神様と十二支と猫と盃と《完結》 (モロイ牛乳)
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高校1年生編
01「おいてっちゃヤダ!」
初めまして。再アニメ化に乗っかって、フルバの二次小説を書いてみました。
いきなり申し訳ありませんが、今回の話には嘔吐表現と残酷な描写が出てきます。苦手な方、お食事中の方はご注意を。
僕が小さい頃、実兄のはとりは色んな話を読み聞かせてくれた。桃太郎、金太郎、一寸法師、北風と太陽、花咲かじいさん、おおきなかぶ等々。
中でも1番印象に残ったのは、十二支の昔話だ。僕が生まれた
「昔々、神様が動物達に告げた。『明日、私が開く宴会に招待しよう。決して遅れないように』と」
「おくれたらタイヘンだね。あきと、おこるとこわいよ」
「
「にいさんはとしうえだから、あきとはコワくないっていえるんだよ」
不満そうに唇を尖らせた僕に、兄さんは「そうかもしれないが、俺が言った事も覚えておけ」と言い聞かせた。そして話を続ける。
「神様の招待を受けた動物達はとても喜び、自分が1番に宴会の会場に到着するのだと張り切った。ところが、昼間から寝ていた猫は神様の言葉を途中からしか聞いておらず、いつ宴会が開かれるか知らなかった」
「ネコはえんかいにでちゃダメじゃないの?」
周囲の大人達が「猫憑きは仲間外れにされて当然」と話しているのを聞いた事があったから、僕は純粋に疑問を投げかけた。
兄さんは悲しそうに目を伏せて、「……昔話では招かれていたんだ」と答える。
「宴会に行きたいと思った猫は、近所に住む鼠に宴会が開かれる日を聞きに行った。知恵の回る鼠は競争相手を減らすため、宴会の日は明後日だと嘘を吐いた」
「ゆきはウソつきだ」
「昔話の鼠と
注意を促した兄さんは、少し躊躇いながら続きを話す。
「宴会の当日に鼠は牛の背に乗り、宴会の会場の前でヒラリと飛び降りて1番に到着した」
「はつはるにのってイチバンになるなんて、ゆきはずるい」
「別物だと言っただろう。由希は建視と同い年の従弟なんだから、仲良くしてやれ」
「……ネズミは“とくべつ”だから、なかよくできないよ」
十二支の頂点に座す
僕と同い年の
父さんは僕を疎んでいたから尚更。
幼い僕の不機嫌の原因を察したのか、兄さんは宥めるように僕の頭をくしゃりと撫でる。両親に愛されなくても、兄さんが僕を慈しんでくれるから充分だった。
小さかった頃の僕にとって……いや、成長した今でも僕にとって兄さんは、心の中で物凄く大きなウェイトを占める大切な存在だ。
「鼠の次は、牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鳥・犬・猪という順番で到着した」
「にいさんは、ごばんめだね」
真面目な兄さんは「正確に言うと俺ではなく、俺の中にいる物の怪だ」と訂正を入れる。
「12匹の動物が集った宴会の最中に、神様は『私の力を見せてあげよう』と言い、宴会で使われた盃に命を吹き込んだ。すると、盃は人の言葉を話す
「おれのなかにいるヤツ?」
「そうだ。盃の付喪神を見た動物達は驚き、神様は凄いと褒め称えた」
「あきともおなじコトできる?」
「できない。……慊人は盃に命を吹き込めないと、他の人に言うなよ」
兄さんは真剣な顔で釘を刺してきたから、僕は「わかった」と良い子のお返事をした。
「宴会は朝まで楽しく行われ、神様と動物達はまた宴会を開こうと約束してから、それぞれの住まいへと帰った。猫が宴会の会場に着いた時は、盃の付喪神しか残っていなかった」
「おれ、おいていかれた!?」
「――昔話の盃の付喪神と建視は別物だ」
草摩家は十二支と深い関わりがある家系だ。幼い僕でもそれは知っていたので、別物と言われても不安は拭いきれない。
「おいてっちゃヤダ!」
「俺は建視を置いていかないから、落ち着け」
「やくそく! ゆびきりして」
「……ああ、わかった」
申し訳なさそうに指切りをした兄さんは、10歳差の兄弟だから自分が先に他界する可能性が高いと解っていたはずだ。
それを告げられたら幼少期の僕は泣き喚いたと思うので、優しい嘘を吐いた兄さんを責めようなんて思わない。
兄さんが語った十二支の昔話は草摩家独自の説話だと話さなかった事も、兄さんの優しさだろう。
「一般的に知られている十二支の昔話には、盃の付喪神は登場しないんだよ。猫でさえ出番があるのにね」
幼い顔に嘲笑を浮かべた慊人にそう告げられ、僕は動揺した。昔話や草摩家の中で、散々な扱いを受けている猫以下の存在だと暗に言われたんだ。そりゃショックを受けた。
それよりも兄さんが僕に情報を伏せていた事の方が、精神的な打撃は大きかった。当時の僕は、兄さんは猫以下の存在の僕を本当は嫌っているから、隠し事をしたんじゃないかと思ってしまった。
足元が崩れるような絶望を味わった僕に救いの手を差し伸べるように、慊人はごく優しい声で言い聞かせる。
「『外』の世界に広まっている十二支の昔話は紛い物だ。僕達をつなぐ“絆”だけが本物。それをよく覚えておいて」
脳裏に刻み込むように言い聞かせる慊人の言葉を、僕は疑う事なく受け入れた。
父さんと母さんは実の息子である僕を拒絶したから、家族の絆は信用できない。
物の怪憑き同士の“絆”を疑ったら、僕は兄さんと兄弟でいられなくなるような気がしたから、慊人の言葉をひたすら信じるしかなかった。
▼△
「おぇぇぇ……がはっ!」
僕は高級ホテルの男子トイレの個室に籠って、リバースしていた。
催吐剤を飲んで胃の中を空っぽにする作業は何度も行っているとはいえ、酸っぱいものが込みあげる感覚は慣れない。
吐き出すものが胃液だけになったところで、トイレットペーパーで口元を拭って水を流して個室から出る。
広々とした洗面台に向かうと、憔悴した高校1年生の男子が大きな鏡に映っていた。
僕の目鼻立ちは日本人らしいあっさりとした涼しげな造形で、面立ち
僕は着ていた黒の学ランを脱いで洗面台の隅に置き、ワイシャツの袖を捲って黒い絹の手袋を外す。
センサー式の蛇口から出てくる水を両手で掬い、口の中を念入りに濯いでから口の周りを水で洗い流し、ポケットから取り出したハンカチで顔と手を拭く。
短く切り揃えた真紅の髪が少し乱れていたので、鏡を見ながら手で軽く整える。鏡の中からこちらを見返す奥二重の目の虹彩は、鮮やかな赤だ。
派手な髪色と目の色のせいで僕はヤンキーだとよく間違われるが、髪は地毛だしカラーコンタクトは使用していない。
僕の赤髪赤目は物の怪に憑かれた証……という言い方をすると、漫画やライトノベルの影響を受けて自分設定を作り上げちゃったイタい奴みたいだが、事実なのだから仕方ない。
草摩の人間は何百年も昔から、十二支と同じ物の怪に憑かれている。十二支以外の物の怪を身に宿す者が2人いるけど。
1人は、十二支に入れなかった猫の物の怪に憑かれた者。もう1人は、盃の付喪神に憑かれた者――僕だ。
盃の付喪神憑きも他の物の怪憑きと同じように、体が弱ったり異性に抱きつかれたりすると異形の姿に変身してしまう。“絆”でつながった仲間の異性と抱き合った場合は、何故か変身しないけど。
草摩家に伝わる古文書によれば、400年以上前に盃の付喪神憑きが初めて誕生した時、草摩一族は恐慌状態に陥ったらしい。
十二支の昔話に登場しないモノが生まれるなんて、新たな災いが降りかかったのではないか。多種多様な器物の付喪神憑きが、続々誕生するのではないか。などと、誰もが恐れたようだ。
当時の草摩家に生まれていた十二支憑きが、盃の付喪神憑きも“絆”でつながった仲間だと主張したおかげで、盃の付喪神憑きは物の怪憑きの一員として認められた。
そして盃の付喪神が登場する草摩家独自の十二支の昔話が作られ、今に受け継がれている……って、僕は誰に向かって説明しているんだろう。現実逃避したいから、あれこれ考えちゃうのかな。
気を取り直して手袋をはめて、ワイシャツの袖を直して学ランを着てトイレから出る。
スラックスのポケットから、小さな筒状のピルケースを取り出す。口の中で溶けた口臭ケア用のサプリメントは爽やかなミントの風味がしたけど、気分まで爽快にはならなかった。
僕は草摩家の当主がいるスイートルームに戻り、華美なシャンデリアが天井から下がる洋風の応接間へと向かう。
「遅いぞ、建視」
ネイビースーツを着た線の細い人物が、苛立たしげな声を投げつけてきた。
ショートボブに切り揃えた艶のある黒髪に、長い睫毛に縁取られた漆黒の目。すっと通った鼻筋に、淡く色付いた花弁のような唇。病弱と出不精が祟ったせいで青白い肌。
浮世離れした中性的な美貌を持つ彼の貴人こそ、国内でも有数の名家として知られる草摩家の頂点に、19歳の若さで君臨する当主の慊人だ。
「ごめん、慊人」
「また吐いたな。外部の依頼を請け負うようになって3年近く経つのに、まだ慣れないのか?」
「……ごめん」
「建視はいずれ僕の側近になるんだから、慣れる努力をしろ。……説教は後回しだ。そこに座れ」
どんなに頑張っても慣れないし、慣れてしまったら人として終わりだと思うけど、本音をぶっちゃけたら慊人に叱責されるのは目に見えている。
僕はお口チャックして、レザーソファに腰掛ける慊人の隣に座った。
慊人から指示を受けた護衛役が、応接間から出て行って数分後。見知らぬ2人の男を連れて戻ってきた。
1人は50代後半で、もう1人は40代後半といった処か。2人ともスーツを着たビジネスマン風の出で立ちだけど、隙のない歩き方をしているから私服警官だろう。
「草摩の御当主様にお目にかかれて光栄です」
挨拶と自己紹介をした私服警官は、今回の依頼について話し始めた。
衆議院議員の娘が帰宅途中に何者かに刺殺された事件の捜査を行ったものの、3年経った今になっても依然として犯人の手掛かりは掴めていない。
何としても犯人を見つけ出したい議員は、政財界で密かに囁かれる草摩家にまつわる噂を聞きつけて、交渉に交渉を重ねたらしい。
その噂とは、草摩家の者が超能力を使って未解決事件を解決に導く手掛かりを得たという、オカルトじみた話だろう。
物の怪憑きの存在は草摩家のトップシークレットの1つだから外部に漏れていないけど、物品に宿る人の残留思念を読む力を持つ僕が、警察の捜査に時折協力している事は口コミでひっそり広がっているようだ。
残留思念を読む力というと、漫画や小説に出てくる
僕が読み取り可能な対象は、人が1年以上使った物品のみだ。
この力は盃の付喪神憑きであるが故の副産物だから、付喪神となる条件を備えた物品しか残留思念を読み取れないのではないかと推測されている。
まるで世の中に付喪神がたくさんいるような推測だけど、僕以外の付喪神って見た事ないよ。
更に、だ。条件にあてはまる物品なら問題なく読み取れるという訳でもなく、慊人と物の怪憑きの残留思念は読めない。
親しき仲にも礼儀ありって精神は、物の怪にもあるのかな? そんな配慮をする必要があるなら、僕も他の物の怪憑きみたいに動物と意思疎通できる力が欲しかったよ。
「これが事件当時、被害者女性が履いていた靴です」
私服警官の1人が持っていたアルミ製のアタッシュケースを、大理石で出来たテーブルの上に置いて開ける。中には透明な証拠品袋に包まれた、ベージュ色のパンプスが入っていた。
事件の遺留品は管轄の署内から持ち出しが禁じられているらしいけど、僕が捜査協力する場合は特例として認められたと聞いている。
「ここに触れて下さい」
白い手袋をはめた私服警官は、証拠品袋から取り出したパンプスを指差す。パンプスの中敷きの土踏まず部分に、2センチ×2センチ程度の四角い枠の白いシールが貼られていた。
物品から人の残留思念を読み取るには、素手で触れる必要がある。事件の遺留品に素手で触る事は警察官にも許されていないが、これも特例らしい。
遺留品に付着していた指紋と僕が触れた跡を区別するため、警察の捜査に協力するようになった時、僕は両手の指紋を取られている。
それはともかく、刺殺か……。事件当時の残留思念はかなりエグいだろうな。
読みたくないけど、任務の報酬は前払いで僕の口座に振り込まれるからやらなきゃいかん。
残留思念を読む任務をこなすと、草摩の本家から200万円の報酬が与えられる。高校1年生のクセにこんなに貰うのはチョイと許せんとコメントされそうだが、僕は自分の取り分が少ないと思う。
草摩家の当主の慊人がたった200万円で動く訳がない。依頼主はウン千万円あるいは億単位の依頼料を、草摩家に納めているはずだ。
僕が報酬に関する文句を言うと、ピンハネしている草摩の上層部に睨まれそうだから黙っているけど。
深呼吸してから、僕は右手の手袋を外す。慊人の命令で僕は常に手袋をはめているけど、風呂と洗顔とトイレと任務の時は例外だ。
僕は自分の意思で力のオンオフができないから、慊人に命令されなくても手袋をはめて生活せざるを得ないんだけど。
指定された枠の内側に人差し指で触れた瞬間、女性の悲痛な叫び声が頭の中に直接響く。
胸部を刺された苦痛、初対面の犯人に対する怯えと疑問と恨み、自分の命が失われる絶望と恐怖、愛しい人に会えなくなる悲哀──
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
「……っ!? 君、大丈夫か? 私の声は聞こえているか? 返事はできるか?」
「痛いぃ! 苦しいぃ! 助けて助けて、痛い痛い痛いよ、誰か……お父さん、お母さん……っ!」
「御当主様、中止した方が良いのでは……?」
「それには及びません。僕が声をかければ意識を取り戻します。建視、気をしっかり保て」
被害者の残留思念に呑まれかけたけど、慊人に呼びかけられて我に返る。正直に言えば、あのまま気絶したかった。
刃物で刺された激痛が生々しく残っている。悲鳴を上げているのは僕の精神なのか、被害者の記憶なのか判別できない。
「あき、と……」
「僕は建視の側にいるよ。大丈夫、何も怖くないからね」
慊人は宥めるように言い聞かせながら、僕の左手を握ってきた。
この手をずっと握っていたい気持ちと、今すぐ手を振り払って逃げたい気持ちが僕の心の中でせめぎ合う。
「僕の役に立ってよ、建視。……役立たずはいらない」
耳元で囁かれた瞬間、僕の胸の奥に潜む盃の付喪神が慟哭を上げる。
──役に立つから、何でもするから、お願いだから見捨てないで!
物の怪憑きの魂を統べる
被害者の残留思念から伝わってきた死の恐怖を、あっという間に塗り替えた。
僕の人としての自我は完全にグロッキー状態だったので、盃の付喪神の意志に従って僕の体が勝手に動く。震える右手で、遺留品のパンプスに再び触れる。
またもや被害者の残留思念が頭の中に流れ込んできて、僕は反射的に手を引きそうになったけど、盃の付喪神が僕の弱った意思をねじ伏せた。
事件当時の状況を細部まで確認させられる。刃物を持って狂笑を浮かべた犯人に刺された場面が見えた時は、胃液が逆流した。
慊人の前で見苦しい姿を晒す訳にはいかないと盃の付喪神が主張したので、喉が勝手に胃液を飲み込んだ。
必要な情報を収集し終えた頃には、フルマラソンをした後のように肩で息をしていた。僕は震える手でポケットからハンカチを取り出し、脂汗と涙と鼻水に塗れた顔を拭う。
「休憩にしよう。何か飲み物を用意するから、少し待っていてくれ」
私服警官が気を使って提案してきた。
「――お気遣いなく。記憶が鮮明な内に……話した方がいいですから……」
僕はもっともらしい言い訳をしたけど、早く家に帰りたい一心だった。
犯人の人相と体型、おおよその身長と年齢、着ていた服を伝える。話している内に殺人現場の記憶が思い浮かび、再び吐き気を催す。
スケッチブックを取り出した私服警官が素早く描き上げた絵を見て、僕が何箇所か訂正を入れて、犯人の似顔絵が完成した。
「捜査へのご協力に感謝致します」
「一刻も早い事件解決を願っています」
私服警官と慊人のやり取りを、僕はどこか遠くに聞いた。
被害者の苦悶と嘆きと怨嗟がまだ頭の中に残っていて、心の中がぐちゃぐちゃに掻き乱されている。
僕は覚束ない足取りで高級ホテルから出て、草摩家の送迎車の後部座席に乗った。
ここからが正念場だ。弱った自分を奮い立たせてから、僕の隣に座る慊人に頼み込む。
「慊人、今回の事件の残留思念は自分の中で処理し切れない。記憶を隠蔽する許可を出して……」
「またか。はとりの隠蔽術は、建視のためにある訳じゃないんだぞ。忙しいはとりに負担をかけているとは思わないのか?」
嫌というほど思っている。僕が任務に赴くたび、兄さんは悲痛な顔で見送るから。
だけど、殺された人の残留思念を実体験のように見ておきながら、平然としていられるほど強靭な心は持ち合わせていない。
いっそのこと心が壊れて何も感じなくなってしまえばいいと思う時もあるけど、僕がそんな状態になったら兄さんは悲しみに押し潰されてしまうだろう。
兄さんが心を病んでしまっても何も感じない抜け殻に成り果てるのは、死んでも御免だ。
「頼むよ、慊人……お願い……」
僕は座席に両手をついて、頭を下げて懇願した。
慊人は優越感を滲ませた声で、「顔を上げろ」と命じる。
言われた通りにすると、慊人が深い闇を思わせる黒い瞳を嗜虐的に細めていた。
「建視は十二支の正式な仲間じゃないけど、その力は使える。それを理解しているのは僕だけだ。悲しい事に草摩の人間の多くは、建視を恐れているからね」
慊人の言葉が呼び水になって、親戚から向けられた忌避の視線と敵意に満ちた言葉が脳裏に蘇る。
――残留思念を読むなんて、気味が悪い……。
――盃の付喪神憑きなんかを産んだせいで、私の娘は悲惨な最期を迎えた。
――先代の盃の付喪神憑きのように、あれも力を乱用するかもしれない。あれを野放しにせず、幽閉するべきだ。
猫憑きみたいに幽閉されて一生を終えるなんて嫌だ。
自己嫌悪と絶望に浸って項垂れていたら、僕の顎を持ち上げる手があった。誰の手、なんて確かめるまでもない。
愉悦を含んだ薄笑いを浮かべた慊人が、僕を見下ろしている。
「建視はその命が尽きるまで、僕だけに全てを捧げて生きるんだ。……返事は?」
「……うん。ぼくは、あきとに、すべてをささげていきる」
「その言葉、絶対に違えるなよ」
鋭い声で念を押した慊人は僕を抱きしめて、「はとりが建視に隠蔽術を施す事を許可してあげる」と言った。
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02「海原高校の文化祭か?」
「――まったく。
慊人の検診を終えて自宅に戻ってきた兄さんは、うちに遊びに来ていた
兄さんが持っているビラには、イルカや色とりどりの風船のイラストと共に『海原祭』と描かれている。
「
居間のソファに座って『モゲ太とアリ』のビデオを観ていた僕は、一時停止のボタンを押してから質問した。
板敷の床に座っていた紅葉はショートケーキを手づかみで食べながら、「Genau!(その通り!)」とドイツ語で答える。
「ユキとキョーに会いに行こうよ。ハリィとケンも2人に会うのは久しぶりでしょ?」
紅葉の言う通り、由希や夾とはここ数ヵ月顔を合わせていない。
由希は中学卒業と同時に
慊人の言いなりになっていた由希がいきなり自立の第一歩を踏み出したから、僕を含む草摩の「中」の人達はびっくり仰天したっけ。
猫憑きの夾も予想外の行動を取ったんだよな。
夾は僕が在籍する高校とは違う男子高に通っていたのだが、今年の5月上旬に突然行方を晦ましたのだ。
それを知った夾の実父を含む草摩の連中は、幽閉を嫌がった猫憑きが逃げたと騒ぎ立てた。
夾が失踪した理由は不明だけど、草摩から逃げたいと思ったなら楽羅姉に相談すればよかったんだ。猫憑きの従弟に熱烈な片思いをする楽羅姉は、黙って見逃したと思う。
だけど、夾は楽羅姉に何も言わずに姿を消した。その結果……。
――建ちゃんは慊人に命じられて、夾君の居場所を調べたんでしょ? 夾君がどこにいるか、知っているなら教えて! 教えろって言ってるだろがぁぁ!!
夾の居場所を調べろという命令は受けていないし、夾がどこにいるかなんて知らない。僕は声を大にして何度も言ったけど、暴走した初号機状態になった楽羅姉に言葉は通じなかった。
猫憑きの従弟が行方を晦ましていた約4ヶ月の間、僕は逃走劇を繰り広げる羽目になったのだ。夾に会ったら、恨み言の1つや2つ言ってやる……っ。
「慊人と紅葉の付き添いをする身としては、今から頭が痛いんだが」
溜息を吐く兄さんは27歳なのに、疲れ切った中年男のような雰囲気を漂わせていた。
癇癪持ちの慊人と、常にハイテンションな紅葉のお守りか。しかも、慊人は紅葉の事を嫌っているし。問題が起きない方が不思議な組み合わせだ。
「兄さん。僕も文化祭に行って、紅葉と一緒に行動するよ」
「助かる」
兄さんと僕のやり取りを余所に、紅葉は暢気に話し続ける。
「ケンもホンダトールに会いたいの? だーい丈夫!! きっと気に入るよ!!」
「
「――紅葉、お前、本田透に会ったのか?」
僕と兄さんが立て続けに問いかけると、紅葉は得意げに「Ja!(うん!)」と言う。
「Sehr hübsch!!(とってもかわいい!!)」
へぇ。美形揃いの草摩一族を見慣れている紅葉がとっても可愛いと評価するなんて、本田透さんはすっごい美少女なんだろうな。
▼△
そして10月最後の日曜日――海原祭当日の午後。僕と兄さんと紅葉は草摩家の送迎車に乗って、海原高校へと向かった。
一緒に行く予定だった慊人は39度の熱が出たので、兄さんがドクターストップをかけたらしい。それを聞いた僕は驚くと同時に、疑問に思った。
草摩の主治医として責任感を持って仕事をする兄さんが、高熱を出した慊人を放置して文化祭に行きたがるとは思えない。
兄さんは、中々会えない由希の診察をしなくてはいけないって言っていたけど。ぐれ兄の家に行けば、由希の診察はできるはずだ。
由希は気管支が弱くて、幼い頃はすぐ発作を起こしていた。成長するに従って由希の体は丈夫になったようだが、風邪をこじらせると発作を起こすので念の為に定期検診を受けている。
ところが由希は慊人がいる草摩の本家を疎んで寄り付かず、兄さんとの約束を破った。自分の体調管理は自分でできると、由希は己を過信しているんじゃなかろうか。
由希が定期検診をすっぽかしているから、兄さんが出向く必要があると言われたら納得はするけど。慊人が体調を崩した時に行かなくても、と思ってしまう。
兄さんが帰ったら、慊人や慊人の世話役が文句をつけてくるよ。それは兄さんだって予想しているはず。
抗議を受ける事を覚悟の上で、海原高校に行かないといけない理由でもあるのだろうか。
「Ankommen!(到着!) ボクがイチバンノリね!」
海原高校の近くで停車するなり、紅葉は後部座席のドアを開けて飛び出した。
慎重に行動しろって釘を刺したばかりなのに。僕と兄さんは急いで車から降りて、紅葉を追いかける。
「あの子、外国人かなぁ? めっちゃ可愛い」
「海外の子役か? あんな美少女見た事ねぇよ」
日本人の父とドイツ人の母の血を引く紅葉は、多くの生徒の注目を集めていた。
ウェーブのかかった金髪と明るい茶色の瞳を持ち、彫りの深い綺麗な顔立ちは天使のような純真無垢さを備えている。
中学3年生なのに小学生にしか見えない幼い容姿に引け目を感じる事なく、紅葉はそれを最大限に引き立てる可愛らしい装いを好んで選ぶ。
ピンクの花のコサージュを飾ったテンガロンハットを被り、ふわふわした素材で襟と袖と裾が縁取られたミントグリーンのジャケットを着て、ベージュのハーフパンツを穿いた姿。背負っている小振りのリュックサックは、女の子向けのデザインだ。
キュートなアイテムは紅葉の愛らしさを際立てるのに一役買っているけど、おかげで紅葉の事を少女だと勘違いした生徒が続出している。
「あの人、髪が真っ赤! でもかっこいい!」
「八神庵のコスプレか?」
僕の髪は真っ赤だけど、バンドマンっぽい格好はしてないぞ。
今日は白のシャツの上に黒のジャケットを着て、ワインレッドのチノパンを穿いて……ああっ、そうか! 服の配色が八神流古武術の遣い手っぽいのか。言われるまで気付かなかった。
「ねぇ、見て。向こうにいるスーツを着た背の高い男の人、すっごく素敵!」
「俳優かモデルじゃないの? 誰か、カメラ貸して!」
さすが兄さん、女子高生にもモテモテだな。
兄さんは切れ長の目と凛々しい眉がクールな印象を与える端正な顔立ちをしていて、瞳の虹彩の色は光の加減で紫にも見える深い青。視力がほとんど失われた左目を前髪で隠しているけど、他の部分の黒髪はすっきり短く整えている。
医者は体力勝負だから、草摩家の「中」にあるスポーツジムで体を鍛えているし、高い身長に比例して手足はすらりと長い。
白いワイシャツの上に黒のシングルベストを着て、青紫色のネクタイを締め、ベストと共布のトラウザーズを穿いた出で立ちはビジネスマン風だけど、容姿が整っているから俳優かモデルでも通用する。
兄さんは外見だけじゃなくて、内面も男前だけどな。無愛想で命令口調だから厳しくて怖い人だと誤解されてしまう事もあるけど、誠実で優しくて真面目だ。
おまけに大人の男の色気が感じられる渋いバリトンボイスの持ち主なので、仮病を使ってまで兄さんの診察を受けたがる草摩一族の女性が後を絶たない。
結論、僕の兄さんは世界一かっこいい!
「紅葉、スリッパに履き替えろよ」
昇降口で僕が声をかけたけど、紅葉は靴を履いたまま校内に入ってしまった。
几帳面そうな見た目を裏切って物ぐさな兄さんも土足で入ろうとしたので、呼びとめて来客用のスリッパに履き替えさせる。靴を入れるためのビニール袋を、念のために3枚持ってきておいてよかった。
「あーあ……早速、紅葉を見失った」
「由希と夾のクラスに向かったのだろう」
落ち着き払って答えた兄さんは、人混みを縫うように歩いていく。僕も異性にぶつからないように気をつけながら、校内を進む。
お祭り気分を盛り上げるため、校内放送で賑やかな音楽が流れていた。それぞれのクラスが教室を飾り付けて、喫茶店にフランクフルト屋、射的にプラネタリウムといった様々な模擬店を出している。
「ねぇ、占い部屋だって。入ってみようよ」
「え~。確かここって、1-Dの電波女がやっているって聞いたけど」
「電波使って人の心を読むって噂が本当かどうか、確かめてみない?」
すれ違いざまに聞こえた女子生徒の会話が気になったけど、兄さんはスタスタと先に進んでいる。追いかけないと。
由希と夾が在籍する1-Dの教室の前には、『おにぎり亭』の看板が出ていた。教室の中から、紅葉の軽やかなボーイソプラノボイスが聞こえる。
「ユキ、Mädchen(女の子)みたいだっ」
「紅葉、1人でうろつくなよ。それとスリッパに履き替えるんだ」
「よう。元気そうだな、由希。夾も」
僕と兄さんが教室に入ると、顔を赤らめた女子生徒が「きゃー!!」と叫んだ。
教室のあちこちで、「かっこいー!!」とか「かわいー!!」とか「由希くんの知りあいー!?」という甲高い声が飛びかう。
「Guten Tag!(こんにちは!) ボク、草摩紅葉。日本とドイツの半分コ! で、こっちは草摩はとり。こっちは草摩建視。ボクら、ユキとキョーのゴシンセキなんだよ!」
社交的な紅葉が、僕と兄さんの分まで自己紹介をしている。僕はというと、約9ヵ月振りに会う由希に目を奪われてしまった。
由希の濃灰色の髪は相変わらず、慊人の髪と大体同じ長さに整えられていた。中性的で端麗な容姿は女子と見まごうばかり。
というか、今の由希は美少女にしか見えない。子憑きの従弟はフリルやリボンがあしらわれた、可愛らしいピンクのワンピースを着ていた。
……なんで1人だけ女装してんの? 客寄せの演出か? 由希は美麗な女顔にコンプレックスを抱いていたから、自ら進んで女装をするとは思えないんだけど。
ま、まさか……。本家から出て生活するようになった由希は、抑圧されていたパトスが解き放たれて、新たな世界に目覚めたんじゃ……。
「由希……
「違う!!」
濃灰色の目を尖らせて怒った由希から、全力の否定が返ってきた。
あー、よかった。由希が本当に女装趣味に走ったら、慊人が荒れるよ。
「由希、この服はどうやって脱がすんだ?」
兄さんが紛らわしい発言をしたから、近くにいた生徒達が兄さんと由希は恋人関係だと誤解してしまった。嬉しそうな顔をしている女子達は……腐ってやがる。
どよめく周囲を余所に、兄さんは聴診器を出して由希の診察を始めた。
兄さんって何気にマイペースだよな。傍若無人な同い年の従弟2人に振り回された結果、兄さんも我が道を往くタイプになったのかもしれない。
「草摩君……っ。どこか具合が悪いのですか?」
エプロンをつけた小柄な女子生徒が気遣わしげに、由希に声をかけている。
「きみが本田透君か?」
「あ……はいっ。初めまして」
兄さんが問いかけると、本田さんはぺこりとお辞儀をした。
少し茶色がかった黒髪を背中まで伸ばし、焦げ茶色の目はくりっとしている。純朴そうな雰囲気が可愛いけど、並外れた美貌の持ち主って訳じゃない。
紅葉がとっても可愛いって言うし、女好きなぐれ兄が自分の家に住まわせている女子高生だから、過度に期待してしまったようだ。
ひょっとしたら、紅葉は性格美人という意味で言ったのかもしれない。美形の兄さんに声をかけられても浮かれず、落ち着いた挨拶ができる女の子って中々いないよ。
「きゃああぁ!! だめだよ、屋台の上に乗っちゃあ!!」
甲高い悲鳴が響いた方向を見た僕は、とんでもない光景を目にした。屋台の上に土足で乗った紅葉が、大皿に載った売り物のおにぎりを勝手に食べてやがる。
「何やってんだ、このバカ!」
怒号を上げたのは、オレンジ色の頭髪が目を引く夾だ。
端正だけど鋭い顔立ちに加え、柄の悪さが不良っぽさに拍車をかけている。紅葉のやらかしに怒ってオレンジ色の吊り目を更に吊り上げているせいで、喧嘩中のヤンキーにしか見えない。
僕も紅葉を取り押さえに向かうと、卯憑きの従弟はおにぎりを食べながら屋台の上を素早く歩いて逃げた。おまえは観光地の店先を荒らす猿か! 兎のくせに!
「紅葉、屋台から降りろ!」
「ちょっとこっち来い、バカっ!」
屋台荒らしの上着を引っ掴んだ夾は、大きな布で区切られた教室の奥へと向かった。紅葉の説教は夾に任せるとして、僕は紅葉のやらかしの尻拭いをしないと。
「ごめんね、屋台を滅茶苦茶にしてしまって。紅葉が食べた分と、売り物にならなくなったおにぎりの代金を払うよ」
「ひゃうっ!? お、お代は結構です!」
「いやいや、お代はちゃーんと頂きますよ~」
革製のトートバッグから財布を出した僕が声をかけると、エプロンをつけた売り子の女子生徒は茹でダコみたいに顔を赤らめた。それを見かねてか、制服を着崩したチャラそうな見た目の男子生徒が代わりに応対する。
「えーと。紅葉君が食べたおにぎりと、ダメになったおにぎりは合計で5個だから、500円になりまーす」
僕が500円玉を差し出すと、チャラ男君は困ったように「あー」と声を出す。
「模擬店は現金じゃなくて、文化祭実行委員が正門の近くで販売している金券で支払う事になっているんだけど」
校舎に向かう紅葉を追うのに必死で、気付かなかったよ。
僕が「困ったな」と呟いたら、それを聞き取った女の子達が「私が持っている金券をあげる!」と申し出てくる。
タダでもらうのは悪いからお金を渡そうとしたら、金券をくれた女の子達に「余り物だからお金はいらないよ」と言われた。チャラ男君の羨望の視線を浴びつつ、僕はもらった金券で代金を支払う。
「建視君の手に触っちゃった!」
金券を譲ってくれた女の子の1人が嬉しそうに言った瞬間、我も我もと女の子達が僕の処に押し寄せてくる。
うわぁ、グイグイくるなぁ。共学の女子って男子との交流に慣れているから、異性との距離感が近いのか?
僕は異性に抱きつかれないように距離を取りながら、少し離れた処で由希と会話する兄さんに視線でSOSを送った。悲しい事に兄さんは気付いてくれない。
……由希はなんで兄さんを睨んでいるんだ? ひょっとして、兄さんが本田さんの記憶を隠蔽しに来たと疑っているのか?
物の怪憑きの正体が部外者に知られた場合、本来なら兄さんが即座に隠蔽術を施す。
だけど慊人は何を考えたのか、草摩家の秘密を知った本田さんの記憶を剥奪せず、ぐれ兄の家に同居する許可まで出した。
気が変わった慊人の密命を受けて、兄さんが本田さんの記憶を隠蔽しに来た可能性はあるけど……。
ボンッ!
教室を区切る布の向こうで、小規模の爆発のような音が響く。
さっきの音は、物の怪憑きが変身する際に発する音によく似ている。嫌な予感を覚える僕を余所に、1-Dの生徒が間仕切り布をカーテンのように開けた。
おーまいがっ!
尻餅をついて呆然とする本田さんの膝の上によじ登っているのは、どう見ても淡黄色の毛並みの兎ですハイ。
本田さんの近くにいた夾は、信じがたい出来事を目の当たりにしたように、顔を盛大に引きつらせている。
夾の反応を見て、僕は察した。何らかのアクシデントで変身してしまった訳じゃなく、紅葉が本田さんに抱きついたのか。あんにゃろう。
「これって紅葉君の服だよね? 紅葉君はどこ?」
「何そのウサギ……どこから?」
「この状況は変すぎだ。何とか言えって、本田さんっ」
まずいな。僕がこの場を逃れる言い訳を探していたら、冷や汗をかいた由希が「……変?」と呟いた。
「それなら俺だって……変だよ。だって男のくせにこんな……やっぱり似合わないよね……」
恥じらうように頬を染めた由希は、軽く握った拳を顎近くに添えるぶりっ子ポーズを取った。
由希……いつだったか君に「女男」と言った事を謝るよ。君は
「バッキャーロー! おまえは最高だ、草摩ー!!」
「もうどっから見ても女にしか見えねぇって」
1‐Dの生徒達が由希の傷口に塩を塗り込むような励ましの言葉を掛けている隙に、本田さんが兎に変身した紅葉を抱いて走り去る。見事な連携プレーだ。
僕と兄さんは紅葉が身に纏っていたものを回収して、物問いたげな女の子達を笑顔でかわしつつ、教室を後にした。
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03「いらっしゃい……」
1‐Dの教室から立ち去った
今日は文化祭だから、家庭科室や生物室なども室内部の展示用に使用されているはず。2人は人気のない屋上に向かったんじゃないかと見当をつけて、僕と兄さんは階段を上った。
予想は当たっていたようで、淡黄色の毛並みの兎を抱っこした本田さんを屋上で発見。ひと足先に駆けつけた
「このクソガキ、自分のした事わかってんのかっ」
「紅葉は反省しなきゃいけないけど、夾こそ自分のした事わかっているのか?」
言葉尻を捕らえた僕は、こう言ってやろうとした。夾が周囲の人に何も告げずに行方を晦ましたせいで、従姉弟たちが心配したんだぞ、と。
けれど、血相を変えた夾が詰め寄ってきて僕の胸倉を掴み上げたから、僕は言葉を続ける事ができなかった。
「おまえ、師匠の私物から残留思念を読んだのかっ!?」
「……読んでないよ」
夾は僕の胸倉から手を放したけど、オレンジ色の鋭い瞳に疑惑と恐怖を浮かべている。
他人に知られるとまずい事をやらかしたのか? 僕と兄さんに害が及ばなければ夾が何したって構わないけど、露骨な疑いの目を僕に向けるのはやめろ。兄さんが悲しむ。
気まずい沈黙が漂ったその時、
屋上にいた面々の様子がおかしい事に由希は気付いたようだが、それには触れずに「紅葉、気をつけなきゃだめだろ?」と注意した。
「紅葉は1週間の外出禁止だ。さあ、そろそろ帰るぞ」
兄さんが帰宅を促すと、兎形態の紅葉は「ボクまだトールとお話ししたい!」と主張する。屋台に登ってタダ食いした時点で、紅葉の強制送還は決定事項だ。
「由希と夾はそこに並べ」
兄さんに急かされて、由希と夾は怪訝そうにしながらも言う通りにした。
互いに不倶戴天の敵と見做しているあの2人が、普通に並んで立っている……だと!?
以前は顔を合わせるたびに、流血沙汰の喧嘩を繰り広げていたのに(規格外の強さを誇る由希は、血を流した事はなかったけど)随分と丸くなったものだ。
「俺の質問に簡潔に答えるんだ。1+1は!」
「「2?」」
巧みに誘導尋問した兄さんは、いつの間にか構えていたデジタルカメラのシャッターを切った。
由希と夾のツーショット写真なんて激レアだ。
僕はそんな事を考えながら、自分のバッグから財布と携帯電話を素早く取り出してチノパンのポケットに押し込んだ。兄さんや紅葉と別行動を取る事が予想されるから、必要最低限の物は持ってないとな。
「
淡々と話しながら、兄さんは本田さんから兎形態の紅葉を受け取って、「じゃあな」と告げた。
ツーショットを撮られた由希と夾は呆然としていたけど、夾が我に返って怒号を上げる。
「はーとーりー! 待て、くらぁ! そのカメラを渡しやがれぇ!」
「兄さん、パス」
兄さんが放り投げたデジタルカメラを、僕は黒い手袋をはめた手で掴む。
「アリーヴェデルチ、さよならだ」
僕はブチャラティの真似をして、素早く立ち去った。紅葉の衣類を詰め込んだバッグや3人分の靴が入ったビニール袋は屋上に置きっぱなしにしたけど、兄さんが回収してくれるだろう。
階段を駆け下りて人通りの少ない廊下に向かおうとした時、夾が切羽詰まった声で呼びとめてくる。
「
普段なら「やーなこった」と応じる処だけど、師範の私物から残留思念を読んだか否かを問い質すつもりだろうと察したので、僕は立ち止まって話を聞く体勢を取る。
僕の正面に立った夾は、追い詰められたような表情で口を開く。
「……師匠の私物から残留思念を読んだのかって俺が言った事、慊人に報告しないでくれ」
「誰が何を言ったかなんて、いちいち慊人に報告しないよ」
慊人に付き従って任務に赴く事があるせいか、僕は慊人のお気に入りだと思われている。それは認識していたけど、チクリ魔だと思われていたなんて軽く落ち込んだぞ。
報告しないって言ったのに、夾は未だに疑いの目を向けてくるし。相手が由希だったら放っておくけど、夾には負い目があるからフォローしておくか。
「仮に僕が慊人に命じられて師範の処に赴いたとしても、師範の私物から残留思念は読めないよ。武術の達人である師範の勘の鋭さは、常人離れしているからね。僕が師範の私物をこっそり漁ろうとしてもバレそうだ」
師範とは、夾の養父である
夾は師範の事は信頼しているのか、あからさまに安堵していた。会話が成立する状態になったようだから、今度は僕のターンだ!
「次に旅に出る時は、楽羅姉に行き先を知らせていけよ」
「はぁ? なんで楽羅に行き先を知らせなきゃいけねぇんだよ」
「夾が楽羅姉に何も言わずに姿を消したせいで、僕は夾の居場所を知りたがる楽羅姉にずーっと追いかけ回されたのさ……」
僕が遠い目になりながら苦労を語ると、夾の顔色が若干悪くなった。
夾の帰還を知った楽羅姉は、真っ先にぐれ兄の家に押しかけたらしいからな。楽羅姉の過剰な
「迷惑料として、夾と由希のツーショット写真をもらうよ。楽羅姉と春に渡しておくからな」
「てめえっ! カメラを寄越しやがれ!」
「ふはははは! 楽羅姉を回避し続けた僕の逃げ足を嘗めるなよ」
人混みに紛れてしまえば、夾は俊足を発揮できまい。そう考えた僕は、人通りの多い下の階へと向かった。
▼△
Side:由希
「カメラ、取り戻したのか?」
「うるせぇな、だめだったよ!」
1-Dの教室に先に戻っていた夾は、苛立たしげに答えた。
建視の身体能力は夾より劣っているけど、それを補って余りある抜け目なさを備えている。単純な夾は、軽くあしらわれたのだろう。
俺が追いかけても、建視を捕まえられたかどうか。建視は昔から俺を嫌っているから、意地になって逃げそうだ。
――由希って本当に嫌われ者なんだね。
脳裏に刻まれた慊人の言葉が蘇った。
駄目だ、思い出すな。俺は暗い記憶を心の奥底に封じ込めてから、本田さんに声をかける。
「話が飛ぶんだけど……はとりと建視の事。もしまた彼らと会う時があっても、2人きりになるのは避けた方がいい」
「え!? どうしてですか?」
「その……昔、俺の正体がバレた事があるって話をしたよね」
俺が小学2年生の頃、友達と一緒に遊んでいる最中に鼠に変身してしまった事がある。初めて友達ができた喜びに浮かれて、女の子に注意を払う事を失念した苦い過去。
「その時、皆の記憶を隠蔽したのが、あのはとりなんだ。はとりが悪い訳じゃないんだけど……用心してほしい」
当時の俺は泣きながら「おねがい、けさないで」と頼んだけど、はとりは俺の哀願を聞き入れなかった。
物の怪憑きにとって慊人の命令は絶対だから、はとりも逆らえなかったのだろう。頭では理解していたけど、俺は心のどこかではとりを責めていた。
そんな俺の負の感情を、建視は感じ取ったのか。慊人の屋敷で俺が建視と偶然鉢合わせた時、付喪神憑きの従兄は敵意を剥き出しにして叫んだ。
――じぶんだけがツライと思ったら、おおまちがいだぞ。おまえのドジのせいでインペイしなきゃいけなくなった、兄さんだってツライんだ。おれの兄さんにメイワクをかけるな!
建視も夾と同じように俺を憎むと思っていたのに、いつの間にか露骨な敵意は向けられなくなっていた。
俺と建視は和解した訳じゃないから、付喪神憑きの従兄は今も俺に対して良い感情を抱いていないだろう。それなのにヘラヘラ笑いながら俺に接してくる建視は、腹に一物抱えた
建視は腹黒だけど人当たりがいいから、彼のまわりには自然に
「あ、の……草摩君?」
いけない、本田さんに心配をかけてしまった。俺は気を取り直して注意事項を話す。
「はとり以上に厄介なのは建視だ。あいつは……物品に宿る人の残留思念を読む力を持っている」
「ざんりゅうしねん、ですか? えと、それはどのようなものでしょう?」
「ごめん、解りづらかったね。建視は素手で他人の物に触れると、他人の記憶を知る事ができるんだ」
「あ……だから建視さんは、手袋をはめていらっしゃったのですね」
人が隠している事柄を暴く建視の力は草摩の中でも恐れられているから、打ち明けるのは少し躊躇ったんだけど。本田さんが気になったのは、建視の手袋か。
「建視は普段、手袋は外さない。でも慊人に……草摩の当主に命じられたら、建視は力を使って本田さんの弱みを探ろうとするかもしれない」
本田さんの顔に、驚愕と困惑が浮かんだ。
脅すような事は言いたくなかったけど、俺が常に本田さんの側にいて守れる保証はないので、用心してほしかった。
本田さんは物の怪憑きの俺達を気味悪がらずに受け入れてくれる優しい人だけど、他人を警戒する事をあまりしないから心配だ。
▼△
Side:建視
夾を撒いて模擬店を見て回っていたら、占い部屋が開かれている生徒指導室を発見した。電波とやらで本当に人の心を読めるとは思ってないけど、ちょっと気になるから入ってみよう。
「いらっしゃい……」
淡々とした声で出迎えた女子生徒は、妖しい美貌の持ち主だった。
とんがり帽子を被って襟付きの黒いマントを着ているから、彼女の神秘的な雰囲気が増している。占いと言えば魔女だから、それっぽい仮装をしているのだろうけど。
長い黒髪を三つ編みにして右肩に垂らした彼女は、僕をまっすぐ見つめてきた。
赤髪赤目という目立つ外見特徴を持つ僕を前にした女の子は大抵、好奇の目で見てくるんだけど、彼女の黒目がちな瞳からは感情が読み取れない。ぐれ兄のように自分の思惑を隠している訳じゃなく、彼女は茫洋として捉えどころがない。
接客に必要不可欠な愛想のあの字も見当たらない無表情も、占い部屋の魔女を演じる上でのキャラ作りだろうか。それとも素なのか。
僕はそんな事を考えながら、テレビアンテナのような物を持った女子生徒の対面に置かれた椅子に座る。あのアンテナ、何に使うんだろう。占いをするなら、水晶玉やタロットカードを使うんじゃないか?
それはさておき、何を占ってもらおうかな。電波で人の心を読めるのか、って単刀直入に聞いたら失礼だろうし。
「単刀直入に聞いても構わないわよ……」
「えっ……本当に僕の心を読んだのか?」
「電波で人の心は読めないわ……電波はいわば人間の思念のようなものよ……耳というよりも脳に直接響く言葉が、あたかも電波の如く……」
説明を受けたけど、意味が解らない。謎めいた言葉を並べ立てて己の神秘性を高めるのは、インチキ霊能力者がよく使う手法だ。
「疑うなら何か1つ、強く思い浮かべてみて……」
目の前にいる彼女が、僕から連想できないものがいいだろう。そう考えた僕は、兄さんの仕事着を頭に思い描く。
「白衣……」
言い当てられてギョッとする。いや、待て。今のは、まぐれだったかもしれない。
「もう1回頼んでいい?」
「いいわよ……」
僕はポルナレフのスタンドを思い浮かべた。女子には取っ付きにくい作品と言われているジョ○ョの知識があったとしても、僕がどのスタンドを選ぶかまでは解るまい。
「シルバーチャリオッツ……」
彼女の力は本物だ! 俄然、興味が湧いた。
「立ち入った事を聞くけど……そういう力を持っていると、大勢の人の中で生活するのが難しいんじゃないか?」
「力を制御できなかった頃は、外出するのが苦痛だったわ……聴きたくもない
僕も小さい頃、物に宿った残留思念を読む力の検証を行った際、地獄を見る羽目になった。
あの苦しみは誰とも共有できないと思っていたけど、僕と似たような精神感応系の力を持つ子と出会えるとは夢にも思わなかったよ。
同志を得たような気分になった僕は身を乗り出す。女の子に抱きつかれたらまずいという警戒心は、頭の隅に追いやられていた。
「君は自分の意志で力を制御できるのか?」
「ええ、そうよ……」
「どうやって力を制御できるようになったんだ?」
「パッとしてシュッて感じ……」
彼女は感覚派のようだ。質問を変えて詳しい説明を求めようとした時、ピン・ポン・パン・ポーンとチャイム音が響く。
『1-Dの本田
アナウンスを聞いた彼女は、「大変……透君が呼び出されてしまったわ……」と呟いた。
「君は本田さんの友達?」
「そうよ……貴方は透君を知っているの?」
「うん。さっき1-Dの教室に行って、本田さんに会ったよ。僕は草摩建視。由希と夾の従兄だ」
「そう……道理で貴方から、草摩由希や草摩夾と同じ妙な電波を感じるのね……」
十二支に纏わる事柄は思い浮かべていなかったのに。僕は思わずギクッとしたけど動揺を押し殺し、余計な事は考えずに話を逸らす。
「一緒に談話室に行ってみようか?」
頷いた彼女は帽子とマントを脱いで、アンテナと一緒に机の上に置いた。
誘っておいて何だけど、占い部屋は放っておいていいのだろうか。僕がそう聞いたら、彼女は「文化祭はもうすぐ終わるから平気よ……」と言った。
「そういえば、占いの代金を払っていなかったね」
「私は占っていないからお代はいらないけど、そこの店の焼きそばが食べたいわ……」
僕は1-Dの女子達から貰った金券で、プラスチック製のフードパックに入った焼きそばを1つ買って彼女に渡す。
彼女は割り箸を割ると、廊下を歩きながら焼きそばを食べ始めた。後で食べると思っていたんだけど。余程お腹が減っていたのかな。
「デザートが欲しいわね……」
あっという間に焼きそばを完食した彼女は、甘味処の模擬店をじぃっと眺めている。僕は4串入りのみたらし団子を1パック買った。
これを差し出したら彼女は食べ歩きを再開しそうなので、みたらし団子が入ったフードパックを渡す前に質問する。
「君の名前は?」
「私は
花島さんはそれ以上話を続けようとせず、受け取ったみたらし団子を食べ始めた。
今まで接した事のないタイプだから、どう対応すればいいのか解らない。会話の糸口を見つける前に、目的地に到着してしまった。
談話室には放送で呼び出された本田さんの他に、元の姿に戻って服を着た紅葉と、一服中の兄さんの姿もあった。
そしてもう1人、1-Dで見かけた人工的な色合いの金髪と薄い眉が特徴的な女子生徒もいる。彼女が着用している制服のスカート丈は、一昔前のスケバンのように足首まで届く長さだ。
「花島も来たか。男連れたぁ、やるじゃねぇか」
気安い話しぶりから察するに、彼女は花島さんと本田さんの友達らしい。全くタイプの違う3人がどういう経緯で仲良くなったのか、ちっとも想像できないよ。
「いやね、ありさったら……彼は私の客よ……色々と買ってもらったの……」
「花島さん、その言い方は誤解を招くから……」
「ボク、知ってるよ! それってエンコーって言うんでしょ」
おい、やめろ。外見だけは小学生の紅葉が
僕が即座に「違う!」と否定すると、吸いかけの煙草を灰皿に押しつけた兄さんがボソッと呟く。
「俺の育て方が間違っていたのか?」
「兄さん……冗談に聞こえないボケはやめてくれ」
「はとりさんと建視さんは、ご兄弟だったのですか!?」
ぱあっと明るい笑みを広げた本田さんが、助け舟を出してくれた。僕はこれ幸いとそれに乗っかる。
「そうだよ。僕と兄さんの面立ちはよく似ているだろ?」
「はいっ! はとりさんと建視さんは、お2人ともカッコイイです!」
「トール、ボクは?」
「紅葉さんはお可愛らしいですよっ」
本田さんは年下の紅葉にも敬語を使っている。その話し方が癖になっているのかな。
不満そうに唇を尖らせた紅葉は、「ボクにもカッコイイって言ってよーっ」と駄々を捏ね始めた。それを見た兄さんが席を立つ。
「それでは、また会おう」
「Bis bald!(またね!)」
紅葉はともかく、兄さんは仕事で忙しいのに本田さんとまた会うつもりなのか? 後で兄さんから話を聞こう。僕は本田さん達に「じゃあね」と挨拶して、談話室を後にした。
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04「ハリィは恋人がいたの」
ツツジ色のダッフルコートを着た
「そんなに疲れる道程だったか?」
玄関に立つ本田さんは何故か息切れしていたので、白衣姿の兄さんが不思議そうに問いかけた。
本田さんは呼吸を整えながら、「いっ、いいえ……っ」と返事をする。
紅葉は小柄だけど歩くのは速いから、置き去りにされかけて急ぎ足になったのかな。
「こっ、こんにちは。あの……手ぶらですいません……」
「余計な気を回すな。
「りょーかい」
「ケンがお茶を用意するの? ボクがやろうか?」
僕がお茶を淹れると渋いか薄いかどちらかにしかならない事を紅葉は知っているから、不安に思っているのだろう。その心配は無用だ。
「お手伝いさんが出かける前に、お茶を用意してくれたから大丈夫だよ」
そう答えてから僕は1人で台所に行く。普段ならお手伝いさんが最低1人は常駐しているけど、今日は正月の準備に駆り出されているため、全員出払っている。
台所のテーブルの上には、お盆に載った湯呑みと茶托が4客、銘々皿に載った個包装のきんつばが4人分、用意してあった。魔法瓶の中で保温されている作り置きのほうじ茶を湯呑みに注いでから、お盆を持って話し声が聞こえる客間へと向かう。
待合室と診察室を兼ねている板敷の客間には、折り畳み式のパーテーションやカルテを収納する棚が置いてある。僕は水色のテーブルランナーを敷いた座卓の上に、茶托に載せた湯呑みと銘々皿に載せたきんつばを置く。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
木製の高座椅子に腰掛けた本田さんは、既にコートを脱いでいた。黒のハイネックのカットソーと、淡いレモンイエローのハイウエストのミニスカートを合わせた私服姿だ。
「ほい」
「Danke!(ありがと!)」
背もたれ付きのベンチソファに胡坐をかいて座る紅葉は、自分専用のクリーム色のクッションを膝の上に確保していた。
「兄さんのお茶とお菓子は、診察机の上に置いていい?」
「ああ。……緑茶じゃないのか」
「ペットボトルの緑茶なら冷蔵庫に入っていたと思うけど。持ってこようか?」
「いや、いい」
キャスター付きの事務椅子に腰掛けた兄さんはきんつばを受け取り拒否したので、本田さんの対面に座っている紅葉に渡した。
「……とても静かですね」
「今日は『中』の人達、お正月の準備で奥の門にいるんだ。お正月ってみんなが集まる一大イベントだから、『外』の人も協力して大忙しだよ」
紅葉の話を聞いた本田さんは、不思議そうに首を傾げた。草摩家独自の「中」と「外」という用語の意味が、解らなかったのだろう。
僕は紅葉の隣に座ってから、本田さんの疑問に答える。
「本田さんが
「ええぇっ! そっ、それはすごい事です……!」
キョトンとした顔になった紅葉は「すごいの?」と疑問を発し、兄さんが「非常識ではあるな」と受け答える。
草摩の「中」での生活が当たり前だと思っていると、草摩家の非常識さに気付けないんだよな。
僕は師範の弟子兼秘書のみつ先輩に、「草摩家って忍者の隠れ里みたいだな」って言われるまで、遠縁も含めた親戚が1ヶ所に集まって生活するのは普通だと思っていたよ。
そういや師範は、いつになったら修行の旅から戻ってくるんだろう。などと思いながら、僕は説明を続ける。
「十二支にまつわる秘密を知る者達は、高い塀で囲われた『中』で暮らしている。以前はぐれ兄と
僕の説明に補足するように、兄さんが「逆に言えば」と言葉を受け継ぐ。
「十二支の秘密を知っているのは、一族の中でも少数の人間だけという事。そんな秘密を君のような赤の他人が知っているなど、とんでもない話だ。本来なら即、隠蔽処置を施すところなんだが、
隠蔽処置を担う兄さんは、現状の不自然さと危うさを誰よりも感じていたのだろう。兄さんは「それについて俺は俺なりに考え、ある答えも出した」と告げる。
「……君は
「え、あっ、はいっ、とても!」
「俺は出ていく事を勧める。これ以上、草摩に関わるな」
突然の拒絶の言葉にショックを受けたのか、本田さんは焦げ茶色の目を見開いている。
兄さんは本田さんのためを思って、苦言を呈しているんだけどな。突き放すような命令口調から、兄さんの気遣いを汲み取るのは難易度が高いか。
「紫呉はああいう奴だから何も言わないだろうが、物の怪に憑かれ続ける草摩家は君が考えるほど楽しいモノじゃない。奇怪で陰湿で、呪われている。いつか草摩と関わった事を後悔する前に、出ていけ。慊人は君を利用しようとしているんだ」
本田さんを利用しようとしているのは、慊人だけじゃないと思う。腹黒いぐれ兄が純粋な親切心で、草摩と無関係の本田さんを自分の家に住まわせる訳がない。
と、その時、玄関のチャイムが鳴った。
「急患かもしれないから俺が行く」
兄さんが退室すると、部屋に気まずい沈黙が下りた。
紅葉は診察机の上に置かれた写真立てをちらりと見てから、僕に視線を送ってくる。本田さんに
佳菜さんと長く接した僕が話すべきだろうけど、兄さんと彼女が深く傷ついた経緯は思い出すだけでも辛くて、冷静に話せる自信がない。
僕は紅葉に説明を任せて席を立ち、縁側に胡坐をかいて座る。診察机には優しく笑う佳菜さんの写真が今も飾られているから、彼女の話題が出ると何となく客間には居づらかった。
和風の造りとなっている中庭を眺めるともなく眺めていたら、紅葉が普段よりワントーン低い声で話し始める。
「……ハリィは恋人がいたの。カナっていって、ハリィの助手をしてて。とってもいい人で。ハリィとケンが物の怪に憑かれているのを知っても、構わないって笑っていた」
佳菜さんは小春日和のような女性だった。ちょっと天然が入っているけど屈託がなくて朗らかで、一緒にいると捻くれ者の僕まで温かい気持ちになれた。
およそ2年半前に佳菜さんと初めて会った日の事は、昨日の事のように憶えている。
――初めまして、建視君。私は草摩佳菜。同じ一族だけど私は草摩の『外』に住んでいるから、話をするのは初めてだね。今日から、はとりさんの助手として働く事になったんだ。よろしくね。
柔和な笑みを広げた佳菜さんは、握手を求めてきた。躊躇いなく差し出された手を見て、佳菜さんは僕の力を知らないんだなと思った。
盃の付喪神憑きの力を恐れる草摩の「中」の人達は、僕と接触するのを極力避ける。僕の父さんでさえ、僕に残留思念を読まれるのを嫌がって別居した。父さんが別居に踏み切った理由は他にもあるけど。
兄さんの助手として働くようになれば、そのうち佳菜さんは僕の力を人伝に聞いて、怖がって助手を辞める可能性が高い。
僕が抱いた懸念を兄さんに伝えたら、兄さんは「彼女は建視の力を既に知っている」と答えた。
驚いた僕は次に佳菜さんに会った時、疑問を直球でぶつけてみた。
――佳菜さんは俺が怖くないのか?
――建視君が力を使うのは、御当主様の命令を受けた時だけなんだよね? だったら、怖いとは思わないよ。それに建視君は好き好んで、残留思念を読んでいる訳じゃないでしょ?
僕をまっすぐ見つめてくる佳菜さんの澄んだ瞳に、怯えは見当たらなかった。
――ねえ。建視君は、雪が溶けたら何になると思う?
――は? 何だよ、いきなり。
――はとりさんにも同じ質問をしてみたの。建視君ははとりさんに面立ちがそっくりだから、もしかしたら同じ答えを言うかなと思って。
からかわれているのだろうか。そう思った僕は、兄さんが言いそうにない捻くれた答えを返した。
――土の上に積もった雪が溶けたら泥濘になるね。アスファルトの上に積もった雪が溶けたら、凍結道路になるんじゃないの。
――あははっ、建視君はリアリストだね。正解は『春になる』でしたーっ。
無邪気に笑う佳菜さんは裏表がなさそうに見えたけど、その時はまだ信用できない他人の範疇から出なかった。
善人のように見せかけておきながら、陰で悪事を働く者はいる。残留思念を読む力で人が隠している薄汚い面を知った僕は、他人を容易に信じてはいけないと学んでいた。
警戒心剥き出しな僕の素っ気ない態度にめげずに、佳菜さんはコミュニケーションを図ろうとしてきた。
人気のドラマやアイドルやスポーツ選手の話題を振ったり、手作りのお菓子を贈ってきたり。当時大流行していた1発ギャグを披露した時もあった。
――建視君は漫画が好きなんだよね? これは読んだ事ある?
佳菜さんが勧めてきたのは、『動○のお医者さん』という漫画だった。
ジャ○プとコ○コロ派の僕は、少女漫画を読みたいと思わなかったのだが。佳菜さんが「これはコメディ漫画だから面白いよっ。騙されたと思って読んでみて」と、しつこく……いや、熱心に言うので借りてみた。
借りた漫画を読んだ僕は、大いに後悔した。
少女漫画は全部、恋愛メインの甘ったるいストーリーの漫画という偏見を抱いていたせいで、名作に出会う機会をふいにしてしまった事に気付いたのだ。
それから僕は今まで読んだ漫画の感想を佳菜さんと語り合って、交流を深めた。
佳菜さんを完全に信用した訳じゃないけど、漫画を愛好する同志としてなら認めてもいい。僕がそんな風に思うようになったある日の夕飯時、兄さんが躊躇いがちに切り出した。
――建視、心を落ち着けて聞いてほしいのだが……。
――……もしかして、佳菜さんと男女の関係に……?
兄さんと佳菜さんの距離感が縮まったと感じていたので聞いてみたら、兄さんは軽く咳払いをして「まぁ、そういう事だ」と答えた。
――そういう事って、どういう事!? まさか、できちゃった結婚……?
――……建視は、俺が物事の順番を無視する不誠実な男だと思っていたのか。
怒りを滲ませた低い声で問い詰められ、僕は早口で「欠片も思っていません。言ってみただけです。ごめんなさい」と謝った。
――はぁ……とにかくだ、佳菜とは結婚を前提とした付き合いをしている。
滅茶苦茶モテるのに浮いた噂がなかった堅物な兄さんに、春が訪れた。
弟として祝福するべきだと頭では解っていたけど、兄さんの愛情を奪われる不安に駆られてしまう。
両親に愛されなかった僕にとって兄さんが与えてくれる無償の愛情は、太陽みたいに無くてはならないものだ。
だからといって2人の交際を反対したら、兄さんにお邪魔虫だと思われるかもしれないので、仕方なく認める事にした。
――えっと、おめでとう。
――祝ってくれるのか。
意外だと言わんばかりに、兄さんは深い青の瞳を見開く。
その反応を見て、気付かされた。兄さんの認識の中での僕は、佳菜さんとの仲を引き裂く小舅的ポジションにいた事を。否定できないけど悲しかったよ。
――兄さん、俺が反対すると思っていたの?
――……建視は小さい頃から、俺を慕ってくれているからな。俺が佳菜と交際すると知ったら、投げ遣りになって非行に走るのではないかと……。
――そんな事しないよ!
母親の再婚を認めたがらないマザコン息子かとツッコミを入れたくなったけど、この例えは皮肉が効きすぎていると思ったから心の奥底に封じた。
――はとりから聞いたよ。建視君は盃に変身するんだって?
佳菜さんは、僕の前でも兄さんを呼び捨てるようになった。
兄さんと佳菜さんの交際をまだ素直に認める事ができなかった僕は、必要以上に愛想よく笑って「そうだよ」と答える。
――人間が生物じゃないモノに変身するなんて、気味悪いだろ。
――うーん……変身した建視君を実際に見ていないから、何とも言えないなぁ。迂闊に変身すると危なそうだから、建視君をぎゅーって抱きしめる事はできないからね。
僕が変身した姿は見たくないと思っているなら、正直に言えばいいのに。そう思った僕は、不快感を隠さずに問いかけた。
――……なんで、俺が変身すると危ないって思うの?
――建視君が変身した時、打ち所が悪くてヒビが入ったり欠けたりするかもしれないでしょ。そうならないように対策を立てようっ。
――…………は?
――万が一の場合に備えて、建視君は普段から厚着をしていた方がいいと思う。でも、夏に厚着をするのはキツイよね。夏場の対策はどうしようってはとりに相談したんだけど、はとりは笑ってまともに取り合ってくれなくて……。
からかわれているのかと思ったけど、佳菜さんは大真面目だった。彼女は本気で僕を心配してくれている。僕は佳菜さんの事を良く思っていなかったのに。
佳菜さんは僕の敵意に気付いて戸惑いながらも、ずっと手を差し伸べ続けてくれていた。僕は自分の狭量さを情けなく思うと同時に、込み上げる喜びを噛み締める。
物の怪憑きじゃない人が、僕の事情を知った上で受け入れてくれるなんて夢にも思わなかった。
暗く閉ざされた
きっと兄さんも佳菜さんに救われたのだ。闇の中で見出した光を手放したくないと思ったのだろう。
それからしばらくして、兄さんが佳菜さんと結婚すると打ち明けてきた。
その頃には佳菜さんに対するわだかまりは無くなっていたから、僕は心から祝った。新婚夫婦の邪魔をしないように、紅葉の家に居候させてもらおうと考えていたのに……。
「――けど、アキトが怒った。すごく怒って結婚は反対だって許さないって暴れて、ハリィの目にケガさせてほとんど見えなくした」
慊人に結婚の許しを乞うために兄さんと佳菜さんが当主の屋敷に赴いた日、2人は心身共にボロボロになって家に戻ってきた。
兄さんは後遺症が残るほどの大怪我を負い、佳菜さんは錯乱状態に陥ってしまっていた。
慊人を制止しようとしたぐれ兄から聞いた話だと、慊人は佳菜さんに向かって「はとりの目が見えなくなったら、おまえのせいだ」と責め立てたらしい。
兄さんと僕は佳菜さんのせいじゃないと何度も言ったけど、慰めにはならなかった。
――建視君、ごめんね。私のせいで、取り返しのつかない事に……私ははとりの側にいたのに、あんな……ひどい怪我を……。わ、私は呪いも解けなくて、はとりを守ってあげる事もできなくて……ごめんね。私のせいで、本当にごめんね……。
自分を責め続けて心を病んでしまった佳菜さんは、兄さんの助手の仕事ができなくなった。佳菜さんが本家の一室で療養生活を送るようになった頃、慊人が兄さんに命じた。
愛する女性との大切な記憶を自分の手で奪わなくてはいけないなんて、どれほど辛いだろう。僕は誰かと深く愛し合った経験がないから、想像もつかない。
当時の僕は情けない事に、兄さんを気遣う心の余裕を持てなかった。盃の付喪神憑きである僕を受け入れてくれた佳菜さんから、僕と親しくなった記憶まで消えてしまう事が悲しくてやり切れなくて。
そんな事を言ったら兄さんが余計苦しむから口には出さなかったけど、他者の心の機微に敏感な兄さんは気付いていたと思う。
記憶を隠蔽された佳菜さんは見る間に回復し、兄さんの助手を辞めて草摩の「中」から出て行った。
以前のように笑えるようになった佳菜さんを見送った兄さんは、無言で涙を流していた。兄さんが人前で泣いた姿を見たのは、あの時が初めてだった。
「でも、ハリィはアキトを責めなかったよ」
「どうして……責めなかったのですか? はとりさんは辛くないはずないのに……」
本田さんの問いかけに、紅葉は暗い声で「それが呪いだから」と答えた。
神様と物の怪達は遠い昔に約束を交わした。幾度となく生まれ変わっても側に行く。離れない。遠くにいても会いに行く。永遠に一緒にいよう、と。
流石に何百年も前の記憶は残ってないけど、物の怪の血は約束をしっかり憶えている。
慊人は“神と十二支”の間には誰も断ち切る事ができない“絆”があると言っていたけど、当人がそれを重荷に感じたら、“絆”は
……だから、“絆”は呪いとも呼ばれる。
呪いに縛られているせいで、物の怪憑きは
自分の中の住むもう1人の
兄さんに怪我を負わせて佳菜さんに責任転嫁した慊人を責める事ができれば、佳菜さんの心の持ちようは変わったかもしれないのにできなかった。
「ボクもアキトが何考えているかはわかんないけど、ハリィの気持ちならちょっとだけわかるんだ。ハリィはもうカナみたいな
紅葉の脳裏に浮かんでいるのは、自分の母親だろう。マルグリットおばさんは
自傷行為に及ぶほど精神的に追い詰められたマルグリットおばさんを救うため、当時幼かった紅葉は母親の記憶から自分の存在が消される事を承諾した。
マルグリットおばさんは、紅葉の健気な心を最後まで知ろうとしなかったけど。
「あれ?! トール、泣いているの?」
紅葉の狼狽した声を聞いて、僕は客間を振り返った。高座椅子に腰掛けた本田さんが俯き、両手で顔を覆っている。
「ボクが泣かせちゃったの……? ごめん……ごめんね」
「違う……です。はとりさんがあんまり……優しい方だから……」
兄さんを憐れんで泣いているのかと思ったけど、本田さんは紅葉の話を聞いて、兄さんの解りづらい気遣いを察してくれたようだ。
足音が客間に近づいてきて、客人の対応を済ませた兄さんが戻ってきた。本田さんの泣き声を聞いて動揺したのか、兄さんは深い青の瞳を若干見開いている。
「私、皆さんと出会えてよかったです。もし、本当に何かに利用されて今の暮らしがあるのだとしたら、私はありがとうと言いたいです……」
「大丈夫ですよ」
軽薄な響きを帯びた低い声が聞こえた。深緑の羽織と黒の着物に身を包んだ
黒灰色の髪を無造作に伸ばしたぐれ兄は、退廃的な雰囲気を醸し出す艶やかな容姿の持ち主だ。ホント外面はいいんだよね、外面だけは。
「
胡散臭い笑みを浮かべたぐれ兄の言葉を聞いた瞬間、僕は反射的に「ダウト!」と叫んだ。
「随分なご挨拶だねぇ。けーくんは何を証拠に、僕を嘘つき呼ばわりするのかな?」
「ハゲている人を見かけたら『ツルツル』って言わないと自分も将来ハゲになるとか、風邪をひいた時は鼻にゴボウをさすと早く治るとか、慊人は吸血鬼だから肌が青白いとか、他にも色々数え切れないほど嘘を吐いたじゃないか」
「やっだな~。あれは嘘じゃなくてお茶目なジョークだよ、ジョーク」
すっとぼけやがって。兄さんは竜宮城の乙姫のペットだった過去を持つという、本人に知られたら激怒間違いなしの嘘を吐いた事をバラしてやろうかと思った矢先、本田さんが驚きの声を上げる。
「しっ……ぐれさん!? なっ、なぜここへ……」
「カンだよ、透君! 小説家たる者、第6感は鋭くないと!」
「嘘を吐くな。正月の準備の様子を見に来ただけだろう。あと慊人に会いに」
紅葉が「あの2人、ああ見えてマブダチなんだよ」と本田さんに話していたので、僕は「正確に言うなら腐れ縁だよ」と訂正を入れた。
「はーさん、心配性も度が過ぎるとハゲちゃうよ?」
「兄さんに心労を与えている張本人がよく言う……」
「あら、いやだ。はーさんの最たる心労の種になっているのは、けーくんだよねぇ?」
相変わらず人の痛い処を的確に衝いてくるな、この腹黒め。
兄さんが咎めるような声音で「紫呉」と呼ぶと、ぐれ兄は「はいはい、ゴメンネ~」と誠意が感じられない謝罪をした。
「話を戻すけど。慊人さんに悪意はないって何度も言っているのに、はーさんは少しも信用しないし、透君まで恐がらせて……ホントに出ていったらどうすんの?」
兄さんをさり気なく悪役にして、本田さんの信用を得ようとするぐれ兄は悪辣だ。
ぐれ兄に対する警戒を強めた方がいいと、由希ときに忠告しよう。……あいつらは僕の忠告を素直に聞き入れないか。
「あの、私……大丈夫です。心配してくださって、本当にありがとうございます。でも、まだ私はあの家で……」
本田さんの言葉を遮るように、兄さんが彼女の頭の上にデジタルカメラを置く。あのデジカメには、由希と夾の激レアなツーショットを撮影したデータが収まっている。
僕は文化祭から帰る道中にツーショット写真が欲しいと頼んだけど、兄さんに「2人の写真は取引材料にするからやれん」と却下されたのだ。
「忘れないうちに渡しておく。文化祭の時のカメラだ」
「え!? なぜですか!?」
「そういう取引だと言っただろう? 君がここに来るならば、このカメラを渡してやると」
反論したいのを我慢しているような本田さんの表情から察するに、兄さんは取引だと明確に言わなかったのだろう。
「本田さん、兄さんはマイペースな人だから大目に見て」
「は、はぁ……」
「それはそうと……まだ本田君を慊人に会わせていないか」
話を逸らすためか、それともマイペースな気質を発揮したのか、兄さんは出し抜けにとんでもない事を言い出した。
山の天気より機嫌が変わりやすい慊人に、本田さんを引き合わせるのはちょいと危険じゃないか。
本田さんも草摩家の当主と面会するのは、気が引けるみたいだし。慊人が兄さんの左目に怪我させたとか、本田さんを利用しようとしているとか聞いたら、そりゃ躊躇うよな。
「あ、ダメ。僕がさっき会いに行ったら門前払い。慊人さん、ゴキゲンナナメみたい」
ぐれ兄が余計な事をして慊人を怒らせたんじゃないか、と勘繰ってしまう。
戌憑きの従兄はおよそ1年半前に大問題を起こし、激怒した慊人に命じられて本家から追放された前科を持つ。僕はぐれ兄が何をやらかしたのか知らないけど。
追放という厳罰を下されるような事をしでかしたなら、普通の人なら気後れして本家に近寄れないと思う。
でも、ぐれ兄は心臓に毛が生えているから何事もなかったような顔をして、定期的に慊人に会いに行っている。
ぐれ兄との面会を慊人が拒絶しない処を見る限り、慊人の昔からのお気に入りというぐれ兄の地位は今も健在のようだ。
「気になさらないで下さい。それより……はとりさんと建視さんも、十二支のお仲間なのですねっ。何年なのですか?」
ぐれ兄と紅葉が揃って噴き出した。兄さんと僕の変身後の姿は、一部の十二支憑きの間で笑いの種になっているからな。
僕は気味悪がられるより、笑い飛ばしてもらった方がいいと思っているけど。兄さんは変身後の姿がコンプレックスになっているから笑うな、そこの犬と兎。
「いーい質問だ、透君! いやもうなんつーか、兄弟揃ってこれがまた笑えr」
「紫呉……4歳児からの貴様の恥ずかしい過去を、出版業界に流す……」
兄さんが殊更低い声で脅しをかけると、ぐれ兄は冷や汗をかきながら「ごめん、言えない!」と明言を避けた。ぐれ兄にも弱点はあるらしい。
「今日はすまなかった。……泣かせてばかりいるな、俺は」
泣かせてばかりいるという兄さんの言葉は、複数の人間を指しているように聞こえた。
兄さんが隠蔽術を施した事によって、大切な人との別れを余儀なくされて涙した人達――紅葉や由希、そして佳菜さんを。
他者の気持ちを汲み取る事に長けた本田さんも、兄さんが抱える罪悪感に気付いたようだ。
本田さんは気遣うような眼差しを兄さんに向けるかと思いきや、彼女は全てを包み込むような微笑みを浮かべる。
慈愛溢れるその姿は聖母のように見えるけど、本田さんは草摩の闇を全部理解して受け入れた訳じゃない。彼女はただ、自分以外の誰かが悲しい気持ちにならないように笑っているんだ。
……本田さんも佳菜さんと同じように、他人の気持ちを優先する人なのか。
由希と夾の関係が以前では考えられないほど落ち着いた事が不思議だったけど、本田さんのおかげかと納得した。
紅葉の母親の名前は独自設定です。
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05「いやぁぁぁっ!」
今日は大晦日だ。歴史ある
僕は十二支の正式な一員じゃないけど、遠い昔に神様と十二支が集った宴会の最中に盃の付喪神が誕生したからという理由で、特例として宴会の出席が認められていた。
皆で宴会を楽しむために特例が認められた訳じゃなく、宴会に出席できない仲間外れの猫憑きを更に貶めるためなのだから、草摩家の闇深さが窺い知れる。
兄さんは
広々とした玄関に入ったら、下駄箱の前で立ち話をする
「よう。春と楽羅姉は、なんでこんな所にいるんだ?」
「こんばんは、建ちゃん。私は
鈴を転がすような声で応じた楽羅姉は、肩口に届く長さの黒褐色の髪を下ろしている。僕より2つ年上だけど、童顔で可愛らしい容姿の持ち主だ。
……可愛らしいのは外見だけで、
「俺は夾に今年最後のファイトを挑む……」
朴訥とした口調で答えた
カラーリングしたりウィッグを被ったりしている訳じゃなく、春に憑く
春は男らしい精悍な顔立ちに加え、両耳合わせて計6つのピアスをしているせいか大人っぽく見えるけど、紅葉と同い年の中学3年生だ。
「
「春は夾とファイトするんだろ」
戦闘狂の気がある春とのバトルを避けたいからそう言ったけど、夾は帰省しないと思う。
夾の養父である師範は修行の旅からまだ戻ってないし、猫憑きの従弟が帰ったら感激した楽羅姉に半殺しにされるのは火を見るよりも明らかだ。
年末年始に夾が草摩の本家に寄りつく可能性は、お年玉付き年賀はがきの1等が当たる確率より低いと教えてあげるべきかもしれないけど。下手な事を言うと、亥憑きと丑憑きが暴走するかもしれないから黙っておこう。
「夾はまだ来ないから、肩慣らしに……」
「今日は勘弁してくれ。これから笛を吹くのに指を傷めると困る」
僕は持参した龍笛を入れた笛袋を掲げた。
宴会では、新年と旧年の十二支が舞いを披露するのが恒例だ。盃の付喪神の出番はないので、僕は7歳の頃から舞いの音楽を毎年担当している。
春は「そっか」と言って、大人しく引き下がった。
異性とぶつかるのを回避するための護身術として武術を習う僕とは違い、春は兄弟子の夾を打ち倒すという確固たる目標を掲げて日々鍛錬に励んでいるから、戦闘力の差が開いている。春と手合せしたらボロ負けしていただろう。
上手い事切り抜けられた、と僕が安堵してから数十分後。
「嘘でしょ!? 夾君が帰ってこないなんて……っ!」
ぐれ兄から夾の居場所を聞き出した楽羅姉は、「夾君のばかーっ!!」と叫びながら宴会が開かれる広間の襖を拳で殴った。
楽羅姉は熊を担ぎ上げた金太郎のような怪力の持ち主なので、パンチ1つで襖を真っ二つに割り、廊下まで吹き飛ばす結果に……。
ガラスの割れる音が聞こえたから、廊下の窓ガラスも犠牲になったと思われる。廊下を歩いている人がいなかった事は、不幸中の幸いだろう。
それよりも、だ。
よりにもよって、慊人が超絶不機嫌な時に暴れるなんて……っ!
心の中で悲鳴を上げたのは、僕だけじゃないと思う。
自分の屋敷の一部を破壊された慊人は、
僕らは戦々恐々としながら、半分巻き上げられた御簾の向こう側にいる慊人を見遣った。
予想に反して、慊人は罵声や怒号を発しない。
腹を立てていないという訳じゃなく、楽羅姉に構っていられないほど怒りを静かに煮え滾らせているようだ。くわばら、くわばら。
上座から慊人の怒気が漂ってくるせいで、年少組の物の怪憑き達――
仙女を連想する衣装を纏った杞紗は、舞いの担当なのだが大丈夫だろうか。同じく舞いを担当する
兄さんとぐれ兄が慊人を宥めているけど、焼け石に水といった感じだ。
上座に置かれた几帳の陰にいるはずの
「建視さん、楽羅ちゃんを制止して下さい! 私だけじゃ抑えきれなくて……!」
肩の下まで伸ばした赤味の強い茶髪をハーフアップにしてリボンを飾って、振り袖を着こなす上品な和装美女に見えるけど、利津兄は歴とした成人男性だ。
利津兄は身も心も女になりたいと思っている訳じゃなく、男の格好をすると萎縮してしまうから女装をしているらしい。弱気な利津兄にとって女性用の服は、自分の心を守る鎧のようなものなのだろう。
それより、楽羅姉を落ち着かせないと本当にまずいかもしれない。
黒褐色の目をギラつかせた楽羅姉は、「しーちゃんの家に今から乗り込んでやる……っ!」と口走っている。
僕は心の中で(鎮まれ、鎮まりたまえ)と念じながら、荒ぶる亥憑きに近寄って対話を試みた。
「楽羅姉、宴会を抜け出すのは流石にアウトだろ」
「でも、でもっ。夾君は今頃
「由希もぐれ兄の家にいるから、ラブは発生しないよ」
僕が由希の名を出した瞬間、慊人が殺気を飛ばしてきた。失言に気付いて冷や汗を流す僕を余所に、楽羅姉はヒートアップする。
「ゆんちゃんが一緒にいる確証はないでしょ! 初日の出を2人きりで見た夾君と透君が、なんかイイ雰囲気になっちゃったら……そんなの認めんぞ、ごらぁっ!!」
想像して激昂した楽羅姉は、近くにあった四つ脚膳をひっくり返す。僕は慌てて避けたけど、料理や皿が畳に飛び散って悲惨な事になっている。
「いやぁぁぁっ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごーめーんーなーさーいー!」
パニックスイッチが入ったのか、利津兄が泣きながら叫び出した。
「私の力が及ばなかったせいで、楽羅ちゃんがお料理を台無しにして慊人さんの屋敷の畳を汚してしまうなんて! 許して下さい、ご寛恕下さい、今すぐ掃除をします故! 世界中の皆様に謝りますから、どうか許して下さいぃぃ! ゆーるーしーてーk」
「ていっ」
僕が利津兄の弱点の左脇腹を小突くと、脱力した申憑きの従兄は畳に倒れ込んで静かになった。
今度こそ慊人は怒るだろうと思ったけど、上座で膝を抱えて座る慊人は何も言わない。
まさか、と僕はある仮説に思い至った。
当主である自分が怒りに我を忘れて醜態をさらす訳にはいかないから、暴れる楽羅姉やパニックに陥る利津兄を見て、憂さを晴らそうと思っているんじゃないか。
「この混沌とした雰囲気……大学時代の飲み会を思い出すねっ。はっはっはっ!」
高笑いしながら手酌で酒を飲む銀髪の美丈夫は、
広間の隅にいる
楽羅姉と年齢が近い女性の十二支憑きで、事情があって楽羅姉の家に同居中のリン姉の言葉になら、荒ぶる亥憑きは耳を傾けると思ったのにぃ!
……って、僕がちょっと目を離した隙に、楽羅姉が広間から抜け出そうとしていたよ。春が楽羅姉を取り押さえてくれたから助かった。
「春ちゃん、放してっ!」
「いい加減にしろよ……俺だって夾とファイトし損ねてイラついてンのに、楽羅姉だけ抜け駆けするなんて許さねぇぞ」
キレた春の人格が切り替わって、ブラック春が降臨してしまった。あーあ、どうするんだよ。宴会どころじゃなくなるぞ。
「それじゃ、春ちゃんも一緒に今からしーちゃんの家に行こっ!」
怒りを溜め込んだ慊人が、問題発言をした楽羅姉を睨みつけた。本格的にまずい。僕は覚悟を決めて立ち上がる。
「楽羅姉と春に告ぐ! 宴会を中座したければ、僕を倒してからにしろ!」
「おもしれぇ。準備運動代わりに、建視を叩きのめしてやる」
「建ちゃんは私と夾君の愛を阻むのっ? 容赦せんぞ、くらぁっ!」
ブラック春とバーサーカー楽羅姉を大人しくさせるためには、この技を使うしかない……っ。
「くらえ、ハイドロポンプ!」
みずタイプのポ○モンの必殺技っぽく叫んだけど、水差しに入った水を楽羅姉と春にぶっかけただけである。
「……冷たい」
顔がびしょ濡れになった春は静かに抗議してきた。ホワイト春に戻ったかと安堵する間もなく、頭から水をかぶった楽羅姉が「ひどいよ~っ!」と泣き声を上げる。
「ケン、女の子にひどいコトしちゃダメなのよっ。めっ!」
「楽羅お姉ちゃん、かわいそう……」
「暴走寸前の2人を止める必要があった事は解るけどさ。真冬に人に水をかけたら、風邪をひくとか思わなかった訳? 建兄はオレより5つ年上なんだから、もっと分別ある行動をとってよ」
「いやぁぁぁっ! 女性に水をかけて泣かせた最低な人間にさせてごめんなさいぃ! 建視さんの非道が草摩中の噂になって歴史書に記されて、後世まで語り継がれてごめんなさいぃっ!」
「女泣かせとは悪い奴だね、ケンシロウっ!」
「女の子を泣かせるなんて、けーくんってばサイテー」
「……くそったれ」
十二支憑きの大半から一斉に非難されて、僕はショックを受けた。
兄さんは何も言わなかったけど、「何をやっているんだ、おまえは……」と言いたそうな呆れた眼差しを向けてくる。
「う……うわーん! 助けて、アキえもーん!」
僕は泣き真似をしながら上座に駆け寄った。慊人は「誰がアキえもんだ」と言って、由希が座るはずだった座布団を僕に投げつける。
スピンのかかった座布団を顔面で受け止めた僕は「ふごっ!」と呻き、よろけながら畳に倒れた。道化を演じるのも楽じゃない。
荒れに荒れた宴会は、元日の朝7時頃にようやく終わりを迎えた。
「……兄さん、時間が空いたら初詣に行こうよ。今年は平穏に過ごせますようにと、祈っておきたい」
「俺達が他の神に祈ったら祟られそうだ」
慊人の機嫌取りに明け暮れて疲労の色が濃い兄さんは、シャレにならない発言をした。お疲れさまです。
▼△
1月3日の昼頃、兄さんと僕は徒歩で行ける小さな神社に向かった。
移動に車を使わなかったのは、1ヶ月近く草摩の「中」から出ていなかった兄さんが、街の空気に触れて気分転換したいと言ったからだ。
初詣をした帰り道。黒のトレンチコートに身を包んだ兄さんと、黒のナポレオンコートを着た僕は住宅街の閑散とした道路をぶらぶらと歩いた。
「兄さん、そろそろ髪を切りなよ。前髪と襟足が伸びて、ぐれ兄みたいなだらしない髪型になっているぞ」
「え…………?」
兄さんは、人間失格を言い渡されたような絶望の表情を浮かべた。しまった、例えが悪すぎたか。
「いや、その……兄さんが年末にかけて、殺人的に忙しかった事は知っているよ。髪を伸ばしたくて伸ばした訳じゃない事もね」
「…………慊人に切るなと言われたんだ」
うわ、出た、慊人の無茶振り。
問題を起こしたぐれ兄が本家から追放された直後、僕は慊人に命じられて自分の一人称を“俺”から“僕”に変える羽目になったが、それと同レベルの理不尽さだ。
慊人がなんで一人称変更命令を出したのか考えてみたところ、ぐれ兄の代替品を求めていたからじゃないかという嫌すぎる結論を導き出してしまった。
多分、今回も同じような理由で兄さんに散髪禁止を命じたのだろう。……僕が余計な事を言ったせいで、兄さんもそれに気付いちゃったみたい。
「兄さん、ごめん……」
「……気にするな。髪を切るタイミングを逃した俺にも責任はある」
僕と兄さんが揃ってどんよりと沈んでいたら、聞き覚えのある澄んだ声に呼びかけられる。
「はとりさん! 建視さん!」
ツツジ色のダッフルコートを着てピンク色のマフラーを巻いた
罪悪感で押し潰されそうな心境の時に、偶然出会うなんて……地獄に仏とは正にこの事。
「あけましておめでとうございます!」
本田さんが新年を祝う挨拶を朗らかに述べたので、僕は心の中で首を傾げた。ぐれ兄から聞いた話だと、本田さんは去年の5月に母親を亡くしているんじゃなかったか?
喪中云々を指摘して本田さんの心の傷を抉るような真似はしたくないから、僕は普段通りに笑って「おめでとう」と返した。
「……おめでとう」
ローテンションで挨拶した兄さんは、陰鬱な雰囲気を纏ったままだ。なにか兄さんの気を紛らわす話題はないか!?
「えっと、そうだ、由希と夾は一緒じゃないのか?」
「はい。草摩君と夾君は、御本家に挨拶に行くと言っていましたよ!」
本田さん、それ嘘だから。
由希は慊人の怒りが冷めない内に、ノコノコ会いに行くような真似は絶対にしない。夾も楽羅姉に半殺しにされたくないから、草摩の本家に近づかないだろう。
「本田さんは1人でどこへ?」
「お友達と初詣に行ってきましたっ」
「はとりさんと建視さんは、お買い物ですか?」
「いや、僕と兄さんも初詣に行ってきたんだ」
「ご一緒に初詣されるなんて、はとりさんと建視さんはとても仲がよろしいのですね……っ」
あっ、と弾んだ声を上げた本田さんが不意に上を向く。つられて僕も曇り空を仰ぐと、ちらちらと冷たいものが舞っていた。
「雪か……今日は冷えるなあと思ったら……」
僕はそう呟きながら、不意に生じた陰鬱な気持ちを胸の奥に押し込んだ。雪は好きじゃない。兄さんが佳菜さんの記憶を隠蔽した日も、雪が降っていたから。
兄さんも辛い思い出を呼び起こされているかもしれない。うぅぅ……なんでこんな時に雪なんか降るんだよ!
「ふふ。はとりさんや建視さんと初雪を見るなんて、何だか不思議です……ひゃ?!」
天気を呪っていた僕は、悲鳴を上げた本田さんに対してリアクションを起こすのが遅れた。
転びそうになった本田さんを、兄さんが後ろから抱きとめる形で助けた瞬間。
ボンッ!
小規模な爆発に似た音が響いて、物の怪憑きが変身するとき特有の煙が発生する。兄さんが着ていた衣類がアスファルトの道路に落ちて、その脇に本田さんが倒れ込んだ。
「本田さん、大丈夫?」
「わ、私は何ともありません……それより、はとりさんが……」
僕が兄さんの服を探ると、体長8センチの竜の落とし子を見つけた。
変身した兄さんを指で軽く突いたけど、反応がない。本田さんを抱きとめた際、電柱に頭をぶつけて気絶したようだ。
「水ー!! いえ、かっ、海水!? 水!? どちらですか、建視さん!」
「竜の落とし子は海水魚だけど、兄さんは物の怪憑きだからか、変身しても陸上で問題なく活動できるよ。それにしても……」
くくっ、と思わず笑いがこみ上げてしまう。
……佳菜さんを思い出して笑ったのは、久しぶりだな。
感慨に浸るのは後回しにして、移動しよう。
幸いな事に今この場には僕達の他に人はいないけど、いつ誰が通りかかるか判らない公道のど真ん中で、兄さんが元の姿に戻るのを待つ訳にはいかない。
「本田さん、悪いけど兄さんを運んでくれる? 本田さんに触れられていれば、兄さんは元の姿に戻る事はないから」
「は、はいっ!」
本田さんは手袋をはめた両手で、竜の落とし子形態になった兄さんをそっと掬い上げる。僕は兄さんの衣類を適当に丸めて片腕に抱え、大きな革靴を片手で持った。
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06「おめでとう」
Side:
私の不注意のせいで、はとりさんが変身してしまいました……。
いつまでも落ち込んでいたら、
「
「あ、はいっ」
「兄さんは変身した姿を気にしているから、笑わないであげてね」
「えっ、私はおかしいなんて思いませんよ。驚きましたがとても可愛いですし、辰年の方が竜の落とし子に変身なさるのは意外性がありますっ」
あ、あれ!?
建視さんが苦笑いを浮かべていらっしゃいます。私は何か、まずい事を言ってしまったのでしょうか……?
「本田さん、大の男に可愛いは禁句だよ」
あ゛あ゛!
私はどうして学習しないのでしょう。男が可愛いと言われても嬉しくないと、草摩君もおっしゃっていましたのに……。
「もっ、申し訳ありません……!」
「そんな謝るほどの事じゃないよ」
私の軽率な発言を笑って許して下さるなんて、建視さんは寛大で優しい
「ちなみに、僕に憑いているのは……」
「あっ、待って下さい。せっかく出会えた十二支のお1人ですので、建視さんが何年の方なのか、じっくりゆっくりワクワク考えてみたいですっ」
「和むわー……
小声で呟いた建視さんは、どこか遠くを見ていらっしゃいます。柘榴の実のような赤い瞳が、心なしか虚ろになっていらっしゃるような……。
はとりさんはあまり表情を変えない方ですが、建視さんは表情豊かで親しみやすい方です。
私のお母さんが“赤い蝶”と呼ばれていたので、赤髪赤目を持っていらっしゃる建視さんには、勝手ながら親近感を抱いてしまいます。
「僕に憑いている物の怪を推理するのは難しいと思うから、ヒントをあげる。ヒントその1、僕は十二支の一員じゃない」
「え……っ!? 猫さんの他に、宴会に行けなかった動物さんがいらっしゃったのですか?」
「動物の物の怪憑きは全員で13名だから、宴会に行けなかったのは猫だけだと思うよ。という訳でヒントその2、僕に憑いているのは動物じゃない」
動物ではない……?
そういえば私が草摩君たちの秘密を知った時、
――そして草摩には、あと11人憑かれている者がいる。牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿、鳥に猪……一般的に知られている十二支の昔話に出てこない奴が1人いるけど、大体は十二支と同じさ。
十二支の昔話に出てこない方は、建視さんだったのですね。謎が解けてスッキリした時、建視さんが躊躇いがちに話しかけてきます。
「……あのさ。本田さんに聞きたい事があるんだけど」
「はいっ、何でしょう?」
「人間が生物じゃないものに変身するって聞いたら、引く?」
「生物じゃないもの……もしかして、それが3つめのヒントですかっ?」
「そうだよ」
緊張した面持ちで私の反応を窺っていらっしゃった建視さんは、安堵したように表情を緩めました。ひょっとしたら建視さんも、変身した姿を気にしていらっしゃるのかもしれません。
「付喪神って知ってる?」
「えと、知らないです。初めて聞きました」
「長い年月を経て使われた道具には魂が宿って付喪神になって、ひとりでに動き出すって言い伝えられているんだよ。例を挙げるなら、唐笠お化けや提灯お化けみたいなものかな」
お、お化けと言われますと、恐怖を感じてしまいますが……勝手な思い込みはいけません! 建視さんは、怖いお話をしている訳ではないのですから。
ダイジョウブデス。ドントコイデスヨ!
「僕に憑いているのは、付喪神なんだ。草摩家に伝わる十二支の昔話によれば、神様が宴会芸のノリでさか……ある食器に命を吹き込んだと言われている」
お箸の付喪神さんでしょうか。それともお皿の付喪神さんでしょうか。宴会では沢山の食器が使われていたと思いますので、特定するのは難しそうです。
「食器に命を吹き込むなんて、神様はすごいですね……っ。きっと神様は楽しい宴会の思い出として、大切な食器さんをずっと側に置いておきたいと思ったのでしょうね」
私が想像した事を口に出しますと、建視さんは首を左右に振って「いや、それはないよ」と否定なさいます。
「草摩に伝わる十二支の昔話では、神様と12匹の獣は宴会が終わるとそれぞれの住まいに帰った。でも、付喪神は宴会の会場に取り残されたんだ。ただ単に放置された訳じゃなくて、1日遅れで宴会の会場にやってきた猫に、『宴会は終わったよ』って告げる役目を担っていたけど」
建視さんは話しながら、自嘲めいた笑みを浮かべていらっしゃいます。
宴会の会場に取り残された付喪神さんは誰にも必要とされていない存在で、それは建視さん自身も同様だと物語っていらっしゃるようで……。
「……置いていかれるのは……とても寂しくて……とても怖くて……とても悲しいです……」
私のお父さんが亡くなった後、お母さんが家を出て長い時間帰ってこなかった時がありました。
お母さんはお父さんに呼ばれて行ってしまうと思ったら、当時の私は足元から世界が崩れていくような恐怖を覚えて――。
今でも思い出すだけで、胸がぎゅうっと締めつけられて目の前が真っ暗になります。
私の頬にそっと触れるものを感じて、暗い処に沈んでいた意識が浮上しました。
「本田さん、大丈夫……?」
建視さんが私の頬に手を当てて、私の顔を覗き込んでいらっしゃ……ひええぇ! おおお、お顔がっ! ち、近いです!
「だ、だっ、大丈夫ですっっ」
「そう……? 無理してない?」
「無理などしていませんです!」
建視さんの涼やかに整ったお顔を間近で拝見して、私の心臓は普段より活発に動いていますけど。草摩君もそうですが、建視さんも綺麗すぎて動揺します……。
「本田さん、ありがとう。付喪神を思いやってくれて」
「あ、えっと、それは……」
思いやったと言うより、私の過去と付喪神さんを勝手に重ねてしまったのです。
「昔話の付喪神と僕は別物だと解っているけど、気にかけてくれる人がいると救われる思いがするよ」
救われるとおっしゃいましたが、建視さんの笑顔には憂いがあるように見えます。
草摩の方達は物の怪憑きであるが故の悩みも抱えていらっしゃるので、その苦しみや悲しみは深く、私の理解が及ばないほどです。
ですが、解らないからと言って関わるのを止める事はしたくありません。
昔を思い出して沈んだ私を気にかけて下さった建視さんの優しさに、いつか応えたいです。
▼△
Side:建視
公園を見つけたので、そこで落ち着く事にした。元日で雪がちらつく寒さだから、公園に訪れている人は僕達しかいない。好都合だ。
すのこ状の屋根がついた簡易休憩所に向かい、竜の落とし子形態の兄さんを木製のベンチに置いて目覚めを待つ。
程無くして、小規模な爆発音と煙が上がって兄さんが人間の姿に戻った。
「……寒い」
意識を取り戻した兄さんは開口一番、そう呟いた。トレンチコートをかぶせて露出を防いでいるけど、今の兄さんは素っ裸だから寒くて当然だ。
「見たのか?」
「いえ、私は見ていません!」
「兄さん、主語が足りないよ」
顔を真っ赤にして全力で否定する本田さんは、兄さんの裸を見たのかという意味に受け取ったと思う。
「俺の十二支……」
「あ……はい……」
深々と溜息を吐いた兄さんは、片手で顔を覆ってしまった。
これは立ち直るまで少し時間がかかりそうだ。しばらく1人にしてあげよう。僕は本田さんを誘って飲み物を買いに行く。
「本田さんは何が飲みたい?」
僕は問いかけながら、財布から出した500円玉を自動販売機の硬貨投入口に入れた。
本田さんが飲みたいと言ったホットミルクティーのボタンを押した時、数名の女性の話し声が近づいてくる。
えっ? この声って、もしかして
公園にやってきた3人の女性は、兄さんがいる休憩所に向かおうとしている。あの中に佳菜さんが本当にいて、兄さんと顔を合わせたらまずくないか?
兄さんから聞いた話だと、隠蔽術は催眠術のようなものらしい。特定の記憶を脳内から完全に消去する訳じゃないから、隠蔽術は重ねがけをしないと何かの拍子で思い出す事があると聞いたぞ。
重ねがけを施されていない佳菜さんが兄さんと対面すると、心を病んでいた頃の辛い記憶が蘇ってしまうかもしれない。内心で大いに焦る僕を、本田さんが気遣わしげに見上げてくる。
「建視さん、どうかなさいましたか?」
「いや、その……女性の声が聞こえたから、着替え途中の兄さんと鉢合わせたらまずいよなって……」
「それは……っ! 大丈夫です、建視さん。はとりさんは、着替え終わっていますっ」
3人の女性達はお喋りに夢中になっていたから、休憩所にいる兄さんに気付かなかったようだ。
よかった、と答えてから僕はホットミルクティーの缶を本田さんに差し出す。
本田さんは代金を払おうとしたので、「兄さんをここまで運んでくれたお礼だから、お金はいらないよ」と告げた。
「お礼だなんて……はとりさんは、私のせいで変身なさってしまったのに……あのっ、建視さん、どうもありがとうございます……っ!」
ホットミルクティーの缶を受け取った本田さんは、ぺこりと頭を下げた。
缶飲料を奢った程度で丁重に感謝されると、何やら居た堪れなくなるのだが。兄さんを運んでくれたお礼だけでなく、お詫びも兼ねているから尚更。
僕が深く考えずに取り残された付喪神の話をしたせいで、本田さんのトラウマを刺激してしまったようだから。
本田さんは両親を亡くしているらしいから、置いていかれる事を恐れているのだろう。でなければ、あんな感情が抜け落ちた虚ろな表情は見せない。
僕は自分が飲む温かい甘酒と、兄さんの分の温かい緑茶を買って、本田さんと一緒に休憩所へと引き返した。
ベンチに座った兄さんは微かな笑みを浮かべて、遠ざかる女性達の背を見送っている。
「……おめでとう」
「何が、おめでとうなのですか?」
本田さんが質問すると、兄さんは笑みを消して「何でもない」と答えた。
これは……何かあったな。僕は確信を抱きながら、無言で緑茶の缶を差し出す。
緑茶の缶を受け取った兄さんは僕を見つめてから、本田さんに視線を移して口を開く。
「……本田君は、雪が溶けたら何になると思う?」
以前、佳菜さんが同様の質問をした。それを今、投げかけてきたという事は。兄さんはやっぱり佳菜さんとすれ違ったようだ。
佳菜さんが兄さんに気付かなかった事は、安堵するべきか悲しむべきか。それはそうと、さっき兄さんが呟いた「おめでとう」が気になる。
仕事で成果を出したとか栄転したとか、祝いの言葉を告げる状況は多々あるけど。佳菜さんは結婚するんじゃないか、という予感がある。
「えっと、そうですね……あっ、春になりますね……! 今はどんなに寒くても、春はまたやってくる。かならず。不思議ですね……」
花の蕾がほころぶように笑った本田さんを見つめながら、本当に不思議だと感慨を覚えた。
佳菜さんと過ごした日々の記憶は心の奥でずっと凍ったままだと思っていたのに、いつの間にか自然と表に出てくるようになった。
戻らない過去を思い起こす事で悲しみや痛みは伴うけど、佳菜さんの優しさに救われたから今の自分があるのだと改めて思う。
ホットドリンクを飲みながら雑談を交わした後、公園の出入口で本田さんと別れた。僕が無難な話題を振ろうとした矢先に、兄さんが口火を切る。
「さっき、佳菜とすれ違った」
「……佳菜さんの声が聞こえたから、そうじゃないかと思っていたよ」
「近々、結婚するらしい」
予想が当たってしまった。いや、佳菜さんもずっと独身でいろとか思ってないよ。
兄さんに隠蔽術を施されて忘れたとはいえ、佳菜さんは酷く辛い思いをしたのだから、笑顔の絶えない日々を送ってほしい。
そう願う一方、佳菜さんは僕の義姉になると思っていた時期があったから、兄さん以外の男と結婚すると聞くと複雑な気持ちになってしまう。
兄さんは佳菜さんを祝福する言葉を呟いていたけど、寝耳に水の報せを聞いてショックを受けているかもしれない。
「佳菜さんが倖せを掴んだようで安心したよ。兄さんも、その……倖せになる事を前向きに考えた方がいいと思うよ」
「俺は……いや、建視が倖せになる事が俺の倖せだ」
兄さんが何を言いかけたのか、僕は解ってしまった。
慊人や父さんの命令を受けた兄さんが隠蔽術を施した結果、大切な人との関係が断ち切られて心に傷を負った者達がいるから、兄さんは倖せになる資格などないと思っているのだろう。
……それなら、僕だって倖せになる資格はないよ。
父さんが妻に隠蔽術を施して僕に関する記憶を剥奪したけど、母さんの病状は回復せず。衰弱しきった母さんは、儚い人になってしまった。
――皆が噂しているよ。盃の付喪神憑きは忌まわしい存在だって。母親を殺したも同然だから、無理ないよね。建視は夾と大差ない化け物だ。そんなのが弟だなんて、はとりは可哀相……。
幼い頃に
それでも佳菜さんが受け入れてくれたおかげで僕は前向きになれたけど、彼女とのつながりは断ち切られてしまった。
愛する女性の記憶を隠蔽した兄さんは、悲しみのあまり心の半分以上を凍らせて、今も罪の意識に囚われている。
2人の破局を間近で見た僕は、呪われた物の怪憑きは希望を抱いてはいけないのだと思い知った。
世間一般の倖せは夜空に輝く星と同様に手が届かないものだから、兄さんと共に
海原高校の文化祭に行って、僕の内面に変化が生じた。
僕と似たような苦しみを味わった
明るい未来を求めるようになったのは、僕の心に幾らか余裕ができたからだろうか。
「僕が倖せになるのは難しいと思うけど……努力をしてみるから、兄さんもそうして」
驚いたように深い青の瞳を見開いた兄さんは、ふっと頬を緩める。喜びと憂いが一緒くたになったような、複雑な笑顔だった。
「――そうか」
「兄さん、ここは『俺も倖せになる努力をする』って返すトコロじゃない?」
「そうか」
「いや、だから『そうか』じゃなくて……」
何が何でも兄さんに『倖せになる努力をする』と言わせたかった訳じゃないけど、僕は食い下がった。
僕の考えを察した兄さんは、充足感を噛みしめるような笑みを浮かべる。
兄弟で倖せについて話し合える時間は、小さいけれど確かな倖せを感じられた。
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07「春が行方不明になったんだけど」
3学期が始まった頃、
それと同時期に、自転車で出かけた春が丸2日も帰宅しない事件が起きた。春は携帯電話を自室に置きっぱなしにしたから、連絡もつかない状態だ。
普通なら家出かと疑うけど、極度の方向音痴の春は1人で外出して、数日間帰ってこなかった事が何度かあった。今回も迷子になっている可能性が高い。
春の両親は「そのうち帰ってくる」と言って、失踪した1人息子を捜す素振りすら見せない。昔は過保護な親だったけど、ブラック春の凶暴な人格に手を焼いて放任主義に切り替えたからな。
春を捜索するために、草摩の人員を駆り出す許可を
下手をしたら、春は
春は僕が通う男子校に進学する予定だったけど、由希達が通う高校に受験先を変更した。インターナショナルスクールに通う
年が近い従弟達は同じ学校に行くのに、僕だけ別の高校だからちょっと寂しい。
それはともかく、春は正月に
僕は兄さんにメールを送って、ぐれ兄の家の電話番号を教えてもらって電話をかけた。
「春が行方不明になったんだけど、ぐれ兄の家に寄った? あるいは海原高校に出没した?」
『あらら。はーくんは僕の家に来てないよ。高校の近くではーくんを見たって話は、今のトコロ聞いてないなぁ』
「それじゃ、
『いいよ〜』
ぐれ兄と電話でそんなやり取りをした翌日。2時間目の授業終了後に僕が携帯を見ると、ぐれ兄の家の電話番号から着信があった。
その数分後に兄さんがメールで、『
報告してくれた礼を伝えるメールを兄さんに送信してから、ぐれ兄の家に電話をかけると何故か
「本田さん、今日は休校日なのか?」
『いえ、学校の授業はありますが、私と由希君は早退したのです。それには訳がありまして……』
体育の授業で持久走をしていた本田さんは、川の土手に寝転んでいた春と偶然出会ったようだ。そこに由希と夾もやってきて、春は夾に念願のファイトを挑んだらしい。
『夾君は由希君と持久走勝負の真っ最中でしたので、潑春さんとの勝負は帰ってからにしようと夾君はおっしゃったのですが……潑春さんがブラックさんになってしまいまして……』
「あーあ……本田さん、ブラック春に何かされなかった?」
『え!? いえ、その……っ』
本田さんの慌てた声を聞いて、僕は頭を抱えた。
春を問いつめて説教してやりたいけど、ホワイト春の時に叱っても意味はない。ブラック春は本当にタチが悪い。
『あ、あのっ。ブラックさんに抱きしめられましたが、あれは気管支の発作を起こしてしまわれた由希君を運ぶために、潑春さんが牛さんに変身する必要がありましたので……』
川の土手からぐれ兄の家まで、牛に変身した春の背に由希を乗せて運んだのか?!
うわぁ、めちゃくちゃ目立っただろうな。牛舎から脱走した牛が公道を歩いていると、通報されていたかもしれない。
どうせなら由希を鼠に変身させれば、持ち運びやすかっただろうにと思ったけど。由希が体調を崩した時に鼠に変身した場合、発作が酷くなると兄さんから聞いた覚えがある。
最適解は公衆電話を捜して本家に連絡して、送迎車を手配してもらう事なんだが。どうせ、由希が本家に行くのは嫌だと言い張ったんだろう。
「本田さん。春がブラックになった時は、5メートル以上距離を置いて離れた方がいいよ」
『え……ええと。でも、それでは潑春さんに失礼では……』
僕は笑いながら「ブラック春は礼儀知らずだから気にしないで」と言い、本田さんに頼んで春に代わってもらった。
「おい、春……出かける時は携帯電話を必ず持って行けと、前にも言ったよな? 誰にだってミスはあるから、携帯電話を携帯するのを忘れた事は仕方ないとしてもだ。公衆電話を使って、居場所と安否を親に伝える事はできただろ?」
『公衆電話は見つからなかった。ミステリー……』
出たよ、春の口癖。普段なら聞き流すけど、今回は春が失踪して気を揉んだので「何でもかんでもミステリーにするな!」とツッコミを入れる。
「飲み物や食べ物を買うためにコンビニやスーパーに立ち寄った時、店の近くに公衆電話があったはずだ。気付かなかったという言い訳は通じないからな」
『あー……ごめん、建兄』
「普段は呼び捨てなのに、こういう時だけ建兄と呼ぶなんてあざといぞ」
そういえば、と遅ればせながら気付いた。本田さんは由希を「草摩君」と呼んでいたはずなのに、さっきは「由希君」と呼んでいたな。
何か進展があったのだろうかと思っていたら、電話を通して春の悲しげな声が聞こえる。
『許して、建兄……』
「……っ! 許してやるのは今回までだからな」
『
ちょろいから、と暗に言われた気がした。
佳菜さんのおかげで僕の人間不信は緩和されたとはいえ、簡単に御されるほど単純になっていないぞ。
僕の中で春は信用できる人間のカテゴリに入っているから、対応が甘くなってしまうのだ。と、自分で自分を納得させた。
「兄さんはぐれ兄の家に往診に行く気らしいけど、今はインフル患者が続出しているから兄さんはすぐに行けない。由希を草摩の送迎車に乗せて本家に運んだ方が、早く治療を受けられると思うけど」
『由希が本家は嫌だって訴えたから、先生の家で休む事にしたんだよ』
やっぱりか。由希にとって本家はトラウマの宝庫だから、近づきたくないって気持ちは解らなくもないけど。多忙な主治医を駆り出すんだから、ちゃんと兄さんに感謝してほしい。
それはそうと、春は未だにぐれ兄を先生って呼んでいるのか。
春がぐれ兄を先生と呼び始めたのは、約1年前――由希が中学校を卒業したら、ぐれ兄の家で生活すると言い出して草摩の「中」が騒然となった頃だ。
呼称の変化に気づいた僕が何かの罰ゲームかと聞いたら、春は罰ゲームじゃないと否定した上で事情を説明してくれた。
自室に軟禁されて抜け殻のようになっていた由希を案じた春は、草摩の「外」の家で暮らし始めたぐれ兄に由希を助けてほしいと懇願したらしい。
春の頼みを聞いたぐれ兄は、「先生って呼ぶならいいよ」と条件を出したようだ。
慊人の寵愛を受ける由希を本家から連れ出すには、かなりのリスクが伴う。そんなふざけた条件で引き受けるような事柄じゃない。
草摩の当主を激怒させた事件を起こした前科のあるぐれ兄は、春に依頼されなくても由希を本家から引き離して、再び慊人を挑発しようと画策していたんじゃないか。
そう推測した僕は、春にこう言った事がある。ぐれ兄はふざけて条件を出したと思うから、先生って呼ぶ必要はないよ、と。
「先生の思惑はどうあれ、由希が助かったのは事実だから」と答えた春は、今もぐれ兄を先生と呼び続けている。
春がそこまで由希に肩入れするのは、春にとって由希が初恋の人だからだ。初恋といっても同性愛的な意味合いはなく、敬愛が大部分を占める。
幼い頃の春は由希を敵視していた。鼠は牛の背に乗って宴会に行ったという十二支の昔話を引き合いに出して、
何の落ち度もないのに嘲られた春は荒れて、キレると手が付けられなくなるブラックな人格が生まれてしまった。春は小学校でも暴れたから、僕と夾は何度も鎮圧に向かう羽目になったっけ。
現在より頻繁にブラックが降臨していた春は、ある日を境にキレる回数が減った。
春は偶然会った由希に鬱屈した思いを全て吐き出し、心が軽くなったらしい。それが切っ掛けで、春にとって由希は特別な存在になったようだ。
昔の僕は由希に対して悪感情を抱いていたので、
かくいう僕も綾兄との会話が切っ掛けで由希を敵視しなくなったけど、春のように由希に対して好意を抱くまでは至っていない。
由希の診察に赴いた兄さんが帰宅したのは夜遅くだった。
春の話では由希の発作は軽めで済んだと聞いたのに、なんでこんなに時間がかかったのか。僕が疑問を投げかけたら、兄さんは深い溜息を吐いて答える。
「紫呉と夾が寒空の下でババ抜きに興じて、風邪をひいて高熱を出したんだ。犬と猫の姿に変身するほど体が弱っている」
「寒空の下でババ抜きをするなんて馬鹿だろ」
「持久走をサボって道端でトランプ遊びを始めたのは、本田君の友人の
「馬鹿じゃない。全然馬鹿じゃない」
▼△
2月13日の午後。学校から帰宅した僕は、校門前で待ち構えていた女の子達から渡された大量のプレゼントの開封に取りかかる。
手作りのお菓子は、早めに食べないと傷んじゃうからな。結構な量があるからひと口分だけもらって、残りは道場の門下生仲間に分けて食べてもらおう。
開封作業が半分ほど終わった頃、僕の部屋のドアをノックしたお手伝いさんが、「紫呉さんからお電話です」と声をかけてきた。
ぐれ兄が僕に電話をかけるなんて珍しい。罠を仕掛けるつもりじゃないか。
少し警戒しながら自室にある電話の子機を取って、外線のボタンを押してから「もしもし?」と応じた。
『やあ、けーくん。ハッピー・バレンタイン!』
「バレンタインは明日だよ」
『細かい事は気にしな~い。ところで、けーくんは明日の予定は空いている?』
「空いているけど、それがどうしたの?」
『由希君と
すげぇ面子だな。
由希と夾の関係は昔に比べればマシになったけど、女性のパートナーを連れてダブルデートするほど親しくなったとは思えない。楽羅姉が夾とデートするために、本田さんを味方につけたのだろうか。
「デートする4人を1人で眺めろと? 何それ、新手の嫌がらせ?」
『心外だなぁ。僕はけーくんに嫌がらせなんかしないよ?』
「へーえ? ぐれ兄の新刊に出てきた“
『よくチェックしているねぇ。ご愛読ありがとうございまーす』
天は何故、ぐれ兄のような人非人に文才を与えたのだろう。僕がこの世の不条理を嘆いていたら、ぐれ兄が笑いながら言葉を続ける。
『けーくんは中学生の頃は女遊びをしていたのに、最近はそういう噂をとんと聞かなくなったからさ。若いのに枯れちゃったのかなと心配したおじさんが、咲ちゃんとのデートをお膳立てしてあげようと思ったワケですよ』
驚きのあまり、僕は子機を取り落としてしまった。
ぐれ兄は僕が女をとっかえひっかえしていたような言い方をしたけど、そこまで爛れた生活は送っていない。中学時代は色々鬱憤が溜まっていたのと異性への好奇心も相俟って、気楽に遊べそうな女の子とよくデートしていただけだ。
いったい誰がぐれ兄に話したんだ。僕が文化祭で花島さんと知り合った事を!
兄さんは口が堅いから、紅葉が喋った可能性が高い。援交云々まで言い触らしていたら、紅葉に激辛チョコを食べさせてやる。と、心に決めながら僕は子機を拾って質問する。
「僕と花島さんが顔見知りだと、誰から聞いた?」
『透君からだよ』
まさかの人物の名前が出てきて、僕はまたもや驚いた。
ぐれ兄が言うには、文化祭で僕と花島さんが一緒にいた事を本田さんが話したらしい。紅葉、疑ってすまん。
「僕も一緒に行くって由希達に伝えてよ」
『はいよ~。これから透君が咲ちゃんに電話をかけて明日の予定の確認をするけど、咲ちゃんに先約が入っていても泣かないでね』
泣かないよ、と答えてから僕は電話を切る。そわそわしながら待っていたら、電話がかかってきた。
『咲ちゃん、明日行けるって~』
電話の向こうでぐれ兄が報告するのを聞いた僕は、思わずガッツポーズを取った。
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08「大ウソつきが」
いよいよ迎えた、バレンタイン・デー当日。
僕はロング丈の白いTシャツの上にクルーネックの赤土色のニットを着て、黒のスキニーパンツを穿き、暗い紺色のPコートを羽織った。チャラくなく、かといって真面目過ぎない装いにしたつもりだ。
待ち合わせ時刻より20分早く着いたけど、
白のタートルネックのトップスの上に淡黄色のジャケットを羽織り、青緑色のロングスカートを合わせた装いは大人っぽく見えるけど。オレンジ色の猫のぬいぐるみの形をしたお手製のナップザックを背負っているから、子供っぽくも見える。
困った事に、楽羅姉は大学生風の男2人にナンパされていた。
えーと、これって僕が助けに入った方がいいのかな。楽羅姉を颯爽と助ける役目は
ナンパ男が楽羅姉を強引に連れて行こうとしたら、デートを楽しみにしている楽羅姉がキレて男2人をぶん殴って、警察沙汰になるかもしれん。
厄介事の芽は摘んでおこうと結論付けた僕は、急いで楽羅姉の所に向かった。
「失礼、彼女は僕の連れなので」
笑顔で威嚇する僕を見るなり、ナンパ男2人は無言で立ち去った。
僕の赤髪赤目を見て、ヤンキーだと勘違いしたのかもしれない。揉めずに追い払えたからいいけど。
「ありがと、建ちゃん。あの人達、しつこくて困っていたの」
「楽羅姉は見た目だけは可憐な美少女だから、騙され……ごっふぅ!」
脇腹を強い力で殴られた僕は、痛みのあまりブルブル震えた。
楽羅姉は腰に両手を当てて頬を膨らませながら、「建ちゃんは一言余計だよっ」と可愛らしく怒る。猫を被るなら完璧に被ってくれ。
「それにしても、建ちゃんもデートに参加するなんてびっくりしたよ」
「そんなに意外? 僕は夾みたいに
「でも、建ちゃんは今までゆんちゃんと遊ぼうとしなかったでしょ」
「ところで、ダブルデートをしようって誰が言い出したんだ?」
「デートを提案したのは、私だよ。建ちゃんも誘えばって言ったのは、しーちゃんだけど」
腹黒なぐれ兄の事だ。何か企みがあって、僕に誘いをかけたに違いない。
僕が
楽羅姉と雑談しながら待っていたら、
オレンジ色のフライトジャケットを着た夾を見るなり、楽羅姉はハンターと化してあっという間に夾を両腕の中に捕獲する。
「夾君……っ。今日が楽しみで楽しみで、よく眠れなかったよ……」
「あー、そうかよ。ンじゃ帰って寝ろよ」
楽羅姉は興奮のあまり夾を殴り飛ばすと思ったのだが、かなり自制しているようだ。宴会で暴れた罰として2週間の自宅謹慎を言いつけられ、ぐれ兄の家に行く事を1ヶ月禁じられたから反省したのかもしれない。
「
朗らかに挨拶をした本田さんは、ツツジ色のダッフルコートとピンク色のマフラーで防寒し、白いリュックサックを背負い、ハーフアップにした髪に淡い水色のリボンを飾っている。
「本田さん、こんにちは。花島さんは久しぶりだね。また会えて嬉しいよ」
「久しぶりね……」
本日の花島さんは、緩やかに波打つ長い黒髪を下ろしていた。
喉元に繊細なレースがあしらわれた漆黒のロングワンピースを着て、夜の闇を切り取ったようなフード付きマントを纏っている。
ハロウィンの仮装みたいな装いだけど、花島さんは神秘的な雰囲気の持ち主だからゴシック・ファッションがよく似合う。
「貴方も挨拶なさい……」
花島さんの背後から姿を現したのは、黒髪を短く切った中学生くらいの少年だ。黒のタートルネックのセーターに黒のズボンを合わせ、フード付きの真っ黒なマントを纏っていた。
黒尽くめの服装もそうだが、感情の読めない無表情や茫洋とした瞳が花島さんによく似ている。
「どうも……俺は花島
恵君の口調は淡々としているけど、初っ端から牽制を仕掛けてきた。これは手強いと思いながら、僕は万人受けする爽やかな笑みで応じる。
「初めまして。僕は草摩建視、
「草摩建視さんか……貴方の名前は憶えたよ……仲良くしようね……」
名前は憶えたと言った瞬間、恵君は背筋が寒くなるような薄笑いを浮かべた。
手のかかる年下の相手は紅葉や春で慣れていたはずなのに、恵君は癖のある従弟より一筋縄ではいかない感じがヒシヒシとする。
「建視はどこで本田さんと会ったんだ?」
淡い水色のトレンチコートを着た由希が、詰問してきた。
僕が本田さんには久しぶりと言わなかった事に、疑問を抱いたのか。相変わらず敏い奴だ。
「兄さんと初詣に行った帰りに、本田さんと偶然会ったんだよ」
兄さんが本田さんを本家に呼び出した事を話すと、由希が怒りそうだから言わない。僕が隠し事をしているのを見抜いたのか、由希は疑うように濃灰色の目を細めている。
「みんなーっ。そろそろ行かないと、映画始まっちゃうよー」
楽羅姉が笑顔で呼びかけてきたので、僕はこれ幸いと由希から離れて券売機に向かう。
電車に乗った僕は花島さんと話そうと試みたけど、女子3名は和やかに談笑しているから乱入しにくい。作戦変更だ。花島さんの情報を集めるべく、恵君に話しかけてみよう。
「恵君も電波で人の心を読めるのか?」
「そんな事できない……俺ができるのは人を呪う事だけ……特技は呪詛返しを更に返す事……これ……ちょっと自慢……」
電車の車内は人の話し声や物音が響いていたのに、恵君の静かな声はやけにはっきりと聞こえた。
「……それは冗談?」
「本当だよ……何なら試してみる? その人の名前さえわかれば、どんな呪いも簡単にかけられる……」
さっき名前を憶えたと宣言したのは、そういう意味だったのか。おっかねぇ中学生だな。
「あはははーっ、さすがに呪われるのは嫌だな」
「………………だろうね……」
その不自然な間は何!?
僕と由希と夾が呪われた身である事を、花島さんは電波で察知して恵君に教えたのか? 確認したいけど、下手に探りを入れて墓穴を掘ったら目も当てられない。
会話の糸口を見失って無言が続き、ようやく目的地の駅に到着した。
駅の近くに建つショッピングモールに併設された映画館は、大勢の人で賑わっている。映画館デートをしに来たと思われる男女ペア客が多い。
僕は楽羅姉以外の女性にぶつからないように気を付けながら館内を進み、上映されている映画を確認する。
「おっ。『モゲ太 最後の聖戦』の上映開始時間が近いぞ」
僕が最近ハマっている『モゲ太とアリ』の劇場版を勧めると、夾が真っ先に文句を言う。
「そんなのはガキが観る映画だろが」
「バカと意見がかぶるのは気に食わないけど、俺もアニメ映画は無いと思う」
「何だと、クソ由希……表出ろや」
「1人で出ていろ」
夾と由希は早速言い争いを始めた。中学時代はすぐさま殴り合いに発展していたから、口喧嘩に留まっているのは成長の証か。
とはいえ、本田さんがうろたえているから放っておく訳にはいかない。スマートに仲裁して、僕はできる男だと花島さんにアピールするぞ。
「まあまあ落ち着けよ、2人とも。君達みたいにギスギスした人間こそ、『モゲ太とアリ』作品を観るべきだ。『モゲ太とアリ』は確かに子供向けアニメだけど、作風はプリミティブかつセンシティブで、大きいお友達の視聴者の歪んだ心をそっと癒してくれるんだ」
「何言ってンのかさっぱりわからねぇよ」
「本田さん達は何か観たい映画はある?」
僕と夾を無視して、由希が女性陣と恵君に問いかけた。
小さく挙手をした楽羅姉が、「私はモゲ太の映画が観たいなっ」と主張する。楽羅姉は
「私もモゲ太さんの映画が観たいです」
本田さんの意見に花島さんと恵君が同意し、厳正なる多数決で『モゲ太 最後の聖戦』を観る事が決定した。
由希と夾は嫌そうな顔をしていたので、チケット売り場に向かう途中で僕は従弟2人に小声で話しかける。
「……君達はモゲ太が不満らしいけど、女性陣が切なくて甘酸っぱい恋愛を題材にした映画を観たいと言い出したら、どうするつもりだったんだ?」
僕としては花島さんと恋愛映画を観るのは一向に構わないけど、恵君の目を掻い潜って花島さんとイチャつくのは至難の技だ。
「それは……ちょっと気まずいかも」
考えてから言葉を返した由希に対し、夾は馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「これだから頭の固い優等生は。ンなもん、寝たふりすりゃいいだろ」
「夾は命知らずだな。映画の甘い雰囲気に浸った楽羅姉に、手を強く握り締められてみろ。手の骨が折れたら武術の鍛錬は当分できなくなるぞ。それだけならまだしも、楽羅姉が責任を取って夾の身の回りの世話をするとか言い出して、ぐれ兄の家に同居し始めたらどうすんだ」
僕が仮定の話をすると、顔色が悪くなった夾がガタブル震えた。由希は夾を嫌っているはずなのに、なんて酷い事を……と言いた気な視線を僕に向ける。
こいつら、実は仲良しだろ。
草摩の男3人でお金を出し合って7人分の映画チケットを購入してから、グッズ売り場に向かう。僕は今日の記念にと、モゲ太のシャープペンとパンフレットを買って皆に配ったのだが。
「いるか、そんなモン」
「俺の分は燈路にでもあげればいいだろ」
「2人して受け取り拒否か。夾と由希は何だかんだ言って気が合うな」
僕が笑いながら指摘すると、目付きを更に鋭くした夾が「寝ぼけた事言ってんじゃねぇ!」と怒鳴る。由希は苦渋の表情を浮かべながら、シャープペンとパンフレットを受け取った。
上映開始まで時間があるので、売店で食べ物と飲み物を購入する。由希は自分が飲むホットコーヒーと、本田さんが飲みたいと言ったホットカフェラテを買い求めた。
夾は自分が飲み食いするものは買わなかったけど、楽羅姉が飲みたいと言ったオレンジジュースを渋々買った。感激した楽羅姉が夾を絞め落としそうになり、それを目撃した売店の店員とレジに並んでいた客が何事かとざわつく一幕があった。
僕は自分が飲むジンジャーエールと、花島さんが飲みたいと言ったコーラと、恵君が飲みたいと言ったアイスウーロン茶を買う。
花島姉弟がフードメニューをじーっと見つめていたので、何か食べたいものはあるかと聞いてみたら、2人同時に「全部……」と答えた。
どれも美味しそうで迷っちゃうという意味じゃなくて、全部食べたいと言っているのだろう。僕は任務で稼いでいるから、この程度なら余裕で買える。
Lサイズのポップコーンを3人分、チキンナゲットを2人分、フライドポテトを2人分、ホットドッグを2人分、ワッフルを2人分、ドーナツを2人分、ソフトクリームを2人分購入した。ちなみに僕が食べるのは、Lサイズのポップコーン1つのみだ。
「おい、そんなに食えるのか?」
顔を引きつらせた夾が聞くと、花島さんはソフトクリームを食べながら「この程度は朝飯前よ……」と答えた。恵君も大食いのようだから、花島家のエンゲル係数は高そうだな。
シアター内に入って、階段状に設置されたシートに横一列に並んで腰掛ける。由希、本田さん、花島さん、恵君、僕、楽羅姉、夾という席順だ。
ボディガードの恵君が無言で僕を威圧してきたから、花島さんの隣席は断念したよ……。
▼△
Side:はとり
「はいっ、はーさん♡ 僕からのバレンタインチョコ♡」
玄関先に立つ
「ごめんなさい。ウソです。透君からです。入れて……」
紫呉がわざと軽薄に振る舞っている事は知っているが、真性のバカではないかと思う時がある。今が正にそうだ。
気を取り直して、家に上がった紫呉から本田君のチョコレートを受け取る。
本田君は最近知り合ったばかりの建視と紅葉と
紫呉と共に客間へと向かい、本田君のチョコレートが入った小振りの手提げ袋を診察机の上に置いてから、背もたれ付きのベンチソファに腰掛ける。
俺の対面に位置する木製の高座椅子に紫呉が座った時、着物姿の家政婦が2人分の茶と灰皿を持ってきた。
「透君は自分で本家に届ける気だったけど、折角のデートだから代わりにこの僕が配達役を請け負ったんだよ」
「建視から聞いた時は耳を疑ったぞ。由希と夾が一緒に出かけるとはな」
「でっしょー!? もうアレはアレだね。透君が完璧影響しているね」
「あれは……影響されるかもしれんな。彼女はどこか他人を……丸くさせる所がある」
俺と建視にとって
兄弟間で佳菜の話題は一切出なくなり、心の傷は癒される事なく放置されていたのだが。本田君に出会って少しずつ変化が現れた。
建視は清廉で温和な本田君に佳菜の面影を重ねて、佳菜が去った時に見失った光を再び見出したようだ。
本田君や花島君に出会えなかったら建視は草摩の闇に完全に取り込まれて、身内以外の誰かを愛する喜びや苦悩や倖せを知らずに一生を終えたかもしれない。
そうなる可能性は取り除かれていないが、建視が光に向かって進む姿勢を見せた事は大きな進歩だと思う。
「この前もさ。僕ちょっと夾君、突いちゃってさ。夾君、とても乱れちゃって」
紫呉は気軽に話しながら、着物の袖の袂から煙草の箱とブックマッチを取り出した。二つ折りのカバーから剥ぎ取った紙マッチを慣れた手つきで擦って、煙草に火を点けている。
夾を動揺させた事は、微塵も気にかけていないだろう。
「……乱すなよ」
「でも透君と一緒に帰って来た時は、もうケロッとしていたよ。まるで2人の精神安定剤みたいだよねぇ」
紫呉が投げ捨てた紙マッチは灰皿の縁にぶつかって、座卓の中央に敷かれたテーブルランナーの上に落ちた。マッチの燃えさしがテーブルランナーに引火するかもしれないのに、紫呉は気にせず煙草をふかしている。
無精にも程があると思いながら、俺は紙マッチを拾って灰皿の中に入れた。
「満足そうだな。思惑通りに事が運んで」
「なにかなぁ。その噛み付いた言い方は」
「その胸に聞いてみろ。何が利用していないだ、大ウソつきが。おまえも慊人も、立派に本田君をコマのように利用しているよ。それぞれの目的と利用の為に」
紫呉は慊人に思い知らせるために。慊人は由希と夾に思い知らせるために。
常に纏っている軽薄な雰囲気を取り払った紫呉は煙草を灰皿に置き、何かを考えるように視線を宙に泳がせてから話を切り出す。
「夢みた朝を憶えてる? 僕も君もあーやも泣いた、あの朝」
俺達は幼少期のある日、4人揃って同じ夢を見た。夢の中にまだ見ぬ
目覚めたら自然と涙が流れ、自分のものではない感情が胸の奥から溢れ出した。
待ち望んでいた存在に、ようやく会える多幸感。
待ち焦がれた存在に、まだ触れる事さえできない焦燥。
待ち倦んだ存在が、遠い日の約束を忘れてしまっていたらと恐れる気持ち。
待ち侘びた存在を、ひたすら求める思慕の情。
俺は自分の中にいる物の怪が、これほどの熱情を秘めていたのかと当惑した。遠くない内に生誕する神様と対面した時、自分の心が物の怪に浸食されるのではないかと不安に駆られたほどだ。
紫呉は物の怪の何百年にも渡る情念を我が物として受け入れ、求めるものを手中に収めてみせると心に決めていた。
――僕はそれを永遠のものにしたいね。確かな形で手に入れたい。必ず。
「その誓いもまだこの胸にある」
俺の対面に座る紫呉は昔と変わらない不敵な笑みを浮かべて、自身の右手で左胸を押さえた。紫呉の胸の中では、愛情と嫉妬と憎悪が煮詰まっていそうだ。
「手に入れる為なら多少の偽りも利用も問わない。たとえ、それが誰かを傷つける結果になっても」
自分の企みに巻き込まれた誰かが傷ついたとしても、紫呉は罪悪感を抱かないだろう。目的を達成するためならどのような犠牲を払っても構わないと、あの夢を見た時点で決意してしまっている。
俺は諦観を込めた溜息を吐いてから、向かい側にいる紫呉を鋭く見据え、気になっていた事を確認する。
「今回、建視を唆したのも策の内か?」
「唆すだなんて人聞きの悪い。僕はけーくんの後押しをしただけだよ」
「――本当にそうならいいのだが」
物品から人の残留思念を読み取る力を持つ建視は忌避されているが、その力を利用しようと目論む人間は多数いる。
慊人は自分に反発する者達に建視を奪われる事態を恐れ、建視を己の側近にするための教育を施そうと考えているらしい。
それを知った紫呉は、第2の紅野が誕生するのを防ぐために先手を打ったと思われる。今回のデートが慊人に露見して建視が窮地に追い込まれても、紫呉は意に介さないだろう。
「はとりは過保護だよねぇ。過保護がすぎると、建視が自立できなくなっちゃうよ」
「自立を促すために建視を敢えて突き離せと? それは危険な賭けだ。下手をしたら建視は俺に見捨てられたと思い込み、任務で追い詰められた時に正気を完全に手放してしまう恐れがある」
「建視の自我が崩壊するのは僕としても困るんだよね。そうなったら、はとりも壊れちゃうだろ? 正気を失った君たち兄弟を愛でる慊人なんて、見たくないよ」
えげつない内容の話をしながら、紫呉は些細な事に困っているかのような苦笑を浮かべた。
「……こんな話題を冗談めかした軽い口調で語るおまえも、大概壊れている」
「君に言われるまでもなく自覚しているよ。僕は慊人に関する事以外では、感情が動かないんだ……って、コレ前にも言ったよね?」
俺が記憶を探って「最初に聞いたのは小学4年生の時だ」と言うと、紫呉はわざとらしく目を丸くして「そんな前だっけ? まぁ、どうでもいいけど」と答えて話題を変える。
「今のところ建視が依存している相手は君だから、建視をどうこうしようなんて考えないよ。建視の依存対象が記憶を隠蔽する許可を出す慊人になっちゃったら、考えを変えないといけないけど」
皮肉げに口の端を吊り上げて笑う紫呉の愛情は歪んでいると思うが、俺も他人の事は言えない。
俺と建視は共依存の関係に陥っていると解っていながらも、俺がいないと建視は任務に耐え切れないと理由を付けて、弟離れに踏み切れない有様だ。
「先生。慊人さんの検診のお時間ですよ」
家政婦が襖を開けて声をかけてきた。俺は気を取り直してから、「ああ、わかった」と返事をする。
「はい、先生っ。僕がその代役、立派に務めさせて頂きます!」
軽佻浮薄さを取り戻した紫呉は、挙手をして名乗り出た。本田君のチョコレートを届けるのはついでで、紫呉が本家に足を運んだ目的は慊人に会う事だろう。
仕事が溜まっているから、慊人の
「帰ったら本田君に礼を言っておいてくれ」
玄関まで紫呉を見送った際に言伝をすると、紫呉は適当に「はーい、はい」と答えた。
ちゃんと礼が伝わるか心配だ。建視にメールで頼んでおこう。
「紫呉。どんな結果が待っていても、歯の1本は覚悟しておけよ。由希か夾か……本田君か。誰かは知らんが、必ず1人には殴られるだろうよ」
「痛いのはやだけど仕方ないね~。ところで、僕を殴る人候補にけーくんの名前が挙がらなかったけど、けーくんは僕の精神を削る仕返しをするって意味?」
「……建視は紫呉の影響を受けているからな」
建視は全力で否定するだろうが、慊人に反逆しながらも上手く立ち回る紫呉に憧れている節がある。
「何それ。すっごく嫌なんだけど」
苦虫を噛み潰したような顔になった紫呉に対し、俺は「それはこっちの台詞だ」と言い返す。
草摩の上層部に振り回される建視が、要領の良さを身につけたがる気持ちは解るが、紫呉のあくどい処は見習わないでほしかったと心から思う。
1番の仕返しは倖せになる事だと、建視に教えよう。反省や後悔という言葉が己の辞書から抜け落ちている紫呉に復讐するなど、徒労でしかない。
それに、紫呉だけが悪者という訳ではない。俺は同い年の従弟に向かって、「紫呉」と呼びかける。
「俺はおまえの味方にはならない。だが、敵にもまわらない」
俺が何を言っても紫呉は思い止まらないし、手を緩める事もしない。紫呉を制止するのは不可能だと諦めて傍観する俺は、共犯者の謗りを免れないだろう。
共犯だから主犯より罪が軽いとは考えていない。他の者が傷ついても見過ごすのに、自分の大切なものは傷つけられたくないと願う。吐き気を催すほど醜くて冷淡なエゴの塊だ。
「……それじゃ、また」
作り笑顔ではない微笑みを浮かべた紫呉は、家から立ち去った。その後ろ姿に向かって、「風邪をひかせるなよ」と釘を刺しておく。
玄関の戸を閉めてから、俺は深く溜息を吐いた。紫呉と立ち入った話をしたせいか、精神的に疲れたな。
客間に戻った俺は気分を変えるため、本田君がくれたチョコレートを食べた。本田君の手作りと思われるガトーショコラは甘さが控えめで、甘いものを好んで口にしない俺でも食べやすく感じた。
ふと佳菜の写真が視界に入り、彼女から手作りの菓子を差し入れしてもらった時の事を思い出す。
――はとりさん、これっ、私が作ったクッキーです。はとりさんは甘いものが苦手だと建視君が教えてくれたので、甘さ控えめにしてみました。よければ食べて下さいっ。
――……建視が俺の好みを君に教えたのか?
佳菜と知り合って間もない頃の建視は、彼女に対して警戒心剥き出しだったから、身内の個人情報を教えたと聞いて俺は心底驚いた。
――はい。私が作ったお菓子を建視君にあげたら、建視君が忠告してくれたんです。『兄さんは義理堅いから、苦手な甘い菓子を贈られても必ずひと口は食べるんだよ。兄さんの苦行を減らすためにアドバイスしたんだから、勘違いするなよ』って言っていました。ふふっ、建視君ってお兄さん思いの優しい子ですね。
嬉しそうな佳菜の笑顔を思い出すと、今も胸が痛む。
佳菜の記憶を隠蔽した時、俺は一生溶けない雪に囲まれて死んでも構わないと思った。その代わり、どうか彼女は今度こそ倖せになれる誰かと出会えるようにと祈りを捧げた。
祈りが天に届いたのかどうかは解らないが、佳菜は倖せになったと知る事ができた。
愛した女性が他の男と結婚すると知って、少しもショックではなかったと言えば嘘になるが、彼女を解放して本当によかったと思えた事が嬉しい。
時間はゆっくり、けれど確実に流れていると実感した。俺の心に根雪のように凍りついた悲哀が僅かに溶けた要因は、時間の経過だけではないだろう。
――春になりますね……! 今はどんなに寒くても、春はまたやってくる。かならず。不思議ですね……。
本田君と出会った事で建視に変化が訪れたと感じたが、俺も多少なりとも彼女に影響されているようだ。その礼も兼ねて、ホワイト・デーには本田君の好きなものを贈るとしよう。
後で紫呉に電話をかけて、本田君が何を好むか尋ねようと思ったが。紫呉にからかわれそうな予感がしたので、本田君と頻繁に会っている紅葉に聞こうと思い直した。
恵と建視が通う学校名は独自設定です。
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09「行動あるのみだよ」
今回もバレンタインの話で、1万字を超えています。
『モゲ太とアリ』の映画を観てお昼を食べてショッピングモールを見て回った後、解散するかと思いきや。
「
「なに!? 楽羅、てめぇ図々しいぞ。帰r」
「私も透君の手料理を食べたいわ……」
反対しかけた
途中で立ち寄ったスーパーで食材を買ってから、皆でぐれ兄の家に向かう。ぐれ兄の住まいは
「結構遅くなっちゃったな。
兄さんから送られたメールによれば、ぐれ兄は
ぐれ兄に話があったんだけど、帰ってこなかったらまた今度にするか。そんな事を考えながら長い石段を上りきると、2階建ての日本家屋が見えてきた。
ぐれ兄の家の玄関先に、ショートヘアの女性が膝をついて項垂れている。OLっぽい装いをした女性は、世の中の全てに絶望したような重苦しい雰囲気を漂わせていた。
「あの……? どうかされました……か?」
「いいえ、もういいのです。私はもうここで命を絶つ覚悟……!」
戦に負けた武士みたいな事を言い出した女性は、おもむろに取り出したカッターナイフの刃を出した。
本田さんが「え゛!!」と声を上げた時、本家から戻ってきたぐれ兄が声をかける。
「みっちゃん、人ン家の前で死ぬのはよしてくれないかなぁ」
「ぜんぜいぃぃぃぃ」
涙をボロボロと流すOL風の女性は、悲鳴に近い泣き声を上げる。
ぐれ兄が「僕の担当さん」と紹介するのを聞いて、ぐれ兄に振り回されている被害者か……と憐憫の情を抱いた。
本田さんと楽羅姉は夕食の支度をするために、台所に行った。由希と夾は自室に戻り、ぐれ兄と担当さんは仕事場兼書斎に缶詰中。コタツが置かれた畳敷きの居間にいるのは、僕と花島さんと
花島さんに力の制御法について聞く、絶好のチャンスじゃないか! 僕が会話のきっかけを探すのを余所に、花島姉弟は本田さんが淹れたお茶を飲んで煎餅を食べながら話をしている。
「
「いいえ、ちっとも……」
「2学期の期末テストは全教科赤点で、毎日補習を受ける羽目になったじゃないか……高校に呼び出された母さんは泣いてしまったのだから、真面目に勉強しないと駄目だよ……」
姉に言い聞かせている恵君の方が、年上に見えるな。
それより、このままだと花島さんが近い将来ピンチに陥ってしまいそうだ。僕は思い切って提案してみることにした。
「もしよければ、僕が花島さんに勉強を教えようか?」
「貴方は通っている学校が違うから、勉強の範囲が異なるのでは……?」
「習う事は大体同じだよ。使っている教材が違っても、授業のノートを見せてもらえば対応できると思うし」
「
切り込んできた恵君は、底の読めない黒い双眸を僕に向けた。
見返りは求めないと言ったら嘘臭いか。正直に話そう。
「花島さんが力を制御できるようになった経緯を聞きたい」
「そういえば、文化祭でも似たような質問をしていたわね……もしかして、貴方も力を持っているのかしら……?」
「うん。僕は……」
不安が湧き上がって言葉を噤んだ。僕の力を知った花島さんが気味悪がったら、あるいは僕を警戒するようになったらと思うと、告白するのを躊躇ってしまう。
「無理して言わなくていいのよ……」
二の足を踏む僕の内心を電波で読んだのか、花島さんは逃げ道となる言葉を投げかけた。怖気付いて女の子に気を遣わせるなんて、情けないにも程があるぞ。
それに花島さんの力について聞こうとしているのに、自分の力は話さないなんて虫が良すぎる。
「僕は……物品に宿る人の残留思念を読む力を持っているんだ」
「そう……」
えっ、それだけ? 花島さんに拒絶されなかった事はひと安心だけど、僕の力に関する質問とかしないの?
「人の残留思念を読む力……オブジェクトリーディングかな……だとすると、対象に触れる事によって力が発動するパターンが多い……建視さんは力を制御できないから、常に手袋をつけているの……?」
代わりに恵君が質問してきた。彼の洞察力の高さは侮れないと思いながら、僕は「そうだよ」と答えた。
「だから、私が力をコントロールできるようになった経緯を知りたがっているのね……参考になるかどうか解らないけど、教えてあげるわ……」
中学2年生の頃まで花島さんは、力を制御できなかったらしい。思っている事を知らぬ間に他人に伝えてしまう力を抑えきれず、同級生と問題を起こしてしまった事もあったようだ。
花島さんは他人の思念を電波で読むという受動的な能力の持ち主だと認識していたので、能動的な力も持っていたと知って少し驚いた。
それより、だ。同級生と問題を起こしてしまったと花島さんは話したけど、彼女の力を気味悪がった生徒が騒ぎ立てたんじゃないか?
僕の推察を裏付けるように、目を伏せた花島さんの表情が翳ったように見えた。
「ごめんね、花島さん。辛い事を思い出させてしまって……」
「話すと決めたのは私だもの……気にしないで……それより、貴方は私の事を恐ろしいとは思わないの……?」
花島さんと僕の会話を静かに見守っていた恵君が、視線で圧力をかけてきた。返答次第ではただじゃおかない、という無言の脅しが伝わってくる。
言葉を慎重に吟味してから受け答えないといけないけど、僕は心に浮かんだ思いをそのまま口に出す。人が心の中に秘めているものを垣間見てしまう力を持つ事で、他者に恐れられる辛さを知っているからこそ、言葉を飾らずに答えたかった。
「恐ろしいなんて思わないよ。他人の気持ちを優先する本田さんの友達の花島さんが、面白半分に力を使って人を攻撃するとは思えないから」
即答されるとは予想していなかったのか、花島さんは驚いたように軽く目を見開く。
「……家族と透君とありさ以外に、受け入れてくれる人がいるとは思わなかったわ……」
「ありささんって、
文化祭での花島さんの発言を思い返して確認すると、花島さんはこくりと頷いた。
金髪の彼女はスケバンみたいな出で立ちをしていたから、ちょっと怖いなと思ってしまったけど、懐の深い人物なのかもしれない。
「透君とありさに出会って、私の力も含めて受け入れてもらえて……心が満たされることで、余裕が生まれたせいかしらね……それから暫くして、力をコントロールできるようになったの……」
それは誇らしげに語ってもいい事なのに、花島さんの平坦な口調は悔恨を帯びているように聞こえた。花島さんは隣に座る恵君の方を向いて、優しい声音で話しかける。
「感謝しているわ……父さん達と……貴方に」
「俺は咲が1人ぼっちじゃなくなったから、それでもう充分だよ……父さん達も同じように思っている……」
花島さんの家族は早い段階から、力を持つ彼女を受け入れて理解を示していたのだろう。
家族に愛されていながら自分の心が満たされなかった事を、花島さんは後ろめたく思っているのかもしれない。
僕も兄さんに感謝しないといけないな。
母さんが死に至った元凶である僕を、兄さんは憎む事なく慈しんでくれる。兄さんの愛情は当たり前に与えられるものではないのに、僕は心が満たされたと実感できないでいた。
「花島さんの話はとても参考になったよ。心が満たされる事で生まれる余裕か……盲点だった」
「でしょうね……混沌……カオス……形こそハッキリわからないけれど、暗い影の落ちた思念が貴方の心を支配しているから……」
……呪いの事、バレているんじゃない? 僕は真面目な顔を取り繕いつつ、心の中で滝のような冷や汗を流した。
「草摩由希や草摩夾……盗み聞きしている草摩紫呉にも、同様の事が言えるけど……」
居間に隣接した書斎の方から、ぐれ兄の担当さんが「先生、何やってんですか! 資料がお茶でびしょ濡れですよ!」と叫ぶ声が聞こえる。
花島さんに自分の挙動を言い当てられて、動揺したぐれ兄がお茶をこぼしたようだ。
実を言うと、僕もかなり驚いたけどね。離れた場所にいる相手の動向もお見通しとか、最強だろ。
襖が勢いよく開いて、冷や汗と作り笑顔を浮かべたぐれ兄が出てきた。担当さんは涙を流しながら、「あと10ページ残っていますよ、先生!」と呼びかけている。
「疲れて集中力が切れちゃったんだも~ん。おンや〜、咲ちゃんによく似た子がいるね〜。弟君かな?」
ぐれ兄の奴、花島さんにこれ以上内面を分析されたらまずいと思って、僕達の会話をわざと中断させたな。
「そうだよ……俺は花島恵……貴方の名前は?」
「僕は草摩紫呉だよ」
この瞬間、恵君の呪いを受ける対象者リストにぐれ兄も名を連ねた。ぐれ兄の企みが原因で、本田さんや花島さんが傷つくような事態にならないといいね。
「貴方が紫呉さんか……趣味で少女小説を書いている色々と歪んだ独身男が、純情可憐な透さんを言い包めて自分の家に住まわせていると咲から聞いたよ……」
「咲ちゃん!? 僕の人物紹介に悪意を感じるんだけど!?」
ぐれ兄は大げさにショックを受けているけど、花島さんは事実をそのまま伝えただけだろ。
そして夜の7時半頃。居間のコタツの天板の上に、本田さんと楽羅姉の合作の夕飯が所狭しと並んだ。
ほうれん草の胡麻和え、じゃこと水菜のサラダ、あさりの酒蒸し、じゃがいもとウィンナーのチーズ焼き、スペアリブの赤ワイン煮込み、サーモンのレモン蒸し、鶏の唐揚げ、数種類のクリームチーズのディップ、具沢山のポトフ。
「おお~、すごいな」
僕は素直に感嘆の声を上げた。普段は兄さんと2人で食事をするから、食卓にぎっしり料理が並ぶ事はない。
「原稿があがった後のご飯は格別だねぇ」
「紫呉はもっと早く原稿を仕上げる事ができただろ」
「夾君、何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってね。私が取ってあげるっ」
「自分で取れるから俺に構うな!」
賑やかだなと思いながら、僕は好物のあさりの酒蒸しを食べた。
老舗割烹で修行した経験のあるお手伝いさんが作る料理より美味しく感じるのは、給食の時間のような和やかで楽しい雰囲気も一役買っているからだろうか。僕がそんな事を考えていたら、本田さんが声をかけてくる。
「建視さん、味は薄くないですか?」
「丁度いいよ、美味しい。本田さんは料理上手だね」
「そ、そんな……光栄です。今夜は楽羅さんが手伝って下さったので、上手くできたと思います。楽羅さんはお料理のレパートリーが豊富で、勉強になりました……っ」
「えへへ……褒められちゃった。料理好きな子って私の周りには透君しかいないから、これから色んな料理を一緒に作ろうねっ」
「はい……っ!」
楽羅姉と本田さんのやり取りを聞いて、夾が項垂れている。
「料理するのはいいけど、僕の家を壊さないでね」
ぐれ兄はスペアリブの骨をかじりながらそう言ったけど、自宅を月1ペースで破壊する楽羅姉に注意しても無駄だと思う。
「「おいしい……」」
花島さんと恵君は感動したように呟きながら、茶碗山盛りのご飯をどんどん食べている。すでに2杯目だ。
炊飯器だけでなく鍋でもご飯を炊いたのは、人数が多い事に加えて花島姉弟がガッツリ食べる事を見越したのだろう。
賑やかな夕食後に、本田さんが焼いたガトーショコラが出た。デザートというよりバレンタインのプレゼントの意味合いが強いそれを見て、僕は息を吞む。
「本田さん、これは……っ!」
「建視さんから頂いたパンフレットを参考にして、楽羅さんからアドバイスを頂いて、粉砂糖でモゲ太さんの絵を描いてみましたっ」
「ありがとう! すっごく嬉しいよ」
キャラクターケーキは他の女の子からもプレゼントされたけど、『モゲ太とアリ』を今日初めて知った本田さんが、キャラクターケーキに挑戦してくれた所がポイント高い。
食べるのがもったいなかったけど、食べないと味の感想を本田さんに伝えられないので、じっくり鑑賞してから味わった。
ふっくらしっとりした生地の焼き加減が絶妙で、後を引く濃厚な甘さとラム酒の仄かな風味がマッチしている。
「これ、僕の好きな味だ。美味しいよ、本田さん」
「建視さんのお口に合って、よかったです……っ」
「あ、そうだ。兄さんからメールで、
「……っ! 皆さんに食べて頂けて、とっても嬉しいですっ!」
喜びで目を輝かせる本田さんは事前に、僕と兄さんと春は甘いものが好きか否かを紅葉に聞き込んだらしい。こういう、さり気ない心遣いはポイント高いよな。さり気ないアピールがいいんだよ、楽羅姉。
「夾君っ、あーん♡」
「……後で食うからほっとけ」
「私が夾君に食べさせたいの」
それもあるだろうけど、楽羅姉は自分の手作りチョコを先に食べさせたいのだろう。
おい、夾。早いところ諦めて、あーんを受け入れた方がいいぞ。さもないと……。
「もう……夾君ったら、照れ屋さんなんだからァ!!」
「やっ、やめ、うぐっ! はなりぇむむぐぅ!」
焦れた楽羅姉は実力行使に出た。押し倒した夾の腹の上に座り、夾の顎を掴んで口をこじ開けて、チョコレートタルトを押し込んでいる。
うわぁ……。女の子に手ずから食べさせてもらうって男が夢見るシチュエーションのはずなのに、フォアグラ用のアヒルが無理矢理餌付けされるエグイ光景を連想してしまう。
「透さん……ホワイト・デーのお返しは、何がいい……?」
粉砂糖で花が描かれたガトーショコラを食べていた恵君は、強制的にあーんされている夾を見ても動じずに質問した。
本田さんは心配そうに夾を見ていたけど、恵君に声をかけられてそちらに意識が向いたようだ。
「恵さんのお気持ちだけで充分ですよ。ありがとうございますっ!」
「透君は本当に謙虚ね……」
粉砂糖で花が描かれたガトーショコラを食べ終えた花島さんは、ふわりと微笑む。
……花島さんが笑ったところを見るのは、初めてだ。アレは反則だろう。無表情とのギャップがすごい。
僕が思わず花島さんに見惚れたら、恵君が黒いオーラを発したように見えた。まあ、待て。話せばわかる。
花島姉弟と楽羅姉が帰った後、僕はぐれ兄の仕事場兼書斎に入った。本や脱いだ羽織や資料と思しき紙束が、畳の上に散乱していて足の踏み場がない。
ぐれ兄は仕事机の前に置かれた座椅子に腰を下ろし、僕は比較的片付いている一角に胡坐をかいて座った。担当さんが自分の座る場所を確保するために、ここだけ片付けたんだろうな。
「けーくんが僕に直接話があるなんて、珍しいねぇ。電話じゃ話せない大事な用件?」
「まぁね。佳菜さんの事なんだけど……」
「あら? あらら? フリーになった佳菜ちゃんを口説く決意をしたのかい? はーさんが知ったら何て言うかなぁ」
邪推するぐれ兄を睨みつけながら、僕は否定の言葉を発する。
「僕はそんな決意はしないよ。佳菜さんは近々結婚するんだから」
「へぇ、佳菜ちゃんがねぇ……彼女の年齢を考えたら、いつ結婚しても不思議じゃないけど。はーさんはその事を……?」
「知っているよ」
正月に兄さんが公園で、佳菜さんとすれ違った一件を話した。それを聞いたぐれ兄は、片手で顔を覆って「あちゃー」と呟く。
「はーさんが年明けに苛立っていた原因は、過労だけじゃなかったのか……」
「それは流石に深読みしすぎじゃない? 兄さんは佳菜さんに未練タラタラって訳じゃないよ」
「はーさんが結婚を決意した女性に未練がないって、本当にそう思う?」
「……未練があったとしても、兄さんは佳菜さんの今の倖せを壊そうとは思ってないよ」
「だろうねぇ。で? 建君は僕に何を頼みたいの?」
おふざけではないと示すためか、ぐれ兄は僕の呼び方を変えた。
ぐれ兄の洞察力だけは見習いたいと思いながら、僕は一癖も二癖もある従兄に問いかける。
「引き受けてくれるの?」
「話によっては。あとは見返り次第かなぁ?」
年下の従弟に見返りを求めるのか、とは言えない。
腹芸が巧みなぐれ兄の本音は読めないけど、ぐれ兄が慊人に近しい僕を嫌っている事は察している。嫌われている相手に頼み事を持ちかけるなんて無謀もいい処だが、打てる手は打っておきたい。
「ぐれ兄が読みたい本を手に入れてくる。300万円以内で買える本にしてほしい」
「本は欲しいけど、置く場所が足りなくなっているからいいや。見返りは僕が考えておくから、とりあえず頼み事を話してごらんよ」
ぐれ兄がどんな条件を出してくるか解ったものじゃない。頼み事をするのをやめようかと思ったけど、頼める相手はぐれ兄しかいないので重たい口を開く。
「ぐれ兄は、佳菜さんの親友の
佳菜さんが「私の大親友の繭と一緒に遊ばない?」と誘ってきた時、承諾しておけばよかったと今更ながらに思う。
繭子さんは学校の先生だと聞いていたので、説教臭い人だったら嫌だなと思って会うのを拒んでしまったのだ。
「僕と繭の関係を誰から聞いたんだい? もしかして、はーさん?」
「佳菜さんだよ。誤解のないように言っておくけど、佳菜さんはぐれ兄と繭子さんの関係を言い触らそうと思っていた訳じゃないからね」
佳菜さんは兄さんと付き合い始めて2ヶ月ほど経ったある日、「建視君から見て、紫呉さんってどういう人?」と聞いてきた。親友の繭子さんが得体の知れない男と付き合う事になったから、不安に駆られたのだろう。
その質問をされた時、僕は佳菜さんの親友がぐれ兄と付き合っているなんて夢にも思わなかったから、正直に答えた。
――海中を漂うクラゲのような奴。迂闊に触れると毒にやられる処がそっくりだ。
僕の見解を聞いた佳菜さんは、ぐれ兄に対する不信感を強めたようだ。
ぐれ兄の評価を下げた事に罪悪感は抱いてないけど、佳菜さんの不安に拍車をかけてしまった事は申し訳ないと思っている。
「繭とは別れてから連絡を取っていないけど、頼めば佳菜ちゃんの結婚式の写真を送ってくれると思うよ。でも佳菜ちゃんの花嫁姿をはーさんに見せるのって、酷じゃないか?」
「……佳菜さんの写真を、兄さんに無理やり見せようとは思わないよ。気が向いた時に佳菜さんが倖せになった姿を見れば、兄さんの罪悪感が少しは消えるかもしれないだろ」
兄さんを思いやったように聞こえる台詞を吐いたけど、実のところ僕は怖かったのだ。
僕の内面は少しずつ変わってきているのに、兄さんの心の傷が一向に癒えなくて過去に囚われ続けていたら、兄弟間での認識のズレが深い溝になってしまうかもしれない。
僕が心から敬い慕う兄さんと一緒にいて、隔たりを感じるようになったら嫌だ。
一緒に倖せを掴もうと言えば聞こえはいいけど、現段階では変化を望んでいない兄さんに倖せになる事を強要するのはエゴの押しつけかもしれない。
僕は悩んだ末に結婚式を挙げた佳菜さんの写真を入手しておいて、見るか見ないかは兄さんの判断に委ねようという結論を出した訳だが。
「罪悪感が消えれば、はとりが新しい恋人を求めるようになるって? はとりはそんな単純な男じゃないよ」
それにね、と言葉を続けるぐれ兄は冷ややかな笑みを唇の端に刻む。君の自己中心的な考えはお見通しだ、と言わんばかりに。
「はとりは手の掛かる弟の事で頭が一杯だから、自分の倖せは二の次だよ。はとりの世話を焼くより、建君は自分の恋愛問題をどうにかした方がいいんじゃない?」
「どうにかしろと言われても……」
僕が花島さんに惹かれている事、ぐれ兄にバレているな。
ぐれ兄が慊人にチクると厄介な事になりそうだが、花島さんはただの女友達だと言い張れる。
だって、僕は花島さんと恋人同士になりたいとは思ってないから。
惹かれていると言っても、他人の内面を読む力を持つ者共通の悩みや苦しみを、分かち合えたらいいなと願う程度だ。こんな色気のない想いを恋と呼べるのか。
花島さんから義理チョコすら貰えなくてガッカリしたけど、気になるあの子に異性として意識されなかった落胆というより、男としての自尊心に傷がついたせいだと思う。嘘です。落胆の割合が結構大きいよ……。
この未発達な気持ちが恋だとしても、僕は慊人の命令を受ければ任務だと割り切って、本田さんの私物に宿る残留思念を読んでプライバシーを侵害する。
本田さんラブな花島さんが、そんな事をする奴を好きになるものか。
僕の複雑な内心を知ってか知らずか、ぐれ兄は「けーくんがグズグズしている間に、咲ちゃんは他の男のものになっちゃうよ」と煽ってくる。
「
「花島さんは色気より食い気が優先だから、色恋沙汰にのぼせ上ったりしないよ」
「健啖家な咲ちゃんに、『美味しいものを沢山食べさせてあげる』って誘い文句をかける男子生徒が現れるかもしれないでしょ」
僕は花島さんと会う度に食べ物を奢っているから、「そんな奴は現れない」と否定できない。
「……普通の高校生の財力じゃ、花島さんを満腹にさせる前に財布が空になるよ」
「けーくんの台詞は、咲ちゃんを満足させられるのは自分だけって言ってるも同然だよ。そこまで言うならさぁ。いっそのこと海原高校に転校して、咲ちゃんと一緒に修学旅行を楽しんだらどう?」
目が笑っていないぐれ兄の言葉は純粋な提案ではなく、僕を試しているように聞こえる。
やけにすんなり僕の頼み事を聞いてくれるなと思ったら、これが狙いだったのか。気付いた頃には毒が回っているとか、本当にクラゲだ。
それはともかく、海原高校への転校はまったく頭になかった訳じゃない。花島さんの存在を知った時から、彼女と同じ学校に通えたらいいなとぼんやり思っていた。
だからと言って、転校しようと決断するには至らないけど。ちょっと気になる子がいるから転校するなんて、アグレッシブにも程があるだろ。
それに僕が通う
海原高校が男女共学である事も、躊躇った理由の1つだ。由希のように草摩の檻から出るといった確たる目標を掲げていなければ、大勢の前で変身してしまうリスクを背負う決意は固まらない。
「僕が海原高校に転校したいと言ったら、本田さんに近づくためかと慊人が勘繰るかもしれないだろ」
「けーくんは本当に疑り深いなぁ。由希君や夾君と同じ学校に行きたくなったと言えば、慊人さんは許可してくれるって。多分」
「最後」
「ケ・セラ・セラ。何とかなるって、心配性だなぁ。それより、本命に対して積極的になれないヘタレなけーくんに、由希君たちのクラスメイトから聞いた情報を教えてあげる。咲ちゃんはミステリアスな美少女として、男子の間で密かに人気があるんだって」
思わぬ情報を耳にして、僕は硬直する。花島さんは容姿端麗だけど電波を操る不思議キャラだから、他の男子生徒は恋愛対象として見ないだろうと思い込んでいた。
見知らぬ男子生徒が花島さんに食べ物を奢る光景を思い浮かべたら、何かを蹴飛ばしたくなる不快感が込み上げてきた。僕の胸を占める黒い感情を読んだかのように、ぐれ兄は黒灰色の目を細めて挑発的に笑う。
「けーくんは若者なんだから、行動あるのみだよ」
言葉だけなら年長者の助言として聞こえるけど、ぐれ兄は言葉を巧みに操って人を騙す事が得意だから素直に受け止められない。今この場で答えを出すのは危険だから、家に帰って落ち着いてゆっくり考えよう。
「繭子さんに連絡頼んだよ、ぐれ兄」
僕が立ち上がりながら念を押すと、ぐれ兄はウインクしながら「まっかせといて」と答えた。イラッとする上に信用ならない。
「あ、そーだ。けーくんが本気で転校するつもりなら、僕が慊人さんを説得してあげるから声をかけてね。僕に煽られたけーくんが傷つく結果になったら、逆鱗に触れたはーさんにお腹を開けられちゃう……っ」
だったら煽らなきゃいいだろと思ったけど、ぐれ兄は火に油を注がずにはいられない性分らしいので言っても無駄だ。
今度こそ帰ろうと思った時、大事なことを思い出した。僕は革製のトートバッグの中から、布教用に買っておいた『モゲ太 最後の聖戦』のパンフレットを1部取り出す。
「これあげる。今日みんなで観た映画のパンフレットだよ」
「え……ナニコレ。性春真っ盛りの学生同士で、子供向けアニメ映画を観てきたの?」
「青春という美しい言葉が爛れた感じに聞こえたけど……ぐれ兄のような汚れた大人にもお勧めのアニメだから」
「いや、僕に勧められても……」
困惑気味に遠慮するぐれ兄を見て、意外だなと思った。ぐれ兄は字が書いてあれば何でも読む濫読家なのに、好き嫌いをするなんて珍しい。
「綾兄は『モゲ太とアリ』を毎週観ているって言っていたよ。兄さんも時間がある時は、僕と一緒に『モゲ太とアリ』を観ているし」
「うっそ、マジで!? あーやはともかく、子供向けアニメを観るはーさんなんて想像できないんだけど」
「幼い息子とコミュニケーションを図りたい父親が話題作りのために、息子と一緒に特撮変身ヒーロー番組を観る光景を思い浮かべてみて……」
「うわ……ひっどい例え方するねぇ」
物の怪憑きの中で最も非道い奴に、ひどいと言われてしまった。僕は少なくない精神的ダメージを受けたけど、負けずに言い返す。
「他人事みたいに言っているけど、ぐれ兄の精神年齢の老化の方が深刻だよ。作家は常に感性を磨いてなきゃいけないのに、アニメは小さい子供が観るものっていう古臭い固定観念に囚われているようじゃ、ぐれ兄の若いファンはそのうち離れていくよ」
『モゲ太とアリ』の魅力を1から10まで教えようとしたら、何やらうんざりした様子のぐれ兄に「もういいから帰ってお願い」と言われた。
原稿を仕上げたばかりだから、疲れていたのかな。布教活動はまた今度にしよう。
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10「慊人の仰せのままに」
純和風の重厚感ある佇まいの屋敷の前に立った僕は、緊張をほぐすために深呼吸をした。
慊人は変化を好まないから、僕の転校をそう簡単に認めるとは思えないんだよな。
「
兄さんが心配そうに声をかけてきた。
正直に言うと、大丈夫じゃない。でも弱音を吐いたら慊人に頼む役目を兄さんが引き受けてしまうので、僕は笑みを作って「大丈夫だよ」と答える。
慊人の世話役の1人であるお手伝いさんに案内されながら、廊下を歩いて慊人がいる部屋へと向かう。
「慊人さん、はとりさんと建視さんをお連れして参りました」
お手伝いさんは声をかけてから、襖を開ける。和室の障子窓の近くに、慊人とぐれ兄が寄り添うように座っていた。
慊人は大問題を起こしたぐれ兄に追放を言い渡すほど激怒したのに、そんな悶着はなかったかのように見える。
……この2人は仲が良いんだか悪いんだか、よく解らないな。
昔は疑う余地がないほど親密だったけど。泣いた慊人を慰める役目を務めるのは、兄さんよりぐれ兄の方が多かった。
だけど、いつの間にか慊人とぐれ兄の間に距離感が生じていた。
2人の間に溝ができたのは、
「こんにちは、慊人」
「……やぁ、建視。僕に頼み事があると聞いたから1人で来ると思っていたけど、はとりに付き添ってもらったの? いい加減、兄離れをしたらどう?」
毒舌家の慊人にとって、この程度は挨拶代わりの軽いジャブだ。僕は脳をフル回転させて、適切な返事を探し出す。
「兄離れはまだできそうにない。僕は兄さんに隠蔽術を施してもらわないと、任務をこなせないから……」
「自分の弱さと未熟さを恥ずかしげもなく告白できるなんて、建視の図太さには驚くよ。その図太さを任務でも発揮できればいいのに。ねぇ、はとり。情けない弟を持つと苦労するね?」
「……そうだな」
慊人の言葉を否定したら説得が難航すると、兄さんは考えたのだろう。兄さんの内心は理解しているつもりだけど、僕は心に若干のダメージを負った。
「建視がいつまでもはとりに頼りきりじゃいけないから、1対1で話をしよう。はとりと
「帰りませんとも。……はーさん、行こう」
兄さんは立ち去るのを躊躇っていたけど、ぐれ兄に促されて退室した。
慊人が兄離れを話題に出した時点で、こうなる事は予想していたので動揺はしない。緊張は増したけど。
「それで? 僕に頼み事って何?」
「……海原高校への転校を許可してほしい」
慊人は僕の頼みに答えず、無言で立ち上がった。
畳の上を素足で歩いた慊人は僕の目の前で両膝をつき、開いた両足の間に尻を落として女の子座りをする。
男でも股関節周辺の柔軟性が高ければ女の子座りができるらしいけど、慊人は女性だから問題なくできるようだ。
普段は男の格好をしている慊人の本当の性別は、秘密が多い草摩家の中でも最たるトップシークレットになっている。
物の怪憑きでそれを知っている者は、兄さんとぐれ兄と綾兄と紅野兄と僕しかいない。
兄さん達は慊人より先に生まれたから、慊人の本当の性別を知っていたらしい。
僕は5歳になった時、父さんから慊人は女性だと教えられた。残留思念を読む力を持つ僕は、何かの拍子に草摩のトップシークレットを知る可能性があったので、誰にも言うなと釘を刺すために教えられたのだろう。
そんな事を考えながら、女の子座りする慊人を不躾に眺めてしまったのが間違いだった。
「人の下半身をじろじろ見るなんて、いやらしい奴だな」
「いやっ、僕は、その……慊人は裸足だから寒くないのかなと思っただけで……」
「暖房がきいているから平気だけど、建視がそんな事言うから肌寒くなってきた」
座り方を変えた慊人は「温めろ」と命じながら、正座する僕の膝の上に左足を乗せる。
足袋を履くか、湯たんぽを作ってもらった方が手っ取り早いと思うけど、頼み事の最中に口答えするのは賢くない。
「慊人、触るよ」
僕は断りを入れてから、黒い絹の手袋をはめた両手で慊人の細い足首をそっと包んだ。
「ねぇ……建視はどうして転校しようと思ったの?」
幼子をあやすような口調で慊人は問いかけてきた。
慊人がこういう喋り方をする時は、機嫌が悪いか、あるいは怒っている時だ。僕は慎重に答える。
「……
「ふぅん。十二支の頂点に座す
下から覗き込むように首を傾げた慊人は嘲笑を浮かべながら、「それにね」と言葉を続ける。
「建視も知っていると思うけど、夾は高校を卒業したら猫憑きの離れに死ぬまで幽閉する。絶望と憎悪と怨念を撒き散らす化け物と一緒にいても、何の得にもならないだろう? ああ……それとも、アレよりはマシだと確認したくて同じ学校に行くのか?」
そんな事はしない、と否定する言葉は出なかった。
盃の付喪神憑きは先代が残留思念を読む力を乱用したせいで、猫憑きとは違った意味合いで忌避される。それでも、草摩の最底辺にいるのは僕じゃないと知っている。
――ねっ、ちょっとだけっ。ちょっとだけその数珠、私にもつけさせてよ。
――だ……だめだよ。これはぜったい外しちゃいけないって、お母さんが。
――きょーのお母さんにはいわないよ。
物の怪憑きの中で最も醜くて劣悪な化け物として、差別される事が当然の存在である猫憑きを見下して、心の安寧を得ていた事は否定できない。
「建視、ちゃんと温めて」
注文を付ける慊人の声で我に返り、手袋をはめた両手を擦り合わせる。慊人が足首に香水をつけていたのか、フローラル系の香りが立ち上った。
熱を得た両手で慊人の足首を覆いながら、僕は口許に自嘲を刻んで答える。
「……そうだよ。残り少ない期間を一緒に過ごすというお綺麗な名目を掲げながら、僕は夾より恵まれた立場にいると再確認したいんだ」
「そっか……転校の動機がまともで安心したよ。僕はてっきり、建視は
暗闇から切り込むような慊人の発言を受け、僕は内心でドキリとしたけど動揺を表に出さないように努める。
「それはないよ」
「本当か?」
「僕は慊人に嘘は吐かないし、吐けないよ」
「嘘は吐けなくても隠し事はするだろ。はとりに下種女がまとわりついた時、僕に報告しなかったじゃないか……っ」
兄さんが
「……兄さんの問題だから、僕が口出しする事じゃないと思っていたんだよ」
「十二支の男を誑かす女が現れた時点で排除は決定なんだから、これからは報告を怠るな」
十二支の女の子を誑かす男が現れた場合も、排除するのだろうか。余計な事を聞いたら掴まれている髪の毛を毟られそうな予感がしたので、僕は「解った」とだけ答えた。
「建視が転校して他の女に心を移すような真似をしたら、その女の目の前で建視の左目を潰してやるからな」
脅し文句を囁いた慊人は、人差し指で僕の左目の縁をなぞった。慊人の爪は先端を尖らせた形に整えてあるから、正直に言うと怖い。
怖いからといって、逃げようとするのはNGだ。僕は冷や汗を流しながらも、慊人の嗜虐的な戯れを受け入れた。
つまらなさそうな顔をした慊人は僕の顔から手を離すと、鋭利な刃のような笑みを口の端に乗せる。
「転校を認めてやってもいいけど、条件がある。由希が次の宴会に出席するように仕向けろ」
とんでもない条件を突きつけられるのでは、と身構えていたから拍子抜けした。でも、よく考えたら難しい任務かもしれない。
兄さんから聞いた話では、由希と夾が正月に実家に帰らなかったのは、ぐれ兄の家の留守を預かる本田さんを1人ぼっちにしないためだったらしい。
僕が土下座して頼んだとしても由希は宴会に出席しないだろうから、年末年始に本田さんが1人きりにならないように手を回す必要がありそうだ。年末まで時間があるからじっくり考えようと思いつつ、僕は返事をする。
「慊人の仰せのままに」
▼△
Side:紫呉
慊人と建視が話し合っている間、僕とはとりは別室で待機する事になった。
溺愛する弟が無事に戻ってくるかどうか不安なのか、はとりは落ち着かない様子で煙草を吸っている。
「はーさん、そんなに心配しなくても大丈夫だって。僕が慊人をちゃんと説得しておいたから」
「……おまえが説得したから心配なんだ」
心外だなぁ。建視の転校を認めたがらない慊人を説得する際、僕は少なくない犠牲を払ったのに。
慊人が「不特定多数の女が建視に近づくなんて許せない」とか言うのを、苛立ちを抑えて聞く羽目になったんだよ?
