姫巫女さまのかくしごと (宇宮 祐樹)
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01 姫巫女さまのかくしごと(上)

 

「姫巫女様より、神託がございます」

 

 謁見の間、その最奥にある祭壇の前にて。俺の言葉に、彼女はくるりと体を翻す。

 少女だった。顔立ちは幼いながら、静かな雰囲気を感じさせる整ったもの。

 身に纏うのは薄い蒼の布地に、銀と白の刺繍が施された、古来より伝わる姫巫女の正装。

 そして何よりも目を惹くのは、太陽の輝きを映したかのような、白銀に輝く髪で。

 足先にまで達するそれは、彼女が何者であるかを、この世界に知らしめているようだった。

 

 ――曰く、世界より選ばれし調停者。

 ――曰く、夢と現の狭間に立つ者。

 ――曰く、龍と人とを繋ぐ、架け橋となる者。

 

 その姿はこの世のものとは思えないほどに美しく、それでいて清らかで。

 他の者とは一線を画すような、それこそ住む世界が違うような、そんな印象すら抱かせた。

 それは人々に導を示す、聖なる光の化身。龍により隔絶を定められた、孤独に生きる少女。

 境界に立つ彼女は、淡い紅の唇を開き、告げる。

 

「銀陽の姫巫女、ソフィラティアの名に於いて――銀陽龍様の御言葉を、お伝えします」

 

 

 今年の秋はいつもより寒い。

 おそらく冬に入ると早くから大雪が続くので、備蓄の用意はいつもより早く、多めに。

 降雪が続くと、場合によっては移動をしたほうがよい家屋もあるので対応を。

 春の入りは暖かいが、しかし雪崩や雪解け水による増水にも注意するよう。

 その代わり春から水不足の心配はなく、作物もより実るだろう。

 以上。降龍暦第四百二十二年、夏の季の神託。

 

「姫巫女さまっ、姫巫女さまっ」

 

 儀式も終わり、街の人々が返ってゆく中、一人の少女が姫巫女様へと声をかけた。

 神殿によく遊びに来る、服屋の娘だった。昨日も姫巫女様と話していたことを思い出す。

 確か、名前は……。

 

「はい、どうされたんですか、シルフィさん?」

「えっとね、その……姫巫女様に相談したいことがあって」

 

 ちらり、とこちらへ視線を向けるシルフィ。

 今日はもう神殿を閉めるつもりだったが、そういうことなら仕方ないか。

 

「構いませんよ。神殿はもう少し後に締めますから、その間だけなら」

「やったぁ! 姫巫女さまっ!」

「はい、お聞きしましょう。どうぞこちらに」

 

 そう言って最前列の長椅子にシルフィを座らせて、姫巫女様が隣へ腰を下ろす。

 

「あのね、姫巫女さま」

「はい、なんでしょうか」

「人を好きになるって、どういうことなの?」

 

 …………。

 

「人を好きになる……ですか?」

 

 きょとん、と。

 まるで魂でも抜けてしまったような表情で、姫巫女様はそのまま彼女の話へと耳を傾けた。

 

「私ね、靴屋のエレンのことが好きなんだ」

「そうですか……確かにお二人は仲が良いですものね」

「だけどね、私が思う好きと、みんなが思う好きって違う気がするの」

「はあ……」

「だから姫巫女様、人を好きになるってどういう気持ちなのか、教えて?」

 

 丸い目をきらきらと輝かせながら、シルフィが問いかける。

 それに対して姫巫女様は、とてもぎこちない様子で、首を大きく傾げていた。

 

「えーっと……つまり、シルフィさんは今、私に恋愛相談を?」

「れん……うん、そう! 恋愛相談!」

「な、なるほど……恋愛相談ですか……」

 

 ……そろそろ、助け船を出したほうが良いだろうか。

 

「あの、シルフィさん? 本当に私でよろしいのですか? そういった相談事はもっとこう、人生経験が豊富な、それこそお母さまなどに相談したほうが、きっと……」

「そんなの恥ずかしくてできないよ! こんなこと聞けるの、姫巫女様だけだもん」

「頼ってくださるのはとても嬉しいのですが……でも私、恋愛なんてしたことがなくて」

「えー、うっそだー」

 

 すると彼女は、おかしそうに言いながら、

 

「だって姫巫女さま、神殿長のアイン様のことが――」

 

 がばり、と。

 シルフィが何かを言いかけた次の瞬間、姫巫女様は勢いよく彼女の口を塞いでいた。

 

「いきなりなんてこと言うんですかシルフィさん! びっくりするじゃないですか!」

「でも姫巫女さま、アイン様が好きなのは本当の――」

「そういう話は本人がいないところでするものなのです!」

 

 何やら二人が話をしているが、声が小さいせいで聞き取ることが出来ない。

 ……一体、どうしたのだろうか。もしかすると、姫巫女様がお怒りになってしまって――

 

「あ、アインは近寄らないで! あっち、あっち見てなさい!」

 

 心配して様子を伺うと、姫巫女様は慌てた様子でそんなことを言ってきた。

 少し気になるところではあったが、とりあえず言われるがままに背を向ける。

 

「いいですか? アインに気づかれないよう、静かにお願いしますね」

「うん、わかった」

「……アインにはまだ伝えられないのです。いえ、いつかは伝えたいと思っているんですよ? でも、今はまだその時ではないのです。それに、こちらにも心の準備というものが」

「へたれなの?」

「全然そんなことありませんけど!?」

 

 ……一体、何がそんなことないのだろう。会話を聞き取れていないので、意図が掴めない。

 

「あ、いや……そういうのではありませんから。何事にも準備と心構えは必要ということで。というか、そんな言葉どこで覚えてきたんですか? 二度と使わないでくださいね」

「……でも、アイン様、街の皆にはねらい目だって言われてるよ?」

「狙い目って何ですか! うちのアインは商品じゃないんですよ!」

 

 どうしたらそんな単語が出てくるのか。

 

「でも大丈夫だよ? アイン様は姫巫女様と一緒の方がお似合いだって」

「だ、ダメですよ。アインに失礼になるかもしれませんし」

「そうかなー? 姫巫女さま、綺麗だからアイン様も嬉しいと思うんだけど」

「ダメなものはダメなんです。まったくもう、街の皆さんは私たちを何だと……」

 

 ……………………。

 

「……その、お似合いと言っていたのは本当ですか?」

「うん、ほんと。みんな二人はいい夫婦になる、って言ってたよ」

「……えへ」

「姫巫女さま?」

「えへへ、えへ、えへへへへへへへへへ」

 

 何やら不気味な笑い声が聞こえてきたので、思わずそちらへ顔を向ける。

 するとそこに居たのは、だらけきったような、緩み切った笑みを浮かべる姫巫女様だった。対面するシルフィが困惑するほどの緩みっぷりだった。花畑が背景に似合いそうだった。

 ……さすがに、声をかけたほうが良いか。

 

「姫巫女様」

「えへえへ……はっ!? アイン!? あちらを向いていてと言ったはずですが!」

「ですが、その様子で放っておくのは不安でして」

 

 シルフィも見慣れない姫巫女様に困っているようだし。

 

「……アイン? その、私たちが何の話をしていたか、聞いていましたか?」

「いいえ、姫巫女様に言われた通り、何も耳にしていませんが……」

「それなら大丈夫です! はい! アインは何も心配しなくていいですからね!」

 

 にっこりと、半ば強引にも思えるような口調で、姫巫女様はそう言い放った。

 

「姫巫女様、もうだいじょうぶ?」

「ええ、ご迷惑をおかけしました。では、その……恋愛相談に戻りましょうか」

 

 肩で息を整えた姫巫女様が、シルフィへと向き直る。

 

「……信じること、なのかもしれませんね」

「信じる?」

「ええ」

 

 恋愛初心者の私が言うのも何ですけど、なんて、姫巫女様は恥ずかしそうに笑って。

 

「シルフィさん。あなたは、エレンさんのことを信じてますか?」

「……うん。エレンのことは、いつだって信じてる」

「では、エレンさんとずっと一緒にいることはできますか?」

「産まれた時からずっと一緒だったもん。これから先もいられるよ」

「それなら、エレンさんと一緒に居て、幸せになれると思いますか?」

「エレンが嬉しいときは、私も嬉しかったから。たぶん、なれると思う」

「では最後――シルフィさんは、エレンさんに自分の全てを明かすことが、できますか?」

 

 問答はそこで一度止まった。シルフィは開いていた口を閉ざし、静かに考え込む。

 その唇が次に開いたのは、しばらくの間を置いてからのことだった。

 

「うん。エレンには私のぜんぶを知ってほしいから。それに、私もエレンことが知りたいし」

 

 少し不安になりながらも紡いだ彼女の言葉に、姫巫女様は静かに頷いて。

 

「それなら大丈夫です。その意思があるのなら、あなた達はこの先もずっと一緒にいられる。そうして積み重ねた信頼が、いつしか人を好きになる、という感情に変わるのでしょう」

 

 告げながら、姫巫女様はシルフィの両手を優しく包み込んで。

 

「あなた達の行く道に、銀陽の祝福が訪れんことを――」

 



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02 姫巫女さまのかくしごと(下)

 

「姫巫女さま、ありがとーっ!」

 

 満面の笑みで手を大きく振りながら、シルフィが街の方へと去ってゆく。

 

「……行きましたね」

「そのようですね。あの子はいつも元気で羨ましいです」

「子供の活力は計り知れませんからね……さて、では神殿も閉めてしまいましょうか」

「はい。今日もお疲れ様でした、アイン」

 

 なんて、お互いに笑顔を向け合いながら、神殿の正門を閉じる。

 東神殿。またの名を、陽の上がる方角の意を込めてオスト神殿とも。

 この大陸の東端に位置するノアロ王国の、更に東の外れに位置する、小さな神殿である。

 とはいえ、大陸の中心にあるクオーラ中央神殿の四方を囲む神殿の一つに数えられており、そして何より龍の言葉を民へと伝える姫巫女が存在している、唯一の神殿でもあった。

 

「中に人は残っていませんよね?」

「はい。忘れ物をしている方もいませんでした」

「なら戻ってくる人もいなさそうですね。安心です」

 

 すると次に彼女は、あたりをきょろきょろと見まわしはじめて。

 

「盗聴器とか、そういう類のものは……」

「先ほど確認しましたが見当たりませんでしたよ。魔力の流れも感じられません」

「そうでしたか……ありがとうございます」

 

 少し心配しすぎだとは思うが、立場を考えればこれくらいの方が丁度いいかもしれない。

 

「それでは、本日の業務はもう終わりということでよろしいですね?」

「ええ。大変お疲れ様でした、姫巫女様──」

 

 と。

 俺が言い切ろうとしたその瞬間、姫巫女様はすぅ、と大きく息を吸い込んで。

 

「はいっ、今日のおしごとおーわり! 私、姫巫女やーめたっ!」

 

 なんて。

 神殿の中に響き渡るほどの大声を上げて、そのまま体を俺へ預けてきた。

 そのまま動かないこと数分間。どうやら、いつも通り燃料切れらしい。

 ……にしても、すぐにそうなってしまうのは。何とかならないものか。

 

「起きてください、姫巫女様。お召し物が汚れてしまいますので」

「えー、いいでしょ別に。これのほかにも何枚かあるんだから」

 

 そういう問題ではなく。

 

「洗濯をするのは私ですから。これ以上、仕事を増やさないでください」

「何よ、じゃあ私の体が汚れるのは構わないわけ?」

「それも大変構いますが、今はそういう話をしているのではなく……」

「あーもう、うるさい! とにかく私は疲れたの! 限界なの! もう動きたくないの!」

 

 腕の中でじたばたと暴れながら、姫巫女様はそうやって俺へ訴えてくる。

 

「姫巫女様のご苦労は分かります。ですが、ここでこのままというののは、さすがに……」

「無理。疲れて指一本も動かせない。このまま死ぬかも」

「それは困ります!」

 

 冗談でもそんなことを言うのはやめていただきたい! 

