【短編集】薄翅蜉蝣覚書 (四ヶ谷波浪)
しおりを挟む

脳内麻薬の救世主

軽い説明
「技能」とか「加護」とか「ジョブ」とかあるファンタジー世界
魔法もある
神様も多分いる 複数いる 精霊とか森にいる
エルフとかドワーフはいるかいないのかわからない とりあえず出てこない
いかにもトラック転生者とかいそうだけどいない
ギルドとかありそうだけどでてこない
主に現地主人公とその兄の話



 ある「王国」には、最強の救世主と讃えられた存在がいた。

 

 まだ年若い青年といってもいい彼は、魔物とのかつての大戦を知る老兵に尊敬され、戦争を終わらせた国の英傑たちにすら畏怖を抱かせた。

 

 魔物でないならば、つまり、人間であるならば。必ず先天的に一つ、神に創られた精霊による「加護」あるいは「技能」と呼ばれるものをもって生まれる。ゆえに、彼のその類まれなる戦闘能力や身体能力から、加護は加護でも神々から直々に与えられた特別な加護なのではないかと噂された。

 

 またある者は、それはただの加護ではなく、特別に複数の加護を与えられたのではないかとも。伝説的存在、神話の英雄と同じ加護を持っているのではとも。あるいは加護が特別なのではなく、奉られている英雄たちの記憶を持って生まれた彼らの生まれ変わりなのではとも。素晴らしい技能を類い稀なる才能で使いこなし、さらに神に愛されているのだと。

 

 ディゾルディーネ。

 

 それは負けずの救世主。不可侵の放浪人。

 

 疑いの余地もなく最強でありながら、名誉ある王国の英傑にならず、あくまで所属のない放浪者に甘んじる青年。その時々で様々な武器を使いこなし、いかなる強敵相手でも無敗を誇り、どんな相手だろうと無傷で帰還する奇跡の体現者。しかも、彼が現れた戦場で死人が発生することすらないという。

 

 一介の下級貴族の次男の生まれながら、王国の誰しもが名を知り、畏れられる彼は、ただ、「幸運」で「無鉄砲」なだけだったのだが。

 

 「英傑第零番」に密かに数えられる彼だったが、それは本当に、幸運なだけなのだ。女神に愛されているわけではなく、ただそれは、それまで「幸運」だっただけなのだ。願いと行動が極めて合致した結果。

 

 これは、年相応にクール気取りな自己犠牲精神な青年と、その兄と、周りの人たちのちょっとした話。

 

 そして、力に溺れたただの青年の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ、ディーネ……」

「その、女みたいな呼び方をいますぐやめてくれ、兄よ」

「……すまない。我が弟よ。私たちの危機を救ってくれて……ありがとう」

 

 吹き荒ぶ風に揺れる、王国民にしてはとても珍しい青みがかかった二人分の髪は、よく色味が似ていた。それは偶然ではなく、二人が紛れもない兄弟であるからにすぎない。彼らの領地では青の一族と親しまれる色だった。

 

 その日、王国の精鋭である「英傑」第十八番、「烈撃」のフィロールは同じ英傑何人かと共に、王国の郊外で暴れる強力な魔物の群れを退治する任務についていた。もちろん命令に従った結果であり、その結果はディゾルディーネがいなければ全滅の憂き目に晒されているところだったのだが。司令官の非というよりは魔物が想定以上に多かった、という不幸の結果。

 

 正式に認められた「英傑」は一人の例外もなく国のお抱えである。ゆえに、すべての英傑は適切な任務を割り振られ、魔物退治や国境の警護などの任務についていることが普通だった。

 

 とはいえ、それはあくまで人間の采配にすぎない。今回のように、時に貴重な英傑を消費してしまいかねない「例外」に出くわすこともある。そこに駆けつけ、英傑や民間人の命を救って回るのがこの、救世主ディゾルディーネなのだ。

 

 圧倒的な力を誇る英傑たちがあわやというところまで追い込む敵すら屠る圧倒的な力。力に振り回されることなく的確に振るう判断力と技量。そしてなにより、最も王国で重んじられる名誉も、それに付随する富も、なんの見返りを求めない高潔さ。

 

 紛うことなき英傑並みかそれ以上の偉業を成し遂げておきながら、唯一の兄の説得でようやく初めて国王への謁見に応じた折でさえ、その力を存分に振るうため英傑になれと命じられども、他の英傑と比べ、自身の能力が見劣りしているという理由で断ったという。

 

 すべての人間はそれを否定したが、すべての英傑が束になっても叶わない可能性のある相手の不興を買ったとなれば失墜するのは国家権力の方である。見送らざるを得なかった。名誉こそすべてのこの国で、最も有名なのは今や王ではない。

 

 救世主が英傑になりたくないと言っているのだ。それがすべてで、そうであれば従うのも理だった。

 

 そして、彼は変わらずある時は魔物と日々戦う英傑たちの危機に駆けつけ、ある時は燃え盛る屋敷から取り残された子どもを救い出し、ある時は老朽化して崩落した遺跡から学者を救出し、魔物が城壁に迫り、城壁の崩落に巻き込まれた者が現れだした時、颯爽と現れて人々を救い出し、そのまま討滅戦に参加した。

 

 今回も救世主の弟ほどではないが数々の偉業を打ち立て、十八番目の英傑として数えられている「烈撃の戦士」フィロールが苦戦するこの戦いに参加したのだ。

 

 なお、フィロールを慕う女兵士に請われ、偵察気味に戦場にやってきたディゾルディーネのことをフィロールは目にするまで参戦を知らなかった。 

 

 ディゾルディーネは戦場に着くや、兄が邪悪な竜に食われかけるのを見た。兄の仲間たちはすでに地面に倒れ伏し、兄を救える状況でないことを理解した。途端、彼は大きく跳躍して兄を救った。

 

 正しく英雄的な、救世主的な、一方的な戦い方で。

 

 首が二本もある凶悪な竜を、その長い首を落とすためのたったの二振りで殺し、……得物は吹き飛ばされた兄が取り落とした竜殺しの剣を用いた。使い慣れているはずの背にある己の得物を抜き放つことすらなかった……倒れていた英傑共々、無詠唱の回復魔法で傷をすっかり癒したディゾルディーネは無感動な目でしばらく兄を見つめていたが、不意に手にしていた兄の剣を兄の傍に突き刺して背を向けた。

 

 そして歩き去ろうとする背に、フィロールは声をかけた。

 

「ディー……ディゾルディーネ! また、立ち去ってしまうのか? 城へ行けばお前が救った沢山の人々がお前を称え、礼をしたいと会いに来るだろう。しかし、お前はいつでも命の危険をはらえばどこかへ行ってしまう。

私はお前の兄として、見合った報酬と、名誉を受けて欲しいのだ、可愛い弟よ」

「『烈撃の戦士』が万全ならば、この戦場は安泰だ。そうだろう、兄よ?

ならば僕は、他に救いを求めている人間のところに行かなくてはならない。今も誰かが僕を待っている。僕は彼らを救わなくてはならない」

「無欲は美徳だろう、弟よ。その精神は高潔なことだろう、弟よ。

しかし、私は兄として、弟が正当に評価される国であって欲しいのだ。何、少しだけでいい」

「国に評価されるのは兄だけで良い。評価されたい者だけがされたらいいんだ。僕のことはフィロール兄さんが知ってくれているならば、それ以上望まない。

生まれながらに家督は兄が継ぐと決まっていた。その上、いまや僕はただの放浪人。声無き救いを求める声を、恐怖に打ちひしがれた救いを待つものを聞き、彼らを一刻も早く救うためにいるのだ。

それ以外は必要ない。名誉があれば命が救えるだろうか? 必要なのは早い脚。救いのためにいかに手を伸ばせるかだ。そうだろう?」

「あぁディーネ……」

「兄よ、兄が兄として弟を心配しているというならば、及ばない。僕には……そう、幸運の女神がついている。貴方の弟は健康で、やりたいことをしているだけだ。僕は幸福だ。困っていることはない。だから名誉はいらない」

「そう、か……」

 

 今度こそディゾルディーネはゆっくりと立ち去った。しばらく無言であったフィロールは、剣を地面から抜き放ち、戦場を共にしている他の仲間たちの元へ加勢に向かった。

 

 ディゾルディーネの言葉の通り、「烈撃の戦士」、つまり戦闘のエキスパートである「ジョブ」、戦士であるフィロールの放つ烈撃……つまり、「全ての攻撃がクリティカルヒットする」彼がいれば、圧倒的に格上な二ツ首の竜でもいない限り、勝利は約束されたようなものだった。

 

 ファロールは引っ込み思案で自分の後ろをついて回っていた弟の成長を目の当たりにしたことを喜べばいいのか悩み、弟が立派に戦い、強くなった様を姿を讃えてやれなかったことを後悔しながら、剣を振るい、英傑としての役目を全うしていた。

 

 「名誉」、それがなにより重んじられる王国で、それを受け取らないゆえに不当に恐怖される弟に憐憫し、そして心の奥にある感情を抱きながら。

 

 かつての快活さを失った弟のやつれた顔を思い返しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディゾルディーネは類まれなる技能の持ち主ではない。実際のところはやや珍しい程度の技能の持ち主だ。希少さでいえば兄の「烈撃」の方が余程希少である。そして彼のジョブもそう珍しいものでもなく、なろうと思えば、相応の覚悟さえあればなれるものだ。

 

 彼が英雄的活躍をするのは、奇跡的な噛み合わせの結果にすぎない。

 

 彼の性格は冷静を装っているだけの無鉄砲であり、それはつまり言い換えるならば、命の危険を顧みないところや名誉欲が極端にないところであり、冷静を装ったというのは本来の彼の内面のことを指している。

 

 彼の性格はかつて、人並み以上に熱く、正義感に満ち溢れていて、他者が無念に死ぬことを人並み以上に許せない質であった。ゆえに力の使い方を知ってからは駆けずり回って人の危険を救い続けている。

 

 しかし、元々兄のことを慕ってついて回っていた子ども時代の快活さを失い、今はただ、ある種の力の奴隷であった。一度その圧倒的な力を振るってしまえばその魅力は悪魔の囁きと同種であり、二度と手放すことも見なかったことにすることもできなかったのだ。

 

 兄を「烈撃の戦士」と呼ぶならば、彼は「幸運の救命士」、ディゾルディーネ。

 

 技能「幸運」とは、「ジョブ」の確率判定を無視して必ず成功するというもの。

 

 ジョブ「救命士」とは、人の命を救っている最中のみあらゆるステータスが大幅に上昇し、救命に用いた道具の効果を倍にし、そして何より「確率で本人の能力関係なく救出に成功する」。また、救命中、いかなる道具であってもある程度確率で使いこなすことができる。

 

 「救出に成功」とは、救出開始から対象が追加でダメージを受けず、また「救命士」本人も傷を負わないことを指す。故に、「幸運な」彼が人の命を救うために奔走するならば確実に救えるし、無傷で帰還するのだ。確率判定をすべて成功させた結果、ディゾルディーネは救命活動中は対象にいかなる傷を負わせず、自分も負わず、さらに神の加護を授かった勇者の剣ですら使いこなせるのだ。

 

 技能の名前は本人にしか分からない。そして、細かい効果はいまだにわかっていない。

 

 しかしながら、技能にあったジョブはおおよそわかっていて、攻撃判定がすべてクリティカルになる「烈撃」に向いているのが、攻撃すべてが威力上昇する「戦士」であるように、確率で儲けが増える「商人」が技能「幸運」にはぴったりのジョブだというのが通例だったのだ。

 

 もちろん、彼が「救命士」である以上、ステータス上昇や確率判定は人の命を救う時しか意味は無い。つまり、力に溺れ、悪魔に取りつかれたディゾルディーネは四六時中助けを求める人間を探し続ける存在になった。自分が英雄的な力を振るっている間に感じる圧倒的な快楽に溺れ切って。

 

 しかし、本人含めてカラクリが理解されていない今、ディゾルディーネは伝説の技能「神の加護」持ちのみがなれるジョブ「英雄」であるかもしれない、だとか囁かれるわけで。

 

 上手い具合に噛み合った技能持ちの救世主気取りの青年は、真の救世主として名を知らしめるのだった。

 

 いくら、救命中は事実上の無敵であっても、器はただの青年であるというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの! 助けていただき、ありがとうございます!」

「例には及ばない。それよりも早く体をやすめるべきだ。危険にあったのだから。さぁ、街へ送ろう」

「なんて優しい方……どうか、わたしにそのお名前を教えていただけませんか」

「名乗るほどの者じゃない。さぁ、向こうにいる僕の馬に乗っていこう」

「はい……優しい方」

 

 力のない人間を助けると、そのままその辺にほっぽり出してまた何かがあっても困るから、街まで送ることにしている。人里ならなんでもいい。そこからはなんとかするだろう。指定があるなら沿うことにしているけれど。

 

 彼女を送ったら次はその街の中を軽く巡回して、何もなければ森を巡ろう。森も何も無ければ今度は川べりだ。ずーっといって、なにもなければ向こうで橋をわかってまた川べりをずっと歩いて、そしてそのまま城壁をぐるっと回る。なにもなければそのまま宿に泊まって、夜が明けたら今度は王国北部へ行こう。

 

 きっと、誰かがいる。いなければいるところを探せばいい。

 

「もしや貴方様は、英傑の方ですか?」

「違う」

「まぁ、そんな! 貴方様のほどの勇敢で腕のたつ方を英傑にしないなんて……」

「英傑になれば、今のように自由に動けない」

「そんな、皆さん英傑になるために日々切磋琢磨していらっしゃるというのに」

「……」

 

 英傑か。昔は、兄のようになりたかった。立派な兄のように誰かに手を差し伸べる立派な人になりたかった。だが今、英傑になる必要は無いことくらいわかっている。憧れももうなく、そして僕は道を見つけたんだ。救命士という。

 

 人を救えた時、頭の中が弾けるように嬉しい。だけども、救ってしまえば終わりだ。いつだって楽しいのは救っているさなかだけ。救ってしまえば、そこにあるのはいつも通りの自分と、ただの人間。僕を英雄に変えてくれる人間はただの人間になり、僕も普通の男になってしまいだ。

 

 なら、より多くを救うために。それ以上は望まない。

 

 僕には幸運の女神がついている。だから、王国中を走り回ろう。

 

 女を町の入口で降ろす。女は、いいや、男もだけど助けた人は名前を聞きたがる。だけど嫌だね、教えるなんて。ディゾルディーネ、なんだかちょっぴり女みたいな名前でさ。長いし、女みたいで、しかも意味だって碌でもないときた。もっと平凡な……トムとか、ジェレミーとか、そういう名前だったなら真摯にちゃんと名乗ったかもしれない。

 

 なんにせよ、名乗る時間がもったいない。口を開くのも億劫だった。

 

「どうか、優しい方! お礼をさせてください!」

「お礼が欲しくてやっているわけではないから」

「なんて高潔な! ですが、あんな斜面が崩れた山道を歩き、私を背負って連れ帰ってお疲れでしょう、少しお休みになるだけでも!」

「あれくらいで疲れちゃいない。

さようなら。心配はいらない。僕には、幸運の女神がついているから」

 

 助けた後の人なんて、心底どうでもいい。僕が気になるのは救いを求めている人であり、もう救われた人じゃない。

 

 こういうとき馬だととっとと逃げられて楽だ。徒歩だと呼び止められて時間を取られてしまう。町の方へとっとといけば、それでしまいだ。

 

 早く、助けを求めている人を見つけられたらいい。それ以外のことは好きじゃない。

 

 本当は誰も困っちゃいなくて、僕は一日中駆けずり回ってただの骨折り損なのが一番なのは分かってるけれど。見つからなかったらいい。見つかったらいい。ふたつの気持ちをもっている。

 

 僕には幸運の女神がついている。だから、不思議とすぐに助けを求めている人が見つかる。

 

 次はなんだろうか。なんだっていい。

 

 人を救うこと以外に興味はないし、救っているとき以外は高揚感もない。何もないのはいいことのはずだ。だけど、つまらない。だから駆けずり回って救いを求めている相手を探すんだ。

 

 はやく誰かを見つけたい。延ばされた手をつかむとき、世界に色がつく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「標的発見、今すぐお救いしますよ」

 

 もうもうと煙が立ちこめる中、無感動で涼し気な声がいやにはっきり聞こえた。

 

 煙の切れ間から、小柄な青年の後ろ姿が見えた。

 

「確認、魔物。状況、交戦。対象、成人男性三名。目標、撃破および応急手当」

 

 右腕を負傷し、うずくまる仲間の傍に彼が歩みよる。彼が手をかざすと温かな光が照らし、傷が癒されたことがわかった。身のこなしは生粋の後衛職のものでは無い。流れの僧侶か、魔法戦士か。

 

 なんにせよ、ありがたい助太刀だ。こちらはみな満身創痍、しかし助けに来てくれた彼は相当な手練のようだ。

 

 ほっとしたのもつかの間、彼は何かを持ち上げた。

 

 仲間の斧である。巨体の彼に合わせて作られた大振りな一品で、鍛えてはいるだろうがごく普通の背丈の彼が振るえるような代物ではない。なにせ、柄だけで彼の背丈ほどある。

 

「少し借りる」

 

 しかし、その斧に似合わない細腕を、それも片腕で軽々と掴んだ青年は凄まじい勢いで駆け出した。

 

 討伐対象だった魔物は木の怪物だ。植物ならば燃やせばいいと安直に考えたが、生木がそうそう燃えないことも理解出来ていなかった浅慮な俺たちは、周囲の木々が燃え盛る中、視界を奪われ、仲間を負傷していくはめになったのだ。

 

 そのため十分に振るうことも出来なかった大斧。きちんと振るえばもちろん、大ダメージが期待できるだろう。しかし、それは使いこなせたらの話だ。

 

 随分力自慢のようだが、さすがに……。

 

 ガツン!

 

 煙が晴れていく。あんなに激しく燃えていた木々はすっかり燃え尽くしたのか、それとも涼やかに吹いた風の影響か、おさまっていた。

 

 木の魔物の悲鳴が響く。地面を揺るがす重低音。

 

 ガツン!

 

 あぁ、間違いない。

 

 ガツン!

 

 青年が魔物の幹を斧で切り倒そうとしている!

 

 そんな馬鹿な! 馬鹿なことがあるものか! 魔物の幹を切り倒すなんてことがあるものか、あの細腕の青年にできるものか!

 

 しかし、現実にそれは起きている。

 

 葉が燃えたせいで陽光が差す。彼の髪が青々と煌めく。

 

 ガツン!

 

 魔物は呻きながら逃れようとした。幹はえぐれ、白い中身がのぞいていた。しかし、巨大な斧を用意したのは奴がでかいからだ。やつは素早くは逃れられない。木である以上、根を張っているので尚更である。せいぜい身動ぎするのみ。

 

 さしずめ、ベテランの木こりに狙われた木のようだった。奴は切り倒され、それでしまいだった。言葉で表せばそんなものだった。魔物がへし折れ、力を失い、すっかり動かなくなると青年はようやく斧を下ろした。

 

 そして体に似合わぬ大きさの斧を担いでゆっくりと振り返り、彼はこちらにやってきた。

 

 逆光だが、なんとか表情はうかがえた。静かな水面のように無表情、無感動である。

 

 斧を持ち主の前に下ろした彼は再び俺たちに手を向ける。とたんに温かな光が傷を癒していく。

 

「怪我はもうないだろうか」

「あ、あぁ……」

「歩けそうか? 三人もいっぺんに担ぐことは出来ないが、街までの護衛はしよう」

 

 咄嗟のことで言葉が出てきやしない。故郷の若造と同じような年齢のくせに、どんな英傑だ。こんな規格外の人間が英傑なのか。彼は一体誰なのか。第何番なんだろうか。

 

 ああ。これが英傑か。漠然とした憧れで目指していただけだったが、実物を見れば、これは確かに崇めるにふさわしい。英傑でこれならば、救世主ディゾルディーネというのはどんなすさまじい人間なのだろう。

 

「助かった……英傑の方……」

「僕は、英傑ではない」

「そんな。ご謙遜を」

「謙遜ではない。英傑であれば今頃、別の場所で魔物狩りをしていることだろう。英傑であれば自由には動けない。国の命令に従って国を守る存在なのだから」

 

 その言葉は真実。本物の英傑が、わざわざただの英傑を目指す人間を救うために暇をしているとは思えない。しかし、英傑でなければなんだというのか。俺たちと同じように英傑を目指している人間で、類まれなる加護に恵まれた人物なのか。

 

 今すぐ英傑として召し上げられてもおかしくない。

 

「魔物の気配はない。しかし日が落ちれば冷え込む。動けそうか?」

「あ、あぁ。おかげさまですっかり傷は治った」

「では行くぞ。少し向こうに僕の馬を繋いでおいた。一人くらいなら乗せられる。どうしても歩けないなら言ってくれ」

 

 そう言って、彼は先導を行った。

 

 疲れた体を引きずりながら恩人の姿を観察した。英傑ではないこの強者を覚えておかなくては。じきに英傑になるに違いない。

 

 背に武器を背負い、服装はごくごく普通の冒険者のように丈夫そうな布と革の服。珍しい青っぽい髪。青い髪の有名人はいただろうか……ぱっと思いつくのは英雄ディゾルディーネだが。

 

 しかし違うだろう。身長は建物の二階に届くほどで、丸太よりも太い筋肉を持ち、青空よりも鮮やかな青髪に、強靭な肉体を持つという。あまりに強靭故に鎧を身につけていないとか。

 

 せいぜいありえるとすればディゾルディーネの兄弟だろう。ディゾルディーネの兄は……そうだ、「烈撃」。ほかにも兄弟がいるのかもしれない。

 

 命が助かったことへの安堵と、有名人に近しい人物に助けられたという高揚は不思議な心地だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、これで。ゆっくり休んで、怪我が後に引かないように」

 

 青年は無表情に言う。言葉のわりに俺たちを心配している風ではない。当然だ。彼の魔法で俺たちはすっかり傷を治していて、多少疲れている程度にまでなったからだ。

 

「待ってくれ! まさか、おまえもう行くのか!」

「あぁ。町まで来ればもう安心だろう?」

「あぁいや、俺たちはそうだ、しかし……あんたはさっきあんな怪物と戦ったばかりじゃないか! たっぷりお礼を……いや、そんなにいやそうな顔をしないでくれ、せめて宿代とメシ代くらい奢らせてくれ!」

「見返りを求めてやったことではないから。テルパ、さぁいこう」

 

 彼は素早く馬に跨り、走らせようとした。しかし人懐っこい目をした馬は走り出そうとしない。主人の命令に逆らうような馬なのだろうか。いや。

 

「テルパ? どうした、疲れたのか?」

 

 それどころか馬はトコトコとこちらに向かって歩いてきて、困惑する主人を諌めるようにいなないた。

 

「テルパ?」

「なぁ、俺たちの恩人よ。この馬はあんたに休めと言ってるんじゃないのか?」

「……テルパ。僕はこの町を見て回りたいんだ、わかるね?」

「ははは、どうだ。馬は動かない。それなら俺たちと飯を食いに行こうじゃないか」

 

 青年は目をつぶった。困ったな、と言わんばかりに。そして諦めたのか軽い身のこなしで馬から降りた。

 

「……世話になる」

「世話になったのはこっちだけどな!」

 

 なんだなんだと集まっていた人々がどっと笑う。この強く高潔な青年にただの青年らしさがあることに安心するように。

 

 落ち着いてみれば年相応に見える。特別無茶苦茶な筋肉があるわけでもなく、特徴といえば珍しい青っぽい髪くらいか。しかし英傑に見劣りしない力を秘めた恩人。

 

 ただ、少し気にかかったのは、道すがら名乗った時に彼も名乗ってくれたのだが、ディーネと、かの英雄のような明らかな偽名を名乗ったことだった。女みたいだからディーと呼べとも。

 

 訳ありなのだろう。強い人間ゆえに、なにか俺たちには伺い知れない何かがあるのかもしれなかった。

 

 食事の際、ずっと旅をしているのかと聞くと、旅というほどのものでは無いと答えた。

 

 どうしてあんなに強いのかと聞けば、強い訳では無いと謙遜した。上手いことありふれたジョブを使いこなしているだけだと。なるほど、木こりか。木であればなんでも切り倒せるという。勝手に納得して、俺たちは無口な彼と話した。

 

 有名人になることは間違いない。名声を得ることがわかってる相手に媚びを売る……というか、話を聞いておきたかった。特に気に入られたい訳じゃないが、そうだろう?

