その葬列に私は居ない (梅せんべい)
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其之一 君は蝶ではなかった(1)

 


 太陽が南の空を過ぎたころ雲一つない青空の下、木々がその光を遮る薄暗い山道を少女が一人足早に歩いていた。

 

さらりとした後ろ髪は上半分だけが結われており、残りは肩口で揺れている。女子にしては珍しく黒い詰襟の装束に身を包み、その上からは青鈍色の羽織をまとっている

 

珍妙ななりをした少女の腰には、この平和なご時世において時代錯誤ともいえる一振りの刀が何の不自然さも感じさせずに下がっていた。

 

奇妙な少女は常人らしからぬ速さにもかかわらず、息一つ乱さずに薄暗い道の先へと消えた。

 

 

 

———————————

 

 

 

 山間の村の周辺で人が静かに消えている。調査に向かい鬼を見つけ次第鬼殺を遂行せよ。

 

のどかなはずの昼下がりに鎹烏の口から発せられた任務を遂行すべく、鬼殺隊の階級壬である喪上千晴(もがみちはる)は真昼間から少し遠い任地へと赴いた。

 

 

 鎹烏の案内のもと、刀を見とがめられることのないよう人の少ない険しい山道を行くと件の村は目前に迫っていた。

 

「暗いな」千晴がその村を見て初めに浮かんだ言葉がそれだ。

 

村は山に抱き込まれるようにして存在しているためか日当たりが悪く、日暮れには大分早い時間でありながら山の影に覆われていた。また、道中にも感じたことだがこの周辺の山は葉を茂らせた木が密集していて日中だというのに薄暗かった。

 

なるほど、日の光を嫌いそうなモノが集まりそうな場所である。

 

 

 

 

 

 

 村を抱き込む山の向かい、村の入り口に相当するであろう場所に近づくと千晴は一人の少女が立っているのに気が付いた。自身と同じ隊服と腰に下げられた刀が遠目からも見えたので、この少女が今回の任務を共にする隊員で間違いないのだろう。

 

「はああ・・・」

 

「憂鬱です」という千晴の内心を現すような盛大なため息がこぼれるが、これは仕方がないのだと千晴は胸の内で思う。

 

なにせここで隊員など正直見つけたくなかったのだ。鎹烏からこの任務が合同であることを聞いた時から嫌だったのだ。

 

もうどうしようもないとでも言うように千晴は歩きながら天を仰いだ。

 

「うん、そうだな。もうサクッと終わらせる、そして帰ろう…」

 

ぽつりと呟いた言葉は千晴の心情とは真逆の高く透みきった青空に消えた。

 

 

 

 

 

 

 この度ともに任務にあたる少女は名を胡蝶しのぶと言った。

しのぶは千晴と同じ十四の娘であったが、千晴よりも上背がなく華奢な体躯の、それでいて力強い瞳の美少女であった。

 

「それでは喪上さん、今日はよろしくお願いします。早速ですが情報の共有をさせてください」

 

千晴が名乗り終わるとすぐにしのぶは本題へ入った。無駄に喋る必要がないのは千晴にとって嬉しいことではあれど、どうやらしのぶは怒っているらしい。

 

来るときに嫌な顔をしたのを見られたのだろうかと千晴は内心首をひねりつつ先を促した。

 

「はい、それでは、先ほど通りがかりの数人に話を聞いてみましたがどうやら人が消えているのは本当のようです。消えるのは村人だけでなく近くの街道を通る人々も含まれているそうなので、今回討伐する鬼はだいぶ人を食っているかもしれません」

 

しのぶが嫌悪を顔に滲ませてそう言い切るのを見て、どうやらしのぶは千晴にではなく鬼に対して怒りを抱いていたのだとわかり、千晴は内心「ほっ」と安堵しながらしのぶの報告に質問を投げかけた。

 

「街道を通る人々・・・ということは向かいの街道のあたりを中心に鬼が出るということでしょうか」

 

「いいえ、人の消えた場所はそれぞれ違う場所のようです。宿に泊まっていたはずが翌朝荷物を残したまま消えたとか、道に貴重品や荷物が散乱していたとか。なので次にどこに出るのかの目星は今のところつけられそうにありません」

 

しのぶは眉間にしわを寄せて悔しそうに言ったが、よくこれだけの情報が集まったものだと千晴は素直に感心した。

 

「そうですか、遮ってすみません。ほかには何か・・・」

 

「いいえ。私が知りえたのは残念ながらこれだけです。喪上さんの方は何か?」

 

「すみません。私はつい先ほどここに着いたばかりでして」

 

申し訳ないと言うように千晴は軽く頭をかいたが、しのぶは気にしていないとその大きな双眼を細めて小さく笑った。

気の強そうな表情をしていたしのぶだが目尻を下げると一変して可憐な少女だと千晴は思った。

 

「でも今回は運がよかったです。いつもならこんなに情報が集まることはないのですが、井戸端会議というのも馬鹿にできませんね」

 

「井戸端・・・」

 

「はい」

 

「・・・はあ、なるほど」

 

ここのような小さな村での情報の回る速さは千晴も知っていた。時に煩わしく千晴を苛んだものだが、このように役に立つこともあるので何とも言い難いものである。

 

気を取り直して千晴はしのぶに問う。

 

「ではこの後ですが、私は日が暮れる前に聞き取りをしつつ村とその周辺の立地を把握しておきたいのですが、胡蝶殿はどうしますか」

 

「そうですね」

 

しのぶは口元に手を置いて逡巡したのち

 

「今のところできることもないのでご一緒させてもらいます」

 

そう言って少し高い位置にある千晴の顔を見つめた。

 

見上げてくる瞳の中に自分には無い熱意を感じて千晴はそっと目をそらした。単純にきまりが悪かっただけなのだがもっと悪い捉え方をされたらしいく、しのぶがかすかに怒気を放つのを千晴は敏感に感じ取った。

 

「では喪上さん。改めて、よろしく……よろしくお願いしますね」

 

「あ、ええ。こちらこそ」

 

幼くも可憐な微笑みの下には般若がいてその目には隠しきれない苛立ちがあった。

千晴が「この子怒りっぽいな」と胸中で感想を吐露している間に、しのぶはくるりと身をひるがえして村の方へきびきびと足を進めはじめてしまった。

 

 

 

 

しのぶの言葉遣いは丁寧で挨拶もしっかりとしていた。気が強いようだが礼を失しない堪え性がある。そして何より真っすぐだった。

 

きっと良い家の子どもだったのだろう。

 

「少なくとも自分と同じような孤児とは違うな」そんなことを考えながら千晴は目の前で颯爽と風を切る蝶にしては些か凛とした背中を追いかけた。

 

 

 

 

 

—————————————

 

 

 

 結局二人は新たな鬼の情報を得られずに日暮れを迎えた。夜の帳が降りあたりが月光の映える紺色の暗闇に包まれても山々は墨を垂らしたようにじっとりと黒をまとっており、かえって昼間よりもその暗さが際立つようだった。

 

今夜は白く美しい満月が闇を照らしているので一層そう感じるのかもしれなかった。

 

 視界を意識的に広く取り、全方位の音が体に溶け込むように意識を集中させる。ゆっくり深く空気を吸い込み、その空気を味わうように体の中に一瞬留めてからすっと一気に吐き出す。

 

そうすると千晴は自分の体が溶け出して周囲の空気と一体になっていくような感覚になり、周囲の気配に敏感になる。千晴の後方には今日出会ったばかりのしのぶの気配がある。肩の力が抜けきらないようだが落ち着いていて周囲に気を配れているようだった。

 

千晴はもともと周囲の空気や気配、特に敵意を重さとして感じとる能力に恵まれていた。孤児であり日々安全に飢えた彼女の処世術であったが、千晴を拾った育手の下で呼吸を身に着けるとき副次的にその能力を高めていた。

 

 

警戒を続けながら村を歩く二人の耳に突然甲高い叫び声———女の悲鳴が届いた。

とっさに二人は悲鳴が上がった方向に顔を向けた。

ずいぶん距離があるのか反響して聞き取りづらい。実際千晴の横に来たしのぶは正確な位置がつかめていないようで悲鳴の上がった方向にその鋭い目線をさまよわせていた。

 

「街道と村の間…」

 

ぽそりと千晴の口からこぼれ出た言葉にしのぶが勢いよく振り向いた。

 

その顔には驚愕と「どうしてわかる」という疑問が浮かべられている。

 

「索敵は得意なんです」

「ならどうして「どうして今まで気が付かなかったのか…ですよね。簡単です。ちょっと遠すぎる」

 

悲鳴の上がった場所を正確に睨みながら千晴が言うのと同時に二人は山に向かって走り出した。

 

 

 

 

 

 

 村の奥の山を通る街道は千晴が通ってきた道とは異なり人通りが多く、平坦で歩きやすくなっている。しかし日中でさえ薄暗いと有名なこの道を日の落ちた時間に歩くようなものは居ないはずであった。

 

 千晴が「遠すぎる」と言った通り二人のいた場所から街道まではだいぶ距離があった。とは言え常人以上の速度で息も切らさず村を走り抜けると、街道へとつながる山道は目前となった。

 

駆けながら索敵を続けていた千晴は山道に入る手前で突然その足を止めた。

「どうかしましたか」

 

焦れたようにしのぶが小声で詰め寄ると、口元を掌で覆いながら千晴が答えた。

 

「いや、鬼の気配が……広い、のか、変な感じで」

 

「ううん」と千晴は首をかしげる。

 

「…あと、街道に人が一人…で…?」

 

千晴が言い終わる前にしのぶは日輪刀の柄に手をかけて街道に続く山道へ駆け出した……と同時に千晴がしのぶの腕をつかんで行くのを妨げた。

 

「喪上さん、何をするんですか」

 

「え、いや。そっちこそどうゆうつもりですか」 

 

互いにわけがわからないと言うように相手の顔を凝視する。

 

「どういうって…鬼を斬りに行きますが」

 

「え、だから、どうしてですか」

 

「は?」

 

あまりの驚きにしのぶの思考は一瞬止まった。目の前の、本気で戸惑っている千晴が理解できなかった。

 

「私たち鬼のこと何も知らないじゃないですか」

 

——だから、なんだというのだろうか、人がいるのだから行かねば。どうしてか千晴の困ったように笑いながら紡がれるその言葉の先を聞きたくないと思った。

しかし千晴は当たり前のことのようにしのぶに言って聞かせた。

 

あたりまえのように、

 

「なので、すぐに飛び込んでいくのはあまりに無策ではありませんか。様子を見てからにしないと」

 

そう言った。

 

「なにを、何を言っているんですか!人が襲われているかもしれないんですよ!」

 

千晴の言葉を理解すると同時にしのぶは激昂した。眦を吊り上げ額に青筋を浮かべて、さすがに小声ではあったが千晴に詰め寄る。

 

「いや、別に助けないとは言っていないじゃないですか。ただ、一度様子を見てからの方がいいと」

 

「言っているんです」という言葉は、突然後方で聞こえた「ぎゃあっ」という男のくぐもった声にかき消された。

 

瞬間しのぶは千晴が止める間もなく山道を駆け上がってしまった。

 

「ああ、ちょっと!」

 

自身の声も無視して消える背中を見て千晴は逡巡した後「くそっ、安全第一なのに」と小さく悪態をついてしのぶの後を追った。いくら無策で飛び込むことに納得できなくとも、今はバラバラになる方が危険だと千晴の勘は告げていたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 しのぶの後を追って狭い山道を駆け上がると比較的広い街道に出た。目の前ではちょうどしのぶが一人の男を救出しているところだった。男は鬼の血鬼術であろう木の根が体中に巻き付き雁字搦めにされていたが、しのぶは蟲の針を思わせる特殊な形状の刀を器用に振るってその根から男を解放した。

 

 どさりと地面に膝をついた男は日焼けした肌に簡素な仕事着をまとっていた。身なりから察するに近くの住人らしい。

首を締めあげられていたのかごほごほと喉を抑えながらせき込む男の背をさすりながら、しのぶはしきりに「大丈夫ですよ」と声をかけていた。

 

「大丈夫なものか、こちとら鬼の気配の広がる場所に足を踏み入れたというのにあちこちから鬼の気配がして首の在りかがわからないのだぞ」と千晴は愚痴りたかったのだが、さすがに今しがた訳も分からず襲われていた人間の前で言うことではないと判断できる良心はあった。

はたしてそれは正解であった。

もしそれを言おうものなら、しのぶは介抱していた男の横から全力で一歩を踏み込み千晴の小綺麗な顔面に一発ぶちかます所存だった。全集中の呼吸で。

 

「ごほっ、はっはあ……ああ、ありがと、ありがとうございます。死ぬかと、思いました」

 

体が丈夫なのか意外に早く男は落ち着いた。

 

しかしそれとは反対に千晴はどんどん落ち着けなくなっていた。

刀もすでに鞘から出され、その赤色の刀身を中段に構えて神経を研ぎ澄ましていた。

 

なぜなら……。 

 

「まずい、まずい。ここら一帯に鬼の気配だ・・・完全に囲まれた。構えろ胡蝶」

 

先生——千晴を拾った育手の下で叩き込まれた丁寧な言葉遣いをかなぐり捨てて千晴は半ば叫ぶように言った。

千晴に言われるでもなくしのぶもそれはわかっており、油断なく周囲をうかがっていた。

 

そんな二人の姿に不安そうな顔で縮こまる男に、しのぶは優しく微笑みかける。

 

「助かった早々にすみませんが、そこでじっとしていてください」

 

「は、はい。ええっと、」

 

「説明は後程します。今は私たちを信じてそこに居て下さい——あなたを必ず守ります」

 

その笑顔は若干強張っていたが、眼には確固たる意志あった。それを、その拙い強がりを、たった数秒のやり取りを、千晴はただじっと見つめてまたすぐに何もなかったかのように顔をそらした。

それは紛れもなく熱意であり千晴にはないものだったからだ。

 

 

 

 視野を広げ音を聞き、一瞬で集中状態に移行する。千晴の口からこぼれる呼吸も既に普段のものから炎のごとき苛烈な呼吸に切り替わっていた。

 

空気が変わった。それまであった周囲の淀んだ空気が重くなり、鋭い敵意に一転したのが分かった。

 

「来るぞ!」

 

叫ぶと同時に、四方八方から木の根が千晴たち三人に襲い掛かった。男を中心にして互いに背を守りながら襲い来る木の根に刃を振り下ろした。

 

 

 山の中から出てくる木の根を捕捉するのは千晴にとっては簡単な作業だった。攻撃が来る前に空気の重さが変わるのを感じられるからだ。そして木の根自体も頑丈ではないのか、型を出さずともたやすく斬れる。

 

しかしいつまでもこの状況を続けるわけにはいかないのだ。型を出さないにしても呼吸は未だ負担が大きくいつまでも続くわけではない。

 

どうすべきかを考えながら千晴は背後のしのぶにも意識を割く。

しのぶは蝶のようにひらりひらりと動きながら的確に木の根をさばいている。その流麗な足さばきは千晴を上回っているが、木の根を受け流したりはじいたりすることが多いところを見ると膂力は千晴の方が勝るらしかった。

 

しかし男を救出しているときも思ったが、しのぶは相当な手練れのようだった。何故か苛立っているが動作の一つ一つが洗練されていて、よほどのことがない限り崩れることはなさそうだった。

 

 

 

 

 木の根と格闘し続けること数分、刀を振るい続ける二人は段々とこの血鬼術にも慣れてきていた。

しかし、三人を中心にぼやけて広がっていた鬼の気配が段々と形を成していくのを千晴は感じた。一定の重さに広がっていた空気が収束し、どす黒い、鉛のように重い気配がヒトの形———否、それを喰らう鬼の形を成した。

 

空気のように突如現れた鬼は艶やかな長い黒髪をなびかせ、赤い豪奢な着物を着た女であった。闇夜に浮かぶほどの真白の肌に唇の紅が映える美貌の鬼だ。しかしその足元からは黒い根が蠢き、さながら大樹の根が地面に食いついている様なありさまだった。

 

鬼の出現に凍り付いた空気の中で鈴のような声が響いた。

 

「今日の晩飯を釣ったつもりであったが、いらん物が二つも付いてきてしまったなあ」

 

美貌をゆがめてカラカラと心底おかしそうに鬼が嗤う。口を開くたびに明らかに人間離れした鋭い牙が覗いて、千晴は自然と刀の柄を握りしめた。

 

「どれ、長らく暇であったからのう、そなたらも楽しむとよい。鬼事は好きであろう」

 

考え込む仕草をした後にわざとらしく鬼は笑って、両手を千晴たちに向かって伸ばした。その動きに合わせて再び木の根が獲物めがけて押し寄せた。

 

