプライ5桁なのに人気がないとか本当に思っているのかしら?ネットでの人気が高い神鍋先生の、倍以上の人気はあるし、フォロワーの単位がMなの、芸能人でもそんなにいないわよ。

 

そんな師匠の誕生日に、結婚式場で告白したら告白返しを受けそうになったから両想いだということは確認した。でも、あまりべたべたとくっつく勇気は私にない。だから月に一度、師匠が睡眠薬を貰って泊まる日にだけ、傍にいることにした。

 

「ねえ師匠。こうやってお互いにくっつくと、温かいわね。

……本当に、何をしても起きないわね」

 

師匠が眠る前に、許可を貰って布団へ潜り込む。いつも師匠がプレイするゲームは違うけど、大体は銃で撃ち合っている。99人が戦い合うバトルロイヤルで、1位の確率が7割って異常よね?ゲームに疎い私でも分かるわ。

 

師匠は私が布団に入ると、程なくして眠る。私が来たから睡眠薬を飲んでいるなら、私は避けられているのかしら?三段リーグで戦うようになってから、普段の倍のペースで家まで来てるのに?

 

「恥ずかしいのかしら?私だって恥ずかしいのに」

 

師匠の腕を抱き枕にして、私も眠る。……いつも思うけど、木の枝のように細い腕ね。いっそのこと、身体に抱き着こうかしら?

 

「えっ?きゃっ⁉︎」

 

師匠に抱きつこうとしたら、寝惚けたのか師匠の方から抱き着かれる。もう半分覆いかぶさるような格好で、身動きがとれない。……いえ、軽いから私でも何とかなるわね。でも、もうしばらくはこのままで良いかしら?

 

私の名前は夜叉神天衣。もうすぐ小学6年生。女王のタイトルホルダーで、いつか師匠のタイトルを奪いに行く者。……師匠には肩を並べるまで待ってと言ったけど、実際にタイトル戦へ挑戦できるのはいつになるかしら?師匠の持つタイトル挑戦記録は、16歳と7ヵ月。

 

最年少記録を持つ九頭竜先生の記録は16歳と3ヵ月だし、最年少記録は塗り替えないと私が我慢出来ないわね。でもタイトルに挑戦するなら、まずはその九頭竜先生や名人を超えないといけない。まだプロ棋士にもなってないことを考えると、先はとても長そう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二択

バレンタインデーの翌日。朝起きると天衣が横で眠っていた。なんかぴったり張り付いて来ている。……昨日の夜、布団に入って来た時は別に密着してなかったよな?寝惚けて抱き着いて来たのか。

 

『……起きるのがいつもより早かったですね』

(睡眠薬って、常用してると効き目が薄くなるとかある?脳に作用する薬なら、普通は耐性とか出来ないだろ?)

『粉薬ですし、単に袋の中に残っただけじゃないですかね?それと、天衣に密着されて胸があるとか考えているのはキモイです』

(仕方ないだろ。くっついているんだし、まだ朝早い時間だから起こすのは躊躇うわ。天衣は今日、学校だぞ)

 

天衣が起きるまで、ゴロゴロしながら何とか天衣を起こさずにホールドを解こうとするが無理だった。……個人的には天衣が起きた時、赤面してくれたら嬉しかったけど、目をゴシゴシしてそのまま洗面所の方へ行ってしまった。地味に天衣の起床シーンは、今日初めて見たんじゃないか?

 

天衣が小学校へ行ったのを見送った後、晶さんに案内されてまだ入ったことのない部屋に入る。何かまたシリアスなことを聞かされるかと思ったら、目の前には天衣が居た。

 

……いや、人形だな。それも、今の天衣より少し大きいか。見た感じ、中学生の天衣と言う感じで、俺より僅かに背が高い。そして着ているのは、空さんが中学時代に着ていたようなセーラー服。何か妙に似合っている。

 

「どうだ大木先生!天衣お嬢様そっくりの人形だぞ!」

「……いや、本物がいるのに何で作ったんですか」

「まあまあ、大木先生はその人形の前に立って下さい」

「前?横じゃなくて?」

 

いつもの3倍増しでテンションの高い晶さんに気圧され、天衣人形の前に立つ。原作で九頭竜が天衣そっくりの人形を見た時、驚くほど精巧だと言ってたけど、本当に生きているかのような……。

 

そんなことを思った瞬間、天衣人形はにこりと笑い、ガシリと抱き着いてくる。地味に痛い。そして怖い。

 

「動いたァア!?」

「ははははは!凄いだろう!夜叉神家の総力を挙げて作った天衣お嬢様の人形を、動くようにしたのだ!」

「……これ、量産するんです?」

「量産は無理だ。天衣お嬢様は兄妹を欲しがっていたからな。天衣シスターズという名のプロジェクトで姉と妹を作っていただけだ」

 

晶さんに経緯を聞くと、まず天衣そっくりの人形を作って天衣に似合うドレスの製作に利用しようとしたらしい。だけど、お金が無駄にあったからかこの人形を動かす方向になって、実際に動くようになった頃には天衣と背格好が違っていたとか。

 

だから少し大きくなった天衣をイメージして、もう一体の人形を作製したんだな。大きい天衣人形の後ろに、隠れるようにして小さな天衣人形がいた。出合った頃の天衣は、まだこのぐらい小さかったか。それが今や、身長150センチ近いし、もう少ししたら俺を追い抜かす。

 

両方とも肌の質感とかもちもちしているし、ヤバい額のお金が投じられてそうだ。あと、2人の天衣人形がお辞儀をしたり腕を動かしたりと、派手ではないけど動いているのを見て、日本の技術の凄さと夜叉神家の狂気を感じた。いや、天衣そっくりの姉妹を人形で作るって狂気しか感じられないんだけど。でもよく考えたら晶さんとか天衣の狂信者筆頭だったわ。2人の天衣人形を見て、非常に満足しておられるし。

 

『……不気味の谷を完全に超えてますね。どこからどう見ても、天衣ですよ』

(少し大きくなった天衣、だな。来年か、再来年には見られそうだ)

 

そう言えば原作でも晶さんは天衣のアプリゲームを開発していた。名前は天衣ドルマスター(仮)だっけ?行動力のあるヤベー奴にお金を渡すとヤベーものが出来上がるという分かりやすい構図。うん、天衣のロボットを作ったのはヤベーわ。

 

なお弘天さんは天衣人形の出来に満足気な模様。絶対に天衣に見つかったら処分される……いや、分からないな。天衣の姉妹として作っているのなら、天衣もその気持ちを汲み取ってスクラップにはしないかもしれない。

 

というか、普通に抱き着いて来る人形って需要あるんじゃない?大きいお友達を中心に、量産したら売れると思う。流石に天衣そっくりの顔で売られるのは俺も嫌だが、顔だけ別のにすれば問題は無いような気がする。

 

「ちなみに、この人形は喋れないの?」

「まだ滑らかに発音出来ない上、口の動きの再現が難しいから断念した形だな。短いワードなら、録音した声で喋るぞ」

「おはよう、師匠」

「しゃべったああ!?」

 

明らかに技術が次世代へ逝ってる夜叉神家。いや、このタイプの人形なら生産している工場があることは知っているし、腕もどちらかと言うと機械的な動きだ。口は笑顔にしかならない上に声に合わせて動かないし、音声は録音のみだけど、それらを合わせて天衣人形として実現させるのがすげえよ。

 

『視線を顔から下へ移動させるな変態』

(男の性です。諦めろ。

つーか、この2体の人形を見せて晶さんはどうしたかったんだ)

「大木先生は、どちらかを貰えると言われたらどちらが欲しい?」

「いや、天衣が家に来た時にこれがあったらドン引き以外無いでしょ。これを隠せるようなスペースがうちには無いし、正直要らないです」

 

……2体いるから、1体は俺にあげようという話に持って行った晶さん。流石に持ち帰れないし、もし持ち抱えて帰ったら児童誘拐以外に何に見えるって言うんだよ。

 

ついでに言うと、天衣が家に来たら確実に見つかる。最近はゲーミング部屋への入室も制限してないし、天衣と一緒に時々ゲームをするようになったのに、急な入室拒否は怪し過ぎるわ。

 

『単に、今の天衣より幼い天衣と大人になった天衣、どちらが良いのかという質問じゃないんですか?』

(ロリか大人か、という話か?断然大人の方を選ぶし、胸はもっと盛って良いぞ)

「まあ、どちらか選べと言われたら、選ぶのは大きい方です」

「ふむ、そうか。やはり大きい方が良いか」

「……いや、本当に要りませんからね?あと、天衣に見せて怒られておいて下さい」

 

最後に大きい人形の頬をぺチぺチしてみると、シリコンのような感触で少し波打っている。そして笑顔になる天衣人形。……まあ、仮に売り出すとしたら需要はありそうだなこれ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逃亡

九頭竜が賢王戦の挑戦者決定戦を勝ち抜き、賢王戦の挑戦者となった。昨年は月光会長で、今年は九頭竜か。当然だけど、強い奴しかタイトル挑戦者にはなれない。九頭竜はその中でも、勝率が高いから挑戦者になる回数が多い。

 

今年から電脳戦は、前座として賢王戦で負けた方がソフトの大会で準優勝だったソフトと戦うことになっているので、俺の前に九頭竜がソフトと対決することになる。

 

……これ、ソフト側が大木は例外だと示したかったのかもしれないけど、九頭竜も例外になりそうだな。九頭竜の今の強さは、先手ならソフトと指しても勝てる可能性があるぐらいだろ。ソフトの大会で優勝出来なかったソフトが、九頭竜に勝ち切れるかは相当微妙だぞ。

 

そしてこのソフトの大会で、アルファゼロが逃亡した。言い訳は色々と並んでいたけど、要約すると「まだ大木に勝てると断言出来ないから回避する」というもので、アイは非常に落胆していた。ソフトの中ではアルファゼロが今のところ群を抜いている強さだし、昨年よりバージョンアップはしているだろうからアイが負ける可能性は相当あったのに回避するか。勝てる可能性が、100%じゃないと嫌なのかな。

 

でもアルファゼロが回避したことで、1強状態じゃなくなったソフトの大会は逆に盛り上がった。その中には一昨年の電脳戦で戦ったソフトがバージョンアップして帰って来ていたし、それに決勝で打ち勝ったソフトは、昨年のアルファゼロに勝ち越せるソフトだとソフト開発者は言っている。

 

……まあでも、比較対象が去年のアイに負けた去年のアルファゼロの時点でなあ。たぶん今のアイも、去年のアイと戦えば勝率7割5分ぐらいあると思うぞ?

 

『勝率8割はいかないでしょうから、そのぐらいでしょうね。アルファゼロがいないのは残念です』

(来たら来たらで負け濃厚だったし、別に良いだろ。それに他のソフトでも、俺は絶対勝てないし)

『九頭竜でも勝てるかどうか、絶妙なラインですからね。マスターでは残念ながら……』

(まあ今年は、前座の方が盛り上がりそうだな)

 

もはや九頭竜は賢王戦で敗北するのが前提でアイと話しているけど、まだ賢王戦は始まってもないです。いやでもアイが指すなら、九頭竜が勝てる可能性は万に一つも無いわ。億に一つならあるかもしれないが。

 

(3月は順位戦のクライマックスの時期だから、将棋会館全体がピリピリしてるわ)

『C級1組は九頭竜が唯一の全勝なので、昇級はほぼ確定ですね。1敗の清滝先生との同時昇級の可能性は高いです』

(C級1組は昇級2人、降級点7人だったか。ここら辺りで伸び悩む棋士も多いんだよなぁ)

『1年かけて戦って、昇級が2人だけなんですから当たり前ですよ。3人昇級出来るC級2組と比べると、差がありますね』

 

A級は10人、B級1組は13人という定員が決められており、毎年A級の下位2人とB級1組の上位2人が入れ替わっている。B級1組とB級2組の関係も同じで、2人昇級、2人降級と人数が固定されている。しかしB級2組からは制度が違っており、成績下位者は降級じゃ無くて降級点が付くようになる。B級2組と、C級1組は降級点2回で降級だ。

 

九頭竜の師匠である清滝先生は、4年前までA級に居た。それが4年連続成績下位者となり、C級1組まで落ちている。そのせいで一時は九頭竜と清滝先生の仲がヤバいことになっていたが、既に和解済みであり、今期で同時昇級を果たしそうだ。

 

……八冠になろうとしても、名人位だけはあと2年以上かかるんだよな。今季はB級2組で全勝しているし、問題なくB級1組には上がれるはずだけど、この後にB級1組で1年、A級で1年間戦った末にようやく名人へ挑む権利を得られる。だから竜王に関しては、この名人戦の直前に取りたい。

 

現在B級1組に在籍しており、B級1組で唯一全勝をしている歩夢は、今年の4月からA級で戦うだろう。来年の4月、名人戦に挑む権利が俺には無いが、歩夢にはある。……歩夢がタイトルを獲得する、唯一のチャンスかもしれないな。相手が名人位だけは死守して俺と戦いたい名人だから、どうなるかは全く分からん。

 

『三段リーグは、辛香さんに勝って16連勝した天衣がまだ昇段確定じゃない異常事態ですね』

(天衣は順位が最下位だから仕方ないだろ。まあ最終日の相手が両方とも指し分け程度の相手だし、全勝出来るでしょ)

『天衣は空さん、椚、辛香さんの3人以外の対戦相手には恵まれましたね。まあこの3人と当たることが今季では不運の象徴なのですが』

(たぶん他の三段視点、天衣に当たるのが1番の不幸だと思う)

 

順位戦と同じく、こちらも大詰めを迎えた三段リーグは、天衣が16連勝で安全圏に入っている。最も、最終日で2連敗すればまだ昇段出来ない可能性はあるが。空さんと椚は1敗で、辛香さんは2敗。この上位4人での直接対決は、第17局で空さんと椚が、第18局で空さんと辛香さんが対決予定。空さんが椚に勝って、辛香さんが空さんに勝ったら3人が仲良く2敗で並ぶ。

 

(空さんの2連勝で終われば、椚が次点か。……この4人以外は、全員4敗以下だから今季の三段リーグは地獄だな)

『4人が全員、直接対決以外ほぼ負け無しでしたからね。他の人は当然ですが、成績が落ちますよ。今季で勝ち越し延長が出来なくなった三段の人、結構居そうですね』

(この4人と当たって、勝ち越し延長を決めるとなれば残り14局を10勝4敗にしないといけないのか。辛すぎる)

 

9勝9敗という指し分けじゃ勝ち越し延長は出来ないので、この4人と当たった26歳以上の人は10勝4敗を決めないといけない。……そしてこの4人全員と当たった不運な勝ち越し延長中の人が3人も居たので、ご冥福をお祈りいたします。

 

『……今期の三段リーグからは5人が退会しますか』

(最終日の勝ち負け次第だけど、辛香さんが3位通過なら来季の三段リーグは5人ぐらい減るのか。昇段者も少ないし、こうなると来季はめっちゃ楽そう)

『11勝7敗で抜けた人もいますし、来季の昇段ラインは13勝5敗や12勝6敗とかになるんじゃないですか?』

(……空さんか椚か辛香さんか。誰が昇段出来ないかは分からないけど、勝ち星が1番多い頭ハネとして間違いなく記録として残るだろうな)

 

三段リーグの最終日はもうすぐだし、天衣の家に毎日のように行くのもそろそろ終わりだな。流石にプロ棋士になってからも、連日のように指導対局をするつもりはない。まあ、また三段リーグ前の頻度に戻るだけだ。……天衣の家で食べる夕食の頻度が落ちるということなので、自己管理はしっかりするか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

長い一日

盤王戦も無事歩夢をアイが蹴散らし、迎えた三段リーグの最終日。その日の対局室は、聖域とまで呼ばれる。将棋に人生を賭けた人達が、文字通り命を削って戦うからだ。なお天衣は上機嫌で対局場まで向かった。ホテルから将棋会館まで、一緒に晶さんの運転する車で移動したけど、マスコミの数がヤバい。

 

(順位戦の最後が関東での対局なのは、月光会長のはからいか)

『順位戦だけは、関東と関西で遠征の数を揃えますからね。順位戦最終日が三段リーグと重なって、マスターの遠征がある対局というのは、天衣の負担を考えてのことでしょう』

(三段リーグの組み合わせ表が発表された段階での天衣の強さを考えると、昇段ラインギリギリ想定だったんだろうな。今はもう第17局に勝った時点で昇段が決まる断トツだけど)

『空さんが昇段出来るかだけは気になりますね。死にはしないでしょうが、鬼勝負です』

 

ただまあ、夜叉神家のデカい大男達がSPのようにマスコミと天衣の間を遮断したので天衣の負担には全くならないだろう。……あの顔に傷がある筋肉量がヤバいゴリマッチョは、本当に何人か殺してそうな風格があり、怖いもの知らずのマスコミ達が後ずさりしていた。ぶっちゃけあの体型は憧れるな。俺では到底到達出来ない領域だし。

 

(SPを雇ったお嬢様って感じだな。実際は実家のヤーさんに護衛をやらせてるだけだけど)

『先制のにらみつけるで、麻痺とひるみを与えるヤーさんを複数体同時に出すのは反則ですね』

(……久々にあの広い車内が狭く感じたわ。しかしまあ、マスコミがホテルまで押しかけていたのはビビったわ。注目度の高いタイトル戦でもそうそう無いぞ)

『それだけ、女子小学生がプロ棋士になるのは世間的にも衝撃が大きいのでしょう。……残りの一枠に、誰が入ってもマスコミ的には美味しいですし』

 

「最後もキッチリ勝って、全勝で帰ってこい」

「当たり前よ。私を誰だと思ってるの?」

「ここ半年で同じ相手に1万連敗した夜叉神天衣」

「……そう、1万回も負けてたの。途中で数えるのは止めたけど、馬鹿らしい回数ね」

 

天衣と別れて、俺も俺で順位戦を戦うけど、相手は今季2勝7敗で降級点が免れない人だから俺でもノータイムで勝てそう。だけど最短手数で終わらせて、三段リーグの方を見たいからアイに任せる。

 

『流石に昼前終了は相手が考えますから無理ですよ。というか三段リーグが気になるなら、対局中に見に行けば良いのでは?』

(その手があったわ。まだ対局中の外出や携帯電話の使用がOKなのは、こういう時に便利だな)

『たぶん来年辺りで外食は禁止になるでしょうね。今年は九頭竜がソフトに勝てば、議題にも挙がらないでしょうが』

(だけど極一部の例外を除いてプロ棋士よりソフトの方が強い現状、カンニングをし出す奴はいるかもしれないな)

 

対局中、相手が長考しそうな時には離席して三段リーグの様子を見に行く。……億が一俺の対戦相手がカンニングしていたとしても、アイが圧倒的な力で勝っちゃうから気付きもしないと思う。そもそも、自分で将棋を指さないようになってまで得る勝利というのはわりと虚しい。だから俺も指す時は指すんだが、一部では俺が指していると極限デバフ状態と揶揄されるようになった。

 

……俺が指している時は疲労、睡眠不足、その他諸々のせいで俺が集中出来ていない状態だと、ファンの人達はそう認識したらしい。俺としては同一人間が指しているとは到底思えない内容の差だから、そういう認識になってくれたのは嬉しいかもな。まあ九頭竜や月光会長辺りは確実に二重人格まで気付いていると思うが。九頭竜からはそういう質問が飛んで来たこともあるし。

 

三段リーグは俺の昼食休憩中に第17局の結果が流れて来て、天衣は勝利し昇段を確定させる。そして、空さんが椚に勝利した。……個人的には順当かな、と思うけど、順当の一言では済ませられないドラマがあったんだろうな。

 

 

 

三段リーグの第17局。三段リーグの最終日であり、空気がひりついている中、一際異様な空気になっている対局が2つある。1つはもう昇段がほぼ確定的で鼻歌を歌いそうなぐらいに浮かれている夜叉神天衣の対局で、天衣は序盤で研究勝ちをしており、既に対戦相手は心が折れていた。そしてもう1つは、空銀子と椚創多の対局である。

 

「……失礼ですけど、空さんってこんなに強かったですっけ?」

「自分でも驚いているけど、伸び盛りみたい。あなた以上にね」

 

相掛かりの後手で急戦を仕掛けた椚は、途中で空の反撃を受け、守りに転じた。急戦から持久戦への方針転換は序盤中盤と空が椚を上回った証拠であり、現状は空が優勢だった。

 

「銀!?そこに、銀!?」

「咎められなければ、悪手も好手です。あなたに正解はわかりません」

 

しかし椚が角を引き、持久戦を選んだ後は、椚が鬼手を連打する。空が人生を一度やり直しても、指せないだろうと思うような手だった。それでも空は、二枚飛車を用いて椚の囲いに切り込んでいく。二枚飛車は二枚竜になり、椚の玉と2枚の金を挟んで相対した。

 

詰みがありそうな場面。空は冷静に時計を確認する。既に椚は1分将棋に入っており、対する空の持ち時間は残り4分。

 

「4分もあれば、十分ね」

 

空が小さな声で呟くと、ピクリと椚の肩が震える。この対局で負ければ、椚の昇段は無くなる。空が1敗、辛香と椚が2敗となり順位は3人の中で最下位になる。天衣の1位通過が確定した以上、椚の昇段は100%消えるのだ。

 

椚は、空に詰みが読み切れないだろうと読んで指した。この手の感覚を、椚は外したことがない。それでも空が残り最後の持ち時間を消費して読んでいる僅かな時間で、椚は空に追い抜かれるような錯覚を覚えた。

 

空の持ち時間が尽き、空も1分将棋に入る。その1分の30秒が過ぎた頃、空は詰みまでに必要な、最初の1手を指した。それに椚が最大限延命できる手を指すものの、空はノータイムで椚の玉を詰ましていく。最初の1手の時点で、空は詰みまで読み切っていた。詰みまで読み切ったから、詰ましに行った。

 

椚は掠れるような声で、投了の言葉を口にする。対局は空の勝利となり、椚は自身の昇段が完全に無くなった。しかし勝った空は、もう一つの鬼勝負が待っている。第18局の空の相手は現在2敗の辛香であり、お互いに昇段するためには負けられない一局となる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三段リーグ最終局

第18局が始まり、とうとう対局を頭の中から放り出して三段リーグの行方を見守るようになった俺は、空さんと辛香さんの対局に集中する。この対局は、天井カメラで中継されることになっているな。空さんと辛香さん、どちらが昇段するかは、この対局にかかっている。今までの半年間が無駄に終わるか、プロ棋士になるか、二つに一つだ。

 

『辛香さんは負けても3敗で、2敗の椚が負ければ前期順位の差で辛香さんが3位。次点2回で昇段する可能性は残っています。1位の天衣が負けても1敗止まりになる以上、1敗の空さんが負けて助かるルートはありませんけどね』

(椚は最終局の相手を見るに、取り零さないだろ。10勝7敗で、勝ち越しも決まっている中位が相手だぞ)

『あ、そろそろ相手が指すと思うので対局場に戻った方が良いですよ』

(あ、はい。また1手だけ戻るか)

 

対局の方は、相手が指す瞬間に戻って指すというのを繰り返している。……なんかアイさん、人読みの精度も上がって無い?FPSで置きエイムするようになってから、いつ相手が指すかを読む能力も上がっている気がする。そして相手は勝手に絶望顔になってる。いや、勝手には言い過ぎたな。局面が既にこちら勝勢だし。

 

次の指し手を指して、また外出。今度は43分という長考をアイはしてくると読んだので、しばらく余裕はあるな。中継されている空さんと辛香さんの対局は、辛香さんが振り飛車の対抗形。若干、空さんの形の方が良いかな。

 

『空さんはソフト発祥の囲いを採用している一方、辛香さんは昭和の香りがする将棋ですよ』

(もうすぐ令和になるのに、将棋が古いわ。それでも中盤や終盤は、持ち前の粘り強さで勝って来たんだろうなぁ。

あ、そうだ。令和発表日に令和の字が印字されているボトルを用意して販売するか)

『新元号がマスターのせいで令和じゃなくなる可能性が発生するので止めて下さい』

(……あー。ギリギリで回避されるかもな。最後に残っていた候補って何だったか、引っ張り出せる?)

『引っ張り出したくないのですが……英弘、久化、広至、万和、万保の5つが候補ですね。全部作る気です?』

(宣伝効果は大きそうだから、多少無理しても用意するべきだろ)

 

アイと雑談しながら将棋の行方を見ていると、空さんがカメラに映らないよう、腕を動かしたのが影で確認出来る。たぶん今、辛香さんに写真を見せているシーンだな。空さんは幼い頃、病院で辛香さんと指している。原作通りなら、その写真を見せつけて番外戦術は効かないことを空さんが言い切る場面だな。

 

ここから辛香さんは、勝ちを放棄して攻め駒に使うはずだった金銀を自陣に打ち付ける。あ、これ長くなる奴だ。……まあ今日ぐらい、持ち時間は使って良いだろ。

 

『4七歩成』

(ハイハイ。指して来ます)

『どうせすぐに同銀と指すでしょうから、5八竜と指して下さい。それで投了してくれると思います』

 

そうは思っても、アイに急かされると指しに行かざるを得ない。対局場に戻り、さっさと4七歩成と指す。ここまで慢心していると二手指しとか起きそうだけど、起きないのがアイクオリティ。アイの予想通りの同銀だったので、竜を切って王手。これは同銀の一手だけど、銀が玉から離れたことで必至がかかるのか。

 

こちらの陣地には相手の駒が一切無いし、もはやワンサイドゲームより酷い有り様だ。案の定相手は投了したので、この後は普通感想戦に移行するけど、悪手は33手目の7五銀と47手目の同角ですと伝えてさっさと去る。そろそろ、天衣の対局も終わりそうだからな。

 

そして部屋から踏み出そうとした瞬間、下から騒ぎ声が聞こえ、歓声で建物全体が揺れる。……こりゃ、天衣が全勝で三段リーグを駆け抜けたな。全勝自体は俺が既に成し遂げているから希少価値が薄れたけど、それでも女性でかつ小学生だ。マスコミが騒がないわけない。

 

下へ降りようとすると、辛香さんが「今は2人にさせてやれ」と言ってニコニコしながら若い奨励会員を追い出していた。ああ、九頭竜は対局とか無かったし、今日は東京に来てずっとスタンバイしていたのか。辛香さんは上にいる俺に気付いてないようなので、ここから見物していよう。

 

『1番頑張った天衣の元へ駆けつけなくても良いんですか?』

(たぶん今は記者会見で忙しいだろうから、近づかない方が良いだろ。あと素直にこっちを見ておきたい)

 

辛香さんが去り、残された九頭竜の元へ、近づいて行くのはフラフラしている空さん。やがて2人は抱き合って、告白とその返事をする。この感じを見るに、空さんが勝って辛香さんが落ちたか。原作でピエロとか言われてたけど、自分が落ちたのにあれほど良い笑顔が出来るのか。

 

……まさか。

 

抱き合って2人の世界に入っている九頭竜と空さんをスマホで撮ってから、足音を消して下の階へ降りる。そこで会った職員さんに話を聞き、今回の三段リーグでは3人の昇段者が出たことを教えて貰った。18勝0敗で1位通過をした天衣と、17勝1敗で2位通過を果たした空さん。そして最後に15勝3敗で3位の次点を取り、前期と合わせて次点2回で昇段となった辛香さんの3人だ。

 

『まさか本当に、椚が最終局で負けたんですか。確かに第17局で格下に見ていた相手に負けて、自力昇段どころか他力昇段まで消えて、精神的に折れてもおかしくはありませんでしたが、重症ですね』

(まあ原作でも脆い部分は見せていたけど、2期続けて15勝3敗で次点すら付かないのは不憫過ぎる。普通なら15勝3敗って、1位通過でもおかしくない成績だからな)

『主にマスターのせいですが、そこはどうお考えで?』

(……正直すまんかった。いやでも来期はもうライバル候補がいないに等しいし、流石に昇段はするだろ)

 

その後、大方の予想通り昇段者はまるで天衣と空さんの2人であるかのような写真が量産された。原作とは違い、肋骨を折って血は吐かなかった空さんは、普通に記者会見に出れたのだ。去年の女王戦の時も思ったけど、天衣と空さんのツーショットは中々様になる。

 

そして、今年の女王戦の挑戦者は祭神に決まった。17勝1敗で三段リーグを抜けた空さんを相手に、真っ向からの捌き合いで優勢を保ち続けての勝利。ぶっちゃけ三段リーグの方へ影響するかと思ったけど、空さんは三段リーグ優先の思考だったか。

 

天衣と祭神の女王戦は、どちらが勝つのか微妙だな。帝位リーグで祭神は今のところ3戦3敗だけど、相手が俺、名人、歩夢だったから仕方ない。……最新の祭神の棋譜を見る限り、A級棋士一歩手前の実力は十分にある。天衣がこれからプロ棋士の世界で通用するか、一つの指標にもなるだろう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

短距離走

賢王戦は九頭竜との七番勝負になったが、今年から持ち時間が変動することになった。まだ出来立てのタイトルだから仕方ないと言え、普通のタイトルホルダーだったら振り回されていたと思う。肝心の持ち時間は、第1局と第2局が1時間、第3局と第4局が3時間、第5局と第6局が5時間、第7局が6時間とのこと。

 

ぶっちゃけ、俺にとっては都合が良い変更なので文句は言わない。最初の4局に関しては、持ち時間が短くなっているわけだし、それだけ早く帰れるということでもある。まあスポンサーが変わり種大好きなニコニコ動画だし、こうなるのは予想出来た。

 

『持ち時間1時間は、普通のプロ棋士にとってかなり短い部類ですけどね。長時間の対局が長距離走なら、短距離走のようなものです。完全にマスターに合わせた形でしょう』

(賢王戦=俺みたいな風潮は出来ているしな。初タイトルは棋帝なんだけど、その印象が薄い)

 

賢王戦は去年から七大タイトルに加わり、八大タイトルになった。その都合上、俺の初タイトルは棋帝になる。賢王戦は将棋界で、1番歴史が浅いタイトル戦だと言っても良い。元々、電脳戦の前座として作られたようなものだからな。

 

ちなみに賢王戦はまだ永世称号の条件も定まってない。話を聞く限りだと連続5期か通算10期とのことだけど、まだ未定。ついでに来季から女流棋士代表やアマ代表も予選に参加するようで、もしかしたらここでも祭神が勝ち上がる姿は見られるかもしれない。

 

そして迎えた賢王戦の第1局と第2局の日。まず第1局は俺の先手番で始まり、持ち時間1時間ということで超早指しの対局は、俺が向飛車を採用して対抗形になった。……九頭竜は、俺が振り飛車をしているのに矢倉をするのか?平矢倉ならまだ分からないことも無いけど、何か違和感を感じる。

 

『交代です。向こうの端攻めが受からなくなりますよ』

(はあ?9筋の端攻めとか怖くないし、1筋は……)

『2四銀、3三角、3一玉で端攻め準備が出来ます。後は端攻めを開始した後、機を見て1二飛でしょうね』

(……飛車が8筋から1筋まで移動するのか。凝り固まっている視点からは見えない手だな)

 

その違和感に俺は気付けなかったので、仕方なくアイとバトンタッチ。まあ九頭竜相手に勝つのは無理ゲーだったな。A級棋士に交ざっても飛び抜けた強さだし、恐らくこの将棋も対アイのために練られた戦い方だろう。

 

というか最初、九頭竜が「弱い方か」って言ったのが凄く気になる。そんなに俺とアイの将棋は違うか?序盤なら、そう大差はないと思うんだが?

 

第1局は、交代しても九頭竜の端攻めの開始を防ぐことは出来なかったけど、その端攻めをピッタリと受けきるアイは流石だと思う。駒の損得は無いし、相手の銀と歩が駒台に乗った分は相手の銀が捌けたと言えるけど、そのために陣形を少し崩しているのだから形勢に大差はない。そしてその後、崩れた陣形を容赦なく攻めるアイさん。マジで容赦がないから九頭竜の顔が歪む歪む。

 

……もしもこの七番勝負に俺が負けたら、九頭竜三冠が誕生するんだよな。一応この人、俺と同い年だから原作の魔王呼ばわりは納得だし、何なら今も魔王呼ばわりはされている。序盤中盤終盤と、隙らしい隙が見当たらない。

 

最終的には、九頭竜の寄せを躱してキッチリと寄せたアイの勝利。賢王戦では第1局と第2局を同日に行なうけど、若干疲れが見えていた九頭竜は第2局、せっかくの先手番でミスをして中盤で崩れる。結局、九頭竜は今日2連敗した。まあ持ち時間が短いし、ミスをするのはしゃーない。俺でもしそうなミスだったし。

 

『というより高段棋士ほどミスしやすい私の罠を、指した瞬間に気付いて「しまった」って顔をするのは凄いですよ』

(あれまだ手を離してなかったから、指し直しは出来たんだよな。生中継されているから戻すことは出来なかったんだろうけど)

『そもそも、あのミスが無くても私の圧倒的勝利は揺るぎませんでした』

(はいはい、それは分かってますよ。あの時点でソフトの評価値は+600ぐらいあったしな)

 

賢王戦の第1局と第2局が行なわれた裏で、天衣の初対局が行なわれている。プロ棋士としてデビューを果たした天衣は、同時に女流棋士にもなったけど、そのせいで対局数が倍増。4月に入ってから、女流棋士としての対局しか今まで無かったけど、今日はプロ棋士として公式戦初対局の日。

 

棋帝戦の一次予選で、今はB級の棋士と対決している。

 

『これは2局目ですね。まさか公式戦初対局のすぐ後に、2局目が入るとは思いませんでしたね』

(女流棋士としての対局も詰まっているからしゃーない。というか、デビュー戦は普通に勝ってるのか)

『この対局も、勝ちそうですね。デビューから何連勝するつもりでしょうか』

(これ、デビュー以来29連勝した記録は塗り替えられる可能性ある?というか女流棋戦の対局も含めれば、塗り替えられる可能性はかなり高いんじゃ……)

『むしろ女流棋戦を含めれば、祭神との女王戦がもうすぐなので連勝出来ない可能性が高まります』

 

予定が詰まっている上、棋帝戦の一次予選の持ち時間は1時間で日に2局を行なうことも珍しいことでは無いので小学生の天衣にとっては辛いスケジュールだけど、一局目は無事に勝って2局目ももう勝ちが決まっている。これは鮮烈なデビューだな。空さんが同じ棋帝戦の一次予選で前日に負けていたので不安だったけど、天衣は2連勝か。

 

2局目が終わって、出て来た天衣は俺に向かってVサインを送り「勝ったわよ」と言う。若干、疲れ気味だな。流石に公式戦初試合で、マスコミに囲まれた中指すのは天衣でも疲れるか。……マスコミはデバフのように見えて、実のところ相手にとってのデバフにもなるから慣れれば相対的バフになる。

 

プロ棋士の数は多いけど、タイトル戦に絡んで来る棋士というのは本当に極一握りだ。その他大勢の棋士は、タイトル戦のようにマスコミが集中するような対局の経験というのがあまり無い。しかし天衣は既にタイトル戦も経験しているし、相手よりかは慣れている、という状況が多いと思う。プロ棋士になりたてのこの頃は、まだ強い相手とそんなに当たらないし。

 

……ただまあ、スケジュールが俺以上に厳しいことになりそうだな。女流棋戦の方は全部勝ち進むだろうし、対局数は凄まじいことになりそう。ある程度は、取捨選択が必要になりそうだ。そうじゃないと流石に身体壊すわ。まだプロ棋士としての序列が1番下だから、二次予選に勝ち進むと東京での対局が多くなってしまうし、色々と辛そう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

団体戦

今年から、将棋界は新たな試みを行なうようになった。その一つが団体戦の実施であり、スポンサーが選んだ12人の棋士がドラフト形式で棋士を選んで行き、3人一組のチームを作る。12組のチームは2つのリーグに分かれて、総当たりのリーグ戦を行い、上位2チームずつが決勝トーナメントへ進出するというもの。

 

「で、師匠がその1人に選ばれたというわけね。当然だけど、九頭竜先生や大師匠も選ばれているのね」

「そこら辺は、人気や実績を元に選んだそうだから当然だな。で、ウェーバー方式のドラフトだから俺が指名するのは1番最後だ」

「……レーティングでトップの師匠が1位指名する頃には、上位23人の棋士が消えるということ?それなら、B級2組以下から選ばないといけないということね」

「その上で、2位が天衣の指名で埋まっているから選ぶ棋士は慎重にしたいけど……飯盛五段は残るかなぁ」

 

選ばれたプロ棋士はタイトルホルダーから俺と九頭竜と名人、A級棋士から生石さんと於鬼頭さんと月光会長と歩夢と山刀伐さんと篠窪さんと白石さん。B級1組から小仏さんという面子。

 

小仏さんは俺と同時にB級1組へ上がった関東の若手で、俺や九頭竜から見たら10歳年上だ。これでもまだ棋士として若い方なんだけど、近年の若者の人間離れが著しいせいで目立って無い。

 

残りの一枠は、他のA級棋士よりか話題性重視で釈迦堂さんかな。特別枠ということで、まだ誰が来るかは分からないけど、たぶん知名度のある人が来るだろう。

 

今年、C級2組からC級1組へ昇級した4人の中には飯盛さんや二ツ塚さんの姿があった。恐らくB級2組とC級の中から1位を選ぶことになるけど、九頭竜共々頭を悩ませている。あ、九頭竜は無事に全勝でB級2組へ昇級しました。清滝先生も昇級したので、師弟揃っての昇級だな。

 

……レーティングで並んだ時、九頭竜はもう名人を抜かしているから最後から2番目の指名になる。何で重複抽選にしなかったし。そっちの方が絶対に盛り上がるのに。

 

まあ1強状態になりつつある将棋界で、団体戦が流行するのは良い事だ。……B級1組やB級2組の強い人は全員取られるだろうし、マジで飯盛さん指名が実現しそう。あの人、結構強いし来年にはB級2組まで上がるでしょ。それ以降は知らんけど。

 

『天衣と空さんの指名はマスターと九頭竜に任されましたが、これはかなり幸運でしたね。下手なB級2組の棋士を指名するよりも、よっぽど安全な指名になります』

(だよな。あとチーム九頭竜は、B級1組の棋士がほぼ全滅しそうなことを考えると清滝先生と空さんになりそう)

『昨年四段になったとはいえ、新人王にもなった鏡洲さんは指名されると思いますよ』

(というか、現役プロ棋士から36人も選ぶなら鏡洲さんや坂梨さんも入らないと結構キツイ)

 

前期の三段リーグで昇段を果たし、プロデビューした鏡洲さんとかも、指名の候補には上がって来る。どのチームも順位戦で負け越している人より、調子の良い人や若くて勢いのある人を選びたいだろう。考えれば考えるほど、チーム構成は悩ましいな。

 

「……私は2位指名まで残っているの?」

「その点は大丈夫。九頭竜の2位指名空さんと、俺の2位指名天衣はスポンサーから指示があったから」

「ドラフトなのに、出来レースなのね」

「まあチーム毎に特色を出したいというのは分かるし、人気のある師弟や兄妹弟子のペアを固めるのはしょうがないわ」

 

ドラフトは5月に行なわれて、6月の名人戦が終わった時期にリーグ戦がスタートする模様。竜王戦の前には決勝戦かな。随分と強行スケジュールだけど、優勝チームに1億という賞金を用意されたなら将棋界も大慌てで対応するわ。なお準優勝のチームには2000万円で、3位には1000万円という金額。

 

勝者と敗者の格差が激しいのは将棋界の特徴だけど、ちょっと差が大きい。竜王戦でも、勝者は4320万円で敗者は1620万だからな。

 

「とりあえず天衣は、女王戦が終わったらこのリーグ戦に集中してくれ。たぶん先鋒は天衣にするし」

「……システム上、先鋒はチームリーダーが務めるものじゃないの?」

「だから天衣が先鋒なんだが?良かったな。将棋界の十指に入るような奴らと5回は対局出来るぞ」

 

リーグ戦は3人が順番に戦うけど、2勝した時点で勝ちなので1人目と2人目が連勝したら3人目の対局が無い。そして勝ったら1ポイント、負けたら-1ポイントなので、2連勝することが重要となる。だからどのチームも、先鋒は強い人が務めるだろう。

 

6組のチームでのリーグ戦は、総当たり戦になるから最大で10ポイントか。全部2勝1敗で勝ったチームは5ポイントで、そのチームには1勝2敗で負けたけど残りは全部2連勝だったというチームは7ポイント。こうなると順位が入れ替わるし、色々と難しいな。上位2チームに入れるかは、団体戦なので分からない。

 

「師匠が中堅を務めるの?」

「そういうこと。まあ必ず指すなら先鋒も中堅もそれほど変わらん。大将は、1位指名の人に任せることになりそうだ」

「……それ、大丈夫なの?」

「どのチームも、チームリーダーが大将を務めることは無いだろうから大丈夫じゃない?」

 

『天衣が勝てれば2連勝出来るという状態なのが、1番良いでしょうね』

(ほどよくプレッシャーがかかる状態だし、その中でA級棋士とこの段階で指せるのは良いわ。相手棋士も、お遊び企画では無く本気で勝ちに来るしな)

『山分けしても3333万円なら、竜王戦以外のタイトル戦より賞金額は大きいですからね。太っ腹です』

(賞金が大きくなればなるほど目の色を変えるのが棋士という生き物だしな。しかも今回、団体戦だから組み合わせ次第では俺や九頭竜がチームとして負ける可能性もある。そりゃ必死になるよ)

 

毎年開催するかはまだ未定だけど、早くも掲示板とかは大盛り上がりだし、ドラフトの指名予想や誰のチームが優勝するかという予想は尽きない。将棋ブームが巻き起こっている中で、全局配信するそうだし成功しそうだな。タイトル戦に出られないような棋士も、世間に認知して貰える可能性があるというのは大きいか。

 

『現役プロ棋士166人の内、36人の枠には入りたい人は多いでしょうね。来年以降も盛り上がりそうです』

(話題性重視で女流棋士チームが入って来るなら釈迦堂さん、祭神、あいというチームになるのか?組み合わせ次第では1勝ぐらいしそうなチームだな)

『C級2組の棋士には現奨励会三段より弱い人がいますし……あいも結構通用するかもしれません』

 

しかしまあ、団体戦の前は賢王戦と電脳戦があるし、名人戦が終わった時期には棋帝戦があるんだよな。五冠だからどの時期でもタイトル戦とは被るんだけど、順位戦が始まる時期に開催するからスケジュールが詰まる詰まる。……でも、イベントの予定で詰まるぐらいなら対局の予定が詰まる方が俺としては良いか。結構気楽に指せるだろうし。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトルホルダー

天衣にとって初めてとなる防衛側でのタイトル戦、女王戦が始まり、師弟揃ってのタイトル戦になった4月中旬。祭神と天衣が将棋盤を挟んで対峙しているけど、祭神はやっぱ身長高いな。天衣がちゃんと小学生に見える。

 

『天衣とマスターが並んだ写真、天衣が中学生に見えますからね。一緒に映る人の重要さがよく分かりました』

(もう弄られ過ぎて、身長のことは気にしなくなったわ)

『だったら厚底の靴を選ぶのやめましょうよ。どうせ1センチ2センチ靴で身長伸ばしたところで、160センチに届かないんですから一緒です』

(うるせえ。1センチ2センチ程度なら別に良いだろ。あと、2センチ伸びたら流石に160センチには到達するわ)

 

アイと脳内会話をしながら、関係者控室まで直行する。今回の女王戦はネット中継もあるけど、1手目を祭神が指したところで天衣が祭神に話しかけているな。何の会話をしているかまでは、音声を拾わないから分からない。

 

天衣と祭神はそのまま会話をし、天衣が2手目を指した後、突然2人が笑い出す。天衣は静かに微笑むような感じだけど、祭神は完全に大爆笑しているな。そして次の瞬間、互いに早指しが得意とはいえ、明らかにおかしなスピードで盤面が進み始める。まるで、あらかじめ決められた棋譜を辿るように。

 

 

 

「まさか、あなたが空銀子に勝って挑戦者になるとは思って無かったわ。また反則負けを言い訳にして、逃げると思っていたから」

「はぁ?逃げる?何言ってんだ、クソガキ」

「負けそうになったから、相手の駒台に駒を置いて負けたんでしょ?そうしたらたとえ同じ負けでも、才能か何かがあるかのようにファンからは見えるじゃない」

 

明らかな天衣の挑発に、祭神は顔を歪める。何が言いたいのかは分かるが、このタイミングで挑発する意図が見えなかったからだ。

 

「あれ?まさかあなた、負けた棋譜は頭の中から消してるの?おめでたい頭ね」

「……いっひひひひいいひ、そういうことかぁ!」

 

天衣の言葉と、天衣の2手目を見て、祭神は全てを察する。天衣は要するに、祭神が反則負けをした数年前のマイナビ本戦トーナメント、空対祭神の将棋を、再現しようとしているのだ。そのことを察した祭神は膝を叩いて爆笑し、天衣に向かって口を開く。

 

「そういうことなら乗ってやるよぉ。あの対局が、白髪ブスに負けたままというのも気に食わねえ」

 

それからは互いにノータイムで、空と祭神の将棋を並べていく。問題の局面に到達するまで、僅か3分。両者ともに、ノンストップで中盤の終わりまで進んだ。既に祭神が良いという状況で、祭神は反則では無く、その時集中して読んだ読み筋の一手を指す。

 

祭神は昔、空との対局で取った駒を相手の駒台に置くという反則負けをした。もしもその読み筋のように、天衣から取った駒が、天衣の駒台に置かれるような変化を辿れば、天衣の負けはほぼ確定的になる。

 

もちろん天衣も、タイトル戦の重要な初戦であることは認識している。それでもなお、このような暴挙に出たのは天衣に勝算があったからだ。

 

数手先を読んだ故に指してしまった反則負け。ということは、祭神がここからどう読んでいるのか、数手先まで天衣は分かるということになる。当然、天衣は違うルートを選択した。しかしそれに祭神は即座に反応し、ノータイムで斬り返す。

 

「数年前とはいえ、他の応手を指された時のことなんて想定しているし、憶えてるんだよ」

「ふふっ、そうよね。数年前の将棋でも、その時どう考えていたかなんて憶えているわよね」

 

祭神が優勢のまま、試合は終盤戦に入る。あまりに早い展開に、関係者は悲鳴を上げていた。この調子だと、タイトル戦がものの数十分で終わってしまう可能性が出て来たからだ。

 

 

 

互いの早指しが終わったと思ったら、祭神が反則負けをした空さんVS祭神の対局がそのまま盤上に再現された。……祭神は、馬鹿なのか。一見すると祭神が優勢に見えるし、このまま続けば祭神が勝つように見える。だけど、祭神は今日この日まで、この対局を振り返ったことすら無いだろ。祭神が反則負けで負けた対局を、掘り下げて研究するような性格だとは考え辛い。

 

一方で天衣は今年に入ってから祭神のことをよく調べていたし、元々この対局のことは知っていた。まあ有名な事件だし、女流棋士を目指すつもりだった天衣が知っていて不思議ではない。……今日この日まで、十分に考えて検討をしたからこそ、天衣は祭神相手に仕掛けたんだ。天衣が使った持ち時間は、3ヵ月ってところかな。

 

『天衣はタイトル戦のことをよく分かっていますね。1戦目で相手の心を折りに行ってます』

(普通に指せば、3局指して3局とも負ける可能性すらある互角の相手だ。それを挑発で1戦目をものにして、そのまま心を折ってしまえばストレート勝ちすら出来ると考えて仕掛けた天衣は立派だ)

『勝てるかどうかは、疑わないんですね』

(天衣が何ヵ月前から用意していたか分からないけど、負う必要のないリスクは背負わない性格だろ。つまりこの局面まで進行した時点で、100%天衣の勝ちだよ)

 

祭神がどんな鬼手を指しても、想定済みだと言わんばかりに自信満々な顔で斬り返す天衣。乗った祭神の気持ちも分からなくはないけど、反則負けで勝った将棋を落としたと思ったら、実は勝負でも負けていたって展開は刺さる人には刺さるだろう。空さんが続きを指すなら勝っていただろうけど、今は天衣が相手なんだよなあ。

 

……いや、空さんも持ち時間が年単位であったら勝てるか。研究家気質な将棋指しは、特定盤面からの研究が大好物でもある。最後、天衣が祭神の玉を詰ましにかかると、信じられないものを見ているかのような顔になる祭神。対局終了後、僅かに口を動かした祭神に、天衣が言葉をかけたけど、これは俺でも分かったな。

 

『努力不足ね、ですか。天衣も言うようになりましたね』

(完全に心を折りに行ったな。……祭神が折れたようには見えなかったけど、残りの対局で、この敗戦は間違いなく引きずる)

 

盤面を掴んだまま離さない祭神は、心が折れたようには見えない。でもまあ、この対局を引きずるのは確定的だ。祭神相手でどうなるかと思ったけど、案外ストレートで防衛は期待出来そう。そして対局が1時間弱で終わったことに、スポンサーが悲鳴を上げた。あれ?こういうのは空さんがタイトルホルダーだった時もよくあることだったんじゃ?

 

……いや、両者が持ち時間を使わなかったのはこれが初めてなのか。この対局が、タイトル戦史上最短の決着だった可能性もあるな。後で調べておこうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

前座

賢王戦は第3局と第4局でアイが九頭竜をフルボッコにし、結局4連勝で賢王を防衛。やっぱり持ち時間の変更は慎重にした方が良かったという声が散見されたし、実際持ち時間的にも九頭竜は不利を受けていた。

 

まあ、持ち時間が3時間はタイトル戦だと短いしな。今後は1時間、3時間、5時間の対局をどこに配置するか、タイトル保持者と挑戦者が交互に決めて行くことになった。そっちの方が、良い感じはするな。

 

天衣と祭神の1時間決着は、調べてみると何番目の短さなのか、よく分からなかった。古い記録だと、体調不良ですぐに投了とか色々とあるようだ。まあ公式戦でも初手3四歩で負ける人がいるし、珍記録はいっぱいあるわな。

 

女王戦の第2局はあっさり天衣が作戦勝ちをし、既に祭神相手にリーチをかけている。祭神自身は女流帝位戦で女流三冠になったあいに第2局で負けて1勝1敗になったり、帝位リーグで4敗目を喫するなど、調子が芳しくない。まあ大体は、天衣のせいなんだが。

 

『女流名跡、女流玉将、山城桜花の三冠って、あいも相当無理していますね』

(今年から天衣と空が女流棋戦に参戦するから、あいは防衛が辛いだろうな。女流帝位を奪取しての女流四冠は、祭神が不調のままだと普通にありえるけど、それ以降は苦しくなりそう)

 

あいはあいで女流のタイトルを独占する勢いだけど、今年の女王戦で勝ち進めなかった以上、女流タイトルの独占は厳しい。女流は女流で、空銀子1強体制から移行して群雄割拠の時代になっている。空銀子、夜叉神天衣、雛鶴あい、祭神雷の4人に引っ張り上げられる形で、女流全体のレベルが上がっているような感じすらするな。

 

そのあいの師匠である九頭竜は、電脳戦の前座として、ソフトの大会で準優勝したソフトと対戦するけど現在劣勢。評価値は、先手九頭竜が-200だな。中盤の山場まで来て、大差がないというのは頑張っている方か。

 

一応このソフトは改良前、非公式とはいえ生石さんが玉将だった頃に負けている。その頃から改良を重ねられた結果、今年のソフトの大会で準優勝はしたけど、九頭竜なら付け入る隙はあるんじゃないか?

 

『九頭竜は上手いですね。千日手に誘導してます。作戦通りですか』

(先手で千日手狙い?ああ、なるほど。ソフトは千日手が出来ないんだったな。千日手を回避するのが絶対命令になっちゃっているから、多少無理筋でも千日手になりそうなら回避するんだ)

『この状況から、千日手を回避したら九頭竜の付け入る隙が出来るのはマスターも分かります?』

(すまん、全然わからん。……ああ、銀を捨てて角道を通すのか。ギリ分かった)

 

そしてその付け入る隙を、ソフト自らが曝け出す。ソフトの大会で、高レベルなソフト対ソフトの対局が増えた結果、千日手が急増。千日手だらけでは将棋にならないということで、千日手にはならないようソフトは千日手を回避するというルールが出来た。

 

それを九頭竜が利用したのは分かるけど、この千日手の手順というか、ループはいつから用意していたんだよ。案の定、ループから脱して不利な形勢を受け入れたソフトは、九頭竜の攻めに耐え切れずに陣地が崩壊。ソフトらしい終盤戦で九頭竜の玉を寄せ始めるも、紙一重で躱した九頭竜の勝利。

 

……これは、初手から終局までをあらかじめ用意していた勝ち方か?ある意味、ソフトの指し手というのは読みやすい。昨今では高性能なソフトを研究用に幾つも用意している人が珍しくないし、九頭竜もその1人だ。事前準備は万全だったのだろう。

 

電脳戦の前座として、ソフト側が大木は例外と言いたいがために用意されたプロ棋士の屠殺場は、ソフト側にとって残念なことにソフトの公開処刑場となった。なおこの後でソフトの虐殺が行なわれる模様。今年のソフトは余裕ですとか言うアイさんの進化は止まらない。

 

「……分からないわね。ソフトは後手でも、千日手を回避するように動くものなの?」

「先手と後手で思考ルーチンを変えることぐらいはしていると思うが、共通して千日手は駄目という認識のはずだ。後手番で千日手狙いのソフトが急増した結果、千日手が量産されたからな」

「師匠も、ソフトに千日手狙いをされたら千日手になる?」

『千日手狙いの時点で怖くないので勝てますよ』

「……千日手狙いの時点で怖くないから、勝てるっぽい」

 

今日は俺がイベント参加日で天衣も対局があった日だけど、関西将棋会館からの帰りに天衣が俺の家に寄って電脳戦の前座の検討をし始めた。……珍しい形の将棋というか、浮き飛車対浮き飛車の戦いで千日手狙いは構想自体が気持ち悪い。

 

本当にソフトはプロ棋士より強いのか、ソフトの強さを見せつけるために始まった将棋電脳戦は、前座の段階でソフトがまだ人類を超えていないということを世間に知らしめる結果になった。実際は俺と九頭竜がおかしいだけだが、将棋にそこまで関心がない世間の人にはそんなこと分からないからな。

 

しかも2人とも、まだ18歳。未だに世間には名人の七冠独占がイメージとして強く残っている人がいるし、ソフトなんて全然だという評価になるのか。……将棋のソフトを開発してくれている人達への、ダメージは深刻そうだな。

 

『何か狙いがあるソフトの指し手というのは、特徴ある指し方になります。アルファゼロの持将棋狙いの時もそうですが、1番大きいのが勝ちを目指さなくなることですね』

(いや、相手玉を詰ますのは最優先じゃないのか?実際千日手狙いのソフトでも、勝ちが近いなら勝ちに来るだろ?)

『勝ちが近い、千日手を狙った方が良い、持将棋の方が良い……そういう判断を今のソフトがするのは難しいですよ。アルファゼロが出て来ないなら、再来年辺りまで無理でしょう』

(アルファゼロは、来年は出て来るだろ。電脳戦で勝たないまま、信用回復は無理だしな)

 

将棋ソフトの進化は目覚ましい。1年毎に確実に強くなるし弱点はどんどん消えて行く。それに今年も勝てると言うアイは、化け物としか思えない。そろそろ自称スパコンの底が見えるかと思っていたけど、見えそうで見えないのが個人的には怖い。

 

……九頭竜も今回の件でヤベー奴だと世間に認知されただろうし、今後も更に成長しそうだな。来年か再来年には、3年前のアイと互角に戦えそう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

長所

天衣と祭神の女王戦第3局が始まり、解説は空さんとあいが行なう。女流四天王揃い踏み!とかネット中継のタイトルには書かれているけど、誰だよこの構図を考え付いた奴。案の定解説の空気が凍っているというか、空さんもあいも目付きがヤバい。目の前にいる女を、殺してやろうかとマジで考えている時の目付きだ。

 

「おばさんが二冠だった頃より女流棋界のレベルが上がっていることぐらいはわかりますよね?」

「黙れ小童」

「解説の時に小童とか言っちゃ駄目ですよ。伯母さん」

「……もうすぐ私と八一は同棲する予定だから、出て行ってくれる?雛鶴さん?」

 

天衣と同じく小学6年生になったあいは、こちらも若干背が伸びて長い髪がより長くなった。……もしかしなくても、あいにも身長は負けるだろうな。そして空さんとあいの煽り合いが止まらない。さっさと解説しろや。

 

『天衣も空さんも、解説をする側になりましたから女流棋士と組むことは多くなるでしょうね』

(画面が女性2人になるわけだから、男がいるよりも圧倒的に華やかだな。……この2人以外の組み合わせなら、大体何とかなるんじゃないか?)