 

「何とか動いてくださいませんか? せめて、寝るなら椅子の上にでも……」

「それじゃあ、はい」

 

 と。

 姫巫女様はそんな声を上げながら、両腕を広げて俺へと向ける。

 ……ええと、これは? 

 

「だっこ」

「……なぜ」

「自分で動けないって言ったでしょ。だから、あんたが運んでちょうだい」

 

 運ぶって……俺が、姫巫女様を? 

 

「しかし……」

「あら。侍従のくせに主人の頼みが聞けないっていうの?」

 

 ……まあ、姫巫女様もお疲れのようだし、仕方ないか。

 それに姫巫女様は、ご自身でそうするよう俺へ言ったのだ。ならば俺は、それに従うまで。

 というより、本当に死なれてしまっては困る。割と本気で。

 

「お姫様抱っこね」

「お……いや、さすがにそれは」

「私、姫巫女なの。姫。だったらそう扱うのは当然じゃない?」

 

 さっき、やめるとかなんとか叫んでいなかったか。

 

「何よその顔」

「いえ、何も。お体の方、失礼しますね」

「優しくね」

 

 泣く泣く返事をすると、何故か姫巫女様は嬉しそうに笑っていた。

 膝の裏に左腕を通し、右腕を姫巫女様の脇へ。

 首に回されたのは、触れれば折れてしまいそうなほどに細く、白い腕だった。

 そうして彼女の体を持ち上げると、姫巫女様の翡翠の瞳が、すぐ近くまで迫っていて。

 ………………。

 

「ん、どうしたの? 私の顔に何かついてる?」

「いえ、何も……特に口にするほどのことでは……」

「ふぅん? 私の前で隠し事するつもりなんだ?」

「しかし……」

「この姫巫女に楯突こうなんて、面白いじゃない?」

 

 そう厭らしい笑みを浮かべるものだから、面倒くさいことになる前に、打ち明けた。

 

「……力あるものは美しい、というのは事実なんだなと思いまして」

「へーえ? なにあんた、もしかして私に見惚れてたってこと?」

 

 なんてわざわざ聞いてくる姫巫女様に、思わず明後日の方を向いてしまう。

 決してそういう訳ではない……と言いたいが、麗しいと思ったのは事実なわけで。

 

「私みたいなガキにそんな劣情催すなんて、意外と悪趣味なのね、あんた」

「決してそのようなつもりはありません! 私はただ、あなたが綺麗だと思っただけで!」

「別にいいのよ? もしあんたが我慢できなくなったら、付き合ってあげなくもないし?」

 

 よくない。何もよくない。仮に姫巫女様がよくても、俺は全然何もよくない。

 

「それにしてもあんたがね……ふーん、……そうなんだ」

 

 ……勘弁してほしい。

 

「それにしても、恋愛相談なんてされるのは初めてだったわね」

 

 疲れたように息を吐きながら、姫巫女様がそう呟いた。

 

「シルフィさんのことですね」

「そ。あの年で恋愛だなんて、とんだマセガキね」

「……頼みますから、皆の眼でそのような言葉遣いをなさるのはやめてくださいね」

「当然よ。こんな風に話せるの、あんたしかいないんだもん」

 

 信頼されているのか。それとも、粗雑に扱われているのか。

 どちらにせよ、こんな姫巫女様の姿を見られるのは確かに俺しかいなかった。

 そしてまた、そのことを少し嬉しく思う自分がいるのも、事実ではあった。

 おこがましいと言われるだろうか。せめてその時までは、この感覚を味わっておこう。

 

「まったく、こっちは恋愛なんてこれっぽっちもしたことないのに。ほんとに困ったわ」

「それは大変でしたね」

「でも……そうね。私にも、そういう人が欲しいって、少しだけ思えたかも」

「……恋愛にご興味がお有り、ということですか」

「少しだけね。叶わないっていうのは分かってるけど」

 

 呟いた姫巫女様の顔には、昏い陰が差していた。

 

「私は姫巫女。銀陽龍様の言葉を伝える者だから」

 

 それは人でもなく、ましてや龍でもない曖昧な者。だから人と深く交わることもなければ、龍のように大きな力を持つ者になれるわけでもない。世界に組み込まれた、機能の一つ。

 彼女はそれを受け入れていた。自らの在り方が人々を救うことを、誰よりも知っていた。

 でもね、と彼女は俺のことを見上げて。

 

「私だって夢を見るの。普通の女の子として生きているような、そんな」

「……それは、どのような?」

「普通の家庭に生まれて、普通の友達ができて、その中で普通の恋をして……」

 

 そこで言葉は途切れた。否、続けることができなかった。続くことは、決してなかった。

 

「……私は姫巫女。人々を導く存在。選ばれたのなら、そうならなくてはならない」

「姫巫女様……」

「でも、もし私を……姫巫女でない私の全てを受け入れてくれる、そんな人がいるのなら」

 

 そして彼女は、首に回していた手を、俺の頬へと添えて。

 

「それこそ私は、あんたみたいな人と結ばれるのかもね」

 

 その言葉に、俺は。

 

「私は応援していますよ、姫巫女様」

 

 どうか失望されないよう、心からの声をかけると、姫巫女様はなにやらとても複雑そうな、何かもう手の付けられないようなものを見るような、そんな訝し気な表情になって、

 

「……もしかして私、ナメられてる?」

「え? いえ、決してそんな……って姫巫女様!? どうしてそんな、泣きそうなお顔を!」

「そっか……そうよね、それが素だったわよね……ほんとに……何でこんな奴を……」

「大丈夫ですよ姫巫女様! きっと、あなたにふさわしい人は見つかりますから! それに、姫巫女様のためなら私も全力でお手伝いしますので! ですから、気を落とされないよう!」

「もういいわよ……私も私で、なんとか努力してみるから……」

 

 半ば諦めの色が強いようだが、姫巫女様はそう言ってくれた。

 そんなふうに会話をしているうちに、いつの間にか神殿のすぐそばにある家の前に。

 

「姫巫女様、着きましたが」

「ちょっとひと眠りしようかしら」

「……寝室までお連れしますね」

 

 念のために聴いてみたが、当然のように彼女は俺の腕から降りる気はないらしい。

 心の中で小さく息を吐きながら、上手く足を使って玄関の扉を開ける。

 姫巫女様のお体が、羽のように軽いのが唯一の救いだった。

 そのまま階段を上がってすぐ、右の手前にある寝室へ。中にあるのは質素な白いベッドと、使い古された机だけ。こじんまり、というよりは殺風景という言葉が当てはまった。

 

「姫巫女様」

「ベッドまで」

 

 言われるがまま、彼女の体をベッドの上へと横たわらせる。

 

「脱がせて」

「は?」

 

 は? 

 

「……いま、何と?」

「だから、私の服を脱がしなさいって言ったの。あなただって仕事着のまま寝ないでしょ」

「それはさすがにご自身でなさってください!」

 

 姫巫女様が自らの服を、ましてや男に脱がせようとするのは駄目だろう! 

 

「ちえ、何よ。あんたになら別に見られても平気なのに」

「私が平気ではないのです!」

 

 心臓が早鐘を打っているのが分かった。とんでもないものを見せようとしないでほしい。

 

「まったく、此処にいるのが私だからよかったものの、他の者にそんなことを頼むなど……」

「あーわかったわかった……自分でやるから……んもぅ……」

 

 ぷち、ぷち。

 

「だからといって今すぐ脱ぐのもやめてください! せめて私が部屋を出てからに!」

「ああもう、注文が多い! あんたは私の親か何かなの!?」

「姫巫女様のお世話をする者として当然のことを申し上げているだけですが!」

 

 ……とにかく。

 

「お脱ぎになるのであれば、私がいなくなってからにしてください。いいですね?」

「何よ、私の裸は見たくないってわけ?」

「だから、そういう話ではなく……」

「じゃあ質問を変えるわ。私の裸は、見られないわけ?」

 

 姫巫女様のその言葉に、部屋を立ち去ろうとしていた足が止まる。

 聞こえるのは微かな衣擦れの音。それと同時にベッドが軋む。

 振り向いたその先に居たのは、ベッドの座ったままでこちらを見つめる一人の少女だった。

 

「……姫巫女様?」

「アイン。私はね、あなたに全てを明かすと誓ったの。姫巫女でないありのままの私をね」

 

 しゅる、と何かが解ける音。それと同時に彼女の纏う巫女服が大きくはだけ、隠されていた薄色の肌が晒される。一つの穢れもない、冬の朝に積もった新雪のような白さだった。

 そしてそれは、俺を含めたこの世の誰も目にしてはならないもので。

 

「……どうかご容赦ください。その様な真似をされても、私は」

「嫌よ。こうしないと、私はあなたに全てを晒したとは言えないもの。それとも──」

 

 静かに光る白銀の髪を、はらりと翻して。

 

「あなたも、私を受け入れてくれないのかしら?」

 

 それ、は──

 

「いつだってそうだった。誰も私を姫巫女としか見ない。嘘を吐いたまま、自分を隠したまま、皆の前に立ってた。本当の私を見てくれる人なんていなかった。いつも、一人だった」

 

 眩い銀髪は、少女の手の内で輝き続ける。それは迷える人々の導となる、救済の光。

 しかしながら、彼女にとってそれは自らを縛り、封じ込め、孤独に突き落とすだけのもの。

 それを知るのは、この瞬間で俺だけしかいなかった。

 

「今日もそうだった。昨日も。明日もきっと。私は姫巫女として皆を導かなければいけない。逃げ出せないのは分かってる。でも……少しだけ、寂しいの。ずっと一人でいるのは」

「姫巫女様……」

「だからあなたの前だけなの、私が私でいられるのは。だってあなたのことを信じてるから。あなたは、初めて私を見つけてくれた人だから。あなたの前にしか、私は居られないから」

「……光栄なこと、だと受け取っておきます」

「なら受け入れてよ。姫巫女でない一人の私を。あなたしかいない。そのためなら体だって、心だって、私の全てをあなたに見せてあげる。だから、どうか……私を、一人にしないで」

 