「ぐっ」と思わず千晴の口から声が漏れる。

さっきまでと血鬼術の威力が段違いだ。早くて重くて何より硬い。斬れないわけではないが気を抜くと一気に絡めとられる、そんな予感があった。

 

加えて厄介なのが血鬼術の見た目だ。先程までは木そのものであったのに対して鬼が現れてからの血鬼術は真っ黒なのだ。闇に紛れて格段に見えづらくなっていた。

そのため素早いものに対しては視覚にも頼らねば使い物にならない千晴の索敵能力では捉えきれなくなっているのだ。

 

段々と小さな傷が増えてきた、このままでは消耗するだけで嬲り殺される・・・そうなる前に動くことを千晴は選んだ。

もちろん無策ではない、千晴の索敵能力はしっかり血鬼術の穴を見つけていた。

 

「胡蝶殿!消耗する前に一気に叩く。民間人は任せた」

 

「はあ?」

 

突然のことに声を荒げ「ちょっと待て」と止めるしのぶの声を置き去りにして千晴は一気に駆け出した。

 

千晴が見つけた勝機、それは鬼の本体ががここに現れたことだ。黒い血鬼術をさばきながら必死に鬼を観察して千晴は違和感に気が付いた。

さっきまでと空気の重さの比重が違うのだ。明らかに鬼の周りの空気、つまり敵意が重い、重すぎる。四方八方から襲い来る木の根の分の重さが周りの空気から減っているのに、威力が強くなった分だけ空気も重くなるはずなのに、鬼だけが異様に重い。

 

その齟齬こそが血鬼術の穴だった。

 

つまり、鬼が現れるまではバラバラだった血鬼術の出所が一か所にまとまったのだ。それまでは木々と一体化でもして出所を拡散できていたのだろうが、血鬼術の威力を上げるために姿を現したことで鬼の足元にその出所を収束せざるを得なくなったのだろう。

 

ならば、血鬼術を一掃できれば首に近づくのは容易い。

 

確かな勝機を見つけて鬼狩りは駆ける、その呼気は熱を持ち、振るう刃は見るものに猛る劫火を幻視させた。

 

「炎の呼吸、肆ノ型 盛炎のうねり」

 

炎が渦巻くように放つその技は使用者の前面の範囲攻撃を打ち消すことにも有効とされている。

威力は落ちるものの早々に決着をつけるべく走りながら技を出すことで急速に近づく千晴に明らかに鬼は狼狽えていた。

 

「この、蠅が!」

 

鬼は長い髪を振り乱して叫びながら、焦りと怯えを孕んだまま腕を薙いだ。

 

同時に繰り出される血鬼術は明らかに動きが単調になっていた。様々な角度から絡めとろうとしてきた今までとは違い、千晴を押し返そうと直線的な動きで読みやすい。

 

さらには獲物をを囲い込むように展開されていた木の根も千晴を押し返すことに重きを置いたのか千晴の目の前に収束していた。だがそれは狩人の思うつぼでしかない。

 

「そのように標的を一カ所に集めて……刈りやすいことこの上なし!」

 

気合とともに刀を振るえば千晴の眼前で木の根は飛散し、怯えたように体をのけぞらせる鬼の姿だけがあった。

 

しかしその顔は先程までの怯えた表情ではなく、自棄と喜悦の相反する二種の笑みを浮かべていた。

 




 今回が初投稿です。文章を書くのも久々だし、横書きが難しすぎる!普通に!読めるのに!書けない!

評価、感想お待ちしてます。


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其之二 君は蝶ではなかった(2)

 どうして、どうしてこうなったのだ。

自身の血鬼術である黒い木の根が次々に刈られ、迫る炎を幻視する鬼———六条は焦りと怯えという久しく感じることのなかった感情の渦中にいた。

 

 この山を拠点にしてだいぶ人を喰らった。血鬼術も使えるようになって更に喰らった。今日もいつも通りに人間を喰らってやるつもりだったのに、私の悲鳴で男が釣れるのはいつも通りだったから血鬼術を仕込んだ木立に同化して何人かの男を捕らえるつもりだった。

一人目を捕らえたところで鬼狩りの小娘二人がやってきたのだ、そうだ、ここからおかしくなり始めたのだ。この前来た鬼狩りはこの深い暗闇に慣れる前に食ってやれたのに、どうして捕まらないのだ。同化したままでは威力が落ちるからわざわざ姿を見せてまで叩き潰しに行ったのに、どうして私があんな子娘どもに追い詰められているのだ。

 

「この、蠅が!」

 

蠅のくせに、鬼に敵わない矮小な人間のくせに!悔しい。

下唇を思いきり噛むとすぐに血の味が口内に広がった。悔しい、悔しい!頭が沸騰しそうだ。ああ、けれど

 

「———このまま終わりたくない」

 

ひどく懐かしい感情に思考が揺さぶられた。

あの時も・・・あの時?・・・あの時はどうしたのだっけ、そう、あの時。ああ・・・そうだった、相討ち同然でもちゃあんとあの人の腹の中身をぶちまけてやったんだった。

 

 

反射的に収束させてしまった血鬼術が鬼狩りの炎に飛散されるなか、千切れた木の根を修復することもなく六条はとっさに地中に残した一本の木の根を全力で伸ばした。炎を背負う鬼狩りの足元に向かって。

 

六条と鬼狩りを隔てる木の根がことごとく吹き飛ばされ二人の視線が交わった瞬間、六条の血鬼術は鬼狩りの背後から姿を現した。

 

本当は真下から串刺しにしてやりたかったのだけれど、それでもまあいいわ。それにしても、いいわねえ・・・その顔、あの人もそんな顔したわ、その青褪めた間抜け面。

 

 

 

 

 

 

 

鬼が嗤う顔を見た時にはもう遅かった。

ずぼっと背後から音がして、気づいた時には先の鋭い真っ黒な木の根が自身のの心臓を捉えていることが千晴には分かった。けれど千晴の態勢は鬼の血鬼術を打ち払ったまま、刀を持つ腕は下がり姿勢は前傾、完全に崩れている。

 

終わりという文字が脳裏でチカチカとはじけた。

 

けれどまだ、まだ「死にたくない」その思いがどっと千晴の胸中であふれた。死にたくない、痛いのも嫌だ。本当は怖いのも嫌だ。でも刀をとるしか、自分の力でしか自分を守れないから。

 

「動けっ」身体。

 

踏み込んだまま重心の乗っていた足を宙に蹴り上げて一気に体を反転させる。傷を負うのは確実だがこれで一旦終幕からは遠ざかる。

しかし瞬時に切り替わった視界が捉えたのは迫りくる脅威ではなかった。

 

艶やかな髪に留まる青紫の蝶——胡蝶の背中だった。細い刀で木の根を打ち払ってはいたものの、肩口がざっくりと斬られているのが目に入った。

 

「なんで」という言葉すら出てこない、有り得ざる光景に千晴はただ口をぽかんと開けて呆けていることしかできなかった。しかし、

 

「何してるんですか、ぼさっとしない!」

 

瞬時にこちらを振り向いたしのぶの大喝に千晴の弛緩した体は跳ね起き、思考は背後の鬼に集中する。

 

「鬼の首は」

「いける!今度こそしくじらない」

 

極度の緊張状態は千晴の察知能力を引き上げたのか、見えていないはずの背後の状況が手に取るように分かった。

血鬼術は修復されて鬼の足元から再び木の根が溢れ出た。濁流のように押し寄せるそれは、しかし千晴に届かない。

 

「二度も同じ手なんぞ……喰らうか馬鹿ァ!」

 

振り向きざまに跳びだして一閃。赤き刀身は猛獣となって違うことなく鬼の首に牙をむく。

 

「伍ノ型 炎虎ォ!」

 

振り向く体の回転も乗せた全力の一撃はその字のごとく虎となって血鬼術ごと鬼を屠った。喰いちぎられた鬼の首はとさりと地面を転がって、木の根はすべからく霧散した。すでにボロボロの体もはらはらと儚く崩れ始めていた。

 

終わりの幕が垂れたのは六条だった。

 

 

 

 伍ノ型を放った際に切り倒してしまった数本の木も鬼と同様に地面に伏し、暗闇を作り出す深い木々の中ぽっかりと開いた隙間から一筋の青白い月光が優しく千晴たちを照らしていた。

寂しさを感じさせるほどに美しい月光の中で鬼はボロボロと形をなくし、ついには消えてしまった。豪奢な着物の切れ端だけが風にさらわれるのを見届けて千晴は手に握った刀を腰の鞘に戻した。

 

キンッと鳴る鯉口の音で千晴はいつも戦いの終わりを実感する。張り詰めた緊張がふっとほどけて手足の先までじんわりと血が通うのが今はひたすら心地よかった。

 

 しかし彼女は忘れていた、鬼殺が終わって弛緩した思考は自身の失態ともう一人の少女を忘れていた。

 

 突然首の後ろと両肩がガッと下方に引かれた。完全に緩み切っていた千晴は「おわっ」と素っ頓狂な声を上げて現状の把握に努めると、いつの間にか正面に回っていたしのぶが千晴の襟ぐりを掴んでいるのだった。

しのぶの顔は俯いていて見えないが、額に浮かぶ青筋が怒りを明確に伝えていた。さらに視線を下げると肩口の傷は軽くないようで白い羽織を赤が染めているのが見えた。瞬時に自分の失態を思い出した千晴はこれからされるであろう糾弾を前に身を固くした。

そんな様子に目もくれずしのぶはゆっくりと口を開いた。

 

「あなたは、そんなに私が信用ならなかったんですか?」

 

「・・・・・・・ん?」

 

ぽつりとこぼされたしのぶの言葉は千晴の予想と大きく異なるものであり、戸惑う千晴を置き去りにしてしのぶは続ける。

 

「最初に会ったときだってがっかりしたような顔をしていましたし、任務が始まってからも索敵が得意なことをを伝えられてない、血鬼術に囲まれたときだってずっと私が討ち漏らさないかを気にしてましたよね」

 

段々と強くなる語調を一度切り、しのぶは俯いていた顔を上げて半ば呆けた千晴をキッと睨み上げた。

 

「挙句の果てには独断専行!本当に何なんですか、私の体が小さくて頼りないからですか!」

 

最後は叫ぶようにして言い切ったしのぶは千晴の襟ぐりから手を離すと悔しそうに眉根を寄せて下唇をかんだ。そうしないと涙が出てしまいそうだった。

 

鬼狩りになって長くないしのぶは合同任務の度に悔しさを押し殺してきた。

剣の腕も申し分なく、毒という新たな手段で確実に鬼を討ち取るしのぶを、しかし周囲は未だ認めなかった。首を切れない非力さ、ただその一点がしのぶを苛んでいた。

認められたくて鬼殺隊に入ったわけではないが、「お前なんぞ」と向けられる視線は姉に追いつきたい彼女を焦らせ、苛立たせた。そんな積み重ねが今回爆発してしまったのだが、しのぶの内心を知らぬ千晴はただただ呆けるしかなかった。

 

 

 

目の前の少女——まあ、同年なのだけど、彼女は自分よりも小さく華奢で、多分純粋で正直なのだと思った。

きっと誰かに助けてもらえた人だと、千晴はそう思った。

 

「別に、胡蝶殿の腕が信用ならないと思ったわけではありません。実際あなたの方が手練れでしょうし」

 

自分よりも感情を高める相手を前にして逆に落ち着いた千晴は口調も丁寧に言葉を返した。

しかし思わぬ返答にしのぶは眉間のしわを緩め、かわりに怪訝そうな顔でこちらを見上げた。訳が分からないと訴える紫の瞳を見て千晴は確信した、しのぶはきれいな人なのだと。きっとまだ人の恐ろしさを知らぬのだろう。

 

鬼殺隊にはしのぶのような——千晴に言わせれば馬鹿みたいに真っ直ぐな人間が多かった、それでも居心地が悪いだけでなにもなくやっていけた。しかし何故だかしのぶは癪に障った。

自分と同じ年齢だったからなのか、同じ女だったからなのか、はたまた真っ直ぐに感情をぶつけられたからなのか、軋轢を嫌う千晴がいつもなら絶対に言わないことがしのぶを前にすらすらとこぼれていった。

 

「ええ、私は別にあなただから信用しなかったのではありません。誰であっても信用しないだけです」

 

先程とは一転しのぶが呆けるのにも構わず千晴はつづけた。

 

「大体、他人に背中を預けるなんて冗談じゃない。何が背中は任せろですか、他人に任せる命なんてありませんよ。自分の命があればいいじゃないですか」

 

千晴はいったん言葉を区切りしのぶに向けていた顔をそらしてぼそぼそと続けた。

 

「ただ、そうは言っても庇っていただいたことは感謝しています」

 

そらした顔は戻さずに視線だけしのぶに戻す。

 

「ですが今後このようなことは控えた方がいいと思います。そうやって他人を助けるのも自分が傷つかない範囲でやらないと」

 

千晴がこともなげにそう言うのをしのぶは信じがたい気持ちで聞いた。しのぶが鬼殺隊に入ったのは最愛の姉と共に鬼による悲しみの連鎖を止めるためであったし、生来の善良さと亡き両親の教えで困っている人には手を差し伸べることが当たり前だった彼女にとって千晴は異質だった。

理解はできるが納得できる考えではなかった。

 

しかし今の言葉と千晴の今夜の行動がスッとつながってしのぶは一つの結論を導き出した———喪上千晴は人を全く信じていないのだと。

 

千晴への戸惑いや一般人の安全を優先しないことへの怒り、信じないと公言されたことへの苛立ち、様々な感情がしのぶの胸中で渦巻く中ひときわ大きく感じたのは疑問だった。

 

「では何故、何故あなたは鬼殺隊に入ったんですか」

 

「・・・生きるためです」

 

一拍置いて示された答えにしのぶの疑問さらに深まった。さらに質問を重ねようとしたしのぶだったが、

「あのぉ」と控えめにかけられた男の声で思考の海から一気に現実に引き戻された。

 

それは千晴も同じだったらしく目を開いて固まっていた。

それに引き換え暗い山の中でおとぎ話のような化け物に捕まり常人ではありえない戦いを目にした挙句自分を救ってくれた少女たちが言い争いを始めてしまいなんともいたたまれない時間を過ごした男は自身の存在を思い出してくれた少女たちにほっと息をつくのだった。

 

 

 

 

―――――――

 

 

 

 

 助けた男を村まで送り返した後、二人は互いに何とも言えぬ気持ちを抱いたままそれぞれの帰路に就いた。

 

南に輝く満月は夜の静寂をより強く感じさせる。その冷たくも決して突き放すことのない静寂が千晴は好きだった。

その中を歩きながら考える、蝶の字を持ちながらもその実まっすぐでたくましい——蝶らしからぬ彼女のことを。けれどいくら考えても千晴が彼女に言いようもない苛立ちを感じた理由はわからなかった。

ただ、あんなふうに身を挺してまで守られたのは初めてだった・・・ただそれだけだ。

いずれにしてももう会うことはないかもしれないし・・・まとまらない考えを打ち消すように頭を振って、千晴は直近の藤の家紋の家を目指す。今はもう布団にくるまって眠ってしまいたかった。

 

青白い満月が世界を薄く照らす中、足早に去る刀を下げた子供を見送るものは誰も居ない。

 

 




どうしてこうなった。
原作始まってないのに、どうしてこんなに戦闘シーン入った!?