『よりによって、1番組み合わせたら駄目な組み合わせをしましたから空気が冷え切ってます』

(どちらも、九頭竜Loveなのは隠さなくなったな。この喧嘩で、1番ダメージを負うのは九頭竜か)

 

女同士の争いをしながら、天衣対祭神の対局も少しずつ解説していく2人。……祭神があれほどギラついた眼をして、将棋を指しているのはいつ以来だよ。A級棋士相手の時に本気を見せろよ。天衣の連勝記録が途切れるだろ。

 

しかし祭神の本気度とは裏腹に、将棋は天衣優勢でどんどん形勢が天衣側に傾いていく。それを解説する空さんとあいは、祭神の将棋に疑問を持っているな。この勝負は、天衣の勝ちか。プロ棋士デビュー以降の連勝は続いて、今日で12に伸ばした。

 

『というかマスターはそろそろ世間を弄ぶの止めません?29連勝、30連勝、31連勝と1勝ずつ増やすのは私が考えていたよりも反感が大きいのですが』

(キリの良いところで負けて良い対局が来るから仕方ない。あと小刻みに増やした方が、次に記録を塗り替える時楽だろ。全部の対局を勝つと対局数がヤバいことになるし、獲得しに行くタイトル戦以外は適度に手を抜くぞ)

 

現在の記録は32連勝だけど、天衣が一気に抜く可能性はわりとある。ただ、女流棋戦での対局を含んでの連勝記録になるから参考記録になる可能性も高い。……プロ棋士側の対局だけで32連勝は、難しいってレベルじゃないんだよな。確実にA級棋士との対決が間に挟まるし、まだデビューしたての天衣でも、連勝して行けば九頭竜と当たる可能性すらある。

 

女流棋士4人の力関係を並べると天衣、空、祭神、あいの順だと思うけど自信は無いな。特に祭神は今回のように、事前研究をしてくると素の実力以上の力が発揮できない。どんな局面だろうが対応してくる力と常識外れな手を連発して筋にしていくところが強みなのに、天衣に言われて馬鹿正直に努力するのは長所を捨てている。天衣はこうなることを読んで、第1局で仕掛けたのか。

 

『ぶっ飛んだ手を強引に成立させるから強いのであって、それが無ければ普通の女流タイトル保持者と変わりません』

(そこに、周囲の人間は才能を感じたわけだしな。……万が一、祭神を俺が育てることになっていたら、ひたすら長手数の詰将棋をさせていたな)

『祭神の性格的に、それが1番でしょうね。本人は嫌がりそうですが』

 

祭神は、今日の試合までひたすらスポーツでもやって頭を空っぽにしておいた方がマシだったかもしれない。最後は天衣が上達した終盤力を披露して、祭神の玉を詰め切る。詰め切る必要がない時は基本的に俗手で寄せていたから、三段リーグを通じて大きく成長した部分だな。

 

これで天衣は女王を防衛し、女流棋界はタイトル保持者が4人いるという状況は変わらない。だけど女流帝位戦の方で祭神があいに負ければ3人になるし、これからは天衣が女流タイトルを獲得していくからいずれは天衣1人になるだろうな。

 

……下手にイベントを入れられるより、女流棋戦の対局を入れる方が天衣にとっては楽そう。まだ義務教育期間中だし、俺よりかは楽なスケジュールに調整はされる予定。天衣自身も、女流棋戦の対局は負担になってないようだしな。気を抜いて負けるということもあり得そうだけど、普通の女流棋士とは実力差が付き過ぎているのも現状。

 

あ、団体戦の件で女流棋士を指名して良いか聞いたら「釈迦堂さんと祭神さんと雛鶴さんは勘弁して下さい」との返答が来た。もはや答え合わせじゃねーか。あと、女流棋士から釈迦堂さんと祭神とあいを除いたらプロ棋士と将棋が出来そうなのは月夜見坂さんと供御飯さんぐらいしかいない。そしてこの2人も将棋が出来るだけであって、プロ棋士に勝つことはまず不可能だ。

 

『女流棋士チームは、チームとしては全敗するでしょうが局所局所で勝つことはあるでしょうね』

(祭神とあいが強いからな。祭神は今後どうなるか不明だけど、あいの方は化け物染みた終盤力のせいでプロ棋士相手でも食える)

『中盤の捻じり合いでは、祭神とあいなら祭神の方が上でしたが……今ではどちらが上なのか分からないです』

(天衣は、考えていたよりも馬鹿デカい爪痕を祭神に残したな。……祭神の今後は、少し面白そうだ)

 

原作ではかなりのエゴイストキャラとして描かれていた祭神だけど、たぶんエゴイストとしては俺の方が数段上の自覚と自信があるわ。

 

「弱い奴らと指していると、生きながら腐っていくのが分かる」

 

そう言う祭神の主張は、ぶっちゃけ間違っていない。双子で棋力も同じ中級者2人を、片方は下級者の集いに、もう片方は有段者の集いに参加させて1年も経過すれば、2人の棋力に雲泥の差が生まれるだろうと俺は考えている。たとえどちらも同じ対局数、勉強時間だとしてもれっきとした差は生まれるだろう。

 

……似たような経験が、俺にはあるからだ。

 

これで女王戦は終わって、これからは将棋電脳戦と団体戦のドラフトか。ドラフトの方は、宣伝が上手く行ったみたいで随分と世間からの注目を集めている。まあ歴史の長い将棋界で、初の試みではあるし、九頭竜がソフトに勝ったのも大きい。

 

ドラフト会議の後、どちらのリーグに入るかの抽選も行なうようなので掲示板とかはかなり盛り上がりそうだ。組み合わせ次第では、天衣と1位指名の人が負けてチームとして全敗することもあり得るんだよな。まあ今の天衣を見ていると、A級棋士が相手でも倒しそうな雰囲気はあるけど……それでも、各チームリーダー相手はまだ勝てない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二手差

今年も電脳戦の季節がやって来て、今年の電脳戦の第1局は将棋の街、山形県の天童市にある温泉で行なわれる。大阪から山形まで移動するのは普通に辛い。新幹線で片道5時間はわりと拷問。タイトル戦が増えたらこういうことも増えるし、海外でのタイトル戦も最近は多いから移動時間が辛い。

 

(飛行機使った方が良かったなこれ)

『新幹線よりも、飛行機の方が断然速いですからね。大阪から東北は遠いです』

「……私は別に、晶の運転する車でも良かったのだけど」

「車だと北陸道をかっ飛ばしても8時間はかかるぞ。いやまあ運転しないなら横になれる分は車の方が良いけど」

 

飛行機や新幹線で移動する対局者には、ビジネスクラスやグリーン車が用意されるけどその他関係者は普通の席というのが多い。でも今回はもう1人分のグリーン車のチケットが用意されていたので、天衣を誘って移動した。なお前後の席には夜叉神家の人間が普通に陣取っていた模様。ついてきていた晶さんが何も言わずにすんなりと前の席に座ったのはわりと怖かった。

 

そんな移動を経て着いた将棋の街こと天童市は、至る所で将棋の駒が飾られており、人間将棋が行なわれる事でも有名だ。特産品である将棋の駒は、一般人にとって信じられない高値のものもあるけど、安くて質の良い駒も多く売っている。

 

「今日は、お仕事もあるのよね?」

「飾り駒に掘る字を提出するだけだけどな。せっかくだから『天』にしたわ」

 

また、天童市は指すための駒だけじゃなくて飾るための駒も作っている。売り上げ的にはこっちも本命だ。街の将棋道場とかに行くと、大きな駒の置物があると思うけど、大体はここで作られている。飾り駒に書いてある字は玉将や馬を逆さまにした左馬が多いけど、プロ棋士の書く字を掘って売ることもある。

 

俺が書いた字もそのまま掘ってくれるようなので、極力丁寧に書いた紙を提出。……1つ1万円ぐらいになる予定だけど、どういった層が買うんだろうな?天衣は父親の駒のことが頭をよぎったのか、掘っている職人さんの姿を神妙な顔で見つめている。

 

「……人の字が、そのまま駒になるのは凄いことだと思うわ」

「そのまま駒にすることが、職人の凄さでもあるし、技でもある。……自分の書いた字が駒になって販売されるのは、かなり恥ずかしいけどな」

「扇子や署名とは違うの?」

「より後世に残りやすいだろ。まあ、気持ちの問題だよ」

 

昨今は職人の減少や出荷額の減少が問題視されていたけど、ふるさと納税で好きな文字が書かれた駒をキーホルダーとして貰えるようになってから、斜陽という感じがしない程度には明るい。ついでとばかりに天衣と書かれた駒のキーホルダーを作って貰ったけど、結構喜んでいたのでこういう所は天衣の子供っぽい所だと思う。

 

 

 

そして天童市の観光が終わった次の日、電脳戦でソフトとの一騎打ちが始まる。アイの先手番で始まった将棋は、後手のソフトがゴキゲン中飛車を採用する展開になった。最近のソフトはもうゴキゲン中飛車なんて評価してないと思っていたけど、このソフトはかなり風変わりというか、人間に近い。

 

『……3六歩』

(お?超速3七銀するの?)

『これが今のところ1番速いんですから、そりゃ指しますよ』

(へー。……何か人類の可能性を見た気がした)

『まだ序盤なんですから、人類の考えと一致するのも当然出てきます』

 

その後は中飛車に対して居飛車のアイは6六銀と4六銀という二枚銀の形を作り、飛車先の歩を突いて攻めを開始する。たぶん、アイの頭の中では既に優勢なんだろうな。まだ俺には互角に見えるけど。この口調の軽さは結構なリードを既にしている。

 

『2二歩』

(銀を捨てるのか?)

『桂馬取ってと金が出来るなら、銀なんて捨てて良いって分かりません?というか捨ててませんよ。交換ですから』

(歩の打ち込みは後でも出来そうだし、俺なら黙って引いてるなぁ)

 

アイが敵陣に歩の打ち込みをし、一気に攻め合いが始まる。銀を歩で取り込む今年の最強ソフトは、桂馬を取られてと金を作られる。でもこのと金は相手玉から遠いし攻めにも参加出来無さそうだから、活用は難しいな。

 

順当にリードを広げていくアイは、ついに相手玉を丸裸にする。……こちらは開戦時から形が変わったとはいえ、金銀三枚が玉の傍にあることを考えると雲泥の差だな。最終的に、二手差で勝ったアイは余裕の勝利でしたと対局を振り返る。マジで余裕の勝利だから怖い。

 

『この分だと、後手番でも問題無いでしょうね』

(ソフトによっては中盤まで評価値が互角だったけど、アイ的には今日の将棋はどうだったんだ?)

『序盤からずっと階段状に良くなって行った感じですけど?というか、そういう評価をしているソフトもあるじゃないですか。何でこっちが優勝しなかったんです?』

(正しい評価が出来ることと、強い手を指せることはイコールじゃないだろ。今回たまたま正しい評価になっただけかもしれないし)

 

第1局を勝ったアイは、第2局も問題ないと言い切る。何か今回のソフト、対ソフトには強そうだけど対人はそこまで強そうじゃないな。俺が指したら負けていたと思うけど、良い勝負は出来てそう。

 

今回の消費持ち時間は、僅か3分。今回の将棋で1番悩んでいたのが、5六歩と仕掛けられた時に取るか取らないかだったけど、どちらが最短経路か考えていたんだろうな。

 

『次の対局場は愛媛の松山ですね』

(道後温泉の大和屋本店だっけ?また移動に時間がかかりそうな……)

『四国には新幹線もありませんし、大阪からなら船も手段の一つですね』

(海上はネット繋がらないから論外。晶さんに連れてって貰うのが1番だな)

 

対局が終わった後は、天衣と一緒に将棋資料館を巡る。将棋好きなら一度は見てみたいと思う観光スポットではあるけど、見るもの見たらおしまいなので電車が来るまでの間の時間潰しみたいなものだな。

 

「……お土産に普通の駒より少し大きな駒のキーホルダーって、欲しいかしら?」

「将棋を少し知っている、ぐらいの人なら欲しがるんじゃないかな。リーズナブルだし」

 

その将棋資料館の横にはお土産コーナーもあり、名人の文字が書かれた巨大駒も売られていた。……この横に、俺の文字の駒が並ぶのかな?将棋ブームということもあり、巨大駒の売れ行きもここ数年より上がっているみたいだし、売れると良いな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ドラフト会議

ドラフトは、英語で徴兵の意味もある言葉だ。5月の中旬。電脳戦の第1局で圧勝した俺は、チームリーダーとしてドラフト会議に挑む。今年は、チームリーダーの実績で仮順位を付けているので俺の1巡目の指名は1番最後になる。なお2巡目は天衣で固定されているから1番先に指名出来る権利が潰れているに等しい。

 

……天衣は実力を考えたら1位指名する人が出て来るかもしれないし、2位指名が固定なのは気持ちが楽だ。誰かに取られる心配も無いしな。しかしまあ、プロ棋士のトップにいる12人が集うと威圧感が凄い。たぶん今頃画面の向こう側の視聴者達は、お祭り騒ぎなんだろうなぁ。

 

「チーム月光。清滝九段」

 

今のチーム名は仮のチーム名で、チームメンバーが決まったらまず最初にチーム名を決めることになる。このままチーム○○で提出しそうな人は何人かいるけど、うちはよく考えてから提出しようか。

 

九頭竜は1位で清滝先生を指名する予定だったようだけど、月光会長に取られる。清滝先生は5年前まではA級で戦っていた棋士だし、ようやく復調して来たB級2組のベテランだから取りに行く人はいるよね。幾ら過去でも、A級棋士の総当たり戦で1位になったことが2回もあるというのは無視できない実績だし。

 

「チーム生石。久瑠野七段」

 

何より月光会長と清滝先生は兄弟弟子の関係だ。指名して来る可能性は十分あったのに、考慮してなかった九頭竜が悪い。そして師匠を取られて困惑中の九頭竜は、悩みに悩んだ末に一度対局したことのある人物を1位指名した。

 

「チーム九頭竜。二ツ塚五段」

 

……まさかの、二ツ塚未来五段を指名。他にもC級1組から若くて勢いのある人を指名しているチームがあるので、実績よりも今の実力を考慮しての指名が多いということかな。まあとにかく、俺の指名予定が指名されなくて良かった。

 

「チーム大木。飯盛五段」

 

1位指名だけ見ると、ネームバリューのある人からわりと無名の人まで、実力者が選ばれた感じ。そして2位指名になると、各チームリーダーも頭を悩ませ始めるけど、俺と九頭竜は既に決まっているから気が楽だ。

 

「チーム大木。夜叉神四段」

「チーム九頭竜。空四段」

「チーム生石。辛香四段」

「チーム月光。鏡洲四段」

 

2位指名では、今年の棋士総会で呼ばれるであろう新四段が全員指名される。鏡洲さんが指名されるのは分かるけど、辛香さんも指名されるか。一度夢破れたアマチュアがプロになったと、メディアで名の知れている人物だし、生石さんにも指名依頼が入っていたのかもしれない。そして地味に月光会長のチームの総合力がヤバい。

 

『名人は波関五段と鳩待六段ですか。関東と関西の奨励会幹事を指名したのは、何か思惑がありそうですね』

(どちらも奨励会員同士の将棋をよく見ているからか、歳のわりには若手のような冒険心ある手を指すよな)

 

名人のチームも強そうだけど、1位指名を下位の方で出来た人は強い人を指名しているから総合力が高い。生石さんが1位で指名した久瑠野さんは関西研修会幹事で、13人しかいないB級1組所属の中でも上位の存在。チームリーダーになってないのが不思議なぐらいだ。

 

11組のチームが結成された後、特別枠として釈迦堂さんが登場。空さんが出て来るまで、1人で女流棋界を支えてきた重鎮だし特別扱いは妥当。当然、指名は祭神とあいの2人。本気で優勝を目指すと宣言したけど、当の本人がC級2組で下位の棋士にも負けそうな点はネックだな。

 

『画面に映る女性が天衣と空さんだけでは少ないですからね。女性ファンが増えたとは言っても、視聴者のメインは男性ですし女性が重用されるのは仕方ないです』

(5人でも少ない気はするけど……その内3人が九頭竜Loveを隠してないとか九頭竜の命は大丈夫ですかね?)

『祭神も公衆の面前で九頭竜に告白していますし、そろそろ背中を刺されてもおかしくはないですね』

(そして当の本人はハーレムルートを真剣に考え始めているという。マジで一回刺されろ)

 

九頭竜は全員の気持ちに応えたいとかクズの極みみたいな話を俺にしていたけど、原作でも竜王の就位式で空さん、あい、天衣の3人から花束を受け取るシーンで、全員から花束を受け取っていたな。あそこまで追いつめても、報道陣のカメラの前でその選択をした九頭竜が、1人に選ぶ踏ん切りはつかないだろう。

 

空さんとは正式に付き合っているはずなのに、あいにはデレデレな時点で空さんのストレスはマッハ。プロ棋士になって夏が近づくにつれ、空さんは負ける回数も多くなって来た。……負けが込み始めたと言っても、プロ棋士になってからまだ10勝6敗と勝ち越しているから強いことは強い。うち5勝は女流棋戦の方だけど。

 

空さんが九頭竜のステージまで辿り着くには、あと数枚は壁を超えないといけない。天衣との対比をさせられることも、空さんの辛いところだな。一方の天衣は15連勝中だし。

 

『あいが女性らしくなっていくにつれ、九頭竜との内弟子生活をどうするか問題は浮上します』

(だから空さんは同棲を提案しているけど、今からあいを追い出すのは九頭竜も辛いんだろ。あいの実家が実家だし、弟子入りの経緯もあるからな)

『九頭竜はあいに胃袋を掴まれていますし……結婚を考えた時にあいの優良物件さは捨て難いのかもしれません』

(空さんと九頭竜の稼ぎなら、家政婦の1人や2人は余裕だろ。……ああ、家政婦姿をしたあいが乗り込んでいく姿まで幻視出来たわ)

 

空さんとあいの女の戦いの方は、あいを追い出せない時点であいが有利なのかもしれない。今のところ、九頭竜と空さんは長い時間を共に過ごしたアドバンテージこそあるものの、あいとの同棲生活が長くなるにつれ、そのアドバンテージは無くなっていく。

 

九頭竜の女関係は、見ていて飽きないなと思いながら今度はリーグ表のくじを引く。こっちは完全にランダムだから、偏りが出来る可能性も十分にあるな。俺が1番最初にくじを引くから、現段階でどちらの方が良いとかは無いんだが。

 

『九頭竜がこっちのリーグに入って来ましたね』

(うわ、マジか。先鋒中堅大将の組み合わせ次第では九頭竜チームには負ける可能性もあるから勘弁願いたい)

『……名人や歩夢、於鬼頭さんが向こうのリーグに入って、月光会長や生石さんはこちらのリーグですか』

(……天衣と飯盛五段が、どれだけ頑張れるかだな)

 

チームリーダーがくじを引く度に、一喜一憂する会場の面子と視聴者達。いつの間に来場者数100万人を突破したんだ。賞金もそうだけど、注目度も本当に高いな。最近、若手棋士達が指名されたいと言っていた理由が分かった気がする。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

往復ビンタ

電脳戦の第2局。会場は愛媛ということで、晶さんの運転する車に乗って移動する。今回は、天衣が解説役として呼ばれたので天衣もお仕事モードだ。なお聞き手役は女流四冠になったあい。帝位リーグにいるのに女流帝位を奪われた祭神という構図に、女流棋界も厳しい世界になって来たことを感じる。

 

「大阪から松山なら、瀬戸大橋と明石海峡大橋の2択だ。どちらが早いかは運次第だから、大木先生に任せよう」

「安全運転で、明石海峡大橋ルートでお願いします」

「……電車で行った方が早かったんじゃない?」

「電車の方が早いかもしれないけど、車の方が安いし楽だぞ。……運転手以外」

 

電車と車は、時間で比較すると今回は良い勝負するな。どちらも4時間強はかかるけど、晶さんが飛ばし気味だし3時間半で着きそう。となると、電車を利用するより今回は早かったか。

 

「次のSAで昼飯にします?」

「ああ、助かる。このまま松山まで直行は少ししんどいからな」

「晶は疲れているなら言いなさいよ。……あと徳島のSAは、うどんしかないイメージなんだけど」

「俺もうどんしかないイメージ。たぶん他にもラーメンやチャーハンぐらいはあると思うけど」

 

昼飯は徳島のうどんで済ませ、徳島自動車道を利用して愛媛の松山まで一直線。小説「坊ちゃん」でも出て来た道後温泉本館は国の重要文化財に指定されており、外見は少し威圧感があるような建物にもなっている。「千と千尋の神隠し」の舞台である油屋のモデルでもあるからな。前夜祭が終わったら、メインの温泉にも入ってみたい。

 

今回の大盤解説を行なう天衣とあいは、随分と仲良くなっており、あいは天衣にべったりくっついている。……小学生ペアが大盤解説をするけど、もしこれが普通のタイトル戦とかで深夜まで解説させていたら問題視されそうだな。プロ棋士は全員個人事業主なので、たとえ深夜での労働でも法には何ら抵触しないのだけど。

 

『今回は後手番ですが、ゴキゲン中飛車でも指しましょうか?』

(往復ビンタは流石に可哀想過ぎる気が……宣言しようか?)

『しちゃいましょう。前夜祭で戦型宣言、しちゃいましょう』

(問題は、向こうが居飛車をしてくるかどうかだけど、こちらが戦型指定したら、向こうも動きとかあるかな?)

 

「明日の対局では、ゴキゲン中飛車を指したいと思います」

「ブラフではありません。確実に、ゴキゲン中飛車を指します」

「戦型宣言の意図?面白そうだからですが?」

 

前夜祭ではゴキゲン中飛車を指すと戦型を宣言し、迎えた対局日当日。アイが大丈夫というからには100%大丈夫だと思いたいけど、一抹の不安はある。昨年、期間中のソフトのアップデート可が決まったので、今年も当然のように第1局の後、ソフトに修正が加えられた。

 

恐らく第1局のデータも入っただろうけど……だからこその、戦型指定か?ゴキゲン中飛車が、前回の対局で評価を落としただろうから、逆に利用した?アイの考えていることは何となく分かるけど、それでも戦型宣言は挑発でしかない。ソフト側は、相手の戦法を聞いて対策とか立てられないしな。

 

定刻通りに始まった電脳戦第2局は、ソフトが空気を読んで居飛車を指してくれる。5四歩と突いてから、飛車を5筋に移動させるアイの戦型はゴキゲン中飛車だ。

 

『ここから穴熊は、しなくて良いですね。5六歩』

(既にこれ、後手の方が指しやすいのか。2枚銀と2枚金の形は優秀だな)

 

銀が2枚、横に並んで攻めの形を作り、金が2枚、縦に並んで守りの形を作る。既に居飛車側が若干不利で、人間なら指し辛さを感じる形だろう。相手はソフトだからそんなの関係無いだろうけど。

 

(相手は隙を見て穴熊を組んでるけど、そんな余裕あるのかよ)

『無いですね。向こうはあると勘違いしているようですが、こちらの攻めの方が早いです』

 

アイから角交換を仕掛け、一気に盤面が加速していく。向こうは角交換後の陣形が、ちょっと悪いな。そしてアイは、そのちょっと悪いという隙を徹底的に虐めて行く。あっという間に駒得をしていき、桂得から金得になるまであっという間だった。

 

……捌いている側が駒得するとか、アイを押さえる方法が分からんな。終盤に入ると盤面では既に大差となっており、アイの勝ちは確定的だった。

 

しかし大差があるものの、ソフトはそれでも歩を何枚も叩きつけてこちらの陣形を乱してくる。……このソフト特有の終盤力は、何度見ても恐ろしいな。特にこのソフトは、終盤力が売りだ。純粋な詰将棋は当然得意として、攻めが一見すると無いような状態からでも一気に詰め寄って来る。

 

歩の連打と成り捨てが続いた結果、アイの陣形は一手差まで詰め寄られる。あれほどの大差が、一手差か。アイが終盤戦でもたついた様子は無かったし、純粋にあそこからでもソフトは勝負を仕掛けられるということだな。まあ後手番で勝てたんだから、それで良いだろ。

 

ゴキゲン中飛車で指すことを宣言したからか、天衣もあいもスムーズに解説を出来たようだし、世間はソフトが往復ビンタを食らったと話題になっている。なお今回の電脳戦で1番話題になった写真は、勝った瞬間や小学生女子コンビの可愛らしい解説姿ではなく、負けを悟ったソフト開発陣の絶望顔の方だった。電脳戦開始前の覇気は消え失せ、心なしか少し痩せたようにも見える。一応負けても対局料は出るし、美味しいものでも食べて下さい。

 

「今日は観光してから帰るの?」

「四国まで来るのは初めてだし、対局が終わるのは早かったからな。と言っても何もないところだけど」

「松山城でも見に行く?」

「あー、最終入場16時半なら間に合うな。見に行くか」

 

松山を少しだけ観光した後は、晶さんが運転する車に乗って大阪まで帰る。四国の高速道路を、100キロ以上の速度で爆走する晶さん。……やっぱり、車は欲しいかな。余裕が出来たら免許は取りに行くか。

 

帰りは高松自動車道から瀬戸大橋を利用して帰ったけど、微妙に遠回りしている感じはする。うつらうつらとしている天衣が、そのまま肩に寄りかかって来たけど、寝顔を至近距離で見ると嫌でもドキッとするな。

 

『まだ天衣はJSですし、JCになったら手を出して良いということではありませんからね?』

(分かっとるわ。……だけどまあ、2年と半年で随分と成長したなって)

『小学生後半という人が1番成長する時期なんですから当たり前でしょう。マスターはこの時期から夜更かし三昧でしたね』

(誰のせいだと思っているんだ。別に後悔はしてないけど)

 

すやすや寝ている天衣は、途中からにへらと笑っているから良い夢でも見ているんだろう。こうして見ると、本当に美少女だな。そして晶さんは運転に集中して下さい。100キロオーバーの速度を出してて、ちらちら後ろを見て来るのはぶっちゃけ怖いです。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人類対ソフト

電脳戦の第2局で、大木は戦型をゴキゲン中飛車にすると宣言をした。第1局で圧勝し、余裕を見せた大木の発言により、掲示板は大いに盛り上がる。

 

 

 

【人類代表?対ソフト代表】2019年度将棋電脳戦スレ part16【大木晴雄】

 

654:名無し棋士

第2局ハジマタ

 

655:名無し棋士

戦型予告って大木にメリットあるの?

 

656:名無し棋士

初心者だからソフトの強さがイマイチ分からん

 

657:名無し棋士

>>656

人間がタンクローリーと相撲するようなもの

 

658:名無し棋士

>>656

チーターと100メートル走するようなもの

 

659:名無し棋士

例えが酷いのに的確で笑う

 

660:名無し棋士

マジか……マジでゴキ中するのか……

 

661:名無し棋士

大木の対局前インタビュー内容

 

◆将棋電脳戦第2局前夜祭(5月18日)

 

 将棋電脳戦第1局で大木五冠(18)はソフトを相手に103手で勝利。3年前から続く電脳戦での人類とソフトとの因縁の対決は、今年も人類の勝利となるか。

 

 注目を集める電脳戦第2局の前夜祭では、大木五冠が対局前日に戦型をゴキゲン中飛車にすると宣言した。第1局でソフト側が指し、大木五冠に負けた戦法であり、もしもこれで大木五冠が勝利すれば、残念ながらソフトは人類にまだまだ敵わないことへの証明となるだろう。

 

 ▼大木五冠(戦型宣言の意図について)「相手は私の言動を聞いて戦型を変えることが出来ないので、大した問題ではないと思います。当然、ブラフではありません。ゴキゲン中飛車はまだまだ奥が深く、未知の領域も沢山あるので、ソフトがそこまで足を踏み入れられるかが勝負の境目になりそうです」

 

662:名無し棋士

要約:往復ビンタするわwww

 

663:名無し棋士

第1局でこちらが使って負けた戦法を、相手が第2局で使って負けるのが「往復ビンタを食らう」だっけ?

 

664:名無し棋士

インタビュー記事は大木の言葉を抜粋せずそのまま載せたな

 

665:名無し棋士

笑っとる場合か

 

666:名無し棋士

Wあいちゃん可愛い

 

667:名無し棋士

ソフトを上から目線で見下せるのって大木ぐらいだよな

 

668:名無し棋士

惚れたから掘らせて欲しい

 

669:名無し棋士

何で大木って男人気もあるん?

 

670:名無し棋士

小っちゃくて可愛いからって見た

実際に可愛いかは疑問

 

671:名無し棋士

>>667

九頭竜もソフトが千日手を選んでたら指し直しで負けただろうしな

 

672:名無し棋士

今回の電脳戦って人間に近づきたいAI対AIに近づきたい人間って感じがする

 

673:名無し棋士

その構図は去年からそうだったぞ

 

674:名無し棋士

>>672

どっちがAIなんだ……

 

 

 

781:名無し棋士

相変わらず序盤のペースがおかしい

 

782:名無し棋士

大木もソフトもノータイムペースだ

 

783:名無し棋士

早さには慣れろ

 

784:名無し棋士

天衣ちゃんとあいちゃんってどっちが強いの?

 

785:名無し棋士

>>784

プロ棋士と女流棋士の違いを勉強しておいで

 

786:名無し棋士

>>784

天衣ちゃん一択

大木ロボの愛弟子だぞ

 

787:名無し棋士

それを言ったらあいちゃんも竜王の愛弟子なんだよなあ

 

788:名無し棋士

穴熊か開戦かで主張し合うの可愛い

 

789:名無し棋士

ここで意見が分かれるのはスタイルの違い

 

790:名無し棋士

あいちゃんの方が守備寄りのスタイルだよね

 

791:名無し棋士

天衣ちゃん当たり

 

792:名無し棋士

さす弟子

 

793:名無し棋士

性格分かれるよなぁ

 

794:名無し棋士

勝負事だから当然勝つことにこだわる人は多い。

そのために取る手段はバラバラなのが面白い。

 

795:名無し棋士

もう大木有利か?

 

796:名無し棋士

??「いくら強くても、わしは今の将棋を面白くないと思うよ」

 

797:名無し棋士

>>796

おは日本将棋連盟関西本部総裁

 

798:名無し棋士

人間になりたいAIとAIになりたい人間の将棋とか面白くならないはずが無いんだな

 

799:名無し棋士

 

800:名無し棋士

角引いてどうするの

 

801:名無し棋士

解説役が2人とも黙ったぞ

 

802:名無し棋士

序盤なんてどう指しても勝てると言った大木の真骨頂だな

 

803:名無し棋士

きょとんとした顔も可愛いです天衣お嬢様ぁぁあああ

 

804:名無し棋士

ソフトの評価値は下がった

……大木がソフトの上を行ってるからソフトの評価値が正しいものだと思えないな

 

805:名無し棋士

ソフトの評価値が一旦下がり、一手も進んでないのに何故か上がって行く大木の対局ではよくある光景

 

806:名無し棋士

深く読むと大木の方が優勢になるんだろうな

未だにソフト側が大木に追い付いてないのは怖いわ

 

807:名無し棋士

Sリーグの方は大木以外の2人から勝つための読み合いになるだろうな

 

 

 

中盤で、大木は3三にある角を4二へ引く。この1手を境にしてより激しい攻め合いが開始されるが、どう見てもソフトの攻めは限定された、大木に誘導された攻めだった。ソフトが大木の用意したレールに乗らされたまま、一方の大木は中央突破に成功する。ソフト視点では銀に出られ、桂に跳ねられ、相手の駒が全部捌ける展開となった。

 

「これは、潰れてます。大木先生の恐ろしい手順により、逆転のスベもありません」

「……夜叉神先生、ここへの歩の打ち込みは、どうでしょうか?」

「歩……?あ、ソフト側が指したようです。先手、6三歩です!?」

 

しかしソフト側も、大木の陣地に歩を打ち込んでとっかかりがないところから攻め筋を創り出す。それはあいが天衣に聞いていた手順であり、あいの異質な終盤力を誇示する結果となった。

 

「成り捨てて、歩を並べて、再度歩を打ち込む……でも、1手差で師匠には届かないわ」

「天ちゃん、大木先生」

「ぅあ、大木先生の玉までは届きませんね。1手差で届きません。大木先生の勝ちです」

 

あいから小声でミスを指摘された天衣は、慌てて師匠呼びを訂正して大木先生と言い直す。2人は大きな将棋盤の駒をペタペタと張り替え、詰みまでの手順を示した。人間同士の対決であれば、2人が示した手順で合っていただろう。

 

しかしながら、ソフトは最後で思い出王手を連発する。明らかに無駄なのに、一手でも多く指すために延命を続ける。それを大木は最短手順で詰ませて、結局1手差での勝利となった。

 

ソフトの終盤力は、元々群を抜いて強い。特に詰将棋は得意であり、詰む場面ならそれを逃さない。それでも大木が勝てていたのは、そのソフトの終盤力を発揮させないようにしていたからに他ならない。しかし今日の対局で、大木の封じ込めは失敗したように天衣は見えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

チーム名

「くそっ、届かないかぁ」

「……師匠、私は先に逝くわね」

 

団体戦が始まる前日。夜叉神家に行き、俺と天衣は隣同士、横に並んで座る。将棋盤を挟んで向かい側の席は、両方とも空席。俺と天衣は、アイを相手に連戦を重ねていた。そして先に負けた天衣が盤面を崩して突っ伏す。

 

『まだギリギリマスターの方が強いですね。マスターの下振れと天衣の上振れが一致した時、天衣に勝ちの目が出て来るぐらいです』

(なお3割の確率でミスをするから、その時は負ける模様。まあでも天衣相手に勝ち越せはするか)

『あれですね。A級棋士の壁の上に手が届いているのに身体が持ち上がらずぶら下がっている状態です』

(師弟仲良くそこら辺で今は足踏みしている感じか。天衣は団体戦の初戦で、恐らく生石さんと当たるからそこで連勝はストップするな)

 

団体戦の正式名称はSリーグと発表され、まずは6チームずつに分かれての総当たり戦がある。俺のチームがあるリーグは、俺、九頭竜、生石さん、月光会長、山刀伐さん、釈迦堂さんがリーダーの6チームが所属。

 

必然的に、もう片方のリーグは名人、歩夢、於鬼頭さん、篠窪さん、白石さん、小仏さんという面子。世間的には、こちらに下位のチームが少し偏ったかなという程度の印象らしい。

 

チーム名は散々考えた結果、大木と夜叉神から【大神】になった。飯盛さんにこれで良いか確認したら、すんなりOKを貰えてしまった。歩夢のチーム名のように中二力全開には出来なかった故の中途半端なネーミングだが、ネット上では早くも狼、ウルフズという愛称が出来ているし、提出してしまったものは仕方ない。というかチーム名【†聖騎士†】にする勇気は凄い。短剣符までがチーム名で読み方はシュヴァリエだった。

 

九頭竜のチームは【修羅雪姫】ともはや空さんに乗っ取られてるし、月光会長と清滝先生がいるチームは【炎熱の駒】とか各チームに個性があって面白い。釈迦堂さんのチームは【天空撃摧】で、格好良いけど要するに打倒天衣と空さんということかな。

 

『女流棋士にとって、正攻法でプロ棋士になった天衣と空さんの2人は高い目標ですからね』

(……このリーグ戦で、複数回勝てれば祭神もあいも、プロ棋士編入を考えるんじゃないかな)

『組み合わせ次第では勝てそうですし、複数回勝つ可能性は十分ありそうです』

 

「……何というか、不思議な感覚ね」

「まあ、2人揃って幽霊相手に負けている構図だからな」

「そうじゃなくて、たぶん師匠が負けて悔しがっている姿をあまり見たことがないから、新鮮なんだと思う」

「あー、まあそうだな。あまり表には出したことが無い感情かも」

 

明日の初戦の相手は生石さんのチームで、チーム名は【巨匠】だ。もはや完全に個人を指しているチーム名。……あの人に、チーム名を考えさせたのは誰だよ。自分の娘に飛車と名付けようとした男だぞ。

 

奥さんが頑張って回避したから飛鳥になったけど。あ、飛鳥さんはゴキゲン研で九頭竜へのアタックが多くなりました。研修会で早くもD1まで上がったし、女流棋士まで後一歩の所まで来ている。お陰様で空さんとあいがピリピリしているけど。

 

「もう、無理」

「今日はまだそんなに指してないだろ。と言っても、明日に疲れが残ってもしょうがないからここまでか」

 

負けた瞬間に将棋盤に顔から突っ込んで倒れ込む天衣。最終局は、天衣の無理攻めをアイが根元から咎めた結果、あっさりと攻めが崩壊して純粋な負け将棋になっている。足から輪切りにされるような対局だっただろうし、最近は過密日程だったから疲れも溜まっていたか。もう少し、お仕事の方は減らして貰わないとな。

 

「大木先生、見てくれ」

「ん?

おー、11勝1敗か」

 

天衣が風呂に入っている間、晶さんに見せられた勝敗カードには11勝1敗と書かれている。初段から二段にあがるためには、8連勝か13勝2敗が必要。その内の、13勝2敗までもうちょっとか。2敗する前に2勝すれば良いと考えると、昇段目前だと言っても良い。

 

昨年の11月頃に初段へ昇段してから、およそ半年以上の時間がかかってようやく迎えたアマ二段昇段のチャンス。晶さんにとって、ここを逃したら夏までに二段昇段は無理だろうな。二段昇段をしたらマイナビ女子オープンに挑戦すると言っていたから、逃したくないのだろう。

 

『実力的には二段はあるんですけど、如何せん道場の昇段規定が厳し過ぎます』

(晶さんは仕事もあるから、子供のように将棋会館へ毎日通えるわけじゃないしな。それでもこの前の休日で、12局指して11勝1敗は立派な成績だ)

 

……晶さんの女流棋士は、現段階ではまだ難しいとしか言えない。アマチュアの延長線上にあるからと言って、アマチュアより弱いというわけじゃないからな。元奨励会員2級の岳滅鬼さんが思っていた以上に女流棋界で勝ちまくっているところを見ると、プロ棋士と比較するのもアレだけど。

 

女流棋士のボリューム層は、アマ三段~アマ五段ぐらいだろう。最底辺の女流棋士相手なら、今の晶さんでも勝ち目は出て来る。次に道場へ行った時、アマ二段へ昇段出来ればマイナビ女子オープンのチャレンジマッチが楽しみだな。

 

『天衣から教えて貰う頻度も少し増えたみたいですし、案外鋭い視点は持ち合わせていますよね』

(純粋に将棋へかける時間が短いから成長自体はゆっくりだけど、最近はソフトも導入して勉強しているらしいぞ)

『パソコンを使うのは得意そうでしたね。しかしそれでまだアマ二段というのは……』

(いや、普通だろ。2年ちょっとで初心者からアマ二段なら十分な気がするが)

 

今年は駄目でも、来年辺りは予選を勝ち抜く可能性すらある。まあ勝負の時に来年のことを考えている奴は来年も駄目なんだが、晶さんはそういうタイプじゃないのが安心できる点だな。

 

明日の団体戦は、夜の6時から東京で行なわれる。N○Kスタイルで最大3連戦だから、決着は深夜の可能性すらあるな。N○Kスタイルの持ち時間10分+1分×10の将棋だから早指しが得意な飯盛さんを指名したし、本当に他のチームから指名されなくて良かったわ。

 

まあまだC級1組に昇級したばかりの、どちらかといえば無名な棋士だし、他にも強い人はいるから俺以外の人は遠慮したのかもしれない。とりあえず全試合で大将を任せることになるから、下手すれば1局も出番無いよと言ったらOKを貰えた。飯盛さん、イエスマン過ぎない?こちらとしては有り難いけど、少し申し訳無い気持ちになった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

団体戦初日

動画サイトが主催の将棋の団体戦、通称Sリーグが開幕し、その初戦は大神対巨匠になる。どちらもネーミングセンスが無いせいでチーム名が酷い。試合前にメンバー発表があるけど、たぶんこの瞬間が1番盛り上がるのかな?

 

チーム大神:先鋒夜叉神四段、中堅大木五冠、大将飯盛五段

チーム巨匠:先鋒生石九段、中堅辛香四段、大将久瑠野七段

 

天衣を先鋒にすることは読まれていたというか、察知されていたようで、生石さんは中堅に捨て駒のような形で辛香さんを配置。これは負けかな。

 

「……先に2勝するのが大事なら、やっぱり先鋒には強い人を置くのがセオリーよね。

負けるつもりは無いけど、勝てるか怪しいわよ」

「勝てる可能性があると思っているなら大丈夫だろ。新四段が現役A級棋士に勝てる可能性なんて、普通は皆無だ。

まあ、団体戦でぶっちぎるのは不可能だし良い感じに盛り上げる予定だよ」

 

控室で天衣を送り出すけど、この控室にもカメラがあるのはちょっと嫌だな。スマホをポチポチしていても許されるだろうか?ずっと映っているわけじゃないみたいだし大丈夫かな?

 

「飯盛さんは、もし試合になったら頑張って下さい」

「はい。死ぬ気で頑張らせていただきます」

 

飯盛さんは5歳年上のはずなんだけど、なんか外見はおっとりしてるんだよな。Sリーグの公式ホームページには何故か身長や体重も公開されており、167センチ73キロと書かれている。前に見た時より、少し太ったか?

 

俺のプロフィールは158センチ40キロとなっており、天衣は150センチ43キロ。あれ?もう天衣の方が3キロも重いのか。別に天衣が太っている感じは全くしないし、飯盛五段の贅肉が5kgぐらい欲しい。ツイッターで「太ったから5㎏は減らしたい」とか言ってんじゃねーよ。あとハーゲンダッツとタピオカを常用している時点で普通の人が痩せるのは無理だよ。

 

『天衣と生石さんは、当然ながら公式戦初手合いですね。……勝率は18%ぐらいでしょうか』

(今780面だっけ?780局中、140局は勝てるの?マジで?)

『マジです。ただ、生石さんもこの対局を落とせないことは理解しているので意地と意地のぶつかり合いになりそうですね。腐っても生石さんは元タイトルホルダーです』

(いや別に生石さん腐ってないし。むしろ指し盛りの全盛期だろ今。早指しも得意なタイプだし、天衣の初戦としては辛い相手)

 

生石さんと天衣の対局は、お互いに飛車を振る相振り飛車になる。最近のプロ棋士同士の対局だと、相振り飛車の時点で珍しいけど生石さんの中飛車対天衣の向飛車か。どちらから仕掛けるかで、捌いた後の形が大きく変わる。

 

『コメントの数が凄いですね。そして大半が天衣を応援しています』

(実力はあるし、スポンサーが指名してくれと言うのも分かるぐらいの数字は持ってる。ただまあ、生石さんに勝てるかと言われれば……)

『……既に劣勢ですか。中飛車を相手に、金無双の銀が上がらない形を選択するのは良いですが、攻めに使いたい銀を動かし辛いのでしょう。先ほどから攻めが止まっています』

(何が1番辛いって、生石さんの矢倉が間に合っていることだよ。……天衣は端攻め開始か。まあ、それしかないわな)

 

2人とも緊張とは無縁の性格だと思っていたけど、ここまでカメラに囲まれた、特別ステージでの対局は普段とは違うものが将棋に出てしまうのだろう。お互いに、動きは重い。どちらも軽快な捌きや動きが持ち味なのに、遅い将棋だ。

 

序盤の時点で歩を1枚損した天衣は、それが響いて中盤戦も苦しくなる。たかが一歩、されど一歩。大したことのないような差に見えて、この一歩は生石さん相手だと致命傷だ。生石さんは歩得を利用して、突き捨てから継ぎ歩、垂れ歩と全ての戦法に共通する見本のような攻めを見せる。

 

『天衣の姿勢が、若干悪くなりましたね。……早指しは、一度形勢が傾くと巻き返しが辛いです』

(10分+1分×10って、かなり短いしな。まあ生放送で一般の人向けの対局だから仕方ないけど)

 

将棋指しは、盤面を見ずに形勢判断をすることも可能な人がいる。特に序盤中盤で、形勢が悪くなっている方は考えることに必死で姿勢が崩れていることに気付きにくい。……プロ棋士になってから、あの体勢になったのは初めてか?如何に序盤中盤で、相手を圧倒してきていたかが分かるな。

 

結局天衣は持ち時間を使い切り、時間に追われるように指す。悪い手では無いけど、正解の手からも遠いし、巻き返しは難しいか。その後、形作りのために数手だけ王手を続け、天衣は投了。119手だけど、わりと長い対局だった。

 

『そもそも、生石玉将が先手の時点で辛い対局でした。……団体戦ルールで天衣が後手なら、マスターが先手、飯盛さんが後手というのは本当に最悪のパターンですね』

(覚悟の上ではあったけど、なってしまったものはしょうがない。時間は押しているし、中堅戦は一瞬で終わらせるぞ)

『プロになってからも、粘り強いってレベルじゃないぐらいに負けない将棋を指す辛香さんが相手なんですが』

(それでもアイなら、粘らせずに勝つことは造作もないだろ)

 

1局目で負け、後が無くなったわけだけど、俺は勝てるとして飯盛さんが久瑠野さんに勝てるか微妙だな。早指しなら、全くの五分に見える。関西研修会の幹事をしていて、子供達に囲まれるわけだし、早指しが苦手ということも無いだろう。というか早指しが苦手な棋士の方が珍しいかも。ある程度はみんな早指しを指せるからな。

 

飯盛さんの早指し勝率7割は、まだ2年目で弱い棋士と当たる回数が多いからという理由もある。……まあ今は3局目のことをあれこれ考えても仕方ないか。さっさと辛香さんを倒そう。

 

「いやあ、こんなに早くこうして大木先生と将棋を指せるとは思って無かったんですわ。

生石先生からははよお負けて来い言われましたけど、粘らせてもらうで」

「ええ。どうぞ」

 

対局前から、負けることは前提で、それでも自分の将棋は指すと宣言する辛香さん。俺の強さがよく分かっているからこその発言だろうけど、このルールで粘られると大将戦の決着が深夜になるかもしれないから、アイは全力で粘らせない将棋を指す。徹底的に、辛香さんへ駒を渡さないように指しており、アイに誘導されるがまま攻める辛香さんは、ギリギリのところで駒が足りなくなった。

 

そこからの反撃で、あっという間に詰められる辛香さん。完全に攻め切らせたわけじゃないけど、それでも中々にえげつない将棋だったな。少し将棋を知っている、程度の観客にはかなり良い勝負に見えただろうし、実際に最後の局面を見れば良い勝負だったと思えるような盤面だ。

 

……実際には辛香さんを一から十まで誘導して勝った対局だし、対戦相手の辛香さんも「そう攻めるしかない」と誘導され続けながら指したわけだから、対局後は気持ち悪いものを体験したかのような目でこちらを見ていたけど。とにかくこれで、1勝1敗か。勝負は大将戦の、飯盛さん対久瑠野さんの決着に委ねられた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リーグ戦

久留野七段対飯盛五段の将棋は、よくある若手対ベテランの対決となり、勢いよく攻める飯盛さんの攻めが良い様にあしらわれている。あかんやつやん。

 

……このカメラに囲まれた対局場で、常時全方向から撮られている中、普段通りの力を発揮出来ない人は多いだろう。天衣と生石さんの将棋も普段の実力を十全に出せたとは言い難いし、辛香さんも緊張気味だった。当然飯盛さんも、指し慣れてない感じが伝わって来る。

 

一方で、空気洗浄機とスポットクーラーを持ち込んだ久瑠野さんは自分の世界に入れていた。持ち込んでも良いと許可は取っていたそうだけど、自分の領域を作るのにあれほど便利なものは無い。

 

『これは無理ですね。そもそもB級1組が主戦場の時点で久瑠野さんは飯盛さんより格上です。……良いんですか?初戦で負けて』

(かと言って俺が先鋒になってもいたちごっこだろ。だから、このメンバーの順番を変えるのは一回だけ。負けてはいけない時に変える)

『個人としては圧倒していても、チームとしての総合力は中の上ですからね。天衣が大将にいても結果は変わらなかったでしょうし、マスターが先鋒じゃないと無理でした』

(まあでも、天衣は先鋒になったお陰で公式戦の生石さんと指すことが出来た。いくら練習試合で指しても、それは練習試合でしかないからな)

 

初戦は生石さんのチームを相手に、1勝2敗で敗戦。チームとしては-1ポイントという状態。後日、九頭竜のチームと月光会長の試合があったけど、これも九頭竜のチームが1勝2敗で負けている。釈迦堂さんのチームは山刀伐さんのチームにあいが1勝したため、どの対戦カードも大将戦まで試合をしたことになるな。

 

チーム修羅雪姫:先鋒九頭竜竜王○、中堅二ツ塚五段×、大将空四段×

チーム炎熱の駒:先鋒鏡洲四段×、中堅月光九段○、大将清滝九段○

 

チーム天空撃摧:先鋒釈迦堂女流六段×、中堅雛鶴女流四冠○、大将祭神女流四段×

チーム風林火山:先鋒山刀伐八段○、中堅阿曽原六段×、大将八丁五段○

 

団体戦は試合前にオーダー表をチームリーダーが提出するけど、互いに書いているところは見ることが出来ないので組み合わせを正確に読むのはアイでも不可能。まあ、オーダーを変えるとしたら2位に滑り込むためだけに変えるぐらいか。

 

『それまでは天衣の育成優先とか頭おかしいんじゃないですか?』

(今に始まったことじゃないだろ。飯盛さんもこのオーダーで納得済みだし、問題ねーよ)

 

団体戦の各チームの1戦目が終わったところで、棋士総会が開かれる。三番手直りがとうとう実現を果たし、俺にとってタイトル戦が地獄と化した。いや挑戦者の方も駒落ち将棋で負ける可能性が出て来たから地獄だろうけど、その地獄を作り出した張本人である名人は珍しくご機嫌だから文句を言い辛い。

 

あと来年から女流棋帝のタイトル戦が設立されるようで、時期は棋帝戦に合わせて6月から。それと同時に棋帝戦の優勝賞金が増額され、序列が最下位から7位に浮上した。プロ棋士が八冠なのに対し、女流はこれで七冠に。一時期は棋帝戦が無くなって七冠に戻る可能性が囁かれていたけど、そんなことは無かった。

 

「……本当に関西からの出席は少ないのね」

「まあ移動も面倒だしな。あ、今年の新四段は色んな意味で注目されてるぞ」

「色物ばかりよね。坂梨さんも、今年の詰将棋解答選手権大会で準優勝だったんでしょ?」

「ああ。団体戦では歩夢が指名していたし、1試合目は中堅戦で勝っていたな」

 

初めて棋士総会に出席し、プロ棋士としての挨拶を済ませた天衣は暇そうに月光会長の話を聞いている。……月光会長の話は対局中のカンニング行為に対する警告みたいなものだけど、来年は機械類の持ち込み禁止になりそう。

 

とりあえず昼休憩中に、将棋会館から出ることは出来なくなった。要するに今まで、自由に外へは出られたわけだな。ぶっちゃけ遅すぎる気はするけど、それでも反対の声は大きかった。こういう所を見ると将棋界の動きの遅さを感じられるし、よく団体戦の企画が通ったわ。

 

棋士総会の後は飯盛さんと天衣で練習対局をさせてみるけど、団体戦のルールである10分プラス1分の考慮時間10回という持ち時間で1勝1敗。天衣の方が地力はありそうな雰囲気があったが、飯盛さんも負けてはいないな。ただ安定性は天衣の方が上だし、天衣>飯盛さんという認識で良いか。

 

「初の三番手直りの相手は、篠窪八段ね」

「今月の棋帝戦から適用されるからな。篠窪さんにとっては2年ぶりになるタイトル戦で、香落ちで負ける可能性もある」

 

団体戦と並行して、棋帝のタイトル戦もあるけど今年の棋帝のタイトル挑戦者は挑戦者決定戦で歩夢を打ち破って勝ち上がって来た篠窪さんだ。2年前、俺が初めて棋帝のタイトルを取った時の棋帝のタイトルホルダーだった人だな。

 

この2年でイケメン度が更に上がっており、ファンからの愛称は王太子で、俺の大木ロボやソフトイーターなどの愛称と比較すると如何にルックスが大事かということがよく分かる。一方の九頭竜はネット上でとうとうクズとしか呼ばれなくなりました。実質二股状態でなおも周囲の女性陣から好意を持たれているのは凄いと思う。

 

(九頭竜は答えを出さないのかな?)

『もう両方の気持ちに応えるという答えは出しているじゃありませんか。全女性の敵みたいな存在です』

(それでも色んな女性に言い寄られているところを見ると、男って顔とスタイルと幼少期の過ごし方で決まるなって感じる)

『最近はマスターに寄って来る女も増えましたよ。夜叉神家の方々が遠ざけていますけど』

 

徐々にアイから九頭竜への評価が、下がっているような気がするのは気のせいじゃないはず。この前はお風呂に入っている最中にあいに突撃されて何だかんだで背中を流されたらしいし、そろそろ通報しても良い気がする。

 

『天衣とディープキスをして以降、天衣とのキスやボディタッチ回数が増えたマスターはロリ関係で九頭竜のことを言う資格がありません』

(ボディタッチというより、たまに頭撫でているだけじゃねーか。え、他にボディタッチあった?)

『この前は、布団越しじゃなくて直接背中に天衣が乗って来たじゃないですか。……それに反応しかけたガチロリコン』

(向こうからのボディタッチは別に良いだろ。と、そう考えたら九頭竜もだよな。あれ?世間体を気にするなら俺は空さんよりあいを応援するべきなのか?)

 

だけど冷静に考えると、師弟でそういう関係になるのは間違いなくマイナスイメージだ。どうにかしようと思ったら、九頭竜とあいを先にくっつけるしかない。……でも今の九頭竜と空さんを見ていると、そのうち一線は越えそうだし、あいは恋関係でも厳しい勝負になる。

 

……いつまで内弟子生活が続くか。あいが中学生に上がるタイミングが1つのターニングポイントになりそうだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

模倣

三番手直りが実現し、棋帝戦は第5局まで行なわれるようになる。対局者(俺)の負担を考慮し、前夜祭への参加はタイトル挑戦者の篠窪さんだけになった。検分とか挑戦者だけで良いだろ。別にどんな環境だろうが変わらないし。

 

そして棋帝戦の第1局は、俺が指して完勝した。持ち時間は多少使ったけど、合計で9分しか使ってないし、個人的には矢倉同士の戦いでごり押ししての勝利だったから満足。

 

『歩の先に金駒を打ち込んで、ゴリゴリ敵陣の駒を削る将棋は、見ていてこちらの精神が削れてくるので止めてくれませんかね?』

(何で?)

『相手にどんどん持ち駒が入っていくからですよ。もう少しで挽回不可の盤面に突入するところでした』

 

アイには勝ち方について文句を言われたが、勝てばよかろうだろう。まあ筋の悪い将棋を指した自覚はあるけど、あの局面だとその筋しか見えなかった。

 

Sリーグの方はもう片方のリーグの試合も行なわれ、名人と歩夢のチームが2連勝をしていた。総合力的に、この2チームが抜けそうではあるけど、まだ1試合しかしていないから分からない。そして団体戦は2週目に入って、今度は山刀伐さんがリーダーの風林火山と当たる。……チーム名は、普通の四字熟語とかの方が格好良かったなぁ。こういうの、他の方が良く見えるのは何なんだろう?

 

チーム風林火山:先鋒山刀伐八段、中堅阿曽原六段、大将八丁五段

チーム大神:先鋒夜叉神四段、中堅大木五冠、大将飯盛五段

 

特に順番とかは変わらず、天衣は山刀伐さんとの1戦。昨年のA級順位戦では3位と名人戦まで後一歩の所まで行った山刀伐さんは、努力の人だ。今年の順位戦は7位と降級ギリギリだった生石さんに比べると、調子が良い分山刀伐さんの方が強いかもしれない。

 

天衣対山刀伐さんの対局は個人的に見てみたかった対局だし、早目に実現してくれて良かった。振り駒の結果、天衣の先手番になったので、今日は天衣が勝てなくても飯盛さんが勝つな。久瑠野さんに負けた時、わりとマジで切腹しそうな感じだったし、あの覚悟があるなら今日は勝てる。

 

『天衣も山刀伐さんも、手順が馬鹿正直で素直ですよね』

(え?互いに右玉で馬鹿正直じゃないでしょ?)

『ソフトが考案した手順をそのまま使っているから、付け入る隙が出来るんですー』

(針の穴が大きく見えるほどの極小の穴を隙って言えるのはアイしかいないだろうな)

 

天衣と山刀伐さんの対局は角換わり腰掛銀の形になり、互いに居飛車で右玉を選択。ここからは互いにこの将棋をどこまで研究しているかが勝負を分けるけど……山刀伐さんの研究量は頭おかしいんだよなぁ。

 

早指しでは研究量の多さが有利不利を明確に分けることもある。山刀伐さんは天衣の3倍ぐらい生きているんだから当然研究量も多いし、想定範囲は広いだろう。天衣の正道から少し外れた攻めでも、知ってると言わんばかりの指し筋で対応してくる。

 

そのまま天衣の攻めが一段落するまで指して、形勢は山刀伐さんが良い。だけど研究家というのは、形勢が良くなった段階で検討を打ち切ることもある。他に検討しないといけない筋が多すぎるから、全てを研究するならある程度は省略しないといけない。ここからは、山刀伐さんと天衣の素の力が試される。

 

『都合の良い展開ばかりは考えないですからね。ある程度有利になったら、そこで検討を打ち切るのが常人です』

(普通はそのまま指し続けて勝てるはずだからな。特にA級棋士なんか、終盤力も桁違いだから早々間違えない。でも天衣は、そこに賭けた)

『一段落した段階で、天衣が不利ではありますけど評価値的には-700ですか?何とかなりそうな範囲ではありますが……』

(え、この先も研究しているのか?それなら天衣に勝ち筋は……あー)

 

少し長考して天衣が繰り出した鬼手は、すぐに山刀伐さんが斬り返す。これは最後まで検討されてますわ。そんな甘い話は無かったということで、今日も天衣は負けだな。先手番を持って負けたんだから、まだA級棋士には届かない証明にもなってしまう。粘りに粘るも、116手で天衣は投了。

 

先鋒として、再びの負けに少し落ち込んでいる気配もあるけどまだ精神的には大丈夫そうだな。続く試合はアイがエンジン全開で68手での勝利。本気のアイに一般棋士が勝てるわけないだろ。見るも無残な負け方というか、あっという間に囲いが押し潰された。

 

そして最後、飯盛さん対八丁さんの対局はお互いC級1組所属ということもあり、互角の戦いが予想されていたけど飯盛さんが優勢だ。初戦は慣れない環境で、久瑠野さんが強かっただけで、普段の力を発揮出来ればC級の棋士には負けないよな。

 

「飯盛さんは、時々師匠の指し筋と似ているわね」

「まあ、俺が指すならどう指すかを考えて指しているらしいからな。食べるものを同じにしているのは思考をトレースするためらしいし、マジで狂信者だよ」

「……最近は運動を始めて、ダイエットもしているらしいわよ」

「どうやって30キロも落とすんだよ。外見だけは真似されても困るし、太っているのは気にするなって言ったんだが」

 

俺に三段リーグで負けてから、俺の棋譜は全部集めて、俺ならどう指すかを考えて指しているという飯盛さん。確かに中盤の捻じり合いではアイの面影が幻視出来る……ような気がする。

 

『実力は、これからの伸び次第でしょうか。若手の中では有望株ではあるのですが……』

(関東の若手棋士の中では上位だけど、全体的に見たらそこまでだぞ。この対局は、勝ったけどな)

『ほぼ勝ちですね。今日はミスらしいミスがありませんでしたし、実力で押し切っています』

(ミスらしくないミスはあったと。まあでも、これでチームとしては1勝1敗か)

 

最後は少し長い詰将棋を詰め切って飯盛さんの勝利。2勝1敗で、チームとして初勝利を飾る。九頭竜のチームは生石さんのチームに2連勝で勝ち、月光会長のチームは釈迦堂さんのチームに2勝1敗で勝利か。清滝先生があいに負けたのは見物だった。これも恩返しと言うのかな?

