異世界ひとくい物語 (荷葉詩織)
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第一片

試験的に一次創作をアップしています。気が向いたら消します。


 

 「彼女」が来るそのときより前は、世界はたしかに安穏であり平和だった。

 ──オグル。

 のちの世においてそう呼ばれし人喰いの怪物が跋扈するまでは。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──20xx年 東京

 

「……でさー、またそのクソ教師がさぁ、今日も田中くんのことを怒鳴ったりするわけよー。もう、教室の空気ほんと最悪。あいつ早く別な学校に転勤しちゃえばいいのに」

「わかるー。村井でしょお? あいつ、教えんの下手くそなくせにエラそーだよね! マジでウザイし、あとなんかこっち見てくるときの目がキモイし」

 

 放課後。西日の差し込む教室には何人かの女子生徒が集まってはくだらないおしゃべりをしながら、本来校則で禁止されているはずのネイルやメイクに勤しんだり、これまた持ち込み禁止のはずだがお菓子の袋を開けていた。抜群に偏差値が高いわけでもない自称進学校なんて所詮こんなものだ。

 髪型をせっせと整え、化粧直しに熱心な彼女達は、これから繁華街にでも遊びに行くのだろう。なにせ金曜日だし。羨ましい話だ。そんな余裕などどこにもない人間だって、ここにはいるというのに。

 

「はぁ……いい加減、向かわないと」

 

 机の引き出しに読みかけの文庫本を雑に突っ込み、テキストや参考書などの中身がぱんぱんに詰まった愛用のリュックを背負って氷見山架音(ひみやまかのん)は憂鬱そうな顔で席を立つ。

 死ぬほど予備校なんて行きたくないが、月謝を無駄にするわけにもいかず、結局ほぼ毎日のように通っている。仕方なかった。架音はクラスでも下位の成績であり、志望校に受かるためには他の誰よりも勉強しなくてはならないのだから。

 都内の高校生は今どき大学を出ていて当たり前、高卒で就職など以ての外という不文律がある。まして自称進学校ともなれば尚更。仮にその辺の会社で働きたいなどと口にしようものなら、進路指導の担当教諭からキツい説教と説得が待っている。

 さして勉強好きでもない架音だが、そうした事情もあって普段はこつこつ努力を重ねているけれど……結果は芳しくなかった。そして業を煮やした両親の言いつけで予備校に通わされているのである。

 教室を出ようとする架音に、彼女と違って受験シーズンでも余裕のあるクラスメイト達が声をかけた。明らかにバカにしたような顔で、内心むっとするものの表にはおくびにも出さない。

 

「バイバーイ、カノンちゃんベンキョー頑張ってねえ」

「志望校、國學院だっけぇ?」

「ばっか違うよぉ、学習院でしょー?」

 

 ……もはや訂正するのも面倒くさい。架音が受験する予定なのは関東近郊にある女子大で、彼女達があげるどの学校名も当てはまらない。でもわざわざ教えてやる気にはなれなかった。今度はそのネタでからかってくるにきまっているからだ。

 この学校は成績の悪い人間に人権がない。だからこうした子供じみた行いさえもまかり通ってしまう。ケラケラと背後から聞こえてくる笑い声を無視しながら、早く卒業したいなぁと架音はしみじみ思った。

 

 昔昔、架音の生まれた氷見山一族は地元でも名の知れた旧家だったという話だ。特に大戦時代は広大な土地を有する地主でお金持ちだったようだが、戦後のゴタゴタで没落し今では一般庶民と変わらない生活を余儀なくされている。

 ただ、旧家特有のしきたりというのは未だに生き残っていて、子供につける名前にも決まりがある。それは跡取りとなる長子(男女は関係ない)には必ず「架」の1文字を当てるというもの。

 このせいで架音は要らん苦労をするはめになる。というのも「架音」という名はどう考えてもキラキラネームそのものだからだ。からかいのネタにされるくらいならまだマシで、過去にはイジメの原因になったりした。

 一度は本気で改名しようかとも考えたのだが、手続きが色々と必要ということもあり、結局は改名せず今に至る訳だが。

 全く、旧家生まれなんてろくなものではない。旧家という割にお金持ちでもないし、それなら普通の家に生まれていればどれだけ良かったことか。挙句、好きでもない勉強を無理やりやらされるハメにもなるし。

 

「……あ、今日、新刊の発売日だった。帰り、本屋に寄る時間、あるかな……」 

 

 いつもブレザーのポケットに入れっぱなしにしているスマートフォンを取り出す。時間を確認するも、さすがに寄り道する余裕はなさそうだった。

 あれもこれもそれも、全て予備校通いなのが悪い。今日はずっと楽しみにしていた小説の発売日なのに。受験さえなければいつでも楽しい読書三昧な日々が送れたはずだ。

 ……だが、頭さえ良かったら予備校に行かなくても済んだし本屋へ行く時間は作れた、という事実に架音は目を背けることにする。世の中、直視する必要のない事はあるものだ。

 

 氷見山架音、18歳。キラキラネームと受験が悩みの高校三年生。趣味は読書と本屋のハシゴ、特技はなし。黒髪黒目のごくありふれた日本人顔の少女は──この日、自分の運命がことごとく変わってしまうということをこの時点では、まだ知らない。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン郊外「ミネルヴァの暗き森」

 

「セージ! おーい、セェェェジ!! おいちょっとこら、無視するんじゃないわよ馬鹿弟子!! 返事をしなさい!!」

「るっさいマリー! なんなんだバカデケェ声張り上げて! はっ、まさかまたトイレの排水溝詰まらせたか!? 勘弁してくれ、この前修理したばっかなんだぞ!」

「は!? ちっがうわよ! ちょっと頼みがあるから早く来なさいって言ってんの!」

 

 1人の少女が引き戸のついた大きな薬箱を片手に、きんきんと頭に響く金切り声を轟かせた。月桂樹を飾ったとんがり帽子にフリルをたくさんあしらった黒いワンピース、その上に白衣を着込んでおり、陽光の下で輝くプラチナブロンドを短く切りそろえている。

 彼女の名前は「ローズマリー・サトゥルヌス」という。ミネルヴァの魔女にして、過去に王宮に仕える典薬師でもあった魔法薬学の権威である。見た目は幼い子供のようだが。

 現在は使い魔のタイムと一番弟子のセージと共に、シュバルツベルンの辺境に広がる広大な森林地帯、ミネルヴァの暗き森にて悠々自適の隠居生活を送っていた。

 

「セージっ、あんたを優れた癒しの術の使い手と見込んで頼みがあるわ。出来上がった薬をこれに入れておいたから、ちょっと街まで行商してらっしゃい。で、ついでに私のお昼も調達してきてちょうだい」

「は? んなの自分でやれよ。行商には行くけど」

 

 不揃いな長さの明るい金の髪と新緑の色をした瞳に、簡素なシャツとズボンを身につけた少年「セージ・リヒト」はあからさまに面倒くさそうな顔をした。

 彼は魔女ローズマリーに師事しながら1人前の薬剤師を目指して日々修行と勉強に励む良い子だが、基本的に師匠に対してあまり忠実ではない。むしろ常日頃くだらない口喧嘩ばかりしている、絶賛反抗期中の子供だった。

 

「ええーっ、いいじゃないついでよついで。私、『くろつむぎ亭』のクラブハウスサンドが食べたいのよ。でもおいそれと森の外に出るわけにもいかないし、ちょっとくらいワガママ聞いてくれてもいいじゃない!」

 

 シュバルツベルンの魔女には、誰か1人は必ずこの森で生活しなければならないしきたりがあった。ミネルヴァの暗き森は莫大な魔力を秘めた土地であり、数々の魔物が潜んでいる。

 そこを異常がないか監視し、何か起きれば被害を水際で食い止めるという重要な役割をこの少女にしかみえない魔女は課せられている。そのためやむを得ない場合を除き、普段は森から出られない。本業である薬屋の仕事は、どうしても弟子に一部を任せなくてはならないのが現状だ。

 とはいえそれとパシリ(これ)とはまた別だ、というのが弟子の言い分だったが。

 

「しょーがないなぁ……。わかったよ、買ってくりゃいいんだろ」

「やったぁ! セージったら優しいんだからぁ! もちろん蟹はポートヘブン産じゃなきゃダメよ、輸入品の蟹なんか水っぽくて食べられたもんじゃないもの」

「ばか、くろつむぎ亭が輸入の蟹なんか使うわけないだろ。あそこの店主、とにかく妥協ってもんをしないんだから。じゃ、行ってくる! 留守番頼むな、マリー」

「はぁい。セージ、気を付けて行ってくるのよ。何かあったら、必ず私の名を呼んで。絶対に駆けつけるから」

 

 よいしょと大きな薬箱を担ぎ、元気よく森の奥にひっそりと佇む小屋を出発するセージ。小さくなっていく愛弟子の、しかし拾った頃に比べればすっかり広くなった背中を見つめ──ローズマリーは嘆息する。

 

「……何事もないのが一番、なのだけど。なぜだろう、なんだかとても、嫌な予感がする……」

 

 魔女の予感はよく当たる。だが、このときばかりは思い違いであってほしい、と彼女は信じる神を持たないくせに祈った。

 

 

 

 ……──かくして、その「予感」は見事に的中してしまうことになる。

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン郊外「スフィール」

 

 薔薇烟る都と謳われる麗しの王都から遠く離れた、魔力に満ち魔物の住まう「ミネルヴァの暗き森」を隣に置いた小さな田舎町、スフィール。農業と牧畜で糊口を凌ぐ寂れた村落だが、国境線に近いため軍事の要衝であり日頃から物々しい雰囲気が漂っている。

 ミネルヴァの魔女たる国一番の薬師ローズマリーを師と仰ぐ、薬師見習いセージにとっては懐かしの故郷だ。彼はここで生まれ、そしてローズマリーに拾われ育てられた。

 

「ただいまー、みんな、薬持ってきたよ」

 

 引き戸のついた大きな薬箱を担いで現れた少年をわっと町民たちが取り囲む。

 ミネルヴァの魔女謹製の薬は傷に打ち身にあらゆる病によく効き、たちどころに治すと評判だ。王宮には魔女が鍛えた薬の使い手が何人もいるが、彼ら彼女らでさえ時にはかつての師匠の元へと参じ、研究や修行のため薬を買い求めていくのだ。

 鍬で打ちつけて手を怪我した農夫から風邪で寝込んだ子の母、リウマチに苦しむ老婆まで様々な病や痛みを抱えた者が集い、我先にと必要な薬を贖っていく。時たまこうしてスフィールへ来る度、魔女の薬は飛ぶように売れ、ぱんぱんに詰まった薬箱はすっかり軽くなってしまう。

 ちなみにまだセージが作った薬は卸していない。お前のような若輩の代物など苦しむ民に下賜するわけにはいかない、というのが師匠の言だ。それは翻ってみれば、もっと良いものができたら卸してやるという意味を持っているのだが。

 

「いつもありがとう、セージ。魔女様にみんなが喜んでいたと伝えてくれ。それと、いつまでも息災に、とも」

 

 セージの顔を見にやってきた町長が柔和に笑みつつ言った。彼はスフィールの片隅に居た捨て子のセージを見つけ、魔女に引渡した者だ。町長がいなければ今頃少年は寒さと飢えの果てに死んでいただろう。

 ちなみにセージを魔女の後継に、と推挙したのも町長である。そのおかげで彼はローズマリーの弟子となり、今は薬作りに励む日々を送っていた。

 

「町長! 久しぶりです。お元気そうでなによりです」

「久しいなセージ。魔女の元でうまくやっているか?」

「えぇまぁ。こき使われまくってますが。あいにく、土産となりそうなものがなくて……千年草のひとつも持ってこれればよかったのですが」

「何を言う。あれこそミネルヴァの暗き森にしか咲かない至宝ではないか! それを土産だなんて……」

「いやいや、うちの畑に山ほど生ってますし、年中穫れますし。別におすそ分けくらいいつでもいいですよ」

 

 千年草とは名の通り煎じて飲めば千年生きられるという、伝説級の効能を持つ薬草だ。市場では最高値で取引され、各国の王族が喉から手が出るほど欲しがる貴重な代物である。実は、ミネルヴァの魔女がどんな傷や病も治す秘術の使い手と称されるのは、この千年草にあった。

 彼女は本来、魔界の秘境にしか根付かない千年草をミネルヴァの暗き森にて植え育てる術を見つけ出し、また薬として加工する技をも編み出した。ただそうした秘密を知るのはスフィールの民とセージのみである。

 

「何を言うか。頼むから千年草については他言無用で頼むぞ。それからいざという時以外は使うな。いくらお前のところの畑で穫れるといっても、貴重なものであることに変わりはないのだぞ」

「はーい。それじゃあ、これ。俺が作った匂い袋です。中には干したハーブと呪符があります。お守りにでもしてください」

 

 薬師を目指すセージであるが、彼は薬作り以外にも色々と特技や趣味があった。特技はテイミングであり、動物や魔物と言葉を交わし親しくなることができる。

 趣味が呪符作りだ。式符に特殊効果を付与させる魔法を使い、呪符を作成する。これのおかげで薬ではどうにもできないこと、たとえば呪いを弾いたり、襲いかかる獣や魔物を退けたりできた。

 これはセージに流れるある血筋が理由の一つではあるのだが、今は割愛する。

 

「おお……ありがとう。助かる。近頃は色々ときな臭くなってきてな、ここが要衝であることはお前も知っているだろうが……あのな、戦端が開かれるかもしれない、という話が出てきていてな。何、本当にそうなるかはまだわからんが。ただそうなれば、戦場になる……この町は」

 

 スフィールは国境の町だ。すぐそこには他国──軍国という新しく建った国があり、王国兵が常に相手方に動きがないか確認し歩哨を立たせて牽制している。

 

「戦争が……、始まるんですか。やっと平和になれたのに……? 今度は、人間同士が争い合うさだめにある、と?」

 

 世界を二分した、いにしえの大戦「人魔大戦」が勃発したのは遥か数百年以上も昔のことだが、終わったのはセージが生まれるついこの前。この世界が一応の平和を取り戻してから、まだ生まれた赤子が死ぬまでくらいの時間しか経っていない。

 血で血を洗う、凄まじい生き地獄と化した戦場の記憶を未だ、生々しく心に残す者達は多い。特に魔族と魔族側についた種族は。人族では世代交代が始まって、そろそろ風化してきているようだが。

 

「うむ……まぁ、今すぐという訳ではなかろう。軍国は出来て真新しい。シュバルツベルンほどの国力はまだない。それが僅かな猶予となるだろうな」

「そうですか……でも不安ですね。スフィールの人達はどうなるんだろ」

「ここにいるのは戦えぬ者達ばかり。戦端が開けば疎開するしかないな。王都か、さもなくば帝国側にある町か。考えうる限り最悪な未来は国家間大戦に発展する展開だが、さてどうだろうの」

「そうなったら、スフィールの人達にまた会える可能性はひどく低いんだろうな。俺にできるのは、みんなが健やかでいられるよう祈るくらいだ」

「はは、セージはその頃には魔女をも凌ぐ素晴らしい薬師になっているさ。そしたらやることなんて山積みだろうよ。それこそ、王宮へ召喚されるかもしれないな……魔女の後継として」

 

 セージは王宮勤め時代の師匠の姿を知らない。なぜ彼女が栄光を約束されたに等しい典薬師を退き、辺境の森へ引っ込んだのかも。そして、本来の齢は九十九を超えているにも関わらず、今なお魔女が若々しい美姫のままであるのかも──。

 

「……さて。少しばかり長話をしてしまった。いい加減公務に戻るとしよう。愚痴に付き合わせてすまなかったな、駄賃代わりに『くろつむぎ亭』のクラブハウスサンドを奢ってやる。奥に言付けておくから」

「えっ、そんな、悪いですよ! だいたい愚痴だなんて、結構重要な機密を教えてもらったし、お礼しなくちゃいけないのは俺の方です。クラブハウスサンドだってマリーのわがままだし……」

「よいよい。ポートヘブン産の活きのいい蟹が手に入ったんだ、せっかくだからお前も食べて行け。あれもお前の顔を見れて喜ぶし」

 

 いつだったか町長はセージを倅同然に思っている、とこぼしたことがある。

 実際、行商でスフィールを訪れる度にこうして顔を見にやって来るし、彼の奥方が営むパン屋の品物を奢ってくれるのも1度や2度ではない。というか毎回だった。その度に遠慮しているが、結局は押し切られて受け取ってしまうのが常だった。

 

「すみません……。ありがとうございます。マリーにもちゃんと味わって食うよう言いつけておきますんで」

「魔女はあれのパンが大層好きだったな。いずれミネルヴァの暗き森が徒人(ただびと)も来れるようになれば、届けさせてやりたいものだが」

「そんな悪いですよ。そのうちあの引きこもりを連れて買いに行きます。今度こそちゃんと客として。……では、そろそろ行きますね」

「ああ。また今度も薬を頼むよ、セージ」

 

 そこで町長と別れ、彼は空っぽの薬箱を背負って歩く。町はいつもと変わらず閑散としていた。

 材木を組み合わせて作った簡素な家々が立ち並び、その周りに畑が広がり、あちこちで牛馬がのんきに草を食んでいる。そうした人の営みは、森の奥で引きこもって薬と向かい合う毎日では見られないものだ。

 もちろん魔女と共に暮らす日々をセージは尊く、また愛おしく思っている。だがここで人に混じって生活していたら、一体どんな人生を送っていただろうか、とこの町の風景を見遣る度にふと考えてしまう。

 さて、目的地へ着いた。

 町長の奥方が女主人を務める、町の中にある古びた店構えのパン屋「くろつむぎ亭」へ訪れた少年を店内の客や、カウンターに立っていた店主があたたかく出迎える。

 彼はここでも人気者だった。町では少ない若者であるセージはみんなにとっての子であり孫なのだ。

 いつものようにクラブハウスサンドを渡してもらい、店の隅にあるイートインスペースで他の客と談笑する。他愛ない世間話や時事ネタまで、代わる代わる客が持ち寄ってくるのでこの店では雑談の話題に事欠かない。

 たまに会話に交じりつつ、町人の話をなんとはなしに聞くのがセージは好きだった。

 

「……あぁ、そういえば……数百年ぶりに客人(まろうど)が来たらしいよ」

 

 ──その何気ない噂が、全てのさだめを変えるとは、予想だにせずに。

 

 

「異界からの客人(まろうど)、だと?」

 

 

 とある世界。

 科学の代わりに魔法が栄え、人に似た人以外の生き物が数多く暮らす戦火と平和の入り交じるそこは、おそらく現世の者達が異世界と呼ばうもの。

 大気の組成も海原の青さも天に輝く星の光も限りなくよく似ているが、けれどそこは決して楽園でも理想郷でもない。この世界と同様に、問題も希望も山ほど抱えている。

 さて、この異世界にいくつも浮かぶ大陸ののうち人族が治める大陸に、最大の領土と最強の国力を備えた最古の国があった。名前をシュバルツベルンといい、多くの人と物が行き交う、人族の中心地である。

 車輪も火もこの国から生まれ、戦車と銃器はこの国によって発明された。人間の文化と文明は全て、シュバルツベルンを起点にして発展、発達していったといえる。

 人間という種族にとって最重要国家たるシュバルツベルンの長といえばそれは、フォンテーヌ朝初代当主ジェラルドである。前王朝シルフィーヌを革命によって取り潰し、新たな王朝を立てた。人族としては異常なことに数百もの年月を生き、いにしえの人魔大戦では人族を勝利に導いた功労者だ。

 世継ぎたる2人の男子は離宮にて養育され、今この王宮にはいない。ジェラルドは自身に何が起きても王家を維持できるよう、血を分けた子供たちを有事以外では王都(ちゅうおう)へ招聘しないことを定めていた。

 

「何を馬鹿なことを。異界渡りの技は人に扱えぬはずだろう。『扉』が魔界にある以上、人族にどうすることもできぬと、それは魔法使いでなくても知っている常識であろうが」

 

 簒奪した玉座に腰を落ち着け、蓄えた顎髭を撫で上げながら若々しい青年の姿をした老王は訝る。疑心に染まる瞳が、報告しにやって来た使者を睨めつけていた。

 

「しかし……今しがた、その客人が王都に着いたと先触れが」

「それを何故もっと早く言わぬ! 詳しい話が聞きたい、早急に連れて参れ。念の為、その客人とやらを検疫させよ」

 

 この異世界、現実世界とたった100年程度のずれしかなく20世紀初頭の時代ではあるのだが、科学よりも万能なはずの魔法をもってしても疾病を根絶することは叶わなかった。ゆえにローズマリーのような薬学や医術に長けた者が必要とされるわけだが。

 そのような事情から病の蔓延を阻止するため、客人を迎えるにあたって細心の注意を払わなくてはならなかった。病で国が傾くなどあってはならないからだ。

 菌の類を国の中枢へ持ち込ませぬよう、徹底的に消毒と滅菌処理を医術を専門とする魔法使いが行い、かくてその客人は現れた。シュバルツベルンを支える魔法のプロフェッショナル達でさえ見抜けなかった、ある凶悪な呪いを携えて。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──20xx年 東京

 

「かのーん、かーのーんー! 休日だからっていつまで寝てるつもりなの、いい加減に起きなさい! このぐーたら娘!」

「……うるっさいなぁ……、休みなんだから寝かせてよぉ……」

「駄目。そう言ってまた予備校通うのサボる気でしょ。受験までもう間もないのよ、今踏ん張らなくてどうするの? ほら、起きて支度して。朝ごはん片付かないでしょう、お弁当も台所に置いてあるから」

 

 昨日も夜遅くまで勉強してたのにな、と思いながらも母親に叩き起こされた架音は、パジャマを着たまま渋々ダイニングへ向かう。

 両親や年の離れたきょうだいが朝型の生活を送るなか、主に受験勉強のせいで遅い時間まで起きている彼女にとっては、早起きがひたすらに辛い。

 そもそも頭の良くない自分が高望みなんてするから無理をしないといけない状況なのだ、許されるなら志望校のランクをもっと下げて興味の持てる学校に進みたかった。もちろん、過去をあれこれぐちぐち言っても詮無きことだと分かっているが。

 もそもそと味のしない食事を無理やり胃に突っ込み、制服であるブレザーではなく私服のパーカーにデニムという格好で、勉強道具だけを持って自宅を出る。予備校は高校の近くにあるので電車で通学するしかない。

 やっぱりやめようかな、そろそろ気晴らししたいなぁとこんな時に限って快晴の空を見上げながら架音は思う。冬晴れの空は気持ちいいくらい鮮やかな青で抜けるように高い。普段はもっと煤けたような色合いなのに、妙に今朝は綺麗だった。

 予報では今日1日ずっと晴れになるらしい。遊びに出かけるなら絶好の日和だ、この期を逃す手はないのではなかろうか。学校と違って、勝手に欠席したからって保護者へ連絡が行ったりしないし。

 ……なんて、そんなことできやしないのは他ならぬ架音本人が1番よく分かっていた。やりたいことをやる意気地がないのだ、人の目を気にしてばかりの臆病者だ。そうした自己評価は概ね正しい、と架音は理解している。

 

「……そろそろ行こう。授業遅れちゃう」

 

 その気にさえなれば駅のロッカーに勉強道具を預け、電車を乗り継いでどこへでも行けたのに、結局彼女は乗り慣れた路線て予備校へと進むのだった──それが、のちの未来において明暗を分けるとはまだ、予想さえせずに。

 

「あなたは神様を信じますか?」

「は?」

 

 とっぷりと夜も更け、人気のない狭い細道を歩く架音を何者かが呼び止めた。目深にフードを被っていて人相は分からない、裾の長いローブのせいで性別も不詳だった。おまけに声も中性的ときている。……いや、少し独特の訛りというか癖はあった。出身地を特定できそうにはなかったが。

 なにこいつ、薄気味悪いなぁと架音は内心で呟く。人を呼び止めるのに神を信じるかどうかを訊くのも理解不能だし、なにより外見が不気味すぎる。まるでホラー映画に出てくる怪しげな占い師のようだ。さすがにそれをそのまま口にしないだけの常識は弁えているけれど。

 

「氷見山架音さん。あなたは、神を、信じ、ますか? この世に、神は、いると、思い、ますか? お答えください。……今すぐに」

「ちょっと……あなた、一体なんなの」

 

 わけが分からない。意味も分からない。……よし、シカトしようそうしよう。

 そうと決まれば行動は早かった。占い師とどきの発言を完全に無視し、架音はくるんとUターンして元きた道を引き返す。表通りに出て、別なルートから帰宅することにした。──だから、気付かなかった。

 猛スピードで走る少女の背中を見つめながら、その怪人物が底意地悪く笑ってひとりごちたのに。

 

「キミは、今朝とても愚かな選択をした。せっかく晴れていたのに『ハレ』を望まず、惰性で『ケ』を選び取った。(かみ)らはそれを見ている。そして今再び愚行を侵した。もうワタシには擁護できない。……まぁ、もとよりする気もないのだが。情けない、あれが氷見山一族の(すえ)とは嘆かわしい。やはり彼奴らは(ほろ)びるべきだったな、……あのときに」

 

 我が焔上(えんじょう)の隣に並び立てるほどの格はなかったな、とこぼし──紋様の刻まれた手をかざす。明らかに男のものと分かる、底冷えのする低音で紡がれるのは異世界より伝わるいにしえの呪文。

 

異界の扉を今こそ開かん(Alium orbem terrarum motus)

かの者を解き放て(Alba eum dimittere)

ともくい(Insulae Canibalium)のろい(maledicite terrae)と共に。

堕ちよ(cadunt)落ちよ(cadunt)まろび出よ(relinquo)

──いざ、我が故郷へ!(Volo ire in domum suam)

 

 かくて運命は定められた。

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、……つかれたぁ……。もうここまで来たらさすがに追ってこないでしょ」

 

 表通りから自宅までの帰路はいつもの近道に比べて倍以上の時間がかかるが、人通りが多いので安全ではあった。とはいえさっさと帰りたいので普段はあまり使わないルートなのだが、あんな不審者丸出しの人間に遭遇した以上は使わざるを得ない。

 おまけにたくさん走ったので全身すっかりクタクタだった。日頃の運動不足が招いたことだ。受験が終わったら何かスポーツでも始めた方がいいかも、と考えながら彼女はやっと家路に着く。

 玄関扉に手をかけ、ドアノブを捻ろうとしたまさにその瞬間、

 

「──あ?」

 

 ふわりと身体が宙に浮く感覚を伴って、手足の末端がすうっと冷たくなる。地に足のついてないような不安定感が襲う。目に映る闇一色の景色が溶けるように消え去って、慣れ親しんだ街並みはもう見えない。

 

「ここ、どこ……?」

 

 燦々と降り注ぐ日差しは冬の空気に冷えきった身をあたため、見渡す限り続く草原はそよ風に靡き、草木の匂いが鼻腔をくすぐる。見知らぬ、だが美しい風景が視界いっぱいに広がっていた。

 ──確かに知らないはずなのに、どこか懐かしく感じるのは、なぜなのだろう。1度も来たことないはずなのに、懐郷の思いが込み上げてくるのは一体何故。

 

「帰って……きた? 私は、ここに……」

 

 ついて出る言葉の意味を。氷見山架音はのちに、身をもって思い知るはめになる。

 

 

 魔法とは、とても素晴らしい技術である。

 ──魔法学第一人者 名誉博士「ラヴァーナ」の手記より、一部抜粋

 

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン郊外「スフィール」

 

「客人? なんだい、それ」

「セージは知らないのね。まぁ若いし仕方ないか……。あのねぇ、昔は世界との境界が曖昧で『あちら』側からひとが渡ってきてしまうことがあったのよ。彼ら彼女らを俗に『客人(まろうど)』というの。人族は寿命が短いから、最後に現れた客人を見たことのある者はもういないんじゃないかしら」

 

 店にやって来たお客さん達の世間話をなんとはなしに耳をそばたてて聞いているうちに、興味深いワードが飛び込んできた。つい食い気味に訊ねると、親切な客の1人が説明してくれる。

 

「客人なんてほんとにいるのかい?」

「さぁ……偉い人の書いた文献には、一応客人と遭遇したときのことがちゃんと載ってるらしいけど。さてねぇ……」

「客人の来訪が真実だとして、そのうちスフィールにも来るかしら」

「まっさかぁ。こんなド田舎に客人がやってくるわけないだろう」

 

 わいわいと騒ぐ大人達もまた客人を直に見た経験はないという。最後にこの国へ客人が現れたのは、いにしえの人魔大戦が起きるより遥か前のことらしいから当然といえば当然なのだが。いかな魔法の恩恵があろうと、人はそんなに長く生きられない。

 だとするならば、一応は人間であるはずのジェラルド国王やローズマリーが若々しさを保ったまま長命である秘密はなんなのか。

 いくら魔法薬学を勉強していてもセージには分からなかったが……もしかしたら国王や師匠は混ざり物なのかもしれない、と疑っていた。もちろんさすがに、その疑念を問い質すつもりなどないけれど。

 

「マリーが待ってるし、そろそろ俺は帰ります。クラブハウスサンドありがとうございました。きっと師も喜びます」

「あら、もう帰っちゃうのね……、せっかく来てくださったのにあまりおもてなし出来なくてごめんなさいね。よかったらこれ、魔女様に。セージ君の分も入ってるから」

 

 町長の妻であり「くろつむぎ亭」の女主人である女性がバゲットの入った紙袋を渡した。付け合わせのマリネが入った使い捨てのケースも同封されており、これだけで今日の夕飯とするにはちょうどいいくらいだ。

 

「えっ、サンドももらってるのに悪いですよ、参ったな……今日は予備のお金、持ってきてないや」

「何言ってるの、これはほんの気持ちよ。魔女様にはいつもお世話になってるもの。魔女様が森に来てくださってから、病や傷が元で亡くなる人は激減したわ。あの方がいなければ、とっくにこの町は廃れていたことでしょう」

 

 そんな風にしみじみと言われては、もうこれ以上セージが何か言うのは躊躇われた。精一杯の謝意を込めたお辞儀をひとつして、他の客に別れを告げてから店をあとにする。すれ違う町の住人に挨拶しながらやや駆け足で進み、やっと帰路に着いた。

 暗き森、と呼ばれるくらいなので当たり前だが森の中はとても暗い。昼間でも折り重なる枝葉によって陽光が遮られ、灯りを持たなければ躓いてしまうほど。

 そのためセージはいつも魔法を用いてここを通らねばならなかった。適当な棒切れや何かの先端を光らせるだけの簡単な魔法だ、消費魔力も少ない。

 彼の専門はあくまで魔法薬学ではあるが、日常で頻繁に使うような魔法は修めている。ちなみにローズマリー曰く、彼女なら森全体を余すことなく人工光で一両日中照らすのだって余裕らしいが。

 とはいえそこまで大規模な魔法を使う必要もなく、彼は獣道を散歩でもするかのようにてくてくと歩いていく。行商に出るのは不定期なうえ数もそう多くないけれど、セージが大きくなってからずっと彼の役目なので慣れてしまった。むろん灯りがあればこそだが。

 ──しかし。

 

「あれ? なんだろ、全然家に近付いた気がしないんだけど……。むしろ、なんか遠ざかってるような……?」

 

 歩けど進めど自宅へ辿り着かない。普段ならばもうとっくに帰り着いていなくてはおかしい。それほど時間が過ぎている。何か呪いでもかけられたか、と彼は訝った。魔法使い見習いらしい発想であり、おそらく師匠も同じ立場ならそう思い至るだろう。

 

「ったく、せっかくもらったサンドもバゲットも悪くなっちまう。防腐のまじないをかけておこう……って、アレ? 魔法が、使えない……?」

 

 何度呪文を唱えようと魔法は発動してくれなかった。灯りの魔法が問題なく稼働しているのにこれはどう考えてもおかしい。なにか異常事態が起きている。

 

「マリー! ローズマリー・サトゥルヌス! 返事をしてくれ! 頼む、緊急事態だ! 俺のこの声なら……届くはずだろう!」

 