建視に転校を提案したのは僕だけど、愛しい女が他の男を気に掛けるのはどんな理由であろうと面白くないんだ。
「嫌だねぇ。20年以上の付き合いがある親友に疑われるなんて、世知辛いにも程があるよ」
「誰が親友だ」
とか言いつつ、僕の薄暗い思惑を知りながらも縁を切らないはとりは本当に寛大だよね。慊人に関する事だと、心が猫の額より狭くなる僕とは大違いだよ。
余裕のある大人の振りをするために時々ガス抜きをしなきゃいけないから、愚痴を零せるはとりの存在は貴重だ。
貴重である反面、僕にとってはとりは厄介極まりない存在でもあるけど。小学生の頃から建視の保護者代わりを務めてきたはとりは、慊人が心の底から求める父性の持ち主だ。
面倒見のいいはとりはおかん属性もあるから、慊人は得られなかった母親の愛情もはとりに求めているんじゃないかと邪推しちゃうよ。父親役も母親役もできるって最強でしょ!
僕の目論見通りに物の怪憑き達が慊人から離れていっても、はとりが残っていたら慊人は「はとりさえいればいい」とか言いそうだ。そんな事を言われた日には、長年蓄積されたマグマのような嫉妬心が爆発する自信がある。
はとりはできるだけ早く新しい女とくっついて、慊人から遠ざかってもらいたい。だけど困った事に、はとりは堅物な上に佳菜ちゃんと別れた心の傷が癒えてないから、女に興味を示してくれない。
親愛なる
はとりには「君の弟をどうこうしようなんて考えない」って言ったけど、あれは嘘。建視は可及的速やかに、慊人から遠ざかってもらいたいんだよね。
盃を用いて酒を酌み交わす杯事は、互いの信頼関係を確認して絆を深める意味合いを持つ。盃の付喪神憑きである建視は、長い年月が経って綻びかけている十二支の“絆”を再構築する役目を担っているかもしれない。
“絆”が綻びかけているとか、“絆”の再構築云々は根拠のない推論だから、誰にも言ってないけど。慊人が同じような事を考えたら面倒な事になる。
残留思念を読む力を持つ建視は、草摩家の権力争いの鍵となる存在でもあるからね。慊人は自分の体を利用してでも、建視を囲い込むかもしれない。そんな胸糞悪い事態は、是が非でも回避しなくちゃ。
それに前回の宴会で建視が慊人に助けを求めた時、慊人から建視を早く遠ざけないとまずいという思いが強くなったんだよね。
気安く助けを求められた経験がない慊人は、「建視が更に馬鹿になった」と愚痴りながらも、ちょっと嬉しそうにしていた。
お気に入りの由希が宴会をサボった事で、慊人にダメージを与えられたと思っていたのにとんだケチがついたよ。
その意趣返しも兼ねて慊人を説得する際、「転校を認めてやる代わりに、由希を宴会に出席させるように仕向けろと建視に要求を突きつけるのは如何です?」って吹き込んでおいたけど。
さてさて、建視はどう出るかな? 透君に頼んで由希を説得してもらうか。それとも、宴会に出席せざるを得ない状況に由希を追い込むか。
どちらを選んだ処で、由希と建視の関係は昔のように……いや、昔とは比べ物にならないほどに冷え込む。
再び冷戦状態になったお気に入りの2人を、慊人は愉悦に浸って眺めるだろうね。
他の男に現を抜かす君は、大事なコトに気付けない。由希と建視の関係が悪化した経緯を知った者達は、不和の種を蒔いた慊人に冷ややかな目を向けるはずだよ。
僕の手のひらの上で踊りながら慊人は無邪気に悪意を振り撒いて、物の怪憑きの仲間に遠巻きにされて孤立すればいい。
慊人が大切にしている紅野もその内排除して、君を心から想う者は僕しかいないのだと思い知らせてやる。
「兄さん、慊人が転校を認めてくれたよ!」
1時間半ほど経った頃、僕とはとりが待機している部屋に建視がやってきた。
満面の笑みを広げる建視が、精神的にも肉体的にも傷ついていない事を確認したはとりは、心から安堵した声で「よかったな」と労う。
僕は愛想笑いをキープしながら、内心で盛大に舌打ちをする。
建視が入ってきた瞬間、上品なフローラル系と官能的なムスクが溶け合ったオリエンタルな香りが漂ったからだ。
これは、慊人が愛用している赤椿の香水だな。僕が
慊人は足首に香水をつけるから、建視が慊人の足に触った可能性が高い。建視が自発的に慊人の足に触るとは思えないから、慊人が触れと命じたんだろう。
男が女の足にボディタッチする時は性的な関係を求めている、という心理学的な意味を知った上で命じたのかどうか知らないけど。
ああ、ホント目障りだなぁ。
「ぐれ兄、慊人が呼んでいるよ」
「はーいはい。ところで、慊人さんを説得した僕にお礼はないの?」
別に建視から感謝の言葉が欲しい訳じゃない。僕を待っている慊人を焦らしてやりたいから、時間を稼ぐために雑談をしようと思っただけだ。
「ディ・モールトグラッツェ」
「そのイタリア語、間違ってない?」
「ジョ○ョ語だから間違ってないよ」
得意げに答える建視を、はとりは困惑気味に見つめている。
「はーさん。早い内にけーくんを矯正しないと、大事な弟がオタクに染まっちゃうよ。もう手遅れな感じがするけど」
「オタクをダークサイドみたいに言うな!」
「そういや、スター○ォーズの新作が今年公開されるんだっけ」
「紫呉、慊人の所へ早く行ってやれ」
僕が時間稼ぎをしていると気付いたのか、はとりが呆れ顔で促してくる。
しょうがないな、行くとしますか。はとり達と別れた僕は廊下をのんびり歩いて、慊人がいる部屋へと向かう。
「紫呉さん、慊人さんがお待ちですよ。お急ぎ下さい」
慊人の世話役のお局が急かしてきた。
僕に会いたいと思っているなら、慊人の方から来ればいいのに。胸の奥にわだかまった苛立ちを紛らわすため、僕は足を止めて手入れが行き届いた庭を眺める。
「これ以上、慊人さんをお待たせしては……」
お局が何か言っているけど聞き流す。
前当主にも仕えたお局は
元はと言えば、このお局が慊人に下らない物を与えたせいで、慊人は実父の亡霊に今も囚われているんだ。
馬鹿げた対抗心に駆られたお局が幼気な慊人を騙した罪に比べれば、お局を苛立たせる程度の嫌がらせは可愛いものだろう。
十数分ほど庭の鑑賞をした僕が目当ての部屋に到着すると、待たされた慊人が叱責を飛ばしてくる。
「遅いぞ、紫呉っ。すぐ僕の所へ来いって、いつも言っているだろ?」
「建視が転校の許可をもらえたと聞いたので、お祝いの言葉をかけていたんですよ」
適当な言い訳をしながら、窓際に座っていた慊人の側に腰を下ろす。
慊人は僕を睨み上げながら、「そんなの後回しにしろ」と文句を言う。
「紫呉は僕の為に生きているんだから、僕を最優先にするのが当然なんだよ」
「……最優先にしているじゃないですか」
僕が薄く笑って答えると、慊人は整った眉を吊り上げて怒りを露にする。
もっと怒り狂って、君の頭の中を占めるのは僕の事だけになればいい。
僕はずっと昔から慊人の事を考えすぎて、頭がおかしくなりそうなんだから。
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11「ぶらり温泉湯けむり旅情!」
紫呉と呉慊の人気はやはり根強いですね。
試験が実施される時期が遅いなと思ったけど、
2月28日の日曜。僕は大量の手土産を持って、ぐれ兄の家にお邪魔した。すでに到着していた花島さんは、居間で
花島さんの隣に座る
まさか……いや、深読みし過ぎか。考えを切り替えた僕は手土産を脇に置いて、女子2人に声をかける。
「花島さん、本田さん。試験勉強に取りかかろう」
「あらあら……そんなに急かさなくても……
花島さんが初めて僕を名前で呼んでくれた!! おまけに花島さんは、滅多に見せない微笑みを僕に向けている!! 心の天秤が花島さんとの会話に傾き、僕は即座に「はい、喜んで」と答えた。
「建視……花島さんに乗せられるなよ」
呆れた表情を浮かべた由希の注意を受けて、僕は本来の目的を思い出した。
無表情に戻った花島さんが、「ちっ」と舌打ちをする。柄の悪い態度を取る花島さんも可愛いな。
「じゃあ、数Ⅰから始めようか。このページの問題を解いてみて」
「ご褒美は……?」
「羽二重団子が12串。餡団子は6串で、焼き団子は6串あるよ」
僕の言葉を聞くなり、花島さんは参考書の問題に取り組む。
今日のために僕は和菓子と洋菓子と中華菓子の有名店に前もって注文して、ご褒美のおやつを用意した。店に赴いて商品を買ってきたのは、
「あのっ、由希君。この図形問題の解き方がわからないのですが……」
「これは正弦定理と余弦定理を使うんだよ」
由希が丁寧に説明すると、本田さんは焦げ茶色の瞳を輝かせて「なるほどです……っ」と感心した声を上げた。理想的な家庭教師と生徒の図である。
僕は花島さんが質問してくれるのを待っているのだが、食べ物が懸かると花島さんの脳細胞は活性化するらしく、お呼びの声は一向にかからない。
「ぶぷーっ。けーくんはすっかりメッシー君になっちゃったねぇ」
居間にやってきたぐれ兄に笑われた。
「ぐれ兄、メッシー君って何? ネス湖のネッシーの親戚?」
「未確認水棲獣じゃなくて、女の子に食事をせっせと奢る貢ぐ君の一種だよ。貢ぐ君もバブル期の言葉だから、メッシー君と同じく死語になっちゃったか。おじさん、時代を感じちゃう」
「ぐれ兄は『モゲ太とアリ』を観ないから、時代についていけないんだよ」
「
活字を追いながら恵君が注意してきたので、僕とぐれ兄は大人しく「はい……」と答える。
中学生に窘められるなんて恥ずかしくないのか、と言わんばかりの由希の視線が痛かった。
▼△
「ケン! 16日と17日は学校を休んで、温泉旅行に行こうよ!」
3月14日の夜、遊びに来た
「なんで平日に温泉旅行に行くんだよ」
「ホワイト・デーのプレゼントで、トールを温泉旅行に連れて行くの! 名付けて、ボクとトールのぶらり温泉湯けむり旅情!」
鉄道旅行番組みたいなタイトルだな。それより、16日と17日か。
学校は適当な理由をつけてサボれるけど、16日の放課後は高校の友達とゲーセンに行く約束をしている。友達との約束をキャンセルできない事もないけど、あいつらと学校帰りに遊べるのは残りわずかだから、蔑ろにしたくない。
僕が温泉旅行に参加できないと言ったら、紅葉は「ケンが行けないなら、ユキとキョーを誘おうっと」と言い出した。
「由希と
「でもユキとキョーは、トールやカグラやケンと一緒にお出かけしたんでしょ? トールが温泉に行くなら2人も行くって言うよ!」
「どうかなぁ。夾は由希が行くなら絶対に行かないって言いそうだけど」
それに夾はテンションが高い紅葉を苦手に感じている。夾が同行する可能性は限りなく低いだろう、と思っていたのだが。
『ユキとキョーもぶらり温泉湯けむり旅情に参加するよ! シーちゃんは仕事があって行けないけど(ToT)』
16日の午前9時頃に紅葉から送られてきたメールには続けて、『トールと一緒に温泉に入って、一緒に寝るんだ』と記されていた。
「はぁっ!?」
驚きすぎて、僕は教室で大声を上げてしまった。
今は休み時間だから先生に注意される事はなかったけど、近くにいたクラスメイトに「何かあったのか?」と聞かれた。
「……僕の1つ年下の従弟が、小学生に見える容姿を利用して女湯に入ろうと目論んでいる」
「マジか。うらやま……いや、けしからん!」
全くだ。紅葉は「トールはMutti(ママ)みたい」とか言っていたから、母親に甘える感覚なんだろうけど、アカンだろ色々!
だが残念だったな、紅葉よ。由希もしくは夾が紅葉の年齢を本田さんに教えれば、彼女は紅葉と一緒に温泉に入らないぞ。
……いや、待てよ。
誰かが本田さんに紅葉の年齢を教えているだろうと、由希と夾が思い込んでいたら。旅館に到着した由希と夾が自分に宛がわれた部屋に引きこもって、紅葉が本田さんを誘って一緒に温泉に入ろうとしている事に気付かなかったら。
不安に駆られた僕は返信のメールで、『紅葉の年齢を今すぐ本田さんに教えるべきだ。そうしないと本田さんに嫌われるかもしれないぞ』と忠告する。
そしたら紅葉は、『トールはボクをキライにならないもんね/(≧ x ≦)\』と反論してきた。
開き直りとはイイ根性をしているじゃねぇか。本田さんに忠告するためにぐれ兄の家に電話をかけたら、ぐれ兄の担当編集さんが電話に出た。
『先生……いえ、草摩紫呉はただいま〆切を2つ抱えているため、手が離せません。お差し支えなければ、私が用件を承ります』
「ぐれ兄に用はありません。ぐれ兄の家に同居している本田透さんに代わってください」
『先生のイトコさん達は、30分ほど前にお出掛けになりましたよ』
「そうですか……失礼します」
電話を切ってから僕は、「やられた……!」と呻いた。
僕が本田さんに紅葉の実年齢を教えるのを回避するため、紅葉は出発した後にメールを送ってきたのだろう。
こうなったら、温泉宿の従業員に本田さんへの伝言を託した方が良いだろう。紅葉は
僕は
『すっ、すみません。草摩温泉が1998年度人気温泉旅館ホテル250選の上位に入らなかった事が、
「そんな事ないよ。慊人は草摩温泉に関する不満は一言も言っt」
『ごめんなさい、ごめんなさいぃ! 両親は私を次期経営者にするための教育計画を練っているので、従業員への指示が行き届かなかったのかもしれません。草摩温泉の評判を落とした元凶はこの私! 諸悪の根源はこの私! 草摩温泉にご不満がおありでしたら、私にクレームを申し立てて下さい! もーうーしーたーてーてーくーだーさーいー!』
利津兄は電話の向こうにいるから、脇プッシュして黙らせる事ができない。申憑きの従兄が息切れした隙を狙って宥めの言葉をかけ、どうにかこうにか草摩温泉の電話番号を聞き出す事に成功。
利津兄との通話を終えてから数分後、僕の携帯電話から着信音が鳴り響いた。携帯の画面を見ると、草摩温泉の電話番号が表示されている。何やら不吉な予感がするけど、放置する訳にはいかないので通話ボタンを押す。
『正月以来ですね……建ぼっちゃん……』
ヒュードロドロという幽霊の効果音が似合いそうな弱々しい声の主は、女将さんもとい利津兄の母親の
葉月おばさんは病弱だから、温泉旅館の女将の仕事は代わりの者がしているらしい。それでも物の怪憑きの多くが「女将さん」と呼ぶから、僕も皆に倣っている。
芸人気質の紅葉は日本語に疎い外国人の振りをして、「メショーさん」と呼んでいるけど。
「お久しぶりです、女将さん」
『先程、利津からメールで連絡を受けました……建ぼっちゃんは、草摩温泉の従業員に頼みたい事があるそうですね……?』
「はい。紅葉達と一緒に宿泊する本田透さんに、『紅葉は
『承りました……ところで建ぼっちゃんは、透さんに会った事はありますか……?』
僕が「ありますよ」と答えると、女将さんは少し間を置いてから質問を投げかける。
『透さんはどのような方かしら……? 本家の人達の噂話を、鵜呑みにしてはいけないと解っているのですが……どうしても不安で……』
草摩の「中」の人達はぐれ兄の家に同居する本田さんの事を、どこの馬の骨とも判らぬ輩とか、ふしだらな小娘とか散々に罵倒している。
女将さんは他者の悪口が好きなタイプじゃないから、本田さんを批判する材料を求めている訳じゃないだろう。
本田さんを色眼鏡で見ないために、彼女に会った事がある僕の意見を聞いておこうと考えたのかもしれない。
「本田さんは他人の気持ちを思いやれる人ですよ。それに本田さんは物の怪憑きに対して、恐怖や嫌悪感を抱いているように見えなかったです」
『まあ……透さんは優しい子なのですね……』
「ええ、とっても。本田さんが利津兄に会えば仲良くなr」
『ごめんなさいぃぃぃ! 草摩の「中」の人達に駄目な子だと批判されるような息子でございますが、私にとっては大切な根は優しいたった1人の息子でございまして! 代わりに私が謝ります! 世界中に謝りますわぁぁぁぁあ!! ごーめーんーなーさーいー!』
女将さんは長期の温泉療養を必要とするほど病弱なのに、何でこんな大声を出せるんだろう。前々から疑わしかったけど、やっぱり仮病を使っているのか。
権謀術数渦巻く草摩の本家から距離を置くために病弱な振りをしているのだとしたら、女将さんは中々の策士だな。
「はぁっ!?」
その翌朝。紅葉から送られてきたメールを見て、僕はまたもや驚愕の声を上げる。
メールには『トールと一緒に温泉に入れなかったけど、トールやメショーさんと一緒に寝たよ!』と、報告する文が綴られていた。
幾ら見た目は小学生とはいえ、1つ年下の男である紅葉と同じ部屋で寝る事に、本田さんは抵抗感を示さなかったのか?
……紅葉が泣き落としを行使して、本田さんが折れたのかもしれない。女将さんが見張り役になってくれたようだから、妙な事にはなっていないだろう。
授業が終わって帰宅した後、本田さんにバレンタインのお返しを渡すべく、僕は春と連れ立ってぐれ兄の家へと向かった。
兄さんは急増する花粉症患者の対応に追われているため、兄さんが用意した本田さんへのお返しの配達も頼まれている。
ちなみに兄さんはお返しに、猫を模ったクッキーの詰め合わせを選んだらしい。なんで猫にしたのか兄さんに聞いたら、「本田君は猫年のファンだと紅葉から聞いた」と答えが返ってきた。
猫年のファンっているんだ……。
夾が好きなのかと思ったけど、本田さんはそんな素振りを見せなかったからな。純粋に動物としての猫が好きなのか、もしくは判官贔屓のような感覚で十二支に入れなかった猫を支持しているのかもしれない。
「春はどういうお返しを用意したんだ?」
「俺が作ったカチューシャ……」
手先が器用な春は、自分でデザインして作ったアクセサリーを身に着けている。タランチュラの飾りがついたネックレスとか、スカルリングとか。
ヴィジュアル系のファッションが好きな女の子なら、春が自作したアクセサリーを喜んで受け取りそうだけど。
「髑髏や十字架が飾られたカチューシャは、本田さんに似合わないと思うぞ」
「飾りのないシンプルなものにしたよ。建視こそ本田さんへのお返しに、モゲ太のぬいぐるみとか選んでないよね……?」
お返しをモゲ太のぬいぐるみにしようか迷ったけど、自分の趣味を押しつけるプレゼントは迷惑がられると兄さんに諭されたから、女子高生に人気があるブランドのパスケースにしたよ。
ぶらり温泉湯けむり旅情に赴いた一行はまだ帰ってきていないらしく、ぐれ兄の家には
「僕からのお返し、どう思う? これを着た透君に『ご主人さま』とか言われた日にゃ、おじさんドッキドキ」
居間に飾られていたスカート丈の短いメイド服を指し示しながら、ぐれ兄は犯罪臭のするニヤけ面でそう言った。
春は「捕まんない程度にしておきなよ……?」と言ったけど、これはアウトだろう。僕が携帯電話を取り出して操作すると、公序良俗に反する27歳の男が呼びかけてくる。
「ちょっと、けーくん。どこに電話しようとしているの?」
「恵君の携帯に」
「やだな、怖いな、やめよう!? メイド服はただのネタだって」
ぐれ兄が用意したネタじゃないお返しは、フリルがついたエプロンだった。
いやらしさが感じられるデザインじゃなかったけど、ぐれ兄が選んだというだけで卑猥に見えてしまう。進級祝いとして、本田さんにエプロンを贈った方がいいかもしれない。
女将さんの名前は独自設定です。
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12「進級おめでとう!」
3月19日の夜、僕の携帯にぐれ兄の家の番号から着信があった。
僕が折り返し電話をかけると、
『今日テストが返却されまして、はなちゃんと私は赤点を1つも取らなかったですよ……!』
本田さんの報告を聞いて、僕は驚いた。
赤点を取らなかったら焼肉食べ放題を奢るというご褒美を設定したとはいえ、基本的にやる気のない
「おめでとう! よく頑張ったね」
『
「本田さんの力になれて何よりだよ。試験をパスしたら焼肉食べ放題をご馳走するって花島さんと約束したから、本田さんと
魚谷さんは、花島さんが特殊な力を持つ事を知った上で受け入れたと聞いているので、直接会って話をしてみたい。
すると本田さんが、『その事でお話があるのですが……』と切り出す。
『勉強を教えて下さった建視さんと由希君へのお礼も込めて、明後日のお昼にはなちゃんのお家で焼肉パーティーを開くからぜひ来てほしいと、はなちゃんのご両親とおばあさんから伝言を預かっております』
花島さんの家に行って、花島さんのお父様やお母様やお祖母様にご挨拶するのか。やばい、妙な想像をしそうになった。
『あの、ご予定が入っていましたか?』
「いやいや。予定なんか入ってないよ。ぜひお伺いさせて頂きます」
何故か敬語になってしまった。
僕の浮かれ気分は夕食時まで続いたらしく、怪訝そうに眉を寄せた兄さんに「何か嬉しい事でもあったのか?」と聞かれた。
「友達が期末試験をパスしたって連絡が入ったんだ」
「そうか、友達か」
口元を緩めた兄さんの口調は、からかう響きを帯びていなかったけど。何となく気恥ずかしくなった僕はそっぽを向いて、「そうだよ」と答える。
「明後日は友達の家を訪ねる予定なんだけど、親御さんへの挨拶って何を言ったらいいんだろう?」
ゴフッ、と兄さんは飲んでいた緑茶にむせて咳き込んだ。
「建視、物事には順序がある。まずは自分の想いを告白して、相手の了解を得てから交際を始めろ。学生の間は清い交際を続けてお互いを理解して尊重できる関係性を築き、彼女と一生添い遂げる覚悟を固めてから、親御さんに挨拶しに行って結婚の承諾を得るんだ」
いつになく饒舌な兄さんは、真剣な表情をしている。冗談ではなく、本気で言っているのだと嫌でも解った。
「僕が一足飛びに結婚の挨拶をしに行くと思ったの? いくら何でも僕は、そんな非常識な真似はしないよ!?」
兄さんは「そうか……?」と言いながら、懐疑的な目を向けてきた。やめて、そんな目で僕を見ないで!
「僕は常識的な行動を心掛けてきたつもりだけど?」
「常識的な人間は、
「いや、あれは場を和ませるためのジョークだよ」
「あんなジョークは、
王様気質で破天荒な綾兄や、ちゃらんぽらんが服を着て歩いているようなぐれ兄以上だと言われてしまった。
僕は宴会で気力・体力だけでなく、もっと大事なものまで失っていたようだ。なんてこったい。
△▼
焼肉パーティー当日の日曜。僕が集合場所の駅前で待っていたら、「おっす」と気さくに挨拶された。
声をかけてきたのは、きつめの顔立ちだけど綺麗な女の子だ。すらりとした長身を引き立てる、マキシ丈のシャツワンピースを着ている。
一瞬誰だか判らなかったけど、人工的な色合いの金髪と薄い眉で人物の特定ができた。
「やぁ、魚谷さん。久しぶりだね」
「文化祭ぶりだな。リンゴ頭は目立つから遠目でも一発で判ったぜ」
「リンゴ頭って、もしかして僕の事?」
「他に誰がいるんだよ。族に入ってないのに髪を真っ赤に染める学生は、全国探してもそうそう見つからないと思うぞ。カラコンもつけているし」
族って暴走族の事だよな。気になるけど突っ込んで聞くと藪蛇になりそうだと思ったので、「髪と虹彩の色は生まれつきだよ」と答えるにとどめた。
「はぁん。きょんといい王子といい、
「詳しい事は解らないけど、遺伝的な理由らしいよ。ところで、きょんと王子って
うなずいた魚谷さんの話によれば、
そういや中学時代も、エンジェル・ユキ(略称はエン・ユキ)と称するファンクラブが結成されていたな。
由希非公認のファンクラブだったエン・ユキは、むさ苦しい男子校に舞い降りた
エン・ユキのメンバー間で、
甘い汁を吸おうとする輩は徹底的に利用してやれと考えた僕は、エン・ユキの特別顧問に就任してファンクラブを牛耳った。陰の実力者になってみたいお年頃だったのだ。
魚谷さんと雑談していたら、由希と本田さんがやってきた。
「おっとビックリ。由希が本当に来るとは思わなかったよ」
僕が素直な気持ちを口にすると、由希が探るような目で僕を見てくる。
「俺が来ると都合が悪いのか?」
「いや、別に」
積極的に他人と関わろうとしない由希が、女の子の家に行きたがるとは思えない。
由希の目的は本田さん達と一緒に焼肉パーティーを楽しむ事じゃなくて、残留思念を読む力を持つ僕を見張る事だろう。ご苦労な事だ。
「あのっ、建視さん」
花島さんの家に歩いて向かう途中、本田さんが話しかけてきた。僕は「何だい?」と応じる。
「
「そうだよ。今年の春から同じ学校の同級生になるんだ。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いしますっ!」
「新学期から賑やかになりそうだな」
本田さんと魚谷さんは笑顔で迎え入れてくれたけど、由希の濃灰色の瞳には疑惑の色が浮かんでいる。僕が慊人の命令を受けて転校したんじゃないか、と勘繰っているのかも。
「ところで、
「はいっ! 紅葉君は文化祭で建視さんやはとりさんと一緒に、私達のクラスに遊びに来て下さいましたよ」
歩きながら腕組みをした魚谷さんは、「思い出した」と言って手をポンと打つ。
「屋台に登った小学生か」
「あ、いえ……紅葉君は私達より1つ年下です」
「はぁ!? どう見ても小学生だったろ」
「私も小学生だと思ってしまいました……」
項垂れた本田さんを見かねてか、由希が慰めの言葉をかける。
「紅葉の年齢を見抜ける人は中々いないから、本田さんが落ち込む事はないよ」
「そうだよ。紅葉は言動もお子様だから、年齢推察の難易度が高いんだ」
「建視も中身はお子様だろ」
ツッコミを入れた由希の声は冷ややかだ。
バレンタインのトリプルデートで、僕がモゲ太グッズを押しつけた事を根に持っているのか。器のちっちゃい奴だな。
程無くして庭付き一戸建ての花島家に到着した。魚谷さんがインターホンを鳴らすと、玄関のドアが開く。
出てきたのは、緩やかに波打つ明るい茶髪をハーフアップにした40代前後の華奢な女性だ。花島さんのお母様と思われる女性は、朗らかに笑いかけてくる。
「いらっしゃい! さぁ、上がってちょうだい」
「ウース、おっじゃましまーす」
「お邪魔しますっ」
「……お邪魔します」
「お邪魔しましゅ」
うわぁ、噛んだ。
魚谷さんは「緊張しすぎだろ」と言いながら笑い、本田さんは「私も緊張すると、言い間違える事がよくあります」と励ましてくれた。
由希は、呆れ混じりの視線を僕に投げかけたけどな。微笑ましそうな目で見守ってくる花島さんのお母様の前で、由希に対する文句は言えない。
僕は何事もなかったように靴を脱ぎ、案内されたリビングに入る。『進級おめでとう!』と書かれた手作りの横断幕と、カラフルなフラッグガーランドがリビングの壁に飾られていた。
「おや、まぁ。美形だと聞いていたけど、予想以上だねぇ」
驚きの声を上げた60代前後の女性は、花島さんのお祖母様だろう。薄灰色の髪を短く整え、シンプルなピアスを耳に飾っている。
「いらっしゃい……」
歓迎の言葉をかけてきた花島さんは、黒のロングワンピースの上に紙エプロンをつけている。
恵君も紙エプロンを既に着用しており、花島姉弟が焼肉を食べたがっている事が伝わってきた。
「初めまして。
縁なしの眼鏡をかけた40代前後の男性が、快活に挨拶してきた。柔和な雰囲気を纏った花島さんのお父様と対面した僕は、軽くお辞儀をする。
「初めまして。僕は草摩建視です。花島さんや恵君とは、親しくさせていただいております」
「そうか、きみが建視君か。咲に勉強を教えてくれてありがとう。これからも“友達”として、咲や恵と仲良くしてほしい」
にこやかに笑う花島さんのお父様は、友達という言葉を強調したような気がした。
「大人げないね。未成年相手に牽制するんじゃないよ」
「未成年だからこそ、節度は必要だろう」
花島さんのお祖母様が呆れ顔で窘めると、花島さんのお父様は眼鏡のブリッジを押し上げながら言い返す。
僕は愛娘に近づく悪い虫だと見做されているのかな。何となく恵君を見遣ったら、彼は黒い笑顔を見せた。花島さんのお父様が僕を警戒しているのは、恵君の仕業だったようだ。
僕は花島さんや恵君に何かした訳じゃないのに、なんでこんなに嫌われているんだろう。
「みんな、こっちに集まってーっ」
キッチンで準備していた花島さんのお母様が弾む声で呼びかけた。リビングにいた面々はキッチンへと移動する。
6人用と思しきテーブルの椅子は取り払われている。焼肉パーティーは立食形式で行われるようだ。
テーブルの上に置かれた2つのホットプレートには、肉や魚介類や切り分けた野菜が並べられてじゅうじゅう音を立てていた。
飲み物を注いだグラスを全員が持つと、花島さんのお父様が乾杯の音頭を取る。
「建視君と由希君のおかげで、皆揃って進級する事ができた。本当にありがとう。皆、進級おめでとう!」
「「「おめでとう!」」」
僕はウーロン茶の入ったグラスをテーブルに置いて、取り皿と箸を取った。何から食べようかなと迷っていたら、花島さんのお祖母様が僕に声をかけてくる。
「食べたいものがあれば、遠慮なく言っとくれ。いい塩梅に火が通ったのを取ってあげるよ」
「えーと、じゃあ……人参と玉ねぎとホタテと椎茸をもらえますか?」
「肉は食べないのかい?」
焼き色がついた肉は、花島さんと恵君と魚谷さんが自分の取り皿に素早く確保している。
それに気付いた花島さんのお祖母様は、取り皿に肉を山盛りにした孫達に向かって「ちょっとは遠慮しな!」と叱った。
「おばば……焼肉は早い者勝ちが原則だよ……」
「弱肉強食ね……」
恵君と花島さんが淡々と答えると、花島さんのお祖母様はやれやれとばかりに溜息を吐いた。
その時、花島さんのお母様が肉を載せた取り皿を持って僕に近寄ってくる。
「建視ちゃん、お肉を取っておいたわ。よければ食べてちょうだい」
「由希ちゃんの分のお肉もあるわよ」
「あ、どうも……」
おい、由希。顔が引きつっているぞ。楽羅姉に「ゆんちゃん」って呼ばれているのに、ちゃん付けに戸惑っているのか?
「あっ……由希ちゃんはお肉が嫌いなのかしら?」
花島さんのお母様が困ったように眉を下げると、由希はきらきらしい笑顔に切り替えて「嫌いじゃありません」と答えた。
由希は自分の女顔を嫌っているようだが、いざとなったら美麗な顔を利用する強かさを身につけたようだ。
僕は醤油ダレにつけた肉と人参を味わってから、「花島さんにはまだ言っていなかったけど」と話を切り出す。
「僕は今年の春、海原高校に転校するんだ」
それを受けて「まぁ!」と喜びの声を上げたのは、花島さんのお母様とお祖母様だ。
花島さんと恵君は無表情なので、どう受け止めたのか判断しづらい。花島さんのお父様は余程驚いたのか、目を見開いた状態で固まっている。
「建視ちゃんが咲ちゃん達と同じクラスになるといいわねっ」
「同じクラスにならなくても、また咲に勉強を教えてくれると助かるんだけど」
「僕でよければ、いつでも花島さんに勉強を教えますよ」
「いや! いやいや……建視君1人に負担をかける訳にはいけない。試験対策を講じるなら、由希君にも協力を仰いだ方がいいだろう」
焦った表情を浮かべた花島さんのお父様は、必死な眼差しを由希に向ける。急に話を振られた由希は躊躇いがちに口を開く。
「ええっと……本田さんと花島さんが、試験に専念できるように尽力します」
花島さんのお父様は由希と固い握手を交わしながら、「頼りにしているよ」と言った。
由希は困惑しているように見えたけど、僕は助け舟を出さなかった。花島さんのお父様に頼られるポジションを奪われたからな。
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13「杞紗が入院!?」
僕が居間のソファに座って録画したアニメを観ていたら、暗い表情で帰宅した兄さんがぞっとするような報せを告げた。
「
「いいや。……杞紗は
それを聞いた瞬間、僕の顔から血の気が引く。
慊人に結婚の許可を乞いに行った兄さんと
「
兄さんが心配そうに声をかけてきたので、僕は「大丈夫」と答える。
辛い記憶が蘇って動揺したけど、それは兄さんも同じだろう。いや、同じじゃない。佳菜さんとの思い出と、左目の視力をほぼ奪われた兄さんの方が心痛は深いはずだ。
以前の僕は自分の事で手一杯だったけど、あれから成長したのだから兄さんを気遣える心の余裕を持ちたい。
「慊人はどうして、杞紗に暴力を振るったんだろう?」
今年の春に中学1年生になる
答えを後回しにした兄さんは僕の隣に腰掛け、トラウザーズのポケットからシガレットケースを取り出した。兄さんは鬱屈した気持ちを紛らわすように紫煙を燻らせてから、おもむろに話し出す。
「
「な……んで、そんな無謀な真似を……」
兄さんが左目を怪我した経緯を、知らない訳じゃないだろうに。
……いや、今年の春に小学6年生に進級する燈路は知らなかったのだろう。物の怪憑きの中で最年少の燈路に教えるのは酷だからと、情報が伏せられていたのかもしれない。
「燈路はまだ幼いから、
僕は慊人に恋愛関係の話を振ってはいけないと心に刻まれているから、自分の想いを積極的に慊人に明かした燈路の考えが理解できない。
というより、燈路のように想いが先走ってしまうほど強い恋情を抱いた事がないから、理解が及ばないと言った方が正しい。
強い恋情か……僕には縁がない感情だな。
緩やかに波打つ長い黒髪をなびかせる花島さんの姿が、脳裏に浮かんだけど。友愛と恋愛を取り違えるなと自分に言い聞かせて、思考を中断する。
杞紗の心が幾らか落ち着いた頃にお見舞いに行こうと思い、27日に
春休みに入って4日経った26日の夜、慊人の世話役の1人からメールが送られてきた。明日の午前中、残留思念を読む任務を行うという報せだ。
「……任務の前日に通達するのはやめてくれって、頼んだのに……」
僕が任務を嫌がって逃げるかもしれないから、日取りを明らかにしないのか。あるいは任務が行われる日時を不明確にする事で、僕に心理的圧力をかけるのが目的か。
僕は紅葉にメールを送って、急な予定が入ったから杞紗のお見舞いに行けなくなったと知らせる。
紅葉は任務が入った事を察したのか、『キサのお見舞いは別の日にしようね!』と返信してきた。
慊人から暴行を受けた杞紗を前にしたら、大怪我を負った兄さんと重なってしまいそうなので、僕1人でお見舞いに行くのは精神的にキツイ。紅葉の心遣いを有難く受け取って、僕はスケジュールを立て直した。
▼△
Side:はとり
不安と焦燥感に駆られながら、任務に赴いた建視の帰りを待っていた。建視が正気を保った状態で戻ってきてくれる保証はないので、毎回生きた心地がしない。
ようやく玄関でチャイムの音が聞こえた。
俺は半ば駆け足で玄関へと向かう。廊下で俺と擦れ違った家政婦が驚いていたが、形振り構っていられない。
玄関に入ってきた学ラン姿の建視を見た時、胸が潰れるような思いがした。
生気が失せた顔は蒼白で、真紅の瞳は焦点が合っていない。立っているのも辛いのか、震えながら壁に手を突いている。
俺は急いで建視に近寄ってローファーを脱がせてから、肩を貸して家の中に連れて行く。弟の部屋に入ってベッドの上に横たえてやると、建視がたどたどしい言葉を発する。
「あきと……きょか、くれた」
「解った。よく耐えたな」
俺は右手で建視の目元を覆って、精神を苛む記憶を隠蔽した。
全身から力が抜けた建視は意識を失ったが、まだ気は抜けない。一定の期間を置いて隠蔽術の重ねがけを施さないと、フラッシュバックを起こす恐れがある。
建視の精神の均衡は危ういバランスで保たれている。それは今に始まった事ではないが。
建視は5歳頃から毎日のように慊人の屋敷に通って、物品に宿る人の残留思念を読む力の検証を強要された。
その力の検証は既に行われているはずだが、先代の盃の付喪神憑きが生まれたのは、約200年前だった。
江戸時代から現代に至るまで多種多様な物品が作り出されたので、残留思念を読み取れるものと読み取れないものを調べる必要がある。と、いうのが草摩の上層部の言い分だ。
検証に用いられた物品の中には、おぞましい記憶が宿ったものがあったのだろう。建視は検証の最中に何度も発狂しかけた。
俺は父さんに検証をやめさせてほしいと頼み込んだが、上層部の一員だった父さんは「草摩家の繁栄のために必要な事だ」と言って一顧だにしなかった。
先代の当主が夭折した事を主治医として責任を感じていた父さんは、病弱な慊人を殊更大切にしていた。慊人の支持基盤を盤石にするためなら、幼い建視を使い勝手のいい道具に仕立てる事も厭わなかったのだろうか。
……俺が佳菜と建視を連れて草摩から出ていれば、建視は精神を蝕む任務を押しつけられずに済んだかもしれない。俺は愛する女性と一緒になれたかもしれない。
仮定は幾つも思い浮かぶけれど、俺が慊人に逆らう強い意志を持てなかった時点で、明るい未来は閉ざされたのだから考えても詮無いことだ。
「……すまない」
光に向かって進もうとしている建視を、草摩の闇から解放してやれない。次から次へと溢れてくる懺悔の念を押しとどめ、弟が着ている学ランを脱がせた。
制服のままでは寝辛いだろうから、建視が寝巻きとして使っている浴衣に着替えさせる。建視の体が大きくなったと感じたが、今はそれが無性に悲しかった。
▼△
Side:建視
3月30日の午前中に僕と紅葉は杞紗を見舞うため、寅憑きの従妹が入院している草摩総合病院へと赴いた。
1階の面会受付で手続きをしてから、エレベーターに乗って病棟に向かう。受付で言われた通り、ナースステーションに立ち寄って草摩杞紗に面会しにきた事を告げる。
女性の看護師に教えてもらった杞紗の病室に向かう途中、
小学6年生になる燈路は背伸びしたいお年頃なのか、白のTシャツの上にオリーブグリーンの長袖のミリタリーシャツを羽織り、黒のハーフパンツを穿いたワイルドな装いをしている。
毛先が跳ねた薄茶色の髪と吊り目がちな茶色の瞳も相俟って、小生意気そうな雰囲気を普段は纏っているのだが、今は見るからに意気消沈していた。
「あっ、ヒロだ! ヒロもキサのお見舞いに来たの?」
「……見れば判るだろ」
口達者な燈路の鋭い弁舌は鳴りを潜め、言い返す声も弱々しい。聡い燈路は自分の発言が慊人の逆鱗に触れ、その怒りが杞紗に向かったと悟ったのだろう。
「燈路は杞紗に何を差し入れしたんだ?」
杞紗の様子を聞くのは躊躇われたから、僕は当たり障りのない質問をした。
燈路は僕が持っているバスケットタイプのフラワーアレンジメントをちらりと見てから、「花をあげたよ」と答える。
「あっちゃあ、燈路とかぶったな」
「いっぱい花があったほうが、キサは喜ぶよっ」
「花が大量にあると香りが鼻につくと思うぞ。いっその事、フラワーロックにすればよかったか」
僕が冗談半分で言うと、紅葉が「フラワーロックって何?」と聞いてきた。
「サングラスをかけて楽器を持ったヒマワリの造花が、周囲の音に反応して踊るように動く玩具の名称だよ。……よく考えたら、フラワーロックは植木鉢の花だから駄目だな」
紅葉が首を傾げて、「ウエキバチの花だと何でダメなの?」と疑問を投げかけた。
「根が付いている植木鉢の花は寝付くという言葉を連想させるから、お見舞いに持っていっちゃダメって花屋のお姉さんが言っていたんだ」
「でも、フラワーロックはオモチャなんだから根っこはナイでしょ。それならダイジョーブ!」
「ここは病院なんだから静かにしなよ。2人ともオレより年上のくせに、一般常識ってものを知らない訳? TPOを弁えてない訳? アンタ達と一緒にいるとオレまでマナーが悪い若者だと思われそうだから、オレはお先に失礼するよ。じゃあね」
怒る事で燈路はいつもの調子を少し取り戻したようだ。燈路が溜め込みすぎないように、しばらく様子を見守った方がいいかもしれない。
目当ての病室のドアを僕がノックして開ける。
ベッドの上で上体を起こしていた杞紗は窓の外を眺めていたけど、訪れた僕達に気付いてゆっくりと振り向く。肩の上で切り揃えられた、茶色を帯びた黄色い髪がさらりと揺れる。
前髪の両サイドの髪は長く伸ばして、フェイスラインに沿って垂らしているけど、顔に負った怪我を隠し切れていない。杞紗の左頬を大きなガーゼが覆い、目の下や首にあざや掠り傷が見受けられる。
暴行を受けたショックがまだ尾を引いているのか、杞紗の琥珀色の瞳は虚ろだ。
こんなになるまで痛めつけなくたって……。従妹の痛々しい姿を目にして、僕は絶句した。
左目を負傷した兄さんや心を病んだ佳菜さんと重なったから、という理由だけじゃない。
杞紗の愛らしくて小さな顔を狙って攻撃した、慊人の女性に対する激しい憎悪を感じ取って背筋が凍った。
「キサ、お見舞いに来たよ」
「身体の具合はどうだ?」
「……お兄ちゃん達、来てくれてありがとう。身体の具合はあんまり良くない……」
「ジュース持ってきたけど、飲むのツライ?」
「飲むのは大丈夫……紅葉お兄ちゃん、ありがとう。建視お兄ちゃんも、お花を持ってきてくれてありがとう……」
顔の筋肉を動かすと傷に響くのか、杞紗は礼を言う途中で痛みに耐えるように眉を寄せた。これでは食事をするのも苦行だろう。
「さっき廊下でヒロと会ったよ。病院なんだから静かにって言われちゃったの」
「そういや燈路も花を持ってきたって聞いたけど、どこに飾ったんだ?」
「燈路ちゃんがくれたお花は、お母さんが花瓶に活けてくれているよ……」
病室のドアが開いて、ピンクの八重咲きのトルコキキョウを活けた花瓶を持った女性が入ってきた。30代半ばのショートヘアの彼女は、杞紗の母親の
「……杞紗のお見舞いに来てくれたの? どうもありがとう」
沙良おばさんは笑顔で応対したけど、疲労が浮かんでいた。看病疲れもあるだろうが、落ち度はない杞紗が殴られた事への怒りや、草摩の当主に抗議できない不満が溜まっているのだろう。
長居すると沙良おばさんにも負担をかけてしまうので、僕と紅葉は挨拶もそこそこに病室を後にした。
「待って。建視君に聞きたい事があるの」
思いつめた表情を浮かべた沙良おばさんに、廊下で呼び止められた。気を利かせた紅葉は、「1階の売店に行っているね」と告げて立ち去る。
僕と沙良おばさんは病棟の休憩室に向かい、窓際のテーブルの席に向かい合って座った。沙良おばさんは自分達の他に誰もいない休憩室を見渡してから、おもむろに口を開く。
「建視君は慊人さんに近しいから、知っているんじゃないの? 今回、杞紗が暴力を振るわれた理由を……」
物の怪憑きの子供を持つ母親は、過保護か育児放棄の2タイプに分かれる。前者である沙良おばさんに慊人が逆上した理由を馬鹿正直に話したら、燈路に仕返ししかねない。
考えすぎかもしれないが、沙良おばさんの据わった目を見ていると不安になる。
「いいえ、知りません。お役に立てず申し訳ありません」
沙良おばさんは探るように僕を見つめてから、「そう……」と呟いて席を立った。
慊人が杞紗に暴力を振るった原因究明をしたがる沙良おばさんは、燈路にも同様の質問をするかもしれない。罪悪感に負けた燈路が、自分のせいだと告白したら……。
遠ざかる沙良おばさんの危うげな背中を見送りながら、僕は漠然とした不安を抱いた。
杞紗の母親の名前は独自設定です。
穏やかではないラストになってしまいましたが、高校1年生編はこれでおしまいです。次回から高校2年生編が始まります。
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高2・1学期編
14「転校生の草摩建視です」
都立
襟と袖と裾が白いラインで縁取られた紺青色のスクールシャツと、淡い水色のネクタイ。それにスクールシャツと同色のスラックスという組み合わせだ。
ブレザーや学ランといった学校指定の上着はなく、寒い日は学校指定のカーディガンかセーターを着るらしい。
僕の赤い髪と紺青色の制服の取り合わせは、歩行者信号を連想しちゃうんだよな。
だからと言って、染髪する気も焦げ茶色のカラーコンタクトを入れる気もないけど。
いつだったか
黒髪黒目じゃないと駄目だと言い張る教職員が、海原高校にもいるかもしれないので、僕の髪と虹彩の色は生まれついてのものだと証明する書類を兄さんに作成してもらった。
毛色の違う物の怪憑きは面倒だなと思っていたら、僕を乗せた送迎車は海原高校に到着したようだ。
「それでは11時頃にお迎えにあがります。建視さん、いってらっしゃいませ」
「あんな超絶かっこいい男子、うちの学校にいたっけ?」
「うわ。あいつ、髪が真っ赤だぞ。ヤンキーか?」
僕が校門に向かって歩いていると、通学途中の生徒の注目を集めた。
強面な上級生に目を付けられたらどうしようと思っていたけど、転校初日から体育館裏に呼び出される事態にならずに済んだ。できれば卒業まで呼び出されない事を願いたい。
自分の下駄箱がどこにあるのか判らないので、職員用玄関から入って持参した上履きを履く。すぐに引き返してくるから、ローファーは職員用玄関に置いておいても大丈夫だろ。
職員室に向かってノックをして、引き戸を開けた。出入口に立つ僕を見た教師の何名かが、ぎょっとしたように目を見開いている。
兄さんに書いてもらった証明書は生徒手帳に挟んで、常に持ち歩いていた方がよさそうだ。そんな事を考えながら、僕はコーヒーの香りが漂う職員室内に呼びかける。
「失礼します。転校生の草摩建視です。僕が在籍する事になったクラスの担任の先生は、いらっしゃいますか?」
「――あたしだ」
立ち上がって返事をした女性教諭は、20代半ばに見えた。
ダークグレーのパンツスーツに包まれた細身の長身。薄茶色に染めた真っ直ぐな髪を、低い位置でポニーテールにしていた。
クールビューティな印象を与える切れ長の瞳の持ち主だけど、左目の下にある泣きぼくろが淡い色気を漂わせる。
あれれ~? この人、どこかで見た事あるぞ。
以前、
「もしかして、佳菜さんの大親友の
「……そうだ。学校では先生をつけて呼ぶように」
やっぱり本人だった。世間は広いようで狭いっていう言葉は、本当だったよ。
職員室から出た僕は、「うああ~!」と呻きながら頭を抱える。繭子先生は驚きながらも、「どうした?」と気遣わしげに訊いてきた。
「海原高校に繭子先生がいると知っていれば、ぐれ兄と取引しなかったのに……っ!」
「ぐれにいって
職員室の近くを通りかかった教員や生徒の注目を集めていたので、僕と繭子先生はすぐそこにある会議室に入る。
「それで、紫呉と何を取引したんだ?」
「ぐれ兄に頼んで繭子先生に連絡を取ってもらって、佳菜さんの結婚式の写真を送ってもらおうとしたんだよ」
「えっ? 佳菜が結婚する事を知っているの?」
「うん。兄さんから聞いた」
「ええっ!? はとり君、佳菜の事が気になって近況を調べていたのか……」
兄さんにあらぬ疑いがかけられているようなので、僕は正月のニアミスを簡潔に話す。
繭子先生は気の毒がるような表情になって、「はとり君……なんて間の悪い」と言った。
気安い呼び方をしている事から察するに、繭子先生は兄さんと親交があるようだ。
「繭子先生、ぐれ兄から連絡あった?」
「今のところ紫呉から連絡は来てないよ。紫呉はあたしの実家の古書店によく来るけど、あいつから伝言を頼まれたって話は親から聞いてないし」
ぐれ兄は繭子先生に連絡するのを忘れているのか、それとも故意に遅らせているのか。後者だろうな。それより、と思考を切り替える。
「繭子先生の実家の古書店に足繁く通うなんて、ぐれ兄は繭子先生に未練があr」
「ない。それだけは絶対にないから。というか、あたしと紫呉の関係は誰から聞いた?」
「佳菜さんから聞いたよ」
安堵したように息を吐いた繭子先生は表情を引き締め、僕をまっすぐ見据えてくる。
「建視君は、佳菜の結婚式の写真を手に入れてどうするつもり?」
「学校の先生に、建視君と呼ばれたのは初めてだな」
僕が思った事をそのまま口に出すと、驚いたように目を丸くした繭子先生の頬に朱が差す。
「……っ! 佳菜がそう呼んでいたから
「佳菜さんは兄さんの助手を務めていた時期があるから、兄さんは佳菜さんが倖せになった姿を見たいかもしれないと思ったんだ」
僕は当たり障りのない返答をした。
佳菜さんの記憶から兄さんと付き合った思い出が欠落した事を、繭子先生は不審に思っているかもしれない。
それについて聞かれたら、病に伏せった影響で佳菜さんは部分的な記憶喪失になったのではないか、と言い訳するつもりだったのだが。
「……そうか」
言葉短かに呟いた繭子先生は、物思いに耽るように目を伏せる。
あれこれ聞かれるんじゃないかと思っていたから、肩透かしを食らった気分。
「もしかして……繭子先生、ぐれ兄から事情を聞いた?」
無言で頷いた繭子先生を見て、僕は心の中で(何やってんだ、ぐれ兄は!)と叫んだ。
兄さんの隠蔽術は草摩家の機密として扱われている。ぐれ兄の元恋人とはいえ、部外者の繭子先生に話していい事柄じゃない。
この事が慊人に知られたら、兄さんは繭子先生の記憶を隠蔽せざるを得なくなる。兄さんと繭子先生のためにも、この件に関して知らぬ存ぜぬを決め込もう。
「はとり君は……元気にしている?」
「元気……とは言えない。疲れが溜まっているように見える」
続出する花粉症患者の診察に加え、
「相変わらずだな。あまり無理しないように……って、あたしが言っても仕方ないか」
「兄さんの事が気になるなら、会って話をすればいいよ。兄さんは明日の入学式を見に行くって言っていたから」
佳菜さんの親友と対面するのは兄さんにとって心の準備がいる事かもしれないけど、草摩一族以外の知人に会って話をすれば気分転換になるかもしれない。
そう考えて提案したのだが、繭子先生は片手で顔を覆って溜息を吐いている。
「教師としての仕事をほっぽり出して知り合いに会いに行ったら、生徒に示しがつかないだろ」
「じゃあ、仕事が終わった後に会えばいいじゃない。兄さんの携帯のメールアドレスを、繭子先生に教えるよ」
「本人の許可なく個人情報を他人に教えるなよ」
本人の許可を得ればいいのか。
僕がスラックスのポケットから携帯電話を取り出して、兄さんに送るメールを作成しようとしたら、繭子先生が「やめんか」と制止してくる。
「佳菜の結婚式の写真はあたしが建視君に渡すから、紫呉との取引は解消しなよ。あいつは何を吹っかけてくるか解ったもんじゃないぞ」
繭子先生はぐれ兄の本性を知ったから別れたのだろうか。僕が想像を巡らせていたら、繭子先生は真剣な面持ちで「建視君に頼みがある」と切り出す。
「あたしと紫呉の関係を、他の人に言わないでほしい」
「言わないよ。僕の兄さんに誓う」
繭子先生の後について会議室から出た僕は、職員用玄関に置いたローファーを回収してから昇降口へと向かった。
僕の出席番号が記されたプレートがついた下駄箱にローファーを入れて、2‐Dの教室を目指す。
海原高校はクラス替えが無いと聞いたから、慊人に頼み込んで草摩家の権力を行使してもらって、僕が2‐Dに在籍できるように仕向けた。
だってせっかく転校したんだから、
そんな本音は慊人に言えないので、
目当ての教室の引き戸を開けた繭子先生は、生徒達の賑やかな話し声に負けないように凛とした声を響かせる。
「ほら、席に着け! ホームルームを始める前に、転校生を紹介するぞ」
僕が教室に入ると、青いセーラー服を着た女子生徒達が「きゃー!」と歓声を上げた。
出席簿で教卓を叩いた繭子先生は、「静かにしろ!」と注意を飛ばす。繭子先生の男勝りは口調だけじゃないらしい。
教卓の前に立った僕は、爽やかな好青年に見える笑顔を浮かべる。自己紹介は第一印象が肝心だ。
「文化祭で会った人は覚えてくれているかな? 僕の名前は草摩建視。年の近い従弟がみんな海原高校に進学したから、僕も一緒に通いたくなって転校してきたよ」
「そんな理由で転校する奴がいるか!」
勢いよく立ち上がって、キレのいいツッコミを入れてきたのは夾だ。僕は親指で自分を指差して「ここにいるぞ」と答える。
「おしゃべりはそこまでだ。ミカン頭は着席しろ。リンゴ頭は廊下側の最後尾の席に着け」
繭子先生と
ホームルーム終了後、始業式が行われる体育館へと移動する。
廊下に出た僕は花島さんや
「建視君の髪って地毛?」
「カラーコンタクトをつけているの?」
「建視君は、由希君や夾君と仲が良いの?」
次々と投げかけられる質問に答えつつ、僕に近づこうとする女子生徒とさり気なく距離を取るのは神経を使う。
体育館に着く頃には気疲れしてしまった。出席番号順に並んだ僕は、後ろを振り返って由希に話しかける。
「共学って予想以上に大変だな。由希はもう慣れたのか?」
「慣れたよ」
「余裕があるな。さすがは王子様」
嫌味っぽく言ったつもりはないけど、由希が僕を睨みつけてきた。こわやこわや。
「夾はどこ行った? トイレか?」
「知らないよ」
「きょんきょんはサボりだと思うよ」
由希は素っ気ない答えを返したけど、由希の後ろにいるノーネクタイの男子生徒が教えてくれた。
「君は確か、文化祭で僕に金券を使う事を教えてくれたチャラ男君」
「なんか微妙な覚え方されてる。オレは
「ユウだと由希と混同しそうだから、すけっちって呼ぶ事にする」
「すけっちって呼ばれたのは初めてだよ。建視君の事は、けんけんって呼んでいい?」
「よきにはからえ」
「なんで急に殿様言葉」
会話に入ってこなかった由希は、不機嫌そうな仏頂面になっていた。うるさいな、とか思っているのだろうか。
草摩の外に出ても真面目な優等生でいるなんて、由希は相変わらずお堅い。僕はすけっちとの会話を切り上げて前を向いた。
▼△
Side:夾
始業式に出るのはタルいから、教室で漫画を読んで時間を潰した。気になる事があったせいで、漫画の内容は殆ど頭に入らなかったが。
なんで建視が海原高校に来やがったんだ。
建視が通っていた男子高は、はとりの母校だったはずだ。ブラコンの建視が、自分から進んで転校するとは考えづれぇ。
となると、やっぱ慊人に命じられて来たのか。他人を嘲笑って楽しむ慊人が何を企んで、建視を差し向けてきたかなんざ知りたくもねぇ。
どうせ、俺とクソ由希を監視しろといった碌でもない命令を出したんだろ。
考え事をしながら惰性的に漫画のページをめくっていたら、クラスメイトが教室に戻ってきた。嫌でも目に付く赤い髪を持つ建視が、こっちに近づいてくる。
俺は漫画に集中して、話しかけるなと無言で主張した。それを知ってか知らずか、建視は俺の前の席に座る魚谷に声をかけている。
「やあ、魚谷さん」
マスクをつけた魚谷は鼻声で、「おー……」と返事をした。
「風邪をひいているのか?」
「違ぇよ。花粉症だ」
「辛そうだね。症状を抑える薬を服用した方がいいんじゃない?」
「効かねーんだよ。若気の至りで色ンな薬、飲みすぎたかな」
筋金入りのヤンキーの魚谷が言うと洒落にならねぇよ。俺は思わず「なんだよ、色ンな薬って……」と言ってしまった。
「夾……人には触れてはいけない過去が、1つや2つあるんだよ」
残留思念を読む力を持つ建視が言うと、脅しに聞こえる。俺が後ろめたさを抱えているから、そう思っちまうのかもしれねぇが。
「建視さん……っ!」
弾むような声と共に、
満面の笑みを広げる透を見た瞬間、あの人の恨み言が頭を過った。落ち着け、動揺を表に出すな。建視や花島に不審がられたら厄介だぞ。
「やあ。本田さんと花島さんにまた会えて嬉しいよ」
「私もですっ。建視さんと同じクラスになれるなんて、夢みたいです……っ」
俺にとっちゃ悪夢も同然だ。クソ由希だけでも我慢ならねぇってのに、建視まで同じクラスにいるなんざ新手の拷問かよ。
紫呉に騙されて編入試験を受けた時、わざと悪い点数を取ってりゃこんな事には……っ。
「うちのクラスにはきょんが編入してきたから、リンゴ頭は別のクラスになると思っていたけどな」
「僕の髪と虹彩の色は特殊だから、クラスの中で浮いちゃう恐れがあるからね。無理を言って、由希や夾と同じクラスにしてもらったんだよ」
よく言うぜ。中学時代に大勢の生徒を従えていた奴が、クラスの中で浮く事を恐れるなんてあり得ねぇだろ。
無理を言って、という件は本当だろうがな。俺とクソ由希を監視するために、草摩の権力を行使して学校に圧力をかけたのかもしれねぇ。
「はいはいはーい! 今日の放課後に『進級祝い・THEボウリング大会』を開催しまーす。参加する人は、この紙に名前を書いてくださーいっ」
クラスメイトの
「あたしは行くけど、透と花島はどうする?」
「今日のバイトは夜からなので、ご一緒させて頂きますっ」
「透君が行くなら私も行くわ……」
「僕も行こうっと。夾も行くよな?」
今日は帰って武術の鍛錬をする予定だが、建視に教える義理はねぇ。俺が「行かねぇよ」と答えると、付喪神憑きはにやりと笑う。
「由希とボウリング勝負をする絶好の機会を逃すのか?」
まさか、こいつ、俺が慊人と交わした賭けを知っているんじゃ……。
いや、知っていても別に構わねぇか。草摩の連中の多くは、俺の行く末を知った上で蔑んでいる。
そんなことより大事なのは、勝負と聞いて黙って引き下がるなんて男じゃねぇって事だ!
ボウリング大会に参加しろとクソ由希に言いに行った建視は、苦笑いを浮かべて戻ってきた。
クソ由希は、入学式の運営委員として放課後は会場設営に駆り出されるから、ボウリングに行けねぇらしい。ばっかくせぇ。がぜんシラけちまった。
「興醒めだ。俺ァ、帰るぞ」
「あ、あのっ。夾君も一緒にボウリングをしませんか? 卓球勝負では夾君に負けてしまいましたので、リベンジしたいと思います!」
復讐なんて考えた事もなさそうな透の口から、リベンジって言葉が出てくると、違和感半端ねぇな。
「おまえの卓球の腕前を見るに、ボウリングもヘタだろ」
「喧嘩を売っているのね……買ったわ……」
「俺は花島に喧嘩を売ってねぇよ」
「透君を侮辱する事は即ち、私に喧嘩を売るも同然と憶えておきなさい……」
あいつを侮辱した覚えはねぇと言っても、聞く耳持たねぇだろうな。
すると花島は、「ボウリングもヘタだと決めつけて侮辱したじゃない……」と呟いた。電波を使って俺の心を読んだのか!?
「きょんがボウリング勝負を受けねぇってんなら、あたしが相手になってやんよ」
魚谷はそう言いながら、通学バッグから取り出したメリケンサックを右手に装着している。なんで学校に凶器を持ってくるンだよ。どこかに殴り込みをかける気か?
「俺は女と拳を交えようなんざ思わねぇよ」
「バーカ。ボウリング勝負で拳を交える訳ねぇだろが」
「ボウリング勝負を持ちかけるならメリケンサックを装着すンなよ、このヤンキーが!」
「ボウリング大会の参加者名簿に、夾の名前も書いてきたよ」
しれっと事後報告した建視の胸倉を掴んで、「勝手に俺の名前を書くな!」と怒鳴った。
建視は俺を小馬鹿にするように、ペロッと舌を出してやがる。殴り飛ばしてやりてぇ……!
結局、俺もボウリング場に行く事になった。
当初は透のリベンジ戦だったはずのボウリング勝負は、俺を叩きのめしたいと言い出した魚谷とそれに便乗した建視のせいで、ペアを組んでのダブルス戦に変更された。
「ダブルス戦の組み合わせは、本田さんと夾VS魚谷さんと僕だー!」
無駄にテンションの高い建視が叫んだ。隣のレーンにいた高地が、「オレは姐さんとけんけんのペアに賭けるぞ」と言い出す。
「現金を賭けたら賭博罪になるぞ」
「きょんきょんって意外と真面目だよね」
「夾は不良だけど根は善良だからな」
「優等生の仮面を被った性悪に、不良呼ばわりされたくねぇよ」
警戒心の薄い透は建視の本性に気付いてなさそうだから、暴露して注意を促した。
笑みを深めた建視が、余計な事を言うなと釘を刺す視線を俺に送ってくる。性悪呼ばわりされたくねぇなら、腹黒い言動を改めろってんだ。
「え……けんけんって性悪なのか?」
「僕は性悪説を支持しているからね」
西村からの追及を避けた建視は、「負けた人がお金を出し合って、勝った人に缶ジュースを1本ずつ奢る事にしよう」と勝手に決めた。
「私は透君に賭けるわ……」
賭けに乗った花島は、建視が買ってきた飲み物と大量の軽食をお供にして観戦体勢に入っている。こいつは食ってばっかだな。
「あああ……っ。ボールがまたしても溝に落ちてしまいました……っ」
やはりというか、透はボウリングの才能に恵まれていなかったようでガターを連発している。
透のミスを補うべく、俺は真剣に投球してストライクを続けて出した。
「夾君、スゴイですっ!」
「ミカン頭め、調子に乗りやがって……ぶえっくしょぉいっ!」
ボウリング場に入ってマスクを外した魚谷は、くしゃみが止まらなくなっていた。投げる時もくしゃみが出るせいで、透並みにガターを頻発している。
建視はストライクとスペアを取っているけど、今のところ俺と透のペアが優勢だ。この調子で得点差を広げてやる。
俺は慢心しないように気を引き締めてからボールを持って、アプローチへと向かう。狙いを定めて投球に入った瞬間、後ろから建視の大声が響く。
「夾は7歳の時! 包丁を持った
「んな……っ」
動揺を誘われたせいでフォームを崩してしまった。レーンに転がったボールは左側の溝に無様に落っこちる。
あンのゲス野郎……っ! 怒りに駆られた俺はボウラーズベンチに引き返し、花島の隣の席に座っていた建視の胸倉を掴み上げた。
「建視、てめぇ! あんな方法で妨害するなんて卑怯だぞ!」
「どんな手を使おうが……最終的に……勝てばよかろうなのだァァァァッ!」
あくどい笑みを浮かべた建視は、恥ずかしげもなく叫んだ。
近くにいた西村が「カーズの名台詞を本当に言う人がいるなんて……」と呟いていたが、さっきのゲスな言葉は建視の本音に違いねぇ。
「開き直るな! 師匠が帰ってきたら、その曲がった根性叩き直してもらえや!」
「師範に叩き直される前に、夾を叩きのめす」
「上等だ……っ。返り討ちにしてやる!」
「おまえら、ガキの頃から付き合いあるのに仲悪ぃンだな」
魚谷の発言を聞いた瞬間、俺と建視は石のように固まった。
「僕と夾は小学校と中学校が同じだから付き合いは長いけど、気が合う訳じゃないからね」
3歳頃から付き合いがあると言わなかったのは、建視があの出来事を無かった事にしているからだろう。
あんな事があったら、普通は俺を避けたり距離を置いたりするはずなんだが。楽羅が俺にこだわっているから、建視は俺を避けるに避けられねぇのかもな。
試合を再開したが俺は調子を崩し、ボウリング勝負で敗北を期してしまった。項垂れた透が「すみません……」と謝ってくる。
「私が夾君の足を引っ張ってしまいました……」
「おまえのせいじゃねぇよ。楽羅の名前を出して揺さぶりをかけてきた、ゲス野郎のせいだ」
そのゲス建視は、賭けに負けた西村から「てめーの根性は、畑に捨てられカビがはえてハエもたからねーカボチャみてえに腐りきってやがるぜ!」と言われていた。
ひでぇ例えだが的を射ている。ちったぁ反省しろと思ったのだが。
「正体を知らなくても、知らず知らずのうちに引き合うんだ……」
建視は意味不明な事を言いながら、西村と握手を交わしていた。
はとりは常識を弁えた奴なのに、その弟は
以前も同じ事を思ってそのまま建視に言ってやったら、激怒した建視が密室で俺と楽羅が2人きりになるように謀りやがったから、言わねぇけどな!
▼△
Side:建視
ボウリング大会で、新しいクラスメイトと親交を深めた日の夜。
僕は提灯型の照明に照らされた食堂のテーブルに着いて、仕事がひと段落ついた兄さんと向かい合って夕飯を食べていた。
「兄さん、聞いてよ。僕の担任の先生は白木繭子さんだった」
僕が菜の花の辛子和えを飲み込んでから報告すると、兄さんが箸を持ったまま固まった。
「白木が海原高校で教鞭を執っている事は知っていたが、建視の担任になるとはな……」
「え、待って。繭子先生が海原高校の教師だと知っていたの?」
「ああ。佳菜から聞いてなかったか?」
「聞いてないよ……っ」
繭子さんが高校で古文を教えている事は、佳菜さんから聞いていたけど、勤務先の学校の名前は知らなかった。
過去の僕が繭子さんにもっと興味を持っていればと思うが、後の祭りだ。気持ちを切り替えて、繭子先生との会話を兄さんに伝える。
「繭子先生に『はとり君は元気にしている?』って聞かれたから、兄さんは疲れが溜まっているって答えたんだ。そしたら『あまり無理しないように』って伝言を託ったよ」
「インフルエンザが流行した頃に比べれば、楽になった方だ」
「休日がない勤務形態は、楽になったとは言わないよ」
「ハードワークに耐えられないと、医師にはなれん」
そういう考え方が、ワーカーホリックに繋がるんじゃないかな。僕の物言いたげな視線を感じたのか、兄さんは話題を変える。
「明日の入学式だが、綾女と紫呉も出席する」
「えっ? あの2人が高校に来るの? ぐれ兄は大勢の女子高生が目当てだろうけど、綾兄もそうなのか?」
「綾女は由希の様子を見に行くと言っていた。由希は正月に本家に帰らなかったからな」
世間一般の兄の行動としては不自然な点はないけど、綾兄は今まで由希に関わろうとしなかったから驚いた。心境の変化でもあったのかな?
今回名前が出た2年D組の男子生徒2名はオリキャラじゃなく、フルバの漫画やアニメにも出てくる愉快なダチトモーズです。
フルバの漫画では名前がないキャラとして紹介されていましたが、ダチトモーズが登場した回のアニメのEDクレジットで「ひろし」「ゆうすけ」と名前だけ出ていたので、それを参考にさせていただいて独自設定を作りました。
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15「帰ろうか俺達も」
入学式の朝。兄さんに見送られて家を後にした僕は、
切妻造の瓦屋根を戴く厳めしい棟門が見えてきた。正面玄関の前に待機していた送迎車の側に立つ金髪の少年は、
あれ……? 僕ってば、寝ぼけているのかな。紅葉が女子用の制服を着ているように見える。
「ケン! Guten Morgen!(おはよう!)」
僕が寝ぼけている訳でも、目の錯覚でもなかった。紅葉は青いセーラー服を着て、下は紺色のショートパンツを穿いている。
他にもセーラー帽子とかピアスとかウサギ型のリュックサックとか、校則違反に問われそうな点は幾つかあったけど、制服に比べれば些細な問題だ。
「おはよう。紅葉、その格好は……」
「似合うでしょ!」
着替えてこいと言いたいけど、紅葉は男子用の制服を用意していないかもしれない。それに紅葉が男子用の制服を着ると、外見の幼さが悪い意味で強調されそうだ。
早々に説得を諦めた僕は、「コワイくらい似合っているよ」と答えた。
「あっ! ハルが来たよっ」
こちらに歩いてくる春はノーネクタイで、シャツは第3ボタンまで開けていた。ネックレスを3つも重ね着けして、ピアスは派手じゃない物を6つ付けて、ブレスレットと指輪を嵌めている。
アクセサリーをつけるなと窘めるべきだろうけど、紅葉の制服を見逃したのに春だけ注意するのは不公平だ。
「ハル、Guten Morgen!」
「おはよーさん」
「おは……」
3名の物の怪憑きを乗せた送迎車は、静かに動き出す。
ハイテンションの紅葉が甲高い声で喋りっぱなしなのに、その隣で熟睡できる春は音を取捨選択する耳のフィルター能力が高いのだろう。
「紅葉。高校生活が楽しみなのは解るけど、あまりはしゃぐなよ」
「ダイジョーブ! 女の子に激突したりしないよっ」
僕が釘を刺すと、紅葉は得意げに胸を張って答えた。騒動が起きるフラグを立ててしまったような気がした。
入学式に出席するため、僕は2‐Dのクラスメイトと共に体育館へと向かう。
クラスメイトの集団の中に、
そんな事を考えつつ、僕は移動の途中で
「綾兄が今日、
「は? まさかアイツも女子高生目当てか……」
眉を顰めた由希は吐き捨てるように言った。同じ予想をした僕は苦笑しながら、「そうじゃなくて」と否定する。
「正月は由希に会えなかったから、様子を見に来るらしいよ」
「……今更」
酷く冷めた表情になった由希は、低い声で呟いた。
綾兄は今まで、自分の弟を気にかける素振りすら見せなかったからな。これに関しては、綾兄だけに問題があるとは言えないけど。
由希の両親は、草摩家の中での自分達の地位を確固たるものにするため、幼い
長男の綾兄だけが、親に大切にされていた訳じゃない。
そんな両親の我が子に対する無関心が綾兄に影響を与えて、弟への無頓着に繋がったんじゃないかと思う。
僕は第三者だから綾兄に理解を示せるけど、家族に蔑ろにされた由希は理解なんかしたくないだろうな。
体育館に到着した僕は保護者席を見渡す。兄さんとぐれ兄と綾兄は、すぐに見つかった。
高校生の保護者にしては若くて容姿が非常に整った3人は、周囲にいる女性の保護者の視線を集めまくっていた。
グレーのスリーピース・スーツを着こなす兄さんは、ネイビーのネクタイをきっちり締めている。兄さんは体育館に入った僕に気付くと、軽く手を振ってくれた。
ダークスーツを着たぐれ兄は、黒灰色の髪をざっくりと後ろに撫で付けている。周囲の熱い視線に愛想笑いで応える様は、やり手ホストそのもの。体育館に入ってくる女子高生を真剣な顔で品定めする様は、変態そのものだけどな。
巳憑き故に寒さに弱い綾兄は、ヒョウ柄のファーコートを着込んでいた。腰の下まで伸ばした白銀の髪と長い睫毛に縁取られた黄色の瞳も相俟って、舞台から抜け出してきたような強烈な存在感を放っている。
「やぁ、由希っ! 元気にしていたかいっ?」
綾兄が立ち上がって低い美声を響かせた。
体育館にいた在校生たちは、「由希君のお兄さん!?」とざわつく。当の由希は実兄を無視して、在校生の席に向かっている。
由希の反応を見れば拒絶されたと察するはずだけど、超マイペースな綾兄は自分の声が由希に届かなかったと解釈したらしい。先程より大きな声で「ゆーきー!!」と叫びながら、手をブンブン振っている。
「おい、由希。綾兄が呼んでいるぞ」
「あんな奴は知らない」
氷のような無表情で答えた由希は、取り付く島もない。綾兄は由希と交流を図ろうとしているけど、兄弟間の溝を埋めるのは困難を極めそうだ。
在校生が着席した後、新1年生が整列して体育館に入ってきた。春と紅葉が入場すると、会場がどよめきに包まれる。
「あの2人、なんて格好をしているんだ……」
僕の隣の席に座る由希が、頭を抱えた。
「先生に注意されなかったみたいだから良いじゃないか」
注意されても聞き流したかもしれないけど、という本音は飲み込んだ。顔を上げた由希が、咎めるような視線を僕に送ってくる。
「……
「知っていたというか、2人と一緒に登校したけどそれが何か?」
「なんで服装を改めさせなかったんだ!」
「口煩く注意したら紅葉は泣くし、春はブラックになるかもしれないだろ」
僕が理由を述べると、由希は溜息を吐いた。時には諦めも必要だと悟ったようだ。
入学式が終わって新1年生が退場する。
次いで在校生が教室に戻る時、綾兄が再び声を張り上げて由希を呼んだ。聞こえない振りを貫く由希は、体育館から足早に立ち去る。
兄さんが手招きしてきたので、僕は保護者席に向かった。由希に無視された綾兄は気落ちした素振りを見せず、にこやかに挨拶してくる。
「久しぶりだね、ケンシロウっ!」
「てめぇに会うために地獄の底から這い戻ったぜ!」
「おまえは北斗神拳の伝承者であることを忘れてはならぬ!」
ノリのいい綾兄はトキの台詞で応じてくれた。
嘆息した兄さんが、「2人して人前でバカを晒すな」とツッコミを入れる。
「本題に入るぞ。慊人が自分も海原高校に行くと言い出した。今回は熱を出していなかったから、ドクターストップはかけられなかった」
兄さんの報せを聞いて、僕は思わず息を吞む。
「慊人は今どこに……?」
「遅れて出発したから、学校にまだ到着していないはずだ。由希達にも教えてやってくれ。特に由希は慊人に会いたくないだろう」
「頼んだよ、ケンシロウ」
綾兄は真剣な表情で請うてきた。こういう面を由希に見せればいいと思う。
兄さん達と別れた僕は2‐Dの教室に戻った。慊人が高校に来る事を知らせようとしたのだが、由希と夾の姿が見当たらない。2人はどこ行った?
「きょんなら透と一緒に、1年の草摩を呼びに行ったぜ」
夾の行方は、魚谷さんが。
「由希は入学式の運営委員だから、見回りの仕事があるんじゃない?」
由希の行方は、
ふむ。学校に不慣れな1年生の教室を中心に、見回っているのかな? 紅葉と春にも慊人の来訪を教えなきゃいけないから、1年生の教室に行くとするか。
あ、紅葉と春が在籍するクラスがどこにあるか解らないや。誰かに聞けばいっか。
そう考えて2‐Dの教室から出てテクテク歩いていたら、廊下を並んで歩く夾と
「本田さんと夾が2人でいるなんて珍しいね」
夾は僕を見るなり「げっ」と言ったが、本田さんは顔をぱっと輝かせる。
「私と夾君はこれから、紅葉君と
「うん、行く。1年生の教室がどこにあるのか知りたかったんだ」
夾が嫌そうな顔をしたので、僕はニヤリと笑いながら「(デートの)邪魔してごめんね」と付け加える。
言外に含めた言葉を察したのか、夾は顔を真っ赤にしながら「ふざけた事言ってんじゃねぇ!」と怒鳴った。
「くそっ……春と紅葉はどのクラスにいるんだ?」
「はっ……聞き忘れてしまいました」
「クラスぐらい聞いとけよ」
「入学式で1年生と話す機会はなかったから、本田さんが紅葉達からクラスを聞き出すのは無理だよ」
ちなみに僕は、校門近くの掲示板に貼り出された1年生のクラス表を見て、従弟達のクラスを把握した。紅葉と春は1‐Dに在籍していると、本田さんと夾に教える。
「では、紅葉君と潑春さんを呼んでまいりますね」
本田さんが離れた今の内に、慊人が来る事を夾に伝えておくか。いや、待てよ。慊人の話題を出すと、夾が機嫌を損ねて立ち去るかもしれない。
挨拶を済ませてからにしようと思い直した時、紅葉と春と本田さんがやってきた。
「Hallo!(やあ!)」
「ちは……」
オレンジ色の目を見開いた夾は、いきなり紅葉を殴りつけて「バカかー!!」と大声で叫んだ。
「よりにもよって女の制服を着るバカがいるか! 気色悪りィっ!」
「きょっ、夾君、落ち着いてください……っ」
「殴ることないだろ」
僕が紅葉の肩を持つと、春も加勢する。
「いいんじゃない。似合っているなら」
「似合っているよね!」
殴られて泣いていた紅葉は一瞬で笑顔になった。切り替えの早さは子役並みだ。
と、その時。唐突に両腕を広げた春が、こちらにやってくる由希に向かって歩いていく。由希を捜す手間が省けたな。
「由希君、お仕事は終わりましたか?」
「ううん、まだ……見回りついでに様子を見に来たんだ」
紅葉が笑いながら「大変ねっ」と言った。
嘆息した由希は紅葉の制服を見遣って、「そう思うなら仕事増やすような真似するなよ?」と釘を刺す。
「きーて、きーてっ。ボクね、学校でね、はしゃぐなって言われているのっ。だから学校ではクールに過ごすのーっ」
「クールか!? そのカッコはクールなのか!?」
「その通りだ、2年D組の草摩夾君!! そのオレンジ頭も不愉快だが、男子たる者が女子の制服を着用するなど空前絶後!! 厚顔無恥!! 教師が許しても私は許さん!!」
近づいてきた黒縁眼鏡をかけた男子生徒が、「なぜならば!!」と大声を発する。
「私こそがこの学校の生徒会長、
竹井誠と名乗った男子生徒の後ろにいた、眼鏡をかけた女子生徒2名が拍手をする。何だ、この茶番劇は。
春は「バカがまた増えた……」と、辛辣かつ的確な発言をした。
「まったく入学早々問題児ばかりだな!! 草摩潑春君は白髪ではないかっ!! 装飾品までジャラジャラつけおって、傍若無人め!! 転校生の草摩建視君は髪を真っ赤に染めた上、カラーコンタクトをつけるとは軽薄極まりないっ!!」
「会長……彼らの髪と瞳の色は生まれつきです」
「おぉ、由希くぅん!! 御機嫌麗しゅう!!」
仔猫を愛でるような甘ったるい声で挨拶した竹井会長は、頬を赤らめている。
竹井会長は由希のファンなのか。いざとなったら、中学生時代の由希の写真を渡すから見逃してほしいと取引を持ちかけよう。
「それはともかく生まれつき!? 信じられんな!!」
僕はスラックスのポケットに入れて持ち歩いていた、証明書を差し出す。それに目を通した竹井会長は納得してみせたが、春の髪は地毛だと証明できるのかと迫ってくる。
残念な事に、春は地毛の証明書を持ってきていなかった。
「確たる証拠をお望みでしたら、春と一緒にトイレに行けば解りますよ」
埒が明かないと思った僕は、解決策を提案した。
竹井会長は顔を引きつらせて、「アレを見せるつもりかい? 言い逃れはできないぞ!!」などと言ってから、春と共に男子トイレに向かう。
「あの……お手洗いの中で、どうやって地毛である事を証明するのですか?」
本田さんの質問はあまりにも無垢で、僕は困惑した。幼い子供に「赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?」と聞かれた親は、こんな心境になるのだろうか。
「男子トイレの鏡には、真実を見抜く不思議な力が宿っているんだ。鏡に向かって『鏡よ、鏡よ、鏡さん。私の髪は地毛です』と言うと、それが偽りでなければ鏡にマル印が浮かぶんだよ」
僕が苦し紛れの説明をすると、本田さんは驚きで目を見開く。
「トイレの鏡さんに、そんな力があるなんて知りませんでした……」
「本田さん、建視の話は大嘘だから信じないで」
「おい、建視っ。人を疑う事を知らねぇような奴を騙すなよ」
「本田さんに下ネタを振るよりマシだろ」
そんなやり取りをしていたら、春と竹井会長がトイレから出てきた。
驚愕の表情を浮かべた竹井会長は眼鏡を外して、「見事な証拠だ……世の中、まだまだ知らない事でいっぱいだな……」と呟いた。
これで引き下がるかと思いきや。眼鏡をかけ直した竹井会長は、紅葉に矛先を向ける。
「だが、草摩紅葉君の格好は釈明できまい!! 君は男としてのプライドはないのかい!? 今からそんな事では、君の人生は失敗街道まっしぐらだな!!」
紅葉の事情を知らないくせに、偉そうに好き放題言いやがって。僕が抱いた不快感は、茶色の目に涙を溜めた紅葉を見て更に増大した。
芯が強い紅葉は本気で泣いている訳じゃなさそうだけど、傷ついたのは確かだろう。
「竹井会長、いくら何でも言い過ぎではありませんか?」
「身内だからといって甘やかすのは感心しないぞ、草摩建視君!! 私は常識に則った当たり前の意見を問うているのだ!!」
「うるせぇ……」
凶悪な目付きになった春が低い声を発する。あーあ、ブラック春が降臨しちゃったよ。
「お山の大将気取ってんなよ。耳障りなんだよ、クソ野郎っ。何様のつもりだ、てめぇ。神様か!? あ!!? そりゃすげえや。なんとか言えよ、神様!!」
ブラック春は「鳴け、オラ!!」と叫びながら、竹井会長の胸倉を掴み上げて激しく揺さぶった。
「おいっ。やめとけよ、素人相手に……」
「うっせぇ、バカ猫。横槍入れんな、バカ猫!!」
「バカって言うなっ。殴るぞ、クソガキャァ!!」
怒った夾はブラック春と口喧嘩を始めた。廊下での騒ぎを聞きつけて、好奇心の強い新1年生が集まりつつあるな。チャンスだ。
「紅葉の制服より、竹井会長の発言の方が問題でしょう! 『男としてのプライドがない』とか『人生失敗街道まっしぐら』とか、散々に罵倒されて心に深い傷を負った紅葉が登校拒否になったら、どう責任を取ってくれるんですか!? 生徒会長の権力を笠に着て、入学したばかりの新入生を個人攻撃するなんて、横暴の謗りは免れませんよ!」
後輩達に言い聞かせるように、僕はここぞとばかりに声を響かせた。
ちなみに竹井会長に罵倒された紅葉は、話に飽きて棒付きキャンディを舐めているけど、傷ついたが故に現実逃避しているという事にしておこう。
僕の追及を受けた竹井会長は「うぐっ」と言葉に詰まり、新1年生が続々と非難の声を上げる。
「あの生徒会長、そんな酷い事言ったの? 信じられない……」
「紅葉君をいじめるなんてサイテー」
「会長は紅葉君に謝れ!」
「生徒会長の横暴を許すな!」
「リコールを請求するぞ!」
リコールまで出るとは思わなかった。でもまぁ、さっきのやり取りを聞いていれば、竹井会長は問題有りだとすぐ解るからな。
「……確かに言い過ぎた。それは認めよう。だが!! リコールを申し立てするなら、全校集会で受けて立つぞォ!!」
たじろいだ竹井会長は捨て台詞を残して、取り巻きの眼鏡女子と共に戦略的撤退を選んだ。
「喧嘩吹っかけといて逃げんのか、腰抜けがァ!」
「喧嘩を吹っかけたのは春だろ」
由希はツッコミを入れながら、ブラック春の頭に手刀でチョップを入れる。
ホワイトに戻った春はチョップされた所を擦りながら、「なんか疲れちゃった……」とぼやく。
由希と夾が2人揃って疲れたように肩を落とした時、チャイムが鳴った。
「紅葉君、潑春さん。帰りにでも私のお友達に会っていただけませんか!?」
「トールの友達!? うんっ、もちろんいいよっ」
「んー……」
本田さんは嬉しそうな笑みを広げて、「ありがとうございますっ」と礼を言った。話がひと段落したようなので、僕は用件を持ちかける。
「草摩家の野郎どもに業務連絡があるので、残ってくらはい」
「それでは、私は先に戻っていますねっ」
「本田さん、気を使わせてごめんね」
僕が謝ると、本田さんは慌てたように両手を振って「お気になさらないで下さい」と答えた。
「業務連絡ってなんだよ。下らねぇ事ならシバくぞ?」
本田さんがその場から離れた後、怪訝そうな顔をした夾が訊ねてきた。僕はできるだけ何気ない口調で切り出す。
「さっき、入学式の会場で兄さんから聞いたんだ。慊人が自分も海原高校に行くって、急に言い出したんだって。慊人は遅れて学校に着くらしいよ」
慊人の名前が出た瞬間、由希の表情が暗くなった。無言で立ち去った由希の背中を、春と紅葉は心配そうに見送る。
夾は由希を案じているようには見えなかったけど、何やら考え込んでいるみたいだった。
「それじゃ、後でね」
紅葉と春に手を振ってから、僕は距離を置いて由希を追いかける。尾行をする必要はないと思うけど、綾兄に頼まれたから放っておく訳にはいかない。
2階の渡り廊下を歩いていた由希は視線を窓の外に向けるなり、全速力で走りだす。何だと思って窓を見遣ると、校舎と校舎をつなぐ1階の外通路に2人の人影が見えた。
青いセーラー服を着た女子生徒は、髪型と背格好から判断するに本田さんだろう。本田さんと向き合って話す、黒いタートルネックのカットソーと黒のズボンを細身に纏う人物は慊人だ。
まずいぞ、こりゃ。
渡り廊下を全力疾走した僕は、階段を一気に飛び降りて急行する。外通路に一足早く到着していた由希が、慊人と対面していた。
「会いたかった、由希! なんだかもう、長い間会ってなかった気がするよっ」
上機嫌な慊人の所に小走りで向かった僕は、慊人の側に控えるように立った。
由希は敵を見るような目で、僕を睨んでくる。沸点の低い慊人の暴走を止めるためだよ、察しろ。
「何をしてたの……本田さんに何をしたのっ」
「別に……挨拶していただけだよ? ねぇ、透さんっ。挨拶していただけだよねぇ!?」
「え、あっ、はいっ」
慊人に強い口調で問いかけられた本田さんは、驚いてかビクッとした。
「ねぇ、由希。そんな事より僕は君に、どうしても聞きたい事があるんだ」
眼差しを鋭くした慊人は由希の頬に触れながら、「どうしてお正月、サボったりしたの?」と訊ねる。
「どうしてそういう事するの? 最近の僕って結構寛大になったのに、そういう事されるとすっごく傷つくなぁ。もう一度、教育しなおすしかないかなぁ」
由希の表情が恐怖に染まる。
僕は「慊人」と呼びかけて、制止しようとしたのだが。煩わしげに眉を寄せた慊人に「建視は黙れ」と命じられて、口出しを禁じられた。
慊人は内緒話をするような囁き声で、由希に語りかける。
「君専用のあの部屋で、もう1度、1日中、君の人となりを教えなおすしかないのかなぁ」
「……っ」
精神的に追い詰められた由希は、脂汗を浮かべている。
携帯電話で兄さんに救援を求めるべきかと考えたその時、本田さんが両腕を前に突き出しながら駆け寄ってきた。
慊人を突き飛ばそうとしているのか。それを悟るなり、僕は慊人の細い腰を抱いて引き寄せる。
両手の行き場を失った本田さんは、つんのめって転んでしまう。
「たぅあ!」
「本田さん、だ……っ」
僕は大丈夫かと問いかける言葉を飲み込んだ。このタイミングで本田さんを気にかけると、慊人が機嫌を損ねる。
本田さんが立ち上がるために手を貸す事もできない。忸怩たる思いを抱えているのは、棒立ちしている由希も同じだろう。
「そろそろ教室に戻らないと……その、怒られますので……」
「そっか……ごめんね。僕もそろそろ
僕に寄りかかっていた慊人は、「由希、それから建視も」と呼びかける。
「楽しい高校生活を過ごすといい。……由希は近いうち、会いに来てくれると嬉しいな」
冷たい笑みを由希に投げかけて、慊人は立ち去った。
慊人の後ろ姿が小さくなった頃合いを見計らって、僕は本田さんに向き合う。
「本田さん、ごめん。僕が慊人を引き寄せたせいで、転ばせてしまって……」
「建視さんは悪くないですよ。私はドジなのでよく転ぶのですっ」
重たい空気を変えようとしてくれているのか、本田さんは明るく答えた。
由希は震える手を見つめている。声も出ないほど怯えてしまったのかと思ったが、由希はどうにか自分を立て直したようだ。
本田さん、と由希は小声で呼びかける。
「慊人……本当に本田さんに何か……変な事言ったりしなかった?」
「はい!」
「そう……」
自身の二の腕を掴んだ由希は、弱々しい微笑みを浮かべた。
「由希君、建視さん、遊びましょう!」
唐突に本田さんが提案してきた。
僕と由希は面食らって、「え?」と間抜けな声を発してしまう。
「今日も早く学校が終わりますので、一緒に遊びましょうとうおちゃん達と話していたのですっ。せっかくですから、皆さんもご一緒に遊びましょう!」
本田さんは由希が沈んでいる事を察して、気分転換を持ちかけてくれたようだ。
2‐Dの教室に戻りながら、僕は本田さんにお礼を言った。
キョトンとした本田さんは合点がいった表情になって、「こちらこそ、ありがとうございます」と感謝を述べる。
お礼を言われるような事はしてないけど。僕が首を傾げると、本田さんは穏やかに微笑む。
「私が後先考えずに慊人さんを突き飛ばしてしまったら、慊人さんのお怒りを買ってしまうと予測して防いでくださったのですよね? 建視さんのおかげで助かりました……っ」
僕のとっさの行動には、本田さんが見抜いた通りの意味合いもあったけど。慊人を害そうとする者から守れ、と訴えた盃の付喪神に突き動かされた結果でもある。
力なく笑った僕を、本田さんは気遣わしげに見上げた。
そして放課後。本田さんと
「グーとパーで、わっかれーまショ!」
本田さんと魚谷さんと紅葉と由希のチーム、僕と花島さんと春と夾のチームに分かれた。
ルールはどうするのという由希の疑問に、ラケットを構えた花島さんが答える。
「バドミントンにルールは不要よ……力の限りぶちかまし、力の限りぶち返す……あえて言うならば、最初に倒れた者が負けって事ね……」
「それいい。わかりやすい」
真っ先に春が賛成した。夾はバトルロイヤル形式が好きそうなのに、「わかりやすすぎだっ」と律儀にツッコミを入れている。
それぞれのコートではなく陣地に入ったところで、向こう側にいる魚谷さんがラケットで夾を指し示す。
「行くぞ、王子! あのオレンジ、いてこますぞ!」
「ンだと、ヤンキーっ」
夾はさっきまでやる気なさそうだったのに、前屈みになってラケットを構えて臨戦態勢に入った。魚谷さんの煽り能力が高いのか。夾が挑発に乗りやすいのか。
バトルロイヤル形式のバドミントンを日が暮れるまで続けた結果、花島さんが1人勝ちした。
「また明日ね、透君……」
「な……なんで花島1人……バテてないんだ……っ」
夾は肩で息をしながら疑問を呈した。
身体能力や体力がずば抜けている由希と夾と春でさえ座り込んでいるのに、帰り支度をした花島さんは少しも疲れた様子が見受けられない。
花島さんが息を乱す瞬間を待t……ゲフンゲフン、花島さんのプレイスタイルを逐一見ていた僕が、息切れしながら答える。
「せ、説明しよう……っ! 花島さんは殆ど動かず……ぜぇ……自分の処に飛んできたシャトルを打ち返す偉業を……ぜぇ……達成したのだ……っ」
「はぁ……要するに手抜きしたって事か」
「ふぅ、解ってないな、夾は。花島さんは最小限の動きで、勝利を収める境地に至ったんだよ」
夾と僕が呼吸を整えながら言い合っている間、春は本田さんに話しかけている。
「心配だったけど大丈夫そうだな、由希。……ありがと」
慊人と由希がエンカウントした事は春達に報告していないのだが、春は由希の様子を見て察したようだ。
「じゃあ、帰ろうか俺達も、家に」
本田さんに話しかける由希を見て、僕は呆気にとられた。あんな風に柔らかく笑う由希なんて初めて見たぞ。
慊人とエンカウントした事によって、由希が昔に逆戻りするんじゃないかという心配は杞憂に終わりそうだけど。由希の変化を慊人が知ったら面白く思わないだろうなという、新たな気掛かりが生まれた。
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16「とりさんは優しすぎるっ」
休み明けに登校してきた
何かあったのかと僕が聞いたら、
「一昨日のお昼に
「綾兄の試みは上手くいってないんだね」
恐らく綾兄は由希と
由希の元気な姿を確認したら引き上げればいいのに、兄弟間の溝を埋めようと躍起になった綾兄が弟を構い倒した結果、由希が疲れ果てたのかもしれない。
「それはそうと、綾兄は店長なのに店をほったらかしにして大丈夫なのかな」
「えっ!? 綾女さんはお店を出していらっしゃるのですか?」
「綾兄は、自分が何の仕事をしているか話さなかったのか?」
本田さんは困惑気味に、「……はい」と答えた。この様子じゃ由希にも話してないだろうな。
「あ、あのっ。綾女さんはどういったお店を出していらっしゃるのでしょう?」
「綾兄は手芸用品と、コスプレ用の服を販売する店を営んでいるんだよ」
本田さんは驚嘆したように「うわぁ……っ!」と声を上げてから、ふと疑問に思ったのか小首を傾げる。
「あの、こすぷれとはどういうものですか?」
「アニメのキャラと同じ衣装を身に纏って、そのキャラになりきる事だよ。自分で衣装を作る人も多いけど、綾兄のような服飾のプロに任せる人もいる。綾兄のオーダーメイド衣装はクオリティが高くて、人気があって予約待ちらしいよ」
「綾女さん、すごいです……っ!」
イメプレ用の衣装も需要が高いと聞いているけど、純粋に感動している本田さんには言えない。
ちなみに人気ナンバーワンはメイド服らしい。由希は『鋼鉄○使くるみ』を読んだ事なさそうだから、メイド服の素晴らしさを理解できないだろう。
そう考えると、綾兄は自分の仕事を由希に話さなくて正解だったかもしれない。
ぐれ兄の家に綾兄が押しかけている事は春の耳にも届いたらしく、その日の帰りに僕は春から要請を受けた。
「
春は疲弊した由希を気にかけているのだろう。それは理解できるが、花粉症患者の診察に追われている兄さんに、綾兄の回収係を押しつけるのは気が引ける。
でも綾兄は、自分が唯一敬意を寄せる兄さんの言葉にしか従わないんだよね。
「春が頼めばいいだろ」
「忙しい時のとり兄はピリピリしているから、電話をかけるのも気を使う……」
疲れがピークに達した兄さんに話しかけると、ブラックジョークなのか本気で思い詰めているのか、判断に悩む発言を聞く羽目になるからな。
インフル患者の対応で忙殺されていた時は、「覚醒作用のあるコカインを使用すれば、疲れ知らずの体になるのだが」とか言っていた。
「お願い、建兄」
雄臭い容姿の春が両手を組んで、「お願い」と言った処で可愛らしさなんて皆無のはずなのに、幼少期の春を知っているせいか可愛く見えてしまう。
それに加えて、建兄って呼び方はやっぱりイイ。
春としては由希と夾を呼び捨てているのに、僕だけ「建兄」と呼ぶのは微妙らしいけど。僕のイトコは年上が多いから、お兄ちゃんって呼ばれたいんだよぉ。
春の要請を吞んだ僕は考えた末、兄さんに出動を願うメールを作成する際、『春に頼まれたんだけど』という一文から書き始めた。
こうしておけば、兄さんに負担をかけた責任を分散させる事ができる。せこいお兄ちゃんでごめんよ、春。
その日の夕方にぐれ兄の家に赴いた兄さんに促されて綾兄は撤収し、由希を悩ませていた嵐は去ったようだ。
「建視、サンキュ」
翌日、春に礼を言われた。
一体何の事だと僕が聞くと、春は嬉しそうに口許を緩ませて「由希に『心配してくれてありがと』って言ってもらえた」と話した。
春の話から推察するに兄さんは綾兄を迎えに行った時、「
姑息な考えで『春に頼まれたんだけど』という一文を付け加えた僕は、「礼には及ばないよ」と言った。
▼△
慊人に殴られた時に負った怪我は、中学校の入学式前に完治したので安堵した。杞紗みたいな美少女の顔に痣があると、要らぬ詮索を受けそうだしな。
「よっす、杞紗。今帰りか?」
ビクッと肩を震わせた
その時の僕の衝撃といったら。漫画だったら、1トンと記された重りが僕の頭上に落ちる表現をされただろう。
そんな大げさなって? 人形のように愛らしく小動物のように可愛らしい杞紗に避けられて、何とも思わないと言える野郎は心がドライアイスで出来ているに違いない。
それにしても、なんで杞紗に避けられたんだろう。僕は寅憑きの従妹に何かした覚えはないけど。
先代の盃の付喪神憑きが力を乱用した事件を誰かから聞いて、杞紗は僕を怖れるようになったのかな。
忌避されるのは慣れているけど、「建視お兄ちゃん」と呼んで慕ってくれる杞紗が態度を変えてしまったのは悲しい。先代めぇ。
「ケン、どうかしたの? 心ドコにあるのってカンジだよ?」
「それを言うなら『心ここに在らず』だな」
家に遊びに来た
沈痛な面持ちになった紅葉は、少し考えるようにしてから「……あのね」と話し始める。
杞紗は中学に入学してしばらく経った頃から、何も話さなくなってしまったらしい。寅憑きの従妹を診た兄さんは、心因性の失声症と診断したようだ。
医師には守秘義務があるので、兄さんは杞紗の病状を言い触らしていない。紅葉が杞紗の事情を知ったのは、
心因性の失声症か。由希も中学時代に、同じ症状を患っていた時期があったな。
慊人による“再教育”が原因かと思ったけど、受験する高校の事で母親と口論した後から、由希はぷっつり話さなくなったらしい。お手伝いさん達がそう噂していた。
会話ができないと学校生活を送る上でも支障をきたしてしまうので、草摩の主治医である兄さんが診断書を作成し、僕がそれを由希の担任に提出したのだ。
本来なら由希の親が中学校に赴いて、由希の病状を説明して学校側にサポートを依頼するべきだけど。草摩の上層部の一員である由希の両親は多忙なため、
僕は「精神的に参っている由希に配慮した対応をしてほしい」と頼んだのに、それをどう曲解したのか、エン・ユキのメンバー達は「傷ついた
事態に気付いた僕がエン・ユキの暴走を止めたけど、生徒達の間では“由希に用がある時はエン・ユキのメンバーを通して伝える”という暗黙の了解ができていた。
昔の事はさておき、杞紗は慊人に暴行を振るわれた事件がトラウマになってしまったのだろうか。
僕は慊人と接する機会が多いから、慊人に近しい物の怪憑きだと認識されている。それ故に杞紗は僕を見ると、慊人や暴行事件を連想して恐怖に駆られるのかもしれない。
杞紗の心の安寧のために、寅憑きの従妹としばらく距離を置くべきか。ああ、僕の数少ない心のオアシスが……。できるだけ早く、杞紗の心の傷が癒えてほしい。
▼△
4月下旬のある日。帰りのホームルームが終わった後、僕は
僕が生徒指導室に入ると、繭子先生は水色の封筒を2つ差し出す。
「頼まれていた写真だよ」
「ありがとうございます。封筒が2つあるのは何故ですか?」
「1つは建視君の分。
要ります、と即答した僕は受け取った封筒を開けた。
純白のベールを被り、Aラインのウェディングドレスに身を包んだ佳菜さんの写真が入っている。倖せそうに微笑む佳菜さんは、全身から満ち溢れる喜びで輝かんばかりだった。
「佳菜さん、すごく綺麗ですね。兄さんに見せていいかどうか迷いますよ……」
「はとり君は人妻に手を出したりしないだろ」
皮肉っぽい笑みを浮かべた繭子先生は、紫呉ならやりかねないと暗に言っていた。
ぐれ兄は繭子先生と交際している間、人妻と関係を持っていたのだろうか。あり得るな。話題を変えよう。
「繭子先生と佳菜さんのツーショット写真はないんですか?」
「……あるけど」
「見たいです」
繭子先生は渋々といった感じで、持っていた手帳から1枚の写真を取り出した。
スレンダーラインのネイビーのドレスを着た繭子先生と、ウェディングドレス姿の佳菜さんが並んでピースサインをしている。
「この写真、焼き増ししてもらえますか?」
「建視君が欲しいのは佳菜の写真だろ」
「こっちの写真の方が、佳菜さんはリラックスしているように見えます」
佳菜さんが1人で写っている写真は倖せいっぱいの花嫁といった佇まいで遠く感じるけど、繭子先生と一緒に写っている写真の佳菜さんは見慣れた親しみやすい笑みを広げているのだ。
「……解ったよ。その写真は建視君にあげる」
観念したように繭子先生は溜息を吐いた。僕はお礼を言ってから、佳菜さんと繭子先生のツーショット写真を封筒に入れる。
「繭子先生に相談があるのですが」
話を切り出した僕の雰囲気が変わった事を感じ取ったのか。繭子先生は「とりあえず座れ」と言って、手近にあった椅子を勧めた。
「僕の従妹の杞紗がいじめに遭って、不登校になってしまったんです」
杞紗は学校に行かなくなった理由を自分の親にも明かさなかったので、杞紗の母親の
担任は「草摩さんはまだクラスに馴染めていないのでしょう」と、すっとぼけた事を言ったのだとか。
納得がいかなかった沙良おばさんは学年主任の先生に話を持ちかけ、アンケートによる調査が行われていじめが発覚した。
どうやら杞紗の日本人離れした髪や瞳の色が、一部の生徒の気に障ったようだ。
一部の生徒による杞紗への中傷は、やがてクラスメイト全員による無視まで発展し、精神的に追い詰められた杞紗は失声症を患ってしまった。
中傷を受けた時に杞紗は勇気を振り絞って反論の声を上げたと聞いているので、慊人に殴られた事件が原因で声が出なくなったのではなかった。だからといって、事態が好転する訳じゃないけど。
楽羅姉から聞いた寅憑きの従妹の事情をかいつまんで説明すると、真剣な面持ちで話を聞いていた繭子先生が口を開く。
「言葉を封じ込めてしまうほど追い込まれている子に、学校に行けと促すのは酷だ。精神的に参っているだろうから、まずは心を癒す事を重視した方が良いと思う」
楽羅姉と紅葉は杞紗を元気づけようと、杞紗と一緒にぬいぐるみやビーズのアクセサリーを作ったり、アニメ観賞やゲームをしたりしている。
寅憑きの従妹の家に遊びに行った事がない僕が突然押しかけると杞紗が戸惑うかと思い、紅葉を通じて杞紗に『モゲ太とアリ』の漫画を貸した。
春も杞紗を案じているけど、「皆で一斉に構ったら杞紗が困るかもしれない」と言って見守る体勢に入った。
物の怪憑きの中で杞紗と1番仲が良い燈路は、杞紗と距離を置いている。自分が杞紗に関わると慊人がまた怒って、杞紗が再び傷つけられるのではないかと恐れているのかもしれない。
燈路は気にしすぎだと思うけど、自分のせいで杞紗が傷ついたと思い詰めて臆病になっているんだろうな。
僕が送迎車に乗って帰宅したら、紅葉とは違うハイテンションなテノールの声が聞こえた。客間に向かうと、兄さんと綾兄が歓談中だった。
「おかえり」
白衣を羽織った兄さんは、背もたれ付きのベンチソファに腰掛けたまま、出迎えの挨拶を投げかけた。
明るい紫色の
「学校からまっすぐ家に帰ってくるとは真面目だねっ。それとも、とりさんからボクが来ていると知らされて、ボクに会いたいあまり予定をキャンセルして帰ってきたのかなっ?」
僕は「ただいま」と挨拶を返しながら、兄さんの隣に腰を下ろす。
「綾兄、店はどうしたの? まだ閉店時間になっていないよね?」
「ボクの店は今年から、月曜を定休日にしたのさっ」
定休日ってそんな簡単に変えていいのか? 店主である綾兄の経営方針に、僕がどうのこうの言うのは筋違いだろうから聞き流しておく。
「店といえば、綾兄が服飾店を営んでいる事は由希に話した?」
「いいやっ。ボクがリリカルでロマン溢れる職業に就いた経緯も話したかったのだが、ぐれさんの家で過ごした3日間ではボクの全てを語り切れなかったのだよっ」
「綾女……自分の事を一方的に話すのではなく、由希の話を聞いてやったらどうだ?」
兄さんがアドバイスすると、綾兄は芝居がかった仕草で手で額を押さえる。
「そうしたいのは山々なのだがねっ。由希はボクに心を閉ざしているから、自分の話をしてくれないのだよ。ケンシロウは由希と同じクラスなのだろう? 由希の趣味とか好きな女の子のタイプとか知らないかいっ?」
「由希の趣味か……中学時代は読書だったな。でもアレは他人を寄せ付けないようにするために、本を読むポーズを取っていたって感じだったけど。好きな女の子のタイプも解らないな。由希は下ネタ耐性がないから、猥談を振ると冷ややかな目で見られるんだよ」
由希の話をしながら、僕は違う事を考えていた。綾兄がいれば佳菜さんの写真を兄さんに渡しても、重苦しい空気を引き摺らずに済むかもしれない。
「失礼します」
お手伝いさんが声をかけて客間に入り、僕の分の飲み物を持ってきてくれた。水色のテーブルランナーを中央に敷いた座卓の上に置かれたのは、グラスに入ったアイスウーロン茶だ。
兄さんと綾兄の前には、ティーカップに入った紅茶が置いてある。僕と兄さんは普段、紅茶を飲まないんだけど。客人の綾兄の好みに合わせて出したのかな?
話が途切れた頃合いを見計らって、僕は通学バッグから佳菜さんと繭子先生のツーショット写真が入った封筒を取り出す。座卓の上に封筒を置いて、「はい、これ。兄さんにあげる」と言った。
「何だ?」
「繭子先生に頼んで、佳菜さんの結婚式の写真をもらったんだ」
兄さんは表情を変えなかったが、深い青の瞳をすっと細める。余計な気を回すな、と無言の内に言われた気がした。
「繭君が由希とケンシロウとキョン吉の担任になるとは、何事も縁だねっ」
「綾兄は繭子先生を知っているの?」
「勿論知っているともっ! 繭君や佳菜君とは一緒に飲んだ事があるのさっ」
なんと。綾兄と繭子先生は面識があったのか。
完全に僕の情報収集不足だな。再び後悔する僕を余所に、綾兄が直球の質問を兄さんに投げる。
「とりさんは佳菜君の式に行かなかったのかい?」
「ああ。フラッシュバックが怖い……佳菜には重ねがけを施していないし、何かの拍子に思い出したりしたら……困るだろう」
「困るのかい? もしそれで思い出したとしても、もう1度ラブラブになれるかもなのだよ?」
綾兄が兄さんを思って言ってくれているのは解るけど、それは無理だ。不倫ダメ絶対とかそれ以前に、心を病んだ時の記憶が戻ったら佳菜さんがまた苦しむ。
兄さんは呆れたように溜息を吐いて、「終わったんだよ、俺と佳菜は」と言う。
「もうやり直す事はない。一緒にいても寂しくなるだけだ。……もう愛情が消えたとは思いたくはない。でも側にいて欲しいとは思わない。会う気もない。今はもう祈るだけだ」
感情を込めずに淡々と言葉を紡ぎながら、兄さんは診察机に飾られた佳菜さんの写真を見つめる。兄さんの凪いだ表情や平坦な声音から悲哀は窺えなかったが、絶望からくる諦観を纏っているように感じられた。
佳菜さんの記憶を隠蔽した頃で時間を止めたような兄さんを見ていると、僕は歯がゆさと無力感を覚える。
それと同時に、虚しさが胸に巣食う。兄さんの結婚は慊人に認められなかったから、僕が愛する人と結ばれたいと願っても却下されるだろう。
「納得いかないねっ。ボクはとりさん派の人間だから、片寄った意見であるのを承知でハッキリ言うが、ボクは納得いかないっ。佳菜君はズルイ! だって佳菜君は全部忘れて倖せ掴んで、とりさんだけが嫌な事総て背負わされている感じだっ。とりさんだけ置いてけぼり食わされている感は否めないっ」
本当にハッキリ言ったな。でも綾兄の遠慮のない発言のおかげで、暗鬱とした空気が吹き飛んだ。
兄さんは綾兄を見つめながら「そうか……?」と応じ、座卓の上に置いた封筒と僕を順番に見遣ってから、小さな喜びを噛みしめるように薄く微笑む。
「……そうでもないさ」
「とりさんは優しすぎるっ。そこがとりさんの良い所ではあるが、優しすぎるっ。そんな事だから、いらぬ苦労ばかりしてしまうのだっ。ケンシロウからも何か言ってさしあげたまえっ」
「綾兄の言葉の前半には同意するけど、後半は同意できないよ」
兄さんに苦労をかけている自覚はあるので、僕はそう答えた。
「佳菜君とやり直せとは言わないよっ。その代わり、キッパリ断言させて頂こうっ。ボクはね、とりさんには佳菜君よりも2000倍近く、倖せいっぱいになってもらいたいのだよ!」
綾兄は熱っぽく話しながら、兄さんに向かってピースサインを突き出す。あのピースサインは2000倍を意味しているのだろう。
なんで2000倍、という些細なツッコミは無粋だ。綾兄が掲げる草摩はとり絶対主義に賛同しなかったら、ブラコンが廃るぜ。
「その意見には全面的に同意する!」
「よろしいっ! それではここに、とりさんを倖せにし隊の結成を宣言するっ! 隊長はボク、副隊長はケンシロウ、参謀はぐれさんだっ!」
「ぐれ兄が参謀かぁ……悪巧みしそうだな」
「参謀は悪巧みするのが役目さっ」
「そういう……強気な態度を由希に見せればいいのにな……」
穏やかな笑みを浮かべながら、兄さんが意見を述べた。
綾兄は「そうかい?」と言ってから、中指の背を顎に宛がってフムと考え込む。
兄さんが助言した強気な態度を、綾兄は斜め上の意味合いで解釈しているんじゃないか。そう感じた僕は、念のために忠告しておく。
「綾兄。由希に向かって『ボクの言う事に従え』とか命じたら、由希にブン殴られるよ」
「拳で解り合うというやつかっ! ボクはMっ気がないから痛いのは好きではないが、由希から与えられる愛の鉄拳ならば受け止めてみせようともっ!」
「ちょっと待って、綾兄。拳で解り合えるのは漫画やアニメの中だけだから。由希とコミュニケーションを図りたいなら、ありきたりな話を取っ掛かりにしなよ」
「ありきたりな話を由希に持ちかけたら、つまらない兄だと思われてしまうではないかっ」
「由希は芸人みたいに面白い兄は求めていないと思うよ」
綾兄と僕の話し合いは平行線を辿る一方だ。それを聞き流しながら、兄さんはティーカップに残った紅茶を飲んでいた。
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17「墓参り日和だなっ」
「おい、リンゴ頭。明日の午後は空いてっか?」
2時間目と3時間目の間の中休みに、
「空いているよ。どこか遊びに行くのか?」
「うんにゃ。
友達の家族のお墓参りに誘われたのは、初めてだ。驚いたけど断る理由はなかったので、魚谷さんの誘いを受けた。
僕がお墓参りに参加する旨を本田さんに伝えると、彼女は嬉しそうに笑ってお礼を言う。
「ありがとうございますっ。お母さんも喜びます……っ」
僕は死後の世界否定派だから、霊魂が実在すると信じる人の考えが理解できない。どう答えればいいのか解らなかったので、僕は曖昧に笑って返事に代えた。
翌日の5月1日は、曇りや雨が続いたぐずついた天気から一転して快晴になった。
僕がダークスーツにするか私服にするかで悩んでいたら、兄さんが「法要に出席するのでなければ、平服で構わないだろう」とアドバイスをくれた。
兄さんの意見を取り入れて、グレーのTシャツの上に黒のジャケットを羽織って、黒のジーンズを穿いていく事にしよう。
本田家のお墓がある寺は、周囲に住宅地があるせいか小規模だった。
淡いピンクのカーネーションの花束を持った僕は、待ち合わせ場所の墓地に続く階段の下へと向かう。僕が1番乗りだったのか、まだ誰も来ていない。待つこと数分。
「オーッス! 墓参り日和だなっ」
陽気な挨拶をしてきた魚谷さんは、白百合の花束を持っていた。そこまでは普通の墓参りスタイルだけど、装いが普通じゃない。
魚谷さんが着ていたのは、足首まで覆う長さの真っ黒な特攻服だ。
左胸元には日章旗と『南連合総番』、左腕には『五代目特攻隊長』、右腕には『黒衣蝶参上』という物々しい肩書きと口上が記されている。
魚谷さんの特攻服が目立ちすぎて、その隣にいる
西洋の未亡人のように黒いベールを被り、露出が少ない黒のロングドレスに身を包んだ花島さんは、充分な存在感を放っているのだが。
「魚谷さん……お墓参りの後、集会に行くの?」
「あたしは族抜けしたから集会はもう行かねぇよ。おっ、透達が来たぜ」
反り屋根の待合所の方から、本田さんと
夾は来るかどうか解らないと聞いていたが、今回も由希に対する敵愾心より本田さんへの配慮を優先したのだろう。
3人の服装は普通だ。
本田さんが着用しているのは黒のワンピース。
夾は黒のジャージを着て、ダークグレーのジーンズを穿いていた。
由希は白いシャツの上に濃紺のセーターを着て、黒のチノパンを合わせている。
「そのカッコはなんだー!!!」
夾が真っ先にツッコミを入れると、魚谷さんは「なんだってなにが」と受け流す。
自分のドレスを見下ろした花島さんは「やっぱり地味だったわね……」と、ボケているのか本気なのか判断しづらい発言をした。
「魚谷さん……それもしかして、特攻服ってヤツ……?」
「由希が特攻服を知っているなんて……もしかして、みつ先輩から聞いたのか?」
僕の問いかけに、由希は頷いて答えた。
みつ先輩こと
昔のみつ先輩は暴走族の遊撃隊長として環七で爆走していたらしいけど、師範に弟子入りして更生した今は面倒見のいい兄貴分として慕われている。
「これはなぁ、今日子さんからもらった由緒正しい、赤い蝶の特攻隊長服なんだぜ!」
不敵に笑った魚谷さんが後ろを向く。背中の部分に『紅』の文字と、大きな蝶が赤糸で刺繍されていた。
「あ、赤い蝶……?」
「えへへっ、お母さんの現役時代の名前ですーっ」
現役という言葉の物騒さと、本田さんの人畜無害な笑顔のギャップが激しすぎる。
階段を上って本田家のお墓に向かうと、お墓の周りは綺麗に掃除されていた。花立てには新しい花が飾られ、水鉢には清潔な水が注がれている。線香立てには煙がのぼる線香が立てられ、墓前にはパック包装された柏餅が供えてあった。
「誰かもう来たのか?」
「あ、きっとおじいさんですっ。おじいさんはお母さんの好きな食べ物知ってますからっ」
夾は本田さんの祖父に会った事があるのか、「ああ、あの……」と呟いている。
「あのじーさん、どっちのじーさんだ?」
「お父さんのお父さんですっ」
本田さんのお母さんのお父さんじゃなかったのか。
母方の祖父母は他界したのだろうか。それとも疎遠なのか。立ち入った事を聞くのは躊躇われるなと思っていたら、由希が踏み込んだ質問をする。
「……お父さんは……どうして?」
「風邪をこじらせて、そのまま……だったそうです。私は小さかったので、よく覚えていないのですが……」
父親の死因を語る本田さんは、悲しみを押し隠すような淡い笑みを浮かべる。
本田さんは頻繁に「お母さんが」と言うけど、お父さんの話は初めて聞いた。父親の思い出が少ないから、話題に出さないのかな。……いや、他に理由があるのかも。
――……置いていかれるのは……とても寂しくて……とても怖くて……とても悲しいです……。
思い浮かんだのは、正月に本田さんが見せた虚ろな表情。
置いていかれる事に恐怖心を抱く本田さんが、母親より先に他界した父親に対する複雑な思いを、胸に秘めている可能性は無いとは言い切れない。
父親に関する事柄は、迂闊に聞かない方がいいだろう。
「お母さん、来たですよーっ」
「来ました……」
「じいさんが掃除までしてくれたから、やる事あんまねぇな」
お墓に向かって挨拶する本田さんを見て、不思議に思った。
どうして、あんなに澄んだ笑顔を浮かべられるのだろう。
小さい頃にお父さんを亡くした本田さんにとって、お母さんはとても大切で大きな存在だったはずだ。僕にとっての兄さんのような。
兄さんが不慮の事故で突然他界してしまったら、と想像するだけで心が恐怖で凍てつきそうだ。そんな事態が現実になった場合、僕は半死半生になって立ち直れなくなるだろう。
けれど、唯一無二の肉親と死別した本田さんは陰鬱さを感じさせず、上っ面だけではない笑みを浮かべている。寂しさや心細さや虚しさに蝕まれそうになる時も、あったはずなのに。
……本田さんは周囲の人達に心配をかけないように、ひたすら頑張ってきたんだろうな。
両親を喪った悲しみを極力見せずに、僕を育ててくれる兄さんを連想した。僕は本田さんに尊敬の念を抱きながら、持参したカーネーションを包装紙から取り出す。
「本田さん、これも飾っていいかな?」
「はいっ。
「最初に葉物を活けて次に花を1種類ずつ、バランスを見ながら活ければ見栄えよく飾れるよ」
僕はここぞとばかりに生け花の知識を披露したが、花島さんは少し離れた処で夾と会話している。
2人が何を話しているか聞き取れないけど、夾は花島さんに気があるように見えないから放置しても大丈夫だろう。
「リンゴ頭は生け花をやってたんか?」
「僕が小さい頃に両親が他界したから、仏花を飾るのは慣れているんだ」
僕は何気なく言ったつもりだけど、近くにいた3人は深刻に受け止めたようだ。
本田さんは悲痛そうに眉を下げ、魚谷さんは気遣うような眼差しを僕に向け、由希は信じられないようなものを見る目を僕に向ける。
僕が両親に花を供える事がそんなに意外か。由希は僕の事を、親を親とも思わぬ冷血漢だと思っているようだ。そんなのお互い様だろうに。
「あー……なんつうか、おまえも苦労してンだな」
「うーん……まぁ、それなりに?」
本音を言うと、兄さんがいてくれたから両親がいない苦労は感じた事はないんだけど。両親を喪った本田さんの前で、それを言うのは無神経だと思ったから自重した。
「あ、あの……っ。建視さんが悲しい気持ちを抱えていらっしゃるならば、どうか私に話して下さいっ。心に重いモヤモヤを溜め込んでしまわれると、お辛いと思いますので……っ」
「本田さん、ありがとう。自分の気持ちを持て余した時は、本田さんに話すよ。本田さんも何か困った事や悩み事があったら、僕に話してね。僕が対応できる事であれば力になるから」
僕が胸の内を明かすつもりがない事を察したのだろう。本田さんは躊躇ったような表情を一瞬浮かべた。
「あ……えと……私の事を気遣って下さって、ありがとうございます……っ」
ごめんね。本田さんを拒絶している訳じゃないんだ。
僕は親がいなくて悲しいっていう気持ちが、よく解らない。そんな僕の本音を話したら、他人の気持ちを受け止めようとする本田さんを困らせてしまうだろう。
仏花を飾り終えると、本田さんは手提げ袋から取り出したレジャーシートを広げて、本田家のお墓の前に敷き始める。
何を始めるのかと思って僕と由希が見ていたら、紙コップと紙皿と割り箸、緑茶が入った2リットルのペットボトル、3段重ねの重箱がレジャーシートの上に並べられた。
えええー……
魚谷さんと本田さんは当たり前のような顔で、昼食の準備を進めている。自分の中の常識が揺らいだ僕が
「夾君? どうかされましたか?」
本田さんに問いかけられた夾の顔には、動揺が浮かんでいた。何かあったように見えるが、猫憑きの従弟は「なんでもねぇよっ」と答える。
いつの間にかベールを外した花島さんは、夾に同意するように「ええ……」と返事をした。
「墓の前で弁当を広げるなー!!!」
動揺から一転、大声を上げた夾は根っからのツッコミ体質だ。
「いいんだよ。騒がしくした方が今日子さんも喜ぶってな」
「寺のモンに見つかったらどうするっ」
「謝りゃいいだろ~」
「他の参拝者は見当たらないから大丈夫じゃないか?」
僕は意見を述べながら、花島さんの隣に腰を下ろした。
呆れ顔の夾は「大丈夫な訳ねぇだろ」と言いつつも、本田さんの隣に座って本田さんに料理をとってもらっている。
「魚谷さん達は……本田さんのお母さんと仲が良かったの?」
由希の質問に、魚谷さんが笑って「よくしてもらってたぜ」と答える。
本田さんのお母さんは赤い蝶伝説を打ちたてた有名人だったから、魚谷さんは出会う前から憧れていたらしい。
「今日子さんがバイク転がすと、蝶が飛んでいるみたいにこう……赤いテールランプが……」
「わっかんねぇよ」
「きょんは想像力無ぇな~」
「あ゛あ゛!?」
「これ、おいしいわ……」
「ありがとうございますっ。はなちゃんのお好きな肉団子の甘酢あんかけもありますよ」
「透君、私の好きなものを作ってくれたのね……嬉しいわ……」
「由希、お茶のペットボトル取ってくれ」
「……ほら」
「さんきゅ。花島さん、お茶のお代わりはいる?」
「そうね……もらおうかしら……」
墓地の中でお弁当を食べるなんて、非常識だと批判される行為だろう。でも、こんな穏やかな気分でお墓参りをしたのは初めてだ。
遺児に対する陰口が飛び交う
「明日から旅行に行くぞ」
お墓参りを終えて僕が帰宅したら、兄さんが唐突に宣言した。
一族の主治医であり、
僕は驚きつつも、兄さんが旅行に行くと言い出した理由を考えてみる。
「慊人が仕事で遠方に行くから、兄さんも付き添う事になったのか?」
「違う。
インドア派のぐれ兄が旅行に誘うなんて、初めてじゃないか?
ぐれ兄の事だから何か企みがありそうだけど、オーバーワークが続いている兄さんは心身の疲れを取る必要がある。
兄さんの不在中に代理の医者がうちの診察室兼客間を使用するかもしれないから、家に出入りする人を確認しておかないと。
「兄さんが旅行に行っている間、慊人の検診は誰が行うんだ?」
慊人は1日に2回、検診を受けている。
多数の傘下企業を抱える草摩家の当主だから、体調管理は万全にしておく必要がある……というのは表向きの理由で。慊人はちょっとした体調不良でも大袈裟に主張するから、頻繁に検診が行われるというのが実情だ。
仮病を使っている訳じゃないから、厄介なんだよな。若くして他界した草摩の先代当主は病弱だったらしいけど、慊人もその体質を受け継いでいる。
その上、病は気からという言葉通り、慊人は具合が悪いと言い続けている内に、本当に体調を崩してしまう悪循環に陥っているのだ。
「
父方の叔父である修景おじさんは、草摩総合病院の院長を務めている。
往診に行くような立場の人じゃないけど、草摩の当主であり特殊な事情を抱える慊人の診察を行える医師はごく少数だからな。
修景おじさんは僕の事を良く思っていないから、家の中で鉢合わせするのは避けたい。
「建視は明日から予定が入っているのか?」
「予定は入れてないよ。任務が入るかもしれないから」
言ってから気付いた。兄さんの旅行中に任務が入ったら、帰宅してすぐに隠蔽術を施してもらえない。うわ、どうしよう。
凄惨な残留思念を隠蔽してもらうために、旅先でリフレッシュしている兄さんの所に押しかけるのは気が引けるし。耐えるしかないのか。いつまでも兄さんに頼りきりはよくないからな。
僕がうんうん悩んでいたら、兄さんが「心配は無用だ」と言う。
「建視も旅行に行けるように紫呉が前もって慊人に話をつけて、ゴールデンウィーク中に任務が入らないように手を回したと聞いている」
ありがとう、ぐれ兄……って素直に感謝できない。だって戌憑きの従兄の親切に見える行動には、必ず裏があるんだよ!?
ぐれ兄が「気軽に遊べる女の子を紹介してあげる」と言って引き合わされた人が、お淑やかな美女にしか見えないニューハーフだったとか。
ぐれ兄が「お勧めの本だよ」と言って貸してきた『夏色の吐息』を読んで感銘を受けた後、ぐれ兄が別のペンネームで書いた少女小説だと教えられ、トラウマ級のダメージを受けたとか。
「紫呉の思惑に乗って旅行するのは嫌か? 思い返してみれば、俺は建視と旅行らしい旅行をした事がなかった。いい機会だと思ったのだが……」
「行くよ、行く行く!」
慌てた僕が了承すると、残念そうに目を伏せた兄さんが満足げに口角を上げた。ぐれ兄ほどじゃないけど、兄さんも人を操作するのが上手いらしい。
はとりの叔父の名前は独自設定です。
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18「ジェイソンです!!」
別荘に向かう当日の朝。僕は薄いピンクのシャツとワインレッドのニットベスト、それにグレーのジーンズという組み合わせの装いにした。
湖畔にある別荘は外に出たら肌寒く感じるかもしれないので、ジャケットも持っていこう。
「用意はできたか?」
声をかけてきた兄さんは、チャコールグレーのシングルスーツを着て、ダークグリーンのネクタイをきっちりと締めていた。
遊び心を取り入れたカジュアルスーツならまだいいけど、兄さんが着用しているのはかっちりした仕様のビジネススーツだ。
おまけに兄さんは実用性を重視したビジネスバッグを持っているから、出張に赴くサラリーマンにしか見えない。
……日頃のハードワークのしわ寄せが、こんな所にも……っ!
それに加えて兄さんは休日も
慊人は兄さんがラフな服装で診察しても文句を言わないだろうけど、慊人の世話役は「草摩の主治医なのにだらしない」とか言うんだよな。
「兄さん。その格好は仕事中みたいだから、僕が兄さんの誕生日にプレゼントした服を着なよ」
「……
兄さんはそう言いながら、上着を脱いでネクタイを外した。それでもラフな格好とは言い難いけど、譲歩してくれた兄さんにこれ以上ダメ出しするのは良くないな。
僕が贈った服が押し入れの肥やしになっていた事は、ちょっと悲しかったけどね!
兄さんは運転免許を持っているけど、6人以上が乗れるミニバンは所有していない。
どうやって別荘に行くんだろうと思っていたら、ぐれ兄が貸し切りのサロンバスを手配したらしい。
前の方は普通のバスと同じ座席の並びだけど、後ろの座席はテーブルを囲むようにコの字型に配置されている。バスの天井にはシャンデリアが輝き、テレビやカラオケ機器や小型冷蔵庫もあった。
「カラオケがあるけど、兄さん歌う?」
「俺は歌わん」
即答した兄さんは、進行方向に対して横向きの席の1つに腰掛けた。僕は……そうだな、最後列の席に座ろうっと。
走り出したバスはぐれ兄の家へと向かう。
真っ先にバスに乗り込んできたぐれ兄は黒の着流し姿だ。手に持っているのは扇子1つのみ。バスから降りて待機していたドライバーさんに、荷物を預けたのだろう。
「けーくん、久しぶり。はーさんは昨日ぶりだね。今日も晴れてよかったよ。僕の日頃の行いが良いおかげかなぁ」
「ぐれ兄、立ったまま寝ているのか?」
「
「
兄さんに促されたぐれ兄は、兄さんの対面側の席に腰掛けた。
車内に入ってきた本田さんはツインテールにした髪にリボンを飾り、エレガントなプリーツワンピースを着ている。
「はとりさん、建視さん、こんにちはっ」
「やっほー、本田さん」
「久しぶりだな」
「透君、僕の隣に座りなよ」
「家主の権力を振りかざして、隣に座るように強要するのはセクハラじゃない?」
「やだねぇ。けーくんみたいに、細かい事をネチネチ言う男はモテないよ。そんなだから
「うわーっ! 解った、譲歩しようじゃないか。僕がぐれ兄の隣に座るから、本田さんはここに座って」
僕は立ち上がって、自分が座っていた席を本田さんに勧めた。
苦虫を噛み潰したような顔になったぐれ兄は、「譲歩じゃなくて嫌がらせだよ」と抗議したけど無視する。
ぐれ兄と隣り合って座るのは嫌なので、僕は1つ席を開けた所に座った。
中華風のシャツを着た
由希と夾は嫌悪する相手から離れた席に座るために、どちらかが後部座席に来るだろうと思っていたんだけど。2人揃って、本田さんに背を向ける席を選んだ事も意外だ。
本田さんは前列の由希と夾を、心配そうに見遣っている。
お墓参りをした時は、
「なんか空気重いな。こういう時は
僕が前列の座席を見遣りながら言うと、本田さんが「紅葉君はいらっしゃらないのですか?」と質問してきた。
「昨日の夜、紅葉に電話をかけて誘ったんだけどね。友達と遊ぶ約束をしたから行けないってさ」
紅葉は『なんでもっと早く誘ってくれなかったの!?』と文句を言ってきたけど、紅葉だって急に旅行を決めた事があるじゃないか。
今回の旅行の立案者はぐれ兄だから、苦情はぐれ兄に訴えてほしい。
「明るい奴が必要なら、あーやを呼ぶ?」
「「呼んだら殺す……」」
同時に振り返った由希と夾は声を揃えて、綾兄の召喚を提案したぐれ兄を脅した。仲が悪いくせに妙な処で息ぴったりだな。
「カラオケがあるから歌おうよ。まずは僕からっ!」
トップバッターの僕は『モゲ太とアリのマーチ』を熱唱。
次にぐれ兄が『シュ○バ★ラ★バンバ 』をノリノリで歌ったら、1Bメロの途中で兄さんが演奏を停止した。
「はーさん、ひっど~い。僕の持ち歌の上位に入る歌だったのにぃ」
「歌詞もそうだが、紫呉の歌い方がいかがわしい」
「え~。サザンはもっとエロい歌があるよ。曲名から攻めている『マイ・フェr」
「いい加減にしないと、マイクを通して貴様の恥ずかしい過去を延々と語るぞ」
兄さんが低い声で脅しをかけると、ぐれ兄は肩を竦めて「次は透君が歌う?」と話を逸らした。
「わ、私ですかっ? カラオケはあまり行った事がないので、流行の歌は知らないのですが……」
「透君、流行とか気にしないで。けーくんは初っ端からアニメソングを歌っていたし」
ぐれ兄がアニソンを侮辱する発言をしやがったので、僕は「本田さんの前で下ネタソングを堂々と歌う奴よりマシだよ」と言い返した。
「あ、あのっ。それでは、私は『翼を○ださい』を歌いますっ」
前に歌ったぐれ兄が卑猥な選曲をしたせいもあって、本田さんの歌を聞いていると心が洗われるようだ。
本田さんが歌い終わった時、僕と兄さんとぐれ兄は拍手を送ったが、こちらに背を向けている由希と夾は拍手しているかどうか解らない。
「由希君、夾君。透君が歌い終わったんだから拍手くらいしなさいよ」
「えと、紫呉さん、よろしいのですよ……」
「本田さん、あいつらを甘やかしちゃダメだよ。これがクラスのカラオケ大会だったら、場を盛り下げる態度を取る奴はひんしゅくを買うからね。本田さんの歌に拍手1つ送れない甲斐性無しは、お仕置きしちゃうぞ」
まずは夾に対するお仕置きとして、どら猫に恋する三毛猫の気持ちを歌った『ゴ○ちゃん』を聞かせた。
「やめろーっ!!」
歌詞に出てくる「○ロちゃん」を「夾ちゃん」に変えたら、夾が席を立って振り向いて叫んだ。僕は演奏を停止せず、夾の怒号とぐれ兄の爆笑をバックコーラスにして最後まで歌い切る。
由希に対するお仕置きは、『ミッ○ーマ○ス・マーチ』の日本語版にしよう。歌詞に何度も出てくる「○ッキーマウ○」を「ユッキーマウス」に変えてみた。
さすがに由希は夾のように怒鳴ったりしなかったが、前列から絶対零度の冷気が発生したような錯覚に陥った。
「あー、面白かった。はーさんも何か歌いなよ」
「遠慮する」
「そう言わずに。透君もはーさんの歌を聞きたいよね~?」
「あ、はいっ。はとりさんの歌をお聞きしたいですが、はとりさんがお嫌でしたら無理にとは申しません」
「……本田君を唆して俺に歌わせた事を後悔するがいい」
不穏な言葉を呟いた兄さんは、『Hey ○ude』を選曲した。
中学校の英語教師がビートルズ好きで、授業中に歌詞カードを配って曲を流したから僕も知っている。様々な解釈ができる名曲だけど、大雑把に要約するなら「彼女を受け入れろ」と切々と説得する歌だ。
歌詞の中に繰り返し出てくる「H○y Jude」を「Hey Sigure」に変えて歌っていたから、兄さんはぐれ兄に何かしら言いたい事があったのだろう。
当のぐれ兄は閉じた扇子の先端を額に当てて、気まずそうな半笑いを顔に貼り付けている。ぐれ兄が受け入れようとしない“彼女”って、たぶん慊人の事だよな……。
そんなこんなで、湖畔に建つ別荘に到着した。
割り振られた寝室に荷物を置いて僕がリビングへと向かうと、本田さんが窓を開けて外の景色を眺めている。
「うわぁ……っ。湖がありますっ、キレイですーっ、大きいですーっっ」
「湖がそんなに珍しいか?」
窓辺に近づいた兄さんの問いかけに、本田さんは満面の笑みで「はい!」と答えた。本田さんは本物の湖を見るのは初めてらしい。
「ふっふっふっ。ジェイソンでも出てきそうな別荘だよねぇ」
ソファに腰掛けたぐれ兄がふざけて言うと、由希が呆れたように「またそういう事を……」と呟いた。
「ジェイソンってのは新種の熊の事だよ。物知らずの夾君♡」
「バッ……知ってらぁ、そんくらい!」
腕組みをして考え込んでいた夾は、赤くなった顔を誤魔化すように怒鳴った。
夾はぐれ兄が呼吸をするように嘘を吐く事は知っているだろうに、なんであっさり騙されるんだ。
「外国産の熊の事ですか?」
天然な本田さんが的外れな疑問を口にした。ぐれ兄に騙される被害者が増えないように、正確な情報を与えよう。
「本田さん、ジェイソンはホラー映画に登場する殺人鬼の事だよ」
「……ホラー映画に登場する殺人熊ですか……っ」
「いや、だからね? ジェイソンは熊じゃないんだよ」
訂正を入れた僕の視界の端で、ぐれ兄が広げた扇子で顔を隠して笑いをかみ殺している。
僕も本田さんに男子トイレの鏡に纏わる嘘を言った事があるけど、あれは必要に駆られて仕方なくだから。ぐれ兄のように人を騙して面白がったりしてないから!
「由希君、夾君、けーくん。せっかく湖畔の別荘に来たんだから、透君を連れて湖まで散歩しに行きなさいよ」
「ぐれ兄、話を逸らすなよ。ジェイソンは熊じゃないって訂正するべきだ」
「ええ~。平和な森を襲った殺人熊ジェイソンの恐怖を、透君の耳に入れるのは躊躇われるなぁ」
「紫呉には俺が言い聞かせておくから、建視達は散歩に行くといい」
口から生まれたようなぐれ兄に言い聞かせるのは、僕じゃ荷が重い。兄さんの言葉に甘えるとしよう。
「本田さん、散歩しよっか」
「はいっ。由希君と夾君もご一緒しませんか?」
「2人で行ってきなよ」
「俺は行かねぇ」
由希と夾は、未だにナーバスな雰囲気を引きずっているようだ。
僕は2人がいなくても一向に構わないけど、本田さんは気に掛けるだろう。仕方ない。手の掛かる従弟達に発破をかけるか。
「という事は、本田さんと2人きりでデートできるね」
「わっ、わわ、私が建視さんとデートですか!?」
「うん。手を繋いで歩いちゃおう」
手を繋いでという言葉を聞いて、由希は険しい表情になった。
残留思念を読む力を持つ僕と本田さんを、2人きりにしてはいけないと思ったようだ。
夾は面倒臭そうな顔をしている。
僕が本田さんの残留思念を本気で読むつもりなら、何も言わずにこっそり実行すると予想しているけど、万が一の可能性は捨てきれないと思っていそうだ。
僕らは別荘から出て、湖を囲む森の中の散策路を歩く。様々な鳥の鳴き声があちこちから響き、揺れる枝葉から木漏れ日が射す。
草摩の「中」の敷地内にも林があるけど、厳格さと陰鬱さが漂う本家とは違って、ここは空気が澄んでいるように感じられた。
「うーん、森林浴って気持ちいいね」
「あ、はいっ。木々の良い香りがして、何やら気持ちがほんわかと和みますね……っ」
「僕は本田さんと一緒にいると、気持ちが和むけど」
お世辞じゃなくて割と本気で言ったら、本田さんは顔を赤くして「え!? え、えと、そのっ」と慌てている。可愛い。
「本田さん。風が冷たいから、肌寒くなったら遠慮なく言ってね」
「は、はいっ。お気遣いありがとうございますっ。私は寒くないですよ。由希君と夾君は大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
僕と本田さんの数歩後ろを歩く由希は、短い言葉を返した。最後尾を歩く夾は無言で頷く。
2人が素っ気ない対応をしたせいで、本田さんがしょぼんと項垂れている。
由希と夾の奴、落ち込むなら自分1人の時にしろよ。僕がいい加減苛立ちを覚えた、その時。
「あの、すみませんでした……っ」
後ろを振り向いた本田さんが、謝りながら頭を下げた。由希と夾が同時に「は?」と疑問を発する。
「なんで本田さんが謝るの? 謝らなきゃいけないのは由希と夾だよ」
「い、いえっ。私がボケラとして、お2人のお怒りにまったく気が付かなかったせいなのです。あ、あ、あの、気に障った事がありましたならば、何でもおっしゃって下さい。次からは直します。だから、だから、ですから……」
何やら責任を感じている本田さんは、焦げ茶色の目に涙を浮かべた。本田さんの隣にいた僕はそれに気づき、後ろの2人に非難の目を向ける。
「おい。本田さん、泣いているぞ」
「えっ!? ちょっと待って……俺は怒ってなんか……」
「はぁっ!? 何で泣いているんだ……うおっ!?」
本田さんに近づこうとした夾は転びそうになったが、木につかまって事なきを得た。
「夾君!? 夾君、大丈夫ですか!?」
「くっそっ。なんだよ、この獣道は……っ」
悪態を吐いた夾は、散策路から外れた地面を見下ろして硬直した。
怪訝に思った僕と由希と本田さんが近寄って見ると、大型動物と思しき足跡があった。これは恐らく……。
「ジェイソンです!!」
「じぇいそんか!!」
ぐれ兄の嘘を信じてしまった本田さんと夾が、顔色を変えて叫んだ。
由希は遠くを見るような目付きになって、「熊だってば……」と訂正する。
ツッコミを放棄した僕は、熊と遭遇しないための方法を提案しようとしたのだが。
「ど、ど、ど、どうしましょう!! 危険です、大変です、危ないのですっ。お3人共、急いで戻……」
パニックに陥ってしまった本田さんは両腕を上下に振りながら、散策路から外れた方向に後ずさりした。
「本田さんっ」
「あ」
足を滑らせた本田さんが急斜面に落ちた。
僕と由希と夾は反射的に飛び出して、本田さんを抱きとめようとしたけど、呪われた身の僕達は変身してしまう。
朱塗りの盃になった僕は木の幹にぶつかって、藪の中に落ちた。
「すいません、すいません、すいません~っっ」
「本田さん、怪我はない?」
「はい~、すいません~っ」
由希の問いかけに、本田さんが涙声で応じた。
盃の付喪神形態だと手足が無いので身動きが取れず、僕の位置から本田さんの無事は確認できなかったので、安堵の息を吐く。
「ったく。足許はちゃんと見ろよなっ」
「はい~っ。お、お洋服を集めてくるです~」
「“ちゃんと見ろ”だって? 1番最初に転んだ奴の言う台詞じゃないな」
「あ゛!? スカしてんじゃねえぞ、クソ鼠! 今1番すっ転んだのは、てめぇだかんな! だから、部屋に籠ってばっかのおぼっちゃんは使えねぇんだっ」
「山の中で修行してたくせに使えない、どこぞのバカよりマシだ」
鼠と猫に変身した由希と夾は、僕達の服を集めてくれている本田さんの手伝いもせず、口喧嘩している。なにやってんだ、あいつら。
「大変です……っ! 建視さんの姿が見当たりませんっ。建視さん、どちらにいらっしゃいますか!?」
ここだよと答えようとした瞬間、僕の母さんが声を発する盃を気味悪がって心を病んだ事を思い出してしまった。
本田さんは、僕が生物ではない物に変身すると聞いても恐れなかったけど、実際に見たら拒否反応を示すかもしれない。
「おい、建視。返事しろよ」
「もしや、お返事ができない状態にあるのでは……あ、あのっ、建視さんは何に変身なさるのでしょう?」
「あいつは盃だ。知らなかったのか?」
「付喪神さんである事は教えて頂いたのですが……盃さんですね、直ちにお探し致しますっ」
「本田さん、待って。俺が建視を探すから……」
由希が待ったをかけたけど、本田さんは既に僕の捜索に集中しているようだ。
本田さんは程無くして、僕が落っこちた藪を掻き分けた。転げ落ちたせいで髪型が崩れた本田さんは、変身した僕を見るなり顔を強張らせる。
あー……やっぱり、こうなるよな。
盃の内側に瞬きする赤い両眼と開閉する口がついた付喪神の形態は、ダークファンタジー漫画の『ベ○セルク』に出てくるベヘリットに似ている。
戦場で死体を見慣れたガッツでさえ、ベヘリットを初めて見た時は気色悪りィという感想を抱いたのだ。本田さんが怯えても仕方ない。
「建視さんのお鼻がありません……っ。落ちた衝撃で欠けてしまわれたのですかっ!?」
本田さんは焦りを浮かべた表情で、僕に問いかけてきた。冗談を言って、場を取り繕おうとしているようには見えない。
安心した僕は思わず噴き出してしまう。
「……っ、ふふっ。変身した僕を見て、本田さんみたいな反応をした人はいないよ」
「す、すみません……気に障りましたか?」
「ううん、全然。本田さんは良い意味で、予想を裏切ってくれる人だね」
「え……えと……はっ! そうです、建視さんのお鼻を急いで探さなくてはなりませんっ」
「あひゃひゃひゃ!」
堪えきれずに僕は馬鹿笑いしてしまった。
夾が呆れ声で「盃に変身した建視には、最初から鼻はねぇんだよ」と、本田さんに教えている。
「少しは言い方に気を付けろ、バカ猫」
「あぁ!? バカな事言ってンじゃねぇぞ、クソ鼠。ねぇモンはねぇんだ。事実を伝えねぇと、そいつが勘違いするだろうが」
「おまえも勘違いしているくせに偉そうに言うな。言っとくけどジェイソンは、ホラー映画のキャラ名だ」
「建視の話を繰り返しただけのくせに、そっちこそ偉そうに言うんじゃねぇよ。さてはてめぇ、じぇいそんを知らねぇから知ったかぶっていやがンな?」
「知ったかぶっているのはおまえの方だろ、バカ猫」
「殺す!! 今日こそ必ず貴様の息の根を止めたらあ!!」
オレンジ色の毛を逆立てた猫は怒号を上げながら、濃灰色の毛並みの鼠を爪で仕留めようとする。
鼠は攻撃を素早く交わしながら「本当に聞き飽きたよ、その台詞……」と言って、幹を登って木の枝の上に落ち着いた。
「チョコマカすんじゃねえ!! 正々堂々かかってこい! 卑怯だぞ!」
「今の体格からして、おまえの方が卑怯だ」
「ウソつきやがれ!! ズラズラ仲間を呼びやがって! そして和むな!」
「勝手に寄ってくるんだから仕方ないだろ……」
鼠形態の由希は、あっという間に野鼠ハーレムを築いた。この付近に野良猫はいなかったようで、夾は木の幹を引っ掻きながら孤軍奮闘している。
変身した由希と夾が喧嘩すると、リアルな『ト○とジェリー』にしか見えない。その様子がおかしかったのか、本田さんが笑い出す。
「すいませんっ。ケンカしていらっしゃるのに笑ったりして……失礼ですね。でっ、ですが何やらホッとしてしまったのです。ああ……いつものお2人に戻ってくださったなぁ……って。そう思いましたらホッとして、つい……変ですね……っ」
3人分の服を片手に抱えた本田さんは、目尻に浮かんだ涙を指で拭った。あれは笑い涙ではなく、心から安堵したが故に溢れた涙だったようだ。
「あの……さ、本田さん……」
由希が何か言おうとした瞬間、ボンッと小規模な爆発音と煙が発生して、僕達は人間の姿に戻った。変身した際に服が脱げてしまったので、3人とも全裸だ。
顔が紅潮した本田さんは「はうぅっ」と悲鳴じみた声を上げて、後ろを向く。本田さんが集めてくれた衣類や靴を拾った僕達は、木陰で着替えを済ませた。
「えっと……本田さんは落ちる前に何か言っていたけど、本田さんに対して怒っているとかそんなんじゃないよ。怒っているように見えたなら、それは……」
言葉を切って俯いた由希は、「調子が悪かっただけで」と締め括った。
焦燥を浮かべた本田さんが「え゛っ」と声を上げる。
「でも、もう大丈夫だから。……ごめん。気に病ませちゃったね……」
「俺も別に怒ってねぇぞ。何も。……ただ俺もちょっと……調子が悪かっただけだよっ」
本田さんに背を向けながら夾が言い訳すると、由希が「頭の?」と茶々を入れた。オレンジ色の目を吊り上げて怒った夾は、「ちげぇよ!」と怒鳴る。
2人のやり取りを見て僕は密かに驚いた。
鬱陶しいほど落ち込んでいた由希と夾が、いつの間にか立ち直っている。これが本田さんの癒しの力か。僕もそういう力が欲しかったよ。
「でっ、ですが、お体の調子が悪いだけでよかったです。いえ、決してよくありませんが、お変わりなくというか、その」
2人は体の調子が悪かった訳じゃないよ。本田さんのおかげで丸く収まりそうだから、余計な口出しはしないけど。
「変わる? 別に何も変わってないよ」
由希はそう言って夾に人差し指を突きつけた。示し合わせたかのように、夾も由希に親指を突きつけている。
「「こいつが大っ嫌いだっていう事以外は」」
またしても由希と夾は同時に、しかも一言一句違わぬ発言をした。双子でもここまでシンクロ率高くないと思う。
僕は子憑きと猫憑きの従弟達を生温かい目で眺めながら、質問を投げかける。
「今のは『大嫌いじゃなくなったから仲良くする』って宣言か?」
「ちっげーよ!! クソ鼠の事がもっと嫌いになったって意味だ!」
「それはありがたいね。俺も同意見だよ」
「なるほど、これがツーカーの仲か」
僕が冗談半分本気半分で言うと、由希と夾は最早お約束のように声を揃えて「違う!」と言い返した。
「おまえら、コンビを組んでお笑い界の頂点を目指せよ」
「っざっけンな! 誰がクソ由希なんかとコンビを組むかよ!」
「それはこっちの台詞だ。建視は人をおちょくるのはやめろ」
「ふふっ……あはははっ」
本田さんは再び笑い声を上げた。今度は安堵ではなく、喜びが勝っているようだ。
由希と夾が通常運転に戻ったから、帰り道は騒々しかった。森の静謐な空気が台無しだな。
でも、口喧嘩をする2人を見る本田さんが嬉しそうにしているし、大声で話していれば熊は近寄ってこないらしいので、まぁいいか。
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19「おまえらも飽きないな」
Side:はとり
不憫な担当は今頃紫呉の家に行って、『旅に出ます。捜さないで下さい』といったベタな伝言が書かれた置き手紙を発見して、途方に暮れているだろう。
俺は紫呉を窘めて、原稿は出来ていると担当に連絡を入れさせた。
電話を切った紫呉は、「つまんない、つまんない」と子供のように駄々を捏ねている。何が悲しくて、自分と同い年の従弟が駄々を捏ねる姿を見なければいけないんだ。
「暇だな……」
「はーさんはゆっくり読書を楽しみなよ。僕推薦の書物をたくさん持ってきたから」
紫呉はそう言って、十数冊もの書籍を持ってきた。本の大半は俺の好きな洋書だ。濫読家の紫呉は大量の蔵書を持っているが、積極的に他人に貸す事はしなかったはずだが。
……そうか。
俺は佳菜と別れた後、自分なりに気持ちの整理をしたつもりだったが、付き合いの長い者達には気落ちしているように見えたのかもしれない。
「紫呉」
「はい?」
「──いや、ゆっくり本が読めるのは久し振りだよ」
眼鏡を取ってきて読書を始めようとしたら、紫呉が「これは僕の著作の中でイチオシの作品だよ」と言って、『夏色の吐息』というタイトルの文庫本を差し出した。
「……作家の名前が『きりたに のあ』になっているが」
「これは趣味で出した本だから。若い読者が手に取りやすいペンネームを考えたんだ」
紫呉は幾つペンネームを持っているんだ。
建視が以前、話のついでに語った吐き気を催す怪談も、紫呉が違うペンネームで出版した本に載っていたと聞いた。
「けーくんは『夏色の吐息』を読んで、『もどかしくて切ない恋愛模様に、段々と話に引き込まれた』って感想をくれたよ」
建視がこの本を読んだのか!? 表紙を飾るイラストから察するに、若い女性向けの小説だろうに。
弟の趣味嗜好を確認するため、『夏色の吐息』を読んでみる。数ページ読んだ時点で、限界を迎えた。
「面白い?」
「気色が悪い」
女子高生目線で綴られる恋愛劇を書いたのが紫呉だと思うと、鳥肌が立つ。これを建視が熟読したと思うと、弟の将来が不安になる。
……気を取り直して、紫呉が用意した洋書を手に取った。
無敗を誇ったナポレオン軍が初めて退却を余儀なくされた、アスペルン・エスリンクの戦いを克明に描写した歴史小説を夢中になって読んでいたら、
「ただいま帰りましたです……っ」
「ただいまー」
「ただいま」
「お帰りぃ……って、透君、もしかして転んだ?」
紫呉の声を聞いて本から顔を上げると、服を泥だらけにした本田君がリビングに立っていた。
「あっ、はい。ジェイソンの足跡に驚いて、足を滑らせてしまいました……」
「えっ? この近くに熊がいたの!?」
普通に受け答えるな、紫呉。本田君が間違った情報を信じ込んでしまうだろうが。何事もなければそう言っただろうが、今は彼女の容体を確認する方が優先だ。
「本田君、怪我はないか?」
「怪我はありません。ご心配をおかけしました……っ」
頭を下げた本田君は着替えるために、荷物を置いた部屋へと向かった。
「由希君と夾君の雰囲気、元通りになっているねぇ。透君が何か言ったのかな?」
建視の報告によれば、転んだ責任を擦り付け合って喧嘩する由希と夾を見て、本田君は笑いながら「いつもの2人に戻ってくれてホッとした」と言ったらしい。
由希と夾が喧嘩すらしないのは、異常だったからな。転んだ事が怪我の功名になったのは、空気を和ませる本田君がその場に居合わせたおかげだろう。
「本田さんって、天然というか器が大きいというか……盃に変身した僕を見て、あんな事を言うなんて思わなかったよ」
思い出し笑いをする建視の言葉を聞いて、俺は安堵と疑問が入り混じった心境になった。
建視の正体を見た本田君が拒絶反応を示さなかった事は察せられたが、彼女は何を言ったのだろう。物の怪憑きの仲間達のように、兄弟揃って愉快な姿に変身すると言った訳ではなさそうだ。
「透君、何て言ったの?」
「落ちた衝撃で僕の鼻が欠けちゃったのかって、大真面目な顔で心配してくれたよ」
「あははははー!! 変身したけーくんを見てボケる事ができるなんて、透君最高……っ」
「紫呉、その発言は本田君に対して失礼だぞ」
「だって、可笑しいものは可笑しいんだもん。それに、はーさんだって笑っているじゃないか」
俺は可笑しくて笑った訳ではない。本田君の純真さに思わず口元が緩んだだけだ。馬鹿正直に言うと、紫呉がからかってきそうだから黙っていたが。
それにしても、建視が変身した姿に関する話題で笑ったのは久しぶりだ。俺が建視の正体を打ち明けた時の佳菜の反応を思い出す。
──建視君は盃に変身するの?