 

チーム修羅雪姫:先鋒九頭竜竜王○、中堅二ツ塚五段○、大将空四段

チーム巨匠:先鋒生石九段×、中堅辛香四段×、大将久瑠野七段

 

チーム炎熱の駒:先鋒月光九段○、中堅清滝九段×、大将鏡洲四段○

チーム天空撃摧:先鋒釈迦堂女流六段×、中堅雛鶴女流四冠○、大将祭神女流四段×

 

こうなると、チーム大神はプラマイ0で3位。2位以内への滑り込みは、たぶん大丈夫だろう。今のところ月光会長のチームが1位で九頭竜のチームが2位だけど、その両方のチームとの直接対決がまだ残っているし、何とかなるな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Sリーグ

Sリーグは月曜日以外が放送日で、その日に行なわれる最大3局を、夜6時から生放送している。中々に人気なようで、初週よりも2週目の方が来場者は多かったし、日曜日は固定で名人の試合があるから1番人が来ている。何だかんだで、名人の人気というのは凄まじいものがあるな。完全に将棋界の顔だし、俺が将来こうなる姿は全く想像出来ないわ。

 

「名人が勝ちそうね。神鍋八段は名人との相性が悪いのかしら?」

「勝率で言えば、名人に勝ち越しているの俺と九頭竜ぐらいだからな。しかしまあ、歩夢はこのままだとA級順位戦を勝ち上がれたとしても名人には勝てないぞ」

「……そう言えば師匠の順位戦の初戦の相手、久瑠野七段なのよね?」

「ああ。団体戦で受けた借りはキッチリ返してくるわ」

 

今年も名人を防衛し、恐らく来年、歩夢との名人戦になったとしても名人は防衛する可能性が高い。歩夢の対名人戦勝率が、明らかに悪いのだ。一昨年の竜王戦の挑戦者決定戦で名人との初手合わせで負けた後、名人には3連敗。その後は勝ったり負けたりを繰り返しているけど、通算成績は負け越している。

 

で、早指しになるとプロ棋士は大なり小なり棋力が落ちるのだけど、名人は落ちない。原作で於鬼頭さんが才能の数値化を行なった時に、名人は早指しにおいては歴史上のどんな名棋士よりも異様に高い数値を出したようだけど、過言ではないだろうな。

 

『長時間での戦いなら歩夢も勝てる可能性は出て来るでしょうが、早指しだと無理ですね。経験の差も大きいです』

(名人はこの持ち時間形式のトーナメント戦であるN○K杯で11回の優勝をしているからな。何なら去年も九頭竜に勝って優勝してるし、歩夢にとっては色々と不利だわ)

 

名人対歩夢の対局を、天衣と並べながら色々と検討をしていく。Sリーグは、A級棋士同士のガチンコ対決をほぼ毎日見られるという点でも嬉しいな。ファンだけじゃなくて、プロ棋士にとっても有り難い。

 

名人と歩夢のチームは、先鋒戦で歩夢が名人に負けたけど、残りの2戦で歩夢のチームメンバーが勝ち続けて逆転。チーム†聖騎士†の勝利だ。坂梨さんも普通に強いな。こりゃ、今年のC級2組は荒れるぞ。全勝以外で昇級することは、ほぼ不可能だろう。

 

団体戦も各チームの2試合目が終わり、徐々に順位の差が出来て来た。そしてこの団体戦のせいで、少し予定が遅れたが帝位戦の挑戦者決定戦も行なわれ、俺は紅組を勝ち上がった於鬼頭さんにアイのサポートもあり勝利。7月から九頭竜と帝位戦を戦うことになった。日程が詰まる詰まる。

 

……Sリーグを過密日程にしたのは、純粋にダラダラとやってられないという理由もあるだろうな。しかし6月と7月の対局回数はおかしいというか、月の半分以上は対局日じゃない?なお天衣の方が対局数は多い模様。そろそろ天衣は出席日数が危なくなって来た。

 

「各予選の二次予選まで勝ち進んで、そこで負けるのは1番辛いからよく考えろよ」

「分かってるわよ。今まではデビュー以来の連勝が続いていただけだし、少しは選ばないと私も身体が持たないわ」

 

選ばないと身体が持たないとは言いつつ、女流棋戦は全勝していく天衣。まあそっちはそうそう負けることが無いだろうし、楽に戦えているからむしろ勝ち上がった方が良いのか。流石に女流棋戦と各タイトル戦の予選を同日にすることは出来ないだろうし。

 

師匠が痩せている理由が分かった気がするわ、と言いつつ夜叉神邸に帰る天衣。迎えに来た晶さんは、二段に昇段したという報告を嬉しそうにしてきた。アマ二段は、他人に将棋が強いと自称出来るぐらいの実力だろう。これでマイナビ女子オープンのチャレンジマッチには挑戦するだろうし、下手したら女流棋士になるかもしれない。

 

……今の段階では、女流棋士になれる確率なんて1%も無いだろうけど。晶さんは奇襲戦法が大好きで、棋力が安定しない。一発勝負のトーナメント戦では奇襲戦法が上手く嵌ればある程度は勝ちあがれるだろうけど、下振れも酷いのでまあ組み合わせに恵まれれば予選突破するかな程度。

 

『天衣の後手番角頭歩は、晶さんもある程度指せるんですよね。……晶さんの師匠は、天衣にします?』

(天衣と姉妹関係になるか、親子関係になるかは晶さんの選択次第だな。最近は仕事も頑張りつつ将棋の勉強をしていたのは知ってるし、俺も天衣も弟子入りはOKするだろ。まあ弟子入りしたら指導は本腰を入れるけど)

『10歳年下の師匠とか、確実に話題になる構図ですね』

(世間的にはロリ師匠爆誕になる。あと月光会長が晶さんから見て曽祖父になるとか意味わかんねえ)

 

万が一女流棋士になった場合、誰の弟子になるかはわりと問題だ。というか晶さんが俺を選んでも天衣を選んでも、年下の師匠になることは変わらないのか。それなら師匠が月光会長というのも選択肢に入るけど、晶さんと兄妹弟子になるのか?そもそも月光会長が弟子入りを認めるかは微妙だし、難しい問題だな。

 

『晶さんには大会までの期間で、詰将棋の本を沢山買ってあげましょう』

(なるべく長手数の詰将棋を、だな。可能なら21手詰以上の詰将棋を、湯水の様に消化しよう)

 

晶さんのトレーニング方法としては、詰将棋の解答のページを先に見て流れを確認し、問題のページを見て頭の中の将棋盤を解答通りに動かすという方法になる。詰将棋だと盤面全体を頭に浮かべられない人でも何とかなりやすいし、アマ二段クラスなら終盤力だけじゃなくて局地的に深く読むトレーニングにもなる。

 

何より、時間がかからない方法だから隙間時間にちょうど良いだろう。同時並行で短手数の詰将棋を解かせていけば、短い期間で着実なレベルアップが期待できる。まあ晶さんの将棋、奇襲戦法が多いから終盤には将棋が終わっていることも少なくないけど。

 

試しに晶さんに本を渡してやらせてみると、13手詰ぐらいから解答を二度見するようになった。まあ、最初はそれでも良いや。詰みまでの手順を頭の中でちゃんと動かすことが目的であって、詰将棋を解くことが目的じゃないからな。なお天衣は問題を見ただけで瞬時に13手詰程度なら解く模様。

 

これは天衣だけじゃなくて、奨励会員でも簡単な13手詰なら30秒で解くだろう。あとあいなら31手詰でも瞬時に解きそう。それだけプロ棋士や奨励会員とアマが違うということで、明確な差でもある。……女流棋士相手に、1勝ぐらいは出来るかな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大師匠

団体戦も3週目に入って、今週は月光会長のチームと対戦。こちらの先鋒は当然天衣で、相手の先鋒は月光会長。天衣から見て月光会長は大師匠に当たるということで話題になるが、既にあいと清滝先生でその構図はやっているという。

 

ここまで団体戦での天衣の成績は2連敗で、本人としては何としても勝ちたい場面。しかし月光会長も、手を抜くということは無いだろう。この対局に月光会長のチームが勝てば、勝ち抜けする可能性がグッと高まる。

 

チーム大神:先鋒夜叉神四段、中堅大木五冠、大将飯盛五段

チーム炎熱の駒:先鋒月光九段、中堅鏡洲四段、大将清滝九段

 

うちとしてもこの試合で負ければリーグ勝ち抜けの可能性がグッと下がるので、先鋒と中堅を入れ替えることも考えたけど、まあ天衣が負けても飯盛さんが勝つだろ。何より、天衣対月光会長の対局が見たかった。

 

互いに、特設ステージでの対局も慣れて来た頃。史上2人目の中学生棋士対史上初の小学生棋士の対局は、天衣の後手番で始まった。

 

『……使うつもりでしょうね』

(ああ、使うだろうな)

 

初手7六歩、2手目3四歩、3手目2六歩、4手目2四歩と、親の顔より見た後手番角頭歩を使う天衣。天衣の後手番角頭歩は実際にアイと何万局も指している中で、何千回も見たので親の顔より多く見た局面かもしれない。月光会長と天衣の口が開いたけど、何を言っているのかは音声が伝わって来ないので分からない。

 

でも「馬鹿の一つ覚えですか」「何とでも言いなさい」みたいな会話であることはアイさんが読み取った。……公式戦初手合わせで、月光会長に後手番で勝ったらそれはそれで凄いことだな。その後、当然ながら月光会長は開戦を選択せず、天衣は向飛車にする。いつも通りの流れだ。

 

『月光会長と清滝先生が同い年なの、いつ見ても信じられないですね』

(いつ見ても月光会長が若々し過ぎる。そして将棋の内容まで若々しいからやべえ)

『……月光会長側から、2五歩と仕掛けました。これは天衣対策の研究をしてますね』

(たまに低段同士のプロ棋士の対局でも後手番角頭歩戦法は見られるようになったからな。……会長としての責務を果たしつつ、将棋の研究を続けているのは素直に凄いと思うわ)

 

既に恩返しを受けた弟子の弟子から恩返しされるのは嫌なのか、天衣の攻め筋を利用して先に月光会長から仕掛ける対局となる。天衣は囲いに2二飛と飛車を振ってから6二銀、3二銀、4二玉、5一金左と4手しか使っていないにも関わらず、月光会長から仕掛けたのは月光会長がほとんど居玉のままだからだ。

 

……これ、月光会長も後手番角頭歩対策の研究をしているよな。あの忙しさで、何処にそんな余裕があったのか知りたい。しかし天衣にとって、この相手からの仕掛けはもちろん研究済み。アイに何千回と駄目だしされて鍛え続けて来た伝家の宝刀だ。

 

2筋の攻防の最中に角交換が行なわれ、互いに馬を作る。後手番という不利は跳ね返して、今は天衣が微妙に有利か。ただ光速の寄せと呼ばれる月光会長の終盤力は強い。天衣の成長した終盤力と比較しても、圧倒していると言っても良い。未だにA級なのは、それなりの理由がある。

 

52歳で、しかも盲目なのにA級って時点で魑魅魍魎の生き物だよな。常に最短の詰みを意識して指しているし、細い攻めを成立させてくる。だけど今回、月光会長は終盤で苦しめられる。

 

アイもそうだけど、将棋指しは未知には弱い。天衣の囲いが、初見で思っていた以上に詰まし辛いのか、時間に追われ始めた。一方の天衣は、弱点を補強するかのように5四香と取った香車を囲いの上部に打ち込む。

 

天衣は飛車を切ったため、その飛車が月光会長の駒台に乗っている。しかし使い道がなければ、それは腐っていくものだ。一方の天衣は馬と桂馬を連動させ、香車の睨みも活かして月光会長の金を剥がした。

 

『鈍重な攻めですねぇ』

(大師匠相手に、悠長な攻めだな。月光会長の守りは薄いから、決まりそうだけど)

『決まりませんよ。9五角で天衣の攻めは一旦止まります』

(あー、一手隙が出来て止まるのか。天衣が端歩を突かなかったから、攻防の角を許した形か)

 

天衣が若干リードを続けるものの、月光会長の攻防手で形勢が分からなくなる。……別に7四桂から詰み筋は無いはずだけど、コビンを狙われるのは嫌だろうな。持ち駒が尽きている天衣は8四歩と突くけど、これで手番が月光会長に渡った。

 

……天衣の囲いは、横から攻めるのはちょっと辛い。だから攻めるなら上部からになるけど、そうなると数対数の勝負になりやすいし、受ける方も受けやすい。そのはずだけど、月光会長が受け辛い手で攻めて来るから天衣も時間を使うことが多くなった。

 

互いに考慮時間を完全に使い切って1分将棋になり、月光会長からの最後の猛攻を凌ぎ切る天衣。その猛攻が途切れた瞬間、天衣は月光会長の玉を最短経路で詰ませるのに必要な最初の一手を指し、月光会長が投了。現役A級棋士に、天衣が初めて勝った瞬間である。

 

『まあA級棋士相手でも2割程度で勝てるとは思っていたので……3連敗しなくて良かったですね』

(今回はまぐれのようなものだけどな。盲目だからこそ、初めての陣形には戸惑う。……もし月光会長の視力が失われていなかったら、この勝負は天衣の負けだったよ)

『あ、流石に気付きますか』

(飯盛さんでも気付くぐらいのミスだったし、中盤の山場でのミスは大きいわ)

 

月光会長が天衣の攻めを咎めるべき場面で咎めなかったところが月光会長側の大きなミスで、それは感想戦でも触れられていた。天衣も気付いていたのか、自分から指摘している。まあ、相手のミスがあろうが天衣の勝ちだし、よくやったとしか言えない。別にミスが無くても互角の局面に戻っていただけだし、勝負がどうなっていたかは分からないしな。

 

先鋒の天衣が勝ち、中堅戦は鏡洲さんと俺の一騎打ち。当然ながら、鏡洲さんは一刀両断されて負けた。総手数71手。早指しだとしても短手数で終わったな。というかあっさり銀損とか鏡洲さんもミスが酷かった。

 

これでチーム大神は2連勝したので、大将戦は行なわれずに勝利。+2ポイントで1位の月光会長のチームと順位が入れ替わって、3位から1位に浮上した。まあ現状+1ポイントの九頭竜のチームも次は女流棋士チームなので2連勝して1位になりそうだけど、そろそろ勝ち抜けられるチームが絞られて来た感じがするな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月曜日

順位戦で久瑠野七段をフルボッコにしたり、棋帝戦で第2局も勝ったりとSリーグ以外の対局もこなしていると、月曜日を迎える。Sリーグが唯一お休みの曜日であり、同時に必ず対局が入る曜日になった。天衣は各棋戦の一次予選から参加しているけど、一次予選は関東と関西で分けて行なうため、基本的には関西将棋会館で対局がある。

 

今日は賢王戦の予選トーナメントの対局があり、天衣は勝利して俺の家に寄る。賢王戦は段位別に予選トーナメントが組まれるから、天衣は賢王戦の予選では四段としか当たらない。しかしながら女流棋士代表としてあいが参戦しており、このままだと決勝でぶつかる予定。

 

「あいは、三段編入を考えているそうよ」

「まあそれが前例もあるし1番手っ取り早いな。合格すれば今年の下半期の三段リーグから参戦か?また全勝者の1位が出そうだな」

「今期は椚が暴れているそうね。いよいよ上の存在が居なくなったから、全勝で勝ち上がるんじゃないかしら」

「まあ、本来なら昇段するはずの15勝3敗で2回も昇段を逃すとか普通なら心折れるぞ。次点も取れなかったのは、本当に運が悪かったというか、可哀想だった」

 

天衣からの情報で、今期の下半期の三段リーグはあいが大暴れする模様。何か色々とあいと情報交換をしているようで、九頭竜があいを追い出すために手を出そうとしたことまで判明している。なおあいには一瞬で演技を見抜かれてバッチ来いされたとのこと。既成事実狙っている娘に手を出そうとするとか九頭竜の抜けっぷりが酷い。

 

『九頭竜の演技は棒読みも酷いですから、あいもすぐに気付いたでしょうね』

(あと追い出すために手を出そうとするって、その後どうなるのか読めないのかよ)

『天衣に届いたラインで「そのまま手を出してくれたら良かったのに」という言葉がありましたが、11歳の少女とは思えないですよ』

(……あれ?九頭竜は空さんには手を出したの?空さんより先にあいに手を出そうとした事実があるって空さんヤバくね?)

 

団体戦でも大した見せ場もなく負け続けており、空さんのメンタルが心配になる。……空さんが、あいに九頭竜を取られるぐらいなら、みたいな思考にならないと良いな。

 

「ねえ、今年の夏はプール行かない?」

「お?良いけど天衣から誘うのは珍しいな?」

「去年の女王戦で第1局はスパワールドで前夜祭があったじゃない?その時に貰った宿泊チケットの期限が今年の夏までなの」

「去年の夏に、誘えば良かったのに。……ああ、去年の夏は夏祭りの準備で忙しかったか。解説やイベントがてんこ盛りで入ってたし、そんな余裕無かったな」

 

天衣からプールのお誘いがあったので、7月末の予定に入れておく。息抜きにはちょうど良いな。この2日間だけは予定が入らないよう調整して貰おう。というか予定入ってもすっぽかす。6月7月と予定詰まり過ぎなんだよ。

 

『デートに浮かれるのは勝手ですが、恐らく関係者と会ってデートどころじゃ無くなりますね』

(何でそんなこと言うの)

『このチケットはもう1人も持っていることをお忘れですか?』

(空さんが九頭竜を誘えるかは分からんけど、日程が重なることなんてあるか?)

『今のマスターの7月のスケジュール、九頭竜も大体同じですよ。帝位戦で戦うんですから』

(……なるほど。空さんの性格的に去年誘ったとは思えないし、重なる可能性はあるな。いやでも同じ日に行ったとして、広い館内でバッタリ会うことは無いだろ)

 

今日の将棋の好手と悪手を一通り天衣に教えながら、アイと脳内会議。……いやまあ、空さんと九頭竜のペアと会ったところで何も起きないだろ。あいやJS研の面子も来るなら話は別だけど、ペア宿泊券だし。というか空さんとの死闘だった去年の女王戦の関係者って、何でペア宿泊券だのペアでの招待状だの、ペア前提のものを贈ってくるんだろ。

 

天衣と対局の振り返りが終わったぐらいに晶さんが天衣を迎えに来て、天衣は帰宅。完全に中継スポット化しているけど、こうでもしないと天衣との時間を作れないという。さて、ゲームするか。

 

『マスターってわりとドン引き出来るぐらいには課金しますよね』

(とりあえず限定キャラは引く。恒常キャラも引く。でもマナが足りない)

『スタミナに課金石砕くのはどうかと思いますよ』

(別に良いだろ。タピオカ店のお陰で引くぐらいに現金入って来ているんだよ。夜叉神家は勝手に全国展開を始めるし、ブームが終わったとしても10年は戦えるだけの資金も出来ているからな)

『……最近は課金したいがためにお金稼いでません?』

(遊ぶ金の欲しさでプロ棋士なったんだし、そこは最初の頃と変わってねーぞ)

 

スマホで日課となった周回作業をしながら、パソコンのゲームを起動させようとするけどどれにしようか迷う。すると視界の端に、もうログインしなくなったオンライン将棋対戦が出来るサイトのショートカットが映る。

 

(今俺がサイトで新垢作製して指したら何局目で垢バンを食らうだろうな)

『今はソフト指しをAIが判断するようですし、数局でアカウントは抹消されるでしょうね』

(……はー。俺もソフトに挑むか)

『勝てなかったら私にゲームを選ばせて下さいね』

 

何だか懐かしい気持ちになったので、今年の将棋ソフトの大会で優勝したソフトを相手に将棋をしてみる。流石に後手番で勝てるとは思わないので、先手番だ。持ち時間は、30秒将棋で良いだろ。

 

『スマホの周回止まってますよ』

(いや、流石にこっちに集中するわ。序盤はこれ、良い感じだよな?)

『形勢判断バーは+1ですし、そこまで良くはないですよ』

 

序盤は良い感じに指し進めるも、中盤で狂ったように攻められてあっさりと負ける俺。こうやって戦うと、アイの凄さを再認識するな。あと純粋に、ソフトの進化を感じる。数年前はアイに角落ちで負けていたのに、今は平手で勝負になっている。

 

『褒めてくれても良いんですよ?』

(引っ込んでろ脳内居候。……九頭竜には、追い付けないか?)

『私とマスターは同一の存在ですから、追い付いているで良いんじゃないですかね?』

(いや、アイが指している時は勝利の喜びが9割減なんだよな。俺が指して勝ちたい)

『じゃあ5年前の時のように私を消せば良いじゃないですか。すぐ戻ってきますし』

(それも嫌というか、下手したら一生戻って来ないだろお前。それが怖いんだよ)

『自分自身の脳内会話なのに、消えるわけないじゃないですか。マスターが望めばいつでも湧いて出てきますよ』

 

俺が負けたので、アイの希望で久しぶりにSLG系のゲームをする。……アイのことについては、俺の精神衛生上考えない方が良いだろうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

順位

Sリーグが始まってから3週目で、一時的にリーグのトップに立ったけど、チーム九頭竜に後で抜かされるだろうなと思っていたら九頭竜のチームが女流棋士チームに負けた。

 

チーム修羅雪姫:先鋒九頭竜竜王○、中堅二ツ塚五段×、大将空四段×

チーム天空撃摧:先鋒釈迦堂女流六段×、中堅雛鶴女流四冠○、大将祭神女流四段○

 

チーム巨匠:先鋒生石九段×、中堅久瑠野七段○、大将辛香四段×

チーム風林火山:先鋒山刀伐八段○、中堅阿曽原六段×、大将八丁五段○

 

想像以上にチーム九頭竜の総合力が低いのか、単純にあいが強すぎるのか分からない。というかあいはここまで3連勝とかおかしなことしてる。そして空さんが祭神に負けているから、祭神もやっぱ強いな。

 

これで総合順位は1位が俺のチームで2位が山刀伐さんのチームという状態。中々の混戦模様だな?

 

1位:大神   5勝3敗 +2

2位:風林火山 5勝4敗 +1

3位:修羅雪姫 4勝4敗 ±0

3位:炎熱の駒 4勝4敗 ±0

5位:天空撃摧 4勝5敗 -1

6位:巨匠   3勝5敗 -2

 

チームの勝敗はそれほど重要じゃなく、要するにチーム全体で何勝勝ち越せたが焦点になる。……でも生石さんのチームが最下位になるっていうのは何か違和感しかない。いやまあ山刀伐さんに直接対決で負けたのが大きいんだろうけど。

 

ちなみに2位が同率だった場合、そのチーム同士の直接対決の成績を優先するのではなく、チームリーダーの直接対決になるので俺や九頭竜が有利なルールになっている。逆に釈迦堂さんのチームはここまで個人としては3連敗中の釈迦堂さんがチームリーダーなので苦しい。まあ釈迦堂さんのチームが同率2位になるとは思えないけど。

 

山刀伐さんのチームはこれから月光会長のチームや九頭竜のチームと当たるので、順位変動は激しそうかな。まだ勝ち抜けが確定したチームはいないので、団体戦としての目論見は達成しているようにも思える。拮抗した試合も多いし、大番狂わせもあるしで話題が尽きない。もう一つの方のリーグは順当な試合が多いようだけど、それでも順当という言葉1つでは片付けられない名勝負が沢山生まれている。

 

「で、マイナビ女子オープンのチャレンジマッチに顔を出すって、スケジュールが明らかにおかしいよな」

「元々これは決まっていたじゃない。晶も出るんだし、楽なポジションでの参加だから良いじゃない」

 

そしてマイナビ女子オープンのチャレンジマッチの日を迎えたので、天衣と晶さんと3人で会場まで移動。呼ばれたわけでもないのに、何かJS研の付き添いに来ていた九頭竜と会ったので、ちょっとドン引きしておいた。

 

いやまあ貞任もシャルロットちゃんも有段者だし出場するのは分かるけど、その付き添いに九頭竜が行くのか。お前もかなりの過密スケジュールのはずなんだけど、頭おかしいのか?

 

『九頭竜は勝ち上がっている棋戦も多いですし、明日は東京での対局だったはずです』

(ああ、明日はB級2組の順位戦だったか。順位戦は各クラスで日程が分かれているから把握し辛い)

『……シャルロットちゃんはいつまで日本にいるんですかね?』

(……んー、原作では明記されて無かったはずだし、一旦は帰るだろうけどまた留学しに来るんじゃない?)

 

組み合わせ表が発表されるけど、晶さんは比較的楽な山に……あ、晶さんと同じ山に焙烙さんがいる。互いに棋力に波がある者同士、面白い将棋が見れそう。

 

「……1回戦の相手は、名前も聞いたことが無いような女流棋士ね」

「毎年、ギリギリ降級点は取らない感じの成績だな。いや、1回降級点は取ってるからわりと崖っぷちだわ。本当に女流棋士の中でも弱い方だし、晶さんが勝てる可能性はあるぞ」

 

晶さんの初戦の相手は、毎年引退の危機に晒されている女流棋士だ。女流棋士の世界でも降級点というものはあり、それは年度内の成績によって決められる。今だと1年の通算成績で順位付けをして、下位5名に入ったら降級点なのかな。そして降級点を3つ貯めたら引退になるので、女流棋士の世界もわりとシビアである。

 

「ん、相振り飛車か。向飛車対向飛車とか稀有な対局してるなあ」

「2人とも、指す戦法を始めから決めていたんでしょ。

やっぱり晶の相手、レベルが低いわね」

「女流棋士と一口で言ってもピンキリだからな。女流四天王を始め、上澄みはまだマシだけどその下は奨励会員にも劣るからマジでアマチュアの延長」

『感性がアマチュアの延長にあるマスターが言うと説得力ありますね』

(うるせえ。序盤はむしろアマチュアの延長で良いんだよ。問題は中盤以降だ)

 

晶さんの相手は序盤こそしっかり勉強しているけど、中盤から酷い。まるで序盤を丸暗記して女流棋士になったような奴だな。序盤は確かに晶さんと相手で差が付いたけど……最新式の銃で殴って来るのは見てられない。

 

一方の晶さんは、種子島のような威力も微妙な銃だけど、しっかりと相手の心臓を狙って撃った。この辺はアイと天衣の指導の賜物だな。威力が微妙だから即死には至らなかったけど、確実に相手へダメージを残した。

 

『戦型丸憶えしておいて使いこなせないってギャグですか?』

(相手はしっかり序盤の後の勉強さえしていれば普通に勝っていたよな。あと何で終盤力は普通にあるんだろ)

『詰将棋は好きとかそういうのじゃないですか?あ、晶さんが詰ましに行ってミスしましたね』

(無理はしていないのでセーフ。相手に駒も渡ってないしな。しっかり必死にする辺りは昔の天衣にも似てる)

 

初戦は、しっかりと中盤のリードを確保し続けた晶さんの勝利。女流棋士相手に1勝出来たのだから自信も付いたようで、このまま4連勝してやると意気込んでいた。

 

しかし2戦目でA級棋士にも勝ったことがある焙烙さんと当たり、晶さんは見事に負けた。お互いに不発で泥沼の持久戦は見ていて面白かったけど、指している本人達にとっては辛い将棋だったはず。

 

敗者復活戦でも女流棋士相手に1勝はしたけど、その次で負けてしまって晶さんの女流棋士になるチャンスは潰えた。でもまあ全4局の相手、全員が女流棋士だったし、その中で2勝2敗は今の晶さんの出来を考えると十分だと思える。

 

あ、貞任はチャレンジマッチを勝ち上がってました。シャルロットちゃんは敗者復活戦の方で勝ち上がっていたけど、スタミナ不足のせいで途中敗退。JS研の面子も強くなったというか、九頭竜に育てられているのだから強くならないわけがない。同世代のあいとも何度も指しているだろうし、本人達の将棋にかける時間が他の女流棋士と比べても違い過ぎる。

 

JS研って、貞任とあいが中学生になったらJC研になるのかな?……何かJS研よりJC研の方がいかがわしい感じがする。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

空vsアイ

Sリーグの開幕から4週目を迎えて、とうとう九頭竜のチームとの対決を迎える。こちらのオーダーは変えてないけど、向こうが少し変えて来た。

 

チーム修羅雪姫:先鋒九頭竜竜王、中堅空四段、大将二ツ塚五段

チーム大神:先鋒夜叉神四段、中堅大木五冠、大将飯盛五段

 

恐らく空さんでは飯盛さんに勝てないと見て、完全に中堅戦を捨てる形のオーダーだ。まあ実際、空さんと飯盛さんなら7、8割の確率で飯盛さんの勝ちだろうしな。二ツ塚さんは今のところ良い所が無いけど、C級1組の中では上位の存在だろう。というか今年、飯盛さんと仲良くB級2組に上がるかもしれない。

 

天衣の後手番で始まった九頭竜対天衣の将棋は、お互いに矢倉を組む普通の将棋になった。……俺を除けば、間違いなく棋界最高峰の九頭竜相手だ。普通に考えれば今の天衣が後手で勝てる可能性は無いに等しい。だけど月光会長を倒し切ったことも考えると、僅かに勝ち目はあるな。

 

『何が勝ち目はあるな、ですか。今の天衣では刃も届かないですよ』

(いや届いてる届いてる。天衣も馬を作ったじゃん)

『作らされた馬にどれほどの価値があると思っているんですか。ここまで全部九頭竜の手の平の上ですよ』

 

九頭竜の恐ろしい所は、天衣ですら転がされるような手順を、その場で構築しているんだよな。いやまあ研究量も確かに多いけど、山刀伐さんの方が遥かに多いし、九頭竜以上の勉強をしている奴は普通にいる。

 

だけど九頭竜の深い読みは、それを覆す。指す度に強くなる将棋界のサイヤ人的存在は、月光会長に勝てた天衣でも届かない。そもそも、月光会長と天衣が10回指せば天衣が9回負けてもおかしくないからな。あの勝利自体わりと奇跡。

 

九頭竜は、情け容赦なく天衣の囲いをバラバラにする。横からは強い平矢倉を下段から切り込んで、あっさり詰ますか。天衣にとってもこの将棋は、良い経験になったはず。後で検討会もしようかな。

 

『於鬼頭さんに4連勝をした帝位戦から1年が経過しましたが、あの頃よりも研究量自体は減ってそうですね』

(何だかんだ忙しそうだし、あいが女流タイトル戦に出まくっていたから暇が無かったのかもな)

『しかし読みの深さが他の棋士とは比べものになりません。あ、天衣が投了します』

(あ、はい。画面越しでも投了タイミングは分かるものなのね)

 

先鋒の天衣が負け、中堅戦では俺と空さんが戦う。……空さんとは俺自身の力で戦ってみたいけど、ここで負けると色々とヤバいのでアイが指す。空さんも夏場で疲れが溜まっているとはいえ、三段リーグを17勝1敗で切り抜けたヤベー奴だからな。絶対冬から始まる竜王戦の予選では勝ち上がるわ。

 

高校生になった空さんと、こうして将棋盤を挟んで対峙するのは初めてか。こういう対局では制服を着て来る空さんは、何も知らなければ普通の美少女である。こちらを睨みつけて来る空さんは、何というか、可愛げがあるな。

 

『この美少女が同棲しようと迫っているのに断り続ける九頭竜は正気ですか?』

(既にあいと同棲生活を過ごしているんだよなぁ。絶許)

『そろそろ九頭竜が3人で住もうとか言い出す頃合いだと思いますが』

(いや、九頭竜は空さんからそういう話を切り出すまで待っている感じだな。あいからは切り出さないだろうし……流石に自分の口からそういう言葉を出したらヤバいことぐらい九頭竜でも分かる)

 

対局はアイの先手で始まり、扇子で目から下を隠しながら、冷や汗を掻く空さん。今回はアイが早くから仕掛けているけど、もうこの時点で指し辛さは感じているのか。仕掛けたら悪くなる箇所が多いため、どう指せば良いか迷っているんだな。

 

(そう言えばアイは時々指し方が変わるよね?相手を誘導する指し方が増えたというか、何というか)

『今頃気付いたんです?

短期的にはこちらが不利になりますが、その先をずっと読むとこちらが良くなる手順を優先して指していますよ』

(やっぱりソフト対策?)

『それ以外何があると言うんですか。マスターの好む良い勝負の演出も出来てますし、勝てるのであれば特に問題無いかと』

 

結局空さんは地雷原に飛び込んで来たけど、思っているより粘っているなと思ってたらアイの演出だった。相手にとっても都合の良い展開を進めながら、キッチリ勝ち切るとかプロレス芸極まってるな。

 

チームとしては1勝1敗となり、勝負の行方は二ツ塚さんと飯盛さんの対局結果に委ねられた。お互いC級1組の若手棋士同士、意識していることだろう。試合は飯盛さんが後手番だけど、とうとう穴熊を組み始めた。そんなに負けたくないか。

 

……プロ棋士同士の対局でも、穴熊は完成すれば脅威だ。じゃあ何で指す人がそこまで多くないかと言うと、まず完全な形では完成しないからだ。攻めを放棄して穴熊の完成を急げば、穴熊が完成する頃には攻め筋が無くなっている。そうなればそのままジリ貧で負けるだろう。

 

「天衣は飯盛さんと2人の時、何か話しているのか?」

「たまに師匠のことを聞いて来るわよ。どこであの強さを身に着けたのかとか、どういう弟子入り経緯だったのかとか。師匠は?」

「最初の頃は同じスマホゲームをしているからその話で盛り上がったな。後は天衣の将棋について、指し手の提案をしてくるから検討したりしている」

 

大木狂信者なだけあって、俺のやっているスマホゲームに関しては全部プレイしているようで話題は被る。とりあえずフレンド登録だけはしたが、あまりやり込んでは無いんだよな。まあプロ棋士生活しながら幾つもスマホゲームをするのは普通の人間だと難しいし仕方ない。

 

飯盛さんの穴熊は、案の定間に合わなかったけど開戦しても戦える形か。まだ完成していなかった穴熊に、持ち駒を埋め込んで崩すのが面倒な囲いに変形し、二ツ塚さんの攻めを防ぐ。一方の飯盛さんの攻めは遅いけど、穴熊の硬さを考慮するとギリギリ間に合うか?

 

(え、間に合う?)

『本当にギリギリ間に合う、というところですね。飯盛さんがミスしなければの話ですが。

あっ……』

(うわ、二ツ塚さんがミスするのか。まあ早指しだしこういうこともあるわな)

『飯盛さんは、普通に咎めましたね。これは勝ちです』

 

一進一退の攻防で、良い勝負だった将棋は、一手のミスで二ツ塚さんが転げ落ちる。飯盛さんが逃すわけなく、そこからはあっさりと勝ち切った。これで九頭竜のチームに2勝1敗で勝ち越し、ほぼ2位以上が確定。あとは女流棋士チームだけだし、何とかなるものだな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

同順

リーグ戦も佳境を迎え、1位の俺のチームと最下位の釈迦堂さんのチーム以外はどこも2位があり得るという状態。月光会長のチームは山刀伐さんのチームに2勝1敗で勝ち、生石さんのチームは釈迦堂さんのチームに2連勝で勝つ。

 

チーム風林火山:先鋒山刀伐八段×、中堅阿曽原六段○、大将八丁五段×

チーム炎熱の駒:先鋒月光九段○、中堅鏡洲四段×、大将清滝九段○

 

チーム巨匠:先鋒生石九段○、中堅久瑠野七段○、大将辛香四段

チーム天空撃摧:先鋒釈迦堂女流六段×、中堅雛鶴女流四冠×、大将祭神女流四段

 

 

これで月光会長はまた2位に浮上したけど、最終戦が生石さんのチームなんだよな。清滝先生と久瑠野さんの対決次第だけど、生石さんのチームが勝つ可能性だってあり得る。

 

……天衣と飯盛さんがあいと祭神に負けるという最悪のケースでも俺のチームは同率2位にしかならないから、勝ち抜けは確定的と言っても良いか。同率2位ならチームリーダーの直接対決というのは大きい。

 

天衣はここまで1勝3敗で、飯盛さんは2勝1敗。想定していたよりかは悪くなかったし、このまま1位で抜けることが出来そう。天衣は、女流棋士チーム以外の先鋒戦で全敗想定だったからな。月光会長に勝ったお陰でずっと楽になっている。

 

そして日程の都合上、先に他のチームの試合が行なわれた結果、順位が確定した。よってこれから行なわれるのは消化試合だけど、来場者数は変わらない。

 

チーム巨匠:先鋒生石九段○、中堅久瑠野七段○、大将辛香四段

チーム炎熱の駒:先鋒月光九段×、中堅清滝九段×、大将鏡洲四段

 

チーム風林火山:先鋒山刀伐八段×、中堅阿曽原六段×、大将八丁五段

修羅雪姫:先鋒九頭竜竜王○、中堅空四段○、大将二ツ塚五段

 

1位:大神   7勝4敗 +3

2位:巨匠   8勝7敗 +1

2位:修羅雪姫 7勝6敗 +1

4位:炎熱の駒 7勝7敗 ±0

5位:風林火山 6勝8敗 -2

6位:天空撃摧 4勝7敗 -3

 

 

……いや、万が一釈迦堂さんに天衣が負けて、億が一俺があいに負ければ2連敗で+1、同率1位が3チーム出来るという構図になるのか。まあ天衣が釈迦堂さんに負けることは無いだろうと思ったら、天空撃摧の先鋒が祭神だった。何で?

 

『祭神の希望でしょうね。あと、億が一でも私があいに負ける可能性は無いでしょう』

(いや分からんぞ?例えばさっき食べた牛丼で食中毒になる可能性は、1億分の1ぐらいあるだろ。将棋である以上、負ける可能性はいつだって0じゃねーよ)

 

祭神と天衣の対局は、天衣の後手で始まる。勝てると思いたいところだけど、まだ天衣と祭神の実力差は勝ち負けがはっきりしているほど大差じゃない。大差じゃなければ、将棋というのは10局指せば1局は勝てる。その1局がこの対局である可能性は否定出来ない。

 

(アイはまだ九頭竜に10割勝てる?)

『勝てますよ?何でマスターが不安になっているんですか』

(いや、最近の祭神が4月の女王戦の時より一回り強くなってるなと思って)

『強くなったというよりかは、元に戻った感じですね。元々帝位リーグの予選トーナメントで勝ちあがれるだけの実力の持ち主です。女王戦で勝った時のイメージを持ったまま指すと、天衣は足を掬われますよ』

 

帝位リーグに挑戦しながら、あい相手に女流玉将の防衛戦を行なったり、天衣相手に女王戦に挑戦した結果、全てに負けて色々と失った祭神だけど、別に将棋自体が弱くなったわけじゃない。

 

(……後手番角頭歩で、開戦か。乱戦は祭神にとっても嬉しいだろうな)

『奇襲戦法でありながら、上手く決まった形でも別に相手より特別有利になる戦法、というわけじゃないんですよね。ただ高確率で、天衣の得意な乱戦になります』

(その上、研究もバッチリだから今までは開戦していても勝てた。祭神相手は分からんが)

『……祭神もある程度は天衣の得意な後手番角頭歩を勉強したようですね。よっぽどタイトル戦でストレート負けしたのが悔しかったのでしょう』

 

祭神は天衣の後手番角頭歩に、6六歩と角道を止めてからの開戦を選択。後手2四歩から6六歩、4四角、2五歩の流れだな。角交換をしてから桂馬を跳ねる流れが無くなって、そのまま桂馬が跳ねるだけだから大した変化はない。

 

その後祭神は2三飛成と竜を作り、天衣の2二飛を誘ってから2四歩とと金を狙う。この辺はすでに定跡化している流れでもあるけど、天衣が特段良くはならない変化だな。お互いに飛車を持った状態で、序盤から一気に終盤戦へ移行する。

 

桂馬を跳ねさせ、2七飛と打ち、と金と桂馬を狙う天衣だが2四飛と祭神に合わせられ、2六歩と打つ。この辺は研究済みというか、幾つかある内の既定路線の一つ。しかしこの既定路線は、進めば進むほど天衣有利か。2四飛よりかは2八飛の方がまだマシだった。

 

恐らく祭神は、開戦して勝算があったのだろう。この角道を止めての飛車交換は、互いに敵陣を食い破る形だ。しかし残念ながら、この形での開戦で祭神が2四飛と合わせる受け方について、天衣はほぼ全変化を終局図まで把握済みだ。

 

まあアイにも見落としがあるかもしれないし、アイ以上の指し手が思い浮かぶなら祭神の勝ちもあり得るけど……既にこの形は、アイが終わらせた形だ。以下3八銀、2八飛成まで進んで、祭神が若干劣勢。やっぱり後手番角頭歩で先手から開戦するのは駄目だな。

 

この後で天衣には3五角と角を上がり、祭神の飛車に当てる手が存在する。これを受けるのは中々に難しく、祭神は少し考えてから5八金左と指す。ぶっちゃけ良くない手だし、天衣は構わずに3五角と上がり、祭神は3四飛と角を狙う。あ、終わった。

 

『……2七歩成以下、天衣の優勢は揺るぎないでしょうね。角を捨てて、攻めを成立させます』

(ここから逆転の芽はねえな。3四飛は直感的な奴ほど嵌るし、天衣の守りは薄いけどそれ以上に祭神の守りが見た目以上に薄い)

 

角と引き換えに、金銀2枚を手にする天衣。実際にはと金も使っているから角+歩と金+銀の交換だけど、それでもかなり天衣が有利になった。そしてこのままだと必死がかかる祭神は6八玉と早逃げをするけど、ここからの挽回はアイでも難しい。これでまだ30手ほどしか指してないのが後手番角頭歩の恐ろしいところ。

 

『祭神が何か突拍子もないことをしてくれるかと期待しましたが、駄目でしたね』

(開戦して勝ってリベンジしようとした決意は見て取れたけど、スッパリと斬られたな)

『そもそも6六歩が論外です。祭神の敗因は5手目6六歩ですよ』

(随分とはっきり言うな。角交換からの飛車交換を防ぐためとはいえ、歩で止めるのは悪手だったか。その後の4四角は手損のように見えて、かなり好手なんだよな)

『3三角と出る変化もありましたが、祭神が開戦すると読んだんでしょうね』

 

これでチーム大木の1位抜けは確定し、決勝トーナメントでは向こうのリーグの2位のチームと対戦することになる。その前に、あいとの対局を終わらせてくるか。ヤバい勢いで成長しているのは棋譜からも分かるけど、実際に対面して指さないと分からないこともある。まだ天衣には勝てないと見たのか、俺に挑戦してみたかったのかは分からないけど、アイが指すし手加減はない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あいと天衣

あいとアイが対局をするのは、先月のゴキゲン研以来か。しかしまあ、本番の方が力を発揮できるタイプというのは凄いな。俺は本番や大会とかで、実力を出し切るのが苦手なタイプだったから実力以上を出し切れる九頭竜師弟は素直に凄いと思う。

 

対局はアイの先手で、お互いに居飛車だけどアイは急戦矢倉を選択。持久戦をするかしないかは相手の出方にもよるし、噛み合わないこともあるけど、急戦をするかしないかは権利です。

 

『……本当に序盤中盤とそこらのプロ棋士と比較しても遜色のない程度の将棋は指すようになりましたね』

(それでいて、終盤力は人類史上最強レベルか。そりゃ勝ち続けるわ)

『原作でも昨年の6月ぐらいまでの女流棋戦で負け無しでしたし……それ以降の描写は無かったので分かりませんが、勝ち続けていたでしょうね』

(将棋を始めて3ヵ月の段階で将棋図巧を完全制覇出来る奴は、探せば日本全国に数人はいるだろうけど、旅館の手伝いをしながら盤面を見ずに解くのは人間辞めてるし、今の天衣でも絶対真似出来ねえ)

 

あいとの対局は、アイが有利を保ったまま中盤の山場に入る。……低く構えられると、それだけで指し辛くは感じるな。アイは苦にしないようだけど、俺だと絶対に手間取る。あいは強くなったし、これからも天衣の脅威にはなるだろう。あいと同等以上の終盤力の才能を、天衣に与える方法は無いだろうしそもそも俺が知りたい。

 

『マスターは、少し勘違いをしていません?あいが天衣と同じく急成長をしているのは、才能だけじゃないですよ』

(ん?九頭竜の育成能力が段違いだったとは言わせねーぞ?原作よりも強くなる理由は揃っていたけど、才能も大きいはず)

『そもそも原作とこの世界の雛鶴あいの違いとして、将棋を指す理由とかも違っている感じがしましたが?』

(原作は、好きな人である九頭竜への憧れが大きなウエイトを占めていただろうな。一方で今目の前にいるあいは……天衣に勝つという気迫を持って指している。その違いは大きいだろうな)

『というか、九頭竜に弟子入りをして将棋道場でも同年代の子達に勝ったり負けたりと1番楽しい時期に、天衣という爆弾と将棋を指させたのはマスターじゃないですか』

 

初めてあいと天衣が将棋を指した時、天衣は反則負けをした後にあいに5連勝した。反則負けした将棋も実際には勝っていた内容の将棋だったから、同世代相手に実力の差を見せつけられて6連敗。将棋を指す理由が、根本的に変わっていてもおかしくはない。

 

目の前にいる、小学6年生の雛鶴あい。女流とはいえ既にタイトル戦は5回経験しているし、その内の4つは奪取した。昨年の秋に空さん相手に1勝していたけど、よく考えたら三段リーグを17勝1敗で勝ち抜けた空さん相手にタイトル戦で1勝したのはヤバいとしか言えない。そしてその頃と比較しても、明らかにあいは成長している。

 

九頭竜とマンツーマンだし、自分の前を進み続けるライバルもいるし、あいにとっては目の上のたんこぶ的な、絶対に負けられない恋敵もいる。人類最強の終盤力も合わせて、強くなる理由は幾つもあるな。そして実際、強くなったわけだ。プロ棋士相手の連勝は、理由あってのことだな。

 

アイの突き歩に、あいは下の唇を噛んで必死に考える。顔に出るところは可愛いんだけど、指し手は全然可愛くない。俺が指していたら負けていた可能性すらある。……俺は格上相手に勝つのが得意だけど、格下相手に負けるのも得意だからな。格上相手に3局に1局は勝てるなら、格下相手に3局に1局は負けるのもよくあることだけど。

 

(あー。ハーゲンダッツ食べたい)

『持ち時間短いんですから我慢して下さい。アイス食べてお腹冷やして時間切れ負けとか一生残る汚点ですよ』

(分かってるよ。でもタピオカ飲んでる時点で同じな気がするわ)

『タピオカは、まだブーム続いている感じですかね?売り上げ下がっていませんでしたし』

(何か、タピオカは定番品として今後も残りそうだな。最近は中高年のおっさんすら飲んでいるの見かけるし)

『……中高年のおっさんが常飲したら、糖尿病一直線でしょうね』

 

あいの終盤力は、人類最高峰だけどアイを上回ることはなかったようで巻き返しには至らなかった。中盤の山場で少し遅い手で攻め始めた結果、それが終盤まで響いた形だな。天衣が勝ち、俺が勝ったことでチームは2連勝。結局飯盛さんは、3局しか指さなかったな。まあ大将はどこのチームもそんな感じだけど。

 

最終結果は、俺のチームが1位で九頭竜と生石さんのチームが同率の2位。そのため九頭竜と生石さんの一騎打ちが始まる。結果は見えているようなものだけど、九頭竜が絶対勝つとはアイでも言い切れない。九頭竜がミスをする確率は、決して0じゃないからな。小数点以下の確率で九頭竜がミスをする確率は存在する。

 

「生石さんは気の毒だけど、山刀伐さんに負けたのが痛かったか」

「山刀伐さんと生石さんって、昔は生石さんの方が勝率高かったけど今は互角よね?」

「ああ。昔は生石さんの勝率の方が高かったのに今の通算成績は五分になっている、ということは、最近は生石さんの方が負けているということだな」

 

九頭竜と生石さんの決勝トーナメント進出を賭けた一戦は、九頭竜が勝利して最終順位が確定。結局リーグを勝ち抜けたのは、俺のチームと九頭竜のチームか。強いチームリーダーがいるチームは、残り2人で1勝すれば良いだけだからやっぱり勝ち抜けやすいのかな。

 

1位:大神   9勝4敗 +5

2位:修羅雪姫 7勝6敗 +1

3位:巨匠  8勝7敗 +1

4位:炎熱の駒 7勝7敗 ±0

5位:風林火山 6勝8敗 -2

6位:天空撃摧 4勝9敗 -5

 

最後の順位表だけ見ると、結構な独走状態である。俺が5連勝しているから、天衣が2勝3敗、飯盛さんが2勝1敗と2人で4勝4敗の指し分けでもチームとしては独走か。むしろ2人でよく指し分けまで持って行ってくれたわ。

 

『天衣が月光会長に負けていたとしても、勝ち抜けてはいましたね』

(清滝先生に飯盛さんが勝てるか否か、ってところか。もし月光会長のチームに負けていたら+2が-1になっていたから……それでも+2か。1位が月光会長のチームになって、その方が展開としては面白かったかもな)

 

もう片方のリーグは歩夢のチームが1位抜け、名人のチームが2位抜けだったので決勝トーナメントの初戦は名人のチームと対戦することになった。決勝トーナメントも先に2勝したチームの勝利なので、要するにチームとして勝ち越せば良いわけだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あいのEye

一度で良いからあいも大木と公式戦で戦えたらな、と九頭竜はあいに言っていた。天衣の師匠であり、九頭竜が唯一勝てない相手である大木のことを、あいは基本疎ましく思っていた。

 

ゴキゲンの湯での研究会は、結局多忙な人達しかいないために月に一度あるかないかの頻度となり、あいは大木と一度しか練習試合をしていなかった。その対局であいは、飛車落ちという手合いで負けている。1年以上駒落ちの下手を指していなかったことも理由にあるが、そうじゃなくてもあいは大木にまるで勝てる気がしなかった。

 

その対局の直後、釈迦堂から連絡が入ってあいは女流棋士チームに入ることを決意する。天衣へのリベンジと、大木と公式戦での試合をすることが目的だったが、残念ながら天衣が大木のチームに入ったことであいはどちらか片方しか選べなくなった。そして頼むから天衣と戦わせてくれと頭を下げる祭神の姿を見て、あいは大木と戦うことを選択する。

 

「余と違って、若者の成長は著しい。あれだけ凶暴だった祭神も、随分と人として成長し、大人しくなったものだ。

我とて、大木と戦いたいのは山々だが……中堅はあいで行く。心の準備はしていた方が良いぞ?」

「は、はい!」

 

そして大木のチームと釈迦堂のチームによる試合が始まり、先鋒の祭神は僅か30手で負けが濃厚な局面となる。前の週で空銀子との対局で勝利し自信を取り戻し、リベンジしてやると意気込んでいた彼女は、対策しても天衣の後手番角頭歩を止められなかった現実を目の当たりにする。

 

チームに用意された控室に入って来るなり、地面に座ってへたり込んで泣き始めた祭神を見て、2年前のマイナビ女子オープンで当たった時に感じた祭神の怖さが感じられなくなったと思ったあいは、モニター越しに原因を作った天衣を見る。彼女がここまで強くなったのは、大木の存在があったからこそだ。

 

あいは天衣に、平手では最初の対局以外勝ったことがない。竜王位を獲得した九頭竜に才能を認められ、2年半の月日を将棋に費やし、それでもまだ届かないライバル。その元凶と、今から戦う。

 

選手紹介があり、名前を呼ばれてからSリーグ用の特別ステージに昇ると、既に大木は向かい側に座っていた。清滝九段のように無理に怖い顔を作っているわけでなければ、緊張した面持ちでもない。これが普段の公式戦に挑む大木の姿なのか、消化試合だから手を抜いているのか、あいには分からなかった。

 

将棋は、対面している者と外から見ている者とでは見える世界が違う。今まで何度も見て来たはずの大木の真剣な顔は、確かに外から見れば真剣に見えるのだろう。しかしあいは、その真剣な顔の大木の視線が本来向かっていないとおかしい場所を見ていないことに違和感を感じた。

 

「……焦点が、僅かに合ってない?」

「あ?」

「いえ、何でも無いです」

 

序盤が終わり、開戦まで手が進んだところで、あいは大木の焦点が僅かに合っていないことに気付く。人はボーとしている時、焦点が合わなくなることが多い。要するに今、大木は完全に気が抜けた、ボーとしている状態で序盤を指し終えたのだ。

 

あいは嘘でしょと叫びたかった。今回の序盤は、大木にとってもあまり見たことがないであろう変わった指し方だったとあいは考えている。定跡から外れた、不定形な形で大木の急戦矢倉を迎え撃つ形は出来ている。それに対応する、大木の形も少し特殊な陣形になっており、定跡からは外れていた。

 

改めて、あいは大木の突き進められた歩を見る。開戦の合図であり、取れば不利な展開が避けられない。しかし取らないとあいの陣形は僅かに綻びが出て、その隙を大木は逃さないだろう。あいは下の唇を噛みしめて、同歩とその歩を取った。

 

中盤戦は、一方的な展開だった。あいの遅い攻めに付き合ってられるかと言うかのような素早い攻めにあっという間にあいの囲いは捌け、丸裸にされる。それでも大木のどこか真剣味の足りない表情に、実際に対面するとここまで印象が変わるのかとあいは思った。

 

終盤は逆にあいにとっては指しやすかった。大木がどう寄せようとしているのか、分かることが多いからだ。しかしどう寄せるのかが分かったところで、防ぎようが無ければどうしようもない。たとえ防げても、まだ大木の囲いは健在の上、攻めのとっかかりすらない状況だ。大差と言っても良かった。

 

「大木と初めて戦って、どう感じたか教えてくれないか?」

「練習試合で、あの雰囲気なら分かります。でもあれは……」

「敵とすら見なされていない、だな?」

「はい、ししょー……」

 

試合終了後、九頭竜の家に帰ったあいは、九頭竜に質問をされる。その質問に正直に答えたあいは、逆に九頭竜に質問をした。

 

「あんなの、許されるんですか?」

「傍から見たら真剣そのものな顔だし、あれで勝つからな。言っておくが、昔はあんな感じじゃなかった。何よりこの世界は、強い奴が正義だ。大木も大木で対外的な部分は色々と気を遣っているから、何も言われては無いよ」

 

正面から見た大木の将棋は、あいにとって色々と衝撃的だった。それと同時に、許せない気持ちも湧き上がるが、九頭竜は言葉を足す。

 

「あいも初心者に指導対局をする時、あんな感じになってないか?」

「う゛っ。そ、そんなことにはなってないですよ」

「取り繕わなくても良い。初心者と平手で何局も指さないといけない状態で、退屈を感じる対局が絶対にないと言えるか?何時間もウンウンと考えて、明らかな悪手を指す相手だぞ?」

「それは、退屈を感じるかもしれません。…………え?」

「……そういうことだ。それだけ大木と他のプロ棋士には差があるし、だからこそ許されているんだよ。

でもそれが俺の努力を止める理由にはならない。もちろん、あいの努力を止める理由にもならない」

 

大木とその他のプロ棋士との歴然とした差を、改めてあいに表現する九頭竜。その上で、それでも努力を止める理由にはならないとし、あいは師匠の意気込みが見て取れた。

 

大木と将棋を指して、改めて思うのはその強さと、異質さ。そしてそんな大木の指導を受けているであろう天衣が、どのようにしてあの強さを身に着けたかだ。大木とは違い、天衣の強さに異質さは感じられない。しかしそれが、あいにはとても奇妙なことのように思えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

香落ち

Sリーグ期間中に行なわれた篠窪さんとの棋帝戦はストレートで防衛を果たし、三番手直りのせいで迎えた第4局。香車を落としての対局となったが、アイの若干優勢である。タイトルを挑むようなプロ棋士を相手に、駒を落として勝てるアイさんは色々と異常だけど、そもそも香落ちはそこまで大きな差が生まれない。

 

例えば実力が全く同じプロ棋士が2人いたとして、勝率が5割だったとする。それが香落ちになると、上手の勝率は3割になる程度かな。何より、香車を落とすことによって先手番を貰えるならアイにとってハンデにはならない可能性すら出て来た。

 

『香落ち上手の研究も一応していましたが、数が足りていないですね』

(これで5局目も香落ちは変わらずか。アイに香落ちで勝つのも難しいだろうし、三番手直りの効果が出るのは7局目まであるタイトル戦の第7局だけか)

『流石に香落ちと角落ちとでは、話が違いますからね』

(大駒が無いのは流石に大きいわ。……なんで平香交じりまでにしなかったし)

 

7月から始まる帝位戦は7番勝負だし、九頭竜と二日制のタイトル戦で7局も指すとかちょっと辛い。14日間は将棋盤を挟んで対峙するってことだしな。そして九頭竜相手に角落ちで勝てるとは思えないので、一昨年の玉座戦以来となるタイトル戦での敗北をすることになるのは確定事項だ。

 

……これ、7番勝負のタイトル戦がストレートで決着することの防止策でもあるんだよな。3連勝すると香落ちの手合いになるから、4連勝し辛い。あとは、決着がついている状態で互いに本気では指さないのではという不安の声もあったけど、駒を落とされる側の棋士は負けたら確実に悪評が付く。

 

だから本気で指すだろうし、スポンサーの救済措置とはいえ、プロ棋士にとってはマジで悪魔のシステムだ。まあアイはアイで楽しんでいるようだし別に良いけど。

 

『篠窪さんの顔が歪み始めましたね』

(……まだ差はなくね?)

『もう差が無くなったの間違いですよ馬鹿マスター』

(いや、それは分かっているけど向こうの形勢判断の基準が分からん。まだほぼ互角なのに苦しいか?)

 

香落ちのアドバンテージは既に無くなり、苦しい顔が多くなった篠窪さん。ルックスの良い人は苦しんでいる時まで格好良いとかずるいわ。またファンが増えるんだろうな。元々テレビ受けが良い人だけど、最近はさらに露出が増えたし、学歴があるのは良いなあ。

 

(香落ちって、相手に端を攻めさせたらむしろこっちが有利なの?)