 声と言葉に魔力を込め、全霊で叫ぶ。言霊の魔法といい、難易度は高いものの呪文を使う通常魔法よりも強い効果が期待できる。言霊の魔法を用いれば、たとえ新規の魔法が封じられた状況下でも魔女に異常を伝えられるはずだった。

 

『セージ! 無事!? あぁ、良かった……生きていたのね。待ってて、今すぐそこから連れ出してあげるから』

 

 脳裏に直接ローズマリーの呼びかけが届く。離れたところにいる相手へ話しかける、まだセージが未習得の上級魔法だ。こんな時ではあったが、改めて師の魔法技術の高さに感服してしまう。

 聞き慣れた彼女の声が不安に浮き立つ心をすっと落ち着けてくれる。意思の疎通が図れるのであれば、もう過剰に不安がる必要はなかった。あとはローズマリーが救い出してくれるのを待つしかない。

 そしてセージが祈るような心地で待機していると、急激に景色が森の中から自宅のリビングへと切り替わる。同じく上級魔法の1つである転移魔法だ。これもセージはまだ習ってないので使えない。

 

「あぁびっくりした……、急にあんなことになって。一体何が起きたんだ?」

「どうも、森に棲む魔物のうち誰かがいたずらをしたみたいね。惑わしの魔法をかけるだなんて、まったく厄介な……。いい加減、本気でお灸を据えてやらねばならないかしら」

 

 愛弟子を害されて憤慨するローズマリーだが、実際に彼女が森の魔物を退治した事例は1度もない。

 歴代のミネルヴァの魔女には、魔物を見るや残らず倒していったような血気盛んな者もいたようだが、悪さをするにしても森の外でなければ構わない、というのがローズマリーのスタンスだ。命を扱う職業だからか彼女は命を奪う行いを嫌う。

 おそらくこのあと、いたずらした魔物にお説教でもしに行くのだろう。殺しはしないが悪さをしたら容赦なく鉄拳を振るう、それが穏健派の魔女のやり方だった。

 

「あ、そうそうお昼は買ってきた? だいぶ遅くなっちゃったけどランチにしましょう。今日のお茶はレモングラスのブレンドティーにしてみたの」

「えっ、ほんと? わーいやったぁ! そうそう、くろつむぎ亭からバゲットもおまけしてもらったんだ、今日の夕飯はこれにしようよ」

「それちょっと早く言いなさいよぉ! もう夕飯の支度に取り掛かってたのに!」

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら2人はキッチンに並び立ち、お昼の準備にかかる。といっても朝食の残りのスープを温め直し、2人分の飲み物を用意するだけだったが。手早く料理を食卓に置き、席に着いた師弟はいただきますをしてさっそく口いっぱいに頬張る。

 

「んー、やっぱりくろつむぎ亭のごはんが国1番のおいしさねっ。これのために頑張ってお仕事してきたような気がするわぁ……って、どうしたのセージ。浮かない顔をして」

「……。なんか、味がしない。サンドも、スープも、バゲットも……。おかしいな、朝ごはんの時はなんでもなかったのに」

「変ねぇ……前触れのない味覚異常なんておかしいわ。まだ検査キットの在庫があったから、とりあえずそれで簡易検査を、」

 

 ぐぬぬと眉を寄せてローズマリーが言いかけたその時、異変は突如として起きた。

 

「あ、あ、……あ、やだ、助け……て……ま、りー……」

 

 

 

 明るい金の髪は錆び付いた銀に。

 滑らかな白い肌は煤けた灰色に。

 とんがり耳は縦に伸び、翠玉の瞳が血玉石に変わる。身にまとった衣服を裂き、背中に生えるは蝙蝠のごとき皮の翼。額を突き破る一対の角から、ぽたぽたと血の雫が垂れる。

 ──“それ”は、紛うことなき鬼の姿。

 妖精の血筋を引いた子は、理性なき(まなこ)で微笑んでいる。

 

「にげて、マリー」

 

 精神(こころ)衝動(ほんのう)に食われる前に、最期の言葉を言い残して。

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン王都

 

 大陸最強の国家シュバルツベルンが誇る、薔薇烟る都と謳われる首都「ロージア」の中枢たる王宮の傍、華麗にして荘厳な意匠が目を引く高層のビルディングが屹立している。現国王ジェラルドが即位するより更に昔、遥か千年も前に建立されたそこは(まつりごと)の場である元老院だ。

 内部には法案を司る議会、法の番人である裁判所、更に国家防衛の要を担う中央軍司令部が置かれており、ここが堕ちるようなことがあればシュバルツベルンは終わりだと言われていた。もっとも元老院には代々王宮に仕える名門の魔法使い一族が強固な結界を敷いているため、そのような事態に陥る可能性は非常に低い。

 王宮周辺には魔法に関する研究を行う王国魔導研究所や王宮近衛騎士隊の本部があり、それらもまた元老院同様に重要度の高い施設だ。要するに「ここ」は、政治経済軍事外交その他全ての中心地なのである。

 そして「彼」または「彼女」の職場でもあった。

 

 お天気予報の魔法でチェックしたところ、本日の王都は生憎の空模様だった。濡れないよう仕事着の上にコートを羽織り撥水加工したブーツを履き、それからちゃんと傘も持って官舎のアパルトメントを後にした。

 雨避けの魔法は消費魔力も少ないので国民なら大抵が使用している。だが、彼女の仕事は残念ながら魔力を大量に駆使する以上、僅かな魔力も無駄にはできない。

 お気に入りの黒無地のこうもり傘は「前世」に居た時も使っていた馴染み深いものだ。うら若き乙女の姿にそれは似つかわしくないけれど、誰に言われようとも手放すつもりはない。

 早朝の王都中心部はまだ夜が明けたばかりなのに通勤中の労働者や各地区にあるカレッジへ向かう学生で溢れかえり、早々に降り出した雨に濡れた石畳の上を憂鬱そうに歩く様子が目に映る。自慢の景観もこれでは人混みで台無しだった。

 こればかりは「異世界転生」しても代わり映えしない光景だなぁ、と彼女は思う。

 

 彼女──または彼でもあるが、「前世」での名を「中富神楽(なかとみかぐら)」、こちら側での名前は「フェルデニウム・アポロニウス」という。

 元老院直轄の研究機関「王国魔導研究所」の職員だ。そして「アポロニウス」は国内に点在する魔法使い一族の中でも代々王宮に仕える名門であり、音魔法を操る術に長けていることから、宮廷音楽家一族としての一面も持ち合わせていた。

 魔力は魂に宿り、魂は血に宿る。

 中富神楽あるいはフェルデニウム・アポロニウスも例外なく一族に伝わる血筋と力を受け継いでいた。ただし、死ぬ直前までの記憶も伴って。

 

 彼だった頃の神楽は、ごく普通のサラリーマンだった。大学を卒業したあと地元の中小企業で事務員として働きながらたまの休みには友人(ツレ)と飲み歩き、三十路に差し掛かる前には結婚したいなぁ、と願望を抱くような──本当に、どこにでもいるような。

 しかし妻を見つけるよりも前に彼は命を落としてしまう。ありふれた人生の終わりは決してありがちなものではなかった。全国でも症例が十に満たないような極めて珍しい難病に罹り、治療のかいなくあっさりと息を引き取った。

 あるいはその病がきっかけだったのかもしれない。いよいよ死に瀕し、看取りに来た両親へ別れの言葉を告げたあと、そのまま眠るように逝ったかと思えば──気が付くと、女の赤子として再び生を受けていた。ただし30手前まで過ごした現実世界ではなく、虚構のものと思っていた「異世界」で。

 前世、神楽が育ったのは会社員の父とキャリアウーマンの母だけの平凡な家庭だったが、此度生まれたアポロニウス家は貴族身分ではないものの充分な財力と地位を備えた立派な家だった。

 音を操る魔法を得意とする宮廷音楽家の一族として今のフォンテーヌ朝に仕えており、代々の当主はジェラルド国王の覚えもめでたいという。そして国内でも優秀な血筋を今に残す、名門の魔法使いの家系として広く知られていた。

 年々貴族の影響力が薄れつつあり、魔法使いの存在感が増す王国において、アポロニウス家は最も元老院議員の席に近いとも言われる重鎮なのだ。

 現当主の父、次期後継である年の離れた兄、亡くなって久しい祖父もまた元老院に所属し働いていた。父は宮廷音楽家という官職を兄に譲り、もう引退して悠々自適の老後生活を楽しんでいるが。

 神楽はそんな家の末娘として生まれ、兄と共に分け隔てなく育てられ、兄同様に魔法使い一族の一員として魔法を学び、成人の儀式を終えたのち全てを思い出した。自身が別な世界に生きていたことを。加えて、可愛いお嫁さんを迎える前に逝ったこともまた。

 だがしかし、困ったことに今の神楽の性自認は女性であり肉体の性別も女である。お嫁さんになれてもお婿さんにはなれない。前世からの夢が叶わぬと悟った彼女は生前にも類を見ないほどがむしゃらに働き、いつの間にか魔法使いにとって名誉である「王国魔導研究所」の正規職員になっていた。

 つまりはかつての母と同じキャリアウーマンというやつである。今度は素敵な婿を捕まえるという目標も絶たれた。なぜならその辺の貴族より社会的立場と生涯賃金が上だからである。平民としては最高の地位と富を得てしまったのだ、嫁の貰い手が見つかるわけもなかった。

 全てを諦め、こうなれば死ぬまで魔法使いとして知識を深め技術を磨き、自立した1人の女として生き抜いてやる、と心に誓い──今に至る。

 

 そんな現代における至高の魔法使いたるフェルデニウム・アポロニウス、あるいは中富神楽は現在、ろくでもない実験に加担させられていた。現実世界で培ったマトモな倫理観を持つ彼女にしてみれば、人権を無視した人道に悖るとんでもない実験である。

 それは、別次元にあるという異世界から生命体をこちらに移動させ、来たる軍国との戦争における「使い捨ての」兵士として活用する、というものだった。

 異世界の人間を拉致し、コストのかからない安上がりな兵士に仕立て、戦争での自国の損害を軽微なものにしようという計画だ。神楽の常識では一発アウトだがここは異世界、なんでもありである。戦争で勝つためには。

 

「馬鹿馬鹿しい、戦争なんかしない方がよっぽど低コストだっていうのに」

 

 とはいえ戦争の主役は全軍を率いる王家であり、神楽の立場はその王家に忠誠を誓う一族の(すえ)だ。いわば神のような存在である王家の意向に逆らうなど、とても許されるものではない。しがない1人の役人として粛々と従うのみである。

 雨降りの月曜という更に気持ちを萎えさせる状況の中、サボりたい気持ちを堪えて神楽は職場へ登院し、いつものように保安検査(手荷物のチェックとボディチェックである)を済ませると、コートを脱いで仕事着であるスーツの上に白衣をまとった。

 職員一人一人に与えられた四畳半程度の狭苦しい私室に荷物と持参した昼食を置き、ここへ来るまでに少し濡れてしまった髪を魔法で乾かし、整える。

 前世は洒落っ気のない黒の短髪だったが、今は亜麻色の長い髪をきっちりと纏め上げてシニヨンにしている。姿見に映る自分は生前の己なら思わず見蕩れていたであろう、綺麗な女の容姿だ。

 鼻筋の通った彫りの深い顔立ちに切れ長の瞳は鮮やかな空色、引き締まった身体はメリハリの効いたモデルのごときスタイルで、スーツもドレスもよく似合う。白衣効果も相俟って、いけない女教師っぽく見えるが。

 けれどもこの見た目は、こちら側の男の受けが良くない。ふんわりした雰囲気のお淑やかで愛らしい若い女が人気なのは、次元が変わっても世界共通らしい。

 ふぅ、と浅い嘆息の後に目を保護する分厚いゴーグルをかけて私室を出る。これから行うのは道理も無理も引っ込んだ、外道そのものの実験だ。願わくば、あちら側でも誰にも必要とされていないような者が召喚されてほしいと思いながら、彼女は研究所の最奥へと踏み入る。

 

 

 

 そのささやかな願いさえ、叶わぬのだと今は知らずに。

 

 

「……。……ここ、どこぉ……??」

 

 明るい午後の日差しに照らされたどこまでも広がる草原は、まるで緑の海原のよう。雲ひとつなく晴れ渡った空は鮮やかなターコイズブルー。肌をなぶるそよ風は優しくあたたかく、夜の冷たい空気に凍えていた身体をそっと包み込む。

 おそらくここは住み慣れた東京の街ではない。こんなにも自然豊かな、空気の澄んだ場所なんて近所にあっただろうか。少なくとも架音の記憶にはない。

 

「これは、もしかしてあれかな……ラノベによくある『異世界転移』ってやつ……?」

 

 最近よく読んでいるライトノベルも、たしかそのような題材だった気がする。流行っているのか、本屋の書棚を埋め尽くす勢いで異世界を舞台にした小説が発行されているようだ。架音が今置かれている状況はまさしくそれに酷似している。

 と、いうことは。ここは異世界だったりするのだろうか。

 いやいや、そんなまさか。そんなバカげた話があるものか、と思い直し彼女はぷるぷると首を横に振る。アレは架空の物語であり虚構だ、現実に起きるはずがない。……そうであってほしいが、夜の東京から真昼の草原地帯へ瞬間的に移動する、という不可解な事実がそれを許さなかった。

 どうしてこんなことになった。

 なぜ、自分がこのような目に。

 考えても詮無きことだと理解はしても納得などできない。なんたる屈辱であり理不尽だ、あまりにも。彼女は唇を血が滲むほど強く噛み締め、指先が白くなるまでぎゅっと拳を握る。

 架音は安穏とした気怠い日常を大切にしていた。受験勉強や学生生活でのしかかるストレスは確かに辛くない訳ではない。しかし、怪我や病気もなく家族も無事で過ごせる「当たり前の」毎日が、尊く得難いものなのだと知っている以上、優先すべきは理想(フィクション)よりもリアルだった。

 であればこそ、ここが異世界であろうとそうでなかろうと、やるべきことは「おうちにかえる」のひとつだけ。

 とはいえ、今の彼女はあまりにも無力だ。財布の中身はお札もなく小銭が少しあるだけ。日頃、昼食代も電車賃も全てキャッシュレス決済で賄っていて現金を持たない生活だったのが悔やまれる。

 愛用のスマートフォンも圏外表示で、地図アプリは見れずインターネットへの接続も不可能。検索の手段は何もなく、ここがどこかを知るにはひたすら徒歩で進む以外に方法はない。

 唯一の救いは鞄の中に菓子パンとお菓子を飲みかけのお茶と一緒に入れたままでいたことくらい。ただ、それもいつまで保つかは不明だが。

 家を出る前、歩き回る羽目になるとは予想もしていなかったがスニーカーを履いてきていて良かったと胸を撫で下ろす。とりあえず靴擦れの不安はない。

 読んでいる途中だった文庫本を持ってこれなかったのだけが残念でならないけれど、無事に帰宅できれば続きが読めるだろう。本当に帰れるのか不明なことに目を瞑れば。

 この先どうなるのか不安はある。未知のものに対する恐怖も。それでも架音は無理やりに気持ちを切り替え、行動してみようと決めた。──それが最悪の事態を招く「引き金」になるとはまだ、露ほども思わずに。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン郊外「ミネルヴァの暗き森」

 

 ぐおおおおお、と獣の如き鳴き声を轟かせながら、すさまじい形相のセージは師匠であるはずのローズマリーへ向かって突進する。そこに理性や知性は僅かにも感じられない。

 

「落ち着きなさい、セージ! 正気に戻れ! 自分が何者か、思い出すのよ!」

 

 必死になって呼びかけつつローズマリーは相手から目線を逸らさずに後退し、リビングダイニングと地続きになっているキッチンから彼を遠ざけることを試みる。

 キッチンはまだ半人前の彼には触らせられない危ない試薬が置かれており、薬庫代わりになっているためできるだけ離す必要があった。普段は言い聞かせておけばいいが今は非常時だ、会話による説得は難しい。ローズマリーを八つ裂きにして薬庫を荒らしかねない。それだけは避けなければ。

 ぐるる……、と低く唸る彼の変容は明らかに異常だ。浅黒い肌も真っ赤に染まる瞳も本来セージが持つ色彩とは別物であるし、極めつけは背中に生えた大きな翼と額から伸びる一本角だ。魔族の一部にそのような身体的特徴を持つ種があると聞いたことはあるが、他でもないセージが突然魔族化するとは考えにくい。

 こんなの、まるで「(オーガ)」のようではないか。

 

「……そうか、鬼。お前の症状は『オグル化現象』ね。呪いの影響による転変、つまりセージ、あなたは『呪われた』のね。……誰によるものなのかは分からないけど」

 

 呪詛転変、という特殊環境下でしか発現しない症状がある。名の通り誰かに呪いをかけられ、姿や種族が変わってしまうものだ。

 おとぎ話に出てくる蛙にされた王子様がその一例として分かりやすい。多くはいくつかの条件をクリアすることで解呪がなされ、蛙にされた王子なら姫のキスで元に戻れるなどの、動作あるいは儀式が解呪の条件として紐付けされている。

 セージの変容もまさにそれに当てはまる。だが腑に落ちない。

 呪詛転変は基本的に報復行為として実行されることが多いが、セージは誰かに迷惑をかけてなどいないし何も悪さをしていない。呪詛転変などという高リスク高コストな魔法を仕掛けられたりするだろうか。

 まして、無害な蛙ではなくあらゆる種を傷つける可能性のあるオーガなんて生き物に変化させるなど、いくら復讐だとしても常軌を逸しているとしか思えない。つまりこれは、無差別型の呪いなのではなかろうか。

 

「……、ハァ? ってことは、私の可愛い愛弟子をオーガに変えたくせに、理由なんかない、だってぇ? 巫山戯るな……巫山戯るなよ……! どこの誰だか知らないが、ミネルヴァの魔女に喧嘩を売るってのはどういうことか、思い知らせてやる!」

 

 カッ、と魔女の瞳に瞋恚と闘志が灯る。エメラルドのように濃く深い緑の眼が眩い燐光を放つ。比喩ではなく実際に、彼女の目は輝いていた。それこそが、魔女が魔法を操る時の予備動作である。

 弟子たるセージすら目にした機会がない、魔女ローズマリーの本気だった。

 

『ミネルヴァの魔女の名において、我が(しもべ)たる者へと命ず。我に──したがえ』

 

 それは先ほど森でセージが使ったとのとは比較にもならない、強大極まりない言霊の魔法だった。力ある者が魔力を全霊に込めた言葉を放てば、力なき者は屈服し隷属せざるを得なくなる。ある意味では呪詛転変などより余程危険で恐ろしい魔法。

 (オーガ)と化し、目の前の生き物が大事な師匠であるというのも分からなくなっているセージだったが、これには従うしかなかった。ぎゃおおおと悶え叫びながら跪き、床の上へ頭を垂れる。ばさばさとはためく革の翼が叛意を示していた。

 ……だがしかし、どれほど強い魔法で無理やり抑えつけても結局は時間稼ぎにしかならない。一刻も早く対処療法を見つけ、しかるのちに呪いを解かねば、彼はいつまでもこのままだ。それはセージの輝かしい未来が絶たれるということを意味する。師としてそんなのは許容できるわけがない。

 

「くっ……何か、何か他に方法は……せめて解呪の条件が見つかるまででいい、その間だけでも理性が戻るにはどうすれば……考えろ、しっかりしろ! 私はこの森を継いだ『ミネルヴァの魔女』でしょうが! ……待て、ミネルヴァ?」

 

 ここは「原初の魔女・ミネルヴァ」が拓いたことに由来して名付けられた森だ。この世界に「魔法」という黎明を齎し、あまねく種族に文明と文化を与えたもうた魔女ミネルヴァは、魔法を使う者たち全てに神の如き存在として今も篤い尊敬と信仰を受けている。

 この森を守る魔女は、すなわちミネルヴァと同格の魔法使いと認められたに等しい。だからこそ「ミネルヴァの魔女」と称されるのだから。そんな「ミネルヴァの暗き森」にしか育たぬ薬草が、確かにあったではないか。

 

「千年草……。あれさえ使えば……、時間がない以上、さすがに出し惜しみなんてしてられないわね……!」

 

 魔法でセージを縛り付けたまま彼女は細心の注意を払って家の外へ飛び出し、畑に植わったままの千年草をぶちぶちと引っこ抜く。陽射しの下、パールのように光り輝く真っ白い実をつけた草を土も落とさず握り込む。

 全速力でそのまま再び屋内へ戻るやいなや、床上でぶるぶる震えるセージの顎を引っ掴み、片手に持った千年草を口の中へ突っ込んだ。

 

「………………届けぇぇぇぇ!!!!!」

 

 これでダメなら、もう潔く首を落とすしかあるまいな、と覚悟しながら。

 

 

 魔界にしか育たぬと言われている伝説級の効能を持つ薬草、千年草は万病に効きあらゆる傷をも癒すという。飲めば寿命が千年伸びるという謂れから千年草と名付けられた。

 それだけに薬効をコントロールするのは薬のプロたる典薬師ですら至難の技であり、現状使いこなせる技術を有するのは人界魔界問わずただ1人──そう、天才薬師の魔女・ローズマリーだけだった。

 

「セージ! 治れ、戻れ、頼むから……心を保て! お前は薬師になるんでしょう、この私を越える、世界でいちばんの薬屋に!」

 

 千年草が呪詛転変に効くという根拠(エビデンス)など聞いたことがないし、恋茄子(マンドラゴラ)と違って魔法に関する逸話も残されていない以上、これはただの賭けでしかなかった。理論と経験に基づき行われる医術とはとても言えない。だが、一刻の猶予もない今は分が悪いとしても賭けるしかない。

 これでダメならセージが一般の人々を傷付け食い殺す前に、ローズマリーこそが「責任」を果たさねばならないのだから。……首を落とし、亡骸を焼き、決して蘇ることのないように。

 

 かくして、ローズマリーは賭けに勝った。

 

 野獣さながらに吠え、言霊の魔法で屈服させてもなお暴れようとしていたセージがだんだんと大人しくなり始め、やがて吠えるのをやめて動きの一切を止める。

 浅黒かった肌は元の明るい白へ戻り、ブラッドストーンのようだった赤い目も見慣れたペリドットへ。背中を覆わんとしていた翼は立ち消え、額を貫く角も見えなくなる。やがて、青ざめていた頬に赤みが差し、ほぼなくなりかけていた彼の理性が息を吹き返した。

 

「……ま、りー? 俺、今、あんたに……、何を……っ」

 

 丸い瞳がゆるゆると見開かられ、ぱたぱたと透明な雫がこぼれ落ちた。透き通るように綺麗な高い声は震え、ひっひっと浅い呼吸が絶えず繰り返される。彼女は痛々しく血に汚れた愛弟子の背中をさすりながら、痙攣する身体を抱きしめた。

 

「大丈夫よ、大丈夫……お前はまだ、何も、誰も、傷付けたりなんてしてないわ。もしもお前が何かを殺めようとするなら、その時は必ず、私が命を張って止める。何度だって止めてみせるから……もう、泣くのはおやめ。御天(みそら)の向こうであの子も心配するでしょう」

「マリー、ごめん……呪いなんかに負けるなんて、俺、魔法使い失格だね……」

「馬鹿。呪いというものは相手に強制するから呪いなの。抗えられるようなものは、はなから呪いだなんて言われたりしないのよ。……薬の効能はまだもう少し続くけれど、切れたら再び先程のように転変の影響が現れるでしょう。その前に大元を絶たねば、お前はいつまでもそのままよ」

「そんな……また、あんなふうになっちまうのかよ。嫌だ、俺、元に戻らなきゃ……」

 

 千年草の効果持続時間は一般の薬とさほど変わらない。短くて半日、長くても1日保てばいい方で、運が悪ければ体質次第では数時間と経たずに効果が切れる可能性もある。しかも今回は、薬として精製する前の原材料をそのまま服用させたので尚更すぐに切れる危険があった。

 何より、千年草は既に収穫しストックとして保存している分も合わせても1年分にもならなかった。1回の服用に必要な量が想定より多ければより早くストック切れを起こす不安もある。

 もし、読み通りこの呪詛が無差別伝染型であり市井の人々にも影響が出るかもしれないとするのなら。すぐにでも封じ込めを行い、呪いの根元を絶たないと国そのものへの大きなダメージとなる。多くの国民が怪物に変じて人を食い殺す生き地獄と化すだろう。

 そうなればもはや人類に未来はない──この国は人族の中心だ。次は軍国、更に帝国へも波及しやがて人間の国は残らず滅びる。待ち受けるのは人という種の滅亡だ。

 ミネルヴァの魔女として、シュバルツベルンの薬師として、ローズマリーはそんな最悪のシナリオを看過できない。なんとしても呪いを解く術を見つけ出し、この国と愛弟子の未来を取り戻さなくては。

 

「……セージ。今から私は半日ほど工房に籠るわ。この先しばらく鬼とならずに済むための薬を作り、そして呪いの拡大を防ぐため森を焼くの。残念だけど選択肢は、……このまま森と共に逝くか、それとも私の旅に着いていくか。二つに一つよ」

「は……? どういうことだよ、説明してくれよ、マリー!」

「お前の罹った(のろい)は呪詛転変の一種である『オグル化現象』というもの。薬の効き目が切れたその瞬間、同族だろうと躊躇いなく手にかける共喰いの化物に戻ってしまう。更に、対象を定めずあらゆる者に害の及ぶ無差別伝染型ならば、セージだけでなく多くの人々がお前と同じくオグル化しているでしょう。私にはそれを「治す」義務がある。セージ、お前にその覚悟はある?」

 

 彼は──押し黙ってしまった。無理もないなとローズマリーは思う。

 彼女はかつて王宮に仕えた者として、呪いの蔓延を止め国と民を救うさだめにあるが、セージは違う。彼は他の人々と同じ、ローズマリーが守るべきこの国の民だからだ。覚悟の有無を尋ねはしたが、そんなものがあるはずないと分かり切っていた。

 なによりそんなつらく哀しい覚悟を定めてほしくなかった。こんな緊急事態においてもまだ、セージには安穏とした平和を享受するひとりのままでいてくれないか、と彼女は願ってしまう。

 ……どだい無理な話だと理解っていても。

 

「マリー、その役目はさ……マリーだけが負わなくちゃいけないものなの?」

「いいえ。1度でもあの宮に仕えた経験のある者は、たとえ職を辞そうとも死ぬまで『お役目』がついて回る。だから、王宮に関わった私以外の魔法使いは皆、例外なく同じ立場にいるわ」

「なら……ならさ、その『お役目』を課せられてるマリーの弟子もまた、同じように課せられていなくちゃおかしいよな」

「……私の旅に着いてくる覚悟はあると。そう、受け取ってもいいのかしら」

「当たり前じゃないか! 焼け野原になっちまう『故郷(ここ)』で、マリーが辛い仕事をこなすのをひたすら待ち続けるなんていやだ! 俺達は師弟なんだ、お前の痛みをどうか、背負わせてよ……!」

 

 春先に芽吹く若草のように淡い緑に輝く瞳がまっすぐローズマリーの目を見つめた。彼女の深い緑の眼と絡み合う。……あぁ、この目には敵わないなと思ったから、彼を弟子に摂ることにしたんだったなと、彼女は遠くなってしまった過去(きおく)を思い返した。

 

「セージなら、きっとそう言うと思ってたわ。待ってて、すぐに支度するから……今は少し休んでいなさい」

 

 既に日は陰っていた。今のうちに薬を作り終え、可能な限り早く発たねばならない。おそらく辛い旅路になる。セージに眠りの魔法を掛けて体力の温存をさせ、彼女は畑に植えている残りの千年草を摘む。加えて更にストック分も全て精製するため、家の奥にある工房へと踏み入った。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン王都「ロージア」

 

 齢数百を重ねても尚、若々しい極上の容姿を保ったままの青年王「ジェラルド」が目の前にいた。

 代々フォンテーヌ家に継がれるアッシュブロンドにくすんだ青い瞳、すらりと細い肢体を紺青の豪奢な外套に包んだ姿は、記憶にあるものと全くといっていいほど変わらない。何百年も昔、人魔大戦の折からずっと。

 あのとき、同じ轡を並べて戦っていた一介の武官から王にまで出世しているとは、一体誰が予想できただろうか。彼こそ薔薇の都を魔族の手より守りきり、千年続く強国を作り上げたのだ。……まぁ、それも今日で「おしまい」だけれども。

 

「そなたが遥々この世界へ渡ってきたという『客人(まろうど)』か。この国──シュバルツベルンの国主として歓迎いたす。顔を見せ、名を告げよ」

「……、いいんですか? 私の名をあなたに教えても? 本当に?」

「何を遠慮することがあろう。そなたを賓客として迎え入れるにあたり、ぜひともその名と姿を確認しておきたい。やむにやまれぬ事情があるなら、配慮するが」

「……いえ、王様がOKだっていうなら、別にいいですよ」

 

 目深に被ったフードを乱暴に剥ぐと、ローブの中にしまわれていた長い赤毛が、ばさりとこぼれた。あれから何度生まれ直そうとも、この不吉な真紅の髪は変わらない。どれほど忌々しく思ったことか。

 だが、彼の驚愕に染まる顔が見られるのならば、この不気味な赤も悪くない気がした。

 

「やぁ、久しぶりジェラルド! ボクだよ、シイバだ! 数百年の時を経て、遂に帰ってきたよ──この国へ!」

 

 

 

 ゆえに、長きに渡り続いてきた平穏はようやく打ち砕かれる。

 

 

 すべては数百年以上も昔に起きた、いにしえの「人魔大戦」まで遡る。

 

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン王都「ロージア」

 

「お前……は、死んだはずじゃなかったのか……、インフェソルニア……!」

 

 齢数百を重ねてもなお若く美しい容姿を保ったままの青年王ジェラルドが驚愕に震える声で訊ねる。否、嫌悪と恐怖の滲む顔からしてそれはもはや、詰問といってもよかった。

 対してインフェソルニアと呼ばれた者は飄々とした態度で、どこか余裕さえ垣間見える。

 国王への謁見の場に似つかわしくない、質素な黒いローブにくたびれた革靴、光溢れる宮の中でも一際目立つ艶やかな長い髪は、燃え上がるリコリスの色。人種も性別も不詳の端正な顔立ちに嵌る、アメジストの如き瞳が意味深に笑んでいる。

 

「やだなぁ、昔みたいにシイバって呼んでよ。インフェソルニアだなんてよそよそしい呼び名じゃなくてさ。……で、王様、ボクはとっても可哀想なんだ。ただ戦が怖くて逃げ出しちゃっただけなのにさ、厄介な呪いなんかに罹っちまって、あげく何度死んでも力と記憶はそのままに無限に人生をやり直さなくちゃならないときた! あぁほんと、不幸だろ? 不幸そのものだろ? だから、さ。こんな可哀想なボクにお恵みをくださいよ。そんくらい、もう王様なんだしいいでしょう? ねぇ、ジル」

 

 王が正真正銘の若者だった時分にしか呼ばれなかった愛称で呼びかける彼は、不気味で不吉そのものではあったが……確かに、記憶に懐かしい戦友(とも)なのだろうと思わせた。古くなってしまった思い出の中にいる自分が、これは「本物」だと訴えている。

 もうジェラルドには目の前の人物が偽物だと疑えなくなっていた。

 

「お恵み……と言ったな、それはなんだ。シイバ、インフェソルニア一族の始祖よ。お前は私に何を望む。申してみせよ」

「キミが逃した鳥籠の華。それをちょうだい。まさか忘れた訳じゃないだろう? あんなに見事な技の使い手を外へ出すだなんてふざけてる。けどそれがキミの意思だってんなら仕方ない。でもさ、逃がしたんならもうボクの物にしてもいいよね?」

「ならぬ。アレは国宝であり、シュバルツベルンを守る礎だ。お前のような外様にやれるほど安くはない」

「へぇ。じゃあ、分かったこうしよう。もうひとつ、きっとジルは断るかなって気がしてたからさ、別な切り札(カード)を連れてきたんだけど……それを帰してあげる。そしたらキミは助からないけど、民は命を留める。幾万の民と『アレ』のトレードだ、条件としちゃ悪くないと思うよ?」