──そうだ。……気味が悪いと思うかもしれないが、建視は気にしているから怖がらないでやってほしい。
──気味が悪いなんて思わないよ。私は建視君を本当の弟みたいに思っているんだから。
実際に見てもそう思ってくれるだろうか、と不安を抱いてしまった。
建視が変身した姿は、正直に言って異形だ。俺達の母さんは盃になった建視を見た瞬間、悲鳴を上げて床に叩きつけたらしい。
錯乱した母さんが生まれたばかりの息子を害した話は、建視に聞かせられない。俺はそう判断して建視に言わなかったのだが、母さんの7回忌の法要の最中に母方の祖父がわざと口を滑らせた。
当時6歳だった建視は母さんの凶行を聞いても無反応だったが、聡い弟は自分の存在を望まない身内がいる事を感じ取ってしまっただろう。
建視を理解してやれる近親者は同じ物の怪憑きの俺だけだから、俺が弟を守ってやらなくてはと心に誓った。
佳菜が建視に忌避感を示したら、彼女と距離を置こうと思っていた。俺の暗い予想を良い意味で裏切った佳菜は、建視を受け入れようとしてくれた。
兄弟揃って物の怪憑きという重い事情を疎まず、どうすれば俺と建視が心穏やかな生活を送れるか真剣に前向きに考えてくれた。
佳菜や本田君のように純真な人間は、そうそういない。
佳菜という存在がいてくれただけで、俺は充分に倖せだと言える。これ以上の倖せは望まない。
それでも望むとしたら、建視は俺と同じ轍を踏まないでほしい。心から喜ぶ事を思い出した弟が昔のように、笑う事を忘れてしまわないようにひたすら願う。
△▼
別荘滞在2日目の午前中。建視は本田君達と湖に行くと言っていたので、俺はリビングのソファで紫呉から借りた本を読んでいたのだが、気付いたら寝入ってしまった。
騒がしい声で起こされたが。
「だからっ。おまえ、一体何しに来たんだっての!!」
「夾、大声出すなよ。兄さんが起きる。綾兄は由希と話をしに来たんだろ。2人で外に行って、兄弟水入らずの時間を過ごしてこいよ」
「勝手に決めるな……っ」
綾女が別荘に来たのか。道理で騒々しい訳だ。
それはそうと、俺の体に掛けられたブランケットは誰が持ってきてくれたのだろう。本田君か、建視か。
「由希っ。ボクは先日、とりさんから助言を受けてね。これからは強気な態度で、君との絆を深めていくよっ。これこそ最大の法なりっ」
「強気……ですか? つまり、どのような……?」
「それはだ! 由希はボクの弟であり、ボクは由希の兄であるっ。その事実の上で、こう宣言するのだっ。由希!!」
俺は体を起こして、読みかけの洋書の背で綾女の後頭部を軽く叩いた。
「あまり周りを困らせるなと言ってるだろう、綾女」
「おはよう、とりさんっ」
「はとりさん……っ。起きてしまわれましたか……」
気遣ってくれる本田君に落ち度は無いが、あの煩さの前で寝ていられる訳がない。
「悪かったねぇ、はーさん。起こしちゃってっ」
「静かにしていようとは思っていたのだけれどねっ」
あー、煩い。
俺は右手で顔を覆いながら、「で? おまえ、何でココにいるんだ?」と綾女に問いかけた。
「本家に行ったらとりさんとケンシロウは皆と一緒に別荘に行ったと、お手伝いさん(53歳)から聞いたので、ならばボクもご一緒したくて出向した次第さ。無論、車で快適無敵っ」
綾女が素直に答えた事に納得がいかないのか、由希と夾は物言いたげな顔をしていた。
再び口論が始まりそうな気配を感じたので、俺は「建視」と呼びかける。俺が言いたい事を察したのか、建視は頷いてから「本田さん、湖に行こう」と声をかけた。
「由希っ、ケンシロウに先を越されているではないかっ。女性をエスコートするならば、もっとスマートにやらねばいけないよっ」
「エスコートを妨害したのはおまえだろ……っ」
「あっ、あ、あの、では、その、私達は湖に行かせて頂きますですっ」
由希が一触即発の状態になった事に気付いた本田君が、狼狽えながら発言した。
建視と本田君と由希と夾が出かけた後で、紫呉が意外そうな声を上げる。
「あーや、絶対『ついていく』って言うと思ったのに」
「何を言う、ぐれさん。ボクはそこまでヤボではないさっ。それに、久し振りに3人揃ってゆっくりできるのだしねっ。夜は長い……今日は眠らせないよ……ぐれさん」
「光栄だね……今夜君と同じ夢が見られるなんて、あーや」
アホなやり取りを交わした綾女と紫呉は「よし!!」と言いながら、互いにサムズアップをするお約束の流れをやっていた。
「おまえらも飽きないな……」
隣接したキッチンに入った俺は、呆れ混じりに言いながら茶の用意をする。
綾女と紫呉は中学生の頃から、あの馬鹿げたやり取りを行っている。誤解を招く言い回しのせいで、
本人達はその噂を否定する事なく、むしろ誤解に拍車をかけるような言動を取って、周囲を振り回して面白がる始末。
中学時代の俺は「誤解を招く言動は慎め」と注意したが、同い年の従弟2人は右から左に聞き流したので、ふざけたやり取りを止めさせる事は早々に諦めた。
「おおっと、とりさんっ。お茶ならば、このボクが淹れてあげるともっ。ぐれさんの分も特別に淹れて差し上げようっ」
「えっ、ホント? あーやのお茶飲むなんて何年振りだろ」
王様気質の綾女は、基本的に雑事はしない。天職として選んだ服飾関係の事柄では、率先して手を動かしているようだが。
「ありがたく思いたまえっ。このボクが淹れたお茶を飲めるのは、とりさん以外で2人だけなんだからねっ」
「2人のうち1人は
「ノンノン! 由希は淹れても飲んでくれないのさっ。悲しいねっ」
綾女が自ら進んで茶を出す相手か。もしかするとその人物が切っ掛けで、綾女は由希に接する態度を変えたのかもしれないな。
「あーやのお茶を飲める人って誰だろ。他に思いつかないなぁ。ひょっとして、新しい彼女?」
「詮索はよせ。天気が良いから外に出て茶を飲もう」
俺がさり気なく話を逸らしたら、紫呉が不満そうに唇を尖らせた。いい歳した男が子供のような仕草をするな。見ていて寒気がする。
庭に面したウッドデッキには、木製のガーデンテーブルとガーデンチェアが設置されていた。各自席に着いた処で、綾女が口火を切る。
「そうだっ、
「え……あーやは最近、繭に会ったの?」
予想外だったのか、紫呉は素で驚いていた。
「ノンノン! ボクが最後に繭君に会ったのは、入学式の日だよっ」
「あーやは入学式の数日後に、僕の家に来たじゃないか。3日も僕の家にいたのに、なんで繭のメッセージを僕に伝えてくれなかったの? 僕の最愛のあーやが、僕に隠し事をするなんて……っ」
「泣かないで、僕の愛しいぐれさん……っ。出来ればとりさんが同席している時に、ぐれさんに伝えてほしいと繭君に頼まれたのだよっ」
俺が考えている事と同様の件が気になったのか、紫呉はふざけた小芝居を中断して「ちょっと待って」と言う。
「あーやは、はーさんの言う事しか聞かないんじゃないの?」
「ボクは、とりさん以外の民衆の声に耳を傾ける寛容さは持ち合わせているよっ。それに繭君は我が愛しの弟に道を指し示しつつ、女性教師というシチュエーションロマンまで与えたもう素晴らしき存在っ。よって便宜を与えないとねっ」
他人の事などお構いなしというスタンスを貫く綾女の口から、「便宜を与える」という言葉が出るとは。紫呉も驚いたように呆けている。
仰天する俺達を余所に、綾女は胸を張って白木の伝言を告げる。
「『あたしに電話をかければ済む程度の事で、年下相手に取引を持ちかけるな。大人げないにも程がある』だってさっ」
紫呉に取引を持ちかけられた事を白木に打ち明ける者は、建視しかいない。
綾女が隠し事をしたのではないかと責めた事から察するに、紫呉は建視との取引を隠蔽しようと考えていたな。俺が紫呉を睨みつけると、戌憑きの従弟は即座にホールドアップをする。
「誤解だよ、はーさん。僕が取引を持ちかけたんじゃなくて、けーくんが取引を持ちかけてきたんだからね!?」
「建視と取引を交わしたのは事実だろう。何を見返りに要求した?」
「僕は何も要求していないって。嘘だと思うなら、けーくんに聞いて確かめてよ」
後で建視から詳しい事情を聞いておくか。その際、紫呉と無闇に取引を交わすなと釘を刺しておこう。
「ケンシロウはぐれさんに取引を持ちかけて、何を得ようとしたんだいっ?」
「あーや、その話題はおしまいに……」
俺が視線で圧力をかけると、紫呉は「佳菜ちゃんの結婚式の写真だよ」と白状した。
予想はしていたが、矢張りか。建視が俺の事を思ってくれているのは解るが、危ない橋を渡るような真似はしないでほしい。
「なるほどっ。ケンシロウは副隊長に就任する前から、とりさんを倖せにするための活動を行っていたのだねっ」
「何の副隊長?」
「とりさんを倖せにし隊だよっ。隊長は勿論このボク、そしてぐれさんは参謀だっ。その悪知恵を存分に活用して、とりさんを世界一……否っ、宇宙一倖せな人にするための方策を練ってくれたまえっ」
「まるで僕が悪役参謀みたいな言い方だなーっ」
不服そうな顔をした紫呉は抗議してから、「でも、まぁ、僕に言えるのは」と話題を変える。
「今度こそ、一緒にいても寂しくならない新しい女性と出会えるといいよね。一緒にいる事が倖せにつながる女性とね」
それはかなり無茶な願いだな。
呪われた
俺は佳菜の記憶を隠蔽した日に、一生溶けない雪に囲まれて死んでも構わないと心に決めた。
佳菜と愛し合う倖せを味わえたのだから、違う女性と付き合おうとは思わない。
──僕が倖せになるのは難しいと思うけど……努力をしてみるから、兄さんもそうして
建視の言葉が脳裏を過った。
認めたくない事だが、建視が温かな倖せを掴むのは難しい。
先代の盃の付喪神憑きが引き起こした事件故に、建視は生まれた時から草摩一族に警戒され、疎まれている。
それに加え、残留思念を読む力を他勢力に奪われないようにするため、建視が慊人の側近になる事は決定事項になった。
建視が想いを寄せる
それでも俺にとっての倖せは、倖せになった弟の姿を見届ける事だから。建視が恋した女性と良好な関係を築けるように、できる限り支援してやりたい。
その日の夜は、綾女のリクエストで手巻き寿司になった。手巻き寿司を食べるのは久しぶりだな。
何年も前に俺と建視と
「由希が作った手巻き寿司は、前衛芸術みたいだな」
建視はそう言った後、「……紅葉が作った手巻き寿司よりはマシだけど」と付け加えた。やめろ、思い出させるな。飯がまずくなる。
「うるさいな……っ。初めて作ったんだから仕方ないだろ」
「練習したって上手く作れねぇよ。クソ鼠はド級の不器用だからな」
「知ったかぶりするバカ猫には言われたくない」
「はんっ。負け惜しみにしか聞こえねぇな」
どうやら夾は紫呉の嘘を信じてしまったようだ。恐らく本田君も……。紫呉の罪状がまた1つ増えたな。
「案ずるな、由希っ。ボクが由希の分の手巻き寿司を作って進ぜようっ」
綾女が意気揚々と手伝いを名乗り出たが、由希は迷う事なく「断る」と切って捨てた。
家族に顧みられなかった由希の綾女に対する態度は素っ気ないが、反応を返さないよりは良いと前向きに受け止めるべきだろう。
「あ、あのっ。私が由希君の分を作りますよ」
「……ありがとう、本田さん」
「なっさけねーの」
「そんな事言っているけど、夾君も透君に手巻き寿司を作ってもらいたいんでしょ」
「紫呉、てめぇ! ふざけた事言ってんじゃねぇぞ!」
全くだと心の中で同意していたら、綾女がこっちを見て「おやっ」と声を上げる。
「とりさんのグラスが空いているねっ。ビールをもう1杯飲みたまえっ」
「あっ! 僕がお酌をしようと思っていたのに……っ」
綾女と建視はどちらが先に酌をするかを巡って、じゃんけんを始めた。
「はーさん、モテモテだねぇ」
「紫呉、もう酔っているのか」
「僕はお酒は飲んでも飲まれませんっ」
綾女がいたせいか、今夜の夕食は一際賑やかだった。
由希と夾は綾女のテンションについていけなくて疲れ果てていたが、それも含めて忘れがたい思い出になるだろう。
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20「嫌われたくなかったんですよ」
ゴールデンウィークの最終日は、朝から雨が降っていた。
僕は
青い印のついた良いお化けのコマと、赤い印のついた悪いお化けのコマを、ルールに則って盤上で動かして遊ぶ。チェスよりルールは簡単で難しくないけど、相手に揺さぶりをかける盤外戦術が物を言う面白いゲームだ。
「そういや紅葉、最近ヴァイオリンの練習をしてないな」
「うん。ずっとついていた先生のトコもやめちゃったから」
あっさりと告げられた言葉に驚いて、「は?」と間抜けな声を出してしまう。
紅葉のヴァイオリンの腕前はただの習い事の域を超えており、有名な指導者の先生にプロの道を目指すように何度も勧められたらしい。
大勢の人が集まるコンクール会場で、兎に変身してしまうと隠蔽しきれないという理由で、紅葉はプロになるための登竜門に挑む事さえできないけど。それでも紅葉は腐らず、ヴァイオリンを楽しく弾いていたはずだ。
「……なんで辞めたんだ?」
「モモも同じ先生について、ヴァイオリンを習い始めたんだ。だからパパは、ボクにヴァイオリンをやめてほしいんだと思う……本音は」
紅葉と対面したモモちゃんが「紅葉とママは似ているね」と言い出して、それを紅葉の母親のマルグリットおばさんが聞いたらフラッシュバックを引き起こして、隠蔽術に綻びが生じるんじゃないか。
聡嗣おじさんはそう考え、妻が再び錯乱状態に陥る事態を恐れているのだろう。
僕からしてみれば、慎重になりすぎているように思える。兄さんがマルグリットおばさんに隠蔽術の重ねがけを厳重に施したから、彼女が卯憑きの息子を思い出す事はない。
大体モモちゃんと紅葉の接近を嫌がるなら、モモちゃんに他のヴァイオリン指導者を勧めればいい話だろう。
紅葉はヴァイオリン弾きになる夢を叶えるため、小さい頃から努力してきたんだぞ。物の怪憑きである限り叶う事がない夢だけど、それでも諦めずに練習を重ねていたのに。
聡嗣おじさんを非難する言葉が出そうになったけど、ぐっと堪えた。
家族の事情は親子や兄弟でさえ、把握しきれない事柄がある。不用意な発言をして、紅葉を傷つけるような事はしたくない。
「ヴァイオリンはこっそり続けろよ。
「そうかな? トールはどんな曲が好きなんだろ」
「別荘に向かうバスの中でカラオケをした時、本田さんは『翼をく○さい』と『君を○せて』と『見上げて○らん夜の星を』を歌っていたよ」
「いいなぁ、ボクもトールと一緒に歌いた……」
紅葉の言葉を遮るように、僕の携帯電話から着信音が鳴り響いた。画面には“
『建ちゃん、大変っ! さっちゃんが……さっちゃんがいなくなっちゃったの!』
動揺する楽羅姉の話では、
楽羅姉との通話を終えた僕は紅葉に向かって、杞紗が家出して行方不明になったと話す。
紅葉は驚愕と悲痛を浮かべたが、すぐに顔を引き締めて「ボクもキサを捜すよ!」と言った。
「皆で手分けして捜そう。紅葉は春に連絡を取ってくれ。春は迷子になる可能性があるから、携帯電話を必ず持って出るように釘を刺して」
「わかった」
僕は
『何の用っ!? 今は悠長に話をしている場合じゃないんだけど!?』
「杞紗が家出したんだろ? 僕達も捜すから、杞紗が行きそうな場所を教えてくれ」
杞紗の名前を聞いて頭が冷えたのか。燈路は打って変わって弱々しい声で、心当たりのある場所を次々と挙げていった。
『……建兄に頼みがある』
「何だ?」
『杞紗が外で変身しちゃってその瞬間を誰かに見られたら、杞紗は絶対に傷つく……っ。杞紗がこれ以上傷つくのは、嫌なんだ。杞紗が変身する処を誰かに見られた場合、杞紗の記憶も隠蔽してってとり兄に頼んでよ……』
燈路の必死な懇願は、聞いている僕の胸を痛切に抉った。
「……隠蔽術を行使するか否かの決定権は、
燈路の告白を聞いた慊人は杞紗に対する嫌悪を強めたから、僕が慊人に頼み込んでも杞紗の辛い記憶を隠蔽する許可は出さない。
僕は任務で読み取った残留思念を抱えきれず、兄さんに隠蔽術を施してもらっているのに。罪悪感が心に重くのしかかった。
『そんな……っ。それじゃ杞紗は、杞紗は……っ』
「燈路、落ち着け。最悪の事態が起きる前に、杞紗を捜し出すんだ」
『落ち着いてなんかいられないよっ! 建兄は慊人に気に入られているんでしょ? 杞紗を気にかけてくれているなら、慊人に頼んでよ!』
杞紗のために頼み事をしたら、また慊人が怒って杞紗に暴力を振るう可能性がある。燈路を落ち着かせるべく、嘘も方便で「頼んでみる」と答えた方がいいのか。
だけど、危惧している事態が本当に起きてしまったら、慊人への依頼を実行に移さなくてはいけない。
僕が迷っていると、燈路は何も言わずに電話を切った。燈路の中で、僕の株が大暴落したに違いない。
「ケン、ダイジョーブ?」
春との連絡を終えた紅葉が、気遣わしげな視線を送ってきた。
「僕は平気だけど、燈路がかなり切羽詰まっている。早く杞紗を見つけないと……」
まずは捜索場所の分担だ。
紅葉は草摩の子供達が遊び場にしている高台の空き地。春は杞紗のお気に入りのカフェ。楽羅姉は杞紗がよく買い物に行くデパート。
僕は草摩の専属ドライバーさんが運転する車に乗って、杞紗と燈路が通っていた図書館へと向かう。
館内とその周辺をくまなく捜したが杞紗の姿は見当たらず、杞紗の変身後の姿である虎の幼獣も発見できなかった。
次に向かったのは植物園だ。ここは小学生だった頃の杞紗が、仲良くしていた女友達と初めて遊びに行った思い出の場所らしい。
「すみません。ちょっとお尋ねしたい事があるのですが。今日、こういう子が入園しませんでしたか?」
僕はバッグから取り出した杞紗の写真を掲げて、植物園の入口の受付係に尋ねた。
受付係は首を横に振ってから、「そういえば15分程前に、同じ女の子の写真を持った女性が入園なさいました」と言う。
「その女性も女の子を捜していらっしゃるようでしたが、何と言いますか……虚ろで危なっかしいご様子でした」
多分、杞紗の母親の
植物園の受付係が杞紗を見かけていないのに沙良おばさんが入園したのは、虎に変身した杞紗が入口以外の場所から侵入した可能性を考慮したからだろう。
ここの捜索は沙良おばさんに任せて、別の場所を捜した方が効率はいいのだが。受付係の言葉が気になったので、僕は入園料を払って園内の捜索を開始する。
小雨が降っていたけど園内は無人ではなく、傘をさしながら花や木々を眺める客の姿がぽつぽつと見受けられた。
杞紗の名前を叫びながら捜し回ると他の客の迷惑になるので、僕は観賞する振りをしながらツツジの茂みを覗き込んで虎の幼獣を捜した。
「――紗、どこにいるの?」
聞き覚えのある声が耳に届いた。そちらに向かうと、傘を片手に持った沙良おばさんがシャクヤクの茂みを掻き分けている。
園内の植物に触らないでください、と注意喚起する立て看板は見なかったが、乱暴に触るとまずいかもしれない。
「沙良おばさん、手を止めて」
「杞紗、いい加減出てきて。お出かけするのを嫌がったのに、なんで家出するの。なんでお母さんが作ったご飯を食べないの」
僕の呼びかけを無視した沙良おばさんは、独り言を呟きながら別のシャクヤクの茂みへと歩く。
「お母さんの事が嫌いなの? 十二支憑きとして産んだお母さんを恨んでいるの? ……私が悪いの? 杞紗がいじめられたのは、私のせいなの?」
自らの精神を削るような独白を聞いて、自分を責め続けて心を病んだ
ピリリリリ、と着信音が唐突に鳴り響いて我に返った。僕はバッグから携帯電話を取り出す。
「春、どうした?」
『杞紗を見つけた。今、杞紗と一緒に先生の家にいる……』
「そうか、良かった……ところで、なんでぐれ兄の家にいるんだ?」
『変身した杞紗が、
どうして本田さんが、杞紗に咬まれる羽目になったのか。疑問に思ったけど、変身したという件の方が気になった。
「異性にぶつかって変身したんじゃ……」
『騒ぎになっていなかったから、それはないと思う。単に弱っただけみたい』
それを聞いて僕は胸を撫で下ろす。
杞紗が更なる心の傷を負わなかった事への安堵が大きいけど、慊人に頼み込む事態にならずに済んで安心した気持ちもある。保身に走った自分に嫌悪感を抱いたが、それは脇に置いておく。
春との通話を終了した僕は、口を開きかけて躊躇った。危うい状態の沙良おばさんを、杞紗に対面させていいものか。
だけど、杞紗が見つかった事を実の親に伏せておく訳にはいかない。
「……沙良おばさん、杞紗が見つかりました」
さっきまで僕の言葉に反応しなかった沙良おばさんだが、杞紗の名前を聞くなり獲物を見つけた獣のような俊敏さでこちらに近づいてきた。
「杞紗はどこにいるの?」
「ぐれ兄の家です」
娘の居所を知った沙良おばさんは、迷いのない足取りで植物園の出口へと走る。
僕と沙良おばさんは別々の車に乗って、ぐれ兄の家に向かった。
ぐれ兄の家に到着した頃には雨が止んでいたので、僕はバッグだけ持って車から降りた。
「杞紗さん!」
家の裏手から本田さんの声が聞こえた。玄関に足を向けていた沙良おばさんは、声が聞こえた方向へと進路を変える。
成り行きによっては、杞紗と沙良おばさんを引き離す必要があるかもしれない。そう考えた僕は沙良おばさんの後を追いかける。
「とりあえず、お家の中に入りませんか? 杞紗さん……っ」
本田さんは、虎に変身した杞紗に右手を咬まれながら話しかけていた。その光景を見た僕は、指を咬まれながら迷子のキツネリスを宥めた風の谷の少女を連想してしまう。
「杞紗……お母さんよ。ねぇ、あなた何やっているの? 周りに迷惑ばっかりかけて何しているの? 何を考えているの? お母さん困らせて、楽しい?」
物置の陰に隠れる杞紗の前にしゃがみ込んだ沙良おばさんは、一方的に杞紗を問い詰めた。
「沙良おばさん、話は後にして杞紗の咬みつき攻撃をやめさせよう。本田さんが怪我している」
「あ、
僕は本田さんに向かって軽く手を挙げてから、後ろを振り返る。誰か近づいてきていると思ったら
「なんでイジメにあっていた事言わなかったの? なんで家出なんかするの? どうして何も言わないの。……もう、つかれた……もう、イヤ……」
顔から感情が抜け落ちた沙良おばさんは、全てを投げ出す言葉を零した。色々と限界を迎えてしまっている沙良おばさんを咎めても、事態は悪化する一方だ。
杞紗を連れて、この場から離れよう。距離を置いて冷却期間を設ければ、冷静に話し合いができるかもしれない。
「言えないです……『イジメられている』なんて、やっぱり言いづらいです。私も……言えなかったです……でも、しばらく経って知られてしまって」
杞紗の心の傷に触れそうな話だけど、本田さんが杞紗を傷つけるような事を言うとは思えなかったので、僕も大人しく彼女の話に耳を傾ける。
「何やら私はバカみたいに謝ってしまって、何かとても情けなくて、イジメられるような自分が情けなく思えてきて。それをお母さんに知られたのが、恥ずかしくて。もし、そんな自分が嫌われたらどうしようと考えたら、怖くて」
本田さんの話を聞いていたら、記憶の奥底に仕舞われていた出来事が思い浮かんだ。
盃の付喪神憑きを忌避する草摩の「中」の人達は、同情に見せかけた蔑みの目を兄さんに向ける。
僕だけが批判されるなら耐えられるけど、兄さんが貶められるのは我慢できない。悔しさと罪悪感に駆られた僕は、兄さんに謝った事がある。
兄さんは僕の頭を撫でながら、「建視は何も悪くない」と言ってくれた。優しい兄さんに償うどころか、慰めてもらっている自分が情けなくて仕方なかった。
「だから、お母さんに『大丈夫だよ』って言ってもらえた時、とても安心したです。『恥ずかしくなんてない』って言ってもらえて、とても安心してまた泣いてしまったです」
話しながら本田さんが浮かべる柔らかい笑みは、杞紗を安心させるための配慮だろう。虎の幼獣形態の杞紗は、今も本田さんの手を咬んでいるのに。
自分の痛みを後回しにしてでも他者のために心を砕く本田さんの姿勢は、兄さんや
「杞紗さんも……同じ気持ちなのかもです。……嫌われたくなかったんですよ。お母さんが大好きだから、言えなかったんですよ……」
次の瞬間、小規模な爆発音と煙が生じて杞紗が少女の姿に戻る。一糸まとわぬ姿だったので、僕は着ていたジャケットを脱いで杞紗に掛けた。
琥珀色の大きな瞳から涙を溢れさせた杞紗は、自分が咬んだ手にそっと触れてから本田さんに縋りつく。
心身共に疲れ切って感情が摩耗していた沙良おばさんは、無言で泣いていた。
問題が全て解決した訳じゃないけど、最悪の事態は免れたようだ。安堵した僕は胸を撫で下ろした。
本田さんから服を借りて着替えた杞紗は、本田さんから離れようとしなかった。
沙良おばさんは娘を無理やり連れて帰る事はせず、しばらく杞紗を居候させてほしいとぐれ兄に頼み込んだらしい。
ぐれ兄は従妹の受け入れを快諾したので、杞紗も
紅葉の父親の名前は独自設定です。
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21「行ってきます……」
「いつまでも、シーちゃん家にいる訳にはいかない……んだよね。これからどうするのかなぁ、キサ……」
僕と紅葉と春と
「今頃考えてんじゃないの。根がマジメな分、考えなくてもいい事も考えそうだけど……だからこそ、あそこまで自分を追い詰めちゃったんだろうけど」
春の言葉を受けて、由希が「あと……母親もね」と呟いた。
何気なく紅葉に視線を移すと、
僕が話題を変えようとした矢先、本田さんが「紅葉君」と呼びかける。
「杞紗さんのお母さんは大丈夫ですよ。昨日、お電話を頂いたのですよ……」
「……それってキサのMutti(ママ)、キサのこと想っているって事……だよね? じゃなきゃ、デンワなんてしない……よね」
「はいっ」
「……っ、そうだよね!」
自身の事のように喜ぶ卯憑きの従弟を見て、紅葉の心はまっすぐだと改めて思った。
いつだったか僕は、紅葉に直接聞いた事がある。自分の子供を愛さなかった母親をどうして愛せるんだ、と。
今にして思えば無神経な質問だったけど、紅葉は嫌な顔をせずに答えてくれた。
――ボクは、ちゃんと思い出を背負って生きていきたいから。たとえば、それが悲しい思い出でも。ボクを痛めつけるだけの思い出でも。いっそ、忘れたいって願いたくなる思い出でも。
兄さんは紅葉の母親のマルグリットおばさんに隠蔽術を施す際、「本当に忘れてしまっていいんですか。後悔しないんですか」と確認を取った。
歪んだ泣き笑いを浮かべたマルグリットおばさんは、「私の人生最大の後悔は、あの『生き物』を自分の体から出した事よ」と言い放ったのだ。
兄さんとマルグリットおばさんの会話をこっそり立ち聞きしていた僕は、その時近くにいた幼い紅葉の澄んだ瞳が絶望に沈んでいた事を知っている。
僕は実の母親から惨い言葉を投げつけられた事はないから、想像するしかないけど。紅葉と同じ経験をしたら母親の無慈悲な発言のみならず、母親の存在自体も忘れてしまいたいと願うだろう。
けれど、紅葉は忘れなかった。自分を切り捨てた恨みは忘れない、といった負の意思は欠片もない。
母親に愛されなかった残酷な現実を背負っていくと、前向きに決意していた。
――ちゃんと背負って逃げないでがんばれば、がんばっていればいつか……いつかそんな思い出に負けないボクになれるって、信じているから。信じて……いたいから。
辛い思い出を投げ出さずに背負って前に進む紅葉は、とても眩しく思える。
僕は母さんに対する罪悪感や母方の祖父母からの糾弾に耐えかねて、母さんへの情を切り捨ててしまったから。
「……それにしても何が『理由』で、イジメられているのかな」
由希が疑問を投げかけると、春はそっぽを向いて「……なんだったっけ」と呟いた。
春は細かい事にこだわらない奴だから、外的要因とか気にしないんだよな。そんな事を思いながら、僕は説明するために口を開く。
「
僕も小学生の頃、柄の悪い上級生に何度か絡まれた事がある。
相手にしなかったのが気に食わなかったのか、僕の私物を隠すようになったから、残留思念を読む力を使って犯人を特定して弱みを握って、二度とふざけた真似ができないように釘を刺しておいた。
任務や風呂やトイレ以外で手袋を外すなっていう、
勝手に力を使用した事がバレたら厳罰を食らうけど、バレなかったから無問題さ!
「俺も相当言われてきた」
「春はそう言ってくる奴を、端からブラックになって殴り飛ばしていたじゃないか……」
「
溜息を吐いた春の言葉を聞いて、本田さんが「え゛!?」と驚きの声を上げる。
小学・中学時代の夾は今より尖っていたけど、髪や目の色をちょっとからかわれた程度じゃキレたりしない。
当時の夾がブチ切れたのは、考えの足りない同級生に「三者面談の時に来ていたおまえの保護者は、オレンジ色の髪じゃなかったな。おまえって貰われっ子じゃねぇの?」とか言われたせいだ。
「でもね……キサもがんばったんだって。この色は仕方ないんだよって。そしたら今度は皆から、無視されるようになっちゃったんだって。でね。そうやって無視するのに、キサが何か言うとクスクス笑うんだって」
杞紗が通う女子中はお嬢様学校だからか、私物を隠すとか机に落書きするといった低俗な嫌がらせはしなかったようだが、物証が残らない陰湿な嫌がらせを仕掛けたようだ。
「ボク……クラスでそういうのってされた事ないの。だから想像するしかできないけど、想像してみたの。ボクが何か言う度にクスクス笑われたら、どんな気持ちになるだろうって。それは……それはとっても……かなしい気持ちなの……」
杞紗を害した輩に対する怒りや敵意より、杞紗の悲しみに同調した紅葉と本田さんは泣きだしてしまった。僕はハンカチを取り出して、紅葉の頬を伝う涙を拭く。
由希は自分のハンカチを本田さんに貸そうとしたけど、本田さんは自分のハンカチで顔を拭っている。僕が生温かい視線で『ドンマイ』と伝えたら、由希に睨まれちゃったよ。
その時、チャイムの音が響いた。
「由希。今日、俺、先生ン家行く。杞紗見たいし、渡すモンもあるし」
春の言葉を聞いた由希が、「渡す物?」と言って首を傾げた。
「手紙。杞紗の担任からのヤツ来てた。多分ヘドが出る内容……」
杞紗がクラスメイト全員に無視されていた事に、気付けなかった担任が寄越した手紙か。
「その手紙、杞紗に見せない方がいいんじゃないか?」
僕が黒山羊さん方式を提案してみたら、春は「んー……」と考え込んだ。
「俺も見せない方がいいと思うけど、リン経由で渡してほしいって頼まれた手紙だから」
杞紗が通う女子中とリン姉が通う女子高は姉妹校だから、杞紗の担任は横の繋がりを利用したのだろう。
郵送で手紙を送る方法もあるのにそれをしなかったのは、杞紗の従姉であるリン姉に、自分は担任としてやれる事はやっていますよとアピールするためか?
担任の自己保身が透けて見える手紙を今すぐ握り潰してやりたいが、手紙の仲介を依頼されたリン姉の責任問題になりかねない。
自分の事しか考えてない大人の思惑に乗るのはリン姉も不本意だったろうけど、自分の手紙が杞紗に届かなかったと知った担任が不快感を抱いて、学業復帰した杞紗に非協力的な態度を取るかもしれないからな。
夕方5時頃。担任の手紙を杞紗に届けに行った春から、電話がかかってきた。
『杞紗がしゃべった……』
「本当か!? まさか担任の手紙が酷すぎて、悲鳴を上げたんじゃ……」
『手紙は予想以上のヘドだったけど、由希が杞紗の気持ちに寄り添った言葉をかけたんだ』
由希は自分も話さなくなった時があると、杞紗に打ち明けたのだろうか。
「由希の奴、変わったな。やっぱり本田さんの影響力は大きいな」
『……
「楽羅姉にも同じような事言われたよ」
中学時代の僕は、エン・ユキの特別顧問として由希の動向を注視していたけど、積極的に由希と関わろうとしなかった。
というか、由希が分厚い心の壁を作っていたから、親しくなりたいと思えなかったんだが。
『お互いをもっとよく知りあえば、もっと仲良くなれるかも……』
「僕と由希が、本当の意味で仲良くするのは無理だよ。由希は僕が本田さんの私物から残留思念を読むんじゃないかって、常に疑っているからね」
『建視は好き好んで残留思念を読んでいる訳じゃないって、由希なら解ってくれるよ』
僕の心情を由希に理解してほしいと思わないけど、春は仲良くなってほしいと望んでいるようだから、余計な事は言わないでおこう。
その日の夜の11時半過ぎ、ぐれ兄の家に居候していた杞紗が
『キサ、明日からガッコーに行くって!』
「えっ? 急すぎないか?」
『心配なら、ケンもキサの見送りに行こうよ!』
見送りには行きたいけど、気掛かりな事があるんだよな。
僕はここ最近、
燈路が杞紗の見送りに行くなら、僕は遠慮した方がいいかも。
「燈路も見送りに行くのか?」
『……声をかけたけど、ヒロは行かないって』
紅葉の落胆した声を聞いて、僕は溜息を吐く。
「杞紗の復学は、以前の距離感を取り戻す絶好のチャンスなのに。このまま遠ざかっていたら、杞紗は燈路に嫌われたと誤解するんじゃないか?」
『ボクもそう言ったけど、ヒロは聞く耳を持たないんだよ。……ヒロはキサの側で支えることができなかったから、キサに会うのがコワくなっちゃったのかも』
燈路が臆病になってしまう気持ちは解らなくもないけど、鳶に油揚げをさらわれる事態が起きないとも限らない。周囲の人間にせっつかれたら燈路は更に頑なになってしまいそうだし、どうすればいいものか。
翌日の朝。早めに家を出た僕と紅葉と春と杞紗は、途中で本田さんと合流して駅前まで一緒に歩いた。
杞紗も普段は送迎車に乗って学校に行くのだが、今日は見送り隊が付き添っているから、電車で通学する事にしたようだ。
「お姉ちゃん……お兄ちゃん達……お見送り、ありがとう……行ってきます……」
杞紗のか細い口調は、以前の朗らかさが無くなってしまった事を物語っていたけど。再び可愛らしい声で話してくれるようになったから、それで充分だ。
「杞紗さん、行ってらっしゃいです……っ!」
「キサっ、いってらっしゃーいっ!」
「いってら……」
「最後まで言えよ、春。まぁいいや。杞紗、行ってらっしゃい。何かあったら、すぐ僕に連絡するんだぞ」
杞紗を気に掛けていた由希が、見送りに来なかった事は意外だった。春の話では、由希は自分もやんなきゃいけない事があると言っていたらしい。
由希が杞紗より優先する事って何だろ。僕が抱いた疑問は、その日の内に解消された。
由希が次期生徒会長になる事が内定したという噂が流れ、由希がそれを肯定したのだ。
プリ・ユキのメンバーは歓喜に沸き、他の生徒達は「まともな生徒会長が誕生する」と一安心している。
まともではない現生徒会長こと
今度は引き継ぎという名目で、由希と話をしようと画策しているのかと思ったのだが。
「僕に何の用ですか、竹井会長」
非友好的な薄笑いを浮かべる僕に対し、竹井会長は若干引け腰になりながらも口を開く。
「君も既に聞き及んでいると思うが、由希君が生徒会長になる事を引き受けてくれたのだよ」
「よかったですね(棒読み)」
「ああ、全くもって喜ばしい!! 次期生徒会長に相応しい生徒は由希君しかいないと、僕が切々と訴えた熱意が由希君に通じたのだァ!!」
目立つのが嫌いな由希が生徒会長を引き受けたのは、いじめを仕掛けたクラスメイトに立ち向かう決意をした杞紗の影響を受けたからだろう。
竹井会長に追いかけ回されていた頃の由希は、うんざりした表情を隠さなかったのに、よくもまぁ自分に都合の良い解釈ができるものだ。
由希の信奉者は妄信的で独りよがりな者が多かったから、竹井会長も同じクチだろう。
「美麗かつ非凡な次期生徒会長が誕生した事を、喜んでばかりもいられない。由希君は完全無欠な逸材だが、彼の下につく者が怠惰で無能な者であったら、新しい生徒会は立ち行かなくなってしまうのだ……」
俯き加減で話していた竹井会長は勢いよく顔を上げて、「そこで、だ!!」と声を張り上げる。
近くを通りかかった男子生徒が、驚いてこっちを見た。なんか恥ずかしいな。廊下で話をするんじゃなかった。
「麗しき由希君と並んで立っても見劣りしない美貌を持ち、転入試験で全科目満点を叩き出す頭脳を誇り、転入して1週間足らずでファンクラブが発足した人気を博す草摩建視君に、由希君の右腕的存在となる副会長を務めてもらいたい!! 草摩建視君は中学時代に生徒会長を務めたと聞いているから、執務能力も問題なかろう!!」
生徒会役員に美貌って必要か? 外見の華やかさが受けて生徒会長になった綾兄という前例がいるから、否定しきれないけど。
それより気になるのは。
「僕の個人情報を調べたんですか?」
「ふっ……竹井家にも独自の調査部が存在するのだよ」
紅葉の制服に再び難癖をつけてきたら面倒だと思って竹井誠の個人情報を調べたら、竹井家は草摩家ほどではないが有名な資産家である事が判明した。
調査部云々は、竹井会長の妄言じゃないかもしれない。
草摩家は機密事項のセキュリティには特に力を入れているので、物の怪憑きに関する事柄は突き止めていないはずだ。
……さて、どうするかな。
兄さんは高校時代に副会長を務めていたから、副会長というポストには憧れがある。僕と由希が揃って生徒会に所属すれば、兄さん達の時代の再現みたいで愉快だ。
由希は不快に思いそうだけど。僕が生徒会に入ったら、由希は草摩の監視の目から逃れられないって悲観ぶりそうだ。
「申し訳ありませんが、お断りします」
「んなぁ!? なぜだい!? 由希君を側でサポートできる誰もが羨む役職なのだよ!?」
「僕は高校卒業後も由希と顔を合わせるので、由希を側でサポートする役職に魅力を感じません。やる気のある人に任せてください」
「高校卒業後も由希君と……っ。羨ましい……羨ましいぞぉーっ!!」
竹井会長は滂沱の涙を流しながら、雄叫びを上げている。これ以上付き合っていられなかったので、僕はそそくさと立ち去った。
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22「売られた電波は買う主義なの……」
中間試験の勉強計画表を渡すために
花島さんと話をしている子は、僕と同じクラスの
木之下さんの隣にいる子は、2年B組の
僕は綾兄のような王様キャラじゃないのに、なんでキングという呼称がついたのか。
気になったのでキン・ケンのメンバーに聞いてみたら、「怜悧と傲慢を兼ね揃えた美貌を持つ建視君は、王と崇めるに相応しい方ですから」という答えが返ってきた。
傲慢って……僕、そんなに偉そうにしていたかな。それはさておき。
木之下さんと八塩さんの後ろに立つ子は、1年生の
学年が違う山岸さんの事を知っていたのは、紅葉や春と同じ1年D組の生徒だからという訳ではなく。
にしても、花島さんが木之下さん達と話すなんて珍しいというより不穏だな。
クラスメイトの
本田さんの頭をサッカーのゴールポストにわざとぶつける凶行に及んだ事もあると聞いて、木之下さんは敵を排除するためなら手段を選ばない過激派だと認定した。
ちなみに本田さんに危害を加えた数分後、木之下さんは意味不明な言葉を突然喚き出して、1週間ほど学校を休んだらしい。木之下さんが発狂したのは、花島さんが仕返しに毒電波を浴びせたからだと噂されている。
そういう経緯があるせいか、木之下さんは今まで花島さんに近づこうとしなかったのに、今日は自ら話しかけている。
関係の改善を試みているならいいけど、木之下さん達の胡散臭いほどにこやかな笑顔を見る限り、そんな感じじゃなさそうだ。
とか考えている内に、花島さんと木之下さん達の会話が終わったらしい。僕は本田さんや
「花島さん、木之下さん達に何か変な事言われなかった?」
「次の学校新聞で電波の特集を組みたいから、取材も兼ねて私の家に行っていいか……って」
「そんな特集してどうすんだ?」
魚谷さんの問いかけに、花島さんは小首を傾げて「さあ……」と応じる。
「でも、なんだか……よからぬ電波をヒシヒシと感じたわ……」
不安で顔を曇らせた本田さんは、「え……っ」と声を上げた。
木之下さん達は花島家に上がり込んで、花島さんを脅すネタを捜そうと目論んでいるかもしれない。そう予測した僕は花島さんに忠告する。
「木之下さんはプリ・ユキの中でも過激派らしいから、家に上げるのは止めた方が良いよ」
「私は売られた電波は買う主義なの……」
「よっしゃ、そうこなきゃな! 胡散臭くて面白そうだっ。バイト帰りにでも寄っていいか?」
「僕も花島さんの家に行くよ」
「やめとけ。女同士の喧嘩に男が口を挟むと悪化するンだよ」
魚谷さんに言われて、それもそうかと思い直した。僕が駆けつけたら、八塩さんの嫉妬心を煽って火に油を注ぐ結果になりかねない。
一部のファンが暴走する事は、エン・ユキの特別顧問時代に思い知っていたから、僕のファンには前もって釘を刺しておいたんだけどな。
僕は自分のファンクラブの存在を知った4月中旬の時点で、キン・ケンの各学年の代表と話し合いの場を設けて、僕と親しくしている人達を攻撃しないでほしいと頼んだのに。
花島さんの許可を得て彼女の家に押しかけるのは攻撃に該当しないと、八塩さんは強引に解釈したのかもしれない。
“攻撃”ではなく“必要以上の干渉”に、禁止事項を変更するべきか。考えを巡らす僕を余所に、花島さんは本田さんに話しかけている。
「
「あっ、すみません。あの、今日も
申し訳なさそうに本田さんが告げると、花島さんは心なしか寂しそうに笑って「そう……」と答えた。
忙しい合間を縫って、本田さんは杞紗と会ってくれている。
本田さんは大切な親友のピンチに駆けつけたいと思っているけど、杞紗を蔑ろにできないと悩んでいるようだ。
お次は
「花島さん、恵君が早めに家に帰るって」
伝言を聞いた花島さんは、「そう……」と答えた。
ちなみに花島さんは、機械全般の操作が苦手で携帯電話を持っていないらしい。
「木之下の奴、恵の呪いを喰らうんじゃね?」
恵君に送ったメールに木之下さん達のフルネームを記しておいたから、彼女達は高い確率で呪われると思う。
次の休み時間。僕は3年C組に赴いて、キン・ケンの会長兼3年代表の
僕が呼んだのは梅垣先輩だけなのだが、同じくキン・ケンに所属する
生徒指導室に入った僕は、八塩さんがプリ・ユキのメンバーとつるんで、僕の親しい人を攻撃しようとしている事を伝えた。
それを聞いた梅垣先輩と錦木先輩は、寝耳に水とばかりに驚いている。2つのファンクラブが結託して、花島さんを排除しようと動いた訳ではなさそうだ。
梅垣先輩が八塩さんに厳重注意してくれるようなので、そちらは任せるとして。
プリ・ユキのメンバーはどうするかな。
木之下さんを呼び出して、「花島さんと本田さんへの嫌がらせをやめなければ、君達の所業を由希に言いつける」と脅してやるか。
でも現段階では、プリ・ユキのメンバーが花島さんに嫌がらせをしたという明確な証拠はない。脅迫という強硬策は最終手段として取っておいて、まずは駄目元で由希に頼んでみよう。
「由希のファンクラブのメンバーが嫉妬に駆られて、花島さんの家に押しかけようとしているんだ。やめるように由希から言ってくれないか?」
「何を馬鹿な事を言っているんだ。俺のファンクラブなんて存在する訳ないだろ」
「はぁ……天然無自覚王子サマは使えないな」
「おまえに使われて堪るか」
プンプン怒っている由希はほっといて。杞紗が学校帰りに、海原高校に寄る事を本田さんに伝えておこう。
「
感謝で涙ぐんだ本田さんは、頭を下げてお礼を言う。そんな大げさな、と思っていたら視線を感じた。
は、花島さんが僕を睨んでいる……!
僕が本田さんに、無茶な要求をしたとか思われたのかもしれない。誤解を解こうとしたのだが、花島さんは僕を避けてさっさと帰ってしまった。
まさかとは思うけど、嫌われた……?
ぐらりと目眩がして、突然体に力が入らなくなって床に座り込んでしまう。
うわぁ。自分でも引くほど落ち込んでいるな。ここまで気落ちしたのは、僕が初めて恋した人が
恋に落ちる前に、利津兄だと気付くだろうって? 女装のじの字さえまだ知らなかった幼気な僕は、従兄がフリッフリなワンピースを着るなんて夢にも思わなかったんだよ!
「けんけん、なんで教室の隅っこで体育座りしているんだ?」
クラスメイトの
「……ハートがブロークンして落ち込んでいるんだよ。すけっちが笑えるギャグを言ってくれたら、立ち直れるかも」
「ヘコんでいる時も無茶振りするんだね。よーし。そんじゃ、とっておきのギャグを披露しよう。校長先生、絶好調! 先生怒って、先制攻撃! 生徒も負けずに正当b」
「ありがとう、ちょっと元気出た」
「最後まで聞いてよ!」
その日の夕方、恵君からメールが送られてきた。
木之下さんと山岸さん、それにプリ・ユキの会長である3年代表の
彼女達は案の定というか、日記や写真やポエムといった花島さんの弱点になりそうなものを探し出して盗もうとしていたようだ。
犯罪に手を染める事も辞さないプリ・ユキのメンバーを、追い出すのに手間取ったのではと思ったけど、僕の取り越し苦労だった。
名前だけで人を呪う事ができると話した恵君に名を呼ばれた瞬間、彼女達は猛ダッシュで花島家から逃げ出したらしい。
僕は皆川先輩の名前は恵君に教えていなかったけど、彼女達が互いに名前を呼び合っているのを恵君が偶然聞いて知ったようだ。
恵君の報告メールの文末に、こんな事が記してあった。
『南さんと美緒さんの名前を俺に教えて、俺が本当に呪いをかけられるかどうか確かめようとしたの?』
やだなぁ。木之下さん達を実験動物代わりにするなんて、そんな酷い事スルワケナイヨー。
それはさておき、プリ・ユキは当分の間は花島さんや本田さんにちょっかいを出さないと思うけど、喉元過ぎれば何とやらでまた嫌がらせをするかもしれない。警戒は怠らないようにしよう。
「昨日は悪かったわ……」
翌日、花島さんが僕に謝ってきた。
「え? なんで花島さんが謝るの?」
「透君が貴方に頭を下げるのを見て、睨んでしまって……」
「あぁ、あの時の。そんな気にしなくていいのに」
花島さんに嫌われたんじゃないかと思い悩んで昨夜は眠れなくて、仔羊形態の
すると、花島さんは憂うように目を伏せる。
「透君が草摩の人達にとられてしまったようで、少しさびしかったの……それで貴方に八つ当たりしたのよ……」
しおらしい花島さんって激可愛い……! 僕が邪な考えを抱いている事を電波で読んだのか、花島さんは冷ややかな視線を投げかけてくる。
兄さん、どうしよう。新たな性癖に目覚めそうだ。
▼△
もう7日寝ると中間試験。という訳で、僕は家庭教師として花島さんの家にお邪魔している。
本田さんはバイトで、由希は生徒会の引き継ぎがあるから、僕と花島さんは2人きりで勉強会をするはずだったけど、世の中そんなに甘くない。
「建視さん……問題解けたよ……」
リビングの椅子に座った恵君は、僕が用意した数学のプリントを提出した。
自分で立てた勉強計画に沿って復習している恵君に、僕が勉強を教える必要はないと思うけど。姉を守る守護神と化した恵君と交流を持つため、課題を出しているのだ。
恵君は僕の下心を見抜いた上で、様々な応用問題を僕に出させる事で今から高校入試対策を行っているようだ。実に抜け目がない。
「花島さん、解らない処があったら遠慮なく聞いてね」
「…………」
花島さんが勉強に集中してくれるのは家庭教師として嬉しいけど、無視されるのは悲しいよぅ。
以前のようにおやつを用意できれば、それが会話の取っ掛かりになったんだけど。焼肉パーティーの折に花島さんのお父様に、「おやつはこちらで用意するよ」と言われてしまったのだ。
ぐれ兄の家で、由希や本田さんや花島さんと一緒に勉強会をする日。
僕がここぞとばかりに大量のお菓子を持参したら、呆れ顔になった由希に「花島さんの親御さんに言いつけるぞ」と脅された。
「由希……てめえの血はなに色だーっ!」
「馬鹿な事言ってないで、花島さんに勉強を教えろ」
花島さんは自力で問題を解いちゃうから、教えたくても教えられないんだよ! 解った上で言っているだろ、このネズ公!
そんなこんなで、中間試験がスタート。花島さんに勉強を教えるために万遍なく復習したから、僕は全ての教科で高得点を取れたと感じた。
「全教科で1つでも赤点を取った奴は、日曜日追試だ!」
テストの返却日。
花島さんは普段通りの無表情なので、赤点を取ったのか取らなかったのか見た目では判断できない。反対に、本田さんは見るからに落ち込んでいる。
「本田さん……? もしかして追試……なの?」
繭子先生が教室から立ち去った後、由希が躊躇いがちに聞いた。
目に涙を浮かべた本田さんは、フェードアウトするように由希から遠ざかり、教室の床に正座して項垂れる。
「申し訳ありません……!!」
「そんなに気にしちゃダメだよ。誰にだって調子が悪い時はあるんだから」
全力で謝罪する本田さんに、由希は戸惑いながらも優しく声をかけた。
「赤点取ったっつっても1つだろ? だーい丈夫、落ち込む事ねぇって!」
明るく笑い飛ばした魚谷さんに続いて、僕も本田さんに慰めの言葉をかける。
「追試は本試験より簡単な問題が出ると思うから、気楽に構えた方がいいよ」
「そう……楽勝よ……」
花島さんの励ましの言葉は実感がこもっていた。
まさかとは思うけど、追試の方が楽だからわざと赤点取っていた訳じゃないよね?!
本田さんが席を外した時に確認を取ったら、花島さんは今回も赤点を取らなかったらしい。
花島さんは残念そうに「透君と一緒に追試を受けたかったわ……」と言ったので、僕はよく頑張ったねと労う事ができなかった。
その日の夕方、
『ケン、大変なのっ! トールがカゼをひいて熱を出しちゃったの!』
「えっ? 学校で本田さんと話した時は、体調が悪そうに見えなかったのに……紅葉は誰から、本田さんが風邪をひいたって聞いたんだ?」
紅葉は『シーちゃんが教えてくれたのよっ』と答えた。
38度2分の高熱を出した本田さんが今日バイトをするのは無理だから、本田さんのバイト先と繋がりがある紅葉に連絡が行ったようだ。
『だから、今日はボクがトールの代わりにバイトするのっ』
箱入り坊ちゃんの紅葉に清掃ができるとは思えなかったが、本田さんのバイト先は紅葉の父親が所有する自社ビルだから大丈夫だろう。
「兄さん、本田さんが熱を出して寝込んでいるんだ。時間の都合がついたら、本田さんを診察してほしいんだけど」
夕食時に僕が頼むと、兄さんは微笑ましそうに目元を緩める。
「明日、
翌日、僕達は本田さんのお見舞いに行った。
白衣を着た兄さんや紅葉や杞紗と一緒に、僕も本田さんの部屋にお邪魔する。
本田さんは必要最低限の私物しか持ってないのか、インテリア雑貨やテレビや音楽プレーヤーなどは室内に見当たらなかった。
棚の上に置いてあるやや古びた青い帽子は、幼い男の子が使用するようなものだ。本田さんが買い求めたものとは思えないから、貰い物だろう。
帽子の近くには、写真立てと湯呑みが置いてある。写真立てに入っていた写真に写った人物は、オレンジ色に染めたショートヘアの活発そうな30代の女性だ。あの
写真の人物もだけど、ピンクのフリルで飾られた大きなベッドがすっごい気になる。
あれって、ぐれ兄の趣味で購入した寝具だろうな。兄さんも本田さんが横たわっているベッドを見て、一瞬硬直したから間違いない。
「トールっ、具合はどう?」
「ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありません……。ゆっくり寝かせて頂いたおかげで、熱は少し下がりました……」
「本田さんは最近頑張りすぎちゃったから、疲れが溜まっていたんだよ。無理をせずに休んだ方がいいよ」
本田さんはぐれ兄の家で家事を行いながら学校に通い、ビル清掃のバイトで学費や生活費を稼ぎつつ、中間テストの試験勉強に励む合間を縫って、杞紗と会う時間を作ってくれていた。
ここ最近の本田さんの生活を振り返って改めて驚愕するけど、普通の女子高生の仕事量じゃない。体調を崩す前に気付いてあげられたらよかった。
「トールっ。フルーツを持ってきたから、アトで食べてねっ」
「ゼリーとスポーツドリンクも……持ってきたよ……」
「本田さん、これ。春と
春と楽羅姉から預かったお見舞いの品を、本田さんに渡す。
お見舞いの品を受け取った本田さんは涙ぐんで、「ありがとうございます……っ」とお礼を述べた。
「疲労が原因なら、疲労回復を促すビタミン注射を打つか」
眼鏡をかけた兄さんはそう言って、往診鞄の中から注射に必要な道具を取り出す。本田さんが横たわるベッドの上に身を乗り出した紅葉が、不安そうな声を上げる。
「間違えないでね、ハリィっ。トールが痛がったら、すぐやめてねっ」
「大丈夫ですよ。全然痛くないですよ」
ベッドの上で上体を起こした本田さんは、注射を受けながら笑って答えた。
「でも、シーちゃんは痛いって言ってたよ! すごくすごく痛いんだって! 何回も何回も打ち間違えるんだって!」
「あれはワザとやったんだ」
兄さんがさらっと暴露すると、本田さんの部屋の入口でガタッと物音が聞こえた。立ち聞きしていたぐれ兄が涙を流している。
「はーさん……っ。ひどいよ、ワザとだなんて……っ。なんとなく気付いていたけどね!!」
ぐれ兄は注射を打たれる前に、グチグチ文句を言ったのだろう。
僕もインフルエンザの予防接種を受ける時、痛くしないでとしつこく頼み込んだら、苛立った兄さんに「喚くと打ち間違えるかもしれんぞ」と脅された事がある。
「騒ぐだけなら出ていけ。病人の体に障る」
兄さんは、杞紗以外の者に退室を言い渡した。僕は騒いだ覚えはないけど、仕事モードの兄さんに逆らうような愚は犯さない。
「紅葉、本田さんに果物とスポーツドリンクを持っていこうか」
「そうだねっ!」
僕と紅葉が台所に向かったら、
夾が師範以外の人のために料理を作るなんて……楽羅姉が知ったら暴れそうだな。この事は楽羅姉に黙っておこう、そうしよう。
「なになに、キョーっ。ハナヨメシュギョー!?」
「ちっげぇよ、タコっ。おまえら、あっち行けっ」
「本田さんに食べてもらう果物を用意したら、退散するよ」
僕は果物盛り合わせの中にあったさくらんぼを取り出し、戸棚から出したガラスの器に入れて持っていこうとしたのだが。オレンジ色の目を見開いた夾が、「待ちやがれ!」と呼びとめてくる。
「そのまま持っていくバカがいるか! 果物を洗えよ!」
「店で買ったものだから綺麗だぞ」
「小せぇゴミがついているかもしれねぇだろ! てめぇは無駄に記憶力がいいくせに、家庭科の授業で習った事を憶えてねぇのか!?」
家庭科は僕の鬼門だから、記憶が曖昧だ。
小学5年の調理実習の時、僕がニンジンのグラッセを黒焦げにしたら、同じクラスだった夾に「建視の料理は師匠と大差ねぇな」と呆れられた事は憶えているんだけど。
「キョーはシュートメみたいねっ」
「誰が姑だ、このクソガキっ!」
「夾、この家に新品のビニール手袋ってあるか?」
「知るかっ! もういい、貸せっ、俺が洗う!」
ボウルに水を張った夾は「なんで俺がこんな事を……」と愚痴りながら、ざるに入れたさくらんぼを軽く揺らして濯いだ。夾の手際の良さに感心した僕と紅葉は、「おおー」と声を上げる。
「夾は由希と料理対決をすれば、確実に勝てるぞ」
中学時代の家庭科の調理実習で、由希は数々の危険な創作料理を作っていた。目玉焼きの水煮とか、いちごジャムをかけたハンバーグとか、ラードを混ぜ込んだポテトサラダとか。
それを思い出しながら僕が提案すると、夾は「ンな女々しい勝負できっか」と却下する。
女々しい勝負って……料理人同士の戦いを取り扱ったテレビ番組では、男性の料理人が数多く登場するんだぞ。
「これ持って、さっさと行きやがれ!」
夾は新しい器にさくらんぼを入れて、差し出してきた。口は悪いけど面倒見のいい処は、昔と変わってないな。
風邪が治った本田さんは、追試で無事合格点を取れたようだ。本田さんは見舞いのお礼に、手作りのレアチーズケーキを振る舞ってくれた。
「キャラケーキ第2弾……だと……!?」
「このモゲ太、トールが描いたの? とってもジョーズねっ!」
「可愛い……っ」
カップ入りのレアチーズケーキには、チョコペンといちごジャムでモゲ太の絵が描いてあり、僕と紅葉と杞紗は大喜びだ。
兄さんと由希と夾と春と楽羅姉とぐれ兄のために作られたレアチーズケーキは、キャラケーキ仕様ではなくブルーベリーソースがかかっている。
お礼のケーキはすごく嬉しいけど、ちょっと気になる事があった。
本田さんはバレンタインの時にガトーショコラをたくさん作るために自腹を切って、修学旅行の積立金が払えなくなったと紅葉から聞いている。
今回はぐれ兄が本田さんを説き伏せて、食費を追加で渡して材料を買わせたと聞いて一安心した。
キン・ケンのメンバーはオリキャラです。
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23「し、しょう?」
Side:
6月5日の土曜日。今日は短大の授業が無い日だ。
クラスメイトにいじめられたさっちゃんは、声が出なくなるほど精神的に追い詰められてしまったけど、透君のおかげで声を取り戻して学業復帰するまで立ち直れた。
さっちゃんの従姉として、透君には感謝している。その一方で、透君の影響力の大きさに脅威を覚えているのも事実で。
透君と出会ってから、
私と夾君の距離がどんどん開いていくような気がして、時々どうしようもなく不安になる。
1人で鬱々と考え込んでいても塞ぎ込む一方だから、思い切って夾君に会いに行く事にした。
以前はしーちゃんの家に同居して夾君の側で暮らしたいと思っていたのに、今は少しだけ夾君に会うのが怖い。
今まで異性を拒絶していた夾君が透君を受け入れるようになったら、私は夾君から最後通告を突きつけられるんじゃないかって予感がある。
憂欝な気持ちは、約3ヶ月ぶりに夾君に会ったら吹き飛んじゃったけど。
「で!? なんだよ。用件をさっさと言えよ!!」
しーちゃんの家の居間で夾君とおしゃべりしようとしたら、夾君が苛立たしげに促してきた。
「え? ないよ、用件なんて」
「だからっ、無いならくんなよ!!」
「どうして……? 会いたいから会いにきちゃいけないの……?」
「俺は会いたくねぇんだよ!!」
愛しの夾君にそんなハッキリ言われると、流石に傷つく。ひどいよ、夾君……っ。
「こんなに愛してるのにィィィィ!!」
座卓を持ち上げて振りかぶろうとしたら、顔を引きつらせた夾君が大声で叫ぶ。
「それが嫌がる原因の1つだって気付けよ、そろそろー!!」
と、その時。しーちゃんが夾君を投げて寄こした。私は持ち上げていた座卓を放り投げて、夾君を自分の胸元に抱きしめる。
「楽羅、ソレ貸したげるから2人でデートでもしてきたら?」
「きゃあ♡ しーちゃん、いいこと言う~っ」
「待てコラっ、貸すってなんだ!! 俺は行かねぇぞ。第一、外に用なんざ無ぇ!!」
「ん? そうなの? じゃあ、透君。この2人に夕飯の買い物頼んだら?」
しーちゃんの提案を受けた透君は少し考えていたけど、私に買い物メモを渡してくれた。
「……では、お願いできますか?」
「だから、俺は……」
「よっしゃっ、デートじゃああ!!」
逸る気持ちに任せて、夾君の首の下に腕を回して引っ張るような形で出発進行!!
楽しい時間は速く過ぎるという言葉通り、あっという間にスーパーに到着しちゃった。透君のメモを見ながら商品を買い物かごの中に入れ、鮮魚売り場へと向かう。
「今夜はお鍋なんだね。そうだよね、まだちょっと冷えるもんね。ふふ、夾君の好きなタラもちゃんとリストに入ってる」
「…………」
不機嫌丸出しの夾君は私との会話に応じなかったけど、私の後についてきてくれる。
本当に嫌なら逃げる事だってできるのに。夾君は優しい。昔からそれは変わらない。
優しい夾君は、自分以外の物の怪憑きや
……夾君が透君を選べないのは、居心地のいい今の関係を変えたくないからでしょう?
でも、夾君も解っているよね。今の関係は長続きしない事を。いつか決断を迫られる日が訪れる。
ずっと後になって後悔しても遅いんだよ? 曖昧な状況に甘んじている夾君に、思い切って問いかける。
「……ねぇ、夾君。透君はまだ知らないんでしょう? ……ずぅっと、そうやって隠していくつもりなの?」
夾君がホントの姿を隠したがる原因は、私と建ちゃんにもある。
小さい頃、夾君のホントの姿を見た私達が怯えて逃げたせいで、夾君はホントの姿を知られたくないと恐れるようになってしまったんだと思う。
「うるっせぇんだよ!! そんな事てめぇには関係ねぇだろ!!」
「……夾君……」
対話を続けるために言葉を探そうとしたけど、近くにいた買い物客が何事かと私達の様子を窺っている事に気付いた。よく考えたら、スーパーで話すような内容じゃなかったね。
周囲から向けられる詮索めいた視線を交わすため、私は両手で作った握り拳を夾君の両こめかみに宛がい、捻じ込むように圧迫する“梅干し”と称される技をかけた。
「公衆の面前で女の子を怒鳴るなんて最低よォォ!!」
「いていていてーっっ!!」
私達のやり取りを見ていた買い物客は、「痴話喧嘩かしら」とか囁き合っていた。痴話喧嘩だったと周囲に思わせるため、私は夾君の背中を押しながら鮮魚売り場から離れる。
「もう、もう、夾君ってば恥ずかしいんだからっ。ホラ、あっちに行こうっ」
こめかみを押さえていた夾君が、「……なんで」と小さな声で問いかけてくる。
「なんでそんな……俺にこだわるんだよ……変だろ……普通は避けたり、距離を置くだろ……」
「そっ……」
それは夾君の方からだったんだよ、という言葉は飲み込んだ。
色々あって師範の家で暮らすようになった夾君は、一族から向けられる悪意から自分を守るように刺々しい言動が目立つようになったけど。私や建ちゃんには自分から喧嘩を売る事はせず、避けて距離を置くようになった。
……でも、そもそも先に夾君と距離を置いたのは私の方。
「夾君は……知らないから。知らないから。私が」
不自然に言葉を切った事を疑問に思ったのか、夾君が私の方を振り向く。
「……なんだよ……?」
「……夾君、泣いちゃうから……ナイショ♡」
唇の前に人差し指を立てて誤魔化すと、夾君は怪訝そうに眉を寄せて「は?」と言った。
「さてと、会計、会計っ」
「おい……なんなんだ」
「ホラ、行こう、夾君」
「こらっ」
夾君が私の話に珍しく興味を持ってくれたけど、私の本音は言えないよ。
猫憑きのホントの姿を見た、あの時。逃げた私と夾君の距離はもう埋められないんだろうなって、頭の隅で思う自分がいた。だからこそ、余計に必死になって距離を縮めようとしているんだけど。
それを知ったら夾君、どんな顔をする? 心のどこかで夾君の事を諦めているって私が言ったら、夾君はホッとして泣いちゃうかな。
でも、ごめんね。全部を打ち明ける事はまだできないの。
だって、夾君は全てを諦めた訳じゃないでしょう? だったら私も諦めない。
あの日逃げた自分を正当化するために始まった、醜い恋だけど。不器用で優しい夾君に惹かれて、本気で追いかけるようになった自分がいるのは本当だから。
スーパーからしーちゃんの家に帰る道中、私は夾君と昔のように手をつないだ。夾君は最初、手をつなぐ事を拒否したんだけど。
「夾君!! 冷たい……っ」
私がそう言いながら泣き落としを行使したら、夾君は怒りながらも左手を差し出してくれた。
久しぶりにつないだ夾君の手は、私の手より大きくなっていた。夾君が私の事を「かぐらねーちゃん」と呼んで、一緒に遊んでいた時とは全然違う。
昔との違いを改めて認識すると同時に、あの頃の関係には戻れないんだと思い知らされて視界が滲んだ。
夾君が昔のように私と手をつないでくれるのは、透君が夾君の傷ついた心を癒してくれたおかげなんだよね。
やっぱり勝ち目は薄いかな。心の中では悲哀と諦観に沈みながらも、表面上は明るく振る舞って夾君とのデートを楽しむ。
「途中までって言ったろ。そろそろ手ぇ放せ」
「あともうちょっとだけ。お願い!」
そんなやり取りを、しーちゃんの家の前に続く石段を登りきった所まで続けたら。夾君が「いい加減にしろや!!」と叫んで、私の手を振り払った。
「ここまでつなげりゃ充分だろうがっ。俺がベタベタされんの嫌いだって、知ってんだろ!」
「知ってるけどつまんない~っ」
「夾……」
落ち着いた低い声の主が、夾君を呼んだ。
しーちゃんの家の玄関先に佇んでいたのは、折り畳んだ和傘を持った長身の男性。
久しぶりに会うその人は青藍色の着物の上に紺色の羽織を纏い、背中まで伸ばした焦げ茶色の髪をうなじの上で束ねている。
どうやら師範は、修行の旅から戻ってきた事を夾君にも知らせていなかったみたい。夾君は驚きながらも、嬉しそうに表情を緩めた。
「……し、しょう?」
「元気そうだな、夾……」
再会した夾君と師範を温かく見守りながら、私は勝ち目が出てきたと暗い喜びを覚えた。
師範が帰ってきたなら夾君はしーちゃんの家から出て、草摩の「外」にある道場の離れで師範と共に暮らす生活に戻るはず。
透君と一緒に過ごす時間が短くなれば、夾君はこれ以上彼女に惹かれなくなるかもしれない。……こんな考えがすぐに浮かぶ自分の汚さに、吐き気を催す。
師範はしーちゃんの家に泊まる事になったから、しーちゃんに頼んで私もお泊まりする許可をもらった。夾君への夜這い禁止と、次に家を壊したら即刻帰宅という条件がついたけど。
「師匠さんのお布団は、どちらに敷きましょう……。
透君の質問を受けたゆんちゃんがしーちゃんの部屋を確認したら、しーちゃんの部屋は本や脱いだ着物やゴミが散乱して、人が寝られる状態じゃなかった。
「ここはやっぱり、夾君の部屋が1番じゃないかな?」
私が提案したら、透君は声を弾ませて「そうですねっ。それが1番ですねっ」と同意してくれた。
「はぁ!? 別に居間で寝かせりゃいいだろ。ガキじゃねぇんだぞっっ」
夾君は師範と水入らずで過ごす案を却下したけど、ホントは師範と一緒にいたいんだよね。解ってるよ。
私は師範に意見を伺いに行こうとしたけど、1階に師範の姿は見当たらなかったから、階段を上って2階に向かう。師範としーちゃんの話し声が聞こえる、洗濯物干し場に続く扉の前に立った時。
「今夜アレをはずす事で騒がしくなるやもしれぬ事……先に詫びておきます……」
師範の思いもよらぬ申し出が、耳に飛び込んできた。アレが何を指しているのか察した私は、足に根が生えたようにその場に立ち尽くす。
「それはまた……何故、急にそのような決断を?」
「今日……今日あの子のあの顔を見て、彼女ならばあの子の心を開くのでは。彼女もまた受け止めてくれるのでは。そして、それを見極める事に最良の時期は、今しかないのではと」
師範は1年以上夾君に会っていなかったけど、僅かな時間を共に過ごしただけで、夾君を良い方向に変えたのは透君だと気付いたんだ。
そして私が拒絶してしまった夾君のホントの姿を、透君なら受け止めると信じている。
……師範が帰ってきたから、私にも勝ち目が出てきたなんて考えている時点で、私の負けは決まったも同然だった。違う、これは勝ち負けの問題じゃない。
師範はどうやって、夾君の数珠をはずすつもりなの?
いくら夾君が師範を信頼しているとはいえ、数珠をはずせと言われて大人しく従うとは思えない。透君が近くにいるなら尚更。
まさか、数珠を無理やりはずそうとするんじゃ……。
数珠がホントの姿を封じる役目を果たしている事を知らなかった頃の私達とは違って、先代の猫憑きを祖父に持つ師範は夾君が数珠をはずすとどうなるか知っているはず。
信頼している師範に裏切られたと夾君が思ったら、きっと夾君は耐え切れない。不吉な予感を覚えた私の内心を代弁するように、しーちゃんが疑問を呈する。
「ですが……成功する確証は無いのでしょう? たとえ彼女は受け止めても、夾が拒絶する可能性は多分に有りうる……今度こそ夾が壊れる可能性も。
しーちゃんの淡々とした問いかけに師範は答えなかったけど、決意の重さは伝わった。
師範は万に一つの賭けが外れたら自分が全ての罪を背負う覚悟をした上で、思い切った決断を下したのだろう。
夾君が前を向いて、倖せな未来を選び取れるように。
私は……最悪な事に、師範の一世一代の賭けが成功してほしいと思えなかった。
透君が夾君の本当の姿を受け止めて、夾君が透君に心を開くようになったら、私が入り込む余地は完全になくなるから。すでに私が入り込む余地なんて無い気がするけど。
……その夜、私は自分の残酷さと醜悪さを痛感する事になった。
▼△
Side:
1日の終わりが近づいた22時半頃。野菜作りの本を読みながら栽培計画を立てていたら、庭の方から夾と師範の声が聞こえた。
雨が降っている夜中に夾が外に出るなんて、一体何事だ? 疑問を覚えた俺は、ブラインドを半分下ろした窓に近づく。
「それが
庭に立っていた2つの人影の内、1つは夾だった。夾と向かい合っている着物姿の男性は、髪型から判断するに師範だろう。
「……おまえはこれからもそうして生きていくのか。耳を塞ぎ、目を閉じ、そんな形でしか自分を保っていけないのか」
師範の言葉は夾に向けて告げられたのに、俺が必死に隠している弱い処を的確に抉った。
「そして死んでいくのか……? たった1人で」
それを聞いた瞬間、俺は呼吸を忘れてしまう。夾が近い将来どうなるか、
――高校を卒業したら夾は幽閉だよ。死ぬまでね。由希は夾を嫌っているから、嬉しいだろ?
嬉しくなんかない。俺のコンプレックスを刺激する夾は顔を見るのも嫌だけど、幽閉されてしまえばいいなどと思わない。
だからといって、夾を助けるために行動を起こす事はできなかった。慊人に逆らうのが怖いという理由もあるけど、それより卑怯な考えに気付いてしまったから。
猫憑きに比べれば、俺はマシだ。そんな風に思って安心を得る薄汚い自分を自覚した時、消えてしまいたくなるほどの自己嫌悪に陥った。
「……おまえは言ったな、ここが『嫌』だと。だが違う……おまえは嫌なのではなく、逃げようとしているだけだよ……」
そう言いながら、師範は夾の左手首を掴んだ。
「『ぬるま湯』と称した温かい『もの』が自分を癒していくのがわかる。だが、『本当』の事……『本当の姿』を知られたくはない。知られて失うのが怖い。その曖昧な状況から、おまえは逃げようとしているだけなんだよ」
夾は動揺を隠し切れていない声で、「ちが……」と反論しようとした。
「ならば、私はその逃げる手をとろう。失うか、失わざるか。その結果を導こう。夾、おまえの人生は本当に『終わっている代物』なのかどうか」
師範が夾に語りかけている途中で、傘を差した人影が庭に近づくのが見えた。
あれは……
家の中に戻るように本田さんに呼びかけるべきか。俺が決断を下すより速く、師範が動いた。
本田さんに気付いた夾の隙を衝き、師範が夾の左手首から素早く数珠をはずす。
「見るな……!!」
悲鳴じみた叫び声を上げた夾の輪郭が、人から異形へと変化していく。
――猫憑きの本当の姿はね、この世のものとは思えぬほど醜い化け物なんだよ。気持ち悪いのは姿形だけじゃない。何かが腐っているような悪臭を発しているんだ。
猫の物の怪の本当の姿について慊人が話した内容には、誇張が含まれているのだろうと思っていたけど、誇張は一切なかったと思い知る。
体が醜くひしゃげた姿は、深海生物のようにグロテスクで。瞳孔が縦に走った異様なほど鋭いオレンジ色の両眼が、辛うじて夾だと判断できた。
臭いまでは解らないけど、見ただけで吐き気を催して恐怖心を呼び起こされる化け物だ。
こんなのを間近で見たら、本田さんは卒倒してしまうんじゃないか。俺が急いで本田さんの方に視線を移すと、彼女は先程と同じ場所に立っている。
全く動じていない、という事はないだろう。あまりの事に呆然としてしまっているに違いない。
「夾……君……」
本田さんが雨の音に掻き消されそうな掠れ声で呼ぶと、夾は人間には不可能な跳躍力を発揮して森の中に逃げ込んだ。
「……あれが猫憑きの
俺達が動物に変身する処を目の当たりにしても、本田さんは気味悪がらなかったけど、流石にこれは……。
本田さんは恐怖と混乱のあまり気絶するか、気が動転して泣き出すか、紫呉の家から出て行こうとするかもしれない。
ところが俺の予想を裏切って、本田さんは夾が姿を消した森へと走って行く。
夾を追いかける本田さんは、普段の温かくて優しい陽だまりのような雰囲気を纏った彼女ではなく、全くの別人のようだった。
がむしゃらで、捨て身で、強固な意志を帯びていて。俺の知らない
本田さんが
うっすらと答えが見えかけた時、酷く戸惑った。こんな甘えた考えを持っている事がすごく恥ずかしくて、認めたくなくて。
気付かなかったフリをするため、見えかけた答えや夾の本当の姿の記憶を胸の奥底に閉じ込めて、きつく蓋をした。
――耳を塞ぎ、目を閉じ、そんな形でしか自分を保っていけないのか。
先程の師範の言葉が頭を過ったけど、今の俺ではドロドロした汚い感情に飲まれないように自分を保つので精一杯なんだ。
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24「元気一杯に見えるか?」
修行の旅に出ていた師範が帰還したと報せを受けたので、僕は
道場には師範が帰ってきた事を聞きつけた門下生が集い、春も駆けつけている。
『師範が帰ってきたよ! 師範は今夜、しーちゃんの家にお泊りするんだって。しーちゃんが許可を出してくれたから、私もお泊りできるの!』
昨日の夕方に楽羅姉から送られてきたメールを見て、僕は妙だなと思った。普段なら
少し気になったので、『何かあった?』と探りを入れるメールを送ってみた。数分後に楽羅姉から届いた返事は、『まだ何もない。今は何も話せない』という漠然とした内容だ。
楽羅姉は朝になっても連絡を寄越さなかったので、何があったのか不明のまま。
僕は釈然としない気持ちを抱えながら、緑がかった灰色の着物を身に纏った師範こと草摩
「師範、お久しぶりです」
「久しぶりですね、
「ども……」
「
温和な笑みを浮かべる師範は、孫の成長を見守る祖父のようだ。
老成した雰囲気の持ち主だから祖父と表現してしまったけど、容姿端麗で引き締まった体格を誇る師範は、30歳前後に見える。
師範の年齢を四捨五入すると、40歳になるんだけどね。戦闘能力がやたら高くて老いない処は、サイヤ人と一緒だな。
そんな事を考えながら、僕はさり気なく探りを入れる。
「夾の姿が見当たりませんが、引っ越しの荷造りをしているんですか?」
「夾は
穏やかに微笑む師範の返答を聞いて、僕は驚きのあまり言葉が出なくなる。
夾は
師範は夾と本田さんがイイ雰囲気になっているのを見て、引き続きぐれ兄の家で暮らすように夾に指示したのかな?
でもなぁ。夾が師範と暮らしたいと言ったら、師範は夾の意思を尊重すると思うけど。
門下生が一通り師範に挨拶を済ませた後、道場の掃除をする。
師範が不在にしていた約1年間、準師範の指導のもと、きちんと管理がされていたので汚れた箇所は見当たらない。
僕は稽古に参加したけど、鍛錬をサボっていたから腕が思いきり鈍っていた。春に「具合悪いの?」と心配されるレベルだったので、鍛え直そうと心に誓う。
帰宅してから新着メールを確認したけど、楽羅姉からの返事はない。
楽羅姉の携帯に電話をかけてみたら、『おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります』というアナウンスが流れた。
『楽羅は家に帰ってきているけど、部屋に閉じ籠っているのよ』
楽羅姉が自室に閉じ籠るほど落ち込んだ原因については、何となく見当がつく。夾が師範の家に戻らず、ぐれ兄の家で引き続き同居生活を送ると聞いて、ショックを受けたのだろう。
亥憑きの従姉は、本田さんに対してあからさまな敵意は見せていなかったけど、夾が女の子と一つ屋根の下で暮らす事に危機感を抱いていたからな。
これはあくまで僕の予想なので、幸実おばさんに教える訳にはいかない。僕は「いつでも相談に乗ると楽羅姉に伝えて下さい」とお願いしてから、電話を切った。
▼△
「草摩先輩、おはようございますっ」
「けんけん、おっはー」
「建視君、おはようっ」
「おはよう。今日も1日頑張ろうね」
6月7日の朝。僕は風紀委員の一員として、校門に立って挨拶運動に励んでいる。衣替えが6月1日から始まったので、夏服を着崩している生徒に口頭注意するのも仕事の内だ。
男子生徒が着る夏服の白い半袖のシャツは、襟と袖と裾が青いラインで縁取られている。ネクタイも白で、太い方の剣先は青いラインで彩ってあった。スラックスは冬服と同じ紺青色だけど、薄手でサラサラとした感触だ。
冬服姿の僕は歩行者信号のようだったけど、夏服姿の僕はフランス国旗を連想する。僕はこんな見た目なのに、風紀委員として活動していいのだろうか。
疑問に思った僕が風紀委員長に聞いたら、「君のように派手な生徒でも、制服を正しく着ているという良い見本になる」と言われた。誉められているんだか、貶されているんだか。
そもそも風紀委員なんて、僕の柄じゃない。にも拘らず、委員会を決めるホームルームでクラスの女子達が一致団結して、僕を風紀委員に推薦したのだ。
僕が辞退しようとしたら、目を輝かせた女の子に「
校則を無視した紅葉の制服を是とした僕は、風紀委員に相応しくないと主張したのだが。生活指導の一端を担う風紀委員は皆やりたくないのか、押しつけられてしまった。
「Guten Morgen!(おはよう!)」
スキップしながら登校してきた紅葉は白い半袖のセーラー服を着て、青いショートパンツを穿いた格好だ。
制服の時点でアウトなのに、ウサギ形のピアスをつけ、ビーズで作った指輪を嵌め、両手の爪に水色のマニキュアを施している。
「おはよう。紅葉の制服は先生達も諦めの境地に達しているけど、アクセサリーは外しとけよ」
「Ja!(うん!)」
良い子のお返事をした紅葉は、足取り軽く昇降口へと向かった。僕の注意は聞き流されたな。
溜息を吐く間もなく、
装飾品は外せばいいけど、左上腕にある無限マークが連なったような文様はボディーペイントやシールじゃない。本物のタトゥーだ。隠しときゃいいのに、春は注意できるものならしてみろとばかりに半袖を捲っている。
「おはよう、春」
僕は挨拶しながら春の袖を元に戻した。よかった、袖口でギリギリ隠れる。僕が安堵したのも束の間。
「おいっ! タトゥーを入れた草摩潑春は見逃されて、なんで俺が注意を受けるんだよっ」
シャツの下に赤いタンクトップを着た男子生徒が、抗議の声を上げた。近くでじっくり見ていないのに、タトゥーだと判別できるとは思えないから言いがかりだろう。
それでも春がタトゥーを入れているのは本当なので、騒ぎ立てられると面倒だ。騒動の芽は今の内に摘んでおこう。
「春は宗教上の理由で、タトゥーを入れているんだよ」
僕がでっちあげの理由を話すと、赤いタンクトップを着た男子生徒は怪訝そうに「は?」と言った。
「宗教上の理由と言われても解らないよね。詳しく説明しよう。春の母親は若い頃に、ヒイロイッペー教という新興宗教に入信したんだ。荒木冬彦尊師は25年前に南米アマゾンを旅行した際、マングローブに宿る精霊アベラネダエが助けを求める声を聞き、自然回帰を教義の柱に据えたヒイロイッペー教を立ち上げた。ヒイロイッペー教は、自然を愛する者なら来る者拒まずというスタンスを取っている。戒律はあるけどそんなに厳しくないよ。割り箸を使わずにマイ箸を持ち歩いて使うようにするとか。レジ袋をもらわずにエコバッグを使うようにするとか。冷房の設定温度を28度にするとかね。精霊アベラネダエを助けるための小さな活動が、地球温暖化防止の一助になるんだ。ヒイロイッペー教の教えは、素晴らしいと思わないか?」
「あー、えっと、俺は宗教には興味なくて……」
「宗教に興味なくてもいいけど、地球温暖化問題には関心を持つべきだよ。助けを求めている精霊は、アベラネダエだけじゃないんだ。そういえば、春のタトゥーの説明がまだだったね。あれはアルプスの氷河から発見された、5300年前のアイスマンの肌に刻まれた入れ墨が基になっているんだけd」
「すんまっせんでしたーっ!!」
赤いタンクトップを着た男子生徒は、逃げるようにして走り去った。
綾兄は高校の校長先生に長髪を注意された際、王族の掟で髪を伸ばしていると主張して言い逃れたと聞いたので応用してみたら、効果は抜群だった。
教師陣にも同様の説明をして、春のタトゥーを見逃してもらおう。
と、その時、夾が校門に近づいてきた。今朝は本田さんや由希と一緒に登校しなかったようだ。
「おはよう、夾。黄色のタンクトップは校則違反だぞ」
「……っせぇな」
夾が左手首につけている紅白の数珠も校則違反の装身具に該当するけど、注意はしない。あの数珠は、猫憑きの本来の姿を封じるお守だ。
昔から根回しが苦手な夾は、数珠をつけている理由を
「おはよう、
「うーす。そういや、リンゴ頭は風紀委員だったな。あたしに注意するか?」
魚谷さんはセーラー服の胸当てを付けておらず、襟元から紫色のインナーが覗いている。青いスカートは当然のように足首丈。
校則違反上等とばかりの服装に目を奪われがちだが、金色に染めた髪とメイクとマニキュアもアウトだ。
「それが仕事だからね。魚谷さんは化粧をしなくても十分綺麗だよ」
「口説き文句は
「え!? いや、その、僕は、えっと」
「この程度で動揺すンなよ。童貞丸出しだぞ」
校門で僕が公開処刑を受けた数分後、由希と本田さんが並んで登校してきた。
同じタイミングで校門を通った女子生徒達は、恋する乙女の顔で由希を見つめた次の瞬間、般若の顔になって本田さんを睨む顔技を披露している。
「建視さん、おはようございますっ。風紀委員のお仕事、頑張って下さい……っ!」
白いセーラー服姿の本田さんが朗らかに挨拶してきた。女子の二面性を目の当たりにした直後だから、裏表のない本田さんを見ると安心する。
挨拶を返そうとした僕は、本田さんの首の付け根を覆うガーゼに気付いた。
「おはよう、本田さん。首を怪我したの? 大丈夫?」
「あっ、これは……大した怪我ではないので、大丈夫ですっ」
「楽羅姉が暴れた余波を食らったんじゃない?」
「え……えっ!? 楽羅さんは暴れてなどいませんですよ? 私が勝手に転んだのですっ」
首を左右に勢いよく振って否定する本田さん。嘘を吐いている事が丸わかりだけど、本田さんを追い詰めると可哀相なので追及はしない。
「本田さん、行こう」
「はいっ。では、建視さん。教室でお待ちしていますねっ」
思考に耽っていた僕は校門に近づく花島さんを見つけた瞬間、考え事を頭の隅に追いやった。
「花島さん、おはよう!」
「おはよう……」
静かに挨拶を返した花島さんの服装は、ぱっと見た感じでは何の問題もない。
大半の女子が短くしているスカートは規定の膝丈で、靴下は学校指定の黒。長い黒髪は三つ編みにして、シンプルな黒いヘアゴムで留めている。
絵に描いたような優等生の出で立ちだけど、1点だけ規則に違反している処がある。
「花島さん。マニキュアは校則違反になるから、服装検査の時は落とした方が良いよ」
「これは罪人の証だから、落としたくないのだけど……」
花島さんは答えながら、黒く彩られた自身の爪を見遣った。
罪人の証とは、一体どういう事なのか。気になったけど、大勢の生徒が行き交う校門付近で聞くような事じゃない。
贖罪意識を持ち続ける事は花島さんにとって必要な事かもしれないけど、あまり自分を責めないでほしい。僕はそう思いながら、挨拶運動を再開した。
▼△
6月の第2土曜の午前中、僕は草摩総合病院に訪れた。
2階の窓から落ちたリン姉が大怪我を負って入院したと兄さんから聞いたので、見舞いに来たのだ。
僕は昔からリン姉に避けられているので、下手したら病室に入れてもらえない可能性がある。
巻き添えで締め出しを食らったら気の毒なので、一緒にお見舞いに行こうと誘ってくれた紅葉には1人で行くと言っておいた。
「リン姉、お見舞いに来たよ」
僕は病室のドアをノックして声をかけた。返事はないけど開けるなとは言われなかったので、思い切ってドアを開ける。
漆黒の絹糸のような長い髪を背に流す女の子が、病床から上半身を起こしていた。彼女がリン姉──
病室の入口に立つ僕に、リン姉は黒曜石の刃のように鋭利な眼差しを向ける。左目はガーゼで覆われていたから、右目のみで睨んでくる。
僕より1学年上のリン姉は、妖艶な美貌と抜群のプロポーションを誇る美少女だから、凄むと迫力があるんだよな。
「具合はどう?」
「……元気一杯に見えるか?」
棘のある口調で答えたリン姉は、2階から落ちて右の肩甲部を大きく切る大怪我を負ったと聞いている。リン姉が着ているパジャマの襟から覗く、胸元から首にかけて包帯が巻いてあった。
言葉の選び方を失敗したなと思いながら、「……見えない」と答える。気まずい。話題を変えよう。
「ゼリーを持ってきたよ。気が向いたら食べてね。冷蔵庫開けるよ」
病室に備え付けてある小型の冷蔵庫を開けると、ゼリーが既に8個入っていた。
リン姉の両親が持ってきた……訳ないか。実の娘を虐待した揚句、当時中学生だったリン姉と絶縁する奴らに親心があるとは思えない。
僕のように楽羅姉からリン姉の好物を聞いて、ゼリーを持ってきた見舞客がいたのかも。昔からリン姉と仲が良い春は、リン姉本人から聞いて知っていそうだけど。
僕は○疋屋で買った果実ゼリーを、冷蔵庫に入れた。手を動かす僕の背中に、リン姉の鋭い視線が突き刺さるのを感じる。
リン姉が僕に向ける感情は、嫌悪が1割、敵意が2割、残りの7割は警戒といった内訳だろう。
昔のリン姉は親から虐待を受けている事をひた隠しにしていたから、僕が力を使ってリン姉の家庭事情を暴くんじゃないかと警戒していたようだけど。
今はリン姉と春の関係を暴かれる事を恐れているはずだ。
僕は物の怪憑きの残留思念を読み取る事はできないけど、物の怪憑きの関係者の私物から読んだ残留思念を繋ぎ合わせて、仲間の動向を推測する事はできる。
春とリン姉が付き合っている事に僕が気付いたのは力を使ったからじゃなく、2人がデートしている処を偶然見ちゃったからなんだけど。
「おまえは……」
リン姉は僕に向かって何か言いかけて、口を閉ざす。気になった僕は「何?」と尋ねた。
「用が済んだなら出て行け」
違う事を言おうとしていたよね、と突っ込んで聞こうとしたけど止めた。目を閉じて俯いたリン姉は、何があっても黙秘を貫く構えだ。
「また来るから。お大事にね」
そう告げて僕は病室を後にした。
楽羅の母親の名前は独自設定です。
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25「建ちゃんに話があるの」
ストレスの溜まる話は読みたくないと思われる方はいらっしゃると思うので、重くて暗い部分の要点を後書きに書いておきます。
暗いのを避けたい方は△▼の区切りをタップして、文章の最下部までジャンプして後書きを読むことをお勧めします。
「
「……っ!?」
食堂のテーブルに着いた兄さんから衝撃の知らせを聞いて、仰天した僕は夕飯のスズキの南蛮煮を喉に詰まらせそうになった。
「大丈夫か?」
箸を止めた兄さんの問いかけに、ウーロン茶を飲んだ僕は頷いて「平気だよ」と応じる。
できれば「驚くかもしれないが……」とか言って前振りをして、心の準備をするように促してほしかったけど、兄さんがマイペースなのは今に始まった事じゃないから慣れるしかない。
それはそうと。由希が綾兄の店に、自発的に赴いた事も驚いたけど。最近まで沈んでいるように見えた由希が、積極的な行動に出るなんて夢にも思わなかったよ。
なにか心境の変化でもあったのか? 由希に何があったのか僕は知らないけど、1つだけ言えることは……。
「綾兄の店に、本田さんを連れて行っちゃダメだろ」
「幾らなんでも、綾女は本田君に妙な服は見せないと……思いたいが……」
綾兄が店の商品のメイド服やナース服を披露しても、本田さんは引いたりしないと思う。由希は極寒の目を実兄に向けそうだけど。
「コスプレ用の服より、綾兄の店で働いている
綾兄の店で働く
僕は
去年の秋頃に楽羅姉が手芸用品を求めて綾兄の店を訪れた時、美音さんが「お着替えしましょうか」と言いながら迫ってきたらしい。
猫かぶりモードの楽羅姉は抵抗できず、フリルやリボンをあしらったピンク色のドレスを着付けられたようだ。
楽羅姉から経緯を聞いた僕はすぐさま綾兄の店に行って、噂のメイドさんを見てきた。
メガネっ娘のメイドさんが尊すぎて、僕が「ここは天国か」と呟いたら、それを聞き取った綾兄に「ここはボクの城だよっ!」と訂正されたっけ。
「本田君はドレスを着たと綾女から聞いたが……」
兄さんは案じるように眉を寄せた。着たじゃなくて、着替えさせられたと言った方が正しいだろう。
僕はぐれ兄の家にいる本田さんに向かって合掌しつつ、本田さんのドレス姿を見たかったなと思った。
変化が現れたのは由希だけじゃない。
今まで夾は花島さんや
「おふたり、つきあいだしたの~?」
「ひゅーひゅーっ!」
夾の変化に気付いたろっしーとすけっちがからかったら、夾は軽蔑を浮かべて「頭沸いてンのか」と吐き捨てた。
ろっしーとすけっちは、夾の冷淡な反応にしょんぼりしていた。彼らの予想では、夾が照れながら「バカかお前らっ。付き合っている訳ねぇだろ……っ」と言い返すと思っていたのだろう。
師範が目に見えて喜んで、楽羅姉と由希が落ち込んでいたから、夾と本田さんが付き合い始めたのかと思ったんだけど。夾の反応を見る限り、違ったみたいだな。
ぐれ兄の家に泊まって帰ってきた後、自室に閉じ籠っていた楽羅姉は翌日には普段通りに振る舞っていたらしい。楽羅姉は道場に週3回通うようになった夾を、嬉々として迎えに行っている。
師範と夾が和やかな雰囲気で本田さんの話をしていた時、楽羅姉は痛みに耐えるような表情をほんの一瞬浮かべていた。
何かあったのかって楽羅姉に直接聞いたら、亥憑きの従姉は言葉を濁して教えてくれなかった。誰かに口止めされたのか、それとも話しづらい事なのか。
僕が上の空になっているのを見抜いたのか、組手の相手を務める夾に「稽古の最中に武術以外の考え事をすんな!」と叱られた。
「建ちゃんに話があるの」
稽古の終了後、楽羅姉が声をかけてきた。楽羅姉の覚悟を決めたような表情が気になったけど、渡りに船だと思ったので僕は承諾する。
時刻は夜9時を回っていたため、辺りは闇に包まれていた。僕と楽羅姉は街灯で照らされた道を歩いて、落ち着いて話せそうな場所へと向かう。
道中は本題の話は持ち出さず、リン姉の話をした。
入院中のリン姉は、病院を何度も抜け出しているらしい。肩甲部の手術創の抜糸が済んでない状態で、激しく動き回ると傷が開く恐れがあるのに、リン姉は注意されても聞き流しているようだ。
「
リン姉は何か深刻な悩みを抱えていて、思い余って投身自殺を図ろうとしたんじゃないかと僕は推察しているんだけど。確証もないのに不安を煽る事を言ったら、今度は楽羅姉が思い詰めてしまいそうだ。
「病院にいると昔を思い出して、塞ぎ込むんじゃないか?」
リン姉は小学から中学にかけて実の親に虐待され続け、衰弱や打撲痕で体がボロボロになって入院した時期がある。
僕を含む周囲の人間がもっと早く気付いていれば、リン姉はあんな酷い目に遭わずに済んだのかもしれない。
虐待が発覚して両親が責められる事態を恐れたリン姉が口を噤み、娘は大切にしないくせに外聞は大切にするリン姉の両親が、見えない箇所を痛めつけていたせいで発見が遅れてしまった。
「……そうかもしれないね。でも依鈴はうちにいるのも嫌みたいだから、自宅療養に切り替えても外を出歩きそう」
楽羅姉の現在の家庭環境は物の怪憑きの中では良好な部類に入るから、リン姉は居づらいのだろう。
春の家に身を寄せる事ができればリン姉は大人しくなりそうだが、物の怪憑き同士の男女交際を認めない
リン姉の問題に解決策が見出せなかったので、話題は
校長と副校長と学年主任が、杞紗のクラスの様子を定期的に見に行くようになったから、いじめの首謀者達とそれに加担した者達はまずいと悟ったのかもしれない。
杞紗が通う学校は名門と評判が高く、良家・名家の令嬢が多く通っている。同級生の杞紗をいじめた事が表沙汰になれば、外聞に傷がついて将来に影響しかねない。
「いじめに手を染めた事が噂になったら、いずれ自分の首を絞める事になるって、ちょっと頭を働かせれば気付きそうなものだけど」
「私が思うに……彼女達は遊び感覚でさっちゃんをいじめていたから、物事を深刻に捉えられなかったのかもしれない」
「……やっぱりキッチリ報復しておくか」
僕が自分の手のひらに拳を叩き込みながら呟くと、楽羅姉は大袈裟に溜息を吐く。
「建ちゃんが報復すると、転校する子が続出しそうだからやめて」
「目には目を、歯には歯をって言うじゃないか」
「その言葉って、度を越えるような復讐をしてはいけないって意味があったと思う。大体ね。さっちゃんが普通の学校生活を送ろうと頑張っているのに、クラスメイトを追い詰めたら逆効果でしょ」
話している内にファミレスに到着した。
注文した料理が運ばれてきても、僕の対面に座る楽羅姉は話を切り出す気配はない。食事を終えてから話すつもりなのかな。
僕はシーザーサラダと和風ハンバーグと唐揚げとライス3人前を完食したけど、楽羅姉はフライドポテトを数本摘んだだけで残りは僕に差し出した。ダイエットって感じではなさそうだ。
「楽羅姉、そろそろ話す気になった?」
食後にドリンクバーから持ってきたコーラをひと口飲んでから、僕はそれとなく促した。
オレンジジュースをストローでかき回していた楽羅姉は、ようやく決心がついたのか重たい口を開く。
「――私がしーちゃんの家に泊まった日の夜に、ね。師範が夾君を庭に呼び出して……数珠を無理やり外したの」
沈痛な面持ちの楽羅姉が語った内容は、俄かには信じられなかった。
猫憑きの従弟は本当の姿をさらす事を、何よりも嫌がって恐れているのだ。それは僕がよく知っている。
夾が全幅の信頼を寄せる師範が強引に数珠を外そうとしたら、夾は誰も信じられなくなるだろう。
けれど、道場で見た夾と師範は以前と変わらず仲良くしていた。何がどうなって最悪の結末を回避できたのか、僕には見当もつかない。
「――信じられない。師範は何を考えて、そんな事を……」
「透君なら、夾君の本当の姿を見ても……受け止めてくれるんじゃないかって……」
「まさか……そんな……本田さんは受け入れたのか?」
ここ数日の夾と本田さんは、以前より距離が縮まったように感じた。それだけで答えは明らかだけど、僕の頭が理解を拒否しているから聞かずにはいられない。
顔を上げた楽羅姉は、絶望を闇に溶かし込んだような目で僕を見据えてくる。
「そうだよ。私達とは違って、透君は逃げなかったの」
記憶の奥底に封じた情景が蘇る。
あれは僕が5歳だった頃の出来事だ。僕と楽羅姉と夾は、
どういう流れでそうなったのかは憶えてないけど、楽羅姉が夾の数珠をつけたがって無理やりはずしてしまった事は記憶に刻まれている。僕は楽羅姉を止めず、嫌がる夾を押さえつけたから同罪だ。
当時の僕と楽羅姉は数珠が猫憑きの本当の姿を封じる役割を果たしていた事や、猫憑きが異形に変身する事を知らなかった。無知は免罪符にはならないけど。
異形の姿を目の当たりにした僕と楽羅姉は、悲鳴を上げて逃げた。途中で2人とも嘔吐した。胃の中が空っぽになるほど戻しても楽にならず、どうやって家に帰ったのか憶えていない。
「……本当の姿になった夾君を追いかける透君の姿を見て、気付いたの。私は夾君の痛みなんて、考えていなかった……」
「それは……僕も同じだ」
自分の事で頭がいっぱいだった僕は、空き地に取り残された夾がどんな思いをしたか考えもしなかった。
僕達が数珠を無理やりはずして、夾が外で本当の姿を晒す羽目になったせいで、夾の母親の
噂でそれを知った僕は罪悪感に苛まれたけど、夾の待遇を改善するための行動を起こす事はしなかった。
僕は再び夾と会う事に、躊躇いを覚えたのだ。
夾が嫌がる事をしたのに、逃げてしまった後ろめたさ。猫憑きの本当の姿に対する恐怖。盃の付喪神憑きである僕を気味悪がって忌避する連中と、同類に成り果てた自己嫌悪。
僕が負の感情を消化できずにいる間に残留思念を読む力の検証が始まって、夾の事は頭の片隅に追いやってしまった。
「同じじゃないよ。建ちゃんは尭子おばさんの葬儀で、夾君を庇ったじゃない」
「いや……あれは庇ったとは言えないよ」
空き地での出来事から約1年経ったある日、尭子おばさんが他界した。猫憑きの息子を持った事を苦に自殺した、と噂されていた。
──猫憑きの子供さえ生まなけりゃ、こんな事にはね……。
──これで2人目だぞ。物の怪憑きを生んだせいで死んだ、哀れな母親は……。
――盃の付喪神憑きの母親は記憶を隠蔽された甲斐無く、病を患ってお亡くなりになったのよね。忌み子を生んだ後悔が心に深く刻まれて、心身共に弱っていたのでしょう。可哀相に……。
――盃の付喪神憑きと猫憑きの母親は、自分の子に殺されたも同然だ。
──猫憑きをごらんよ。泣きもしないよ。自分の母親が死んだっていうのに。
──自分が自殺に追い込ませたくせに。
僕も参列した葬儀会場は、遺児である夾に対する誹謗中傷がそこかしこで囁かれていて。中には僕に対する当て擦りも紛れていたから、当時の僕は苛立ちが募る一方だった。
──夾、おまえに母さんの気持ちがわかるか。あれは事故なんかじゃない、自殺だ。自殺したんだぞ、おまえのせいで。母さんがどれほど辛かったのか……おまえにわかるか。化け物のおまえにそれがわかるか。
妻の葬儀の最中に息子を詰る夾の父親の
父さんは自分の妻の死の遠因となった僕を視界に入れたくないほど強く嫌悪していたから、母さんの他界後に父さんは別居したのだろう。
草摩の主治医である父さんは病弱な慊人の側にいる必要があるから、別の家で暮らすようになったんだと兄さんは説明していたけど。
──あいつのせいだ! あいつが悪いんだ!! あいつを殺しておれも死んでやる!!
夾の言う“あいつ”とは、ゆきの事だと思う。十二支の頂点に座す
――おれも死ねば、おまえはまんぞくなんだろ! そうすりゃまんぞくなんだろ!!
精神的に追い詰められた夾は叫びながら、貢茂おじさんを突き飛ばした。
周囲にいた親族は「父親に手をあげるなんて……」と非難しながら傍観したけど、師範だけは貢茂おじさんに掴み掛ろうとしていた夾を制止していた。
それを見ていた僕は、自分のトラウマを刺激する光景が不愉快で仕方なくて。僕は独りよがりな怒りに突き動かされて、夾達に近づいた。
己と似たような境遇の夾を庇おうとした訳じゃない。夾に残酷な仕打ちをした罪を償おうとした訳でもない。あの時の僕は単に、憂さ晴らしをしたかっただけだ。
──なぁ、きょーのおじさん。母さんがどれほどツラかったのかおまえにわかるかって言ったけど、おじさんはわかっていたのかよ。
──お、おまえは盃の……っ! こっちに来るなっ! 俺に近づくなぁっ!
尻餅をついていた貢茂おじさんは這いずるようにして、僕から距離を取った。僕に恐怖を抱く者は少なからずいるけど、貢茂おじさんの拒否反応は尋常じゃなかったな。
──きょーのおばさんがツラそうにしているとわかっていたなら、おばさんのきおくをインペイしてほしいって、あきとにたのめばよかったんだ。なんでそうしなかったの?
近くにいた師範が制止するように、「
──だっ、黙れ、黙れぇっ!! 夾と同じ母親殺しのくせして、偉そうな口をきくな!
──おれもきょーも、ははおやを殺してなんかいない。ははおやがかってに死んだんだ。
驚愕で目を見開いた貢茂おじさんは、恐怖が滲んだ声で「化け物め……っ」と罵った。
遠巻きに見ていた親戚達も、「亡くなった母親を貶めるなんて人でなしだ」とか非難してきた。
誹謗中傷は聞き流したけど、少し離れた所に立っている兄さんを見た瞬間、僕は後先考えずに発言した事を後悔した。
憂えるように眉根を寄せた兄さんの眼差しには、悲哀と憐憫が籠っているように感じられた。
僕は家に帰ったら兄さんに謝ろうと決意したのだが、その前に予想もしなかった人物に捕まった。
――建視。
感情を排した低い声で僕を呼びとめた40代半ばの男性は、草摩
実父なだけあって兄さんによく似た外見をしていたけど、四角いフレームの銀縁眼鏡のレンズの奥にある切れ長の瞳に温かさは宿っていない。
僕が物心ついた頃には既に別居していた父さんは、草摩の「中」に住んでいたけど、織姫と彦星より顔を合わせる機会が少なかった。というか、父さんはあからさまに僕を避けていた。
草摩の主治医だった父さんは、インフルエンザやおたふく風邪に罹った僕の診察を何かと理由を付けて拒み、父さんの助手に診察を任せていたからな。
父さんの方から接触を図ってきたのは、慊人の性別を僕に教えた時以来だ。
――何故あんな事を言った?
僕の育児を兄さんに丸投げしていたのに、父親面して叱ってきた。
当時の僕は苛立ちを覚える反面、父さんが僕の事を気に掛けてくれているんじゃないかと、儚くも愚かな期待を抱いてしまったのだ。
――あんなコトってなに?
――惚けるな。猫憑きを庇う発言をしただろう。おまえは猫憑きと親しくしているのか?
――べつに……なかよくないよ。
夾に対する罪悪感がぶり返してそっぽを向いた僕を、父さんは冷徹な目で探るように見ていた。
――猫憑きと馴れ合うな。
父さんはそう言い捨てて立ち去った。
それから約半年後に父さんは病死してしまったから、あれが僕と父さんが交わした最後の会話になった。
僕が
猫憑きと親しくしたらおまえの評判が更に悪くなるぞ、と暗に忠告していたのか……いや、それはないな。
父さんはもうこの世にいないから、何を考えて僕に警告したかなんて知る由もない。
考えても無駄だと僕が思考を放棄した頃、黙りこくっていた楽羅姉が再び言葉を発する。
「私はあの時……何も言えなかった。貢茂おじさんに責められていた夾君を、庇えなかった。一緒にいてあげるって……ずっと側にいてあげるって言ったくせに。私は自分を守る事しか考えていなくて」
こんな自分がたまらなく汚く思えて嫌だった、と楽羅姉は消え入るように呟いた。
「楽羅姉の汚さなんて、草摩の人間の中では可愛い方だよ」
僕が慰めの言葉をかけると、楽羅姉は自嘲を含んだ笑みを浮かべて「草摩の人間の中では、ね」と言った。
「もしかして、本田さんと自分の内面を比べている? 楽羅姉と本田さんは育った環境や背負っているものが違うんだから、比較しても意味ないと思うけど」
「……解ってる。でも夾君は透君の事が好きだから、比べずにはいられないの」
「うーん……夾って、本田さんに恋愛感情を抱いているのかな?」
僕は何気なく疑問を発してから、まずいと気付く。楽羅姉のジト目は“それを私に聞くの?”と主張している。
幸いな事に、ファミレスの中で楽羅姉がバーサーカー化する事はなかった。
「夾君は解りやすいタイプだから、建ちゃんも解るでしょ。逆に聞くけど、建ちゃんは何で夾君が透君に恋していないって思ったの?」
夾は今まで本田さんを異性として意識している言動を何度か見せたけど、クラスメイトにからかわれた時は照れる素振りすら見せなかった。
感情が表に出やすい夾は、からかいを回避するために演技ができるほど器用じゃない。それらから導き出せる推測は……。
「夾は本田さんの事が好きだけど、本気にならないように気持ちを抑えつけているんじゃないかな。そんな事をする理由としては、高校を卒業したら本田さんと一緒にいられなくなるから」
猫憑きの夾が外で自由に過ごせる期間は、残り1年半を切った。倖せになればなるほど別れが辛くなるから、夾は本田さんに積極的なアプローチをしないのかもしれない。
「そう……だよね。夾君と透君は……ずっと一緒にはいられない、んだよね」
楽羅姉は憐れむような薄笑いを口元に浮かべてから、自分に嫌気が差したようにぐしゃりと顔を歪めた。愛する人の未来が閉ざされる事を願うなんて、まっとうな愛情とは言えない。
夾に対して罪悪感と憐情を抱きながらも見下す僕には、楽羅姉を非難する権利なんて無いけど。物の怪憑き同士の繋がりは美しい絆じゃなくて醜悪な呪いだと、改めて実感した。
夾の両親とはとりの父親の名前は、独自設定です。
楽羅の暗い打ち明け話で、話の大筋に絡んできそうな部分。
・建視と楽羅は幼い頃に、夾の数珠を無理やり外して夾の本当の姿を見て逃げ出した。
・楽羅は昔逃げた事に罪悪感を抱き、逃げずに受け止めた透にかなわないと思う気持ちが強くなった。
・夾の母親の葬儀で、はとりと建視の父親が建視に向かって「猫憑きと馴れ合うな」と釘を刺した。
今回は要点抜き出しという処置を取りましたが、フルバってこれから重くて暗い内容が増えるんですよね。どうしましょう……?
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26「手帳とっただけだよ」
「あ~あ。
6月中旬の放課後。僕は道場に向かいながら愚痴をこぼした。
僕が逃走しないように見張りを兼ねて共に下校していた
「
「このファザコンが」
「ブラコンのてめぇに言われたかねぇよ」
やいのやいの言い合っている内に到着した。僕と夾は更衣室で道着に着替えてから、道場へと向かう。
夕方の部が始まる1時間前なので、まだ誰も来ていないだろうと思ったら、
私服姿の
僕は燈路と仲直りしたいと思って対話を試みているのだが、未憑きの従弟は反抗期に入っているせいもあって態度を一向に軟化させてくれない。
「燈路っ。てめぇ何度言わせりゃわかんだよっ。道場に土足であがるんじゃねぇ!」
「……別にいいじゃない。まだ誰もいないし」
「いるいないの問題じゃねぇよ。それが礼儀ってモンなんだよっ」
道場の板間にブーツを履いた足を放り出して座っていた燈路は、夾の注意をハッと鼻で笑い飛ばす。
「じゃあ何。礼儀って言われたら、なんにでも従う訳? 死ねって言われたら死ぬ訳? 殺せって言われたら殺す訳? それはまたご立派ですコトっ」
「こンのヘリクツ小僧……っ」
「小学生の燈路相手に、マジで怒るなよ」
「何その言い種。建兄は大人ぶっているけど、一人前として認められるほど何かに貢献している訳? あらゆる税金払っている訳? 未成年って括りでは小学生と同じなんだから、上から目線で物を言うなよっ」
ならば、下から目線で物を言おうじゃないか。僕は跪いて胸元に手を当ててから、プンプン怒る燈路に向けて恭しく告げる。
「先日お電話いただいた件についてですが、燈路坊ちゃんのご希望に沿えず大変申し訳ございません。ご不快な思いをさせてしまいました事を、心からお詫び申し上げます」
「そういう態度は慇懃無礼って言うんだよ!」
「流石は燈路坊ちゃん。難しい四字熟語をよくご存知ですね」
「オレを馬鹿にしているの!?」
褒めたのに、燈路は眉を吊り上げて怒った。僕と燈路のやり取りを見ていた夾が、呆れたように溜息を吐く。
「おい、建視。ガキをおちょくるのはその辺にしろ」
「僕は燈路をおちょくったつもりはないぞ」
無視されるより怒りを向けられた方がマシだと思って、煽った自覚はあるけど。
と、その時、息を切らした
「燈路さん……っ。てっ、手帳……手帳を……」
本田さんは今日バイトが入っているって聞いたけど、なんで道場に来たんだろう。
燈路はドン引きしたように「うわぁ……」と言いながら、本田さんを見遣る。
「何ここまで追ってきているの。どうやって調べたの」
「燈路、てめぇっ、
「はぁ? 何それ。人を邪推する訳? 冤罪だったらどうやって謝罪する訳?」
夾は「う」と言葉に詰まったので、代わりに僕が答える。
「冤罪だったら僕が
「母さんは関係ないだろ! ……単に手帳とっただけだよ」
「してんじゃねぇか、思いっきし!」
「燈路、窃盗は犯罪だぞ。本田さんに手帳を返すんだ」
「人聞きの悪い事言わないでよ。そのボケ女が『とってくれ』って頼んだんだよ」
夾は「ボケ女だぁ……!?」と言いながら、怒りに任せて燈路の胸倉を掴み上げた。それを見た本田さんが焦りを浮かべる。僕は夾の耳に息を吹きかけて、燈路を掴む手を放させた。
「なにしやがる!」
「反抗期に入った燈路はひねくれているだけで、聞く耳を持たない訳じゃない。話せば解るさ。なぁ、燈路。燈路が本田さんを侮辱した事を、杞紗が知ったら悲しむと思わないか?」
「杞紗は関係ないだろっ!」
顔を真っ赤にした燈路が叫んだ瞬間を狙ったように、中学校の制服を着た杞紗が道場の入口に現れた。噂をすれば影とは正にこの事。
「燈路ちゃん……お姉ちゃんの物……とったの?」
「あっ、杞紗さんっ、こんにちはっ。ですが、何故ここに……」
「なるほどね……全部ウサギの差し金って訳」
入口から顔をのぞかせた
紅葉は本田さんのバイト先によく遊びに行くので、手帳を盗まれて悲嘆に暮れる彼女から話を聞いて、杞紗に知らせたのだろう。
「燈路ちゃん……返さなきゃダメだよ。お姉ちゃんを困らせるような事……しちゃダメだよ……」
「バッカみたい……オレだっていらないよ、こんな物っ」
癇癪を起した燈路は、手帳を本田さんに叩きつけた。何て事を。燈路の乱暴な振る舞いを目の当たりにして、杞紗が青ざめている。
「燈路ォ!!」
「本田さんに謝れよ」
「Das ist keine Art!(これはよくないよ!)」
夾と僕と紅葉は立て続けに、燈路を非難する。
本田さんは穏便に済ませたいのか、「あの、もうよろしいのですよ……」と折れた。夾が即座に「よかねぇ!!」と言い返す。燈路の教育的にも良くないので、今回は夾に賛成だ。
「ひ……燈路ちゃん……っ。どうしたの。どうしてそんな……そんな悲しくなるような事したら……イヤだよ」
杞紗が涙ぐんでしまった。これは燈路にとって精神的ダメージが大きいだろうな。今度こそ素直に謝るかと思ったら。
「“お姉ちゃん、お姉ちゃん”って、なんだよ、いつも……いつもボケ女の話ばっかりしてさっ」
逆切れした燈路の言い分によれば、燈路は杞紗と一緒に観るつもりでビデオを貸したのに、杞紗が先に本田さんと一緒に観た事が気に入らなかったらしい。背伸びしていても燈路はやっぱり子供だなぁ。
「でも燈路ちゃん、ビデオ貸してくれた時……一言もそんな事」
「そんな事いちいち口で言わせる訳!? 察してよ!!」
「ヒロ、ムチャ言ってるーっ」
「熟年夫婦でも無理な芸当を、杞紗に要求するなんて……」
燈路は「うるさいよ、ウサギ、盃っ」と言い返してから、悔しそうに俯く。
「そりゃあオレは何の力にもなれなかったけどっ。杞紗が大変な時に、杞紗に何もしてやれなかったけどっ。だけど“お姉ちゃん、お姉ちゃん”って、そればっかりで。オレだって……杞紗の事すごく……すごく心配……して」
「何もしてやれなかったって事はないだろ。杞紗を捜した時、燈路は杞紗が行きそうな場所を教えてくれたじゃないか」
僕の指摘を受けた燈路は不服そうに、「杞紗の側にいて力になる事ができなかったって意味だよ」と答えた。
「……何がなんだってんだ?」
「夾はニブチンだな」
やれやれとばかりに僕が言うと、夾は「あ?」とドスを利かせた低い声を発した。
「ヒロはトールにヤキモチ焼いてたんだよ。背伸びしててもヒロはやっぱり小学6年生だもん。ブキヨーなのねっ」
紅葉が夾に親切解説する一方で、杞紗は燈路の手を取って優しく話しかけている。
「ごめんね、燈路ちゃん……今度は絶対一緒に……観ようね……」
杞紗を気遣ったつもりが杞紗に気遣われた結果になって恥じているのか、燈路の顔にさっと朱が差した。燈路の内心は複雑だろうが、杞紗と燈路の心理的距離が縮まったようで僕は胸を撫で下ろす。
「……さしずめ、私は恋のライバルだったのですね。嬉しいやら、差し出がましいやらです……」
「トールは辛い立場ね……っ」
紅葉はそう言いながら、本田さんとちゃっかり手を繋いでいた。
幼い外見を利用した紅葉の対人スキルを、燈路は見習えばいいのに。とか思っていたら、燈路は杞紗とまだ手を取り合っている事に気付いた。
なんだろう、この敗北感。
「……でも燈路ちゃん、お姉ちゃんにもちゃんと謝って……?」
「そうだよ、ヒロっ。トール、今日はバイトなのにチコクだよっ」
杞紗と紅葉に促されても、燈路はふて腐れた顔をしている。すぐには素直になれないのだろうけど、窃盗は犯罪だからな。
「いっ、いいえっ。謝っても許しませんっ。燈路さんには罰を受けて頂きますっ!」
寛容な本田さんが、まさかの罰宣言。
大人しい人ほど怒ると怖いと言うけど、暴走族の特攻隊長だったお母さんから教わったケジメの付け方を試す気ではなかろうか。流石にそれはないと思いたい。
「何さ、ソレ……何をさせる気?」
「……抱きしめの刑!! です!!」
数秒考えてから、本田さんは燈路を正面からハグした。
ボンッ! と、小規模な爆発音と同時に煙が発生する。
「きゃははっ。ヒロが何年か気になっていたのねーっ」
「アホ……それのどこが罰だっての……」
「むしろご褒美だよな、夾」
「俺に同意を求めンな!」
「……改めまして。よろしくお願い致しますです。燈路さんっ」
本田さんに抱っこされた薄茶色の毛並みの仔羊は、茶色の目を見開いてビクついている。そんな燈路を見て、杞紗が安堵と喜びを含んだ笑顔を広げた。
燈路は本田さんが他者に与える安らぎと同程度の安心感を、杞紗に与えられる男にならなくてはいけないのか。険しい道を行く事になる幼い従弟に、僕は心の中でエールを送った。
それから数十分後。道場にやってきた師範は短髪になっていた。
イメチェンした師範を見た門下生達から、どよめきが起こる。
「……師範は10年以上前から髪を伸ばしていたのに、今になってバッサリ短く切るなんて。一体どういう心境の変化があったんだ?」
「……ひょっとして、大失恋をしたんじゃ」
「……バカッ、迂闊な事を言うな」
様々な憶測が流れ、師範の髪型には触れないという暗黙の了解ができたのだが。
稽古が終わった後、夾が単刀直入に切り込んだ。
「師匠、なんで髪切ったんだ?」
道場のそこかしこで、夾を責める声と讃える声が同時に聞こえた。なんだかんだ言って、みんな気になっていたからね。
「験かつぎのようなものだったから、もう切っても誰かさんは大丈夫な気がしてね」
そう答えながら、師範は慈父のような微笑みを浮かべた。
養い子のために願掛けをするなんて、師範は夾の実父より遥かに父親している。比べるのもおこがましいレベルだ。
僕を含む門下生達が温かい眼差しを送ると、それに気付いた夾は顔を紅潮させて「変な目で見るな!」と怒鳴った。
うむうむ、今日も平和だ。
▼△
6月下旬からプールの授業が始まる。イェーイ!
学校指定のスクール水着ではなく、自分が持っている水着を持ってきていいらしい。イーヤッホー!!
花島さんは黒い水着だろうな。僕としては花島さんのビキニ姿を拝んでみたいけど、他の男子の目に触れる事を考慮すると比較的露出が少ないワンピースの方が良い。
初回のプールの授業の前日まで僕は妄想を膨らませていたのだが、現実はあまりにも残酷だった……!
「プールの授業は男女別って……
プール脇の更衣室の中で、僕は血涙を流さんばかりに吼えた。近くにいた2‐Dの男子生徒の大半が、同情の視線を僕に投げかける。
「けんけん、元気出せよ。一緒に午後の授業をサボって、女子のプールを見に行こうぜ」
「おお、ろっしー……我が心の友よ……」
素晴らしい提案をしてくれたろっしーと固く握手を交わしたその時、青いサーフパンツ姿になった
「建視が午後の授業をサボったら、その理由も含めてはとりに言いつけるぞ」
「なんで僕だけ責めるんだ。プールサイドで半裸を晒す由希を見るために、授業をサボっている生徒を注意しろよ。盗撮された由希の水着写真が闇取引されても知らないぞ」
実際、中学時代に水着姿の由希の盗撮写真に1万円の値が付き、密かに売買されていたからな。
問題の盗撮写真は、エン・ユキのメンバーが血眼になって回収した後に焼却処分したけど、全て跡形もなく処分されたかどうか疑わしかった。
僕は経験を踏まえてアドバイスしてやったのに、由希は軽蔑の籠った眼差しを僕に向けてくる。
「馬鹿な事を言って話を逸らそうとするな」
天然王子を地で行く由希は、肝心な処が無防備だ。この分では、由希の着替えをチラ見していた数名の男子生徒の視線にも気付いていまい。
「僕は真面目に忠告しているんだ。風紀委員として由希の水着写真の闇取引を取り締まってやるから、僕とろっしーが午後の授業をサボるのは見逃せよ」
「建視が女子のプールを覗きに行くと、花島さんに言いつけてやる」
「お父さん、お父さん、魔王がいるよ!」
「ふざけてないで、さっさと着替えろ」
由希に急かされ、僕は臙脂色のサーフパンツ姿になった。黒の絹の手袋を外して、防水加工が施されたメッシュ素材のダイビンググローブを装着する。修学旅行で風呂に入る時も、これを使う事になるだろう。
「けんけんは、プールに入る時も手袋をつけるんだね」
「封印の手袋を10分以上外すと、僕の両手に宿った邪神が暴れ出すんだ」
すけっちは「なんだよ、それ」と言って笑ったけど、ろっしーはそっと目を逸らした。ろっしーは中学時代に、自分はいつか特別な力に目覚めて世界を救うと思い込んだ経験があるのかもしれない。
ちなみにプールの授業を受け持つ体育教師には、「
体育教師に「本当にそんな命令が出たのか?」と聞かれたので、「お疑いでしたら草摩の本家に確認を取ってください」と言ったら、それ以上追及してこなかった。
「きょんきょんの姿が見えないけど、サボリなのかな」
すけっちの疑問に、僕は「だろうね」と応じた。
猫憑きは生来水が苦手なので、水の中に長時間入ると体がだるくなって動けなくなるらしい。夾が小学生の時は学校のプールで泳いでいたけど、中学に上がってからはプールの授業に出た試しがない。
サボり続けると保護者が呼び出されるから、僕が代わりに「夾は小さい頃、池で溺れて死にかけた事がトラウマになっています」と嘘の言い訳しておいた。
体育教師は夾がプールの授業を受けるのを免除する代わりに、プールサイドで腹筋と腕立て伏せをするようにと条件を出してきた。
クソ暑いプールサイドで夾が真面目に筋トレをするとは思えなかったので、体育教師の言いつけを無視するだろうと予想していたのだが。
「あっ、きょんきょんいたっ! 見学すんの?」
「見りゃ解るだろ」
学校指定のTシャツとハーフパンツ姿の夾が、プールサイドにいる。目の錯覚じゃないよな。他人の空似でもない。あのオレンジ頭は夾しかいない。
「……夾がプールの授業を見学するなんて……明日は雪が降るんじゃないか?」
僕が信じられない思いで呟いたら、それを聞き取った夾が「降らねぇよ」と言い返した。
「それよか建視、てめぇ、先公に妙な事吹き込んだだろ。養護教諭にいきなり、悩みがあるなら相談に乗るとか言われたぞ」
「保健室へのお誘いか。なんかエロいな」
すると、夾が生ごみを見るような目を僕に向けてきた。この程度の下ネタで引くなよ。おまえは潔癖な女子か。
「おい、リンゴ頭っ」
女子のプールの授業が終わった放課後、魚谷さんに呼び止められた。
「なに、魚谷さん。どっか遊びに行くの?」
「出かけるのは明日だ。透の水着を買いに行くから、リンゴ頭も一緒に来いよ」
思いもかけぬ誘いを持ちかけられ、僕は笑顔のまま硬直した。
中学時代に付き合った女の子とショップ巡りをしながら服選びをした事はあるけど、水着選びに付き合った事はないぞ。
「……女の子同士で買いに行った方がいいよ」
「皆からのプレゼントって事で透に水着を渡すから、おまえも選ぶのに付き合えよ」
おまえ“も”という事は、由希と夾も巻き込まれるのか。
僕1人で女の子達の買い物(しかも水着選び)に付き合うのはキツイから、それはいいとして。
「僕達も含めたプレゼントなら、バッグや小物とかの方がいいんじゃないかな」
「……透はまだスクール水着を愛用しているんだよ」
沈痛な表情を浮かべた魚谷さんの言葉を聞いた瞬間、僕は背後に稲妻フラッシュが出現するような衝撃を受けた。
本田さんはバレンタインの時は惜しみなく自腹を切ったのに、自分の水着を新調するお金は惜しんだのか……?
「何それ、切ない……っ」
「そうだろ、そうだろ。ンじゃ明日、物書きの家に集合なっ」
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27「パッと受け取れや」
レディースファッション店は、当然ながら女性客だらけ。しかも陳列されている夏物の服に水着が加わっているせいか、男を寄せ付けないA.T.フィールドが展開されているように見える。
「なあっ。おまえら、ビキニとワンピース、どっちが好みだ!?」
店内にいる
店の外で待機していた僕は、心の中で(聞かないでください!)と懇願する。気まずそうな顔で黙り込む
「なぁってば、おいっ。こっち来て協力しろよっ」
おへそが見えるショート丈の開襟シャツに、タイトなロングスカートを合わせた格好の魚谷さんが店の外に出てきた。
「ごめん、店内に入るのは無理。僕は本田さんにはフリル付きのビキニが似合うと思う」
「店には入れねぇのに具体的な意見が出るなんて、リンゴ頭はむっつりスケベだな」
正直に答えたのに、この仕打ち。魚谷さんは声を抑えずに言い放ったから、店内にいる
「王子ときょんはどう思う?」
「……俺に振らないで」
「
由希と夾は回答を避けたので、僕は死なば諸共とばかりに食らいつく。
「逃げるな。おまえらも答えろ。そして共にむっつりの汚名をかぶるのだ」
「むっつりだろうがオープンだろうが、男は全員スケベなんだから気にすンなよ。べっつに、下着の好みを聞いている訳でもねぇんだしよォ」
魚谷さんの明け透けすぎる言い方に、僕と由希と夾は揃って顔が赤くなった。レディースファッション店の前で羞恥プレイを受けるなんて、今日は厄日か。
「おめーはもうちっと恥じらいを持てや! 頼むからっ」
「わーかったよっ。ンじゃ色! 透に似合う色ぐらいは思いつくだろ!?」
由希は「青……?」と答え、夾は「オレンジ?」と答え、僕は「白かな」と答えた。見事にバラバラだ。
「青だぁ……? てめぇ、あいつのどこ見てそんな寒々しい色思いつくんだ」
「おまえこそオレンジなんてよく言えるよ……そんなバカ色、どこぞのバカの色じゃないか」
対抗意識を燃やした由希と夾が、睨み合って言い争いを始めた。それはいつもの事だけど、場所が悪い。
青いデニムスカートやオレンジ色のTシャツを品定めしていた女性客が、商品を棚に戻している。
「2人とも、営業妨害になるから言い争いはやめろよ」
僕が仲裁に入ったけど、お互いの姿しか目に入っていない夾と由希は口論を止めない。
青推しの由希とオレンジ推しの夾の仁義なき口喧嘩に、「ピンク……」と静かな声が割って入る。
「透君にはピ・ン・クよ……それ以外の何色が似合うというのかしら……似合うけれど……もう一度勉強して出直してらっしゃい……」
キャップスリーブの漆黒のロングワンピースを身に纏い、二の腕まで覆う黒い手袋をつけた花島さんは、背景に『ゴゴゴゴゴゴ』と描き込まれていそうな威圧感を放っていた。
気圧された由希と夾は、即座に口を閉ざす。
「そうだなっ。透にはピンクだなっ」
「もう決まってんなら聞くなよ!」
夾が抗議すると、魚谷さんは「一応意見を聞いてみたって事で」とあっさり流す。
「透にはピンクって
本田さんのお父さんは白が似合う人なのか。サラッとしていたという言葉から想像するに、淡白な人だったのかな。
ちなみに僕が本田さんに似合う色として白を挙げたのは、本田さんは清純なイメージがあるからだ。
綾兄と
せっかく本田さんにドレスを着せたなら、由希の初来店も兼ねて記念撮影すればよかったのに。僕が電話を通してそう言ったら、綾兄はこんな発言をしていた。
『ボクとした事がっ! 由希のロマン記念日の制定に浮かれて、記念撮影を忘れてしまったよっ! 由希に会ったら何時でも記念撮影できるように、これからは常にカメラを持ち歩く事にしようっ』
会う度に写真を撮られたら由希は嫌がるんじゃないかと僕は忠告したけど、綾兄は『弟の成長を記録するのも兄の務めっ!』とか言って、すっかりその気になっていた。
なんというか、由希ガンバ。
「魚谷さんも花島さんも、本当に……本田さんが大好きだね」
由希が出し抜けに言うと、魚谷さんは感慨深い笑みを浮かべて「おうよっ」と答える。
「前に言ったけど救われたトコあるし、何よりあたしがこうしてカタギの世界で笑ってられんのも、透がいてくれたからだしなっ」
「おめぇはカタギか?」
「カタギじゃん」
カタギという言葉が当たり前のように出てくる時点で、カタギじゃない。僕はそう思ったけど、余計な事は言わないでおく。
僕達は店内に入らなかったのでどういう水着にしたのか不明だけど、買い物を終えた本田さん達が店から出てきた。
水着の代金は、僕と由希と夾とぐれ兄と花島さんと魚谷さんの6名で均等割りして、会計を済ませた魚谷さんに後でお金を渡す事になっている。
この場にいないぐれ兄が頭数に入っているのは、本田さんがスクール水着を愛用していると聞いたぐれ兄が居た堪れなくなって、新しい水着を買う案に大賛成したからだ。
「え……プッ、プレゼント……ですか!? そっ、そんな、あの、私はそんな」
サプライズで水着を渡すと、ちょうちん袖がついたワンピースを着た本田さんは目に見えて動揺した。
「いいからパッと受け取れや……」
「そうよ……日頃の感謝の気持ちですもの……」
「本田さんに受け取ってもらえると嬉しいな」
「受け取って、本田さん」
夾、花島さん、僕、由希が順番に声をかけた。水着が入ったショッピング袋を抱き締めた本田さんは、焦げ茶色の瞳を潤ませる。
「あ……ありがとうございます。大切に……大切にします……っ」
「透……っ」
「透君……」
魚谷さんと花島さんは、本田さんを挟むようにぎゅっと抱き合っている。何だろう、この拝みたくなる気持ちは……。
それから僕達はちょっと早めの昼食をとるため、蕎麦屋に入る。注文した料理が運ばれてくるまでの間、魚谷さんの過去話を聞く機会に恵まれた。
魚谷さんが暴走族に入っていた事は本人から聞いて知っていたが、まさか小学5年生で族デビューしたとは思わなかった。想像以上にバリバリの不良だったんだな。
人を殴る蹴るは当たり前。火を使って警察に追いかけられた事もあるそうだ。
それ以上の事もしていそうな感じだったが、魚谷さんは苦笑して「やらかした事全部言ったら、おまえらの耳腐らせちゃうな」と言葉を濁した。
自分が行った悪事をひけらかしたがる輩もいるが、魚谷さんはそういうタイプじゃないようだ。
「あたしはどうしようもないバカだったけどさ。すごく憧れている人がいたんだ。それが今日子さん」
男をさしおき、女だてらに特攻隊長。
荒れていた頃の魚谷さんが、本田さんと知り合うきっかけになったのは、レディースの先輩から教えられた現在の赤い蝶に関する情報。
結婚して本田という名字に変わった赤い蝶が近所に住んでいて、その娘が自分と同じ中学校に通っているかもしれないと聞き、魚谷さんは久々に中学校に行って、本田さんと偶然出会った。
「初めて会った時の透はノートを山ほど抱えて、あたしにぶつかってきてさ。透が腰を折って謝ろうとしたら、ノートがずざーっと雪崩みたいに廊下に落ちていって。あン時のあたしはドン引きしたけど、今見たら爆笑する自信がある」
昔の魚谷さんはノートが散らばって困惑する本田さんを無視しようとしたが、もたつく本田さんを見かねてノートを拾うのを手伝ったようだ。魚谷さんの人の良さが垣間見える。
ノートを集める際に本田さんの名前を聞き出した魚谷さんは、本田さんが赤い蝶の娘だと知って悔しさのあまり泣いたらしい。
赤い蝶の娘は自分と同じバリバリのヤンキー女だろうと予想していたのに、荒んだ雰囲気とは無縁のほんわかした本田さんを目の当たりにしたら、理想と現実の落差の激しさにショックを受けても無理はない。
「お待たせ致しました。ざるそばをご注文のお客様」
話の途中で、和服姿の女性店員が料理を運んできた。由希が小さく挙手をすると、店員は頬を赤らめて嬉しそうに配膳する。
程無くして魚谷さんが頼んだ冷製とろろそば、本田さんと花島さんが頼んだ月見そば、僕が頼んだ鴨せいろそば、夾が頼んだカツ丼が届いた。
「んで、透に『ぜひお母さんに会ってあげて下さい』って誘われて、あたしは透ン家に初めて行った訳よ」
今より尖っていた魚谷さんを初対面で家に招くなんて、本田さんは豪胆だ。いや、天然なのか。
本田さんの家に初訪問した魚谷さんは、非常にガッカリしたらしい。
喧嘩が強くて漢気があって馴れ合いは嫌っていたという赤い蝶は、公道のど真ん中で娘に抱きつくような親バカになっていたからだ。
「勝手な話だけどな。勝手にヒーロー像を作り上げといて、本人に会ったら『こんな奴とは思わなかった』とか思うなんて。そんなん想像と違って当然なのに、勝手だよなぁ。今日子さんは……笑っていたけど」
失望した魚谷さんは中学校に行かなくなり、喧嘩に明け暮れる日々を送った。そんなある日、女子高生のヤンキー2人組に因縁を付けられ、魚谷さんは袋叩きに遭ってしまう。
魚谷さんは高校生のヤンキーから逃げていた途中で、買い物帰りの本田さんと鉢合わせた。
本田さんは魚谷さんが追われていると知るや否や、問答無用で魚谷さんの手を引いて走って本田家に匿ったらしい。おっとりした本田さんから想像できない男前なエピソードだ。
「あたしの母親はあたしが小1の時、他に男作って出て行った。父親は昔っから酒ばかり飲んでいて、娘の事なんか気にもしない。そういう家庭だったから、透ン家のあったかい雰囲気が居心地悪くてしょーがなかった」
魚谷さんが最初に本田家に訪問した時は、自分だけ除け者にされたような居心地の悪さを突き詰めるのが嫌で、苛立ち任せに本田母娘に暴言を吐いて出て行った。
だけど2度目に訪れた時、魚谷さんは居心地の悪さの正体に気付いたらしい。
「あたしは温かい家庭ってのを知らなかった。知っていたとしても、昔のあたしは『おまえなんか親じゃない』って平気な顔で言ったよ。だったら結局、優しい親を持ってようが持ってなかろうが何も違わない。一緒のはずだと思っていたけど……」
兄さんに慈しんでもらったおかげで、僕は温かい家庭がどういうものか知っていた。僕の弱音やとりとめのない話を兄さんは嫌な顔をせずに聞いてくれたし、僕が悪さをしたら兄さんに厳しく叱られた。
兄さんさえいれば、両親がいなくても寂しいなんて思わない。両親を不要と思うのは冷淡かもしれないけど、父さんと母さんも僕の事を拒絶したからお互い様だ。
その考えは今も変わらないけど、何か重要な事を見落としているような焦燥感にふと囚われた。
「帰りを待つ人や笑顔で迎えてくれる人が欲しいって、羨ましいって渇望する気持ちがあったんだ。ずっと前から心のどこかで寂しがっていたけど、強がってないと折れちまいそうだったから認められなかったんだよ」
強がってないと折れちまいそうだったという、魚谷さんの言葉には強く共感した。
僕は父さんと母さんに愛されなかった事を直視するのが怖くて、両親は必要ないと己に言い聞かせ続けてきたから。それは薄々気付いていたので、臆病な自分を目の当たりにしてもそんなに衝撃はないけど。
僕が打ちのめされた気分になっているのは、兄さんの気持ちを思いやれなかった事に今更ながら気付いたからだ。
両親を喪った哀しみを表に出さずに僕を育ててくれる兄さんは、父さんと母さんを恋しく思う時があるのかもしれない。
父さんと母さんの話をしたいと思っても、僕が両親を疎んでいるから思い出話すらできなくて、1人で寂しさを抱え込んでいるんじゃないか?
……兄さんを気遣える心の余裕を持つと決めたのに、大切な人の心の痛みに今まで気付けなかったなんて、自分の情けなさに腹が立つ。
兄さんに縋って甘えていた子供の頃から、僕の精神面はちっとも成長していない。僕は兄さんから与えられてばっかりで、兄さんの気持ちに寄り添おうとしていなかった。
家に帰ったら兄さんに、父さんと母さんの話をしてほしいと頼んでみるか。
でもなぁ。僕が唐突に両親の思い出話をせがんだら、兄さんは驚いて戸惑うだろう。あるいは、僕に何かあったのかと心配するかもしれない。
両親の月命日にそれとなく聞いた方が、兄さんの衝撃は少なく済みそうだ。
「……なーんて、こっぱずかしい青春語っちまったな。何にせよ、透ラブっ」
「ラブね……」
魚谷さんと花島さんは、再び本田さんを抱き締めた。眼福です、ありがとうございます。
蕎麦屋から出る前にヤンキー風の女子中学生3人に絡まれるアクシデントが起きたけど、買い物は無事に終わった。
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28「暴れてんだよ」
修学旅行の日程と行き先が決まった。
日程は、10月11日から14日までの3泊4日。行き先は、1000年を超える歴史と文化を誇る京都・奈良だ。
中学校の修学旅行で京都方面に行ったクラスメイトの何名かは、がっくりしていた。京都と奈良は神社仏閣がたくさんあるから、1回の旅行じゃ全部見て回れないと思うけど。
僕は京都と奈良は初めて訪れるから、今から楽しみで仕方ない。それ以外にも楽しみな要素があるけどね!
「今日のホームルームは、修学旅行のグループ決めをしてもらう」
黒板の前に置かれた教卓に腰掛けた
「グループ行動は強制じゃないが、集合時間に間に合うようにグループの中で決まり事をしっかり作っておけよ。旅先で迷子が続出すると面倒だからな」
「先生、本音が出てるよーっ」
「何十人もの学生のお守りをする身になってみろ」
ついにこの時がきたか。僕は
何としてでも、
野望をたぎらせているのは僕だけにあらず。クラスの女子の大半が、
狙われている事に勘付いたのか、由希の表情に焦りが見受けられる。
由希も、本田さん達のグループに入りたいと思っていそうだけど。
僕が由希と
修学旅行中は勝負を仕掛けてくる女の子が続出しそうな予感がするから、抱きつかれて変身してしまう危険性は普段より高い。
万が一の際に助け合うため、物の怪憑き同士で行動を共にしていた方が合理的なのだが、由希と夾は自分で何とかするとか言い張りそうだ。
「おーい。王子とリンゴ頭、ちょっとこっち来い」
呼びかけてきた魚谷さんの席の近くには、本田さんと花島さんが既に集まっている。
僕はいそいそと席を立った。由希は一瞬嫌そうな表情を浮かべたけど、諦め顔になって立ち上がる。
「そんじゃ、この6人でグループ行動をするって事で」
魚谷さんは、後ろの席に座る夾の肩をガシッと掴みながら宣言した。漫画を読んでいた夾は、「はぁっ!?」と驚きの声を上げる。
それと同時に、女子達の悲鳴がそこかしこで上がった。鳶に油揚げをさらわれたも同然だからな。
でも、僕は声を大にしてお礼を言いたい! 魚谷さん、どうもありがとう! 貴女のおかげで、花島さんと一緒にグループ行動するという悲願が叶うよ……!
「ざっけんな! クソ由希と一緒に行動するなんざ、俺はぜってぇゴメンだかんな!」
「俺だって、バカとグループ行動するのは御免だよ」
不満をありありと浮かべた由希が、条件反射のように言い返した。
険悪な2人を楽しそうに眺める魚谷さん。『京都・奈良うまい店百選』というガイドブックを熟読中の花島さん。おろおろしながら、夾と由希の口喧嘩の仲裁を試みる本田さん。
うむ、実に個性的なグループだ。
「気に食わない奴と行動を共にするのも、社会勉強の内だぞ」
僕が言い聞かせると、由希と夾は同時に僕を睨みつけた。おまえも気に食わないんだよ、という2人の心の声が聞こえる。
他のクラスメイトのグループ決めはすんなり済んだようで、繭子先生はホームルームの終了を告げて教室から立ち去った。
「俺は本田さん達とグループ行動する事に不満はないよ。生徒会の方に顔を出さないといけないから、ちょっと抜けるね」
「由希君っ、新しい生徒会のメンバーの方とはお会いできましたか?」
本田さんの問いかけに、由希は困惑気味に「……ううん、まだなんだ」と答える。
「生徒会の新メンバーは大体決まっているらしいんだけど、
「竹井会長が新メンバーを公表しないのは、メンバーの中に女の子がいたら、嫉妬に駆られた由希のファンが辞退しろと脅すかもしれないと危ぶんだからじゃないか?」
僕があり得そうな事態を想定すると、由希は呆れ顔で「俺のファンなんていないって、前にも言っただろ」と反論した。
「わかってねーなぁ、王子は」
「由希は純粋培養された、天然無自覚王子サマだから」
「……っ! 時間だからもう行くよ」
由希がプリプリ怒りながら教室から出て行った後、僕らはグループ行動で回りたい場所を挙げていく。
「1日目は嵐山に行くんだよね。世界遺産に登録された天龍寺を見てみたいな」
「あたしは渡月橋を渡ってみてぇな。つか、嵐山に到着するのは昼前だから、昼飯なに食うか決めといた方が良くね?」
「私は湯豆腐が食べたいわ……」
花島さんが食べたいと言ったからという理由を抜きにしても、京都の名物料理の1つである湯豆腐は食べたい。僕が賛成すると、魚谷さんと本田さんも同意した。
「夾も湯豆腐でいいか?」
「勝手に決めろ」
グループ行動の面子に不満がある夾は、そっぽを向いて投げやりに答えた。ふーん、勝手に決めていいんだ。
「それじゃ、夾はねぎの味噌焼きとニラをたっぷり入れた牡丹鍋*1で」
「湯豆腐って言っていたじゃねぇか!」
「自分の希望をちゃんと言わないと、夾が望まないものに決まっちゃうぞ」
「おめぇが俺の嫌いなモンを、わざと提案しているンだろが」
その時、教室の引き戸が開いて
「トールっ、ケンっ、ユキっ、キョー。大変、大変っ。大変なのー!!」
「こっちも大変なんだよ」
そう受け答えながら魚谷さんは、睨み合う僕と夾に向かって顎でしゃくる。
本田さんが事情を説明すると、紅葉は「ボクも一緒に行きた~いっ」と言い出した。
「自腹でなら、文句を言われないかもしれないわよ……」
「ジバラで行くー!!」
花島さん、紅葉に入れ知恵しないで。
「それより紅葉、何が大変なんだ?」
僕が話を逸らすために問いかけると、紅葉は思い出したと言うように「あ」と声を漏らす。
「そうなの、大変なの。ハルがブラックになって、クラスでスサマジく暴れてるのー」
あっちゃ~。春は最近沈んでいるように見えたけど、ブラックが降臨するほどの悩みを抱えていたのか。
僕だけじゃブラック春を鎮圧できないかもしれないので、夾に応援を要請した。
夾は面倒臭そうに顔をしかめたけど、了承してくれた。猫憑きの従弟にとって春は弟弟子でもあるから、放っておけないと思ったんだろう。
「わ、私もご一緒します!」
「危ないから本田さんは行かない方がいいよ」
「
僕と夾の制止を受けた本田さんは、しょぼんと項垂れた。可哀相だけど、暴れているブラック春に近づくのは本当に危険だ。
行くのは諦めて教室で待機してくれるかと思いきや。顔を上げた本田さんは、決意を秘めた面持ちになっている。
「
「見に行くだけなら構わねぇだろ。透が怪我しないように、あたしが体張って守るし」
「私も行くわ……
花島さんが本気を出す前に、全力で春を止めよう。冷や汗を浮かべた僕と夾は視線を交わし合い、共通の目的を掲げた。
「なんで、紅葉が本田さん達と一緒にいるんだ?」
1年生の教室がある校舎に向かう途中で、由希と出くわした。
「ブラックになったハルがクラスで大暴れしているから、みんなで止めに行くのよっ」
紅葉の説明を聞いた由希は頭を抱えた。
ブラック春の暴走より花島さんの制裁の方が危険度は高いけど、話がややこしくなるから言わないでおく。
春と紅葉が在籍する1‐Dの教室の近くには、人だかりができていた。由希が「道をあけて」と呼びかけると、人波がサッと2つに別れて道が現れる。モーセかよ。
「皆は……先生ももう少し、教室から離れていて下さい」
由希が指示を出すと、女子生徒だけでなく男子生徒や男性教師までもが頬を赤らめる。
プリ・ユキは女子生徒しか所属してないようだけど、由希を崇める男子生徒が集う地下組織があっても驚かないぞ。
「おい、春っ」
「あ゛あ゛……!?」
夾に呼びかけられた春は、ありったけの敵意を込めてガンを飛ばす。
教室の窓ガラスはほとんど割れ、机や椅子や教科書などが床に散乱している。これはひどい。
「おーおー、派手にやったなぁ」
どことなく楽しそうに言う魚谷さん。
由希は溜息を吐きながら、「なにやってんだよ、春……」と声をかける。
「暴れてんだよ、見てわかんねぇのかよ。止めてぇなら、息の根止める覚悟でかかってこいや……っ」
持っていた椅子を床に叩きつけた春は、手招きをしながら挑発してくる。
うーむ。予想以上に重症のブラックが降臨しているな。ぶん殴っても水をかけてもホワイト春に戻らない可能性があるから、念のためにアレを持ってくるか。
僕が考えをまとめている間に、半壊した教室に足を踏み入れた夾が春に声をかけている。
「ふざけた事ぶっこいてんじゃねぇぞ、春。てめぇが暴れっと、こっちも迷惑なんだよ」
「うっせぇ、バカ猫。てめぇは存在自体が迷惑なんだよ、バカ猫」
煽られた夾が戦闘モードに入りそうだ。由希が「挑発に乗るな、バカ」と窘めたから、夾の怒りは由希に向いて校内バトルは回避された。
紅葉と由希と魚谷さんに続いて、本田さんも教室に入ろうとしていたので、僕は「待って」と呼びとめる。
「本田さんに頼みたい事があるんだ」
「え、あ、はいっ。私にできる事なら何でもしますっ」
僕がバケツに水を汲んできてほしいと本田さんに頼んでいる間、由希はブラック春の説得を試みている。
「春……理由はわからないけど、学校で暴れるのはよせよ」
「ハ……っ。心配性だな、由希姫は。暴れついでに変身されちゃ困んだろ? 共倒れだもんな」
ブラック春ぅぅぅ! 迂闊な発言するなよ。魚谷さんが怪訝そうに、「変身?」って呟いているじゃないか。
花島さんは本田さんと一緒に水汲みに行ったから、聞いてなかったようだ。
「違うよ。それだけを言っているんじゃない。もっと……」
「バカくせぇ……バカくせぇんだよっ。ビクビクしやがって……っ。そんなんなら、いっそ全部バレちまったほうが清々する!」
今まで春がブラック化した事は何度もあるけど、こんな事を言ったのは初めてかもしれない。
春が抱えている悩みは、十二支の呪いが関係している事柄なのか。あるいは、十二支憑きの誰かと何かあったのかも。
考察は後回しだ。決定的なボロが出る前に、ホワイト春に戻さないと。僕は廊下の一角に設置された消火器を取りに向かう。
火事でもないのに消化器を使用すると、兄さんが学校に召喚されてしまうのだが、春の暴走が激化して停学処分になってしまうよりマシだ。
「2年の草摩君、消火器を元あった場所に戻しなさい」
僕が消火器を持って1‐Dの教室に引き返そうとしたら、教師に注意された。
「完全にブチ切れた状態の春は、消火器を噴射しないと正気に戻らないんです。機動隊が消火器を用いて、暴徒を鎮圧するのと同じですよ」
「暴徒って……消火器は火災が起きた時のために設置されている。それ以外の目的で使用するのは、認めらr」
「このクソガキ、ぶっ倒したらぁ!」
「
夾と春の口喧嘩が、拳での語り合いに移行したようだ。僕は教師の制止を振り切り、消火器を持って騒動の現場に駆けつける。
1‐Dの教室には何故か繭子先生がいて、掴み合っていた春と夾の頭にバケツの水をぶっかけた。
「これで少しは頭冷えたか?」
「こンのエセ教師……っ。なんで俺まで」
「ミカン頭もガンガンに我失くしていただろうが」
「あー……スッキリした」
「そうかい。ンじゃ、スッキリついでに職員室までおいで」
ホワイトに戻った春に呼び出しをかけた繭子先生は、消化器を背中に隠して知らんぷりしようとした僕に向かって、「おまえもだ、草摩建視」と言った。繭子大先生様からは逃げられない……!