今回すごくしんどかったのでもう当分こんな長い戦闘はない。書かない!と思います。


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其之三 蛹たちの心境

 ざあざあと絶え間なく降る雨が傘からはみ出す千晴の右肩を濡らしていく。

最近は暖かい陽気が続いていたが夜ということもあってその雨は冷たく、ほうっと吐いた息は白かった。濡れた場所から寒さが体中を駆け回り、千晴は思わず隣で反対の肩を濡らして歩くしのぶとの距離を詰めた。同じ傘の下で足早に歩くしのぶも千晴に倣って身を寄せてきた。布越しの体温がじんわりと暖かくて、萎えた気力が少しだけ持ちなおした。

 

 

 

 

 

——————————————

 

 

 

 

 

 当分は、いや、もう会うことはないだろうとすら思っていた胡蝶しのぶとはあの任務以降、何度も肩を並べることになっていた。あれ以来合同任務はほとんどしのぶと一緒であることに加えて、それまで珍しかった合同任務自体も多くなり今では全体の半分以上の任務をしのぶとともに行っていた。

 

 

両者とも相手に思うところがあったので初めの方は意見が噛み合わず何を話しても口論になった。

あまりに面倒くさくて千晴の方から折れて一般人の救援を優先することにしたのだが、これを口に出して「あたりまえです」と怒ったしのぶとまた口論になった。この時はだいぶ怒らせたようでその日一日しのぶは無表情だった。

 

 

しかし、千晴がしのぶに歩み寄る姿勢を見せたことで生来真面目な気質であるしのぶも千晴を理解しようと努めるとうになり、おのずと二人の距離は縮まった。

殺伐とした職に就いて大人であることを求められる中で、互いに年相応の接し方ができる貴重な相手だったためか今では二人は同じ鬼殺隊員であり、異なる性質を持った友人同士でもあった。

 

 

 任務の合間に他愛もない話で盛り上がったり、非番の日には街に出た。

ただ砕けた口調で年相応の振る舞いができる—————年頃の少女であるならば大半が享受しているであろう当たり前の行為は死と隣り合わせの世界に身を置く少女たちに束の間の安息を与えた。

 

また、任務においても千晴としのぶは相性が良かった。どちらも剣の才に恵まれていたし、威力で制圧することに長けた炎の呼吸と素早く相手を翻弄する蟲の呼吸の連携は鬼殺に大いに有効で、二人は着々と階級を上げていた。

 

かくいう今日も合同任務であり、見事な連携で迅速に鬼殺を終えた二人は現在その帰り道である。

 

 

「しのぶ、やっぱり傘そっちに傾いてるよ。全然雨防げてない」

 

千晴が「ほらほら」と自身の右半身を触りながら言うのをしのぶは呆れたように見ていた。

 

「だったら千晴が持てばいいじゃない。だいたい、あなたの方が大きいんだから」

 

「・・・それはしのぶの傘だから」

「なによ。面倒くさいだけじゃない」

 

ふいっと顔をそらした千晴をじとりと見つめたしのぶは逡巡した後、傘を持ったまま千晴を置いて駆け出した。横を向いていて不意を突かれた千晴は容赦なく全身を濡らし始めた雨に慌ててしのぶを追いかける。

 

「なんでぇ、ちょっと待ってよ」

 

情けない千晴の声にも足を緩めることなくしのぶはいたずらっぽく笑った。

 

「ふふふ、だって私の傘だもの」

「ええー、ずるいよ」

 

子どもっぽくべそをかき始める千晴とは反対にしのぶは始終楽しそうだった。「ここまでおいで」とでも言うように千晴の前でくるりと回ったりして雨など気にしないと言うように笑った。

 

 普段は凛として大人びた様子のしのぶは千晴の前で、最近こうして年相応にふざけて見せる。そういう時のしのぶは少し意地悪であるけれど花がほころぶように笑う姿はきれいだと思った。そう思うのはきっと鬼に怒ったりその犠牲に悲しんだりと険しい表情ばかりを見てきたからだ。

 

「ずっとこういう風に笑っていればいいのに」

 

口には出さず、千晴はしのぶの小さな背中を追いかけた。口に出したとしてもそんな日が来ないことは、なんとなくわかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あのまま二人は雨の中を駆け回って来たので蝶屋敷にたどり着いた時にはどちらも全身ずぶ濡れになっていた。

 

玄関で隊服を絞っていると、とたとたと可愛らしい音を立てて手ぬぐいを持った三人組がきてくれた。

 

「おかえりなさいしのぶ様、千晴さんもこんばんは」

「うわーびしょびしょですね。この手ぬぐい使ってください」

「千晴さん、今夜は泊っていかれるんですか」

 

蝶屋敷で手伝いをしているすみ、きよ、なほの三人は濡れた二人を見て次々に口を開き、静かだった玄関が途端ににぎやかになった。

 

「みんなただいま、千晴は今夜泊っていくわ。それと手ぬぐいありがとう」

 

「すみませんが今夜も泊まらせてもらいます」

 

千晴が申し訳なさそうに泊まる旨を伝えると、少女たちは嬉しそうに顔を見合わせた。

 

「わかりました布団出しておきますね。それにしてもびしょびしょですね」

 

千晴が隊服の裾を絞ってバシャバシャと水を落とすのを見て髪を下ろしたきよが驚いたように言った。

 

「ああ、それはしのぶが、」

「いいえ、千晴が向こうで傘をなくしてきたのよ」

「好きでなくしたわけじゃない。置いたところから傘が逃げたんだ」

「ええっ逃げたんですか」

「そんなわけないでしょう、扱いが雑なだけよ」

 

しのぶもバシャバシャと水を落としながら答えた。

そのやり取りに三人がおかしそうに噴出した。ひとしきり笑うとまた千晴が水を拭きとるのを手伝ってくれた。

 

「わあ、千晴さん手がとっても冷たい。お風呂入りますか」

「ああっと、どうしよう・・・うーん」

 

走って来たからか自分で寒さは感じていなかった千晴だが、なるほど、確かに指先や皮膚の表面が冷たくなっていた。しかし、どうしよう。迷惑ではないだろうか・・・隣で刀を外しているしのぶはどうするだろうか。

 

「しのぶはどうする」

「もちろん入るわ。このままだと多分冷えて眠れないもの」

 

「・・・じゃあ、私も。お願いします」

「では私準備してきますね」

 

声を上げたのはおさげのなほだった。千晴たちの体をぬぐってビタビタになった手ぬぐいを一度置いてくる時のついでだと言う。

 

「何から何まですみません」

 

やはりどこか申し訳なさそうに千晴が言った。

 

「いえ、いいんです。千晴さん用の浴衣もお風呂から上がるまでには置いておきますね」

 

そう言ってなほは洗い場の方へと駆けて行く。

 

「それに私、千晴さんが来てくれるの嬉しいんですよ」

 

遠ざかる背中から向けられた言葉に千晴はぽかんと口を開けた。

 

「どういうこと・・・なに、私お土産とかは持ってきて・・・ない、ですよね」

 

心底不思議そうに顎に手を当てて首をかしげる千晴に残された一同は自然と目を見合わせて一斉にくすくすと笑いだした。それに気づいた千晴は眉をひそめてさらに神妙な顔になる。

「違う、なほはそういうことで嬉しいといったわけではない」すみ、きよ、しのぶは笑いながらその旨を伝えるも、ますます分からなくなった千晴はついに唇をへの字に結んでむくれてしまったのだった。

 

 

 

 

 基本的に大所帯である蝶屋敷は風呂場も大きく造られている。治療のために運び込まれる隊士の汚れを落としたり、看護する側も清潔であるように心がけているためである。

 

広い風呂場でしのぶに世話を焼かれながら入浴を終えた千晴は、ぽかぽかと温まった体に紺色の浴衣を身に着け、遅くまで世話を焼いてくれた三人娘に礼を述べた。

 

 

しのぶとはそこで別れ、一人で奥の空き部屋に用意された布団に寝転がった。

 

 

清潔な枕に顔をうずめるといつもより艶やかな自分の髪が見えた。千晴の無造作な髪の扱いに見かねたしのぶが丁寧に水気を拭きとって櫛を通してくれたのだ。

 

 

髪を見つめてぼうっとしていた千晴はごろんと転がって仰向けになる。茶色の天井の木目が見えた、そのまま視線を下にずらすと簡素な文机と座布団、千晴の荷物が目に映る。そのほかに積み上げられていたり保管されていたりするものは特にない。

 

つまりこの部屋は正真正銘千晴に用意されている部屋だった。

 

それだけではない。この布団だっていつの間にか千晴専用になってこの部屋の押し入れに仕舞われているし、今着ている浴衣も神崎アオイが見繕ってくれたものだった。

 

「わたしの・・・」

 

ぽつりとつぶやいた言葉は妙に舌触りが良くて、でも不思議と胸がきゅっとして何かがあふれそうになった。この感覚はしのぶと出会ってからたびたび起こる。蝶屋敷に泊まるようになってからはもっと増えて千晴は日々頭をひねっていた。

 

 

 千晴が蝶屋敷に泊まるようになったのはしのぶと行動するようになってしばらくしてからのことだった。同じ任地が多いのだから、どうせならという曖昧な始まりだったはずだ。しかしこれは千晴にとって大きな変化だった。

 

今も転々している藤の家紋の家も鬼殺隊の一員である千晴をもてなしてくれていたが、ここにはどうしてか千晴個人を歓迎し、千晴の居場所を作ってくれている。

「どうしてだろう」

どうして彼女たちは私によくしてくれるのだろうか。そして、どうしてそうされる度に私の胸は疼くのだろうか・・・・わからない。

 

わからないと言えばしのぶのこともそうだ。どうして他人を守りたがるのだろうか、自分の安全さえ守られればいいではないか。どうしてだ・・・しのぶのことが癪に触っていたはずなのに、どうして私の体もしのぶを守ろうとするようになってしまったのだろうか。

 

「わからない」

 

まとまらない考えは睡魔を連れてきて、千晴の思考は夢の淵に消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

———シンと静まり返った蝶屋敷の一角。皆が寝静まる中、ふすまで仕切られた一室から橙色の明かりが一人の影を映した。

 

 

様々な薬瓶が戸棚に並ぶその部屋はしのぶの自室である。部屋の主は戸棚のガラスや薬瓶が暖かな石油ランプの光を鈍くはじく中、日輪刀の手入れをしていた。

 

刀の手入れと言っても見た目も繊細な刃の手入れではなく、毒を仕込む鞘の手入れである。

鞘を丁寧に解体して中の毒を減った分だけ補充するのだ。下手にこぼすと中に刃を収めた時に刃が痛むので細心の注意をして作業を進めていく。

 

一般的に刀は使ったら手入れをするのが鉄則であるが、しのぶは毎回鞘まで手を回す必要があるので普通の隊士よりも負担が大きい。

しかしこの鞘に継ぎ足している毒こそがしのぶの生命線そのものであるので不備の無いよう丁寧に丁寧に作業を進める。ただ、その負担が大きいのは事実で、将来的にはもっと補充しやすくしたり、鞘の中で毒の調合を変える仕組みを考えている。

 

しのぶはこうして何かに集中する時間が嫌いではなかった。外部からの情報を遮断した状態で自分の中に浮かんでくる取り留めもない思考を追いかけると、頭の中が整理される気がするのだ。しかし今追いかけている思考は整理される気が全くしなかった。

 

 

 

 

 

しのぶが思うに、千晴は人に頼らない人間だった。落ち着いた敬語と大人びた雰囲気で壁を作り、人を信じようとせず何でも一人でやろうとする態度は「あっちへ行け」と人を追いやるようだった。

 

しかし、しのぶは負けず嫌いだった。何とかして認めさせてやると千晴を構い倒した。最初の方は突っかかっていたというのが正しいかもしれない。

 

真正面からぶつかるしのぶに千晴は戸惑っていたが、いつしかその態度は子供を思わせるほどに軟化していた。むしろしのぶの方が驚くほどに。

 

しかし、変わったことが圧倒的に多い中、やはり変わらないものもある。お互いの鬼殺に対する優先順位だ。

 

しのぶは一般人を、千晴は自身の安全を第一に考える点は頑なに変わらなかった。千晴はしのぶに合わせて一般人を優先して任務にあたってくれているが、それはしのぶと自身の実力を冷静に鑑みたうえで一般人を優先しても自身に危険がないことが分かっているからである。

 

今でも自分たちの命さえあればいいと思っていることに変わりはないようで、一般人の被害は仕方ないものとして切り捨てる節があった。

 

「鬼を斬ればその後の被害者は減るのだから無理に危険を冒してまで他の人間を庇う必要などない」というのが千晴の持論なのだ。

 

 

だが、それに納得できるしのぶでもない、というか納得したくなかった。「鬼殺隊は人を救ってこそ。私たちが救われたように・・・」という思いがどこか心の中にあるからだ。

 

齢十四のしのぶは些か真っ直ぐに過ぎたのかもしれなかった。

 

 

 

あれこれ考えているうちに手の方は問題なく作業を終えて片付けに入っていた。

 

この手入れにはもうじき帰って来るであろう姉を待つという名目もあったのだが未だ姉は帰ってきていない。任務続きで会えない姉にこの胸の内を相談したかったのだが、さすがにしのぶも疲れを無視できなくなりそうなので仕方なく床に就くことにした。

 

石油ランプを消そうと立ち上がった時、すすすっと見知った気配が近づいてくるのに気が付いた。待ちきれずそっとふすまを開けて廊下を覗くとやはり待ち望んだ存在がいた。

 

 

「姉さん、お帰りなさい」

 

しのぶは声を潜めて笑いかける

 

「ただいま、しのぶ。まっていてくれたの」

「ええ、刀の手入れもあったし・・・」

「うふふ、ありがとう嬉しいわ」

 

任務続きでなかなか会えなかった、たった一人の姉の姿にしのぶの眠気も吹き飛んだ。

 

「姉さん、疲れてない?・・・その、相談したいことがあって」

「ええ、もちろん大丈夫よ」

 

気遣うようなしのぶの視線にカナエは微笑んで答えた。

 

「それに疲れていたとしても関係ないわ、妹の相談に乗るのも姉の役目だもの。うふふ、それにしても何の相談かしら、姉さん張り切っちゃうわ」

 

しっかり者な妹が珍しく頼ってくるのが嬉しくてカナエは上機嫌である。妹と対面に座ってにこにこと笑みを浮かべた。

 

「もう、笑ってないで、こっちは真剣なのよ」

「わかっているわよ。うふふ、ほら、姉さんに話してみて」

「・・・・んん、あのね」

 

 

——そうして口火を切るともう止まらなかった。千晴と仲良くなったこと、でも千晴の鬼殺への態度がどうしても納得できないこと、さらにはいつまで経っても蝶屋敷の子たちに他人行儀なことなど次から次へと話した。カナエはそれにうんうんと相槌を打って真摯に聞いてくれた。

 

 

「・・・だから、子供みたいに甘えたなくせに人のことなんてどうでもいいって言うのが分からないのよ」

 

ひとしきり話し終えたしのぶは難しい顔で俯いた。対してカナエはにこにこと微笑みを崩さない。

 

「そう難しく考えなくてもいいのよ」

 

その楽観的な言葉にしのぶは目を見開く。

 

「その千晴ちゃんは多分カナヲと同じなのよ。カナヲほど心を閉じているわけではないけれど、自分を守るために殻に閉じこもっているだけだと思うの」

 

「・・・でもあの子、ちゃんと自分の意思があるわ」

 

微笑む姉をしのぶはじっと見つめた。

 

「うーん、確かにカナヲと比べるのは極端すぎたかしら・・・でもほら、千晴ちゃん皆から親切にされると困った顔でおどおどしちゃうってしのぶも言っていたでしょう」

「ええ、確かにそう見えるとは言ったけど・・・」

「それって多分、人の気持ちにも自分の気持ちにも鈍感なのよ。どうして自分が親切にされるのか分からないし、自分もどうしていいのか・・・どうしたいのかもわからない。ね、そういうところカナヲに似ていない?」

 

コテンと首をかしげるカナエを前に、しのぶは口をつぐむことしかできないでいた。その紫の目は今までのことを想起してくるくるとその色を変えた。

 

「それにしのぶが異常だって思うほど敵意や悪意には敏感なんでしょう。それもきっと何かつらいことがあったからだと思うの」

 

そう言ってカナエは悲しそうに目を伏せた。

 

 

 たしかに、姉さんの言葉に思い当たる節はいくつもあった。千晴は誰かに親切にされたり感謝をされても頓珍漢なことばかり言って相手を困らせていたし、不思議そうな顔をしていた。

 

そうか、あれは鈍感だっただけなのか・・・今までの疑問がスッと晴れた心地がした。

 

「姉さん、どうして姉さんは話を聞いただけで分かるの?」

 

自分はまるで駄目だと言うように肩を落として尋ねるしのぶを、カナエは優しく見つめた。

 

「うーーん。そうねえ、きっと経験の差だわ。悲しいことや不安なことがあってツンツンする人って意外といるのよ。ここまで拗らせてるのは珍しいけれど」

 

思いを巡らすように目を閉じてカナエは小さく笑った。

 

「それに、初めて千晴ちゃんがここに来た時、私もいたでしょう。その時はあまりお話しできなかったけれど、悪い子じゃないってわかったもの」

 

まるで慈しむように放たれたその言葉にしのぶははっと目を瞠った。

 

「そうね、そうだった。悪い子じゃないの。でも、どうして千晴が人を切り捨てられるのかが分からなくて・・・・だから今までに何があったのか聞きたいけど・・・聞いて良いのかもわからなくて」

 

膝を抱えて消え入るような声で言うしのぶの背中を、隣に移動したカナエは優しくさすった。

 

「大丈夫よ、千晴ちゃんもしのぶには心を開いてくれるようになってきたみたいだし、なにより、こういうことは焦るものじゃないわ」

 

背中を行き来する体温が暖かくて、しのぶはだんだん瞼が重くなってくるのを感じた。

 

「さあ、もう寝ましょう」

 

その言葉に頷くも、しのぶはそっと隣の姉に寄り掛かる。安心するにおいと包み込むように回された手が心地よかった。

 

たった一人の肉親、互いにその存在を確かめながら姉妹の夜は更けていった。

 