 

 名声ほど欲しいものはない。

 

 しかし彼は硬派だった。普通、自分の武勇伝を話すものだろうに特に何も言いやしない。いくらジョブ補正があってもあれ程の強者、ほかにも武勇伝くらいあるはずなのに話そうともしない。

 

 それどころかとっとと宿にひっこもうとする。

 

「まだまだ夜は始まってもないじゃないか、ディー。奢りなんだからもっと食え食え、飲め飲め。食ってもっと筋肉つけて、素晴らしい英傑になってくれよ」

「……」

「どうした? あぁいや、恩人のディーが別に細っこいとは言うわけじゃあない。だがまだ若いんだから、もっともっと屈強になれるだろ?」

「そうだな」

「わかってるじゃないか。ほら、肉もってこい肉!」

 

 彼はちらりと食堂の入口を見て、諦めて肉を口に運んだ。

 

 その時、いきなり外が騒がしくなった。

 

 英傑だ! 英傑様が来た! 興奮に叫ぶ誰かの声が聞こえる。

 

「おい聞いたかディー? 英傑サマが来てるみたいだな」

「そうか」

「淡白だなぁ。見に行こうぜ、英傑サマの顔を拝めばもっとメシも美味くなる」

「遠慮しておくよ。僕は静かな方がいい」

 

 シチューを口に入れて澄ましているディー。まぁいいか、俺たちだけでも見に行こうと腰を上げかけた途端、食堂の扉が派手な音を立てて開いた。

 

 現れたのは逆光に青く輝く髪を持つ男。竜殺しの剣を操る英傑。街へ出れば整った顔立ちの彼の姿絵などありふれたものだろう。

 

「ディーネ!」

「……」

「やっと追いついたぞ、ディーネ!」

「その女みたいな名前で呼ぶのはやめてくれ」

 

 英傑フィロールはつかつかとディーの座るテーブルの前にやってくる。近くに並べばよくよく髪色も顔立ちも似ていた。

 

 英傑の兄。「ディーネ」。その強さ。

 

 俺たちは恩人の正体を察した。しかし、驚きのあまり、対応するのは遅れた。

 

「なんの用か、兄よ。今は食事中なんだけど、騒がしいよ」

 

 「英雄」ディゾルディーネ。名誉を求めぬ無欲の人。「英傑」の危機すらを救うという強者。

 

 その前に立つのは若き「烈撃の戦士」。歴代の烈撃と勝るとも劣らない勇敢な戦士。期待の星、そして、ディゾルディーネさえいなければ、国を守るために精力的に出陣する彼こそが英雄ともてはやされていたことだろう。

 

「それは悪かった、弟よ。しかし、そうでもなければまたお前は逃げたろう? 今日こそ観念して共に城に向かおう。お前が救ってきた人々が、姫君が、国王がお前のことを今か今かと待っているのだ。

どうして英傑になりたがらないのかは分からないが、お前が疎むなら、もう誘うことは無いと約束してくださった。しかし、命を救われた人々や、民を救われた王家の方々はどうしてもお前にお礼がしたいと申し上げていらっしゃる」

 

 ディーは不機嫌そうにシチューの皿を抱えた。

 

「僕は別に礼が欲しくてやっているんじゃない。

フィロール兄さんも、そうやって城に行っている暇があるならとっとと誰かを救うために奔走した方がいい。名ばかりの『英傑』などどうしようもないものだろう? 人を救うために英傑になったのでは無いのか? 名誉を得るためだけならば、辞めてしまえ。僕から見れば英傑どもは休みすぎだ。休む間もなく王国を駆けずりまわって見せろ。そのための名誉なんだろう?

人を救えるだけで十分です、それだけが恩賞ですと言ってみろ」

 

 そして子どものようにシチューをかきこんだ。

 

「お前は高潔すぎる」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「名誉こそ望むもの。この国はそうやって成り立ってきたことを知っているだろう。相手を満足させ、心の安寧を与えてやるのも救済ではないのか? ディーネ」

「僕は臆病だからね、城なんかで現を抜かしている間にどこかの鉱山のトンネルの崩落があったら? 森で魔物に殺されそうな人間がいたら? 国境で英傑すら負けるような異常事態が起きたら? 常に恐れよ、兄よ。警戒せよ、手を緩めるな。

無駄話をするなら僕はもう行く」

「待ってくれ、ディーネ。父や母も心待ちにしているのだ。顔を見せて安心させてはくれないのか」

「僕の顔なら今兄が見ただろう。僕はこのとおり元気だから、心配なさらないでと伝えてくれたらいい」

「そんな隈をつけてよく言う!」

 

 烈撃は素早く動き、ディーの顔を、素早くハンカチで拭った。肌色の化粧らしき油脂が歪み、彼の言葉通り目元に黒い隈が露見した。

 

「……」

「お前、『休む間もなく王国を駆けずり回って』、寝てないだろう」

「……」

「調べたんだ。お前の行いは素晴らしい。まさしく英雄だ。まさしく王国始まって以来の逸材だ。そして、お前の思想はどこまでも高潔だ。だが、そんなお前がそこまで無理してどうするんだ?

ディーネは伝説の英雄ではない。烈撃の弟だ。そうだろう?」

「……自身のことなど気にしている場合じゃないよ、にいさん、僕は、人を救わなければ、ああ、今も、休んでいる場合じゃなかったんだ。救いを求める人が待っているんだ」

「分からず屋め。では、ディーネ風に言ってやろう。無理を重ね、お前は人である以上いつか倒れる。そして倒れている間の人間を救えはしない」

「……」

「ならば休憩を短く入れたほうがいい。倒れてから、動けなくなってから後悔するぞ、弟よ。もう城にいけとは言わない。上手く言っておく。父上や母上も余計なことを言って可愛い息子がまた家から飛び出すことの方が恐ろしいだろうさ。

さぁ、ご飯をお腹いっぱい食べたら、帰ろう、我が家に。そして少し、休んでくれ。な?」

 

 ディーネはゆっくりとジョッキを掴んで、中に入っている果実液を流し込むと、不貞腐れたように頷いた。

 

 俺は感動し、兄弟愛、英雄の自己犠牲をも厭わぬ姿と英傑の家族愛に打ち震えていた。

 

 これが俺たちのあこがれ、英傑!

 

 これが俺たちの畏怖する英雄の真の姿!

 

 兄君の馬とディーの馬が仲良く並んで去っていくのを清々しく眺めながら、今日という日を生きていることに感謝した。

 

 あの高潔な英雄になにか、その行いに報いるものが与えられますようにと祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい、ディゾルディーネ」

 

 名前を呼ばれると、無表情気味な顔が歪む。幼い時からの癖だった。それでも黙っていたディゾルディーネはフィロールに背中を押されて、いやいやながら口を開いた。

 

「母上。父上。第二子ディゾルディーネ、帰還致しました」

 

 そう高位でもない貴族の息子としてなんら特筆すべきところのない、最低限の型通りの挨拶と礼を見せたディゾルディーネは、すぐに顔を上げた。

 

 背には飾りのない剣、服装は簡素。特に浮かべた表情はなく、特筆すべきなのは目元の崩れた化粧のみ。剥がれたその化粧の下から覗くどす黒い目元のくまだけがやたらと目を引く。青い髪は一族の色。この場に三人もいれば目立つものではない。

 

 ただ、日に焼けてはいるのに化粧越しにも顔色が悪い青年だけがやたらと悪目立ちしていた。

 

「その目の隈はどうしたのです」

「最近少し、『夜遊び』をしていたまでです。家を出た不良息子のことはお気づかいなく」

「ディゾルディーネ」

 

 母親の咎める視線にディゾルディーネはわかりやすく目をそらした。

 

 だが強情な彼はすぐに母親の顔を悪びれもせずに見た。

 

「ディゾルディーネはご覧の通り疲れきっています。父上、母上、休ませてやっても?」

「もちろんだとも、さぁ、部屋はそのままだ。掃除もしてある」

「お気遣い痛み入ります」

 

 とっとと屋敷に入っていくディゾルディーネを見た使用人たちは畏れ、おびえたように道をあけた。まったく物怖じすることのないのは肉親だけで、王国民として正しくディゾルディーネすなわち救世主であると理解している使用人たちは尊敬を半ば怯えに変えていた。

 

 自分たちは救世主の幼少期を知っている。烈撃のフィロールの弟は凡夫だと思っていた。だから、兄のようにはなれない彼を憐れんですらいた。だというのに、いつの間にか覚醒したかのように力を手に入れた彼は、見返りすら求めることなく国中を駆けずり回ってるという。 

 

 自分たちは、敬うべき相手を間違えていたのだと。救世主の噂を聞くごとに事実を突き付けられるようだ。だが、慈悲深き救世主は報復すらしない。罪を償う機会すら与えられない。それは安らぎであり、同時に外部の誰かに自分たちの行いが知られでもすれば一巻の終わりだということだ。

 

 なにせ相手はこの国である意味、もっとも名誉ある者である。名誉こそが、すべての国で。

 

 名誉ある者を真っ当に敬わない者など、そのくせ、力のない者など。護られることはないだろう。だが、そんな無礼者に対しても分け隔てなく手を差し伸べるのが救世主だった。相手が犯罪者であろうが、無礼者であろうが、他国の人間だろうが、手を差し伸べるのだ。

 

「僕が休んでいる間、兄さんが代わりに無辜の人々を救ってくれ」

「……ああ、もちろんだとも」

「歯切れが悪いな。もしかして、烈撃としての任務があるのか?」

「いいや、お前を探すために任務はないよ」

「それはいい! じゃあ領地の森と、国境の近くと、それから、それから……」

「ああ、ディーネ、今は休むんだ」

 

 幼いときよりも口数の多い兄弟の会話を聞きながら、努めて目立たないように。功績を打ち立てながら、それを名誉としない得体の知れない存在と、そんな存在を変わらず弟として接する特異な兄を不気味にも思いながら。

 

 しかし、内心を悟られることだけはあってはならないので、使用人たちはさらに恭しく頭を下げた。

 

 フィロールはそれがわかって、唇を噛んだ。

 

 弟はおかしい。この王国ではどんな意味であっても遠巻きにされる存在だ。わかっていた。

 

 それを何とかしてやりたかった。

 

 

 

 

 

 

 

「ディゾルディーネを医者に診せましょう」

「確かにまともに寝てもいなければ食事をしている様子もないと調査結果が上がっていましたね。フィロール、しかしそれは静養さえさればいいのではないですか?」

「いいえ、母上。私は見てきました。英傑として様々な人間を。あれは中毒者の顔色です」

「ディーが薬でもやってるというの? フィロール、あなたは英傑ですがここではただの息子なのですよ。たった一人の弟に対して信じてやることもできないのですか?」

「いいえ! 違います! ディーネは極めて精力的に王国中を駆けずり回っていましたし、ひとところにとどまることもなく、対価として物を受け取ることもめったになく、所持金も大してありません。つまり、危険な薬を手に入れる金もない。だからそうではないと分かっています。

だから、あれは、あるいは、加護によるものではないか、と。そう考えました」

 

 「幸運」な「救命士」。勘違いされるディゾルディーネ。

 

 あながち間違ってはいないのかもしれない。彼は常に酔っていた。

 

 正義の自分に。「救世主」に。手を差し伸べ、いかなる困難も払いのけられることに。

 

 その快楽は、誰かに認められ、英傑として行動するよりもずっとずっと麻薬のようにディゾルディーネを蝕んだ。

 

 救命中は疲れることもない。救命中、決して死ぬこともない。救命中、空腹になるわけでもない。救命中、最高の、自分の能力を圧倒的に超えたコンディションで動き続けられるのだ。

 

 幼いころ、誰もが夢を見た伝説の英雄その人のようになれるのだ。

 

 ただ、それは人を救っている途中だけ。大きい枠で見て、国を守るために魔物と戦っても力は発揮されない。目の前で窮地に追い込まれた人間に手を差し伸べているときだけ与えられる力なのだ。

 

 ディゾルディーネは力に溺れた。決して失敗することはなく、決して力を制御から外すこともない。救命中であれば、どんな状況であっても完璧な存在になれるのだから。

 

 だから、いっそ邪悪に、助けを求める人間を求め続ける。力を出すために。英雄になるために。だけど、名誉になんて興味はない。ほしいのは英雄の自分。

 

 ああ、ディゾルディーネも名誉の国の人間。まっとうに王国民として育った存在。

 

 力こそ、名誉こそすべて。それを振るえる自分こそすべて。

 

「いざとなれば烈撃の戦士の力を使って取り押さえます。どうか医者を呼んでください」

 

 だから、ディゾルディーネは、脳内麻薬に蝕まれた青年は、自分の英雄としての道を邪魔されるのであれば、容赦はしない。兄であろうと、肉親であろうと。自分の力が発揮されない状況でも立ち向かおうとするくらいには。

 

 ただ、救命士の力が発揮されないディゾルディーネは多少剣を修めただけの青年だ。兄は弟に本気を出せないだろうが、栄養失調と重度の睡眠不足の歳下に後れを取るほどではない。

 

 だけど、それは剣が自分に向いていればの話だ。

 

「兄さん」

 

 力という麻薬に溺れた青年は、どこか幼く兄を呼ぶ。

 

 救世主は剣をもって、障害を打ち払おうとする。力に溺れ、己を正義とした青年の末路。

 

 話を聞かれていたことに焦った兄は少し、判断が遅れた。

 

「僕には幸運の女神がついている。心配することはない。僕は僕の行いによって死なず、恐れず。ただ世界の有り様に怯えている。人々が無為に死んでいくことを、恐怖していることを。それだけだ」

「お前が私たちと価値観が違うのは昔からだ。論ずることはやめよう。お前は疲れ、壊れている」

「決めるのは僕だ。僕はなんにしても人を救っているんだ。そうだろう?」

 

 ディゾルディーネは、衝動的に兄を切った。それは決して致命傷ではない。だが、関係ないことだった。高練度の救命士は救うべき人間を見逃さない。そして狂った脳みそは、加減も知らずに救おうとする。救いを求める人間を幻視し、流れた赤い血を、流させた相手を排除させる。

 

「標的発見……」

 

 ぼんやりと、うつろな声。

 

 斬られた腕を抑えながら、哀れなフィロールは脳内麻薬に溺れた弟の狂った笑みを目撃した。それは快活さとは対極だった。己を兄として慕い、ついて回り、憧れすら見せてきた相手の、道をたがえた姿を。

 

「確認、脅威。状況、暴行。対象、兄さん。目標、障害の撃破」

 

 弟の使い慣れた剣は、迷うことなく自分の心臓に突き立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 英傑第十八番、烈撃の戦士フィロールはあるとき突然、いまだ若くして消息を絶ったという。

 

 その弟、救世主ディゾルディーネと共に。

 

 彼らの生家には、殺害された両親と、惨劇を翌日になるまで知らなかった使用人たちだけがいたという。

 

 神の加護は、矛盾した行動をどう見守ったのか、もはや知る由もない。

 

 ただ、事実としてその夜から英傑が一人、また一人とこの世から消えたのは青の一族の呪いだと語りつがれている。




王道勘違い物が書きたかった
なにかがおかしい


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

運命とは

愛しいとは。


 外の喧騒はここでは遠い。決して無音ではないけれど静かな空気が満ちている。他にも人がいないわけではないけれど、休み時間にしては人気のない、どこか乾燥した独特の空気感は好ましい。

 安っぽいパイプ椅子がリノリウムの床を擦ってぎいと引く音と、ぺらぺらと図書委員の誰かが資料をめくる音、ぺたぺたと上靴を鳴らす誰かの歩く音……それだけが、ただ静かにそこにある。

 

 新しい物語を追い求めてあちこち見て回る。ずっと前に大好きだった低学年向けのシリーズの棚の前をふいと通り過ぎて、ふと目に留まったのは表紙が取れかけたような古い本ばかりが並んでいる図書室にしては珍しい、真新しいハードカバーのシリーズ本だった。

 業者から卸されたばかりなのか、本棚の下の方に並んでいるそれをしゃがみ込んで確認してみると装丁は統一されているものの、タイトルは統一感もなくバラバラ。短編集だろうか。背表紙には作者の名前も見当たらない。一冊抜きとって目次を開いてみるとやはりそのようだった。そんな本のタイトルの横には、「SFセレクション」という馴染みのないワードが躍っている。

 SFは……読んだことのないジャンルだけども、そんなことを言っていては新しく胸の躍るストーリーと出会うことなんて出来やしない。むしろどんな物語なのか気になるから気に入ったくらいだ。

 

 真新しく、ぴかぴかとつややかな装丁。ほとんど開かれたこともないような白く綺麗な折り目のない頁。印刷所で縫い付けられてから一度も動かされたことのない栞の紐。この古い学校にあるにしては随分いい備品で、それだけで嬉しくなった。もちろん新しいものだってあるのだけど、私が卒業するころには間違いなく校舎ごと「真新しくなる」ことが決まっているのだから、今のうちはなんというか、いろんなものを古いままにしがちだ。きっとここにある開くだけでばらけてしまう古き良き童話や、角がすっかりすり減ってタイトルをマジックで上書きしている絵本なんかが処分の対象になるのだろう。

 

 とりあえず抜き出した本を両手に抱えて、貸出カウンターに向かう。短編集なのだからどれが面白いのかはわからないが、なんだろう、良き出会いのきっかけというのはたいてい言い表しようもない勘によるものでもあるから。きっとこれは良き予兆だ。

 

 足取り軽く、私は古びた立て付けの悪い引き戸からほこりっぽい廊下に出て。スキップ気味に教室に戻っていった。

 

 それこそが。十数年私が愛してやまなかった本との出会い。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

うたえ、愛を知る者よ

その国は奴隷で成り立っていた。支配層は人間の味方をしていたはずの精霊を食いつぶし、強欲になっていく。
奴隷には理由が必要だった。生まれつき何かが欠けているだとか、相応の何かが。そうでなければ自分たちと奴隷に区別がないように思えたからだ。

しかし奴隷は足りなかった。あるとき、生まれたての奴隷の子どもの片目を故意に潰し、生まれつき不出来だと言ってのけた支配層の人間がいた。

それが、始まりだった。


精霊の「歌姫」トゥパールと奴隷の少女ウルイが王国の因習を断ち切るその日、全ての魔法は終わりを迎える。

pixivにも投稿しています。


 そっと手を握る。いつだって、優しく握り返される。今までも、そして今も、これからも。君はあの時よりずっと大きくなって、あの日から立ち止まったままの私を覚えていてくれて。私は大きくなった君に気づかなくて、だけど君はまた手を握ってくれた。

 

 私は目を閉じる。静かに君の歌を聞いていたかったから。君は、私に分かる言葉を奏でてはいなかったけれど、確かに歌っていた。瞳はきっと金に輝き、長い長い髪が風に揺れて。それは神秘的で、世界は淡く輝く。穏やかで、優しくて、あたたかな風が「私」たちの頬を撫でる。

 きっと、国造りの大昔もこうだったんだろう。ひとびとの営みを助けるために力を貸してくれた精霊は、こうして優しく、ゆりかごの赤子に聞かせるように、あるいは恋人を優しい眠りにいざなうように歌っていたんだろう。

 大地が震える。かつてのような魔法なんて、もうないのに。この世界は、魔法なんて忘れたはずなのに。奇跡を起こす魔法はなくて、ただ、人間の欲望だけあったはずなのに、だけど君の歌はたしかに魔法だった。

 

 最後の魔法だった。きっと、これが最後の魔法。精霊への信仰を忘れた世界には二度と、これ以上、こんなにも綺麗な魔法がかかることはない。奇跡は起きない、起こせない。これが最後で、君は歌う。人にとっての言葉ではなく、太古から宿る精霊にとっての理で。それは美しい音色で、優しい魔法で、愛の歌。

 その金の瞳に、優しさをのせて。

 欲望も、絶望も、全部精霊の歌は洗い流す。無言歌は、金色の歌は、不思議な精霊の言葉で世界に響いていく。この美しい歌を歌い終わったら、きっと君はただのひとりの人間になるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 うたえ、愛を知る者よ

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗闇の中で、何も見えない狭い場所で。凍える寒さを耐え過ごす。さながら穴ぐらのような居心地の悪い空間でも、同じ境遇の友がいるなら地獄ではなかった。幼く、あわれなふたりは少しでも暖をとろうとぴったり寄り添っていた。彼らはあまりに暗いゆえに互いの顔を見た事すらなかったが、互いの体温はよく知っていた。「少年」の少し癖のある毛の感触と、「少女」の猫っ毛のふわふわした感覚を、ふたりはよく知っていた。痩せこけ、年の割に小さい「少年」は丸くなって眠り、負けず劣らずの風体の「少女」は「彼」を包み込むようにして眠る。ほこりにまみれ、傷ついた体の節々をさらに痛めつける冷たい空気が停滞するその場所で、互いにすがるものがあったから、彼らは生きていけたのだ。彼らは互いに手を握り合い、励まし合う。けっして気づかれてはいけないから声を出してはいけなくて、光の下で会えなくて、だけど、ふたりは友だった。

 極寒の国の奴隷である「少年」は初めてそこで人の温もりを知り、「少女」は愛しい家族と引き離された悲しみを埋めた。「少年」は夜、こんなにもすべてが静まる中でなら、「少女」を励ますために、そっと歌っても気付かれやしないと思ったが、もし、こうして寄り添っていることに気づかれてしまって、「自分」の歌のせいで「彼女」との別れの可能性があるのなら、衝動のままに歌いたいことなど飲み込んでしまっても構わなかった。

 「少女」は、唯一の友である「少年」の名前を知りたかったが、ついぞ、ふたりは言葉を交わすことは無かった。……できなかった。

 ある日、言われなき罪で「少年」が激しい折檻を受けている最中、「少女」は穴ぐらから引きずり出され、その場から連れていかれ、二度と戻ることはなかったからだ。まなこを強くつむって痛みに耐える「少年」の小さいからだをみた「少女」はいつかの再会を誓い、光の下での地獄へ連れ出された。どこへ行っても、彼らはその国で生きている限り地獄には違いないのだった。「少女」は初めてにして唯一の「友」と引き裂かれ、「少年」はたったひとつのよりどころを永遠に失ったかのように、みえた。

 

 それは眩しく、無垢な雪の国。美しく、氷に彩られた精霊信仰の国。その美しい仮面を被った欲望と隷属の地で、「少女」は凍えながらもひとりぼっちで過ごす穴ぐらの「少年」を想うのだった。

 血に濡れた歴史を純白の雪で覆い隠して。胸に秘めた誓いだけは、凍る世界に温度を奪われず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 氷と雪に閉ざされた国の遠い遠い向こう側。そこは人を寄せつけぬ鬱蒼とした森だった。空も見えぬほどの木々の茂り、獰猛な獣が闊歩していて人間が生きるのには適しているとは言いがたかったが、凍りついた地獄と比べてみればよほどあたたかで安らかな世界だった。

 そんな森の中、木々の合間を縫うように素早く動く姿があった。

 どうにも青年らしくない、紐に結ばれた長い長い黒い髪が躍る。青年の軽やかな動きにうねり、闇色の髪は金の瞳をますます強い光に見せた。漆黒の長い髪の間かららんらんと輝く金の瞳は、まっとうな獣よりもよほど獰猛にも見え、その実、静かに湛えられた水面のように穏やかであるのに戦いの中では怪しく輝いて見えてしまうのだった。

 次々と獣たちが吠える。青年に獲物を横取りされることを良しとせず。しかし、しなやかにその場に飛び込んできた青年のほうがよほど獣より強いということに、空腹がたたって気づけない。やせこけてはいるが、久しぶりの新鮮な獲物の肉にかぶりつこうとしたのに、無粋にも邪魔をするこの人間を先に食い殺してやろう。そんな勢いで彼らは牙を剥いたが、それはまったく叶わない。

 

 金の瞳が鋭く獣たちを射貫く。鈍色の大きな剣が風よりも早く振られた。

 彼は弱った若い女を襲う獣たちをすばやく打ち払い、両断した。倒れ伏せる彼女に駆け寄りながら、踊るように走った。先頭で牙を剥いていた獣の死によって、強者に気づいた彼らは瞬く間に散っていく。青年は死に伏した獣に目もくれることなく、若い女と肌が触れるほど近くに寄れば、彼女のくすんだ色の栗の髪と、長くのばされた青年の真っ黒い髪が絡み合いそうになる。