消火器を元の場所に戻して職員室に連行された僕は、繭子先生に叱られた。今回は注意に留めるけど、次に同じ事をやったら保護者に連絡するぞと釘を刺されちゃったよ。
繭子先生はくどくど説教するタイプじゃなかったので、1‐Dの担任に絞られている春より早く解放された。
僕が職員室から出ると、紅葉と本田さんと花島さんと魚谷さんと由希と夾が廊下に勢揃いしていた。魚谷さんが「早かったな」と声をかけてくる。
「僕は実害を出してないからね」
「消火器を持ち出すのは、明らかに問題行動だろ」
そう言いながら夾は僕を睨みつけてきた。もしかしてと思った僕は、猫憑きの従弟に問いかける。
「中学時代に重症のブラック春と殴り合っていた夾に、消火器を噴射した事を根に持っているのか?」
「ったりめぇだ。俺まで粉塗れにしやがって」
夾は被害者ぶっているけど、あの時の夾は怒りで我を忘れた王蟲状態になって、制止しようとした僕をぶん殴りやがったからな。
「おまえらも中学ではヤンチャしていたんだな」
「魚谷ほどじゃねぇよ」
「あたしは学校で暴れてねぇっての」
魚谷さんと夾が言い合う一方で、何やら考え込んでいた由希は紅葉に質問している。
「……一体何があって、あそこまで切れたブラックになっちゃったんだ?」
「ん~、ボクもずっと見ていた訳じゃないから。ハルはフツーにしていたハズなんだけど……でも……最近何かあったのかも。なんか……元気ないもん」
何となくだけど、春が沈んでいる原因はリン姉絡みじゃないかと思う。
リン姉は病院から繰り返し脱走したせいで、傷が開いて退院が遠のいたらしい。心配した春が安静にしてくれと強く言って、リン姉と揉めたのかもしれない。
「あ……潑春さんっ」
本田さんの声を聞いて、僕は思考を中断した。職員室から出てきた春に、紅葉が真っ先に声をかける。
「ハルっ、怒られちゃった!?」
「んー……親呼び出し。来るの待ってなきゃ……」
バイバイと告げて春は立ち去ろうとしたので、紅葉が「どこ行くの?」と聞いた。
「俺の母親……化粧だなんだで、来んのにどうせ1時間以上かかる……それまで時間つぶす」
精神的に不安定な春を1人にするのは危ういと思ったのか、由希が「俺が行く」と名乗り出て春を追いかけた。好意を寄せる由希になら、春は悩みを打ち明けるかもしれない。
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29「僕に指図するなっ」
Side:
四季の中で最も嫌いな夏が近づいていた。
僕が住む屋敷は、全館空調完備で過ごしやすい温度が保たれているけど、空気を入れ替えるために窓を開けると、湿気を含んだ蒸し暑い風が入ってきて不快になる。
ただでさえストレスが多い立場にいる僕は体が丈夫ではない事も相俟って、季節の変わり目には滅法弱い。現に今も体がだるくて辛い。
「……はとりを呼んで」
「かしこまりました」
僕が命じた数分後、着物姿の世話役が「はとりさんは
現在の時刻は20時過ぎ。こんな時間に大した用もなく、紫呉の家に行くとは考えづらい。
紫呉か
言い知れぬ不快感を覚えて顔を顰めた僕の機嫌を取るためか、最古参の世話役がはとりを責める言葉を口にする。
「慊人さんのお側から離れて外へ遊びに行くなんて、十二支としても
本音を言えば今すぐはとりを呼び戻したいけど、感情に任せて軽率な判断を下すのは悪手だ。
紫呉は今も、
僕がはとりを強引に呼び戻した事を紫呉が楝に密告したら、あの女は「あなたの言う“絆”って、命令でがんじがらめに縛りつける事なの? 付き合わされる
あの女の事を思い出したら、腹の中で憎悪と憤怒が渦巻いて気分が悪くなってきた。
「はとりは呼び戻さなくていい。その代わり、建視を呼べ」
建視は医療に詳しくないけど、僕の話し相手になる事はできるだろう。
はとりが紫呉の家に行った理由を建視から聞き出せるかもしれないし、転校の条件として建視に授けた任務の進展具合も聞いておかなくては。
世話役が建視を呼びに行ってから十数分ほど経って、ようやく建視が僕の所にやってきた。
「遅いっ。いつまで僕を待たせるつもりだ」
「ごめん。師範の道場で稽古をしていたから、慊人の呼び出しに応じるのに時間がかかった」
入室して僕の近くに正座した建視から、制汗剤らしき石鹸の匂いがしたので、稽古をしていたというのは本当だろう。
それはいいとして、建視が着ている
本田透を筆頭とする愚かでブサイクな女共と、ほぼ毎日接している証を見せつけられているようで無性に腹が立つ。
「僕に会いに来る時は、その制服を着てくるな」
「解った。ところで、僕を呼び出した用件って何?」
事務的な問いかけに苛立った僕は、失望も込めて建視を睨みつける。
「建視は本当に気が利かないな。僕の体調を気遣う言葉すら出てこないなんて……」
「大至急って言われたから、何か問題が起きたんじゃないかと思ったんだよ」
「僕の体調不良はいつもの事だから、大した問題じゃないって?」
皮肉で応じてやると、建視は困ったような顔をして「そういう意味で言ったんじゃないよ」と言い訳をする。
「じゃあ、どういう意味で言ったの?」
「それは……あの人がまた暴れ出したんじゃないかと……」
建視が奥歯に物が挟まったように言う“あの人”とは、楝の事だろう。あの女の存在を匂わす話題は続けたくないから、話を変える。
「建視がそんな心配をする必要はない。それより、心配しなくちゃいけない事が他にあるだろ?」
「慊人、体調はどう?」
僕が水を向けてやらないと、気遣いの言葉が出てこないなんて。建視の配慮不足は深刻だ。何をおいても僕を最優先にするという、十二支の常識を後で建視に教え込む必要がある。
「最悪だよ。蒸し暑いから体がだるくて不快で、気持ち悪い。はとりはこんなに苦しんでいる僕を放って、紫呉の家に遊びに行ったんだ……っ」
「兄さんは遊びに行ったんじゃなくて、
予想もしなかった人物の名前が、建視の口から飛び出した。どうして利津が紫呉の家に、なんて考えるまでもない。
「……っ! 利津の奴、あのブスに会いに行ったのか!」
「利津兄が本田さんに会いに行ったと決めつけるのは、早計じゃないかな。ぐれ兄か由希か夾に、何か用事があったのかも……っ」
焦りを浮かべた建視が、取り繕うような言葉を並べた。
「下手な誤魔化しは止めろ。僕を馬鹿にしているのか」
「そんなつもりは……」
僕が強く睨んだら、建視は口を噤んだ。
馬鹿は黙って僕に従っていればいいのに、それすら解らないなんて救いようのない馬鹿だ。
「利津の動向を推察する程度、僕にとって造作もない事だ。
「本家に顔を出すように、利津兄に言っておこうか?」
「言わなくていいっ。女物の服を好んで着る奴を視界に入れたくない」
嬉々として女装する利津を見ると、男装を強いられている僕が惨めに思えてくる。僕がこんな思いをする羽目になったのは楝のせいだ。
草摩家の跡継ぎが女じゃ問題がある、男にしないなら産まないとか言い出して暴れたせいで、優しい父様が折れざるを得なかった。
どす黒い憎悪の感情が溢れ出して八つ当たりしたくなった時、ぐーきゅるると間抜けな音が響く。
「慊人、ご飯食べたい」
僕の前で腹を鳴らして恥じ入るでも謝罪するでもなく、建視はぬけぬけと要望を口に出した。
「……僕が気分を害している時に、よくそんなふざけた事が言えるな」
「ふざけてないよ。慊人の話を間抜けな音で遮るのは失礼だから、腹を満たしておきたいんだ」
真面目な顔でもっともらしい事を言っているけど、単に腹が減っているだけだろ。物の怪憑きの魂を統べる僕に対して、恐れ知らずに物申すなんて生意気な。
でも建視の余裕ぶった言動は虚勢だと、僕は知っている。凄惨な事件の残留思念を読んだ直後の建視は、恥も外聞もなく泣き喚いて震えて弱り果てる。
紫呉みたいに人を食ったような態度を取る建視が、泣いて僕に懇願する姿は思い出すだけで愉快な気分になる。
寛大な僕が隠蔽術を施す許可を出してやっているから、建視は澄ました顔をしていられるんだ。
「……建視の図太さには心底呆れる。内線電話を使って食事をここへ運ばせろ」
僕が食事の許可を出すとは思っていなかったのか、建視は驚いたように赤い目を軽く見開いた。
「えっと、ありがとう。ところで慊人は夕飯を食べた?」
「具合悪くて食欲が出ないんだよ」
「慊人は痩せすぎなんだから、ちゃんと食べないと倒れちゃうよ」
「うるさい。僕に指図するなっ」
主治医で年上のはとりの忠告なら聞くけど、年下の建視に口喧しく言われるのは気に食わない。
建視は僕の勘気に触れたにも拘らず、特に萎縮した様子も見せずに立ち上がって、壁に設置された内線電話の方に向かう。由希みたいに怯えれば、まだ可愛げがあるのに。
「僕が以前命じた件はどうなった?」
夕食の配膳を頼む電話を終えて僕の向かいに正座した建視は、僕の質問を受けて考えるように視線を泳がせてから口を開く。
「由希を宴会に出席させるための策は考えたよ」
「命令を下して半年以上経っているんだ。どんな馬鹿でも、策の1つや2つは思いつく。それで、策の内容は?」
「12月に入ったら由希の両親に頼んで、正月は実家に帰るように由希に伝えてもらう」
「由希が自分を見捨てた親の言う事を聞くと、本気で思っているのか?」
僕が怪訝そうに眉を寄せて問いかけたら、建視は肩を竦めて「思ってないよ」と答える。
「由希の親が
建視が宴会に出席しろと由希に言うと、僕が裏で糸を引いているんじゃないかと由希が勘繰るから、親をカモフラージュに使うという訳か。そこまでは悪くないが。
「肝心な事を忘れているよ。由希は建視を信用してないから、説得に耳を傾けない」
「そうだね、僕の説得は高確率で失敗するだろう。困り果てた僕は、由希の同級生にこういう相談を持ちかける」
困惑したような表情を作った建視は、「反抗期の由希は実家に帰ろうとしないから、由希の親御さんが心配している。年末年始に由希が実家に顔を出してくれたら、由希の親御さんを安心させてあげられるんだけど、由希は僕の言葉に耳を貸さないんだ。君から話してみてくれないか?」と実演してみせた。
「同級生に『実家に帰りなよ』と言われたら、由希は無視できない。由希は“ともだち”を大切にしているからね」
話し終えた建視は薄く笑った。建視の由希に対する敵意は薄らいだと思っていたけど、今も含む処があるようだ。
子憑きと盃の付喪神憑きは、いがみ合っているくらいが丁度いい。
つまらない由希を必要としてやっているのは、僕しかいないんだから。皆に忌避される建視を上手く使ってやれるのは、僕しかいないんだから。
由希と建視が以前のように険悪になればいいけど、本田透が2人を仲直りさせようとするかもしれない。
紫呉の話だと、本田透が来てから由希も夾も良い意味で明るくなってきたらしい。不登校になっていた杞紗も、本田透が励ましたおかげで再び学校に通うようになったとか。
僕の
「建視が相談を持ちかける同級生は、本田透か?」
「いいや。本田さんに話すと、由希の親子関係を改善しようとするかもしれない。余計な動きをされると、策に支障が出る恐れがある」
「身の程知らずが」
僕が毒づくと、建視は「本田さんは草摩家の事情をよく知らないからね」と軽く流して話を続ける。
「相談を持ちかけるのは、由希のファンの女の子にしようと考えている。他人の家庭問題に口出しするのは結構ハードルが高いけど、由希のファンは由希に近づくためなら何でもするんだよ」
「由希に下らない女が近づくのは許し難いけど……まぁ、いいだろう。善人ぶってお節介を焼いて、由希に迷惑がられればいい」
善人ぶっている本田透は、由希や夾を救えたと思っているだろうけど、思い上がりも甚だしい。本田透が勘違いしたままだったら、夾は高校を卒業したら幽閉される事を教えてやろう。
部外者の本田透は何もできない。精々、自分の無力を嘆くといい。
由希も建視も物の怪憑きは皆、最後は僕のところへ戻ってくる。だって僕らには“絆”があるから、離れることができない。
赤の他人が入る余地なんて微塵も無いんだよ。
▼△
Side:建視
はぁ、昨夜は気疲れした。慊人のご機嫌取りって神経を使うな。兄さんと
「トール、ここに座ってねっ」
今は昼休み。一緒に弁当を食べるため、僕と紅葉と本田さんと由希は屋上に集まっている。
本田さんが屋上のコンクリート床に直接座る前に、紅葉はウサギの顔を模ったレジャーシートを敷いて勧めた。紳士だ。
「昨日はりっちゃんさんとはとりさんに、お会いしましたっ。りっちゃんさんの事は女将さんからお話を伺っていましたので、お会いできて感激です……っ」
「リッちゃん、楽しい人でしょー!! 元気だしー、パワフルだし!!」
「はいっ。それに、とてもキレイな方ですねっ」
「本田さん、利津兄は男だよ」
誤解しないように僕が教えると、本田さんの笑顔に困惑の色が少し浮かんだ。
「りっちゃんさんは美人な方ですので、私はてっきり女性だと思い込んでいました。私がりっちゃんさんにうっかり抱きついてしまったため、男性だと知る事ができたのですが……」
本田さんが誤解してしまうのも無理はない。利津兄は大人しくしている時は仕草も口調も女性っぽいし、声も成人男性にしては高めだから、男だと見破るのは難しいと思う。
「それはそーと、トールっ、その手どうしたの?」
本田さんの右手に巻かれた包帯が気になっていたのか、紅葉が問いかける。
「あ……」
「これは利津が暴れた時に……」
言葉に詰まった本田さんを見かねてか、由希が溜息交じりに話した。
昨日ぐれ兄の家に泊まった兄さんはメールで、『利津が紫呉の家の屋根に登って足首を捻挫した』と知らせてきたけど。一体どんな暴れ方をしたら屋根に登る事態になるのやら。
「いっ、いえ、あの、ドジってしまいまして……。でも、大丈夫なのですよっ。かすり傷なのですっ」
本田さんは割れた皿の破片で手を少し切ったって、兄さんがメールで教えてくれた。大した怪我じゃないとアピールしている本田さんは、暴れた利津兄を庇おうとしているんだろう。
「本田さんは利き手を怪我しちゃったんだね。ノートを取るのに支障があるようなら、後で僕のノートを貸すよ」
「建視さん、お気遣い頂きありがとうございますっ」
「それにしても、すごいホータイの巻き方ねーっ。もういっぱいいっぱい精一杯ってカンジの巻き方だねー!」
本田さんの右手を覆う包帯は巻き方が緩い。兄さんの処置ではないのは明らかだ。
邪気のない笑みを浮かべる紅葉の発言を聞いて、気まずそうに視線を逸らした由希が包帯を巻いたに違いない。
「……リッちゃんはパニっくになると暴れるけど、でも優しいのよ」
紅葉が利津兄をフォローすると、本田さんは屈託のない笑顔を広げて「はいっ」と返事をした。
豹変して暴れる利津兄を初対面の人が見たらドン引きすると思うけど、懐が深い本田さんは利津兄を受け入れてくれたようだ。
本田さんは利津兄に会う前に女将さんと対面していたから、耐性ができていたのかもしれない。
「そういえば春は……?」
由希が投げかけた疑問に、紅葉が寂しそうに眉を下げて答える。
「ハル、もう学校にきちゃダメなんだって。キンシなんだって」
「ええっ?! そんな、あんまりです……っ」
紅葉の言葉を素直に受け止めた本田さんは、悲痛そうな面持ちになったけど。
僕は日本語の語彙力が少ない紅葉が度々聞き間違いをする事を知っていたので、禁止の意味を推察する。
「禁止じゃなくて、謹慎じゃないか?」
「そうだったかも……それって別なの? ハルはまた学校にくるの?」
「今回は怪我人が出た訳じゃないから、数日休めば春の謹慎が解けて学校に登校してくるよ」
僕の言葉を聞いて、紅葉と本田さんは安心したように胸を撫で下ろした。
由希は何やら考え込んでいる。暴れた後の春と話をした際に、深刻な相談を持ちかけられたのだろうか。
その日の夕方。春の携帯に電話をかけても出ないから、
「……由希のドッペルゲンガー?」
「本人だよ」
制服姿の由希は嫌そうな顔で言い返した。
発作を起こしても本家に行こうとしなかった由希が本家に来るなんて、明日は雪が降りそうだな。冗談はさておき。
「春の見舞いに来たのか?」
「そうだよ」
「慊人には会って行かないのか?」
顔を強張らせた由希は、「会わない」と答えて走り去った。
トラウマを完全に克服した訳じゃないのか。それでも、由希が自ら本家に近づいた事は大きい。
子憑きの従弟を宴会に出席させるためのハードルが1つ消えたから、由希の変化は僕にとっては都合が良いけど。
由希の中で
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30「透みたいな奴だったかな」
「あ、そーだ。進路希望の紙、提出まだの奴、期末考査の前には出してくれよ? 夏休み明け、すぐに三者面談あるんだからな。保護者の方にもその旨、キチンと伝えておくように。以上」
4限の古文の授業終了後、黒板を消していた
進路希望の紙は提出済みだから問題ない。でも三者面談がなぁ。兄さんは僕の保護者としてちゃんと予定を空けてくれるけど、
僕が中学3年生だった頃、三者面談の当日に慊人が熱を出して兄さんが付きっ切りで看病しないといけなくなって、面談の日を変えてほしいと先生に頼んだ事がある。
繭子先生に迷惑をかけたくないから、面談当日に慊人が具合悪くならないように祈っておこう。
ドガラッショーン!!
突然、窓際の方から大きな音が響いた。何事かと思って見たら、
「昼メシだー、腹へったー、チクショー!!!」
「う、う、
すけっちが恐る恐る聞くと、お腹を押さえた魚谷さんは不機嫌丸出しで怒鳴る。
「腹がへってムカついてんだよ! 腹がへるとキゲンが悪くなんだよ! ネボウしたから朝メシ抜きなんだよ!」
「はぁ……それで何故に、きょんきょんの机を……」
「蹴りやすいからだ!」
僕の中のベスト・オブ・理不尽は慊人で揺るがないと思っていたけど、魚谷さんという強敵が出現した。魚谷さんがお腹を空かせた時に備えて、非常食を常に持っていた方がいいかもしれない。
「おい……っ。せいぜい女に生まれてきたことに感謝するんだな、ヤンキー……っ。てめえ男だったら瞬殺モンだ、クソ
「女に生まれてきたからこその行動に決まってんだろが。バーカ、ボーケ」
夾と魚谷さんは互いに胸倉を掴んで睨み合っている。拳と拳の語り合いに発展しなさそうだから、放っておいても大丈夫だろ。あー、お腹減った。
「
お弁当を持って誘ってきた
生徒会とクラス委員を掛け持ちしている
驚いた事に夾も付いてきている。夾の不本意そうな表情から察するに、本田さんの誘いを断りきれなかったのだろう。
「天気がいいから外で食べようぜ」
魚谷さんの提案を聞いて、僕は教室の後ろにあるロッカーを開ける。
プール付近の空き地に向かって、10人用サイズのレジャーシートを芝生の上に敷くと、本田さんが弾んだ声を上げる。
「あっ、モゲ太さんですねっ。可愛いです……っ」
由希と夾はレジャーシートにプリントされたモゲ太とアリのイラストを見て、現実逃避するような遠い目をしている。嫌なら座らなくてもいいんだぞ。
「
「はいっ」
「そうよね……困ったわ……私はまだなの……」
憂鬱そうに溜息を吐く花島さんもイイ……じゃなくて、僕の出番だ!
「花島さんが進学を希望するなら、僕が志望校に合わせた学習プランを立てるよ」
「リンゴ頭は大学受験するンだろ。花島の家庭教師をする余裕あンのか?」
「僕は高校を卒業した後は家の仕事の手伝いをするから、大学は受験しないんだ」
由希は察したのか、やや険しい顔になっている。将来的には由希も慊人の側近になるだろうけど、僕と由希の待遇は天と地ほども違う。
神様に1番近い存在である
僕は任務漬けの日々を送る羽目になるってのに。兄さんの負担を増やさないように、グロ耐性をつけとかなきゃな。
カップラーメンを食べていた魚谷さんは「ふーん」と言って流してから、本田さんの方を向く。
「ちなみに透の進路って、やっぱアレ?」
「えっと……やはり就職して……ちゃんと自活できるようになりたいですっ」
本田さんは高校を卒業したら、ぐれ兄の家から出ていくつもりなのか。まぁ、そうしてくれた方がいいな。夾の事もあるし。
「就職もいいけど、透にはお嫁さんになるって手もあるんだぞー?」
「へ!?」
「あら大変……じゃあ私、やっぱり大学に入ってより良い就職をした方がいいわよね……」
「おめーがもらってどうすんだ」
彼女達のやり取りを聞いて、僕は金槌で殴られたようなショックを受ける。
花島さんの本田さんに対する愛情は、女友達の域を超えていると思っていたけど、同性婚を望むほどだったとは……。
落ち着け、冷静になるんだ。花島さんがどこの馬の骨とも知れない男と結婚するより、本田さんと結ばれる方が良いと思わないか?! そうだな、その通りだ。
「そーじゃなくて、例えば王子ときょんのどっちかとかさぁ」
名指しされた由希と夾は、「は!?」と綺麗にハモった。こいつらバカだ。もっとマシな受け答えはあっただろうに。
本田さんラブの魚谷さんと花島さんは、威圧感を放ちながら立ち上がる。
「『は!?』ってなんだ。『は!?』ってのは、あ゛あ゛……!? まさか透じゃ不服とでも言う気じゃねぇだろうな、コラ……!!」
「そういう訳じゃないけど……っ」
「あら……じゃあ勝負する……?」
「勝手に話進めて勝手にケンカ売ってんじゃねぇよ!!」
戦闘態勢に入った親友達を止めるため、本田さんが「あっ、あの」と発言する。
「もしもお嫁さんになれたとしても、それはまだきっと先のお話ですよ……」
「ははっ。案外あたしが先に結婚したりしてなーっ」
「けっ。誰も欲しがんねぇよ……っ」
余計な事を口走った夾は、魚谷さんに殴られていた。
僕が小学生だった頃にぐれ兄が、「こういう場合は『紅野も鳴かずば撃たれまい』って言うんだよ」と教えてくれた時のインパクトが強くて、誤用の方が先に出てしまうんだ。
紅野も鳴かずば撃たれまいって言った時のぐれ兄は笑顔だったけど、黒灰色の目はちっとも笑っていなかった。ぐれ兄は慊人のお気に入りの紅野兄を、目の敵にしているのだろう。
僕も慊人との距離感に気を付けないと、ぐれ兄が本腰入れて敵対してきそうだ。ぐれ兄は僕のアキレスは兄さんだと知っているから、敵に回したくないんだよな。
「まっ、嫁はともかく、ちょっといいかなぁとか思う男にバイト先で会ったけどな」
魚谷さんの言葉を聞いて、本田さんと花島さんも驚いている。親友にも初めて打ち明ける話だったようだ。
「どんな
「んー……透みたいな奴だったかな」
「それはぜひ見てみたいわね……」
花島さんが男に興味を持った……だと……!?
これは由々しき事態だ。魚谷さんが本田さん似の男性と無事ゴールインできるように、全力でサポートしなければ。
▼△
7月12日に、期末テストが返却された。
今回の試験で合格点を取れば、心置きなく夏休みを満喫できる。赤点を取ると、夏休み中も学校に行って補習を受ける羽目になる。正に天国と地獄の分岐点……!
僕は平均95点を割った事がないから、分岐点に立つヒヤヒヤ感を味わった経験はないけど。前回の中間に引き続き、今回の期末でも総合点で由希に負けたので悔いを残す結果になってしまった。
由希は生徒会の引き継ぎ作業とかで忙しくしていたのに、勝てなかったから悔しさは倍増だ。次の中間では、由希にぎゃふんと言わせてやる。
それはさておき、花島さんと本田さんは全ての教科で合格点を取った。よかった、よかった。
花島さんはクーラーの無い教室で補習を受けたくないと言って、今までになく真剣に勉強に取り組んでいたからな。
普段もあれくらい真面目に勉強していれば……と思ったけど、言わなかった。花島さんが勉強できるようになったら、家庭教師の僕はお役御免になっちゃうからね。
7月14日に僕は再び1人で、リン姉のお見舞いに行った。
ベッドサイドテーブルに突っ伏したリン姉は、キャミソールにショートパンツという露出度の高い格好だ。
背中に負った10針以上縫う大怪我は一応塞がったとはいえ、無防備に剥き出しにしていて大丈夫なのかな。
服装以上に気になる点があるけど。床に散乱しているプラスチック製の食器や病院食とか。
食べたくないからって、食事を床にぶちまけるのはやめようよ。もったいないお化けが出るぞ。
それと下膳は自分でしてほしい。自力で動けない患者さん以外は、自分で食器を返却しているんだからさ。
注意してもリン姉は聞き入れようとしないので、必然的に見舞客が片付ける事になる。
下膳時間をとっくに過ぎた頃にナースセンターに食器を持って行くと、看護師さん達が迷惑そうな顔をするんだよね。病院はセルフサービス方式の料理店じゃないから、当然の反応だけど。
僕は見舞いの品として持ってきた果実型のカップに入ったゼリーセットを棚の上に置いて、顔を上げようとしないリン姉に声をかける。
「
食事を摂らないせいでリン姉は衰弱気味だから、入院期間は更に長引くかと思われたけど。問題行動を繰り返すリン姉に手を焼いた病院側が、自宅療養という名目の厄介払いをしようと決めたのかもしれない。
草摩系列の病院だからって、一族の者全てに対してVIP待遇する訳じゃない。草摩の上層部の者やその身内だったら、話は別かもしれないけど。世知辛いなぁ。
「建視は知っているんじゃないか?」
ベッドサイドテーブルに肘をついて顔を上げたリン姉は、射るような視線で僕を睨みつける。質問の意図が解らなくて、僕は「何を?」と聞き返した。
「
何百年も続いている呪いを解く方法? 本気で言っているのか? リン姉の表情は怖いくらい真剣だから、「新手のジョーク?」とか言ったらブン殴られそうだ。
「そんな方法……知らないよ」
声が少し裏返ってしまった。予想もしなかった事を聞かれて動揺したせいであって、嘘を吐いた訳じゃないからね!?
僕を観察していたリン姉は僕が本当の事を言っていると判断したのか、落胆したように表情を曇らせた。
「どうしてそんな事を聞くんだ?」
僕が問いかけると、解りきった事を聞くなと言わんばかりにリン姉は整った眉を顰める。
「建視は呪われたままで構わないっていうのか?」
「……呪いさえ無ければ、と思う時は多々あるよ」
精神的負担の大きい任務をこなす時とか。抱えきれない記憶を兄さんに隠蔽してもらう時とか。
学校や街中で、異性にぶつからないように神経を使う時とか。クソ暑い真夏に手袋をつけている時とか。他にもたくさんある。
「思うだけ? 呪いを解く方法を調べようとはしないの?」
「そもそも呪いを解こうと思った事すらないから、調べようとした事はないよ」
病院を何度も抜け出してどこに行っているのかと思っていたら、リン姉は呪いを解く方法を捜し回っていたようだ。
慊人は物の怪憑きとの“絆”を非常に重要視している。呪いを解こうとする者が十二支憑きから出たと慊人が知ったら、厳重な処罰を下すだろう。
僕が忠告しなくても、リン姉はその危険性に気付いているはずだ。でもリン姉は自分を大切にしない傾向があるから、無茶しそうな予感が……。
まさかとは思うけど。
「呪いを解く方法を捜している途中で、大怪我を負ったんじゃ……」
「違う。知らないなら、おまえに用はない。出て行け」
「床に落ちている食事と食器を片付けたらね」
洗面所に置いてある雑巾を取りに行こうとしたら、リン姉が鋭い声で「おい」と呼びとめてきた。
「アタシが呪いを解こうとしている事、他の奴らに絶対言うな。言ったら殺してやる……っ」
リン姉に内緒で春に話すのは……やめておこう。僕がバラしたとリン姉に知れたら、報復が怖い。
本気で僕の命を奪う凶行は流石にしないと思うけど、社会的に殺しに来るかもしれない。
僕は肩を竦めて「誰にも言わないよ」と答えてから、今度こそ雑巾を取りに行った。
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31「僕達の夏はこれからだ!!」
「“大人”にならなくてもいいが、自分の行動や発言には責任の持てる奴になれ。……ま、そっちのほうが難しいが……」
1学期最後の日。教卓に腰掛けた
すでに浮き足立っている僕を含めた生徒諸君は、エサをお預けされているわんこのように話が終わる瞬間を今か今かと待っていた。
「……てな訳で、教師からの説教は――以上! せいぜい休みを満喫しなよ」
繭子先生は去り際に「課題もやれよ?」と念を押したけど、教室のそこかしこで歓喜の声が上がっているから、クラスメイトの大半は聞いてないだろう。
「皆の衆、恵みの雨だぞー!!」
「夏休みだぞー!!」
「僕達の夏はこれからだ!!
テンション爆上げの勢いに任せて僕が叫ぶと、ろっしーが「けんけん、その台詞って打ち切り漫画っぽい」とツッコミを入れてきた。
次期生徒会長は冷ややかな目で僕を睨みつけてくるが、他に目を向けるべきだと思う。
プリ・ユキのメンバーはうっとりした顔で、「早く2学期にならないかな」とか口走っているんだぞ。好きなだけ遊べる夏休みより由希を重視するなんて、もはやカルトの域だ。
「遊ぶぞー!! 食うぞ、寝るぞ、バイトするぞー!! 勉強なんざクソ喰らえだー!!! 今のあたしなら車だってブチ壊せるぞ、うらぁ!!」
「ありさ……少し落ち着いたら……? 休みが始まって浮かれる気持ちも
親友を制止する
子供みたいに浮かれる花島さんも、激可愛い……っ!
「花島さん、遊び道具を預かるよ」
「お願いするわ……」
浮き輪とビーチボールは空気を抜いた方が持ち運びやすいけど、これから皆でプールに行く予定だからペシャンコにしない。
長期休暇中は草摩の上層部の嫌がらせ(任務の前日通達)があるから、友達と前もって話し合って日程調整をした上で遊びに行く事ができないんだよな。
カラオケやゲーセンに行くなら、当日いきなり遊びに誘ってもOKをもらえるかもしれないけど。プールに行くには色々と準備するものがあるし、体調が悪いと入れないからさ。
「ですがっ。夏休みの始まりというものは、やはりウキウキワクワクですね!!」
昇降口を出た所で、
「おまえはホント単純だな」
「誰が単純ですって……?」
「
ぎょっとした顔になった夾は、「俺は透を……」と言い訳を述べようとしたけど、言い終える事はできないだろう。何故なら。
「きょーうー……君!!」
校門から駆け寄ってきた
「嬉しい……っ。今日は逃げないでいてくれたね……っ」
夾の逃亡を防ぐために、仕留めたようにしか見えなかったけど。花島さんの水着姿を拝む前に息絶えたら死んでも死にきれないから、余計な事は言うまい。
気を削がれた面持ちの魚谷さんが「誰だ?」と言ったので、僕が紹介する。
「彼女は草摩楽羅。僕らより2つ年上の従姉で、夾の婚約者だよ」
「や……やだ、建ちゃんったら……そんなハッキリ言ったら……恥ずかしいじゃない……」
伸された夾の足を掴んで恥じらう楽羅姉を見て、魚谷さんは「例の包丁女か」と呟いた。
包丁女って犯罪者みたいな響きだな。小さい頃に楽羅姉が夾を包丁で脅して結婚の約束を取り付けた一件は、強要罪が成立しそうだけど。
「楽羅! なんでここにいやがる!」
「一緒にプールに行こうって、建ちゃんが誘ってくれたんだよ」
それを聞いた夾が殺気を込めて、僕を睨んでくる。今回は、楽羅姉と夾を2人きりにしてやろうという意図はないのに。
「楽羅姉だけ誘った訳じゃないよ。紅葉と春は当然として、
リン姉はもうすぐ退院できるらしいけど、病院を抜け出して遊んで体調を崩したら元も子もないので、今回は見送った。
「まさか兄さんにも声をかけたんじゃ……」
顔を引きつらせた由希の問いかけに、僕は「声をかけたけど、綾兄は夏コミ用の大量のコスプレ衣装製作で忙しいから参加できないって」と答える。
夏バテや夏風邪に見舞われた患者の対応に追われる兄さんも、残念ながら遊ぶ余裕はない。
ぐれ兄は水着姿の女子を見に来るかなと思ったけど、用事があるらしい。
「……春、何やってるの?」
呆れ声を出した由希の視線の先、中庭で春は制服を着たまま、スプリンクラーから放水される水を一身に浴びている。水も滴る良い男ってのを体現してんのか、こいつ。
「涼しい……」
「これからプールに行くのに、今からずぶ濡れn」
僕が最後まで言い終える前に、「えーいっ」と聞き慣れたボーイソプラノの声が響いた。それと同時に、僕の顔面に水をかけられる。
「あっつい日は水浴びするのが1番だよー!」
ファンシーな鳥の形をした水鉄砲を持った紅葉が、これまたびしょ濡れの制服姿で現れた。
濡れた顔を拭きたいけど、僕の両手はビーチボールと虫取り網と虫かごで塞がっているから無理だ。ちなみに浮き輪は首にかけている。
「
本田さんがハンカチを取り出して、僕の顔を拭いてくれた。僕は本田さんにお礼を言ってから、水遊びに興じる紅葉に注意を飛ばす。
「紅葉。これからバスで移動するのに、ずぶ濡れになるなよ」
「ボクは着替えを持ってきたから、ダイジョーブ!」
「ならいいけど、春はどうするんだ。体操着に着替えるか?」
「俺の体操着……クラスの女子が持ち帰って洗ってくれているから、学校にない」
春の発言を聞いて、由希と夾と楽羅姉と本田さんと魚谷さんが驚愕で目を見開く。僕は1年のキン・ケンのメンバーから、恐るべき1‐Dの内情を聞いていたので驚かない。
常に手ぶらで登下校する春は、自分の体操着を洗うために持ち帰る事をしなかったようで。それに気付いた1‐Dの女の子は春を不潔だと忌むどころか、「私が春君の体操着を洗うよ!」と率先して申し出たらしい。
今では春の体操着や上履きや館履きを洗う権利を巡って、1‐Dの女の子は水面下で激しい戦いを繰り広げているのだとか。
「それじゃ、僕の体操着を着るか?」
「んー……」
僕の提案を流した春は、由希をじーっと見つめた。無言の懇願が通じたのか、由希は諦め顔になって「俺の体操着を貸すよ」と答える。
なんだろう、この敗北感。密かに気落ちした僕の肩を、紅葉がぽんと叩いてくる。優しさがツライ。
紅葉と春が体操着に着替えた後、
「なんだ、このバス。座席の向きが変だし、中にテーブルがあるじゃねぇか」
湖畔の別荘に行く際にぐれ兄が手配したサロンバスは結構楽しめたので、今回も同じバスにしてみた。バスに設置された冷蔵庫に入っていた缶ジュースを皆に配って、出発進行。
途中で
黒尽くめの服装の恵君を見慣れたせいか、白い半袖のスクールシャツを着て黒のスラックスを穿いた恵君を見ると、違和感を覚えてしまう。
「初めましての方もそうでない方も、こんにちは……
「心外だな、恵君。僕の目的は皆で楽しくプールで遊ぶ事だよ」
「女子のプールを覗こうとした奴の発言とは思えないな」
由希の奴、言ってはならない事を……っ! はっ……花島さんが僕に向ける眼差しが、心なしか冷たくなったような……。
「違うんだ、僕はぐれ兄のような変態エロ魔人じゃない。下心は一切ないと言ったら嘘になるけど、健全な青少年の範囲内だから!」
「苦しい言い逃れをする所が、むっつりだよな」
ありさの
魂が抜けた屍と化した僕を余所に、他の皆がカラオケをしたりお菓子を食べたり口喧嘩をしたりしている内に、目的地に着いた。
「おい、リンゴ頭。あたしらはプールに来たんだよな?」
「そうだよ」
「これのどこがプールだよ。どう見ても豪邸じゃねぇか」
魚谷さんがビシッと指差した先には、白亜の洋館があった。慊人が住む屋敷の方が大きくて立派だから、僕はこの洋館を豪邸とは思えないけど。
それはさておき。魚谷さんはウォータースライダーや流れるプールなどが楽しめる、レジャープールで遊ぶつもりだったのだろう。期待を裏切ってしまったから、謝らないと。
「東京サマー○ンドを貸し切ろうとしたけど予約が取れなくて、屋内プールがある草摩の別荘しか押えられなかったんだ。ごめんね」
実を言うと、東京サマーラ○ドの予約は取れなくもなかった。
けど、アクシデントが起きて物の怪憑きの誰かが変身してしまった場合、目撃者が多いと隠蔽術を施す兄さんの負担が増えると思ったから、泣く泣く草摩の別荘にしたのだ。
こちらの事情でがっかりさせて申し訳ないと思っていたら、魚谷さんが宇宙人を見るかのような目を僕に向けてくる。
「……サ○ーランドを貸し切るとか、当たり前のように言うなよ。リンゴ頭は学校でキングとか呼ばれてっけど、マジでどこぞの国の王様だったりすンのか?」
「由希の兄貴は王を自称しているけど、僕は王族とは無関係だよ」
「身内の恥をバラすな……っ」
由希はさっき、僕が女子のプールを垣間見ようとした事をバラしただろ。綾兄の実態を暴露した程度じゃ、仕返しになってないけどな。
そんなやり取りを経て別荘の中に入ると、先に到着していた制服姿の杞紗が小走りで駆け寄ってくる。
「杞紗さん……っ」
「……っ」
玄関先で抱き締め合う杞紗と本田さんから、ハートが乱舞しているような幻覚が見えた。
この光景を燈路が見たら2人を引き剥がしにかかりそうだが、
「透、その子も草摩?」
「あ……はいっ。草摩杞紗さんです。とても仲良くしてもらっています!」
「……あ、の……はじっ……初め……まして……っ」
杞紗の挨拶はたどたどしかったけど、声を封じ込めてしまうほど苦しんでいた時期があった事を鑑みれば、大きな進歩だ。
「あたしは魚谷ありさ。透の
「私は花島咲……同じく透君の親友よ……貴女とは、透君を愛する同志になれそうな予感がするわ……」
「咲の弟の恵だよ……透さんとありささんには、よく面倒を見てもらっているんだ……仲良くしてね……」
魚谷さんと花島さんと恵君の自己紹介を受け、杞紗は3人に向かってぺこりとお辞儀をしてから、本田さんを見上げる。
「みんな……お姉ちゃんの大切な……お友達……?」
「はい、そうですっ! 杞紗さんも私の大切なお友達ですよ……っ!」
嬉しそうに笑う杞紗を、ほっこりしながら眺めたのは僕だけじゃないと思う。
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32「プールで競争しよう」
和服姿のお手伝いさんが昼食の用意ができたと知らせに来たので、リビングにいた僕達はウッドデッキに出る。洋風の庭に面したウッドデッキには、帆布のパラソル付きのテーブルセットが置いてあった。
それとは別のテーブルの上には、様々な食材が載ったステンレス製の大皿が幾つも並ぶ。キャスター付きのバーベキューコンロの焼き網の下では、表面が白くなった炭が燃えている。
バーベキューは道具や食材を準備する所から自分達でやるのが楽しいのだろうけど、今回のメインはバーベキューじゃないので、すぐ焼いて食べられるように用意を整えてもらった。
「やったぁ! 夏といえばバーベキューねっ!」
お手伝いさんからコンロの取り扱いや食材の焼き方の説明を受け、
火の番を請け負った紅葉がうちわで炭を煽ごうとしたら、
デザートが無くなりそうだと思ったので、僕はお手伝いさんに追加を頼んでおく。
「皆さん、お肉が焼けましたよーっ!」
「トール、ボクもボクもっ。ボクもお肉ーっ」
「焼くのは俺に任せて、本田さんも食べなよ」
「きーちゃんも焼くのは
「でも……建視お兄ちゃんは今、食べているから……」
遠慮した杞紗に対し、僕は「大丈夫だよ」と答えた。花島さんから指名を受けたのに断るなんて、男が廃るからね!
「夾君、鮭のホイル焼きはもうちょっと待ってね」
「甲斐甲斐しい婚約者がいるなんて、きょんは隅に置けねぇな」
「バッ……楽羅は婚約者じゃねぇよ!」
「バーベキューで、しょうが焼きって作れるかな……」
「焼き団子を作りたい……」
ワイワイ騒ぎながらデザートを焼き始めた頃、
「建兄、話があるんだけど」
何かあったのかと思って燈路と共にリビングへと向かうと、
「ちょっとさ、あれはどういう事?」
「あれって?」
「ボケ女の友達を誘ったとは聞いたけど、ボケ女の友達に男がいるなんて聞いてないよ。遊んでいる途中で、杞紗や楽羅姉にぶつかるかもとか想定しなかった訳? ボケ女の友達が不用意な発言をして、杞紗を傷つけたらとか予想しなかった訳? 何か起きたら、ちゃんと責任とってくれる訳? 深く考えないで勝手な事されると、こっちが迷惑するんだよっ」
どうやら燈路は、杞紗が見知らぬ異性と接触する事を嫌がっているようだ。気持ちは解らなくもないけど、嫉妬心と警戒心に駆られて杞紗の交友関係を狭めるのはどうかと思うぞ。
「恵君は落ち着いた少年だから、はしゃいで杞紗や楽羅姉にぶつかったりしないよ」
不満丸出しの顔で言い返そうとした燈路を遮るように、僕は「それより」と言葉を続ける。
「花島さんと魚谷さんと恵君は、本田さんの事をとても大切に想っている。彼女達の前で燈路が本田さんを罵倒したら、タダじゃ済まないぞ」
「殴られるって言いたい訳? そんな事をしたら、手を出した奴が幼児虐待の罪に問われるよ」
燈路は子供の特権と子供らしからぬ達者な弁舌で乗り切れると思っているようだが、花島さんと魚谷さんと恵君はそんなに甘くない。
あの3人の恐ろしさを話してやろうかと思ったけど、燈路が彼女達を必要以上に怖がってしまうと困るので、別の方向から説得する。
「僕は夏休み中に任務が入るから、皆と一緒に遊べるのは今日だけなんだよ。楽しい思い出を作るために、気合いを入れて色々と準備してきた。燈路が雰囲気を悪くする発言をした場合、口が滑った事を後悔するような仕返しをするよ」
燈路のためを思って釘を刺したら、未憑きの従弟の顔から血の気が引いたように見えた。
「あ、あれ? 本気で怖がっちゃった? 仕返しと言っても、燈路が春に憧れている事を春にバラす程度だよ」
「……っ! なんで、俺が春兄に憧れている事を知っている訳?!」
「3年前に燈路が武術を習い始めた時、『春兄みたいに強くなる』って言っていたじゃないか」
武術の腕前は由希がダントツ1位なのだが、由希を目標にしない処を見ると、燈路は春の男らしさや器の大きさをリスペクトしているようだ。
燈路の「春兄みたいに強くなる」宣言は春の耳にも届いたはずだけど、春は燈路から尊敬されている事を自覚していない。
「は、春兄に絶対言うなよ!」
怒りと羞恥で顔を真っ赤にした燈路は、そう言い捨てて走り去った。相変わらず燈路は可愛いなぁ。燈路に尊敬される春が羨ましいよ。
さてさて、気持ちを切り替えて。お待ちかねのプールだ!
更衣室に行って着替えようという流れになったが、夾はウッドデッキに置かれた椅子に座ったまま動こうとしない。
「キョーはプールで泳がないの?」
「泳がねぇよ」
夾が今回同行したのは、自分だけが遊びに加わらないと言ったら、本田さんが気に病むと思ったからだろう。
「夾君、泳がなくていいからプールサイドに行こう? 私の水着姿、夾君に見てもらいたいな」
「誰が見るか」
「そんな……夾君、冷たい……っ」
バーサーカー化するんじゃと危ぶんだが、楽羅姉は泣き落としにかかった。女の涙に弱い夾は苦虫を噛み潰したような顔で、「泣~く~な~っ」と呻いている。
「夾、プールで競争しよう」
唐突に春が勝負を持ちかけると、夾は怪訝そうに眉を寄せた。
「は? 俺は泳がねぇっつっただろ。他の奴と競争しろよ」
「じゃあ……由希と建視も一緒に競争しない?」
「なんで僕まで」
「建視は、皆で楽しくプールで遊ぶ事が目的なんだろ」
春の中では、遊ぶイコール勝負事なのか? まぁ、いいけど。
由希はというと、心配そうに様子を窺う本田さんを見遣ってから「やろうかな……」と呟いた。
「ぜっってぇ負けねぇ!! 勝つ!! 俺は勝つ!!」
勢いよく椅子から立ち上がって叫んだ夾を見ていたら、パブロフの犬という言葉が思い浮かんだ。
春はサムズアップしながら「由希、ナイス……」と言い、由希は軽く肩を竦めて「なんとなく……」と応じている。
「ところで、夾。水着は持ってきているのか?」
僕が問いかけると、夾は「ンなもん、持ってきてねぇよ」と答えた。
「ふっふー。こういう展開を予想して、未使用のフルボディスーツ型の水着を用意しておいたよ」
手回しがいい僕に感謝してもいい場面なのに、夾は嫌そうに顔をしかめている。
「……いらねぇ。体操着を着て泳ぐ」
「おいおい。全国レベルの水泳選手でも、着衣水泳では速く泳げないんだぞ。本気で由希に勝ちたいなら、水に対する抵抗が少ないフルボディスーツ型の競泳水着を着用するべきだ!」
葛藤していた夾は由希に勝つ事を最優先にしたらしく、僕が用意した水着を借りた。そして、男女別れて更衣室で着替える事になったのだが。
「春、プールに入るならアクセサリーを外せよ」
「錆びても新しいの作るから平気……」
アクセサリーの心配をして注意したんじゃないんだけど。
春はベルト型のチョーカーとロザリオ風のネックレスで首元を飾り、二連の数珠ブレスレットを左手首につけている。
左上腕にはタトゥーが入っているし、シャープなデザインのサングラスをかけた出で立ちは、女をとっかえひっかえするナンパ男そのものだ。
これで春がTバックを穿いていたら違う水着に着替えろと言うけど、
「建視の水着……派手だね」
「チャラい格好をした春に言われたくないよ」
言い返しつつも、ちょっと気になった。僕が今回、勝負水着として選んだのは赤と白のチェッカーフラッグ柄のサーフパンツだけど、そんなに派手かな?
「ケンは髪と目の色がハデだから、水着がハデでもイマサラだよーっ」
庇うと見せかけて止めを刺してきた紅葉は、ファンシーなウサギの絵が入ったレモンイエローのサーフパンツを穿いている。
子供っぽい水着のせいで燈路より幼く見えるけど、紅葉は気にしてないだろう。というか、それを狙っている節がある。女子の中に自然に混ざって遊ぶために!
引き合いに出した燈路は、緑色を基調とした迷彩柄のサーフパンツを着用している。燈路はモゲ太の絵が入った水着の方が、似合うと思うけど。
「……っ」
水泳の授業と同じ青いサーフパンツ姿の由希が、顔を強張らせて肩を震わせた。急な腹痛に襲われたのかと思ったが。
「クソ由希、てめぇ、俺を見て笑いやがっただろ……っ」
あれは笑っていたのか。何気に夾は由希の事をよく見ているよな。
そんな事を思っていたら、黒一色のサーフパンツ姿になった恵君が僕に声をかけてくる。
「建視さんは油断ならない人だから、念のためにプールでの禁止事項を設けておくよ……」
禁止事項その1、女性に過度に接近する事。
禁止事項その2、女性の許可を得ずに撮影・録画する事。
禁止事項その3、水中に潜って女性の下半身を眺める事。
禁止事項その4、女性と2人きりになる事。
禁止事項その5、女性を3秒以上凝視する事。
「以上のどれかに建視さんが抵触した場合……俺のとっておきの呪いが発動するから、肝に銘じておいて……」
「ちょっと待って! 禁止事項その5は条件が厳しすぎるよ」
僕が思わず異議を申し立てると、恵君は冷ややかな視線を送ってくる。
「俺は厳しいとは思わないけど……。建視さんは無駄に記憶力がいいから、一瞬見ただけで
恵君の僕に対する信用度が低すぎて、泣きそう。
由希と夾と燈路も恵君の意見を支持したので、僕だけプールでの行動に制限がかかってしまった。
「なんで僕だけ……っ!」
「女子のプールを覗こうとするからだろ」
僕に覗き魔の汚名を着せた張本人の由希が偉そうに言うから、温厚な僕でもカッチーンと来た。
「綾兄は女子のプールを覗きたいと渇望する事は、男のロマンの1つだと言っていたぞ」
「常識をどこかに捨ててきた奴を基準にするな」
男のロマンが理解できないなんて本当に男かと言ってやろうかと思ったけど、ガチな喧嘩に発展しそうだから止めておいた。
由希と口論して時間を浪費するなんて、大いなる損失だ。プールが僕を待っているぅ!
屋内プールがある部屋は縦長に広い。天井がガラス張りになっていて、真夏の強い日差しが容赦なく降り注ぐ。
空調が整っているから高温・高湿度のサウナ状態にはなっていないものの、むわっとした熱気が全身に纏わりつく。
プールサイドには、プラスチック製の白いリクライニングチェアが6つ設置されている。出入口の近くのスペースには、浮き輪とビート板とビーチボールが複数個、ゴムボートは1つ置いてあった。
水遊びグッズはこっちで用意するって、花島さん達に連絡したはずなんだけど。彼女が持参した浮き輪とビーチボールは、お気に入りの品だったのかもしれない。
花島さんの水遊びグッズはお手伝いさんによって、屋内プールがある部屋に運び込まれている。
そして肝心の屋内プールの長さは20メートルで、幅は12メートルあったと思う。
僕らが一足先に準備運動をしていたら、女の子達のきゃぴきゃぴした話し声が近づいてきた。胸が高鳴る! 恵君の警戒心たっぷりな視線が僕に刺さる!
「わぁ……っ! 立派なプールですねっ!」
「思っていたよりデケェな」
「プールサイドでトロピカルジュースを飲みたいわね……」
「夾君、こっち向いてーっ」
僕は夾じゃないけど、楽羅姉の声につられたという事にして女の子達の方を向く。そして3秒以内に視線を逸らす。
生まれてきてよかった……!!
長い黒髪をポニーテールにした花島さんは、リン姉に負けず劣らずのナイスバディを引き立てる黒のワンピース水着を身に纏っていて、控えめに言って女神だった。
ツインテールにリボンを飾った本田さんは、花柄がプリントされたピンクのワンピース水着を着て、清楚さと可愛らしさが同居した出で立ち。
金髪をまとめ上げた魚谷さんは、ピンクと黒のゼブラ柄という派手な三角ビキニを着こなし、スレンダー体型も相俟ってモデルのようだ。
黒褐色の髪をハーフアップにした楽羅姉は、トップの部分にフリルがついたオフショルダービキニを着用している。水着の色は当然のようにオレンジだ。
前髪の両サイドの髪を三つ編みにした杞紗は、スカートタイプのクリーム色のワンピース水着を着ていた。ここがレジャープールだったら、ロリコン野郎に誘拐されるんじゃないかと危ぶむほど可愛い。
「下劣……」
「おい、建視。
「杞紗っ! 建兄に近寄ったら駄目だからね」
由希と夾と燈路は揃って、僕を性犯罪者扱いしてきた。いくらなんでも酷いぞ。
「清廉潔白な僕に濡れ衣を着せる暇があるなら、さっさと勝負を始めよう。僕達が競泳している間は、他の人達が泳げないんだから」
「誰が清廉潔白だ」
夾のツッコミを無視して、僕はプールに入った。日光で温められていたせいか、水がぬるいな。
競泳を行う4名は間隔を空けて横1列に並ぶ。右端の第1レーンが夾、第2レーンが春、第3レーンが僕、第4レーンが由希という順番だ。
「どの泳ぎ方で競争するんだ?」
「クロールでいいんじゃない……?」
「夾はプールの授業に出てないけど、クロールは泳げるのか?」
「馬鹿にすンな。小学ン時、習ったっての」
そういや、夾は小学4年くらいまで水泳の授業に出ていたな。でも、それ以降は泳いでないだろ。泳ぎ方を忘れていてもおかしくないのに、競泳勝負を受けるなんてチャレンジャーだな。
「泳ぐのは端から端までの20メートルにするか」
「嘗めんなよ。100メートルは楽勝で泳いでやる」
自分を追い込むなんて、夾は実は
100メートルも泳ぐのはかったるいと僕が言ったので、40メートルにしようという事になった。よーし、花島さんに良いトコ見せるぞ!
「Auf die Plätze(位置について)」
「日本語で言え」
夾の要求を受けた審判係の紅葉が、「ヨーイ、ドン!」と叫んで一斉にスタート。
学校のプールと違って底にラインが引いてないから、自分がまっすぐ泳げているかどうか自信がない。両隣を泳ぐ由希や春にぶつかる気配がないから、今のところは大丈夫だろ。
あと数メートルで端に辿り着きそうな時、由希とすれ違った。
こいつ、泳ぎもクソ上手いからな。泳ぎが得意な鼠っていうとヌートリアを連想する……っと、折り返しだ。
勝負の結果は、由希がぶっちぎりの1位。2位はなんと、ブランクがあった夾。僕は春と同着の3位だ。水泳の授業をサボり続けた奴に負けちゃったよ……。
「す、すごいです……! 由希君も夾君も建視さんも
本田さんは称賛と拍手を送ってくれたのに、2位になった夾の顔に喜びの色は欠片も無い。
由希に勝てなかった事が悔しいのと、早くも活動限界が訪れたらしい。プールから上がった夾は出口に向かっている。
「夾君、どこ行くの?」
「……だりぃから休む」
「私も一緒に行くよ」
「ついて来ンな!」
夾と本田さんが距離を縮めているから、楽羅姉は焦っているのかもしれない。体調悪くて不機嫌な夾につきまとうのは、逆効果だと思うけど。
夾と楽羅姉が立ち去った後、ビーチボールや浮き輪を持った花島さん達がプールに入ってくる。
「水中バレーボールをしましょう……」
「それ、おもしろそうねっ。ボクもやるーっ!」
「私も参加させて下さいっ。杞紗さんも一緒に、水中バレーボールをしませんか?」
「うん……やりたい……」
「杞紗がやるなら、オレもやるよ」
「恵達もバレーやっか?」
魚谷さんが誘いをかけてきた。これに乗じて……と思ったけど、厳しいボディガードは見逃してくれない。
「建視さんを見張らなきゃいけないから、俺は参加できないよ……」
「俺が責任を持って建視を見張っているから、恵君は皆と遊びなよ」
「……僕が何をしたって言うんだ?」
「ブラックになって暴れた俺が言えた事じゃないけど、日頃の行いって大事だよね……」
由希に始終見張られていたせいで、心の底から水遊びを楽しむ事はできなかったけど。花島さんと一緒にプールで遊ぶという悲願は達成されたので、大満足の1日だった。
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高2・夏休み編
33「ナゲシそうめん!」
今回と次回はドラマCDの話です。
「ケン! Guten Morgen!(おはよう!)」
白い半袖のセーラー服と青いショートパンツを合わせた、改造制服姿の
今日、8月10日は登校日だから制服を着ているのはおかしくないけど、やってくる時間がおかしい。普段登校する時間より1時間も早いぞ。
「おはよう、紅葉。こんな早くにどうした?」
「早くガッコー行きたくて、待ちきれなくなっちゃった!」
多くの学生が、紅葉とは真逆の事を思っているよ。
「ドライバーさんを急かすのは気の毒だから、家に上がって待ってろよ」
「え~、待つのヤダなぁ……そうだっ! 学校まで走っていこうっと」
回れ右した紅葉のウサギリュックを掴んで、「待て」と制止する。
「道を歩いている女性にぶつかって、変身したらどうするんだ」
「ぶつかったりしないもーんっ」
「万が一って事があるだろ。お手伝いさんにアイスココアを作ってもらうから、それを飲んでいきなよ」
不満そうな顔をしていた紅葉は、アイスココアに釣られて家の中に入った。これでひと安心だ。
僕がお手伝いさんにアイスココアを頼むと、紅葉が気遣わしげに聞いてくる。
「ねぇ、ケン。今日の午後はニンム入っているの?」
「ううん、入らなかったよ」
「よかった。それじゃ、みんなと一緒に遊ぼっ!」
むしろこっちから遊びに誘おうと思っていたので、僕は二つ返事で了承した。
んで。僕と紅葉と春は定刻通りに送迎車に乗って、学校に向かった。
紅葉や春とは昇降口でお別れなのだが。紅葉は
「トールっ!」
「あっ、紅葉君!」
廊下の途中で、スクールバッグを持った本田さんと由希に出会った。
「トール、元気だったっ? ユキもー」
「はいっ、元気でした!」
「久しぶりだね、本田さん」
「お久しぶりです、
5日前に任務をこなしたから、本田さんの癒しオーラが染み渡る。安らぎに包まれて気分リフレッシュした僕は、本田さんの隣に立つ由希に視線を移す。
「由希も……会わない間に背が伸びたな」
「そりゃ、成長期だからな」
「僕だって伸び盛りだから、由希に負けてないぞ」
「建視がはとりに似ているのは顔と身長だけなんだから、頑張って伸びろよ」
こんのネズ公。久々に嫌味かましてくれるじゃないか。僕が臨戦態勢に入った時、少し遅れて歩いていた春が合流して由希に声をかける。
「由希……」
「あっ、
「……うん」
「春……いつもの調子なんだか、暑さでバテているのか解らないよ。もう少ししゃんとしなって」
「由希、春の母親みたいだな」
先程の仕返しも込めて僕が言ってやったら、濃灰色の目を吊り上げた由希が「バカな事言うな!」と怒鳴った。
「由希は俺の母親っていうより……前世で生き別れた姉妹ってカンジ」
なんで姉妹なんだ。せめて兄弟にしておけよ。由希も反応に困っているぞ。
「トール、トール、今日一緒に遊べる!?」
「ごめんなさい、今日は夕方からバイトがありまして……」
ありゃ残念。本田さんが一緒に遊べないとなると、花島さんが来る可能性は低いな。
「あー……そうなんだ。トール、タイヘン……久しぶりに会えたのにねー」
「それなら、お昼を一緒に食べるのはどう? 今日は午前中で終わるだろ?」
僕が代案を出すと、本田さんは嬉しそうに笑って「はい、食べましょう!」と賛成してくれた。
「やったー! あのね、ボクね、食べてみたいものがあるのっ。テレビでやってたの、流すのっ!」
紅葉の漠然とした発言を受け、本田さんは小首を傾げながら「流すの……?」と呟く。
「うん、えっとねっ。んー……な……ナゲシそうめん!」
「惜しい、紅葉。ナゴシそうめんだ」
「紅葉はともかく、建視は重度の夏休みボケか? 流し素麺だろ」
由希が冷ややかな目を僕に向けてきた。喧嘩腰だな。母親ネタを根に持ったのか?
「さっきのは紅葉のボケにかぶせたんだ。由希はお笑いの勉強をした方がいいぞ。
「目指してない……っ。それより流し素麺って、あの……?」
「あのねっ、すっごい長いツツにねっ、そうめん流してみんなで助けあうのーっ!」
ボーッとしていた春が、「……すくいあう」と訂正した。話を聞いていないようで、ちゃんと聞いていたらしい。
「それがね、すっごい楽しそうだったの。ボク、あれやったコトないのっ」
「紅葉、あれは一般家庭でできるものじゃ……」
由希の消極的な意見を遮って、僕が「できるだろ」と言い返した。
「いや、できないだろ。第一、道具が……」
「流す道具なら、手配すれば昼には届くと思うよ」
草摩の本家の力を借りると察した由希が、嫌そうに顔を顰めた。僕達だけで素麺を流す台を1から作るとなると、半日じゃ終わらないぞ。
「私もやった事ありませんので、ぜひやってみたいです……っ。私も以前テレビで観まして、とても楽しそうだと思っていたのですっ!」
「やったあ! 決まりね、決まりねっ! じゃあ、シーちゃん家を借りてみんなでやろう! ハルも一緒にやるでしょ?」
「……ああ、いいんじゃない」
春はそんなに乗り気じゃなさそうだ。リン姉と会う約束をしているのかな。それなら、先約があるって言うか。
「そうですね。では、
「あら……素麺を食べるの……?」
風鈴のように涼やかな声が聞こえた……と思ったら、花島さんがいつの間にか近くにいた。由希は驚いたのか、「がっ」と間抜けな声を上げている。
「はなちゃん、おはようございますっ」
「花島さん、久しぶり」
「おはよう、
花島さんが約3週間ぶりに僕の名前を呼んでくれた……! これだけで学校に来てよかったって思えるよ。
「夏はやっぱり素麺ね……でも、素麺は綺麗な水を使わないと駄目……喉越しが全然違うわ……カルキ臭いなんて以ての外……」
水にこだわるなんて花島さんは食通だな。お茶を点てるために良質な水を求めて方々歩き回って、料亭の岡星に辿り着いた稀代の茶人である
「つゆはできる事なら手作りが良いわ……もちろん、出汁はかつおだし……結局、あれが1番しっくりくると思うの……そしてよく冷やしたつゆと共に、同じく冷えた素麺を食べる……夏ならではの味覚よね……」
「花島さんは素麺が好きなんだね。よければ一緒に食べようよ」
僕が誘いをかけたら、花島さんは少し考えるようにして「そうね……」と呟く。
「それじゃ……ご馳走になろうかしら……」
「はいっ! ぜひぜひ、ご一緒しましょう……っ」
「楽しみにしているわ、透君……」
花島さんが教室に向かうと同時に、紅葉が「キョーも誘おうよっ!」と言い出す。
紅葉や春も一緒に2‐Dの教室に入ると、夾が自分の席に着いて漫画を読んでいた。
「キョー、あのねーっ! ガッコーが終わったら、みんなでナガシそうめんするのよーっ!」
「あー、もうっ。朝っぱらから耳元でギャーギャー騒ぐな、このガキ。おりゃ、今日は機嫌が悪ぃんだよっ」
「にゃはははっ、キョーはいつだってゴキゲン悪いじゃない」
「また由希に負けたの……?」
春に図星を衝かれたのか、言葉に詰まった夾は間を置いて「……うるせぇ」と言い返す。
「用があるならさっさと言え。素麺がなんだってんだ」
「あのですね。今日のお昼に皆さんで流し素麺をしようという事になったのですが、夾君もぜひぜひご一緒しませんか?」
本田さんから誘いを受けて幾らか機嫌が直ったのか、夾の険しい表情が少し和らいだ。
「ご一緒も何も……紫呉ン家でやるんだろ?」
「はいっ。まだ紫呉さんから、お許しは頂いてませんが……」
「だったら、必然的に俺もそこにいるって事じゃねぇか。いちいち聞くなよ」
「聞く必要はあると思うけど。帰宅した直後に『流し素麺をしようよ』って誘われたら、夾は『急に何言い出すんだ。こっちの都合もちったぁ考えろ』とか言って怒るだろ」
僕が猫憑きの従弟の口調を真似ながら指摘すると、夾は物凄く嫌そうな顔をした。
「……どうでもいいが、なんで流し素麺なんだよ。ああいう腹に溜まんねぇモン食って、意味あんのかよ。水っぽいだけじゃねぇか、流し素麺なんざ。なにが流し……」
夾は怪訝そうに眉を寄せて「流し?」と繰り返し、オレンジ色の目を驚きで見開きながら「流し!?」と再び同じ言葉を発した。
「流しって、あの流しの事か!?」
5回目も“流し”って言った。そんなに驚く事か?
「そう、流すの……」
「そして、すくうのー!」
春と紅葉がテンポ良く受け答え、夾が呆れ顔で「おまえらなぁ……」と言った時。
「素麺にはワサビが良く合うと思うの……」
「うぉっほぅ?!」
足音を立てずに現れた花島さんに度肝を抜かれたのか、夾が奇声を上げた。
武道の心得がある者が人の気配を感じ取れないなんて、普通だったら駄目出しする処だけど。花島姉弟は忍者かと思いたくなるほど、気配を絶つのが上手いのだ。
「我が家ではワサビを入れるのが常識なの……ともすると単調な味になりがちな素麺を、ワサビを使うとアクセントがつくし、食欲も湧くわ……もちろん、ワサビはすりたて……香りが違うわ……チューブ入りのワサビなんて、以ての外よ……」
僕と兄さんが素麺を食べる時に用意する薬味は、ネギとおろし生姜とミョウガだけど、花島家はワサビにこだわっているのか。素麺の流し台の手配に加えて、生ワサビも頼んでおこう。
あ、そうだ。ぐれ兄にも電話しないと。
「という訳で、今日の昼は皆と一緒に流し素麺をしたいから、庭を貸してよ」
『けーくん、開口一番に「という訳で」とか言われても解らないって』
「ぐれ兄は作家なんだから察してよ」
『あのね、作家はエスパーじゃないのよ。まぁ、もみっちが流し素麺をやろうと提案して、由希君が道具がないとできないと反対して、けーくんが道具は手配すれば用意できると言って、透君がぜひやってみたいと鶴の一声を発して決まったんだろうケド』
お見通しじゃないかと僕が慄いている間も、ぐれ兄は滔々と語り続けている。
『かつおだしを利かせたおつゆに、あの白くて繊細な素麺を浸して食す。これこそが夏の醍醐味、流し素麺の醍醐味というもの。やっぱり夏は冷たい流し素麺だよね。そう、流し! ……流し? 流しってもしや、あの流し?」
4回目も“流し”って言った。そんなに驚く事か? ……さっきも同じようなやり取りをした気がする。
何はともあれ、
草摩温泉で研修中の
全校集会で校長先生の長い話を聞いた後に掃除をして、ホームルームで
学校に来なかった
杞紗からは『また今度誘ってね』と可愛らしい返事が届いたけど、燈路の返信には『デートの邪魔しないでよ』と抗議が記されていた。……べっ、別に羨ましくなんかないんだからねっ。
僕と本田さんと花島さん、由希と夾と紅葉と春の7名は、下校途中にスーパーに寄って素麺とペットボトル入りのジュースやお茶を買い、その足でぐれ兄の家へと向かう。
「なんで、ンな所に給水車が停まってやがんだ?」
ぐれ兄の家に続く石段の下に停車する給水車を見て、夾が疑問を口にした。
「花島さんがカルキ臭い水は素麺に適さないって言ったから、天然水を用意したんだよ」
僕が答えたら、本田さんが驚きで焦げ茶色の目を丸くした。花島さんは表情を変えずに、「水は大事よね……」と言っている。
彼女達の反応は納得できるけど、由希と夾が若干引いているのは何故だ。気になる女の子の要望に応える事ができないようじゃ、男が廃るぞ。
長い石段を登りきった時、「きょーくーん♡」と甘え声が聞こえた。ぐれ兄の家の玄関先で、楽羅姉が待ち受けている。
「やあ、楽羅姉。早かったね」
「建視、てめぇ! 楽羅を呼びやがったな!?」
「夾。恨むなら、楽羅姉が今日予定を入れていなかった不運を呪うがいい……」
僕が話している途中で、楽羅姉はロケットスタートをかけた。身の安全の確保を怠った夾は、楽羅姉によって敢無く捕獲される。
「きょぉぉくぅぅん!! せっかくの夏休みなのに中々会いに来れなくて、ごめんなのねェア!! 会いたかったァ~!! 会いたかったよォ!! 寂しかったァ!! わ・た・し・も寂しかったァ、ンだからっ!!」
チンピラのように巻き舌でしゃべりながら、楽羅姉は高速の連続パンチと延髄斬りを夾に浴びせる。
バーサーカー化した楽羅姉に、流し台を壊される事態を恐れて呼ぶかどうか迷ったけど、呼んでおいて正解だった。呼ばないを選択してそれが楽羅姉にバレたら、シメられていたな。
「こうしてっ!! やっとっ!! 来てっ!! やったぞオラァァァ!! ありがたく思えオラァァァァ!!」
楽羅姉はフィニッシュとばかりに、夾の両足を掴んでジャイアント・スイングを仕掛けた。ぶん投げられた夾は、「うわああああ!」と悲鳴を上げながら空高く舞っている。
あのまま落下するとやばいんじゃと危ぶんだが、「うぉらァ!! ラブ・キャーッチ!!」と叫んだ楽羅姉によって夾は無事に受け止められた。
夾は地面に体を叩きつけられずに済んだ代わりに、楽羅姉の万力のような抱擁を受けているから、無事とは言えないけど。
と、その時、恵君が玄関から出てきた。
「皆さん、こんにちは……外が騒がしかったけど、何かあったの……?」
「いいえ……特に何もなかったわ……」
普段通りの無表情で報告した花島さんに、由希は畏怖を込めた視線を送る。由希だって夾が楽羅姉にボコられた時、いつもの事だと流していただろ。
「すっごーい! なっがーいね!」
居間に面した庭に向かった紅葉が、歓声を上げた。
細めの竹を3本組んで紐でしっかり固定した足場が、緩やかな傾斜がつくように高さを変えて幾つも設置され、半分に割って節を取り除いた竹の流し台が足場の上に載っている。
そして紅葉の言う通り、素麺の流し台は予想以上に長かった。
台所の窓に面した裏庭から家をぐるりと半周して、途中で曲がり角が2ヶ所ほど設けられて、居間に面した表庭まで続いている。
「す、すごいです……っ! テレビで観た流し素麺と同じです……っ! このように立派な道具を、一体どなたが用意して下さったのでしょう……?」
「僕が1人で作ったんだよ、透君」
縁側に出てきたぐれ兄が、呼吸をするように嘘を吐いた。
本田さんと夾が、ジェイソンという熊がいると信じてしまった悲劇を繰り返さないためにも、ちゃんと訂正しておこう。
「本田さん、ぐれ兄の言う事は7割方嘘だから鵜呑みにしちゃ駄目だよ。この流し台はウチの庭師さん達が、僕の要望を受けて作ってくれたんだ」
「人聞きの悪い事言わないでよ、けーくん。僕は生まれてこの方、嘘なんか吐いた事がないのが自慢なんだから」
「早速、嘘を吐いているじゃないか」
笑顔で睨み合う僕とぐれ兄を余所に、紅葉がはしゃいだ声を上げる。
「ねーねーっ! 早くナガシそうめんしようよーっ!」
「あっ、そうですねっ! では早速、素麺をゆでますね……っ。つゆは僭越ながら、私が作らせて頂きますです」
「ホーントホント!? わはーい、やったぁ、楽しみーっ!」
「透君が作るつゆは絶品だから、私も楽しみだわ……」
お世辞でも何でもない事を示すように、花島さんは微笑みを浮かべている。続けて発言した恵君も、心なしか表情が柔らかい。
「母さんが作るめんつゆも美味しいけど、透さんが作るめんつゆは違った美味しさがあるからね……」
「素麺だけだと男の子は物足りないかもしれないと思って、かき揚げと鶏天を作って持ってきたよ。夾君には
楽羅姉に抱きつかれている夾は抵抗を諦めたのか、「……ああ」と力無い返事をした。
流し素麺に参加する面子が集まったので、手分けして準備に取り掛かる。
本田さんと楽羅姉は調理を担当。花島さんと恵君は、人数分のお椀や箸やグラスを出して縁側に運ぶ。
僕と紅葉と春と夾は給水車の長いホースを引っ張ってきて、流し台の1番高い所から水が流れるようにホースを足場に設置する。
由希はというと、自分の畑とプランターから葉ネギとシソとミョウガを取ってくると言っていた。
ぐれ兄は皆が働き始めた途端、「僕は残っている仕事を片付けなきゃ」とか言って、仕事場兼書斎に引っ込んだ。
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34「可愛い素麺です」
準備が粗方終わった所で、縁側で正座した
手伝いをしなかったぐれ兄は何食わぬ顔をして、お椀を受け取る列に並んだ。
ぐれ兄はさておき、縁側に置いた皿から好みの薬味を取っていく。僕は
「皆さんもお腹が空きましたでしょうし、さっそく夢の流し素麺を始めましょう!」
「うわーいっ! はじめよう、はじめよう!」
「では、スタートです……っ!」
本田さんは意気揚々と合図を出したけど、流れてくるのは当然ながら水だけだ。
「誰かが向こうから素麺流さないと……」
「イミないよね~、きゃはははっ!」
由希の困惑混じりの言葉を、
「きゃははじゃねぇよ。流せよ、誰か」
「おまえが流せばいいだろ」
「おまえこそ流せよ」
睨み合う夾と由希を見かねて、本田さんが口を開く。
「あ、あの、すみません。私が流しますので……」
「は? なんでおまえが」
「楽しみにしていた本田さんが流したら、意味ないじゃない」
「まあまあ、交代で流していけばいいじゃないですか」
ぐれ兄の提案を受け、
「え? よろしいのですか?」
「うん、いいよ。夾君、私の流した素麺、し……っかり受け取ってね」
夾が嫌そうに「う……ぐっ」と呻いた瞬間、楽羅姉が被っていた猫が取れてバーサーカーが表に出てくる。
「にゃろう……受け取れっつってンだよ。聞こえねぇ振りしてンじゃねぇぞ、コラァ!!」
「アッハイ。わかりマシタ、わかりマシタから。さっさと流せ、ホラ」
「うふふ~、まっかせて~」
「あー……疲れる」
夾、愚痴を零すのは楽羅姉の姿が見えなくなってからにしろよ。
幸いな事に、楽羅姉は素麺を流す方に意識が向いていたらしく、夾の迂闊な発言を聞き取って引き返してくる事はなかったけど。
「うわぁ……いよいよですね、ドキドキしますっ」
「ボク、ワクワクー!」
裏庭の方から楽羅姉が「いっくよ~!」と合図を出した。程無くして素麺が流れてくる。
「あ、来ましたっ! わぁー……ふふっ、面白いです……っ!」
「よかったね、本田さん」
「はいっ!」
由希と本田さんがアオハルしている。僕も……と思ったけど、花島さんと
食事中の花島姉弟の邪魔をするほど僕は恐れ知らずじゃないので、流れてきた素麺を箸でキャッチしてつゆに浸してから啜った。
……うーん、水っぽいのがちょっと気になる。流し素麺は遊び要素が多いから、味を求めちゃいけないのだろう。
でも本田さんの手作りのつゆは、ほんのり甘めで美味しい。ワサビとの相性もいいな。
それに何より、花島さんと一緒に流し素麺をしているというシチュエーションだけで、何杯でも食べられそうだ。
「あはははっ! なんかキンギョすくいみたい! あ、ねぇねぇねぇ、色がついたのはないの?」
紅葉の質問に答えたのは、雑学に詳しいぐれ兄だ。
「それは素麺じゃなくて冷麦だよ。最近は見かけないけど、あれってオマケみたいで楽しいよね。それを食べた人は倖せになれるとか、両想いになれるとか」
「なにバカ言ってるの」
「冷たい……っ。由希君の絶対零度のツッコミで、僕の心はいつもひんやり冷えてくるのでございます……」
かき揚げを確保した春が「バカな事ばっかり言うからだよ……」とツッコミを入れたので、続けて僕も「ぐれ兄の心は元から冷たいだろ」と皮肉った。
「皆さん、楽しそうですね……っ。夾君、夾君は流し素麺いかがですか? 美味しいですか?」
「美味いまずいの前によ、これ普通に皿で食った方が落ち着かねぇか? せわしねぇよ」
流し素麺を全否定する発言をした夾に、ぐれ兄が「そこがまたいいんじゃないですか」と言い聞かせた。
「そういうモンか? 春ぅ、あからさまに俺の前から取っていくなよ。全然食えねぇだろ」
「由希が全然取れてないから……はい」
春はすくい取った素麺を、由希のお椀に入れてやっている。
それを見たぐれ兄が「不器用さんだからね」とからかうと、年下の従弟に世話してもらって困惑していた由希が「うるさいな」と言い返す。
「やっぱり春は由希の母おy」
僕の言葉を遮るように、由希が低い声で「もう1度言ったらぶん殴るぞ」と脅した。暴力反対!
「はいです、由希君。これもお食べ下さい」
「あっ、ありがとう、本田さん」
「いいえー、夾君もはいです」
「あ、ああ……」
本田さんから素麺を取ってもらった夾は驚きながらも、ちょっと嬉しそうに笑っている。……由希が近くにいるのに夾が笑うなんて、自分の目を疑ってしまう。
「モエモエ~」
「……んだと、てめぇ、紅葉!」
紅葉に向かってがなる夾の耳は、照れて赤く染まっている。実にアオハルだけど、このやり取りを楽羅姉が聞きつけて暴走したら困るな。
タタリ神と化した
「そろそろ交代しようか。今度は僕が流すよ」
「ダーメダメダメ! 今度はボクが流すのっ!」
「ええっ!?」
驚きの声を上げた由希に続いて、夾が訝しげに「紅葉がか? 解ってンのか、ちゃんと」と疑問を呈した。
「わかってるよっ。流せばいいんでしょ。まっかせといて! えっへ~ん」
自信たっぷりに胸を張る紅葉だが、こやつは時々とんでもない事を思いついて実行に移すから安心して任せられない。
兄さんと僕と紅葉の3人で手巻き寿司を食べようとした時、紅葉はチョコレートシロップやメープルシロップを持参して、僕と兄さんの制止を聞き流して冒涜的な手巻き寿司を作った事がある。
思い出すだけで食欲が減退する手巻き寿司を作った紅葉は、「これ、おいしくない」と言ってほとんど食べなかったんだよな。
「なんか不安だな」
「全然わかってねぇような気がする」
由希と夾の不信感丸出しの意見を受けて、花島さんが名乗り出る。
「私が流しましょうか……?」
僕も一緒に流すよと言おうとしたのだが、由希と夾が声を揃えて「紅葉頼む」と言いやがった。余計な処で息ピッタリだな、こいつら!
「紅葉君、よろしくお願いしますっ」
「うんっ! ガンバルー♡」
「私に気を遣う事ないのに……」
素麺を流してみたかったのか、花島さんは心なしか残念そうだ。
由希と夾は、何やら物言いたげな顔をしている。素麺じゃなくて電波を流すんじゃないか、とか思っていそうだ。花島さんが流してくれる電波なら、僕は受け止めてみせるぞ。
「花島さん、紅葉の次に流そうよ。僕も手伝うから」
「
ボディガードとしての役目を忘れていなかった恵君に阻まれた時、紅葉と交代した楽羅姉が戻ってきた。「げっ」とか言うな、夾。流し台が壊される。
「夾君ったら、
「やめ、やめろっ」
夾は抵抗虚しく、楽羅姉によって口の中に鱚の天ぷらを押し込まれている。フォアグラ用のガチョウ再び。
「いくからねーっ!」
「はーい、いつでもどうぞですーっ!」
しばらくして流れてきたのは、小さな白い球体だ。
……紅葉の奴、早速やらかしたな。にしても、これは何だ? ゆで卵のように見えるけど、サイズからして鶏じゃない。
「うわぁ……可愛い素麺です、ちっちゃくて」
……本田さん、今の発言はやらかした紅葉を庇っているの? それとも素でボケているのか?
後者だとしたら、本田さんは夏バテにかかって判断力が低下しているのかもしれない。
「うん、まるでウズラの卵みたいね」
流れてきた物体を器用に箸でつまんだ楽羅姉は、観察しながら意見を述べた。
「……味もウズラの卵にそっくり」
春は大胆にも口の中に放り込んで咀嚼してから、コメントする。
というか、ウズラの卵なんて用意しなかったと思うけど。もしかして僕が生ワサビを持ってきてほしいと頼んだように、紅葉も流す食材を届けさせたのか!?
「次いくよーっ!」
「つ、次は何?」
当惑した由希の発言は、皆の心の声を代弁していた。息を吞んで待ち受ける中、カラコロと音を立てながら流れてきたものは……。
「……どす黒い」
不安を倍増させる春の発言に続いて、ぐれ兄が「これは……チョコレート?」と見解を述べる。
水流の中でどんぶらこする黒っぽくて丸い物体は、戌憑きの従兄の言うように一見すると普通のチョコレートだ。
けれど、コレを流したのは紅葉だという事を忘れてはいけない。サプライズ好きな紅葉の事だから、何か仕掛けが打ってあるかも。
「チョコレートに見えるけど、梅干しやゴーヤが中に入っている可能性も……って、花島さん、食べないで! 本田さんと楽羅姉も!」
水の中を流れてきたチョコレートを、なんで食べようとするんだ!
本田さんと楽羅姉は箸でつまんだチョコレートを口に運ぶ動きを止めたけど、花島さんは律儀にもチョコレートをつゆに浸けてから口に入れてしまった。
「これはただのチョコレートよ……なかなかイケるわ……」
余程驚いたのか、由希が「でぇ!?」と王子らしからぬ奇声を上げた。僕は驚きすぎて声も出ないよ……。
「咲ちゃん、なんだかんだいって味オンチ?」
ぐれ兄が聞き捨てならない台詞を吐いた。それを聞いた僕は驚きから立ち直って、「ぐれ兄、失礼な事言うなよ」と窘める。
「じゃあ、けーくんはチョコレートとめんつゆの組み合わせが美味しいと思うのかい?」
思うと答えたら、チョコレートをめんつゆに浸して食べてみろと言われるのは明らか。返答に詰まった僕を煽るように、ぐれ兄が「あれれ~?」と某少年名探偵のような発言をする。
「けーくんなら『思う』って即答すると思ったのになぁ。僕の事を失礼とか言いながら、けーくんも咲ちゃんは味オンチだと思っていたんだね」
「そんな事思ってないよ!」
覚悟を決めた僕は流れてくるチョコレートを箸で捉え、めんつゆにちょびっと浸す。
……大丈夫だ。花島さんが美味しいと言ったものを、僕が美味しく感じない訳がない。自己暗示をかけながら、チョコレートを口の中に入れた。
「……甘じょっぱい。なるほど、これはパイナップル入りの酢豚や生ハムメロンのような組み合わせだね」
「気に入ったのなら、どんどんお食べ」
満面の笑みを広げたぐれ兄はそう言いながら、自分のお椀に入ったつゆを僕のお椀の中に入れた。ぐれ兄の奴、いつの間にチョコレートをこんなに集めたんだ。というか……。
「ぐれ兄が箸をつけたつゆを混入するなよ、ばっちいな」
「ひどい……っ。僕をバイ菌扱いするなんてっ。はーさんに言いつけてやるんだから!」
「兄さんに言いつけたら、叱られるのはぐれ兄の方だぞ」
それより、このチョコレートが浮かんだつゆ、どうしようかな。
これを捨てて新しいつゆをお代わりしたいのは山々だけど、手巻き寿司事件の際に食べ物を粗末にするなと紅葉に説教した手前、廃棄するのは躊躇われる。
……自力でお椀を空にするしかないのか。うわぁ……本気で嫌だ。ぐれ兄菌を取り込んだら、僕の人格に悪影響が出そうな気がする。
「紅葉ーっ! ふざけてないでちゃんとやりなよ。これじゃ皆食べられないよ」
由希が声を張り上げると、裏庭にいる紅葉が返事をした。
「じゃあ、次いくよーっ! 今度はみーんな食べられるよーっ!」
紅葉が言う「みんなが食べられるもの」は、僕達が考えている
「も、紅葉君!? 一体何が起きたのでしょう……?」
「嫌な予感がするけど、とりあえず行ってみよう」
そう呼びかけた由希も紅葉に何かあったのではなく、紅葉が何かやらかしたと予想したようだ。
音が聞こえた裏庭の方に向かうと、1つ目の曲がり角に到達するまでの流し台が地面に落ち、足場が横倒しになっていた。その近くには、3つに割れたスイカが転がっている。スイカは小玉じゃなくて大玉だ。
「こンのバカガキ! スイカをまるごと1つ流したら、流し台がどうなるか予想できなかったのか!」
オレンジ色の目を吊り上げた夾が怒鳴った。
流し台の天辺から素麺を流すための踏み台に乗っていた紅葉は、拳で自分の頭をこつんと叩いてテヘペロをしていやがる。その仕草が似合う外見だからって、許されると思ったら大間違いだぞ。
「食べ物で遊んだ罰として、落ちたスイカは紅葉が全部食べろよ」
僕がきっぱりと言い渡すと、紅葉は「うええ~っ」と不満そうな声を出す。
「このスイカ、土でヨゴれているよー?」
「水で洗って土がついた所を切り落とせば、お腹を壊す事はないだろ」
「それより、流し台はどうしようか」
そう言いながら由希が折り曲げた人差し指をあごに宛がって考え込むと、春が意見を出す。
「修復不可能なまでに壊れてないから、設置しなおせば……?」
という事で、給水車から送られる水を一旦止めてから地面に落ちた流し台を洗い、足場を立て直して流し台を乗せて再スタート。
……しようとしたんだけど。
「……っ!」
「あーらら。めんつゆが入ったお椀を陽の当たる縁側に放置しちゃったから、チョコレートが溶けちゃったねぇ。ぷぷっ。けーくんは甘じょっぱいのが好きみたいだから、丁度いいんじゃない?」
人の不幸を見て愉しそうに笑うぐれ兄は、悪魔だと確信した。
……つゆは死ぬ気で飲み干したよ。三途の川の向こう側で、父さんと母さんがこっちに来んなと手を振っている幻覚が見えた。
ごちそうさまをした後は、食器類の片付けだ。ぐれ兄は「そういえば、仕事がまだ残っていたっけ」とか言って、真っ先に逃げた。
「本田さんはこれからバイトがあるんだよね? 休んでいいよ」
つゆが入っていた鍋を台所に運んだ由希が気遣うと、グラスを洗っていた本田さんが笑いながら「いいえー」と答える。
「楽しかった後のお片づけって、私、大好きです。こう……お片づけしながら今日1日楽しかった事を噛みしめていくと、そうするとちょっと寂しくて……でもそれ以上に、ポカポカした優しい気持ちになっていくのです。それってステキな気持ちだと思うのです」
言われないと気付かない小さな喜びを見出す本田さんの言葉を受けて、由希は柔らかく微笑んで「そっか……そうだね」と呟く。
「トール、楽しかった?」
お椀を運んできた紅葉の問いかけに、本田さんは満開の笑顔で応じる。
「はいっ。とてもとても楽しかったです!」
「えへっ、よかったぁ。ボクもとーっても楽しかったよ! またやろうねっ!」
紅葉がまたやらかしそうな予感がするから、流し素麺はもういいかなと思ったけど。嬉しそうに「はいっ!」と答えた本田さんの気持ちを傷つけたくないから、言わないでおこう。
片付けが終わった後、本田さんはおにぎりを作り始めた。由希達の夕飯だろうかと思って聞いたら、本田さんは予想外の答えを返す。
「えと、これは流し台を回収しにいらっしゃる庭師さん達に振る舞う分ですっ。庭師さん達が立派な流し台を作って設置して下さったおかげで、皆さんと流し素麺を楽しめましたので、せめてものお礼におにぎりを召し上がって頂ければと思いまして……」
庭師さん達へのお礼は考えていなかった。本田さんは気配りができる子だと改めて実感した僕は、おにぎり作りを手伝おうとしたのだが。
「やめとけ。建視が作ると、悲惨なおにぎりになるだろ」
夾に制止されて、僕はムッとした。
僕の家庭科の成績はお世辞にも良いとは言えないけど、おにぎりくらいなら作れる。そう思って本田さんに頼んでご飯を少し分けてもらって、梅干しを入れたおにぎりを作ってみたら。
「ケンのオニギリ、デコボコしてるーっ」
「……見た目は悪いけど、真心が入っているよ」
「俺も不器用だから人の事言えないけど、そんなものを食べろとか言われたら、俺だったら何の罰ゲームかと思うぞ」
くっそう、由希だってまともなおにぎり作れないくせに!
手料理は無理っぽいから、1万円分の商品券をお礼に配る事にした。女子高生の手作りおにぎりと比べたら味も素っ気もないけど、こういうのは感謝する気持ちが大事だからいいんだ。……と思おう。
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35「2年以上経っているか」
深く沈んでいた意識が覚醒する。
自室のベッドの上で目覚めた僕は、棚付きのヘッドボードに置いた携帯電話を掴んだ。画面には『8月11日(水) 18:14』と表示されている。
昼寝して寝過ぎたのか? いや、違う。あー、そうだ、思い出した。今日の午前中は任務が入ったんだっけ。
凄惨な事件に関する残留思念を読んだけど自分の中では処理できず、例の如く慊人に頼み込んで兄さんに隠蔽術を施してもらったのだろう。
終わった事を考えても仕方ない。
軽くシャワーを浴びて服を着替えた後、喉の渇きを覚えたので台所に向かい、冷蔵庫に入っていた500mlペットボトル入りのスポーツドリンクを取って飲む。
自室に引き返そうとしたら、廊下で白衣姿の兄さんと出くわした。兄さんは気遣わしげな面持ちで、僕を見つめてくる。
「
「……頭がぼーっとしている」
僕は正直に答えた。
何時だったか兄さんに心配をかけまいとして「何ともないよ」と答えたら、医師モードになった兄さんに見抜かれて叱られた事があるのだ。
「念のために診察するぞ」
診察室を兼ねた客間に入った兄さんは、キャスター付きの事務椅子に腰掛けた。僕は丸椅子に座って、兄さんと向かい合う。
「自分の名前と誕生日と血液型は?」
「
「俺の名前と誕生日と血液型は?」
「草摩はとり、6月25日生まれ。真面目なA型」
続けて、僕達の両親の名前と生年月日を訊かれた。この質問は、僕の記憶に欠損がないかどうか確認するためだ。
対象者の潜在意識に外部から働きかける隠蔽術は、失敗すると他の記憶にも影響が出てしまうらしい。
兄さんが隠蔽術を失敗したという話は聞いた事がないので、大丈夫だと思うけど。兄さんは慎重派だから、念には念を入れたいのだろう。
「頭痛はあるか?」
「ないよ」
「肩こりは?」
「ないよ」
目眩、吐き気、手足の痺れ、動悸、息苦しさ、倦怠感など。兄さんは体の不調を1つ1つ尋ねてくる。
まどろっこしく感じてしまうが、これは声の調子から患者の容体を診断する聞診を兼ねているらしい。
聴診器をつけた兄さんは僕の胸の聴診を行って、心音や呼吸音を確認する。血圧と体温を測ったら診察は終了だ。
「疲れているのに引きとめて悪かったな。これをやる」
兄さんはそう言って、机の引き出しから取り出した個包装された飴玉を差し出した。
子供扱いされている気がしなくもなかったけど、兄さんの深い青の瞳には案じる色がずっと浮かんでいたので、飴玉を大人しく受け取る。
「ありがとう、兄さん」
隠蔽術を施してくれた感謝も込めてお礼を言うと、兄さんは悲しみを堪えるように目を伏せてから言葉を返す。
「……気にするな」
居間から出た僕は溜息を吐く。今回も兄さんに負担をかけてしまった。
兄さんに迷惑をかけずに任務をこなせるようになりたいけど、凄惨な残留思念を読んで平然としていられるようになったら、人間をやめたも同然だと思う。
僕の葛藤を上層部の連中が知れば、「盃に変身するおまえは人間じゃないだろう」とか言いそうだけど。
――建視は呪われたままで構わないっていうのか?
リン姉の言葉が不意に頭を過った。
呪いを解く方法なんて本当にあるのだろうか。僕は、黒い絹の手袋をはめた右手を見つめながら考える。
残留思念を読む力を使えば、記録に残らなかった古い史実を調べる事ができるけど。古美術品って高い確率で、エグい残留思念が残っているんだよな。
古美術品に残る残留思念を通して残酷な場面を垣間見た記憶はないが、力の検証の最中に僕は何度か発狂しかけたらしいから、グロ注意な残留思念を読んじゃったんだと思う。
力を使って呪いを解く方法を調べるのは無理っぽい。いや、本当の事を言えば無理じゃない。僕が本気で呪いを解きたいと思えば、発狂覚悟で力を使って史実を探るだろう。
でも、僕はリン姉ほど必死にはなれない。
リン姉には「呪いさえ無ければ」と言ったけど、僕と慊人と物の怪憑きの仲間達を無条件でつなぐ“絆”に愛着を抱く気持ちもある。
それに、だ。僕と兄さんの呪いが同時に解ければいいけど、どちらかが解けなかったら、お互いに罪悪感を抱き続けるだろう。
……起きる可能性が限りなく低い仮定の話で、悩むのは止めだ。今の精神状態だと、ロクな考えが浮かばない。
兄さんから貰ったグレープ味の飴玉を口の中に入れて、気持ちを切り替えてから自室に引き返した。
▼△
8月13日の今日は任務が入らない。何故なら夏の大切な行事があるから。といってもコミケじゃない。迎え盆だ。
くだらねぇ人間どもの行事なんか知ったこっちゃねぇ。遊び倒してやるぞシャハハハ!! ってな感じで調子乗っていると、保護者である兄さんまで親戚に白い目で見られてしまうから、家で大人しくご先祖様を迎える準備をしている。
慊人が住む屋敷では、祭壇の四隅に葉のついた青竹を立て、竹の上部に縄を張った立派な盆棚を設けているのだが。我が家では、仏壇の前に真菰のゴザを敷いた小机を置き、その上に茄子やきゅうりの牛馬やお供え物を飾る簡易版の盆棚だ。
僕は死後の世界否定派だから、きゅうりや茄子で馬や牛に見立てたものを作って、何の意味があるのかって毎年思っていた。
ご先祖様が黄泉から戻ってくる時は急いでもらうために馬に乗り、別れを惜しみたいから牛に乗ってゆっくり帰ってもらう。という意味があるのは知っているけど。
霊魂ってのが実在するとしたら、父さんと母さんは僕の顔を見たくないはずだから、黄泉から戻ってこない可能性が高いとか思ってしまう訳で。
けれど、今年は少し違う思いでお盆を迎えていた。
「父さんと母さんって、どういう人だった?」
「……なんだ、藪から棒に」
仏壇の上部に鬼灯を吊るしていた兄さんは、怪訝そうに眉を寄せた。
父さんか母さんの月命日にこの質問をしようと思っていたけど、僕の中で両親の話題は地雷扱いになっていたから、話を持ちかけづらかったのだ。
だけど、迎え盆の準備を兄さんと一緒にしている今なら、父さんと母さんの思い出話で多少心を揺さぶられても、それも供養の一環だと思えそうな気がする。
お盆という行事は、死別を経験した生者が自分の心と向き合ったり、喪失感や哀しみを抱えた心のバランスを取ったりするために必要なのかもしれない。
「
僕の内心の変化に余程驚いたのか。兄さんの深い青の瞳は見開かれ、口は半開きになった。
気を取り直すように兄さんは目を伏せ、気持ちを整理するべく間を置いてから言葉を紡ぐ。
「俺が父さんと母さんの話をあまりしなかったのは、愛する者を喪った哀しみは自分で乗り越えるしかないと考えていたからだ。建視のせいではない」
その言葉を聞いて、本田家の墓に笑顔で向かい合っていた本田さんの姿が思い浮かんだ。
本田さんも両親を喪った哀しみを、1人で乗り越えようとしているのだろうか。それとも、大親友の
何となくだが、前者のような気がした。本田さんは、相手を悲しい気持ちにさせる事を良しとしないから。
「愛する者を喪った哀しみって、1人で乗り越えられるものなの?」
「人によると思うが、俺は己の意思のみで喪失の哀しみを捻じ伏せる事はできなかった。俺が哀しみに暮れずに済んだのは、建視がいてくれたおかげだ」
「僕は兄さんの哀しみを癒すような事はしてないけど」
むしろ、僕は兄さんに苦労をかけっぱなしだ。申し訳なさを覚える僕を慰めるように、兄さんは優しく苦笑する。
「建視は俺の側にいてくれたじゃないか。俺がネガティブな気持ちに飲み込まれそうになっても、建視に情けない姿を見せる訳にはいかないと自分を奮い立たせる事ができた」
「兄さんが情けない姿を見せても、僕は幻滅したりしないよ」
「そう言ってくれると助かるが、俺にも兄としての矜持があるからな」
幼い燈路に心配をかけたくないから、任務で弱った僕の姿は燈路に見せたくないと思うのと、似たような心境かな。それでいくと、僕が未熟で頼りないから深刻な悩みを打ち明けられないって事になるけど。
不満が顔に出てしまった僕の気を逸らすように、兄さんは軽く咳払いをする。
「建視は父さんや母さんと過ごした思い出がほとんど無いから、両親を恋しがる事も難しかっただろう。俺の主観で良ければ、父さんと母さんの話をしよう」
父さんは隠蔽術を引き継いできた家の嫡男だったから、隠蔽術を施す際に心が揺らがないよう、自分にも他人にも厳しくするように心掛けていた事。
母さんは自分が甘い顔を見せたら、記憶を隠蔽する父さんだけが悪者扱いされてしまうと考え、父さん以上に厳しくあろうとしていた事。
隙が無い人だと思っていた父さんは実は物ぐさな人で、鼻をかんだティッシュをゴミ箱に捨てるのも面倒臭がって、白衣のポケットに入れて放置して母さんに叱られていたと聞いて、驚くと同時に父さんと兄さんの類似点を見出したり。
僕の正体を受け入れられないほど繊細な人だと思っていた母さんは実は毒舌家で、ぐれ兄の母親と顔を合わせるたび、嫌味合戦を繰り広げていたと聞いて微妙な気持ちになったり。
毎年お盆のお供え物の中にカニ缶と栗落雁があるから、それが両親の好物なのだろうと僕は勝手に見当をつけていたのだが。父さんはズワイガニ、母さんはモンブランが好物だったと聞いて、勘違いに気付いたり。
兄さんが語ってくれた父さんと母さんの人物像やエピソードは、他人から聞いて知っていた事もあるけど、初耳の事もあった。
両親に関する情報が増えたからといって、父さんと母さんを身近に感じるようになったという事はないけど。
戸籍上の父母に当たる人物という認識止まりだった父さんと母さんは、血の通った人間だったのだと今更ながらに思った。
その翌日の14日、ウサギを模った便箋に書かれた
『Hallo Ken! ボクはトールとハルとユキとキョーと一緒に、ヒショの旅に出ているのよ! 海の近くにあるソーマの別荘の1つに泊まっているから、ケンも遊びにおいでよ!』
手紙が入っていた封筒は消印が押されていなかった。別荘まで紅葉達を送っていった草摩の専属ドライバーさんが、手紙を預かって配達したのかな。
メールで伝えれば時間と手間はかからなかったのに、何故わざわざ手紙で知らせたのか。紅葉の事だから特に深い思惑はなく、手紙を書きたい気分だったんだろう。
「海かぁ、いいなぁ」
夏休みの間に入る任務の回数は、大体2~3回だ。今年は3回こなしたので任務はもう無いと思うけど、予定は未定だから別荘に行く事はできない。
おのれ、草摩の上層部め。頭の中で藁人形に五寸釘を打ち込んでも不毛だから、建設的な案を考えよう。
夏休み最後の日に任務が入らなければ、皆に声をかけて遊ぼうかな。うむ、我ながらナイスアイディアだ。
▼△
Side:はとり
俺が注文した本が今日届くと紫呉から連絡を受けたので、俺は車を走らせて
――この間紹介した私の大親友の繭の実家は、古書店を営んでいるの。はとり好みの古書がたくさん置いてあるから、一度足を運んでみて?
見る者の心を和ませる微笑みを浮かべる、
最初に俺の目に飛び込んできたのは、カウンターにもたれるように立っていた白木だった。久方ぶりに会う彼女は、切れ長の瞳を驚いたように見開いている。
俺も驚いた。今は盆休みだから白木が実家に帰省していても不思議ではないが、彼女がこの店にいるとは思わなかった。
「……久しぶり、だな。2年ぶり……いや、2年以上経っているか……」
挨拶をしながら、俺は書棚が並ぶ店内を見渡した。
俺が白木書房に初めて訪れた時も、彼女が店番をしていたな。あの時のように、彼女のご両親は店に出られない事情があるのだろうか。流石にそこまで踏み込んで聞けないが。
「変わっていないな、この店は。……君も」
腕組みをした白木の左手の薬指に指輪が嵌っていない事を確認して、最後の言葉を付け加える。
白木の姓が変わっていない事は建視から聞いていたけれど、仕事の都合上で別姓にする夫婦がいるらしいからな。彼女が婚約もしくは結婚していた場合は祝いの言葉をかけようと思っていたが、その必要がなくて安堵した。
……俺は何故、安堵したんだ?
「はとり……君。そのスーツ姿、見てて暑い……相変わらずだ……」
白木は再会の挨拶もせず、率直な意見を述べた。
他に言う事はないのかと思ったが、白木の驚いた表情は思った事をそのまま告げたと物語っている。
「……悪かったな」
思わず、ぶっきらぼうな口調で応じてしまった。
数年振りに会う友人との会話はもっとこう、懐かしげに久闊を叙すものではないのか。しかも、白木は建視の担任になったんだぞ。
白木と形式ばったやり取りをしたい訳ではないが、再会早々、2年以上のブランクが無かったような応酬をするのはどうなのか。
考え込む俺を余所に、仰天したように目を見開いた白木は「あっ」と声を上げる。
「いや、ごめん。びっくりしちゃって……うわ、ホントびっくりした!! 白昼夢かと思った!! さっきまで
白木は自分自身に「落ち着け」と言い聞かせながら、ぐるぐると歩き回っていた。
俺は白木書房に数える程度しか赴いた事はなかったけれど、俺が来店するのはそんなに驚く事か?
「紫呉が代わりに取り寄せを頼んでいた本を、受け取りに来たんだが……」
「え!? あの本、はとり君の注文だったの!?」
「……?
硬直した白木を見るに、紫呉は俺の注文だと言わなかったようだ。
「いや……その本……明日にならないとこないんだよね……」
俯いた彼女は、ドスの利いた低い声で答えた。
何やら怒っているようだが……俺が注文した事を知らせなかった紫呉に、憤りを覚えているのだろう。
本が届く日も間違えて伝えてきたし、まったく紫呉はいい加減だな。
「仕方ない。明日、また来る」
「いっ、いいよ、いいよっ。郵送するよっ。本家の住所わかっているし……忙しいんだろ? 相変わらず」
夏の暑さに弱い慊人が連日のように体調不良を訴え、一族の者達が続々と夏バテを訴えるので忙しい。今日は無理やり用事を作って抜け出してきた。
帰ったら慊人の世話役に文句を言われるだろうが、偶には外に出ないと息が詰まりそうになる。
「いや……いい、来る。……それじゃあ」
「はとり君っ」
白木に呼び止められ、店の出入口に向かっていた俺は振り返る。
彼女は言葉を探すように視線を彷徨わせてから、「……あ、あー……いや、明日……な」と言った。
「今日は突然、すまなかった」
白木を動揺させてしまった詫びを告げてから、俺は店を後にした。
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36「はとり君は真面目だなぁ」
Side:はとり
翌日、俺は再び
俺が古書店のドアを開けると、短髪で眼鏡をかけた50代の女性が愛想よく「いらっしゃいませーっ」と挨拶してくる。彼女は確か、白木の母親だったか。
「嘘泣きかい!!」
母親に向かって怒鳴った白木は、俺に気づくと怒りを収めて「……って、はとり君」と呼びかけてくる。
親子喧嘩の最中だったのかもしれないので、俺は「……邪魔をしたか?」と言葉を返した。
「あら、やだ。なぁに、
「お買い上げありがとうございまーす! それでは外にっ、とにかく外にっ、いいから外にっ、外に出て!!」
ぎゃあああと悲鳴を上げながら、白木は俺に本を押しつけて店の外に追い出そうとする。
彼女の勢いに押されるまま外に出た俺は、車を停めた駐車場とは反対方向にある橋の上に連れて行かれた。
「ここまで移動した理由はなんだ?」
「……黙秘っ。女には越えなきゃならない山谷が色々あるのっ。男にも色々あるようにっ」
「よくわからないが大変そうだな」
白木が差し出した注文の本を受け取り、代金を渡した。
「はとり君、今日はスーツじゃないんだ?」
白木が再会の挨拶を度忘れするほど、昨日の俺の服装は季節に合っていなかったようなので、今日はスーツの上着は脱いでネクタイを外してきた。
「できるだけ見ていて暑くないようにした」
俺の言葉を聞くなり、白木は口元に手を宛がって笑い出す。
「くっ、くくく……ふふっ」
「……何か可笑しいか」
「ごめ……違う。ふふ。はとり君は真面目だなぁ」
「流されているだけだろう」
俺は別に好きでスーツを着ている訳ではない。きっちりした格好をしていないと
「……何か傷つけた?」
白木が何故か気遣わしげに俺を見上げてくるので、俺は正直に「いや? 別に」と答えた。
「どうしたんだ、はとり君。昨日も思ったけど、元気……ないね」
「特に身体に不調はない」
「体調のことじゃなくてさ。イヤ、健康なのはいいコトだけどね。なんというか、ハッピールンルンそうじゃないなぁって……」
困惑したように頭をガシガシと掻く白木の言葉を聞いて、俺も困惑する。ハッピールンルンってなんだ。
「“倖せ”オーラがでてないなぁ……ってさ」
「……何を言わんとしているのか判らないが。
紫呉には「保護者が板につきすぎて、本物の父親みたい」と揶揄されるが、俺の生活は良くも悪くも建視を中心に回っている。
つい最近、建視に訪れた変化は実に驚くべきものだった。
父さんと母さんに愛されなかった建視は、自分の心の傷を抉らないために亡き両親から目を背けていた。けれど、建視は友人の打ち明け話に感化され、俺の哀しみを通じて自身が抱える喪失感に気付いたようだ。
気付いただけでは問題は解決したとは言えないが、建視が精神的に成長しつつある事を実感するのは、俺にとって得難い倖せだと言える。
だが、倖せな気分に浸る事はできない。
せっかく成長しようとしている建視が、任務で一歩間違えたら狂気に陥ってしまうと思うと、目の前が真っ暗になる。
「……何、言ってんの? はとり君こそ、何言ってんの?」
白木は驚愕から怒りに表情を変えながら、俺を問い詰めてくる。
「嘘だろう……? 空はあんなに青くって、水はこんなに光ってて、みんな楽しそうに笑ってて……っ。なのに嘘だろ。はとり君は倖せになれないなんて、そんなの嘘だろ!!」
この広い世界をもっとよく見ろと言うかのように、白木は両腕を広げて声を荒げた。
どうして彼女はこんなに感情的になっているんだ? 俺が彼女の気に障るような事を言ってしまったのか?
「だったらあたしは信じない! もう何も信じない!!」
「言っている事が無茶苦茶だぞ……」
「いいんだよ!! ……いいんだよ。もう……いいんだよっ」
目に涙を浮かべた白木はそれを隠すようにそっぽを向いたが、堪えきれなかったのか両手で顔を覆って泣き出した。
「ぅあああああああ! ゔぅう、ぅああああああああああ!」
成人女性が大声を上げて泣いているから、通行人が何事かと見てくる。
呆気に取られた俺は第三者の視線に気付き、「おい」と声をかけたが白木は泣きやんでくれない。
「無茶苦茶すぎだぞ……いい大人が……」
――あんな大声で泣いて……恥ずかしいわね。
慊人の世話役が、泣きじゃくる子供を見て言い捨てた言葉が脳裏を過った。
草摩家の人間の全員がそうだとは限らないが、しきたりや礼儀を重視する者達は泣いている子供を案じるより先に外聞を気にする。
俺と建視の両親も厳格な人達だった。歴史ある草摩家の人間らしく、常に冷静沈着で礼儀正しく振る舞い、威厳を保って他人に隙を見せるなと教えられて育った。
俺は幼い頃から感情を抑制して生きてきたから、感情のままに振る舞う佳菜がとても自由で眩しく感じられた。……今、俺の目の前で泣きじゃくっている彼女も。
「……何か勘違いをしていないか。俺はただ、少しだけ外に……出たくて。理由をつけて少しだけ」
僅かな時間でも逃げたかったのだ。淀んだ闇に支配されている、草摩の「
「そうだな、意外に泣くと楽になるのかもしれない」
建視も辛いなら泣けばいいのに、俺を気遣って取り繕った笑みを浮かべる。
物々しく体裁を飾る事に腐心する草摩家の家風に慣れきった俺と建視は、ただがむしゃらに子供のように振る舞う事ができない。
「……下手になっていくな。年を追うごとにそういう行為が、下手になっていくものだな……」
「……なんかそれって、あたしの立場がない……。あたしだってこんな泣いたりしないぞ、いつもは」
「そうだな、あんな大声で。俺の代わりに君が泣いた」
トラウザーズのポケットから取り出したハンカチを白木の頬に宛がうと、彼女の目から再び涙が溢れる。
「……ありがとう」
俺が礼を述べたら、顔を赤らめた白木は奪うようにハンカチを受け取った。
「……おっ、お役にたって光栄ですがっ。これからはホント、あたしはホント知らないからねっ。恋人がいるんだから恋人に泣いてもらえよなっ」
白木は何を言っているんだ。俺が「恋人なんて俺にはいない」と言ったら、白木はぶるぶる震えながら俺を指差してくる。
「え……でも恋人……できたって……
「五月? ……もしかして
下らない、と呟いた俺は確信を持って白木に告げる。
「……紫呉にからかわれたな?」
唇をひん曲げて絶句した白木は、勢いよく右手を突き出して「返せ!!」と叫ぶ。
「あたしの涙を利子付きで今すぐ返せ!!」
「また無茶苦茶な事を……悪いのは俺か?」
「あああ、畜生、バカだよ。あたしゃ一世一代のバカだよ」
頭を抱えた白木は、「まんまと信じてしまったよ~」と呻いている。彼女を騙したのは紫呉だが、奴の従兄として責任を感じてしまう。
「……時間はあるか? あるなら食事にでも行くか。詫びと礼に」
「……こんなグチャグチャな顔の時に食事に誘うなんて……っ。鬼か、はとり君」
「行かないのか?」
「行くけどもっ」
「……だな。こんないい天気なんだからな」
見上げれば夏特有の澄んだ青空が広がっているのに、白木に言われるまで気付かなかった。
俺が頬を緩めると、白木は眉尻を下げて柔らかく微笑む。彼女はこういう笑い方もするのか。
「あー……あたし、ビール飲む。生ビール」
「運転する奴の横で飲む気か? 鬼か」
「飲むっ」
泣いた気まずさを誤魔化すために、冗談を言っているのかと思ったが。俺の車で向かった先の寿司屋で、白木は本当に生ビールを注文した。
「ぷはーっ! 生き返るぅ」
「そうか、美味いか、よかったな」
「はとり君も飲めば? 車なら代行を頼めばいいだろ」
昼間から酒の匂いを漂わせていたら、慊人の世話役に何を言われるか判ったものではない。
今夜の晩酌はビールにしようと決意しながら、俺は「見知らぬ他人を自分の車に乗せたくない」と答える。
「ところで、建視は学校でどうしている?」
急に真顔になった白木は、持っていたビールジョッキをカウンターテーブルに置く。
建視は学校で何かやらかしたのだろうか。夏休みに入る前に
「確認したいんだけど。草摩潑春の母親は、ヒイロイッペー教とかいう宗教に入信しているのか?」
「いや、そんな話は聞いた事はない。……まさか、建視が言ったのか?」
「……うん。草摩潑春は宗教上の理由でタトゥーをいれているって、海原高校の教師陣に説明していたよ」
建視が教師を騙した手口は、校長に長髪を注意された
俺は深く溜息を吐いてから、弁明するために口を開く。
「潑春のタトゥーに宗教上の理由などない。建視は潑春のタトゥーを見逃してもらうために、嘘を吐いたのだろう。だからといって、教師を騙して許される道理はない。後で建視を叱っておく」
「はとり君から建視君に言い聞かせてくれると助かるよ。教職員は草摩潑春のタトゥーは宗教絡みだと認識しているから、今更訂正すると事がややこしくなりそうだから」
ついでに聞くけど、と白木は質問を重ねる。
「建視君の手袋と草摩
「本当だ」
「そっか。じゃあ、草摩夾は小さい頃に池で溺れた事がトラウマになったから、プールに入れないっていう話は?」
「……それは嘘だ」
猫憑きの体質を正直に話す訳にはいかないのは解るが、建視は罪悪感を覚える事なく教師を騙していそうだから気掛かりだ。俺が眉間に皺を刻むと、白木は心配そうな表情を浮かべる。
「建視君は紫呉の影響を受けすぎじゃないか?」
「紫呉のように、人を騙して愉しむような外道に成り下がってはいないと思うが……」
不安に駆られた俺は弟の教育に関する相談を持ちかける。食事時には相応しくない重い話題だったにも拘らず、白木は真摯に話を聞いてアドバイスをしてくれた。
白木は女子生徒からラブレターを送られるほど人気の先生だと佳菜が話していたが、保護者の支持も高いのではないかと思う。
俺が草摩に帰ったら、慊人と慊人の世話役がお冠だった。2日連続で俺が外出した事が、許し難かったらしい。
白木と過ごした時間は非常に有意義だったので、もっと早く話を切り上げればよかったという後悔はしていない。
「兄さん、何か良い事あった?」
その日の夜。夕食の席に着いた建視は、純粋無垢な子供のような顔をして問いかけてきた。
「良い事かどうかは判らんが……白木と食事をした」
「おぉう!? もしかして……」
赤い瞳を輝かせた建視は喜色を浮かべる。俺と白木が交際する事になったと早合点したらしい。
「違うぞ。……紫呉が白木をからかったせいで、彼女が恥を掻いてしまったからな。詫びに食事に誘ったんだ」
「なぁんだ。それにしてもぐれ兄の奴、何やってんだ。別荘に行くために、仕事を片付けているんじゃなかったのか?」
「仕事の息抜きがてら、白木をからかいに行ったのだろう」
俺が推測を述べると、建視は顔を引きつらせて「うわ、サイテー」と言った。
確かにあいつは最低だ。建視が紫呉路線を辿らないようにするためにも、弟の脳味噌と心に反省と後悔をしっかり叩き込む必要がある。
「それより建視、俺に何か言い忘れている事はないか?」
笑顔のまま硬直した建視は言い逃れようとしたけれど、俺が視線で圧力をかけたら観念したように告白する。
「……ブラック春が学校で暴れた時、消火器を持ち出そうとして先生から注意を受けた」
「……それは初耳だな」
「えっ!? 鎌をかけたのか?」
「問題行動を起こしたのに、報告を怠った建視が悪い」
萎れたように項垂れる建視の姿は憐れみを誘うが、ここで俺が甘い顔を見せてしまったら弟のためにならない。
「夕食後に説教だ」
「そんな!?」
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37「慊人が来やがったんだろ」
みんな、こんにちは!
突然だけど僕達は今、
車の助手席に座る僕は、大きめのバックミラーをちらりと見遣る。後部座席には3名の人物が並んで座っていた。
真ん中を陣取っている人物は、黒のシャツを着て細身の黒いズボンを穿いた
そして慊人の右隣に座るのは、灰色のシャツと黒のトラウザーズを合わせた装いの26歳の男性。赤茶の髪をさっぱり短く整え、感情を表に出さない赤茶の目を持つ彼は
今日になって慊人が別荘に行くと急に言い出したって聞いた時も驚いたけど、紅野兄が同行すると知った時は更に仰天した。
慊人は紅野兄を大層気に入っているから、子供が宝物を大切に仕舞い込むように、酉憑きの従兄を人目から隠している。
そんな紅野兄を外に連れ出すなんて、慊人は何を考えているのやら。それを言うなら、慊人を別荘に誘ったぐれ兄もだけど。……厄介事が起きそうな予感がする。
1時間半近いドライブを経て、海が一望できる別荘に到着した。
紅葉達が泊まっているのは“母屋”と呼ばれる1番大きい別荘で、僕達が泊まるのは“離れ”と呼ばれる2番目に大きい別荘だ。
慊人の世話役のお局様がここにいたら、「
今回は、慊人の世話役は1人も付いてこなかったんだよな。
慊人と慊人の世話役が何日も本家を留守にすると、慊人に叛意を抱く人達が勝手な事をする恐れがあるから、お局様達は監視役として残ったんだと思う。
「
「解った。……
確認のために僕が聞くと、指示を出した慊人は不快そうに眉を寄せた。
「わざわざ言わなきゃ判らないのか? 猫は集まりには不参加だ。あのブスは赤の他人だから、呼んでやる義理はない」
僕は解ったと答えてから、紅葉達が宿泊している母屋へと徒歩で向かう。
夏の午後の強い日差しとべたつく潮風を肌で感じ、寄せては返す波の音が一定間隔で聞こえてくるけど、懸念事項があるせいでいい旅夢気分に浸る事ができない。
嫌な役目を任されたなぁ。
慊人に殴られて大怪我を負った
数分もしない内に紅葉達がいる母屋に着いてしまった。僕が玄関のチャイムを鳴らすと、色留袖を着たお手伝いさんが出迎える。
離れに慊人が到着した事と、慊人の世話役が同伴していない事を告げると、お手伝いさんは慌てた様子で出て行った。
管理人さんのおかげで別荘はいつでも使える状態に保たれていたけど、草摩の当主が来る事を前もって連絡しなかったからお手伝いさんが待機していなかったんだよな。
人の気配を感じるリビングに向かうと、ソファに腰掛けた夾の近くに本田さんがいて、紅葉と杞紗と
春は庭の木陰に寝転がっているけど、由希とぐれ兄の姿が見当たらない。
「本田さん、夾、久しぶりだね」
玄関での会話が聞こえていたのか、夾は険しい眼差しを僕に向けた。
「あっ、建視さん、こんにちは……っ。建視さんも遊びにいらしたのですねっ」
心から歓迎するように満面の笑みを広げる本田さんを見ると、僕のなけなしの良心が痛む。
「紅葉君たちはあちらの棟のお部屋を使われているのですが、お部屋が満室でして……。紅葉君か夾君か燈路さんと同室になりますが、よろしいでしょうか?」
「僕は離れに泊まる事になるから、部屋割りは気にしなくていいよ」
「離れ、ですか? 建視さんの他にも、どなたかお見えに……」
「慊人が来やがったんだろ」
吐き捨てるように言った夾に対し、僕は「ついさっきね」と応じる。
慊人の名前に反応したのか、昼寝をしていた3人が目覚めた。紅葉は眠そうに目を擦りながら質問してくる。
「んー……アキト、こっちに泊まるの?」
「慊人が泊まるのは離れの方だよ。寝起きのところ悪いけど、挨拶しに行かないと」
「……着替えた方がいいの?」
燈路の問いかけに、僕は「そのままでいいよ」と答えた。
草摩の当主に謁見する前に身形を整える事は礼儀として必要だけど、物の怪憑きの集合が遅れると慊人が機嫌を損ねるかもしれない。
「由希とぐれ兄はどこにいるんだ?」
僕が投げかけた疑問に、室内に戻ってきた春が答える。
「由希は散歩。先生は知らない……」
慊人は由希を名指ししていたから、連れて行かないと僕が叱責されそうだ。
紅葉達が離れに到着した事を慊人に報告する際、由希を捜して連れてくると言い訳しないと。そんな事を考えていたら、夾が低い声で「おい」と呼びかけてくる。
「……まさか、
「いいや、今回の集まりは十二支憑きだけだってさ。本田さん、ごめんね。この埋め合わせは必ずするから」
「え!? いえ、そんな、私は大丈夫ですので……はいっ」
視界の端で、杞紗が安堵の息を吐くのが見えた。杞紗も本田さんを慊人と対面させたくないと思っているのだろう。僕も同じ思いだ。
慊人の本田さんに対する敵意は、以前より増している。慊人と本田さんが再び鉢合わせした場合、慊人が本田さんに手を出さないとは限らない。
本田さんが怪我を負うような事があったら、
「夾、ちょっといいか?」
杞紗や本田さんの耳に入れたくない話をするので、僕は夾を呼んで庭に出た。
「もし夾が慊人と会った時、慊人が神経を逆撫でるような事を言ってきても、キレて喧嘩を売るような事は言わずに黙って耐えてほしい」
「――なんで、てめぇにそんな事言われなきゃいけねぇんだ」
「夾が反抗して慊人の怒りを買ったら、本田さんに矛先が向くかもしれないからだよ。慊人は夾本人を罰するより、本田さんを攻撃した方がより大きなダメージを与えられると勘付いている」
「ゲスが……っ!」
僕を罵倒したのか、それとも慊人に向けて言ったのか。後者だとしたら本人の前で言うのは控えてほしいと思いながら、僕と夾はリビングに戻った。
「じゃあ、ボク達行くねっ」
「行ってきます……」
紅葉と杞紗は本田さんに向かって、出かける挨拶をした。見送りの挨拶で応じた本田さんは、ソファに座り直した夾を見て問いかける。
「……夾君は行かないのですか?」
「“猫”はいつだって集まりには不参加なんだよ」
夾がどうでもいい事のように言うと、本田さんは悲しそうな表情を浮かべた。
「……おい、そんな顔すんな。俺も慊人もお互いに、会いたいなんざ欠片も思っちゃいねぇんだからよ」
困ったような顔をした夾が、言葉を付け加えた。
本田さんは、夾と慊人が互いに会いたくないと思っている事に心を痛めるかもしれないが。夾と慊人が対面するとロクな事にならない予感がするから、出来る限り接触は避けてほしい。
リビングにいる本田さんと夾に背を向けて、僕達は母屋の別荘を後にした。
慊人がいる離れに向かう道中は、これから葬式に赴くかのように空気が重たかった。
「杞紗……大丈夫?」
最後尾を歩く燈路が、隣にいる寅憑きの従姉を気遣う声が聞こえる。
か細い声で「うん……」と答えた杞紗は、「だけど、どうして急に来たのかな……慊人さん」と疑問を口にした。
「お姉ちゃん……お姉ちゃんにひどい事……ぶったり……しないよね? ……それがとても不安なの……」
不安がる杞紗に、燈路は慰めの言葉をかけない。かけてやれないと言った方が正しいか。
春休みの事件を思い出して罪悪感に駆られているのか、燈路の表情も暗い。
燈路の母親の
「沈んじゃってる……そうだよね、前ブレなく来たものね、アキト」
「紅葉達にメールで知らせようとしたけど、みんなに伝えるなって慊人に言われたんだよ。それと誤解のないように言っとくけど、慊人を別荘に誘った犯人はぐれ兄だからな」
楽しい避暑に水を差した元凶が僕だと思われたら困るので、身の潔白を訴えた。
すると驚いたように目を丸くした紅葉が、「ケンがアキトを誘ったなんて誰も言ってないよっ。ケンはシンパイショーねっ」と言う。
「それはそーと、ユキも大丈夫かな。会って……」
「自分の心配をしろ……おまえ、慊人に好かれちゃいないんだから」
春の忠告はもっともだ。
慊人は紅葉を嫌悪している。
紅葉は慊人に対する恐怖を感じさせない明るい声で、「ボクはヘーキっ、なれちゃったもーんっ」と答えた。
「あーあっ、でも早く終わらせて帰りたいなぁ~っ」
「それホント早すぎ……」
「にゃはは、だよね~。……でも早く帰りたいな……」
紅葉は本田さんと夾を置き去りにせざるを得なかった事を、気にしているようだ。春は言葉に出してないけど、この場にいない由希を案じていると思う。
慊人が乱入したら皆のテンションがだだ下がる事は火を見るよりも明らかなのに、ぐれ兄は一体何を考えて慊人をけしかけたんだか。
離れの表玄関から入った紅葉達と別れて、僕は裏玄関へと向かう。
できるだけ早く慊人に報告をしないといけないので、慊人がいると思われる奥の部屋に近い裏玄関から入ったのだ。
僕の到着を待っていたかのように、兄さんが裏玄関で出迎えてくれた。
「紅葉達を連れて来たよ。由希は散歩に出ていたからいなかったけど。他の皆は表玄関から入っている」
「ご苦労。慊人への報告は俺がする。建視は広間で紅葉達と待っていろ」
「やぁ、けーくん。久しぶりだねぇ」
行方不明だったぐれ兄は、先に離れに到着していたらしい。
ぐれ兄のせいで皆落ち込んでいるぞ、どうやって落とし前を付けるつもりだ。そう言ってやりたいけど、ぐれ兄の口八丁で煙に巻かれるのがオチだ。
僕は苛立ちを抑えながら、「久しぶり」と挨拶する。
「ところでぐれ兄、ここに来る途中で由希を見かけなかった?」
「僕は見てないけど、外に出た慊人さんが由希君に会ったって」
紅葉の危惧が早々に現実のものになってしまった。由希が属する乙女座の今日の運勢は、12星座の中で最下位だったに違いない。
「それじゃ由希は今、慊人の処にいるの?」
「由希君は慊人さんと別れて、どこかに行ったみたいだよ。慊人さんは、『今頃どこかでシクシク泣いてるんじゃない?』とか言っていたから」
「泣く事ができるなら大丈夫だろ」
由希が酷く落ち込んでも、入学式の時のように本田さんと一緒にいれば立ち直れるはずだ。
ただし、中学3年生の時のように完全に心を閉ざした状態になってしまうと、本田さんでも手に負えなくなると思う。
本田さんは周りを癒す雰囲気を持っているけど、専門的な知識を備えて経験を積んだ心理カウンセラーじゃない。普通の女子高生だ。心の闇や虚無に同調しすぎると、精神を病んでしまう恐れがある。
「けーくんってホント冷淡だよね」
「ぐれ兄には言われたくないよ」
と、その時、兄さんから視線を感じた。
僕が由希を気にかけなかった事を咎めると同時に、僕の冷淡さを憐れんでいるように思える。
泣いているのが杞紗や燈路だったら、僕は心配するよ。でも、相手は僕と同い年の由希だ。
兄さんは綾兄やぐれ兄がどこかで泣いていると聞いたら、捜しに行くのだろうか。……行きそうだな。僕は本物の優しさを持つ兄さんのようにはなれないよ。
兄さんの眼差しから逃れるように、僕はそそくさと玄関の三和土でスニーカーを脱いだ。奥の部屋に向かう兄さんやぐれ兄と別れて、紅葉達が待機する広間へと足を向ける。
僕が広間に入って紅葉の隣に正座してから暫くして、足音が近づいてきた。
襖が開いて、慊人が姿を現す。紅野兄は奥の部屋で待機しているのか、慊人に付き添っていない。
「いらっしゃい。来てくれてありがとう。すっごく嬉しいよ」
表面上は愛想よく見える笑みを浮かべた慊人は、歓迎の言葉を投げかけた。
「……みんな、大好き」
慊人は大好きと言いながら、自分に逆らえない物の怪憑きを見下している事が見て取れる嘲笑を浮かべた。
僕は被虐体質じゃないので愉快な気分にはなれないけど、僕の胸の奥に潜む盃の付喪神は
自分とは異なる感情を抱く存在を強く意識する時、僕は“
僕達の表情が更に暗くなった事を確認した慊人は、満足そうに口の端を吊り上げた。
「みんなと話したいのは山々だけど、燈路に大事な話があるんだ。燈路以外は下がって」
視界の端で、燈路と杞紗が恐怖で顔を強張らせる。慊人が機嫌を損ねる前に、紅葉が杞紗を促して立ち上がった。
「大丈夫かな……燈路ちゃん……」
別室に移動するなり、杞紗が耐えかねたように不安を吐露した。
「燈路は賢いから上手く乗り切れるよ」
僕が慰めの言葉をかけると、春もこれ以上暗い雰囲気にならないように軽口を叩く。
「口八丁な建視が太鼓判を押すくらいだから、燈路はきっと大丈夫……」
「微妙に貶された気がするんだけど」
「ケン、それってヒドイモーソーだよ」
「正しくは被害妄想だ。酷い妄想をするのはぐれ兄だから」
雑談をして杞紗の不安を紛らわそうとしたけど、1時間経っても燈路は解放されなかったから、僕と紅葉と春にも不安が重くのしかかった。
障子窓から夕日が差し込む頃、燈路がやってきた時は心から安堵した。長時間慊人に精神攻撃をされたせいか、
「燈路ちゃん……っ」
大きな琥珀色の目に涙を浮かべた杞紗が駆け寄ったら、燈路の顔色は見る間に良くなった。恋の力ってスゴイ。
「慊人が皆を呼び戻せって」
燈路が伝えた慊人の言葉に従って、僕達は再び広間へと向かう。
片膝を立てて座っていた慊人は広間に入ってきた僕達を見て、「やぁ、みんな」と声をかける。
「今日の処はこれでお開きにしよう。明日も僕に会いに来てくれると嬉しいな」
やけにあっさり解散の言葉を口にしたなと思っていたら、慊人は悪い事を企んでいますと言わんばかりの悪辣な笑みを浮かべる。
「建視も母屋に泊まっていいよ」
「え? 本当にいいの?」
驚いた僕が思わず確認を取ると、慊人は苛立ったように視線を鋭くさせて「同じ事を2度言わせるな」と叱責する。
「ああ、それから……本田透さんに、建視の力を教えてあげなよ。彼女は物の怪憑きじゃないからね。建視と共同生活を送る上で、
あくどい笑みを浮かべる慊人を見て、母屋の別荘に泊まる許可が出た理由を察した。慊人は僕を差し向けて、本田さんや紅葉達に精神的圧力をかけようと目論んでいるのだろう。
本田さんから紅葉達を引き離した事だけでも、充分に精神的圧力になっていると思うけど。下手に意見すると慊人の怒りを買って、本田さんの私物から残留思念を読めと本当に命じられそうだから、僕は了解の返事をする。
僕達は慊人に辞去の挨拶をして、広間を後にした。
荷物を取りに行くために紅葉達と一旦別れようとしたら、思いつめた表情の杞紗が「建視お兄ちゃん」と呼びかけてくる。
「お願い……お姉ちゃんの残留思念を読まないで……」
祈るように手を組んだ杞紗は、必死な面持ちで懇願してきた。
この状況で「だが断る」と言えるほど、僕は冷酷非道じゃない。だからと言って、「本田さんの残留思念を絶対読まない」と安請け合いはできない。
「慊人は、本田さんの残留思念を読めなんて命令は出してないよ」
「でも命令が出たら、建兄はアイツの残留思念を読むんだろ?」
燈路は相変わらず、言いにくい事をズバッと言うなぁ。物事を曖昧にしておくのが嫌なのかもしれんけど、時にはお茶を濁す事も必要だと思うのだよ。
例えば今、僕が正直に「そうだよ」って答えた場合、高い確率で杞紗が泣くよ?
どうやって言い逃れようかと僕が悩んでいたら、紅葉が明るい声で「ダイジョーブ!!」と言う。
「ケンはトールと仲良いから、トールのザンリューシネンを読んだりしないよっ」
これで僕が本田さんの残留思念を読んだら、紅葉の信頼と本田さんとの友情を裏切る事になる。
紅葉はそこまで意識してないだろうけど……いや、そうでもないか。お子様な言動が目立つ卯憑きの従弟の内面は、結構したたかだ。
紅葉と春は気付いているだろう。慊人の狙いは、僕達を疑心暗鬼に陥らせる事だと。
杞紗と燈路が負の思考に囚われないようにするため、紅葉は敢えて明るく“仲間を信じよう”と訴えたけど。
由希と夾は以前から僕に対して不信感を抱いていた事に加えて、本田さんに特別な想いを寄せているから、警戒心が先に立つんじゃないかな。
表玄関に向かう紅葉達と別れて、自分の荷物を取りに行く。僕の荷物は、お手伝いさんが離れの別荘の中に運び込んだはず。
寝室を手当たり次第に捜し回ろうとした矢先、廊下でぐれ兄と鉢合わせた。
「おや。けーくん、どしたの? こんな処をうろついて」
「僕の部屋がどこに割り振られたか知ってる?」
「階段を上って廊下左側の手前から2番目の部屋だよ」
「さんきゅー。ついでに、兄さんが今どこにいるか教えて」
「はーさんは、慊人さんの検診をしに行ったよ」
慊人のご機嫌取りを兼ねた検診は、時間がかかる。検診の最中に僕が兄さんに話しかけると、兄さんを独占している慊人の機嫌が悪くなる可能性があるから、迂闊に乱入できない。
母屋に行く事をメールで伝えようと思って、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと。ぐれ兄が胡散臭い笑みを広げて、提案してくる。
「はーさんに伝言があるなら、僕が伝えてあげるよ」
何か目論んでいそうなぐれ兄に、慊人の最新の命令を教えるのは躊躇われるんだよな。
でも僕が母屋に泊まる事は、遅かれ早かれぐれ兄に露見するから今言っても大差ないか。
「それじゃ、検診が終わったら兄さんに伝えて。『僕は母屋に泊まる』って」
「――慊人さんは、けーくんが母屋に泊まる許可を出したのかい?」
「うん」
すると、ぐれ兄は底の読めない黒灰色の目を細めて「へぇ、そうなんだ」と呟く。
「なるほどねぇ。けーくんがここにいると不測の事態が起きるかもしれないから、追い出したのかな」
ぐれ兄の大きな独り言が気になるけど、その真意を尋ねない方がいい気がする。好奇心は猫をも殺す、という諺があるし。
僕が立ち去ろうとしたら、ぐれ兄に「ねぇ、けーくん」と呼びとめられた。
「けーくんは慊人さんに命じられたら、透君の残留思念を本当に読むつもりかい? そんな事をしたら、
花島さんに嫌われたくないと思う一方で、心の傷が浅い内に諦めた方が身のためだと逃げる気持ちもある。何を諦めるのかは自分でもよく解らない。
正確には、突き詰めてしまうと自分の感情が制御できなくなりそうな予感がするから、解らない振りをしているのだけど。
「ぐれ兄が余計な事をしなければ、慊人は本田さんの残留思念を読めなんて命令は出さないよ」
「言ってくれるねぇ。けーくんにとっては余計な事でも、僕にとっては必要なコトなんだよ」
意味深に笑ったぐれ兄は、クラゲのようにするりと立ち去る。
なんか無駄に気疲れしたな。僕は気を取り直して、今度こそ荷物を取ってきて離れを後にした。
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38「もしかして……迷子?」
Side:
考え事をしながら海辺を散歩していたら、いつの間にか夜になっていた。周囲を包む闇は
――やぁ……由希。相変わらず1人ぼっちなの? 寂しい子だね。
昼間、慊人と
――いいかい、この世はまっ暗で君の一生もまっ暗なんだ。可能性も希望も無いんだから、君はまっ暗な道を生きてくんだから、“いつか救われる”なんて勘違いしないで。
勘違いじゃないって信じたい。暗闇だけじゃないって信じたい。
自分を守るために心を閉ざしていたせいで、最近まで忘れていたけど。俺は隔離されていた小さい頃、世界は
他人との関わり方が解らなかった俺に、友達になろうと言ってくれた小学校の同級生たち。
心身共に追い詰められた俺が外に飛び出した先で、偶然出会った迷子の彼女。
彼女たちの記憶から俺の存在が消えてしまっても、俺は誰かに必要とされた瞬間が確かにあった。だから、がんばって生きてみようと思ったけど。
見出した小さな光は大きくて重たい暗闇に飲み込まれ、俺の弱い心は捩じれてしまった。希望は絶望へと堕ち、憧憬は嫉みへと歪んだ。
――カッコ悪いね、由希。前向きに生きようとする君の姿は痛いよね、すごく。
他人と深く関わる事を拒絶して、自分の殻に閉じ籠った俺が再び光に向かって歩こうとする姿は、慊人から見れば痛々しく見えるのかもしれない。
だけど、雨に打たれても陽はまた昇るように。痛みにどれほど打ちのめされても、優しさは降り続いていたんだ。
あの日から、ずっと。
「……
林のほとりで、本田さんが木の幹に両手を突いて項垂れていた。俺が声をかけると、勢いよく振り向いた彼女は小走りで近寄ってくる。
「由希く……っ。良かったです、会えたですっ」
安堵の涙を浮かべる本田さんを見て、ボンボンの髪飾りをつけた迷子の少女を思い出した。
「あ……っ。もしかして……迷子?」
「え!? あ……えと、その……由希君はここに……何故……」
「俺? 俺は散歩してたんだよ。考え事しながら歩いていたら、こんな時間になっちゃった。……帰ろうか」
暗いので足許に注意するように本田さんに忠告してから、別荘へと引き返す。その途中、何やら興奮した様子の彼女が俺の服の袖を軽く引っ張ってくる。
「由希君、流れ星ですよ……っ。あっ、見てて下さい、きっと……あっ、ほら、またっ。見えました……!?」
雲1つない夜空に光の筋が尾を引きながら、瞬きするより速く流れる。本物の流れ星なんて初めて見た。
「きれいでしたね……っ」
確かに綺麗だった。だけど、そう思えるのは俺の隣に本田さんがいるからで。そもそも本田さんがいなければ、ほんの一瞬で消えてしまう光に気付けなかっただろう。
「……本当は
「……蓋を……開けたのですか……?」
「……慊人のおかげでね」
――僕は知ってる、僕にはわかるよ。君が何を欲しがって、何を求めているのか。本田
慊人にはっきり言われる前に、俺はとっくに気付いていた。あの夜、本当の姿になった
俺にとって本田さんは“異性”である前に、弱音を全て受け入れて甘えさせてくれる“お母さん”みたいな存在だと。
親の愛情を得られなかったから、本田さんに“母親の愛情”を求めていたんだ。
自分がそんな気持ちを抱いているなんて恥ずかしくて認めたくなくて、気付かなかった事にするためにきつく蓋をした。
そうしないと自己卑下につられて、憎悪とか嫌悪といった汚い感情までもが溢れてしまいそうだったから。
だけど、前に一歩踏み出す勇気を本田さんからもらえたおかげで、俺は苦手にしていた事を少しずつ克服しようと努力し始めた。
その甲斐あってか、以前のようにドロドロした感情に飲み込まれない自分になれたと思う。
俺の気持ちを全て話す事はまだできないけど、蓋を開ける事はできたから。今言える事だけでも、君に伝える。
「ありがとう、いつも俺の話を聞いてくれて。ありがとう、俺の弱さをいつも受け止めてくれて」
当時の俺は初めてできた“ともだち”の記憶が隠蔽されてしまって、
弱った心に追い討ちをかけるように、気管支の発作を拗らせてしまった。
――死んじゃうの? 由希。……つまんないね。
慊人にそう言われて、幼い俺の心のどこかが弾けて飛んだ。
諦めの悪かった俺はただがむしゃらに動きたくなって、当時いつも着ていた和服から洋服に着替え、夾の帽子を被って変装した。
夾の帽子は、本人から貰った訳でも借りた訳でもない。学校帰りに強い風が吹いて、この青い帽子が俺の処に飛んできた。
俺は帽子を渡そうとしたけど、夾は俺を睨んで帽子を受け取らずに立ち去った。それ以降、返す事もできなくて手元に置いていたのだ。
そして俺は“ともだち”から教えてもらったヒミツの入口を通って、
息が苦しくなっても走り続けて知らない街に入り込み、あるアパートの前に辿り着くと。2名の警察官と、オレンジ色に染めた長い髪の女性が道路に立って話をしていた。
――お母さん、早朝ですからもう少し静かに……。
――できるわきゃねーだろっ。こちとら大事な1人娘が行方不明なんだぞ!!!
俺の両親は、息子が発作で苦しんでいても1度も見舞いに来ないで旅行を楽しむような人達だ。あの女性みたいに泣きながら取り乱して、子どもを心配する“お母さん”もいるんだなと思った。
オレンジ色の髪の女性は、行方不明になった娘の特徴として「かわいいボンボンつけて」と言った。俺はそれを聞いて、ここに来る途中でボンボンの髪飾りをつけた女の子をちらっと見かけた事を思い出した。
来た道を引き返しながら捜すと、奥まった路地で蹲って泣いているボンボンの髪飾りをつけた女の子を発見。この子の母親に知らせに行こうとしたら、女の子が泣きながら俺についてきた。
“ともだち”の女の子に抱きつかれて変身してしまった事を思い出し、近づかれるのはまずいなと思っていたら、ボンボンの髪飾りをつけた女の子が転んだ。
俺は思わず足を止めたけど、助け起こす事もできず。額を擦り剥いた女の子は涙を流しながらも立ち上がって、俺を見失わないように一生懸命走ってついてきた。
今、あの子の世界は自分に託されている。迷子にならないように、自分を頼っている。必要としてくれている。
そう思ったら温かい気持ちが込み上げてきて、息切れしていてもそんなに苦しさは感じなかった。
俺は女の子をアパートまで送り届け、夾の帽子を彼女の頭に被せてその場から立ち去った。
帽子の本来の持ち主は夾だけど、
それに形に残るものを渡しておけば、迷子になった彼女が俺との出会いを忘れないでいてくれるかもしれないという、小狡い考えもあった。
……そんな事を考えていた癖に、俺は彼女との奇跡のような出会いを忘れてしまったのだから、どうしようもない。
――大切な思い出ですからっ。助けてもらったこと、本当に嬉しかったですから……っ。
遠い日の思い出を忘れないでいてくれて、ありがとう。迷子の君を救えたこと、とても嬉しかった。
俺はつまらない人間だと慊人に散々教え込まれてきたけど、あの日は、あの瞬間だけは君に必要としてもらえた。
それがどれほど嬉しかったかなんて、わからないだろ?
「知らないだろ? いつだって救われていたのは、俺のほうだってこと」
――大変な事もたくさん……あると思いますが、けれど楽しい事もたくさん待っていて下さりそうな……そんな気持ちになりますね。
温もりを。
――草摩君の優しさは、ロウソクみたいです。ポッと明かりがともるのです。そうすると、私は嬉しくてニッコリしたくなる。そんな優しさなのです。
優しさを分けてくれた。
――記憶が消されちゃっても、またお友達になってくださいね。
惜しむことなく、降り続ける。
「だから俺は……負けない。進んで行く、前へ。信じていける、きっと」
「……けれど、どうしてそんな……悲しそうになさるのですか……」
問いかける彼女は、悲しそうな表情を浮かべている。いつも俺の心に寄り添ってくれる君は、あの空のように近くて遠い。
俺は答える代わりに、本田さんの額にキスを落とした。
君が愛しい。その気持ちに偽りはないけど。
君を俺だけのものにしたい。俺にしかあげられないモノをあげたい。そんな激しい恋情に突き動かされた末の行動だったら、こんなに悲しい気持ちにならなかったのだろうか。
「あっ、トールとユキが帰ってきたっ! おかえりーっ!」
「……おかえりなさい」
「2人とも、こんな時間までどこに行っていたのさ?」
「
俺と本田さんが別荘に帰ると、
「ただいま」
「ただいま帰りましたです……っ。遅くなって申し訳ありませんっ。皆さん、お夕飯は向こうで召し上がったのですか?」
本田さんの発言を聞いて、紅葉達は離れの別荘に行って慊人に会ってきたのかと察した。
「ううん、食べてないよ。ボクもうお腹ペコペコーっ」
「あっ、これからパンケーキを焼きますよっ」
「やったぁ! ボク、パンケーキ大好きっ!」
「私も好き……お姉ちゃん……パンケーキ作るの……手伝うよ……」
「杞紗が手伝うなら、オレも手伝ってあげるよ」
俺も本田さんの手伝いをしようと思ったけど、春に呼び止められた。
「由希、ちょっと面倒な事になった……」
春が言うには、慊人の命令を受けて建視もこちらに泊まる事になったのだとか。しかも、慊人は本田さんに建視の力を教えろと指示したらしい。
本田さんに注意を促すためと慊人は言ったようだけど、建視の力を使って本田さんが人に知られたくないと思っている事を暴くと、遠回しに脅しているとしか思えない。
「慊人の狙いは、本田さんや俺達にプレッシャーを与えて場の空気を悪くする事だろう。建視を必要以上に意識せず、普段通りに振る舞うのがベストだな」
俺が考えを言葉に出すと、春がまじまじと俺を見つめてくる。
「由希……なんか変わった?」
「変わったかどうかは自分では判らないな。今まで気付かない振りをしていた事を、直視しただけだよ」
「ひと夏の経験が、由希を成長させた……」
「間違ってないけど、そういう言い方はやめろ」
嬉しそうに微笑む春は、以前から俺を気遣ってくれている。
俺は本当に、心配ばかりかけさせていたんだな。これからは自分の事だけにかまけるんじゃなく、春が困っている時に力になりたい。
▼△
Side:建視
みんなはパンケーキに何をかけて食べるだろうか。
蜂蜜? メープルシロップ? バター? 生クリーム? ジャム? 粉砂糖? アイスクリーム? チョコレートクリーム? ピーナッツバター? ヨーグルト?
パンケーキの味わい方は人それぞれだけど、僕は敢えて言おう!
「僕はパンケーキを食べる時は、マーマイトを塗るって決めているんだ」
「まーまいと、ですか? それはどういったものなのでしょう?」
首を傾げた本田さんに、僕は説明する。
「ビール造りの過程で出る酵母を主原料とした発酵食品だよ。イギリス版の味噌みたいな食べ物なんだ」
「外国のお味噌ですか……捜しますので、少々お待ち下さいっ」
ごめんね、本田さん。この別荘にマーマイトは無いと思う。
マーマイトは発祥の地であるイギリスでも、好きな人と嫌いな人が両極端に別れる癖のある発酵食品だ。草摩家の中でマーマイトが大好物という人は聞いた事がないから、別荘に常備されているとは思えない。
見つからないと見越した探し物を本田さんに押しつけるのは後ろめたいので、僕もマーマイトを捜す。
パンケーキを食べ終えた紅葉と杞紗と燈路も捜索に加わったけど、イギリス人のソウルフードと称される発酵食品は見つからない。そろそろ仕掛け時かと僕が思った、その時。
「建視。蜂蜜があるんだから、マーマイトにこだわる必要はないだろ」
台所に顔を出した由希が投げかけた言葉は、僕にとって渡りに船だった。
「マーマイトにこだわる必要はないだと……? 由希、さては貴様、パンケーキには蜂蜜が1番派の回し者だな?」
「違う。建視はマーマイトにこだわりがあるのかもしれないけど、捜しても見つからないなら諦めろよ。食べ終わらないと後片付けができないだろ」
「それもそうだな……。本田さん、ちょっといいかな?」
僕が呼び掛けると、台所の棚の中を探していた本田さんがこちらを向く。
「はいっ、なんでしょう?」
「今まで本田さんに言う機会がなかったから黙っていたけど、僕は物品に宿る人の残留思念を読み取る力を持っているんだ」
僕の突然の告白に、台所にいた杞紗と燈路と由希に緊張が走る。紅葉は僕の思惑を察したらしく、特に身構えなかったけど。
張り詰めた空気を感じ取ったのか、本田さんは戸惑ったように「あ、あのっ、えと、その……」と言葉を探す。
「建視さんの力につきましては、由希君から教えて頂きました……」
「そっか。知っているなら話は早いや。僕はこれから力を使って、この別荘にマーマイトがあるかどうか徹底的に調べようと思う!」
なんちゃって。シリアスな雰囲気の中で本田さんに僕の力を教えると重たい空気を引き摺りそうだから、軽いノリで打ち明けるのが目的だ。
目的は無事達成したから、僕の両手に封じられた邪神が暴れ出したから力は使えないとか言って誤魔化して、マーマイト捜しを打ち切ろうとしたのだが。
「建兄、本気!? 慊人の許可がないと力を使っちゃいけないんだろ? こんな馬鹿げた事で、慊人が許可を出す訳……っ」
燈路は話している途中で何かに気付いたようにハッと息を吞んで、本田さんを見遣る。
「マーマイト捜しはただの口実で、そいつの残留思念を読むのが目的じゃ……」
「深読みしすぎだぞ、燈路」
「建視お兄ちゃん……」
か細い声で僕を呼んだ杞紗の琥珀色の大きな瞳に、不安の色がありありと浮かんでいる。
年少組を安心させるため、「嘘ぴょーん」と言って茶化そうかな。いや、駄目だ。茶化しきれなかった場合、物凄く気まずい雰囲気になりそうな予感がする。
……こうなったら、悪役に徹するしかないか。
「ふっふっふ……僕の強大な力が恐ろしいか、燈路よ……っ。だぁが、しかしィ!! こんな僕も本家に戻れば、上層部の良いように使われる組織の歯車さー!!!」
「モゲ太ネタで誤魔化そうとするなよ」
燈路は呆れた口調と眼差しで、僕の
「うぐっ! 精神攻撃とはやるな、燈路……っ。今度は僕の番だ。いくぞ、トリプルターボチャージスワット!! ……に見せかけたくすぐり攻撃っ」
「やめろよ、建兄!」
僕が燈路を捕獲してくすぐり攻撃を仕掛けていたら、春が台所にやってきた。
「離れに電話してお手伝いさんに聞いたら、地下貯蔵庫にマーマイトがあるかもって」
「春……気を利かせて電話してくれたのか」
僕が言外に「余計な事しやがって」という意味を含ませると、春は「建視がマーマイトじゃないとダメって言うから……」と応じた。ぐぬぬ。
「地下貯蔵庫があるのですか!? スゴイです……っ。地下室に入るのは初めてですっ。なんだかドキドキしますねっ」
「じゃあ、Keller(地下貯蔵庫)のタンケンしよーっ!」
紅葉が提案した探検に本田さんと杞紗が乗り気だから、マーマイトは捜さなくてもいいと言い出せなくなった。おい、由希。自業自得だろと言わんばかりの目で見るな。
紅葉を先頭に、本田さん、杞紗、燈路、由希、春、僕、夾という順番で、玄関付近のドアから地下への階段を下りる。
夾はマーマイト捜しに関与していなかったのに、春が告げ口したらしい。
僕を睨みつけた夾は「透に余計な手間をかけた落とし前をつけさせてやる」と言って、マーマイト捜索隊に加わった。余計な手間じゃないもん。必要な手間だったもん!
カビ臭い冷気が充満した地下貯蔵庫には野菜が入った段ボール箱や米袋が置かれ、壁には大きな棚が設置されていた。棚には大小様々な容器がずらりと並ぶ。
多種多様な漬物が入った瓶。洋酒や日本酒や中国酒の瓶。日本茶や紅茶や中国茶の缶。乾物や燻製が入った瓶。唐辛子やドライハーブが入った容器。他にも色々。
「いろんなものがあるねーっ!」
「はい……っ。見ているだけで楽しい気分になりますねっ」
「マーマイトを捜すのが目的なんだから、忘れないでよ」
忘れても構わなかったのに、ひーたんめ。
「紅葉。市販のマーマイトは、どういう見た目の容器に入っているんだ?」
由希のヤロォ、余計な質問するんじゃねえよ。
「えーっとね、黄色いフタがついた黒いビンに入っているよ。ラベルにマーマイトって英語で……エム・エー・アール・エム・アイ・ティー・イーって、書いてあるのっ」
もぉみぃじぃぃぃ! おまっ、僕がマーマイトを食べたがっていない事は解っているだろ。
僕が恨みがましい視線を送ると、紅葉はにっこり笑って「Selber Schuld!(自業自得!)」と言った。夾の他にも、本田さんに余計な手間をかけた事を怒っている人がいたようだ。
「エム・エー・アール・エム……えと……」
「エム・エー・アール・エム・アイ・ティー・イーだよ。それくらい1発で覚えられない訳?」
「燈路ちゃん……」
「ちっ、違うよ、杞紗。オレはあいつを馬鹿にした訳じゃなくて……」
「誰が1番にマーマイトを見つけるか、競争だね……」
春は舌禍を招いた燈路に助け舟を出したつもりだろうが、僕にとっては泥船だ。
「クソ鼠より先に見つけてやる」
「頑張れよ、バカ猫」
「バカって言うな!」
みんなで探した結果、由希がマーマイトを発見してしまった。マーマイトが入った瓶を僕に差し出す由希は、見た事がないほど清々しい笑みを浮かべていやがる。
「くそありがとうよ……っ」
「どういたしまして」
本田さんが焼いてくれたパンケーキをレンジで温め直し、黒いペースト状のマーマイトをパンケーキにうすーく塗って、いざ実食。
マーマイトはまずいと評判だけど、飲み込めないほど酷い味じゃない。とはいえ、塩辛くて苦味が後を引くので、1口食べればもういいやと思う。
由希が笑いながら“お残しは許しまへんでっ!”と無言で圧力をかけてきたから、完食したけどね!
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39「絶対に言うな……っ」
僕を含む
昨日の慊人は春にベッタリだったけど、本日はまだ誰も呼び出されていない。
広間で待機するのに飽きたから、トイレに行く振りをして別荘の中を歩き回っていると、表玄関から外に出る
連れ戻すか? でも由希は華奢な見た目に反してべらぼうに強いから、僕1人じゃ太刀打ちできない。とりあえず由希の後をつけるか。
慊人の許可を得ずに外出するのはアウトだが、どこに行っていたと慊人に咎められたら、由希を追跡していたと言えばいい。
由希の数メートル先に、
恐らく由希は、本田さんや夾が慊人とエンカウントしないように見張っているのだろう。
林の中の散策路を歩く慊人と紅野兄から距離を置いて、由希が2人を追いかける。由希の後を僕が追う。尾行する人を尾行するって、スパイみたいだな。
海辺に近づいた所で、由希は慊人達とは違うルートを選んだ。
慊人と紅野兄は砂浜に続く散歩道に進み、由希は一段高い所に設けられた海岸道路に向かう。僕の尾行対象は由希なので、海岸道路に足を向けた。
アスファルトからの照り返しでジリジリ肌を焼く暑さを感じながら歩いていると、閑散とした小さな砂浜に2つの人影を見つけた。オレンジ頭の夾と、白い帽子を被った本田さんだ。
……まずいな。このままだと、本田さんと夾のいる場所に慊人が辿り着くかも。
夾か本田さんのどちらかが携帯電話を持っていれば、慊人の接近を知らせる事ができるけど、2人とも持ってないし。
って! 本田さんと夾が高波をかぶっちゃったよ。全身ずぶ濡れになった夾が海に向かって、「海、てめぇ!! 殺すぞ!?」とか凄んでいる。
ドラマや漫画で海に向かって「海のバカヤロー!」と叫ぶシーンは見た事あるけど、海を恫喝する奴って初めて見たよ……。
本田さんとじゃれている夾を遠巻きに眺めていた慊人は、来た道を引き返していく。よかった、エンカウントは回避されたな。
と、その時、由希が遠ざかる慊人とは別の方向を見る。
由希の視線を追うと、ミニワンピースとブーツで装った黒髪ロングの女性が散歩道に立っていた。背格好からしてリン姉によく似ている。
「……
おっと、由希に気付かれちゃったZE★
「やぁ。由希も息抜きに散歩していたのか?」
「白々しい。建視は俺をずっと尾行していただろ。それより、あそこにいるのはリンだよな?」
「多分ね。リン姉は1人で来たのかな?」
僕と由希が小声で話している間に、
リン姉は背中の大怪我は塞がったけど、体はまだ本調子じゃない。
由希もリン姉が気掛かりだったようで、僕と由希は長い黒髪を靡かせて歩く従姉を追跡した。
林の中でリン姉と思しき女性を見失ってしまったけど、方角的に母屋の別荘に向かったはずだと見当を付ける。
母屋の別荘の庭続きになっている林の空き地に、全身真っ黒の成体の馬が体を横たえていた。その近くには本田さんもいる。
「リン!」
「あ、あれ? 由希君と建視さん……!?」
「本田さんがリン姉を見つけてくれたの?」
「いっ、いえ、あの、私も今さっきお会いして……っ」
僕と由希と本田さんは話しながら、馬形態になったリン姉の側にしゃがみ込む。
「彼女はリン……
「依鈴……さん?」
「変身するほど弱っているなら、兄さんを呼んだ方がいいな」
僕が携帯電話を取り出そうとした瞬間、リン姉が後ろ脚で僕を蹴ろうとしてきた。あっぶねぇ!
「誰も……呼ぶな……っ」
馬形態のリン姉が声を振り絞りつつ、立ち上がろうとした瞬間。
ボンッ!
小規模な爆発音と煙が上がった。リン姉が着ていた服は変身した際に破けたと思われるので、僕と由希はセルフであっち向いてホイをする。
「しっ、失礼します。あの、これをっ」
慌てた声を出した本田さんは近くの茂みに落ちていたシーツをリン姉に渡すと、干してある着替えを取ってきますと言って立ち去った。
「リン、無理するなよ。具合悪いんだろ? 大体……どうしてここに……」
「春に会いに来たのか?」
僕が
「うるさい……っ。アタシが何処で何しようが、アタシの勝手だ……っ」
リン姉は僕と由希を交互に睨みつけながら、脅すような口調で「いいか……」と告げる。
「アタシがここに居たこと……他の奴らに絶対言うな。……もし言ったら殺してやる……っ」
口止めをしてきた事から推察するに、リン姉は呪いを解く手がかりを捜しに来たようだ。慊人に近しいぐれ兄なら何か知っているかも、と踏んだのだろうか。
ぐれ兄に頼んだ処で、
「……“殺す”なんて、そんなの無理だってわかっているだろ……?」
おい、由希。気が立っているリン姉を挑発するな。僕の首が締まっているんだぞ。
「余裕ぶって……おまえなんか所詮、慊人の玩具だろ……っ」
うわ、きっつぅ。
着替えを持ってきた本田さんは、気遣わしげに由希を見遣った。
トラウマを抉る言葉をぶつけられて
リン姉も由希の反応を見て驚いたらしく、僕の襟から手を放した。と思ったら、リン姉は本田さんから着替えをひったくる。
「言うな……絶対に言うな……っ」
「あ、あの、待……っ、依鈴さん!!」
本田さんの制止に耳を貸さず、リン姉は下草の上に落ちていたブーツとバッグを拾うと走って立ち去った。
「行……行ってしまわれました……っ。足がお速いです……」
「リン姉は午だから、長距離走はお手の物だよ。体調が万全ならの話だけど」
「確かに、具合がお悪そうでした……大丈夫……なのでしょうか……」
体が弱っているからリン姉はまたどっかで倒れそうな予感がするけど、追いかけると逆効果っぽいからな。
「とりあえず……今日会った事は黙っていてあげよう。建視もいいな?」
「はいよ」
「リンを追いかけたいのも山々なんだけど……俺達ももう戻らないとマズイんだ。抜け出してきているから……」
由希が打ち明けると、本田さんは驚いたように「え!!」と声を上げる。
「……でも大丈夫。リンの事は俺に任せて」
由希は何やら自信ありげに話しているが、安請け合いしていいのか。心配そうな本田さんを、安心させるためのポーズかもしれないが。
「じゃあ……ごめん、バタバタして。今日も早く戻れるように……」
「由希君、建視さん。……待っていますね」
本田さんは普段の満開の笑みとは少し違う、控えめな微笑みを浮かべて見送りの挨拶を告げた。夾が残っているとはいえ、置き去りにされて寂しいんだろうな。
僕は後ろめたく思ったけど、由希は本田さんを見て嬉しそうに笑う。
「……ん。待ってて……」
え? なに? この微妙に甘酸っぱい雰囲気は。
一昨日の夜に由希と本田さんは2人で散歩に出かけたようだけど、恋愛イベントが起きて付き合い始めたのか? クソうらやまし……じゃなくて、慊人の目と鼻の先だってのに、勇気あるな。
でも、由希と本田さんが恋人同士になった証拠はまだ無いし。もうしばらく様子見をするか。
▼△
Side:夾
慊人が猫憑きの俺を呼び出した。
どうせロクな呼び出しじゃねぇ。クソ由希に勝つという賭けが上手くいってねぇ事を指摘されて、高校卒業したら幽閉だって釘を刺されるンだろう。
離れの別荘の一室で対面した慊人は俺が予想した事も口にしたが、俺が今まで見て見ぬ振りをしていた事を突きつけてきた。
胸糞悪い面会が終わっても、慊人に言われた言葉が頭にガンガン響いてやがる。
――誰かを好きになる資格があると思ってるのかよ。1番あの女を巻き込んでいるのは。
「わかってるよ……」
――おまえがいなくなるのが1番。
「わかってるよ!!」
いつだって俺は傷つけることばかりで。どうして
なのに、どうして俺は生きているんだろう。おめおめと、今も。
「――
母屋の別荘に戻ったら人の気配がなかった。自分の罪深さを思い知ったばかりだってのに、それでもあいつを捜してしまう。どうしてと思った瞬間、師匠の言葉が蘇る。
――……夾。待ちなさい、夾……。踏んでしまっては、可哀想だよ。
去年の5月から約4ヵ月間。師匠に連れられて山の中で過ごしながら、俺は闇の中で立ち止まっていた。
――……今さら……こんなちっぽけな花守ったって、しょうがねぇだろ……っ。
転んで打ち所が悪くて死なねぇかなと思ったが、泥まみれになっても俺はしぶとく生きてて。鈍く感じる痛みは、なんでおまえは生きているんだと責められているように思えた。
――他人の犠牲の上に、他人の命の上に成り立つ存在ってなんだよ……。これ以上ないくらいのものを奪っておいて、踏み躙っておいて。
――それでもおまえがそうして生きているのは、希望を捨てていないからだろう? この世に生きる総ての他人が、おまえを拒絶するわけではないことを知っているからだろう?
あの時の俺は、師匠の静かに諭す声が耳障りに聞こえた。
――知らない……そんなもの知らない……希望なんて……無い。
――あるさ。
――無い!!
