天才がゲシュタルト崩壊!! by及川 (こうやあおい)
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01話:及川徹という少年

 及川徹という人物に対して初めて抱いた感情は、間違いなくプラスのものだった。

 それが過ちだったのか否か、まだ答えは出ていない。

 

 

 

 ──2007年。

 栗原ユカは、地元の小学校から北川第一中学校へと進学した。

 父の仕事の都合で東京から仙台へと越してきて、既に数年の月日は流れている。それでもまだ、ここは仮の住処のような気がしてならない。

 きっとハッキリと自覚しているせいもあるだろう。自分は長く、ここには留まらないと。

 ──などと否が応でも自覚せざるを得ないのは、毎日のように一人で美術室に籠もってスケッチブックやキャンバス相手に格闘を繰り広げているからだろう。

 

 物心が付いた時から、時間が許す限り絵の練習に時間を費やしてきた。そのことを、努力をしている。と思うことは特にない。時間が許す限り描いていたい。という思いはユカにとっては確認するまでもなく自然のことであった。

 

 中学に上がってからというもの、公立とはいえ美術室はあるし、場所だって確保できる。その嬉しさで時間を忘れて描き続けた。

 そんなこともあり、美術室を出る頃には熱心な運動部でさえ帰宅した後という事が多く、いつも一人だ。

 が。時おり、下校中に体育館の電気が煌々とついているのを目にすることがあった。

 最初は気が付かなかった。気が付いたあとは、バスケ部あたりが残っているのだろう、などと考えた。

 そしてある日──、今日ばかりは自分が最終下校者だろうと感じるほどに遅くなった日。予想に反して体育館の電気がついていて、ふとユカは足を止めた。

 なぜ足を止めたのかはよく分からない。あまりに予想外で、電気の消し忘れかと感じたのかもしれない。が、ふいに足を向けた先の体育館のドアから中を窺って、ユカは少しだけ目を見開いた。

 コートには無数のボールが散らばり、体育館をたった一人の少年が独り占めしてサーブ練習に明け暮れていたのだ。

 バレー部か、と張られたバレーネットを見て思った。試合前なのかな、と熱心な少年の後ろ姿を見て思いつつその日は踵を返した。

 まさか。今まで何度も見た「自分より遅い下校者」が全てバレー部だった、ということはないだろう。

 という思いから、ユカは時おり、帰り際に明かりのついた体育館にふらりと立ち寄ることがあった。

 ──また、あの子か。と、予想に反して毎回同じ少年で。

 その少年が、”及川徹”という名だと知ったのはもっとあとの事だ。

 ユカにとっては、名前も知らない、とびきり練習熱心なバレー部の男の子。それが及川に感じた第一印象の全てだった。

 

 

 それから、一年ほどが経った。

 夏休み目前のその日は、東北では類を見ない真夏日だった。

「わ……!」

 美術室を出たユカは、蒸すような暑さに顔をしかめるよりも前に驚きの声をあげた。

 生まれ故郷である東京の灼けたアスファルトが作り出す不快な熱気さえ彷彿とさせるほどの暑さだ。

 今夜は熱帯夜かな、と校庭を歩きながらさっそく滲んできた汗を感じつつハッとした。目線の先の体育館から明かりが漏れている。

 まさか。こんな暑い日まで残っているのだろうか、彼は。と、空調などもちろん効いていないはずの体育館を見やってユカは少しばかり気を揉んだ。

 もはや「誰が残っているか」とか「消し忘れかな」などは思わない。それは既に分かっている。が……、足を向けて少し開いている体育館のドアから中を見やって、さすがにユカは瞠目した。

 むっと熱気の広がる蒸し風呂状態の体育館で、後ろ姿からもハッキリ分かるほど汗だくで肩を揺らす及川がいて。──いつもの事ながら、と他人事ながらに肩を竦める。

 自分でさえ喉が渇いて、ともすれば暑さで倒れそうなほどだというのに。見たところサイドドリンクもないし、大丈夫なのだろうか。

 と、僅かばかり案ずる気持ちが沸いてきた。もしも脱水症状でも起こして倒れても、もはや助けられる人間はすぐには現れないだろう。──校門を出てすぐの所に自販機がある。自分も喉が渇いたし、スポーツドリンクでも差し入れよう、とユカは校門の外の自販機に向かった。