 金の瞳が薄闇の中で気遣わしげにちかちかと光り、しなやかな動きで青年は若い女を抱き起こす。彼は目を細め、彼女の顔を改めようとした。青年のぼやけた視界には彼女の顔がはっきりと映りはしなかったが、その体温、その匂い、野生の獣より鋭い感覚は彼の記憶を呼び起こすのに十分だった。

 ぼろを着た彼女は、骨と皮と細い筋肉の体に獣……ではなく、人間の手による無数の傷を負っていて、彼はそれを治療しなくてはならないと思った。

 彼はしばし、彼女を見つめ、ふさわしい言葉を見つけることができなかったが、とうとう思わず、こう言った。

 

「また……会う、会えた、また……」

 

 それが彼の精一杯の言葉で、彼の中の唯一、人間らしい感情だった。無表情の彼も、今ならば涙を流しそうですらあった。

 彼の立ち去ったあとには、すっぱりと体を切り落とされた獣たちの死骸だけが残されていて、それらはそのうち別の獣の血肉となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鈍色の剣を操る青年はひどく残酷で、どこまでも無垢だった。中性的だが精悍な顔立ちに無邪気にあどけない笑顔さえ浮かべたならば、年相応のやわらかさを見せただろうに、どんなときでもまったくの表情を浮かべることなく、どんなに飢え切った狼よりも獰猛に見え、「敵」でさえあれば人間を殺すことに躊躇などなかった。

 びっしょりと人間の血に濡れた「青年」の、獣のごとき金色に輝く眼光は鋭く、鮮血の惨劇のなかでもらんらんと、一向に鈍る気配なく輝いていた。ざん、とまた一陣、命を刈り取る風が吹く。

 そして怯えきった人間が一人、死ぬ。青年の振るう刃に斬り伏せられたからだ。いっさいの躊躇なく、いっさいの鈍りなく、嵐にうねる風のように青年は次々に剣を振るう。振るい続ける。獣じみた瞳の輝きを瞬かせて。激しく。だが静かに。なんの感情もうかべることなく。だけども、激情に駆られるように。それはあたかも踊るように。しかし、こうも荒々しいダンスに合わせる曲はないだろう。

 青年はただ、「かつて教えられたように」繰り返すだけ。なんら己の憎しみに駆られることなく、ただ、「かくあるべき」なのだ、と己を律して「敵」を斬った。仲間だと判断した人間を害するならば殺す。それのみだった。仲間同士でのいさかいにはたいして関与しないのに、それだけは「教えられたこと」だったから、迷うことなく実行に移していたのだ。

 

「この鬼め! 欠けたる忌み子どもを率いる鬼め! 人を人だと思っていないのか! 何人殺した! これから何人殺すつもりだ! 貴様は卑しい奴隷の出だが、先祖をたどれば同じ血を分けた『王国』の民だったはずだろう!」

 

 とうに逃げ場を断たれ、あとは青年の剣により死ぬのみとなったある男は、死への恐怖に口つぐむ仲間たちと違い、叫び声をあげることが出来た。問いかけることすらできた。青年の、ただ無機質に追っ手を斬り殺す姿に恐怖を覚え、しかし身に覚えのある殺しの快楽に溺れる姿ではなかったことにさらに恐怖して。

 殺しが楽しいのではないのに、自分より弱い者をいたぶるのが楽しいわけではないのに、どうして「こいつ」は人間を殺せるのか? 黙して死んだ彼らも恐怖に凍てつきながら、そう問いたかった。しかし、問いかけられようが青年は変わらず、感情らしいものを見せもせずに殺し続けた。

 同じ人間の疑問の声を、この場で殺されてしかるべき獲物の意味のない断末魔の叫びだと思っているのか、いっさい気に掛けることがなかったのだ。

 

 青年は叫び声に答えず。もの言いたげな視線にまともな反応すらよこさず。ついぞ変わらず、なにやら呟きながらまた刃を振るったのみ。

 

「仲間を守る……、守れ……守りなさい……、仲間を、我ら、とは、同胞……、我らは……ともに……、同胞……守れ……、傷つける相手をすべて殺せ、殺せ、守れ、殺せ」

 

 青年はぶつぶつと、無感動にかつての教えを繰り返し呟きながら、金の瞳を無感動に獲物に向けた。鈍色の剣は、何の躊躇もなく、的確に敵となりうる男たちを殺し、……唯一の救いは苦しませることはなかったことだろう……その間も青年はぶつぶつと、かつて教えられたことを繰り返し繰り返し唱えていた。

 すべての「敵」を殺し終えた青年は、ぐっしょりとどす黒い血に濡れた長い長い髪を煩わしそうにかきあげると、森の奥へ奥へと駆け出して行った。

 「王国」ではまず目にすることのない、丁寧な縫製だが荒い目の生地の服……つまり、魔法による自動機関で織られたのではないグレードの低い手織りの布である……に、この場において高貴な身分を示すような鮮やかな赤の飾り布を身に着けた青年は、さながら森に住まう自由な精霊のようで、しかし、「王国」の人間には無慈悲な剣鬼と明確に恐れられていた。

 彼の背にある、脂まみれの抜き身の剣から血と脂の混じった液体がぽたりぽたりと滴るが、暗い森の中でそれが何かの道しるべになるはずもなかった。神秘と奇跡の力をすっかり失い、風に紛れて囁きあう太古の精霊たち……その残滓と、親たる女の愛情だけが、彼の行方を静かに見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある、森の深いところに、「王国」の迫害から逃れたひとびとの里があった。

 迫害の理由は様々だったが、彼らは元いた栄えた国から、ある者は自ら逃れ、ある者は役立たずとして追い出され、ある者は在ることを許されてもなお冷たい周りの目に耐えきれずに抜け出し流れつき、そうして、彼らは人の住まぬ森の奥に行き着き、そこに安寧の地を見出した。「王国」からの一斉反乱は、もっとも多くの忌まれた彼らが自由を手にした機会だった。

 中心に立たされた、一人の少年と、忌み子にして剣聖と讃えられた男に縋って。

 かの少年は、追っ手から、既に彼らを守ることが出来た……戦闘においての天才だったのだ。食糧豊富な状況かつ健康で、訓練された兵士たちを何人相手にしても負け知らずなほどだった。人間離れした強さを持つ彼は追っ手により倒れていく大人に代わって反乱の前線に立つメンバーに加わり、ついには、とうとうひとりでそこに立ててしまう。少年は己に致命的な欠けがあっても、あらゆる知識が不足していても、己の庇護を分け与えて余りあるほどの才を持っていた。

 そんな彼の庇護の下でどこか、なにか欠けている故に忌み子と呼ばれ、迫害された彼らは己の不足を補い合い、協力し合うことで細々と生きることが出来た。自分たちを利用し、虐げることしかしない国を離れ、森の中で。長と定めた少年が青年となり、彼が笑うことも泣くことも無くなっても、彼は真に強いひとなのだと信じ込み、ますます神格化して崇め続けて。

 それゆえに、青年は、本来ならば欠けたままではなく、成長出来たはずの情緒も、言葉も、すべて、変わらず幼いまま、求められる姿であり続けた。彼は、ただひとつ戦闘の才能のみを存分に伸ばし、かつての反乱のリーダーである亡き「剣聖」の称号を継いだ優秀な剣士だったが、忌み子故に、その無表情で非情ともとれる戦いぶりに、言葉を知らぬゆえの寡黙がたたり、不当に恐れられ、ついに「剣鬼」とまで呼ばれた。

 

 だが、その汚された称号すら意に介さずに、先代にして己の師である剣聖アルバを悼むために、彼は永遠にその名をほしいままにした。他の追随を許さず、彼は師のように最強であり続けた。それは彼の首級が疎ましき「王国」に晒されなかったことが証明した。

 剣聖アルバ、それはかつて「王国」最強と謳われた隻腕の剣士。忌み子たちを扇動し、「王国」から逃れた立役者。青年を救い、真に救うことができなかった、愛を知る者。そして「特別ではない、ただの人間である」。

 獣のように生き、隻腕でありながらも誰にも有無を言わせずに剣聖の称号を冠した彼と違い、誤解を解くことなくただ鬼と呼ばれた青年は、隻腕であっただけのアルバと異なり、言葉の通じぬ白痴だと思われていたからであった。

 事実を知る気もない「完全な王国」の人間たちは、剣鬼を恐れ、彼の真実を知る日は来ない。青年を敬愛し、信仰し、彼の庇護下で生きていく忌み子たちはそのひたむきな崇拝により、彼の真実を見ようとしない。

 

 青年は、愛を知らぬ。あぁ「精霊の歌姫」はまだ、歌を知らぬ。

 獣のようにしなやかに、刃のように鋭く生き。彼はまだ、歌うことはない。雪の冷たさが染み込む地下室に心が囚われたまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「剣聖」……いや、ただの男であるアルバはどうにも不器用で、正直なところ師や先生という立場にはさっぱり向かない人間だったが、ほかにその役割ができる者はいなかった。それでも彼なりに愛情深く、そして全力で「トゥパール」……未来の剣士の青年を教えた。剣を、言葉を、そして彼の根底を支える、ある姫君のことを教え、慈しんだ。それはあまりにも短い期間だったが……。

 ともあれ、精霊の子孫ではない、ただの人間ながら強さを誇った彼は、最後の、人ならざる代行者を教えたのだ。

 

「トゥパール・ディーヴァ、美しき歌姫エルシの息子よ、誇りを持ちなさい」

 

 彼は繰り返し繰り返しそういった。凍傷の跡の残る手でトゥパールの手を握ってそう言った。対してトゥパールは、毎回律義にも師の言葉を理解しようと努めた。実感持てぬ、会ったこともない歌姫エルシを己の母だと理解し、彼女を尊重すべきだと学び、しかし、どうしても理解できないことは何度も尋ねた。

 

「師、師、『ほこり』、とは、なんだ?」

「誇りとは……そうだな、幼いトゥパールに分かるように言うならば、よく、この世で迷うことなく眠れるようなことだ。

あの眩い太陽を拝み、誰に恥じることなく生きること。のちに後悔し、悩み、惑わされることのないように」

「師、ほこり、とは、『後悔し、悩み、惑わされることのないように』? とは、……わたし、とは、むずかしい」

「『わたしには』だな、トゥパール。

だが、そうだとも、難しいことだ。ゆっくり理解すればいい。いまだ幼いトゥパールには時間がたくさんあるのだから。なあに、教えることができるのは俺だけじゃない。きっと、教えてくれる」

「……そう、か。わたし、には、師……ある。とは、ほこり、ほこりである」

「嬉しいことを言ってくれるなあ、トゥパールは」

 

 アルバは、かつて母の持ち物だったという鮮やかな赤いリボンを与えられてから伸ばし始めたトゥパールの黒い髪をくしゃくしゃとかきまぜた。それに少しだけ嬉しそうにするトゥパールはアルバの言葉を半分も理解できなかったが、アルバのことを心底慕っていた。

 そのまま、二人が長く過ごすことができていたのなら、あるいは孤高の長は生まれなかったのかもしれない。つたないながらも通じ合える言葉を覚え、注がれる愛情を理解し、民を愛し理解される人間の長になれたのかもしれない。

 しかし、彼はあくまで、精霊の代行者として、至高にして孤高の長として降臨することになるのだ。

 

 「王国」の奴隷であった忌み子たちが剣聖アルバに扇動され、一斉に「王国」から脱出した時、青年はまだ幼い少年だった。

 誰に何も教えられることなく、久方ぶりの光の下で、これ以上心が凍えることなく、ただ反乱のために渡された剣を、その才能だけで振るうのみの、作法も知らぬむき出しの剣術しか持たない、しかし剣の天才であった少年は、既に力持たぬ忌み子たちの拠り所のうちのひとりだった。「王国」でもその腕を認められ、名の知れたアルバのことを、忌み子たちは度重なる虐げによって、頼りにはしたが完全に信じ切ることが出来なかったからだ。

 その点、ほんの少し前に剣を握ったばかりの、今まで太陽すらまともに拝んだことの無い……しかも「王国」の人間に虐げられ、地下に閉じ込められていた故に拝めなかったという、親しみ深い共通点すら持ち合わせている……しかも言葉すらまともに話せない白痴で、小さく痩せ、いかにも不健康そうな少年の方が同じく「欠け」を持つ同胞であり、「王国」に虐げられた英雄として受け入れやすかったのだ。

 反乱の首謀者である剣聖アルバは右腕のみを持つ隻腕で、王国一の剣士として称号を認められていたとはいえ、それでも随分と「王国」で酷い扱いを受けてきた。……そんな彼自身がその同胞にある種、ついぞ認められなかったというのはひどい皮肉のようであったが。

 同じようにどこか欠けを持つ同胞たちがどうして虐げられなくてはならないのだと彼は奮起し、剣を取り、「王国」から一斉離脱を行ったのに。そしてそれは半分、成功した。目標はもちろん、虐げられる同胞全員の脱出だったが、到底それは叶わなかったのだ。二割にも満たぬ同胞だけが脱出に成功し、残りは途中で殺されるか、いまだ囚われ、虐げられたまま。

 

 彼の作戦が特に不出来だったのではない。「王国」には忌み子が多すぎたのだ。アルバは当時、国民の六割が忌み子に指定されて虐げられているとは想像もつかなかったのだ。

 すでに限界だった。守るのも、養うのも、救い出すのも。救いに戻ることは難しかった。「王国」は彼らを根絶やしにするべく追っ手を送り付けてきたので、救い出すことのできた同胞を守ることに精いっぱいだったのだ。きっと戻る、きっと助けると誓った相手を見殺しにすること同然の行為だが、アルバは現実を見ていた。救いに戻れば、共倒れする。

 彼は、だから、トゥパールに「王国」にまだ同胞がいることは教えたが、必ず戻って救い出すと誓ったことは伝えなかった。せっかく救えた命を無為に散らすことと、誓いを天秤にかけ……彼は、愛を教えてくれた恩人の忘れ形見の命を優先したのだ。

 「王国」の追っ手が頻繁にあった頃、アルバはそうしてトゥパールを鍛え、彼の師となり、しかし彼らが共に過ごした時間は……あまりにも、あまりにも短かった。

 

 少年は、いわゆる白痴なのではなかった。ただただ、幼少期から「公的には」孤独に閉じ込められ、誰と過ごすことも無く言葉さえ教えられていなかったのだ。そうなった忌み子は他にもいくらかいたし、彼らも同じように言葉が拙かった。トゥパールは特にそれが酷いだけだった。アルバはそれを理解し、そんな彼に言葉を教え、剣を教え、師として導いた。

 そんな、言葉も、太陽も、感情も、……愛も知らぬ少年を作り上げたのは醜悪な「王国」の体制。それは、生まれた子どもをすべて民にとっての人質とし、自分たちの都合の良いように教育するために取り上げるという制度。

 生まれてすぐ、「王国」で生まれた、「王国」籍の全ての子どもたちは集められ、その生まれによって違うレベルの教育を施される。その中で、何かしらの欠けがあった者は出身の身分問わず、一切の例外なくまともな扱いを受けることは無い。体の弱い者は瞬く間に凍死し、生き延びた者も真っ当に成長できることは無い。

 全国民の子どもの教育はかなり金がかかることだが、他の国と比較しても忌み子に認定される、いわゆる奴隷階級の人間が「王国」は異様に多く、いわば無償の労働力を確保することによってそれらを賄っているのだ。そんな腐りきった制度がまかり通る中、かつて生まれつつあった「王国」を守護したという精霊の子孫の行く末はというと。

 その功績を讃えるべく、長らく名のある貴族であり、王族と定期的に契りを交わし、兄弟のような扱いをかつては受けていた彼らだったが、末裔となった少年は醜い利権争いに飲まれ、表舞台から永遠に葬られたのだ。公的の文書には、精霊の末裔は「王国」の体制に不適格であり、忌み子が生まれたという意味の印だけが残されている。「王国」の制度は、奴隷になること以外は役に立たない忌み子を生み出し、区別することが目的なのではなく、「王国」に不必要な人間、都合の悪い人間を幼いうちに合法的に排除する制度だったのだ。そしてその副産物として奴隷階級を大量に生み出し、一部の人間の豊かな生活をものにしていたのだ。

 忌み子の大半が、もともと持って生まれた欠けゆえにそう扱われたのではない。制度が浸透してから、残酷なことに、生まれた時点でそうと分かる場合は「間引き」を受けるような醜悪な慣習が横行していたのだから。ゆえに、多くは制度によって集められたあとに引き起こされる惨劇だった。「忌み子」に身体的なものが多いのは人為的なことだったのだ。

 ある者は意識のあるまま腕をもがれ、ある者はほとんどの食事を抜かれて健全に成長できず、またある者は毒を飲まされ……。もともとの過酷な寒さと境遇は心を折るのに十分だった。そして、直後の酷い辱め、つまりは幾人もの死者を出す「治療」という名の「暴行」と、強烈な薬物の影響でその記憶を失うのだ。

 何をされたのかを。傷口を見て皆、何をされたのかは察した。しかし、実行の記憶は無いのだ。

 

 少年は、生まれて間もないころ、その目に薄い酸を一滴たらされ、目が悪いという意味の焼き印を背に押された。幸いにして、酸によってその視力をすべて失うことはなかったが、二度と元に戻ることはない。

 殴られながら薬物を流し込まれ、焼き印を押される灼熱の地獄と共に記憶を奪われながら、受けた激しい暴力は彼の心を凍てつかせるのに十分だった。特に彼は「王国」の特権階級から見て不要な人間だったので、その暴行はいっそう酷いものだった。

 当時幼きトゥパールは頬を腫らし、腕を折られ、足をへし折られかけ、太陽から遠ざけられ、不健康に白い肌を腫らして真っ赤にしたが、名目上の教育の名の下で杜撰な治療を受け、なんとか骨に異常をきたさなかったくらいであった。

 彼は、それでも、どんなに貶められようとも、国造りの精霊の直系の子孫。他国でも名の通った家系のものであるから、間違っても「王国」の悪習が外に出ることがないように、顔が酸にただれることがないようにだけ気を付けられ、折られた骨に問題が残らないようにはされた。

 彼はそれ以来、滲んでいるような世界の中で、さらに表に出ないように暗闇に近いところで育った。突然の理不尽な暴力に脅え、冷たい暗闇の中で。

 トゥパール、かつて国を愛し、国を造った精霊の子孫。最後の歌姫。彼は男だったが便宜上「歌姫」と呼ばれる一族の末裔。彼らは愛を知った時、歌を初めて歌うという。母に触れて、父に触れて、友に触れて、恋に触れて。

 その歌は、今は失われつつある魔法で、様々な奇跡を起こすという。かつては国を豊かにし、国を守り、愛する者たちを祝福する歌を。だが、愛知らぬトゥパールは歌えなかった。歌えば、きっと小さくとも奇跡が起きただろうが、「王国」の人間は無理やり歌わせようともしなかった。

 

 それは、もはや重要視すらされなかったのは、そもそもすべての魔法自体が薄れつつあったからだった。精霊も、妖精も、魔法使いたちも、ずっと昔に他種族や魔法の力持たぬ者との混血が進み、もはやまともな力をふるえる者は少ない。ゆえに信じる者も、縋るものももはや少なく、ただ朽ちていく残滓だけが世界に残る。

 精霊だった暴風は小さなつむじ風を起こし、妖精だった真冬にも咲き誇る花は時折狂い咲くにとどまり、天変地異をも起こした魔法使いの子孫は古のおとぎ話を鼻で笑う。

 歌姫、最後の魔法の……「完全なる」継承者は気づかれることなく葬られようとしていたのだ。

 「王国」は魔法のような儚くなりゆくものより、直接的に暴力的な力……例えば剣、例えば弓、例えば槌……そんな武器や純粋な暴力が重宝された。故に、本来忌み子であるアルバの剣の腕を認めない訳にはいかなかったのだ。通常、幼少期で歌姫として目覚めるはずだった彼は、その歌に目覚めることなく暗く狭い穴ぐらのような部屋で幼少期をすごした。

 

 愛を知らず、虐げられ、言葉を知らず、そしてひとつの希望だけを胸にして。たったひとつの希望が、彼が精霊ではなく、人間として成長したゆえんなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トゥパールの師である剣聖アルバは、かつて無法者であった。

 その素晴らしい剣の腕を鼻にかけ、弱きひとびとを救うところか、虐げるために使った。さすがに同胞たる忌み子を襲うことは無かったが、その代わり手を出しても処刑されない程度の立場の「王国」民を襲った。それは彼が忌み子であったゆえに、健全な人間に暗い感情があったからだった。

 しかし、いくら強いといっても複数の、血の気盛んな「健康な」人間には勝てない。彼もいつしか虐げられ、命の危険にまであった。剣聖の称号を得ていなければ命を奪われただろうが、持っていたゆえに命を取られた方が良いほどの辱めを受けたのだ。

 

 高貴なる女、エルシはそんな彼を庇った。己の立場を弱めても、彼女は目の前の悪逆を良しとはできなかった。先祖返りの彼女は人ならざる思考を持ち、もし彼女が居合わせた時の加害者がアルバであれば、同じように止めたのだろうが。彼女は貴族でもかなり力があったから、悪逆を尽くすものたちを追い払い、そして歌った。愛をこめて。偶然のめぐりあわせは、「王国」の行く末を変えた。かつて彼女の先祖が「偶然」、「王国」に力を貸したように。風のように気まぐれに、不平等で公平で、そして彼女たちは美しかった。その歌も、その容姿も。

 そして、奇跡が起きたのだ。「王国」語の歌は、残った腕ももがれ、目を潰され、命だけは助かったという風体のアルバの傷をすっかり治し、その凄惨な記憶が蘇っても心が狂ってしまうことがないように保護し包み込む、というものだ。

 そのうえ精霊の歌は傷を治しただけではなく、頑なだった凍り付いた心までも開いたのだ。それは、もうほとんど失われた魔法そのもの。原初の世界が抱いた奇跡。全ての種族が幸せだったころの魔法。しかし、もはやほとんど世界に残らないものだった。

 エルシの精霊歌に愛を知らされ、命を救われたアルバはゆえに、己を助けたために母を殺され、己を助けたゆえに不要の烙印を押されたトゥパールを憐れみ、せめて彼に報いるために、彼が穏やかに過ごしていられるようにと、なにくれと教えたが……王国に反旗を翻してほんの半年後、大量の追っ手の死と引き換えに、彼の命は潰えた。

 

 運命は数奇なもので、トゥパールの父は、終生アルバは知りえなかったことだが、忌み子とは扱われずに育ったアルバの弟であった。エルシは人の外にいる者……精霊の子孫らしく差別を持たぬ女で、兄弟の愛を知らずに傷つくアルバにも慈愛を与えたのだ。そして知らぬ間に兄を殺され、救ってくれた女の息子を、アルバはまた救う。その心までは守れなかったが、その命だけは。

 かくして師の仇を討った少年剣士は、「王国」の人間に新たな剣聖の誕生と、恐るべき剣鬼の覚醒を伝えることになる。青年が生きる現在、九割の奴隷と、ほんの一割の特権階級だけが住まう「王国」の崩壊は、最後の精霊の子の目覚めとともにもう、始まっていたのだ。

 無垢な赤ん坊の金の瞳に、酸を落とし、母の手から奪ったその日から。吹雪に沈む凍てつく土地に精霊たちの加護はもうない。歌姫の護らぬ大地はただの氷の塊。しかし、それにすらもう神秘を失った者どもは気づけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 忌み子の集落の長である、いや、長とされた青年の名前は長かった。

 かつて、名のある貴族の子として生まれた故に仰々しく、いろんな意味を持つ名前を与えられたからだった。剣聖アルバはその育ちゆえに知識人ではなかったから、複雑怪奇な彼の本当の名前は彼自身ですらわからないほどだった。アルバはトゥパールのことをトゥパール・ディーヴァ、歌姫と呼んだが、それは本物の苗字ではなく、それは単なる彼への親しみの言葉だった。