 いつの間にか彼女は目の前に立っていて、その体を俺の方へと寄せていた。

 小さな体だった。風が吹けば、指先から崩れてしまいそうなほど、脆く儚い存在だった。

 彼女は、守ろうとしても触れられないほどに、淡く透き通ったひとだった。

 これが、本当の彼女。ソフィラティア=エルガーデン。

 陽炎よりも虚な刹那の少女。俺の前にしか姿を現さない、太陽よりも遠くにいる存在。

 そしてその手を取ることが出来るのは、他でもない俺だけで。

 ならば、この手を伸ばさない理由は、なかった。

 

「姫巫女様、今から少々手厳しいことを言わせていただきますが、よろしいでしょうか」

「…………うん」

 

 その肩に手を置くと、彼女はぴくりと震えた。けれど、そのまま体を委ねてくれた。

 

「あなたは本当に口が悪く態度も大きくて、そのくせ掃除も洗濯も料理も何にもできなくて、私が居ないと日々の生活を送ることのできない、野生児と言ってもいい人です」

「………………ごめん、なさい」

「ですが、私がそれを拒絶したことは、今まで一度でもありましたか?」

 

 ゆっくりとこちらへ視線を上げる姫巫女様の、その頭を優しく撫でながら。

 

「私はあなたを受け入れます。今までも、そしてこれからもずっと、あなたのお傍にいます。決して寂しい思いはさせません。もう二度と、一人にさせないと誓いましょう」

「アイン……」

「ですからどうか、このような真似はお止めください」

 

 はだけた巫女装束を整えてから、その頬へと手を添える。すると彼女は小さな手を重ねて、大きな瞳をこちらへ向ける。しっかりと前を見据える、確かな緑の輝きがあった。

 

「……あなたは、ありのままの私を見てくれる」

「はい」

「だから、アインもありのままのアインを、私に見せてくれる?」

 

 それは……どういう? 

 

「私たちの間に隠しごとはなし。ゆっくりでいい。一つずつでいい。我儘かもしれないけど……それでも私は、アインの事が知りたい。そうすれば、私は寂しくなくなるから」

 

 ……まったく。

 

「あなたは本当に我儘な人ですね」

「……ごめん」

「ですが、とてもあなたらしい。傲慢で、乱暴で……それでいて人一倍、寂しがりで」

 

 それがとても愛おしいということは、心の深くに閉まっておこう。

 

「──アインラヴェンデル=フォン=アーベントロート」

「…………へ?」

「私の本名です。今までお伝えすることがありませんでしたから、この機会にと思いまして」

 

 すると彼女は、ぐいと俺の胸元を引き寄せて。

 

「聞いてないんだけど?」

「ええ。ですから、お伝えする機会がなく……」

「何よそれ!? じゃあ今までずっと、私に名前を隠してたってわけ!? 意味わかんない!」

 

 そう言われても、今までそれで通じていたから別に必要がなかったというか。

 などと口答えをしようにも、ぶんぶんと体を揺さぶられては、口にすることもできなくて。

 

「そりゃ隠しごとの一つや二つはあると思ったけど! まさか名前から隠してたなんて!」

「べ、別に隠していたつもりは……」

「うるさい! 他にも何か隠しごとしてるんじゃないでしょうね!? 言ってみなさい!」

「ゆっくりでいいとおっしゃったのは姫巫女様ではないですか……それに、一つずつ……」

「ああ!? この姫巫女様に逆らおうっての!?」

 

 このタイミングでこんな脅し文句が出てくるのは、さすがしか言えなかった。

 

「あーもう、イライラする! 気分悪いからもう寝るっ!」

「……夕食ができたら、起こしに参ります」

「カレーがいいっ!」

 

 ……材料はあっただろうか。最悪、今から買い出しに行かなければならないな。

 なんて思案をしていると、姫巫女様は乱暴な足取りのまま、ベッドへと飛び込む。

 毛布を体にかけると、俺とは逆の方向を向いて、そのまま動かなくなってしまった。

 その様子を眺めつつ、少しだけ安堵を感じながら、部屋の扉を閉めると。

 

「…………ありがとう」

 

 微かな姫巫女様の呟きが、俺の耳へと伝わった。

 そしてそれは俺の胸に深く突き刺さり、そのまま心を抉っていくようだった。

 

「……っ」

 

 頭が重い。ふらふらとした足取りのまま、階段を転げ落ちるように降りていく。

 彼女が起きてしまうかなど、気に掛ける余裕はなかった。そな資格すらもなかった。

 荒い息を無理やり整えながら、さっきの言葉を思い出す。

 

『あなたの全ても、私に見せてくれる?』

「……俺の、全てか」

 

 いつの間にか洗面所に辿り着いていた。鏡に映るのは、恨むようにこちらを睨みつける男。

 陰のように黒い髪は目元まで伸ばされており、その間からは淡い紫色の瞳が覗いている。

 かつて母親が口にした、薫衣草のような瞳という言葉を、無理やり頭の中でかき消した。

 ため息を一つ。鏡の中に映る俺は、ゆっくりと唇を動かして。

 

「もしも全てを明かすことになった時、おそらく俺はあなたの傍にはいないのでしょうね」

 

 アインラヴェンデル=フォン=アーベントロート。

 大陸の北端に位置する北神殿の長を務める者であり、また姫巫女様の傍に控える侍従係。

 そして──姫巫女という存在を内密に調査する、一人の研究者であった。

 



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03 神殿長さまのかくしごと(上)

 明朝。まだ太陽は出ておらず、頭上には暗い空が広がっている。

 

「新月。二十と八の七。四十五、三十八、二六三、七」

 

 風の魔法を利用した通信器具を耳にあてがいながら、数列を口にする。

 

『はーい、満月の二、三十と七……だったっスかね? 合ってるっスか?』

 

 ……それを本人に聞いたら元も子もないと思うけど、この人なら大丈夫か。

 

「問題ありません。本日もよろしくお願いします、リシテア副所長」

『うっス。よろしくお願いするっスね、アインくん』

 

 通信器の向こうから聞こえてくる、ここ半年ほどで聴きなれた声は、そう返した。

 リシテア副所長。俺の所属する機関の直接的な上司であり、俺の担当する任務の管理者。

 そして、俺の意思を汲んでくれる、唯一の協力者でもあった。

 

『で、どうっスか? 姫巫女様の様子は』

「特にこれといった問題はありません。能力の劣化もなし。龍との対話も毎日続いてます」

『ほいほい、問題無しっスね。りょーかいっス』

 

 さらさらとペンを走らせながら、副所長はいつも通りに返してくれる。

 

「研究所の動向は」

『いつも通りっス。姫巫女は異常存在と断定。だから早くこちらで管理を、って』

「……そうですか」

 

 研究所。この世界に存在する、異常と見なされたものを蒐集、管理する秘密機関。

 そして、そこに所属している現地調査員というのが、俺の本来の役職だった。

 調査の対象は、姫巫女──体内に世界横断という魔術を内包する、一人の少女。

 与えられた任務は、彼女を大陸の中央部にある研究所本部へと連れて行くこと。

 だが。

 

「もう少し時間が必要だと連絡してください」

『はいはい、それもいつも通りっスね。了解っス』

 

 気だるげな──それも、いつも通りか──声のまま、副所長は俺にそう返した。

 初めて姫巫女様と出会ったその時から、たぶん俺は彼女に見惚れていたんだと思う。

 呑まれたと言ってもいい。うまく言い表せないが、彼女を自由にさせたかったというか。

 確実に言えるのは、この少女を研究所へと連れて行くのは、間違いであるということ。

 人々を救う存在である彼女を、薄暗く冷たい研究室の中へ閉じ込めたくはなかった。

 これ以上、寂しさを感じてほしくなかった。異常であることを受け入れてほしくなかった。

 それに、何よりも。

 

「先代の姫巫女が死んだ理由を未だに理解していない連中に、姫巫女は任せられません」

『言うっスねえ』

 

 これだけ時間があるのに態度を変えないというのは、つまりそういうことなんだろう。

 なぜ、大陸の各地にある神殿の中で唯一、この北神殿にしか姫巫女が存在しないのか。

 それは単純に、中央神殿に仕えていた先代の姫巫女が、既にこの世に居ないからだった。

 元来、姫巫女とは中央神殿に仕える者。こんな端の神殿に収まる存在ではない。

 だが数年前、研究所が突如として中央大陸に発足し、姫巫女を異常存在として認めたのだ

 そして、研究所は龍と対話する姫巫女の魔法──世界横断と命名した魔法の研究を開始。

 様々な実験を試行する中、とうとう先代の姫巫女は事故によって命を落としてしまった。

 以来、中央神殿の姫巫女の席は空いたままで、世界横断についての研究も凍結したまま。

 姫巫女の誕生とは奇跡にも近い。だから、数十年はどちらも止まったままのはずだった。

 しかし、ちょうど一年前。彼女──ソフィラティア様が、突如としてこの世界に現れた。

 先に気づいたのは、研究所だった。そして中央神殿より先に新たな姫巫女を確保するため、こうして俺が現地調査員として送られたというのが、一連の流れであった。

 

「中央神殿との連絡は?」

『まだまだっスね。あと一ヵ月か二ヵ月くらいはかかるかもしれないっス」 

「……何とか早めてほしいものですが、待つしかないですか」

 

 もとより、いろいろな事情もあって、姫巫女の確保には乗り気でなかったのだ。

 それに何より、先代と同じ末路を辿ってほしくなかった。彼女は真に人々を救う者なのだ。

 だから、彼女には姫巫女としての使命を全うしてほしかった。

 副所長はそんな俺の考えを理解してくれた、唯一の人だった。

 

『まあ、中央神殿も色々あるっスからねえ。でも、もう少しっスから』

「……ありがとうございます」

 

 彼女が中央神殿との繋がりを持っていることは、運が良かったとしか言えなかった。

 

「では、本日の報告を終了します」

『ほいほい、お疲れっス』

 

 通信が途切れると同時に、俺も耳に着けていた通信器を外す。

 

「……まだ諦めきれないのか、あの人は」

 

 呟きと共に、朝焼けが訪れた。

 

 

 引用文献:銀陽の姫巫女における観察研究の報告書、項目二七より。

 銀陽の姫巫女に該当する少女、ソフィラティア=エルガーデンの朝はとてつもなく遅い。

 

「姫巫女様、朝食のご用意ができました」

 

 時刻は既に朝の十時を過ぎようとしているころ。姫巫女様の寝室の前にて。

 扉を叩いてそう声をかけてみるも、当然ながら返答は無し。いつも通りの調子であった。

 

「……姫巫女様? 起きていらっしゃいますか?」

 

 ここまで来ると五割の確率で何らかの反応があるのだが、今日はどうやら外れらしい。

 相も変わらず静まり返った扉の前で、俺のため息だけが小さく響いていた。

 

「……失礼いたします」

 

 そう呟いてから扉を開き、姫巫女様の寝室に入ってから、閉じたカーテンを勢いよく開く。

 窓から差し込むのは。目が眩むほどに強く光を放つ陽光。世界を照らさんとする銀の輝き。

 その光が指し示すのは、ベッドに横たわる一人の少女──ではなく

 