『こちらが有利になることは無いですが、香落ちのアドバンテージを活かすなら当然端攻めは必要です。しかし玉は落とした香とは反対方向にいるので、端攻めが成功した時の利点はそれほど大きくないです』

 

こちらの攻めを躱しつつ、何とか香車を成り込んでこちらの端を突破し、端攻めに成功をした篠窪さん。こちらを崩すのは早かったけど、全体的に見ると遅いんだよな。

 

そして躱したはずの攻撃が再度ブーメランのように篠窪さんの攻めの方の陣形へ突き刺さる。香車に続いて成り込みたかったはずの篠窪さんの飛車は歩によって封じられ、最下段に追い込まれた。この時点で、もうアイ有利になった感じかな。

 

成香を取り、逆に突破された端から逆襲するアイさんはそのまま篠窪さんを抑え込んだまま勝利。香落ちでも問題無く勝てたけど、アイ自身が香落ち上手の対策がまだまだだと感じたそうなので次の第5局までにはさらに強くなる模様。篠窪さんは香落ち下手の勉強を次の第5局のためだけに勉強し直すのは非効率的だし、差は開きそうだな。

 

『7番勝負だと3連敗してもまだ決着していない状態で香落ち対局を迎えるので、香落ちの勉強は無駄にはなりませんが……』

(九頭竜が3連敗からの4連勝とかやっちゃっているから、決着がついていないのに香落ちにする必要があるのかと問われれば微妙だな。……盛り上がる展開は増えるのかな?)

 

3連敗した後の香落ち対局で勝つと、次の対局は平手に戻る。そのまま2連勝して逆王手をかけ、都合3連勝になっても第7局は香落ちにはならない。あくまでこの制度は、平手での3連勝が条件になるからだ。……次のタイトル戦になる九頭竜との帝位戦は、角落ちまで行くだろうな。そこで勝てるかは分からないけど、上手角落ちの勉強も再開したアイは九頭竜よりも準備出来てそう。

 

「……香落ちって、ハンデとして成立させるなら下手が先手番も貰いたいわよ」

「上級者相手の香落ち戦で平手感覚のまま指すと絶対に負けるからな。そう言えば天衣は、香落ち下手の経験が少ないのか」

「奨励会だと、ほんの数戦だけね。すぐに初段まで上がったから、本当の香落ちの怖さは知らずに卒業してしまったわね」

「逆に、上手の指しやすさは知っているか。端のフォローは必要なんだけど、最悪突破されても問題ないからなぁ」

 

天衣が香落ちなら下手は先手番じゃないとハンデにならないと言っているけど、微妙なところだな。天衣が昔、香落ち下手で空さんと相振り飛車になった対局は天衣が穴熊を組んで端攻めされない利点を最大限利用したけど、空さんがもっと攻撃寄りの棋風なら先手番の利を活かして速攻をしていたはず。

 

下手で居飛車党なら素直に居飛車を指して良いけど、上手が定跡通りに振り飛車をした場合、下手が1一角成とした時に香車を取ることが出来ない。もはや香車がないことが、上手のメリットになってしまっている状態だ。何ならこの香車、平手だと取られないようにするために1手使って上げることもあるしな。

 

天衣と今日の対局を並べ終わった後は、香落ちで指してみる。奨励会に入る前、生石さんと香落ち対局で1回だけ勝っているけど、あれは生石さんが大ポカをやらかしたから勝った対局だし、下手香落ちでそのアドバンテージを突くのは本当に難しい。

 

「香落ちの場合は相変わらずの振り飛車穴熊か。別に香車がなくても、端攻めは成立するぞ」

「分かってるわよ。……香落ち上手なのに、居飛車なのね」

「別に香車が無いからって、居飛車を指したら駄目というわけじゃないからな」

 

そして天衣が振り飛車穴熊をしてくるけど、普通に速度勝負で負けていた。穴熊はプロ棋士同士の対局だと、組むまでが勝負だけど俺は穴熊を囲わせてから崩すのも得意だからな。しかしまあ、これから香落ち上手での対局が増えるのか。九頭竜とか、大真面目に対抗策を出して来そうだから少し楽しみではある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女流玉座

天衣は団体戦やらプロ棋士としての対局で忙しい中、女流玉座戦を勝ち進んでいる。今日の女流玉座の二次予選の決勝にも当然勝利し、本戦トーナメントへの進出を決めた。なお本戦トーナメントの組み合わせの結果、初戦は桂香さんになり、準決勝であいと当たる模様。決勝は、面子見ていると祭神になりそうかな。

 

女流玉座戦は一次予選の前段階にあるアマチュア予選でアマチュアも参加出来るけど、晶さんは参加していないし、抽選落ち多数の大会なのでJS研の面子も抽選落ちしている。参加条件が女性で有段者のアマチュアとはいえ、西日本東日本でそれぞれ定員が64名は少ない気がするな。今年の倍率は3倍以上だったらしいし、将棋ブームの到来を実感する。

 

「2五飛とそのまま飛車をぶつけたのは悪手だったな。2一歩成と桂馬を取られてからでも2五飛とぶつけることは出来るし、5六歩で良かっただろ」

「……5六歩、2一歩成、5七歩成、同金、2五飛、同飛、7七角成、同桂、2五歩の順番?」

「何で今一瞬で分かったのに指せなかったんだ。

単に2五飛とぶつける場合より、明らかに敵陣が柔らかくなっているだろ。相手が2五飛に同飛としてくれて助かったな?」

『2五飛に3三角成から飛車角交換をされると天衣は少し苦しくなっていたでしょうね』

(……ちなみに合ってる?)

『合ってます。同じ手順を見つけても、指す順番で結果が大きく変わるのが将棋ですからね』

 

対局後の反省会をいつも通りにするけど、相手も二次予選の決勝まで勝ち上がって来たから弱いわけじゃ無い。だけど、女流棋士は女流棋士。最悪終盤で巻き返せたと思うが、それでも天衣に油断と隙があったのは確かだ。まあ、慢心する気持ちも分かるけどな。実力差があり過ぎる。

 

「で、1回戦は桂香さんか。桂香さんが予選を勝ち抜いて本戦まで出て来たの、もしかして一昨年の女王戦以来?」

「確かそのはずよ。清滝一門なのに、目立ってないわね」

「清滝一門は桂香さん以外、本当によく目立つからなぁ……。清滝先生はあいに負けて全国100万人の将棋ファンの前で大号泣してたし、めっちゃ目立ってた」

「放尿するよりマシじゃない。スタッフ全員、恩返し事件の再来が起きることに戦々恐々としていたんだから」

 

Sリーグで清滝先生とあいの対局は、清滝先生の作戦負けという清滝先生にとってかなり恥ずかしい負け方だったため、九頭竜に負けた時のように窓から放尿するか、下手すりゃ脱糞すると危惧されていたが、大号泣で済んでいる。九頭竜も空さんも世間の知名度は高いし、女流四冠になったあいは何回かテレビにも出ているけどキャラが濃い。

 

そんな中、清滝先生の娘である桂香さんはかなりの常識人でキャラが薄い。年齢制限ギリギリで女流棋士になったし、去年今年と勝ち越せてはいなかったはず。それでも2年間で参加棋戦数の3/4の勝ち星は稼いだため、女流2級にはなった。確か今年、28歳になるんだっけ。30代が見えて来て、未だに男の噂が全くないのは少し心配になる。

 

九頭竜の好みとしては、桂香さんがアジャストしていたはず。というか原作で九頭竜から桂香さんに告白っぽいことしてなかったっけ?桂香さんも将棋を除いたら九頭竜が1番好きなようだし、現実的な思考に切り替わった時に桂香さんが九頭竜へアタックする可能性は普通にあるな。

 

『九頭竜の周辺は、九頭竜が歳を重ねるごとにドロドロしていきますね』

(それが九頭竜の定めだから仕方ない。あとそろそろ誰かに手を出して一気に事態を加速させて欲しい)

『その結果、九頭竜が刺されるかもしれませんよ?』

(……あー、それは俺が八冠目のタイトルとして竜王を取るまで待ってくれ)

『えっ?名人を最後にするのでは?』

(うんにゃ、ぶっちゃけ迷い中。ただ九頭竜の方が良い勝負になりそうだし、どちらが先でもあんま変わらん)

 

桂香さんの将棋は、女流棋士の平均クラス。ただ何回か格上には勝ってるし、そのうち一回ぐらいはタイトル戦に出て来そう。しかしまあ、晶さんがもう少し強くなれば届いてしまいそうなレベルだから、よく二次予選を勝ち抜けたなと思う。組み合わせが良かったんだろうけど。

 

「岳滅鬼さんも勝ち抜いてるじゃん。元奨は強いな」

「あの人、本当に奨励会2級で停滞していたのってぐらいには強いわよね」

「……岳滅鬼さんは最後の例会日、最後の対局で1級昇級を逃して退会した。普段は指し分け程度で安定していたようだけど、奨励会に10年近く居て、通算勝率が5割を超えているのは腐っても才能があった証拠だな」

 

トーナメント表を見ると、当然のようにいる岳滅鬼さん。原作でも最後の例会日、三連勝しなければ退会しなければいけない、みたいな描写があったと思うけど、要するに三連勝していれば彼女は昇級していたのだ。

 

満21歳の誕生日を迎えるまでに初段になれなかった場合、奨励会は年齢制限を迎える。ただしこのルールは例外もあるし、岳滅鬼さんの場合は女性ということも考慮され、21歳の誕生日に1級に昇級したのなら、半年の猶予が与えられることになっていた。所謂ラストチャンスなわけだが、そのラストチャンスの日に彼女は2連勝した後、攻め気になってしまい大敗して昇級を逃した。

 

「徹底的な待ち将棋を続けたせいで才能が潰れたとか色々と言われていたけど、今の岳滅鬼さんを見ていると奨励会での10年は無駄じゃなかったようだな」

「でも、あいは負けないでしょうね。今まで岳滅鬼さん相手に、3戦全勝よ?」

「待ちスタイル対待ちスタイルのせいで千日手は発生したから、全勝とは言い辛いな。……月夜見坂さんは、予選で岳滅鬼さんに負けてるのか。そりゃそうだわな」

 

二次予選を勝ち抜いた16人による女流玉座の本戦トーナメントを勝ち抜けば、空さんとの5番勝負が待っている。タイトルに挑戦するのは、女流でも結構大変だ。あいが去年、どれだけ女流棋界を荒らしまくったかがよく分かるな。

 

九頭竜はあいに経験を積ませるために女流棋士に専念させたっぽいけど、釈迦堂さんも月夜見坂さんも供御飯さんも完全にあいの餌にされた形だ。祭神はまあ……天衣にしてやられてたししょうがない。祭神は女流帝位戦の第1局であいに完勝しているんだよな。その後、天衣との対局でメンタルブレイクして3連敗したけど。

 

その内、天衣対あいのタイトル戦も始まるだろう。……九頭竜の狙いは、これかもしれないから性質が悪い。天衣が女流のタイトルを取ろうとすれば、嫌でもあいと対局し続けないといけない。今のあいを見ていると、いつか運やまぐれで天衣に1勝する日は来るだろうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

帝位戦

九頭竜との帝位戦が始まり、2日制のタイトルなので都合14日間は九頭竜と顔を合わせることになる。この帝位をとれば、俺は大木六冠と呼ばれるようになるのか。九頭竜は今竜王と帝位の二冠だけど、九頭竜二冠と呼ばれることはない。竜王のタイトルの方が優先されるから、九頭竜竜王のままなんだよな。

 

(そして竜王相手に角を引いて勝つ可能性があるという。名人に香を引いて勝つ、よりか現実味がねえな)

『私も九頭竜相手に角落ちはキツイと言いますが、角を引かれて九頭竜が冷静でいられるかも疑問ですしね』

(……第7局が北海道とかマジ?当然のように第4局で旅館ひな鶴が使われているけど、石川までも遠いんだよなぁ)

『石川までは乗り継ぎなしで電車一本じゃないですか。北海道は飛行機を使わざるを得ないですけど』

 

第1局は愛知県の料亭で行なわれ、九頭竜が先手番になる。……九頭竜は俺が目標だろうから、名人を抜いても成長の足を緩めることはない。原作で才能を数値化した時、1番高かったという九頭竜が全身全霊で、俺を抜くための努力を続けている。まあ将棋指しは努力を止めた人間から転がり落ちる世界なんだけど。

 

戦型は相掛かりとなり、九頭竜は当然右玉。一方でアイも右玉だけど、飛車を引いて三間飛車の位置まで飛車を移動させる。天衣が得意な陽動振り飛車っぽくなったな。……天衣が得意な戦法って、後手番角頭歩を除くと陽動居飛車、陽動振り飛車、振り飛車穴熊と結構ゲテモノ揃いだな。まず後手番角頭歩戦法自体がゲテモノだけど。

 

飛車と玉がピッタリくっついている九頭竜に対し、こちらは結構飛車と玉の位置が離れている。今の価値観だとこれで差は生まれないけど、一昔前なら玉飛接近すべからず、という将棋の格言があるように、九頭竜の形は愚形という認識になるだろう。

 

そしてこの玉飛接近すべからずという格言が出来た理由は、当然ある。玉と飛車が同じ場所にあると、銀桂香などを使った王手飛車をかけやすいのだ。まあ奨励会員以上がそう簡単に王手飛車を食らうことはないけど、アマチュアなら多いんじゃないかな。

 

『王手飛車、狙いましょうか』

(幾つか筋は見つけられるけど、全部回避可能だろ。九頭竜も飛車は逃がすだろうし、無理だな)

『その無理をどうにかするのが楽しいんじゃないですか?』

(疑問形で聞いて来るな。お前は楽しくないのかよ)

『平手では、どうやっても勝てる気しかしないですからね。3五歩』

 

飛車を移動させた後は、一気に攻めを加速させるアイ。3九にいる飛車も活躍しているけど、6四にいる角の方が効いているな。並のプロ棋士はここら辺からガタガタになり始めるけど、流石に九頭竜は一筋縄では行かない。キッチリ粘って、反攻に転じる準備はしている。なおその準備が活かされることは無い模様。

 

『九頭竜が1日目の終了5分前に指すって、随分と信用されていますね?』

(これ、このまま5分間保持してやろうか。九頭竜は自分から封じ手をしたい派だから、それだけでかなり面食らうぞ)

『いえ、指しましょう。4六歩』

(……封じ手、1回ぐらいはしてみたいんだけど。まあいいか)

 

九頭竜は1日目の終了時刻5分前に着手する。これ、封じ手をしたい派だと考えられないことなんだよな。普通はタイトル戦にもなると1手5分なんて短いぐらいだし、確実に相手へ封じ手の権利が渡ってしまう。それでも九頭竜が指したのは、俺がノータイムで返してくるという信用からか。

 

確かにこの手の反応を見てから、封じ手はしたかったのかもしれない。自分でもこの2手が進む前と進む後では、読む量が違ってくると分かるぐらいだからな。ただ、明日の朝まで九頭竜が読んでも、この先打開することは難しいだろう。既に盤面は、アイ優勢だ。

 

1日目の終了時刻を迎えて、九頭竜は残り少ない持ち時間を費やして封じ手を考える。……地味に定刻まで指したのは初めてか?今までは、早目に打ち切られていたからな。まあ、九頭竜がそれだけ序盤中盤に時間を使っているということだし、だからこそ九頭竜は終盤で持ち時間が足りないという事態によく陥る。

 

『もしも持ち時間30時間の対局があれば、九頭竜に勝てる人は私を除いて誰もいないでしょうね』

(持ち時間30時間は、過去の公式戦で1番持ち時間の長い対局だっけ?実質持ち時間無制限みたいなものだよな)

『1週間かけて戦うとか、マスター発狂ものですね』

(俺じゃなくても発狂するだろ。……で、この後で九頭竜は明日の対局開始時刻まで15時間ぐらい読み放題なんだけど、大丈夫だよな?)

『心配ご無用です。明日マスターがノロウイルスとかで倒れない限り、勝ちは揺るぎません』

 

泊まることになる料亭では、夕食として数万はしそうな料理が並ぶ。費用は全額スポンサーが出してくれるので、お高い料理を食べることも増えたけど、夜叉神邸で食べる夕食以上に美味い飯が出て来るところってそう多くは無いんだよな。どんな料理人を雇っているのか少し気になる。

 

……電子機器類の持ち込みが禁止されるようになったら、この旅館の部屋に取り付けられているテレビとかも撤去されるのだろうか?テレビを付けると、ちょうど帝位戦のことが報道されていた。お互い18歳同士、次代を担うタイトルホルダー同士のタイトル戦ということで、わりと世間からの注目度は高い。

 

というか朝のニュースとかでも大きく取り上げられているようだし、それに伴っておやつタイムで必ず俺が食べるアイスとタピオカの写真が出るという。何で棋士の昼食やおやつってこんなに人気あるんだろう?

 

『将棋の内容を報道しても一般人には何も響かないでしょうに。1番共感できるのが昼食とおやつなんですよ』

(まあ、内容を報道しても意味は無いからな。どちらが勝勢かも、報道した後で逆転したら大変だし、アイスとタピオカ特集になるのか)

『これから暑い時期ですし、一般人には1番需要のある特集ですね』

 

今回のニュース番組で放送されていた帝位戦の内容、半分ぐらいが九頭竜の食べたういろうと俺の食べたクリスピーサンドで盛り上がっていた。食べた理由についても色々と考察されてたけど、九頭竜は単純に高いういろうを食べてみたかっただけだし、俺はアイスが好きだから食べてるだけだぞ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

分岐

九頭竜と大木の帝位戦が始まり、天衣は聞き手役としてニコ生の解説に呼ばれた。解説役は山刀伐八段で、天衣とコンビを組むのはこれで3度目となる。

 

「皆様おはようございます。聞き手役を務める夜叉神天衣です」

「そして解説は私、山刀伐尽が担当します。よ、ろ、し、く!」

 

黒のゴスロリ衣装に身を包んだ天衣は、山刀伐と共に始まりの挨拶をする。そのうちカメラには対局者である大木が先に姿を現し、下座で胡坐を組む。しかし九頭竜が後から現れると、大木は正座に組み直した。

 

「画面中央の立会人は生石九段、記録係は鏡洲四段です。山刀伐先生は両者と対局経験がありますが、九頭竜竜王とは指し分けの星でしたね?」

「指し分けと言っても、最初の3連勝はまだ九頭竜竜王が弱かった時期だからね。いや竜王を取った時は強かったけど、まだまだ荒かったというか、それが今では大木五冠以外敵無しだからボクでも敵わないよ」

「そうは言いつつ、負け始めた後も2勝はしてますね?」

「ボクも九頭竜竜王も結構勝ち上がるし、対戦する機会は多いからね。流石に何度も負けるような醜態はさらせないよ。……大木五冠以外にはね」

 

九頭竜と山刀伐はタイトル戦の予選や本戦で当たることが多く、現在までの対戦成績は5勝5敗と五分である。最初の3連敗の後から九頭竜は強くなったという山刀伐だが、その強くなった九頭竜を相手に2勝しているところにこの男の強さが垣間見える。

 

「夜叉神くんは大木五冠と公式戦での手合わせ、まだしたことがないよね?」

「はい。雑誌の企画で夏休みに指す予定ですが、公式戦ではありません」

「人によっては、大木五冠との対局は色々と感じるものがあるから、是非弟子の意見は聞いてみたいね」

「えっと、それってどういう……?」

 

九頭竜に触れた後は、もう1人の対局者である大木に触れる2人。まだ公式戦での大木と天衣の対局は実現しておらず、団体戦も同チームである以上、対局の機会が無い。そもそも新四段の天衣が、タイトルの数が六冠になろうとしている大木と公式戦で戦うことは難しい。

 

当然のことだが、タイトルを持っている場合はそのタイトルの予選に参加しないし、九頭竜やA級棋士達を相手に最後の1人になるまで勝ち続けないとタイトル挑戦者にはなれない。

 

「夜叉神くんは初心者に指導する時、ある程度出力を落とすよね?あれを自分が受けると、なかなかに心に来るよ」

「……でも、それでも山刀伐先生は勝てなかったんですよね」

「うん。大木五冠には1度も勝てたことが無いね。というか本当の意味で、彼に勝てた人はいないと思う。でも、だからこそ自分の未熟さを感じるよ」

 

公然の秘密になっている暗黙の了解を、将棋ファン達が薄々感じていたことを、山刀伐は口にする。それは今日、山刀伐が語りたい内容に関係するからだった。

 

対局が始まると、それに合わせて大きな駒を動かしていく2人。しかし九頭竜が長考を始めると、場を持たせるためにトークが始まる。

 

「ソフトのせいで、一時の自分は将棋が一本道のように思えていたんだ。ソフトは最適解としての指し手を教えてくれるからね。でも、そうじゃなかった」

「ソフトは、特に序盤中盤は深くまで読み切れません。分岐の数が多すぎるからです。だからソフトが提示して来る最適解は、全然最適解ではないと前に師匠が教えてくれました」

「分岐に関しては、10の220乗の話かな?」

「えっと、いえ、その話の続きです。

今の将棋の平均手数は116手で、その分岐は10の220乗になりますが、師匠が言うには将棋の最適解を求める時、116手は短すぎるようです。そして116手が短すぎるということは、116手を元にして出された10の220乗という数字も小さすぎるということになります」

「アルファゼロを相手に、1102手の将棋を指した大木五冠がそういう話をすると信憑性が出て来るね。おっと、そろそろ解説に戻ろうか。視聴者達が退屈してしまう」

 

山刀伐と天衣は、互いに何となく似ている部分があることを感じ取っていた。ソフトと将棋の分岐数についての話になった時、コメント欄には≪10の220乗って何桁?≫≪←221桁だよ≫≪将棋の奥深過ぎィ!≫≪じゃあ今日の対局は長手数になる?≫などのコメントが流れる。なおいつも通り≪天衣ちゃん可愛い≫≪罵りなさい!≫などのコメントも流れるが、天衣も慣れたのかスルーするようになった。

 

「大木五冠と九頭竜竜王の将棋は、相掛かりでの真っ向勝負になっている。そして大木五冠は居飛車から、三間飛車の位置まで飛車を動かした。右玉の弱点を攻めるつもりだろうね」

「九頭竜竜王が2筋突破をしようと端歩を突きましたが、大木五冠は反応せずに3五歩です」

「互いに、攻めが成立するかちょっと怪しいところだね。少し先の展開まで並べてみようか。これを同歩と取った場合は……」

 

九頭竜も大木も、細い攻めを成立させようとするために解説役が読み切れないという事態が発生する。大木の真骨頂が表れる中盤戦で、先に攻めを成立させたのは大木だった。九頭竜の玉が攻めを受けている場所から近いため、受け方をミスすると一瞬で詰んでしまうから、必死に凌ぐ必要がある。

 

その状態でも、九頭竜は攻めを成立させていた。大木の攻撃を受けきれば、返す刀で大木の陣形を破壊することが出来る。そうなれば、入玉も視野に入る。しかし大木がそれを許すはずもなく、4六歩と歩を垂らされて苦しい局面になった。

 

「この4六歩を、ノータイムで繰り出してくる辺りが大木五冠だよね。封じ手まで待っても良かったと思うけど、そんな盤外戦術を取る必要もないってことかな」

「九頭竜竜王は、封じ手をする側の方が多いですからね。山刀伐先生は封じ手に関して、封じる方が良いと思いますか?」

「いやー、気にしたことは無かったかな?封じ手をする側も封じ手をする時に時間に追われるから、難しいんだよね」

 

天衣の質問に、気にしたことがないと山刀伐は嘘の解答をした。封じ手の5分前に大木が指したことにより、ほぼ確実に九頭竜が封じ手をする側になるが、大木が指しているのに1日目の終了段階でまだ勝負が決していない対局はこれが初めてだった。

 

そのため、コメントでは≪九頭竜、1日目終了段階で生存確認≫≪大木はどこかでミスった?≫≪全然ソフトの最適解が指されない将棋≫≪ういろう残ってりゅううう!≫などのコメントが流れた。お茶を啜り、九頭竜が封じたことにより帝位戦第1局の1日目は終了する。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



初の2日制のタイトル戦だった玉将戦は、2日目開始時点で全対局が終わっていた将棋だった。しかし今回はまだ九頭竜が戦える盤面のため、ネット界隈では九頭竜への声援が多い感じ。

 

(流石は西のまおー様だな。ソフト超えは伊達じゃねえわ)

『九頭竜視点は苦しい戦いですが、2日目なのに戦えている時点で他の棋士とは違いますね』

(高いういろうを食べて苦々しい顔する時点でどっかおかしい。大事なタイトル戦中に)

『クリスピーサンドを食べてご満悦な顔をする方も相当おかしいと思いますがね。大事なタイトル戦中に』

 

来年辺りにはスマホも取り上げられそうだなと思いつつ、臨む2日目だけど既に九頭竜の持ち時間は30分を切っている。1日目に時間を使い過ぎているからな。普通の棋士は、終盤のためにある程度は時間を残す。終盤に時間が残らないと、ほぼ確実に負けるからだ。

 

もちろん、終盤に強い棋士なら序盤に時間をたっぷりと使っても良いが、そうする人は少ない。中には序盤に持ち時間をフルに使って、終盤の1分将棋を全く気にしないという変わった棋士もいるけど、大抵の棋士は終盤に時間が残っていないと時間に追われる。

 

今回の九頭竜は、序盤中盤と持ち時間を使いまくった。1日目で終わらせないようにするため、という理由もあるだろうけど、九頭竜の考え方というか、基本方針はアイと共通するところがある。それが序中盤の重視で、九頭竜は今回特に中盤でしっかりと持ち時間を使っている。

 

そして今日の九頭竜の様子を見るに、ここから終局まで、ある程度の回数は読み切っているはず。もうここから終局まで、読もうと思えば読める盤面だからな。俺でも数パターンは読めるけど、全部アイの勝ちパターンか。一夜かけて読めば、数十パターンは読めそう。

 

『九頭竜は10時間ほどかけて、500通りぐらいは終局まで読んだんじゃないですか?』

(は?何それヤバ過ぎ)

『ついでに言うと、私は10分で800通りは終局まで作ります』

(スパコンの事情は聞いてねえ。というかアイはここから何通り一夜で作ったんだ)

『ざっと5万局ぐらいです。ここから負けるパターンは、マスター側を私が指す限り無かったですね』

(九頭竜側もアイが指してるだろうが。それとも3人目の人格でも生えたの?)

『生やそうとマスターが思えば、生えるのでは?』

(そんな簡単に生えてたまるか)

 

九頭竜が残り少ない時間を更に削り、1分将棋に入って着手する。お、勝負手だ。取られる飛車を放置して歩成か。俺ならここで時間を使いたいところだけど、アイにとっては想定済みの手でしかないな。

 

『2八成銀』

(攻め合いか。1手差になるのか?)

『今回は九頭竜が頑張りましたからね。この戦型で2手差以上は将棋のルールの仕組み上、不可能だと思います』

(将棋の底が見えて来た件について)

『残念ながら将棋の底はまだ1割どころか1%も見えてないですよ』

 

アイの言う「この戦型」は、中盤の刺し合いも含んでいる。九頭竜の決死の攻め合いは、全部アイの手の平の上だったということだな。終盤になって案の定九頭竜側に細かなミスも出たらしいし、九頭竜に負ける日は遠そう。

 

九頭竜の玉に必死がかかったところで、九頭竜が最後に王手をかける。一応、逃げたら詰むか?

 

『逃げても最善を選び続ければ詰みませんね。まあ取れば確実に詰まないのですが』

(取ったら角が逃げながら王手、かな。いや必死は解消されないし王手が続かないな)

『そもそも銀をただ捨てした時点で九頭竜玉はどうやっても詰みです。あ、投了しますね』

 

「……負けました」

「ありがとうございました」

 

終局時点で、俺の残り持ち時間は7時間53分。微妙に減っているのはトイレに2回ほど行ったからです。流石に二日制のタイトル戦で、消費持ち時間0分は難しい。キッチリ体調管理すれば九頭竜相手でも行けると思うし、生石さんとの玉将戦では消費持ち時間0分をやったけど、そこまでやる必要性も無い。

 

このまま行けば、4局目で香落ち戦を迎える。最近は色んな将棋ソフトが出ているから、その色んなソフトを相手に香落ちでの多面指しをしているけど、2年半前に角落ちで指していた時よりも圧倒的な進化をしているようで、アイは勝ち辛くなったようだ。なお普通に勝つ模様。天衣がビビって声すら出なくなってたのは印象深い。

 

「いや、角落ちで25面指しして勝ってただろ」

「あの時のソフトと今のソフトで、角落ち分の差はあるじゃない。なのに香落ち25面で勝つのは頭おかしいわよ?

しかもあの時は、当時から見て数年前の型落ちスマホじゃない。今使っているの、最新式のよね?」

「1年前のです。どうせ来年の春辺りに性能の良い廉価版が出るしな。あとスマホで使えるソフトは旧型新型関係なく、ぶっちゃけ弱い」

「今のスマホのソフトを弱いと言えるの、師匠だけだと思う」

 

試しに天衣にソフト相手の多面指しをさせると、かなり良い勝負になっている。……いや、かなり時間は使っているか。持ち時間の制約を付けなかったせいで、単に1対1を10局順番に指しているだけじゃねーか。

 

結果は言うまでもなく、天衣の全敗。まあスマホで使えるソフトと言っても、スマホ最強のソフトは将棋ソフトの大会でかなり良いところまで行ったからな。しかしまあ、このソフトに勝ったソフトに勝ったソフトを相手に搦め手を使ったとはいえ勝った九頭竜は強いわ。天衣との差は、まだまだあるな。

 

『当然ですが、A級棋士との差はそう簡単に埋まるものではありませんでした』

(今は純粋に天衣が大きくなるのを待つしかないか。いくら思考が大人びていても、子供の脳では物理的な限界がある)

『まだ11歳ですし、マスターが11歳の頃の私はA級棋士相手に勝てるかどうかでしたしね』

(そう考えると天衣もやべーな。え、というかその頃のアイってそんな弱かったっけ?)

『マスターとの対局は、相性が良かったから大勝が多かったんですよ?マスターの攻めは分かりやすいごり押しですし』

 

アイは俺が生まれてからずっと強かったし、常に成長を続けているけど、アイが1番成長した時期は小6から中2の時期だろう。天衣は今年中に、何かの棋戦でA級棋士と手合わせして、勝って欲しいかな。直近では名人と対局出来る可能性があるし、是非糧にして欲しい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

名人対天衣

「よし!」

「……名人相手に、完璧に読み勝ったわね」

「いや、マジで将棋を指している時以上に悩んだわ」

 

団体戦の決勝トーナメントの初戦、名人のチームとの試合になったので先鋒、中堅、大将の順番を決める必要がある。あの名人はおそらく俺との対局を希望しているが、俺は天衣に名人と指して貰いたい。よって、ここで読み合いが発生した。

 

そして控室の大きな画面では、その読み合いの結果が表示される。

 

先鋒波関五段、中堅名人、大将鳩待六段

先鋒大木五冠、中堅夜叉神四段、大将飯盛五段

 

あらかじめ順番を入れ替える可能性は高いと公言して、公言通りに天衣と俺の順番は変えた。結果、名人と戦うのは天衣となった。とりあえず名人と戦えるのは大きいし、どうせなら勝ってこい。

 

まずは先鋒戦で、俺は関西奨励会幹事の波関五段と戦うことになる。空さんからは中二と呼ばれているけど、その理由は空さんが小学2年生の時に受けた奨励会試験で、中学2年生の彼が相手だったからだ。負け寸前の将棋で粘りに粘り、空さんをぶっ倒れさせた張本人。プロになってからの通算成績は、5割5分ってところか。

 

『心臓の病でぶっ倒れても、時間切れ負けになるのが将棋です』

(時間には厳密なのが将棋だからな。たまにルーズになるけど)

『両者1分将棋の最中、記録係がトイレに駆け込んだところで対局者の2人もトイレに駆け込み中断になった話は有名ですね』

(昔の話だけどな。というか今だに記録係のトイレに関する規定がないのがおかしいんだよ。囲碁ならあるのに)

『だからというわけじゃありませんが、記録係をする人が減っているんですよね。トイレに行けないのはわりと大きな要因の一つだと思います』

 

俺の後手で始まった波関さんとの対局の最中、トイレのことを考え始めたのは単純に尿意が襲って来たからだ。いやまだ1分将棋じゃないし行ってきても良いけど、特設ステージから降りてトイレ行くのは何か嫌だ。

 

というわけでアイに頼んで粘り強い波関さんを粘ることすら許さない将棋で勝利。波関さんは、飯盛さんより弱かったから先鋒は飯盛さんでも良かったかな。中堅に名人が来るという予想があったから、先鋒か大将のどちらでも良かったんだけど、飯盛さん先鋒なら下手したら2連敗で俺が指せなくなるからなあ。

 

とりあえずこちらのチームが1勝して、中堅戦の天衣vs名人の対局が行なわれる。名人と指すとどんな人でも調子を落とすとか言われているけど、九頭竜はむしろ上がった方だし、天衣もそうなって欲しいかな。

 

「別に勝って来て良いからな?」

「もちろん、勝つつもりで指すわよ。先手の利は、最大限活かして来るわ」

 

頼もしいことを言って出て行った天衣だけど、先手番でも辛いものは辛い。名人と天衣、2人が向かい合う姿は、年齢差もあって微笑ましい光景だな。

 

将棋は先手有利のゲームだと言われているけど、今年の公式戦の先手番の勝率は5割3分。アイ対アイの過去1年分のデータを集計すると、先手の勝率は55%程度。そこまで大きな差ではないけど、差があるのは確かだ。

 

その先手番の利を活かして、天衣は上手く自分だけ飛車先の歩を交換する浮き飛車を選択。2六の地点に飛車を引いて、縦歩取りからひねり飛車か。ん?何か引っかかる気がする。

 

『……マスターが名人とのタイトル戦で、最初に名人に勝った時の対局は盤王戦の第1局です。その時の戦法がひねり飛車です。その棋譜並べを天衣と実戦でしたでしょう』

(うわなつかし。あの時はアイが名人をひねり飛車なんかで倒したと思ったけど、ひねり飛車ってあまり有効的なカウンターが存在しないよな?)

『飛車の居ない2筋の歩を突いて玉頭を脅かしたり、端を攻めたりと方法は幾らでもありますよ』

 

天衣のひねり飛車は上手く決まっているように見えるけど、これ飛車交換して急戦になる奴だ。攻め合いは天衣も強いけど、当然名人の方が強いから勝ち切るのは無理だろう。

 

中盤は、飛車交換をした後に互いに竜を作って攻め合う展開になるけど名人が早い。天衣は金底の歩で一旦は耐えているけど、守りを剥がされるのは時間の問題だな。

 

中々に白熱した戦いで、視聴者達のコメント欄も勢いが増す中、事件が起きる。

 

「うわ」

「これは……やらかしましたね」

『プロになってから、二歩は初めてですね。しかも指してからも気付いていませんよ』

(……ん?名人も気付いてない?)

 

天衣が二歩を指したのだ。当然反則負けだけど、名人は指摘しない。記録係の人はどうしようか少し怪訝な表情をしている。あれ?これそのまま続くの?

 

『ついこの前の棋士総会で、終局後に反則が判明した場合には、終了時の勝敗に関わらず、反則を犯した対局者の負けになることは決まりました。よってこのまま続いて、名人が投了しても天衣の負けになります』

(それは知ってる。これ名人は気付いてないの?)

『気付いてますが、二歩になる手がかなり良い手ですから名人はこのまま続けてみたいのでしょう』

(ああ、うん。名人は続けたいから指摘して無いだけか。もう次の手を指したし、このまま続行かい)

 

今まで将棋界では、投了優先の決まりがあって、たとえ対局中に反則をしても、指摘されなければそのまま続き、投了時の勝敗が優先されていた。これはアマ棋界でもそうだったし、長年変わらなかったことだけど、ついこの前の棋士総会で投了優先から棋譜優先になった。要するにこのまま続いて、名人が投了しても、天衣の反則負けだ。

 

『……名人はこのまま指したら、負けるのは理解しているでしょう。天衣の二歩は、二歩じゃなければ好手です』

(駒を1つ節約しているわけだからな。必然的に天衣は有利になる。と言っても、僅かな差だけど)

 

しかし対局は続き、天衣の歩を名人が取る。この時点で天衣も気付いたようだけど、不思議そうな顔をして指し続けた。対局は天衣の二歩が、二歩じゃなければ強手であり、天衣優勢となる。

 

スポンサーやスタッフさんも中止せず、そのまま天衣と名人は指し続けた。天衣の二歩の時点で終盤だったけど、そこから十数手続いて、天衣の勝勢は固まった。

 

そして名人は、形作りをせずそのまま投了する。これ、後処理が凄まじく面倒なことになりそうだな。棋譜優先の新規定では名人の勝利になるけど、そもそも名人が反則の申し立てをしなかった場合はどうなるんだ?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

反則

天衣と名人の対局が終わり、とりあえず天衣は控室に戻って来る。対局は、二歩を除けば会心譜だったな。問題はその二歩が全てを吹き飛ばす元凶なんだけど。

 

「二歩にはいつ気付いた?」

「……名人が打ち込んだ歩を取った時ね。恥ずかしながら、指してから名人が次の手を指すまでは気付かなかったわ」

「……まあ、指してしまったものはしょうがない。プロでも二歩の反則負けは、年に数回起きることだからな」

『二歩以外の手は遅い攻めになりますし、あの時点で負け将棋でしたよ』

(名人が二歩をさっさと消したから、天衣が勝てたんだよな。負けになるだろうけど)

 

名人も天衣の二歩の痕跡を消すために、即座に同銀と取ったのは悪かった。結局この2手で形勢は逆転し、天衣は僅かに優勢になった。その僅かなリードを保って、見事に名人玉へ必死をかけ、名人を投了させた。

 

……投了優先だったら天衣の勝ちだったんだけど、その場合は流石に名人も二歩を指摘したかな。一番勝負は水物だ。数段の実力の差のある相手に、強いものが負ける場合もある。名人だって生涯通算勝率は7割ぐらいだし、要するに3割は負けているのだ。

 

お偉い人達が集まって協議した結果、天衣の反則負けが優先され名人の勝利になる。まあ新規定では反則が棋譜に残る以上、反則をした時点で負けからは逃れられない。後は俺が先に1勝をしているから、天衣に黒星を付けやすかったというのもあるだろうな。

 

負けを伝えられた後は、やっぱりというような顔をしている天衣だけど、思っていたよりもショックは受けて無い。まだ反則負けをした現実感がないのか、元々負けを覚悟して将棋を指していたのか。どちらにせよ、後で羞恥で悶えてそう。

 

1勝1敗で迎えた大将戦は、鳩待六段と飯盛五段の対局となる。鳩待六段は関東の奨励会幹事で、最近六段になっている。俺や九頭竜もお世話になった人だけど、原作では九頭竜が順位戦最終局で蔵王さんに負けて昇級を逃しかけた時、九頭竜より順位が下の全勝者、鳩待五段が二歩で負けたお陰で昇級を果たしている。

 

……それが俺という存在がいたために、九頭竜は蔵王さんに勝ち、鳩待さんは九頭竜への驚きが薄れたのか二歩をせず、両者共に全勝でC級2組から昇級を果たした。その後のC級1組では九頭竜と清滝先生のせいで昇級が出来なかったけど、好成績だったし、名人に指名されるだけのことはある。

 

『今年のC級1組では昇級候補の一角でしょうね。飯盛さん、二ツ塚さんもそうですが、C級2組を突破したばかりの棋士というのは勢いがあります』

(今年のC級1組は、35人か。その内の2人が上がるけど、飯盛さん、二ツ塚さんの2人に加えて鳩待さんの3人の可能性もあるかな)

『全勝者は、組み合わせ次第で3人出る可能性もありますからね。確か鳩待さんは二ツ塚さんと順位戦で当たる予定ですが』

(それは残念。C級1組から3人以上が上がることは基本無いから、珍しいものを見れると思ったんだが)

『昇級枠の見直しは、来年辺りにあるんじゃないですか?現行ではC級2組からC級1組への昇級だけ3人ですが、C級1組からB級2組、B級2組からB級1組への昇級枠も2人から3人になる可能性があると話していた気がします』

(やべえ、いつの話だそれ。たぶんスマホゲーに集中してたんだろうけど、大事な話は聞いておかないと)

 

鳩待さん相手に、振り飛車を使って上手く捌いていく飯盛さん。確かこの人、奨励会時代は居飛車一本だったんだよな。それが俺の真似をするようになって振り飛車を使い始めたけど、生石さんのような軽快さは全くない。

 

居飛車の感覚そのままで振り飛車を指しているから、奇妙な将棋になりやすいんだよな。俺は逆に振り飛車党から居飛車党に転向した人だから、どちらも指しこなせるけど、九頭竜のように今までずっと居飛車党だった人間が振り飛車を、いきなりプロ棋士レベルで指すのは難しい。

 

『お互い、こん棒を持ってただ適当に振り回しているだけな感じですね』

(ソフト発の手を指し慣れていない者同士が指すと大体こうなる。ソフト発の手を指しこなせる九頭竜が異常なんだよ)

『研究を重ねても指しこなせているのは、歩夢の他、数人ぐらいですしね』

 

飯盛さんは途中で、明らかにソフト発だろうという奇妙な指し回しを見せた。新手だけど大した手じゃないし、さほど得はしていないな。しかし鳩待さんも斬り返し方をミスって泥沼の様相を呈してきた。

 

『……入玉出来ますね』

(とりあえず飯盛さんの方は負けが無くなったか?後は鳩待さんの玉を詰められるかだけど……)

『飯盛さんなら6一金と打って相手玉の入玉拒否を前提とする手を指しそうですが、8二歩ですか』

 

対抗形なのに振り飛車で左玉にした飯盛さんは、入玉出来る形にはなったけど相手も入玉しそうで難しい形だ。泥沼化した将棋は、お互いに負けられない戦いだからか低いレベルで白熱している。いや、視聴者的には十分にレベルの高い将棋なんだけど、三段リーグで昇段がかかったかのような対局だ。

 

意地の張り合いは、最後に飯盛さんが上手く縛って勝利。チームとして2勝1敗となり、決勝で九頭竜のチームと戦うことになった。また九頭竜のチームと戦うことになるのか。今度は流石に優勝を狙って、九頭竜と指そうかな。

 

『優勝賞金1億は大きいですからね。ここまで来れるとは思ってませんでしたし、どうせなら取りたいでしょう?』

(色々と稼ぎ口は増えたけど、それでも1億を目前にして要らねえと言える人間じゃねえからな。九頭竜の性格的に、先鋒に来そうか?)

『完全に読み合いなので難しいですね。ですが最終的に先鋒に来るのは九頭竜だと思いますよ』

(となると、中堅戦で空さん対天衣の組み合わせになるのか?)

『その可能性は高いですね。二ツ塚さんが来る可能性もありますが、空さんより可能性は低そうです』

 

もう一度天衣に九頭竜と指させるのも良いけど、空さんや二ツ塚さんを相手に勝ち切って欲しいし、そもそも九頭竜が先鋒に来るのも確定じゃないから考えるのは組み合わせが決まってからで良いか。

 

それにしても、坂梨さん対空さんの対局はこれが初対局だったのかな。空さんが奨励会に入った頃にはもう三段に近かっただろうし、空さんが三段に上がるのが遅かったから結局対局は無かった。原作のような泥仕合ではなく、空さんがあっさりと坂梨さんに勝ったことで九頭竜チームの決勝進出が決まったけど、出来れば天衣は歩夢と戦って貰いたかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3位決定戦

団体戦は決勝戦の前に3位決定戦が行われ、名人対歩夢の対局はまた名人が勝った。これ歩夢は今年A級順位戦を勝ち抜いても、名人相手に4勝するのは難しそうだな。なんか実力を出し切れていないような気がする。

 

『出し切れていないではなく、出していないのでしょう。名人戦で勝つために、底は見せていない感じですね』

(あ、やっぱりそうなのか。まあこの団体戦で3位決定戦なら無理に勝ちに行く必要性は薄いし、奥の手は見せてない雰囲気だな)

 

歩夢の雰囲気的に、名人相手に挑戦する時はいつも全力って雰囲気だったけど、流石にA級順位戦に参加したからか名人戦を意識し始めているな。順位戦の初戦は於鬼頭さんを相手に完勝してるし、順位戦だけは本当に強いわ。

 

その於鬼頭さんが、ソフトのせいで隠している手札が全てオープンになったとか言ってるけど、それでもプロ棋士には手札を隠している、新手を隠している人達がいるし、歩夢もその1人だろう。

 

あ、そろそろ月光会長はA級残留が厳しそうだし、今年度限りでの現役引退を表明しました。まあ歳だししょうがないけど、きっかけは天衣に負けたからじゃないよな?もしそうだったら後味が悪いってレベルじゃないんだが。

 

まあ将棋連盟会長としての仕事も忙しかったようだし、これからは将棋界の発展に尽力するとのこと。現役を退いてからも、会長は可能な限り続けるようです。月光会長、今年の投票で新たに2年の任期が追加されたから人望が凄いわ。

 

『同い年の清滝先生も今年の順位戦は初戦で黒星が付きましたし、引退がちらついているでしょうね』

(去年は最後の輝きだったって早くも囁かれ始めているからな。あと昔の棋士ほど、引退が早いわ)

『現役を退いても、退会しない限り将棋連盟から普及活動の仕事は来ますから、勝てなくなると引退する棋士は多いです』

(……原作では順位戦で戦える内は将棋を指すと言ってたから、そう簡単に引退はしないと思うけど。C級2組から落ちるとフリークラスだから、そこで引退かな。あと何年指すんだろう?)

 

現役をどこまで続けるかは、本当に人による。A級から落ちたらその時点で引退する棋士もいれば、A級からC級2組まで落ちても指し続ける棋士もいる。正解はないし、いつ辞めても文句は言われない。名人が今年の名人戦で無冠になったら引退すると言ってたけど、別にそれでも問題はない。

 

月光会長が今年度限りの引退を表明して将棋界が騒めいた中で行なわれた帝位戦の第2局は、九頭竜が一手損角換わりを持ち出して来たけど、アイが間違えることなく指し切って終局までずっとレールの上だった。得意戦法を持ち出して負けるのは辛いだろうけど、アイさんが今度はこちら側が一手損角換わりを指しましょうかとか言いだしたので止めた。

 

棋帝戦の第5局も香落ちで篠窪さんに勝ったし、まあ順当に物事は進んでいる。篠窪さんは棋帝戦以降、不調が続いているようです。棋帝戦の第5局が終わった直後の篠窪さんの表情、魂が抜けているような感じだったし、燃え尽きていたからな。

 

(イケメンは魂が抜けててもイケメンだったな)

『口が開いていて、傍から見れば間抜けな表情でも格好良いのはずるいですよねえ。5連敗したのにも関わらず、ファンは増えているようですよ』

(俺がやったら「ハーゲンダッツ待ち」とか言われそう。最近はハーゲンダッツだけじゃないのにハーゲンダッツのイメージが強すぎる)

『今でもアイスの7割はハーゲンダッツじゃないですか。ハーゲンダッツ社の回し者さん?』

(……今月、何回ハーゲンダッツだった?)

『13回の内、9回です。大体7割ですね』

 

一段落したところで掲示板のまとめサイトを覗いてみると色々と面白いレスがある。この大木の被害者一覧を書いた人、誰なんだろうな?

 

 

 

【悲報】大木六冠を止める人がいない【独占間近】

 

1:名無し棋士

ソフトでも良いから大木を負かしてくれ

 

2:名無し棋士

まだ六冠じゃない定期

 

4:名無し棋士

来年辺りにアルファゼロが勝つだろ

体力勝負にすれば人間の大木に勝つ方法は無いはず

 

7:名無し棋士

若手バリバリの王太子が魂抜かれる存在

 

10:まとめの人

大木六冠の被害者一覧

 

名人……2年前の玉座戦で大木相手に防衛に成功してしまったため、唯一大木に対抗出来る存在と今でも持ち上げられる存在。なお衰えを隠せない模様。今年度の勝率は7割を切る。

 

九頭竜竜王……帝位戦で現在進行形の被害者。Sリーグでも被害を被り中。本人も化け物だが同い年にもっとヤバい化け物がいるため将棋面では目立てない。

 

山刀伐八段……大木に全戦全敗のA級棋士。大木は極稀に情けで白星を譲るが、その相手に一度も選ばれていない。挑戦者決定戦など、かなり勝ち進んでから大木と当たることが多いため、1番の被害者かもしれない。

 

生石九段……玉将戦にて大木のノータイム将棋により、1日目が前代未聞の強制終了となった時の相手。ストレートで玉将を失冠し、そのタイトル戦中に5㎏痩せたのは有名。

 

飯盛五段……第二のツイッター芸人。将棋は大木ほど強くない分、むしろ大木よりもツイッター芸人が本職。大木五冠を崇拝しており、一部の界隈では将棋のホ○の人と呼ばれるようになった。大木に三段リーグで昇段を阻まれ、そこから崇拝するようになったというどM。既婚者。

 

夜叉神四段……大木に弟子入りした結果、三食食べる以外は将棋漬けの生活(本人談)を送る羽目になった神戸のシンデレラ。迎えに来た魔法使いがスパルタ過ぎてムキムキになったシンデレラ。力戦が得意。

 

13:名無し棋士

被害者一覧に神鍋が居ないのは違和感しかない

 

15:名無し棋士

>>13

勝ちを何度も譲られて被害者は無いだろ

むしろ王太子を追加してあげて

 

18:名無し棋士

何で神鍋にだけ負ける回数多いんだろ

 

20:名無し棋士

大木が歩夢きゅんのことを好きな説ある?

 

24:名無し棋士

>>20

ないです

 

28:名無し棋士

天衣ちゃん以外に弟子は取らないのだろうか?

 

30:名無し棋士

忙しいようだしもう弟子の追加は無いんじゃない?

 

 

 

被害者一覧は見る度にメンバーが変わっているけど、今日のまとめは比較的オーソドックスなやつ。飯盛さんも危ない発言は多いから、そうは見えないけど既婚者なんだよな。前に嫁さんの写真は見せて貰ったけど、飯盛さんに似て少しぽっちゃりとした人だった。

 

去年プロになった直後に結婚したそうだけど、22歳で結婚は早い方だよな。同い年で、彼女さんが大学を卒業したと同時に入籍したらしい。俺が22歳になった時、天衣は15歳。……うん、15歳の天衣ってどんな感じなのか想像できないな。まあでも、4年後には確実に迎える未来だし、その頃の九頭竜の周囲は確実に面白いことになっているだろうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Sリーグ決勝

将棋の団体戦、Sリーグは2ヵ月近い時間をかけて決勝戦まで進行した。決勝の舞台では九頭竜のチームと向かい合わせになるけど、二ツ塚さん含めて美男美女のチームだな。こっちは俺と飯盛さんで顔面偏差値が下がっているから、天衣という飛び抜けた美少女が居ても平均ぐらいだろう。

 

そして俺と九頭竜は、必死に順番を考えた。お互いに提出時間の締め切りギリギリに提出したということは、お互いにこの順番が勝敗を分けると察知しているということ。こういう場合はアイも頼りにならないので、完全に勘と九頭竜がどう読むかの勝負だな。

 

画面には、今日の対決カードが映し出される。先鋒は、互いにチームリーダーとなった。

 

先鋒大木五冠、中堅夜叉神四段、大将飯盛五段

先鋒九頭竜竜王、中堅空四段、大将二ツ塚五段

 

『読み勝ったというよりかは、九頭竜が中堅に行かなかったという感じですかね』

(まあ九頭竜が中堅に行ったとして、大将戦で勝てるかは微妙。それならチーム勝敗は軽視して、九頭竜と空さん共々ライバルに突撃、って感じか)

『優勝と準優勝で貰える賞金の額が雲泥の差なのに、チーム勝敗に拘らないところは十代らしくないですね』

(いや、むしろ拘らないところが十代らしいんじゃないか?……俺はどんなに稼いでも目の前の1億は拾いにいくな)

『マスターが受け取れるのは3333万円ですよ』

(十分に多いわ。チーム戦なのに個人で受け取れる額が竜王戦の優勝賞金に次いで多いって相当だぞ)

 

今回のSリーグは、将棋ブームが過熱している最中に終わらせることが出来た。ダラダラとやらなかったのは観衆にとっても良かっただろうし、出場した棋士や、出来なかった棋士達にも刺激になっただろう。次は5人のチーム戦で、先鋒次鋒中堅副将大将の5人でやるそうだけど、また来年の話かな。

 

(先鋒6点、次鋒8点、中堅10点、副将12点、大将15点でポイントの取り合いをするらしいけど、そんなに強いプロ棋士がいないよな)

『凡庸なプロ棋士も含めれば、2つのリーグは作れるんじゃないですかね?6チーム×5人×2リーグで60人ですし、まあ足りるかと』

(そうなると、今度こそ1年がかりのリーグ戦になりそうか。毎年開催するなら、そっちの方が良いけど)

 

先鋒戦での振り駒の結果、俺が先手になる。よって天衣は後手、飯盛さんは先手だな。まあ飯盛さんの出番があるかは非常に怪しいところだけど、空さんが先手番を持てば天衣に勝てる可能性は一応ある。

 

久しぶりに序盤は俺が指そうかと思ったけど、今の九頭竜相手だと何気ない一手が致命傷になる可能性があるのでやるなら帝位戦の第3局でしろと言われた。もう九頭竜は、その次元の相手なのか。そのわりにはアイさんは手の平の上で転がしているから、俺でも何とか出来そうな気がしたけど、たぶんミスしなかった時の俺でも勝てる確率は3割切ってる。

 

九頭竜との戦型はこちらが普通の居飛車なのに対し、九頭竜は3四歩から5四歩、5五歩とゴキゲン中飛車の構え。こちらが4六銀と銀を繰り出していくと、九頭竜も4四銀と向かい合う形になった。

 

互いに攻めの形を作った後は守りの駒組みをするフェイズに入るけど、九頭竜が軽率に6三銀と囲いの銀を上げて変形させようとしたタイミングでアイは桂馬を跳ねて攻めに出る。その後あっという間に馬をこしらえたアイは、香得をした後に5六香と飛車を攻める。歩が無い状態でこの香車は痛い。

 

結局九頭竜は飛車を逃がし、完全に攻め筋を失う。成り込んだ馬は角と交換することになったけど、既に陣形がガタガタの九頭竜の陣地は打ち込み放題なのに対し、こちらは隙がない。ここからなら、俺でも勝てそう。

 

早指しも得意な九頭竜だけど、今回は駄目な日のようで100手まで行かず、中盤が終わった辺りで投了をした。まあ九頭竜も人間だし、調子が出ない時だってある。逆に調子という概念が存在しないアイが恐ろしいわ。機嫌によって出力の変化は存在するけど、頼めばいつでも最大出力だからな。

 

先鋒戦はこちらの勝利となり、迎えた中堅戦では空さん対天衣になるけど、夏真っ盛りの空さんは集中力が3割減している気がする。……あー、冬場は集中力が3割増って言った方が良いのか?夏にトラウマ持ってるのは空さんにとって痛いよなぁ。

 

対局は天衣が後手だったけど、お互いに矢倉を囲う盤面から天衣が急戦を選択して仕掛けた。空さんはプロ棋士になってから、プロ棋士相手の星が指し分け程度だけど、天衣は団体戦以外でまだ1回しか負けていない。これは大きな差だし、実力の差だ。

 

『コメントでは≪九頭竜の嫁vs大木の嫁≫みたいなコメントが散見されますね』

(……え?もう天衣と俺の関係ってそういう雰囲気で見られてるの?)

『単純に、男女のペアだからそう呼ばれているだけでは?7歳差も歳の差がある時点で、普通はそういう考えに行き着かないでしょう』

(まあ、そういう風評が広まってもこちら側は問題無いけど……たまに映る控室のカメラでも空さんとイチャイチャしていた九頭竜は、あいに何かしらされそうだな)

 

空さんが中盤で対応を誤り、一気に天衣有利が加速するけど空さんも粘る。終盤力は、まだ微妙に空さんの方が上かもしれないという疑惑があるからな。んー、来年辺りは詰将棋選手権に出るか。ついでに俺も出て、アイに解いて貰おう。

 

『最短記録を出しても構わないのですか?』

(もちろん。あいは来年の詰将棋選手権に出るらしいから、良い勝負になるかもな)

『なりませんよ。あいは第2ラウンドの5問の詰将棋の全問正解に、30分かかってます。それだけの時間があれば37手詰めや39手詰めなんて、500問は余裕ですよ』

(500問を30分は手順を書く手が足りんわ。……一応制限時間は180分なんだよな。それをフルに使うのが当たり前なのに、タイムアタックになっているのはやべえわ)

 

天衣は参加したとしても上位入賞は難しそうだ。というかたぶん上位は俺、あい、月光会長になるのか。上位入賞は無理ゲーだな。全問正解が当たり前のことのように話しているけど、第2ラウンドの5問の内、最後の2問は37手詰や39手詰の難問が出る。特に最後の問題の正答率は、プロ棋士でも10%を割っていたはず。

 

俺でも180分で全問正解はまず無理だし、天衣は80点が目標かな。そんなことを考えていたら、天衣が無事に詰将棋をミスって必死をかけることになった。それでも勝ちだから別に良いんだけど、今の19手詰めは読み切って欲しかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

帝位戦第3局

団体戦はチーム大神の優勝で幕を閉じ、来年度は5人制の団体戦になることが発表された。いやまあ俺のチームとか九頭竜のチームとか、1人が絶対勝てるなら3人制のチーム戦は圧倒的に有利だから仕方ない。

 

一方で帝位戦第3局は神戸の有馬温泉で行なわれ、思いっきり地元である天衣が大盤解説の解説役を務めた。タイトル戦で聞き手役じゃなくて解説役なのは、初めてなんじゃないかな。相方はたまよんの予定だったけどあいに変更になった。最近は空さんに引き続き、あいと天衣が出て来たせいで人気No4まで落ちてしまったたまよん。最近は露出を控えめにして清楚アピールをしているけど、むしろファンが減ったという。

 

『今まではあのおっぱいで人気を保っていたということですね。何で男ってそんなに単純なんですか』

(下半身に脳は無いからなぁ。そう言えば天衣がブラデビューしてたけど遅い方?)

