ドルフロ大学パロ時空 (たぬき0401)
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真相は闇鍋の中

 私は大変に貧乏なので、突発的な予定が苦手だった。

 突然の飲みの誘い、突然の外出、突然の云々かんぬん、どれも出費の元じゃないか。金がないのだからそういうことに巻き込まれたくない。突然読みたくなった本は買う。それは別だ。

 

「鍋するぞ」

 という鶴の一声で私が住むボロアパートに人が集まることとなった。今日から数日漆黒の闇ブラック研究室ことペルシカ研は教授不在のため夢の休日。

「72時間進捗叩けますかのデスマーチから解放される喜びは、飲まざるを得ない」

 と研究室唯一のドクター、M16が主張するため部屋を提供する代わりに酒代は持ってもらうことで了承した。

 M16は同じ研究室に所属する私の同期であるM4とAR-15、それから後輩のRO635とSOPⅡに声をかけたようで、計6名の研究室総動員鍋会となった。

 私は一足先に自宅へ帰り、廊下と6畳の部屋、それからロフトの掃除をしている。ロフト付き6畳というとなかなか瀟洒な気配がするが、ロフトのせいで天井が高く古びたエアコンがなかなか効かないため夏は死ぬほど暑く冬は死ぬほど寒い。

 片付けがちょうど終わったところで玄関がノックされた。客人を迎えるためにもそもそロフトから降り、もぞもぞ手をさすりながら玄関に出た。

「よう、お待たせ」

「買ったな……」

 M16はアルコール類がぎっしり入ったスーパーの袋を持っていた。ROとSOPⅡは食材の入った袋を持っている。

「M4とAR-15はちょっと遅れて来るみたいなんだ」

「そうか」

「だからお前も今の内に買い物行ってきなよ」

「買い物?」

 首を傾げていると部屋に上がったROが近寄ってきた。

「その間に用意しておきますよ。お鍋この前使ったのと同じの使わせてもらっていいですか?」

「お、おぉ、流しの下にあるぞ」

「ねーねーねー本借りていい?」

 今度はいつの間にか6畳間の本棚をいじってるSOPⅡだ。

「構わんがこの前貸した本を返してくれ」

「もーすこし、もーすこしで読み終わるから!」

「はいはい一冊だけな」

 毎度毎度うちで飲み会をするせいで勝手知ったる他人の家だ。

「そういうわけだから、買い物」

「だから何買ってくればいいのかはっきりさせてくれ」

「今日闇鍋だから」

「正気か」

 

 聡明な読者諸君等は闇鍋をご存知だろうか。闇鍋とはキラキラ輝くSNS映えするパリピ仲良し大学生のやる鍋パとは一線を画すものであり、その起源は古く平安時代にさかのぼる。

 かつては料理を一品ずつ持ち寄る催しだったものが時代を経て狂気と饗宴の色を帯び、明治時代にはついに『闇汁』などとおどろおどろしい名前になり果てた。

 宴の内容は暗所にて鍋の中に銘々の持ち寄った具材をぶち込み、未知なる鍋を食らうという悪魔の儀式だ。

 かの文豪、正岡子規ら所属するホトトキズのメンバー達が行った闇汁の記録が残っているため、これは非常にインテリジェンスかつクリエイティブで文化的な催しである、と主張することもできないでもないが正直者の私からさせてもらうと、

「阿呆ばかりだ」

 結局いらぬ出費を強いられる。最低限の鍋の材料はROが確保してくれていたためとりあえずなんとか食べ物にはありつけそうだ。一度普通に鍋を味わってから二周目に満を持して闇鍋をする魂胆なのだろう。

「おや、M4」

「あらお疲れ様です。買い物ですか?」

「そうだ。M16からの連絡は?」

「きてます。なので何を買おうかなと」

 そう、それなのだ。確実にM16は馬鹿げた物を入れるだろうしSOPⅡは壊滅的な物を入れるに違いない。ここで鍵となるのがROだ。真面目な後輩は何かしらそこでバランスを取るための一手を打つに違いない。

「あの、実は相談がありまして」

「んー」

「AR-15とのことなんですけど、この前……」

 しかし、しかしである。ROが真面目だからといってバランスを取りに出るのだろうか? M16に正しく間違った闇鍋の作法を吹き込まれて異次元の物を入れやしないか? それにROは真面目と見せかけてかなりあったまりやすくて割と馬鹿である。

 これはROの真面目さを信じて私もふざけるべきか、それともROの御しやすさを信じて食い止めに回るべきか、どっちだ、どっちなんだ?

「……って話なんですけど、私はもう少し積極的にいくべきでしょうか?」

 いかん聞いてなかった。なんの話だ? 積極的ってことで私に聞いてるんだからゼミの話だろうか、そうだろうな。

「そうだな。もう少しばかりぐいぐいいくのがよろしい。色々ともったいない」

「もったいないですか?」

 M4は疑問に思うポイントはなかなか目の付け所がいいのについ気が引けて質問を控えてしまうのがもったいない。もっと声出していっていいのだ。

「うむ。いいところは突いてる」

「えぇっ!? そ、そんな、なんで知っ……」

「M4のことは割と気にかけているからな」

「どうしてそこまで」

「当たり前だ。同期だろう?」

 M4は神妙な顔をして、少ししてから頷いた。

「わかりました。がんばってみます」

「うむ。がんばれ」

「ちょっと別行動していいですか? 後で合流するので」

「わかった」

 こうして一人でスーパーの中を彷徨っているとまた今日の客人に会った。

「お、AR-15」

「あなたも買い出しですか」

「M16が闇鍋だと言うからな、自分の用意するべき具材を」

「はぁ……どうせろくでもないことになるのに……」

 全くの同意だがそれでも参加拒否しないのがAR-15のかわいいとこである。本人には口が裂けても言えないが。

 さて、ROの出方がわからないため私はバランスと意外性どちらを取るのか決めあぐねていた。そして散々悩んだ結果ナチョスを買うことにした。

「ねえ、ちょっと意見がほしいのだけど、この前M4が……」

 ナチョスなら比較的何にでも合うし、ぱっと見のインパクトもある。バランサーにしてパンチも加えられるこれほど完璧な食材があるだろうか、いやない。

「……って話なんだけど、私はもう少し素直になった方がいいのかしら?」

 いかん聞いてなかった。なんの話だ? 素直って私に聞いてるんだからゼミの話だろうか、そうだろうな。

「そうだな。もっと受け手に回ってもいいやもしれぬ」

「そう?」

 AR-15は相手の話をよく聞いていて、きちっと質問には答えるが気持ちが先に走りすぎて食い気味に答えてしまうことが多々ある。本人にその気がなくてもなんとなく腹が立っているように見えてしまうのだ。

「君は早いから」

「ちょっとなんで知って」

「同期だからな」

「そ、そう……わかった、がんばってみるわ」

「うむ。がんばれ」

 そうこうしている内に買い物は完了し、スーパーの出口でM4と落ち合いパーティー会場に戻った。

 帰り道、妙にM4とAR-15が無口だったことが気になった。

 

 こたつにぎゅうぎゅうになりながら入り、カセットコンロを囲み、銘々にプラスチックの使い捨てカップを手にして、

「それでは日々進捗を叩かされている我々のつかの間の休息を祝して乾杯!」

「乾杯!」

「乾杯」

「かんぱーい!」

「か、乾杯っ」

「はいはい乾杯」

 M16の音頭で飲み会が始まった。

「先生珍しく出張先で宿泊されますね」

「アンジェさん来る学会だからな、積もる話もあるのだろう」

「アンジェさん?」

「ROは知らなかったか。国立研究所の研究員をやっているペルシカさんの同期だ。仲がいいらしい」

「へぇ……先生に友達いたんですね……」

 まあそうなる。先生に我々以外の人間関係があることが既に驚きだ。

「肉いただき!」

「こらSOPⅡそれはM4が大事に育ててた肉だ」

「いいんですよ姉さん」

「M4、私の取りすぎた肉分けてあげるわ」

「あっありがとうAR-15」

 向かい側でやんややんややっているのを眺める。対岸の姫だ。M4はあの性格故なんとなくお姫様扱いされている。内気で声が小さくて真面目で勤勉で優しい。おまけにどことなくふにふにしてていい匂いがする。これは守らねば。顔もいいし。

 私は突然、なんで歩く平々凡々のような私がこんな顔のいい連中ぞろいの場所にいるんだ、とより所のない不安に襲われたがそれをビールで押し流した。普段は発泡酒だが今日はM16の奢りだからビールだ。

「SOPⅡくん、ちゃんと野菜も食べたまえ」

「えーいらないよう」

「食べなければ賢くなれん」

「もう十分賢いのに」

「先輩の言うことを聞きなさい」

「はぁい」

 肉ばかり食らう後輩に野菜を勧めるできる先輩ムーヴもしてみる。いや実際は肉を奪われないように野菜を食わせているだけだ。

「そういえば君、何か浮ついた話はないのかね」

「なんだM16は藪から棒に」

「いや私らはなーんもないからさ」

「私にもあるもんか」

「てっきりこういうのはあるのかと」

 M16は右手の親指を立てると人差し指と中指の間をくぐらせこちらに親指の腹を見せた。

「下品な奴め」

「なんですかそれ?」

「ROは知らないままでよい」

 私の様子を見てM16は実につまらなそうにため息をついてビールを飲み干した。

「ちぇっ酒の肴にしてやろうと思ったのに」

「後輩の色恋沙汰で飲もうとする先輩がいてたまるか」

「いやいやこれが楽しいんだって」

 はた迷惑な。しかしまあなんやかんや理由をつけて一緒に飲んでくれるM16はいい奴なのだ。

 空になったM16のカップにビールを注いでやっていると横からAR-15の腕が伸びてきて私の器にしいたけを入れた。

「ほら、あなたまたしいたけ食べてない」

「うげぇやめてくれ……食感がぐにっとしてて苦手なんだ」

「しいたけ農家に謝りなさい。そんなんでこの先やっていけると思ってる?」

「せっかく忘れていたというのに」

 間もなく一巡目の鍋が終わり、闇鍋が開催される。

 

 真っ暗な部屋にコンロの炎に照らされた鍋がぼおっと浮かび上がる。百物語でもしそうな光景だがこれから始まるのは闇鍋だ。

「入れるよー! どーん!」

 SOPⅡがどぼどぼ鍋に何かを入れていく。何が入っているのかは自分の以外わからない。

「一番意外だったのを持ってきた人が勝ちにしようよ」

 彼女はこういう下らぬ勝負事が好きである。しかしそうだと言ってくれればもう少し考えたのに。

「優勝したらロフトで寝かせてください」

 ROの申し出に物珍しそうにM16が応えた。

「なんだROから景品の指定とは珍しい」

「だってこの前全員床で寝て狭かったんですもん」

「だってよ。どうする家主?」

「かわいい後輩の提案だ。飲もう」

「かわいいだなんてそんな……」

「勘違いしてるな? 大分飲んだかこいつ」

 さて、そろそろ頃合いだろうか。鍋の蓋を開けると何ともいえない匂いがもわっと広がる。

「うわっなんだこれは」

「いや悪くない」

「酸っぱい匂いが」

「なんか甘い匂いしたよ?」

「刺激臭もしますが」

「ねえこれどうするつもりよ」

「決まってるだろ、食べるんだよ。器に入ったものはすべて食べること」

 各々取り分けられた物を手にして逡巡。誰が最初に手を着けるか様子を伺っている。このままでは誰も口にしないまま立ち上る臭気に気圧されるだけだ。えぇいままよ!

「やあやあ我こそは一番槍!」

 ぽいと何かを口に突っ込む。途端に辛みとやんごとなき食感、さらに乳酸菌発酵臭が襲いかかる。

「ぎゃあ! むにゅっとしてる! むにゅっとしてた!」

 私の犠牲を踏み越えて各々箸を付け始めた。

「歯にひっかかりました……なんですかこれ」

「ちょっとこれ堅いわよ」

「これは意外といけるのでは……」

「あはは伸びた!」

「うっぬとっとしてて甘い」

 闇鍋の恐ろしいところは食べている物がわからないという点だ。たまに目測を見誤って堅い物に思いっきり食らいついてしまうし何かが舌に当たる度冷や汗が出るし思い切り息を吸い込んでしまってむせるし。

 我々はなんだこれなんだこれはと喚きながらほうほうの体で器を空にした。とても顔のいい女性陣と鍋を囲んでいるとは思えない。提案した奴も、乗った奴も、逃げなかった奴も、なんとなくで来た奴も、あの子がいるならと来た奴も、ついでに酒に釣られて場所を提供した私も全員揃って馬鹿ばっかだ。

 さて器が空になったためいよいよご開帳である。明かりをつけて、いざ中身を……

「これはひどい」

「うげぇだね」

 とにもかくにも誰が何を持ってきたのか改める必要かある。

「まず、この鍋に大量にぶち込まれたキムチは」

「はーいはいはいはーい!」

「SOPⅡはなんでこんなに入れたんだ?」

「好きだからたくさん入れたらおいしいかなーって」

「限度をわきまえよ」

 ゴミ袋に空になったキムチのパックが見えた。あれ全部入れたのか。次だ次。

「さきイカ」

「私だ」

「M16だったのか。守りに回ったな」

「だってROの持ってきた物がさぁ」

「何を持ってきた?」

「これです」

 豆大福だった。

「戦犯」

「なんでですか! 好きな物入れていいって」

「何作ると思ってたんだ! 鍋だぞ鍋!」

 私の予想に反してブレーキの外れたROをM16が抑えに回った形だったのか。RO、なんと恐ろしい子。

「これ案外いけるなって思ったのはピザか」

「それ私です」

「やるなM4。ピザが合うなぞ思いもよらなかった。ということはバナナがAR-15か」

「そうよ」

「これも大変によかった」

「とりあえずバナナは外れないでしょ」

「確かに」

 全ての具材が明らかになったところで闇鍋は終了だ。あとはまあ気合いでこれを片付けるだけで、

「ちょっと待て」

「なに自分のことは置いといてみたいにするんですか」

「M16、RO、近いぞ」

「ナチョスはお前かこいつめ」

「堅い物は御法度ですよ口を切りました」

「悪かったって、ほら味はバランサーに」

「問答無用だやっちまえSOPⅡ」

「わーいどーん!」

「ぎゃあうわやめて!」

 こうして私が鍋の残りを流し込む運びとなり、飲み込めないものは酒で押し込み、いつの間にか記憶が途切れ……

 

 はっと目を覚ました。目が開いただけで身体は動かない。金縛りかと思って首を必死に動かすと、私の太ももをROが枕にして寝ていた。確認する限りM4とAR-15がいないのは、おそらくこの二人がロフトで寝る権利を得たのだろう。まあ女性二人ならあのロフトでも寝ることくらいでき

「ちょM4、なにして」

「しーっみんなが目を覚ますでしょ」

 おいおいおいおい、なんだ?

