小武士 ~KOBUSHI~ (岡本 健太郎)
しおりを挟む

第一章 新人編

拳を縦に並べた姿は、宛(さなが)ら小さな武士のようであった

  小 武 士
~KOBUSHI~


1983年8月、赤居 明は喧嘩に明け暮れていた。2年通った高校を暴力沙汰で退学になり、それからはバイトもせず人を殴ることだけが日課になっていた。目が合えば因縁を付け、気の弱そうな若者から金を巻き上げるのは明にとって気分の良いことであり、罪悪感など微塵も感じていなかった。同級生が夏休みということもあり、毎日友人の家に泊まって朝まで遊んでいた。将来の不安を頭の片隅に押し込めて、明は日々を楽しく過ごしていた。そう、あの忘れもしない8月30日までは。

「今日は2万も儲かっちまったよ」

明の得意げに話す姿に、田中 慎也は少し呆れていた。

「暗い顔したメガネの奴でさ、話しかけただけで狼狽(うろた)えやがって、ムカつくからいつもより多く殴ってやったよ」それを聞いて慎也は口を開く。

「お前さあ、俺は別にカツアゲを悪いとかは言わねぇよ。けど、中退してそろそろ3ヶ月経つんだし、フラフラしてばっかじゃなくて働き口でも探した方がいいんじゃねぇの?こんな親みたいなこと言われたらウザいかもしんねぇけどよ」

明も言われなくてもそんなことは分かっていた。けれど、この3ヶ月そういうことを言われなかった親友に言われると悲しさと苛立ちが込み上げてくる。

「なんだよ、お前までそんなこと言うのかよ。俺はこの有り余る力をどこにぶつけていいか分かんねぇんだよ。将来なんか関係ねぇ。俺はただ、強い奴をぶちのめしたいだけなんだ」

慎也はそう言われても親友のため、言うべきことは言おうと考えた。

「大輝の親父さん大工やってんだろ。人手が足りないから誰か雇いたいって言ってるみたいだぞ。今なら頭下げたら働かしてくれんじゃねぇの?」

明もこう言われると引き下がる訳にはいかない。

「うるせぇな。俺には俺の考えがあるんだよ。ちょっと煙草吸ってくる」

そういうと部屋から出て階段を降り、玄関から外へ出て行ってしまった。

少し気分が落ち込みながらも煙草に火を付け歩き始める。

「おい!」いきなり大きな声を出されたので明は驚いて振り返る。

「お前二十歳超えてるように見えねぇけどいくつだ?」

振り向いた先にいた男に大きな声でこう怒鳴られる。

さっき慎也に言われてイライラしていたものが、ここで一気に爆発する。

「うるせぇな。てめぇに関係ねぇだろうが。文句あるってんなら、やったろうじゃねぇか」

明は普段から目つきが悪く、喧嘩を売られることなどないので、これ幸いと男に詰め寄った。

「それじゃあ答えになってないだろうが。いくつだと聞いているんだ。年上の者に対しては敬意を払うものだと思うが」

男は全く怯む様子もなく明の目を真っ直ぐ見返した。明はこの状況で視線を外さない男に久しぶりに会ったことに対して、少し嬉しく感じた。

「ちょっと度胸があるかもしんねぇが、後悔させてやるよ」

そう言うと明は男に向かって思い切り拳を振りかざした。

「くそっ」

男がそれを難なく躱(かわ)したので、明の気持ちが思わず声に出る。2発、3発と殴りかかるが全く当たる気配がない。

「てめぇ、なかなかやるじゃねぇか」

明はそういうと右足を男の顔目掛けて振り上げた。しかし男は軽く屈んでみせると、まるで何事もなかったかのように蹴りを躱した。

「動きが大きいんだよ。筋はいいんだが、お前のはただ闇雲に攻撃しているだけだ。それと、年上の者には敬意を払えと言った筈だが」

男はそう言い終わると凄い速さで拳を繰り出してきた。その右手を避けきれずにその場に倒れこんでしまう。初めて人に殴り倒された。そのショックが大きすぎて、明は言葉を失った。

「明日31日の午後4時。浅草にある米原ジムに来い。そこで本物の喧嘩ってもんを見せてやるよ」男はそう言うと振り返って立ち去ろうとした。

「待てよ!」自分でも驚くほど大きな声が出た。

「まだ勝負は終わってねぇだろうが、勝った気になってんじゃねぇぞ」

明は立ち上がって男に殴りかかろうとする。

「俺は『左利き』なんだ」男がそう言うと明は足を止めた。

「この状況で負けを認めないのはたいしたもんだ。だが、お前自身、実力の差が分からないほど喧嘩慣れしてないとは思えん」男は明を真っ直ぐ見ている。

「明日来るかどうかはお前が決めることだ。強くなりたいのか、弱い奴に勝って満足するだけの奴になるかはお前次第。待ってるからな」

そう言うと男は立ち去ってしまった。

明は生まれて初めての感覚に言葉を与えることができないでいた。その後何度も味わう、『悔しい』という感覚に。

 

 

遅れることは当たり前のことだと思っていた。学校にまともに行っていなかった明にとって、遅刻することなど気にも留めていなかった。だが、この日は違った。

“もっと早く来れば良かった”明は強くそう感じた。スパー終盤、3ラウンド目が終わるころになってようやくたどり着いてからは『その光景』にクギヅケだった。

「やっぱり遅れて来やがったか。まったく、まずはボクシングより礼儀を教えねばならんかもな」

リングから降りるなり嫌味を言う男に明は文句ひとつ言わない。普段なら悪態をついて殴りかかり、馬乗りになっているところだが、今は嫌味を言われたことなど気にも留めない。

「俺にもやらせてくれよ!」

明は初めてテレビゲームを見た少年のように無垢(むく)な笑みを浮かべている。

「ダメだ」男の予想外の返答に明の機嫌はみるみる悪くなる。

「なんでだよ。ここに呼んだのはお前だろ。やらせてくれたっていいじゃねぇかよ。なんでダメなんだよ」明の態度とは裏腹に男は冷静に受け答えをする。

「基礎のなっていない者をリングで闘わせる訳にはいかない。それと、礼儀のなっていない者もな」明は少しムキになって男に詰め寄った。

「じゃあ、その基礎ってのを教えてくれ。まあ俺ならすぐにできるようになるだろうけどよ」男は少し怒ったように明を見た。

「ではまずは年上の者に対しては敬語を使うように。それと俺のことはお前ではなく『五十嵐さん』と呼べ」明はそれを聞いてすかさず言い返す。

「誰がてめぇなんかに敬語使うかよ。俺は基礎を知ってボクシングがしたいんだ。てめぇの子分になりに来たんじゃねぇ」五十嵐は予想通りの返答に少しだけ笑みを見せた。

「ボクシングは身体だけでなく精神の強さも試されるんだ。敬語も使えないようなガキにできるような甘いものではないさ」明は馬鹿にした態度で言い放つ。

「てめぇ俺にのされるのが怖いんじゃねぇか。昨日のはたまたまで勝負に勝てる自信がねぇからビビッてんだろ」五十嵐は冷静さを保ちつつ、しっかりとした口調で話す。

「そんな安い挑発に乗るとでも思っているのか。ボクシングは頭も使うんだ。バカのままだと、俺に一太刀も浴びせられないままリングに沈むぜ」

明も昨日の今日で五十嵐の実力を忘れるほど馬鹿ではない。

「すげぇ自信だな。まぁてめぇの強さがハッタリじゃねぇってこたぁ分かってる。ただ、てめぇも俺がボクシングをやれば天下を取れることが分かっててここに呼んだんだろ?このままじゃ来た意味ねぇじゃねぇかよ」

五十嵐はさっきとは打って変わって真剣な表情で明と向かい合う。

「お前の言うことは半分は正解だ。確かにお前にはボクシングの才能がある。今からボクシングを始めれば本当にチャンピオンになれるかもしれない。だが、本当にお前にボクシングを教えたい理由は他にある。今はまだお前に言うつもりはないがな」

明は否定されると思っていた手前、予想外の返答に少し戸惑いを覚えた。

「てめぇには全てお見通しって訳か?偉そうに言いやがって。一体てめぇはどれほどのモンなんだよ」

それを聞いて五十嵐は今まで明に見せたことのない不敵な笑みを浮かべた。

「俺の実力はお前がボクシングを始めれば自ずと分かるものさ」

明は眉間にシワを寄せると吐き捨てるように言い放った。

「俺は下手に出るのが一番嫌いなんだ。てめぇなら俺の力を少しは受け止められるかと思ったが、勘違いだったようだ。俺はもう帰るぞ。」

明があまりにも思ったような人物なので五十嵐は嬉しさを噛み殺した。

「人に敬語を使うのが嫌なんだろう。それはよく分かる。どうだ一つ賭けをしてみないか?」

明は振り返るとさっきとは違い、見て分かるほどに怒りを露(あら)わにした。

「てめぇいい加減にしろよ。やるのかやらねぇのかはっきりしろ」

五十嵐はグローブを手に嵌(は)めるとリングに上がった。

「本当はパンチングボールでもやらせたいところだが、そんな玉じゃねえよな。かかって来い。昨日のリベンジでも何でもいい、5分以内に俺の顔に一発でも入れることができたら礼儀の件は目を瞑ってやる」

明は拳を鳴らしながらリングに上がり、側に居た男にバンテージを巻いてもらってから、グローブを嵌めた。

 「上等じゃねぇか。一発で済むと思うなよ」

その姿を見て五十嵐は少し可笑しく思うも、明の意外な一面に自らの気持ちが高揚しているのが分かった。

「なんだその構えは。そんな構えは見たことがないぞ。俺に勝つために考えて来たんだろうが、そんな子供騙しで俺に一発入れようなんて甘く見られたものだな」

明は左手を上に、右手を下にして脇を閉め、まるで刀を持った侍のような格好で構えていた。

「なんと言われようと喧嘩じゃ勝った奴が偉いんだ。格好なんか関係ねぇ」

真っ直ぐに見つめる明を見て、五十嵐は思わず笑みを漏らしてしまう。

「始めようか」

五十嵐は側に居た男にゴングを鳴らし、時間を計るよう頼んだ。

『カンッ』ゴングの音が辺りに鳴り響く。

明はまず右手を力一杯振り抜き、五十嵐に襲い掛かった。

五十嵐は避けることなく左手でそれを受け止め、次の一撃に備える。

明は自分の攻撃を五十嵐が避けるまでもないと判断したことに、ムキにならずにはいられなかった。すかさず左手で殴り掛かるが、少しタイミングをズラしてみる。

五十嵐は全く動じないばかりか明に対して間合いを詰めて来た。

まるで“お前の力はこんなものか。そんなんじゃ、何時まで経っても俺に拳を当てることはできないぞ”と言わんばかりに。明は小刻みにジャブを繰り出し続ける。

しかし、どれも五十嵐に受け止められてしまい、まるで相手になっていない。

昨日感じていた実力差よりも、本当は二人の力は離れているのかもしれない。

五十嵐がそう感じ始めると同時に、明が両手で同時に殴り掛かってきた。

「相変わらず出鱈目(でたらめ)な奴だな。まぁ勝ちへの執念は褒めてやるよ」

五十嵐にそう言われ、明は「うるせぇ」とだけ言うと右手の拳を大きく後ろに引いた。

そしてその拳をアッパーカットの体制で五十嵐に思い切り打ち込んだ。

“思ったより力があるな”そう思うほど明のパンチで五十嵐は身体が仰け反っていた。明は続いてボディに拳を打ち込もうとする。五十嵐はすぐさま身体を屈め、明のパンチを受け止めた。明はそれを見てニヤりと笑うと、思い切りリングの後ろまで下がり再び拳を引いた。

“この一撃で五十嵐の牙城(がじょう)を崩す”それだけが明の中にあった。

振りかぶった拳に全身の力を込めて振り抜く。

『パンッ』鋭い音がリングに響き渡る。素人同然の明のパンチなど五十嵐なら避けようと思えばいくらでも避けることができた。だが五十嵐は避けたくなかった。この一撃が今の明の力量。これを避けるくらいなら最初からスパーなどやっていない。

身体を大きく反らしながら、いつの間にか五十嵐の身体はロープに触れてしまっていた。ガードの外れた五十嵐に、明は間髪を容れず左手でアッパーをかます。五十嵐は鋭い眼光で明を見つめていた。『ゴッ』鈍い音が辺りに響き渡る。

「やったぜ」明がそう言うと同時にストップウォッチのタイマーが鳴り響いた。辺りにしばし沈黙が訪れる。

「良いパンチだった」

五十嵐はそう言うとグローブを外した。

「てめぇもしかして―――」

明が話すのを遮るように五十嵐は話し始めた。

「お前には本当は人として大切な礼儀の部分を教えたい。だが今はそれよりもボクシングを教えたいと思ったんだ。どうだ、明日からこのジムに通ってみないか?」

明は少し返答に困った。

「俺は今、高校を中退してフラフラしてるような状態だ。月謝を払うようなアテがねぇんだよ」

「まぁそんなことだろうと思ったさ。月謝は暫くは俺が立て替えてやる。お前は俺が見込んだ男だ。出世払いにしといてやるよ」

「五十嵐!俺は人の施しを受けるのが嫌いなんだ。欲しいものは奪い取る。それが俺のやり方だ」

「では、お前は強くなりたくないのか?」

「俺は―――強くなりたい」

明は悔しそうに顔を歪め、五十嵐は諭すように少し優しめの口調で言う。

「では、こうしよう。お前がプロになって活躍することを見越して、ジムの費用は俺が立て替えてやる。その代りプロになった暁には、それまでにかかった代金をお前自身で稼いだ金で払え。これならどうだ?」

明はなんとも言えない渋い顔をしている。

「なんか腑に落ちねぇな。結局てめぇの世話になってんじゃねぇかよ。まぁそこまで言われたら断るのもなんだか悪いし、今回は話に乗ってやるよ」

五十嵐は不敵に笑うとこう切り出した。

「ラーメンでも食いに行くか」

「なんか企んでんな。まぁいい、行ってやるよ。てめぇの奢りでな」

「良いだろう。そうと決まれば善は急げだ。さっさとシャワーを浴びて着替えろ」

五十嵐はそう言うと身体の向きを変え、明を残してシャワールームに行ってしまった。

 

 

15分後、明は少々不満だったが、国道6号線を五十嵐と一緒に歩いていた。ラーメン屋は思ったよりも近くにあった。

“ここは行ったことないな”地元にずっと住んでいた明が、知ってはいたものの立ち寄らなかったラーメン屋。大きく『雷鳴軒』と書かれた大きな看板を掲げたその店は、とにかく豚骨の臭いが強く、店の前を通っただけで癖のある味だというのは容易に想像できた。

「おい!てめぇ。ここは臭いがキツいことで有名だろうが。俺はこんなもん食わねえぞ」

明が帰ろうとすると、五十嵐は意外なことを言われたといった表情で立ち止まる。

「俺はここのラーメンが大好きなんだ。俺の弟子になると言うのなら、このラーメンを食べられるようになってもらわないと困る」

五十嵐にそう言われても、明は全く食べる気がしない。五十嵐はそれを察したのか、明にこう提案した。

「チャーシュー5枚に煮卵も付けてやる。大サービスだぞ、どうだ?」

明は納得行かないといった態度だが、渋々五十嵐に着いて行った。もちろん五十嵐はそんなことはお構いなしだ。

「へい、らっしゃい」

大将が元気よく声を掛けると、五十嵐はチャーシューメン大盛り2つ、煮卵も追加と言いカウンターに座った。

「お前をここに連れて来たのは、1つお前に聞きたいことがあったからなんだ」

「っていうか、てめぇ名前くらい聞かねぇのかよ。俺も喧嘩馬鹿だが、てめぇもボクシングのことしか頭にねぇんじゃねぇのか?」

「お前に礼儀のことを言われるとはな。すまなかった。俺は五十嵐 敬造だ。お前の名は?」

「赤居 明だ。1966年9月30日生まれの16歳。身長168cm、血液型はO型」

 明の勝ち誇った表情を見て、少し可愛げのあるやつだと思いながらも五十嵐は話を続ける。

「そこまで詳しく言われるとはな。案外礼儀のある奴かもしれん。まぁいい。ここで本題だがお前欲しいものはあるか?」

「欲しいもの?」明は不思議そうに五十嵐が言った言葉を繰り返す。

「ねぇよ。俺は欲しいものは力ずくで手に入れて来た。それはこれからも変わらねぇ」

予想していたとはいえ、明の答えを聞くと五十嵐は少しばかり虚しさを感じずにはいられなかった。

「では、今のお前に手に入れたくても手に入れらないものを教えてやる。ボクシングで世界チャンピオンになると何が貰えるか知っているか?」

「知らねぇよそんなもん。メロンでもくれるってのか?」

「まぁ知らないのも無理はない。お前くらいの年頃の奴は、女のことしか頭にないもんだからな。教えてやるよ。ボクシングの世界では、チャンピオンになった者だけが、腰にチャンピオンベルトを巻くことができるんだ。今日からそれが、お前の一番欲しいものになる」

五十嵐にそう言われても、明は一向に興味を示そうとしない。

「そんなの目指して何になるんだ?最強?伝説?勝手にやってくれ。そんなかったりぃことに付き合ってられるか」

五十嵐はこの時を待ち詫びていたかのようにこう切り出した。

 「この俺が世界チャンピオンだとしてもか?」

明は啜っていたラーメンを思い切り咽た後、五十嵐の方を見る。

五十嵐は今まで見せた以上に不敵な笑みを見せている。

「てめぇフカシこいてんじゃねぇぞ。確かにてめぇの強さは本物だが、こんなところに世界チャンピオンが居るかよ」

「嘘だと思うならあれを見てみろ」

五十嵐に言われて振り向くと、店内にあったテレビからニュースが流れて来た。

 「続いてのニュースです。28日に行われた、世界バンタム級タイトルマッチ、チャンピオンである五十嵐(いがらし) 敬造(けいぞう)と挑戦者である古波蔵(こはぐら) 政彦(まさひこ)との試合は、15ラウンド、チャンピオンの必殺技『スマッシュ』が炸裂し、見事、勝利を収めました。途中『テンプル』蟀谷(こめかみ)への打撃で勝ちを危ぶまれましたが、見事な逆転勝利と言えます」

 映像付きで決定的な証拠を突き付けられ、完全に反論の余地がない。

 「マジかよ―――」それだけ言うと明は固まってしまった。

「目標がないとやり難いだろう。まずはライセンスの取得、それから、10月に行われる新人戦に出場するぞ。それに向けてトレーニングするように」

「するようにって、トレーニングはちゃんとてめぇが見てくれるんだろうな?」

「俺も自分のトレーニングで忙しいんだ。たまには稽古をつけてやるが、お前にぴったりの指導役を用意しよう」

そう言うと五十嵐は、またしても不敵に笑って見せた。明は少し不審に思いながらも「よろしく頼む」とだけ言い家路に就いた。

 

 翌日、ジムに顔を出して、米原(よねはら) 忠(ちゅう)次郎(じろう)という男と話をした。この男は、スパーの時にグローブを嵌(は)めてくれた後ゴングを鳴らした男で、このジムの会長であり、なんでも五十嵐の高校時代の同級生だという。小中学生の頃は大分で過ごし、知識は豊富だが、実戦経験はないらしい。

米原にガンを飛ばしつつも、サンドバックを叩いていると、一人の女の子がジムに入って来た。身長は150代後半、髪の毛はセミロングで黒、落ち着いているが、明るそうな子だった。

「やるじゃんキミ!」

「あ?誰だてめぇ。あたりめぇだろ。俺は天下の赤居様だ」

 「へぇ~。赤居くんはどの階級なの?」

「階級?なんだそりゃ」

「階級だよ階級。フライ級とかバンタム級とか」

「んなもん知らねぇよ。そんなもんは関係ぇねぇ。誰が相手だろうと纏めてぶっ飛ばしてやる」

「あはは。赤居くんって面白いね。ボクシングはそんなに甘くないと思うよ」

 「ならてめぇに何が分かるってんだよ。俺は今、ライセンスを取るので忙しいんだ。五十嵐の言ってたコーチもまだ来ねぇし。まったく何なんだよ」

そんな話をしていると、五十嵐がジムに入って来た。

「おう秋奈、もう来ていたのか。流石に行動が早いな。素人を見るなんて退屈だと感じるかもしれないが、コイツは骨があるぞ」

「なんだよ!おっさんの知り合いかよ。誰なんだよコイツは」

 「姪(めい)の赤城(あかぎ) 秋奈(あきな)だ。お前のコーチさ。まだ若いがボクシングをしっかりと知っている子だ」

それを聞いて、明はあんぐりと口を開けたままフリーズしてしまった。

紹介を受けた秋奈は元気良く話す。

「秋奈で~す、よろしく。赤居くんはまずボクシングのルールから覚えないとね」

そう言われても明は納得がいかず、五十嵐に食って掛かる。

「おい!てめぇ。俺を世界チャンピオンにするって言ったよな?こんなガキに俺を教える力があんのか?」

「当然だ。武士に二言(にごん)はない。この子はこう見えても、16年間この俺を見て来た子だ。お前がチャンピオンになる為に必要不可欠な存在だと踏んでいる。とは言えすぐに馴染めるほど、お前は人付き合いが上手くはないだろうな。まぁ少しずつお互いを信頼できるようになるといいさ」

「こんな年下に見えるような奴で本当に大丈夫かよ。まぁいい。ちょっと外の空気を吸って来る」

明はそう言いうと、少しムッとした表情の秋奈に「じゃあな」とだけ言い残し、散歩に出かけてしまった。

「明くんって本当に良い子なの?」秋奈にそう言われ

「今に分かるさ」そう答えると、五十嵐も一つ欠伸をしてジムから出て行ってしまった。

「引き受けない方が良かったかなぁ?」

独り言を言う秋奈は、この選択を肯定する要素が欲しいままだった。

 

 

30分後、ジムに戻って来た明に対し、秋奈は頻りに何か唱えている。

「ミニシナ、フラバン、バンゴミ、フェゴナ、ライムギ、ウェルブナ、ミドナミ、クルハム!」

秋奈が唱える謎の『呪文』を明は真剣に聞いている。

「みにしな、ふらいぱん、ばんとう、ふぇ、ふぇ―――」

 復唱するだけなのだが、明には少々難しいようだ。

「あぁ~もう!本当に脳みそ入ってんの?これで30回は間違えてるよ」

 「うるせぇ、俺は勉強が苦手なんだ。だいたいてめぇのその変な『呪文』いまいち意味が分かんねぇんだよ」

『明くんに良いこと教えてあげる』

秋奈にそう言われて、繰り返そうとはするものの、意味の分からない言葉を口にするのは思いの外(ほか)難しいものである。

「これはボクシングの階級を表してるの。ミニマム級は約47キログラム以下、フライ級は半(ばん)で約50キロ以下、バンタム級は約53キロ以下、フェザー級は約57キロ以下、ライト級は約61キロ以下、ウェルター級は約67キロ以下、ミドル級は約73キロ以下、クルーザー級は約86キロ以下でヘビー級はそれ以上。これさえ覚えればすぐに階級別に体重が分かるんだよ」

秋奈は少し得意げに『呪文』の意味を語り始めた。明はライセンスを取るために、秋奈と二人三脚で勉強を始めたのだが、天性の性分なのか規定を覚えることがどうも上手くできないらしい。

「いくらボクシングのことだからって勉強は苦手なんだよ。もっと上手くライセンスを取れる方法はねぇのかよ。殴り合いのスポーツに知識もクソもねぇだろ?」

「ボクシングは頭を使わないと強くはなれないよ。相手を知って戦略を立てて技術を磨いて。五十嵐の叔父さんも、頭を使うようになってから強くなれたって言ってたよ」

そんな話をしていると、ジムに五十嵐が入って来た。

「どうだ学習は進んでいるか?先生が良いからすぐに覚えられるだろう」

二人は無言で嫌な顔をした。

「そうか。やはり俺と一緒で勉強は苦手だったか」

 「高校中退の俺にテストに合格する力があんのか?万年赤点で、できそこないと言われたこの俺に―――」

「心配するな。ボクシングは頭は使うが、世間で言うお勉強の力は必要ない。お前のその拳一つで切り開いて行ける世界だ。少々厳しい戦いにはなるが、コーチもいるし大丈夫だろう」

「見込みがあるから言ってんだよな。あんたは何の戦略もなく話を進めるような人じゃねぇ」

 「分かって来たじゃないか。赤居、お前筋トレしたことあるか?」

 「筋トレ?ねぇよ、そんなかったりーもん。俺は強いから必要ねぇ」

 それを聞いた秋奈は驚いて口を挟む。

「何のトレーニングもなしにあんなに力強かったの?自重のトレーニングくらいやってるのかと思った」

五十嵐はなんだか嬉しそうにしている。

「これから一ヶ月、一からお前を鍛え上げてやる。だいぶキツいだろうが根を上げたりしないだろうな?」

「誰に向かって言ってんだ。俺は途中で逃げ出すようなカスじゃねぇぜ」

 「プロボクサーのライセンスは17歳以上。誕生日の9月30日に試験があるのは凄くラッキーなことなんだぞ」

 「運も実力だろ?引き寄せられるのは、それに向かって努力してるヤツだけだしな」

 「その通りだ。まあ誠心誠意、頑張ることだな」

 それから明は、暇を見つけてはジムに立ち寄り、秋奈から知識を教わって行くのであった。

 

 

それから一ヶ月後の9月30日。明はライセンスを取得するため、ジムの会長、米原と東京都文京区後楽(こうらく)にある後楽園ホールへと足を運んでいた。午前8時、珍しく時間通りに会場についた明は米原から開口一番こう言われた。

「昨日はよく眠れたか?」

「あぁ、よく眠れたよ。あと40時間は起きていられそうだ」

「嘘を吐け。その目の下の隈はなんだ。昨日は2時か3時まで寝られなかっただろう」

「うるせぇ!とりあえず今日はせっかくの試合なんだ。景気良くブチかましてやるぜ」

語彙の少ない明は『図星』という言葉をまだ知らなかったが、この状況をそのように捉えていた。

明はそう言うと、方向も分からないのに歩き出してしまった。

 『プロテスト』は10問程度の問題がある『筆記試験』と2分30秒×2ラウンドで行われる『実技試験』に分かれる。だが、実際は筆記はそれほど難易度は高くなく、ほとんど実技試験の結果で決まると言っても過言ではない。落ち着いて筆記試験を済ませ、実技試験に移る。

 「俺の使っていないシューズをやろう。昔、買ったもので少し型は古いが、新古品ってやつだ」

 五十嵐にそう言われて貰ったシューズの裏に、『マツヤニ』を付けて滑らなくする。

 「今回対戦する、相模(さがみ) 腕(かいな)です、よろしく」

 話し掛けて来たのは身長180cm程はあろうかというわりと大きめの男であった。

 「赤居 明だ。よろしくな。っていうか、なんでマゲ結ってんだ?」

 相模は侍のようにチョンマゲを結って参加していた。

「僕は、思うように体重が増加しなくて、本当は相撲取りになりたかったんだけど、ボクサーとして頑張ることにしたんだ。これは武士としてのプライドだね」

“こんな奴に負けたくねぇな“明は密かにそう思った。

「そうか。まぁお互い頑張ろうぜ」

「ああ、頑張ろうぜ!」

急に馴れ馴れしくなった相模に対して明は少し驚いたようだ。

「バッティングとローブローに気を付けて、お互いに正々堂々と闘うように」

 審判にそう言われて、タラバガニのように足を開いている相手と向き合って構えた。

『バッティング』とは勢い余って互いの額がぶつかってしまうことであり、『ローブロー』とはトランクスのベルト部分よりも下への攻撃を意味する。

赤居だから赤色がいい。そう言って買ってもらったトランクスの位置を気にしながら、試合開始のゴングを聞く。その試合の最初のパンチを『オープニンングブロー』と言うが、プロテストはほんの10秒でノックアウトしてしまった。晴れてC級ボクサーとなった明は、それからトレーニングを積み、10月15日から行われる新人戦に参加することとなった。

 

 

「バンテージにタオル、グローブは持った?水筒もトランクスも要るよ」

 明の母はわりと心配性のようだ。

 「持った持った。まったく、口うるさい母親だな。子供じゃねえんだからよ」

 明は少しうんざりした様子で答えた。新人王トーナメントは4回戦、2ノックダウン制で行われる。どうやら、ライセンスを取得する時に対戦した相模(さがみ)も、今回のトーナメントに参加しており、小関(おぜき) 健(けん)という選手と対戦するようだ。

明の初戦の相手は、高校では番長だったという坂東(ばんどう) 寵児(ちょうじ)となっている。会場は東京都渋谷区にある国立代々木競技場の第二体育館で行われる。試合開始30分前、初戦とあって、米原のアドバイスにも熱が入る。

「いいな、練習は本番のように、本番は練習のようにだ。大事なことだから忘れるんじゃないぞ」

「なんだよ、それ。切羽詰まったら、そんなの忘れちまうよ」

「まあ、土壇場では、頭ではなく、身体が覚えているものしか役に立たないからな。冷静になって、リラックスしろってことさ」

「分かった。それならできそうだ」

“これでようやく試合に集中できる”

そんなことを考えていると、控室に対戦相手の坂東が入って来た。

「突然お邪魔してすみません。バンテージを貸してもらえないでしょうか?」

 「ああいいよ。ちょうど残り2回分くらいのがあるから、これを使うと良い」

 米原が嫌な顔一つせずに答えたのに対し、“人が良過ぎじゃねぇか?”明はそう思いながら聞いてみた。

 「いいのかよ。こういうのを敵に塩を送るって言うんだろ」

 「スポーツというのは己の限界を知るために行うものだ。不戦勝などという不名誉な勝ち方では、自分を高める機会を逃してしまうことになるだろう」

“そういうもんなのかな?”明は少々モヤモヤした思いがあったが、会長の言うことなので聞き入れることにした。

「ありがとうございます。お互いに正々堂々と闘いましょう」

坂東は学生時代に番長として鳴らしたとは思えないほどの礼儀正しさであった。それから定刻となり、アナウンスを受けて入場し、リングへと上がった。双方のセコンドが審判の下に集まり、ルールの確認を行う。

 因(ちな)みに、セコンドが試合に関わるには『セコンドライセンス』が必要だが、『トレーナーライセンス』を所持している者は取得しなくても良いことになっている。

 それから、ゴングが鳴り、まばらな観客の中、試合は行われた。試合内容としては、坂東は拳を耳の横から出す様が、電話を掛けているように見えるためそう呼ばれる『テレフォンパンチ』を多く繰り出す選手であったため、明の実力には遠く及ばなかった。このパンチは繰り出すまでにロスが多く、先に相手の攻撃を食らったり、カウンターを受けたりしやすいことが弱点となるため、悪手(あくしゅ)であると言える。1ラウンド開始1分半で余裕を持って試合を決めた明は、少し物足りなさを感じていた。

 

 

 そして、初戦から二週間後の10月29日。トーナメント二試合目、準決勝は東京都江東区にある有明(ありあけ)コロシアムで行われる。試合の相手は大宮(おおみや) 潤(じゅん)との試合に勝利した、勅使川原(てしがわら) 裂(れつ)との対戦となる。彼は魚屋の息子で、空手の県大会で2位に入賞したこともある実力者だ。少々余裕を見せている明に対し、米原は気を抜かないようにと釘(くぎ)を刺す。

 「今回のトーナメントには『輸入ボクサー』は居ないようだな。大抵ロシア辺りから来た奴が一人くらいは居るもんだが」

 「そんな奴が居たら面白いかもな。なんか楽勝な気がするんだよな、このトーナメント。さっさと優勝しちまいてえぜ」

 「そうかもしれんが、気は抜くんじゃないぞ。試合に勝つことは、己に勝つことだからな」

「ああ、オシャカになっちまわねえように頑張るよ」

明はそう言い残すと、スタスタと会場まで向かって行ってしまった。試合開始5分前、秋奈と五十嵐は観戦のため、観客席に来ていた。どうやら秋奈は少し機嫌が悪いようだ。

 「もう~。新人戦だからって、明くんの試合なんだから寝ようとしないでちゃんと見てよ」

 「んん~。今のところ赤居の敵になるほどの奴は出て来ていないからな」

 「せっかく来たんだから、応援すればいいのに」

 秋奈の話を気にも留めず、五十嵐は会場の一点を見つめている。

 「あれは―――」五十嵐は誰かに気付いて近づいて行く。

 「古波蔵じゃないか。どうした?こんなところで」

 「五十嵐くん!いや~実は筋の良い子に出会ってね。生まれて初めて『指導』することにしたんだ」

 「ほう~奇遇だな。実は俺も同じ状況なんだ」

 「やはり、宿命と言うものなのかな~。その子は近い将来、間違いなく世界に名を馳(は)す存在となる。今日は決勝戦での対戦相手を見ておこうと思ってね」

 「これは次の試合は苦戦するかもしれんな。名は何と言うんだ?」

 「与那嶺(よなみね)くんと言うんだ」

その言葉を聞いた秋奈は、顔から血の気が引くのを感じた。

 「ヨナミネ?ヨナミネって『与那嶺 弘樹』のこと?」

「あいっ。友達かい?よく知ってるね~」古波蔵は嬉しそうにしている。

 「なんだ秋奈?知っているのか?」五十嵐も同じ気持ちのようだ。

テンションの高い二人に対して、秋奈は冷静に言い切る。

 「友達な訳ないでしょ。東京総連の初代総長だった人だよ。中学2年生の時に10人に絡まれて無傷で帰って来たって有名だよ」

 東京総連とはメンバー50名以上、関東最強の暴走族である。

 「ほお~おもしろそうな奴だな」五十嵐は全く意に介さずと言った様子だ。

「やめといた方がいいよ。『鬼殴り』って言って、殴りだしたら気絶するまで絶対に止めないんだって。ヤバいんじゃない?」

「大丈夫さ。赤居は俺が見込んだ男なんだ。古波蔵、悪いが今回も勝たせてもらうぞ」

五十嵐は自信満々に言い切った。

「五十嵐くんの教え子は赤居くんと言うのか~。覚えておくよ。だけど今回は前の時のようには行かないよ、なんたって彼には―――」

古波蔵はそう言い掛けて言葉を飲み込んだ。その後、「決勝で会おう」とだけ言い残し、その場を後にした。明の試合は、殴る部分『ナックルパート』でない拳の内側で打つ反則打である『インサイドブロー』や、手を開いたまま打つ反則打である『オープンブロー』などクリーンとは言えない相手の攻撃に怪我の心配があったものの、2ラウンド中盤で得意のアッパーが決まり、決勝へと駒(こま)を進めることができた。

『オープンブロー』は縫い目などで相手が額をカットする危険性があること、殴った方が手首を痛める危険性があること、耳に当たると鼓膜が破れることから、かなり危険な反則打であると言える。そして、試合と試合の間の10分間の休憩を挟み、与那嶺の試合が行われたが、対戦相手の中垣(なかがき) 泰造(たいぞう)は1ラウンド終了を待たずして速攻でやられてしまった。

「コンパクトで良いフォームをしていて、ヒット&アウェイが徹底している。『リターンブロー』も上手く狙っているな。若い頃の古波蔵を見ているようだ」

五十嵐は与那嶺の実力を相当高く評価したようだ。『リターンブロー』とは、相手の打ち終わりに合わせて打つパンチである。狙われているパンチをわざと打つ『捨てパンチ』を打ち、その後にこれを打つことも多い。

一方の秋奈は、その暴力的な内容の試合を見ていられなかったようだ。

 

 

1983年11月13日、先日プロテストを行った後楽園ホールにて、いよいよ新人王トーナメント決勝が行われる。控室では五十嵐が頻(しき)りに明に話し掛けている。

「拳は完全に握るな、少し開け。鞭を撓(しな)らせるようにして相手に叩きつけろ。それと、お前はどうも窮地に陥った時に真正面に構えてしまう癖があるようだ。これからは意識して斜(はす)に構えるようにして行け」

「なんだよ、急にアドバイスなんかし始めて。まるで俺が負けないように言ってくれてるみたいじゃねぇかよ。この俺がこんなところで躓く訳ねぇだろ」

五十嵐は不安を悟られまいと思っていたが、明が以外にも鋭かったので感心した。

「はっはっはっ。それはそうだが、勝負の世界に『絶対』はない。窮鼠(きゅうそ)猫(ねこ)を噛むと言うし、獅子(しし)は兎(うさぎ)を狩るのにでも全力を尽くす。最後まで気を抜くんじゃないぞ」

明は不本意だが、これも勝利のためと割り切って聞き入ることにした。そして、この試合の為にJBC日本チャンピオンである安威川(あいかわ) 泰毅(たいき)が、『暇潰(ひまつぶ)し』と称して訪れていた。

もちろんこんなことは異例だ。日本ランカーの試合でもないのに、チャンピオンが視察に来るなど多少仰々(ぎょうぎょう)しい話だ。その真意としては、五十嵐と古波蔵の愛弟子(まなでし)を見ておきたいとする意向があってのことであった。

当の明はと言うと、そんなことはどこ吹く風で涼しい顔でアップを始めている。それも今話題の狂犬、与那嶺(よなみね) 弘樹(ひろき)との試合を前にして。

対する与那嶺は、沖縄生まれ、東京都出身、光栄ジム所属で、試合になると驚くほどの闘志を見せる選手である。並外れた根性があり、クリーンファイターとしても有名だ。身長165cm、体重116ポンド、右利きで、一見穏やかそうだが、かなり好戦的である。戦績は4勝0敗0分4KOというKOファイターでもある。

しっかりとしたボクシング哲学を持っており、『ジャブなくしてストレートなし』という名言を言い放ち、周囲を驚かせた。

一方の明は、相変わらずの喧嘩っ早さと一撃必殺のアッパーが特徴だが、その威力はまだ完成とは言い難いと五十嵐から言われていた。人の言うことを話半分に聞く癖もあり、試合前に「相手はストレートを打つことが多いが、フックの方が強いから注意しろ」と言われたことも既に忘れかけている。試合開始まであと2分と迫った時に両者は審判から呼ばれた。

白のトランクスの与那嶺は、周囲を急かすように試合開始を今か今かと待ち詫びている。開戦を前に、会場は異様な緊張感に包まれていた。

『カンっ』

 ゴングが鳴らされると、明は真っ直ぐに与那嶺の所に向かいジャブを放った。対する与那嶺はそれを受け、スピードのある速いパンチを繰り出して来る。手数が多く、低めのパンチを多用している。顔の下で拳を構え、右手を引いた『オーソドックススタイル』のようだ。時折揺れるその両腕は相手を鋭く狙うカマキリに似た構えだ。

テンポよく拳を突き出す与那嶺は、前傾姿勢『クラウチングスタイル』をとって来た。彼は突進型の『ブルファイター』であるようだ。どうやら彼は、接近戦に持ち込むことを得意とし、リーチの長さを活かすファイターでもあるようだ。長いリーチを存分に使い、怒涛のラッシュで明をマットに沈めようと試みる。

明はというと少し緊張しているのか、練習の時よりも手数が少ないように見える。だが、決して与那嶺に気押されているという訳ではなく、良い緊張感を持って試合に臨めている。明が猛攻を掻(か)い潜(くぐ)り、右ストレートを繰り出すと、拳が頬を掠(かす)めた与那嶺が少し眼光を強めた。怒っている訳ではない。明の只ならぬ素質と気迫に、与那嶺自身が気を引き締める為に気合を入れ直したといったところであろう。

グッと拳に力を入れた後、得意の左フックを腰を入れて撃って来た。明はそれを頬に食らったがビクともしない。与那嶺は少し驚いたが、冷静さを欠くことなくファイトを続ける。混戦の中ゴングが鳴り、第1ラウンドは終了した。

「フックに気を付けろと言っただろ。お前まさか柄にもなく緊張しているんじゃないだろうな」

「楽しみにしてたからちょっとボーっとしちまっただけだ。あんな奴3秒でKOしてやるよ」

「誰だって4回戦選手、『グリーンボーイ』の時は緊張で身体が強張るものさ」

 「大丈夫だって、俺には自分が負ける姿が想像できねえよ」

「自信家だな。それはボクサーとして良いことだが、過信は身を滅ぼすぞ。まぁ今日の相手なら、俺はお前が勝つと踏んでいるがな」

第2ラウンド開始のゴングが鳴ると、今度は与那嶺が勢いよく明に迫って来た。明はそれを素早く躱(かわ)すとボディーブローを一発お見舞いする。歯を食いしばる与那嶺。体勢を少し低くして守りを強化した後、両手での攻撃を緩める気配はない。4ラウンドだけとはいえ、体力には自信があるようだ。

明は負けじと応戦するが、一瞬鋭い痛みが襲って来る。思わず相手と距離を取る。右の拳を少し痛めたらしいが、それでもジャブは打ち続ける。撃つ度にチクりと痛みが走る。与那嶺が隙を見て大きく一発繰り出そうとした時、明はゴングに救われた。

「どうした、途中から動きが鈍って来たぞ、どこか痛めたのか?」

“鋭いな”明はこの時ばかりは感心した。

「そんな訳ねえだろ。俺はいつだって絶好調だ。黙って見ててくれれば、それでいいぜ」

「どの道少し痛めたくらいなら続行させるがな。今回はまたとない好機だ。良い相手と闘えるし、敬造が見込んだ程の実力のある男なら、新人戦くらい優勝してもらわないと困るからな」

「まぁあんたの期待に応えるならそうだろうな。新人戦なんて俺にとっては通過点にすぎねぇけどよ」

「どこまでも強気な奴だな。奴は『ステッピング』の中でも、『バックステップ』が得意で、後ろに下がりやすい傾向がある。そこに追い打ちを掛けて『アッパー』をお見舞いしてやれ」

明は「分かった、やってみるよ」とだけ言い、次のラウンドに備えた。

第3ラウンドのゴングが鳴ると、米原は左手で明の背中を押し出した。明は試合前に二つ米原と決め事をしていた。一つは手と足を止めないこと。もう一つは試合中に一回は必殺のアッパーを入れること。一つ目は今のところ達成できそうだが、アッパーに関してはガードの堅い与那嶺の手前、完全に攻めあぐねていた。

不意に与那嶺のフックが明の額(ひたい)を掠(かす)め、剃刀(かみそり)で切られたような痛みが走る。鮮血が吹き出し、試合は一旦中断された。ボクシングでは一度額に傷が入ると、攻撃を加えた方を減点するというシステムになっている。与那嶺は額の血を拭う明を見て唇を曲げ、不満を露(あら)わにした。

試合再開、明は先程のお返しとばかりに与那嶺の顔面に強烈な左フックをかます。与那嶺はその重たさに思わず身体を揺らしてしまう。これまでテンポ良く動いていた与那嶺に一瞬、僅(わず)かな隙ができた。明がその隙を見逃す筈がない。渾身の力を込め、握りしめた拳を振り上げる。明の手が与那嶺の顎を打ち抜いた瞬間、彼が白目を剥いたのを米原は見逃さなかった。

『ジョフレアッパー』

明が繰り出し、与那嶺の顎に1cm鋭く当たったアッパーは、『黄金のバンタム』エデル・ジョフレのアッパーに、その型が酷似していた。しかし、大きな虫を切り裂くような一撃が、明の左頬に突き刺さった。

“野郎、意識がねぇのに打って来やがったな”

倒れ際に出された与那嶺の『スージーQ』を食らい、首が捩じ切れそうになりながらも、なんとか体勢を保った。この技は『あの』ロッキー・マルシアーノも使ったという、高性能爆弾と言われることもあるフックである。

人が膝をついて崩れ落ちる姿を、明は初めて目の当たりにした。不良時代はただ単純に殴り合うだけの世界に居た。相手を殴り倒しても、崩れ落ちるような鋭さを持ったパンチを食らわすことはなかった。唐突に感じる武者震い。

“俺は強くなった”

もう学校をふけて煙草を吸い、弱いものを痛ぶっていた頃の自分とは違う。本当の強さを。男としての逞(たくま)しさを身に着けることができた。この時、明は遅まきながら初めて五十嵐に感謝した。

1、2、3、4―――審判がカウントを始める。

“まさか起きては来ないだろう”明はそう思った。

7、8―――9カウントまで行った時、与那嶺は苦しそうに身体を持ち上げた。審判の確認に顔を強張らせながらファイティングポーズを取る。そこには先程までの余裕と冷静さはない。明は起き上がって来たその根性に、畏敬(いけい)の念を抱いた。

試合再開、与那嶺は2回ほどその場でジャンプし、明に襲い掛かって来た。しかしキレの落ちたストレートは、明の顔を捕らえることはなかった。明が4発ほど与那嶺に食らわせたところでゴングが鳴り、第3ラウンドは終了した。

米原は切れた瞼(まぶた)の処置のため、剃刀(かみそり)で切って目の上の傷口を目尻の方に逃がし、深く掘れることを避ける処置をした。そして『アビテン』と呼ばれるアドレナリン軟膏を丁寧に塗り、その上で氷嚢(ひょうのう)を用いて腫れを引かせ、止血をした。

「極度の興奮状態に陥るとアドレナリンが大量に分泌され、止血作用を施すと言うし、後1ラウンドくらいは大丈夫だろう」

処置の最中ではあるが、明は先程の豪快なダウンに気を良くしており、米原の言葉などまるで聞いていない。

「どうだ、おっさんが見込んだだけのことはあるだろ」

「あぁ。お前はもしかしたら俺が思っていた以上の逸材なのかもしれないな。ますます今後が楽しみだよ」

「ありがとよ。俺は絶対勝って見せるぜ」

「そうだ、その意気込みが大事だ。あと1ラウンド、最後まで気を抜かずに闘えよ。もちろんKOしてくれてもいいぞ」

“人に褒められると素直になるんだな”そう思いながら、米原は明を奮い立たせるように鼓舞した。

第4ラウンドのゴングが鳴ると明と与那嶺は互いの右手を合わせ、最後のラウンドを全力でクリーンに闘うことを示し合った。与那嶺はこれまで勝った試合は、全てKO勝ち。そのジンクスを守り通し、この相手には勝ちたいと考えた。

“こいつは将来、俺にとって大きな障壁になる。ならばこの場で捩(ね)じ伏せて完全に自分が強いことを印象付けておきたい。自分もそのイメージを持つことで今後、明と闘い易くなる”そう考えた。

与那嶺の中にある焦りとは対照的に、明はこのラウンドを楽しいと感じていた。右手の痛みなどとうに忘れ、ただ打ち合いができることに喜びを覚えていた。スポーツ選手にとってその競技を楽しいと感じている時は、大抵上手く行っている時である。

拳を突き出しながら苦しそうに顔を歪める与那嶺。終始笑顔を見せ、まるで軽くスパーリングしているかのような余裕を見せている明。両者の中でこの試合の感想はまったく異なっていることであろう。明は合計21発ものパンチを与那嶺に当て、このラウンドを終えることができた。ゴングが鳴り、マウスピースを外し、互いの健闘を称え合うように二人は歩み寄った。

「負けたよ。判定を待たなくても分かる。まさかこの俺が二つも年下の奴に負けることになるとはな。もう闘う相手はいないかと思っていたが、間違いだったようだ。また一から鍛え直すよ」

与那嶺は試合が終わると穏やかさを取り戻し、悔しさを噛み締めながらも明を認めたようだ。

「おめぇも強かったぜ。2ラウンド目までは、正直どっちが勝つか分からなかったからな。気が向いたらまた楽しもうぜ」

与那嶺は目を見開いて、少し驚いたような表情を見せた。

「楽しもうぜ―――か。どうやら俺はボクシングの根本的なところを間違っていたようだ。相手をKOすることしか考えていなくて、いつしかボクシングが義務のようになっていた。今日の試合は凄く為になったよ」

「ボクサーは皆、喧嘩が好きな奴だと思ってたけど、そうじゃねぇ奴もいるのかもな。まぁなんにせよ俺は好きなことは楽しい筈だと思うぜ」

与那嶺は小さく頷くと、明に右手を差し出して来た。

「握手なんて柄じゃねぇけどな」

明はそう言ってはみたものの悪い気はしていなかった。三名の審判が判定を伝え、レフェリーがそれを読み上げる。

「只今の試合の結果、42対27、43対29、40対28で赤居 明選手の勝利!よって今回の東日本新人戦、バンタム級は赤居 明選手の優勝です!!」

判定は3対0、フルマークでの判定勝ちとなった。結局は与那嶺のガラスの顎、『グラスジョー』が命取りとなる結果であった。強さの余り殴ることしか知らなかった彼だからこそ、殴られることには滅法弱かったのであろう。エキストララウンドに持ち越されることもなく『完封』と言える試合内容であった。

「やったあぁー!」

明より先に、明より大きな声で喜ぶ秋奈に、少し戸惑いながらも、明は新人戦での優勝を喜ばずにはいられなかった。

トーナメント終了後、『敢闘(かんとう)賞』が与那嶺に、『技能賞』が相模に、『最優秀選手賞』が明に贈られた。『最優秀選手賞』に選ばれたことに対して明は「当然だろ」とだけコメントした。

その後一ヶ月間、試合をするつもりで調整を行ったが、試合中に痛めた右拳の怪我が思いの外(ほか)悪く、治るのが間に合わなかった。結局は棄権という形になり、西の新人王である『桜山(さくらやま) 拳一郎(けんいちろう)』が特例としてA級10位にランクインすることとなった。

 「全日本新人戦は東軍が赤で西軍が青のトランクスを履くから丁度良かったんだがな」

五十嵐は名残惜しそうにしていたものの、明は世界チャンピオンにまた一歩近づけたことに対して嬉しく思っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章 日本編

東日本新人王トーナメントが終わり、明は瞼(まぶた)の怪我を治すために6針縫った。そして、ライセンスの更新を行った。4回戦選手は『C級ライセンス』6回戦選手は『B級ライセンス』8回戦選手は『A級ライセンス』を持っている。

『B級ボクサー』となれるのは、4回戦で4勝を上げた場合か、突出した実力があると認められる場合、例えば、アマチュアの日本ランキング10位以内などの場合である。引き分けは0.5勝とカウントされ、今回の新人王トーナメントで明は、その『B級ボクサー』として活動できるようになった。

金銭面では、4回戦選手として貰えるファイトマネーは5万円。3試合で12万円と新人戦の優勝賞金50万円とを合わせると所持金が62万円となった。そして、その後の12月3日と12月24日、明は6回戦で溶ける拳『炎鉄拳』を巧みに操る海老原三兄弟の三男三郎と、凍える拳『冷鉄拳』を巧みに操る海老原三兄弟の次男二郎に合計2勝していた。

そのことで6回戦で2勝したことになり、晴れて『A級ボクサー』にまでスピード昇格して、順調に出世街道を邁進していた。時は1984年1月1日。明と五十嵐は初詣と願掛けを済ませた後、ジムで新年一発目の練習を行っていた。

「赤居、お前この前の試合をどう思う?」

「どうって、楽しかったよ。イブまでボクシングかよって思ったけど、試合に勝って、相手と分かりあって。これ以上の試合はなかったってくらいさ」

「違う、弱い相手に勝った試合は、直ぐに忘れろ。与那嶺との方だ。ボクシングを好きでいることは大いに結構だ。それは強くなるために最も必要な能力のうちの一つだろう。だが赤居、この前の試合を見て俺は一つ気づいたことがある」

物事を深く考えないと本質は見えて来ない。そのことを言葉ではなく経験で学び取ってほしい。そう考えながら五十嵐は明に問いかける。

「なんだよ、お説教か。講釈垂れるのも良いけど、理論だけじゃ相手は倒せないぜ」

 「はっきりと言おう。今のお前には決め手が足りていない。相手を一撃の下にリングに沈める技。平たく言うとそう、『必殺技』だ」

明はこの瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。

「どうした赤居。必殺技には興味がなかったか?」

五十嵐は多少意外だというような表情を見せた。

「興味がない?欲しいに決まってんだろ。男で必殺技が欲しくない奴なんかいるかよ」明は遠足前夜の少年のように目を輝かせている。

「なら俺が昔使っていた必殺技を二つ教えてやる。『クロスカウンター』と『コークスクリュー』と言ってな。どちらも必殺技と呼ぶに相応しいだけの破壊力を持つ」

「『今の』じゃなくてか」

明は不満はあるが、五十嵐の機嫌を損ねないよう配慮したような言い方で伝えた。

「お前はまだ、ボクシングを始めて4ヶ月しか経っていない素人同然のボクサーだ。お前はすぐ調子に乗るからあまり言いたくはないが、この前試合をした段階の与那嶺に勝とうと思ったら並みのボクサーなら2年はかかる」

五十嵐は明を真っ直ぐ見つめ、その言葉に偽りがないことを強調した。

「しょうがねぇな。まぁ何にせよ必殺技ってのは男の憧れだ。二つも教えてもらえるならよしとするか」

この時、五十嵐も明が自分では気づいていない、褒められると要求を飲んでしまう傾向があることに気が付いた。

「なら今から俺が直々に教えよう」

五十嵐は明に左手でストレートを出させ、その腕の上に自分の右ストレートを交差させる。

「なんだよ、本気で打って来てもよかったのに」明はつまらなそうに口を尖らせた。

「忘れたか。俺は左利きだぞ」五十嵐はいつものように不敵に笑った。

「利き手じゃない手で軽く打って、この威力って相当なもんだな。こりゃあもう一つの必殺技にも期待が懸かるぜ」明の目は輝きを取り戻している。

「では、次のヤツに行くぞ」

そう言うと五十嵐は、左手を鋭く捻(ひね)りながら明の右頬に突き刺した。

「痛ってぇな。てめぇ素手で殴ってんじゃ―――」

明はそう言いかけて自分の誤りに気付く。

「どうだ。グローブ越しでも素手で殴られたと勘違いしてしまう程の威力。これが二つ目の必殺技『コークスクリューブロー』だ」五十嵐は今度は得意げにそう言った。

『コークスクリュー』は『コルク抜き』に名を由来し、アメリカのキッド・マッコイがボールにじゃれつく猫の前足を見て思いついた、回転の加わったピストルの弾丸のようなパンチである。

「確かに二つともすげぇ威力だ。これならどんな相手でも倒せそうな気がするぜ」

明は大いに喜んでいる。

「多少急だが、次の試合は一ヶ月後だ。それまでにこの二つの必殺技を、どちらも完璧に繰り出せるようになれ」

 “まだ自分で見る段階じゃないってか。上等だ。てめぇが俺を認めるまでいくらでも練習してやるぜ”明は密かにそう思った。それを察してか、五十嵐は言葉を付け足した。

「お前には悪いと思っているが、すまないが俺にはもう時間がなくてな」

 「まぁどっちだっていいさ。俺は強くなるんだ」

 この二人はタイプは違うが、目指すところが同じだということもあり、波長が合うようだ。一ヶ月という期間は、人によって感じ方が違ってくるもので、充実していれば早く、怠惰に過ごせば長く感じる。明にとってこの一ヶ月は、言うまでもなくほんの一瞬かのように感じられた。

 

 

1984年1月14日、三連休の初日に、東京都八王子市にある八王子市民会館で、A級ボクサーとして最初の試合を行った。2010年代ともなれば、1986年より開催されている日本タイトル挑戦権獲得トーナメント、通称『A級トーナメント』に参加するための練習を行っているところであろうが、1984年にはまだ開催されてはいなかった。試合開始10分前、米原が明に喝を入れる。