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其之四 春

 

 

 昼下がりの暖かな陽気の中で時折なでるような風が庭先に干された白いシーツを揺らす。

 

 広い蝶屋敷のあちこちで患者の治療にあたる者の忙しない足音や休息をとらない不届きものを叱る声が絶えず聞こえてくる。そんな平穏な音を遠くに聞きながら千晴は目の前の薬草に集中した。

 

 

 蝶屋敷に泊まることが増えた千晴は簡単な薬草の知識を持っていたため、時間があるときは薬草の世話や選別の手伝いをしている。

 

 今日も光が差し込む庭に面した一室を開け放って、乾燥させた薬草の選別をしていた。独特なにおいと時折それをさらってゆく風が心地よい。

 

 千晴の隣では選別した薬草を使ってしのぶが薬を調合していた。互いに無言で作業をこなしていると乾燥した葉のかさりとこすれる音や、しのぶの手元で薬研がゴロゴロとなる音、乳鉢がこすれる少し高い音が絶えることなく部屋に響いた。

 

 こうして相手を見なくとも近くに感じられる時間には、上手く言葉に表せないぬるい安心感がある。しかしその温みは触れたら落ちる水滴のような繊細な均衡の上に成り立っているのだ。

 

 目が合うだけで、一言漏らすだけできっとこの空気は霧散してしまう。なんとなくそれが惜しいことのように感じられて、千晴は黙々と手を動かし続けた。

 

 

 

 

 しばし時間を忘れて作業を続けていると、ぺたぺたと廊下を歩く足音が二人のいる部屋に近付いてくるのに気が付いた。

 

 手元に集中していた意識を開け放たれていた扉に向けると、廊下の奥からお盆を持った少女が歩いてくるのが見えた。そこに乗っているのはどうやら二組の湯飲みと饅頭のようだった。

 

「しのぶ様、千晴さんお疲れ様です。二人だけ休憩時間が終わっても広間に来ていなかったので、アオイさんに頼まれておやつ持って来たんです」

 

「あら、もうそんな時間・・・ありがとう、なほ」

 

 二本のおさげをたらしたなほの言葉に縁側越しの庭を見てみると、前に見た時よりも日差しが穏やかになっているのが千晴にもわかった。

 

 自分たちも忙しいはずなのに、少女たちがこうして気を回してくれる理由は純粋な厚意であることを千晴は最近になってやっと理解できるようになっていた。

 

「ここまで持ってきていただいて・・・その、ありがとうございま・・・す?・・」

 

 ただ、その厚意が自分に向けられたものであるという確信が持てない。口ごもりながら告げた礼も、しきりに指を遊ばせながらの疑問形である。

 

 しかしこれが今の千晴は精一杯だった。

 

「はい。でも千晴さん、そんなに畏まらなくてもいいんですよ。大したことじゃないですから」

 

 千晴の不器用な姿にも慣れたようで、なほはすっと二人の前にお盆を置いた。その表情がどこか満足気であることに気づいてしのぶの頬も緩んだ。徐々に心を開いていく千晴の姿と、それが周囲にも伝わっているという事実が嬉しかったのだ。

 

「そういえばさっき岩柱様がお見えになったんです。このお饅頭もその時に持ってきてくださったもので、」

 

お盆に目を落として思い出したのかなほが言った。

 

「悲鳴嶼さんが・・・」

「はい、しのぶ様にも伝えようとしたんですが急いでいたらしくてすぐにいなくなってしまったんですけど・・・」

 

語尾に向けて小さくなっていく声と共に、なほの背中もしゅんと丸まってしまった。

 

「そう。挨拶しておきかったのだけど、仕方ないわね」

 

項垂れるなほの頭を優しくなでながらしのぶが言った。

 

「ありがとう教えてくれて」

「いえ」

 

その手にぱっと顔を明るくしたなほはこの後仕事があるらしく、お盆ごと置いて戻って行ってしまった。

 

 千晴たちも作業は終わったも同然だったため、軽く道具などを片付けて縁側に腰を下ろしてまだ熱い茶を啜った。手に持った湯飲みのじんわりとした熱が、気付かないうちに溜まっていた疲労感を二人に思い出させた。

 

 しばらく無言でぼうっとしていた二人だったが饅頭を食べ終えた千晴が先ほどから気になっていたことを口に出した。

 

「しのぶは岩柱様と親交が・・・」

 

「・・・ええ、私たち姉妹を助けてくれたのが悲鳴嶼さん・・・今の岩柱なの」

 

ずずずっと熱いお茶を口にしながら二人の会話は淡々と続く。

 

「そっか、じゃあやっぱりしのぶは鬼を恨んでここに・・・」

「それもあるけれど・・・・・姉さんと約束したの。私たちみたいに悲しむ人を一人でも減らそうって」

 

 なでるような緩い風が二人の髪をやさしく揺らしてゆく。

 

風の音だけが流れる中、しのぶはそっと隣に座る千晴の顔を覗いた。その表情は今までにないほど凪いでいて、黒曜石の瞳だけが外界の光を受けて揺らめいていた。

 

 その蝋燭の火を思わせる静かな揺らめきに触発されたのか、しのぶの中に燻ぶっていた疑問がゆらりと起き上がった。

 

「じゃあ、千晴は・・・どうして」

 

ここからはあえて踏み込んでこなかった場所だ。ごくりと唾を飲み込んでしばらく、しのぶは囁くように問うた。

 

 

「どうして千晴は鬼殺隊に入ったの」

 

 

 前を向いていた千晴はゆっくりと首を回し、その瞳にしのぶを映した。

 

その黒曜石が何を感じているのかしのぶには見当もつかなかったが、数秒しのぶを見つめ続けた千晴はふっと口元を緩めて相好を崩した。

 

なんだかいつもより大人びた千晴の仕草にしのぶは言いようもない寂しさを感じた。

 

「少し、長い話になるんだけど・・・・」

 

しのぶが頷くと、千晴は遠くを見ながら語り始めた。

 

紡がれる内容とは裏腹に、千晴の口調は始終穏やかなままだった。

 

 

 

 

 

 

—————————————————

 

 

 

 

 喪上千晴は孤児であったが、初めからそうだったわけではなかった。小さな山村でしがない薬草売りをする父とそれを支える母、二つ上の兄に一つ下の弟、さらに下の妹の六人でつつましく暮らしていた。

 

 父と母は村で薬草を売るだけでなく街に出て薬草を卸すことを生業としていた。

 

 人当たりが良く誰にでも手を貸すことを厭わない父は村人からも大層慕われていた。そんな親を持つ千晴も村でのびのびと成長していった。

 

 転機は千晴が七つの冬のことだった。ここしばらく気だるそうに咳をしていた父が喀血するようになった。結核である。どこでもらってきたのかも、いつもらったものなのかも分からぬまま次いで母も倒れた。

 

兄と共に看病に励んだものの、いつになく厳しい冬の寒さは二人から体力を奪っていった。

 

 「医者を呼んではくれないか」雪の深いこの村からでは子供が街まで出るのは困難なことだった。兄と共に村中の扉を叩けども「否」以外の返事を聞くことはできなかった。

 

 その冬が稀にみる大雪だったからなのか、街で鬼が出ると噂されていたからなのか今となってはわからない。ただ、いつも村人を助けてきた喪上家を助ける人間は居なかった。

 

 困難はそれだけに収まらない、働き手のなくなった喪上家は食料を手に入れることができなくなっていた。

 

 このままでは本当に死んでしまう、「食料だけでも分けてほしい」再び兄と回れども「病がうつる。ここから出ていけ」と怒鳴るばかりで、誰も助けてくれる者はいなかった。挙句の果てには「うるさい」と千晴と兄を殴りつける者も居た。仕方ないので家に残った少しの食料を大切に食べて食い繋いだ。

 

 厳しい寒さと飢えにまず音を上げたのは、苦しい咳と胸の痛みに喘ぐ両親ではなく一番下の妹だった。もともと体が小さかった妹は何の前触れもなくある日の朝に冷たくなっていた。

 

 それを皮切りに両親の病状はますます悪くなったし、兄と弟も嫌な咳をするようになった。ただただ悪くなる状況を見ている事しかできなかった。

 

 遂に床に臥せらないでいる人間は千晴だけになった。皆すっかり弱り切り水も受け付けないほどで、最後まで大切にとってあった干し柿は千晴がたった一人で食べた。すっかり固くなってしまった干し柿のしびれるほどの甘さに、どうしてか涙が止まらなかった。

 

 それから数日後にその年一番の寒さがやってきた。痛いほどに冷たい空気が良くなかったのかもしれない、そこから三日と経たず喪上家で息をしているのは千晴だけになった。

 

 「もうみんな死んだ。せめて葬儀だけでも挙げてほしい」半ば諦めて頼めばやはり答えは「否」である。ただ予想外だったのはその真夜中、家に突然火の手が上がったことだ。

 

 慌てて外に飛び出すと、村長率いる幾人かの男たちが松明を片手に家を取り囲んでいた。

 

 家から飛び出してきた千晴を何対もの目が捉えた。考える間もなく勝手に体が動いて、千晴は村の外に続く山道へ駆け出した。

 

 不思議と追手は無かったけれど山の上から炎に包まれる家を見て、帰る場所がなくなったことを幼い千晴は確信した。それが孤児としての始まりだった。

 

 

 

 大人でさえ苦労する雪道を必死の思いで抜けて千晴は街へと降り立った。そこからは同じく孤児の集まる街の隅で、盗みやスリをして必死に生きた。

 

 寝床も食べ物も何もないが同じ境遇の子どもはたくさん居た。そうするとやはり仲のいい者ができて、千晴はその子供と協力して日々を生きるようになり、やがて数年が経った。

 

 しかし千晴はきっと油断していたのだ、その子供から手ひどい裏切りを受けて満身創痍のまま孤児の縄張りから締め出された。

 

 作り上げた寝床も持っていた食料も、秘密にしていた漁り場もすべて取り上げられてその手に残ったのは唯一つ、いつまで続くかわからない<自分>の命だけ——————文字通り身一つとなった千晴は最後に残った自分を守るために膝を抱えて蹲ることしかできなかった。

 

 

 その日はじわじわと太陽が焼けつくような日で、体中に負った傷がじくじくと痛みを主張していた。孤児が集まる地区の手前で千晴が一人膝を抱えて蹲っていると、短髪に簡素な着物をまとった男が近付いてくるのが見えた。

 

 その男はここらでは・・・というか孤児の間ではちょっとした有名人であった。ふらっと現れては男児を一人見繕って連れ帰るためだ。

 

 噂に曰く、そこでは辛いことをさせられたり恐ろしい場所に送られるというが寝食が保障されるらしい。その噂の真偽が判らないことと、男の纏うなんとなく近寄りがたい空気に中てられて子供たちはいつもひっそりとその男を見ているだけであった。

 

しかし、この日は違った。千晴が男の前に立ちふさがったのだ。

 

 

「私を連れて行ってほしい」

 

 虚ろにうったえる少女を男もまた無感情に見つめた。

 温度のない目が時折何かを見極めるように細められるのを千晴はじっと見ていた。

 

「死ぬやもしれんぞ」

 

少し掠れた低い声が千春に問うた。

 

「でも、ここに居たら絶対に死ぬ」

「・・・」

 

 千晴は事実を淡々と吐く。

 自分のように追い落とされた連中が尽く死んでゆくのはこの数年間嫌というほど目にしてきた。

 

 男は何かを考えるように目を閉じた。二人の周りを行きかう喧騒がやけに五月蠅く感じた。やがて男は目を開けて再びその視界に千晴を収めた。やはりその目に温度はなく、次に吐き出される答えを窺うことはできなかった。

 

幸路紅燐(ゆきみちこうりん)。俺の名だ・・・お前は何という」

 

「・・・千晴、喪上千晴」

「そうか、千晴か」

 

 突然の名乗りに驚く千晴に男———紅燐はずいっと距離を詰めた。

 

 少し手を伸ばせば届くところまで近づいた紅燐の顔を見るには千晴は顔を真上に向けねばならなかった。

 

 真上から千晴を見る紅燐の顔は影がかかってよく見えない。

 

「千晴、俺はお前を救わない。だからお前もいつ逃げ出しても構わない。ただ、一度逃げたら俺はお前に二度と関わらない。今後盗みを働いた時もそうだ。」

 

 感情のない声が真上から千晴に降り注いだ。その言葉を体に浸み込ませるように千晴は幾度かまばたきを繰り返す。

 

「それでも良いと言うのなら、ついて来るといい」

 

そう言って紅燐はくるりと身を翻してゆっくりと歩きだした。一拍置いて千晴もその後を追いかけた。そこから人里離れた紅燐の家に着くまでの間、彼は一度も振り返ることはなかった。

 

 

 それから数年間千晴は紅燐———先生の下で一人、修業の日々を送った。

 

先生は元々炎の呼吸を使う鬼殺隊士であったらしいが、若くして引退したそうだ。黒い短髪に年齢を悟らせない顔立ち、おまけに無表情だった先生が実際幾つだったのか結局千晴にもわからずじまいだった。

 

 修業を始めてわかったが、孤児たちの噂に違わず先生の指導は厳しかった。この修行を乗り越えても命の危険が付きまとう未来しかないことも知った。

 

しかし家も金も学も無く、特段容姿に優れているわけでもない女子が一人で生きていく方法がないに等しいことも千晴は知っていた。だから千晴は生きるため、体術や剣術をはじめとする戦い全般に簡単な読み書き、言葉遣いなど多くのものを先生から吸収していった。

 

 こうして師弟関係は数年にわたって続いた。しかしそこに個人の関りは一切存在しなかった。つまり虚ろな二人は「教え、教わり」を機械のように繰り返すだけで、心が交わることは一度としてなかったのだ。

また、それを悲しいとも千晴は思わなかった。

 

 

 その後はきっと他の人たちと変わらない。最終選別を受けて先生に別れを告げた。

 

 

 

 

 そしてしのぶに出会ったのだ。

 

 

 

 

 

 

——————————————————

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千晴が一通り語り終えると、意外に時間が経っていたのか手に持ったお茶がすっかりぬるくなっていることに気が付いた。喋り通しで喉が渇いていたので残りは一息に飲み干した。

 

「はあ。というわけでそんなに珍しくもない話だ、どうってことない」

 

何でもないことのように軽い口調で千晴は言い切った。

 

「むしろ私は運がいいんだ、こうしてまだ生きているから」

 

はにかみながらしのぶの方を向くと、こちらを見ていたしのぶと目が合った。

 和やかな千晴とは反対にしのぶは眉根を寄せて口を引き結んだ難しい顔をしていた。どこか怒っているようにも見えるしのぶは不意に千晴との距離を詰めると、座ったまま千晴を抱きしめた。

 

「しのぶ?」

 

突然のことに千晴はあたふたと両手を中途半端に上げたが、肩に乗るしのぶの頭も背中に回るしのぶの腕も微動だにしなかった。

 

ただただ優しく包み込んでくるしのぶに、千晴もそっと身体を預けることにした。しのぶのほうが背が低いのでやや前かがみになってしまうのはご愛嬌だ。

 

「・・・・馬鹿ね」

「なにが・・」

 

肩口でつぶやかれた言葉に千晴が返せばしのぶは小さくかぶりを振った。

 

「なんでもないわ」

 

その言葉と裏腹にしのぶの腕は千晴を抱く力を強めた。

 

 

 

 

 

 上体に千晴の体温を感じながらしのぶは自分がどうしたいのかを考えていた。

 千晴の語った過去はしのぶを大いに動揺させた。と同時に千晴の「自分の命を優先する」考えに納得がいった。

 

———千晴にとっては助けてもらえないことが当たり前。

 

同情するのは違うと思った。千晴の歩いてきた道を陳腐なものにしてしまいたくなかった。

 

両腕で抱きしめる、その身を己に預ける千晴を想う。その酷薄な道を想う。

 

 自身の過去を語る中で千晴は悲しいとも辛かったとも決して言わなかった。むしろこんなことはありふれた事象でしかない、そう言い聞かせているようにしのぶは感じた。

 

同情はしない。けれど悲しいのだと、苦しいのだと弱音を吐けなかった千晴のことを、目一杯大切にできたらいい。そう思った。

 

———だから。

 

「あなたはここに帰ってくればいいのよ」

 

———私は千晴をいつでも迎えよう。

 

 

応えるように回された千晴の腕が、なんだか少し嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたはここに帰ってくればいいのよ」

しのぶの口から告げられた言葉は千晴にとっては砂糖のように甘いものだった。

 

———私がいることを許された場所。気付いていなかっただけでずっと自分はそれを求めていたのかもしれない。でも、今はただ、目の前の温かな存在に縋り付きたかった。

 