『知りませんよ。あと小学生のブラで興奮しないで下さい』

(してねえわ。……天衣は肉体的にも、今が1番成長する時期だよなぁ。あいもだけど、小学生は少し目を離すと一瞬で成長するわ)

 

天衣とあいのペアは、今回で2回目かな?1回目は電脳戦の時に解説していたけど、来場者数が桁違いだった。しかし2人とも小学生で、色々と予定が詰まっているから予定が合わずペアにし辛いという。

 

『不味くなったら止めますけど、そこから勝つ保証はしませんからね?』

(勝つ保証はしないと言っても、アイなら99%勝つだろ)

『1%の確率で負けるのに、勝つ保証を私はしません』

 

対局は九頭竜の先手番なので、俺だけの力で勝つのは相当難しいだろう。ミスしなかったら3割弱で勝てるだろうけど、問題は細かなミスも含めるとミスをしないということが将棋ではあり得ないしな。だけど、将棋において、絶対に負けるという実力差は相当な大差だ。今の俺と九頭竜で、そこまで尋常じゃない差が出来ているとは考え辛い。

 

7六歩、3四歩、2六歩と極普通の、初心者からタイトルホルダーまで、誰しもが同じ指し方をする最序盤。さて、やるか。

 

『……一応マスターも、後手番角頭歩戦法に関しては相当研究しましたからね』

(弟子の戦法を借りられるのは、師匠の特権だ。容赦なく使わせて貰うぞ)

 

角の頭の歩を持ち、一つ先に進める。天衣の得意な、後手番角頭歩戦法だ。これには九頭竜も少し動揺した表情を見せ……すぐに冷静になって次の手を考え始める。うん、まあ面白い反応とかはしないよなそりゃ。

 

(ちっ、6八玉か)

『そりゃ開戦はしませんよ。開戦したらどう足掻いても不利になることぐらい、九頭竜も分かってますよ』

(……8八角成、同銀、2二銀の進行で良いか。ここで開戦されても2四歩で受けられるし、開戦はされない)

 

こちらから角交換をして、互いに囲い始める。向飛車にしたけど、2筋逆襲は難しいな。一度2筋の歩を突いて、向こうに2六歩と打たせてから2四飛と飛車を浮かせる。向こうが3七桂と跳ねて来たので、ここからが勝負所だ。

 

こちらが3五歩と突くと、向こうも2五歩と飛車先の歩を突いて来る。ここで先程3五歩と突く事で空いた3四の地点に飛車を逃がすけど、九頭竜が持ち駒の角を2三の地点に打ち込めばこの飛車は死ぬ。もちろん、1四飛と回って飛車角交換にすることは出来るし、そうなったときは大したリードじゃなくなるけど、別にすぐに交換をしなくても2四歩から1六歩、1五歩と時間をかければ飛車は歩で殺せる。

 

と言っても、ここで2三角と打つのは悩みどころだ。アマチュアなら飛車が死んでしまうとジタバタするけど、高段者や奨励会員以上なら3六歩と突いて、3四馬に3七歩成と桂馬を取ってと金を作る筋が見える。こうなると必然的に銀まで取れるから、飛車1枚で銀と桂馬の二枚替えになる。まあ実際には九頭竜側に馬が出来て、逆に九頭竜側の陣形が崩れるから単純な二枚替えとは言えないが。

 

『向飛車側は居飛車側より玉が硬いですから、二枚替えはマスター有利の展開です。ですが九頭竜に受けの自信があれば、構わず2三角でしょうね』

(2三角、3六歩、3四角成、3七歩成、2六飛、4七と、同金までの手順で問題はない?)

『五分の展開ですので、問題はないかと。……ちまちま持ち時間使うぐらいなら、一気に使ったらどうです?』

(いや、早指しに慣れ過ぎてしまって使えねえわ。それにこの乱戦、全部読み切るのは相当時間かかるし俺には無理)

 

九頭竜は、2三角と指した。ここから俺の読み通りの展開にはなるけど、五分の展開だ。お互いによく見える展開で、実際はどちらも互角という状態だな。そろそろ中盤の山場に入るけど、ここから俺はミスが出やすくなるから注意しないと。

 

『……5五桂は良いですけど、4七角は褒められる手じゃありませんね。交代です』

(あ、不利になった感じ?)

『僅かにですが、不利ですね。ここからもう一手変な手を指されると挽回不可能ですので勝つにはここで交代しかないです』

(仕方ないか。今回は良い感じだったんだけどな)

『後手番角頭歩という研究し尽した手を使って互角だったという事実をマスターは受け止めて下さい』

 

そう思ってたら細かなミスが出たようで、ここでアイとバトンタッチ。難しい将棋だったし、タイトル戦は疲れるな。消費持ち時間は、36分。相対する九頭竜が5時間近く使っているから、持ち時間の消費だけならこちらにまだ分があるけど、要するにこれ持ち時間の使い方が下手ってことだからな。

 

1日目が終了して、九頭竜が封じ手を行なう。バトンタッチしてから数手進んで、現在は形勢不明の段階。……これ、下手したら俺のせいで負けるかな。今回は封じ手をする側を狙っても良かったかもしれないし、アイにもそういう提案をするべきだったか。

 

若干不安なまま2日目を迎えると、アイが怒涛の攻めでごり押しを始めた。あれ?アイに俺がインストールされてる?

 

『マスターが変な戦型のまま引き継ぐから有効手段がごり押ししか無かったんです。反省して下さい』

(いやこれ連続王手の千日手になるんじゃないのか?いや、微妙に持ち駒が入れ替わっているのか)

『ん、同銀ですか。これでほぼ勝ちですね』

(勝ち確信はえーよ。まだ終盤に入ったばかりじゃねえか)

 

そしてあっという間に勝勢まで持って行くアイさん。勝てそうだと思っていたのであろう九頭竜は顔面を伏して投了した。これで3連勝になり、次の対局は香落ちでの試合になる。……香落ち戦で九頭竜が勝って、そのまま4連勝したら問題にはなりそうだけど、まあまず考えられないことなんだろうな。実際、3連敗からの4連勝って長い将棋界の歴史の中で九頭竜が名人相手に起こした1回しか成立していないし、相当難しいことではある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

旅館ひな鶴

帝位戦第4局を迎え、旅館ひな鶴が対局場となる。最近は年2回ペースでタイトル戦の会場になっているから、将棋ファンからの知名度も上がって来た旅館だ。元々の知名度も高いけど、それに加えてあいの人気が流れ込んでいるように見える。よってあいのお母さんである女将さんも有名になって来た。

 

(うわ、完全にアウェイだ。空さんがあいに負けた理由も分かるわ)

『プロ棋士には繊細な生き物が多いですからね。さっさと自室に引き上げますか』

(俺は別に繊細じゃないけど、繊細な空さんはきつかっただろうなこれ)

『自分を繊細じゃないと思い込んでいる超繊細な神経質男』

(あ゛?)

 

当然、旅館関係者の大半は雛鶴あいの師匠である九頭竜を応援している。今回の対局は香落ちだから、九頭竜でも勝てる可能性もあるんじゃないかと考えている将棋ファンも多いっぽい。そして実際、アイでも九頭竜との香落ち戦は未知数だと言っている。

 

対局はお互いが振り飛車を用いる、相振り飛車に。アイも九頭竜も揃って三間飛車にするのは珍しいというか、香落ちでしか見られない戦型だろう。

 

『ここから1六飛、1四歩とするのが九頭竜の構想ですかね。どちらも攻め手に欠く展開ですが、相手は香落ちの弱点である端を攻めることが出来ます』

(え、じゃあどうするの?)

『玉頭から相手の飛車を攻めます。8四歩』

(……あー。これこっちの方が早い攻めになるのは何となく分かるな)

 

香落ちの弱点である端を攻め破ろうと準備する九頭竜に対し、その端を攻める暇を与えないために玉頭を押し上げて相手の攻め駒を攻めるアイさん。やることがえげつないというか、よく踏み切れるなこんなん。

 

そして即座に対応してくる九頭竜は九頭竜でおかしい。来週19歳になる若者とは思えない冷静さ。こっちは人生2周目なのに、九頭竜の方が大人に見えて来る不思議。

 

『マスターは、永遠に子供のままじゃないでしょうか?』

(アダルトゲームを嗜むのに子供扱いはおかしいことに気付け)

『……月に合計5万の支援は、同人ゲーの作者達に貢ぎ過ぎでしょう?』

(臨時収入が入ったから……好きな事にぐらいお金を使わせてくれ……)

『支援している作者一覧を天衣が見たらどう思うんでしょうねえ』

(そこは購入履歴を既に見られているから精神的に大丈夫だわ)

 

戦況は、徐々にアイがリードを奪って行く。ぶっちゃけこの展開もう見飽きた。もっとこう、一発逆転の逆転劇とか出来ないのか?

 

『無理難題を言わないで下さい。ただでさえ一発逆転が難しいことは、マスターも分かっているでしょう?九頭竜相手に一発逆転が可能な局面へ誘導するのは、将棋の40枚の駒を全て上に放り投げて、全部表にするぐらい難しいです』

(5枚の振り駒なら表裏を自在に操れるから、40枚も練習すれば何とかなりそうな気がして来るのは何でだろう。……うん、無茶苦茶なことを言ってるのは自覚している)

『香落ちは、この様子だとまず負けなさそうですね。問題は角落ちですが』

(九頭竜に負けたソフト相手に、角落ちで勝てなかった時点でお察しです。まあ負けても仕方のない対局ではあるけど、負けたくねえな)

 

第4局はそのままアイが勝ち、4連勝で帝位を奪取。これで大木五冠から、大木六冠になるわけだな。あとは名人と竜王だけだけど、まあ名人を取ってから竜王の順番で問題無いだろう。九頭竜が無冠になった時、永世竜王の資格があるとないとじゃ大違いだろうし。

 

「あと3局か」

「……そうだな。

今の対局、俺はどこから悪かったと思う?」

『飛車を振った時点で悪かったんじゃないですかねえ?』

「飛車を振った時点で負けてたんじゃないか?相振り飛車から同型を目指していたのは分かるし、そこから守備重視で自分だけ端攻めという構想は悪くなかったとは思うけど。あとは……」

 

対局終了後に、軽く二言三言喋った後、フラフラと立ち上がって自室の方へと向かう九頭竜。そしてその九頭竜を、介抱しようとするあいと、止める空さん。……天衣は今日、対局が入っていてこの場には居ない。まあ大事な賢王戦の予選トーナメントの試合だし、放棄するわけにはいかないな。

 

『賢王戦は、天衣が予選を勝ち上がれる可能性の高いタイトル戦ですからね。段位で区切っていますから、四段の天衣は予選では敵無しでしょう』

(飯盛さんや、二ツ塚さんすら四段トーナメントにはいないからな。今日は準々決勝で、勝ったようだから後2回で本戦トーナメント進出が決まる)

『あいも勝ち上がっていますから、まあ決勝で当たるでしょうね』

(……四段しかいないとはいえ、プロ棋士達を相手に勝ち上がる姿は祭神のようだな)

 

負けた後、1人にさせた空さんは流石に九頭竜のことをよく分かっている。九頭竜はこの後、たぶん泣くだろうからな。俺が相手で、泣けるほど悔しさを感じるのはある意味凄いと思う。大抵の棋士は諦めているからな。もう対局相手がここまで悔しがる姿を、見ることは少ない。

 

泣く九頭竜を、よしよししてあげたいあいと、1人にさせてあげたい空さん。性格の違いだなぁとは思うけど、俺はよしよしされたい派です。たぶん甘やかしてくれる人がいたら、際限なく堕落していたと思う。だからこそアイはそういう性格にはならずに毒舌を吐き続けるんだろうけど。

 

『だからと言って、スマホゲーの小さな女の子キャラに母性を求めるのは間違っていません?』

(別に求めてませんしー。パーティー組んだらたまたまそういうキャラばかりになっただけですしー)

『うわ、オタクの言い訳にしか聞こえない言い訳するのは止めましょうよ。

というかそのゲーム、ヒロインが11歳ですよね。天衣も11歳……あっ』

(何があっ、だ。文句あるならはよ言えや)

『ロリコンは早く治した方が良いですよ』

(うるせえ。やっぱ文句あっても言うな)

 

金沢から1人で帰ることになるけど、スマホゲーの周回をしながらアイと軽口を言い合う。……よし、また天井まで金を注ぎ込むか。団体戦の臨時収入が大きかったから、幾らでもお金を使える気分になってしまう。タピオカ店でこちらへ流れ込むお金が、10桁あるのは見なかったことにしよう。どんだけ流行ってるんだよ。

 

……これ、夜叉神家にも相当な額のお金が入ってそうだな。最近夜叉神邸の人が増えた理由が分かった気がするし、今後も力入れそうだな。そろそろブームは終わると思うけど、流石のアイもブームの終わりがいつかということまでは分からないらしい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の師匠⑥

私の師匠は強すぎる。

 

将棋は、数段の実力差があっても弱い方が強い方に勝つことは珍しいことじゃない。どんなに強い人でも、ミスをするからだ。名人やA級棋士でも、ほんの僅かなミスの積み重ねで負ける。全盛期の名人でも、勝率は8割。2割は負けているのだから。

 

だけど師匠が本気の時……師匠の話を聞く限りではもう1人の人格が本当にいるっぽいけど、そっちが指している時、ミスをする可能性は0%になる。それは去年のアルファゼロ戦で証明されたし、間違いなく史上最強の棋士だ。

 

師匠の話によると、もう1人の人格が脳の8割を使っているそうで……どういう状態なのかは本人もよく分かってないとのこと。こんなので私にもう一人格を作ろうとしていたんだから笑っちゃうわよ。

 

「脳の10%神話って知ってるか?」

「何かで聞いたことがあるわね。人間の脳は10%しか使っていないって説でしょ?でもあれ、嘘だったって前に見たわよ」

「あれはな、半分合ってて半分間違っているんだ。普通の人間が意識的に使える脳が10%で、無意識が残りの90%を使っている」

「……普通の人間、は?」

「ああ。普通じゃない人間はもっと使うぞ?九頭竜なんか、脳の40%を稼働していたわ」

 

師匠はたまに、脳についての話をしてくれる。前にどこかの研究所で脳波か何かを測定したらしいけど、九頭竜先生の脳の稼働率は今までの人間の上限であると考えられていた35%を超えて、40%前後まで到達したらしい。師匠は100%近かったそうだから、人間じゃないことを証明したらしいわ。

 

……普段、どんな動作をしていても脳は動いている。だけど将棋を指している時と指していない時とで、脳の稼働率が違うと言われれば当然だと思う。ここまでは理解出来る。理解出来ないのは、残っている脳のスペースで将棋を指し続けることね。九頭竜も師匠も、それが出来ていることはおかしいわよ。

 

そして師匠は、常に脳の8割を動かしてもう一人格が将棋を指し続けているとのこと。本来は無意識が使っている脳のキャパシティだから、大して疲れないとか言っているけど、無意識が脳を使っているというのもよく分からないのよね。

 

経験や勘、記憶の整理や呼吸、癖になっている仕草などなど、無意識が使っている脳のキャパシティは多いそうだけど、その領域にもう一人格作ったから強いだなんて、師匠の思い込みじゃないかしら?あとずっと脳を酷使し続けるのは、絶対に身体が持たない。

 

師匠がよく、生まれた時から将棋を指していたと冗談のように言ってるけど、もしそれが真実の場合、幼児期に将棋を指せたことが強さの秘訣かしら?将棋に特化して、脳が成長したとか?本当に、人間かどうか怪しくなるのは勘弁して欲しいわね。

 

そしてそんな師匠と私は、あるスポンサー企業の企画で団体戦のチームを組んだ。その団体戦で、師匠の師匠である月光会長を相手に、後手番角頭歩を使って勝った次の日。私は月光会長の呼び出しを受けて、話を聞いた。

 

「これは今から6年ぐらい前になりますかね。私に弟子入り希望をして、平手で指した者との棋譜です」

 

盲目のはずの大師匠は、目を瞑ったまま綺麗に並べられた将棋盤の駒を持ち、実際に棋譜を並べて行く。……その途中の盤面は、師匠の家で見た写真の盤面と一致していた。

 

「中学名人戦に中学1年生で優勝した彼は、平手で私に挑んで来ました。平手で勝ったら、弟子にして欲しい、と」

「……その要求を、受け入れたの?」

「ええ。私にだってプロ棋士としての意地はありますから。そしてこの対局、今のあなたならどこで切り替わったかも分かりますか?」

「分かるけど……でも、あり得ない。強い方の師匠から、弱い方の師匠に切り替わる対局は、練習試合でも一度も無かったはず」

「ふふっ。強い方、弱い方、ですか。ですがこの弱い方、随分と強いですよ?だって当時名人に最も近かった私を相手に、互角の形勢から勝ち切ったんですから」

 

棋譜を見ると、たとえ知らなくても誰が指したかということまで棋士なら分かる。特に親しい人なら、それは一発で分かるものだと思う。そして大師匠が並べた棋譜は、途中までは強い方の無慈悲な師匠が指していた。中1の時点で、月光会長と互角なのね。

 

……そしてたぶん、この対局は弱い方の師匠が途中から指している。人によって棋風というものがあるけど、弱い方の師匠はまさにごり押しというのがピッタリな棋風で、並べて貰った棋譜でもごり押しをしていた。この棋譜を見る限り、中学1年生当時の方が強いような気すらするわね。

 

師匠は脳の8割をもう一つの人格が使っていると言っていたけど、いつから脳の8割を譲っているのかは分からない。重要なのは、この対局で師匠がどういう状態だったか。今の弱い方の師匠が、成長し切った感じの対局で、未来の棋譜と言われても納得してしまいそうだけど、実際に指されたのは当然過去だ。

 

あともう1つ重要なことは、まぐれでも私は小学6年生で月光会長に勝てたということ。……師匠は実力で勝ったとか、月光会長が6年前より確実に衰えているとか、要因自体は幾らでもあるけど、私の選択して来た道は決して間違っていないはず。

 

私の師匠は強すぎる。今はまだ、師匠が全タイトルを持ってないし、出て来たばかりだから人気を保っている。だけど八冠になった時、全棋士にとって、どのルートでも行き着く先のラスボスは全部師匠になる。敵無しになった時、どうなるかは目に見えているわね。

 

私の名前は夜叉神天衣。師匠にとって、私を育てるきっかけは師匠の敵作りのためだったのかもしれない。でもそのお陰で私は強くなれたし、いつか師匠と渡り合えるぐらい強くなりたいという思いは変わってない。だから早く公式戦で師匠と戦ってみたいけど……。

 

……師匠と公式戦で戦うには、もうタイトル挑戦ぐらいしか無いんじゃないかしら?そしてそのハードルの高さは、新人棋士には辛すぎる高さね。それにまだまだ、力を付けないとタイトル挑戦どころか本戦トーナメントまで辿り着けないわ。

 

プロ棋士になったらもう簡単には指導出来ないとか言っておきながら、3日に1回は私の家に来るし、3日に1回は師匠の家に行くから指導回数は増えた。たぶん師匠は、私がタイトル挑戦してくるその日まで、何ならそのタイトル戦中ですら指導して来そうな気がする。

 

そのタイトル戦で、いつか、本気の師匠を相手に実力で勝ちたい。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プール

7月末に、約束通りスパワールドへ天衣と遊びに行く。なお晶さんとゴリマッチョはついて来る模様。隠れて尾行しているようだけど、分かってしまった。天衣は気付いてないけど、教えた方が良いのだろうか?

 

そして当然のようにいる九頭竜、空さんペア。やっぱり日程は被ったな。帝位戦のタイトル期間中だと、この辺しか1泊2日は無理だろう。帝位戦のタイトル期間中に何遊んでいるんだと言いたいところだけど、俺も同じ立場だし、もう決着はついているから何も言うまい。

 

『残すは角落ちの試合だけですし、九頭竜のスケジュールも落ち着いて来た頃ですしね』

(今年は棋帝戦と団体戦と帝位戦が完全に被っていたから、俺のスケジュールはあり得ないことになっていたんだよな)

『棋帝戦を第5局まで指したのも大きいでしょうね。……これからは、3連勝しないでおきます?第3局で負ければ、3番手直りは効力を発揮せずに終わりますが』

(……んー。ここまで来るとそれはそれで叩かれそうなんだよな。どうせ名人が名人している間だけだろうし、我慢するわ。それに引退後は、名人が地方巡業を率先して引き受けてくれるらしいし)

 

天衣も九頭竜、空さんペアとの日程が被るのはある程度は予測していたようだけど、問題はここからだ。ヨーロッパの方へ旅立ったはずの水越澪を含むJS研の面子が、桂香さんに引率されて来ていたのだ。いやまあ、夏だし子供達がプールに行くのはわかる。でもあいがここにいるというのは、九頭竜にとって相当不味いのでは?

 

女王戦で戦った2人に渡されたのはペア宿泊券のはずだから、当然九頭竜と空さん、男女が同じ部屋に泊まるというわけで……あいは九頭竜のスマホを定期的に覗き見ているらしいけど、当然のように九頭竜のスケジュールを把握しているのか。

 

せっかく会ったのだからと、団体行動を提案する九頭竜は九頭竜している。空さんの機嫌がみるみるうちに悪化しているけど、それに気付けないのが九頭竜という男です。もちろんあいは賛同して、JS研のメンバーもそれに追従。空さんは桂香さんのいる場で強く物を言えないようだけど、その桂香さん、九頭竜の顔面に生乳当てて、頭を挟んで誘惑するような奴だぞ。

 

(というか桂香さんが引率に来るのは意外だったんだけど)

『桂香さんはあいの面倒をよく見ていますし、JS研の面々とも結構な頻度で関わっていたでしょう。桂香さんに預けられたあいからスパワールドへ行きたいと提案して、九頭竜と空さんがどこに行っているのか桂香さんが知らなければ、この状況は実現します』

(まあとりあえず、言えることとしてはあいが色々とヤバ過ぎる。その内寝込みを襲って九頭竜をパパにするぞ)

『そうなったら、その後どうなるかは読めないので面白いですね』

 

結局、更衣室では九頭竜と一緒に着替えるけど九頭竜と比較すると俺の身体がガリガリ過ぎるな。どう考えても脳に栄養を吸い取られた影響です。アイは反省して下さい。

 

『これでも一時期と比べればかなりマシになりましたからねえ。夜叉神家の料理人には頭が上がりませんし、タピオカの功績でもあります』

(42キロって、まだ天衣より軽いがな。確か天衣、今43キロだったはず)

『151センチ43キロって、小学6年生の中では大きい方だと思いますよ。中学生2年生までには、マスターの身長を間違いなく超えますね』

(ああ……天衣を見上げるようになる日ももう近いのか)

 

着替え終わって、女子陣の着替えを待っていると真っ先に出て来たのはサングラスをしながら鼻血を出している晶さんだった。あんた隠れて尾行している自覚ないでしょ。案の定天衣にバレたみたいだし、さっさと追い出された模様。

 

……更衣室から出て来た時、晶さんは水着姿だったわけだけど、長身でそこそこ胸が大きいからスタイル良いよなあ晶さん。次いで天衣が出て来るけど、水着の知識がない俺には黒のワンピースのようなビキニとしか言えない。胸周りの露出は少ないけど、肩丸出しで肌色成分は多いな。

 

そしてぞろぞろと出て来るJS研の面子と桂香さん。その桂香さんの後ろに隠れている空さんは、もし九頭竜と2人きりならどうしていたんだ。ちなみに九頭竜の目はたぶん桂香さんの胸に釘付けです。戦闘力が他と違いすぎるのに、白ビキニでギリギリまで露出しているとか周囲の男の目を惹きまくっている。

 

(100は超えてないだろうけど、95ぐらいはある?)

『思考がキモイですマスター。あと桂香さんの胸は公式設定で95センチだったはずです。……何でこんな知識が入っているんですか』

(何かで見かけたんじゃない?知らんけど。

空さんと桂香さん、同じ女性なのにどうして一部分はこんなに違うのか)

『下手しなくても、空さんは天衣とあいにすら胸囲は負けていますね』

 

水着は空さんが1番子供っぽいな。空さんと天衣の胸のサイズは、アイがよく確認したところ両方とも74との解答を頂いた。……小学6年生と、高校2年生が同サイズってマジ?

 

着替え終わったら流れるプールに入って泳いだり、流れるプールの中央にある浅いエリアで九頭竜達とビーチボールを投げ合ったりと楽しんだわけだけど、平日昼間とはいえ夏休み期間だし人は多いな。

 

特に高校生や大学生の集団が多いため、よく桂香さんがナンパの被害にあっていた。全員、天衣の護衛のゴリマッチョさんを見たら引っ込んだけど。あの古傷の多さ、筋肉の分厚さ、一般人が間近で見たら漏らすわ。

 

あと晶さんも黙っていれば美人なので、声をかけられた回数は多い。……そのカメラ、防水機能もあるとか高性能ですね。水中撮影も出来るとかマジですか。もう容量がいっぱいとか天衣の水着姿を何枚撮ったんだあんた。帰ったら何枚か分けて下さいお願いします。

 

ひとしきり泳ぎを堪能した後は色んな施設を回るけど、あい達も泊まりってマジ?いや、お金は十分にあるから大丈夫なのか。特にあいは、テレビにもよく出ているから九頭竜も把握出来ていない稼ぎがあるんだろうな。ということは、あらかじめ九頭竜の予約に合わせて自分で予約を入れていたということか。怖いわこの小学6年生。

 

『おそらく、同意書は女将さんに書いて貰ったんでしょうね』

(ああ、本当に子供1人でもお金があれば何とかなるのか。こりゃ九頭竜と空さんの関係の発展は望めないな)

『間違いなく部屋まで押しかけるでしょうし、空さんにとってはストレスの溜まる1日だったかもしれません』

 

九頭竜の頭の中ではあいが隣の部屋に泊まるという事実に?マークがいっぱい浮かんでそうだけど、あいが隣の部屋に泊まると聞いた空さんからは歯ぎしりの音が聞こえて来そうだ。

 

また修羅場が出来ているよと思いつつ、俺は天衣と一緒の部屋に泊まるけど、特に普段とあまり変わらない感じで夜を過ごした。天衣は疲れて、あっという間に眠ったからな。天衣が横で寝ているのを眺めつつ、持って来たノーパソでゲームをする。今日は朝まで、ネトゲで廃人どもの相手をするか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

角落ち

プロ棋士同士の公式戦で、角落ちは恐らく戦後初の手合いになるのではないだろうか。プロ棋士と、女流棋士でのハンデならよくあることではあるんだけど、プロ棋士同士ならないはず。

 

『結局香落ち戦では3連勝でしたからね。香落ちはそこまで大きなハンデではないとはいえ、周囲への反響は大きかったです』

(香落ちの方が、接戦は多かったけどな。当たり前だけど、平手より香落ちの方が良い勝負ではあった。例年なら中止になっていたはずの第5局、第6局、第7局が開催できるというのは、将棋界の収入的には大きいだろうな)

 

帝位戦の第7局は、俺の角落ち上手で対局が始まった。7連敗は避けたい、角落ちで負けたくはないという心情的もあるであろう九頭竜は、序盤から攻めに重点を置く指し方をしている。それに冷静な対応をするアイは流石だけど、角落ちの差はアイがどう頑張ってもひっくり返せないかな。

 

そもそも、トッププロ相手に角落ちで勝つのは相当苦しい。九頭竜は居飛車の平手感覚で指しているだろうけど、こちらは角が無いから攻め手に欠ける。防御の駒としても機能する角が無いと、かなり苦しい展開になるなこれは。

 

『あっ、これは無理です。負けますね』

(負けたくないんだけど、何か手はありそうなんだよな)

『一旦私を消して、マスターが読めば良いと思いますよ。私が角落ちで弱いのは、単に経験値が圧倒的に足りないからですし』

(えー。中1の頃のアイのリソースを全部使おうとした時でも吐き気したんだぞ。今のアイの脳内リソースを全部俺が使おうとするとか、絶対バグるわ)

 

で、とうとうアイが負けます宣言をする。角落ち上手で九頭竜を相手にするのは無理だったようで、完全に押されている将棋になったな。そのまま2日目に入って、いよいよ負けが見えて来た頃。マスターが代わりに指せと五月蠅くなってきた。

 

『じゃあ私が6割分の脳のリソース手放しますから、マスターが脳の8割を使って下さいよ』

(……それなら良いか。どうせ負け将棋だし、俺の将棋を指すわ)

『はい。負け将棋ですし、セーフティは要らないですよね?』

(いや残りの2割だけでも100面指しぐらいは出来るだろ。セーフティとしての役目は果たせや)

 

どうせ負け将棋だからとアイの提案を了承し、アイから脳のリソースを返して貰うと、一気に視野が広くなって読める深さが段違いとなった。………………うお、やべえ。何分経った?

 

「残り持ち時間は?」

「はい!5時間48分です」

 

軽く読んだだけなのに、記録係をしている椚に消費持ち時間を聞くと、2時間以上が経過していた。やべえ。持ち時間が8時間もあるのに少ない。形勢を今一度見ると、完全に不利な状況であり、打開するには九頭竜に間違えて貰う必要がある。ということは、やるしかないな。

 

『やるんですか、ペテンの歩。九頭竜には通用しないと思いますが』

(いやわからんぞ。九頭竜は今まで何十局も、俺に負け続けている。今まで俺が勝ち続けた分の、信用があるということだ。

この歩は、取れないんじゃないかな?)

『まあ私相手には絶対に通用しない戦術ですから、私は何とも言えませんね』

(通用しないタイプには、とことん通用しないからなぁ。切羽詰まっている九頭竜は、どうするのかな?)

 

今からやるのは、盛大な詐欺だ。歩を相手の玉頭や大駒の頭に叩き、逃げることや無視することを祈る。なんてことのないただの歩の打ち捨てだから、相手は取っても別に問題はない。歩を一歩こちらが丸損する分、より不利になる。

 

だけど取れば何かありそうだと相手が勝手に読めば、俺を恐れていれば、絶対に取れない歩だ。そしてその歩を、俺は九頭竜の玉の近くにいる金に打ち捨てる。俺の前世の大学時代、周りの連中が勝手に名付けたペテンの歩。それを九頭竜相手に、俺は実行した。

 

『格好良いように言ってますけど、やってることは相手のミス待ちという詐欺同然な行為ですからね』

(まあ、九頭竜の持ち時間はもう少ない。ミス待ち将棋しか、勝ち目はないと俺は読んだ)

 

俺の打ち込んだ歩に、九頭竜の顔が険しくなる。取った後、どう攻められるか頭の中で読んでいるのだろう。でも九頭竜は、それが分からないから困惑している。……分からないも何も、取られた場合はその先が無いんだけど、九頭竜はあると思って考えてくれている。

 

結局、持ち時間に追われた九頭竜は攻め合いに出た。こちらは歩を成り込み、金を丸得する。アイが勝ち目なしと判断した局面から、一気に五分まで取り戻したな。

 

『……まあ、持ち時間がない時にペテンの歩は強いかもしれませんね。実際取った盤面は、何かありそうな盤面でした。何も無いんですけど』

(この難しい局面で、無駄な手を指すわけがない、そう相手が思った段階で、術中に嵌っているんだよなぁ)

『腹立たしい考え方ですね。ですがそのマスターの考えのお陰で、一気に形勢を取り戻しました。ここからなら、私でも勝てますね』

(いや、今日は最後まで指すわ。安心しろ。ここまでよく見えるなら間違えねえから)

 

その後も指し続けて、九頭竜は持ち時間に追われながらも必死に止めを刺そうとするけど、全て回避して逆王手を仕掛ける。逆王手を仕掛けられた瞬間、九頭竜は詰みを悟ったっぽいけど、さらに5手ほど指してから九頭竜は投了する。

 

 

 

大木対九頭竜の帝位戦第7局は、大木が逆転勝ちを果たした。大木が強さを見せつけたというよりかは、九頭竜がミスをしたという内容であり、それでも大木は強いと観る人全てに印象付けた。

 

特に話題になったのは中盤の歩の打ち捨てであり、大木が長考して指したんだから取れば何かあるだろうと、色んなソフトが深くまで手を読み込むが何もない。そこでようやく、この歩は苦し紛れの歩だったということが判明したのだ。

 

しかしこの歩の打ち捨て以降も形勢は五分か大木がやや不利であり、そこから大木が勝ち切ったことで、大木は大木以外では現役最強棋士と言っても過言ではない九頭竜相手に角落ちで勝ったことになる。もはや、大木が負けることなんてあるわけがないと思われた。

 

翌年の四月。電脳戦でソフトの大会を勝ち上がって来たアルファゼロが大木に勝つまでは。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リベンジ

『……申し訳ありません。先手番の利が、思っていた以上に大きいですね』

(ソフト相手に、負ける日が来ること自体は分かっていたわ。でも思っていたより、遅かったな)

『第2局は先手番になりますが、必ず勝てるとは言い切れません』

(しゃーない。グーグル先生が都合3年ぐらいか?AIを駆使して全力で開発した将棋ソフトだぞ。勝てねえわ)

 

2020年。コロナは流行どころか発生すらせず、タピオカは無事ブームが終了して店舗数を減らすことになった。そんな中、迎えた電脳戦の第1局。今年は歩夢が前座としてソフトの大会で準優勝したソフトを相手に挑んで負けたから、嫌な予感はしていたけど、アルファゼロは2年前の敗戦から異常なレベルで成長を果たして俺とアイの前に君臨した。2年前のアルファゼロに100戦100勝って何それ怖い。

 

いや、ぶっちゃけ後手で勝つのは無理だろ。何か開発者の1人が「大木六冠でも1000回に1回しか勝てない計算」とか言ってたけど、勝てるビジョンが見えない。対局中、アイが負けると言うから一手だけリソースをほとんど全部譲って貰って交代したけど、コンピューター相手に詐欺は無理だし、読みで上回ろうとしたけど駄目だった。

 

「負けて良かったとは言いたくないけど、師匠も人間だったのね」

「ナチュラルに人外扱いはしないでくれ。一応人間のはずだ」

 

天衣は中学1年生となり、今年から制服に身を包んでいる。対局中も制服で指すので、人気にさらに拍車がかかり、あいと人気トップを争っている。なおタイトルも空さんから女流玉座を、あいから山城桜花を奪取しているので女流三冠になり、あいと6つあるタイトルを折半している。6月にある女流棋帝戦も勝つだろうから、天衣は女流四冠になる感じかな。

 

あらかじめ勝ち上がるタイトルを絞って獲得する姿は俺と被るようで、師弟揃って予定通りの敗北があると話題になっている模様。いやしょうがないじゃん。全タイトルを一気に取ろうとすると、対局数がえげつないんだよ。

 

『だからと言って、竜王戦で未だに6組なのは明らかに手を抜いていると公言しているようなものですよ』

(取りに行かないタイトルで中途半端に勝つぐらいなら休みが欲しい。切実に)

 

今年の名人戦の挑戦者はA級順位戦を全勝した歩夢になったけど、ソフトを相手に負けたせいか1局目は負けていた。最近の歩夢は、明らかに強かったし賢王戦の本戦トーナメントでも天衣をフルボッコにしていたから名人相手でも行けると思ったんだけど。……俺相手に、賢王戦で7連敗したのを引きずっているのか?

 

これからの巻き返しに期待したいけど、相性がやっぱりよろしくない模様。こりゃ名人は来年まで名人のタイトルに意地でもしがみつく気だな。他のタイトル戦では勝ち進めなくなってきているし、明らかに衰えてはいるんだけど、歳を取って経験が増えた分、昔の全盛期よりも引き出しはむしろ多くなっている。

 

「でもあれは、相手が反則よ。向こう、リモートでの出場なんでしょ?」

「ルール内の事象に反則も何もないわ。会場に持ち込めないほどのコンピューターって、どんなものなのか一目見てみたいけどな」

 

アルファゼロが本気なのは、リモート出場ということからも窺える。……どんな化け物スペックのコンピューターで演算しているんだろうな?アイが純粋に押し負けるということは、マジもんのスパコンなんだろうけど。

 

(うちのスパコンは、もう相手のスパコンに歯が立たないってことだ)

『だから面倒くさがらないで初手からマスターが指して下さい。そもそもあれだけ読めるようになっているんですから、リソースを分ける必要もないでしょう。対局中は私を消して下さい』

(んー、考えておくわ。……持ち時間の使い過ぎで、負けないようにしないとな)

 

うちのスパコンが作り上げた脳の下地は、使いやす過ぎて一気に手が読めてしまう。軽く数十手先を何千パターンと読むだけで、1時間の時が経過しているのは勘弁して欲しい。ただこれ、カタログスペックまで出力は出せてないんだよな。電脳戦の第2局は俺が先手番だから、意地でも勝ちたいけど、勝ちたいと思うだけで勝てるような相手じゃない。

 

「……なあ、目線がとうとう同じ高さになったんだが?」

「師匠が低すぎるのよ。あと私、まだ155センチだけど、少し厚底の靴を履いてるから」

『もやしっ子のマスターでは、もう天衣に力でも敵わないんじゃないですか?』

(この前マウントを取られた時、若干力比べになったけど負けてたじゃん。もう抵抗出来ねーよ)

 

中学1年生になった天衣は、本当に大きくなった。なおあいの方が色々と大きくなっている模様。中学進学というタイミングで、九頭竜はあいを家から追い出せなかったため、女性関係の泥沼化は避けられない。そんでもって、あいの身体が女らしくなってきたことで九頭竜の理性がガリガリ削られている。

 

……空さんは結局、胸がぺったんこのままだからな。九頭竜も女流棋士を女乳棋士と言う程度にはおっぱい星人だから、あい優勢になりつつある。まあ1番戦闘力が高いのは桂香さんだけど。桂香さんも桂香さんで、自身の将来について色々と悩み始めているそうだから、九頭竜争奪戦に参加する可能性が無きにしも非ず。もうアラサーだし。

 

『他人の心配するより、自分の心配をした方が良いんじゃないですか?最近の天衣のアプローチ、どんどん過激になっていますよ』

(向こうも法律には詳しい人が多いし、中学卒業までそういうことはしたら不味いことぐらい天衣も分かってるだろ)

『その時まで天衣に好意があれば良いですね?』

(怖いこと言うなよ。

……憧れや尊敬から発生した愛情だろうから、冷める可能性もありそうなのが辛いな)

 

お嬢様達が集う小学校に通っていた天衣は、お嬢様が集う中学校へ進学。中高一貫の私立女子校だから、学歴で師匠を超えることが確定した瞬間である。たぶん、大学まで行くだろうな。俺も今からでも大学目指そうか?アイが居れば、東大でも余裕だと思うし。……いやでも卒業まで通うのが面倒だからいいや。

 

『東大が余裕とまでは言えませんよ。今年のセンター試験でも、一問間違えましたし』

(試しに解いてみて、900点中892点だろ?東大でも余裕だろこんなん)

 

アイと雑談をするけど、目下に迫った電脳戦の第2局の勝ち方はイメージ出来ない。千日手を利用しようとしても、たぶん千日手に漕ぎ付く前に捻じ曲げられる。一矢報いたいけど、かなり厳しい状況だな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一閃

電脳戦の第2局は、京都の仁和寺というお寺で行なわれる。電脳戦の開催場所は歴史のあるところが多いけど、ここもかなり歴史ある場所だな。俺の先手番で始まり、この対局で俺が負ければ、人類がAIに負けた日として記録されるだろう。

 

……先手番で負け、2連敗で幕を閉じるのは人類の完全敗北だ。結構な人からお前は人間じゃないと言われているような気がするけど、気持ちは人類代表のつもりだし、一般人から見てもそうだろう。だからせめて、この勝負には勝ちたい。

 

『複雑な展開になることは容易に想像できます。そうなった場合、私が少ない局面で助言するのはむしろ邪魔でしょう。消して下さい』

(うい)

『健闘を祈ります、マスター』

 

アイを一旦脳の片隅へ追いやって、初手である7六歩を指す。相対するアルファゼロは、8四歩だ。まあ、最序盤の数手は人類最強の指し手も最高峰のAIも同じ手を指す。問題は、その最序盤が終わった後だ。

 

あっという間に不利になる、ということはないけどアルファゼロはミスをしない。十数手先には敵の好手が悪手になっている、という罠も回避するだろう。ならこの序盤で、何とかするしかない。

 

……何とかするしかない、ということは分かっているんだけど思っていた以上にどうしようもないな。第1局は、アイが297手で負けた。互いに機械のように、ひたすら自陣の勢力を広げるような将棋だ。見ていて疲れるような将棋だった。それで負けたのだから、アイには頼れない。

 

こちらは飛車を振り、向飛車対居飛車の対抗形になる。アルファゼロは時間をあまり使わないので、とうとうこちらの消費時間の方が多くなった中盤戦。多少の不利は覚悟で用意していた千日手の筋へ強引に連れ込んだ。アルファゼロが千日手の回避をすれば、こちらが僅かに有利になる局面。

 

アルファゼロは、千日手の筋を辿る。嘘だろこいつ。千日手にするのかよ。というか、誘い込まれた?

 

『どうするんです?後手番になればもう勝てませんよ?』

(うわあ。いきなり出て来るな。

脳のリソース100%渡すんじゃなかったのかよ)

『今の私は、リソース全く使ってないですよ。

……引き分けですか』

(いや、引き分けにはしねえ。たぶんだけど、勝ち筋が見えた)

 

同じ局面が3度出来たところで、よく見てみると、千日手の手順を外れたところに、僅かな勝ち筋があった。アルファゼロは千日手にしようとしたけど、ソフトは基本、千日手を回避しようとする。アルファゼロも例外ではなく、千日手は負けに等しい評価をされるはずだ。それでも千日手にしようとしたのは、回避したら確定で不利ということを読み切ったからか。

 

『6七歩……?このタイミングで自陣に歩を打つなんて、何手先を読んだんですか?』

(まあ見てろ。この歩が絶対に生きて来るから)

 

こちらが千日手を解消する手を指し、千日手が解消されたアルファゼロはこちらの陣地を攻めて来る。千日手の手順の中で、こちらが有利になる離脱タイミングがあったので、そこで離脱した後、持ち駒の歩を自陣に打った。この歩の意図を、アルファゼロに読み切られなければ俺の勝ちだ。

 

アルファゼロは、俺の読み通りに攻めて来る。まあほとんど一本道だし、高段棋士でも同じような攻め方をするだろう。こちらも攻め合いに出て、王手をかける。うん。今日は本当によく見える。

 

『……待ち歩ですか。馬と竜の筋が、見事に止まっています』

(細かい分岐は沢山あったけど、向こうが最善しか選択しないなら一本道。だからこそ、歩で止まる)

 

77手目に6七歩と打ってから、67手後。アルファゼロが6八竜と指した時、アルファゼロの陣地への利きを止めるためだけに打った歩は、無事に機能した。ここからの逆襲で、僅かにリードを奪える予定だけど、持ち時間がもう無いな。

 

(あと1時間か。時間に追われる経験は本当に無かったから、新鮮だな)

『もう、終局まで読み切っていますよね?

……アルファゼロを相手に勝利、おめでとうございます』

(ぶっちゃけ、引き分けが無ければ将棋は先手必勝だわ。それほどに先手の利は大きいし、何とか勝ちに持って行けた形だな。

次は後手番になったら千日手狙いにするけど、勝てると思う?)

『アルファゼロが千日手に応じる以上、千日手狙いは難しいでしょう。指し直しは体力勝負になりますし、負けると思います

そして今日のアルファゼロは、最新版ではありません。安定版である以上、アップデートをしてくるでしょう』

(……そっか。ま、一矢報いただけで十分だわ。次はアイが指してくれ)

『……終局前に倒れないで下さいよ。せっかくの勝ちが、負けになりますから』

 

アルファゼロの玉は、最後の最後まで逃げる。だけどするすると逃げて行くその道も、俺が舗装した道だ。最後、6六桂と打ってアルファゼロの玉は何処へ逃げても金打ちで詰みと言う状況になる。そこでアルファゼロは、投了をした。

 

……まだ詰んでいないのに投了する将棋ソフト、か。マジでこのAI、人格宿ってるんじゃねーの?そんなことを思いながら立とうとすると、上手く立てなくてふらつく。着物が汗まみれで気持ち悪い。

 

今日の一局で、星は五分になった。しかし相手は確実にアップデートしてくるだろうなという、予想がある。というか向こうが安定版と最新版があることを言って、負けるまでは安定版で挑むと言っていたからな。後手番なら万に一つもないだろうし、先手番でも厳しそうだ。

 

そして迎えた第3局ではこちらが先手番を握り、俺が必死の抵抗をして入玉するも、持将棋になって指し直しに。アルファゼロが先手番となり、交代したアイが288手目で投了。電脳戦で、人類はAIに負けた。

 

(まあ、届かないわな。1秒で数億手は読む化け物相手にどう勝てと?)

『九頭竜や歩夢視点、私達はこう見えていたんでしょうね。最新版は安定版相手に先手後手入れ替えて1万局指して5割5分勝ったとのことでしたが、明らかに最新版の方が強いです』

(まーでも、世間ではそれほど差が無かったとされている感じだしこれで良かったんじゃね?)

『結果だけ見れば負け、勝ち、引き分け、負けの1勝2敗1引き分けですからね。それに、先手番では負けませんでした。一般人には、勝った1局が奇跡の1局だったとは分かりません。おそらくあと1000回指せば、999回は負けるでしょうが』

 

いつまで回避できるか分からなかった敗北だけど、実現するとどうしようもない悔しさが湧き上がってくる。まあでも先手番で負けることは無かったし、向こうも来年以降、また出て来るそうなので、地道に経験値を貯めて行くしかないな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

激闘

私事ですが、昨日(7/22)に手術を受けたので1話丸々掲示板回です。次話は普通に話が進むと思うのでご了承下さい。
電気メスで切開しただけですが、麻酔が効いていると電気メスで切られても痛くなく、ひたすらに熱いという感じでした。熱いのに痛くないの凄い。術後の経過は良好ですのでご安心下さい。


【人類対AI】電脳戦スレpart28【スパコン対スパコン】

 

129:名無し棋士

6七歩?

 

134:名無し棋士

何だこの歩

 

136:名無し棋士

怖い 大木が何をしでかすのか分からなくて怖い

 

142:名無し棋士

こういう歩増えたよなあ

ヤベー意味がある時とない時で両極端

 

145:名無し棋士

天衣ちゃん「師匠は歩の使い方がこの世で1番上手い棋士です」

 

149:名無し棋士

歩だけじゃない定期

 

151:名無し棋士

香桂銀金角飛玉の全てが人類史上最高クラスで上手いだろ

 

154:名無し棋士

クズ竜解説しろやwww

 

157:名無し棋士

えっと、ちょっと待ってくださいじゃないんだよ

解説してくれよ

 

159:名無し棋士

ソフトに頼るな九頭竜

そのソフト大木より弱いんだぞ

 

161:名無し棋士

いやでも交換した歩を自陣に打つって意味あるん?

 

166:名無し棋士

一手パスしたかったとか?

 

170:名無し棋士

千日手ルートにまた突っ込みたくなかったんだろ

 

173:名無し棋士

ぶっちゃけ千日手で良かった気がする

引き分けとれて全敗じゃなくなるし

 

176:名無し棋士

大木が引き分け拒否したということは勝ち筋あるんだろ

α0がめっちゃ時間かけてる

 

180:名無し棋士

人格宿ってそうな時間の使い方ですね……

 

184:名無し棋士

化け物スペックのスパコンをAIが活用しているとかなんとか

 

188:名無し棋士

来年以降、使用パソコンは統一化されるんじゃないか?

 

191:名無し棋士

当方アマ五段の振り飛車党。大木ロボの指し手の意味が全く分からんかった。

 

194:名無し棋士

分かったら九頭竜超えられるぞ

九頭竜が解説に詰まっているからな

 

 

 

【人類対AI】電脳戦スレpart37【6七歩】

 

761:名無し棋士

ここに来て6七の歩が馬も竜も止めると話題に

 

765:名無し棋士

4九角成、4八竜、6八竜までほぼ一貫した流れだろ?

……両方止まるな

 

767:名無し棋士

カウンターあるぞこれ

 

770:名無し棋士

天衣ちゃんのお胸が前より大きくなったらしい

 

 

女流棋士のお胸について語ろう part9(771)

 

481:名無し棋士

天衣の胸っていつの間にCカップになったんだ

【昨年の天衣.jpg】

【今日の天衣.jpg】

 

482:名無し棋士

>>481

並べたら分かるな。

2サイズぐらい大きくなってる

 

483:名無し棋士

A→Cだな

けしからん

 

 

774:名無し棋士

>>770

白熱しているところにえっちぃの持って来るな

 

776:名無し棋士

>>770

おほー(´・ω・`)

 

777:名無し棋士

α0が止まってるー

 

780:名無し棋士

>>770

(゚∀゚)o彡゜おっぱい!おっぱい!

 

786:名無し棋士

この場面を6七歩と打った時から読んでいたなら怖いわ

 

788:名無し棋士

>>786

嘘のような本当の話やで

 

790:名無し棋士

>>788

嘘やろ!?

 

794:名無し棋士

ここまで読んだから6七歩を打ったとしか思えないけど

本当にそうなのか疑いたくなるぐらいには現実離れしている

 

798:名無し棋士

あの時点で6七歩を咎めるような手を指さなかったということはα0でも全部は読み切れないのか

 

 

 

【人類代表?vsソフト代表】電脳戦第2局スレpart19【6七歩】

 

1:名無し棋士

スレが分散しているのにこの勢いである

 

関連スレ

【人類対AI】電脳戦スレpart37【6七歩】

【オーキロボ】大木晴雄に黙祷を捧げるはずだったスレpart2390【6七歩】

 

2:名無し棋士

1乙

 

4:名無し棋士

全部6七歩がスレ名に入ってるの笑うわ

 

9:名無し棋士

この待ち歩の意味に一早く気付いた九頭竜は人間やめてませんかね?

 

11:名無し棋士

九頭竜も何だかんだで人間卒業試験は合格してるからな

 

13:名無し棋士

ソフトに負けた神鍋は人間卒業試験不合格だったということか

 

16:名無し棋士

いやこれマジで6七歩を打った時にここまで読んでるなら人間辞めてるだろ

 

19:名無し棋士

大木って未来から来たアンドロイドじゃないよね?

 

22:名無し棋士

わりと前からアンドロイド説は根強い人気があるぞ

 

26:名無し棋士

プロ棋士になった当初からオーキロボとか言われているしな

 

30:名無し棋士

いやでもここから勝てるの?

6八竜の時点でもう次に必至かかる状態でしょ

 

32:名無し棋士

>>30

ソフトでもここからα0に必至がかかるのは読めてる

ソフトが読めている以上、大木が読めていないわけがない

 

33:名無し棋士

>>30

九頭竜がちょうど解説しているからニコ生開け

 

37:名無し棋士

プレミア会員でも追い出されるがな

 

40:名無し棋士

接続どうにかしろやぁ……

 

44:名無し棋士

ニコ生実況者が大量にミラーしてくれるの助かる

無言のところも幾つかあるぞ

 

49:名無し棋士

天衣ちゃんがうわあって顔してるの可愛い

 

 

 

電脳戦実況スレpart141

 

345:名無し棋士

歴史的瞬間キタ――(゚∀゚)――!!

 

356:名無し棋士

マジで勝ちやがった

 

371:名無し棋士

朗報:人類代表棋士、強い

 

378:名無し棋士

悲報:大木以外の全棋士がタイトル絶望

 

381:名無し棋士

>>378

いや、それは前々から分かってた

 

388:名無し棋士

ノータイムw

 

391:名無し棋士

投げたああああああああああああ

 

398:名無し棋士

速報キタ

 

406:名無し棋士

投了キタ――(゚∀゚)――!!

 

409:名無し棋士

うわあすご

 

418:名無し棋士

本当にすごい将棋しか指さないな

 

440:名無し棋士

おめでとー!

 

445:名無し棋士

1勝でこの騒ぎようである

まだ指し分けになっただけだぞ

 

453:名無し棋士

例え次負けても大木は1つ返したんだ

本当によくやったよ

 

462:名無し棋士

ため息が出る強さだわな

この将棋星人……

 

478:名無し棋士

マジで悪手指してないのに負けるんだな

α0強かったのに

 

489:名無し棋士

歴史の立会人になった気がす

 

500:名無し棋士

素晴らしい棋譜が残りましたな

 

510:名無し棋士

すげえ対局だったな

相当苦しかったろ

 

521:名無し棋士

これから30年は段位で呼ばれ無さそう

 

537:名無し棋士

6七歩が恐ろしすぎた……

そしてなんやあの局面の複雑化……それでいて全部読み切っていたとか恐ろし過ぎるわ

 

548:名無し棋士

α0に勝つマシーン

 

554:名無し棋士

八冠になる日も近い

 

578:名無し棋士

歴史の瞬間を目撃できてよかったわ

 

585:名無し棋士

おめでとう



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ミス

昨年度の順位戦、昇級をした人は大体知っている面子だった。B級1組からA級へは俺と久瑠野さんで、B級2組からB級1組へ昇級した面子には九頭竜が入っている。飯盛さんや二ツ塚さんはC級1組からB級2組へ上がったし、C級2組からは天衣と鏡洲さんが上がっていた。

 

空さんは1敗したせいで、順位の差で昇級出来ず。今年のC級2組は同じく1敗だった坂梨さんがいる上、椚やあいがいるからそう簡単には昇級出来無さそう。ちなみに坂梨さんは今年の詰将棋選手権で実質優勝をしていた。1位が俺で2位があいというバグキャラだったから、3位の坂梨さんは実質優勝扱いで良いだろ。

 

で、今年の詰将棋選手権で全問正解が出来なかった月光会長は今年もA級を維持したけど、宣言通り引退をした。まあ今年、ギリギリA級残留という位置だったし来年は落ちる可能性も高かったからな。俺がA級入りするということは、確実に順位が1つ下がるということだし。

 

電脳戦はソフト側の物理的勝利で幕を閉じたため、今度はソフトじゃなくて人に俺を負かそうと、とある動画サイトで九頭竜、歩夢、天衣の3人が俺相手に脳内将棋を挑むという企画があった。

 

一応昨年度の勝率2位3位4位が挑んで来た形だけど、無事アイが全勝した。後で見返したらコメント欄にあった「3人で勝てるわけないだろ!」「本当に3人ぽっちじゃ勝ち目ないの草」「どの3人組でも勝てないからセーフ」などのコメントが印象に残ったわ。

 

『九頭竜が800人いればちょっと怪しかったかもしれませんがね』

(……たぶん10人以上を相手にするの、俺は無理だぞ?いや相手は出来るけど、絶対どっかでミスするし全勝は無理)

 

電脳戦後、俺を上回ることが出来る可能性を示されたプロ棋士達は諦めがより一層悪くなったし、来年以降の電脳戦はハード面の制限をかける方向で話が進んでいる。まあ持ち運ぶのが現実的ではないというスパコンを持ち出したのはアレだし、今までなぁなぁで済んでいたハード面の話が議論されているのは良い事だ。

 

天衣の方は3度目の女王戦の第3局を迎え、挑戦者のあいが今までの2局で連敗したけど、今日は天衣が中盤でミスったからあいが勝ちそうな局面。昨年の夏に奨励会の三段に合格し、1期抜けを果たしたので才能はぶっちゃけ男性含めても歴代トップ5に入ると思う。

 

(あい相手に初敗北……は初対面で反則負けだったけど、プロ棋士になった後は初めてか。まあ今までの女流棋戦で対あいの成績、19戦19勝だったしそろそろ負ける頃だとは思ってた)

『むしろ、今まであいとの対局でミスしなかったことの方が凄いんですよ。九頭竜の対マスターを除いた対戦成績、昨年度は勝率93%でしたか?要するに九頭竜でも7%の対局ではミスをするんです。ミスしながらも勝った対局を含めると、ミス率は10%を超えるでしょうね』

(ミス率0%のスパコン様が何か言ってる)

『マスターも全力の時のミスはほとんど無いに等しいじゃないですか』

(0に等しい有と、完璧な無では大きな違いがあるんだよなぁ……)

 

対局はあいが優勢のまま終盤に入り、逆転の芽を潰された天衣は素直に頭を下げる。ようやく天衣相手に1勝をしたあいだけど、苦手意識は刷り込まれてそうだな。得意の終盤で小さいけど1つミスをしているし、あいの終盤力も人間らしいところがあったか。

 

「お疲れ様。中盤のミスは酷かったけど、もしかして俺の真似?」

「ええ。師匠の真似をしてみたかったのよ」

「ということは、やっぱり3五歩で開戦想定での縛りか。意図は読めたけど、咎められた手以外のポイントでもその読み筋にはミスがあるから後で伝えておくわ」

「……ミスがある私の間違った読み筋まで読めるものなの?」

「天衣の読み筋を、何万回と見たから読めるだけだ」

 

天衣はプロ棋士になってから、無敗というわけじゃない。強い棋士には負けているし、格下相手でもたまに負ける。それでも1年間を通して、勝率は8割5分とトップクラスだ。上にいる九頭竜とかいう奴と大木とかいう奴が頭おかしいだけです。

 

『ペテンの歩に類する相手のミス待ちの手は、相手の読み筋を知っていないと怖くて使えませんからね』

(そこで相手がミスをする、と確信してなければ中々指せないわ。今回の天衣の突き歩はまた意味が違うけど)

『将来的に相手玉の逃げ場を封じる手、としてみれば良い手かもしれませんが、自玉の弱点を晒した手ですから大問題ですよ』

(好不調の波もあるけど、少し視野が狭まっているのが問題だな。……天衣がわざと負けた感じもするし、そんなに心配しなくても良い気がするけど)

『ぶっちゃけると勝たなくても問題のない日ですからね。過密スケジュールで3連勝したくなかったでしょうし、試すには持って来いの相手だったんでしょう』

 

女流棋戦でも、3番手直りは適用される。というかむしろ、女流棋界の方が1強状態の問題は大きかったからな。空さんの5年間タイトル戦で無敗は色々とヤバかったし……今年のC級2組の順位戦では、あいと空さんがぶつかるから見物だな。

 

その後の女王戦第4局では無事に天衣があいに勝利し、女王のタイトルを保持。四冠目となる女流棋帝は恐らく空さんと争うことになると思うけど、空さんも空さんで不憫だな。どうせならあいとタイトル戦をして来たら良いのに。

 

(あれ……?空さんがあいに将棋でも負けたら、空さんがあいに勝っているのって九頭竜と知り合ってからの期間の長さだけ?)

『それだけで十分じゃないですか。あと倫理観は勝っていると思います』

(倫理観はあいの方が壊れてそうか。……空さんが九頭竜と同じ屋根の下で過ごした期間は、まだあいの3倍ぐらいあるからリードはしているのか?)