師匠の忠告を無視した俺は、足元にあったタンポポを踏み潰して「無い……っ」と繰り返した。
――それでも……今は無くとも、必ずまた訪れる。どんなに抗おうと踏みつけようと、絶望は幾度となく襲いくるように、それと同じように希望もまた訪れる。繰り返し、繰り返し、必ず咲く。
ごめん、師匠。今ならわかるよ。わからないフリをしていただけで、知ってたんだ。
ホントは、知ってたよ。この世に拒絶があるように、手を差しのべてくれる
あの人に出会ったのは、俺が師匠に引き取られて間もなかった頃。素直に帰るにはまだ気が引けて、小学校の帰りに空き地に寄り道した時に話しかけられた。
――なんだ、おまえ。ガキのくせに、オレンジなんぞにしくさってからに。天然? ソレ、天然?
――なっ、なんだ、てめぇ。カンケーねぇだろ、なれなれしくすんなよ、ころすぞっ。
俺の乱暴な口調は、猫憑きを蔑む連中や学校の先生も眉をひそめる物だったが、あの人は何故か嬉しそうに笑った。
――あ゛っ。なんだ、こいつ、かわいくねぇ!! かわいー!!
――かっ、かわいいってなんだ、ババァ!! クソババァ!!
――こわっぱがなんか言った! なんか言った!! かーわーいー!!
俺が罵倒しても、あの人は喜ぶ一方で。当時の俺は、馬鹿にされていると思って怒った。
――そんなかわいーと、さらわれるぞ。お家、帰んなよ。おかーちゃんも心配して……。
――そんなモンいねぇ!! しんだ!!
――……おとーちゃんは。
――あんなヤツいらねぇ!! しね!! あいつだって、おれがしんだほうがいいって思ってんだ!!
親に向かって「死ね」なんて言うのは悪い事だと、小学生の俺でも知っていた。通りがかりのあの人も、こんな悪童に関わらない方がいいと判断して立ち去るかと思っていたのに。
あの人は俺の頭を撫でて、優しく声をかけてきた。
――そりゃあ……寂しいね。
その言葉の意味こそ、ガキだった頃の俺はまだわからなかったけど。
実の両親にも、蔑み見下す草摩の奴らにも否定されてきた自分の存在が、赤の他人に許されたような気がして。希望のような光に思えたんだ。
――あたし、職場がこの近くにあるんだ。またおいで、ジャリガキ。
それから俺は、あの人に度々会いに行った。あの人は色んな話をしてくれた。自分自身のこと、自分の旦那のこと。自分の娘のことも。
――今日はあんたに、いいモンみせたる。あたしの宝物。
あの人はそう言って、自分の娘の写真を見せてくれた。写真のあいつは今より幼かったけど、今と同じ見る人の心を和ます笑顔を広げていて。どんな声で笑ったりするんだろうかと思った。
いつだったかあの人が仕事で1晩、娘に留守番させなきゃいけなくて心配だって言うから、あの人と娘が住むアパートの様子を見に行った事がある。
1人で夕飯を食べていたあの子の背中は、寂しそうに見えてイヤだった。優しいあの人やあの子の過ごす日々は、倖せに守られていてほしかった。
子ども心に、さびしくあってほしくなかった。だから、ずっと気になっていた。今日はさびしくないだろうか。今日は笑っているだろうか。胸のどこかで何か咲いたみたいに。
だけど、そんな温かな気持ちを抱いていた日々は唐突に終わりを迎える。あの人の娘が行方不明になって、夕方になっても帰ってこなくなった事件が起きたんだ。
――おれが……おれが絶対みつけてくるから……っ。おまえは家で待ってろ! 絶対助ける、守ってみせる! 男の約束!!
俺はそう宣言したけど、結局果たせなかった。街中を走り回って捜したのに、見つからなくて。あの人の娘を見つけ出したのは、俺が1番嫌いな奴だった。
――あいつはヤな奴だ!! 悪い奴なんだ、おれが助けようって思ったのに……っ。
――
ガキだった頃の俺は、あの人が何を言おうとしているのか理解できなかった。今でも……いや、理解したくねぇというのが本音だ。
――おまえもあいつの味方すんのか……!? おれが悪いっていうのか!?
――違うよ。“味方”だの“いい”だの“悪い”だの、くだらない。そんなモンにこだわってちゃ、
あの人はちゃんとまっすぐ俺を見てくれていたのに、ガキだった頃の俺は「わけわかんねぇ」と言って、あの人を突き飛ばしてしまった。
――おまえなんか……おまえらなんか、もう知るかっ。
――ジャリ、“約束”ツケね!
それきりだった。
裏切られたような寂しさ。助けられなかった恥ずかしさ。横取りされたような悔しさ。拗ねた気持ちがもう1度会うのを避けた。なんてガキ臭い事だと、今なら思えるけど。
……あれから新たな罪を重ねた俺の前で、それは咲いた。咲き続けてた。小さな、小さな花。ちっぽけな花。大切な、大切な、俺の。
砂浜で1人ぼっちで砂の城を作っていた透の後ろ姿は、何年も前に1人きりで留守番していた時みたいに、酷く頼りなさげで寂しがっているように見えた。
「透っ」
「……え、きょ……夾君!?」
俺が呼びかけると、透は驚いたようにビクリと体を震わせて後ろを振り返った。
おまえが呼ぶ時だけは、自分の名前も特別に響くような気がする。こんな馬鹿みたいなこと思うようになったのは、いつからだったろう。
いつから、こんなに好きでたまらなくなってたんだろう。
温かい気持ちとどす黒い罪悪感に胸が締め付けられていたら、透が立ち上がってこちらに近寄ってくる。
「どっ、どうされたのですか。随分お早いお帰り……あっ、お帰りではないですか!? 何か忘れ物……」
話している途中で透は俺の顔に目を止め、気遣わしげに手を伸ばす。
「夾君……頬……」
「ああ……ちょっとケンカをな」
慊人に一方的に殴られただけなんだが。
ケンカと聞いて「え゛!?」と仰天したような声を上げる透には、本当の事は話せねぇ。話す必要も感じねぇしな。
「ケ、ケ、ケンカとは、あっ、慊人さんと……ですか!?」
「もう来なくていいとさ」
「え゛え!!」
「いいんだ、別に。喜んでくれたおまえには悪いけど、呼ばれなくても気にしない」
慊人と賭けを始めた去年の9月頃は、何が何でもクソ由希に勝って、十二支の仲間に入ると息巻いていたけど。
「……てか、どーでもよくなった……かもな」
十二支の仲間に入れなくてもいい。俺は1人で生きて死ぬ。猫憑きとして生まれた時点で、そう決まっていた。
物の怪憑きの“血”の
俺が余計なあがきをすると、透を厄介事に巻き込んじまう。それだけは嫌だ。師匠は俺に諦めるなと言うかもしれねぇが、なんか吹っ切れて清々した気分なんだよ。
何か企んでやがる慊人から透を守るために、俺が犠牲になる。なんて恩着せがましい事は言わねぇ。てか言えねぇ。
本当は去年の5月の時点で、覚悟を決めとくべきだった。
償いって言うなら、俺のした事を透に全て打ち明けるべきなんだろうが、今はまだ告白できねぇ。俺が「外」で生きられる時間は1年と少しだから、透には笑っていてほしいと思っちまう。
透を見ると、なんか不思議そうな顔をして俺を見上げていた。
「なんだよ? 俺が帰ってきちゃ悪かったかよ?」
「え゛!? ちっ、ち、ち、違います。そんな、あの」
俺がわざと意地悪な事を言ってやったら、真に受けた透は慌てたように両腕を振って否定する。
必死な透の様子がおかしくて、思わず噴き出してから「嘘だよ、冗談」と告げた。
「……お帰りなさい……お帰りなさい、夾君……っ」
透は温かい笑みを広げて、出迎えの挨拶を言ってくれる。
「……おう、ただいま」
好きだよ。もう何も奪いたくない。踏み躙りたくない。二度と。
……どこかでずっと一緒にいてくれたらとか、望んだりもしてたけど。
――許さないから。
血溜まりに倒れたあの人は、確かにそう言った。最悪の形で再会した俺を、しっかりと見据えて。
――これ以上、
慊人に言われなくてもわかってる。
もう望まない。俺だけのものにしたいとか、そんなこと望まない。望まないから。お願いだ。せめて残る時間だけは、側に。
「あ……っ。そうです、夾君……っ。夕御飯は何がよろしいですか……!?」
石段を上っていた透が振り向いて、俺に聞いてきた。
「あー……魚」
「了解です!! 今日も腕を振る……うぅあっ」
あぶねぇな。足を滑らせた透の頭を手で押さえて、石段から転げ落ちるのを防ぐ。
「……おまえなぁ。腕振るわんでいいから、足元見て歩け……」
「は……はい。す、すみません……っ。あぶ、あぶ、危なかったです……ね……」
「ったく……しょーがねぇなぁ……」
透が持っていたバケツを受け取って、あいつの手を取る。俺の左手から伝わる透の温もりを感じて、側にいたいと強く思う。
遠く離れるその時までは、その瞬間までは。
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40「仲間に入れてやらないよ」
夾の右頬に殴られた痕があったから無事とは言えないが、最悪の場合、夾の幽閉が早まる事だってあり得たのだから、殴打程度で済んだなら御の字だ。
その日の夜、母屋のリビングの床に様々な花火が並べられていた。
「ロケット花火、線香花火……たくさんありますね……っ。
「ススキ花火……」
「
リビングにやってきた春が質問すると、ソファに腰掛けていた由希は「いや……
「明日の夜は、みんなで花火をしようって。俺はいいと思うんだけど……どうかな」
「……何故、明日なのですか?」
「ホラ……一応、明後日には帰る予定だろ……? 俺達」
「ぁああっ!!」
「は、はい。うっかり……っ。そうでした……よね」
「だから最後ぐらい、楽しい思い出で締め括りたいな……って。
由希の言葉を受けて、リビングにいた草摩家の面々がそれぞれリアクションを取った。
春は普段通りの無表情だけど、本田さんに視線を送り。本田さんに対してまだ素直になれない燈路は、気まずそうにそっぽを向く。杞紗は気遣わしげに本田さんを見上げながら、彼女の腕に縋った。
僕は申し訳なさそうな表情を作りながら、心の中でどうしようと思い悩む。
慊人が本家から何日も離れるのは、今回が初めてだ。
明日の夜になる前に慊人が帰ると決めたら、僕も強制帰還する事になる。
慊人は本田さん達に嫌がらせをするために僕が母屋に泊まる許可は出したけど、皆と花火を楽しむために僕が母屋に残る許可は出さないだろう。
本田さんに寂しい思いをさせたお詫びも込めて、皆で花火をして思い出作りをしようねって流れになっているのに、「慊人が帰るって言ったら僕も帰る」なんて言えないよ……。
水を差すような発言をする事態にならなければいいなと思っていたら、涙ぐんだ本田さんが「わ……っ、私は……私はそんな」とつっかえながら話し始める。
「私は……嬉しかったです……。皆さんと御一緒にこうして夏を……過ごせたこと。本当にただ……嬉しくて」
小さな喜びを噛み締める本田さんの言葉を聞いて、今回の避暑は本来ではあり得なかった事だと気付かされた。
僕の夏休みは、いつ任務が入るかと気が気ではない日々を送るのがデフォルトになっていたけど、それを気にせず皆と探検とかウノとかして遊んで楽しかった。
「ですから……花火っ、楽しみですね……っ」
あああ……どうしよう。更に言い出しづらくなったぞ。嬉しそうに微笑んで「……ん」と答える由希が、憎らしく思える。
「どかーんと打ち上げマショウ……。闇を切り裂くような……」
由希と本田さんだけの空間になりかけていたが、春の発言で元の空気に戻った。グッジョブ、春。
今度は杞紗と本田さんが微笑みながら見つめ合って、2人の世界を作っている。「あ!」と声を上げて立ち上がった燈路は、杞紗を取られまいと必死だな。
「モゲ太のアニメスペシャル始まる時間だっ。杞紗、観よっ」
「……うんっ。
「うん、観よう観よう」
僕が二つ返事で答えると、燈路が「人の恋路の邪魔すんなよ!」と言わんばかりに僕を睨んできた。可愛い杞紗に誘われたのに断れる訳ないでしょう、燈路坊ちゃん。
「あ……れ、紅葉お兄ちゃんは?」
「私が声をかけてきますですよ……っ」
そう言って、本田さんは立ち上がった。
さてと。モゲ太のアニメスペシャルの鑑賞に備えて、お菓子とジュースを用意するか。
▼△
Side:
夏は恋の季節。未然形カップルの親密度がぐぐっと上がるためには、刺激が必要。というワケで、避暑を楽しむ皆の中にスパイス代わりの慊人を投入してみたよ。
最近の由希は精神的に成長しているようだから慊人に反抗するかなと思ったけど、そこまでには至らなかったか。残念。
でも、慊人と接触した由希は精神的な打撃を受けたようには見えなかったから、着実に離反の道を進んでいるようで何より。由希が自分の支配下にあった子供のままだと思い込んでいる慊人が、哀れなほどお馬鹿で滑稽だよ。
慊人が夾を呼び出した時は一波乱あるかと期待したものの、穏便に収まっちゃったみたいだね。夾の内心は穏やかじゃなかったようだけど、
透君と夾はお互い惹かれあっている事は明らかなのに、中々くっつかないんだよね。見ていてジレジレしちゃう。やっぱり夾の行く末を透君に教えないと、事態は大きく動かないかなぁ。
「……結局、今回どうして
僕に背を向けて座っていた慊人に、嫌味混じりの疑問を投げかけた。
今まで
はとりは側に置いておかないと不安なのかもしれないと推測していたけど、僕は
「……別に。最近ちょっと調子悪そうにしていたから、少しぐらい休ませてあげようと思っただけだよ」
へぇ。僕には
「慊人さんはホントにお優しいですねぇ。建視が母屋に泊まる許可を出していましたし」
透君の私物から残留思念を読めと建視に命じるかと思ったけど、今のところ慊人が命令を出す気配はない。
建視が
あるいは……紅野を連れてきたから、建視が力を使う許可は出したくなかったりしてね。
勤務歴が浅い慊人の世話役の1人と
建視に残留思念を読まれたくない人の行動そのものだけど、建視は物の怪憑きの残留思念は読めないのに、なんでそんな事をする必要があるのかなぁ?
「建視を母屋に向かわせたのは、浮かれているブスと馬鹿に釘を刺すためだ。僕がその気になれば、いつだってブスを追い出せる事を解ってないみたいだからな」
1番解ってないのは慊人だ。
大昔に結ばれた“絆”なんて不確かなモノに縋っていても、人は繋ぎ止められないのに、いつまで経ってもそれを認めようとしない。
言い聞かせても無駄だと解っているので、僕はそれには触れずに言葉を続ける。
「確かに、慊人さんのさじ加減次第ですけどね。皆がストレスを感じているみたいなので、釘を刺すのはもう充分じゃないかと」
「なんで、馬鹿やブスを気遣ってやらなきゃいけないんだよ。僕の方が、ストレス溜まっているのに」
「それはまた……どうしました。また何か気に食わないことでも?」
「……あるよ、そんなもの。死ぬほど」
僕が「例えば?」と訊いたら、慊人は「……おまえが気に食わない」と率直に答えた。
「おまえ、優しくないんだよ、全然。全然優しくない」
慊人が求める“優しさ”は、先代当主の
僕は慊人の父親代わりになる気は毛頭ないから、そんなものを求められても困る。
「……優しくしているじゃないですか」
こちらを振り返った慊人は「もっとだよ!!」と声を荒げる。
「もっともっと……昔はもっと優しかった。僕だけを見てた。もっとちゃんと、もっと……」
釣った魚に餌をやらないでいると、他の男のところへ行かれてしまう。だから僕は僕なりに努力して、急ごしらえの後づけ品の“優しさ”を慊人に与えていたけど、それでも君は他の奴を選んだ。
だったら、優しくしたって無駄じゃないか。
僕が笑顔を取り繕うのを止めると、慊人はまさかと言うような表情になって僕の顔に手を伸ばしてくる。
「おまえ……やっぱり、あの女の……ことを」
嫉妬に駆られる慊人を良い気分で眺めていたら、襖を軽く叩く音に遮られた。心の中で舌打ちすると、紅野が「慊人」と呼ぶ声が聞こえて殺意が湧く。
人の恋路を邪魔する奴は犬に喰われて死ぬがいいという都々逸があるけど、僕はあんなヤツ食いたくない。馬形態のリンに蹴られて死んじまえばいいのに。
あ、タンマ。紅野が死ぬと慊人の中で永遠の存在になっちゃうかもしれないから、半殺し程度にしておいて。
「…………何」
「本家から連絡が」
僕から離れていった慊人は、戸口で紅野と話していた。紅野は小声で連絡を伝えているけど、僕の優秀なお耳はちゃーんと内容を拾っている。
ふぅん。楝さんとその世話役が、慊人は草摩から出て行ったと言い触らしているのか。
「また……勝手なことを……っ。誰が当主だと思ってる……っ」
「慊人が前に出たほうが、事は丸く収まると……」
「また暴れだしてしまいましたか? 楝さん」
僕が会話に口を挟むと、慊人はこちらを振り返らずに「……何」と訊いてくる。
「気になるの……?」
「邪推……ってヤツですよ、それは」
「…………紅野、行くぞ」
僕じゃない男を呼ぶ慊人の声は酷く耳障りで、何もかもぶち壊してやりたくなった。
▼△
Side:建視
『モゲ太とアリ』のアニメスペシャルは、原作に出てこないオリジナルエピソードを盛り込んだ回だった。
主人公のアリことアリタミス・ドンパニーナ・タイオスの生い立ちが知れて、『モゲ太とアリ』ファンとしては大歓喜&大満足のスペシャルだったな。
モゲ太が主人公だと考えている派の燈路と僕の意見が衝突して口論になったけど、杞紗が「どっちも主人公だよ……」と大岡裁きをしてくれたおかげで、僕は
楽しい気分に浸りながら紅葉とシェアした部屋のベッドで寝ていたら、不意に目が覚めた。朝になったから起きた訳じゃない。真っ暗だから今は夜中だろう。
それより、近くに慊人がいる気配がする。武道家の端くれである僕は気配察知に長けているとか言えたらカッコいいけど、実際は物の怪憑き特有の感覚だ。
魂の支配者である慊人が近くにいると、胸の奥がなんかザワザワするんだよね。慊人の感情が激しく揺らぐと、ザワザワが強くなるのだ。今みたいに。
嫌な予感がしたので、枕元に置いておいた携帯電話を掴んでベッドから下りる。そういや、紅葉はどこいった。薄暗い部屋の中にはいないようだけど。トイレに行っているのだろうか。
僕が寝室から出るのとほぼ同時に、夾も自分の寝室から出てくる。夾の表情が強張っているから、慊人が近くにいると感じたのかもしれない。
灯りの点いたダイニングルームに向かうと、由希と春が緊張した面持ちで窓際に立っている。
僕と夾も窓際に近寄って、カーテンの隙間から外の様子を伺う。ダイニングルームから近い庭先には慊人と、慊人を通せんぼするように両腕を広げて立つ紅葉の姿があった。
「気持ち悪いんだよ……!!」
慊人は罵声を浴びせながら、紅葉の顔を拳で殴りつける。一切手加減せずに力を叩き込んだのか、紅葉はよろけてガーデンフェンスに倒れかかった。
まずい。何があったか知らないけど、慊人が不機嫌MAXだ。
僕は携帯電話を素早く操作して、慊人は母屋にいるから早く連れ戻しに来てほしいと兄さんに知らせるメールを作成する。その間も慊人の怒号が響く。
「理解……? 理解……!? 見下したいだけだろ! 自分が優位に立てる理屈で、僕を定義づけたいだけだろ!!」
「やめてください……!!!」
悲鳴じみた声を上げながら庭に出てきたのは、パジャマ姿の本田さんだ。
僕は思わず「なんで外に……」と言葉を漏らし、由希と春は驚愕と警戒を浮かべ、夾は焦った声音で「透……っ」と呼ぶ。
「やめてください……っ」
驚いた慊人が紅葉の胸倉から手を放した隙を衝き、本田さんは2人の間に入った。
自分の体を盾にして紅葉を庇う本田さんを見て、僕の中で不安と恐怖が膨れ上がる。
左目に後遺症が残る大怪我を負った兄さん、錯乱状態に陥った
本田さんに向かって逃げてと叫びたいけど、迂闊な真似はできない。彼女を守ろうとする行為が慊人の怒りを買ったら、慊人が本田さんに暴力を振るう恐れがある。
「……『やめて』……? 僕に命令する言葉だ。ひどい……ひどい、君、
慊人の声はそんなに大きくなかったけど、夜の静けさに包まれているせいか僕の耳に届いた。
違う、本田さんは優しい人だ。
心の底からそう思うのに、僕の口から反論の言葉は出ない。というか出せない。僕の胸の奥にいる盃の付喪神が、本田さんを罵る慊人を全肯定しているから。
――慊人を裏切るな
物の怪の血と僕の意思が対立する時、心がバラバラになりそうな錯覚を覚える。
由希と夾と春も似たような思いを味わっているのか、辛そうに顔を歪めた。外にいる紅葉は両手で顔を覆っている。
「でも透? 本田透、僕は君に会いに来てあげたんだよ。どんなに失礼な態度をとられようとも……君に、君に伝えたいことがあるんだ」
そう言いながら慊人は両手で、本田さんの顔を乱暴に掴んで引き寄せる。
「いい気になるなよ……下種」
見かねた夾が外に出ようとしたけど、春が夾の腕を掴んで制止した。
「放せ、春……っ」
「俺達が止めに入ると逆効果だ」
春の言う通り、僕達が本田さんを庇うと慊人が激昂する可能性が高い。下手をしたら……本田さんが佳菜さんの二の舞になってしまう。
それに僕達が出て行っても、慊人に「動くな」と命じられたら何もできなくなる。慊人に言い聞かせる事ができる兄さん達が来るのを、待つしかない。
……本田さんは僕の友達なのに、
「兄さんに連絡したから、もうすぐ来るはずだ」
己の無力さを痛感しながら僕が告げると、猫憑きの従弟は「くそっ」と悪態を吐いた。
春は夾が我慢できなくなる事態を危惧して、夾の腕を掴んだままだ。由希は外をじっと見据えながら、拳を強く握り締めている。
僕達が様子を窺っている事に気付いてないのか、紅葉はその場から走り去った。恐らく、兄さん達を呼びに行ったのだろう。
「由希や建視や夾を救えたなんて思ってるなら、今すぐその思い上がりを恥じるがいい。教えてやるから。……教えてやるよ。夾はね、高校を出たら幽閉……だよ。先の猫憑きと同じように、一生」
由希と春も知っているのか、驚いてはいない。2人の表情は暗く沈んだけど。
「……畜生っ」
小声で毒づいた夾は、自分の行く末を本田さんには知られたくなかったのだろう。
優しい本田さんが、夾の
夾は「外」に出られる残りの期間は、本田さんと楽しく過ごそうと思っていたはずだ。草摩の闇を知って心を痛めた本田さんに、憐憫の目で見られるのは不本意だろう。
「由希も建視も、草摩の中で僕の側で、みんな生きて……死ぬ」
解っていた事だけど、慊人の口から出た言葉を聞くと現実を目の前に突きつけられる。
本田さんと一緒に過ごす時が、どんなに楽しくても。花島さんと一緒に過ごす時を、どんなに大切に感じても。
「十二支はみんな……同じ場所で同じ速度で生きていくんだ。奪うことはなく、奪われることもなく、いつまでも……変わることなく」
佳菜さんと別れた時から、時間を止めたような状態になっている兄さん。僕も兄さんと同じように、想いを封じ込めて生きる事になるのだろう。
……いや、同じじゃないか。
兄さんは佳菜さんと愛し合ったけど、僕は花島さんへの想いに気付かない振りをしている。
こんなに異性に惹かれたのは初めてだから、怖いんだ。花島さんは僕の力を受け入れてくれたけど、僕が変身した姿を見たら拒絶するかもしれない。
奇跡的に花島さんが
「倖せな未来、終わり無き宴。……不変」
僕より悲惨な境遇の
これが倖せな未来か。
倖せの形は人それぞれという言葉をどこかで聞いた事があるけど、僕の倖せは目を背けたくなるほど醜悪な形をしているに違いない。
「でもおまえは、仲間に入れてやらないよ」
本田さんを拒絶する慊人の言葉に、胸の奥で賛同の声が上がる。不快感と悔しさに耐えかねた夾が、「くそが…っ」と悪態を吐いた。
「それは……それは本当に“倖せ”……ですか? 閉じ込める……ことが……草摩のお家に戻ることが……本当に?」
ここまで率直に慊人に問いかけたのは、本田さんが初めてだろう。
慊人は本田さんの顔から手を放したけど、彼女の髪を一房掴んでいる。
「……さも『悪い事』のように言うのは、やめてくれないか。他人の君と
「……あなたは……“誰”ですか……? あなたは
本田さんの言葉を遮るように、雨が降り始めた。慊人は手を伸ばして、本田さんの頬に触れる。
「……僕は
「慊人……っ。風邪をひく……」
紅野兄がやってきた。最悪の事態は免れたかと、僕は胸を撫で下ろす。
「……ごめん、紅野。どうしても挨拶しておきたかったんだ。もう戻るよ……」
慊人は紅野兄に縋りつきながら、「ああ……そうだ。紹介しておくよ」と言う。
「彼は草摩紅野。……
それを聞いて僕は驚く。慊人が人目に触れさせたくないと思うほどのお気に入りである紅野兄を、本田さんに紹介するとは思わなかった。
「初め……まして」
「え……あっ、はっ、初め……まして」
紅野兄との面通しも済んだから、これで慊人は引き上げるかと思いきや。
慊人は本田さんに再び近づいて、彼女の耳元で何か囁きかけている。小声だから何を話しているのか聞き取れないけど、友好的な内容じゃない事は明らかだ。
「建視! 今すぐ僕の所に来い」
本田さんから離れた慊人に呼ばれ、僕は「わかった」と答える。
僕は寝巻きとして着用している浴衣姿だけど、今すぐと言われたから着替える暇はない。携帯電話は持っているし、寝る時も手袋はつけているから最低限の支度はできている。
「本田さん達には、また今度花火をしようって伝えておいて」
由希と夾と春に伝言を託してから、僕は玄関に向かってスニーカーを履く。
小雨が降りしきる外に出たら、兄さんやぐれ兄と鉢合わせた。兄さん達の後ろには、この世の終わりみたいな顔をした紅葉がいる。
「けーくんは、これからお仕事かな? 大変だねぇ」
ぐれ兄が慊人を誘ったせいで、紅葉は慊人に殴られたのに。夾も慊人に殴られて、自分の行く末を本田さんに知られてしまったのに。本田さんは慊人に暴言を吐かれて、知るべきではない事を知る羽目になったのに。
腹立つなぁ。兄さんはぐれ兄に仕返しなんかしても無意味だと言っていたけど、ぶん殴ってやりたい。
僕が拳を握り締めた時、慊人と紅野兄が庭の方からやってきたので僕はそちらに向かう。
その瞬間、背後から強い視線を感じた。
僕が振り返って確かめると、さっきとは打って変わって酷薄な雰囲気を纏ったぐれ兄が、紅野兄を鋭く睨みつけている。
……普段みたいにヘラヘラしているから全然判らなかったけど、ぐれ兄は気が立っていたらしい。
殴らなくてよかった。ぐれ兄の家で花火大会をする時、場所提供してもらえなくなるからな。
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41「愛想を尽かされるわよ」
僕と
自分の部屋のベッドで寝たいのは山々だが、これから慊人に付き添って当主の屋敷に行かないといけない。
ちなみに今の僕が着ているのは、ポロシャツとジーンズだ。僕の荷物が入ったバッグは兄さんが持ってきてくれたから、途中で立ち寄ったサービスエリアのトイレの中で着替えたのさ。
「慊人さん……! お待ちしておりましたっ」
荘厳な屋敷の玄関先で、慊人の世話役が待ちかねたように出迎えた。慊人は苛立ちを隠さずに、「あの女は?」と端的に問いかける。
「今は慊人さんのお部屋の近くにいます。恥知らずなあの女は自分の手の者達に命じて、慊人さんは草摩を捨てて出て行ったなどと嘘八百を言い触らして……っ」
予想以上に面倒な事になっているな。さっさとケリをつけて寝ようと思っていたのに。帰りの車の中で寝る事はできなかったから、本気で眠いんだけど。
僕が欠伸をこっそりかみ殺すと、最古参の世話役に見咎められて睨まれた。
この60代半ばの世話役の女性は、前当主の草摩
お局様は昔から僕に対して、良い感情を抱いてない。先代の盃の付喪神憑きが力を乱用して草摩家を引っ掻き回したから、僕を警戒しているんだろう。
草摩の「中」の人間に忌避される僕が、生まれてすみません的な態度を取ってない事も気に入らないと思っていそうだ。
「紅野は自分の部屋に戻れ。はとりと
慊人が命令を下すと、紅野兄は無言で頷き、兄さんは「わかった」と答え、僕は「了解」と返事をする。
僕と兄さんは同行させるのに、紅野兄は引っ込めるのか。これから相対するのは慊人の“敵”だから、大切な存在はさらしたくないのだろう。
玄関で紅野兄と別れて、僕と兄さんと慊人と世話役は棟と棟を繋ぐ渡り廊下を進む。慊人の部屋がある母屋の方から、女性が言い争う声が聞こえた。
「……いい加減に、自分の部屋へお戻り下さいっ」
「誰に向かって物を言っているのですか。奥様は、前御当主の御伴侶であらせられるのですよ。慊人さんが草摩家から出て行った今、奥様が草摩家の最高責任者です!」
「慊人さんは避暑に行かれたのだと、何度言えば判るのですか! 全く……慊人さんの不在を狙ってしゃしゃり出てくるなど、恥知らずもいい処だわ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします。貴女方は、前御当主の遺品を奥様の御許可を得ずに処分してしまったでしょう。前御当主の残留思念を盃の付喪神憑きに読まれると困るような、後ろ暗い事があるのではなくて?!」
「後ろ暗い事などありません!! 草摩家の当主は代々、自分の妻にも打ち明けられない重大な秘密を幾つも抱えてきたのです。そんな事も理解できず、慊人さんの母親としての役目すら果たさなかった女など、草摩家には不要です!」
「なんて無礼な!」
「そちらこそ!」
僕を出しにするのは止めてほしいんだけど。
それはそうと、慊人の世話役と
言い争いの現場に慊人が辿り着くと、広い廊下の真ん中で対峙していた和服姿の世話役達は、水を打ったように静まり返った。帰還した慊人を見た者達の反応が、両極端に別れる。
安堵を浮かべたのは、古参の世話役で構成される慊人に仕える人達。
反対に恐怖を浮かべたのは、楝さんに仕える人達。彼女らは古参に反発する新参の者達がほとんどで、楝派と呼ばれる。
楝さんに仕える世話役は化け物を見るかのような目で、慊人の後ろに立つ僕を見ている。さっきまでは僕を出しにして相手を追及していたのに、いざ僕を前にするとこれだもんな。
当主の不在中に騒動を起こしたら、慊人が僕に命じて残留思念を読む力を使って、事の経緯を調べさせるかもしれないと考えなかったのだろうか。
僕が調査に乗り出しても、楝さんが自分達を守ってくれると高を括っていたのかな?
楝さんは亡き夫の晶さん以外はどうでもいいと思っている節があるから、自分に仕える世話役のプライベートが暴かれても気にしなさそうだけど。
「あら……慊人さん、戻ってきたの?」
艶のある声を響かせて前に進み出てきたのは、膝の下まで伸ばした長い黒髪を下ろした女性だ。
年齢は40歳を過ぎているはずだけど、ゾッとするほど妖艶な美貌と色気は衰えを知らないので、20代後半だと言っても通用するだろう。
女性らしい曲線美を強調するデザインのノースリーブのロングワンピースを着て、ストールを肩にかけている。
彼女は草摩楝。慊人の実母で、前当主の奥方だ。
前当主の晶さんの世話役の1人だった楝さんは、病弱であるが故に世間知らずだった晶さんを誑し込んで、草摩家の当主の伴侶の座を奪い取ったと噂されている。
晶さんの世話役だった古参の人達が流している噂なので、どこまで真実なのか解らないけど。
夫を亡くした悲しみで心身を少し患っている楝さんは奥の間にいる事が多いけど、今回のように偶に表に出てきて騒動を起こす。
病ゆえの乱心という訳じゃなく、楝さんは慊人に対して明確な敵意を抱いている。でなければ、自分の娘を男として育てるなんて言い出さないだろう。
慊人もありったけの憎しみを込めた目で、自分の母親を睨みつける。
「おまえがまた勝手な事をしたせいで、僕は避暑を切り上げて帰らざるを得なかったんだ」
「帰らざるを得なかった、ね。私に勝てないと諦めて、
僕は楝さんが起こす騒動の鎮圧に関わった事で知ったのだが、慊人と楝さんは勝負をしているらしい。
慊人と物の怪憑きをつなぐ“絆”が本物だと証明できれば、慊人の勝ち。
「外」の世界に惹かれた物の怪憑きが慊人の元へ戻らなかったら、楝さんの勝ち。
楝さんが勝利したら、慊人は土下座して草摩から出て行くという条件を付けたのに、慊人が勝利した場合の条件は付けなかったようだ。
慊人が勝ったら楝さんが草摩から出て行くという条件を付けて、実際に慊人が勝利を収めたとしても、楝さんの取り巻きが「実の母親を追い出すなんて冷血非道な」とか騒ぎ立てるだろうけど。
「勘違いも甚だしいな。僕達の“絆”は不変だ。避暑先でも
冷ややかな笑みを口元に刻んだ慊人が断言すると、楝さんは鼻で笑ってから「勘違いしているのは、あなたでしょう」と言い返す。
「
うわぁ、楝さんが僕にキラーパスを仕掛けてきた。
振り返った慊人が、凄い目付きで僕を睨んでくる。返答を誤ったらタダじゃ済まないぞ。僕は唾を飲み込んでから口を開く。
「
「慊人さんが怖い顔で睨んでいるから、そう答えるしかないわよね。はとりも建視も可哀相に」
「はとりと建視は可哀相なんかじゃない!! 僕達は“絆”でつながっている!」
「さも“絆”が素晴らしい物のように言うけど、
僕と兄さんに同情しているような言葉を紡ぐ楝さんだが、彼女の蔑みを含んだ憐憫の眼差しを見ればその真意は解る。楝さんは物の怪憑きの事を、慊人を蹴落とすための道具としてしか見ていない。
「物の怪憑きとして生まれた歓喜も葛藤も知らない第三者が、『物の怪憑きでなければ』などと安易に言って
「そういう慊人さんは、
慊人は一瞬、反論に窮した。別荘で紅葉に八つ当たりした事を思い出したのだろう。
その反応を見て、楝さんは勝ち誇ったように唇の端を吊り上げる。
「あら、図星だったの? 暴君に従わなきゃいけないなんて大変ねぇ。はとりも建視も、辛くなったらいつでも私を頼っていいのよ」
「十二支の男とみれば、すぐ色目を使って……っ。
激昂した慊人は楝さんに殴りかかりそうだったので、僕が慊人の細い腕を掴んで取り押さえる。草摩の当主が自分の母親に暴力を振るったとか、悪評を言い触らされると火消しが大変だからな。
「仲間をモノ呼ばわりするなんて、本当に酷い子。そのうち、思い知る事になるわよ。誰もあんたなんか待ってなかったってコトをね」
慊人の心を抉る言葉を投げつけた楝さんは、取り巻きを引き連れて退散した。嵐が去ったと思っていたら、俯いた慊人の青白い頬に涙が伝う。
「ひどいのは……あいつの方だ……っ。ひどいコトばっかり……言う……っ」
慊人だって、
サービスエリアに寄った時に兄さんから聞いて知ったけど、慊人は本田さんの頬を引っ掻いて怪我を負わせたらしい。
女の子の顔に傷をつけるなんて酷いと思うけど、胸の奥にいる盃の付喪神が「慊人が可哀相」と訴えるから、言い返せない。
呪いを抜きにしても、実の母親に言葉で殴られて泣きじゃくる
「慊人、部屋に戻って休もう」
僕が声をかけても、すすり泣く慊人はその場から動こうとしない。
泣きやむまで時間がかかりそうだなと思っていたら、兄さんが慊人の膝の下に腕を入れて抱き上げた。
別荘で支配者然として振る舞っていた時の慊人は、決して逆らえない威圧感を放つとても大きな存在だと思い知らされたのに。
兄さんの首に縋りついて嗚咽を漏らす慊人を見ていると、巣から落ちた雛鳥みたいに脆くて傷つきやすい
▼△
夏休み最後の8月31日は、嬉しい事に任務が入らなかった。花火大会を決行するぞー!!
意気込んで
『
「残っている宿題はなに? 問題が解らなくて後回しになっているなら、僕が教えるよ」
『全部……』
恵君の淡々とした声から、絶望の響きをわずかに聞き取った。嫌な予感がする。
「数学の問題集が全部って事?」
『それもあるけど……現国と古典と漢文と英語と物理の問題集に……生物と日本史と情報のレポートと……読書感想文と現社の作文……』
……出された宿題全部じゃないか。
宿題を手伝いに行くと告げて恵君との通話を終了させた後、ぐれ兄の家に電話をかける。
「今日の夕方頃、ぐれ兄の家の庭で花火大会を開催する事にしたから」
『また、もみっちが急に思いついたの?』
今回の発案者は僕だと伝えたら、ぐれ兄は『おやまぁ。けーくんは事前連絡する子だと思っていたのに』と遠回しに責めてきた。
「僕が当日連絡する羽目になったのは、任務の前日通達をする草摩の上層部のせいだよ。文句なら、ぐれ兄の両親に言って」
『えぇ~。僕のパパとママは怖いから、文句なんて言えなぁ~い』
「ぐれ兄は親に優しくしてもらいたがっているって、ぐれ兄のママに伝えておくよ」
『ジョーダンだって。夏休みを締め括る花火大会かぁ。いいじゃn』
ぐれ兄の言葉を遮るように、ぐれ兄の担当さんが『先生!! 〆切は今日なんですから、仕事を最優先にして下さい!!』と叫ぶ声が聞こえた。
「ホテルのスイートルームを押さえておくから、ぐれ兄はそこで缶詰する?」
『家主を追い出して遊ぼうとするなんて、けーくんの鬼っ!』
〆切当日まで仕事を残しておいたぐれ兄の怠慢だろと思ったけど、花火大会の場所を提供してもらうから指摘しないでおいた。僕ってば鬼は鬼でも、友達のために悪評を被った青鬼みたいに優しいからね。
10時過ぎに草摩の送迎車に乗って、花島家にお邪魔した。
出迎えてくれた花島さんのお母様は笑顔だったけど、僕が花島さんの宿題を手伝いに来たと知るや否や、顔色を変える。
「さ、咲ちゃん!? お母さんが1週間前に『宿題は終わったの?』って聞いた時、『問題ないわ』って答えたじゃない!?」
「あれは『新学期が始まった日に、友達の宿題を写して終わらせるから問題ないわ』という意味よ……」
一気に丸写しする方が大変だと思うけど、ツッコミを入れる時間さえ惜しいので宿題に取りかかる。
僕が終わらせて持参した問題集はそのまま写しても問題ないので、恵君と花島さんのお母様とお祖母様に分担してもらう。
作文やレポートは丸写しにするとバレる可能性が高いので、僕が新たに作成したものを花島さんに渡す。
「宿題は自分でやらないと、咲のためにならないと思うんだけどねぇ」
古文の問題集を写していたお祖母様が、困惑顔で呟いた。
「休み明けのテスト対策はします。宿題は終わらせて提出しないと評価をもらえないので、今年は見逃してあげて下さい」
「咲は来年も同じ事をしそうだから心配だよ」
お祖母様が溜息交じりに言うと、花島さんは微笑みながら「大丈夫よ……来年は……ちゃんとやるわ……」と答えた。
「来年は」と「ちゃんとやるわ」の間に、「建視さんが」という言葉が隠れていたような気がしないでもない。
僕を頼ってくれるのは嬉しいけど、花島さんが大学に進学したら他の男に頼るようになるんじゃと不安になる。
お昼に作業を一旦中断して、花島さんのお母様が作ってくれたゴーヤチャンプルーをご馳走になり、夕方の5時頃には宿題を全てやっつけた。
後顧の憂いがなくなったので、僕と花島さんと恵君は晴れやかな気分でぐれ兄の家に向かう。
「うらぁ!!」
「だぁ!!」
ぐれ兄の家の庭で、
あいつらはサイヤ人みたいな戦闘狂だなと思いつつ、「お邪魔しまーす」と言って家に上がって、賑やかな声が聞こえる居間へと足を向ける。
「あっ。ケンとサキとメグだーっ!」
真っ先に声を上げたのは、水ようかんを食べていた紅葉。
「花島さん、恵君、久しぶりだね。建視はそうでもないけど」
由希は社交用の笑顔を、花島さんと恵君に向けた。
「どうも」
短い挨拶をした
「おっ、お久しぶりです、建視さん。そちらのお2人方は初めまして……草摩
両膝の前で手をついて浅礼を行った利津兄は、山吹色の地に紅の牡丹が咲く女物の浴衣を着ていた。
赤味の強い茶髪を綺麗に結い上げて、赤い花のかんざしを飾っている利津兄はどこからどう見ても大和撫子だけど、気弱な大和男児だから。繰り返すけど男だからね!
それにしても驚いたな。本田さんの友達も参加する花火大会に、消極的な利津兄が顔を出すとは思わなかった。
「久しぶり、利津兄。草摩温泉での研修はどうだった?」
「ごめんなさいぃぃぃ!! まともに接客もできない私なんかが親のコネで研修に行ったせいで、草摩温泉の従業員さんや訪れて下さったお客様を混乱させてしまってぇぇ!!」
研修の一件には触れちゃいけなかったみたいだ。僕は暴れる利津兄の脇をプッシュして、大人しくさせる。
「建視さん、はなちゃん、恵さん、いらっしゃいです……っ!」
エプロンをつけた本田さんが、麦茶の入ったグラスと水ようかんを載せたお盆を持って居間にやってきた。慊人に引っ掻かれた傷はまだ治ってないようで、左頬に大きめの絆創膏を貼っている。
「
「あっ、これは旅先で転んでしまったのですよっ」
「…………早く治るといいわね……」
そう言いながら、花島さんは僕をまっすぐ見据えてきた。
僕の力不足で本田さんを守る事ができず、誠に申し訳ありません!! 脳内で土下座しながら、「本田さん、台所で何か作っている?」と質問する。
「はいっ。
えっ!? 午前中にぐれ兄と電話で話した時、大人数が集まりそうだから夕飯は出前を取った方がいいって僕が提案したんだけど。
楽羅姉が自分の手料理を夾に食べさせたかったから、手巻きに変更したのか? 本田さん、バイトが終わったばかりなのに……。
そうこうしている内に、
「よーっす。リンゴ頭、ちょっとこっち来いや」
何だろうと思って立ち上がって近寄ると。魚谷さんは僕をまじまじと見つめてから、僕の額にチョップを打ち込んできた。
結構痛い。何故に僕がこんな目に……もしや魚谷さんも、僕が本田さんを守れなかったと直感で悟ったのか!?
「くっそぉぉっ、おまえも休み中にまたでかくなったろ!! いいよな!! 男はニョキニョキ伸びてな!!」
「伸びる伸びないに、男女の差はあまり無いわ……ありさも充分長身よ……?」
「180台までいくのが夢なんだ!!」
身長が高い方が有利なスポーツをやっているなら解るけど、魚谷さんがバスケやバレーに打ち込んでいるという話は聞いた事がない。
「魚谷さんはモデルにでもなりたいの?」
「いんや。タッパある方が迫力あるじゃん」
「……女子に迫力って必要かな」
僕の呟きを聞き取った魚谷さんは、ふんっと鼻を鳴らす。
「女らしさを目指しても意味ねぇんだよ。男の1人も振り向かせらんねえからなっ」
「うおちゃん……?」
魚谷さんの分の麦茶と水ようかんを持ってきた本田さんが、気遣わしげな面持ちになった。
「透君……察してあげて……ありさは結局、コンビニの君と再会できずにいるのよ……」
コンビニの君っていうと、本田さんに似ていると噂の人物か。
花島さんが興味を持っていたから僕も気になったけど、魚谷さんの話では最初に来店したきりコンビニに来ないらしいので、特に探りを入れずに放置していた。
「よく……見て……透君。あれが恋をする女の背中……」
「ああ……そう言われますと、何やら痛々しく……」
本田さんは魚谷さんの背中を見て傷心を感じ取ったようだが、僕の位置からは喧嘩上等とばかりに青筋を立てた魚谷さんの憤怒の表情が見えた。
花島さんは電波で親友の怒気を感じ取ったのか、「そうね……痛そうね……」と含みのある発言をしている。
サバサバした性格の魚谷さんをこんなに怒らせるなんて、コンビニの君は何をしたんだ……。
何はともあれ、花火大会に参加する面子は揃った。楽羅姉を通してリン姉を誘ったけど、やっぱり来なかったか。
暑さに弱い綾兄も不参加だ。一応声はかけたけど、綾兄は電話越しに『熱帯夜め……覚えていろっ。ボクを倒しても、第2第3のボクが現れるだろう……っ』と言っていた。
綾兄が参加しない事を知った由希は安堵していたけど、第2第3の綾兄が現れると聞いたら盛大に顔を引きつらせたと思う。
兄さんは楝さんの暴走以降、機嫌が一向に直らない慊人を連日宥めているから、遊ぶ時間が確保できなかった。
慊人のご機嫌取りはぐれ兄に任せればいいのにと思うけど、当のぐれ兄は慊人が落ち込んでいる時に限って本家に行こうとしない。へそ曲がりにも程がある。
夕飯がもうじき完成するようだけど、10人以上が居間で一緒に食事する事はできない。さて、どうしようかと皆で考えていたら。
「そーだっ! テーブルを庭に出して、ビュッフェにしようよ!」
ひらめいたとばかりに茶色の目を輝かせた紅葉の提案で、台所のテーブルを庭に出す。テーブルに載りきらなかった各自の取り皿やグラスや飲み物は、縁側に置く事にした。
手巻きを作るために皆が1つのテーブルに殺到するため、混み合ってぶつからないように待たなきゃいけない不便さがあったけど。暮れなずむ夏の空の下で、皆でワイワイ騒ぎながら飲み食いするのは開放的で楽しい。
「夾君っ。手巻き寿司作ったよ。食べてね」
「……ああ」
気のせいか、楽羅姉の押しが普段より弱く見える。どうしたんだろ、楽羅姉。体調でも悪いのかな。
「先生、〆切が……食べている場合じゃ……」
悲愴な面持ちの担当さんは、手巻きを食べるぐれ兄に背後霊の如く付きまとっている。
「まぁまぁ、みっちゃん。腹が減っては戦ができぬって言うでしょ?」
「紫呉兄さん、私がたこ焼きを買ってきますから! たこ焼きパワーで書き上げてやってください!!」
利津兄が意味不明な事を言い出した。たこ焼きパワーって何ぞや。
「今日はたこ焼きって気分じゃないなぁ。カラスミが食べたい」
「カラスミですね。かしこまりました、ただちに」
パシリにされている利津兄に、ぐれ兄の担当さんが「あっ、待って下さい」と声をかける。
「先生のご要望の品は、担当である私が買ってきます」
「で、ですが……
利津兄と担当さんは知り合いだったのか。と思っていたら、ぐれ兄がにこやかに「2人で買いに行けば?」と促した。
恋のキューピッド役を果たしているように見えるけど、ぐれ兄の性質は悪戯好きな愛の神じゃなく、嘘と計略に長けたヘルメスに近い。原稿を催促する担当さんを、自分から引き離す事が目的だろう。
結局、利津兄と担当さんはぐれ兄に言い包められて、2人でカラスミを買いに行った。
ぐれ兄が原稿を落としても自業自得だけど、あの担当さんは責任をとって自害するとか言い出しかねない。周囲の人が止めてくれる事を祈ろう。
食事を終えたら食器やテーブルを手分けして片付けて、水を入れたバケツやチャッカマンを用意して、花火大会のスタートだ。
「トップバッターは打ち上げ花火ねーっ」
紅葉がそう言って花火に火をつけようとしたら、由希が「打ち上げ花火って、普通最後にするものじゃない?」と疑問を呈した。
「おい、春! 花火を人に向けんなって、何度言ったら解るんだ!!」
「大丈夫……夾ならきっと避けられる……俺、信じてる……」
ロケット花火で危険な遊びをしようとしている春を止めずに、楽羅姉は「がんばって、夾君!」と声援を送っている。前門の
「杞紗、一緒にススキ花火をやろっ」
「うん……お姉ちゃんも一緒にやろう……?」
「はいっ」
燈路、杞紗と2人で花火ができないからって本田さんを睨むのは止めとけ。
「なんか火ィ見てっと暴れたくなるなぁ」
「ありささん……自重しないと……」
「僕の家を壊さないで、お願い……」
壊すなら、ぐれ兄の蔵書が仕舞われている書斎がお勧めだ。
「花島さん、一緒に線香花火をやらない?」
「私は透君やきーちゃんとススキ花火をするわ……」
結局、花島さんと2人で線香花火をする事は叶わなかったけど、夏休みを楽しい思い出で締めくくれてよかった。
申し訳ありませんが、次回から更新速度が落ちます。
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高2・2学期編
42「クラギさんだっ」
今日は9月1日。夏休み気分が抜け切っていない生徒も多数いるけど、僕の気分はすっかり2学期モード。修学旅行までのカウントダウンはもう始まっている……!
「
教室に向かう途中で、キン・ケンの3年代表の
キン・ケンの2年代表で僕と同じクラスの
「あの……これ、夏のお土産なの。受け取ってもらえるかしら……?」
梅垣先輩が差し出してきたのは、モゲ太とアリのイラストがプリントされた包装紙で包まれた菓子折りだ。
「これって、横浜の創作和菓子屋とのコラボ商品じゃないか。モゲ太のパッケージの焼き菓子が評判になって、入手困難になっていたのに……どうもありがとう。後でお返しを贈るよ」
「お返しだなんて。建視の喜ぶ顔が見られただけで充分よ」
「そうそう、建視君はそんな事気にしないで!」
梅垣先輩と赤坂さんはそう言ってから、恍惚とした表情になってトリップしている。大丈夫かな。僕が2人の名前を呼んだら、彼女達は我に返った。
「ああっ、ごめんなさいね。つい詩の一節が頭に浮かんでしまって……っ」
「奇遇ですね、先輩。私も……」
「そんな事より
東雲さんが先輩2人をぶった切る発言をしたせいか、梅垣先輩と赤坂さんは女子がしちゃいけない顔になっている。
「夏休みは海辺の別荘に行ったよ」
「海辺の別荘ですか!? さすが草摩先輩、リッチですね~!!」
「うわぁ……人気者だよねぇ~……すごいなぁ。あっ、や~ん。そのお菓子、おいしそ~!!」
艶やかな黒髪を背に流した女子生徒が、会話に入ってきた。可愛らしさと色っぽさが同居した小悪魔めいた容姿の持ち主だからか、わざとらしいほど甘ったるい話し方でも不自然さを感じない。
「……あの
「……赤坂さんの知り合い?」
「……やめて下さい、知り合いなんかじゃないですよ。2‐Aの噂によれば、その容姿で男を誑かす魔性の女……!!」
小声で話し合う赤坂さんと梅垣先輩を余所に、魔性の女と呼ばれた彼女は両手を合わせておねだりするように僕を見上げてくる。
「ね? お願い。あとでお菓子ちょうだいね、けんけん♡」
「んな……っ! 何なの、貴女! 突然現れた揚句、建視を、けっ、けっ、けっ!!」
「その呼び方をしていいのは、建視君の男友達だけよ!! それとも何、私達へのあてつけのつもり!?」
「え……やだ、こわ~い。わかっちゃった?」
やだ、こわい、この子。虫も殺さぬ顔してガンガン喧嘩売ってる。
ぶりっ子っぽいから
関わり合うと面倒そうだ。僕が「じゃあね」と言って退散すると、魔性の彼女もついてくる。
「貴女には話があるから、ここに残りなさい!!」
「ごめんなさい、急いでますんでぇ~」
彼女は激怒する梅垣先輩たちから離れるなり、「あはははっ」と腹を抱えて笑い出す。
「面白かったぁ! サイッコーだよね〜っ」
人を弄んで愉しむ性質……間違いなく、ぐれ兄属性だ。
「ねぇ、けんけんも面白いって思うよね~?」
「いや、別に」
「あ~ん、素っ気なぁ~いっ。もっと楽しくおしゃべりしようよォ」
「と言われても、話す事がないからな」
「え~、話す事なんて幾らでも……あ! そっか、自己紹介が遅れちゃった~っ。
ゆんゆんって
「生徒会、頑張ってね。それじゃ」
「んも~ぅ、けんけんってば冷た~いっ」
魔性の女って響きには惹かれるけど、ぐれ兄と同属性ってだけで萎える。楽羅姉とは違った意味の残念美少女だな。
▼△
9月6日の月曜日。僕と
「ふえ~……おじーちゃん、ギックリ腰になっちゃったの?」
ウサギのぬいぐるみを抱っこした紅葉が、本田さんを気遣わしげに見上げる。紅葉も夏休み中に背が伸びたから、本田さんとの身長差はかなり縮まったけど。
「腰は男の命デス……」
ゲーム機を操作していた春が、下ネタをぶっ込んできた。
「え!? そ、そ、そうなのですか!?」
「本田さん……あんまり春の軽口は気に留めないでいいよ……」
真に受けて青ざめた本田さんを見かねて、由希が忠告した。
紅葉がウサギのぬいぐるみを本田さんに優しく押し付ける様子を見ながら、僕は「それより」と懸念を言葉に出す。
「本田さんのおじいさんの代わりに、ぐれ兄が三者面談に出るって……大丈夫なのか?」
ぐれ兄は夏休み中に
「不安しかないけど、
「綾兄に頼んでみるのはどうだ?」
僕の提案を聞くなり、由希が正気かと言うように僕を睨んでくる。
「建視は本田さんの三者面談を、めちゃくちゃにするつもりか!?」
綾兄は繭子先生に変なちょっかいを出さないから、ぐれ兄より安全パイなんだよ。繭子先生から口止めされているので、その辺の事情は話せないけど。
言わなくても察しろとばかりに、僕は由希を睨み返しながら「失敬な」と言い返す。
「本田さんの三者面談をめちゃくちゃにしてやろうなんて、夢にも思っていないよ。保護者代理は僕の兄さんに頼むのが1番だけど、兄さんは急な仕事が入る場合があるんだ。そうなったら、本田さんの三者面談が日延べになってしまうだろ」
「あ、あの……っ。私の三者面談に出て下さる紫呉さんのお優しさを無下にしたくはありませんので、
なんという事だ。純真無垢な本田さんは、ぐれ兄にすっかり騙されている。
「本田さん、ぐれ兄は優しさとは無縁だよ。優しそうに見える言動を取ったとしても、それは99パーセントの打算と1パーセントの気まぐれで構成されているからね」
「え……えと、でも……人によって
本田さんのお母さんの言葉を否定したくないけど、僕が疑心暗鬼に陥ってぐれ兄の優しさを見誤っていたという可能性は、1ミリたりとも存在しないよ。
僕が言い返したいのを我慢している事を察したのか、春が話題を変える。
「そういや、
「あ、夾君は多分……屋上……かもです……何やら元気がないご様子で……」
夾は本田さんを避けているように見えたから、何かあったのかもしれない。
「男のブルー・デー……?」
「はーるーっ」
女性特有の隠語に絡めた下ネタを発した春を、由希が咎めた。男同士だったらいいけど、この場には本田さんがいるから自重しような。
「だからって、トールまで元気無くすことないのよ! ねっ、ジュース飲もっ。ジュース買おっ」
紅葉が明るい声で誘いをかけると、心配そうにしていた本田さんに笑顔が戻った。
「はい……っ」
「ケンとハルとユキもいこーっ」
僕は紅葉や本田さんと一緒に、自販機がある校舎内に戻った。
紅葉と本田さんはウサギのぬいぐるみの手を片方ずつ持って、親子のような構図で歩いている。
身長が伸びてもまだ女子用制服が似合う紅葉だから、許される行為だよな。これを僕がやったら変態だと思われかねない。
「紅葉君と建視さんは、何を飲まれますか?」
「アイスココアー」
「僕はいちごオレにしよっかな。本田さんは何にする?」
「えと……私はレモンティーが飲みたいですっ」
由希と春の意見が出ないのは、彼らが少し距離を置いてついてきているからだ。どうやら2人で話をしたかったらしい。
「あっ、クラギさんだっ。やっほー」
紅葉は、廊下の向こうから歩いてきた女子生徒に声をかけた。
灰色がかかった黒髪をハーフアップにした彼女の苗字がクラギなら、紅葉や春と同じクラスの
噂では、倉伎さんは新生徒会の会計に決まったんだっけ。
膝丈のスカートと学校指定の紺色の靴下を着用する倉伎さんは、良く言えば模範的な優等生、悪く言えば地味な子といった印象だ。
地味なのは服装だけで、倉伎さんの顔立ちはかなり整っている。笑顔満開な紅葉に挨拶されてもニコリともしないから、人形めいた感じがするけど。無表情な女の子って可愛いと思うよ!
それはそうと、
倉伎さんは紅葉と本田さんが持っているウサギのぬいぐるみをちらりと見遣ったが、何も言わず軽くお辞儀をする。
内気な子だなと推察しながら倉伎さんを見ていたら、彼女が左手に持っていた教科書に視線が釘付けになった。
厳密に言うと、裏表紙に貼られたシールにだけど。長い耳の先端が紫色で、ボディがピンク色のキャラクターはモゲ太に違いない。
「倉伎さんだっけ? ちょっといいかな?」
「……っ!? な、にか用ですか?」
わぁ、思いっきり警戒されてる。
僕は友好をアピールするために笑顔を広げながら、ハリネズミのように警戒心剥き出しな倉伎さんにお願いしてみる。
「君が持っている教科書に貼ったシールを、ちょっと見せてくれる?」
「……っ!!」
瞬間的に顔が真っ赤になった倉伎さんは、シールを貼った裏表紙を隠すように教科書を素早く抱き締めた。
えええ、ちょっと見るだけなのに。シールがレア物だったとしても、「これ、もーらい」とか言って盗ったりしないから。
「ケン、女の子をいじめちゃダメなのよーっ」
「いじめてないよ。人聞きの悪い事を言うな」
僕が紅葉に言い返した時、追いついた由希が咎めるような口調で問いかけてくる。
「建視、倉伎さんに何をしているんだ?」
「彼女の教科書に貼ってあるシールを、見せてもらおうと思って」
「倉伎さんは拒否しているじゃないか。無理強いするなよ」
「無理強いなんかしてないよ。人聞きの悪い事を言うな」
僕の抗議を聞き流した由希は、未だに教科書を腕でブロックしている倉伎さんに話しかける。
「俺の従兄がごめんね。それから……その、今度の生徒会ではよろしく」
由希のヤロォ。僕を悪役に仕立てて、自分の評価を上げようとしてやがるな。
「……はい」
小声で返事をした倉伎さんはお辞儀をしてから、足早に立ち去った。遠ざかる彼女の背を見送った由希は、ジト目で僕を見る。
「下級生の女子に無理強いするなんて、何を考えているんだ」
「だから、無理強いしてないって。僕はモゲ太のシールを見せてって頼んだだけだよ」
「はぁ……たかがシール見たさに、見知らぬ上級生がいきなり声をかけてくるなんて、普通は思いもしないだろ」
「たかがシールだと? 由希、おまえは何も解っちゃいないな」
現在も人気沸騰中の『モゲ太とアリ』は、アニメ化や映画化やゲーム化といったメディアミックスによって、大量のグッズが販売されている。多様なグッズの中でも、とりわけ数が多い事で知られる品はシールだろう。
純粋な文房具としてのシール。イベントや劇場限定で販売されるシール。雑誌や食品や玩具のおまけのシール。ファンによる手作りのシール。貼ってはがせるタイプのシールで遊べるシールブック。何十種類もパターンがある上に、レア物を設定して購入者を色んな意味で泣かせるシールコレクション。他にも色々。
モゲ太のシールは星の数ほど世に出ているため、コアなファンでも全てを網羅する事は難しい。一期一会にも等しいシールとの巡り合わせをふいにしないため、思い切って倉伎さんに声をかけたんだ。
「
熱いファン心理を語り終えた僕が承太郎風に確認を取ったら、うんざりした顔で聞いていた由希が再び溜息を吐く。
「思っていた以上に、下らない理由だったな」
「おまえは全モゲ太ファンを敵に回したぞ」
「あ、あの。お話し合いは、ジュースを買ってからにしませんか?」
本田さんが仲裁に入ったので、僕は由希に対する文句を飲み込んだ。内心では不満の嵐だけど。
だって倉伎さんが熱烈なモゲ太ファンだった場合、他にもグッズを持っているかもしれないんだよ!?
倉伎さんとモゲ太トークをしたいけど、由希のせいで僕は後輩の女の子に無理強いする怖い奴として、倉伎さんに認識されてしまった可能性が高い。
名誉挽回を図りたいけど、どうするかな。内気な女の子へのアプローチは難しいぞ。
引っ込み思案な
悩んだ末、対人能力に優れた楽羅姉にメールを送る事にした。夾に関してはアレだが、女の子との接し方を相談するのに、僕の知り合いの中で
『詳しい話を聞かないとアドバイスできないから、ファミレスで集合ね。私も話したい事があるし』
放課後になった頃、楽羅姉から届いた返信を見て僕は首を傾げる。
楽羅姉が話したい事ってなんだろ。リン姉に関する事かな。それとも夾か?
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43「私、失恋したの」
待ち合わせた時間の10分前にファミレスに入店すると、
「やっほー、建ちゃん」
「……楽羅姉、何かあった?」
楽羅姉の目は少し腫れぼったくて、昨日辺りに大泣きしたんじゃないかと推測できた。僕の質問を笑顔で交わした楽羅姉は、「私の話は後回しね」と言う。
僕はフリードリンクとフライドポテトと鶏の唐揚げを注文した後、ドリンクバーからコーラを持ってきて、楽羅姉の対面の席に腰を下ろす。
「聞いてよ、楽羅姉。
僕が悪役にされた一件を説明すると、楽羅姉は呆れ顔になった。
「ゆんちゃんの対応は悪くないよ。むしろ、問題があるのは建ちゃんの方。初対面の下級生の女の子に、モゲ太のシールを見せてっていきなり言うなんて……」
「僕はちょっと見せてってお願いしただけだよ」
「見知らぬ上級生の男子に……それも、建ちゃんみたいに派手な外見の男子に私物を見せろとか言われたら、大人しい女の子は怖がっちゃうよ」
それじゃまるで、僕が女の子の私物を見たがって恐喝したヤンキーみたいじゃないか……!
僕は両手で顔を覆って泣き真似をする。気分的には本当に泣きたい。
「……
「うーん、そうだなぁ……建ちゃんに他意はなかった事を倉伎さんに伝えてほしいって、ゆんちゃんに頼んでみれば?」
僕の不満を示すように、口が自然とひん曲がった。
「倉伎さんと同じクラスの
「ゆんちゃんに頼むのは、そんなにイヤ? 最近は仲良くなったじゃない」
「あいつはモゲ太のシールを下らないって言ったんだ」
由希を宴会に誘い出すための策を実行するのに躊躇いがあったけど、あの発言で由希は敵だと再認識したから、心置きなく実行できそうだ。
「……建ちゃん、また良からぬ事を考えているでしょ。ゆんちゃんに仕返しするために裏で手を回そうとするのは、しーちゃんのやり口と一緒だからね」
付き合いの長い従姉殿は僕の考えはお見通し……とまではいかなくても、不穏なオーラを感じ取られたようだ。釘をぐっさり刺されてしまった。
「お待たせしました。フライドポテトと鶏の唐揚げになります。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
ウェイトレスさんが運んできた料理をシェアしようとしたら、楽羅姉は「食欲がないの」と言う。以前も同じような事があったな。夾に関する重い話をした時だ。今回もそうなのか。
僕が料理を食べ終えて雑談のネタが尽きた頃、楽羅姉が意を決したように口を開く。
「私の話だけど……単刀直入に言うね。私、失恋したの」
……
もし僕が夾と同じ立場だったら、高校卒業前に楽羅姉を振ったりしない。幽閉から逃れる助力を乞うため、楽羅姉の恋心につけ込む必要があるから。
我ながら下種な考えだと思うけど、猫憑きが逃げようとしたら
僕は自己保身が強いからこんな事を考えてしまうけど、愚直なまでに誠実な夾は楽羅姉の想いを踏みにじってでも逃げようと思わないのだろう。
宿命に抗って本田さんと共に生きる、苦難に満ちた光ある道ではなく。本田さんを想い焦がれながら1人で朽ちる、絶望の闇に閉ざされた檻を選んだのか。
……とりあえず、夾に関する考察は後回しにしよう。傷心の楽羅姉を慰める言葉をかけないと。
「恋の傷は新しい恋で癒すのが1番だよ」
そっぽを向いた楽羅姉は、肺の中の空気を全て吐き出すかのように深々と溜息を吐いた。
「……女の子を憂さ晴らしの道具としか思っていなかった建ちゃんの事だから、乙女心を解ってない言葉をかけてくるだろうなと予想していたけど。よりにもよって、生傷を抉るような事を言うなんてサイアクだよ」
半眼になった楽羅姉の反論は、僕の心を抉った。中学時代の僕の素行は清く正しく美しいとは言えなかったけど、ぐれ兄の同類みたいな言い方はやめて。
「ごめんなさいすみません僕の言い方が悪かったです」
テーブルに両手をついて頭を下げてから、僕は「でもさ」と言葉を続ける。
「楽羅姉が前を向くためには、別の恋を見つけようとした方がいいと思うよ」
「……建ちゃんも、つじつま合わせの恋だと思っていたの?」
“も”って事は、楽羅姉に面と向かって指摘した猛者がいたのか。的確すぎるほど真実を衝いた物言いからして、リン姉だろうな。
それはさておき、どう答えるべきか。失恋の痛手を負っている楽羅姉に、追い討ちをかけるような事は言いたくないのだが。いや、うん、さっき言っちゃったけどね。
僕の迷いを見抜いたように、楽羅姉は「本当の事を言って」と促してくる。
失恋直後の人は慰めの言葉をかけてほしいものじゃないのかと疑問に思いながら、僕は長年言葉に出さなかった本音を告げる。
「僕と一緒に逃げた楽羅姉が夾の事を好きだって急に言い出した時は、やり直しをしようとしているのかなって思ったよ」
当時の僕は、夾に露骨な好意を向け始めた楽羅姉を空々しい思いで眺めていた。そんな事をしたって、夾の本当の姿を暴いて逃げた事実は消えないのに、と。
要するに僕は、夾に謝罪して関係の修復を図る事を早々に諦めたんだ。
「そう……だよ。私はあの日……逃げ出した自分が、心から怯えた自分が汚く思えて、嫌だった。やり直したかったの。夾君を好きになれば、夾君との距離を縮められれば、夾君が私を好きになってくれれば……」
俯いた楽羅姉は消え入りそうな声で、「『逃げた自分』も『汚い自分』も、無かったことになるんじゃないかって思って」と呟く。
「夾君のホントの姿を受け入れられる、キレイな自分を夢見た。……その考えこそが汚いって気付かずに」
気付いたのは、本当の姿になった夾を追いかける本田さんを見た時だろうな。僕はそんな事を思いながら、楽羅姉の後ろ暗い思いに彩られた告白を聞く。
「建ちゃん、私ね。物の怪憑きに生まれたこと……悲しかったよ、やっぱり。子どもの頃、私のせいで両親がケンカする度、そのあとママが1人で泣いている姿を見る度、悲しかった。自分がたまらなく嫌だった。不安だった……」
急に話が飛んだなと訝しむ僕を余所に、楽羅姉は陰鬱な声で話し続ける。
「だから、夾君や建ちゃんと遊んでいて、安心……した。猫憑きや盃の付喪神憑きに比べれば、私は全然『不幸』なんかじゃないって思えたから」
亥憑きの従姉の告白は、僕に衝撃を――全然与えなかった。
「楽羅姉が僕を哀れみながら見下していた事は、昔から薄々感じていたよ」
僕が打ち明けると、項垂れていた楽羅姉は肩を震わせる。
「ごめん……建ちゃん、ごめん……」
「楽羅姉が謝る必要はないよ。僕も夾を見下しているから、同じ穴の狢だ。……楽羅姉と夾に初めて会った日、僕がなんて言ったか憶えている?」
「……憶えているよ。『ネコとあそぶなんて、どうかしているよ』って言われた」
草摩の「外」で楽しそうに遊ぶ幼い楽羅姉と夾を見つけた時、僕が最初に感じたのは嫉妬だった。
盃の付喪神憑きより忌み嫌われている猫憑きが、なんで十二支憑きと仲良くしているんだと悔しさに駆られて。物の怪憑きの中で1番惨めなのは
全て被害妄想なんだけど、当時の僕は自己分析する精神的余裕はなかったので、苛立ちに任せて叫んでいた。
――ネコとあそぶなんて、どうかしているよ!
――なっ……なんで、そんなヒドイこと言うの!?
――オトナはみんなそういってる! ネコとあそぶなって!
――私がきょーちゃんとあそぶって決めたの! きょーちゃん、あっち行こっ。
仲良さげな楽羅姉と夾を見ていると不快で仕方なかったが、2人に関わるのをやめたら僕が負けを認めて逃げたみたいで嫌だったから、僕は楽羅姉と夾に付きまとうようになったんだよな。
「夾と2人で遊ぶために楽羅姉は僕を撒こうとしたけど、僕は意地になって追いかけたっけ。終いには楽羅姉が折れて、『いっしょにあそぼう』と言ってくれたけどね。楽羅姉は遊ぶ友達がいない僕を哀れんで、僕を仲間に入れてくれたんだろ?」
楽羅姉は下を向いたまま、無言でうなずいた。裁きを待つ罪人のような様子に、僕は思わず溜息を吐きそうになったが堪える。
「草摩の『中』の大人達がこぞって僕を忌避している事は一族中に知れ渡っていたから、僕に同世代の友達はいなかった。でも、楽羅姉はそんな僕を仲間に入れてくれた。僕にとっては一緒に遊んでくれる事が重要だったから、楽羅姉が内心で僕をどう思っていようが別に構わなかったよ」
すると、俯いていた楽羅姉の頬から涙が滴る。
僕は慌ててスラックスのポケットから取り出したハンカチを差し出したけど、楽羅姉は自分のハンカチで顔を拭いた。
ドリンクバーから席に戻る途中の小学生男子が、行き場をなくしたハンカチを持つ僕に憐れみの視線を投げかけてくる。そんな目で見ないで。
顔を上げた亥憑きの従姉の気持ちが幾らか落ち着いた頃合いを見計らって、僕は話題を変える。
「でもさ。楽羅姉は自分を正当化したいがためだけに、夾を追いかけていた訳じゃないだろ」
「……慰めてくれているの?」
「ううん、本音。僕としては、自分を正当化するためだけの恋だったらまだ理解の範疇内だったけどね。年を重ねるごとに楽羅姉の夾に対する想いが本気になっていくから、正直理解できなかった」
自己正当化から始まった気持ちを忘却して、純粋に恋をしているのだと思い込もうとしているんじゃないかとか。振り向いてくれない相手を追いかける自分に酔っているような、恋に恋する女の子になっているのかとか。
楽羅姉の心情を分析しようとしたけど、明確な答えは出なかった。
「建ちゃんの事だから、私の内心をあれこれ推察しようとしたんだろうけど。誰かを想うのは本当に理屈じゃないの。アタマで色々考えたって、“好きだ”と思ったらもうダメなのよ」
それを聞いて思い浮かんだのは、花島さんの姿。
慊人に知られる事を恐れて、草摩の檻から逃れられないと諦めている僕の彼女への想いは、本当の意味での“好き”じゃないのだろう。
僕の沈んだ雰囲気を察したのか、楽羅姉が気遣うように言い添える。
「
楽羅姉の忠告を、僕はただの慰めと受け止めてしまったが――もっと真剣に考えておけばよかったと、後日思い知る事になる。
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44「建視の面談ですか?」
今日は
本田さんの保護者代理として来るぐれ兄に悪ふざけするなと釘を刺すため、僕は本田さんと一緒に校門の前で待ち構えていたのだが。
「あれぇ? けーくんも僕のお出迎え?」
タクシーから降りたぐれ兄はチャコールグレーのシングルスーツを着て、ブルーのネクタイをきっちり締めていた。スタイリング剤を用いて、黒灰色の髪をかっちりとしたセンター分けにしている。
……とても折り目正しい格好なのに、ぐれ兄の胡散臭さが増して見える。
ぐれ兄がまともな大人の対応をしてくれるなら、多少の胡散臭さには目を瞑るけど。
「そのスーツ、兄さんのだろ」
「ビンゴ! 借りてきちゃった。すごいねぇ、よくわかったねぇ。さすがブラコン」
「ぐれ兄は自分のスーツを持っていたじゃないか。なんで、わざわざ兄さんから借りたんだ」
何となく見当つくけどな。
兄さんのスーツを着るぐれ兄を見ていると、敵に重要なアイテムを奪われて歯噛みするヒーローみたいな気分になるから、
「僕のスーツはクリーニングに出すのを忘れちゃったから、シワシワのヨレヨレで着れたもんじゃないんだよ。
「
深々と頭を下げてお礼を述べる本田さんを見て、僕は叫びたくなった。
やめて! 本田さん、ぐれ兄なんかに頭を下げないで! むしろぐれ兄が本田さんに土下座して、今までやらかした事をきっちり謝れ!!
「本田さん。僕はぐれ兄と少し話があるから、先に進路相談室に行っててくれる?」
「あ、あの……」
「透君、ごめんね。けーくんは頑固だから、1度こうって言い出したら聞かないんだよ」
確かに僕は頑固な処があるけど、不安材料そのものであるぐれ兄には言われたくない。心配そうな本田さんが校舎に戻るのを見ながら、僕は用件を切り出す。
「ぐれ兄……三者面談中に、本田さんや繭子先生をからかうような言動は取らないでよ」
「はーさんにも同じ事を言われたよ。僕は困っている透君を見かねて、保護者代理を善意から申し出たっていうのに。ぶーぶーですよ」
ぐれ兄が善意から申し出るとか、白々しすぎてツッコむ気も起きないよ。それでも兄さんが警告したなら、悪ふざけはしないはずだ。多分しないと思う。しないんじゃないかな……。
……ぐれ兄が本田さんの三者面談を台無しにしたら、
僕がドキドキハラハラしている内に、本田さんの三者面談が終わった。進路指導室から出てきたのは、本田さん1人。
ぐれ兄と繭子先生は、サシで話しているようだ。2人の動向は気になるけど、それよりも、だ。
廊下を歩く本田さんの体が、ピサの斜塔のように傾いている。ぐれ兄が三者面談でやらかしたのではという嫌な予感に駆られ、様子がおかしい本田さんに声をかける。
「本田さん、大丈夫? ぐれ兄が何かしたのか?」
「えっ? あ、いいえ……紫呉さんはきちんと付き添って下さいましたよ。少しだけ……ダイヤモンドダストも見えたような……」
本田さんの発言の後半は意味がよく解らなかったけど、言いたい事は何となく伝わった。
ぐれ兄と繭子先生は本田さんの前でぶっちゃけた話をする訳にはいかないから、冷気が吹き荒ぶような嫌味合戦をしたのだろう。やっぱり、綾兄に代理を頼めばよかったか。
「普通の三者面談にならなかったようだけど、本田さんの進路の話はちゃんとできた?」
「……はいっ。当初の希望通り、高校を無事に卒業して働きたいと話す事ができました」
殊更柔らかく微笑む本田さんは、何かを押し隠しているようにも見えたけど。その何かが本田さんにとっての地雷である可能性もあったので、迂闊な事は言えない。
「それなら良かった。明日は僕と
ここ最近の
「あ、あの……っ。三者面談は自分の……自分の道を、自分の未来を考えるためにするものですから……ですから、
本田さんは別荘で慊人に直接告げられたから、
……望む未来か。
海原高校に入学する前だったら兄さんと平穏に暮らしたいと即答できたのに、今は1つに絞りきれないほど望みがある。
僕の未来には無数の選択肢があると思ってしまいそうになるけど、勘違いしてはいけない。
敷かれたレールの上しか歩けない人生から外れたらどうなるか、先代の盃の付喪神憑きが証明している。
「ありがとう、本田さん」
僕の陰鬱な気持ちを察したのか、本田さんの表情に一瞬翳りが生じた。
けれど、本田さんはそれを吹き消すように顔をキリッと引き締め……たのだが、気合いが入りすぎて強張った面持ちになっている。
「わ、私も……がんばって出しゃばります……!!」
「え?」
「いっ、今のは、その、深い意味はなくてですね……。がんばってばかりでは疲れてしまうので、たまには一休みして皆さんと素麺を食べましょう……っ」
急に話題転換されると深い意味があったんじゃと勘繰りたくなるけど、皆で素麺を食べるという提案に惹かれた。
近日中にぐれ兄の家で素麺パーティーを開催しようと話し合ってから、僕は本田さんと別れたのだった。
「やっほー。はーさん、スーツ返しに来たよー」
僕が帰宅してから程無くして、兄さんのスーツを着たぐれ兄が家にやってきた。兄さんはぐれ兄とサシで話がしたかったようで、僕は2人がいる客間から締め出されてしまう。
30分ほど話し込んで家から出ていったぐれ兄は、兄さんのスーツを着たままだった。借りたスーツをクリーニングに出してから返せと、要求したのかと思ったのだが。
「あのスーツはもう着たくない。燃やして捨てろと言ってやった」
吐き捨てるように言い切った兄さんは、不愉快をありありと顔に出していた。
人を苛立たせる事にかけては天才的なぐれ兄は、兄さんの神経を逆撫でるような事を言ったのだろう。恩を仇で返すとは正にこの事。
ぐれ兄が繭子先生に何を言ったのか気になったけど、兄さんに聞ける雰囲気じゃなかった。
繭子先生にも聞かないでおこう。三者面談で忙しい担任に嫌な事を思い出させて、精神的負担を与えるような真似はしたくない。
▼△
そして僕の三者面談の当日。慊人が急に高熱を出すといったアクシデントはなく、兄さんは面談開始時刻の10分前に海原高校に来てくれた。
「兄さん……普段と雰囲気が違うね」
「まだ残暑が厳しいから、暑苦しい見た目の装いを避けたんだ」
そう答えた兄さんは、サックスブルーのワイシャツの上にライトグレーのシングルベストを着て、ベージュのネクタイを締め、ベストと共布のトラウザーズを穿き、ライトブラウンの革靴で足元を飾っている。
かっちりとしたスーツ姿で本田さんの面談に臨んだ、ぐれ兄との共通点を少なくしようと考えたんじゃないかと思うのは穿ちすぎかな。
「きゃーっ! 建視君のお兄さん、めちゃくちゃカッコいい!!」
「結婚指輪をつけてないって事は、独身なの!? 私にもチャンスあるかな?」
「あんなにカッコいいんだもん、恋人ぐらいいるって」
「恋人がいても狙いたくなるよね~。繭ちゃん先生、惚れちゃったりしてー!!」
兄さんを見て大騒ぎする女子生徒達の歓声を聞きながら、校内を進んでいると。
「
先に面談を終えた夾が廊下で声を上げた。夾の隣には、和服を着た師範が佇んでいる。下校支度を終えた、魚谷さんと本田さんと
「うっせぇ! 帰ンぞ!! おまえらン家に、今日は邪魔させてもらうからな!」
「うおちゃんとはなちゃんも、素麺パーティーに参加してくれる事になりました……っ!」
本田さんの発言を聞いて僕が心の中でガッツポーズを取っていたら、兄さんと師範が挨拶を交わし始める。
「お久しぶりです、
「いえいえ。こちらこそ、道場で怪我人が出た時に診てもらって助かっていますよ。はとり君も元気そうで何よりです。これから建視の面談ですか?」
「はい。建視は学校で色々とやらかしているようなので、担任の先生としっかり話し合おうと思っています」
うぅおっとぉ!? 兄さんから予想外の攻撃を受けたよ!?
「おやおや、建視はヤンチャですね。夾はすっかり大人しくなったようだが」
穏やかに微笑んだ師匠の言葉を受け、中学時代は手が付けられないほど荒れていた夾は気まずそうにそっぽを向く。
「……こんな所で立ち話をしていたら、建視達が面談に遅れっぞ」
「それもそうか。では、私達はこれで」
師範と夾が立ち去った頃合いを見計らって、本田さんが兄さんに挨拶をする。
「はとりさん、こんにちは……っ」
「こんにちは」
「……頑張れよ、リンゴ頭」
何故か同情するような表情を浮かべた魚谷さんは、僕の肩をぽんと叩いて励ましてきた。三者面談を頑張れって意味だろうか。
「えと、建視さん……また後でお会いしましょうっ」
本田さんも気遣わしげな面持ちだ。花島さんは普段と変わらない無表情で、「後でね……」と言ってくれたけど。
僕は引っ掛かりを覚えながら、「面談が終わったらすぐ行くよ」と応じた。
『面談中』と書かれた紙が貼られた戸をノックしてから開けて、進路指導室に入る。
長机に着いて冊子を確認していた繭子先生は、僕と兄さんに気付くと一瞬表情が固まったけど、即座に余所行きの笑顔に切り替えて立ち上がる。
「この度はお忙しい中、ご足労いただきありがとうございます。担任の
「建視は都合の悪い事は隠すから、担任も交えて一度きちんと話し合いたいと思っていた。この場を設けてくれた事に、感謝している」
え?! なにこの空々しい雰囲気。
兄さんと繭子先生が、初めて会った人同士みたいに振る舞っている事にツッコミを入れたいけど、僕を吊し上げる話し合いが始まりそうな予感がするから、下手な発言ができない。
消化器を持ち出そうとした事が俎上に載せられるのか。それとも春のタトゥーの言い訳に使ったヒイロイッペー教か。もしくは夾のトラウマ捏造か。あるいは全部か。
内心で冷や汗ダラダラ流す僕をよそに、繭子先生は「どうぞお掛けください」と勧めてくる。僕と兄さんは、用意されたパイプ椅子に腰掛けた。
「じゃあ、始めようか」
普段の口調に戻った繭子だが、笑顔は未だに余所行きモードだ。
兄さんと繭子先生はたまに2人で会っているみたいだから、砕けた感じで話をしたかったのに。
僕の不満を読み取ったのか、繭子先生は笑みを深めた。繭子大先生様から、「面談に関係ない事言うなよ」という、無言の圧が伝わってくる……。
「建視君は就職希望だったな」
「はい。草摩の当主の側近になる事が内定しています」
「……本当に進学はいいのか?」
真剣な面持ちで問いかける繭子先生は、おそらく兄さんから聞いて知っているのだろう。草摩の上層部は、僕の希望を一切聞き入れない事を。
隣に座る兄さんの気遣わしげな視線を感じながら、僕は笑って答える。
「はい。決定事項ですから」
「決めたのは建視君じゃないだろ。今は建視君の希望を聞いているんだけどな」
「俺も建視の希望を聞きたい」
僕が進学したいと言ったら、兄さんは慊人に土下座してでも頼み込むだろう。
兄さんは草摩の主治医以外の道を選ぶ事を許されなかったのに、兄さんに迷惑かけてばかりな僕のためにそこまでしなくていい。
「慊人の側近になって草摩家の中で確固たる地位を築く事が、僕の希望というか目標だよ」
僕の強がりを察したのか、兄さんは悲しそうに眉尻を下げた。なけなしの良心がチクチクするから、その顔はやめてお願い!
「まぁ、まだ時間はある。様々な事にチャレンジして経験を積めば、考えが変わるかもしれない」
話を変えてくれた繭子先生から、後光が差しているように見える。
「それと……教師を騙すような真似はもうするなよ?」
繭子先生はキラキラとした笑顔で、がっつり釘を刺してきた。
悲哀を帯びた表情を一変させた兄さんは、厳しい視線を僕に送ってくる。夏休み中に1時間も説教したのに……いえ、なんでもありません。ごめんなさい。もうしません。
三者面談が終わった後、僕は兄さんが運転する車に乗ってぐれ兄の家に向かう。
兄さんも素麺パーティーに参加しようよと声をかけたら、兄さんは「悪いが、しばらく紫呉の顔は見たくない」と答えた。ぐれ兄、兄さんに何を言ったんだよ……。
そんなやり取りを経て、ぐれ兄の家に到着。
「建視さん、いらっしゃいですっ」
「リンゴ頭も来た事だし、素麺をゆでっか」
出迎えてくれた本田さんと魚谷さんに、「三者面談、頑張ったよ」と報告した。
本田さんは嬉しそうに笑いながら「お疲れ様です……っ」と労ってくれたけど、魚谷さんは残念なものを見るような視線を僕に投げかけてくる。
「三者面談を頑張れって言ったンじゃねぇよ」
「じゃあ、なにを頑張れって?」
なにやら考え込んだ魚谷さんは、「明日、学校で話すわ」と告げて台所へと足を向けた。
ここでは言えない事なのかな。僕がモヤモヤした気持ちを抱えたまま台所に向かうと、木箱入りの素麺を持った
「ねぇねぇ、ナガシそうめんにしようよっ!」
「今日は流し台を用意してないから無理だ」
僕が即座に却下すると、紅葉は良い事を思いついたとばかりに茶色の目を輝かせる。
「じゃあ、ボクたちでナガシダイを作ろーよっ! あれって竹があれば作れるでしょ。シーちゃんの家のまわりには竹があるよねっ」
「俺達だけで作るとなると大変だと思うよ。竹って固いし」
「それに、紅葉がまた変なモンを流すかもしんねぇからな。却下だ」
由希と夾も反対派に回ると、紅葉は涙ぐんで「そんなぁ〜っ」と落胆をあらわにした。見かねた本田さんが、「それでは……」と代案を出す。
「温かいつけ麺にするというのは、いかがですか? 流し素麺のような面白さは無いかもしれませんが、炒めたお肉や野菜を入れた温かいつけ汁でいただくのも、また一味違うかもですよ!」
「肉……いいね」
「つけ汁に入れるのは豚肉がいいわ……豚肉に含まれるビタミンBは疲労回復の効果があるから、夏バテ対策には最適よ……」
春と花島さんが真っ先に賛成し、紅葉は機嫌を直して「ツケメン食べたいー!」と言ったので、危険要素が多い流し素麺は回避された。
つけ汁を作るのに必要な食材がなかったので、由希と春がスーパーに買いに行く。そのあいだ、僕と紅葉と夾は会場設営をする。
居間の座卓は9人で使うにはスペースが足りないので、物置にしまわれていた予備の座卓を持ってきてそれを綺麗にしてから、居間にあった座卓とくっつける。2つの座卓の高さが違うけど、物を置く場所に気を付ければ大丈夫だろ。
台所では本田さんと花島さんと魚谷さんが、素麺をゆでたりデザートのフルーツポンチを作ったりしている。
「ただいま……」
「あっ、お帰りなさいです、
「ハル、おかえりーっ」
「お帰り。由希は一緒じゃないのか?」
僕が問いかけると、スーパーの袋を持って廊下に立っていた春は少し間を置いてから答える。
「……由希は畑に寄ってる」
「意外だな。春も一緒に畑に行かなかったのか?」
「2人の愛の巣にお邪魔するほど、ヤボじゃないよ……」
春が紛らわしい言い方をしたから混乱したけど、由希の畑は本田さんしか立ち入れないという意味らしい。
程無くして、薬味の野菜を畑から収穫してきた由希が帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさいです、由希君っ」
「ごめん、遅くなっちゃったね」
「いいえー。フルーツポンチに入れる白玉団子を作っていたトコロなので、ちょうど良いタイミングです!」
最初に作った白玉団子は、花島さんが味見と称してほとんど食べてしまったらしい。花島さん、お団子に目がないからね。
素麺パーティーの支度があらかた整った頃合いを見計らったように、ぐれ兄が書斎兼仕事場から出てくる。
「なんだか賑やかだねぇ。僕も仲間にい〜れて」
「紫呉……何も手伝わずに、美味しいとこ取りしようとするな」
「ぐれ兄に手伝わせると台無しになりそうだから、放っておけよ」
「くっすん……由希君とけーくんが冷たい……っ!」
泣き真似をしたぐれ兄は被害者ぶっているけど、ぐれ兄が夏休みの間にやらかした数々の所業は、僕の閻魔帳にがっつり書き込まれているからな。
素麺が盛られた大皿と薬味が盛られた小皿、お椀や箸やグラスなどが置かれた2つの座卓に皆が着席してから、「いただきまーす!」と声を揃えて挨拶する。
「つけ汁のお代わりが欲しい方は、いつでもお声がけ下さいねっ」
「お代わり……肉多めで……」
「私も……肉たっぷりで…」
「春も花島も、他のやつの取り分を考えろよ」
「俺がお代わりを受け持つから、本田さんも食べなよ」
「ボクがトールの分のそうめんを取ってあげるーっ」
「けーくん、つけ汁にチョコレートを入れなくていいのかい?」
「つけ汁にチョコレートを入れるなんて、リンゴ頭の味覚はおかしいんじゃねぇか?」
「魚谷さん、これには深い事情があるんだ。このつけ汁はこれで完成しているから、余計なものは入れないよ」
素麺パーティーは終始にぎやかで楽しくて、将来の事を考えて暗くなっていた気持ちを軽くしてくれた。
その翌日、魚谷さんに呼び出されて体育館裏へと向かった。体育館裏にヤンキーという組み合わせは、恐喝を連想してしまう。
「リンゴ頭に話すべきかどうか迷ったんだが、話のついでにこの話題が出たらショックがデカイだろうと思ったから、一応言っとく」
「……僕がショックを受ける話題って何?」
「花島が、きょんの親父さんに一目惚れした」
◎※△卍惚レ驚☆↑↓$終%♯〜!?!?
「え……待って、ちょっと待って。夾の父親って……三者面談に来た方の?」
「そっ。和服を着た年齢不詳の美形な」
「師範は40歳近いんだよ!? 花島さんとは歳が離れすぎているんじゃないかな?」
僕が現実的な意見を出すと、魚谷さんは「そっかー? 年の差なんて恋愛にあんま関係ないと思うけどな」と言った。
「今は関係なくても、結婚して10年20年経ったら意識せざるを得なくなるって」
「まだ付き合ってもいねぇのに、結婚を意識するとか先走りすぎだろ」
呆れ顔になった魚谷さんの指摘を受け、僕は「確かにそうだけど」と言葉を続ける。
「師範は……夾の親父さんは、草摩家でも指折りの人格者なんだよ。僕が師範に勝てる処といったら、若さと正確な味覚しかない……っ」
「まぁ、なんだ。花島はまだ片思いだから、ガンバレ」
そんな他人事みたいに。でも魚谷さんは、付き合いの長い花島さんの恋を応援するか。
じゃあ、僕は? 花島さんの友達なら、彼女と師範の仲を取り持ってあげるべきだけど……無理だ。
師範は味オンチで不器用なところ以外は理想的な男だけど、花島さんと結ばれてほしいとは思えない。
ここまで至ってしまったら認めるしかない。僕は花島さんの事が好きだ。
似たような精神感応系の力を持つ同志としてではなく、仲のいい友達としてでもなく。異性として特別に想っている。
自分の気持ちに薄々気付いていたのに二の足を踏んでいたせいで、自覚するのが遅すぎた。いま告白しても、花島さんに振られる可能性が高い。
時を戻す術があったなら、過去の自分を説得しに行きたい……っ。
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45「ショウって呼んで!」
1限と2限の間の休み時間、僕は2‐Aに赴いた。
最初は、
そんな2人のどちらかが倉伎さんに手紙を渡す現場を女子が目撃したら、倉伎さんは嫉妬の対象になってしまう可能性が高い。
ただでさえ倉伎さんは生徒会で
かといって、モゲ太のシールを「下らない」と断じた由希に頼むのは癪だし。そもそも、由希が引き受けてくれるとも思えない。という訳で、真鍋君に白羽の矢が立ったのだ。
僕は教室の出入口にいた男子生徒をつかまえて、「真鍋君を呼んでくれないか」と頼む。了承してくれた彼は、教室の中に向かって呼びかける。
「ナベにお客ーっ!
「おわーっ!! マジで!? 本物の草摩建視じゃんよ」
大声を上げて出入口にやってきた真鍋君は夏服をラフに着崩し、赤みがかった黒髪はスタイリング剤を使って自然な動きをつけ、左耳には極小のピアスをつけている。
チャラい雰囲気を纏う彼は、生徒会副会長の肩書きを背負っているようには見えない。真鍋君はヤンチャ系の美形だから、人を惹きつけるという点では副会長に適しているかもしれない。
試験後に公表される成績上位者の中に真鍋君と
「なになに? アンタ、オレに会いに来たの? もしかして、学園防衛隊に宣戦布告をしに来たとか? よっしゃ、受けて立つぞー!!」
竹井前会長の他に、学園防衛隊って言葉を発する人がいるとは思わなかったよ。
「いや、宣戦布告はしないよ。ちょっと頼みたい事があるから、向こうで話をしよう」
「えーっ!? 宣戦布告しねぇのか? ライバルがいないと張り合いがないじゃんよォ。この際だ、フリでもいいから宣戦布告してくんない? 『学園警備隊である風紀委員会は、学園防衛隊である生徒会には絶対負けんぞ!』ってな感じで!」
どうしよう。僕が所属する風紀委員会が、学園警備隊とかいう謎組織に仕立て上げられちゃう。
今ここでキッパリ否定しておかないと……って思ったけど、人の話を聞かないタイプに言い聞かせるのは至難の業だ。
「はい、3、2、1、キュー!」
考えを巡らせる僕を余所に、真鍋君は演技スタートの合図を出した。
無視するか? いや、それを選択すると倉伎さんに手紙を渡してもらえなくなる。無視を選択してもライバルを求める真鍋君が、「風紀委員は学園警備隊だ!」と言い触らしそうだ。
……毒食らわば皿までと言うし、要望に応えてやろうじゃないか。
「貴様が学園防衛隊の副隊長だな?」
「そういうおまえは、学園警備隊の新隊長だな? 学園防衛隊のブラックになる予定のオレに、何の用だ?」
学園防衛隊に拘る真鍋君は、隊員が色で区別される戦隊物に憧れているようだ。そんな事を考えながら、僕はライバルキャラっぽい演技を続ける。
「まぁ、待て。人が多い場所で話す訳にはいかない。学園の危機に関する重要事項だからな」
「……っ! りょーかいっ」
学園の危機と聞いた瞬間、真鍋君は物凄く嬉しそうに笑った。学園防衛隊なのに学園の危機を待ち望むとか、なんというアンビバレンツ。
「なぁ、けんけんってゆんゆんのイトコだよな?」
屋上に向かう途中で、真鍋君が普通に話しかけてきた。学園防衛隊のブラック(予定)の演技は止めたらしい。
「そうだけど、それがどうかした?」
「けんけんとゆんゆんって、仲悪いってホント?」
どうでもいいけど、けんけんとゆんゆんって響きはパンダの名前みたいだ。続けて呼ばれると由希とセットにされているようで、なんか嫌だな。
呼び名は後で訂正するとして、確かめなきゃいけない事がある。
「僕と由希が仲悪いって誰から聞いた?」
「噂になってんよ。けんけんは竹井前会長から副会長にならないかって声をかけられたけど、ゆんゆんが嫌いだから断ったって」
あー、そういや竹井前会長から副会長の打診を受けた時、廊下で立ち話したんだっけ。
それを聞いていた生徒が友達に教え、校内で伝言ゲームをしている内に尾ひれや背びれどころか手足まで付いたせいで、噂話が1人歩きするようになったのか。
「僕は由希が嫌いだなんて言ってないよ。高校卒業後も由希と顔を合わせるから、由希を側でサポートする役職に魅力を感じないって言ったんだ」
「それって、ゆんゆんの側にいたくないって事じゃないの?」
僕と親しい男友達のすけっちやろっしーでさえ、そこまで踏み込んだ質問はしないぞ。由希との関係は触れてほしくない事柄じゃないから、別にいいけどさ。
「それを聞いてどうする? 真鍋君は僕が由希を嫌っているという言質を取って、それを皆に言い触らして、生徒会と風紀委員会が対立するように仕向けようと考えているのか?」
真鍋君はライバルがいないと張り合いがないとか言っていたけど、お遊び感覚で組織間の対立を発生させられると困る。生徒会と風紀委員会が一緒に仕事をする時、支障が生じるかもしれない。
複数の人に迷惑がかかるおふざけをするつもりなら容赦しないぞ、という意味を込めて睨みつけると、真鍋君は大袈裟に目を見開く。
「その手があったか……! ってのはジョーダンでぇ。ゆんゆんとの仲を聞いたのは、単なる興味本位だから。2年の草摩3人組って仲良さげに見えねぇのに、つるんでいる事が多いじゃん? やっぱり、あの子が一緒にいるから?」
「本田さんって密かに有名なんよ。2年の草摩3人組と仲良いから。本田さんとオレンジの……
第三者からは、本田さんと夾が付き合っているように見えるのか。未だに「本田さん」と呼んでいる由希に対し、夾は「透」って名前を呼び捨てているからな。
「その質問も興味本位?」
「まぁね」
ひょいと肩を竦めて答える真鍋君。
単なる思いつきで聞いたなら良いけど、からかい目的で本田さんに近づかれると不愉快だから、軽く釘を刺しておくか。
「他人の恋愛話に興味を持つなとは言わないけど、あまり詮索しない方が身のためだよ。真鍋君だって、他人に知られたくない事の1つや2つはあるだろ?」
「そりゃまぁ。オレのロッカーに写真集が3冊入っている事を女子に知られたら、学校に来られなくなっちゃう……っ」
「肌色が多い写真集を学校に持ってくるなんて、危険な真似を……せめて漫画にしておけよ」
「なんと!? けんけんはエロ漫画を学校に持ってきてんのォ!?」
「大声で言うな。2年A組の真鍋翔はー! 自分のロッカーにアダルト写真集を3冊も隠しているぞー!」
「あ゛ぁ!! やめてちょー!」
雑談している間に屋上に到着。僕は2つに折り畳んだ封筒をスラックスのポケットから取り出して、真鍋君に差し出す。
「倉伎さんにこれを渡してくれないか」
「おぉわっ!? けんけん、
真鍋君が自然に「真知」と呼び捨てるのを聞いて、ちょっと不思議に思った。倉伎さんはお世辞にも社交的とは言えないから、「倉伎」と呼ばれていそうだけど。
ノリの良い副会長は男女問わず、名前で呼ぶ主義なのかもしれない。
「違うよ。こないだ倉伎さんと話した時、ちょっとした行き違いがあって彼女を怯えさせてしまったから、お詫びの手紙を書いたんだ」
「はぁ……ご丁寧なこって」
手紙を受け取った真鍋君は、面食らったように呟いた。
用は済んだので僕が「頼んだよ。それじゃ」と言って立ち去ろうとしたら、真鍋君が「ちょい待ちィ!」と呼びとめてくる。
「学園の危機に関する重要事項を話してくれよ」
「スマン、ありゃウソだった」
金髪コロネの主人公の真似をして告げると、真鍋君は地団太を踏んで悔しがった。
「ひっでー! 騙されたーっ! これが学園警備隊の手口か……っ」
「風紀委員会を、仮想敵に仕立てようとするなよ。ニーチェ先生はこう言っている。『あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう』ってな」
「おぉ~、自分との戦いってヤツか。少年漫画とかでありそう」
「そりゃもう、山ほどあるぞ」
自分との戦いを描いた少年漫画を思いつくままに挙げたら、真鍋君が笑いながら「けんけんはオタクなのか。意外ーっ」と言った。
真鍋君の笑いは嘲笑じゃなかったから、まぁいいか。いや、良くない事があった。
「僕の事は建視って呼び捨てていいよ」
「んぁ? けんけん呼びはお気に召さない? でも、けんけんのクラスメイトもけんけんって呼んでるよな?」
「クラスメイトとはあだ名で呼び合っているから。真鍋君の事は翔って呼ぶよ」
「翔じゃなくてショウって呼んで!」
訓読みの“かける”もカッコいいと思うけど、本人的には音読みの方がいいらしい。こっちが呼び名の変更を頼んでいるんだから、彼の要望を聞き入れようじゃないか。
「解ったよ、ショウ」
「あんがと、けんけん!」
「だから、けんけんって呼ぶなと……」
僕の言葉を遮るように予鈴が鳴った。
「じゃあな、けんけん!」
確信犯か、こいつ。ショウって呼んでやらん。ナベで充分だ。
▼△
「建視君、おはようっ」
「けんけん隊長、おっはー」
「草摩先輩、おはようございます。委員長就任、おめでとうございます!」
「ありがとう。今日も1日頑張ろうね」
制服の衣替えが始まる10月1日は、朝から雨が降っていた。
校門の近くに立った僕は外側が黒で内側が赤の傘を差しながら、風紀委員長として初めての挨拶運動に臨んだ。
生徒の範たる風紀委員の長が赤髪赤目なんておかしいだろ、とツッコまれるかもと思っていたけど、今の所は特に何も言われてない。
「おぃーっす! 学園警備隊の皆の衆、お務めごくろーさんっ」
ビニール傘を持ったナベが、今日もテンション高く挨拶してきた。
学園警備隊という言葉が出た瞬間、挨拶運動に励んでいた風紀委員達が一斉に僕を見遣った。期待と怖いもの見たさが入り混じった視線を浴びながら、僕は心の中で涙を流す。
僕が密かに泣く羽目になったのは、先月の中旬辺りから広まった妙な噂のせいだ。
噂の内容は以下の通り。風紀委員会は校則違反をしている生徒を取り締まる裏で、学園警備隊として活動している。その目的は、地球侵略のために
紛れもなくナベが噂の発信源なのだが、ウル○ラマンみたいな設定を考えたのは僕だと噂されてしまっている。誠に遺憾な事に、草摩建視は竹井前会長の同類だと全校生徒に思われている訳だ。
ンな事認めて堪るかと噂の火消しに奔走したけど、僕が否定すればするほど生温かい目で見られた。とどめにキン・ケンのメンバーから、「私達は学園警備隊を応援しているから頑張ってね!」と言われる始末。
事ここに至って訂正は不可能と判断した僕は、名誉棄損の被害を少しでも軽減するために新たな設定を付け足した。生活指導を行うが故に煙たがられてしまう風紀委員会に親しみを持ってもらうために、学園警備隊を設立したのだと。
僕の趣味で学園警備隊が設立された訳じゃない事を周知させようとしているんだけど、目の前にいるナベのせいで上手くいかないんだよな。
「おはよう、ナベ。今は風紀委員として挨拶運動をしているから、学園警備隊の名は出さないでくれ」
「はっ……そうか! 挨拶運動をしながら生徒を観察して、宇宙人を捜しているんだな!?」
「何度言えば解るんだ。僕らは宇宙人を捜してなんかいない」
「わーってるって、秘密裏に捜し出そうとしてんだろ? 学園防衛隊も負けてらんねーな。敵は募集中だから、ガンガン名乗り出てくれィ!」
「副会長!! 朝っぱらから校門の近くで、生徒会の恥をさらさないで下さい!!」
怒号を上げながら校門にやってきたのは、黒い傘を差した小柄な男子生徒だ。
黄みがかった茶髪の持ち主だけど、装飾品の類は一切付けておらず、服装も校則を遵守している事から察するに地毛だろう。
生徒会の一員である事を匂わせる発言をした彼は、生徒会の書記を務める1年C組の
ちなみに桜木君は、美少年といって差し支えのない容姿の持ち主だ。竹井前会長は由希を補佐する新メンバーを選ぶ際、顔を重視した事は最早疑いようがない。
「朝から元気だなー、チビ助!」
ナベがナチュラルに煽ると、桜木君は更に怒って言い返す。
「誰がチビだ、このバカ!!」
「バカって言った方がバカなんだぞーっ。やーい、バーカバーカっ」
「むっきィィィっ!」
「桜木君。ナベと同じ土俵に下りて相手してやると、疲れるだけだぞ」
ナベに振り回されている被害者同士として助言すると、桜木君が物言いたげな顔をした。
桜木君のジト目は、「学園警備隊とかいうバカげた組織を設立したアンタが、それを言いますか」と物語っている。
ちゃうねん。学園警備隊を発案して広めたのはナベであって、僕じゃない。
そう言おうとした矢先、レース柄がプリントされたピンク色の傘を差した女子生徒が近寄ってくる。
「おっはよォ、けんけぇ~ん♡ あっ、直ちゃんと翔もいるぅ。ふふ♡ 朝から皆に会えて、
青いセーラー服の上にクリーム色のカーディガンを着た藤堂さんが、小走りで校門に近寄ってきた。ふわりと漂う甘い香りは、香水だろうか。
「おはよう、藤堂さん。メイクとマニキュアとピアスは校則違反だよ」
「はぁ~い、気をつけまぁ~す。それよりィ、明日は生徒会の任命式があるからぁ、今から緊張してるのォ。けんけん、公を励ましてぇ?」
傘を持った状態で両手を合わせてお願いポーズを取る藤堂さんに、登校中の男子生徒が何名も見惚れている。
魔性の女に視線が集まった隙を衝いて、桜木君は逃走を図った。学園警備隊に関する誤解を訂正できなかったよ……。
「公ちゃん、ガンバ!」
「翔に励ましてもらっても嬉しくなぁ~い。けんけんの励ましじゃなきゃダメなのォ」
上目遣いで僕を見上げる藤堂さんの背後では、登校途中のキン・ケンのメンバーが憤怒に駆られる阿修羅のような顔になっていたりする。
藤堂さんは反感を買っている事を承知の上でやっているから、タチが悪い。やっぱりこの子、ぐれ兄属性だな。
「ナベ、藤堂さん。生徒会の任命式、頑張ってね」
藤堂さんだけ励ますと角が立ちそうだから、ナベにも激励の言葉をかけた。
「うん♡ 公がんばるからぁ、任命式では公の事ちゃんと見ててね~っ」
「翔もガンバルから、任命式では翔の事ちゃんと見ててねーっ」
「んも~ぅ、公の真似しないでよォ」
新生徒会の副会長と書記の彼女が去った数分後、水色の傘を差した倉伎さんがやってきた。倉伎さんは僕と視線を合わせないようにするためか、傘を盾のように使いながら校門を通過している。
ナベは僕のお詫びの手紙を、倉伎さんにちゃんと渡してくれたのだろうか。
とか考えていたら、本田さんと由希と夾の3人が登校してきた。本田さんはピンク色の傘、由希は青色の傘、夾はオレンジ色の傘を差している。
「建視さん、おはようございます……っ!」
「おはよう、本田さん。由希と夾もおはよう」
猫憑きと
夾の機嫌が悪いのは、雨が降っているからで。由希の機嫌が悪いのは、日延べになっていた三者面談が今日行われるからだろう。
クラスメイトの面談は半月前に終わっているのにね。普通の親だったら急用が入って面談を日延べせざるを得なくなっても、ここまで大幅に日程を遅らせるような事はしないはずだ。
由希の両親は、学校側の都合は一切気にしない。
草摩の上層部の一員である自分達が、名門でもない学校の教師が組んだ予定になんで合わせなきゃいけないんだ。という身勝手な言い分が透けて見えるよ。
あーあ。
由希の両親は金と地位を得るためなら我が子さえも道具として使う、非常に利己的な人間だ。そんな連中に借りを作ったら、奴隷のようにこき使われるのは目に見えている。借りを作らなくても、こき使われそうだけど。
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46「皆さんの力を貸して下さい」
空を覆う雲は時間が経つにつれて段々暗くなっていき、放課後になる頃には雨が降り始めた。
学校に来る
『雨のせいで髪が纏まらなくて、出発が遅れてしまった!
え、なにこれ。綾兄が学校に来るの? 何のために……って、もしかして。
由希の三者面談に綾兄が出席するのかとメールで聞いたら、『その通りさ』という返信が届いた。どうやらぐれ兄が、由希の面談の日程を綾兄に教えたらしい。
綾兄が面談を引っ掻き回したら、由希は激怒するぞ。いや、そうとも言えないか。
由希は親との対面を控えて気鬱になっていたから、綾兄が引っ掻き回してくれた方が救いはあるかもしれない。
閉まっている戸に耳を近づけたけど、中から話し声は聞こえない。面談はまだ始まってないのか。
「失礼しまーす」
僕がノックをしてから戸を開けると、長机に着いていた
「なんだ? 何か問題でも起きたのか?」
「ええ、まぁ。綾兄から伝言を託りました。由希の三者面談に出席するけど、少し遅れると」
「綾クン……ホントに来るとは思わなんだ」
驚きで目を見開いた繭子先生の言葉を聞いて、僕もビックリだ。
「由希の面談の日程を綾兄に教えたのはぐれ兄だと聞きましたが、繭子先生も教えていたんですか?」
「いや、あたしは変更した日時までは教えてない。あ゛ー、もう……あの男は……」
ぐれ兄に対する文句を飲み込んだ繭子先生は、気持ちを切り替えるように息を吐いてから「伝えてくれてありがとな」と礼を述べた。
進路指導室を出て教室に戻る途中で、会いたくなかった人物と鉢合わせしちゃったよ。
上等なワンピーススーツを着こなす華奢な体は、大きな息子が2人もいるとは思えないほど完璧なプロポーションを維持している。
見る者を惹きつける端麗な顔立ちは由希や綾兄にそっくりなのに、冷ややかな眼差しは似ていない。中学時代の由希は母親によく似ていたけど。
「こんにちは、
「……何の用?」
綾兄と由希の母親である黎子おばさんは、整った顔に警戒を浮かべる。
僕が彼女の衣類などから残留思念を読むのでは、と疑っているらしい。
「いえ、別に用という程の事はありません。親戚と顔を合わせたので、挨拶しただけですよ」
綾兄が学校に来る事は言わない。
草摩の上層部が長期休暇中に任務の前日通達をしやがる事は恨んでいるけど、仕返ししようなんてオモッテナイカラネ。
冗談はさておき。黎子おばさんが綾兄との接触を避けるべく面談前に学校から立ち去ると、面談がまた日延べになるかもしれない。そうなると、繭子先生の負担が大きくなってしまう。
10月は修学旅行に中間テストと、大きな行事が2つもあるからな。僕らの担任を私的な事情で、これ以上振り回さないでほしい。
黎子おばさんは挨拶を返さず、僕から距離を取って横を通り過ぎる。母親の後に続く由希は陰鬱な雰囲気を纏っていて、ドナドナされる子牛のように見えた。
ガンバレ、由希。もうすぐ綾兄が駆けつけてくれるぞ。
下校した僕が家に到着した頃、綾兄からメールが届いた。由希の面談の報告かと思ったけど、それとは全く別の報告が綴られている。
『ボクはこの度、トブナベ君ことブラックに頼まれて、学園防衛隊の司令に就任したよ! ブラックに聞いたのだが、ケンシロウは学園警備隊の隊長をしているそうじゃないか! 学園警備隊の司令として、とりさんかぐれさんを推挙したまえ! 学園防衛隊と学園警備隊は、良きライバルとして切磋琢磨するのだ!』
由希が頭を抱える姿が目に浮かぶ。面談の成り行きによっては、綾兄やナベに構っている心の余裕なんて無いかもしれないけど。
その日の夜。綾兄からメールを受け取った兄さんの話によると、綾兄が面談に乱入した事で黎子おばさんは怒って途中退席したらしい。それは予想できていた事なので、聞いても驚かなかったが。
「面談の最中に由希が
「…………え?」
思わず耳を疑った。由希がそんな事を言うなんてあり得ない。綾兄が兄さんに嘘を吐くとは思えないけど、俄かには信じられなかった。
理解不能という思いが僕の顔にハッキリ出ていたのか、食堂のテーブルに着いていた兄さんは苦笑しながら説明する。
「綾女と由希の関係は、徐々に改善しているのだろう。綾女は由希に歩み寄る努力をしているし、由希は成長と共に少しずつ心に余裕が生まれているようだからな」
兄さんは希望的観測を述べている訳じゃないと思うけど、それでも腑に落ちない。巳憑きと子憑きの兄弟間に生じた溝は、そう簡単に埋まるほど浅いものじゃなかったはずだ。
眉を寄せて考え込む僕を見て、兄さんが怪訝そうに問いかけてくる。
「何か納得いかない事があるのか?」
「納得いかないというか……理解が追いつかないんだよ。僕が綾兄の話題を出すと、由希は相変わらず拒否反応を示すから」
僕が本田さんの保護者代理として綾兄を推した時、由希は自分の兄が本田さんの面談をめちゃくちゃにすると決めつけて、却下した事は記憶に新しい。それなのに頼りになる人だと言うなんて、矛盾しているにも程がある。
「心境の変化があったからといって、由希の綾女に対する態度が180度変わったりはしないだろう」
「それは……そうかもしれないけどさ」
「
言葉を切った兄さんは僕の反応を窺うようにちらりと視線を送ってから、「綾女と由希が仲良くなる事が、気に入らないか?」と聞いてきた。
「……兄さん、僕はそこまで根性悪じゃないよ」
「建視が他人の不幸を望むような人間ではない事は解っているが、建視は今も由希に対して素直になれないからな。昔のような負の感情を引き摺っているのではないかと案じたんだ」
兄さんの懸念は当たっている。由希がモゲ太のシールを「下らない」と言ったから、子憑きの従弟に対する敵意が再燃していた。
……いや、違うな。モゲ太のシールを貶された事は腹立たしいけど、憎悪に至るまで根に持っていない。
子憑きの従弟を宴会に出席させる策を円滑に進めるため、由希は敵だと再認識しようとしているんだ。
僕は5歳頃から毎日のように慊人の屋敷に通って、物品に宿る残留思念を読む力の検証を行うように強要されていた。残留思念を読むと精神的に疲れるから僕は力を使いたくなかったが、当主命令だから逆らえなかった。
当時8歳かそこらだった慊人は自分の手元に置いていた由希に夢中だったので、僕の力にあまり興味を示していなかったけど。草摩の上層部が僕の力を政治的に利用するために、検証を行おうと目論んだのだろう。
草摩家の主治医だった僕の父さんは、気管支を患う由希の処には頻繁に診察に訪れていたのに、力の検証で精神的に疲弊していた僕には、労いの言葉1つ掛けてくれなかった。
父親の愛情を奪われたと思い込んだ僕は、由希を憎んだ。
子憑きの従弟に対する悪感情は緩和されないまま月日は流れて、僕が小学2年生になった時、事件は起きた。
女の子に抱きつかれた由希が友達の前で変身してしまい、兄さんが目撃者の子供に隠蔽術を施す事になったのだ。
由希は友達の記憶を消さないでほしいと、兄さんに泣きついたらしい。それを慊人から聞いた僕は、兄さんに手間を取らせる由希に憤りを覚えた。
――にいさんは何もわるくないよ。“ともだち”の前でネズミにへんしんするドジをふんだ、あいつがわるいんだ。
記憶隠蔽の処置を終えた兄さんに向かって、僕はそう言い切った。
――悪いとか悪くないとか……そういう問題ではない。
――にいさんは、ゆきをかばうの?
信じられない思いで僕が言い返すと、兄さんは憂わしげに眉をひそめる。
――俺は由希の友達の記憶を隠蔽したから、由希を庇える立場にいない。俺が気にかけているのは建視だ。誰が悪いとか常に考えていたら、他者の心の痛みに気付けない人間になってしまうぞ。
兄さんが何を言おうとしていたのか、当時の僕はさっぱり解らなかった。
人前で変身した由希が悪いと端から決めつけていたし、僕と
自分が唯一心を許している兄さんとの認識の隔たりに直面し、小学生の僕は不安に駆られた。こんな状態が続いたら、兄さんと会話をしても一方通行になってしまう。
そしたら僕はいつか、兄さんに見放されてしまうのではないか。
兄さんに嫌われないようにするため、由希は悪いやつではないと思おうとしたけど、考えをすぐに改める事はできなかった。
同じように子憑きを憎んでいた春が由希に好意を寄せるようになった時は、先を越された悔しさも相俟って、春は裏切り者だと思ってしまった。
迷走していた僕は、綾兄の意見が聞きたくなった。実弟と距離を置いている綾兄なら、由希を庇うような事は言わないだろうと思ったからだ。
そして僕は宴会で、綾兄に疑問をストレートにぶつけた。
――あやにいは、どうしてゆきと話さないの?
――ケンシロウは変わった事を聞くねっ。用もないのに、由希と話す訳ないだろうっ。
――用がないと話さないの? だってゆきは、あやにいの弟だろ。
――あぁ……そういえば、そうだったねっ。
――あーや、弟の存在を忘れていたでしょ。すぐそこにいるのに。
近くにいたぐれ兄が、呆れ混じりの笑いを浮かべる。
兄さんがいれば「笑い事ではない」と窘めただろうが、兄さんは離れた所で
――由希の顔を見るのは宴会の時だけだから、印象が薄すぎて弟だと思えないのだよっ。
――うわ、ひっど。
酷いと言いながら、ぐれ兄は愉快そうに口の端を吊り上げた。
ぐれ兄は冷酷だと非難する事はできない。憎しみに駆られていた頃の僕だったら、実兄に忘れられるなんて由希は惨めだと嘲笑しただろう。
由希に対するわだかまりは消えていなかったけど、当時の僕は笑えなかった。兄さんに見捨てられる可能性に気付いたから、他人事だと気楽に構えられなかったのだ。
両親に道具のように売られて、兄に見放された由希の境遇は、僕が辿ったかもしれないもう1つの人生のように感じられてぞっとして。僕はその時初めて、由希が可哀相だと思った。
憐れみを感じたからと言って、僕は由希を助けようとはしなかったけど。
由希に余計なちょっかいを出したら、慊人の怒りを買ってしまうかもしれない。端的に言えば、保身に走ったのだ。
僕が昔のあれこれを想起して物思いに耽っていたら、兄さんが気遣わしげに声をかけてくる。
「建視、大丈夫か?」
「ああ……うん。ちょっと昔の事を思い出して、ぼーっとしていただけ」
表情を取り繕った僕は食事を再開する。過去を振り返って気付いた事があるけど、見て見ぬ振りをした。
由希に対する後ろめたさとかあったら、子憑きの従弟を宴会に出席させる策を遂行できなくなるかもしれない。
▼△
生徒会の任命式が執り行われる、10月2日の土曜日。
全校生徒が体育館に集まった頃合いを見計らって、新旧の生徒会メンバーが壇上に並んだ。由希が壇上に姿を現した瞬間、女子生徒の半数以上が一斉に黄色い声を上げる。
「「「きぁぁぁぁぁぁぁ! 由希ーっ!!」」」
大声援を受けた由希は、体をビクッと震わせた。その姿は臆病な小動物のようだが、由希に夢中な女の子達にはステキな王子様に見えるのだろう。
いつまで経っても歓声が止まないので、進行役の先生がマイクを通して「静かにしなさい!」と注意を飛ばした。
まずは
「うぅっ……ぜ、前生徒会長の竹井
初っ端から竹井前会長は男泣きしていた。程々の涙だったら感動を誘えただろうが、嗚咽や鼻水を啜る音が混じる本気の泣きなので引いてしまう。
「ぐずっ……新しい生徒会長になった草摩由希君は! 才貌両全を体現した不世出の逸材で……っ! きっと……いや、必ずや!! 今まで以上に生徒会と学園防衛隊の活動を、大いに盛り立ててくれる事と確信しております!! 頑張って下さい、由希君……っ!!」
滂沱の涙を流す竹井会長は、由希の方を向いて激励の言葉をかける。遠目で見ても、由希の顔は引きつっていた。
「全校生徒の皆さん!! 新執行部へのこれまで以上のご協力、どうかよろしくお願いします!! 私たち3年生は……そ、そつ……うっぐ……卒業するまでぇ! 新しい生徒会を見守りィ! 陰ながら支えていきたいと思いますぅ!! これまで本当に……本当にありがとうございましたぁっ!!」
竹井前会長以外の啜り泣きも聞こえるが、プリ・ユキの3年生だろうか。
退任の挨拶が終わると、最初のドン引きな雰囲気が嘘のように大きな拍手が鳴り響く。この後に挨拶するって、色んな意味でプレッシャーだぞ。
「がんばって、由希くーん!」
「由希ーっ! ファイトーっ!」
「待っていました、草摩先輩ーっ!」
「はいはい、静かに。皆が騒ぐと草摩君が挨拶できませんよ」
進行役の先生がいくら注意してもプリ・ユキの熱狂は鎮まらなかったのに、由希が演台に立った途端、ピタッと沈黙した。軍隊並みの団結力だな。
「あ、新しく生徒会長に任命されました、草摩由希……です。前執行部の皆さん、今まで本当に……お疲れ様でした」
マイクを通して体育館に響いた由希の声は、緊張か動揺による震えを隠し切れていない。旧生徒会メンバーの列に戻った竹井前会長は、由希に労わられて再び泣いている。
「生徒会の活動は皆が協力しあわないと、成り立たないと……思います。俺は……会長として至らない処もたくさんあると思いますが、努力は怠りません。海高の全員が楽しい学校生活を送れるようにするため、皆さんの力を貸して下さい……」
「「「もちろん(です)(だとも)!!」」」
大勢の生徒による合いの手が入るとは思っていなかったのか、由希はまたしてもビクついている。今のは僕でもビビるほど息ピッタリだったけど。予行練習したのかと思うレベルだ。
「あ、あの、えと……よろしくお願いします」
由希の就任挨拶はなんとも締まらない終わり方だったが、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
拍手喝采は1分以上経っても収まらなかったので、困惑した由希が「もういいよ、ありがとう」と言った瞬間、水を打ったように静かになる。ここまでくると怖いよ。
更に恐ろしい事に、由希はあれを目の当たりにしても自分のカルト的人気を自覚しなかった。
現実から目を背けている訳じゃなく、曇りのない眼で「皆がたくさん拍手してくれたのは、新生徒会の発足を祝ってくれたからだ」と言ったのだ。
超が付くほど由希がニブいのは、慊人による“教育”の弊害なのか? それとも生まれつきなのか? 真実は闇の中だ。
由希の母親の名前は独自設定です。
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47「誰に会いにきたの?」
任命式の翌日の日曜は、
2日連続で
「ヴァイオリンの練習をしていたのか?」
ウサギグッズまみれの紅葉の部屋に入ったら、ローチェストの上に美しい飴色をしたヴァイオリンと弓が置いてあった。
「練習ってほどでもないよ。メンテナンスを兼ねて、軽く弾いていただけなの」
紅葉はそう言いながら、大切な宝物を扱うように愛用のヴァイオリンに触った。
あのヴァイオリンは紅葉の父親の
楽器を与えた父親が、紅葉から演奏する楽しみを奪うなんて残酷だ。
総嗣おじさんは紅葉の気持ちに全く配慮してない訳じゃないようだけど、紅葉だけに我慢を強いる事がないように対処できなかったのかと今でも思う。
僕が総嗣おじさんに対する怒りを再燃させたのを感じ取ったのか、紅葉は明るい声で話す。
「でも、せっかくだから1曲弾こうかな。ケン、何か聞きたい曲ある?」
「そうだな……『君を○せて』がいいな」
湖畔の別荘に行くバスの車内で、本田さんがカラオケで披露した持ち歌の1つだ。紅葉はいつか
「Ja,ist gut!(うん、いいよ!) せっかくだからケンが歌ってよ」
普段の稚気たっぷりな顔から一変して真剣な表情になった紅葉は、『天○の城ラ○ュタ』のエンディングのイントロから奏でた。
この部分を聞くだけで、シータやパズーとドーラ一家の別れが目に浮かんで泣けてくる。おっと、浸っている場合じゃない。歌い出しを合わせないと。
『君を○せて』の二重奏を終えた時、庭を区切る竹垣の陰からここにいるはずのない人が出てきた。
「本田さん!?」
「えっ? トール? ホントだ、トールだっ!」
ローチェストの上にヴァイオリンと弓を置いた紅葉は、一足飛びに窓へと駆け寄って鍵を開ける。
部屋の中に招かれた本田さんの服は、あちこちが汚れていた。どこを通ってきたのだろうか。それより気になるのは。
「……トール? どうしたの?」
「…………ヴァ……イオリン、お弾きになるのですね」
悲しみに打ちひしがれたような面持ちの本田さんは、言葉を振り絞るように質問を発した。
「うんっ。高校入ってからサボリギミなんだけどねっ。ずっとついてた先生のトコもやめちゃったしっ」
「え……っ。やめてしまわれたのですか……? で……ですが、ヴァイオリン……続け……ますよね?」
問いかける本田さんの表情から、動揺と焦燥が見て取れた。普段の本田さんなら紅葉を気遣いながら、優しく励ますだろうに。
なんだか様子が変だ。何かあったのか?
一方、紅葉は本田さんの必死な気持ちを感じてか、微笑みながら事情を話す。
妹のモモちゃんも同じ先生について、ヴァイオリンを習い始めた事。総嗣おじさんは直接言わないが、本音では紅葉にヴァイオリンをやめてほしいと思っている事。
「……パパ、恐いんだ。ボクがモモやママに近づくのが……恐いんだね……」
父親の心情を語る紅葉の顔には、諦観が浮かんでいる。
「死にもの狂いで築きなおした倖せを、もう壊したくないんだ。もう傷つきたくないんだ。会うことで傷つくのが、恐いんだね……」
紅葉の話を聞く本田さんから、表情が抜け落ちた。まるで希望を絶たれた人のように見えて、不安になる。僕が言葉をかける前に、本田さんはか細い声で、「……けれど」と言う。
「モモさんは会いたがっていました……モモさんが……実はモモさんがここまで私を……案内して下さったんです」
モモちゃんが紅葉に会いたがっている事を総嗣おじさんが知ったら、総嗣おじさんは気を揉みすぎて胃を痛めそうだ。
というか、モモちゃんはどうやって
そういや草摩の子供達の間で、秘密の入り口と呼ばれる抜け穴があったな。「中」と「外」を区切る塀の一部に開いた穴は、僕が小さい頃から今までずっと放置されていたのか。
それより、本当に秘密の入り口を通ってきたなら、本田さんは不法侵入になるんじゃ……。誰かに見つからなくてよかった。
「本当です、本当なんです。モモさんはちゃんとご存知だったんです。ずっと、ずっと……っ」
必死に訴える本田さんは、ボロボロと涙を流していた。
悪い意味で草摩家に順応している僕は、泣く程の事だろうかと思ってしまう。実の兄妹なのに会う事ができない紅葉とモモちゃんは不憫だけど――と、思ったとき気付いた。
本田さんは、亡くなった両親に会いたくても会えない。だから、会いたい相手がこの世にいるのに会えないでいる2人を見て、非常に遣る瀬無い思いに駆られているのか。
「紅葉君をずっと見ていらしたんです。紅葉君がずっと、ずっと見守っていらしたように、モモさんもヴァイオリンを聴いていらしたんです……っ」
モモちゃんやマルグリットおばさんに近づく事を禁じられている紅葉は、母親と妹の元気な姿を陰からこっそり見るため、父親の自社ビルに遊びに行っている。
本田さんがそれを知っているのは、総嗣おじさんが社長を務める会社が所有するビルで清掃のバイトをしているからだろう。
「お話が……したいと、一緒に遊びたいと、おに……っ、お兄さん……お兄さんになっては下さらないのかと……っ」
紅葉の外見はマルグリットおばさんにそっくりだから、幼いモモちゃんでも血の繋がりを感じ取ったようだ。
もしかして総嗣おじさんが紅葉とモモちゃんの接触を極度に恐れるのは、紅葉は自分のお兄ちゃんじゃないのかとモモちゃんが発言したからだったりして。
「ホントだったんだ……パパが……モモはボクを気にしてるって……そっか、見てたんだ……」
妹を慈しむ想いが一方通行ではなかったと知った紅葉は涙を浮かべて、「どうしよう、嬉しい……」と呟く。
「トール、ボクの夢はね。ヴァイオリン弾きになるコトなんだ。ヴァイオリン弾きになって小さなコンサートを開いて、そこにパパとママとモモが聴きに来てくれたなら」
家族がみんな息災で家庭円満な人であれば、努力すれば叶えられる夢だけど。物の怪憑きの紅葉にとっては、大海を手で塞ぐようなものだ。
「ありがとう……モモ。ボクが今嬉しいって、こんなに嬉しいって思えるのは、ボクの代わりに泣いてくれる人がいるからだね……」
明るい茶色の瞳に涙を浮かべた紅葉は、本田さんの前にしゃがみ込んだ。
「会わなければ……どうしても」
両手で顔を覆っていた本田さんが涙声を発すると、微笑んだ紅葉は静かに問いかける。
「会う……? 誰に? 誰に会いにきたの?」
「
「どうして紅野兄に会わなきゃいけないんだ?」
僕が口を挟むと、本田さんは申し訳なさそうな表情になって話し始める。
「クレノさん……にお会いしたくて、ずっと待っていらっしゃる方がいて。それは……もしかしたら、草摩紅野さんかもしれなくて……確かめたくて……」
ずっと待っているという言葉を聞いて、もしや思った。
「
「な、何故に、うおちゃんだとお解りになったのですか?」
「魚谷さんはコンビニで出会った男性と再会できずにいるって聞いたから、もしかしてと思って。でもコンビニの君は、本田さんに似ている事以外は解らないんじゃなかった?」
「そ、それが……」
本田さんは躊躇いながらも話してくれた。
どうやら魚谷さんは夏休み中に、街中でコンビニの君と偶然再会していたらしい。魚谷さんはコンビニの君と一緒に蕎麦を食べて少し話をした時、彼の名前と年齢と変わった事情を知ったようだ。
「うおちゃんが会いたがっていらっしゃる方のお名前はクレノさんで、お歳は26歳で、コンビニで買い物をしたのは初めてだったそうです……」
コンビニの君は紅野兄である可能性が高いと思ったけど、本田さんに伝えるのは躊躇われた。彼女が確信を得てしまったら、紅野兄に会いに行こうとするかもしれない。
本田さんが紅野兄に近づく危険性は紅葉も解っているはずなのに、卯憑きの従弟は「全部、クレノにあてはまっていそうね」と答えた。
「ほ、本当ですか!?」
「うん。クレノは26歳だし、仕事以外での外出はしないってウワサで聞いたよ」
「余計な外出をする必要はない紅野兄が、コンビニに行くとは思えないけど」
本田さんを思いとどまらせる意味も込めて言ったら、紅葉が「それはクレノに聞いてみないとわからないよ」と言い返す。
「聞くって言ったって、奥の屋敷で生活している紅野兄にどうやって会うんだよ。それに紅野兄に接触するなって、
「紅野さんがいらっしゃる場所を教えて頂ければ、私が会いに行きます……っ」
「待って、本田さん。途中で誰かに見つかったら厄介な事になるよ」
本田さんの不法侵入がバレたら、警察沙汰になる恐れがある。前科もしくは前歴がつくと、彼女の就職活動に支障が出てしまう。
紅野兄と本田さんが会っている現場を、慊人に見られた場合はどうなるか考えたくもない。
「ありがとう……ございます。心配してくださって。……ですが、ごめんなさい。勝手な事と解っていますが、私はどうしても紅野さんにお会いしたいのです……」
スカートを握り締めた本田さんは、必死な面持ちで言葉を続ける。
「うおちゃんは弱音を簡単に口にしては下さらなくて、バイト先を変えられてしまって。けれど……けれど、クレノさんにお会いできない事は、本当に悲しそうで、さびしそうで……っ」
「トールはアリサのために、コンビニノキミがクレノかどうか確かめにいくんだね」
「ちが……違うです……。そんな……立派な事では、ないんです。私が……勝手に、頼まれてもいませんのに、私1人で勝手に確かめようと……思って。ごめん……なさい」
魚谷さんに頼まれた訳でもないのに草摩家に侵入した本田さんの行動は、自分勝手で無謀だと非難されてもおかしくない。
だけど、本田さんを突き動かした行動理由は、紅葉やモモちゃんを思って泣いたのと同じ気持ちだろうと思うと、非難できなかった。
「ボクも行くよ」
「紅葉君……ありがとうございます。ですが、これ以上の御迷惑をお掛けする訳には参りません。私は……大丈夫です。それに
滅多な事では落ち込みを表に出さない紅葉が、沈んでいる。大好きな本田さんの力になれない自分の無力さを、痛感しているのだろう。
せめてもの助けになればと思い、僕と紅葉は人に見つからなさそうな裏道を紙に書き出して、本田さんに渡す。
「もしも誰かに見つかったら、ボクの名前を出すんだよ。絶対に、絶対にだよ」
「本田さん、僕の名前も忘れずに出してね」
連帯責任って事にすれば、慊人の怒りは分散されるかもしれない。そう考えて提案すると、紅葉は大丈夫かと言いたそうな視線を僕に投げかけてきた。
事が露見して慊人の怒りを買ったら仕置きを受けるだろうが、僕は金の卵を産む鶏扱いされているから多分大丈夫だ。紅葉は自分の心配をした方がいい。
「紅葉君、
本田さんは何度もお礼を述べてから、竹垣に囲まれた道を小走りで進んだ。
……大丈夫かな。本田さんが無事に紅野兄の部屋の近くに辿り着けたとしても、紅野兄が話に応じてくれる保証は無い。
僕の幼少期の記憶に残っている昔の紅野兄は、穏やかで優しい人だったと思うけど。
慊人に取り立てられた後の紅野兄は、慊人しか目に入らないと言わんばかりの素っ気ない態度を取るようになった。
紅野兄と接する機会が極端に減ったせいだろうか。その頃から
紅野兄も
紅野兄に咎められた本田さんが僕と紅葉の名前を出したとしても、酉憑きの従兄が見逃してくれるかどうか……。
僕と同じ危惧を抱いたのか、紅葉が「やっぱりボクも行く」と言い出した。
「紅葉……」
「ボクはトールのこと大好きなのに、1人で行かせちゃった。……トールになにかあったら、この先ずっと後悔する」
そう話す紅葉は、いつになく大人びた顔をしていた。
本田さんと出会ったばかりの頃は「トールはMutti(ママ)みたいで安心するっ」と言って、彼女に甘える気持ちが大きかったように思えたけど。いつの間にか紅葉は、本田さんを異性として愛して守りたいと決意を固めていたのか。
「行くなって言っても行くんだろ。それなら……僕も一緒に行くよ」
「ケン、ダイジョーブ?」
隠し切れなかった恐怖の色を僕の表情から読み取ったのか、紅葉は心配そうな声を出した。
本田さんにいざって時は僕の名前も出してと言った時は、特に異変は感じなかったのに。
慊人の命令に背いて紅野兄に近づこうと考えた途端、僕の胸の奥にいる盃の付喪神が“慊人を裏切るな”と強く訴えてくる。
激しい罪悪感が強制的に呼び起こされて、気持ち悪い。物の怪による精神的圧力に打ち勝った紅葉は、本当に凄いな。
「正直言って、大丈夫じゃない……けど」
別荘で僕達が傍観に徹したせいで、本田さんは顔に傷を負ってしまった事を、
この上、本田さんが危機に陥るのを見て見ぬ振りしたら、花島さんは口をきいてくれなくなるかもしれない。
それは嫌だと思う僕の心を揺さぶるように、彼女は師範に想いを寄せていると囁く声が聞こえる。
いっそ無視された方が諦めがつくんじゃないか、と。
ふざけるな。初めて本気で恋した女の子に最低な人間だと思われて見放されて、それで良かったなんて思える訳ねぇだろが。
「本田さんに何かあったら、今度こそ花島さんに顔向けできなくなっちまう」
「それじゃ、一緒に行こっ」
「紅葉は帽子をかぶっとけよ。金髪目立つから」
僕の赤髪は更に目立つので、フードをかぶる。パーカーを着てきて良かった。
紅葉と2人で本田さんに教えた裏道を進んだのだが、行けども行けども本田さんの姿は見当たらない。誰かに見つかってしまったのか? いや、そうだったら騒ぎになっているはずだ。
「本田さんは迷子になったのかもな」
「……そうだね。ベツベツに捜そう」
紅葉は紅野兄の部屋の近くに向かい、僕は慊人の部屋の近くに向かう。途中で慊人の世話役のお局様に見つかりそうになって肝が冷えたけど、石灯籠の陰に隠れてやり過ごした。
本田さんの捜索を再開した時、ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が震える。紅葉からメールだ。よかった、本田さんは無事見つかったのか。
「建視……?」
名前を呼ばれて驚いて声を上げそうになったけど、何とか堪えた。屋敷の外に出ていたのか、革靴を履いた紅野兄がこっちに近づいてくる。
「……やあ、紅野兄。久しぶりだね」
「何でこんな処に……もしかして、紅葉と同じ用件?」
「そうだよ。彼女には会った?」
名前を出さなくても本田さんの事だと通じたらしく、紅野兄は悲しげに目を伏せる。この反応から判断するに、コンビニの君は本当に紅野兄だったのか。
「建視は慊人の許可を得ずに、俺と会ってはいけないはずだ。早くここから立ち去るんだ」
すぐに表情を消した紅野兄は、感情を載せてない淡々とした声で告げた。
紅野兄は喜怒哀楽が無い訳じゃないのに、なんで感情を表に出さないようにしているんだろう。私生活でも滅私奉公を心掛けないと、慊人の側近としてやっていけないとか? 勘弁してくれ。
卯憑きの従弟の家に戻ったら、紅葉が本田さんにタオルを渡していた。僕が忠告した通りに本田さんは草の中を歩き回ったようで、さっきより服が汚れている。
「本田さん、紅野兄に会えたみたいだね」
「あ、はい……紅野さんはうおちゃんが会いたがっていらしたクレノさんでしたが、うおちゃんに会うつもりは無いとおっしゃっていました」
しょんぼりしたように肩を落とした本田さんは、「ですが……」と言葉を続ける。
「明日目が覚めたら、会いたくなるかもしれません。明日じゃなくて明後日でも……1年後かも……10年後かもしれませんが、生きている限り何か起こり続けますから」
大好きなお母さんに二度と会えない本田さんは、どんなに努力しても叶わない願いがある事を身に染みて知っている。会いたい人がこの世にいても、会えない場合もあると薄々悟っているだろう。
それでも諦めずに、希望を繋ごうとする姿勢は尊いと思うけど。今回本田さんが思い切った行動に出た事は、僕にとって懸案事項になってしまった。
本田さんは夾を助けるため、草摩家に再び侵入する可能性が高い。秘密の入り口を塞いだとしても、紅葉か由希が彼女に手を貸すだろう。
僕はその時、本田さんと慊人のどちらに味方するのか。
――だからね、建視。夾が帰ってこなかったら、建視を……。
やめろやめろヤメロ!
沼の泡のようにいきなり脳裏に蘇った慊人の言葉を、鍵のかかる箱の中に封じ込めて意識の底に沈めた。
ああ、クソ、思い出さないようにしていたのに……。
「紅葉君、建視さん……今日は本当に、ご迷惑をお掛けしてしまい……」
「どうして? ボクには全然メーワクじゃないよっ」
「そうだよ、気にしないで。夏休みに別荘で、『この埋め合わせは必ずする』って言ったからね」
それでも本田さんは申し訳なさそうにしているので、紅葉が話題を変える。
「それにモモのコト教えてくれて、ボク嬉しいものっ。お礼したいものっ。そだっ。ねっ、いつかトールの為だけのコンサートとか、開いちゃおっか!?」
「え!? でっ、ですが、あの……私、クラシックはよく……知らなくて……」
「あははっ、ダイジョーブっ。トールの好きな曲を弾くよっ」
タオルを握り締めて考え込んだ本田さんは、「願い……」と呟いてから顔を上げる。
「星に……願いを」
本田さんの好きな曲というより、本田さんの祈りが籠った選曲だな。紅葉は微笑んで、「練習する」と答える。
普段なら本田さんと紅葉の純粋さを目の当たりにすると羨望の気持ちを抱くのに、慊人の言葉を思い出したせいで吐き気のするような後ろめたさを感じた。
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48「立派な竹林ですね」
待ちに待った修学旅行の初日だぜ、いえっふー!!
東京駅に集合した
「
「由希君、こっち側の席は富士山が見えるよ!」
「由希君、私達と一緒にお菓子食べよ!」
プリ・ユキのメンバーが一斉に、由希の招致合戦を始めた。当の由希は、車両の入口に突っ立って困惑している。早く席に座らないと後がつかえるぞ。
「由希、僕の隣に来いよ」
見かねて呼んでやると、一瞬嫌そうに眉を寄せた由希は諦め顔になってやってきた。助け舟を出してやったのに失礼な奴だな。
隣席が由希だと息が詰まるから、前の席のすけっちとろっしーに声をかけてボックス席を作る。新幹線初乗車の僕はボックス席を直に見るのは初めてだから、ちょっと感動した。
「ボックス席になった記念に写真を撮ろう」
僕がデジカメを取り出しながら言うと、由希が怪訝そうに「わざわざ記念写真を撮るほどの事か?」と呟く。
「撮るほどの事だよ! この面子で新幹線に乗るのは、初めてなんだからさ」
ろっしーがイイこと言ってくれた。
「記念撮影するなら、きょんも呼ぶ?」
「ナイスアイディアだ、すけっち。おーい、
僕が離れた席に座る夾に声をかけると、夾は呆れ混じりで「くだらねぇコトで呼ぶんじゃねぇ」と答えた。
「くだらなくないよ。夾の写真を撮ってきてくれって、師範に頼まれたんだ」
嘘だけど。プリントした写真は師範に渡すつもりだ。綾兄と春もほしがりそうだな。
養父限定のファザコンの夾は面倒臭そうな顔をしつつも、こっちにやってきた。
「魚谷さん、写真撮ってくれる?」
通路を挟んだ隣の席に座る魚谷さんは「いいぜ」と快諾し、僕からデジカメを受け取る。
「オラ、良い笑顔見せろよ。1、2、3、ダーッ!!」
魚谷さんはフラッシュを焚いて撮影すると同時に、議員に転身したレスラーの掛け声を叫んだ。元ヤンの彼女の声には気迫が籠っていたから、本気でビビった。
「姐さ~ん、なんで急にイ○キの物真似を……」
「良い笑顔見せろっつったのに表情が硬ぇから、ほぐしてやろうと思ったんだよ」
「他に方法があるだろが。脅かすんじゃねぇ」
「あの程度でビビるなんて、キン○マのちっちぇ野郎だな」
魚谷さんは女の子なのに、シモ関連の罵倒語を躊躇う事なく言い放った。
おかげで僕は、恥ずかしいやら居た堪れないやら複雑な気持ちだよ。気まずそうに視線を泳がせた由希とすけっちとろっしーも、似たような心境だろう。
ゴールデンボールがちっちゃいと言われた夾は、顔を真っ赤にしながら「おまえはっ!」と声を荒げる。
「どっかに落とした恥じらいってモンを、今すぐ拾ってこいや!」
「恥じらいかぁ。母親の腹ン中に置いてきたから、拾ってくんのは無理」
「だったら、それっぽいモンを取り繕えよ!」
魚谷さんと夾の掛け合いを聞きながら、僕の手元に戻ってきたデジカメの画像を確認する。
ろっしーとすけっちは揃って、驚きと怯えが混じった顔をしていた。示し合わせたように同じ表情を浮かべるなんて芸人かよ。僕はというと、笑いかけて失敗した間抜けな顔になっている。
濃灰色の目を丸くした由希はイノ○を知らなそうだから、純粋に驚いているのだろう。ろっしーとすけっちが座るシートに片肘をついていた夾は、顔を引きつらせた状態で目をつぶっていた。
夾の反応が1番面白いと思いながら、ふと気づく。
由希や夾と一緒に写真を撮ったのは、これが初めてだ。去年の今頃は同い年の従弟達と記念撮影をする事になるとは、夢にも思わなかったな。
……高校を卒業した後にこの写真を見た時、僕はどんな事を思うのだろう。罪悪感か、後悔か。あるいは感情が磨滅して、何も感じなくなっているかもしれない。
「
本田さんに呼びかけられて我に返った。
イカンイカン、思考が暗い方に傾いていたな。僕は本田さんに心配をかけないように笑いながら、「ううん、何でもないよ」と答える。
用は済んだとばかりに自分の席に戻る夾の背を見送りながら、僕は暗澹とした思いを胸の奥底に押し込める。
どうせ高校卒業後は嫌でも向き合う事になるんだから、今を楽しみたい。そう思うのは罪じゃないはずだ。
▼△
京都に着いた僕達は昼食を食べた後、嵯峨野の竹林の小径に来ている。
高さ10メートル近くある竹が左右に鬱蒼と生い茂る様は圧巻で、低い小柴垣の枯れた色合いが侘びを感じられる観光名所だ。
「立派な竹林ですね……紅葉も綺麗ですし……」
感慨深げに呟く本田さんに、花島さんが「ええ……本当に……」と応じる。
「思わず一句……詠みたくなってくるわね……」
「わあっ。是非聞かせて頂きたいです……っ」
古都京都を訪れて句を詠むなんて、花島さんは文学少女だな。彼女の新たな一面に萌えながら、僕も耳を傾ける。
「いい国作ろう 鎌倉幕府……」
「句じゃねーよ、それ」
「鎌倉じゃねーよ、ここ」
夾と魚谷さんが即座にツッコミを入れた。
「じゃあ、僕も一句。竹林や ああ竹林や 竹林や」
「有名な句のパクリじゃないか」
由希の指摘に、僕は「ちっちっ」と指を振って答える。
「これは本歌取りという手法だよ」
「本歌取りは、古歌の一部を取り入れて新しい歌を作る技法だろ。建視のは一部じゃなくて殆どだから、本歌取りとは言えない」
「ふぅ~、やれやれ。由希は真面目だなぁ」
「
言うようになったじゃねぇか。僕と由希が睨み合っていると、魚谷さんが不満そうに「なーんかなぁ」と言う。
「こーいうトコロって、大人数でゾロゾロ来るモンでもなくねーか? 情緒が薄れるっつーかさ」
「そんな……修学旅行を根底から覆すような発言を……」
僕との睨み合いを中断した由希は、控えめに反論した。
「自由に食べ歩きできないのは苦痛だわ……」
花島さんの訴えに、夾が即座に「食い気かよ」とツッコミを入れる。まぁ、花より団子って言うし。
渡月橋に向かう途中、甘味処に入店する花島さんの姿を発見。僕が買うよと申し出たら、花島さんから驚愕の答えが返ってくる。
「奢ってもらってばかりは悪いからって、父さんがお小遣いを多めにくれたの……」
花島さんのお父様は、僕が花島さんを食べ物で釣……いや、買い食いデートを楽しもうとする事を見越して防衛線を張ったのか。
だがしかし、僕はこの程度じゃ諦めないぞ。
「実は僕も小腹が空いていたんだ。先生に買い食いが見つかった時、僕1人だけ叱られるのは嫌だから花島さんも道連れって事で。リスクを共に背負ってくれるから、奢られっぱなしって訳じゃないだろ?」
強引な理屈だけど、これで押し通してみせる。
花島さんは考え込む素振りを見せたので、僕は続けて「お金が余れば他のスイーツも買えるよね」と付け加えた。
「それじゃ、買ってもらおうかしら……」
「うん。我儘を聞いてくれてありがとう」
やった! 久々に花島さんのためにお金を使える!
花島さんが食べたがっているものを買ってあげると、頑張って任務で稼ごうって思えるんだよな。
女の子に貢ぐ男は自分に自信がない奴が多いとかぐれ兄は訳知り顔で語っていたけど、何とでも言うがいいさ。この充足感を知ったらやめられないね!
「花島さん、何を食べたい?」
「桜餅は外せないわね……でも、わらび餅も捨てがたいわ……」
「じゃあ、桜餅とわらび餅を両方2つずつ下さい」
「おおきにー」
中年女性の店員さんは、ショーケースに並べられていた桜餅を手早くフードパックに包み、プラスチック製のカップに入ったわらび餅と一緒に紙袋に入れて手渡してくれた。
僕が代金を払うと、店員さんは親しみやすい笑顔で「またおいでやすー」と挨拶する。接客ひとつとっても地域の特色が出るんだなと思いながら、甘味処を後にする。
「花島さん、どっちから食べる?」
「そうね……まずは桜餅から……」
了解と答えながら、フードパックを取り出す。関東と関西の桜餅は形状が違うと、ぐれ兄から聞いた覚えがあるけど本当だった。
僕が見慣れた桜餅は塩漬けにした桜の葉とピンク色の皮で餡を巻いたものだけど、購入した桜餅は少しつぶつぶした白っぽい生地を丸めたものを塩漬けにした桜の葉で包んでいる。
花島さんは桜餅の葉を剥さないで、そのまま食べている。僕も葉は剥さずに食べるタイプだ。
桜の葉の香りが移った生地はほんのり甘くて、もちもちしていて美味しい。餡子はさっぱりとした甘さで、いくらでも食べられそうだ。
桜餅を堪能してから本田さん達の所に戻ると、近くにいたろっしーとすけっちが何やら騒いでいる。
「なーなーっ。あいつらって、修学旅行カップル第1号じゃん?」
「ひゃーっ。そーだ、そーだっ」
ろっしーが指差した方向を見ると、手を繋いで2人の世界に浸っている男女がいた。僕も花島さんとあんな風にイチャイチャできればいいけど、現実は無情だ。
「なーんでイベントって告白率高くなるかにゃー」
「ノリじゃない……?」
ろっしーの疑問に答えた花島さんは、わらび餅を竹串で刺してパクリと食べた。可愛い……。今はただ、花島さんと一緒に京都を満喫できる倖せを噛みしめよう。
「ノリでもいい……」
「告白されたい……」
ろっしーとすけっちは女の子が告白してくるのを待つんじゃなくて、気になる女の子を誘う攻めの姿勢が必要だと思う。
僕は攻めの姿勢に切り替えられなかったせいで、花島さんに告白したくても振られるのが目に見えているから、想いを伝えられないという泥沼に陥っている。
駄目元で告白して玉砕して、花島さんと気まずい関係になったら嫌だ。
花島さんは僕を振った後も以前と同じように接してくれるかもしれないけど、それはそれで歯牙にもかけられていないようで嫌なんだよな。
叶わない恋に見切りをつけて、次の恋を探した方が有意義だとは思うけど。もくもくとわらび餅を食べる花島さんを見ていると、胸を締め付けるような愛しさが込み上げてきて。そう簡単に切り替えられないよなと実感する。
僕は切ない気分に浸りながら、何もかけてない状態のわらび餅を食べた。食感はもっちりしているのに、大して噛まない内にさっと溶ける。
ほんのり甘みがついているからこのまま全部食べられるけど、後がけ用のきなこと黒蜜がついているから使ってみよう。
きなこと黒蜜、どっちを先にかけようか迷っていたら、気の強そうな女の子が夾に声をかけている事に気付く。
「ねぇ、夾。大事な話があるから一緒に来て?」
あ、これ、告白される流れだな。夾は女の子の思惑に気づいてないのか、大人しく連行されている。
夾は押しに弱いけど、
「告白……か」
ざわめきに紛れるほどの小声で、魚谷さんが呟いた。
本田さんはコンビニの君が紅野兄だと魚谷さんに告げていないようなので、僕から魚谷さんに教える事はしない。クレノさんに会いたいから取り次いでくれと魚谷さんに頼まれても、できないからな。
「
魚谷さんに唐突に呼びかけられて驚いたのか、本田さんは裏返った声で「は、はい!?」と返事をした。
「おかしいと思わん? そんな告白ラッシュ起きてんなら、今頃王子とリンゴ頭は引っぱりダコだろうに、なーんでヒマこいてんだろ?」
「あ……っ。そう言われますと……っ」
「僕はグループ行動を優先したいから、ファンの子達に前もって頼んでおいたんだ」
僕が花島さんに食べ物を買ってあげる事が気に食わない子もいそうだから、花島さんは僕にとって恩人と呼べる人なので、余計なちょっかいを出したら絶対に許さないと釘を刺しておいた。
毒電波を操る花島さんを呼び出してシメようとする無謀な勇者は、そうそういないと思うけど念のため。
「はぁん、人気者は大変だな。王子も自分のファンに、自由に行動させろって頼んだのか?」
「俺はモテないから、ファンなんかいないよ」
「王子の護衛という名の威嚇をするプリ・ユキの熱い視線に気づかない由希には、プリンス・オブ・ザ・BOKUNENZINの称号を進呈してやろう」
バナナで釘が打てそうな冷気を纏った由希は、「なにバカな事言ってるんだ」と見当違いなツッコミを入れた後、気を取り直したように会話を続ける。
「……それにモテるなら夾の方だよ。今も呼び出しをもらったみたいだしね」
「あっ、ホントだ。マジいねぇ。捜せ!! 見つけ出せ!!」
「姐さん、覗き見っスか!? 合点承知ィ!!」
うおおおおと雄叫びをあげる魚谷さんに、ノリのいいろっしーとすけっちがついていく。え!? 花島さんも行くの? だったら僕も行こうっと。
花島さんは夾の捜索隊から早々に離脱した。桜餅とわらび餅を食べ終えた花島さんは、次なるスイーツを求めていたらしい。
僕は残っていたわらび餅を口の中に詰め込んで、急いで咀嚼する。もう少し時間をかけて食べたかったんだけど、花島さんに追いつくためにはやむを得ない。
ソフトクリームとジェラートを扱うお店に入ってから、数分後。花島さんは抹茶のジェラートを、僕は抹茶ソフトを持って店から出た。
「魚谷さん達を捜す? それとも本田さんの所へ戻る?」
「そうね……あら、この声は……」
すけっちとろっしーの声だ。なにやら騒いでいるな。そんなに離れた場所じゃなさそうだ。
花島さんと一緒に、声が聞こえる近くの飲食店の外の奥まった所に行ってみると。
「「おまえの目は節穴かぁぁ!!!」」
「きゃあきゃあ、ごめんなさいごめんなさいぃ」
青筋を立てた魚谷さんと夾が声を揃えて怒鳴り、夾を呼び出した女の子が悲鳴を上げながら謝っていて。
「「お゛お゛おお、モテたいィィィィィ」」
ろっしーとすけっちが願望を叫びながら、怪しい宗教の儀式のように祈りを捧げていた。
「あらあら……楽しそうね……」
このカオスな状況を見てそんな感想が出てくるなんて、花島さんは大物だよ。
「こら、そこっ! 何を騒いでいるんだ!」
騒ぎを聞きつけたのか、
他の先生だったら騒動を起こした生徒達から根掘り葉掘り事情を聞き出して、ねちねち説教するんだろうけど。繭子先生は「他の観光客に迷惑をかける事はするな」と、注意するだけに留めてくれた。
「それと……買い食いは禁止されているんだがな?」
呆れを浮かべた繭子先生の視線の先には、食べかけの抹茶ソフトを持つ僕だけがいる。僕が花島さんをちらりと見やると、彼女は既にジェラートを完食済みだ。はっや。
繭子先生に一喝された後、本田さんや由希と合流しに行く。その道中、怒りが冷めやらぬ魚谷さんが「あ゛ー、ムカつく。マジウザ」とブツクサ言っていた。
ろっしーから聞いた話だと、夾に告白した女の子が案の定振られて、覗きに行った魚谷さんに八つ当たりしたらしい。夾の事が好きだから告白の邪魔しに来たんでしょ、と言ったとか。……知らないって怖いね。
ちなみにろっしーとすけっちは、夾が「俺はモテたいなんざ思ったコトもねぇよ!!」と言ったから、羨ましさが天元突破してモテたいと叫んでいたようだ。
あ、花島さんの好物のお団子が売ってる。花島さんも当然のように目をつけていたので、僕は12串購入した。
「向こうで騒いでいたみたいだけど、何かあったのか?」
由希の問いかけを受けて、僕が簡潔に状況説明をする。
「はしゃぎすぎて、繭子先生に叱られちゃった」
「だっ、大丈夫でしたか……!?」
「大丈夫よ、透君……私がずっと付いていたから、大事にならずに済んだわ……」
花島さんは特に何もしていないのに、自分の有能さを本田さんに抜け目なくアピールしている。夾が「ウソつけっ。花島も買い食いしていただろーがっ」とツッコミを入れたけど。
「あ……あの、そもそも何が原因で……そんな……騒ぎに……」
「別にっ……おまえに関係ないっ」
夾のやつ。女の子に告白された事を
僕が咎める前に、由希が夾の脳天に勢いよくチョップを入れて制裁を下した。
「な……っ、なにしやがんだ!! どいつもこいつも好き勝手にどつきやがって!!」
「この……破滅的馬鹿が!!」
由希には散々「バカ」と罵倒されているのに、破滅的という斬新かつ救いようのない形容詞がついたせいか、夾は反論の言葉がとっさに出ないほどショックを受けている。
「……今のは正しい反応ね……建視さん、草摩由希にもおダンゴをあげてちょうだい……」
「うん、わかった。おら、由希。花島さんの優しさに感謝して、むせび泣きながら食べるがいい」
「むせび泣かないけど、ありがとう」
由希はお団子を受け取った。優等生の由希は、買い食いはダメだと言うかと思ったけど……まぁ、いいや。本田さんと魚谷さんにもお団子を勧める。
……本田さん、密かに落ち込んでいるな。破滅的バカにはお団子はやれんな。
赤や黄に色づいた山々が水面に映る大堰川に架かる渡月橋を渡ると、土産物屋や和雑貨店や食事処が軒を連ねる嵐山商店街のメインエリアが見えてきた。
海高の生徒以外の観光客も買い物や味めぐりを満喫中だから、すごく混雑している。店に入ってお土産を品定めするのは無理だな。一発で変身してしまう。という訳で。
「お願いできるかな?」
「「「任せて、建視君!!」」」
2年代表の
女の子をパシリに使うなんて、という非難がどこかから聞こえるけど違うんだ。
僕は当初、同じクラスの男子に頼もうとしたんだけど。それを聞きつけたキン・ケンのメンバーが、「私達の方がより良いお土産を選べるから、私達に任せて!」って言い出したんだよ。
僕はお土産を渡す人が多いから、彼女達が人海戦術をとってくれるのは有難いけどね。
「建視君、写真撮ろっ」
「おっけー」
キン・ケンのメンバーの約半数が買い物戦線に赴いている間、僕は残りのメンバーと撮影会をする。
買い物に行っているファンの子達とは、明日のショッピングタイムの最中に写真を撮る予定だ。サービスサービスぅ!