 それまで身を委ねるばかりで下がった腕を持ち上げて、しのぶの背中にそっと回した。自分よりも小さなその背中がどうしてか泣きたいくらいに温かくて、離れたくないと思った。

 

 千晴からすれば馬鹿なほど真っ直ぐなしのぶは、きっと他人のためなら消えてしまえるのだと思う。そうでなくとも、いつ消えてしまうとも知れなくて心配だった。

 

 だから、今この手に収まっているしのぶだけは自分と同じくらい大切にしてもいいかな、そう思った。

 

 零れないように、消えないように、そんな願いを込めて千晴はぎゅっとその腕に力を込めた。

 

 

 

 

 たがいに想いをその胸に、二人の少女は確かに絆を結んだのだった。この得難い安らぎを二人は生涯忘れない。

 

 

 

 

 

 

 

—————————————————

 

 

 

 

 

 

 

 蝶屋敷では食事はできるだけ一緒に摂る習慣がある。その日の夜も千晴を含めた蝶屋敷の面々はささやかな団欒の時間を送っていた。

 

 しのぶの横で味噌汁を啜っていた千晴は一対の視線に気が付いた。それとなく目線を向けるとバチンッとその主と目が合った。しのぶの向かいに座る花柱である。

 

 ビクッと固まる千晴と反対に、花柱はにこにこと嬉しくて仕方ないというような笑みを送ってきた。

 

 千晴は花柱のこういった毒気を抜くようなところが少し苦手だった。嫌ではないのだが体がむずむずして顔に変な力が入ってしまうからだ。今回も見つめられて居た堪れなくなってきたのだが、花柱の隣に座るカナヲに世話を焼き始めて視線が外された。

 

 ほっと身体の力を抜きながら、「嫌な感じではないんだけどなあ」と一人頭をひねる千晴であった。

 

 

 

 胡蝶カナエは上機嫌であった。可愛い妹からの相談以来二人の様子それとなく見てきていたが、今夜はなかなかどうしてしのぶの顔が格段に明るい。きっとなにか二人の間で壁が解けたに違いない。

 

 妹に良いことがあって単純に嬉しいカナエの視線は自然と千晴の方にも向いていく。目が合ったので微笑みかけると照れたように固まるのが可愛らしかった。どうして良いのかわからずに視線だけを彷徨わせ始める姿はやはりカナヲに似ていて微笑ましい。

 

 

 いつまでもこの幸せな風景を守りたい。

 

 

 

 ささやかな願いはこの場の全員が抱えていながらも、確約されることは決してない。だからきっと人々は目の前の幸せを噛みしめるのだろう。

 




 
入らなかった話

 今回は千晴の先生が登場しました。
紅燐先生です。彼は感情を見せないのですが、1日に1回だけ感情を見せる時間がある設定でした。

その時間は仏壇に手を合わせる時間です。あれです。彼は大切な人たちが全員向こうに行ってしまった人です。なので感情もそっちへ置いてきてしまったっていう…まあ、そんな感じの話を入れたかったなあああっていう愚痴ですね。これは。力量不足でした…悲しい!


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其之五 空陰り、船は出る

 

 

 ———どうしていいことって続かないんだろう。

泣いている。唯一大切にしようと思った人が泣いている。おそらく私のせいで。

 

 

 

 

————————

 

 

 

 

 

 

 しのぶに過去を語ってから数日、千晴の世界は明るかった。今まで無意識に大切なものを作らないようにしてきた反動か、しのぶの温もりが特段に得難いもののように思えるのだ。

 

 ずっと笑っていてほしい、ずっと一緒にいてほしい、その思いが日に日に強くなる。

しかし、しのぶはどう思っているのだろうか・・・時々千晴は言いようもない不安に襲われて、訳もなくしのぶの手を握ったり背中に張り付いた。

 

「なに?言わないとわからないわよ」

 

そういう時は決まってしのぶが訊いてくるのだが、その顔はまんざらでもなさそうで、千晴はいつもそれを見て安心するのだ。

 

心が満たされていて、しかしどこか切ない・・・この感情をうまく言葉にすることはできないけれど、この温もりがある場所————しのぶのいる蝶屋敷に帰ることが千晴にとっての幸福だと、心からそう思った。

 

 

 しかしこの安息も鬼殺の合間の一時に過ぎず、千晴の生活はやはり鬼殺を中心に回っていた。

 

その日の夜も千晴は任務に赴いていた。単独任務であったが無事に終えて真っ直ぐに帰路に就いたのだが、今回の任地は遠方であったためか蝶屋敷のある街にたどり着いた時にはすっかり朝に近い時間となっていた。

 

それは夜明け前の最も暗い時間帯。町は深い眠りについているのかシンっと静まり返り、ひんやりとした夜の空気が音もろとも街を喰らっているようだった。

 

自分の足音だけが冷たい街に響く。その少し湿り気を含んだ音を聞きながら千晴が一人歩いていると、突然全身に怖気が走った。

 

「———ッ!」

 

一瞬にして全身の毛が逆立ち、体の芯が凍りついた。痛いほどに脈打つ心臓を服の上から抑え、急いで周囲の気配を探ってゆくと、町の一角にそれは居た。

 

鬼だ。

 

 離れていても分かる強い鬼の気配に本能的に体が震えるのを止められない。今まで斬ってきた鬼も恐ろしくはあったが、明らかに格が違うのだ。

気配に人一倍敏感な千晴だからこそ、その恐ろしさもひとしおであった。

 

しかし、カタカタと震える歯を噛みしめて千晴は鬼のいる方へ駆け出した。

 

誰かを助けるためとか、そういう高尚な思いは多分なかった。怖いもの見たさとはよく言ったもので、千晴はこのおぞましい気配の正体をその目で確認しておきたかったのだ。正体不明の危険ほど恐ろしいものはないのだから。

 

 

 幸いなことに千晴はこの町の構造が頭に入っている。鬼のいる通りと交差する道に出るために少々大回りをしたが、駆ける千晴はものの数分で渦中の場所付近にたどり着いた。

あとは建物の間を隠れながら進めば相手には見つからずにその姿を見ることができるはずだ。

 

民家の間の狭い空間を縫うように進んでゆく。近づくにつれて膨れ上がる寒いまでの重圧に唇をかみながら、千晴は見知った気配を捉えていた。

 

———どうして、よりにもよってあなたがここにいるんだ。

 

湖底の腐った泥を思わせる強大な鬼の気配に霞んでいたが、確かにそこには花柱の気配があった。

 

気付くと同時に聞こえてくるのは、ギィンと重く響く金属のぶつかり合う音。既に花柱はおぞましい気配の鬼と戦っているらしい。

 

———どうして、本当に・・でも、急がないと・・・。

 

訳も分からず千晴の胸に焦りがじわじわと広がって、四肢の感覚がスーッと薄れていくのを感じた。

水をかき分けるようなもどかしさを抱えて進めば、ようやく家屋の壁は終わりを迎えた。

 

 千晴が抜けてきたのはどうやら花柱の後方にある家の壁だった。

絶えず聞こえてくる剣戟の音に耳を澄ませる。「はあはあ」と知らずに上がっていた呼吸を必死に押さえつけて、そっと通りの様子を覗き見た。

 

 それはまさに、圧巻。

そう言う他ない凄まじい攻防が繰り広げられていた。

果敢に型を出してゆく花柱と、それを難なく受ける長身の鬼。激しく翻る羽織は戦いの激しさを語り、目にもとまらぬ速さで振るわれる桃色の刀身と金色の鉄扇だけが異様に輝いていた。

その姿はさながら対の踊りのようであったが、その実一方的なものであることを千晴は早々に悟った。

 

———花柱が押されている。

 

攻めの姿勢を崩さぬままに肩で息をする花柱とは反対に、鬼はにこにこと嗤って、明らかに余裕がある。それはきっと花柱も分かっているはずなのに・・・。

 

———どうして逃げないんだ。

———こんなの、絶対に勝てない。花柱だってわかっているはずなのに。どうして逃げてくれないんだ。

 

圧倒的な強者を前に「逃げ出したい」と震える身体をかき抱いて、千晴はある種祈るような思いで花柱を見つめた。

 

 

その時、不意に鮮血が舞った。

千晴からではどこを切られたのか定かではないが、花柱が傷を負ったらしい。その美しい顔が痛みで歪むのが、やけにゆっくり鮮明に見えた。

 

「———あ」

 

姉妹だからだろうか、痛みをこらえるその顔にしのぶが重なって、千晴は思わず声を上げた。

 

瞬間向けられる二対の視線に「ヒュッ」と喉が詰まる。焦ってもつれた脚は何を誤ったか前に出て、家屋の陰に潜んでいた千晴の体は通りに投げ出された。

幸い転ぶことはなかったが、よろける姿は無様そのものだ。

 

「千晴ちゃん?!」

「あれぇ、もう一人いたの?しかも女の子だ。今日はついてるなぁ!」

 

花柱の声に安堵したのも束の間、舐めるような視線に「ヒュッ」と息が詰まる。鬼の意識が自身に向いたことで〈死〉が一気に迫ってくるのを感じた。

 

「うぁ・・・」

 

体中の細胞が警鐘を鳴らし、膝がガクガクと震える。

 

「そんなに怯えて可哀そうに、もう大丈夫、俺がちゃんと食べてあげるから」

 

 その顔は本心から言っているかのように慈愛に満ちていたが、その声音に熱はなく、空洞のような印象を千晴に与えた。その気味の悪さと、鬼の重圧からくる死の恐怖から逃れるように身をよじると、思案顔の花柱と視線がかち合った。

 

「———花柱様!撤退を・・・・勝てないですよ!こんなのと戦って、馬鹿だ!逃げましょう!」

 

「ええー!どうして逃げるんだい?せっかく救ってあげるのに」

 

恐怖でタガが外れた千晴の叫びに花柱は答えない。代わりに鬼が心底驚いたと目を丸くする。

 

「恐怖も不安も生きているから感じるんだ。大丈夫、君のその想いも俺が残さず食べて高みへ救済してあげよう」

 

———うっそりと嗤うこの鬼はきっとすぐにでも私を殺せるのだ。

 

そう思うとひたすら恐ろしくて、千晴は再び花柱に縋った。

 

「花柱様ァ!」

 

———逃げよう・・・いや、逃げたい。

———こんなところで死にたくない。せっかく優しい場所を見つけたんだ。帰りたいんだよ、あそこへ帰りたい・・・帰らせてくれ。

 

完全に逃げ腰でボロボロと涙を流す無様な千晴に、しかし花柱は微笑んだ。

 

「そうねぇ、退くべきよね・・・」

「はいッ!」

 

「だから・・・・人を呼んできてもらえる?」

「・・は?・・・・」

 

———この人は何を言っているんだ。

 

思考が止まる千晴に花柱はふわりと笑いかける。

 

「ね?お願い・・・退くためには必要なのよ」

 

———あなたは逃げないんですか。

どうしてかその言葉が口を開けても出てこなくて千晴は動けずにいた。

 

「さあ、早く」

 

しかし見かねた花柱の言葉でやっと体が動き出す。くるりと勢いよく背を向けて千晴は駆け出した。

 

「——っゔぅ」

 

噛みしめた歯の間から嗚咽が漏れる。あの鬼から逃げられて嬉しいはずなのに、胸が痛くて涙が止まらない。

 

「救援、救援ッ・・・どこに・・・」

 

かと言って立ち止まることもできないで、振り返らずにひた走る。

沸騰しそうな頭の中で、これが救援を呼ぶための行為ではないことを・・・ただ一人逃がされて、それに甘んじているだけであることを千晴は理解していた。

だってあの場に鎹烏は居なかった。きっと既に救援を呼んでいるはずだ。

 

———なのに、どうして。

 

私を逃がしたのだろう。分からないと混乱する気持ちと、自分は助かったというほんの少しの安堵。その二つがない交ぜになって、そのまま足が止まってしまいそうだった。だから思考を振り切るように全力で走った。

走りながら町全体の気配を探っていく。闇に埋もれて静まり返った町は気配を探りやすくて、千晴はすぐに救援と思わしき気配を見つけた。

 

それは微かな希望だった。「間に合え」とただ念じながら、まだ遠いところに居るそれに向かって千晴はひたすら駆けた。

 

———これで・・・きっと、これで帰れるんだ。

 

この時は、愚かにもそう思っていたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 千晴が見つけた気配はやはり救援だった。六人で移動していた彼らは花柱の正確な位置まではわかっておらず、合流した千晴はすぐに先導して引き返した。

 

走りながら見上げた東の空には薄っすらと白が混じり、凪いでいた空気が流れだすのを感じた。

————夜明けは近い。

 

 

 

 千晴を先頭に最短距離を駆け抜けた救援隊の目に未だに刀を構えて立つ花柱の背中と、鉄扇を振り上げる鬼の姿が映った。

すぐさま千晴の後ろにいた隊士が抜刀し、花柱と鬼の間に割り入る。身のこなし方からして、だいぶ上の階級の人間のなのだろう。千晴の目には追えなかった。

 

「ええー、どうして邪魔するのかなぁ」

「黙れ!悪鬼が!!」

 

「困った」と頭をかきながら笑う鬼を一蹴して、先行した隊士が斬りかかる。

ひらりと距離を置いた鬼は、次々に刀を構える隊士と白んでいく東の空をを眺めて「はあぁー」と大きなため息をついた。

 

「なんだ、もうすぐ日の出じゃないか。これじゃあ全部片付けても食べられないよねぇ」

 

笑みを崩さないまま、ひどくつまらなそうに呟くこの鬼は皆殺しなど容易いのだと言う。

隊士の間に鋭い緊張が走り、だれもが身を固くする。

 

「だから残念だけど帰ることにするよ。ここら辺は日影が少ないしね」

 

「ッ待て!」

 

誰かが叫ぶ声も空しく、屈託のない笑い声だけを残してその鬼は街の闇に消えた。脅威は消えたのである。

 

「——っはあ」

 

どこからか上がった吐息とも溜息ともつかぬ音で、一気に場の緊張は解かれた。

 緊張の糸が切れ、へたり込んでしまいたい体を押しとどめて、千晴は未だこちらを振り向かない花柱に目を向けた。

真っ直ぐに立つその凛とした背中に、安堵と後ろめたさがない交ぜになった、形容しがたい気持ちが溢れる。正直何を言えばいいのかもわからなかったが、花柱と言葉を交わさねばならぬ、不思議とそう思った。

 先程までとは異なる、石を飲み込んだかのような重い緊張感を携えて千晴は一歩踏み出した。

 

 

その時だ、花柱の背中がぶれたかと思うと、そのままとさりと地面に崩れ落ちた。

 

「え?」

 

水を打ったように静まり返る通りに、千晴の混乱した声がいやに響く。

一瞬の膠着が解け、その場が一気に騒然となる。

「花柱様!」

駆けよる隊士たちを目の前に、千晴はただ立ち尽くすばかり。

 

まるでそれら全てを見計らったかのように、暖かな光が世界を照らし始めた。

 

 

 

 

 

———————————————

 

 

 

 

 

 

 蝶が地面に落ちるように、あまりに儚く倒れた花柱を千晴は呆けたように見ていた。

 

 処置のために仰向けにされた花柱は、鎖骨から鳩尾までがざっくりと斬られていた。それまで堰き止めていたものが溢れだすかのように、ゴボゴボとくぐもった咳と真っ赤な血が吐き出される。美しい顔は苦悶に満ちて、浅い呼吸しかできないのか、その華奢な肩が小刻みに揺れている。

 

 手当の心得のある者が止血を試みているものの、花柱が助からないことは誰の目から見ても明らかだった。

 隠や蝶屋敷の医療班を呼ぶ声、何か使えるものはないかと走り回る音、それらすべてを遠くに聞きながら千晴は立ちすくむばかりだ。

 

 もう鬼は去って自分は助かったはずなのに、どんどん現実感がなくなって、ついには耳鳴りが鳴り始めた。しかしそれはすぐに鋭い叫び声の前に霧散して、千晴は現実に引き戻された。

 

「姉さんッ!!」

「———ッ!」

 

張り裂けんばかりの叫び声をあげて、しのぶが千晴の横を通り過ぎて行く。その必死な声と双眼に浮かんだ涙を見て、千晴はキュッと喉奥が閉まるのを感じた。自分は何か間違えたのかもしれない。そんな予感がした。

 

 

「姉さん!しっかりして!」

 

 最愛の姉の体を抱きかかえてしのぶが叫んでいる。

あのくぐもった咳は収まったのか、先程よりも落ち着いた表情の花柱が愛おしむようにしのぶの頬に手を伸ばした。

 

「しのぶ、鬼殺隊をやめなさい。」

 

紡がれた声はやはり弱々しく、どうあっても助からないと言っているようだった。

 