「シイバ、お前のいう『アレ』が分からぬ限りは許可出来ぬ。たとえ天秤に乗るのが我が国に生きる者達であるとしても、だ。それほどにアレは重いと他ならぬお前こそ理解しているだろう、1度命を救われたなら」

「そうさ、あの子の価値を知っているのは誰でもない、このボクだ。だから欲しいんだ。あぁでも、キミが許してくれないんじゃあ仕方ないな……力ずくでぶんどるしかなさそうだ。残念だよ、まったく。──朋友(とも)よ」

「あぁ、私も残念でならないよ……戦友(とも)よ」

 

 矢継ぎ早に交わされる応酬を傍に控えていた侍従達はわけもわからず見守るしかなかった。客人(まろうど)が何か交渉をしようとして決裂したのは分かるが、一体何が交渉されようとしたのか。何よりかつての名家である魔法使い一族「インフェソルニア」の名を騙るこの客人は何者なのか。

 だが、それらに思索を巡らせる前に異変は起きた──視線の先、玉座に在す王に。

 

「かは、ァ、……くっ、皆の者……私が、理性を保てる間に……避難、せよ。そして……しばらく、この宮にあれらを……我が子らを、近づけ、させ、る、な……!」

 

 咳まじりのか細い声だったが、青紫に染まる酷い顔色にぎらついた眼を見開いた王が息も絶え絶えに叫んだ。

 瞬間、長きに渡り決して外見の変わらなった王が遂に一変する。

 灰金の髪は真っ白く色が抜け逆立ち、くすんだ青い目は血走り禍々しい赤へ、すべらかな白い肌はもはや浅黒く、耳まで裂けた口には牙が、剣を握るのに慣れた無骨な手には鋭い鉤爪が備わっていた。

 天井を貫くのではと思うほど体格は増し、腕も足も隆々としている。腰骨の辺りから太い尾が伸びて鞭のようにしなり、たしんたしんと音を立てて威嚇してきた。

 その醜悪な姿は、魔族において最も旧く最も恐ろしい種、(オグル)を象っていた。

 

「にげ、ろ……みな、の、も……の……」

 

 嗄れた声は既に王のものとは言い難く、怪物の発する鳴き声としか聞こえない。あまりにも突然かつ凄まじい変わり様に、侍従達は揃って腰を抜かしへたり込んでいる。

 とうとう僅かに残されていた理性が吹っ飛んだのか、「王だったもの」がのそりのそりと四足で歩き、角砂糖でも摘むかのように人間の首を掴むとそのまま()()()、と咥えた。次いで、ばぎん、ぐちゅ、と聞くに耐えない咀嚼音が鳴る。

 「それ」は頭を食い終わると、残った胴も食べやすいよう丸めてから口の中へと放り込み、そしてまた味わうようにゆっくりと噛み締め始めた。ようやく生き残り達から悲鳴と絶叫が迸り、必死に逃げようと足を動かそうとするもののもう遅い。

 ぶぅん、と太い尾がぞんざいに振るわれ、立ち上がりかけた生き残り達はまとめて床に引き倒された。その後また同じように「食事」が再開される。骨を、皮を、肉を、臟を、人の身体を容易く喰らい飲み込むそれはもう、人とは呼べぬもの。

 

「言ったろ、厄介な呪いなんかに罹っちまった、ってさ。悪いね。ボクら『あちら』へ渡った奴らはみぃんな、こんなものを抱えて生きてきたんだよ。里帰りしようものなら、ふるさとを粉々にしちまう恐ろしい呪いをさ」

 

 呪詛転変。あるいは「ともくいののろい」と彼らは言う。ただ居るだけで全ての人を人以外のものに変え、人喰いの狂気を齎す罪深き呪い。越えてはならぬ境を越え、理を破って「異界」へ逃れた者への運命なのだと。

 異界を渡った者、あるいはその子孫、例外なく全ての者へ与えられた(かみ)からの罰だ。二度と故郷の土を踏めぬように。踏んだが最後、懐かしきふるさとは見るも無惨な有様と化すように。

 人魔大戦を制した祝福として、長命と常若の恩寵を授かった人族の長はもはや癒えぬ病に侵された。もう元の美しい青年王には戻れない。たとえ解呪がなされても、燻る人喰いの狂気が永遠に心を蝕み続けるだろう。死の許しを得ることもできずに──。

 

「死ねないってのはさ……哀れだよね。ほんとの意味では『死ねない』からこそ、ボクは余計にそう感じるよ。死は最後の救いだ。ボクもキミも、そして『あの子』もそれを取り上げられた。(かみ)から『ギフト』と称して。──あぁ、だからボクは、死が憎く、死が愛おしい。ゆえに死にたい。ねぇ死なせてよ……故郷(シュバルツベルン)なら、いつかボクを殺してくれる人が、きっと来てくれるはずさ。そうだろう? ここは『神に魅入られた土地』なのだから……」

 

 シイバ・インフェソルニア──または、焔上椎葉(えんじょうしいば)は端麗な面差しに憐憫の笑みを湛えながら言い残し、転移魔法を使って脱出する。あとには侍従達では飢えを満たせず、王宮にいる他の(エサ)を探しに出た王の成れの果てのみが、たったひとつ残された。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン王都「ロージア」

 

 今日もまた憂鬱な仕事が始まる……と思ったら、慣れ親しんだ職場はしっちゃかめっちゃかなことになっていた。なぜこうなったんだ、とフェルデニウム・アポロニウスこと「中富神楽」は深々とため息をつく。

 研究所内にあるラボにて「擬似・異界召喚」という本来は魔族のみ可能である「異界(あちら)」と「こちら」を繋ぐ魔法を発動させたところまでは成功だった。

 更に人や物の移動もできるかどうか試そうとしたのだが……「あちら側」に不具合が起きたのか、それとも「こちら側」に問題が発生したか。リンク先からなにかは来たはずなのに、ラボへ現れないのだという。探査の魔法をかけた結果、異界から「なにか」が訪れた痕跡はあるのに、だ。

 その後更に追跡調査を行ったところ、シュバルツベルンの辺境に該当のものはあるようだという結論が出たと、出勤してきたばかりの神楽は下っ端の研究員から報告を受けた。

 

「で……えっと、つまり、今すぐ出張しろって? うそでしょ、本気で言ってる? 王都の外なんか1回も出たことないのに!」

「えーでも、所長曰く適任が他にいないとのことで……他の班員はフェル様ほど実践的な魔法は使えませんし」

「あーもー、分かった! やる、やります! でもその代わり、今年のボーナス倍額ねって所長に伝えて!」

 

 言うが早いが彼女は転移魔法によって旅立つ。特別なことをせずとも対象の座標に位置を合わせるだけでいい、あとは魔法が目標地点へ導いてくれる。

 

「……やれやれ、前世の方がよっぽどホワイトな職場だったっつーの。まったく人遣いが荒いんだから……!」

 

 そして神楽は降り立った。もう1人の「客人」の元へと──。

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン国境付近

 

「……え、もしかして私、迷った……? 嘘でしょ。ほんとにここ、どこなのぉ……?」

 

 見渡す限り続く草原地帯を抜け、辿り着いた先は泥濘(でいねい)泥濘(ぬかる)む湿地だった。見たこともないような水草と背の高い野草が生い茂り、無数に小虫が飛び交っている。

 泥汚れの染みたジーンズと履き古したスニーカーにしょげながら、架音はがくりと膝が落ちそうになるのをなんとか堪えた。見切り発車で行動するのではなかった、見慣れぬ場所なら動かず救助を待つべきだったのに。

 既に高かった日はだいぶ落ちて地平線の彼方へ沈み込もうとしている。遮るものの何もない西の空は夕陽に赤赤と燃え、茜色の雲が棚引く様は文句なしに美しい。が、それはつまり過酷な夜越えをしなければならないという現実を示している。

 

「あーもー、どーしてこんなことになったのよぉぉぉ!!!」

 

 洗ってないせいでパサつく髪をガシガシ掻きむしり、体力の無駄遣いであることは重々承知しながらも架音はめいいっぱい叫んだ。キンキンと耳障りな甲高い声が、宵の明星が瞬く紫天に谺する。

 あぁ、間もなく夜の帳が落ちるのに。

 このままでは寒さと飢えに耐え切れず死んでしまう。死ぬのは嫌だ。死ぬのは怖い。何も分からず、何も成さずに、ただ無為に死ぬのは辛い、苦しい、情けない、口惜しい。ここで死ぬのか、自分は──。

 

「……そんなの、嫌……。私、まだ死にたくない……死にたくないよ」

 

 これまで己の生に意味を持てず、どころかなぜ自分は生きているのかさえ考えたこともなかった。考える必要なんかないとすら思っていた。けれどこんな時になってようやく悟る。それは単なる思考放棄でしかないと。

 何が何でも生きたい。まずは生き延びてこの窮地を切り抜けなくては。話はそれからだ。そして今度こそ向き合わねばならないのだろう、自分が今ここに存在する理由と。

 ──だが。

 

「ぐるるるる……ぐじゅ、じゅる……グゥ……」

 

 夕刻を迎えた湿地に響く、呻きにも似た唸り声。それは獣のようであり、また人がすすり泣いているようにも聞こえた。

 びく、と身体を震わせ硬直する架音の前で、ガサガサと草を掻き分けながらそれは姿を現す。

 耳まで裂けた口から覗く鋭い牙、両指に生え揃う長い爪、頭頂には一対の大きな角、腰から伸びた太く長い尻尾、ぎらついた目は真っ赤に血走り、色の抜け落ちたたてがみのような髪がわさわさ蠢いている。

 その姿は、まるで人に化け損なった鬼のよう。人に似た人以外の「なにか」がそこにいた。だらだらと口から涎を垂らしながら。

 ひっ、とか細い悲鳴が漏れる。カチカチと鳴る歯の根が噛み合わず、金縛りにでもあったみたいに全身の筋肉が凍りつき、まともに足が動かない。熊に遭遇した時の状況はまさにこのようなものだろうか。

 怪物は微動だにせずジッとこちらを見ている。もしも架音が少しでも動けば間を置かずして襲いかかってくる。目線から感じる、相手が自身に向ける食欲と──僅かながら、情欲を。

 自分はこのまま犯され食われて死ぬのか。死にたくない、死にたくない、死にたくないけど今のままでは……死ぬ。

 

「やだ……やだよ、あんたなんかに……ヤられて食い殺されてたまるか!」

 

 あるいは本能と呼ぶべきなのかもしれない。向けられた欲が伝播したのか、それとも元からあった意思だったのか。とにかく「それ」は架音の感情に呼応し「発動」した。

 

 足元の泥沼がぐらぐらと沸騰するようにポコポコと噴き出し、沼地の水分が抜けて何かが形作られ始める。見る間に具現化されたのは、氷の鏃だ。夕焼けの最後の残照を浴び、金に輝く鏃が何本も何本も何本も、空に浮いて発射のタイミングを待っている。

 この「力」の使い方を架音は昔から知っているような気がしていた。ずっと眠らされていただけで、始めからこの力は架音の中に備わっていたのだろう、と。

 

「……行け! 貫け、穿て!」

 

 手の平よりもずっと大きいたくさんの鏃が弓もないのに音を立てず放たれる。瞬間、過たずそれらは鬼の元へ殺到し、派手に血を飛び散らせながら深々と突き刺さった。架音との距離が近かったせいで返り血が顔に服にと付着する。

 鏃はあっという間に溶け崩れ、全身穴ぼこまみれの肉塊がひとつ、出来上がった。

 死んだかどうか確認するため仰向けに倒れているそれの元へ近づき、架音は瞠目しながら口を手で覆う。

 

「……っ、ひと……?」

 

 肉塊などではなかった。それは遺体だ。西洋絵画やファンタジー小説の挿絵に描かれているような、どこにでもいる農夫の。苦悶に満ちた死に顔が生前の苦痛を物語っている。

 今しがた氷見山架音が倒したあれはバケモノではなく、人外に変えられた人間だったのだ。そうとしか思えなかった。

 

「この……っ、人殺し……!」

 

 今度こそ膝が崩れ落ちるのを堪えきれなかった。水分がなくなり泥沼ではなくただの地面になってしまったそこへ座り込み、彼女ははらはらと落涙する。

 自らが死なせてしまった人を悼んで、ではない。意図せずとはいえ人1人の命を奪ってしまった事実の重さが、心へのしかかったがゆえに。自分のために今、架音は泣いていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン郊外「ミネルヴァの暗き森」

 

 ごうごうと黎明を迎えた空に深紅の炎が揺らめきながら、長年住み続けていた森を燃やしている。魔法で放った火がミネルヴァの暗き森を焼き尽くしていく。炎が鎮まればあとには何も残らない。灰すらもやがて風に流され、消えていく。

 既に当分必要な量の薬はできあがり、収納魔法によって格納されている。

 魔法とはかくも便利だ、旅をするのにいちいち荷物を常に持ち運ぶ必要はない。大事なものは全てストレージにしまっておけばいい。だからセージの手にはなにもなく、手ぶらで手持ち無沙汰だった。

 師匠であるローズマリー曰く、己は呪いによって(オグル)に変えられてしまったのだという。薬効が切れれば人もそれ以外も躊躇いなく襲い、食い殺す理性なき怪物に。

 あのときの記憶は朧気だが、親代わりであり尊敬する師であるローズマリーさえ手にかけようとする、その光景だけは脳裏に焼き付いていた。薬が効いて理性を取り戻した今も、鬼と化していた間に感じた衝動は燻り続けている。

 食べたい、浴びるほど血潮を飲み干し、柔らかな皮膚を裂いて、肉を臓物を骨を噛み砕きたい。ああなんて彼女(マリー)は「おいしそう」なんだろう。

 いけない、人は食べてはいけないものだ。食べたが最後、もう二度と「ひと」には戻れなくなる。薬師見習いのセージでなくなってしまう。

 来るべき暗黒の未来が間近に迫っているような気がして、彼は拳が白くなるほどきつく握り込む。抑えろ、抑えなければ、自分はまた獣になってしまうのだから。

 

 そのとき、ぽんっと優しく肩が叩かれた。すっかり旅支度を整えた師匠が穏やかに笑ってセージの前に立っている。

 月桂樹をあしらったとんがり帽子と黒一色のドレスはいつもと同じだが、足元はヒールではなく茶革のブーツを履き、白衣の代わりに魔法使いの証である黒のローブを羽織っている。普段かけているモノクルに、紅炎に炙られる森が映り込んでいた。

 

「マリー……? 俺は大丈夫かな。ちゃんと薬を飲んだはずなのに、まだ人が美味しそうに感じちゃうんだ。そのうち薬も効かなくなって、マリーの制止も聞こえなくなって、本能のままに人を食い殺すかも。どうしよう。……俺、どうしたらいい?」

 

 こうして見えている今もずっと、抑えつけている本能が食え、と叫び続けているのだ。目の前の肉を食らいつくせと。いつか師匠が同じ生き物ではなく単なる食い物にしか思えなくなるときがくる。セージはそれが怖い。

 彼女がいるから、セージがいるのに。

 

「やっぱりお前は馬鹿弟子ね。なんのために私がいると思ってるの? そんな将来は来ないわ。いいえ、絶対に私が防ぎきってみせる。お前みたいな半人前が、この私に敵うと思って? 忘れたの、私は国一番の魔女、ローズマリー・サトゥルヌスよ! ミネルヴァの魔女の名にかけて、セージを必ず治してみせるわ」

 

 啖呵を切るローズマリーの顔は清々しい。先程まで半狂乱になって大量の薬を作っていたとは思えないくらいに。あぁそうだ、こんなひとだから自分は弟子入りを決めたのだった、と未だ鮮明なままの記憶を思い出す。

 道のりは険しいと分かっているけれど。それでも今は、僅かな希望に縋るしかない。

 

「──行こう。もう、夜が明ける……」

 

 東の空は森を包む魔法の火と同じく赤い。山の端から昇る朝日が空を焼き焦がそうとするかのように。まさしくあれは、払暁の色。命が燃える色だ。

 

「えぇ。別れの挨拶ができないのは残念だけど、いつか再びこの地に戻ってこれるなら。そのときこそ、皆と話をしましょう。無言の帰宅になんかさせないわ、楽しい旅の思い出語りに変えてみせるから……」

 

 魔女と弟子は誓う。この国を脅かす病巣は全て取り除く、と。この世界を終わらせぬために。

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン王都「ロージア」

 

 国王ジェラルドに異変が起こり、王宮が大混乱に陥っているとの報告が元老院に齎された。既に多数の被害者が出ており、このままでは王都全体に影響が飛び火するのも時間の問題だという事実もまた。というのも宮廷内部には外から業者が出入りしており、彼らを通じて異変が外に漏れてしまい封じ込めが間に合わなかったのだという。

 超高層の建築物である元老院には複数の施設が隣接しており、そこから裁判所を預かる司法長、元老院のトップたる元老院長、国防の要である国軍元帥、王家の盾となる王宮近衛騎士団長、更に王国の頭脳である王国魔導研究所長が招聘され緊急会合を行っていた。本来ならば国王もまた臨席するが、当然ながらここにはいない。

 

「……まずいことになったな、呪詛転変か。……おい、呪術に詳しい者は所内にどれほどいる?」

「呪いを専門とする所員は数名おりますが、現在はいずれも外部に出払っています。北方の白妃教『本拠地』へ」

「なんでまたこんな時に限って……!」

「地下の龍脈がのたうつとかで、その鎮めに。龍脈の制御術は呪いに長けた者といえど1人では荷が勝ちすぎますから」

「ちっ、どうする……『オグル化現象』の対策にあたれるエキスパートのあては他にあるのか?」

「いるにはいますけど……アポ取れるかが難しいですね。『あそこ』は禁足地ですし」

「おい、まさか……まさかそれは、『あの方』のことを言ってるのか……?」

「そのまさかですよ、元老院長殿。国家未曾有の事態に対処可能な魔法使いなど『彼女』をおいて他にいましょうや?」

「ぐっ……それは、確かにそうだが……。既に引退した者を引っ張り出すのは威信に関わるぞ、所長殿」

「とはいえこのままでは、長きに渡り大陸を支配し各国家を導いてきた我が国が滅びかねん。威信がどうのと言ってもな、国が無くなればそんなもの結局は意味がなかろう」

「今いる人員を再編して初動に当たっているようだが、結果はどうだ? 元帥」

「芳しくないな、魔導兵は対人戦において一騎当千の実力を持つゆえ、今回のような作戦は不得手だ。既に脱落者も出ている。……残念だが、彼らは処分せざるを得まい」

「死すと元に戻るのが呪詛転変の特徴だったか、……死体から伝染しないのは不幸中の幸いだな」

「やれやれ。どちらにせよ『アレ』に任せきりにしなくてはならないとは……面目立たないな、まったく……」

「仕方ないだろう。所長、どうにか連絡を取るのは可能か?」

「ウチの研究員が1人、スフィール近くへ別件で向かってますので、彼女に伝令させます」

「了解した。あとは研究所預かりということで任せよう。我々は引き続き治安維持にかかる」

「は、承りました。では……これにて」

 

 軽く頭を下げ、会議室をあとにする所長のほっそりしたシルエットを見遣り、軍服を着込んだ恰幅のいい長身の男──元帥は忌々しげに舌打ちする。シュバルツベルンが誇る武の象徴は魔法戦においてプロフェッショナルとされる魔導兵を抱える国軍であり、国の安寧と秩序を守るのは自分達だという強烈な自負があったからだ。

 ここにいる面子で最年少である所長とその部下らに全権を委ねばならない現状に、忸怩たる思いを抱えていた。前線に立つのはあくまで兵士の仕事だ、学者の役割は解き明かすことである。間違っても剣を握らせる訳にはいかない。

 

「騎士団長、陛下の容態はどうなっている」

「先程、我が配下達が捕獲に成功したとの報が入った。本部に運び込んで取り押さえてはいるが……いずれは封印を破って飛び出すだろう。あれには眠りの魔法も鎮めの魔法も効かん。解呪せねば身も心も怪物と化し、いずれは生命エネルギーを使い切って死ぬ。残念だが、陛下はもう末期だ」

「つまり、もう、長くない……と」

「ああ。となれば、王位の継承をせねばならん。国葬の準備もな。元老院長、その手筈は任せた」

「あいわかった。ところで、呪詛転変による殺人の罪はどう裁く。司法長」

「うむ。不問に付す──と言いたいところだが、なにしろ影響の拡大が懸念される以上、通常の殺人罪を適用せねばならんだろうな。少なくとも現時点では。とはいえ確実に治る保証もなし、議論するだけ無駄にも思うところではあるが」

「1度でも食い殺したならば死刑、か。……仕方なかろうな……なれば、陛下はどうする。侍従、女官、近衛兵、その他多くの犠牲が出ているのだ、罪に問わないわけにはいかぬだろう」

「王族としての身分を剥奪。身罷ったならば通常国葬ではなく被疑者死亡の書類送検とするしかあるまいて。同族を食らった鬼を偉大なる国主として葬送できるものか」

「そうだろうな……。……これ以上の議論は無意味。各々まずはやれることをやらねば。では、解散」

 

 それぞれ退席し各自持ち場へ戻る彼らは、この会議が最初で最後になるとは予想だにしていなかった。オグルと化した者達が建物の外、すなわち街へ出るのを食い止められなかった時点で迎える結末はただ一つ。

 この日以降、千年の栄華を誇った薔薇烟る都・王都(ロージア)は、人喰い鬼の住処へと変わる。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン辺境「スフィール」

 

 ローズマリーとセージの2人の薬師が旅立ったのち、国境線の間近に位置する小さな田舎町は想像を絶する地獄と化していた。

 人が人以外の何かに変貌し、躊躇いもなく人間を食う。返り血に塗れ、恍惚とした顔でさっきまで間違いなく人間だったはずの鬼共は、うまそうに元同族を貪っている。家畜や農産物に見向きもせずに。

 たった1人、鬼にもならず鬼に食われもせず、架音は呆然と立ち尽くす。地獄絵図と化した町を瞠目し見つめながら──。

 

 話は一日前に戻る。

 沼地の戦いを制し自身に身を守る術があると知った架音は、鞄に入れっぱなしにしていた菓子パンとお菓子を大事に食べ繋ぎながらあてもなく彷徨い続けていた。なにせネットが使えない以上、情報を得る手段がまったくないので地理も分からないとなると、ひたすら歩く以外に方法がない。

 自分が本当に異世界転移したのかを確かめることさえできないのだ。あの戦闘を思い出すに、現実世界とは異なる法則が働いているのは確実だが。

 そのうえ鬼のようなあのバケモノが彷徨(うろつ)くとなれば夜越えも厳しい。色々と勘案し、夜通し歩いて町なり村なりを見つけるしかないという考えに至ったのである。

 そして目標としていた人里はあっけなく見つかった。既にすっかり夜が深まり、草木も寝静まる時間帯ではあったが。

 町の名前はスフィールというようだ。架音は英語が苦手なので英単語や英文はちんぷんかんぷんだが、なぜか入口の門にでかでかと書かれていた文字を読み取れてしまい、名前が判明した。よくよく見るとアルファベットとは似て非なる字面なのだが、読めてしまったので架音はスルーする。

 遅い時間なのでさすがに表通りは人っ子一人いない。どの家も灯りが落とされており、訪ねるのは躊躇われた。だが安全的な理由から野宿は避けたいので、とりあえず門に近い家の門戸を叩く。まだ起きていたらしい家主と思しき優しげな女性が出迎えてくれ、若い女が独りでやってきたのを不憫に思ったのか快く泊めてくれた。

 そこで記憶がないフリをしていくつか質問し、やっと架音は自分がやはり異世界に転移してしまったこと、この国はシュバルツベルンという大陸で1番強大な国家であること、科学の代わりに魔法が栄えていることなどを知ったのである。

 ろくな食べ物を持っていない彼女を哀れみ、女性は自分も裕福な生活は送れていないだろうに長期保存食を分けてくれた。缶詰や堅焼きのビスケット程度だがないよりは断然いい。

 その後、明日の仕込みがあるからと家屋と一体化している店へ下がった女性と別れ、案内された寝室で一夜を過ごした架音は、翌朝から一宿一飯の恩義として女性、パン屋の女主人のお手伝いをさせてもらった。アルバイトの経験がろくにないので手伝いというより足でまといになった気がしないでもないが、くるくるとよく働く彼女に店へ来たお客さんも優しく接してくれた。

 お昼頃、やけに見目の整った男の子が大きな薬箱を担いで現れた。町の人達と親しげに談笑する彼は女性と付き合いが長いらしく、当店自慢のクラブハウスサンドとバゲットを持って帰っていく。

 代金を頂かなくていいのか訊いたら、彼は特別だからお代は要らないらしい。美形だったのとそうした経緯から、特によく覚えている出来事だ。

 夕方には店を閉め、明日の仕込みのためにと店舗に残る女性の代わりに夕食を作り、帰宅した町長も交えて賑やかな食卓を囲んだ。夫婦から、落ち着ける場所が見つかるまではと許可をもらい、昨夜と同じ寝室をあてがわれ、過酷な道程と慣れない環境もあってすぐに寝入り──喧騒で目を覚まし、今に至る。

 

 おっとりした町長も、良くしてくれたパン屋の女主人も、パンを買いに来たお客さんも、……皆、皆、皆「ひと」ではなくなっていた。彼ら彼女らの外見に、架音は見覚えがある。あの沼地で自分を襲った怪物に、驚くほど酷似しているではないか。

 アレらは郊外だけではなく各地の集落にさえ潜んでいたのだろうか。最初から人に化けていたのか、それとも人から鬼へと変わってしまったのか。

 彼女は、何も分からない。何も知らない。ゆえにただ、人だったものが人を食い殺す凄惨な光景を見ている他に何もできなかった。

 

「見つけた……やっと。ここに、居たのね……」

 

 獣じみた吠え声じゃない、人の言葉が聞こえて思わず振り返る。そこにいたのは──。

 

 

「やっと見つけた……! まさか、こんなところに居たなんて……っ」

 

 神楽の呼びかけに反応し振り向いたのは、まだ年端もいかぬうら若い娘だった。

 夜闇と同じ黒の髪を背の真ん中あたりまで伸ばし、黒目がちの丸い大きな瞳を不思議そうに見開いている。その辺の村娘と変わらないチュニックにスカート、エプロンを身に着け、布のブーツを履いていた。比較的整った造作の少女は、なぜ自分が声をかけられたのか分からないといったように、こちらへ怪訝な目線を向けている。

 そこでうっかり、自分がもう使わなくなって久しい日本語で呼びかけてしまったことに気付いた。というのも、彼女の格好こそこの世界の人間にとっては標準的な服装だが、黒髪に薄黄色い肌と彫りの浅い顔立ちは、前世の自分と同じ日本人の特徴だからだ。

 しかし通じるだろうという確信はある。読み通り、異界からこちらへ紛れ込んできた異物が、眼前にいるこの少女ならば。

 果たしてその予想はずばり的中した。

 

「日本語……。あなた、もしかして私と同じ日本人なんですか? ちょっとイントネーションに違いはあるけど。良かった、仲間が居たんだぁ……」

「いいえ。確かに私は日本人だった時もあるが、今はれっきとしたシュバルツベルンの国民です。王国魔導研究所所属、フェルデニウム・アポロニウスと申します。命令により、あなたを迎えに来ました」

「え、じゃあ異世界人? でも同じ言葉使ってるし……ダメだ、頭が混乱してきた」

「悪いけどあなたには私と一緒に王都へ来てもらいます。色々とお訊ねしたいこともありますし」

 縮地の魔法を使って距離を詰め、やはり日本人(元同胞)らしい彼女を拘束しようと手を伸ばすが、さっと少女は避けて神楽の手から逃げた。当初は真っ黒に思えたがよく見れば藍色と濃紺を混ぜたような色合いをした瞳が、疑念と僅かな恐怖に染まっている。

 

「イヤだ。なんで異世界に来てまでよく知らない人の言うことなんか聞かなきゃいけないの。どうせ、あなたが私を現実世界に帰してくれるわけでもないんでしょ」

「まさか。実験に協力さえしていたたければ間違いなくお返ししますよ。何年後か、あるいは何十年後になるかは確約できませんが。なにしろ、異界から人や物資を運び入れる魔法の開発は途上ですので」

「ほらやっぱり。だったらあなたに着いていく必要なんてないよね。それに……この人達を放っておけない」

 

 スフィールの町はもはや壊滅的な状況下にあった。農具や護身用の武器でどうにか身を守ろうとする町の住民を鬼に変貌した者共は躊躇なく襲い、喰らっている。あまりにも残酷で惨たらしい光景だった。

 マトモに見てしまい、うぐ、と込み上げる吐き気を無理やり堪える神楽に対し少女は静かな目をしている。

 

「よく分からないけど……これ以上、人が人を殺すのを放置なんかできない。止めなくちゃ。ほんとは……あまり気が進まないけど」

 

 言いおき、なめらかな肌をした労働を知らない柔らかな手のひらを翳す。コゥン、と微かな作動音が鳴り──おそらく空気中の水分を集めて凝固させたのだろう、細かい氷の切片を大量に生み出した。

 行け、と小さく唇が震え、宙に浮かぶ無数の欠片が一斉に射出される。軌跡を描いて飛んでいったそれらは誤たず(オグル)の急所を貫いた。首、眼球、心臓、それらへ真っ直ぐに氷の刃が突き刺さっていく。

 

「これは……魔法ではない。魔法は世界の理との契約によって為される。呪文の詠唱、術式による儀式、動作を伴う芸事などによって法則に干渉せねば発動はしない。つまり──あなたのそれは、魔法ではなく『異能』か」

 

 王国が誇る頭脳である魔導研究所の主任研究員である神楽は、一瞥しただけで暴いてみせた。なぜなら彼女もかつて異能を操ってみせた経験があったからだ。師匠となった両親から魔法の技を授かると同時に、それらは使わなくなり封印したが。

 一方、何も知らないらしい少女はきょとんとしている。自分が奮っている力の正体について考えてみもなかった、と言いたげに。

 

「異能……。これ、私以外に使える人っているのかなぁ。あなたは知ってる?」

「さぁ。その件に関して答える必要性がありませんので。それより、随分見事な腕前ですね。『あちら』では何かやってたんですか? たとえば弓道とか」

「別に。強いていえばダーツとか得意だったけど、手で投げてるんじゃないから『これ』とは何も関係ないと思うよ。……あ、今ので終わりかな」

 

 彼女の言う通り、今しがたようやく全てのオグルが斃れたところだった。予備として新たに生み出され空中に待機させていた氷の刃は少女の合図により見る間に溶け、空気に還元される。

 それら一連の操作は熟練されていた。もう何度も反復練習してきたかのように。

 

「手馴れているのね。どれくらいその異能を使用してみたの?」

「1回だけだよ。この村に辿り着く前、似たような化物に襲われて……反撃するために使った。あとはそれを再現できるか、移動しながら試したくらい。でもそんなの練習じゃないでしょ。だから、訓練っていう訓練は何もしていないかな」

「天性の戦闘技能かしらね。面白い、それにありがたいわ。こちらで新たに教育しなくてはならい課程が減りそうだもの」

「……あの、私、あなたに着いていきたくないってさっき言ったんだけど?」

「ダメよ。異界からこちらへ来たあなたを放っておけないし、なにより私達は『人選ミスをしなかった』のだもの。このまま帰投し、仔細を報告する必要がある。そしてあなたを上層部にお見せしなくては。残念ね、せめて『戦争』が近づいてるご時世じゃなければ、自由の身にしてあげられたんだけど」

 酷薄な笑みを浮かべながら神楽は告げた。怯える少女は自分の身を守ろうと、再び異能を発動させようとしたが寸前で阻まれる。

 アポロニウス家の者が得意とする音魔法、その中でも上級である「鎮めの歌」が少女の抵抗を容易く奪ったからだ。名の通り対象の闘志や戦意を抑え込み、肉体より先に精神を掌握する魔法である。