「確認のために言っておくが、今日の対戦相手は皆藤兄弟の弟、篤(あつし)だ。左フックが得意で、ストレートを打った後にガードが下がる癖があり、そこが狙い目だ。日本ランキングでは7位だが、確実にトップ3を脅かすであろう実力がある選手だ」

 篤は北海道旭川(あさひかわ)市出身、身長165cm、体重116ポンド(約53kg)の21歳。右利きで、明るくて口が立つ選手だ。戦績は7勝1敗2KOとなっている。

「相手との接近戦を得意とし、KOを狙って倒す『インファイター』であり、上体を前後に振って相手のパンチを躱す『ウィービング』の使い手だ」

明はそろそろ記憶しきれなくなって来ていたが、尚(なお)も米原は説明を続けている。ボクシングにはいろいろな技があり、『ウィービング』を使ったものでは、古くは無限大、数字の8を横にしたようなマークの如く身体を動かし、相手を滅多打ちにする『デンプシーロール』という技を使った選手もいた。

また、ボクサーにはタイミングで相手をスパッと斬るように倒す『ソリッドパンチャー』と、重いパンチで相手を薙(な)ぎ倒す『ハードパンチャー』がいて、篤は『ソリッドパンチャー』である。そして、篤は元アマの日本一として、プロテストにおいて特例でB級ボクサーとなったエリートボクサーでもある。 

「あと、くれぐれも『例のジャブ』には気を付けるんだぞ」

 米原にあれこれ言われ、記憶力の乏しい明だが熱中しているボクシングのことならと、聞いた情報を何度も繰り返して頭に刻み込もうとした。

「おうよ。必殺技を試す良い機会にしてやるぜ」

明は自信満々にそう答えるとシャドーボクシングをし始めた。選手紹介を受けた後、審判が出て来てルール説明を行った。

「ルールはJBCオフィシャルルールを採用し、2試合6ラウンド制で行います。1ラウンドに3回ダウンするか、レフェリーが試合続行不可能と判断した場合KO勝ちとします」

黄色のトランクスを履いて出て来た篤は、余裕があるのか笑顔を見せながら明に話し掛けて来た。

「よう、今日はよろしく頼むぜ。今日負けちまうと、弟と負けが同数になっちまうからな。お互いの為にも気楽に行こうぜ」

「悪いが今日は俺の勝ちで決まりだ。俺はどんな相手にも負けないくらい強いからな」

本来ならこの丁寧でない対応に機嫌を損ねる者もあるかもしれないが、明はフランクに話しかけられた方が話し易い性分(しょうぶん)のようだ。

「ちぇっ、釣れねえなぁ。あんまカリカリしてっとモテねえぜ、ダンナ」

「お前は戦いに来たんじゃねえのか?女のことより、今は試合だろ」

明は喧嘩の時とは違った苛立(いらだ)ちを見せていた。

 「お喋りはそこまでだ。試合を始めるぞ」

そう言うとレフェリーは両者をコーナーポストに着かせ、ゴングを鳴らした。

『カンっ』

ゴングが鳴り試合が開始されると、相手の出方を伺っている明に対し、篤は攻めの一手に興じるようだ。探るように仕掛けた後、不意に篤の目が鋭くなる。そして鞭のように撓った左腕が、閃光のように鋭く明の頬を掠めた。

 『フリッカージャブ』

このジャブは腕をL字に構え、縦に振り子の動きをし、鞭のように相手に打ち付けるジャブである。明はボディに一発、遠心力を掛けた一撃をお見舞いし、牽制の意味を込める。

篤は明に対し、いろいろと角度を変えながら『フリッカージャブ』を打ってくる。明はその動きに惑わされ、強烈な右ストレートを食らってしまった。傷は浅いものの、蹌踉(よろ)けて視点が定まらなくなる。

そして続けざまに右フックが飛んで来る。形勢は不利に見えるが、そこは世界チャンピオンの教え子。そう簡単にひれ伏す訳には行かない。

明は五十嵐から教わった通り、ジャブの引き際を狙って距離を詰め、強烈な右ストレートをお見舞いした。篤はこれに面食らい、ステップを踏むのも忘れて後ずさりした。明が追い打ちの右アッパーを繰り出そうとした2秒前、大きな音を立て、ゴングが打ち鳴らされた。

「上出来だぞ、赤居。とてもこれが初めての8回戦には見えん」

米原の誉め言葉に気を良くしたのか、明は普段より饒舌に語り始める。

「まあざっとこんなもんよ。アマの日本一だろうが、プロの世界とは違うってことを見せつけてやるぜ」そう言うとふんぞり返って椅子に座った。

レストが終わり、第2ラウンド開始。篤は本来はインファイターであるが、この『ヒットマンスタイル』を維持するためにアウトボックス寄りの立ち位置で闘うことを選んだようだ。リング上では、フリッカージャブがジェット機のように飛び交っている。明は距離を離さないように注意し、それに合わせて小刻みにジャブで返して行く。焦る篤。

 篤が踏み込んで来たのを見計らって、一気に間合いを詰め、上腕二頭筋に渾身の力を込めて振り抜く。無慈悲な程に強烈なアッパーが炸裂し、篤は呆気なく気絶してしまった。5、6、7、カウント8。寸でのところで意識を取り戻し、ふらつきながらもファイティングポーズをとる。

 明は少し余裕が出て来たのか、このラウンドでいろいろ試してみようと考えた。篤は足に来たのか、ステップが上手く踏めずたじろいでいる。防戦一方。見ている者が不安になるほどに攻めあぐねている。明は距離を詰めるが、たいして手は出さず、篤を威嚇する。そして篤が苦し紛れに出したストレートが、明の右目の辺りに命中しそうになった。

だが篤は拳を止め、攻撃した明の右フックが直撃してしまった。この態度に、米原は敵ながら天晴(あっぱれ)であると感じた。第2ラウンドが終わり、米原がレストタイムに話し掛けて来た。

「赤居、今のやろうと思えば、KOできたんじゃないか?もう少し攻められただろ」

「まぁそうっちゃそうなんだけどよ。もう少しあいつと闘ってみたくなったんだ。まだ、あいつの底が見えてねえし、次のラウンドも少し試しながらやってみるよ」

米原は「そうか」とだけ言うと明に何か言いたげな様子だったが、それを上手く言葉にできずにいるようだった。一方、皆藤(かいとう)陣営は凄惨な試合内容に側で見ていたセコンドの瀬古はご立腹のようであった。

 「何故手を止めた?時には減点も厭わない冷酷さが必要なこともあるんだぞ」

 これに対し篤は烈火の如く反論した。

 「ボクシングはスポーツだです。正々堂々クリーンに闘って何が悪い。『サミング』なんて男のやることじゃねえよないですよ」

 『サミング』とは目潰しの意で、親指を意味するサムを語源としており、悪質な場合3点もの減点となる反則技である。そんな汚い真似をするくらいなら、不利な戦況でも甘んじて受け入れるというボクサーも少なくはない。多少険悪な雰囲気で皆藤陣営は次のラウンドを待った。

第3ラウンド開始直後、皆藤陣営にちょっとしたアクシデントがあった。 若いセコンドが椅子をしまい忘れ、減点にはならなかったものの審判が少し試合を止めた。ゴングが鳴ると、明は左右のフックでテンポ良く篤の動きを攪乱しようとする。戸惑い、攻めきれない篤。明は隙を突いて、フックの連撃。

篤は目まぐるしいラッシュに舌を巻き、それを6発ほど食らってしまった。気付いた時にはダウンする形になっており、カウント9までかかったがなんとか起き上がることができた。意識が回復し、多少混濁してはいるが、ここまでされても戦意は失っていない。

“根性あるじゃねえか”喧嘩仕込みの明にとって、闘って勝とうとする相手というのは、何よりも嬉しいものであった。

 “このラウンドで決めるか”明は密かにそう考えていた。篤が右ストレートを放った瞬間、稲妻のように明の左手がその上を交差した。一瞬目を見張る米原。

右頬にその『電撃』を食らった篤は、無残にもその場に崩れ落ちた。

『決まった』

実践で初めて放ったとは思えないほどの息を飲むような鋭さで、明の『クロスカウンター』は炸裂した。瀬古は試合を観戦していた若い選手に頼み、篤を別室で休ませることにした。レフェリーが両手を交差し、3ラウンド15秒で決着が着いた。

 

 

 そして、この試合の結果を受けて、黙って居られない人物が居た。それは明の次の対戦相手である、皆藤兄弟の弟、遼(りょう)である。遼は現在日本ランキング1位で、絶対に兄の仇を討ちたいと言って来たのである。

因(ちな)みにボクシングではランキング1位の上にチャンピオンが居るという、珍しいシステムで強さが表されており、これはランカーとは別格でチャンピオンが強いとする『尊敬の念』が込められているからだと考えられる。

 この二人は年子で、兄が1年早くボクシングを始め、先にプロボクサーになっていた。

遼は先日の試合で、痺れる拳『雷鉄拳』を巧みに操る海老原三兄弟の長男一郎との試合で快勝し、日本ランキング4位となった西の新人王、桜山 拳一郎を下す快勝を見せた。

本来ならA級になりたてのボクサーにランキング1位の選手が試合を申し込むことなどそうはないが、断る理由などない、ただ勝利を掴むのみ。明も五十嵐もそう思っていた。休養もそこそこに、明は試合に向けてのトレーニングに余念がなかった。

 1984年2月12日、前日が建国記念日で、土曜日に半日だけ勤務する『半ドン』ではなかったこともあって、会場となった千葉県千葉市美浜区にある幕張(まくはり)メッセには大勢の人が詰めかけた。控室では、米原が明と最終確認を行っている。

「今日の相手は皆藤兄弟の弟、遼だ。兄同様、足を大股に開くスタイルで、タイの英雄、日本人キラーと言われた、ケンサクレッツに勝った選手だ。練習で対策した通り、コイツも『珍しいジャブ』を使う選手だ。上体を柔らかく使うことで相手のディフェンスを躱す技術である『スリッピング』が得意で豪腕を振るう『ハードパンチャー』タイプだ。一発がデカいから気を付けるんだぞ」

 「大丈夫だって。五十嵐のおっさんとやるんならともかく、三下相手に負けやしないって」

この発言を、米原は良くは思わなかったようだ。

「ボクサーには気の強い『いじめるタイプ』と気の弱い『いじめられるタイプ』がいる。お前は明らかに前者だ。だが、それは必ずしも有利に働くというということではない。自らの気質を活かし、努力し続けることが大切だ。皆藤兄弟は決して格下なんかじゃないぞ」

明はこの言葉を受けて素直に考えを改めようと思った。

遼は兄と同じく北海道旭川市出身で身長167cm、体重118ポンド(約54kg)の22歳。右利きで、無口だが熱い闘志を秘めている。戦績は14勝2敗6KOである。

 相手との距離を測りながら、軽いフットワークを用いてヒット&アウェイで闘う『アウトボクサー』であり、ジャブとストレートのコンビネーション技である『ワンツー』が得意な選手でもある。緑色のトランクスを履いている弟、遼は、エリートの兄に対して苦労人で、『雑草魂』を信条としている。

レフェリーがルール説明の後、「『ナックルパート』に気を付けるように」と言ってからタイムキーパーに合図を送った。アマのボクシングは、拳を握った時に4本の指の手の甲に近い関節と、次の関節との間にできる四角の部分である『ナックルパート』が白くなっており、ここで打たないと反則となる。プロでは現状そのことが曖昧になっていると感じての注意であろう。

『カンっ』

ゴングが鳴ると明と遼は互いに詰め寄り、ジャブを打ちあう形となった。明の方が優勢とはいえ、前の試合とは違いハイレベルな打ち合いとなった。

“言ってた通り弟の方が強いな”明はそう思うと少しばかり嬉しい気持ちになった。

「気分が乗って来ると調子が上がるのが良いボクサーだ」

2日前の試合についてのミーティングの時に米原にそう言われたことを思い出しながら、明はリズム良くパンチを繰り出していた。

兄より体格が良く、力も強い遼の方が明としてはやりがいのある相手だった。明はストレートとアッパーも織り交ぜながら『とりあえず様子見』でこのラウンドを終えることにしようかと考えた。ふと観客席に目をやると五十嵐が少し不満そうに明を見ている。どうしたというのだろう。多少気にはなりながらも明は第1ラウンドを終えた。

「明くんいい感じじゃない!このままやっつけちゃってよ!」

試合を見に来た秋奈の言葉に「おう」とだけ返すと明は先程の五十嵐の様子が気になっているようであった。相手サイドに目をやると瀬古と遼が楽しそうに会話している。

「よう頑張っとるやないか。ペース配分なんかせんでええ。とにかく手数で勝ることを目指してみろ」

互いに無口なためか瀬古は遼に対しては適切なアドバイスができるようだ。

「分かりました。とにかくKOは避けて、判定で勝てるようにやってみます」

遼の方も瀬古の言うことを日頃からよく聞いているため、言いたいことがきちんと理解できているようであった。

ゴングが鳴り、第2ラウンドが開始されると、明はパンチをテンポよく打って来る遼に対し、それ以上の手数で応戦するようにした。

“パンチを外す気がしねえ”お互いにほとんどガードをせず、打ち合う格好になっているとはいえ、明のパンチをヒットさせる能力はプロになって格段に上がっていた。素人目には、これが6試合目とは思えないほどである。

対する遼は、今日まで日本タイトルを虎視眈々と狙って来た。ボクサーは一度負けを喫すれば、全ての努力が水の泡となってしまうことが多い。そうならないために今日まで死ぬ思いでやって来た遼にとって、この試合は『絶対に落とせない』試合であった。次の瞬間、明が少し気を抜いて、息を吹き出したのを遼は見逃さなかった。強烈な左ジャブが明の右頬に突き刺さった。

「くっ」

油断していた訳ではない。縦横無尽に、まるで燕のようにジャブが飛び回る『飛燕』が鋭く明を襲ったのである。振り回した左手が漆黒の暗闇のように明の視界を遮る。

“いよいよ出して来やがったな。そろそろやってやるか”明はそう思い、大きく右手に力を込めた。しかし遼は明の足を踏みそうになったため寸でのところで回避し、攻撃をして来なかった。

“まったく兄弟揃って見上げた根性だ”米原が密かにそう思ったのも束の間、第2ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。

「赤居、お前もしかして少し『手を抜いて』ないか?」

米原は遠慮がちに明に問いかける。

「試合を楽しんでんだよ。勝てる相手にそうムキになるこたぁねぇだろう」

「どんな相手だって負ける可能性はあるんだよ。ボクシングには一発で負けになるKOだってあるんだし、油断のある者は真の勝者にはなれないぞ」

明は昔からできた人間ではなかったため、人から説教されることが多かった。そのためこのように言われるとどうしても腹が立たずにはいられない。

「なんだよ。俺の試合を俺がどう闘おうと俺の勝手だろ。お前は黙ってろよ」

「何だその態度は。お前のために言ってるんだろ」

米原に思ったより強く言われ、明は少し大人げなかったかなと思い始める。

「分かった、悪かったよ。次のラウンドで決める。米原のおっさんには、今までずっとセコンドやってもらってるわけだしな」

明の意外な態度に米原は少し戸惑いながらも「分かればいいさ」とだけ言ってその場を収めた。

『ゴっ』

第3ラウンド開始を告げるゴングが鳴る筈だったが、係員が打ち損じたため鈍い音が鳴っただけだった。タイムキーパーは慌てたが、冷静にもう一度開始の合図が鳴ったのでホッとした。ジャブとストレートを使ってリズムを作っている遼に対し、明は竜驤虎視(りゅうじょうこし)と隙を伺っている。そして見せつける様に強烈な右ストレートをお見舞いした。

“今のはナックルパートかどうかギリギリだったな”明は冷静に試合を俯瞰できるほどに余裕を持っていた。

5、6、7―――明は楽しみに遼の様子を伺っている。まるで獲物を見据える獣のように。

カウント8、遼は立ち上がって虚勢を張ってみせるが、その瞳には明らかに生気がない。決定打を貰わないように、とにかく拳を振り回してみるが、まるで的を射ていない。一瞬、遼が手を休めた刹那、明の右手が大蛇のように撓り、遼の蟀谷を鋭く抉った。またしても目を見張る米原。

『決まった』

息を飲むような快心の一撃、明の『コーククリュー』が雷の如く遼のテンプルを打った。瀬古は先日と同じ選手に遼を別室で休ませるように伝え、明に賛辞を送る。

「見事だったよ。君はきっと大物になる」

「ああ、今にチャンピオンになってみせるよ」

そんな話をしていると、右後ろに居た五十嵐が明の顔前5センチほどのところに左フックを打ってみせた。

「うっ」

初めて見る五十嵐の『左手』での一撃に、明は身体を強張らせ微動だにできずにいた。

「てめぇ、不意打ちはねぇだろ。今の俺ならその気になりゃあ、てぇめえだって倒せるんだぞ」

悪態をつく明に、五十嵐は怒りを露わにする。

「今のは、天狗になった鼻をへし折るためにやったことだ。俺は実践で手を抜くようなことを教えたつもりはなかった筈だ。本当にチャンピオンになりたいなら、不意打ちでもカウンターを合わせるくらいでないとな」

「それを言うならてめぇ、俺と初めてスパーした時に、俺のアッパーを避けなかっただろう。俺はあの時『手を抜かれた』と感じたぞ」

「あれはお前の力量を測るためにやったことだ。公式の試合なら勿論避けたさ。全力を出さないような舐めたことをしていると、いつまで経っても世界レベルにはなれないぞ」

「なんだとてめえ。今すぐここでやってやってもいいんだぞ」

“まるで親子みたいだな”五十嵐の側で試合を観戦していた古波蔵は、そう思いながらもこの痴話喧嘩を止めることにした。

「まあまあ二人とも。それくらいにしときなさいよ」

「うるせえ。今の俺なら誰にだって負けやしねえんだ。それとも、この俺とやろうってのか?」

「僕は誰の挑戦でも受けるよ。ただし『闘う価値のある』相手ならね。そこにいる五十嵐くんより強くなったらいつでも挑戦してくれて構わないよ」

「てめぇも結局は俺を格下扱いか。上等だ。今から五十嵐とやりあってやろうじゃねぇか」

「まったく。しょうがない奴だな。俺は半年後に試合があると言ったろう。こんなところで怪我をする訳にはいかないんだ」

 「逃げるってのか?チャンピオンは誰の挑戦でも受けるんじゃなかったのかよ」

これには五十嵐もムキになって返答した。

「分かった。ではこうしよう。半年以内に俺が認める『最強の刺客』とお前を対戦させる。そこで『勝ったら』俺の試合の後にお前と特別に対戦してやる」

 「本当だな。約束だぞ。それから、そこのおっさんもだ」

 「あいっ。いいですよ。五十嵐くんに勝つってことは世界で一番強いってことだからね」

そう言うと古波蔵は立ち去ってしまった。

「っていうか、あのおっさんは何者なんだよ。やけに親しげに話してたじゃねぇか」

五十嵐は不気味なまでに、不敵な笑みを浮かべている。

 「古波蔵 政彦。奴ほど俺と因縁のある選手もおるまい」

空を見上げながらそう話す五十嵐は、どこか懐かしそうな表情を見せた。

 

 

「ローラースケート行こうよ」

秋奈にそう言われ、明はあまり気乗りしなかったものの、行ってみることにした。1984年3月10日。明と秋奈は、東京都文京区後楽にある東京ドームシティに来ていた。水曜日だというのに館内はスケート目当ての客でごった返している。明は休みを貰い、秋奈は春休みで学校がない。

「なんか『ハイカラ』なモン見つけて来たな」

『ハイカラ』とは西洋の様式や流行に追随することを言い、語源は明治時代の男子洋装の流行であった、ワイシャツの丈の高い襟、『ハイ・カラー』から来ている。

「ふふ~ん。いいでしょ~」

センスが良いと言われたような気がして、秋奈は上機嫌であった。

「アベックばっかじゃねぇか」

 「アベックなんて言い方、今じゃもう古いよ。今どきの若者は『カップル』って言うんだから」秋奈は得意げにそう話す。どうやら彼女は流行には敏感な質らしい。

「どっちでもいいけどよ、俺にはなんかこう居心地が悪いように感じる場所だな」

「照れてるんでしょ。女の子と二人でいるから」

「別に照れてなんかいねぇよ。それより赤城はローラースケートすんの何回目なんだ?俺は正直やったことねぇから、滑り方を習いたいとこなんだが」

「そっかぁ。実は私も初めてなんだよね。お兄ちゃんに滑り方のコツを聞いたんだけど、上手く教えられるかどうか―――っていうか、何回か言ったと思うけど、もう半年も一緒にいるんだし秋奈でいいよ。今日は明くんと仲良くなろうと思って来た訳だし」

「付き合ってもいねえのに名前で呼ばねえよ。俺はチャラついたのは嫌いなんだ」

 明はわりと硬派なようだ。

「ふ~ん。まぁいいや。とりあえずシューズ借りに行こうよ」

 秋奈は些か残念そうではあったが、そこまで気にしてはいないようだ。二人は受付に行き、それぞれ700円払って靴をレンタルした。明は何か考え事をしているようだ。

「何かしゃべってよ」秋奈はなんだか不満そうだ。

「う~ん、そうだな。赤城は兄弟いたんだな。一人っ子かと思ってたよ」

「それ偶(たま)に言われるんだよね。なんでなのかな?」

「気が強いからじゃねえか。言いたいことをズバッと言う気がするな」

 人のことは言えないのだが、明はサラっとそう言った。

「そうなのかなぁ。なんでも歯に衣着せないとは言われるけど」

「ハニキヌ?なんだそりゃ?」

「なんでも『オブラート』に包まず言うってこと」

 秋奈は分かり易く言ったつもりであったが、明にこの単語が伝わる筈もない。

『オブラート』とはオランダ語であり、デンプンから作られる水に溶け易い薄い膜のことを言う。この表現の場合は比喩であり、言葉をぼかしてマイルドにする効果の意で使われている。

「なんだよ、オブラートって。案外難しいこと知ってんだな。そう言えば赤城って高校どこだっけ?」

「浅草女子だよ~」秋奈は気軽な感じで答えた。

「浅草女子?浅草西高じゃなくてか。すげえな、お嬢様じゃん。俺なんか東浅草高校中退だぜ」

浅草女子高校は都内でも有名なお嬢様学校で、文武両道を掲げる進学校として知られている。浅草西高校と東浅草高校は地元では1、2位を争うほど荒れた学校で、素行の悪い生徒が多く、近隣住民を悩ませている。因みに、東日本新人王トーナメント初戦で対戦した坂東 寵児は、浅草西高校出身である。

「そんないいもんじゃないよ。親も先生も大学に行けって煩くて。私には私の考えがあるんだけど」

「それはなんかもったいねぇ話だと思うけどな」

「だって大学に行くにはお金が掛かるし、私がやりたいのはボクシングに携わることだから―――」

秋奈は『言い難い事を言った』という風であった。

「まあ進路ってのは人が口出しするもんじゃねえから、これ以上は言わねえけどよ。っていうか靴紐、全然結べてねぇじゃん」

 明は先程から気になっていたことを漸く言うタイミングができたので、好機を逃さぬよう口にした。

「うん、なんかこういうのって難しくって。手伝ってよ」

「しょうがねぇなあ。簡単だろこんなの」

「凄いじゃん。ガサツなイメージだったけど、意外と器用なんだね」

「どういう意味だよ。俺は毎日グローブ嵌めてんだから、こんなの朝飯前だぜ」

 秋奈の褒めているのか貶しているのか分からないコメントに対し、明は真意が分からず喜んで良いのか疑問に感じた。

「そういえばそうか。実はボクシングでも細かいジャブが打ててると思ってたんだ。リズムとアングルも巧いし」

「そうか~。やっぱ、いつもしっかり見てくれてるんだよな。疑って悪かった。靴も履けたし、滑りに行こう!」

「うん。毎回ちゃんと見てるんだよ~。今日も上手く滑れるか見とくから」

「おお、なんかできそうな気がする」

明は普段からの体躯を活かし、初めてとは思えぬほどの滑りようだ。

「やばい、これどうやんの?」

秋奈は頭では滑り方が理解できているものの、身体が思うように動かせないようだ。

「大丈夫か、転けんなよ」

 明は冷やかしているのか、心配しているのか分からないような言い方で言った。

「何これ。全然立てないんだけど」

秋奈はなんとか滑り出そうとして、盛大に転けてしまった。

「なんだよ、どんくせぇな」

明は口ではそう言いながらも、秋奈のことが気に掛かるようだ。

「痛った~い。転けちゃった~」

 秋奈はペロっと舌を出してお道化て見せた。

「ほら、掴まれよ」

明はそう言うと、秋奈に向かって手を差し出した。

「うん、ありがと」

秋奈は少し照れながらも明の手を握り、辛うじて立ち上がれたようだ。

「俺、ちょっと滑ってくる」

明は照れ隠しなのか、一人で練習しようとし始めた。

「うん、分かった」

秋奈も明の普段見せない態度に少し困惑したが、提案を受け入ることにした。

しばらくして明は練習していた場所から戻って来た。

「俺は一応滑れるようになったから見てるよ」

 「うん。私も練習するね」

だが、秋奈は少し滑るとすぐに戻ってきた。

「どうした?まだちょっとしか滑ってねぇぞ」

「ちょっとジュース飲もうよ~」

「もしかしてヘバっちまったのか?しょうがねぇな。一旦休憩するか」

明がそう言うと秋奈は少し笑って頷いた。

 

 

ローラースケート場から少し離れたところに自販機があり、百円玉を入れてボタンを押すと20円のお釣りが出て来た。

「そういえば明くん、さっきから目を細めてる時あるけど、視力悪くなってない?ボクサーは裸眼でないとファイトできないんだし、気を付けた方がいいよ」

「いや、俺は両目とも1.5あるからバッチリだぜ。ただ、ガキの頃から偶に見え辛い時があるんだよな」

「そうなんだぁ。まぁなんともないなら良いんだけど」

「それよりよ。普通に滑るのも飽きて来ちまったよな。なんかこう面白いことってないかな」

 「それなら競争しようよ」

「しようよって、どう見ても勝てっこないだろ」

「当ったり前でしょ。100メートル走を80メートルのハンデ付きで勝負するの。勝ったらラーメン奢ってね」

「なんだよそれ。でもそれくらいハンデないと面白くねぇかもな。いいぜ。ちょうど腹減ってたし、タダでラーメン食わしてもらうとするか」

スタートとゴールを決め、二人ともスタート位置に着く。

「じゃぁ行くよ~。位置についてぇ、よ~い、ドォン」

秋奈は前を向いたままこのセリフを言ったので、明がわざと少しフライングしたことに気付いていない。とろとろと歩を進める秋奈を尻目に、明はまるで生まれた時からスケートを履いていたかのようにスムーズに滑っている。加速する明。ゴールに定めた柏の木に秋奈が触れようとした瞬間、後ろから加速して来た明がほんの数秒早く辿り着いた。

「余裕だな。俺っちの圧勝」明にこう言われ、秋奈は悔しそうに反論する。

「えぇ~っ。同時だったよ。同時同時。私ずっと手ぇ伸ばしてたもん」

秋奈は明を騙そうとしているのではなく、木にタッチしようとした瞬間、目を瞑っていたため、同時に触れたと思い込んでいる。

「明らかに俺が早かっただろ。完勝だったぜ」

「そんなことないもん」

秋奈が少し泣きそうになったので、明は不本意だったが引き下がることにした。

「まぁよく考えたら同時だったかもな。審判もいなかったことだし、今回は引き分けにしといてやるよ」

「もともと引き分けじゃん。まぁいいや。お腹空いたし、ラーメン食べに行こう」

秋奈が安心したように明るい表情を見せたので、明は大人の対応ができたことに対して嬉しく感じた。

 

 

ローラースケート場を離れ、近くの屋台で売っているラーメンを二人して注文した。

「そういえばこの前、五十嵐のおっさんに雷鳴軒っていうとこに連れて行かれてさ―――」

明が話し終わる前に、秋奈は興奮した様子で話に割って入った。

「雷鳴軒!いいよねあそこ。豚骨スープが絶品でさ」

「゙えっ」

秋奈の思わぬ反応に明は素っ頓狂な声を上げる。

明は雷鳴軒が如何に『不味かった』かを秋奈に話そうとしていたが、この一言で言い難くくなってしまった。

「それで、雷鳴軒がどうしたの?」秋奈は興味ありげに明の話に耳を傾けている。

「いやぁ、なんていうか。食べたことのないような独特の味だったから、行ったことあんのかと思ってさ」明は“我ながら上手く言えた”と心の中で思った。

「あるよあるよ。子供の頃から何度も行ってる」

秋奈は見たことのないほど目を輝かせている。

「そうか、好きなんだなラーメン」

“将来こいつの作った飯を食うようになる奴は、きっと強い男に違いない”明は心底そう思った。

 「そうそう、この前もお兄ちゃんと一緒に行ってさ。いいって言ってるのに、お金払ってくれて」秋奈は少し申し訳なさそうに言った。

 「そう言えば、赤城の兄貴は何かスポーツやってたのか?世界チャンプの甥っ子なら運動神経も悪くはねえよな」少し間が空いて、秋奈は答え難そうに話し始める。

 「お兄ちゃんね―――ボクサーだったんだ」

鈍い明だが、秋奈の重い口調で口にしたのが明るい話題ではなかったことを理解した。

「今は引退してるんだな。どんな選手だったんだ?五十嵐さんにも見てもらってたんだよな?」

「将来を期待された本当に強い選手だったんだよ。でも心臓に欠陥が見つかって、どうしようもなく引退したんだ。あんなに泣いてるの見て私も辛かった」

 当時を思い出したのだろう、秋奈の声色が少し変わっていた。

「そうか―――でも赤城の性格ならそれでボクシングに関わるの辞めそうだけどな。続けることにしたのは偉いじゃん」

 明は少しでも話を明るい方向に持って行こうと、秋奈の話をすることにした。

「そうそう!私も辞めようと思ったんだけど、五十嵐の叔父さんが辞めるなって。お前が辞めたらあいつはもっと辛くなるって」

初めて聞いた話だが、兄妹仲が良いことは容易に想像できた。

「おっさんは赤城がボクシングが好きなことをよく分かってくれてたんだろうな。それはきっと兄貴も同じだ。兄貴は何でも一人で背負っちまう人なのかもな」

 その三者三様の気持ちが、過去に波乱を生んだのであろう。

 「そうだよね。あの時は辛かったけど、今はボクシングに携わり続けて良かったと思ってる。お兄ちゃんもトラック運転手になってから会社の人と仲良くしてて、昔みたいに笑うようになったし」

 その笑いが本心からのものなのか、明は多少の疑念を抱いていた。

 「夢破れた先にも、人生はあるんだよな。偉いと思うよ。そういう時に命を投げちまうのは自分の人生に責任を持てない情けねぇ野郎だ。生きるってのは辛いもんだからな」

 冷たい言い方だっただろうか。しかし、明の思いは杞憂であった。

「うん。私はお兄ちゃんが笑顔で居てくれたら、それでいいんだ。―――なんかしんみりしちゃったね。もう十分休んだし、滑りに行こう」

 秋奈は今日一番の笑顔を見せて、努めて明るく振る舞っていた。こういう雰囲気は嫌いではなかったが、せっかく秋奈と二人でいるのだから、場を暗くさせたくはない。スケートリンクに戻り、反時計回りに人込みを縫って滑って行く。

「どうでもいいけどよ、このリンク照り返しがキツいな」

「そう?私はそんなに気にならないけど」

「まあいいや。っていうか、赤城もだいぶ滑れるようになったみたいだし、真ん中の方に行ってみようぜ」

明はそう言うと、先導するようにゆっくりとリンク中央へ滑って行った。置いて行かれないように斜め後ろを滑った秋奈は、楽しそうに話しながら明の仕草を流し目で見ていた。

「悪い、気になるよな。ガキの頃にアトピーが酷い時期があってさ。もう治ったんだけど、首を掻くのが癖になっちまってるみたいなんだ」

明が意外なことを言ったので、秋奈は少し戸惑ってしまった。

「ううん、大丈夫。っていうか、よく分かったね。気付かれないように見てたつもりだったんだけど」秋奈は少し慌てて答えた。

「そうなのか?ボクサーだったら相手の細かい動きは察知できるから、横目で見てても普通に分かっちまうぜ」

秋奈の心配とは裏腹に、仕草だけを見ていた訳でないことは、悟られていないようであった。

「そっか~。明くんの前では隠し事はできないんだね」

含みのある言い方ではあったが、秋奈はこの時ばかりは、明が単純な男であったことに感謝した。その後、暫く滑って気が済んだのか、秋奈が「アイスが食べたい」と言い出し、リンク横にある売店でアイスを食べることにした。

「明くん食べないの?」

 「俺は体重増やす訳にはいかねぇんだよ。っていうか、食いすぎじゃねぇか。太るぞ」

 「ひど~い。ローラースケートして痩せるから大丈夫なんですぅ」

秋奈は嫌な気はしていないようだが、少しムッとして答えた。

 「まあそれならいいけどよ。俺は紅茶でも飲んどくよ」

 明は素っ気ない素振りだったが、感じ悪く聞こえないように配慮した言い方で話していた。

 「日本で一番アイスが作られてるのって埼玉なんだって。五十嵐の叔父さんが自慢げに言ってたよ」秋奈は気まずくならないようにと、間を空けず話をした。

 「へえ~そうなのか、知らなかった。そう言えば、アイスっていつ頃から売られてるんだろうな?」明も話を広げようと努めて早く返答した。

「う~ん。明治時代くらいじゃない?江戸時代にはもうあったのかな?」

秋奈もそのことについては、分からないといった様子である。

日本で初めて販売されたアイスは1869年にアイスクリームの父と言われた町田(まちだ) 房蔵(ふさぞう)がアメリカ帰りの出島(でじま) 松蔵(まつぞう)から教わった製法を用いて、横浜馬車道の氷水屋で牛乳、砂糖、卵黄を原料として作った『あいすくりん』である。

販売価格は当時の大工の日当の倍、女工の月給の半分である金二分と高価であったため、なかなか民衆に浸透しなかった。町田は勝 海舟に私淑(ししゅく)し、他にもマッチ、石鹸、造船用鋲などの製造にも関係したと言われている。

因みに、日本アイスクリーム協会の前身である東京アイスクリーム協会では、アイスクリームの一層の消費拡大を願って東京オリンピック開催年の1964年にシーズンインとなる連休明けの5月9日に記念事業を開催し、様々な施設へアイスクリームをプレゼントし、『アイスクリームの日』としている。

「そう言えば最近ガリガリ君っていうのが流行ってるよね?50円で食べられて、私よく買うんだ」秋奈は楽しげに話している。

「なんか水色のやつだよな。美味そうだとは思ったんだけど、俺はまだ食ったことねえな」男として『金が無くて買えなかった』とは、口が裂けても言えなかった。

差し詰め武士は食わねど高楊枝といったところであろうか。アイスのソーダ水は本来無色透明だが、昭和の時代には何か色が付いていないと価値がないと思われていた。

その為、見栄えを良くするようにと、空と海に共通した色である水色が採用された。海の色は空の色を反射しているため、実質ソーダ水の色は空の色と言える。

また、ソーダと言えば、昭和の子供の代表的なオモチャであるB玉は、ラムネのソーダ水を入れている瓶の口を塞ぐ玉のことをA玉と言ったことから、B級品であるためそう名付けられた。

「そのアイスなんか綿菓子みたいだな。入道雲に見えるぜ」

「うん。柔らかいから食べやすいよ~。ソフトクリームの方にして良かった」

秋奈は甘いものが好きなのだろう。2分程前に食べ始めたアイスは、もう3分の1程しか残っていない。ソフトクリームとアイスクリームの違いはその硬さであり、ソフトクリームはマイナス5~マイナス7度、アイスクリームはマイナス18度でちょうど良い味となる。

また、アイスクリームは空気の混入率である『オーバーラン』が60%とシェイクの30~40%などに比べて高い数値となっており、そのことがあの柔らかさを生み出している理由であると言える。

そして、アイスクリームには賞味期限がなく、適切に管理すればいつまででも食べることが可能である。マイナス18度以下の温度で保存すれば味自体は落ちず、細菌も増えないからである。

「すげえ良い音するんだな、それ」

明は飲み終わった紅茶の缶を、5メートル先のゴミ箱に投げ捨てながらそう言った。

「そうそう、このコーンが美味しいんだよね。考えた人ほんと凄いと思う」

秋奈は音がするように、力を込めて大袈裟に齧(かじ)って見せた。アイスクリームコーン誕生のキッカケとしては、1904年アメリカのセントルイスで行われた万博でアイスクリーム屋が用意していた紙皿が無くなり、隣にいたウェハース屋の店主がアイスクリームを載せることを提案したことで生まれた。アイスクリームの人気に起因する、偶然の産物なのである。

その後も暫く話を続けた後、二人は漸く重い腰を上げた。明がもう一度滑りに行くか聞いてみると、気が済んだのであろう、秋奈から返って来たのは「もう帰ろっか」という答えであった。エントランスへ行き、揃って靴を返して帰路に就く。

「けど、ローラースケートって難しいよね。片足ずつだから体重移動が上手くできなくて。二つを同時にできたらいいのに」

 秋奈は動作を交えながら、一生懸命その思いを表現しようとしている。

 「それもそうだな―――ん?」明は何か閃いたように、感嘆の語を発する。

 「どうしたの?何かいい方法でもあるの?」

 秋奈は不思議そうに、その真意を探ろうとしている。

 「ああ、思いついたぜ。『取って置き』をな」明は自信に満ちた表情でそう答えた。

 「凄いじゃん。どんな滑り方なの?」

「ローラースケートの話じゃねえよ。まあ見てなって、必ず度肝抜かしてやるよ」

「やったじゃん、楽しみにしとくね」

笑いながらそう言った秋奈には、聞かなくても何のことだか分かっていた。

「ああ、ありがとよ」明は嬉しそうに声を弾ませて言った。

「できればお兄ちゃんにも見せてあげたいな。五十嵐の叔父さんの試合も、引退してから全然見に来ないんだよね」秋奈は悲しそうな表情を隠すかのようにして俯いた。

「兄貴の気持ち、分かる気がするな。行けないんだよな、見に行きたくても。失ったものが羨ましくてさ。俺も中退してから友達の集まりとか行き辛くなっちまってよ。損だよな、頑固な性格。―――そういや、兄貴はなんて名前なんだ?秋夫とかか?」

明は秋奈の気分を変えようと、慣れないことをしてみる。

「そんな似たような名前な訳ないじゃん。お兄ちゃんは春に生まれたから、春彦。私は秋に生まれたから秋奈。分かり易いでしょ」

秋奈は元気を取り戻して、楽しそうに話している。

「名前に季節が入ってんのは風流だな。そう言えば、おっさんは俺に兄貴の姿を重ねてんのかもな。兄貴をチャンプにしてやれなかった分、俺には何としてでも世界を取らそうとしてくれてるような気がする。最近やたら練習が厳しくなってきたと思うし、期待に応えられてんのかな、俺」

明はなるべく辛さを見せないように、明るい口調で話している。

「五十嵐の叔父さんは明くんのことを認めてると思うよ。拳を縦に並べるスタイルを普通だったら止めさせているけど、続けさせてもらえてるんだもん」

心根は理解している。今度は秋奈が明を励ますようにして話す。

「そうなのかな。まあ、それなら嬉しいんだけどよ」

和やかな雰囲気に、自然と二人とも笑顔になる。

 「なんかいつもと違った感じがするね」

 激しい闘いの合間での戦士の休息。それを秋奈も分かってくれているのであろう。

 非日常的な風景に二人とも安心しきっていた。だが、明は先程から何かソワソワしたような感じだ。

 “ああ今チャンスだったのに。なんで勇気が出ねえんだよ。こんなんでビビってちゃ、おっさんに笑われちまわーな”タイミングを伺おうと何でもないのに深呼吸してみたりする。

「寒いね~」

「そうだな、そろそろ冬も終わったと思ってたんだけどな」

「なんか考え事してない?」

「そんなことねえよ。ちょっと疲れただけだ」

緊張がピークに達したのか、微かに物が二重に見える程である。それから、どちらともなく手が触れ、そっと手を握った。秋奈は少し顔が赤く、下を向いて目を合わそうとしない。明は心臓の鼓動が、秋奈に聞こえないか心配になる程だ。他愛もない会話を続けて行くが、内容が頭に入って来ない。明がぎゅっと握ったら、秋奈もぎゅっと握り返して来る。

 「なんか、帰りたくないなぁ」俯いた秋奈は寂しそうに呟いた。

夕暮れに揺れた二つの影は、心なしか大人びて見えた。

 

 

皆藤兄弟の兄である遼に勝利したことで、明は現在日本ランキングで1位となっており、JBC日本チャンピオンである安威川(あいかわ) 泰毅(たいき)と対戦することとなった。この闘いに勝利することができれば、チャンピオンベルト保持者となり、晴れて『タイトルホルダー』となることができる。

 また、日本チャンピオンを巡るタイトルマッチのファイトマネーは、70から100万円であるため、これからの生活にも余裕ができそうだ。

「偶(たま)には相手のことを知ってから試合をするのも悪くはないだろう」

五十嵐にそう言われ、明と秋奈は今回の対戦相手である安威川の試合を見に来ていた。

彼はヒーローとヒールの二つのイメージがある稀有(けう)な選手。五十嵐から伝えられたのは、その一言のみだった。いつも相手選手のことをうんざりするほど説明してくる五十嵐にしては珍しく、明は思わず「他には?」と聞いてしまった程だ。

五十嵐は「安威川は言葉で語るよりも見ておいた方がいい」とだけ言い残し、用事があるからと先にジムを出て行ってしまった。秋奈に聞いてみても世界チャンピオンになれるレベルだと話題になって来ていて、『恐ろしく強い』とだけ聞いたことがあるという。

会場で試合開始を待つこと15分、待つのが嫌いな明が少々イライラし始めた頃、選手紹介があり二名の選手が入場してきた。初めて安威川を見て明は、「良い身体してんな」とだけ呟いた。

対戦相手は外国人選手で、何でも『冷徹漢』トミー・ドラゴと引き分けたことがあるらしい。安威川は選手紹介で『浪速の風雲児』と称され、短髪で爽やかな印象が持てる選手だった。試合を見に来るのが初めての明でも今日の試合で女性の観客が多いことが分かった。

一通りルール説明があった後、両者コーナーポストに着き緊迫した空気が流れる。少ししてレフェリーが係りに合図をし、試合開始のゴングが鳴らされた。歩み寄る両者。まず安威川が相手にジャブを繰り出すが普通とは少し違って見える。

「『サウスポー』かよ」

『サウスポー』とは左利きの選手のことで、野球用語から転用された言葉であり、1891年にスポーツライターのチャールズ・シーモアが初めて使用したものである。米国野球の大リーグでは午後の試合でバッターの目に西日が入って眩しくないようにとホームベースを西に置いている。従って、一塁側は南、二塁側は東、三塁側は北となり、動物の前足をポー、後足をハインドポーと言うことから、南側の手で投げるのでサウスポーと言われるようになった。

明は五十嵐が左利きであるため見慣れてはいたものの、実際に左利きの選手と対戦するのはこれが初めてとなる。小刻みに、しかし豪快に繰り出される安威川のジャブは相手選手の動きを止め、反撃の余地もないように見える。

『バシンっ』

次の瞬間、強烈なボディーブローが相手選手の脇腹に突き刺さった。

「うわぁ、痛そう~」

秋奈の少し間抜けな口調に拍子抜けしそうになるも、明は試合の行方を見守った。相手選手はこの一撃でダウンし、カウント9で辛うじて起き上がった。だが傍から見ても既に闘えるような状態ではない。一応ファイティングポーズを取ってはいるがレフェリーが不安を覚えるほどの衰弱ぶりであった。

ファイトが続行され安威川が右足を一歩踏み込み、左手を大きく振り抜いた瞬間、観客の多くは思わず目を覆ってしまった。リングに転がり、少し痙攣した様子の相手選手。すぐにタンカが到着し、病院に向けて搬送されて行った。

あまりの惨状に、安威川に促されるまでレフェリーが勝利者宣言を忘れてしまうほどであった。非現実的な光景に会場は一気に静まり返ってしまった。

「行くぞ」

並んで座っていた明と秋奈の後ろに、いつの間にか五十嵐が座っていたようだ。いきなり声を掛けられ、二人とも少し身体をビクつかせる。

「ビックリさせんなよ。っていうか、来るの遅えんじゃねえか?いつから居たんだよ?」明は不満げにそう言い放つ。

「今しがた到着したばかりだ。それより、今回の相手は強いぞ。なんと言っても、日本チャンピオンを『9度も』防衛している男だ。そこらの『青二才』とは訳が違うぞ」

『青二才』が自分のことを指しているのか、いないのか。気にはなったが、聞かないでおくことにした。

「どうだ安威川は。俺が最強の刺客と言うだけのことはあるだろう」

「確かに強えな。だが、俺には『新必殺技』があるから大丈夫だ」

「『新必殺技』?いつの間にそんなものを思いついたんだ。一度見てみたいな」

「ローラースケートやってる時に思いついたんだ。まぁ慌てんなって。今度の試合の時にお披露目するぜ」

「ろーらーすけーと?最近の若い奴はハイカラなものをやっているんだな」

“どうして男はみんなローラースケートに対して同じ感想なんだろう?”

秋奈はそう思ったが、口に出すのは止めておいた。

「1ヶ月後、4月の第2日曜日に午後6時から兵庫県神戸市にあるサンボーホールで安威川とファイトだ。これは相当な正念場になるぞ」

五十嵐は心配半分、期待半分と言ったところであろうか。

「そうか。まぁ1ヶ月もあれば『新必殺技』も精度が上がるってもんよ」

 明は余程手応えがあるのだろうか、試合を決めるのはこの『新必殺技』に頼ることにしていそうだ。

 

 

1ヶ月後、兵庫県伊丹市にある大阪国際空港から神戸市中央区にある三宮のホテルへ行き宿泊した。そして、試合当日の1984年4月8日、定刻まで2時間の余裕を持って明は会場に到着した。

対する安威川は、それより10分後の4時10分頃に到着した。二人は会見で顔を合わせてはいるが、まだ互いを知るほどは会話していなかった。 それから8時間経った午後6時、食事を済ませ、準備万端の二人は選手紹介を受け、軽快な足取りで入場した。

 第38代JBC日本チャンピオン安威川(あいかわ) 泰毅(たいき)。兵庫県西脇市出身、近藤ジム所属で『インファイター』と『アウトボクサー』を両方熟せる『ボクサーファイター』タイプである。

 「赤のコーナーからは、JBC日本チャンピオン安威川 泰毅選手の入場です」

168cm、117ポンド(約53.5kg)、19勝1敗0分8KO。 安威川は鮮やかに見える青のトランクスがお気に入りだ。身体の一部を使って打撃を防ぐ『ブロッキング』が得意な選手であり、カウンターに強い選手でもある。

「続いて青のコーナーからは、一路順風のチャレンジャー赤居 明選手の入場です」

 紹介を受け、明はリングへと躍り出た。ボクシングではチャンピオンが赤コーナー、チャレンジャーが青コーナーから出て来ると相場は決まっている。リングではレフェリーがリング中央に立ち、ルールの説明を行っている。

「3ダウンでKO、キドニーブローとラビットパンチは禁止です」

『キドニーブロー』とは背中側から肝臓がある部分を叩く危険打のため、禁止されているパンチである。また、『ラビットパンチ』とは猟師が手負いの兎の首を切って介錯したことから来ており、後頭部を叩くことで後遺症が残りやすくなるという危険打であるため、同じく禁止されている。

明は安威川とレフェリーを交互に見て、いつもより鋭い表情を見せた。試合開始前、明が珍しく深呼吸をしている。

「どうした?今さら不安になって来たか」

「そんなんじゃねえよ。ただ、あの安威川って奴は今までの奴とは違う。そんな気がするんだ」

「その通りだ。だが安心しろ。俺の見立てではもう国内で活動している選手で、お前の相手ができるのは安威川くらいのもんだ。全力で倒しにかかれ」

裏を返せば安威川は米原会長のお墨付きの強さというわけだ。明の拳に力が入る。

「ファイッ」

審判の掛け声を受け、歩み寄ると言うより激突しそうな勢いで、両者前へ出て拳を交える。

「くっ」安威川の構えを見た明が、思わず声を漏らす。

“オーソドックススタイルか”

明はこの1ヶ月間、対安威川を想定して左利きを相手にするためのトレーニングを積んできた。しかしこの時、安威川サイドはそれを想定し、あえて右利きの『オーソドックススタイル』にチェンジして来ていた。

普段右利きの選手と対峙してはいるものの、練習で培ったものと試合本番での微妙な感覚の『ズレ』は精神的な動揺を誘うには十分だった。

安威川のジャブが、徐々に明に当たり始める。普通のジャブとは違い、左利きの選手の左手でのジャブは想像以上に重たいものであった。ペースを掴みつつある安威川に対し、出鼻を挫かれた明は、距離を取ることでそのイメージを払拭しようとした。

しかし、安威川は巧みなフットワークで明と絶妙な距離感を保ったままジャブを打ち続けて来る。焦る明。流れを変えようと右ストレートを繰り出した瞬間、安威川もそれに合わせて右ストレートを打って来た。刹那、明の右手は空を切り、安威川の右手が明の左脇腹に突き刺さる。先日の試合の、あの嫌な記憶が蘇る。

「うっ」

鈍い声を出し、明はリングに左膝をついてしまった。これはダウンとみなされ、レフェリーが1からカウントを始める。明は流石にタフであり、カウント3で立ち上がったが、多少覇気が薄れてしまったようにも見える。目も少し虚ろだ。

「赤居、後ろに下がるんじゃない。しっかりガードを固めて、相手と間合いを詰めてクロスカウンターを狙え」

明はちらっと米原の方を見ると、小さく頷いて見せた。ファイテイングポーズをとり、再び激しい打ち合いが始まる。間合いを詰めてみると、安威川は少し攻め難そうに左手を出して来るようになった。

“そう言えばコイツ左利きなんだよな”明はそう考えると安威川が不慣れな左手でのジャブを打って来ているという状況を冷静に分析できるようになった。

“少しかましてみるか“明はそう思い、今まで打ったことのなかった『左ストレート』を安威川にお見舞いしようと考えた。タイミングを伺い、ジリジリと間合いを調節する。

“今だ”

そう思うやいなや全身の力を込めて左手を振り抜く。明の拳は安威川の右頬に突き刺さり、鋭い音を立てた。気を失いそうになる安威川。

だが、流石は五十嵐が認めた男、そう簡単に倒れてはくれない。安威川は右膝をついた後、明と同じくカウント3で立ち上がり、ファイティングポーズをとってみせた。

「泰毅、もうええやろ。奇襲作戦は終わりや。『サウスポー』にスイッチしろ」

市川会長の言葉に、安威川は振り向いて軽く頷いた。審判が試合を再開させようとした瞬間、ゴングが鳴り、第1ラウンドが終了した。両者コーナーへ戻りセコンドの指示を仰ぐ。

「おっさんとやりあった時以来だな。こんなに追い詰められんのは」

「まさかこの試合のためにあんな作戦を仕込んで来るとはな。市川会長は相当な策士と見える」

「次はどうするかな」

「コークスクリューはどうだ?相手が右手でジャブを打って来るなら、左手側に隙ができる。そこを突かない手はないだろう」

「そうだな。狙えるようなら狙ってみるよ」

明は米原にセコンドについてもらってから半年ほどであったが、もう何年も連れ添っているかのような安心感があった。

「もうそろそろ時間だな。安ずるな、行ってこい!」

けたたましくゴングが鳴り、猛獣たちはゆっくりと歩み寄った。強烈なオーラを放ち、安威川は明に歩み寄って来る。

“まったく、嫌な野郎だぜ”恐らく安威川も同じことを感じているだろう。

二人ともまだ経験はなかったが、世界戦のような『プレッシャー』がそこにはあった。ジャブが重なり合い、いつも以上にストレートを気にするこの二人のせめぎ合いは、見ている方も息を飲むような攻防であった。

“パワー、スピード、テクニック共に申し分ないな。敬造がもし、先に安威川と出会っていたら奴の指導を買って出ただろうな”

米原はそんなことを思いながらも、明を応援せずにはいられなかった。ボディ狙いの安威川と顔面狙いの明。互いの強打は先程忘れ難いほど鮮明に記憶されたわけだが、それを恐れては真の強者にはなれない。

先に動いたのは明だった。ジャブの嵐を掻(か)い潜(くぐ)り、強烈な一撃を相手にブチ込んだ。だが、渾身のコークスクリューは外れてしまった。この隙を安威川が見逃す筈がない。鞭のように撓(しな)らせた強烈な左フックが明の顎を捕らえる。

そこからのパンチの応酬は凄まじいものであった。7秒間に28発もの連打で、まるで今、試合が始まったかのような動きで明をマットに沈めにかかる。明の顔は風船のように腫れ上がり、額が切れて血が吹き出して来た。崩れ落ちる明。

レフェリーが素早くカウントを始めるが全く起きる気配がない。最早これまでか。

3、4、5―――。無情にも時は過ぎ去って行く。誰もが安威川の勝ちを確信し始めていた。

「明くん立って!!」

観客が一斉に見る程の声で、秋奈が明に呼びかける。

6、7、8―――。その声援が通じたのか、ゆっくりとではあるが明が身体を起こし立ち上がって来た。目が眩み、身体が鉛のように重い。安威川が3人見え、慌てて頭を振って視力を取り戻す。

“負けられねえ。俺は絶対コイツに勝つんだ”燦々と輝いた明の瞳は、闘志を忘れてはいなかった。10秒後、このラウンドはゴングに救われる形となった。

1分間のレストを挟んでの第4ラウンド。流れに乗っている安威川は、強烈な『エルボーブロック』で、明のアッパーを防いだ。

“鉛のように重いパンチだな”安威川にそう思わせたこの攻防は痛み分けとなり、骨が割れそうな程の衝撃が、両者の腕に襲い掛かった。息つく間もなく、残像が見えそうな勢いで、拳を繰り出して来る安威川。

 “体力持つのかコイツ?まあ、そんなバカな訳ねえよな”明がそう考えている間にも、安威川は手を休める様子はない。

 “思い付きで行動しよるけど、その全てが当たってる。勘の鋭い奴やな”対する安威川は、攻めあぐねながらそう考えていた。

 “足が止まり易い野郎だな”そう感じた明は、ここで一発『クロスカウンター』を決め、ダウンは奪えなかったものの、主導権を握った。

二人の実力はほぼ互角。いざという時は『地が出る』ものであり、日頃どれだけ鍛錬を積めているかの差が如実に現れる。安威川の体重が右に傾き、追い打ちを掛けるように明は攻勢に転じた。

しかし、安威川は得意の『エルボーブロック』で明の『コークスクリュー』を防ぐ。 そこでできた僅かな隙を突き、明は左ストレートを炸裂させた。 だが、故意ではなかったものの、足を踏んでしまっていたため、1点の減点となってしまった。倒れ掛かる安威川。絶好のチャンスだが、ゴングまで後20秒もあったにも関わらず、明は手を出さなかった。