 だがもはや名前には何の意味はなく、彼はその名前のほんの一部分だけを残して躊躇なく捨て去った。

 彼の親の唯一の贈り物は、彼を忌み子と「王国」が断じた時点で意味の無いものでもあった。彼の両親は彼を救うことが出来なかったからだ。彼の両親が彼を助けようとしたのかどうか、トゥパールには、今となってはわからない。あるのは結果だけだった。忌み子たちが寄り添う里に、トゥパールの両親がいないことが答えだった。

 エルシを精霊に還したことも、アルバの兄が時同じくして毒殺されたことも、彼らを殺したのと同じ首謀者がアルバを惨たらしく殺したことも、もはや青年には悼むべきであっても、遠すぎる過去の出来事だった。

 そして、残ったのは会ったこともない母の名前だけ。エルシ、その名を彼は決して忘れない。だが自分はどうだろうか、自分は仲間たちに唯一縋られる存在なのだ、だがそれだけなのだと正しく理解していた彼は、本来なら賢い人間として名を知られたのだろう。叶わぬ、あったかもしれない未来は訪れない。

 

 言葉を知らないが、上に立つことに慣れてしまった彼は正しく長い名前よりも、呼びやすい名前を選んだ。だから。隠れ里の長の名前は、ただ短く「トゥ」といった。彼が名乗れば、それが真だった。

 言葉が拙く、いまだ若い彼が長であると認められたのはトゥが類まれなる剣士で、どんな獣にも人にも負けたことがないほど強いからだった。戦いにおいて天賦の才を持つ彼は、忌み子であった故に、剣聖アルバと過ごした半年以外、誰の教えを受けたわけでもなかったが、それでも負け知らずであった。

 そんな彼には欠けが二つあるとされていて、白痴とされたことと、もうひとつは極端に目が悪い事だった。

 「王国」の悪習により奪われた視力は、滲んだ鮮やかな色彩だけしか彼に世界を知らせなかったが、持って生まれた天賦の才はその大きな枷すらものともしないほどであったので、彼にはもはや視力すらどうでもいいことだった。

 その才能は、ほかの感覚が獣のように優れていることであり、そのうえそれを戦いに生かすことが出来ることだった。そんな、一人で生きていけるはずの彼は、仲間の誰かに望まれたとおりに動いた。護ってくれと願われたのならばそうするのだった。それ以外に生きる方法を知らなかった。知ることもなく、知るほど心が育つことなく、ただ崇められた。そうすればするほど信仰され、ますます彼は人の営みから遠ざけられた。

 

 彼のその天賦の才のおかげで、目が悪くとも日常生活にほとんど支障をきたさなかった。だが欠けていることとして見られたのは、相手の表情を読めないからだった。相手の感情を声色でしか理解できない。もちろん、生まれつきであるとされた以上、幼い頃からそうであったので、彼は非常に感情に乏しい人間だった。

 また、「王国」にいた頃、形ばかり貴族の子として教育されようとした時、視力ゆえに本を読めないこともまた大きな問題だった。彼の頭は決して悪くなかったが、読めないものが理解出来ることはないのだから。文字を覚えられなかったのではない。教えられる前に匙を投げられたのだ。

 それはまったく、下手な芝居だった。初めに細かな字で書かれた教本を読み取ることが出来なかったのだ。もちろん、「王国」はそれがねらいであったのだが、いけしゃあしゃあとこれでは教育ができないと言い張り、彼にさらに不要な人間であるという意味の焼き印を増やした。

 彼の背には、それゆえにいくつもの焼き印の跡が他の忌み子たちと同じように刻まれている。そして、それを煩わしいと思うことすらなかった。あることが普通だったからだ。ちょっとしたことで灼熱の痛みと共に増えることが日常だったからだ。

 彼は他の忌み子と同じように生まれてすぐに両親から引き離され、権力の邪魔者として忌まれ、忌み子とされて、暗く狭い部屋に押し込められた記憶しかなかった。誰とまともに触れ合うことも無く。ああ、唯一の例外を除いて。

 そして数年経ってから外に出ても、すぐに忌み子の里の長として召し上げられて、視力ゆえに他人の表情を読めず、知らないゆえに人の感情を理解できないことに拍車がかかっていき、故にトゥは笑わず、泣かず、怒らず。体は大きくなっても、心は立ち止まったままだった。

 ただ望まれるままにその類まれなる才能を振るい、襲い来る獣を打ち倒し、邪魔者を退け、追っ手を殺し、忌み子の里を守り続ける守護者であり続けるだけだった。

 

 だがそれだけで、同胞である里の人間から信仰という名の線を引かれたわけではない。彼のもうひとつの欠陥が、孤高の防衛装置以外の生き方を奪い去った。

 彼は白痴とされたからだ。つまりトゥにはごく軽度の言語障害があったのだ。それは、精霊の子孫ゆえに。人間ではない者の直系の子孫であり、精霊は人間の言葉など操らない。

 それは人間にとっては言葉が遅れているように見えただろう。それでも、半分以上は人の子ではあったから、ゆっくりと優しい言葉であればなんとか理解できるのだが、それ以上の言葉は理解出来ない。もちろん、彼自身が話す言葉も赤子のように拙く、いっそう彼は孤独であった。

 精霊の子孫ゆえ、つまり、生まれついてのものであり、しかも長い年月による混血によってほんの軽いものでしかなく。ただただ生まれたときに王制にとって邪魔だとされたのが不運で、生まれの良さゆえにほかの忌み子との関係すらまともになく、言葉を教えられずに閉じ込められて来たことこそが悲劇を招いたのだ。まともに教えられていれば、普通に喋ることが出来ただろうに。

 里でさえも彼の類まれなる武の才能を恐れ、敬い、誰も彼にまともに話しかけようとしなかった。彼は、そう、その場所を出てもただ無垢な言葉を知らない子どもの心まま、剣を振るい続けていたのだ。

 言葉においては単に無知であるだけだったが、誰も彼もが彼を崇め、気安く話しかけようとはしない。話しかけるものがまったくいないわけではなかったが、もう、言葉を覚えるには遅く、ゆっくりとわかるように話してくれる人間は皆無で、孤高であれと望まれたトゥは教えを乞うことはしなかった。

 

 感情も知らぬ、言葉もあまり分からぬ。ただ、そうであれと望まれるままに。その道しか知ることがなかったから。本来ならば、彼はただの、心優しい青年であれたのに。そうあれなかったのだ。

 故に、トゥは、愛を知らぬ。いいや、トゥパールは、それでも愛を知っていた、はずだった。

 凍てついた心の奥には、温かさを知ろうとした幼い頃の記憶が押し込められていた。トゥは精霊の子孫ではあったが、母のように精霊そのものにはなりえなかったのだから。彼の心の奥に眠る希望が彼のたましいに温度を与えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運命は巡り、孤独な歌姫は愛を知る。これは、そんな、少年と少女が再び手を握り合うまで……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……わたし、わたし、赦し、……ごめんなさい」

 

 「王国」の権力者にとっての厄介者であり、奴隷身分でありながら幼いゆえに労働にも使えなかったトゥパールが腹いせとばかりに閉じ込められたのは、狭い狭い埃まみれの地下室だった。かつて物置だったのか、他にも同じような奴隷がいたことがあったのか、饐えたような悪臭と淀んだ冷たい空気の満たされるそこにはかすかに差し込む光と、申し訳程度のボロきれと、「餌入れ」の小さい皿のみの狭い空間だった。

 唯一、面白がって教えられた謝罪の言葉だけを繰り返す細っこく哀れな少年。彼こそがトゥパールだった。

 本来、自分たちを顎で使えるような高貴な生まれのはずの、王族よりもよほど高貴なる純粋な金眼の少年が、元の色もわからぬほどのボロを着て、まともに言葉を知らず、闇の中に置かれた故に必要のない目をぎゅっとつむって、薄汚れたまま放置されるのを、名ばかりの世話係の特権階級の者どもは笑いながら蔑んだという。僅かな食事を死なせぬように与えるのみで、世話という世話などしたことがなかったが! 

 そのくせ時折、彼の母たるエルシにトゥパールの現状を報告することすら欠かさなかった悪辣ぶりだ。

 

 あなたの息子はさてどうでしょう、あぁ汚らわしいことですよ! あなたがたは高貴なる、偉大な精霊の子孫のはずでしょう? あなた様の息子は高貴には程遠い! 薄汚れ、言葉も知らぬ、愛も知らぬ、光も知らぬ! あなたがた、人でない者が大事にする歌とやらも決して知りはしないのですよ! 

 教えて差し上げましょう、麗しき「王国」の歌姫、エルシ様! あのトゥパールは、人間様の言葉を「ごめんなさい」しか知りはしない! 歌の一つも知りはしない! 二度とおとぎ話の中のような精霊の奇跡なんて起きやしない、魔法なんてただの作り話なのですからね! 

 ああ……二度と? いいえ、起こしたことが本当にあったのですか? 与太話……失礼、ただの大袈裟な伝説や伝承のようなものではないのですか? 反論がございましたら、是非とも、「王国」のためにその力、ふるって頂かなくてはなりませんね! 

 

 と。

 

 あぁ、ひどく侮辱されたエルシは、純粋な人の精神を持ち合わせているわけではない。だが、真に純粋な精霊でもない。力を失いつつある精霊の子孫であり、未だその力を色濃く宿した稀有な存在であり、その精神性はトゥパールよりもよほど精霊に近かった。精霊をまっとうに信じ、清く正しかったエルシの両親ですら、その愛知る精霊歌の「奇跡」で愛娘が転んだ時のかすり傷を癒すことが出来た、だがそれだけしか出来なかったと言えば良いのだろうか。

 エルシはたぐいまれなる先祖返りであり、その容姿と内面も、また先祖の精霊ごとき女だった。赤交じりの金の瞳を持ち、長く豊かにうねる漆黒の髪はそれを引き立たせたという。

 対してトゥパールは、その母から精霊の力、性格や人から離れた容姿を色濃く受け継いたが、肉体はどこまでも人間であり、死後肉体から解き放たれて真に精霊となった母とは違い、魂宿す人間であったが……これは余談である。純粋な金の瞳の、最後の子孫は、その類いまれなる能力と相反して、本質は人間だったのだ。母にその瞳以外の容姿こそそっくりであったが、人間だったのだ。

 ともあれ、エルシはいわゆるまっとうな人間ではなかったのだ。いくら蔑まれようと己については悲しみも屈辱も覚えなかったほどに。だが、それでも人の子の親ではあったから、トゥパールの境遇をそれはそれは、悲しんだ。

 偽りの世話役どもはたいそう暇だった。本来世話役なんぞしなくとも「王国」でゆうゆうと生きていけるとつねづねうそぶいていたが、本当は、生産性のない奴隷の世話役という立場がなければ世話役どもこそ奴隷行きの立場だったのだ。万が一の不審死、逃亡を無くさねばならない、精霊の子孫トゥパールの世話……主に、いまだ精霊信仰のあつい国外への逃亡阻止を理由に特権階級に残されたのみだったのだ。だがそれを知らなかった。知らず、トゥパールを蔑み、衰弱させた。

 国民の九割を奴隷にする「王国」の本当の上層部が、特権階級の下っぱの国民に親しみなど感じているわけはないのに、彼らは己たちならば護られると信じていたのだ。いざとなれば……奴隷が「なんらかの要因で」減れば、今度はさっきまで一緒にいた仲間に蔑まれ、その腕をもがれ、足の腱を切られ、奴隷の烙印を押されて見世物にされる未来が待っていると知らず。

 なにはともあれ、精霊とかいう理解できない力を持つ者の子孫なんて残しておく必要は無いというのが上層部の意見であり、そしてそれは間違いなく遂行された。

 

 「王国」を豊かにした精霊はもはや「王国」に手を貸さない。だが、もはや真っ当な思考を持たぬ「王国」の人間は気づかぬことなくすべての終焉へと歩んでいくのだ。

 しかし、その管理の杜撰さゆえにトゥパールは狭苦しい地下室での暮らしの中で何度か「愛」に触れる機会があった。となりの地下室との壁は薄いどころかほぼ繋がっていたのだが、暗さや居心地の悪さゆえに彼らは確かめようとはしなかったのだ。

 トゥパールの過ごす地下室と違い、かろうじて明かりを許された部屋の主は暗闇で過ごすゆえに目を閉じて過ごしていた同胞たるトゥパールに体温を分け合った。

 言葉をかわせばきっと気付かれてしまう。光を灯しても気づかれるだろう。だが、黙って寄りそっている分にはきっと、きっと分かりやしない。彼らは「友」であり、だが悲劇的なことに彼らが、いや、「彼女だけが」、片割れを目にする機会があったのはほんの一瞬、トゥパールを、その「友」が目にしたのは友である「彼女」が別の部屋に連れられていくときであり……そして二度と会えない決別のはずだったのだが……。

 トゥパールには最後の魔法、最後の奇跡が起きるのだ。彼が決して負けないのは彼が強いからであり、そして彼には愛という名の精霊の加護があるからだった。それは精霊という人ならざる者の力であり……死して精霊となった彼の母の大きな愛だった。

 彼らが、次に出会ったのはもちろん、森の中で刃を煌めかせて獣を追い払う豊かな長い髪の青年と、うずくまり絶望する栗色の髪の女という、一見すれば同じ二人とは思えぬほど成長してからであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おさだ」

「トゥ様だ」

「誰かを連れているよ、連れているよ」

「あれはだぁれ?」

 

 まるで、ここは獣の群れだ。

 一応のところ命の恩人である……仲間の奴隷たちよりもよほどたくましい忌み子の青年に担がれ、大股にのっしのっしと闊歩するのに身を任せつつもそう思う。もとよりボロボロの体はいっそう傷まみれで、もはやピクリとも動かず、なんの抵抗も出来やしない。よもやこれまでか。しかしそれも仕方ない。

 忌み子の里に潜伏する前に、その近くで運悪く腹をすかせた獣に襲われ、救われ、こうして命を拾っただけでも僥倖なのだ。

 なんとか重い瞼をあげれば、数多くの子どもや大人やらがワラワラと粗末な家から出てくるのが見える。「王国」の洗練されたものとは大きく異なるおかしな服を着て、めいめい好き勝手な色の飾りをつけ、王国からの尖兵を目にしても危機感もなく呑気そうな表情をして。いや、当然か。私はしょせん忌み子、そして満身創痍なのだから。

 暢気そうなそいつらにはそろいもそろって「何か」がない。おそらくはここで生まれたごく幼い子ども以外は。目が片方ないものも、腕がないものも、別の者に抱えられたものもいる。

 

 ここは忌み子の里。「王国」で生まれる忌み子たちの末路。五体満足で生まれても、何かを失い不相応と見なされ、処分を受けた者たちのあつまり。よもやここまで多く生き残り、飢えずに過ごしていたとは思ってもみなかったが。

 あの里には、貴族や王族の血を引く人物もいるのだと、ふと奴隷たちの中に駆け巡るうわさが脳裏をよぎった。知識人がいるのであれば、あるいは、こうも生き延びられるのかもしれない。とはいえ、どいつもこいつも野蛮人そのものの格好をしていて、高貴なる血を引いた忌み子が混じっているとは思えなかったが。

 だが、王家の血が流れていることよりも、忌み子であることが問題である。むしろ、王家の血を引いているのに忌み子として生まれた弱い子は要らないものである、と「王国」ならば判断するだろう。世は完全なる実力主義であり、生まれより完全な者こそ「王国」に国民として住まうことが許されるのだ。

 ……かくいうこの身も、条件だけでいえば忌み子に該当するものなのだが。長い前髪で潰れた左の片目を隠しているだけのことで、少し見ればわかるだろう。完全ではなく、不自然なのだから。つまるところ、私とて、親を人質に取られた、ただの卑しく、救いなき奴隷なのだ。しかし、私は、いわゆる「忌み子」ではない。私は、私たちはあくまで奴隷なのだ、忌み子として生まれ、そして奴隷として生きている。こいつらとは違うのだ。

 とはいえ、それでもまあ、立場は奴隷だ。扱いがいいはずもない。体の傷の半分以上は「王国」で負っていたものなのだし。故に、この忌み子たちと手を組んでも別に、「王国」への忠誠心もないのだから良いのだが……「王国」にいる私たちはここの獣たちのように仲間を見捨てて逃げた忌み子たちとは違うのだ。逃げ出すことも出来ない弱者を見捨てた者たちと、簡単に手を組むことは出来ない。

 それならば「王国」の下僕であった方が幾分かマシである。親も「友」も囚われているのだから。「王国」の下僕としてこの場所へ兵が潜り込む手引きをし、滅ぼし、私は父と母と「友」を取り戻すのだ。私たちは、同胞だった者を見捨ててのうのうと生きのびた者たちに、相応しい末路を与えなくてはならない。

 

 しかし、私はもう、動けない。何をすることも出来ないのだ。

 そして気づけば、青年の住居か物置かに着いたらしい。適当に山になっているやわらかな藁の山の上にゆっくりとおろされ、その僅かな衝撃すら耐えられずにげほげほと咳き込んでも青年は眉ひとつ動かさず、静かに入口を閉めただけだった。

 嫌な予感がした。忌み子どもは「王国」のことをひどく恨んでいて……それは私たちもだが……自分が持っていないものを持つ人間を喰らえば完全な姿になれると思い込み、人をも食らっているのだという忌まわしいうわさを思い出してしまった。

 さすがに仲間と認めている忌み子同士で共食いまではしていないようだが、外からきた後ろ盾のない忌み子がどのような目に遭うのやら。

 青年は、はっきりと両目、両足、両腕があり、見たところ体のどこかに欠陥があるようには見えなかったし、足取りもしっかりしていていかにも健康そうだったが、ここにいるということはどこかになにかあるはずなのだ。それ故に忌み子扱い、奴隷の烙印を受けて「王国」から反逆したのだろう。

 どのような目に遭うか。想像は嫌な方向へ進んでいく。許しがたい所業を繰り返す「王国」への復讐として殺されるだろうか、完全な肉体を求めて生きたまま食われながら。なんておぞましい。

 

 あぁ、失敗してしまった。ここに巣食う忌み子らを、なんとか人質となった両親のために「王国」の役に立てるために懐柔することももうできまい。「王国」できっとまだあの暗い部屋の中で一人うずくまり、腹を空かせ、目を開くこともないまま、だけども私の「友」になってくれた、支えになってくれたあの子もきっと殺されてしまう。

 かあさん。とうさん。あぁ、私の唯一の友だち……痩せて、小さくて、哀れな男の子。くしゃくしゃにされた黒い髪の、白い白い肌の、傷まみれの小さな子。最期に一目、会いたかった……。

 

「命を……救っていただけたことには、感謝する」

 

 襲い掛かってきた獰猛な獣どもを、その無骨な剣で素早く殺したのはこの青年だった。声に反応したのか、その獣じみた金色の鋭い眼光がふいとこちらに向く。ふと見れば、彼は恐ろしく整った顔立ちをしていた。人離れしているほどに。そのくせ、そのかんばせにはなんの感情も浮かばない。長く長くのばされた黒い髪は赤いリボンで乱雑に縛られ、たくましい体つきであるのに日に焼けず真っ白い肌は、完成されきって不自然ではなく。

 あぁ。彼が「王国」風の普通の格好をしているならば、さぞかし頼もしく見えただろうに。粗末な衣装でなければ、かつて「王国」を守護した武勇に優れ、歌で国を守護した大いなる精霊のようではないか。奴隷ですら知っている、伝説である「建国記」の一説のよう。

 金の瞳、白い肌、黒い髪、美しい歌を持つ武勇に優れた精霊よ、「王国」を守護し、我ら民とともに歩まん、我ら、最後の時まで……と。

 彼に敵意も殺意も、ないように見えた。しかし、相手は忌み子である。こちらを見捨て、仲間であった存在を置いて自分たちは安全な森の奥へ立てこもったやつらなのだ。

 

「……どうか、殺さないでくれ……」

 

 ええいままよ、と命乞いをし、ぎゅっと目を閉じる。もう欠片も気力はなく、逃げ出すために腕を動かすことすら難しかったのだ。

 終わることなく体中に走る激痛。それが少しでも引いてくれるならばよいのだが。

 

「……」

 

 予想に反して青年は、たっぷり薬草を含んだ汁を瀕死の迷い人に吹きかけることを返事にした。傷口に染みる薬草、独特の香りにどうしてか安心し、恐る恐る目を開ければ。

 相変わらずまったくの表情のない青年はどこかぼんやりと私の顔のあたりを見つめ、見事な貴族的な発音でこう述べた。発音とはひどく不釣り合いに切れ切れと、ゆっくりと、慣れない事をしているかのように。その手は、私の傷を治療していた。

 

「あなた、痛い、とは、ない、か?」

「は?」

「……痛い、とは、……ない、か?」

 

 要領を得ない。まっとうにしゃべっているとは言い難い。ここの住民にも、さすがにまともな言語があるのはさっきの忌み子たちを見ればわかる。つまるところ、この青年は、体は健康だが、頭がどこか欠けているのだろうか。

 忌み子にしてみれば、比較的知性的に見えるのだが。目はたしかな理性の光を宿し、表情は静謐としているのだから。

 

「ごめんなさい」

 

 しばらく意味を考え、首をかしげていれば、いやに流暢に謝られた。発音はともかく、ほかの言葉はとにかく慣れないようだったのに。しかし、それはどこか聞き覚えがあるような……。

 あぁそうか、私の「友」もあの穴ぐらで同じようにひたすら謝らされていたからか。あの時の「友」と違い、当然この青年の声は年相応に低い。「私」の頭の中に、声変わり前の幼い少年の悲鳴が、記憶とともに木霊する。

 本当に彼も謝罪の言葉を言い慣れているというか。まぁ、そもそも忌み子だものな。王国にいたころ、この青年もひたすらその足りない言葉で謝らされていたのかもしれない。それは……憎々しいことに、よくあることだ。「王国」を憎む気持ちは、それだけは、痛いほどに理解出来る。

 それから、彼は返事もできない私を迅速に治療し、包帯を歪に巻いてからどこに行ってしまった。

 私はそれから、ここからなんとかして逃げ出すことは出来まいかと、木の小屋のなかを呆然と見回しているうちに、疲労のあまり眠ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからどれくらい経っただろう。夢も見ぬほどの深い眠りからしわがれた声によって引き上げられた。目をはっと開けるとそこにいたのは年老いた男だった。

 

「客人、客人よ」

「……!」

「ようやく目覚められたか。何、心配なさるな。長の客人を害するような愚か者はここにはいない。それにそなたも一応、我らの同胞であろう」

 

 裏切り者である忌み子に同胞と呼ばれるとは。それはこの潰れた目のことを言っているのか。ともあれ、油のランプらしきものを手にしたしわくちゃの老人とはまともな言葉が通じそうだ。彼の後ろにあの青年がいて、こちらに見向きもせずに剣を砥石か何かで緩慢に手入れしていた。

 足を組んで椅子に座っている青年の、黒く、長く、豊かにうねる髪を知らない女が数人がかりでとかし、なんとか丁寧に束ねようとしている。だが、彼女たちは時折しなだれかかり、彼にあからさまに媚びているので効率は酷く悪い。

 それが鬱陶しいのか、青年が手ずから適当に結ぼうと身振りをしていたが、その度に必死に止めているのがおかしかった。彼には、欠けた部分があろうといかにも柔らかそうな年頃の女たちのことが気にもかからないらしい。しばらくぼんやりと女たちのほうを見ていたが、少し諦めたのかまた好きにさせた。

 それにしても、野蛮人のなかでは長髪に神聖な意味があるのだろうか。長と呼ばれたその張本人が手入れを嫌がっているのが、心底おもしろくて仕方ないのだけど。

 

「森でそなたを長が見つけたのだろう。傷が治るまでの間、そのお慈悲に感謝して養生なさるといい。見たところ同胞とはいえ『王国』の者らしいが」

「……」

「嘆かわしいことに長はそのようなことを気になさらない。いやまったく、大きなお方よ……」

 

 おもむろに老人がびっこを引きながら脇に退くと、青年が女たちを払い除けて立ち上がった。腰より長い伸び放題の髪が結ばれることも無くざんばらに散らばっていると、彼がもはや悪鬼か何かのように大きく、そして恐ろしく見えた。彼の背は栄養不足か、そこまで高いわけではないのだが。

 釣り上がった目は、頭の上から足の先までじろじろ見た。そのわりには目が一向に合わない。金の瞳は暗い小屋の中でもらんらんと輝いていた。そのくせ、私の顔をきっちりとは見ず、どこかその目はぼんやりとしていた。