「私ね、もう少し積極的にいこうと思ったの。だってあなた逃げちゃうじゃない」

「それは、だって」

「そんなに嫌だった?」

「嫌ってわけじゃ……でもそうね、私も少し受け身に回るわ。よくないもの」

「うん、だから静かに」

「はぁ……今度家主にお昼おごってあげましょ……」

 おいおいおいおいおいおいおいおい……まあおごってくれるならいいか……よくないが……眠いし……酔ってるし……スーパーでなんか話してたのってこれだったのか……いやわからん……真相は闇の中だ……

 首を反対側に向けると無表情で目を開けているM16がいた。そら複雑であろう、妹分のことだし。

 私はそんな彼女に向かってサムズアップをすると、そのまま親指を人差し指と中指の間に挟み込んだ。ざまあみろ私を肴にする前にお前の嘆きを肴にしてやる。

 ほくそ笑む私の後頭部に寝ぼけたSOPⅡの蹴りが入り再び暗転。私が昼まで目が覚めることはなかった。



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謎の先輩G

 私は大変に貧乏なので、食べ物を粗末にすることが苦手だった。

 茶碗に盛られた米は一粒残さず食べる。カステラの紙についてるのもきれいに食べる。ヨーグルトの蓋の裏もすくう。お残しは許されない。きちっと食べるべし。

 

 昼休みには中庭に行く。これが私のルーティーンなのだ、といっても始めたのは最近だが。入学以来三年間連んでいた友人が留学してしまい、暇なのだ。

 今月は金欠なため今日の昼食は袋入りのマーガリンパン。ベンチに腰掛けてもそもそ食べていると、

「ねえ」

 話しかけられたが相手が見当たらない。

「こっちこっち」

 少し下に視線をやると、背の低い眠たそうな顔の女性がこちらを見上げていた。見上げているせいで被っている大きめの帽子がずり落ちそうだ。

「そのパンいっこくれない?」

「なぜだ?」

「私のは鴨にあげちゃってさ」

 中庭にぽつんとある池では鴨の母子がすいすい泳いでいる。5羽の雛はまだぱやぱやとした羽毛玉のようで、ひよひよ高いかわいらしい音で鳴いていた。

「ね、いいでしょ?」

「はあまあ、構わんが」

 一瞬警戒したものの鴨に毒気を抜かれてしまい、パンを分け与えることにした。

「ありがとう助かったよ」

 彼女は私に感謝の握手をすると、両手でパンをつかみ齧歯類のように食べ始めた。

 

 研究室で中庭での出来事を話すと、弊研究室唯一のドクターは真っ黒いコーヒーを片手にカレンダーを見た。

「もうそんな時期か」

「時期とは?」

「冬眠から目覚めたんだ」

 首を傾げる私に彼女は告げた。

「彼女は多留だ」

 聡明な読者諸君等は学部8年システムをご存知だろうか。大学というところは魔境である。夢を抱いて門をくぐった結果、勉学、友人、教授、サークル、金銭、バイト、実家、そして恋愛といった様々な局面で壁にぶつかり、挫折と共に消息を絶つ。その数は100人いる学年に30人とそれなりに高い割合であり、大学が対策を講じねばと頭を悩ませた結果制定されたのが学部8年システムだ。

 本来なら学部は4年までしかないが8年まで延長させられるのがこのシステムである。このシステムのおかげでなんとか這い上がって来れる連中もいたりいなかったりする。このシステムの甲斐あって悲しい失踪は一割まで抑えられた。

 その一割に属するのが、中庭にいたような多留生である。何も成さずに日々を潰しに潰し続けついに8年目が見えてきた学生。行き着く先は奈楽だとか餓鬼道だとかいや輪廻から外れるんだとか言われている。

「彼女はなぜそのようなことに?」

「噂によると怠惰が過ぎるようだよ。前期は来るけど後期は来れない。だから冬眠。有名な話だけど」

 そんな話はちっとも聞いたことがなかった。心当たりなく眉間にしわを寄せる私をドクターは笑った。

「気をつけな。握手すると留年するって話だよ」

「そんな、馬鹿馬鹿しい」

 鼻で笑うと学生室に教授が入ってきた。

「おやペルシカさん、何用ですか?」

「ああ君、よかったよまだ残ってて。悪いけどあの論文はやり直しだ」

「え」

「今日発表された論文誌に酷似したものが出ていてね。たまたまなんだけれどこういうのは後から出した者が負けるから」

「な、な」

 私はわなわな震えながら右手を見た。

「ほら、馬鹿にできない」

 冷や汗がどばあと背中に溢れた。

 

 翌日、教授と徹夜で論文の方向性を修正し、幽鬼のような顔で再び中庭を訪れた。

「ねえ」

 再びの声に右下の方に視線をやった。

「なんですか、パンなら差し上げませぬぞ」

「どうして敬語なの?」

「あなたが年上だとお聞きしました」

「はぁ……そんな理由で態度変えるの?」

 つまんないなぁ、と先輩は俯いた。帽子が大きいのも相まって余計に小さく見える。

 なんとなく申し訳ない心持ちになり、私はパンを差し出した。

「お許しください。年上は敬うべきだと信じておるのです」

「君ねぇ、全ての年上が敬うべき存在だと思ってると後悔するよ?」

「幸い私はまだその日に巡り会っていませぬ」

「ふーん。まあいいけどさ」

 彼女はパンを受け取ってまた齧歯類の如く食べた。

「先輩、学部学科はどこです」

「覚えてない」

「研究室は」

「覚えてない」

「今何年目です」

「覚えてない。ぼんやりしてて忘れちゃった」

 この人は何を考え何のためにここにいるのだ? この様子では講義は出ていないのだろう。彼女の視線の先には鴨の母子が水面をつつくばかりだ。

 いけない、きっとこのままではこの人はどうにもならない。

「先輩、名前は?」

「G11」

 私は若さ故の正義感で、この人を改心させるのだと決心した。明日もパンを持って行こう。

 

 通い始めて1ヶ月、我々はパンを分け合う間柄となった。私が一方的に与えているとも言う。

 この行動を始めてよかったことがいくつかある。一つは学友なき後の暇と悲しみを紛らわせたこと。一つは先輩が多少は打ち解けてきてくれたこと。

「君さぁ、暇なの?」

「暇ではありませぬ。72時間進捗叩けますかのキャッチフレーズで日夜研究に励んでおります故」

「うわ……でも毎日来るじゃん」

「研究室の外に出ることで健全に」

「サボってるの?」

「有り体に言うとそうです」

 G11先輩はふぅんと小さく漏らした。

「ずーっとサボってたいって思わない?」

「思うこともあります。週末はずっと布団にいたくなります」

「けど君は昼休みが終わると研究室に戻るよね」

「やらねばならぬことがあるので」

「それは」

 先輩がつぶやく言葉に私は思い悩むことになる。

「本当に君がやらないといけないことなの?」

「え?」

「そんな辛い思いをしながらなんでがんばるの?

その研究って君がやらなくても他にやってくれる人がいるんじゃない?」

 ぐうの音も出ない。事実私は類似研究があったために研究をやり直している。私がやらなくても誰かが同じような研究を進めているなら、私が苦しむ必要はない。

「いいじゃんそんなにやらなくても。自分の上位互換はたくさんいるんだし、一人くらいサボっててもさ」

「G11さんは、それで冬眠されるのですか?」

 私の問いかけに彼女は口をつぐんだ。わかっている。この人がこうして後ろ暗い部分を見せてくれるのも私に打ち解けてくれている証拠なんだって。けれど少し噛みつきたくなってしまったのも事実だ。

「あーごめん、忘れて」

 小さい先輩は立ち上がると池の方に向かっていった。私も少し後ろからその様子を眺める。

「知ってる? この子等大抵5羽生まれて3羽くらいしか巣立たないんだ」

「それは、知りませんでした」

「巣立てなかった2羽はなんのために生まれてきたんだろうね」

 私は答える術を知らない。

 

 その日、人生で初めて研究室に戻らなかった。今まで一度も講義を休まず、代返もせず、雨の日も風の日も、風邪をひこうが足を折ろうがただ真面目だけが取り柄とばかりに大学に通いつめた私が、初めて行くべき場所に行かず自室で布団にくるまった。

「ペルシカさんはお冠になられるだろうか」

 ぽつりと言ってみたが答える者はどこにもいない。時折私が落ち込む度にマッ缶をよこしてきた学友を恋しく思う。

「貴君ならなんと言ったのだろう」

 記憶の中の学友は『わぁみじめ』とけたけた笑いながら私を馬鹿にしたのだ。今回もそうであろう。彼女は私を無意味に慰めたりなどしない。

「ううぅ……おのれ……海外などに現を抜かしおって……許さんぞぉ……」

 呪詛を吐いても一人。天井の高いロフト付きの部屋に声は響きもしない。空しい反面、先輩に言われたこともまた事実であり、どうも己を奮い立たせられない。なぜ私はがんばらねばならんのか。こんな毎日苦しみに耐えて来るかもわからぬ栄光を夢見て。

 優しい人は皆口をそろえて『あなたの代わりなどいない』と言う。それは確かなのだろうが、私の上位互換は確実にいる。ならば全てそいつにやってもらえばいいではないか。

 心地よい無気力で手足が溶けていくようだ。このまま私も布団になってしまいたい。ああせめて道具や機械に生まれれば、なんのためになぞ無駄なことを考えずに過ごせたのに。

 

 こうして寝ては起き起きては寝て過ごすこと一週間、ついに私は研究室のメンバーに引きずって連れて行かれた。後ほどサークルの後輩に聞いたのだが、まるで御輿のようであったそうだ。

 私は教授室に運び込まれ、目の前には湯気を立てるコーヒーを置かれた。

「やあ」

「ペルシカさん……お怒りですか?」

「いや、私にも身に覚えがあるからね。でも指導教員として放っておくわけにもいけないから」

 ずずずとコーヒーを飲む教授は笑顔だった。

「何に迷ってしまったの?」

「私が、私のやることは、無駄ではないかと」

「ははあ余程論文を通せなかったことが堪えたね」

 ふむふむと彼女は頷いた。彼女は研究者である故、通せなかった論文がいくつかあるのではと想像に易い。私のような青二才の悩みなどかわいらしいものだろう。

「君は、高等学校では優秀だったそうね」

「はい」

「ではここで初めて挫折したわけか。感想は?」

「ひどく、惨めです。励む気力が沸きません。自分がちっぽけで何も成せないと見せつけられました」

「それでも君はがんばらねばならないよ」

 あまりに無慈悲な言葉についカッとなった。

「なぜです! 私は失敗したのです! もう解放してください!」

「君は自分のやったことは無駄だと思っているね? 無駄にするのは君自身だ。君がもがき続ける限り全てに意味がある。無駄でないものにしたいと願う限り走り続けなさい」

「そんなの、まるで奴隷ではありませんか」

「その通り」

 先生は満足そうに言った。

「我々学問を志す物は皆、己の好奇心の奴隷だよ。君を突き動かすのは常に君だ。ただ発生した成功や失敗だけが他人の糧になれる」

「失敗もですか?」

「君が失敗したから私は新しいアプローチを考えられたよ。さあそれを飲んでまた励むんだ」

「……」

 私よりすごい奴がいること、私が失敗したことは何も解決できていない。しかしながら、やり続けなければ全てが無駄になると言われて立ち止まるわけにもいかぬ。

 目の前のコーヒーをぐいっと飲み、盛大にむせた。

「げほっうえっなんだこれはシップくさい!」

「わーっはっはっは! M16たちが仕掛けたホットルートビアは大成功だよ! 君もこのお仕置きに懲りたらあまり友人に心配をかけるんじゃないよ」

 腹を抱えながら笑う教授を涙目で睨みながら、勝手に孤独になるのはよそうと心に決めた。

 

 一週間ぶりの中庭には相も変わらずG11先輩がいた。

「G11さん」

「君、もう来ないのかと」

「寂しかったですか?」

「いや、ただ、捕食者にやられた鴨のことばかり考えてた」

 私はパンを先輩に渡した。彼女は受け取るのを躊躇った。

「どうして私に構うの?」

「孤独に見えたとか救いたかったとか色々優しいことはいえますが、本音は面白そうだと思ったからです」

「ずいぶんな理由だね」

「とどのつまり私は好奇心の奴隷です。では先輩はなぜ何もなさらぬのに毎日中庭にいらっしゃるのですか?」

 先輩は考え込んだ。よく見ればかわいらしく整った顔をうんうんしかめて考えて、ため息とともに答えを吐いた。

「私もだ。ただ家にいても退屈で、何か変わっていく物が見たくて、こうして中庭で鴨を……おかしいなぁ十代の頃は優秀だったんだけどなぁ。ずいぶん無駄なことを続けたよ」

 彼女もまた角を折られた麒麟児であったのだ。

「もがき続ける限り無駄なことはありません。先輩も無駄な存在ではありません。ですから」

「うん、うんわかったよ、ちょっと遅くなったけどこれからがんばるからさ」

「その意気です」

 たとえそれが中間試験後の『今日から勉強がんばる』という結局やらない決心であったとしても、私は完全に無気力であった先輩を一瞬でも立ち上がらせられたことに満足した。

「珍しくその気にさせられた。君には責任を取ってもらわないと」

「セキニン……」

 いけない、そんな、こんな理由で婚姻関係を結ぶなど……ご両親にはなんて挨拶すれば……

「とりあえず毎日パンちょうだいよ」

「あ、はいそれなら」

 金欠なため全くよくないが、私の妄想に比べたら何てことはない。

「とりあえず明日から本気出すかぁ」

「今日ではないのですか」

「いきなりやる気出したら死んじゃうよ」

「なんですかそれは。あなたはマンボウか何か」

「ふふ」

 彼女は珍しく声を出して笑った。

 

 翌日の昼休み、学内掲示板の前に人だかりができていた。掻き分け掻き分け掲示物を見ると、そこには

『以下の者は教授会議に来るように。

 Gr G11

 学長代理 ヘリアントス』

 私は中庭へ走った。

「じ、G11さん、あれは」

「あぁ君か。うん、つまりそういうことだよ。遅すぎたみたい。私8年目だったんだね」

「まだ間に合います。中退勧告なんぞそんなもの」

 私は悔しかった。自分が遅すぎたこともそうだし、何より先輩が穏やかであることが悔しかった。

「掛け合いましょう。分かってもらえます」

「いいんだよ。そんな無駄なことは」

「無駄なんてあるものですか! せっかくここまできたというのに!」

「私の無駄じゃないよ。君の無駄だよ。これ以上迷惑かけられない」

「かけてください。あなたのおかげで私は挫折を受け入れられたのです。その恩に報いさせてください」

 彼女に無意識に抱いていた無気力を指摘されなければ私は立ち上がる機会を得られなかった。無責任に励ますことは誰にでもできる。しかし谷底へ落とすことは、同じ谷底を知っている者にしかできない。

「君は本当に、暑苦しくていい奴だね」

「でしたら先輩はいい人です。か弱い鴨の母子をずっと気にかけていた善人です」

「うん。最後に無事に全員巣立っていくのが見れてよかったよ」

 鴨の母親は自分と同じ大きさになった若鳥を、5羽引き連れて池を泳ぐ。まもなく飛び立っていくだろう。

「今までパンをありがとう。実に、いいモラトリアムだった」

 去っていく背中が小さく遠く、届かなくなっていった。

 

 まさか本当にいなくなることがあるまい、と信じて翌日も中庭に行ったが、先輩の姿はなかった。

「退学したらしいよ」

「某国に亡命したとか」

「いや溢れ出す怠惰エネルギーに目を付けられて研究所に捕まったんだ」

「……なんてこと言われてますよ」

「ばかばかしい」

 私は来る日も来る日も中庭に通いつめた。いつでも先輩が戻ってきてもいいようにいつものベンチに座り、パンを用意して、時には実家から送られてきたみかんを片手に寒くなってからも中庭に訪れた。

 それでも先輩は現れず、冬にもなれば根も葉もない噂が流れ始めた。

「サークル代表会で鴨の保護について発言してくれたそうだな」

「はい。野鳥研究会が散歩ルートを確認、それからそこに猫避けを設置することになりました」

「手間をかけた。ありがとう」

「いえ、完璧に手配するのが私の役目ですから。その代わりまた映画よろしくお願いしますね」

「心得た」

 鴨の母子は秋口にさしかかった頃に飛び立っていき、私はこれを見送った。

「ところでそろそろ先輩は就活では?」

「うぐ」

「ここでぼんやりしていていいのですか?」

「うぐ」

「先輩?」

「うぐ」

「就職せずに進学しましょう、ね?」

「いやしかし……」

 やりたいことは何も見つかっておらず、どこかしら教授のコネで入れてくれないかなとも考えたが、ペルシカさんにコネなんて望めそうになかった。

 別に院に進学するのもやぶさかではないが、それはそれで実家に負担をかけることになる。私はまだ悩んでいた。

「はー働きたくない。高等遊民になりたい」

 ぶつぶつぼやきながら研究室に戻る途中、不注意にも何者かとぶつかってしまった。

「失礼」

「いてて……あれ? 君か」

 目を疑った。そこにいる真新しいスーツに着られている小さい影は、

「G11さん! どうして」

「いやー、学校いられなくなっちゃったから働くかなって思ってさ、受けたところで一発芸見せたら入れてくれちゃって」

「な、なん、だと……」

 あの先輩が社会人……

「君のおかげだよ。堕落し続けないでがんばらないと君に合わせる顔がないじゃない」

「そんなの」

 私はただこのいい人が健在でいてくれさえすればそれでよかった。それがこんな立派に……いやこれは親の気持ちだ。先輩に抱くものではない。

「君そろそろ就活じゃない? もしよかったらうちにおいでよ。今日リクルーターなんだ」

「だからそんな格好なのですか」

「そう。似合わないでしょ?」

「イカしていますぞ」

 先輩は肩をすくめて笑って、名刺をくれた。

「じゃあまたね」

「はい」

 去っていく背中をしっかり見つめて見送る。先輩が見えなくなってからもらった名刺を見るが、見覚えのない会社だ。

「それさぁ」

「うおっ」

 突然学友に声をかけられ危うく飛び上がるところだった。留学から約半年ぶりに戻ってきた学友は変わらず突然現れてはいらんことをする。留学に行ったのも突然であり戻ってきたのも突然だった。