 不良時代には考えられなかった。卑怯なマネをして相手を倒しても、それは真の勝利ではない。そう考え、ゴングが鳴るまでの間、己の『武士道』を貫くことを止めなかった。

「おめえ、見上げた根性じゃねえか。日本チャンプ相手にフェアプレーを貫くとはよ」米原は心底感心したといった様子だ。 

「正々堂々と闘わないのはスポーツマンじゃないぜ。皆藤兄弟と闘って、そう思ったんだ。それより、どうも相手のパンチと噛み合わねえんだ。上手く誘導されてるような―――なんかこう相手のパンチを空かすような方法はねえもんかな?」

米原は少し考えた後、閃いたように僅かに口元を緩めた。

「それなら身体を左に傾けてみろ。右手のジャブも左手のストレートも避けやすくなる筈だ」

明は目から鱗が落ちたと言わんばかりに5回ほど首を縦に振ってみせた。ゴングが鳴り、第5ラウンドが開始されると、安威川のジャブを例の『傾き戦法』で封じにかかる。

「くっ」

自慢のジャブを無駄のない動きでひらりと躱され、安威川の気持ちが思わず声に出る。

“すげえな、伊達に世界チャンピオンのセコンドやってる訳じゃねぇぜ”明は米原の実力を改めて認識し直した。先程、門前の虎のように見えていた安威川も、今の明には借りて来た猫のようにさえ見える。

タイミングをズラし、安威川が左ストレートを繰り出して来ても、暖簾に腕押し、柳に風、今までのことが嘘のように簡単に躱せてしまうのだ。明は安威川の攻撃を何度か躱した後、ジャブを合わせ、右ストレートを放った。これがクリーンヒットとなり、安威川はこの試合初めてのダウンを奪われてしまう。

“このまま起きて来ないでくれ”明は心底そう願っていたが、ラスト2カウントを残して安威川はゆっくりと身体を起こし、立ち上がって見せた。ファイテイングポーズをとった安威川のグローブをレフェリーが丁寧に拭き、試合を再開させた。

刹那、明が気を抜きかけていたのを安威川に勘づかれ、強烈なアッパーを食らってしまった。蹌踉めいた明に、安威川が猛威を振るおうと距離を詰めた瞬間、第5ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。

 

 

安威川陣営セコンドの市川は明の底知れぬ強さに俄かに焦りを感じていた。彼は元消防団の団長であり、地元では鬼軍曹として名を馳せていた人物である。安威川はこの師を慕い、ボクシングにだけは妥協しなかった。

ただ好きなことを一生懸命に頑張るだけ。そう言っていた彼は、臆病ゆえに誰よりも練習を積んで来た。どうしても、どんな手を使ってでも勝たせてやりたい。そう思う市川は安威川の両頬を、乾いた音がするほど掌で張った。

「気持ちで負けたらアカン、最後は根性や」苦しくなる度に、いつも思い出して来た言葉。安威川は熱海合宿の時に言われた言葉を噛み締めるように自分に言い聞かせていた。レストタイムの間、互いに精神を研ぎ澄ませ、試合は怒涛の第6ラウンドを迎えた。

“クソっ、またかよ”

安威川は明の戦略を封じたいのか、またしても『オーソドックススタイル』に戻して来た。このラウンドは両者打ちあいに徹することとなった。明がストレートを当てれば安威川も負けじと当て返し、安威川がジャブを当てれば明もまた当て返すといった具合であった。二人は全くの互角。陰と陽のように混ざり合い、互いに一歩も譲る気配がない。ゴングが鳴るまで一瞬の間もないほどに打ちあい、熱を持ったまま第6ラウンドを終えた。

「クロスカウンターを打ってみろ。オーソドックススタイルには効果的な筈だ」

米原の言葉に、疲弊している明は頷くだけで返事をした。そして、息の詰まるような攻防の中、第7、第8ラウンドを闘い、二人の戦士は第9ラウンドを迎えた。このラウンド明はゴングの音が聞こえず少し出遅れてしまい、あわや審判に注意されるかと思うほどのことであった。

一方の安威川は多少余裕を持っているようにさえ見える。しかし、際どいラインを狙い過ぎたのか、安威川の右が空を切る。その決死の右ストレートに対し、必死で応戦しようとする明。しかしこれは罠であり、安威川は態とジャブを空振りさせたように見せ、その後の必殺技で仕留める算段であった。そしてその計画通り、明の渾身の『クロスカウンター』は外れてしまった。

安威川は相手の動きを見極め、寸前で躱す能力に長けているようだ。またしても隙を作ってしまった明に、安威川が猛威を振るう。

『ホワイトファング』

これは相手の顔に向けて、右手を上から、左手を下から放つ技で、狼が噛み付くように顎を狙い一発KOを狙う必殺技である。これが見事に顎に命中し、『ジョー・ブレイク・ファング』となって炸裂する。冷たい氷で射抜かれたような迫撃により、一瞬のうちにダウンを奪われる明。

 6、7、8―――。立った時には意識がなかった。無意識にファイティングポーズをとり、拳を握ったところで目が覚める。習慣とは恐ろしいものである。プロレスラーは寝ている時に肩を抑えられると咄嗟にフォール負けを避けると言うが、今の明もそういった状況なのであろう。

 あっという間に倒される『フラッシュダウン』であったため、ほとんどダメージが残らなかったものの、強烈な技のインパクトに気圧されてしまう形となった。ここで安威川は左利きにスイッチして、腕を振り抜くようにパンチを繰り出して来た。情け容赦なく、ここで勝負を着ける気でいるのであろう。

まるで今試合が始まったかのように一気に攻勢に転じる安威川を前に、明は思わず圧倒されそうになる。顔が腫れ額が切れようとも、もう誰にも試合は止められない。明はこの時、一縷の望みに懸けようと決心していた。新必殺技『クロスクリュー』に。

 まるで逃げられない檻の中に閉じ込められたような。二匹の猛獣たちは熱く滾ったその闘志を冷ますかのようにしてぶつけあっていた。スピード&ラッシュで来る安威川に対し、大振りで振り抜きカウンターをまるで警戒しない力業によって殴打する明。感覚が研ぎ澄まされ、互いに互いの限界を超えようとしていた。そして安威川が放った『ホワイトファング』に対し、明は渾身の『クロスクリュー』を合わせに行った。地震のような衝撃が起こり、無残に横たわる二人の人間。

 「1、2、3、4―――」

 カウントは進んで行くが、二人とも死んだように動かない。

 「5、6、7―――」

 大きな局面を迎えた試合の行方を、皆が固唾を飲んで見守っている。

「8、9―――10!!」

 戦慄のダブルノックアウトに凄然と静まり返っていた場内が騒然とし、凛として審判が説明を始める。

 「ただ今の試合、互いに続行不可能であるため『引き分け』と看做します」

 白熱の決戦も勝敗は着かない結果となってしまった。続けざまに審判が解説を加える。

 「この場合、日本ボクシング協会の規定により現王者、安威川 泰毅選手の防衛成功となります」

 つまり、明は『タイトルホルダー』となることはできず、無冠のままとなる。試合後、ほぼ同時に意識を取り戻した二人は、健闘を讃えるため互いに歩み寄って話をした。

 「ええ技やったわ。俺もまだまだやな。次は完膚無きまでにブチのめしたるわ」

安威川はこの不撓(ふとう)不屈(ふくつ)の強靭な意思で困難に立ち向かって来たのであろう。

「ああ、本当に良い試合だったと思うぜ。次に勝つのは俺だけどな」

対する明も堅忍(けんにん)不抜(ふばつ)の強固な意思でここまで勝ち上がって来た。この長丁場を終えた二人は、良きライバルとして互いに健闘を讃え合った。その後、明は控室にて五十嵐と今日の試合を振り返っていた。

 「あ~。今、座るとドッと疲れが出て眠っちまいそうだぜ。それにしても、しょっぱい試合になっちまったな」初めての白星でない試合に、納得が行く筈もない。

「実力は本当に互角だった。これから大切なことは、試合に勝ち続け、世界チャンピオンとなることだ。今回のことは残念だったが、気にすることはないぞ。ボクシングで言えば、お前は倒された訳ではない。最後まで立って王座を獲得する。これが一番大切だ」

 怒られるかと思ったが、意外にも五十嵐は前向きなことを言ってくれた。

「そのためにはもっともっと練習しないとな。勝てない相手が居るってことが、こんなにも気分の悪いことだとは思わなかったぜ」

「お前は十分に強くなった。どうだ、これから『アジア』へ挑んでみないか?」

「アジアか―――。そうだなあいつも今のまま立ち止まるようなヤワな奴じゃねえだろうし、先を越されねえうちに高みを知っときてえな」

急な提案に臆する者もありそうな話だが、明は恐怖など微塵も感じてはいなかった。

 「次の目標は『東洋太平洋チャンピオン』だな。気合い入れて行くぞ」

 「おうよ。これからもよろしく頼むぜ」

 『最強』の、この人について行けば大丈夫。明はこの時、そう信じて疑わなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章 東洋偏

安威川 泰毅との試合で辛くも引き分けた明だったが、その後、豪州最強のテクニシャンで、『マリックビルの誘導弾』と言われる連打で敵を打ちのめす、ダニエル・フェネックという選手を撃破し、東洋太平洋チャンピオンであるグラッチェ浜松との対戦が決まった。

1週間の休養を経た後、試合に向けてのジムでの練習開始前に五十嵐から話があると言われ、明と秋奈はいつもより少し早めに来て待つことにした。待つこと10分。疲れたように五十嵐がジムに入って来た。

「二人とももう来ていたのか。話と言うのは今後の練習についてでな。2ヶ月後から俺がつきっきりで赤居の練習を見ることにする」

これまで練習は全て秋奈と行っていた明は、やっと五十嵐から教わることができると喜ぶ反面、つきっきりと言う言葉に引っ掛かりを覚えた。

「そいつは嬉しいことだが、おっさんは自分の練習はどうするんだ?今まで練習が忙しくて見てやれねえって言ってたじゃねぇかよ」

「そのことなんだが、俺は次の試合を最後に引退しようかと考えているんだ」

「いいのかよ、おっさん。ボクシングが好きで今、14度も防衛してて日本記録なんだろ?このまま勝ち続ければ記録を伸ばせるってのに。まさか、俺のコーチをするために引退するんじゃねえだろうな」

「そうだよ、叔父さん。何もチャンピオンでいる間に引退することはないんじゃない?まだやれるって口癖のように言ってたじゃん」

「お前たちの気持ちは嬉しい。だが、これはもう決めたことなんだ。俺はボクシングを始めた時に最強を目指していつも鍛錬に励んできた。そして今回、最強と言える相手と試合をすることができるんだ」

「最強―――どんな奴なんだよ、そいつは?」

明は五十嵐に最強と言わしめる男に興味を示さずにはいられなかった。

「マイク・レイ・ロビンソン。アメリカ、ニューヨーク出身のボクサーだ」

「マイク・レイ・ロビンソン?知らねえな」

明はニュースや新聞など見ないため、世の中のことなど全く分かっていない様子だ。

「お前如きがその名を口にするのも烏滸(おこ)がましい男だ。21戦21勝、無敗。この男に勝てる奴はバンタム級で史上最強と言われるに相応(ふさわ)しい。奴は俺の一つ下の階級のチャンピオンだった。それがこの度階級を変え、俺の前に立ちはだかったって訳さ」

いつになく嬉しそうな五十嵐を見て、明はこの話を受け入れることにした。

「分かったよ。おっさんが決めたんなら、それでいい。7月からよろしく頼む」

聞き分けのいい明に対して秋奈は不満そうだが、口には出さなかったようだ。

「お兄ちゃんにも―――話していいかな?」

五十嵐は少し考えた後、柔らかい言葉を選ぶようにして言った。

「お前の好きにしろ。あいつは多分、見には来ないと思うがな」

秋奈は悲しそうにしないように努めた。

「赤居、今度の相手は一段階レベルが上がるぞ。今までの相手とはタイプが異なって来る」五十嵐の言葉は発破をかけるための脅しではない、明は直感的にそう感じた。

「あの安威川よりも強いってのか。一体、どんなタイプなんだよ?」

「今までお前が対戦してきたのは、攻撃型の選手ばかりだ。平凡なコーチでも攻撃型の選手は育てられるが、有能なコーチでなければ防御型の選手は育てられない。防御主体のグラッチェと闘うのは、思いの外、骨が折れると思うぞ」

「その防御型の選手ってのは、なんで今までの奴らより強いんだ?ただ守るだけなら、そこにパンチを打ち込んじまえばいいじゃねえか」

明は一般的に頭が良いと言われる部類ではないが、妙に核心を突くことがある。

「良い質問だ。攻撃型は体重が前にかかり、相手のパンチのダメージをもろに食らうのに対し、防御型は相手が襲い掛かって来るのを仕留める頭脳型の選手だ。KOされにくく、ダメージも受けにくい」

「俺は攻撃型だよな?じゃあ、なんで最初から防御型にしてくれなかったんだよ」

明の鋭さに五十嵐は感心しつつもこう答える。

「経験を駆使し、高度な防御技を身に着けなければちょっとやそっとじゃ防御型にはなれないのさ。打たなければ負けてしまうボクシングの世界で、KOパンチを食らわないようにしながら、虎視眈々と機会を伺うことの難しさが、今のお前になら分かるだろう」   

五十嵐の言葉に一切の嘘はない。

「そうだったのか。まあ、おっさんがそう言うんなら信用するぜ」

「それでだ、赤居。お前にはこれから下半身を徹底的に鍛えてもらう」

「下半身のトレーニングか。一体、何をやればいいんだ?」

 「足の親指を強化するために、これから試合の3日前まで毎日欠かさずに、葛西(かさい)海浜(かいひん)公園で一日10本×3セット50mダッシュをしてもらう。1本も手を抜くんじゃないぞ」

五十嵐は練習についての話をする時、いつも目を輝かせて話していた。

「分かってるって。そんじゃあ、勝ったらまた雷鳴軒に連れて行ってくれよな」

 「雷鳴軒!!お前も行ったことがあるのか?俺はあの店のラーメンが大好きなんだ」

 「何言ってんだよ、おっさん。一年前に一緒に行っただろ」

 五十嵐は目を見開いた後一瞬真顔になったが、すぐに話しを再開した。

 「そうだったな。いや、なに、軽いジョークで言ったまでさ」

 「ビックリさせんなよ。まんまと騙されちまったぜ」

 五十嵐の蟀谷から顎にかけて、一筋の汗が滴り落ちる。

 「はっはっは。まだまだ未熟な奴だな」

 何気ない会話でのこの言葉を、二人は違う意味で捉えていた。

 「それからな。試合前に取って置きを教えておいてやろう。クロスクリューは破られる可能性のある技だ。しかし、俺は『改良』する方法を知っているからな」

 明は嬉しそうな笑顔を見せている。

 「おお~頼もしいな。流石は世界チャンピオン」

 “脳天気なのは悪いことばかりではない”五十嵐はそう感じていた。

 

 

 それから秋奈にタイムを計測してもらいながら、毎日メニューを熟し、50m走が6.2秒から6.1秒で走れるようになった。

そして迎えた決戦の日。1984年6月9日、名古屋国際会議場で、3000人の観客の前で東洋太平洋チャンピオン、グラッチェ浜松との対戦が行われようとしていた。中部国際空港があれば、時間を惜しんで空路という選択肢もあるだろうが、1984年には1964年10月に開通した東海道新幹線で向かうのが関の山であった。

この日のために明は秋奈と一致協力して練習に励んできた。負ける訳には行かない。

この試合に勝てば、初めて『タイトル』を手にすることができる。ボクサーにとってベルトとはつまり『憧れ』であり、どんな苦難を乗り越えてでも手にしたい至高の一品なのである。試合開始一時間前、わりとリラックスした明が控え室を出ようかと扉を開けると、偶然にもグラッチェ浜松が通りかかった。

「おう、赤居くん。君もトイレか?」

彼の素っ頓狂な言葉に明は思わず笑ってしまいそうになる。

 「なんだよ、おっさん。俺は今からやる、安威川と古波蔵のおっさんの試合が見たいんだよ」

眼中にないと言われた気がして、一瞬グラッチェの目つきが鋭くなる。

「そうか~今日はいい試合をしような」

「そうだな。だが、悪いけどベルトは俺が貰うぜ。五十嵐のおっさんとの約束だしな」

「ふふっ。そう言えば五十嵐くんの教え子だったな。残念だけど、東洋太平洋のベルトは僕の腰に巻かれている方が似合っているのさ~」

そう言い残すと、グラッチェは自分の控室へと帰って行った。大一番の東洋太平洋タイトルマッチとあって、声が裏返りそうなほど張り切っている司会の男がアナウンスを始める。

「今日の対戦は皆さんご存知の東洋太平洋チャンピオン、グラッチェ浜松選手と先日、安威川 泰毅選手と激闘を繰り広げた浅草の闘犬、赤居 明選手の対戦です」

観客が沸き上がり入場曲が流れ終わった後、両者リングへと上がった。

 「グラッチェ選手は身長167cm、体重118ポンド(54kg)で34歳。高知(たかち)ジム所属で、銅色のトランクスがトレードマークです。戦績は29戦22勝4敗3分5KO、頑固で意思が強い選手として有名です。ジムで教えていた後輩を叱り飛ばし、泣かせてしまったことがある程です。赤居選手は拳を縦に重ね、まるで小さな武士のような格好で構えるボクサーです」

軽快な口調に、会場のボルテージが一気に上がって行く。審判の男がルール説明を終え、五分後に試合が開始されるという。米原との最終確認にも余念がないよう留意する。

「いよいよここまで来たな。どうだ、今の気分は?」

「興味ねえよ。俺が目指してんのは世界チャンピオンただ一つだ」

「頼もしい限りだな。昔、敬造が言った言葉と同じことを言うとは」

「絶対におっさんのベルトは俺が引き継ぐぜ。空位になるバンタム級の世界王座に就こうとするには、東洋くらいは制覇しとけって言われてるからな」

 本気の本気。今日という日まで、これで勝てなければ、おかしいというところまで追い込んで来た。

 「相手が日本人で良かったな。OPBF、東洋太平洋ボクシング連盟が仕切る試合では、地元判定に泣かされる選手が多いというのに運の良いことだ」

 米原は遠い目をしながらそう語った。

 「運も実力だからな。俺は今日の日のために、それを活かせるだけの努力をして来た。だから、勝ちが巡って来る可能性は十二分にある筈だぜ」

「その通りだ。国内王者、ナショナルチャンピオンになりたかった訳ではないだろう。さあ、栄冠を勝ち取って来い」

明は米原に促されるままに、リングへと躍り出て行った。

 

矛盾ばかりの組み討ちありて、尾張の中心(なから)で雌雄を決す。

『絶対防御』グラッチェ浜松。

 

「さあいよいよ試合開始であります。両者歩み寄って攻撃を開始します。まず最初にジャブを打ったのは赤居。軽く、鋭く、スピードのあるジャブであります。グラッチェは『ステッピング』を使って巧みに躱(かわ)しています」

今回の東洋太平洋タイトルマッチは、ビッグマッチであるため、日本中にテレビ中継されることとなった。アナウンサーは『いいたおし』の愛称で親しまれている、井伊谷 雄則である。

「おっと、ここで赤居が大振りのアッパーを繰り出します。しかしグラッチェは『バックステップ』を使って赤居の攻撃を全く寄せ付けません。攻撃をせずとも優勢と見て取れる試合運びを、グラッチェは意のままに繰り広げています。しかし、赤居もあの手この手で攻勢を崩さず、東洋太平洋チャンピオンに対して少しも引けを取っておりません」

いいたおしは軽快な調子で話し続ける。

「そして、今度は赤居選手のジャブとフックです。しかし、これはグラッチェに対しては全く当たる気配がありません。試合開始二分三十五秒、二人の選手は一度も拳を当てることなく試合を続行しています。ですが、両者余裕を持って試合をしている訳でなく、緊張した空気の中、息を飲むようなせめぎ合いが展開されています」

そしてここで、いいたおしは何かに気が付いたようだ。

「あっと、今、引きながら間合いを取るスタイルのグラッチェに、審判からもっと積極的に闘うようにとの注意があったようであります。警告の中、第一ラウンド終了です」いいたおしは、速いけれど聞き取り易い、絶妙なペースで話し続けている。

「いや~二人とも見事に守りを固めていますね~。どうですか佐藤さん?」

割って入るタイミングが無かったところ話を振られて、解説の元WBA世界王者、佐藤 勝也がここぞとばかりに口を挟む。

「二人とも鉄壁の守りを見せています。互いに割って入るのは難しいのではないでしょうか」

自分の状況と重ね合わせているようだが、視聴者もいいたおしも気付いてはくれない。

「なるほど~。これは面白くなりそうですね~」

聞いているのか、いないのか。このタヌキ親父は目が笑っていないので、どうも信用できない。

「続いて第二ラウンド開始です。お~っとグラッチェ、今度は『スリッピング』を使って赤居からの攻撃を避けています。これはパンチが伸びる方向と同じ方向に顔を背けるようにして受け流す技で、中南米のボクサーを中心に見られる高等技術であります」

いいたおしの流れるようなトークで、放送は彼の独擅場と化している。

「おっと、しかし赤居の拳が二発、グラッチェに当たったようであります」

視聴者には当たっているのが分からない者もあったようだが、いいたおしにはしっかりと見えていたようだ。流石は一流アナウンサーといったところか。

「次はグラッチェが攻撃を仕掛けたようであります。フックを織り交ぜた見事な攻撃の応酬。ですがこれは赤居に届かないようであります。そして日本中が興奮の渦に巻き込まれる中、第二ラウンド終了であります」

佐藤は解説を加えて話を広げようとしたが、いいたおしからは気のない返事が返って来ただけであったため、水を飲んで時間が過ぎるのを待つことにした。

「さあ続いての第三ラウンド、グラッチェは『ウィービング』を使って赤居を惑わせております。これは上体を上下左右に動かし、的を絞らせない防御法であります。あっとグラッチェ、顔が少し赤くなっております。赤居の攻撃が当たり始めたため、怒りを露わにしているようであります」

グラッチェの顔は溶岩が沸き立つように赤みがかっていた。

「第四ラウンド突入であります。グラッチェ、今度はどんなテクニックを見せてくれるのでしょうか。おっと、『ダッキング』であります。ここへ来て防御技の基本へ立ち返る戦法に出たか。アヒルが水面を潜るように頭を素早く下げて赤居のパンチを躱しております」

いつテレビに映るか分からないため、佐藤は欠伸を堪えながらも真面目な顔をしていた。

「第五ラウンド、依然としてチャンピオンであるグラッチェ浜松が優勢であります。このまま王座を護り切ることができるのか。それとも赤居が意地を見せるのか。そしてグラッチェ、続いては『スウェーバック』であります。これはスウェーイングとも呼ばれ、上体を後ろに反らすだけで相手の攻撃を避ける技法であります」

 いいたおしは続けざまに解説を加える。

 「目の良いボクサーは『スウェーバック』に頼る傾向がありますが、チャンピオンもその例外ではありません。お得意のスタイルで相手を翻弄(ほんろう)します」

“流石によく分かっているな”いいたおしの解説に、佐藤はこの場における自分の必要性に対して疑問を抱き始めていた。

「会場の声援が勢いを増したまま第六ラウンド開始です。グラッチェ、どれほどの数の防御技を持っているのでしょうか。技が尽きる気配がありません。お~っと、このラウンドでは攻勢に転じるようです。両手を交互に打ち出しての目まぐるしい連続攻撃。あ~っとこれには赤居、反撃の機会がないか。いや、打ち込みました。重たい一撃。出ました『クロスクリュー』です。そして倒せると分かったら、ここぞとばかりに打ち込みます。これにはグラッチェ、堪らず『クリンチワーク』です。これは相手に抱き着いて攻撃を止める防御技です。レフェリーが二人を引き離したところでラウンド終了です」

“いつ息してるんだろう”佐藤は流れるように言葉を並べ立てるいいたおしの呼吸法に興味津々であった。

「さあ、試合は折り返しのラウンドを過ぎ、第七ラウンドに突入であります。それにしても最初は端麗な容姿もあってか、赤居への応援が多かったのが、今はグラッチェへの声援の方が多くなっています。グラッチェの華麗な技のレパートリーに、会場に居るボクシングファンが魅了されたか。あ~っと、これは凄い。なんとも堅い『ブロッキング』であります。両手を顔の前で曲げ、垂直になるようにして赤居の連撃を防ぎます」

先程まで真面目ぶっていた佐藤だが、少しくらいならと、ここで変顔をし始める。翌朝のスポーツ紙の隅の方に、解説者の顔としてこのシーンが載ることを知っていたら、この行動は取らなかったことであろう。

 「赤居選手はなんだか“圧力”のようなものを受けているように見えますね。凄くやり辛そうにしています」

その“圧力”について佐藤がここぞとばかりに解説を加えようとしたが、途切れることなく発せられるマシンガントークを前に、話に割って入る隙がない。

「第八ラウンド、これは本当に十七歳の、ほんの九ヶ月前にボクシングを始めた選手とキャリア十八年のチャンピオンの試合なのでしょうか。俄(にわ)かに赤居がグラッチェを押し始めております。これは試合前の『負ける姿が想像できない』と言う発言もハッタリではなかったということでしょう。あ~っと、赤居の右ストレートに対し、グラッチェの『ヘッドスリップ』であります。これは相手のパンチを頭を滑らせるようにして避けるテクニックであります」

“それだけじゃないんだって“佐藤は発言したかったが、湯水のように湧き出るいいたおしの言葉の雨を、掻い潜るだけの術がないことを悔やんだ。

「おや?赤居、どうしたのでしょう。勢い余って『たたらを踏んでいます』そして攻勢に転じることができないまま、第八ラウンド終了であります」

 ラジオで競馬中継を聞いている時のように、佐藤は前のめりになってタイミングを伺っていた。

「第九ラウンド開始。赤居は、大きく大きく振りかぶるように左ストレートを出しております。これにはグラッチェも堪らず『クロスアームガード』で応戦します。左手を横にして前に、右手を縦にして後ろに構え、さらに守りを堅くします」

 結局佐藤はこのラウンドも全く発言できないまま置き物のようにその場で固まっていた。

「いよいよ終盤、第十ラウンドであります。グラッチェなんと今度は『カバーリングアップ』であります。『カバーリングアップ』とは、両腕で顔面と身体を完全に防御することであり、しばらくこの状態だと闘う意思がないものと看做され、反則やカウントを取られるものであります。そしてグラッチェのこの技は特に、ファンからは通称『幻の岩』と呼ばれ、この鉄壁の防御が彼の代名詞となっております」

“すげえ詳しいな。俺もそこまでは知らなかったよ”

いいたおしの余りに博学なところに、佐藤は素直に感心した。

「さあ赤居、グラッチェの『幻の岩』を果たして打ち砕くことができるのか。岩の鎧が頑なに赤居の攻撃を寄せ付けません」

そして明が攻略法を思案している間に、このラウンドは終わりを告げた。

「出ました~。拳を天高く突き上げる『グラッチェポーズ』です」

明の攻撃を完璧に退けたことに対する喜びの意、審査員に対し自らが優勢であるとアピールするという意。このポーズにはその二つの意味合いが込められていた。

「さあ残すところ後二ラウンド。第十一ラウンドの開始であります。赤居の強烈な右フックに、グラッチェは返す刀でこれまた激烈なカウンターをお見舞いしております。単調な拳は、カウンターパンチャーの大好物であります。意識してフックを打たせていたのは、カウンターのための呼び水でありました」

 “よくこんなにポンポン言葉が出て来るな。酒飲んで酔っ払ってるみたいだ。まあ俺は飲んでもこんなに喋れねえけどよ”

非常識な話ではあるが、佐藤の見立ては正解であった。よく口が回るようになるため、テレビ局の上層部からは半ば黙認されているような話だが、このオヤジは仕事の前に一杯ひっかけて来るのが習慣になっていた。

 「ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット~」

狂った九官鳥のように同じ言葉を繰り返すので、佐藤は笑いを堪えるのに必死であった。

「激闘の末、ファイナルラウンドに突入であります。世界戦では十五ラウンドありますが、東洋太平洋タイトルマッチでは最長のラウンドとなっております」

いいたおしは額の皺に汗を滲ませ、最後の追い込みとばかりに喋っている。ラジオで観戦している人にはもう、佐藤が居るのかどうか分かっていない。

「うわ~、決まった~。グラッチェの勢いに乗ったカウンターに対し、更にカウンターを合わせる『クリス・クロス』だ~。先程から高等技術の応酬です。しかも、普通の型とはどこか違っているように思えます。グラッチェ立てるか。どうなるグラッチェ。いや、立てません。レフェリーが両手を上げ、交差させるように手を振って試合を止めました。赤居やりました。十七歳にしてなんと東洋太平洋チャンピオンの栄冠に輝きました。素晴らしい偉業です。この年齢での達成は、同じジムの五十嵐 敬造でさえ成しえなかったこと。本当によくやりました」

その素晴らしい功績を、いいたおしと佐藤が称えた後、五十嵐と秋奈がリングに上がって明に駆け寄る。

「おめでとう、明くん」目に涙を浮かべながら秋奈が賛辞を送る。

「ケチのつけようがない試合内容だった。お前のセンスには恐れ入ったよ」

五十嵐にこうまで褒められると明も素直に嬉しくなってくる。

「ありがとう、おっさん、赤城。今日は納得のいく試合だったぜ」

初のタイトル奪取に、明はご満悦の様子だ。

 「よもやこの二ヶ月間で、あの技をここまで完成させるとはな。『クリス・クロス』と『クロスクリュー』の二つを足して差し詰め『クリス・クロスクリュー』と言ったところか。見事な勝利だったよ」

五十嵐は自分のことのように誇らしげな表情をしていた。

「ああ、これでやっと大きく世界に近づけたって訳だな。みんなには本当に感謝してるぜ」

明は硬派な性格のため、普段はわりと堅い表情をしていることが多いのだが、この時は珍しく表情が緩み切っていた。

「せっかくタイトルホルダーになったんだし、『ちょっと良いお店』で祝勝会を開こうと思うの。店ももう予約してあるんだから。ほら、早く行こうよ!」

 興奮した様子の秋奈を、幼い子供を見るように眺めながら、一行は雷鳴軒での宴会に向かって歩き始めた。

 

 

 明とグラッチェの死闘が終わり、皆が盛り上がりを見せていた頃、五十嵐の世界タイトル防衛戦が決まった。世界チャンピオンを巡るタイトルマッチのファイトマネーは1500万円以上と言われている。相手は五十嵐のたっての希望でアメリカ国籍のマイク・レイ・ロビンソンとの対戦となる。試合5日前、いつものように練習してはいるが、重苦しい雰囲気が漂っている。

 「なぁ、おっさん。ロビンソンってのはどんな奴なんだ?引退を掛けて挑むってことは、相当に強い奴なんだろ?」

 明の言葉にいつになく緊迫した雰囲気の五十嵐が口を開く。

 「奴は異なる階級の選手を比較する『パウンド・フォー・パウンド』において現役の中で最強との呼び声が高いボクサーだ。まだキャリアが浅いにも関わらず、多くの者がそう考えるのは、奴の持つスピードの優位性と高度なコンビネーション技術、『ピーカブースタイル』を用いた強固で卓越したディフェンスによるところが大きいと言える」

 「勝てないってことか?今まで幾多の難敵をマットに沈めて来たんだろ?今回だって大丈夫なんだよな?」

 「それを確かめるために試合をするのさ。最後までどちらが勝つか分からない。それがボクシングだ」

 「おっさんより強い奴なんて居ねえんだよな?俺は世界最強の男、五十嵐 敬造の勝利を信じて疑わないからな」

この質問は五十嵐にとって簡単なものだったが、明の手前返答に困るものでもあった。

 「俺はもう17年もボクシングをやっている。自分で自分の実力が分からない程バカではないさ。ボクシングに絶対はない。勝つために、乗り越えるために、練習し続けるのが世界チャンピオンだ」多少鈍い明にも、あやふやでも分かり易い返答であった。

「七夕決戦。楽しみにしとくよ。いいとこ見せてくれよな」

“明に気を遣われるようではまだまだだな”五十嵐はそう思うと「ああ」とだけ言い残し、米原とスパーリングを再開した。

1984年7月7日。さいたまスーパーアリーナにて試合は行われようとしていた。明と秋奈は開戦15分前、五十嵐のコーナー側の最前列の席で選手入場のタイミングを待ち侘びていた。しばらくするとアナウンサーらしき男が準備を始める。

「赤のコーナーからは31戦30勝1敗18KOの五十嵐 敬造選手。身長166cm、体重118ポンド(54kg)でトランクスの色は金色です。力石 丈やカーロス・メンドーサなど、数々の名選手を破って来ました。冷静だが熱い一面も併せ持つクリーンファイターであります」このアナウンスが明には少し引っかかったようだ。

「1敗?おっさんが負けたことなんかあんのかよ」

この問いに秋奈は少し得意げに答える。

「だから因縁があるって言ってたでしょ」

明は納得が行ったが、その相手と闘いたい気持ちがますます強まった。五十嵐がいつものように谷村 新司のチャンピオンを入場曲として入場する。そこで、会場が少しざわめく、どうやら五十嵐が何もないところで躓いてしまったようだ。

「敬造、お前」米原は身体から血の気が引くのを感じた。

「忠次郎、何も言わないでくれ。これは俺の最後の試合。人生を懸けた集大成なんだ」

米原は迫られた決断と自責の念で今にも気が狂いそうな心境であった。

「いつからだ?どうして気付いてやれなかったんだ―――すまねぇ。だが、これだけは言わせてくれ」米原は全てを受け入れ、五十嵐の目を真っ直ぐ見て言った。

「生きて―――帰って来てくれ」五十嵐は静かに首を縦に振った。

「続いては青のコーナー。アメリカはニューヨーク州、オズウェルトジムのマイク・レイ・ロビンソン。生後3歳までをオクラホマ、9歳までをミシガンで過ごし、母方の祖父が白人でクオーター。ボートを漕いで腕力を鍛えました。6ヶ月で11試合を消化し、あのトレバー・バルボアを倒したこともあります。天衣無縫、自然で美しいファイトスタイルを見て、人は彼を『ノックアウトアーティスト』と呼ぶようになりました」

ロビンソンは『バイソン』の通り名が付いているだけのことはあり、筋骨隆々で如何にも屈強な黒人といった風貌であった。

アメリカの人種は多様で、混血の人々に対していくつかの呼び名がある。ヨーロッパ系白人とインディオの混血の人々である『メスティーソ』アフリカ系黒人とインディオの混血の人々である『サンボ』白人と黒人との混血の人々である『ムラート』他にもスペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す『クリオーリョ』など多くの人種が混在している。

ロビンソンは父親が黒人、母親が『ムラート』のクオーターで白人の血が4分の3入っていた。ヘビー級に居てもおかしくないと思える程のその筋力は、混血の子は強いと言われる域に収まらない程の体格であった。身長173cm体重118ポンド(54kg)とバンタム級では長身の部類に入る。暴力的な試合をする『ラフファイター』であるアントニー・ボルビックを試合開始わずか10秒でKOしたこともあると紹介された。

審判がルール説明を行い、両者コーナーへ戻り、あとはゴングを待つだけとなった。五十嵐側のセコンドは、初めてタイトル戦を行った時のように緊迫した空気に包まれている。日本の国歌である『君が代』と米国の国歌である『ザ・スター・スパングルド・バナー(星条旗(せいじょうき))』が流れ、厳(おごそ)かに試合が始められようとしていた。

大きな盛り上がりを見せ、試合が開始されようとしている中、五十嵐が左手首を右手で抑えていた。普段、試合前にこんな動作をすることはなかった。どう見ても身体に異常がある。

「いつも通りにやるだけだ。なぁ敬造」

米原は五十嵐の緊張を察したのか、言葉を選びつつ場を鼓舞する。小さく頷いた五十嵐から、米原は目を離すことができなかった。

 

 

『カンっ』

ゴングが鳴り、静かに試合が開始された。

まずはロビンソンが豪打の応酬、砲丸を投げつけるように重たい拳が五十嵐を襲う。一発でも当たれば即座にマットに沈められそうである。しかし相手は世界チャンピオン、全く危なげなく、拳の雨を掻い潜る。右利きであるロビンソンは、拳の間から覗き込むスタイルである『ピーカブースタイル(いないいないばあの意)』で守りを固めている。

刹那、張りつめた空気が会場を支配する中、ロビンソンがほんの一瞬、0.1秒ほど瞬きしたのを五十嵐は見逃さなかった。鋭く洗練された拳が、ショットガンのようにロビンソンの左胸を射抜いた。会場が大きく沸き上がる。

 五十嵐の必殺技『ハート・ブレイク・スマッシュ』は相手の心臓を一時的に止め、身体の自由を奪うものである。『スマッシュ』とはフックとアッパーの中間でスリークオーター、ストレートの4分の3の距離で相手に到達する『必殺技』である。

これまでこの技を受けて無事にリングを降りた選手は一人としていない。ロビンソンはあまりの速さに、何が起こったか理解できないほどであった。五十嵐は不敵に口元を緩めるとロビンソンに拳の嵐を浴びせた。

しかし次の瞬間、五十嵐はロビンソンのカウンターによってダウンを取られてしまう。カウント7でなんとか起き上がるが、いつになく動揺しているようにも見える。

“おかしい、いつもの敬造なら今のラッシュで確実に仕留めていた筈だ。一瞬、ほんの1秒ほど相手の回復が早かったように思える”米原はこの只ならぬ事態に冷静さを欠かずにはいられなかった。

 “どういうことだ?『ハート・ブレイク・スマッシュ』は攻略不可能で決まったら確実に相手を倒せる筈だ。こんなことはある筈が―――”米原は一瞬目を閉じて思考を巡らす。

 “ロビンソンがタフなことよりも、敬造の問題だ。あんな身体でまともに闘える筈がなかったんだ”そう考えると米原はタオルを握りしめ、苦悶の表情を浮かべた。

 “止めるべきか?しかし―――”リング上ではロビンソンの必殺技『ガゼルパンチ』が五十嵐の脇腹に重たくぶち当たっている。『ガゼル』とは氈鹿(かもしか)の意を表し、右下から鋭く突き上げるようにして脇腹に拳を当てるこの技は、その強靭な脚力を用いる点が酷似しているため、その呼び名がついた。

肋骨が折れなかったのは、五十嵐が普段から鍛錬の一環として牛乳を飲み続けて来たことによるものであろう。さもなくば彼の骨は一撃の下に砕け散っていた。軋んだ脇腹を気にしながら、五十嵐は渾身のカウンターをロビンソンのテンプルに叩き込んだ。左利きであることの利。閃光のように決まったフックであったが、ロビンソンの脳を十分に揺らすことは出来なかったようだ。

 彼は殺し屋のように目を剥き、身体を捻り、突き放すようにストレートを押し付けた。  

意識が飛びそうになる五十嵐。彼の意識を繋ぎ止めたものは、勝ちへの執念、仲間との絆、精神力、ライバル達の存在、挙げればキリがないのかもしれない。だが、一番大きく彼を支えたのは、出来の悪い息子のような存在だったに違いない。

 並みのボクサーなら膝をつくこともなく崩れ落ちていたであろう。しかし、そこは五十嵐 敬造。世界チャンピオンである。見開いた眼(まなこ)は鬼の形相を携(たずさ)え、ロビンソンを睨みつける。この瞬間ゴングが鳴ったことに、ロビンソンは心底安堵した。

 「五十嵐 敬造。なんて漢(おとこ)なんだ。こんなに闘うことが怖いと思ったのは、少年の頃メキシコのスラムで3人のストリートチルドレンに絡まれて以来だよ」

 ロビンソンは今にも取り乱しそうになるのを必死で抑えているといった風であった。

「マイク、ここが正念場だ。イナズマを喰い、イカヅチを握り潰せ!!」

 緊迫した場面で言ってみたかったのであろう。セコンドのリチャードは冗談交じりに、少し笑いながら映画ロッキーでの名台詞をそのまま口にしてみせた。

 「言ってくれるじゃないか。その言葉、そっくりそのまま実行して見せるよ」

 ロビンソンは少し気が楽になったと言った様子で笑顔になっていた。

 

 

ゴングが鳴り第2ラウンドが開始されると、ロビンソンからはジャブの嵐、そして強烈なミドルフックの後に渾身の『ガゼルパンチ』を繰り出して来た。この試合に於いて、一切の出し惜しみなどない。荒々しいが、見事な程に完成されているロビンソンの強さは本物である。

百戦錬磨の五十嵐だからこそ耐えられたものの、並みの選手なら意識が混濁しているところであろう。目にも止まらぬ急激な試合展開に、観客は固唾を飲んで見守っている。不意に繰り出された、五十嵐の『スマッシュ』が、ロビンソンの腹部中央に強烈に突き刺さった。

 「オゴッ」思わず苦しそうな声が漏れる。

 苦悶の表情のロビンソンを、五十嵐が殺人鬼のように冷徹に見下ろす。

 「7、8、9―――」

 ボクサーにはダウンした時にこのまま寝ていた方が楽なのではないかと思う瞬間があるが、ロビンソンにとって今がまさにそうであった。しかし、そこは世界戦。

 ロビンソンは不屈の闘志で立ち上がり、即座にファイテングポーズをとってみせた。 五十嵐が止めを刺そうと構えた時ゴングが鳴り、第2ラウンドが終了すると、ロビンソンはかなり息が上がっていた。

 「凄いパンチだ。これほどのものは今まで受けたことがなかったよ」

 ロビンソンは冷や汗を拭われながらそう言った。五十嵐の『スマッシュ』は、一撃必殺の『フィニッシュブロー』であり、そう呼ぶに相応しいだけの衝撃であると言える。ロビンソンにとって命拾いの一言に尽きるラウンドであった。

大きな音を立ててゴングが鳴り、多くの観客の期待を背負った中、第3ラウンドが開始された。ロビンソンと対峙するのは初めてだったが、入念に対策を練られ、緻密に試合を計算されていることが伺える闘いぶりであった。ロビンソンは『クリンチワーク』で抱き着くことで、五十嵐の動きを巧みに封じて来る。

五十嵐がパンチを上手く避け、ロビンソンに左フックを当てる。一見優位に立っているようだが、ロビンソンは虎視眈々とチャンスを伺っている。そして、この試合初めてとなる右ストレートを激しく五十嵐の左側頭部に叩き付けた。五十嵐の金のトランクスに無残にも鮮血が飛び散る。

次の一撃を身体の前で腕を十字に交差させて防ぐ技である『クロスアームガード』で辛くも防いだところでゴングが鳴った。間一髪救われたが、お世辞にも安心して見ていられる展開ではなかった。ラウンド終了後、明と秋奈は額に汗を浮かべながら話していた。

「やるじゃねえか、あの野郎。少し効いてんじゃねえのか、おっさん」

 冗談交じりに言ってはみたが、自分の描いていた展開と相違していることは否めなかった。秋奈も同じように感じていたのであろう。いつもよりも口数が少なかった。明は重たい空気を感じ取り、気丈に振る舞っていた。

 「大丈夫に決まってるだろ。14回連続防衛中の世界チャンピオンだぜ」

 秋奈もそれを聞いて安心したのか、無理をしてでも強がって見せた。

 「そうだよね、叔父さんが負ける筈ないもんね」

 そうは言ったものの、二人とも頭の中にある『疑念』を払うことに必死だった。

 

 

その後、五十嵐は必死の攻防で第4ラウンドを終え、レストタイムを挟んだ後、ゴングが鳴り第5ラウンドが開始された。睨み合い、隙を伺う両者。五十嵐の瞬時に加速を付けた、豪快な『スマッシュ』が、再びロビンソンの『心臓』に突き刺さる。

五十嵐が猛打を浴びせるも、今度は止まった時間はたったの1秒。万全の状態なら確実に3秒は相手の時間を止められる筈の『必殺技』も全盛期のキレを見せてはいない。そして、またもや『クリンチワーク』で抱き着かれ、その場を上手く凌がれてしまった。

五十嵐はふっと一息吐いた後、ロビンソンの『ガゼルパンチ』を渾身の『クロスアームガード』で防いでいる。快音が響き渡るあまりの迫撃に、会場がどよめくほどであった。

相手のあまりにタフな肉体に、五十嵐は『スマッシュ』での攻撃を一旦休止し、旧来のスタイルを試してみることにしたようだ。ロビンソンは勝負所を逃さぬようにと、渾身の『ガゼルパンチ』を五十嵐の左脇腹目掛けてぶちかます。

それに対し、五十嵐は狙いすましたように『クロスカウンター』を合わせに掛かった。

しかし、五十嵐の右手での『クロスカウンター』を軽々と避け、ロビンソンは『クリンチワーク』によってその反撃を喰らい尽くしてしまった。

だが、五十嵐は諦めない。絶妙にフェイントを織り交ぜ、慎重に距離を詰め、堅実にその瞬間を探り出す。そして、頼みの綱、左手にて渾身の『コークスクリュー』を放つが、無残にももロビンソンの右手によって握り潰されてしまった。

『恐怖の男』ロビンソンは、土壇場でその真価を発揮しようとしていた。万策尽きたかのように見える五十嵐は、試合開始約20分にして少し意気消沈しているかのように見えた。ラウンド終了後、米原は驚きを隠せないといった様子であった。

「これほどまでに洗練されているとはな。全く、ロビンソンは凄い男だよ。最初の世界戦も、こんな苦しい試合だったよな。いつだって逆境を順境に変えて来た。お前ならまだやれる筈だ。俺はそう信じている」

米原は普段はわりと無口な方だが、ここは自分が盛り立てて五十嵐に勢いを与えたいと考えていた。

「それにしても凄い気迫?『拳圧』だな。これ程のものはグラッチェ浜松と闘って以来か」

“タイプ的にお前の方が有利な筈なのに”その一言を言おうとして米原は咄嗟に飲み込んだ。

“バカ言っちゃいけねえ。こんなに苦しいのに、あんな化け物と逃げずに闘っているんだ。俺が勇気づけてやらねえで誰がやるんだ”そう考えた。

「長年の経験に加えて技の利もある。お前が負ける筈なんてねえのさ。さあ、反撃と行こうか」五十嵐は苦しそうに頷くと、強く拳を握り締めた。

 

 

小技を駆使した第6ラウンド、大技で押し切った第7ラウンドを終え、激しさを増しながら、第8ラウンドが開始された。互いに足を左右に広げ重心を低くした構えであり、主にインファイトの時に用いられる『アストライドポジション』を取っている。

 向かい合って立ち、どちらかが倒れるまで打つのを止めない覚悟を決めたようだ。ロビンソンは舌を出して挑発している。油断したロビンソンに五十嵐が『スマッシュ』をお見舞いする。

しかし、このロビンソンという男は恐ろしくタフである。臍(へそ)の上に突き刺さった筈の迫撃を、分厚い筋肉で受け止めてしまっていた。相当な痛みが走った筈だが、肉体も然る事ながら、精神力も人並外れたものがあると見える。

隙を突いて強烈な『ガゼルパンチ』と見せかけて、そのまま五十嵐の左テンプルを狙い撃ちして来た。本来の五十嵐なら、この戦法が頭にあっただろうが、満身創痍の今の状況では、これが思いの外(ほか)効果的であった。

目を覆いたくなるような一撃が、モロに『テンプル』を直撃した。意識などあろう筈もない。膝をついて倒れかけている光景を見て、誰もが目を疑わずにはいられなかった。胡坐を掻き、前傾姿勢になるような形で、五十嵐はこの試合初めてのダウンを取られてしまった。

日数にして1784日。五十嵐はこれまで世界チャンピオンとして君臨し続ける中で、『ただの一度も』ダウンを奪われたことはなかった。バンタム級のボクサーにしてみれは、この光景事態が既にニュースとして成り立つほどの衝撃的な出来事であった。

微動だにしない五十嵐。もはやこれまでか―――皆がそう感じた矢先、苦しそうに五十嵐が身体を起こした。どうやら意識は回復したが、身体が動かせなかったようだ。

ロープ際まで身体を倒し、反動を使い、なんとか立ち上がって見せた。審判が再開の合図をした1秒後、大袈裟なほどに大きなゴングの音が鳴り響いた。

「どうしよう、明くん。叔父さんが―――」

秋奈はいつになく取り乱した様子である。

「大丈夫だから。信じて見守ろう」

この言葉は秋奈に対してもだが、自分に言い聞かせる意味合いも強かった。

「だって―――」

「だっても明後日もねえだろ。心配すんな。あの人は俺の憧れだ。負ける訳ねえよ」

「そうだよね。叔父さん、無事で帰って来てくれるよね」

力なくそう話した二人には、ハラハラした気持ちを抑えながら、試合を見守ることしかできなかった。

 

 

優勢に見えた第9ラウンド、劣勢に見えた第10ラウンド、精神を削った第11ラウンド、疲弊しきった第12ラウンドを終え、緊迫した空気の中、第13ラウンドが開始された。堰を切ったように力を尽くして闘う二人は、形振り構わずといった感じだ。終盤に差し掛かり、体力が尽きかけているのであろう。

そして、ロビンソンの勢いに乗った『ガゼルパンチ』が五十嵐の身体にぶち当たる。『クロスアームガード』で防いではいるが、縦にした左腕の肘が、不運にも自らの肋骨を痛めつけてしまう。白目を剥き、己を奮い立たせて耐え忍ぶ。

そして、このラウンド二度目の『ガゼルパンチ』が五十嵐を襲う。交通事故のような衝撃に、とうとう五十嵐は血を吐いてしまった。またもや崩れ落ちそうになる五十嵐。

この絶体絶命の状況に、レフェリーは試合を止めようかと迷ってしまう程であった。会場が諦めかけたその時、一人の男が立ち上がった。

「耐えてくれ!お願いだ―――負けないでくれえ!!」

明たちから15m程離れた観客席で、一際(ひときわ)大きな声を出して応援している人物が居た。その青年を見て、秋奈が表情を変えたので、明にはそれが誰なのか容易に想像が付いた。

だが、無情にも時は流れ、残酷にも試合は続いて行く。絶体絶命の状況の中、五十嵐の肝臓を目掛け、ロビンソン必殺の『リバー・ブレイク・ガゼル』が炸裂する。それに対し微動だにしない五十嵐。不気味な膠着状態が訪れる。

不思議に思ったレフェリーが、真正面から五十嵐を見て、慌てて両手を交差させる。

突然の出来事に、会場からは驚嘆の声や悲鳴が聞こえる。一体どうしたというのであろうか。なんと、五十嵐はファイティングポーズをとったまま気絶してしまっていた。

弁慶宛ら、なんという『精神力』であろうか。衝撃の『スタンディングノックダウン』に会場は大混乱の様相であった。

「嘘だ―――嘘だろ!!」

いつもは取り乱すことなどない明だが、流石にこの状況には動揺を禁じ得なかった。明と秋奈はタンカで運ばれる五十嵐に駆け寄り、必死に声を掛け続けた。米原は命を削って挑んだ五十嵐に、何もしてやれなかったと、悔やんでも悔やみきれなかった。

明は両の拳を強く握り、噛み砕かんとするほどに歯を食いしばった。泣き崩れる秋奈を、力なく支えることしかできない自分に、激しい憤りを感じた。

“待ってろよ。いつになっても、この借りは必ず返すからな”

明は天地天命に誓って、ロビンソンにリベンジすることを決めた。

 

 

「俺、ロビンソンに挑戦するよ」

 ロビンソンとの試合後、歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学附属病院で目を覚ました五十嵐に、明は当然のようにそう伝えた。酷い昏睡状態が続き、一週間ぶりに五十嵐が意識を取り戻してからは、多少の動揺と気遣いがあったものの、やはり明に率直な気持ちを抑えることは難しかったようだ。

 止める理由なんてない、だが本当に今の段階で明をロビンソンと『ぶつけてしまって』良いものなのだろうか。明のことを一番良く分かっているのは自分だ。それは間違いない。

 しかし、可愛い教え子を千尋の谷に突き落とすようなことをしたい者などいるのだろうか。ボクシングに100%はない。それでも実力の劣る明をロビンソンと闘わせるのは『無謀』の一言に尽きる。だが、明の性格を考慮し、説得はしないでおいた。

「強さとは何か、見極めて来い」

 これが五十嵐が課せる明への唯一の課題であった。乗るか反るか、勝つか負けるか、生きるか死ぬか。人生とは常に選択であり挑戦なのである。どんな結果でも必ず自分に振りかかって来る。

それを良くしたり、伸し掛かって来るものを軽くしてあげたいというのが、親心というものであろう。この歳まで結婚もせず子供も儲けなかった五十嵐が実の息子のように感じている明が、自分の限界を超えるために強敵と相見えるというのだ。止めようなどと思うものか。男にはやらねばならぬ時がある。

 自分の敵を討とうと言う子心を踏みにじるような無粋な男に成り下がらなかったことを少し誇りに思う反面、経験を積む代償を払わせてしまうことに対して苦悩せずにはいられなかった。

 そして、ロビンソンと対峙する際、五十嵐が陥っていた病状は深刻なものであった。

 『パンチ・ドランカー』

 症状としては、末端神経の麻痺、記憶の欠如、意識が途切れたり、不意に睡魔に襲われたりする。五十嵐の場合は、だいぶ症状が進行しており、所謂『再起不能』の状態まで追い込まれてしまっていた。

結局、試合から二週間経っても五十嵐は真っ直ぐ歩くことさえままならないほどであった。五十嵐のリハビリに付き添っている間、明と話しながら、秋奈はとても恨めしそうにしていた。

 「叔父さん、本当、残念だったよね。あんなに練習したのに」

 「それは向こうだって同じだ。努力の真価はただ結果のみに表れるからな。そこに才能や運があったとしても誰も文句は言えねえよ」

 明は意外とリアリストであり、どこまでも現実をシビアに捉えているようだ。

 「叔父さん言ってたんだよ。明くんのためにロビンソンだけは俺が倒しとかないといけないって。これが俺に出来る最後だって」

 秋奈はこの二週間で人が変わったかと思うくらい笑わなくなった。昔のように笑ってほしい。五十嵐が元のように回復することも必要だが、自分には仇敵を討つことでしか、秋奈の心を晴らしてやれる方法はないと考えた。

 「その想い確かに受け取ったぜ。大船に乗ったつもりでいろよ」

 明は秋奈の目を真っ直ぐに見てそう言った。

 「ごめんね、応援に行きたいんだけど、叔父さんを一人にする訳にもいかなくて」

 秋奈はこれまでに見せたことのないくらい悲しそうな表情を見せた。

 「俺なら大丈夫だよ。おっさんのベルト、絶対奪い返してやるからよ」

 明はいつしか未だあどけなさの残る青年から、精悍な男の顔付きに変わっていた。

 「うん、約束だよ。待ってるからね」

 今にも泣きだしそうな秋奈の表情は、『行かないで』そう言っているように見えた。

 

 

明は試合を前にジムで練習して行く中で、妙な高揚感を覚えていた。世界チャンピオンに挑戦するというよりも『あの』五十嵐を倒した男と自分が試合をするということが素直に嬉しかった。試合を前に米原は、盤石の体制で挑むことのできない明を不憫に思いつつも、やれるだけのことはしてやろうと誓った。