 

「名乗れ」

 

 低い声で、これである。恐ろしくて、とって食われるんじゃないかと体は震える。

 とはいえ、なるほど、彼によって危ういところで命を救われたのだから名前くらいは名乗らねばならない。まったく道理である。そして、名乗れということは……好意的に見れば、名前を知る必要があるのだし、今すぐとって食われることはないのだ。

 

「……ウルイ、といいます」

「ウルイ?」

 

 青年にずいと鼻と鼻が触れ合うほどに顔を近づけられ、思わず息が止まる。妙に焦点の合わなかった目がようやくかろうじて点を結び、私の片目を覗き込む。純粋な金の瞳に私の顔が映りこむ。

 相手が忌み子の長であるということも忘れ、ただただその青年に圧倒された。射貫く獣のような金の目。それはすなわち、あぁ、金の目とは。それは国造りの精霊の末裔であるということ。それは、王族か、一部の貴族、あるいは平民の一部が持つ、人ならざる者の子孫のあかし。存在自体は珍しくはないが、金眼であるとはっきりわかればわかるほどその血が濃く、正統であるということなのだ。

 この青年が高貴なる血を引く忌み子か。なるほど、強いわけである。そして最初に抱いた印象は正しかったわけだ。彼の遠い遠い先祖は正しく、建国記に記された偉大なる精霊なのだから。歌に親しみ、武に長け、我らが故郷である寒い寒い土地に豊穣をもたらした精霊の。

 しかし、こうもまともに言葉も操れぬようであれば、たしかに彼は忌み子である。

 特有の高貴な雰囲気は……わからない。野性味溢れる格好のせいで欠片もわからない。だが、その長い髪を整え、マトモな服を着て黙っていればその鋭すぎる金の目が雄弁に語っただろう。

 

「ウルイ」

「ウルイ……」

「そう」

 

 ようやくふんふんと頷いた青年は、表情を崩さずに女たちを追いやるように手を振った。はっとしてすぐに下がっていき、小屋から出ていく女たち。その場に留まっていた老人も青年のひと睨みで退散した。

 畏れ、敬われているのだ。彼は。部屋に二人きりになり、一層爛々と光る金の目に惹きつけられる。

 

「私、とは、トゥ。とは、……ない、トゥ。ウルイ」

 

 心のどこかで、かつて私と身を寄せ合った小さな少年の姿を頭にちらついた。声が似ているようには、思えないのに。だから、私は気づけば要領を得ない彼の言葉をなんとか理解しようと努めていた。

 

「ない?」

 

 なんとなく、この時私はこの青年はまともに喋れないのではなく、頭が欠けているのでもなく、ただ、知らないだけではないかと思った。命からがら傷まみれの極限状態で、知らない野蛮人どものなかで、彼は危ういところにあった命を救ってくれた人であったから少し、他よりは情があったのかもしれない。

 忌み子の中には幼少期のひどい扱いのせいで頭に問題がなかったとしてもしゃべれない者がいることは、たまにあることだから、と心の中で言い訳して。そうだ、そうだとしたらあの哀れな「友」と同じ境遇じゃないかと、自分に言い聞かせて。

 

「ない。おかあさま、おとうさま……ない、……、ない」

「追放されたという意味なのか?」

「ない。……ない……」

 

 いない、も。もっていないも。なにもない、も。彼にとっては全部「ない」なのかもしれない。適当にあたりを付けて、彼の鋭く射抜く眼から逃れた。ない、ない、と繰り返しているが、それがなにをさしているのか、その時の私にはわからなかったのだ。

 

「私、とは、長。ウルイ……」

 

 彼は口ごもり、ああとかうぅとか言いながら、必死に、伝わるようにしようとしているのか、言葉を探し始めた。

 恐ろしく見える外見と裏腹の幼子のような行為。なんとも似合っていなくて、なんとも面白くなった。

 彼は真っ赤に腫れ上がった私の腕を指さし、続けて包帯をまいた足を指さし、一拍おいてから傷のない自分の腕を指さした。

 

「痛い、ない。ウルイ」

 

 治るまでここにいろとでも言いたいのだろうか。ともあれ、瞬間的な危機は去ったのだ。それに感謝し、安堵して。

 では、こうして生き延び、人質を救うためにトゥと名乗る忌み子の青年ならどうにか懐柔できないだろうかと考え始めた。言葉をまともに知らない、つまり彼は立場のわりに子どものように無垢であるということ。見知らぬ「王国」の人間を救う、お人好しであるということ。それを利用して。

 騙されろ。そして、家族と「友」を救うために利用されろと。彼と同じ、黒い髪で白い肌の、小さな「あの子」を救えるのは私だけなのだ。

 私はわずかに薄らいだ痛みの中、「友」が「王国」の人間によって痛めつけられ、無力だったゆえに救うことができなかった私が聞いた幼い絶叫を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生きる、か?」

 

 翌日、目覚めと共に飛び込んできた鋭い目付きに飛び上がりそうになった。雑に羽根を毟られた野鳥を持ったトゥは目を開いたこちらをみて頷いた。

 そして生の鳥を右手に、片腕にこちらを抱え上げ、外に出ていく。……柔らかく華奢な女ではない。華奢といえばそうかもしれないが、骨と皮とわずかな筋肉だけの抱き心地のなさたるやまだ男でも抱き上げていた方がマシだろう。だからといって、もちろん願っても筋骨たくましい男になるわけでもないのだが、さすがにここではたくましく背が伸びるには栄養が乏しかったのか、「王国」の平均よりも背の低いトゥとそう背が変わるわけではない。

 抵抗はないのだろうか。あの髪をくしけずっていた女たちのようなやわらかな女っ気は欠けらも無いのに。やせっぽっちで傷まみれ、性別なんてわかるようなものではない。野生じみた外見のように、一応の性別が女であると分かるくらい嗅覚でも良いのだろうか。

 彼は鳥の肉を木の枝を削ってできた串に突き刺し、渡してきた。

 

「食べる、あと、寝る、とは、痛い、ない」

 

 獣のように自由で、不出来な人間たちを従えているだけあり、非常に分かりやすい。

 彼はそう言い捨てて、目の前に慣れたように火を起こすとどこかへ行ってしまった。……懐柔の隙がない。適当にリボンらしきもので結ばれた、女よりも長い長い髪がひらりと消えるのを見送って、肉が焼けるのを待つことにした。

 肉は、筋っぽくて、なんの味付けもなくて、だけど、普段食べているものよりもずっと食べ物らしい食べ物だった。やはり忌み子たちは私たちを見捨ててよりよい暮らしをしていたわけである。

 ……ま、あの窮地を救ってくれた青年なら、獣を狩るなど造作もないだろう。それならば獣の肉を食べていても当然と言えるが。

 それからしばらくすると、背の高い見覚えのない青年がこちらにやってきた。たくましい右腕をしたいかにもな狩人という青年だった。背中には背から大きくはみ出す変わった形の弓を背負っている。……そんな彼には左腕がない。剣聖アルバと同じように。二の腕あたりで布を巻いた先には腕がない。どうやってその大きな弓で狩りを行っているのやら。ひくことすら難しそうに見えるのだが。

 

「やぁ、君がウルイかな。僕が君の今日の世話役を仰せつかったんだ。よろしく頼むよ。そうだな……僕のことはルーと呼んでくれ。みんなそう呼ぶからね」

 

 気安い言葉遣いだが、憎しみに満ちた目は私を射殺すようだ。そうだ。あのトゥという青年が睨まないのがおかしいのであって、「王国」の人間は生まれが同じ忌み子であろうとも恨まれていて当然なのだ。そして、彼は堂々と嫌った。

 

「……よろしく、ルー」

「うーん、だけど僕は『王国』の人間なんて嫌いでね。君は全然よろしくなんてしなくていい。トゥは君に養生してほしいわけだから、その命令にはもちろん、間違いなく従うのだけどね。とっととその怪我、治して出ていきなよ。いや、トゥが望むようになってくれ、早く」

「もちろんだ」

「あぁでも、決して勘違いしないでおくれ。トゥは、君に危険が及ばないようにと気を使ってこの僕を選んだ。僕なら、トゥの命令をなんでも従う忠誠心があると信じてくれてね。これはとてもとても名誉なことだよ。

だから、君の命、僕が死んでも守り抜くことを誓おう。誓いをトゥに立てたんだ、違えないよ。トゥの期待に背くくらいなら君を守って死ぬのも本望さ。僕が死んでも執念が、誓いを守らんことを、と禊もしてきた。僕が死ねば代わりはいるだろうけど、代わりなんかにトゥの命令を分け与えたくないからね」

 

 ……随分とトゥは人気があるらしい。「長」と呼ばれるだけはある。

 早口でまくしたてた彼は、不気味なほどににこにこ笑い、私の腕をぐいとつかんだ。傷つけないように気を遣われているのは分かるけれど、気遣いが最低限過ぎて腕がぴんと張り、うめいてしまう。それを見て今度は薄く笑いながら、彼は私の左腕をじろじろ見ていた。

 背筋が凍る。それは捕食者の目。真っ黒で、何も無い目。トゥの時よりもよほど……いや、どちらかといえばトゥが異端者なのか。狂気を孕んだ目をしたルーは、ボソボソと呟く。

 

「弱っちくてこんなの、要らないや。まあ、君がたくましい腕をしていても、何もしないけどさ」

「……」

「両腕があればトゥの役に、もっと立てるのにね」

「……」

「……あ、ちゃんと腕があったらここにいないか……それは困る、困る……トゥに会えなかった人生なんて、何の意味がある? そんな人生なら生まれなかったほうがましだ、トゥがいるから幸せになれるんだ……『王国』の民みたいな最悪の性格をして、ごみ溜めみたいな人生を歩むなんて……まっぴらごめんだ……」

 

 世話役としてはトゥの人選ミスとしか言い様がない気がする。彼は一人で何やらブツブツ言い始め、一人で思考の深みへとはまっていき、ひどく恐ろしかった。

 だが、護衛としては有言実行ではあるらしく、明らかに殺意をもって拙くも武器まで持ってきた非戦闘員の忌み子たちを追い払うことはしてくれた。一歩でもこれ以上近づけば同胞だろうと殺すと宣言しながら矢を構えるというひどく荒っぽい方法で。

 

「トゥが外から人を拾ってくるなんて初めてだよ。たまに獣に食い殺された死体なら持ってくるけどね」

「はぁ」

「ここにたどり着くことも出来なかった哀れな同胞か、君みたいなネズミの成れの果てさ。ウルイ、君は本当に運がいいよ。トゥ直々に助けてもらえるなんて」

 

 ルーはそう言いながら、矢を咥え、体に弓を固定して鳥を落とした。逞しい腕で鳥を持ち上げる。

 そして、熱に浮かされたようにうっとりと語った。

 

「ちょっと早いけど昼ごはんにしよう。長にお守りを仰せつかったルーは、ちゃんとご飯も食べさせて、トゥの命令にも従えない馬鹿たちを追い払って、ああ、ちゃんと仕事をする! するときっとトゥもこれで僕のことをもっと、使えるやつだってわかってくれて、僕を見てくれる……トゥ、あぁ、トゥ、トゥ! 僕の光、僕たちの道しるべ! あぁ導いてくれ、あぁ、栄光の名の元に、どうか僕らを生かしてくれ!」

 

 ルーの熱烈な言動は続く。それにはすべて、酷いトゥへの崇拝と依存が見て取れた。どう考えても狂っていた。やはり、所詮は忌み子か。

 彼が片手で器用に火を起こしたとき、その信仰の対象がこちらにやってきた。はてさて、その渦中の人物のお目見えである。今度は一体どんな暴走を見せるのか。痛む体にどうか響かないように、祈る。

 

「ルー」

 

 時間的に、恐らくはこの里をぐるっと回ってきたぐらいでここに戻ってきたのだろう。

 

「トゥ!」

「今、とは、飯か?」

「そうだよ! 僕、僕、ウルイにご飯を食べさせようとしていてね、それで、鳥を、鳥をとって、トゥがおしえてくれたみたいに、それでね、ごはんたべたら、元気出るよ、ウルイも、トゥが望むように、元気になって、そしたら、トゥも嬉しいよね? 僕、僕、ウルイが危なくないように、礼儀知らずなやつらを追い払ったよ」

「ルー」

「なんでも言ってよ、トゥ!」

「……」

 

 恐らく言葉の鈍いトゥに聞き取れる速度ではない。答えもせず、無表情のまま、トゥは腰を下ろした。私をぼんやりと眺めて。目は合わない。

 

「ウルイ、痛い、とは、ないか?」

「少ない、減る、痛い、とは、ないよ。ありがとう」

 

 ゆっくりと、彼にもわかるようにと言葉を紡げば、トゥは少しびっくりしたようにぱちくりと瞬きした。理解できるように、と彼の語彙にありそうに話したが、通じたようだった。馬鹿にしているのかと激昂される可能性も考えていたが、曲がりなりにも人をまとめている相手の沸点がそんなに低いわけはなかった。

 

 彼はにこりともしなかったが、私には微笑んだように見えた。

 

「そうか。ルー、ウルイ、守る」

「! もちろん!」

「私、とは、外、獣、倒す。……私のおとうと」

 

 癖のある毛のルーの、年の若さに不釣り合いなほど老人のような褪せた白髪の頭をぽん、と撫でて行ったトゥはまたもや森へ消えていく。気色悪いほど身悶えしたルーは聞いてもないことを語り始めた。

 

「トゥはね、トゥは、優しい、僕にとっての兄で、神様で、すべてなんだ。僕は彼の兄弟なのさ。本当に血の繋がっているかはわからない……でも、そんなことは彼にとって重要なことじゃない。トゥは僕に兄弟だと言った。ここにいる僕たちはみな兄弟なのだと。

嬉しいことに僕が他の奴らより有用だからよく使ってくれるのさ。兄弟であることは僕が兄さんと呼ぶ理由にしかならなくて……へへ、頭、撫でてくれた、小さい時みたいに。ウルイ、君を守れば、きっともっと褒められるよ、守るよ、守るよ、何に変えても! 

さぁおいで、君のあたたかいベッドをこしらえよう。ほら、髪に藁がついてる。布でいいベッドにしよう。トゥのベッドみたいにね。

君が健やかになるなら、それで僕の功績が少しでもあるのなら、僕は……それで、トゥに見てもらえるのなら! 

オランも呼ぼうかな、オランは頭がいいからもっといいもの作れるよね。自分だけで手柄を立てなくたっていい、トゥのためになれるならなんだって!」

 

 まくし立てるルーはとうに焼けた肉を私に持たせるとひょいと私をその片腕にかかえ、森のどこかへ向かって駆け出した。

 ルーは私への殺気を減らし、狂った上機嫌で森をひょいひょい進んでいく。しなやかで獰猛な獣のように、木々や下草を気にかけることなく。走っているとき、ルーの瞳は淡い金に輝いていた。精霊の遠い遠い子孫の証拠だろう。

 彼くらいのずっと薄い精霊の子孫なら掃いて捨てるほど存在する。私はそうではないけれど、精霊に親しみ、精霊によって成り立ち、精霊の加護によって繁栄したとされる「王国」はかつて、積極的に民に精霊の血を混ぜようとしたのだから。もちろん、それはあくまでも「かつて」だ。今は、そうではない。

 

 かの偉大なる建国記の精霊は一柱だった。とはいえかつての政策によって「王国」にその子孫は多い。「王国」の貴族であれば間違いなく精霊の子孫だといえるくらいに。一般市民や奴隷にすら精霊の子孫は多くいる。だが血縁だろうと、彼らの瞳が常に金色であることはごくまれだ。本物の直系でなければ、精霊に生まれながらにして大なり小なり「認められていなければ」、平常時から精霊の瞳を宿しはしない。ルーのように……精霊の特性を発揮したときのみ、淡く光る。そしてその力もただの人間よりも少し強い、といったところだろう。

 トゥのような普段から完全な金の瞳なんて、本当に初めて見た。王族ですらあんなに完璧な色をしちゃいないはずだ、と冷静な私がささやく。だが、なんであろうと、彼が忌み子とされたなら、そういうことなのだ。

 それに精霊の子孫だからいいわけじゃない。優遇されることもない。彼らは例外なく、人間ではない一面を持っている。奴隷制を敷く王族は、人間ではない情を持っているからこんなことができるんだ。人間ではないルーは、きっとどこか残酷なのだろう。人間ではないトゥも、きっとそうだ。精霊は人と混じり、溶け合って、魔法を失ったが、けっして消えはしていない。

 

「オラン、とは誰だ?」

「オランは頭がいいんだ。本当の名前はもっと長いって言っていたけどそんなの僕だってそうだ。でも長い名前なんてトゥに呼んでもらいにくいじゃないか」

「……どんな人なんだ?」

「オランのこと? 性格の暗い、金髪の男だよ。女よりも細っこくて、ああ、ウルイよりも細くて、外に出るのが嫌いなんだ。いつも病気みたいな顔色をしていてね、僕やトゥと同じくらいの年齢で、いつもなんか頭に被ってる。トゥはあんまり細かいことは得意じゃないだろうって、細かいことをかってでるよ。気が利くよね。

あとね、誰よりも頭が良くてね、いろいろ計算したり、家を建てる支持をしたり、色んなものを作ったりするんだ。正直ここってそんなに寒くないからいいけど、『王国』みたいに寒いところだったらベッドから起き上がることも出来ないような弱っちいやつなんだけどね。すごく寒がり。

あと人見知りかな。昔からそうだったのかは知らないけど、まぁ、どうせ『王国』から抜ける時になんかあったんだと思うよ。目の前で、どうせ親にでも捨てられたんだろ。獣の内臓みたいにさ。よくあることさ。

だから、すごく臆病でさ。オランの目を見ようとしたら逃げるよ。いまだにオランの目は僕とトゥしか見られないんだもの」

 

 ルーは早口に説明し、他の家と比べれば幾分か丁寧な作りの家の扉を私に叩かせた。

 他の家と違って入り口部分すら埋もれそうなほど地面に深く掘られ、周りを土で固めているところが家主の寒がりゆえの防寒なのだろうか。どちらにせよ、他の家と同様に住民が文明人かもあやしい風体ではあるが。

 

「オラン! 僕だよ、ルーだよ! とってもいいこと思いついたんだ、力を貸しておくれよ」

「……馬鹿なルーウェンスの『いいこと』が本当にいいことだったことがある? 俺にはそれが疑問だね」

 

 即座に叫ぶような嫌味が返ってきたが、意外にもすぐに扉が開けられ、陰気な声が聞こえた。

 そこには口元しか見えないくすんだ色のフードらしきものを被った男がいて、私を見ると嫌そうに口元をゆがめた。ちらりと一瞬だけ見えた目は青っぽく、それは「王国」の民によくいる平凡な色だった。吊り上がった目は、すぐにびくりとそらされて見えなくなった。

 

「なに? その子。新人じゃないよね」

「トゥが拾ってきた『王国』のネズミ!」

「へー……『レッサヴァーラ』の? まぁトゥパー……トゥが拾ってきたんならルーウェンスは大事にするよね、そりゃ」

 

 驚くべきことに、彼は「王国」の名を口にしつつも平然としていた。

 ルーは慣れているのか、彼自身は名を口にしないものの、それを咎めたり驚いたりする様子は見せなかった。「王国」の名を私たち奴隷や忌み子が口にすることは許されない。忌み子どもは疎んで口にしないという。では「王国民」はどうなのかというと、本当に一握りの特権階級の中でも上級層、王やその周りのみが口にすることが許されるのだという。奴隷を管理する国民が耳にタコができるほど語ってくる「王国」の威光とやらのことだ。

 いわく、「王国」の名前にはいまだ古き「魔法」の守護の痕跡があり、口にすれば最後、王にはそれがわかるという。そして、認められていない者、名にふさわしくない者が口にしたと分かれば、与えられるのは不敬に対する無慈悲なる死だ。

 だというのにこのオランという男はそれを恐れる節もなければ、なんてこともない会話で口に出して平然としているのだ。つまりそれは日常的に口にしているということ。おそらくはこの里の守護者であるトゥへの全幅の信頼のあらわれか、はたまたただの馬鹿なのか。ただの馬鹿には見えないが……もしかすれば、「口にすることが許される血筋の者」なのか。

 私にはどうでもいいことだったが。ここに落ちぶれている時点で高貴も何もありはしない。生まれが王族の端くれならば感知されることもないのかもしれないな。

 レッサヴィーラ……かつての美しくも豊かな国はもはや見る影もなく。そして私はそんな国に縛られる。これまでも、きっと、これからも。背に隷属のあかしと人質ある限り。情を知ってしまったから。私は生きなければならないから。両親のために、黒い髪の小さな「あの子」のために。

 

 ああ、久しぶりに「王国」の名を聞いた。かつてこの名前は「王国」を守護する精霊に祈りをささげるための言葉だったらしい。今は肥え太った信仰心のかけらもない連中か、こんな場所で朽ちていくみすぼらしい男くらいしか「祈らない」なんて、な。

 精霊に感情があるなら、嘆くだろう。精霊には、感情がないからこのままなんだろう。

 

「トゥがね、ウルイを守れって言ったんだ、だから僕の命に代えてでも守るよ! そのためにウルイのベッドをただの藁からもっといいのにしてやろうと思ってさぁ」

「ふーん……。

えっと、ウルイ? 俺はオランと呼ばれている。別によろしくしなくていいよ。ルーウェンスの言っていることが珍しく理解出来たけど、俺、『レッサヴィーラ』とかそういうの抜きにしても基本的に外に出るのも人と関わるのも嫌なんだよね。見たところその外傷しかなさそうだし……藁が刺さって痛くないように藁の上に布でも敷いたら? 馬鹿なルーウェンスにもそれくらいできるでしょ。それじゃあね」

 

 すげなく彼は引っ込んだ。ルー……ルーウェンスは不機嫌そうな顔をしたが、彼に無理強いをすることは意外にもなかった。

 

「本当に出不精だよね。たまには外の空気を吸わせたかったんだけど。まぁしょうがないか。どうしようかな、ご飯食べさせて……寝ていたら何でも治るよね。じゃ、トゥの家に……もしかして……怒られずにトゥの家に入るチャンス?! すごいや! カンナに自慢しないといけない!」

「……カンナ?」

「あ、カンナっていうのは、僕のお嫁さんのことね! カンナもトゥのことが大好きなんだよ」

「ルー、奥さんがいるのか?!」

「失礼な。子どももいるよ。二人ね。両方トゥのことが一番大好きな、いい子たちだよ」

 

 こちらも意外にも程がある言葉だったが、嘘をつく理由もないだろう。気を逸れたのかルーの機嫌はすっかり良くなり、いかに私を使ってトゥに自分の有用性をアピールするかに夢中になっているようだった。

 そのまま、トゥの家にやってくると緊張の面持ちで私に扉を開けさせ……私を狙う殺気混じりの視線が続いているからか、私を抱える腕を離す気はないようだった……扉を締めさせる。小屋の中は明かりもなく薄暗いが、森の中とて薄暗い。目が慣れているからか、初めて来た時よりも細部が良く見えた。

 藁をただ布で覆ったようなトゥのベッド、私が寝ていた藁の山、おそらくは剣の手入れ道具、替えの服が少し壁に吊るしてあり、窓はあったがあまり光は入ってこない。ほかに明かりになるようなものは何もない。

 机と椅子のような木の工作物の横にある、棚と言って差し支えないものに屑鉄でできた奴隷の隷属輪がちょこんと置かれていた。子どもの腕にはまっていたものだろう、とても小さい。今の彼の腕には到底はまりはしないだろう。それはすなわち、ここに連れてこられたときは相応に幼く、小さな体をしていたという証拠。

 忌み子どもは元々、私と同じく「王国」の奴隷だったはずだ。今は亡き剣聖アルバを除いて、ほとんどが。だから、トゥにも隷属輪があるのはおかしなこととはないのだが、どうして後生大事に取っておいているのだろうか。

 奴隷というのは逃れ、隷属輪を外して単なる忌み子として扱われても事実が消えることは無い。隷属輪の他に、背中に焼印があるはずだから。

 私には隷属輪こそないが、背中に片目がないという意味の焼印がある。ルーには片腕がないという意味のものがあるだろう。背中を覆うほど大きなものでは無いが、決して消えることの無い火傷のあとだ。

