退廃的TS百合 (三白めめ)
しおりを挟む
「病めるときも、健やかなるときも」
二年ほど先、日本は滅んでいるでしょう。
最初のきっかけは一つの発見です。一夜にして人が誰もいなくなった山奥の村なんて都市伝説。それ自体は割とよくあるものでしたが、場所を突き止めたらしい人物全員が失踪したとなれば話は別です。実際、その噂が広まってからの行方不明者は前年の倍以上に膨れ上がりました。
2077年2月、事態を重く見た日本政府は大規模な調査チームを結成。都市伝説の村と思わしき場所へ調査団を派遣しました。採取したサンプルの一つである衣服には未知のウィルスが付着しており、これが原因であると推測されたのです。
研究者の報告によれば、そのウィルスは発症すると急速な代謝を促し自らの増殖に適した身体構造へと感染者の身体を変化させるというものです。つまるところ、これほどまで行方不明者が増加した理由は外見が全くの別物に変容していたからなのでした。
国は各自治体に協力を要請。人口の一斉調査を行ったところ、住民の数に変化はなく、行方不明者の代わりにその従姉妹や親戚を名乗る
このすべてがウィルスの発症者であると分かって以降、高い感染力を誇るこのウィルスは、その症状と発見者の頭文字から大衆の間でTS病と呼称されるようになりました。
その数週間後、朝起きたら見知らぬ少女が家に上がり込んでいたという通報、朝起きたら女になっていたと病院に来た件数が急激に増加。前述のウィルスの急激な二次感染が発覚しました。
悲劇は、ここからでした。発症者の詳細な検査をしたところ、細胞の異常な変容によって寿命が大幅に減っていることが判明したのです。残った寿命は、発症してから約二年。当時発症者及び潜在的感染者は日本人の六割以上と推測されていた以上、このことを公表することが社会に過度の混乱を招くことは容易に予想がつきます。故に情報は差し止められていましたが、そのことが裏目に出ました。
傍から見ればこの病気の症状は、男性は性別が変わり、女性は若返ることです。ただ若返るだけの病気を隠すなんて、権力の独占を意図している政府の陰謀に違いない。そう扇動された一部の人間が研究施設を襲撃。
2078年7月25日、ウィルスは日本中に拡散されてしまったのです。日本政府(当時の総理大臣は金髪ポニーテールの快活な雰囲気の少女になっていました)はせめて残っている無事な人間の感染を防いでほしいと呼びかけましたが、既に国民全員がウィルスの罹患者となっていました。
同年8月、世界各国は日本人の渡航禁止を発表。日本を隔離する方針を一致させました。これにより、日本は孤立した一つの世界に。
また、いくつかのテレビ局にTS病の詳細のリークがあり、社会は予想された通り激しい混乱に包まれました。ただ、あと数年で自分が死ぬかもしれないということを直視したうえで前向きに生きることは難しかったのか、これといった暴動はなかったことを幸運というべきかは悩まざるをえませんが。
ただ、将来に目を向ける人間が極端に少なくなったことだけは確かです。数年先のことより今の快楽を。結果としてこの国には退廃的な空気が漂い続けています。
「まあ、殺人も強姦も、物騒な事件がいっぱい減ったのはいいことなのかもしれないけどさ」
ベッドに座り込んだ彼女、
「そういえば、なんでなんだろうな」
相槌を打ちながら銀色の髪をした少女がゆっくりと体を起こす。見た目は十代半ば、背丈は涼香より少し小さい。絹のような長い髪は、一糸まとわぬ姿の一部を隠していた。
「わかってるでしょ」
「私が何年間女性やってると思ってるの?体の動かし方も何もかも、女の子初心者のシノブより上なのは当然じゃない」
要するに、新しい体の何もかもに慣れていないのだと。最も早く今の身体に慣れた少女は語る。
「だから、昨日だってあなたはさんざん啼いていたのでしょう」