「その意気だ。試合2日前まで毎日、二重跳び3000回のノルマを与えよう」

「しちめんどくせえな。まあ、勝つためってんならやったろうじゃねえか」

空元気といったところか、明は試合に臨むに当たって、恐怖心など噯(おくび)にも出さなかった。なんとか善戦させてやりたい。米原はそう思うことしかできなかった。

 試合は1984年9月9日、東京都墨田区横綱一丁目にある両国国技館で行われる。 選手紹介を受け、国歌斉唱後に開戦した。五十嵐と秋奈は、必死で不安を押し殺し、病院のテレビでこの試合を観戦することにした。

 『カンッ』

 ゴングが鳴ると両者向かい合い、ジャブを打ちあう。相手の思いを知るように、まるで拳で会話するかのように。挨拶代わりとも言うべき打ち合いが終わると明はフック、アッパー、ストレートと息つく暇もないほどの速さで、持てる技の限りを尽くしてロビンソンに襲い掛かる。

 ロビンソンはそれを捌きながらも、どこか冷静に傍観しているかのような様子だ。不意に明の背中に冷たく当たる存在があった。触れるまで考えてもみなかった。まさか全力を持ってしてもロープ際まで追い詰められるなんて。

 一撃が鉛のような重さで、タフであることには自信のある明も、試合開始1分でこの有り様である。体力のある明だが、贔屓目に見積もっても明らかに飛ばし過ぎている。普段から厳しいトレーニングを積んでいるとは言え、15ラウンドの長丁場を思えば体力はいくらあっても足りないくらいだ。

だが、出し惜しみはしない。試合前にそう決めていた。ロビンソンの左フックに合わせて、渾身の右ストレートを打つ。放たれた一撃はロビンソンの左頬に突き刺さり、鋭い音を立てた。

先程まで緩んでいたロビンソンの顔つきが俄かに厳しいものに変わる。ボクサー本来の真剣な顔つきになり、明はそのことを嬉しく思った。見せつけるようにジャブを打つと、ロビンソンは口元を少し緩めると不敵な笑みを浮かべた。ゴングが鳴り、第1ラウンドは終了した。

 「赤居。少しペースを落とした方がいいんじゃないか?このままだと、ジリ貧だと思うぞ」

 「うるせえ。おっさんは黙ってろ。あの動きに対抗するには、これくらいで丁度良いんだよ」

取るに足らないと見ているのであろう。この年頃の人間というのは、自分の認める人物の言うことしか聞かないものである。

 「人生では自ずと自分より強い相手と闘う機会というものが訪れる。その時にどう向き合い、自らを高めて行けるかが大切だ。冷静さを欠いては、本来の実力を出せないまま終わるぞ」

 「そんなこと、言われなくたって分かってるよ。俺には俺の考えがあるんだ」

 正論も状況次第では駄弁と取られる。米原はこれ以上は焼け石に水と考え、話すのを止めておいた。

 

 

 ゴングが鳴って第2ラウンドが開始されると、コーナーを蹴って対角線上を走った。 不意にロビンソンが両手を横に伸ばして広げ『打って来い』とばかりに『ノーガード』で挑発する。余裕を孕んだ表情が、絶妙に明の神経を逆撫でする。瞬時に距離を詰めて打ち込む明。それに対し、間隙を縫って、ロビンソンの槍のようなストレートが飛んで来る。しかし、暫くすると、また『ノーガード』で挑発して来る。

 “やったろうじゃねえか”トサカに来た明は、先程まで飛ばしていたものが更にハイペースになり『ムキになって』攻勢に打って出た。それに対し、ロビンソンも手数で応戦して来ているようであった。

しかし、これはロビンソンサイドの『罠』であった。巧妙に明の体力を削ぎ、疲れが見え始めたところを『仕留める』それが狙いであった。ゴングが鳴り、第2ラウンドが終了した。

誰の目にも明らかだった。体力が切れかけている。だが、幸い米原には、明の状態をコントロールしてやれるだけのアドバイスができる『器量』があった。

 「このハイペースは無理があるだろう。赤居、本当に大丈夫なのか?」

 「はあ、はあ、大丈夫だ。はあ、はあ、俺はまだやれる」

 明は濁流に飲まれる小動物のように息も絶え絶え息巻いている。

 「いいか、『ガス欠』になる前に、俺の話をよく聞け。本当に勝ちたかったら守勢に転じろ、話はそれだけだ」

 米原は長年、五十嵐とタッグを組んで来ただけあって知識、経験、判断力ともに申し分ない男であった。しかし、悍馬の如くムキになった明の耳には念仏のように届いてはいなかった。

 「はあ、はあ、勝たなきゃ―――勝たなきゃ終わっちまうんだよ!!」

 約1年の闘いの中で培った信頼関係も、後門の狼に迫られたような状況下では脆くも崩れ去ろうとしていた。

 「俺はお前の実力を高く評価している。急いては事を仕損じると言ってな。このままでは勝てる試合もそうでなくなるぞ」

 「はあ、はあ、何か秘策があるってのか?はあ、はあ、それなら勿体付けずに早く言ってくれよ」

 その後明は米原に『よく耐えた』と言われ、小さく笑った後、軽く耳打ちされた。

 

 

 米原のお陰で冷静さを取り戻した第3ラウンドを終え、勢い良くゴングが鳴り、第4ラウンドが開始されると、ロビンソンの強烈なストレートに合わせて、この試合初めて『クロスクリュー』を出す。だが、ロビンソンは激しくグラついたものの、失神するまでには至らなかった。かなり驚いたようだが、すぐに体制を立て直し、嬉しそうに大ぶりのストレートを出して見せた。

 “そう来なくっちゃ”

 まるでそう言いたそうに、風切り音を立ててブンブン腕を振り回している。

 “初めてだ、こんなに相手の底が見えないのは”明はそう感じ、寒気すら感じていた。

 何度もノックアウトを狙って技を繰り出すが、ロビンソンはいいタイミングで抱き着いて『クリンチ』して来る。

 観客は誰もがこの勝負を大人と子供の喧嘩と捉えそうになる程であった。だが、大砲のようなストレートに危険を感じ、不意に明が出した拳の『圧』にロビンソンは気圧されたようだ。後ずさりして数秒経ってから口元を緩める。

 第3ラウンドまでは出すまいと思っていた。若造に本気の対応は不要。そう考えていた。だが、彼は実力で示してくれた。『東洋太平洋チャンピオン』になるだけの『強さ』があるということを。ならばそれに応えるが礼儀。

 『世界』とはどんなモノか、教えてやるのがチャンピオンの務めであろう。渾身の力を込めた『リバー・ブレイク・ガゼル』が猛威を振るう。体重を大きく掛け、『肝臓』を押し潰すほどの勢いで、世界戦の洗礼を浴びせると言ったところか。

 黒人の強靭な筋肉は、全身を巨大なバネのようにする。その伸びきった衝撃を身体の芯で『モロに』食らってしまった明は、トラックに撥ねられたように吹き飛ばされてしまった。

 6、7、8―――気付くともうカウント8まで聞こえていた。気力だけで立ち上がり、反射的にファイティングポーズをとる。その顔は赤黒く、目は充血し、足元は歩き始めたばかりの幼児のように覚束ない。レフェリーは判断に困ったが、明が小さな声で苦しそうに「まだやれる」と言ったのを聞いて再開の判断を下す。

成す術は―――もうないのだろうか?無情にもゴングは鳴らず、残り時間1分。再びロビンソンの『ガゼルパンチ』が明の右脇腹に突き刺さる。しかし、ここでは辛うじてダウンを奪われることはなかった。この試合のために必ず役に立つからと言われてやった『1分間ブリッジ』が俄かに助けになったようだ。一層倒れた方が楽であろう。

だが、ボクサーにとってノックダウンとは即ち『信念の死』。彼らが最も恐れることは、苦痛でも嘲笑でもなく『弱いというレッテルを貼られること』なのではないだろうか。そのことを避けるため、明は自らを奮い立たせてリングに立ち続けている。

そして、フェイントを織り交ぜた渾身のアッパーが顎に軽くヒットし、惜しいところではあったが、ロビンソンはここでも巧みに『クリンチ』して来る。

この絶妙なタイミングの取り方がロビンソンの強みなのであろう。ここで明は『作戦』を実行する。右手を上に向け、手の甲を相手に向けてクイックイッと手招きして見せた。ロビンソンは全く動じないといった素振りであったが、少し頬がひきつったのを明は見逃さなかった。闘いの最中、再び同じ動作をし、さらに畳み掛けた三度目、ついにロビンソンは『無表情』になり、冷たく明を見下ろして来た。

 “来るな”

 明は津波が来る前のような不気味な静けさに思わず息を飲んだ。逆鱗に触れられたロビンソンは、まるで、大きなゴリラが暴れているかのようにフルスイングで殴打してくる。

 “奴さん、相当お冠のようだぜ”ロープで反動をつけ、アッパーを強引にねじ込もうとする。

 しかし反対にロビンソンの豪腕が唸る。右ストレートを『テンプル』に当てられ、脳が少し揺れてしまったようだ。出鼻を挫かれ戦況が悪い中で、明は連続して5回のパンチを腹部中央に当てた。

そして、ロビンソンの様子を伺うが、まるで堪えていないようである。こうなって来ると、不死身の化け物と闘っているような錯覚に陥る。カウンターを避けようとしたが、ロビンソンの方が半呼吸早い。

満身創痍の赤子の手を捻ることは、朝の馬なら重荷も苦にしないという『朝駆けの駄賃』よりも容易いことであろう。このゴリラを止めに行くことは、『火中の栗を拾う』よりも難しいことのように思える。寸でのところでゴングが鳴り、第4ラウンドを終えることができた。

「はぁっ、はぁ」明は声を出すことさえ憚られるような状態だ。

 「息切れが激しいな。手遅れになる前によく聞け。できるだけ疲れないようにして、このままロビンソンの体力を削って流れを掴むんだ。どんな試合でも必ず一度は勝機が巡って来る」米原はこの状況でも全く勝ちを諦めてはいない。

「はぁっ、はぁ、そうだな。はぁっ、はぁ、運は手繰り寄せるもんだ。はぁっ、はぁ、俺は絶対に負けねえぜ」その気持ちは明も同じであった。

 「敬造が負けちまった時、俺は全てを奪われた気でいた。だが、お前はそんな俺にまた夢を見せてくれた。重荷だって分かっちゃいるが、この期待、背負ってやってくれ」

そう言うと米原はバンザイの体制から明の両肩に手を乗せて精一杯、明を鼓舞するようにした。

「はぁっ、はぁ。ああ、野郎に焼き入れてやるぜ」

光を失いかけていた明の目は、このことで輝きを取り戻した。その後の攻防は目まぐるしいものであり、逆境の第5ラウンド、執念の第6ラウンドとラウンドを重ねた。

 

 

ゴングが鳴り、第7ラウンドが開始されると、明はこのラウンド序盤はひたすら耐えることにしたようだ。そして、ノーガードで打って来いとばかりに挑発する。ロビンソンは先程のラウンドよりは冷静さを保てているものの、腹の底にはフツフツと湧き上がる感情があるようにも見える。

勢いよく向かってくるロビンソンを闘牛士のように躱し続け、明は様子を伺うことに徹した。次第にロビンソンの動きは鈍くなり、泥沼に嵌まったような足付きに変わって行った。明は距離を取り、アウトボックスに切り替えることにした。

これはロビンソンをさらに疲れさせることに成功したようだ。だが、彼は己を奮い立たせるかのように必殺技である『ガゼルパンチ』を明にお見舞いした。

“苦しい練習に耐え、せっかく世界チャンピオンになったんだ。たった1回ベルトを巻いたくらいで王座を降りるような惨めな思いはしたくない。恋人、友人、家族、皆の期待を背負っているんだ”その思いが彼にはあった。

だが、明にも勝ちたい思いは勿論あった。互いの思いがせめぎ合い、その結果がリング上に表れているようであった。結果的に2度の『ガゼルパンチ』を受けた明が、この試合2回目のダウンを奪われる形となった。

カウント5で起き上がったものの、その後はロビンソンの攻勢に対し防戦一方。再度アウトボックスを試みるが、上手く足が回らない。じりじりと距離を縮められ、インファイトを余儀なくされる。ロビンソンの猛攻に、身体が悲鳴を上げそうになる。

だが、まだ身体に力が入る。まだ何も終わってはいない。闘志を失えばそれはもうボクサーではない。闘いが終わるその瞬間まで、一瞬たりとも気が抜けない。それがボクシングなのである。そして、圧倒的に不利な戦況の中、辛うじて失点なくラウンドを終えることができた。

「おいマイク。恐れるな。もっと速度を落とせ」

セコンドのリチャードにそう言われ、ロビンソンはOKとだけ返答し、次の攻撃に備えた。そして、明が虚を突いて繰り出した左ストレートにロビンソンが左フックを合わせて来た。

それに対し明が右腕ですかさずカウンターにコークスクリューでカウンターを合わせる『クリス・クロスクリュー』で応戦したところへ、ロビンソンの『ブラッディ・クロス』が決まった。これはカウンターに対して肘を曲げることで、それを防ぐことができる『超高等技術』である。

これは強烈なダメージとなり、明は思わず左拳を右腕に添える形をとった。そして必死に応戦しようとするが、ロビンソンはジャブにフックに連打を浴びせ、それを許す隙を与えない。ここでフィニッシュブローを食らう訳にはいかない。

だが、反撃に打って出ようとするが、もう体力が残っていない。なんとか戦況をひっくり返さないと。一閃、目の前を微かな筋が通る。明は必死に意識を保とうとするが、それは叶わなかった。

『崩れ落ちた時に触れたマットの感覚を、彼は生涯忘れることが出来なかった』

 

 

左のアッパーだ。この試合初めて見せた。手数の多いジャブにフック、横から来る技に対して『クロスクリュー』を合わせることを意識しすぎて、縦から来る攻撃に対する警戒を疎かにしていた。

 それに、ロビンソンは右利き。右手で打つ『ガゼルパンチ』をフィニッシュブローにして来ると思わせておいて強かにも『左手で決めよう』と画策していたんだ。なんて計画的で、恐ろしいことをする男なんだ。

 もし敬造が居てくれたら―――このことに注意して防げていたかもしれない。長年セコンドをやって来たのにあるまじきミスだった。赤居との信頼関係も、ロビンソンに対する研究も、何もかも不十分だった。

 “敗因は自分だ”米原はそう思い、酷く自らを責めることとなった。

「赤居選手、無念のタオル投入!!」

実況が喚き立てるが、もはや騒然とした場内の人々には届いていない。ロビンソンが明に襲い掛かる寸前でのタオル投入で、無念のTKO負け。長年に渡ってボクシングジムの会長として五十嵐を支えて来た米原にとって、これほど悔しい負け方はなかった。

鍛錬、経験の差が出た。しかし、勝てない試合ではなかった。悔いが残ったことは否めない結末であった。

明は米原に付き添われ、タンカで医務室へと運ばれて行く。医務室で、明は全く起きる気配がなく、横になったままほとんど動かない。それどころか、大きな音を立てて鼾(いびき)を掻いている。

「いかん、試合後すぐに寝て鼾を掻いている時は、脳挫傷やくも膜下出血、硬膜下血腫などの恐れがある。昏睡状態に陥り、脳に損傷があったのかもしれない」

 米原はそう言うとすぐさまリングドクターを呼び、明の様子を見てもらった。診断を待っている間、“これで赤居にもしものことがあったら、敬造に会わす顔がない”と自責の念に堪えかねていた。両国国技館のリングドクターは大学病院の外科と救急部から1名ずつ、その他2名を応募の医者で賄うのだが、この時は最年長者である、救急部のドクターが診察に当たってくれた。

「大丈夫です。今のところ心配はないですよ、呼吸も安定していますし。ですが、当然ながら精密検査は受けて下さい。こういうことは万が一のことでも見逃さないようにしないといけないことですので」

米原は力なく明を見下ろすと、彼はまるで死んでしまうんじゃないかと思えて来るような有様であった。

“このままダメになってほしくない。必ず再起を掛け、もうワンランク上の選手として復帰してほしい。命ある限り挑むことはできる。そしてまだチャンスは残されている。何があっても諦める訳には行かないんだ”米原は強くそう思い、一先ずリングドクターに礼を言うと、明が起きた後、その足で病院までタクシーを走らせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章 修行偏

ロビンソンとの対決を終え、一行は明が入院している歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学付属病院に来ていた。五十嵐は『パンチドランカー』の症状がだいぶ軽くなっては来たが、『引退する』という決断に変わりはなかった。

 それよりも明の身体の方を心配しており、医者の静止を振り切って明の病室に寝泊まりしているほどであった。二日間ずっと眠っていた明が徐(おもむろ)に目を覚ました。

 「おお、目が覚めたか。具合はどうだ?気分が悪かったらすぐに言うんだぞ」

 五十嵐の慈しみに溢れる言葉も、今の明には届いていないようだ。

 「おっさん―――。俺、負けちまったんだな」

 「そんなことはいい。今は身体を休めることだけを考えろ」

 「本当にすまねえ。あんなに無理言って試合を組んでもらったのに最低な内容だった」

 相当責任を感じているのであろう、明は目を伏せて合わせようとしなかった。

 「そんなに自分を責めなくても大丈夫だ。お前は十分良くやったさ」

 「五十嵐さん。俺にもう一度―――ボクシングを教えてくれ!」

 「ああ、もちろんさ。そのための『秘策』も考えてある。今までに教えきれなかった部分を、徹底的に教え込んでやるよ」

 「ありがとう。頼りにしてるぜ」

 お世辞を言うような性格ではない。この言葉が明の本心なのであろう。

 「しっかりとダメージが抜けたのを確認してから退院するぞ。これからの練習は相当にハードなものになる」

「望むところだ。バシバシしごいてくれ」

 あれほど壮絶な試合の後だというのに、明は臆することなく目標だけを見つめていた。

 それから2週間経ち、明は退院の日を迎えた後、米原の運転する車で、五十嵐、秋奈と共に、どこかへ向かおうとしているようだ。

 「行くぞ、明」五十嵐はいつものような自信に満ちた表情であった。

「世界を制する者ならば求道者たれ」

 どこかへと向かおうとしている車の中で、五十嵐はそう言って語り始めた。

 「今から向かうのは石川県金沢市にある医王山(いおうぜん)のペンションだ。そこで2ヶ月間の『合宿』を行う。感傷に浸っている時間はないぞ」

 五十嵐は今回、自分の体調を押してまで明の合宿に付き合うことを決めていた。

 「そこで行うことは主に二つ。身体能力のベースアップと『奥義』の伝授だ」

 明は珍しく黙って話を聞いている。

「スマッシュはフックとアッパーの中間。ショートストレートとも少し違う技だ。元来アッパーの得意なお前に、しつこくフックを教えたのはそのためさ」

 秋奈も米原も、空気を読んで全く話していない。

 「着いたぞ。今日からここが俺たちの根城だ」

 そう言うと五十嵐は車を降り、スタスタと先に歩いて行ってしまった。それから、米原に車の駐車を任せ、3人でペンションに入ることにした。

五十嵐は落ち着いて説明を始めた。

 「トレーニングメニューは4日間ずつに分けて行う」

 「一日目。まずは800mダッシュ。これを30本やってもらう。次にハンマーを使ってのタイヤ叩き。右手、左手、両手を100回×3セットずつ。それから、30秒間のボディ乱打。これを5セット。そして、車を後ろから押す。これを1km。最後に、鉄棒を潜る練習。これを10分やって終わりだ」

 「二日目。まずは、仰向けになって手をついて50mを3往復。次に、クイを横に山肌に向かって5本打ち込む。それから、鉄棒があるので、そこで蝙蝠のようにぶら下がって口に紐で縛った鉄アレイを下げて起き上がる。これを20回3セット。そして、ボールを左右の手で受け取る練習。これを50回3セット。最後に10分間のサンドバック乱打。これを5セット。これで終了だ」

 「三日目。まずは、タイヤ引き。50m×20本。次に片手での腕立て伏せ。片腕50回×5セット。それから、仰向けになって俺が腹に乗る練習。5分×5セット。最後に、傾けた首で身体を支える倒立。10分×3セット」

 「そして極めつけは練習前に行うマスクを着用してのロードワークと、練習後に行う1時間のストレッチだ。これで常に酸欠の状態に慣れ、強靭な心肺機能を手に入れることができる上、硬くなった筋肉を撓(しな)やかで伸縮性に優れたものに変えることができる」

五十嵐はトレーニングのこととあって、もの凄く嬉しそうに話をしている。

 「この3日セットをやって1日休む。と言っても、その日にはボクシングに関する知識を嫌と言う程刷り込んでやるがな。二ヶ月間文字通りボクシング漬けだ。まあ、覚悟などとうに出来ているだろうがな」

 「年頃の若者なら遊びに行きたいという思いがどうしても強くなってしまう。だが、その気持ちを抑え、血の滲むような努力をした者だけが『栄光と勝利』を手にすることができるんだ。それは何物にも代えがたいほどの喜びなんだ」

五十嵐は一言毎に力を込めて語っている。

 「両方取ろうなんて虫の良い話、通る訳ねえよな。それなら俺は迷わずボクシングを取るぜ」

 「そう言うと思っていたさ。それから、これだけは覚えておけ、『上を見ていない奴に先はない』練習の虫となれ」

 「お前は筋は良いんだが、パンチがほとんど手打ちになっている。腰の回転、下半身を使って体重の乗ったパンチは打って来なかった。今回の合宿では足腰の強化を目的とし、『新生』赤居 明としてリングに上がれるように鍛錬に励んで行くぞ」

「あとは、拳を出す側の足に体重が乗っている。昔からの癖だろうから変えない方が良いかと思ったが、この際思い切って直すことにしよう」

「45分間全力で闘い抜くためには、450時間の練習が必要だ。一日9時間で50日の練習。この合宿に耐えた暁には、もうペース配分なんてものは要らなくなるのさ。俺はもう歳だが、お前はまだ若いからな」

 「まあそうだな。そういや、五十嵐さんって幾つなんだ?まさか40超えちゃいねえだろ」

 「はっはっは。今更話すのもなんだがな。御年32歳だ。おっさんと呼ばれることには少し抵抗があったぞ。時代によっては若者扱いされる歳だからな」

 「15歳年上なら俺にとっちゃ十分おっさんだぜ。それより、早く練習をおっぱじめようぜ。喋ってる時間が惜しいくらいだ。こうしてる間にもロビンソンの野郎は練習して、前より強くなってるに違いねえ」

 その言葉を聞き、五十嵐の表情は一気に真剣なものとなった。

 「お前の言う通りだ。相手より上に立つには倍の努力をしなければならない。それでは行くぞ」

 友情、努力、勝利。漫画ならそういった要素が必要だそうだが、現実にはそう上手く揃うものでもないだろう。果たして明はこの合宿を乗り越え、この三つの要素を手にすることができるのであろうか。

 それから一ヶ月間、五十嵐は前々から考えていた『二つの方法』を明に試してみたが、やはりと言うべきか、明には最初に思っていた方法が性に合っているようであった。

「一ヶ月よくぞ耐え抜いた。普通の奴なら一週間と持たずに逃げ出すところを、弱音一つ吐かないとは見上げた根性だ」五十嵐は褒めて伸ばす方を選んだようだ。

 「へへっ。ロビンソンに勝つためだ。リベンジマッチは絶対に俺の勝ちで決めなくちゃいけねえからな」

 「良い心掛けだ。その意気だぞ。そこで今日から新たに本格的な実戦練習を加えて行く。『スマッシュ』と『クロスアームガード』と『拳圧』極めつけに『マスボクシング』の練習だ」

 「ついにこの時が来たか。よろしく頼むぜ」

 「ああ。では説明から入る」

 「ボクシングでは広背筋でストレート、大胸筋でフックとアッパーを打つんだ。つまり、スリークオーター、フックとアッパーの中間の『スマッシュ』は、大胸筋を使う技が得意なお前にはピッタリの技って訳さ」更に五十嵐は付け加える。

 「打ち方だが、全身の力を抜いて一気に『インパクト』まで持って行く。この時に少し掬い上げるような形で衝撃を加えろ。掛ける体重は7から8割でいい。それよりも確実に相手の心臓を貫き、その鼓動を封殺するんだ」

 五十嵐は鋭いシャドーで『スマッシュ』を見せてくれている。

「どうやったら遠心力が掛かるか。アングル、タイミングに気を付けて、残りの一ヶ月間、研究に研究を重ねるんだ。大技の後には必ず小さな隙ができる。それを見逃さず『スマッシュ』を打ち込め」

高等技術であるため口頭での伝達は難しい筈だが、五十嵐は難なく説明できている。

「リラックスして、インパクトの瞬間に一気に力を込めろ。一流選手なら皆やっていることだ。野球選手がガムを噛んでいるのは、そういう理由だ」五十嵐は更に続ける。

 「『クロスアームガード』は、左手を前にして横に、右手を後ろにして縦にしろ」

五十嵐は実際に構えてみせた。

「防御技として鉄壁にして最強。これ以上ない技だと俺はその戦歴において確信している」一つ息をした後、五十嵐は言葉を続けた。

「最後に『拳圧』だが、これは生まれつき種類は決まっている。『巧圧』『重圧』『鋭圧』の順に珍しく、才能があるという寸法だ」

興が乗って来たのか、五十嵐は順調に語っている。

「手前味噌だが『巧圧』を持つ者は少ないんだ。まさに『選ばれし者』という訳だな」   

五十嵐は少々誇らしげに話す。

 「負ける筈がないというところまで作り込んで行け。自分が、技が、世界水準のものであるか常に意識しろ。武士(もののふ)の心根を持て」これを聞いて明は黙って頷いた。

 「それから、スタイルは今まで通り『オーソドックススタイル』で行く。なぜオーソドックスなスタイルが王道と呼ばれ、一番強いか分かるか?一番強いスタイルが勝ち続け、王道となるからだ。まさにチャンピオンになる近道って訳さ」五十嵐は更に話を続ける。

 「知識については、何度も何度も説いて行く。それこそ寝言で呟くくらいにな」

 一通り話が終わったところで、五十嵐は一つ深呼吸をした。

 「ここまで静かに聞いてくれた訳だが、何か質問はあるか?」

 暫し沈黙が訪れたが、明は思い切ったように話し始めた。

 「五十嵐さん、前から気になっていたんだが、なんで俺なんかにボクシングを教えてくれたんだ?もっと優秀な奴だっていたんだろ?」

 明は長年の疑問をぶつけ、それに対して五十嵐は少し改まって話し始める。

 「簡単な理由さ。それはな―――昔の自分に似ていたからだ。お前を見ていたら、同じ年頃の時分、苦しかった時期を思い出した。だからこそ、何としてでも更生させてやりたかったのさ」明は驚いて目を見開く。

 「五十嵐さんにもそんな時代があったのか。とてもそうは見えないぜ」

 五十嵐はまたいつものように不敵な笑みを見せると懐かしそうに話した。

 「お前がやったくらいの悪いことは、一通りやったさ。『浦和の暴れん坊』と呼ばれていた頃が昨日のことのように思える」五十嵐は遠い目をしてそう答えた。

 「さて、それではラドックのビデオでも見せるかな」

 照れ隠しの意味合いもあるのだろう。五十嵐は意図して話題を変えた。

 「らどっく?誰だそりゃ」

明も同じ気持ちであったのだろう。素直にその話題に乗って来た。

 「ドノバン・ラドック。『スマッシュ』の生みの親さ。ジャマイカ生まれのカナダ人ボクサーだ。惜しくも世界王者には届いていないが、ヘビー級を制するまで、あと僅かだと考えている者も少なくない」

 そう言いながら五十嵐はデッキにビデオを入れ、映像を流し始めた。その光景を明は食い入るように見つめる。

 「これって本来、左手で打つもんなんじゃねえか?いいのかよ、右手で練習してて」

 俄かに五十嵐の顔付きが変わる。

 「良い質問だ。左手より右手で打った方が心臓までの距離が近い。つまり、瞬速の型である『ハート・ブレイク・スマッシュ』を俺よりも使い熟せる毛色があるということさ。決め技は利き手で打った方が良いからな」明は妙に納得して話す。

 「そうだったのか。だけど、本当に良い技だよな。これさえあればロビンソンの野郎にも負けなかったってのによ」五十嵐は微かに眉を潜めた。

 「お前はロビンソンに負けたのではない、自分に負けたんだ。自分を律することのできない者は対戦相手と向き合うまでに至らないからな」

 厳しい言葉だが、明は戒めとして聞き入れることにした。

 「確かにその通りかもな。けど、黒星が付いちまったのは、はっきり言ってショックだったぜ」五十嵐はまたしても明を諭すように語る。

 「負けた時に失態だ、汚点だと考えているようだと二流だな。誰に負けても不思議じゃない。俺なら例えデビュー戦のボクサーでも全力で闘うぞ」

 その言葉に明はひどく感銘を受けた。

 「そうだな。油断や慢心は何よりも自分を狂わすもんだよな。だけど俺も、早く五十嵐さんみたいな最強のチャンピオンになりたいぜ」

 男にとって『最強』とは言われて悪い気のする言葉ではない。

 「目指してくれるのは、有難いことだな。まあ俺的には尊敬するボクサー『黄金のバンタム』エデル・ジョフレのようになってほしいものだがな。勝ち負けを超えて強い者を称賛できる姿こそ、ボクサーとしてあるべき姿だと思う」

 そうは言っても、五十嵐はどう見ても喜んでいる。

 「エデル・ジョフレか。その人なら俺でも知ってるぜ。ビデオで見た、何度でも立ち上がる姿は、本当に男らしかった」

 最近、明は熱心に研究に打ち込んでいる。それが花開く日も近い事であろう。

 「ダウンしていても、ポイントで巻き返せる。諦めるなんてことは、勝負の世界では、あってはならない愚行なのさ。それは良いVTRを見たものだな」

 五十嵐も素直に明の成長が喜ばしかった。

「ああ。あんな風に強くなれるんだったら、どんな試練にだって耐えてみせるぜ」

 少し大げさな表現だが、本心であろう。それほど明はボクシングに入れ込んでいた。

 「良い心掛けだ。だが、強さと引き換えに大切なものを失ってはいけない。俺はそういう奴を何人も見て来た。ボクサーたる者、大切な人を守るために力を振るうような者であるべきだ」

 賛同してはいるものの、五十嵐は明のためになることなら何でも話す気概であった。

「そうだな。だけど大切な人ってどういう人のことなんだ?周りの人とかそんな感じなのか?」漠然と考えてはみたものの、曖昧な答えしか出ないので納得が行かない。

 「それは半分正解で半分誤答だ。人間という生き物は、価値がないと判断した者に対しては恐ろしく冷たくなれるものなんだ。地位を失った途端、蜘蛛の子を散らすように取り巻きが居なくなるなんてのはよくある話さ。負けた時、苦しい時に側に居てくれるのが本当の仲間なんだ。そういう人だけを大切にしろ」五十嵐は己の来た道を思い返していた。

「なるほどな。調子の良い時だけ擦り寄って来て、借金抱えたら逃げて行くような女は特にそういう傾向が強いのかもな」

 明は何も考えていないようで、妙に本質を見抜く時がある。

 「そうだ。良い女というのは、どんな時も裏切らず、自分を高めてくれる女だ。心当たりがない訳ではなかろう」五十嵐は少し揶揄うように言った。

 「まあな。今回も心配掛けちまったし、もう二度と負けたくねえ。その為にはもっともっと自分を追い込まねえとな」明は否定するでもなく、思いの丈を語った。

 「その通りだ。だが、一つの失敗、不運で、努力が無に帰すこともある。どれほど積み重ねても、天賦の才に勝てぬこともある。だが、忘れるな。全力でやった時、命を懸けて挑んだ時、そこに必ず後悔はない。何があっても手を抜く奴にだけはなるな」

 明は黙って集中しながら話を聞いている。

 「今日頑張ったら明日笑顔でいられる。今日手を抜いたら明日泣顔になる。苦しさを乗り越えた者だけが、真の勝者となれるんだ」

 五十嵐もそれに応えるように力を込めて話し続ける。

「今が一番悩む時期だろう。だが、悩まないと強くなれないもんなのさ。苦しさを乗り越えた時、一皮剥けた存在になれるんだ」明は一言一言噛み締めるように聞いている。

「負けることを恐れては大儀は成せない。序列で言ったら『勝った』『負けた』『やらなかった』だ。逃げなかったということがいつか、大きな自信となる」

 五十嵐は良い機会だからと、ここぞとばかりに持論を展開する。

 「あとは、相手の弱点を責めるのは定石だ。情けだなんだ言ってる奴は、永久に勝ちを拝めない甘ちゃんなのさ」

少し眠たくなって来たのであろう、明は頷くことで返事に代えている。

 「毎朝卵5個と鶏のササミを食べるのだけは忘れるな。食を正すことも一流であることの条件だからな。とまあ今日はこれくらいにしておくか」

 ボクサー同士で話は尽きることがなかったが、その日は早めに切り上げることにして床に就いた。

 

 

 翌朝起きてみると既に起きていた秋奈が朝食を振る舞ってくれた。

 「は~い、今日は麺の代わりに糸こんにゃくを使ったラーメンで~す。なんと1杯50キロカロリー。とってもヘルシーだよ~」

恐る恐る食べてみると、意外にも味は悪くはない。

 「それから、特製牛ヒレ肉。熱湯で洗ったからカロリー半分だよ~」

 この合宿の後に組まれているという試合のため、日頃からウェイトを整えておこうと考えた五十嵐の発案であった。シャワーを浴び、練習着に着替えると、マスボクシングをするため、五十嵐から外へ出るように指示を出された。

 「『マスボクシング』はパンチを寸止めして行うスパーリングのことだ。素手でやっても良いんだが、念のためグローブは付けて行うぞ。『ベアナックル』は危険だからな」

『ベアナックル』とは素手の拳のことであり、派手にノックアウトできるのが特徴だが、その分与えるダメージも大きいので現在はグローブの着用が必須となっている。因(ちな)みに1897年に行われた最後の『ベアナックルボクシング』は75ラウンドにも及んだ。

「五十嵐さんとやるのか。すまねえ、そんな状態なのに無理させちまって」

「なあに、これでも現役を退いてまだ四ヶ月だ。バシバシ鍛えてやる。忠次郎、ゴングを鳴らしてくれ」

それから二人は20ラウンドほど汗を流し、4人でカレーを食べた。昼食が終わると、五十嵐が明に話し掛けて来た。

 「命は燃やすもの、寿命は削るものだ。旧態依然の考え方かもしれんが、俺はこれで良いと思っている。まだやれたと言って死ぬことが、一番後悔を残していると思うんだ」

 五十嵐の熱い思いに、明も同意せざるを得なかった。

 「全くその通りだぜ。っていうか、何だか強い奴と闘ってる時に思うことがあるんだ。普段出せないような力が出せるような―――不思議な感じになるんだ」

 五十嵐は不敵な笑みを浮かべると、満足そうに話した。

「それは『ミックスアップ』と言ってな。限界が限界でなくなることを言うんだ。ボクシングを通じて、己の成長を実感できているということさ」

 明は合点が行ったという風に首を縦に振った。

 「そういうことだったのか。この何とも言えない高揚感の正体は。それなら早く続きをやろうぜ。この高ぶった感覚を忘れちまわねえうちに」

五十嵐も同じ思いであったのだろう。バシバシと拳を合わせ、やる気十分といったところか。

 「そうだな。だんだんと底が見えなくなって来る。その先を俺にも見せてくれ」

その後二人は1分間のレスト以外は休憩も取らず、互いに拳を振るい続けた。マスボクシングの良い所は、身体的なダメージが少ないため、長時間の練習が可能な点でもある。そして5時間ぶっ続けでファイトした後、この日も座学を行った。

 「WBA、WBCではライトフライ、IBF、WBOではジュニアフライという言い方をするんだ。あと、『タタカう』の漢字が違っているな。戈構えの戦うではなく、門構えの方の闘うが正しい。あと余談だが、ボクシングのように1対1で闘う場合を『ファイト』球技のように複数対複数で戦う場合を『バトル』と言うんだ。ボクサーなら、これくらいは覚えておけ」

 五十嵐はその日教えることをピックアップしたメモを見ながら、明にひたすらノートを取らせた。

 「ああ、任しとけって。東大受験ばりに覚えてやるぜ」

そんな話をしながら、夜が更けるのはあっという間であった。学校のノートは捨ててしまった明も、このノートは生涯大切に持ち続け、事あるごとに眺めていた。

 

 

そして月日は流れ、迎えた最終日。明は朝起きてから、頻りに何か叩いているようだ。

 『パンチングボール』

 明はこの猫パンチマシーンがわりと気に入っていた。それは、現実の辛いことを一時的にでも忘れられるからだ。無心になり精神と対話することで、己の感覚を研ぎ澄ませることができるのも、このマシンの利点である。一通りメニューが終わり、一休みしていると、徐(おもむろ)に五十嵐が入って来た。

 「ボクサーたる者、常に肩を冷やさないようにしろ」

そう言って明の肩にタオルを掛けてくれた。

 「ああ、ありがとよ。いよいよ今日か」二人とも少し気が重い感じである。

 「臆することはない。お前はよくやったさ。今日はただその『確認』だ」

1ラウンドだけ全力で試合。だが、明にも五十嵐にもこのファイトには暗黙の了解があった。

『スマッシュ』を炸裂させる。

痛んだ身体にムチ打っている五十嵐には酷な話だが、手加減できるような容易な話では勿論ない。考えを巡らせているうちに、準備が整ってしまった。

「分かっているな」

 『スマッシュ』を成功させろ、手を抜くな。この言葉にはその二重の意味が込められていた。

『カンッ』

ゴングが鳴ると両者牽制し合うが、明の身体の『キレ』は2ヶ月前とは比べ物にならなかった。秋奈と米原が固唾を飲んで見守る中、いよいよその瞬間は訪れた。

 踏み込んだ刹那、明の体重は4割ほどしか掛からなかった。大切に使い込んだシューズがボロボロになり、技の衝撃に耐えられず穴が開いてしまったからだ。だが『スマッシュ』は見事に炸裂し、五十嵐の時間は止まっていた。

「成功か。五十嵐さん、大丈夫なのか?」

 明がそう口にした後、五十嵐は生気を取り戻した。

 「はあ、はあ、大丈夫だ。それより、試合は4ヶ月後だ。それまで気力を保ち続けるんだぞ」五十嵐はまだ少し苦しそうだ。

 「任せとけって。俺と引き分けた奴に勝った野郎だ。気を抜くなんてこと、できる筈ねえよな」明は言葉とは裏腹に、自信たっぷりと言った様子だ。

二人が軽くシャワーを浴びた後、四人でリングとその周辺を掃除し、車に乗ってペンションを後にした。

 

 

『水族館に行ってみたい』

 合宿が終わって3日間の休みを貰った明は、秋奈にそうせがまれて、気は進まないが同行することにした。それは恐らく自分の気晴らしにと、秋奈が言ってくれたであろうことが分かっていたからだ。

 1985年2月10日、3連休の中日である日曜に、明と秋奈は東京から電車を乗り継いで、神奈川県横浜市、中区石川町にある『ヨコハマたのしろ水族館』に来ていた。

 「ねえ、聞いてる?ねえったら」

 “『スマッシュ』であのセイウチ倒せるかな”そんなことを考えていたら、秋奈の話を聞き逃していた。

 「悪りい。全然聞いてなかった。反省するよ」

 さほど悪いとは思っていなかったが、明は謝罪の言葉を口にした。

「もう~。どうせボクシングのこと考えてたんでしょ。単細胞なんだから」

 「せっかく教えてもらったんだし、『モノ』にしたいんだよ。どうしてもロビンソンに勝ちたいんだ」

 苦しい合宿を終え、安らげるオフの日であっても、片時もボクシングのことを忘れることなどできはしない。

 「それもいいけど、これじゃ気晴らしになんないでしょ。それに隣にこんな可愛い子がいるっていうのに」

 「それもそうだな。今日ぐらいはボクシングのこと、考えなくてもいいか」

 できるかどうかは分からないが、明は努めて休日を満喫することにした。

 「素直になったじゃん。明くん、最近雰囲気変わったよね。なんていうか話し易くなったというか―――」

 「そうか?まあ、あんな負け方したんじゃ強気にも出れねえよ。TKO食らったからな」明は敗戦の瞬間を思い出し、強く拳を握りしめた。

「悔しいよね。今度は勝ってよ。必ず応援に行くから」

秋奈はおっとりしたように見られることもあるが、芯が強い人である。

「そうだな。そう言われちゃ、絶対に負けらんねえぜ。っていうか腹減ったな。どっか入って飯でも食うか」明は腹を擦りながらそう言った。

「お弁当作って来たから」秋奈の話しぶりは、多少照れたものであった。

「おう~。気が利くじゃん!!『幕ノ内弁当』か。美味そうだな」

わりと豪華な弁当に、明は驚いている。

『幕の内弁当』とは、俵型のおにぎりを並べ、その上に梅干を乗せた主食と、複数の種類のある副食とを合わせて、杉や檜などの材木を紙のように薄く削った『経木』の箱に入れたモノを言う。由来は複数あり、芝居の幕の内に観客が食べる、幕の内側で役者が食べる、芝居の合間の時間である幕間を利用して役者が食べる、相撲取りの小結が幕ノ内力士であることから、小さなおむすびの入っている弁当をそう呼ぶようになったなど様々な説がある。

「早起きして作ったんだから残さず食べてよね。好きな物が入ってるといいんだけど」

「それなら入ってるぜ。俺はこの伊達巻玉子が大好きなんだ。毎日だって食べられるぜ」明は程良い塩加減に舌鼓を打つ。

「ふ~ん。なんでそんなに好きなの?」

「船頭だったじいちゃんが、よく食べさせてくれてよ。大好きな味なんだ」

「そうなんだ~。思い出の味なんだね。っていうか、こうしてるとほんと安らぐよね。毎日こんなに穏やかだったら良いのに」

「ま、暫くは休養できるし、ゆっくりするよ」

「本当にあんま無理しないでよ。それから、気分屋で、調子に左右されやすいのは良くないことだよ」

「それもそうだな。いつだったか、ムラがあるって怒られてよ」

「そうそう。叔父さん言ってたよ、常にコンディションを整えられて、ダメな時がないことも強さの条件なんだって」

「そういや不調な時、みやたらなかったな」

「見『当』たらなかったでしょ。ちゃんとしてよ~」

秋奈は強く言い過ぎないように、少し甘えたような言い方で言った。

「細けえな。それより、気になってたんだけど、赤城は卒業したらどうするつもりなんだ?俺と同い年だから、今年卒業だろ」

「う~ん。内緒にしとこうかな。陰ながら明くんを支える仕事」

「なんだよ、それ。気になるじゃねえか」明は不満に思っている様子だ。

「それは、卒業してからのお楽しみってことで。それより、もう食べ終わったから行こう」秋奈は先を急ぐかのように立ち上がって見せた。

「そうか~。まあ、楽しみにしとくよ」

明はかなり気になったが、無理に聞くのは止めておいた。同じようにして立ち上がり、秋奈の行く方向へと歩を進める。

「耳があるのがアシカで、ないのがアザラシなんだよ~」

“可愛いな”得意げに話す秋奈の、嬉しそうな顔を見て、明は密かにそう思った。

他愛もない話をしながら動物のいる檻を見て回っていると、側にいた『オタリア』が秋奈の帽子を持って行ってしまった。オレンジ色のたてがみが、ライオンのように雄だけに生える『オタリア』は南米に多く生息し、体長が雄は2.6m、雌は1.9mほどで、10頭の雌に対し、一頭の雄がハーレムを形成するという羨ましい習性がある。どうやら帽子を奪って行ったのは雌のうちの一頭らしく、鼻先に乗せ、嬉しそうに身体を揺らしている。

「返してよ~」

秋奈が追いかけても、右へ左へ素早く動き、柵の奥へと逃げ込んでしまった。そして、逃げ込んだ先で他の雌と一緒に帽子を投げ合って遊び始めてしまった。しばらくの間、雌たちがそんなことを続けていると、岩陰からのしのしと雄のオタリアが顔を出して来た。

そして、帽子を持っている雌に近づき、グイッと顔を寄せて奪ってしまった。我が物顔で帽子を弄ぶ雄のオタリア。秋奈は白くてツバのあるお気に入りの帽子が、汚れてダメになるのではないかと気が気ではなかった。

「任しとけよ」

その光景を一頻り見ていた明は、自信ありげにそう言った。雄オタリアを威嚇するように拳を動かし、シャドーボクシングをして見せた。

「ガアアアア」

怪獣のように鳴いた後、明の方を見たが、雄オタリアはこちらに来ようとはしなかった。代わりに少しおちょくるように帽子を持ったまま、檻の中を動き回った。

「待てよ、この野郎」

明は先程の雌よりも更に広い範囲で縦横無尽に移動する雄オタリアを、置いて行かれないようにして追いかけた。15分ほど追いかけると、雄オタリアが明の前に来て、挑発するように帽子を動かして見せた。

まるで『取れるもんなら取ってみろ』と言わんばかりだ。明は真っ直ぐに構えて、雄オタリアを見据える。そして、ジャブ、フック、アッパー、ストレートと言った具合に、帽子目掛けて拳を繰り出す。しかし、雄オタリアはそれを軽々と躱し、余裕を見せて軽く構えていた。

「やるじゃねえか。仕方ねえ、これは取って置きだが、また奥に引っ込まれる訳にもいかねえし、特別に使ってやるよ」

そう言って明はスリークオーターで構え、帽子目掛けて拳を打ち込んだ。雄オタリアは最初何が起こったのか分からなかったが、帽子を取られたことに気付いて「ウガアアアア」と悔しそうに鳴いた。明は不敵に笑い、秋奈のもとへと帽子を届けに行った。

「ありがとう。今の『スマッシュ』だよね?合宿で練習してた時より速くなってるんじゃない?」お礼を言われ、明は得意げにシャドーを見せる。

「まあな。あれから毎日、試合をイメージして打ってんだ。技に磨きがかかってるだろうよ」

「そうなんだ~。今度の試合が楽しみだね」秋奈は嬉しそうに笑った。

「おうよ。誰が相手だろうと、負ける気がしねえぜ」明も嬉しくなって答えた。

それから二人は水族館を後にし、近くの商店街を歩いて回ることにした。

 

 

「あっ!!」

突然明が大きな声を出したので、秋奈は驚いて身体をビクつかせる。

「もお~。ビックリするじゃん。どうしたの?」

明は少し申し訳なさそうにしながら答えた。

「シューズ買うの忘れてた。ここ、寄ってもいい?」

明が指差した先には『スロバキアスポーツ』という名前の小洒落た感じのスポーツ用品店があった。

「うん、いいよ。そう言えば、合宿で履き潰すまでずっと同じシューズ使ってたもんね。結構物を大切にするタイプだよね」

「なんか、使ってると愛着が湧いて来てよ。穴が開いて履けなくなっても、取ってあるくらいなんだ」

「いいことだと思うよ。どんなシューズにするかは決めてるの?これとこれ、なんだか素材が違ってるみたいだけど」

「近距離を得意とするインファイターは踏ん張りの効く『ゴム底』の靴を履いているんだ」明は饒舌に語り始めた。

「それに対して遠距離を得意とするアウトボクサーは足が滑らかに動くように『皮製』の靴を履いているんだ」秋奈は明の変わりように素直に感心した。

「そうなんだ、知らなかった。流石は、叔父さんに毎日教え込まれただけのことはあるね」

「まあな。合宿の時、耳に胼胝ができるってのはこういうことなのかと思ったよ」

秋奈は少し笑いそうになりながら質問する。

「それで、結局どっちにするの?」

「そうだな~。俺は中距離を得意としているんだけど、『スマッシュ』は踏ん張りが効かないとダメだからな。『ゴム底』の靴を買うことにするよ」

秋奈はまた一つ気になったことがあった。

「高さが高い『ハイカット』の靴と、中くらいの『ミドルカット』の靴があるね。それはどうするの?」

「ロビンソンの野郎が『ミドルカット』を履いてやがるからな。俺は『ハイカット』で対抗するぜ。時代の主流は『ハイカット』だしな」

 『昭和』の時代においてはそうであったが、『平成』になると次第に『ミドルカット』が人気を博すこととなる。それは脱ぎ履きしやすく、ソール (靴底)が薄く、踏み込みがしっかりできるといった利点があるからであろう。

また、2000年代に入ってからは、安くて耐久性に優れているため、一流のボクサーでも『レスリングシューズ』を愛用するようになった。

無事にシューズを買い終えた後、人の多い目貫き通りを過ぎ、中華街で夕飯を食べることになった。『中華迅速』という名の店は大道りの中ほどに位置しているだけあって大変な賑わいを見せていた。二人は軽くメニューを眺めた後、店員の薦めでコース料理を頼んだ。

 「っていうか、ホント美味そうに食うよな。見てるとこっちまで腹が減って来ちまうよ」

 「だって酢豚好きなんだもん。ここの料理『グル名人』って雑誌で紹介されてて有名なんだって。けど、食べ過ぎは良くないよね。百貫デブになっちゃわないように気を付けないと」

百貫デブとは、江戸時代に太っている者を大袈裟に揶揄するために付けられた表現で、現在の重さに直すと、375キログラム前後の人のことを言う。

 「百貫デブで思い出したけど、ポンドからキロに直すのがイマイチ上手くできなくってさ。ポンドの重さに0.454を掛けたら良いらしいんだけど、これだと暗算ですぐに計算できねえんだよな」

1ポンドは16オンスであり、听、封土などと表記される。1オンスは28グラムであり、啢、隠斯などと表記される。五十嵐から教えられた計算式に対し、明は少しだけ不満そうである。

「それなら良い方法があるよ!ポンドの重さを2で割って、その答えの十の位の数を引くの。例えば明くんは今130ポンドだから、65から6を引いて59キログラムになるってわけ。概算だから、ちょっと正確じゃないんだけどね」

秋奈は明と話す時は努めて簡単な言葉を使うように心掛けていたが、『概算』という言葉が出てしまったことに対して少し反省した。

「そんな方法があったのか!!知らなかったぜ。流石、勉強頑張ってるだけのことはあるな。頼りになるじゃんか」

良い方法を知った明は、喉の小骨が取れたといったように嬉しそうにしている。

「概算の意味、概ねの計算だって分かるんだよね?明くんだって勉強頑張ってるじゃん。前だったら分かってなかったと思うよ」

思いがけない明の成長に、秋奈は心底嬉しそうである。

「そうかな?まあ、五十嵐さんにあれだけ家庭教師みたいにして教わったんだ。少しは賢くなんねえとな。あと、もう一つ気になることがあって、パンツの履き心地が悪いんだよな。トランクスより良いやつがあったら嬉しいんだけどよ。それもなんとかなんないかな?」

ボクサーはトランクスの下にノーファールカップを履き、その下にパンツを履いている。このカップの素材は本革でできており、下腹部保護のために着用し、マジックテープ式で後部にゴムバンドがついており、オムツのような形をしている。

この時代にはまだ存在していないが、1992年にアメリカのファッションブランドであるカルバン・クラインがユニオンスーツをアレンジして『ボクサーパンツ』というものを普及させている。そしてこれは、2000年から男性用下着の主流として市場を席巻することとなる。

「それはちょっと分かんないな。私トランクス履いたことないし」

秋奈は少し困ったように笑いながらそう言った。ここで一旦話が途切れ、しばし沈黙が訪れそうになる。

「そう言えば聞いた?安威川くんの話」

「聞いてねえな。何かあったのか?」

明は好敵手の動向とあって、わりと興味ありげに話を聞いている。

「古波蔵さんとの試合の後から、日本チャンピオンを3階級制覇するんだって意気込んでるんだって」

「そうなのか!?あいつと闘るの楽しみにしてたんだけどな。階級変えちまったのか」

「試合の後にやけ食いしちゃって、元々体格が良かったこともあって、体重がどうしても戻せないんだって。ほんと残念だよね。ボクシングはライバルと再戦できずに終わることが多いものなんだよね」

秋奈も少しテンションを落とし、明の気持ちに呼応するように話していた。

 「ここは俺が出すから」

そう言って明が支払いをしたのに対し、秋奈は終始申し訳なさそうにしていた。

 

 

それから二人は店を出て、自然と小指を絡めて手を繋いだ。

 「ねえ、公園行かない?」

 「いいぜ。俺もちょうど海が見たいと思ってたところだ」

 明もこれに同調し、近くにあった『山下公園』というところで一休みすることにした。

 「凄~い。おっきな船」

 風に髪を靡(なび)かせて、遠くを眺める横顔は、女神のように綺麗に映った。

 この頃にはもう『自覚』していた。自分がどういう感情を抱いているのかを。

 「お菓子あるんだけど食べる?」

 「おう、気が利くじゃん。食べる食べる」

 「ピーナッツなんだけど、同じものが2袋あって食べきれなくて―――」

 明にあげるために態々買った訳ではなく、父の実家から送られて来たものが、捨ててしまおうかと思うほどに余っているのであった。

「おう、そういうことなら任しとけよ。まあ、カロリー的に一袋が限界だけどな」

 「うん、助かるよ。私の家族、このお菓子あんまり好きじゃないみたいだし。あ、そう言えば、今日って成人式だよね」

 「ん?そうなのか?あんま気にしてなかったな。そう言えばここへ来る前に着物の奴を何人か見たな」

 「私たちもあと2年したら大人になるんだよね。けど、明くんはもう働いてるから、大人みたいなもんか―――」

 「俺なんかまだまだヒヨッコだよ。車だってファイトマネーをやり繰りしてやっと買えたんだし。大人だなんてまだ早えよ」

 「ふふふ、そうかもね。明くんは車、何乗ってんの?」

 昭和の終わり、この時代に決まり文句のように繰り返されていたこの質問。車のランクが男の評価に直結するような、妙な風潮があった。

「知ってるだろ?カローラだよ」明は笑いながらそう答えた。

 二人は何度かドライブへ行っており、カローラというメジャーな車なため、秋奈が車種を知らない筈はない。

 「へへへ、そうだったね。ちょっと言ってみただけ」

 秋奈はとぼけて子供のように嬉しそうに笑って見せた。この頃になるとかなり明に気を許していたのであろう、秋奈の性格からは珍しく、思い付いたことをそのまま話し、わりとどうでもいいことでも話題にするようになっていた。

 「今日は楽しかったね~」

 「うん―――」

デパートで買い物をしている時のように上機嫌の秋奈に反し、明はなんだか思う所があるようだ。

 “クソッ。これじゃ、あの時から何の進歩もねえじゃねえかよ。根性見せろよ、赤居 明”自分を奮い立たせようと鼓舞するが、チャンスはあるがなかなか行動に移せない。顔が凄く近いのに、どうしてもキスすることができないでいた。長い沈黙の後、意に反し会話を始める。

気まずさを打ち消すようにするが、空気を読むことが『逃げ』に繋がっていることが自分でもよく分かっていた。そしてそのまま30分近く戸惑ったまま、時間だけが過ぎて行った。なんとも青春まっしぐらな話だが、初キスの時には妙に緊張してしまうものなのである。秋奈が夕焼けの綺麗さに見とれていると、明は意を決して言葉を発した。