 しかしながら、自販機の前でユカは「んー」と唸った。スポーツ選手が必要としている水分量など正確には分からない。あれだけ汗だくで一本で足りるのだろうか、との思いから結局3本購入して両手で抱えた。自分の分は帰りに買えばいいだろう。

 少し急ごう。倒れられていたらちょっと困るし。と再び足早に学内に戻ってユカはハッとする。──及川と話したことは一度もないのだ。

 自分は「及川徹がそこにいる」という事実を知っているが、向こうからすれば自分は名も知らない同級生である。と意識して少し躊躇した。

 とはいえ、特に他意もないし、「お疲れさま」で大丈夫かなと考えていると、不意にヒュッと人影のようなものがユカの前を横切った。

「おう、栗原か? こんな遅くまで何やってんだ」

 僅かに目を見開いた栗原の耳に見知った声が届いて、ユカは目線を声の方へ向けた。すれば短髪の少年が立っていて、あ、となお目を丸める。

「岩泉くん……。岩泉くんこそどうしたの?」

 こんな遅くに、と続けて言葉を向けた相手の名は岩泉一。そう親しく話したことはないが、クラスメイトである。

「あー、俺は部室で過去の対戦表とか調べてたらすっかり遅くなっちまってな。ついでにオーバーワーク気味のバカを回収して帰る所だ」

 そうして岩泉は体育館の方へ目配せし、あれ、とユカは瞬きした。

「岩泉くん、バレー部だっけ……?」

 すると、ああ、と岩泉が頷き、ユカはちょうどよかったとばかりに抱えていたペットボトルを岩泉へと差し出した。そして反射的に受け取ってくれた岩泉にこう告げる。

「及川くんなんだけど、熱中症とか脱水症になっちゃうんじゃないかって心配してたの。そのドリンク渡してあげて」

「は……ッ!?」

 ちょうど良かった、とまさに渡りに船で用事の済んだユカはその場を立ち去ろうとした。が、予想外に後ろから岩泉に呼び止められてしまう。

「待てって。お前、一人で帰んのかよ?」

「え……、うん」

「もう暗えぞ」

「そうだけど……」

「どうせ方向同じだし一緒に帰るべ。及川にもすぐ準備させるからちょっと待ってろ」

「え……!? え、べ、別に大丈夫だよ」

 いつものことだし、と言うも「そんな急ぎの用があるのか?」と突っ込まれて固辞する理由もなかったユカは、じゃあ、と岩泉の言葉に従った。

「おい、及川! 帰るぞ! とっととストレッチやれ!!」

 そうして体育館のドアを勢いよく開けるなり彼はそう言い放ち、ユカは少々面食らう。いきなりこの言い方は、かなり横柄なのではと感じたからだ。

「あれー、岩ちゃん。残ってたんだ?」

 すれば、ボールを突く音が途絶えて軽い調子のそんな声が体育館に響いた。察するに岩泉の態度は横柄ではなく日常の事なのだろう。次いでバレーボールシューズが床を擦る音と共に弾んだ声も響いた。

「うわ、岩ちゃんいいもの持ってんじゃん! なに、俺に差し入れ?」

「は?」

「俺、チョー喉渇いてたんだよね! さっすが岩ちゃんやっぱり俺たち大親友だね!」

「おめーとは親友どころか友達になった覚えすらねえ」

「なにそれヒドイ!!!」

 突然コントのような掛け合いが始まり、後ろで聞いていたユカは面食らうも、かえって面倒が省けた、程度に及川の言い分を感じた。ドリンクは岩泉からの差し入れと思ってもらった方がややこしくならないためだ。

 それより。予想外に明るい子なのかな。と及川の言動に面食らっていると、岩泉の手からペットボトルを受け取った及川にあろう事か岩泉がこう言い放った。

「つーか、それ俺じゃなくてコイツの差し入れだぞ」

 な? と懇切丁寧にこちらを振り返って言われ、え、とユカは固まる。

 え、と岩泉を挟んだ先の及川も固まった気配が伝った。おそらく、彼はいま初めて後ろにいた自分の存在に気づいたはずだ。

 気まずい、とユカが感じた刹那。

「ああ……美術部の……」

 そんな声が聞こえて、え、とユカは及川が自分を知っていたらしきこと驚いた。彼の声がやや乾いていた事には気づけず、ともかくこれ幸いとばかりに無理やり笑みを浮かべてみせる。