 まともに魔法の効果を食らって動けない彼女を普段は髪をまとめるのに使っている組紐で拘束し、更に眠りの魔法を重ねがけして二重、三重に封じた。

 と、まさにそのタイミングで入電が入る。遠方にいる者へ互いの魔力を用いて情報の伝達を行う、イヤーカフ型の魔法道具から聞き慣れた所長の声が届く。

 

『……アポロニウス研究員か、無事ならば返事を』

『所長。この通り私はピンピンしていますが、急にどうされました。対象は既に確保しており、転移魔法で今からラボへ帰投する予定ですが、何か変更でも?』

『相変わらず話が早くて助かる。実は王都で問題が起きてな……細かいことは書面で知らせるが、とにかくしばらく王都へ来るな。他の職員もただ今避難させている途中だ。安全が確保出来次第帰還の許可を下す。それと、ついでにひとつ頼まれてほしいのだが』

『依頼……ですか? 命令ではなく?』

『どちらかといえば要請だな。スフィール近くに魔女の住処……ミネルヴァの暗き森があるだろう。そこを守る魔女・ローズマリーにコンタクトをとって欲しい。可能であれば行動を共にしてもらいたいが、せめて彼女の動向さえ把握してもらえれば充分だ』

『了解しました。ですが、こちらからもひとつ報告を。件のミネルヴァの暗き森ですが、何者かの手により火を放たれ既に灰と化しています。それと、スフィールにて呪詛転変によるオグル化現象が見られました。対象の働きにより鎮圧は出来ましたが……どうなさいますか?』

『……! スフィールでも、か。分かった。では、先程の要請に変更を加える。魔女を逃がせ、国外(そと)へ。対象の扱いはアポロニウス研究員に一任する。どうにでもせよ。……こちらからは以上だ。生き残れ、せめて君だけでも……ッ』

 

 通信はそこで途絶えた。打ち切られたのではなく、途中でシャットダウンしたのだ。所長が遺した最期の言葉(めいれい)のあと、何かが食われるような咀嚼音と悲鳴、いや断末魔が耳にこびりついて離れない。

 王都は墜ちた。何者かの良からぬ企みにより。オグル化現象はその一端に過ぎず、これからこの国は悲惨な運命を辿るだろう。おそらくはオグルに食い殺された所長のように。

 

「そういえば、この子の名前を訊くのを忘れていたな、あとで聞き出さなきゃ。それに偽名も考えないと……この世界に上手く紛れられるように。ああでも、もう人里に降りることは……むずかしいのか」

 

 独り言をこぼしながら神楽は少女の細く軽い身体をあっさりと背負い、魔法を発動させる。使い慣れた音魔法ではない、人を殺めるための攻撃専用術式だ。「全兵共通魔法・屍山血河」は「対象」の鉄分から刃や弾丸を作り出し同士討ちさせる効果を持つ。

 魔法の発動から1分と経たず、オグルの襲撃から生き残ったスフィールの住民は、全員が平等に生き絶えた。オグルになりかけていた遺体(ひと)は人へと戻りゆく。

 しんと静まり返る、生命の息吹が喪われた町に哀悼を捧げ、神楽はカナリアの如き美しい声で歌を奏でながら立ち去る。それはレクイエムだ。シュバルツベルンの葬送においては最も一般的な。

 

「さようなら……どうか安らかにお眠りください。そして、あなた方をまだ生きているうちに人へ戻せぬ我らをお許しください。いつか……、いつか必ず。鬼から解き放つとお約束しますから」

 

 

主題:『オグル化現象及び、呪詛転変による影響についての考察』

著者:ローズマリー・サトゥルヌス/共著:×××××(上から黒く墨塗りされ、名前は分からない)

(前略)

 ……以上の観点から、1度鬼に転化した者を人に戻すには解呪をおいて他に方法はない、と断言できる。千年草を用いた解毒薬を服用させても患者は薬効が持続する一定時間のみしか理性を保てず、薬が切れれば再び暴走するリスクがある。

 ただし本物の(オグル)と違い驚異的な再生力を持たないため殺傷は比較的容易だが、その分知能が高く魔法や戦闘技術を駆使する者も確認されている。加えて鬼特有の身体機能はそのままなので一般人が対応するのは至難である。なお通常武器による攻撃は有効と思われる。

(中略)

 また、オグルの中でも呪いの影響が軽い者は稀に人としての人格や記憶、思考を保っている場合があり、その場合彼ら彼女らをあくまで「鬼」として扱うか、それとも「人」として認めるか、生命倫理において喫緊の課題であると筆者は懸念する──……。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン辺境「ポートヘブン」

 

「……マリー、どこ……? それにここは? 俺、あのあとどうなったんだっけ……」

 

 魔法による眠りから目を覚まし、鬼化してからやっと明瞭な意識を取り戻した少年、セージはきょときょとと辺りを見回した。

 自分が寝かされているのは薄っぺらで堅いベッドで、申し訳程度に掛布と枕がある。明り取りの小さな窓が設えられた狭苦しい部屋はカビ臭く埃っぽい。古びた電灯が弱々しい光を放ち、室内をぼんやりと照らしている。ベッド脇に小さなテーブルとチェストがある以外に調度は何もなく、いやに質素というかみすぼらしいところだなと彼は思った。

 頼みの綱である師匠の姿はない。何か用事でもあるのか、今は退室しているようだ。探しに行こうかとも考えたが、見知らぬ場所で無駄にうろちょろ動き回っても迷惑になってしまう。大人しく待つことにしたが、彼が起きてから幾ばくも経たないうちに彼女は戻ってきた。

 

「あら、もう魔法の効果が切れたのね。鬼になると耐性もつくのかしら。気分はどう? 食欲はある? 衝動の方は?」

「え、あ、……お腹空いた。でも、なぜか今は人を食べたいとは思わないな……」

「なるほど。つまり試薬の効果は上々ね。これなら人を食べずとも通常の食事で栄養の摂取は可能だし、人里に降りても被害を出す危険性は低い。実験成功よ、おめでとうセージ」

「えっ!? まさかと思うけど俺で人体実験してたの!? 酷ッ、マジひっど! あんた弟子のことなんだと思ってんだ!!」

「えへへ、バレたか。だってここにちょうどいい被検体(サンプル)がいたものだから、つい……。でも抜群に効いたでしょう? セージの体質に合わせて調合したから薬効も相当に保つし、食人衝動も限りなくゼロに抑えられた。どう、これで文句ある?」

「も、文句は……ないけどさ。せめて一言何か言ってくれよ……」

「いつもなら確かに声かけたけどね。今はとにかく時間がないんだもの、いちいち確認取ってる暇なんかなかったのよ。それにこのあと予定だってあるし」

 

 予定? と首を傾げた少年に魔女はにっこり笑いかける。2人が置かれている状況は過酷極まりないというのに、それを微塵も感じさせない好奇心に満ち溢れた笑顔だった。

 

「ここ、どこだと思う? 国外へ出る唯一の手段『仮想船』が泊まる仮想の港──ポートヘブンよ! これから私達は国を出て、世界を巡るの。解呪の方法を探すために」

「……はっ? えっ? おい……マリー、あんた一体何を考えてるんだ!? お尋ね者になっちまうぞ、く、国を出るだなんて……っ」

「だって仕方ないでしょう。このままこの国に居たらあなた殺されかねないもの、亡命でもしなくちゃ生き残れないじゃない」

「だからって国外逃亡だなんて……っ、最悪見つかったら銃殺刑になっちまうぞ! 俺一人が出国するのはまだいい。けど、あんたまで一緒に行くことないだろう!」

「何言ってるの、私がいなきゃあなたはまた鬼に戻っちゃうじゃない。それより、ほら早く着替えて支度して。ご飯食べに行くわよ。せっかく港町に来たんだもの、このまま素通りするなんてもったいないでしょう?」

 

 ローズマリーがポートヘブン経由で出国すると決めたのには理由があった。セージが意識を取り戻す前、昨夜のことである。魔法で眠らせた弟子を連れてスフィール近隣の村へ着き、一室だけ空いていた宿に身を落ち着けた彼女の元へ、ある者が訪ねてきた。

 彼女の名はフェルデニウム・アポロニウス。王都において名門と名高い魔法使い一族アポロニウス家の末娘であり、国内最高峰のインテリたる王国魔導研究所の職員である。

 アポイントもなしに突然来訪した彼女がたらした報により、王都に起きている緊急事態とスフィールを襲った異変について、ローズマリーの知るところとなった。

 もう王都はダメだ、とフェルデニウムは結論付けた。

 直属の上司である所長が犠牲となり、元老院に隣接する他の重要施設でも同様の被害が出ている可能性が高いという。機密保持のため強固な守りを敷いている研究所でさえ壊滅的なダメージを受けているのだ。裁判所や議会、騎士団本部や司令部も既に墜ちているだろう、とフェルデニウムは告げる。

 それから、彼女は最後にこんなことを言い残していた。そのときの表情をローズマリーは今もなお忘れられずにいる。

 

『……もう、あなた様だけが頼りなのです。同僚はおそらく(みな)死にました。市井の魔法使いもどれほど生き残るやら皆目検討もつきません。祖国たるシュバルツベルンを守れるのはただ1人──ローズマリー・サトゥルヌス様、あなたを置いて他にはいないのです。自分の力不足を承知の上でお頼み申し上げます。……救ってくださいませんか、我らが祖国とその未来を』

『分かりました。戦友であり我が同胞たる国王には哀悼を。それとあなた方の長へもお悔やみを申し上げます。……彼らが託した希望を必ず守ってみせるとお約束しましょう』

『あぁ、……感謝します。本当にありがとうございます、サトゥルヌス様。では……私共はこれにて』

『待ってください! ……あの、お二人は今後どうされるつもりで……?』

『……私はこれより、この娘に全てを伝え、己の責務を果たさなくてはなりません。サトゥルヌス様の傍に付いてお手伝いをして差し上げたくはありますが、彼女を人里には置けません。あのような悲劇を繰り返すわけにはいきませんから……すみませんが、もうしばしの猶予を。必ずや合流しに参ります』

 

 灰燼に帰した森の中を夜通し歩いてきたのだろう、魔力はなるべく温存しなければならないから。煙を浴び、煤に汚れた薄黒い顔に一筋の涙が流れ落ちる。

 身にまとった白衣もその下のスーツもこちらへ来るまでの道程で裾を解れたりあちこち裂けていた。普段、歩き慣れている彼女達だからこそ怪我なく移動できるのであり初めて通ったであろうフェルデニウムではこうなるのは目に見えている。

 唇を震わせ、懸命に嗚咽を漏らすまいとしている華奢な女性に対し、往年の魔法使いたるローズマリーは仄かに微笑みかける。聖母のごとく優しい笑みだった。

 

『その子はとても恐ろしい呪いを秘めていますね。あなたは自分の力だけで御そうとしていますが、それは酷く困難を極めるでしょう。辛くなったらいつでも呼びかけてください。……決してあなたを独りにはさせません。すぐに駆けつけますから、だからどうか、一人で抱え込まないで。私はあなたの味方です』

『ありがとうございます……っ、ほんとうに、どれほどお礼を申し上げたらよいか……っ』

『あぁ、泣かないで。流すのなら嬉し涙にしましょう? さぁ、行ってください。そしてまた私に元気な顔を見せてくださいね』

 

 言いつつ魔法で身なりを整えてやり、解けていた髪も手持ちのリボンで結び直してやる。空色の瞳を潤ませながらフェルデニウムは何度も頭を下げ、村娘の格好をした少女を大事そうに()(かか)えて去っていく。転移魔法で人里から距離を取っていく二人を見送る頃には、既に夜が明けかけていた。

 

「……マリー? どうしたんだよ、むっつり黙りこんじゃって。何か悩み事でも……って、こんな状況じゃ悩みしかないよな……」

「え? ああ、別にどうってことないのよ。気にしないで。……それより早く外へ行きましょう。こんなところにずっと居たんじゃ滅入ってしまうわ。さ! ほら早く用意して」

 

 明らかに空元気と分かる様子の師に怪訝な顔をするセージだが、望まれもしないのに深く追及するのも躊躇われ、分かったと一言呟いて着させられていた寝巻きから普段着に替える。既製品のシャツにズボンという町の子供らしい格好は、彼が鬼であるという事実をすっかりと隠してくれた。

 ベッド脇の小さな窓からは、とても「つくりもの」とは思えぬほど精巧な造りの港町が垣間見えている。国を離れる者は必ずここを経由して外つ国へ往くのだ。そう、他ならぬ自分達も。

 

「……どうか、無事に旅立てますように。なんて、ほんとにカミサマなんてものがいるのか、分かんねぇけどな」

 

 

 ──1933年 最果て「魔女の谷」

 

 巨大な3つの大陸が、大地を分断するほど深く長い大河を挟んで連なり、各大陸に1つずつ大国──王国(シュバルツベルン)軍国(アーデルハイト)帝国(ノーチェラヴァィス)がそれぞれ存在するこの世界において、絶対不可侵の領域と呼ばれている場所がある。文字通り世界の果てである「最果て」だ。

 最果ては人の住めるところではなく、当然ながら魔族を含めた他の種族も居住はおろか立ち入ることさえ許されない。遥か昔、まだ軍国が建国される前、二大大国だった帝国と王国が国際法によって定めたからだ。本来、人の決めた法に従う必要のない種族までもがこの決まりだけ遵守するのは理由があった。

 それは──……。

 

 鎮めの歌、眠りの魔法、それに髪紐まで使って三重に拘束された架音は、耳元で奏でられる穏やかな調べによって意識を取り戻した。封じられているのは両手のみなので起き上がることは容易い。腹筋を使って上体を起こすと、ピタリと歌が止んだ。

 彼女が横たえていたのはきちんとベッドメイキングされた清潔そうな寝台だった。広々とした室内には小さな絵画や花を生けた花瓶が飾ってあり、木製の床は隅々まで磨かれ埃ひとつ落ちていない。南向きの大きな窓からは燦々と昼下がりの日差しが差し込み、部屋の空気を暖めている。

 

「あぁ、やっと起きたの。強い魔法を使ったから目覚めるか心配していたんだけど、良かった……さっきよりずっと顔色もいいし、無用な心配はしなくて大丈夫そうね」

「あれ……あなた、スフィールの町にいた……ええっと、フェデル、さん?」

「フェルデニウム・アポロニウスよ、昨日も名乗らせてもらったけど。これからよろしくね。もし、呼びにくいのなら『フェル』でもいいわ。親しい人は、みんな私のことをそう呼ぶから」

「分かりました。じゃあ、フェルさんって呼びますね。私は氷見山架音といいます。改めてよろしくお願いします」

「こちらこそ。でも元は同郷の者だもの、敬語は要らないわ。どうぞ気兼ねなく話しかけてくれると嬉しいけれど……それより、あなたは自分の身に起きた出来事はちゃんと把握しているかしら?」

「私の……身に……? ええっと、正直まだよく分かってなくて。なんで私がこの世界に来たのかも、この世界のことも、何も……」

 

 昨夜、自分の手で命を奪ってしまった「元はパン屋の女主人だった人」から、大まかにシュバルツベルンという国名や簡単な地理は聞きだせた。しかしそれだけだ。無事に帰宅するにはなんとしてでも生き残らなければならないが、そのために必要な知識や情報を彼女は持っていない。

 ここがどういう世界なのか、なぜ自分にはよく分からない力が備わっているのか。……そして、ここへ来てから度々覚える違和感の正体をどうにか掴みたかった。おそらくフェルデニウムという女性ならば、その答えをくれるような気がした。

 

「はじめに言っておくわ。我々シュバルツベルンの民はあなた方現実世界の人間を利用す目的で、架音さんをこちら側へと呼び寄せたの。今、この国は隣にある軍国といずれ戦争になる。となれば当然多くの資源や兵士が要るのは、あなたも向こうで歴史を勉強したのだからわかるでしょう。ゆえに私達は上からの命令で異界から人工的に物や人を運び入れる実験を行い、あなたを連れてきた。けれど誤算があったの」

「……誤算? どういうことですか」

「あなたの血筋と、あなたが抱えていた問題と、それからもうひとつ、同じく2つの世界を繋げようと企む『誰か』の存在。それらが複雑に絡み合い、この状況となった」

 

 淡々とフェルデニウムが語る事情は、現代の漂白された倫理観と道徳を身につけている架音には到底理解できず、また受け入れ難いものだった。

 どうして戦争しなければならないのか、莫大なコストを自国で賄おうとしないのか、戦争の負債を「こちら」に押し付けようとするのか、何もかも納得なんてできない。それは「敗戦国」に生まれたからかもしれないし、これまで受けてきた教育による常識が否定させるのかもしれなかった。

 どちらにせよ、架音にしてみれば「だからなんなんだ」という話である。このままフェルデニウムを拒絶し遠ざけ、1人で問題の解決を試みる選択肢もあったが、そうもいかないのだと架音は既に悟っている。

 

「私が扱えている氷を操る力。それと、知らない文字なのに読める不自然さ、知らない言葉なのに通じる不可解さ。なにより、私が立ち寄った場所に、あの恐ろしい化け物が現れる理由。……全て答えてくれますか、フェルデニウムさん。でなかったら私は、あなたを信じていいのかわかんなくなる……」

「ええ、もちろん答えましょう。ただし私も全容を完全に把握しているわけではなく、一部推測混じりになってしまうけれど。それでも構わないとお約束できるかしら」

「はい。大丈夫です。だから教えてください、……今のあなたが知っていることを」

 

 はじめに、世界があった。

 それから、命が生まれた。

 時の針が進むうちに、生まれゆき育まれる無数の命はいくつもの種に別れ、やがて「人間」と「魔物」の2つが世界を分け合って暮らすようになる。

 人間は「人族」と、魔物は「魔族」と。それぞれに名乗り呼ばれるようになり、当初は互いに干渉することなく平和を保ち続けた。

 それから気の遠くなるような時が経ち、やがて世界に「魔法」という夜明けが訪れる。魔法は一気に世界の時を早め、人間に文化と文明を齎した。それが過ちの始まりだった。

 ──人魔大戦。

 はじめは不可侵・不干渉を互いに誓約し関わり合いを絶っていた人族と魔族は、利権と領土を求め、奪い合い、泥沼の戦争を始めてしまう。熾烈を極めた戦いは数年にも及び、多くの民の命が無為に失われた。

 戦いを制したのは人族である。肉の器(からだ)に宿る力である「異能」を操る魔族に対し、生命エネルギーを使って様々な人為的奇跡を起こす、「魔法」の技術を究めた人間がついに勝ちを収めた。

 魔族に与する他の種族は数を減らし、勝者となって人間を避けて彼らの手の届かないところへ逃げ延び、息を潜めて暮らすようになる。魔族もまた同様に、魔族の領域である魔界に大規模な結界を敷いて人族が出入りできぬようにし、人との関わりをこれまで以上に禁じて生きるようになった。

 人と魔族は二度と戦争という悲劇を起こさぬため、世界に線引きをし「最果て」という緩衝地帯を作り出す。最果てへの渡航が国際法によって禁じられ、人族はもちろん魔族もそれを遵守しているのは過去の歴史に理由があるからだった。

 それは数百年前、実際にあった出来事。神話のような伝承のようなお伽噺のような、けれど本当にあったこと。

 だが、戦争関係者でさえ知らない、ある裏のエピソードがあった。

 逃亡者。戦いに死するのを恐れ、世界のどこにも逃げ場がないと知った、とある者達は禁断の術に手を染める。異界渡りの法という重罪を犯し、この世界を離れたのだ。

 彼らは確かに戦による死を迎えることはなかったが、代償はあった。

 

「架音さん、あなたが御先祖様から受け継いだ罰を『ともくいののろい』という。呪いは現実世界にあっては何の意味を為さないが、ひとたび故郷、この世界へ訪れるようなことあらば一気に牙を向く。呪いは無差別に人を媒介して村や国へと蔓延し、力を持たない平民をオグル……共喰いの鬼へと転化させる。鬼と化した者は人を喰い殺し、やがて人族は死に絶えるでしょう。私達、人という種は滅亡するの。それが呪い。……そして、現状、解呪の条件はまだ見つかっていない」

 

 氷見山架音は懐郷者だ、とフェルデニウムは告げた。

 大元を辿れば彼女の血筋はシュバルツベルンの民であり、禁忌を犯して異界たる現実世界へ旅立っていった者達なのだと。そして彼らの罪を世界は許さなかった。二度と故郷の土を踏めぬよう、たとえ世代を重ねようとも薄まらない強力な呪いを身に宿らせた。

 ともくいののろい。

 人に人を喰わせる恐ろしい呪い。ただそこに居るだけで人間は鬼となり、人を食い殺してしまうようになる。呪いから逃れる術はなく、人であるならば抵抗もできずただ鬼と化すのみ。

 

「そんな……では、私はここに生きているだけで、みんなを鬼に変えてしまうの……? 望みも、しないのに。みんな、みんな……。そんな、どうして……」

「そう。だからあなたはもう人里に住まうことはできない。呪いの拡散は人族の住処から離れれば一旦は止まる。しかし再び町や村へ留まれば、スフィールの再来となるでしょう。それともうひとつ。知っていてもらわならないものがあるの」

「それ、もしかしてこの力のこと?」

「よく分かったわね。そう、あなたが使いこなしてみせたその『異能』のことよ。本来、異能は魔族の力。人である架音さんには扱えないはずなの。だから、それを使えているというのは……あなたの先祖は人でありながら魔族と交わっていたという事実を示す」

 

 異能は身体に宿る力だ。1人に1つ、その者だけが使いこなせる力。ゆえに子や孫には宿らない。だが、魔法は違う。魂に根付き生命エネルギーによって発動する魔法は、世代を重ねて進化し深化していく。

 氷見山架音の先祖は魔法の仕組みを利用し異能をリレーのように次の世代へ渡るように図ったのだ。だが、何故、何のために? 

 

「ねぇ……ねえ、フェルさん。それってつまり、私はここに来てはいけなかったんじゃないの? なのにここへ来てしまったってことは、それは、私は……」

「あなたの御先祖様はきっと、自分達を『追放した』この世界を滅ぼすという壮大な意趣返しがしたかったのでしょうね」

 

 こんな状況に置かれているにも関わらず、フェルデニウムは女神のように麗しい笑みを湛えている。まるで言祝ぎを授けようとするかのように。

 

「ようこそ地獄へ。無知蒙昧のクソガキさん。自分が正真正銘の『魔王』と告げられた気分はいかが?」

 

 

 呪歌を操る魔法使い、フェルデニウムは嫋やかな面差しに酷薄な笑みを浮かべて告げる。「ようこそ地獄へ。無知蒙昧なクソガキさん」と──。

 

「私が……私が、魔王、だって? ふふ、はははっ……あは、なにそれ。超ウケる。まるでライトノベルの主人公じゃん、ばっかみたい。ゲームやアニメじゃないんだからさ、ほんと、いい加減にしてよ。なんなの。なんだっていうの、この世界は! 『ここ』は私の帰るところじゃないッ!」

 

 はぁはぁ、と荒々しい呼吸を吐き出すと共に架音は叫んだ。夜明け前の空と同じ色の瞳が水気を含んで潤み、滑らかな頬をうっすらと濡らしている。血の気が引き、薄紫に染まる唇が戦慄くように震え、更に何かを言いたげに開閉する。

 

「どうして!? だったら喚ばなきゃよかったでしょう!? 私だって別に来たくて来たんじゃないのに! 勝手に連れて来られて、勝手に世界をめちゃくちゃにする奴だからと恨まれて、……みんな、勝手だ。勝手すぎるよ! 私が悪いんじゃあないじゃない! やらかしたのはご先祖様だし、召喚したのはあなたなんでしょ!? だったら……だったらなんで、私が責められなくちゃならないの?」

 

 膝上の掛布を皺が寄るほどぎゅっと握りしめ、呻くように声を絞り出す少女は決壊した涙が溢れてこぼれ落ちるのを抑えきれなかった。泣きたいわけではないのに涙が止まらない。視界はぼやけ、彼女の顔も見えない。だからフェルデニウムが今、どんな表情をしているかなど知る由もなかった。

 ふいに、ぎゅっと抱きすくめられ架音は目を瞠る。自分より少し低い体温が布越しに伝わり、しなやかな両腕が自身の背中へと回された。きょとんとした顔で見上げる架音に、フェルデニウムは今にも泣き出しそうに笑いかける。目を逸らしたらすぐにも消えてしまいそうな、儚い笑みだった。

 

「心では恨んだり憎んだりしちゃいけないと分かってるの。私達こちら側の人間がどうしようもなく愚かであるがゆえに、過ちを犯してしまったというのも。あなたは何も悪くない。悪いとしたら、きっとそれは私や、あなたの先祖や、私達の先祖や、それから名もなきこの国の民達。負債の全てを押し付けて、利益だけを得ようとするなんて本当に浅はかなのだと……もう気付いているのに。欲深な私達は現実から目を逸らし続けてきた。だから今、そのツケを払わされている……それだけのことなのに」

 

 架音が来なければおそらく平和はあともう少しだけ引き延ばせただろう、とフェルデニウムは気まずげにこほした。王国は近いうちに軍国と事を構えるつもりではあるけれど、せめて開戦までは静穏な日々が続いていたはずだから、どうしたって恨めしく思ってしまうのだと。

 しかしそれは逆恨みの八つ当たりに過ぎず、同じ「被害者」である架音にぶつけていい感情ではないと彼女は理解している。罪人は自分達であり、咎を負わねばならないのもまた、己らなのだと。頭ではこんなに分かっているのに心が追いつかないんだ、とフェルデニウムは呟く。

 彼女に抱き寄せられたまま、架音は何か決意を秘めた様子で言い切った。

 

「ねぇ、私がここに来たことに意味はあったのかな。たぶん私じゃなくてもいいんでしょう? その戦争とやらに必要なのは、あっちの世界の人間であって、誰が来るかはどうでもよかったんだろうけど、さ。ねぇ、私……誰でもいい、あなたでもいいから、来てくれてよかったって言われたい……! 無理だって分かってる、でもこのまま誰にも肯定されないのは、悔しいし、悲しくて、寂しい。私だって、ここに来てよかったって思えるようになりたい! だから……もし、あなたが間違っちゃったって思うなら……。私を──『英雄』にしてよ」

 

 フェルデニウムをまっすぐ見つめる架音の表情は爽快で、晴れやかだった。深海を掬い上げて注いだような色の瞳に淡く光が差している様は、まるで澄み渡る暁降ちの空みたいだった。

 少女が司る氷の異能は酷く冷たいのに、その胸にある意思はあかあかと熱く燃えている。彼女の心には何か、とても大きくてあたたかいものがあるような気がした。絶望的な事実を知らされた者とは思えぬほど、先程までとは態度が違う。

 

「私に……教師の真似事をしろ、とあなたはそういうの?」

「そんな大したものじゃないよ。ただ、この世界のことや魔法のことや、それからもっと色んなことを私に教えて。そして……呪いを解く術を一緒に探そう。私が居るだけで人々を鬼に変えることのないように、今まで通り暮らしていけるように。──いつか私が、ここへ来れてよかったって『さいご』に思えるように。あなたやみんなにも、そう思ってもらえるように……」

「ずいぶん大それたことを思うのね。……さすが『落人(おちうど)』の子孫だわ」

「私の遠い祖先は、こっちでそう呼ばれていたんだね……なら、私はなんと呼ばれるべきなんだろう」

「そうね、……客人(まろうど)で、いいんじゃない? あなたは招かれてここへ来たのだから」

「客人……、か。うん、悪くない。そのうち、あなたのように私も住人になるのかな……?」

 

 不透明な未来に思いを馳せ、それでも架音は明るく笑う。それは若人(わこうど)が持つ生命の輝きだった。今のフェルデニウムには──神楽には、眩しすぎる光だった。

 

「架音さん。これからは‪……師匠と弟子として、改めてよろしく。どこまであなたの傍に寄り添えるか分からないけれど、あなたに『世界』を見せてあげると約束しましょう。そして……あなたが、救って」

「こちらこそ、弟子としてこれからお世話になります。えっと……フェル先生」

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン辺境「ポートヘブン」

 

 そこは、とても「つくりもの」とは思えないほど精巧かつ緻密な、魔法で造られた仮想の港だった。

 シュバルツベルンは大陸の中心にある内陸国だ。隣の大陸にある軍国、帝国へ渡るためには、長期間・長距離移動する必要がある。そこで莫大な国費を投じ、当時の魔法技術の粋を結集させ、仮想空間の港町を作って現実に固着するという荒業でもって、期間と距離の大幅な短縮を成功させたのである。

 ゆえに町にある建物や海すらも、元は全て仮想空間上に造られたものだ。今はごく普通に利用できるが、ひとたび魔法の効果が消滅すれば町ごと何もかも消えてなくなる。海に放たれ養殖されている海産物もまた同様に。

 

「……でも、マリーの立場的に国外へ出るのって結局どうなんだ? あの人……フェルデニウムさんは軍国でも帝国でもいいからとにかく逃げろって言ってたけど」

 

 昼過ぎの町は訪れた観光客で賑わい、あちこちの商店に行列が伸びていた。土産物屋には魚を模したかわいらしいキャラクターグッズや御守りが所狭しと並べられ、食堂は満員御礼で新鮮な刺身や焼き魚の定食が振る舞われている。近代的な王都と比べ古臭い見た目の家々が立ち並び、潮風と陽光に焼けて褪せたような色合いをしていた。

 歩きながら僅かに塩の風味が香るアイスクリームを食べつつセージは尋ねる。旅の路銀は全てローズマリーの作る薬の売上だ、無駄遣いはできない。が、せっかくポートヘブンを訪ねたのだからと気を利かせた師が買ってくれた。さすがに観光価格ゆえやや割高なのは財布に痛かったが。

 

「あんまり良いことではないけれど……緊急事態だから大目に見てもらえるとは思うわ。もし怒られたらそのまま軍国なり帝国なりに落ち着けばいいだけだし。解呪の方法を探すのはもちろんだけど、命あってこそできるのだもの、とりあえずは危険のないところで生活の基盤を立て直さなくてはね」

「ふぅん……。あのさ、マリー。ちょっと聞きたいんだけど……フェルデニウムさんが連れてたあの女の子、もしかしてオグル? なんか俺と同じようなものを感じたからもしかして、と思ったんだけどさ」

「あの少女は違うわ、ほぼ人よ。ほんの僅かだけど人外の血を引いているみたいね。だから反応したんでしょう。それに……この呪いにはもっと何か、大いなる秘密(なぞ)がある」

「大いなる秘密……? なに、それ」

「うーんまぁ、それはとりあえず後回しにして、と。お昼を済ませる前に、そろそろアレと合流しないといけないわ」

「……まさかっ、え、待ってマリー、アレってアレのことじゃあないよな!?」

「ふふ。ざーんねん。アレとはアレのことでしたー」

「いやああああああ!! やだやだやだやだ無理無理無理無理!! 俺、あいつと折り合い悪いんだよ頼むからやめてよマリー!」

 

 ギャーギャー騒ぐセージだが、突然ドカッと足の脛を蹴られて悶絶し、一瞬押し黙った。顔を真っ赤にして激痛に耐える少年の頭上に、すたっと優雅に何かが着地する。

 

「ああ、我が君! お久しゅうございます! またいちだんとお美しくなられて……! 従者としてこのタイム、誇りに思います! おや、なんですこの薄汚いクソガキは」

 

 色気のある艶っぽい美声で流暢に話しかけたのは、短めの美しい毛並みに月をそのまま嵌め込んだような目をした愛らしい黒猫だった。首元には鈴の代わりに純銀のペンダントが下がり、尾や4つの脚もアンクレットやリボンで飾られている。

 猫でありながら煌びやかな見た目をした猫はたしたしと前足で金髪をいじる。踏まれたり髪をまさぐられたりと、好き放題されている少年はぐぬぬと歯噛みしていた。

 