「目、瞑って」そう言われ、秋奈は察しが付いたのか黙って頷いてその言葉に従った。

明は少し震えながら、秋奈の肩に手を回した。鼓動が高鳴り、頭に靄が掛かったように何も考えられない。そして、昔聞いた古めかしい歌謡曲を思い出していた。唇がふっと触れ、初めてマシュマロを食べた時のような感覚に囚われた。

 「「レモン―――」」声が被ったので、思わず二人とも笑ってしまった。

沈黙の後、寄り添ってお互いの体温を感じ合う。そして帰り際、歩きながら最後にもう一回という感じでキスをした。キスの後に、照れながら二人で笑い合った。

 「俺、これから秋奈のこと大切にするよ」

 「ありがと、嬉しい、そうだね。これからもよろしくね」

 秋奈は子供のように無邪気な笑みを浮かべながらそう言った。

 「―――うん」

 「赤くなってる~。可愛いとこあんじゃん」

二人は安心したようにまた笑い合った。

 夕焼けに照らされた二人の姿は、心なしか輝いて見えた。

 

 

「叔父さん、明くんが―――」

試合前、控室に入るなり、秋奈は今にも泣き出しそうになりながら、話しかけて来た。

五十嵐は只事ではない雰囲気を感じ取り、急いで明の方に歩み寄る。

 「どうした?明?」明は雪山で凍えるように震えている。

 「五十嵐さん、俺、試合するのが怖くなった」

 五十嵐はなるべく不安を拭い去れるように慎重に言葉を選びながら話す。

 「敗戦のイメージが頭から離れないんだろう。落ち着いて、ゆっくりと呼吸を整えるんだ」それでもまだ震えは収まらない。

 ロビンソンとの試合での『トラウマ』が、亡霊のように明を苦しめているのであろう。

 「大丈夫、明くんなら古波蔵さんにだって勝てるよ。今までいっぱい練習して来たでしょ」そう言うと秋奈は子猫を抱くように明を抱き締めた。

 暫くすると不思議と震えは収まり、明は呼吸を整えることができた。

 「もう大丈夫みたいだ。ありがとよ、秋奈」

明は一つ溜め息をつくと、感謝の意を伝えた。

「五十嵐さん、俺、今からこんなんで大丈夫かな?あの古波蔵さんとやりあうってのに試合前にこんな状態で―――」

 「案ずるな、恐怖を知るということは強くなった証。その火のような存在は上手く使い熟せれば強い味方になってくれるものなのさ」

 五十嵐は本当に頼もしい存在だ。明はつくづくそう思い知らされた。

その後、しばらく三人で雑談していると、ノックの音が3回聞こえ、大和(やまと)会長と古波蔵が控室に入って来た。

「五十嵐くん、僕は―――」

古波蔵は思いつめたように、今にも涙を見せそうな雰囲気である。

 「古波蔵。俺はボクサーだ。これまでいつ死んでも良いと思ってリングに立ち続けて来た。フェアプレーに対して、俺に文句を言わせる気か?」

 五十嵐は珍しくムキになって、そう言い放った。

 「五十嵐くん―――ありがとう。これで心置きなく闘えるよ」

 古波蔵は心底安堵したといった表情を見せると明に向かって一つ頷くと控室を出て行った。そして10分後、場内アナウンスを受け、明たちは颯爽とリングへと向かった。

 「いいな、この試合はお前が世界チャンピオンになれるかどうかの試金石となる。落とすんじゃないぞ」

 「分かってるよ、任せといてくれ」

 「強くなった赤居 明を見せてやれ」

恐怖を乗り越えた明の表情には影は全く見られず、無言で頷くその顔には自信に満ちた笑みがあった。

 

 

 1985年3月10日の日曜日。会場となる横浜アリーナはタイトルマッチ並みの入りであり、チケットが完売するほどの大盛況であった。そして、今回の試合は古波蔵から『ノンタイトルマッチで良いので勝負したい』との申し出を受けて実現した。

 1年半前にボクシングを始めた明が五十嵐に次ぐほどのキャリアを持つ古波蔵を倒すことになれば『大番狂わせ』と言えるであろう。観客はそんな大一番を心待ちにしていた。

 身長165cm、体重117ポンド(53.5kg)、31戦29勝2敗9KO、沖縄出身 

『古豪』古波蔵 政彦。いざ、相見えん。

 『カンッ』

 ゴングが鳴って第1ラウンドが開始され、両者リング中央に歩み寄る。初手は古波蔵。老兵とは思えぬそのジャブは、明の頬を今にも貫かんとする勢いだ。

 彼の二つ名は『オウギワシ』。両腕を大きく広げ、相手に身体を大きく見せるファイテングポーズを模してそう呼ばれるようになった。鷲は猛禽類と呼ばれ、肉食で獰猛。時には自分の仲間さえその胃袋に収めてしまう程の凶暴性を備えているのだ。

 銀色のトランクスに描かれたオリジナルのロゴが、やけに煌びやかに見えている。大きなオウギワシが捕らえた獲物を啄んでいる様は、まさにこれから起ころうとしていることを暗示するものなのであろうか。

明は距離をとってのサークリング、ボルトで締め付けたみたいに位置を固定する。古波蔵は足が軽く、鳥が飛ぶような軽やかさだ。サウスポーの古波蔵は右のジャブを巧みに操り、効果的にストレートを当ててくる。一つ貰っただけでも、軽く意識を寸断されそうになる。これがベテランの味と言うべきか。歴戦の、修練の重みである。乗り越えた修羅場の数だけ強くなった漢(おとこ)の『気迫のストレート』と言えよう。

 第1ラウンド終了後、古波蔵は礼儀正しく拳を突き出して来た。以前の明なら突っぱねていたかもしれないが、今の彼は一味違う。ゆっくりと左拳を差し出すと、古波蔵の左手に静かに触れて見せた。

こんな緊迫した状況であっても、右利きの自分に気を遣い、利き手を差し出す古波蔵のスポーツマンシップに、明は素直に感心せざるを得なかった。正々堂々、なんとクリーンで紳士的なボクシングをしていることであろうか。

 

 

 それから、互いに手の内を探り合った第2ラウンドを挟み、激しくせめぎ合う第3ラウンドが開始された。牽制に次ぐ牽制。先に痺れを切らしたのは古波蔵であった。

 渾身の一撃、彼の必殺技である『ストマック・ブレイク・ジョルト』が炸裂する。『ジョルト』は後ろ足に重心を置き、身体ごと叩きつける大型のブローである。

 業火で焼かれたような一撃は明の左腕を確実に蝕んで行く。

『クロスアームガード』。教わった通りのお手本とも言うべき綺麗なフォームで当然のようにこれを受け止めた。古波蔵はその洗練された『必殺技』を『ストマック』つまり胃に向けて打って来る。

一撃必殺と評されることも多いこの技は、数々の難敵をマットに沈めて来た。『修行』を終えた明でなければ、一溜まりもなかったことであろう。

 意識と身体、その両方が超人的な速さで反応した。合宿で恐らく数百回はやったであろうこの動作。すかさず相手の『必殺技』に対する反撃の『スマッシュ』。構え際、古波蔵の眉が少し上がる。

 “来る“

 本能が、経験による勘が、己の危機を予感させる。放たれた瞬間、味わい慣れた電撃が両の腕を駆け巡る。明、五十嵐と同じく、古波蔵も『クロスアームガード』の使い手であるった。もし、五十嵐との対戦経験がなければ、今の一撃を果たして受け止められていたであろうか。

“いくら師匠が強いからと言って、この若造、少々出来が良過ぎやしないか”警戒しつつ、それでも体重を十分に乗せたカウンターを放ちながら、古波蔵は密かにそう考えていた。

 強烈なボディブローでその身が砕けてしまいそうである。しかし明は退かない。ピンチの時こそ前に出る。それが一つのセオリーであると理解しているからだ。古波蔵ほどのキャリアのあるボクサーなら隙を見せれば一気にリズムに乗って畳み掛けて来る。

『勝負所』を分かっているボクサーほど調子付かせると怖いものなのである。上から巻くようにしたストレートを、古波蔵の左頬に突き刺し、明は第3ラウンドを良い形で締め括ることができた。

 「それにしても凄いオーラだな。気を抜くと圧倒されそうになっちまうぜ」

「強い選手ってのは『華』があるもんなのさ。切れ味の良くない刃に、別の刃を付け加える『付け焼き刃』ではどうにもならない。真の実力が『迫力』となって表れるんだ」

五十嵐の持論にはいつでも重みがある。

「前は古波蔵さんの強さがピンと来てなかったんだが、今は恐ろしく強いことが分かっちまう。あの強さでチャンピオンになったことがないなんて信じられないぜ」

「それは自分が強くなったからさ。相手の強さが分かるのも強さのうちだからな」

明のその言葉には一切の嘘や謙遜はなく古波蔵に対する素直な尊敬の念が感じられ、五十嵐は成長した明の言葉を、一言一言噛み締めるように聞いていた。

 

 

それから、どちらも優位に立つことなく第4ラウンドを終え、闘いは第5ラウンドに突入した。古波蔵は一旦、拳を寸止めし、その後同じ腕でストレートを打つという技を使い始めた。この男、話せば天然と取られることもあるが、実に頭の切れるボクサーである。互いに立ち位置を調節しつつ、相手の出方を伺っている。

 そして、明が虚を突いて『スマッシュ』を放つ。古波蔵は咄嗟にガードしたが、守り切れなかった左脇腹に衝撃が鋭く突き刺さった。そして右へ少し蹌踉めいて体制を立て直したが、右膝をついてしまった。審判がカウントを開始する。

 明らかに『技が終わった後のスリップ』であったが、これに対し、古波蔵は文句の一つも言わない。どんな審判、どんな裁定であろうと、勝つのが真の『強者』古波蔵にはそう考えられるだけの『器』があった。

 カウント8までに悠然と立ち上がった後、緩徐にファイティングポーズをとる。それから、古波蔵のジャブの応酬。そのうち一発を受けた時に、明は微かな『違和感』を覚えることとなった。距離を計り、フックを当てようとするが、どうも微妙にズレが生じてしまう。

その間隙を縫って、古波蔵は鋭く拳を当ててくる。身体が傾き、左側へ倒れ掛かってしまう。パンチによる転倒ではないため、これはスリップと看做された。古波蔵によって効果的に計算された第5ラウンドは、劣勢のまま終わりを告げた。

 「なんだか足元がフラつくんだ」明はコーナーへ戻ると、直ぐに不調を訴えた。

 「耳の裏、アンダー・ジ・イヤーさ。味な真似をするもんだな。ここを叩かれると三半規管がマヒして平衡感覚が狂うんだ。15年もボクシングをやっている古狸だからこその悪知恵だな。ジャブに気を付けながら、縦にした右手で耳への攻撃を防ぐようにしろ。できるなら、そのままカウンターをくれてやってもいい」五十嵐は冷静に解説を加える。

 「そうだったのか。それならできそうだぜ。ありがとよ、五十嵐さん」

 安心したのか、ふーっと肩を下ろしながら明は答えた。

 「恐らく古波蔵の技のパターンを一番良く知っているのは、この俺だろうからな。さあ、もうすぐゴングだ。存分に暴れて来い」そう言うと五十嵐は一つ頷いて見せた。

 

 

 それから危なげなく第6ラウンドを終え、余裕を持って第7ラウンドを熟し、第8ラウンドを迎えた。古波蔵はどこまでも諦めない、不屈の闘志を持ったボクサーだ。それは誰もが認めるところである。

しかし、対する明も根性では負けないという自負があり、それは皆にも賛同を得ていた。ラウンド開始から、互いに足を使ってのアウトボクシングで遠巻きに機会を伺っている両者。古波蔵の攻撃には鬼気迫るものがある。まるで明日のことなど考えていないかのようだ。それでも手数は古波蔵が上だが、打撃の質は明が勝っている。

“このままでは劣勢を強いられる”古波蔵はそう考えていた。そして攻撃の最中、古波蔵が急に体制を変え、『ジョルト』を放って来た。

だが、それはフェイントで、『クロスアームガード』をした明の左テンプルに、古波蔵の鋭い右フックが突き刺さった。一瞬にして意識が寸断され、うつ伏せに倒れてからのカウント7。明は辛うじて意識を取り戻し、両腕で地面を押して、カウントを1つ残してギリギリではあったが立ち上がることができた。タイミング良くゴングが鳴り、辛うじて救われる形となった。

「今のは本当に危なかったな。よく立てたものだ。気を抜いていた訳ではないだろうが、古波蔵は絶妙にフェイントを織り交ぜてくる選手だ。特に左手でのフェイントが多く、反射的に反応してしまう速さがある。次からも気を付けるんだぞ」

「おう。合宿を乗り越えて前よりもタフになった気がするんだ。だから立てたんだと思う。フェイントに対しては『ジョルト』で終わらずに次の攻撃が来ると思っとくよ」

「そうだ、それでいい。奴に関しては、いくら警戒しても、警戒し過ぎるということはないからな」

そう言うと五十嵐は明に向かって少し大袈裟に頷いて見せた。

 

 

 互いに勢いを増したまま突入する第8ラウンド。明はここへ来て、古波蔵との闘いに確かな手応えを感じていた。体制を高く保ち、突き刺すようにして『スマッシュ』を放つ。古波蔵は体制を低くして構え、衝撃を押し当てるようにして『ジョルト』を放つ。

二つの迫撃が交差した時、明の瞼からは血が噴き出し、古波蔵の肋骨にはヒビが入っていた。互いに膝をつき、共にカウント4で立ち上がった。互角の攻防に見えるが、古波蔵の方がダメージが大きいという点で、実質明に軍配が上がったと見るのが妥当であろう。その後は少し余裕を持った形で第8ラウンドは終わりを告げた。

 続く第9ラウンド、明は危なげなく試合をコントロールし、第10ラウンドへと繋ぐことができた。対する古波蔵は、いぶし銀と言われ、ベルトこそ巻いてはいないものの、五十嵐が居なければ、確実に世界チャンピオンとなり、幾度となく防衛を果たしていたとされている。五十嵐が引退した今、『世界最強の男』はロビンソンではなく実質、この男なのかもしれない。それほどに、古波蔵 政彦という男は実力のある人物であった。

また、光栄ジムの後輩、与那嶺 弘樹の『借りを返す』そういう思いもあるのであろう。繰り出される拳は普段より力んだものになっていた。古波蔵の強烈な『ストマック・ブレイク・ジョルト』が明の腹を直撃した。バランスを崩し、ダウン寸前の明。

 だが、明が倒れ掛かってからも、古波蔵は烈火の如く殴り続けることを止めず、ここぞとばかりに、左右の手で連打して来る。目が霞み、試合前に食べた物を吐き出しそうになってしまう。ダウン後、6秒間は全く身体が動かせないほどであった。

 起き上がった直後にゴングが鳴っているが、レフェリー気付かない。30秒間の間、火花散る両者の打ち合いが続いた。その後、堪り兼ねた五十嵐の声でようやく試合が止まり、第10ラウンドは終了した。

「危なかったぜ。そこらの『なまくら』とは訳が違うってことか。本当に一級品の技だぜ」明の全身から噴き出して来る汗が水蒸気となり、湯気のように立ち込めている。

「正念場だぞ。ここで勝った方がロビンソンとの対戦の切符を手にし、ベルトに手を掛けることができるんだ。気を強く保って、勝ちを見失わないようにしろ」

極限の場面では、技術的なアドバイスよりも、メンタル面でのアドバイスが必要となることが多い。五十嵐は、そのことをしっかりと心得ていた。

 

 

そして第11ラウンドを終え、最終の第12ラウンド。ここまで素人目には互角、玄人目には明がやや優勢と言ったところであろうか。拳闘家たちは古波蔵の微妙な変化を見逃してはいなかった。その変化を隠すように、古波蔵の拳が牙を剥く。

 まさに火だるま。これまでに2度のダウンを奪われ、倒れ込もうとしている明を容赦なく追撃している。貝のように固く殻を閉ざしていたのでは敵は倒せない。攻撃は即ち最大の防御なり。キャリアという点において未熟。その点においては旗色が悪いと言われても仕方がないことであろう。

 だが、ポーカーフェイスを決め込んでいても額の汗は隠せない。古波蔵にも確実に疲労の魔の手は忍び寄っていた。彼はジャブでさえ肘を伸ばし切り、一発一発にかなり体重を乗せて来ている。休まずに動き詰め、余力を残すつもりなど毛頭ないのであろう。

 横に足を振ってリズミカルだが少し変則的なステップを使い、相手にその動きを悟らせない。明はその掬い上げるような連撃を避けながらも、冷静に古波蔵の動きを分析できていた。それにしてもこの男、全く手を休めることがない。

 強攻に出ることで、一縷の望みも断ち切ろうという魂胆なのであろうか。普段から、いや、幼少期から如何に鍛錬を積んできているかが見て取れる。全身全霊、力と力が錯綜する。刹那、力強い音が、会場全体に響き渡っていた。

 大地を揺るがす衝撃、明の『ハート・ブレイク・スマッシュ』は古波蔵の心臓を確実に射抜いていた。心停止した3秒間、息をもつかさぬ連撃の後、立っていたのは赤居 明ただ一人であった。ゴングが鳴り響き、試合終了。

五十嵐でさえ判定勝ちしかしていない男に、明はKO勝ちという偉業を成し遂げた。

笑みを溢し、一筋の涙が頬を伝った五十嵐の心境は『感無量』であった。

試合後、控室で身体を休めていると、意識を取り戻した古波蔵が話をしに来た。

 「いやぁ、強かったねぇ。全盛期の五十嵐くんと闘っているようだったよ。これで迷うことなく引退できる」それを聞いて五十嵐は大層驚いたようだ。

 「引退?血迷ったか古波蔵。まだ世界チャンピオンになっていないだろう。お前なら今からでも十分にチャンピオンになれる実力があるというのに。無冠の帝王で終わるつもりか?」

 「あいっ。僕はどうやら、チャンピオンになることよりも、君に勝ちたくて現役を続けていたらしい。ライバルの居なくなったバンタム級でベルトを奪っても、それはきっと僕にとってチャンピオンベルトではなくなってしまっているんだ」

 哲学的であり、少々偏った考えだが、スポーツをする者にとってポリシーは必用不可欠なものであると言えよう。

 「そうか、俺たちの伝説もここまでのようだな。どうだこれから飯でも行かないか?」

 「あいっ。試合して腹も減ったし、アイスクリーム食べたいなぁ」

 「試合前に食べて試合後にも食べるのか。本当にアイスが好きなんだな」

 「いや、今日は試合前には食べなかったんだ。どうにも力が入らなくてねぇ。アイスクリーム―――食べとけば良かったなぁ」

 「何!?食べなかったのか?珍しいこともあるもんだな。試合前の験担ぎは、スポーツ選手にとって必須事項だろう」

 「今回だけ周りに止められてねぇ。今日は日曜日だろ?どこの店も全部休みでねぇ。でも言い訳はしないよ。これが僕の実力。男はどんな時でも結果で示さないとね」

 流石、長きに渡って日本の拳闘界を支えてきた人物だけのことはある。潔いことこの上ない。そして古波蔵はこれまで沈黙を貫いていた明の方へ向き直り、雄弁に語り始めた。

 「老いは恥ではない、僕はそう思うよ。君も年を取れば分かるよ。僕はまだ若いつもりでいるけどね。これまでボクシングをして来れて、本当に幸せだった。もう十分だ。君のような選手が居れば、安心してこれからの時代を託せるよ」

 30代にして尚KOの山を築いて来た彼だからこそ、思うところがあるのであろう。

「任せといてくれ、おっさん達のためにもロビンソンを倒して、必ず世界チャンピオンになってみせるぜ」

「頼もしいな。僕らは本当に好き友であり、ライバルでもあった。五十嵐くんのことを憎いと思ったことなんて一度もないんだ。できればロビンソンに倒されそうだった時、代わりに僕が出て行って、五十嵐くんのことを助けてあげたかったくらいさ。五十嵐くんと同じ時代にボクシングができて本当に運が良かった。これからは君たちの時代だ。よろしく頼むよ」古波蔵は最後にそれだけ言うと、明に向かって右手の拳を突き出した。

 それに対し明も、右手の拳を出して合わせた。

 「俺はきっとやって見せる!!期待しててくれよな」

 明は自信に満ちた顔でそう言い放った。古波蔵は嬉しそうに満面の笑みで頷き、部屋を後にした。そして、10分後、明たちが控室を出た所で、一人の少年が近づいて来た。

 「あの―――赤居選手ですよね?サイン下さい!!」

 元気の良い少年は左眉の上の大きな傷など気にも留めず、屈託のない笑みを作っていた。

 「へへっ。なんだか芸能人にでもなったみたいだな」

 明は少し照れながら、渡された色紙に名前を書き込む。

 「ありがとうございます。これからも応援するので、頑張って下さい!!」

そう言うと少年は一礼して去って行った。

 「あの子の前でかっこ悪りいとこ見せなくて済んで良かったぜ」

 明はそう言って、ほっと胸を撫で下ろした。

 「腹を括ることで、踏ん切りがついたのだろうな。見違えたよ」

 この時明は、五十嵐が意図的に自分を褒めてくれていることに気が付いた。

 「まあ、もう一回やったら勝てるかどうか分かんねえけどな。

 「『巧圧』使いの古波蔵さんとは相性が良かったってのもあるけどな。もう一回やったら勝てるかどうか分からねえよ。うわっ―――」

 明は側にあった植木を避けようとして、蹌踉けて転けそうになってしまった。

 「どうした?どこか悪いのか?」五十嵐は揶揄うつもりで言ったようだ。

 「なんだか目が霞むんだ。凄く見え難くて―――」

 明の真剣な言い方を聞いて、すぐに五十嵐の表情が変わる。

 「何!?それはいかん。網膜剥離などで失明の恐れもある。すぐに病院に行って診てもらおう」

 五十嵐としては祝勝会でも開いてあげたいところではあったが、病気に関しては早期発見が功を奏することが多々あるため、重篤な症状が出る前に検査を行うこととなった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五章 世界偏

古波蔵 政彦との試合後、明の目の違和感を検査するため、一行は都内にある歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部付属病院にて検査を受けることとなった。明は目が霞み、ほとんど目が見えていないような状態である。検査の後、五十嵐だけが呼び出され、別室にて話を聞くこととなった。30代前半といったところであろうか、精悍な顔つきの男性が部屋へと入って来た。

 「今回、明くんの主治医を務めさせて頂く、堺(さかい) 天(たかし)です。今から明くんの症状について説明させて頂きます」

「先生、状態はどうなんですか。あいつは今、大事な時期なんです。何かあったら困るんです」いつもは冷静な五十嵐だが今回ばかりは焦りの色を隠し切れない。

 「お父さん、大変申し上げ難いのですが、明くんは『白内障』を患っています」

白内障は水晶体を構成する蛋白質であるクリスタリンと呼ばれる物質が集まることで変性し、白色または黄白色に濁ることで発症する病である。根本的な原因は21世紀初頭になっても解明されておらず、水晶体の細胞同士の接着力が弱まったり、水分の通りが悪くなったりして起こるのではないかと言われている。発症は45歳以上の中年に多いのだが、明の場合はなんらかの原因により、18歳という若さで症状が出てしまったようだ。

昭和60年において、白内障は不治の病ではない。だが、手術をすることが患者にとって大きな負担になることが多いことに加え、国内では水晶体を取り除いても、代わりのレンズを入れることが法律で許可されていなかった。1980年代の一般的な白内障手術は、濁ってしまった水晶体を凍らせて丸ごと取り出す『水晶体全摘出』であった。

レンズの働きをする水晶体を取ってしまうので、水晶体の度数に相当する虫メガネのような分厚いレンズのメガネをかけなければならなかった。それはつまりボクサーにとっては『現役生活の終わり』を意味する。五十嵐は明の身に起こったことを重く受け止め、父親でないと否定することも忘れ、堺の腕に縋りついた。

 「先生、治るんですよね。いや、治してもらわなくては困る。必要なら私の目を代わりにやってもいい。あいつは今から世界チャンピオンになる男だ。こんなところで終わらせる訳にはいかないんです」

 顔面蒼白の五十嵐に対し、堺は取り乱すことなく落ち着きを保ったまま答える。

 「息子さんの大切な身体のことです。必死になるのも無理はないことですよね。手術自体は問題なく行えるでしょうが、今の医学では明くんにボクシングを続けさせてあげることはできません。ですが、一つだけ光明が―――」

「何ですか、それは?それが叶うなら私はどんなことだってします」

「現在、国内の眼科医たちは『眼内レンズ』というものの認可が下りるのを待っています。それは人間の目の水晶体に代わるもので、それさえあれば明くんの目を治せるのですが、後どれくらい時間が掛かるか―――」堺にも歯がゆい思いがあるのであろう。

「そんな―――明にはボクシングが必要なんです。どうすれば―――」

 「当院は国内でも有数の最先端医療が受けられる病院です。使用が許可され次第、すぐに連絡を入れます。今、日本医学界の発展のために多くの人が心血を注いでいます。だからこそ約束します。近い将来 『眼内レンズ』は―――必ず認可される日が来ると」

 「その言葉、信じて待っています」堺医師の強い言葉で五十嵐の目に光が戻った。

“どんなに時間が掛かってもいい、明にもう一度ボクシングをさせてやりたい”五十嵐は強くそう思った。

 

 

 「嫌だ、今すぐ手術してくれ。俺は今、絶好調なんだ。ロビンソンの奴だって絶対に倒せる自信があるんだ」聞き分けが良くないことなど承知の上だった。

 それでも言うべきことは先延ばしにしてはいけない、五十嵐はそう判断した。

 「明、お前の気持ちはよく分かる。だが、今はまだ耐えるしかない。手術をしようにも肝心のレンズがないんだ」普段見せないような『圧』を掛けるような話し方で言った。

 「うるせえ。じゃあ元の不良に逆戻りか?今までの努力は無駄だってのかよ?」

 「そうは言っていない。堺医師は約束してくれた。近い将来、必ず『眼内レンズ』の認可が下りると。それまで待つんだ」

 「もういい、ジムに帰って練習する。この状態でも、俺は世界チャンピオンになってみせる」

言い出したら聞かないのは誰の目にも明白だった。それから毎日、明はミットを叩き続けた。ひと月たち、またひと月経っても、状況は一向に良くならなかった。ジムに行っては基礎練をする。そんな日々が長く続いた。

「大丈夫だよ。きっと、認可が下りる日が来るよ。明くん、今までもの凄い努力して来たもん。神様は絶対見てくれてるよ」秋奈にはもう励ますことしかできなかった。

だが、明には、その優しさを汲んでやれるだけの余裕がなかった。

 「そんなこと言ったって、いつになるか分かんねえだろ。こうしてる間にも勘はどんどん鈍って行っちまってるし、俺には時間がねえんだ。世界に挑むってのは、それほどに過酷なもんなんだ。余計な口挟まないでくれよ」

酷いことを言ったとは思った。けれど、不器用な彼には他の言い方ができなかった。

 「明くん―――」当人も限界であろう明に、秋奈は掛ける言葉が見つからなかった。

白内障は放置するとやがて眼の中の『水晶体』が膨らみ、前方にある『角膜』との間にある『虹彩』という部分を後ろから押し上げる。それから、眼球内の『房水』と呼ばれる水が排出される『隅角』という部分が狭くなり、完全に塞がると眼圧が一気に上昇する。

結果的に緑内障を引き起こし、『急性緑内障発作』として頭痛、眼痛、吐き気を伴いだす。そして、緊急手術をする頃には視野の欠損がみられることが多く、欠けた視野は二度と元には戻らない。

 眼の中の水晶体が白く濁り、物が霞んだりぼやけたりして見える『白内障』と、眼圧が上がることで視神経に障害が起こり、欠けてしまう『緑内障』。古くは白底翳、青底翳とも呼ばれ、似たような名前だが、その結末は大きく違ったものになっている。一般人にとっても視野の欠損は、その生活に支障を来すことはほぼ間違いない。

ましてや、一瞬の攻防で勝敗が決するボクサーにとって、『見えない部分がある』ということは致命的な欠陥になり得る。世界レベルで闘う選手なら尚のことだ。早急な治療が必要ではあるが、この時代には見えなくなるまで待ってから手術をすることも多かった。

「辛いと思うから、今は無理しないでね」

 秋奈はもっと言いたいことがあったが、それ以上は何も言わないでおこうと決めた。それから半年間、この病魔は明たちの日常に暗い影を落とした。

 

 

1985年5月7日。白内障研究会が日本白内障学会と名前を変えた翌年、医学界はまた新たな一歩を踏み出した。堺医師から連絡を受け、五十嵐は再び歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部付属病院に駆け付けた。出迎えてくれた堺医師はすぐさま手術の説明をしてくれた。

「安全な手術ではありますが、一週間ほど入院が必要です。ですが、安心して下さい。必ず、健康な状態に戻してみせます」五十嵐は力が抜けたというように両肩を落とした。

 「それを聞いて安心しました。私は何があってもあいつを世界チャンピオンにしてやりたいんです。手術は本当に慎重にお願いします」

 「はい、もちろんです。全ての患者に対して、医学の粋を尽くして対応させて頂くつもりです。それにしてもそんな凄い方のオペを執刀するなんて、孫でも出来たら聞かせてやりたいような話ですね。術後に是非、今後の青天井をお聞かせ願いたいものです」

 「そうですね。手術が成功したら、いくらでも話したいところです。けれど、今は明のことが心配なんです。できることなら代わってやりたいくらいだ。正直に申し上げますと、不安で堪らないんです」

 「幾重にも重なった偶然が天命を運んで来るものです。大丈夫、約束を反故(ほご)にしたりしませんよ」その姿を見た五十嵐は確信した、この男になら任せても大丈夫だと。

 なぜならその姿は、初めての世界戦の前、鏡の中に見た自分の姿と重なって見えたからだ。数々の修羅場を潜り、難敵に挑む男の自信に満ちた表情を、この堺という男も持ち合わせていた。何も言わず深々と頭を下げ、五十嵐は明にこのことを伝えるためジムへ向かった。

「本当か?認可が下りたのか?やった。これでやっとボクシングができる」

明は飛んで跳ねて、これ以上ない程に喜んでいる。

「良かったね、明くん。これでやっと辛い日々が終わるね」

秋奈は今にも泣きだしそうな表情で明の喜びに応える。

「ああ、心配掛けちまったな。五十嵐さんにもずっと支えてもらってばかりで―――皆には本当に感謝してる」明はそう言うと丁寧にお辞儀をして見せた。

「なあに、気にすることはないさ。大切な愛弟子の世話だ。お前が嫌と言っても焼かせてもらうさ。それより、手術の予定は一週間後だ。今日は家に帰ってしっかり身体を休めて、手術の日に備えるんだぞ」

五十嵐はまるで何か大きな偉業を成し遂げたかのように誇らしげな表情を浮かべている。

「分かった。ここで無理して悪化でもしたら事だもんな。今日からは安静にしとくよ」

軽やかに希望に満ちた足取りで家路に就く明の後ろ姿には、昨日までに見た悲壮な影は見られなかった。

一週間後、窓口で手続きを終え、明は母と二人、入院する準備をしていた。母親と二人きり。年頃の青年には少々キツいものがある。

「父さんが亡くなって、もう何年経つかな。あんたもこんなに大きくなって」

「しんみりさせてんじゃねえよ。妙に畏まっっちまって。あれはしょうがなかったって、今になったら思えるよ」

「それは大人になったからかもね。けど、私には到底そうは思えないよ」

「何だよ、心配させに来たのか?」弱気な母親に、明はほんの少し苛立ちを覚えた。

「そうじゃないよ。ただ、父さんの言いつけ―――守んないといけないからね」

「何のことだよ?」心当たりはあったが、明は確かめるように聞いた。

「お前の身体―――大切にしてやってくれって」それは父の最後の言葉であった。

「お袋のもだろ」明もその時のことを忘れてはいないとばかりに念を押す。

「そうだったね。ここんとこ働き詰めで寝るのを忘れちまいそうなくらいだったよ。ほんと、苦労をかけっぱなしで―――」

「もういいだろ。そんな話」

定番の文句だが実の母に言われると心を打つものがあり、明は少々うんざりした様子で話を切り上げようとする。そうこうしていると、病室に五十嵐と秋奈が入って来た。

「あっ。おばさん。こんにちは。明くん、いよいよ今日だね。これ神社のお守りだよ。早く元気になってほしくて。千羽鶴も作ったからね」

秋奈は少しはにかんで大事そうに見舞いの品を明に渡した。目に隈を作り、少し眠たそうであった。その心意気が明の胸に大きく響いた。

「何だよ、こんなものまで作って。大げさだな。でも―――その気持ち嬉しいよ。ありがとう」柄になく素直にお礼を言う明に、秋奈は少し照れてしまった。

「良いお母さんが居てよかったね。なんかちょっと嫉妬しちゃう」

秋奈は態と話題を逸らそうとする。

「お袋は小さい頃から病気がちで、それなのにここまで俺を育ててくれたんだ。特に、親父が死んじまって高校を中退してからは恥ずかしいくらいグレちまってさ」

「そう言えば明くんが中退した時の話、聞いたことなかったよね」

「悪りい。こんな話、つまんねえよな。もう止めにするよ」

「ううん、そんなことない。その話、聞かせてよ」

話が終わらないように慌てて繋ぎ止めると、明は側にあったベッドに腰かけて話し始めた。

「高校二年生の春頃に―――」そう言って明は少し泣きそうになる。

それを見て、秋奈は明の右手を両手で覆うように包んだ。

「ゆっくり―――ゆっくりでいいいよ」

「すまねえ―――落ち着いたから話すよ」

「俺が高校二年生の春頃、親父が交通事故で死んじまったんだ。当時は悔しくて仕方がなかった。そのことでグレて不良仲間と連むようにもなった。そんなのは親父の望んだ姿じゃないって、今になったら分かる。けど、あの時はその怒りをどこにぶつけていいか分からなかったんだ。辛くて、苦しくて、どうしようもなかった。そんな時、五十嵐さんと―――ボクシングと出会ったんだ」明は一つ深呼吸をして、また話し出す。

「嫌なことから逃げちまってた俺も、不思議とボクシングには向き合えたんだ。学校を中退して落ちこぼれた俺が、唯一夢中になれたのものでもあった。人生やり直すにはこの道しかないと思ったよ」明は思いを噛み締めるように言葉を吐き出した。

「だから失いたくなかったんだ。最初は夢だった世界チャンピオンへの道が、段々と現実味を帯びて目標へと変わって行った。そのことが、たまらなく嬉しかったんだ。この手術、絶対に成功させてほしいと思ってる」

熱弁を振るう明の言葉に、秋奈の涙腺が緩んで来たようだ。

「う―――。こんな時に泣いてちゃダメだよね」

だが、明の過去と決意に、秋奈は感極まって泣き出してしまった。

「秋奈―――ほんと、心配掛けちまってるよな。だけど、安心してくれ。世界チャンピオンになる男が、病気なんかに負けやしねえよ。俺は必ず復活してみせる」

力強い明の言葉は、隣で聞いていた五十嵐を奮い立たせたようだ。

「よくぞ言った。それでこそ俺の見込んだ男だ。二時間後の手術まで、まだ時間がある。今は気持ちを落ち着かせて来たるべき時に備えるんだ」

その気迫の籠った言葉に明の口調にも一層熱が入る。

「おう。古波蔵さんにだって勝てたんだ。こんなところでくたばってたまるかよ。白内障を、一発KOしてやるぜ」

 

 

そして、二時間後、五十嵐と秋奈と母に見送られ、明は手術室へと旅立って行った。

「明くんとはこれが初対面でしたよね。今回、執刀医を務めさせて頂く堺(さかい) 天(たかし)です。よろしく」

これまで再三、会いたいと言われていたのを断っていた手前、多少の気まずさはあったものの、それでも手術を引き受けてくれたこの男は信頼の置けそうな人物だと判断した。

「あんなに邪険に扱って来たのに、俺のことを見捨てなかった。あんたになら任せても大丈夫だと思ってる。よろしくお願いします」

堺医師は穏やかな笑みを見せ、ゆっくりと頷いて見せた。手術開始。堺医師は先程とは打って変わって鷹のように鋭い眼光で明を見据え、大きめの注射針で麻酔をかける。

 「うぐっ」堪えようとしたが、明は思わず声を出してしまう。

「痛いですよね。もう少しの辛抱ですので、我慢して下さい」

これより医学が進歩すると『テノン嚢下麻酔』と呼ばれる結膜の表面の薄皮に注射する麻酔や『点眼麻酔』と呼ばれる目薬を使った高度な麻酔術が確立されているが、ここで使われている注射を用いた『局部麻酔』は麻酔自体がとても痛いものである。

いくらボクサーとはいえ、眼球への痛みには慣れていない。

 「そろそろ効いて来た頃ですね。それでは『切開』に移ります」

ここでは『反転法』と呼ばれる一般的な折り畳んで行う手法ではなく『引裂法』という水晶体を包んでいる水晶体(すいしょうたい)嚢(のう)を円を描くようにして切開する方法を用いている。この手法は習得は難しいが、慣れると非常にやり易く、難症例でも成功率が高いとされている。

 2010年代には『2mm』で済む眼球切開も、1980年代の白内障手術においては『約10mm』も必要であった。それは、眼球内の水晶体を砕かず、そのままの状態で摘出することが一般的であったため、それほどの幅を要するしかなかったからである。

 「それでは、『核処理』に移ります」

堺医師は慎重に、明の両眼から『水晶体』を取り出して行く。

後にはカナダのハワード・ギンベル医師考案の『ディバイド・アンド・コンカー法』というシャープペンシルの芯を伸ばした時のような形状の『フェイコチップ』と呼ばれる器具と手術用の『フック』を用いて水晶体に溝を掘ってから分割するという優れた手法が開発され、これは時間が掛かるがリスクが低く、安全な手法であると考えられている。

また、溝を掘らずに水晶体を割って吸引する施術として、永原 國宏医師考案の『フェイコチョップ法』と呼ばれるフックを用いる手法、赤星 隆幸医師考案の『フェイコ・プレチョップ法』と呼ばれる先端がナイフ状の特殊なピンセットを用いる手法がある。いずれも水晶体嚢の破損のリスクを伴うものであるため、高度な『腕』が必要とされている。

「佳境ですね。『眼内レンズを挿入』します」

 挿入開始。堺医師はピンセットで慎重に『眼内レンズ』を水晶体嚢の中に入れている。

白内障の画期的発明『眼内レンズ』が開発されたのは、第二次大戦中のことである。戦闘機の空中戦でコクピットが割れ、破片が目に入る負傷兵がたくさんいた。普通、目に異物が入れば炎症や拒絶反応が起こるが、それらの負傷兵の目はそのような症状を起こすことはなかった。破片の素材は『PMMA( ポリメチル・メタクリレート )』というハードコンタクトレンズと同じ樹脂素材で作られており、それを知ったイギリスの眼科医ハロルド・リドレー医師は手術で取り除いた水晶体の代わりに『PMMAの人口レンズ』を入れて白内障を治療することを思いついた。これが『眼内レンズ』の誕生である。

2010年代では直径6mmの『アクリル製』のレンズをインジェクターと呼ばれる専用の器具で丸めて目の中に挿入するのだが、当時は『シリコン製』が主流であった。世界で初めて『眼内レンズ』が移植されたのは1949年のことであり、明のレンズは、その頃にしてみれば多少の進歩はみられるものの、1990年代から用いられている『アクリル製』に比べれば多少見劣りする感は否めなかった。

「『眼内レンズ』を眼球に固定するため『縫合』しますね。これで最後です」

そう言って堺医師は縫合に移り、オペチームに緊張が走る。この処置を誤れば、見え方に狂いが生じるという可能性が多分にある。だが、そこは歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部局長、堺医師。10mmの間に10針縫う驚異的な精度で、明の眼球を強烈に固定する。

極度の緊張の中で無事に手術は終わり、残すところは抜糸だけとなった。術後はなるべく動かさないようにしなければならない。『眼内レンズ』は水晶体嚢の中に入っているが、術後の傷が治る過程でそれが収縮すると、時間と共に多少中央からズレたり、傾いたりすることがあり、乱視の原因となってしまうからだ。

 手術中のランプが消え、約30分の手術を終えた堺医師が、手術の『成功』を伝えると、秋奈と母は涙を流しながら、手を取り合って喜びを分かち合った。ストレッチャーに乗せられた明は、そのまま病室へと運ばれ、安静にしておくようにとだけ言われた。

 

 

 一週間はあっという間であった。抜糸を終え、退院の日には五十嵐、秋奈、母が出迎えてくれた。

 「退院、本当におめでとう。なんか、また泣きそう」

 泣きベソをかいている秋奈の頭を撫でた後、明は力強く話し始めた。

「二ヶ月もブランクが空いちまったからな。これを取り戻すのは簡単なことじゃねえって分かってる。けど、苦じゃねえよ。大好きなボクシングだからな」

五十嵐はそれを聞いて嬉しく思い、明の気分を少しでも乗せようと考えた。

 「お前には生物最大の武器『若さ』がある。ブランクを取り戻すなんて造作もないさ」

 「そうだよな。これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」

 意に反して難しい言葉を使ったので、五十嵐は可笑しく感じてしまった。

「はっはっはっ。言うようになったじゃないか。退院祝いに、出前で寿司でも取るか」

「いいのかよ、そんな大盤振る舞いしちまって」

「うちのジムから二人目の世界チャンピオンが出るんだ。その前祝ってことさ」

まだ自分の挑戦は終わっていない。そのことを強く感じ、明は感極まった様子だ。

「―――ありがとよ。五十嵐さん」

五十嵐はこれまで何度も見せたように不敵に笑って答えた。

「その代わりチャンピオンになってからはしっかり稼いでもらうぞ。1回や2回でなく何回も防衛し続けてくれないと困る。歴史に名を残すような偉大な男にならないとな」

それを聞いて秋奈は思い出したように声を上げた。

「ジムに行ってお寿司食べるんだよね?それなら慎也くんも呼んであげようよ」

「そうだな。あいつには世話になってるし、一緒に祝ってもらうとするか」

 「そうと決まれば急いで行こう」秋奈は先程よりも、もっと明るい声で話を進めた。

 病院の公衆電話で慎也を呼び。ジムに着いてからは久しぶりに楽しい時が訪れた。この時がずっと続くといいな。その場に居た誰もがそう思った。

 

 

白内障の手術後、明は思わぬ敵と闘うこととなった。視力が極端に落ちていたためロードワークにまともに行けておらず、試合が無かったこともあり、体重が144ポンド(約65kg)まで増加してしまっていた。

本来、身長168cm、体重117ポンド(約53.5kg)の明にとって、もともと減量は厳しいものであった。それに加えて成長と共に骨が太くなって来ており、骨格がバンタム級に留まることを許さなくなりつつあった。

 1985年6月8日。走り込みを続ける毎日に、少々嫌気が差して来た頃、秋奈から思わぬ誘いがあった。

 「3月に高校を卒業してから、一人暮らし始めたんだ。良かったらウチに遊びに来ない?」

 秋奈はこの春から看護の専門学校に通い出し、五反田に移り住んでいた。明が練習している浅草の町からは電車で13駅ほど離れた場所にある。

 「いいのかよ、若い男なんか連れ込んで。親父さんに怒られるぜ」

 冗談と本気の半々。そんな思いだった。

 「いいのいいの。あんまり走ってばっかじゃ退屈でしょ。たまには羽を伸ばさないと」

 秋奈はそんな思いなど気にも留めていない様子だった。電車を乗り継ぎ、五反田へ着いてから5分ほど歩くと、小洒落た感じのアパートへと案内された。

2階までの高さで木造、鉄筋両方ある『アパート』に対し、階数制限がなく鉄筋のみの構造になっている『マンション』が増えては来ていたものの、バブル突入以前である昭和の中頃においては、若者のアパート暮らしも珍しくはなかった。204と書かれたプレートをしげしげと見つめた後、秋奈に促されるままに部屋へと入り込んだ。

 「おっ、すげえな。テレビあんじゃん」

 「ふふ~ん、いいでしょう。おばあちゃん家で新しいやつ買ったから使わなくなったのを貰ったんだ」そう言うと秋奈は、慣れた感じでテレビのスイッチを入れる。

世界初のテレビ放送は1936年にイギリスで放送され、その後アメリカではニューヨークでWNBCが1954年にカラーで放送を開始し、日本では1960年に開始された。当時は画面右下にカラーの文字が表示され、モノクロテレビで見ているとそれがもの寂しい感じがしていた。だが、1964年の東京オリンピックを契機として普及し、1968年4月からNHKがラジオ契約を廃止して、カラー契約を創設したことから、1973年には白黒テレビの普及率を上回った。

また、昭和の時代にはゴールデンタイムにプロレスが放送されているということが当たり前であった。午後7時台に中継が行われており、多くのスター選手が熱戦を繰り広げる様は、活気ある時代を象徴していた。

 「お茶でも飲む?」明はそう言われ、軽く返事をすると辺りを見渡してみる。

“そういえば女の子の部屋になんて入ったことは無かったな”そう思い、ピンクを基調とした内装を見ながら、音を立てないように気を付けて生唾を飲む。

 「さっきから全然喋んないじゃん。もしかして、緊張してんの?」

 「そんなんじゃねえよ。ただ、なんだか色のキツい部屋だなと思ってさ」

 「色の濃さとか、ちゃんと分かるんだよね?あれから見え辛くて大変だと思うけど」

「ああ、ただちょっと遠くが見えにくいかもしんねえな」

手術が終わってからというもの、秋奈は術後の経過を常に気にしてくれていた。

 2010年代ともなれば、遠近両用の多焦点レンズを用いることもあるが、1980年代後半には単焦点レンズを用いることしかできなかった。これは被写体の像を急速に拡大、縮小することはできず、『ピントの調節』ができない代物であった。

「そうなんだ。このまま老後まで大丈夫だといいんだけど」

 眼内レンズの耐久性は40年から50年と言われている。元々の水晶体の寿命が80年ほどなので、その約半分の耐久性だと言える。人間の技術の粋を結集させたものよりも長く持つとは、人体とは本当に不思議で、良く出来ているものである。

 「おうよ。手術代、五十嵐さんから借りちまってるからな。次の試合のファイトマネーで返さないと―――」

 2010年代において1割負担の場合両目で『4万円』、3割負担の場合『10万円ほど』で手術できる白内障も1980年代後半には『30~50万円ほど』費用がかかるものであった。これは、1992年4月まで保険適用外であったことも影響している。

 「でも、なんで白内障になっちゃったんだろうね」秋奈は不思議そうに首を傾げる。

 「医者が言うには目を激しくぶつけるようなこととか、ぶどう膜炎になった時に発症するんだと。後は遺伝かな」

「そっかぁ。『どうしたら防げてたんだろう』って考えちゃうんだよね。手術してからじゃ遅いかもしれないけど」

「まあ、過ぎちまったことはしょうがねえよ。良くなかったことと言えば、抜糸がおっかなかったことくらいかな。それ以外は全然問題なかったぜ」

 「そうだよね。悩んでばっかじゃ先に進めないもんね。その方が良いのかも」

 秋奈はこれを聞いて『深く考えない』ということも、時には必要なことだと思った。四方山話にしては少々難しい内容だが、今の彼らにはタイムリーで興味深い話であった。

因みに白内障を予防するには『カロテノイド』と呼ばれる天然色素の中の『ルテイン』という抗酸化物質が有効である。この物質は主にほうれん草やブロッコリーに多く含まれているもので、ハーバード大学医学部のジェドン博士が行った研究によると、ルテインの摂取量が最も高い人と低い人を比べると、白内障による摘出リスクが20%も違うことが確認されている。

 「粗茶ですが」そう言って秋奈は氷を2つほど入れながら麦茶を差し出す。

 「ああ、ありがとう。それにしても面白そうなモンがいっぱいあんだな。この猿なかなか可愛いじゃねえか」明は手に取った人形をまじまじと見つめている。

 「ああそれ。いいでしょ~。『モンチッチ』って言うの」

 私のという意味の『モン』と小さくて可愛いものという意味の『プチ』を合わせた言葉に名を由来するこの人形は、その赤ん坊のような風貌から女性と子供に大人気であった。

 「こっちのは何て言うんだ?」

 「それは『キャベツ人形』。ついでにこっちのは『こえだちゃん』と『みきちゃん』って言うんだよ」

 アメリカ発祥のキャベツ畑から子供が生まれるということをモチーフにした人形と、木の形をした家のテッペンを押すと、葉っぱの屋根が開いて部屋が出現し、横に付いているダイヤルを回すとエレベーターが上下するというおもちゃは昭和末期の流行りものであった。

 「男には分かんねえ物だな。おっ、『ドンジャラ』じゃねえか。こっちは『モーラー』だな。これなら俺でも知ってるぜ」

これらは牌に漫画やアニメのキャラクターをあしらった、ドラえもんが書かれているものが有名な麻雀と、テグスを引っ張ると生き物のように動かせるという細長いモールであった。

秋奈の部屋には他にも、本体に一つだけある大きなボタンを押すといつでもどこでも延々と笑い声が再生され、夜中に間違って踏むと非常に不気味であるという『笑い袋』。

ボールをぶつけ合う音から、カチカチボールとも呼ばれ、女の子に見せられないギャグにも使える『アメリカン・クラッカー』があった。

 「明くんはどんなおもちゃ持ってるの?」

 「俺か。自慢できるようなものはないけど、『ゲイラカイト』とか、『ローラースルーGOGO』とかかな」

 「他には?もっと聞きたい!」秋奈は相変わらずテンションが高めだ。

 「まあ、いろいろあるんだけど、ガキの頃によく遊んだのは『トミカ』とか『チョロQ』とかかな。どっちもそんなに一杯ある訳じゃないんなんだけどな。あとは『キン消し』とか『タマゴラス』だな。それならいっぱい持ってるぜ」

 「男の子って皆キン消し持ってるよね。ほんと闘うの好きなんだから」

 「それが雄の本能ってもんよ。それより、これだけあったら結構遊べるよな。欲しい物とかあんのかよ」明は今、思いついたかのように聞いてみた。

 「欲しい物か~。先月の13日に発売されたゲームなんだけど『スーパーマリオブラザーズ』って言って、めちゃくちゃ流行ってるんだって。それをやってみたいかも。明くんは?」

 「へえ~そんなゲームがあるのか。知らなかった。秋奈は情報通なんだな。俺は『ゲーム&ウォッチ』かな」

 これは携帯ゲーム機の草分け的存在であり、国内で1287万個売り上げ、社会現象にもなったものである。この商品は当時の男子の憧れでもあった。

 「最近、いろんなものが出て来て凄いよね。1981年に窓際のトットちゃんがベストセラーになって、82年に笑っていいともが始まって、83年に東京ディズニーランドが開園になって、84年にドラゴンボールが連載開始して」

 「そうだな。俺は特に『俺たちひょうきん族』が好きで毎週見てるよ。日本はずっとこの調子で行くんだろうよ。『まさか』景気が悪くなるなんてことはないだろうし、ずっと上り調子のままなんだろうな」

この年、1985年より少し後、日本経済はかつてないほどの好調となる。

『バブル景気』と呼ばれ、プラザ合意によるドル高の是正に対し、日銀から銀行への貸し出し金利である『公定歩合』を5%から2.5%まで段階的に引き下げたことで起こった1986年12月から1991年2月まで51ヶ月間続いた好景気。

1000万円の土地を担保に2000万円を借り、その金で新たに土地を買うという、『土地転がし』が流行したりもした。その真っ只中で、国民の誰もがその好景気の継続を信じて疑わなかった。

『いざなぎ景気』と呼ばれ、政府が補正予算で戦後初となる建設国債を発行したことで建設需要が拡大し1965年11月から1970年7月まで57ヶ月間続いた好景気や、 

『いざなみ景気』と呼ばれ、北米の好調な需要により、輸出関連産業を中心に多くの企業が過去最高の売上高と利益を記録した2002年2月から2008年2月までの73ヶ月間続いた好景気などあったものの、この『バブル景気』は、間違いなく戦後最大の好景気であったと言える。その後サラリーマンの平均給与がおよそ半分になり、長きに渡って不景気が訪れることなど、思いもよらぬことなのであろう。

 土地転がしで多額の利益を享受し、一万円札を振って見せないとタクシーは止まらない。ディスコで踊り狂い、ご飯を奢ってもらうだけの『メッシーくん』や、車で送ってもらうだけの『アッシーくん』なんて酷い呼び名を付けたりもした。そんな『バカみたい』な時代が昭和の終わりに確かに存在していた。まだ社会が暖かかった頃の、一夜の幻のような時であった。

一息ついた後、秋奈は何だか痺れを切らしたように話し始める。

 「ねえ、泊って行かない?」

 「えっ!?」少し遊びに来たつもりの明にとって、この発言は完全に予想外であった。

 「いや、あの、その、マジで?」歴戦の勝者も、女性の前ではたじたじである。

 「別に嫌ならいいんだけど」秋奈は口を尖らせて拗ねたように言った。

 「嫌ってことはねえよ。けど、あまりにもいきなりだったもんで―――」

 はっきりした態度の秋奈に対し、明の態度はどこか煮え切らないものであった。

 「どうすんの?男ばっか倒してても、つまんないんじゃない?」

 「それもそうだなよし、分かった。俺も男だ、腹括るぜ」

 明はやっと決心がついたのか、自らを奮い立たせるように、大きな声で返答する。

 「そう―――じゃあ。これで決まりね」秋奈は落ち着いた感じでそう言い放った。

 「では、さっそく」明はそう言って秋奈の肩に手を掛ける。

 「待って、せっつかないでよ。お風呂に入って来るんだから。テレビでも見といて」

 秋奈は本気で少し怒りそうになりながら、明の背中を押して画面の前に座らせた。

 20分ほど待つと、フワっと良い香りをさせながら秋奈が風呂から出て来た。

 “長い風呂だったな”そう言いたかったが、これを言ってはいけないことくらいは、勘の鈍い明にでも分かった。

 「ちょっと借りるぞ」昭和の男は無骨で、愛想がない。

 そう言われても仕方がないと思えるような言い方であった。湯船に浸かって心を落ち着かせようとするが、平常心など保てる訳がない。期待と不安が半々。

 『こういう時』は誰でも、そんな思いなのであろう。明が風呂から上がると秋奈はバスタオルを巻いて、ベットに腰かけて待っていた。隣に座って髪を撫で、少し息を吐き出した後、軽くキスをした。頭の中を真っ白にさせながら、ゆっくりとバスタオルを取ってみる。

 「おわっ、びっくりした。何だよ、その色」

 明は驚いて、だいぶ上ずった声を出す。

「え~。だって勝負下着は赤って聞いたんだもん」

 秋奈は膨れて小さな子供のように答えた。

 「そういうもんなのか?それって誰に聞いたんだよ?」

 明は勢いづいて話し始める。

 「タバコ屋のお姉さんに―――」

 それに対して秋奈は自信なさげに最低限の返答だけする。

「タバコ屋のって、あのじゃりン子のチエミさんだろ?」

明はどことなく不満げに話す。

 「でもあの人、花の女子大生だよ。凄くない?オシャレに関してはウチらじゃ逆立ちしたって勝てっこないよ」秋奈はここぞとばかりに反論する。

 「まあいいや。今からは、ふざけないようにちゃんとするよ」

 明は急に改まって、紳士的に振る舞う。

 「うん。優しくね」秋奈は乙女な感じで、一言だけ念を押すように言った。

 「ああ、イタリアの種馬ばりにキメてやるぜ」明は自信満々に答えた。

 「もう~何それ~。どこからそんな自信が湧いて来るんだか」

 秋奈は軽く揶揄うような、嬉しそうな調子で言った。

 それから、その夜は二人にとって『忘れられない夜』になった。

 