「兵器作ってる会社だけど」

「…………あの人何の一発芸したんだ」

「しかし隅に置けないね、私のいない間に年上引っかけてたんだ?」

「ちがわい!」

「口外してほしくなければ、今日はマッ缶奢りね」

「くそう……」

 我々はいつも通り体育館裏の自販機へ向かうのであった。



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416に二度殺される

 私は大変に貧乏なので、金と単位にならないことは苦手だった。

 無益なことに身を投じる暇があったら勉学に励むべきだ。学生の本分は勉学である。それが恥ずかしげもなくやれコンパやらやれ彼氏彼女やら現を抜かしおって。恥を知れ。しかるのち死ね。

 

 春ほどくそったれな季節はない。暖かくなり皆浮かれ気分でふわふわし、花見や新歓で羽目を外して急性アルコール中毒になる。だから私は新歓なんてものには行かない。

「さすがに今年来なかったら除籍だってさ」

「おのれ……去年は逃げおおせたのに」

「三年だからでしょ? 私のこと伝言係にしないで」

「対価は出してるじゃないか」

「はいはいマッ缶ごちそうさま」

 私の所属しているサークル、図書館倶楽部は本年も新入部員を募っている。私は新歓嫌いであるために昨年はなんとか逃げ切ったが、サークルを仕切っていく立場となる今年は逃がしてもらえないようだ。

「そもそもなんでそんなに嫌なのにサークル入ってるのよ」

「図書館倶楽部に所属していれば自分の延滞図書は見逃されるんだ」

「うわ最低」

「私が考えたのではない。サークルの先輩がそう言っている」

「あぁ例の」

「そう例の」

 飲みきったマッ缶をくずかごに放り込み歩き出した。いざゆかん浮かれ気分ほわほわの世界。

 

 聡明な読者諸君等はサーオリをご存知だろうか。サークルオリエンテーション、略してサーオリ。各サークルが新入生に己の活動をアピールし「ここに入れば君の学生生活は薔薇色」と騙くらかす悪しき行事である。オリエンテーション自体は講義棟で行われ、正門から講義棟に至る道にはずらりと各サークルが並んでほやほやの新入生にチラシを押しつけている。

 私もノルマとして与えられたチラシを配って回っているが、受け取る新入生達は情報処理能力を凌駕した紙を両手に右往左往している。

「お、いたいた」

「おやM16先輩」

 彼女が例の先輩である。

「悪いんだけどこの新入生部室に連れてってあげてくれない? 今から研究室行かなきゃいけなくてさ」

「はあ分かりました」

「そういうわけだからこいつについてってよ」

 先輩は無責任にも新入生を置き去りに走り去った。いなくなった先輩と私とを不安げに交互に見る新入生がいたたまれない。

「君、名前は?」

「HK416です」

「よろしい。ついて来たまえ」

 私は紳士的かつエレガントに彼女をエスコートした。何がエレガントなのかは知らないが。

 我々図書館倶楽部は学内図書館の円滑な利用を促進すべく活動している文化的かつ有意義なサークルであり、主な活動内容は図書館で開催されるイベントの発案と管理、そして延滞図書の取り立てである。しかし新入生相手に延滞図書の取り立てについては伏せられている。

 図書館倶楽部は一部の学生からは認識されず、一部の学生からは学内図書館を活発に利用するための窓口として重宝され、一部の学生からは暴力団と恐れられている。何故なら延滞図書の取り立てにおいては手段を選ばないからだ。正しく図書館を利用する者には親身に、蔑ろにする者には天罰を。それが我々だ。

 連れてきた新入生はなかなかに整った顔立ちをしていたため、部室でうだうだしていた男子学生共は途端に色めき立った。

「416さんはM16さんからなんと?」

「ここのサークルはあらゆる講義の過去問過去レポを参照できるとお聞きしました」

「あるある。新規の講義でなければなんでもあるよ」

「ですので、そのためにも所属するのは有益かと」

「いいね! とりあえず今日の飲み会おいでよ。新入生は奢りだから」

 おうおう盛り上がりおって。遠巻きに様子を眺めた私は、新入生を一人連れてきたのならお役御免だろう、とそろりそろり部室から抜け出した。私の心は既に明日、土曜日の方へ引っ張られているのである。

 

 土曜日、大学は休みなので私は市立図書館に赴いた。いつもは一人だが今日は後輩も一緒である。

「君は本当に来てしまってよかったのか?」

「はい」

 彼女が来た理由を説明するには昨日の夜まで時間を巻き戻さねばならない。

 

 昨夜執り行われた新入生歓迎コンパで416は大いにちやほやされていた。私はその様子を眺めながら焼き鳥をむしむし食べ、飲み放題のアルコールを流し込み、必死に元を取ろうともがいていた。

 貧乏学生にこの時期の飲み会代は痛く、教科書代に加えて4月は奨学金の振り込み日が他の月より遅いことから、この時期に実家に金の無心をすることもあったりする。私は意地でもしないが。

「416さんは一人暮らし?」

「はい。寮の抽選から漏れたので近くにアパートを借りました」

「へーそうなんだ。何か趣味はある?」

「映画を観るのが好きです」

 昼間から引き続き男子学生共は彼女に釘付けである。なんとも情けない奴らだ、と鼻で笑おうとしたが不覚にもワサビを吸い込んでしまいむせた。

「ゲホッうぐっ」

「先輩、あの、大丈夫ですか?」

「おい幽霊部員、新入生に心配をかけるな」

「やかましい。げほ」

「水です。どうぞ」

「悪いね……」

 顔のいい新入生は心まで綺麗なようだ。阿呆部員達も見習ってほしい。私は彼女から水を受け取りぐいぐい飲んだ。

「そういえば映画好きなんだって?」

「はい」

「私もなんだ。明日観に行く」

「でしたらご一緒してもよろしいですか?」

 そういうわけで彼女はここにいる。

 

 市立図書館の二階には定員40名程の小さなシアターがあり、毎週末何かしらの映画を上映している。

「禁じられた遊び、か。観たことはあるかい?」

「いいえ、タイトルだけは知っています」

「そうか。あまり気持ちのいい映画ではないかもしれないが」

「問題ありませんよ」

 我々はただ黙って映画を鑑賞し、スタッフロールが全て流れきるまで座り続け、シアターが明るくなってから退出した。

「モノクロの映画なんて初めて観ました」

「ここで上映される物は大抵古い物なんだ。さて、もう一カ所行くけれどついて来る?」

「はい」

 私は彼女を市立図書館から2つ通りを抜けたところにある公民館に連れて行った。ここにも小さいシアターがある。先客は背筋がしゃんとした老人だった。

「おや学生さん。今回も来てくれたんだね」

「今日は後輩を連れてきました。手伝いますよ」

 416には座っていてもらって私はスクリーンを下ろし、老人は上映の支度を始めた。そうこうしているとぽつりぽつりと人が訪れる。年寄りばかりだ。

「先輩、これは?」

「あのおじいさんは映画館で働いてた人でね。毎週末ここで上映会をしている」

「へぇ……」

 上映されたのは荒野の用心棒だった。これまた古い。私と416はまた黙って映画を鑑賞し、スタッフロールが流れきるまで座り続け、シアターが明るくなってから退出した。

 我々が最後に訪れたのは喫茶店だった。店内の片隅に下げられたスクリーンに映画が映されている。

「まあこういう感じなのだけど」

「映画漬けですね」

「金は一切かからないが充実した気分になる」

「先輩は映画がお好きなのですか?」

「うーん」

 私はコーヒーにミルクを落としてくるりくるりかき混ぜた。

「シアターで映画を観ることが好きなんだ。蘊蓄も何も言わず黙々と映画を観てふわふわ余韻を味わいながら帰る。この幸福たるや」

「なるほど……私も映画の余韻が好きです。シアターで観なければ味わえない感覚ですし」

「その通りだ。だから家ではなく外で映画が観たい。でも金がないからこうして無料で観られる場所をありがたく利用させてもらっている」

「素晴らしいです。よろしければまたご一緒しても?」

「いいとも」

「よかった……」

 後輩は両手でマグカップを持ってカフェオレを口にし、

「あちっ」

 慌てて離れてから吹いて冷ました。

 

 新入生歓迎期間は定期的に飲み会が開催され、その後反省会と称して部室で二次会が開かれることもままある。4月も終わりにさしかかり、奨学金が振り込まれて安心感があるときは私もそれに参加する。

「結局416ちゃんは入るわけ?」

「らしいっすよ」

「やったな。M16先輩様々だ。あの人入ってくれる新入生探すの上手いよ」

 M16は私と同じ学科に所属する女性の先輩だ。私も彼女にここへ連れてこられた者なので多少の恩義はある。取り締まる側に回れば好きなだけ本が借りられると教えてくれたのはこの先輩である。

「それがさ、416ちゃんが入る理由がこいつがいるからなんだってよ」

「ん? 私?」

 寝耳に水である。

「趣味同じなんだろ? だからってさ」

「へぇ……」

 まあ悪い気はしない。実際私も同じ趣味の仲間ができて嬉しい。

「あの子さぁ、エロいよな」

「あーうんわかる」

「エロい」

 酒の入った大学生なんてみんなこんなものだ。話を振られると面倒なので適当な缶ビールとさきイカをくすねて帰ってしまおう。

「お前もそう思うだろ?」

 そうは問屋が卸さなかった。ここで否定するとそれはそれで厄介になりそうだ。

「ええまあ、魅力的な子ですね」

 嘘はつかなかった。

 

 翌日、延滞者から取り立てた図書を片手に図書館へ向かうと数人の二年生に引き止められた。この子等も図書館倶楽部のメンバーである。

「先輩、あの」

「ん?」

「夕べ部室で飲んでたじゃないですか」

「ああそうだね」

「ああいう話やめた方がいいと思うんですよ」

「どういう?」

「どの新入生がその……性的だとかっていう」

 この女子学生は我々の中でも潔癖な部類で、度々このような話題を出される。ここは穏便に済ませよう。

「少し悪ふざけが過ぎたよ。今度似たような話題になったら注意するからさ」

「先輩も混じったらダメですからね」

「わかったわかった」

「416さんが性的だとかそういう話、肯定してたらしいじゃないですか」

「悪かったよ」

「先輩、それは、本当ですか?」

 聞き慣れた後輩の声に振り向いた。少し離れたところに416が立っている。

「416、お前……」

 私は、この短期間に毎週末彼女と映画を観に行っていたため、多少は彼女の表情を見てきたつもりだ。映画を眺める横顔、市立図書館で来週の上映内容を確認する楽しそうな顔、公民館で知らない老人達に孫のように扱われ緊張気味の顔、喫茶店でカフェオレを冷ます真剣な顔、帰り道の余韻に浸った少し恍惚とした顔。そのどれとも合致しない絶望を、今まさに見ている。なんて顔をするんだ、お前は。

「本当ですか?」

「話を振られて、肯定したのは事実だ」

「……あなたは、そんな人ではないと思っていたのに」

「すまない。だが」

「信じてたのに。たった一人の理解者だって思ってたのに。あなたも他の人と同じなんですね」

「416落ち着いて」

 尋常ならざる様子に手を差し伸べた。しかしそれは空中で叩き落とされた。

 起こったことに頭が追いつく前に彼女は駆け出してしまった。これはいかん、追わねば。

「この本を返却しておいてくれ!」

 私は二年生に本を押し付けると416を追って走り出し、走り、はし……

「いや、あいつ、足、速いぞ?」

 すぐに見失った。必死に走ったつもりだったが、ろくに距離をいかない内にへとへとだった。

「なにしてんの?」

「あぁ君か……新入生と追いかけっこをな……」

「無理しない方がいいよーインドア派」

「おのれ……ふぅ……あんなに走れるとは……うぇ」

「かわいそ。飲む?」

「この状態でマッ缶が飲めるかっ」

「だよねー。まあ参考までに何があったか教えてよ」

 たまたま会った学友にことの顛末を語って聞かせた。彼女はふんふんとそれを聞き、一言でまとめた。

「要は懐いてくれた後輩をあんたのホモソーシャル的ないい加減で傷つけたと」

「返す言葉もない」

「ていうかたった一人の理解者って重いねその子」

「否定はせん。だが何か理由はあるだろう。意味もなくそんな表現をする子ではない」

「へーその子のことよくわかってんじゃん。妬けるね。そんなにかわいいの?」

「お前よりはな」

「ひっどーい。それより自分の進退気にした方がいいんじゃない?」

「なぜだ?」

「一番ヤバいとこ誰に見られてたか覚えてないわけ?」

「あ」

 

 学友の指摘通り、私は図書館倶楽部を除籍になった。幽霊部員が期待の新入生を泣かせたことは許されざる大罪だったのだ。

 私は映画が好きだが本も好きであり、図書館のヘビーユーザーでもある。ヘビーユーザーにとって図書館倶楽部は味方であれば心強く、敵に回ると恐ろしい。なぜなら私も延滞図書を抱える者であるからだ。

「頼む匿ってくれ」

「ばっかだなぁ。どうしてうまく立ち回らなかったのよ」

「私にそんな処世術があると思うたか」

「ないね、ないない」

 こうして図書館倶楽部の連中から逃げ回る日々が始まった。延滞図書の回収に手段を選ばない奴らは恐ろしく、また新入生を泣かせたヘイトも恐ろしかった。

「逃げるため毎回私んちに来るのやめてよね」

「ここは安全なんだ。私の住居は割れている」

「かわいそーに。何返してないの?」

「HPラヴクラフト全集」

「ホラー苦手じゃなかったっけ」

「癖になる」

「あほくさ」

「ところで、例の件は調べてくれたか?」

「もちろん。対価よろしくね」

「約束通り前期の間は私がマッ缶を奢る」

 私は彼女に現在の図書館倶楽部の動向を探ってもらっていた。新入生を泣かせたヘイトといえどもここまで私だけが集中的に狙われ続けるのもおかしいのだ。聞くところによると私を追うことにかまけて他の図書回収が滞っているそうだ。

「まーあんたの評判は最低だね。あることないこと尾鰭と背鰭がついて泳いでる」

「そ、そんなにか」

「とりあえず毎週末呼び出して手込めにしようとしてたことになってる」

「事実無根甚だしい」

「でも毎週末会ってたんでしょ?」

「それはな。そうか、それか」

「そういうこと。あんたに向けられたヘイトは泣かせたことじゃなくて、図書館倶楽部のエロ学生達が大好きな416ちゃんと毎週末よろしくしてたことなんだよ」

 言い方がひどいが、おそらく彼女なりに多少は憤っているのだろう。しかし理由が分かったところで最早図書館倶楽部への未練はなくなった。あんなコミュニティ燃え落ちてしまえ。

「これで未練はもうない?」

「ない。ないが……うーん416」

「なに? 仲直りしたいわけ?」

「うーむ」

 416は利発で聡明な実に希有な後輩だ。思慮深くて穏やかで、押し付けがましくなく気も利いて、生涯の伴侶とするならかくあってほしいを体現したような子であり、確かに顔も良ければスタイルもいいし声もかわいい。だが私にとってそんなことはどうでもよいのだ。