「……んあぁ…………」

「んあぁ、ではなく」

 

 奇妙なうめき声を上げる毛布に、思わずそんな声が漏れた。

 

「姫巫女様、起きているのならせめて返事はしてください」

「あと……あと、八時間……」

「それでは陽が沈んでしまいますよ」

 

 あと五分、とかだったらまだ可愛げがあったものを。

 

「それに、このままでは朝食が冷めて夕食になってしまいます」

「むぅ……べつに、冷めててもいいし……」

「せっかく姫巫女様のためを思って作ったのですが」

 

 そんな言葉を付け足すと、姫巫女様はゆっくりと、首から上だけを毛布から出して。

 

「……あんた、割と良心に訴えかける脅し方するわよね」

「それくらいしないと聞いてくれないでしょう、あなたは」

「よく分かってんじゃない」

 

 どれだけあなたに付き合っていると思っているんだ。

 付き合っているというよりは、毒されてきた、と表現したほうが正しいのだろうが。

 

「ほら、分かったのなら早くベッドから出てきてください」

「仕方ないわね……」

 

 とうとう観念したのか、姫巫女様は深く息を吐くと、ゆっくりと体にかけた毛布を翻した。

 ──最初に見えたのは、百合の花を想起させるかのような、淡く白い姫巫女様の素肌。

 そしてそれを隠しているのは、上から下まで全てが開いたままのワイシャツだけ。

 薄い布に挟まれたそこからは、胸元の小さな膨らみが覗いていた。

 そのまま視線を下へ動かすと、瑞々しい太腿が視界の中に入ってくる。

 一瞬だけ見えた鼠径部は白いままで、つまりそれは、何も履いていないということで。

 彼女がうんと伸びると、シャツの隙間から細い腰が顔を覗かせる。

 そのまま姫巫女様は、剥き出しになったままの両足を動かして、ベッドから──

 

「ひ、姫巫女様っ! ダメです、ストップ! そのお姿で動くのはお止めください!」

「ちょっ、何よいきなり! せっかく起きてあげようとしたのに!」

「ですがそれでは、その……あなたの……!」

「だから何!? 言いたいことがあるならはっきり言いなさい!」

 

 ああもう、この人は! 

 

「ですから、そのお姿では見えてしまうと言っているんです!」

 

 観念してそう口にすると、姫巫女さまはああ、とようやく理解したようで、

 

「別に見えてもいいんだけど……」

「いいわけがありますかっ!」

 

 気だるげに答える姫巫女様に、思わず叫び返してしまった。

 

「何よあんた、もしかして見たことないの?」

「いや、そういう問題ではなく!」

「…………見る?」

「だからそういう問題ではないと言っているでしょうが!」

 

 頭おかしいんですかあなた、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。

 

「まったく……というか、そんな服どこから持ってきたんですか……」

「え? あんたの衣装棚からだけど」

 

 は? 

 

「……どういうことですか?」

「だから、あんたの服を借りてるんだって。意外と大きいのね」

 

 ぶかぶかの袖を振りながら、姫巫女様はそんな事を言ってのける。

 けれどそれは耳から入ってすぐ、反対の耳から抜けていった。頭の中が疑問で一杯だった。

 俺の服を借りている? 姫巫女様が? そしてそのまま一晩を過ごしたと? 

 

「な、なぜ……」

「だってあんた、私のパジャマ全部洗っちゃったじゃないの」

「……え?」

 

 気に入ったのか、袖をぶんぶん振ったまま、姫巫女様はそんな答えを返してきた。

 

「『脱いだ服を溜め込まないでください!』とか何とか言って、私の部屋に置いてあった服、全部あんたが持って行ったのよ。その日の夜に使うパジャマもあったのに」

「そう言えば確かに昨日、そんなことを言ったような……?」

「だから、私は仕方なくあんたの服を借りるしかなかったわけ。これで満足した?」

「なるほど、そうだったのですか。それは申し訳──」

 

 ん? 

 

「いや、だとしても元は姫巫女様のせいじゃないですか!」

「ちっ」

「舌打ちしたって駄目ですからね! 今度はちゃんと、脱いだものは洗濯カゴに!」

 

 何度も注意してるはずだが、姫巫女様は一向に言う事を聞いてくれない。

 いや、言ったらその通りに聴いてくれるというのも、彼女らしくはないが。

 

「それに、着るものが無いからと言って勝手に男の、まして、私のような者の服を借りるなど言語道断です! いいですか、姫巫女様のようなお方がこのような真似をするなど……」

「あーもう、わかったわよ! 脱げばいいんでしょ、脱げば!」

「全然わかってないじゃないですかあなた!」

 

 叫びながら服に手をかける姫巫女様に、思わず後ろを振り向いた。

 

「何よ、さっきはあんなに着ちゃ駄目って言ったのに」

「それとこれとは話が別です! とにかく肌を隠してください、今すぐにっ!」

「意味わかんない……」

 

 それはこっちの台詞だ! 

 

「頼みますから、他の者の前でそのような恰好はなさらないでくださいね……」

「するわけないでしょ。あんたの前だからできるのよ」

「私の前でもしないでいただきたいのですが!」

 

 呆れながら振り向くと、姫巫女様は俺を睨みながら頬を丸く膨らませていた。

 

「そんな顔してもダメです。服くらいちゃんと来てください」

「またそんな母親みたいなこと言う」

「ですから、姫巫女様の傍にお仕えする者として、当然のことを言ってるだけです……!」

 

 そう言われないような生活を送ってくれれば、こちらとしても負担が減るのだが。

 

「……とにかく、本日分の寝間着はこちらでご用意します。それはもう着ないでください」

「えー、結構着心地とかよかったのに」

「駄目です。早く返してくださいね」

「……ふーん」

 

 すると、姫巫女様は何か思いついたような顔をすると、にやりとこちらに笑いかけて、

 

「あんたさ、もう一度これ着るつもり?」

 

 ……はい? 

 

「だから、私と服を兼用してもいいのか、って聞いてるのよ」

「それは……」

「別に私は全然いいんだけど? ああでも、今日来る街の人たちには言っちゃおうかしら? 昨日はアインの服を借りて寝ましたー、って。事実だし、別に言っても構わないのよね?」

「構うに決まってます! なんてことをしようとしてるんですか!」

「この服くれないんなら、今日一番目に神殿来た人に言ってやる」

「ああもう、分かりました! それは差し上げますから、どうかお止めください!」

「それでいいのよ」

 

 なんて情けなく敗北宣言をすると、彼女は嬉しそうに笑いながら、そう言ってきた。

 ……本当にどうしてそこまで嬉しそうなのだろう。そんなに気に入ったのだろうか。

 

「よし、そうと決まれば早く朝食にしましょ。だんだんお腹も空いてきたし」

「それもそうですね……」

 

 ……いや、ちょっと待て。

 

「姫巫女様」

「何?」

「まさかとは思われますが、そのお姿のまま朝食を摂られるおつもりですか……?」

 

 裸足のまま廊下に出ようとしている彼女は、俺の声に不思議そうな顔のまま振り向いて。

 

「何か問題あんの?」

「私が今あなたに言ったこと、本当に一言も理解してないんですね!?」

 

 そんな恰好で食卓に並ばれても、こちらが困る! 

 

「お召し物は!」

「あんたが持ってきてないからないけど」

「でしょうね! 今すぐ取ってきますから、もうしばらくお部屋でお待ちください!」

「ええ、でもそれだと朝ご飯が冷めちゃう……」

「また作り直しますから! それでは、決して部屋から出ないでくださいね!」

 

 しょんぼりと肩を落とす姫巫女様にそう言葉をかけながら、寝室を後に。この後の掃除や、姫巫女様の世話なんかを考えると、頭が爆発してしまいそうなほど痛くなってしまう。

 そしてその痛みに慣れつつあるのもまた、否定しようがない事実で。

 彼女の観察研究を始めてからちょうど一年目の朝は、そんな俺の混乱から始まった。

 



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04 神殿長さまのかくしごと(下)

「──銀陽の姫巫女、ソフィラティア=エルガーデン。ここに参上しました」

 

 謁見の間に足を踏み入れると、姫巫女様のそんな言葉が、静かに響いた。

 並べられた椅子は全て空席のまま。姫巫女様はただ一人、祭壇の前に座っている。

 天井から降り注ぐガラス越しの陽光が、まるで劇場のように彼女を照らしていた。

 太陽のような輝きを携える銀髪は、石の床に大きく広がっていて。

 そして、閉じられた瞳の先に在るのは、龍を模した樹の彫像がひとつ。

 

「我らに導きを、救済の光を──銀陽龍様のお言葉をどうか、ここに」

 

 誰にでもなく──否、正確にはその向こうの世界へ、姫巫女様は語り掛けた。

 架け橋というよりは、『門』そのものである、と彼女は言っていた。

 龍と人は、文字通り棲む世界が違う。龍とは、世界を創造した者。つまり俺たちの存在は、龍によって造られたとされている。正確には原初の龍と称される幾つかの龍が世界を創造し、俺達はその世界が変化する過程で産まれた存在なのだが、元を辿れば同じなので割愛。

 とにかくここで重要なのは、龍とは本当に別の世界に棲む存在である、ということ。

 そして、姫巫女とはその世界と繋がる者。別の世界からの言葉を聴くことが出来るもの。

 

「……はい、分かりました。たとえこの身が朽ちようとも、このお役目は果たします」

 

 銀陽龍シルバソリオ。それが、姫巫女様がお仕えし、言葉を賜る龍の名である。

 それは太陽を産んだ龍であり、また世界を創造したという、原初の龍の一柱でもあった。

 

「……頼まれていたもの、ですか。はい、もちろん用意してあります」

 

 そんな、本来ならきちんとした神殿に祀られるはずの偉大な存在である銀陽龍が、どうしてこんなお世辞にも豪華とも言えない、大陸の隅にある小さな神殿に祀られているかというと。

 

「こちらが、先日街の方から頂いたアップルパイになります。お召し上がりください」

 

 姫巫女様曰く、銀陽龍様は意外と庶民派、らしい。

 ──以上、銀陽の姫巫女における観察研究の報告、項目三二より。

 

「林檎の甘味が出ていて、とても美味しかったです。ほっぺたが落ちそうでしたよ」

 

 組んだ両手を離し、頬に両手を当てながら、姫巫女様はそんなことを呟いていた。

 当然ながら神殿は既に開いているので、彼女の口調も丁寧なものになっている。

 龍の映し身である樹の像は、姫巫女様が何かモノを供えると、向こうの世界に居る銀陽龍へそのまま届く。原理が意味不明過ぎて姫巫女様に詳しく聞いてみたが、彼女はきっぱりと、「私が知る訳ないでしょ」と言った。つまりはまあ、そういうことらしい。

 像の前に備えられたのは皿に乗ったアップルパイ。しかしながらそれはすぐに下げられて、また別の食べ物が乗った皿を姫巫女様が差し出した。

 

「それとこちらも。先日に銀陽龍様がおっしゃられていた、通りのパン屋さんの新商品です。試食をさせてもらったのですが、中にチョコレートが入っていてとても美味しかったですよ」

 

 龍との対話は静謐の中で行われる。姫巫女様いわく、雑音が入ってしまうらしい。

 それに、姫巫女様ご本人も、銀陽龍様とのお話しは静かにしたい、とおっしゃっていた。

 なので俺は、まるで友人と話すように龍と言葉を交わす彼女のことを、静かに眺めていた。

 

「それと、先日神殿にいらしたお方からお菓子を頂いています。これも少し頂いたのですが、甘くておいしかったので、。ぜひ銀陽龍様も味わってください」

 

 なんて言いながら姫巫女様はパンの乗った皿を下げて、焼き菓子の入った籠を像の前へ。

 

「あと服屋の娘さんが作ってくれたクッキーに、以前欲しいとおっしゃられていたケーキも。もちろんどれもとても美味しいものですから、銀龍様にもぜひ……」

 

 なんて、ちゃっかり自分も備えた焼き菓子を摘まみながら、姫巫女様は──

 

 

「ぶほッ!」

 

 

 ぶほッ!? 