「……タイム、あなたったら相変わらずね。その子は私の弟子のセージだと何回言ったら覚えるの。いい加減降りておやり」

「ややっ、これは失敬仕りました。なにせ我が君以外の塵芥には興味もなければ貴重な脳細胞を消費する余裕もなく……誠に申し訳ございませぬ。ここはひとつ、腹を切ってお詫びをば」

「しなくていい! それより、これからしばらく私達のサポートを頼むわ。宿の手配から追っ手の始末から足の確保から路銀の調達から、一切を任せるけどいいわね?」

「はっ! このタイム、誠心誠意我が君にお仕えし全霊で任務をこなしてご覧にいれましょう! おら、はよ退けこのクソガキ」

「うう……だからこいつと会いたくなかったんだ……くそぉ」

 

 これからの旅の道行きに不穏なものを感じ、セージはがくりと項垂れた。

[newpage]

 

 黒猫──主人たるローズマリーから「タイム」と名付けられた使い魔は4つの脚を飾るアンクレットをシャラシャラ鳴らしながら顎をしゃくり、自分に着いてくるよう促す。

 

「あぁ……数日ぶりですね我が君! このタイム、一日千秋の思いでずっとお会いできる日をお待ちしておりました……! そこな塵芥はほっといて久方ぶりのティータイムと洒落こみましょう。我が君のお眼鏡に叶う良き店を探し当て、既に予約も済ませております。さぁ、さぁさぁ!! 行きましょう! 今すぐ!!」

「はぁ……あなたって子はもう、どうしてそう勝手なことをするの? お店の方に悪いから突然キャンセルなんてできないし、仕方ないから今回は許すけど……次また同じことをしたら、今度こそ2000年かけねば登頂できぬ峻険に送り込むわよ」

「わ、我が君が手ずからこのタイムめを躾てくださる……と!? ご褒美ですね!? なんという身に余る光栄……! 恐悦至極にござりますぅぅ!!」

「……ダメだこりゃ」

 

 今にも浮かれて空を飛びそうな使い魔にやれやれと肩を竦め、ローズマリーは頬を膨らませてむくれる愛弟子に手を差し出した。ぱっと弾かれたように顔を上げたセージは、ちょっぴり照れ臭そうな顔の師を見つめてにんまり笑いつつ、柔な手を握り返す。

 途端にご機嫌になる彼に、呆れるやら嬉しいやらといった様子でローズマリーは嘆息しながら足元の使い魔に尋ねた。

 

「で? どこに予約を取ったって? あんまり変な店だったら許さないわよ」

「ご安心なされませ! このポートヘブンでも随一の人気を誇る喫茶店にございます! 港で獲れた新鮮な魚介と南から仕入れたコーヒーなるハイカラな飲み物が頂けるとかで、あのデイリーグルメジャーナルにも取り上げられたんですよ!」

「あぁ、あのよく分からない美食家向けのマイナー雑誌だったっけ。あなた、あんなの読んでたの?」

「我が君の仰る通り、確かにデイリーグルメジャーナルはマイナー誌ではありますが、筆頭記者のノア・アラニエル氏はそれはもう素晴らしい舌の持ち主で、彼女が担当記事にて紹介しオススメした店はもれなく大盛況となるほどなんですよ」

 

 前脚(拳)をぎゅっと握って力説する黒猫に辟易としつつ、ローズマリーはさっさと案内しろとばかりにじとっと見つめる。が、妙なところでタフな使い魔は脂下がった笑顔でこちらです、とナビゲートをはじめた。

 旅行者の行き交う大通りから逸れて裏路地に入り込むと雰囲気は一変し、閑静なアパルトマンや古い町家がひしめきあう区画に差し掛かる。潮風に強い品種の花がベランダを飾り、青空の下で洗濯物がはためく。仮想の町にも生活があり、人々の営みが成り立っているのだと示していた。

 タイムがローズマリー達を連れて行きたいという店は、そんな住宅街の片隅にある古民家を現代風に改装した、こぢんまりとした店構えのカフェである。コアタイム中だというのに店内はがらんとしており、常連らしき客がぽつぽつといる以外は他に誰もいない。タイムは流行っていると言っていたが、この分だと誇張だったのかもしれないなとローズマリーは訝しんだ。

 とはいえ店の作りは古めかしさと真新しさの同居した彼女の好みに当てはまるものだった。古時計やビスクドールが品よく配置され、飴色の床は顔が映り込みそうなほどピカピカに磨き上げられており、アンティークのテーブルセットがカウンター席の向かいにいくつか並べてある。

 しげしげと店の内装を見つめる師弟へ、いらっしゃいと嗄れた声がかかった。

 

「見ない顔だねぇ。この町へは観光へ来たのかい?」

「いえ、これから長旅に出ることになりまして。その前に英気を養おうと、せっかくなのでポートヘブンの美味しい料理でも頂こうかと。えっと予約した者なのですが……席はどこにしたらいいのですか?」

 

 見た目だけならローズマリーより圧倒的に年嵩であるエプロン姿の老爺に問うと、被ったコック帽がズレたままの彼ははて、という顔をして首を捻った。愛想笑いをキープしたまま彼女は嫌な予感を覚え、ブーツに擦り寄っていた使い魔を軽くつま先で蹴る。

 どうやら予想通りこの黒猫はヘマをしたらしい。愛らしい顔立ちにてへっと誤魔化し笑いを浮かべたが、それでローズマリーの怒りが治まる訳もない。笑顔のまま額に青筋を浮かび上がらせる彼女に対し、店主らしき老人は残念そうに予約が入ってない旨を伝える。

 

「あぁ……やっぱり。この駄猫め、よくもやらかしてくれたわね。いっそ東の最果てへ飛ばして二度と祖国の土を踏めなくしてやろうかしら」

「ヒィ! 我が君、どうかお許しくださいませぇ! お願い申し上げます、どうか、どうかそれだけはぁぁ……! お考え直しください……っ」

「へぇ、そんなに私に逢えなくなるのが辛いの。なら仕方ない、私達は先に往くからあなたにはお留守番を頼むとしましょうか?」

「そんなぁぁ……わ、我が君……っ」

 

 ニヤニヤと意地の悪い笑顔でローズマリーが‎おっちょこちょいな手下をからかっていると、老人はにこにこと人の良い笑みでテーブル席の一角を示した。せっかくだから寄っていきなさいということらしい。

 確かにこのまま戻るにしても、時間をロスした事実は変わらない。それならいっそここで昼食を摂るのも悪くない、と彼女は考えを改めた。

 

「まったくタイムったらどれだけポンコツに成り下がるつもりなの? これならよっぽどセージの方が使えるわ。いい、次こそ絶対に許さないからね! 宿の手配や足の確保を万が一怠るようなことあらば、あなたを万年雪に閉じ込めてあげるわよ」

 

 床の上にこれ以上ないほど綺麗な姿勢で土下座しているタイムへ容赦なく宣告してからローズマリーは先に席に着く。後を追ってセージも向かい側に座り、紐綴じされたメニュー表を師に渡した。今時活版印刷ではなく1枚1枚手書きで記されたメニューには、誰が描いたか分からないがやたらに美麗な料理の挿絵が添えられている。

 現在はランチの時間帯なので夜のメニューは食べられないが、代わりに割安なランチセットが頼めるようだ。港町の食事処なだけあり、魚介がふんだんに使われている。今まで森の奥に引きこもって暮らしていた2人は、おっかなびっくり各々注文する。彼と彼女にとって馴染みあるシーフードといえば、せいぜい蟹くらいのものだ。

 ちなみにタイムは使い魔なので食事を必要とはしないが、気を利かせた店主が彼のために猫用のミルクを用意してくれたので、それを床上でちびちび舐めている。卓上で敬愛する主人と仲良く談笑するセージを時々睨めあげるものの、少年ときたらさっぱり気付かず話に夢中なのでそのうち諦めた。

 人に盗み聞かれて吹聴されたらまずいので隠語や符牒を織り交ぜつつ、2人が新しく開発した薬や千年草の薬効について語り合っていると、オーダーした料理が運ばれてくる。給仕は店主ではなく若い娘だ。顔立ちがどことなく似ているので孫か何かなのだろう。

 セージが頼んだのはスパイスを効かせたヒラメのムニエル、ローズマリーは真鯛の香草焼きを注文していた。付け合わせのスープも魚のアラで出汁をとったもので、ふわりと磯の風味が漂う。彼女達は普段パン食なため、主食として出されたライスに思わず目を丸くした。コメの知識はあるものの実際に食した経験はお互いにない。

 

「これ……おいしい? ほんとに?」

「なんだか不思議な食べ物ね……さすが仮想の港町、なかなか斬新……」

「コメって確か東の最果てではポピュラーなんだろ? なんで遠く離れたシュバルツベルンで食えるんだ?」

「さ、さぁ……? 店主が東の生まれなのかしら。外見からそうは見えないけれど」

 

 顔を見合わせながらこそこそ話し合う2人だったが、給仕の少女は咳払いして注意を向けさせると慣れた様子で説明を始める。彼女達の想像と違い、店主は東の人間ではなく昔からこの町に住む生粋のシュバルツベルン国民であり、コメを使った料理は外つ国からやってきた料理人に教わったのだという。その料理人と店主の間に生まれたのが、自分なのだと給仕はついでのようにつけ加えた。

 彼女の解説を聞いたのち、2人はやっと久しぶりのまともな食事にありついた。お互い無言で食らいつき、完食するまで言葉を交わさない。それだけ空腹だったことの証左だ、食事に夢中で会話どころではなかった。それほど時間をかけず食べ終わり、食後のお茶を片手にひと心地ついた師弟は「最果て」について雑談に耽る。

 

「最果て、って三大陸の外側にある不可侵の領域だっけ? 魔界との緩衝地帯だから、人族は入っちゃいけないんだろ」

「本来はね。王侯貴族や庶民、奴隷等いかなる身分の者も立ち入りが厳しく制限されている……と言われてるけど、実際のところ魔法使いだけはフリーパスよ、ただし西側に限るけれど。あそこには『魔女の谷』があるから。東は西ほど規制が緩くないから、渡航なんて無理なはずなのだけど……ま、何か抜け穴でもあるんでしょう」

「魔女の谷ってマリーの故郷なんじゃなかったっけ。確か、魔女族だけが住んでるんだよな? この世界に魔法をもたらした原初(はじまり)の魔法使い、ラヴァーナとミネルヴァも魔女だったんだろ。どんなところか気になるなぁ……行ってみようぜ、マリーだってたまには里帰りしてもいいんじゃないか」

「ダーメ。そしたら里心がついて旅を続けられなくなっちゃうかもしれないでしょう? それに、もうあそこと関わるつもりは……」

 

 言いさしてはるか遠くを見はるかすローズマリーの瞳は茫洋としていて、どこへ目線を向けているやら検討もつかない。仄暗い光を湛える深い緑の目はまるで沼の底のようだ。

 

「──マリー……?」

「安心しなさい。私はどこにも行かないわ。あなたを独りにするものですか、セージ……お前が一人前の魔法使いとなり、やがて巣立ちゆくまでは」

 

 微笑む魔女はどこまでも優しい。親のように慕ってきた弟子が切なさのあまり、泣きたくなるほどに。

 

 

 ──1933年 最果て「魔女の谷」

 

 1本の太く深い大河によって切り分けられた3つの大陸にそれぞれ「王」「軍」「帝」を名に冠する大国が君臨し周辺諸国を治める世界──その「領外」に緩衝地帯として、いにしえの大魔法により作られた地域「最果て」はある。

 遥か遠い昔、血で血を洗う地獄の大戦から得た教訓により人と魔物は互いに干渉するのを禁じ、物理的にも決して関われぬよう世界そのものを断ち割った。魔族は異なる位相にある仮想の世界へ越し、二度と元の位相に戻らないと人の王に誓約を交わす。誓いを遵守するため生まれた「最果て」へは、人も魔物もあらゆる種族が出入りを禁じられている。それが古きより伝わる世界のルール。……そのはずだった。

 

 数日前までは何の変哲もない女子高生だったが、今や世界の破壊者に等しい力と呪いを得てしまった架音は、未だ力の上手く入らない上体を背もたれに預けて、窓の向こうに見える町並みをぼんやり眺めていた。

 切り立った崖の下に広がる小さな町は、多くが2階建てから3階建ての背の低い建物が等間隔に連なっており、石畳を敷いた車も通れぬような狭い道がそれらを繋いでいる。架音の師匠に収まった魔法使い、フェルデニウムが焼き払ってしまったという辺境の町スフィールよりも閑静でメインストリートを行き交う人の数も僅かだ。

 ただ、町を歩く人々には共通点があり、大部分がとんがり帽子にローブを纏った魔法使いの格好をしていた。男女比も極端に偏っており、ほとんどが10代から30手前までの若い女性である。男性はあまり見られない。

 ここは西の最果てにある「魔女の谷」という秘境なのだそうだ。緩衝地帯としての最果てが生まれるよりももっと前からこの地に住まう旧い種族「魔女」が暮らし、魔法の開発や研鑽をしているのだという。

 ここに居を構える資格を持つのは同じ魔女か、あるいは魔女と血の契りを交わし夫婦になった男、その間に生まれた子供のみ。条件に当てはまらぬ者は、居住どころか谷への立ち入りさえ認められない。厳しいしきたりと魔女族の長による大規模かつ強固な守護結界に守られた町だ。

 当然ながら架音はおろか、同じ女性の魔法使いであるフェルデニウムも本来ならばここへ来ることすらできないはずだが、何事も裏技、もとい抜け穴はあるものだ。

 午後の気だるい空気に包まれた部屋で退屈を持て余していると、控えめなノック音がドアを叩く。買い出しに出かけていたもう1人の同居人が戻ってきたらしい。架音が応えるとぱんぱんに品物の詰まった買い物籠を片手にフェルデニウムが顔を覗かせた。

 亜麻色の髪を纏め上げたシニヨンはいつも通りだが、気張った白衣にスーツ姿ではなく麻の地味なスカートとチュニック、その上に黒いローブを羽織っている。ローブは魔法使いの証らしく、白衣を着ない時は必ずこれを身につける決まりがあるのだとか。学生が制服を着用するのと感覚は同じのようだ。

 

「おかえり、フェルさん。……買い物ありがとう。私も早く外出できるといいんだけど」

「ただいま、架音。町でお昼とか服とか色々買い揃えてきたから、あとで着丈が合うかチェックしましょう。ここは年中を通して気候が変わらないし、魔法を学びながら静養するには絶好の環境ね。ローズマリー様に感謝しなくては」

「ローズマリーさんが手配してくれたんだ……私、お礼するどころか顔も見ずに離れちゃった。いつかまたお会いする機会があるといいな」

「ポートヘブン経由で軍国へ向かわれると仰ってたから、しばらくこの国へは戻ってこないでしょうね。あちらで何をされるかまでは教えてくださらなかったけれど……きっとあの方のことだから、元気でやってるでしょう」

「……フェルさんはローズマリーさんと知り合いなの?」

「いいえ。私が一方的に見知っているだけよ。あの方はシュバルツベルンじゃ知らぬ者がいないといわれるほど有名だし、特に最近までは時折王宮へお見えになっていたから、王都勤めだった私にとっては馴染みのある方だったの。同じ魔法薬学の分野で研究している同輩は、マリー様がいらっしゃる度に質問責めにしていたわね」

 

 彼女にとっては懐かしい記憶なのだろう、くすくすと楽しそうに笑みをこぼしながら語ってくれた。気絶していたので人となりはおろか姿形さえ見ることなく旅立ってしまい、名前しか知らない架音としてはなんだか少しだけ羨ましくなるエピソードだった。

 

「ここ、ローズマリーさんの故郷なんだっけ。私達が来てよかったのかなぁ」

「魔女族の長に渡りをつけたから大丈夫、ってマリー様は太鼓判を押してくれたし町で買い物していても特に邪険にはされなかったけれど……不安なら、ご挨拶くらいしに行きましょうか? せっかくだもの、顔見せしておいた方が今後にとっても良いし」

「うん。そうだね……また途中でぶっ倒れないといいけど」

 

 架音の身の裡に宿っている魔族の力「異能」は、使えば使う度に生命エネルギーを摩耗してしまう非常に燃費の悪い武器だ。魔法も同じく術者の生命エネルギー、または龍脈から生命エネルギーを取り出して魔力に変換し使用するが、効率の問題で異能はより多くのエネルギーを消費する。

 使いすぎれば当然ながら寿命は縮むし、こうして寝込むことになる。架音の場合、慣れないうちに立て続けに異能を使い、しかも満足な休養も取れず、挙句フェルデニウムの魔法のダメージをもろに受けてしまったため、彼女を診たローズマリーから静養するようにとお達しを受けてしまったのである。

 その候補地として魔女の谷を薦められたのだ。他に行く宛てもなかったのでフェルデニウム達がぜひにと頼むとローズマリーが自身の生家を使っていいと許可を出してくれ、魔女族の長に架音らを受け入れるよう要請してくれたのである。

 という経緯の元、今に至る。

 フェルデニウムが購入した服にさっそく袖を通し、とんがり帽子こそないが魔法使いらしい見た目になった架音は、近くの菓子屋で売っていたケーキを手土産に、魔女族の長が住むという屋敷へ向かう。途中で何かあったら困るからと師匠も一緒だ。のどかな昼下がりの町を散策しつつ2人は歩く。

 ちなみに呪いの拡散は止まっている。ここに「人間」は誰一人いないからだ。

 

「でもさぁ、ローズマリーさんのおうちっていうからてっきりお父さんやお母さんもいるのかと思ってたけど、家の中に誰もいなかったね」

「マリー様は何も言ってなかったけれど、もしかしたらご家族は疎遠になってしまわれたのかもしれないわね。それか、鬼籍に入ってしまわれたか……。後者でないことを祈るけれど」

「きっと町を出て別なところで暮らしてるんだよ。ここは静かでいいところだけど、王都は賑やかなんでしょ? たぶん、そういう大きな街に住んでるのかもしれないよね」

「そうね、弟子を取る前はミネルヴァの暗き森じゃなくて王都にお住いだったし」

「そういえば、その『王都』ってどういうところなの? 私はしばらく行けそうもないから、気になるな」

「あぁ、そうか……。架音はここ以外の町へは立ち入れないものね。あなたにも分かりやすく説明するとしたら、産業革命直後のヨーロッパの大都市って感じかしら。石造りの大きな建物がたくさんあって、それから中心には立派な宮殿があって。……そんなまちよ。首都として整備される前は薔薇の名産地で、一面薔薇の木々が生い茂る風光明媚な街だったらしいけれど」

 

 だから今でも薔薇烟る都と謳われているわ、とフェルデニウムは付け足した。都市名の「ロージア」も薔薇(ローズ)に由来しているとも。そんな人族の中心地たる麗しの王都も、今では呪詛転変によるオグル化現象の影響真っ只中にあり、人の出入りは完全に禁止されている。議会と軍部が中心となって隔離策に動き、呪いの蔓延を食い止めているのだ。

 現在の王都は魔法使いしか生き残れない街になってしまっている。だがたとえ魔法が使えても戦いの技術を身につけていなければ、あっさりとオグルに食い殺されてしまう。フェルデニウムの上司である所長のように。

 

「ねぇ、ひとつ気になってたんだけど……どうしてこの呪いは『人間』にしか影響を及ぼさないの?」

「やっとその質問がきたわね……、ちょっと疑問に思うのが遅いわよ。簡単に言うと、これは魔法使いではない人間を滅びに追いやるための呪詛(きんじゅつ)なの。呪いは特定の制限や条件を設定すると威力を高めることが可能となる。だから、あえて魔法使いを除外する条件を課すことで、それ以外の人への効力を強くしている。ただ、文献に残されている『ともくいののろい』にしては、いくつか不可解な部分があるのよね……」

「不可解な部分? それって……たとえばどういうところが?」

「答えてあげたいところだけど、またあとでね。今はきちんとご挨拶しないと」

 

 会話しているうちに、いつの間にか目的地に到着していた。赤い屋根に漆喰を塗った壁が可愛らしい、小さな庭付きの一戸建てだ。周りが集合住宅ばかりなので浮いてみえる。これから顔見せを行う人物──魔女族の長はここに住んでいるという。

 敷かれた結界の効果で魔法を使ってコンタクトは通じないため、フェルデニウムは自慢の美声を張り上げて誰何する。ごめんくださいと何度か叫ぶと、ようやく玄関扉が開いて家主が姿を現した。

 

「うぅ、うるさぁい……休みの日くらい静かに寝かせなさいよまったく……って、あれ? 見ない顔ね。あなた、魔女……ではないようだけど。誰だったっけ?」

「昨晩よりこの地に留まらせてもらっております、王都の魔法使い、フェルデニウム・アポロニウスと申します。此度は長殿の寛大な心遣いに感謝しております。弟子の体調も元に戻りつつあるので、顔見せに参りました」

「……あぁ、そういやマリーから知り合いを送るから面倒見てやれって言われてたな。あなた達か。入ってどうぞ。なんのお構いもできないけど、おやつくらいなら出せるから」

 

 にこ、と微笑む少女──そう、どう見ても愛らしい幼い少女の姿だった──数千の時を生きる魔女族の長、リコルダは寝巻にとんがり帽子という珍妙な格好で2人に歓迎の意を示した。

 

 

「ようこそ、いにしえの魔法を今に伝う置き去りの里へ。我が名はリコルダ・フィオーナ──魔女の谷を治める長にして、この地に住まう者らの守り手。……と、まぁ堅苦しい挨拶はこの辺にして。ささ、上がって上がって。大したもてなしはできないけど」

 

 とんがり帽子よりランドセルを背負っている方が余程しっくりくるのではないかと思うほど幼い見目をした魔女長・リコルダは気さくに笑いながら2人を自宅へ招いた。

 肩口でまっすぐに切りそろえられた菫色の髪にくすんだ明るい緑の瞳が印象的なその魔女は、梟の羽を飾ったとんがり帽子を被り、麻布を繋ぎ合わせた簡素な仕立ての寝巻きを身にまとっている。なめらかな象牙色の肌に彫りの浅い顔立ちは東の民の血筋を感じさせた。愛らしい外見に対して醸し出す雰囲気は、年長者特有の老獪さを滲ませている。

 

「それにしても、あなたも難儀な呪いを見に受けたものね。可哀想に、それじゃあさぞ生きにくいでしょう。……治してあげたいところだけど、さすがに手に余るなぁ」

「……わかるんですか? 私が呪いを持ってるってこと……そういえば、フェルさんも見抜いてたけど、魔法使いになるとそういうのもすぐ分かるようになるのかな」

「魔法使いの素質というのはね、魔力があることでも魔法を扱えることでもなく──魔法を感じ取れるかどうか、これに尽きる。どんなに莫大な魔力があろうと実技が上手かろうと、魔法の有無を直感で悟れなければ意味がない。ゆえに優れた魔法の使い手には不意打ちが無効ってわけ」

 

 リコルダの家は外から見た時は小さな平屋の一軒家に映ったが、実際に中へ入ってみると二階建てだった。魔法で空間を拡張しているため外観と内装が大きく異なる仕組みのようで、二階部分は主に客間や物置として使っているらしい。一階はバス・キッチン・リビングダイニングに、リコルダの寝室があり地下は文献や資料を保存するための書庫が設えてある。

 2人は燦々と陽の当たる開放的なテラスへ案内された。プランターには季節の花々や薬草の類が植わっており、風が吹く度に甘く馨しい匂いがふわりと漂う。

 架音から手土産を受け取ったリコルダは、お茶の用意をしてくるからと台所へ消え、テラスには架音とフェルデニウムだけが取り残された。3人掛けのテーブルセットにそれぞれ向かい合って座る。

 

「そういえば、ローズマリーさんはセージさんと一緒に呪いを解く方法を探すって言ってた。でも、その方法って見つかるものなの? それに……フェルさんは文献とやらで呪いの存在を知ってたみたいだけど、解呪については書かれてなかったの? 普通は解き方だって書かれてるもんなんじゃないの」

「……『ともくいののろい』はね、人が人にかける呪詛ではないの。異界へ渡るという罪を犯した者への、(かみ)からの罰なのよ。だから呪いを解くのは『上』しかできない。でも、たったひとつだけ手段は残されてる。それは──呪いにかけられた者を物理的に消失させること。殺すのでも、別な世界へ飛ばすのでも、やり方はなんでもいい。とにかくこの世界から消す、失くす。それで呪いの影響は消える」

「それって……つまり、」

 

 架音が思わず身を乗り出しかけたその時、人数分のティーセットをトレイに乗せて運んできたリコルダが微笑みながら、台詞の続きを引き継いだ。

 

「あなたを元いた世界へ還そうってこと。えぇと……名前は確か、カノンさんって言ったかしら。良かったね、きっとそう間を置かずに帰れるよ。マリーなら必ず上手くやるから」

「……あの方は、一体何者なんです……? 確かに王国随一の魔法の腕前を有す素晴らしい魔女であるとは理解しています、でも……それにしたってマリー様は『異常』すぎる」

 

 いささか血色の悪い顔でフェルデニウムが食い気味に尋ねた。空色の目は疑念と畏怖に染まっている。

 

「あなたの質問に答えを返す前に、お茶にしようか。せっかくのハーブティーが冷めちゃうし、架音ちゃんが持ってきてくれたケーキも食べたいし。……そうそう、フルールの店で買ってきてくれてありがとう。あそこのお菓子、好きなんだよね」

 

 感情の読めない仮面のごとき笑みを貼り付け、リコルダは白いクロスを敷いたテーブルの上に中身を注いだカップと皿に取り分けたお菓子を並べる。早咲きのスミレを飾り、濃いベリーのソースをかけたケーキとクセのない飲みやすいハーブティーの組み合わせは上品で、宮廷のお茶会に出席した経験のある、フェルデニウムの目にも見事と言わざるを得なかった。

 

「フルールはね、別名『花の魔女』という植物を操る魔法に長けた子なんだけど、お菓子作りが大の得意で魔法研究の傍らにこうして時折店を開いてくれるの。あの子の魔法には長いことお世話になっていてね、ここにあるお花や薬草の面倒もたまに見てもらってるんだ。おかげでここしばらく、薬草を枯らしたりしなくなったかな。私ってば魔女のくせに植物の世話がてんでダメで、マリーにもよく怒られたっけ」

「花の魔女フルール……その名は聞いたことはあります。大戦時、魔女ローズマリーと並んで魔族側人族側を問わず救護に尽力し、多くの命を救った功労者だとか。たしか、マリー様のお弟子さんなのでしたっけ?」

「いえいえ、マリーとフルールはただのお友達よ。あの子がまだここに暮らしてた時は一緒に惚れ薬の創薬実験したり、どっちが人面草を上手く育てられるか勝負してたり、なんだかいっつもアホなことやってたなぁ。そうそう、恋茄子(マンドラゴラ)に媚薬の効能があると発見したのもフルールよ、あとであの子の論文を見せてあげる。本人に直接頼むと恥ずかしがるから、こっそりね」

「それは……興味深いです。私の専門分野とは異なりますが、良い知見を得られるかもしれません。ぜひお願いします……って、そうではなく! 先程の質問に答えていただきたいのですが!」

「……あはは、やっぱり流されてくれないかぁ。そうだよね、大事な秘蔵っ子の今後に関わるし、ちゃんと把握しておきたいよねぇ」

 

 大人用の椅子にちょこんと腰掛け、いつの間にか寝巻きからきちんと魔女としての正装にあたる黒一色のドレスに着替えたリコルダは、湯気の立つカップを片手にパチンと指を鳴らした。

 

「言葉で説明するのも分かりにくいし、あなた達の脳みそにちょっとした映像を送り込んであげる。それでなんとか理解してちょうだい。……あ、機密保持のため一定期間が経過したら投影した映像は消えるから、覚えていたいならちゃーんと脳細胞のひとつひとつに刻み込んでおいてね」

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン辺境「ポートヘブン」

 

「はぁ!? ふ、船には乗せないってどういうこと!? 巫山戯てるの……この私を愚弄すると……? えぇ、えぇ、いい度胸してるじゃない、あなた」

「いっ、いえ! 決してそのようなことではなく……! ただ国際法上、身分証明とパスポートのない方を国外へ出すわけには参りませんので……、どうかご容赦を……っ」

「あーもー、分かったわよ、で? そのパスポートとやらを貰うにはどうしたらいいの」

「まず本籍のある役所で身分証明を発行していただいてですね、それから大使館に問い合わせて手続きを踏んでから、という流れになります」

「大使館は王都だし封鎖されてるし、役所はとっくに燃え滓になってるわよ! どーすんのよパスポートも身分証明もできないじゃない! なんだってそんな煩雑な仕組みになってるの!? ……ジルめ、めんどくさい法を作りやがったわね! あの世で覚悟してなさい……っ!」

「そ、……そのようなことを申されましても……」

 

 港町ポートヘブンの中心にある軍国行きの定期便が発着する船着き場で、使い魔と弟子を伴ったローズマリーは癇癪を起こしながら職員に食ってかかっていた。完全なクレーマーと化している師匠の姿に、離れたところで成り行きを見守っていたセージはどうしようとあちこち視線をさ迷わせる。

 八つ当たりされるのが目に見えているので怒り狂った魔女に近づきたくないが、このままでは厄介者として扱われますます出国が難しくなる。ここは勇気を出して羽交い締めにしてでも停めるべきか。しかし彼女は他ならぬセージのために怒ってくれているのであり、それを思うと制止するのも憚られた。

 

「おい、タイム、今こそ面目躍如の時だぞマリーを止めてこいよ」

「は? なぜゴミカスにも劣る屑の言うことを聞かねばならん。他を当たれ」

「……前から思ってたけどさぁ、お前なんか俺にだけやたら当たり強くない? 俺なんかした? してないよな? 理不尽にも程があるだろそろそろ謝れよ」

「当然だろう、この世において従うべき主人はローズマリー様ただ1人、他は空気中の塵も同然。何が理不尽なものか、自然の摂理であろうが。そのようなことも分からぬとは、低脳極まりないない無能だな」

「え……ここまで言われる筋合いある? なんで俺が罵倒されてんの……?」

 

 もはや言い返す気力もなくがくりと肩を落としたセージだが、つかつかと荒っぽい足音を立ててこちらへローズマリーが戻ってきたので、ぱっと顔を上げる。

 

「まったく! あの堅物共ときたら、身分証明とパスポートがないと出国させられないの一点張りよ! 国の重大な危機だっつうのに、ちったぁ融通効かせなさいよ……はぁ」

「おかえりマリー。なんとかなりそう?」

「ダメみたいねぇ。あの分じゃテコでも動かないでしょう。と、なると……ちょっと危ない橋を渡るしか出国の目処は立ちそうにないわね」

「えっ……それって、まさかと思うけど、その『まさか』じゃないよな?」

 

 不安に駆られたセージが真っ青な顔で問いかけると、いたずらっ子じみた無邪気な笑顔を取り繕った魔女は、うきうきと弾むような口調で告げる。声色は楽しげだが、ついて出る台詞の内容はは、ちっとも楽しくないどころかむしろ、恐ろしいばかりの提案だった。

 

「えぇ、そう。あんたの予想通り、その『まさか』よ。こうなりゃ、もう密航するしかないでしょう?」

 

 

 そもそも、内陸国であるシュバルツベルンから別な大陸にある他国へ渡るにはどうすればいいかというと、主なルートは列車を乗り継ぐ陸路(ただし間にいくつもの国を跨ぐのでその度に手続きが必要になる)、大陸の外へ出て船で移動する海路(陸路同様うんざりするほど時間がかかる)、そして魔法使い限定の空路──今まではこの3種類しかなかった。

 陸路に限っては途中に鉄道網が整備されてない地区を挟むため馬車等で移動をしなければならないし、道路状況や治安の問題で迂回するとなると更に時間がかかる。また行くだけならともかく帰りも陸路となるとに五体満足で帰国できる保証はない。

 海路は外海を回遊するので運が悪いと遭難する危険がある。無事に目的地へ辿り着けたとしても相当な時間がかかるため、急ぎとなると使えない。航海技術自体、海軍もまともにない国なのでまだまだ未熟なのが危険性に拍車をかけていた。