 トゥにもきっとある。あの背にも、「王国」の汚らわしい奴らの爪痕が。父と母を捕らえ、私の「友」の光と自由を奪い、私を従わせる欲深いヤツらの。

 だがこいつらは、私たちを見捨てた裏切り者なのだ。そう思わねばやっていけなかったのだ、父と母たちは。「あの子」はそれすらも知らないのだ。今もきっと、あの暗くて狭い穴ぐらの中に閉じ込められて……今度は慰める相手もいなくて、たった一人で。体温を分け合い、寄り添いあう存在もいないのだ。ああ、なんて。

 こいつらを、だから、私は許せないのだ。私を救ってくれなかったことを恨んでいる。それ以上に、「あの子」を救ってくれなかったことに、絶望したからだ。

 

「トゥの持ち物を勝手に触るつもりは無いけど、ここには使えそうな布はないなぁ。じゃあ僕の家からとってくるしかないな。相変わらず……全然物がなくって、暗くって、トゥのシンプルでわかりやすい性格が出ているよ。ほんと、そういうところも物を捨てられない僕には憧れさ」

「……ルー、あなたは隷属輪をあんなふうに取っておいているのか?」

「隷属輪? あぁ、あれ? そんな名前なんだ? それだけは、捨てたよ。でもそんな名前があったんだ。

……あれには名前だけだけど、書いているだろ。苗字までは載ってないけど。だから取って置いている人は多いよ。

親から貰ったのが不完全な体と名前だけってやつは多いからね。僕は、親にはさんざん虐められたから捨てたけどね。僕には新しい家族と、兄がいるんだし。僕はオラン以外にとってはルー。何故か長い名前を呼びたがるオランにとってはルーウェンス。それだけさ」

「……そうか」

「ねぇ、触るんじゃないよ、トゥのものに」

「触らなくていい。ただ、少し、彼の名前が気になっただけ……」

「うん? トゥがトゥっていうならトゥなんだけど。でも隠すものじゃないし、知っているよ。長い方の名前。トゥパールっていうんだ。ああ、どっちでもいい名前だな。さすがはトゥ。自分のことをトゥパールって言わないトゥはあんまり、名前に執着がないみたいなんだけど……置いているのは記念なのかな? トゥが親に酷い目にあわされたとは聞いてないし……普通の忌み子は、産まれてすぐに親元から離されるしね」

「そう、か……そうだな」

 

 そうか。彼が剣鬼トゥパール。なるほどな。もっと歳を重ねた人間かと思っていたが。私と同じくらいの歳の青年がその称号を持っていたとは。

 彼ならば、ここの「長」でもおかしくはない。剣聖アルバの愛弟子で、彼の仇を討ったときに何十人もの首を跳ねたという悪鬼。追っ手のことごとくを殺し、血にまみれ、悪魔のごとき戦果をあげる真の天才。あぁ、剣聖と同じく反旗さえ翻さなければ、と忌み子ながら惜しまれる存在。

 彼が金の目を持つ精霊の子孫だとは知らなかったが……剣鬼になるくらいだ、人ならざる才能くらいなければなれないだろう。剣聖は死に絶え、残ったのは邪悪な使い手のみ。

 とは、「王国」の言い分だ。忌み子を擁護するなら、たしかに、叛逆する気持ちはわからなくもないから。ただし、見捨てていったことは許さない。あいつらは、私たちの母や父の代の同胞に命懸けの手引きをさせておきながら、結局約束をたがえ、助けには来ず、地獄へ置いていったのだ。

 役立たずとして。そんな扱いは、「王国」の奴らと同じである。

 理性の上では、トゥやルーはまだその時期まだ幼く、剣聖アルバなど、もっと歳上の人物が首謀者なのは分かっている。だが、なかなか、理性の通りに考えることは出来ない。私たちはそれを頼りに生きてきたのだ。恨むことで、立っていられるのだ。

 小さな隷属の証が、手のひらの上にのせて簡単に包み込めてしまいそうな小さなそれが、妙に目を引く。

 

「もういいかい? 僕の家に布を取りに行きたいんだけど」

「……わかった」

 

 ルーは私を用心深く抱えた。絶対に傷つけさせないように、それでいてぞんざいに。私のことなど心底どうでもいいのだ。ただ、トゥが命じたようにしたいだけ。

 同じくらいの歳の青年に執着することでなんとか正気を保っている狂人なのだ。私たちと同じように、なにかを信じていなれば生きてもいられないのかもしれない。健全な方の彼の腕にはおびただしい傷があり、生活の苦労がうかがえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい、トゥ!」

 

 拵えられた居心地のよいベッド……奴隷の私は当然、これまでまともな寝床などなく、床でしか寝たことがない……で微睡んでいると、大きな声で目が覚めた。ルーの声だ。

 私のすぐ横で、家の中だと言うのに常に警戒していたルー。立ち上がった衝撃でルーの「ない方の腕」の付け根を包んでいた布が吹き飛んだ。私は、慌てて布を拾うルーの腕が切り落とされたものであることを知った。忌み子には、そして「王国」の奴隷にもよくあることである。

 ルーの持ち込んだランプによって、部屋の中は夜だが昼よりはっきり見えた。

 

「ルー」

「何も無かったよ! ウルイに危険なんてないのさ! ほら、ウルイにベッド作ってさ、これで寝たらすぐ治るよね!」

「……あぁ」

 

 トゥは相変わらず分かってないがとりあえず返事をしているだけ、という肯定だったが盲信的なルーは気づかない。

 

「ウルイ、痛い、ないか?」

「ない」

 

 トゥは表情を変えないまま、だけども、雰囲気を少し柔らかくした。彼なりに笑ってさえいるような。いや、相手は道理も知らぬ、物知らずな忌み子である。これは無表情だ。口角が上がってすらいないし、相変わらず常に周りをにらみつける目つきの悪さ。忌み子の「長」が笑うはずもないだろう、「王国」の犬に向かって。

 

「『「王国」より蛮族へ告ぐ、即刻投降せよ』、ルー、オラン、これ」

 

 手紙のようなものをルーに手渡した彼は、物騒な内容を裏付けるように血のこびりついた剣の手入れをしはじめた。

 

「『王国』は懲りないね。手紙、届けてくるよ。あぁもう、トゥの手を煩わせる『王国』なんてとっと滅べばいいのにね、『王国』にまだ同胞が残ってなかったら簡単なのに」

「……」

「ウルイ、戻ったら向こうの人たちにとっくに期は熟しているって言ってくれよ。国境くらいまで来てくれたらいつでも迎えに行けるんだよ」

「……お前の言う残った仲間は、『王国』に足を刻まれたのがほとんどだ。意味がわかるか? 歩けはするが、私のように不自由無く動けるように残されたものは少ない。お前たちが置いていかなければこうはならなかった」

「ふーん。わかるさ、わかるけどね。そっか、それもオランに言わなきゃね。僕……僕、当時まだ小さかったから、誰かに抱えられて逃げてきた覚えがあるんだけど、そう……か。残された人は……難しいね。僕はトゥさえ無事ならなんだっていいんだけど、トゥは誰にだって優しいし。見捨てるなんて決断できないだろうな」

 

 一応の気遣いを見せたルーは立ち上がった。手紙を言葉通り持っていくのだろう。彼は去り際、笑顔で私にこう告げた。

 

「トゥは同胞には優しく寛大だけど、でもね、とっても勇敢だから! この里にいる全ての人間よりも多い、追っ手を殺しているんだ。本当に強いよね!」

 

 追っ手。「王国」の犬たち。もちろん、足を刻まれた私たちの同胞はその中にはいやしない。私のように人質を取らずに放った同胞なんて、いやしないのだから。どう考えても、裏切られた事実があろうとも合流することが目に見えている「王国」は追っ手にだけは私たちを使おうとはしなかった。

 私のように里に向かって極度の憎悪を見せている奴隷でもなければこんな風に使わなかっただろう。

 だが、「王国」の犬でも人間だ。思わずトゥの剣を見た。トゥは視線に気づいたが、やはりぼんやりと定まらぬ目線でこちらを見やり、すぐに視線は剣の手入れに戻っていった。

 よく喋るルーが去り、無言の空間になったが、不思議と居心地は悪くない。居心地のよいベッドの上で再びうとうとと微睡み始めると、様々なしがらみまで眠気に解けていくようだった。

 穏やかだった。ああ、懐かしき、穏やかとはいいがたい過去の記憶がよみがえるようだ。穏やかな生活ではなかったが、そこにはあたたかさがあったのだ。「友」と励ましあう日々には……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「後悔し、悩み、惑わされることのないように」

 

 青年は似合わぬ明瞭な発音で握った剣へ向かって誓う。その剣は己の師匠のものであり、彼にとっての「誇り」だ。

 愛知らぬ、まっとうな情緒育たぬまま育った青年だったが、師への感謝とその教えを忘れないままであろうとする努力は持ち合わせていた。繰り返し、繰り返し、教えを受けた日から繰り返す言葉は不自然なほど明瞭で、今では語彙力のないトゥでもおおよその意味がわかるような気さえした。

 家に帰還した時も、寝る前にも念入りに手入れをした剣をさらに細かく確認し、彼は鞘に納まった剣を背に担いだ。そして、昨日までいなかった女に目を向ける。手足に傷まみれの、「王国」で育った同胞の一人だった。

 「王国」の外にいる忌み子の中でも珍しく、彼女は自ら死を選ぼうとはしていなかった。獣に襲われ、しかし必死に抵抗した。彼女の前に来た「同胞」は皆、助けに入った頃には死んでいたのだ。まともな抵抗のあともなく。真実は、抵抗することさえできないほど弱らなければ国境で見逃されることもないからなのだが、例外を見るのが初めてなトゥはそれに気づかなかった。

 トゥの頭の出来は本来そう悪いものではなかったが、論理的に考える思考は鍛えていなかったので察することが出来なかった。

 単にウルイ以前に国境で放たれた「奴隷」たちは捨て駒に過ぎず、縋るべき家族をみな殺されてから来た者たちであり、その上痛めつけられていた。つまり、逃がしたのは完全なる遊びである。運よく忌み子の里にたどりついたとしても、一晩生きることも怪しいくらいに弱らせなければ彼らは手を放しはしなかった。

 ひたすら臆病で、残虐ゆえに。一方、ウルイはたまたま、家族や「友」が存命していると信じたまま、一応名ばかりの諜報員として役目を与えられ、一応の武器まで持たされて放たれたから、生き延びていたのだった。

 トゥは反射的に、今まで民に縋られた時と同じようにウルイを救っただけであったが、すぐにそれだけが理由ではないと自分の変化に気づいた。とはいえ、それを明確な言葉にできない彼は、言葉を探している間に他の者の殺気を嗅ぎ分けた。度重なる戦闘の中で育ったゆえに、殺気にだけは鋭く、明確に感じ取ることは出来たので、自分の次に強いルーを付けていたのだ。

 ルーは単に強いのではなく、最も里の中で妄信的で、若く、腕が一本ない以外は健康で……その歪んでしまった精神を除いて……片腕でも妻と子を養えるほどに狩りが上手い逸材であり、腕をもぎとられさえしなければ「王国」の中では伝説的になれただろう男だった。

 それはある意味トゥも同じで、つまるところ忌み子制度は「王国」の繁栄よりも「王国」の上層部が自らの立場を補強する役割に成り下がっていることのあらわれであった。仮初の繁栄には既に取り返しのつかないヒビが入っている。権力者になりえる精霊の子孫を追い出し、貴族も平民も関係なく、成長後、自らの立場を脅かしそうな人間を排除し、そしてもう「王国」には甘やかされ育った国の上層部の子どもか、無気力の奴隷しかいないのだった。

 

 「王国」に未来ある者はいない。だからルーなどの血気盛んな若者は攻め込めば勝てると思っている。トゥもそれを理解できる。勝つこと自体はもはや容易である。だがどうだ? 犠牲なく勝てるだろうか。トゥやルーのような戦える人間は生き残るだろう。では、弱いルーの妻や子どもはどうだろうか? 向こうにいる同胞たちは抵抗もできずに盾に使われるのではないか? それを理解して、彼はただただ、守護者であった。

 それに、いくら「王国」の土地より肥えた森でもあまりに多くは養えやしない。「王国」には疲弊した奴隷がごまんといるのだ。全員を養えるか? それは絶対に無理だった。その上生きてこちらに連れてこられるかも怪しかった。「王国」の残虐な人間が真に追い詰められたとき、間違いなく近くで傅く奴隷たちを盾にするだろうし、そうでなくても奴隷を殺してでも道連れにするのは目に見えていた。

 ルーの妻や子を守れたとしても、ルーの妻はただびっこを引いているだけで、子どもたちは健康な「マシ」な部類にあたる。里の大部分の人間は生き残れるか怪しいのだ。逃げ出すことが出来たことこそ、偉大なる「精霊の御加護」だと信じるように。

 もちろん、その精霊の名代として精霊の子孫たるトゥがさらに崇められたのは言うまでもない。直系ゆえの金の瞳はいつでもらんらんと輝く。はっきりとした金の瞳だ。彼らに詳しいことは分からないが、トゥの持つ金の瞳こそ精霊の子孫か、王侯貴族のあらわれ。そして王侯貴族というのは精霊の子孫である。

 ここを国にしようと言う者もいた。精霊の子孫が「王国」に愛想をつかしたのだ、であればここを新たな国にしようと。「王国」の名を嫌い、疎み、「王国」の名ではなく、新たな名前をここに付けようと。

 だがトゥはそれには応えなかった。勝手に新たな国の名を名乗るのを止めはしなかったが、決して応えなかったのだ。白痴であるからなのか、それとも思うところがあったのか。深く深くトゥのことを信仰する人々は後者を信じた。

 トゥは、平均的な、いわゆる人間的な心をもちあわせているわけではなかったが。極小数の人間と……人間らしく、過ごした時期はあったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルバを師としたトゥは、それより前の幼少期のほんの少しの期間、ウルイと共にすごしていた。それと同じように、一時期、同じ境遇の人間と身を寄せあってただの子どもらしく暮らしていた時期がある。

 それは「王国」から脱出してすぐの頃だ。

 あの頃のトゥはもはやその剣の腕前から周囲にたよりにされはじめていたが、今ほどではなかった。体も出来上がっていない子どもであったし、表情は凍てついていても、まだ「怯え」を表に出すくらいの幼さがあったからだ。

 その頃のトゥはルーとオランと過ごしていた。同じくらいの歳のころの同性であり、また、彼らとトゥは境遇がどこか似ていたからだ。

 「王国」の名を口にすることが許されたオラニウス……オランは王族の直系である。比較的寒い地方である「王国」に体がついていかなかった体の弱いオランは珍しく生まれ持っての欠けにより奴隷落ちした子どもで、しかしその流れる血の濃さは間違いないものであったから、生かされるだけ生かされてきた。

 流石にトゥやルーほど彼を軽んじることは出来ず、しかし忌み子のカラクリを知っている者からすれば生まれ持ってのものなど本物の忌み子である。腫れ物扱いされて生きてきたオランは酷く陰気な性格になり、しかし大抵の要求……本や学びについての希望が通ってしまったゆえに、来たるべき日のために知識をつけることができた。

 実際のところ、オランの両親はオランのことを奴隷送りにするとすっかり彼の存在すら忘れ去っていたのだが、奴隷の見張り役というのは奴隷一歩手前、辛うじて特権階級と認められる立場が弱い層であったので、オランの要求をはねのけたことにより王族の機嫌を損ねてはいけない、と考えていたのだ。

 それは聡明であったオランがそう仕向けたことであり、ゆえに弱い身体ながら生き延びることが出来ていたのだ。そして、その精霊の子孫たる自身の目をフードで隠し、ひっそりと生きている。

 それも彼の賢いところで、「高貴なる血」を維持すべくまかり通った近親相姦の因習ゆえに体が弱く、トゥのように精霊の子孫として期待されては自分の命を縮めるだろうと予想したからだ。実際、オランの瞳は青と金が入り交じった名残のような色ではあったが、精霊の子孫としての力はもはやなかった。色は、純粋なる金色に比べてみればただの遺伝である。金眼の子を作るという意味では王族の判断は正しかったといえるのだが……欲しかった力はなかった。

 

 王族は、近親相姦によって消えゆくある力をとどめようとした訳だが、結局はなにも残せなかったのだ。精霊の力とは、血によるものではなく、精霊が認めたかどうかの話であったから。

 一方、ルーもまた貴族の子であった。しかし、ルーの境遇は二人と決定的に違うところがある。それは、ルーはそもそも、「まっとうに生かすことを許された子」であったのだ。

 それなりの力を持つ貴族の家に生まれたルーは忌み子として選抜を免れ、幼少期は生家で育った。しかし、彼は家族からの虐待を受け、家族にその腕を切り落とされ、奴隷落ちとなったのだ。そんな目にあった理由としては単純なことである……ルーの一族も「王国」の貴族として例外なく精霊の遠い遠い子孫だったが、ルーはもはや金眼の片鱗もない黒い瞳を持ち、しかし奴隷落ちの元凶たる彼の姉は淡く金色といってもいい瞳を持っていた。

 しかしそんな姉に、「王国」で重んじられる武の才も、まっとうに敬われる知の才もなかったが、対する弟のルーは弓の天才であった。そのうえルーは当時優しい子どもで、虐げられる奴隷に手を差し伸べてしまい、それを嫉妬に狂う姉に見られてしまった……。

 

 掛け違いが呼んだ不幸。かけらの道徳も残らぬ「王国」。ルーはそんな虐待の日々の中でほとんど気が狂ってしまい、地獄から救い出してくれたと信じてやまないトゥを信仰するより生き方を忘れた。

 彼は優秀な狩人として育ち、里で愛する妻と子を得、安寧の生活を手に入れてなお、自分の腕を切り落とされた時に浴びた血が体にまとわりつく感覚から永劫に抜け出せないのだった。

 狂ったように泣きわめくルーにトゥは寄り添った。アルバにルーはトゥの弟のようだと言われ、トゥは自分を弟とすら呼んでくれた。本物の、血を分けた姉は自分を地獄に突き落とすことに一切の躊躇がなかったのに。ルーは家族に見捨てられた悲しみをようやく表に出すことが出来て、いつまでも泣いていた。とうに塞がった腕の痛みに苦しみ、幻の傷の熱で眠れない日もあった。ずっと、トゥはそんな彼に寄り添った。

 不幸な子どもたちは、寄り添って、眠ったのだ。

 目を見せぬように、素性を知られぬように常にフードを被り、人を寄せつけないオランの不調に気づいたのはいつだってトゥだった。彼が未だにまともに会話をするのはトゥとルーのみである。いまだに同胞と呼び合うはずの里の人間を遠ざけるのは、「反乱」のさ中、目の前で自分の世話役だった人間を切り殺され、そのくせ自分を助ける忌み子たちへの恐怖ゆえである。

 剣を持ち無感動な目をしたトゥと、弓を構えてそれについていくルーは、オランの目には自分と同じに見えたのだ。恵まれなかった哀れな子どもに。

 そうやって周りをあざむくしかない、同じ人間だと。しかしながらひとつ彼は読み違えをしていて、トゥにはそれ以外の生き方がわからなかったし、ルーはもはやトゥに縋る以外の生き方すらそのときは思い出せなかっただけだった。

 ルーはトゥにすがっている間だけは鮮血の幻覚から抜け出せることを知って、いまだ、一人で歩むことができない。妻を得て、子を育て、かなり安定してきたものの、永遠に刻まれた恐怖と絶望から抜け出せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウルイ、痛い、とは、ないか?」

「ない、よ」

 

 トゥは頷くと、私を抱えあげた。ルーの家に送り届けるためだろう。初めと違って私は、トゥが多忙にしている間は彼の家に預けられることになった。ルーも狩りをしなくてはならないから、ずっと私の世話をしている訳では無いし、その必要も無い。だが、トゥは決して私を一人にしようとしなかった。あれこれこの場所について調べることを阻まれることだが、おそらく彼はそれに警戒して人をつけているわけではないのだろうな。

 彼にある感情は、その無表情相まってちっとも分からない。だけども、私に害がないように、と取り計らってくれているのは痛いほどにわかるのだ。

 ルーが狩りに出かければ、戦闘要員がそばに居ることはなくなる。だが、もはや心のうちはともかく、私に加害する人間はここに存在しない。

 まぁ……最初はあったのだ、それでも「王国」への憎しみを忘れられぬ者たちの襲来が。ルーと同じように真っ当だったはずの腕を切り落とされた哀れな女が、彼の留守中にルーの妻である足の弱いカンナを突き飛ばし、私の腕を切り取ろうとナイフを持ってやってきた時が。

 

 女は、結果的にさらに深い欠陥を抱えることになった。ルーは優れた狩人で、なおかつ苛烈な教育者でもあった。いや、自分の複製のような信奉者を生み出すのが上手いというべきか。

 私と楽しく無邪気に笑って遊んでいたルーの娘は、戸惑いもなく女の足を母の包丁で切り裂いた。私にさっきまで控えめで大人しい笑顔を向けていたルーの息子は、躊躇なく女の腹に、奪ったナイフを突き立てた。双子の所業に、駆けつけたルーは顔色を真っ青に変えた。子どもが仕出かしたことに対してでは、決して無い。私に害をなそうとした者がいて、それを「防衛」前に止めることが出来なかったからだ。

 双子の、女への加害を、ルーはむしろにこやかに褒めた。気の弱いはずのカンナは双子をぎゅうと抱きしめ、私を守ったことを心より誇りに思うと嘘偽りなく、明るく述べた。

 しばらくしてトゥは凄惨な現場に呼ばれ、どう反応するかと思えば。私という同胞を傷つけたものはむしろ「敵」に値するという趣旨の内容のことを喋ったのだ。だけども加害した女を治療するように言いつけて……それでも情があったのか、傷が治った後に処罰するのかは分からない……ルーたちをむしろ褒めるような様子だった。

 ルーは狂喜し、それを触れ回った。女に対して誰も慮ることはなく、忌み子どもはルーの忠誠心を褒めそやし、そしてその子どもへの教育を見習おうとする動きさえあった。

 そして、ぱったりと私への加害はなくなったのだ。

 

 敵意を持った女を明確に敵と見た。つまり、私を仲間だと正式にトゥが認めたようなもので、事件以降、むしろ友好的な空気になったようにさえ、思う。「王国」の奴隷である私は憎まれていたのではなかったのか? そう尋ねれば、確かにそうだったが、「長」が同胞だと認めたことに対して疑問に思う愚か者はいない、という返答しかなかったのだ。

 トゥこそが、絶対的な支配者である、この歪んだ里に、私は……どうして生きているのだろう。

 歪んでいて、狂っていると分かっているのに、私はここに生きていることを許された里の一員なのだと思うだと、どうして心安らかなのだろう。

 そもそも獣に襲われた時にどうして、見殺しにされなかったのだろう。わからない。生きてさえいれば、両親や「友」と再び会えるかもしれない。それは希望だ。だというのに、疑問が付きまとって、仕方がない。

 私を抱えて堂々と闊歩する彼の四肢になにか欠けたところはない。彼の言葉は相変わらず拙かったが、意図を理解できないほどではない。欠けたる者たちを導く彼は、どうあっても平等ではない。

 彼の元に来てからしばらく経つ。傷は塞がり、多少ぎこちないものの、治ったといってもいい時期になったのに、私は里を抜け出して「王国」の奴らになにかこの里を滅ぼすための手引きしようとする気はまったく起きなくなっていた。

 トゥは相変わらず私に親切にしてくれていた、と思う。彼は毎日忙しくて長く話せることはあまりないし、時間を取れても無表情で何を考えているのか分からないことも多かったからだ。

 だけども、私を助けたところで彼にとっていいことなどないのに、そばに置いてくれたのは優しさと言わずになんというのだろう。あるいは甘さというのかもしれないが、それが伝染したのか、ルーの敵意はだんだん弱まった。そうだ、トゥは最初から彼と違って、「王国」のネズミである私に敵意などなかったのだ。

 私が関わった人間以外の忌み子どもは、私たち「王国」の奴隷に対して相変わらずの憎しみを抱いていた。だけども、いつからか、私に対しては心からの笑顔としか言い様もない穏やかな親愛すらみせるようになっていた。相変わらず「王国」は憎まれるのに、「王国」の犬である私は憎まれない。