 

 次の日、起きてから明はロードワークのためにいつものコースへと向かおうとした。

 「ねえ、まだ時間あるんでしょ。その前にどっか寄ってかない?」

 「そうだな。インベーダーゲームでもやりに行くか」

どこかまだ話したそうにしている秋奈に対し、明は照れ隠しに少し笑ってみせた。それからというもの、時間を見つけては、秋奈の家に遊びに行くようになった。減量は苦しかったが、後なって思えば一番楽しかった時期なのかもしれない。

そして、計量10日前まで、いつもよりかなり多く走り込み、大幅に食事を減らし、干し椎茸を噛んで唾液を吐き出し続けた。しかし、目の下が窪んで頬骨が浮き出て来ても、あと1キロがどうしても落とせなかった。

「腹、減ったなあ。牛丼が食いてえなあ。天丼もいいなあ。親子丼も最近食べてなかったなあ。かつ丼なんか食えたら最高だろうなあ。米―――食いてえなぁ」

走っていても浮かんで来るのは食べ物のことばかり。宿敵ロビンソンを倒す前に、まず自分との闘いに勝たなくてはならない。それから3日経ち、4日経ち、一週間経っても、その1キロは落ちなかった。

「みず―――みずがのみてぇ」

力なくそう言って、計量を試みてはみたものの、無情にも体重計は表情を変えない。その日はまだ夕方だったが、布団に潜り、必死で眠りに就こうとする。寝てしまいさえすれば、この渇きからも逃れられる。

「どこだ?どこからか―――みずのしたたるおとがする」

家中の蛇口を見るが、数日前に紐でガチガチに縛っていて水滴など出よう筈もない。

「げんちょう―――なのか?」

『ドライアウト』

減量で水を断ち、極限に達すると感覚が研ぎ澄まされる現象である。減量のピークであり、食べ物の幻覚が見えそうなほどである。昨日まで食べていた煮干し三匹でさえ、贅沢な食事に思えてくる。

「あぁ~。っああああああああ」

居間にあった椅子を蹴飛ばし、粉々に壊した後、その日は死んだように眠りに就いた。それからというもの、苛立ちをぶつけないために誰とも話さずに過ごした。

「―――」計量の当日には、もう独り言を発する気力もなくなっていた。

 

 

1985年7月7日、運命の決戦。日曜日とあって、後楽園ホールは見事に満員であった。時は流れ続け、誰一人として、一時として止めることは叶わない。

「120ポンド―――。2ポンド、オーバーです」

明は口を歪めながら、大きく深くため息をついた。それを見ても五十嵐は怒ることなく、冷静に言葉を掛けた。

「慌てることはない。サウナに入って体重を落とすんだ。よくあることさ。大丈夫、再軽量の時に規定のウェイトならいいんだ。それより今は、ロビンソンに勝つことだけを考えろ」

『よくあること』と軽く片付けられる事態でないことは明にも分かっていた。五十嵐に『あえて』甘い言葉を掛けさせてしまったことを、明は猛省した。試合前にサウナに入ることは当然体力を消耗し、戦況を不利にするものである。

再軽量は二時間後。それまでに、命を賭してでも、2ポンド削ぎ落とさないといけない。近所の風呂屋に移動し、椎茸を噛み締めながら身体を蒸される。

干し椎茸を噛んでの減量も200グラムが限界だ。付き添いで来た五十嵐も、当然のように入室した。1分、2分、3分、4分、5分―――。そして、明はサウナの業火に焼かれ、いつしか気を失ってしまっていた。危険だと分かっていた。

だが、五十嵐は汗が全く出なくなった明をそれから『2分だけ』サウナに入れ続けた。下半身から水分が出きった後、火事場で子供を連れ出すように明を抱え、サウナを後にした。そして再軽量10分前、五十嵐にそっと起こされてから、明は全身の毛を剃った。

「117ポンド4分の3。計量OKです」

辛うじてパスできたものの、当日計量であるため、身体への負担は相当なものと言えるであろう。計量については、1994年3月までは試合当日の午前10時に計量を行っていたが、その年の4月1日から前日軽量で試合を行うこととなった。

 それは当日計量だと、選手の身体に負担が掛かり過ぎてしまうため、健康に配慮してのことである。それに加え、5リットル水を飲めば、5キロ体重が戻ると言われ、数時間で元のウェイトになることが問題視されていたりもする。

既に一試合終えたかのような明の身体は、ミイラのように痩せ細っていた。それから砂漠を抜けたように喉を潤し、野獣のように食事をし、2時間ほど睡眠を取った後、明はリングへと向かった。

 

 

 その後、試合当日、控室にて―――。明が鞄から荷物を取り出していると、五十嵐が不意に話し掛けて来た。

 「明、お前に渡したい物がある」

 「何だよ、渡したい物って」

 五十嵐の方を向いて言ったが、その言葉に応えたのは秋奈だった。

 「明くん、はい」

 「これって、五十嵐さんの―――」

 見ると秋奈が差し出したのは、五十嵐がいつも試合の時に履いていた金色のトランクスであった。

「ちゃんと洗ったんだろうな」気恥ずかしさを隠すため、態と訝しげな顔で確認する。

 「はっはっは。愚問だ。しっかり秋奈に任せてある」五十嵐は自信満々にそう答えた。

 「えっ!?渡されたから洗ってあるのかと思った」秋奈の声は少し裏返っていた。

 「ってことはあの試合から洗ってねーのかよ。まあいいや。ありがたく貰っとくよ、五十嵐さん」明は五十嵐の方に向き直り、嬉しそうに笑みを浮かべてみせた。

 「嘘よ、嘘。私にそんな手抜かりある訳ないじゃない。ちゃんと洗ったよ」

 「そうか、そうだよな」

ちょっと得意げにそう言った秋奈に同調しながらも、珍しく苦笑いを浮かべた。汗とワセリンの匂いが浸み込んだトランクスには、秋奈によって名前の刺繍が施されていた。それからグローブを嵌め、テーピングで固めて『グロービング』した。秋奈と五十嵐が控室を出て行き、10分間、精神統一をした後、明は重要な事実に気付いた。

 「トイレ、行ってなかった」

 ボクシングのグローブはテーピングでガチガチに固めるため、一回グローブを嵌めたらトイレに行く時でも外すことはできない。不用意に動くこともできず、どちらかが戻って来るのを待っていると慎也が入って来た。

 「何だよ、いいもん履いてんじゃん」茶化すような言い方だった。

 「ありがとよ、今日は締まって行くぜ」

 言いながら、タイトルマッチ直前だというのに妙に落ち着いて話せているなと思った。

 「応援してるよ。初めて会った時からお前はやるやつだと大物になると思ってた」

 「入学式のあの喧嘩から3年か。俺たちも大人になったもんだな」

 「あれから本当にいろいろあったな。大輝が棟梁になって、俺もあいつんとこで働くようになって、後輩に教えるようにまでなってさ。皆本当に大人になって行くんだよな。お前だってそうだよな?今日は楽しませてくれよな」

こういう言葉は素直に力になる。慎也は昔を思い出し、しみじみとした様子だ。

 「そうだな。そこでなんだけどちょっと頼みがあるんだ」

 「ん?なんだ、頼みって?」“試合後ではダメなのか?”そう思った。

 「緊張してトイレ行くの忘れてた。ちょっとついて来てくれないか」

 「ついて来てって、一人で行けるだろ?幼稚園児じゃあるまいし」

 子供のような頼みに、慎也は思わず吹き出しそうになった。

 「それがその―――グローブが外せない状況で―――」

 「そういうことか、しょうがねぇな。今回だけだぞ」

 そういって引き受けてくれるのは偏に慎也の人柄が良いからだと言えるだろう。トイレに行き用を足すと、もう出番が迫っているようだ。秋奈と五十嵐に促され、一つ深呼吸をしてからリングへと向かう。

「皆に自慢させてくれよな。チャンピオンの友達だって」

 「おう、今度こそやってやるぜ」

「勝って認められて来い。退学したあの日、お前を笑った奴らを見返してやれ」

強敵に立ち向かう親友を鼓舞する慎也の表情は、先程までとは打って変わって真剣そのものといった様子だ。がっしりと腕を酌み交わした後、明たちはリングに向かって歩き始めた。

 これから激闘が繰り広げられる檜舞台に、一筋の光が差し込もうととしている。我が身を擲ってまで明を守ろうとした五十嵐。それに応えようと今日まで血の滲むような努力を続けてきた明。その決戦の火蓋が、ほんの数分経てば切って落とされるのだ。

ロビンソンの完全無欠の全勝伝説にピリオドを打つことができるのか?明も五十嵐もこの日を心待ちにして来た。ゆっくりとした足取りで明と共にリングサイドへと入場した五十嵐が、少々緊張した面持ちで明を鼓舞する。

「チャンピオンは一人。その陰で歴史に埋もれて行った不遇の才覚があったことだろう。だが、お前は違う。今までやって来たこと、乗り越えて来た相手、支えとなる者を思い出せ。お前は一人ではない、俺たちを信じろ。ロビンソンを倒し―――この俺を超えてみせろ!!」明はこの言葉に身震いした。

 「ありがとう五十嵐さん。こんな俺だけど、今まで面倒見てもらったお陰で今があるんだ。こんな大舞台に立ててること自体が凄いことだよな。敵、討って来るよ」

 戦へと向かう明の後ろ姿には、出会った頃のあどけなさは微塵も感じられなかった。

赤居 明が今、名伯楽と共にマイク・レイ・ロビンソンと相見える。

 

 

 『カンッ』

 試合開始。すぐさま歩み寄る二人の一瞬の攻防。速攻で放った明の『スマッシュ』がロビンソンの左頬に突き刺さる。必殺のスマッシュに王者轟沈。

 開戦直後の『パニックダウン』は心身共に多大なダメージを与える。この試合だけでなく2試合通じて初のダウン。この意味は大きい。完全に気を失っているロビンソン。

“立つな、立たないでくれ”一瞬で決まる筈などない。だが、そう願わずにはいられない程の強敵を目の前にしているのである。

 5、6、7。ゆっくりと身体を起こしたロビンソンだが、身体が少し震えているようだ。いくら超人的な人間であるとはいえ、この事態に動揺していない筈はない。チャンスだ。畳みかけるなら今しかない。ロビンソンがファイティングポーズをとり、グローブを拭いたのを確認するやいなや、凄まじい勢いで倒しにかかる。

 山場など必要ない。『倒せる時に倒す』それもボクシングの鉄則の一つである。凌ぐしかないロビンソン、矢継ぎ早に拳を浴びせる明。まるで大人と子供のような一方的な展開に会場は大きく沸き立っていた。

 「行けるぞ、明」

 普段大声を張り上げることのない五十嵐が大声を出す。“目が死んでないな”明は静かにそう思った。侮れる訳がない。この男、現段階での正真正銘の世界チャンプ。そして、最後まで何があるか分からないのがボクシングでもある。防戦一方のロビンソンに対し、明は見るからに勢いづいていた。そしてゴングが鳴り、第1ラウンドが終了した。

 このラウンドで明が浴びせた拳は100と8つ。ロビンソンはカウンターを放った4発のみ。目に見えて優位に立ったことで、張り詰めた心に僅かばかりの余裕が生まれていた。

 

 

そして、迫真の第2ラウンド。火花散る打ち合い。大地を揺るがすようなどよめき。

 打ち合いを挑んだ明は、ロビンソンに押され始めてしまう。体格差は試合の勝敗にも影響を及ぼす。一年経ち、更に大きくなった、身長174cmのロビンソンと168cmの明では計量後のエネルギーの蓄積量が全く違う。

 更に、一度負けている相手にはどうしても苦手意識がつきまとうもの。それを払拭するのは容易ではない。先程のラウンドとはうってかわって息を吹き返したロビンソンはここぞとばかりに猛威を振るう。

 豪打の滅多打ち。これで互いにエンジンがかかった。嵐のような打ち合いを経て、手の内を伺うようなことはもう必要ない。裸一貫、リングの上では隠し事などできようものか。常に全力を投じ、己の限界を超え、ただ相手を薙ぎ倒すのみ。経験の差こそあるものの、変幻自在のロビンソンの攻撃にも、今の明はしっかりと対応出来ていた。

 しかし、重たく体重の乗った拳が、明の意識を刈り取ろうとして来る。ボクシングは常に『オール・オア・ナッシング』。勝てば官軍、負ければ賊軍と言ったところか。脚光を浴び、英雄となれるのは、どこの世界もトップの者と決まっている。

 その栄光を手にしたいがために多くの代償を払い、死に物狂いで練習に明け暮れるのである。チャンスはそう何度もあるものではない。だからこそ、その希少な機会を、人生を変える転機を、逃すわけにはいかないのだ。高らかにゴングが鳴り第2ラウンドは終了した。ガードした部分が痺れて麻痺したような感覚になる。

 「守勢にまわってはいけない。パンチをもらい続けると相手のリズムを作り、調子づけることになる。先手必勝、主導権を握るんだ」

 五十嵐のアドバイスで明ははっとして正気を取り戻す。いつもは勝気な明も、ロビンソンを前にしてはどうしても気後れしてしまう。そして、再戦というのは互いに手の内が分かっているからやり難いものなのである。特に負けた相手というのはどうしても『恐怖する対象』として認識しやすい。だが、生物としての本能を理性で抑えることができてこそ、『人間である』と言える。

 

 

そして、激情の第3ラウンドを終えての、激動の第4ラウンド。

「ロビンソンは左のフェイントから右のフックを絡めてガゼルパンチを打って来ることが多い。経験の中で身に付けた『お得意の』コンビネーションなんだろう。このパターンに入ったら即座に左にシフトし、カウンターで『スマッシュ』を打ち込んでやれ。心臓が止まれば3秒間、そこはお前の世界だ」五十嵐にそう耳打ちされ、明は静かに頷いた。

 ラウンド開始直後、ロビンソンがフックからフェイントを交えての『ガゼルパンチ』を打って来た。『お得意の』パターンを抑えステッピングで左後ろに下がり、カウンターで渾身の『スマッシュ』を打ち込む。手応えが薄い。ロビンソンは右手を心臓との間に挟み、辛うじて身体を右へ傾けることでヒットポイントをずらし、心臓への直撃を避けていた。

彼の類まれなる反射神経と本能が自身の危機を察知した結果であろう。ダウン後、ピクリとも動かないロビンソン。相手のセコンドであるリチャードが英語で何か捲しててている。

 「立て、ロビンソン。オクラホマで差別を受けていた時の、ニューヨークでいじめを受けていた時の、デトロイトでリンドンに勝利した時の、苦しかった時代を忘れたのか?立ってここへ戻って来い。お前はチャンピオンで居続けるべき男だ」

 その言葉を受け、ロビンソンはゆっくりと起き上がり、大きく咆哮してみせた。自身を奮い立たせるため、明への威嚇のため、どちらの意味合いもあることであろう。鋭い針のような眼光で、今にも明を射殺さんとばかりに睨み付けている。

 そして、豪腕を唸らせて風を切り、明の首を落とさんばかりに責め立ててくる。明はそのあまりの気迫に思わず気圧されてしまう。劣勢のままこのラウンドは終わりを告げた。

 「地獄を見た者とそうでない者とでは根本的に見ている世界が違う。お前はどん底から這い上がり、この場所に帰って来た。試練に耐え乗り越えた者が、負ける筈なんてないのさ」五十嵐はここが勝負所とばかりに語調を強めて話している。

 「ああ、任せといてくれ。なんだか今日は負ける気がしねえんだ。ハイになって感覚がバカになってるだけかもしんねえが、『あの』ロビンソンがグリーンボーイか子供のように見えちまってるんだ」

虚勢を張っている訳ではない。それは誰の目にも明らかだった。

 

 

会心の第5ラウンド、防戦の第6ラウンド、逆襲の第7ラウンドが終了し、激震の第8ラウンドが開始された。ロビンソンはここへ来て今までの劣勢が嘘のように息を吹き返した。拳の弾幕が明を襲う。一発一発に込められた気迫が今までとは違う。鬼の形相で修羅のように拳を振り続ける。一瞬でも満たされれば飢えを、渇きを、人はすぐにでも忘れてしまう。若き日の誓いを、汗と涙の数を、初めてグローブを嵌めた時のあの思いを。

 「明くん、闘い方が上手くなっているね」

ロビンソンが繰り出した技に対し、首を捻ってパンチの勢いを殺したのを見て、観戦中の古波蔵が思わず褒めてしまうほど明のスキルは上がっていた。

試合開始前、秋奈と慎也は、空席を探してキョロキョロしていた古波蔵とグラッチェと偶然出会い、行動を共にしていた。そして、両国国技館の4人掛けのマス席に慎也、秋奈、古波蔵、グラッチェの順に座り、試合を観戦することになっていた。

皆の応援が、明の背中を強く後押ししている。対するロビンソンは、下から突き上げるようにパンチを打って来る。その両方がストレートのような威力とキレのあるフックだ。

 当たれば一転、ダウンを奪われてしまうかもしれない。“たまには慎重になることも必要か”明はそう考え始めていた。

 「攻めろ、攻め続けるんだ」

不意に聞いた五十嵐の声に明は第5ラウンド終了時に言われたことを思い返していた。牽制のための『スマッシュ』。左手を挟まれ、ボディには届かなかったものの、俄かにロビンソンの表情が険しくなって行くのを明は感じ取っていた。

 その後放った右ストレートが命中し、あっさりと2度目のダウンを奪った明は、この勝負に明らかな手応えを感じていた。起き上がり、返す刀でロビンソンは連打の後の『ガゼルパンチ』しかし明は倒れない。

 睨みを効かせ、凄んで見せるロビンソン。黒のトランクスは彼自身が黒人であることを誇りに思っている証。差別や偏見と戦い、人権を獲得して来たその歴史のように、己の拳一つで王座に就くことを決めた彼の決意の色なのである。

 そのトランクスを鮮血の赤に染められることは、彼にとって我慢ならない屈辱なのである。津波のような怒りをロビンソン自身もコントロールできないでいた。明サイドに緊張が走る。怒りに震える巨体にその身一つで打ち勝たなくてはならない。俄かに暗雲が立ち込める。

瞬時に放たれる『ガゼルパンチ』。肋骨がヘシ折れたかと思うような衝撃。もの凄い赤居コール。立ってロビンソンを迎え撃つ。闘いは更に激しさを増し、加速するように第5ラウンドは終わりを告げた。ふとリングに目をやると、相手のセコンドが必死に何か捲し立てている。

「どうしたロビンソン?お前の怒りはこんなものなのか?」

 セコンドのリチャードはロビンソンのプライドを刺激するように注力して話している。

 「大丈夫だ。俺は絶対に勝ってみせる」

 ロビンソンは鼻息を吹き荒らし、今すぐにでも勝利を我が物にせんと息巻いている。これほど不利な状況に立たされても、ロビンソンの屈強な意思は折れることを知らないようだ。

 

 

 そして、嵐を呼ぶ第9ラウンド、一つの節目である第10ラウンド、鎬を削った第11ラウンド、魂を懸けた第12ラウンド、死を覚悟した第13ラウンド、息を吹き返した第14ラウンドが過ぎ去り、満を持しての第15ラウンドが開始された。明は雪辱を果たし、世界チャンピオンとなることはできるのか。

 「こんな状況でも耐え続けるなんて、ロビンソンは本当に偉い奴だ」

 「偉い奴が勝つんじゃない。勝った奴が偉いんだ。それにお前だって苦しさに耐えている。リングに立っている限り、誰にだって『勝つ権利』はあるんだ」

「五十嵐さんよく言ってくれたよな。積み上げて来たものが拳に宿るって」

 「その通りだ。さあ、遠慮なんていらない。あのベルトをお前のものにする時が来たんだ。ぐうの音も出ない程にノックアウトしてやれ」

 そしてゴングの音を聞いてからの『アストライドポジション』。両足を横に開いて両者死力を尽くした打ち合い。互いが全く引くことを考えない、『ナイフエッヂデスマッチ』のような、それを許さぬ『空気』があるのだ。

 男と男の真剣勝負。二人とも逃げる気など毛頭ないといった覚悟であろう。どちらかが倒れるまでこの死闘は終わらない。自らのプライドを掛け、命を、魂を、人生を掛けて、相手をリングにひれ伏させるまで、殴るのを止めない。

そこから、勢いを増すようにして闘いは激しさを増して行く。貼られたままの、敗者というレッテルを剥がしたい。この試合二度目の『ガゼルパンチ』。明の口から生々しく血が垂れる。ロビンソンは両腕をブンブン振り回して来る。だが、もの凄い集中力を発揮している今の明には、ロビンソンの拳がまるで止まって見えるかのようである。

この試合を終えてロビンソンに勝つことができれば『強さとは何か』が分かることであろう。明の加速度的に攻撃の手を速めて行く動きに、ロビンソンはついて来れなくなって来ているようだ。ロビンソンのガードの隙間を縫って巧みにパンチをヒットさせて行く。

『雷轟電撃』一瞬の虚をついて明の『スマッシュ』がロビンソンの心臓を射抜く。

 「決まった~。赤居選手の十八番『ハート・ブレイク・スマッシュ』だ!!」

 実況の男が、興奮した様子で捲し立てる。そこから3秒間、20と8もの連撃をロビンソンンに浴びせ続けた。息を飲む観衆。横たわるロビンソン。

 1、2、3―――ロビンソンが意識を取り戻し、立ち上がろうとロープを掴む。

4、5、6―――膝から上が浮き上がるが、支えとなっている左手がどうしてもリングから離れない。

7、8、9―――不屈の闘志で右足を立てたロビンソンの口からは、鮮烈な赤い血が滴っていた。

 カウント10!ゴングが鳴り、レフェリーが手を交差させる。

その瞬間、ロビンソンの右手がロープから離れ、鈍い音と共にリングに横たわった。

「勝ったあああああ」

明の声が会場にこだまする。歓喜爆発。苦しかっただけにその思いは一入である。大会委員から表彰状が手渡される。大儀を成した明の目には光るものが浮かび上がっていた。

 インタビューもそこそこに、明がリングを去ろうとしていると介抱を受けたロビンソンがゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。

「いい試合だった。君のような強い選手と闘うことができて光栄だよ。ボクサーとして本望だ。悔いはないさ」

 英語で言われたため意味は分からなかったが、拳を交えた者同士、言わんとするところは分かりきっていた。

 「俺もこの試合ができて良かったよ。今日のことは一生忘れない。ありがとよ」

 そう言って明はゆっくりと右手を差し出した。ロビンソンは満面の笑みでその手を握り、「サンキュー」とだけ言い残し、その場を後にした。

 

 

 肉民という変わった名前の店で開かれた祝賀会。酒が入っていないにも関わらず、皆凄い盛り上がりようであった。ここへ来て五十嵐が徐に口を開く。

 「これでようやく本懐を遂げることができたな。俺はもう思い残すことはないよ」

縁起でもない話だが、あながち冗談にも聞こえない。

 「これから何度も防衛するんだ。まだくたばってもらっちゃ困るぜ」

 明は憎まれ口を叩きつつも、本当に嬉しそうだ。

「おめでとう明くん。私、本当に嬉しい」秋奈は感極まった様子だ。

「ありがとよ、秋奈。お前の応援、しっかり届いてたぜ」

誇らしげな笑みを浮かべた明を見て、五十嵐の説法にも一層熱が入る。

 「強い者には自然と感謝の心が身につくものだな。周りや巡り合わせ、上に行く者は良いモノを持っている。勝てば勝つほどに己の強運を喜ばずにはいられなくなるだろう」

穏やかな時間が流れ、皆今日の喜びに浸っていた。

「それと―――」秋奈は少し言い難そうに話している。

 「それと?他に何かあったっけ?」明は全く予想がつかないと言った様子だ。

 「できちゃったみたい」秋奈は新鮮なトマトのように赤くなりながら言った。

 「できちゃった?それって―――」明は状況は理解できたが、かなり驚いていた。

 「はっはっはっ。これで昼も夜も世界チャンピオンだな」

 五十嵐に揶揄われて、明も思わず赤くなってしまった。

 18歳9ヶ月9日での世界制覇。17歳6ヶ月で史上最年少チャンピオンとなり、練習嫌いであったことでも有名な、プエルトリコ人のウィルフレッド・ベニテスには及ばないものの、日本人として最年少チャンピオンとなったことで、明はマスコミや世間からも大いに注目されることとなった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六章 防衛偏

桜山(さくらやま) 拳一郎(けんいちろう)。鹿児島県鹿児島市星ヶ峯出身、B型。俺は今日の世界戦に命を懸けている。親父の興した建設業の会社は瞬く間に大きくなって行った。四兄弟の次男として生まれ、いつも兄の後を追って来た。そんな自分が嫌で、何かを変えたくて、裕福だった家を飛び出し単身大阪へ出てきた。

俺には安全な道が、敷いてもらったレールがあったんだ。でも、俺が欲しかったのは約束された未来じゃない。自分がどこまでやれるか、ただそれだけが知りたかったんだ。赤居のビデオはすり切れるほど見た。同い年で同じ年にデビューしても、二人には明確な差があった。

 チャンスがなかった訳じゃない。今まではそれを活かせなかっただけだ。タイミングが悪かっただけで、実力で言えば俺にだってチャンスはある。デビュー戦で連撃 加雲太との試合で判定勝ちした時の、あの割れんばかりの拍手をまた味わいたいんだ。

 ガキの頃から喧嘩ばかりで怒られることしかなかった俺が、初めて褒めてもらえたのがボクシングだった。俺にはこれしかねぇ。勝ち続けることでしか、自分を認めさせる方法はないんだ。

絶対に勝って認められてやる。自分の居場所を失わないために、戦い続けるんだ。最強の証明がほしい。自分がやって来たことを形にしたいんだ。ここが正念場。人生掛けて行くぜ。勝つことが俺にできる最大の恩返しなんだ。

 安威川 泰毅が日本チャンピオン三階級制覇を成し遂げるためにその地位を明け渡した。そこで空位になったバンタム級の日本チャンピオンに辛くも就くことができた。そして今日の世界戦。やっと運が回って来たんだ。ここで逃してたまるかよ。今まで成りを潜めて来たが、それも今日で終わりだ。

 1985年12月31日。試合開始5分前。収容人数3千人の大阪府立体育館が大きく揺れる。

 「青のコーナーからは桜山 拳一郎。身長168cm、体重117ポンドと2分の1(53.75kg)。トランクスの色はピンクであります」

 ベテランと思しきアナウンサーが、軽快な調子で会場を盛り立てて行く。

 「赤のコーナーからは第66代世界バンタム級チャンピオン、赤居 明選手の入場であります。身長168cm、体重117ポンドと4分の1。金のトランクスが印象的です」いよいよだ。自然と胸が高鳴る。

『カンッ』

第1ラウンド開始とともに攻勢に出た赤居を前に、緊張はピークに達していた。まるで今日初めて試合をする4回戦ボクサーのように心も身体も固くなっていた。冷静にならないと。攻められると30秒でも途方もない時間に思える。

 「光と影、辛酸を舐めた者には、そこから這い上がって来た経験がある。エリートにはない必死さがある、そこがお前の売りだ」

試合前、コーチの大隅から言われた言葉が脳裏に蘇る。やれるだけのことをやるだけだ。フェイントもダッキングも効いている。今まで俺がやって来たことは無駄じゃなかったんだ。そう実感すると試合中だがほんの僅かながら涙が出そうになる。クラウチングスタイル、前傾姿勢を保ったまま、このラウンドは一度のダウンもなく攻め続けることができた。

 「いいぞ、拳一郎。序盤少し硬かったが、世界戦としては上々の出だしだ。存分にお前の強さを見せつけてやれ」大隅は桜山の試合運びに満足げな様子だ。

 「ああ、任せといてくれ。今まで大隅さんには苦労を掛けちまったからな。それも今日で終わりだ。必ず、世界チャンピオンのいるジムの会長にしてやるよ」

「頼もしいじゃねえか。期待してるよ」

桜山は小さく頷き、微笑む余裕さえあるようだ。

 

 

そして第2ラウンドが始まり先程の勢いを殺さぬよう力を尽くすが、パンチが入っているのに効いていないように感じる。それに比べてチャンピオンの拳のなんと重いことか。

“俺の拳は軽いのか?血と汗と涙の、魂の宿ったストレートは通用しねえのか?いや、そんな筈はねえ。いつだってやって来れたじゃないか。無理と言われたことだって、自分の腕一本で成し遂げて来たんだ。今日だってそうさ。俺が負ける筈がねえ”

そう思った矢先、チャンピオンの強烈なパンチが頭部左側に命中する。思わず体制を崩し、倒れ込んでダウンとなる。これがチャンピオンの必殺技である『スマッシュ』か。

 辛うじて意識は繋ぎ止めた。倒されるのは恥じゃない。ただ、最後に立っていればいいんだ。ファイティングポーズを取ってグローブを拭き、審判に戦意を表明する。

 そしてペースを乱さないように一心不乱に拳を出し続ける。一部の隙もないように。 己の心を悟られぬように。ただ只管、勝ちに向かって進むだけ。汗が飛び散り、呼吸が早まるのが分かる。熱く滾り、相手を倒すまでは止まらぬ覚悟で打ちのめすまで。

 内なる野性を解き放ち、本能のままに相手を喰らい尽くすまで。試合に向けて散々シミュレーションを行って来た。予想通りで一流、予想を超えたら超一流。ならば赤居のその予想、超えて見せるが己の務め。

 桜山は常日頃から『足を使ってやる姑息なボクシングはしない』そう決めていた。男らしくただ只管に打ち合いを挑み続けるだけ。それが己の信条であった。そして慌ただしくゴングが鳴り第2ラウンドは終わりを告げた。

 「いいぞ拳一郎、その調子だ。だが気を付けておけよ、奴は本物だ。天才タイプにはムラっけがある。だが、天賦の才に溺れることなく努力を怠らなかったからこそ、今日の勝利があったんだ」大隅はここぞとばかりに桜山を鼓舞していた。

 「ああ、任しとけって。安威川だって日本チャンピオン3階級制覇を成し遂げたんだ。俺にだってできる。やって見せるさ」

 2010年代後半ともなれば、井上 尚弥のように16戦目で日本人史上最速の世界チャンピオン三階級制覇を達成する『鬼才』が現れたりもするが、この時代においては安威川 泰毅が自らへの戒めのために行った日本チャンピオン3階級制覇も相当な偉業と言えるであろう。

 「その通りだ。何のために毎年あんな苦しい思いをして、信貴山で合宿をして来たと思っている。今しかないだろ。欲しい物があるなら奪い取れ!!」

 大隅の気合に応えるように、桜山は両の腕に力を込めていた。

 

 

 一抹の不安を、認識しないよう努めながら挑む第3ラウンド。ストレートに合わせて打った左フックがタイミング良くカウンターとなる。運で打ったと揶揄される『ラッキーパンチ』でさえも、その実は本人の血の滲むような努力によって作り上げられたものである。真剣勝負でのマグレは、研ぎ澄まされた神経が最高のパフォーマンスを発揮したと言っても過言ではない。

 “いいのが一発入ったな。足に来てやがる。逃がさねえぞ。この日のために苛烈な練習を血肉に変えて来たんだ。絶対にマットの上を這いつくばらせてやる”

 センスの塊。まさしくボクサーの憧れであり理想像。赤居 明はそんな男である。

 だが、彼とて一人の人間。弱い部分や悩みだってある。間断なく繰り出される拳は、どこか弱々しくも見える。

 “『慣れた』かな“桜山は不意にそう思った。そしてここで『ラッシュ』を掛けることにした。どの道15ラウンドをフルに使う気はさらさらない。一撃の下にダウンを奪い、勝ちを掻っ攫う。それが今回の『ファイトプラン』だ。

 一気に拳の弾幕を浴びせ、その命さえも刈り取ろうかとする勢いで殴打する。

そしてこれは『英断』であった。カウンターを受けた赤居はテンプルをやられ、足に来ていたのだ。このラウンドで初めてのダウンを奪う。

“やった。『あの』赤居 明を見下ろす日が来るなんて夢のようだ。この時のために気が遠くなるほどサンドバックを叩いて来たんだ。早く終わって勝ち名乗りを上げたい”

 しかし、現実はそう甘くはない。ゆっくりと起き上がって来た赤居には多少のダメージはあるものの、しっかりと折れていない『闘志』があるように見えた。軽く頭を振り、体制を整えた姿に恐怖さえ覚えるほどである。しかし、臆すれば忽ちそれは負けに繋がる。

 “ビビったらダメだ。男は度胸、女は愛嬌。大隅さんにだって言われたじゃねえか。俺はいつだって前を向いて逃げずに進んで来た。今日だってそれができる筈だ。攻めて攻めて攻めまくってやるぜ”そう考え、意地でも後退はしなかった。

 そしてゴングが鳴り、このラウンドは終わりを告げる。

 「上出来だ、拳一郎。次は起き上がれないくらい強烈にダウンさせてやれ」

 「ああ、任せといてくれ。あともう少しなんだ。こんな所で終われるかよ。絶対に俺の勝ちで決めてやる」

 桜山は普段は無口な方だが、ダウンを取った興奮から珍しく熱弁を振るっていた。

 

 

第4ラウンド開始直後、先程のラウンドのお返しということなのだろうか、味をしめて打ったカウンターにさらにカウンターを合わせられ、強烈なダウンを奪われてしまう。ここまで意識を保てていたのだが、カウント8、ギリギリのところで辛うじて立ち上がった。赤居の『クロスクリュー』は桜山の勢いを絶つには十分だった。立っているのがやっと、すぐにでも意識が飛びそうだ。起き上がりざまに大隅が目に入る。

 “クソっ、タオルなんか握ってんじゃねぇよ”

 ボクシングは試合中、セコンドからタオルを投げ込まれるとTKO(テクニカル・ノック・アウト)となり、即座に敗北を喫することとなる。桜山にとってそれは死をも超える屈辱と思えることであった。どんな時でもピンチを想定した練習をして来た。俺はこういう場面にはめっぽう強いんだ。ひと泡吹かせてやるぜ、赤居さんよ。勝負を決めようと一気に攻勢に出る赤居に隠し玉を準備する。

『コンパクトカウンター』

後ろに下がらないカウンターをこれ見よがしに赤居目掛けてお見舞いする。桜山はインファイターでありながら、アウトボクサーのようなカウンターも打てるような器用さを持ち合わせている。そのことに自信を持っていたし、自身の心の支えにもなっていた。

 放たれた一撃は、鋭く相手に突き刺さるソリッドパンチを更に鋭くした『カミソリパンチ』と言えるものであった。しかし、相手は世界チャンピオン赤居 明。良い角度で入りはしたものの、見事に受け流され、あっさりと料理されてしまった。必死に足掻いてはみるが、ラスト30秒が砂漠のオアシスのように遠い。

 足が使えない分、手数を増やし、ラウンド終了時までダウンがなかったのは日頃の修練の賜物であろう。想像以上の疲れを感じながらの第5ラウンド開始前、大隅がいつもと変わらぬ調子で桜山に話しかける。

 「タイトルホルダーの威厳って奴だろうな。慎重になるあまり、長所を台無しにしてしまわないようにな」

 「分かってますって、大隅さん」桜山も努めて普段通りに振る舞おうとしている。

 「それならいいんだが―――お前の長所は何物にも屈しない『度胸』だ。それはなかなか真似できるもんじゃないぞ」

 大舞台で100%のパフォーマンスを発揮するのは難しい。それが分かってはいても、大隅にとっては期待に応えてくれると思しき人物に感じられるのだ。

 「俺の故郷では雪は滅多に降らねえが、星は降るんだ。そんな綺麗で暖かい村が大好きなんだ。絶対ベルトを持って帰って皆を喜ばせてやりてえんだ」

 桜山の言葉に、大隅は小さく頷いて見せた。

けたたましくゴングが鳴り響き、第5ラウンドが開始され、桜山は赤居目掛けて突進して行った。桜山は雑念を振り払うため、一心に自我を高めていた。

“タッパは違わねえのになんて威圧感だ。これがチャンピオンの風格ってヤツなのか。 いや、俺だって負けてねえ。手を伸ばせば栄光に届くんだ。何のための4年間だ。ここで勝てなきゃ、俺の努力は全て無駄だ。そんなのただの大馬鹿野郎だ。親の期待裏切って、触れるもの皆傷つけて、それでも勝ったから認められて来たんだ。勝たなきゃそこらの破落戸と一緒だ。俺はそんな風にはならねえ。チャンピオンになって、天辺取って、今まで俺を否定した奴らの鼻を明かしてやるんだ。ここまで来てダメでしたなんて、そんな殺生なことあってたまるかよ。俺はいつだって勝って来た。ナンバーワンになるのは俺一人で十分だ。悪いが赤居にはここで降りてもらうぜ”

気迫の咆哮。言葉にならぬような叫びを上げ、桜山は死力を尽くす。しかし、次第に雲行きが怪しくなり、気付くと劣勢を強いられていた。

 “クソっ、コーナーに誘導されてたのか”テクニックを駆使し、華麗に相手を追い詰める赤居に対し、桜山は俄かに焦りを感じていた。

「焦るな、振りが大きくなってるぞ。本来の自分を思い出せ」

 大隅の声も冷静さを欠いた桜山の耳には入っていなかった。

 “最短距離を移動し、俺の逃げる空間を削りやがったんだ。俺が右利きで、左回りに動く癖があるのを利用されたか。なんて洞察力のある野郎だ。基礎がしっかりしていて、それでいて洗練されてやがる。これじゃ、付け入る隙がねぇ。いや、俺だってあれくらいの動き軽く熟してみせるさ。同じ19歳じゃねえか。あいつにできて俺にできねえなんてこたあねえ”

 ピンチの時こそその人間の真価が問われる。桜山は少しだけ口元を緩めると、すぐさま得意のインファイト。入門以来これだけを極めるつもりでやって来た。後先なんて関係ない。このラウンドでぶっ倒れたとしても、赤居 明に一矢報いてやりたかった。

距離を取る手もあっただろう。だが、赤居は男の勝負を断るような無粋なことはしたくなかったようだ。打ち合いを選択し、真っ向から桜山の挑戦を受けて立った。激しい打ち合いの末、互いに手負いのままラウンドを終えた。

「お前には体力がなくなっても気力がある。苦しかった練習を思い出せ、根性見せろよ」大隅の口調に、いつにも増して力が入る。

 『バシンっ』乾いた音が会場に響き渡る。

大隅の精神注入張り手が桜山の背中に刺さった音だ。

 「っつ~。浸みるぜ、大隅さん。こりゃあいよいよ負けらんねえな」

 笑みを溢し、古くからの親友のように笑いあう二人だが、目だけは真剣そのものであった。生気を取り戻し、勢いよくコーナーを蹴る桜山。それに対し赤居もどこか吹っ切れた表情を見せている。

 

 

第6ラウンドが開始され、まだ序盤ではあるがかなりのハイペースで試合を運んでいるためそろそろ佳境といった感じもする。疾風迅雷の攻防から一閃の迫撃。強烈な快音が場内に響き渡る。赤居の『スマッシュ』が桜山の心臓を抉る。修羅の形相にて拳を浴びせる赤居。水を打ったかの如く静まり返る場内。辛くも意識を繋ぎ止めたのは、幸いと言うべきなのか。

 “人気ねえなあ俺。これじゃあ完全にヒールだよ。もういっか。目え閉じたら気持ちよく寝れるんだよな。これで終わりにすっか”

 桜山が諦めかけたその時、観客が一人、また一人と立ち上がり声を上げる。

「拳ちゃん立ってえ」

 「約束忘れたのか、鹿児島からお前を見に来たんだぞ、こんなとこで終わるのか」

 「根性見せろや、拳一郎!!」

 「桜山、みんな待ってるぞ。勝って星ヶ峯に帰って来い」

「立て、立つんだ。男だったら最後にひと花咲かせてやれ」

「お願い、負けないで」

 恵子、耕太郎、ひろやん、金原先生、親父、お袋。

 みんな見に来てくれてたんだな。そうだった。俺には負けられねえ訳があるんだ。家柄も学もねえ俺が唯一のし上がれるのがボクシングなんだ。終わってたまるかよ。俺にはこれしかねえんだ。桜山のボクサーとしての本能が、頑なにテンカウントを拒絶する。

 「6、7、8―――」

 すぐさま起き上がってファイティングポーズをとる。危なかった。だが、思いとは裏腹に足元は覚束ず、縺れる足を制することができない。

「クソっ」

 軽いフックを当てられ、体制を整えようとした際のスリップをダウンと見做(みな)される。

 「どこに目つけてんだ。今のはスリップだろ」

大隅の抗議も虚しくカウントは続行される。ここへ来てのマイナス2点は痛い。満身創痍の桜山に、無情にも赤居は手を緩める筈もない。これまでの日々が走馬灯のように頭を駆け巡る。それは追憶の雨のように彼の心を洗い流して行く。一日も、要らぬ日などなかった。全てが今のためにあった。

世界バンタム級チャンピオン赤居 明。この男をキャンバスに沈めることができれば、瞬く間にスターダムをのし上がることができる。金も女も地位も名誉も名聲も手を伸ばせば、浮世の全てがそこにある。まさにこの世の王となる。倒れることなどできようものか。この日のために酒も女も、食物さえも断ち切って来た。

ここが剣ヶ峰。人生掛けて栄光を掴み取る以外、己を説き伏せる歓びはない。

“よくやったとか、惜しかったとか、そんな甘ったれた言葉は要らないんだ”そう考え、今は倒れないことだけに注力する。やっと力が入った両足を馬車馬のように酷使しながら、人が見たら哀れと取るだろうか、勝ち目を無くさぬようその場を繋ぎ止めるのであった。

第6ラウンド終了後、大隅は続行すべきか思案していた。誰だって自分の可愛いボクサーをお釈迦にしたくはない。

「一旦引いて守りを固めろ、今のお前じゃ赤居の攻撃に耐えられないぞ」

だが、これは逆効果であった。桜山は目の色を変え、必死に反論して来た。

「嫌だ、俺は死んでも後には引かねえ。やっと掴んだチャンスなんだ。これが最後になってもいい。思うようにやらせてくれ!!」

桜山の言葉を受け、大隅は涙を堪えることがやっとであった。

 

 

 第7ラウンド開始直後、再びコーナーへと追い詰められる桜山。だが彼は、左フックを掛けてするりと身体を入れ替えた。同じ轍は踏まない。ハンドスピードには自信があった。意外性を持った変則パンチ。土壇場ではこういうのを嫌うボクサーは多い。桜山には『とっておき』の秘策があった。消える前のロウソクはひときわ大きく燃え上がるという。雑草魂をエリートに見せてやろうじゃねえか。

 赤居の強烈な左フックを堅実にダッキングでかわし、渾身の『コンパクトカウンター』の連撃を放った。その連撃が、吹き荒れる嵐のように赤居を襲う。

 しかし、反撃したのも束の間、赤居の振る舞いには囮があったのだ。桜山がカウンターを打つであろうことを赤居はきちんと予測していた。対処は完璧。非常なまでの『クロスクリュー』が桜山の頭部を吹き飛ばさんばかりに炸裂した。痛恨の3ダウン目。

 “なんだ、何が起きた?”彼は魂が抜けてしまったかのようにその場に倒れ込んでしまった。なんと無情なものなのであろう。勝者と敗者、同じ場所に立っていても、両者の歩む方向は真逆の方へ続いているのである。

敗者への慰めとなる言葉など何もない。審判はカウントを取ることもなく両手を交差させた。赤居は静かに両手を上げ、観客へ謝意を示す。暫くして桜山が意識を取り戻し、事態を把握した彼は静かに心情を吐露した。

 「冗談だろ?負けちまったのかよ」受け入れ難い現状に、桜山の精神は限界だった。

 「すまない。俺に五十嵐さんのような知識と経験があれば、結果は違っていたかもしれない。本当に不甲斐ないばかりだよ」大隅は思いつめたように謝罪の言葉を口にした。

 「セコンドの所為にするのは二流の選手さ。大隅さんは最高の指示をしてくれたよ」

「拳一郎」桜山の慈悲深い発言を受け、大隅は掛ける言葉が見つからないようだ。

 「届かなかった。俺も―――ベルトに選ばれたかった」

 項垂れて涙を流す桜山に、赤居は一言「いい勝負だった」そう告げた。両者の健闘を称え、拍手の雨が降る。優しさは、時に人を傷つけることもある。桜山は天井を見上げ、これまでの日々を思い返していた。流した涙は彼の決意の表れであろう。どこか懐かしいマットの感触を両の足で確かめ続け、彼はいつまでもリングを去ることはなかった。

 

 

桜山との試合後4ヶ月経った1986年4月19日、九州は福岡スポーツセンターで行われる次の試合の対戦相手は、モントリオールオリンピックを制したモハメド・アントとなった。試合会場に向かうために羽田空港から福岡空港へ飛び、ホテルへ着くと一泊した。鹿児島空港や熊本空港も栄えてはいるが、なんと言っても九州の中心は福岡である。試合前、チャンピオンとチャレンジャーによる恒例の記者会見が行われた。インタビューボードを背に記者からの質問が始まる。

 「チャンピオンにはこれからの未来はどう見えていますか?」

 「そんなの眩しくて見えねえよ。今はただ前に進もうとするだけだ」

 引き出したかった返答を明がしなかったことで、彼らは質問の対象をアントに移した。

 「アントさんは今回の試合について、どうお考えですか?」

 「彼は『チーズチャンピオン』さ。穴だらけで隙だらけの弱っちいボクサーに、本場アメリカの強さというものを見せてやろうと思ってね」

 面白味のある返答に記者たちの目の色が変わる。

 「では、赤居選手に勝つおつもりで?」アントは余裕を持って答える。

 「もちろんベルトはアメリカに持ち帰らせてもらう。彼の『チューリップガード』を軽く撥ね退けて一撃の下に勝利を掴んでみせるさ」

 明の脇が開きやすくなる構えを『チューリップガード』と揶揄したことから記者たちの質問にも熱が入る。

 「チャンピオンに勝つのは容易いことだと?」

 「もちろんさ。蝶のように舞い、蜂のように刺す。ハチ目・アリ科である蟻は、その幼少期を蝶と共に過ごすことが多い。蜂と蝶は俺にとっては言わば親戚みたいなもんなのさ。華麗な技で魅了してやるよ」なんともおしゃべりでビッグマウスな男である。

 彼は自らのリングネームと宗教に誇りを持っており、『モハメド』の名が示す通りイスラム教徒である。

 「8ラウンドでKОしてやるよ」

 口元を緩めながら言った言葉だが、強い念が籠っていた。その言葉を通訳が明に伝えた後、一人の記者が質問を投げかける。

 「この発言に対してチャンピオンはどうお考えで?」

 「そうだなぁ。じゃあ俺は半分の4ラウンドでKОしてやるよ」

 二人とも、他言語を習得していない『モノリンガル』であるため、通訳を介さないと互いの言葉を理解することはできない。

 だが、4ラウンドという言葉が意味するところを、アントはしっかりと理解していた。

 「ノー、プロブレム」

 身体に力が入り過ぎて震えている様子が、彼の胸中が穏やかでないことを物語っていた。一触即発の空気を察してか、会見はここでお開きとなった。会見後、記者に詰め寄られたアントは、明の挑発に乗らなかったことに対してこう答えた。

 「俺はゴールドメダリストだ、くらい言う権利はあったけど、抵抗して相手側に二人で来られたら困ると思ってね。だって俺、そんなに強くないからさ」

 本心では例え五十嵐と二人掛かりでも勝つ自信があることであろう。だが、こんな『ウィットに富んだ笑い』を提供できるところが、彼の良さなのであろう。記者たちは今回の良い『ネタ』が手に入ったことに満足し、その場を後にしようとした。しかし、以外にも彼は真面目な話をし出す。

 「善人、権力者はみな白人だった。『ニグロ』と呼ばれ、蔑まれた俺たちが人間たる『権利』を取り戻すためには勝つしかなかったんだ。だが、キング牧師の活躍で俺たちは変わった。そして、白人の血が入った黒人であるロビンソンがチャンピオンになった意味は俺たちにとって大きかった。白人の血が入って居ようとロビンソンは大事な『友達』だ。今回は是が非でもロビンソンのベルトを返してもらうよ」

 悠然と語るその姿には強い決意があったことであろう。一方で明はマスコミから離れ、ジムに戻って最後の調整を行っていた。

 「あれから毎日飯が美味いんだ。高校を中退してフラフラしてた時はあんなに不味かった飯がよ。チャンピオンがこんなに良いモンだとは思わなかったよ。最高の気分なんだ」

 それを聞いて五十嵐は嬉しく思うも、明が浮足立たないよう釘を刺しておくことにした。

「アントは『鋭圧』の使い手だ。拳圧が同じである以上、そこで試されるのは己の実力のみ。体調が悪いことは、いずれ悟られるだろう。だが、勝負の世界にそんなものは関係ない。狩りをする時に獲物を気遣うハンターはいないからな」五十嵐は更に発破を掛ける。

 「チャンピオンであると同時にチャレンジャーでもある。常に限界に挑み続けるんだ。ベルトは奪うよりも守る方が難しいからな」

明はたまに気を抜いてしまうことがある。この発言は、それを戒めるためのものであろう。

 「全てを調べ尽くされているという厳しさがチャンピオンにはある。その上で己を見失わずにいられることが、王としての心の強さと言えるんだ」

 試合前に言えることは言っておきたい。これは五十嵐の親心なのであろう。

 「防衛戦で本来の実力を出せずに表舞台を去って行ったチャンピオンは数えきれないほどいる。お前にはそうなって欲しくないんだ」

明は伏し目がちに五十嵐の話を聞いている。

 「己の勝ちは時に人を破滅へと追い込むこともある。負かした相手が引退するなんざ珍しい話でもないのさ。人の夢を背負う。それもチャンピオンの宿命なんだ。他の者の比ではない。王者は常に勝ち続けなければならないんだ」熱を帯びた言葉は、明の脳に染み渡って行く。

「練習で拳が熱を持ったら氷水で冷やす。感覚が無くなるまで冷やす。酷ければ患部に麻酔を打つなんて手もあるがな。ただし、試合後に麻酔が切れた時は地獄だがな」

 痛めた拳を擦りながら、明は静かに頷く。

「ボクシングは網膜剥離や脳障害など、ただでさえリスクがつきものなんだ。お前も身をもって体験しただろう」五十嵐は淡々と語って行く。

「大事な試合の日に限って体調が悪かったり、怪我をしているものなんだ。それでも勝たなきゃならない。万全の状態で回って来ないことなんて山ほどあるのさ」

それは何処の世界でも同じことであると言えよう。

「自分に甘い奴は何をやってもだめさ。妥協した人間は人生からも妥協される。ピンチの時こそ『地』が出るもんだ。染み付いた修練が、己を守る鎧となる」

 五十嵐は常に、己への戒めとしての意味合いも含めて話しているようであった。

 

 

 そして迎えた1986年4月19日。福岡県福岡市中央区にある福岡スポーツセンターで大々的に試合は行われた。まずは挑戦者のアントの入場曲である『アント・コベタ・イエ』が流れ、挑戦者が紹介される。コベタ・イエとはリンガラ語で相手を叩きのめせという意味である。

 「ケンタッキー州ルイビル出身。176センチ118ポンド(54kg)。モハメド~~~アントお」

 勢いよくアナウンスされ颯爽と登場したアントはオレンジのトランクスを自慢げに見せびらかしている。ひと月前に28歳になったばかりの頃、3年半ぶりに行われたジョージア州での試合で、生涯のライバルであるジャー・フレイジョーをKOに屠った。

その試合は徴兵を拒否し、禁固3年、罰金1万ドルの判決を受け、模範囚として服役し終わってからのものであった。12人の陪審員は皆白人であった。出所後、試合までの半年間は大学で講義をして金を稼いだ。チャンピオンの中には在位期間に戦争へ行ったジョー・ルイスなんて人もいるが、アントは決して臆病者な訳ではなく、平和を愛し、イスラム教の教えを頑なに守った。

10オンスのグローブの具合を確かめながら、マキ割りで鍛えた自慢の広背筋を見せつけるように明の方へ向けた。リングサイドには彼の旧知の友、『アンソニー・犀木』もその姿を現していた。視力2.0の遠視で闘いを見据える。対する明も紹介を受け、意気揚々とリングへ躍り出る。

 

 

 『カンっ』

 勢いよくゴングが鳴り、第1ラウンドが開始された。サウスポーで構えるアントは右手でジャブを打つが、顎まで拳を戻さないスタイルのようだ。鋭い拳が明を狙う。

 「今はボクシング・ハイになっているから大丈夫だが、立ち止まれば確実に痛みが襲って来る。そうなる前に倒してしまわないと明日はないぞ」

 試合前に五十嵐に言われた言葉が不意に脳裏に浮かぶ。

 「気弱になるな。俺たちが付いているじゃないか。何千回、何万回と叩いたミットの感覚を思い出せ」米原の言葉は常に前向きで頼もしい。

 「ああ、こんなとこで負ける訳にはいかねえよな」自身の言葉も鮮明に思い出される。

 サウスポーで構えるアントは、どんどん加速して行く。対する明はショートフックの応酬で徐々に距離を詰めながら攻めて行く。しかし、これが仇となった。アントの右のジャブがカウンターの代わりとなっていた。強烈な一撃を食らい、明の膝が崩れる。

 1、2、3―――カウントを取ってはいるものの、レフェリーは試合を続行できることは分かっていたため早口で進め、早々に明のグローブを拭いて再開の合図を出した。引いてばかりでは相手は倒せない。明は攻撃型にシフトしてガードの上から、『スマッシュ』を打ち込む。アントの口から血が噴き出る。

 左右のショートフックの連打からリズムを変えての『スマッシュ』は効果覿面だ。横のパンチに慣れていたところにいきなり縦のパンチが来る。これにはアントもたまったものではないようだ。すぐさま距離を取り、体制を立て直す。

 “これなんだよな”明はアントとの勝負に闘い難さを感じていたが、その原因は彼が『距離感』を完璧に使い熟すことができるボクサーであることによると言えるであろう。 もともとアウトボックスは得意ではないことに加え、前評判の通りアントは隙を探すことが不可能なほどの選手であった。

 脚力の必要な『クロスレンジ (至近距離)』腹力の必要な『ショートレンジ (近距離)』腕力の必用な『ミドルレンジ (中間距離)』肺力の必要な『アウトレンジ (遠距離)』。そのどれを取ってもピカイチであり、並みのボクサーの得意な距離ほどのパフォーマンスを発揮して来る。

 ミドルレンジを得意とする明にとって、距離感を自由に変えられるアントは最も『やりづらい』タイプのボクサーであると言えよう。逆に遠近両用であるアントは、片方に距離を絞らなくて済む明に対して闘い易さを感じていた。前進する明、しかしそこにはジャブの嵐。

“いくらもらったって所詮は『ジャブ』だ。たいしたことねえ”だが、強烈なジャブに明は押されて行く。その内の一打が顎に当たり、倒れそうになった隙を突いてアントが襲い掛かって来る。明のストレートがアントの腹に突き刺さる。だが、アントも鋭いジャブで応戦し、明は堪らず『クリンチ』する。アントは顔を顰め、明確に怒り露わにしながら罵声を浴びせる。