 

「ちょっ、太っ、いや、ないです! 大丈夫ですよ! ちゃんと適切な量を摂っていますし、ほんの少し、銀龍様へお供えするに値するかどうかを調べているだけです! そんな、決して味わう事が目的になっているわけでは……いや、本当です! そんなことしてませんっ!」

 

 先程の慎ましやかな様子とは一変して、姫巫女様は慌てるような口調で叫び始めた。

 

「それにですよ? 仮に太っ……ほんの少し、丸くなったとしても! ちゃんと運動をすれば元に戻りますから! 別に少しくらい食べすぎたって……」

 

 なんて言い訳じみたことを言っていると、姫巫女様はぴたりと体を止めて。

 

「へっ? アインがですか?」

 

 ……俺?

 

「だっ、だから! 何度も言っているように、アインとはまだそういう関係ではありません! 確かに彼はいい人です。私のことを全て受け入れてくれますし、心強く頼れる存在でもあり、それにですねたまにカッコいいところもあって、もしもそうした特別な関係になれるのなら、これ以上なく嬉しくはありますが、それはそれとしてまだ、まだその時ではないと……」

 

 ありえない程の早口だった。内容を聞き取るのが困難なほどに。

 

「と、とにかく! ちゃんと体調管理はしてますから! 大丈夫です!」

 

 ……主に俺が、と口を挟みたくなったが、彼女の名誉のために口をつぐんでおく。

 ちゃんと姫巫女様が健康的な生活を送れるよう、献立は毎日考えている。それでもなぜか、彼女は食べてもあまり栄養にならないというか、少し痩せ気味のままだった。本人はそこまで気にしていないし、太らない体質と言えばそれまでのことなのだろうけど。

 でも、やはり不安を感じるところはある。心配性と言われるのは初めてではなかった。

 

「え? 少しは太った方がいいって……結局どっちなんですか……」

 

 すると銀陽龍から何か指摘を受けたのか、姫巫女様はそう言ってため息を吐いた。

 

「確かに、私が痩せ気味なことは自覚しています。でも、それって仕方ないじゃないですか。こうして銀陽龍様とお言葉を交わすことで、かなり体力を消費してるんですから」

 

「えっ」

 

 初耳だぞ。

 

「別に銀陽龍様のせいとは言っていません。姫巫女としてそれは受け入れているので問題は……って、え? そういう話ではないのですか? では、一体どういう……」

 

 こてん、と首を傾げると、姫巫女様は何を思ったのか、その両手を自らの胸元へと当てて、

 

「…………………………」

 

 …………………………。

 

「こっ、これは仕方ないじゃないですか! 私、まだ子供なんですよ!? 胸がなっ……ひっ、控えめなのはどうしようもないものなんです! それにですね、私はいま成長期ですから! まだまだこれからの…………はず……です……よ? ……たぶん」

 

 叫んでいる途中で自分でも自信がなくなってきたのか、半ばに消え入るような声になって、姫巫女様はそう告げた。そしてもう一度自分の胸元へと手を添えると、重たい息を一つ。

 ……個人的には姫巫女様の言うとおり、そこまで焦る必要もないと思うけれど。

 というか銀陽龍と一体何の話をしているのか。そちらの方がよっぽど気になった。

 

「……銀陽龍様、ひとつお伺いしたいことがあります」

 

 沈黙したまま数分、姫巫女様は改めてそう、祭壇の前にある彫像へと向き直る。

 

「その、男の方は……大きい方か小さい方、どちらが好みなのでしょうか」

 

 果たして、そんな彼女の問いかけに、銀陽龍が返した言葉とは。

 

「人によるって……! どういうことですか!」

 

 ごもっとも。

 

「あなたは世界を創った龍でしょう? 曖昧な言葉で誤魔化さず、ちゃんと答えてください! 遠慮は要りません! たとえ逆境に晒されたとしても、私は決してめげませんから!」

 

 そのような言葉はもっと別な場面で聴きたかったが、彼女にとっては重要なことらしい。

 何が彼女をそこまで駆り立てるのか疑問で仕方なかったが、問い詰めるのは憚られた。

 それに答えを聞いたところで、俺の理解の及ぶものではないようだし。

 などとあれこれ考えていると、姫巫女様はふと首をこてん、と傾げて、

 

「え? 後ろの奴に聴け……って……」

 

 ……まずい。こんな状況で話を振られても……。

 などと心の中で悪態を吐いても、当然銀陽龍に俺の言葉が届くはずもなく。

 

「あ、アイン……?」

「……何時からとお聞きになるつもりであれば、最初から、とお答えしておきます」

 

 震える声にそう答えると、姫巫女様はがばり、と勢いよく立ち上がる。

 

「どうしてずっと黙っていたんですか! いるならいると言ってください!」

「ですが銀陽龍様とお話でしたし、それに声をかけるなと言ったのは姫巫女様ですから……」

「ええ、確かにそう言いましたよ! けど、それとこれとは話が違うじゃないですかっ!」

 

 もうっ、と顔に手を当てながら、姫巫女様は再びその場へと座り込んでしまう。

 すると彼女は、指と指の間から翡翠の瞳を覗かせると、恐る恐ると言ったような声色で、

 

「……ちなみにですけど、話の流れって分かりますか?」

「姫巫女様が、ご自身の胸を大きくしたいとしか」

「ああーーーっ! 致命傷ではないけどかなりの重傷っ!」

 

 叫びながら、姫巫女様は崩れるようにして地面へと蹲る。

 ……まあ、そういう話はあまり聞かれたくないだろう。特に異性には。

 

「うう……ひっぐ、えぅ……」

「泣くほどですか……」

 

 ぶるぶる震えながら涙を流す姫巫女様の傍で、そうやって声をかける。

 

「だって……だって、まさかアインに聴かれるなんて……」

「それは申し訳ありません。ですがあれは……半ば、事故のようなものでして」

「事故だとしても、私が恥ずかしいことには変わりないんです!」

 

 もうっ! と再び彼女は顔を手で覆い、そのままごろごろと地面を左右に転がり始めた。

 自暴自棄になって暴れられるよりはマシなので、そのままにしておく。

 しかし、恥ずかしいと来たか。俺は別には何とも思わないが、そういう話でもないだろう。

 それを踏まえて、姫巫女様の機嫌を直すには、どのような言葉をかければいいか。

 …………ええと、多分。

 

「姫巫女様、少しよろしいですか?」

「……なんです?」

「姫巫女様がお悩みになっていることは、決して恥ずべきことではありません」

 

 俺の言葉に興味を示してくれたのか、姫巫女様は転がるのをやめて、こちらを向いた。

 

「姫巫女様と近い歳で、同じような悩みを持つ女性の者も少なくはありませんよ。ですから、そうしたお悩みを持つことはむしろ、普通のことですから。安心してください」

「……それは本当ですか? 証拠は?」

「私の卒業した学院でも、そうした話題は一定数ありました」

 

 もっとも、そうした話の環に入ることはあまりなかったけれど。

 なんて数年前のことを思い出していると、ふと姫巫女様が俺を見つめていることに気づく。

 

「……アインは、学院に行ったことがあるのですか?」

「むしろ私のような者は、学院を卒業したものしかなれません」

 

 研究所勤め、というのも含めて。

 

「は、初耳ですけど! どうしてそんな大事なことを今まで隠していたんですか!?」

「いや、隠すも何も……姫巫女様がお気づきにならなかっただけで……」

「そんなの言い訳ですっ!」

 

 がばり、と俺の服を掴みながら、姫巫女様が迫ってくる。

 

「学院の様子はどんなものでしたか!? 勉強はどんなことをしたんですか!? いつも友達とはどんなことを!? あ、あとやっぱり学院と言えば、恋愛ですよね! アインは……」

「分かりました、分かりましたから! ちゃんと話しますから、落ち着いてください!」

 

 ぐいぐいとかなりの勢いで詰め寄ってくる姫巫女様に、思わずそう叫んで返す。

 すると彼女は珍しく聞き分けがよくなって、すんと口をつぐんで俺から離れてくれた。

 ……そこまでして聞きたいものなのだろうか?

 

「私が通っていたのは、ヴァルトネーベルの中央学院でした」

「ヴァルトネーベル? 中央?」

「ここの付近では、一番大きな学院と思ってもらって構いません」

 

 実際、この大陸では最も規模の大きなところではあるが、今は割愛。

 

「学院では毎日勉強しかしてなかったです。というより、勉強しなければなりませんでした。説明は省きますが、事情があって。自分で言うのもアレですが、一応優秀だったらしいです。専用の研究室もあてがわれていたので、卒業するまでそこにずっと閉じこもっていました」

「それは……大変だったのですね」

「大変でしたが、やらなければいけないことでしたから。仕方のないことです」

 

 弱音を吐く暇すらなかった。結果を出さなければ、学院に留まれるかすら怪しかったから。しかしそのお陰で結果も出すことができたし、こうして姫巫女様の傍にいることができる。

 そう考えればまあ、悪くはなかった。

 

「その、アインがしていた研究、というのは?」

「……この世界における、魔法というものの基礎についてです」

 

 嘘を吐くか迷ったが、果たして俺の口から発せられたのは、真実だった。

 魔法。かつては伝承や神話の中だけの存在だと思われていた、神秘の力。

 そして現代では研究が進み、実現が可能となっている、技術の一つであった。

 

「もしかして、だから私の元に来てくれたのですか?」

「…………というのは?」

「魔法について知っているから、私の元に来てくれたのかと」

 

 一瞬だけ焦りを感じたが、姫巫女様はそんな風に受け取ってくれていた。

 

「まあ、そうなります。姫巫女様が銀陽龍様と会話できるのも一種の魔法……我々の言葉で、第四魔法ということになります。ですから、傍に置くのであれば魔法に通じたものを、と」

 