 では、空路はどうか。これは身一つで空を飛ぶ技術を習得している魔法使いにのみ許された移動方法だ。各国領空へ侵入せず済む安全な航路も一般に公開されており、事前に申請すれば誰でも使用できる。ただし保険に入ってなければ道中の安全は保証されないし、何より魔法使い以外には高空を長時間航行するスキルがないのがネックだった。

 では、一般人が気軽に旅行や出張で外国へ行くにはどうしたらいいのか。その問題を解決するため、当時の魔法技術の粋を結集して製造されたのが仮想の港町「ポートヘブン」である。

 発着場には船型の移動施設が定期便として常に待機させてある。船の形をしているのは観光客へ向けた見栄えを意識しているのと、一応ここは「港町」なので、その体裁を保つためという理由があった。

 各国へ繋がる定期便には、従来の転移魔法をより長距離かつ複数の人間を目的地へ移動させられるよう編集(アレンジ)した術式が予めセッティングされており、発着場にいるスタッフは術式が正しく作動するか確認するだけで済むようになっている。あとは、定期便が時刻表(ダイヤ)通りに所定の座標へ決められた人数を運び続けるだけだ。

 この大規模魔法のおかげで時間がかかる上に危険も多い陸路や海路を使わずとも、一般人が自由に国を出入りできるようになった。空路が使える魔法使いですら、今はポートヘブン経由で出入国する方法を取っている。その方が手軽で安上がりだからだ。

 ただしそれも、比較的平和な現在だからこそ通用するのだ。仮想の街であるポートヘブンには軍港としての機能はないので、敵国が攻めてきても使える防衛手段がない。となれば町ごと廃棄してしまう以外になかった。この魔法は非常に便利な反面、国防においては敵軍を大量に送り込まれてしまうリスクを孕んでいる。

 ゆえに、現時点で軍部がポートヘブンの閉鎖及び廃棄を検討していることなど──所詮はいち国民に過ぎない町の住民や、日頃乗り入れしている定期便利用者たちは、知る由もなかった。当然ながらローズマリーとセージの2人組も、また。

 

 

 

「セージっ、狙うは30分後に出発する軍国行き定期便・ムーンリバー号よ。アレにこっそり乗り込めば最短であっちの首都に行ける。他の軍国行き首都着は日付が変わるのを待たないと乗れないし、他の便は第2区、第3区着だから首都へは列車かバスで乗り継がないと行けない。いちいちそんなに時間かけてらんないし、密航するってなったらムーンリバー号をおいて他にないわ」

 

 深い緑の瞳をギラつかせながら、白い手袋に包まれた小さな手をぎゅっと握ってローズマリーは熱弁を奮う。完全に密航する気らしく、正規の手段で出入国するという考えは頭からすっぽ抜けているようだ。

 

「えぇ……。それって犯罪じゃん。俺、いくらなんでもマリーがお尋ね者になるのなんか認めらんないよ。どうしても他に方法はないの? 大昔みたいに陸路や空路を使ったっていいじゃないか、ポートヘブンからなら海路だって使えるだろう、ここの仮想海は大陸の周りにある外海と繋がってるんだろ?」

 

 人目を気にしてこそこそ話しながらセージは渋った。自分1人が不正出国者とバレて指名手配されるくらいなら許容できても、敬愛する師匠が王国犯罪史に名を刻まれるなど到底許せるものではない。まして、セージさえオグルにならなければ国外逃亡する必要なんて元々なかったのだから。

 しかしローズマリーはセージ1人を行かせるつもりなどない。薬師としては発展途上にある彼に希少かつ劇薬である千年草の解毒薬を単身で扱えると思っていなかったし、途中でアクシデントが起きても離れたところにいては対処できないからだ。

 鬼化した当人はいまいち事の重大さを理解しきれていないが、世界最高峰の薬剤師であり魔法薬学の第一人者であるローズマリーは既に悟っている。この呪いから愛する弟子を解放するのは、一筋縄ではいかないことを。

 

「セージ。私はあなたのことを信頼しているけれど、それでも一人にしておけないの。あなたなら何があってもやり遂げられるでしょう、それは分かってるの。……でもね、心配なのよ。私の見ていないところで、あなたにもしものことが何かあったなら、きっと私は死ぬまで後悔し続けるわ。だってセージは大切な預かりものであり、私の大事な弟子で、……かわいい子どもなんだから」

 

 泣き笑いのような表情で言い募る師匠に、もう弟子は何も言えなくなっていた。昔から彼女の涙に自分がものすごく弱いことは、とっくに自覚している。もう泣かせたくはないのだ。だってローズマリーはセージの大切な師匠で、それから大好きなひとなのだから。

 

「……はぁ。分かったよ、ここまで来て師匠を置いて勝手に単独行動なんかできないし、一緒に行こう。でも、その……密航するって言うけど、どうやるのさ」

「問題はそこなのよね、どうやって乗り込むべきか……。セージ、あんた何かアイディアある?」

「おいっ、なんか具体的なプランがあるのかと思えば全くの無計画かよ! どうするんだよ、出発までもう時間ないぞ!!」

「そーよっ、グズグズしてらんないのよっ、だから早く案を出しなさい!」

「む、無茶言うなー!!」

「なによぉ! あんた、私より頭良いんだからナイスアイディアのひとつも提案してみせなさいよぉ!」

「む、無理無理! 俺、マリーと違って善良な一般人だもん! は、犯罪なんかできっこないもん!! そんな闇の閃きなんかできねぇもん! マリーの鬼! 悪魔! バカ! いじめっ子ー!!」

 

 ぎゃあぎゃあと言い争っているうちに自然と声は大きくなっており、2人の会話はすっかり周りに丸聞こえだった。しかも一連の内容は発着場で行われており、つまり移動施設を管理する職員だってまさにすぐ近くに居るのである。

 

「……ちょーっといいかなぁ、そこのおふたりさん。今、聞き捨てならないワードが飛び交ってるのを耳に挟んじゃったんだけど……えぇと、密航がなんだって? そこのところ詳しい話を聞かせてもらおうか、ええ?」

 

 やたらと威圧感のある笑みを皺の刻まれた顔に浮かべた紳士が、いつものように口喧嘩する2人へ話しかける。いや、腹の底に響くような低い声音はもはや恫喝に近い。

 ギギギ、と油の切れたブリキ人形のごときぎこちない動きで彼と彼女は紳士の方向へ顔を向け、にっこりと完璧な営業スマイルしてみせる。もちろん紳士──ポートヘブン町長であり発着場の管理責任者には通じない。

 こうして薬師とその見習いの突貫密航プロジェクトはあえなく水泡に帰すかと思われた。

 が。

 そうはならなかった。なぜなら、

 

「我が君! ……ちっ、セージのクソ野郎も俺に掴まれ!」

「タイム!? 一体どうしたのよ!?」

「え、何!? てか初めて名前……っ」

 

 ぐわわわわ、と発着場ロビーを埋め尽くすかのようにタイムが膨れ上がり巨大化した。ローズマリーを振動を最低限に抑え、ひらりと華麗に背中へ乗せると、セージは首根っこを無理やり咥えてあちこちにガンガンぶつけながら、全速力で走り出す。ゆらゆら揺れるセージは柱や壁に身体がぶつかる度、激痛に悶え悲鳴を上げている。

 ぎゃー! と場内はあっという間にパニック状態と化した。他の利用者は絶叫しながら我先にとエントランスへ駆け寄り、突然のことにこの場を統制すべき職員ですら呆然としている。我に帰った町長が指示を飛ばしても大騒ぎとなったロビーには、ほとんど命令が届いていない。

 大混乱に陥った発着場を尻目にタイムはトップスピードを維持したまま走り、大規模転移魔法の術式が発動する直前の定期便ムーンリバー号へ駆け込み乗車する。慌てて職員が警笛音が鳴らすもののとっくに魔力は充填され、既にもう魔法は発動していた。

 

 カウントが始まる。

 5秒前。

 4、

 3、

 2、

 1、

 ──0。

 

 そして、2人は使い魔のファインプレーにより、まんまと逃げおおせた。ただし目的地である軍国首都の発着場……ではなく。

 

「……マリー、ここ……どこ?」

「さぁ……。どこでしょうね?」

 

 整列する軍服姿の男女、朗々と演説するなんだか見覚えのあるおじさん、その隣にいる見たことがあるような気がするおじさん、巨大はおじさんの銅像にシュバルツベルンの王宮とはまた趣の異なる宮殿。

 そこは軍国アーデルハイトの首都「クリムシー」の中央広場。通称を「深紅の広場」といい、定期的に軍事パレードが行なわれる場所である。そう、アーデルハイト国家元首である国軍元帥がパレードのメインである演説をしている最中に、その2人と1匹は現れた。

 

「もしかしなくても、これってめちゃくちゃヤバいんじゃない?」

「やばいわよ……やばいに決まってるでしょ。タイム……お前って子は、またやらかしたわねー!」

「ひ、ひぇ……お、お許しを……お許しください我が君ぃ!」

 

 大事な式典を邪魔された怒りで元帥の顔は真っ赤に染まる。ぶちぶちと血管が切れそうな勢いでマイクに向かい、全軍へ叫んだ。

 

「総員、その怪しげな奴らを密入国の咎でひっ捕らえよ……打首じゃー!」

 

 

 ──1933年 軍国アーデルハイト首都「クリムシー」

 

 厳粛なムードで進行していた式典の最中に突然現れた部外者の存在に、それまで整然と並んでいた兵士達はにわかにざわつき始めたものの、泡を食った元帥が命ずるとすぐさま平静を取り戻しローズマリーらを捕獲しようと動き出した。運の悪いことに軍事パレードが行われる「深紅の広場」へ集められていたのは全司令部からよりすぐられた精鋭中の精鋭達だ、態勢の立て直しも早ければ魔法戦闘技術も世界トップレベルの練度を誇る。

 つまりまともにかち合ってしまっては勝ち目などない。三十六計逃げるに如かずというように、ここはとにかく退避しなくては命が危うい。だが、先程の巨大化で残存魔力の大半を消費したタイムは、敬愛する主を助けたくとも為す術もなかった。

 

「おいっ、セージのクソ野郎! お前みたいなゴミカスでも役に立てるときが来たんだ、せいぜい我が君の肉の盾くらいにはなるんだな!!」

「はぁ!? 言うに事欠いてそれ!? 元はといえばお前が魔法をミスるからこんなことになったんだろーが! ふざけんな!」

「うっ……。うるさいうるさい、うるっさぁい!! 仕方ないだろうが俺は魔法が苦手なんだよ!!」

「つ、使い魔のくせに!? それでよくお前はマリーの配下になれたな!?」

「わ、我が君ぃ……申し訳ありませぬ……このタイムめがせめて、時間稼ぎをば……っ」

 

 真後ろでぎゃあぎゃあと喚き合う頼りにならない男共にローズマリーは嘆息したくなる。だが、いちいち彼らの漫才じみたやり取りにつっこみを入れる余裕などないので華麗に無視し、セージには耳慣れぬ言葉を厳かに吟ずる。本来、魔法使いの中でも特別な存在である魔女は呪文も儀式も魔法陣も必要としないが、この状況においては別だ。彼女が唄うように唱えたのは、

 

「Horum mutuo postulaverit lapide pretioso reginae uxori veniam nigro album lux hominum benevolentiam deam misericordiae

(貴き姫よ、尊き妃よ、我ら民を愛し給う至高の女神らよ、どうか我らを慈しみ給え。 麗しの光を今、この身に借ることを赦し給え。白妃と黒姫の名において)」

 

 ──それは、祈りの聖句だ。

 魔女は奉ずる神を持たない。魔女が信じるものはいつだって己が培った智識と智恵である。魔女という生き物は上位の存在、すなわち(かみ)に縋らない、救いを求めたりもしない。……本来ならば。

 けれど彼女らは。聖句において祈りを捧げられる者である、二柱のとうといものは。神などいないこの星で、確かに神と呼ばれるものだった。

 白き妃と黒き姫──ふたりの美しい者達がこの世のかたちを創った「らしい」から。

 

 ただ美しい旋律に広場は静まり返る。甘く高らかな響きの声で紡がれる詩が人々から戦意と闘志をかき消して、優しい気持ちと穏やかな心に塗り替える。果たして魔法なのかどうかさえ疑わしいのに、けれど効果は絶大で抜群だった。

 突然奏でられた聖句に惚けている兵士達を横目にローズマリーは次の一手に出た。間髪入れず更に魔法を発動し、分厚い霧のヴェールで自分達を隙間なく包み込むとそのまま遥か高空へ舞い上がる。敵兵が我に返る頃には既に、2人と1匹は軍国の空を自由飛行していた。

 遠い地上で元帥が何事か叫んでいるが、雲を突き抜け風を切って飛ぶ彼女達にそれが届くわけがない。が、目の良いセージには顔を真っ赤にして部下達を怒鳴りつけるおじさんが、はっきりとよく見えた。

 

「あはははは! ざまぁねぇな、あれでほんとに俺達シュバルツベルンと戦争やらかす気かよ!? マリー1人にだって敵いやしないのに! 見ろよ、あんなに怒ってら」

「口を慎みなさいセージ。あんな小物は問題ではないの。ほら、自慢の視力を魔法で底上げしてご覧なさいな。1人、こちらへ視線を合わせているのが分かるでしょ」

 

 透き通る青の只中をぐるぐると旋回しながら、ローズマリーはほっそりした指を広場へ差し向ける。隊列を乱しあちこちへ散開する兵士達や地団駄を踏む元帥に混じって、たった1人だけが彼女らに標準を合わせていた。

 品良く着こなしたダークスーツはのりの効いたシャツもきっちり締めたネクタイも黒、ベルトのバックルさえも黒で統一され、唯一カフスだけが陽光を反射し輝いている。深い皺の刻まれた、東の民特有の彫りの浅い顔立ちに安っぽいモノクルが嵌め込まれ、広場の全景を透かしていた。綺麗に整えて後ろへ撫でつけた髪はロマンスグレー、感情の読めぬ虚ろな眼差しは不気味な黒曜の色。

 かさついた薄い唇がなめらかに呪文を詠唱し、にんまりと酷薄な笑みを浮かべる。

 あ、とセージ達が思う間もなく(そら)()()()()()()

 玻璃を砕いたように罅割れた空から紫雷が閃き、飛び回っていた2人を打ち据えようとして──……寸前、タイムがローズマリーの腕から抜け出し盾となる。

 

「……っ、タイム! 何してるの、この馬鹿!」

 

 たまらず叫んだ主人に対し、彼は慇懃に微笑みながらのたまった。

 

「すみません、我が君。ですが俺は、約を交わしたあのときから、ずっと心に誓っているのです。たとえ髪の一筋であろうと愛する主を傷つけてなるものか、と」

 

 なかなかに感動的な台詞だったが、しかし長年連れ添った主人には通じない。ローズマリーはあどけない顔に不似合いな舌打ちを連発し、す、と利き手を掲げる。

 

「もういい。あんたは下がってろ。あとは──わたしがやる」

 

 そしてノータイムで魔法が繰り出された。「対象」の足元から広場に敷き詰められた石畳で造られた蔓薔薇が伸びて、瞬時に鳥籠の如き檻と化す。しかし彼が呪文を唱えればすぐさま粉砕され、ほとんど間を置かずして自由の身となってしまう。

 そこからはもう目まぐるしい魔法合戦だった。魔女が捕え、男が逃げ、男が襲い、魔女は避ける。ただ後ろで庇われ護られているだけのセージには何も出来ない。助けるどころかむしろ、足手まといでしかなかった。

 

「いつまで鬼ごっこを続けるおつもりで? もう飽き飽きなんですよ。あなた、弱いし……どうせならもう少し強くなってから刃向かってくれませんかねぇ? あぁ、それとも……もしかしてまだ、私の正体にお気づきではないのかな?」

「馬鹿にしてるの? 始めから分かってたに決まってるでしょ。あえて無視してたの、しつこい野郎もめんどくさいオスも、私はだいっきらいなのよ」

 

 魔女と男の彼我距離は目算で20階建てのビルと同じくらいか、それより更に離れている。だというのに男の発する声は間近で聞いているのと変わらないくらいクリアに届く。おそらくこれも魔法なのだろうか、とセージは当たりをつけるものの、どういう術式で成立しているのか皆目検討もつかない。

 もしくは。別の法則を用いているのか。でも、どうやって?

 

「ああ、やはりつれないお方ですなぁ。だからこそ追いかけがいがあるというものだ。ねェ、面倒なしきたりや余計なしがらみの全てを捨て、私にひとつ委ねてはくれませんかねぇ? 具体的にはそこの面白い生き物とか、あとは……あなた自身を」

「きっもちわる。なんで私より何百も歳下のクソガキ相手にしなきゃなんないの、生憎とこの馬鹿弟子と駄猫で手一杯なのよ、悪いけれど他を当たってくれないかしら」

「いやぁ、他の塵芥の如き魔女共なぞ、私の崇高な目的の前には無意味ですので。あなたがいいんですよ、むしろあなたでなければダメなのです。いい加減、分かっちゃくれませんかね?」

「分かってなんかやらないわよ。私はこの世界が好きよ、白妃と黒姫が創世したこの世がお気に入りなの。だから、それを破壊したがるのなら、あなたは──要らない。この世界にとって、この私にとって、必要ない存在。消えてくれる? 目障りなのよ」

「嫌ですよ。まだまだこれからなのでね」

 

 男がにっこりと、まさに紳士というにふさわしい笑みを口元に貼り付ける。それが合図だった。

 

「……っ、なにこれ、悪趣味ね……!」

 

 足元──いや、ローズマリーとセージは空に浮いているのだから足元というのは不正確だが、しかしまさに足元と言うべき場所に、仄暗い穴が開いていた。穴というよりは、まるで見開かれた(まなこ)のようにも見える。

 

「素敵でしょう? のろい、ですよ。あなたたち魔女が大好きで、大嫌いな」

 

 ごう、となまぬるい風がたなびいて。

 さしたる抵抗も許されず、彼と彼女は容易く(あな)の向こうへ呑み込まれていく。あるいは吸い込まれると言い換えてもいいのかもしれない。とにかく、ふたつのシルエットは暗い昏いまったき闇の彼方へと消えた。

 その場にいっぴきの猫を残して。

 

 

 

「わがきみ……? セージ? なんで、どうして、……っ、──ローズマリー!!」

 

 

 ──1933年 最果て「魔女の谷」

 

 

 

 

 

 はじめに世界があった。

 何もない、まだ何も作られていない、まっさらな空間。空も、海も、大地も、世界を形作るための全てが備えられていない、言うなれば世界の卵とでも言うべきものが。今、眼前にある。

 そこへ、ふわりと光が降りて、更に闇もふわりと昇ってきた。光は美しい女神の姿を、闇は美しい女神の姿をそれぞれ写し取る。

 同じ外見、だが色合いの異なる鏡合わせのようにそっくりな容姿をした女神達は微笑んで、互いに明るい肌と暗い膚を重ね合わせた。光の女神の銀に輝く瞳が闇の女神の金に光る瞳と、視線が絡まり合う。

 それは肉体を伴わない交接だった。交わすのは身体ではなく、精神である。混ざり合うのは心だ。こうして闇は光を、光は闇をそれぞれに宿した。闇の中の光を陰中の陽、光の中の闇を陽中の陰という。

 このとき光は闇を知り、闇は光を知った。

 これが、この世の始まりである。

 

 ◆◆◆

 

 魔法にかけられたフェルデニウムと架音が座ったまま目を見開いた状態で気絶しているのを見て、魔法をかけた張本人である魔女「リコルダ・フィオーナ」は、くすくすといたずらっぽい笑みをこぼす。飲みさしのお茶が冷めてしまわないように保温の魔法をかけ、食べかけのケーキをフォークで切り分けてひと口頬張る。

 今、2人が見ているのは世界の記憶だ。この星が積み重ねてきた歴史のうち、リコルダ達魔女が引き継いできた最も重要なワンシーンだけを切り抜き、彼女らに見せている。

 世界のはじまり、命のはじまり、そして世界にもたらされた「夜明け」の瞬間。黎明から今の世へと続く軌跡のすべて。人の一生など瞬きのうちに過ぎてしまう魔女にとっても永すぎる時の流れだ。

 

 夏の盛りを迎えたこの地では、夜でもまだ空は明るく、昼日中のように日差しは眩しく熱い。じわじわと肌をなぶる暑熱にため息も吐きたくなる。

 氷できんきんに冷やした炭酸水を口に含み、リコルダはローブの内ポケットにしまったままの文庫本を開いた。この前わざわざ王都まで行って買ってきた、話題の人気作家による最新作である。魔女だって娯楽小説を楽しむ時代だった。

 

「どれ、しばし私は読書タイムを楽しむとしますか。まったく、この魔法を使うとしばらくお話できないのがもったいないんだよねぇ……残念だなぁ、せっかく訪ねてきてくれたお客さんなのに」

 

◆◆◆

 

 光の女神──白妃は告げた、光あれ、と。

 闇の女神──黒姫は呟いた、闇あれ、と。

 

 それは天地開闢の御業だ。

 世界の卵に空と大地が生まれ、やがて海ができ陸と別れ、海には魚が、陸には森や川がそれぞれ生まれ、世代を経て変化しながら更に増えていく。のちの科学によってさえ解き明かされることのない、真実の神話として天地開闢の御業はある。

 生き物は更に生まれ数を増やし社会をつくり世代を重ねて更に進化する。雛形として用意した箱庭(せかい)が少しずつ、枝葉が伸びていくように成長するのを見て、女神達は星のもとへ降りた。女神であることをやめ、更に世界を「次」へ進めるために。

 白き妃はその名を「ラヴァーナ」と。

 黒き姫はその名を「ミネルヴァ」と。

 それぞれに改め、原始の世界にあるひとつの超常をもたらした。すなわち世の理を変え操る力である「魔法」と、魔法を司る者として女神の化身たる「魔女」を。

 ラヴァーナは命じる。「魔女よ、人のために世のために魔法をとく修めよ」と。

 ミネルヴァは命じる。「魔女よ、人のために世のために魔法をとく治めよ」と。

 魔法が箱庭を良きものにするように、魔法が箱庭を壊さぬように。女神達は願い、託した。女神達が残した智恵と智識、そして星の記憶を今に受け継ぎながら、魔女は魔法と共にあり続ける。

 魔法は世界に夜明けをもたらした。

 人は本来知るべき変えられぬ世の理の変わりに、魔法による利便を知り、それによって生活を豊かにする法を学ぶ。

 魔法は治せぬはずの病を癒し、魔法は建てられぬはずの高層を築き、魔法は行けぬはずの場所へ移す。ゆえに魔法は万能といえた。魔法があれば、魔法さえ知れば、できぬことはない。ある意味においてそれは確かなる「真理」だった。

 

◆◆◆

 

「いらっしゃい……って、あら、リコ様ではないですか! ここへ来るのは3年2ヶ月17日ぶりですね! 今日はどんな本をお求めですか?」

 

 文庫本をあっという間に読み切ってしまったリコルダは暇を潰すため、魔女の谷にひとつだけある図書館へ訪れた。ここには娯楽小説はもちろんのこと、「外」では貴重な魔導書、雑誌に新聞に図鑑になんでも揃っている。本好きには夢の空間といえた。リコルダが地下の書庫に揃えている本達の写本も、この図書館の閉架書庫にある。

 火防と守護の結界を張った、窓がなく空調の効いた館内は暗く涼しい。

 天井に貼りつきそうなほど背高な書架にぎっしりと分厚い革張りの本達が納められ、それが等間隔に幾列も続く。本棚というより壁に近い。出入口にある貸出カウンターと中央のブラウジングスペースを除けばほとんどの空間が書架で埋められていた。

 気まぐれに開かれる魔女の図書館は既に閉館しており、館長はとっくに退勤していた。居残っているのは、本の魔女に師事する見習い魔女にして司書の「マイミー・ウィスタリア」だけである。

 名の通り藤色の髪を伸ばして緩く束ね、星空のような柄のローブをまとっている。そばかすの浮いた顔に厚いレンズの眼鏡をかけた柔和な雰囲気の少女は、一旦作業の手を止め挨拶する。対するリコルダも笑みを返し、親しげに応じた。

 

「ああ、マイミー、お久しぶり。あなた、また背が伸びたね。もう少しであの子……本の魔女も抜かしてしまうんじゃない?」

「本当ですか!? あたし、がんばって先生よりもおっきくなりたいんです! リコ様にそう言ってもらえるとやる気が出ますっ」

「大袈裟だなぁ、でもそうだね、私の言葉には魔力があるし……いつか本当になるかも」

「もちろん真実にしてみせます! そうだ、リコ様が気に召しそうな本が手に入ったんですよ。その名も『黒き姫宮の手記』と『ラヴァーナの日記』の2冊です。たまたま人の国で質に流れてきたのを先生が回収して……これから内容を確かめる作業をするそうですが、よかったら先にリコ様が見てみませんか?」

 

 どちらも創世神話に関わる女神を表す語句がタイトルに入っている。その手の偽書は今まで数多く出版され、その度に魔女達は中身の真偽を確かめてきたが、多くは人間が人間のために書いた娯楽目的の物語にすぎなかった。だが、もしもこの2冊が偽書などではなく「本物」だったら。魔女の存在意義が揺らぎかねない、かもしれなかった。

 

「……、興味深いね。マイミー、悪いけれどそれはあなたの師匠……『本の魔女』と共に内容をじっくり検分する必要がある。仮に本文が私の知る『真実(きおく)』と同じならば、『表』には置けないし出せない」

「え、これ、本物の疑いがあるのですか? あたし、てっきりまた人族が勝手に想像した神話の創作本だと思って……」

「その可能性は高いよ、でも万が一ってこともある。表題に直截的な名称を使うのならば特に、ね。油断はできない。だからきちんと精査しなくてはいけないの。大丈夫、ちゃんと偽書ならここに置いておけるよ」

「……そうであると願います。いち司書としては、これ以上本が封じられるのは……身を切られるのと同じくらい、辛いですから」

 

 2冊の本を大事そうに持ち帰り、とっくに自宅へ着いているであろう館長もとい「本の魔女」へ言伝を送る。彼女がメッセージに気付けば、深夜には家へ来るだろう。その時にじっくり話せばいい。

 作業に戻ったマイミーと別れ、リコルダは客人が待つ自邸へ帰りついた。既に記録の全容は再生し終わっていたのか魔法は解け、架音もフェルデニウムも気絶状態から回復している。

 彼女らにリビング兼客間へ入るよう言いつけ、さっさとテラス席の片付けを済ませる。といっても家事の大半は即席の使い魔にやらせればいいので、リコルダが直接しなくてはいけない仕事などほとんどないのだが。

 大人しく立って待っていた2人に腰掛けるよう勧めて、彼女はスライスしたレモンを添えた炭酸水を振る舞った。大事な話をするときは、頭が冴えるのでいつもこの飲み物をお供にしている。

 

「……訊きたいことが山ほどあるって顔をしているね。いいよ、答えられることなら何でも教えてあげる。私は魔女だもの、1番初めの魔法使いだから、ね」

 

 最初に口を開いたのはフェルデニウムだ。張り詰めた顔には先程よりも更に色濃い畏怖が刻まれている。

 

「では単刀直入にお尋ねします。あなた達『魔女』とは、何なのですか? 私達が今まで使ってきた『魔法』とは何なのですか。……今しがた見せられたあの『記憶』は、真実ほんとうのことなのですか……!?」

 

 予想される問いに対しリコルダは、怪しげに、優しげに、教えを乞う出来の悪い生徒にヒントを授ける教師の如く、

 

「魔法とはこの世の『本来の』法則に反する理を『世界の外』からむりやりに持ち込み、強引に運用する禁忌の技術。魔女はそれが真実の理を侵さぬよう見張る者。そして今見せたのは、ミネルヴァの使徒とラヴァーナの使徒がそれぞれ受け継いできた『秘密(きおく)』だよ」

 

 ──憐れみを込めて悲しげに笑いながら。

 

 

 この世界に存在する種族は人と魔物だけではない。獣の特徴を持つ一族もいれば、妖精や小人や巨人や亜人や他にも多種多様な種族が各地に生息し、日々の暮らしを営んでいる。ただし、いにしえの人魔大戦において魔族側についた種は人界を追われ、緩衝地帯である「最果て」の向こう──「魔界」へと姿を消した。ゆえに、今「世界」にいるのは人と人の仲間だけ、と言われていた。

 ただし何事にも例外はある。「魔女」は、その唯一の例外だった。

 

「架音ちゃんなら、もうそろそろ肌で感じ取っていると思うのだけど……この世界ってとても『いびつ』だと思わない? あるべきものがなくて、ないはずのものがある……異様でしょう?」

 

 稚い顔立ちに嫋やかな笑みを乗せ、リコルダは問うた。尋ねられた架音は肩をびくつかせつつ、こくりと小さく頷く。思い当たる部分はある、と言いたげに。

 

「異様というか歪というか……今まで見聞きした異世界が舞台の物語とは、なんだか違うなぁ、とは思ってました。でも、あれはただの虚構の話だし、そういうものなんだろうと気に留めていなかったです」

 

 架音の言葉にフェルデニウムも首肯し補足する。

 

「違和感はなんとなくありました。文明の進み方がおかしいのでは、と。列車はあって車がなかったりだとか、何百年も保つ大きなビルさえあるのに、生活様式は近世のままだとか……でも魔法がある世界だから、と今まで自分を納得させていました」

 

 にいぃ、とリコルダは笑みを深め、2人が覚えた違和感の正体について軽やかに明かす。

 

「そうでしょうそうでしょう、ここはね、歪で不可解な『箱庭(せかい)』なの。作られた世界だから、誰かがシミュレーションを間違えればそれだけ歪みが生まれるし、しわ寄せは住民に跳ね返る。ろくなものではないよねぇ? 全ては神々の企み、全ては魔女の(はかりごと)。そうなるように仕組んだのは、もっとずっと『上』のものども」

 

 そう、まるで「ゲーム」のような、物語の舞台のような──と、彼女は付け加える。

 

「初めに、これから世界になっていく『たまご』のようなものがあった。そこへ光の化身たる白い女神と、闇の化身たる黒い女神が現れて世界を世界たらんとした。これが世に伝わる創世神話であり、実際の出来事である。そして世界の理は本来、架音ちゃんの世界の法則が元になる『はずだった』。そうならなかったのは、2柱の女神が拒み、新たな理を創造し、その維持と管理を自身の現身(うつしみ)である魔女(われわれ)に望んだから。魔法はね、捏造された世の理を扱う術なの。ゆえに、魔法使いとは捏造の理を扱う『穢れた』者なんだよ」

 

 なぜ、創世の女神達は本来この世界に適用されるべき法則を拒否したのか。それは魔女がいたからだ、と魔女は語る。

 

「基盤となる世界ができて、そこへ自然や生き物が生まれ、育まれ、発展し、やがて知性ある生き物へと進化し──そこでようやく女神達は自分らの現身を作った。ラヴァーナとミネルヴァ、2人の『最初』の魔女を。いえ、あの頃はまだ魔女などとは呼ばれていなかったけれど。女神達は自身の現身たる2人が、やがて世界を導き守るものになると予見した」

 

 神は『(かみ)』だ。過去も未来も現在も、その世の全てを支配し掌握している。いずれ世界がどうなるか、その先を見通すなど欠伸が出るほど簡単だった。

 しかしここで、ある問題が浮上する。神でさえどうしようもない「壁」が立ちはだかっていた。

 

「だがそうであるためには力がいる、絶対的で圧倒的な『力』が。女神達は彼女らに力を与えることにし、そこで世の理の存在に気付いたの。理は世界と共にあるもの、神が手前勝手に生み出せるものではない。理は現身に力をもたらすことを許さない。けれど神は理に抗った、抗うことにした。理をねじ曲げたの。そして魔女に力を与え、魔女は魔法を編み出した。捏造された理を使う、まさに『魔』の法を」

 