「あの、体育館の電気がついてたから覗いてみたら及川くんがいて……。暑いし、喉渇いてるかなって思って」

「そっか、わざわざありがと。そういえば、話すの初めてだね?」

「え……。う、うん」

 すれば及川もニコッと人懐っこそうな笑みを浮かべ、彼は岩泉に目線を向けた。

「岩ちゃん、仲良かったっけ?」

「あ? クラスメイトだ。たまたま体育館の前で会った」

「ふーん。ていうか3本もあるんだし、一人一本ずつね」

 ハイ、と及川が残りのドリンクを岩泉ともユカともしれず差し出して岩泉は眉をやや釣り上げた。

「なに我が物顔で配ってやがんだ。持ってきたの栗原だろうが」

「え……ッ、え……い、いいよ、その、もともと及川くんにって思ってたから。喉、渇いてるみたいだし」

「せっかく3人で3本あるんだから、分けたほうがすっきりするじゃん」

 ね? と念を押されてユカはたじろいだものの受け取った。岩泉も受け取っている。確かにこの状況では分けた方が及川も気持ちの面で過ごしやすいのかもしれない。

「あ、ありがとう」

「お前……、買ったの自分だろ」

 思わず礼を言えば及川が小さく吹き出し、岩泉が肩を竦めた気配が伝った。

 それはそうだが、と思いつつもいたたまれなくて少し頬を染める。

 悪ぃな、と岩泉が断ってからペットボトルを開け、ユカも喉が渇いていたのは確かなため自身もペットボトルをあけて口を付けた。

 そうして及川はその場に座ってストレッチを開始した。岩泉の忠告通り、あがるという事だろう。

 何だか妙なことになった。と、やや居心地の悪さを感じつつ体育館を見渡してハッとする。

「あ……、ボール片づけようか?」

 コートに散らばった無数のバレーボールを見やってそう言えば、2人揃ってこちらを振り向いた。

「及川がやるからほっとけ」

「なんで岩ちゃんが勝手に返事してんの!?」

「おめーが散らかしたんだからおめーで処理しろや。小学生でも分かることだろーが」

「でも……、遅くなっちゃうし。及川くんがストレッチしてる間に片づけちゃった方が効率いいから」

 ともかくこの場でジッとしているよりはやることがあったほうが助かる。と、ユカは靴を脱いで体育館にあがった。

「ごめん。ありがと助かる」

 すれば及川がこちらを見上げてきて、ユカは笑みを浮かべようとした目を少しだけ見開いた。

 及川の顔をちゃんと見たのはこれが初めての事かもしれない。体育館の照明を受けた瞳はどこかココア色のような甘さを感じさせて、随分と綺麗な目をしているな、と過ぎらせつつユカは笑った。

 おそらくは岩泉も元からそうするつもりだったのだろう。ユカ同様にボールを拾って籠に戻すという作業をはじめた。

 ユカはボールを手に取りつつ、体育の時間以外で触れたのは初めてかもしれないと思う。2種類のボール。どちらもトリコロールでカラフルだ。

「ボール、2種類あるけど、これって色違い?」

「いや。ボールによって回転かかりやすいとか飛びやすいとか特性がかなり違う」

「そうなの?」

「年度によって公式試合でどっち使うか変わるし、練習試合なんかでどっち使われるか分かんねーし、練習じゃ両方使うぞ」

「そ、そうなんだ……。大変だね」

「まあ統一してくれた方が楽は楽だな」

 ボールを拾い集めながら岩泉の声を聞きつつ、ユカは自分自身の手で二種類のボールの手触りを確かめた。ボールによって跳び方や回転が変化するということは。使いこなして使い分ける技術が必要なのか。と、脳裏に何度も見たことあるサーブに明け暮れる後ろ姿を過ぎらせて、ふ、と息を吐いた。