 魔法学における第四魔法。人理超越。領域外の神秘。世界の理の向こう側にあるもの。

 つまり、まだよくわかっていない、人間の理に落とし込めていないもの。

 それが第四魔法であり、世界横断というのは、その中の代表的な魔法でもあった。

 

「かっこいいです! いかにも魔法博士、って感じで!」

「それを言うなら魔法学士ですが……今の私は、この神殿の神殿長ですから」

 

 できれば、姫巫女様にそう呼ばれる日が来ないことを願う。

 

「でも、それでしたらアインの学院生活は本当に勉強ばかりだったのですね」

「……それだったら、まだよかったのかもしれませんが」

「? どういうことですか?」

これは話してもよいものなのだろうか。確かに隠し事はなし、とは言ったが、さすがに。

 

 ……可愛らしく首を傾げてこちらを見つめる姫巫女様に、折れた。

 

「部屋をあてがわれた、と言いましたよね。もっと詳しく言うと、研究室なのですが」

「はい。そこでアインは研究をしていたんですよね」

「実は、同室の人間がいたんです。いわゆるパートナーと考えてもらって構いません」

 

 というよりは、無理やり組まされた同僚、というのが正しいのだろうが。

 

「パートナー……では、友達だったのですか?」

「友達……」

 

 そう形容してよいのか疑問に思ったが、今は置いておくことにした。

 

「楽観主義な奴でした。楽しければ何でもいいというか、自分が楽しめれば手段を択ばない、とんでもない奴です。そんな奴にどうしてか俺は懐かれて、たびたび振り回されていました。本当に地獄でした。奴の相手をするなら勉強していた方がマシと思えるくらいに」

「……部屋を変えることは、できなかったのですか?」

「可能であれば、部屋が決まったその日の午後には相談していましたね……」

 

 そして何よりも、このことを語る上で重要なのは。

 

「私のパートナーは、魔女だったんです」

「魔女……ですか?」

 

 第四魔法の権化。異常存在。選ばれし者。神秘と奇跡が融合した存在。

 そして、魔法学的に見るのであれば、姫巫女様の別称でもある。

 

「驕るつもりはありませんが、先ほども言ったように私はそこそこ優秀でした。成績も同期の中では常に最上位でしたし、何より学生に研究室が与えられること自体が異例です。自分が、あの学院の中でも重要な役目を担っている自覚はありました。ですが彼女は……!」

「ど、どうしたんですか?」

「……彼女は私と同じ成績で学院を卒業しました。そして、私は首席でした」

 

 最早、生きるか死ぬかの瀬戸際で足掻いている俺の隣を、彼女は悠々と並走してきたのだ。

 劣等感とか、そういう次元の話ではなかった。何だこいつ、と驚き呆れるような、そんな。

 

「魔女とは産まれながらに魔法を使える者のことを言います。ですから、彼女は初めから既に魔法における全てを理解していたのでしょう。首席なのはむしろ当然でした」

「す、すごい方なのですね……」

「ですが同時に優秀でもあり、研究をしている際に何度も助けられたのも事実です」

 

 それが彼女を語る上で一番癪なのだが、助けられている都合上、何も言えなかった。

 

「まあ、私の学院生活とはこんなところです。申し訳ありません、あまり面白くないもので」

「いえ、全然そんなことは……ええと、その」

 

 すると姫巫女様が何か聞きたい様子だったので、それに耳を傾ける。

 

「アインは、その魔女さんと……どこまで行ったのですか?」

 

 どこまで、というと……ああ、そういうことか。

 

「残念ですが、姫巫女様が想像するようなことは一切ありませんでしたよ」

 

 というより、こっちがから願い下げだ。

 

「いえ、想像とかそんな……ただ私は、アインはその人のことをどう思っていたのかな、と」

「同じ部屋である以上、一定の付き合いはありましたが、それだけです」

 

 本当にそれだけ。俺はそう認識している。たとえ本人に何と言われようが、それだけだ。

 

「ですから、今はどこで何をしているかすらも知りません。まあ生きてはいるでしょうが」

「そういうものなのですか……?」

「そういうものです」

 

 たとえ人類が滅んでも草花や鳥たちと一緒に生きているような、そんな信頼はある。

 

「……話が逸れてしまいましたね。申し訳ありません」

「いえ、アインのそうした話は初めて聞きましたから。新鮮な気持ちでした」

「それはありがとうございます……ええと、元は何の話を」

 

 ああ、そうだ。

 

「姫巫女様が、ご自身の胸を大きくしたいとか」

「そ、そうですけど……やはり、そう正直に言われると恥ずかしいですね」

 

 必死に当時の微かな記憶を引き出しながら、姫巫女様に向かって口を開く。

 

「私は男なので上手く助言できるか不安ですが……乳製品が効くという話はよく耳にします。それ以前にちゃんと健康的な生活をして、あとは……適度な刺激を与えると成長する、とも」

「適度な刺激? それはどういったものなのですか?」

「……あくまで噂や迷信である、というものを前提にしてお伝えしますが」

 

 俺の言葉に、姫巫女様がこくりと頷いた。

 

「自分が好意の寄せる人に胸を揉まれると大きくなる、というものでして」

「…………へ?」

「もっと軽い言葉で言えば、好きな人に揉まれると大きくなる、ということです」

 

 正直眉唾ものではあるが、実際に胸部への刺激は成長の要因にもなると。

 ……あの魔女の言うことは、どこか信じがたい。いや、正しいことを言っているはずだが、普段の振る舞いがそうさせるというか。胡散臭い、というのが一番似合うのだろう。

 

「す、すきなひとに……ですか……?」

 

 なんてことを考えていると、ふと姫巫女様がこちらを見つめていることに気づく。

 頬も心なしか紅潮しているし、瞳もどこかぼうっとしている。

 ……なにか、ものすごい速度で考え事をしているな、ということは理解できた。

 

「その、あくまで噂程度ですので、あまり正直に受け取らないでくださいね」

「そ、そうですよね! うん、大丈夫ですよ! 大丈夫! あはははは!」

 

 俺の言葉に姫巫女様はぱっと顔を上げて、そう笑った。

 ……やはり、そういった世俗的な話は教えるべきではなかったか。

 ただでさえ彼女は世間に疎いのだ。変な勘違いしてしまうかもしれない。

 そうしたすれ違いはやがて、街の人との交流に支障をきたしてしまう恐れがある。

 しかしながらそうした俗世間のことも知らないと、人の悩みを聴けないというのも事実。

 難しくはあるが、姫巫女様の傍に仕える者として、正しいことをお伝えしなければ。

 

「では姫巫女様、そろそろ儀式の準備を……」

「あ、いや、ちょっと待ってください!」

 

 なんて急に姫巫女様に引き留められて、思わずそちらへ視線を向ける。

 

「アインにもう一つ、聞いておきたいことがあるのですが……」

「はい、なんでしょう」

 

 すると彼女は消え入りそうな、ほとんど内緒話をするような声色で。

 

「アインはその、大きい方か小さい方、どちらが好みなのでしょうか……」

 

 …………ええと。

「それは……」

「あっ、まだ勘違いしないでくださいね! 別にその、ええと、アレです! 一般的な男性はどちらが好みなのかなと思いまして! 別に答えたくなかったらそれで大丈夫ですから!」

「ああ……そういえば、先程も銀陽龍様に言われていましたね」

 

 すっかり忘れていた。まさかここで聴かれるとは。

 ……どう答えたものか。正直なところ何と答えても、間違いにしかなりそうにないが。

 

「大丈夫です、アインがどのような好みでも私は受け入れますから!」

「どうしてそんなに覚悟が決まっているんですが……」

 

 悩んだ挙句、正直に打ち明けることにした。

 

「……一般的には、大きい方が好まれると言われています」

「ぐっ」

「ですが私は、どちらかといえば落ち着いた雰囲気が好みですから。そういう意味であれば、控えめな方を。なので必ずしも、大きい方が好まれるわけではないのでご安心ください」

「…………………………よし」

 

 どうしてか小さく拳を握りしめる姫巫女様に、思わず首をひねった。

 

「そ、そうですよね! 大きいからとか小さいからとか、そういう話ではないですもんね! 銀陽龍様に言われた時はどうかと思いましたが、気にすることでもありませんでした!」

「……そういえば、私も聞きたかったのですが」

「はい、なんでしょう?」

 

 にこにこと明らかに機嫌のよくなった姫巫女様に、問いかけてみる。

 

「先程、銀陽龍様が私の名を出していたようですが、あれはどういうことですか?」

「…………へ?」

 

 世界を見通す龍に名を呼ばれたということは、存在を認知されているということ。

 つまりそれは、俺の正体に関わることで。

 

「どうだったんですか? 銀陽龍様は、私のことを何と?」

「え、ええと、それは……」

「侮辱や軽蔑であっても構いません。銀陽龍様は私のことを、何と?」

「う、う……うううぅぅぅうううっ!」

 

 どん、と。

 急に叫び声を上げた姫巫女様は、俺を強く突き飛ばして、

 

「し、知りません! 知らないったら知らない! 知らないですもんね!」

「ちょっ、姫巫女様、どこへ……!?」

「わーっ! わー、わーっ! わあああぁああああ!」

 

 耳を塞いで声を荒げながら、そのまま謁見の間を跳び出てどこかへ消えてしまった。

 あまりに突飛な姫巫女様の行動に、思わず呆けてしまうこと数十秒。

 そこではじめて、ふつふつと後悔の念が体の奥底から湧いてきた。

 

「やってしまった……」

 

 自分の立場が危ういからと、あんな強引に姫巫女様へ迫ってしまうとは。

 もしかすると嫌われて……いや、一時的な反応だと思いたい。

 ……探しに行った方がよいのか、それともこれ以上声をかけない方がいいのか。

 でも姫巫女様なら、しばらくすれば戻られるだろうし、ああでも……

 

「……何をしてるんだ、俺は」

 

 元はと言えばあの龍が俺の名前を出したからこうなったのだ。

 責任を押し付ける気はないが、その経緯を知る権利はあると思う。

 まあ、どれだけ願っても無理な話ではあるが。

 

「バレてないことを願うしかないな……」

 

 気になったことは二つ。姫巫女様がどういうわけか、アインの名を出された際に、俺の事を褒めていたらしいこと。そしてそれが同調ではなく、反抗するような言い方であったこと。

 考えられるのは俺の正体が明かされたが、姫巫女様がそれを信じなかった、くらいか。

 そこまでの信頼を得られているかは疑問だが、そうあってほしいと願うほかなかった。

 

 …………姫巫女様に嫌われたくは、ないな。

 

『きみ、本当に乙女心ってのが分かってないね』

 

 どうしてかそんな、とある魔女の言葉が思い起こされた。

 

 



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05 紅蓮の魔女のかくしごと(上)

 その日は、指先が凍ってしまいそうなほどの、ひどく冷たい雨の降る日だった。

 言い渡された任務は、世界横断を内包する少女――姫巫女という存在の一人を極秘に保護、そのまま経過を観察しつつ、速やかに研究所へと保護するという、簡単なもの。

 だが正直なところ、俺はこの任務に乗り気ではなかった。というのも先代の姫巫女を殺し、その上で再び同じ過ちを犯そうとしている組織の任務に、乗り気になる方がおかしかった。