シノブは目を逸らす。顔を赤くした彼女を見て満足げにほほ笑んだ涼香は、シノブの頭に手を置いた。あやすように撫でた手は下へ下へと進んでいく。
銀糸のように滑らかな髪を梳いて首筋から肩、ほっそりした腕と指先へ。指先を絡めあったまま、二人はベッドへ倒れこむ。黒と銀の髪がベッドで重なった様は、まるで一枚の織物のようだ。
「ねえ、そういえば、聞いてみたかったことがあるの」
「──世界を滅ぼした気持ちはどう?」
シノブの身体が震える。
「あなたがあの村を見つけなかったら、すべては始まらなかった。あのウィルスを見つけなかったら、ここまで感染は広がらなかった。間違えて私に感染させなかったら、人体への影響は分からなかった。そうしたら、こんなことにはならなかったのに。あなたがそうしたようなものでしょう?」
「ち、違う……だって……」
シノブの顔は青ざめている。身をよじって逃げようとするが、押し倒されていてうまく動けない。
「ふふ、冗談よ。起きてしまったことは仕方がないでしょう。大丈夫。私がついている。私がシノブを許すわ。ずっとそばにいてあげる。だから安心して」
打って変わって涼香は穏やかに言い聞かせた。さっきからずっと伸ばされていた手はシノブの下腹部、子宮のあたりに添えられている。さっきまでの冷たい声色とは真逆の態度にシノブの目から光が失われ、トロンとした目つきになった。
「あなたはなにも考えなくていいの。だからほら、私にすべてを委ねて」
部屋は薄暗く、涼香の表情はよく見えなかった。
昼過ぎ、漂ってきたパンの焼けるにおいにシノブは目を覚ました。お互いに少女の身体になってからは食事は必要のないものだとわかっているが、文化的な生活を送りたいと思っている彼女たちは一日に一食以上は必ず何かを食べることを習慣の一つとしていた。
「ありがとう。涼香」
椅子に座る。少し前ならちゃんと床に足がついていたが、今では足が椅子の脚の半ばまでしか届いていない。それが落ち着かないのか、足は宙をふらふらとさまよっている。それがシノブを外見以上に幼く見せていた。
「どういたしまして。私はあなたの妻なんだから」
なんの含みもない笑みは生来の快活さを滲ませていて、夫婦というよりは姉妹のような雰囲気だった。
「けどさ、いいのか?」
シノブから話題を切り出す。数年前からテレビはつけないようにしていた。このご時世、やっているのは悪趣味なバライティーか、形を変えたジェンダー論くらいだ。
音のしない部屋は静まり返っていて、二人の声だけがはっきりと聞こえる。
「何が?」
「その、一応今は俺たち、どっちも女なわけだろ。ホントにいいのか?その、女同士で……」
「女の子同士でセックスするのなんて普通でしょ。今更なに言ってるの?それに、もうこの国に男なんていないじゃん」
そう、跡継ぎのための政略結婚も将来性がどうといった話もなくなり、この国の恋愛はただただ美しく尊いだけのものとなった。多少の
「そう……だな」
シノブは俯いて、複雑な表情を浮かべる。女の子になった当初は心は男であろうと思っていたが、今ではすっかりそういった自覚をなくしてしまっていた。もうそんな自覚は必要なくなっているから当然かもしれないが、それでも改めて意識させられるとどこか割り切れない思いになるのだ。
「それに」
涼香は続ける。
「病めるときも、健やかなるときも。喜びのときも、悲しみのときも。私はあなたを愛して、慰めて、助けてあげる。そう約束したでしょ」
一点の曇りのない目は真っ直ぐにシノブを見つめていて。
「最期のときも一緒なのだから、死でさえも私たちを別てないわ」
隠しきれない妄執さえも、シノブにとっての救いになっていた。
どうしようもなく閉じた世界が滅ぶまで、あと二年。
100パーセント純愛です。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