「校門のところで待っててやるから、とっとと着がえて来いよ」

「ほーい」

 無事に片づけも終わり、体育館を閉めて告げた岩泉に及川は手を振って着がえるために部室へと戻っていった。

 ユカと岩泉はそのまますっかり暮れた校庭を歩いて校門の方へと向かう。

「岩泉くんって及川くんと仲がいいんだね」

 何とはなしにユカが言えば、一瞬、岩泉は言葉に詰まって眉間に皺を刻んだ。

「──まあ。小学校でクラブチームに入る前から知ってっからな。腐れ縁だな」

「そ、そうなんだ……」

 なぜそんな不本意そうな顔をするのだろう、と疑問に感じているとさらに岩泉は肩を竦めた。

「休み時間とかも、あのボゲしょっちゅうウチのクラス来てんだろ」

「え……、そうだっけ?」

「なんだ、覚えてねーのか」

 すれば岩泉は意外そうな顔をしたのちに少し肩を揺らした。

 が、覚えてない、というよりは。たぶん自分が休み時間に教室にいないせいだろうな、などと考えていると足音が近づいてきた。及川だろう。

「お待たせ!」

「よし、帰るべ」

 そうして3人並んで学校を出て、ユカは「なぜこんな事に」と多少なりとも過ぎらせた。どうしてもクラスメイトで見知っているぶん岩泉の方が話しやすいが、そうも言っていられない。

「2人とも、こんな遅くまで残って熱心だね」

「あ? ああ、まあもうすぐ県総体が始まるからな」

「2人とも試合に出るの?」

「ああ。俺はウィングスパイカーで及川はセッターな」

「セッター……って、トスをあげる人のこと、だよね?」

 言えば岩泉が頷き、ユカは首を捻った。

「及川くんいつもサーブの練習してるから、もっとこう……攻撃する側の人なのかと思ってた」

 すれば2人が揃って歩みを止め、揃ってこちらに目線をくれてユカはハッとした。

「あ……! その、私、だいたいいつもこの時間に帰ってるから、その……体育館が明るいときって残ってるのいつも及川くんだし……その」

 当の及川が驚いたように目を丸めたのがいたたまれず少しだけ視線を逸らす。が、意外にも岩泉はこう言った。

「サーブはリベロ以外の全員でローテ回すからポジション関係ねーべ」

「そ、そう……」

「ま、コイツでけぇから、セッターなのが意外といや意外か」

 岩泉が反応したのは別の部分だったらしく、ユカはホッと胸を撫で下ろした。が。当の及川本人が岩泉の言い分に噛みつき始めた。

「意外ってなに意外って。俺のベストポジションって誰がどう見てもセッターだよね!? まあスパイクもレシーブもサーブも岩ちゃんより上手いけどさ!」

「よし分かった。そこまで言うならおめー明日からスパイカーやれや」

「そしたら誰がセッターすんのさ?」

「安心しろ。先輩がちゃんとやってくれる。ああ、1年にやらせてみるってのもイイ手かもな。監督に相談してみるわ」

「ちょっとナニ言ってんの! 正セッター譲れるわけないじゃん! 岩ちゃんだって俺からのトスで打ちたいでしょ!?」

「打ちやすいトスで打ちたいんであって、おめーからのトスかどうかはまったく関係ねえ」

「ヒドッ! さすがに酷くない!?」

 もしかしてこの手の言い合いは日常茶飯事なのだろうか? 岩泉はともかくも、及川の性格に関してなんの認識もなかったとはいえ、やや意外だな。と思いつつ自分の家に連なる曲がり角が見えてきて、あ、とユカは瞬きをした。2人とは小学校が違う。学区の関係上、一緒の道なのは突き当たりまでのはずだ。

「じゃあ、私の家あっちだから。また明日ね」

 そして突き当たり直前で2人に声をかけ、背を向けようとした途端。ユカは岩泉に呼び止められてしまった。

「俺、送ってくわ。暗えしな」

「え……!? い、いいよそんな」

「俺の家、及川んちよりは隣の学区寄りだしそう遠くねえ。気にすんな」

「で、でも」

「及川、おめーはいつも通り一人で帰れ。じゃあな」

 そうして有無を言わさず言い放ち、けっこう仕切りたがりなのかな、とユカはあっけに取られつつも感じる。及川は一瞬だけ目を見開いていたが、すぐにヘラッと笑って手を振った。