 

 「王国」と関係を絶ってなお、恨むのはかつての所業と「王国」は追っ手を出すからだろう。その追っ手に骨を折らされるのは彼らが敬愛する「長」であり、「長」の護りをかいくぐって何人か殺されることだってなかったわけじゃなかったからだろう。

 私の脳裏に、哀れな「友」の声なき悲鳴が聞こえる。私があの暗く狭い部屋から連れ出される時、隣の部屋にいた「友」は惨たらしい折檻を受けている最中で、あぁ、初めて目にした私の「友」の、掴まれた黒い髪と血まみれの小さな体が今にも目に浮かぶ。

 あんな……あんな、「王国」など許せるものか。あんな……地獄から、自分たちだけ逃げ出した忌み子どもなんて許せるものか。私はそう思っていたはずなのに、トゥとルーに懐柔された忌み子どもと同じように、私自身彼らを恨み切る事はもはや難しくなっていた。

 何せ、彼らは無垢だ。私がいたせいで一人の仲間が、ぎゃあと叫んで一生消えぬ傷を負ったようなものなのに、無邪気に私を取り囲み、やれ「長」はどう夜過ごされるものなのか、やれ「王国」では大変だったねとか、もし「長」の許可さえ取れれば私の家を建てる手伝いをしようだの、いや家は必要ないだろうとか、ルーは頼もしいが無神経だの……これは腕を引っ張る光景を見ていた者がいるかららしい……。

 あぁ、あぁ、心の中の比重が傾いていく。確かに両親には会いたい。「友」と言葉を交わせたら、いや、もう一度、一目生きている「彼」に会えたら、とも思う。しかし、同時にここにいる人間たちが穏やかに暮らすことが出来たらいい、とも思えるのだ。それは、私に与えられた役目とは全く逆のことだ。ここにいる穏やかなひとびとの平穏と命を差し出すことで、大切な人を守ることができるのに。

 中には私たちを見捨てて「王国」から離脱した人間もいるだろう。私より一回り年上ならば確かにそうであるはずなのだ。だけども、彼らだって無垢だった。なにか欠けた体を持ち、弱々しく、そして穏やかだった。耐えきれなくて、逃げ出した。剣聖アルバにすがって、希望を見て。

 つい、私は初めて出来た同性の友に聞いた。どう考えたって、答えはひとつなのに。この人もまた、殺されて欲しくない、穏やかに過ごして欲しい人なのに。そんな私は彼女の平穏を奪いに来たのに。

 

「カンナは、ねえ、今、幸せ?」

 

 すっかり親しくなったルーの妻は、ルーやトゥの年の頃が私と同じくらいであるように、同年代で、もはや友とも言えた。私の見せる友好は最初、打算的なものだったが、彼女は知って知らずか、どこまでも優しく、そしてそれは私がトゥから守るように厳命されたからではなくて、本心からのもののように見えた。

 私はどうしても冷徹になりきれなくて、彼女に心を許すまでになった。

 「王国」の大切な三人とルーの一家を秤にかけろと言われたら、私はもうどう答えるのか分からなかった。きっと「王国」に残された三人を選ぶのだろうけど、答えたら最後、一生カンナの弱々しくも優しい微笑みが脳裏にちらつくのだろう。

 あぁ。幸せなあなた。「王国」が憎いから幸せでないと言って欲しい。だけど、あなたはたしかに幸せで、穏やかな私の、新たな「友」なのだ。

 

「とっても幸せよ。

 なんたって、里一番の狩人の妻で、可愛い子どもが二人もいて、毎日平穏なんだもの。私の足について悪口を言う人間もここにはいなくて、私にわざと重いものを運ばせるやつらもいないんだし。

ウルイも経験ないかしら? 運んだものを元の場所に戻して、また運んで……元の場所に戻すことを命令されたこと。その後、遅いって殴られて、殴られて……暗くて狭くて、すごく寒いところに閉じ込められるの」

「……半分くらいはね」

「あっ……そうだよね。ウルイの足は綺麗だもんね。ウルイなら、目のことを言われたんじゃないの。あいつらがやったことなのに、ねぇ」

「そうだね、カンナ」

「ルーは私に優しいわ。長もとっても優しいでしょう。ここにも多分、差別はあるけれど、少なくとも同胞に対してそのからだについて何か言うことだけは絶対にないわ。それがたとえ『王国』のだれだとしてもね。

長、ウルイのことをとっても気に入ったみたい。羨ましいわ、大事なお兄さんを取られたみたいにルーが嫉妬しちゃうわね。ウルイはきっと守ってもらえるわ、なにもかもから……そして、それはとても幸せなことね。長は優しいし、強いし、何しろ、とってもかっこいいじゃないの。ルーよりもずっと顔はかっこいいわ」

「……そうだね。聞いたら、ルーが落ち込んじゃうね」

「あら、長より自分の顔のほうがかっこよかったら今頃彼の顔は傷まみれよ」

「言えてる……」

 

 うっとりと彼女は言う。年頃の娘のように、いいや、年頃の娘の彼女は、頬をバラ色に染めて。恋の話と軽口を年相応に好んでいるのだ。

 かっこいい……確かに顔の話をしているならそうかもしれないけれど。無表情で刃のように鋭い目を持つ彼は、確かにとっても頼れるけれど。でも、でも、そんなことを言われてってどうしようもないのだ。

 私は両親と大事な「友」の命を守るためにここにいる。「王国」に彼らを人質に取られている時点で逃げることは出来ない。

 

「長に、今までこんなこと無かったのよ。ウルイ……私はとっても嬉しいの。『王国』に私、まっとうに歩ける体を奪われたけれど、こうして、長のおかげで幸せなんだもの」

「……」

「ウルイもそうじゃない。私のナナとトトは何も欠けちゃいないの。ここで生まれた子どものほとんどに、親のように『王国』で忌まれる部分はなかったのよ。つまり、『王国』は私たちから奪っていったのよ」

 

 カンナは悲しく笑った。私は、その恐るべき事実について考え、そして、ああ、「王国」への憎しみだけが増していく。トゥとオランを除く忌み子は、私も含んで、すべて人間の手で成し遂げられることだ、と。「王国」は残虐で、きっと私が味方すべきは里のほう。

 私を守ってくれるトゥと、優しいカンナと、それから……たくさんの弱くて優しい人たちのいるここにいたいのだと突き付けられる。

 

「だから、ウルイ。あなたも幸せになりましょう? 長も、本当はあんなに苦労することなかったのに、あんなに戦わなくっても生きていけたはずなのに、強いられてしまったのよ。もう、ひとりの人間としての幸せをつかんで、穏やかな生活をしたっていいの……立場と、彼の高潔さが、穏やかな生活を許さなくても、せめて、家に戻ったひと時だけでも」

 

 彼女の目に、狂気の色なんてない。本心からそう思っている。願っている。私の幸せを、そしてトゥの幸せを。

 

「長の隣にね、素敵な私の友だちがいるならこんなに嬉しいことは無いわ」

「そんなのじゃないよ……」

「そうなの? 満更でもないんでしょ?」

 

 カンナの微笑みをきっぱりと拒絶することはもうできない。トゥの優しい大きな手の温もりは、かつての「友」の体温の記憶を上書きしきっていたから。

 与えられる平穏な日々。すっかり私は現実から目を逸らし、心のどこかで焦りながらも、それを享受していた。堕落しきった「王国」の、残酷さを誰よりも知っていたはずなのに。私の認識は甘かったのだ。

 あぁ、とうさん。かあさん。私の「ともだち」……もう遠い。とうさんもかあさんも、ずっと昔に会ったっきりだもの。「ともだち」の声はついぞ聞けなかったのだ……あぁ。

 思い出が上書きされる。私はそれを不快に思えない。

 カンナの笑顔と、トゥの無表情な横顔が、穏やかで温かい記憶として焼き付く。そしてそれを、もう振り払えない。トゥの低い声が、優しく心を震わせる。

 

 

 

 

 

 

 

「トゥ」

「……」

 

 早朝、剣を担いで出かけようとするトゥの背中に向かって声をかける。今日も、どこか不器用に赤いリボンで髪が縛られている。彼が好き好んで選びそうなものではないから気になってよく見れば、それは女物のリボンだった。誰かが彼に贈ったのだろうか。そうしてか、胸の中のどこかがちくりと痛む。長い髪が揺れるのを思わず目で追う。精霊の子孫、忌み子の里の長。だけども、彼は、彼とて、「王国」で忌み子として虐げられてきたただの人間の中のひとりなのだ。

 彼は、ゆっくりと足を止めて振り返った。振り返ったのだ、あぁ、私の言葉が届く。

 「王国」で、伝えたい相手に私の言葉が届くなんてことは無かった。だから嬉しくて、嬉しくて、私は急いで、だけども彼に伝わるように続けた。

 

「話を、聞いて、聞く、くれないか?」

「……わかった」

 

 トゥは私を抱き上げるのをやめて、背負っていた剣をおろし、壁に立てかけた。私をベッドに座らせて、子どもにでもやるように目の前にしゃがみこみ、目線を合わせた。相変わらず目はなかなか合わない。だけどもそれは、トゥの鋭い金の眼光を少しだけ和らげてくれた。

 私を座らせて、目線を合わせるなんて子ども扱いしているのではない。きっとトゥは子どもの頃か、教え導かれてきた時、こうされてきたのだ。今となっては多分、そして、それを正したり、意見したりする人間はいないのだ。

 

「ウルイ」

 

 彼の目が、話していいと言っている。彼」は、拙い言葉ながら真摯に聞こうとしている。

 

「トゥ……私、里のひとびと……ルー、カンナ、オラン、ナナ、トト、……トゥ……好きだ」

 

 ナナ、トト。無垢で残酷なルーの双子の子どもたち。女を傷つけ、それを恐ろしい事だとわからない子たち。だけど、私とすごしてくれている時、彼らは笑ってくれる。私と遊んで、あんなにも穏やかで、人として生きているのだと思い出させてくれる。私は隷属に縛られ、親と「友」を人質に取られた奴隷だけど、人間なのだと。

 

「そうか」

 

 トゥの無感動な表情が少しだけ、動く。トゥは普段人間味を感じさせない守護者だが、里のことを愛していないわけではない。むしろ、その静かなまなざしの下ではだれよりも愛しているといってもいい。彼に感情がないわけではなく、ただ希薄なだけなのだ。ほかの人よりは近しいルーはそれを知っていて、だから人一倍、いっそ信仰しているのだ。……信仰しすぎていてトゥを孤独にしているのだ。

 

「だから、私は、トゥに、トゥたちに、すべてを、話す……ことにした。オランとルー、ここに、呼んでくれるか?」

 

 ゆっくり、ゆっくり、言葉を伝えればこうして彼もわかるのに。

 

「オラン、ルー? 呼ぶ……」

「多くに、伝えたい」

「わかった、ウルイ」

 

 内容も聞かずにトゥはうなずいた。自分が言葉によって伝えられる情報に疎いということを理解しているからかもしれないし、理由に納得したからかもしれなかった。だけども、その目は私のことを確かに信頼しているのだ。

 そして、不意にトゥはずいっと顔を近づけた。かなり顔が近いが、トゥの表情は少しも変わることも無く、何か特に感情を抱いた気配はない。そして、こちらを向いていても合わなかった目がようやく合う。そして私はようやく気づいた。

 トゥはもしや、目が悪いのではないか? と。言葉が疎いのは……幼少期に閉じ込められていたとか、誰かと関わることがなかったから、とか。そちらは後天的なんじゃないか? 言葉は確かに拙いけれど、頭が悪いとか、知恵が遅れているとか、そういうことは思わないのだ。「王国」にもそういう奴隷はいる。私の言葉は「友」から離れてから奴隷のひしめく大部屋に放り込まれたから学んだだけで、そこで初めて両親に出会い、教えてもらったからで、それまでは年齢の割に言葉に疎かった。

 トゥが最初に忌み子扱いされたのは目が悪いから。精霊の子孫たる金の目はひどく目立つ。精霊信仰による権力があるなら、本物の、正統な精霊の子孫なんて疎ましいに違いない。

 王族は自分の血をどれだけ誇ってきたか。奴隷身分の私でも知っているんだから。金に見えなくも無い瞳を持った冷酷な男が、金の髪に、わずかに金を散らした青い目の男が、「王国」の主だ。その精巧な姿絵をのぞみ、私たちは毎日それに向かって平伏するのだ。本人には会ったことがない、もちろん。我こそが崇高なる精霊の代行者と声高に主張する彼が黄金の宮殿から出てくるはずもない。

 精霊信仰をうたいながら伝説は廃れ、新たな魔法はこの世になく、あるのは旧時代の残滓のみ。それを使っておきながら、彼らは先祖たる精霊を敬っても仕方ないと思っているのだから。己の精霊の血筋には胡座をかくのに、邪魔なトゥは……ああそうか、だから彼は、「生まれつき」目が悪いということにされて、私の片目やルーの腕のように奪われて、だから、顔をこうして近づけでもしないと目を合わせることもできないのでは? 

 トゥパール、忌み子の剣鬼。ちがう。本物の、精霊の代行者だ。

 鮮烈な金の瞳は、穏やかだ。トゥ、優しい守護者。人を護り、我らともに歩まん、最後の時までと、彼こそが精霊伝説の生き証人。

 

「トゥ、私の顔……見えるか?」

「……ウルイ、の、顔……」

「……」

「藤……栗……ウルイ……わたし、」

 

 トゥはさらに顔を近づけた。焦点をきちんと結んだ目は、驚いたことに、潤んでいた。泣きそうな子どものような目をして、トゥは私の頬に触れた。重い剣を握り、多くの追っ手を殺してきた無骨な手は、どこまでも優しかった。そのあたたかさがそっと頬を包む。

 

「藤の色、栗の色……ウルイ、わたし、見る、見る、ある……今、今……前、『王国』、ない、『王国』、ウルイ、の、顔……ない……今、ある」

 

 藤の色、私の目だ。栗の色、私の髪だ。私のことを見えているという。そうも顔を近づけないと見えないのだ。

 だけども、そのあとが分からない。「王国」、ない? 私の顔がない? 会ったことがなかったということなのか? 「王国」にどれだけの数の奴隷がいるというのだ。会ったことがある方がむしろ珍しいだろう? そんなことを今言うだろうか? トゥは馬鹿じゃない。わざわざ、脈絡なく言うだろうか。ほかの意味があるはずだ。

 トゥはそのままそっと私の手を握った。大きな手だ。私より。だけど、年齢の割にはトゥは小柄だ。ルーの方がよほどしっかりとした体格をしている。「王国」で奴隷扱いされていた忌み子が大きくなれるわけがない。性差か、トゥの方が大きく育ったが、一生私たちは小さい体だろう。

 だけど、私が今考えるべきはそんなことではない。私の記憶が呼び起こされる。幼い頃の、暗く、じめじめとした忌まわしい記憶。今よりも地獄といってもいい、闇と生をさまよっていた頃の記憶。だけど、唯一、私に縋る存在がいた時の記憶……。

 ごめんなさいと悲鳴があがる。笑い声が「友」をなぶる。お偉い方に今日もこき使われたんだから、お前はその代価を払わなくてはならないなあと、見当違いの憎しみのはけ口にされてしまう。

 金の瞳は静かに。その体温は私の頬をあたためる。

 

 ぼろぼろになった「友」をそっと抱きしめたとき、血にぬるつく感覚と、痛みに悶えながらも必死に私にすがったあの子の小さな体をどうにか守ってやれたらと苦く思ったことを思い出す。

 ああ。重なる。「友」とトゥが。私の目から、涙がすべりおちる。トゥの目が潤んでいた意味を、とうとう、理解した。

 トゥが、彼こそが「友」だったのだ。

 あぁ、間違えることは無い。この体温、この優しい手。私は手を握り返した。そして、あの幼い日と同じように、その、痩せたからだに抱きついた。

 あの日、白い肌が赤やら黒に変色し、へし折られていた腕もすっかり治り、健全に育っていて……あぁ。よかった。君が、今もあの暗闇に閉じ込められていることがなくて。今、痛く惨めな想いをせずに過ごしていて。

 良かった。ああ、虐げられていなくて。トゥが無事なら、もう、あとは両親だけだ。「王国」に加担する理由がすっと減った。心も軽くなる。求め続けた人がそこにいる。

 

「……トゥが、あの子だったの……」

「ウルイ」

「ごめんね、ごめんね、気づかなくて……私……トゥは、私を、助けてくれたのに……」

「ウルイ、わたし、『王国』、ない。ない」

 

 気づかなくても仕方ない、ということだろう。ぽんぽんと私の背を優しく叩いたトゥは本当に気にしていないようだった。

 

「ウルイ」

 

 私の顔を無表情に覗き込むトゥは、だけども、その静かな瞳の裏に私と同じ感情が渦巻いているんだ。あの時はただの一言も言葉を交わせなかったのに、今は顔を見て、目を合わせて、話すこともできる。それはなんて幸福なんだろう。

 私の涙を指で拭って、君は縋りつく私を安心させるようにされるがままでいて。

 子どものように、泣いた。安心しきって、そして、私は少しの間だけ、彼の腕の中で眠ってしまった。彼の体温を感じて眠っていた時の記憶があまりにも、涙が出るほど、懐かしかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の歌姫は、安堵の涙を見せながら、舞台にあがる。

 精霊たちは代行者にすべての力を授けるだろう。精霊への手向けたる愛は満ち、歌の条件は整った。

 我ら、ともに歩まん。最後の時まで……その約束が果たされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、ウルイ。話をありがとう。こんな俺に……弱い弱い王族の因習の成れの果てに、よくぞ話してくれたとも。ごらんなさい、この忌むべき目を。濁ったような青に混じった、確かな金を改めるといい。……ちゃんと見たかい? そうか。なら、失礼だけども、俺はいつものようにフードを被らせてもらうよ。

 ……俺はね、とてもとても、とても、臆病なんだ。人間と目を合わせるということが怖くてね。もちろん、ここで民たちに生まれの身分を悟らせたくなかったということでも、あったんだけど。同じなのさ、ルーウェンスと同類なのさ。ここに住む俺たちはみんな狂っている。レッサヴィーラと同じように。

 精霊を信じている。縋りすぎている。あぁ、レッサヴィーラと逆にね。信じすぎている。にしても、ねぇ。レッサヴィーラは馬鹿だね、とんでもなく馬鹿だ。

 我らが憎くも愛しい祖国は、とうとう落ちるところまで落ちたらしい。堕落しきって、このざまか。かつては大陸中に名をとどろかせ……いや、世界に誇れるほどの栄華を誇ったというのに、精霊のおかげで繁栄しても、人間の欲の皮がつっぱったらこれなのか。

 

 ああ、ああ、どこまでも……精霊に頼っても、人間だったということか。精霊と混じろうとも人間の本質は薄めることすらできないらしいな。力を得た……そう錯覚して、余計に欲が肥大したようにさえ思えるよ。

 まったく。嘆かわしい。

 ああ、美しき精霊に護られしレッサヴィーラはおのれの成り立ちすら、すっかり忘れたらしいね。精霊によってなんとか国の体裁を保ってもらっていたのに、トゥパールを虐げていた時点で馬鹿の極みだと思っていたけど、トゥパールはよりにもよって、その目をやられていたのかい。

 いいかい、ウルイ。トゥパールは見ての通り、精霊の子孫。つまり、本来、人間の言葉に親しくない存在だから、言葉に疎いのさ。だからウルイに代わりに言っておこう。

 トゥパールは混じりけのない金眼……限りなく原初に近いスピリット・アイの持ち主だ。金眼の子孫は精霊の権能をかなり強く引き継いでいる。国造りの時の大精霊の力をほぼ持っているといっていいくらいに。俺たちはその恩恵で生きてこられたようなものさ。

 それを、「人間に」ではなく、大精霊から「トゥパールに」授けられた力を、欲深き人間の手によって穢されている。そうだよ、よりにもよって人間の手によってね。精霊が、人間なんかに同族……ないしは限りなく近い存在を穢されて黙っているような穏やかな存在じゃないよ。

 精霊は、どこにでも宿っている。俺にも、ルーウェンスにも、トゥパールにも。精霊の子孫とされる人物、豊穣をもたらされた大地の草木、レッサヴィーラの大地に、宿っているんだ。精霊はひとりだ。「国造りの精霊は」、ひとりだ。名前なき、その精霊の力はばらばらになって宿っている。そしてトゥパールにそのすべての主導権があるようなものさ。単純だろう?

 

 精霊は名前がなく、だから祈られることもなかった。トゥパールは名前を持ち、祈られて、ここにいる。

 精霊は人間とは違う。少なくとも俺の知る精霊はね、トゥパールがこれまでに虐げられたこと自体には、かけらも心動かされることはないだろうさ。あぁ、トゥパールの傷は本当に酷かった。治りこそ精霊の加護か、早かったけど、本当にレッサヴィーラは人の国なのか怪しいものだったよ。ウルイならよく知っているだろう?

 ともあれ、ここに来たばかりのころのトゥパールの体の痣も、骨折も、悪夢を見るような所業、それは精霊にとってどうでもいいこと。だけど、精霊の力の宿る瞳を穢されているなら話は違う。愛持たぬ、愛をただの力、精霊への貢物としか見ていなかった精霊は、今だけは違う。本当の愛を知っている。母の愛をね。烈火のごとく、文字通りに怒り狂っていてもおかしくない。

 そうさ。母の愛さ。トゥパールの母、歌姫エルシは精霊になったとみていいだろう。その死後、肉体は残らず、空気に溶けたと聞き及んでいる。偉大な精霊は今も息子を見守っているのさ。慈しみ、護り、そして怒っている。

 だから……もう、この世に魔法なんか残ってないだろう? 大昔なら、今のように人間の中に精霊の血が混ざればそれこそみんな、人離れしたものなんだ。ルーウェンスくらいの視力と才能があれば両腕がなくたって空の鳥を全て落とせるくらいにね。

 だけど、もう、「精霊の血」にそこまでなにかあるわけじゃない。つまり、ほぼ人間は見放されているのさ。人間たちが敬虔なる精霊の信仰をやめ、精霊は力を失いながらこっちの力も削いだのさ。

 精霊はお怒りだ。トゥパールの周囲を回りうねる風の恐ろしいことと言ったら! 今まで裁きが下っていないのはひとえにトゥパールが怒っていないからだろうね。トゥパールがレッサヴィーラに向かって何か……負の感情を抱いた時、あの国は終わる。精霊は奴隷もろともすべて滅ぼすだろうね。

 ああ、どうしたの? そんなにうろたえてさ。両親? 国にいるの? ……そうか。それなら、ウルイに言うのは心苦しいけど、事実だけを言おう。

 俺たちはこれまでレッサヴィーラから脅しの手紙をごまんともらってきた。その中には役立たず……つまり、年齢が若いといえなくなった奴隷は食い扶持を確保するのに負担であるから、一切合切すべて処分した、とある。手紙なら後で見せてもいいよ。そして事実、ある時期を境に奴隷は減った。大幅にね。覚えはないかい?

 それで奴隷たちの食い扶持の確保はできたけど、レッサヴィーラは奴隷が不足して、だからここを手に入れようと躍起になっているのさ。排除すべき俺たちを投降させて労働力に数えなきゃいけないほどに困窮し始めている。あれだけの人間を奴隷にしたくせに、あいつらの欲望は肥大し、全然足りないらしいねぇ。

 

 ウルイ、ウルイ、ねぇ、いつから両親に会ってない? もう、十年も会っていないなら……残念だけど、望みはないさ。

 ……。ごめんね、俺はルーウェンスやトゥパールとも違う意味で気遣いがないんだ。

 覚悟していた? そう。まぁ、ウルイ……君はもう一人じゃないからね。家族になる相手も、友も、同じ目に遭ってきた同胞も、この場所にはいる。月並みなことだけど、気を落とすよりも周りの人間を見るべきだね。ウルイならきっと大丈夫さ。

 あー、それにしてもトゥパールの視力か……まったく気づかなかったよ。じゃあなにさ、トゥパールはこれまでほとんど全部気配か何かで今まで生きてきたのかい。我らが剣聖はさすがだね。でもちょっとくらい教えてくれたら、トゥパールに読めない……じゃない、見えない字を無理に教えることはなかったのに。

 ああ、気にしなくていい、トゥパール。トゥパールは強い。そしてとっても優しいのさ。だからそれ以上背負わなくていい。見えないものはしょうがないさ。体の弱い俺に冬、寝込むなと言うようなものだ、分かるだろう?