「私たちの人生は」
家から少し出ると、世界の変わりようは分かりやすかった。なにせ出歩いているのは十代の少女しかいないのだから。とは言え最初のころに比べれば随分と落ち着いた光景だ。数か月前はぶかぶかの服を着た少女たちが右往左往していたのだから。事情を知らない人間からしたら大変だったのだろうが、事情を知っていた涼香からすれば、微笑ましいというのが最も適した感想だった。
「結局のところ、自分の死後も世界が続いているっていうのは最も恐ろしいことの一つだと思うの」
死人に口なしというのは生きている人間の視点であり、死にゆく者からすれば、死後に何を言われようと反論することができないのだからと。
「だから今の状況が理想だと?」
シノブは問いかける。そこに非難の意思は込められていなかった。ただ気になったから聞いただけのその問いは、何時もと同じ笑顔で返された。
「私たちの人生は私たちのものでしょう。ただ知っているだけの誰かに好き勝手語られては堪らないわ」
涼香は腕を更に強く絡める。こうした愛情表現もまた珍しくなくなった。街中では彼女は自分のものだと言わんばかりに腕を絡め、手をつなぎ合わせている少女たちが多く見られる。皆が美人になったからか、いわゆるナンパも増えているのだ。
「幸せな世界、か」
町には諍いも怒鳴り声もなく、ただ笑顔が満ちていた。身体の変化によって食欲も性欲も娯楽になり、利益を独占する必要もなくなった現在はある種の理想郷とも呼べるだろう。
TSウィルスは様々な恩恵をもたらした。癌や血管の異常などの病気はすぐさま治るようになり、体は健康な状態に容易く回復するようになった。そして──
「こうしてみんなが穏やかな性格になってしまっている。自分のせいで」
涼香が言葉を繋げる。考えていたことが口に出ていたのかと顔を赤くするシノブに涼香は慈しむ目を向ける。
「あなたはそうやって自分を責める癖があるもの。深く考え事をしているときは特に」
『宿主の保全を優先するため、ウィルスは発症者の脳に干渉。状況に適応できるよう無自覚に思考を改ざんする』
二人だけが知っている、TSウィルスの最後の効果。これは身体機能が急激に衰えた男性に多く作用した。
静香が言っていた通り、女の子としての年齢差が上下関係を決めるというのは科学的にも証明されているのだ。
「ねえ、今度研究所に行きましょう。取りに行きたいものがあるの」
涼香が取りに行きたいものは、端的に言えば薬物だ。媚薬や麻薬といった類のそれは、今や一般的に使用されるものとなっていた。
TSウィルスによってあらゆる病気は治療をしなくても一日たてば必ず治っているのだから、どんなにそういった薬を投与したとしても依存性もなにもかもが解消されて副作用もないのだ。
故に純度や効果の高い薬を買おうとサービス業が未だに続いていて、そのおかげで社会は回っているのだからそれはそれでいいことなのかもしれない。
定期券を改札に通して、都会から離れていく。昼間からわざわざ郊外に向かう人間は少なく、涼香たちが乗っている車両には、他の客はいなかった。天井から吊り下げられている週刊誌の広告には『総理の失策』だとか『早急な政権交代を』といった文句とともに様々な少女の姿が並んでいた。
そういった広告を一通り眺めた後、二人はただ寄り添って、口づけを交わしていた。
研究所は郊外の端の方、山の麓にあった。何かあった時の感染防止のためだろう。それは意味を成さなかったのだけれど。自分たちのIDカードを使って施設内に入る。そもそもがTSウィルスの研究のために建てられたものだ。顔の認証は意味がなくなるかもしれないと最初から備え付けていない。
エアロックだのといったものはもはや必要なくなっている。かつては未知のウィルスの解明のために使われていた高度な機材は、今や高純度の薬物を精製するためだけのものになり果てていた。
「主任としてはどう思うんだ?この状況」