「あなたは頑張っているけれど、本当に頑張っているけれど、多分しのぶは・・・・・・・・・・。普通の女の子の幸せを手に入れて、おばあさんになるまで生きて欲しいのよ。もう・・・十分だから・・・」

 

話しながらも花柱の命は削られているのだろう、しのぶの頬に置いた手が力なく滑り落ちていく。しかし、その手を離さないと言うようにしのぶが握り締めた。

 

「嫌だ、絶対やめない姉さんの仇は必ず取る。言って!!どんな鬼なの、どいつにやられたの・・・!!」

 

怒り、悲しみ、もどかしさ、それらのこもった叫びが朝の静けさの中で響き渡る。

 

「カナエ姉さん言ってよ!!お願い!!こんなことされて私、普通になんて生きていけない!!」

 

「姉さん!!」

 

 その場にいる誰もが鬼によって引き裂かれようとしている姉妹を沈痛な面持ちで見ていた。ただ一人、喪上千晴を除いては・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 ———しのぶが泣いている。

ここまで感情を露わにしているしのぶを見るのは初めてだった。

あそこで倒れているのがしのぶだったら、私も泣くのかな・・・泣くんだろうな。そうか、花柱は・・・

 

———しのぶにとって大切な人だったのか・・・。

 

その言葉は、土に水が染み渡るようにスッと理解できた・・・・・理解できてしまった(・・・・・・・・・)

故に、千晴は気づいた———己の重大な過ちに。

 

 千晴の目の前が突然真っ暗になった気がした。さっと血の気が引いて、霧散したはずの耳鳴りがまた聞こえ始めた。四肢の感覚が薄れ、舌がカラカラに乾く、喉の奥が萎んで息も満足に吸えない。

 

「——はぁッ・・ぅあ・・・」

 

泣くときみたいに胸がつっかえるのに涙は出ない。乾いた嗚咽だけが引き攣った喉からこぼれ出る。

 

———ああ、そうか・・・私は・・しのぶの大切な人を見殺しにしてしまったのか・・・。

 

 私にとってのしのぶのような・・・人には各々大切な人がいる。

この当たり前の事実を、この日初めて千晴は真に理解したのだ。今までは自分のことで精いっぱいで、周りのことなど目に入らなかった・・・周りの人間に目を向けてこなかった。そのツケがこれだ。

 

 どっと押し寄せる後悔の波は千晴を包み込んで、深い水の中に引きずり込んだ。両手で顔を覆ってしまうと、たちまち平衡感覚が薄れた。周りの音がグワングワンと反響してよく聞き取れない中で、その小さな声は不思議と千晴に届いた。

 

「ちはる・・ちゃん・・・」

 

ばっと顔を上げると、しのぶの腕の中に横たわる花柱が真っ直ぐこちらを見ていた。その花を思わせる瞳には逃げた千晴を責める色はなく、優しさだけが悲しいほどに溢れている。

 

「千晴ちゃん・・・・人を・・呼んできてくれて、・・・ありがとう」

 

思わず目を見開く、嗚咽と共に涙があふれた。

 

「——ッなんで!・・・ッふゔ、なんで怒らないんですか・・・」

「・・・・うふふ、それは・・・」

 

続く花柱の言葉は血と共に吐き出される咳の中に消え、ゴボゴボと噎せる花柱に代わってしのぶの声が空を切り裂いた。

 

「————どうして?!」

 

それは非難の声だ・・・。聡明なしのぶは今の会話で気付いたのだろう。激情に身を焦がして再び叫ぶ。

 

「ッうう、どうしてよ!!」

 

———あなたが一緒に居たのならッ!・・・助かったかもしれないのに。

涙を湛えてもなお鋭い視線が千晴にそう告げていた。

 

 きっと詰られるであろうことはわかっていたが、一等大切にしたかったしのぶからの糾弾は大層痛くて、千晴は思わず数歩後ずさり、顔を歪めた。

 

 私のせいだと思った。

 いや、紛れもなく私のせいだった。

 

 千晴はただ降り積もってゆく後悔と悲しみの重さに耐えきれず、衝動のままに駆けだした。それは紛れもなく逃げだった・・・取り返しのつかない逃避。

正直その辺りはもう頭がぐちゃぐちゃでほとんど何も覚えていない。蝶屋敷にも戻らず、ひたすら情動のままに駆け続けた。ひたすら遠くに行きたかった・・・もう、あそこには戻れないのだから・・・。

 

 

 

 そうしてこの日、千晴は帰る場所と大切な人の隣、その二つの場所を失った。引き換えに知ったのが人の絆であったことはまさしく皮肉である。

この日のことを千晴はずっと忘れない。悲しみは滾々とわき続ける泉のようで、後悔は揺れる波のように千晴を苛んだ。

 

 この愚かな逃亡者が再び蝶と見えるのはまだ遠い先の話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 




原作との相違点

胡蝶カナエvs童磨戦で増援が来ました。きっと原作でも増援自体は出ていたのではないかと思うので、今回は千晴が先導して間に合ったことにさせました。
千晴の行いは無駄ではなかったけれど実を結ばなかったなあ。自分で書いていて悲しくなりました。


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其之六 花をあなたに

 

 

 どこまでもどこまでも、暗い道を走り続ける。どうして走っているのかも覚えていないまま藻掻くように走る。ただひたすらに焦燥だけが胸を焦がす。

泥の中にいるかのように、ゆっくりとしか動かない体はここが現実ではないことを教えてくれる。しかし、これは何なのかという明確な答えを提示しているわけでもない。ぼんやりとした思考を打ち切って走ることだけに集中した。

 

意識がゆらゆらと覚束なくなる。視界が揺れて、パっと場面が切り替わる。

 

 午後のゆったりとした日差しが、目の前の少女を照らしている。縁側に腰かけた少女は伽藍洞の瞳で虚空を見つめる。後頭部の蝶の髪飾りだけが嫌に鮮やかに映った。

 

「しのぶ?」 

 

勝手に自分の口から零れだそうとした言葉は、何かに阻害されたのか音に成れずに消えた。

 

またまた視界が揺れだして、やはり場面が切り替わる。

 

 街だ。清廉な空気の朝、誰も居ない街の一角。とある通りのど真ん中。ぼんやりと靄のかかった頭が既視感を訴えてくる。くるりと後ろを振り返ると少女が立っていた。一日たりとも忘れたことのないその顔は怖ろしいほどに無機質で、やはり瞳は伽藍洞。

 

「しのぶ・・・」

 

またしても声が出ない。喉の奥から空気が勢いよく吐き出されるだけである。

 

「しのぶ・・」

 

それでも何かを言いたくて口を開くけれど、目の前のしのぶに届かない。しかし突然、無機質だったしのぶの表情にどんどん熱が加わりだした。綺麗な紫の目から涙があふれ、目尻は吊り上がる。ギッと噛みしめられた口元から目が離せない。これから何か決定的なことを言われる気がしてならない。

ゆっくりとしのぶの口が動いた。

 

「——たの、あなたのせいよ・・・・」

 

 声は聞こえなかった。けれどそう言っているのだと確信・・・したところで千晴の意識が音を立てて弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「———ゆめ、まただ」

 

ぼんやりと薄暗い天井を目にしながらの呟きは、今度こそ音となって千晴の耳に届いた。

 

「またか」

 

寝起きで濁音混じりの声をこぼすものの、実は「またか」どころで済む話ではないのだ。千晴がこの二年ほど、毎夜繰り返して見る夢であった。

 

「夢で見なくたって・・・忘れないのに」

「・・・それに」

 

———しのぶはきっとあんなことを言わない。

全て私が無意識に作り上げた幻だ。

 

自身を正面から責めるその夢が、己の恐怖を体現するその姿が、しのぶを貶めているようで千晴は嫌いだった。

 

 幻の残滓を追い出すようにきつく目を瞑る。こういう時、決まって瞼の裏に映し出されるのは亡き花柱の姿でもしのぶの姿でもなかった。

しのぶに背を向けた後、ひたすらに駆け続けた道のりだった。涙でぼやけていても朝日が照らす静謐な街並みが美しかったのをよく覚えている。

 

 

 

 

 あの日全てに背を向けて逃げ出した千晴は、いつの間にか見知らぬ街にたどり着いていた。そのまま安い宿に泊まって数日間薄暗い部屋の隅で蹲り続けた。古い畳のかび臭いにおいも、鳴り続ける腹の虫も、すべて無視して自分の殻に閉じこもったのだ。

あえて金のかからない藤の家紋の家に行かなかったのは、きっと少しでも現実から目をそらしたかったからだろう。

 

 締め切った部屋で蹲り続けるうちに、花柱の葬儀が終わったことを鎹烏から聞いた。恩人・・・と言うべき人の葬儀にも出ない自分が本当に救いようのないものに思えた。

それと同時に、しのぶには、蝶屋敷の人たちにはもう会えないと思った。合わせる顔なんてどこにもなかった。

 

 それから今日まで千晴は蝶屋敷に顔を出していない。

多かったしのぶとの合同任務も御屋形様に手紙を出して組まないようにしてもらった。主要な任地も変更してもらって、蝶屋敷から離れた場所で活動してきた。

 

本当にすべて投げ出したのだ。

 

だから今でも千晴の中のしのぶはあの日のままの姿をしている。決して柔らかくない目元に純粋さを残した大きな目、ややきつく結ばれた口元。しっかり者でも幼さを残した———決して忘れえぬ少女の姿だ。

 

 閉じていた瞼を解放してもしのぶの姿は脳裏に焼き付いたままだった。影法師のようにしのぶの姿を幻視しながら、ふすまから漏れる外の光を眺めた。

 

「ふうっ」

 

息を一つ吐き出して、むくりと起き上がる。

布団に散らばっていた髪が、さらりと千晴の背中を浴衣越しに覆った。それにしても、ずいぶんとまあ伸びたものだ。艶の足りない髪をなぜてひとり呟く。

肩口までしかなかった髪が背中の中ほどまで伸びる時間があったのだ、当然変化は髪の長さだけにとどまらない。体つきは女のものへ、その瑞々しい躰には無数の傷跡が・・・・。変わらないのはただ、千晴の記憶だけというのが寂しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 布団を畳んで身支度を整えた千晴が部屋を出ると、見計らったかのようにこの屋敷の主人が朝食を準備してくれていた。

ホカホカのご飯に出汁のきいた味噌汁、焼き魚は絶妙な塩加減で箸が進む。昨夜泊まったのは千晴だけのようで、食事に通された部屋で一人黙々と食べ進めた。

 

「お茶のおかわりでございます」

 

「ん、ありがとうございます」

 

 屋敷の主人である小柄な老女———ひささんはいつも部屋の隅でちょこんと座っていて、千晴がお茶やご飯のおかわりが欲しいと思うと同時に、こうして持ってきてくれるのだ。その気遣いは絶妙で人の心が読めるのではないかと疑っているほどだ。

 

 ひさがこうやって世話を焼いてくれるところや、小さな体一つでこの屋敷を切り盛りしている姿は千晴に蝶屋敷の娘たちを思い起こさせる。彼女たちも小さな体で毎日働いていたし、千晴に良くしてくれていた。

 

———そういえば、あの頃はこんな風にお礼もしっかり言えていなかった・・・。

 

自分に良くしてくれる理由がわからず戸惑っていたのだが、今にして思えば理由などなかったのだろう。きっと彼女たちは誰に対しても温かく接することができる心の優しい人だったのだと思う。

 

人への礼の仕方も、厚意の気付きも、自分を含めたヒトの心の在りようも、今頃になってわかるのだから心底ままならないものだと思う。

遣る瀬無い感傷を暖かな味噌汁と共に流し込む。それがするすると胃に流れていくのを感じながら手に持った椀を置いて、千晴はそっと手を合わせた。

 

「ごちそうさまでした」

 

向かいの隅に座るひさにも届いたのだろう、老女はゆるゆるとこちらを向いた。

 

「お口に合いましたでしょうか」

「はい、とても」

 

「それはようございました」

この屋敷に泊まるときの、決まり切ったやり取りだ。もっと気の利いたことでも言えればいいのだけれど・・・、それでも大層嬉しそうに笑うひさを見て、これでいいのだと思えるのだ。交わす言葉は少ないのにこう思えるのが不思議だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 借りている自室に戻って刀の手入れや荷物の整理をしていれば、あっという間に時間が過ぎた。昼前には出立する旨を伝えてあったので、千晴が玄関に行くと火打ち道具を持ったひさが既に居た。屋敷を発つ際には玄関から門前まで見送るのが彼女なりの願掛けでもあるらしい。

 

「いつもありがとうございます」

 

ひんやりとした玄関で草鞋を結びながらそう伝えると、ひさは小さく首を振った。

 

「私にできるのはこれくらいでございます」

「・・・それでも、です」

 

会話が途切れてすぐに草鞋が結び終わり、二人は玄関から庭に出た。

冷たい玄関から日向へと一歩足を踏み出すと、初夏の湿った熱気と庭の草木の青臭さがむわりと千晴を包み込んだ。

急な温度変化と眩しい日差しに顔を顰めたものの、すぐに慣れて庭を見渡してみる。さすがに隅々まで手が行き届いているわけではないが調和がとれた美しい庭だった。ゆっくりその景色を眺めながら進んでいると、一つの花に目が留まった。白い花弁に薄く桃色が乗っている可憐な花だ。

 

「すみません、ひささん。あそこの花を一輪いただいても・・・?」

「ええ、構いませんよ。撫子の花ですね」

 

「撫子。ですか」

「ええ、もともとは植えておりませんでしたが、いつからか生えてくるようになったのでございます。可愛らしいですから、そのままにしているのです」

 

言われてみればその生え方は些か無造作だった。いくつかの花の一群が庭のあちこちに咲いている。

 

「では、一輪いただきますね」

「一輪と言わず、もう少し持っていかれてはいかがですか」

「・・・そう、ですね。では少しだけ」

 

結局五輪ほど摘み取って、優しく布にくるんでから懐にそっとしまう。

藤の花の家紋が描かれた門前に着くと、ひさは手に持った火打道具で切り火を切ってくれた。弾ける火の粉はやはりいつ見てもきれいだった。

 

「どのような時でも誇り高く生きて下さいませ。ご武運を・・・」

「・・・・・・はい。それではまた」

 

少しの沈黙と一礼を残して千晴は歩きだした。

 

ひさはいつもこう言って千晴を送り出すけれど、千晴はいつもあの言葉に素直に頷くことができない。だってそれは自分に当てはまる言葉じゃない。それでも願ってくれている人がいる、それだけを心に留めて歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋敷を出てから歩き通して今は昼過ぎ、千晴は田園地帯のあぜ道を歩いている。じっとりとした空気と輝きを増した日差しの下では黒い隊服が煩わしい。青い稲穂を時折揺らしていく風がいつにも増して爽やかに感じられた。

 

 昼時で人の少ないあぜ道を見知った気配がないことを確かめながら歩いていくと、前方にやっと目的地が見えてきた。

寺の黒い瓦屋根と灰色の園、花柱の眠る墓だ。

 

 

 ちらほらと綿雲の泳ぐ青空の下、手入れの行き届いた花柱の墓にはいつも新しい花が生けられている。いつ来てもそうなので、きっと誰かしら毎日来る人がいるのだろう。それはしのぶや蝶屋敷の娘たちで間違いないのだろうけど。

 

潰さぬようにと懐から取り出した撫子の花は、生けるには小さかったので墓前にそのまま置くことにした。しゃがみこんで地面にそっと置いた淡い色の撫子は灰色の墓石に良く映えた。

風に飛ばされぬことを確認してから立ち上がり、一度周囲の気配を探る。人がいないことが確認できると、千晴は墓石に向き直る。

 

「ひと月ぶりになります。やっと雨が降らなくなって、でも今日は暑くて・・・少し煩わしい気がします。

ここの周りの田んぼもよく実がついていた、今年は順当にいけば豊作でしょう」

 

 普通ならば手を合わせて死者の冥福を祈るところだろうか、きっとそうだ、それが正しい姿なのだろう。しかし千晴にはそれができなかった。花柱の死を認められないとか、そういうことではなくて自分なんかに手を合わせる資格があると思えないのだ。

故にこうして報告じみた会話をするしかない。

 

「今日持ってきた花は、ひささんにいただきました。撫子と言うそうです。私はこういった、愛でるための花には疎くて・・・。結局この前の花の名前も分からずじまいでした。

 

 そういえば話は変わるのですが、誇りとはなんでしょう。いつも・・・いえ、ひささんの屋敷を出るたびに思うんですけど、私にはわからなくて。

人と、たぶん普通に話せるようになったのに、やはり私はわからないことだらけです」

 

当然のことながら目の前の石は千晴に何も返さない。ちょうど太陽に雲がかかったのか、急に日差しが途絶えてあたりが少し暗くなった。それに合わせて、墓石に刻まれた花柱の名前も妙にくっきりと見えた気がした。