「はいはーい。明日の朝練、遅れないでよ。じゃあね2人とも」

 何とはなしに去っていく及川の大きな背中を眺めていると岩泉に行こうと促され、ユカも及川に背を向けて歩き始める。

「な、なんかゴメンね。わざわざ送ってもらっちゃって」

「まあちょっと遠回り程度だし気にすんな。及川のが近かったらアイツに行かせたんだが……元はと言えばあいつのせいだしな」

「う、うーん……」

 ユカとしては下校時刻自体はいつもよりやや遅い程度で気になるほどではないのだが。ここまで言ってくれている以上はもはや好意を素直に受け取るほかないだろう。

「バレー部って確かいつも県の優勝候補だよね。2人ともまだ2年生なのにレギュラーみたいだし、凄いね」

「ああ。まあ俺たちは割と早くからバレーやってたからな。及川はそれなりに体格に恵まれてるし、センスもあるからここ数年ですげー上手くなってんな」

 そっか、とバレーの話を続けつつ思う。及川の場合、知る限り一番熱心な部員のようだし上手くなるのも当然だろう。

「県大会で優勝したら、その次って東北大会?」

「いや、ブロック大会はナシでそのまま全国だな」

「大会は夏休みに入ってから?」

 聞いてみれば、岩泉は頷いた。そして大会の結果を問わず夏休みも練習三昧の日々だという。そっか、と相づちを打っていると自宅が見えてきてユカは改めて岩泉の方へ向き直った。

「私の家、ここなの。わざわざ送ってくれてありがとう」

「おう。じゃあな」

「気を付けてね。また明日」

 岩泉に手を振ってから、ユカは自宅の門をくぐってホッと息を吐いた。及川はもとより、岩泉とこれほど長く話したのも初めてのことだ。気を遣わせて悪かったかな、と再度感じつつ「ただいま」と家に入れば案の定遅いと母親から小言を貰って謝りつつユカは自室への階段をあがった。

 

 バレー部は元より、室内競技はユカにとってあまり身近なものではなかった。

 デッサン練習のため、室外の、サッカー部やテニス部などは見学することも多かったが、室内に籠もっている運動部を見る機会はそうそうない。

 公立校ゆえに北川第一は運動部がずば抜けて強いというわけでもなく、その中で県内屈指の強豪であるバレー部は異色と言えば異色ではあるが。と、バレー部の功績を見知っているのは始業式などの式典の際によく表彰されているからだ。

 ユカにとっては、それだけのことで。

 けれども、あの日以来、体育館以外でも「及川徹」が存在している事を少しだけ認識するようになった。

 意識してみれば彼は目立つ生徒のようで、校庭や廊下で女生徒に捕まっているのを幾度か目にした。

 一度、岩泉を訪ねてきたのか、昼休みに入った直後に自分と入れ違いで反対側のドアから教室に入っていくのを目にした事もある。

 ──彼はとても綺麗な顔をしている。及川に対する第二の情報はそれだ。それ故だろうか? 及川を、ユカはとても機械的に感じていた。よく笑っているのを見かけた。けれども、「屈託のない」笑顔からはほど遠いように思った。

 ユカ自身の知っている及川は、いつも後ろ姿で、肩で息をしていて。その彼と、コート外の彼がどうしても結びつかない。

 けれどもそれさえも追及するほどのことではなく、2年次の一学期はそのまま夏休みとなった。

 

 夏の長期休暇は、ユカはおおよそ東京で過ごす予定を入れていた。

 祖父母宅から夏期集中型の絵画レッスンやフランス語のレッスンに通うためだ。

 仙台に越してくるとき、家族と共に随分と悩んだものだ。東京に留まるか、仙台に家族と共に行くかを、だ。

 悩んだ末、家族と共にいることを選んだ。そう遠くない未来、いずれ別れるのだからなにも小学生のうちに家族と共に過ごす時間を終わらせる事はないと両親が決断し、ユカ自身も従う他はなかった。

 その分、やるべき事がよりハッキリした。仙台行きを選んだことがマイナスになるような事にはしない。──という気負いもあった。

 

 七月下旬。上京予定日の朝。

 ユカは何とはなしに新聞に目を通していた。そうしてごく小さな記事を目に留めて、少しだけ目を見開いた。

 

 "白鳥沢学園・準決勝で優勝候補の北川第一中学を敗り決勝へ!"