 太陽は西から昇らない。月はいつまでも円のままではない。だったら星の向きを変えてしまえばいい。そうすれば、見かけは西からの日の出や円のままの月も成り立つ。

 女神とその現身たる魔女の行いとは、まさにそういうものだった。そしてこの世界には本当の理と偽物の理、2つの法則が並行して存在し、歪で異様な世界となった。

 

「文字通り、『世界を変えた』2人の魔女ミネルヴァとラヴァーナは、置き土産としてあるものを託した。現身の更なる現身とでもいうべきものを。それが私であり、そして『ローズマリー』と名乗るもの」

 

 にこやかに朗らかに晴れやかに、明るい笑顔をキープしながらリコルダは、とんでもない爆弾を解き放つ。異邦人である架音とフェルデニウムには本来、決して知らせるべきではない事実を。

 

「女神は落胤たる2人の魔女を産み、そして魔女は後継としてさらに2人の使徒を生む。片方は智恵の魔女サトゥルヌスと名乗り、もう片方は拝火の魔女グノーシスと。やがて時を経てサトゥルヌスはローズマリーと名を変えて世に溶け込み、グノーシスもまた名を変え、最果てに魔女の寄る辺を作った。──次が必要なの、私達には」

 

 困惑する2人に対し、かつてグノーシスと呼ばれた魔女リコルダは、ある選択(みち)を突きつける。

 

「ねぇ、私の『次』にならない? きっとマリーの弟子は『次のマリー』になる。私もまた『次』へ託さなくてはならない、刻限は近い。だからお願い、あなた達の2人か、もしくは片方に『次の私』になってほしいの。偽りの理を保つために」

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 軍国アーデルハイト首都「クリムシー」某所

 

 

 トンネルを抜けるとそこは雪国……ではなく、ローズマリーが目を覚ますと何かの実験室のような空間が広がっていた。薄暗がりに、フラスコや薬瓶が整然と並ぶ扉つきの大棚が据え付けられ、キャビネットや作業台にも試験管や実験器具の類が無造作に置かれている。

 彼女にはこうした光景に見覚えがあった。王宮典薬師時代、勤め先である王国魔導研究所にはこのような部屋がいくつもあったからだ。だが帰国の手続きはおろか、王都は封鎖されている状況なのに研究所へ飛ばされたとも思えない。それに先程の魔法「らしきもの」も気にかかる。なにより、

 

「セージ! どこにいるの、返事しなさい! 私の声、聞こえてる!?」

 

 室内には内外へ出入りできそうなものがない。扉も窓もなく、天井に備え付けられた空調設備が停止すれば空気の供給も止まるだろう。魔法で身体を縮めて排気口から脱出する手もあるが、さてどうすべきかと彼女は検討しようとして──ふと、思考を止めた。

 

「……いるんでしょう。隠れても無駄よ、さぁ……おいで。出てこい」

 

 ふっと眼前の空気が揺らぐ。目に見えない透明の幕が靡いているかの如く。

 

「はは、バレていましたか。やはりあなたは手に負えない……1ミリたりとも油断も安心もできないですなぁ。これだから、欲しくなってしまうんですよねェ……」

 

 黒一色に統一されたダークスーツにモノクルをかけた、東の民の特徴を持つ男が気配も音もなく現れる。まるで、初めからここでずっと待ち構えていたかのように。

 

「あなた、ずっと視ていたでしょう。この世界へ降り立ったときから、私とリコルダのことを。そうね、目の付け所は悪くないわ。私もリコも旧い魔女だもの、その真髄は頭と心と体に叩き込まれてる。こちらの魔法を学ぼうとするなら、確かに最も頼りになるでしょう。だからといって覗き見なんて、マナー違反にも程があるけれど」

「その節は、はは……申し訳ない。直接訪ねるのも気が引けてしまいましてね。だってほら、もうその時には既にあなたは後継と共にありましたし、あちらの方は神域に篭っていたじゃないですか。さすがにあの秘境へ向かうのは、いくら私でも骨が折れるんですよ。なにせ、いい歳なもので」

「その割にはまだまだ元気そうだけど。とんだ年寄りがいたものね、だいたい実年齢でいったら私の方が年上じゃない、慇懃無礼も大概にしなさい」

「ンッフッフッフッ……これもまた、サラリーマン時代に培った『あちら側での礼儀』ってやつですよ」

「冗談にしても笑えないわね。さっさとその『あちら側』とやらへ帰郷すればいいわ。そして2度とこちらの世界へ来るな」

「厭ですよ。私は『こちら』でこそやりたいことがあるんですから!」

 

 皺の刻まれた面差しに狂気的な笑みが浮かぶ。もはや、それは「人間」の表情とはとても思えなかった。悪魔のような、怪物のような、獣のような、──神のような。人に似た人以外のなにか、ローズマリーの瞳にはそう映る。

 

「そう。どうあっても、『ママ達』の作ったものを壊すのね。壊して、毀して、だけどその破壊に意味も理由もない。だったら、やっぱり……あなたは私の『敵』だわ」

「そうですか。私、あなたとは仲良くなれそうな気がしていたんですけどねえ……敵認定、されてしまいましたか。残念です。非常に残念でなりませんよ。ええ、まったく。悲しくてたまらないです。こんなに美しく可憐な方を『殺さなくてはならない』なんて」

 

 憐憫を込めて嘲笑する男に、ローズマリーは冷えきった視線を飛ばす。もう何も言うまい、とでもいうかのように。移動の衝撃でズレた帽子のつばを定位置に直し、甘い声でかの名を喚んだ。

 

「私の元へ、さぁ──おいで(Veni)

 

 

 ゆるゆると意識が覚醒する。霧が晴れたみたいに五感はすっきりと明瞭で、目覚めてすぐに朝日に照らされたときと同じくらい、なんだか今は気分がいい。爽快だった。あぁこな胸がすくような気持ちになるのは、初めてのことじゃないなと彼は気付く。忘れもしない、最初の「転化」が自身にある変化をもたらした。それは、

 

「あぁ、たのしいな……サイコーだ……たまには戦うのも悪くない、……ねぇ?」

 

 両手を鮮やかな赤に染め、うっそりと笑う。視界に映る極上のエモノを見つめて。

 

 

 

 

 

 おいで、と腰にくる甘い囁きに導かれ、1匹の猫は敬愛する主人の元へと馳せ参じる。

 にっくき馬鹿弟子(セージ)と共にいずこかへ消え去ってしまったときはさすがに焦りを禁じ得なかったが、なんのことはない、この世における至高の魔女たるローズマリーは当然ながら無事そのものだった。今も元気に正体不明の男とやり合っている。精鋭である王国魔導兵でさえ大隊程度の規模でなければ運用できないほどの大魔法を贅沢にも乱発し放題だ。

 本来ならば広大な実験室は壁も床も天井もズタズタのボロボロになってなければおかしいくらいだが、特殊な内装なのかそれとも魔法か何かで防護しているのか、ローズマリーがどれほど強い魔法をバカスカ打ちまくってもビクともしない。それをいいことに、彼女は人間なら30回くらい死んでいてもおかしくないレベルの高威力攻撃魔法を間髪入れず発動させ続けている。

 ドカンバキン、などという甘ちょろい擬音ですらない、凄まじい轟音が耳を劈く。本気の殺し合いが行われていた。それだけ相対する敵が油断ならない強者であるという証左であり、また大戦時代の主人を知るタイムの目には懐かしいものとして映った。戦争が終わってからの彼女は、人が変わったかようにいつも穏やかで温厚な様子だったから。

 

「我が君! 助太刀いたしますっ」

「バカタイム、おっそい! あいつが気がかりだから、早く様子を見てきて。可能ならこの空間を突破して早く逃げるのよ! あの子を少しでも安全な場所へ、運べ!」

「えっ……何をいうのですか! あんな小僧などどうでもいい、俺は我が君のために仕えているのです! ……見捨てればよいではありませんか! どうせ、どうせ……っ」

 

 ごっちん、と身体強化の魔法で膂力が底上げされた拳が振るわれ、タイムは横っ面をぶん殴られた。ころんころんと床の上を勢いよくローリングし、壁にぶつかってようやく止まる。目を回す使い魔の尻尾を踏んづけながら大魔王のごとき威圧感を醸し出し、ローズマリーは宣告する。

 

「あるじの命令が聞けないっての……? そう、なら契約を解消してもいいのよ、めでたくあなたは元の邪神へ戻り、二度とこの世に関われなくなる。かつての主である私に会うこともできず……。嫌でしょう? 嫌よねぇ? なら、馬車馬の如く働きなさい。つべこべ言わず言うこと聞け。否と応えるならば、次は──容赦しない」

 

 本気の憤怒だった。さっきまでは敵にのみぶつけられていた怒りがまっすぐにタイムへ叩きつけられる。タイムは、ローズマリーの瞳が爛々とエメラルドに輝いているのに気付き、命令に背けばすぐさま「()し」にかかるだろうと予想できてしまった。

 魔法を使うとき魔女の目は輝く。形容や喩えではなく物理的に光るのだ。そして今、ローズマリーは敵そっちのけで発動させる魔法を待機状態にさせたままタイムを見ている。

 

「ヒェ……ッ、わ、分かりました! イエス! はい! OKです!! 否じゃありません!! すぐに行ってきます!」

「そう。分かればいいのよ、分かれば。さ、行ってらっしゃい。……万が一、ひとりで戻ってくるようなことあらば……分かっているわよね?」

 

 さらなる脅しをかけられ、完全に屈服されたタイムは泣きべそをかきながらするりと姿を消した。出入口がなくとも彼にはなんら関係ない。肉の器を持たない使い魔にとってはどこもかしこも「扉」になる。タイムは自分と馴染みある気配を辿り、それほど時間もかからずセージの元へ着くだろう。だから心配は要らなかった。

 優先すべきは目の前の「人間」だ。

 

「……邪魔が入って悪かったわね、ごめんなさい。では続きと参りましょうか」

「いえいえ、お気遣いなく。それよりも少し疲れた、老体には魔法合戦がしんどくてですね……。休憩しましょう、ちょっと私と話をしませんか?」

「はァ? 人のこと突然拉致っておいて、よくもまぁ自分の話を聞いてもらえると思えるわね。随分とまぁおめでたい頭をしていて何よりだわ。……お断りよ、あなたと話すことなんか何もない!」

「なるほど。確かに私は無礼なことをしました。その件については謝罪いたしましょう。ですが、私の話はあなたにとっては、決して無駄にも無意味にもならないかと。それどころか、むしろ『オトク』だと思うんですよねぇ……」

 

 他ならぬセージ君のことですよ、とおまけのように最後に添えられ、ローズマリーは目を見開いた。淡い燐光を纏っていた両の瞳が常の常磐色へ戻る。彼女が魔法発動時の予備動作をキャンセルしたと悟り、男はずっと湛えていた笑みを更に深める。

 

「ねェ、私と取引をしませんか? あなたに私は技術を提供します。彼……あなたの『次代』となる少年を元に戻す可能性のある、唯一かもしれない方法を伝授しましょう。その代わり、あなたに『同志(なかま)』になっていただきたい。この世を革変するために。──否、新しい世界を創るために」

 

 

◆◆◆

 

 

「まったく……なんで俺がどうでもいいクソ野郎なんぞを助けねばならんのだ……死ぬなら勝手に死ね、ゴミカスが……しかし、見捨てれば今度こそ我が君は俺を排除なさるだろう……それはイヤだ……ちぇっ、あいつさえ居なきゃ、俺はまだまだローズマリーを独り占めできたのにぃ!」

 

 ぶつぶつと恨み言を吐き、タイムは等間隔に蛍光灯が設置された薄暗い廊下をとぼとぼ歩いていた。この建物はおそろしく広大で、廊下の幅も馬車が通れるくらい広い。現在はまだ白熱灯が主流なのに蛍光灯があるところからして、シュバルツベルンとは文明の進みが1段階も2段階も違うと分かる。

 どうやら現在地は地下なのか少し空気はジメっとしているものの、空調が効いているので室温は快適だしかび臭いということもなかった。ただ、窓がなく灯りの間隔もかなり開いているので全体的に暗い。タイムは猫なので夜目が利くから移動に支障はないが、人間はちょっと辛いだろう。ちりんちりんと四足を飾る鈴を鳴らしつつ歩くうち、あっという間に目的の場所へ到着した。

 

「セージー? 馬鹿弟子ー? おら、迎えに来てやったぞ、返事しろー。じゃないと置いて帰っちゃうぞー……おい、いるんだろ?」

 

 廊下の突き当たりにあった巨大な扉に「中央ラボ・第2検査室」という札がかかっており、使い魔の勘がここにセージはいると教えてくれる。前足で半開きのドアをちょっと押して中へ入り、彼はぎょっと目を瞠った。

 ローズマリーが敵と戦っていた実験室の数倍は広い。広いというものじゃないくらい広い。王国魔導研究所にだってここまで巨大な空間は果たしてあっただろうか。やはり窓はなく、床と壁は打ちっぱなしのコンクリート製だ。壁紙のひとつも貼ればいいのにとつい思ってしまう。

 そこに、並んでいた。なみなみと何かの液体で満たされ、オグル化現象によって鬼化したと思われる生命体がしまわれた培養器が。ひとつ、ふたつ、みっつ……部屋全体を覆い尽くしてしまうように、いくつもいくつも。

 そして、最前列の中央に。

 彼は居た。他のオグルと同様に、培養器の中に収められた状態で。いつもギャンギャンうるさい口は真一文字に引き結ばれ、口ほどにものを言う眼は固く閉ざされたまま。溶液にゆらゆらと金髪がなびき、天井に設置されたライトが淡く照らす。

 

「セー……、ジ……? おまえ、こんなところで何を、なんで、こんなことに……?」

 

 自身が今見ているものが信じられない、といった様子で呟くタイム。そこへ、足音も気配も何もなく「だれか」が現れる。あまりにも唐突で彼は一瞬、反応が遅れた。

 

「ステキでしょ? キレイでしょ? おぞましくて、でも、とってもカワイイでしょ? これ、ぜーんぶ『あのお方』のコレクションなんだよ。運命が動いた日から、ずぅっとコツコツ集め続けてるんですって。ぼくもね、ちょこっとだけだけど……お手伝いしてるんだぁ。分けてあげよっか。あのお方は気前がいいから、たぶん許してくれるよ」

 

 にこにこ、と「彼」は笑っている。確かにその顔は笑みに似た表情を形作っているようにみえる。だが、タイムはそれを「笑顔」と認識したくなかった。それより遥かに尊く愛おしい「本当の笑顔」を知るがゆえに。

 醜悪な笑みを貼り付けたまま、少年の姿をした「それ」は身を包むボロ布の前をくつろげる。裏地にびっしりと縫いつけられているのは、どれも一目で業物と分かる肉厚の刃物達だ。電灯の光を跳ね返し、鈍く光るそれらを見遣り、タイムは被った猫を剥いで深いため息を吐く。

 

「……はぁ、クソガキを迎えに来ただけだというのに。なんだってこんな面倒くさい事案に巻き込まれなくてはならんのだ? あぁ、まったく……戦うのとかダルいから嫌いなのに。──……やれやれ」

 

 

 女神の使徒から「次」を託され、はじめてこの目で世界を見たときの感動を今も、余すことなく覚えている。鮮明に、鮮烈に、昨日のことのようにはっきりと。サファイアよりも明るく輝く蒼い星は綺麗だった。何にも喩えがたく、何とも比べがたいほどに。あぁ、この星と共に在れるのはなんたる僥倖だろうと。

 ──だから己は数多の命の咲き誇る、いとおしい世界を護ると決めたのだ。この身、この命に代えても。

 

 

 

 

 

「誰が、誰と、手を組むですって……? ほざくのもそれまでにせよ、人間。お前の言は許容範囲を越えている。これ以上の越境は認めない。次は──……奪う」

 

 部屋の中には相対すべき敵の他には誰もいない。大事な使い魔も愛しい弟子も、今は違う場所にいる。ならば、もう手加減する必要も我慢する理由もなかった。戦いの間に乱れてしまった帽子のつばの位置を直し、手元に「杖」を出現させる。

 

「ほう。『魔女の杖』ですか。本物は初めて目にしました。あなたのそれは素晴らしく精緻でありながら、華麗である……欲しくなってきました」

 

 男は感嘆のため息をもらし、義眼でもって食い入るように見つめている。偽物の目に浮かぶぎらついた光にローズマリーは眉根を寄せた。

 

「清貧という言葉をいい加減に学んでみたらどう? この業突く張りが、物欲しそうな目で私の杖を見るんじゃないわよ」

 

 魔法使いが用いる杖は発振器だ。龍脈と繋がり魂が無尽蔵にプールされる、世界の外側にあるエネルギー界と接続し魔法を発動させるための動力源を供給するための。そして扱う魔法が複雑で作動させるのに手間がかかる場合、術式を記録し、本来しなければならない発動に必要な儀式を省略(カット)させるのにも使われる。

 対して、そうした煩雑な手続きとは無縁の立場にある魔女が杖を使うのは、それら魔法使いとは別の使用目的があるからだ。いわば奥の手、切り札、必殺技……とでもいうべきものに、魔女の杖は該当する。

 彼女の瞳と同じ色のエメラルド、セージの瞳とよく似た色のペリドット、他にもクリソベリルやフォスフォフィライトなど数多の宝石が散りばめられ嵌め込まれた杖は、石突に鋼を使っている以外は全て木で出来ている。トップは五芒星に絡まる蛇の意匠。いかにも「魔女」が持つに似合いの杖だ。

 

「で? それでこの私が倒せると? なるほど、確かに魔女の杖は基本的に使用の許されぬ禁じられた武器だ。黒姫の化身『ミネルヴァ』の使徒たるあなたが扱うのであれば、その杖の威力は……そうですな、『✕✕✕』に匹敵するでしょう。私が徒人であれば、木っ端微塵でしょうなぁ。遺体すら残らないでしょうね。……しかし、一国の軍を預かる者がまさか何も持っていないとは、あなたも思っていないでしょう?」

 

 泥濘を煮詰めて腐敗液に溶かしたような色の瞳がモノクル越しにローズマリーを睨めつける。ローズマリーはちっ、と童顔に不似合いな舌打ちのあと、渋々といった体で杖を描き消した。

 

「……手短に要件を述べなさい。あなたは私に何を望むの。人間が魔女を頼るというなら、では、一体あなたは私に何をさせようというつもり?」

 

 実験室の片隅に重ねられていた三脚椅子を魔法で手元に呼び寄せ、ローズマリーはどかりとマナーもへったくれもない様子で腰を下ろす。とりあえずは話を聞こうとしているようにみえる彼女に、男は深々と一礼して自らもまた同じく、いつでも立ち上がれるよう椅子に浅く腰掛けた。

 

「なに、簡単な話ですとも。(ひず)みを整えたいのです。(いびつ)で異様なこの世界のひずみを正し、愛しい祖国と同じ素晴らしい世を取り戻したい。私が願っているのは、いつだってそれだけですよ」

 

 慇懃な口調のまま、男は理想に燃える青年のように青臭い言葉を紡ぎ出す。魔女は片眉を跳ね上げかけたが、すぐさま平静に立ち戻った。代わりに深く嘆息する。

 

「……確か、あなたが『こちら』へ来たのは『2019年』だったかしら。座標は……『エヌの骸』で、『ここ』とは非常に近い位置にある。列順はほぼ同数、行順は異なる、が」

「ンッフッフッフッ……、よくご存知で。どなたから私について訊いたんですか?」

「別に。世界を管理するのは『(かみ)』の仕事。私とあの子は大事な情報を時々共有させてもらえるに過ぎない。『上』は忙しいの、『中』である私達にいつでも構ってあげられるわけじゃない」

「ほほぉ、つまりあの方々にとって私の来訪は、共有しなければならない重要な情報というわけですか。なるほど、良いことを聞きました」

 

 にっこりと嬉しそうに笑う様だけを切り取ってみれば、最初のうちは好々爺に見えなくもないだろう。その眼の奥に潜む悪意にさえ気付かなければ。だが、身に染み付いている気配と同化した嫌悪や憎悪を見逃すほど、ローズマリーは耄碌していない。

 

「しかし、ちょっとばかり情報が古い。私は確かに『2019年のエヌの骸』から来ましたが、間にひとつ別な世界を挟んでいる。そちらはここから非常に遠いゆえ、おそらく『上』も詳細は知り得ぬことでしょう。滞在した経験がある私でもさして詳しくは知らない。とにかく、えぇと……とりあえず『A』と仮称しますか。その『A』で私は一生を終え、元の世界に帰還せずこちらへ『来た』のです」

「あぁ、そう。どうでもいいわ、お前の生い立ちなんか。それより言ったでしょう、手短にせよと。早く本題に入りなさい」

「おや、つれませませんな。ナンパは失敗ですか。せっかく仲良くなれるチャンスと思いましたのに」

「お前なんかと利害関係の一致によるとしても『仲良く』だなんて……反吐が出るわね」

 

 世界はひとつだけではない。違う次元に樹形図の異なる世界が無数に折り重なるようにして存在し、それらは「並行世界(パラレルワールド)」と呼ばわれる。

 男はそれらへのアクセスを「命を損なう」ことにより可能とした。己の生命を代償にした結果、各異界へ行き来できるようになった男がたどり着いたのがこの世界──「1933年・エムの屍」である。

 年数は西暦を基準とした概算であり、各世界に振られた管理番号(シリアルナンバー)を「エヌの骸」や「エムの屍」という。当然、他にも別な管理番号を与えられた他の世界があり、男が生まれ故郷の世界とこの世界に来るまでの間に過ごした世界にも、別な名前があった。とはいえ彼は魔女に明かすつもりがないので『A』と仮称したのだが。

 

「話を戻しましょう。私があなたに望むのは先程も申しました通り、この世界に置ける歪みを本来あるべきものに矯正すること。つまりは『魔法』の終焉です。そのためには、あなたの『次代』と成り得る『彼』が要る。だから、まぁ、そうですね……有り体に言ってこう言い換えましょう。『息子さんを嫁にください』……なんてね」

 

 男は思う。この世は(ゆが)んでいる、と。どうしようもないところまで、もはや世界そのものを狂わせかねないほどに。

 予想として、この世界の住民は限られた者を除き世界の歪みに気付いていない。捏造された理によって動かされる魔法をただの便利グッズ程度にしか考えていないはずだ。それも致し方ないとは理解できる。誰も教えてあげなかったのだ、このままではいずれ世界そのものが瓦解しかねないほど「歪み」は酷くなってしまったと。

 だが、いくら理解はできているとしても、既に許容の範囲は越えている。かつて、自分なりの「正義」に生きた男には到底無視できない問題だった。なぜなら男は「正義そのもの」であり「正義の体現者」であり「正義の味方」だったから。

 ならば正せばいい。ならば直せばいい。

 壊れたなら修理を。どうしようもなく壊れしてまったなら、いっそ「再生」を。魔法の終焉でさえ歪みが正せないんだったら、新しく世界を作り替えてしまえばいい。

 男はそこに新たな「正義」を見出した。

 モノクルの向こうに光る義眼はいつも熱っぽく輝き、泥にまみれた傷だらけの「正義」を映す。そこにひと握りの殺気を込めて。

 

「ミネルヴァの魔女よ。互いの手を取りましょう? あなたの使命に意味はない。あなたの苦しみ悲しみ痛みつらみを愛する者に背負わせるわけにはいかない、でしょう? 魔法がなければ世界の歪みは正される。捏造された理を守護し維持し管理する必要なんかどこにもない。この世界に──魔法は要らない」

 

 しかし流暢かつなめらかな詭弁をローズマリーは鮮やかに蹴っ飛ばす。そんな言葉(もの)に耳を貸すつもりはない、というように。

 

「はんっ、何を言い出すかと思えば、結局は子どもの言い分ね! 世界が悪い、魔法が悪い、責任を全て他に押し付けて、挙句の果てには自己弁護! ガキの物言いなんざ身をもって知ってるのよ、こっちにも子どもがいるものでね!」

 

 あくまで表面上の感情を揺らがすことなく静かに魔女を睨み続けている男へ、ローズマリーは高らかにのたまう。

 

「言わせてもらうわ、魔法によって押し潰されるほどこの世界は脆くなんかない。魔法が魔法として機能し、幾多の生命が幸福と安寧を得られるようにと祈って、『上』は偽りの理を組み上げた。そこに何の意図もない、あるのは生まれたものへの言祝ぎだけよ。それも理解し得ないのなら、交渉の余地なんかないわ。あなたに倣って私もお決まりの台詞で締めることにしましょう。──『実家に帰らせてもらいます』っ!!」

 

 

「『あのお方』はねぇ、すっごーいひとなんだよ。ぼくのこともちゃんと使いこなしてくれるんだ。仕事をくれて、お家もくれて、ごはんも食べさせてくれる。だから、ぼく、あの人のためならなんだってできるんだ。ねぇ、きみもそうでしょ? あの女の子のためなら、なんだってできるしなんだってするつもりなんだよねぇ? それならぼくら、仲間(トモダチ)になれるね!」

 

 きゃらきゃらと無邪気に子供は笑う。すべらかな少年の瑞々しい肢体を備え、大量の刃物を縫い付けたボロ布をまとい、あどけない顔に狂気を湛えて。

 薄暗い実験室の中でもぼんやりと淡く光る髪は白銀、瞳は血の色に輝き、吹き出物ひとつない肌は褐色。そのような色彩を持つ生き物はこの世にたったひとつしかいない。オグル、そう名付けられた呪詛転変による産物。

 

「……その見た目。お前、その身にオグルの血を取り入れたか。完璧に気配を絶てる技術からして殺しが生業であり、しかも『ただの』雇われではないな」

 

 愛らしい猫の外見からは似つかわしくない冷静さと明晰さでもってタイムは推測を口にする。1番目立つ位置にあるセージの収まった培養器をさりげなく背に庇い、彼は臨戦態勢をとった。相手もそんなタイムの動きに気付いているようだが、瑣末なことと判じたのかいちいち指摘はしない。

 

「すごい! すごいすごい! きみ、猫ちゃんなのにすごいねー! 猫の使い魔さんってあんまり頭良くないイメージだったけど、見直しちゃった。ぼくも猫ちゃんほしいなぁ、あの人におねだりしたらくれるかな?」

「馬鹿にしているのか?」

「まっさか。そんなことしないよー! 人を馬鹿にしたり貶したり罵ったり嘲ったりしちゃダメだよって、あの人が言うから……そんなことしないもん。ぼく、えらいでしょ?」

「だが人は殺すのだろう。ならば『偉い』とは言えんな」

「ぼく偉くないの……? ひどいな、きみもそんなこと言うんだ。かなしいな、つらいな、くるしいな……なら、殺しちゃおうか。その実験体だって、どうせ死ぬんだ。だったら、ぼくが殺しちゃっても、いいよね……」

 

 平静を装いながらタイムは歯噛みした。何が地雷になったのかわからないが、自分は何かとんでもないスイッチを押し込んでしまったらしい。

 それまではギリギリ会話が成り立ちそうにみえた少年は、もう理性も知性もどこかへ落っことしてしまったような顔つきになっている。その「いかれた」表情は、もはや人というより鬼そのもの。くすくす、と不気味な哄笑をもらし、子供は──動いた。

 

 きぃん、と澄んだ剣戟の音が鳴る。

 

 電灯に照らされ煌めくしろがねの刃が神速ともいうべき速さで振りかぶられ、培養器の硝子を砕く寸前でタイムは自前の爪で弾いた。まさに紙一重のタイミングであり、もう少し反応が遅れていれば培養器はひとたまりもなく粉々にされていただろう。

 

「あははっ、すごーい、すごいねぇ、きみ! 鬼化したぼくの速さに着いてこられる人、あのお方以外にいなかったのに! ……きみさ、ただの使い魔じゃないでしょ? ホントの姿はなんなんだい? ねぇ教えてよ……教えろよぉ、……ぼくに、教えろ!」

「はっ、だぁれがお前のようなケツの青いガキに俺のクールビューティな本性を明かさなくてはならんのだ? ナマ言うのも大概にしとくんだな、人間!」

「もう、ぼく、『ニンゲン』じゃないよ……今度は、間違えないでね?」

 

 ゆらゆらと不安定に上体を揺らめかせ、少年は呪文を唱える。それにタイムは聞き覚えがあった。軍国(アーデルハイト)ではなく王国(シュバルツベルン)方式の全兵共通攻撃魔法「屍山血河」──その扱い方や運用方法は国防の要たる王国魔導兵のみ把握しており、他国の人間が易々と知られるものではない。当然だ、機密なのだから。

 虚ろな、虚無感でいっぱいの顔にもはや人間味はなく、既に子供は殺戮だけを目的に作動するマシーンと化している。

 

「初期訓練課程で徴用兵が学ぶ、ただの初心者向け攻撃魔法がお前の『本命』という訳か。言っておくが、王国(ウチ)の兵士なら誰でも扱えるしそれ以上に強力な魔法なんていくつでも使えるぞ。……お前、才能がないんだな」

「うるさい……うるさい……うるさい……うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい、うるっさぁぁぁい! 黙れ、喋るな、害獣が、この毛むくじゃらめ! お前に何が分かる、なんにも知らないくせに、知ったような口を利くな!!」

 

 屍山血河に指向性を持たせてピンポイントで狙うような芸当はできない。あれは個人支援火器のようなもので使い手が自分の身を守る際、一対多の状況を想定して開発された魔法だからだ。全方位型の攻撃ならば室内にある全ての培養器が攻撃対象になる。

 タイムの小さな身体で守り抜くのは言うまでもく不可能だ。だから発動するより前に行動に移る必要があった。

 

「……はぁ。いい加減、いつまでも道化を演じているわけにもいかんか。お前みたいな物の道理もまともに知らぬ小童に本気を出すのも気が引ける、だから『数千分の一』で勘弁してやろうな。感謝せよ、人間」

 

 猫の姿を象った、その「何か」は切迫した状況にも関わらず、穏やかに静かに和やかに柔らかに笑う。

 その笑みのかたちをきっと「『かみさま』みたいな笑顔」と人は言うだろう。

 

「──時間よ戻れ。この者のさだめをあるべきものに」

 

 呪文ではない。ゆえにこの句は詠唱ではない。上位の存在による、自らが従わせられるものに対しての「命令」だった。

 時は戻る。全ての時間ではなく、あくまでこの少年が過ごしてきたある「過去」だけがなかったことになり、さだめの変わる分岐点まで。

 研がれた刃のような色の髪はミルクティのように柔らかな茶色へ、肌は明るい白へと、ボロ布の代わりに身を包むのは王国兵へ支給される紺青の軍服、大量の刃物は跡形もなく消え失せるが、腰に一振りの直剣を佩く。背はいくらか低くなり体格もやや華奢ではあるが、彼は一介の少年兵に間違いなかった。

 閉じられたままだった血潮のごとき瞳がゆるゆると見開かれる。もうその目は不吉な赤ではなく、甘くとろけるチョコレートのように深いブラウンをしている。

 

「……僕、どうして……こんなところに……? あなたは……誰ですか……?」

 

 高らかな声は変声期前の少年のもの。幼い容姿からして徴用されたばかりだったのだろう、だから魔法も新兵が最初に習う「屍山血河」しか知らない、使えなかったのだ。それでも殺しを生業とできる程には、才能があったのだろう──「共喰い(ひとごろし)」の。

 哀れだった。幼い時分からこのようなさだめを課せられて生きていく人間のことが。だからせめてもの言祝ぎにと、タイムは祈る。

 

「安らかに。ただ今は、己が犯した罪の名をひととき忘れ。あるべきところで、あるべきものとして──眠れ、人の子よ」

 

 きょとんとした面持ちで、だが先程よりもずっと生気に満ちた顔つきをした少年に微笑みかける。何がなんだかわからないといった様子の彼はしかし再び目を閉じことんと眠りについてしまう。やがて空気に溶けるようにその姿は透けていき、ついに掻き消える。