 

「わからないといえば、自分のことも時々わからなくなるんです。今日もここに来るまでに何度もやめようと思いました・・・・あなたの葬式に顔も出さなかった私が、逃げ出した私が、いまさらあなたに会いに行くだなんて都合がよすぎるから・・・まあ、いつもそう思っては結局来てしまうんですけれど・・・・・・・・・・・・・。」

 

沈黙が落ちる。長い沈黙が落ちる。

次に続く言葉は喉元にあるのに、音にできないでいる。そのまま帰ろうかとも思うが、やはりいつも通りかすれ声で捻りだすのだ。

 

「ねえ、花柱様、どうして逃がしてくれたんですか」

 

風が吹けばかき消されてしまいそうなその声は、石の園には良く響く。

 

「どうして、赦してくれたんですか」

 

その問いの答えを千晴は知らない。

けれど、自分を変えるために人と関わるようになって、一つだけ気付いたことがあった。いつか千晴がむず痒いと感じた花柱の視線、あの暖かなまなざしは、遠い昔に母や兄から注がれていた視線と同種のものだった。慈しみ、親愛のまなざしだ。

 

これが思い上がりであれと心の隅で千晴は願う。だって、もしもそれが本当ならば、なんて・・・なんて遣る瀬無いことか。

 

 ぐるぐると巡る思考はどうしたって千晴のもので、本当の答えなぞ解らない。わからないのだ。

それが少し苦しくてたまらず天を仰げば、いつのまにか太陽を覆っていた雲が晴れていて眩い光が目を焼いた。思わずにじむ涙を隊服の袖口で拭って、再び墓石に向き直った。

 

小鳥のさえずる音に虫の羽音、時折風が草木を揺らす音、千晴に聞こえるのはそれだけだ。ここには答えを与えてくれる者はいない。けれど・・・。

 

「また来ます。たぶん」

 

諦めたように脱力して千晴は言った。

姿勢を正して長い一礼ををして、一人もと来た道を歩き出した。

 

きっとまた千晴は散々迷った挙句に来るのだろう。あの問いをするために・・・自分の愚かさを確認するために、来るのだろう。

 

———結局私の自己満足でしかないのかもしれない。

 

そうであったとしても、きっと千晴は来ることをやめられない。

 

———だからせめて、あなたに似合う花をもってきます。名前がわからなくても、生けるには小さくとも、それしかできませんから・・・・。

 

 

 

 

 寺の敷地を出てから一度振り返った石の園は、暑さを増した日差しに揺らめいていた。こめかみを伝う汗をぬぐって歩き出す。

どれくらいの滞在したのか定かではないが、今日は合同任務だ。急がねば。そう思ってもと来たあぜ道を足早に歩いていると、背後からざあっと風が通り過ぎた。背中をなぜたその風は稲穂を揺らして遠ざかってゆく。青い田んぼに白い波。気まぐれに波打つそれを、千晴は見えなくなるまで目で追い続けた。

 

 

 

 

 




久々の!更!新ッ!ちょっと初号機に囚われていました。



今回は千晴さんうじうじの回。元気出して!頼むよ、書きずらいんだよ。


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其の七 道

 

 

 人はどうして戦うのだろうか。命を危険にさらしてまで、どうして退かないのだろうか。

千晴が思うにそれは自分の主張を通すためだ。死にたくない、金が欲しい、憎いあいつに復讐したい、誰かを守りたい、各々の主張が全て通るようにこの世界はできていない。だから皆、武器を手にして対抗する主張を叩き潰そうとするのだろう。

 では彼らには・・・・死線に立ち続ける鬼殺隊士にはどういった主張があるのだろう。

鬼殺隊士の多くは恨みと怒りをもって鬼に立ち向かう。親兄弟や大切な人を失った悲しみと、理不尽への怒り。彼らは刀を取らない道もあっただろうに、その燃える感情を留めておくことができなかったのだろう。この世に蔓延る理不尽に黙っていられなかったのだろう。

己が痛みを知るが故に同じ悲しみを断ち切らんと奮起する姿は強くて、尊くて、儚い。そして千晴には眩しすぎた。

 

 あの日、一人だけ助かってなお千晴は他人の命を優先することなどできなかった。また取り返しのつかない間違いをするのではないかと日々怯えるくせに、結局人よりも自身の安全を選び続けてきた。

しかしそれは生き物として当然のことであり間違いなどではないのだけれど、それを教えてくれる者もまた千晴の周りにはいなかった。

 自分の行動と他人の行動、勝手に見比べては傷ついて自己嫌悪の海に溺れる。瘡蓋を剥いでは傷を広げる子供のように非生産的な行為を、そうとは知らぬままに千晴は繰り返すことしかできないでいる。

 

それでも鬼殺を続けてきたのは、せめてもの罪滅ぼしとしての手段がこれしかなかったこと、そしてしのぶとの最後の絆だからだ。退いても進んでも出口のない暗闇に千晴は未だ囚われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 花柱との問答を終えて招集場所にたどり着いた千晴を待っていたのは十二鬼月との戦いであった。

下弦の参———鬼の中でもことさら強い存在である。その正体を掴むまでに幾人もの隊士が犠牲となり、遂に今回千晴を入れて十人の部隊が投入されるに至っている。しかも炎柱である煉獄杏寿郎がそこに加わるというのだから鬼殺隊の本気度も伺えた。

それでもやはり厳しい戦いになるだろうという千晴の予想はものの見事に裏切られることとなった。

 

 

 

 結論から言えば今回の任務である下弦の参討伐戦は鬼殺隊の大勝利に終わった。

下弦の参は五体の再生する分身を使って見事に鬼殺隊をひっかきまわしてくれた。しかもその分身は鋭い爪から斬撃を飛ばすのだから混戦状態に持ち込まれてしまった鬼殺隊にとってなかなかの難敵と言えただろう。

 しかしここで予想外だったのが煉獄杏寿郎の圧倒的な強さだった。五体の鬼をほとんど一人で相手取るような大立ち回りには鬼だけではなく隊士も瞠目せざるを得なかった。殊に同じ呼吸の使い手である千晴の衝撃はひとしおで、しばらく見とれてしまったほどだ。鬼に押される隊士を何人も庇いながら戦う杏寿郎を前に、千晴は結局潜んでいた本体の位置を伝えることしかできなかった。

 

 このようにして四半刻もかからずに下弦の参討伐戦は幕を閉じ、現在は隊士のそれぞれが帰路につき始めていた。そんな中で異変が一つ、いつもならばいの一番に任地から離れる千晴がいつまで経っても帰らないのだ。じっと立ち尽くして一点を見つめている。視線の先には負傷者に声をかけて回る炎柱の背中、彼女はそれをぼうっと見ながら思案にふけっていた。

 

 

 

 ————炎のような人だと思った。

自分と同じ呼吸を使っているとは思えないほどに冴えた剣技に、危険を顧みずに人を助ける勇気、沈んだ表情であった負傷者をも容易く前を向かせるほどの人徳。まさに暗い道に燦然と輝く炎そのものだとおもった。

———私もああなれたなら、なれたならばもっと違う日々を過ごしていたのだろうか。

有り得ない話を想起してしまうほどに炎柱の在り方は千晴の求める理想そのものだった。

 

 その理想を目にしてしまったからには少しでも近づきたくて、しかし何といえばいいものかと悩んでいるうちに杏寿郎もまた帰路に就こうとしていた。

 これを逃したら自分は一生駄目なままなのではないか・・・炎を模した白い羽織が遠ざかる中その思いが膨れ上がって、千晴はとっさに杏寿郎を引き留めていた。

 

「待ってください!」

「む?」

 

白い羽織がばさりと揺れて杏寿郎の大きな目が千晴を射抜く。とっさに声をかけたはいいものの話の内容などみじんも考えていなかった千晴は大いに慌て、

 

「っあの!どうしてそんなに強く在れるのですか?」

 

などと言う漠然とした問いをぶつけていた。

 ああ、強く・・・・強くってもっと他に言い方はなかったのか。漠然としすぎて千晴自身も呆れていたところに、予想通り杏寿郎からの質問が飛んでくる。

 

「強く・・・とは戦闘のことでいいだろうか?それならばやはり鍛錬あるのみだな!!」

「ああ、いえ違うんです、そうではなくてもっとこう・・・気概の方で・・・」

 

「ふむ、気概か・・・」

 

律儀であるのか難しい顔で悩む杏寿郎の体にはいくつか傷がついている。隊士を庇ったときの傷だ。いずれも止血はされているが怪我には変わりない。一歩間違えれば死すらも遠くないというのに、迷うことなく他人を助けることを選べるその理由が知りたかった。

 しばらくして答えが出たのか杏寿郎はぱっと顔を明るくして千晴の方を見た。

 

「君の問いについて考えてみたんだが!それは俺が強いからだとしか言えんな!!」

 

「はあ・・・・なるほど」

「うむ!!ところできみ、名前は何というのだ」

 

あんなに強い人だと理由もなく人を助けられるのだろうか・・・。予想の斜め上を行く答えに千晴は着いていけない。名乗らずにいた無礼を謝ることもわすれて自身の名を名乗った。

 

「そうか!喪上君か、君はあれだな、俺の継子になるといい!」

 

「ん・・・・?ちょっと待って下さい、わからない」

「ではもう一度言おう、俺の継子になるといい!!」

「そうではなくて!どうして急に・・・それに継子なんてなれませんよ、私なんかが・・・相応しくない」

 

そう言ってもなお繰り返す杏寿郎に千晴は必死に首を振って無理ですと繰り返す。

だってそうだろう、柱は鬼殺隊の規範なのだから、自分のような人間がその後釜の位置に仮だとしても居ていいわけがないのだ。

そう思って必死で断っているのに人の話を聞いていないのか彼は一向に折れない。

 

「それならそれで構わない。だが強くなりたい者を拒む理由などどこにもない!継子ではなくとも稽古をつけてやろう」

 

 あれよあれよというままに話はまとまり、いつの間にか千晴は炎柱の下で剣を学ぶ次第となっていた。正直どうしてこうなったのかは理解しきれていないが悪い気はしていなかった。元々鍛錬は苦ではなかったし、この人の下でならこんな自分も何か変わることができるのではないかという淡い期待があったのだ。

 

 

 

 しかし柱には継子が付いているものではなかったのか。自分などに割く時間が御有りなのだろうか。杏寿郎について夜の道を駆ける中で当然の疑問に千晴が声を上げる。

 

「炎柱様、そういえば継子の方はいらっしゃらないのですか」

「ああ、先日までは一人居たんだがな、派生に飛んで独立してしまってな!ところで喪上君、その炎柱様というのはむず痒い!他の呼び方にしてもらってもよいだろうか?」

「ええ、それで良いのなら。では煉獄さんと」

「うむ、そちらの方が馴染むな」

 

 そうこうしているうちにたどり着いた煉獄邸は大層大きな屋敷に見えた。道から見える塀の長さが明らかに長いのである。なんだか緊張して千晴は門戸に手を置いた杏寿郎に尋ねた。

 

「煉獄さん、本当にこの家なのですか」

「そうだが、どうかしたのか?」

「いえ、大きな家だな・・・と。こんなに大きいと何人の方か住んでいらっしゃるんですか?」

 

千晴の問いで不意に杏寿郎の動きがぴたりと止まった。何か余計なことを言っただろうかと千晴が内心焦っていると、なんとも形容しがたい表情の杏寿郎が口を開いた。

 

「喪上君。言い忘れていたことが一つあるんだが・・・・、家には父上がいるのだ」

「ええ、弟さんと・・ですよね。先程聞きましたが」

「うーーん、言い忘れていたというのは、その父上は少々あたりが強いかもしれん」

 

今更ですまない。そう言う杏寿郎に千晴は大丈夫だと伝えると、彼は複雑な面持ちでは手にしていた門戸を開けた。

先に入った杏寿郎に続いて千晴も門戸をくぐる。そろりそろりと緊張した足取りで歩く千晴とは対照に杏寿郎は入ってすぐの玄関をがらりと開けて帰宅を告げていた。

 

「ただいま帰りました!!」

 

闊達な物言いは生家でも健在なようで、人の気配が少ない煉獄邸に良く響いた。

 

すぐに奥から走る音が近づいてきて、杏寿郎によく似た、しかし気弱そうな少年が姿を現した。

 

「おかえりなさいませ兄上!」

「おお千寿郎、今帰った。わざわざ悪いな」

 

「いえ、ところで兄上そちらの方は?」

 

千寿郎と呼ばれた少年は兄の後ろで体を小さくして立つ千晴を不思議そうに見た。

 

「はい。私、喪上千晴と申します。煉獄さんには今日の任務でお世話に・・・」

「喪上君は俺の空いている時間に稽古をつけることになった。良くしてやってほしい」

 

「そういうことでしたか、僕は煉獄千寿郎といいます。鬼殺隊員ではありませんがよろしくお願いいたします」

 

見た目のわりにしっかりした様子の千寿郎であったが、笑うと途端に幼さが顔を出した。精悍な兄とは異なり可愛らしい表情に千晴の緊張も緩んだのも束の間、広い玄関に突然ぬっと大きな影が差した。

 

「父上!杏寿郎ただいま戻りました」

 

いち早く影に気づいた杏寿郎が声をかける。二人の父———慎寿郎は酒壺を片手に一段高い廊下から千晴と煉獄を見下ろした。息子たちとよく似た顔は、しかし二人にはない暗いものを感じさせた。気だるげに息子を見ていたかと思うと、その目線がスッと斜め後ろにいた千晴に向けられる。

 

「何だお前は、誰だ」

「鬼殺隊の喪上千晴、階級己です!」

 

 無精ひげや崩れた浴衣、酔っているのか少し赤い顔はだらしなさを感じさせるのに、その命令的な物言いは妙に馴染んでいる。まるで上に立つ人間のように違和感がなかったので、千晴は無意識に姿勢を正して答えてしまった。

 

「それでうちに何の用だ!新しい継子とでも言うんじゃないだろうな」

「いえ!とんでもないです」

「父上、喪上君は継子ではなく個人的に稽古を・・」

 

杏寿郎の言葉のどこに逆鱗が触れたのか・・・目に見えて激高した慎寿郎が吐き捨てる。

 

「下らん!!大した才能もないものが寄り集まってなんとする!」

「しかし父上!喪上君は」

「うるさい!その話は無しだ、お前も出ていけ!」

 

最後に千晴を指さしてそう言い散らすと、慎寿郎は足音も荒く奥に戻ってしまった。静まり返った玄関には沈痛な面持ちの兄弟と、呆気に取られてぽかんと口を開ける千晴が残された。なんとも居た堪れない沈黙が続く中、杏寿郎が一度ぴしゃんと手を打った。

 

「よし、これからのことを考えるか・・・」

 

この空間にあって安心させるような笑顔で言うものの、その口元が少し引きつっているのは彼と会って間もない千晴にもわかった。

 

 まさに前途多難という言葉が見事にはまる幕開けであったが、千晴の新しい生活は確かに始まりを告げたのであった。

 

 

 



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其之八 薪と火種

 

 

 

 

 

 杏寿郎との稽古は千晴の想定を遥かに上回るほどに厳しいものであった。本気で来いとの言葉に従って木刀で杏寿郎に打ち込んでみれば、手加減などない猛攻が逆に千晴へ打ち込まれた。一日で木刀がボロボロになるまで打ち込んだら、紅燐先生のところに居た時以来真剣に取り組んでいなかった基礎体力作りが始まる。止めと言われるまで全力で走り、重しをつけて筋力を鍛える。稽古の最後は数えるのも億劫な素振りをするという流れが新たな千晴の日課となった。 

その厳しい稽古が終わるころには手は擦り切れ、腕はじんじんと熱をもった。足も歩くのがやっとの状態まで酷使されて、全身倦怠感に包まれる。まさに満身創痍の体で地面にへばりつく千晴はそのまま寝こけてしまいたいと常々思うのだが、そうは問屋が卸さない。あくまで鬼殺隊である千晴の下には死にそうな稽古など知ったことかとばかりに鬼殺の任務が舞い込んでくるのだ。ぎちぎちと油を注し忘れた機械のように重たい体に鞭打って、鬼殺と稽古をひたすらに繰り返した。

 

 今夜も小刻みに震える内腿を叱咤しつつ鬼を狩り終えた千晴は、ふらふらとよろめきながら煉獄邸の玄関にたどり着いた。カラカラと玄関を開けると、ここ最近で嗅ぎなれた家屋の香りが千晴を包んだ。既に夜も更けているのに入った玄関は明るく、草鞋や装備をほどく手元を照らしてくれる。煉獄邸で世話になるようになって知ったことだが彼らの家は夜でも明るい。曰く、夜に草臥れて帰ってくるものを労わるためであるらしい。