「ねぇねぇ、建視君。買い物をしている途中で、見かけたんだけど……」
買い物を終えたキン・ケンのメンバーが教えてくれた話によると、本田さんと夾が2人であぶり餅を食べていたらしい。
夾は破滅的な失言をしたけど、ちゃんと挽回したようだ。移動のバスに乗る時、本田さんが嬉しそうにしているのが見て取れた。それは良かったけど。
「あれ? きょんの頬に引っ掻き傷があるよ」
「猫にやられたんだよ」
猫憑きの夾は猫に好かれこそすれ、攻撃される事はまず無いのに何があったんだろ。微妙な謎が残った。
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49「慊人へのお土産は?」
嵐山での観光を終えた
関西式すき焼きの夕飯を食べて、クラスごとにパパッと風呂に入り、割り振られた部屋に布団を並べたらお待ちかねの時間だ。
「……みんな、女子の部屋に行きたいかーっ?」
普段使いの浴衣の上に羽織を纏った僕は、合衆国を横断するクイズのノリで掛け声を発した。大声を出すと同じ階にいる先生に怒られるから、声は小さめで。
「……おーっ」
小声で答えたのはD組の男子6名。この部屋を使っているのはグループ行動のA班・B班・C班の男子9人なので、半数以上が参加を表明している。
と、その時、空を切る音と同時に何かが飛んできた。顔面にぶつかる寸前で、僕は枕をキャッチする。ビーンボールを投げた犯人は、中華風のパジャマを着た
「
由希は知らないだろうが、キン・ケンの決まりに『
ファンじゃない子がはしゃいで僕に抱きつこうとしても、キン・ケンのメンバーが速やかに遠ざけてくれる。
「まぁまぁ。けんけんは修学旅行に賭けているんだから、大目に見てやってくれよ」
すけっちが仲裁に入ると、由希は怪訝そうに眉を寄せて疑問を発する。
「修学旅行に賭けているって、建視は何をするつもりだ?」
「気になる女の子との距離を縮めて、告白するんだよ。なぁ、けんけん」
「……僕は告白ラッシュの波に乗る事はできないよ」
僕が絶望を漂わせて答えると、由希や
長袖のTシャツを着てスウェットパンツを穿いた夾は、腹筋運動に集中していたから僕らの会話を聞いていなかったようだ。
「なんで? けんけんは
「花島さんと2人きりになれるように俺達も協力するから、告白しちゃえよ」
告白する流れになりそうだから、僕はそれを断ち切るための言葉を投下する。
「花島さんは好きな人がいるんだよ」
「ええっ!? 誰!?」
「オレらの知っている人?」
花島さんの許可を得ずに、彼女の好きな人を言い触らすのは如何なものか。僕の中の良心はそう訴えたけど、悪魔が囁いた。
夾は花島さんが自分の養母になる事を認めないだろうから、今のうちに味方につけておくべきじゃないか、と。
「花島さんの好きな人は、
その名前を出した瞬間、腹筋運動をしていた夾がぴたりと動きを止める。由希は驚愕で目を見開いた。沈黙を破って最初に言葉を発したのは、すけっちだ。
「草摩って事は、けんけん達の親戚の人?」
「そうだよ。僕達に武術を教えた人だ」
「おい……タチの悪い冗談はやめろや、建視」
夾が恫喝するような低い声を出した。
「信じられないなら、
それを聞いて、僕が冗談を言った訳じゃないと悟ったようだ。夾の顔から血の気がざあっと引く。
「待てコラ……花島が母親になるなんざ、ぜってぇ御免だぞ……?」
「え゛!? カズマさんって、きょんのお父さんなのか?」
「正確に言うなら夾の養父だよ。夾の三者面談の時に学校に来た師範を見て、花島さんは一目惚れしたらしいよ」
僕が補足説明すると、夾は頭を抱えながら「おい……建視」と呼びかけてくる。
「おまえ、花島の事が好きなんだろ? 口説くなり告白するなり何なりして、花島を早くモノにしろよ」
「あのな。相手は花島さんだぞ? そう簡単に落とせたら苦労しないって」
「建視は
「花島さんにバレないように2人の恋路の邪魔をする方法があるなら、教えてほしいよ……」
手詰まりに陥った僕と夾が揃って項垂れると、暗くなった雰囲気を変えるようにろっしーが明るく提案する。
「ここで考えていても、しょーがないからさ。とりあえず、女子の部屋に行って親睦を深めてこようよ」
「それとこれとは問題が違うよ。学年主任の先生が、異性の部屋に行くなと注意していたじゃないか」
クソ真面目な由希が再び制止してきた。どうやって由希の目を掻い潜ろうかと思っていたら、戦闘モードに入った夾が由希と相対するように立つ。
「世の中には規則を守る事より優先すべき事があンだよ、クソ由希」
「御大層な事を言っているけど、花島さんと師範が結ばれる事が嫌なだけだろ。バカ夾」
「おぞましい事を言うんじゃねぇ!」
夾と由希がガチバトルを始めたおかげで出来た隙を衝いて、僕達は部屋から抜け出す事に成功した。
「夾の犠牲を無駄にはしない……っ」
「いざ、
僕を含めた7名は、階下にある女子の部屋に向かおうとしたのだが。
由希と夾のバトルの騒音を聞きつけてやってきた生活指導の先生が、「どこへ行くつもりだ?」と脅すように言ったから引き返さざるを得なかった。ちぇっ。
▼△
修学旅行2日目。僕達は奈良公園に来ている。広い園内には1000頭以上の鹿が生息しているとガイドブックに書いてあったけど、本当に鹿だらけだ。
「そういや、王子達は朝メシに来んの遅れていたけど、どうしたん?」
使い捨てカメラで鹿を撮っていた魚谷さんが、ふと思い出したように疑問を口にした。遅刻した当人の由希は話しづらそうにしていたので、僕が代わりに説明する。
「由希は低血圧で朝弱いから寝坊したんだよ」
「そうなのか? あたしらが物書きの家に泊まった時は、王子は朝っぱらからきょんと喧嘩していたぞ」
な、なんだと!?
あたしらって事は、花島さんもぐれ兄の家に泊まったに違いない。お泊り会をしたなんて話は初耳だから、僕が花島さん達と出会う前に決行されたのだろう。
もっと早く出会っていれば……! 心の中で血涙を流しながら、僕は魚谷さんの疑問に答える。
「夾が由希の悪口を言ったんじゃないか? 由希は寝起き悪いくせに、自分の悪口を言われると即座に覚醒するからな」
由希が無言で睨んでくるけど、僕は真実を話しているだけだもんね。
「へぇ。じゃあ、今朝もきょんが王子の悪口を言ったんか?」
「いや、夾はさっさと朝ご飯を食べに行ったよ」
「おめぇも朝飯を優先しただろ」
夾が呆れ顔でツッコんできたので、僕は「修学旅行で寝坊して先生に叱られるのも、青春の1ページだと思ったんだよ」と言い返す。
今にして思えば、中学の修学旅行の時も由希を放置すればよかった。
由希のクラスメイトに由希を起こしてくれと頼まれて、夢の世界に旅立っている子憑きの従弟の耳元で「女男」って言ったら、
「そんなら、誰が王子を起こしたんだ?」
「すけっちから聞いた話だと、A組のナベこと
半覚醒の由希に向かってナベが、「お嬢さん育ちなんだろーなぁ」と言った途端、由希は瞬時に目覚めたのだとか。由希の地雷を踏んだナベは、耳を引っ張られる程度で済んだらしい。解せぬ。
は~んと納得の声を上げた魚谷さんは、
僕は鹿を見つめる花島さんを撮影する。あ、今回は暗黒オーラが入らなかった。
花島さんを撮ると高い確率で、彼女の背後に黒々としたオーラが写るんだよな。夾は「心霊写真みてぇだな」と言っていたけど、あれは花島さんの魅力が溢れたものだから心霊写真なんかと一緒にしないでほしい。
「そのアト、副会長どしたん?」
「翔はなんかギャーギャー言っていたけど……でもいい。知らない」
「え……よっ、よろしいのですか……?」
ひと足先に買った奈良土産を持った本田さんが問いかけると、腕組みをした由希はムスッとした顔で答える。
「いいんだよ。あいつには気を遣うだけムダなんだ」
“あいつ”ねぇ。随分と気安い呼び方だな。ナベは綾兄と同属性だから、由希と馬が合わないんじゃないかと思っていたけど、そうでもないようだ。
「その副会長だけれど……私……その人に会った事があるような……そんな気がずっとしているの……」
本田さんと一緒に芝生に膝をついて鹿を眺めていた花島さんが、おもむろに立ち上がりながら気になる発言をした。
「「え?」」
僕と本田さんの声がハモった。
本田さんは純粋に疑問に思ったようだけど、僕はよからぬ予感を抱いた。花島さんが小さい頃に恋に落ちた相手がナベでした、とかだったら冗談じゃないぞ。
「以前……壇上で挨拶する姿を見た時から、昔……どこかでこの人を……って……」
壇上で挨拶って事は、生徒会の任命式の時か。僕が見当をつけている間も、花島さんは言葉を続ける。
「そう……透君と一緒に……」
「え゛ぇ!? わっ、私と一緒に……ですか!?」
「そうなの!?」
びっくりした様子の由希の問いかけに、花島さんは「どうだったかしら……」と答える。魚谷さんが「あやふやな記憶で混乱を呼ぶなよなぁ、花島ぁ」と、冷静にツッコミを入れた。
「…………すみません……全然わかりません……です。実を言いますと、お顔もよく存じていないわけでありまして……」
記憶を探ったけど思い出せなかったのか、本田さんは項垂れた。由希が慌てたように、「いっ、いや別にいいんだよ、そんな……」と言っている。
「そうよ、透君……きっと気のせいに決まってるわ……」
言い出しっぺの花島さんは、本田さんの両肩に手を置いて慰めた。
本当に花島さんの気のせいなのかな? あとでナベに聞いてみるか。と思ったけど、観光中にA組と行動が一緒になる事ってあんまり無いんだよな。
奈良観光を終えて旅館の自販機でお茶を買っていた時、友人とダベっているナベが廊下を通りかかったので、僕は「よう」と声をかけた。
「おィーっす! なんか、けんけんに会うの久しぶりだな~っ。けんけんの噂はよく聞くんだけど。ファンの女の子をパシリに使っているとか、撮影会を開催したとか、魔王と恐れられる女の子に貢いでいるとか」
おうおう、随分なご挨拶だな。
「花島さんは魔王じゃない。失礼な事を言うな。ファンの女の子に買い物を頼んだ事と、撮影会は事実だけど」
僕はそれよりもと言ってから、「2人で話がしたい」と持ちかけた。
「いや~ん、けんけんったら翔に気があるのォ?」
「ただのモノマネだから! マジに受け取らんといて!」
「受け取るかアホゥ」
ナベの友人と別れて廊下の奥まった所に向かってから、本題を切り出す。
「ナベは昔、本田さんや花島さんと会った事あるのか?」
真面目な顔つきになったナベを見て、花島さんの記憶違いじゃなかったようだと確信を得た。
「……本田さんが言ったのか? オレに会った事あるって」
「いや。花島さんが、ナベに会った事あるような気がするって言ったんだよ。本田さんも一緒にいたみたいだけど、彼女は憶えてないってさ」
何か考えるように眉を寄せたナベは、「そっか」と答えてから立ち去ろうとした。
「おい、待てよ。会った事あるなら、どこで会ったのか教えてくれよ。場所が判れば、本田さんも思い出すかもしれないし」
「ん゛ー……これってオレ1人の問題じゃないから、答えらんないっス」
「なにか事情があるのか?」
「そゆコト」
それなら無理に聞き出さない方がいいだろう。僕が「解った」と言って部屋に戻ろうとしたら、さっきとは違った意味合いで真面目な顔をしたナベに呼び止められた。
「今夜、エロビデオの質の良し悪しについて語り合わないか? ゆんゆんも一緒に」
「由希はヤンマガの表紙を直視できないくらいピュアだから、エロビデオを観た事ないと思う」
「ヤンマガの表紙を見る事ができないって……ゆんゆんは箱入りお嬢さんだな」
「箱入りって処は合っているよ」
▼△
あっという間に修学旅行は終わりを迎えた。
学年主任の先生は「家に帰るまでが修学旅行だぞ」と言っていたけど、東京駅に着いたら解散なので寂しい。などと感傷に浸っている余裕はない。解散したらやらないといけない事がある。
「由希、話があるんだがちょっといいか」
「何だよ、話って」
怪訝そうな面持ちの由希を連れて、人通りの少ない端っこに向かった。東京駅は人が多いから、ぼさっと突っ立っていると異性にぶつかってしまう。
「
本当なら京都・奈良に滞在中に聞くべき案件だけど、由希の心情とそれを気にする本田さんに配慮して、修学旅行が終わるまで待ってやったのだ。
僕の気遣いなんて知る由もないであろう由希は、嫌そうに眉をしかめて「買ってない」と答える。
「そうだろうと思って、鹿革製のブックカバーを入手しておいた。これを由希からのお土産として慊人に渡すから、このメッセージカードに一言書いてくれ」
ちなみにブックカバーとメッセージカードは、僕の頼みを受けたキン・ケンのメンバーが奈良町の店で選んで買ってきてくれた。もちろん、代金は彼女達に支払い済みだ。
「なんで、そこまでして……」
「お土産は人間関係をスムーズにする潤滑油なんだぞ」
本音を言うと僕が慊人にお土産を渡す際、「由希は僕への土産を買っていたか?」と聞かれそうだと思ったからだ。
何の対策も打たずに買っていなかったと答えたら、慊人は「なんで買わせるように仕向けなかったんだ」と叱責してくるだろう。
考え込んでいた由希は何かを思いついたように「そうだ」と言ってから、背負っていたサッチェルバッグを開けた。ビニール袋の中から赤く色づいた紅葉の葉っぱを取り出して、「はい、これ」と言いながら僕に差し出してくる。
「……この葉っぱをどうしろと?」
「俺からの土産だと言って、慊人に渡して」
今なんて言ったこのネズ公。
「慊人をおちょくりたいなら自分でやれよ」
「おちょくってなんかいないよ。紅葉が降ってくるみたいで綺麗だなと思ったから、春達や生徒会の後輩達にあげようと思って幾つか集めたんだ」
そういう乙女チックな言動をとるから、由希はナベにお嬢さん呼ばわりされるんだよ。とか言ったら由希が確実に怒るから、どうにか堪えた。
僕の場合は家に帰るまでが修学旅行じゃなくて、家に帰って慊人にお土産を無事渡し終えるまでが修学旅行だからな。
「ナルホド、心の籠ったお土産ってやつか。さすが由希! 僕達にできない事を平然とやってのけるッ。そこにシビれる! あこがれるゥ!」
「……馬鹿にしているのか?」
結局怒った。難しい奴だな。
「そんなまさか。でも、僕が慊人に葉っぱを渡すとからかっていると思われそうだから、由希が慊人に直接渡してくれよ」
「……いいよ」
「無理だよな、知ってた。折衷案として……」
ブックカバーとメッセージカードと紅葉の葉っぱを、3点セットで渡す案を提示しようとしたのだが。予想外の返事を聞いた気がして、軽く混乱した。
「……僕の聞き間違いじゃなければ、由希はさっき『いいよ』って言った?」
「うん。今すぐ慊人に会うのは無理だけど、来年の正月は本家に帰ろうと思う」
「正月に挨拶をするだけ? 宴会には出ないのか?」
「出るよ」
僕は心の中で万歳三唱した。
由希が自発的に宴会に出てくれれば、僕が立てた計画を実行する必要はなくなる。由希の両親に借りを作らずに済むぞ!
いや、待て。ちゃんと確認しておかないと、糠喜びになりかねない。
「直前になって、『気が変わったから行くのやーめっぴ』とか言わない?」
「やーめっぴって何……余程の事がない限り、気は変わらないよ」
「そんじゃ、宴会に出席する旨をメッセージカードに書いてくれ」
「いいけど……」
由希は歯切れの悪い返事をしながらも、僕からメッセージカードとボールペンを受け取った。
子憑きの従弟と別れた僕は、東京駅に迎えに来ていた送迎車に乗って草摩の本家に帰還する。お帰りなさいと声をかけてくるお手伝いさんに続いて、白衣を着た兄さんが出迎えてくれた。
「お帰り」
「ただいまーっ」
「届いた荷物は、建視の部屋に置いてある」
「ありがと、兄さん」
自室に戻って制服から私服に着替えてから、『われもの注意』と記された荷札シールが貼られた段ボール箱を開ける。
緩衝材を敷き詰めた中には、綺麗に包装された小ぶりの箱が入っていた。箱の中身は漆器だけど、配送中に乱暴に扱われて万一の事があるといけないから割れ物扱いにしたようだ。
僕は修学旅行のお土産を持って、当主の屋敷に向かう。慊人の世話役の案内で、十二支の
「慊人、ただいま」
座卓に肘をついて読書をしていた慊人は、ページを繰る手を止めて僕を見上げる。
「お帰り、建視。旅行先で悪さはしなかったろうね……?」
慊人の言う“悪さ”とは、異性とイチャイチャする事を指す。修学旅行中に期待していた恋愛イベントは起きなかったので、僕は遠い目になりながら「してないよ」と正直に答える。
「最近の建視は自分の立場を忘れているようだから、ちゃんと言った方がいいかな。建視は母親を殺したも同然なんだから、僕以外の誰かを好きになる資格なんて無いんだよ」
心臓に大きな氷柱を打ち込まれたような気分になった。予想外の精神攻撃を受けて動揺する僕を、慊人は冷淡な目付きでじっと観察している。
「……解っているよ」
花島さんへの恋心は実らないまま、枯れていくのだろう。諦観の籠った僕の答えは、慊人にとって満足のいくものだったらしい。慊人は機嫌良さそうに微笑んで、話題を変える。
「由希はどうだった?」
「あいつは根っからの優等生だから、修学旅行中に女の子に手ぇ出そうなんて思ってもいないよ。そうそう、由希といえば。慊人へのお土産を渡してほしいと、由希に頼まれたんだ」
僕は持参した紙袋の中から取り出したブックカバーが入った箱と、メッセージカードが入った小さな封筒と、紅葉の葉っぱを座卓の上に置いた。
慊人は不快そうに、紅葉の葉っぱを見下ろす。
「机の上にゴミを置くな」
「これはゴミじゃなくて、由希のお土産だよ」
紅葉の葉っぱは由希が慊人に直接手渡すという話になっていたけど、ずぼらな由希は紅葉の葉っぱを失くしそうだと気付いたので、僕が渡す事にしたのだ。
葉っぱを視界から外した慊人は包装紙を丁寧に外して箱を開け、その中に収まっていた青色の鹿革製のブックカバーを手に取った。しばらくそれを眺めてから、慊人は呆れたような視線を僕に投げかける。
「これは建視が買ったものだろ」
「……えーと」
「建視が僕に寄こすプレゼントの傾向は、大体把握している」
なんてこった。由希の代わりに買った意味なかったよ。頭を抱える僕を余所に、慊人はブックカバーを置いて紅葉をつまみ上げる。
「これは由希が拾ったものだな。あいつはこういう、つまんないモノが好きだから」
「よく知ってるね」
「当然だ。由希は3歳の時から僕の側にいるんだぞ。……僕の処にしか居場所がないって、ようやく気付いたのか」
つまんでいた紅葉を指で弾き飛ばした慊人は、メッセージカードを愛おしげに撫でた。メッセージカードには由希の几帳面な文字で、『宴会に出るから正月は本家に帰るよ』と書いてある。
由希の様子を見る限り、慊人の処に帰る気はなさそうだったけど。口は災いの門というから、余計な事は言わない。
「これは僕からのお土産だよ」
さすがに慊人へのお土産は、自分で店に赴いて買ったよ。幸いな事に、京漆器の店は人でごった返すほど混雑していなかった。
慊人の手に渡った丸い小物入れは、つやつやとした黒漆塗りと金に輝く椿の花の蒔絵の対比が見事な品だ。小物入れをじっと見つめた慊人は、探るような視線を僕に向ける。
「……なんで、椿にしたんだ」
「慊人は椿が好きだろ? 昔から部屋によく飾っているし」
椿が嫌いになったのかと思ったけど、慊人はそれ以上なにも言わなかった。慊人は畳の上に落ちていた紅葉の葉っぱを拾って、僕があげた小物入れの中に入れている。
僕が一生懸命選んだお土産が残念な使われ方をしている事に思う処はなくもないが、慊人が僕と由希のお土産を受け取ってくれたので良しとしよう。
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50「呪いを解こうとするのはやめろ」
6/17 一部訂正しました。
修学旅行から帰ってきた翌日の夕方。僕は旅行のお土産と写真を持って、春の家に赴いた。
お手伝いさんが「
「春、僕だ。入るぞ」
「んー……」
入室許可が出たと判断して、ドアを開ける。私服に着替えた春がソファに腰掛けて、ゾンビを倒しまくるゲームをしていた。
「修学旅行のお土産を持ってきたよ。それと
みそせんべいが入った箱と、写真を入れた封筒を差し出す。ゲームを一時停止させた春は、真っ先に封筒を開ける。由希ラブは相変わらずだな。
「由希も
「そりゃもう」
修学旅行の土産話をしながら本題を切り出すタイミングを見計らっていたら、春の方から「何か話があるんじゃないの?」と水を向けてきた。
「誰かから聞いたかもしれないけど、リン姉が体調を崩しているんだって」
「……聞いたよ、
春の声のトーンが低くなった。リン姉のために何もできない自分が歯がゆいのだろう。
楽羅姉の話だと、リン姉は春と会うのを徹底的に避けているらしい。それを聞けば、リン姉と春の関係が拗れたと察せられる。拗れて険悪になる段階を通り越して、破局したのかもしれない。
リン姉が呪いを解こうとしている事を知れば、春はリン姉の手助けをしようとするだろう。リン姉を止める可能性もなきにしもあらずだけど、春はリン姉の意志を尊重するはずだ。
けれど、リン姉は呪いを解く方法を捜す助力を春に請わなかった。恐らくリン姉は内密の捜し物が
それを回避するため、リン姉は春と別れたんじゃないか?
「建視、どうしたの?」
僕が考え込んだのを見て取ったのか、春が声をかけてきた。
「いや、その、なんだ。不満や不安を溜め込むのは、精神衛生上よくないと思ってな。悩みがあるなら聞くぞ?」
「今のトコロは大丈夫。……心配してくれて、ありがと」
そう言いながら微笑む春は、自分が辛い時でも相手を気遣う優しさを持っている。過酷な幼少期を耐え忍んだリン姉は、春の優しさに救われたはずだ。
リン姉の行動原理が今も春にあるのだとしたら、リン姉が呪いを解こうと決意したのは、春を呪いから解放するためかもしれない。
▼△
Side:
ホントは呪いを解く方法を捜すのに専念したいけど、今日は高校に行く事にする。出席日数が足りなくなると、アタシの保護者代理の楽羅の両親に迷惑をかけてしまうから。
制服を着て楽羅の家から出た時、赤髪が目を引く建視がこっちに近づいてくるのが見えた。
「おはよう、リンね……え」
挨拶をしてきた建視は、アタシの顔を見てぎょっとしたように赤い目を見開く。
今のアタシの顔は土気色で、目の下には黒々とした隈が刻まれている。洗顔した時に鏡を見て、酷い有様だと自分でも思った。
アタシの体調についてごちゃごちゃ言われる前にその場から離れようとしたけど、建視は「リン姉、ちょっと待って」と呼びとめてくる。
「はい、これ。修学旅行のお土産」
建視が差し出してきたのは、表紙にファンシーな鹿のイラストがあしらわれたスケッチブックだった。
以前のアタシは暇潰しに絵を描く事があったけど、今はそんな事をしている余裕なんか無い。
呪いを解く方法を捜すのは諦めて好きな事をしろ、と遠回しに言われているような気がしてムカつく。
礼を言わずに無言で土産を受け取って、通学バッグの中に押し込んだ。用は済んだはずなのに建視は立ち去らず、お節介な言葉をかけてくる。
「リン姉、ちゃんと食事をとった方がいいよ。それと睡眠も」
食事をするのはキライだ。アタシの家族が壊れた瞬間を思い出してしまうから。眠るのもキライだ。悪夢をよく見るから。
春と一緒にゴハンを食べたり寝たりした時は、苦痛なんて感じなかったけど。春にすがって寄生していたらいけないと気付いたから、1人でいいと決めたんだ。
「……うるさい。アタシに構うな」
「構うなと言われても、そんな具合悪そうにしていたら気になっちゃうよ」
無視して正面玄関に続く道を進むと、建視はアタシについてくる。
「ねぇ、リン姉。捜し物をするなら、体調は万全にしておいた方がいいと思う。だから……」
「アタシが前言った事は忘れろ。建視が厄介事に首を突っ込むと、とり兄が心配する。とり兄の気を揉ませる事は、建視の望むトコロじゃないだろう?」
建視はぐっと言葉に詰まったから、彼の痛いトコロを衝いたようだ。
これで余計な世話を焼くのを諦めるだろうと思ったのに。両手を握り締めた建視は、アタシをまっすぐ見据えながら言い返してくる。
「リン姉が1人で無茶する事だって、僕の望む処じゃない。春や楽羅姉や兄さんも、リン姉の事を心配しているんだよ」
正直言って驚いた。上っ面だけの気遣いをする建視が、それほど親しくないアタシに一歩踏み込んでまで案じる姿勢を見せるなんて思わなかったから。
「アタシが何をしようと、アタシの勝手だ」
バッサリ切って捨てると、建視はそれ以上食い下がってこようとしなかった。
よかった、と心の中で安堵する。
呪いを解く方法が知りたくて慊人のお気に入りの建視に訊いたけど、アタシの問題に建視をこれ以上巻き込みたくない。
建視がアタシを気にかけている事が慊人に知られたら、アタシも建視もタダじゃ済まないだろう。
ようやく1日の授業が終わった。ぐれ兄の家に寄ろうと思ったけど、
「リン……久しぶり。しばらく姿を見なかったけど、元気に……何、その顔色。メチャメチャ土色だし……ちゃんと食べてるの?」
アタシの事なんか放っておいて、
「どうして、いつまでもアタシに構う……?
「――それ……は……責めてるの?」
悲しそうな顔をした燈路を見て胸が痛んだけど、アタシはこんな言い方しかできない。
「リンの言い方はまるで、親に愛される事は間違っているみたいだ。平穏は軽薄で、悪い事みたいだ……」
親に愛される事が間違いだなんて思ってない。ただ、羨ましいと思ってしまうだけ。
アタシが両親に愛される事は、もう2度とないから。そもそも、最初から愛されていたかどうかわからないけど。
――いいわよ、もう帰ってこなくて。いいわよ、どこか目の届かない処へ行って。……もうわからないから。どうやって愛したらいいのか、わからないから。
ママの絶縁の言葉が蘇って、暗澹とした気分になったアタシの様子に気付いたのか。燈路は「……ごめん」と謝ってきた。
立ち去ろうとしたアタシの背に向かって、燈路は「リン……っ」と呼びかけてくる。
「全然みつからないんだろ? 1人でそんな……がんばったって。
呪いを解く方法は何百年も見つからなかった。アタシが1人で足掻いたトコロで、発見できるとは思えない。
それでも見つけるって決めたんだ。……春と付き合っていた事が、慊人にバレたあの日に。
――どっちが先に唆したの? 潑春? おまえ? どっちが僕の不興を買う?
慊人に呼び出されて問い詰められて、アタシは動揺と恐怖で声が出なくなってしまった。
――僕さ、怒ると周りがよくわかんなくなるんだぁ。はとりの左目は災難だったよね。
アタシのせいで春が傷つけられてしまう。そう思ったら反射的に、「アタシが唆したに決まってるだろ!」と答えていた。
その直後、慊人の平手打ちがアタシの顔面に飛んできた。
絶対に逆らえない上位者に暴力を振るわれた事が呼び水になったのか、不機嫌になったパパとママにぶたれたりした事を思い出してしまう。
慊人の前に立つとアタシの中にいる物の怪が萎縮して恐いと思うけど、あの時はそれ以上に恐くて。怯えるアタシを見て、慊人は嗤っていた。
――おまえ、ダメだね。全然ダメだ。潑春と一緒にいてもダメだ。おまえのドス暗さは、潑春を食い潰すよ。
慊人の言葉に反論できない。だって、慊人は本当の事を言っているから。
アタシは春がいないと不安で、自分を保てない。春が欲しくて全部欲しくて、欲望がドンドン増殖していって。こんな「好き」じゃ、春をいつか押し潰してしまいそうだと思っていた。
――自分の価値の低さを思い知れよ。おまえなんか、ただの数合わせなんだって、もっともっと思い知れよ。
そうだ、アタシはイラナイ子だ。
パパとママはアタシのコトがずっと嫌いで重荷だったのに、倖せな家族を演じるために無理をし続けた。
――……おまえ、いらない。
アタシがパパに言われた言葉をなぞるように慊人はそう言い放って、2階の窓からアタシを突き落とした。
落下した際に竹垣か何かにぶつかって、ざっくり切れた背中が燃えるように熱くて痛い。他にも頭とか腰とか色々ぶつけて、体中がバラバラになりそうだった。
窓辺に立った慊人がゴミでも見るかのように、地面に仰向けに倒れたアタシを見下していて。燈路が部屋の窓から身を乗り出して、アタシの名前を必死に呼んでいる。
意識が遠のいていたから、燈路に返事するコトができない。このまま死ぬのかな、って思った時。
――好きだから、俺はリンを望む。
春の熱が籠った言葉が思い浮かんで、涙が自然と溢れた。
いらないって言われたアタシを、望んでくれる人がいた。なんて倖せなコトだろう。
春、ありがとう。嬉しい……。でも、もういいよ。
今度は、春が倖せにならなくちゃ。
解放しよう。アタシから。慊人から。総ての
春のホントの“倖せ”は、広い
アタシの手には何も残らないまま、終わっていいから。
ぐれ兄の家は誰もいないらしく、人の気配が感じられない。好都合だ。物置になっている部屋に入って、箪笥の引き出しの中から箱の中までくまなく捜す。
「これって……」
文章の所々が墨で塗り潰された、和綴じの本を見つけた。
恐らくこの本には、十二支の呪いの解き方が記されていたんだ。後世の物の怪憑きに読まれるとまずいからって、誰かが墨で塗り潰したに違いない。
何かヒントが残っているかもしれないと思い、塗り潰されていない部分を読む。
崩し字で記述されているから読みにくいけど、古文書読解の勉強をしたから読めないコトはない。
寛政という年号が何度も出てくるから、江戸時代の記録だろう。この時代に生まれた十二支憑きについて書かれている。
呪いに関する記述はないのかと思いながら読み進めると、盃の付喪神憑きが猫憑きを連れて逃げたと記されていた。
……こんな事件は知らない。先代の盃の付喪神憑きが、力を乱用したコトは聞いた覚えがあるけど。
詳しい事情が記されていると思われる部分は、墨で塗りつぶされていた。読み取れたのは、逃げた盃の付喪神憑きと猫憑きは捕まって幽閉されたトコロくらい。
「……っ」
目眩がする。気持ち悪い。意識が遠くなる……。
気付いたらアタシは床に倒れていた。窓の障子から西日がさしこんでいる。ウソ。今は何時? どれくらい気を失っていたの?
さっきまで読んでいた和綴じの本が目に付いたけど、続きを読む気にはなれなかった。考えてみれば、ぐれ兄はここにある文献を全て読んだはずだ。
「ぐれ兄……? ぐれ兄、いないの……?」
吐き気を堪えながら居間に向かったけど、誰もいない。声を発した事が引き金になったのか、嘔吐感を催す。
ダメ、吐いちゃ。ダメ、またおこられる。
どうにか抑えようとしたけど、みぞおちが焼けるような感覚に体が負けて畳の上に戻してしまう。汚してしまった。どうしよう。見つかる前にきれいにしなきゃ。
拭くものを捜そうとした時、居間の入口で何かが落ちる音が聞こえた。音が聞こえた方向を振り返ると、ママが立っていた。
「…………あ」
「依……っ、依鈴さ」
「あ゛あ゛あ゛ぁあ゛あ゛、おこらないでおこらないでおこらないでおこらないで、おこらないで、ママ……パパ、おこらないで……っ」
飛んでくる拳から身を守るために腕で自分の顔を庇ったアタシは、ひたすら懇願し続けて――意識がぶっつり途切れた。
「依鈴……さん?」
目の前にママがいると思ったら、青いセーラー服を着た
なんで、このコがアタシの側にいるの?!
起き上がって周囲をよく見たら、アタシは見覚えのないピンク色のベッドの上に横たわっていた。私服に着替えてからぐれ兄の家に行ったはずなのに、いつの間にか浴衣に着替えさせられている。
「あ……っ、お待ち下さい。そのまま……横になってらして下さい……っ。今、はとりさんに知らせて参りますので……」
本田透と入れ替わりにやってきたぐれ兄から、経緯を聞いた。
アタシはぐれ兄の家で文献を捜している途中で、気持ち悪くなって居間で吐いたんだ。その上、帰宅した
「その後、馬になっちゃったりして困ったよ。あのまんまじゃ、病院にも連れて行けないし。とりあえず、透君のベッドに君を寝かせて意識が戻るのを待っていたわけ」
一通り説明したぐれ兄は皮肉っぽい口調で、「……思い出した?」と付け加えた。
「依鈴、病院に行くぞ。用心に越した事はない」
とり兄の言葉を聞いて、恐怖を覚えた。
病院は、ママに絶縁を言い渡された場所だからイヤだ。病院になんか行きたくない。
アタシが窓から逃げようとしたら、とり兄に取り押さえられた。とり兄を振り払おうとした時、ガシャンと陶器が床に落ちるような音が部屋の入口で響く。
「依鈴さん……っ。だ……っ、だめです、依鈴さん、危ない……」
本田透の震え声は、アタシを心の底から案じていると物語っていて。それを聞いたら、頭に冷水をかけられたような気分になった。
アタシってば、何をやっているんだろう。倒れて……取り乱して。呪いを解く方法もみつけられないで。
こんなんじゃ、いつまでも終わりは来ない。
体力を回復しないと捜索を再開できないから、仕方なく体を休める事にした。しばらくして、由希が部屋に入ってきて声をかけてくる。
「リン……本田さんが作ったおかゆ、食べないの?」
「……春に……連絡したら許さないから」
由希に口止めしたけどムダだろう。
「……自分でどうにかするって、春に言われている。……ただ、これだけは伝えておく」
由希はアタシが寝ているベッドに近づいてきて、大切なものを渡すようにそっと囁きかけてくる。
「春は今もリンを好きだよ。とても好きだよ」
……アタシは由希に会うたび酷い事を言ってきたから、以前の由希だったらアタシに近づこうとすらしないはず。
だけど、由希は変わった。暴言に傷ついても自分の内側に籠る事をせず、立ち直る強さを身につけた。
――本田さんのおかげなんだと思う。由希と夾のオーラ……和らいでいた。
冬休み明けに3日も行方知れずになった春が帰ってきた時、そう言っていた。それを聞いたアタシが、そんなにすごいコなのと聞いたら。
――ううん、普通の子。リンも会えばわかるかも。……優しいよ。
だからこそアタシは、「もう君、いらないから。もう飽きちゃったから」と酷い言葉で春を振って、最愛の丑憑きの従弟を遠ざけた。
本田透にも会いたくなかった。
だけど、春と別れて初めてぐれ兄の行った時、縁側で洗濯物を畳んでいた
「入り……ます」
ノックをして本田透が入室してきた。その手には、水が入ったペットボトルを持っている。
「具合は如何ですか? あの……私、居間で寝ておりますので、何かございましたらお声をかけて下さい」
ぐれ兄の家に押しかけて体調を崩したアタシに寝室を取られたのに、彼女は文句の1つも言わない。
……春が言っていた通り、このコは本当に優しい。自分が損をしても傷ついても、他人を気遣う事を優先してしまう。
夏休み明けに
ぐれ兄は本田透が自己犠牲を厭わない優しいコだと知った上で、利用しようとしている。
闇深い草摩なんかに関わらなければ、このコは広くて明るい
優しい
他の
「呪いを解こうとするのはやめろ。藉真に訊きに行っただろ。どういうつもりだ。
このコがそんな感情を抱いてないコトは察せられるけど、十二支の呪いから手を引かせるために最後まで言い切らなきゃいけない。
「そんなモノは全部、全部余計なコトなんだよ。お優しい人間はお優しい
――……責めてるの?
燈路の言葉が思い浮かんだ。
アタシは責めてなんかいない。ただ、優しい
「もしか……して、依鈴さんも呪いを解こうとなさっているの……ですか?」
「……っ、そんなのおまえに関係ないだろ……っ」
「依鈴さんは解く方法をご存知なのですか!?」
「うるさい、余計なコトだって言っただろ」
アタシは本田透の胸倉を掴み上げて、「出しゃばるな、口を挟むなっ」と脅しつけてやった。
荒事とは縁のなさそうな彼女は怖がって涙ぐむかと思いきや、強い口調で言い返してくる。
「嫌です!! 出しゃばります!!」
「……ふざ、ふざけんな、おまえ」
「嫌です……っ。依鈴さんにも譲れないモノがあるように、私にも」
やめろ。アタシの心の中に入ってくるな。
「私にも譲れないモノ……あります」
「うるさい、うるさい、うるさい、無いんだ!! 無いんだ、どこにもっ。方法なんて……っ。誰も知らない。こんなんじゃ……」
春を解放できない。
「アタシ……アタシもう、どうしたら……」
自分がみっともない泣き声を発していると気付いた瞬間、アタシは部屋から飛び出す。
……だから、近付きたくなかった。あのコは
初めて
弱すぎる自分の弱音をぶちまけたい。そして、それを許してくれるんじゃないかって。受けとめてくれるんじゃないかって。
あんまりだ。そんなの可哀相だ。
優しい人は、アタシみたいな
理解されなくていい。嫌われるぐらいがいい。
ぐれ兄の家から遠ざかろうとしたけど、体力が続かなかった。小山のふもとから伸びている石段の天辺に座り込んでいたら、近寄ってきた本田透がアタシの隣に座った気配がする。
気遣うように伸ばされた彼女の手を、肘で振り払う。アタシに邪険にされても、本田透はめげずに再び手を差し伸べてきた。
ああ、もうダメだ。ごめん。すがってしまう。
「……もう、どうしたら、いいか、わからないの……っ」
本田透に抱きつきながら、アタシは泣きじゃくって弱音を吐き出す。
ごめん。こんなにも自分は無力で、こんなにも弱い。
「わからないの、何もできない、1人で、1人じゃ」
アタシを抱き返した本田透は虚ろな声で、「1人は恐い……」と呟く。
「
実感の籠った言葉だった。そういえば、本田透は両親を亡くしていた。このコも1人では立ち上がれなかったのだろうか。
アタシがすがっているこのコが味わった喪失感に思いを馳せたら、罪悪感や悲しみや辛さがごっちゃになって。山で遭難した人達のように互いに抱き合ったまま、夜明けまでその場にいた。
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51「お着替えは好きデスカ!?」
「これから意見箱に入っていた提案を書き出しますので、文化祭に相応しい企画を皆さんも一緒に考えて下さい」
文化祭企画会議の議長を務める
風紀委員長の僕も会議に参加していた。文化祭の企画を決める話し合いに、風紀委員は関係ないじゃんと思うけど。
風紀委員は文化祭の最中に校内巡回をしなきゃいけないから、打ち合わせ段階から顔を出す必要があるらしい。
「全校生徒参加型のフォークダンス、子供の来場者向けのキャラクターショー、ミス海原コンテスト、ミスター海原コンテスト、スタンプラリー、我が校の王子を崇め讃える集い……っ」
意見箱に入れられた提案を
我が校の王子を崇め讃える集いって、プリ・ユキのメンバーが考えた案だろ。もしくは
当の王子様こと由希は、「この学校に王子なんかいたっけ?」と言いたげな怪訝そうな表情を浮かべている。
ナベがここにいれば、「我が校の姫の間違いじゃね?」とか言ったかもしれないが、ナベは欠席している。
会議を始める前に由希が、「生徒会副会長の
桜木君は思いきり顔をしかめていたから、ナベは会議をサボったんじゃないかと睨んでいる。
倉伎さんは体調を崩したのかもしれない。……僕に会いたくないから、会議に出なかったって事はないよね?
体調を崩したといえば、リン姉は先日再入院した。衰弱や胃潰瘍の併発など、体のあちこちにガタがきていたようなので入院は長引くらしい。
ぐれ兄からリン姉の病状を聞いた春がお見舞いに行ったら、
おかげで男の面会客は、リン姉の病室に入れてもらえなくなってしまった。
それでも1つ、良かった事がある。お見舞いに行った春が、「リンが元気そうで安心した」と言った事だ。
呪いを解く方法が見つからないせいで、リン姉は身体的にも精神的にも追い詰められてしまっていたけど。春が「元気そう」と言ったのなら、午憑きの従姉の心に少し余裕ができたのだろう。
兄さんから聞いた話だと、リン姉は
「キャンプファイヤー……っ、打ち上げ花火100連発……っ、校舎のライトアップ……っ」
実現性の低い提案が立て続けに出たせいか、それを読み上げる桜木君が青筋を立てて怒っている。
校舎のライトアップは僕の提案だ。
僕の本命の子供向けキャラクターショーの提案は通ったので、良しとしよう。
▼△
「では、これからシンデレラの配役を決めたいと思いまーす。投票で決めるから、配った用紙の役名の下に相応しい人の名前を書いて下さいねー。自薦・他薦は問いませーん」
クラス委員長の由希は生徒会の方に顔を出していて不在のため、副委員長の
劇の主役となるシンデレラに、誰を推薦するべきか。僕は考えに考えた末、配役の投票用紙に
最初に浮かんだのは本田さんだけど、ハマリ役すぎてちょっとどうかと思ったんだ。
花島さんはシンデレラというキャラじゃないけど、男子に密かに人気があるから選ばれるかもしれない。
投票用紙は後ろの席から集められて、高橋さんと有志数人が協力して集計している。集計の真っ最中に、由希が教室にやってきた。
「ごめん……っ、遅れたね……っ」
「由希君、おつかれさま~♡」
プリ・ユキの2年代表の
「ホントだったら王子役は由希君に決定だったのに、断られて残念~っ」
続いて由希に声をかけた
「今からでもOKしない~?」
同じくプリ・ユキのメンバーの
「さすがにやる事多すぎて、対処しきれないと言うか……俺が王子なんてハマってないよ」
苦笑した由希がそう言った瞬間、クラスの女子の大半がギラリと目を光らせる。そんなこたぁないですよ!! という彼女達の心の声が聞こえた気がした。
おっ。集計が終わったみたいだ。遅れたお詫びか、由希が集計結果を黒板に書き出している。
シンデレラ 花島咲
王子 草摩夾
国王 草摩建視
継母 木之下南
継姉 本田透
魔法使い 草摩由希
「一応メインキャストのみ、これで決定とさせて頂きまーす。他の配役、大道具等は改めて決めたいと思いまーす」
「ちょっと待て!!!」
勢いよく立ち上がって叫んだ
「いーじゃん、いーじゃん、きょん王子」
「けっこうサマになるかもよ、きょん王子。あははー」
ろっしーとすけっちが、生温かい笑みを浮かべて励ました。
「あははじゃねーよ!! そもそも、俺に演技なんてモンができると思ってんのか!?」
「笑いがとれそうじゃん」
「この話に“笑い”は必要ねーだろが!! それぐらいはわかってんだぞ!!」
「夾は女の子向けの童話に詳しくないから知らないだろうけど、シンデレラの物語には世襲君主制に異論を唱える風刺が隠されているんだ。それを権力者に知られないようにするため、シンデレラの物語はコメディ要素が含まれた喜劇になったという背景があるんだよ」
僕が喉から手が出るほど欲しい花島さんの相手役を掴み取ったくせに、全力で嫌がる夾がムカついたから嘘を教えた。
「そ……うなのか?」
信じた。夾は単純だなと思っていたら、由希がクズを見るような目を僕に向けてきた。
一方、本田さんは感涙で目を潤ませながら夾に声をかけている。
「夾君……っ。
「教えんなよ、ぜってー教えんなよ。建視もだ。師匠にチクったら殺すぞ」
「わかったわかった、師範には言わないよ」
師範の弟子兼秘書のみつ先輩には言うけど。本田さんの親友の花島さんが、
それにしても本田さんが意地悪な継姉役なんて、どう考えてもミスキャストだ。大方プリ・ユキのメンバーが嫌がらせで、組織票を入れたんだろう。
意地悪な継母役に木之下さんが選ばれた事は、自業自得としか言いようがない。
キン・ケンのメンバーは、嫌がらせの組織票に関与していないよな?
うちのクラスにいるキン・ケンのメンバーに視線で問いかけると、彼女達は慌てて首を左右に振って関与を否定した。ならば良し。
「落ち着いてよく考えろや、こんな配役ミスだらけの……主役が花島って時点で、すでに間違ってんだよ!!」
夾が花島さんを指差して、暴言を吐いた。
それを聞いた瞬間、僕の口から笑い声が溢れる。人は怒りすぎると笑ってしまうって聞いた事があるけど、本当だったよ。
「夾がシンデレラの劇をそんなに完璧にやりたいなら、ぐれ兄の家で仮稽古をしよう。シンデレラ役は……そうだな、綾兄に頼むか。綾兄は高校時代に『ロミオとジュリエット』のジュリエットを演じた事があるらしいから、問題なく女役を演じられるよ」
夾に振られた
ろっしーやすけっちは恐れをなしたように、「魔王降臨……っ!」とか言っている。
「……お手柔らかに……王子様……」
夾に呼びかけた花島さんは、邪悪な薄笑いを浮かべた。それを見た野郎どもがゴクリと喉を鳴らす。
花島さんが演じるシンデレラは、従来のイメージとは正反対のキャラになりそうだ。ドレスは水色じゃなくて、漆黒を希望する!
▼△
文化祭の企画が決まって徐々にお祭りムードが校内に広がっているけど、中間テストがあるから浮かれてはいけない。
クラスの劇で主役を演じる花島さんが追試の補講を受ける事になると、花島さんだけでなくクラス全員が困るので、僕はより綿密な勉強計画を立てた。
「頑張って中間テストをパスしようね」
「
無気力を標準装備している花島さんの口から、気合という熱血単語が出てくるなんて……。
魂が抜けた僕に、
傷口に塩を塗りこまないで。僕も楽羅姉に似たような事言っちゃったけど。楽羅姉、ホントごめん。
僕のメンタル面はボロボロだったけど、中間テストはどうにか乗り切ったよ。
廊下に貼り出された今回の中間テストの成績上位者リストを見たら、なんとビックリ。僕は中学時代も合わせて初めて、完璧超人の由希を抜いて首位に立っていた。
「けんけん、すげーっ!」
「
褒め称えてくる男友達やキン・ケンのメンバーに、僕は愛想笑いで応じた。
小さい頃の僕だったら、十二支の頂点に座す
中間テストで1位になった事より、花島さんが赤点を取らなかった事の方が嬉しいな。前回より良い点数を取れたみたいだけど、何が彼女をやる気にさせたのか……うっ、頭が……。
ええと、なんだっけ。ああ、そうだ。本田さんも由希に勉強を教えてもらって頑張っていたみたいだから、無事にパスしていたよ。
「やぁやぁ、さ迷いきっている小羊達よ! ボクは来たよ!!」
「来たっスー」
文化祭の準備が本格的に始まったある日のホームルームの最中に、綾兄と
「きゃーっ!! 由希君のお兄さんにまた会えるなんて!」
「なんでメイドさんが
「時は金なりっ。さくさく整列しつつ、ボクの前で総てをさらけ出したまえっ。特に体のサイズをねっ」
綾兄が破廉恥な意味合いを込めて言った訳じゃない事は解るけど、通報されかねない発言は控えてほしい。
「学校は関係者以外、立ち入り禁止なんだけど」
以前の由希なら問答無用で「出て行け!」と言い渡しただろうけど、ナベと親しくなった事で自分とはかけ離れた存在とのコミュニケーション力が育まれたらしい。
「案ずる事はない……愛しあうボクらの前に立ち塞がる壁など、ヒョイとくぐって侵入するのみ……」
由希の顎を指先でクイッと持ち上げた綾兄は、腐った女子達が喜びそうな発言をしている。それはそうと、どうやって壁をくぐるんだ。
「やほー、テンチョの弟君と従弟君っ。校長センセの許可なら、ちゃんともらったよーっ」
丸眼鏡と太めのおさげがチャーミングな美音さんに手を振り返しながら、僕は疑問を抱いた。
美音さんがお召しになっていらっしゃるゴシックナース風のメイド服は素敵だけど、普通の社会人らしい装いかと聞かれたら否と答えざるを得ない。
なんで許可が出たんだろう。もしや、校長先生はメイドマニアだったのか?! なーんて、ね。
校長先生は
「さぁ、由希、神妙に計られたまえっ。ゴージャスかつスレンダーな王子にしてみせようっ」
綾兄はそう言いながら、採寸用のメジャーを取り出した。
「違うよ。王子役は俺じゃなくて、逃げようとしている夾」
「キョン吉がねぇ……そうかい、そうかい、ふぅ~ん、わかったよ。ゴージャスかつスレンダーに、してやらないコトもないがねっ」
はっと鼻で笑った綾兄は、やる気が失せたと示すようにメジャーをぽいと投げ捨てた。
「綾兄。仕事で来たなら、ちゃんとやってよ」
僕が注意すると、綾兄はメジャーを拾いながら「わかっているさっ」と答える。
「ところで、ケンシロウは何の役をやるんだいっ?」
「国王だよ」
「真の王族であるボクを差し置いて、王になるなど生意気なっ! コンソメスープで顔を洗って出直してきたまえっ!」
綾兄の意味不明な発言を聞いて、由希が「味噌汁で顔を洗ってじゃないの?」とツッコミを入れた。綾兄が真の王族である事は認めたのか……って、それどころじゃない。
「うふ……っ、うふうふふ。お着替え……っ。お着替えは好きデスカ……!?」
「あっ。美音さん、お気を確かにっ」
慌てる本田さんを見かねてか、魚谷さんと花島さんが美音さんに挨拶した。
あ、まずい……。元ヤンだけどモデル並みの容姿の魚谷さんと、神秘的な美貌を誇る花島さんを前にして、美音さんが平静でいられる訳がない。
「わーおっ。これまた初めまして。お着替えは好きデスカ!?」
興奮した美音さんの頬は紅潮して、丸眼鏡がきらーんと光っていた。
言動が怪しい美音さんを前にして、魚谷さんは怪訝そうに「は?」と声を発する。本田さんがうろたえながら、「あ、あのっ」と間を取り持とうとしていた。
「あたし、今回みんなの衣装を作らせてもらうんだよっ」
「え、そーなんスか?」
良かった。普通に会話が成り立っている。
「まぁ……ドレスは是非、純黒で……」
花島さんの申し出を聞いたクラスの女子達は遠い目になったが、美音さんは満面の笑みで受けている。
「純黒……純黒かぁ……いい響きっスねぇ……オッケー……」
純白という言葉は聞くけど、純黒って初めて聞いたよ。花島さんらしくて良いよね。紅葉にうちのクラスの劇の撮影を頼んでおこう。
▼△
「ちょっとシンデレラ! さっさとドレスを仕上げてちょーだいっ。お城で開かれる舞踏会は、もう明日なのよっ。まぁったく、ウスノロなんだから……っ」
意地悪な木之下さんが、か弱い花島さんをいじめている……というのは冗談で。ただいま、シンデレラの劇の練習真っ最中だ。
「可愛い私の娘よ、おまえからも何とか言っておあげっ」
「はい……っ。はっ、早く仕上げてしまわれなっ、ないと……ゆっ、夕飯……っ、夕飯を……ぬ……っ、ぬかざるをえません……っ」
食べる事が大好きな花島さんに飯抜きの罰を言い渡すのは、演技でも辛いのか。両手を床について項垂れた本田さんは、涙声で台詞を読み上げる。
台本に書いてある継姉の台詞は、「早く仕上げないと夕飯を抜くわよ、この役立たず!」なんだけど、本田さんが罵声を飛ばすなんて無理だろう。
「嬉しい……私の為に泣いてくれるのね……」
「なに抱きしめてんねーん!!!」
関西人風のツッコミを入れた木之下さんは、苛立ちに任せて文句を言う。
「
「は……はいっ」
「じゃあ、イジメろ、イジメぬけ、再起不能になるまでいたぶれ!!」
木之下さんが過激な演技指導をすると、出番待ちをしていた魚谷さんが「うるせぇ女だな」と呟いた。
ちなみに魚谷さんの役は、きょん王子の友人ポジションとなる隣国の王子だ。
そう! 国王は、シンデレラときょん王子の恋愛結婚に反対する悪役なのだ。花島さんと敵対するのは嫌だけど、シンデレラの引き立て役になるために頑張るぞ!
「すごいなぁ、木之下さん……熱入っているね」
教室にやってきた由希が爽やかに笑いながら、木之下さんに大ダメージを与える称賛の言葉を放った。皮肉とか仕返しとか、一切含んでないからな。天然こっわ。
「いやぁぁっ! 見ないでぇ、由希くぅぅんっ!」
悲劇のヒロインっぽく涙を流した木之下さんは、教室から走り去る。乙女心がズタズタになった木之下さんが回復するまで、劇の練習は一旦中止になった。
「すみません……私……御迷惑ばかり……っ」
「ンな事ないって、がんばっているって。ある意味、キャラ立ってるし」
涙ぐんで謝罪する本田さんに、魚谷さんが慰めの言葉をかけている。キャラ立ってると聞いて、僕はぴこーんと閃いた。
「ねぇ、
脚本係になった文芸部員の須栗さんは、僕の意見を聞くなり持っていた台本を豪快に破る。
「その手があったか……っ! 建視君、ありがとう!」
「話を変えていいんか?」
魚谷さんが疑問を口に出すと、須栗さんは原稿用紙を取り出しながら「いいのよ」と答えた。
水戸黄門をやるクラスは、“黄門様もスケさんもカクさんも、実は女だった”という設定で、悪を相手に大立ち回りをやる内容に変えたらしい。
衝撃を受けた魚谷さんが言ったように、和製チャーリーズ・エンジェルといった感じの話になっているようだ。見てみたい。
「つまり、おギンさん以外にもお風呂シーンがあるという事デスカ!? みっ、みのがせねえっ」
くわっと目を見開いたろっしーが欲望を口走ると、由希が「
「夢の無い事言うなよ、生徒会長。水着を着用した上での水浴びシーンならOKだろ」
僕が妥協案を述べると、冷ややかな目付きになった由希は「水着も駄目に決まってるだろ」と却下した。
「え゛ぇぇ、そんなぁ。たたかってよ、生徒会長ォ」
我が盟友のろっしーが頼み込むと、由希は困り顔で「水着のために……?」と呟いた。おうおう、僕とろっしーで対応が随分違うじゃないか。由希は内弁慶だな。
僕達が水浴びシーンを巡って交渉する一方で、台本を新たに書こうとしていた須栗さんに、本田さんが「あの……」と話しかけている。
「書き直されるのでしたらば、少し……王子様の雰囲気も変えてみるのは如何でしょう……? えと……夾君が演じやすいような……王子様に。そうしましたら、夾君……練習にも参加して下さる……かも」
腕まくりをした須栗さんは、「あ゛ー、そうねぇ」と言いながら頷いた。夾不在の席を見遣ったろっしーは、「キョンキョン、またどっか逃げちゃったもんねぇ」と苦笑いする。
「あいつの演技もみてぇのになあ」
魚谷さんの言葉に、僕とろっしーは同時に頷いてから言う。
「「「腹抱えて笑えそうなのに……」」」
「それが嫌で、逃げてるって話もあるんじゃないかなぁ」
乾いた笑みを浮かべた由希がツッコミを入れた時、本田さんが「あの、私……っ、捜……」と言いかけた。
「……生徒会に戻るから、ついでに捜してくるよ」
由希は本田さんの肩を軽く叩いて、そう告げた。それを聞いた僕は思う処があったので、廊下に出た由希の肩を掴んで待ったをかける。
「僕が夾を捜してくるよ」
「じゃあ、手分けして捜そう」
1つ屋根の下で暮らしているのに、由希は夾の態度の変化に気付いてないのか?
「ここ最近、夾は由希を露骨に避けているだろ。由希が捜しに行くと、夾は躍起になって逃げるんじゃないか?」
「いつまでも逃げていられないだろ。そろそろ、あいつにもしっかりしてもらわなくちゃ」
は? 今まで夾がどうなろうと知ったこっちゃないってスタンスを取っていたくせに、なんで急に兄貴ヅラするんだよ。
「……夾の精神面を鍛えた上で、逃げられないと思い知らせるのか? 随分とまぁ、残酷な事をするんだな」
僕の刺々しい口調から猫憑きの行く末を示している事を察したのか、由希の表情が一瞬凍った。
気持ちをリセットするように両目を閉じた由希は瞼をゆっくりと持ち上げ、迷いのない透き通った眼差しを向けてくる。
「夾は倖せになれないと決まった訳じゃない」
「猫憑きが幽閉される事は、草摩家の総意による決定事項だ。由希が
「最初からできないと決めつけて何もしないのは、現実逃避だよ」
……いいよな、リスクを背負っていないやつは。好き放題言えて。
「ご高説わざわざどうも。もっと早い段階で言ってくれたら心に響いたかもしれないけど、今さら言われてもね」
今になって夾の待遇を変えようとしても、夾を迫害した過去が帳消しになる訳じゃない。失意のうちに亡くなった
「そう、“今さら”だ……どう言い繕っても。だからこそ、もっとシンプルに考えよう。倖せになるために、何をすべきか」
――僕が倖せになるのは難しいと思うけど……努力をしてみるから、兄さんもそうして。
正月に兄さんと交わした会話を思い出したせいか、後ろめたさを感じてしまった。同時に屈辱を覚える。言葉の応酬では由希に負けた事はなかったのに。
返す言葉がなくなった僕をしばらく無言で見つめてから、由希は離れていった。……やっぱり僕は、由希が嫌いだ。そう再認識した。
由希とのやり取りのせいで夾に会うのが気まずいから、猫憑きの従弟を捜しに行けない。僕は深呼吸して気分を切り替えてから、教室に戻った。
今回出てきたプリ・ユキの岩田舞とチエは、アニメで名前が判明したので登場してもらいました。
副委員長と脚本係の女子生徒の名前は、独自設定です。
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52「許すまじ、王子……」
今日は待ちに待った海高祭の当日。劇に出演する2‐Dの男子は、体育館の地下柔道場で衣装に着替え中だ。女子は地下剣道場で着替えている。
純白の毛皮で縁取られた真紅のビロードのマント、記章がついた金細工の頸飾。
イギリス王室に受け継がれる聖エドワード王冠を模した王冠、金色のリボンがくっついた赤い付け毛、白い革手袋、リンゴを模した装飾が先端についた王笏。以上だ。
ブーツとか頸飾とか小道具に分類されるものが混ざっているけど、それらも綾兄達が製作した。コスプレ衣装一式を作成する時は、帽子や靴や杖などを含む広義の意味での装身具も作るらしい。
「うちのクラスの衣装は、他のクラスに比べてゴージャスだよな」
「プロ仕様だからな。
笑いながら話すろっしーとすけっちは、ジュストコール風の長上着を身に纏って、白いクラバットを首元に飾っている。ナレーション役のろっしーは黒色、王子の従者役のすけっちは緑色を基調とした装いだ。
ちなみに舞踏会の招待客役の生徒達も、綾兄達が作った衣装を着用する。クラス費や文化祭費では衣装代を賄えないのは明らかだが、綾兄は愛しい由希に免じてタダでいいと言い切った。
由希は文化祭が終わった後で綾兄に感謝の手紙を渡すらしいから、綾兄はそれで充分だろう。協力してくれた仕立屋さん達には、綾兄のポケットマネーから報酬を支払うのかな。
「裾を踏んで転びそうだよ……」
不安そうに呟いた由希は、袖や裾に布地をたっぷり使った薄水色のローブを身に纏っていた。
「
文句を言いながらも、
シンプルなクラバットが襟元についた、ジュストコール風の山吹色の長上着。それに合わせた山吹色のズボンに、飾りベルトがついた焦げ茶色の革のブーツ。
赤橙色のマントは右肩にかけて、金色の飾り紐で留めて着用する形だ。ちなみに夾も、焦げ茶色のリボンがついたオレンジ色の付け毛をつけている。
衣装を身につけた男子が地下柔道場から出て、廊下で待機すること十数分。着替え終わった女子達が、地下剣道場から出てきた。
「きゃーっ!! 由希君が……由希君が天使過ぎるぅ!!」
甲高い歓声を上げた
目を引くデザインのネックレスやイヤリングで身を飾り、羽飾り付きの派手な扇子を持っている事から、後妻の座を得て贅沢三昧している継母の様子が窺い知れる出で立ちだ。
「皆さん、素敵です……っ!」
アクセサリーはシンプルな、細い革のチョーカーのみ。ハーフアップにした髪には、目立たない色のヘアゴム以外なにもつけていない。
母親に倣って豪遊している継姉には見えない装いだけど、2‐Dが演じるのは『シンデレラっぽいもの』なので、原作のキャラに準拠した衣装じゃなくても大丈夫だ。
「ぎゃっはははは! 馬子にも衣装だなぁ」
夾を指差して爆笑した
襟元に紺色のリボンタイをあしらったジュストコール風の水色の長上着を身に纏い、水色のズボンを穿き、太腿の真ん中ぐらいまでの丈がある紺色の革のロングブーツを履いている。
立ち襟がついた青いマントを着て、群青色のリボンがくっついた金色の付け毛をつけていた。
「お腹すいたわ……」
花島さんに見惚れて頭が留守になってしまいそうだけど、
▼△
「ワーンス・アポン・ア・ターイム、シンデレラという美しい少女がおりました。シンデレラは諸々の事情で継母や継姉に日々いびられていましたが、心根も美しい彼女は健気に謙虚に暮らしていました」
薄暗い体育館のステージ端にスポットライトが当てられ、眩い光に照らされたろっしーがマイクを通して物語の導入を話した。
「シンデレラっ、どこに行ったの、シンデレラっ」
継母役の木之下さんが苛立ちを滲ませた声を響かせながら、中世の西洋風の台所が描かれた背景画が設置されたステージへと向かう。継姉役の本田さんもドレスの裾を捌きつつ、木之下さんの後に続く。
「シンデレラさん、どちらですかーっ?」
「私はここよ……」
ステージで先に待機していた花島さんに、スポットライトが当てられた。
椅子に座った花島さんは、ティーカップに口をつけてホットウーロン茶を飲んでいる。飲む振りをしている訳じゃなく、本物のホットウーロン茶が入っている処がミソだ。
「何、ノンキに茶ァしばいてんねん!! そんなナメた態度とってるってこたぁ、ドレスはもうできてんでしょーね!!」
激しいツッコミを入れる木之下さんを、本田さんが戸惑いながら「お、お母様……」と宥める。
この2人は役柄上では実の母娘なのだが、ヒステリックな姑とそれに振り回される嫁にしか見えない。
「素人にドレスなんて作れるハズないじゃない……」
花島さんが台本通りのセリフを淡々と述べた瞬間、ステージの一角にスポットライトが当てられた。適当に縫った布やモジャモジャのカツラや本物の葉っぱを寄せ集めて作った、前衛的過ぎるドレスが照らし出される。
「体を張って笑いをとりに行きたいのなら、止めないけれど……」
「とりたないわ、話の進行上しゃーないねん!!」
メタ発言をした木之下さんは、本気で怒っているような凄い形相だ。
木之下さんは由希の前で底意地悪さを晒す事にかなり抵抗があったようだが、
女優というよりキレ芸を持つ芸人にしか見えないのだが、木之下さんのやる気を削ぎそうだから余計な事は言うまい。花島さんが主役の劇を何としてでも成功させるのだ。
「そんな事よりお姉様……一緒にお茶はいかが?」
「わあ……っ。よろしいのですか?」
「なんでアンタ、そんな優雅な暮らししてんのよ……っ」
前列の観客が呆気にとられた表情をしている。従来のシンデレラのイメージをぶち壊す劇に、度肝を抜かれているようだ。
観客の反応を見た脚本係の
「今夜はお城の舞踏会。噂によれば王子のお嫁さん捜しも兼ねているとあり、自分の娘を玉の輿に乗せ、左団扇で暮らしたい継母は躍起になっておりました」
ろっしーのナレーションに合わせて、ステージに降りたスクリーンに洋風の城の影絵が映し出される。何気ない演出に見えるけど、照明係や装置係や小道具係といった裏方の生徒達の頑張りの成果だ。
「おまえの大事なねーちゃんを返してほしけりゃ、さっさとドレスを仕上げるんだね!!」
木之下さんは誘拐犯みたいなセリフを言いながら、本田さんの首に腕を回した。台本には「継母は継姉の手を引っ張って退場する」と書いてあったのに。
乱暴に連行されながら退場する本田さんは、演技ではなく素で驚いて「えぇえ゛っ」と声を上げている。
「なんて事……どこぞの王子が舞踏会を開くせいで、お姉様が……許すまじ、王子……」
花島さんは低くて暗い声で、王子に対する恨み言を呟いた。
このまま話が進むと復讐劇になってしまうので、ろっしーがわざと明るい声で「シンデレラもまだ見ぬ王子に恋焦がれているようです」と強引に修正する。
「こうなったら私もそこに乗り込んで……ああ、けれどドレスも仕上げなければ……困ったわ……」
花島さんが悩めるシンデレラを熱演している最中、舞台袖でクラスの女子が小声で「由希君、頑張って」と声援を送った。クソ真面目な由希は困惑しつつも、それに応えてやっている。
魔法使いの出番だってのに何やってんだ。僕は王笏の石突きで床をドンと叩いてから、「さっさと行けよ」と小声で促す。
由希を取り囲んでいた女子達は一斉に口を閉ざし、由希はようやくステージに向かう。やれやれ、手間がかかる魔法使いだ。
「大丈夫さ。心配いらないよ、シンデレ……」
「きあああああああぁぁぁぁぁ!!!」
由希のセリフを掻き消す大歓声が観客席から響き、フラッシュの嵐が起こった。
こうなる事を予測していたのか、マイクを持った須栗さんが「静かにして下さい。過度なフラッシュは焚かないで下さい」と注意している。芸能人の記者会見みたいだな。
「え……っと、魔法使い……です」
フラッシュで目が眩んだのか、由希は衣装の袖で目元を押さえている。せっかくの登場シーンなんだから、シャキッと決めろよ。
「言ってはなんだけど、マヌケな自己紹介ね……」
対する花島さんは由希のようにセリフをつっかえたりせず、冷静にアドリブのツッコミを入れる余裕まである。流石だ。
「気を取り直して……心優しきシンデレラ。今夜はそんな君の為に、どんな願いも叶えてあげよう」
「まぁ……素敵。舞踏会場を灰になるまで燃やして」
両手を組んでお願いする花島さんから、黒いオーラが発生したように見えた。
「それ、犯罪です……もう少しソフトで、純粋な願い事にして下さい」
「焼肉食べたい……」
「そーじゃなくてね」
花島さんと由希がコメディタッチなやり取りをしている間、黒子衣装に身を包んだ黒子係の生徒が素早く動いて、ドレスを着せたトルソー2体をステージの暗がりに置く。
黒子係の作業が終わった処で、本田さんの首に腕を回した木之下さんが「シンデレラっ」と呼びながらステージ上に向かう。
この場面で、本田さんを無理やり連行する必要はないだろうに。出番待ちしている魚谷さんがおっかない顔で、「木之下のヤツ、後でシメてやる」と呟いているぞ。
「お、お母様……す、少し苦しいやも……」
「さぁさぁさぁ、ドレスはできたでしょう……ねぇっ? ド、ドレスだわ……っ。ちゃんと私と娘の2人分ある……っ!?」
スポットライトが当てられた2体のトルソーに着せられた2着のドレスは、服飾のプロが作ったとしか思えない手の込んだ代物だ。実際、
「まぁ……いつの間に……貴方の力なの……? 魔法使い……?」
「しぃーっ。俺の姿は、お
由希はそう言い訳したけど、木之下さんの視線は由希をガッツリ捉えているから説得力に乏しい。
「あのドレスは俺からの贈り物だよ、シンデレラ」
「あら……なんだか悪いわね……」
「ちょっと、シンデレラ。怪しいわね、このドレス。ホントにアンタが作ったモンなの?」
もっともな疑問を木之下さんが口に出すと、花島さんが小首を傾げて「どういう意味かしら……?」と聞き返す。
「まさか誰かから買ったとか、盗んできたとかじゃないでしょうねってコトよ」
「これは困りました、シンデレラ。魔法使いからの贈り物と正直に言うべきか、言わざるべきか。さぁ、どうする? シンデレラ」
ろっしーが危機感を煽るようなナレーションを入れると、花島さんは頬に手を当てて「困ったわ……」と呟く。
「シンデレラさん……っ、すごいです! 素晴らしいです……っ! こんな素敵なドレスをお1人で作られるなんて……お上手ですっ!」
本田さんは台本のセリフを話しているのに、心から称賛しているようにしか聞こえない。彼女の天然さを計算に入れて、セリフを考えた須栗さんは凄いな。
「あら、嬉しい……私の手作りのドレスを、そんなに気に入ってもらえて……」
「おーっと! シンデレラ、まんまと自分の手柄にしたーっ!」
ろっしーはリングアナウンサーのように、力強くナレーションを入れた。
「まぁ、いいわ。コレに着替えて出掛けるわよ!」
「え、あ、あの、シンデレラさんは……っ」
「留守番よっ」
木之下さんはまたしても本田さんの首に腕を回して、引き摺りながらステージから退場した。魚谷さんが不機嫌になっているのを察したのか、木之下さんは素早く着替えに逃げている。
「グッドジョブ……魔法使い……」
「あえて言及はしないけど……今度は君の番だよ、シンデレラ。さぁ……願いを」
由希が王子様モードを発動したせいか、またしても観客席から黄色い歓声が上がった。花島さんのセリフの妨げになるから、やめてほしい。
「焼肉……」
「カボチャの馬車に乗って、舞踏会にチャッチャと行こうねっ。用意するヨー」
花島さんの切なる願いを無視して、由希は拍手をして合図を出した。
由希と花島さんが退場すると、裏方の生徒が総動員で舞台転換の作業を急ピッチで行う。舞台転換の物音を誤魔化すため、ステージ端に立つろっしーがナレーションを入れる。
「半ば魔法使いに仕切られる形で、シンデレラも舞踏会に行けるようになりました。さて、そんな舞踏会は今、盛り上がり中」
華やかで優雅なクラシック音楽が流れ、天井に備え付けられたボーダーライトがステージ全体を照らす。
急ピッチで整えられたステージには深紅のビロードの垂れ幕が飾られ、豪奢な大広間を描いた背景画が設置され、真っ白なクロスがかかった小振りのテーブルが置いてあった。
ステージで待機していた招待客役の生徒達は、ワインと見せかけたぶどうジュースを飲んだり談笑したりして、盛況な舞踏会を演出している。
僕はステージの様子を眺めながら、心の中で般若心経を唱えていた。だって今、衝立の陰で花島さんがお色直し中なんだよ。
覗こうとしたら確実に
「ただ1人、王子だけは浮かない顔をしていました」
ろっしーのナレーション通り、ステージの中央に向かった夾はむすっとしている。演技をしている訳じゃなく、衣装が鬱陶しくて素で不機嫌らしい。
猫憑きの従弟は床に胡坐をかいて座り込むという、王子らしからぬ振る舞いをした。須栗さんは、それでいいとばかりに頷いている。
夾はヤンキーキャラとして人気があるから、王子様らしい演技をするより普段通りにガラの悪い態度を取った方が、ファンの女の子の受けがいいらしい。
「ノリの悪い王子を見かねて、国王と友人王子が駆けつけます」
さて、出番だ。僕と魚谷さんが一緒にステージに出ると、由希が登場した時ほどではないが歓声と拍手が巻き起こる。
僕が持っていた王笏を観客席に向かって掲げると、歓声と拍手はぴたりと止んだ。練習した訳でもないのに凄いな。
「我が息子よ。おまえのために開いた舞踏会の最中に、やさぐれた顔をするんじゃない」
「誰がてめぇの息子だ、ふざけんな」
「父親に対して何という口の利き方だ。昔のおまえは可愛かったのだがなぁ。おまえが4歳の頃、しゃっくりを100回すると死ぬという迷信を信じて、しゃっくりしながら涙目になっていたじゃじゃないか」
しゃっくりのエピソードは実話だ。須栗さんに「国王と王子の親子関係を強調したいから、建視君と夾君の幼少期のエピソードを教えて」と頼まれたのだ。
「てめぇが俺に迷信を教えたんじゃねぇか!」
「しゃっくり100回死亡説を僕に教えたのは腹黒な作家だから、諸悪の根源は腹黒な作家だ」
「腹黒な作家って
「身内ネタはいいから、誰かひっかけてこいよ。よりどりみどりじゃん」
呆れた面持ちの魚谷さんが話を元に戻した。
「うるせぇな……興味ねぇよ。おまえ1人で行ってこいよ」
「おっまえ、そんなだから童貞なんだよ」
ちょ、魚谷さん!? そこは「おまえ、そんなだから恋人できないんだよ」って言うはずじゃ。
「だからっ、なんでてめぇはそう恥じらいってモンが無ぇんだよ!!! 今すぐどっかのコンビニで“品”ってモンを買ってこい!!」
「あ゛ぁ!? 心配してやりゃなんだ、その態度。おまえこそ“愛想”買ってこいや!!」
夾と魚谷さんは台本にない喧嘩を始めてしまった。劇を中断する訳にはいかないので、僕は大きめの声で台本のセリフを言う。
「我が息子はシャイだから、自分から女性を誘う事ができないようだ。令嬢達よ、王子にダンスの誘いをかけてくれ」
僕の言葉を合図に、華やかなドレスで着飾った女の子達が夾の処へ向かう。
「あのー、王子様っ。私と踊って下さいませんか?」
「知るか、そんなもん。他のやつと踊ってろ」
「ええ〜っ。踊って下さ〜い」
「断る」
「じゃあ、王子様、私と踊って下さいっ」
「だぁから、断るって言ってんだろ」
「いいえ、私と踊って下さい」
「むしろ私と!」
セリフがない令嬢役の女の子まで、ここぞとばかりに夾に誘いをかけている。晴れの舞台で夾に話しかける機会を、逃したくなかったのだろうか。
夾は戸惑いと苛立ちが入り混じった表情で、「何なんだ、おまえら、うぜぇな」と悪態を吐いている。
「あの、踊って下さ……」
襟元に小花が散りばめられた、清楚な淡いピンク色のオフショルダードレスを着た本田さんが夾に誘いをかけようとしたけど。
「踊らねぇっつってんだろ!!」
誘いをかけてくる女の子達に背を向けていた夾は、強い口調で突っぱねてしまった。あーあ。声で本田さんだと気付けないほど、夾は苛立っていたのだろうか。
「あ……はい。失礼しました……」
本田さんは微笑みながらも、消沈した雰囲気を漂わせて引き下がった。
ようやく気付いて大いに焦った夾が本田さんを呼びとめようとしたけど、それを遮るようにろっしーが無情に告げる。
「もちろん、継姉の誘いも冷たく断るのでした」
「…………」
「断るのですっ」
ろっしーが念を押すように言うと、夾はがっくりと肩を落として俯く。
「俺……なんでこんなコトしてんだろ……」
台本通りのセリフだけど、夾は素で落ち込んでいた。夾の間の悪さには同情するけど、これから
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53「どうかダンスのお相手を」
「会場の盛り上がりとは対照的にテンションが下がっていく王子でしたが、満を持してシンデレラがやってきました」
ろっしーのナレーションと同時に、純黒のドレスに身を包んだ
「ここが舞踏会場……」
観客がどよめく。シンデレラが喪服のようなドレスを着ている事に、驚いた人が多そうだ。
着飾った花島さんはとっても綺麗だけど、ドレスの背中が大きく開いている事がちょっと気になる。
「うわぁ……っ。お母様、見て下さい。綺麗でステキな方ですねっ」
「黒っ……くっろー!!」
観客の心の声を代弁するように、
「おいおい、上玉の登場じゃーん。誘ってこいや」
「それでは、僕が手本を見せてやろう」
僕は台本通りのセリフを言いながら夾に王笏を託し、テーブルの近くにいる花島さんに近寄る。
「美しいお嬢さん。どうかダンスのお相手を」
僕が右手を差し出して誘うと、花島さんはこちらを見ずに「取り込み中……」と答えた。
割り箸と取り皿を持った花島さんの視線は、ホットプレートの上でじゅうじゅう焼ける牛肉に釘付けだ。
「国王である僕とのダンスより、食事を優先するとは……貴女のように大胆不敵で無欲な令嬢は、今まで会った事がない。貴女が僕の側にいてくれれば、僕は王ではなく1人の男になれるだろう。貴女を我が妃として迎え入れたい」
僕がセリフを言い切った瞬間、観客席から女の子達の「いやーっ!」という悲鳴が響いた。ステージにいるドレス姿のキン・ケンのメンバーも、この世の終わりのように項垂れている。
いや、あのね。これ、劇だからね。その証拠に、花島さんは普段通りの無表情だよ。
実際に僕が結婚を申し込んだとしても、彼女は無表情でいる可能性が高いけど、それについては考えない。
「息子である王子のお嫁さん捜しの舞踏会で、国王がまさかのプロポーズ! 実はこの国王、10年以上前に正妃を喪ってから、後添えを迎えず独身を貫いていました。国王に見初められたシンデレラは、どのような返事をするのでしょうか!?」
シンデレラが年の離れた国王の側室になるという、乙女の夢を打ち砕く展開を否定するため、ろっしーが国王の
「でも……こんなに大きい子供を持つのは、不安だわ……」
夾をちらりと見遣った花島さんは、演技じゃなくて本音を口にしているように思える。花島さんの不安は解消してあげたいけど、この問題に関しては力になってあげられない。
「王子は既に結婚を許されている年齢だから、貴女に迷惑はかけないよ」
「それじゃ試しに……ママって呼んでもいいのよ……?」
花島さんから毒々しさを感じる微笑みを向けられ、夾は顔色が悪くなっていた。花島さんが師匠に恋焦がれている事を思い出して、危機感を覚えたのだろう。
「王子はシンデレラの事をママと呼べませんでした。何故なら王子は、シンデレラの美しさに一目で恋に落ちたからです」
ろっしーがナレーションを入れると、夾が即座に「落ちてねぇよ!!」と否定する。
「王子は父である国王にシンデレラを奪われまいと、ダンスの誘いをするのでした」
「なんでだよっ」
「ダンスの誘いをしないと、愛しのシンデレラをママと呼ぶ事になりますよ」
ろっしーにそう告げられた夾は、悲愴な覚悟を決めた面持ちになって花島さんに近寄る。
「俺と……踊れ!!!」
命令口調で誘いをかけた夾は、喧嘩を挑むように拳を掲げた。
夾は王子様っぽい演技が求められていないとはいえ、これは酷い。花島さんが「ハッ」と鼻で笑うのも当然だ。
「おお王子よ、断られてしまうとは情けない」
「てめぇも断られていただろうが!」
「再チャレンジです、王子」
「
「うっせぇなぁ、さっさと行けよっ」
魚谷さんにせっつかれた夾が再び花島さんの処へ行こうとした時、ゴーンと夜中の12時を告げる鐘の音が響いた。
夾は助かったとばかりに小さくガッツポーズを取っているが、劇はまだ終わってないぞ。
「あら……大変……私はもう帰らなくては……」
そう言いながら花島さんは、履いていたビニール素材のパンプスを脱いでテーブルの上に載せ、使っていた割り箸をパンプスの中に入れた。
「じゃあ……確かに置いていったわよ……」
「……俺が言うのもなんだが、情緒無ぇなオイ……」
夾の脱力した呟きと同時に、ステージを照らしていたボーダーライトが消えた。出番を終えた僕と招待客役の生徒達は退場して、入れ替わりに裏方の生徒達がテーブルを素早く片付ける。
「12時の鐘が鳴り終えると魔法が解けてしまうシンデレラは、身の裂ける想いを胸に城から立ち去りました」
「もう少し食べたかった……肉……」
スポットライトに照らされた花島さんは、本音が混じっていそうなセリフを言いつつ退場した。お次はステージに残っていた、夾と魚谷さんにスポットライトが当てられる。
「国王より先に、彼女のガラスの靴を手に入れてやったぞ。コレを手がかりに、捜しに行けよ」
「そのクツを壊しちまえば、手がかりは無くなるって事だな。よし、今すぐ壊しt」
魚谷さんは持っていたビニール素材のパンプス――もといガラスの靴のヒール部分で、夾の顔面を殴りつけた。夾が尻餅をついたから、本気で殴ったっぽい。
「せっかく会えるチャンスが手元にあんのに、ムダにするってか!! それで、男の看板背負ってるつもりか?」
「おい……」
「そんなんじゃ会いたくても会えない奴は、どーすりゃいい!! 会いたいのに、会いたいのに……っ、会いに来いコラー!!!」
両手を振り上げた魚谷さんの雄叫びには、
台本にはないセリフだけど、
「
衣装係の女の子に急かされて、舞台袖から魚谷さんの様子を窺っていた本田さんは「は、はい……っ」と返事をして、衝立の方に向かった。
「友人王子の少し私情入った説得に、王子も今度は揺れ動かされました。そう……大切な事に気がつくのです。ああ、もう1度あの
ろっしーは王子の心情を代弁するように、情感を込めて後半のセリフを言ったけど。
ステージにいる夾は、もう1度会いたいなんて言ってねぇよと言わんばかりの顔をしている。
「それから王子は、街中の娘達にガラスの靴を履かせまくります。ガチンコでサイズの合った
ろっしーがナレーションを入れている間、裏方の生徒達が薄暗いステージで舞台転換の作業に取り掛かっていた。大広間の背景やビロードの垂れ幕を撤去して、シンデレラの家の客間の背景を設置している。
「本田さん、まだなのっ?」
着替え終わった木之下さんが焦りと苛立ちを込めて呼び掛けると、本田さんは「あ、あと少しです」と答えた。
「そして遂に、シンデレラの家に辿り着きました」
ろっしーのナレーションと同時に、ボーダーライトが光を放つ。
町娘風のドレスに大急ぎで着替えた本田さんは息切れしながらも、木之下さんと一緒にステージへと向かう。
彼女たちに続いて、ガラスの靴を乗せたビロードのクッションを片手で持つ従者役のすけっちと、ふて腐れた面持ちの夾がステージに登場する。
「突然お邪魔して申し訳ありません。我が国の王子が、このガラスの靴の持ち主を捜しているのです。ご協力お願いします」
「捜してねぇっての」
嫌そうな顔で否定する夾に、すけっちは苦笑を浮かべて応じる。
「王子ィ、真面目に捜した方がいいですよ。でないと王様が先に漆黒の君を見つけ出して、正妃として迎え入れちゃいますよ」
「なんだよ、漆黒の君って……」
「またまた、王子ったら惚けちゃって。漆黒のドレスを着た、王子の想い人の事ですよ」
「想い人じゃねぇ!!」
必死な形相で怒鳴った夾を無視して、すけっちが本田さんに問いかける。
「このガラスの靴は貴女のものですか?」
「あ、あの、すみません……私の靴ではありません」
本田さんが台本通りのセリフを言った瞬間、木之下さんが「ちょっとアンタ!」と言って本田さんの首に腕を回す。
おいおい。台本には、力ずくで継姉を止めるなんて書いてなかったのに……って、あーあ。虎の尾を踏んじゃったよ。
「意地悪な継母には罰が必要だよなぁ。確か焼けた鉄の靴を履いて、踊り狂って死んだんだっけ?」
魚谷さんは青筋を立てて笑っていた。継ぎの当たったエプロンドレスに着替え終えた花島さんは、怒れる親友の言葉に淡々と応じる。
「それは白雪姫の継母の末路よ……焼けた鉄の靴を用意するのは面倒だから、証拠が残らない方法で懲らしめましょう……」
木之下さんの友人の
「おほほほほ、ちょーっとお待ち下さぁい」
そう言いながら木之下さんは目を白黒させている本田さんを引き摺って、呆気に取られた面持ちの夾やすけっちから距離を取る。
「お、お母様。どうされました?」
「バカね、アンタ。見ただけで終わらせたらダメでしょう? いっぺん試しに履いてみなさい。もしかしたら、スポッと入るかもしんないでしょ?!」
「ええっ!? あの、でも、で、できません、そんな……私のものではない訳ですし」
「入りゃいいのよ、入りゃ。そして見事、玉の輿に乗れりゃこっちのもんよ!」
ニヤリと笑う木之下さんは、欲に塗れた継母を見事に演じきっている。アドリブを入れるのはいいけど、劇にかこつけて本田さんをいじめると後で断罪されるぞ。
「全部聞こえているんだけどなぁ……まだですかー?」
すけっちが大声で催促すると、木之下さんは愛想よく「はぁーい、今すぐ!」と返事をする。
「ほら、行くのよ、さっさと!」
「あ、あの、でも」
「ちょーっと、この子に履かせてみて下さい」
しゃがみ込んだ木之下さんは本田さんが履いていたヒールの低い靴を脱がせて、彼女の足にガラスの靴を押し込んだ。
継母らしい行動だけど、こんなのは台本に書いてないぞ。本来ならすけっちが「試しに履いてみて下さい」と言って、本田さんがガラスの靴を試し履きする展開になるはずだった。
「くっ……もう少しで入りそうなのにっ」
「お、お母様、痛いやも……」
本田さんは涙目になっていた。本田さんと花島さんは靴のサイズが同じだと劇の稽古中に判明して、捜索用のガラスの靴はサイズの小さいものを用意したからな。
見かねた夾が制止しようとした矢先、木之下さんが「ひぃっ!」と悲鳴を上げる。
「や、やめてっ! これは劇だから仕方なくぅ! ごめんなさいっ! 謝るから奴らを召喚しないでぇぇっ!!」
遂に、木之下さんに花島さんの制裁が下ったようだ。
須栗さんが「南を回収して」と指示を出す。黒子役の生徒がステージに素早く向かい、喚く木之下さんの肩を支えて舞台袖に下がった。
「えーと……悪い継母に天罰が下ったようです」
ろっしーは、須栗さんがスケッチブックに素早く書いたカンペを読み上げた。
「……帰るぞ」
劇を再開した夾を、本田さんが呼び止める。
「え……っ、お待ち下さい。まだお1人……シンデレラさんが……」
「よ~け~い~な~こ~と~を~っっ」
夾は本田さんの頬を、両手でぎゅむっと挟んだ。ステージでイチャつくなよ、おい。
「え゛ぇぇ、でも、あの、え゛と、その……」
「あっ、ちょっと王子っ。さっきの継姉のセリフは台本通りなんですけどっ」
ろっしーがナレーションで注意した時、花島さんがステージに向かう。
「乱暴はおよしなさい……お姉様に危害を加える者は、私が許さなくってよ……」
「シンデレラさん……っ」
頬を解放された本田さんが嬉しそうに呼ぶ。反対に夾は青ざめた。木之下さんが制裁を受けたばかりだからな。
ちなみに花島さんは軽いお仕置き程度の毒電波を浴びせたようで、木之下さんは発狂には至らなかった。それでも彼女は充分に心胆寒からしめられたようで、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪を繰り返している。本田さんに謝らないと意味ないと思うけど。
「そろそろ来る頃だと思っていたわ、王子……その靴は確かに私があの夜置いていったモノ……返しなさい」
「ここへ来た理由もわかっていてよ……お姉様に結婚を申し込みに来たのでしょう……?」
花島さんは台本Bのセリフを読み上げた。クライマックスのセリフが一部異なる台本Bは、夾と本田さんには配られていないので、本田さんは素で驚いて「え」と声を上げる。
「なん……っ、なんで、そ……っ。バカか、そんなわきゃねーだろ!!!」
顔を真っ赤にした夾は素で動揺している。大根役者な夾に
「いえ、一応そんな理由ですよ、王子。ここに来たの」
すけっちが当初の目的を思い出させると、夾は戸惑いながら「ちっ、違……っ、俺は、その……っ、そうじゃなくてっ」と言い繕った。
「じゃあ、まさか私と……? 悪夢だわ……」
「悪夢通りこして、地獄だコッチはー!! メーワクそーな顔してんじゃねー!!」
「貴方、一体何がしたいの……」
連続で声を張り上げて疲れたのか、夾は息を吐きながら「おまえこそ、何がしたいんだ……っ」と言い返した。
「ずぅっと……そうやって自分を誤魔化しながら……生きていくつもり……? お城の中で……お城の中に閉じ込められて……死ぬまで……」
花島さんがアドリブで付け足した後半のセリフを聞いて、僕は顔から血の気が引く思いがした。……花島さんは夾の行く末を、電波で察知したのか?
「――だったら何だよ。それで誰かに迷惑かけんのかよ。どうなろうが、俺の勝……」
夾の言葉を遮るように、1歩前に出た本田さんが切羽詰まった声を出す。
「私はっ、私はそんなの……そんな……の……」
台本Aには(ついでに台本Bにも)、この場面で継姉が言うセリフは一切記されていない。本田さんが本心から語っているのだろう。
「す……っ、すみません。なんでも……っ、なんでもないです。あの、お邪魔しました。どうぞ進めて、お話を進めて下さい……っ。すみませんでした……っ」
途中で我に返った本田さんは、謝りながら定位置に下がった。口元に手を宛がった本田さんは頬を赤らめ、そんな彼女を見つめる夾の頬も若干赤い。
なんだか甘酸っぱい雰囲気になっているけど、台本通りに進めなきゃいけないからな。
僕と由希が揃ってステージに登場すると、またしても歓声が響いた。
はいはい、これから僕がセリフを言うから静かにね。と言う代わりに僕が王笏を掲げた途端、水を打ったように静かになった。プリ・ユキのメンバーも口を閉じるとは思っていなかったな。劇に集中できるからいいけど。
「話は聞かせてもらった。王子のプロポーズは失敗したようだな」
僕が嘲笑しながら言うと、夾は怒りで口元を引きつらせながら「最初からプロポーズなんざする気は無かったんだがな」と言い返した。
「この魔法使いから、貴女の境遇を聞いたよ。貴女は辛い境遇にありながらも、健気に謙虚に暮らしていたらしいね」
多くの観客が「辛い境遇……? 健気に謙虚……?」と言いたげな表情を浮かべているけど、僕はそれを見なかった事にしてセリフを続ける。
「僕なら貴女に苦労はさせない。欲しいものは何でも贈ろう。どうか僕の妃になってほしい」
「ごめんなさい……」
ぐっはぁ!! ……台本通りのセリフだと解っていても、ダメージでかいな。
すけっちとろっしーが、憐れみの視線を僕に送ってくる。そんな目で見るなよ、余計辛くなるだろ!
「私はお姉様と、焼肉屋を経営するという夢があるの……」
「わかった。貴女が継姉と共に焼肉屋を経営できるよう、僕がサポートしよう」
「ありがとう、王様……」
花島さんは微笑んでお礼を言ってくれたけど、さっきのダメージが大きすぎて素直に嬉しいと思えない。燃え尽きた僕に代わって、由希がセリフを言う。
「では、王子も焼肉屋の経営をサポートしてあげなさい」
「なんで俺もやらなきゃいけないんだよ! おまえがサポートしてやりゃいいだろ」
「俺はシンデレラの願いは叶えてあげたけど、王子、おまえの願いはきかない。自分の力で叶えてみせろ」
後半のセリフは由希のアドリブだ。夾は眉を吊り上げて「……なっ」と言いかけたけど。
「「「「厳しくも優しい魔法使い様、素敵……っ!!」」」」」
由希を賞賛する声が、体育館のあちこちで響いた。ステージに出てきた2‐Dのプリ・ユキのメンバーと、観客席にいたプリ・ユキのメンバーと由希の信奉者とかだ。感涙を浮かべる木之下さんは、花島さんの制裁からもう立ち直ったらしい。
「こうして国王や王子とは別の道を生きる事になってしまいましたが、焼肉屋は大繁盛。結婚に依存せずとも女は強く生きられる事を証明したシンデレラは、いつまでも倖せに暮らしたそうです」
ろっしーが物語を締め括るナレーションをする中、演出役の生徒が大団円を盛り上げるようにステージに紙吹雪を降らして、緞帳が下りていく。
ステージと観客席にいるプリ・ユキのメンバーが、「まほーつかいさまぁぁ」と黄色い声を上げたせいで最後がグダグダになったけど、『シンデレラっぽいもの』は終幕した。
▼△
舞台袖に下がった僕は劇が終わった余韻に浸るはずだったけど、それどころじゃなくなった。
なんで、師範が
「初めまして……
「はい、そうです。貴女は夾の相手役の……」
「はい……あ……紹介が遅れました。花島咲です、どうぞよろしく……」
自己紹介しながら師範を見上げる花島さんは、見た事がないほど可憐な微笑みを浮かべていた。おまけに上品で愛想のいい話し方をしている。普段の淡々とした無愛想な口調は、どこへ行ったんだろう。
「
「ししょ……っ、ど……っ、な……っ」
衣装を脱ぎかけた夾が、よろけながら師範と花島さんの処に近づく。
和服姿の師範はにこやかに、「やぁ、夾。お疲れ様」と声をかけた。師範……夾がよろけているのは、劇で疲れたからじゃないよ。
「お疲れ様……」
は、花島さんが優しげな笑顔で夾を労った……だと? HAHAHA、そんなバカな。目の錯覚に決まっているさ。
「私……今日の舞台は相手役が彼だったから、成功したと思うんです。
これは悪夢だ、そうに違いない。僕の花島さんは「夾君」なんて呼んだりしないし、夾に対してお礼なんて言わないし、良妻スマイルなんか浮かべなぁぁぁい!!!
「それでは着替えに戻りますので……ご縁がありましたら……また」
「ええ……また。可愛らしい同級生だね」
もしかして師範はロリコンか……と思った時、足を止めた花島さんに睨まれた。ごめんなさい冗談です。
「師匠……っ、結婚しないでくれ……っ」
よく言った、夾! 師範はほんわかした笑みを浮かべて、夾のオレンジ頭をよしよしと撫でながら話しかける。
「なんだい? 突然そんな事言って……夾もまだまだ子供だね、あはは」
「あ゛ー、もうボケボケだ、このオヤジはー!! 喜ぶ場面じゃねぇーっっ!!」
怒鳴りながらも、夾は照れて顔が赤くなっている。
親バカ子バカを眺めていたら、ろっしーとすけっちが僕のマントを軽く引っ張って小声で聞いてくる。
「あの人がカズマさん?」
「そーだよ」
「……けんけん、頑張れ。けんけんの方が年齢的に有利だよ」
「……けんけん、ファイト。けんけんの方が……えーと、とにかくファイト」
僕と師範を見比べたろっしーとすけっちは、励ましの言葉をかけてくる。すけっちの言葉は、励ましになっていなかったけどな。
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54「絶対見つけ出す!!」
文化祭から3日経った日の放課後。学校に残っていた僕は生徒指導室で、部活に所属してない(あるいは幽霊部員の)風紀委員の仲間と共に、啓発ポスターの作成に励んでいた。
大きな行事を乗り越えたせいか、生徒達の気持ちが緩んで校内の風紀が乱れている。それを改善すべく、全校生徒に注意喚起を促すためのポスターだ。
「こういう標語はどうだろう。身の用心、校則破り1回、留年の元」
「うちの高校って、留年する人いたっけ?」
「あんまりいないと思うけど……出席日数が足りなかったとか、追試でも合格点を取れなかった場合は、留年するらしいよ」
「校則破りから留年は飛躍しすぎだから、他の言葉に変えた方がよくね? 例えば……不合格の元とか」
「受験生は不合格という言葉を見るだけで憂鬱になるから、別の単語にしてあげて」
雑談しながら作業していたら、生徒指導室のドアをノックして1人の女子生徒が入ってきた。3年C組の
「
僕が返事をするより早く、風紀委員の
「錦木センパーイ……キン・ケンの掟を忘れたとは言わせませんよ」
「解っているわよ。建視に話しかける時は常に2名以上で、でしょ? ここには優香と
錦木先輩は「それより、これを見て」と言って、1枚の紙を差し出してきた。
紙を受け取って見ると、僕を中傷する文章が書かれていた。書くといっても手書きじゃなく、パソコンで文章を作成して印刷したと思われる。
中傷文はずらずらと書いてあったけど要約すると、『風紀委員長のくせに派手な髪色しやがってウザイ消えろ』という内容だ。文章は稚拙なのに、反論しにくい処を衝いているな。
「これは、どこで入手したんですか?」
「さっき開かれたクラスの代表と部長が集まる会議の会場となった、会議室の机の中に入れてあったの。
中傷されたのが僕と由希だけなら、モテない野郎が嫌がらせをしたのだろうと見当がつく。だけど、倉伎さんもとなると犯人の絞り込みが難しくなるな。
「建視君を中傷!? しかも由希君まで……絶対許せない!」
「
十朱さんと
「
「二度と箸を持って、ご飯を食べられないようにしてやりましょう!」
「二度とトイレに行けないように……もしくは、二度と瞬きができないように……」
本気でヤバイ制裁は下さないだろうけど、僕は念のために「やりすぎないようにね」と釘を刺しておく。錦木先輩と十朱さんと萩原さんは子供のように無邪気な笑顔で、「はーい」と答えた。
僕も兄さんに注意された時、同じような表情で良い子のお返事をした事があるから解る。あれは「バレないように叩きのめしてやる」と思っている顔だ。
中傷文をばら撒いた犯人は、自業自得という四字熟語を身を以て思い知るだろうね。
僕は啓発ポスター作りを中断して、生徒会室へと向かう。
会議に出席した生徒が生徒会役員に中傷文の事を報告したらしいけど、大規模な犯人捜しが行われている情報は上がっていないだろうから。
生徒会室に到着した時、妙なものを見つけた。木の切り株を輪切りにしたような物体が、ドアの横に立てかけてある。
なんだコレと思いながら切り株の輪切りの裏側を見てみると、やたら達筆な文字で『学園防衛隊本部』と書いてあった。ナベが持ってきた物だろうな。
「そこで何をしているんですか?」
声をかけてきた小柄な男子生徒は、生徒会書記の
「これが何なのか気になって、ちょっと見ていたんだ。立派な看板だね」
「こんなバカげた物、看板として掲げる訳ないでしょうが! 僕は急いでいるんです。用がないなら立ち去って下さい」
「用ならあるよ」
僕がスラックスのポケットから取り出した中傷文の紙を差し出すと、桜木君は苦虫を噛み潰したような表情になった。どうやら彼は、中傷文の存在を既に知っているらしい。
「会議に出席した生徒が、風紀委員長に報告したんですか?」
「そうだよ。僕も中傷された訳だし」
「どうせ貴方も会長と同じで、女子生徒を誑かして男の反感を買ったんでしょう」
桜木君の棘のある口調から、由希に対する不満が感じ取れた。中傷文をばら撒いた犯人は桜木君かと一瞬疑ったけど、頭脳優秀な桜木君がこんな下らない嫌がらせをする訳ないか。
僕が考え込んでいる間に、桜木君は生徒会室のドアを開けて「ちょっと皆さん!」と大声で呼びかけた。
「おかえり、
会長用の事務机に着いて書類仕事をしていた由希が、出迎えの言葉で応じた。
「あっ、けんけんだぁ~っ♡
「違うよ。さっき開かれた会議で、僕と由希と倉伎さんを中傷する文書がばら撒かれたらしくて。それに関する報告をしに来たんだ」
僕は生徒会室に入って説明しながら、由希と倉伎さんに対する中傷文も含む3枚の紙を掲げる。眉をひそめた由希が言葉を発する前に、桜木君が憤りを隠さずに話し出す。
「中傷文については、僕も他の生徒から報告を受けました。会長、今度こそ倉伎にちゃんと注意して下さいよ。倉伎は日頃の態度が良くないから、こんなこと書かれて配られたりするんだぞ!」
倉伎さんは大人しいタイプに見えるけど、チョークが入った箱をひっくり返したり物を割ったりするらしい。そのせいで“破壊魔”という不名誉な綽名が付いてしまっている。
教室を滅茶苦茶にした前科がある春の方が、“破壊魔”と呼ぶに相応しいと思うけど。春は怒らせるとヤバイ人物だと判明したから、恐れて呼べないのかも。
「建視、それ貸して!」
中傷文に目を通した由希は、険しい面持ちになった。
由希に対する中傷文はざっくりまとめると、『女みたいな顔してウザイ消えろ』といった事が書かれている。由希が真っ先に見たのは倉伎さんに対する中傷文だから、後輩が貶されて怒ったのだろう。
「根暗の破壊魔か……女の子に対してこの文はないだろ」
僕が渡した中傷文を由希と一緒に見たナベが、不愉快そうに眉を寄せた。
「でもォ、真知ってホントにそうだもんね~。きゃはははっ」
歯に衣着せぬ物言いをした藤堂さんは、平然と笑い飛ばした。
生徒会の仲間が中傷されているんだから、怒るフリくらいはしようよ。由希とナベだけじゃなく、倉伎さんを非難した桜木君まで引いているぞ。
「……真知は、自分の中傷文がばら撒かれていた事を知っていたの?」
気を取り直した由希が問いかけると、書類保管庫の前に立っていた倉伎さんはこくりと頷く。
「知っていた。一緒に配られていたから……」
「はぁ? その文はどうした?」
ナベの質問に、倉伎さんは「関係ないから処分した」と答えた。どうやら倉伎さんも会議に出席していて、自分を中傷する文書以外は由希達に見せたらしい。
「真知……なんで先にこれを見せなかったんだ」
由希が怒りを抑えた声で訊くと、倉伎さんは淡々とした口調で「気にしてないから」と答えた。強がっているようには聞こえない。自分が中傷されたのに、他人事みたいだ。
「怒らないのか?」
「本当の事だから」
「放っておいていいのか?」
由希が質問を重ねる度に、部屋の温度が下がっていくような錯覚に陥っているのは僕だけか?
倉伎さんもひんやりした空気を感じたのか、「あ……の」と戸惑った声を上げた。由希を敵視しているっぽい桜木君は、不安そうな面持ちで「会長?」と呼びかけている。
「ゆんゆ~ん、なぁんかすっごく怒ってるぅ?」
「怒ってないよ、怒っても仕方ないだろ。どこの誰が書いたのか知らないが、イイ根性しているじゃないか。絶対見つけ出す!!」
中傷文を破きながら吼えた由希の背後に、青の炎が見えるようだ。由希が身内以外の人間に本気で怒ったのは、これが初めてじゃないか?
自分の殻の中に閉じ籠っているように見える倉伎さんは、かつての
「今から犯人のあぶり出し作戦を実行する」
ブチ切れた由希は、普段なら絶対言わなそうな宣言をした。呆気に取られる僕や桜木君とは対照的に、ナベははしゃいだ声を上げる。
「作戦っ? 作戦大好き! やるやる!」
「ちょ、ちょっと会長、生徒会の仕事は?」
「そんなものは後でどうとでもなる!」
「会長が言っていいのか、そんな事!」
「バカ直! オレ達が学園防衛隊である事を忘れるな!」
「あ゛あ゛~っ! 目ェ生き生きさせて、何アホな事ほざいてるんだ!」
ツッコミ役の桜木君は大忙しだな。僕は部外者だからツッコミを手伝う事はしないけど。
さてと。風紀委員の仲間が待っているから、用件を伝えて戻ろう。藤堂さんに声をかけると話が長くなりそうだから、伝えるなら倉伎さんだな。
騒ぐ生徒会メンバーを黙って見ていた倉伎さんは、僕の視線に気付いてビクッと震えた。そんなあからさまに怯えなくても、取って食ったりしないよ。
「建視! 真知を怯えさせるなって、前にも言っただろ」
倉伎さんの変化に目敏く気付いた由希が、僕に濡れ衣を着せてきた。
「だーかーらー、怯えさせるような事はしてないっての」
「あの……」
倉伎さんが意を決したように、何か言おうとした。
「真知、どうしたの? 建視が視界に入るのが嫌なら、今すぐ追い出すけど」
「ゆんゆんって、けんけんには容赦ないのな」
苦笑いしたナベの言葉に、僕は「
「犯人のあぶり出しをするなら、会長を中傷しそうな人の心当たりを教えて下さい」
「俺を中傷しそうな人を教えてどうするの。今は、真知を中傷した奴を見つけ出そうとしているんだよ。真知、思い当たる節のある人物がいたら言ってね」
「忘れたんですか? 会長に対しても中傷文を書いたんですよ、この人物」
倉伎さんに指摘されて、由希は思い出したとばかりに手を打った。
「ああ~、そうだね。別にそんな事はどうでもいいよ」
「私も……私の事はどうでもいい」
倉伎さんは由希が自分を気にかけてくれた事が嬉しいのか、ちょっぴり頬が赤い。
これで由希も倉伎さんを意識していたら、甘酸っぱい一幕になっただろうけど。由希は犯人捜しに意識が向いている。プリンス・オブ・ザ・BOKUNENZINの称号は伊達じゃない。
それはそうと、僕も中傷文を書かれている事を忘れないでほしいな。
「大丈夫だよォ。けんけんにはぁ、公がついているからねぇ♡」
僕が何となく寂しい気分になった事に気付いたのか、藤堂さんが声をかけてきた。さすがは魔性の女。男を落とすチャンスは見逃さないな。
とか思っていたら、スラックスのポケットに入れておいた携帯電話が震えた。取り出して見ると、梅垣先輩からメールが届いている。
「朗報だよ。中傷文をばら撒いた犯人が見つかった」
僕がそう告げると、ナベが藤堂さんに似せた甘え声で「ええ~っ」と言った。
「これから必殺技とか考えてぇ、犯人捜ししようと思っていたのにぃ」
「公の真似しないでぇ、キモ~い」
「それより、犯人は誰?」
問い詰めてくる由希の濃灰色の目が据わっていた。
犯人の名前を教えたら、ぶん殴りに行ったりして。流石にそれはしないかと思いつつ、キン・ケンとプリ・ユキのメンバーが短時間で捜し出した犯人の名前と学年と所属クラスを伝える。
「犯人はサッカー部に所属しているらしいから、今は校庭にいると思う」
「りょーかいっ! ゆんゆん、
「そうだな。二度とふざけた真似をしないように、ガッツリ説教しないと」
生徒会室を出て行こうとするナベと由希を、桜木君が呼びとめる。
「待って下さい。犯人が特定できたなら、明日にでも厳重注意すればいいでしょう。それより、今日の仕事を片付けr」
「あ・と・で」
再び冷気を纏った由希が、桜木君を睨みつけて脅した。桜木君はぐっと言葉に詰まっている。
仕事を第一として訴える桜木君は生徒会役員の鑑だけど、この問題は明日に持ち越さない方がいいと思う。キン・ケンもしくはプリ・ユキのメンバーが、犯人を闇討ちしかねない。
一応当事者である僕も由希とナベの後に続くと、藤堂さんもついてきた。
「藤堂さん、生徒会の仕事は?」
「直ちゃんと真知がいるから平気だよォ。それにぃ、公とお付き合いしてくれている男の子の1人が中傷文をばら撒いたみたいだからぁ、放っておけないしぃ」
2つの意味での爆弾発言が飛び出した。犯人確保に燃えていた由希とナベが、驚愕の表情で振り返る。
「お付き合いって、1人とするもんじゃないのかねぇ。どう思う? 由希君に建視君」
「あー、いやぁ……俺は1人でいいと思うけど」
由希はそう言いながら僕をちらっと見て、「建視はそう思わないだろうね」と言いやがった。
「ウッソ。けんけんって女遊びしてんの?」
「してないよ」
「嘘吐け。中学時代は、彼女をとっかえひっかえしていただろ」
ちっくしょ、由希の奴。他人には興味ないと言わんばかりの無関心ヅラしながら、僕の動向をしっかり見ていやがったのか。
「僕の交友関係が広かっただけだ。人聞きの悪い事を言うな」
「大勢の女の子の相手ができるって事はぁ、けんけんに魅力と甲斐性があるって事でしょ~っ? 胸張っていいんだよォ、けんけん♡」
藤堂さんが僕を援護してくれたけど、素直に喜べない。
「公の言う魅力と甲斐性ってアレだろ、家柄と財力の事だろ」
「そうだよォ。
なんかここまで来ると清々しいな。生温かい笑みを浮かべた僕を余所に、由希が藤堂さんに確認を取っている。
「それより、犯人は公の彼氏なんだよね。どんな奴?」
「すっごく公に優しくてぇ。公のお願い、な~んでも聞いてくれるんだぁ。すっごくいい人だよォ」
「わー、イイヒトダナー」
「お願い、なんでも聞いてくれるんだもんね……」
「使い勝手の“いい人”だよな」
ナベと由希と僕が順番に感想を述べると、藤堂さんは満面の笑みを広げて「うん!」と答えた。仮にも恋人を、使い勝手のいい人だと認めちゃったよ……。
「あのさぁ、ちなみに公さん、犯人にゆんゆんやけんけんの事なんか話したりした?」
「えっ? そだなぁ、えっとねぇ……2人とも公にぃ、あんまり優しくしてくれなくってぇ、公悲しくて傷ついているんだぁ~って言ったぁ」
それが原因だ。僕と由希は同時に溜息を吐く。
「公の言う優しいには応えられません」
「僕は親しくない女の子に、優しくするような事はしないから」
「ええ~っ? なんでぇ~っ? 公とけんけんはもう仲良しじゃない~っ。あ~っ、もしかしてぇ。けんけんは全部見せないとォ、仲良しだと認めてくれないタイプぅ?」
僕の人格を貶める発言をした藤堂さんはお色気3割増しで、「公……けんけんになら全部見せても……いいよ?」と誘ってくる。
一瞬ぐらっときたけど、藤堂さんはぐれ兄属性だと思い出したのでノーセンキューしておいた。
「真知については何か言った?」
由希が話を戻すために質問すると、藤堂さんは人差し指を頬に当てて「えーっとォ……」と記憶を探っている。
「あんまり公と仲良くしてくれないって。いっつも仏頂面しててぇ、公ぃ、嫌われてるみたいで悲しくて傷ついているんだぁ~って」
それが原因だ。
半眼になったナベは、「おいおいおい」とツッコミを入れた。由希は頭を抱えて、「公~」と呻いている。僕は乾いた笑みを浮かべて、「うわぁ」と言った。
「うん? なぁに? なんで3人とも呆れてるの?」
キョトンとした藤堂さんは惚けている訳じゃなく、本気で自覚していなさそうだ。
「犯人は藤堂さんが傷つけられた仕返しをしようと勝手に思い込んで、倉伎さんを誹謗中傷したんだよ。僕と由希に対する中傷は、やっかみが半分を占めると思うけど」
「えぇ~っ。ひっどォ~い。公、そんな事頼んでないのにぃ~」
腰に手を当ててプンプンと怒ってみせた藤堂さんは、「そういう事ならぁ、公に任せてぇ」と言い出す。
「ゆんゆんやけんけんや真知の中傷文をばら撒くなんてぇ、絶対に許せないからぁ、公がビシッと言ってくるぅ」
藤堂さんは倉伎さんに対する中傷文を見た時、笑っていたと記憶しているけど。自分の彼氏が後輩を誹謗中傷した動機を知って、怒りが湧いてきたのかな。そういう事にしておこう。
「公、1人で大丈夫?」
「ゆんゆんってば、公の事心配してくれるのォ? や~ん、嬉しい~っ♡」
「大丈夫だよォ、ゆんゆ~ん。公ちゃんのメガトンパンチは、殺人きゅウボァ!!」
藤堂さんに脇腹を殴られたナベが、廊下に倒れ込んだ。
頬を膨らませた藤堂さんは「翔ってば大袈裟~っ」と言っているけど、彼女の拳がナベの脇腹にめり込んだ際にドスッて鈍くて重い音が聞こえたから、大袈裟でも何でもないと思う。
「じゃあ、公に任せた」
犯人にガッツリ説教すると息巻いていた由希は、気勢を削がれたらしい。遠くを見るような眼差しになって、藤堂さんに丸投げした。
由希が説教しなくても、犯人はキン・ケンやプリ・ユキのメンバーから説教という名の吊し上げを食らうだろう。
その翌日の昼休み。藤堂さんが
「ゆんゆんから聞いたかもしれないけどォ、公ぃ、犯人君とはお別れしたからぁ。心置きなく公と仲良くしてね~っ、けんけん♡」
藤堂さんが誤解を招く言い方をしたせいで、僕と藤堂さんが付き合っているという事実無根の噂が流れてしまった。
僕は風紀委員の啓発ポスターに、『噂を流す者は、噂に泣かされる』という標語を力強く書きこんだ。
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高2・冬休み編
55「あやまれっ」
スランプになって1ヶ月以上、間が空いてしまいました。お待たせしてしまって申し訳ありません。
学校が冬休みに入るなり、残留思念を読む任務をこなした。
……任務の内容を覚えてないから、またしても兄さんに手間をかけてしまったのだろう。兄さんは年の瀬が近づくにつれて増える、急患の対応に追われて忙しくしているのに。
凄惨な残留思念を読み取るのに慣れたら人間として終わると思っているけど、やっぱり慣れなきゃいけないのかな。先の事を考えると気分が重くなるから、棚上げにしておこう。
そして12月31日になった。
僕が
「けーくんがお出迎えしてくれるなんて、めっずらし~い。明日は雪が降るんじゃない?」
「由希が来なかったら、引っ張ってでも連れて来ようと思っていたんだよ。前回の惨劇を繰り返したくないからね」
肩を竦めて僕が答えると、由希は怪訝そうに「前回の惨劇って何?」と疑問を口にした。
「由希が宴会をサボったせいで、色々あったんだよ。後でじっくり話してやるから、由希はさっさと慊人の所へ行った行った」
僕が左手を振ってしっしっと追い払う仕草をすると、由希はムッとした面持ちになりながらも宴会が開かれる広間へと向かう。
思っていたより、あっさり慊人の所に行ったな。もっと嫌々行くだろうと思っていたのに。すんなり事が進むのは楽でいいけど、順調すぎて不安になる。
「ところで、
「
渡り廊下を並んで歩いていたぐれ兄は、予想外の答えを返した。
「なんで師範の家に?」
「一つ屋根の下で若い男女を2人きりにさせたら、夾君がケダモノになって過ちが起きちゃうかもしれないでしょ」
堅物で潔癖な夾が、本田さんに手を出すとは思えないけど。
最近あの2人は、お互いを恋愛対象として意識しているっぽいからな。夾と本田さんが2人きりになった場合、何事もなく年末年始を迎えるとは言い切れないか。
人間関係を引っ掻き回すのが好きなぐれ兄にしては、適切な判断をしたな。と思っていたら、
「由希君は自分から進んで本家に帰るって言い出したんだけど、けーくんが何かしたの?」
「僕は別に何も……」
答えている途中で、疑問が浮上した。
頑なに本家に帰ろうとしなかった由希の考えを僕が変えたなんて、ぐれ兄は露ほども思ってないだろうに、どうして僕が何かしたのかと聞くんだ。もしかして……。
「僕の転校を許可する条件として、由希が宴会に出席するように仕向ける事を慊人に提案したのはぐれ兄か?」
「やだなぁ。僕はそんな事しないよ?」
全く……悪巧みは程々にしなよ、ぐれ兄。
「ぐれ兄は麻酔無しで、腹を開けられちまえばいいんだ。もしくは
「怖い事呟かないでよ!?」
「おっと。本音と建前が逆になっちゃった」
本当に怖いのはぐれ兄だ。転校を勧めておきながら、僕を陥れようとしやがったからな。
ぐれ兄はクラゲに例えられるけど、オーストラリア先住民に“見えない怪物”と恐れられ、コブラの100倍以上の毒を持つというイルカンジクラゲじゃないか。
気持ちを切り替えて、次のミッションに移ろう。僕は宴会が開かれる広間に向かって、春にビデオカメラを渡しながら頼み事をする。
「兄さんと
「とり兄は撮影許可を出したの……?」
目立つ事を好まない兄さんは、着飾って舞いを披露する事が嫌で仕方ないらしい。撮影を許可してもらうため、僕は説得に説得を重ねた。
「兄さんの舞いの映像を誰にも見せない事を条件に、なんとか承諾を得られた」
「それならいいよ」
「ありがとな。……ところで、リン姉はまだ来てないのか?」
もうすぐ宴会が始まる時間なのだが、
「……リンは師範の家にいる」
「そっか、なら良かった」
リン姉は29日に仮退院したばかりだ。この寒い中を長時間出歩くと、また体調を崩すかもしれない。安堵の息を吐いたら、春がじっと僕を見てきた。
「なんか……
「リン姉は入退院を繰り返していただろ。心配くらいするさ」
できるだけ自然に答えたつもりだけど、春は勘が鋭いからな。探りを入れられる前に「それじゃ、撮影は頼んだぞ」と言って、その場から離れた。
「ジュンビできたよーっ」
次の間で着替えていた紅葉が、元気よく大広間にやってきた。
菜の花色と橙色を基調とした衣装は、古代中国の皇帝が着ていた礼服に似たデザインだ。紅葉の頭部を飾る山吹色の冠は、玄奘三蔵が被っていた僧侶頭巾っぽい。
紅葉に続いて大広間に姿を現した兄さんは、薄茶色と濃紫色を基調とした衣装を着ていた。薄絹が垂れ下がる山吹色の冠を被った兄さんの表情は、不機嫌全開だ。
ピリピリを通り越してビリビリした雰囲気を纏う兄さんに、ぐれ兄でさえ近寄ろうとしない。
「おぉ、とりさんっ! よく似合っているよっ!」
綾兄は例外だけど。
「はとり兄さん、素敵です……っ!」
2人が称賛の言葉をかけるのを見て、大丈夫だと思ったのか。ぐれ兄はニヤニヤ笑いながら、兄さんに声をかけている。
「はーさん、カッコイイっ。惚れちゃいs」
「その口、縫ってやろうか」
兄さんが地の底から響くような脅し文句を投げつけると、ぐれ兄は着物の袖で目元を押さえて泣き真似をする。
「なんで、僕だけ当たりが強いのっ?」
「胸に手を当ててよく考えてみろ」
ぐれ兄は反省しない人だから、それを言っても意味ないよ。
円を描くように敷かれた座布団に、リン姉と由希と
半分巻き上げられた御簾で区切られた上座にいる慊人が、珍しく弾んだ声で宴会の開始を告げる。
「さぁ、宴会を始めよう」
隣に由希が座っているから、慊人は目に見えて上機嫌だな。由希は嬉しそうには見えないけど、入学式の時のような極度の緊張や動揺は見受けられない。
……慊人は、由希の変化に気付くだろうか。今回の宴は平穏無事にやり過ごしたいから、気付かないでほしい。
ぐれ兄が余計な事を言わなけりゃ大丈……うわぁ。慊人を眺めるぐれ兄の目が、ちっとも笑ってないんだけど。慊人に何かするつもりなら、2人きりの時にしてくれよ。
不穏な予感がしたけど、考え事をしている場合じゃなくなった。衣装を纏った兄さんと紅葉が立ち上がり、広間の空いた場所へ向かう。
僕は持参した笛袋から龍笛を取り出し、胡坐をかいたまま背筋を伸ばして龍笛を構えた。春がビデオカメラを構えたのを確認してから、僕は歌口に息を吹き込んで音を響かせる。
神楽舞で使う神楽鈴を持った兄さんと紅葉は、鈴を鳴らしながらゆったりと舞い始めた。
紅葉は前回も舞いを担当したし、今回の宴会に備えて舞いの稽古をしただけあって巧い。流れるような動きと、優雅な所作に目を奪われる。バタバタ走り回る普段の紅葉とは、まるっきり別人だ。
対する兄さんは舞いの稽古をする時間が取れなかったせいか、若干動きがぎこちない処があったけど、振りや間を失敗する事なく舞い切った。
「ハリィ、ケン、おつかれーっ」
舞いを終えた紅葉は満面の笑みを広げて、兄さんと僕を労った。
「紅葉、お疲れさん。今回の舞いも綺麗だったぞ。兄さんも……お疲れ様」
「……ああ」
兄さんは舞いが終わったのに、まだ眉間にしわを寄せている。次回も舞いの担当だから、1年後を思って今から憂鬱になっているようだ。対の舞手は綾兄だしな。
綾兄の舞いは良く言えば個性的、悪く言えば演出過剰だ。舞っている最中にウインクを飛ばしたり、突然「カンパニール!!」と叫んだり、袖の中に仕込んでいた紙テープを投げたりする。
ふざけた真似をすると慊人の怒りを買うけど、綾兄は慊人の叱責を受けない。慊人は理解不能な言動を取る綾兄を苦手に思っているから、なるべく関わりたくないのだろう。
紅葉と兄さんが次の間で着替えている間、僕は撮影係を引き受けてくれた春に礼を言って、映像を確認する。よしよし、しっかり録れているな。
「建兄……とり兄が撮影をよく許可してくれたね」
「最初は駄目の一点張りだったけど、『兄さんの舞いを録画できないと、死んでも死にきれない』って言ったら許可を出してくれたよ」
「うわぁ……それって脅しじゃないか。はとり兄さんも気の毒に。こんな重度のブラコンな弟を持って」
僕が照れたように鼻の頭を擦りながら「よせよ、褒めるなって」と応じると、燈路は冷ややかな声で「一言も褒めてないんだけど」と言い返した。
「ブラコンもしくはシスコンと呼ばれる快感を、燈路もそのうち理解できるようになるさ。燈路はもうすぐ、お兄ちゃんになるからな」
「弟妹が生まれても、そんな快感は永遠に理解しないよっ!」
「燈路ちゃんって、優しいお兄ちゃんになりそうだよね……」
「抱かれたいね!!!」
「はい!!」
次の間から、綾兄と利津兄のぶっ飛んだ発言が聞こえた。兄さんが精神的ダメージを食らっているような気がする。
程無くして広間に戻ってきた綾兄に、「ケンシロウっ! とりさんの舞いの映像をDVDに焼いて、ボクに献上したまえっ」と言われた。
「この映像は誰にも見せるなって、兄さんに言われているんだ。どうしても欲しいなら、兄さんに掛け合ってよ」
「では早速、とりさんに頼みに行くとするかっ」
「今は止めてあげて。兄さんは精神的にも肉体的にも疲れて……」
いるから、と言いかけた僕の声は陶器の割れる音に掻き消された。
音が聞こえた上座を見ると、立ち上がった慊人が割れた水差しを掴んでいた。慊人の隣に座る由希の額から、血が一筋流れている。
左目に大怪我を負った直後の兄さんの姿が、一瞬頭に浮かんでぞっとした。
……慊人が水差しで由希を殴った、のか? なんでそんな事に……いや、原因究明は後回しだ。
頭に血が上った慊人を止めなきゃ。でも下手に仲裁に入ると、慊人が余計激昂するかも。
僕が迷っている間に、几帳の陰に控えていた紅野兄が出てきて慊人の腕を掴み、「慊人……っ」と呼んで制止した。
「あやまれ……っ、あやまれよ、あやまれっ」
慊人が強い口調で謝罪を要求している相手は由希なのに、僕の中に潜む盃の付喪神まで萎縮している。
杞紗はかつて自分が受けた仕打ちを思い出したのか、恐怖で涙目になっていた。
「ごめん」
手で額を押さえた由希が謝ると、慊人はそれ以上何も言わずに広間から立ち去った。慊人の後を、紅野兄が追いかけていく。
激昂した慊人があっさり引き下がるなんて、意外だ。由希が自分の意に沿わない言動を取って、ショックを受けた気持ちの方が大きかったのかもしれない。
「由希っ。何という事だ!! 血が流れまくっているではないか!!」
上座に駆け寄った綾兄が、案じる言葉をかけた。春からハンカチを受け取った由希が、「……大丈夫。ちょっと切っただけ」と答える。
「さっさと由希を連れてこい」
「了解だ、とりさん!!」
高らかに返事をした綾兄は、由希を軽々とお姫様抱っこした。綾兄は成人男性にしては華奢な方だけど、力持ちだからな。
「死んではいけない、由希!! 死ぬ時は一緒だとセーヌのほとりで誓い合った日に見た夕陽は、今もボクの胸で輝きまくっているよ!!」
「誓ってないし、見てないし! 過去を捏造するなっ、そしておろせっ」
頭をぶん殴られた直後なのに元気だな。物の怪憑きの仲間を、不安にさせないための演技かもしれないけど。綾兄は演技じゃなくて素だろう。
由希の容体が気になったので、僕も皆と一緒に付いていく。……紅葉の姿が見当たらないな。トイレに行っているのか?
「ぐれ兄は、慊人の処に行った方がいいんじゃない?」
僕の推測が間違っていなければ、ショックを受けた慊人は意気消沈しているはずだ。宥め役は紅野兄の専売特許じゃないんだから、ぐれ兄が慰めれば慊人の気分は浮上するかもしれない。
「別に、いっつも僕がフォローに行くコトもないでしょ~。そんな気分じゃないし」
それとも、と言いながらぐれ兄が僕の方を向く。ヘラヘラ笑うぐれ兄の黒灰色の瞳には、底冷えするような光が宿っている。
「僕の代わりに、建君が慊人を慰めに行く?」
「行かないよ」
行ったら最後、ぐれ兄は完全に僕を敵認定しそうだ。
僕を牽制するくらいなら、自分がさっさと慰めに行けばいいのに。ぐれ兄には戌の物の怪だけじゃなく、天邪鬼も憑いているんじゃなかろうか。
ぐれ兄と話している間に、慊人の屋敷の中にある医務室に到着した。
草摩の主治医として働いていた頃の父さんは家の診察室じゃなく、この屋敷の医務室に常駐していた。兄さんが主治医を引き継いだ後も、慊人の屋敷で働く人達が怪我や体調不良を訴えた時に、医務室を使っているらしい。
「あっ。やっぱり、みんなココにいたっ」
紅葉が合流して数分経った頃、兄さんの手当てを受けた由希が医務室から出てきた。傷はそれほど深くなかったのか、大きめの絆創膏を額に貼っている。
「由希……大丈夫?」
無表情だけど心配の色が感じ取れる春の問いかけに、由希は笑って「大丈夫だよ」と答える。
「傷自体は深くないって。念のために、病院で検査を受ける事になりそうだけど」
「よしっ! それでは、ボクが病院に付き添おうっ。大船に乗ったつもりでいたまえっ。由希が快適に病院に向かえるように、ハイヤーを手配しなければっ!」
「兄さんの気持ちは嬉しいけど、病院には歩いて行けるから」
軽傷で済んだから由希は広間に引き返すらしい。慊人が広間に戻っていたら再び修羅場になっただろうけど、上座に慊人の姿はなかった。安堵の息を吐いたのは僕だけじゃない。
勝手に解散する事はできないので(春はこれ幸いと宴会から抜け出したが)、四つ足膳の上に並んだ料理をつまみながら雑談に興じる。
トイレに行きたくなった僕が広間から出たら、由希がついてきた。
「……建視に話があるんだけど」
「なんだ?」
「さっき、はとりに謝ったんだ。子供の頃のこと」
子供の頃の事と言えば、1つしか思い浮かばない。由希の友達の記憶を、兄さんが隠蔽した件だ。
今更かよと思う気持ちはあるけど、由希が兄さんに謝るとは思っていなかったので驚きの方が大きい。
「はとりだって辛い思いをしたと建視に言われたのに、俺ははとりの心の痛みより自分の悲しみを優先したんだ。友達が離れていった事を、ずっとはとりのせいにしていた」
自分の悲しみを優先したと由希が懺悔するのを聞いた瞬間、
親しい人から自分に関する記憶が無くなってしまうのは、胸が張り裂けそうなほど辛い。あの時の僕は、兄さんの心の痛みを気遣う余裕がなくなった。
当時小学2年生だった由希は、やり場のない悲しみを吐露する相手がいなかったから、誰かを責めないと心の均衡を保てなかったのだろう。
由希の気持ちに寄り添って考えを巡らせれば、もっと早く気付けたはずだ。
子憑きの従弟に対する僕の悪感情は、自分で思っていたより根深かったらしい。……劇の練習をしていた時に、それを再認識したっけな。
由希の事は今でも嫌いだけど、絶対に謝りたくないという程じゃない。気まずさを誤魔化すように僕は盛大に溜息を吐きながら、自分の髪の毛をぐしゃぐしゃに搔き回す。
「……僕も謝らないといけない。僕は兄さんの気持ちを代弁するのにかこつけて、由希に八つ当たりした。あの時の由希は傷ついていたのに……追い討ちをかけてごめん」
由希は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。
むっとした僕が「なんだよ、その顔は」と問いかけると、由希は「いや、その……」と言葉を探す。
「建視が真面目に謝るなんて、思ってもみなかったから」
失礼な事を言う奴だな。悪気が無いから尚更タチ悪い。まぁ、いいや。気になっていた事を質問しよう。
「さっき、慊人に何を言ったんだ?」
「誰かのせいにするのは、もう嫌だと言ったんだよ。自分には悪いトコロや改めていかなきゃいけないトコロがたくさんあるんだって事を、ちゃんと自覚していかなくちゃいつまでたってもバカなままだ。誰かの……何かのせいにしていたら、いつまでたっても変われない」
……由希の変化を感じ取ったら、慊人は荒れるだろうなと予想していたけど。不変を望む慊人に面と向かって変わる事を宣言するなんて、予想外もいい処だよ。
そんなこんなで波乱含みの年明けになった。
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高2・3学期編
56「これが俺の選んだ道だから」
Side:
正月からずっと、
慊人を診察したはとり兄さんは、いつものように気持ちから来る
宴会で
由希は少し前まで慊人の影響を強く受けていたけど、慊人に対する怖れを乗り越えて変わる事を選び、
……俺も
答えの出ない思考を切り上げた時、パソコンデスクの一角に置いたDVDが目に付いた。
大晦日に人目を忍んで接触を図ってきた
紅葉曰く、これは
――生きている限り、願いは生まれ続けるから……っ。
本田さんの言葉が頭を過った瞬間、深夜のコンビニエンスストアで楽し気に笑ってみせたありさの姿が思い浮かんだ。ありさの眩しい笑顔を、ずっと見ていたいと願ってしまった事も。
……そんな事を願ってもムダだというのに。
気を紛らわすために、本田さんが紅葉を介して贈ってきたDVDを観る事にする。
パソコンの画面に映し出されたのは、学校の文化祭の劇と思しき映像だった。本田さんや由希や
友人王子を演じているから男装をしていたけど、すらりとした背格好と染めた金色の髪は俺の記憶に焼きつけられた彼女そのもので。
ありさのざっくばらんな口調を聞くと、彼女が夏の日に汗だくになってまで走って、俺に声をかけてくれた時の事を鮮明に思い出す。
――後ろ姿見えて、見失ったら……やだったから、つい必死で追いかけちゃったよ。あははっ、わけわかんねぇな!
俺は思わず、パソコンの画面に手を伸ばした。画面の向こうでは、ガラスの靴を握り締めたありさが叫んでいる。
『そんなんじゃ会いたくても会えない奴は、どーすりゃいい!! 会いたいのに、会いたいのに……っ、会いに来いコラー!!!』
最後の言葉は劇のセリフじゃなくて、俺に向かって言っているのだと伝わった。本田さんが言っていた通り、ありさは俺に会えなくて悲しそうで、さびしそうにしている。
視界が滲んで、ありさの姿がよく見えない。こんな画面越しじゃなくて、直接ありさに――。
――僕を見捨てないでぇ!! 紅野ォ!!
幼い慊人の哀願が脳裏に蘇った瞬間、頭に冷水をかけられたような気分になった。
何を馬鹿な事を考えているんだ。俺は慊人の側にいると誓ったじゃないか。そう自分に言い聞かせて戒めたけど、行き場を失った愛しさが引き裂かれて悲鳴を上げている。
ありさが出てくる劇の映像をそれ以上観る事ができなくて、両手で顔を覆う。終演と共に送られる拍手や賑やかな歓声が、静かな部屋に響いた。
DVDを観た翌日の午後。色々と考えた末、俺は
応対に出た紫呉兄さんは、電話をかけたのが俺だと解った途端に酷く冷たい声音になる。
『めっずらし……ってか、初めてだね』
「急に電話をかけてごめん。本田さんと話をしたいんだ」
『……は?
紫呉兄さんは呆れたように『存外……抜けているね、君』と言った後、少し間を置いてから訊いてくる。
『彼女に何の用?』
「紫呉兄さんにも、話すべき事があるのかもしれない……」
俺が慊人の側近になった経緯は、絶対に誰にも言ってはいけないと慊人に口止めされているけど。紫呉兄さんは俺が慊人と秘密を共有している事も気に食わないだろうから、打ち明けないといけない。
俺の決断を聞いた紫呉兄さんは蓄積した怒りをぶつけるように、『やっとかよ』と低い声で吐き捨てる。
『……あのさ、紅野。前から思っていた事、訊いてもいいかな。君、君さ。もしかしたら解放されているんだろう、呪いから』
疑問より確信の方が大きい割合を占める問いかけに、俺は一瞬呼吸を忘れた。
『同情したの? だって、もう
柔らかい話し方をしているけど、受話口から聞こえる紫呉兄さんの声には棘が潜んでいた。
皆に真実を明かして慊人から離れる決断を下せず、哀れみの感情から慊人と情を交わしてしまった俺に対して怒り、憎悪を抱いているのだろう。
だけど、紫呉兄さんにどれほど憎まれようと、俺はあの時の誓いを裏切る訳にはいかない。
「……あまり……驚かないんだね……。気づいていた? 呪いから解放されてる……って」
『やぁ、そんなカッコ良いこと言えたらいいけど。“なんとなく”だよ、残念ながら。でも、そっかぁ。これでちょっとスッキリしたよ』
紫呉兄さんは『なるほどねぇ』と、含みを持たせた口調で話を続ける。
『そりゃあ、
「兄さん……兄さんの気持ちは、わかってるつもりだ。兄さんが俺を嫌っている事も。だけ……」
俺の言葉を遮るように、紫呉兄さんは『嫌いだよ』と言い切った。
『そう、僕は君がとても嫌いだ。ハッキリ言ってあげる僕に感謝してくれよ。これで思う存分、悲観ぶることができるだろ? 良かったねぇ』
おまえが手を出したくせに被害者ぶるな、と暗に言われた気がした。紫呉兄さんが怒るのは当然だから、責めは甘んじて受けよう。だけど。
「……だけど、兄さん。慊人は見捨てないでやってほしい。これ以上、冷たくあしらわないでやってほしい」
慊人の精神状態が一向に良くならない原因として、宴会で紫呉兄さんがすぐに慊人を慰めに向かわなかった事も大きい。
紫呉兄さんは慊人が誰を1番求めているのか思い知らせるために、わざと遅れて行ったのだろう。
「慊人は俺を好きだから、側に置いているんじゃない。いつだって、今でも1番側にいてほしいと願っている
紫呉兄さんだと告げようとしたけど、兄さんは感情を排した声で『誤解しないでくれないか、紅野』と反論してくる。
『僕は好きだよ、慊人の事が。昔も今も。好きで好きすぎて、ドロドロに甘やかしたくなるし、グチャグチャに踏み潰してやりたくなるんだよ』
……どうして、愛する人を傷つけてやりたいと思うんだ。正直言って、紫呉兄さんの愛情は理解できない。
「報復がしたいなら、俺にすればいい」
『僕は報復がしたいなんて、一言も言ってないんだけど。僕の愛情表現を、君に理解してもらおうとは思ってないよ』
この件に関して俺が何を言っても、紫呉兄さんは聞く耳を持たないだろう。俺は溜息を押し殺しながら、今まで誰にも言わなかった予感めいたものを打ち明ける。
「もう終わりは近いだろう。小さな変化やきっかけは積み重なって、動き出す。紫呉兄さんもそれを作りだしたくて、
『透君が帰ってきたら、適当な用事をお願いしておくよ。僕の家の近くのバス停辺りで待っていれば、透君と会って話ができるはずだ』
一方的に告げた紫呉兄さんは、俺の問いかけに答えず電話を切る。ツーツーと無機質な機械音が、耳の奥に残った。
まとまらない考えを切り替えて、外出の支度をする。慊人の世話役に引き止められたけど、仕事のモチベーションを取り戻すために「外」の空気を吸ってくると言って、
タクシーに乗って紫呉兄さんの家がある小山まで向かい、紫呉兄さんが指定したバス停のベンチに腰掛けて待っていたら、ツツジ色のダッフルコートを着た本田さんが歩いてくる。
急にしゃがみ込んだ本田さんは、道端で群れていた雀に気を取られたようだ。俺が彼女の所へ向かうと、雀の群れが一斉に飛び立つ。
かつて俺が
外出するたびに雀の群れに集られて困った事もあったけど、呪いが解けた今は雀が寄ってくる事も、雀に俺の意思が伝わる事もない。
俺が本田さんに手を差し伸べて立ち上がるように促すと、彼女は不思議そうに「紅野さん……」と呟きながら俺を見上げる。
「…………鳥が、紅野さんから離れていってしまいました……。紅野さんは酉の物の怪憑きでいらっしゃいますから……物の怪憑きの方は……その動物が……あ、あれ……?」
困惑する本田さんを抱き寄せて、今まで隠してきた真実を告げる。
「……俺はもう違うんだ。変身もしない。俺の呪いは、もう解けてる。今の君より若かった頃に。だから、もう
泣きたくなるほど美しい夕焼け空を見上げながら、「もう飛べない……」と呟いた。
――ねぇ、紅野。鳥になれるって、どんな気分? あの空を自由にとべるって、どんな気分? たのしい? ワクワクする? いいなぁ、紅野。僕も鳥になれたらよかった。
幼い慊人にそう言われた時、俺の胸の奥に潜んでいた酉の物の怪は歓喜していた。だけど、あの時の喜びには俺自身の感情も含まれていたと思う。
俺の両親は酉憑きの息子を受け入れてくれたけど、俺が物の怪憑きとして生まれた事を嘆いていたから。慊人が純粋な憧れを向けてくれて、嬉しかったんだ。
「どうして……っ、どうやって呪いが……っ」
本田さんは俺の腕を掴んで問い詰めてきた。
「……わからない。自分でも突然の事だった。 なんの前触れも無く、
あれは俺が高校1年生の時だ。慊人に頼まれて庭に咲いている花を摘みに行こうとしたら、急に視界が開けた気がした。
自分の中には“自分”しかいなくて。あの青い空をもう飛ぶ事はできないんだって思ったら、哀しくて……嬉しかった。
「
「けれ……ど、他の
本田さんの切羽詰まったような問いかけに答える代わりに、彼女がくれたありさの連絡先のメモと劇のDVDを一緒に渡す。
「ごめん。君からのプレゼント、無駄にしてしまう。ごめん。それを伝えに来たんだ」
紅葉と建視の協力を得ていたとはいえ、普通の女子高生が草摩家に侵入するなんて、並大抵の覚悟ではできなかったはず。
だけど、本田さんの親友を思いやる心意気には応えられない。
「ありさとは会わないよ。俺はこれからも慊人の側に居るから。たった2回……たった2回だ、ありさと会って話をしたのは。ちっぽけで……些細な出会いだ」
ありさと出会って話をして一緒に蕎麦を食べた時間は、俺が今まで生きてきた中で1番楽しい時間だったけど。ありさにとっては、そうじゃない。
彼女には、俺なんかよりずっと素晴らしい
「このまま会わずに終わればただの些細な想い出になって、いつか消えてなくなる。それだけの出会いだ。だから君ももう、気にせず」
焦げ茶色の瞳に涙を浮かべた本田さんが、俺の頬に触れてきた。その時、俺の目尻から涙が流れて、自分が泣いている事に気付く。
己の感情を押し殺すのに慣れたせいか、自分の感情が解らなくなる時が多々ある。慊人の側に居る時はそれでも困らないけど、ありさと会話した時に失敗してしまった。
――だったらもっと、倖せそうに笑えよ……っ。
今の生活は何不自由なく満ち足りて倖せだと俺が話した時、ありさはそう言って怒った。
いや、違う。ありさが怒ったのは、俺がコンビニで買い物をするのはムダな事だと言ってしまったからだ。
――あたしはムダなんかじゃないって……思ったけどな! コンビニで会って、こうしてソバ食って……あたしはあたしが思っていたより、ずっと、ずっと……ずぅっと、アンタに会いたかったからっ。だから、嬉しかったけどな!!
俺も嬉しかった。自分で思っていたよりも、ずっと。
「会いたい……会いたいけど、たった2回だったけど。……初めて“人間”になった自分が、
俺はもう物の怪憑きじゃないから、いくらでも本当は抱きしめられる。
けど、他の
「俺だけ自由で、どこにだって行ける。誰だって愛せる。だけど、
――嫌ぁ!! いかないで!! いかないで!! どこにもいかないで!! 離れないで!! 側にいて!! 離れないで!! 僕の側にずっといて!!
俺の呪いが解けた事を知った慊人は、ボロボロに泣き崩れながら俺にすがってきた。
物の怪憑きではなくなった俺にとって、慊人の言葉は強制力を持たなくなっていたけど突き離す事なんてできなかった。
「……慊人にとって
他の
――同情したの? だって、もう
紫呉兄さんに指摘されたように、俺は誰よりも弱くて誰よりも脆くて、誰よりも臆病な慊人に同情したのだろう。
確かに呪いは解けたけど、
「それでも誓ったんだ、側にいるって。慊人が俺を必要としなくなるその日まで、ずっと……っ。壊れそうなほど泣いてすがった、この女の子の為に生きていこうって……」
慊人が女の子だと知って、本田さんは驚くと同時に動揺したようだった。
「嘘……じゃなくて……ですか……?」
「本当だよ。草摩には秘密事が多いけれど、その中でも最たる……」
慊人が女だと知っている物の怪憑きは、紫呉兄さん、はとり兄さん、
この4人と俺だけだと伝えたら、本田さんは納得いかないように「け……けれど」と反論してくる。
「慊人さん……っ、男の方のように振るまって……いらっしゃって……っ。他の
「慊人は生まれたその日から、“男”として育てられてきた。
本田さんは不思議そうに、「……あの人……?」と訊いてくる。
「……君は1度、本家で見つかりそうになったね。
楝さんは草摩の当主の跡継ぎが女だと問題があると主張して、慊人を男として育てると決めたと言われている。紫呉兄さんは違う見解をしていたけど。
――自分が
まだ見ぬ
同じ夢を見た兄さん達と一緒に、まだ自分の妊娠を知らない楝さんの元へ行って「待ってた」と言いながら泣き続けた。
あの時の楝さんは慊人が宿った下腹部に向かって手を伸ばす俺達を、気味悪がるような目で見ていたと記憶している。紫呉兄さんは、楝さんの嫉妬の片鱗を見て取ったようだけど。
「楝さんは、慊人と十二支をつなぐ“絆”は間違っていると言う。そんな“
楝さんは、自分と晶さんの“絆”こそ本物だと主張している。晶さんと自分の間には誰も割って入れないから、慊人はいらないと言い放った事もあった。
「呪いが解けて改めて……振り返ってみてみれば確かに、“
酉に憑かれていた頃は、物の怪が心の端でいつも俺を見張っていた。慊人を裏切るな、と常に追い立ててきた。
けれど、呪いが解けた瞬間、俺を常に監視していた
「だけど、もうひとつ見えたモノもあるんだ」
――おねがい……っ。おねがい、おねがいだから、いかないで……っ。
「泣いている
そこまで話した時、無言で話を聞いていた本田さんの頬に涙が伝っている事に気付いた。
「……ごめん。たくさん話して……混乱させて。……だけど、慊人は
俺は「ごめん」と謝りながら、本田さんの涙で濡れた頬に触れる。
君を傷つけてごめん。君の願いに応えられなくてごめん。責めるなら、不甲斐ない俺を責めてほしい。
「これが俺の選んだ道だから。
伝えたい事を全て伝え終えたので、本田さんから離れて立ち去った。
後ろの方でDVDのケースが道路に落ちる音と、本田さんのすすり泣く声が聞こえたけど、俺は慊人の側に居る事を選んだから引き返す事はできない。
罪悪感で軋む心も、ありさへの愛惜の情も、張り裂けそうな胸の痛みも、
▼△
Side:
ぐれ兄の家に行く途中で、予想もしない組み合わせの2人を見つけた。
1人は透、もう1人は紅野だ。慊人のお気に入りの紅野が仕事以外の用事で外出するなんて珍しいけど、今はそんなコトどうでもいい。
紅野に何か言われた透は、道路に座り込んで泣いていた。
透がボウッとしているからって何を言ってもいいと思って、言うだけ言って放り出したんだ。怒りに駆られたアタシは紅野を追いかけたけど、酉憑きの従兄はタクシーに乗って立ち去ってしまった。
座り込んだままの透は気になるけど、アタシは優しい慰めの言葉はかけてやれない。「1人で紅野のトコロに行くなって言ったのに、どうして紅野なんかと話したんだ」となじってしまいそう。
アタシにできるコトは、紅野をとっ捕まえてなんで透を泣かせたのか問い質すコトぐらいだ。事と次第によっては、紅野を殴り飛ばしてやる。
そう決意して草摩の本家に戻って、慊人の屋敷に向かった。正式な用も無いのに慊人の屋敷に近づいて見つかると面倒なコトになるから、庭をこっそり歩いていたら。
「いけない子ね、依鈴ちゃん……こんな処まで忍び込みに来たの……?」
背後から急に声をかけられた。アタシが驚いて振り返ると、慊人によく似た面立ちの楝さんが微笑みながら立っている。
「ずっと……何かを捜しているでしょう、依鈴ちゃん。知っているのよ。私が力になれないかしら……?」
他の奴が――例えばぐれ兄が同じ台詞を言ったら、話がうますぎて信用できなかっただろうけど。楝さんなら信じられる。だって楝さんは、アタシが小さかった頃も気にかけてくれたから。
――倖せなお家ね、依鈴ちゃん。お父さんもお母さんも、依鈴ちゃんを愛してる。
おそらく楝さんは、アタシの両親は娘のために無理をしているのだと遠回しに教えてくれたんだと思う。
だけど幼いアタシはそこまで考えが至らず、自分の家族は本当に倖せなのかと疑問を抱いてしまったんだ。
世の中には触れちゃいけない事があるとは知らなかったアタシは、「どうしてパパとママはいつも楽しそうなの? ホントに楽しい?」と馬鹿正直に聞いてしまい、家庭崩壊を招いてしまった。
今回も楝さんは、助言をしてくれるだろうか。紅野に会わせてほしいと頼もうとした時、アタシがずっと捜しているのは別の物だと思い出す。
病がちで奥の間にいる楝さんに会える機会なんて、そうそうない。紅野を殴るのは次の機会におあずけだ。ごめん、透。
「……十二支の……呪いを解く方法、楝さん、知ってる……?」
楝さんが知っている可能性は低いと思ったけど、彼女は何かを隠すように薄く笑った。
「……っ、知……っ」
「私の願いを叶えてくれたら、教えてあげる。……私の欲しい物を取ってきてほしいの。元来、それは私の物なんだけどね。慊人に奪われてしまったの……っ」
楝さんの表情には、隠し切れない怒りと憎悪が見て取れた。楝さんと慊人は不仲だという噂が流れているけど、本当だったんだ。
気を取り直すように微笑んだ楝さんは、アタシと目線を合わせるように膝を折って話を続ける。
「それは慊人の部屋にあるんだけど、私は慊人の部屋には近づけない……私に対する監視はとても厳しいの。でも依鈴ちゃんなら、もしかして……」
「……
「宝物……」
楝さんは自分の宝物が慊人の部屋のどこら辺にあるか、大体見当がついているらしい。隠し場所と、目的の物の形状を教えてくれた。
――依鈴さんがお1人で無理をなさらないと、仰って下さるなら……。
呪いを解こうとするアタシとコンビを組むと言ってくれた、透の言葉が不意に浮かんだ。
慊人の部屋に侵入するのは危険が伴うけど、成功の見返りは大きい。大丈夫、アタシはきっとやり遂げてみせる。
草摩とは本来関係のない透が、呪いを解こうと息巻く必要はないんだ。
「それじゃ、箱を取ってきたら……」
「呪いを解く方法を教えるわ。約束よ」
楝さんの「気を付けてね」という言葉を背に受けて、屋敷の中に向かう。
好都合なコトに、慊人の世話役の姿は見当たらない。足音を殺して廊下を歩き、慊人の部屋に入って、床の間に隣接した低い棚の戸を開ける。
あった。朱色の組紐が付いた、椿の螺鈿細工が施された黒漆塗りの箱。これを楝さんに渡せば、呪いを解く方法を教えてもらえる。春をようやく解放できる。
箱を手に取った時、アタシの背後から青白い手が伸びてきた。
人の気配に気付けないほど油断するなんて、と後悔しても遅い。恐る恐る振り返ると、凪いだ無表情の奥に激怒を潜ませた慊人がいた。
……春、ごめんね。呪いを解く方法を教えてもらえるチャンスだったのに。アタシはここで終わりみたい。
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57「どうして止めるの……?」
卒業式を来週に控え、式典と歌の練習や体育館の飾りつけが進められている。紙花作りを担当する2‐Dの生徒は全員、1人につき10個の紙花作成のノルマが課された。
紙花を作るのは正直かったるいけど、放課後に教室に残って気心の知れた者同士で雑談しながら作業するのは楽しい。
「ずらかりますよ、皆さんっ!」
2‐Dの教室の戸口で叫んだ
泥棒のコスプレをするなら、峰不○子が着用していたようなライダースーツを着ればいいのに……じゃない。しまった、やられた!
「待てコラ、盗っ人ォ!!」
「返して~っ」
教室の外に出たすけっちと副委員長の
逃げ足速いなと思った時、職員室に行っていた
「あ……あの、一体何が……」
「あの人達、由希君が作った花を全部強奪したのよ。人気が無くなった頃合いを見計らってたね、ありゃ」
本田さんは由希のファンクラブの存在を知らないのか。知ったところで、本田さんの利益になる事は1つもないから教える事はしないけど。
「まったく、あの人達もな~っ。ちょっと説教かましてやってよ、花島さ~ん」
ろっしーが軽い口調で頼むと、花島さんはどうでも良さそうな口振りで「私個人の利害と一致しないわ……」と答える。
利害が一致すればお説教してくれるのか。焼肉食べ放題を見返りに提示すれば……怒りのオーラを纏った
「それなら、けんけんがあの人達に説教をすれb」
「
「盗みに手を染めたプリ・ユキのメンバーが、
キン・ケンのメンバーである
見かねた僕が「その辺にしてあげて」と声をかけると、彼女達は笑顔で「建視君の仰せのままに!」と答える。
「……けんけんのファンに頼めば、プリ・ユキから花を奪還してくれるんじゃね?」
小声で提案してきたろっしーに対し、僕は少し考えてから「大騒動になりそうだから迂闊に頼めないよ」と答える。
キン・ケンのメンバーは僕の頼みを躍起になって遂行しようとするし、プリ・ユキのメンバーは由希が作った紙花を意地でも手放さないだろう。下手したら、ファンクラブ同士の抗争に発展しかねない。
「しょ~がねぇな、ホントにもう。ここはひとつ……穴埋めは頼んだぞ、キョンっ」
溜息を吐いた
「まぁた、てめぇはそういう……盗られたのは
「夾が作った花も盗まれているぞ」
僕は指摘しながら、夾の机を指差す。夾が作り上げた10個の紙花は、1つ残らず消えていた。
プリ・ユキのメンバーが逃走した時の騒ぎに乗じて、夾のファンが花を盗んだと思われる。
「無ぇじゃん!!!」
大声で叫んだ夾は焦りを浮かべていた。花盗人の気配を察知できなかった事がショックだったらしい。
「僕に言われても。犯人は見てないから、夾の花が誰の手に渡ったのか知らないよ」
ファンクラブは結成されてないけど、夾のファンも多いんだよな。海高のヤンキー系女子は全員、夾に惹かれていると言っても過言じゃない。ただし、魚谷さんは除く。
「盗った奴……あえて“殺す”とは言わない……地獄へ堕ちろ!!!」
青筋を浮かべた夾がゴートゥーヘルを宣告すると、すけっちが「ビミョーな優しさだよね」とコメントした。それを聞いた魚谷さんが、「優しさなのか?」と疑問を呈している。
世の中には死んだ方がマシだと思うような事があるから、優しさじゃないと思う。
それから、盗まれた花はどうするかという話になった。
生徒会の方に行った由希を呼んで、作り直させる訳にもいかず。ここにいる面子で作り直さなくてはいけない、という結論に辿り着いた。
やだ、めんどい。誰も本音は言わなかったけど、心は1つだ。本田さんは面倒臭いとか考えなさそうだけど。
「うがぁっ! なんだ、あいつらぁ、ふざけんな!! ぜってぇ見つけて取り返す!!」
魚谷さんが怒号を発すると、教室に残って作業していた生徒の大半が「おう!」と賛同した。
「でも、あの、作り直してしまったほうが……早いの……では……」
「甘いぞ、
「戦力を必要とするのなら……」
おおぅ……花島さんが動いた。これで犯人は大人しく花を返すだろう。
いや、待てよ。熱狂的なファンは崇拝対象のお手製の品を手に入れるためなら、どんな犠牲を払っても構わないと覚悟を決めるかもしれない。
修羅場になる前に、盗んだ花の代わりを作らせるとか代案を提示した方がいいかも。
教室を無人にすると新手の花泥棒に狙われるかもしれないので、本田さんと夾に留守を任せる事にした。
「さってと、まずは犯人の居場所捜しだな。花島、わかるか?」
「被服室と体育館裏から、浮かれた電波を複数感じるわ……」
花島さんが電波情報を告げると、ろっしーとすけっちは興奮気味に「おお~」と声を上げる。須栗さんは満足げに、「捜す手間が省けたわね」と言う。
他の女子達は、花島さんの力に恐れをなしているように見えた。彼女達の反応は、花島さんの心を傷つけるかもしれない。そう思った僕は、手を叩いて呼びかける事で本来の目的を思い出させる。
「じゃあ、二手に分かれよう」
「私達は建視君と一緒がいいな」
真っ先に希望を述べた赤坂さんに続いて、他のキン・ケンのメンバー5名が「私も」と同意した。
僕は花島さんと同じチームが良かったんだけどなと思っていたら、当の花島さんが「待って……」と発言する。
「私は建視さんに話があるの……彼と2人にさせてもらえないかしら……」
「ええっ? 話ってもしかして……?」
ろっしーとすけっちは色めき立ったけど、赤坂さん達が焦ったように「建視君と2人きりなんてダメよ!」と反対する。
「花島はキョンの親父さんが好きだから、リンゴ頭に告白したりしねぇよ」
魚谷さぁぁぁん!! そんな話のついでみたいに言わないで……はっ、そういえば。
話のついでにこの話題が出たらショックがデカイと言って、花島さんの想い人を僕に教えたのは魚谷さんだよね!? あの時の気遣いはどこへいったの?
「なぁんだ、そうだったの」
赤坂さん達は目に見えて安堵し、ろっしーとすけっちは同情を浮かべて「けんけん、ファイト」と励ましてきた。僕は泣かない。だって男の子だもん!
奪還隊と別れた僕と花島さんは、話を立ち聞きされないように屋上へと向かう。
花島さんと2人きりになれる機会は中々無いから浮かれてしまうけど、花島さんは心なしかピリピリした雰囲気を纏っているから気を引き締める。
「それで、話ってなに?」
「……4日前の夕方に、叫ぶように泣く透君の電波を受信して……電波の発信源に向かったら、透君が道路に座り込んで泣いていたの……」
感情豊かな本田さんが涙目になるのはそれほど珍しい事じゃないけど、道路に座り込んで泣くなんて尋常じゃない。
「……誰かが本田さんを手酷く傷つけたのか?」
「透君は……
予想外の人物の名前を聞いて、怒りが霧散して疑問が生じる。
外を出歩いていた
まさかとは思うけど、2人が鉢合わせするようにぐれ兄が裏から手を回したんじゃないか? 考え込む僕を他所に、花島さんは話を続ける。
「透君はクレノさんに、ありさに会ってほしいと頼んだけど……クレノさんは、側にいてあげなくてはいけない
僕にとっては予想通りの結末だけど、希望を捨てない本田さんにとっては受け入れがたい返答だったかもしれない。
「クレノさんは自分以外の誰かの気持ちを大切にしていて、透君は何も言えなかったみたいで……透君は酷く悔いていたわ……迷惑ばかりたくさんかけたのに何もできなくて、何の役にも立てなかったと言って泣いていたのよ……」
本田さんは普段通りに振る舞っていたから、彼女が酷く傷ついた事に気付けなかった。
何の役にも立たなかったのは、僕の方だ。魚谷さんの好きな人は紅野兄だと知っていたのに、2人の仲を取り持つ事ができなかった。
一連の経緯を僕に伝えた花島さんは、何もしなかった僕を責めているのだろう。夏休みの件もあるし。謝ろうとした僕を遮るように、花島さんは話題を変える。
「ここからが本題よ……」
今までの話が前置きだって!? どれほど深刻な話が語られるんだと、思わず身構えてしまう。
「泣いていた透君を私の家に招いて、ありさも呼んでねまき祭りを開催して……透君は気持ちを持ち直したようだけど……」
ねまき祭りって、パジャマパーティーの事だろうか。思考が逸れそうになったけど、花島さんの話の途中だから集中する。
「ここ数日……透君は貴方や草摩由希や草摩夾を見ては、何か言いたそうにしているわ……透君のおかげでありさは自分の想いにひと区切りつけるきっかけをもらえたから、クレノさんの事を聞こうとしているとは思えなくて……貴方は何か、心当たりはないかしら……?」
――建視……さん。あ……っ……き……………あ、あの、えっと、明後日はモゲ太さんのアニメが放送される日ですね!