 私が彼女を思い返すとき真っ先に浮かべるのは公民館から喫茶店へ向かう道だ。416は立て続けに2つ映画を観た余韻に浸り、ふわりふわりと夢見心地で歩く。ラブロマンスを観た日には幸せなため息をついて、ミュージカルを観た日には歩きながらくるりと回り、サスペンスを観た日には眉間に皺をよせて唸り、ホラーを観た日には少し背後を気にして。

 映画の世界に半分身を置きながら歩く道の幸福を隠さない様子があまりにもかわいらしくて。その後喫茶店で浮かれ気分を取り繕うとして妙に真剣な顔をするのだ。

「大変結構な時間を過ごせました」

 なんて言って。あれがまた面白いが、余韻で心が躍るのも、気恥ずかしくなって取り繕うのも、何もかも理解できるのだ。

「確かに私は彼女の理解者かもしれん」

「はぁ?」

「同時に彼女も私の理解者だ。416と話がしたい」

「どうするつもりよ」

「うむむ」

 私は何も思いつかずにうんうん唸った。

 

 一年生の講義が終わる時間に合わせて、私は416を講義棟の前で出待ちした。

「416」

「先輩……」

 一瞬目が合った彼女はすぐにそれを逸らし、そそくさと立ち去ろうとする。

「待って、話を」

「話すことなんてありません」

「誤解なんだ」

「あんな、あんな話をしていてよくもそんな」

「あっ待ってくれ!」

 とりつく島もなく彼女はまた駆け出していく。私も追いすがるがやっぱりあいつは足が速い。ぐんぐん離されていく。畜生なんだって私がこんな、くそっあぁ、もう! 肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

「416!! 私はピグマリオンコンプレックスだから人間である君は眼中にない!!」

 眼中にない! にない……ない……な……

 辺りの音が静まり返り、自分の声が反射しているのに気づいて初めて、とんでもなく大声を出してしまったことを知った。

「ぷ、は、あはははは」

 次に聞こえたのは416の笑い声だった。

 

「それで、どうなったのよ」

「うん、まあ、許してもらえた。彼女も引っ込みがつかなくなっていたらしくて」

 

 私はあの後自分の浅慮な発言を詫びて、彼女も頑なに逃げ回ったことを詫びた。

「ごめんなさい。先輩がそういう人でないと信じきれなくて」

「何を言うか。先に裏切ったのは私だ」

「本当にそういう目で見たことはないんですよね?」

「ない。ついでに勢いで口走ったが別にピグマリオンコンプレックスでもない」

 しかしながら球体関節は至高である。舐めたい。これは黙っておく。

「あれは最低ですが謝り方としては完璧でしたよ」

「うぐぐ」

「でも、よかった……私はどういうわけか親しくする人に性的に見られることが多くて、だから先輩のように何もなく趣味だけで一緒にいられる人がほしかったのです」

 思ったより根が深かった。私はとんでもなく深く彼女を傷つけていたようだ。

「今まで他人と映画を観たことは何度かありましたが、スタッフロールの途中に立ち上がる人や観終わってからあれこれ話す人ばかりで。先輩が初めて余韻にじっくり浸らせてくれた人なんです」

「そうだったのか……だから唯一の理解者か」

「はい。ですので、また映画ご一緒してもよろしいですか?」

「もちろんだとも。あの後一人で行ったけれど物足りなくてな」

 416は安堵のため息をついて柔らかく微笑んだ。そんなに映画が楽しいのなら、誘った甲斐があったものだ。

「ところで先輩の延滞図書ですが」

「あっまだ読み終わってないから許してくれ!」

「大丈夫です。先輩の取り立ての担当は私になりました。ありもしない噂を広めて先輩を侮辱したことを責め立てたら担当にさせていただけました」

「お、おぉ」

 この新入生、なかなかやるぞ?

「それから必要な過去問と過去レポも先輩に代わって私がご用意します」

「それは助かる。あれは図書館倶楽部でなければ参照できないからな」

「ご要望とあれば院試の過去問もご用意できますよ」

 院試の過去問、おかしい、あれは唯一持ち出しが禁止されている物だ。それを図書館倶楽部が所持しているとなると何者かがカンニングに近いことを行った疑惑がある。大変なスキャンダルであるしある種の禁書にあたるが、しかしそれをなぜ彼女が……

「416、君は一体何を」

「ただ先輩を侮辱した人全員を締め上げて回っただけです」

「は?」

「冗談ですよ、冗談。ふふふ……」

 やだこの後輩怖い。

「先輩は今年三年生ですよね? 是非とも大学院まで進学してください。私もできるだけ長く先輩の後輩でいたいです。あぁでも万一留年なさって私より後輩になってしまわれても構いません。それはそれでかわいいですから」

「お、おう、そうか。しかし君に負担をかけるわけにも」

「いいえ、負担だなんて。先輩は万事私にお任せください。全て完璧に取り計らいますから」

 

「だってよ」

「こわ。厄介な後輩に懐かれたね」

「もし私が突然大学に来なくなったら彼女に監禁されていることを疑ってくれ」

「冗談にしても達悪いよそれ。笑えない」

「すまん」

 私は自販機からマッ缶を取り出して彼女に渡した。今日の支払いである。黄色に茶色で文字と模様の描かれたなんとも愛らしい缶が彼女の手に移る。

 私はサークルからの離脱で416と先輩後輩関係でなくなることを恐れたが、416から関係の続行を望まれたのでその悩みはなくなった。ただサークルで地位を失って殺され、さらに往来で異常性癖を暴露して二度殺されたが。

「でも実際どうなの?」

「なんのことだ」

「本当に清い目で見てんの?」

 私は自販機脇のベンチに腰掛け、両膝に肘をつき、組んだ手に額を当てて俯いた。

「チョットクラットキタコトアル」

 押しつぶすように伝えた懺悔は片言で外国語じみていた。

 がしゃこん、と自販機から何かが排出される音がして、頭に堅い物が押し当てられた。

「奢り」

「ありがとう……」

 私はマッ缶のプルタブに指をかけた。世の中このコーヒーのように甘くは、ない。



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9ちゃんはお勉強ができる

 私は大変に貧乏なので、忙しくすることが苦手だった。

 貧乏暇なしとはよく言ったもので、金のない奴に限ってあくせく動き回る。そんなことには断じてなるものか。心は常に豊かに、悠々として生きるべきだ。

 

 入り用である。人生の内に何度か発生するどうにも金が必要になる瞬間に巡り会ってしまった。如何にせん、と目の前が真っ暗になりかけたが、そうだ働こう、と決心がついた。

「それで学生課に?」

「ここなら学生向けの労働の斡旋がある」

 ぺらぺらファイルの中身をめくっていく。

「あ、これは? 工場でパンの検品」

「いやだ」

「あっそう。こっちは? 電波測定」

「とおい」

「注文多いね。あーこれはやめときな」

「ん? 家庭教師?」

「オススメしない」

「いやいや近いし、収入が多いじゃないか」

「そうだけどさ……まあがんばれば?」

 二駅先、徒歩15分とまあちょうどいい距離だ。科目は理科、数学、英語。時給1500円、相手は高校生。これは好条件ではないか!

 私は相手先に電話をかけ、早速働くことにした。

 

 聡明なる読者諸君等は家庭教師のアルバイトというものをご存知だろうか。学徒が教師の真似事をしてお宅へ出向き、そちらのお子さんの宿題を見るという、うまくすれば食料にもありつける美味しいバイトである。一方で教え子と懇ろになってしまい行方をくらます羽目になる可能性も秘めている。

 私は未成年に欲情する趣味はないのでこんなバイトは余裕余裕とスキップしながらお宅に訪れたが、そこで衝撃的なことを告げられた。

「実はうちの娘なんですけど、今学校に行ってなくて」

「え」

「なので全教科見ていただきたく」

「え」

「勉強は得意な子なのでお手間はかけさせませんから」

「え……」

 もっと早く気付くべきだった。この塾と予備校の充実したご時世に、素人の学生を、たかだか時給1500円ぽっちで雇うのにはそれなりにそれなりの理由があるのだ、と……しかしもう出されたケーキに手を着けてしまった。これでは帰してもらえまい。

「そういうわけでよろしくお願いしますね」

「うぐぐぅ……承りました」

 ずるずる足を引きずりながら二階へ上がり、生徒の部屋を訪れた。不登校……一体どんな女子高生が……時給に釣られず学友の意見を聞くべきであったか……深呼吸をしてドアを叩いた。

「あっきたきた。はーい」

 想像してなかった元気な声に面食らった。しまった、いじめられて不登校ではなく不良生徒だったか。いかん、そっちに耐性はない。

 背を向けて逃げ出そうと思った瞬間ドアが開いた。

「よろしくねーせーんせ!」

「お、おぉ……」

 目の前にいたのは明るい茶髪をかわいらしくツインテールにした女の子であった。彼女、UMP9が不登校の女子高生である。

 とりあえず何を教えるべきか成績を見させてもらった。

「5が並んでる」

「ね! 勉強は得意なんだ~」

「強いて言うと何が苦手なんだ?」

「うーん、恋愛かな!」

 つまり苦手な科目はないということだ。やることがない。あえて5でない科目を挙げるとしたら、音楽、保健体育、美術。私が教えられる科目ではない。

「あ、ちょっと待ってね。友達からメッセージ来たから返信しないと」

 友達とも連絡を取り合っている。なんで学校に行ってないんだ?

「君」

「きみ、なんて呼ばないで気楽にナインちゃんって呼んでくれていいよ」

「……9さんはどうして学校に行ってないんだい?」

 楽しそうに話していた顔が一瞬真顔になった。が、

「別にそんなことどうでもいいじゃん! ねえねえ大学のこと教えてよ」

 すぐに元のにこにこ笑顔に戻った。私は違和感を覚えたが、今つつくことではない、と適度に大学の話を交えつつ勉強を教えた。もちろん、教えることなどほとんどない。彼女は実によく問題を解き、間違えることもなかったのだ。

 

「もういっそ保健体育教えたら? 実技で」

「馬鹿者、何を言うか。手が後ろに回る」

「だって美術と音楽は無理じゃん。他のも教えることないわけだし」

「そうなのだがな……」

 ただただ問題を出して解かせて、何一つ間違いのない答案に丸をつけて、これが教え子のためになっているのは甚だ疑問である。何も成せぬまま給金を受け取るのも気が咎める。如何にせん。

「あんたも気をつけなよー。駅の反対側の大学の話聞いた?」

「何かあったのか?」

「カテキョのバイトしてて相手方の奥さんと夜逃げしたんだってさ」

「余程美人だったのか」

「他人事みたいに言って」

「私のストライクゾーンは上下五つだ」

「それ教え子は入るんですけど」

 私はふと学友の顔を見た。そのままじっと見つめる。よくよく考えればこの学友は女性であった。教え子と同じ女性である。

「……この話の流れで見つめられるの滅茶苦茶嫌」

「貴君は高校が嫌になったことはあるか?」

「あーなるほどね。うーんそうだなぁ……」

 学友は軽く空を見上げて半ば空になったマッ缶を弾きながら思案した。彼女にも女子高生時代があったことが妙に不思議である。

「私の高校生活は普通だったよ。面白いこともつまんないこともあって、普通に勉強して普通に部活して普通に友達いて普通に彼氏も」

「いたのか?」

「あー……いやこの話はやめやめ。とにかくさ、普通に嫌になったこともあったけど、今振り返るとどうでもいい理由なんだよ。でもそのどうでもいい理由って私がそこを通り過ぎたからそう思うだけであって、直面してる本人にとっては一大事なわけじゃん」

「その通りだ。なるほど、そうだな」

 私は納得してうんうんと頷き、手にしていたマッ缶をくずかごに放った。くるくる弧を描いて収まるべき場所に収まった缶に達成感を覚える。

「やるじゃん。私のも」

「ん」

 彼女から受け取ったマッ缶を同じように放った。しかしそれはくずかごの角にぶつかり、明後日の方向に跳ねた。

「おぉっと」

「気をつけなよー。何もかもうまくいくとは限らないんだからさ」

 私はすごすご缶を拾いに行った。

 

 家庭教師を始めて1ヶ月が過ぎた。私は給金を受け取り、いつもと同じように教え子の部屋を訪れた。

「はろはろせんせ。お給料もらえた?」

「うむ。正しく受け取った」

「私を教えるのって楽?」

 私は大きく頷いた。

「楽だ。申し訳なくなる程に楽だ。事実私は君に何も教えていない」

「だからナインちゃんって呼んでってば」

「9は高校の何が嫌になってしまったんだ?」

 笑顔だった彼女は表情を変えた。以前見た真顔である。

「だからそれはさ」

「どうでもよくない。私は9の家庭教師だ。教師たるもの教え子の助けにならなければ」

「大げさだよ、たかだかアルバイトでしょ?」

「給金を受け取った。クビにはされなかった。私には9を引き続き教え導く責務がある」

「ううーっ」

 9は困ったように唇を噛んだ。もう一押ししてもいいだろうか、それとも少し引くべきか。

「別に今すぐ理由を教えてくれなくてもいい。ただ私は必ず9に向き合う。困っているなら助けになる」

「うぅーん」

 彼女は椅子を右に左にくるりくるり回した。回転に合わせてツインテールがふわりふわり舞う。

「あのね、自慢じゃないんだけどね、私勉強できるの」

「うむ」

「だからつまらなくて。授業が何も楽しくない」

 私は彼女の通知表を思い返した。すばらしい成績が並ぶ中、時折書かれている評価は『積極性に欠ける』であった。

「わかってしまうからつまらない、か」

「そう。知ってること、わかってること聞いても何も楽しくない」

「学友はどうだ?」

「なんかみんな子供っぽく見えてさ。あんな授業一生懸命受けてて」

 つまりは、彼女は自分一人が仙人になったような心地なのか。ただ一人雲の上から人を見下ろすような。

「それを人に話すわけにいかないから離れた、と」

「そうそう。よくわかったねせんせ! まあ虚無感もあるんだけどねー」

 しかし当の本人は仙人になるには優しすぎたのだ。

「YouTubeとかTik Tokとか見ればみんなと話は合わせられるよ。でもそうやったからって仲間になってるわけじゃない感じがして」

「なるほど」

 私にも覚えはある。クラスメイトと違う自分を見つけてしまうととてつもない孤独を味わう。その心のより所なさと目の前が真っ暗になったような不安たるや、思い出して身震いした。

「でもせんせから聞く大学の話は好き。早く大学生になりたいなー」

「ふぅむ」

 勝手な話であることは重々承知だが、健全な高校生活が充実した大学生活の礎となると私は考えているため、可能な限り彼女には高校生の高校生にしかできないことを満喫させたいのだ。しかしそれを言ったところではいそうですかと受け入れるほど馬鹿な小娘でもあるまい。

「それでは一度体験してみるか」

「え?」

 私はなるべく学生の顔を覚えず、大学生っぽい講義をする教授に目星をつけた。

 

 私は視力が低いためなるべく前の方の席に座るようにしているが、今日に限っては後方の席に陣取った。

「ねえせんせ、黒板見えないよ?」

「大丈夫だ。この科目の教授は字が大きい」

 なんせ特別ゲストがいるのだ。目立つわけにはいかない。

「ねえせんせ、私にも筆記用具貸して」

「うむ」

 9をこっそり講義棟に招待した私は、彼女を人工知能概論の講義に潜り込ませた。

「ねえせんせ」

「どうしたんださっきから」

「この講義の先生って女の人なんだね」

「あーうん、ペルシカさんな」

 ペルシカ教授は年齢も来歴もよく分からぬが恐ろしく研究のできる教授だ。私生活を投げ打って研究に没頭するせいでペルシカ研は通称漆黒の闇ブラック研究室である。

「女の人でも大学の先生やるんだ」

「まあな。あの人は特別っちゃ特別だけど」

 聞くところによるとロボット開発に関わる研究に人生を捧げているそうだ。ぱっと見他の教授達より若く見えるため間違いなく天才の類なのだと思うが、若かったとしたらなぜそこまで研究に打ち込むのかがわからぬ。何かあったのだろうが誰も何も知らない。