 でも、これからは言葉を学ぶ必要はあるかい? あるなら教えよう。だけどもトゥパールの体は精霊が混じりすぎていて、俺みたいな不出来な教師をつけても覚えられるかは保証できないのさ。ただ、ウルイともう少し言葉によって語り合いたいっていうなら止めはしないさ。

 うん、うん、きっとトゥパールには俺の言葉は早すぎるんだね。だけども、俺はトゥパールのまっすぐな目にじっとさらされるのはちょっと辛くてね。また、今度にしてくれないか。すまないね。

 ウルイ、トゥパールの人間性を繋ぎ止めてくれてありがとう。トゥパールがどうして……精霊になりきらなかったのかようやく分かったよ。どこまでも、どこまでも、トゥパールは冷たく風のような男だったけれど慈愛が無いわけではなかった。無言の鉄仮面の下で感情をもちあわせ、それを捨てはしなかった。

 あぁ、俺たちの家族に。あたたかさを残してくれてありがとう。

 さぁ、じゃあ、あとは滅ぼすか、見逃すか。それはトゥパールの思うままに。俺は……見届けよう。会ったこともない、俺を見捨てた両親の最期を。俺を知らないきょうだいたちの末路を。

 トゥパール、最後の、我らが愛しき精霊の代行者。どうか俺たちに安穏を。

 偉大なる精霊よ、我らきょうだいたる精霊の代行者よ、我らを守護し、我ら民とともに歩まん、我ら、最後の時まで……、最期の時まで、我ら、精霊の民はきょうだいを信じ、きょうだいとともに歩み、ともに朽ちることを誓わん。

 我、精霊のきょうだいの子孫なりて。すべてを受け入れよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「レッサヴィーラ」の建国記の、歪められたものはない、正しい一説をうたった賢者は静かに微笑んだ。精霊の叡智を強く受け継ぐ脆い体に、激情を封じ込めて。

 渦中の、人ならざる者に「なりきれなかった」青年は、共に過ごしてきた兄弟分の顔の辺りを眺めていたが、やっと取り戻した自分の片割れの髪の毛を指で梳くことにすぐに夢中になった。

 見せつけてくれるよ、と王子になるはずだった青年は肩をすくめた。

 あたたかさと、穏やかさが、ここにはあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 栗色の髪の少女はもう、里にとって異物ではない。孤高で孤独な青年は、二度とひとりにはならない。

 小さな望みをかなえて、彼らは愛を知る。

 青年を見守り、守護する精霊は人間だった時のことを思い出しながら静かに微笑む。

 歌姫エルシは、いまでは精霊の末端である。彼女は生前でもまっとうな人間の心を持ち合わせていなかったが、かつて人の親ではあったから、風に溶け、木と同化し、人々の血に息づき、大地に根差した大半の精霊のように自我がないような概念ではない。彼女は意志を持ち、ゆえにすべての魔法を息子に与え、加護で包み込んだのだ。

 彼女は半分風に紛れ、半分自我を持ち、そっと祝福のように息子の頬に口づけた。もちろん、死人であり、精霊であり、あたたかな風である彼女に実体はない。だけども、トゥパールは何かに気づいたように、母譲りの神秘の目をかすかに瞬かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「な、な、な……」

「おはよう、ルー、カンナ。おはよう、トト、ナナ」

「お姉ちゃん、おはよう!」

「おはようございます。長、ウルイ。あらあら、ルー。嫉妬しないの」

「だっ、だって、かんなぁ……トゥがとっても……綺麗なんだもの……」

 

 正直男らしからぬ、トゥの長い長い髪になんの意味があるのか私にはわからなかったけれど、決して切るそぶりのない、だけどもいつも邪魔そうなそれをひとつに編むことでまとめてみた。首元からすっきりして上機嫌……顔には出ていないが……なトゥはすっかり怪我が治ってもう不要なのに、私を軽々抱き上げ颯爽とルーの家まで運んだのだ。

 精霊の血筋ゆえか、単にそういう顔立ちだからなのか、ともすれば女のように編まれた髪はトゥの中性的な顔立ちによくそれはそれは似合った。たしかにルーの言う通り、綺麗だ。

 毛先を彩る女物の赤いリボンが本当によく似合う。どうしても彼は鋭い金の瞳の印象が強く、見る者が見れば狩られる恐怖をともなうほどに美しいが、黒い髪に白い肌の、色彩の少ないトゥには鮮やかな紅色を差し色とするくらいでちょうどいいのではないか。実際、恐らくは周りの人間が用意したであろうトゥの服装も、差し色は赤で統一されていた。センスは間違いない。

 引き立ったその金の瞳で多くの追っ手を恐怖のどん底に突き落としたのだろう。精霊の美もそれはそれで凶器のようなものだ。あたかも人ならざる者に静かな殺意を向けられるのはどのような気持ちか、想像するだけで恐ろしいのだから。

 私の知る、「王国」の期限の日付はもうすぐだ。その日には、「王国」軍が労働力を手に入れるためにこの里を襲うだろう。だけども、トゥたちはそれを知っているし、現状を顧みるに、ただ単純な「王国」側の勝率は著しく低いと言える。

 あとはこちらの被害をどれだけ抑えるかだ、とオランは迷いなく言った。欠片の疑いすらなく、トゥに全幅の信頼を向けているように見えた。頭の良い人物であるのだろう。この里の頭脳の中枢を操ってきた人物で、ここに決して侵攻させることなく今日まできたのだから。

 私は、探し求めていたトゥにすぐに気づかなかったぐらいなのだから、賢くない。だから、彼を信じよう。それは傲慢であり、信頼である。だけども、私のような人間にどうすることだってできなかった。私は、真に人間だ。ルーのようにほんのわずかですら精霊の子孫でなく、わずかな加護も持たぬ、ただの、本当にただの人間だ。

 

 この場にいない賢い青年のことを思いながら、ああ、矜持をもって私の目を見て話した、震え、怯え、傷ついてきた青年のことを思いながら、目の前の友に目を向ける。

 カンナは幸せな女だ。その穏やかな幸せを、私は守り抜きたいと心より思うのだ。その名前のように、鮮やかな花のように、笑って、人生を生きて欲しいのだ。

 そのために頭を捻るオランには頑張ってもらわなければならないし、ルーなどの戦える人材には存分に力を振るってもらわなければ。

 私には信じることや、せいぜい後方支援くらいしか出来ないけれど……もう、ひとりじゃないから。私も、トゥも。

 誰にしいたげられることもない、誰に引き離されることもない、誰に後ろ指をさされることもない、そして親愛なる友が隣にいる。なんて幸せなんだろうか。それを守りたいと思うことはなんて自然なんだろう。私は、人間らしく生きている。奴隷ではなく。忌み子として、いたぶられるでなく。

 

「ウルイ」

 

 考え込んでいれば、カンナとゆっくりと何かを話していたトゥがこっちを見ていた。彼から話しかけてくることは、私の幸福だ。トゥと言葉を交わせるのが幸せで、彼と穏やかに過ごしていることが生きているということと同義なのだ。あたたかく、やさしく、彼は怪我なくそこにいる。幸せ以外のなんと言う?

 

「なに?」

 

 冷たい言葉ではない。彼に伝わるように簡潔に。言葉は、伝えるものだから。

 「剣鬼」は決して命乞いを聞き届けることなく、残酷無比に命を奪う。そう「王国」でささやかれてきた恐怖の象徴その人は、今だって穏やかな顔をしている。私たちと同じように血が通っていて、優しさがあって、そして孤独な世界に生きていた。言葉が半ば通じない世界に。生まれゆえに。

 その言葉が伝わっていなかっただけと知れば「王国」はどう思うだろう! 彼こそが、自分たちを護り育んできた偉大な精霊の子孫……正統なる精霊の代行者なのだ。人の理の外の力に頼っておいて、生まれより人の理から片足踏み出ているゆえに、「人の理」そのものたる言語のつたないトゥに「言葉」で命乞いをするというなら……せめて彼にもわかるようにゆっくりと、はっきりと、伝えなくてはならなかったのだ。ただでさえ「王国」はトゥの視力を奪ったのだ。表情で相手の恐怖を理解することは難しい。

 ああ、酸にトゥの目が焼かれてさえいなければ。顔を近づけてようやっと私の顔を「見える」と言ってくれる愛しい人に、それでも輪郭が見えているわけではなく、おおよその色の配置がはっきりしただけなんだ、と心の中で残酷な事実を考えなくても良かったのに!

 私はちっともきれいじゃないけれど、友の顔すらはっきりと見ることができないトゥのことが、とても哀れなのだ。

 

「髪……わたしの、髪、……ありがとう」

「髪、編んだこと? どういたしまして!」

 

 対して長い三つ編みにそっと触れながら無表情のままのトゥは、息を吞むほど綺麗だ。雰囲気が柔らかくなったのもあると思う。ああ、私の目がつぶされたのが片方でよかった。この安らかな表情を見ることは叶うのだから。私は利己的だ。

 

「長は……ううん、トゥさまは私が思っていたよりもずっとずっと純真でかわいいひとね。どうして私たち、もっと彼とお話ししようと思わなかったのかしら。ありがとう、ウルイ。私、知らずにいるところだった。ずっとずっと私たちを護ってくれた人を一人にするなんて、とっても仇なすことなのに」

「気にしないで、カンナ。カンナならきっと自分でも気づけただろうし、それに寡黙な人だから」

「寡黙……そうね、寡黙な男って素敵よね」

「うっ」

 

 ちっとも寡黙ではない男がうめいた。寡黙ではない男の兄がぽんと弟の白い髪に手を置いて慰めるような仕草をした。寡黙かつ細やかな男なのだ。

 

「私ね、お嫌じゃなかったらたくさんお話ししましょうって話していたの」

「うん」

「言葉にゆっくり触れていただいて、そうしたらウルイとトゥさまがたくさんおしゃべりしたいときにできるから。寄り添っているだけで幸せを感じることは多いけど、お話ししたいときだってあるはずだもの。これから長い長い時間を、二人は一緒に過ごすでしょう? それならね、私も、お節介がしたくなっちゃって……」

「カンナ……」

「私、私、幸せだから。幸せなのよ、ウルイ。だからあなたたちも幸せになって欲しいの。雪と氷の国からせっかく緑溢れるここに来られたんだから……」

 

 カンナは私の残った目に、その優しい瞳をあわせて微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さあ、剣を取れ。弓をひけ。槌を握れ。斧を構えよ。おのおの、武器を掲げよ!

 レッサヴィーラに虐げられた民たちよ、我らが同胞よ。立ち上がるがいい! 奴隷を求めてレッサヴィーラが攻めてくる! 安寧の地に攻め入る者に正義の鉄槌を! 我らが愛しい者たちを、今度はこの手で守るときが来た!

 

 滅多に人前に姿を表さないはずの青年は、里の戦える者たちに語りかけた。常に深いフードを被り、顔を見せることも滅多になかった男は、憎き「王国」の名を臆せずに叫び、その姿を訝しみ、あるいは怯える民に素顔を見せた。

 若い者はオランの素顔に何も思わなかったが、それなりの年齢の人間はひどく動揺する。まだ、「王国」の王が人前に出ていた頃を知る者である。

 憎き「王国」の王に生き写しといっていいほどそっくりな青年……我らが長の数少ない友であり、我らが同胞である。王子となり、黄金の宮殿に傅かれているはずだったその人が、我らと同じ境遇で剣を取れと言っている!

 忌み子たちは純粋だった。オランの隣に立つトゥが肯定するかのようにだんまりで、妨げることがなかったのも後押しした。

 ああ、そうだ! 今こそ! 今こそ邪悪なる「王国」と戦う時だ! と。叫ぶ声に賛同した。

 武器を手に戦え! さすれば自由だ! 怒りの鉄槌を下す時だ!

 

 声はますます大きくなっていく。

 

 自らの息子すら見捨てる無慈悲な「王国」が攻めてくるならば! 迎え撃ってやろう! むしろこちらが打ち払い、根絶やしにしてやろう! こちらから攻めるわけじゃない! 向こうが宣戦布告してきたのだ! 何を疎むことがある!

 我らには剣聖がついている! 我らが長に続こう! 同胞の王子に続こう!

 

 忌み子たちはオランの青に混じった金の目を信じた。静かに見守る長の金の目を盲信した。

 

 かくして、それが正義であるかのように剣は取られ、里の人間たちは宣戦布告の通りに攻め入ってきた王国の兵とぶつかった。堕落した生活に慣れきり、奴隷を求める欲望と、もう二度と虐げられたくはないという願いの戦い。

 里側は、とられた剣の半分は護るために使われた。戦えない者たちを護るためである。対して「王国」にはそんな余力すらなく、いったん打ち破れば後続から援護が来ることもなく。

 「トゥ」たちは勢いそのまま町へ攻め入り、たくさん、殺したと聞いた。

 たくさん、魔を払ったのだと誇らしげに話す里の人の声を聞いた。

 

 戦いは、たった一週間だけ、続いた。

 私は布にくるまれて、たくさんの同胞たちと共に隠されて、戦いの血煙が鎮まるまで暗闇の中にいた。

 寒くはなかった。みんなで身を寄せ合い、じっと待っているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トゥ!」

「ウルイ」

 

 全身血まみれの彼に丁寧に綺麗な水が浴びせられる。徐々に赤い汚れを落とされながら、彼に大きな傷がないのを確認し、皆がその帰還を純粋に喜んだ。五体満足で、相変わらずの無表情。満身創痍に味方に肩を貸しつつも、彼はまだまだその獣のような闘志を失わずに戻ってきた。

 

「長!長!」

「おかえりなさい!」

「我らの勝利だ!」

「ありがとう! ありがとう!」

 

 口々にたたえる声。それを聞き取れないトゥは受け流した。

 

 トゥはしっかりとフードを被り、へたり込んで見るからに疲れ果てたオランをちらりと見ると、近くにいたルーの頭をポンポンと撫でた。何かを促すように。

 

「全部、殺したよ!」

 

 任された! とばかりに笑顔になったルーは叫んだ。笑顔だったのに、血を吐くようだった。いや、忌まわしそうに吐き捨てるかのようだった。任せられたことへの喜びと、「王国」への憎しみが綯い交ぜになり、しかしもはやぶつける相手は存在しない……そんな感情が、爆発した。

 

「殺した! やせっぽっちの兵士どもも、オランにそっくりな王も、その兄弟たちも! 全部殺した! 向こうにとらわれていた同胞は、卑劣な『王国』が全部殺していた! だから、報復に殺した! 僕たちをさげすみ、同胞たちをこき使ってきた女も男も! 僕の腕を切り落とした僕の両親も、姉も! この手で! 

『王国』は全部殺した! 自由だ! もう狙われることはない! 我らの勝利だ!」

 そして糸が切れたかのように座り込み、だんまりになった。精神的なショックではなく、あくまで戦い詰めで疲れたという風体だった。気が狂ったルーの内心をうかがい知ることはできなかった。

 

「殺した」

 

 そしてトゥも口を開く。

 

「守る」

 

 守るために、殺したのだと。

 私たちを守るために。

 

 ルーもオランも何も言わなかったが、トゥが連れて行った里の人間はあまり帰らなかった。帰ってきても、大きな傷を負っていた。あくまで里はこれまでトゥが守っていたのだ。里の人間は狩りに生きていた。だから、戦いのすべを全く知らないわけではないが、慣れているというわけでもなかった。

 犠牲は大きかった。

 だけど、もう狙われないのでいいのだ。だから、帰らなかった者はきっとうれしいに違いない。これからは幸せに暮らそう。そんな会話を聞きながら、くらくらする。

 トゥが帰ってきて嬉しいのに。憎き「王国」が滅んでうれしいのに。両親の仇をとってくれたのに。みんなの仇を取れたのに。

 あたたかい里の人間は半分になり、本当にこれでよかったのかと疑問が浮かんでしまう。命を賭してトゥたちが勝利をつかんでくれたのに。私はただ守られていただけなのに。

 優しい「ともだち」が私たちを守るために血塗れになって戦った。そう思うと、めまいがした。

 

「トゥ、おかえりなさい」

 

 だけど、喜びが大きいのも事実だった。それ以上の言葉はいらなかった。手を差し出せば、手を握ってくれた。そのままふわりと抱き上げられ、どこかへ連れていかれるよう。

 抵抗しなかった。トゥの心音を聞きながら、私の大事なひとはまだ、こうして生きているじゃないか、それもぴんぴんしているじゃないか、「私」は幸運じゃないかと心の中で繰り返した。カンナがルーに抱き着くのを小さくみて、私は安堵のため息を吐く。

 無表情なトゥは、息も乱さずに私を小高い丘の上まで運んで、そっと下した。

 そこは、森も、遠い「王国」も、すべて下にある場所だった。すべてを一望しながら、トゥは何かを説明したそうな顔をして、だけど精霊の子孫の彼はそれができずに、俯いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風が頬を撫でる。遠くに、小さく見えるのは私たちの故郷。レッサヴィーラ。精霊と人間が手を取りあって創った氷の中の楽園。

 その中央には美しい黄金の城。その城壁はどんな魔法すら通さない氷でできていて、とてもとても寒いけれど美しい場所。太古の精霊の魔法による守護はレッサヴィーラ全土に及び、象徴でありながら守護も担う黄金城……だった、らしい。

 私は、すっかり薄汚れてしまって、すっかり神秘がなくなってからしか、しらない。輝くばかりに美しいらしい黄金の城も奴隷の身分では見ることも許されず、国土の過酷さによる凍死によって「奴隷資源」を失わないようにするためにあんまり外にすら出たことがなかった。大きな大きな穴蔵の中、冷たい場所で。天井に穴が開いて。雪がぼとぼとと零れ落ちて。そんなところしか知らない。

 遠くから見ても、美しかったと讃えられていた黄金の城は到底そうとは思えなかった。魔法が解けているのだろうな、と私は思う。精霊の加護によって成り立つ国が、トゥを虐げ、トゥが出ていったなら。加護はどうしてレッサヴィーラに残るだろう?

 

 むしろ、この里が飢えなかったのは、王国を包んでいた精霊の加護がこっちに来たからだとしか思えない。

 でも、そんな事実があっても。感傷はあった。どこか物寂しかった。

 忌み子奴隷が広がり、堕落が蔓延し、人々の心まで凍てついてしまったけれど、それでも私たちの故郷には違いないのだから。私も、トゥも、ルーも、カンナも、オランも、あの氷の中で生まれた。祝福されたか、されていないかに関係なく。

 風が揺れる。トゥの編まれた髪がひとりでにほどけていく。しっかり結んでいたはずの赤いリボンが解けて、風にさらわれていくのをトゥはどこかぼんやりと見つめていた。

 長い髪がさらさらと揺れる。あんなに小さかったあの子がこんなに大きく成長している。

 

「私、おかあさま、エルシ」

 

 赤いリボンを見送りながら、トゥはぽつりと言った。

 

「歌姫、エルシ、師、アルバ……、」

 

 言葉が見つからなかったのか、風にさらわれているリボンを指さした。

 言葉を繋ぎ合わせ、私は理解する。あれは、剣聖アルバによって与えられた母の形見のリボンだったのかもしれない。大事なものが風にさらわれたというのにトゥの金色の目は穏やかで、静かだった。

 

「ウルイ」

 

 金の目が揺らいでいた。あたたかい風が吹く。私たちを包むように。赤いリボンが風に舞い上がって、くるくる回る。風は女性の形をしていた。私は精霊の子孫じゃないから、それしかわからなかった。だけど、トゥの母君だってことはわかる。

 

「精霊……魔法……レッサヴィーラ。ない。……ない、」

 

 トゥは途方に暮れたように、その瞳を揺るがせた。

 

「ない。なにも……。ある、ウルイ。ある、私」

 

 トゥは唇を噛む。精霊の子孫であり、本来言葉を介さないはずの彼が、必死で話したいと思っている。だけどトゥは言葉が分からない。歯痒そうに彼は顔をゆがめた。人の子なのに、言葉を使えずに。

 私は、迷うように宙で止まっていたトゥの手を握った。言葉なんていらなかった。もう誰にも縛られることはなく、仲間が虐げられることもない。なら、ゆっくりゆっくり学べばいいんだ。私はそう思ったから。それに、今の気持ちだけは言葉なんて要らなかった。

 

「トゥ」

 

 大好きな私の片割れよ。

 未来のことなんて分からない。先行きは不安で、片付けなければならないことが沢山あるだろう。だけど、もうはなればなれになることはないのだから。

 もうない。精霊も、魔法も、祖国も。私たちの肉親たちも。

 でも。

 

「いるよ、トゥも私も」

 

 言葉なんて必要なかった。私はそれだけ囁いて、彼の手を静かに握っているだけで良かった。

 風の形をした精霊が本当にトゥの母なのかも定かではない。私はそう思いたいだけなのかもしれなかった。

 

「だから、これでよかったの。魔法なんて、最初からなければよかった。でも、終わったなら、いいの」

 

 そう言い聞かせる。最初から魔法なんてなければ、レッサヴィーラは健在だったのだろうか? 奴隷はなく、両親は生きていたのだろうか? もうわからない。わからないのだけど、すべて終わればいいと思った。

 トゥはそんな私を見つめていた。

 

「魔法……」

「トゥ?」

「魔法。魔法……」

 

 トゥの目がキラキラと光っている。金色に輝く瞳は、どんどん光を増していく。

 

「魔法!」

 

 何かを思いついたように、彼は繰り返す。そして彼は大きく息を吸い込むと……歌った。

 とたんどこからともなくまばゆい光が現れ弾けて、見えないはずの目が妙にうずいた。

 

 魔法だった。そうだ、トゥは、トゥだけは。魔法を使えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたたかな風が吹く。最期の魔法を、精霊たちが祝福している。トゥは母の血に別れを告げながら、最後の歌姫として「魔法を失わせる魔法」を使っていた。

 トゥは正しく、私の言葉を理解して。そしてそれを叶えるべく魔法を使った。

 魔法と神秘を宿したきらきらとした金色の瞳からだんだん光が失われていく。瞳は黒々と、ただの人間のものに変わっていく。歌うごとに優しい風は弱まっていき、きっと「最後の加護」が優しく私たちの頬をなぜるのだけわかった。

 その歌詞を聞き取れない。人間の歌ではないからだ。だけど心地よく、優しく、物悲しい。地下室の中で二人身を寄せたあの日のように、今手を繋いでいる体温のような優しさで、私たちを包み込む。人間の歌ではなかったけれど、トゥが想いを込めて歌っていることだけは誰よりも分かった。

 神秘が空に解けていく。世界の理が元に戻っていく。

 響き渡る歌が、満ちていく。遠くに見えていた黄金の城はいつの間にかなくなっていた。その代わりに。

 

「トゥ!」

「いい歌だね、トゥ」

 

 私たちの後ろにはいつの間にか大きな人だかりができていた。

 ……大きな? こんなに、もう人は、いないはずなのに。どうして?

 

「何をしたんだ、トゥ。いつの間にか……『戦死した』みんながそこらの木陰から出てきた。怪我人の傷は消え、……」

「僕の腕も! なんか生えて来たんだけど!」

 

 奇跡だった。夢かもしれなかった。人々は健康な体を取り戻し、私たちを嬉しげに囲んだ。おそるおそる閉ざされた目を開くと驚くべきことに見えるのだ!

 

「トゥ! 目が見えるの!」

「ウルイ! 俺も……目が……いまなんと?」

 

 トゥの金の眼は失われていた。でも、黒い瞳はちゃんと焦点があったし、それに。

 精霊の血を失ったトゥは言葉を本当の意味で理解できるようになっていたのだ。別の理はもう、トゥの中になかったから。

 

「ウルイ。みんな。これから、やるべきことはあるだろう。だが」

 

 私をそっと抱え上げた彼は、優しく笑った。

 

「今度は一緒に歌わないか。すべての始まりのために」

 

 その日響いた名もなき合唱を、歌詞なき和音を私はきっと忘れない。

 

 君がただのひとりの人間になって、すべてすべて赦されたこの日を。いつかまた、争いや隷属の輪廻が巡るのだとしても。今人々は解き放たれ、そして新しい門出が歌によって祝福されたことを。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。