昨日、図書室で本田さんに声をかけられた時、彼女は何とも歯切れの悪い言い方をしていた。
本田さんが本当は何を言おうとしていたのか見当もつかなかったが、花島さんの話を聞いて1つの可能性が浮かんだ。
紅野兄が部外者の本田さんに慊人の秘密を打ち明けるなんて、あり得ないけど。もし、話していたのだとしたら。
「心当たりは……ある。多分だけど、本田さんは草摩家の当主について聞きたい事があるんじゃないかな」
「…………草摩家の当主に関する情報を得て、透君は何をするつもり……? 透君は危ない橋を渡ろうとしているんじゃないかしら……」
考え込むように瞼を伏せた花島さんに、それは杞憂だと言う事はできない。夾の行く末を案じているだろう本田さんは、呪いを解くために行動を起こす可能性が高いから。
「私……心配になるの……透君は
――わ、私は呪いも解けなくて、はとりを守ってあげる事もできなくて……ごめんね。私のせいで、本当にごめんね……。
脳裏に浮かんだのは、罪悪感に蝕まれた
夾を助ける事ができなかった本田さんが、佳菜さんのように心を病んでしまったら。本田さんから陽だまりのような笑い顔が消えてしまったら。
……想像しただけで、胸が軋むように痛んだ。
「本田さんが草摩の本家に関わって危険な橋を渡ろうとしたら、僕が止めるよ」
「あら……どうして止めるの……?」
そう言いながら花島さんは、不思議そうに小首を傾げた。いやいや、僕の方が納得いかないんだけど。
「どうしてって、花島さんも本田さんに危険な目に遭ってほしくないだろう?」
「それはもちろん……」
「だったら」
「でも……透君が危険を冒してまでやろうとした事をやり遂げられずに、後悔を抱えて生きるようになってしまうのも嫌よ……」
いやな予感がして1歩後ずさった僕を、花島さんはまっすぐ見据えて「だから……」と言葉を続ける。
「透君が危険に飛び込もうとしたら、助けてあげてちょうだい……」
花島さんにお願いされると普段なら天にも昇る心地になるのに、この瞬間は奈落の底へ突き落されたような気分になった。
だって夾が幽閉の憂き目から逃れたら、次の生贄に選ばれるのは僕だから。
これは単なる推測じゃない。一昨年の5月に夾が失踪した時、慊人に言われたんだ。
――困ったなぁ。十二支憑きより悲惨な境遇の
言葉を切った慊人は、唇を歪めて嗜虐的な笑みを形作る。
――だからね、建視。夾が帰ってこなかったら、建視を幽閉するよ。先代の盃の付喪神憑きのように、建視も暴走するんじゃないかと危惧する人達は多いんだ。……大丈夫。閉じ込めても僕が会いに行ってあげるから。僕が側にいてあげるから、寂しくないよ。
当時の僕は目の前が真っ暗になった。
夾が幽閉されるのは可哀相だけど決定事項だから変えようがないと受け入れていたくせに、いざ自分の未来が完全に閉ざされる可能性を示されると何が何でも回避しなけりゃと思って。
僕は師範の私物から残留思念を読む許可を慊人に願い出て、師範と夾がどこへ行ったのか密かに調べて、2人の居場所を慊人に報告したんだ。
山籠もりしていた夾は連れ戻されると予想したけど、そうはならなかった。師範が夾を引き渡すのを、拒んだのかもしれない。猫憑きの更なる逃走を阻止するために、草摩家の監視は付いたと思うけど。
夾の居場所を調べたんじゃないかと
保身に走って罪悪感に駆られた僕は、道場から足が遠のいて鍛錬をサボって腕が思いきり鈍った訳だが、そんな事はどうでもいい。
花島さんが僕の返事を待っている。何か言わなくちゃ。
できる限り本田さんを助けると言って、この場をやり過ごすのは……駄目だ。助けると言っておきながら本田さんの敵に回ったら、花島さんに裏切り者だと思われてしまう。
どうしよう。適切な言い訳が思い浮かばない。そもそも、言い訳を考えている時点でアウトかもしれない。
顔面に脂汗を浮かべた僕は、視線を逸らしてしまった。
それで、僕の意気地なしで薄情な考えが伝わったのだろう。花島さんは落胆と困惑が入り混じった声を出す。
「貴方にも事情はあるものね……無理を言ってごめんなさい……」
君が謝る必要はない。僕が不甲斐ないせいで、ごめん。
謝罪の言葉は喉まで出かかったけど、かつてないほど激しい自己嫌悪に襲われて声を出す事ができない。
花島さんの前にいるのが耐えられなくなって、僕はその場から走って逃げた。
こんなザマで、花島さんの事が好きだなんて笑える。大笑いして足を滑らせて、頭をぶつけて死んじまえばいい。
――建視は母親を殺したも同然なんだから、僕以外の誰かを好きになる資格なんて無いんだよ。
なんだ、慊人が言っていた通りじゃないか。
――建視はその命が尽きるまで、僕だけに全てを捧げて生きるんだ。
どうせ、慊人が言っていた通りにしかならないんだ。慊人の側に行こう。
――建視が倖せになる事が俺の倖せだ。
ごめん、兄さん。努力するって言ったけど、倖せになるのは無理だ。
好きな女の子の切実な頼みを、引き受ける事ができない。危険な橋を渡ろうとする友達の女の子を、助ける事ができない。
こんな姑息で卑怯で臆病で自己保身ばかりで最低な裏切り者は、明るい「外」の世界より闇深い草摩の「
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58「試しているんじゃないですよ」
Side:
「慊人さん。
閉じた襖の向こうから、僕に仕える世話役が問いかけてきた。今は紫呉の名前を聞くだけで、こめかみがズキズキ痛む。
宴会で
――慊人さんが1番大切ですから。
そんな事を言っておきながら、紫呉は僕を1番に選ばない。
宴会が終わって何時間も経ってから紫呉は白々しく様子を伺いに来て、すぐに駆けつけなかった事を詫びる言葉を吐きながらも、申し訳なさそうな態度を取っていなかった。
冷淡な紫呉に怒りをぶつけたけど、紫呉は堪えた様子が一切ないから気分はちっとも晴れない。
追い討ちをかけるように、
悪い方向に考えが進んで僕の体調が日に日に悪化していた時、
薄汚い泥棒の顔も姿も二度と見たくないから、猫憑きの離れに閉じ込めてやろうと思ったけど。あの場所は夾が入る予定だから、盃の付喪神憑きの蔵に押し込めてやった。
先代の盃の付喪神憑きは
公にされていない事件なので、盃の付喪神憑きの蔵の存在を知る者はごく僅かだ。薄汚い泥棒は、十二支の仲間の誰にも知られず朽ちていけばいい。
箱は別の場所に仕舞った。今度の隠し場所は誰にも言わない。
父様が入っている箱の存在は、僕に仕える世話役でも限られた者しか知らない。物の怪憑きの中で知っている者は、紫呉しかいないはずだった。
僕から箱を奪って利益を得る奴という線で考えると、該当するのは
楝は父様が入った箱の存在を知れば、何が何でも手に入れようとするはずだ。自分の体を見返りに与えてでも。
……紫呉はまた僕を裏切るつもりか。
どうして? どうして?! どうして、僕を裏切ろうとするんだ。僕は愛される為に生まれてきたのに。みんな、僕を待っていたはずなのに。
――おまえの未来に、さびしさも恐れもない。あるのは“不変”……それだけだ。
父様はそう言っていたけど、今の僕はさびしさと恐れに蝕まれている。求めている愛情が得られなくて。“不変”が揺らいでしまいそうな予感がして。
「……慊人さん? お加減が優れないようでしたら、日を改めてお越しいただくように紫呉さんにお伝えしますが」
世話役の気遣わしげな声を聞いて、深くて暗い処に沈んでいた意識が戻る。
少し迷ったけど、紫呉の面会の許可を出した。僕がこれだけ弱っている姿を見れば、紫呉は優しくしてくれるんじゃないかと一縷の望みをかけて。
「ゴキゲン、いかがですか?」
僕の部屋にやってきた紫呉は、見るだけで不愉快になる軽薄な笑みを浮かべていた。僕を心配する素振りすら見せない事が、腹立たしくて悔しくて悲しい。
「コレはちょっとしたプレゼントです。慊人さんはこういうの、知らないんじゃないかと思って。簡単に作れる花です。と言っても、僕が全部作った花じゃないですけど」
そう話しながら、紫呉は着物の袖の袂から桃色の花を取り出した。生花じゃなくて、薄い紙を何枚も折り重ねて作ったと思われる造花だ。
花を差し出す紫呉を見て、幼少期の記憶がよみがえった。
父様が他界して間もない頃、胸に穴が開いたような喪失感と絶望と不安に蝕まれていた僕は、紫呉にある問いを投げかけた。
――紫呉は、僕のこと好き?
――……それ、他の
はとり達にはこれから訊きに行く予定だったけど、紫呉が呆れた顔をしていたので言いたくなかった。
僕は「質問しているのはこっち」と言い返してから、同じ問いを繰り返す。
苦笑した紫呉は腰掛けていた縁側から立ち上がって、裸足のまま庭へと歩いていく。
庭に植えられていた椿の木から花を摘み取った紫呉は、僕の方に引き返してきて赤く咲き誇る椿の花を差し出してくる。
――誰よりも君を想う。それこそが揺るぎない事実。好きですよ、慊人。
とても真剣な表情で愛情が籠った言葉をくれた紫呉は、僕の頬に口づけを落とす。それから紫呉は僕の手を取って、自分の左胸に当てさせた。
――永遠は……ここに居る。いつも君を想っている。……会いたかったよ。
僕は愛されるために生まれてきた存在だと確認できて、とても安心した。それと同時に、紫呉の情熱的な告白を受けて胸が高鳴ったのも事実で。
僕にとって忘れられない思い出になったんだ。紫呉だって当然、忘れていないはず。
「……ねぇ、ちゃんと憶えてる……?」
「……何を?」
唇に酷薄な笑みを刷いた紫呉は、質問に質問で返した。
記憶力のいい紫呉が、自分の告白を忘れるなんてあり得ないのに。腹の底から煮え滾るような怒りが湧き上がったけど、ふと生じた疑問にヒヤリとする。
……紫呉は僕に愛を囁いた事を、どうでもいい事と判じて忘れてしまったのかもしれない。
「――もういい。出て行け」
「解りました。それじゃ、また会いに来ますからね」
僕は機嫌を損ねた事を態度で示したのに、紫呉は謝る事も気遣う事もせず、引き潮のようにあっさり立ち去っていく。
「……っ!」
畳の上に置かれた紙の花を掴んでゴミ箱に捨ててやろうとしたけど、できなかった。
心の籠っていない紛い物でも、紫呉がくれたものに違いないから。
よろけながら立ち上がった僕は、部屋の奥に置かれた厨子棚に近寄る。胸に巻いているサラシに挟んでいた鍵を取り出し、厨子棚の扉を守る錠前を開けた。
両開きの扉の奥には父様が入った箱と、建視が修学旅行のお土産として贈ってきた小物入れが並んで収まっている。
紫呉がくれた紙の花を父様が入った箱の横に置いてから、椿の蒔絵が施された小物入れを手に取って蓋を開けた。
中に入っていた干からびて縮れた紅葉の落ち葉と、ビリビリに破いたメッセージカードの紙片を見て、苦い気持ちが込みあげる。
紛い物の花やゴミ同然の物を後生大事にして“絆”を再確認するしかない僕は、なんて惨めで愚かなんだろう。
蓋を閉じた小物入れを元の場所に戻して、厨子棚に鍵をかけて打ちひしがれていたら、またしても世話役が襖越しに呼びかけてくる。
「慊人さん。建視さんが面会を求めていますが、如何なさいますか?」
妙だな。建視が僕に会いに来る時は、必ず数日前に連絡を入れるのに。勝手に力を使って依鈴の現状を知って、僕に直談判しに来たのか?
建視の相手をしてやる気分じゃないけど、僕が突っぱねたら建視は楝の処に行くかもしれない。仕方なく面会の許可を出してやった。
「ごめん、慊人。急に押しかけて」
しばらくして僕の部屋にやってきた建視は、
僕に対する嫌がらせかと思ったけど、部屋の戸口に佇む建視は酷く気落ちした雰囲気を纏っていた。着替える事を失念するほど、切羽詰まっているらしい。
「いいよ、今日は特別に許してあげる。僕に大切な話があるから来たんだろう?」
小声で「うん」と答えた建視は、うろうろと視線をさまよわせた。言いたい事があるけど、切り出すべきか否か迷っているようだ。
「どうしたの? 建視が何を言っても僕は怒らないから、遠慮なく話してごらん」
「あき……と」
「何?」
「慊人がせっかく、転校の許可を出してくれたけど……僕は……海原高校を辞めようと思う」
……冗談を言っている訳じゃなさそうだな。
建視の赤い瞳は凄惨な残留思念を読んだ直後のように虚ろで、希望が根こそぎ刈り取られた絶望が浮かんでいる。
それを見て、僕の胸に喜びが湧き上がった。
建視は何か精神的な打撃を受けて、僕を頼ったのだろう。
ふふ……こんなに良い気分になったのは、本当に久しぶりだ。
でも、浮かれてばかりはいられない。物の怪憑きは何度も僕を裏切ってきたから、建視も裏切るかもしれない。
心の傷が癒えて立ち直らないように毎日甚振って、傷ついた建視を徹底的に甘やかして僕に溺れさせて、僕から絶対に離れられないようにしてやろう。
▼△
Side:紫呉
比較的高級な飲食店が入ったテナントビルの一角で、僕は溜息を吐いた。
さそり座の今日の運勢は12星座の中で最下位かもしれない。だって飲み会の待ち合わせ先で、自分の両親と鉢合わせするなんて不運、なかなか無いでしょ。
「じゃ、連れも来たんで」
「待ちなさい、紫呉……っ。慊人さんに御挨拶を……」
血縁上は僕の母親にあたる女が呼び止めてきた。慊人の側には目障りな奴らがいるだろうから、挨拶なんかしたくない。
「イヤですよ、長くなりそうですし。行こう、みっちゃん」
僕の担当編集者のみっちゃんを伴ってその場から離れたら、みっちゃんが躊躇いがちに「あのぅ」と声をかけてきた。
「先生のお知り合いなんでしたら、あの方達と飲みに……行かれたら……」
「冗談でしょ。自分の親と飲んで何が楽しいの?」
「え゛えぇええおぉ親おおや」
驚愕で目を真ん丸にしたみっちゃんは、僕の両親がいる方向と僕を交互に見遣った。いつもながらナイスリアクションだね。
「うん、ゴメン。いるんだ、残念ながら。これでも」
「もっ、もう1度しっかりこの目で見てみたいですっ。親の顔を見てみたいですっっ」
さらりと失礼な事を言うみっちゃんに、「やめときなよ」と忠告しておく。今夜は本家の選ばれた方々による会食が行われるらしいから、部外者は追っ払われちゃうよ。
「ほんけ……かいしょく……。なんか草摩って凄いお家なんですね……やっぱり……」
気圧されたように呟くみっちゃんの脳裏には、お友達からのお付き合いを始めた
「そうだね。りっちゃんとは身分違いも甚だしいね」
「…………!!!」
みっちゃんは、野生のお猿さんみたいに歯を剥き出して威嚇してきた。よしよし、その意気だよ。
「ああ、ホラ。御当主様の御成りだ」
ネイビースーツを着てコバルトグリーンのネクタイをきっちり締めた慊人が、本家の選ばれた連中の処へと歩いて行く。
慊人の後ろに付き従う男は普段なら1人だけど、今夜は2人いる。嫌と言うほど見慣れた1人は、ブラウンスーツを着た紅野。新顔のもう1人は、ダークスーツを着た建視だ。
「……あれ? 御当主様の後ろにいる赤い髪の男の子って、建視君ですよね?」
「そうだよ。りっちゃんから聞いたの?」
「あ、はい……建視君は学生なのに、選ばれた方々と一緒に会食するなんて凄いなぁ」
感心したような声を出すみっちゃんは、建視の近況を知らないらしい。利津の処まで情報がまだ回っていないのかな?
「建視は高校を辞めるって言い出したらしいから、学生じゃなくなるかもよ」
「えぇっ!? ……何かあったんですか?」
「さぁねぇ。建視は大好きなお兄さんにも、学校を辞めようと思った本当の理由を話そうとしないんだって」
ドライでしたたかな建視が学校を辞めたいと思い詰めるなんて、何があったんだろね。
でも、建視は咲ちゃんと両想いになるのを諦めている節があったから、振られた程度じゃそこまで落ち込まないと思うけど。
まぁ、建視が乱れた原因はどうでもいい。
僕にとって肝要なのは、建視がはとりではなく慊人の処に逃げ込んだコト。
建視は僕が慊人にどんな想いを寄せているか薄々知っているはずだから、今回の行動は完全に僕と敵対したと受け取るよ。
透君が建視を案じて何か行動を起こすかもしれないから、しばらく様子見をするけど。
「さーてと! どこに飲みに行こっかなー」
「えっ、ちょ、先生!? もォ~っ、変なトコはやめてくださいよ~!?」
みっちゃんを連れて立ち去ろうとした時、背後から視線を感じた。振り向くと、物言いたげな顔をした慊人が僕をじっと見ている。
そんな顔で見つめてくるなら、早く僕の処に来ればいいのに。僕は苛立ちを込めた薄笑いを物わかりの悪い慊人に投げかけて、その場から離れた。
みっちゃんとの飲み会を終えた後、そのまま家に帰る気にならなかったから、草摩の本家に寄った。会食はまだ終わっていないようなので、慊人の部屋で帰りを待つ。
暇だな。時間を潰すための文庫本を持ってこなかったから、思索にでもふけりますか。
最近気になる事といったら、体調を崩して遠い病院で療養中って事になっているリンの行方かな。
以前、紅野に関する情報を提供してくれた慊人の世話役は辞めちゃったから、リンが今どこにいるか自分で推測するしかない。
呪いを解こうとしている事がバレて、慊人の怒りを買って密かに追放されたか。あるいは猫憑きの離れに閉じ込められたか。盃の付喪神憑きの蔵って線もあるか。
うーん、追放は無いな。本当にそんな事をすれば、事態を知ったはーくんが草摩から出ていっちゃうのは明白だ。
閉じ込められているのだとしたら、
僕の予想が当たっていたら、遠くないうちに
慊人が不変だと信じている神様と十二支の絆を思いっきり掻き乱して、ぶち壊してくれるといいなぁ。
廊下の方から人の話し声が聞こえる。どうやら慊人が帰ってきたらしい。
出迎えに行くと紅野や建視と鉢合わせしそうだから、ここで待っていよう。不本意だけど、待つのは慣れている。
窓の障子を開けて夜空に浮かぶ青白い三日月を眺めていたら、1人分の足音が近づいてきた。
部屋の入口に辿り着いた慊人は、声をかけずに僕を見つめてくる。僕が何かするのをじっと待つトコロは、昔と変わらない。変わらなさすぎて苛立たしいほどだ。
「……お帰りなさい」
僕が振り返って出迎えの挨拶をしたら、慊人は驚いたような表情を浮かべた。
なんで驚くかねぇ。慊人がこんな近くにいるのに、気付かない訳ないだろ。という本音は飲みこんで、軽い先制ジャブ代わりの話題を振る。
「皆さんとのお食事は楽しかったですか? 建視が側近になったお披露目も兼ねていたんでしょう? 建視は元気にやっていますか?」
「建視は少し前まで落ち込んでいたけど、
慊人は僕の嫉妬心を煽ろうとしているのか、慰めてあげたという部分を強調して言った。可愛さ余って憎さ百倍って言葉は、慊人のためにあるんじゃないかな。
「それは、それは……優しくしてあげたんですね」
「建視が羨ましいか?」
「いえ、別に? 草摩家の当主に追放された僕は、本来であれば慊人さんと会う事すら許されません。それなのにこうして慊人さんが会ってくださるだけで、充分優しくしてもらっていると思っていますよ」
僕が羨ましがる素振りを全く見せなかった事がご不満なのか、慊人は不機嫌丸出しで睨んできた。
「……何の用でわざわざ寄った」
「店で声をかけそびれた事をお詫びに」
「一緒にいた女……誰」
僕に近寄ってきた慊人は、窓の障子を閉めながら問い詰めてきた。本家に寄って正解だったね。悋気を起こした慊人を見られるなんて。
「仕事の相手ですよ」
「もう寝た?」
冷笑を浮かべた慊人が投げつけてきた問いに衝撃を受けて、僕は思わず絶句してしまう。みっちゃんはイジりがいのある子だけど、恋愛対象外だよ。
「…………いや~、それはキツイ……」
「へぇ、そうなんだ。女なら誰とでも寝るかと思った」
スーツの上着を脱いだ慊人は、着替えるために隣室に行く。僕は遠ざかる慊人の背中に向かって、「無茶苦茶言いますねぇ、慊人さんは」と話しかけた。
「でも、
「
心当たりが多くて自分じゃ解らない。慊人が僕の女関係を、どれだけ把握しているのか知りたくて聞いてみた。
「楝だよ!! あんな女と……っ、あんな女とよくも……!!」
隣室から出てきた慊人が、目尻を険しく吊り上げて怒鳴った。
楝さんとの浮気の叱責は、これで何十回目になるのかな。僕は呆れを隠さずに、「古い話を……」と呟く。
「貴女からの罰も受けたハズですけど。『本家から出ていけ』って。だから僕は今、あの家に住んでいるんでしょうに」
「よく言う……っ。なんの抵抗も無しで、あっさり出ていったくせに……っ。はなから出ていきたかったんだろ!! 離れたかったんだろ、ここから……っ。僕から………っ!!」
僕に出ていってほしくなかったら、引きとめる素振りくらい見せてくれたら良かったのに。そういう駆け引きの経験が乏しい慊人は、そんな芸当はできなかったと解っているけど。
「だからあんな……あんな女と!! 紫呉……紫呉はあの女のほうが、あの女のことが」
好きなんだろとか慊人が口走るのを遮って、僕は「“誰よりも”」と告げる。
「“君を想う、それこそが揺るぎない事実”……」
僕が誰よりも好きなのは慊人だ。それだけは誤解してほしくない。
「……忘れて……たんじゃ」
「
「どうして……どうして、そんな試すような事するの!!」
拳を握り締めた慊人は、なじるように言葉をぶつけてきた。
「試しているんじゃないですよ。……わからない? 僕があの女と寝たのだって、君が紅野と寝たからなんだよ」
自分の声が自然と低くなる。
「……なに……それ……っ」
思いもしなかった事を言われたみたいな顔をした慊人を見た瞬間、僕の腹の底に溜まっているどす黒い怒りが鎌首をもたげるのを感じた。
「なんだよ、それっ。僕のせいかよ! 僕は悪くない!! 僕のせいにするな!!」
焦燥を浮かべて言い返した慊人は、追い詰められたように頭を抱える。
「僕は特別なんだ……っ。僕の
我儘な子供みたいな事を言い散らす慊人は、本当に可愛い。可愛くて可愛くて、グチャグチャに踏み潰してやりたくなる。
「……わからないのなら、この話はもうやめましょう。今までのように、同じ問答を繰り返すだけです」
不毛な言い争いをするのは疲れるだけだ。話を切り上げて帰ろうとしたら、慊人が僕に駆け寄ってきた。
僕が何ですかと言う前に、彼女の柔らかい唇で言葉を塞がれる。
「――君は“女”を否定するクセに、そうやってすぐ“女”を利用するんだね……」
泣きそうな顔になって哀れみを誘う狡い慊人の首元から、コバルトグリーンのネクタイを抜き取った。
……ねぇ、慊人。僕はここに居るよ。ずっと居るよ。君が気づいていないだけで。
僕はあの日のまま、ずっと待ってる。
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59「もう少し優しくしてやったらどうだ」
Side:
お昼休みです! 今日は天気がいいので、外に出て中庭でお弁当を食べる事にしました。
「昨日降った雪は、一晩で全部溶けてしまいましたね……っ」
「雪が積もったら、雪合戦とかできるんだけどな」
「かまくらを作って、その中で温かいお汁粉を食べたいわ……」
うおちゃんやはなちゃんとお話ししながらご飯を食べる時間は楽しいですが、気掛かりな事があるので心から楽しむ事ができません。
呪いを解こうとしていらっしゃる
依鈴さんのクラスメイトの方々から聞いたお話では、依鈴さんは療養のために遠い病院に再入院なさったとか……。
御迷惑でなければお見舞いに伺おうと思い、依鈴さんの入院先を
依鈴さんと潑春さんは、お付き合いなさっていたようですが別れてしまわれたので、第三者である私が不用意に訊いてはいけない気がしたのです。
「……る、
うおちゃんに声をかけられて、私はハッと我に返りました。
「え……と、すみませんっ。何やらボウッとしていました」
「透も
気遣わしげなうおちゃんの視線の先には、はなちゃんの膝の上に置かれた二段重ねの重箱があります。
はなちゃんは食欲不振に陥ってしまわれたらしく、ここ数日食事のスピードが落ちてしまわれました。ご飯が大好きなはなちゃんの食が進まないなんて……私のお母さんが他界した時以来です。
はなちゃんは最新刊の『夏色の吐息』で、主人公のミチルさんが密かに想いを寄せていたコグレさんに恋人ができて、そのショックで食事が喉を通らないと仰っていましたが。他の悩みを抱えているのかもしれません。
「リンゴ頭の事が気になっているのか?」
「あ、はい……建視さんが休学なさると聞いて、未だに驚きが冷めやらなくて……」
建視さんと親しい
建視さんに好意を寄せていらっしゃる女の子達は、見るからに沈んでいます。建視さんにお会いできなくなって、ショックが大きいのでしょう。
私も言いようのない寂しさに駆られていますが、紅葉君からお話を聞いて心配の方が大きくなりました。
――ケンはアキトの側近になったんだ。高校を卒業したら側近になるはずだったのに、前倒しするなんて……なにかあったのかも。ケンから事情を聞こうとしたけど、ケンは話してくれなくて……。
建視さんは本当の弱音を口に出さない方ですから、辛い事を抱え込んでいらっしゃるのかもしれません。建視さんに電話をかけてみようとは思っているのですが、迂闊に聞けなくて二の足を踏んでいる状況です。
……私が想像していた以上に、草摩家の闇は深くて。そこに身を投じた建視さんは、何を考えていらっしゃるのか。何を思い詰めていらっしゃるのか。
建視さんの葛藤や苦しみや痛みや哀しみに、触れる事さえできない私の言葉では励ませやしないかも。それでも……。
「…………建視さんが学校に来なくなったのは、恐らく私が原因よ……」
迷いながら口を開いたはなちゃんの告白には、後悔が色濃く滲み出ています。
……はなちゃんと建視さんの間に、何かあったのでしょうか?
「リンゴ頭を振ったのか?」
「いいえ……そういう話じゃないわ……私が建視さんの事情を考慮せずに頼み事をしたせいで、彼の心を酷く掻き乱してしまったみたいなの……」
「いったい、どういう頼み事をしたんだ?」
うおちゃんの問いかけにはなちゃんはすぐに答えず、私をじっと見つめてきます。
「私に関係ある事……なのでしょうか?」
「ええ、そうよ……私は建視さんに、『透君が危険に飛び込もうとしたら、助けてあげてちょうだい』とお願いしたの……」
……頭の中が真っ白になりました。
はなちゃんは、どこまでご存知なのでしょうか? いえ、それより重要な事があります。
私を助けてほしいとはなちゃんがお願いなさった事で、建視さんは心を酷く掻き乱されてしまったようです。それが突然の休学の原因なのだとしたら。
建視さんには私を助けられない事情がおありで、それゆえに葛藤なさって、卒業後の予定を前倒しして慊人さんの側近になった……という事なのでしょうか。
……建視さんの休学に私が関わっているとは、思いもしませんでした。私は危険に飛び込みませんと伝えれば、建視さんは再び学校に来てくださるのでしょうか。
ですが……本当に申し訳ない事ですが、危険に飛び込まないと誓う事はできません。
前へ歩もうとしていらっしゃるはずの十二支の皆さんの想いを、呪いが縛りつけてしまうのならば。総てから解放された皆さんが心から泣き、心から笑える日がくるのならば。
私は危険を冒してでも、呪いを解こうと決めたのです。
――
別荘で
私が危険に飛び込もうとしていると聞いた建視さんは、私が呪いを解こうとしている事に気付いたのかもしれません。
慊人さんに近しい建視さんは、私を助けるとは言えなくて追い詰められてしまったのだとしたら……。
「わ、わた……私が出しゃばったせいで、建視さんの“倖せ”が壊されてしまったのでは……っ」
「透君のせいではないわ……さっきも言った通り、建視さんが学校に来なくなった原因は私よ……」
はなちゃんはそう仰いますが、建視さんを追い込んだ原因は私ではないかという気がしてなりません。私は、間違った決断を下してしまったのでしょうか……?
「事情はよくわかんねぇけど、学校より仕事を優先させる事を選んだのはリンゴ頭だろ。透や花島が、責任を感じるような事じゃねぇよ」
うおちゃんは話題を変えるように、「つーか」と言葉を続けます。
「透は危ない橋を渡ろうとしてンのか?」
私は返答に窮してしまいます。
十二支の呪いを話す訳には参りません。紫呉さんに言われた秘密厳守を、破ってしまう事になってしまいます。
それに
「あ……の、それが……絶対に話しませんと誓いを立てましたので、詳しい事情は……話せないのです。申し訳ありません……っ」
「てことは、草摩家絡みの問題に関わろうとしてンのか」
ど、どうしましょう……うおちゃんが勘付いてしまわれました。
違いますと言ったら、嘘になってしまいます。だからと言って「はい、そうです」と答えたら、事情を話さなくてはいけなくなる訳でありまして……。
私がぐるぐる考え込んでいましたらば、はなちゃんが安心させるような笑みを私に向けてきます。
「私もありさも、透君や草摩由希達から無理やり訊き出すことはしないわ……でも、これだけは憶えておいて……私達はどんな時でも何があっても、透君の味方よ……」
「花島の言う通りだ。いざって時ゃ、ぜってーあたしらが透の力になる。
はなちゃんとうおちゃんは、いつも私の側にいて支えになって下さるのです。私にはもったいないほど素晴らしいお友達だと再認識して、涙で視界が霞みます。
「ありがとう……ございます……っ。お2人とも、大好きです……っ」
お2人に励ましていただいたおかげで、後ろ向きになっていた気持ちが前向きになりました。
……本来は尊いものである“絆”を解こうとする事は、正しくない事かもしれません。
“守る”とか“解放する”とか、口で言うのは簡単です。赤の他人である私が
それでも、諦めません。私にできるのはちっぽけな事だけですが、何か……何かできる事があるはずだと思いたいです。
▼△
Side:はとり
「おはよう、建視」
「おはよう、兄さん」
食堂に向かう途中で、建視と鉢合わせた。
最近の建視は慊人の側近として公の場に出る機会が増え、スーツを着る事が多くなったが。今日は紺色のセーターに黒のジーンズを合わせた、私服姿だ。
「仕事は休みか?」
「紅野兄から仕事を教えてもらわなきゃいけないから、慊人の屋敷に行くよ」
建視は慊人の側近になると言い出した日から、慊人の屋敷に毎日のように通っている。仕事を覚える必要はあるのだろうが、紅葉達が建視の様子を見に来るから建視は家にいたくないのかもしれない。
俺の探るような視線を感じたのか、建視はそれ以上なにも言わず食堂に入った。建視が俺に心を閉ざしたのは初めてなので、どう接すればいいのか迷っている。
これが保護者から独立したいという願望が芽生える第2反抗期なら、まだ対処のしようはあったかもしれないが。建視は何か悩みを抱えていて、それを追及されたくないから俺を避けているようなのだ。
自分から転校を願った海原高校を辞めると言い出すなんて、学校で何かあったのだろうか。
弟が学校に行きたくなくなった原因は解らないが、勢いに任せて中退してしまったら後悔するかもしれない。そう考えた俺は、建視を説得して休学という事にした。
建視は学校を辞めたいという考えを慊人に真っ先に打ち明けたので、慊人も説得する必要が生じたが、それは別にいい。
俺に相談もせず、建視が高校を中退しようとした事が問題だ。
――建視君の悩みを無理やり聞き出そうとするのは、逆効果だよ。建視君が事情を打ち明けてくれるようになるまで、辛抱強く待つしかないね。
繭のアドバイスを思い返してから、俺も食堂に入った。
建視と向かい合ってテーブルに着いて、塩鮭をメインに据えた朝食をとる。何気ない会話に追及が挟まれる事を恐れているのか、建視の口数が減ったので気まずいほど静かだ。
早朝に電話で知らされた吉報を伝えれば、建視は以前のように会話してくれるようになるだろうか。そんな願いを込めて告げる。
「
「……
盃の付喪神憑きという例外がいるため、他の付喪神憑きが生まれるのではないかという懸念は消えない。異端の物の怪憑きとして一族の者に忌避される建視は、燈路の妹が自分と同じ苦しみを味わう事を恐れているのだろう。
「燈路の妹は物の怪憑きではない」
「それなら良かった」
建視は安心したように顔を緩めて呟いた。それを見て、建視は完全に心を閉ざした訳ではないと確信を得る。
「五月さんは5日後に退院して家に戻るそうだ。都合が良い時に、燈路の妹に会いに行くといい」
「都合がつくならね」
言葉短かに答えた建視は、感情を押し隠した無表情になった。この様子だと、自分から進んで会いに行くつもりはなさそうだな。
紅葉達も燈路の妹に会いに行こうと建視に誘いをかけるだろうが、それも断ってしまうかもしれない。
俺の物言いたげな視線を避けるように、建視は食事に集中している。今回も建視の心を開かせる事ができなかったか。俺は心の中で溜息を吐いた。
3月3日の午後、紫呉が俺の家にやってきた。診察室を兼ねる客間に入った紫呉は、高座椅子に腰掛けるなり不満をぶちまける。
「建視が邪魔で仕方ないんだけど」
どうやら紫呉は、建視を恋敵認定してしまったらしい。建視は慊人に恋情を抱いてなどいないのだが、嫉妬深い紫呉にそれを言っても無駄だ。
本気になった紫呉が、建視にどのような攻撃を仕掛けるのか予想もつかない。なるべく紫呉を刺激しないように、言葉を選ぶ必要がある。
「……建視は紫呉と慊人が2人で会うのを、邪魔した訳ではないだろう」
「慊人が二言目には『建視が』って言うから、邪魔したも同然だよ」
恐らく慊人は自分の元から去った紫呉に当てつけるため、自ら進んで慊人の側近になった建視の名前を頻繁に出しているのだと思われる。
俺の弟を出しにして痴話喧嘩をしないでほしいが、ただでさえ複雑な三角関係に首を突っ込んだのは建視だ。頭が痛い。
「紫呉が意地の張り合いを止めて慊人に優しくしてやれば、建視の名前を出さなくなるんじゃないか?」
「えー……僕の“優しさ”なんて所詮、急ごしらえの後づけ品だし。君のような“本物”には敵わないんだよなぁ……」
顎に手を当てて考え込んだ紫呉は、珍しく己を顧みているように見えた。
「……何故だろう。僕はそれを“悲しい”とは思わないけれど。何故だろう。例えば
強がりではなく本音でそう言ってしまえる紫呉は、人間として大きな欠陥を抱えている。他者の心の痛みどころか、己の心の痛みさえも実感できない。
その欠陥のせいで紫呉は慊人に愛されている確信が得られなくて、わざと嫌味を言ったり嫉妬心を煽るような事をしたりして、相手が受け入れてくれるかどうか確かめる試し行為を繰り返すのかもしれない。
世話役が過保護に育てたせいで精神的に未熟な慊人は、紫呉の歪んだ想いに気付けず、2人の関係は拗れに拗れたのか。
第三者である俺が今更なにを言ったところで事態が好転するとは思えないが、放ってもおけないので忠告しておく。
「急ごしらえの後づけ品でもいいから、もう少し優しくしてやったらどうだ。俺から見てもおまえは時々、慊人を心底嫌っているみたいだ」
「……慊人が求めているのは、君のように寛大で、紅野クンのように無心な“優しさ”だ。僕はそんなものは与えられない。僕は
自嘲めいた笑いを浮かべる紫呉はそう言うが、慊人が幼い頃は紫呉が父親代わりになってやっていた。
あの紫呉が単なる同情心や親切心で、父親役を引き受ける訳もなく。幼い慊人に男女の機微を少しずつ教えて恋心を育み、いずれ自分を男として見てくれるように仕向けていた。
紫呉は「僕って光源氏みたいだよね」と恥ずかしげもなく言っていたが、その段階では問題視するほど大きな歪みではなかったと思う。
けれど、慊人が紅野を側に置くようになって歯車が狂った。
紫呉が請け負っていた父親役は紅野に移行し、慊人は益々紅野を寵愛するようになり、その頃から紫呉は激しい嫉妬と憎悪を抱くようになった。
浮気した慊人が悪いと紫呉は言うが、神様にも
――だけど、はとり。
今年の正月明けに紫呉から言われた言葉が脳裏を過った。
紅野の呪いは解けているのではないかと思った事はあるが、確証はないから考えないようにしていた。
――怖いから? 哀しいから? “絆”を疎む気持ちがありながら、愛着心も拭えないから? 狡いね。
両親に愛されなかった建視は、家族の絆を信じていない。建視が俺の言う事を素直に聞いていたのは、俺が同じ物の怪憑きであった事が大きいだろう。
俺と紫呉の間に下りた沈黙を破るように、家政婦が襖を開けて声をかけてきた。
「先生。
「ここへ通してくれ」
「楽羅が来るなんて珍しいね。建視に会いに来たのかな?」
俺は「さてな」と答えながら、煙草を取り出して火を点けた。程無くして、私服姿の楽羅が客間に姿を現わす。
「はーちゃん、お邪魔してまーす。しーちゃんも来てたんだ」
「おっひさ〜。ところで楽羅、なに持っているの?」
「依鈴の卒業証書だよ」
紫呉の隣の高座椅子に座った楽羅は、手に持った丸筒と卒業アルバムをテーブルの上に置く。
入院中の依鈴は卒業式に出られなかったため、依鈴が通っていた高校に行って楽羅が代わりに受け取ってきたらしい。
「優しいねえ、楽羅は」
「しーちゃんに褒められてもなぁ~」
呆れ混じりに言った楽羅は、表情を引き締めてから「ねぇ……?」と疑問を投げかける。
「依鈴って本当に入院してるの?」
「……そう聞いている」
俺は知っている事を正直に答えたが、腑に落ちない点はあった。依鈴が入院している病院の名前と場所は、草摩家の主治医である俺にも知らされていない。
「でも、誰に聞いても入院先がどこなのか知らないって言うし、連絡も」
「楽羅。詮索はしない方がいいって、お母さんに言われなかった?」
紫呉が言い聞かせるように問いかけると、楽羅の表情が翳る。
「……言われた、けど……なんだか
考え過ぎだ、とは言えなかった。
もしかすると依鈴は慊人の怒りを買って、療養と偽って遠方の病院に押し込まれたのかもしれない。
紫呉なら何か知っているのではないかと思い、対面に座る
「慊人の側近になった建視なら、リンの入院先を知っているかもよ?」
「……しーちゃんって、人を試すような言い方をするよね。そういうのって嫌われるよ」
「あっはは。はーくんにも同じような事言われたよ」
「1回り近く年下の従弟に窘められる恥を知れ……」
それ以降は依鈴の話題は出なかったが、不安と疑念は心の奥底で燻り続けた。
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60「鍵を寄越して」
平日の昼下がり。学生は学校で勉学に励み、勤め人は職場で仕事に励む時間帯。にも拘わらず、僕は当主の屋敷の一室に敷かれた布団の上に寝転がっていた。
これでも一応、仕事中だったりする。体調を崩した
慊人と同じ布団で寝た事がぐれ兄にバレたら、想像するだに恐ろしい仕返しをされる。
僕はまだ命が惜しいので、遠回しに拒否をした。僕には荷が重いから、
「
と、無茶苦茶な事を言ってきた。側近の仕事に添い寝が入っているなんて、初耳だよ……。
仕事だからしょうがなかったと言ってもぐれ兄は聞く耳持たなさそうだから、弁解の余地を残すために慊人と距離を置いて寝ようとしたんだけど。
そんな僕の悪あがきを嘲笑うように、慊人は僕にぴったりと身を寄せてくる。
「慊人……ぐれ兄にバレたら、僕はタダじゃ済まないんだけど」
「嫉妬に駆られた
密着した状態で僕を見上げた慊人は、心底愉快そうに唇の両端を吊り上げた。
「他人事のように言っているけど、ぐれ兄は慊人も報復対象に含めると思うよ」
「……僕は悪くない」
慊人は一転して顔をしかめた。
ぐれ兄に追及された場合、「建視が僕と一緒に寝たいと言ったから、仕方なく寝てやったんだ」とか言い訳するんじゃ……ホントやめてお願い。
慊人の体の柔らかさやいい匂いを感じ取れてしまう上に、僕の胸の奥にいる盃の付喪神がかつてないほど大喜びしているせいで、僕の心境は崖っぷち状態。
劣情に流されて慊人に襲いかかるような真似は断じてしないけど、思春期男子の頭と下半身は別物だ。
慊人に抱きつかれて僕が欲情したとか言い触らされたら、本気でヤバイ。いやらしい気分にならないように色気皆無な事を考えよう。
えーと。僕が慊人の側近になって何日経った? 今日で9日目だっけ。
側近になったら残留思念を読む任務を次から次へと言いつけられると予想していたけど、側近の仕事を覚える方が優先だと慊人が言ってくれたおかげで、任務漬けの日々にはまだなっていない。
以前は、任務がメインの生活を回避するために
兄さんの精神的負荷を考えると、安易に発狂できないけど。
こんな事を考えている時点で結構狂っているよなと思いながら、停滞して沈んでいくような時間をやり過ごした。
慊人の添い寝役という大役を終えた僕は、当主の屋敷の縁側に座って休憩している。
寝転んでいただけだから体力的には消耗してないけど、すごく気疲れした。添い寝中にぐれ兄が慊人に会いに来たらと思うと、気が気じゃなかったんだよな。
「……やぁ」
ぐれ兄の事を考えていたせいか、
できれば会いたくなかったんだけど、それはぐれ兄も同じだろう。にも拘らず僕と接触を図ってきたって事は、何か仕掛けようと目論んでいるな。
僕は気を引き締めてから、廊下を歩いてきたぐれ兄の方を振り向く。
「久しぶりだね、ぐれ兄。何か用?」
「あはは。そんなつっけんどんにしなくてもいいじゃないか。僕と君の仲なんだし」
笑い声を上げるぐれ兄の黒灰色の目は、少しも笑っていない。あの目は以前に何度か見た事あるけど、目に宿る冷たさや暗さが段違いだ。
僕は気圧されながらも、なんとか平静を保って言葉を返す。
「あと7分で休憩時間が終わるから、用があるなら早く言ってほしいんだけど」
「少しぐらい遅れたって平気だろ? 慊人さんと大分
仲良くを強調して言ったぐれ兄から発せられる圧が増した。
「慊人は上司だから仲良くとは言えないよ」
「そうなんだ? 建視は慊人さんと同衾したって聞いたから、仕事抜きで仲良くなったと認識したけどなぁ」
いやらしい鎌かけしてくるな。
添い寝しただけだって正直に答えてもアウトだし、黙っていたら慊人と体の関係を持ったと認めたも同然になってしまう。
「妄想力豊かな人から話を聞いたんだね。用事を思い出したから失礼するよ。じゃあね」
僕が適当な言い訳をして立ち去ろうとしたら、ぐれ兄は今思い出したとばかりに「あ、そーだ」と言う。
「
善意の提案に見せかけて嫌がらせを仕掛けるのは、ぐれ兄の十八番だ。それ以前に、後ろめたくて花島さんに会えないって理由もあるけど。
「春休みが始まる頃には任務が入ると思うから、お花見には行けないよ。本田さんには『ごめんね』って伝えておいて」
「僕はメロメロに可愛い透君のお願いなら聞くけど、はーさんの弟とは思えないほど冷淡な君の頼みは聞きたくないなぁ。断りを入れるなら自分でしなよ」
突き離すように言ったぐれ兄は、僕に背を向けて立ち去ろうとした。
ぐれ兄の姿が完全に見えなくなるまで油断はできないと思っていたら、案の定ぐれ兄は立ち止まって再び振り返る。
「ところで、リンが今どこにいるか知っているかい?」
「……遠くの病院に入院したって聞いたけど」
草摩家の主治医である兄さんでさえ、リン姉の入院先は把握していない。流石におかしいと思う。
もしかしたらリン姉は呪いを解こうとしている事が慊人にバレて、内密に追放処分を下されたのかもしれない。
慊人に尋ねる事はできなかった。僕がリン姉を気にかける素振りを見せたら、
僕を観察していたぐれ兄は、つまらなさそうに「ふぅん」と呟く。
「透君はリンの事をすっごく心配して、リンが通っていた高校にまで行ったみたいなんだよね。もしリンの入院先を知ったら、透君にも教えてあげて」
僕の返事を聞かずに、ぐれ兄は今度こそ立ち去った。
本田さんがリン姉の事を案じているという情報は、喉に刺さった魚の骨のように忘れたくても忘れられない気がかりを残した。
親しい人のためなら驚異の行動力を発揮する本田さんは、リン姉に会うために無茶な事をするかもしれない。
本田さんが動く前に、リン姉の入院先を突き止めた方がいいかな。待てよ、僕がやらなくても
あー、紅葉が絡んでくると厄介だな。紅葉は僕を皆の輪の中に戻すため、敢えて僕を巻き込んできそうな予感がする。
リン姉の入院先を調べるか否かで頭を悩ませているうちに、休憩時間は終わった。仕事に集中するため、考え事は心の奥底に押し込んだ。
夜の8時過ぎ。本日のお勤めを終えた僕はまっすぐ家に帰らず、あまり人が通らない道を走っていた。
ぐれ兄が僕達の家に寄って本田さんの伝言を兄さんに話していたら、夕食時に兄さんがその話題を持ち出してくる可能性が高い。
本田さんの名前が出たら動揺してしまいそうなので、気持ちを落ち着かせるためにジョギングする事にしたのだ。
暗い夜道をひたすら走っていたら、道の向こうに人影を見つけた。和服を着た女性だ。お手伝いさんかな。
彼女は懐中電灯も持たずに、林の中に入っていく。何しに行くんだろう。もしかして逢引とか?
こんな場所でしか逢えないなんて、相手は誰なんだ。興味をひかれた僕は、距離を置いて追跡する。
草摩家の敷地内にある人工林は雑草や雑木が定期的に刈られているけど、この林は人が立ち入らない場所なのか放置されている感があった。
奥へ進むと、漆喰塗りの白壁を持つ土蔵が見えた。3段の踏み石の先にある入口は二重構造になっているのか、開け放たれた状態の重厚な観音開きの扉と、木製の格子戸が設置してあった。
こんな所に土蔵があるなんて知らなかった。いや、そんな事より。
和服姿の女性は持っていたお盆を踏み石の上に置いて、鍵を使って格子戸を開けている。
暗い上に遠目だからハッキリとは見えないけど、お盆の上にはお椀やお皿や茶器が載っているように見えた。
蔵の中に祀られた大蛇に、食事を運ぶ仕事を言い付かった女中が出てくる時代小説があったよな。
大蛇へのお供えというのは口実で、蔵の中に閉じ込められた女性に与えるための食事だったけど――。
まさか。いや、でも、あり得ないとは言い切れない。薄々感じていたじゃないか。
慊人がリン姉に追放処分を下したんじゃないかと推測したけど、それは希望的観測に過ぎないと。
激怒した慊人がどういう制裁を下すか予想がついていたくせに、それから目を逸らしていたんだ。
あの食事は午憑きの従姉ために用意されたもので、リン姉は
呼吸がうまくできないほどの悪寒に襲われた。土蔵の方から物音が聞こえたので、僕は反射的に木陰に身を潜める。
土蔵から出てきた和服姿の女性は、お盆を持っていた。さっきのが夕食だとしたら、あれは昼食の器なのだろうか。考えている間に、格子戸を閉めてガチャリと施錠する音が響く。
今すぐあの女性から鍵を奪い取って、リン姉を助け出さないと。
でも、勝手にリン姉を連れ出したら慊人が怒る。罰として、建視を閉じ込めてやるとか言われたら――。
……見なかった事にするという選択肢が浮かんでしまった。
僕は正真正銘のクズだ。花島さんの前から逃げ出した時点で、自分の最低さ加減は自覚したつもりだったけど、まだ堕ちるのか。
自己嫌悪に浸ってないで、ちゃんと現実を見ろ。リン姉が消息を絶って1週間以上経っているんだぞ。
リン姉はただでさえ食が細い。あんな場所に閉じ込められている状態で、三食しっかり食べているとは思えない。下手したら、重度の栄養不良に陥っている恐れがある。
このまま放っておいたら、リン姉は命を落としてしまう。リン姉を見殺しにするのか?
――自分の母親を間接的に殺したんだから、1人増えたところで問題ないだろ。
そこまで堕ちたら、
――
リン姉を見捨てて自分の身を守ったとしても、任務漬けになれば僕の心は少しずつ壊れていくのに。
――壊れてしまったら慊人の役に立てない。
遅かれ早かれ狂ってしまうのなら、やりたい事をやればいいじゃないか。
リン姉を助けて、本田さんも助ける。そうすればきっと、花島さんが喜んでくれる。
――慊人が泣くぞ、慊人を裏切るな。
僕は慊人に全てを捧げる事になるから、裏切りじゃないよ。
――…………。
僕の覚悟を感じ取ったのかどうか知らないけど、胸の奥で抗議の声を上げていた盃の付喪神が静かになった。
ふと気付くと和服姿の女性はいなくなっていた。どのくらい時間が経ったんだろう。いや、そんな事はどうでもいい。
僕は土蔵に近寄った。格子戸の隙間から中の様子を窺おうとするも、暗くてよく見えない。
「……り、リン姉……っ! リン姉っ!!」
呼びかけたけど返事はなかった。衰弱して助けを求める声も出せないのか。
木製の格子戸を蹴破ろうとした時、ふと思った。僕が強行突破してリン姉を助けたら、猫憑きの離れが堅牢なものに作り変えられるんじゃないか?
夾が離れに幽閉される前に猫憑きの従弟を逃がしてやれたらいいけど、上手くいかなかった場合の事を考えると、猫憑きの離れの攻略難易度が上がってしまう事態は避けたい。
食事を運ぶ世話役を脅して土蔵の鍵を入手した方が、無難で確実だな。
「リン姉、ごめん。明日になったら必ず助けに来るから、それまで待っていて」
なかなか帰ってこない僕を案じたのか、兄さんが僕の携帯に電話をかけてきた。「今、帰るよ」と答えた僕の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
その翌日。僕は挙動不審にならないように気をつけながら、側近としての仕事をこなした。
昼食をとりおえた慊人が1人で読書をしたいから下がれと言ったので、僕は腹ごなしに散歩に行くと見せかけて土蔵へと向かう。
救出作戦の決行は人目につきにくい夜にしようと考えていたけど、手遅れになってしまったらという焦りと不安にせっつかれた。
春に声をかけるべきか迷ったけど、危険な賭けだから止めた。
リン姉の現状を知った途端、破壊神のようなブラックが降臨して当主の屋敷にカチコミをかけて大暴れしそうな予感がするんだよな。
春が本当に当主の屋敷で暴れたら、自宅謹慎の罰を食らうかもしれない。自由にリン姉に会う事ができないとなったら、頻繁にブラックが降臨していた頃の春に逆戻りだ。
昼間なのに仄暗い林の中を進んで、土蔵の前に辿り着いた。世話役が昼食を運んでくるのを待っていたら、落ち葉を踏みしめて近づいてくる足音が聞こえる。
姿を現したのは着物姿の女性ではなく、赤茶の短髪を持つ長身の男性だ。
「……紅野兄……なんで、こんな所に」
慊人に命じられて僕の後をつけていたのだろうか。だとしたら、まずい。僕の行動に疑惑を持たれているなら、リン姉を助け出すのが難しくなる。
「建視と同じ用事だと思うよ」
紅野兄は予想外の返答をした。
……まさかとは思うけど、紅野兄もリン姉を助けに来たのか? 誰よりも慊人に忠実な紅野兄が?
いったいどういう事だと僕が戸惑っているうちに、またしても人がやってきた。今度は土鍋などを載せたお盆を持った、着物姿の女性だ。
彼女は確か草摩の「外」の人だったけど、4ヶ月ほど前に慊人の世話役になったばかりの新人だと記憶している。好都合だ。
年配の世話役だと慊人への忠誠心と僕への敵意が強くて、脅しが効かない可能性があった。でも、新人の彼女なら容易に脅せ……じゃなくて、交渉の余地はある。
「……く、紅野……さ……建視……さんも……?」
新人の世話役は動揺のあまりか、お盆に載せた湯呑みを倒してしまった。
「いっ、いけませんよ……ここ、立ち入り禁止です……」
「……じゃあ、君は
淡々と問いかけた紅野兄は、「君が前もここへ食事を運ぶのを見た」と言う。
「ここは……
特別な者だけが入る蔵という件が気になったけど、狼狽した世話役がお盆を取り落した音で思考を遮られた。
「い……っ、言えません、怒られます」
「怒られる? 誰に?」
「言えません……っ、ち……っ、父が、父がお世話にな、なっていて。なのに私が不興を買ったりし、したら……っ、みは……見放され……っ」
すでに弱みを握られていたのか。それなら脅す方向を変える必要がある。
「鍵を寄越して。さもないと僕の力を使って、貴女の家族のプライバシーを総て暴くよ」
「ひぃっ! や、やめてください……お願いします……な、何でも……何でもしますからぁっ!」
脅しすぎたのか、新人の世話役は涙ぐんで怯えている。紅野兄が咎めるように「建視」と呼んできた。
「僕に脅されて仕方なく……って、慊人に言えばいいよ。だから鍵を渡して」
「俺からも頼む。こんな事は……良くないんだから……っ」
体が小刻みに震えている新人の世話役は、覚悟を決めたように言葉を発する。
「し……食事を……もう何日もとられて……ないんです。このままじゃ死んでしまう……っ。たすけてあげて……っ」
新人の世話役は泣き声で訴えながら、帯と着物の間から紐で繋いだ2つの鍵を取り出した。
なんで鍵が2つあるんだと訝しむ僕を余所に、紅野兄は受け取った鍵で古そうな錠前を解錠して格子戸を開ける。
古道具などが詰め込まれた土蔵の中は薄暗かった。板張りの床は砂埃で汚れていたから、靴を履いたまま入る。
照明は無さそうなので、入口から差し込む光を頼りに進む。進行方向を塞ぐように置かれた階段箪笥の奥を見た瞬間、僕は思わず息を呑む。
奥の空間を仕切る太い角材を組んだ格子は、時代劇で観た牢屋敷を連想させて。格子の向こうの一段高くなったところに、4畳程度の畳敷きの空間があって。
敷きっぱなしの布団の上に、白い浴衣を着た女性が横たわっている。こちらに背を向けているから顔は見えないが、背格好からしてリン姉で間違いない。
「……っ」
僕は込み上げた吐き気を堪える。
先代の盃の付喪神憑きは力を乱用して草摩家を引っ掻き回した後、罰として幽閉されたと慊人が話していた。
先代の盃の付喪神憑きは、この座敷牢で最期を迎えたんじゃないか?
自分がここに閉じ込められるところを想像したら、金縛りにあったように動けなくなってしまった。
「……建視」
いつの間にか僕の後ろにいた紅野兄に声をかけられて、我に返る。土蔵の中はひんやりしているにも関わらず、背中や脇が冷や汗でびっしょり濡れていた。
リン姉をここから早く連れ出さなきゃいけないのは解っているけど、座敷牢に入りたくない。覚悟は決めたつもりだけど、本能的な拒否感が強い。
代わりに連れ出してくれと視線で頼んだら、紅野兄は申し訳なさそうな顔になって首を左右に振る。
「俺は依鈴を連れ出す事はできないんだ……」
依鈴に近寄るなと、慊人に命令されているのだろうか。だとしたら、紅野兄はリン姉を助けるための行動を起こせないはずだけど。
リン姉の身を案じて、物の怪の血に逆らっているのかもしれない。
「はとり兄さんに連絡して、ここに来てもら……」
「兄さんをここに呼ばないで」
兄さんも先代の盃の付喪神憑きの末路は知っているはずだ。こんな場所を兄さんに見せたくない。
僕は自分の両頬を思いきり叩いて喝を入れる。その間に紅野兄が座敷牢の格子戸の錠前を開けてくれたので、僕は思い切って中に入った。
言い知れない悪寒がして足が震える。靴を履いたままだけど、構わず畳の上にあがってリン姉に近寄った。
なにかが畳に散らばっていると思ったら、切り落とされた長い髪の毛だ。
よく見れば、リン姉の長くて綺麗な髪は乱雑に切られている。切られてない部分もあるから余計悲惨に見えた。もしかしなくても慊人の仕業だろう。
「リン姉……リン姉……っ!」
近くで呼びかけても、肩を揺さぶってもリン姉は反応を示さない。目は開いているから起きていると思うけど、虚ろな瞳は何も映していないように見えた。
リン姉が自力で歩くのは無理だろうから、僕がリン姉をお姫様抱っこした。軽すぎてゾッとする。早く病院に連れて行かないと。
「……る……」
座敷牢から出た時、リン姉が何か言葉を発した。
「…………は……る……」
春を連れてくれば良かったと後悔しながら、僕はリン姉に話しかける。
「春には後で連絡するよ。リン姉が呼んでいるって言えば、春はすぐに駆けつけるから、気を……」
気をしっかり持ってと言いかけて口をつぐんだ。
陽の光が届かないような所に何日も閉じ込められて、髪を無理やり切られて、まともな精神状態でいられる訳がない。
忌まわしい土蔵を後にした僕は、リン姉の体に負担がかからない程度の速さで走る。途中ですれ違った
僕と兄さんが住む家に辿り着き、診察室を兼ねた客間に面した庭に行って兄さんを呼ぶと、白衣を着た兄さんが縁側に出てきた。
僕が抱きかかえたリン姉を見るなり、兄さんは顔色を変える。
「依鈴は……どこにいたんだ?」
「……立ち入り禁止の土蔵の中」
どういう場所なのか察したのか、兄さんが悲痛そうに顔を歪めた。
呼ばなくて正解だったと思いながら、僕はリン姉を診てほしいと頼んだ。専門的な治療が必要だと判断した兄さんは、自分の車にリン姉を乗せるように指示を出す。
僕は兄さんの車の後部座席にリン姉を乗せて、その隣に座ってから、春の携帯に電話をかける。
2コールも鳴らさないうちにブチッと切られた。あんにゃろ、電源も切りやがったな。
春の自宅にかけたら春の母親が出て、「
……どこに行ったんだ、春のやつ。
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61「リンは……どこだ?」
Side:
「潑春さん!? お待ちになって下さい、土足で屋敷に上がるなんて……っ」
リンが大怪我をした本当の原因。
リンが十二支の呪いを解こうとしていたコト。
リンが慊人や
俺は何も知らなかった――なんて言い訳にもならない。
側にいたくせにリンの気持ちを察してやることができなかった。愛しいリンを1人で苦しませてしまった。それは紛れもない事実で。
情けなくて、悲しくて、悔しくて、リンに申し訳なくて。
グチャグチャな感情を煮えたぎるような怒りで塗り潰しながら、慊人の部屋へ向かう。
襖を乱暴に開けると、慊人が部屋で呑気に本を読んでいた。顔を上げた慊人は、不快そうに眉をひそめる。
「――何事?」
俺が慊人を追及するのを邪魔するように、走ってきた世話役のババァが口を挟んできやがる。
「潑春さん……!! 十二支である貴方とはいえ、勝手に入ってこられては困ります……!!」
「……うるせぇな。ひっこんでろ、ババァ」
ババァは「なんて失礼な」と文句を言っていたが。慊人が鷹揚に「いいよ」と言うなり、ババァは口を閉ざす。
俺が土足で慊人の部屋に足を踏み入れると、ズボンのポケットに入れていた携帯から着信音が鳴り響いた。
今は誰かと話している余裕はねぇから、ポケットに手を突っ込んで携帯の電源を切る。
「さぁ……話してごらん」
俺と向かい合うように立った慊人は、全てを受け止めるように両腕を広げる。そんなのはただのポーズで、俺が慊人の気に入らないコトを言えば怒り狂うんだろうが。
「なんでリンを突き落とした……? なんで突き落としたりした……?」
「……なぁに? 僕が?
慊人はすっとぼけておきながら、「誰から聞いたの、そんな話」と探りを入れてきやがる。俺は適当に「天の啓示」と答えた。
「……は? 相変わらず君って……ふふ、バカみたいだね……っ」
「笑ってんじゃねぇよ。なんでそんなことをした……殺す気かよ」
嘲笑を引っ込めた慊人は、俺に背を向けながら「ふぅん」と呟く。
「そもそもどうして潑春が、依鈴の事でそんなに怒るのかな。潑春は昔から依鈴には優しかったよね。可哀相だから? 放っておけなかったから? 同情かな?」
慊人は俺の神経を逆撫でる問いかけを重ねた。
全部無視してやりたいが、俺の胸の奥にいる
「好きだからだ……っ。そんなコトもうとっくに知っているクセに、ワザとらしく聞いてくんなよ……っ」
ダメだ、慊人のペースに嵌っている。怒りに飲まれるな、落ち着け。本当に聞かなきゃいけないコトを忘れるな。
「……リンは……どこだ? おまえ、知ってんじゃないのか……今、リンがどこにいるか……」
俺の言葉を遮るように、慊人は「くっだらない」と言い捨てる。
……ブチ切れすぎたせいか、一周回って冷静になってきた。
「おまえ、リンに冷たかったな。俺が優しかったなら、おまえは昔から……っ。リンに対して……女に対して冷たかっただろ。人一倍、嫌っていただろ」
燈路は自分のせいで杞紗が傷つけられたって言っていたけど、杞紗をボコボコにした犯人は慊人だ。謝るべきはコイツだろ。
慊人に口止めされたせいで燈路はリンが突き落とされた現場を目撃した事を言えなくて、苦しんでいた。コイツはどんだけの人を苦しめりゃ気が済むんだ。
「ひどい事を平気で言って、平気でして。おまえ、
「気がついているのに、
射抜くように俺を睨み上げながら、慊人は「気づいていたのに……?」と問いかけてくる。
それは俺の痛いトコロを的確に衝いた。
――……ダ、ダメだよ……あ、慊人が怒るよ……。
俺がリンに告白した時、愛しい彼女は頬を赤く染めながらそう答えた。
リンはちゃんと警告を発していたのに、俺はリンが他の男のトコに行かれたらたまらないからって、「リンは他の男のほうがいい?」なんて狡い聞き方をして聞き流したんだ。
言葉に詰まった俺は、リンはどこにいると再度尋ねた。慊人は知らないの一点張り。締め上げて居場所を吐かせようかと思った時。
「依鈴は病院に運んだよ。……はとり兄さんが、車で。意識は混濁していたけれど、大丈夫。命に別状はないそうだ」
リンの現状を報告した
「慊人、あんな事をしては駄目だ。たとえ君が何者であっても、やっていい事と悪い事はあるんだ。
「リン……どこにいたの?」
俺の質問に、紅野は少し間を置いてから答える。
「……先代の盃の付喪神憑きが幽閉されていた土蔵だよ。そこに閉じ込められていたそうだ……ずっと」
先代の盃の付喪神憑きが力を乱用したコトは噂に聞いていたけど、 幽閉されていたなんて初耳だ。
まさかとは思うが、盃の付喪神憑きが再び力を乱用するかもしれないから、先代を閉じ込めていた場所を今も残しているのか?
草摩家の闇深さに怖気が走るけど、恐怖より怒りが上回った。
問題の土蔵はおそらく、猫憑きの離れと同じように立ち入り禁止になっているんだろう。閉じ込められたリンが大声で助けを求めたとしても、それを聞きつける人はいない。
リンは救援を望めない場所で、ずっと1人で……っ!
紅野は大丈夫と言っていたが、そんなワケない。リンは毒舌家のせいか気丈だと思われがちだけど、彼女の心はとても繊細で傷だらけだ。
俺と一緒に寝ている時でさえ、リンは頻繁にうなされていた。両親に虐待されていた頃の最悪な思い出を、夢の中で追体験していたんだと思う。
悪夢から目覚めたリンは、必ずと言っていいほど泣いていた。
――リン、どうしたの? また怖い夢をみたの?
――……うん。でも大丈夫。春がいるから大丈夫。
俺が気遣う言葉をかけると、リンはそう答えて微笑んでいた。
安堵を滲ませたリンの笑顔は、思わず見惚れてしまうほど綺麗で。愛しさが込み上げてきて。守りたいと思ったのに。
慊人に酷い目に遭わされたリンは、心に深い傷を負って……下手したら心が壊れてしまって、もう二度と笑わなくなってしまうかもしれない。
絶望して目の前が真っ暗になった俺の耳に、慊人の喚き声が届く。
「紅野、どうして……勝手に依鈴を運び出すなんて……僕を裏切るの……!?」
「慊人、違う、そうじゃない。きいて」
「ひどい……!!」
あまりにも自分勝手な慊人の言葉を聞いて、わずかに残っていた理性が吹っ飛んだ。俺は慊人と紅野の間に割って入って、慊人が着ている白い着物の衿を掴み上げる。
「ふざけんな、てめぇ……!! ウソばっか吐きやがって……閉じ込めただと!? ひでぇのはどっちだ!! また殺す気だったのかよ!!」
「…………っ、だったら何……っ。おまえが
慊人の言う通りだと胸の奥で訴える声は、丑の物の怪のものか。それとも俺自身のものか。どっちだろうが構わねぇ。
頭ン中が憎悪で占められた俺は慊人の首を左手で掴んで襖に叩きつけ、握り締めた右拳を振り上げる。
「潑春!!」
紅野が俺の名を叫んで制止した時、なぜか不意に小さい頃のリンの姿が思い浮かんだ。
――白くてやわらかい髪が好きだよ。
はじまりの気持ちが何だったかなんてもう朧気だけど、惹かれていたんだと思う。ずっと。
だからこそ、リンを踏みにじった大人達が許せなかった。大人は信用できないから自分の力で、リンを傷つける全てから愛しい彼女を守ると決意したんだ。
――気づいていたのに……?
……ああ、そうだよ。ホントはわかっていた。
リンにも俺を望んでほしいと思った時から、頭の隅でずっと警報が鳴っていた。
俺の想いはリンの首を絞めるんじゃないかって。慊人の執着や怒りが、どこに向かうか知っていた。
自分とリンの関係が慊人に露見した時にどうなるか気づいていたくせに、それでも俺はリンを手に入れたかった。
愛しい女を俺だけのものにしたいって独占欲は、守りたいって気持ちを上回っていた。
……ホントはリンの大怪我の理由だって、薄々気づいていたんじゃないか?
リンに踏み込んで聞くコトができなかったのは、単に自分の欲を最優先させた結果を思い知るのが怖かったんじゃないのか?
――春がいるから大丈夫。
俺がいたってちっとも大丈夫じゃないよ。俺は恋に浮かれてどうかしていた。
都合の悪い事を俺が見て見ぬ振りしたその影で、リンが傷ついていたなら。リンをズタボロにした大人達と俺は、なんにも変わんない。
こんなヤツがどんなにリンのコトを好きだと思ったって、そんなのくだらないよ。
慊人をボコボコにしてやるつもりだったけど、激しい怒りを塗り潰す勢いで自己嫌悪と罪悪感が押し寄せる。行き場をなくした右拳は、慊人の顔の横の襖にめり込んだ。
「……は、潑は……」
「しゃべんな、殺したくなる。おまえも、俺も」
部屋から出て行こうとしたら、慊人が呼び止めてくる。
「……は、潑春……? 待……っ、行かないで。行かないで、潑春! 潑春!!」
だからどうした。昔のコトなんか知るもんか。俺自身の自我はそう言っているが。
両親ですら腫物に触るように接する
ああ、クソ。投げやりな気分で引き返そうとしたら、紅野が廊下に立って通せんぼをしている。
慊人に忠実な紅野が、慊人の意思に反する行動をとっているコトに今気づいて驚いた。
「行くんだ、戻らずに。数日すれば面会もできるだろうから、依鈴に会いに行くといい。依鈴もきっと会いたがっている。最初に口にした言葉は、君の名前だったから」
それを聞いたら、リンが俺を呼ぶ声が心の中にじんわりと響いた。
――……春、春。
俺が――丑の物の怪とは別の
リンに会いたい、今すぐ。俺は紅野と別れて、当主の屋敷を後にした。
リンは面会謝絶になっているから当分会えないと、とり兄に言われた。そういえば紅野が「数日すれば」って話していた気がする。
会いに行く気満々だった俺は気を削がれ、自分の部屋に戻った。
……落ち着いて考えると、どのツラ下げてリンに会いに行くんだって思えてくる。俺が自分の欲望を優先させたせいで、リンは酷い目に遭ったのに。
リンのことを考えていたら、いつの間にか深夜になっていた。静寂を破るように、ブラインドが下がった窓を外からドンドン叩く音がした。
立ち上がるのも億劫で無視していると、窓の外から
「春、表に出ろ。リン姉のことで大事な話がある」
リンに関する大事な話って何だろう。もしかして、慊人がリンを草摩から追放するとか言い出したのか?
……上等だ。その時は俺も一緒に出ていってやる。そんな事を考えながら玄関から外に出ると、私服姿の建視が庭に立っていた。
とり兄から聞いた話によると、紅野と建視がリンを助け出してくれたらしい。
正直言って驚いた。紅野と建視にとって、慊人の決定は全てに優先するものだと思っていたから。
けど、彼らはリンを助けてくれた。リンを連れ出したら、慊人に責められるコトは解っていただろうに。
それに……。
――行くんだ、戻らずに。
慊人に呼ばれた時、紅野にああ言ってもらってなかったら、俺はリンを手離して終わったかもしれない。
そんなの、考えただけでも死にたくなる。
紅野とは滅多に会えないからお礼を言うのは後になっちゃうけど、建視には今すぐ感謝を伝えておこう。
「建視、ありがと……」
「え? ……ああ、リン姉の事か」
建視は憂いを含んだ笑みを浮かべた。
……リンが閉じ込められていた土蔵は、先代の盃の付喪神憑きが幽閉されていた場所だってコトを建視は知っているのだろうか。
興味本位で聞いちゃいけないコトだと思うから、聞かない……というか聞けないけど。
「大事な話って……なに?」
「落ち着いて聞いてくれよ。リン姉が病院から抜け出した」
絶対安静の状態のリンが外に出るなんて……っ! 早く見つけないと。走り出そうとした俺の腕を、建視が掴んだ。
邪魔するなら容赦しねぇという意味を込めて建視を睨み付けると、付喪神憑きの従兄は「だから落ち着けって!」と言ってくる。
「携帯は持っているのか?」
「そんなコトどうでもいいだろ」
「どうでもよくない。僕達も手分けしてリン姉を捜して途中で春に連絡入れるから、携帯は持っていけ」
問答している時間が惜しかったので、自室に引き返して携帯を取ってくる。
建視は俺のズボンのポケットに手を突っ込んで、携帯を取り出す。何するんだと聞いたら、建視は「電源を入れたんだよ」と答えて携帯を返してきた。
家の前で建視と別れた俺は、草摩の「中」の正面玄関から「外」に出て、全速力で走る。リンが入院している病院の付近を捜したけど、一向に見つからない。
どこにいるんだろう。俺は方向音痴だとよく言われるから、見当違いの場所を捜しているのかも。
『春、今どこだ?』
連絡をいれてきた建視は
ムダにうろうろしている間に夜が明けて、会社員や学生が行き交う時間になった。
弱って馬に変身したリンはその脚を生かして、どこか遠くへ行っちゃったんじゃないかな。そんなコトを思い始めた頃、通学途中の小学生の会話が耳に届く。
「あのおねーちゃん、どうして道でねていたんだろーね」
「……ちょっといい? 道で寝ていたお姉ちゃんって、どこにいた?」
俺に声をかけられた小学生の女の子は驚いていたけど、素直に教えてくれた。
その場所に向かうと、淡緑色の入院着を身に纏ったリンが道路に倒れていた。急いで近寄ってリンの様子を窺う。
目立った怪我はなく、ちゃんと呼吸している。以前より痩せて、顔色悪くて、長かった黒髪は短く切られていたけど。
……リンの髪を切ったのは慊人だろう。何の証拠もないただの直感だけど、間違ってないと思う。
ブラックになりそうなほど激しい怒りが湧き上がってくるのを感じたけど、リンの頭を撫でたら愛しさと罪悪感が胸の中に広がって凶暴な感情は薄れていく。
リンが目を開けた。俺を見ようとしているけど、焦点が合っていない。まだ意識が混濁しているようだ。
「ごめんね……」
掠れ声で謝ったリンは大粒の涙を流し始めた。
「ダメだった、みつけだせなかった、春の倖せ、捜し、だせなかった……ごめんね……」
リンが謝る必要なんてないのに。俺の方こそごめんって言おうとした時、昨日燈路に言われた言葉が思い浮かんだ。
――『もういいよ』って言ってあげて。あんなんじゃ、リンがダメになっちゃうよ。1人でずっと苦しいだけだよ……っ。
そうだね。お互いに「ごめん」って言っていたら、終わりが見えない。俺はリンを助けるコトはできなかったけど、せめて。
「……って事は……リンの旅はこれで終わりだね」
「……うん」
まだ終わってないって言われたらどうしようと思っていたから、ほっとする。
「じゃあ、おかえり」
おかえりと言われると思っていなかったのか、リンは長い睫毛で縁取られた目を見開いた。
「旅が終わったなら俺の処に帰ってきてもらわないと、寂しくて困る」
「そっか……じゃあ……そろそろ、帰ろうかな……」
そう呟いたリンは嬉しそうに、ふにゃりと笑った。リンの無防備な笑顔を見るのは、本当に久しぶりだ。
「いい夢……」
「夢じゃないし」
俺はそう言って、リンの両膝の裏と背中に手を添えて担ぎ上げた。痛々しいほど軽い。
意識がハッキリしてきたリンは1人で歩けると言い張ったけど、俺は「やだ」ときっぱり言う。
「俺はガキだけど。リンが1人で傷ついても気づかないで、俺なんかくだらないなって思ったけど」
道路に倒れていた中学生のリンを見つけても自力じゃ運べず、師範を呼びに行った時よりかはガキじゃない。
「リンを自分で担いで歩けるくらいにはなった。だからリンを諦めない。リンも1人で歩けるトコロは歩けばいいし、ダメな時は担がれればいいんだ」
他の奴にリンを担がせる気はなかったので、「むしろ担ぐし」と主張しておく。
「重荷なんかじゃない。重荷なんかじゃないんだよ」
「は…………は……る……」
泣きながら俺を呼ぶリンに、「うん」と答える。
「春…………ただい……ま」
涙で目を潤ませたリンは、どこか不安そうに俺を見てくる。重荷じゃないと言ったのに、俺がリンを見放すと思っているのか。
臆病で寂しがり屋な彼女に贈る言葉は1つだ。
「おかえり」
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62「夾を救いたい?」
Side:
今日は和服って気分じゃないし、スーツにしよっかな。はーさんから友情の証として貰い受けたスーツは……やめよう。
最近のはーさんはピリピリしているから、繭ちゃんを煽ったスーツ姿で鉢合わせしたらまずい。こないだ作家友達との飲み会に着ていった、自分のスーツを着るとしますか。
お見舞いの手土産は用意してないから、持っていかなくてもいっか。リンが欲しがっている情報を教えてあげた方が、喜ぶでしょ。
タクシーに乗って
リンは本当なら今も入院してなきゃいけないんだけど、意識が混濁していた状態でも脱走するほど病院嫌いだからね。本家も嫌だと言うし、藉真殿の家で療養する事になったみたい。
藉真殿の家に到着した。家の裏側にある出入口に足を向けると、庭で掃き掃除をしているリンを発見。リンは長かった黒髪をばっさり切って、ショートヘアになっていた。
はーさんから聞いた話によると、リンは発見された時に髪を乱雑に切られていたらしい。
髪は女の命とも言うのに、無理やり切るなんてヒドイことをするよね、まったく。
「災難だったね、今回は」
僕が声をかけると、リンは竹箒で掃除をする手を止めてこちらを向いた。
「色々聞いたよ? 解く方法は見つからない上に、随分な目にあったようだね。軽挙妄動、痛感したかい?」
リンに色々掻き乱してもらおうと思っていたけど、予想していたほどの成果は出なかったんだよね。強いて挙げるとしたら、はーくんが慊人に直接抗議しに行った事くらいかな。
慊人がリンにした仕打ちに激怒したはーくんの呪いが解ければよかったけど、そういう話は今のところ聞かない。やっぱり呪いは、物の怪憑き本人の意思では解けない類のものか。
「方法は……わかるハズだったんだ。教えてもらえるハズだったんだ……
リンの反論を聞いて、今回の騒動の全体像がなんとなく見えた。
「楝さんにィ?」
「そうだよ、約束した。頼まれたコト……ちゃんとやっていれば教えてくれたんだ」
リンの言い分を聞きながら、僕は縁側に腰掛けて内心で溜息を吐く。
はぁ、まったく楝さんには困ったものだ。せっかく僕がとっておきの情報を提供してあげたのに、自分で動かないでリンをパシリに使うなんて。
あの箱は楝さんが持つに相応しい。だからこそ、楝さんが慊人から取り上げてほしかった。
「それさぁ……嘘だよ。楝さん知らないから、そんなコト。まんまと騙されちゃって。おおかた利用でもされたんじゃない? 慊人さんとの親子ゲンカに」
「……嘘」
「……別に僕を信じろとも言わないけど、君よりかは楝さんの事を知っているし、仲良しなんだよ。とても……とてもね」
楝さんの外見は嫌いじゃないんだよね。慊人が女として生きていたら、こんな風に育っていただろうなと妄想できるし。
「リン。僕が今日ここに来たのは君をからかうためじゃなく、空回っていたけどガンバった君に同情してひとつ、いい事を教えてあげようかなって思ったからだよ」
「……何……?」
短く問いかけるリンは警戒心剥き出しだ。
聞くだけなら損しないでしょと言ったら、リンは僕の隣に座った。うーん、リンは詐欺に引っかかりそうなタイプだね。
「……あのね、
リンは驚愕で目を見開いた。
今聞いた事が信じられないのか。それとも、僕が大事なコトを黙っていたせいで酷い目に遭ったと思っているのか。
「解放の日はいずれ来る。僕達は最後の宴に招かれた十二支だよ」
「いっ、いい加減な……こと言わないで。なんの確証も……無いのに」
制服姿の透君は庭に入ってきて、呆然としながら問いかけてくる。
「
そうだよね、駄目だよね。急がないと
「……? 駄目って……何が? もしも……これが嘘じゃなくて……ホントだったら」
「ですが、
「いずれでも、いつかでもっ、解けるなら……解放できるならアタシはそれでいいっ。永遠にこのままよりか、ずっといい!!」
立ち上がったリンが強い口調で主張すると、透君は必死な声で「駄目です……っ」と言い返す。
「春までには……次の春までには解けなくては駄目です。そうでなくては駄目です。そうでなければ、夾君……」
悲痛そうな面持ちで訴えていた透君は、夾の名前を口にした途端、虚ろな表情になった。
あれ? 予想外の反応だな。僕とリンの視線を避けるように、透君は後ずさりしてそのまま立ち去った。
「夾……? よりによって……?」
いやもうホント、リンの言う通りだよねぇ。僕は思わず苦笑してしまう。
透君と
だって、透君から見た夾の第一印象は最悪だったはずだよ? 僕の家に押しかけてきた夾は屋根をぶち抜いて、透君に怪我を負わせたからね。
さて、透君を追いかけないと。
透君の様子は少しヘンだったから、感情に任せて慊人に直談判しようとするかもしれない。慊人に直談判するのは構わないけど、無策で行っても門前払いされてしまう。
藉真殿の家を後にして夕闇迫る道を歩いていたら、透君を見つけた。「中」の正面玄関へと続く並木道に行こうとしていたようだから、透君の手を取ってやんわり止める。
「リンだけじゃなく、透君も解こうとしていたなんて知らなかったなぁ……」
「紫呉さんは御存じだったの……ですか? いつか……解けると。初めから」
「まさか、まさか。でもなんとなく、これが
透君と手をつないで歩きながら、僕はつらつらと話す。
「僕は違う事を考えていた。これが
そもそも、と説明を続ける。
「物の怪の“血”自体が、長い時間を経て薄く脆弱になっちゃったと思うんだ。変身する動物も、昔と違っていい加減になっている気がするんだよね。竜の落とし子とかさ。はーさんには悪いけど」
本当の姿が醜い猫憑きのように、特別呪われているだけなのか。絆をつなぎ直すための呪具としての役目があるのか。前者だといいなぁ。
「その証拠に紅野クン、自発でも強制でもなくポロッと呪い解けちゃったじゃない?」
歩みを止めた透君に、僕は微笑んで答える。
「……知っているよ。幼稚な言い方をするなら、紅野クンはもう
「あ……慊人さん……が、女性……」
「うん、きいたんだってね。秘密だから黙っていた。ごめんね」
我ながら白々しい謝罪だと思う。透君が何か言いかけたけど、それを遮って話を続ける。
「その紅野クンが言うんだ、もう終わりは近いだろうって。小さな変化やきっかけは積み重なって、動き出すって」
言葉を切った僕は振り向いてから、少し遅れてついてきていた透君に告げる。
「夾君もきっかけを作らないと幽閉されちゃうね」
透君は息を呑んで目を見開いた。
「……わかっているよ、ちゃんと。夾君が近い将来どんな目にあうか、
透君は愕然としたように「……何故……」と訊いてきた。
ここまで言っても解らないか。きれいすぎる心の持ち主は、薄暗い思考を理解できないのかもしれない。
つないでいた手を放してから僕は、「……“何故”……?」と透君の問いを返す。
「
酷くショックを受けたのか、透君は持っていた通学バッグと紙袋を取り落とした。
「……
僕にとって物の怪憑きである事はハンデにならないし、それで心を痛めた事もないんだけどね。
これを“歪み”と呼ぶのなら、僕はまさにそれだろう。そして、それすらも“悲しい”と思えないのは、とてもさびしいことかもしれない。
僕みたいな
などと思いつつ、僕は透君の心をズタズタにする話を続ける。
「そんな
透君にこんな事をわざわざ告げるのは、覚悟を決めてもらうためだ。
草摩家の闇は、君が考えている以上に深い。
ふわふわした恋心や、中途半端な同情心を原動力にして救いの手を差し伸べようとすると、
「そんな扱いを受ける彼を見て、
無言で涙を流す透君を見ると、流石に罪悪感のようなものが疼く。話すのは止めないけど。
「他の
透君はこんな事訊かないだろうけど、僕としては建視にこの質問をぶつけてほしいと思っている。
「猫憑きは
僕の言葉を遮るように、透君は両腕を突き出して僕の胸を軽く押した。
「紫呉さん……!!」
「怒った……?」
泣きながら透君は首を左右に振って否定する。
酷い事を言って、ごめんね。君を利用して、ごめんね。
でも、僕は
透君も同じくらいの覚悟を決めないと、夾は救えないと思うよ?
「……永遠に続くとされた十二支の宴も、いずれ終わる。紅野クンの言葉を鵜呑みにする訳じゃないけど、確信めいたモノなら僕にもある」
リンが呪いを解くために動いた事、由希が慊人に反抗した事、はーくんが慊人に直接抗議した事。
以前だったらあり得ない事が立て続けに起きて、絆が壊れていく音が聞こえる。
「
透君は恥じらいながらも覚悟を秘めた面持ちで、「夾君の事が好きだから救いたいです」と言うだろうと思った。
けれど僕の予想に反して、目の前にいる彼女は絶望に染まった顔をしている。……夾を救えないと思ったからじゃなさそうだ。
透君をこんなに動揺させた原因は何だろうと考えていたら、道路の向こうから夾が歩いてくるのが見えた。
「……一応弁明するけど……いじめてないよ?」
透君は顔を覆っていた両手を退けて、不思議そうに僕を見上げた。夾は「なんも言ってねぇだろ」と言いながら、鋭い視線を僕に送ってくる。
「だったら、そんな睨むコトないんじゃな~い?」
「地顔だよ、うるせぇな。こんな往来で何してんだか」
「透君、リンとケンカしちゃったんだって」
透君はリンと言い合いになっていたから、まるっきり嘘ってワケじゃない。驚く夾に、デリケートな問題なんだからあんまりツッコまないのと釘を刺しておく。
慰め役は夾に任せた方がいいよね。お邪魔虫は退散しますか。僕は透君が落とした紙袋を引き取ってから、「それじゃ、透君」と告げる。
「今の僕に言えるのは、それだけ。無理せずゆっくり、がんばって」
来た道を引き返して藉真殿の家に向かう。
僕が代わりに渡しに行くからとか適当に言って、透君の紙袋を持ってきちゃったけど、これってリンへのお土産でいいんだよね?
今度はちゃんと玄関から入ろう。
「お邪魔しまー……」
玄関の戸を開けた僕は、訪問の挨拶を最後まで言えなかった。白衣を着たはーさんが、三和土に立っていたから。
良心の権化みたいな
数日前、はーさんにネチネチと責められたせいもあると思う。
リンが閉じ込められていた事を知っていたんじゃないかとか。精神的に不安定な慊人に嫌味を言うなとか。建視をいじめて追い詰めているんじゃないかとか。
終いには僕が過去にやらかした悪ふざけをほじくり返して、おまえはこの時からああだったとか言ってきて、さすがの僕もうんざりしたよ。
僕が思わず顔を背けて、「……うわ……」と呟いてしまったのは仕方ない事だと思うんだ。
「やっだぁ、はーさん、ちょーキグーっ。リンの診察ぅ? 出迎えなんて待っていないで、入っちゃえばいいのにィ。MA・JI・ME♡」
「『うわ……』とは、なんだ?」
「こないだ、はーさんが僕を捕まえて何時間も愚痴をこぼしたから、つい……」
僕とした事が、言葉の選び方を間違えた。はーさんは先日のように据わった目になっている。
「おまえの愚痴をいつも聞いてやっているんだから、たまにはいいだろう。あれから考えたんだが、建視は俺をあの場所に近づけたくなかったから、俺に相談せず依鈴を助けたのではないかと思う。あの前夜、建視の様子が変だと気づいていたのだが。何かあったのかと、踏み込んで聞いていれば……」
「はーさん、ここで立ち話をするn」
「いや、しつこく聞いては逆効果だな。建視は俺を気遣って、総てを胸に納めたのだろうから。建視の気持ちに配慮して見守ればいいと解ってはいるが、あのまま溜め込んで思い詰めてしまうと建視が危うい」
はーさんの方が危ういよ、と言っても聞く耳持たないだろうな。彼は今、僕の言葉を意図的に聞き流しているから。
人に迷惑をかける生き方を改めない僕に仕置きをすると同時に、ここぞとばかりにストレス発散しているっぽい。
リンを助けるための行動に出た事で、建視が前向きになるだろうとはーさんは期待したのに、未だに建視は分厚い心の壁を築いたままだから不安は募る一方。
更に慊人の世話役や草摩の上層部の一部が、リンを勝手に連れ出した罰として建視を幽閉するべきだと声高に訴えているから、はーさんは神経をすり減らしているんだろう。
繭ちゃん、はーさんの心のケアをしてあげてよ。できれば今すぐ。
「紅野は依鈴の救出に手を貸し、自分が勝手にやった事だから建視を責めないでほしいと慊人や世話役達に言ってくれた。今の建視にとって1番頼りになる存在は、紅野なのだろう。俺ではないのだ。弟離れできないブラコンだと笑えばいい。おまえには解るまい。赤ん坊の頃から大切に育ててきた弟が思い悩んでいるのに、何もしてやれない兄の気持ちなど」
長くなりそうだと察した僕はこっそり立ち去ろうとしたんだけど、はーさんが僕の右手首を掴んできた。しかも、思いっ切り力を込めているし。
「はーさん、痛いよ。右手を痛めると執筆に差し支えるから、やめてほs」
「心配するな。手を痛めたら俺が治療してやる。この際だから、おまえの腐りきった人間性を変えるために、前頭葉白質切截術*1を施してy」
「藉真殿ーっ! リンーっ!
僕が必死に助けを求めたのに、誰も来ない。居留守使うなんてヒドイよ。リンにはいい事を教えてあげたのに。
もしかして重要な情報を伏せて、リンの上前をはねようとした仕返し? ごめんごめん、いくらでも謝るから誰かたーすけてー!
邦光「そろそろ玄関に行った方がいいのでは……」
藉真「たまにはゆっくり語り合う事も必要だから、2人きりにしてあげよう」←悪意は皆無。
依鈴「(ぐれ兄にはいい薬だけど、とり兄大丈夫かな)」
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高3・1学期編
63「幻滅なんかしない」
Side:
今日は5月1日。
俺は1人で本田家の墓がある寺の近くまで行ったけど、墓参りには行けなかった。去年のように
「あれぇ? あんた、確か……やっぱりそうだ、以前うちに来た子だろ。そのミカン色の髪、憶えているよ」
帰り道の途中で、ベンチに座っていたじいさんに声をかけられた。
見覚えのあるじいさんだなと思ったら、透の父方の祖父だ。親戚の家に戻った透を迎えに行った一度きりしか会った事ねぇが。
「透の……?」
「そうそう、
まさか、俺とあの人の関係を知ってんのか。
「……じゃなくて、
言い直したじいさんは、警戒して身構えた俺の様子に気づいてないようだった。
気を取り直すために俺が「こんなトコで何してんだ」と聞いたら、じいさんはギックリ腰が再発したと打ち明けてくる。おいおい、ギックリ腰って身動きとれなくなるんだろ。
大丈夫なのかと聞いたところ、携帯電話で自宅に連絡をして迎えを待っている最中だという答えが返ってきて、ひと安心した。
「あんたも今日子さんの墓参りに来てくれたのかい? ありがとうね」
今年は墓参りをしてねぇし、礼を言われるような事なんざこれっぽっちもしてねぇ。ンな事言える訳ねぇから話題を変える。
「じいさん……あいつのこと『今日子』って呼んでんのか?」
「ん? そうだねぇ」
じいさんは義理の娘を喪った寂しさを紛らわすために、透を身代りにしているんだろうか。だとしたら。
「それってちょっと……悪シュミじゃねぇの?」
赤の他人の俺が言っていい事じゃねぇなと、言葉にしてから気づいた。
俺の不躾な物言いに不快感をあらわにするかと思ったが、じいさんは地蔵みてえな穏やかな笑顔を保っている。
「そうだねぇ……でもね、つなぎとめたかったんだ。どんな形でもいいから、今日子さんが確かにいたんだって証をね、示したかった。でないと
今年の墓参りは付き合えないって言った俺に、「はい」と答えていつものように笑った透の姿が思い浮かんだ。
あの笑顔にあと何回許されるだろうなんて考えた、
「……それだけじゃ、ないけどね。自分のためでもあったんだ。自分もさびしかっただけなんだよ。みんな置いていってしまうから、せめて何かでつなぎとめたくて」
恥ずかしい。今の今まで、じいさんが自分の息子も亡くしていた事を忘れていた。
俺は以前より透の事を気にかけてやれるようになったと思っていたが、じいさんの気持ちに配慮した事はなかったじゃねぇか。
じいさんが「あんた」と呼びかけてきて、俺はビクついてしまう。これ以上何を言われるかと思ったら、怖くなってしまった。
「あんたは……知っているかい? なんで透さんが、あんなしゃべり方しているのか」
「知らねぇ……けど」
「あれはどうもね、
じいさんの話によると、
この子は勝也に少しも似ていない。違う男の子供じゃないか。こんなんじゃ慰めにもなりゃしない、と。
その親戚は子どもだからどうせ何もわかっちゃいないと決めつけて、幼い透に対して好き勝手言ったんだろう。
だけど、大人に比べて語彙力に乏しい子どもでも、自分に投げかけられた言葉が悪意に満ちているかどうかくらいは解る。
そう断言できるのは、俺がガキの頃に実体験したからだ。一族の連中に蔑まれ、実の父親から憎悪を叩きつけられてきたからな。
「……透さんは、心無い親戚に言われた事を気にしていたよ。当然だよね。勝也が死んで、目で見てとれるほど今日子さんは憔悴していって。気にしないわけがない」
父親を亡くしたばかりの透は、じいさんに相談を持ちかけたらしい。
母親が元気なくて透と話してくれないのは、父親に似てないからガッカリしているんじゃないか。どうしたらソックリになれるのか。父親ソックリになれば母親は元気になって、どこへも行かないかと。
「透さんが相談してきた後に、今日子さんが長い時間……家を空けてしまった時があってね」
じいさんが「それからだ」と言った瞬間、俺が子どもの頃に空き地で出会ったあの人――本田今日子の言葉がよみがえった。
――それからだよ、あの子が勝也みたいに……。
空き地で話をしたあの日、今日子は「勝也みたいに」と呟いて言葉を切ってしまったけど。じいさんの話を聞いた今、あの人が飲みこんだ言葉が何だったのか、ようやく理解できた。
――悲しい想いをさせてしまったと思っている、あの子には。……でも、それでもそんな透がいてくれたから、支えてくれるから……生きていける。世界が必要としなくたって。必要として……必要としてくれる
確かその後、俺は「ほんだかつやには、もう会いたいとか思わないの?」と聞いた覚えがある。
今日子は優しい微笑みを浮かべて返答を避け、脈絡がないように思えた言葉を紡ぐ。
――……あんた達はどれくらい道に迷って、どれくらいの時間をかけて、自分の答えに辿りつくのかなぁ……。
それは途方もない言葉に聞こえた。
あの頃の俺はまだ子どもだったせいもあるけど、それ以上に猫憑きの俺は
俺のせいで誹謗中傷を受けて壊れていく母さんを見てきたから、
……昔は俺に笑いかけてくれた
底なし沼のようにどこまでも沈みそうになる思考を無理やり切り替えて、俺はじいさんに問いかける。
「……なんで、そんな身内話、俺にするんだ」
「そうだねぇ。あんたは透さんを大切に想っているみたいだったから」
ちゃんと会話をしたのは今日が初めてのじいさんに見抜かれるほど、俺は解りやすいのか。
「大切にしてあげてほしい。あの子の倖せは、
「……そんなこと……俺に言っても仕方ないだろ」
「そうか」
じいさんが一瞬だけ見せた表情は、穏やかな笑みに隠されたじいさんの本性じゃねぇかと思えて、やけに印象に残った。
喪服の黒いワンピースを着た透が、洗濯物を取り込んでいた。帰宅の挨拶をするタイミングを逃した俺は、てきぱきと動き回る透の後姿をひたすら眺める。
去年の夏に砂浜で透を見つけた時も思ったけど、透は1人でいる時にやたら寂しそうに見えるな。これが本当の透の姿なんだろう。
透はいつも朗らかに笑っているが、楽しいコトばかりに囲まれてここまできたワケじゃない。
「わ!!?」
不意にこっちを振り向いた透は、すっとんきょうな大声を上げた。俺が帰っていた事に気付かなかったらしい。声をかけなかった俺のせいだな。
「しっ、失礼しました。お帰りになっているとは思わなかったです……っ」
「ああ……まぁ、今帰ってきたトコだし……おまえも帰ってくんの早かったな」
「あ、はい。夕方から雨になると聞いたので……でも、いらぬ心配だったようですね。良かったです。やっぱり
茜色に染まった夕焼け空を見上げながら、透は嬉しそうに笑う。普段ならその笑顔を見られるだけで充分なのに、本当の透を見せてほしいと思ってしまった。
「なぁ、おまえの父親ってどんな顔していた? ……あんま憶えてないって言っていたけど、似てた?」
踏み入った質問を投げかけられ、透の動きがぴたりと止まる。シーツの向こう側にいる透は消え入りそうなほど小さな声で、「……そ、そう……ですね……顔は、あまり」と答えた。
次の瞬間、シーツを退けて顔を出した透は普段通りの明るい笑みを広げた。ふと思う。透がいつも見せる笑顔も、父親の真似だったりするのかと。
「で……っ、でも、あのっ、話し方がっ、話し方はとても似ているそうなんですっ。本当に……とてもっ。……『似てる』って、お母さん……も」
「――そっか。……じゃあ、嬉しかったろうな」
本田今日子に会った事を透に打ち明けない俺の今の有様は、“逃げている”としか言いようがない。それなのに俺は、透が普段目を背けている事柄を彼女に突きつけている。
「嘘……です。何も……似てないです。似てないから口真似しているだけです……」
再びシーツの向こう側に隠れてしまった透は、途切れ途切れに声を出す。
「……わ、私……は、本当はお父さんを……悪者のように思っていました……。おぼろげでも憶えているのに。優しかった事も与えてくれたモノも、ちゃんと確かに憶えているのに。それなのに」
去年の墓参りの時、透は父親の事をよく憶えていないと言った。
あの発言は透にとって父親に対する裏切りも同然で、罪悪感に苛まれているんじゃないか。
きっとこれは大好きな母親には言えなくて、気を許している
「お父さんは、お母さんを連れていってしまうんじゃないかって勝手に思って。だから、お母さんの気を……ひきたくて。私のところにいてほしくて」
シーツを握り締めた透は掠れ声で、「つなぎとめたくて」と言う。
「置いていかれるのは嫌だったから。自分が安心したくて、そのためだったらどんな事でもする私は、簡単に……お父さんを悪者扱いする私は」
懺悔をする透は涙声になっていた。
「…………自分のためなら、どんな約束も手放そうとする私は…………最悪です」
透が手放そうとしている約束が何なのか解らねぇが、母親絡みだろうとは予想がつく。
彼女にとって本田今日子は、どれほど時間が経っても1番大切な存在だから。
幼い透は母親に置いていかれたくなくて、記憶に残る父親の面影を追いかけながら母親をつなぎとめる方法を必死で考えたんだろう。
父親の話し方を真似ても、透は勝也にはなれないのに。的外れでも滑稽だったとしても、頑なにやり続けたその様はなんて愚か。
さびしさを押し隠すその様は、容赦なく自分を責めるその姿は、なんて愚かで愛しいんだろう。
胸の奥から熱いものが込みあげるのを感じながら、俺は透に近寄ってシーツと一緒に透の両肩をそっと掴んだ。
「……おまえの母親はそんなコトわかっていたよ、きっと」
透に告げた言葉は根拠のない慰めじゃない。
空き地で会った今日子が言っていたんだ。「置いてかれるのと、置いていくの、どっちが辛いコトなんだろうね」って。
「それでも支えに……なっていたよ」
「……そう……でしょうか……」
「そうだ、信じろ」
透の母親本人が言っていたと、いつか伝えるから。
「……突然へこたれた事言ったりして……ごめんなさ……」
そもそも俺が突然、本田勝也の話題を振ったせいで透がへこたれちまったから、謝罪を遮って「いい」と言う。
「いいんだ、いくらでも言え。幻滅なんかしない」
俺はそう遠くないうちに透に幻滅されるだろうが、今だけは俺の胸に飛び込んできた透の温もりを腕の中で独り占めしていたい。
その後で透は
「父親の写真……やっぱ持っていたのか。おまえらしいよ」
俺がそう言うと、透ははにかむように微笑んだ。写真の中で意地悪そうに笑う本田勝也とは、似ても似つかねぇな。
じいさんが一瞬だけ見せた表情は本田勝也に似ていると思うが、透はああいう笑い方はしない。透の笑顔は誰かの真似なんかじゃなくて、地だな。
△▼
Side:
「なんか人数集まっちゃったけど……夕飯どうしようか」
紫呉の家の居間で俺は考え込んだ。春と
「バーベキューやろーよ、バーベキューっ」
声変わりが始まってガラガラ声になった紅葉は、4月中旬くらいからグングン背が伸び、顔立ちも凛々しくなった。
さすがに女子用の制服は卒業して、男子用の制服を着用している。……ウサギリュックは卒業してないけど。
「てかさ……燈路達も来るなら来るで、一言連絡入れなきゃダメだよ? 事前連絡は大事だって、
放課後に皆でアイスケーキを食べる話がまとまった後、春と紅葉は紫呉の家に遊びにおいでと誘うメールを建視に送ったらしい。建視はまだ返信を寄越していないみたいだけど。
建視は5月中旬になった今も休学している。このまま欠席が続くと、留年してしまうんじゃないか。
燈路も付喪神憑きの従兄の事を気にしているのか、建視の名前を聞くと難しい顔になった。
「何度も言われたのは春兄だけだろ。オレは普段から事前連絡を心がけているよ。今日は杞紗が学校帰りに
若干投げやりになった燈路の視線の先には、熱い抱擁をかわす本田さんと杞紗がいた。あそこまでの相思相愛ぶりを見せつけられると、燈路は諦めるしかなくなるのかもしれない。
俺が本田さんに声をかけると、本田さんと杞紗は2人だけの世界からこちらへと帰ってきてくれた。
それから本田さんと杞紗も交えて、夕飯は何にしようかと相談する。紅葉が粘り強くバーベキューを主張した時、春が居間の机を軽く叩いて呟く。
「…………うん、よく燃えそう」
「「何する気!!?」」
俺と燈路の驚愕の声がハモった。バーベキューは危険だから、無難なカレーにしよう。
「お姉ちゃん……どうしたの……?」
周囲をきょろきょろと見渡す本田さんを気にかけて、杞紗が声をかけた。
「はい、えと……夾君は……」
「お姉ちゃん達が帰ってくる前に、夾お兄ちゃんは2階へ上がっていたから……お部屋にいると思うよ……?」
すると、本田さんは急に頭を左右に大きく振り始めた。……夾の事でなにか悩んでいるのかな?
「トール、どしたの? 気持ち悪くなっちゃうよ」
「い、いえ、あの、夾……夾君がいらっしゃらっ、ないので……」
「あーっ、ホントだ。キョーってばいなーいっ。ボク呼んでくるねーっ」
紅葉が呼びに行くと夾にどつかれると思うけど、紅葉は成長したから以前のように「キョーがいじめる~っ」と言って泣いたりしない……はずだ。
頭を勢いよく振ったせいで本田さんは目を回してしまったので、杞紗と一緒に居間で休んでいてもらう。その間に俺と春と燈路は台所に入って、カレー作りの準備を始める。
「ね、夾って……さ。
おーい、夾。
「……“好き”はダメなの?」
シンク下の収納スペースから寸動鍋を取り出しながら、春は直球で問いかけた。
「え……っ。だ……っ、だって……猫は…………」
台所に沈黙がおりた。
「……燈路ってみんなが避けて通る橋を、わざわざ選んで通るよね……」
春の指摘を受けた燈路はうっと呻いて、「自覚は……している」と言う。
「べっ、別に反対とかそういう訳じゃなくてさ……こう……モヤモヤというか心配というか……今さらだけどさ」
燈路の最後の言葉を聞いて、文化祭前に建視と交わした会話を思い出す。
――ご高説わざわざどうも。もっと早い段階で言ってくれたら心に響いたかもしれないけど、今さら言われてもね。
少し前まで俺は夾を嫌い抜いていたから、俺が夾の倖せを語るなんて白々しいと建視は思ったのだろう。
――猫憑きが幽閉される事は、草摩家の総意による決定事項だ。由希が
でも、違った。建視にとって幽閉は他人事じゃなかったんだ。俺は師範の家で療養する事になったリンのお見舞いに行った時に、それを知った。
――ところで
師範が静かな声で質問すると、暗い眼差しになった春は「……先代の盃の付喪神憑きが幽閉されていた土蔵」と答えた。
先代の盃の付喪神憑きに関する噂は聞いた事があるけど、幽閉されていたなんて俺は初耳だった。
――……やはり、まだあったのか。草摩家の中には、建視が先代の盃の付喪神憑きのように力を乱用するのではないかと恐れて、建視を幽閉するべきだと主張する者達がいるからね……。
師範は苦々しい表情で話していた。
建視を幽閉しろと言う人がいる事も初めて知ったから俺はショックを受けたけど、春は驚いていなかったから知っていたようだ。
――他人の気持ち自体を
ゴールデンウィーク中に会った時に兄さんはそう話していたけど、俺も似たようなものだ。
俺は長いこと自分の殻に閉じ籠っていて、敵意を向けてくる建視に良い感情を抱いていなかったから、建視が危うい立場にいる事を知ろうともしなかった。
建視が高校を休学してまで慊人の側近になったのは、本当に建視の意志なのだろうか。自分で決めた事なのだとしたら、建視はいったい何を考えているんだろう。
幽閉されないようにするため、慊人の側近になって草摩家の中での発言力を強めようとしたのか? だとしたら、リンを助けて慊人の不興を買うような事はしないよな。
建視の考えが
――最初からできないと決めつけて何もしないのは、現実逃避だよ。
俺だって少し前までは、夾にも倖せになる権利があるなんて考えた事すらなかったのに、偉そうに言ってしまった。そんな俺の言葉は、建視にとって気障りでしかなかっただろう。
今になって謝っても意味がないから、せめて自分の発言には責任を持たなくてはいけない。
「そう、“今さら”だ……どう言い繕っても。だからこそ、もっとシンプルに考えよう。倖せになるために、何をすべきか」
同じ言葉を建視に告げた時、付喪神憑きの従兄は何かに葛藤するような顔をしていた。
今はどうか解らないけど、慊人の側近になる前の建視は倖せになりたいと心の底では願っていたと思う。
建視が望んでいた“倖せ”は、草摩の「中」で慊人の言いなりになって過ごす未来ではないはずだ。
直接聞かないと本人の気持ちは解らないから、建視と1回ちゃんと話したほうがいいだろうな。俺が本家に行っても建視は面会拒否しそうだけど。
うーん、そうだな。花島さんに頼んで建視宛てのメッセージを書いてもらって、それを餌にすれば建視を誘き寄せる事ができるかもしれない。
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64「考えなしだったからね」
Side:
オレ、ショウ君。今、昇降口の前にいるの。
待ち合わせ時間に遅れているゆんゆんに電話をかけて、メリーさん風に脅してやろうかと思っていたら、ようやく待ち人きたる!
「ゆんゆーん、遅いでー。電車1本のがしたでー」
「ごめん、ヤボ用。色々対処することがあったんだよ。突然来いとか言い出すから」
「だぁって、ちょうど今日タイミングあったんだもんよ」
オレのハニーの
ウチの母親は面食いだからな。超絶美少年のゆんゆんを見たら、年甲斐もなく浮かれるのは目に見えてんよ。想像するだけで吐き気が……うええ。
「何より、肉の特売日だし」
「肉がなんだって?」
「ウチの小牧サンは無類の肉好きなんデス。肉・肉・肉な人なんデス。肉☆天使なんデス!!」
オレがビニール傘を掲げて熱弁すると、ゆんゆんは呆れ顔で「会う前から妙な印象植え付けるのやめろよ」と言う。ひっどォ~い。翔はぁ、ありのままの小牧を語っているのにぃ。
「翔の彼女……俺が
「知ってるよ、“友達”だって言ってある。だからどうってコトはないよ、いつも通り」
ゆんゆんは安心したように「……そっか」と答えた。相変わらず細かいトコロを気にするな、ゆんゆんは。
「本田さんは? あれから様子どう?」
昨日、オレは本田さんと会って話をした。それを小牧に報告したら、小牧は「今度はケンカ売ったりしなかった?」って聞いてきたけど。
オレは2年前にやらかしちゃったから、またポカすると思われてんのかな。悲しいことに否定できんわ。
「…………本田さんもいつも通り……笑ってる」
オレと話していた時も本田さんは笑っていたな。彼女は辛かった時のことを思い出して、最悪な気分になっていたと思うのに。
そんなことを考えながら「ふーん」って相槌打ったら、ゆんゆんがなんかムキになって言い返してくる。
「本田さんが何にも気にしてないとか、そういうんじゃないと思うぞ!!」
「オレ、なんも言ってねーよ? ……わかってるし。今は不幸ぶってやしなかったとか、意味なくヘラヘラ笑っていたわけでもないって」
「うん……」
「でも……ちょっと前までわかんなかったけどね。……考えなしだったからね」
ゆんゆんと一緒に電車に乗ったオレは、考えなしだった当時のことを思い出す。
オレが本田さんと初めて会ったのは、2年前の5月10日。小牧が本田さんの家に弔問に行くって聞いたから、オレが付き添うことにした。
小牧の親父さんが運転していた車に轢かれて本田さんの母親は亡くなったから、本田さん側の遺族が小牧を非難するかもしれないと危ぶんだ。
小牧が敵意に晒されるようなことがあったら、オレが守るつもりだった。小牧の親父さんは即死だった、小牧だって辛い思いをしているんだって言ってやろうと考えていた。
弔問に行く前から臨戦態勢だったオレは、玄関先に出てきた本田さんが着ていた制服を見て、同じ学校の生徒だったのかと少し驚いた。
だけどそれ以上に、俯きっぱなしの本田さんを見てムカついた。実際に言ったし。
――アンタ、ムカつくね。アンタ1人が全部の不幸を背負っているなんて思うなよ。アンタのほうが“可哀相”だなんて、勘違いするなよ。
帰宅してからオレは、不幸面するなと本田さんに言ってやったと小牧に報告した。
それを聞いた小牧がショックを受けたことに気付きもせず、オレは思ったことをそのまま言ったんだ。
――あいつの不幸のほうが“上”みたいだ。小牧の辛さは軽くみられているみたいだ。
――嬉しくない……。私のために言ってくれた事なんだって……わかっている。わかっている……けど。どちらがより不幸かを秤にかけて、それで勝ったって……嬉しくないよ……。
両手で顔を覆った小牧のか細い声は、涙のせいで掠れていて。泣いている小牧とオレの間に、見えない溝ができたように思えた。
「それまでオレ、好きになった相手は自分と同じ目線で同じ景色を見て、同じように感じ取ってるモンだって、なんか勝手に思い込んでた」
車窓の外を眺めるともなく眺めながら、オレは打ち明け話をした。
オレってお調子者のキャラで通っているから、真面目な話をするとネタだと思われることが多いけど、ゆんゆんは茶化すようなことを言わずに黙って聞いてくれる。
「でも現実はオレの考えも及ばない角度で、小牧が傷ついて。なんで小牧が泣いてんだか、ちっともわかんないオレがいて。……そういう自分がやたらショックで」
「さびしかった?」
ゆんゆんの言葉は、モヤモヤしていたオレの心の中にすとんと落ち着いた。
「そっか。アレがサビシイってコトかぁ……」
“さびしい”って感じたことのない気持ちだから、本気でよくわからなかった。こんなだから小牧を泣かせちゃうんだろうな。
小牧と同じ目線に辿り着きたいって思った。一握りでいいから理解したかった。だってそうじゃなきゃ、側にいたって意味ないだろ。
そう思って自分の意識改革を進めていた時、
生徒会長になる
――こっちのほうが倖せだとか、こっちのほうが不幸だとか、そんな事を天秤にかけて他人と比べて、そんな事で優劣を決めて、決められて楽しいかよ。嬉しいかよ!?
ゆんゆんは小牧とおんなじ気持ちを理解できるんだ。そう思ったら羨ましくてムカついて、ゆんゆんに八つ当たりしちまったっけな。
本田さんを傷つけて、小牧を傷つけて、ゆんゆんを傷つけて。幾人もの気持ちを踏みつけて、それでようやく知っていく気持ちがある。
――……あン時、あんなコト言って、ごめん。小牧にも怒られた。
オレは昨日、本田さんに謝った。
――オレ考えなしで、わかんないコトいっぱいあって……今は、今ならちょっとだけ、ちょっとずつだけ、わかってきたと……思う。
下手なことを言うと、余計傷つけてしまうんじゃないか。そんな風に思ったら何を言ったらいいのかわからなくなって、物凄くぎこちなくなってしまった。
――……あの……さ……その……小牧、元気にやっている。アンタも元気そうに見える、毎日。……良かった。
思い返すとヒドイな。小学生の作文以下だよ。
だけど、あの時はそう言うのが精一杯だった。タイムマシンがあってやり直しができたとしても、大差ないと思う。
――由希君……最近とても楽しそうです。たくさん笑っていらっしゃいます。それはきっと、
本田さんは精神的に追い詰められていたときに暴言吐いたオレを責めもせず、そう言って笑った。
誰かが悲しい気持ちにならないようにするために笑うのは、小牧とおんなじで。そういう人を傷つけてしまったんだと再認識したら、なんかすごく泣きたくなった。
「わからないとか、なくなったんだ?」
電車から降りて駅の外に出ると、ゆんゆんが話しかけてきた。
「まぁねぇ。たまにポカもするけど、前よりかは? うん、日々精進っての? 良き先生もいるし?」
「え? 先生って誰?」
ゆんゆんなんだけど正直に答えるの恥ずかしいなーとか思っていたら、天使がオレを呼ぶ声が聞こえた。
「翔くーんっ。お帰りなさーいっ」
道路の向こうから小走りでやってくる、紫がかった黒髪を肩の上で切り揃えたメチャメチャかわいー女の子がウチの小牧サン。わざわざお出迎えに来てくれたんだって。リアル天使がここにいるよ。
「初めましてっ、
「あ、初めまして、草摩です……可愛いですね」
あーあー、小牧が耳まで真っ赤になっちゃってら。
「なー? ゆんゆんは天然だろー?」
「肉好きなんですってね。さっき翔が肉☆天使……って」
ゆんゆんは天然と言われた仕返しに出た。オレはソッコーで逃げたけど、本気になった小牧の瞬足には勝てなかったよ……。
「もう、ホントなんでいつもっ、変な呼び方で、もうっ、もうっ。気にしないでくださいねっ、草摩くんっ」
オレに鉄拳制裁を下した小牧はプンスコ怒りながら、オレの腕に自分の腕を絡めて逃げられないようにした。あれ? これってご褒美?
その後、ゆんゆんが家庭の事情で男装して学校に行っていると小牧に嘘ついたことがバレて、小牧とゆんゆんにシメられちゃった。何でも信じる小牧は可愛かったんだけど……ハイ、反省してマスヨ。
家に着いてオレが自室で着替えている間、居間でゆんゆんと2人きりになった小牧は何か話している。アパートの壁うっすいから会話は筒抜けなんだよね。
「翔くんは中学の途中までは、すごい無口だったんですよ」
え、ちょ、小牧サン、何話すつもりデスカ? オレは学園防衛隊のブラックだから、謎多き男って線でいきたいんだけど。
あー、でもゆんゆんにはオレと
「付き合い始めたのも、翔が変わった頃からなんだ?」
「はい、そうです。……好きなのは、私だけかと思っていたから……嬉しかった」
うわー……今すぐ小牧を抱き締めたい。
着替え終わったから今すぐ居間に突入しよう! と思ったけど、小牧が話を続けているから出入口で立ち止まる。
「翔くん……優しいです。いつも私をわかろうとしてくれます。守ってくれようとしてくれます。たまにはケンカもするけど、それだって意味のあることです」
……小牧と同じ目線に辿り着けたのかな、少しは。
「……じゃあ、翔がいて良かったね」
「はいっ、もちろんですっ」
オレも小牧がいてくれて本当に良かったよ。
小牧が悲しみや辛さを押し隠してオレのために笑ってくれた数だけ、報いてあげたい。そのためには、知らなきゃいけない気持ちはまだまだ沢山あるだろう。
この先、また傷つけてしまうこともあると思うけど、せめて優しくありたい。
「バカップルめ!!!」
「おまえのコトだろ。照れてんのか?」
「翔くん、きいてたのー!?」
△▼
Side:
「ようやく建視と2人きりになれたわね」
僕と楝さんは当主の屋敷の一室で、向かい合うように座っている。どうしてこんな状況になったのか。80字以内で説明せよ。
「楝さんのお付きの人は一緒じゃないんですか?」
「彼女達とずっと一緒にいるとね、見張られているようで息が詰まるのよ。たまにはこうして1人で散歩して気晴らしをしないと、体と心に悪いと思わない?」
「そうですね」
「ところで、慊人さんの具合はどう? 少しは良くなったかしら?」
慊人の体調は悪化する一方だ。僕と紅野兄が勝手にリン姉を連れ出した事が、よっぽどショックだったらしい。
それに加えて、ぐれ兄が慊人のお見舞いに行く度、慊人は天の岩戸に籠った天照大御神のようになってしまっている。
ぐれ兄が慊人に嫌味を言うのは好きな子いじめだと思っていたけど、ぐれ兄が鬼畜だから単にいじめているんじゃないかと思うようになってきた。
そんな内部事情は軽々に話せないので、当たり障りのない返事をしておく。
「梅雨の湿気が、慊人の体調に悪影響を与えているようですね。慊人は夏も苦手ですから、秋になって涼しくなれば元気になると思いますよ」
「本当に秋になれば元気になるかしらね。聞いた処によれば、慊人さんは建視と紅野に裏切られて、長期間寝込むほどショックを受けたんでしょう?」
それはもう愉しそうに楝さんは問いかけてきた。
「紅野兄はどうか知りませんが、僕は慊人を裏切ってはいませんよ」
「あら……ここには私しかいないから、本音を話していいのよ?」
僕は肩を竦めて「本音を話したつもりなんですけど」と答えた。薄い笑みの奥に不機嫌を隠した楝さんを前に、僕は言葉を続ける。
「ここだけの話、慊人は世話役に甘やかされたせいで我儘になってしまいました。リン姉を閉じ込めたのは、さすがにやり過ぎです。僕は慊人のためを思って、叱責を受けるのを覚悟の上で行動に出たんですよ」
僕はリン姉を助ける事しか頭になかったけど、紅野兄は慊人を諌めるために行動に出たんじゃないかと思う。
本当は、慊人の世話役が諌めなきゃいけないんだけどね。あの人達は、慊人が望む事は何でも叶えてあげるべきとか考えているから。
慊人の世話役達はリン姉救出の一件で、僕に対する不信感を強めた。
僕が楝さんと会った事がバレたら、厳しい処罰をと騒ぎ立てるだろう。幽閉しろと再び言う人も出てくるかもしれない。
以前の僕にとって幽閉は何が何でも回避しなくちゃいけない事態だったけど、今はそうでもないから怖くない。
「リン姉を助け出す事で、誰かを閉じ込めるのはいけない事だと慊人に教えようとしたのですが、慊人は心を閉ざしてしまいました。日を経るごとに益々自分の内側に籠っていく慊人を見ているうちに、僕はこのままではいけないと思うようになったのです。膠着状態を破って変化をもたらすためには、思い切った行動を起こさなければいけません」
僕が変化をもたらすと言った瞬間、楝さんは勝ち誇ったように笑う。
「素晴らしい決断をしたのね。建視が何をしようとしているのか教えてくれる? 私にできる事があれば、力になってあげるわよ」
欲しかった言葉をもらったので、僕は「ではお言葉に甘えて……」と言ってから説明を始める。
「処分を免れた
晶さんの名前を出した瞬間、余裕を漂わせていた楝さんから笑みが消えた。
「どうして晶さんの遺品を捜しているの?」
「怒らないで聞いて下さいね。晶さんが楝さんにも打ち明けなかった重大な秘密を僕の力を使って探り当てて、それを取引材料にして慊人に交渉を持ちかけようと思っているんです」
僕が前置きで怒らないでと頼んだのは、晶さんの遺品から残留思念を読む事だ。
晶さんに異常なまでに執着する楝さんは不快そうに眉をしかめたけど、慊人に交渉を持ちかけると聞いて喜色を浮かべる。
「慊人さんに交渉を持ちかけて何を成し遂げようとしているの?」
「
軽く目を見開いた楝さんは、「は?」と言いたそうな顔になった。僕が夾のために危険を冒すなんて思ってもみなかったんだろう。
「それは……先代の盃の付喪神憑きと、同じ事をしようと考えての行動かしら?」
「僕の先代も猫憑きを助けようとしたんですか?」
「そうみたいよ」
もしかして、と思った。父さんが猫憑きと馴れ合うなと言ったのは、僕が先代と同じ事をするんじゃないかと危ぶんだからなのか。
……父さんの考えなんて、今はどうでもいい。楝さんとの会話に集中しろ。
僕が自分にそう言い聞かせたのを読んだ訳じゃないだろうけど、楝さんは楽しそうに話を続ける。
「これは
先代の盃の付喪神憑きは
山奥に逃げた末乃と捨丸は慎ましくも睦まじく暮らしていたけど、当時の十二支憑きがそれぞれ意志疎通できる動物に命じて逃げた2人を捜し出し、末乃と捨丸はあえなく捕まってしまう。
離れに幽閉された捨丸は伴侶を得る事なく孤独死したが、蔵に幽閉された末乃は当時の草摩家の当主の妾になったんだとか。
「家中を騒がせた先代が、当主の妾になれるとは思えませんが……」
「残留思念を読む力は便利だから、妾という立場を与えて引き続き利用しようとしたんじゃないの? 末乃が駆け落ちする前まで、盃の付喪神憑きは
付喪
盃の付喪神憑きは草摩家にとって利用価値の高い力を持つから、ちやほやして操りやすい傀儡に仕立てたと考えた方が妥当だ。
僕が考えを巡らせていると、楝さんが赤く塗った唇の両端をニイッと吊り上げる。
「十二支の“絆”なんて不確かなモノより、建視の力の方がよっぽど有益だわ。神様として崇められるのは、慊人さんじゃなくて建視の方が相応しいと思うの。建視が私の養子になってくれたら、慊人さんをここから追い出して貴方を草摩家の当主に据えてあげるわよ」
とんでもない提案を持ちかけられて、僕は思わず息を呑む。
楝さんは本気で言っているのか、それとも僕をからかっているのか。普通に考えて後者の可能性が高いな。
「僕が草摩家の当主なんて恐れ多いですよ。晶さんは深く愛し合った楝さんを守るために、病を押して当主としての務めを果たされたのでしょう。僕には晶さんのような命がけの覚悟はありません」
「建視は身の程を弁えているのね。草摩家の当主に相応しい者は、後にも先にも晶さんしかいない。晶さんの暇を潰すための玩具なんかが当主を名乗るなんて、おこがましいにも程があるわ」
そう言い捨てた楝さんは、一見優しげな薄笑いを顔に貼り付けてから話題を変える。
「晶さんが大切にしていた物の詳細を教えてあげてもいいけど、条件があるの」
楝さんがタダで情報提供してくれるなんて端から期待してないから、僕は頷いて続きを促す。
「晶さんの遺品を見つけたら、私に返してちょうだい。私以外の人間が、晶さんのものに触れるなんて許されないのよ。魂も血も肉も、晶さんの名がつくものは総て、手にしていいのは私だけ。唯一、晶さんに愛された私だけ……」
ここではないどこかを見つめながら語る楝さんから、狂気じみた妄執が感じ取れた。
これを愛と呼べるのか僕には解らないが、誰かを深く愛し続ける事ができる楝さんはある意味倖せだと思う。
「晶さんの遺品を見つけたら、必ず楝さんにお渡しします。人目に触れない場所に仕舞いこまれているより、愛しい奥方の手元にあった方が晶さんも喜ぶでしょうから」
僕の返事を聞いた楝さんは満足そうに目を細めて、「それともう1つ」と条件を付け加える。
「慊人さんが隠し持っている箱を取ってきて、私に届けてちょうだい。その箱の中には、晶さんに関係する物が入っているらしいの」
「いったい何が入っているんですか?」
「それが解らないの。箱の存在を教えてくれた紫呉は知らないと言うし……彼の事だから、知らない振りをしているのかもしれないけど」
ぐれ兄が楝さんに教えたのか。めちゃめちゃ胡散臭いな。
慊人が隠し持っているという箱には関わらない方がいい気がしたけど、楝さんとの取引を成立させるためには呑むしかない。
「わかりました。その箱を取ってきて、楝さんにお渡しします」
「お願いね」
それから楝さんは晶さんが大切にしていた物と、問題の箱に関する情報を教えてくれた。これで後戻りはできなくなったな。
晶さんの秘密を取引材料にして慊人に交渉を持ちかけると言ったけど、猫憑きを解放すると言ったら草摩の「中」で猛反発が起きるのは火を見るよりも明らかだ。下手をすれば、慊人の当主の地位が揺らぎかねない。
慊人は交渉に応じないだろうから、僕が夾の代わりに幽閉されると申し出るつもりだ。
任務に明け暮れていればそう遠くない将来、僕は人格が崩壊してしまう。
草摩の上層部のいいように使い潰されるのは嫌だし虚しいから、夾を救おうとしている本田さんの手助けをしたい。
こんな醜い自己満足の押しつけは、手助けとは言えないだろうけど。そう思った瞬間、由希が兄さんを介して渡してきた
花島さんはただ一言、『待っているわ』とだけ書いてくれた。
……ごめんね、花島さん。もう君には会えない。
本田さんと夾が「外」で自由に暮らすには困難がつきまとうだろうから、花島さんは師範と協力して2人をサポートしてあげてほしい。事情を説明する手紙を後で花島さんに送っておこう。
僕が身代りになったとしても、猫憑きを幽閉しろと騒ぎ立てる輩は必ず出てくる。盃の付喪神憑きを幽閉した後で、猫憑きを幽閉すればいいとか言い出す連中も。
僕の要求が踏み倒されそうになる場合に備えて、晶さんの秘密を師範に教えておかないと。
夾を捕まえて幽閉しようとする輩を抑え込めないなら、晶さんの秘密を公にすると慊人に迫ればいい。公明正大な師範が脅迫を良しとするとは思えないが、夾の自由を守るためならやってくれるはず。
「あら、もう行くの?」
僕が立ち上がると、楝さんは残念そうな声を出す。
「これ以上遅くなると怪しまれますので」
「そう。それじゃ……がんばってね」
楝さんの応援の言葉は、障子紙より薄っぺらく聞こえるな。僕は愛想笑いを浮かべて「頑張ります」と答えてから、部屋を後にした。
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65「変わろう?」
いよいよ佳境に入りました。どうか最後までお付き合いください。
Side:
6月9日の午後、
慊人は人払いをしたから、僕と
紅葉は慊人と何の話をしているのかな。
今朝会った慊人はいつにも増して気持ちが沈んでいるように見えたから、神経を逆撫でるような事は言わない方がいいと思うけど。
僕が廊下で待機していたら紅葉が向こうから歩いてきた。
話し合いは終わったらしい。紅葉の頬に打たれた痕があるから、無事にとは言えないけど。
「紅葉、大丈夫か?」
「ダイジョーブだよ」
すっかり低くなった声で応じた紅葉は、いつも通りの明るい笑みを見せた。
……いつも通りか? しばらく紅葉に会っていないせいか、なんだか別人みたいに見える。
「紅葉……何かあったのか?」
「何かあったのはケンのほうでしょ」
ぐっ。僕が今まで紅葉を避け続けたツケが、こんな処で回ってくるとは……。
「ケンはいつまで
紅葉の気遣わしげな言葉が、何故かよそよそしく聞こえた。違和感を覚えながら僕は淡々と答える。
「ずっとだよ」
「みんな待っているよ?」
「もう決めたんだ」
悲しそうに眉尻を下げた紅葉は「そう……」と言ってから、心を覗きこむような澄んだ眼差しを向けてくる。
「じゃあ、自分以外の
花島さんの名前を
「ウソつき。ねぇ、ケン。自分にウソつくのって辛いよ」
ああ、知っているよ。
「ケンのための倖せは、まだこの先の未来でケンが来るのを待っているかもしれないんだよ。だから、諦めるのは良くないよ」
うるさいな。知った風に言うなよ。
紅葉が別人のように見えたのは何故だ? 紅葉の気遣いがよそよそしく感じたのは何故だ?
紅野兄が
「まさか……解けた……のか?」
苦笑を浮かべた紅葉は、何も言わずに立ち去った。
自由になった紅葉を妬む気持ちは、不思議と起こらない。僕の心を占めていたのは、何かとんでもない事が起こるのではないかという予感だった。
その翌朝。僕が当主の屋敷に出勤したら、騒ぐ声が聞こえた。慊人の世話役が「止まりなさい!」とか叫んでいる。
何が起きているのか解らないまま慊人の部屋に向かうと、廊下を走る
しかも犬猿の仲である慊人の世話役と楝さんの世話役が、一緒になって楝さんを追いかけている。
ナニコレ……って、驚いている場合じゃない。楝さん、刃物のようなものを持っていたぞ。
僕が慊人の部屋に辿り着くと、楝さんが窓辺にいる慊人に果物ナイフを向けていた。
「
僕が箱を取ってくると言ったのに。楝さんは僕を信用していないから、自分で奪おうと思ったのだろうか。
……楝さんの様子が明らかにおかしいから、誰かが楝さんを刺激するような事を言ったのかも。
一昨日、当主の屋敷を訪れていたぐれ兄のしわざかと思った時、慊人が窓辺に置いていた黒漆塗りの箱を掴んだ。
「そんなに欲しけりゃくれてやるよ! こんなモノ……っ」
畳に投げ捨てられた箱を拾った楝さんは果物ナイフをそこらに放り投げ、喜色を浮かべながら朱色の紐をほどいて蓋を開ける。
何が入っているんだろう。晶さんの遺髪とかだろうか。
「……? 空っぽだわ……」
「そうだよ、空っぽだ。初めから……」
慊人がうっすら涙を浮かべて言うと、最古参の世話役が気まずそうに視線を逸らした。どうやらあのお局様は、箱が空っぽだと知っていたっぽい。
箱自体が晶さんの宝物なら救いはあるが、そんな感じじゃなさそうだ。
てことは、もしかして。あのバアさん、適当な箱を晶さんの遺品だと偽って慊人に渡しやがったのか。
お局様のえげつない所業にドン引いていたせいで、慊人の動きに気づくのが遅れた。
慊人は拾った果物ナイフを振りかぶり、呆然としていた楝さんを刺そうとしている。
「だ……っ!」
「あ……っ、き……!」
僕と紅野兄が中途半端な制止の言葉を発した瞬間、慊人は急に動きを止めた。
さっきまで慊人は憎しみに駆られた顔をしていたのに、今は虚脱状態になっている。
……何が起きたんだ?
「どうしたの? 私のことを殺そうとしたんじゃないの? そうしてくれても構わないのよ? 殺したいほど憎らしいって思ったんでしょ?」
楝さんが負の感情を一切含まない穏やかな声で、慊人に話しかけた。晶さんの遺品が手に入らなくて、この世への未練もなくなってしまったように見える。
「黙って……っ、黙りなさい!」
お局様が楝さんに向かって怒鳴ったのを切っ掛けに、両派閥の世話役同士が言い争いを始めた。
世話役同士の口論を聞いて判明したのだが、あの箱は
単なるお守りなら、慊人に箱を渡した時にそう言えよ。誤解が誤解を生んで、とんでもない騒ぎになったじゃないか。
「中身がただの空であるぐらい、常識でわかる事です!! 本当に晶さんの魂が入っているなど、信じている訳ないでしょう!!」
お局様は苦しい言い訳をした。慊人を常識知らずな人間に育てたのはアンタだよね、とツッコミを入れる気にもならない。
慊人と紅野兄が退室したので、僕もついていった。雨が降りしきる庭に面した縁側に出ると、慊人が出し抜けに口を開く。
「半々だった。あの箱、信じていたし、信じていなかった。開けても空……でも、もしかしたら“見えない力”なのかもしれない。“もしかしたら”と思うと手離せなくて、でももう確かめたくなくて、隠していた」
空っぽの箱にすがっていたと告白した慊人は、悲痛な泣き笑いを浮かべる。
「悪いかよ、それが僕の“常識”だったんだ……! 誰も教えてくれなかったじゃないか……! 今以外の生き方を誰も与えてくれなかったじゃないか!
捨て鉢になって喚く慊人を見ていたら、『裸の王様』の童話が思い浮かんだ。あの童話には真実を叫んだ子供が登場したけど、慊人の近くにはそんな人間はいなかった。
生まれた時から“特別”な慊人が「それは黒だ」と言えば、白いものも黒くなるという認識がはびこっていたから。
「あいつらの……おまえらの“当り前”が“常識”だっていうなら、なんで教えてくれなかったんだ!! なんで……っ」
声を荒げた慊人を、紅野兄が抱き寄せた。
「……知らない事も、わからない事も、これから覚えていけばいい。……だから、変わろう? 慊人にさっき聞いてほしかったのも……この事なんだ」
紅野兄の言う「変わる」とは、慊人が一般常識を身につける事だけじゃない気がした。
変わることなく続けられてきた十二支の宴に、終止符を打つような大きな変化を提案しているのだろうか。
「こんな環境の中に居続けても君は“
紅野兄の言葉を遮って、慊人は「今さら……っ」と言い返す。
「今さら
最後の言葉を聞いて、やっぱり紅野兄は呪いが解けていたのかと納得した。慊人の話から察するに、紅野兄の呪いが解けたのは何年も前の事だろう。
「今になってそんな御託……!!」
怒りで声を震わせた慊人は紅野兄に抱き締められたまま、右手に持っていた果物ナイフの柄を両手で握り直した。
「あき……っ!」
僕は中途半端な制止の言葉を発したけど、二度目の奇跡は起きなかった。
慊人が握り締めた果物ナイフの刀身は、紅野兄の左腰に突き刺さってしまっている。
「中途半端に僕を救って、中途半端に放り出すような、その“優しさ”ってヤツが……僕を殺し続けたんだ。ずっと!!」
慊人はそう言い放ちながら、果物ナイフを引き抜いた。刺し傷に刺さっているものを無闇に抜くと、大出血につながってしまうのに。
そんな事を考えられる余裕があるほど僕は冷静かと言うと、そうでもない。目の前で起きた現実を受け入れられなくて、脳の一部が逃避している。
「責任とれよ! 償えよ!! 死んで償え!!!」
水溜りができた庭に降りた慊人はそう叫ぶと、庭門に向かって走っていく。
慊人を追いかけるために庭に降りようとした紅野兄を見て、ようやく我に返った僕は紅野兄の腕を掴んで引き止める。
「紅野兄、横になっていて。今、救急車呼ぶから。止血の方が先か……」
清潔なタオルが手近にあれば良かったけど、取りに行く時間が惜しい。僕は着ていたワイシャツを脱いで、それを紅野兄の傷口に押し当てた。
「建視……慊人を追って……早く……っ」
苦痛で顔を歪めた紅野兄がそう言った時、慊人の世話役がやってきた。閉じ込められていたリン姉に食事を運んでいた彼女だ。
「紅野さ……!! どうされ……血が……!!」
年配の世話役だったら慊人はどこへ行ったと追及する方を優先しそうだが、彼女は紅野兄の事を普通に心配してくれるらしい。
「止血を代わってもらっていいですか? 救急車を呼ばないといけないので」
「は、はい……」
ズボンのポケットから携帯電話を取り出して119番にかけようとして、躊躇いが生じる。刃物で刺されたと言ったら、警察が来てしまう。
草摩総合病院の院長を務める
犯罪を隠蔽しようとするなんて裏社会の人間みたいだけど、慊人の凶行を表沙汰にしないように動くのは草摩の中枢部にいる人間の思考としては正しいはず。
自分にそう言い聞かせて自己正当化しようとした時、慊人の言葉を思い出す。
――あいつらの……おまえらの“当り前”が“常識”だっていうなら、なんで教えてくれなかったんだ!!
慊人が言っていた“常識”とは草摩家の常識じゃなくて、世間一般の常識の事だよな。それに則って行動するなら、こっちだ。
119番にかけると1コール目で、消防通信員が電話対応に出る。
『119番、消防です。火事ですか? 救急ですか?』
「救急です」
『どうしましたか?』
「……26歳の男性が刃物で腰を刺されました」
草摩家の住所を伝えてから、119番につないだままにした僕の携帯を世話役の女性に渡す。
消防通信員が正しい応急手当の仕方を教えてくれるらしいので、紅野兄の止血をしている彼女が聞いた方がいいだろうと判断した。
「建視……慊人を……」
血を流しすぎて顔が青白くなった紅野兄の嘆願に、僕は「わかっているよ」と応じる。
「これから慊人を捜しに行く。慊人が帰ってきた時に紅野兄の訃報を聞いたら、自責の念に駆られた慊人が再起不能になりそうだから死なないでよ」
僕は紅野兄のスラックスのズボンを探って携帯を借りて、記憶している兄さんの携帯の番号を押す。
『……誰だ?』
「僕だよ、建視だ。紅野兄が慊人に刺された。救急車を呼んだから、救急隊員が当主の屋敷に辿り着けるように案内をお願い。それと慊人がどこかへ行ったから、手分けして捜すように頼んで。僕も捜しに行く」
『待て。紅野が刺されただと? 傷は深いのか?』
一気に色んな事を言われて当惑する兄さんに応じながら、僕は玄関へと向かう。途中で出くわした年配の慊人の世話役がごちゃごちゃ話しかけてきたけど、無視して靴を履いて外に出る。
雨の中を走って当主の屋敷の付近を捜したけど、白い着物を身に纏った慊人の姿は見当たらない。どこへ行ったんだと思った瞬間、慊人に頬を引っ掻かれた本田さんの姿が脳裏をよぎる。
まさか。でも、あり得ないとは言い切れない。僕は紅野兄の携帯で、ぐれ兄の家に電話をかけた。
▼△
Side:
「おはようございます、
居間にお見えになった夾君に、挨拶をしました。夾君はそっぽを向いて、「……はよ」と挨拶を返して下さいます。
朝から雨が降っているせいでしょうか。夾君が元気ないように見えます。ですが思い返してみますと、昨晩も口数が少なかったような……。
考え事に没頭しそうになった時、電話が鳴りました。作家仲間さんとの飲み会に行かれた、
私が電話の応対に出ましたら、予想外の人物のお声が聞こえます。
『もしもし、建視だけど』
「え……ええっ!? あっ……し、失礼しましたっ。お久しぶりです、建視さん! またお話できて嬉しいです……っ」
『急いでいるから用件から言うね。慊人が……精神的にすごく不安定な状態になって、刃物を持ったまま行方を晦ましたんだ。もしかしたら、ぐれ兄の家に行くかもしれない』
慊人さんが……?
いったい何があったのでしょう。私が聞く前に、建視さんは話を続けます。
『慊人はまた
受話器の向こうから聞こえる建視さんのお声は、今までにないほど切羽詰まっています。草摩の御本家で、大変なことが起きたのでしょうか?
「あ、あの、いったい何が……」
『ごめんね、説明できない。でもお願い。今の慊人に近寄らないで』
その言葉を最後に、建視さんは電話を切ってしまいました。
……私はどうすればいいのでしょう?
慊人さんがお見えになったら逃げるように言われましたが、私1人だけ逃げる訳には参りません。ここには夾君と由希君もいらっしゃるのですから。
「……さっきの電話、建視からだったのか?」
考えながら居間に戻りますと、夾君に声をかけられました。
「あ、はい。何やら草摩の御本家で……」
慊人さんの事をお伝えしようとした時、ふと考えが浮かびました。
おそらく夾君は慊人さんの状態を聞きましたら、私に逃げろと仰るでしょう。
夾君はお優しいですから私を逃がす事を優先させて、ご自分を守る事を後回しにされてしまうのでは……。
「草摩の本家で何かあったのか?」
「いっ、いえ、それが……詳しく話して下さらなかったので、よくわかりません。あっ、朝ご飯を食べましょう! いただきますっ」
結局、今は伝えない事にしました。
はなちゃんと恵さんが迎えに来て下さった時、夾君と由希君も一緒に行きましょうと強引にでもお誘いするのです。
問題は、
由希君はお休みの日は、遅めに起床なさるのです。安眠を妨害する事に心は痛みますが、お起こしするしかありません。
夾君と向かい合って朝ご飯を食べていましたら、先日、依鈴さんに問いかけられた事が不意に頭に浮かびました。
――猫憑きのあいつがどうなるとか、役目とか、アタシ達がどう見てるとか、もう知ってるんだろ? 同情してるの?
私が抱いている残酷で欲深い気持ちは、同情と呼べるのでしょうか。
十二支の皆さんを守りたいだとか解放したいだとか、そんなのは私の本当の気持ちを隠して誤魔化すための詭弁です。
私は夾君をただ何からも、草摩からも呪いからも誰からも奪われたくなかっただけなのです。
私の醜い本音を聞いた
――そういうコトは、ちゃんと本人に言いなさい!!
私の想いを夾君に伝えなければと思うのに、勇気が出せなくて。お母さんを裏切るような気がして怖くて。……悲しくて。
でも、辛くて悲しい事に蓋をして忘れたフリに戻るのはもう止めようと決めたから。
「……ごちそーさん」
「あ……はいっ」
「でかけてくる」
「ま、待って下さい! 外はダメですっ!」
思わず大声で呼びとめてしまいました。夾君は訝しげに眉を寄せています。
「なんで外はダメなんだ?」
「あ、えっと、雨が降っていますので……」
「傘差して行くから平気だ」
夾君は立ち上がってしまいました。
どうすれば、夾君をお家の中に引き止める事ができるでしょうか。考えに考えた時、伝えるなら今だと心の奥で囁く声が聞こえました。
足止めをするための時間稼ぎではなく、もっときちんとした形で伝えたかったのですが……ズルズルと延ばしてしまったら、いつになっても告白できない予感がします。
「聞いて……頂きたいお話があります……っ」
振り向いた夾君は、ひどく陰鬱な表情をなさっています。
夾君のこんなお顔は初めて拝見しましたので、戸惑ってしまいました。
「……? 夾く……?」
「俺も……俺もおまえに訊きたい事があった、こないだから。俺の勝手な勘違いなら笑ってくれ。いくらでもバカにしてくれ」
少し間を置いた夾君は、体ごとこちらを向いて問いかけてきます。
「おまえ、俺が好きなのか……?」
夾君に私の想いを言い当てられて、顔に熱が集まりました。
「バカじゃねぇの……ここまでバカとは思わなかった……なんで……」
視線を逸らした夾君は、落胆しきった声で言います。
「……おまえ、母親が好きなんじゃなかったか……? アレ、嘘か? 全部“無し”か……?」
……お母さんの気配が消えていく。いつものように笑っていたお母さんの存在が、薄れて遠くなっていく。
それを認めるのが悲しくて、悲しくて悲しくて、身を裂くようにさびしくて。
だから私は、お母さんと2人で過ごしたアパートを引き払う事になったあの日に誓った。
これからはいつだって、どんな時だって1番に胸に想うのはお母さんであり続けようと。
そうして想い続けていれば、いつまでも色褪せる事はないと信じた。
――良かった、透を産んで良かった。透が
お母さんと過ごした思い出も。
――いつも一緒。
お母さんと交わした約束も、ずっと大切に守っていれば置いてかれないと思った。
だけど……。
――アンタも元気そうに見える、毎日。……良かった。
どんなに大切にしていても、思い出は色褪せていく事を。どんなに誓ったって、残酷なほど時は動いて変化をもたらしていく事を。
お母さんを1番に想っていた私は、“思い出”になっていく。変わっていく事が生きていく事なら、なんて残酷な優しさだろう。
お母さん、私、好きな人ができました。もう立ち止まらないって決めたから、お母さん、私、いきます。
「やってらんね……」
夾君は投げ遣りにそう言って、玄関の方に歩いていこうとなさいました。私は急いで立ち上がって、廊下の途中で夾君を呼び止めます。
「夾く……きいて下さい……私……」
「なんにも知らねえで……っ。俺のしたこと、なんにも知らねぇで……!!」
強い口調で言い返す夾君は、何故か泣きそうなお顔をなさっていらっしゃって……。
「おまえの……母親、死なずにすんでた……ホントなら」
それを聞いた瞬間、頭の中が真っ白になりました。
「……おまえの母親、俺、知ってた。あの日……あの事故の日、近くに立っててすぐにわかった……」
夾君は私のお母さんを知っていらっしゃった……?
でも、お母さんは夾君のお話をなさった事はありません。どういう事なのかわからなくて私が混乱している間も、夾君のお話は続きます。
「……声をかけようか迷ってて。そしたら視界にものすごいスピードで車が、おまえの母親に向かってくるのがわかって。あ、やばい、助けなきゃって……腕をひっぱって抱きとめれば――……」
言葉を切った夾君は、ぐしゃりと顔を歪めています。
「でも、俺は“人間”じゃないから。抱きとめたりしたら猫になって、“人間”じゃないってバレるから……見殺しにした……」
俯いた夾君の表情は見えませんが、振り絞るように発せられた掠れ声は罪悪感に満ちていました。
「……俺が抱きとめてさえいれば、あんな高くふっ飛んで、痛い思いしなくてすんだ。絶対死なずにすんでた……っ」
夾君のお話を聞いて、車に撥ねられたお母さんの姿が想像できてしまいました。
帰ってきたお母さんの遺体は、傷だらけ……で。夾君の仰る通り、痛い思いをしたのだと思います。
ですが……。
「なのに俺は、“
夾君のオレンジ色の髪の間から覗く涙に濡れた瞳が、“かなしい”とひたすら訴えていて。
それがもっと悲しくて、愛しく思えて。……痛い思いをして命を落としたお母さんよりも。
「…………俺の母親も、ふっ飛んで……死んだ。車じゃなかったけど……こんな俺を産んで申し訳ないって……こんな俺が可哀相で辛くて側にいられないって、ひどく泣いていた次の日、死んだ……」
夾君のお母さんは、ご自分で命を……。
師匠さんは先代の猫憑きは家族から疎外され、一族から中傷を受けたと仰っていましたが、夾君のお母さんは
夾君のお母さんが味わわれた辛苦はあまりに深く、触れる事さえできません。
「……俺のせいなんだ……俺が奪った。俺が……俺が死なせたんだ……」
懺悔をする夾君の声は掠れていたのに、その言葉は静かな廊下にやけに大きく響いたように聞こえました。
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66「ずっとそこにいらしたのですね」
Side:
「……“許さない”って言っていた。おまえの母親……血だまりの中で立っている俺に気づいて、俺に“許さない”って……」
「……俺はなんにもできなくなって、頭ン中が真っ白になってぐちゃぐちゃになって……その場から逃げ出してた……」
帰宅した夾君はそのまま師匠さんに連れられて、山でお過ごしになったと話しました。
師匠さんは夾君を生かそうとなさってくれましたが、夾君は今度こそご自分が死ぬしか無い気がした……そうです。
「俺のせいじゃない、
――俺は由希が嫌いなんだよ!! 嫌いなままでいいんだよ!!
去年の2月に夾君が叫んだ言葉を思い出しました。
あの時の夾君は、本当に怯えた目をしていらして。嫌う事で何かを必死に守っているように見えたのです。
……やはり夾君はあの時、ご自分を守っていらしたのですね。
夾君が抱え込んでいらっしゃる痛みや不安に触れる事はできましたが、これを全部拭い去る事はできるでしょうか?
「……“悪い
夾君は自虐するような笑みを浮かべていらっしゃいますが、最低だと詰る事はしません。夾君がそれを望んでいたとしても、です。
私にだって狡くて弱くて汚い部分はありますのに、それを棚上げにして夾君を罵倒するなんて恥知らずな事はできません。
……下山した夾君は
高校を卒業するまでに夾君が由希君に勝てれば、化け物呼ばわりは止めて
慊人さんに賭けの条件を持ちかけられた時、夾君は心の片隅で嬉しく思ったそうです。
その後、私に会うなど思ってもみなかったそうです。
夾君は由希君に対する憎悪で、私とお母さんの事を忘れようとしていたのに。私との予期せぬ邂逅は、お母さんが『忘れさせるもんか』とでも言っている証じゃないかと思ったと仰います。
「……おまえ、俺を許せるか……? 逃げ出した俺を……逃げてばっかの俺を。おまえに会っても気づかないフリして、何も言わなかった俺を……」
夾君が
私が側にいるせいで夾君が罪悪感に苛まれてしまっていた事に、気づきもしなかった自分が情けないです。
「……
「許しません」
私は夾君が望んでいる言葉を口に出してから、夾君を睨みつけます。
「……っ、そう言わないといけないんですか……? 許さないとか許すとか、私にはもうそんな関係しか残されていないんですか……?」
そんな悲しいだけの関係は、認めません。それに……。
「お母さんが『許さない』とか言うなんて、信じられません……っ。信じられない……けれど、でも、もしも本当にそう言ったのだとしたら……っ、わ、私……私はお母さんに反抗せざるをえません……!!」
オレンジ色の目を驚いたように見開く夾君の姿が、涙でぼやけていきます。
「だって、それでもどうしたって夾君を好きだって思う私は、認めてもらえないんですか……!!」
どうか認めてほしい。私がとなりにいてもいいと。
「――……そんなん……幻滅だ……」
お母さんの命日に私の汚い部分を夾君にさらけだした時は、「幻滅なんかしない」と仰って受け止めて下さいましたが。
夾君を好きだと思う私は、受け入れがたいと……。
痛い、痛い、胸が引き裂かれそう。
「……バっ、夾……っ、夾!? 待てよ!」
階段の方から由希君のお声が聞こえて、我に返りました。さっきまで廊下に立っていらっしゃった夾君の姿が、見当たりません。
「由希く……きょ……君は、どちらに……?」
「外に出て行ったよ」
「い……っ、いけませんっ。外に行っては……」
玄関に走って向かおうとしたら、廊下で足を滑らせて転んでしまいました。由希君が手を貸して、助け起こして下さいます。
「俺が夾を追いかけるから、
「わ、私……私が夾君を連れ戻します……っ。ですから、由希君はお家にいて下さい。絶対にお家から出ないで下さいっ!」
「本田さん……? どうしたの? 夾の事以外で何かあった?」
ごめんなさい、答える訳には参りません。
慊人さんがお見えになるかもしれないと伝えたら、由希君は私に家から出ないでと仰るでしょうから。
「何も……ありませんですよ。由希君の分の朝ご飯は台所のテーブルの上にとっておいてありますので、申し訳ありませんがご自分でご飯とお味噌汁をよそって召し上がって下さい」
私はそう言ってからサンダルを履いて外に出ました。雨は上がっています。夾君は雨に弱いですので、止んでくれてよかったです。
玄関の近くに置かれた植木鉢の下に……ありました。
スペアの鍵で施錠した後、夾君を追いかけ……たいのは山々ですが、夾君はどちらに行かれたのでしょう。
夾君が行きそうな場所は師匠さんのお家と道場が思い浮かびましたが、今は師匠さんに会いに行かれないような気がいたします。
夾君は酷く傷ついて1人になりたい時は森に行っていた事を思い出し、一か八かで森の中に入ってしばらく歩きました。
密生した木々の陰から、白い着物を纏った人が出てくるのが見えます。
……慊人さんです。
慊人さんは、何も履いていない素足でここまでいらしたようです。雨で濡れた白い着物の裾は、泥で汚れています。
「……もう、だめだ……終わりだ、終わりが来る……」
夾君に幻滅されて、私の想いも今までの温かな関係も終わりを迎えてしまうのでしょうか……。
「捨てて……いくのか……置き去りに……するのか……置いて……いくのか……っ」
責めるような眼差しを向けてくる慊人さんの姿に、私のお母さんの姿が重なって見えました。
お母さんの姿が思い浮かんだのは、置いていかれるさびしさを慊人さんから痛切に感じ取ったからだと思います。
生まれた時から“特別”だと線を引かれ、輪の中ではなく上に立つ存在として扱い、扱われてきたのなら。
それは、置き去りにされていたのと変わらないのに。慊人さんの気持ちに気づかずにいた、自分の浅はかさが憎い。
建視さん、ごめんなさい。逃げる事はできません。
私は慊人さんとちゃんと向き合って、話をしなければなりません。
△▼
Side:慊人
両手が震えているのは寒いからじゃない。
――慊人、どうしたの? こわい夢をみたの? ほら、おいで。お月様、キレイだね。
僕が子供の頃に悪夢を見て起きた時、紅野が側にいてくれたおかげで気持ちが落ち着いた。
でも今は、紅野が無責任な事を言ったせいで心が酷く乱されている。紅野が悪い。紅野の責任だ。紅野なんかいたから……っ。
――誰かのせいにしていたら、いつまでたっても変われない。
まるで僕を責めるように、由希の言葉がよみがえった。
「……じゃあ!! じゃあ僕のせいかよ……っ。全部全部僕のせいかよ!! こんな……半端で、仲間ハズレなのも!!」
僕の下から去った
――実は僕の家に夾と……もう1人、住まわせたいなぁとか思っているんですけど……ダメですかねぇ?
紫呉にそう言われた時は、
――僕らは離れることができないから。
口にしないと死ぬかのように。
――僕の処へ戻ってくる。
呪いのように同じような言葉をくり返して、くり返してくり返して。
でも、もうだめだ。一昨日の夜に、
もう本当にだめなんだ。絆がボロボロ壊れていく。
“さよなら”がやってくるんだ。
終わりを考えたくないから、ひたすら走った。
紫呉の家に行った事はないけど、住所は知っている。電信柱に付いている街区表示板を見て位置確認すれば、辿り着けるはず。
……さっきから、すれ違った人達が僕を見ているような気がする。
紅野を刺した果物ナイフは袖で隠しているのに。和服を着て裸足で走っているから、悪目立ちしているのだろうか。
草摩家が所有する小山の近くまで来たから、人通りのない道に移動しよう。僕は石垣を乗り越えて、鬱蒼とした木々に囲まれた山道に入った。
アスファルトの道路を走っていた時とは違って、枝や小石がそこらじゅうに転がっているから足の裏が痛い。
でも立ち止まらない。立ち止まったら、罪悪感や恐怖に飲みこまれてしまいそう。
紫呉の家が建つ小山の天辺を目指して森の中を小走りで進んでいたら、木立の向こうに人影が見えた。
近寄ってみると、僕の目当ての人物――本田透だった。
「……もう、だめだ……終わりだ、終わりが来る……」
本田透に会ったら何を言ってやろうか考えていなかったせいか、泣きごとめいた言葉が口をついて出てしまう。
「捨てて……いくのか……置き去りに……するのか……置いて……いくのか……っ」
僕が置き去りにされるのは、
あらん限りの恨みを込めて睨みつけてやると、本田透は悲しそうな表情になって涙を流した。
……悲しそうに見えたのは気のせいだ。あれは嬉し涙に違いない。
「嬉しいかよ……おまえの勝ちだよ。僕の居場所まんまと奪って、僕を仲間ハズレにして、みんなには好かれて、気分いいかよ……っ。おかげで僕は……1人で、“間違い”で、悪者で……いい気味かよ!!」
持っていた果物ナイフの刀身を本田透に向けて、叫ぶ。
「おまえなんか大嫌いだ……っ。人の世界を……壊しておいて、それでもおキレイな存在でいられるおまえが、1番汚いんだよ……!!」
「ずっとそこにいらしたのですね……」
意味不明な事を言いながら本田透は僕に近づいてきた。僕は反射的に、ナイフで本田透の腕を斬りつける。
「寄るな……寄るな、気持ち悪い!!」
「慊人さん……」
ナイフで斬られたら悲鳴を上げて逃げそうなものなのに、本田透は泣きながら僕の名を呼んで再度近寄ってきた。何なんだ、こいつ。
本田透は聖母様のように慈悲深くて、天使のように優しいから、どんなに傷つけられても僕を理解しようとするのか?
気持ち悪い。完璧すぎる
「さびしくて……でも、強がっていらしたのですね……」
強がっていたとか言われて腹が立ったから、もう一度腕を斬りつけてやった。今度こそ……と思ったけど、本田透は逃げようとしない。
「慊人さんが永遠や……不変を
僕が心の中に秘めていた本音を言い当てられて、泣きそうになってしまった。
「黙れ……っ。わかったような……口……っ、見下してんのか。おまえなんかに僕に騙されない、懐柔されないっ。僕は……僕は……!!」
他の
僕は“特別”なんだ。平凡な女子高生に心を許してしまったら、僕は父様に望まれた“特別”ではなくなってしまう。
「汚いです、私は。慊人さんの仰る通り。慊人さんの願う“不変”を否定しておいて、本当は私だって願っていたんです。“不変”を、変わらない想いを、絆を。けれど……っ」
悲痛そうに顔を歪めて泣く本田透の言葉は、真実味を帯びていた。僕を騙すための虚言とは思えない。
「人も、想いも、縛れません……。それをもう、慊人さんも気づいていらっしゃるのでしょう? だからそれが、それがずっと悔しくて、かなしくて、つらくて、さびしかったのでしょう……?」
心の痛みを分かち合うように、本田透は胸元を手で押さえて語りかけてくる。
違うと否定する事は……できない。だって僕はずっと悔しくて、かなしくて、つらくて、さびしかったから。
紅野の呪いが解けた時も。はとりが裏切った時も。紫呉が裏切った時も。燈路が裏切った時も。
由希が僕の処に帰らないと態度で示した時も。
それに……。
――心配しないで、慊人……僕はおまえを置いていく訳じゃないから。姿は見えなくなっても側にいるから。
命の灯が消えかけていた父様は、枕元に座っていた僕を見つめながら「“特別”な子……」と言った。
――楝に1番喜んでもらいたかった……。
父様が心の底から残念そうに
――僕は結局こうして死ぬだけの男だったけど、残せる子どもが……できた。その子どもが“特別な存在”だったのは、僕と楝が“特別”だったって証だろう……?
僕の世話役は父様が臨終を迎えた事を楝に伝えなかったから、あの女は同席していなかったけど、父様の言葉は楝に向けられたもので。
父様は僕を見ながら話していたけど、その優しい目は僕を映していなかった。
――……仲直りできなかったね、楝……。
涙を流して息を引き取った父様は、最期まで楝の事ばかり口にしていて。
最初から仲間ハズレは僕だった。初めから無いものねだりだった。それを認めるのが嫌で、こわくて。
「やだああっ!!」
悲鳴を上げた僕は本田透の前から逃げた。
いやだ。置いていかれるのは、いやだ。こわい、いやだ、こんなのはいやだ。
誰モ、僕ヲ必要トシナイ。他人ダラケノ、世界ハイヤダ。他人バカリノ、世界ガ――。
「慊人さん……」
森の奥へ逃げようとする僕の手首を、本田透が掴んできた。
これ以上、僕に何を言うつもりだ。傷つけられたくなくて、本田透の手を乱暴に振り払う。
「もういやだ、僕の……せいじゃないのにっ。今さら、今さら気づいたって……!」
八つ当たりするように本田透の胸元を殴った。何度も。
「いやだ、今さらこんな世界で生きてなんかいけない。“約束”も、“絆”も、“永遠”も無い他人なんかと生きていくなんて」
言葉にするのは躊躇われるけど自分1人の胸の内にもう留めておけなくて、「……恐い」と情けない本音を零す。
「恐いよ、愛される保証もないのに。そんな他人に囲まれて、生きてなんかいけない……っ」
「……では、慊人さん。私と始めませんか。今、ここから」
身も世もなく取り乱していた僕は、本田透の提案を聞いて我に返った。
「出会い方も間違っていました。こんにちは、私、本田透と言います。……貴女のお名前は?」
本田透は微笑んで自己紹介しながら、手を差し出してくる。
「私とお友達になってほしいです」
僕に散々痛めつけられたのに、友達になりたいなんて嘘だ。僕は差し出された彼女の手を叩いて払いのけた。
「うそつき……っ、そんな事言って……っ、僕が泣いたらすぐ鬱陶しくなるんだ。僕がごねたらすぐ怒って嫌になって、放りだすんだ……っ」
“絆”でつながっていた
離れていく
どうやれば、普通に仲良くできるのかわからなかった。僕には友達なんて今まで1人もいなかったから。
草摩家の当主で、十二支のあるじで、“特別”な僕には、隣に並び立つ友人など必要ない。世話役達にそう教えられてきたから、友達を作ろうとも思わなかった。
当主の屋敷の近くで草摩の子供達が仲良く遊ぶのを見て、羨ましいなと思った事はあるけど、僕には
友達になる事を拒絶した僕を見放すかと思ったけど、本田透は総てを受け入れてくれそうな柔和な笑顔を広げて、再び手を差し出してくる。
――そこにいらしたのですね。
透の意味不明な発言の真意がようやく理解できた。遠くからじゃなく、上からでもなくて。近くで、となりで、僕に話しかけてきたんだ。
楽しそうにおしゃべりする
……こんな僕でも、友達になってくれるの?
僕が握手に応じようとした瞬間、透が離れていった。
違う。透が立っていた所の崖が崩れたんだ。驚いたような顔をした透の体が空中に投げ出され、崖の下へ落ちていく。
地面に仰向けに倒れた透は、ぴくりとも動かない。
……そんな、うそだ、こんなの。友達になってくれるって、言って。さっきまで、僕のとなりにいたのに。透、は。
「……あ……っ、だ……っ、だれかぁぁ!!」
大声で叫びながら僕は森の出口に向かって走った。由希でも、夾でも、紫呉でも、誰でもいいから。
「誰か……!! 誰か……っ、誰か……だ……誰か来て……!! ……誰か、たすけて……っ」
あのままじゃ、透が。……僕が刺した紅野だって。
今の今まで紅野の事を忘れていたと気づいて、自分の愚かさを呪いたくなる。視界が涙で滲んで前がよく見えない。
「……っ、たすけて……っ」
やっとの思いで森から出たとき、僕が助けを求めるように伸ばしていた手が紫呉にぶつかった。
「……わ、びっくりしました」
「…………し、ぐれ。……た、たすけて、お願い、落ちた、が、崖から……っ」
ちゃんと説明したいのに、動揺して言葉がうまく紡げない。
「動かない……動かないんだ、全然……どう、どうしよう。動かない、たすけて、全然……っ、全然動かない……!!」
「慊人、落ちついて。……ゆっくり。誰が落ちたの?」
紫呉の静かな声を聞いて、僕は少し落ち着きを取り戻した。
「…………と、とおる……」
友達になってほしいと言ってくれた彼女の名前を伝えた瞬間、紫呉の近くにいた由希と夾が森の中に駆けて行った。
「……どこで落ちたの?」
「……そこ、ここ……まっすぐ。どうしよう、動かない、紫呉、紫呉……僕……っ」
「
冷たい目をした紫呉は僕を疑っている。僕は首を左右に振りながら、「……ち、違う、違う……っ」と訴えた。
「……でも、わからない……っ。下が崩れて、急に……っ」
両手に残る感触を思い出して、「でも……っ」と続ける。
「紅野を刺したのは……僕だ……」
建視から聞いて知っていたのか、紫呉の顔に驚きはない。その代わりかどうか解らないけど、一瞬だけ後悔が過ったように見えた。
「紫呉!
報告した由希は再び森の中に走って行く。
僕も透の側に行こうとしたけど、紫呉に手を引っ張られて森とは反対の方向に連れて行かれた。
紫呉の家の中に入った僕は玄関の上がり
2人を散々傷つけておいて祈るなんて、恥知らずもいい処だと自分でも思う。
だけど、それでも、僕みたいな間違いだらけの神様じゃなく、本物の神様がいるならどうか願いを聞き届けてほしい。
「もしもし、はとり? 僕」
紫呉が電話をかける声が聞こえる。
「……うん、慊人ならここにいる。……僕は建視と会ってないけど、由希君と夾君は会ったって。……聞いた、容体は?」
紅野の容体について聞いたんだろう。相槌を打たずにはとりの話を聞いた紫呉は、「…………そう」とだけ答えた。
「……いや、それがちょっと待って。今こっちも大変なんだ。……いや、慊人は平気。透君が……うん、崖から落ちたみたいで」
それだけじゃない。僕はナイフで透の腕を二度も斬りつけた。顔や胸や手も打ってしまった。
自分の行いのあまりの酷さに歯噛みしていたら、通話を終えた紫呉がスーツの上着を脱いで、僕の肩にかけてくる。
「……紅野、一応無事だって」
安堵と申し訳なさが同時に胸に押し寄せてきて、僕は膝に顔を埋めて泣いた。僕の祈りを聞き届けてくれた本物の神様には、感謝してもしたりない。
神様、ありがとうございます……!