「そもそも私はあなたがいるからここの主任になったんだから、この施設や研究には思い入れなんてないわ」
涼香は精製された薬物を回収しながら答えた。もとは顕微鏡がズラリと並んでいたところを押しのけて空き場所を作ると、薬を少し舐めたりしながら質を確かめている。
一通り確認したところで涼香は部屋の外に出る。
「どこに行くんだ?」
「私の自室。置きっぱなしだったものを思い出したの」
一人で外に出た涼香は持ってきた媚薬を空調のタンクに流し込む。即効性ではあるが、そこまで強力なものではない。落ち着かなくなる程度の効果だが、それだけで十分だ。未だに慣れない感覚に戸惑っているシノブの姿は愛らしいし、二人の家に帰るまでそわそわと興奮しているのが収まらなければ、シノブは涼香を頼るだろう。
「涼香、大丈夫だった?」
少し蕩けた目で見つめてくるシノブの頭を撫でる。いつもなら子ども扱いをするなと怒られるが、今のシノブはただ身体をびくりと震わせただけだ。
「大丈夫。さあ、帰りましょう」
手をつなぐ。ここに来る前より温かくなった手を引き、ゆっくりと帰っていく。
これでよかったのだろうか。涼香の脳裏に思考がよぎる。TSウィルスの最後の効果は、当然シノブにも作用しているはずだ。結局自分は、理想のシノブを作りたかっただけなのでは?今の幸せは独りよがりの人形劇なのでは?
「ねえ、あなたは今幸せなの?」
虚しい問いかけだ。答えは幸せに決まっている。そうなるように日々を過ごしてきたのだから。それでも、万が一違うと答えられたら、涼香は狂ってしまうだろう。今は狂っていないとは言い切れないけれども。だから、これまで一度も訊きはしなかった質問だ。
「涼香と出会った時からずっと、俺は幸せだよ」
嘘偽りなく言われたその言葉は、涼香をとても安心させた。
ずっと怖かった。シノブが他の女に取られてしまうのではないか、シノブが私を捨てるのではないか。
だから、国だろうと大切な友人の幸せだろうと切り捨てて、今の幸福を選んだ。
世間一般からすれば、涼香は間違っているのだろう。それでも涼香はよかった。自分の愛を、最期まで貫き通しかったから。
「ありがとう。私の大好きな人」
どうしようもなく身勝手な、私の心中に付き合ってくれて。
オチはないです。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
「二人分の幸せが」
悪夢を見た。ひどくちっぽけで、今となってはなんてことのない。そんな過去の後悔だ。
他のTSウィルスの発症者と違って、その研究の副主任だったシノブは自分の変化に対してもある程度は冷静だった。そうなるかもしれないという心づもりはしていたし、そうなったときの準備もしていたおかげで、発症しても普段と大して変わらない一日だった。
二人とも食事が必要なくなったとはいえ、では食べるのを止めましょうというのもなにかすっきりしない気分になるので涼香は朝食を作っていた。コーヒーにはミルクを一杯。目玉焼きは両面焼き。いつも通りのレシピを作ってシノブを待つ。
「おはよう、涼香」
コーヒーに口を付ける。シノブが不思議そうな顔をした。何故だろう、なにか嫌な予感がする。
「味を変えたのか?いや、俺の味覚が変わったのか」
飛び起きた。またこの夢だ。
別に一喜一憂するほどのことではない。なにかのきっかけで味の好みが変わるなんてよくあることだ。
「過敏になりすぎているのでしょうね」
シノブを信じていないなんてことはあり得ないけれど、どんなことがあっても大丈夫だと無邪気に思えるほどものをしらないわけじゃない。
「このままシノブがすべて変わってしまったら……」
テセウスの船という思考問題がある。一隻の船の部品を全て取り換えた時、それを同じ船と呼べるかどうかというものだ。