 

「……ここか」

 

 やがて俺が辿り着いたのは古ぼけた神殿だった。。

 入ってすぐは、大きな空間――龍の言葉を賜るための、謁見の間という施設だった。

 部屋の左右には幾つもの長椅子が並び、その中心を通るように赤い絨毯が敷かれている。

 そして、光。雨雲を切り裂く、白銀の陽射し。その中に立つのは、一人の少女だった。

 揺れるのは太陽の光を紡いだかのような、足先まで届く銀髪。瞳は海のような深い翡翠で、その双眸は俺のことを見つめたまま動かない。まるで、何かを見定めるように。

 振り続ける雨の中、差し込んだ光の先に立つ彼女は、まるで絵画のように麗しくて。

 見惚れていたんだと思う。どうしても少女から、目を離すことができなかった。

 指先が凍てついて、動かなくなるような、そんな錯覚を覚えていた。

 

「……誰?」

 

 静謐を破ったのは、彼女だった。

 一言。けれどそこには、一言では表せないほどに重く、そして縋るような意思があった。

 ……たぶん俺は、この時から解っていたのだと思う。

 彼女が姫巫女という偽りの自分に、今にも殺されそうになっていたということを。

 

「……私の、……名は」

 

 俺が最後の一人だった。巡り合わせなのか、それとも悪運と呼べばいいのか。

 結局今になっても分からないが、けれど後に退くことはしなかった。

 目の前の彼女が、まるで陽炎のように儚い存在に思えたから。

 

「私の名は、アイン」

 

 繋ぎ留めなければ。消え行く少女を見届けるのではなく、その手を握らなければ。

 そのためならこの俺の身など捨ててもいいと、心の底から確信した。

 それほど彼女は麗しく、神秘的で。そして、何よりも澄み切った存在だったから。

 

「あなたのお傍に仕えるため――あなたを救うため、ここに参りました」

 

 

 

「…………夢、か?」

 

 そうでなければあり得ない。姫巫女様との初めての邂逅を、俯瞰で眺めていることなど。

 箱庭のようだった。暗闇の中、意識だけがそこにあるような、そんな曖昧で不思議な感覚。

 俗にいう明晰夢というものだろうか。まるで、自分の頭の中を覗いているような、そんな。

 

「そこまで難しく考えんでもよい。お主にとっては夢で構わんよ」

 

 聞こえたのは女の声だった。老人のような言葉遣いに反し、声色は若い。その声の方へと、目──正確には意識そのものだろうか──を向けると、一人の少女が俺の前に現れた。

 薄い青の下地に銀色の装飾が施された、姫巫女様の巫女装束をそのまま豪華にしたような、そんな衣装。髪の色も姫巫女様と同じ輝かしい白銀で、顔立ちも心なしか彼女に似ている。

 違うのは、瞳が朝焼けのように眩しい、澄んだ橙色をしていたこと。

 そして、何よりも目を惹いたのは、頭の上に生えた山羊のような二本の角。それはまるで、空を閉じ込めて結晶にしたかのような、きらきらとした光を放っていた。

 

「こうして会うのは初めてじゃな、アーベントロートの者よ」

 

 俺の名前を呼ぶと、彼女は片手を上げながら、にかりと歯を見せて笑う。

 そこで初めて、細められた瞳の瞳孔が、まるで爬虫類のように細長いものだと気が付いた。

 ……確か、龍とは生物で例えるならば、蜥蜴や蛇のような爬虫類に似ているとか。

 まさか。

 

「銀陽龍様?」

「いかにも。我は銀陽の創造主、シルバソリオ=エル=ドラグニカ、その者である」

 

 むん、と胸を張って、少女──否、銀陽龍様はそうお答えになった。

 

「しかしよう分かったの。信じてもらうのに少しは時間が要るかと思ったが」

「……おそらく、こんなことが出来るのは、この世界で銀陽龍様だけかと」

「かか、確かにのう。聞いとるよりもお主はこの世界を理解しとるようじゃ」

 

 正しくは理解できないことを理解している、といったところだが。

 今だってそうだ。銀陽龍様が俺の前に姿を現した理由など、理解できるはずもなかった。

 

「だからそう難しく考えるなと何度言えば分かる。我が姿を現すのがそこまで珍しいか?」

「……龍とは、姫巫女としか言葉を交わせないものではないのですか?」

「いかにも。じゃが、どうも貴様とは波長が合うのじゃよ。あ奴の傍におるせいかもしれぬ」

 

 曖昧過ぎる返答に少し困ったが、事実として起きている以上、否定しようもなかった。

 

「さて、お主のことはよく知っておるぞ、アインラヴェンデル」

「……どういう、意味で?」

「そう怖がらんでもよい。本来のお主の正体なぞ知っておるし、お主の心労も解っておるよ。いやはや、面白いものを見させてもらっとるわ。安心せい、我はお主の味方よ」

「姫巫女様には」

「そこら辺は弁えておるつもりじゃ。言ってしまったほうが面白いと思うがの」

 

 ちっとも面白くないし、できれば勘弁してほしいところだが。

 

「それで、銀陽龍様はどうして私の夢に?」

「ああ、そうじゃった。お主に一つ、聞きたいことがあって来たのじゃよ」

「聞きたいこと、ですか」

「然り。我はその問いに対する、お主の答えを望む。別にこれはあ奴に言う訳でもないから、自分の好きに答えればよい。お主のそのままの答えを聞かせよ」

 

 それは、俺が研究所の職員であることも含めてだろうか。

 ついぞその疑問に答えることはなく、銀陽龍様は口を開き、

 

「アインラヴェンデルよ。お主は、姫巫女――ソフィラティアの事をどう思っておる?」

 

 そんな問いかけを、俺へ投げてきた。

 

「姫巫女様を……ですか」

「ああ。お主にとって姫巫女はどんな奴じゃ? 研究対象か? それとも尊ぶべき存在か? はたまた……いや、これは言うべきではないな。お主というより、あ奴に怒られそうじゃ」

「……少し、考えさせてください」

「好きにせい」

 

 によによと、やたら悪戯めいた笑みを浮かべる銀陽龍様に、そう言ってしばらく思考する。

 銀陽の姫巫女、ソフィラティア=エルガーデン。彼女は俺にとってどんな存在か。

 単純に答えるのなら姫巫女様、ということになるが、そういう訳でもないだろう。

 それではどんな人か、と思考を巡らせていると、意外にも答えはすぐに見つかった。

 というより、初めて会ったその時から、俺はこう思っていたのだろう。

 

「姫巫女様は、正直なお方です」

「……ほう? 続けてみよ」

 

 銀陽龍様に言われるがまま、その先を口にする。

 

「思ったことはそのまま口にしますし、他の何よりもご自身の気持ちを最優先するお方です。稚拙だとはあえて言いません。おそらくその在り方こそ、彼女が姫巫女である理由なのです。何者にも縛られない姫巫女様のお言葉は、確かに人々の助けになっています。ですが……」

「……なんじゃ? 申せ」

 

 これを銀陽龍様の前で言ってよいものなのか少し迷ったが、続けることにした。

 

「彼女は、嘘を吐くのが嫌いなのだとも思っています。ですから彼女が姫巫女であることは、同時に彼女自身を苦しめている。自分を偽ることに、ひどく罪悪感を覚えているのでしょう。でも、自分を偽らなければ姫巫女になれない。姫巫女でない彼女の言葉は、誰にも届かない。だから彼女は、自分の存在が消えかかっていようとも、姫巫女という機能で在り続けている。それが人々を救うために必要なことだから。自分しか、姫巫女はいないから」

「なるほどのう。よう見ておるわ」

「だからこそ私の前では、彼女は本当の自分でいてほしいと思います。自分を偽ることなく、自由であってほしい。そのためなら私はいくらでも彼女に付き合います。ありのままの彼女を受け止めます。それが、私が彼女にできる、唯一のことだと思いますから」

 

 そのためなら俺は、あの時と変わらず、やはり全てを投げ出せるような気がした。

 

「……只の人間が、ようそこまで言い張れるわ」

「只の人間だからです。私にできることは多くない。だからこそ、それを成さなければ」

「愚かだとは言わん。じゃがな、それはお主そのものを削っていることを忘れるでないぞ」

「……この俺の体一つで、彼女が自由になるのなら本望です」

 

 そう答えると、銀陽龍様は呆れたような顔で、大きな息を吐いた。

 

「ま、止めることはせん。それにそれくらいの方が、あ奴と相性がよいのかもしれんし」

「……それは、どういう?」

「なに、こっちの話じゃよ。お主は気にせずともよい。いずれ解ることじゃ」

 

 その言葉を気に掛ける暇すら与えずに、銀陽龍様は続けて口を開いた。

 

「さて、アインラヴェンデルよ。お主のその言葉、しかと我に届いたぞ」

「……答えになっていたでしょうか」

「充分すぎるほどにな。それに、お主がどういう人間なのかも理解できた」

 

 その言葉に、少しだけほっとする自分がいた。

 

「そろそろ朝が来る。夢から醒める時じゃ」

「分かりました」

 

 意識が朦朧としていくのは、そう答えたのと同時だった。

 

「ではまたの、アインラヴェンデル。次に会うのが何時かは分からんが、それまでに──」

 

 うっすらと霞んでいく視界の中、煙のように解けていく銀陽龍様は、俺へ向けて。

 

「──せいぜい女心の一つや二つ、理解できるようにしておくがよい」

 

 それが何を意味しているか理解する間もなく、暗闇に朝焼けが訪れた。

 

 ■

 

「おはよ、アイン」

 

 目覚めと同時に聞こえたのは、そんな姫巫女様のお言葉だった。

「…………おはようございます」

「珍しいわね、あなたがそんなにぐっすり眠ってるなんて」

 

 きょとんとした顔でこちらを覗きながら、姫巫女様はそう呟いた。

 

「今は」

「朝の十時。私も今さっき起きたんだけど、あんたの姿が見えなかったから」

「……申し訳ありません、すぐに朝食のご用意を致します」

「別にいいわよ、そんなに急がなくて」

「そういう訳にもいきません。姫巫女様のお体にも差し障るでしょうから、少なめでも──」

 

 と。

 ベッドから体を出そうとしたその瞬間、急激な眩暈に襲われる。

 まるで、地面が回転しているような、空中にいきなり放り出されたような、そんな浮遊感。

 そのまま床へ脚をつけることもできなくて、情けなくもう一度ベッドに横になってしまう。

 

「だから言ったじゃないの。私より自分の心配しなさいよ」

「……申し訳ありません」

 

 頬を膨らませる彼女に、そう答えることしか、今の俺にはできなかった。

 

「何があったの? 徹夜? それとも風邪? 熱は……なさそうだけど」

「……ご心配頂き、ありがとうございます」

 

 額へあてられた手を優しく退けながら、正直に打ち明ける。

 