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67「透君が心配じゃないの……?」
Side:
ぐれ兄の家に向かう途中で
というか外出時は必ずと言っていいほど車で移動する慊人は、ぐれ兄の家への行き方を知っているのだろうか。それ以前に体調不良の慊人は、道中で力尽きて倒れていそうな気もする。
若干の不安を抱えながらも、ぐれ兄の家が建つ小山に辿り着いた。
「建視……? どうしてここへ……」
頂上へと続く石段を上っていたら、急ぎ足で石段を下りてきた
僕が上半身にアンダーシャツしか身につけていないせいか、由希は奇異の目を向けてくる。ここに来る途中、すれ違った人達にも同じような目で見られんだよな。
「慊人を捜しに来たんだよ。それより、由希はどうして外に出ているんだ。
由希は怪訝そうな顔で「事情って?」と聞き返してきた。事態がよくない方向に転がっているのを感じながら、僕は説明する。
「今朝、慊人が
「……本田さんは
迂闊な行動を取った夾を恨みたくなったが、おそらく夾は慊人の現状を知らないんだろう。
本田さんは夾に言わなかったのか? なんで? 考えるのは後回しだ。
僕と由希は手分けして本田さんを捜す。由希は石段を下りて右の道を、僕は石段を下りて左の道を捜索する。
道を歩く夾の後ろ姿が見えた。項垂れた夾は落ち込んでいるように見えたけど、今は猫憑きの従弟を気遣う余裕はない。
「おい、夾。本田さんは一緒じゃないのか?」
「……なんで、そんな事を聞くんだよ」
僕が由希にした説明を繰り返すと、ただでさえ生気がなかった夾の顔が真っ青になった。手分けして本田さんを捜そうと提案する前に、夾は由希が向かった方向へと走り出す。
僕もそっちに行こうとしたら、白いミニバンが走ってきて僕の近くで停車した。車の後部座席から降りてきたのは、黒一色のロングワンピースを着た
「久しぶりね……」
淡々と紡がれる声を懐かしいと思ってしまうほど、本当に久しぶりだ。もう二度と会えないだろうと思っていたせいもあって、後ろめたさより愛おしさの方が上回ってしまう。
そんな僕のお花畑な思考を察知したのか、続いて後部座席から降りた
花島さんの前から逃げ出した翌日から学校を休み続けて、何の前触れもなく休学届を出したからね。責任を感じさせてしまったと思う。
本当なら土下座して謝るべきだけど、それは後だ。
「花島さん。いきなりで悪いけど、本田さんが今どこにいるか判る?」
「あっちの方向から
花島さんが指差した先は、小山の頂上付近の森の中だ。捜索範囲広いな。花島さんにナビをお願いしたら、彼女は「いいけど……」と言う。
「透君の身に迫っている危険とは何なのか、知っているなら教えてちょうだい……」
恵君に送ったメールには『本田さんの身に危険が迫っているから、車で迎えにきてほしい』としか書かなかったからな。
僕は花島さんや恵君と並んで道路を歩きながら、話せる範囲で説明した。
本田さんは以前、
そして今朝、慊人が精神的に不安定な状態で家から飛び出し、行方知れずになっている事。
「慊人は感情が激しく乱れると、他人に八つ当たりする事があるんだ。慊人と本田さんが鉢合わせしてしまったら、本田さんに危害が及ぶかもしれないと思って」
「……透君のすぐ近くに、感情が激しく乱れた電波の持ち主がいるわよ……」
なんてことだ。どうして悪い予感ばかり当たるんだろう。
「ぐれ兄の家の庭から森に入るのは遠回りだから、ここから森の中を突っ切る最短ルートをとろう」
僕は、草摩家の所有地である小山と公道を区切る石垣の上に飛び乗った。
花島さんは自力で石垣を登れなかったので、僕が手を貸して引っ張り上げる。恵君は自力でよじ登っていた。
ロングワンピースを着た花島さんにとって傾斜になった山道は難関かと思われたが、彼女はスカートの端を軽く持ち上げて驚くほど素早く山道を登っている。
持久走の記録を計った時に、スタートラインで力尽きた花島さんとは別人のようだ。
しばらくすると、慊人の気配が感じられるようになった。慊人の感情が昂っているのか、僕の胸の奥がザワザワする。
本田さんを傷つけないでくれと祈った矢先に、慊人の気配が急に凪いだように静かになる。怒りすぎて冷静になっちゃったとかじゃ……と危ぶんでいたら、慊人の声が聞こえた。
「慊人が助けを求めている……?」
「透君の電波が急に弱くなったわ……!」
花島さんは目に見えて焦りの表情を浮かべた。
胸の奥にいる盃の付喪神は慊人の求めに応じるべきだと主張していたけど、今は本田さんが優先だとねじ伏せてやる。
花島さんの後を追いかけて崖の下に辿り着くと、地面に仰向けに倒れた本田さんを見つけた。
「透君……! 透君……っ!!」
親友に駆け寄った花島さんが必死に呼びかけても、本田さんは返事どころか身動きすらしない。
崖の一部が崩れている。あそこから落ちた……のか? 4メートルぐらいの高さがあるぞ。
近寄って見たら、本田さんの腕にはナイフで斬られたと思われる傷があった。顔には殴られた痕もある。
……本田さんはこんなになるまで、慊人の八つ当たりを受け続けたのか。
僕が慊人を捕まえていれば、こんな事には。本田さんにもしもの事があったら、僕の責任だ……!
目の前が真っ暗になったけど、落ち込んでいる場合じゃないと思い直す。僕がズボンのポケットを探って携帯を取り出すより早く、恵君が自分の携帯で119番にかけている。
到着した救急隊員の案内をするために石段の下に向かおうと思ったら、息を切らした由希と夾がやってきた。
「ほ、本田さんっ! 救急車を……」
「俺が呼んだよ」
恵君の返答を聞いた由希は「
死人のような土気色の顔になった夾は本田さんに近寄り、倒れている彼女の側で膝をつく。
「と……っ、透……?」
「触らないで……」
本田さんの頭に触れようとした夾を、花島さんが厳しい口調で制止する。
「透君は頭を強く打っていると思うわ……」
「……っ、待……っ、待ってくれ……待ってくれ、待てよ」
うわ言のように同じ言葉を繰り返す夾は、意識のない本田さんに話しかけているらしかった。
「違う……っ、違うんだ、こんなことを望んだんじゃないんだ。透、待てよ、こんな……っ」
夾の様子が変だ。本田さんと何かあったのかな。
「大丈夫……ですよ……」
本田さんのか細い声が聞こえた。よかった、意識を取り戻したようだ。
「もう……大丈夫ですよ……」
「いいよ……もういい……わかった、いいから……黙っとけ……」
夾は泣きながらそう言ったが、本田さんは再び気を失ってしまったから恐らく聞こえていない。
本田さんの手をとった夾は、彼女の手の甲にキスをしている。
いつになく大胆な行動に出た夾は、僕と花島さんと恵君の存在を忘れているな。呪殺しそうな目付きで夾を睨む花島さんを無視するなんて、ある意味すごいよ。
それにしても、あんなに怒る花島さんは初めて見た。夾は本田さんと何かあったっぽいけど、暴言を吐いたりしたのだろうか。
本田さんには優しく接するようになった夾がそんな事をするなんて考えにくいけど、しばらく会わない間に本田さんと夾の関係に変化があったのかもしれない。
▼△
Side:
草摩夾を慰めるために意識を取り戻した透君は、再び気を失ってしまった。恥知らずな草摩夾は透君が気絶しているのをいい事に、透君の手の甲に口づけている。
やめて、透君に触らないで。
透君の想いを無視した罪悪感。自分の言動を悔いる気持ち。今日子お母様に対する後ろめたさ。そういった電波が
……ダメ。自分を抑えつけないと。このどす黒い感情に任せて力を解き放ってしまったら、草摩夾を殺してしまうかもしれない。
――食えよ。おまえ、魔女なんだろ? 魔女は生きたイモリを食うって、姉ちゃんが言ってた!
小学生の時、私の給食に生きたイモリを投げ込んだ男の子に殺意をぶつけてしまった。
憎悪に飲まれた私の毒電波を食らった彼は意識を失って病院に運ばれ、1週間も昏睡状態に陥ってしまい。病院で付き添っていた彼の母親も、過労で倒れて入院する事態になってしまった。
あんなに深く黒く、誰かの死を願ってしまう自分が怖かった。念じるだけで、いとも容易く他人を害する自分の力も。
私はもう誰の死も望みたくない。
その時、恵が私の手を握ってきた。私が必死に自制しているのを察したのかもしれない。
救急車のサイレンの音が近づいてきた。草摩由希の案内で崖の下に駆けつけた救急隊員が、透君を慎重に担架に乗せて運んでいく。
透君を運ぶ救急隊員の後についていって森から出ると、草摩紫呉の家の前から汚れた白い着物の上にスーツの上着を羽織った人が駆け寄ってきた。
「と、透……透っ! 返事をしてよ、透……っ!」
必死な声で透君を呼ぶ
それ以上に気になるのは、透君を傷つけてしまった後悔の電波を草摩慊人から感じる事。
透君の腕にあった大きな切り傷はナイフか何かで斬られたような痕に見えたから、彼女の仕業かもしれないわね。
私が草摩慊人を睨みつけると、彼女は怯えたようにびくりと肩を震わせた。草摩慊人を庇うように、草摩紫呉が間に入ってくる。
「咲ちゃん、透君を追いかけなくていいのかい?」
「酒クサ!! ぐれ兄、朝まで飲んでいたのかよ!」
建視さんが鼻をつまみながら苦情を訴えた。本当にお酒臭いから私も鼻をつまんだ。恵も同じようにしている。
「作家仲間と飲んでいたら盛り上がっちゃったんだよ。それより、なんで上半身にアンダーシャツしか着てないの? 変態みたいだよ」
「花島さん、本田さんの所に行こう」
着ているものについて追及されたくないのか、建視さんは草摩紫呉を無視した。建視さんは変態じゃないと思うけど……多分。
石段を下りて道路に辿り着くと、心配そうな顔をした父さんが救急車の側に立っていた。
父さんは車の中で待機していたはずだけど、恵から連絡を受けて事態を知ったのでしょう。
「付き添いの方は4名までです」
救急隊員の言葉を聞くなり、私は真っ先に付き添いを名乗り出た。
「ぼ、僕も透の側にいたい」
躊躇いがちに希望を述べた草摩慊人の言葉を聞いて、少し疑問に思った。
草摩慊人の電波情報から女性だと判断したのに、一人称に“僕”を使っていたから。
一人称が“僕”だろうが“俺”だろうが“拙者”だろうが、今はどうでもいい事ね。
草摩紫呉が「僕は一応、保護者代理だから付き添わせてもらうよ」と言った後、父さんと何やら話していた建視さんが口を開く。
「僕と由希は、花島さんのお父様の車に乗せてもらうよ」
「俺も父さんの車に乗るから、夾さんが透さんに付き添いなよ……」
「……俺は行かねぇ」
意気消沈した草摩夾の発言を聞いて、私は自分の耳を疑った。
「それは病院に行かないという事……? 透君が心配じゃないの……?」
「俺がいると透を傷つけちまう……」
……最近の草摩夾は、透君を特別に大切に想うようになったと思っていたけど、とんだ勘違いだったみたいね。
「さっき夾が呼びかけた時、本田さんは意識を取り戻しただろ。夾が側で呼び続ければ、本田さんの容体が良くなる可能性があるんだぞ」
建視さんの説得を聞いた草摩夾はぴくりと反応したけど、自分1人が世の中の不幸を背負っているような腹立たしい面構えのままだから、考えを改めるまでには至ってないわね。
「花島がいる……花島がついててやったほうがいい」
はらわたが煮えくり返るような怒りを感じた。
透君は草摩夾を愛しているからこそ、呼びかけに応えるべく意識を取り戻したのに。親友の私が呼んでも、透君は返事をしてくれなかったのよ。
この無力感がわかるかしら? わからないでしょうね。
あるいは、わからないフリをしているのかしら。
……それは私も同じだけど。
私は建視さんから特別な想いを寄せられている事に気付きながらも、素知らぬ振りをしている。
恋人になってほしいとか言ってこないなら、あえて私から何か言う必要はないだろうと思って。
私は
それを伝えると気まずい関係になって、友達として遊べなくなるんじゃないかと恐れたのよ。
私は草摩夾の事をとやかく言えないけど、それとこれとは話が別よ。
草摩夾にも事情はあるのでしょうけど、知るものですか。たとえ透君が草摩夾を許しても、私は決して許さない。
私は根深い怒りを抱えたまま、恵や草摩慊人や草摩紫呉と共に救急車に乗り込んだ。救急隊員に促されて透君に呼びかけ続けたけど、透君は反応を返してくれなかった。
いっそのこと電波で直接脳に
草摩総合病院に搬送された透君は、救命救急センターに運ばれていく。付き添いは必要ないと言われたので、私達は待合室のソファに座って待つ。
治療を受けた透君は、緊急入院する事になった。透君の親族には草摩由希が連絡したらしい。
「慊人、診察を受けに行こう」
草摩紫呉が草摩慊人を連れて行こうとしたので、私は「待ちなさい……」と呼び止める。
「草摩慊人からは話を聞かなきゃいけないの……透君の腕の傷とかね……」
「咲、やめなさい」
父さんに制止されて、引き下がらざるを得ない。その隙に、草摩紫呉は草摩慊人を連れて立ち去った。
草摩慊人を追いかけてきたと思われる建視さんは、待合室に残ったけど。
父さんは一旦、家に帰った。母さんと
「花島……っ、透の容体はどうなんだ!?」
病院に駆けつけたありさに、恵が「透さんは意識不明だよ……」と話した。
ありさの顔が恐怖で染まる。
……
私の隣に座ったありさは、祈るように両手を組んだ。私も祈りを捧げる。
今日子お母様。どうかお願いですから、透君を連れて行ってしまわないで下さい。
透君は自分だけの倖せをまだ掴んでいません。
今日子お母様が、透君の倖せを天国から見届けたいと思っていらっしゃるのなら、どうか……!
生きた心地がしない時間を過ごし、夜の8時になった頃。医師との話を終えた透君のおじい様が、私達のいる待合室にやってきた。
「透さんが意識を取り戻したよ。後遺症の有無は検査をしないと判らないけど、危険な状態は脱したようだ」
その報せを聞いた瞬間、喜びと安堵がどっと胸に押し寄せた。止めどなく溢れてくる涙が頬を濡らす。
「……っ。今日子さんがこっちに来ンのは早えよって、透を追い返してくれたんだ」
ありさは涙声でそう言った。
そうね。誰よりも透君を愛していらした今日子お母様は、透君が夭折するなんて絶対に認めないわよね。
今日子お母様が透君を連れて行ってしまうとか思ってしまって、ごめんなさい。無言で泣き崩れた私の背を、恵が擦ってくれた。
ひとしきり喜んで涙が止まった頃、建視さんが立ちあがった。
草摩家に帰るのかと思ったけど、予想に反して建視さんは私達の近くにやってきて、深々と頭を下げる。
「ごめんなさい」
「それは何に対する謝罪かしら……?」
「僕の注意が足りなかったせいで、本田さんが森に入って大怪我をしてしまったから」
「注意が足りなかったというのは、どれを指しているのかしら……。透君に対する注意喚起……? それとも、草摩慊人が暴走しないように注意を払う事……?」
建視さんは躊躇いがちに、「両方」と答えた。
「草摩慊人を止められなかった事が罪になるのなら、私も同罪よ……」
「花島さんは悪くないよ! 僕が花島さんを呼んで、巻き込んでしまったんだ」
「私と恵は自分の意志で、透君を助けに行くと決めたのよ……私達が貴方の指示に従って動いたような言い方をしないで……」
私は込み上げた苛立ちを抑えるために息を吐き出した。透君を助けられなかった怒りを、建視さんにぶつけても仕方ないわ。
「てことは、アキトとかいう草摩の奴が透に大怪我を負わせたのか」
声は静かだけど、ありさは青筋を立てて激怒していた。
草摩慊人は診察を受けに行ったまま戻って来なかったけど、それで正解だったのかもね。ここにいたら、ありさにシメられていたわよ。
「待って、魚谷さん。責任は僕にあるから、殴るなら僕にして」
「アキトって奴をぶっ飛ばしてから、てめぇをボコってやるよ」
いけない。このまま放っておくと、ありさはバイクで草摩家に突っ込むかもしれないわ。
「ありさ、落ち着いて……草摩慊人は透君が崖から落ちた現場に居合わせたけど、崖が崩れたのは偶然よ……」
草摩慊人が透君を傷つけた事は、今のところはありさに言わないでおきましょう。
私達が怒りに任せて報復しても、透君が悲しむ結果になってしまいそう。
こんな風に考えられるようになったのは、透君の意識が戻ったという報せを聞いて、いくらか心に余裕ができたからね。
腕組みをしたありさは納得がいかなそうな顔をしているから、詳細な経緯を説明する役目は恵に任せた。私は建視さんと向かい合う。
「ところで、建視さん……私のメッセージに対する答えはもらえないの……?」
建視さんは何も言わず、私をじっと見つめてきた。熱の籠った貴方の視線を真正面から受けると、居心地の悪いような気分になる。
異性からそんな目で見られた事がなかったからというのもあるけど、やっぱり私にとって建視さんは“友達”で、似たような奇妙な力を持つ“仲間”だから。
……それに同年代の男の子は、小学時代に私が殺しかけた彼を連想してしまって少しだけ苦手意識がある。
わかりやすく好意を示してくれる建視さんが恋愛対象にならないのは、その苦手意識が影響しているんじゃないかと思う。
というのは単なる言い訳で、人間関係の中で最も壊れやすいと言われる恋愛関係になりたくなかっのよ。建視さんは初めてできた“仲間”だから、失いたくないと思ってしまった。
儘ならないものね。私が溜息を吐くと、建視さんは不安そうな表情になった。
私と会う機会はもう無いかもしれないとか思っているくせに、私の機嫌を気にするなんて変な人ね。変テコで……困った人だわ。
「花島さんが僕の復学を待っていてくれるのは、正直嬉しいよ。でも……」
苦笑する建視さんから、諦観の念を感じ取った。貴方はできる事なら学校に行きたいと願っているのに、どうして諦めてしまうの?
――
――私達、まだこんなに近くにいるのに、離れるの嫌です……。私はまだ知らない事が、たくさん……あるかもですが。でも……離れていかないで下さい、はなちゃん。
転校先の中学校の同級生に力を恐れられた私は、透君やありさから遠ざかろうとした事があった。その時、2人の親友は私を引き止めてくれた。
私も同じような事を建視さんに言えればいいけど、上手く伝えられなくて建視さんをまた追い詰める結果になってしまったらと思うと、怖い。
以前のように建視さんと一緒に遊んだりご飯を食べたりしたいと思うのに、彼の内面に踏み込んで傷つけた場合の責任は負いたくないと逃げの思考に走る。私は卑怯だわ。
建視さんはこんな私のどこが好きなのかしら? ……いけない、全く関係のない方向に考えが逸れてしまったわ。
「建視さんは何か勘違いをしているのではなくて……? 私は透君が危険に飛び込もうとしたら助けてほしいとは言ったけど、貴方1人で問題を解決してほしいとは言ってないわよ……」
建視さんは驚いたように赤い目を見開いたけど、相変わらず自分1人で問題を抱え込むつもりみたい。意固地な電波を感じるわ。
「1人でやらなきゃいけないと決めつけてしまう前に、誰かに相談してみたら……? 例えば、そこの草摩由希とか……」
私と建視さんの会話を黙って聞いていた草摩由希は、「んぇっ?」と変な声を上げた。
「草摩家の問題について何も知らない私が口出しするのはどうかと思うから、建視さんの説得役は貴方に任せるわ……」
結局、草摩由希に丸投げしてしまった。
建視さんは残念そうな面持ちで、私をちらりと見てくる。
私が説得役の方が良かったようだけど、お生憎様。貴方は私をやたらと美化するけど、私はお世辞にも心根が美しいとは言えないのよ。
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68「1人で抱え込むなよ」
Side:
込み入った話になりそうだから、僕と
「建視は1人で
敏い由希は
「そうだよ」
「どうやって救うつもりだ?」
「
今回の一件で心境に変化が生じた慊人にとって、
「慊人と交渉って……慊人を脅す気か? そんな事をしたら建視が……」
言葉を切った由希は、まさかと言いたげに濃灰色の目を見開く。
「建視は夾の身代わりになって幽閉されるつもりか?」
勘良すぎだろ。僕は舌打ちしたい気持ちを抑え込んで、鼻で笑う。
「そんな訳ないだろ。自己犠牲とか僕のキャラじゃないし」
「建視は不特定多数のために身を削る事はしないけど、大切な人――花島さんとかはとりのためなら何だってしそうな感じがする」
由希は僕の事を、愛が重い奴だと思っていたらしい。……花島さんも僕の愛を重いと感じていたりしない、よね?
「建視が夾を救うために自分を犠牲にしたら、悲しむ人が大勢いるぞ」
心配そうな顔をした兄さんの姿が思い浮かんだ。僕が幽閉される事になったら、兄さんの精神状態が危うくなってしまう。
でも、兄さんは
「物の怪憑きの仲間には、僕が自分で選んだ道だと話しておくよ。夾には言わないけど。
左頬に衝撃が走った。不意打ちで顔面を殴られたせいで重心を失った僕は、よろけて尻餅をついてしまう。
「な……にすんだよ!」
「建視が寝ぼけた事を言っているから起こしてやったんだよ」
脅すように握り拳を見せつける由希は、冷たい怒りを纏っていた。
何いきなりキレてんだ、こいつ。むしろ、キレたいのは僕の方だ。殴られた頬がズキズキ痛むし、聞き捨てならない事を言われたからな。
「僕は真剣に頼んだのに、おまえには寝言に聞こえたって言うのか?」
「ああ、そうだよ。花島さんの言葉を聞き流すなんて、建視は疲れて寝ぼけているとしか思えない。花島さんはさっき、1人でやらなきゃいけないと決めつけるなって言ったんだぞ」
聞き流した訳じゃないのに。安全圏から好き勝手言いやがって。
「そこまで言うなら、夾を救うための案を出せよ!」
僕に睨みつけられた由希は腕組みをして考え込んだ。
猫憑きは幽閉されるのが当然と思い込んでいる草摩の「中」の奴らの反対を抑え込んで、夾を解放する案なんてそう簡単に思いつくはずがない。
「猫憑きの離れを跡形もなく破壊する……とか」
短時間で案を出したのは褒めてやるが、あまりにも稚拙だ。
「壊したところで、新しい幽閉場所を作るのは目に見えている。それに草摩の上層部は馬鹿じゃないから、再び壊されないように手を打つぞ」
「うーん……じゃあ、草摩の『中』を鼠だらけにするのはどうかな? 兄さんにも協力を仰いで、蛇もたくさん呼び寄せよう。大量の鼠と蛇を退去させる代わりに、夾を解放する事を認めてほしいって交渉するんだ」
ヒェッ……このユッキーマウス、コワイ。無邪気な笑顔を広げながら、えげつない案をサラッと出しやがった。
「交渉じゃなくて脅しだぞ、それ……というか、古代中国の刑罰でそんな感じのがあったよ。由希は
「誰が妲己の生まれ変わりだ」
低い声を出して凄んだ由希は、気を取り直すように咳払いをする。
「さっきの案は極端だったけど、建視が犠牲にならなくても済む方法があるって解っただろ? 他の
「あーあ……バッカみてぇだな」
思わず本音が漏れた。由希が眉をしかめたので、僕は言葉を付け加える。
「1人で思い悩むのがだよ」
僕の人生をなげうってでも夾を救うとか、思い詰めていた自分が恥ずかしい。由希と少し話をしただけで、気持ちが楽になってしまった自分の単純さに呆れる。
でもまぁ、心の重荷が取り除かれた事は素直に良かったと思う。
相談しろって言ってくれたのは花島さんだから、由希には礼を言わないけど。何らかの形で礼はしておくか。
本田さんと
慊人の機嫌が良ければ、側近の辞任を申し出るつもりだ。辞めるのを認めてもらえなかった場合は、高校で勉強する時間は仕事を免除してもらえるように頼んでみる。
嘆願の流れを頭の中でシミュレーションしながら廊下を歩いていたら、「建視さん」と呼び止められた。慊人の世話役のお局様だ。
「何故、消防に通報をしたのですか? おかげで、余計な騒ぎが起きてしまったではありませんか」
兄さんから聞いたのだが、昨日は消防署から連絡を受けた警察が
紅野兄の父親が「息子は処罰までは望んでいません」と言った事で、警察による厳重注意に留まったようだけど。
普通なら、あれほどの深手を負わせた慊人は逮捕されてもおかしくない。やはりというか、草摩の上層部が警察に圧力をかけたのだろう。
怒り心頭なお局様の言う「余計な騒ぎ」とは、慊人が事件を起こして警察がやってきたという噂が草摩一族の間に広まった事だ。
噂の火消しが大変なのは解るけど、悪い事をしたと認めて謝ったりはしないよ。
「貴女は以前、こう仰っていましたよね? 『それが慊人さんの望む事ならば』と」
慊人さんが望むなら、監禁された
このようにお局様は考えて、リン姉が監禁されていた事を知りながら隠蔽していたらしい。
お局様に限った話じゃないけど、草摩の「中」の者達は道徳観が歪んでいる人間が多い。
このお局様は先日、「常識でわかる事です」とか言っていたけど、彼女の常識も世間一般のそれとは大分乖離しているだろう。
「慊人は泣きながら、誰も常識を教えてくれなかったと訴えていました。だから慊人の望み通り、教えてあげる事にしたんですよ。どんな理由があろうとも、人を刺したら罪に問われるのだと」
慊人を常識知らずに育てた一端を担うお局様は、ぐっと言葉に詰まった。僕はそれ以上何も言わず、その場を離れる。
僕も慊人に常識を教えようとしなかったから、お局様を責めたてる権利はない。追及を避けるために嫌味を言っちゃったけど。
到着した慊人の部屋には布団が敷かれていなかった。
ここ最近の慊人は頻繁に寝込んでいたから、布団はほとんど敷きっぱなしだったのに。万年床にしてしまうと不潔なので、布団は毎日新しいものに取り換えられていたけど。
「慊人、おはよう」
「……おはよう」
慊人が普通に挨拶を返した……だと……!? 幻聴かな?
驚愕を隠し切れなかった僕を見て、慊人は不愉快そうに眉をしかめる。
「僕が挨拶をしたら悪いか」
「いや、悪くないよ。ちっとも悪くないけど……少し驚いた」
ふんと鼻を鳴らした慊人は自分の側を指差して、「ここに座れ」と命じた。心境の変化はあったようだけど、支配者気質は変わっていないらしい。
「昨日、
……このタイミングでぐれ兄が仕掛けてくるなんて、予想もしなかったよ。僕は思わず視線を泳がせてしまった。
「夾が高校卒業後も『外』で生活できるようにするため、楝と手を組んで僕を脅そうとしていたんだって?」
筒抜けじゃないか。楝さんの口の軽さを嘗めていたな。口止めしなかった僕も悪いけど。
余計な事は考えるな。どうにかして言い逃れ……るのは無理か。
「確かに僕は楝さんと取引したけど、楝さんと手を組んではいないよ」
「言い逃れをしてもムダだ。建視も僕を裏切ろうとしたんだろ」
慊人は悲しそうに顔を歪めて、僕を責める言葉を淡々と紡ぐ。普段の慊人なら、とっくに激昂して手を上げているはずなのに。
「僕としては慊人を裏切ったつもりはなかったけど、慊人がそう感じたなら裏切った事になるんだろうね。どんな処分でも受ける覚悟はあるよ」
どんな処分でもなどと言えたのは、今の慊人なら幽閉処分を下さないような気がしたからだ。
僕の思惑を見透かすように、慊人はまっすぐ僕を見つめてくる。慊人の漆黒の瞳には怒りも悲しみも見当たらず、諦観が浮かんでいるように見えた。
「処罰を言い渡す。建視はクビだ。任務は二度と命じない。高校に復学しようが大学に進学しようが、好きにしろよ」
それを聞いた瞬間、僕の胸の奥で相反する2つの声が同時に上がった。もう任務をやらなくていいんだという歓喜と、慊人に見捨てられてしまうという悲哀が。
異なる感情に流されて呆然としてしまったけど、気になる事が頭に浮かんで我に返る。
「でも僕に任務を命じないと、草摩の上層部が慊人に文句を言うんじゃない?」
「……それは僕の問題だ。建視には関係ない」
体が弱くて精神的にも脆い慊人が、草摩の上層部の魑魅魍魎を相手に戦い抜くのは至難の技だと思うけど。
慊人が可哀相だからといって、余計な親切心を出すのは危険だ。ぐれ兄は慊人を支えるのは自分1人で充分だと思ったからこそ、僕と楝さんの繋がりをチクったのだろうから。
ぐれ兄の意のままに動かされるのは癪に障るけど、渡りに船だし、兄さんにこれ以上心配はかけられないからな。
僕は居住まいを正して、約3ヶ月間お世話になった
「慊人、今までありがとう」
「形だけの礼はいらない」
「僕は本当に感謝しているんだよ。慊人は高校を辞めたいと言った僕に、側近の役職を与えてくれたからね。慊人には慊人なりの思惑があったんだろうけど、仕事に逃げる事ができて助かったのは事実だ」
それに、だ。もし慊人が僕を側近にしてくれなかったら、連日のように任務を押しつけられていたはず。
少し前までの僕は投げやりな考えに囚われていたので、あっさり心を壊していたかもしれない。
「慊人に助けてもらったお礼という訳じゃないけど、困った事があったら遠慮なく言ってね」
「なんで、そんな……僕はお世辞にも良い主人とは言えなかったのに」
当惑したように眉を寄せる慊人の声は弱々しい。弱気な慊人って調子狂うなと思いながら、僕は下心を白状する。
「夾を自由の身にするためには、慊人の協力は必要不可欠だ。慊人に頼むときだけ頼んで後は知らん振りするのは後ろめたいから、ギブアンドテイクにしようと思って」
「建視は相変わらず……親切ごかしな物言いをするよね。世渡り上手そうなのに、肝心な処が抜けているから損をする羽目になる」
慊人の言葉は僕の痛い処を衝いた。自分が犠牲になって夾を解放すれば、花島さんと本田さんが喜んでくれると思い込んだ事とか。
居た堪れなくなった僕が視線を逸らした時、慊人がふっと笑う気配がした。
「僕は建視のそういうトコロが、嫌いじゃなかったよ」
そう告げる慊人は、ぎこちなく微笑んでいて。まるで、生まれて初めて心から笑った人のようだと思った。
慊人との話を終えた僕は、当主の屋敷を後にして家に戻る。診察室を兼ねた客間に行くと、兄さんが古いカルテの整理をしていた。
「忘れ物か?」
「ううん。慊人からクビを言い渡された」
兄さんは持っていたカルテフォルダーを取り落とした。その弾みで紙カルテが散らばる。
患者の個人情報が記されているカルテを見るのは厳禁だから、拾うのを手伝う事はできない。
「上層部の者達が、建視をクビにしろと慊人に訴えたのか?」
「ううん。ぐれ兄が慊人にチクったんだよ、僕が楝さんと取引した事を」
カルテを拾う手を止めた兄さんは、眉間にしわを寄せてこめかみを指で押さえた。
「……何故、楝さんと取引したんだ?」
「慊人と交渉して夾を解放するために、慊人の弱みとなりそうな晶さんの秘密を探る必要があったから」
僕の言い分を聞いた兄さんは深い青の目を見開くと、おもむろに両目をきつく閉じて沈痛な表情を浮かべる。
「……馬鹿が」
怒りより悲しみが大部分を占める兄さんの叱責を聞いて、僕が夾の身代わりになって幽閉されようと思っていた事を見抜かれたと悟る。
兄さんに心配をかけまくった事を土下座して詫びたかったけど、兄さんは謝罪を求めているようには思えなかったので、僕は「ごめん」とだけ呟いた。
「悪い事をしたと思っているのなら、今すぐ学校に行け」
カルテ集めを再開しながら兄さんはそう言った。
約3ヵ月振りに登校するのはちょびっと気後れしてしまうけど、今の僕には兄さんの指示に逆らうという選択肢はない。
久しぶりに
現在の時刻は8時10分だから、
草摩の「中」の正面玄関に辿り着いたら、送迎車が見えた。
後部座席のドアを開けて乗り込もうとしたら、座席に座っていた紅葉が「Alter Schwede!(ビックリした!)」と叫んだ。
「ケン、今日はガッコー行くの?」
「そうだよ。慊人の側近をクビになったから、晴れて学生に戻るんだ」
簡潔に説明しながら車に乗ると、紅葉は満面の笑みを広げて「よかったねっ!」と言い、春は微笑みながら「おめ……」と言ってきた。
クビになったのに祝われるなんて変な気がするけど、2人は僕が立ち直った事を喜んでくれているみたいだから、素直に受け取っておく。
「トールは今、メンカイキンシなんだよねーっ。いつになったらお見舞いに行けるかな?」
「由希から聞いた話だと、本田さんは一通り検査をして様子を見る必要があるから、2~3日待たなきゃいけないんじゃないかって」
「リンも本田さんの見舞いに行きたがってる……本田さんが大怪我したって聞いた時、リンの顔が青くなって白くなって土色になったんだよ。必見……」
「いや、必見とか言われても」
主に本田さんに関する話をしているうちに、海原高校に到着した。車から降りて校門に向かうと、登校途中の生徒達が驚きを浮かべて僕を見てくる。
キン・ケンのメンバーを始めとする人達に声をかけられながら、昇降口から入って上履きに履き替えて職員室へ向かう。
「繭子先生、お久しぶりです」
「ああ。よく戻ってきたな」
安堵を滲ませた笑みを浮かべた繭子先生の表情に、驚きは見当たらない。兄さんから連絡を受けていたのだろう。
「繭子先生が他の先生方に話をつけてくれたおかげで、僕は3年生に進級する事ができたと兄さんから聞いています。本当にありがとうございました」
「後日、追試試験を受けてもらうけどな。それと欠席した授業の穴埋めをするために、レポートを提出してもらう事になると思う。詳しい説明は後でするから、教室に行きなよ。建視君が来るのを、クラスの皆が待っていたからさ」
そう言われて3‐Dの教室に向かうと、廊下で待ち受けていた
以前と同じように受け入れてくれた事が嬉しくて僕が笑いながら挨拶を返すと、キン・ケンのメンバーである彼女達は涙ぐんだ。
「けんけんが来たのか? あ、ホントだ。やっほー、けんけん!」
「おっひさー、けんけん! 元気にしてたか?」
声を聞きつけたのか、すけっちとろっしーが教室から出てきた。
彼らと軽く話をしてから教室に入ると、あちこちから「久しぶりだな」とか「会いたかったよーっ」といった言葉が飛んでくる。
「よぅ」
廊下側の席に座っていた夾が、僕を見上げて声をかけてきた。夾の方から挨拶をされたのは、何年ぶりだろう。
というか、本田さんを乗せた救急車を見送った時の夾は今にも死にそうな顔をしていたのに、思ったより落ち込んでなさそうだ。
さっき春が送迎車の中で、「夾は由希にボコられて、目が覚めたみたいだよ……」とか言っていたけど、マジだったのか。
僕が夾に向かって「おぅ」と返事をした時、力業で相手を説得する特技を身につけた由希がこっちにやってくる。
「思っていたより早く復学したんだね」
由希の顔には、予想外と書いてあるように見えた。
「僕もこんなにすんなり、側近を辞められるとは思ってなかったよ。慊人が……変わる事を選んだからだと思う」
慊人の内面の変化は紅野兄のおかげか、それとも本田さんと何かあったのか。考えても答えは出ないので、気持ちを切り替えて窓際にいる彼女達のところへ向かった。
「ウーッス、リンゴ頭。ようやく来やがったか」
若干呆れ顔の
「花島さん、おはよう」
「おはよう、建視さん……」
滅多に見せない微笑みを浮かべた花島さんを前にしたら、喜びや罪悪感や安堵が一気に込み上げてきて。目頭が熱くなったけど、泣くのは意地で堪えた。
心の底から愛しいと思う女の子がいて。気の置けない友達がいて。
以前より接しやすくなった従兄弟たちがいて。親しみやすいクラスメイトがいて。親身になってくれる担任の先生がいて。
そんな高校生活は、僕にとって掛け替えのないものなんだと今更ながら気付く。
真に大切なものは失ってから初めて気付くという言葉が、現実にならなくて本当によかった。
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69「“バカな旅人”だなぁ」
Side:
僕は今、
加害者の僕はお見舞いに行く資格など無いのではと思うけど、謝りもしないで知らん振りをするのは良くないんじゃないかと思う。
迷いと罪悪感が心に重く圧し掛かっていたけど、思い切って病室のスライドドアを開けた。
紅野は上半分が起き上がった病床に横たわって、窓の外の景色を眺めていた。こちらを振り向いた紅野は、いつものように優しく声をかけてくる。
「やぁ、慊人。お見舞いに来てくれたのかい? ありがとう」
なんで被害者の紅野が礼を言うんだ。カッとなって声を荒げてしまいそうになったけど、寸での処で言葉を飲みこむ。
適切な返事が思い浮かばなかったので、僕は何も言わずに病床の側に置いてあった丸椅子に腰掛けた。
左腕に点滴をしている紅野の顔をまともに見られない。
僕が刺したせいで紅野は腰の辺りの神経を損傷してしまい、左足を動かせなくなってしまった。
手術をしても麻痺が残ってしまう可能性は高く、長時間の歩行や座る事が辛くなってしまうらしい。
僕が一時の感情に任せて傷つけたせいで、紅野は一生付き合わなくてはいけない障害を抱える羽目になったんだ。謝って許される事じゃない。
「……はとり兄さんから聞いたよ。あの後も色々とあったんだってね」
俯いて黙りこくる僕を見かねてか、紅野から話を振ってきた。
「慊人はもういいの?」
もしも、僕がまだダメだと言ったなら紅野はどうするのだろう。まだ側に居るのだろうか。
そんな事を思いながら紅野を見遣ると、彼は以前と変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
……側に居てくれるような気がした。紅野はそういう
どうしようもなく甘くて、優しくて。ただ優しくあって。僕は長い間、そんな彼を殺し続けてきたんだ。
僕は涙を堪えきれなくて、ベッドの端に顔を埋めた。辛くて泣きたいのは紅野の方だと解っているのに、込み上げてくる嗚咽を止められない。
「ご……めん、ごめん、ごめん……っ」
無意味な謝罪を繰り返す僕の頭を、紅野がそっと撫でてくる。
僕の身勝手な発言をただ聞いて受け入れてくれる
紅野の病室を後にした僕は、病院の中庭にあるベンチに座っていた。
取り返しのつかない事をしてしまったと深く思い知った今、
「お見舞い? 1人で来たの?」
声をかけてきたのは制服姿の
――裏切り者! おまえなんかが、ここから……僕から離れたって、戻る場所も無いクセに!! 母親も父親も誰も、おまえなんか迎え入れたりするもんか!! 今さら、あの
6日前に紅葉と会って話をした時、彼を殴って八つ当たりして暴言を吐いた事を思い出した。気まずくて顔を逸らした僕に、紅葉は淡々と話しかけてくる。
「クレノもトールも、無事で何よりだね」
「責めればいいだろ……! 怒るなり……訴えるなり、もっとすればいいだろ。なんで……馬鹿じゃないのか……っ」
絶対に許さないと恨み言をぶつけてくれた方が、気持ち的に楽だったと思う。慰謝料を払ってくれと言われたら、幾らだって払った。
でも、紅野は僕に処罰や慰謝料を求めなかった。
僕に酷い目に遭わされたのに、10年以上も束縛されたのに、紅野は文句の1つも言わなかったんだ。
「何されても何を言われても許すなら、お人好しを通り越してただの馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ……」
心に溜まった遣る瀬無さを吐き出すと、紅葉が冷ややかな声で「良かったじゃない」と言う。
「2人が“馬鹿”なおかげで、慊人は無罪放免だ。なら、良かったじゃない。“馬鹿”は利用できていいね」
少し前までの僕なら、紅葉が言った通りの事を思ったはずだ。優しさに気付かないで踏みにじって、馬鹿だと嘲笑ったに違いない。
馬鹿なのは僕の方だ。
ずっと慈しまれていた事を知ろうともせず、自分は愛されていないと嘆き。ずっと側にあった温かな気持ちを理解しようともせず、ぞんざいに扱ってきた。
「……アキト? どうして泣くの?」
さっきは罪悪感と後悔に駆られて涙が溢れたけど、これは違う。これは……。
「くやしい……自分がくやしい……っ」
己の愚かさが恨めしくて、自分の髪の毛を掴んで呻いた。
「じゃあ……これからは大切にすればいい。誰かにとってそれは馬鹿でも、自分にとっては馬鹿じゃないなら、自分は大事に……大切にすればいいんだ」
優しげな口調で話した紅葉は、「……それだけのことだよ」と言って僕にハンカチを差し出してきた。
どうして僕を慰めるような事を言うんだ。
僕はこれまで何度も紅葉を傷つけたし、紅葉が大切に想っている透も傷つけた。許せないと思うのが当たり前なのに、どうして。
理解できなくて見上げた先の紅葉は、柔らかな笑顔を浮かべている。
「……“バカな旅人”だなぁ」
どういう意味の発言なのか解らなくて僕が瞬きをすると、僕の隣に腰掛けた紅葉が「お話だよ」と言う。
「聞きたい? 聞いたら、きっとトールに会いたくなってくるよ」
紅葉は『笑える話全集』という本に収められた、『世界で1番バカな旅人』という題名の物語を話してくれた。
主人公の旅人は騙されやすい性格をしていて、人に出会う度に持ち物を騙し取られてしまう。
でも旅人はバカだから、騙りを働いた人々の「これで助かります」という嘘に気付かず、嬉しそうに泣きながら「お倖せに」と言うのだ。
着るものがなくなった旅人は人目を避けるために森の中に入り、そこに住む魔物達にも騙されて自分の体の部位を奪われていく。
頭だけになってしまった旅人は、助けを求めてきた魔物に自分の両目を与えてしまう。
魔物は旅人の目玉を食べながら「ありがとう、お礼に贈り物をあげます」と嘘を吐いて、バカと書いた紙切れを1枚置いていった。
「でも、旅人はもう無い目からポロポロ涙をこぼしながら言うの。『初めての贈り物だ。嬉しい、ありがとう』って。そして旅人は、そのままポックリ死んでしまいましたとさ」
紅葉の中学時代のクラスメイトは、この物語を聞いてくだらないと言って大笑いしたらしい。
僕はこういうおキレイな物語は嫌いだから、紅野や透の話をした直後でなければ、不愉快な話をするなと言って怒ったかもしれない。
「ボクは『世界で1番バカな旅人』の話を初めて聞いた時、目を閉じて旅人のことを考えてみた。だまされて頭だけになって、ありがとうと泣いた旅人のことを考えてみた。そして思ったんだ。ああ、なんて愛しいんだろう……って」
僕も目を閉じて、旅人に思いを馳せてみる。
思い浮かんだのは病床に横たわって微笑む紅野と、傷だらけになりながらも僕に握手を求めてきた透の姿。
2人とも、もっと自分を大切にすればいいのに。なんで他人の――しかも、危害を加えた僕なんかのために笑えるんだ。バカじゃないか。
だけど、その愚かさは決して軽蔑するようなものじゃない。紅野と透の事を考えると、まるで陽だまりの中にいるような温もりに包まれる。
温かさが心地よいけど、慣れないから少し戸惑ってしまう。この繊細で複雑な感情が、愛しさなのだろうか。
「大切に……できるかな。どうやって大切にすればいいか、よくわからないんだ」
「わからなかったら相手に聞けばいいんだよ。相手の気持ちを急に全部わかるようになるワケないんだから。話し合って、時にはケンカして。痛みを知って、喜びを分かち合って、お互いを理解していけばいいと思うよ」
それを聞いた時、別荘で紅葉に八つ当たりしてしまった事を思い出した。
――アキト……どうしたの。何をそんなに怒っているの。何か……あったの?
あの時の僕は、
当の紅葉は夜中に訪れた僕を見て、会話が成立しない状態だと察したはずだ。それでも紅葉は、僕との対話を試みてきた。
僕は紅葉のような勇気はない。弱くて臆病で、それを隠すために虚勢を張って他者をたくさん傷つけた。
だけど、透はこんな僕と友達になりたいと言ってくれた。今もそう思ってくれているかどうか、わからないけど。
会いたい。会って話をしてみたい。
僕が躊躇いながら透の病室に入ると、頭部に包帯を巻いた透は驚いたように焦げ茶色の目を丸くする。
「慊人さん、こんにちはっ。来て下さって、ありがとうございます……っ」
心底嬉しそうに顔をほころばせた透を見た瞬間、喜びや気恥ずかしさや罪悪感が一気に湧き上がってきた。
「こ……っ、これでも僕は、多少の譲歩を覚えたから……」
「進歩ですよ?」
透はやんわりと訂正してから、右手を差し出した。
……どうして、進歩だなんて言えるんだろう。
透は検査の結果、後遺症は残らないと診断されたと聞くけど、僕がナイフで斬りつけた腕の傷は一生残ってしまう。
恨んで当然なのに、全てを水に流して前に進もうと言うなんて理解できない。
1歩を踏み出せず入口に佇む僕に向かって、透は手を差し伸べ続ける。
腕に傷を負ったのにその体勢を維持するのは辛いだろうと思い、僕は透に近寄って彼女の手をそっと握った。
念願が叶ったかのように目を細める透を前にして、むずがゆい気持ちになる。
僕が壁際に設置されたベンチソファに腰掛けると、透は病床の上に正座した。
枕元に置かれたクリーム色のウサギのぬいぐるみを見て、紅葉に言われた事を思い出しながら僕は口を開く。
「妬ましかったんだ、結局、おまえのこと。僕よりずっとキレイだから」
「私……“キレイ”じゃないです……」
謙遜も度が過ぎると嫌味に聞こえる。ムッとした僕が軽く睨みつけたら、透の眉毛は悲しみを表すようにハの字に下がった。
「どうか“キレイ”だとかそんなモノに小分けして分類して、距離を置かないでください……。私をキレイだと仰って下さるなら、慊人さんだってキレイです……。さびしいと、こわいと泣いた慊人さんは、痛々しいほど無垢で純粋です……」
無垢とか純粋とか僕からかけ離れた単語が出てきて、どう反応すればいいのか解らない。
「私は、そんな慊人さんが望む世界を壊そうとしている
それを聞いて、透は全てを水に流した訳じゃないと悟った。
僕の心の痛みを受け止めてくれた透は、“絆”を壊してしまう事への罪悪感を抱いている。
透は
「でも、それでも、慊人さんとお友達であり続けたいと願います……」
互いに傷つけあったのに友達になろうと言うなんて、綺麗事も良いところだけど。
“バカな旅人”のように自分が傷つくのを厭わず、他者と関わろうとする透の言葉は、口先だけじゃないと信じられる。
「……しつこいな……」
嬉しいけど素直に受け入れる事ができなくて、ひねくれた返事をしてしまう。
僕が拒絶してない事を察したのか、透は弾けるように笑った。見ている僕の顔がつられて緩んでしまいそうな、開けっぴろげな笑顔だった。
友達を得ることができた僕は、少しは変われただろうか。
紅野が望んだように、変われる事ができるかな。
▼△
Side:
僕が復学してから3日後。
紅葉は午後の授業をサボって、本田さんのお見舞いに行ったようだ。僕は放課後になったら、お見舞いに行こうと考えていたんだけど。
3‐Dの教室脇の廊下が修羅場と化しそうだったから、成り行きを見守る事にした。
「……あの、よ。見舞いに……行きてぇんだけど……通してくれねぇ?」
冷や汗ダラダラな
「『見舞い』ですって……? あんなに病院へ行くのを嫌がっていたのに考えを変えたのかしら。ねぇ、ありさ……優しいと思わない……?」
「やっぱ違うよなぁ。さすがって言うか……心が洗われるよな、花島ぁ」
……正直言って怖い。嫉妬の鬼と化したぐれ兄より怖いよ。彼女達の威圧を正面から浴びる夾が、気の毒に思えてしまうほどだ。
「……なあ、言いたい事あるなら……」
この状況で口答えするなんて、夾、おまえは勇者か。
「透の付き添い拒否っておきながら、どのツラ下げて見舞いだ、この色ボケがぁ!!! 仕舞いにゃ吊るして揺らして飛ばすぞ、あ゛あ゛!!? 花島、槍ィ!! 槍持ってこい!!!」
「ダメよ、ありさ……物的証拠が残るわ……」
殺意が滲み出る発言をした花島さんとは反対に、魚谷さんは怒鳴った事で腹立ちをいくらか抑え込んだようだ。
「……まったく。透をあんなボロ雑巾みたいにしやがって! 大事に至らなくて良かったけど、そーいう問題でもねぇだろ!」
「…………ああ、わかってる」
夾が悔いた声で答えると、魚谷さんがくわっと目を見開いて「『わかってる』ぅ!?」と夾の発言を反復する。
「わかってる奴が透に向かって、『幻滅だ』とかほざくのか!?」
「な……っ、え……!? なんで知……っ」
はっと息を呑んだ夾は、近くにいた由希を見る。
顎に手を宛がって考え込む素振りをした由希は、「ああ……しゃべったの俺だった……かな?」と言った。すっげえ白々しい。
今日の昼休み。由希は花島さんと魚谷さんと紅葉と春と僕を屋上に呼び出し、本田さんの告白に対して夾が「幻滅だ」という暴言で答えた事を、サラッと暴露したのだ。
それを聞いた花島さんと魚谷さんがブチ切れたのは想定内だったけど、紅葉が黒いオーラを漂わせて「キョーにはオシオキが必要だね」と言うなんて誰が予想できただろう。
「ごめん……っ。まさか、こんなに怒りを買うとは全っ然思わなくて……ホントごめん……っ」
申し訳なさそうに苦笑する由希は、今までになく輝いて見えた。
由希って腹黒属性だったっけ? 純粋無垢だった紅葉が黒くなっちまった事といい……。
「ぐれ兄菌のせいだな」
僕が思わず呟いたら、僕の隣にいた春が「建視の影響じゃない……?」と言い返した。
「僕はぐれ兄に影響されて腹黒になっちゃったから、元凶はぐれ兄だよ」
「……確かに元凶は先生だね」
淡々と受け答えた春の表情に、怒りは見当たらない。
慊人が暴走した経緯を教えてほしいと由希に言われたので、僕は昨日の昼休みに説明したのだ。
例の箱の話題に春が食いついたので、何かあるのかと思って聞いてみたら、とんでもない事実が発覚した。
リン姉は楝さんに唆されて例の箱を盗もうとして、その現場を慊人に見つかって怒りを買った結果、あの蔵に閉じ込められたらしい。
それじゃ、ぐれ兄が例の箱の存在を楝さんに教えたせいで、リン姉はあんな目に……と、僕は思わず言ってしまった。
正確に言うなら、わざと口を滑らせた。
だって、今回の騒動は本田さんのおかげで丸く収まったけど、一歩間違ったら死人が出ていたかもしれないんだよ? 黒幕のぐれ兄は、少しは痛い目を見ればいいんだ。
そんな僕の思いとは裏腹に、春はぐれ兄の暗躍を知って怒ったけどブラックにはならなかった。
慊人がリン姉を酷い目に遭わせた原因の一端に、春自身も絡んでいるから、ぐれ兄を一方的に責める事はできないんだってさ。
「建視、復讐は何も生まないよ……」
「僕は何も言ってないんだけど。まさか花島さんに頼んで、僕の心を読んでもらったのかっ?!」
「納得いかないって思い切り顔に出ていたから、何を考えていたのか見ればわかるよ……」
春が呆れを含んだ視線を僕に向けた時、魚谷さんが夾を指差してきっぱりと告げる。
「おいっ。おまえ、透への見舞い、禁止だからな!!」
「は!? 待……っ、待てよ、そんなん」
夾の反論を遮って、花島さんが静かな口調で「会ってどうするの……?」と問いかける。
「工夫もひねりもなく謝るだけなら迷惑だわ……そんな
花島さんは夾を見据えていたけど、彼女の言葉は僕にも突き刺さった。
「透君が望むのはそんなことなのかしら……? 本当に悪いと思っているのなら、やるべきことはもっと他にあるんじゃないかしら……?」
猫憑きの従弟にとってのやるべきことは、ずっと避け続けていた実父との対話だろう。
夾の実父の
それでも、夾が逃げずに前を向いて草摩の「外」で生きていく道を選ぶのなら、
「……そうだよな。もっと……色ンなこと、しっかりしなきゃな……」
そう呟く夾は弱々しく見えたけど、後ろ向きな感じではなかった。
溜息を吐いた魚谷さんは「おっせーんだよ!!」と言ってから、夾のオレンジ頭をぺんっと叩く。
「そろそろ、男あげろよなっ」
あれだけ夾に対して激怒していた花島さんと魚谷さんだったが、結局は夾を激励している。半分以上は本田さんのためだろうけど。
花島さんと魚谷さんが立ち去った後、春が出し抜けに「……てかさ」と言う。
「本田さんの事故、全部夾のせいになってない……?」
事故当日の花島さんと魚谷さんは、慊人に対して怒りを燃やしていたと記憶している。
本田さんが自分のおじいさんを通じて、慊人を擁護するメッセージを彼女達に伝えてくれたのだろうか。
「……いいよ。俺が悪いのは……変わらないし。ああやって怒ってくれると、逆に楽だ……」
夾が逆に楽とか言ったのが気に食わなかったのか、由希は無言でその場から離れていった。
「本当にお見舞いを自粛するのか?」
僕の問いかけに、夾は迷わず「ああ」と答えた。
「夾って……バカだよね」
慈しむような笑みを浮かべた春の言うバカは、愚直という意味合いだろう。
以前の夾だったら、言葉の裏を読まずに「バカって言うな!」と噛みついただろうが。
「……知ってんよ」
そう答えた夾は、拗ねたように頬を赤らめていた。
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70「許さないから……」
side:
皆の目的は、本田さんのお見舞いだ。本田さんの病室は一度に3人までしか入れないから、休憩室で順番待ちをしているのだ。
今は
それはそうと、魚谷さんは
僕は今日の休み時間中に、紅野兄が入院している事を魚谷さんに話した。紅野兄を刺した犯人は
本田さんが取り成してくれたおかげで、魚谷さんと花島さんと恵君の慊人に対する怒りは解けたのに、それが再燃する危険は冒せない。
そんな事を考えながら、待つこと30分。本田さんとの面会を終えた由希が、「建視、ちょっといいか?」と呼んできた。
「建視と個人的に話したい事があるって本田さんが言っていたから、1人で病室に行きなよ」
慊人もしくは紅野兄に関する話だろうかと思いながら、僕は「わかった」と答えた。
「それから、本田さんの前で
夾の幻滅発言は、本田さんの心に深い爪痕を残したらしい。魚谷さんと花島さんが知ったら、夾に対する怒りを更に募らせるだろうな。
猫憑きの従弟の話題はNGと胸に刻んでから、僕は1人で本田さんの病室に入る。
「こんにちは、本田さん」
「建視さん、こんにち……ああっ!」
病床に横たわっていた本田さんは、僕を見るなり驚いたような声を上げる。
「建視さんが制服を着ていらっしゃるという事は、もしかして……」
「3日前に復学したんだ」
「わぁ……っ! よかったですっ、嬉しいです……っ。建視さんと学校でお会いするために、1日も早く怪我を治しますねっ」
元気な本田さんを見て、ほっとする。本田さんの目は少し赤かったから。
僕は学校帰りにデパートに寄って買ってきた、お煎餅の詰め合わせを本田さんに渡した。クッキーやマドレーヌは他の人が贈るだろうと予想して、しょっぱい系にしたのだ。
「建視さん、ありがとうございます……っ。大事に食べますねっ」
「何か食べたいものとか、欲しいものとかあったら遠慮せずに言ってね」
「はい……っ、お気遣いありがとうございますっ」
満開の笑顔でお礼を述べた本田さんは、表情を引き締めた。本題に入るのだろう。
「あ……の、建視さんにどうしてもお願いしたい事があるのです。それが、その……非常に厚かましいお願いですので……」
「引き受けたよ。僕に頼みたい事って何?」
僕が内容を聞かずに承諾した事に驚いたのか、本田さんはまばたきを繰り返した。「お嫌でしたら断って下さいね」と念を押してから、本田さんは話し出す。
「……私のお母さんが事故に遭った時の記憶を知りたいので、お母さんの遺品から……残留思念を読んで頂きたいのです」
「どうして知りたいと思ったのか、聞いてもいい?」
無言でうなずいた本田さんは、ポツリポツリと話し始めた。
……夾と本田さんのお母さんの間に、そんな因縁があったなんて。
一昨年の5月に夾が失踪した理由はずっと不明だったけど、ようやく解った。
本田さんに対する罪悪感は半端なかっただろうに、夾はよく本田さんと同居生活を送れたな。
「慊人から許可を得られたら、本田さんのお母さんの残留思念を読む事はできるよ。でも……いいの?」
真実は時として残酷だ。暴かない方がいい事もある。
そういう意味を込めて問いかけたら、本田さんは迷いなく「はい」と答える。
「お母さんは、夾君を恨んでなどいないと思います。もし本当に許さないと言ったのだとしても、それは憎しみから生まれた言葉などではありません。絶対……絶対です」
僕をまっすぐ見据えてそう言い切った本田さんの表情に、不安や恐れは見当たらない。お母さんの事を心の底から信じているのだろう。
「ですが、私の言葉だけでは……き、夾君に信じて頂け……ないので……っ、建視さんのお力をお借りしたく……っ」
次々と溢れる大粒の涙に声を遮られた本田さんは、自分の頬をべしべし叩き始めた。
「ダメだよ、本田さんっ。頭を強く打ったのに、頭部に衝撃を与えるような事しないで」
本田さんは頬を叩くのは止めてくれたけど、涙は止まらない。泣きやませる方法が思いつかなかったので、僕は本田さんの頼みを引き受けた。
お礼を述べた本田さんは笑顔を浮かべていたけど、悲しみは隠し切れていなくて。見ていてあまりに痛々しい。
本田
それが死者に対する冒涜でも、本田さんを裏切る行為だとしても、本田さんが以前のように笑ってくれるなら、罪悪感を背負うぐらい大した事ない。
△▼
Side:
「邪魔するぜー」
「お邪魔します……」
私とありさは学校帰りに
2階にある
「十二支の置き物が飾ってある棚の、左上の引き出しの中にあるって言ってたな」
「前から気になっていたんだけど、どうして十二支の中に盃があるのかしら……」
透君が紙粘土で作ったと思われる小さな赤い盃は、内側にニコちゃんマークが描かれている。
「猫だって十二支じゃねぇだろ」
「十二支の昔話の中に猫は登場するから、まだ理解できるのよね……」
オレンジ色の猫の置き物も透君のお手製でしょうね。色合いのせいか、これを見ると草摩夾を連想する。
重要なヒントが目の前にあるような気がするのに、答えに辿り着けない。そんな感じがするわ。
考え込む私を余所に、ありさは引き出しを開ける。蓋の部分に黄色い十字が描かれた、キップ○イロール-Hiの缶が目当ての品。
この缶は今日子お母様が
透君の病室がある階の休憩室に着くと、制服姿の建視さんが椅子に座っていた。
普段なら透君のお見舞客が大勢訪れるのだけど、今日は彼1人。透君は大事な用があるから今日の午後は面会できないと、建視さんが関係者に連絡したらしい。
「本田さんのお母さんの遺品はあった?」
「無かったら、盗んだ犯人を捜し出してヤキ入れに行ってるっつーの」
それもそうだねと苦笑した建視さんからは、緊張の電波は感じない。その代わり、戸惑いの電波が響いてくる。
これから建視さんは、今日子お母様の遺品から残留思念を読む。その場に私とありさが同席するなんて、建視さんは予想していなかったものね。
透君も当初は、私とありさに黙って事を済ませようとしていた節があったわ。
今日子お母様の遺品を取ってくるには、私達に事情を説明する必要があると気付いて話してくれたけど。
どうしてもっと早く教えてくれなかったのと恨めしく思ってしまったけど、話を聞いて透君が私達に言いにくいと思ったのも当然だと理解したわ。
草摩夾が今日子お母様の事故現場から逃げ出したと聞いた時は、1週間ほど寝込むような毒電波を草摩夾に叩きこんでやろうかと思ったもの。
――透から話を聞いた時はキョンをブチのめしたくなったけど、冷静になって考えてみたら事故を目撃したあいつはパニくっていただろうから、一方的に責める事はできねぇなって。
ありさの言う事には一理あるけど、私は心の折り合いをつける事はまだできなかった。
今日子お母様が「許さないから」と仰った真意を確かめないと、草摩夾に対する負の感情は消えない。
だから私は、建視さんに頼んだ。今日子お母様の残留思念を読んでいる最中の、建視さんの電波を受信させてほしいと。
今日子お母様が草摩夾に恨みを抱いていたと知ったら、建視さんはそれを隠蔽しそうだと思ったからという理由もある。
建視さんは事を丸く収めるべく、あえて自分が貧乏くじを引く傾向があるもの。
透君の笑顔が曇らないようにするため、自分が罪を背負えばいいとか考えていたんじゃないかしら。
私達の話を聞いたありさが、「あたしも今日子さんの最期の記憶を知りたい」と言い出したのは予想外だったわ。
建視さんの電波を受信し終えた後、口頭で伝えればいいのかと思ったけど。ありさは「電波で生中継ってできねぇか?」と、無茶振りしてきた。
できない事はないけど、実行するのは躊躇われた。今回の試みは初めての事だから、何が起こるか予測がつかない。
ありさに害が及ぶかもしれないと私が警告すると、ありさは笑いながら「電波のせいで多少頭痛がしてもヘーキだ。こちとら痛みにゃ慣れてんだよ」と言った。
そして更に予想外は続いた。私とありさの参加を透君に伝えたら、透君も知りたいと言い出したのよ。
透君が今日子お母様の最期の記憶に触れたら、辛い思いをするのではないか。そう考えて、思い止まるように言ったら。
――どんな形でもいいので、お母さんの声をもう一度聞きたいんです。
と、透君は言ったのよね。そう言われたら、ダメとは言えない。
私の力で、透君とありさにも今日子お母様の最期の記憶を伝える事になったと報告したら、建視さんは驚いていたわ。
私とありさと建視さんは透君の病室へと向かう。
病床で上体を起こしていた透君は、深緑色の手帳を見ていた。あの手帳には、今日子お母様の写真が入っていたはず。
……透君は今日子お母様の声を聞きたがっていたけど、最期の記憶に触れるのは流石に躊躇いがあるんじゃないかしら。
「あっ。うおちゃん、はなちゃん、建視さんっ、こんにちは……っ」
透君は私達に気付くと顔を上げて、普段通りの朗らかな笑顔を広げた。
「よっす」
「こんにちは……」
「やぁ、本田さん」
私とありさと建視さんは挨拶をしてから、壁際のベンチソファに腰掛ける。
「よしっ、早速おっぱじめるか」
「えっ、もう?」
「引き延ばしたって意味ねぇだろ」
ありさと建視さんが話している間に、私は通学バッグの中からハンカチに包んだ缶を取り出した。
透君は私から受け取った缶の中を確認してから、「これが……そうです」と言って建視さんの方に差し出す。
缶の中には白いスポンジが隙間なく嵌めこまれていて、その中央に3ミリ程度の極小の赤い石があしらわれたピアスが納まっていた。
建視さんは受け取った缶をベッドの上に置いてから、右手の手袋を外す。
「それじゃ始めるよ。花島さん、いつでもいいからね」
許可が出たので力を使って、建視さんの心の
(おーい、花島さん。聴こえる?)
(聴こえているわよ)
(えっ。花島さんの声が頭の中に直接響いた。なにこれ素敵。ゾクゾクする)
私達が我儘を言ったせいで建視さんは内面に直接干渉される事になったから、嫌悪を示すのではないかと思っていたけど。
響いてきた
(真面目にやって頂戴)
(わかってるよ。依頼を受けて残留思念を読むのは久しぶりだから、緊張をほぐしたかったんだ)
依頼という言葉から、わずかに嫌悪の電波を感じた。
(待って、建視さんは透君の頼みが嫌だったの?)
(え? 嫌だったら引き受けないよ。僕が嫌だと思ったのは、草摩家の仕事の依頼のほう。その、草摩家の仕事には触れないでね。あまり気持ちのいいものじゃないから)
忠告してくる建視さんの
誰にでも触れてほしくない事はあるから、暴こうとはしないけど。建視さんの小さく泣くような
いけない。私と建視さんが無言で見つめあっているから、透君とありさが困惑しているわ。気持ちを切り替えないと。
「建視さん、始めて頂戴……」
私が合図を出すと、建視さんは右手の人差し指でピアスの赤い石に触れた。次の瞬間、今日子お母様の
――駄目、駄目だ、どうしよう。まずいよ、だって、なんにも聞こえない。痛みもない。あったかくて、さむい。
懐かしいなどど感傷に浸る余裕はない。今日子お母様の
――なんで、こんな暗いんだ。なんで、こんなに静かなんだよ。ねぇ、なんで。ねぇ、嘘だろ? こんな、駄目だ。
今日子お母様の戸惑いと恐怖がひしひしと伝わってきて、私の心は酷く掻き乱された。
私を介して同時にそれを受け取った透君とありさが、涙を流している。視界がぼやけているから、私も泣いていたみたいね。
――透、あたし、死ぬみたい。どうしよう、嫌だ、死にたくないよ、だって嫌だよ。透を1人置いて、こんなのってない。こんなお別れの仕方ってない。
今日子お母様の嘆きを聴いて、胸が張り裂けそうになる。
2年前の5月1日。今日子お母様が事故死したという報せを受けて、私は足元から世界が崩れていくような絶望を味わった。
最後に今日子お母様とお会いした時は、いつものように笑っておしゃべりしたのに。ゴールデンウィークは、皆でハイキングに行こうかと話し合ったのに。
「また今度」と言い合って別れたのに、もう二度と会えなくなってしまうなんて夢にも思わなかった。
――あたしがいなくなったら、あの子どうなるの? あの子、まだ高校生になったばかりで。まだ子どもで。まだ、まだ。
真っ暗闇の中に見覚えのある光景が浮かぶ。あれは今日子お母様と透君が住んでいた、アパートの一室だわ。
畳の上に敷かれた布団の中で眠る透君のあどけない寝顔。それが、今日子お母様が最後に見た透君の姿。娘の成長を見守れないと、今日子お母様が悔やんでいらっしゃる。
……ダメ。これ以上は悲しすぎて耐えられない。でも、透君は止めてほしいと言ってない。
残留思念を受信させてほしいと私が言い出した以上、最後まで役目を果たさないと。
――勝也、あたしわかった。置いていくのも置いてかれるのも、どっちもつらいね。
青みがかった黒髪を短く整えた男性の後ろ姿が、暗闇の中に浮かんだ。アパートの仏壇に飾られていた遺影でしか見た事がないけど、あの方は勝也お父様ね。
――……ゴメン。ゴメンね。ゴメンね、透。あたし、ちゃんと愛せてた? 透、あたしはね、もっともっと愛したかった。
「おか……さ……」
透君の嗚咽混じりの声が聞こえる。私もできる事なら、大声を上げて泣き喚いてしまいたい。
身を引き裂くような悲哀と後悔、娘に対する申し訳なさと溢れんばかりの愛しさが私の頭の中に響いてくる。
――誰か、誰かあの子を守って。自分の事で泣くのは、あまり上手じゃない子だけど。それでも泣いてたら、あの子の側にいてあげて。
今日子お母様の懇願を聴いて、私は心の中で謝った。
いざとなったら透君を絶対守ると今日子お母様の墓前で誓ったのに、透君がテント暮らしをしていた事に気付けなかったから。
――お願い、誰か。ねぇ、誰か。あたしの宝物、守って。誰か。誰か。
真っ暗だった今日子お母様の視界が明るくなって、周囲の様子が見えるようになった。
娘を守ってくれる人を捜さなければという一心で、最後の力を振り絞って視力を取り戻したのかもしれない。
事故現場にいた人々の中に、オレンジ色の髪と瞳を持つ草摩夾が立っていた。
悲痛そうに歪んだ草摩夾の顔を見た瞬間、今日子お母様はランドセルを背負った幼い草摩夾の姿を連想なさった。
――お願い。あたしの事忘れてても、あの子に会ったらどうか思い出して。次にあの子が迷った時は、今度こそ見つけ出して。どうか、一度きりだっていい。
今日子お母様の意識が過去へと飛ぶ。夕方になっても幼い透君が帰ってこなかった日の出来事。
偶然アパートの近くを通りかかった草摩夾は、今日子お母様から事情を聞いて自分が透君を見つけてくると言った。
――絶対助ける、守ってみせる! 男の約束!!
草摩夾はそう宣言したけど、迷子になった透君をアパートまで連れてきたのは違う子だった。
透君を助けた子が置いていった青い帽子を見た草摩夾は顔色を変え、「あいつはヤな奴だ!!」と怒りを露にしている。
(この様子からして、迷子の本田さんを助けた子は由希だったんじゃないか?)
建視さんの心の
自分で透君を助けられなくて拗ねた草摩夾は、今日子お母様を突き飛ばして立ち去った。
今日子お母様は草摩夾の所業に腹を立てず、笑いながら「“約束”、ツケね!」と言って見送った。そこで回想が途切れる。
――ツケ、払ってくれなきゃ……
「許さないから……」
最後の力を使い果たした今日子お母様は、それだけを言葉にするので精一杯だったのね。
中途半端になってしまった言葉をそのまま受け止めた草摩夾は、事故現場から逃げるように走り去っていく。
――どうか、どうか、お願い。どうか、どうか、あたしの代わりに、あの子を守って。
遠ざかる草摩夾の背中に向かって今日子お母様はひたすら願っていたけど、視界が徐々に闇に包まれる。
――……ああ、沈んでく。閉じていく。ゴメンね、お別れみたいだ。……どうか透が倖せになりますように。どうかたくさんの人に愛されますように。
今日子お母様の
――迷っても間違っても、最後には生きた事に誇りを持てるように。『がんばったね』って言ってもらえるような一生を送って。うれしい事やかなしい事をくりかえして、そうやって歳を重ねていくんだよ……
娘の倖せを祈る切なる祈りを最後に、今日子お母様の
私は堪えきれずにしゃくり上げる。ありさは大声を上げて泣き、透君はベッドに突っ伏して号泣して、建視さんは無言で涙を流していた。
優しくて温かくて大らかでまっすぐな今日子お母様に、もう二度と会えない。
今日子お母様は充分頑張っていましたと伝えたくても、伝えられない。
残酷な現実を再び突きつけられた気分よ。
私と透君とありさは何十分も泣き続けた。泣きすぎて頭が痛くなってきた頃、ありさがティッシュで鼻をかんでにっかりと笑う。
「今日子さんは、やっぱり今日子さんだな」
「ええ、本当に……」
「建視さん、はなちゃん……お母さんの最期の記憶を伝えて下さって、本当に……本当にありがとうございました……っ」
ベッドの上で正座をし直した透君は、頭を深々と下げる。数秒後に頭を上げた透君は目が赤く腫れていたけど、喜びに満ちた笑顔を浮かべていた。
「あたしからも礼を言うよ。リンゴ頭、花島、ありがとな」
「建視さんのおかげで、今日子お母様の想いを誤解せずに済んだわ……どうもありがとう……」
ありさと私が感謝を述べると、建視さんは照れたように頬を掻いた。
「お役に立てて何よりだよ。僕は自分の力を好きになれなかったけど、喜んでもらえて初めてこの力があって良かったって思えた」
「私も……誰かを傷つけるだけだったこの力のおかげで、今日子お母様の真意に辿り着けるなんて……」
私が何気なく建視さんを見遣ったら、彼の視線とかち合った。
どうやら建視さんも同じような事を考えていたみたい。私と建視さんは、どちらからともなく笑い合う。
物心ついた頃から疎んで忌まわしく思っていた力が、大切な人達を笑顔にするなんて思ってもみなくて。
ましてや、似たような力を持つ者同士で喜びを分かち合えるなんて夢想だにしなかった。
これは紛れもない奇跡だわ。今日子お母様が最期の瞬間まで、透君を一心に愛し続けたからこそ起きた奇跡。
私は心の中で、今日子お母様への感謝を唱えた。
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71「おまえと一緒にいたい……っ」
Side:
「
俺と
集まりなら俺は関係ねぇじゃんと思っていたら、建視は俺を見据えて「
「何の話だろう……」
考えるように口元を手で押さえた由希の呟きに、建視は肩を竦めて「さぁ」と答える。
「でも……最近の慊人のことを考えると、悪い話じゃない……かも。……最近変わったからね……」
慊人は師匠と話をして、猫憑きの離れは壊すと約束してくれたらしい。盃の付喪神憑きの蔵も取り壊すという話題も出たようだ。
俺は
――おまえなんか産まれたせいで……っ。
俺の父さんは、猫憑きの息子が「外」で生きる事を絶対に許さないと言っていたから、慊人に抗議したはずだ。他にも反対する奴は大勢いると思う。
説得するのは簡単じゃないことはわかる。納得させるためには、おそろしいほどの時間がかかることも。もしかしたら永遠に、わかりあえないかもしれない。
それでも、ひどく困難なことにぶつかっても、立ち止まらずに生きていくと決めた。変わり始めた慊人も、俺と同じ思いでいるんじゃないか。
「あの騒ぎの後から……慊人は色々闘っているみたい。慊人が急に変わったから『中』の人間も戸惑っているみたいで、ちょっと……いい気味」
春が意地悪っぽく最後の言葉を付け足すと、由希は苦笑して「……まぁね」と応じる。
草摩の上層部に思うところがありそうな発言をしていた建視は、ざまあみろと言って大笑いするかと思いきや、納得がいかないと言いたげな渋面を作っていた。
「建視、どうかした……?」
「結果的に見ると、ぐれ兄がまんまと漁夫の利を得たなと思って」
「だから最近、紫呉は留守がちなのか」
「ぐれ兄は本家に入り浸って、
「先生って両刀だったんだ……」
春の発言を聞いた由希は複雑そうな面持ちになり、建視は「その可能性は否定できないな」と言った。
「作家と補佐の掛け持ちをしているって意味か?」
俺が疑問を口に出すと、建視はわざとらしい微笑みを浮かべて俺を見てきやがる。
「夾はそのままでいろよ」
「なんの事だかわからねぇが、バカにされている事はわかるぞ……っ」
「あ、そーだ。バカのバカ声聞いたら思い出した」
唐突に話題を変えた由希は、俺を指差した。
「……おまえ、最近益々俺に容赦ねぇよな……?」
「イジめるのは愛情表現っていうし……」
「ごめん……っ、ホントごめん……っ」
笑いながら謝る由希は、欠片も悪いとは思ってねぇだろう。
由希も
「いーから、さっさと用件言えや!!」
「
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「早く言えー!!!」
俺は大声で叫びながら全速力で屋上を後にした。3-Dの教室の中に駆け込み、席に座って雑誌を見ていた魚谷と
「きいたぞ!! 退院だって!? 俺も迎えに行っていいんだな!? いいんだよな!?」
「あ゛~、うっせぇなぁ、わかったよ。けどなぁ、透にダッシュで逃げられても後悔すんなよぉ~?」
魚谷は揶揄するように言った。花島の満面の笑みからは、「なにせ透君はふられたと思っているのだから……」と言わんばかりの圧力が伝わってくる。
「だっ、大丈夫だ、努力するっ」
内心不安で一杯になった俺は魚谷に言われるがまま、透の退院祝いに贈る服を選ぶ事になった。俺が選んだ服は着たくねぇとか透に言われたら、俺は泣くかもしれねぇ。
そして、今日はいよいよ透が退院する日だ。徒歩で病院に向かいながら、俺はどんどん増す緊張と闘っていた。
出かける前に由希の奴に、「せいぜいヘマせず、いつも通りバカなおまえで行けよ」なんて言われたけど、“いつも通り”ってどんなだった?
以前はどんな風に透と接していたのか思い出せねぇ。ようやく透に会えるっつーのに、考えすぎてよくわかんなくなってきた。
大体、あいつは今も俺を受け入れてくれるのか?
俺が幻滅だとか言ったせいで、透は振られたと思い込んでいて。挙句、俺の名前を聞くだけで怯えるようになっちまったらしい。
……俺は? 俺は今も、あいつをホントに好きか?
自問自答しているうちに、いつの間にか病院に辿り着いていたようだ。病院の門前に立っていた魚谷と花島が見えた。
魚谷が誰かを手招きして、俺を指差す。魚谷が見ている先に視線をやると、焦げ茶色の髪をなびかせて歩く透がいた。
透と目が合った瞬間、グダグダ悩んでいた事が一気に消え去る。
どこが好きとか、何が好きとか、どれくらい好きとか、そんなのは全然関係ない。
好きだ、好きだ、ただ好きなんだ、死ぬほど。
「……透」
俺が呼んだ途端、透は一目散に走って逃げた。体中の力が抜けた俺は、アスファルトの道路の上に両手と両膝をついてしまう。
「いや、もうマジにすっげぇ逃げっぷりだぁ……あはは、あはは、あははー……」
乾いた笑いが口から勝手に出る俺を見て、魚谷は「笑うしかねぇよなぁ」と言い、花島は「私も腹抱えて笑いたいわ……」とか言っている。
くっそ……しっかりしろ。こんなところで座り込んでいても、あいつの方からやってくるとは思えねぇ。
自分にそう言い聞かせながら立ち上がって、透が走っていった方向に駆け出す。程無くして透を発見したが、まだ走ってやがる。
「つかよ……病み上がりが全力疾走してんじゃねーよ!!」
思わず怒鳴ってしまった。
これで立ち止まってくれると助かったんだが、透はなおも走り続けている。透は多分、引っ込みがつかなくなっているんだろう。
俺は本気を出して走って、透の進行方向に立ちふさがる。透は息を上げながら、俺をまっすぐ見上げてきた。
透の焦げ茶色の瞳に、俺がちゃんと映っているのが見えて喜びが込み上げる。
「透……」
「はああ゛ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
涙ぐんで悲鳴を上げた透は素早く後ずさって、またしても逃げた。
「……ヘコむぞ、マジで……」
電信柱に寄りかかって弱音を吐いてしまったが、すぐに気を取り直す。死ぬほど手に入れたいって思っているんだから、逃がさねぇぞ。
もう一度走って透に追いついた。透は逃げる体力が尽きたのか、花壇を囲う煉瓦の端に腰掛けている。
俺が近寄ると、透は焦ったように「待……っ」と声を発した。また悲鳴を上げられなくて良かった。
「待って……ください。しばし……っ。今……今すぐ……っ」
透は自分の顔を手で叩き始めた。何やってんだと思ったが、涙を止めようとしているのかと気づく。
これ以上嫌われたくない。これ以上幻滅されたくない。自分自身を痛めつける透を見ていたら、彼女の必死な心の声が聞こえたような気がする。
俺は透の右手を取って、叩くのを止めさせた。
「俺……自分のことばっかりだったな。自分の懺悔ばっかして、言いたい事だけ言って、おまえの気持ちなんて無視した……」
透の前で膝をついて同じ目線で話をしようとしたけど、透をまっすぐ見る事ができなくて視線を落としたままにしてしまう。この期に及んで、とんだ腰抜けだ。
「謝れないまま二度と会えなくなる事も、この世では起こりうるんだって“知ってた”ハズなのに。似たような事を繰り返すなら、それは“知らなかった”のと変わらないよな……」
透が何か言おうとする気配があったけど、それを遮って「ごめん、泣かせて」と謝った。透の右手をそっと握りながら、「たくさん傷つけて、ごめん」と謝罪を重ねる。
「……これが最後だ。二度はいらない。今度こそ最後のチャンスをくれないか」
この言葉は透の目を見て言わなきゃダメだと思ったから、顔を上げる。
「おまえと一緒にいたい……っ。これから生きてくなら、おまえと一緒がいい。おまえじゃなきゃ嫌だ。好き……だから……っ」
目を見開いた透は驚いた顔のまま固まった。風が吹いて、街路樹の枝を揺らす音が響く。
数秒経ってから、透はぎこちなく「そ……それ……は……」と声を発する。
「となりにいてもいいって……ことですか……? ……手、手をつないで一緒にいてもいいって」
後半の言葉を聞いて俺は思わず笑ってしまう。いや、だってさ。
「もう、つないでる」
指摘した途端、透は眉をへにょりと下げて涙を流し始めた。
これまで何度も透の“泣き”を見てきたけど、泣き顔が愛おしいと思ったのは初めてだ。
俺は右手で透の頭を軽く撫でてから、顔を近づけて唇を重ねた。驚いて目を丸くした透が、頬を真っ赤に染めたのが見える。
周囲に人がいない事を確認してから、俺は「抱きしめて……いいか?」と伺いを立てた。
「すぐ“
「夾君、ご存知なかったですか? 私、夾君が大好きなんです」
唐突に告白してきた透の焦げ茶色の瞳は、ひたむきな熱を帯びていて。
「大好きです、夾君。それはとっても無敵です」
少し照れたように「えへへ」と笑った透は、見ている俺まで倖せな気分になってきた。
「……そっか。じゃあ、俺も無敵か。なんも恐がることないか。おまえがいるならっ」
自然と顔が綻んだ俺を見て、透が目に涙を浮かべる。
俺は透の手を取って立ち上がらせてから、透の背中と首の後ろに腕を回して抱きしめた。俺の胸に顔を埋めてきた透が、愛しくてたまらなくて――。
――君のおかげで、もう一度神様と出会うことができた。ありがとう。さようなら。
……なんだ、今の声は。胸の奥から響いてきたように思えたから、猫の物の怪の声か?
気付いたら俺の中には“俺”しかいなかった。
「夾……君」
俺にすがりついていた透が驚愕を浮かべた。
何がどうしてこうなったのかさっぱりわからねぇが、呪いが解けたんだと思う。でも、色んな感情や記憶がごっちゃになって素直に喜べねぇ。
猫憑きとして受けてきた仕打ちに対する恨みや怒りとか、俺のせいで死んだ母さんに対する哀惜とか、あの忌まわしい離れで生涯を終えた歴代猫憑きに対する後ろめたさとか。
抱擁を解いた俺は混乱しながらも、常に左手首に嵌めていた数珠を掴んで引き千切る。
お守りを外しても、俺は化け物にならなかった。ああ、俺はようやく
「夾君……っ!」
透の泣き声につられるように、俺の目からも涙が溢れる。
俺と透はどちらからともなく抱き合って、一緒に泣いた。グチャグチャな感情を昇華するように、ひたすら泣いた。
「はっ……そうです。夾君、ちょっとよろしいですか?」
透が俺の腕の中から抜け出そうとしている。
よくねぇと答えて思いっきり抱きしめてやりたかったが、これから何度でも抱きしめられるからいいかと思って腕の力を緩めた。
道路に膝をついた透は、散らばった数珠を拾いはじめた。
あの数珠は高名な術者だった坊さんが、
そんな禍々しいモンを集めなくていいと思ったが、拾うなとは言えなかった。
数珠を捨て置いたら、何年か後に拾っておくべきだったと後悔するかもしれないという予感がある。
だけど、あれは俺が化け物だった証でもあったから自分で拾うのは躊躇われて。
透が代わりに拾うのは、今の俺と未来の俺を守ってくれているんじゃないかと思った。
いや、違うな。俺すらも飛び越えて、数珠を嵌めて生きた全ての
俺の推測だからホントのところはわからないけど、ひとつだけわかるのは。
「愛する」ってのは目の前にあるモノだけを愛するんじゃなくて、過去も未来も抱きしめることかもしれない。
他人の命を犠牲にして作った数珠を、大切そうにハンカチに包んで胸に抱いた透を見ていると、そう思うんだ。
△▼
Side:建視
今日はいよいよ本田さんが退院する日だ。
本当は皆で集まってお祝いをしたかったけど、夾が本田さんを迎えに行くらしいからね。再会を邪魔するのは遠慮してやった。
気を利かせたのは僕だけじゃなく、
僕と兄さんが住む家に遊びに来た紅葉は、手土産として持参したホールケーキや2リットルサイズのアイスを次々と食べている。どう見てもヤケ食いだ。
「本田さんの快気祝いパーティーの会場は、どこがいいと思う?」
「ひーはんひへはへはひーほほおうほ」
「飲みこんでからしゃべれよ」
もぐもぐごっくんした紅葉は、ふぅと息を吐いて話し出す。
「しーちゃんの家でやればいいじゃない」
「ぐれ兄の家でパーティーをすると、本田さんが後片付けをしようとするだろ。本田さんは後片付けも喜んでやる人だから、休んでいてとも言いづらいし。だったら、飲食店を貸し切ってやった方が良くないか?」
「イイねっ。あっ、そだっ。他のみんなにも意見を聞いたほうがいいかもっ」
確かに。ホームパーティーの方がいいと言う人もいるかもしれない。快気祝いパーティーに誘う面々に、希望を訊くメールを一斉送信する。
そういえば魚谷さんはつい最近、携帯電話を持つようになったんだよな。遠方に引っ越した紅野兄と、気軽に連絡を取り合うためだろう。
6日前の7月3日に退院した紅野兄は持てるだけの荷物以外全て処分し、7月5日に草摩の本家から出て行ったらしい。
紅野兄は周囲に多く語らず出て行ったから、僕は見送りもできなかった。
多分だけど紅野兄は慊人の負い目にならないように、そっと姿を消したかったんだと思う。
失血死しそうだった紅野兄に発破をかけるためとはいえ、僕が「自責の念に駆られた慊人が再起不能になりそう」とか言っちゃったせいかと思ったけど。
兄さんは「気にしすぎだ」と言ったので、紅野兄に対して変な罪悪感は持たない事にした。
「そういえば、サキは今日もカズマの家にいるのかな?」
「……多分な」
花島さんは半月ほど前から、師範の家に足繁く通うようになった。
本田さんと仲良しのリン姉と会うためだと花島さんは言っていたけど、どう考えてもお目当ては師範だよね?! 通い妻という言葉が浮かんで、僕は心に深いダメージを負った。
「サキとカズマは付き合っているわけじゃないんだから、ケンも遊びに行けばいいのにーっ」
「気楽に言うなよ……僕が師範の家に行くと、花島さんが嫌そうなオーラを醸し出すんだよ」
僕を見てわずかに眉を寄せる花島さんを思い出すだけで、心が抉られる。すると、紅葉は考えるように「うーん」と唸った。
「でもハルは、サキはケンとどう接していいか迷っているように見えたって言っていたよ。もしかしたら……」
「やめろ、その手の希望を抱かせるな。勘違いだと発覚したら立ち直れなくなる」
「むーっ。ケンのオクビョウモノーっ」
「何とでも言え」
雑談を挟みつつ、本田さんの快気祝いパーティーの話し合いを進めていたら、何か変な感じがした。何の根拠もないけど、何かが起こりそうな予感がする。
「ケン、どうしたの?」
紅葉の問いかけに、何でもないと答えようとした時。胸の奥に住みついている盃の付喪神が、いきなり僕に話しかけてきた。
――君のおかげで、束の間とはいえ神様の側にいる事ができた。お礼に、誰もが忘れた最初の記憶を見せてあげよう。
トラウマ級の記憶だったら嫌だから見せなくていいと思ったのに、盃の付喪神は勝手に僕の脳内に記憶を流し込んでくる。
――ああ、今年も向こうの山の紅葉が綺麗だ。
長い銀髪を持つその人は、小さな庵の窓から見える景色を眺めながらそう呟く。
千の力と千の命と千の記憶を持つその人は、これまで数え切れないほど紅葉を見てきたけど、移り変わる季節を美しいと思う感情は摺り切れていなかった。
けれど、まともな感情があるが故にその人は深い孤独を抱えていた。
山を降りて人里に行けば多くの人間達と会う事ができるけど、その人は自分が他の人間とは違う事を知っていて、人間と関わって傷つくのを恐れていた。
特に変化のない日々が続いていたある日、1匹の猫が山頂に建つ庵を訪れた。
突然の来訪者にひどく困惑するその人に向かって、猫は恭しく頭を下げてから話し出す。
――以前より貴方のお姿を拝見しておりました。貴方は大変不思議な御方。貴方に惹かれてやみません。私はただの野良猫だけど、どうかお側に置いて下さい。どうか、“神様”。
猫はささやかな贈り物だと言って、向こうの山の紅葉の枝を神様に贈る。
初めての贈り物に大層喜んだ神様は、紅葉の枝が長持ちするように
庵での同居を許された猫は言葉通り、神様の側から片時も離れなかった。神様は誰かが側にいる事がとても嬉しくて、ふと思いつく。
――そうだ、
神様は招待状を山ほど書き、風に頼んで遠方まで招待状を送った。しばらくして神様のもとに、招待状を受け取った12匹の者達が続々と訪れる。
それから13匹と神様は、月の輝く晩の度に山頂の草原で宴会を開いた。皆で歌い踊りながら笑いあう事がとても楽しくて、神様は初めて声を上げて笑った。
けれど、ある日、猫が倒れてしまう。それは天が定めた寿命というもので、千の力を持つ神様でも猫の延命は叶わなかった。
皆は悲しくて泣いたけど、心のどこかでは気付いていた。
いつか、皆は死んでしまう。どんなに楽しくても、宴会は終わってしまう。眩いほどに仲間を大切に想っていても、いつかはお別れが来てしまう。
それを嘆いた神様は部屋に飾っていた紅葉の葉の中で、最も赤く色づいた1枚に
神様はひとつ
――私達の絆を今ここで永遠のものとしよう。たとえ私や皆が死んで朽ちても、永遠の絆でつながっていよう。何度死んで何度生まれ変わろうと、同じようにまた何度でも宴会を開こう。みんなで仲良く、いつまでも私達は不変であろう。
皆は大きくうなずくと、鼠が最初にひと舐めし、次に牛、次に虎、次に兎と、庵に到着した順番に契りの盃をわけあった。
最後に猪が舐め終わる頃、息も絶え絶えな猫が泣きながら言葉を発する。
――神様、どうしてそれを私に舐めさせたのです。神様、私は永遠などいりません。不変などいりません。
思いがけない拒絶の言葉を受けて、神様だけでなく、契りの盃をわけあった者達も悲しい気持ちになった。ある者は裏切り者と猫を詰り、ある者は発言を撤回するように猫を諭した。
――神様、こわくとも終わることを受け止めましょう。さびしくとも、さりゆく命を受け入れましょう。神様、一時でも私はお側にいられて倖せでした。
猫は自分の意見が誰にも受け入れられなくても、神様に語りかける事を止めない。
――もし、もう一度互いに死んで生まれ変わって出会うことができたなら、今度は月夜だけでなく、日の光の下で笑う貴方に会いたい。今度は私達だけでなく、人間の輪の中で笑う貴方に私は会いたい。
最後に尻尾を振った猫は、力尽きて死んだ。
猫に裏切られた気持ちで一杯だった12匹は、誰も猫に構おうとしなかった。
ただ1人、神様は猫の死を悼んで泣いた。流れ落ちた涙が
神様は猫との辛い別れを忘却するように、盃の付喪神の誕生をひたすら喜んだ。12匹の者達も新たな仲間を歓迎した。
それからしばらくすると、皆は次々に死んでいった。12匹の中では最も長く生きた龍が死ぬと、神様と盃の付喪神だけになってしまう。
そうして遂に、神様も死にゆく日を迎える。盃の付喪神は置いていかれるのは嫌だと訴え、神様と共に逝く事にした。
――また宴会を開こう。もう一度、何度でも、いつまでも変わることなく。あの約束の向こうで、みんなが待ってる。
神様が最期の言葉を紡ぐと同時に、遠い昔の記憶が薄れていく。
――倖せだったあの日々。別れ難かったあの時。そこに倖せは存在していたはずなのに、
さようならという大勢の言葉が聞こえたと思った瞬間、僕は我に返った。いつの間にか泣いていたらしく、自分の頬が濡れている。
胸の奥にずっといた盃の付喪神は、いなくなっていた。
それだけで――いや、僕にとっては大きな変化だけど、世界が一変して見える。
……呪いが解けたのか。僕はようやく、
僕の行動を制限していた枷が外れて嬉しいのに、他の感情も溢れ出して素直に喜べない。
盃の付喪神は僕が物心つく前から存在していたから、半身を突然喪ったような気分だ。
でも僕の動向を常に監視して、慊人への忠誠を押しつけてきたアイツは正直鬱陶しかったから、消えて清々したという思いもあって。
残留思念を読む力はどうなったんだろう。あの力は盃の付喪神によるものだと言われているから、失ったと考えるのが妥当だと思うけど。
任務を押し付けられる元凶でもある力が無くなったのは喜ぶべき事なのに、あんまり嬉しくない。
力を失ったら、花島さんとの仲間意識は消えてしまうんじゃないか。
本田
懸念事項は他にもある。兄さんと僕をつないでいた“絆”が消えてしまった事も、恐くて堪らない。
「……ケン、呪いが解けたの?」
紅葉は静かな口調で問いかけてきた。
「ずっとこの瞬間を待っていたけど、訪れてほしくなかったような……変な気分だ」
「だろうね。ボクも自由になれたのが嬉しかったけど、さびしかったよ」
共感を示してくれた紅葉のおかげで、いくらか気持ちが落ち着いてきた。
紅葉は誰にも相談できなかったのに、よく気持ちを立て直して慊人との対話に臨めたな。
「…………兄さんに言った方がいいのかな?」
「言わなくてもハリィなら気付きそうだから、言った方がいいと思うけど」
兄さんは僕の呪いが解けたと聞いたら、表面上は喜んでくれると思う。
でも、内心は複雑だろう。だって兄さんは、
いつになったら自分の呪いは解けるのか。ひょっとしたら自分だけ一生解けないかもしれない、という悩みを抱えてしまうんじゃないか。
僕が考え込んでいると、紅葉の携帯電話から軽快なメロディが流れた。携帯を見た紅葉は「Oha!(わぉ!)」と驚きの声を上げる。
「ついさっき、キサとハルとリンの呪いが解けたって!」
「え? そんな一度に?」
もしかしてと思い、兄さんの携帯に電話をかけてみる。コール音が2回鳴ったところで、兄さんは電話に出た。
「もしもし、兄さん? 今、電話して大丈夫?」
『大丈夫だ』
えーと、どうやって切り出そう。
「紅葉から聞いたんだけど……ついさっき、
『……そうか』
兄さんの声音から判断するに驚いている感じはないから、兄さんもさっき解放されたのかもしれない。というか、解放されていてほしい。
「僕も……解けたんだ」
思い切って打ち明けると、兄さんは無言になった。
……まさか、兄さんは解けてないという最悪のパターン?
「に、兄さん……?」
『……俺も解けた』
それは何よりの吉報だけど、兄さんの声が暗いから喜べないよ。
『建視は……今も俺の事を兄だと思ってくれるか?』
なんでそんな事を聞くのかと思った瞬間、兄さんが抱える不安に気付いた。同様の不安は僕の中にもある。
僕と兄さんは血のつながった兄弟であり、“絆”でつながった仲間でもあった。両親との関係が希薄だったせいで、今まで後者の方に重点を置いていたんだよな。
けれど今、“絆”は消え失せて、兄さんと僕はただの兄弟になった。
両親から受け入れられた兄さんと、両親から忌み嫌われた僕に。
今までは“絆”があったからそこら辺は深く考えずに済んだけど、これからはそういかないかもしれない。だけど、これだけは言える。
「当然だろ。僕にとって草摩はとりは、この世でたった1人の兄だ。物の怪憑き同士の“絆”が無くなっても、それは変わらないよ」
僕は迷いなく言い切った。だって兄さんは、僕が赤ん坊の頃から面倒を見てくれていたんだ。
お手伝いさんの協力があったとはいえ、当時小学生だった兄さんが赤ん坊の世話をするなんて物凄く大変だったと思う。
育児ノイローゼになる母親だっているんだから、幼い兄さんが疲れ果てて嫌気が差したとしても不思議じゃない。
だけど、兄さんは僕を見放す事はしなかった。それは物の怪憑きの仲間だからじゃなく、僕を弟として慈しんでくれていたからだ。
『……俺にとって建視は、この世でたった1人の弟だ』
少し掠れた兄さんの言葉を聞いた瞬間、空っぽになった胸の奥から温かい気持ちが湧き上がってきた。温かさにつられてか、目頭が熱くなってまたしても涙が溢れる。
確かに呪いは僕達を苦しめるだけのものになっていたけど、苦しんだからこそ喜びもひとしおに感じられるんだ。そう伝えたくても、盃の付喪神はもういない。
その事実が悲しくて寂しいけど、盃の付喪神がくれた“自由”を――自分の
透が退院した日に呪いが解けた順番は、夾→綾女→利津→杞紗→楽羅→依鈴→潑春→はとり→紫呉→建視→由希となっています。
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72「僕はこれでも当主なんだから」
残りわずかとなりましたが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
Side:
「
「おはようございます、建視さんっ。ありがとうございます……っ」
7月10日の月曜日。本田さんが1ヶ月振りに登校した。本田さんの右腕にはまだ包帯が巻かれているけど、ノートをとったりするのに支障はないようだ。
「
「おはよう……」
教室にやってきた花島さんは、挨拶をした僕の顔をじっと見てから僕の手に視線を移す。
呪いが解けた後、兄さんから借りた父さんの遺品に素手で触れて、残留思念を読む力は失われたと判明したので、今日は手袋をつけてない。
力が無くなった事を花島さんに隠し通すのは……無理だよな。僕は躊躇いながら口を開く。
「昨日、力が無くなったんだ」
花島さんの黒い瞳が揺らいだ。と思ったら、花島さんは感情を隠すように両目を閉じる。
「……建視さんは変わったわね……。3日前に会った貴方は暗い影の落ちた思念が心を支配していたのに、今はそれが綺麗さっぱり消えている……」
「あの2人も……」と呟く花島さんの視線の先にいる
昨日、呪いに縛られていた物の怪憑き全員が解放された。由希と夾も例外じゃないけど、呪いからの解放だけでハッピールンルン状態にはならない。
――ゆんゆんと
ナベがそう話していたから、昨日のうちに由希は
教室の中にも拘らず、本田さんにべったりくっついている夾は言うに及ばず。
由希と夾は自由だけじゃなく、恋人も手に入れたって訳だ。同じタイミングで彼女作るなんて、すげぇ息ピッタリだな。いっそこと、おまえら結婚しちまえよ!
「あれ~? おふたり、ついに付き合いだしたの~?」
夾と本田さんの距離感の変化に目ざとく気付いたのか、ろっしーがからかうように質問した。
「ああ。それがどうした?」
真っ赤な顔で照れている本田さんとは対照的に、夾は余裕を感じさせる返答をした。夾のやつ、大人の階段をのぼっちまったのか……。
「う゛お゛おう!? シレッと言ったぁぁ!! この子、なんかシレッと言ったよォォォ!?」
「転校初日、女の子にビビって窓から飛び降りたあの子がシレッと言ったぁ!!」
「立派に……立派になってぇぇ!!!」
クラスの男子達が泣きながら感動する一方で、夾のファンの女の子達が悔し泣きしている。夾のファンの子達が本田さんに何かしないように、注意して見ておこう。
注意しなくちゃいけないのは、プリ・ユキのファンもか。後で由希や倉伎さんと話をしよう。余計なお世話かもしれないけど、由希には借りがあるからな。
「ホームルームを始めるぞ。席に着けー」
教室にやってきた
僕の力が無くなったと報告した時、気のせいでなければ花島さんは動揺していたように見えた。
花島さんは今も力を抑え込んでいるから、内心複雑なのかもしれない。このままだと、僕と花島さんの間に溝ができてしまう恐れがある。後で花島さんと話をしよう。
「
朝のホームルーム終了後、繭子先生に呼ばれた。何だろうと思いながら、繭子先生の後について生徒指導室に入る。
「今日は手袋してないけど大丈夫なのか? 建視君は、素手で触れた物の残留思念を読む力を持っているんだろ?」
「その力は昨日、無くなったんですよ。兄さんにも変化があったんですけど、聞いていませんか?」
「近いうちに大事な話があるとは言われたけど……」
そう言いながら、繭子先生は頬をほんのり赤く染めた。兄さんがプロポーズをしてくれるかもしれないと期待しているようだ。
でも兄さんは段階を重視する人だから、繭子先生が嫁入りする事になる草摩家の薄暗い内情を打ち明けるつもりじゃないかな。
草摩家が呪われていたと聞いても、繭子先生は怖がって別れを切り出したりしないと思うけど。プロポーズの期待が外れたら繭子先生はガッカリするだろうな。
繭子先生が十二支の呪いを受け入れてくれたら、その場でプロポーズするように兄さんにアドバイスするべきか。……余計な世話を焼くなと言われそうだな。
「じゃあ、そのうち繭子
「なっ!? が、学校では先生と呼べ!」
顔を真っ赤に染めた繭子先生はそう言うと、生徒指導室から急いで出て行った。
ついに義姉さんと呼べる
昼食を済ませた後、僕は花島さんと2人で中庭に出て話をする事にした。
学校で2人きりで話というと、2月下旬のアレが頭を過ってしまうが、今回は悪い結果にならない……と思いたい。
「その、僕は力が無くなっちゃったけど、花島さんの理解者であり続けたいと思っているんだ。だから……」
悩みがあったら遠慮なく言って、という言葉は適切じゃない。
花島さんの現在の悩みは、力を持つ仲間だと思っていた僕が一抜けした事だろう。
僕が花島さんのためにできる事といったら、アレしか思いつかないんだよな。
「花島さんと師範の仲を応援するよ。僕にできる事があったら、何でも言ってね」
恋のキューピッド役をするのは精神的ダメージが計り知れないけど、花島さんと疎遠になってしまう事態よりかはマシなはず。
……花島さんと師範がくっつかなかった場合、花島さんを慰めてあわよくば彼女の心をゲットしようとかオモッテナイヨ?
「……貴方に応援されたくないわ……」
花島さんは消え入りそうな声でそう言うなり、中庭から立ち去った。
そんな……協力を拒まれるなんて。もしや、花島さんは電波で僕の下心を見抜いたのか?! なんてこった……。
3-Dの教室に戻ったけど、花島さんの姿は見当たらなかった。
どうしよう。花島さんを捜しに行くべきか。それとも、時間をおいてから花島さんと話し合った方がいいのかな。話し合うと言っても、何を話せばいいのか見当もつかないけど。
迷った末、僕は
「まさか、花島のやつ……」
「花島さんがどうかした?」
「んー、あたしの推測にすぎねぇから迂闊に言えねぇわ」
魚谷さんは「まぁ、自分でしっかり考えてみな」と言って、僕の肩をぽんと叩いた。
「考えるって何を?」
「花島の気持ちだよ」
思わせぶりな事を言って、魚谷さんは教室に戻った。
廊下に立ちくした僕は言われた通りに考えてみて、信じがたい可能性に気付く。
ひょっとして、花島さんは僕の事を異性として意識してくれるようになったのか? いや、そんなまさか。
花島さんは今も師範の事が好きだ。その証拠に、彼女は師範の家に通い詰めている。
呪いが解けた途端に僕が魅力的に見えるようになって、師範への恋心が消えたとか、そんな童話みたいなご都合展開が起きる訳がない。
……心情的には起きてほしいけどね。
▼△
7月12日の放課後、当主の屋敷の広間に元・物の怪憑きが集まっていた。
今のところ広間にいるのは、
あの2人は夾を待ち伏せしている。めでたく本田さんと恋人同士になった夾に、ちょっとした嫌がらせを仕掛けるらしい。
ちょっとした嫌がらせって何だろうと思って聞いたところ、紅葉は笑いながらこう言った。
――カグラがキョーに抱きついて、浮気現場をゲキシャするのーっ!
浮気の証拠写真を本田さんに見せるぞと言って夾を脅すのかと思ったが、流石にそこまではしないようだ。
他の女性の前で隙を見せたらこうなるぞ、という注意喚起を兼ねた嫌がらせらしい。
夾が本田さん以外の女性の前で、隙を見せるとは思えないけど。いや、そうでもないか。修学旅行中に、夾狙いの女の子に呼び出されてのこのこ応じていたからな。
「全員集まったのかな?」
由希の質問に、春が「んー……」と考えてから答える。
「綾兄は……どっか行った」
「あ゛~、兄さんは自由人すぎるよ……」
「由希、
広間にやってきた兄さんが問いかけると、由希はきょとんとした顔になった。
「え、来てない? 紫呉は朝から家にいなかったけど……」
「……そうか」
「建視が先生に嫌がらせをしたから、会いたくないんじゃないの……」
春が人聞きの悪い事を言ったから、僕は「嫌がらせじゃなくて仕返しだよ」と訂正した。
引っ越した
――そういえば透君は草摩紫呉に頼まれて封筒を買いに行く途中で、クレノさんに会ったのよね……。
わぁ、すっごい偶然☆ なんて思う訳ないだろ。2人が鉢合わせするように、ぐれ兄が謀ったに違いない。
僕が不登校になる切っ掛けを作りやがった犯人が解った。くらわしてやらねばならん! 然るべき報いを!
ぐれ兄はぶん殴られても全然堪えなさそうだから、心にダメージを与える方法を考えた。そして思い出した。
いつだったか春が、「先生の事をハニーって呼ぼうとしたら、『めっちゃイヤ』って言われちゃった……」と話していた事を。
ぐれ兄の事をハニーと呼ぶなんて考えるだけでキモいけど、肉を切らせて骨を断つという言葉があるように、仕返しを達成するためには自らを犠牲にしなければならない時もあるのだ。
そして僕は当主の屋敷に赴いてぐれ兄と会って、「やぁ、僕の愛しのハニー。さびしくて会いに来ちゃった」と言ってやった。
気持ち悪すぎて吐くかと思ったよ。顔色が悪くなったぐれ兄も、吐き気をもよおしていたようだけど。
その翌日もハニーアタックを仕掛けたところ、兄さんから「紫呉が本気で嫌がっているから、もうやめてやれ」と言われた。
兄さんに根回しして攻撃を止めさせるなんて、ぐれ兄は相変わらず自分は動かないで周囲を操る影の支配者タイプだ。
それぐらい狡猾じゃないと、草摩家に改革をもたらそうとしている
「建視さんが紫呉兄さんをハニーと呼んでいたのは、仕返しだったんですね。私はてっきり、建視さんはそっちのケがあるのかと」
利津兄が笑顔でとんでもない事を言ったから、僕は反射的に「そんなケは無いから!!!」と言い返した。
僕が突然大声を出したせいで驚いたのか、杞紗がビクついている。ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。睨まないでよ、燈路。
「ひぃぃぃぃっ! ごーめーんーなーさーいーっ! 建視さんがホモは撤回します、勝手な誤解をしてごめんなさいぃぃっ!!」
スイッチが入ってしまった利津兄の脇腹をプッシュして、大人しくさせた。これにて一件落着……じゃない。
僕がぐれ兄をハニーと呼んでいた事は噂になって一族中に広まっているから、利津兄と同様の誤解をしている人はいるかもしれない。
ぐれ兄への仕返しは果たした。だが、そのための犠牲は……あまりに大きかった……!!
「慊人にさ……言われた通り集合したけど、慊人は俺らの呪いが解けた事をもう知ってるじゃん? それってなんか、場の空気が凍りそう……」
春の懸念はもっともだな。
慊人がどういった話をするつもりなのか解らないけど、今までの事を謝ろうと考えているなら止めた方がいい。すでに不快感を露にしているリン姉は、謝って済む問題かと逆上しかねない。
「……大丈夫だよ。少なくとも俺達は凍って……ないと思うし」
そう答えた由希は、「……ちょっと不安だった」と本音を零す。
「呪いが解けたら俺達……ぎこちなくなっちゃうのかな……って」
「大丈夫……俺はいつも由希を愛してる……」
春が危うい発言をしたせいで、広間の隅にいるリン姉が嫉妬の炎を燃やしている。
「え、あ、うん、ありがとう、リン見てる。すっごい見てる!!」
春がリン姉の頭を撫でて宥めている時、綾兄と楽羅姉と紅葉が広間にやってきた。
浮気の証拠写真は撮れたのかと紅葉に聞く前に、夾が広間に足を踏み入れる。
「なんだ……? 慊人、まだ出てこないのか……」
「そういうキョン吉は、どこをほっつき歩いていたのかな!?」
綾兄は自分の勝手な行動を棚に上げて、夾を指差して問い詰めた。
「え!? いや……本家って、来るのまだ2回目だから……いや、3回か? めずらしくてさ……」
宴会に出席できなかった夾は、本家に近寄る事自体が稀だ。夾の発言を聞いた元・十二支の多くが、気遣うような表情を浮かべたけど。
「そうかい、そうかいっ。ド庶民のキョン吉にはすぎたるデカさと豪華さを兼ね備えた屋敷だが、臆することなくズズイと徘徊しまくってくれて構わないよ!!」
綾兄は夾を気遣って茶化している訳じゃなく、素で失礼な発言をした。ここまでくると逆にすごいよ。そんな綾兄に、憧れの眼差しを向ける利津兄もどうかと思うけど。
「皆さん、よろしいでしょうか。慊人さんの準備が整いましたので……」
慊人の世話役が声をかけてきた。程無くして広間に姿を現した慊人を見て、僕を含む物の怪憑き全員が息を呑んだ。
▼△
Side:慊人
皆に大事な話をする日。僕は生まれて初めて、女らしい装いをした。
夜の闇のような黒地に、満開の赤い椿が描かれた振袖。それと椿の造花をあしらった髪飾り。僕の身を飾るこれらは、紫呉からのプレゼントだ。
――お別れを記念して。
紫呉にそう言われた時、僕と別れるのがそんなに嬉しいのかと思って怒りと悲しみがごっちゃになった。
――そうだと思った、紫呉は1番あっさり僕を捨てると思ってた!! 嫌い……嫌いだ、大っ嫌い!!
感情に任せて紫呉の顔を引っ掻いたら、「誰が“捨てる”なんて言いましたっけ」と反論された。
――お父上が望まれた自分とようやく「お別れ」して、新しい君に変わるんでしょう? だから、記念にプレゼント。
僕は思わず息を呑む。1番遠くにいるような気がした紫呉が、僕の変化を祝ってくれるなんて思ってもみなかったから。
――おめでとう。新しい貴女を歓迎しますよ。これから貴女がどう生きていくのか楽しみです。
だけど、僕は……。
「慊人さん、お支度は整いましたか?」
世話役の
古参の世話役達は考えが大きく変わった僕と距離を置いているので、僕の側で働き始めて1年未満の
楝の世話役の中には「御当主が方針を変えられたなら、古い人達は解雇したらいかがです?」などと言ってくる人もいるけど、今まで僕を支えてくれた彼女達を切り捨てる事はしたくない。
古参の世話役達とはよく話し合って、和解に繋げたいと思う。口で言うほど簡単な事じゃないと解っているけど。
自室から出た僕は有明さんの後ろをついて歩く。
皆はどんな心境で僕を待ち構えているのだろう。全員の“絆”が無くなったから、僕に対する畏敬の念は消えたに違いない。
僕を恨んでいるのか、疎んでいるのか、憎んでいるのか。そう思ったら、緊張と恐怖に押し潰されそうになった。
「皆さん、よろしいでしょうか。慊人さんの準備が整いましたので……」
有明さんが広間に集まった皆に声をかけた。僕は深呼吸をしてから広間に入る。
僕が女の格好をしているせいか、みんな目を丸くしていた。
はとりと
「はとり……紫呉は?」
僕が問いかけると、はとりは申し訳なさそうに「……わからない」と答えた。
紫呉がいそうな場所には心当たりがある。有明さんに頼んで、紫呉を連れて来てもらおうか。
でも、あの場所は僕と紫呉にとって思い出の場所だ。代わりの人をあの場所に行かせたら、今度こそ紫呉は遠くへ行ってしまいそうな予感がする。
「…………あ、慊人さん……まさか、私と同じ趣味に……っ、走……っ」
ショックを受けたような顔をした利津の発言で、僕の物思いは彼方へと吹き飛ばされた。
普通の
「違う……これは……」
紫呉からのプレゼントだとは言いづらく、言葉を飲みこんで皆の近くに正座する。“特別”な存在のために用意された上座には、もう二度と座らない。
「……君達が……ようやくありのままの姿に戻れたように、僕も……ありのままの姿に戻る。君達は自由だ。……遅くなったけど、今まで、今……まで……」
はとりにも、由希にも、建視にも、夾にも、杞紗にも、燈路にも、紅葉にも、
苦しめて、ひどいことばかりしたのに、「ごめん」の一言で片づけてしまっていいのか。
僕は出てこなかった謝罪の言葉の代わりに、自分の決意を述べる。
「僕は……まだ
夾の父親は、夾が「外」で“普通”に生きるなんて絶対に認めないと頑なに言い張っている。
残留思念を読む依頼を勝手に引き受けた者は、建視が力を失ったせいで相手方に謝る羽目になったから、建視を働かせて大損した分を取り返させろと訴えていた。
自由を脅かされているのは夾や建視だけでなく、他の皆も同様だ。
十二支の秘密を知る「中」の住人は、口止め料として様々な優遇措置が与えられている。
それが無くなる事を恐れた者達が、呪いが解けても彼らは十二支だった事に変わりないのだから、予定通り草摩の「中」で生活してもらうべきだと主張しているのだ。
自分の意見を強く押しつけてくる人達を、“神様”でも“特別”な存在でもない僕が説き伏せるのは並大抵の事ではないだろう。でも、それでもやらなくてはいけない。
「だって、僕はこれでも当主なんだから……」
仲間だった彼らの本当の自由を守る事が、償いになるのかどうかは解らない。だけど、これが僕の選んだ道だからやり遂げたいと思う。
皆に話し終えた後、椿が植わっている庭に面した縁側に向かう。紫呉は昔と同じように、縁側に腰掛けて本を読んでいた。
昔の僕は父様に1番愛されていた訳じゃなかったと知って酷く落胆して、誰かに好きだと言ってほしくて紫呉にあの問いを投げかけたけど。
“好き”という言葉だけが欲しかった訳じゃない。1人でも平気そうな紫呉の姿を見たら、なんだか腹立たしくなって振り向かせてみたかったんだ。
――手に入ったと思ったら、他の奴らのもとへもヒラヒラと舞い飛んでいかれて……裏切り者。
裏切ったのは紫呉も同じなのに。紫呉は狡い。まるで自分には、悪いところはないかのように振る舞う。
――僕は狡くてお子様だから、自分が傷つくなんて嫌だし損なんて御免だ。一度手に入れたなら絶対手放したくないし、誰にも触らせない。
普段はすました顔をしているくせに、酷く自分勝手で嫉妬深くて独占欲の塊で。
――拒絶するなら今のうちにどうぞ。お陰様で僕も多少、譲歩をおぼえたつもりだから。逃げだす猶予をあげるよ。でも、もし、もう一度僕のもとへ来たのなら……わかるよね。
そんな紫呉をこわいと思うのに、彼の躰すべてを飲み込みたいとも思う。
細胞から骨の中まで深く深く侵入して飲み込んで滲み込ませて、僕の匂いで満たし尽くして息もつけなくさせてみたい。
この欲深い気持ちは、女の内から溢れでるの? とくとくと鳴っている胸を意識しながら、僕は紫呉の隣に正座する。
紫呉が贈ってくれた振袖を着たんだから僕を見てほしいけど、彼の視線は本に固定されている。腹立たしいけど、本を奪うような事はしない。
「……皆、驚いてた。複雑そうだった」
皆に謝れなかった事も報告したけど、紫呉は相槌も打たなかった。
「もう1人……楝とも話をしなくちゃいけない」
「つまり、そういう人生に僕も付き合えと?」
そう言って、紫呉は本をぱたんと閉じた。それでも紫呉は僕を見ないから、段々不安になってくる。
「……怒ってるの?」
「少しね。だって君がもう一度来るのを、ずっとずっと待っていたんだ」
ようやく振り向いた紫呉は、皮肉や冷たさが見当たらない微笑みを浮かべた。
右目の下の引っ掻かき傷が消えていなくて、済まなく思うと同時に薄暗い喜びもおぼえる。
「……似合っているよ。綺麗だ」
紫呉の賛辞は、心から発せられたものだと解る熱を帯びていた。
彼の手が僕の髪に触れ、ひどく優しい手つきで撫でてくる。僕の胸の内から愛しさが次々と込み上げて、鳥肌が立つ。
「……好き」
初めて自分の想いを伝えた。
熱に浮かされたように僕は、「好き……」と告白を繰り返す。何十回言ったところで、底なしに溢れてくるこの想いは言い表せない。
僕と紫呉は、どちらからともなく唇を重ねる。ただひたすら互いを求め合うキスは、言葉にできないほど倖せだった。
慊人の世話役の名前は独自設定です。
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73「誰よりも好きだよ」
Side:
7月22日の土曜に、
という情報を草摩
だって、これからは草摩夾が透君を1人占めしてしまうのよ。少しぐらい意趣返しをしても許されるでしょう。
「くぁ~っ、けっこう歩いたなぁ」
動物園を見て回った後、ありさがはそう言いながら背伸びをした。
キリンがいなかった事はちょっと残念だったけど、猫と触れ合う可愛らしい透君を見る事ができたから満足だわ。
「楽しかったわね……」
「はい、とっても!!」
にこやかに笑う透君とは対照的に、草摩夾は疲弊していた。透君を見る度に浮かれて、私やありさの無茶振りに振り回されて、気分の乱高下が激しかったものね。
「あ……っ。帰る前にお手洗いに行ってきて、よろしいですか?」
「1人で平気かー?」
「はい……っ、いってきますっ」
普段なら透君についていくけど、草摩夾と腹を割って話すにはいい機会だからその場に残った。
草摩夾を改めて観察して、以前とは別人のようだと思う。自然に笑うようになり、草摩夾の心に暗い影を落としていた思念はいつの間にか消えた。
それと同時に、人とは違う妙な電波も感じなくなったわ。透君と両想いになれた事で憑き物が落ちて、普通の人間らしくなったといった処かしら。
「な……っ、なんだよ……?」
「連れていってしまうのね……」
草摩夾は、こことは違う場所で自分を試してみたいと思っている。できれば透君も一緒に、と。
自分の心の中を言い当てられた草摩夾は、頬をわずかに赤らめた。
「……そうね、いつかはそんな時が来るって知っていたわ。でも……」
同級生から忌避や敵意を向けられて学校ではいつも1人ぼっちだったあの頃、帰り道に見上げる夕陽は震えるくらい寂しく見えた。それなのに。
――おおーっ、今日もまっ赤な夕焼けっ。
――はい……っ。
ありさや透君が側にいるだけで、夕陽が優しい色に見えた。のびていく影が1つじゃないと気付いて、泣きたくなるほど嬉しかったわ。
親友達とずっと一緒にいたいと思っていたけど、それは無理な願いだと解っている。
透君はきっと、草摩夾についていく。ありさも
――あんた達もいつかさ、それぞれ別の道を歩きだすとしてもさ。薄情とか寂しいとか、そんなことないよ。続いていくものは、きっと必ずあるはずだから。
住む場所が離れてしまっても私達の友情は決して途絶えたりしないのだから、会おうと思えば会える。そう自分に言い聞かせても、やっぱりさびしい。
「勝手よ……」
片手で顔を覆って俯いた私は、草摩夾を責める言葉を投げつけた。
「……あ、ご……っ、そ、それでも俺は」
草摩夾の言い訳を遮るように、私は「今ここで」と告げる。
「『ママ』って呼んだら許してあげる……」
「え……なにソレ、死ねってこと……?」
「はーなーじーまっ、あんまもうイジめてやんなや」
ありさに頭を軽く叩かれて、私は仕方なく「そうね……」と答えた。舌打ちをしてしまったけど、ご愛嬌というやつよ。
「おい、きょんっ。あたしらはこう見えて、あんたの事好きだよ。バカだけど憎めなくて、いい奴だっ」
「バカだけど……」
「バカだけどなっ」
ありさの好意的な言葉に戸惑っていた草摩夾は、バカと言われて沈んでいた。物の道理を知らないバカだと言っている訳じゃないんだから、そこまで落ち込まなくてもいいでしょうに。
「透はさ……あたしらの親友で、仲間で、家族なんだ。……本気の本気で頼んだからね?」
真剣な口調になったありさは、今日子お母様の分も頼んでいるに違いない。
透君は退院した後、今日子お母様の言葉の真意を草摩夾に伝えた。それを聞いた草摩夾は「紛らわしいんだよ……」と呟いて、脱力していたわ。
それだけで済ませたらオハナシアイの必要があったけど、草摩夾は「随分遅くなったけど、ツケは必ず払う。一生分守るよ」と宣言した。
この後、草摩夾は透君を誘って
さすがにそこまで邪魔するつもりはないから、私とありさは先に帰る事にした。
透君に何も言わずに帰るのは気が咎めるけど、透君の姿を見たら私の気持ちが変わってしまうかもしれないもの。
「なぁ。さっき、きょんに向かって『ママ』と呼べっつってたけど、
動物園を後にして駅に向かって歩いている途中、ありさは質問を投げかけてきた。
私は間を持たせるために「そうね……」と言ってから、自分の心に問いかけてみる。
「好きだけど……恋と呼ぶには熱量が足りないと、最近気付いたわ……」
「そんじゃ、リンゴ頭の事はどう思ってるんだ?」
少し前だったら建視さんは友達だと断言していたけど、今は……違う。心境の変化の切っ掛けは、今日子お母様の遺品に宿る残留思念を4人で共有した一件でしょうね。
他人を害してしまった忌まわしい力を使って大切な人達の役に立てた事は、私の心に大きな変化をもたらした。
役に立てたからといって、小学生の時に彼を傷つけてしまった罪は消えないけど。それでも私の力は“百害あって一利なし”じゃなくて、“百害あるけど一利はある”程度には言えるんじゃないかと思えるようになった。
私がそう言ったら、
――依頼を受けて残留思念を読むのは久しぶりだから、緊張をほぐしたかったんだ。
あのとき伝わってきた嫌悪感は、とても根深そうだった。
建視さんは草摩家の仕事に触れないでほしいと頼んできたから、彼の心の
去年の2月に私が自分の罪を打ち明けた時に建視さんは受け入れてくれたから、建視さんが抱え込んでいる心の痛みや苦しみを打ち明けてほしいと思う気持ちもあった。
だけど、建視さんは気さくな割にどこか他人を拒絶している。
去年、皆で今日子お母様のお墓参りをした時、透君が「建視さんが悲しい気持ちを抱えていらっしゃるならば、どうか私に話して下さい」と言ったら、彼は笑ってお礼を言って受け流したとありさが話していたわ。
私がいきなり「貴方の悩みを話して頂戴」なんて持ちかけても、建視さんは心の痛みや苦しみとは全く関係のない悩みを話しそう。
そもそも建視さんが現在頭を悩ませている事と言ったら、私が藉真さんの家に通っている事だろうから、私が建視さんの悩みを聞くなんて偽善もいい処よ。
私がうだうだと迷っている間に、建視さんは変わった。草摩家特有とも言えるあの暗い思念が消えて、心の底から晴れ晴れとした笑みを浮かべるようになっていた。
建視さんは自力で……あるいは他の誰かの力で、心の闇を吹っ切る事ができたのでしょう。私の出る幕なんて無かったと思ったら、無力感に襲われた。
――残留思念を読む力が無くなったんだ。
建視さんは申し訳なさそうな顔をして打ち明けてきた。
自分の意志では制御できない力が無くなったのは良い事なのだから、「よかったわね」と言うべきだったのに。
彼が“仲間”ではなくなって、私は落胆してしまった。
――花島さんと師範の仲を応援するよ。僕にできる事があったら、何でも言ってね。
作り笑いを浮かべた建視さんがそう言った時、胸が締めつけられるように苦しくなった。
悲しみと怒りと後悔が混ぜこぜになった痛みを感じた瞬間、私はようやく自覚した。
建視さんを異性として好きになっていた事を。
――恐ろしいなんて思わないよ。他人の気持ちを優先する本田さんの友達の花島さんが、面白半分に力を使って人を攻撃するとは思えないから。
今思えば、建視さんがそう言ってくれた瞬間から、彼は特別な存在になっていた。
私の力を知った上で臆する事なく接してくれて、なおかつ似たような力を持つ人なんて建視さんが初めてだったの。
だから、“友達”であり“仲間”でもある貴重な存在を失いたくないと思った。
建視さんが私に向けてくる好意に恋情が混じるようになっても、私は気付かないフリをした。
わずかな気持ちのすれ違いで絶縁状態になってしまう場合もある恋人同士より、喧嘩をしても仲直りをすれば元通りになれる友達同士の方が強固な絆を結べると思っていたから。
けれど私は、“友達”であり“仲間”でもある建視さんに酷い事をした。建視さんが見ている前で、藉真さんに女として見てもらえるように振る舞った。
私と建視さんは付き合っている訳じゃないし、藉真さんとは滅多に会えないから機会は逃せないし、私が誰に恋しようが自由だと自分に言い訳をして。
建視さんの想いを蔑ろにしてきたのよ。
「……私は今まで建視さんの好意に甘えて、残酷な振る舞いをしてきたわ……にも拘らず、『好きになったから付き合って』と言うなんて、あまりに身勝手よ……」
「誰かを好きになるのは自分の意思じゃどうにもならねぇモンだから、心変わりをしても身勝手だと責められる事じゃねぇと思うけどな。恋人がいるのに他の奴に浮気したら、問題になるけどよ」
それより、とありさは言葉を続ける。
「リンゴ頭はあれでモテるからよ。花島が頭の中でグルグル悩んでいる間に、横から掻っさらわれちまうかもしれねぇぜ?」
そんな事は無いとは言い切れない。
建視さんに恋焦がれるファンは大勢いるし、
ありさの言う通りになる可能性は多分にあるのだから、いつまでも悩んでいられないわね。
▼△
Side:建視
夏休みに入って間もない7月23日。今日は本田さんの快気祝いパーティーが、草摩温泉の宴会場で開かれる。
待ち合わせ場所として指定したゆうひが丘駅には、パーティーの出席者が集まっていた。
まずは主役の本田さん、
草摩家の出席者は、由希、夾、
本田さんと草摩家の両方に関わりのある出席者として、師範の秘書兼弟子のみつ先輩と、綾兄の店で働く
紅野兄にも声をかけたけど、生活基盤がまだ安定してないから出席できないという返事がきた。
一行は草摩温泉の送迎バスに乗り、約2時間後に目的地に到着した。
木造2階建ての純和風の旅館は、約8年前に訪れた時とほとんど変わってない。前回は兄さんや紅葉と一緒に、日帰りで温泉に入りに来たんだよな。
「み……皆さん、ようこそいらっしゃいました……っ」
真紅の日除け幕が飾られた玄関から利津兄が出てきて、出迎えの挨拶を述べた。淡緑の色留袖を着こなした利津兄は、初々しい
「……利津兄、職場でも女装している訳?」
「ご……っ、ごめんなさい、ごめんなさい、今すぐ脱ぎますぅぅ!」
燈路の言葉にショックを受けた利津兄は、泣きながら自分の帯を解こうとしている。
玄関先でストリップをしたら色々と大変だ。僕は利津兄の脇腹をプッシュして大人しくさせた。
「ごめんなさいぃぃぃ! 職場での女装を許したのは、親馬鹿なこの私! 草摩温泉の影の大番長であるこの私が謝ります、世界中にあやまりますわぁぁぁぁあ!! ごーめーんーなーさーいー!」
高らかに叫んだ青白い顔をした和服姿の女性は、利津兄の母親の
「オレは女装が悪いって言った訳じゃないよっ。ちょ、離れてっ!」
他では見られない熱烈な歓迎を受けて、僕達は旅館に入った。
利津兄の案内で辿り着いた宴会場は、40畳ほどの広さの畳敷きの大広間だ。
白いテーブルクロスがかけられた脚の短い円卓が5つ置かれ、1つの円卓につき5~6人分の座椅子が用意されている。
「これは誰がどこに座るのか決まっているの?」
僕の質問に、利津兄は「決まっていませんので、お好きな席に座って下さい」と答えた。
「ボク、トールと同じテーブルがいいーっ」
「わ……私も……っ」
「オレは杞紗の隣に座るよ」
紅葉と杞紗と燈路は真っ先に希望を述べた。
「夾は本田さんとは違うテーブルでいいよな?」
由希は笑顔でサクッと、付き合い始めて1ヶ月も経ってない恋人同士を引き裂く提案をした。
抵抗しても無駄だと悟っているのか、夾は「へいへい」と適当に応えている。
「余裕だね、夾……本田さんとずっと一緒にいられるから……」
「……別れればいいのに」
隠れ本田さんラブ勢であるリン姉の本音は、紅葉達に囲まれている本田さんの耳には届いていないだろう。
「別れたら、とっておきの毒電波をお見舞いしてやるわ……」
「死んでも別れねぇよ!!」
「んじゃ、じゃんけんで決めっか」
本田さんと同じテーブルに着く権利を巡って、紅葉と杞紗と燈路と花島さんとリン姉と魚谷さんと恵君が、仁義なきじゃんけん勝負を始めた。
じゃんけんに参加しなかった人達は、先に好きな席に座っている。兄さんのいるテーブルに行こうとしたら、楽羅姉が僕に近寄って話しかけてきた。
「じゃんけんが終わるまで待ったら? 咲ちゃんが負けたら同じテーブルに着けるよ」
「……僕が余計な世話を焼いて恋のキューピッド役を申し出たせいで、花島さんとの仲が気まずくなっちゃったんだよ」
花島さんは皆と一緒にいる時は僕と普通に話してくれるけど、僕と2人きりになると彼女の口数が減ってしまうのだ。
喧嘩したなら仲直りするための努力に励めばいいが、喧嘩した訳じゃないからな。何をどうすれば、花島さんは以前のように接してくれるようになるのか解らない。
今日のパーティーが好転の切っ掛けになればいいと思っているけど、焦って花島さんに付きまとったら逆効果だ。
花島さんが心置きなく食事するためにも、僕は別のテーブルに着いた方がいいだろう。
「Unglück!!(ついてない!!)」
じゃんけんの勝敗が決したらしい。勝利の栄冠に輝いたのは、杞紗と花島さんとリン姉と魚谷さんと恵君だ。
「女の子に囲まれて……ドキドキのシチュエーション……」
「お、おいっ。杞紗にちょっかい出すなよ」
「俺の好みのタイプは年上の女性だから、安心して……」
恵君とのやり取りを終えた燈路は紅葉と一緒に、夾と由希と春のテーブルに向かった。僕と兄さんが着いたテーブルの席には、綾兄と美音さんと楽羅姉が座っている。
残る1つのテーブルには、本田さんのおじいさんと花島さんのおばあ様、師範とみつ先輩と利津兄と女将さんが着席した。
仲居さん達が料理と飲み物を運び終えた後、主役の本田さんが挨拶する事になった。
立ち上がった本田さんは緊張しているのか、「え、えと、あの、その……っ」と言葉をつっかえている。
「きょ、今日はお集まり頂き、誠にありがとうございます……っ。このように立派な場所で快気祝いパーティーを開いて頂けて、本当に嬉しくて倖せで……胸が一杯で、私は果報者です……っ」
本田さんがぺこりとお辞儀をして着席すると、幹事の紅葉が「カンパイするから、みんなコップを持ってねっ」と呼びかける。
「それじゃ、トールのケガが良くなったことを祝ってーっ」
「「「「かんぱーい!」」」」
歌うように響き合った声は、賑やかなおしゃべりに変わった。僕は上品な味付けの会席料理に舌鼓を打ちながら、楽羅姉と話をする。
「保育園で働き始めたって聞いたけど、調子はどう?」
「うーん、最近ちょっとヘコんでいるかな。子どもと関わる仕事をするのは昔からの夢だったけど、やっぱり理想と現実は違うね。楽しい事より、辛い事の方が多いよ」
異性に抱きつかれると変身してしまう呪いがハンデになっていたから、楽羅姉は保育士の資格が取れる短大には通わなかった。
今は保育補助としてパートタイムで働きながら通信講座で試験対策をして、保育士の資格取得を目指しているらしい。
「でも、へこたれないよ。無理だと思って諦めていた夢が、ようやく叶うんだもの」
「楽羅姉なら絶対に良い保母さんになれるよ」
慰めじゃなくて本音だ。面倒見が良くて子ども好きな楽羅姉にとって、天職だと思う。
「えへへ、ありがと。建ちゃんは進路どうするの?」
「とりあえず進学はするけど、就きたい職はまだ決まってない」
「進路は大事だからな。じっくり考えて決めればいい」
会話に入ってきた兄さんはそう言うけど、資格や専門的な知識が必要な職だと進学先が限られてくる。夏休み中に、就きたい職の絞り込みをしなきゃな。
「ケンシロウも進学するのかいっ。それは重畳っ。女子大生とのめくるめくラブロマンスが待ち構えているキャンパスライフを、存分に楽しみたまえっ」
不自由だった自分達の分まで……という思いが感じられる台詞だが、綾兄はそんな意味合いは含ませていない。綾兄とぐれ兄は呪いという枷があったにも拘らず、大学時代も女遊びをしていたらしいからな。
「そういえば
兄さんの問いかけに、綾兄は「うむっ」と答える。
「少々手狭だが、大学から程近いマンションの一室を押さえる事ができたよっ。ボクとしては、見晴らしのいい場所に由希御殿をドカンと建設したかったのだがねっ。不動産会社の者に却下されてしまったのだよっ」
綾兄の物件探しに付き合う羽目になった不動産会社の人は、ご愁傷様としか言いようがない。
それより1人暮らしか。兄さんと繭子先生は近いうちに結婚するだろうから、僕も本家から出て生活する事を考えた方がいいな。
ビンゴ大会が始まる前に、トイレに行っておこうと思って席を立った。用を足して宴会場に戻る途中で、花島さんとばったり出会う。
「建視さんに話があるの……」
話って何だろう。もしかして師範との仲が進展しないで困り果てて、僕に協力を頼もうと思ったのかもしれない。
キューピッド役を名乗り出たのは僕だから、ダメとは言えないよな。
それに悪い事ばかりじゃない。花島さんの恋の応援を引き受ければ、以前のように話してくれるようになるはずだ。
自分にそう言い聞かせながら、僕は外で話をしようと提案した。廊下で立ち話をすると、師範が通りかかるかもしれない。
ガラス戸を開けて沓脱石の上に並ぶ雪駄に履き替え、池にかかった赤い御太鼓橋が雅な趣を添える庭に出た。
正午は過ぎているが、頭上高くに昇った太陽は容赦なく照りつけてくる。炎天下で立ち話をするのはキツイから、旅館の近くに植えられた背の高い庭木の木陰に向かった。
「それで、話って何かな?」
気楽な口調で促してみたけど、花島さんは言葉を探すように視線を彷徨わせていて中々切り出そうとしない。
もじもじする花島さんって初めて見たな。可愛いけど、花島さんが乙女モードに入るのは師範絡みの時だ。
やっぱり師範に関する話かと思った矢先、ようやく彼女は口を開く。
「け……建視さんが好き……だから、私と付き合ってほしいの……」
何を言われたのか理解できない。僕が好き、だって? それって友達として? だったら、付き合ってとは言わないか。
いや、待て。どこかへ行くのに付いてきてほしいといった意味合いで、付き合ってと言ったのかもしれないぞ。待て待て、それ以前に……。
「花島さんの好きな人は、師範だよね?」
「藉真さんへの想いの大半を占めるのは、憧れの気持ちよ……想う相手を私だけのものにしたいと願ったのは、建視さんが初めて……」
花島さんは恥じらうように目を伏せて、頬をわずかに赤く染めた。……僕の願望が見せている幻覚だろうか。しかも、とんでもないことを言われたような。
落ち着け。ダメだ、無理。顔に集まった熱のせいで、僕の脳味噌がゆだってオーバーヒートを起こしている。冷房が効いた館内で話をすればよかった。
何が切っ掛けで心変わりをしたのかとか、いつから僕の事を異性として意識してくれるようになったのかとか。聞きたい事は幾つもあるが、そんな事はどうでもいい。
いや、どうでもよくないから後で聞くけど。今は、告白してくれた花島さんに応えるのが最優先だ。
「勇気が出せなくてちゃんと伝えられなかったけど、僕は花島さんのことが誰よりも好きだよ」
言葉にする事はないだろうと思っていた想いを、ようやく言えた。すっきりしたというより、少しだけ後悔している。
好きな女の子に告白されるのは舞い上がりそうなほど嬉しいけど、僕の方から気持ちを伝えて彼女を手に入れたかったというか。まぁ、つまらない意地みたいなものだ。
「名前で呼んで頂戴……」
上目遣いでお願いしてきた花島さんを見たら、後悔は一瞬で掻き消えた。
「さ……咲しゃん」
今、とっても大事な場面なのに噛むなんて!
自分の残念さに軽く絶望して片手で顔を覆うと、花島さん……咲さんが近寄ってきて僕の腕にちょんと触れた。
滑舌レベルが更に下がるからボディタッチは控えてほしい。でも、僕に触らないでなんて口が裂けても言えないよ!
「呼び捨てて構わないわ……建視……」
「咲……っ」
愛しくて堪らなくなって、咲を抱きしめていた。咲は驚いたように身を竦めたけど、おそるおそるといった感じで僕にしがみついてくる。
恋焦がれる
世間一般の倖せは夜空に輝く星と同様に手が届かないものだと思っていたけど、手が届いた。目眩がするほど嬉しくて、目頭が熱くなる。
「建視……? どうして泣いているの……?」
「これは嬉し涙なんだけど、色々あって……上手く言えないや」
「それじゃ、少しずつでいいから話して頂戴……これからは楽しい事や嬉しい事だけじゃなくて、辛い事も分かち合っていきたいから……」
すでに解けたとはいえ、十二支の呪いを打ち明けるのは少し躊躇いがある。でも、咲なら受け止めてくれるだろう。
「話すよ、必ず」
約束の言葉の代わりに、僕は彼女にキスを贈った。
次回は最終話です。
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高3・エピローグ
74「いってきます!」
初めて見た時は変わった制服だなと思ったけど、着続けているうちに自分の一部のように馴染んでいたから、なんだか寂しい。
「それじゃ、いってき……兄さん、どうしたの?」
家の玄関先で見送りに立った兄さんが片手で顔を押さえたと思ったら、トラウザーズのポケットから取り出したハンカチで目元を拭いている。
「
「その節は大変申し訳ございませんでした!」
僕は兄さんに一生頭が上がらないだろうな。
「おは……」
しばらくして、春が
春が急にそんな行動に出た原因は、リン姉が師範の家でまかないさんとして働き始めたからだろう。
リン姉は師範やみつ先輩を異性として意識してないけど、自分以外の男が彼女の手料理を毎日食べる事に春は思う処があったのかもしれない。
春とリン姉が一つ屋根の下で暮らす事に春の両親は難色を示したらしいが、反対するなら駆け落ちしてやると春が仄めかしたため、節度を持って同居生活を送ると誓う事を条件に認めたようだ。
「おまたせーっ」
少し遅れてやってきた
「その花束、
「うんっ! トールのこと大好きだし、感謝とお祝いの気持ちを伝えたいからっ」
生徒会長になった紅葉は
紅葉にとって本田さんは、特別な存在だ。初恋の相手で、母親同然の
「本田さんと
そう言いながら、春はさびしそうに微笑んだ。
僕は草摩の本家から通える都内の大学に進学が決まったけど、いい機会なのでマンションで1人暮らしをする事にした。
あくまで自立が目的であって。
「顔を見せに来いって兄さんに言われているから、週に1度は帰ってくるよ」
「ケンは料理がヘタだから、週に1度はまともな食事をとらないとねーっ」
「僕は料理も得意な旦那さんを目指しているからな。練習の末、炊飯器でご飯を炊けるようになったぞ」
「それくらいの事で自信たっぷりに言われても……」
紅葉や春とおしゃべりしながら登校するのも、今日が最後か。などと僕が感傷に浸っているうちに、送迎車は海原高校を目指して走り出した。
「おはよー、けんけん!」
「おはよう、ろっしー」
「おはよー、けんけん!」
「なんで2回も言うんだよ」
「だって学校で会って挨拶するのは、これで最後だから……っ」
「やめろよ、ろっしー。涙が出ちゃうだろ。男の子だもん」
教室での友達とのアホなやり取りも、名残惜しく感じてしまう。おセンチな気分になっているのは、僕とろっしーだけじゃない。
「うう……っ、建視君と会えなくなるなんて嫌ぁ~」
「建視君と同じ大学に行けたらよかった……!」
キン・ケンのメンバーが、早くも涙に暮れている。卒業式はまだ始まっていないのに、このまま泣き続けたら脱水症状になるんじゃないか。
「おはようございます、建視さん……っ」
教室にやってきた本田さんは、いつもの明るい笑顔を浮かべている。
あの笑顔を毎日のように見る事ができなくなるのかと思うと、宝物を失くした事に気付いたような寂しさを覚える。
「本田さん、おはよう。夾もおはよーさん」
「おはよう」
生涯を通じて武術を極めると決めた夾は礼儀礼節を重んじるようになったらしく、夏休み明けから同級生に対しても真面目に挨拶をするようになった。
夾は卒業後、師範の知り合い筋の道場がある遠方の土地で農業手伝いのバイトをしながら、道場に通う事にしたようだ。
新天地で指導者として必要な事を学んだ夾は、いつか師範の道場を継ぐのだろう。
「うーっす」
「おはよう…………魚谷さん」
「なんで間を置いたんだよ」
魚谷さんは
なんて事は教室では言えないので、笑って誤魔化した。
同棲するといっても魚谷さんは専業主婦になる訳じゃなく、紅野兄が住む地域にある特別養護老人ホームで働きつつ、介護福祉士の資格取得を目指すようだ。
紅野兄は麻痺が残った左足のリハビリを続けながら、主夫業にチャレンジするらしい。家事なんてやったことなさそうな紅野兄が主夫になれるのか心配だけど、家庭科の成績は良かったらしいから大丈夫だろう。
「おはよう、建視……」
「おはよう、咲。今日は髪を結ってないんだね」
「ええ……なんだか気分じゃなくて……」
そう言いながら波打つ黒髪を掻き上げる咲は、色っぽく見えた。学校で会うのは最後だからと、気分が盛り上がった輩が咲に群がるかもしれない。目を離さないようにしよう。
僕が密かに決意した時、廊下で悲鳴じみた甲高い声が聞こえた。由希の名を連呼しているから、海高の王子様が到着したようだ。
「お……おはよう」
疲労の色が見える由希に、クラスの女子が次々と挨拶しに行っている。涙を流す彼女達は由希の側から離れようとしないので、僕達は由希に声をかける事すらできない。
他クラスのプリ・ユキのメンバーも3-Dの教室に集まってきて、由希を讃える会~The Final~が開かれようとした時、繭子先生がやってきた。
「ホームルームを始めるぞ。自分のクラスに戻れ」
「繭ちゃん先生、袴じゃないの?」
すけっちが残念そうに言った。僕も残念だ。繭子先生の袴姿を見たかったのになぁ。
「袴は着るのが面倒臭いからパスしたんだよ」
「そんなー。教え子の晴れ舞台なのにぃ」
「このスーツは新品だぞ」
我らが担任は黒のパンツスーツ姿だ。背中まで伸ばしていた薄茶色の髪を秋頃にバッサリ短く切ったから、繭子先生は更に凛々しくなった。
今でこそ繭子先生のショートヘアは見慣れたけど、髪型を変えたばかりの頃は心境の変化があって兄さんと別れたのかと勘繰ってしまったんだよな。杞憂だったけど。
まぁ、それも良い思い出だ。
僕はリボンに『卒業おめでとう』と書かれた花飾りを胸元につけて、体育館へと向かう。
下級生が作った紙花や紅白の幕で飾られた体育館の中は、切ないメロディの『卒○写真』の曲が流れていて、しんみりした雰囲気に包まれていた。
夾と僕と由希が続いて入場した途端、在校生の席から何十人分の泣き声が響く。本気で泣いている子が多そうだから、式の最中に具合が悪くなる生徒が続出するかもしれない。
保護者席を見遣ったら、ゼブラ柄のファーコートを着込んだ綾兄と、メイド服をお召しになった
綾兄の隣には、チャコールグレーのスーツを着た兄さんが座っていて。兄さんの隣には、藍色の和服をきっちり着こなす師範が着席している。
師範の隣席には驚いた事に、ダークスーツを身に纏ったぐれ兄の姿があった。ぐれ兄は多忙なのに、わざわざ時間を捻出したのか……って。
ぐれ兄の隣に座る、肩の下まで黒髪を伸ばした女性は
「まさか慊人が来るなんて……」
保護者席を見た由希が、驚きを隠し切れないように呟いた。
「俺達だけじゃなくて、
推測を述べた夾は苦笑している。
「咲と魚谷さんの卒業もだろ。本田さんと咲と魚谷さんと慊人は、茶飲み友達だし」
「あの4人が仲良くなるなんて予想しなかったよ……」
由希が感慨深げに言ったように、彼女達が出会った当初は慊人が本田さんを傷つけた事で遺恨を引きずるかと思われた。
でも、孤独だった慊人が本田さんに救われて友情を育んだ経緯を知ると、咲と魚谷さんは慊人に親近感を抱いたらしい。
慊人は相変わらず忙しい身なので気軽に会う事はできないけど、ぐれ兄が慊人のスケジュールを調整して彼女達が会う時間を作ってくれている。
人見知り気質の慊人は、咲に「あーちゃん」と呼ばれると未だに戸惑うが、そのうち諦め……いや、慣れていくだろう。
卒業生が全員入場し終えた後、司会役の先生が開式の辞を厳かに告げ、卒業証書の授与が始まる。C組のクラス委員長が代表で卒業証書を受け取った後、D組の番になった。
体育館の隅に設置されたマイクスタンドの前に立った繭子先生が、落ち着いた声で出席番号1番の
「魚谷ありさ」
「はい」
いつもは適当に返事をする魚谷さんだが、卒業式だからか真面目に応えた。
下級生と思しき女の子が「姐さぁぁんっ!」と叫ぶ声が響く。この声、どこかで聞いたような気がするんだけど……。
僕が記憶を探っているうちに、どんどんクラスメイトの名前が呼ばれていく。
「草摩夾」
「はいっ」
気合いの入った返事をした夾が起立するなり、「夾、大好きーっ!」とか「夾先輩、卒業しないでーっ!」という声が上がった。
今に至るまでモテている自覚が芽生えなかった夾は、驚いている。
「草摩建視」
「はい」
僕は返事をして立ち上がる。BGMとして流れるパッヘルベルの『カノン』の曲しか聞こえない。
式の最中は静かにしようねとキン・ケンのメンバーに事前通達しておいたから、皆はそれを守ってくれたようだ。
「草摩由希」
「はい」
プリ・ユキが騒ぐかなと思ったけど、意外にも静かだった。後で由希が答辞を読む時は、こうはいかないだろう。
次のすけっちが名前を呼ばれて元気よく返事をするのを聞きながら、僕は由希が原因となった騒動を思い返す。1番被害が大きかったのは、由希の進路に関する一件だ。
呪いが解ける前の由希の第一志望は都内の大学だったので、由希が関西方面の大学に進路を変更したと知ったプリ・ユキのメンバーに衝撃が走ったらしい。
由希と同じ大学に進路を変更する事ができたのは、一部の成績優秀者だけ。浪人してでも由希と同じ大学に行くと主張する生徒が後を絶たず、先生方は説得に苦労したようだ。
「
「はい……」
静かに返事をした咲が立ち上がった時、後ろの席にいる誰かがむせび泣く声が聞こえた。この声は、咲のお母様だろう。
咲は2年生の時に提出した進路希望調査票に、海外逃亡と書いたらしいからな。親としては、無事に卒業してくれて感無量なのだろう。僕達、似た者夫婦になれるね。
卒業後は自宅で家事手伝いをすると決めた咲は、「私は建視のお嫁さんになるから花嫁修業に励むわ……」と言ってくれた。
あの言葉を思い返すだけで、僕は天にも昇りそうなほど倖せな気分になれる。
健気で可愛い咲に美味しいものをお腹いっぱい食べさせ続けるために、僕は高収入を得られる会計士になるんだ!
「本田透」
「はい……っ」
本田さんは今までのように家事を行いつつ、道の駅でレジ打ちのバイトをするらしい。
師範の知り合いから庭付きの一軒家を格安で借りられたとはいえ、非正規雇用で働く夾と本田さんの生活は楽なものではないだろう。
苦労が多くなると人間関係はギスギスしがちだけど、本田さんと夾の仲が冷え込むとは思えない。むしろ、困難にぶち当たる度に2人の愛情は深まっていきそうだ。
3年D組の生徒全員の名前が呼ばれた後、クラス委員長の由希が代表で校長先生から卒業証書を受け取るため、壇上に登る。
下級生の誰かが「由希先輩、大好きです!」と叫んだのを切っ掛けに、次々と由希コールが飛び交って、繭子先生がマイクで注意して静かにさせた。
卒業証書授与の後は、卒業生代表による答辞だ。代表に選ばれた由希が壇上に向かう途中、プリ・ユキのメンバーが嗚咽まじりの歓声を上げた。
「ファイトだよ、マイブラザー!! ボクはここから君をすっごく見守っているからねっ!!」
綾兄の叫び声が1番大きいな。司会役の先生が「答辞は静かに聞きましょう。保護者の方にもお願いします」と注意しているよ。
「草木もようやく長い冬の眠りから覚め、生命の息吹が感じられる季節になりました。本日は私達255名のために、このような素晴らしい式を挙行していただき、ありがとうございます」
由希の答辞に華を添えるべく『旅立○の日に』のピアノ伴奏が流れているのだが、大勢の女の子が泣きじゃくる声の方が大きくて、そっちがBGMになっている。
落ち着きを保とうとしている由希の声音から、困惑と悲しみが如実に伝わってきた。
「……最後になりましたが、諸先生方のご健勝と、都立海原高校のますますのご発達を心より祈念して、答辞と致します。平成13年3月1日。卒業生代表、草摩由希」
由希が答辞を締め括ると同時に、盛大な拍手と歓声と泣き声が響き渡った。卒業式というより、人気アイドルのコンサートみたいだな。
こうして後輩達の別れを惜しむ声に送られて、僕達は海原高校を卒業した。
▲▽
本田さんと夾が旅立つ3月4日は、澄み切った青空が広がっていた。2人の門出を祝福してくれているような、良い天気だ。
東京駅の新幹線のホームには、本田さんと夾を見送りに来た面々が集まった。
慊人は所用があって来る事ができなかったけど、元・物の怪憑きは紅野兄を除いて勢揃いしている。
咲は御家族と一緒に来て、魚谷さんは明後日に出発だけど当然のように駆けつけた。師範とみつ先輩、美音さん、本田さんのおじいさんも旅立つ2人に声をかけている。
人に囲まれた本田さんと話す順番が回ってくるまで時間がかかりそうだから、先に夾と話そう。と思ったら、ぐれ兄に先を越された。
ぐれ兄は本腰を入れて慊人の補佐をするため、昨日から本家に戻って生活するようになった。
満さんと利津兄が結婚すると、親戚としてぐれ兄と長きにわたって関わる事になるんだけど……言わぬが花だろう。
本田さんと夾と由希とぐれ兄が同居していた家は空き家になるが、当分の間は取り壊さないようだ。あの家には遊びに行った思い出があるから、残しておいてくれるのは素直に嬉しい。
「はい、夾君。これは僕からの餞別だよ」
ぐれ兄は胡散臭いほど爽やかな笑顔を浮かべながら、夾に紙袋を渡していた。
「あ、ありがとな」
「
「公共の場で言う事じゃねぇだろ!!」
顔を真っ赤にした夾は、ぐれ兄から渡された紙袋を急いでバッグの中に仕舞った。
ニヤニヤ笑うぐれ兄が立ち去った後で、僕は夾に声をかける。
「夾、今いいか?」
「ああ。俺も建視に話しておきたい事があるんだ」
そう言って夾は、僕の肩に腕をがしっと回してきた。「俺達、一生友達だよなっ」と言うノリじゃなく、内緒話をするために距離を縮めたかったようだ。
「……いいか。何があっても花島と別れるんじゃねぇぞ」
咲は僕の恋人になってくれたけど、師範への憧れの気持ちは捨てた訳じゃない。
考えたくもないけど、咲が僕に愛想を尽かしてしまったら師範の家に再び通い妻をするかもしれないのだ。
「言われなくてもそのつもりだよ」
「私と建視の仲を案じるなんて、随分と余裕ね……」
咲が背後からぬうっと現れた。驚いた夾が「ひょわっ!」と奇声を上げて飛び退く。
僕はこの手の不意打ちに慣れたから驚かない。
花島家で咲と2人きりになって良い雰囲気になると、
「貴方に心配されなくても、私と建視はずっとラブラブよ……」
く……っ。咲を抱きしめてキスしたいけど、恵君が見張っているからできない。
「だから、貴方は透君と一緒に倖せになる事に専念なさい……」
「お、おう。わかった」
たじろぎながら返事をした夾に、
「咲は本田さんに挨拶はしたのかい?」
「さっき済ませたわ……建視はまだなの?」
「うん。本田さんは人気があるから話しかけるタイミングが掴めなくて」
今、本田さんと話をしているのは由希だ。
おや、由希が本田さんに「透」と呼びかけている。卒業式の日は「本田さん」と呼んでいたのに。
本田さんと夾が籍を入れるのも時間の問題だから、名前で呼ぶ事にしたのかな。いや、由希はそういう考え方はしないか。
「やぁ、本田さん」
由希と本田さんが話し終えた隙を見計らって、僕は本田さんに声をかけた。
「あっ、建視さん、こんにちは……っ」
挨拶を返した本田さんの目は若干赤い。
それにしても困った。話したい事がいっぱいあって、どれから伝えればいいか迷ってしまう。
――……置いていかれるのは……とても寂しくて……とても悲しいです……。
盃の付喪神の気持ちに寄り添うと同時に、幼い頃の僕の不安もすくいあげてくれて。
――建視さんのお鼻がありません……っ。落ちた衝撃で欠けてしまわれたのですかっ!?
不気味だと言われ続けた僕の変身した姿を見ても恐れず、真摯に向き合ってくれて。
――あっ、春になりますね! 今はどんなに寒くても春はまたやってくる。かならず。不思議ですね……。
僕と兄さんの心の中にあった、凍てついた思い出を溶かしてくれた。
本田さんに救われたのは、僕と兄さんだけじゃない。見送りに来た人達が――来る事ができなかった人達も、君の事を大切に想っている。
「僕は……本田さんの朗らかな笑顔を見て、何度心が和んだか数え切れない。きっと本田さんは、これからも出会う人を温かい気持ちにしてくれると思う。君が笑ってくれた分だけ、倖せが訪れてほしい。心からそう願うよ」
ちょっとクサいかなと思ったけど、僕の正直な気持ちをそのまま伝えた。
「あ……ありがとうございます……っ。建視さんにそんな風に思って頂けて……私は……っ」
言葉を詰まらせた本田さんは、ぽろぽろと涙を零した。感激して泣いてくれているんだろうけど、そのままにはしておけない。
僕がジーンズのポケットからハンカチを出すより早く、咲が黒いレースのハンカチを本田さんに渡している。
「建視と一緒に、透君達に会いに行くわ……」
「……っ、はいっ、お待ちしています……っ」
ハンカチで涙を拭いた本田さんは、太陽のような眩しい笑顔を浮かべた。
そして発車時刻5分前になった頃、列を作っていた人達が続々と新幹線に乗り始めた。みんなは最後のチャンスとばかりに、本田さんや夾に声をかける。
「トール、キョー、がんばってねっ!」
真っ先にエールを送ったのは紅葉だ。
「夾ちゃん、透君! 絶対倖せになってよ!」
楽羅姉は涙ぐみながら声を張り上げる。
「透君とキョン吉の旅立ちを祝って!! 祝砲の代わりにクラッカーを鳴らそうではないか!」
綾兄ってば本当に鳴らしちゃったよ!? 駅員さんに不審がられないといいけど。
「透君達のお家に可愛いお洋服をいっぱい送ったから、着たら写真撮って送ってねっ!」
美音さん……グッジョブです!
「透さん、夾さん、どうかお体に気をつけて……っ」
ワイシャツとスラックス姿の利津兄は、たおやかに手を振っている。
「お……お姉ちゃん………お兄ちゃ……っ」
涙が止まらない杞紗は、思いを言葉にできなかったようだ。
「2人とも、無理しない程度にしっかりやってよ!」
「元気で……」
短い言葉を投げかけた春は、温かい眼差しを2人に向ける。
「透……っ! 辛くなったら、いつでも帰ってきていいから!」
リン姉は最早、本田さんラブを隠そうとしない。
「吉報を待っているよ」
師範の言う吉報とは、孫の事ではなかろうかと邪推してしまう。
「夾、向こうに着いて落ち着いたら連絡してくれよ。透さん、夾の事よろしくお願いします!」
みつ先輩は、世話焼きな母親みたいな事を言っている。
「体は資本だからな。体調管理は怠らないように」
兄さんは医者らしい忠告をした。
「なにか困った事があったら、遠慮しないで連絡してね!」
僕には言いづらくても、この場にいる誰かには相談してほしい。
「2人に良い電波があらんことを……」
祈りを捧げる咲は、聖女のように神々しかった。
「呪ってやりたい人がいたら気軽に言ってね……」
恵君の発言が物騒だよ……。
「恵ちゃんっ!? のっ、呪いなんて駄目よォ。透ちゃん、夾ちゃん、真に受けないでねっ」
ほら、お母様が動揺しているじゃないか。
「新しい環境に慣れるまで大変だろうけど、頑張って。応援しているよ」
対照的に、お父様は落ち着き払っていた。
「根を詰めるんじゃないよ。何事も程々が1番だからね」
本田さんは頑張り屋さんだから、おばあ様の言葉を時には思い出してほしい。
「体に気をつけてな~」
本田さんのおじいさんは、小刻みにぷるぷる震えながら2人を見送っている。
「余裕ができたら遊びに行くからなーっ」
魚谷さんは、にっかり笑って手を振った。
「透君、夾君、ケ・セラ・セラだよ。大抵の事は何とかなるんだから、気負わずにね」
騒動の種をあちこちにばら撒いて何とかなっちゃった人が言うと、妙に説得力あるなぁ。
「透、夾、いってらっしゃい!」
晴れやかに笑った由希は、家族のように見送りの挨拶を告げる。
「「いってきます!」」
仲良く声を揃えた本田さんと夾は、新幹線に乗った。発車のベルが響いて新幹線が動き出すと、車窓越しに手を振る2人の姿があっという間に遠ざかっていく。
「行ってしまったわね……」
「さびしくなるね」
「そうね……でも、心配はしていないわ……」
本田さんの優しさと夾の素直さは、人を惹きつける。新しい土地でも2人は、人に囲まれた生活を送るだろう。
そうあってほしいと願いを込めて、僕は「そうだね」と応じる。
「行こうか」
「ええ……」
さびしさや不安はあるけど、一緒に明るい未来へ歩いていこう。
本田さんと夾も、同じ方向に進んでいくはずだから。
僕と咲は手を取り合って、前に一歩踏み出した。
『神様と十二支と猫と盃と』はこれで完結です。
途中でスランプになって更新が途切れたりしましたが、皆様のおかげで最後まで書ききることができました。
読んでくださった方々、感想をくださった方々、評価してくださった方々、お気に入り登録してくださった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。
ここまで目を通してくださって、本当にありがとうございました!
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