『昔の9年間と直近の3年間、どちらの方が記憶に残りやすいかと問われれば……』

(……やっぱり中学進学の時点であいを追い出せなかったの、空さんは辛いなぁ)

 

空さんはもうすぐ18歳になるはずだけど、相変わらずのツルペタ体型。まあ病弱だし仕方のないことではあるんだけど、あいや天衣の発育の良さと比べると少し残念ではある。

 

ちなみに九頭竜と空さんが定期的にラブホへコスプレ研究会をしに行っているのは何処かの雑誌のスクープでバレたので、九頭竜と空さんが付き合っているのは公然の秘密と化した。これで一線超えてないのは色々と凄いと思う。時々あいから天衣へ空さんのコスプレ画像が流れて来るけど、あの小魔王はマジ小魔王してるわ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女難

俺がアルファゼロに負けてから少しの時が経ち、今年はまだ電子機器類の持ち込みが禁止にならなかったけど、来年には禁止になると月光会長からは伝えられた。まあソフトに人間が負けたから仕方ない。もう俺よりも、アルファゼロの方が上だからな。来年以降、パソコンスペックの上限が定められたから来年の電脳戦はどうなるか分からないけど。

 

名人戦は結局、フルセットで名人が4勝3敗と勝ち越し、第7局で防衛を決めた。これで歩夢は当分の間、タイトル獲得が難しくなった。帝位戦は九頭竜を相手に俺が角落ちまで指して、7連勝。2年連続で帝位戦で7連敗を食らっても立ちあがるとか、魔王というより勇者だな。

 

そんな九頭竜は帝位戦が終わった後の8月1日に誕生日を迎えた。九頭竜の名前は8月1日生まれだから八一だ。清滝先生の家でかなり大きめの誕生日パーティーが開かれ、九頭竜は盛大に20歳の誕生日を祝われていた。そしてとうとう、事件が起こる。

 

このパーティーの後、帰った九頭竜の家に供御飯さんと月夜見坂さんが押しかけたらしい。あくまでここからは伝聞だけど、あいが寝静まった夜、そこで本格的なお酒デビューを果たした九頭竜は、供御飯さんと月夜見坂さんに誘惑されて手を出したとか。

 

そのことは翌日の朝、九頭竜の家に行った空さんに露見し、ぶち切れた空さんは九頭竜を引き連れてラブホへ直行。そこで九頭竜は空さんとも関係を持ち、ヤバい状況になったと思った九頭竜は一度冷静になって桂香さんに相談したようだ。

 

……そして桂香さんともヤッてしまった九頭竜は精根尽き果て、自宅に戻って倒れるように眠る。さらに翌日、九頭竜が目を覚ますと既にあいと合体していたとか。あいは九頭竜に有無を言わさず、何かを飲ませてそのまま九頭竜とやり続けた模様。

 

『要するに、九頭竜は5人の女性に手を出したということですね』

(手を出した……?まあこれで、五等分の九頭竜になる日も近いなこりゃ。物理的に)

『……きっかけはお酒ですか。やはりお酒というのは、怖いものですね』

(あと数日の間に、5人の女とヤれる精力があったのが怖い。流石はラノベ主人公)

 

恐らく1番最初に関係を持ったであろう供御飯さんは、あいに睡眠薬を飲ませていたらしいから前々から計画していたんだと思う。何というしたたかな女だ。まあ旧華族出身で、天衣以上のお嬢様だろうからそういう薬類は手に入りやすいだろうし、九頭竜を誘惑出来るだけのお胸もあったしな。

 

で、順番的には1番だった上にバックにある家の権力がトップの供御飯さんはハーレム容認派だから話がややこしい。空さんとあいは自分を選ぶよう迫っているけど、あの九頭竜が1人を選んで他を切り捨てられるかは微妙。あと誰か1人を選んだ瞬間、残り4人が刺して来そうだから簡単には答えを出せないだろう。となると、このままずるずると行きそうだな。

 

個人的に意外だったのは、月夜見坂さんが九頭竜相手に本気で恋してたことだ。いやしかし、九頭竜に対して好意的な場面は幾つかあったし、手を出せる状況にあれば手を出しそうな性格はしているな。

 

『このことが世間に露見すれば、九頭竜の名声は地に落ちるでしょうね』

(元々あって無いようなものだろ。ただでさえあいと祭神と空さんの三股をしていたと思われていたんだ。……げ、まだ祭神がいた)

『その内、祭神から襲われるのは確定事項ですね。今年の団体戦のチーム、九頭竜のチームメンバーは空さんと祭神とあいで確定でしょう?最後に選ばれる1名が可哀想です』

(……九頭竜の性格的に、椚を選びそうだな。今年の竜王戦、6組から勝ち抜いたのは椚だろ?プロになってから8ヵ月ぐらいだけど、勝率えげつないし、残り1枠に選ぶ可能性は十分にある)

 

団体戦の方は東京オリンピックの影響で開始の時期が少しずれ、もうすぐドラフト会議という状態だけど、あいと祭神と空さんの指名権を持つ九頭竜のチームが優勝しそうだ。2位あい、3位祭神、4位空さんという指名が出来るのはぶっちゃけズルだと思う。俺も2位でC級1組に昇級を果たした天衣を指名出来るけど。

 

……何か1位指名で飯盛さんを指名しないといけない雰囲気なのが辛い。あの人もB級2組に昇級を果たしたわけだし、若手でA級やタイトルホルダーを除くとトップクラスだけどさ。まあ団体戦は、もう天衣をA級棋士に当てるのが難しくなったし適当で良いか。

 

『冷静に考えて下さい。九頭竜は何歳ですか?』

(先日、20歳になったな)

『あいの年齢は?』

(12歳。再来月辺りで13歳のはず)

『どう考えてもあいはアウトの年齢です』

(九頭竜が眠っている間にあい側から手を出した形でもアウトなのか、俺には分からないから放置するわ)

 

九頭竜の女性関係がドロドロしてきたので、周囲から眺める分には面白いけど飛び火して来そうで怖い。……九頭竜が選ぶ行動に出たなら空さん一択なんだろうけど、少しでも迷ったらもうアウトだ。だって嫁性能的には供御飯さんやあいの方が上だろうし、好みとしては桂香さんが1番だろう。

 

というかここまで来たら飛鳥さんとか九頭竜に告白しないかな?七等分の九頭竜が見てみたい。週1でちょうど良さそう。

 

『九頭竜は、本当にモテますねえ』

(モテるって次元ではないと思うがな)

『頭、胴体、右腕、左腕、右足、左足……あと一つは股間にしておきます?』

(その七等分は物騒過ぎないか?このまま行けば実現しそうなのが恐ろしいけど)

『マスターは浮気した瞬間にコンクリート詰めされて大阪湾に沈められそうですし、物騒さは同じですよ』

(……浮気する予定はないけど、流石にそこまでは行かないんじゃないか?結局誓約書にはサインしてないわけだし)

 

九頭竜は最悪の場合、物騒なことになりそうだなぁと思ったけど、よく考えたら天衣も後ろが物騒だった。慣れてしまっているけど、天衣はヤーさんの家系なんだよな。タピオカで恐ろしいほどの荒稼ぎをしたようだし。

 

……売上金額をすごく単純に計算するけど、500円のタピオカが1日に3000本は売れて、それが10店舗全てで同様の場合、1年での売上金額は500円×3000本×10店舗×365日で54億7500万円なり。実際には売れ行きに波があるだろうけど、1年以上もブームが続いて、今なおそこそこ売れていることを考えると、やべえ額が夜叉神家に入ってそう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

収拾

喫茶店で、向かい合うようにして座った九頭竜は重苦しい雰囲気で口を開く。

 

「俺は……どうすれば良いと思う?」

「1人に選ぶか、全員の責任を取ろうか悩んでいる時点で答え出ているようなものだろ。どっちとは言わないが」

 

九頭竜の誕生日騒動があった後日。九頭竜がガチ相談して来たので答える。……あいと天衣が仲良かったせいで、俺にまで情報が届いたと九頭竜が読んだからこそ事情を話しての相談だと思うけど、半分自爆してるしいい迷惑だ。

 

というか全員の責任を取るというセリフが九頭竜の口から出て来ている時点でこいつの中で答えは決まってる。要するに、全員と関係を保ったままでずるずると行きたいわけだ。斬り捨てられない故の発想だな。単純に男としての欲望もあるだろうけど。

 

『全員魅力のある……魅力のある?女の子達ですからねえ』

(少なくとも全員、容姿端麗であるのは間違いない。桂香さんと供御飯さんは容姿的には九頭竜のストライクゾーンど真ん中なわけだし。……性格が根っこから捻じ曲がっているのはまだ関係の無い祭神だけか?あいの病んでる根っこの部分は、独占欲からだから面倒だな)

 

均衡を壊したのは供御飯さんだ。誰かが九頭竜に手を出しそうな気はしていたけど、供御飯さんは予想外、とまでは言えない存在だ。原作でも山城桜花戦の間にデートをしているし、本命が空さん、対抗馬があいなら、供御飯さんは単穴だろう。桂香さんは連穴だったし月夜見坂は大穴だったけど。

 

……5人の時点で多いけど、九頭竜の場合はもっと増える可能性もあるのが怖い。まあ祭神辺りはこのことが耳に入れば確定で九頭竜を襲うだろうし、飛鳥さんが九頭竜に好意を抱いているのも確認済み。その上でこいつ、シャルロットちゃんを嫁にする約束をしていたりとヤベー奴である。

 

『そう言えば九頭竜の頬へシャルロットがキスをした時の動画、切り抜かれて300万再生を突破していましたね。空さんとのスクープ記事が出た時、ニコ動の総合ランキングに浮上していました。それ以外の時も、九頭竜が活躍するとちょくちょく』

(うわなつかし。そう言えばそんなこともあったなあ)

 

少なくとも九頭竜の中では答えが決まっているんだけど、誰かに背中を押して貰いたい状態か。こういう部分は男らしくないというか、煮え切らない部分だな。俺は押さねーぞ。責任を被りたくないからな。少なくとも6人の人間の運命が変わる選択の後押しなんか、したくねーわ。

 

「というか祭神はどうすんの?何だかんだ、付き合いはあるんだろ?」

「将棋界は狭いから、関わること自体はあるよ。

……どうしたら良い?」

「例えば俺がここで、空さんを選べとか言ったら残りの5、6人から刺されそうだから答えられないわ」

「そんなこと起こるわけが!……ないとは言い切れない」

 

刺されそうだし答えられないわと言ったら、最初は声を荒げて否定しようとして、両手で顔を覆って否定しきれなかった九頭竜。うーん、泥沼ってるな。他人の修羅場は最高に楽しいわ。

 

『他人の不幸は蜜の味とは言いますが、ガチで死人が出そうな友人の不幸を楽しめるマスターは異常では?』

(どうせ丸く収まってハーレムハッピーエンドになるだろ。それまでは九頭竜の苦悩をニヤニヤしながら眺めるだけだわ)

『フラグ立ってますよ。というか社会的な死は免れないと思いますが』

(わかっとるわ。一応、最悪を考慮して天衣があいの説得をしているから大丈夫。……1番短絡的な思考をしそうな奴は抑え込めそうだし、何とかなるだろ)

 

個人的な目下の問題は九頭竜の女性関係問題じゃなく、天衣が期待するような目でこっちを見始めたことだからな。いやまだ俺からの告白をお預けされている状態なんだから、そういう関係になるならどっかのタイトル戦で勝ち上がって挑戦者になって欲しい。……現状、何回か天衣はタイトル戦の本戦トーナメントに進出したけど、九頭竜や歩夢の壁が厚すぎる。

 

『天衣があいに負けたように、何度も挑めばどこかの対局で九頭竜や歩夢には勝てそうな感じがするのですが……そもそもタイトル挑戦は、簡単なことではありません。タイトルホルダー以外の全員より、一時的にでも上に立たないといけませんから』

(女性関係はぐだぐだな九頭竜だけど、将棋だけはヤベーからな。歩夢も昨年度のA級順位戦、あれよあれよという間に全勝したし、タイトル戦の本戦トーナメントを勝ち上がるのは辛いわ)

『私的には、名人がその歩夢を相手に名人位を防衛出来たのが意外でした。名人戦以外の勝率が落ち込んでいますから、本当に名人戦だけに絞った結果でしょうけど……マスターが挑むまで、名人位にしがみつきましたね』

(そうじゃないと、3番手直りで俺と戦うのは難しいだろうからな。……あの名人、最後は俺に角落ちで勝って笑顔で引退する気だぞ)

 

名人は名人位を防衛したので、来年は俺と名人戦をすることがほぼ確定した。いやまあ俺が歩夢との順位戦でインフルエンザになればワンチャン歩夢が勝ち上がる可能性もあるけど。あとは食中毒や対局中に寝落ちする可能性は捨てきれない。

 

『将棋の神様相手に、飛車落ちで勝つのは難しいかもしれないが、角落ちで勝つなら可能かもしれないという意図の発言をしたのは名人です』

(あれは神様が上手前提で話した内容だと思うけど、将棋の神様相手に駒を落とす気かよと突っ込まれて、最終的には改変された台詞だな)

『雑誌の取材で将棋の神と対局したらどうなるかと問われて「角落ちならいい勝負だが、飛車落ちなら勝てないだろう」と答えたって奴ですね』

(まあ当時、名人は史上最強の棋士だったからな。神に例える人も多いし、今なお名人神話は残っているし)

 

九頭竜の泣き言を聞き流しながら、これから先のことを考える。この目の前の男、今年竜王を防衛したら永世竜王の資格を手に入れるし、これまでの竜王戦の賞金だけで2億は超える。資金的には5人ぐらい囲っても大丈夫そうだな。そもそも相手には旧華族とか大きな旅館の一人娘がいるし、金銭面の問題はない。

 

九頭竜が希望を通すとしたら、説得の際の最大の難敵は空さんとあいか。あとはあいの両親と清滝先生と、面識はないけど空さんのご両親と供御飯さんのご両親と……。これから九頭竜は清滝先生の家に行って、話し合いをするそうだけど、どうなるかなぁ。喫茶店から去っていく九頭竜の後ろ姿は、流石に元気がない。

 

 

 

そして後日、話し合いの場は混沌としたけど丸く収まったという九頭竜の申し訳なさそうなにやけ顔に、やっぱりこいつ一回刺された方が良かったんじゃないかと思った俺は悪くない。はー?現代日本で女性陣公認のハーレム作ったってマジかよ。

 

というか空さんやあいよりも供御飯さんの倫理観の方がぶっ飛んでて色々とヤバかったそうな。結婚しなくても愛し合うことは出来るとか、子供を作ることは出来るとか、酒の耐性が無かった九頭竜を酔わせてヤッたのによく言えるわ。

 

とりあえず俺と天衣は将棋界のためにこのことを口外しないと決めたけど、情報が入っていないはずの歩夢がドン引きしながらこの件についてしつこく聞いて来たし、将棋界に九頭竜の噂が広まるのは時間の問題と化した。

 

いや九頭竜の所業が世間に露呈したら将棋界が終わるから、棋界側の人間としては何としても隠蔽しないといけないんだけど……。何だこの時限爆弾。解除が出来ない無理ゲーじゃないか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

殴り合い

9月から行なわれる団体戦は九頭竜チームが無双を始めたので今年度は優勝を掻っ攫われそうだなと思いながらも、九頭竜のチームとは別のリーグになったし、天衣と飯盛さんがいるから決勝までは行けそうだなという状況。

 

というか椚とあいと空さんと祭神はずるいわ。大木の対抗馬としては九頭竜しかいなかったんだろうけど、総合力でこちらは圧倒的に負けている。……ハーレムの件は、まだ祭神にバレてないようだけど時間の問題だろう。マジ時限核爆弾。

 

なお今年の特別枠は月光会長が引退棋士を引き連れての参戦。妥当なスペシャルチームとしての参戦で、チームの成績はそんなに良くないけど、月光会長がわりと勝っているので引退は早かったんじゃないかと囁かれている。

 

そんな中、マイナビ女子オープンの本戦が始まる。出場する16人の中には、晶さんの姿もあった。……昨年度はチャレンジマッチで2勝2敗と何とも言えない結果で終わった晶さんだけど、今年はチャレンジマッチを勝ち抜き、予選トーナメントは相手に恵まれたために本戦出場を果たした。

 

1年かけてアマ二段からアマ三段にもなっている晶さんは、この本戦トーナメントの初戦で勝てば女流棋士になれる。もしも女流棋士になれたら、俺の弟子になるそうなので天衣の妹弟子爆誕である。そして本戦1回戦の相手は桂香さんだから、わりと可能性があるというね。

 

流石に空さんやあい相手は角落ちや飛車落ちでも無理だろうし、元タイトルホルダーの供御飯さんや月夜見坂さんの相手も当然無理だ。そんな中、桂香さんに当たったのは幸運としか言い様がない。言っちゃ悪いけど、本戦出場者の中で晶さんが唯一勝てる可能性の残る相手だったと思う。

 

晶さんにとってはわりと今後の人生がかかっている一戦で、俺と天衣は東京の将棋会館のすぐ近くの喫茶店で対局を見守る。ちなみに、晶さんと桂香さんの隣で指しているのはあいと空さんです。対局場がひりついた雰囲気になってそう。

 

『晶さんの将棋は、見ていて面白いですよね。無鉄砲というか、自由さがありますよ』

(奇襲戦法を好んで自由奔放に指しながら、実は隠れて一点集中突破狙いとか俺に通ずるものはあるかもしれない。まあ主な成長方法が、天衣の対局の解説を俺から聞く、だったからなぁ)

 

桂香さんと晶さんの将棋は、晶さんが振り飛車の三間飛車で桂香さんが居飛車という無難な立ち上がり。晶さんが石田流を指しているのをみると、ちゃんと勉強もしているのは分かる。

 

一方の空さん対あいの対局は、序盤から殴り合いに発展していた。空さんは防御よりのバランスタイプだし、あいはカウンター型の持久戦術が得意なのに、そんなこと関係無しに序盤から互いに角交換して馬を作って殴り合ってる。この女同士の戦いは怖いわ。……というかもしも1対1で九頭竜を争っていたら、現実のものになっていた可能性があるの怖い。

 

『お互いに左手でネクタイを握りしめながら、右手で顔面を殴り続けるような将棋ですね』

(現実で起こらなくて良かったわ……天衣があいの相談に乗っていたからかな?)

「天衣はあいとどんな会話をしたんだ?一応、ボイスレコーダーは持って行ってたんだろ?聞いても良い?」

「……聞かれたくない会話が入っているから駄目よ」

「じゃあその部分だけ消して良いから、残りを聞かせてくれ」

 

問題解決する前、九頭竜が本格的に殺される懸念があったので天衣には念のためにボイスレコーダーを持たせていた。建前としては、あいが九頭竜に危害を与える行為を示唆する発言があった場合、取り押さえられるようにするため。本音としては、単純に天衣とあいの会話を聞きたかったから。

 

(よし、じゃあまずは消されたデータを復元してと)

『……女の子の聞かれたくない会話を真っ先に聞こうとするド外道マスター』

≪は、初めての時ってどんな感じだった?≫

≪えっとね、私は師匠に貫かれる妄想を何千回としていたけど、やっぱり妄想と現実は……≫

「何聞いてるのよ!え!?何で聞いてるの!?」

「すまん、操作ミスった」

 

天衣と騒ぎながらもボイスレコーダーの記録を聞くと、天衣が何とかして九頭竜の幸せを第一に考えるようあいの思考を誘導していたことが分かる。まあ、元々あいから九頭竜への好感度は青天井だったし、少し独占欲を抑えるように説得して、それが功を奏した形かな。今では立派な九頭竜狂信者になって、九頭竜のことを第一に考えるようになったし。でも空さんとは将棋で殴り合う。

 

「もう……。

……師匠は、別の女を作らないわよね?」

「作らないというか、作れねえわ。

げ、晶さんが押され始めた」

「あのおばさん、たまに強いわよ。特に定跡型の将棋なら力を発揮するし……それでも他の平均的な女流棋士よりかはマシってだけだけど」

「で、空さんとあいの将棋は形勢不明だな。微妙に空さん有利か」

 

晶さんの将棋は晶さんが不利になっていってるけど、晶さんの狙いは読めているし、実現したら逆転勝ちだろう。空さんとあいの対局は、殴り合いの末に空さんがリードを奪った。来年の女王戦の挑戦者は、空さんになりそうかな?

 

『ずっと狙っている手が、桂香さんにバレなければ勝ちですか。……ああ、決まりましたねこれ』

(桂香さんは、見事な頓死だな。誘導し切った晶さんが強かった将棋だけど……危なっかしい将棋を指すなあ)

『少なくとも、女流棋士になるか否かが決まる一局で指す将棋では無いですね。そこが晶さんの強みでもあるのでしょうが』

(……マジで女流棋士なっちゃったよ。天衣はこれで、姉弟子になったわけだ)

 

「本当に、晶を弟子にするの?」

「するしかないだろ。……1番弟子は天衣だけだから安心しろ」

「……師匠への弟子入り希望の数、凄いのよね?」

「ツイッターのDMで嫌というほど来る。ちゃんとプロフィールに弟子入り希望DMはNG無視しますって書いてるのに」

「ええ……」

 

終盤も終盤、最後の攻防で一気に桂香さんの玉を詰まし切った晶さんだけど、頓死筋を利用しての勝ちは晶さんらしい感じがする。これで俺は2人目の弟子が出来たことになるし、その弟子は年上という摩訶不思議状態に突入した。

 

天衣にも言われたけど、俺への弟子入り希望の人は多い。まあ月光会長の方が多いんだけど、そのうち何人か育てろと言われるようになるのかな。今までは天衣だけに集中したいという言い訳を使ってたけど、晶さんも女流棋士になったし、回避は難しそう。

 

そして空さんとあいの殴り合いの結果は、空さんに軍配が上がった。なんか血塗れの拳を握っている空さんの姿が幻視出来そうな将棋だな。隣の将棋と比べると恐ろしくハイレベルな戦いだし、あいも最後までよく耐えたわ。しかしまあ、女の争いって恐ろしいな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

竜王戦6組

晶さんが将棋を始めてから3年と8ヵ月の月日で女流棋士となったけど、実力的にはアマ四段もないので奨励会員の6級にも勝てない。天衣の指す将棋を理解したい一心で強くなっているけど、まだまだ一人で理解するには時間がかかりそうだな。

 

今年の竜王戦の挑戦者決定戦に勝ち進んだのは歩夢と、6組のランキング戦から十数連勝をして勝ち上がってきた椚だ。持ち時間が長くなればなるほど強さを発揮する、原作では小学生棋士だった椚は、一時期かなり落ち込んでいた。

 

……1期で抜けられると思っていた三段リーグで3期も足止めされたことは、かなりショックだったようだ。本来なら3期抜けとか早い方だけど、15勝3敗で二度抜けられなかったからなあ。

 

ちなみにこの竜王戦、1組から6組まで順位戦のようにランキング化されており、6組優勝者でタイトル挑戦者まで勝ち進んだのは九頭竜だけである。あと5組優勝者でタイトル挑戦者になった者はいない。5組と6組優勝者は、挑戦者決定戦まで勝ち進むのがかなり難しいからな。来年には俺が6組からタイトル挑戦まで勝ち進むけど、それが史上2人目になるか3人目になるかは椚の結果次第。

 

『結局2期の足止めを食らった後は、全勝での勝ち抜けなので2期続けて三段リーグは全勝者が出たということですね』

(明らかに異常だな。いやまあ椚が三段リーグで揉まれ続けたって事実は、椚にとってプラスに働いてそうだけど)

 

ついでにあいは椚が抜けた後の三段リーグを16勝2敗で1位通過。今年度の上半期の三段リーグは14勝4敗の人が1位通過だったので、そろそろ例年並みに落ち着いた模様。

 

「今日の解説は山刀伐さんと鹿路庭さんね」

「家が隣同士、息ぴったりだな」

「……アパートの部屋が隣なのよね?それでよく付き合ってないとか言えるわね」

「2人とも、結婚しないんですかというコメントに真顔でコイツはNGと言い切ったから本当にお互い恋愛対象じゃないんだろ」

 

解説の場で山刀伐さんのことをジンジン先生と呼ぶ鹿路庭さんは、今日は破廉恥な格好だな。方向性が完璧に迷子。この前鹿路庭さんは椚を研究会に誘っていたが、椚側から断られていてショックを受けていた。中2男子とか性欲に素直なお年頃のはずなんだけど、椚は九頭竜との会話で語尾にハートマークを付ける奴だしなぁ……。

 

(椚か歩夢か。どちらが勝っても九頭竜に7番勝負で勝ち越すのは無理だろうな)

『歩夢は名人位を逃した時点で真っ白に燃え尽きていましたからね。むしろその状態でよく竜王戦の挑戦者決定戦まで勝ち残れましたよ』

 

対局場のカメラから、解説のカメラに切り替わると鹿路庭さんのおっぱいがドアップで映る。おいカメラマン、グッジョブ。コメント欄もお祭り騒ぎとなり、鹿路庭さんは顔を赤くして南半球を腕で隠すような仕草をとった。あとで問題になりそう。

 

「……男って、ほんと馬鹿ね」

「おう、画面を頭で隠すなや。あとそろそろ膝が痛い」

「前は3時間以上膝の上に乗ってたんだけど?」

「前より天衣の体重がふごぉ」

「それ以上言ったら、口の中へ手を突っ込むわよ」

 

膝の上に乗ってタブレットで動画を見ている天衣だが、重くなったからか膝が痛くなったと言ったら手で口を塞がれた。何で美少女の手ってこんな良い匂いがするんだろ?

 

『うわあきも』

(男性が5文字で傷つく台詞トップ5に入るのを言うのやめて?)

『それ、1位は何です?』

(……ちいさいね、だな。色んな意味で)

 

「……一回、師匠を抱えてみて良い?」

「……え゛?」

「真面目な話、師匠の方が軽いのは確かじゃない。背も小さいし」

「まだ俺の方がギリギリ……あれ?負けてる……?」

 

その後、天衣と俺の位置が入れ替わる。あれ?天衣の腕の中にすっぽり納まるとかマジ?いや身長は低いし体重は軽いと自覚していたけど、中1女子にしては身体が大きい天衣より身体が小さいとは思わなかった。というかよく抱き抱えられるな。もうすぐ成人男性になるんだけど。

 

(ああ……最終的には天衣の弟に見られるんだろうな。髭でも伸ばすか)

『髭が生えないお子様体質なのにどうやって伸ばすんですか?』

(……泣いて良い?)

『天衣の胸が背中に当たっての嬉し泣きですか?どうぞご自由に』

 

俺の身長を抜いたことが判明し、ご機嫌な天衣と一緒に竜王戦の挑戦者決定戦の続きを見る。お互いに居飛車同士、矢倉同士の戦いだけど、矢倉なら歩夢の方が分はあるな。

 

『歩夢と九頭竜は、今までに何度も矢倉で指していますからね』

(逆に椚は自陣の矢倉を崩したがるというか、矢倉自体が古臭いと思ってそうだから研究が進んでいるのか不明だな)

『研究が進んでなくても、その場で椚なら読み切るでしょう』

(結局、中学1年生でプロ棋士になったのは当時2番目の若さだからな。原作小学生棋士が弱いわけないわ)

 

速い椚の攻めを、しっかり受け止めて返しで椚の陣地を削る歩夢の将棋は王道って感じがする。なおこの3番勝負で勝っても待ち受けるのは覇道を突き進む九頭竜の模様。でも来年には挑むチャンスも無くなるから、2人とも必死だ。あれ?来年竜王戦で勝ち上がる予定なの漏れてる?

 

対局は中盤で歩夢がリードを奪うも、終盤で椚に追い付かれて山刀伐さんと鹿路庭さんが形勢不明と言う。ソフトがこの段階でもプラスマイナス0なのは珍しいな。それだけお互いにまだまだ粘れる形ということだけど、2人とも1分将棋に入って時間に追われ始めた。

 

そして歩夢に、悪手が出る。

 

「……今の手、大悪手よね?」

「ああ。受ける必要がないところで受けたからな。既に受かっているところへ駒を足して、逆に逃げ道を塞いだ。椚が気付けば即死だな」

 

当然椚は気付いただろうけど、無理に攻めに行かずに自玉の詰みを確実に消した。うわ中2男子強い。ここで歩夢はミスに気付いたようで、投了の準備と形作りを始める。その数手後、歩夢は投了し、椚が挑戦者決定戦の第1局に勝利した。

 

(歩夢はA級順位戦で全勝した実績もあるし、間違いなく俺、九頭竜に続く3番手ではあるんだけど、運に恵まれないな)

『……これ、タイトル挑戦の最年少記録は椚に掻っ攫われそうですね』

(いや、来年の今の時期までに天衣がタイトル挑戦したら良い話だし、まだあと2局残っているだろ)

 

これで椚は九頭竜が持つ最年少タイトル挑戦記録である16歳3ヵ月を大幅に塗り替えるかとマスコミが大騒ぎしたけど、続く第2局と第3局では歩夢が勝利し、結局竜王戦の挑戦者は歩夢に決定した。これで歩夢は、2年ぶり2度目の竜王戦挑戦者だな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

真剣師

あいや辛香さんの事例を鑑みて、棋士編入試験制度が確立されるのは時間の問題だった。アマチュアがプロ棋士相手に10局以上指していて、勝ち越し以上の成績を残していれば、50万円でプロ棋士の受験資格を得るという制度。

 

前世ではこの試験、棋士番号が大きい順に相手をすることになっていたけど、直近でプロ棋士になった者達のレベルは高すぎるということから試験官は年間勝率が5割以上の棋士でランダム。四段から八段まで、各段位を1人ずつ計5人を当てることになる。3勝で合格、3敗で不合格だから受験者はプロ棋士相手に勝ち越さないといけない。

 

そして早速条件を満たしている祭神が権利を使い、プロ棋士編入試験で活きのいい四段、五段、六段を相手に3連勝をしてプロ棋士となった。あいに続いて、4人目の女性のプロ棋士が誕生したことになる。

 

『女性のプロ棋士が、もう世間では珍しいもの扱いじゃなくなりましたね。これからもどんどん女性のプロ棋士が出て来るだろうと、世間の人達は期待しています』

(単純に、今までの4人が異常だっただけなんだよなあ。馬莉愛はこの前に入品したし、5人目が誕生するのはそう遠い話ではないと思うけど)

『そう言えば入品してましたね。中学生の間に三段まで昇段すれば、5人目の女性のプロ棋士が誕生する可能性は高いです』

(いや中学生の間に四段昇段もあり得るだろ。伊達にコンピューターネイティブ世代を名乗ってないぞ)

 

プロ棋士編入試験の制度が確立することで、アマチュアがプロになれるルートが生まれたわけだ。だから、真剣師と呼ばれる連中がその制度を利用しようとするのも時間の問題だった。

 

「天衣は、元真剣師のプロ棋士の話は知ってるか?」

「東海の鬼の話?知ってるわよ。

そしてその人の弟子達が、元真剣師達をプロ棋士に推していることもね」

「ぶっちゃけ今の時代に数十数百万を賭けて戦う真剣師業なんて廃れたと思っていたけど、思っていた以上にそういう輩は多かったみたいだわ」

 

奨励会で夢破れた者が、場末の道場なんかでアマチュア相手に真剣をやって稼いでいるという話はとうの昔話だと思っていたけど、よく考えたら新世界にも真剣を受けてくれる道場があったし、そういうところをカモにして渡り歩き、稼いでいる連中がいてもおかしくはない。

 

で、この真剣を生業にしている奴らは大抵強い。最後の真剣師と呼ばれた人なんか、63歳でアマ名人になってるからな。それから50年近くの月日が経っているけど、生き残ってる人はいたんだなという感想。というか今年のアマ竜王が元真剣師ってマジかよ。もしかしたら俺と竜王戦の6組で当たるかもしれないのか。

 

『将棋ブームが加速する中、プロ棋士を増やしたい連盟側と、プロ棋士を諦めきれなかった男達の思惑が合致した感じですね』

(三段リーグを抜けられるのは年に4人だけだし、プロ棋士の数は急激には増やせない。だからプロ棋士編入試験を設けて、何人か強いプロ棋士を増やそうという魂胆もあるだろうな)

『問題は時限爆弾がいつ爆発するかですが』

(……いやー、供御飯さんが思っていたよりガチ貴族だったから隠蔽は何とかなるんじゃないか?後は俺とか天衣とか、事情を知っている人が全員、将棋界が壊れたら困る側の人間だからな)

 

天衣が前まで使っていたネット将棋のサイトにも強い人はゴロゴロいたし、プロになれなかったプロより強い人は確実に存在する。全国各地で将棋のイベントも開催されるようになって、人手が足りなくなった今、その人達を回収したいのは分かるけど……。

 

(真剣師かぁ……)

『奨励会は人生を賭けて戦う場ですが……文字通り10万100万の現金を賭けて命懸けで戦う連中の方が圧倒的に成長はします』

(将棋で強くなりたければ、真剣を指せと言うプロ棋士もいるぐらいだからな)

『マスターも天衣の最初の指導では、真剣を指させました。原作をなぞる目的も強かったと思いますが、あれは天衣の成長にも大きな影響を及ぼしています』

 

よく漫画とかであるヤクザの代打ちみたいなのがあるのか、ゴリマッチョの方に聞いてみたら、未だにそういうことをやっているところはあるそうだ。だけど最後に行なわれたのが彼が知っているところだと十数年前らしいし、現実的な話じゃないな。

 

でもまあ、10万100万単位の真剣なら未だにやっているところもあるだろうとは言ってた。流石はヤーさん。そういう事情には詳しいな。

 

……その真剣師達がプロ棋士になったとしても数人増えるだけだろうし、そこまで問題にはならなさそうか。ちなみにプロ棋士が真剣をやったら厳しい処分があるけど、出先で真剣を挑まれることはわりとあるある。アマ初段二段程度の社長さんが数万の真剣を挑んでくるとやりたくなるわ。まあ二枚落ちでフルボッコにするけど。

 

『今のマスターに二枚落ちで勝ち切るなら奨励会二段程度の棋力は必要でしょうね』

(アイもこの前、馬莉愛を二枚落ちの指導対局でフルボッコにしただろ。歩夢がドン引きしてたわ)

『……定期的に釈迦堂さんの店の服を天衣と一緒に買いに行くのは、その内世間に露呈しそうですね』

(いや、もう既にしてるんじゃね?単に夜叉神家が押さえ付けているだけだと思うぞ)

 

俺と天衣の関係は、健全な師弟関係以外まだまだ世間に露呈することはないだろう。一方で13歳未満の女性と関係を持った九頭竜が世間に露呈しないのは謎だけど、話し合いの場に居た人間以外で知っているの、俺と天衣を除けば月光会長と歩夢ぐらいなんだよな。そりゃ広まらんわ。

 

『この前の誕生日で天衣から貰った「何でも言うことを1つ聞く券」の使い道、決まりましたか?』

(今度の天衣の誕生日に同じものをあげて、向こうがそれを使って来たら内容によっては相殺するわ)

『……わりと最低な発想してますね?』

(天衣にあげるもの、もう思いつかないもん。昨年の腕時計でもう限界だわ)

『あれ、わりとマスターにしては奮発していましたよね。天衣にとっては安物でしょうけど』

(天衣に似会いそうな腕時計を探していたら、1日経っていたのは良い思い出。……軽いノーパソでも買ってやるか)

 

真剣師達が棋士編入試験を受けるとしたら、天衣が試験官に選ばれることもあるんだろうな。こればかりは勝率5割以上からランダムにすると月光会長が言っていたし、しょうがないことではあるけど……案外絵面が面白そうだから、天衣が試験官に選ばれたら応援しに行ってやるか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

永世竜王

歩夢が「あの悪逆非道の暴君に正義の鉄槌を降して来る」と竜王戦開幕前に言っていたけど、無事3連敗してストレート負けを食らいそうになった4局目。香落ちの対局は執念で勝ち切り、5局目も平手で勝ったけど、6局目で負けて2勝4敗という内容だった。

 

歩夢はまたタイトル獲得チャンスを逃したし、結局九頭竜は永世竜王の資格を得たか。というか「童貞or処女を喪失したら強くなるor弱くなる」は将棋界だとよく言われる話なんだけど、あいつ強くなるのかよ。何という理不尽の塊。

 

……いやまあ、理不尽な存在の方が将棋が強いなんてよくある話なのだが。現六冠の人とか、深夜にゲームしまくって対局中にうとうとしていますし。祭神とか畜生の時の方が強かったと思う。

 

『プライベートは充実している棋士の方が強かったりしますからね』

(プライベートが充実……充実?

歩夢が3連敗からの4連勝決めるかと思ったけど、やっぱ厳しいな)

『3連敗した後に4連勝すれば第4局の香落ちが問題になるとは思いますが、そもそも3連敗した後に香落ちで勝ったとして、その後平手で3連勝するのはかなり難しいことなんですよね』

(……まあ、九頭竜が相手だったしな。今のアレ相手に平手で3連勝は歩夢には厳しい。そもそも開幕の3連敗が痛すぎる。それだけ実力差があったってことだけど)

 

世間では初代永世竜王の誕生に湧いたけど、竜王戦の期間中に、来年度の竜王戦の予選は始まる。来年の竜王は取りに行くタイトルだから勝ちに行くけど、例の元真剣師でアマ竜王の人と同ブロックになった。天衣が。

 

『今年の竜王戦の予選は、マスターとの公式戦初手合いになりそうだからと天衣も気合いが入っていましたが、例の元真剣師はかなり強いですね』

(初戦で鏡洲さんを寄せ付けずに勝ったからなあ。鏡洲さん、今年も順位戦は全勝だし絶好調の若手と言っても過言ではないのに)

『若手……若手?』

(……まだ鏡洲さんはプロ棋士になってから2年程しか経過してねえ。30代前半は、まだ若手で良いんじゃないか?)

『私は新人王戦の参加基準である26歳辺りが区切りだと思いますけど?』

 

若手の定義は難しいけど、世間一般ではアイの言う通り26歳ぐらいが基準になりそう。ちなみに昨年の新人王は飯盛さんだった。天衣が途中で負けてなければ俺との記念対局が実現していた可能性は高いけど、まあ負けたものは仕方ない。そもそも記念対局は、非公式試合だしな。今年は天衣が優勝したけど、記念対局は名人が行なうことになったので結局師弟対決は実現しなかった。わりと残念。

 

そして竜王戦6組のランキング戦は対局数が多いので、将棋会館の同じ部屋で複数の対局が行なわれることもあるけど、今日は隣で例の真剣師が辛香さんと戦っていた。俺の相手はいつぞやのC級1組にいる勝率4割棋士だな。寝てても勝てそう。

 

今年からC級2組の順位戦に参加する辛香さんは、対局中もおしゃべりの多い人だ。というか年配の人ほどおしゃべりをよくするし、対局中に全くの無言になることはそこまで多くない。

 

「あんさんは元奨でっか?」

「いや、違う。

俺が将棋を覚えたのは高校卒業後、組に入ってからだから19歳の頃だな」

「それはまた……。

師匠とかおられます?」

「組の代打ちをしていた、元奨が一応の師匠ということになる。ただ基本的な将棋の勉強は、プロの対局の棋譜で行なった」

 

素直に元真剣師はべらべらと境遇を語るけど、この人は将棋に出会うのが遅かったタイプか。19歳で将棋に出会ったら、当然だけどプロ棋士は目指せない。奨励会の試験を受けられるのが、19歳以下だしな。ルールを憶えた時点で年齢制限はオーバーだ。

 

「初めはプロの先生の対局の棋譜を見てもちんぷんかんぷんだったが、1年も経てばお互いの意図が棋譜から見えるようになり、さらに1年も経てば元奨の先生やその対局相手が弱いと思うようになった。その辺からだな。俺が真剣師として本格的に活動し出したのは」

「その元奨の方は、奨励会をどこで辞めはったん?」

「二段だ。そして俺は、組の代打ちを任されるようになってから一度も負けたことがない」

「それはそれは。今まで対戦相手に恵まれましたなあ」

 

『何か表に出て来たら駄目そうな人間ですよね。小指無いですし』

(は?うわほんとだ。左手の小指がない人間初めてみたかも)

『ですが将棋は強いですよ。天衣と同じ程度には』

(そりゃヤーさんでキャリア20年ぐらいの真剣師とか、踏んで来た場数がヤバいだろ。あと純粋に攻め合いのタイミングが上手いわ)

 

辛香さんは煽りながら、得意の泥沼持久戦に引き摺り込もうとしているけど、あの顔はもう敗北を悟ってそうな顔だな。あと修羅場を幾つか切り抜けてそうな真剣師さんは、粘る相手の対処も得意そうだ。アマチュアで3回戦進出はかなりの好成績だし、さらに勝ち上がりそうだな。4回戦、準々決勝で天衣と当たるなら見物だ。

 

将棋はアマチュアとプロの差が激しいと言われているけど、ソフトが改善されていくにつれ、アマチュアが手軽にプロ棋士以上の存在から将棋を教わることの出来る環境へと変化した。その結果アマの大会のレベルは跳ね上がり、アマの最上位層は最下位層のプロ棋士相手には勝てるであろう状況になった。

 

将棋の競技人口が増えたということは、それだけ将棋の天才が将棋を始めるきっかけは増えたということだ。特に将棋を始めるのが遅かった人達が、こうしてプロを目指すことも増えるだろう。

 

(何か今日、まったり惨殺してるけど変な事してる?)

『マスターの指示でチェスの解析を進めているのですが?自分で出した指示をお忘れです?』

(対局中にもやってるのかよ。変なミスしたりしないだろうな?)

『するわけないじゃないですか。というかもう決着がついているのに心配性ですね』

 

俺もアイに任せて普通に勝ったけど、何か平凡な手が多かったなと思っていたらアイはチェスの勉強をしていた。いや、来年の初頭にイベントがあるからといって、ガチになり過ぎだろ。確かにチェスのグランドマスターを相手に後手番でフルボッコに出来るレベルまで頑張れとは言ったけど、アイならもう世界ランク一桁に勝てるレベルだろ?

 

『世界ランク一桁だろうが虐殺は出来ますよ。ですが将棋よりも紛れが少ない分、より慎重にならないといけません』

(……世界中からチェスの腕自慢を集めて脳内100面指しをするんだろ?俺に勝ったら賞金10万ドルとか、グランドマスターも出て来るんじゃね?ただでさえアルファゼロに1勝したことで、世界に名を売ったからな)

 

チェスの世界のことはよく知らないが、来年の年始に世界中からチェスプレイヤーを募り、応募者が100名を超えたら世界ランクの上から順に100名を選出。東京で脳内100面指しを決行するらしい。日本での将棋ブームは巻き起こったが、それを世界に広げるための取り組みだな。

 

なお来てくれるチェスプレイヤー達にとって、俺に勝ったら10万ドル、負けたら何も無しというオールオアナッシング仕様なので、本当に強い人が来てくれるかは微妙。せめて飛行機代ぐらいは出してあげようよ。そして俺が100面全敗したら将棋界は10億円ぐらい負担しないといけないんだけど、そこら辺ちゃんと考えているのか不安になる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

年明け

2021年を迎え、昨年は激動の年だったなと振り返る。主に九頭竜関係で。あいや天衣も13歳となり、最近の子は本当に発育が良いなと思ってしまった。もうあいも天衣も俺より背が上だよ。

 

そしてあいが13歳を迎えたことにより、九頭竜の女性関係の問題は無くなった。まあ問題はあいの年齢だけだったしな。別に空さんと九頭竜は婚約しているわけじゃないし、そもそも九頭竜のステータスは独身だ。ぶっちゃけ当人間で問題が無ければ周りが騒ぐようなことでもない。九頭竜自身が何か他の問題行動を起こせば、連鎖爆発はするだろうけど。

 

「あけましておめでとう、師匠。今年はタイトル挑戦するわよ」

「明けましておめでとう。まあ、持ち時間の短い一般棋戦ならワンチャンあると思うぞ」

「……準タイトルじゃない。師匠は今年、八冠を目指すのよね?」

「ああ。歩夢との対局にも勝ったし、名人と竜王は逃さん」

 

今年の指し初め式では、あいや空さんに加えて関東の方へ行ってないとおかしい月夜見坂さんや供御飯さんに囲まれる九頭竜。結局祭神にもハーレムの件はバレたようだけど、祭神はそれから一線を引いている。祭神の方が良識あったってマジかよ。金貰っても複数プレイはごめんだわとか、俺はこいつに真っ当な感性があったことに心底驚いている。

 

『そこまで驚くのは祭神に失礼じゃないですかね?……いえ、衆人環視の前で全裸になれていた人間が真っ当なことを言いだしたら私でも驚きますね』

(あー、それ原作ではそうだったけどこの世界でもそうだったかは未確認なんだよな)

『確認しようとして出来ることではありませんからね。ストーカーをしていたことは確定ですから九頭竜への好感度は変わってないと思っていたのですが……』

(……まあ、これ以上増えたら隠すのも無理そうだったし真っ当な人間が増えるなら歓迎だわ)

 

でも祭神なら一見真っ当になったように見せかけて、裏では九頭竜監禁の計画を企てていてもおかしくないと思う。あとしゅーまい先生が今年も九頭竜に絡んでいるけど、酒を飲ませようとするのは止めてあげて。しゅーまい先生がはだけた状態で九頭竜に密着しているから空さんとあいの目が笑ってないし、中々に九頭竜も大変な模様。

 

個人的には2回ぐらい刺されろと思ったけど、実際に刺す行動に出る奴はいないだろうな。空さんとあいは納得こそしてなさそうな感じだけど、受け入れてはいるようだし。

 

指し初め式では九頭竜が酒を入れて指しているのに快勝を繰り返すという光景が見られ、俺はチェスをやっているプロ棋士にチェスを教えて貰う。この現在C級1組でチェスが趣味の人、名人に誘われてチェスの大会にも出たんだよな。で、国内のチェスのレーティングで最高3位まで行った人だ。なおその時の1位は名人だった模様。

 

『あの名人、棋帝戦を3勝1敗で防衛達成した翌日にチェスの大会に出て当時の国内最強を負かしていますからね』

(名人伝説の一つだな。趣味でチェスをやっているが、そのチェスでも国内トップに君臨したって。紛れもない事実なのが恐ろしいわ)

『ですが、将棋よりもチェスの方が読みやすいですよ。そしてこの程度のレベルなら、100面でも余裕で勝てます』

(一応、この人は現在チェスのレーティングで国内4位だぞ。将棋ではアレだけど、チェスはトップクラスと言っても良いわ)

 

九頭竜が女性に囲まれているのはいつものことなので、当然注目は俺に集まる。まあチェスの大会で名人を除いたら随一の成績を残している、チェスが本職とまで言われているプロ棋士相手にチェスで何回も勝っているからな。

 

(囲碁は難しい?)

『基本的な思考がガラッと変わるのですぐに極めるのは無理ですね。同じボードゲームでも将棋とチェスの差と、将棋と囲碁の差は雲泥の差ですよ』

 

棋界としては世界中に競技者を増やしたいそうで、最近では海外向けの将棋の駒とかも販売されているし、まあチェスの試合で俺が無双することはアピールになるんだろうな。世界的な視点で見れば、チェスの競技人口は将棋の50倍はいるだろうし、脳内100面指しの宣伝効果は高そう。

 

というか、グランドマスターが例の企画に何人も応募してきているのが本当に謎。そんなに10万ドルに目が眩んだのか。もしかして、チェスプレイヤーの方々ってお金に飢えているのか?負けたら帰りの飛行機代も出ない上、大木に敗北したチェスプレイヤー一覧に名前が載るのに。

 

『世界ランク二桁の方が来て下さるのは嬉しいですけどね』

(いや、そいつら相手に黒を持って本当に勝てるんだろうな?)

『勝てないならそもそも快諾させませんよこんな話』

(……俺のチェスの腕前は、まだ素人に毛が生えたレベルだからな?絶対勝てよ?)

 

チェスの方が強いと言われている棋士を相手に、アイが黒を持った早指しで15連勝ぐらいしたところで相手が折れた。まあ、国内トップクラスは相手にならないということか。思っていた以上にアイは万能だな。たぶん俺が本腰を入れてやっても、このレベルが相手だと先手番の白を持って10戦中3勝出来れば良い方だ。

 

一方でグランドマスターと呼ばれる世界でもトップクラスのチェスプレイヤーは、このレベルが相手だと後手番の黒を持っても10戦中7勝は出来るだろう。……アイは15連勝出来たし、まあ行けるか。

 

アイに頼むぞと言いつつ、チェスのルールを覚えた天衣と一局遊んでみる。将棋のプロ棋士は、他のボードゲームも基本的に強い。読みというものがある分野であれば、大抵は無双出来るだろう。一時、名人の影響で日本のチェス界は将棋界に荒らされたからな。そして名人は、世界にも通じるチェスの新定跡を生み出した。あの人、全盛期は本当にやりたい放題だったというのがよく分かる。

 

「取った駒を使えないのは、やり辛いわね」

「取った駒を再利用できるボードゲームの方が少ないからな?世界には味方の駒を取って再利用するボードゲームとかもあるけど」

「あら?それは面白そうね?」

「将棋で採用したら初手8八銀か2八銀だな。完全に先手有利になるわ」

 

天衣の初めてのチェスは、俺が指したけど結構良い勝負になった。天衣も、少しやり込めば国内トップクラスはすぐだろう。今は将棋に専念するだろうし、専念させるけど……日本のチェスが弱い原因は、将棋があるからだということがよく分かる。まあ子供にやらせるならチェスより将棋だわな。日本では。

 

試しにスマホで世界ランク一桁達の賞金額を調べてみるけど……確かに世界ランク二桁ぐらいなら、10万ドルで釣れそうな賞金の少なさだ。というか世界ランク1位の人より、九頭竜の方が稼いでいるか?思っていたより、チェスって儲からないんだな。まあ指導料とかで稼ぐのは、どこの世界でも一緒のことなのか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

脳内100面指し

俺の脳内100面指しはちょっとした伝説にはなっていたけど、嘘っぽい上に大会に来た人やイベントに来た人しか知らなかったから世間一般には広まって無かった。しかし今回は違う。チェスの世界ランク6位の人や、二桁の人がゴロゴロいる中での脳内100面指し。

 

まあ、これで100連勝したら朝や夕方のニュースで少しぐらいは話題にされるだろう。カメラを持った報道陣も来ているし、わりと注目されている。

 

『新年一発目から将棋界はアホなこと考えますね。チェス界としては大迷惑だと思うのですが』

(今でも名人のレートは日本国内2位だし、将棋界が勝手にやるならそれはそれで良いんじゃない?でも1勝で10万ドルの賞金設定はアホだわ。お陰でランカーがわんさかいるぞ)

 

勝てば10万ドル、負ければ帰りの飛行機代も出ない今回のイベントは、ちゃんと将棋連盟側が賞金を用意している。しかし勝って下さいねと軽く言う月光会長の目はマジだった。いや目は見えてないはずだし、開いてすらいなかったけど、マジだった。

 

そしてイベント当日、会場はお祭り騒ぎだ。日本にもチェス愛好家は結構いるようで、世界中の有名チェスプレイヤーが集まったのだから当然と言えば当然か。もしも全勝することが出来れば、今年の世界チェス選手権に招待するとか言われた気がする。なお俺へのギャラは100局合わせて10万ドルの模様。ちゃんと貰えるものは貰ってますけど負ける度に1%減るとか聞いてない。

 

チェスも将棋の棋譜と同じように、指す場所を口頭で伝える手段がある。Qd2と言えばクイーンがd2の場所に移動した、という感じだな。ポーンの場合は場所だけで示すようなので、a4と言えばそれだけで伝わる。白と黒の2手1組で1手(1ムーブ)らしいけど、会場では100人が1人ずつ言っていくスタイル。めっちゃ時間がかかる。

 

「d3!」

「3番d3です」

『d6』

「d6」

 

英語で飛んでくるチェスの駒の動きを、わざわざ翻訳してくれるスタッフさんにこちらの指し手を伝える。相変わらずのど真ん中でアイマスク姿のため、傍から見れば囚われているようにも見えそう。

 

集まった100人の腕自慢の内、50人ぐらいはグランドマスターと呼ばれる方々だけど、チェスに命を賭けていると言っても過言ではない人達をばっさばっさと切り伏せるアイさん。雑に任せたのにこの仕事ぶりはヤバいわ。

 

『マスターがこうして実力を誇示しようとすること自体が珍しいですから力は入りますよ』

(誇示するというか、単純に将棋界へ迷惑かけまくりだからその償いなんだよな。一般棋戦でわざと負けたり、竜王戦でいつまでも6組って本来なら許される事じゃないし)

『あと対局中に相手の持ち時間の分だけ外出したり、寝たりとやりたい放題でしたからね』

(当人間で問題が無ければ大した問題じゃない九頭竜と比べれば、俺の方が棋界に迷惑かけてる自覚はある。あとそろそろ、1強状態の弊害が出て来そうだしな)

 

結構な長丁場になったものの、無事に後手番で100面全勝を成し遂げたのでアイマスクを外す。すると机の上に突っ伏すアメリカ人や、項垂れているロシア人の姿が確認出来る。……ここまではデモンストレーションで、アイにとってはここからが本番だ。

 

チェスにも当然将棋と同じようにソフトという存在があり、将棋のソフトよりもその歴史は圧倒的に長い。しかしそのソフトを相手に、アイは先手番なら勝てるようなので、先手番でそのソフトと戦ってみる。

 

(こっちを先にデモンストレーションとしてやっておけば、100人の方は真剣に挑んで来たんじゃないか?)

『あの100人、全員真剣だったと思いますよ。あとマスターはチェスのソフトを舐め過ぎです。私がどれだけ極めても、マスターがどれだけ極めても、後手番で勝つことは一生ないでしょう』

(でも先手番では、一月ちょっとで勝てるんだよな。……チェスがどれだけ先手有利なゲームかよく分かる)

『将棋もいずれはそうなるでしょうね。ボードゲームの宿命です』

(その点、囲碁はコミがあるから調整はしやすいな。ボードゲームとしては優秀なのかもしれない)

 

チェス界においては、十数年前に既に人類がAIに負けているようなのでここで先手番を持って勝って、後手番で引き分けたら、実質人類はAIに勝利したことになる。一応、ソフトは一昨年の大会で優勝したものだ。昨年にアルファゼロ相手に負けてるけど。

 

そんなソフトを相手に、先手番でキッチリと勝ち切るアイさん。334ムーブってヤバいな。2手1組で1ムーブなので、将棋換算すると667手目でチェックメイト。ただひたすら有利を広げるだけの対局において、アイは無類の強さを発揮する。

 

一方の後手番では、将棋でいう千日手に当たるスリーフォールド・レピティションを利用する。将棋では4回同一局面になると千日手だけど、チェスは3回同一局面になると千日手だ。ただし将棋のように強制ではなく、審判に申告をしないと引き分けにはならない。自動的に引き分けにはならないということだな。

 

その上、チェスにも連続王手の千日手があるのだけど、これは反則にならず千日手扱いで引き分けだ。将棋で反則負けとなる連続チェックの千日手はチェスだと常套手段であり、不利な側が連続チェックの千日手を狙うのは当たり前だとか。なので、後手番を持ったアイは『この前見つけました』という最短ルートでの連続王手の千日手を狙いに行く。

 

将棋と同じような感覚で、クイーンとビショップをあっさりと捨て、敵のキングを端に誘導するアイ。その後、ルークで追いかけ回してあっさりと同一局面が3回出現する。やっぱアイはやべえわ。向こうのソフトはまだ序盤だと思っていたら、いきなり捨て駒乱発でキングを釣り上げ、連続チェックの千日手を敢行だからな。初手から引き分け狙い以外何物でもない。

 

ソフトを相手に1勝1引き分けだったので、一応人類側の勝利ということになる。この分野でもアルファゼロは最強格らしいので、いずれ勝負することになるだろうけど、まあチェスにおいては先手後手の有利が将棋以上に激しいし、先手後手でワンセットなら1勝1敗にしかならないだろう。

 

『……いえ、チェスだと1分1敗にしかならないでしょう。突き詰めればどうあっても2分にしかならないかと』

(まあ、チェスは将棋より引き分けが多いゲームだからな。残りの駒数によっては完全解明もされているし、将棋より完全解明は早そうだ)

 

恐ろしいものを見たと言いたげな外国人達は、次々と会場を去るけど一部の人間は俺が人間か疑い始めたので金属探知機でくまなくチェックされた。どこで買ったんだろそんなもの。というかどこからどう見ても人間だろ、いい加減にしろ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

反響

俺が世界を相手に脳内100面指しで勝利したことで、わりと世界各国で俺のニュースが報じられたらしい。そんでもって、久々に名人が国内でチェスの対局を行い、昨年度の日本大会優勝者に勝ったりとかなり話題を作った。

 

これチェス界的にはどうなんだと思ったけど、日本のチェスの団体は一昨年に出来たばかりらしい。だからむしろ話題を作ってくれてありがたかったとか何とか。そして掲示板では色々とやべえ考察もされている。

 

 

世界の反応まとめ:大木六冠、チェスのグランドマスター級100人を相手に脳内100面指しで全勝。その後、最新鋭のチェスプログラムを相手に1勝1分

 

■ WOW 100人斬りとは日本の侍は怖いね! +61 カナダ

 

■ 100連勝と100面同時勝利を見間違えていたw +21 アメリカ

 

■ 盤面見ずに100面……?  +5 フィリピン

 

■ 日本はチェス星人の襲来に備えているのさ……。 +10343 国籍不明

 

■ フェイクニュースは別で流してくれ  +9 ベトナム

 

■ 日本の将棋がボードゲーム界で一番難しいことが証明されたな  +3 スペイン

 

■ その場を見てみたかったな。

  そうしたら俺は金属探知機をもって取り囲む一員になってたと思う +58 フランス

 

■ こんな無茶が許されてしまう国、日本。 +24 タイ

 

■ 日本さん、どこに行けばこの可愛いロボは買えますか? +3021 アメリカ

 

■ これは何年前のニュースなのだ?チェスのプログラムが負けるなんてあり得ない +34 インドネシア

 

■ 凄すぎる!