 いずれあるべきところ……故郷の地で彼は自意識を取り戻し、時が経てば奥底に沈めた記憶も息を吹き返すだろう。人を殺めた惨い記憶とどのように向き合い、何を選ぶのかはあの少年次第だ。これより先にタイムが関わる余地はない。選択肢はいつだって、さだめに立ち向かう者にだけある。

 

「……さて。次は、こちらかな? まったくガキ共め、大人の手をいちいち煩わせやがって。覚悟しとれよ、あとでさんざんにこき使ってやるからな」

 

 わざわざ普段あまり使わない「力」まで解放して守ったというのに、培養器はとっくに割れていた。あの子供の魔法は発動前にキャンセルされたのだから屍山血河が原因ではない。ではなぜ破壊されたのか。

 床の上に吹きこぼれた透明な液体が蒸発し、もくもくと煙と化していく。淡い闇の中でライトの光を受け、ゆらゆらと立ちのぼる様は見ようによっては美しい。それを掻き分けるようにしてぴちゃり、ぴちゃりという足音と共に「それ」はこちらへ向かってくる。

 

 額を裂いて伸びる一対の角。

 腰のあたりから生えた尾。

 背に広がる巨大な革の翼。

 両手の指先を覆う鋭い爪。

 白髪、赤眼に浅黒い肌。

 

 ──あぁ、それは。「魔女(かのじょ)」が命を賭して封じ込めたはずのその姿は。

 

「ぐるる……ぐじゅ、ぐじゅる……グルルゥ……」

 

 もはや「人」の声ではない。遠吠えのような、嘶きのような、それはもう「声」ですらない、ただの「音」でしかない。

 

 セージが服用した薬の効果が切れるのはまだ当分先のはずだ。改良した解毒薬は1粒飲むだけでかなり長期間に渡りオグル化を抑え込んでおけるのだから。ではなぜこのタイミングで薬効が切れたのか。

 

「セージ……。お前、可哀想に。こんなにも運命をねじ曲げられて、それでも抗おうとするんだな。たったひとつの幸福に縋って、それでも懸命に生きようと足掻き、藻掻き、苦しみ、嘆き──今まだ、本能に耐えようとするなんて。殺したかろう、食いたかろう、けれど食べてはならぬ殺してはならぬと、自制するのは辛かろう。その勇気と矜恃に俺は敬意を表そう。解き放ってやる。しばし待て、だからどうか、……死んでくれるなよ」

 

 自分が主人に喚び戻される前の間に、彼の身に何が起きたか何をなされたのか、それは知らない。あの少年から実験体と称されていたのなら、何がしかの実験の被験者にされたのだろう。その結果として今の姿があるのかもしれない。

 確かにもはやセージに理性も知性もなかった。オグル化したのならそんなものはあっという間に吹き飛ぶ。だというのに唸り声を上げるだけで彼はタイムを襲おうとはしないのだ。どれほど堪えるのが苦痛なのか、その呻きに耳を傾けるだけで分かる。

 ゆえに、敬愛する魔女の使い魔の名にかけて必ずや間に合わせてみせる。

 

「なに、ちょっとばかり『ちくっ』とするだけさ。でもお前、男なんだし大丈夫だろ?」

 

 

「ねぇ、私の『次』にならない? きっとマリーの弟子は『次のマリー』になる。私もまた『次』へ託さなくてはならない、刻限は近い。だからお願い、あなた達の2人か、もしくは片方に『次の私』になってほしいの。偽りの理を保つために」

 

 拝火の魔女グノーシス、またの名を魔女長「リコルダ・フィオーナ」は(いとけな)い顔に不似合いな、いやに大人びた笑みを貼り付けて問いかける。否、それはもはや問などいう甘ったるい響きをしていない。恫喝の意味を孕んでいると2人は即座に気付いてしまった。断ればその命脈を断つ、と。

 

 

 ──1933年 最果て「魔女の谷」

 

 

 手土産のケーキと手ずから淹れた紅茶をお供に世界の秘密を軽やかに明かしたリコルダは、相変わらず感情の読めない笑顔を保ったまま2人の答えを待っている。

 彼女らが了承するまでとことん待ち続けるつもりなのか、いつの間にか空になっていたカップにお代わりが注がれていた。並々と器を満たす茶から湯気が立ちのぼり、華やかな馥郁が周囲に漂っている。このまま逃がす気はない、と若葉色の瞳が告げていた。

 

「……なぜ、私達なのです? この通り架音は元々ただの学生ですし、いくら魔族の血を引いていて異能が扱えようとその本質は幼い子供に過ぎません。まして魔法の素養があるかなど分からない。私に関しても同様、単なる学者でしかなくあなたの要求に応えられるだけの実力などない。我々に、とてもそんな重大なお役目を果たせるとは思えません」

 

 否定的な意見を述べるフェルデニウムに架音もまた追従する。2人とも自分には荷が重いという件については同意だった。偉大な2人の魔女の力と技を継承し、後を引き受けるということがどれほどこの世界にとって重要な意味を持つか、フェルデニウムは魔法使いとして痛いほど理解できるし架音にしても肌感覚としてなんとなくは分かる。

 

「私もフェルさんと同意見です。抽象的でいまいち分かりにくかったけど、とんでもなかく難しくて大変なことなんだろうな、とは思いましたし……すごい魔法使いのフェルさんならともかく、私なんてどこにでもいる普通の学生だから無理です、できないです、そんな大事なこと……。なにより、私にはそんなに魔法が必要なものだとは思えない」

 

 対して彼女らがそう返答してくるとはリコルダも悟っていたのだろう、あまり驚いた様子もなく平然としている。魔法で注いだお代わりの紅茶をひとくち含み、舌を湿らせてから更に言葉を続けた。

 

「魔法がなくなっても、確かにこの世はあまり変わらないでしょう。元々この世界は魔法ありきで生み出されたわけじゃない、本来あるべき理によって動かされ、新しい歴史が紡がれるだけ。未来のありようは確かに一変するだろうけれど、魔法があろうとなかろうと先のことは読めないのだから考えたって意味がない。それはわかるの。とってもよく分かる。それでも私とあの子は、魔法を維持していきたい理由がある」

 

 そこで一旦セリフを切り、一呼吸置いてからリコルダは言い募った。

 

「魔法は、ひとを幸せにするためにある。ママ達はそう言って、私達に願った。みんなが幸せになれますようにって、そのお手伝いをして欲しいって。そのために私達はここにいる。だから、たとえ『いつわり』なんだと知っていても、守りたいと思うの。……でも、もう私達にはその力がない。私達はいずれ消え去るさだめにある、ミネルヴァやラヴァーナがそうだったように。その刻限がもうすぐそこに迫ってる。急がないとこの世界から魔法が消えてしまう、そしたら、私達……ママに会わせる、顔が、ない……」

 

 ガチャリと乱暴にカップをソーサーに戻して架音は吠えた。夜明け前の空に似た濃く深い青い眼が炎を灯したように光っている。

 

「まだ答えを聞いてない。私達でなければダメな理由はなに? あなたが自己憐憫の塊であることはもう分かった。でもそんなの、『外側』で生きてた私にはちっとも関係ないんだよ。この世界がどうなろうと、あなた達がどうなろうと。だって私は、初めからここにずっと暮らしてたわけじゃない。私は招かれてここへ来た『客人(まろうど)』に過ぎないんだから」

「そっか、知らないのか。あなたはなんにも『知らない』んだね。いいえ、誰も教えてあげなかったのか……。それとも隠したままにしておきたかったのか。そこは分からないけれど、人間というのはつくづく酷薄な生き物だよ、まったく」

「何が言いたいの。……あなたは一体、私の何を知ってるっていうの」

「全ては知らない。だけどたったひとつだけ気付いたことはある。あなたは外から来た人間じゃない、帰ってきたものだってことを。……もうあなただって分かってるんでしょ? この世界と無関係ではいられないって。架音ちゃんにとって、ここは未知の異世界なんかじゃない。遠い血筋に刻まれた、もうひとつの『故郷』なのだと」

 

 氷見山架音は懐郷者である、というフェルデニウムの発した言葉を架音はふと思い出した。それから自身にとりまく「ともくいののろい」についても。

 

「……リコルダさん。私、なんのためにここへ『帰ってきた』の……? 私は帰ってきちゃいけない存在だっていうなら、じゃあどうして今、ここにいるの……」

「分からない。誰かがこの世の終焉を……人々の終わりを目論んであなたをここへ呼び寄せたのかもしれない、あるいはあなたを産んだ遠い祖先が未来(さき)の者へ復讐を願ったのかもしれない、色んな思惑や理由や原因があって、それらが絡まり合って、今、あなたはここにいる。──けれど、たったひとつだけ言えることがある」

 

 テーブルを挟んで向かい合わせに座っていたはずなのに、気が付くとリコルダは架音の隣に立っていた。ぱちくりと目を瞬かせる少女の顔を両手でむんずと掴み、至近距離で視線を合わせて告げる。幼い妹が年の離れた姉へ話しかけるかのように。

 

「もうあなたはただの客人ではいられない。この世界に来たのなら、いずれ還るそのときまでは、この世界であなたとして生きていく義務がある。人は世界と無関係ではいられないの。もうあなたは傍観者でも観客でもない、同じ舞台に1人の役者として立っている。胸を張りなさい、最後まで人として生きていきたいのなら。自分を誇るの」

「自分を……誇る……? だって私は、この世界に何もしてあげられないのに。ただ厄介な呪いを振りまいて、せっかく良くしてくれた人も鬼にしてしまって。私に理由なんかない、私に価値なんかない! だってそんなの誰も教えてくれなかった。誰も言ってくれなかった……生きててもいいんだよって……!」

 

 ほろほろと涙をこぼす架音の横っ面を叩いたのは、それまで黙ってことの成り行きを見守っていたフェルデニウムだった。

 

「このバカ! あほ! 何を甘ったれたこと言ってんの、ふざけんな! 何が価値がないだ? 理由がないだ? んなもん、誰にだって無いに決まってんだろうが。自分で見つけんだ、自分で探すんだ、人に教えてもらうもんなんかじゃねぇんだよ! 命は誰にだって与えられるものじゃない、死ぬのは簡単で誰にでもできる、生きるのは限られたものでさえ難しい、そんなことも分からないのか! ……平等じゃないんだよ、この命も、この生も、全て!」

 

 フェルデニウムは──中富神楽は、自身に与えられた2度目の生がどれほど得がたく尊いもので奇跡であるのかをよく知っている。本来、転生なんて特典がただの人間に与えられるわけがない。人は何度も生死を繰り返すけれど、輪廻の記憶を留めておくことはできない。だからこれは恩寵なのであり贖罪なのだと彼女は骨身に染みて理解している。

 やり直しの機会を与えられたのだ、と。ありふれた人生、ありがちな人生、そんなくだらないものでも愛おしくはあったけれど、精一杯生き抜いたかといえばそれは否だ。最期の瞬間まで諦めずにいられたかというとそんなことはなかった。途中でさっさとこんな人生なんてやめたい、と幾度となく思った。治療が辛かった、延命の希望がないことに耐えるのが苦しかった。だから早くラクになってしまいたかった。死の瞬間、少しだけ気持ちが楽になったのを今も覚えている。あぁコレでやっと解放される、と。

 だから異なる世界に違う身体で生まれ直したことに、当初は落胆し絶望した。またあんな痛み苦しみを味合わねばならないのかと。神とはなんと惨い存在なのだろうか、と。確かにその側面は否めないのかもしれない、生きていくというのは辛く、人生は険しい道のりだ。だが。それでも、それだけじゃないのだとやっと知った。ただ苦痛なばかりではなく、そこには生きることでしか得られない幸福や安寧だってあるのだと。

 

「私は、この世界が好きだ、守りたい。家族に恵まれた、才能に恵まれた、そして生きる楽しさだってあるのだとわかった。けれど、それだけじゃなくて、授かったこの命を賭けてでも導いてあげなくちゃいけないものができた。──架音、きみだよ。たった数日しかまだ一緒に過ごしていないけど、あなたの抱える寂しさは少しだけ見えたから。その孤独を癒してやりたいと思ったんだ……傲慢なのかもしれないけれど、いつかあなたが心から笑えますようにと。……私は願っている。あなたが生きる理由や目的が見つかりますように、見つけられますように、と」

 

 誰の生も平等ではないけれど、例えばそれがマイナスからのスタートだとしても。目的地までの道程が個々に違うのならば、その過程において希望や幸福は必ずあるのだとフェルデニウムは今だからこそ思う。生をやり直した、それもまた1つの幸運であったから。誰しもに授けられる奇跡ではないからこそ。

 

「決めました。魔女リコルダ、あなたの『提案』を呑みましょう。私はあなた方の『次』を担います。あなたが祈る『幸せ』の在り方を継いでみせると、お約束します」

 

 

 贖罪がしたいんだ、とフェルデニウムはほろ苦く笑いながら呟いた。何かに耐えるような、痛みを堪えるような眼差しが架音に向けて注がれていた。空色の瞳は苦渋に満ち、笑顔というより泣き顔のようにも見える。

 

「……私は。とてつもない罪を犯した。この世界に対して、他でもない架音、あなたに対しても。その罪は残り全ての一生をかけても償いきれないほど、重い。それでも罪は贖わなければならない」

 

 その言葉の意味するところを既に架音は悟っている。他でもない、フェルデニウムこそが出会った当初に口にしていたからだ。なぜ架音をこの世界へ喚んだのか、その理由を。

 

「あのとき、他世界の者が異界を渡るための術式を編み出し、召喚の儀式が成るよう組み上げたのは私だ。もちろん何某かの横槍があって狙った通りの効果が望めなかったのは、研究チームに所属し主任研究員を務めていたのだから把握している。……けれど、そんなものは言い訳にしかならない。肝心なのは侵してはならない領域に足を踏み入れたこと、人道に悖る行いに手を染めたこと、そして平らに和やかに生きてゆけたひとりの女の子に過酷なさだめを課してしまったこと。その全ての責と咎は私にあり、他の誰にも背負わせるつもりはない。──だから」

 

 フェルデニウムは起立しその場に跪くと、床の上に(こうべ)を垂れた。いわゆる土下座のポーズである。異世界の住民であるリコルダにはその行為の意味が汲み取れないだろうが、同じ国に生きていた架音には痛いくらいに分かってしまう。本来、自分達にとってどれほど屈辱的なものであるかを。

 

「私はこれ以上、架音に何も背負わせない、背負わせたくない。彼女が元の世界へ帰るそのときまで命を賭して守り導くと約束する。ゆえにあなたの『次』を担うお役目は私が果たします。私の全てを賭け、私の全てを捧げましょう。だからもう架音を巻き込まないでください、彼女には、一切の責も因もないのです……!」

 

 氷見山架音は被害者だ。彼女は望みもしないのに勝手の分からぬ異世界へ連れて来られ、自身に流れる血筋(のろい)が原因で来訪した世界へ破滅をもたらし、あらゆるものの敵と化してしまった。ある意味で架音は魔王的存在といえる。今後、架音が呪詛転変の要因と発覚すれば討伐隊が編成される可能性だってあるのだ。

 架音はそれに抗う力はない。なぜなら彼女に人は殺せない。生まれ育った世界で身に染み付いた倫理と良心と道徳と善性が人を殺めることを拒絶させるからだ。オグルを殺せるのは、殺す以外に相手を呪いから解放する術がないという現状があるゆえに過ぎない。そのオグル殺しだって架音の心に大きな傷をつけてしまう。当然だ、呪いさえなければオグルはオグルにならなかったのだから。

 フェルデニウムが良心の呵責を無視して淡々とオグルを処分できるのは、こちらの世界に生きてきた経験が自身にシビアな感覚を生じさせたからでしかなく、それは誰でも培えるものではないと理解している。まして召喚されてから一月も経っていない架音に、身につくはずがない。

 なにより先達としてフェルデニウムがそんな感覚を身につけさせたくなかった。人を殺してもなんとも思わなくなってしまう、そんな悲しいことがあるだろうか。果たしてそんな惨いことがあるだろうか。こちらの世界の住民の、手前勝手なワガママで無理やり引っ張り込んできてしまった普通の女の子に、どうしてそのような酷な仕打ちができようか。まだ彼女は子どもなのに。

 フェルデニウムには「大人」として果たさねばならない義務があり、架音には「子供」としての守られるべき権利がある。──幸福をあるがままに享受する、という。

 端的に言ってしまえば「そういうこと」だった。せめて架音には幸せになってほしい、幸せでいてほしい。たったそれだけのことなのだ、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもなく。

 あるいは代償行為なのかもしれない。フェルデニウムには今まで愛情を注げる庇護者がいなかったから。彼女は前世も今世もずっと誰かから守られる立場にいたから、今度こそは自分が誰かを守れる者でいたいという。それでも構わない。理由も原因も今はさして重要ではない、やるべきことをやらねばならない。それだけだ。

 

「──その覚悟、しかと受け取った。あなたの心の全てを私は見通し、言葉に偽りなしと確認した。だから、頭を上げて。あなたが屈辱に打ち震える必要はない、ここにあなたを裁ける者はいない。誰しもが原罪を背負い、私もまた『罪人(つみびと)』であるのだから。まっさらに生きるなんてできないの、命に縛りがある限り」

 

 椅子から降りてリコルダはしゃがみこむとフェルデニウムに視線を合わせる。至近距離からまっすぐ見つめられ狼狽える彼女の頬をぐいっと掴むと、強ばった顔をむにむにと揉みほぐす。

 

「さ、笑って。私はみんなの笑う顔が好きだよ。この地に生きる人の子に涙は似合わないよ、嬉し涙はとっても素敵だけれど。だから笑おう、明るい未来(ハッピーエンド)はね、笑顔の先にあるもんよ。たしか『そちらの世界』にも似たような格言あったよね?」

「……『笑う門には福来る』ですか?」

「そうそう、それそれ。いつだったかマリーに教えてもらったんだ、素敵な言葉だなぁってずっと思ってたの。いい言葉だよね、笑顔の向こうに(さいわい)がある、って」

「ふ、……ふふっ、そうですね。私もそのことわざ、好きですよ。なんだか勇気が湧いてくる気がするから……」

 

 フェルデニウムの、ずっと張り詰めていた顔がほころんで穏やかに笑みくずれる様子はまるで、蕾が開花する瞬間を目にしているようだ、と架音は思う。あるいは本当にこれはそういえば「咲く」は「咲う」とも書くのだったか、と思い出す。

 

「……あのっ、フェルさん。私はずっと守られてるばかりなのは嫌だよ。私の力じゃフェルさんには敵わないかもしれないけど、いつか隣に並べるようになりたい。それに臨時だけれど私はあなたの弟子だから、師匠が大変なときにはお手伝いしたい。いいえ、同じ荷物を背負わせてほしい。頼りにならないかもしれないけど、私はまだ未熟だけど……それでも、初めて私の味方(なかま)になってくれたから……っ、その気持ちに、報いたい!」

 

 ぽんぽん、と優しく頭が叩かれた。既に立ち上がっていたフェルデニウムが架音をそっと抱きしめ、まるで幼子にするように頭を撫でる。

 

「……良い子ね、あなたがここへ来てくれてよかった。架音に出会えてほんとうに良かった。あなたに課せられたさだめは確かに厳しく険しいものではある。だが、決してそれだけではないと他ならぬあなた自身が教えてくれたから……大丈夫、私は架音を『悪』にはさせないわ。絶対に」

 

 たとえばこの先、架音の身に受けた呪いに何か変化が起きて魔法使いや他種族さえ蝕むとしても。そのときは持てるだけの知識と全霊をかけて呪いを封じ込めてみせる、とフェルデニウムは自分自身に約束する。決してローズマリーひとりに丸投げになどしたりしない、負った役目は全て果たしてみせると。

 せめて架音の前でだけは、彼女にとって誇れる師匠としてありたいと願うから。

 

 この時点でまだ架音とフェルデニウムは知らない。同じ呪いを身に受けた「もう1人」は悪意と殺意を撒き散らし、世界全体を巻き込んで盛大な自殺を図ろうとしている、という酷薄な事実を。

 

 

◆◆◆

 

 

 ──1933年 シュバルツベルン首都「ロージア」某所

 

 そこは貧困と不幸を煮詰めて凝縮したような区域だ。貧民窟、スラム、掃き溜め、ゴミ捨て場……等々といくつもの俗称があるものの、町としての正式な名前はない。そもそもが違法な居住地区であり本来はここに住んではいけない法令が施行されている。ではなぜ「ここ」に人が暮らすのかといえば、まともな市民区画に住めるほどの金もなければ身分も低いからだった。

 廃材を利用して建てられたバラックに建築基準法も何もあったものではない強引に建て増しした高層建築、生ゴミや汚物が処理もされず放置され悪臭を放ち、ジメジメとした湿った空気とない混ぜになったそこに「彼」は訪れていた。

 背を流れる真紅の髪は燃え上がるリコリスを写し取ったよう、年齢も性別も定かではない美貌に嵌る瞳は鮮やかなアメジスト、魔法使いの証明である黒いローブを羽織り、その下に上等な衣服を着込んでいる。

 こつこつ、と革靴の音を規則的に鳴らしながら歩く姿は、貧民街の中で一際浮いてみえる。いや、悪目立ちしているとしか言えなかった。それでも襲われたりしないのはひとえに身にまとうローブが威力を発揮している。この国で魔法使いに喧嘩を売る馬鹿はそうそういない。

 やがて彼はとある建物の前で足を止めた。ひっそりとスラムの片隅にあるのは娼館である。歳若い者も老いさらばえた者も皆、スラムへ来た女人は皆ここで春をひさぎ、日々の糊口を凌いでいる。やがて梅毒にかかって死にゆくのがスラムに住まう女の運命だ。

 もちろん、彼がスラム街に来てまで女を買うほど切迫した状況にあるわけではない。ここへ訪れたのは目的があるからだ。コンコンと申し訳程度に備えつけられたボロボロの扉をノックすると、待ち構えていたように子供が「1匹」顔を出した。人間を1人、と数えないのはこの街の習わしのようなものである。

 

「……えらい優男(やさ)だね、あんた。どちら様? こんな場末を利用するほど落ちぶれてるようにゃ見えないけど」

「はっはっは。来客に対してはもうちょいリップサービスをできるようがんばろっか。でないと客がつかないよ?」

「いいんだよ別に。アタシみたいなチビにはなから客なんかつくもんか、ってかただの小間使いだし……」

「おや、これは失敬。まぁボクはここに女を買いに来たわけじゃなし、気を遣う必要はないよ。……迎えに来ただけさ」

「迎え? 誰を? ……あんた、何者?」

 

 疑心と警戒を露にする子供の頭をそっと撫で、彼──焔上椎葉、またの名をシイバ・インフェソルニアは安心させるような顔つきで、ちっとも心の安らがない言葉を紡ぐ。

 

「おはよう、おチビさん。ボクはキミを『弟子(なかま)』として拉致(スカウト)しに来た魔法使いだよ、……さしずめ『白馬の王子様』ってところかな」

 

 

 ──1933年 アーデルハイト首都「クリムシー」某所

 

 共に魔女ローズマリーの元、弟子としてあるいは配下として同じ時間を共有してきた2人、タイムとセージは向かい合っていた。片方は臨戦態勢を解かぬまま対峙し、もう片方は理性と知性をなくした様子で今にも遅いかからんばかりにこちらを睨めつけている。

 だが、それほど長い間ずっと一緒に居たわけではなくとも、タイムには(オグル)と化した彼が必死に自分の欲望を抑えつけ堪えようとしているのに気付いてしまった。ぱたぱたと涎を垂らし、ぐるぐると唸りながらも走り出しそうになる足を踏みしめている。オグルにとって人を食わないというのがどれほどの苦痛を伴うかタイムは分からないが、酷く辛いのだろうとは察した。

 なぜ、ほんの少し離れていた隙に薬効が切れ、鬼化が進行してしまったのか。専門家ではないタイムには朧げにしか推測できないがおそらく、彼が収められていた培養器に理由があるのかもしれない。たとえばあの液体に鬼化を促進させる効果があったとしたら。この広大な実験室に安置された培養器に収納されているオグル達は、外へ出た瞬間、今のセージと同じように暴れ始めるのだろうか。

 だとするならば止めなくてはならない。彼も、ここにいるもの達も。これ以上、鬼が人を傷つけることのないように。

 

「……今、楽にしてやる。少しの間、ちょっと痛いかもしれないが……お前は男なんだから耐えられるよな? なァ、セージよ」

 

 僅かな時間、タイムは全身の力を抜き、ふっと一息吸い込んで再び力を身体中に溜める。巨大化するときと同じ要領で彼は自身の姿を変容させる。それまでの愛らしい猫の外見から一転し「本来の自分」に。

 見違えるほど高い視点、2本の足で立つがゆえの不安定さ、毛皮に包まれていた身体は布に覆われ、腰近くまで伸びた夜色の髪がぱさりと垂れ落ちる。

 培養器のガラス面に映るのは猫とは似ても似つかぬ青年の面差しだ。性差のはっきりしない中性的な美貌に朝焼けの太陽と同じ眩い金の瞳が煌めき、色素の薄い明るい肌となよやかな肢体を上等な仕立ての黒衣がくまなく覆い隠す。全身を金銀や宝石で飾り立てた、どこぞの公達のごとく気品に満ちた煌びやかなさまはだけは、猫であったときとほとんど変わらない。

 敬愛し信奉する魔女に仕え、彼女のために自分の全てを捧ぐと誓ったときから封印してきた己の本性をまさか、その弟子の前で晒すことになるとは当時のタイムだって想像すらしなかっただろう。

 

「正直、お前なんかに本当の俺を見せるのは癪なんだがな……まぁ、そうも言ってられないか。ちっ、元に戻るのはローズマリーと閨を共にするときだと思っていたというのに。こんなケツの青い小僧の前でなどと……この屈辱、筆舌に尽くしがたい」

 

 ぐちぐちと不平不満をもらしながらもタイムは手を止めない。滑らかな手さばきでぱっぱっ、と矢継ぎ早に印を組む。それは魔法ではなく、もっと根源的な別の「何か」だった。あるいはこう言い換えてもいいのかもしれない。「魔法の先にあるもの」と。

 

「──……我は時を統べるもの。この声を聴き届けよ、我が命に応えよ。遡れ、あるべきところまで──!」

 

 すぅ、と何もないところから一振りの巨大な「鎌」が現れる。刃渡りは人の背丈と同じ、柄も大人ふたり分ほどはあるだろう。茨と百合の花が絡まったような華麗な装飾を施されたしろがねの大鎌は、弱々しい電灯の明かりを受けて鈍く輝いている。剃刀のごとき刃に殺傷力はない。あの殺しを生業にさせられていた子供が扱うような、人の肉を切るのに長けた武器ではなかった。

 これは「象徴」だ。

 

「大丈夫だ、苦痛はない。ただ、ほんの少しだけ欠けてしまうだけだ。欠けたものはこの先、埋めていけばいい」

 

 言いつつタイムは、ほっそりした指に絡め持った鎌を振り下ろす。向こう側が透けてしまいそうなほど薄い刃は少年の身体を切り裂くことなくそのまま通り抜ける。そしてそれだけで充分だった。

 映像を逆再生したかのようにセージの身に起きた異変が巻き戻っていく。浅黒い肌は元の白に、色の抜けた髪は金に染まり、血の色の滲む瞳は萌え出た若葉の色へ、角も翼も爪も牙も尾も縮んでやがて見えなくなる。

 

「欠いた時はほんの一瞬。それ以上を望めばお前に対価を要求せねばならなくなる。そして俺はもう、人から対価(いけにえ)を召し上げるような真似はしないと誓った……あの魔女の下に傅くと決めたときに。もう、2度と見たくない。人が神にひれ伏す有様など」

 

 無能でぽんこつと謗られようと今のおどけた使い魔としての有り様が今の自分なのだ、とタイムは思っている。多少のドジや失敗は己が神であることをやめた時にその「代償」としてさだめられたもので、単なる欠点とは違い直せるような代物ではない。ミスをするよう定められている、というのはいたく自尊心を傷つけるし歯がゆいが受け止めなければならない現実だ。

 それでも彼女が傍に置いてくれるから。いくら憎まれ口を叩こうとも、決して捨てたりなんかしないと信じられるから。完璧じゃない自分のことも認められるのだ。

 天上から降り注ぐ幽き光が自分達をあたたかく包み込むのを見て、悪夢は終わり迎えが来たことを知り彼は口元を緩める。気絶したまま意識を取り戻さない少年をやや乱雑に担ぎ上げ、微かに感じる主の気配を頼りに探し歩きながら静かにひとりごちた。

 

「……はやく良くなれ。あまり、あいつを心配させるな。お前だけが頼りなのだから」

 

 

◆◆◆

 

 

「……くっだらない。結局、あなたは自分の思い通りにならない世界が気に食わないから、自分好みに作り直したいだけなんでしょう。ガキのワガママに付き合ってる暇はないわ、私達は忙しいの。これからやらなきゃならないことがいっぱいあるんだから」

 

 ローズマリーはばっさりと男の「提案」を切り捨てる。だがそれに気を悪くした様子もなく、男はにこりと笑みを深めたままだ。

 

「そうですか……、残念です。あなたの『次』のを議題にのぼらせれば少しは興味を持ってくれると思ったのですが」

「おおかた、アレにかけた魔法薬の効果を解いて交渉材料にでもしようとしてたんでしょうけどね、タイムが到着した時点でこちらの勝ちは決定付けられてるの。私の使い魔を甘く見るな、あれは命じたことは必ずやり遂げる。だからセージは救われるわ」

「どうあっても……私の同志(なかま)にはなってくださらないと? あなただってこの世にはいくらかの不満がおありでしょうに」

 

 魔女は晴れやかに軽やかに笑い飛ばす。憂えることはなにもなく、男の言葉など瑣末なのだというように。

 

「えぇ、まぁ、そうね。気に食わないことはそりゃあるわ。異界を渡った者へ裁きを与えようとする『上』の傲慢とか。でもね、それも含めて私はこの世界が好きよ、守りたい。……そのためには、何をも擲ってみせる! だからお前の甘言に乗るつもりなんなない。もうここに居る理由はないわ」

「ほぉ……しかし、ここは魔法で作った仮想空間内の実験場ですよ? どうやって帰るというんです?」

 

「……Domine, mitte nos in benedictione tua benedicetur; Ingere cordibus nostris tui gaudium et pax; Dicamus ergo singuli, tuus amor possidendi, Et triumphus quod redemerit gratia: Domine vivificabis nos, Domine refoveo nobis, Hoc iter in deserto. ……♪」

 

 彼は意地でもこの場に留めようとするが、もうローズマリーは意に返さない。快活な笑みをキープしたまま聖句を唱える。美しい調べに乗せて奏でられる言の葉は、まるでひとつの歌のよう。思わず見惚れてしまい、男はそれ以上かける台詞が持てなかった。

 

「さようなら、哀れで虚しき人の子よ。もう2度と会うことはないでしょう」

 

 闇に浸された仮想空間へ一筋の光が差し込み、ローズマリーを照らす。光の当たる部分が空気に溶けて消えゆく。眩く神々しい、非現実な光景に、もはや二の句も継げず彼は見ているしかない。

 それは──(かみ)からの恩寵だ。仮想空間に作られた脱出不能の牢獄さえ、祈りの前には無意味であるなど。奇跡という形容さえ生ぬるい、もはや祝というより「呪」とでも称すべきもの。

 ローズマリーという名を得た魔女は、しかし悪魔ではなく「神」に魅入られている。だとするならばその在り方は、もう魔女ではなく「聖女」と呼ぶべきなのか。

 

「今日のところは、素直に負けを認めましよう。あなたの美しさに見惚れた私が未熟だった、と。だが次はない。次こそ手に入れてみせる。──魔女ローズマリー、あなたの力と智恵、その全てを!」

 

 

 

 

 

 かくして軍国での波乱のひとときは瞬く間に過ぎ去り、彼と彼女は次なる目的地へ向かう。まだ見ぬ「その先」を求め、患い病んだ世界を癒すために──……。

 

 

 

 

 

 第一片「狂える少年と災厄の懐郷者」了



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