「夢の中で、銀陽龍様とお会いしました」

「……はぁ?」

 

 なんて苛立った声を上げたかと思うと、姫巫女様が溜息と共に片手で顔を覆う。

 

「あの方は……あれほど慣らしてからって言ったのに!」

「……姫巫女様は、ご存じだったのですか?」

「私以外にも話せる人がいるってことはね。でも、あんたに会いに行くなんて聞いてない」

 

 ふん、と不機嫌そうに口を尖らせながら、姫巫女様はそう答えてくれた。

 

「……あんた、昨日の私と銀陽龍様の話、覚えてる? 真後ろで黙って聴いてたんでしょ?」

「断片的にですが……」

「その中で、私が銀陽龍様と話す時、すごく体力を使うって言ったけど」

 

 ああ、そういえば、そんなことを言っていたような……。

 

「……内緒にしていましたよね」

「それは……そうだけど! あんたに話す必要がなかったのよ!」

「言い訳……」

 

 いつもならもう少し問い詰めるところだったが、そんな体力も残っていなかった。

 

「そもそも龍と言葉を交わすっていうのはね、龍の力の一端を体で受け止めるってことなの。まして、相手は世界を創った原初の龍なんだからね? そうした反動があって当然よ」

「……姫巫女様は、それを毎日なさっているようですが」

「私は慣れた。っていうか、その対話に慣れる人間が姫巫女ってわけ。順序が逆」

 

 ……この疲労感と眩暈に慣れる? そんなことが出来るものなのか。

 

「ま、そんなわけだから少し休んでなさい。三十分もすれば元に戻るから」

「ですが、それでは姫巫女様の朝食が……」

「私のことより自分の心配をしなさいよ。あんた、一人で起きれるの?」

「でもそうしなければ、姫巫女様にご迷惑が――」

 

 そう言って再び立ち上がろうとするけど、やはり強烈な浮遊感が襲い掛かってくる。

 今度はベッドから落ちそうになったところを、姫巫女様に受け止められた。

 

「……次は無いわよ」

「申しわけ……ありません……」

「あんた、そういうところは無茶したがるのよね。別に私は気にしてないってのに」

 

 などとぶつぶつ呟いた姫巫女様が、よいしょ、とベッドの上へと乗り上がってくる。

 そして支えたままの俺の頭を、自らの膝の上へと優しく寝かせてくれた。

 …………ええと。

 

「姫巫女様」

「こうでもしないとあんた、休まないでしょ」

 

 真上から覗き込むさかさまの姫巫女様が、呆れた声で言ってきた。

 

「ですが、このような真似はその、あまりにも……」

「なに? 見惚れた女に膝枕されるのは嫌?」

「決して嫌ではありませんし、むしろそのお気遣いは非常に嬉しいのですが……」

「ならいいじゃない。十分とかでもいいから、しばらく寝てなさい」

 

 胸元を優しく叩かれると、瞼がだんだんと重くなっていく。

 暖かかった。まるで太陽に当たっているかのような、柔らかな温もりが感じられた。

 浸っていいものではないと思う。俺のような人間が、彼女の優しさに触れるなど。

 けれど、まどろみの中では立ち上がる力すらも湧かなくて。

 

「…………申しわけ、ありません」

「いいのよ。あんたは頑張りすぎなの」

 

 小さなその手で目を覆われる、その瞬間。

 

「私にも、少しくらい救わせなさいよ」

 

 姫巫女様が儚い笑みを浮かべているような、気がした。

 

 

 あれから姫巫女様に言われた通り少し休み、軽めの食事を喉に通してから。

 後に回していた謁見の間の掃除の、その最中のことだった。

 

「…………あれ?」

 

 それは何の前触れもなく、いきなり俺の目の前へと現れた。

 

「なぜ……」

 

 初めに感じたのは疑問だった。そして後からふつふつと湧き上がるように、恐怖が迫る。

 見間違いであってほしかった。だが、どうやらそういう訳でもないらしい。

 床でもぞもぞと動くそれに、俺はしばらく立ちすくんでから、ゆっくりと距離を取った。

 

「落ち着け……大丈夫だ、そう……何も問題はない……」

 

 自分に言い聞かせる。そうでなければ腰が抜けて、膝から崩れ落ちそうだったから。

 

「どうしよう……」

 

 出ていけと言って従うようなものでもないし、ましてや手で触れるなどできるはずが。

 ……いや。姫巫女様にお仕えする者として、そんな弱気になってどうする。

 

「やるしかないか……」

 

 一番いけないのは、あれが姫巫女様の眼に触れること。それだけは避けなくては。

 それに彼女の為に全てを捧げると誓ったのだ。そう考えると、不思議と肩の力が抜けた。

 ……守るものがあると人は強くなるというのは、どうやら本当のことらしい。

 何も恐れることはない。普段の俺のように、事務的に処理してしまえばいい。

 

「行くぞ」

 

 倒すわけじゃない。せめて箒の先で触れて、どこか遠くへ飛ばせれば。

 彼我の差は既に三歩ほど。そこから更に距離を詰めるが、あちらが反応する様子は無い。

 このままの調子でいけば、上手くいくはず。だから何事もなく──。

 

「ちょっとアインー? 体はもう大丈夫なのー?」

「あ」

 

 ぶーん。

 

「ああああぁぁぁああああああ‼」

 

 うわああああああ!? あああっ、ああああ! おあああぁぁぁぁあああああ‼

 

「ちょっ、は、え、何!? どういうこと!?」

「ひっ、ひひ、姫巫女様っ! どうかここから離れてください、今すぐ!」

「危険って何よ!? いいからちゃんと説明しなさい!」

「ですから――」

 

 ぶーん。

 

「あぁあああもう無理! やっぱり無理だろっ! ふざけるなよこいつ! 今すぐ死ね!」

「いや、だから何が……」

「今までありがとうございました! あなたにお仕えすることができて、本当に幸せでした! ここで果てるのに後悔はありません! ですからどうか、私の事は見捨ててください!」

 

 思わずそう姫巫女様に訴えるけれど、彼女は俺の背後を不思議そうに見つめるだけ。

 

「……何も、危険な風には見えないんだけど?」

「あなたにはアレが見えないというのですかっ!」

 

 半ば怒りの伴った叫びと共に、突き出した指の、その先に居たのは。

 

「……クワガタ?」

 

 すると彼女は、怪訝な目で俺の事を見降ろしながら。

 

「アイン? あんた、もしかして……」

「苦手なんですっ!」

 

 こうして情けなく、姫巫女様のお体に縋るほどには! 

 

「……ちょっと意外ね。あんたがこんな虫一匹でそんなに騒ぐなんて」

「逆にあなたはどうしてそんなに落ち着いていられるんですか!」

 

 そんな俺の疑問に、姫巫女様は呆れたようなため息だけを返した。

「とりあえずこの子は外に返しましょ。そこまで騒がれる方が不憫だわ」

「で、ですが姫巫女様……それは、虫……ですよ?」

「なるほど。あんたクワガタじゃなくて虫全般がダメなのね」

 

 なんて俺の言葉に呆れる様子を見せながら、姫巫女様は黒いその影へと手を伸ばす。

 そして──ひょい、と。

 まるで、作りかけの菓子をつまむような、落ちた筆を拾い上げるような。そんな気軽さで、姫巫女様はあの忌々しい生き物を掴み上げた。今までで一番心強い、彼女の姿だった。

 そうやって呆気に取られている俺など目もくれず、姫巫女様は片手で謁見の間の扉を開く。

 

「さよなら。アインがうるさくなるから、もう来ないでね」

 

 そんな言葉を添えてから、姫巫女様が手を放す。

 舞い上がったクワガタは、その雲一つない空へと羽ばたいて────ゆかずに。

 

『やっと見つけたよ、姫巫女サマっ!』

 

 などと、少し高い女の声で、高らかに叫んだのだった。

 

「え……? 今、喋って……」

『あーっと、別にこの子が喋ってるわけじゃないんだ。この子を通じて、私が話してるの』

「どういう……こと? ね、ねえアイン? これっ、どうして……」

『あはは、確かに不思議だよね! じゃあ、少し早いけど種明かし、いってみよう!』

 

 理解不能なこの状況で、ただはっきりとしているのは、その声の主の像。

 そして、それはおそらく、この世で一番姫巫女様に見せてはいけない人物のもの。

 

「──っ、姫巫女様ッ! こちらへ!」

 

 宙に舞うクワガタに赤熱を始め、その身を紅蓮に染めると同時、周囲へ炎を舞い踊らせる。

 紅に染まる炎の向こう、一瞬のゆらめきの後に現れたのは、一人の少女だった

 背中まで届く長い金髪に、赤黒い全身を包むローブと三角帽子。瞳は薔薇を描いたような、強く輝く朱の色。そして顕れた彼女は、こじんまりとした唇から大きく息を吸い込んで、

 

「初めましてだね、姫巫女サマ! 私のなま」

 

 ばたんっ。

 あぶない、間に合った。

 

「……今日は神殿を閉めましょうか。姫巫女様も、毎日働きづめでは大変でしょうし」

「あ、え? いや、えっと……今、扉の向こうに何か……」

「見間違えたのでは? やはり姫巫女様もお疲れのようですから、今日は休みましょう」

「で、でも……なんかあのクワガタが燃えてて……」

「クワガタなんて、そんな虫がこの神殿に入り込むわけないじゃないですか」

「あんたさっき、思いっきり私に抱き着いてたけど!?」

 

 知らない。忘れた。というか俺が姫巫女様にそんなことするだろうか。ありえん。

 

『ちょっとー、いくらなんでもひどくない? せめて名乗るくらいはさせてよー!』

 

 ……違う。これは幻聴だ。そうであってくれ、頼む。

 

『相変わらずアイくんは恥ずかしがり屋さんだなぁ。そんなに照れなくたっていいのに』

 

 聞こえない。何も聞こえない。そうだ、今日の俺は彼女と久方ぶりの休日を過ごすんだ。

 ゆっくりお茶をしながら一緒に本でも読んで、何の変哲もない日常を過ごすのだ。

 

『んもー、いい加減、顔くらい見せてよ! 私もちょっと手段選んでられないの!』

「だったら帰れ!」

『それがそうもいかなくてさー……この扉っていくらするの? そこまで高くないよね?』

 

 いや待て! いくらなんでも、それは洒落にならない──

『そぉ──れっ!』

 

 ごばぁん、と。

 腹の底に重く響く轟音と共に、俺と彼女を隔てていた扉が、はるか後方へと吹き飛んで。

 差し込んでくる白い光の中に立つのは、金の髪を輝かせる一人の少女だった。

 

「さっきぶりだね二人とも! じゃあ改めて、自己紹介いってみよう!」

 

 指先で上げた三角帽子の下には、意味が分からないほど清々しい笑顔が浮かんでいる。

 そしてそれは、願うならもう二度と見たくない、魔女の笑顔だった。

 

「私の名前はエフィカトラシアルバフラム! 紅蓮の魔女、フラムって呼んでね!」

 

 



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