とはいえ夜半であることに違いはないので千晴はできる限り音をたてぬようにと慎重に明るい廊下の先へ進んだ。

 

 風呂場で汚れを落とし、寝る支度を済ませた千晴はある部屋に向かっていた。廊下の突き当りにあるふすまをそっと開けると、廊下よりも暗い部屋の中で座布団を下に敷いた千寿郎が小さな明かりを背に体を丸めてすうすうと小さな寝息を立てていた。一歩近づいて見えた顔はやはり幼い。寝床ではないとはいえ、自分よりも小さな子供を夜に起こすのは忍びないのだが、千晴はそっとその薄い肩をゆすった。

 

「千寿郎君、先程戻りました。千晴です」

 

うぅんと唸って直ぐに千寿郎は目を覚ました。ゆっくりと持ち上がった瞼の奥に千晴の姿を捉えると、小さな手で目をこすりながら起き上がった。

 

「・・・千晴さんお帰りなさいませ。あの、兄上は」

「杏寿郎さんはまだ戻られていません」

「そうでしたか」

 

眠たそうに答えた千寿郎は小さな欠伸を一つすると、そのままぐぐっと体を伸ばし始める。数秒背中をそらすように伸びをした千寿郎は怖ろしく寝起きがいいらしい。満足してふっと力を抜いたその顔に眠気は一切感じられなかった。

 

「お待たせしました。では早速始めましょうか」

「はい。今夜もよろしくお願いします」

 

にっこり笑う千寿郎に、千晴は申し訳なさとこれからの訓練に対するげんなりとした気持ちを半々に抱えて深々と頭を下げた。

 

 

 千晴が千寿郎に頼んでいたのは稽古の手伝いである。稽古といっても打ち合ったりする類のものではなく、寝ながらにして全集中の呼吸を行うというものだ。

杏寿郎の下で稽古を始めて数日、全集中の呼吸常中を身に着けることが千晴の課題の一つとなった。千晴にとって稽古中はもちろん任務の移動時も全集中の呼吸を発動し続けることは困難ではあれど不可能ではなかった。しかし寝る時までも呼吸を絶やさずにいられるかと問われれば、それは否である。一日の激務から倒れるように床に就けば翌朝には安らかな呼吸に様変わりしているという日々が何日も続いた。

 

「うむ、よもやここまで難航するとは・・・やはり就寝時か」

「すみません、自分でもどこまで呼吸が続いているのかは定かでなくて」

 

「気に病む必要はない!常中は中々修得が難しい。ただ、そうだな・・就寝中も見張りをつけられれば良いのだが」

「見張りですか」

 

「それが最も効果的だが・・・」

 

眉間にしわを寄せる杏寿郎の横で千晴も顎に手を当てて思案する。この時に千晴が泊まっていたのは煉獄邸近くの藤の家紋の家だ。しかしそこは家族全員で一つの店を切り盛りしているようで、夜中に起き続ける余裕のある者など到底いるようには思えなかった。

 

「むう、腹をくくるか!喪上君、君は今日から我が家に泊まれ!」

「しかし、お父上・・・慎寿郎様はよろしいんですか?」

「こればかりは仕方ない。後で俺からも伝えておく」

 

そうして始まった泊まり稽古であったが千寿郎が手伝うと申し出てくれたのは予想外であった。さすがに子供に徹夜は頼めないと断ったのだが、自分は昼に休める時間があるから構わないと言う千寿郎に結局は頼ってしまう形となっていた。

 誰かを自分の稽古に巻き込むというのは思った以上に心苦しいもので、千晴はここ最近で一気に常中の持続時間を伸ばしている。修得まではあと一歩の状態であった。

 

 

 千晴にあてがわれた部屋の中、布団に横になった千晴が横を向くと行燈の明かりに頬を照らされる千寿郎の姿がある。その手に握られた木刀はもちろん振り下ろされることはないけれど、無防備な腹を押されれば凶器に等しい。

 しかし自分よりも年下の者を差し置いて眠りにつくこの状況は本当に心苦しいので、今日にでも修得して見せる。そう意気込んで千晴は重たい瞼をゆっくり落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、昨夜の決意も空しく千晴は申し訳なさそうに頭をかきながら床から体を起こしていた。昨夜も常中の習得には至らなかったのである。

 

「そんなに気にしないでください、今回は一度しか途切れなかったではありませんか。もう少しですよ」

「いえッ、本当に申し訳ない。もう、何でですかね」

 

兄によく似た笑顔を浮かべて千寿郎はうなだれる千晴を励ます。少年の優しさにさらなる罪悪感が募って、千晴は朝から死んだような心地である。雨戸越しに聞こえる鳥の囀り声さえもなんだか憎らしく感じた。

 

 

 その後千寿郎とは別れて、千晴は杏寿郎に課された稽古を一通り行っていた。途中で稽古場に慎寿郎が通りかかり、「いつまでも下らんことをしていないで出ていけ」などと罵声を浴びせられたが、いつも通り千晴は黙っていることしかできなかった。

自分がくだらないものであるという認識も、何をしても結局は変わらないのではないかという恐れに似た焦りも千晴の中には巣くっていて、慎寿郎の言い分に同意はあれど反論はなかったからだ。

 慎寿郎は黙りこくる千晴に一通りまくしたてると、酒を片手に屋敷の奥に戻っていく。このようにばったりと出くわせば罵声を浴びせてくるものの、それ以外では不思議なほどに慎寿郎は千晴に干渉してこなかった。いや、千晴だけではない。実の息子たちにさえ彼は自ら干渉することを避けているように思えた。あんなにもできた兄弟であるのに何故疎むような真似を、とその態度に疑問を抱きはすれど、それまでだ。これは家庭の問題であって千晴が気安く踏み込んで良いものではない。そう線引きをした。彼女は所詮ただの居候に過ぎないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じりじりと肌を焼く太陽の下、ガツンガツンと硬質な音が煉獄邸の庭に鳴り響く。音の出所は言うまでもなく木刀を手にした杏寿郎と千晴である。息をつく暇もない攻防に庭の乾いた土が舞い上がり、白い煙となって二人を取り巻いていた。

 

 ブンっと空気を切り裂きながら振り下ろされる木刀の連撃を上段で受け止める。その一撃一撃の衝撃は腕だけでなく足の先にまで駆け巡り、千晴は地面に押し込まれる形で後退していた。

何とか受け流して流れを断ち切ろうと思考するが、受け流すことを許さない杏寿郎の猛攻が徐々に千晴から打つ手を奪っていく。

長時間の打ち合いとじっとりとした夏の温度で視界の端がぼやけてきた。汗で滑る木刀を今一度握りなおしたと同時に大上段に構えた杏寿郎の姿が見えた。逆光でもわかるがら空きの胴体、打ち込みに行きたい気持ちをとっさに抑える。あれは罠だ。態勢の整わない千晴の速度では突っ込んだ先でそのまま頭上に一撃を受けて終わりだろう。今はただ来る一撃に備えてのけ反っていた背を正し、掲げられた木刀の一点を注視した。

バキッとこれまで以上に恐ろしい音を立てて木刀がぶつかり合う。衝撃で手が発火したように熱い。爪の先から脳髄まで鋭利な痺れが駆け巡る。

 

「ッあああ!」

 

痺れる身体は杏寿郎の一閃に耐え切れず、千晴は地面に吸い込まれるように倒れこんでゆく、が・・・しかしこれでいいのだ。倒れこみながら体を捻って逃しきれなかった衝撃を逃す。

 

「ッはあ!」

「む!」

 

そのまま片手を地面をついて杏寿郎めがけて足を払った。驚いたように飛び退る杏寿郎から視線を外さぬままに地面を転がって距離を取り、回転の勢いで起き上がる。低姿勢のままとびかかろうと足に力を込めた時、その剣は振り下ろされていた。

 

 土煙の上がる庭に一瞬にして静寂が落ち、次いで千晴の荒い呼吸音が響きだす。肩で息をする千晴の目の前には一切のぶれもなく木刀の切っ先が突き付けられていた。物を斬るために作られていないはずの木の棒が、その時は確かに千晴を斬れるモノであった。

 

「まッ、参りました・・・・」

 

 息継ぎの合間に零した掠れた一言が、何秒かかけてこの場に溶けていくのを感じた。それに合わせて眼前の木刀もその位置を下げ、完全に取り払われると周囲に音が戻った。屋敷外から聞こえる街の生活音に加えて蝉の音がまばらに聞こえる。どうやら音を忘れるほどに集中していたらしい。

 へなへなとその場に座り込み、呼吸が戻るのを待っていると、千晴の目の前に大きな手が差し出された。剣だこだらけの厚い手をたどって顔を上げると、うっすらと汗をにじませながらも余裕のある杏寿郎がいた。

 

「今回は良く粘ったな!」

「ああ、ありがとうございます」

 

ありがたく手を取って立ち上がる。

 

「うむ!最後の足払い、あれは中々に良かった!思わず俺も下がってしまった」

「しかし、結局避けられてしまいました」

「俺も柱だからな!それにしてもだいぶ打ち合いが続くようになったな!常中を習得してからそれほど立っていないぞ」

「はい。私自身も驚いていますが、これに関しては千寿郎君に感謝です。本当に迷惑をかけましたから」

 

しみじみと話す千晴に杏寿郎はふっと表情を和らげる。

 

「そうか、君にそう言ってもらえて千寿郎も喜ぶだろう。だからできる限りでいい、弟の話し相手になってやってほしい」

「・・私でよいのなら」

「うむ、そうしてくれ。っとそれはそれとしてだな、君、後半はほとんど型を出してこなかったな。どうしたのだ」

「うっ・・・・出す暇も、くれなかったではないですか」

「そうか?!」

 

わはははと青空を背にして笑う杏寿郎に、自身との差がはっきりと生じているのがわかる。既に何度も打ち合って分かったその差に、今はもう落ち込むのも馬鹿らしい。ただ、少しでも差を埋めるためにこの生活を続けるだけだ。

 

「喪上君、一度休息をとろう。今日は暑い」

 

ひとしきり笑った杏寿郎の声に千晴は頷いて、歩き出したその背中を追った。

 

 

「本当に暑いですね。何か飲み物もらってきましょうか」

「いや、さっき千寿郎が飲み物を置いていった。縁側で休もう」

「ええ?いつですか、気付きませんでした」

「うーん、君がまだ型を出していた時だな!」

「だいぶ前ではないですか」

 

 千晴の指摘は正確で、その後麦茶を口にした杏寿郎は思った以上の生ぬるさに目を瞠っていた。

 

 

 

 

 日光を遮る影の下に腰を下ろし、ぬるくなっていようが水分でのどを潤せば、火照った体にゆっくりと陰の冷たさが染みこんでくる。

その安らぎを心行くまでで味わおうと、千晴は縁側に腰かけたまま足を延ばし、しばし無言で疲れを癒していた。その隣に座る杏寿郎も腕を組んで微動だにせず、先程よりも増えた蝉の声がよく聞こえた。

 どれ程そうしていただろうか。これ以上この時間が続けば微睡みの海に攫われそうだと思ったとき、杏寿郎が世間話を始めるかのような穏やかさで口を開いた。

 

「喪上君、そういえば君は、どうしてあの日俺に声をかけたんだ?」

 

何の脈絡もなく発せられた問いに驚きながらも、千晴の記憶はある一点に収束される。あの日、あの日とは初めて杏寿郎を見た日のことか。その予測をもって杏寿郎の方を向くと、相変わらずどこを見ているのかわかりずらい大きな目が千晴を見た。

 

「なに、深い意味はない。ただあの日、君は俺になぜ強く在れるのかとも訊いたな。そこも含めて気になっていたのだ」

 

その目に浮かぶのは純粋な疑問。そっと視線を杏寿郎から外し、しばらく考え込むように自身の膝のあたりを見つめて千晴は口を開いた。

 

「あの日あなたに声をかけたのは、あなたが強かったからです。剣士としての腕もそうですけど、迷うことなく他人を助けることを選べるあなたが、強かったからです。どうしてそう在れるか、知りたかったんだと思います」

 

「君はそうではないと?」

 

「・・はい、恥ずかしながら。私、人のために動けたことなんて・・一度もありません。ええ、一度もないんですよ」

 

笑うように言いながら、その手は心臓のあたりを抑えている。なんだか居心地も悪くなって千晴は一人肩をすぼめて視線を地面に落とした。

 

「君は人を助けるために鬼殺隊に入ったのか?」

「・・・・いえ。そういうわけでは、ないですが」

「そうか、ふむ。問い詰める様で申し訳ないが、なら君はどうしてそこまで人を助けたいと願う?どうして戦っているんだ?」

 

 ピクリと千晴の肩が揺れる。地面に落としていた視線を彷徨わせるが、その双眼に映るのは既に過去のこと。湧き上がる冷たい感情に押しつぶされぬようにと両手を握りしめた。

 

「それは・・・・罪滅ぼしと、もう間違いたくないからです。私、一度逃げたんです。死ぬのが怖くて、そうしたら一番大切だったものを壊すことになった。私のせいです、私のせいでした・・・・だからもう間違えないようにって・・・変わろうと思ったんですけどね。それでも私は、やっぱり自分が大事で・・・結局あれから、何も、何も変わっていない」

 

「それは違うぞ!!」

「え?」

 

震える声で紡いだのは千晴自身の罪の話だ。なにが違うと言うのか。意味が分からなくて思わず顔を上げると、真っ直ぐに千晴を見る杏寿郎と目が合った。

 

「それは違うぞ喪上君!俺は君の過去にどのようなことがあったのかは知らん。だが、何も変わっていないというのは間違いだ!現に君はこうして自身と戦おうとしている!ここに来てからも弱音も吐かずに励んでいるではないか。少なくとも俺には、君は前に進んでいるように見えた!!」

 

「でも、それは・・」

 

「それにだ!!喪上君、いや千晴!君はわが身がかわいいと嘆いているが、人よりも自分を大事に思うことは決して罪ではない!」

 

千晴の言葉に被せて高らかに放たれたその言葉が、矢となって真っ直ぐに千晴を貫いた。それほどまでに衝撃的だったのだ。

 

「命が惜しいと感じる、それは誰しも当然のこと!そこに善悪はないと俺は思う」

「でもあなたは!」

「ああ!そうだ。俺は確かに人を助けることを己の使命としている。だがな!これは俺が決めたことだ!誰かに強制するものでは決してない!」

 

どうしてだろう、目頭が熱くなって喉の奥が震える。杏寿郎から目が逸らせない。

 

「君の抱えているものを過去のものと割り切ってしまうのは簡単だろう、そして楽でもある。だがそうせずに一人戦い抜いてきた君は、きっと君自身が思うほど悪い人間ではない。俺はそう思う!強くなれ千晴!そうすれば自ずと守れるものが増える。君が為すべきこともいずれ分かる日が来るだろう。そのときは俺もできる限り力を貸そう」

 

「ふぅッ、はい!」

じわじわと視界がぼやける中で必死に返事をした。

 

「そうだ!そうして心の炎を燃やせ!自分が正しいと思ったことを、強くなって!生きて為すんだ!!」

 

人の使命とは、きっとそうあるものなのだから。

杏寿郎がそう言い終える前に千晴の涙腺は決壊していた。

 杏寿郎の言葉が千晴の心に明かりをつけていたのである。それに誘われるようにして、それまで千晴が心の底に押し込んできたものが涙となって零れていく。

 灯った明かりはまだ小さく、この先の道を照らすには至らないけれど、それでも暗闇に灯った光の温かさは本物で、千晴はその灯を消さぬようにと躰を抱いて泣きじゃくった。

 

 

 手のひらを顔に押し当ててボロボロと大粒の涙を流す千晴を前に、杏寿郎は静かだった。嗚咽を抑えようと身を小さくする姿はまるで幼子のようで、しかしそれをするのが少女の姿であることに違和感がないことが不思議だ。

 思えば千晴は初めから不思議な少女であった。初めの質問もそうだが、それなりに腕があるのにおかしいくらいに自信がないこと。強くなることには貪欲で素質もあるのに、全集中の呼吸常中の習得法を知らなかったこと。どうにも杏寿郎の目に千晴はちぐはぐに見えたのだ。ちぐはぐで、そして危うかった。その理由が今わかったわけである。

 今目の前で泣く少女を見れば、今まで胸の内を一人で押さえつけていたであろうことは想像に難くない。さらに言うならば彼女に道を示してくれる者が一人もいなかったであろうことも。それはおそらく千晴自身が一人を望んだ結果なのだろうが、これからはできる限り道を照らしてやれたらいい。明日も変わらず稽古をつけてやるから、今は溜まったものを吐き出せば良いのだ。

 

 

刀を振るえども大人ではなかった少女が泣き読むまで杏寿郎はただずっと見守り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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