 「アカイ、チキン、スネイル」

臆病者、鈍間。なんとも差別的な表現を用いて、ラウンド中にも関わらず執拗に挑発を繰り返して来る。これには審判のショウガ・ハルも苦い顔をし、アントを窘めるようなジェスチャーをする。観客が不穏な空気に耐えられず、ざわめき始める。張り詰めた空気を残したまま、第1ラウンドは終了した。

 「奴は口は悪いが、間違いなく一級品のボクサーだ。華麗な技は見るものを魅了し、その心を鷲掴みにする。これを回避できているのは日や汗を流し、一心不乱に精進した修練の賜物だ。自信を持っていいぞ」

 五十嵐にしては珍しく精神論を口にしているのは、明に教えるべきことを教え尽くしているという自負があるからであろう。自分が言うまでもなく、明はその考えを実行してくれている。五十嵐はそう感じていた。

ゴングが鳴り、第2ラウンドが開始されると、明は早々に攻めあぐねることとなった。 アントには明の動きが止まって見えるかのように感じられる。

 “ふっ、そんな動きじゃ蠅が止まるぜ”

 アントは余裕綽々と考えているようだ。まるで二人の時間がズレているかのようである。もはや短めのジャブならば素人には肉眼で確認することが困難な程である。これには明も舌を巻いたようだ。万事休すか。

 だが明の『スマッシュ』を警戒してのことなのか、はたまた得意のフックが功を奏したのか、アントはこのラウンドはそれ以上攻撃をしては来なかった。第2ラウンド終了間際、アントは高らかと右手を上げて観客に自らの強さをアピールした。それを見た五十嵐は不敵な笑みを浮かべ、堂々と明を迎え入れる。

 「あんな強い奴が居たなんて―――なんだか俺、自信なくなって来ちまったよ」

 陰に籠りかけている明を尻目に、五十嵐は余裕の表情である。

 「なあに、案ずることはない。今、全ての疑惑は確信に変わった」

 「何か秘策でもあるってのか、教えてくれよ五十嵐さん」

 「ああ、教えてやるとも。いいか、よく聞け。奴は―――『右利き』だ」

 「なんだって!!」明は口を半開きにさせた後、驚嘆を隠し切れず絶叫する。

あまりに大きな声を出すので、近くに居た観客が思わず身体をビクつかせる。

 「そうか―――そういうことだったのか。それを聞いて合点が行ったぜ。そう言えばあいつ、全然ストレート打って来ねえんだ」

 「俺も世界戦でこんな大胆なことをして来る奴がいるなんて驚きさ。たいした度胸だよまったく」

 「ありがとよ五十嵐さん。これでなんとかできそうだぜ」

 明は活路が見出だせた途端、水を得た魚のように元気を取り戻した。ゴングが鳴り、第3ラウンドが開始されると、左手側に大きく踏み込んで来る明を見てアントは確信した。

“『バレた』な”アントは軽く笑ってみせると左手で大きくストレートを打って来た。空を切る音がする。まるで『俺には左もあるんだぜ』と言いたげなその振る舞いにも、明は動じずに対処できていた。

 そして小刻みにジャブを使い、徐々にアントを追い詰めて行く。彼は身体をくねらせコーナーであっても余裕を見せ避け続ける。無防備なようだが、これが嫌味なほどに当たらない。足を前後に交差させる独特のステップは宙に浮いているかのように軽やかである。

 “シビれるぜ。良いボクシングスタイルしてやがる。冗談だけど、倒さずにずっと見ていたいくらいだ”アントのボクシングセンスは、同業者が見惚れてしまう程の優美なものであった。

 “クソっ。軽く身体動かしてるくせになんて重いパンチ打って来やがるんだ。怪物だな”先程のラウンドよりは余裕があるものの、明の胸中は穏やかではないようだ。左右の腕を繰り出して来るのが、両方まるきりストレートになっている。腕力に物を言わせた荒業も、世界レベルのパワーとあっては凶悪な武器と化す。それにしてもこの場面で力業に頼って来るとはなんとも豪胆な男である。

「カワード」臆病者と言われようと、今の明は全く動じない。

 「カモン!!」五十嵐から教わった最初で最後の英語で明も負けじと言い返す。

 「ファッキュー、アカイ!!」顔を赤らめた姿は鬼神と形容するに足る有様であった。

 本土アメリカから来た応援団の『アントコール』を背に彼の怒りのボルテージは最高潮に達していた。豪打の打ち合いはボクシングの域を超え、乱打戦と言えるものになっていた。明が斬るか、アントが刺すか。第3ラウンド終了後、両者気力が充実したまま第4ラウンドへ向かおうとしていた。

 「こんなに怒りを覚えたのは、幼い頃に自転車を盗まれたあの時以来さ」

こんな状況でも尚ジョークを飛ばす余裕があるのは、この男の底知れぬ強さがあったればこそであろう。

 「俺は『不可能』という言葉が嫌いだ。可能性を信じられない人間は、生きることを諦めているようなものだからね」アントは徐に話し始める。

 「危険を冒す勇気のない者は人生において何も達成することができない。そう彼のようにね」自信に満ちた表情で、呼吸を整えながら落ち着きを取り戻そうとする。

「俺は神話を創り、その中で生きる」真剣な眼差しからは、決意、覚悟、信念、いろいろなものが俄かに彼を突き動かそうとしていることが伺える。

 「恩師が下さった美しい名。『モハメド・アント』に恥じぬように。矜持、勇気、愛情を失わぬように」目を瞑り、自らに言い聞かせるように呟く。

 

 

第4ラウンドが開始され、軽快なフットワークで明を翻弄しようと企むアント。ふと立ち止まり、両手を腰に置いて口を動かすだけで声を出さない挑発をする。明は動揺など微塵も見せずに、冷静にアントをロープ際へと誘う。パンチの応酬に、アントは苦戦しているように見えるが、額に汗がないことを明はしっかりと見抜いていた。

 『ロープ・ア・ドープ』

相手がパンチを出しながら消耗している間、追い詰められたフリをする戦術である。

 “世界戦で重ね重ね狡いマネしやがるじゃねえか”明は頭脳的にも世界チャンプとして防衛を続けられるだけの域に達していた。アントは『お得意の』騙し技が通じないことに嫌気が差したのか、小さく横に首を振って、怠そうにリング上でステップを刻み始めた。 その姿を見て審判が対戦を促す。

 「ユー、ゴー」お前が行け。卓越した技術とは裏腹に、人間的には多少幼稚な部分もあるようだ。やっと正面に立ったかと思えば、ホールドが多くなって来てそれを解いたところ、明の強烈な『スマッシュ』が炸裂する。目を向いたまま停止するアント。非情なまでに攻撃に徹した明の拳の雨が、アントの身体に降り注ぐ。

 5、6、7―――ボクシングの本場アメリカにおいても、これほどまでに叩きのめされたことはなかった。辛うじてという表現が最もよく当てはまる状況で、アントはファイティングポーズをとることができた。絶好のチャンスに、明が容赦をする筈がない。

『ヘッドスリップ』

相手のパンチを頭を滑らせるように躱すテクニックでアントは死線を潜り抜けることに徹した。長い長い20秒間が過ぎ、大袈裟なほどに大きい音を立て、ゴングが鳴り響いた。

「こんなにゴングが待ち遠しいことはなかったよ」

汗を拭われながらアントは一言発するのが精一杯であった。それから5、6、7とラウンドが過ぎ去り、8ラウンドからはアントの挑発がなくなった。そしてラウンドを9つ重ねる頃には、二人とも別人のように顔が腫れ上がていた。

お互いに一つずつダウンを奪った第10ラウンドを経ての第11ラウンド開始直後、アントの強烈なカウンターが明の鳩尾を直撃した。しかし、頑丈と言うのもまた天性、才能があるということである。気力の充実した選手は、ボディでは落ちない。明は歯を食いしばると、鼻から息を吹き出し、踏み止まることができた。

 そしてアント目掛けてテンポよくフックを打ち込む。極限に達しようとしている両者。目が霞む、足が縺れる。それでも彼らは闘いを止めなかった。それは意地であり闘志であり根性。そういったものがあるのであろう。だが、ボクシングが―――闘うことが、本当に好きだということが、倒れそうになる身体を支えていると言える。

 不意に左下に目線を落とすアント。腰と膝の筋肉はスポーツ選手の生命線だ。アントはどうにもさっきから左足の調子が悪いようだ。踏み込む時に痛めたようである。並みの選手なら、苦しそうに顔を歪めるところであるが、弱みを曝け出すことは即ち敗北に直結する。アントはラウンド終了時まで精神力のみでその怪我を隠し通した。両者コーナーへ戻り、セコンドのアール・ダッチに支持を仰ぐ。

 「最終ラウンドにラッシュを掛けて、己の勝ちを印象付けるんだ」

 形振り構ってなどいられない。アール・ダッチも必死になって、アントの勝ちに寄与しようとしてくれている。

 「ボクシングは常に『オール・オア・ナッシング』だ。自らの手で、勝ちを掴み取って来い」アール・ダッチは、強い気持ちを込めてそう言った。

 

 

 そしていよいよ運命のラストラウンド。ゴングが鳴り、二人の男はその生涯を掛けて勝利を奪い合う。激しくぶつかり合う両者。この数分を、果たして試合後に記憶していられるであろうか。そう感じるほどに、満身創痍の打ち合いであった。耳を裂くほどの大きな音を立て、試合終了を告げるゴングが鳴り響いた。ほとんど歩く気力も残っていないほどに、戦士たちは疲れ切っていた。約5分の間、判定が出揃うのを待つ。

 “勝ったのは俺だ”互いにそう信じ、運命の分かれ目に立つ。そしてレフェリーが声を張り上げて判定を読み上げる。

 「ジャッジ槇原99対98―――アント、ジャッジ山崎99対98―――赤居。ジャッジ菅96対96―――ドロー」

判定が割れたスプリットデシジョン。意外な幕引きに会場がどよめく。

 「よってこの試合は引き分けで、ワールドボクシング・オフィシャルルールに則り、チャンピオン赤居 明選手のタイトル防衛となります。またしても、ベルトの移動はありません」レフェリーも激しい試合を終え、疲労の色が隠せないようであった。

 「安威川 泰毅との日本タイトル戦の時に仇となったルールに救われるとは皮肉なものだな」五十嵐は安堵を隠し切れないといった様子であった。

 「ああ。際どい試合だった。反省点が多いよ。それにデコが凄く痛てえ」

 アントのジャブが当たった部分が試合後にタンコブになったことは、勲章ということにしておこう。明は前向きにそう考えた。

一方アントはと言うと、試合後、手を目の前に出されると恐怖を覚えてしまうという『パンチ・アイ』になってしまった。今後、彼の姿をリングで見ることはないだろう。その饒舌さを活かし、キングバーガーというハンバーガーショップを開店して、テレビ出演もするようになり、ボクサー時代の苦労を語るようにもなった。

 「明くん、拳の怪我って結局なんでそんなに悪化してたの?」

秋奈はやっと聞きたいことが聞けたといった感じであった。

「その―――古傷なんだ。昔、慎也とやりあった時のでよ。一回キリの喧嘩でさ」

「そうなんだ―――聞いてもいいのかな?勝敗はどうなったの?」

「引き分けたよ。そっから無二の親友でさ。決着―――つかねえままだったな」

感慨深そうに語る明の表情は、まだあどけない少年のようであった。

 

 

モハメド・アントとの試合後、秋奈の出産のため、明は一緒に家で陣痛が来るのを待っていた。時間は午後2時。妊娠発覚後、籍を入れ、数人の友人と家族で小規模ではあるが式を挙げた。特に慎也は結婚の餞にと二人の門出を祝ってくれ、出産の贐にと1980年代には高価であった紙オムツを、1年分も用意して盛大に祝ってくれた。

 そして、秋奈が一人暮らししているアパートに明がそのまま住む形になっていた。もちろん家賃は明が払っている。秋奈は専門学校を一旦休学し、子供が生まれてから復学することにした。

 「いいの?今日はジムに行かなくて」秋奈は心配そうに聞いた。

 「今日が予定日だろ?ほったらかして行けるかよ。シャドーでもしとくよ」

 「そっか~。ありがとね。気遣ってくれて」

 秋奈は我が子の胎動を感じつつも嬉しそうにそう言った。

 「いいってことよ。こういう時に側に居られなきゃ意味ねえからな」

 明はそう言うと、側に置かれている『ラズベリーリーフティ』をカップに注ぎ込んだ。

 「ちょっと飲みすぎじゃない?私まだ1杯しか飲んでないよ。それ4杯目じゃん」

 秋奈は少し呆れたように笑いながら言った。このお茶は『安産のお茶』と呼ばれ、含まれている『フラガリン』という成分が子宮筋を正常な状態に保ち、陣痛を和らげる効果がある。ただ、子宮収縮作用があるため、妊娠初期から中期にかけてや、切迫早産の可能性がある時は禁忌とされているので、飲まないようにすべきである。

また、利尿作用があり、大量に飲むと気分が悪くなる場合もあるので、一日1、2杯程度にしておくとよい。オマケとして、タンパク質を変性させることにより組織や血管を縮める作用があり、美容効果も期待できる。

 「今日生まれるかもしれないと思うと妙に緊張しちまうもんだな。たぶん自分の試合の時より身構えちまってるよ。産むのは秋奈なのにな」

 「この10ヶ月間あっという間だったよね。人生でもこんなに幸せな時期は何回あるか分かんないくらいだったかも。もう40週目なんて信じられないくらいだよ」

 「お袋が俺を妊娠してる時に風疹を患っちまって大変だったらしいんだ。大丈夫なら良いんだけど、風邪とかひかないように気を付けねえとな。寒くないようにしとけよ」

 「そうだね、体調には気を付けるよ。けど、ほんと病気もしなかったし、運が良かったよね。ちゃんと育ってくれたみたいだし」

 秋奈は大事そうにお腹を擦りながらそう言った。出産が近づき35週を過ぎると子宮の一部である羊膜が下がって来て子宮口が1センチほど開く。37週以降は『正産期』とされ、40週を迎えるまでに子宮口は3センチほど開き、場合によっては『おしるし』がある。

 これは子宮口の蓋をしていた粘液栓と呼ばれるゼリー状の塊が剥がれ落ち、子宮口が開き始めて子宮が収縮し、子宮頸管の粘液と混ざって外に出てくるものである。回だけとは限らず複数回ある場合もあるが、妊婦のうち半数は『おしるし』が来ないまま出産している。また、子宮口付近から『卵膜』と呼ばれる赤ん坊を包んでいる袋の一部が剥がれることで出血し、その血液が混ざることもある。

 「それにしても、この曲も聞き飽きちまったな。最近、夢の中でも流れてる時があるんだよな」部屋には胎児の情操教育の一環として始めたクラシック音楽が鳴り響いている。

 「有名どころは殆ど聞いちゃったもんね。明くんのお母さんからは他にも『逆子体操』教えてもらって『逆子』にならなくて済んだし、後は無事に生まれてくれるのを待つだけだね」秋奈は安心しきったようにリラックスして話している。

『逆子体操』には女豹のポーズや雑巾がけを行う『胸膝位』仰向けに寝て尻の下に枕を敷く『仰臥位』がある。終わった後は赤ん坊の腹が下になるようにして寝ると良い。ただし、身体に負担が掛かる行為のため医師に相談した上で行うことが望ましい。

 「一時は『帝王切開』になるかもしれないと思って覚悟したんだけどな。なんとか33週までにギリギリ間に合って良かったよ」

 明は秋奈の肩に薄手のストールを掛け、優しく労わるようにした。

 「ほんとラッキーだったよね。産道に肉が付き過ぎないように運動したり、お灸を使ったり、ツボ押ししたりとかいろいろやったもんね」

 秋奈は懐かしそうにこれまでの日々を思い出していた。

『逆子(さかご)』には4種類あり、足が下にあり伸びている『足位(そくい)』、足が下にあり曲がっている『膝位(しつい)』、尻が下にあって足が伸びている『単臀位(たんでんい)』、尻が下にあって足が曲がっている『複臀位(ふくでんい)』がある。出産においては胎児の状態によって処置が異なって来て、基本的に尻が下にある場合は『自然分娩』足が下にある場合は『帝王切開』となる。

 頭が下にあることが望ましいと考えられるが、人生は思い通りに行かないことが多いものなのである。秋奈は妊娠中に胎児が『膝位(しつい)』であったため心配していたが、『逆子』である『骨盤(こつばん)位(い)』から『頭位(とうい)』となり『自然分娩』での出産が可能となっていた。

 「『ファミコン』買って来たからよ。この子が生まれたら『マリオブラザーズ』やってみようぜ。だから、頑張れよ」明は照れたような笑顔で励ますように言った。

 「そうなの?ほんの冗談だったのに覚えててくれたんだ。明くんがゲームとか好きかなと思って。けど、嬉しいよ。帰ったら必ずやろう」

 秋奈は明の気持ちを汲んで、少し大袈裟に喜んでいた。この時はまだ『ソフトを買っていない』ことに気付いていなかったのだが、二人は子供の居る幸せな未来に思いを馳せていた。

 「なんていうか、こうしてると時間が経つのが遅く感じるな。もう開けちまうか、ファミコン」明は気軽な感じで話し掛けたが、秋奈から反応がない。

 「うっ―――」秋奈は苦しそうに蹲っている。

 「来たのか?待ってろよ、すぐにタクシー呼ぶからな」

 ヤンキー上がりの男というのはこういう時に頼もしいものである。明は用意していたメモを見てすぐさまタクシーを呼び、五十嵐と義母にも連絡を入れた後、階段から落ちないように気遣いながら秋奈をアパートの前まで移動させた。知識があれば階段の昇り降りをして陣痛を促すところであるが、明と秋奈はそのことについては知らなかったようだ。

2010年代であれば、事前に名前、住所、連絡先を登録しておく『陣痛タクシー』のような便利なものがあるが、昭和の時代にはそのようなものはなかった。5分ほど経ってタクシーが家の前に到着し、急いで乗り込んだ。水曜日であったため、道はそれほど混んではいない。

「頑張れよ、もうすぐ病院に着くからな」

明は動じないよう心中で自分を諫めながら秋奈を気遣った。15分ほどで病院に着いてからも、秋奈は苦しそうに唸っていた。

 「不安だな。無事に終わってくれるといいけど」明は緊張し、口が乾いていた。

 「明くん、腰、さすって」秋奈は辛そうに眉を寄せている。

 「おう、分かった。他にも何かあったら言えよ」秋奈に言われるままに行動に移した。

 「そこじゃないよ」秋奈は絞り出すようにそう言った。

 「ここか?」明はどこか分からないといった様子だが、懸命に痛むヶ所を探った。

 「そこでもない」秋奈は必死で訴えるように声を大きくした。

 「ここ?」明はまるで見当が付いていない様子だ。

 「そこじゃねえって言ってんだろ、バカヤロー」

 明は秋奈が豹変したので、かなり驚いてしまった。出産の際に女性は、気が動転して暴言を吐いてしまうことがあるが、男性は本心と取らぬよう心得て水に流すようにすべきである。

また、陣痛を和らげる方法としては、テニスボールやゴルフボール、拳などを使って腰まわりで痛む部分、腰骨の左右、肛門の辺り、太腿の付け根、内踝から4cm程上の部分にある『三陰交』を押すことなどが考えられる。腰やお腹のまわりなど痛みを感じる部位をカイロや湯たんぽを使って温めることでも筋肉が解されて痛みが和らぐとされている。

暫くして義母が到着し、側について手を握りながら秋奈のことを励まし続けていた。 それから10時間陣痛が続き、午前0時を過ぎた辺りから秋奈は少し寝ては起きて、ウトウトしては目が覚めての繰り返しであった。

 陣痛には3つの段階があり、8分間隔で30秒の長さで痛みが起こる『準備期』、5分間隔で40秒の長さで痛みが起こる『活動期』、2分間隔で50秒の長さで痛みが起こる『移行期』の順に進み、無痛分娩を行う場合は『準備期』に腰に麻酔を打って分娩を行う。

 また、『破水』するタイミングとしては、通常『移行期』に入ってからであり、ここで分娩台へと移りいきみ始め、1時間ほどで出産は終了する。秋奈の場合は『活動期』が長く、5分間隔で痛みが強くなるものの、なかなか『破水』しなかった。

因みに『破水』とは胎児を包んでいる卵膜が破れて、子宮内の羊水が流れ出ることをいう。『前破水』と言って陣痛が来る前に破水が起こるケースもある。秋奈は陣痛時に子宮の収縮が弱く、分娩が正常に進行しない状態である『微弱陣痛』であったため、促進剤を打つことで解決しようと試みた。

そこで、点滴で投与し自然陣痛に近い形で子宮収縮を促す『オキシトシン』を用いてみたが効果はみられず、多少困難ではあったが経口投与にて『プロスタグランジン』を投与し、破水させようとした。

 そして1時間後の午前1時、ようやく破水して秋奈は分娩室に移動した。平成の時代ともなれば、立ち合い出産をすることが多いものの、昭和61年ではそういったことは一般的ではなかった。明と義母の良枝もその例外ではなく、分娩室の外で誕生の瞬間を待つことにした。

 「こうしてると秋奈が生まれた時のことを思い出すわね」良枝は感慨深そうに言った。

 「あの子は昔から芯の強い子で、何でも言い出したら聞かないところがあって。幼稚園児の頃なんかよく男の子とオモチャの取り合いになって喧嘩してたっけ。小学生になってからも女の子なのに毎日毎日擦り傷作って帰って来て、本当に手の掛かる子で。お兄ちゃんの春彦もあんなだから、母親になってからはあっという間で―――あっ、いけない。こんな話年寄り臭いわよね」良枝は慌てて取り繕うように話を止めにした。

「そんなことねえよ。おばさんのその話、俺はもっと聞きてえな」 

明は誰に対しても裏表がない。敬語が使えないことは本来ならマイナスとなるだろうが、良枝はそんな彼の人柄を心底気に入っていた。

「まぁ、嬉しいこと言ってくれるじゃない。けど、これからもっと嬉しいことがあるんだよね。それまで時間もあるし、いろいろ話しちゃおうかしら」

良枝はわりと調子に乗り易い性格のようだ。人生には様々な『よろこび』がある。敵をノックアウトした時のあの恍惚とした『悦び』が、チャンピオンになるという願いが叶った時のあの飛び上がるほどの『歓び』が、チャンピオンベルトを手にした時のあのとてつもないほど大きな『喜び』が、共に闘って来た仲間に賛辞を贈る時の純粋な『慶び』が、ボクシングをやっていて良かったと思える瞬間であると言えるだろう。

だが、我が子をこの手に抱いた時の『よろこび』は、筆舌に尽くしがたいものであると言えよう。二人はその瞬間を、今か今かと待ち詫びるのであった。

 

 

 それから15分ほど経ち、慌てた様子で五十嵐が分娩室の前に現れた。

 「あ、あ、秋奈はどうした?も、も、もう生まれたのか?」

 明は五十嵐の意外な焦りように戸惑ってしまった。

 「今、分娩室に入ったとこだよ。俺も凄く緊張してて―――」

 五十嵐はオロオロして同じところを行ったり来たり、短い距離を往復している。

 「お、お、お、落ち着け。心頭を滅却すれば火もまた涼し、光陰矢の如し、驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如しだ」

 明は左頬を少し釣り上げると、先程よりも大人びた口調で話した。

 「五十嵐さんの方が落ち着いてくれよ。こういうことになると世界チャンピオンも肩なしだな」五十嵐はふと我に返ったように、冷静さを保とうとし始めた。

 「そ、そうだったな。面目ない」

 明は軽く息を吐き出し、安心したように笑顔を見せた。

 「焦ってもしょうがないって、分かっちゃいるんだけどよ。どうしても心配しちまうもんなんだよな」

 このように心情を吐露できるのも、長年の師弟関係があったればこそであろう。

 「その通りだ。ここでジタバタしていても、何の解決にもならない。赤ん坊の頃から知っている秋奈の一大事に、柄にもなく気が動転してしまっていたようだな。俺もまだまだ修行が足りんな」

 五十嵐は普段は自分を律することができるのだが、誰かのこととなると必要以上に心配してしまうようだ。その後は適度な緊張感を保ちつつ、良枝と三人で話をしていた。

 一方の秋奈は『ラマーズ法』を用いて必死でいきむようにしていた。秋奈は勢いよく息を吐き出しているので、顔が少し赤くなっている。

「もう帰る!」秋奈は言葉を絞り出し、苦しそうにそう言った。

「そんなこと言わないで。ほら、もう少しだから頑張って」

側に居た年配の女性看護師は、全く動じず平常通りといった様子だ。ヒッヒッフーの掛け声が有名なこの呼吸法は、日本では1960年代後半に導入され、元はソビエトで行われていたものであり、これをフランスのラマーズ博士が改良し提唱した『精神予防性和痛分娩』である。

また、平成の時代ともなれば、一般的にも『ソフロロジー』という手法が用いられるようになる。これは座って下腹部を擦りながら行うものであり、フランスのエリザベット・ラウルによって提唱され、日本では1987年に導入された。出産は産婦のなすがままにリラックスして行うのが最も良いという分娩教育法であり、東洋の禅とヨガ、アフリカの女性の伝統的な出産方法を取り入れたものである。

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。永遠とも思えるほどの時間が流れた後、静寂を破り赤ん坊の声が聞こえて来た。

 「生まれた!!」

 明と五十嵐は手を取り合って喜びを分かち合った。二人とも嬉しさが有り余って、そのまま踊り出してしまう程であった。

秋奈はと言うと『後産』に備えるためまだ分娩台の上で待機していた。これは赤ん坊を出産した後、10分ほど経ってから陣痛が起こり、子宮内にある胎盤や臍帯を排出することである。時間は20分程度であり、その後は局部麻酔を掛け、会陰切開や自然裂傷した部分を縫合をすることで分娩は終了する。個人差はあれど、出産の疲労も相まって全く痛みを感じない人がほとんどであるとされている。

その後は子宮の大きさを産前の状態に戻す『後陣痛』が起こる場合があるが、その際に授乳をすることにより、『オキシトシン』と呼ばれるホルモンが生成され、そのことが産後の体力回復に寄与することとなる。

2010年代では親が素肌に直接赤ちゃんを抱いて保湿する『カンガルーケア』というものがあったりもするが、明たちが生きた昭和の時代には一般的に行われてはいなかった。それから、後産が終わるのを更に20分ほど待ったあと、明たちは分娩室へと入って行った。

 産後は2時間ほど分娩台の上にいるので、秋奈はもう暫くここに居ることになる。明はこの時まで自分の子と対面するのが、こんなにも緊張するものだとは思っていなかった。戸惑いもあったが、意を決しておっかなびっくり子供の顔を覗き込んでみる。無事に生まれた安堵感と、極度の緊張が解かれたことで、明は思わず感動して泣いてしまった。

 「もう~情けないな~」そうは言ってみたものの、秋奈も目が潤んで来ている。

 「これで益々負けらんなくなっちまったな」明は努めて気を引き締めようとしている。

 「男は守るものがあればあるほどに強くなる。これからも一層精進することだな」

 五十嵐は普段通りだが、先程の焦っている姿を見ているため、真面目なことを言っても威厳が感じられない。

 「私が秋奈を生んだ時もオロオロしっぱなしだったじゃない。男ってほんとだらしないわよねぇ」良枝が笑いながらそう言ったのに対し、明ははにかんで畏まる。

「そう言われると弱いな。こればっかりは男にはできない大仕事だしな」

 「足がつって本当に大変だったんだから」秋奈は少し恨めしそうに言った。

 生まれた子は元気な女の子であり、目元は明に、鼻と口は秋奈によく似ていた。タオルにくるまれただけの新生児は皺が多く猿のようにも見えたが、秋奈が命掛けで生んでくれた自分の子供だと思うとたまらなく愛おしく思えた。看護師に促され、「秋奈が先に」と言うともう抱いたと言うので遠慮がちに抱き抱えてみる。

 覚束ないながら目を閉じて泣く姿は、長年探し求めた宝物のようであった。不意に赤ん坊が笑い、手を握ったり閉じたりしだした。その手に人差し指を掴ませてみる。温かな体温が指に伝わり、その感動に自然と笑みが零れる。

正直に言うと明は子供が生まれるまではイマイチ父親としての自覚が持てずにいた。本当に自分に父親が務まるのだろうか?金は足りるのか?教育はしっかり行えるのか?世話は問題なくできるだろうか?そして自分のように非行に走ってはしまわないだろうか?取り越し苦労だとは分かっている。だが、生まれて来る日が近づく度に、杞憂せずにはいられないのであった。

しかし、生まれて来た子の姿を見て、そんな思いは吹き飛んでしまった。一度我が子を抱いた瞬間に、こんなにも実感が湧くものなのだろうか。その小さな掌で必死で自分の指を握りしめている。そのことで思わず歴戦の日々を忘れ、顔が綻んでしまうのであった。これからこの子と過ごす日々が、自分たちの人生を彩ってくれることであろう。

初めてハイハイした日、掴まり立ちした日、言葉を発した日、ご飯を食べた日、『父』と呼ばれた日。片時も、忘れることはないであろう。巡る月日が、記憶となって刻まれて行く。その全てが、生きる意味であったように。

 

 

第一子誕生後、明は悪魔王子と呼ばれ、変則型サウスポーを操るイギリスの『リー・ハメド』に勝利し、3度目の防衛。史上最高のハードパンチャーとして知られ、そのパンチをバズーカ砲と評されたプエルトリコの『ウィルフレッド・コット』に勝利し、4度目の防衛。カオサイの再来、デスマスクと呼ばれたタイの『ウィラポン・ウォンジョンカム』に勝利し、5度目の防衛。

ミスターパーフェクトと呼ばれたベネズエラの『エドウィン・ガメス』に勝利し、6度目の防衛。ハリケーン、驚異の男と呼ばれたアルゼンチンの『オマール・マルチネス』に勝利し、7度目の防衛。韓国の石の拳と呼ばれ、バッティングが多い選手である、韓国の『文 烈雨』に勝利し、8度目の防衛。英雄、パックマン、メキシカンキラーと呼ばれたフィリピンの『パンチョ・パッキャオ』に勝利し、9度目の防衛を果たした。

 その後、ビッグN、イーグルと呼ばれ、プロ転向後はアメリカ合衆国を活動拠点として全ての試合を行っており、KO率88%、ロシア国籍でタタール人の『ニコライ・トロヤノスキー』や、同じくロシアでクラッシャーと呼ばれ、極悪非道と言われた、『マット・コバレフ』などからも試合の打診があったが、日程、ファイトマネー等の条件が合わずに結局は流れた。そして、10度目の防衛を掛け、アメリカ国籍のマーベラス・シュナウザーと対戦することとなった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七章 死闘偏

1988年9月15日。この年開港した、千歳空港の宣伝も兼ねて、北海道の月寒ドームで試合が行われることとなった。泣き出しそうな空の下、朝10時から試合前の計量が行われている。WBAでは、1987年までは15ラウンドで試合が行われていたが、1982年に金得九というボクサーが『リング禍』に見舞われてしまったことにより、12ラウンドに変更となっていた。『リング禍』とは、ボクシングやプロレスなどの格闘技において、試合に起因して競技者が深刻な負傷をしたり、死亡に至る事故を指す言葉である。

今回の対戦相手のマーベラス・シュナウザーは、勝った試合の9割がKOであり、首と腕の太さが尋常ではなく、ゴツゴツと角張った鋼のような身体つきであった。マーベラスとは『素晴らしい』の意であり、シュナウザーとはドイツ語で口髭の意を表し、彼自身はその名前を大変気に入っていた。また、シュナウザーは『機械の脳』を持つ男と呼ばれ、その頭脳は多くのボクサーから高い評価を得ていた。警戒心が強く攻撃的で頑固、相手を威嚇する為よく吠えるが、子供から妙に人気があるという変わり者でもあった。

KOでない試合のデータを見るに、ガンガン攻めて来るタイプが苦手と見える。今日はどちらが先に相手をKOできるかが勝負の分かれ目となるだろう。軽く握手を交わした後、シュナウザーが明にそっと耳打ちして来た。そして、それぞれが食事を摂るために会場を後にした。恵比寿のファミレスで五十嵐と二人、最終確認も兼ねて話し合う。

「お前は天性の感覚もあるだろうが本当によく努力した。チャンピオンになって然るべきだったし、見違えるほど成長したと思うよ」

 五十嵐は食事の時となると、いつも明を褒めてばかりになっていた。

 「チャンピオンが板について来たんじゃないか?『目標』まであと少しだ。気を抜くんじゃないぞ」

明は嬉しくはあったが、練習での厳しい態度とのギャップに、どうしても慣れることができないでいた。

 「分かってるよ。これからもよろしくお願いします」

 「礼儀がなって来たじゃないか。最近、精神的に一回り成長したな」

 「最近、毎日が充実しててよ。終わりにしたくないんだ、ボクシング」

 「そうだな。近頃は逆転KOの代名詞になりつつあるほどに強くなった。なかなかボクサーとしての貫禄が出て来たな」

 「大好きな世界で何かやったって、形に残るモンがあるって、こんな嬉しいことはないんだ」

 五十嵐は孫の自慢話を聞く祖父のように嬉しそうに耳を傾け、明は将来の夢を語る少年のように幸せそうに話していた。

「大舞台で開き直れる奴は、他のボクサーとは一味、毛色が違うもんなのさ。お前にはそれができるからな」

 「ああ、俺は歴史に名を遺す偉大なボクサーになりたいんだ。そのためにはどんな練習にだって耐えてみせるし、弱音だって吐かねえぜ」

 「はっはっは。これは来年になったら俺の方が敬語を使わなくてはならないかもな。たいしたチャンピオンだ」

 そう言った後、五十嵐は細めていた目を尖らせ、キリッと凛々しい表情に変わった。ここからが本題。さきほどのシュナウザーの言葉は、二人にとってかなり気になる内容であった。

 「『スマッシュ破り』か。僕はそれができるだけの練習を積んで来た。かなりの自信がある。そう言ったんだな?」五十嵐は心配そうに言った。

 「ああ。確かにそう言った。気になるよな。どんな技か方法か。まあ、止められるもんなら止めてみろってんだ」

 明は余裕のある態度で接していたが、内心不安を抱いていない訳がなかった。たどたどしい日本語を使ってまで明に己の手の内を伝えたのは、余程の自信があってのことなのであろう。その後、ハチミツと生卵をミックスしたジュースとメロン、ホテルに帰ってイチゴのジュースと牛肉のニンニク漬け一口カツを平らげた。ふと天井を見上げ、昨日の記憶を思い返してみる。

 「悪いが今日は別で寝よう」

 少し冷たい言い方だっただろうか。明は気になったが、言葉にはしないでおいた。

 「なんで?まさか嫌いになったとか?」

 不安にさせただろうか。秋奈は普段見せない暗い顔をしている。冗談とも本気とも取れる秋奈の発言に、明は少し戸惑いかけた。

 「そんなんじゃねえよ。ただ、一緒の布団に入っちまうと辛抱できなくなりそうでさ」

 秋奈は微かに笑みを見せた後、わざと少し明るめに振る舞ってみせた。

 「そっかあ。そうゆーことなら仕方ないよね。チャンピオンは試合前にもいろんなモノと闘ってるんだね」

 明は機嫌を損ねなくて済んだことに安堵し、穏やかに振る舞って見せる。

 「まあな。試合前にヤって勝ちを逃すなんざ一流どころのやることじゃねえのさ。そんなんじゃ五十嵐さんにも申し訳が立たねえしな」

 秋奈は眠たいのか、目を擦りながら話を聞いている。

 「そうだよね。なんだか、こうしてると世界チャンピオンと一緒に寝てるなんて嘘みたい。明日の試合、負けないでよね」男ならこう言われて気合が入らない筈はない。

 「ああ、任せとけって。だが、5年以上でベテランと言われる世界だ。甘い筈なんてねえよ。練習と減量が成功しても、体調管理のできない奴は闘う資格すらねえからな」

 そんな話を思い出しているのも幸せである証拠かもしれない。控室で調整を行い、神妙な面持ちでリングへと向かった。選手紹介を受けてから、シュナウザーが特別にマイクパフォーマンスを披露したいというので承諾した。ブラウンのトランクスを履いているシュナウザー。

 「皆さんに最高のエンターテイメントを提供しよう。そう、最強の男が誕生する瞬間をね。僕には『夢』がある。世界でまだ誰も成し遂げていない10階級制覇だ。この試合は単にその足掛けにすぎない。『伝説』の始まりを目撃できることを喜ばしく思うがいい」

アナウンサーから『夢』について掘り下げられたシュナウザーは更に話を続ける。

 「そうだなあ。ロッキー・マルシアーノみたいに、49戦全勝で引退したいと思ってるね」更に彼は雄弁に語り続ける。

 「雨の日も風の日も、剣が降っても槍が降ったって、俺は毎日練習しているぜ。俺は『世界一練習する男』だ。そんな俺が世界チャンピオンになれない筈がない。結果はもう見えている。試合が終わって、腰にベルトを巻いているのはこの俺だ。それ以外はあり得ない。最強の証明を、今日この場でさせてもらうぜ」

 英語を話す者には口の達者な者しかいないのだろうか。そう思えるほどにアメリカンには饒舌な者が多い。対する明も沈黙を破り、来場者への謝辞を述べ、一礼して見せた。

 

 

 ゴングが鳴って試合開始。真っ向からぶつかった両雄はジャブで牽制し合い、ボクサーとしてオーソドックスなスタンスをとっている。シュナウザーはフィリピン系アメリカ人で髭のボクサー。マスタッシュ ( 口髭 ) もベアード ( 顎鬚 ) も綺麗に生え揃っている。

シュナウザーは賢いボクサーだ。相手の力を見計らって相手なりのボクシングに徹する。愛称は『シュナ』彼は派手さを好むボクサーでビッグマッチが大好き。ワイルドでそれでいて完璧なボクサーであり、自分の為ではなく自国の威信の為に闘う勇敢な選手だ。

そんな小粋なシュナウザーだが、明は微妙な『やり難さ』を感じていた。自分より背の低い相手はやり難い。シュナウザーは、お手本にしたいような『アップライトスタイル』で右手を高く、左手を低くした独特の構えをしている。その構えからして既に日々相当な努力を重ねて来たことが伺える。

試合開始後、約1分間の膠着状態。こんなに長い沈黙は珍しい。読み合いの末、先に動いたのはシュナウザーであった。肩口から真っ直ぐに出る軌道の読み難いジャブで、丁寧に距離を測りながらストレートを狙って来る。

性格のわりに基本に忠実で強かなスタイルで闘っている。攻撃が当たらない絶妙な距離を保ち、手を伸ばし切ってカンガルーのような殴り方をする。背丈のわりに手が長く、時折ノーガードになるなど、パンチをもらうことをまるで考えていない命知らずな男であり、バックハンドのパンチなども絶妙に織り交ぜて来る。

 そういった余裕を見せることで、判定に持ち込んだ際に採点を有利にしておきたいという意図もあるのであろう。ジャブでさえも一撃の下にノックアウトできるほどの威力を兼ね備えている。シュナウザーの『重圧』に対して形勢は不利であるが、知識と経験の分だけ明に分があった。

そして、シュナウザーが牽制のために打った大振りのストレートに対し、カウンターを合わせようとするが、ひらりと躱されてしまった。シュナウザーは殴った後にでも避けることに長けており、身体の芯がブレずに捲(まく)るように殴って来る。理想的な立幅、体格、筋肉のつきようだ。一発が豪快なレーザービームのようであり、反時計回りに円を描くようにリズムをとる。

 身体を立てながらも、異様に左右に振る時があるタイミングの取り辛い選手だ。赤の内側に青をあしらったスタイリッシュでオシャレなグローブをしている。手の甲を上にしたスタイルであり、前に飛び込むような体勢をとる。左手で触れずに招き猫のように手をクイックイッと動かすことで相手を惑わすジャブの使い手でもある。

 そこからタイミングを計って一気に攻めて来るスタイルが、『タッチボクシング』と揶揄されることを本人はひどく嫌っていた。これは究極のディフェンシブボクシングであり、闘い方を突き詰めればこのやり方が最強であるという自負が彼にはあった。

 そして、目まぐるしい攻防の中、互いにここが勝負どころであると考えたようだ。明の『スマッシュ』が相手の左側頭部に、シュナウザーの『ドラゴンフィッシュブロー』は相手の腹にそれぞれ命中した。

 シュナウザーの必殺技である『ドラゴンフィッシュブロー』は右手を大きく引き、空に向かい弧を描くように振り上げて放つパンチである。豪雪を浴びたような鈍重な一撃が、明の呼吸を不自由なものにしていた。深海に潜ったかのように息ができない。軽いチアノーゼ( 酸欠状態 )で顔が少し赤黒くなって来ていた。

 シュナウザーは豊富な肺活量を活かして、執拗にボディを攻めて来ていた。その後、明も何とか応戦しつつ時間を稼ぎ、ゴングが鳴ってラウンド終了。汗を拭いた白いタオルが重い。相当な運動量だ。

 「話さなくても大丈夫だ。息がし辛いだろうからな。だが、ボクサーは過酷なトレーニングに加え、太ったり痩せたりを繰り返している。まさに命を削って闘っているって訳さ。それだけのトレーニングを積んで来ているんだ、じきに慣れるさ」

 そう言って五十嵐は酸素スプレーを明の口に押し当て、恵みの大気を補給してくれた。

 十分に入っていた気合を更に入れ直し、慎重に第2ラウンドを迎えた。シュナウザーが先に動き、膝が落ちた明の右側頭部に強烈な左フックを浴びせる。シフトウェイト( 体重移動 )が速くて上手い。

鋭い眼光で明を睨みつける。人間の動体視力は左右には強いが、上下には対応し難い。急に体制を低くされたら目の前から『消えた』ように見える筈だ。

シュナウザーがこのチャンスを逃す筈もなく、畳み掛けるように拳の連撃を浴びせて来た。明は不本意ではあったが、このままやられっぱなしになるよりはマシと、苦し紛れにシュナウザー目掛けて『スマッシュ』を繰り出した。

 しかし、満を持して繰り出したシュナウザーの『パアリング』が明の『スマッシュ』を迎撃する。これは相手のパンチが当たる前にはたいてしまうディフェンスであり、シュナウザーが最も得意とする防御技である。

 「有言実行。激しい打ち合いを制し、宣言通り『スマッシュ』破りを敢行したのはマーベラス・シュナウザーだあ!!」アナウンサーが興奮した調子で試合を煽って来る。

 「この試合のための、とっておきの『パアリング』です。赤居の繰り出す拳に自らの拳を当て、悉(ことごと)くその弾幕のような拳を弾き落としています。ピエロと言われた赤居は、千両役者としてのプライドを見せることができるのでしょうか」

 明は朦朧とした意識の中、折れそうになる心で、苦しかったこれまでの日々を思い返していた。

“『スマッシュ』じゃだめなのか?五十嵐さんから受け継いだ、俺の拳は軽いのか?いや、そんな筈はねえ。これが俺の『必殺技』なんだ。これでダメなら俺にはもう何もないんだ。秋奈のためにも『澄玲』のためにも、俺はもう負けられないんだ。この拳に懸けるしかねえ“

 だが、再度シュナウザーの『パアリング』が明に猛威を振るう。万策尽きたということであろうか。五十嵐の目には明の目から光が失われて行くように感じた。激しい闘いに、審判がいつもよりも心なしか離れているようにも思える。ラウンド終了10秒前に笹の音がする。これは拍子木という長方形の棒状の板を、二つぶつけて鳴らすことによって出している音である。

明の4連撃、ストレートが変化してアッパーになる。それに対し、シュナウザーはゴリラのように下顎を突き出し、明を挑発している。こんな状況でも、世界チャンピオンならば勝たなくてはならない。修羅場で自分に勝って来られたかが、後々大きな差となって表れて来る。ゴングが鳴り、嫌な印象を抱いたまま、第2ラウンドは終了した。

 「相手には確実にダメージが蓄積されて来ている。疲労のない人間はいない。渾身の一撃がお前の道を切り開いてくれるだろう。次の一幕が勝負だ。パアリングについては一撃目を囮とし、次の第二撃で仕留める作戦で行け。命を賭して打つ拳が軽い筈なんてないのさ」

師弟とは不思議なものだ。口には出さずとも、明の不安を五十嵐はしっかりと理解してくれているようである。

「極限の状態だと力を抜こうとして笑えて来ることがあるってのは本当なんだな。とてもそんな感じじゃねえってのによ。大ピンチなのに変に落ち着いてら」

 互いに笑い合った後、五十嵐に背中を押され、明はリング中央へと歩み出て行った。

 

 

 早々に第3ラウンドが開始され、軽快なリズムを刻み、明の豪腕が唸る。だが、シュナウザーは『効かないよ』とばかりに首を横に振ってみせる。頭をしっかりと丁寧に守っており、腰を低く落として、ブレずに反動をつけて打って来る。鞭のように撓ったパンチを出す度にシュッシュッと口で言うところが大変ボクサーらしい立ち振る舞いだ。猫のように両の拳と明との間に『遊び』を持たせている。

 そして彼には、まるで予め知っているかのように大きく屈んで拳を避けてみせる能力があった。並外れた動体視力と反射神経が成せる技であろう。彼がノーガードなのは相手のリーチを計算し、当たらないと確信の持てる位置にいるからだ。寸での所で躱されるのはボクサーとしては非常に悔しいことであった。明は冷静さを保ちつつも、少しムキになって前に出ていた。

 その隙を、シュナウザーが見逃す訳がない。強烈な『ドラゴン・フィッシュ・ブロー』が明の鳩尾に突き刺さった。これは後ろに引いた拳を、弧を描くようにして相手に叩きつける必殺技である。

そしてこれが『ソーラープレキサス・ドラゴン』となり、モロに技のダメージを受けた明はダウンを奪われてしまった。『ソーラープレキサス』とは『横隔膜』の意であり、一度強烈な一撃を受ければ、呼吸さえもままならない状態となる。ボディを打たれると膝がバネの役割を果たさない。

明は必死で立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。万事休すか。だが、明は際どいところで立ち上がることができた。応援に来ていた秋奈、慎也、そして澄玲の泣き声が聞こえたからだ。危ないところで間一髪ゴングが鳴り、第3ラウンドは終わりを告げた。

 「だいぶ苦戦しているな。だが、案ずるな。道は必ず開ける」

 「何か秘策でもあんのかよ?」明は縋る思いで五十嵐に問い掛けた。

 「相手の拳は、野球の変化球と同じで必ずストライクゾーンに飛んで来る。ただそこにカウンターを合わせればいいだけの話さ」

 五十嵐は右掌に、左手の握り拳を当てながらそう言った。

 「言ってくれるじゃねえか。ただ『それだけのこと』をやるのがどれだけ難しいか分かって言ってるんだよな?」

 「もちろんだ。そして、お前にそれができることもな」

 「そう言われちゃ、やるっきゃねえよな。もうそれしか手がねえんだ。討ち死にするつもりでやったろうじゃねえか」

 明も五十嵐がやったように左掌に右手の握り拳を当てながらそう言った。

 

 

 水を打ったように静まり返っていた場内が、第4ラウンド開始と共に一気に沸き立っていた。明の『スマッシュ』に対し、シュナウザーが『パアリング』を繰り出してそれを封じて来たのに対し、返す刀で明の『クロスクリュー』がクリーンヒットしたためである。

 とっさの時には頭で考えるよりも、日々の鍛錬によって染みついたものが出る。その証明のような一打であった。猛然と襲い掛かった戦士がマットに沈んでいた。シュナウザーがレフェリーの足にしがみついて起き上がる。再び激しい攻防が繰り広げられる。

 そして、隙を突いてシュナウザーの『ソーラープレキサス・ブレイク・ドラゴン』が炸裂(さくれつ)する。大砲と言う表現が安いと思える程の一撃であった。意識を根こそぎ刈(か)り取るような一撃で、マウスピースが飛び、足がガクガク震える。明はせめてもの余裕を見せようと、笑い出した膝を必死で宥(なだ)める。

 シュナウザーが水を得た魚のように追い打ちを掛けようとした瞬間、それを遮るように、慌ただしくゴングが鳴り、第4ラウンドは終わりを告げた。ラウンド終了時に嬉しそうに笑う姿から、シュナウザーは本当にボクシングが好きなことが伺える。そういうところには好感が持てる選手だ。

 「僕はフィリピンの軍隊に3年半ほど従事していた。命の危険のある戦争こそが『実戦』と言えるものだった。ボクシング?こんなものは『お遊び』だよ。リングドクターに各種薬品、それに厳格で適正な規則。おまけにいつもセコンドが見守ってくれている。こんな甘々な環境で試合をするなんて戦争を経験した僕からしたら笑ってしまうようなもんなのさ」人に歴史あり。彼もまた様々な苦難を乗り越え、この場に立っているのであろう。

 「象が来ても道を譲らないくらいの『我』の強い奴が頂点を極めるものだからね」

 シュナウザーは口角を釣り上げ、如何にも性格の悪そうな笑みを浮かべていた。

 「この試合の入場券は相当なプラチナチケットだな」

 セコンドであり、彼の兄であるブライト・シュナウザーは嬉しそうに少しの皮肉を込めてそう言った。

 

 

 第6ラウンド開始直後、会場が俄かに沸き立っている。指笛や歓声が聞こえ、興奮が最高潮に達していることが分かる。リングに目をやると、明がダウンを喫し、後頭部を抑えて蹲(うずくま)っている。

 「おい!今の『ラビットパンチ』だろ」

 興奮する五十嵐に対し、レフェリーは見落としに気付くも、確認のしようがないため、どうしようもない状況であった。苦渋の選択を迫られ、流すことに決めたレフェリーに対し、五十嵐は落胆の色を隠すことができなかった。

 起き上がった明の額には滝のような汗。勝って当たり前と言われた難しい試合。血(ち)飛沫(しぶき)が飛ぶ、互いに修羅の形相である。シュナウザーは肩を前に出さずフルスイングしないスタイルだが、その迫撃に、明は気圧されているようにも見えた。

圧倒的な暴力が彼が勝つための常套手段であり、パワーでは明を凌駕していることであろう。なんとも凶悪な男よ。己の腕力を本能のままに全て破壊衝動に充てている。必死の防衛でその攻撃を凌ぎ切り、辛うじてゴングに救われた明は、命からがら五十嵐の元へと帰り着いた。

 「よくぞ戻って来た。『ラビットパンチ』なんてのは、ションベンしている時に、後ろから蹴るくらい卑怯な行為だ。故意でなくても許されることではない筈だ。この試合、ボクサーとしての名誉に掛けて負けるんじゃないぞ」

悪辣な表現だが、言い得て妙である。その言葉は、この状況を的確に表していた。目の光を見れば明がまだ死に体になっていないことくらいは分かる。このまま無様に終わらせるものか。

 「奴は相当なクラッシャーだと聞いている。ボクサーの拳は練習、試合以外で人を殴れば銃刀法違反となる程の威力を備えており、実戦では時に相手を破壊するほどの攻撃をすることも大切だ。だが、ボクシングは列記とした『スポーツ』だ。そのことを奴にしっかりと教えてやれ」五十嵐は明には悪いが、今は疲れた身体に鞭打ってもらおうと考えた。

一方のシュナウザーは、五十嵐の指摘により会場で大ブーイングが巻き起こっているにも関わらず、アメリカ側の盛大な応援に気を良くし、上機嫌のようだ。

 「今気づいたよ。自分が国を背負っていると思っていたけれど、実は自分が支えられていたんだ。俺はまだ闘える。闘ってみせる!!」

 多少無理をしてでも自らを鼓舞し、自信を与えるように努めていた。

 「プロに一番必要なものって何だと思う?根性?友情?財状?僕はどれも違うと思う。僕が思うプロに一番必要なもの、それは―――『才能』だ。才能に勝る努力なし。才能のない奴の努力なんて河原で石ころを積んでいるようなもんなのさ」

 上に上がる者は他人の夢を踏み台にして光り輝くものである。そのことを、シュナウザーはよく理解していた。そして、明サイドにとって、大きな不安を残したまま開始される第10ラウンド。ラウンド開始直後、明が疲労の色を見せた隙を見て、シュナウザーが強烈な『ソーラー・プレキサス・ドラゴン』を炸裂させる。

 3回もの攻撃を受けたことで腹部は限界を迎えようとしていたが、シュナウザーも疲労によってかなり動きが鈍っていたようだ。パンチを打ち終わった後に追撃することができないでいるようであった。だが、一難去ってまた一難。緊迫の攻防で肉迫し、泥のように疲れきった両者に、セコンドから鞭が入る。

明は自身の『スマッシュ』に対し『パアリング』を当てられ、カウンターとして再度放たれた『ドラゴンフィッシュブロー』に左手での『クリス・クロスクリュー』を合わせてダウンを奪うことができた。そして、緊迫した空気の中、レフェリーが3ダウンのコールを告げる。

シュナウザーは起き上がって『まだやれる』とアピールするが、3ダウンでTKO( テクニカル・ノック・アウト )となる規定を覆すことはできない。その場で崩れ落ち、右手でリングを叩いて悔しがっている。明はなんとかチャンピオンとして元の鞘に収まることはできたが、自身の体調に不穏な影が立ち込めていた。

 試合後、リングサイドの声援とは打って変わって『デスラビット』という不名誉な渾名を付けられたことに腹を立て、シュナウザーは早々にリングに立つことを止めてしまった。そのマイナスのイメージに反発するように、彼は引退後、大好きな自国のために国会議員として貢献する道を選んだ。

 第二の人生の選択に頭を悩ますボクサーも多い中、進むべき道、打ち込む対象があるということは恵まれたことなのであろう。これは彼の親しみ易い性格と生真面目で勤勉なところが幸いしてのことなのかもしれない。日々苦心しながら、シュナウザーは新たな夢を叶えようとしていた。

明はと言えば、試合後2日間トイレ以外は寝っぱなしであり、半年後に控えたWBC、WBAの統一戦のことなど知る由もなかった。

 

 

ボクシングのプロにはWBA、WBC、WBO、IBOという4つの団体がある。そのうち2団体は特に有名であり、明がチャンピオンとして君臨しているのは、一番メジャーな『WBA』である。そして今回、もう一つの有名な団体である『WBC』のチャンピオン、リカルド・サルバトール・チャベスと『統一王者』を決めるべく雌雄を決することとなったのだ。

チャベスはハイペースでマッチメイクすることで知られ、半年間で8試合も熟(こな)している。過去にはピストン堀口選手が1日で4試合したというような記録があるが、近代ボクシングとしては、かなりのハイペースと言えるであろう。

 また、それぞれの団体の『特徴』としては、WBAとWBOは『スリーノックダウン制』を採用しており、これは1ラウンドの間に3度のダウンがあると『ノックアウト』となるシステムである。逆にWBCとIBFは『フリーノックダウン制』で、1ラウンドの間に何度ダウンしても試合を続けられる。

WBAは『各ラウンド毎の採点に極力差をつける』という『ラウンド・マスト・システム』が厳しくなっており、WBCは『4ラウンドと8ラウンド終了時に採点を公表』し、IBFだけは2010年代になっても『当日に計量を行う』ことなどが挙げられる。