シノブの情報の受け取り方が今までと変わってしまったと知った時、それでも私を愛してくれるのだろうかと思ってしまった。TSする前は涼香を愛していたのだから今も愛するべきだ。そんな風に思われているのなら、私ははたちまちのうちに狂ってしまうだろうと涼香はそう思っていた。
だから涼香は彼を歪めたのだ。快楽で、思想で。言い方を変えれば洗脳だろう。涼香に依存させたことで、シノブは幼児退行気味になってしまっている。以前のように理知的な姿はあまり見られなくなった。それでも。
「私は、二人分の幸せが欲しいの」
シノブには幸せになってほしいが、涼香自身の幸せを諦めるつもりもない。彼の心が読めないのなら、読めるような思考に変えればいい。そうすれば幸せかどうかが分かると身勝手な論理で涼香が取った行動は、当然の結果として実を結んでいた。
自分は罪悪感に蝕まれながら、二人で幸せなままに死んでいく。涼香のその決意は揺るがない。
寝室を出ると、すっかり夜も更けていた。昼に研究所から帰ってきてシノブの身体の火照りを収めていたら、涼香自身も眠ってしまっていたらしい。今日はかなり体力を使ったのだ。シノブは朝まで起きないだろう。
「久しぶりに、散歩にでも行きましょうか」
夜の散歩は、涼香にとって中学生の頃からしていたことだ。一昔前は深夜に居酒屋を渡り歩く会社員や若さを持て余した不良なんかがそこらじゅうにいたらしいが、涼香が生まれたころにはめっきり見かけなくなっていた。
夜の街は、都会といえど灯りのついている店は少ない。仕事は最低限でいいので深夜まで営業している職業は少なくなった。ウィルスが全国に広がってからは24時間営業のコンビニがなくなったのは涼香の記憶に新しい。
結局のところ、変わらないものなどないのだ。TSウィルスが無くても人の細胞は常に新しいものになるし、何かしらの創作物や出来事で思想が決定的に変化することもある。何度も疑問を抱いて、何度もその結論に至ってきた。だからあの夢も、ただの再確認のきっかけにしかならない。涼香が後悔などするはずがないのだから。
「あと一年か」
あと一年で自分たちは死ぬ。死体は塵となって消えるから、この国に人の死骸は残らないだろう。それが涼香の愛の結果ではあるが、一体いつから自分はこんなにも執念深くなったのかと涼香は考える。
研究所でシノブが女性とする会話が増えた時かと思ったが、それより前から計画はしていたと思いなおす。そうだ、もっとずっと前、それこそ幼稚園の頃くらいだった。
大人になったら結婚しようとシノブが言ったのだ。それからは家も近かったので、毎日どちらかの家に泊まりに行っていた記憶がある。
決定的なきっかけは、十二歳の時だ。涼香の家庭の事情で中学校は別々のところに通うことになったのだ。当然離れたくないと泣きついたが、涼香は一人では金を稼ぐことのできない小学生だ。引っ越すことを取りやめさせることはできなかった。
そうして他県の中学校に通うことになった涼香は、シノブがいないとどれだけ寂しいかを体感した。二度と離れなくていいようにしようと決意したのだ。
思い返してみると、案外微笑ましい思い出だった。高校で再会したときはシノブも会いたかったと言ってくれたから、考えていることは同じだったのだろうとクスリと笑う。
「そろそろ帰りましょうか」
目の前の信号が青くチカチカと点滅し始めたのを見て涼香は呟いた。あと三十分もすれば日が昇る。そろそろシノブが起きるかもしれない。その時に自分がいなければ心配をさせてしまうだろうと涼香は帰り道を急いだ。
家に帰ると、シノブはまだ寝ていた。銀色の髪は手触りがよく、いつまでも触っていられる。頬に軽く触れると、無意識ににへらと笑うのだ。涼香がそのように刷り込んだ行動だが、本当に可愛い。
台所に行き、朝食を用意する。食パンにはジャムを多め。片面焼きの目玉焼きに、コーヒーはミルクを沢山。味の好みがどれだけ変わっても、シノブが好きな人は変わらない。ならそれでいいかと涼香は思考する。妥協ではなく、二人の幸せのために。