 さて9はというと、最初は講義をじっと聞き、しかしすぐ退屈そうにだらだらし始めた。私が与えたルーズリーフの隅にちまちまとした落書きが増えていく。絵に描いたような手持ち無沙汰だ。

「それじゃあ今日の講義は以上。質問があるなら各自聞きにくるように」

「せんせ、いこっ」

 9は私の袖を引いて立ち上がった。おいおい聞きに行くのか? 私は面食らったがこれも連れてきた責任だと腹をくくってずるずる引きずられていった。

「すみませーん、ここ聞きたいんですけど」

 ペルシカさんは9と、それから引きずられる私を交互に見た。しかしこの人が学生の顔を覚えているわけがあるまい。事務員の名前さえ覚えていないともっぱらの噂だ。

「どうぞ」

「ここの話って」

 私は少し後ろで9の様子をうかがった。これで多少は彼女に何か得る物があればいいのだが……

「勉強不足ね」

 9の質問を切って捨てたペルシカさんに私はあんぐり口を開けた。な、なんて、なんてことをっ

「このあたりの話は高校で教わる範囲よ」

「えぇっそうなんですか?」

「高校の範囲だからといって疎かにせずきちんと復習すること」

「高校で習うことが大学でも使えるってこと?」

 ペルシカさんはちらりと私を見た。なんとなく居心地の悪さを感じる。

「あなた、学籍番号25番ね」

「え、えぇっどうして覚えて」

「人の顔と番号を一致させるのは得意なのよ。まったく、高校生を紛れ込ませるなんてどういうつもり?」

「バレてましたか……のっぴきならない事情があるのです。ご容赦ください」

 教授は肩をすくめた。

「まあいいでしょう。そこの、高校生」

「はいっ!」

「小学校で習うことだろうが中学校で習うことだろうが高校で習うことだろうが何もかもが関係のあることよ。関係ないことにしてしまうのは自分自身」

「全部つながってるんですか?」

「学問は全て地続き。ただ今まで糧にしたことは道具のように理解して使いこなせないと。それが勉強よ」

「へー、そうだったんだ……」

 なんだろう、私がやるべきだったことを全部教授がやってくれた気がする。申し訳ないが助かった。

「それから学籍番号25番、後で研究室に来るように」

「ひえ」

 ほっとしたのも束の間。よもや呼び出しを食らうとは……

 

 学食で9にホットココアを奢った。彼女は見慣れぬ学食の風景をきょろきょろ見渡しながら両手で紙コップを包み込むように持っている。

「すまんな。教授が突然質問を切り捨てて」

「うぅん! 人生で初めて楽しかった!」

「お、おぉ、そうか」

「私ね、高校でやったことって全部そこで終わっちゃうんだって思ってたの。でも続いてくんだね」

 9はココアを一口飲み、幸せなため息をついた。

「そういえばせんせは今花の女子高生とデートだね。わーいってなる?」

 何を言い出すかと思えば生意気な。私はかぶりを振った。

「ないない。本当に素敵な大人ってものは子供相手にわーいとはならないものだ」

「ふーんそうなんだ。せんせは大人なんだね」

 彼女は珍しく神妙な面持ちをした。

「ねえせんせはどんな高校生だった?」

「私? 私かぁ……うぅむ」

 少し考えてみた。考えてみて、どこかで聞いたような答え方をした。

「普通だった。友達がいて、部活もやって、勉強して、恋人は、まあいなかったが」

「いなかったかー」

「いなかったなぁ。普通に楽しいことも嫌なこともあった。学校に行きたくなくなることもあった」

「その時、どうしたの?」

 思い返す高校生の頃。なんてことないことで学校が嫌になってしまった日。

「学校をサボって乗った電車の終点まで行った。ずいぶんと何もないとこでな。帰ったら学校から家に連絡がいったらしくえらく心配されたよ」

「次の日普通に学校行ったの?」

「行ったとも。サボり続けられるほど勇気がなかった。だから9、行かないという意志を貫いた君は大変勇気があり、見所もある」

「えぇ? そうかなぁ? えへへ……」

 突然誉められて照れた9はくしゃっと顔を崩して笑った。こうして笑うと年相応の少女なのだ。

「私は勇気と見所のある9に楽しく高校生活を過ごし、悔いなく大学生になってもらいたい。こう伝えることは負担になるか?」

「高校生活ってそんなに大事?」

「最も大切と言っても過言ではない。高校生活に悔いを残した奴は一生その悔いを抱えて生きる」

 彼女は目をまんまろに見開いた。

「そっそんなに!?」

「そうだとも」

「こらこら子供に嘘教えない」

 おっとここで学友殿の登場だ。

「あれ? だれだれ? せんせの彼女?」

「んなわけあるか。ただの学友だ」

「どーも。この子が例の子? かわいいじゃん」

「えー? えへへ……」

 また9はくしゃくしゃ笑った。その顔がかわいい。

「まあでもあながち嘘でもないか。後悔はしない方がいいかもね。過ぎ去ると戻れないし」

「そういうわけだ。我々は9に強制はできん。だからこれで学校に行くも行かないも最終的には9自身が決めることだが、高校に行って今しかできない楽しいことや失敗をやってから大学生になっても遅くはないぞ」

「うっわ偉そう」

「やかましい」

 私と学友があーだこーだ言い合っているのを見ながら、9はまた神妙な面持ちをするのであった。

 

 さて、私のアルバイトがその後どうなったのか話そう。

 9は部屋を訪れた私を初めて見る制服姿で出迎えた。

「じゃじゃーん!」

「おぉ、似合うではないか」

「つまらないつまらない言わないで学校行くことにしました」

「偉い。意志を貫くことも勇気なら変える決断をするのも勇気だ」

「えへへ、ありがとせんせ。せんせとあの教授さんとせんせのお友達さんのおかげだよ」

「それは鼻が高い」

 あの後9と学友は連絡先を交換したらしく、仲良くやり取りしているそうだ。

「それでね、せんせにお知らせなんだけど」

「うむ」

「明日から来なくていいよ!」

「は」

「私学校行けるようになったし!」

「は」

「だからこれからはお友達でいてね!」

 

「というわけだ」

「いや、クビにされてんじゃん」

「お役御免だ……」

 私の手には月の中頃で終わったにも関わらず満額の給与が握られていた。ありがたい限りだが、だが。

「まあいいじゃん。入り用だったのはなんとかなったんでしょ?」

「まあな」

「ていうか入り用って何?」

「極秘だ」

「あっそ。まあいいけどさー。ところでペルシカさんに出された部外者連れ込みの罰課題は終わったの?」

 あの日、ペルシカ研を訪れた私を待っていたのは追加課題だった。ついでにいくつか雑用も押し付けられ、足げく研究室に通う羽目になった。

 来年は私も三年生。研究室を決める年になるのだが、このままいけばおそらくペルシカ研の住民になるだろう……

「それがだな」

「終わってないの?」

「終わりはしたんだ。ただ9に間違いを指摘されて、修正している」

「まあよくできた高校生ですこと」

「あの子は貴君に憧れているそうだぞ」

「それは光栄だね」

 学友は自販機から出てきた温かいマッ缶を投げて寄越した。

「クビにされてかわいそうだから奢り」

「ありがたい」

 温かく甘ったるいマッ缶は今日も私を癒してくれるだろう。プルタブを立ててふと思いついたように呟く。

「まあ、教師と生徒でなくなったなら、対等な関係には近づいたか」

 次の瞬間私のマッ缶は奪われた。

「なんか腹立つ」

 学友は私を睨むと、ぐいとマッ缶を飲んだ。おかしい、こんなはずでは。

「どうしてだ。思い通りにならん」

「そういう星の巡りなんだよ」

「うぐぐおのれ」

 彼女が放った空き缶は、きれいにくずかごに収まった。



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45のためなら走れる(前編)

 私は大変に貧乏なので、無数の可能性を並べられることが苦手だった。

 貧乏であれば掴み取れる可能性は限られてくる。取れると思ったものが実は、なんてことはザラにある。だから掴み取った可能性を十二分に自分の物とし、思う存分に活用しなければならない。決して手放さぬように用心すべし。

 

 聡明なる読者諸君等はマッ缶をご存知だろうか。マッ缶は黄色に茶色で文字の描かれたなんとも愛らしい見た目をした缶コーヒーである。『人生は苦いが、コーヒーくらいは甘くていい』のキャッチコピーで売られているマッ缶は色男の口説き文句より甘く、ガツンと眠気に効く味だ。

 それもそのはず、このコーヒー飲料の主成分は練乳だ。コーヒー練乳ではなく、練乳コーヒーになる程練乳の分量が多い。

 このあまりの甘さ故に人を選ぶ飲料であるが私は幼い頃からマッ缶を愛飲しており、遠く郷里を離れ進学した今、この大学にマッ缶を売る自販機があることが何よりの幸福であった。

「はぁ……マッ缶……またお前に会えてよかった……」

 19歳の5月、大学に少し慣れたところでホームシックになった私はひんやりとした缶をぎうと握りしめていた。マッ缶を飲めば思い出されるであろう思い出達。今こそ私の寂しさを、いざ癒やさん!

「そこどいてくんない?」

「あ、あぁ、すまない」

 後ろから声をかけられて冷水をぶっかけられた心地だ。しゅんと小さくなりすごすご退散、しようとしたところで声の主が自販機から購入しようとした物が目に入った。マッ缶である。

「それはマッ缶ではないか」

「そうだけどってあんた同じ学科の人じゃん」

 確かにその女学生は同じ学科同じ学年の者だった。えぇっと名前は確か……

「あー、えっと」

「うっわ名前覚えてないんだ」

「許してくれ」

「そうだなぁ……マッ缶奢ってくれたら許すよ」

 これが私とUMP45のファーストコンタクトであった。

 

 私と45は最初自販機の前でマッ缶を飲む仲であったが、いつの間にか毎日講義と昼食を共にし、課題のレポートがわんさか出れば共にファミレスで徹夜する仲となった。

「お前ら付き合ってんの?」

 と同じ学科の連中によく聞かれたが、我々は揃って否定した。

「こいつには欲情しない」

「ひどいなー。まあでも私もこいつ相手に雌になれないわ」

「言葉の選び方が最低すぎる」

「でも私が女の子になるとこ見たくないでしょ?」

 寒気がするほど見たくなかった。

 私にとって45はそういう対象ではなく、もだもだする感覚なしに共にあり、一緒に歩いてて手をつながなくてはと焦る必要もなければ、先にドアを開けてやろうと気を揉む必要もないし、椅子を引いてやらねばとやきもきする必要もなかった。つまり気を遣う必要がない。これは心地よい。

 我々は熱くなく冷たくもないちょうどよくぬるい足湯にいつまでも両足を突っ込むような心地よい関係に身を置き、それに満足していた。これ以上もこれ以下も望む必要があるだろうか、いや、ない。

 

 1月、真冬の寒さがつま先に厳しいある日、

「あびゃあ!?」

 私はシャワーを浴びて素っ頓狂な声を上げた。冷水であったのだ。すぐさま大家に連絡をしたがどうも給湯器が壊れたらしく、少なくとも今日は湯を浴びれぬということだった。

 このまま身体を拭いて布団に入ってもよかったが、私の身体はお湯を求めていた。仕方なしに準備を整え生まれて初めての銭湯へ向かう途中のことである。

「あれ、何してんの?」

「おう45か。部屋の給湯器が壊れてな、銭湯に行こうかと」

「ふーん」

 友人は私の抱えた荷物をじっと見た。

「お金かかるし、うちでシャワー浴びてけば?」

「なるほど」

 本当に金がなかった。銭湯と言えども下町情緒あふれるアレではなくスーパー銭湯しかこの街にはなかったため、行けば野口英世の一人や二人簡単にいなくなってしまうのだ。ありがたくお言葉に甘えよう。

「しかし45もこんな時間にどうした?」

「今日バイトだったんだよね」

「あぁあの、居酒屋のバイトか」

 45は駅の反対側にある居酒屋でアルバイトに励んでいた。本人曰く、3月には辞めるそうだ。

「辞める話したら妙に人恋しくなっちゃってさ」

「それで私か。いいのか私で」

「いいんじゃん、誰でも」

「それもそうか」

 私は女心に対する理解のなさには自信があったが、この言葉は本当に誰でもいいんだろうと思えた。誰かでなければならないなら、私に声などかけない。

 そして45のアパートに上がり込み、ありがたくシャワーを頂戴した。

「あああぁ……お湯だ、お湯だぁ」

 歓喜の声にドアの向こうから45が話しかけてくる。

「そんなに?」

「ありがたい。手足の末端から温まる」

「あんた冷え症?」

「そういうのではないが……しまった、シャンプーを忘れた」

「私の使いなよ」

「どれだ? 似たようなボトルが並んでいてわからん」

「右がシャンプーで左が」

「わからん……」

 がちゃん、とドアの開いた音が聞こえ、ぎょっとしてそちらを振り向いた。

「だからぁ」

「おい開けるな」

「え? あ、ごめん」

 私は慌てたが、ここで焦ると意識しているようで癪なので、平静を装い紳士的に局部が見えないように体勢を変えた。さながらイタリアの美術館に陳列される彫刻のようであった。

「こっちがシャンプー」

「わかった。早く出て行け」

「何その反応、女の子みたいで笑える」

「笑うてる場合か!」

 私はゲラゲラ笑う45を押し出し、頭を洗い始めた。

「うへぇ甘ったるいにおいだ」

 香りは気に入らなかった。私の貴重なラッキースケベを返してほしかった。失われた尊厳を返してほしかった。

 さて、翌日である。我々はいつも通り講義に出席し、昼休みを共にしたがそこを同級生にわいのわいの囲まれた。曰く、

「お前ら同じにおいするって女子が」

「あーまあ夕べシャワー貸したし」

「ああ、借りた」

 こう言うと連中は色めき立ってしまう。やれついに合併したのかやら、やれやっと収まるところに収まったかやら。だが我々の答えが以前と変わらないとわかると途端に苛立ちだした。

「今更隠し立てとは往生際が悪いぞ!」

「そう言われても何もない」

「そうそう。ただシャワー貸しただけ」

「年頃の学生が一つ屋根の下でシャワーの貸し借りなんて信じられるか! いい加減にしろ!」

「あぁ、私は一方的に身体を見られたぞ」

「私がついバスルームのドア開けちゃってさ」

 ははは、と笑う我々に相手方は諦めたような顔をした。

「わかったよ……だが一つだけお前に聞かせてくれ。女の子の部屋のシャワーってのはその、どうだった?」

 私は夕べのことを思い返した。小綺麗に整えられたボトル、洗面台に並ぶ歯ブラシと化粧水などのスキンケア用品、私が普段使う物とは異なる甘い香りの空間。

「甘ったるくてやってらんないな」

 以後私は「期待するだけ無駄」「ED」「前世で一生分盛ってしまった」「一周回ってむしろ変態」と呼ばれるなど散々であったが、それでも45はゲラゲラ笑いながら私と共にあり、一緒に温かいマッ缶を飲んだ。

 

 2年の後期が始まった頃、私はのっぴきならない事情で入り用となり、アルバイトを探した。求人情報を当たるのも悪くはないが、学生課を当たった方が確実だ。

「それで学生課に?」

「ここなら学生向けの労働の斡旋がある」

 ぺらぺらファイルの中身をめくっていく私の手元を45は覗き込む。尋常ならざる近さであるが、最近諦められたのかもう誰も距離感に言及しなくなった。

「あ、これは? 工場でパンの検品」

「いやだ」

「あっそう。こっちは? 電波測定」

「とおい」

「注文多いね。あーこれはやめときな」

「ん? 家庭教師?」

「オススメしない」

 45は渋い顔で首を振った。何か思い当たることがあるのかもしれない。しかし、である。

「いやいや近いし、収入が多いじゃないか」

「そうだけどさ……まあがんばれば?」

 こうして軽い気持ちで始めた家庭教師のアルバイトだったが、教え子が不登校、全科目教えないといけない、と思いきや何も教えることがない、という予想外の連続だった。

「だから言ったじゃん」

「うぐぐ……こんなことになるとは」

「これでわかったでしょ。塾や予備校に行かせずにわざわざ素人の家庭教師雇おうとするとこなんてなんかあるんだって」

「肝に銘じる」

 私はアルバイトがあった翌日の昼休みはこうやって45にぐちぐち文句を垂れていた。

「これは、明らかに更正させることを期待されているよな?」

「まあそうでしょ」

「荷が重い」

「やめちゃえば?」

 それもそうだ、と思ったところでふと気づいた。45もアルバイトをしているが、毎回3ヶ月程で辞めている。

「貴君は次々アルバイトを辞めるな。どうしてだ?」

「え? うーん、練習?」

「なんのだ……」

「なーいしょ。まああんたと同じで私も入り用なのよ」

「そんな慢性的に入り用なのか?」

「まーね」

「わからん」

 何の練習なのか、なぜ慢性的に入り用なのかさっぱりわからぬ。45とは毎日一緒にいて距離感も尋常ならざる近さだが、何もかもを理解している訳ではない。それを自覚すると妙にもやっとする。