 それぞれの『ベルトの色と本部』は、WBAは『黒でパナマ』WBCは『緑でメキシコ』WBOは『臙脂(えんじ)でプエルトリコ』IBFは『赤で米国ニュージャージー州』である。

一説にはWBAが最強と言われているが真偽の程は定かではない。

4月30日の試合に向け、明の練習にも熱が入る。連日、リングに対角線上にロープを張ってその下を潜る練習や、長い棒の先にグローブを付けて撓らせて打たれる練習を行った。そして試合の19日前である1990年4月11日。明と五十嵐がミット打ちをしていると、ジムの扉の前に二つの影が近づいて来た。そして3回の強めのノックの後、横開きのドアが音を立てて開き、二人の白人が入って来た。

そこで明たちは、そのうちの一人を見て心底驚いた。今日の日まで写真で眺めていた人物。五十嵐は慌ててサンドバックに貼ってあった写真を剥がしにかかる。ここでイベンターでもある米原がスペイン語で通訳する。要約すると、イベントの前哨戦として、ここで勝負してみないか?非礼は承知の上だが、どうしてもあなたの実力を知っておきたかった。一回どうしても、お手合わせ願いたい。そういった内容であった。

チャベスは少し申し訳なさそうに、畏まってそう話した。マスコミやボクシング関係者には内緒の『非公開スパー』をやろうという訳だ。試合前にチャンピオン同士が闘うなど、常識的に考えてあり得ないことである。

 だが、チャベスが異国の地から遥々、日本へ来て試合をすること、日本にいるランカーたちが挙ってチャベスとの試合を避けていることから、特例として軽くスパーをすることになった。五十嵐が肩を組んで明に耳打ちする。

 「いい機会じゃないか。敗戦のイメージを植え付けてやれ。ただし、『スマッシュ』は出すな。試合前に手の内を明かすのは馬鹿のやることだからな」

 明は“初手の『スマッシュ』でビビらせてやろう”と思っていた手前、「お、おう」と返すのが精一杯であった。

スパーは3ラウンド。『16オンス』のグローブを付けて行われることとなった。ボクシングでは通常、ミニマム級からスーパーライト級までが『8オンス』ウェルター級からヘビー級までが『10オンス』のグローブをつけて試合を行っている。

チャベスとセコンドのセバスチャンは、遥々メキシコから日本へ到着するなり、知り合いのツテでこのジムまで辿り着いたという。チャベスは一見おとなしそうで穏やかに見えるが、少し話すと芯が強く、時に人に対して敵意を剥き出しにする性なのが分かる。

そして、一般的に見て男前だが、七面鳥のような顔をしているため、どこか鋭い顔をしているように感じられた。好青年なのだが、どこか怖さのある、そんな印象を受けるような人物であった。楽天的なイメージのある南米メキシコ人特有の柔和な感じは、後天的に身に付けたモノであると誰もが推測できる程であった。

「ありがとう。あなたの親切に感謝します」

そう言うとチャベスは深々と頭を下げた。米原が透かさず通訳する。

「ああ。遠慮は要らねえ。全力でやろうぜ」

明が両の拳を突き出すと、チャベスもそれに重ねるように拳を突き出した。二人とも正直なところ、チャンピオン同士のベルトを掛けた対戦というよりも、初めて世界戦に挑み、王座を勝ち取ろうとしていた時の心境に似ていた。

強い相手を倒したい。ただそれだけの為にボクシングを始め、高みを知った両者。生まれ育った環境は違えども、互いを尊敬しあえることは、スポーツというものを真剣にやって来て良かったと思えることの一つでもある。ストレッチとアップを済ませ、高僧のように精神を研ぎ澄ませ、闘いの前の静けさを楽しむようであった。

 

 

米原が審判を引き受け、ゴングが鳴り、早々にスパーが開始された。明はしっかりとガードを固め、慎重に相手の出方を伺う。だが、いきなりフェイントからのストレートを貰ってしまう。油断していた訳ではない。全く洗練されておらず粗削りで間合いの取り方もなっていない。ただ、もの凄く『良い角度』で打って来る。

頭を揺らして狙い難くし、手が鞭のように撓ることに加え、フック、アッパー、ストレートを同じモーションから打って来るため軌道が読み辛い。今まで闘って来たどの選手とも違うタイプのボクサーだ。無駄なく間隙を縫って絶妙に攻めて来る。る彼は『巧圧』の使い手である。

“リズムをランダムに構成しているみたいだ。タイミングが合わせ辛いな”

チャベスはラテンのダンサーのように軽やかに、しかし激しくパンチを繰り出していた。苦し紛れに明が打つパンチを、マタドールのような体躯で躱し続ける。あまりに一方的な展開に、周囲が静まり返ってしまう程であった。

 “スイッチが入った途端に凄えプレッシャーだ。それに、何度も修羅場を潜って来た奴の目をしてやがる”

気迫という意味では、これほどまでに殺気立って襲い掛かって来る選手はそうはいない。まるで殺し合いの渦中に紛れ込んだかのような、鬼気迫る有様であった。

 “コイツ、もしかしたら五十嵐さんより―――”

 タイミングはあるが、なかなか攻撃を当てることができない。

 “巧く流されちまってるな”間を詰められ、『クロスレンジ』にまで距離を縮められたことで『スマッシュ』は打とうにも打てない。

 “手を休めたらダメだ”この男に隙は禁物。止まれば、たちどころにダウンを奪われてしまう。それほどまでに危険な存在だ。拳の弾幕でチャベスの動きを封じにかかる。牽制のためのジャブに辛くも『クロスカウンター』を合わせる。チャベスはバランスを崩して倒れかかったが、辛うじてロープを掴み難を逃れる。強烈なブローに、かなり驚いた表情を見せている。

だが、すぐに平然と構え、悠然とリスタートを切って見せた。この男、肉体だけでなく、精神的にもタフなようだ。そして間隙を縫って『コークスクリュー』をお見舞いし、チャベスの動きを封じにかかる。パープルのトランクスが眩しいチャベスは、1980年代のメキシカンの平均身長である171cmよりも5cm高い身長で細身で筋肉質な印象は受けない。

その打撃には内に秘めたる憤怒のようなものが込められていた。怒りは肉体を強くする。しかし、同時に精神を弱くしてしまう諸刃の剣であると言えよう。憎しみを感じさせるその拳は、悲しみを理解されぬ悲痛な叫びにも似た、至極暴力的なものであった。

そしてそれは、どこか迷いを感じずにはいられないものでもあった。若干20歳にしてWBCの王座に就くほどの人物でありながら、どこか捨てられた子猫のように怯えているようにも見える。

 リング上の二人は、手の内を探り合うようにして、基本的な技で応戦し合っていた。必殺技に頼らない通常の型こそ、実力を測るのには丁度良いのかもしれない。二人とも『ミドルレンジ』が得意ではあるが、明はパワー重視で『クロスレンジ』、チャベスはテクニック重視で『ロングレンジ』寄りであった。

そのため、ファイトを進めるに当たって、明がチャベスに詰め寄る形となっていた。しかし、チャベスは遠くからでもパンチを当てることができ、オンガードポジションを崩さず、フットワークを使うのが上手いようだ。

黒人は避けて勝とうとするが、メキシカンである彼は、手数で圧倒しようとして来る。頭部を守り、倒されないようにするという意識が強く、斜め下からのパンチを多用し、クリーンヒットを許さないスタイルである。日本の場合は階級を上げることはあまりないが、アメリカ、メキシコでは少しでも『金になる』階級に上げようとする傾向がある。

だが、彼の場合は自身のベストウェイトと言える階級で試合を行っているようであった。そして彼には類稀なる『当て勘』があった。『当て勘』とは本能の成せる技。咄嗟に出ない技術は、本当に身に付けたものではないと言うが、チャベスのそれは『本物』であると言える代物であった。

実力に関しては両者同じ感想であったが、そこはスパーでのやり取り。試合本番、一発勝負の場でしか、己の真価を問うことはできない。そのことを二人ともよく心得ていた。

 そして、そのまま互いに様子を見る形でこのラウンドは終わりを告げた。

「どうした?柄にもなく押されっぱなしに見えるぞ」

五十嵐は発破を掛ける意味合いを持って言った。

「そう言われても仕方ねえよな。弱点がないというか弱みを見せないというか。とにかく攻め難い相手なんだ」

「多分その両方だろうな。奴はメキシコのスラム街で育ったと聞く。貧困街での成長は、その過程で凶暴性と野生を手にするものだ。毎日が死と隣り合わせで、野生動物と変わらないような暮らしであったことだろう。十分に気を付けるんだぞ」

「ああ。安威川の奴も良い『鋭圧』を身に付けて、ついにフェザー級で世界チャンピオンになった。みんなどんどん強くなって行くんだ。俺だって負けてらんねえぜ」

『人の振り見て我が振り直せ』と言ったところか。明は安威川の成長に、良い刺激を受けているようだった。

「その意気だ。世界レベルになると、弱い奴などいる筈(筈)がないからな。ましてや同じ世界チャンピオンだ。一瞬も、気を抜くんじゃないぞ」

この困難な状況を、何としてでも打開しなくてはならない。そうでないと、試合前に自分が言ったことを、明がされてしまうことになる。それだけは避けなければ。

 

 

 流れるようにして第2ラウンドは開始された。ラウンド開始直後、一閃、矢のような拳が明の顎を射抜いた。吹き飛ばされ、止む無く片膝をつく明。

 “『ギア』を上げて来やがったな。エンジンがかかって来た。こいつはいよいよマズいかもしんねえな”

 ふらつきながらもカウント9で立ち上がる。だが、それも少し贔屓(ひいき)め。数えたのが米原のような『明寄り』の人間でなければノックアウトの判定が出ていたかもしれない。止めるべきか?五十嵐、米原両名の頭にそんな考えがよぎる程であった。

“クソッ、情けねえ。足にキてやがる”

 立ち上がりはしたものの『たった』3打でコーナーへと追い詰められる。

 “出すべきか”

禁じ手とされたが、もうコーナーに寄せられ、絶体絶命と言って差し支えない状況だ。

 タイムは後1分少々。小細工が通用しないことは分かった。

 「ううんっ」不意に五十嵐が咳ばらいをする。

 “そうだよな。こんな時、どうしたらいいんだっけ?”

明は咄嗟に知恵を絞って考える。

 “なんとか潮目を変えないと。そうだ!”思い立ったら即実行する。

 桜山(さくらやま) 拳一郎(けんいちろう)の『コンパクトカウンター』

これにはチャベスもだいぶ面食らったようだ。出そうとした右ストレートを引っ込めるほどに焦(あせ)りの色を見せ始める。やり返すなら今だ。

 だが、明はこのラウンド身体に力を入れることができなかった。一度のダウンでこれ程までのダメージを与えるとはチャベスという男は相当な『パンチ力』の持ち主であると言えよう。チャベスは前へ出てグローブで明の視界を覆(おお)い、空振りした所へカウンターを合わせて来た。これには明も、堪らず距離を取ることを選択した。

 「怯むな明。足を見て間合いを計るんだ」

 素早く的確な指示が出たことで、明は難を逃れ、五十嵐がセコンドに付いていてくれたことに感謝した。チャベスはステップとジャブを上手く使い、巧妙に距離感を狂わせて来る。

しかし、洗練されているように見えるが、少し拙い部分が目立つ。一閃。強烈な一撃が左頬に直撃する。牽制のために打った左フックに合わされてのカウンター。これが試合本番かと勘違いしてしまうほどの豪打だ。予備動作がなく攻撃が予測しにくい選手だ。撓った腕から繰り出される拳は鞭のように反動がつき、その威力は通常の1、5~2倍とも考えられる。

そして、恐らくチャベスは拳を完全に握らず、開いたまま指を当てるという芸当をやってのけている。これは誰に教わった訳ではなく、彼自身が経験の上で編み出した手法なのであろう。その圧倒的なボクシングセンスに、明と五十嵐は素直に感心さざるを得なかった。そして、大きくゴングが鳴らされ、第2ラウンドは終了した。

「このままではジリ貧だぞ。チャンピオンとしてこれからも長くボクシングを続けたいなら、この戦況を覆してみろ」

「ああ、任しとけって。どうせなら『バーナード・ホンプキンス』みたいに長くやりたいもんだな」

「ほう、言うようになったじゃないか。ホンプキンスと言えば、最年長世界チャンプとして有名だ。是非、そうなってほしいものだな」

五十嵐は明の日々の成長を素直に嬉しく思った。

 

 

一抹の不安を拭い切れないまま、焦る気持ちを感じながらの第3ラウンドが開始された。軽めの右フックに『コンパクトカウンター』を合わせられる。

“クソッ小技ならスグに真似できるってのか。初めて打っただろうになんて威力だ”

 カウント7、立ち上がった明の目には未だ輝きが保たれていた。怯まずに豪腕を振るい続ける明。目まぐるしい猛攻にチャベスの表情がみるみる険しくなる。

 虚をついて明が珍しく出した『左ストレート』に合わせて、チャベスの軽快な『右フック』が炸裂する。左蟀谷(こめかみ)に突き刺さった拳は『ミシッ』と嫌な音を立てた。見よう見まねであったがために、その威力は60%と言ったところか。だが、その拳は明をマットに沈めるだけのパワーを宿していた。

 “これまでか”五十嵐は不本意ながらタオルを投げようとした。

 “『今の明』ならこの行為を分かってくれるだろう。でなければ自分が悪者になってもいい”そう考えた。その時、大きな音を立てて勢いよくジムのドアが開いた。

 「明、秋奈ちゃんが―――」飛び込んで来たのは慎也だった。

 再び米原が通訳し、やむを得ない事態であることが伝えられた。

 「いいだろう。君のクセはもう見抜いた。決着は統一王座決定戦の日にリングの上でつけるとしよう」

 チャベス陣営はただならぬ事態であることを受け入れ、スパーをここで中断することに合意してくれた。

 「それと、ミスター五十嵐。あなたに是非ともお願いしたいことが―――」

 チャベスは向き直って五十嵐に熱い眼差しを向けた。五十嵐は秋奈が心配ではあったが、ボクサーとしてチャベスの申し出を断りたくはないと考えた。明と慎也は少し休憩を挟んだ後、病院へ向かうこととなった。

 「あのままやってたら勝ってたんだろ?」

 病院に向かうタクシーの中で、慎也は自らの考えを打ち消すように、明に虚勢を張ることを求めた。

 「いや、2ダウン目を奪われてから全く身体が動かなかった。あのまま続けてたら、間違いなく3つ目のダウンを取られてたよ。実質あの3ラウンドで負けちまってたな」

 明には慎也の思いは伝わっていたが、ボクサーとして机上の空論ではなく、実力で勝たなければ意味がないと考えたようだ。

 「何がそんなに違うんだ?仕掛けでもあるってのかよ?」

 「多分、何のタネもなかった。ただ単純に強いんだよ。実力の差だ」

 「そんな強い奴がいるのかよ。技も使わずに追い詰められるなんて」

 慎也は自らの想像を超えた強者がいるという事実が、信じられないといった様子だ。

 「このままじゃ確実に負ける。なんとかしないと―――けど、今はそれより秋奈が心配だ。無事に済んでくれたらいいけど」

 「まあ考え過ぎるなって。両方2回目なんだし」慎也は些か楽天的な人物のようだ。

 「今負けても、きっと皆よくやったって言ってくれるだろうよ。けど、それじゃダメなんだ。負けずに来たからチャンピオンで居られたんだ。ボクサーは―――負けたらそれでお終いなんだよ。フリダシに戻ってまた挑戦者だ。一夜にして全てを手に入れた男が、同じようにしてまた失うんだ。結局はその繰り返しなんだろうよ」

 明は少し疲れたような口調で熱弁を振るう。

 「でも、俺には家族ができた。守って行きたい、愛して行きたい家族が。だから、俺は負けねえよ」慎也は静かに一つ頷いた。

 それからも二人はいろいろな話をしていたが、明は終始どこか上の空であった。自分が強いと本当に心の底から思える時は『強い相手』に勝った時だけだ。ボクサーという生き物は『その瞬間』のためだけにトレーニングを積み、試合に臨んでいるとも言える。乗り越えるべき対象が現れたことは喜ばしいことだが、圧倒的な力の差に打開策が見つかるか不安で仕方がなかった。

 

 

病院に着くと、一先ず試合のことは忘れようと考えた。一度目の時のことで流れ的にはどうなるか分かってはいたものの、やはり緊張してしまうものである。病院に着くと、秋奈は既に分娩室に入った後だった。外で待っていた義母である良枝に経過を聞き、取り乱さぬよう必死で心を落ち着かせる。『予定日』より1週間早かったため、スパーを承諾したが、一応慎也に見てもらっていて良かったと思った。

『予定日』とは妊娠前の生理の1日目を0として、そこから280日目となっている。妊娠期間は『十月十日』と言われ、『10ヶ月目の10日目』という意味である。つまり、『30日×9ヶ月+10日』で280日となる。それと、『妊娠22週目から37週未満』で出産することを『早産』と言うが、今回の場合は39週目となるので該当しない。

 『二人目の出産は早く生まれる』と言われるように、今回はその通りになった。病院に着いてから4時間での安産と言えるものであった。生まれた子は3665グラム。

 よく泣き、よく笑う男の子であった。秋奈と生まれたばかりの子と対面し、労いの言葉を掛けた。前回は足がつってしまったので、今回は足を分娩台に乗せないことにしたようだ。秋奈はかなりの疲労感はあるものの、至って健康な状態であった。

 そして、明はここへ来て第一子である澄玲のことが一気に気になって来た。元々、脳裏にそのことはあったのだが、秋奈のことが気掛かりであったため、そこまで気が回っていなかった。公衆電話に十円玉を8枚積んで、澄玲を預けている実家へ電話を掛ける。母に無事生まれたことを告げ、愛娘に代わってもらった。

 「もしもし、澄玲?ちゃんといい子にしてたか?」

 明はもうすっかり慣れたというように我が子との会話を楽しんでいる。

 「うん、いい子にしてたよ!おばあちゃんが内緒でぬいぐるみ買ってくれたの」

 この年頃の子供は何でも素直に話してしまうものであり、そういうところが可愛らしく思えたりもする。

 第二子誕生の際には第一子の感情が不安定になりやすく、過剰に抱っこや母親へのスキンシップを求めたり、イヤイヤが驚くほど激しくなったり、母親への執着が強まったりする。実家に預ける場合は泊まるところに慣れさせ、好きな遊びをさせ、離れていても一番大切に思っていることを伝え、入院日数分の手紙を渡しておくことも、一つの手であると言える。

 ぬいぐるみを母親の代わりとして持たせたり、兄、姉になったことのお祝いに『サプライズプレゼント』を渡すことも良いので、できればしておきたい。子供は親が思うより数倍状況を理解しており、第二子誕生後に“お腹に戻れば良いのに”などと考えている場合があったりする。

だが、両親の心配を察してか、頭の良い子ほど、そのような思いを口にせず強がり、ストレスを溜め込んでしまうものなのである。そういう面では未熟な両親よりも、よっぽど大人であると言える。

 「そうか。それなら心配いらねえな。もう2、3日したら帰るからよ。もう少し辛抱しといてくれよな」明は澄玲の元気そうな声を聞いて、漸く安心したようだ。

 「うん。待ってるからね。ママにもよろしくね!!」澄玲は嬉しそうに声を弾ませた。

明は分娩室に戻り、秋奈に澄玲の様子を伝えようとする。

 「すいえあ、よおいうっえ」明の変わりように、秋奈は心底驚いた反応を見せる。

 「えっ―――どうしたの?大丈夫?」

 明も自らの異変に戸惑いを隠せなかったが、必死で心身を律し、ゆっくりとした口調で言葉を発した。

 「いや、ほんのジョークだ。ちょっと悪戯してやろうと思ってさ」

 秋奈は肩を落とし、少し呆れたような笑顔になった。

 「も~。冗談はやめてよね。出産の後で本当に疲れてるんだから。まるでロビンソンと闘う前の五十嵐の叔父さんみたいだったよ」

 明は不敵に笑うと、また慎重に話を進めた。

 「寅さんばりに名演技だったろ?日本アカデミー賞特別賞もんだな」

 明は努めて得意げに振る舞って見せた。

 「ほんと、まんまと引っかかっちゃったよ。けど、冗談抜きで気を付けてよね。ただでさえ頭を殴り合う危ないスポーツやってるんだから」

 秋奈のこの発言は本気で、冗談ではないと言った感じだ。

 「はっはっはっ。まだまだ未熟だな。分かってるって。この歳で愛する妻子を残して死ねるかよ」“子弟とは不思議なものだな”明は強くそう感じていた。

 「絶対にだよ。退院してからは、家族4人で暮らすんだから」

 「いや、試合まで暫く家を空ける。澄玲には帰ると言っちまったんだが、俺には今やらなきゃならねえことが出来ちまったみたいだ」

 そう言うと明は慎也に「よろしく頼む」と言って部屋を出て行ってしまった。

 

 

1989年4月30日。東京都千代田区北の丸公園にある日本武道館で試合が行われる。控室で試合前の調整を行っていると、ノックの音が聞こえ、安威川、グラッチェ、古波蔵、与那嶺、皆藤兄弟、桜山が激励に来てくれた。

「いよいよやな。この試合で11回目の防衛。そして、世界最強の統一王者や。期待してるで」自身も世界チャンプとなり、貫禄の出て来た安威川はキリっとした表情で言う。

「明くんならやってくれると思う。なんたって君は僕を倒した男なんだ」

仏のような笑みを浮かべて、グラッチェは話す。

「楽しみにしてるよ、KO」古波蔵は何故か普段より嬉しそうにニヤついて言った。

「負けたら承知しないぜ。お前にリベンジするために、毎日それ用のトレーニング積んでんだからよ」与那嶺は冗談めかしてそう言った。

「気合入れてくれよな。歴史的瞬間、見てえからよ」篤はいつになく真剣な面持ちだ。

「随分遠くに行ってしまったね。今日は声が枯れるまで応援させてもらうよ」

遼はどこまでも紳士な対応をする男だ。

「お前は俺の憧れだ。ずっとそうあってほしい」桜山は強い気持ちを込めて言った。

一人一人と握手を交わした明は、少し涙ぐみ、勝ちへの思いを一層高めた。

「勝って最強のチャンピオンになって来い」

そう言うと五十嵐は左拳を突き出し、明の左拳と合わせた。そこで皆からちょっとしたサプライズがあった。明が集めていた『なめ猫』のキーホルダーのうち、持っていなかったものを貰って、その時点で販売されているものが全て揃った。

皆の強い気持ちを受け、志を高め、明はリングへと向かった。選手紹介を受け、リングサイドで五十嵐から言われたことを思い返す。

「奴は貧困街で生まれ、まともな試合、トレーナーにはほとんど恵まれていないと聞く。まともな技は『チョッピングライト』だけ、大技を持っていない。だが、数ある団体の中で最も過酷なWBCのチャンピオンだ。最強と呼ぶに相応しい相手だぞ」

リングに上がり、WBAの『黒のベルト』とWBCの『緑のベルト』をそれぞれのチャンピオンが巻いてルール説明を受ける。統一王座こと『スーパー王座』は、WBAのチャンピオンとして扱われ、『最強の称号』を縦(ほしいまま)にできるのである。

試合前の国歌斉唱。日の丸の旗が悠然とはためいている。そして、厳かにゴングが鳴らされ、第1ラウンドが開始された。チャベスはバンタム級としてはかなりの長身で178cm。リーチは182cm。明の171cmと比べて11cmも長い。両者コーナーを蹴ってリング中央へ歩み出る。チャベスは正確無比にピンポイントを射抜く。まだ若いが、群雄割拠のメキシコで天下を獲っただけのことはある男だ。

“凄い冷静さだ。これじゃどっちが年下か分からねえぜ”

明はその機械のように正確で、洗練された動きに改めて感心させられた。チャベスのアッパーを拳を縦に並べるスタイルで受け止め、カウンターで右フックをお見舞いする。そして、チャベスの2度目のアッパーを受け止めようとしたが、拳の間をスルリと抜けてアッパーが顎に命中してしまった。

さっきと同じようにガードしたのに何故?明は疑問を抱きながらも、チャベスへの攻撃の手を緩めることはなかった。そしてゴングが鳴り、第1ラウンドが終了した。明が一息ついてから聞こうとする前に、五十嵐が丁寧に解説してくれた。

「あれはメキシカンアッパーと言ってな。初めに拳を横にしてアッパーを出すことで相手にその拳の幅で認識させ、次に拳を縦にしてガードの隙間を縫うようにしてアッパーを当てるという高等テクニックだ。対抗策としては、クロスアームガードが有効だ」

「ああ。あれは本当にやり辛いぜ。それに距離感をとるのが難しいパンチだ」

明はそう言うと水を口に含んで嗽をした。

「メキシカンは肩を入れ込んでパンチを打って来るから、伸びるような錯覚に囚われるんだ。拳二つ分は伸びると思っておけ」五十嵐は冷静に解説を加える。

「変則的でトリッキーなパンチを出して来る。巧さのある、おそらく玄人好みの男だろうな」明は静かに頷く。

「あれは本当に骨が折れるぜ。距離感が狂ってペースがおかしくならないようにしないとな」明は少し上を向いて深呼吸した。

 

 

そしてゴングが鳴って第2ラウンド。チャンピオンとして、押されっぱなしではいられない。フェイントを織り交ぜ、低い体勢から勢い良く体重の乗った『スマッシュ』をお見舞いする。チャベスが少し身体を引いたことでヒットポイントがズレ、心臓の動きは止まらなかったが、彼はこれに大層驚いたようだ。

動体視力の良いチャベスは技が見えないということはなかったのだが、この『スマッシュ』に関して言えば突然身体に痛みが走るような感覚に囚われた。バックステップで後ろに下がり、少しでも追撃を受けないように身構える。

対する明は、猛虎のように鋭くチャベスに襲い掛かる。チャベスが出したストレートにもう一度『スマッシュ』を合わせ、倒しに掛かる。しかし、チャベスは倒れない。しっかりとした骨格が、細身の身体でも頑丈にその身を守っているようだ。

そして返す刀で『チョッピングライト』。切れ味があり、体重も乗っている。この技は上から振り下ろすように相手の身体に拳を打ち付ける必殺技である。だが、明の鍛え上げた肉体は、その攻撃をもろともせず、悠然と構えている。

不意にチャベスが妙な動きで明を翻弄して来る。チャベスの動きに明は相当やり難そうだ。リングサイドで見ている五十嵐と米原は試合を戦々恐々と見ている。

「肩だけで手を出さずにフェイクを入れて来るなんて相当な手練れだな。上級者であればあるほどに、鮮明な幻のパンチが見えてしまうもんだからな。込めた殺気が刃のように空を裂く」流石に五十嵐にはチャベスの手口はお見通しのようだ。

「ダメだ、まるで手数が追い付いてない。相手は手が4本あるようなものだな」

米原は戦況に対し、わりと悲観的に捉えているようだ。次の瞬間、チャベスが出した技に思わず二人とも目を見開いてしまった。

『クロスクリュー』

スパーの時には確かに使っていなかった技だ。明はそれをモロに顎に食らってしまった。意識が飛び、ダウンを喫する明。カウント8で辛うじて立ち上がるが、足元がどこか覚束ない。そして苦し紛れに出したアッパーに、またしても『クロスクリュー』を合わされてしまう。無残にも2回目のダウンを取られてしまう明。

カウント9。ほぼ10に近いところで辛くも立ち上がり、ファイティングポーズをとることができたところでゴングが鳴った。明は雨に濡れた子猫のように衰弱した様子だ。

「あのたった9分間のスパーの中で2つの技の特性を見抜き、2週間で猛練習し、合わせ技まで身に付けていたのか。なんという才能と努力。あと一年、奴と対峙するのが遅かったらと思うとゾッとするな」

流石の五十嵐もチャベスのあまりの才能に驚きを禁じ得ない。試合が再開されると、すぐさまチャベスの『チョッピングライト』が明のボディに突き刺さる。だが、ダウンするほどではなく、明は苦しいながらも試合を続行できている。しかし、五十嵐には気になることがあった。

“なんだ、何故あんなに顔色が悪いんだ。まるで毒でも喰らっているかのような―――”

異変に気付いてはいるものの、百戦錬磨の五十嵐でも原因を予測することが難しかった。

“気にし過ぎか。試合中は顔が赤くなることは普通だ。しかしどうも青が混じり、紫がかっているような―――”

明の顔色は息でも止めているかのように、みるみる変色して行く。

“いや、おかしい、おかし過ぎる。なぜあんな大器が『クロスクリュー』という必殺技を持っているというのに決めに来ない?奴のセンスなら決め技として通用する筈だ。チョッピングライトなどという化石のような技に頼るのには何か訳がある筈だ”

当の明もチャベスの繰り出す技を食らう度に妙な違和感を覚えていた。

“苦しい、さっきから身体がおかしいぜ。あの『チョッピング・ライト』だ。あれを食くらう度に全身が蝕まれて行くような―――”

明は『クロスアームガード』で防いではいるのだが、チャベスは巧みに角度を変え、針の穴を通すように間隙を縫って技を命中させてくるのであった。毒草の種を植え付けられているような。そんな不気味な気配が、チャベスの『チョッピングライト』には込められていた。ふと気付くとゴングが鳴っており、第二ラウンドは終了していた。五十嵐は『チョッピングライト』の件が気にはなったが、もう少しだけ様子を見ることにした。

「ボディを叩き続けて顎を下げるしかない。相手も同じ人間なんだ。攻撃は確実に効いているぞ」

明も五十嵐を信頼し、伝えられた指示を守り通すことが最良の手段だと信じている。

「ああ。10センチの身長差で若干パンチが当て難いんだ。打って打って打ちまくるぜ」明は相変わらず守勢を貫いて勝つ気はないようだ。

 

 

会場の盛り上がりとは裏腹に、微妙な静寂を感じつつも第3ラウンドが開始された。開始直後、米原ジムでのスパーの時のお返しとばかりに、強烈な一撃をチャベスの顔面に向けて放つ。会心のアッパーでチャベスの顎が砕ける。その瞬間、走馬灯のように彼の故郷での記憶が蘇って来た。

リカルド・サルバトール・チャベス。彼のボクシングは1キレのパンから始まった。1980年代、『オイルショック』と共に世界経済には瞬く間に暗雲が立ち込めた。多くの貧困街が存在したメキシコ。盗みに対する罪悪感など、持っている者の方が少なかった。父が居た頃に築いた財も、支配と暴力によって奪われて行った。病の母に与えんと、たった一度手を染めた。しかし彼女は口にしなかった。愛する息子に誇りの意味を教えたかった。死の間際、震える声でこう言った。

「男子たる者、男らしくあれ」

最後は一言、感謝の言葉を残して逝った。泣きはらした夜、彼は誓った。『強くなろう』と。もう何も失いたくない。母の残した『マチスモ』の精神を生の糧としようと―――。奪うことこそ人生だ。もう誰も信じられない。この世の全てを自分の物にしてやる。

それから2年後、人は彼を『ミキストリ』と呼ぶようになった。死神と言われ、天涯孤独の業を背負った。彼にとってボクシングはスポーツなどではない。生きるための闘いであり、『人生そのもの』であると。その生への執着心から、これまで彼は一度もリングに身体を着けたことはない。

倒れることは即ち『死』、『生』の終わりを意味する。勝つことは生きること。必然の行いなのである。一つ一つの重みが違う、意味が違う。景色も言葉も時間だって何だって。生き抜いてみせる、母の分まで。

これほどの一撃を食らっても、チャベスは決してダウンを喫することはなく、頭蓋骨が歪むような強烈な一撃で、明の頭を激しく揺らす。突然の猛打にダウンを喫する明。だが、毅然として起き上がり、平然とファイティングポーズをとって見せる。

 “なぜだ?なぜそこまでして立ち上がって来る”

 チャベスは自らを上回りそうな執念を見せる明に、大きな戸惑いを覚えるほどであった。刹那、明の強烈なアッパーがチャベスの『エルボーブロック』に当たった後すり抜け、顎の端を掠めて見事に脳を揺らして見せた。

これは偶然ではなく、脳震盪を引き起こすために明が意図的にそう当たるように調節したものであった。これにはチャベスも堪らず蹌踉けながらロープに凭れ掛かった。強烈な一撃に、気を抜けば忽ち意識が飛んでしまいそうになる。

明には試合をひっくり返し、形勢逆転できるだけの『破壊力』が備わっている。一方チャベスには派手さはないが、ジリジリと相手を追い詰める『忍耐力』があった。そういう意味でこの試合は最強の矛と盾の闘いであると見ることもできる。

互いに勢いに乗ったまま、少しの余韻を残して第3ラウンドは終了した。

 「彼は相当な『ハードパンチャー』だ。だが、臆することはない。私には『マチスモ』の精神がある」

顎が折れ、話すのも困難な筈であるが、勝ちへ向かって自らを鼓舞するために、チャベスは敢えて強気な発言をしている。

「精密機械のような『正確さ』と野生動物のような『野蛮さ』。その両方があって初めて世界を制することができる。僕にはそれらの素質がある。負けられる筈なんてないんだ」

チャベスはどこまでも強かに、ただ只管に勝ちを追い求めることができる男のようだ。

 「その通りさリカルド。臆することはなく、何も心配は要らない。だが、こちらの『思惑』が的中しているが、油断はできない。なにせ相手は10回も連続で防衛を続けているチャンピオンだからね。相手が立っている限り奇跡が起きる可能性は十二分にある。それを0にするのが勝ちへの最良の一手だ」

セコンドのセバスチャンはボクサーとしてのチャベスを尊敬し、愛し、信頼しているため、なんとしてでも、この勝負に勝たせてやりたいと考えていた。

混戦の中で第4ラウンドを終え、互いに一歩も譲らぬまま第5ラウンドが開始された。両者やや強張った面持ちでファイトを進め、一見して明が優勢に見えるが、やはりどこか様子がおかしい。

そして、チャベスの驚異の粘りからの痛恨の『エルボーブロック』で『スマッシュ』が止められ、明の右拳が大きく、そして鈍い音を立てた。利き手である右手が使えず、優勢から一転、最大のピンチを迎えてしまう。絶対的不利な状況の明は、誰の目から見ても満身創痍といった状態であった。あまりに凄惨な明の姿に、秋奈は思わずリングから目を背けたくなるほどであった。

「もういい―――もういいよ」秋奈の目から、一筋の川が流れた。

勢いに乗ったチャベスは、大きく振り被った後、留めの一撃とばかりに必殺の『チョッピング・ライト』を明の左側頭部に向けて強烈に炸裂させた。絶体絶命の状況だが、明は己の持てる力を出し尽くそうと、1分ほど遮二無二拳を繰り出して闘い続ける。

しかしここで、糸が切れた人形のように急に明が倒れる。突然のダウンに会場がどよめく。ボクシングの試合において打撃を受けていないのに選手が倒れるのは、すこぶる異常なことである。明が左脇の下、第三肋骨の辺りを抑えているのを見て、五十嵐は思考を巡らせる。

“そうか、奴が狙っていたのは沈黙の臓器、『脾臓』だったのか。じわじわと嬲り殺しにするつもりだったんだな。なんて恐ろしく、強かな男だ。乱雑に見えて確実に急所を突いて仕留める選択をするとは、狡猾な肉食動物のようなことをする奴だ。あんな化石のような技を使って来たのには、そんな訳があったのか。どんなに鍛え抜こうとも人体にはどうしようもなく脆い部分があり、脾臓もその一つであると言える。このラウンドまでずっと『伏線』を張っていたんだ。セコンドの目まで欺くとは大した奴だ”

 チャベスの『スプリーン・ブレイク・チョップ』は、じわじわと明の身体を蝕んで行き、その体中で花を咲かせてしまった。チャベスお得意のKOパターンを、モロに食らってしまったと言える。

そして、運の悪いことにメイウェザーに殴られた時にできた頭の傷が、『チョッピングライト』によって開いたようだ。息も絶え絶えとは、このことである。大量の油汗と共に『勝機』さえも流れ落ちてしまいそうである。

だが、習慣とは恐ろしいものだ。土壇場では勝ち癖、負け癖が露骨に出る時がある。ここへ来て明が踏ん張れているのは、これまでの勝ち星の貯金による所も大きい筈だ。

“右手は『エルボーブロック』で折れかけたままだ。そしてそれは、最後の決め技の時まで取っておかなくてはならない。それに、時間を止めても『その後』がない。どうすれば―――“

 拳が壊れかけた明の右ストレートには、もう相手を薙ぎ倒すだけの力が残っていない。多難な前途を憂いながら、第5ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。

 「現役を引退してからの人生の方が遥かに長い。にも関わらず、後先など考えずに今日の試合に命を懸ける。そういう在り方にボクサーとしての美学を感じる者は多いだろう。だが、お前にはまだ先がある。今ここで無理をして全てを台無しにしては何もならない。どうだ、ここは一度身を引いてみないか?」

五十嵐は真剣な表情で棄権を提案し、明を説得しようと試みる。

 「今じゃなきゃダメなんだよ。人は輝いていられる時間が限られている。人生のピークで、勝負を降りないのは戦士として当然の判断だと思うんだ。後先なんか関係ねえ。俺はやり切って見せる。やりきらなきゃならねえんだ!」

 周囲の困惑をよそに、明の勝利に対する決意は相当に堅いものであるようだ。

 「俺が本当に倒すべき相手は、自分自身なんだ。今やらなきゃ全てが無駄になっちまう。ロビンソンを倒した時のように、チャベスを倒して最強のチャンピオンになりてえんだ」気持ちの入った状態の明は、尚も熱弁を振るう。

「それに、負けた試合は勝利の女神が居なかったからかもな。だが今日は大丈夫だ。あの子が居たから頑張れた。あの子が頑張ってるから自分も頑張ろうって。だから俺は負けねえよ。負ける筈なんてねえんだ!!」

珍しく熱くなる明に、五十嵐も呼応するように答える。

 「そうか。そこまでの決心ができているのであればもはや止めまい。『強さとは何か』その答えが、お前にはもう分かっている筈だ」五十嵐は大きく力を込めて話した。

 「そうだよな。これは自分を取り戻すための闘いなんだ。秋奈に『いいとこ』見せてえんだ。惚れた女の前でカッコつけてえのが男ってもんだ。例え命尽きようとも一矢報いてやろうじゃねえか。最後に一花咲かせてみせるぜ」

明は思いの丈を語りきったといったように自信に満ちた顔つきをしていた。

「よく言った。お前の家族倅に父の背中をしかと拝ませてやれ」

 五十嵐も師匠として、セコンドとして、最後まで明を見守る覚悟を決めたようだ。

 

 

極限のラストラウンド。五十嵐は祈るような気持ちでリングを見つめ続ける。

「ここまで来てノーダウンか。あれはまさしく化け物だな」

チャベスのあまりの強さに、米原は戦々恐々とした心持ちであった。

“『ハート・ブレイク・スマッシュ』を決めても左ストレートでは奴は倒せない。どうすれば―――”尚も五十嵐は、仇敵を倒す術がないかを必死で模索し続ける。

「良い面構えだ。明のやつ、ついに腹を括ったようだな」

決死の覚悟を決めた明の面持ちに、米原は感服仕ったといった心情である。

「もし、拳に古傷がなかったら。もし、シュナウザーから『ラビットパンチ』をもらっていなければ。もし、チャベスの毒牙を見抜けていたら。だが、今更そんなことを言っても、何の足しにもなりはしない。最後は『本当の強さを持った者が勝利する』ということ。ただその一つに尽きる」

“五十嵐はもう案ずることはない。明に任せると決めたのだから、自分にはもう信じることしかできない“そう考えた。

そして、一呼吸置き、明はこれまでのボクシング人生を思い返していた。渾身の力を込めて『スマッシュ』をブチ込む。普段なら3秒時間が停止するところ、今回の迫撃では5秒間の心停止となった。チャベスは目を見開いて、鬼の形相で確と明を見つめている。

『ララパルーザ』

地響きが聞こえるほどの派手なパンチのことで、全身全霊を懸けたの『スマッシュ』は、まさにそう呼ぶに相応しいものであった。右手を上にして両手を縦に構え、チャベスを迎え撃つ。

“あの体制では『スマッシュ』は打てない。何を考えているんだ”

五十嵐の心配をよそに、明は悠然として立ち、身体中の感覚を研ぎ澄ませている。

“あの構えは――― 『ジョルト』” 

明は3秒ほど余韻に浸った後不敵に笑い、全身の力を込めるように歯を食い縛る。

“武士道とは『託すこと』と見つけたり”

大地が割れるかと思われる程の衝撃が、一点に集まってチャベスの腹部中央を襲う。すぐさまレフェリーがカウントを開始する。チャベスは膝が折れ、両膝を着いて崩れるが決して倒れはしない。

1、2、3―――皆がその光景を固唾を飲んで見守る。

4、5、6―――永遠とも思える時が流れる。

7、8、9―――10。カウント10と共に気絶。

膝が折れたが、身体がマットに着くことはなくKOとなった。

リカルド・サルバトール・チャベス。彼は最後まで鬼の形相で、赤居 明ただ一人を一点に見つめていた。なんという執念。なんという精神力。並みの人間ならとうに力尽きていた所を強靭な精神が支えていたのだ。

『電光石火』

必殺の連撃で最強の男、リカルド・サルバトール・チャベスを撃破した。

「そうか、『スマッシュ』と『ジョルト』は同時には打てない。だから二連撃を打つために左右の腕に必殺技を覚え込ませたのか。明の奴、いつの間に『あんな技』を身に付けていたんだ。こんな隠し矢を持っていたとは。少し嫉妬してしまうじゃないか。しかも体重を掛け、腕を外から回り込ませる全身全霊の迫撃だ。まさに『フィニッシュブロー』と呼ぶに相応しいものだった。上段の『ジョルト』と下段の『スマッシュ』。あれはボクシングの最強の型かもしれんな」

隣でほくそ笑む古波蔵を肘で小突きながら、初孫を見た時のように嬉しそうに五十嵐はそう言った。

「最高のコンビネーションだったね。本当は僕があの場に立っていたら良かったんだけど」

古波蔵の実力を持ってすれば、現実的にそうなっていてもおかしくはない。

「俺だってできることなら、いつだってカムバックしたいさ。生涯を拳闘に捧げて来た根っからの『ケンキチ』の俺にはボクシングを捨てることなんてできっこないことなんだ。ファイティングスピリッツを失わない限り、拳闘家は一生ボクサーなのさ」

そう言うと五十嵐と古波蔵は、当然のように宿敵としてではなく、気心の知れた旧友として笑い合った。

一方の明はというと、精根尽き果てたといったように憔悴し切っている。明にとってこれが間違いなく人生最高の試合、ベストバウトと言えるであろう。リングに上がって来た秋奈から、澄玲と武を預かって大切に両腕に抱え、大きく胸を張って見せた。

5分ほど経って目が覚めたチャベスは、この光景を酷く顔を歪めながら眺めていた。それはチャベスにとって、どんなに手を尽くしても守ることができなかったもの、最も手にしていたいと願ったものだからであった。

だが、後にチャベスはこう語っている。極東の島国にとても強い男がいた。世界チャンピオンを19度も防衛した僕が、唯一KO負けを喫した忘れられない相手だ。

最初、僕はなぜ彼に負けたのか分からなかった。パワー、スピード、テクニック、どれを取っても一級品なのは僕の方なのに結果、軍配が上がったのは彼の方だった。悩み抜いた末、ドラッグに手を染めそうになったこともあったさ。

けど、ローサと式を挙げてみて分かったんだ。あの時の僕じゃ勝てる筈がないってね。彼は自分のためではなく誰かのために、家族のために闘っていたんだ。彼にはそう、護るものがあったんだ。大切な人のために命を擲った彼の『サムライスピリッツ』にこそ強さの秘訣があったんだね。彼のような小さな武士に、あれほど大きな『大和魂』があったことに、僕はたいそう驚いたものさ。まさか2度にも渡って彼らに負けるとは思わなかったけどね。

 

 

試合後、チャベスの複雑骨折した顎には針金が入り、2回の手術を余儀なくされた。この傷が闘いの激しさを物語っている。一方で明は肋骨を2ヶ所、右手は手首から先を粉砕骨折しており、最後の一撃で完全に拳が砕けてしまった。五十嵐と共に八方手を尽くしたが、結局は砕けた拳に麻痺が残り、満足に試合を行うことができないようになってしまった。赤居 明のボクシング人生はそこで終わりとなった。

「まさかこの若さでグローブを壁に掛ける日が来ようとはな」

五十嵐は自分の引退の時よりも悲しげに、本当に残念がっていた。

「11回も防衛できただけでもう十分さ。どうしようもない不良だった俺が、世界チャンピオンとして統一王座にまで就けたんだ。これ以上を望むのは贅沢ってもんだよ。それに、あの子に―――武『あいつ』にバトンを託したんだ。人の命は有限だ。けど、子供が居ればソイツが自分たちの意思を受け継いでくれる。こんな有難いことはねえよ。俺にはもう闘う理由がないんだ」

全てをやり終えた明の表情は、これ以上ない程の達成感を得たといったものであった。

「最後の試合の明くん本当にかっこよかったよ。光源氏みたいだった。惚れ直したよ」秋奈は満面の笑みでそう話した。

「そう言われたらこれまで頑張って来た甲斐があったってもんよ。男冥利に尽きるぜ」明は少し照れたように満足げに笑って見せた。

それからは秋奈と二人の子供と共に、秋奈の母のツテで田舎に引っ越して農業をすることになった。新潟に旅立つ前、利根川水系中川の支流である大場川の河川敷に皆で集まってバーベキューをした。その時に撮った集合写真は、今でも大切に飾ってある。

これまでの活躍の裏には、自分に負けない信念、大切に思える仲間、弛むことなく続けられた努力が確かにあった。その3つがあったからこそ、赤居 明はどんな苦境に立たされても決して諦めずに突き進んで行ける『強さ』を持てたと言えるであろう。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

用語集

【 攻撃技 】

スマッシュ        スリークオーターから打つ強烈なブロー

ジョルト         全身の体重を掛けた豪快な迫撃

ドラゴンフィッシュブロー 腕を身体の後ろから相手に叩きつける 技

チョッピングライト    右手をチョップのように振り下ろす技

ガゼルパンチ       カモシカのように強靭な足腰で下から突き上げる技

ホワイトファング     左右の手を使い、上下に相手の頭を挟む技

スージーQ        高性能爆弾と言われることもあるフック

クリス・クロスクリュー  クリス・クロス+クロスクリュー

クリス・クロス      カウンターに対し、更にカウンターを合わせる技

クロスクリュー      クロスカウンター+コークスクリュー

クロスカウンター     相手のパンチに交差するような形で反撃する技

コークスクリュー     キッド・マッコイ考案の回転を加えたパンチ

ジョフレアッパー     黄金のバンタム、エデル・ジョフレのアッパー

 

 

【 防御技 】

カバーリングアップ    頭部を両腕で覆う完全無欠の防御技

クロスアームガード    利き手を縦に、他方の腕を横にして防ぐ防御技

パアリング        相手のパンチを自らの拳を使って叩き落す防御技

ヘッドスリップ      相手のパンチが頭の上を通過するように躱す防御技

ダッキング        アヒルが水面に沈むように躱す防御技

クリンチワーク      相手の身体に抱き着くか体の一部を掴む防御技

スウェーバック      相手のパンチを上体を後ろに反らして空転させる防御技

ウィービング       左右に身体を揺らすように躱す防御技

ブロッキング       肩、肘などを用いて相手のパンチを防ぐ防御技

スリッピング       パンチが伸びる方向に顔を背けて受け流す防御技

バックステップ      後ろに下がりながら防ぐ防御技

ステッピング       リズムを刻みながら相手を翻弄する防御技

 

 

 

【 基本技 】

ブロー          打撃、パンチのこと

インサイドブロー     ナックルパートでない拳の内側で打つ反則打

オープンブロー      手を開いたまま打つ反則打

リターンブロー      相手の打ち終わりに合わせて打つパンチ

ローブロー        トランクスのベルト部分よりも下への攻撃

フィニッシュブロー    留めの殴打のこと

ワンツー         ジャブとストレートのコンビネーション技

捨てパンチ        狙われているパンチをわざと打つ

テレフォンパンチ     拳を耳の横から出す技

 

【 補助技 】

フリッカージャブ     デトロイト発祥の鞭のように撓るジャブ

飛燕           燕のように飛び回るジャブ

コンパクトカウンター   最小限の動きで細かく打つカウンター

 

【 反則技 】

バッティング       勢い余って互いの額がぶつかってしまうこと

ローブロー        トランクスの縫い目より下の下半身への打撃

サミング         目潰しの意で、親指を意味するサムを語源としている

キドニーブロー      背中側から肝臓がある部分を叩く危険打

ラビットパンチ      後頭部を叩くことで後遺症が残り易くなるという危険打

 

【 人体の部位 】 

ハート       心臓。 血流の源であり、人体の核を担う最も重要な臓器

ラング       肺 。 酸素を取り入れるため呼吸する際に用いる

リバー       肝臓。 栄養の貯蓄、有害物質の解毒・分解、胆汁を生成

キドニー      腎臓。 尿の排泄を司る器官。腰の辺り背骨の両側に一対ある

スプリーン     脾臓。 異常赤血球の除去、血小板の生成と貯蓄を行う

ジョー       顎。  

ソーラー・P    横隔膜。ストマック     胃

テンプル      蟀谷。 ボクシングでは脳が揺れるため急所となる。

【 スタイル一覧 】

インファイター      近距離でのファイトを得意とする選手

アウトボクサー      軽いフットワークを用いてヒット&アウェイで闘う選手

ボクサーファイター    インファイターとアウトボクサーを両方熟せる選手

ソリッドパンチャー    剃刀のように鋭いパンチを浴びせるボクサーのこと

ハードパンチャー     力強く豪腕を振るうボクサーのこと

ピーカブースタイル    拳の間から覗き込むスタイルいないいないばあの意

クラウチングスタイル   前傾姿勢。前屈みの体勢

クリーンファイター    正々堂々と試合をするボクサーのこと

ブルファイター      牡牛のように突進するボクサーのこと

オーソドックススタイル  左手を前にして闘う右利きの型

サウスポー        左利きの選手のこと。米国チャールズ・シーモアが命名

ロープ・ア・ドープ    相手が消耗している間、追い詰められているフリをする

ヒット・アンド・アウェイ パンチを当てては離れするスタイル

 

 

【 試合関連の情報 】

日本武道館        東西線・半蔵門線『九段下駅』

両国国技館        中央線・総武線『両国駅』

後楽園ホール        JR線『水道橋』丸の内線・南北線『後楽園駅』

東京ドームシティ      JR線『水道橋』丸の内線・南北線『後楽園駅』

さいたまスーパーアリーナ  埼京線『北与野駅』京浜東北線『さいたま新都心駅』

幕張メッセ         京葉線『海浜幕張駅』総武線・京成線『幕張駅』

横浜アリーナ        JR線『新横浜駅』

北海道月寒ドーム   (閉鎖) 東西線『南郷13丁目駅』東豊線『月寒中央駅』

名古屋国際会議場      名城線『西高蔵駅』名港線『日比野駅』

大阪城ホール        JR線『大阪城公園』長堀鶴見緑地線『大阪BP』

神戸サンボーホール     JR線『三ノ宮駅徒歩十分』PL線『貿易センター駅』

福岡スポーツセンター (閉鎖) 空港線『天神駅』

全日本新人戦        東軍が赤。西軍が青のトランクスを履く

A級トーナメント      日本ランク10位以内の選手が闘う勝ち抜き試合

 

【 日常の知識 】

ハイカラ         西洋の様式や流行に追随すること

アベック         一緒にいるという意味の前置詞から来ているフランス語

カップル         英名詞で一組の男女を指す

オブラート        デンプンから作られる水に溶け易い薄い膜、オランダ語

オブラートに包む     比喩であり、言葉をぼかしてマイルドにする効果の意

あいすくりん     1869年にアイスクリームの父、 町田房蔵が伝えた

アイスクリームの日    5月9日

ブル           牡牛のこと。オスの牛

カウ           牝牛のこと。メスの牛

カーフ          仔牛のこと

メスティーソ        ヨーロッパ系白人とインディオの混血の人々のこと

サンボ          アフリカ系黒人とインディオの混血の人々のこと

ムラート         白人と黒人との混血の人々のこと

クリオーリョ       スペイン人を親として現地で生まれた人々のこと

 

【 お役立ち情報 】 

呪文           ミニシナ、フラバン、バンゴミ、フェゴナ、

ライムギ、ウェルブナ、ミドナミ、クルハム

ポンド→キログラム    数を2で割って、その答えの十の位の数を引く

ハイカット        靴首が高い靴のこと

ミドルカット       靴首が中程度の靴のこと

ソール          ゴム底のこと

君が代          日本国の国歌1999年に正式に採用された

ザ・スター・S・バナー  星条旗31代ハーバード・フーバー政権で正式に採用

マイ・C・T・オブ・ジー 1931年までの事実上の米国国歌

アシカとアザラシ     鹿には耳がある

暫くと漸く        日差し差せよ、日、暫時、暫く、氵、漸次、漸く

牛の雄と雌        オトヒメ。(オ)ス、牡(ト)、牝(ヒ)、(メ)ス

髭について        鱒口、熊顎 マスタッシュ(口髭)、ベアード(顎鬚)

たたらを踏む       勢い余って踏み止まれず、数歩あゆむこと

闘う、戦う        闘う(ファイト)と戦う(バトル)

【 難しめの言葉について 】

局部麻酔          眼球に直接注入する麻酔、とても痛い

テノン嚢下麻酔       白目の比較的深い所に行う麻酔

点眼麻酔          眼球表面の局所に行う麻酔

引裂法           水晶体嚢を円を描くように切開する

反転法           一般的な方法であり、折り畳んで切開する

ディバイド&コンカー法   溝を掘って分割し、フックを用いて攻略する手法

フェイコチップ法      溝を掘らず 砕いて摘出し、フックを用いて摘出

プレチョップ法       溝を掘らず 砕いて摘出し、ピンセットを用いる

いざなぎ景気        65年11月~70年7月。建設需要の拡大

バブル景気         86年12月~91年2月。公定歩合の引き下げ

いざなみ景気        02年02月~08年2月。北米への輸出が好調。

公定歩合          日本銀行から民間銀行への貸出金利のこと

 

 

 

【 その他のボクシング用語 】

バンテージ         拳に巻く包帯のような白いテープのこと

セコンド          ボクサーをサポートする役割の人

ナックルパート       グローブのうち殴る部分

シーム           縫い目のこと

グリーンボーイ       4回戦選手のこと

アビテン          アドレナリン軟膏

グラスジョー        ガラスの顎。弱点となることが多い

フラッシュダウン      あっという間に倒されるダウンのこと

タイトルホルダー      チャンピオンとなり、称号を手にしていること

ナショナルチャンピオン   国内王者のこと

パウンド・フォー・パウンド 異なる階級の選手を比較すること

パンチドランカー      頭部にダメージを受けることにより発症する病。

マスボクシング       パンチを寸止めして行う練習法のこと

パンチングボール      天井から吊るされたゴム風船のような器具。

ベアナックル        素手の拳のこと

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。