「束縛しすぎたら、嫌われてしまうわ」
シノブの思いも自分が決めつけたものだと理解して、涼香はそれでもそれが二人の幸せになっていると信じている。
間違いなく純愛です。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
「「そこにあったんだ」」
2079年4月30日。夜の空気はしんと凪いでいて、冬の静謐さが強調される。車や電車、飛行機に高速スロープも何も通っていない大通りの車道の真ん中で、二人の少女が歩いていた。
「例えばさ、もし私たちが死ななかったら。こうしてずっと二人きりね」
手をつないで歩いている二人のうちの一人、黒髪の少女が言葉をこぼす。
あたりを見回すと街中を出歩いている人はめっきり減っていて、電灯の点いている家も既に少なくなっていた。いや、既にもう、外には二人しかいなかった。正確には、この日本にいるのは、二人だけだ。
──TSウィルスの身体保存限界。寿命とも呼べるそれは、多くの人間を蝕み始めたのだ。TSした体は寿命を迎えると、塵になって宙に霧散する。若返った体も、同じ末路だ。痛みはないと思う。悲鳴もなく、そこにいたのが夢だったように、体だけがサラサラと消えていく。
街を見渡せば、折り重なって落ちている服がいくつも目につく。口づけをしたり、抱き合ったり、そうして愛しい人と最期を迎えたのだろう。
「もらった夢の始まりの、最期なんだと思う」
ぽつりと、銀色の髪を肩まで伸ばした少女がつぶやく。空を見上げると、星がとても鮮明に見えた。立ち並ぶビルの明かりもすべて消えていて、周囲を照らす光はどこにも存在しない。
「こうして世界が終わると決まって、涼香が誰にも害されないような世界になって、愛する人と最期を一緒にできる今までの時間は、本当に幸せな夢だった」
そういうと、彼女は手をつないでいた少女に微笑む。それは見かけ相応の幼い笑顔ではなく、それこそ十数年を一緒に過ごしていた夫婦に向けるものだった。
「俺のせいで世界が滅んだけど、案外それでも構わなかったんだ」
「あのときの答え?イジワルなことを言ったと思ってるわ」
銀髪の少女の言葉に、涼香と呼ばれていた少女は少しだけ口を尖らせる。彼女たちの足音しか聞こえない静寂に、二人分の笑い声が加わった。
「涼香、あとどれくらいだっけ」
「夜明けまでね。それで、この国には誰もいなくなる」
そうして二人で一つの方向に進んでいく。最期を迎える場所は、相談せずともお互いに同じ所を思い描いていた。
「そういえば、年号、変わるんだっけ」
「そうね。誰も残っていなくても、何かを遺したいから、だったかしら」
平成から令和に年号が変わった同日に、令和から次の時代へと変わる。迎えた新しい時代には誰もいなくても、何かを遺すため。みんなが幸せな結末を迎えたことを証明するために。
そうして何気ない話をしながら歩いて、二人の少女はとある場所で立ち止まった。
なんてことはない、噴水やイチョウの木があるどこかの道だった。マンションが近くに建っていたり、地面にうっすらと小の文字が描かれていることから、小学校の通学路だったのだろうと推測できる。
「もう、大人になったわね」
「体は、あのときと同じくらいの年齢だけどな」
大人になったら結婚しよう。そんなことを子供ながらに誓い合った、この国がなくなるきっかけとも言える始まりの場所。
今度は、誓いの言葉じゃなくて、エンドロールの言葉を。後日談もなく、大団円もない、それでも幸福な、白ずんでいく夢に終わりの言葉を告げる。
山の向こうから朝日が昇ってきた。イチョウの木が立ち並ぶ道にも光が差し込んで、二人の姿が照らされる。口を開いたのは、どちらからだっただろうか。
そこには、愛だけがあった。
目次 感想へのリンク しおりを挟む