 さて、私のアルバイトだが、紆余曲折あったものの無事に教え子である9は高校に戻り、私はお役御免となった。そして不思議なことに9は45にえらく懐き、親しく連絡を取り合っているそうで。

「どうだ、懐いてくれる女子高生は」

「悪い気はしないよ。ごめんねかわいい子取っちゃって」

「別に構わんよ」

 45は少し訝しむような顔をした。

「本当に?」

「ここで意地を張ってどうする」

「ならいいんだけどさ」

 45はマッ缶を開けると、綺麗な形をした唇をつけて飲み始めた。

「9、結構あんたのこと好きみたいだよ」

「それはよかった」

「わあ嬉しい! とかないわけ?」

「9にも言ったが、素敵な大人は未成年にわあ嬉しい! とはならないものだ」

 私もマッ缶を開けた。甘い匂いが立ち上る。寒くなってきて缶も温かくされているため余計に匂いが強い。

「私にはあんたがたまにわからないわ」

「奇遇だな。私もお前がたまにわからん」

 我々は心地よさを共有するが、一抹の不安も共有するようだ。

 

 冬も見えてきて北風が冷たくなり始めた頃、弊大学は学祭を行う。私の所属する図書館倶楽部は小麦粉で作った生地を丸く焼き、中にあんこを挟む食品を『これなんて呼びます?』と名付けて販売した。なかなか盛況である。ちなみに私は甘太郎と呼ぶ。

 しかし学祭の昼は仮の姿。真の姿は夜にあり。

 この3日間だけは、と教授連中も目をつむり、歯止めの効かなくなった大学生共はまさに阿呆の極みである。あちらでは本当に服を脱ぐ野球拳が始まり、こちらでは一升瓶の飲み比べが始まり、向こうでは私の先輩が見知らぬ老人と踊っていた。

「M16、何をしている」

「お! よう!」

 彼女は私のサークルの先輩にして最近使い走りにされている研究室の先輩だ。今までは敬語で接していたが、研究室の教授にちょっかいをかけられるようになってからは気易い関係になり、普通に話している。

「いやーこのじいさん面白くてさ」

「楽しかったぞ! またの!」

「おう! 長生きしてくれ!」

 M16は研究室唯一のドクターである。他のメンバーは私と同じくペルシカ教授の使い走りをやらされているM4とAR-15だ。彼女らは同級生であり、成績と顔が大変によろしい。特にM4はM16と同郷だそうで、妹分扱いされてかわいがられている。

「さっきあの子が探してたぞ」

「あの子?」

「ほら、いつも一緒にいる」

「あぁ45か」

 M16は馴れ馴れしく肩を組んでぐいと体重をかけてきた。女性にこういうことを思うのは失礼だと重々承知しているが、重たい。彼女は筋肉質なのだ。

「いいよな~学祭で彼女からお呼びがかかってるなんてさ~」

 そう言って右手の人差し指と親指で輪っかを作ると左手の人差し指をそこに突っ込んで見せた。下品な奴め。

「彼女ではない」

「え? 真面目で大人しそうな顔してセフ」

「わーっ!」

 私な慌てて最後の一文字を遮った。

「そんなんでもない! ただの学友だ!」

「嘘でしょ?」

「信じるかどうかは任せるが、嘘ではない」

 M16はうげぇと顔をしかめた。

「病気だびょーき」

「やかましい」

 私は45の向かった先を聞き、M16と別れた。彼女はいい先輩なのだが、下品が過ぎるのだ。

 M16から聞いたとおり、45は講義棟の前にいた。

「待たせた」

「本当に来たんだ」

「私に用があったんだろう?」

 45はワインボトルを見せてきた。

「これもらっちゃって」

「奇遇だな」

 私も一升瓶を取り出した。図書館倶楽部からくすねてきたものだった。栓は開いているがまだ半分程残っている。

 我々は講義棟の屋上に侵入した。侵入したといっても難しいことは何もない。ただ鍵のかけられたフェンスに足をかけて乗り越えればいいだけだ。

 屋上にいるのは我々だけで、下を覗けば有象無象の阿呆学生共が乱痴気騒ぎに身を投じていた。

「愉快痛快」

「みんなよくやるねー」

 我々は透明なプラスチックカップで音のしない乾杯をし、宴を始めた。カップの向こう側に星が瞬く。今日はいい天気だ。

「なるほど、これはなかなか」

「へぇこの日本酒美味しいじゃん」

「どこからこのワインを持ってきた?」

「行きたい研究室の先生が来てたからさ、顔出してたらそこで」

「ほぉ、お前も行きたい研究室があったのか」

「そりゃね。それ目当てでここに来てるし」

「それは知らなんだ」

 45に研究室の希望があるとは知らなかった。私は特に希望はなかったが、今厄介になっているペルシカ研には興味があるし、雰囲気も嫌いではないためこのまま置いてもらうのも悪くないなと思っている。私の成績であれば問題なく研究室には入れるだろう。

「あんたはペルシカ研?」

「まあそのつもりだ。あそこは悪くない」

「ふーんそっか」

「それより目的を持ってここに来ているのは初耳だ」

「あんたも目的くらいあんでしょ? なんかやたら勉強するし」

「ああ、それはな、奨学金の返済を免除してもらうためだ」

「借りてんだ」

「満額な」

「結構借りたね」

 私は空になったカップに再びワインを注いだ。思ったより飲みやすく、すっと口に入ってしまう。

「私の実家は喫茶店をやっていてな」

「へー、そうなんだ」

「まあそれなりに繁盛しているが学費となるとなかなかどうして」

「そういうことか。お店継ぐの?」

「どうだろうな、今はその気はない。母の愛嬌と父の人当たりでやっているところもあるから、私ではダメな気もする」

「ふーん」

 45も空になったカップにワインを注いだ。

「あんたはさ、地元好き?」

「好きでも嫌いでもないが、時折恋しくなる」

「そっか。私はさ、あんま好きじゃなくて。遠くに行きたいんだよね」

「いいではないか」

「そう? もっと広い世界を知りたい」

「お前ならできるさ」

「本当に?」

「ああ。45ならできる」

 入学式でこんなことを言われた。

『大学はこの中にいるたった1%の天才のための場所である』

 私はあの時自分がそうなのではと思ったが、いつしかそれは45のことなんじゃないかと思い始めた。彼女には他の連中や私とは違う何かを感じる。狭い場所で燻っていていい器ではないと確信している。

「おぉっと」

 突然45に寄りかかられて危うく飛び上がるところだった。完全に気を抜いていた。

「あーいい気分」

「はっはっは、結構飲んだな」

 ワインボトルは空に、一升瓶も残すところ四分の一だ。

「これ絶対また二人で降りてきたらなんやかんや言われるね」

「そうだなぁ。もう慣れた」

「どうする? 誰も見てないし私ら酔ってるし若気の至りってことにして胸でも揉んどく?」

「ぶはっ」

 飲んでいたアルコールを吹き出した。こいつ、かなり酔ってるな?

「いーじゃん減るもんでもなしー」

「いらん。揉めるほどないだろ」

「あったら揉んでた?」

「あったら友人ではいられなかった」

 45は私を見上げ、ぱちくりと瞬きをした。それから、ふっと顔の力を抜くように微笑んだ。

「そっか。じゃあ感謝しとこ」

 初めて見る顔に少し面食らい、それを認めるのがあまりに癪だったためカップの中身をあおった。どうしてこいつはこんなことを言ったのだ。飲みすぎだ、そうに違いない。

 私の知っているUMP45という女は皮肉屋で、切れ者で、人を食ったようなことを言うが、無類のマッ缶好きで、時折徹夜レポートの執筆中に寝落ちそうになり、火の通ってない玉ねぎは全部私の皿に移し、学内に住む野良猫に懐かれないことに少し傷つき、やたらとくしゃみがかわいらしい、そんな奴なのだ。こんなつまらん睦言を垂れ流す奴ではない。

 45はくてんと力を抜いて私にしなだれかかる。飲み過ぎで暑くなってきたのか、緩められた首元が妙に気になった。そこに引っかかるように垂れ下がる髪が、屋上の明かりのせいか艶やかに見える。形のいい唇から紡がれる声はいつもより少しふやけているように聞こえ、呼気はアルコールを含んで甘く、湿っぽく温かい。

 先ほど変なことを言われたせいか、腕に当たる胸が柔らかいのを意識してしまって私は脚を組み替えた。いかん、尊厳を失う。もっとアルコールを飲まねば。

「あんたさ」

「お、おぉ」

「悪酔いすると記憶飛ぶ方だよね?」

「そうだな……」

「じゃあこれも」

 彼女は私の頬に手を伸ばして身を乗り出し、親指で唇をなぞると、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ!」

「あんまり突然起きあがらない方がいいよ」

 気付けば夜明けである。私の頭は45の太ももに乗っていた。

「なぜ膝枕を、うがぁいててて」

「飲み過ぎたんだって」

「何も覚えていない……」

「どこまで覚えてる?」

「ここに来たところで途切れた」

「だいぶ飛んだね」

 ゆっくり頭を持ち上げた。がんがん痛む。ペットボトルの水を飲んだ。

「悪かったな、膝を借りて。重かったろ」

「まあね。でもいい思いさせてもらったし?」

「なんのことだ?」

「覚えてないんでしょ。なーいしょ」

 妙に楽しげな様子に首を傾げた。また頭が痛んだ。

「フェンス登れる?」

「悪いが手を貸してもらえるか?」

「いいよ。マッ缶奢りね」

「助かる」

 私は45の手を借りてなんとかフェンスを乗り越えた。これから講義棟の階段を下りると思うと気が重たい。

「惜しいことをしたなぁ」

「……なにが?」

「酒の味を覚えていない」

 45は無言で私の尻を蹴った。

「いてっ何をする!」

「これくらいされて当然だよ」

 どうして不機嫌なのかさっぱりわからなかった。

 

 さて、学年が上がっていよいよ私も3年生である。この大学では3年生から研究室に所属し、卒業研究の前段階に着手する。私は案の定ペルシカ研に所属し、忙しくドタバタ走り回っていた。

「すみません、先生からまたレポートの取り立ての依頼が」

「またか……ペルシカさんも人が悪い。M4を伝言係にすれば私が断らないとわかったばかりに」

「私が断ればいいんでしょうか……」

「いや、いい。M4はそのまま自分の道を突き進め」

「そもそもM4は悪くないでしょ。はいこれ、追加の取り立て」

「AR-15、いたのか」

 M4がいればAR-15もいるくらいに考えた方がよい。彼女らはニコイチというやつだ。

「あなた取り立ては得意でしょう? 元図書館倶楽部だもの」

「その通りだがな……」

 私が図書館倶楽部を辞めさせられたのはつい二週間前のことだ。延滞図書取り立て担当だった私は確かにレポートの取り立てについてもノウハウはある。

 学食で我々三人が話しているとよく知った人物が近寄ってきた。

「先輩、何かお困りですか?」

「おぉ416。いやな、教授からレポートの取り立てを頼まれて」

「それでしたらお手伝いしますよ。私も取り立ては得意ですから」

 416は私が所属していたサークルの後輩である。彼女は私が図書館倶楽部をあらぬ噂で除籍されても後輩でいつづけてくれている。まあ、除籍された理由は私が416を泣かせたからなのだが。

「そうだな、手伝ってもらうか」

「お任せください。完璧に取り立てますから」

「穏便にな」

 いい後輩なのだが、いささか恐ろしいところもあるのが玉に瑕だ。もったいない。美人なのに。いやこれがいいと思う者もいるのか。

「ようお前ら」

「ぐえ」

 突然肩に重みが加わった。こんなことをするのはM16を置いて他にはいるまい。

「なんだー? 美人侍らせていいな。私も混ぜろ」

「侍る側になりたいのか侍らせる側になりたいのか。後者ならレポートの取り立て役と共に譲るぞ」

「遠慮しとく。お、416じゃん」

「M16! あんたよくも」

「どうどう」

 416はM16によって図書館倶楽部に引き入れられたため多少の恩義はあるものの今は嫌悪している。なぜなら私が図書館倶楽部で失脚する噂の出所はM16だったからだ。

『あいつ416と毎週映画観に行ってるからひょっとするとひょっとするんじゃない?』

 そんな話が男子学生共に火をつけ無事に私は炙られた。なので416からすれば私の居場所を奪った元凶である。しかし私からすれば、どうでもいいことなのだ。

「416、私はM16を恨んではいないと何度も言っている。M16に君と映画を観に行っている話をしたときにこうなる予想はしていた」

「先輩はよくても私はよくないんです」

 私は物理的にM16と416の間に入り、一髪触発の事態だけは避けようと試みた。ともあれこの二人が大喧嘩するのも時間の問題だろう。常に私が仲裁できるわけでもない。当のM16は肩をすくめている。のんきなものだ。

 M16はげんこつで私を小突いた。

「そもそもお前が身を固めてればこういう話にはならなかったんだって」

「私のせいか!?」

「だっていっつも一緒にいる子とも付き合ってないんだろ?」

「45な。あいつはそういうんでない」

「そういう態度が周りをやきもきさせるんだって」

「そう言ってもな」

「手頃な恋人作りなって。416もこいつのこと嫌いじゃないんだろ?」

「なっ」

 突然話を振られた416は小さく飛び上がった。実に器用だ。

「こら、後輩を困らせる奴があるか。彼女は理解者であってそういうのではない」

「そうです」

「なんだぁ。あ、M4はだめだからな」

「ね、姉さん、私に振らないでください、困ります……」

 M4はこの手の話が苦手らしく、すっかり顔を赤くして頬に両手を当てて俯いた。かわいい。いい子だ。守りたい。

 ただ守りたい人には大抵良い人がいるものだ。私はAR-15からの刺すような視線が痛くてたまらなかった。早く否定しないと穴があく。

「安心してくれ。M4は友人だ。もちろん勤勉さにおいて尊敬はしているが、友人だ」

「そうそうそれでいいんだ」

 M4はほっと胸をなで下ろし、AR-15も私から視線を切った。それでいい。君達は自分の道を突き進め。愛に国境も人種も信仰も種族も性別も関係ないのだ。

「M4に変な虫がついたら困るからな」

 そう息巻くM16だがAR-15のことには気づいていない。この面倒くさい先輩を嫌いになれない理由が脇の甘さであった。

 こんな感じでレポートの取り立てをしてはからかわれ、またレポートの取り立てをしては教授に論文を書かされ、充実しているが忙しくて目が回っていた。

「あー……しんど」

 自販機の前でマッ缶を購入して休憩。ベンチに腰掛けてコーヒーブレイクだ。

「お疲れ」

「おや45。いつの間に」

「たまたま見かけてさ」

 45は珍しくマッ缶も買わずに隣に座った。

「最近忙しそうじゃん」

「あぁ、うん。研究室の活動が始まってな。まあレポートの取り立てばかりやっているが」

「ふーん。でも楽しそうじゃん。さっきも学食でなんかやってたでしょ」

「見てたのか。助けてくれてもよかったものを」

「やだよ、巻き込まれたくない」

 私はマッ缶を買いに行こうとしない45が気になり、飲みかけのマッ缶を渡した。

「いるか?」

「……ありがと」

 45はさも当たり前のようにマッ缶を飲み始めた。私はポケットに入れてあったスマホが振動するのを感じ、画面を見てみた。教授から論文の確認が終わったから時間を作って研究室に来るようにとメールがきていた。はてさて、この後行こうかそれとも明日にするべきか。