  造ってみたいなとは多くの人が思うだろうけど、

  本当に実際に作っちゃうのがヤバイ。 +2009 アメリカ

 

■ 多くの人がアンドロイドだと思い込んでるw  +513 メキシコ

 

■ 将棋ってそんなに難しいゲームなのかなっと思って日本の友人に聞いたらチェスの2倍は難しいって +69 チリ

 

■ 負けた一人だ。勝てると思って日本へ行った俺を誰か罵ってくれ +568 国籍不明

 

■ 負けた100人が大したことないんだろと思ったら世界6位がいたw

  明日からこいつは世界7位だな +61 ロシア

 

 

世界の反応まとめ、みたいなところではフェイクニュースだと笑い流している人も多かったが、こいつ何者だと詳しく詮索する人も多かった。あとは、なんかアンドロイド説やロボット説が蔓延ったせいで日本では人型のロボットが売られているのか⁉みたいな反応も多かった。売られてねーし、事実であることは認めてくれ。

 

『掲示板の方では【悲報】大木六冠が気晴らしにチェス界を蹂躙する【名人の再来】みたいなスレが乱立されてましたね』

(脳内100面指しを正しく理解していない人も多かったな。正しく理解したらSAN値チェックものなのかもしれないけど)

『普通の100面指しでも凄いことではありますからね。脳内ってところまで頭の中に入って来なかったのでしょう』

(まあ、将棋がわずかにでも世界に広がったなら成功だから成功で良いだろ。どちらかというと大木晴雄の名前の方が広がったけど)

 

将棋人口増加への最大の関門は、ルールの難しさと初心者の間は全く勝てないということだろう。まず駒落ちでも、初心者は中級者相手に全く勝てない。勝つためには相手玉を詰ませる必要があり、初心者は相手玉を詰ませるということがとても難しいからだ。特に3手詰めができないと、中級者相手なら実戦では話にならない。

 

……まあその辺はチェスも同じなはずだし、駒の動きはチェスの方が複雑なものもあるので、チェスの方が流行っているのは駒の形、文字や文化も関係していると思うけど。だからこそ将棋界も海外用の駒を用意したり、いろいろと普及活動を頑張っているようだけど、今回のイベントで果たして何人増えたのか。

 

「師匠はこれからもチェスをするの?」

「世界チェス選手権とかは将棋のタイトル戦の期間と被るだろうし、たまに大会に出るぐらいだろうな。まあ日本に強い人がいるとなれば、日本で大きな大会を開けるだろうし海外にまで行くことはないと思う」

「……そういえば今年の竜王戦は、海外で行われるらしいわね」

「俺が八冠になるかもしれない竜王戦だからな。そりゃ連盟も金かけるわ」

 

まだ今年は始まったばかりだけど、年末には海外で竜王戦が開催されることが決定。数年前にはハワイで竜王戦が行われたけど、その時も名人のタイトル通算100期&永世七冠がかかった竜王戦だった。

 

……ここまで早くに決まるなら、連盟側も俺が今年八冠になるだろうと予想をつけているのだろう。名人に名人戦で挑むのもほぼ確定しているし、今年の5月には大木六冠から大木名人になると思う。

 

『人生初の海外旅行になりますね』

(出来れば治安の良いところが良いな。パリとかロンドンとか?)

『ドイツの方が安全そうではありますけど……前はハワイで行われましたし、今度はヨーロッパ方面でしょうか』

(飛行機で何時間かかるんだろうな。往復込みで4日間は天衣と会えないのか)

 

前世を含めても、俺に海外渡航経験はない。いや海外旅行はする予定があったんだけど、憎むべきはコロナだな。この世界では未だに発生しないし、もう大丈夫だと思うけど。

 

(お、イギリスのニュースでも取り上げられたらしいよ?)

『海外のツイッターでは高性能アンドロイドとしか思われてないですね。信じたくないのでしょう。頭の中に、100面ものチェス盤がある人間なんて』

(俺自身が1番信じられないからな。俺が本気でやっても20面以上は無理だと思う)

『……これ、海外旅行したら攫われそうですね。夜叉神家のボディガードは必須ですよ』

(……今一瞬、イタリアのマフィアと夜叉神家の銃撃戦を想像してしまった。普通に怖いわ)

 

アイが身辺の安全について心配してくれるけど、夜叉神家の方々なら天衣がついてくれば護衛人員大量で来てくれる可能性が高い。とりあえず、竜王戦の第1局が連休中になることを祈っておくか。連休中なら天衣もついて来そうだし、連盟側も配慮してくれるだろう。天衣は結構、英語を喋れるしな。

 

『マスターの前世のTOEICの点数、450点でしたよね?』

(うるせえ。アイが解いたら990点だろ。だから実質990点だ)

 

俺もまあ、多少は読めるししゃべれるけど、会話は自信ない。第2言語は中国語だったし、こっちはもっとポンコツだ。まあ10か国語以上を翻訳してくれるアイがいるから、大抵は何とかなると思うが。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

キャリア

竜王戦を勝ち進んでいるアマ竜王の元真剣師さんは、3回戦も勝って準々決勝で天衣と当たった。ここ数年は、ソフトのせいでアマの快進撃が余計に生まれやすくなっている気がするけど、この人は純粋に強い。

 

『竜王戦の賞金額、6組から勝ち進めば6000万円近くになります。真剣師としての血が騒ぐのでしょうか』

(まあそういう類の人種だし、天衣が勝てるか微妙だな。……相手は41歳。将棋を覚えたのは19歳というのが本当の話でも、キャリアは20年以上だ)

『天衣も3歳前後から指しているので、キャリアは10年程度ですね』

(俺が指導した期間は、その内の4年だけどな)

 

竜王戦の予選の持ち時間は5時間と長いものの、元真剣師さんはほとんど使っていない。ちなみにこの対局に真剣師さんが勝てば、プロ編入試験の条件も満たすらしい。何かの一般棋戦でも勝ち上がっていたのか。名前は全然見たことないのに。

 

対局は元真剣師さんの先手で始まり、右四間飛車をしてくる。アマチュアの有段者がよく使うような戦法で、形がある程度決まっているから初心者でも破壊力が出やすい戦法だ。後手番角頭歩を使いたかったであろう天衣にとっては梯子を外された形の将棋になったし、面倒だな。

 

『互いに、一つの戦法にこだわりを持っている人達の戦いですか。天衣の方が不発だったのは痛いですね』

(後手番角頭歩は嫌というほど指しただろうけど、相手が右四間飛車にしてくる変化を検討したのは少なかったはず。……そもそも、右四間飛車を指す奨励会員やプロ棋士は少ないというか希少だからな)

『自玉が薄くなりがちですから、攻めだけでは勝てないプロの世界だとあまり使いません。九頭竜はたまに使いますが』

(あの変態、自玉を薄くしてスリルを楽しむような超速度特化型の将棋になってるから)

 

将棋というのは不思議なもので、流行の戦法が出来ると必ず特効薬が作られる。その特効薬が流行ると、今度はその特効薬を駆逐するようなウイルスが流行る。そのウイルスが流行ると、またワクチンが開発される。これが堂々巡りになっているから、特定の戦法だけを指して勝ち続けるのは難しい。しかしアマチュアの世界になると、一本の戦法に特化するだけでも有段者には届くんだよな。

 

……この元真剣師さんは、右四間飛車に特化した人なのだろう。それだけでプロの中で通用するとは思えないが、今のところは竜王戦の予選でプロ棋士相手に3連勝しているから通用していると言える。全対局が右四間というわけじゃなく、初戦と3回戦が右四間なのだけど。だからと言って、2六歩、2四歩と後手番角頭歩を使わせてから右四間にするのは俺でも予想外だった。

 

向飛車対右四間飛車とかいう滅多に見られない形の将棋になり、天衣の攻めは空振る。2筋を突破されても良いから4筋を突破しにいくという元真剣師さんの狙いは正しいし、強い。2筋よりも4筋の方が、互いの玉に近いしな。

 

『角交換をしてから7七角と、自陣に角を打つのは相当この盤面についても研究していますね』

(先手番の利が最大限に活かされているし、案外代打ちになってから負けたことがないというのは本当かもな)

『……天衣にミスが出ました。これは……』

(竜王戦の予選で公式戦初手合い、とはならなかったか。一般棋戦は勝ち上がる予定ないし、もう天衣はタイトル戦を挑むしかねーな)

 

天衣のミスもあったが、元真剣師さんの最大の勝因は2枚の自陣角だろう。元真剣師さんは角交換後、7七角と自陣に打ち付け、それに天衣が角を合わせるも、元真剣師さんが飛車角交換に持ち込んだ。これあれだな。アマチュア特有の感性に負けたやつだな。

 

玉と飛車のこびんを2枚の角でそれぞれ狙われた天衣は、非常に指しにくい将棋になったとは思う。相手はこちらの研究を幾らでも出来るのに、こちらは相手の研究がほとんど出来なかったとか言い訳は出来るけど……負けは負けだ。

 

後で晶さんも交えて反省会だな。なんか晶さん、女流棋士になってから負けが続いているし。実力がまだ足りていないことは分かっているけど、勝てる相手には勝ち切らないと女流は簡単に引退まで追い込まれる。

 

「で、元真剣師は棋士編入試験を受けると。試験官は天衣なのか?」

「ええ。大師匠がランダムで選んだみたいよ?」

「……絶対嘘だろ。選んだの見え見えじゃん」

 

プロ棋士になれる試験は試験官が四段から八段まで、各段位で一人ずつ選ばれるけど、五段として天衣が選ばれた。しかも四段で選ばれたのは空さん。絶対にランダムじゃないだろこれ。

 

『そう言えば空さんは、強くなりましたね。一方のあいは弱くなった感じです』

(問題の日から2ヵ月後の女流玉将戦は天衣が勝ち進まなかったタイトルだけど、あいから空さんがタイトルを強奪していたからな)

『今度の女流帝位戦は、あい対祭神ですか。天衣以外の3人は一冠ずつ保有する感じになるでしょうか?』

(そうなるだろうな。前に祭神が女流帝位をあいに奪われたのは、同時に女王戦を天衣と戦っていて、その第1局で精神を折られたのが大きかったからな。現に天衣に負ける前の女流帝位戦第1局は、祭神が完勝してるし)

『……供御飯さんと月夜見坂さんがタイトル挑戦者になる日は、もう来ないでしょうね』

(プロ棋士になった女流棋士4人が強すぎる。しかも数年後には5人になる可能性がある。全員、供御飯さんと月夜見坂さんより年下なのも大きいし、2人とも弱くなってるからどうしようもない)

 

女流棋界は天衣が四冠のまま増やす気が無いようなので、残りの3つを奪い合う感じになっている。天衣は女子中学生としての生活も、普通に忙しそうだからな。中高一貫のお嬢様学校だけど、友達付き合いとかも大変らしい。そもそも出席日数がわりと危ういけど、その辺は理解のある教師陣だから何とかなるだろ。

 

「負けた直後にこういうの渡すの嫌なんだけど、はいこれ。今年のチョコ」

「お、ありがと。

……え、なにこれ」

「将棋の駒の形のチョコレートが売ってたから、詰将棋を作ってみたのよ」

「あー、25手詰めか。詰め上がりがハートだな」

「詰ますの早過ぎよ!?自信作だったのに」

 

本日はバレンタインデーだったので、チョコの駒を買ったらしい天衣からその駒達を使った詰将棋を受け取る。というか将棋の駒の形のチョコなんて売っているのか。

 

詰将棋の方は移動合や限定合もあるから、25手詰めのわりには難易度高いぞこれ。……天衣は今年の詰将棋選手権、全問正解出来たら良いな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ノートパソコン

作者のパソコンに関する知識はふわっふわです。


将棋ソフトを利用するなら、高いスペックのパソコンは必須だ。だからというわけじゃないが、天衣の誕生日プレゼントに送ったノートパソコンの性能はまあまあ高い。タブレットは最新のものを持っているけど、性能の高いノーパソというのは別に持っていて良いしな。どうせ持ち運ぶのは晶さんだし。

 

『しかしまあ、ノートパソコンの進化も凄いですね。数年前から格段に進化し続けています』

(ノーパソで8コア16スレッドだからな。メモリも16GB×2だし、それでいて20万で納まるならお買い得だわ)

『昨年後半のCPU価格競争は凄まじかったですね……』

(SSDの価格も下落し始めたしな……4TBのを積んだけど何に使うんだこんなの)

 

どうせならお揃いということで2台買ったけど懐は痛まない。そして天衣はこのノーパソをフル稼働させてソフトで自分の負けた対局を解析しているけど、最近の将棋ソフトは本当に強いわ。毎年大駒1枚分以上は強くなってるし、アルファゼロ以外のソフトに負けるのも秒読み段階に入った。

 

『で、何でグラボまで良いのを入れたんですか?』

(お揃いのを用意しようと思った時点で、俺がネトゲで使うのは前提みたいになったからなあ……)

『まあ2年前と比べれば同性能以上が格安で手に入るようになりましたし、買い替え時でしたかね?』

(そう思っておこう。ぶっちゃけこれ以上高性能にしても活かしきれん)

 

今日は天衣の家で、2人揃ってゴロゴロしながらノーパソを弄る。天衣は負けた対局の解析の他、ソフトとガチの殴り合いもしているけど、去年アルファゼロに負けた準優勝ソフトに勝てない模様。いや勝てたら歩夢より凄いことになるから当然だけど。

 

一方の俺は、いつも通りのネトゲだからどっちが師匠か分からないなこれ。……天衣がうつ伏せになりながらノーパソを弄るの、完全に俺の影響だよな。なんか悪い癖ばかり引き継がれている気がする。

 

喉が渇いたなと思ったら、今日は晶さんが対局だから居ないんだった。仕方ないので自分で飲み物を冷蔵庫へ取りに行くけど、左下の引き出しになっているところに何かがギッシリと詰まっているのを目にする。

 

(あれ?前までこんなの入ってたっけ?)

『入って……いましたね。少なくとも3年前、初めて冷蔵庫を開けた時から入ってます』

(気付かなかったわ。で、中身は牛乳か)

『マスターにとって、見覚えのある牛乳ですね』

 

その引き出しを開くと「特濃極まろ牛乳200ml」が隙間なく詰め込まれていた。俺にとっても懐かしいやつだなこれ。低身長を気にし始めた中学生頃によく飲んでた気がする。……俺に効果が無くて、天衣にはあるってどういうことだよ。

 

『マスターはこの牛乳の効果があったから158センチになれたのでは?』

(流石に効果があって160センチに届かない数値ってヤバいだろ。というか天衣はこのまま行くと170センチコースなのに、何でこんなの飲んでいるんだ)

『……その牛乳は身長を伸ばすと言われているものですが、もう一つの効果として胸が大きくなる効果があると言われてます』

(……あー、牛乳を調べている時に何かのサイトで見たかもな)

 

ちょうど晶さんが帰って来たので、この牛乳を何時から飲んでいるのか聞いてみたら小学4年生になった頃から1日朝夕の2本飲んでいると言われた。マジかよ。俺は1日1本だったから駄目だったのか。

 

『マスターと天衣が出会ったのは天衣が小学3年生の2月の時でしたか。思っていたより早い時期に向こうもマスターを意識しているようですよ』

(まあ、巨乳好きは少し調べたら出て来ることだしな。でもこっちは一目惚れだし、こっちの方が意識した時期は早かったな)

『……小学3年生に一目惚れとか、相当頭がおかしいことは理解しておいて下さいね』

 

アイにグサグサと刺されながら、今日の対局はどうだったのか晶さんに聞くと珍しく勝って来た模様。女流名跡戦の予選の1回戦だけど、相手はそこそこ強そうだったから勝てる可能性は低かったのに。これで晶さんはあと3回勝てばリーグ入り出来るけど……予選の決勝戦では月夜見坂さんと当たるんだよなあ。

 

「2回戦の相手は、シードにはなっているが大したことはなさそうだ」

「うん。それでもし準決勝に勝てても、決勝が月夜見坂さんか。厳しいなぁ」

 

弱くなったとはいえ、元タイトルホルダー。ぶっちゃけ勝てる可能性は皆無と言っても良い。昨年女流名跡のリーグからは叩き落されたけど、それでも地力はある人だ。そう思っていると、それを否定するような内容を晶さんが話した。

 

「いや大木先生、それがだな、月夜見坂さんは1回戦で負けたぞ」

「はあ!?いや1回戦で負けるような人じゃ……ああ、相手は焙烙さんか。爆発したらA級棋士相手でも吹き飛ばすからしゃーないわ」

 

どうやら1回戦で焙烙さんが大爆発したようで月夜見坂さんが負けていた。あの人、パルプンテを起こす達人だからな。格下相手に大敗することもあれば、プロ棋士相手にも勝つ。恐らく男女合わせても1番波のある人だろう。

 

……本当にワンチャン、女流名跡リーグ入りはあり得るな。そして晶さんは、こういう時には妙に運が良い。女流名跡リーグには空さんや祭神や釈迦堂さんや供御飯や岳滅鬼さんがいるから無理ゲーだけど、そういう人達と本気で指す機会も貴重だから助力はしていこう。

 

ちなみに天衣は女流名跡を取りに行ってない。リーグ戦になるから、予選から勝ち上がろうと思ったら予選の対局数+10人のリーグ戦だから9局を指さないといけないので早々に斬り捨てたタイトルだ。現在の女流名跡はあいだけど、空さんが挑戦者になったら無冠になりそう。

 

「師匠、勝てない」

「勝てたら今年中にタイトル挑戦は可能だろうから頑張れ」

「1回、師匠が勝ち方を見せてくれる?」

「しゃーないな。

『たぶん上手香落ちでも勝てますよ。香落ちの将棋もかなり指し込んだので』

香落ちで勝ってやるわ」

「……やっぱり人間じゃないわよ」

 

天衣がソフト相手に何十連敗かして、崩れ落ちていたのでアイが香落ちでの勝ち方を見せる。……これ、香落ちによる先手番の利を活かした勝ち方だけど、やっぱり香落ちってハンデとして欠陥だらけだな。後手番を持って指すよりかは自分も勝ちやすいと思うし、ハンデになってない。

 

先手番での勝ち方をいくつか見せたわけだけど、それでも天衣が指すと勝てない模様。俺と全く同じ手を指しても、向こうが変えて来るからどうしようもないな。このレベルのソフトを相手に勝てるようになる日は、まだ遠いかな。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

試験官

天衣が試験官を務める棋士編入試験について、月光会長に「選んだでしょう?」と聞いたら「ランダムに選びましたよ」と言い返して来た。どうやら各段位毎にプロ棋士の名簿を並べて、月光会長がその名簿から抜き取るスタイルらしい。月光会長は目が見えないから、確かにランダムだ。

 

そう思ったところで「その名簿って五十音順じゃないですよね?」と聞いたところで月光会長が連絡を切った。もう答え出てるじゃねーか。五段の人で夜叉神より後ろの人がいねーよ。プロ棋士は数が少ないんだから。棋士番号説もあるけど、そっちも天衣の特定は容易だ。

 

棋士編入試験では天衣より空さんが先に指すけど、元真剣師さんが既に右四間飛車使いということは認知しているため、その右四間飛車を拒むような駒組みになっている。

 

棋士編入試験で、プロ棋士側に勝つメリットは少ない。しかし将棋界には『自分にとっては消化試合でも相手にとって重要な将棋であれば全力で叩き潰すべし』という言葉があるし、進退を賭けた相手に全力を出すのはプロ棋士の使命みたいなものだ。九頭竜とか歩夢相手にやっていたしな。

 

……特に歩夢が帝位リーグで3連勝、九頭竜が帝位リーグで3連敗していた時の1局で、歩夢は九頭竜に負けてタイトル挑戦まで手が届かなかった。原作通りではあったんだけど、もう一歩でタイトル挑戦が決まっていた歩夢はわりと不憫だった。

 

『原作1巻の話ですか。あそこで九頭竜が負けていればというifは気になりますね』

(……そのまま帝位リーグは歩夢が勝ち上がっただろうし、於鬼頭さん相手でも勝てただろうし、九頭竜の二冠目は別のタイトルになっていただろうな)

『まあ、あそこで3連敗中の九頭竜に負けた歩夢が悪いで済む話ですが』

(うん。しかしまあ、月光会長は元真剣師さんをプロにする気が無いだろ。四段が空さん、五段が天衣、六段が飯盛さん、七段がしろがお?七段で八段が歩夢。ここから3勝は普通にキツイ)

『しろがおじゃなくて城ヶ尾七段ですね。たとえ対戦経験が無くても漢字ぐらいは読めるようになって下さい』

 

空さんと元真剣師さんの対局は、空さんが4筋に硬い形に組み上げている。3三の銀と5三の銀が、しっかり4四の地点を守っているからそう簡単には突破出来ない。しかし元真剣師さんは、角交換を行なってから今度は3一角、5三角成と角をぶった切る。駒の損得では空さんが有利になったけど、一気に陣形が危うくなった空さんは微妙に不利になった?

 

『今の空さんに勝ちますか。真冬で間違いなく調子は良いはずですが……』

(得意戦法でスカッた訳でもなく、純粋に実力で押し切られたな。まあ天衣に勝った時点で実力は折り紙付きだけど)

『天衣は、リベンジ出来ますかね』

(月光会長がリベンジの機会を早々に与えた意図ぐらい、賢い天衣なら察しているだろ。たぶん空さん以上に、右四間飛車対策をしているぞ)

 

空さんに勝ったことで、あと2勝でプロ棋士になれる元真剣師さんは数日後、天衣との対局を迎える。この間に元真剣師さんは、竜王戦の6組準決勝でも勝って決勝進出を果たした。なお決勝の相手は俺だから負けは確定している模様。

 

その前に、天衣のリベンジをさせる目的で組んだであろう対局は、元真剣師さんの先手番で始まる。当然、相手は右四間飛車だ。一方の天衣も、右四間飛車だ。こいつやりやがったわ。対策云々じゃなくて、真っ向から潰しに行ったわ。

 

『右四間飛車対右四間飛車は、例が少ないというレベルじゃないですね。恐らく過去の対局データベースでも多くはないでしょう』

(お互いに囲いは矢倉、ほぼ先後同型だな)

 

早々に互いに戦型を決めた後は、玉を囲い始める。互いに矢倉を組み、4五歩と開戦をした元真剣師さんは、歩を交換した後に4六角と飛び出る。一方で天衣は5三角と両方向へ睨みを効かせた。お互いにしっかりと駒組みをしたから、持久戦になりそうだな。

 

『……天衣も僅かな期間でかなり右四間飛車について研究しましたね。若干ですが、後手優勢かもしれません』

(まだ大規模な開戦すら起きてないし、起きる気配もないけど、後手を持ちたくなるのは分かる)

『マスターは天衣が指しているからでしょう?私は先手後手の指している人物が入れ替わっても後手を持ちますよ』

(それほど先手が指し辛いとは思えないけど、下手したら千日手か?お、端を攻め始めた)

 

天衣は7三の桂を端の8五に跳ばしたくて、元真剣師さんは3七の桂を中央の4五に跳ばしたい。この意識の差が、中盤の攻め合いで顕著に出た。駒得をしたのは元真剣師さんで、囲いを崩したのは天衣。前の空さん対元真剣師さんの対局とは、立場が入れ替わったな。

 

……元真剣師さん、攻めは確かに強いけど、受けはそこまで強くない。天衣は端を突破し、駒損を覚悟で更なる攻め合いに出る。細い攻めを繋げるのは九頭竜の得意とするところだけど、天衣も攻めはかなり九頭竜に近付いたな。まあ九頭竜の位置は近いようで遠いんだけど。あいつは伊達に勇者だの魔王だの言われてないわ。

 

『意地ですが、攻めに出た今の歩も良い手です。ソフトの好きそうな手でもありますね』

(ソフトの評価値は、今の一手でかなり上がったな。先手番のー320って、そんなに離れてるか?)

『離れてますね。もうしっかりと後手優勢ですよ。駒得をしても使い様がなければどうしようもないですし、元真剣師さんは苦手な受けをするしかありません』

(苦手とまでは言い切れないけど、攻めに比べると勢いがないのは確か。……あれ?これ詰む?)

『相手玉の逃げ方ミスってますよ。詰みはしませんが、詰めろにはなりますね』

 

難しい局面で、しっかりと詰めろをかける天衣。しかし元真剣師は詰まないと見たのか、天衣の囲いの駒を剥がしに行く。これは王手じゃないから、天衣が元真剣師さんの玉を詰ましたら勝ちだ。

 

『今の元真剣師さんの詰めろは分かりやすい詰めろですが、天衣の詰めろは分かり辛かったですかね?』

(いやでも、プロなら大半の人が今の詰めろは見抜くぞ。……この弱点の暴露は、元真剣師さんにとって不味いのでは?)

 

天衣は、しっかりと時間を使って何度も確認し、元真剣師さんの玉を詰まし切る。これで天衣はリベンジを果たしたし、元真剣師さんは1勝1敗か。ここから飯盛さんか歩夢、どちらか相手に1勝しないといけないのはキツイ。何だかんだ言って、プロ相手に勝ち越しは厳しい条件だな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6組決勝

予約投稿の日付ミスってました


竜王戦の6組ランキング戦の決勝を迎えて、相手は棋士編入試験で天衣相手に負けたばかりの元真剣師さん。天衣に負けてから、若干覇気がなくなったけど鋭い眼光は衰えてない。いや対面すると普通に怖いわ。脅されそうでなんか嫌だし。

 

「大木先生は、夜叉神先生の師匠だと聞いた」

「はい。そうですが」

「将棋を始めるのは、若ければ若い方が良いんでしょうか?」

「まあ、19歳どころか9歳でルールを覚えても遅いと言われる世界ですからね。プロ棋士になった人は、大抵小学生までに将棋を覚えて、小学生の低学年頃にはある程度は強くなっています」

「……大木先生は、何歳の頃から将棋を始めたんですか?」

「0歳です」

 

対局前には一度、今一番強い棋士である俺と戦ってみたかったと夢を語ってくれた真剣師さんだけど、対局中も会話が多い多い。そんで早指しなのに持久戦を選択とか、泥沼化しそうだなこれ。

 

『付き合ってあげましょうよ。おそらく、もう二度と対戦しない相手でしょう?』

(いやまだわからん。歩夢と戦う前に2連勝したら3勝で棋士になれるだろ)

『それがあり得ないのは、マスターがよくわかっているでしょう。終盤力の欠如と受けの脆さが露呈したなら、攻め合い大好きな飯盛さんが攻め合わないはずがないじゃないですか』

(あー、うん。まあ無理だな。でも持久戦の構えで最初から受けの思考なら、強いんじゃないか?)

『フォローできてませんよ。今回はこちらが持久戦に付き合ったから勝負になっていますが、大半の棋士はこの段階で既に攻め始めています。あの受けを見て、その攻めを耐えられるとは思えません』

 

攻めは間違いなくプロ級だ。6組のランキング戦で、勝ち上がれるだけの武器は持っている。たとえパンツ一丁の槍兵でも、持っている槍からレーザーが出るならライフル兵に勝てる。それが戦車や爆撃機相手に通用するかはまた別の話だけど。

 

対局は持久戦になり、先に元真剣師さんが攻め始める。攻めは得意だから、一度攻め始めると本当に強いんだよな。並みのプロ棋士だと、この攻めはまず止められないだろう。まあ止めようと思ったら止められる攻めの段階で、A級棋士に通用するかは微妙だけど。

 

『天衣が初見で負けたのは、元真剣師さんが後手番角頭歩を使わせてから得意の右四間飛車での突破に成功したからでした。ですが今回の対局は、対局前の構想が微妙ですね』

(持久戦にしようとしたのは元真剣師さんだ。そこで元真剣師さんは、攻めて来てほしかったんじゃないか?攻めが通じなくて負けるより、守りに入ってたら攻め崩されて負ける方がこの人にとってはダメージが少ないんだろ)

 

元真剣師さんの、準備万端な攻めをガッチリと受け切るアイ。いやこれイジメに等しいだろ。攻め自慢の人の攻めを完全に受け切ってるよ。まあ攻めきれない方が悪いんだけど、さすがにこれは棋士編入試験の方にも影響しそう。

 

何よりこの人、今日こうやって俺と指すことが目標だったみたいだし……ああ、完全に攻めが切れた。指し切り状態だ。ここからなら、晶さんが指しても勝てそうだな。

 

終盤に入って、元真剣師さんが指し切り状態だったところから遅い攻めを再開したけど、アイは用意ができたら一気に元真剣師さんの玉を詰ましに行ったので、終局図は圧倒的な大差に。これで俺は6組優勝を果たしたので、決勝トーナメントに進むけど、この決勝トーナメントのトーナメント表も中々に頭のおかしい組み合わせをしている。九頭竜以外、6組優勝者が挑戦者にすらなれなかったのがよくわかるトーナメント表だ。

 

去年椚も通った道だけど、対局数がヤバい。5回勝って、ようやく挑戦者決定戦へ進出だ。こりゃ日程調整が大変そうだな。月光会長と男鹿さんが無理やりにでも調節してくれるだろうけど、色々とずれそう。

 

元真剣師さんは竜王戦5組への昇級が確定し、天衣も昇級者決定戦を普通に勝ちあがって5組昇級が決まった。アマで竜王戦の5組に昇級したのは史上初の元真剣師さん、棋士編入試験ではどうなるのかな。ぶっちゃけかなり厳しそうだけど、可能性は一応0じゃない。

 

そう思っていたらあっさりと飯盛さん、城ヶ尾七段に勝って棋士になった元真剣師さん。城ヶ尾七段はC級1組にいるし、負けるのは分かるけど飯盛さんが早指しで普通にミスって負けるとかいう凄く恥ずかしいことをしていた。元真剣師さんの方も早指しタイプだからヒートアップしたんだけど、あそこでミスるか。

 

『元真剣師さんは、運もあったということですね。晶さんみたいに』

(……晶さん、結局女流名跡の予選トーナメントで決勝まで行ったからな。このまま女流名跡のリーグ入りをしたら、規定で初段昇段だ)

『間違いなく、史上最弱の初段でしょうね』

(否定しようがねえな。そして決勝の相手は、晶さん以上に波が激しい焙烙さんだ。前に一回戦って負けているけど、展開次第では勝てる相手という時点で恵まれているわ)

『初年度のマイナビ女子オープンの予選トーナメント2回戦ですね。あのような泥沼試合になるなら、本当に展開次第では勝てますよ』

 

フリークラスからは抜け出しそうだし、このまま元真剣師さんも活躍していくのかな。これで棋士編入試験制度が確立されてから、この制度を利用して増えたプロ棋士は2人。他にも何人か受験資格は得たし、何人か権利を行使して棋士編入試験を受けたけど、やっぱりプロ棋士相手に勝ち越しは難しいようだ。

 

というか勝率5割以上の八段とか基本A級棋士が出てくるからそれまでに決めないといけない。となると、七段までで3勝1敗の星にしないといけないのは受験者側も辛いだろう。そして四段や五段の低段でも、椚とかあいとかが出てくる可能性がある。祭神の時に勝率は高いけど相対的に弱いやつが固まったのは、祭神にとって幸運だったのかもな。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

早指し

今年度の団体戦は、俺のチームと九頭竜のチームが昨年度と同じく決勝で当たるという展開に。東京オリンピックの影響で団体戦自体は9月スタート、3月に決勝トーナメントと昨年度に比べればゆるゆるなスケジュールになった今回の団体戦。

 

予選はポイント制にして、先鋒から大将まで6ポイント、8ポイント、10ポイント、12ポイント、15ポイントと割り振るのは良いけど、俺が中堅、天衣が副将に居ればわりと大体何とかなってしまった。先鋒と次鋒に置いた捨て駒2人の成績は予選リーグ計10局中1勝と散々な成績だけど、後ろ3人で勝ちまくって堂々の1位通過だ。チーム勝利で+10ポイントの恩恵は大きかった。

 

そして決勝では九頭竜のチームとの読み合いの結果、次鋒戦で俺と九頭竜が対局することに。すげえなアイ。5分の一を引き当てたぞ。

 

『今回はなりふり構わず優勝を狙って来ましたから、本当に読み合いが発生しましたね』

(個人的にはもう九頭竜相手には捨て駒ぶつけてもよかったけどな。マジで残りの二人は勝たないし)

『5人全員が戦えるチームは、今回ありませんでしたからね。5人目は通算勝率が5割切るか切らないか、どこも数合わせの存在です』

(九頭竜のチームだけだわ。5人とも強いの。で、椚相手に飯盛さんは勝てるんだろうな?)

『勝てないと、困りますねえ』

 

決勝戦の先鋒戦は椚対飯盛さんとなり、序盤から積極的な攻めを見せる飯盛さん。この飯盛さんは、早指しだと強さは上から数えた方が早いだろう。一方で椚は竜王戦の挑戦者決定戦まで勝ち進んでいたけど、持ち時間が長い対局ほど真価を発揮する。要するに、持ち時間が短い対局は相対的に苦手だ。

 

持ち時間の長さの差を陸上に例えると、本当に短距離走、中距離走、長距離走ぐらいの差はあるだろう。持ち時間1時間=100メートルぐらいか?持ち時間1時間だと100メートル走、持ち時間8時間で800メートル走か。陸上競技は別に詳しくないけど、100メートル走と800メートル走は同じ走る競技でも全然違うはず。

 

そしてこの団体戦のルールはチェスクロック10分+考慮時間1分×10なので、超短距離走だと言っても良い。10メートル走とか、スタートダッシュで成功すればプロ相手でもアマチュアが勝てる可能性はある。……飯盛さんが先制して主導権を握りに行ったのは、早指しでは正しいことだ。

 

一方で椚も主導権を握られ続ける将棋は嫌だろうし、早めに攻め合いに出た。こりゃ短手数で決着がつきそうだな。早指しは普通の対局よりも短手数で終わる比率が高いし、これもまた正しいことではあるけど。

 

「椚も早指しは悪くないけど、飯盛さんの方が上だな」

「師匠の真似をして早指ししか指してないから、必然的に早指しに慣れるのは分かるけど……椚より上なのね」

「天衣もかなり早指しは得意だろうが。あとあの狂信者、4月に生まれる子供に俺の苗字から大輝と名付けたいらしくて許可取りに来た」

「頭おかしいわね。そもそも大輝なんて普通の名前なら許可なんて取らなくても良いじゃない」

「頭おかしくなかったら俺の狂信者はしてないだろうな」

 

僅かな時間での攻め合いは、椚の攻めよりも飯盛さんの攻めの方が早かったという至極単純な理由で飯盛さん優勢になる。飯盛さんはB級1組への昇級も決めたようだし、こりゃA級入りも可能性はあるな。

 

ラストは5二歩と椚の飛車の効きを消す一歩千金の手を指して勝利。時間をかければプロなら誰でも読めるような筋だけど、一瞬で読み切ったのは凄いわ。

 

次鋒戦を迎える前に1勝できたので、このまま3連勝で終われるだろう。次鋒戦となり、九頭竜との対局が始まるけど、平手での対局なら後手番でも余裕なんだよな。

 

(アイ、頼んだ)

『別に良いですけど、今年の電脳戦は私が指すんです?』

(アルファゼロが出てこないなら、アイの方が相性良いだろ。……アルファゼロは、2年に1回の出場になりそうだな)

『今年はどのソフトもダイエットに苦しんだようですし、昨年とそれほどレベルが変わらないなら勝てるのですが……』

 

アイ対九頭竜の対局は、九頭竜が先手番で雁木を使用しての居飛車だ。最近はまた使用率が上がってきている雁木だけど、個人的には好きになれない。居飛車対居飛車なら、素直に矢倉を組んだ方が良いと思ってる。

 

(まあ雁木の方が棒銀対策には良いけど。7六歩に同銀とできるのは強みだし)

『では棒銀で崩しましょうか?』

(遊ぶ余裕あるの?)

『ないです』

 

遊ぶ余裕はないと言いながらも、棒銀のような戦法で崩す辺りはアイに余力のある証拠だな。香落ちで負けすぎたせいで、九頭竜は平手で勝つイメージが湧かなくなってそう。

 

(げっ、これヤバイんじゃね?死んだふりしてたのかよ)

『ギリギリ一手差で勝ちですよ。九頭竜は自玉を虐めるの好きすぎるでしょう』

 

そう思ってのほほんと指していたらアイが一手差まで詰め寄られる。いつぞや山刀伐さんが九頭竜相手にしていた顔面受けだな。顔面受けをした後は、するっとアイの攻めを躱す九頭竜。おかげで1手隙が生まれ、九頭竜はこちらの玉に詰めろをかけた。

 

まあ詰めろ逃れの王手があって、その後に必死がかかるから勝ちは揺るがないけどヒヤッとするなあ。見ている側にとっては終盤まで、どちらが勝つかわからない対局だったと思う。九頭竜の受け方と躱し方まで読んだ上で、アイも指しているだろうけど。こいつはそのぐらい平然とやる。

 

『マスターも読めていたでしょう?』

(躱すところまでは読めなかったわ。持ち時間が短すぎるんだよ。

短距離走でも歴代棋士でトップクラスの才能を持っている九頭竜はいろいろとおかしい)

 

短距離走での強さは俺を除けば、間違いなく九頭竜がトップだ。次いで名人、歩夢、天衣、飯盛さんの順番かな。天衣も飯盛さんもトップ5には入ってくるだろうから、そりゃ団体戦には優勝するよ。……そう考えると、飯盛さんがミスったとはいえ飯盛さんに勝った元真剣師さんは凄いな。たぶん来年度辺りで、天衣か飯盛さんは別チームになりそう。

 

中堅戦では天衣があいと戦い、先手番だった天衣が先手番の角頭歩から向飛車を選択。お互いに囲った後に捌き合いとなり、飛車交換角交換を行って大駒が全部駒台に乗る将棋となったが、天衣が先にあいの玉を詰め切ったのは大きい。別にあいの終盤力を上回ったわけじゃないけど、終盤の入り口の時点で少しのリードで勝てるなら十分だ。……本当に、今年タイトル挑戦する可能性はあるだろうな。5%ぐらいだけど。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

名人戦

3月も終わりを迎え、各順位戦が終了し、名人戦が始まる。天衣はB級2組へ昇級し、椚と空さんはC級1組へと昇級した。地味にあいが昇級を逃しているけど、大体空さんのせい。C級2組の順位戦は、1敗した時点で昇級する可能性がぐんと減るからな。

 

そして俺はA級順位戦を全勝し、名人相手に七番勝負を挑む。名人位にだけは意地でもしがみついた名人。無冠になったら引退すると宣言しているけど、まあこの名人戦を最後にするということだろう。

 

『来年のA級順位戦は、九頭竜と歩夢と山刀伐さんと生石さんと於鬼頭さんと久留野さんと篠窪さんと白石さんですかね。そこにB級1組から飯盛さんと小仏さんかと』

(飯盛さんが上がれるかは非常に微妙なところだけどな。そうか、名人が今からこのA級で勝ち残り続けるのも厳しそうだな)

『月光会長もギリギリでしたからね』

(A級で最終順位が8位って、崖に腕一本で掴まっている状態だからな。まあ年には勝てないわ)

 

昔の棋士は年齢が60歳を上回ってもA級で指し続けたりできたけど、最近の将棋界のA級なんて年寄りから落ちていく世界だ。若い方が体力も気力もあるし、ソフトに抵抗がないし、勢いもある。本当、よく去年の名人戦で名人は歩夢に勝ち越したよ。

 

迎えた名人戦の第1局は、東京にある森のような庭園に囲まれたホテルで行われる。最近になって思い知ったけど、東京ってイメージよりもずっと森や木々が多いな。わりと厳かな雰囲気もある客室での対局だけど、まあ平手だし衰えを隠せなくなっている名人相手に先手番だと相手じゃないわな。

 

『他のA級棋士とは実力の面でそこまで差があるとは思えませんし……ですが、九頭竜とはベクトルが違う強さがありますね』

(将棋の神様だと例えられながらも、盤面上で将棋の神様を探し続けた男だからな)

『……九頭竜と名人が3年前に戦った竜王戦、その第4局で最後の審判が発生しましたが、あれはたまたま両者のレベルが高い次元で一致しただけで、最高点ではありません。無数にある次点の一つです』

(……まあ、最高点は無いで良いんじゃない?無数にある次点の内、どれが最高点でも問題が発生する以上、将棋の結論は出ない気がする)

 

3年以上前の話になるけど、九頭竜は初めての竜王防衛戦で名人と戦った。その時の第4局で連続王手の千日手と打ち歩詰めが同時に発生し、両者反則負けか否かよく分からない状態になって引き分けになっている。

 

あれが最高点、というわけではない。もちろん、俺とアルファゼロが戦って持将棋にならず、1102手もかかった対局が最高点でもない。すべては無数にある次点だとアイは結論付けており、最高点には至らないだろうとも予想している。

 

今日の対局は、終始淡々と進んだ。まず2日制のタイトルだと俺の対局相手は、2日目まで将棋を持たせることを考えないといけない。俺が持ち時間を気にしないから、相手も持ち時間を気にしなくて良いと思うのだが、時間を余して負けたら何を言われるかわからないからな。

 

1日目が終わったら自室に戻るけど、まだテレビは撤去されてないし見ることも出来る。今回の名人戦の、注目度はかなり高いな。まあ名人も俺も新年からチェスで活躍して話題を作っていたし、俺が名人を取ると七冠になって名人の記録に並ぶ。名人の時代は七冠までしかなかったし、同じ意味の七冠ではないけど。

 

(そういえば原作でも九頭竜は名人との対局中にテレビを見てるんだよな)

『竜王戦の第4局の1日目夜ですね。そこであいと結納を済ませていることとかも報道されてました』

(あ、それは見覚えあるわ。掲示板で失冠したら死刑にしろとか、もげろとか書かれていたやつだな)

『全国放送で日本全国に小学4年生と同居して婚約までしちゃった痛い変態ペドラゴンキングが露呈しましたからね。まあ大した問題じゃなかったんですけど』

(将棋界にはやべー変態が多すぎるからな)

 

初日は穏やかな進行にアイがした。まあなんだ、20年以上将棋界の頂点に君臨し続け、将棋の普及に尽力した名人には一応アイなりに敬意があるっぽい。どうせ明日には蹂躙するんだろうけど。

 

『勝ちは揺るがないですね。何なら明日、名人の手がいつ震えるかのタイミングも分かりますよ』

(むしろアイは震えさせるんだろ?

相手に絶妙な好手と思わせるような手を用意して、その上で討ち取るとかプロレスにも大分慣れたな)

『……これをしないと、見ている側が楽しくないですからね』

(わりと蹂躙を望む声も多くなったけどな。でもまあ、スタイルは変える必要ないだろ。名人も一時期、これと似たような感じだったし)

 

2日目を迎えると、名人の好手が続く割には名人の陣地がボロボロになっていく。さっきの桂馬の跳ねとかは確かに好手だし、ここしかないタイミングではあるけど、囲いを薄くする手でもあるからそこから徐々に穴が広がっていく。

 

名人の持ち時間が切れるけど、こちらの持ち時間はまだ残り7時間51分と9分しか消化していない。……ハーゲンダッツでお腹を壊したわけじゃないけど、普通に大きい方のトイレへ行っている間に指されて9分も消費した。和服は一度脱ぐともう一回着るのが面倒。

 

『対局途中で着替えても良いとは思いますけどね。これからはスーツにします?』

(タイトル戦でスーツは嫌だし駄目だろ。あと着替え中に指されて結局持ち時間は消費しそう。まあ、最近は和服着るのも慣れてきたから何とかなるわ)

 

最終的に名人戦の第1局は、終始穏やかなペースで名人が惨殺された。いやこれリスペクトになってねえ。真綿で首を絞めるっていうよりは、鉄の棒を曲げて首を絞めに行っている感じがする。

 

最後も十数手の詰将棋を難しい形から即詰めしに行ったし、終始名人のペースだったのに勝つのはアイとかわけわからん。何ならソフトの指標はずっとプラスマイナスゼロだったのに、終盤に入って急激にアイの評価値が上がり続けたのも意味わからん。やっぱこのスパコンやべーわ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

上限

名人戦の期間中に賢王戦が終了し、電脳戦が始まった。今年の前哨戦は、九頭竜が準優勝ソフトを相手に先手番で辛勝している。今年からパソコンのスペックに上限ができたせいで、ソフト側は10秒で1000万手前後しか読めなくなった。

 

……スペック的には俺が天衣に買ったノーパソより下だな。そして読める手が少なくなったということは、必然的に弱くなるはずなんだけど、それでも弱くなったとは感じないかな。ソフト開発者たちが頑張った証だろう。

 

『まあ1000万手も読めば良い手が2つ3つは出てきますからね。しかし奥深くまで読むことができなくなると、九頭竜が仕掛けた罠も突破出来なくなりますか』

(何だかんだで上限はでかいわ。しかも決めたのはパソコンに詳しくない世代だろうし、ソフト開発者は辛かっただろうな)

『ですがスペックを落としたことで、世界中の誰もが同じソフトを同等以上のパワーで動かせるでしょう』

(……天衣も勝てなかったし、これでもほとんどの人類には届かない高みにあることは疑いようもないんだけどな。たぶん俺、九頭竜、歩夢は勝てるわ)

 

将棋ソフトの開発は難しいようで、例えば同じソフト同士で対局をし、経験を積もうにも、無理攻めが通ってしまって勝ったりすると逆に弱くなってしまうらしい。経験を積もうにも、人間のように効率的には行かないのだとか。たとえ数億数兆の対局を重ねても、まだまだ将棋の解明には程遠いだろうとソフトの開発者は言っていた。

 

……膨大な経験を武器に挑んで来た3年前のアルファゼロは、確かに強かったけど将棋自体はかなり歪だった。1000手を超えるとか普通の将棋じゃないし、実質持将棋からの殴り合いだったからな。一方で去年のアルファゼロは、強引に演算力を高めて勝利した。こっちの方が強かったのは言うまでもないことだけど、将棋ソフトとして見た時にスパコンを利用するのは落第点なのだろう。

 

『……あのスペックのパソコンでも、ここまで強いのですか。来年には少し緩和もされそうですし、アルファゼロ以外にも負けそうですね』

(終盤はソフトの方が絶対的に強いのは分かるけど、まだ中盤の山場だろ……。ここまで強いなら、九頭竜も歩夢も勝てないかもな。

おーい、アイさんの手番ですよー)

『下手したら頓死しそうなのでちょっと待って下さい』

(頓死?

……おい、これ勝てないだろ)

『終盤で巻き返します』

(ソフト相手にどうするんだよ)

 

序盤から強かったソフトは中盤の山場で真価を発揮し、僅かな駒得の代わりにこちらの玉は丸裸にされた。この攻めの速さはやべーな、そしてここからソフトが得意な終盤だろ?無理だな。

 

『……2六銀』

(王手か。こっから詰むか?)

『詰みませんが、詰めろ逃れの詰めろは可能です』

(それ後で詰めろ逃れの詰めろ逃れの詰めろをかけられない?……あれ?)

『マスターも気づきましたか。詰めろ逃れの詰めろ逃れの詰めろ逃れの詰めろがあります。それに対する有効な返し技が、向こうにはありません』

(俺は2六銀を聞いたからわかったけど、何で2六銀の前に今の手順が見えるんだよ……)

 

後手番だし、駄目だろうと思っていたら終盤でアイが逆転する。いや、逆転と言えるほど差はなかったけど、その差がなかった状態でソフト相手に勝ったのは大きい。

 

後手番で勝ったことで、次は先手番での対局だからもう負けはないけど次の電脳戦の対局の前に名人戦の第7局がある。ここまで結局6連勝と、それこそこの前の賢王戦の九頭竜相手の時と結果は変わらない。だけど九頭竜は結局、角落ちで俺に勝てていない。ここで俺相手に角落ちで名人が勝つなら、名人にとってそれは最高のシナリオでの引退なんだろうな。

 

「今年のソフトは、パソコンのスペックが制限されたせいで弱かったわね。パソコンのスペックの上限を決めるのは、難しいのかしら?」

「いや、ほぼ確実に俺が勝てるよう調整をしたと思うぞ。今年将棋界で初の八冠が誕生するなら、その前の電脳戦でその八冠がソフトを相手に完敗ってどう考えても印象悪いだろ」

「ああ、理由が分かってすっきりしたわ。大師匠なんかはパソコンにも詳しいから、何であんなにスペックを低くしたのか疑問だったのよ」

「今の将棋連盟の上層部には半分ぐらいパソコンを分かってない人もいるだろうけど、半分は分かっていないとあの絶妙に低いスペックにはならない」

 

当日は天衣が解説をするそうなので、相方はあい辺りかな。……女王戦で空さん相手に3勝1敗で防衛したばかりだから、ハードスケジュールではあるけどこれは天衣本人の希望だろう。あと天衣がハードスケジュールなら俺とかどうなってんのと思うぐらいには対局詰めだし。大体は竜王戦で勝ち上がっているせいなんだけど。

 

『あとは、三番手直りのせいですかね。来年度の棋士総会で解消されれば良いですね』

(肯定派の中心人物である名人が引退するなら、来年度には三番手直りは消えて俺に配慮された制度ができるはず。というかできなかったら怒る)

『一応、地方のイベント等は名人が引き受けてくれるそうですし……三番手直りの解消だけでも日程はかなり楽になります』

(まあ俺が楽になるだけで、将棋界はちょっと頭を悩ませそうだけどな。八冠が生まれれば将棋界は盛り上がるけど、八冠の独占状態が長くなると盛り下がるから難しい)

 

今年八冠になるとして、来年以降はどうするかな。天衣も成長しているけど、タイトル戦で俺を負かす日なんて5、6年経っても来ないだろう。それよりかは今のアイでも時折ヒヤッとするような展開になる九頭竜の成長に期待したいけど、そろそろ頭打ちになる気がする。

 

「そういえばあの中二病棋士、本を出したのね」

「中2のJCに中二病棋士といわれるのは歩夢が可哀想になってくるから止めてくれ。

あー、神鍋流1五香をまとめた本か」

「師匠はこういう本は出さないの?」

「今度出す予定。

FPSの基礎、キルレート3への道って本だけど」

「……将棋のは?」

「上級者向けに書きたいけど、1冊の本では収まらんからどうしようか状態」

 

歩夢が本を出したようなので、通販サイトで見ると表紙に決め顔の歩夢が写っていた。これは女性ファンの方が買いそうだな。中身は数ページだけ見れたけど、矢倉である程度戦える人前提の本だから、アマ有段者に届かないぐらいの人からアマ二段、三段ぐらいの層向けだ。たぶんこれを完璧にマスターすることができる女性がいるなら、女流棋士になれると思う。せっかくだし、晶さん用に買っておくか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

事前研究

名人と迎えた名人戦の第7局。名人は名人を失冠することが確定しているので、実質引退試合だとも囁かれている対局は、角落ちで始まる。名人は色々と本も出しているけど、一番良いなと思ったのは駒落ちの本だ。初心者だろうが高段者だろうが、あれを一冊読めば六枚落ちから香落ちまでの序盤中盤をマスターすることができる。

 

『結局、名人は香落ちでも3連敗しましたけどね』

(まあ、香落ちはハンデとして微妙だから仕方ない。だけど角落ちは話が違ってくるわ)

 

名人にも奨励会時代というのはもちろん存在し、当時は三段リーグがなかったとはいえ中学生棋士になっている。そしてその奨励会時代、名人は角落ちで負けたことがない。

 

今よりも奨励会の人数が少なかったから、今よりも当時の方が実力差のある人と当たりやすかった。そのために駒落ち定跡の勉強は必須だったし、香落ちを制する者が奨励会を制する、みたいな言葉まで生まれている。そして当時は、角落ちの手合いもかなりの頻度で行われていた。

 

1年で奨励会の6級から初段まで駆け上がった名人は、その1年間で角落ちの対局に負けたことがない。下手ではもちろん、上手でも負けなかったとか。何か別の感覚でも持っているのかな。

 

角落ち上手で迎えた名人との対局は、アイに任せず俺が指す。人相手に角落ちで勝つのは、相手のミスを引き出す必要があるわけだけど、そういう将棋はアイより俺の方が得意だ。そして俺が居飛車党で名人も居飛車党だから、必然的に相矢倉になりやすい。

 

しかし名人と角落ちで相矢倉になんてしてしまったら、角がない分攻守で不利を受けるし厳しい展開になる。だから俺は8四歩、8五歩と飛車先の歩をさっさと突いてしまい、名人の7七角を引き出してから中飛車に振る。俺は今は居飛車党だけど、元は振り飛車党だ。ぶっちゃけどっちも指すことは出来る。

 

『8五歩は中飛車にした後、玉の囲いを広くとるためですか。名人が2筋を突破するのが先か、こちらが中央突破するのが先かの勝負ですね』

(いや、その2つは勝負にならない。こちらはどうやっても角がないと中央突破ができないからな。逆に名人が2筋を突破するのは時間の問題だし、結局はミス待ち将棋になる)

『……マスターに容量を譲っている状態だと、大した助言は出来ませんね』

(暇潰し相手にはなるだろ。っと、来たか。2四歩からの2二歩は当然の展開だな)

 

名人が歩を桂馬の前に打ち込み、3三桂と逃がすも2一歩成でと金ができる。この歩は、と金を作る目的というよりかは香車を取りに行くのが目的か。その後で香車をぶち込まれるとしたら……1手どころか2手は足りん。

 

要所要所でポイントは稼いだけど、角落ちのハンデをひっくり返すには至らない。名人は駒落ちの定跡を全部網羅してそうだから、最初の構想からそれを外そうとした時点で俺の負けだったか。……いや、この持ち時間の消費具合から察するに、俺が陽動振り飛車をすることまで想定済みか。

 

取られたら何の意味もないけど取らなかったら一手分の差が埋まるペテンの歩と、取ったら即死する歩を連打するけど、全部読み切られて完璧な対応をされたし、こういうところは九頭竜より上だな。まあ持ち時間の使い方が上手いだけだけど。

 

『無理ですね。私が指していても100%負けています』

(これ、最初から陽動振り飛車を見抜いているだけじゃなくて中飛車にすることまで名人は想定済みだったぞ。どれだけこの角落ちの研究をしていたんだよ。何だこのムリゲー)

 

最終的には1手差まで詰め寄ったけど、名人にとっては想定内の致命傷だろう。非常に大きい1手差だ。名人戦の第7局は俺の負けとなり、タイトル戦では久しぶりの負けとなる。というか前に負けたの、名人相手に特攻して3連敗した時か。あれ以来ということは、4年ぶりぐらいになるな。

 

『一時は神とまで呼ばれた名人が準備を念入りにして、角落ちというハンデで一手差勝ち。世間一般の人から見ても、マスターのタイトル独占状態が長引きそうなことは分かりますね』

(わざとイベントに忙殺されて負けようかとも考えたけど、名人が引き受けるならそれも無理そうだな)

『最近はまた天衣の実力が伸びてますので、そろそろ楽しくはなりそうですよ』

(棋帝戦の決勝トーナメントで準決勝まで勝ち進んだからな。準決勝で九頭竜に負けたけど、シード権を得て来年も決勝トーナメントからだしチャンスはある)

 

今度九頭竜と戦う棋帝戦の決勝トーナメントでは、天衣が準決勝まで勝ち進んでいた。いよいよタイトル挑戦間近、というところまで来たけど、その準決勝で九頭竜と当たって見事に作戦負けをしている。ちなみにこれに勝っても決勝は山刀伐さんだったし、かなり厳しい道のりではあったな。

 

名人戦が終わり、名人は名人位を失冠して無冠となり、引退を宣言する。随分と潔い引退だけど、月光会長が現役を退いた辺りで名人も腹を括っていた模様。引退の記者会見では随分と俺のことについても言及していて、弟子を取るとか言っている。現役時代、名人は弟子を取らなかったことで有名だけど、心境の変化でもあったのかな。

 

引退をしたことにより、名人は十八世名人を襲位。十七世名人は月光会長だから、その次だな。十九世名人は俺になりそう。もう永世名人の資格を持つ人いないし。

 

これで大木六冠から大木名人になるわけだけど、なんか名前だけ見るとパワーダウンしているように見えるな。大木七冠とかになったりしないのだろうか?八冠になったらちょっと掛け合ってみるか。

 

『これからマスターは全ての免状に署名することになりますが、七冠と書けるかどうかで必要な労力も変わってきますね』

(うげ、嫌なこと思い出させないでくれ。というか逐一名人、賢王、帝位、玉将、玉座、棋帝、盤王と書かないといけないとか発狂する自信ある)

『八冠なら堂々と八冠と書いていい許可は貰いましたけど、それまでどうするんだ案件ですね。おそらく七冠と書いて良いと思いますが』

(七冠と書くのがダメなら、ツイッターで八冠を待てとか予告するしかないわな。まあ免状を貰う側も、八冠独占状態の方が良さそう……か?)

『むしろ今の方が申請タイミングとしては妥当じゃないですかね?何だかんだ九頭竜の字も上手くなりましたし、マスターと九頭竜の二人の字が並んでいる免状の方が価値は高そうです』

 

名人になったことで、今まで回避していたような責務も発生する。まずは免状の署名だけど、タイトルをどう書くかで労力がまるで変ってくるな。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

新定跡

大木と名人の名人戦第7局は、異例の盛り上がりを見せた。三番手直りが現実のものとして機能するようになると、最初こそ盛り上がったものの、大木が角落ち上手で九頭竜や歩夢相手に勝利する光景が連続して見られるようになると、徐々に興味が失われていった。

 

しかし名人が、角落ちでなら将棋の神様でも勝てると言ったのは将棋界では有名なことであり、三番手直りを提案したのは全て今日この日のためではないかと薄々ファンの間では噂になっていた。そして対局が始まると、名人の方が持ち時間の消費量が少ないという異常事態が見られた。

 

「……師匠は強さの質が、持ち時間の消費量によって変わります。序盤から、ここまで考えているのは珍しいですね」

「えっと、最初の居飛車と見せかけて中飛車にするところまでは、大木先生の構想通りですよね?」

「師匠が陽動振り飛車を使うのは、相手の研究を外したい時です。しかしそれすら、名人の想定通りだったんだと思います」

「大木先生が陽動振り飛車を使うところは、確かにあまり見ませんね。そしてそれすら、名人の思惑通りだったと……」

 

この対局の解説役は天衣で、聞き手役は鹿路庭だ。もうすでに鹿路庭よりも背が高い天衣は、パッパッと大きな駒を動かして指し手の解説を行う。2人ともルックス面で人気があり、天衣は順位戦で2連続昇級を果たしたことから厳しい将棋ファンからも実力を認められている。

 

対局は、大木が駒落ち分不利なまま封じ手に入る。大木が初めて封じ手をしたということで、ネットの掲示板は大いに盛り上がった。

 

 

 

【大木七冠】名人戦第7局スレpart13【角落ち上手】

 

114:名無し棋士

角落ちってやっぱりハンデとして大きいのか

 

115:名無し棋士

そりゃ大駒一枚ないんだから大きいよ

 

116:名無し棋士

大木が……負ける……?