「研究室どう?」

「悪くない」

「一気に知り合い増えたじゃん」

「まあな」

「後輩もできたし」

「あぁ」

「あんたの教え子もうちに入るつもりらしいよ」

「ほう」

「それだけたくさん仲間に囲まれてさ、あんたもう私と連んでても楽しくないでしょ?」

「そうかもな」

 45は立ち上がった。片手に私と45が飲んだ空き缶が握られている。

「そっか。これ捨てとくね」

「すまん」

「いいよ。バイバイ」

 スマホを見ながら予定を立てる私の耳に、空き缶を捨てる音は聞こえなかった。

 

 私の論文の出来はそれなりにいいらしい。楽しそうに学会に向けて準備をするペルシカさんを見ているとなんだか私も楽しくなる。

 そういえばしばらく学食で昼食を取っていない。45とも顔を合わせていない。論文に熱中しすぎていたようだ。やはり新しいことは楽しい。

 久々に学食へ赴いたが45の姿が見えない。ここまできて45と顔を合わせていないどころか姿を見ていないことに気づいた。風邪でもひいたのだろうか? スマホでメッセージを送っても返信はない。

 学食の一画に学科の連中を見つけて近寄った。彼らも私に気づいて手を振る。

「よう」

「久々だな」

「45知らないか?」

「ん? あれ? 聞いてないのか?」

「何をだ?」

「てっきり」

「何の話だ?」

「あいつ留学したぞ?」

「え?」

 私の学友はいつの間にか姿を消していた。



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45のためなら走れる(後編)

「あんたさ」

「お、おぉ」

「悪酔いすると記憶飛ぶ方だよね?」

「そうだな……」

「じゃあこれも」

 彼女は私の頬に手を伸ばして身を乗り出し、親指で唇をなぞると、すっと目を閉じた。私も阿呆ではないので次に起こることは予測したが、それを拒まなかった。やぶさかではない、そうとも今までずっとああ言っていたが私も本心は、素直になれなかっただけで。

 45の唇が私のと触れ合う。何かを確かめるように弱く、次第に強く、深く、私も彼女の腰に手を回して抱き寄せると、辛抱たまらなかったとばかりに服に手を、

「はっ! 夢か……」

 夢だ。悪夢だ。なんて夢を見るんだ。恐る恐る布団をめくると申し訳無さそうに自己嫌悪がちょこなんと鎮座していた。

「なんてことだ、なんてことを、相手は45だぞ」

 まだ夜明けまではかなり時間がある。額は脂汗でびっしょりで、背中も冷や汗で気持ち悪い。着替えねば。

 45が姿を消して数週間、私は辛く眠れぬ夜を過ごしている。そしてこんなことになってからどうしても昨年の学祭で記憶が飛んだ期間のことが気になってならない。

 気になっていることは毎夜毎夜少しずつ形を変え夢に現れ、私を苦しめて飛び起きさせる。研究室のことでいっぱいいっぱいであるというのに寝不足で拍車がかかる。さっさと思い出せば楽になれるのか。

「思い出したくない……」

 私は全てが明るみに出る日を想像してぶるりと身震いした。

 

 一緒に昼食を取る友を失ってから私は毎日中庭のベンチで昼食を取っていた。

「そのパン半分ちょうだいよ」

「どうぞ」

 この毎日パンをたかってくるのはG11さんという、何年この大学にいるのか分からない先輩だ。無気力に怠惰を混ぜて虚無を足したような先輩は毎日自分の昼食を鴨に与えてしまい、自分の分は私からもらうという度し難い生活をしている。

 しかし私はそれを許している。なんとかこの先輩を立ち直らせようと躍起になっているようで、実は居場所を失った虚しさを埋めようとしているだけなのかもしれない。

「しかし君も飽きないね、毎日毎日私にパン分けて」

「全部寄越せと言わずに半分要求してくるG11さんの奥ゆかしさに好感を覚えているので」

「へー、そう」

 今日もG11さんは齧歯類のように両手でパンを掴んで食べる。45であったら遠慮せずにむしむしちぎって食べたのだろう。

「君は友達いないの?」

「なぜそのようなことを?」

「普通の学生は学食でお昼食べるでしょ」

「友人はおります。おりました」

「なんで過去形なのさ……」

「留学中でして」

「ふーん」

 パンを食べ終えた彼女はぱたぱた手をはたいた。要所要所の動作が子供じみていてますますこの人の年齢をわからなくさせる。

「喧嘩でもした?」

「どうしてそれを」

「いやー、妙にしょげてるから」

「喧嘩ではありませぬが、一緒にいてもつまらないか、と聞かれ、生返事ではあったものの肯定してしまいました」

「気にしてるんだ」

「ええ、まあ、はい」

「いい友達だね」

 私は目を細めて中庭に設置された時計を見た。まだ昼休みは半分ばかりある。

「G11さんに友人はおりますか?」

「残酷なこと聞くね。いたかどうか、いるのかどうかもわからないよ」

「左様でございますか」

「強いて言うなら君と、あと最近女の子が来るよ」

「女の子?」

「借りてる本を返せって」

「げぇ、図書館倶楽部」

 私の古巣であった。まさかここまで手を伸ばしているとか。池にたたき落とされる前に逃げるべきか?

「一年生の胸が大きい子がさ。いやー最初に来たときちょうどベンチで寝ててさ、のぞき込まれたから胸でアイマスクされるかと思った」

「ああ、416ですか」

 知り合いであった。これなら安心である。

「知ってる子?」

「後輩であります。私も先月まで図書館倶楽部にいたのです。除籍されましたが」

「そうだったんだ」

「ちかみに、何を借りておいでです?」

「海底二万里」

「名作ですね」

「読んでると旅に出たくなる」

 そういえば45も愛読していたなと思い出す。彼女はよほどその本が大切だったと見え、読み返し読み返しを重ねて表紙はボロボロだった。ブックカバーの一つでも買ってやればよかった。

 そうだ、思い出した。あの夜、講義棟の屋上で私は45から『遠くに行きたい』と聞いたのだ。そんなに遠くに行きたかったのだろうか。私を置いてまでも遠くに行きたかったのだろうか。

 

 夢だ。我々は学祭の夜、講義棟の屋上で星見酒を楽しんでいた。二人一緒である。いつものことだ。

「これ絶対また二人で降りてきたらなんやかんや言われるね」

「そうだなぁ。もう慣れた」

「どうする? 誰も見てないし私ら酔ってるし若気の至りってことにして胸でも揉んどく?」

「ぶはっ」

 飲んでいたアルコールを吹き出した。こいつ、かなり酔ってるな?

「いーじゃん減るもんでもなしー」

「いらん。揉めるほどないだろ」

「あったら揉んでた?」

「あったら友人ではいられなかった」

 45は私を見上げ、ぱちくりと瞬きをした。それから、ふっと顔の力を抜くように微笑んだ。

「そっか。じゃあ感謝しとこ」

 なんでそんな顔をするのか私にはわからぬ。45のことは色々わかったつもりでいた。何が得意なのか、何が苦手なのか、何が好きなのか、何が嫌いなのか、何をしたいのか、何をしたくないのか。けれどすべてがわかったつもりなだけで、何もわかっていやしなかった。

 私はどうするべきだったのか。胸の一つでも揉んでやればよかったのだろうか。そうすればあいつはどこへも行かなかったのだろうか。

 目覚めるとまた汗だくであった。着替えながら見下ろすと、自己嫌悪が必死に何かを訴えて身を起こしていた。

「何がこいつでは欲情しない、だ。しているではないか」

 何か大切な物を失った心地がした。

 

 夏休みである。本来なら大学三年生は最後のバカンスとばかりに遊び呆けるのだが、私には遊び相手がおらず、サークルも除籍され、行き着く先は研究室だった。

「まだ卒研も始まらないのに熱心なことで」

 M16は体よく私をパシりにするが心配してなのか時折こんなことを言ってくる。

「現在うちの学科の成績上位はM4とAR-15の二人でな。奨学金の返済免除枠を狙うとするならこの二人に勝たねばならんのだ」

「へーそうなのか」

「二人はペルシカさんから課題をもらって研究に励んでいる。ならば私も続かねば」

「熱心だな」

「貧乏人だからな」

「でもたまには息抜きするんだぞ」

 M16がデスクにルートビアを置いたが、私は押し返した。

「私と信仰の対象が異なる故、これはいらない」

「マッ缶派め」

 大学生には奇妙な派閥がある。我々は主食にしている飲料で時折争う。王道と慢心するコカ・コーラ派、敗北を認められないペプシコーラ派、選民思考のドクターペッパー派、ゲテモノ好きの変態ルートビア派、そして我らが清く正しいマッ缶派。

「マッ缶派なんてお前くらいしかいない」

「マッ缶のよさがわからぬとは」

「ただ甘いだけじゃん。あー違ったわ、お前とお前の友達だけだな、マッ缶派は」

「…………」

「あ、ごめん」

 45は未だ帰ってこず、また連絡もなかった。メールを送ろうと試みたが、学内アドレスは使われておらず、携帯も不通だった。

「M16に友人はいたのか?」

「あぁいるよ。みーんな社会人だけど。ドクターやってるの私だけなんだ」

「そうか」

「お前の友達、早く帰ってくるといいな」

 帰ってきた方がいいのだろうか。45は外の世界に憧れていた。憧れの世界に踏み出した今、45は帰ってきたいと思うのだろうか。その地に骨を埋めたいと思うのではなかろうか。

「そもそもどこにいったんだ、あいつは」

 私はそれすらも知らない。

 

 また夢だ。私と45は星見酒を楽しむ。最近は夢だと分かるようになってきたため、この夢から必死にヒントを得ようとしている。

 日に日に夢は夢らしくなっていき、我々のいる講義棟の屋上以外の場所はなく、外壁は朧気でほとんど見えなく、星空だけがやたらと綺麗だ。土星は輪まで見えて流れ星は宙返りする始末。

 45も私も相当に酔っているようで、下らん話をしながら寄り添っていた。いつものこと。そういつものことである。

 45はくてんと力を抜いて私にしなだれかかる。飲み過ぎで暑くなってきたのか、緩められた首元が妙に気になった。そこに引っかかるように垂れ下がる髪が、屋上の明かりのせいか艶やかに見える。形のいい唇から紡がれる声はいつもより少しふやけているように聞こえ、呼気はアルコールを含んで甘く、湿っぽく温かい。

「いいよ」

 脳が痺れるほど扇情的であった。こいつはこんなにかわいかったのか、と今まで気付かずにいた己を恥じた。どうしてこんなに無防備に私に身を委ねるのか。もしや45も私に劣情を抱いているのではないか。

 私は紳士故に合併は双方の合意がなければ許されないと信じている。つまり私がその気で向こうもその気なら問題はないのだ。

 それならいいじゃないか。今までずっと言い訳して我慢してきたんだ。こいつもその気ならもう我慢する必要もない。いいんだいいんだもう自分のヤル気元気根気その気に目をつぶらなくて。どうせ誰も見ていやしないし。据え膳食わねば武士の、

「恥を知れ! しかる後死ね!」

 勢いよく起き上がった。そのままの勢いでバスルームへ向かい、服も脱がずに冷水を浴びた。夢だ。夢だった。今のは夢だ。

「いいわけがない。いいわけがあるか」

 私は自分に言い訳なぞしていない。本当に45はそういうのではない。あってはならない。なんのための三年間だったのだ。そのようなことのために積み上げた年月ではない。なかったはずだ。

 でも本当はどうだったんだ? あの時私はどうしたのだ? 己の欲に負けて取り返しのつかないことをしたのか? だから45は行ってしまったのか?

「わからぬ……どうだったのだ……」

 そして45は私に何を望んだのか。何もわからない。わからないことがこんなに恐ろしいとは。

 

 サークルに属さない者にとって学祭は無味である。なんせやることがない。酒や昆虫食に関わる研究室は面白い屋台を出しているらしいが、私の所属する研究室は人工知能がテーマ故何もしていない。

「何かやったら何も理解しない人の相手することになるじゃない。嫌よそんなの」

 教授の意見ももっともだった。かといって全く何もしないのもつまらないので、ふらふら学祭を回っている。

 ふと中庭を通りかかった。夏休みを前に中退勧告を受け消息を絶ったG11さんであったが、休みを明けても姿を表さなかった。早めの冬眠かはたまた消えてしまったか、憶測は飛び交うが真相は不明だ。

 私はせっかくできた昼休みの話し相手を再び失い、今は一人寂しく昼食をとっている。G11さんの帰還を信じて場所は中庭のベンチと決めており、時折416がそこへやってくる。

 G11さんの喪失は衝撃ではあったが、それでも45の喪失に比べると大したことはなかった。私は己の薄情さに失望した。

 学祭には近隣住民や保護者、またこの大学への入学を希望する高校生などが足を運び、大変に賑わっている。私は軽音部が輝くステージとジャグリングサークルがたむろする事務室のある中央棟脇を通り抜け、体育館裏の自販機へ向かった。マッ缶のある場所だ。

 サークル棟の角を曲がったとき、探し求めていた背格好の人間を視界にとらえ、つい肩を掴んでしまった。

「45!」

「いたたっちがいま……あれ? せんせ?」

「あ? ん? ナイン?」

 とんだ人違いであり、とんだ教え子との再会だった。

 私は驚かせた詫びとして9を自販機の前まで連れて行き、好きな飲み物を奢った。

「悪かった。すまん」

「んーん、いいよー。45姉と間違えたなんて面白いね。まあ確かに私達背格好似てるかも」

「そんな風に呼んでたのか」

「うん! 先輩じゃないし友達って感じとまた違ったから」

 二人がこんな風に親しくしていたとは知らなかった。こんなところにも私の知らないことがあった。

「9はどうしてここに?」

「この学校受けようと思って!」

「そうか。9なら間違いなく合格できるさ」

「ホント? えへへへ」

 イチゴオレを飲む9は嬉しそうににこにこ笑った。彼女が楽しそうにしていて心底安心した。この様子だと学校に戻ってからもうまくやっているようだ。

「45姉、留学してるんだってね」

「あぁ。聞いてたのか?」

「うん。行っちゃう前に」

 そうか、9は聞いていたのか。私は聞いていなかったのに。

「忙しいらしくってね、週に一回くらいメールでやりとりしてるんだー」

「連絡が、取れるのか」

「取れるよ」

 なぜだ? なぜ9は連絡が取れて私は取れないんだ? そんなに腹を据えかねているのか? それとも実は友人だと思っていたのは私だけで45は違っていたのか? 目の前が歪んで見える。どうしてだ45、お前のことが何一つわからなくなっていくぞ。

「45は何か言っていたか?」

 深呼吸をして落ち着こうとした。感情を9にぶつけてはならない。冷静に、紳士的に。

「うーんとね、せんせのことは大丈夫って」

「大丈夫」

「そう。大丈夫だよって」

「そうか。教えてくれてありがとう」

 私はマッ缶が飲めなかった。とてもそんな気分ではなかった。

 

 学祭の夜が再びやってきた。私は去年と同じように酒を片手に講義棟の屋上へ忍び込んだ。奇しくも45との思い出の場所となってしまった、毎夜夢に見て苦しむこの場所へ。

 夢と異なりここから見上げる星空はそんなに鮮やかではない。外で明かりが焚かれ、乱痴気騒ぎが聞こえるここはそんなによい場所ではない。

 私はあてもなく屋上をうろうろ歩いた。どこかに45がいやしないか。ひょっこり現れやしないか。何か痕跡はないか。探したけれども何も見つからなかった。当然だ、こんなところに何かあるわけもない。

 去年と同じ場所に腰掛けた。45は隣にいない。なぜ隣にいてくれたのだ。いてくれたときはそれが当たり前だったし、いてほしいとも思わなかった。今こんなにいてほしいのに45はいない。

 プラスチックのカップに持ってきたアルコールを注いで飲んだ。ペルシカさんがいらないからと押しつけてきたワインだった。

「……去年と同じ銘柄だ」

 妙に懐かしくて一気にあおった。去年と同じ味だ。

 記憶は大分明らかになってきた。私は去年ここで45と酒を飲み、45が行きたい研究室があること、どこか遠くに行ってみたいことを聞いたのだ。けれどその先を思い出せない。何があった、何もなかったのか。

 もしかしたら45のことは忘れて日々の暮らしに励んだ方がいいのかもしれない。転校していった同級生を忘れるように、45のことも忘れよう。そうすれば苦しまずにすむ。

 そんなことを思った時もあった。しかし忘れようとしたとて学内のあちらこちらに45を探してしまう。私の思い出には必ず45がいる。忘れることなぞできようものか。

 辛い、苦しい、寂しい、会いたい。失望されててもいい。友人などと思ってくれていなくてもいい。嫌悪されていたってかまいやしない。せめて一目会わせてくれ。

「よんごぉ……お前がいなくて大丈夫なわけがあるかぁ……」

 どうしようもなく泣けてきて顔を覆った。

 

「先輩、最近ちゃんと食事してますか?」

「ええ、ああ、うん」

「根を詰めすぎです」

 私は現在国際学会に向けての準備でいっぱいいっぱいになっている。

 学祭が終わった日のことである。私は教授室へ向かってある嘆願をした。

「留学させてください」

「いいけど、お金は?」

「ありませぬ」

「じゃあ返済不要で100万くらいもらえる奨学金の応募枠持ってるから出す?」

「出します」

「それなら実績を作らないとね」

「何でもやります」

「よろしい。ところで、どうして留学したいの?」

「や、やりたいことが」

「もう少し嘘のつき方を勉強した方がいいわね」

 私は45を追って海を渡ろうとしている。45の留学先は9から聞いた。あいつ英国なんぞに行きおって。さぞかし不味い飯を食い続けているのだろう。

 ペルシカさんは応募に足る実績として国際学会での発表を提示した。曰わく、私の研究内容ならうまくすれば入賞できるやもしれんとのことだった。奨学金獲得を盤石にするために私には入賞が必要だ。

「それにしても国際学会なんて、先輩も思い切りましたね。学部三年でやることではありませんよ?」

 発表の準備に打ち込みすぎている私を後輩の416は常に心配してくれている。ありがたい限りだ。今日も中庭のベンチで話し相手になってくれている。

「そこまでして45を追いたいんですか?」

「……なぜそういう話になる」

「あなたの目的なんてみんな知ってますよ」

「そうか……」

「先輩は、45がお好きなのですか?」

「わからん」

 私はぶんぶん首を振った。

「どう思ってるのかどうありたいのか何もわからんのだ」

「はぁ……まったく、先輩をここまで振り回せる45が恨めしいです」

「416と映画鑑賞している間は穏やかでいられるんだがな」

 映画が終わって現実に戻るとこのざまである。

「先輩は45と交際されたいのですか?」

「いや、そうでは、うーむそうなのだろうか」

「はっきりしてください」

「それもわからん」

「つかぬことをお聞きしますが、先輩はどなたかと交際したいと思ったことがありますか?」

「高校の頃はあった。しかし当時の友人に横からかっさらわれた」

「大学ではどうです?」

 はてさてどうであろう、と考えて驚いた。身の回りが女性ばかりなのである。ひょっとすると私はとんでもない桃色モテ男なのやもしれぬ。しかしながら私にこれを乗りこなす自信はなかった。

 我が父という人は、学生時代引く手あまたな桃色遊技名人でありハーレムちんちん無双の名をほしいままにしたが、それを母にこってり絞られ、絞られ尽くしたところで誕生したのが私だ。桃色遊技名人ハーレムちんちん無双の遺伝子はとうに絶えている。

「……416、学生の本分は勉学だ。色恋に現を抜かすなど」

「どの口がそれをおっしゃいますか」

「ぐぬぬ……いや、違うのだ。そんなはずはない。そうでなければ我々が積み重ねてきた期間はなんだったのだ」

「鈍感二人が並んでいたのでは?」

「厳しいことを言う。G11さんなら何かそれらしいことをおっしゃったかな」

「またいない人の話を。随分とあの怠惰な人を買ってますね」

「あの人は怠惰だが的を射ている。人生の先輩だ」

「私はなんなのですか?」

「416は理解者だな」

 私に45の情報を横流ししてくれる9はよき仲間だし、そう伝えると9は喜ぶ。彼女曰わく、45姉大好きの会だそうな。

「そうやってはっきり言い切るところが先輩のいいところなんですよ。はやく答えを出してください」

「うぅむ」

「ちゃんとどう思ってるのか45に口に出して伝えてください」

 そういえば私は今の今まで45をどんな関係だと思っているのか本人に伝えたことがなかった。今となってはもう、遅いのだろう。

 

 国際学会が一週間後に迫った冬の日、私は久々の飲み会を終え足を引きずるように研究室へ向かった。昨夜私の下宿先で闇鍋に興じていたM4とAR-15は仲良くロフトで就寝中。後輩のSOPⅡとROは二日酔いで起き上がれず、M16は衝撃的なものを見て魂が抜けていた。

「あら、休みなのに来たの?」

「ペルシカさんも、今日は休みでは?」

 教授は昨日学会に出席しており、旧友のアンジェさんと会うため今日は来ないと聞いていたのだが。

「連れてきたのよ。あぁアンジェ、この子が例の」

「あーあなたが女の子追っかけて留学したいっていう」

 アンジェさんはペルシカさんの旧友である国立研究所の職員だ。こうして二人で並んでいると顔がいい大人の女性がぎゅっと視界におさまって目が痛い。

「なっなんて紹介をしたのですか!」

「事実でしょ?」

「ぐぬぬ」

 私は45会いたさで留学を希望したことをペルシカさんに見抜かれ散々からかわれている。

「あなたその子のこと好きなの?」

「アンジェさんまで……違います」

「ふーん。なんかペルシカとリコも似たような感じだったわね」

「リコ?」

「ペルシカ、話してないの?」

 私とアンジェさんの視線がペルシカさんに向かった。ペルシカさんは居心地悪そうにマグカップを手の中で弄んだ。

「話してないわよ……」

「言ってやんなさいよ。参考までに」

「はぁ……」

 ペルシカさんは肩をすくめた。

「私ね、結婚してたことがあるのよ」

「ペルシカさんが!? ヘリアン学長代理よりも結婚の二文字が似合わないペルシカさんが!?」

「後で課題追加」

「おっと」

「まあ、その相手っていうのがあなたとお友達みたいに学生時代ずーっと友達やってた奴でね。友達だったんだから結婚してもうまくいくと思ってたんだけど」

「はぁ……」

「そういうわけだから、関係性の選択は慎重にね」

「なぜそのような話を?」

「言ったでしょ。成功や失敗だけが他人の糧になれるの」

 ぽかんと口を半開きにした私を見て、ペルシカさんとアンジェさんは笑った。

「そういえば、あなたの出る国際学会にうちで預かってる学生達も出るからよろしくね」

「え、えぇ……お手柔らかに……」

 あまり強敵を出されても困る。なんせ私は入賞を狙っているのだから。

 

 運命の日、国際学会当日。国際学会と言えども会場はうちの大学である。講堂にはそうそうたる学者陣、別室のポスター発表もその道を志す者達がひしめき合っているようだが私には関係ない。やるべきことをやって賞をもらうだけだ。

「死ぬほど緊張してるだろ」

 顔面蒼白でカタカタ震える私にM16が語りかける。彼女は闇鍋会の夜にM4とAR-15による夜の組体操を見てから再起するまで実に三日かかった。

「なんてことはない。みんなかぼちゃだ……」

「はは、とんだハロウィンだな」

 いつも通り馴れ馴れしく肩を組んでくるが、今日は払いのける余裕がない。

「お久しぶり。調子はいかが?」

 声に顔を上げると目の前にいたのはアンジェさんだった。見知った顔がやってきて少し落ち着いた。彼女は四人の女性を連れている。

「あ、あぁ、アンジェさん、どうも。そちらの方々は?」

「うちの研究所で預かってる学生達よ」

 ペルシカさんから聞くに、アンジェさんは研究所での仕事の傍ら講師もやっており、多忙を極めているそうだ。頭のいい人は大変だ。

 学生達は名乗らなかったので、私は端から順に、糸目のヤバそうな奴、糸目にへばりついてる奴、ゴリラみたいにゴツい奴、関わったら人生を駄目にしてきそうな奴、と名付けた。特に関わったら人生を駄目にしてきそうな奴はどことなく母に似ていたので、冷水をかけられたように寒くなった。

「そ、そちらのどなたが今日発表されるので?」

「あら? ペルシカから聞いてなかった? 発表する子は」

 そこまで言ったアンジェさんの袖を糸目のヤバそうな奴が引いた。振り返ったアンジェさんに彼女は首を横に振る。

「……そうね。今いないのよ。発表前に一人になりたいって」

「左様ですか」

「今日はがんばってね。楽しみにしてるわ」

「はい、ありがとうございます」

 去り際に糸目のヤバそうな奴は私の方を振り向き、ひらひらと手を振った。私はわけもわからず手を振り返したが、すぐにM16に小突かれた。

「色男め」

「ちがわい」

 私は小突き返した。間もなく発表だ。気を引き締めねば。

 

 発表が終わるな否や、私は逃げるように講堂から離れた。失敗した、失敗した、失敗した、失敗した。

 途中まではうまくいった。ところが大切なスライドを一枚誤って飛ばしてしまったのだ。しかも終わりにさしかかるまでそれに気付かず、質問されてやっと気付く始末。場数を踏んでいれば挽回したであろうが、もう頭が真っ白でどうにもできなかった。

「ああ、うわあ、だめだ……」

 これではどうにもならん。何が留学だ、何が45を追うだ、そのスタートラインにすら立てなかったではないか。

 この半年間私は一体何をしていた。45がいなくなった寂しさにかまけてもだもだ無為に過ごしただけではないか。ここは失敗してはならなかった場所なのに、なんてことを。

 失敗の衝撃で頭がくらくらする。後悔の念で足元が崩れそうだ。こんなとき45ならなんて言うだろう。小馬鹿にしつつ共にいてくれるだろうか。

 45に会いたい。あの三年間を共に過ごした学友に会いたい。そうとも45は友人なのだ。私の唯一無二の、かけがえのない、お互いに切磋琢磨して時に馬鹿にし時に励まし、余計なことは言わずにただなんとなく傍にいる、そういう友達なのだ。そんな友達のことを、親友と呼ぶのだろう。

 私は45のためなら邪知暴虐の王の元へ走れる。銀河の果てまで列車で行こうと言われれば共に行く。虎になったとて45に呼びかけられれば応える。やっとわかったというのに、どうして伝えるべき相手がいないのだ。

「45……45……よんごぉ……」

 体育館裏のマッ缶がある自販機にたどり着き、ベンチに腰掛けて私はべそべそ泣いた。21にもなった男が情けなくべそべそ泣いたのだ。惨め極まりない。

「うわぁ惨め」

 そう、45ならきっとそうやって、

「ほら」

 頬に何か硬い物を押し当てられてびくっと顔を上げた。

「今日は奢り」

「よ、よんごー……」

 目に映る者が信じられなかった。これは幻覚なのか。

「久しぶりじゃん」

 幻覚ではない。目の前に45がいる。探し求めた友が。

「よんごおおおおおっ」

「うわっちょっと」

 感極まった私は抱きついておいおい泣いた。21にもなった男が女の子にしがみついておいおい泣いたのだ。阿呆らしくてどうしようもない。

「お前っどこに行っておった、私を置いて、どうして何も言わなかった、馬鹿者ぉ」

「うん、うん、それは本当にごめん。出るときちょっと拗ねててさ」

「どうして連絡をよこさなかった、どうして9ばかりに、私がどれだけ」

「それは、ほら、引っ込みつかなくてさ。ごめんって」

「私がな、お前といて退屈なわけなかろう! お前は、私の、唯一無二の親友なのだぞ!」

 45はぱちくり瞬きをして私の顔を見ると、顔の力を抜いて笑った。

「うん。私にとってもあんたは親友だよ」

 私はずびずび鼻をすすった。それから手でぐいぐい涙を拭うと、くしゃくしゃに下手くそな顔で笑ってやった。

 それから我々は熱い抱擁を交わした。純度100%の、親友同士の抱擁だった。

 

 さて、そのあとのことだが、当然ながら私は学会での入賞を逃した。代わりに入賞したのは45だった。アンジェさんのところにいた虎の子が45だったのだ。

 45は国際学会を期に帰国し、アンジェさんの研究所で面倒をみてもらっている。アンジェさんは4月から我々の大学に研究室を設ける運びとなっているため、また私と45は一緒に過ごせることになる。

 我々の関係性について、ペルシカさんとアンジェさんは概ねそんなもんでしょと頷いたが、M16と416は頭が痛そうであった。曰く、『そこまできて付き合わんのかい!』らしいが、付き合わないもんは付き合わないもんなのでどうしようもない。

 私は就職にするか進学にするか散々悩んだ末に、ペルシカさんに提示されていた奨学金の枠に申し込み、大学院の学費を工面することにした。入賞こそできなかったが国際学会の発表経験が評価され、私は無事に奨学金を獲得。進学することができた。

 大学院で過ごした二年間にも様々な事件があった。M16が我々の大学とはライバル関係にある鉄血大学に引き抜かれていったり、M4とAR-15がアンジェさん経由で45と同じように留学したり、ROが階段から落ちて頭をぶつけて救急車で運ばれたり、SOPⅡが研究室で犬を飼おうとしたり。

 私は事件一つ一つに振り回されたが、その度に45は私を小馬鹿にしながら傍で笑っていた。私はそれだけで百人力だったし、45も同じようにそうであった。

 そうして3月、大学院の卒業を目前にして我々に二度目の別れが迫っていた。

「お前は就職か」

「そっちはドクターいくんだってね。大学に居残りじゃん」

「ついに袂を分かつ日がきたか」

 ずずずとマッ缶を飲んだ。3月のマッ缶はまだあたたかい。

「今度は大丈夫?」

「大丈夫だ。いつでも連絡は取れる。離れていても我々はやっていける」

「ま、今回は喧嘩別れじゃないし?」

「おい、私は喧嘩をしたつもりなどないぞ」

「どーだか」

 45もマッ缶を傾けた。あの綺麗な唇にコーヒーが流れていくのを見られるのもあと数えるほどか。

 そういえば、私はまだ学部二年の学祭で何があったのか知らない。心残りをなくすために聞いてみるか、と45の方を見ると不意に視線が噛み合ってしまった。おや、以前にもこんなことが……

 45は私の顔に手を伸ばしてきた。思わず固まってしまう。なんだ、何をするつも

「いってえ!」

「鼻毛出てた」

「抜くな!」

「前にも鼻毛出てるから身だしなみ気をつけなって言ったじゃん。あれ覚えてないんだっけ?」

「……ひょっとして学祭の時に言わなかったか?」

「あーそうそう。あのとき滅茶苦茶酔ってたから言っても無駄かと思ったんだけどさ、やっぱり無駄だったね」

「はぁ……まったく」

 そんなことで延々と悪夢をみていたとは。これは45に言わないでおこう。沽券に関わる。

「卒業式終わったら引っ越しするから手伝ってよ」

「いいぞ。私の引っ越しと被らなければな」

「あれ? あんなに学校から近いのに引っ越すの?」

「うむ。春から同棲することになってな」

「は?」

 45らマッ缶を取り落とした。そして信じられないものを見る顔でこちらを見た。

「彼女?」

「まあな」

「いつの間に?」

「さてな」

「誰?」

「はてさて」

 はぐらかす私に45はつかみかかった。

「言いなよ、何もったいぶってんの」

「はっはっは、お前が黙って海外に行った仕返しだ」

「根に持ってたんだ? そんな昔のこといいから早く言いなってば!」

 こいつが声を荒げるなんて珍しい。はてさてどうしてやろうか。私が感じた疎外感を味わいやがれ。しかしあまりもったいぶると喧嘩になるので、このマッ缶が飲み終わったら教えてやろう。

 成就した恋ほど語るに値しないものはないが、親友には特別だ。



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