 

117:名無し棋士

オーキロボも人の子だったか

 

118:名無し棋士

【悲報】大木ロボ、人間だった

 

119:名無し棋士

封じ手初めてじゃね?

 

120:名無し棋士

天衣ちゃんとたまよんが並ぶとたまよんの胸のでかさが分かる

 

121:名無し棋士

>>120

わかる

 

122:名無し棋士

名人もこれソフトフル活用してるよなあ

 

123:名無し棋士

天衣ちゃんのは服がかっちりしてるから揺れが少ない

 

124:名無し棋士

いくら強くても、わしは今の将棋を面白くないと思うよ

 

125:名無し棋士 

スレ蔵王は帰って、どうぞ

 

126:名無し棋士

大木が封じ手でも考え込むのか

 

127:名無し棋士 

まだ名人有利だ

 

128:名無し棋士

大木がタイトル戦で初めてタイトル戦らしい持ち時間の使い方しとる

 

129:名無し棋士

電脳戦でもタイトル戦らしい持ち時間の使い方してただろ

 

130:名無し棋士

電脳戦はタイトル戦だった……?

 

131:名無し棋士

区分としてはスペシャルマッチ的な位置づけじゃね?

 

132:名無し棋士

!?

 

133:名無し棋士

おい、大木が指そうとしたぞ

 

134:名無し棋士

山刀伐が慌てて止めたwww

 

135:名無し棋士

初めてだからね。仕方ないね。

 

136:名無し棋士

おーきの初めて……

 

137:名無し棋士

音声がなくても分かるドタバタ感に草

 

138:名無し棋士

弟子からはポンコツロボットといわれたことがあるんだっけ

 

139:名無し棋士

弟子(天衣一人)

 

140:名無し棋士

今は2人だけどな

年上の女性が弟子ってどういう状況だよ

 

141:名無し棋士

巨乳大好き侍、義によって助兵衛いたす

鹿路庭珠代>清滝桂香>夜叉神天衣>供御飯万智>祭神雷

 

142:名無し棋士

3位と4位が入れ替わったか

 

143:名無し棋士

イカちゃんの方が大きくない?

 

144:名無し棋士

お前らどんだけ胸が好きなんだよ

 

145:名無し棋士

女流棋士のお胸スレはランキングについて日々討論してるぞ

 

146:名無し棋士

天衣とたまよん目当てで解説を視聴しているのが半分はいると思う

 

147:名無し棋士

お嬢様ああああああ!

 

148:名無し棋士

お嬢様ああああああ!って何のネタだっけ

 

149:名無し棋士

>>146

いても3割ぐらいだと思う

 

150:名無し棋士

>>148

天衣ちゃんが解説をしていたイベント会場で観客席にいた謎の新人女流棋士が覆面をしながらお嬢様あああああ!と叫んでた

 

151:名無し棋士

将棋の話しろよ

 

152:名無し棋士

将棋の話したいなら実況スレ行けよ

 

153:名無し棋士

正直殺害予告される理由がわかるよね

ほんとに大木のニュースは場違いすぎてウザいもん

誰に需要あるの?

 

154:1

!aku153

★アク禁止:>>153

 

155:名無し棋士

>>1やるやん

153はお金の準備しておいた方が良いぞ

 

156:名無し棋士

そういえば殺害予告した人どうなったの?

 

157:名無し棋士

懲役3年執行猶予4年の判決だったはず

 

158:名無し棋士

執行猶予つくのかよ

 

159:名無し棋士

それ便乗した上に厳密には殺害予告じゃなかった奴だろ

悪質な奴は確か猶予なしで懲役2年6ヶ月だったはず

大木は金あるから片っ端から訴えてるぞ

 

160:名無し棋士

封じ手オワタ

 

161:名無し棋士

名人が新定跡を生み出し、角落ちでようやく勝てそうな相手。それが大木。

 

162:名無し棋士

ここからでも名人が負けそうなのが怖い

 

 

 

そして翌日。対局はもうひっくり返らないことを悟った大木は形作りを始める。前日に引き続いて解説をする天衣は、大木が頭を下げたのを見て名人が満足そうに頷いたのを見逃さなかった。

 

「……世間では将棋界に尽力した人格者とか言われているけど、やっぱり根っこはただの将棋人ね」

「何か言いましたか?」

「いえ、何も。

それではここから詰みまでの手順を見ていきましょうか。この名人の打った銀は、取ると5手詰め、逃げると7手詰めになります。易しいので少し考慮時間を取りましょうか」

 

後日、大木の指し手は上手での新定跡となり、名人の指し手は下手の新定跡に対抗する定跡となる。どちらも変化こそ多いものの、最善を辿れば中盤までほぼ一本道であり、名人と大木の対局は両者がその最善を辿っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女流名跡リーグ

何だかんだ名人戦も終わり、電脳戦もパソコンスペックの上限のせいで十全に力を発揮できなかったソフトを相手に2連勝。順当に団体戦のドラフトを迎え、今年の団体戦では天衣を中心とした女流棋士チームが組まれた。面子は天衣、空さん、あい、祭神、釈迦堂さんの5人。釈迦堂さん、棋力は下り坂だけど何だかんだ言って実績がヤバイからな。女流で全冠独占をしたり、女流棋士会会長としての立場もある。

 

なお飯盛さんはB級1組の棋士になってしまったので、今年からチームリーダーに。おかげで俺のチームはほぼ最下位確定です。スポンサーから他のチーム事情で何人か指名しないでくださいと言われた棋士が居て、俺には指名してくださいと言われている棋士がいないという。まあ今年は最初から団体戦への労力をかける必要がないということで、適当に対局をこなすだけになりそうだな。

 

『マスターの1強状態を危惧して出来た団体戦なのに、今のところマスターのチームが2連続優勝ですから仕方ないですね』

(これで団体戦まで優勝が続いたら不味いしな。団体戦なら俺が勝ってもチームとしては負けるから、一番都合が良いんだろ)

『今までセットにされていた天衣も、本来なら他のチームが真っ先に確保しにいくような存在ですし……』

(飯盛さんに至っては今回チームリーダーだからな。今までこの2人がセットだったんだからそりゃ強いわ)

 

ちなみに九頭竜は元真剣師さんを2位で指名していた。竜王とアマ竜王で揃えたかったのだろうけど、スポンサーの意図が丸見えである。そしてその九頭竜のチームと、歩夢のチームが同リーグにいる時点で今年の勝ち抜けは厳しいな。

 

公式戦で天衣との初手合いも、別のリーグになったために実現せず。いや本当に当たらないな。一般棋戦だと俺が勝ちあがらないから、マジであの時の竜王戦予選がタイトル挑戦以外で戦える唯一のチャンスだったか。

 

ただ天衣もかなりの数の予選を勝ち抜けているので、おそらく今一番経験を積んでいる棋士と言っても過言ではない。途中で敗退しているの、大体が決勝トーナメントの上の方だからな。たまに決勝トーナメントの1回戦で負けたりしているけど、対局数自体はかなり多い。

 

そんな天衣が女流では手を抜いている3つのタイトルの内の一つ、女流名跡のリーグ戦で、晶さんが開幕3連敗を喫した。……結局、焙烙さんとの対局は晶さんが余裕を持って勝利していた。これは晶さんが強かった将棋じゃなくて、焙烙さんが完全に自爆した形での勝利だ。たぶんアマ初段が相手でもあの出来だったら焙烙さんが負けていたと思う。

 

『女流名跡のリーグ入りをしたことで初段に昇段しましたが、女流名跡のリーグでは場違いなほど弱いですね』

(空さん、祭神の2人は別格として、釈迦堂さんや岳滅鬼さんも奨励会初段クラスの実力はあるからな。アマ三段ぐらいで、奨励会の6級にも届かなさそうな晶さんが連敗するのは順当)

『釈迦堂さん、空さん、岳滅鬼さん相手に3連敗で、次戦が祭神と。まあ負けるでしょうね』

(この前、祭神は早指しのトーナメント戦で生石さんに勝っているからな。まあ生石さん、最近は不調気味だったんだけど、それでもあの生石さんと相振り飛車になって勝つのは凄いわ)

『祭神は女流帝位をあいから取り戻したので、これで女流棋界は天衣以外が3冠を空さん、あい、祭神の3人が分け合う形ですね』

 

今年女流名跡であるあいに挑むのは、現在3連勝中の空さんか祭神のどちらかだろう。うーん、一回やってみるか。

 

(祭神と晶さんの将棋、初手から終局まで予想してみる?)

『良いですね。面白そうなのでやってみましょうか』

(対局中、祭神がいつ俺の存在に気づくかが問題だけど……アイなら祭神がどこで気づくかもわかるだろ。で、その棋譜の検討を晶さんとするか)

『さすがに晶さんも、覚えておきたい棋譜を覚えられるようにはなりましたからね。天衣と一緒に、研究会という名のカンニングをさせましょう』

 

祭神との1戦を前に、晶さんに俺とアイが予想した祭神の指し手を並べて検討を行う。たまに3人での研究会はやるから晶さんはこちらの意図に気づいていないけど、天衣には気づかれている。というかどう見ても棋譜が俺と誰かの対局じゃないし、終局まで研究会をした時点で晶さんも気づくかな。

 

わりと長丁場の研究会となり、終わったら晶さんが休憩しに外へ出る。その時、天衣から話しかけられた。

 

「……もしかして今日検討した棋譜、明後日の晶と祭神の対局だった?」

「ビンゴ。いやまあ祭神のプライベートまで把握しているわけじゃないから祭神がこの通りに指してくる可能性は3割もないな。でも今のままだと勝率なんて0に等しいし、何よりやってみたくなった」

「はあ。これで晶が祭神に勝ったら大騒ぎよ?」

「その時は晶さんも、俺から今日の将棋の棋譜を教えてもらったという言葉は出てくるだろ。晶さん、自分が悪目立ちしたいというタイプの人間じゃないし」

 

はっきり言って、将棋を初手から予想するなんてことはまず不可能だ。だけどある程度の流れさえ合っていれば、類似した対局にはなる。晶さんの将棋はよく見ているからわかるし、祭神も最近は素直な手が多くなって読みやすくなった。だからこそ、この予想に踏み切ったわけだけどどうなるかな。

 

迎えた女流名跡リーグの第4回戦。祭神と晶さんの対局は、僅かにルートを外れたけど祭神の使う戦法も、囲いも一致した上、局所では完全一致となった。そしてこの対局、勝てると思っていた祭神が負けそうになって顔色が悪くなるのは当たり前だけど、晶さんの方が顔色は悪くなっていた。

 

「……実際に見ていた私でも信じられないわね。僅かに盤面は違うけど、盤面の半分以上は完全一致じゃない」

「今回はたまたまだな。祭神が俺の存在に早々に気づいたおかげで、当たった感じだ」

「祭神が師匠の読みを外そうとする手、の方が読みやすかったってこと?……化け物ね」

「さすがに全く知らない2人の対局を予想するのは俺でも無理だぞ?今回は祭神と晶さんの対局だったから、読みやすかっただけだ」

 

晶さんは勝ったのに顔色がずっと悪いままで、天衣はまたドン引きしたような目で俺を見ている。いやまあ今回は3割が当たっただけで、たぶん10局予想したら7局は外す自信があるし、何ならこの対局も手順がそのままドンピシャで当たったわけじゃない。まあでも、負け確実を勝ちにまで持って行けたのだから予想する価値はありそうだな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

海外

将棋のタイトル戦は、時々海外で行われる。九頭竜が名人を相手に、初めての竜王防衛戦となった時の第1局はハワイだったし、珍しいけど全くないというわけじゃない。そして今年の竜王戦の第1局は、アメリカの首都ワシントンD.C.で行われる。竜王戦以外だと中国が会場として選ばれることが多いんだけど、竜王戦はアメリカが続くな。

 

せっかくなのでよくテレビで見るホワイトハウスの前まで来たけど、中までは入れない模様。しかしまあ、アメリカは土地の使い方が贅沢だな。公園とか明らかに広すぎる。日本が狭すぎるだけだと思うけど。

 

『弟子に通訳でおんぶに抱っこの観光とか師匠としての面子大丈夫です?』

(アイが通訳だと会話のラグが不自然なんだよ。スペイン行った時とは違って天衣は特に負担になってなさそうだし、大丈夫だろ。

本当に負担になってるなら通訳スタッフ連れて来てるはずだから)

 

せっかくなので本場アメリカのハンバーガーをレストランで注文しようとすると、お値段なんと25ドル。最近の為替で換算すると日本円にして2800円。あまり高級そうなレストランじゃないのにこの価格って、わりと高いな。まあ天衣も俺も値段は気にしない人だけど、日本の感覚のままだと海外の外食はどこも高い。日本だと高いモスが安く感じる。

 

「それにしても、師匠って海外でも人気なのね。結構人が集まってなかった?」

「たまにチェスの大会を荒らしていたおかげだな。たぶん集まった外国人、将棋を知っている人よりチェスファンの方が多いぞ」

 

チェスの国際大会は短い期間で行われるものもあったので、行って即大会に出場し、とんぼ返りで帰ってくることを何回か繰り返した。たまに天衣もチェスの国際大会についてきて、出場したりしているのでなんか天衣も日本のランキングで3位になっているのは気にしない。

 

まあ今年の竜王戦がアメリカで行われることは早い段階で分かったし、海外に行く経験は積んで良かったと思う。いざという時、夜叉神家は頼りになったし。……天衣のお爺さんは、パチンコ台とか芸能プロダクションとかを経営しているだけの実業家なのに何でこんなゴリマッチョな人員が多いんだろうな。

 

前夜祭では九頭竜が最初に挨拶をするけど、流石に慣れたのか初手でミスることもなく全力を出し切りたい旨を話していた。最近の俺の対戦相手の挨拶のトレンドは、勝ちたいとか防衛したいとかそういうのじゃなくて「全力を出し切る」なのどうにかならないかな。

 

『マスターはマスターで無難な台本を求めるのどうにかしましょうよ。どうせなら全力を引き出させた上でねじ伏せたいとか言って良いんですよ?』

(何その如何にも負けそうなラスボスが言いそうなセリフ。いいからさっさと無難な台本プリーズ)

『いつも通りのテンプレで良いじゃないですか』

(……テンプレートを作成して、同じ挨拶しかしないから大木ロボ説が加速するんだろうな)

 

アメリカでの対局だけど、大盤解説は行われる。将棋連盟がファン向けの旅行プランを組んでいて、結構な数の日本人も来ているからな。で、現地のアメリカ人も聞けるようだけど何人来るんだろう?一応、アメリカも将棋の大会を開けるぐらいには将棋人口が増えたようだけど、トップ層でもアマ三段とかそのぐらいのはず。

 

対局室はホテルの大部屋に和室があるようなのでそこで行われることになり、始まった竜王戦の第1局。毎回平手でも香落ちでも3連敗しているけど、それでも平手で勝つのを諦めていないのは本当に貴重な存在だと思う。

 

対局はお互いに居飛車の矢倉を組む展開になったけど、おやつで食べたアイスのせいか、単にアメリカに来てからの食生活が悪かったせいか、お腹を下した俺は2度ほどトイレに15分ぐらい籠った。そのせいで、消費持ち時間は30分を超える。人相手に平手でこんなに持ち時間使ったの、初めてかも。

 

『アメリカに来てから油っこいものしか食べてないからでしょう』

(ステーキにハンバーガー、ポテトにフライドチキンと見事に重たいものばかりだったしな。

でも、アメリカで生活していれば体重は増やすことが出来そうだな)

『……今日の夜、ホテルで体重計に乗って現実を見れば良いんじゃないですか?』

(……お腹を下した後に体重を測ると、大抵は減っているからなぁ)

 

しかし対局はこちらが優勢で、後手番ながら主導権を既に握っている。九頭竜が封じ手の時間になって長考を始めるけど、ここでの消費持ち時間が多いと、せっかくこっちが持ち時間を消費したのに2日目早々に決着がつきそう。

 

そして2日目。封じ手から数手は九頭竜が盛り返したけどアイの筋書き通りなので見せかけの盛り返しです。九頭竜にとっては「これは上手く行く」と思った手が用意された最善手で、ノータイムで切り返されるからやってられないはずなんだけど、まあ粘る粘る。

 

『天衣と九頭竜の差は、確実に詰まっている気がしますね』

(そりゃ棋力は伸びれば伸びるほど伸びしろがなくなるものだから、天衣と九頭竜の差は必然的に縮まるだろ。

というか九頭竜相手にマウントポジションを明け渡す将棋は流石に怖いわ)

『九頭竜の攻めはあと一歩届かないこと、マスターも読み切っているのでは?』

(アイに任せている間は分からん。ギリギリの勝負は読み切り辛いわ)

 

最終的には、終盤で差がついた圧勝となった。竜王戦の対局が終わった後はまたぶらりと観光を続けるけど、天衣と一緒にショッピングをしているような気分だった。食べ物を探索したり、大型のショッピングセンターのような場所で服を買うだけだったからな。美術館とか行っても2人とも楽しめないのは分かっているので、物欲優先の思考である。

 

そして天衣の懐から出てくるブラックカード。カード会社から招待されないと持てないようなクレジットカードなので、お金にかなりの余裕がある俺でもまだ持ってないです。年会費35万とか聞いて感性が庶民の俺は持てないなと思った。天衣は普通に使ってるけど、だからこそ外に出るときは付き人やボディーガードの人がいつもいる。

 

晶さんがチャカを持っているのも、それなりに理由があるということだな。日本だと普通に銃刀法違反で犯罪だけど。何か今回は夜叉神家の付き添いの人が多いなと思ったら、数人が銃を仕入れに行っているのを目撃した。あれって日本に持ち帰れるものなのだろうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八冠

「……負けました」

『序盤から時間を使ったのに結局負けるんですか』

(九頭竜がミスしなかったから仕方ないだろ。九頭竜は、そろそろ揺さぶりが効かなくなってきたな)

 

俺の6連勝で迎えた竜王戦の第7局。九頭竜相手に5回目の角落ち上手での対局となり、とうとう俺が負けた。名人に名人戦で負けた後の帝位戦では九頭竜と3年連続の帝位戦となり、角落ち上手でも負けるかなと思っていたら、その時は勝てたけど今回は駄目だったわ。

 

『角落ち上手は、相手のミスがなければどうしようもないですからね』

(何なら相手がミスをしてやっと五分という。まあ、5局も指せば1局は負けるわ)

 

今回の竜王戦は第5局の香落ち戦でも負けかけたし、名人亡き今、九頭竜は俺に唯一対抗できそうな存在としてメディアでは持ち上げられている。いや名人死んでないけど。

 

今年の夏以降のイベント、俺や九頭竜や歩夢といった若い世代の徴用される回数が減ったのは名人の影響が大きい。何ならあいや天衣すら呼ばれる回数が減ったからな。

 

何だかんだ言って、20年以上将棋界のトップに君臨し続けたんだ。知名度は今回八冠になって、ようやく俺と名人の知名度が並んだと思えるぐらいには名人の知名度は高い。

 

永世竜王を獲得している九頭竜だけど、当然知名度は名人に劣る。来年以降は竜王戦の優勝賞金が入らなくなるから、色々と大変そうだな。まあタイトル挑戦回数は九頭竜が1番多いし、タイトル戦は負けても多額の賞金が入るから賞金ランキング2位の座はそう簡単に明け渡さないだろうけど。

 

『一般棋戦の優勝回数は九頭竜が1番多いですからね』

(俺が序盤でさっさと敗退するから、そりゃ九頭竜が勝ち上がるよねって感じ。止められるの、歩夢や生石さん、山刀伐さんぐらいしかいないし)

『A級棋士でも、九頭竜相手の勝率は3割程度ですからね。そしてその九頭竜がA級に昇級したことで、A級棋士のレベルはさらに上がりました』

(今年度の3連単はもう九頭竜、歩夢、山刀伐さんが鉄板だな。ほぼ確実に、来年の名人戦は九頭竜が相手だろう)

『飯盛さんは、A級に上がれるかも怪しいですね。早指しは得意ですが、持ち時間の長い棋戦は早々に敗退しているので……順位戦でB級1組まで上がったことがおかしいぐらいです』

 

天衣は14歳の誕生日を迎え、そろそろ少し見上げないといけなくなってきた。165センチってマジ?将来的に170センチ近くまでは本当に伸びそうで困る。なおあいも同じぐらいの身長の模様。最近の子は発育良いな。俺も最近の子のはずなんだけど。誰か九頭竜辺りと身長を入れ替えて欲しい。

 

『順位戦といえば、女流名跡のリーグで晶さんがあの後4勝1敗して5勝4敗でリーグに残ったのは想定外でした』

(まあ知ってる人がリーグには多かったからな。晶さんをラジコンするのはちょっと楽しかった)

『運もありましたし、容姿も相まって、中々に人気も出てきた感じですね』

(世間的には焙烙さん2号なんだろうけど。3連敗してからの5勝1敗だからな)

 

晶さんの棋力自体は微増傾向というか、たぶんアマ四段はない。まだアマ三段レベルだろうけど、ある程度は俺から伝えられる指し手の意味を理解できるので何とかなっている状況。

 

天衣以上のパワーレベリングをしているのに育たないので、将棋を始めるのが遅くて才能が皆無、天衣の付き人としての仕事もこなしているならここが限界なのだろう。まあ他の棋戦でも女流棋士相手に勝った負けたは出来ているので問題はなさそう。少なくとも即引退だけは無いと思いたい。

 

竜王戦が終わり、盤王戦の挑戦者決定戦。勝ち残っているのは椚と天衣なので、どちらが勝っても九頭竜の持つ最年少タイトル挑戦記録を塗り替えるということで話題になっている。九頭竜が歩夢に負け、その歩夢が椚に負けるという波乱が起こった盤王戦は、天衣も於鬼頭さんと歩夢を破って挑戦者決定戦まで勝ち進んでいる。

 

まあ九頭竜は来月から行われる玉将戦の挑戦者にもなったし、竜王戦のタイトル戦中に行われた盤王戦のトーナメントで負けるのはしゃーない。歩夢が椚に負けたのも、昨年の竜王戦の挑戦者決定戦で起こったことか。天衣が椚に勝てばタイトル挑戦者になる大きなチャンスだけど、問題は天衣が敗者復活戦から勝ち上がっていること。

 

盤王戦の挑戦者決定戦は、2番勝負だ。挑戦者決定トーナメントの優勝者は椚で、天衣は準決勝で歩夢に負けている。そこから同じく準決勝で椚に負けた於鬼頭さんに勝ち、挑戦者決定トーナメント決勝で敗れた歩夢に敗者復活戦の決勝でリベンジを果たした。

 

この敗者復活戦の勝者と挑戦者決定トーナメント優勝者で2番勝負によるタイトル挑戦者を決める仕組みだけど、敗者復活戦で勝ち上がった側は2勝しないといけない。盤王戦は準決勝以降、2敗すると敗退するシステムだから、ここまで一度も負けてない椚は1敗できる余裕がある。

 

『わりと面倒なシステムですよね。誰が考えたんでしょう』

(さあ?現行ルールになってから、敗者復活戦から勝ち上がった方がタイトル挑戦者になる確率はどれぐらいだ?)

『過去30期中、10期だけですね。持ち時間が長い椚を相手に2連勝しないといけないのは辛いです』

 

プロ棋士になってからも天衣は何度か椚相手と戦って勝ってはいるが、当然負けてもいる。天衣より1つ上の椚は、本来なら来年から高校生だけど進学はしない模様。まあそこまで学業を重視するタイプにも見えないし、進学しない方が椚にとっては良さそう。

 

挑戦者決定戦の二番勝負は、初戦で天衣が椚に勝ち、約束まであと一勝に迫った次局。秘めていた新手が無事空回りして天衣は椚に負けた。これで最年少挑戦者記録は椚が更新したけど、天衣はこの記録を更新するチャンスが一年残っている。しかしまあ椚も強くなったというか、成長してるわ。成長しているのが天衣だけじゃないのはよく分かる。

 

この対局の後、しばらく天衣は元気がなかった。天衣は自分の才能に疑いも持っていたけど、原作で三段リーグをトップ通過、小学生棋士になった椚創太と、空銀子に結局黒星を付けられなかった女流棋士夜叉神天衣の生まれ持った才能の差は確実にあるわ。

 

『次にタイトルを狙うとすれば、決勝トーナメントの組み合わせが良かった棋帝戦ですか』

(決勝までに強い人があまりいないからな。強いて言えば飯盛さんだけど、天衣は相性良いし)

『今回の団体戦で1番盛り上がったの、大将戦で起こった天衣対飯盛さんの対局ですよね』

(2人とも狂ったように自陣に駒を打ち付けて持久戦にしたからな。お互いに相手が持久戦を苦手だと踏んで、自分から泥沼に突っ込むのは見ていて面白かったわ)

 

天衣が次に勝ち上がるとしたら、棋帝戦のトーナメントだろう。それまでに三番手直りの制度を無くすのが、来年の俺の目標かな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2022年

2022年の正月は、月光会長に攫われて関東の方の指し初め式に参加した。月光会長は将棋堂祈願祭という行事が関東であるために毎年関東の方の指し初め式に参加しているけど、今年は俺が八冠になったせいで関東にタイトルホルダーが不在。そのため俺も将棋堂祈願祭に出席することになった。もちろん、天衣も一緒である。

 

「のじゃ!?何故ラスボスがこっちにおるのじゃ!」

「今年からこっちに参加するよう師匠に言われたんだよ。

そういや馬莉愛は来期の三段リーグに参加するんだったよな?」

「何故知っておるのじゃ」

「いやお前と一緒に来期の三段リーグから参戦する奴が同期だからな」

 

初参加になった関東の方の指し初め式は、関西とは違いリレー将棋が一手ずつだ。指し初め式で行われる全員参加のリレー将棋は、関西だと複数の盤面があって数手は指せるんだけど関東だと一面しかない。天衣も俺も一手ずつ指したけど一手で戦況が特段変わることはなく、俺と天衣の指した方が勝ちそうな状況に。まあ途中で指しかけになるはずだけど、過去には指している人がうっかりしていて詰んだこともある。

 

そこで歩夢の弟子である馬莉愛と遭遇したが、こいつは直近の奨励会で三段になったためにこいつも中学生棋士になる可能性がある。兄は三段リーグを一期抜けしているわけだし、最近の指導対局では二枚落ちで俺が負けているので十分に可能性はあるな。

 

『マスターの同期は椚以外次々と奨励会を去って行きましたが、唯一の生き残りが先月三段になった彼ですよね』

(俺と椚の同期は、関西だけで十数人いたけど最終的には3人か。これが普通だから奨励会は怖いところだわ)

『年齢制限があるとはいえ、残酷でしたよね。今は棋士編入試験ができたので、ちゃんと実力がある人は再起が可能ですけど。

それにしても、唯一の生き残りが過去に自殺をしようとした彼だとは思いませんでした』

(確か、天衣が奨励会に入会した時点で3級だったか。そこから4年でよく三段まで上がったな)

 

天衣や椚、あいのせいで感覚がバグってくるけど、奨励会を抜けるのに平均で8年はかかると言われている。三段リーグが出来て以降、入会年齢の平均が12歳で、四段になった人の平均年齢が20歳だからな。

 

馬莉愛は小学6年生で奨励会4級として入会し、2年と少しで三段まで駆け上がっているので普通に化け物候補です。高校生での三段昇段を予想をしていたけど、元々初段までは楽に上がれそうだってアイが言った時点で、少しの上乗せさえあれば三段までは楽に到達すると察するべきだった。

 

「関東の指し初め式は、全然雰囲気が違うわね」

「関西は雰囲気がゆるゆるだからな。関東はリレー将棋が堅苦しいわ」

 

ちなみにこのリレー将棋、アマチュアも参加できる。というかそれが目玉だ。指し初め式のリレー将棋で指す権利を落札した人は、プロ棋士と一手だけ指せるということで大人気。何故俺が関東に拉致られたのかがよく分かる理由だ。俺が居た方が、客単価は上がるのだろう。

 

『たまに将棋のルールも分からない方が落札されますけど、せっかく指すなら覚えてきてほしいものですね』

(銀が横移動ならともかく、角が横移動したのは驚いたし慌てたわ。何か将棋の本を出すなら、初心者向けの方が良いか?)

『八冠のおかげでわりとマスターの人気も高まって来た感じですし、将棋人口を増やすならそちらの方が良いでしょうね』

(んー……晶さんと一緒に将棋のソシャゲでも作るか?半分ソフト指し前提のソシャゲとかわりと面白そうだけど)

『それウォーズと何が違うんですかね……』

 

初心者向けに何か作ろうかと考えるけど、水着着た女の子が代理で将棋指すソシャゲとか需要ないかな。途中で次の一手問題が出るとか、最後の局面を詰将棋にするとか色々と出来そうだけど。一応、将棋ソフトの開発陣と繋がりはあるしな。

 

『連盟公認にはならなさそうですね。マスターの頭がピンク色過ぎて引きます。あと普通に売れなさそうですよ。ソシャゲ開発をなめているんですか』

(いや、絵が良くてガチャの排出率が渋すぎなければ爆死死産にはならないだろ。対局中は可愛いデフォルメキャラなら周囲の目線も何とかなる)

『……夜叉神家は色々と事業を抱えていますし、提案だけしてみれば良いんじゃないですか?原作で晶さんと九頭竜が開発したスマホアプリが、リリース出来なくても問題にならない程度には財力ありますし』

 

基本的にはガチャで引いた女の子が指すけど、いつでも自分で指すことができるように切り替えられるとかなら将棋の腕に自信のある層もプレイしてみようという気になるはず。というかこれなんかの漫画で見た気がするわ。将棋ブームも下火になって来たとはいえ、ウォーズとかの人口は増えているようだし流行る流行る。

 

馬鹿なことを大真面目にアイと脳内会議していると、アマチュア側は将棋連盟子供スクールの子供達が指し始める。よくこういう子達は未来の名人候補と言われるけど、今はトップが化け物だからなぁ……。

 

どのタイトルを狙っても、待ち構えているのがソフト相手に勝つようなラスボスだから棋士側はどうしようもない。一応、一般棋戦での優勝は狙えるから今の棋士の評価は一般棋戦の優勝回数で判断されている感じ。となると、必然的に体力のある若手の評価が上がるんだよな。

 

たまに名人も勝ち上がっていたけど、名人が引退してからは早指しだと九頭竜が無双している。食らいついているのは歩夢と飯盛さんと天衣ぐらいか。最近、ようやく空さんと九頭竜の公式戦が成立したけど初手合いまで長かったな。まあ九頭竜は今までタイトルホルダーだったし、空さんが二次予選や決勝トーナメントまで勝ち上がらないとまず対戦するチャンスすら生まれない。

 

なおその対局は九頭竜が空さんを瞬殺する結果になった。そのせいか空さんは順位戦でも黒星が付いて今期の昇級が絶望的になったので、一時期の2人の雰囲気はヤバかった。まあ空さんにとっては長年夢見てきた九頭竜との公式戦で、公開処刑のようなことをされたんだから仕方ない。

 

天衣とタイトル戦で戦うことになったら、どうしようかな。性格的に手加減は絶対にNGなんだけど、たぶん普段通りには指せない。となると、本気で戦うしかないわけだけど……天衣が一矢報いるようになるまでに、心折れないかな。タイトル挑戦回数の多い九頭竜や歩夢は、心折れてないのが不思議なぐらいだからな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

タイトル挑戦

椚が最年少タイトル挑戦者記録を塗り替えてから半年。天衣がその記録を塗り替え、14歳6ヶ月という若さでタイトルの挑戦者になった。そのタイトルの名は棋帝であり、俺が初めて取ったタイトルでもある。

 

先日の棋士総会の結果、このタイトル戦が最後の三番手直りのタイトル戦になるようで、今度のタイトル戦は三番手直りじゃなくなる。まあもう三番手直りは俺を含む全棋士にとって不都合でしかない制度になっていたしな。角落ちで俺に勝てたの、名人と九頭竜だけだし。

 

というか椚も天衣も中学3年生でタイトル挑戦者になるとか将棋界の低年齢化が激しすぎる。……天衣も椚も上に九頭竜や歩夢といった層が居たからタイトル挑戦が遅くなったということは、本来ならタイトル挑戦がもっと早かった模様。

 

流石にタイトル戦間近にタイトルを争う相手と会って対局とか指導をすることは出来ないので、天衣と会えない日が続くのはちょっと寂しい。なので晶さんと会って将棋のソシャゲ開発に勤しんだ。何か天衣に似たキャラも作ってしまったけど、今時のゲームには必ず一人はツンデレ高飛車キャラがいるのでセーフ。容姿も似ている気がするけど、俺と晶さんが作るんだから仕方ない。

 

『名人戦のタイトル戦期間中に何をやっているんでしょうね……』

(ぶっちゃけ八冠になるとタイトル戦期間外の方が少ないぐらいだから、こうなるのは仕方ないだろ)

『三番手直りが解消されるなら、わりと暇になる予定ですが。特に今年の玉座戦から竜王戦までは、1か月ぐらい対局が無いんじゃありませんか?』

(そこ以外もわりと暇になるかもな。……おい、事前登録者数が50万人を突破したぞ)

『内容は育てた女の子が将棋で戦うのを見るだけというシュールなゲームなのに、随分と人気ですね』

(人っぽい将棋AIを作れるようになったからこその企画だよな。低レアでも育ち切るとアマ六段クラスの実力はあるんじゃない?)

 

アイからも突っ込まれたけど、八冠になったためにタイトル戦期間が今の俺はずっと続いているので、タイトル戦のために食生活を気を付けたり、規則正しい健康的な生活を送るといったことはしていない。元々していなかった気もするけど……他の棋士からすればふざけるなと言いたくなるだろうな。

 

しかしまあ、天衣といよいよタイトル戦か。数年前には考えられなかったことだけど、挑戦者決定戦で九頭竜に勝ってのタイトル挑戦だから価値がある。今までに九頭竜にはタイトル戦のトーナメントで何度負けたか数えきれないぐらいだろうけど、天衣は今までの戦績を気にせずにこれから勝ち越していけばそれで良い。

 

『天衣の対九頭竜戦の成績、3勝13敗ですね』

(まぐれでも、挑戦者決定戦で九頭竜相手に2勝1敗と勝ち越せたのはヤバイわ。まあその時九頭竜は名人戦でアイに遊ばれてたんだけど)

『遊んではいませんよ。むしろ香落ちでも負ける可能性があると踏んで、新手を出しただけです』

(その新手の初手1四歩はどこからどう見ても遊んでいるようにしか見えないんだよ。何で香車落とした側の端歩を突いたのか、対局中悩みっぱなしだったんだからな)

 

そして迎えた棋帝戦の第1局は、天衣の先手番で始まる。こうして真剣な場で向かい合うと、マジで天衣は美人さんだな。中学3年生とはとても思えないし、高校3年生でも通用しそう。公式戦初手合いだから、天衣も緊張しているようだけど、それがまた可愛い。

 

『マスターにとって理想的な女性は、計算したところ日本に4人だけでした。その女性と出会える確率は人生で30000人の人間と会えると仮定して、0.065%ですね』

(その確率はどうやって計算したんだよ。あれか、全人口から項目ごとに計算する奴か。どうせ俺のことを好きになってくれるという条件で、無理な設定したんだろ?)

『ちゃんと3%で計算しましたよ?』

(お?思っていたよりも妥当な確率で計算してくれていた。じゃあ何の項目が低かったんだ)

『マスターの性癖を受け入れる、を1%にしました』

(……そんなに変か?男なら普通じゃね?)

『普通ではないですね。普通の男性は、ノーパソの4TBの容量の半分以上がR-18にはならないでしょう』

 

天衣の長考中に、アイは暇になったのか俺の理想的な女性と出会える確率を計算し始めた。天衣以外に日本に3人も俺にとって理想的な女性がいるとは思えないけど、その人と出会える確率は0.065%って低いなぁ。

 

どうせ成人男性の過半数は自前のパソコンに大量のエロが詰まっているんだよとアイと脳内で言い合っていたら、天衣が仕掛けてきた。うん、まあ、完全にアイの読み筋だな。長年ずっと天衣の指導をしてきて、俺ですら雰囲気で攻め始めるなとか苦しそうだなとかわかるんだから、アイに天衣の攻めるタイミングが分からないはずがない。

 

どう足掻いても、天衣は惨敗を免れないだろう。九頭竜以外のA級棋士、そいつらと遜色のない将棋を指すようになったというか、何なら超えている部分もあるけど、人並外れた強さを手に入れたわけじゃない。

 

『棋帝戦が1日で終わるタイトルでよかったですね。天衣も持ち時間を使い切りませんでしたから、2日制のタイトル戦ならまた途中で切り上げでしたよ』

(いやこの将棋、天衣側から見て勝ち筋なかったように見えるんだけど。アルファゼロ相手に後手番で引き分けに持ち込んだ筋使ったでしょ)

『天衣ならこの対局の研究をしているかと思いましたが、どうやら突破口は見えなかったようです。ミスもしてますし、まあ平手ではどうあっても勝負にはなりませんね』

 

今年の電脳戦でとうとう俺が0勝2敗1引き分けとアルファゼロ相手に勝てなくなったので、タイトル戦では電子機器の持ち込みは禁止が決定された。次のタイトル戦である帝位戦から適用されるらしい。周囲への根回しは月光会長が念入りに行っていたため、俺一人が騒いでもどうしようもなかったな。三番手直りの撤廃の代わりとして受け入れるしかなかった。

 

あと、電脳戦は来年で最後らしい。最終年ということで、前哨戦もなくしてソフト連合対人類代表の団体戦にするとか。たぶん人類代表の面子は俺、九頭竜、歩夢、天衣、篠窪さんの5人。何かトップ5の中に天衣の名前があると感慨深いな。十七世名人と十八世名人が現役のままなら入っていたかは怪しいけど。

 

天衣との対局は、あっさりと夕方前には終局する。……そろそろ九頭竜のように頭の中から将棋盤がなくならない状態に入っても良い気がするけど、まだ時間がかかるのかな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の師匠⑦

私の師匠は八冠だ。どのタイトル戦を勝ち上がっても、最終的に待っているのは他を圧倒する実力を持つ師匠。そうなってから半年。朝のニュースなどで将棋関係の話題を取り扱うことも減って来た。

 

当の師匠は八冠になっても特に変わることなく、最近はスマホゲームの開発に関わって、思い通りのゲームをリリースし、そのゲームに凄まじい額の課金をしている。……師匠はガチャで引いたキャラに将棋を任せるより、自分で指した方が強いわよね?

 

私が師匠の弟子になってから、5年と6ヶ月。とうとう私は、棋帝のタイトルに挑戦する権利を得た。決勝トーナメントの組み合わせが良かったのもあるけど、師匠は実力が付いた証拠だと言ってくれた。その実感がまるで湧かないのは、師匠に延々と負け続けているからだろう。

 

この6年と半年。師匠とは数えられないぐらいに将棋を指した。ソフトともいっぱい指した。多面指しを含めれば、私が指した将棋の対局数は10万局を超えている。でも、師匠の麓にも届いていないと思う。

 

ようやく実現した師匠との初公式戦。第1局では、序盤から指し辛い将棋で先手番なのにずっと攻めることが出来なかった。師匠の将棋を知りすぎたせいで、どう攻めても潰される手順しか見えなかったからだ。……潰される手順が見えるのに、それを打開する手は見えなかった。

 

後手番になった第2局は後手番角頭歩戦法を使うも、向飛車同士の戦いになって全然歯が立たなかった。だけどその将棋の中で、私は成長した気がする。

 

「晶は指し手を読む時、1本道を何通りか読むわよね?」

「私は天衣お嬢様のように何十通り、何百通りとは読めないが、毎回数通りは検討する。勝負所では、十数通りは読むぞ」

「……そうよね。普通はそっちを伸ばすわよね」

「……そっち?」

 

将棋は一本道だ。こう来たらああする、こうされたらこう返すと読んで考えていくのが基本だし、それ以外ありえない。きっと師匠が師匠じゃなかったら、この考えは一生変わらなかったでしょうね。

 

頭の中に何百という盤面があって、それをフル稼働出来る化け物相手に同じ1本道で先を読むなら絶対に間に合わないし、追いつけない。

 

だから、その細い1本の読み筋に幅を持たせる。将棋の流れを可視化して、攻めの筋や守りの筋そのものを読む。第2局の終盤、いつも以上に指しやすかったのは一本道から脱したからだ。幅があれば一本道から外れても、一から読み直す必要はない。

 

……棋帝戦の第3局。ここで私が負ければ、第4局は香落ちの試合になる。香落ちで負けた最後のプロ棋士という、とっても不名誉な称号が付く可能性もある。だけど私は、新しい感覚で指すことを止められなかった。

 

「……本当に、強くなったな。俺さえいなければ、女性初のタイトルホルダーにすらなれたかもしれない」

「師匠が居なかったらここまで強くなってないわよ。それに、師匠がいても私は女性初のタイトルホルダーになるわよ」

 

先手番の利を最大限に活かし、速攻で中盤の山場まで互角の勝負に持ち込んだ私を見て、師匠はぽつりと漏らす。将棋はいくら強くても、序盤でリードを奪うのはプロ棋士相手だと至難の業だ。中盤の山場まで互角の対局というのは、師匠の対局ではよくあることだし、師匠が強いのはここからだ。

 

先延ばしにしていた攻め合いが始まり、お互いに駒を取り合う中盤の山場。どんなに幅を持たせてもその範囲外から来る師匠の攻めに対抗するため、私は今日一番の長考に入ろうとした。その時。

 

正座を崩すタイミングで、私は後ろに倒れてしまった。倒れてしまったと自分が自覚したのは、私に駆け寄ろうとしている記録係の人を視界にとらえたからで、私は近寄ろうとする彼を手で制す。確かこの人、師匠と同期なのよね。……自殺したら将棋が強くなるなら、私は何度だって自殺する自信があるわね。

 

仰向けになったまま、眼前に浮かぶ将棋盤で駒を動かす。寝たまま将棋を指すなんて、褒められたものじゃないけどもう倒れてしまったし、一度ぐらい良いわよね。それに倒れた時に見えた、あの筋を早く読み切りたい。

 

……うん。やっぱり勝てない。いくつか勝てそうな手は見つかったけど、その後を読むと全部潰される。だけどこうして寝転がりながら読むことで、更に1つ新たな道筋を見つけられた。

 

「失礼したわね」

「全然。それより身体は大丈夫か」

「健康そのものよ。私より、師匠の方が問題だと思うんだけど。また痩せてるじゃない」

「いや、まだ1㎏しか減ってない」

「師匠の1㎏は私と違って重いのよ」

 

軽口を言い合いながら、攻めに出ていた角を引く。持久戦にするつもりだと読んだ師匠は、今度はこちらの攻めの要である銀を攻めて来るけどこちらも引く。最後に飛車も引いて、これで準備は整ったわ。

 

「……千日手、じゃないな。持将棋か」

「ええ。持将棋よ」

「平手で持将棋になったの、何年ぶりだよ。これ、三番手直りはどうなるんだろうな」

「今まで師匠は平手で持将棋になったことがなかったし、決めてないんじゃない?」

 

一見すると、千日手が見える手順。でもその途中で師匠からも、私からも打開することが出来る。その打開後、私の玉は入玉が可能だ。あとは点数が足りないという事態を防ぐため、大駒を守るように動いて……。

 

最後の最後、入玉を防ぐためにあらゆる手段を投じてくる師匠だけど、降って飛んでくる槍をかいくぐって私の玉は師匠の陣地の一段目、最奥にまで突入する。諦めた師匠は、ゆっくりと自身の玉を私の陣地に持っていき、持将棋が成立。

 

勝てはしなかったけど、三番手直りが出来て以降、平手どころか香落ちでも負けなかった師匠を相手に、私は引き分けた。先手番で引き分け狙いはよくないとか、師匠も手心を加えた可能性があるけど、最後の怒涛の攻めは間違いなく本気だったし、それを掻い潜ったのは私の実力だ。

 

私の名前は夜叉神天衣。史上最強の師匠に、今まで何万回負かされたのか正直に言うと分からない。でも今日、まぐれでも何でも、私は奇跡的に一筋の光を掴み取って、タイトル戦という棋士にとって最高の舞台で師匠と引き分けた。

 

……もちろん、こんな奇跡が起こったのはただの一度きりだった。指しなおしとなった次局の第4局では無残に負けてしまい、私の初めてのタイトル挑戦は、0勝3敗1引き分けと惨憺たる結果で終わった。だけど一瞬でも、師匠と並んだのはきっと師匠にとっても想定外だったんだと思う。だってあの時の師匠、本当に驚いていたんだもの。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



次話がエピローグなので今話が最終話です。


棋帝戦の第3局、天衣がいきなり倒れたと思ったら、そのままの体勢で手を読み始めて「ええ……」となった。寝っ転がって将棋を指すとか中継もされていることを考えたら前代未聞のことだな。たぶんニコニコでは大騒ぎになっているはず。あと呼吸で上下する天衣の大きなおっぱいがエロい。

 

『いつも見ているものでも、和服で見ると新鮮ですね。変態馬鹿マスター』

(うるせえ。ガン見はしてないだろうが)

 

そして元の体勢に戻って続きを指し出した天衣は、随分と消極的な将棋になった。何かあると思ってアイが少し時間を使って先を読むと、千日手があるとのこと。そしてその千日手で、こちら側から打開する手に勝ちがあるとのこと。

 

おそらくは千日手狙いで引き分けようという魂胆なのでしょうというアイだけど、これ向こうからも打開できないか?しかしこの千日手の手順に入ること自体は回避不可能だ。そして案の定、天衣の方から打開をされる。一応、アイの読みだとこの先こちらが負けることはないとのことだけど……。

 

(おい、これ入玉狙いかよ!?)

『これは……本当にギリギリでこちらの攻めを躱せますね。悪手に悪手を重ねるような逃げ筋ですので、気づくのが遅れました』

(筋悪な受けと逃げで強引な入玉か。入玉してしまえば、歩も金も同じ1点だしな。大駒を安全圏に逃がしたのはそういう理由か)

『どうします?今からでも点数勝負ができないように大駒を取りにいきます?』

(……いや、無理だ。大駒を狙っていたら、向こうの遅い攻めが間に合ってしまう。持将棋に、応じるしかないな)

 

持将棋狙いということに気付き、俺が読むも打開は不可能だった。というか千日手の入り口のところで打開は不可だったな。天衣はよくこの筋を発見したというか、何手読んだんだろう。

 

(というかあの時、確実に寝てたよな?)

『数秒ですが、ピクリとも動きませんでしたからね。記録係が駆け寄ろうとしたのもそのためでしょうし』

(……夢でお告げでもあったのかな。千日手までの手順は、こちらにとっては不可避の手順だけど天衣は仕掛けて誘導した側だ。そしておそらく天衣は、持将棋の筋まで読み切って指した。持将棋になったのは奇跡じゃなくて、不意を突けた天衣の実力だよ)

『不意を突かれた自覚があるということは、やっぱり手心を加えているじゃないですか。次勝たなかったら1か月間騒ぎ続けますからね?』

 

案の定、要所要所でしか参戦出来なかったアイは不満たらたらで次局に負けたら1か月は寝ない宣言をした。それは流石に死ぬ未来しか見えないので、第4局はきっちりと勝って棋帝の防衛を決める。

 

そしてそれから少しの時間が経過した後、改めて俺から天衣に告白する。天衣からの返答は「待たせすぎちゃってごめん」だった。個人的には天衣がタイトル挑戦するの、もう少し先になると思っていたから全然早かった方なんだけどな。

 

『14歳の弟子相手にプロポーズ成功おめでとうございます』

(棒読みでの祝福やめろや。……世間的には大バッシングは避けられないだろうな)

『九頭竜が内弟子と婚約していて、その上で空さんと付き合っていることは世間にもばれてますし、案外叩かれなさそうですけどね』

(夜叉神家のネット工作技術は凄まじいからな。本当に違和感なく話題のすり替えをするし、ネットに強いヤクザは心強いわ)

『ネットに強いどころか、ソシャゲのアプリ開発もしますからね。……あの萌え系将棋アプリの評価が好評でよかったですね?先月の収益はプラス19億でしたっけ?所詮男は下半身にくるキャラが居ればそれで良いのですか』

(何当たり前のことを言ってるんだ)

 

アイがいつも以上に毒舌だけど、どこか喜んでいるような気がするのは気のせいだろうか。しかしまあ、俺が誰かと付き合えるようになるとは思わなかった。前世では彼女いない歴=年齢だったしな。何なら今世も彼女いない歴=年齢だったので、40年以上は1人身だったということになる。

 

 

 

大木が天衣に告白した次の日の朝。天衣は目を覚ますと、視界に大木の顔が映る。昨夜のことを思い出し、急激に体温が上がっていくのを天衣は感じた。

 

(この状況って朝チュン!?まさか本当に実在していたの?

……どうやって声をかけたら良いのかしら?「気持ちよかった?」とか?)

 

ぐっすりと眠る大木に対し、頭の中の暴走が止まらない天衣は昨夜のことを思い出してさらに顔を真っ赤にした。しかし大木の頬を突きながら、徐々に冷静になっていく。

 

(流石に「気持ちよかった?」はないわね。……いつも通り「おはよう」と声をかければ良いかしら。今までの「おはよう」と、これからの「おはよう」は、まったく意味が違って来るわよね?今日の「おはよう」は、彼女として初めての「おはよう」になるわ)

 

天衣が目を覚ましてから十数分後、大木もようやく目を覚ます。大木は視界に大きく映った天衣の顔に驚き、昨夜のことを思い出して顔を赤くした。そして天衣から、朝の挨拶をする。

 

「おはよう、師匠」

「おはよう。顔真っ赤だぞ?大丈夫か?」

「それは師匠もよ。鏡見てきなさい」

「俺は自覚あるから天衣が先に見てこい」

 

2人ベッドの上に並び、大木は寝転がっていたら身長差は気にならないなと感じた。そして朝から頭の中で五月蠅い頭の中のもう1人の自分を相手に、大木は1人脳内会議を行う。

 

その後は血涙を流しながら複雑な笑みを浮かべて晶が天衣と大木を祝福し、天衣と大木の2人は行為がバレていたことに気付いて2人して顔を赤く染めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

天衣が初めてのタイトル戦で俺を相手に引き分けてから7年後。俺は神戸にあるお墓に来て、手を合わせていた。

 

(あれから7年か。もうそんなに経つんだな)

『結局あれ以降、天衣が神憑り的な強さを見せつけた対局はありませんでしたね』

(マジであの時は、将棋の神様が憑りついていたんじゃない?)

『だとしたら勝っておきたかったですね。マスターが八冠になって以降、タイトル戦で唯一となる引き分けだったわけですし』

 

俺が八冠になってから、将棋界は停滞を始めたように世間からは見られている。実際にはソフトのレベルの向上に伴って、どんどん一般棋士のレベルも上がっているけど、タイトルホルダーが一人しかいないから仕方ない。最終年の電脳戦はアルファゼロが出て来ず、5人での団体戦だったけど俺以外の4人がソフトに敗北。1勝4敗と人類敗北の日として刻まれた。アルファゼロが出て来ていたら0勝5敗だったな。

 

(その後に行われたアルファゼロとの囲碁、チェス、将棋の3番勝負×3競技では7敗2引き分けだったし、まあもうAIには勝てないわ)

『むしろよく2023年までは勝ててましたよ。ですがAIが人間を完全に超えても、将棋の人気は衰えませんでした』

(あの将棋を眺めるだけのアプリが7周年とか頭おかしいことになっているからな)

『育成系のゲームとして、楽しめる人がいるみたいですからね』

 

アイといつも通りの会話をしていると、天衣がやって来る。お盆の時期に研究室に行かないといけないって、大学生は大変だな。

 

「仕方ないじゃない。単位は何とか融通が利いているけど、卒研だけはしっかりやれって五月蠅いんだから」

「理系の大学は大変そうだな」

「文系も大変だと思うわよ?」

「いや、どーだろ?案外楽かもしれんぞ」

 

2人そろって、改めて天衣のご両親のお墓参り。……天衣のお爺さんである弘天さんも結構な年なんだけど、あれはまだまだ死ななさそうだ。曾孫を見るまでは死なないとか言ってるし、100歳までは生きるんじゃない?最近の医療技術は凄いし、平均寿命も延びたしな。

 

2人揃うと、もう完全に天衣がお姉さんで俺が弟という図になってしまうけど、2人とも一応有名人なのでそういう扱いを受けることは少ない。まあ将棋で長年八冠を独占している師匠と、女流七冠の弟子の師弟は知らない人はいないぐらいだ。

 

……たまに天衣は六冠になったりするけど。

 

「何だかんだで、女流四天王は全員A級棋士になったからなあ」

「その女流四天王、いつも思うんだけど馬莉愛は入っているの?」

「入る。今はB級1組だけど、1年だけA級だっただろ」

「それだと四天王が5人いることになるじゃない」

「むしろ四天王は5人いないとネタにならないじゃん」

 

空さん、天衣、祭神、あいの4人は今現在A級棋士だ。お蔭でA級だけ女性比率がやけに高い状態になっている。馬莉愛が5人目の女性プロ棋士になって以降も、何人か女性のプロ棋士は誕生したし、今まで女性のプロ棋士が少なかったのは単に競技人口が少なかった問題もあったんだろうな。

 

それが天衣や空さんの影響で、将棋を始める女子が増えた。女流棋士のレベルも年々向上し、晶さんなんかここ最近は負けまくっている。一応初段昇段後に60勝はしたから二段になったけど、間違いなく史上最弱の二段だ。

 

「ところで師匠は、死の淵から生き返ったら将棋が強くなると思う?」

「人による。空さんなんかは出産時に死にかけたらしいけど、それが理由で強くなったわけじゃなさそうだし」

「……師匠と同期の人は?」

「今年プロになった彼?

あれは死にかけたから強くなったんじゃなくて、諦めなかった結果だろ。年齢制限ギリギリまで戦い続けるのは、鏡洲さんもそうだったけど本当に辛いしな」

 

空さんと九頭竜の子は、現在3歳。前に会ったけど、九頭竜の遺伝子働かなさすぎだろ、と思うぐらいには空さんそっくりの子どもだった。空さんは身体が弱く、出産が非常に危険になるから子供は無理とまで言われていたが、空さんが無理を押してまで子供を作り、医者の腕が良かったこともあり死の淵から蘇ったらしい。

 

詳しいことはよく分からんが、空さんが熱望して耐えたからこそ子供が出来たということだな。そんな空さん以外とも子供を作った九頭竜は色々と凄い。結局九頭竜は、結婚はしない模様。式は1人ずつ挙げたようだけど、俺すらお呼ばれしていないので本当に小規模な結婚式だな。お互いの家族以外呼ばない結婚式は、今時珍しいことじゃないけど。

 

「大学は無事にストレートで卒業出来そうか?出来ないなら挙式が一年遅れるんだが」

「4年に上がるのは大丈夫よ。卒業自体は、教授が何とかしてくれると思うわ」

「……珍しい構図だよな。教授で大学を選んだら、その教授が天衣のファンだったって」

「どちらかというと、師匠のファンよ。女流棋士を目指していたらしいし、将棋界のことも詳しいわよ」

 

天衣の両親のお墓参りを済ませた後は、大学のことを聞く。大学卒業後に挙式をする予定だけど、留年したら1年延期になるから予定を組むのが難しい。

 

「今年の名人戦は楽しかったな」

「掲示板では婚前旅行なんて言われてたけど。……発表するの、早すぎたかしら?」

「あの時は今のタイミングがベストって言ってたし、実際波風が立ってないなら正解じゃない?」

 

2人とも名前が世間に通り過ぎているので、結婚しても夫婦別姓で行くことにした。たぶん子供は、夜叉神の方を使うんじゃないかな。まあうちの家は大したことのない家系だし、夜叉神家は色々な産業に関わる大きな家だから、そこら辺はしょうがないし、仕方のないことだ。

 

「というか婚前旅行は、あと何回行くことになるんだろうな」

「来週からの帝位戦と、来月からの玉座戦は確定よ?」

「帝位戦で4回と、玉座戦で3回か」

「……絶対にその数、増やすからね」

「出来れば増やしてくれ。帝位戦とか1局で4日間天衣と一緒だからな」

 

名人戦で天衣と指し、次の帝位戦や玉座戦でも天衣と盤面を挟んで向かい合うことになる。天衣がタイトル戦で、また俺相手に引き分けたり、勝ったりする日はいつになるだろうか。天衣が俺の想定外の進化を遂げて7年。強くなっているが、死ぬまでに天衣が俺を超えるタイミングがあるか、それすらも怪しい。

 

(その理由は、間違いなくうちの脳内コンピューターが強くなることを止めないからだな)

『なんか文句あります?』

(いや、ない。何だかんだ言って、俺も負けず嫌いだからな)

 

タイトルは通算100期を超え、歴代トップの記録を塗り替えた。まだまだ将棋界には居座り続けるつもりだけど、アイはいつまで俺を勝たせ続けたいのかね。




これにて「うちの脳内コンピューターが俺を勝たせようとしてくる」は完結です。たくさんのお気に入り登録や評価、感想をありがとうございました。モチベーションが高い状態で維持出来たのは読者の皆様のおかげです。

後半、かなり駆け足状態になったことは自覚しています。申し訳ございません、作者の癖です。このあと番外編として掲示板回などを投稿するかもしれませんが、前に完結後のあとがきで同じようなことを書いて結局書いていないので、今後この作品が更新されるかは不明です。

今は少し疲れたので、ちょっとだけお休みして新作を書きたいと思います。たぶんTS系で異世界でキャッキャウフフをする話になると思います。まだ骨組みすら固まっていませんが、主人公最強系ではないと思います。

改めて読者の皆様、ここまでの読了お疲れさまでした。最後に評価を付けて下さると非常に嬉しいです。また次回作や他の場で会えることを楽しみにしています。これまでありがとうございました。

↓次回作
https://kakuyomu.jp/works/16818093074303916494


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。