 

 そんな見出しだった。県総体のバレー大会の記事だ。──怪童・牛島若利を迎えて一気に県内トップへ躍り出た白鳥沢学園は、2セットを連取して危なげなく決勝進出を決めた。総合力の高さに定評のある北川第一を全く寄せ付けず、今年も全国大会への出場に期待がかかっている。という短い文章と共に牛島と思しき選手のスパイクシーンの写真が掲載されていた。

 そうなんだ、と少しだけユカは肩を落とした。岩泉はもとより、脳裏に及川の後ろ姿が過ぎった。あんなに練習してたのに……、と少しだけ同情する。及川がどのレベルの選手なのかは知らない。けれども、少なくとも、彼がどれほど練習熱心であるかは自分が一番と言っていいほどに知っている。

 とはいえ。気にしたところでどうにもならないか、とユカは新聞を閉じて荷物を持って家を出た。

 東京の夏は例年通り猛暑だ。噎せるようなアスファルトの焼け付く匂い。雑多に行き交う人々。それでも東京は、物理的に仙台より便利だ。少なくともユカのいま望んでいるものが得られる。

 朝から晩まで絵に語学にと明け暮れ、あっという間に二学期が迫ってユカは夏休みの最終週に仙台に戻った。

 残っていた夏休みの宿題を仕上げ、宿題の一つである美術の課題も仕上げようと学校に出向いたのは始業式三日前の午後。

 美術部は夏の活動は自由参加で決められた予定はなく基本的に参加している部員はいないため、おそらく美術室は無人だろう。

 さすがに夏休みと言えど、最終週の午後とくれば運動部も既に部活を終えているようだ。と人気のない校庭を歩いていると、ふと数人のジャージ姿の男子生徒が正面から歩いてきた。青に白のジャージ。男子バレー部だ。

「あいつ、毎日毎日よーやるよなァ」

「新キャプテンになって張り切ってるんじゃないすか」

 すれ違いざまにそんな声が聞こえた。たぶん及川の事だろうな、と察した。──そうか、三年生が引退してキャプテンになったのか。と理解するも、ユカは美術室に向かった。

 案の定誰もおらず、夏休み序盤にある程度仕上げて準備室に置いておいた夏休みの課題・名画の模写を仕上げて帰る頃にはすっかり陽が落ちていた。

 そうして──、ふと体育館を見やるとまだ電気がついていて、さすがにユカは足を止めた。

 まだ及川は居残っているのだろうか? これは岩泉の言うところのオーバーワークではないのか。

 いや、さすがに今日こそはただの電気の消し忘れでは。と、気にかかったゆえにユカはその足を体育館に向けた。

 そうしてひょいと中を窺ってユカは目を見開いた。相も変わらずサーブ練習に明け暮れているらしき後ろ姿は間違いなく及川で。しかも、今日の彼はなぜかユニフォームを着ていた。「1」の番号がいかにも主将らしくユカは思わず頬を緩めたが、打っては肩で息をしている様子に肩を竦めてしまう。

 とはいえ、そろそろ終わりにしてはどうか、とズバッと言えるほど親しいわけでもないし。と、ぼんやりとボールを手に取っては投げ上げ、ジャンプして打つという作業を見つめた。もうこんな姿を一年以上前から知っているが、改めて見比べれば目に見えて上達している。やはり常日頃の鍛錬の成果かな……と思いつつ何とはなしに視線を体育館に巡らせていると、突如として声が響いた。

「──うわぁッ!?」

 え、とユカもギョッとして声のした方を向けば、後ろを振り返ったらしき及川が瞠目してこちらを注視しており。一瞬にして気まずい空気が流れる。

「ちょっと……なにしてんの。びっくりするんだけど」

「え……と、その、体育館の電気がついてたから消し忘れかなって思って」

「ふーん……」

「ご、ごめんね邪魔しちゃって。じゃあ」

 かくなる上はさっさと立ち去ろう。と踵を返そうとすれば、意外にも及川はユカを呼び止めてきた。

「ちょっと待って! ねえ、ちょっと聞きたいことあるんだけどさ」

「え……?」

 すれば及川はどこか色のない表情でこちらへ歩いてきて、ユカも立ち止まらざるを得ない。

 ごく間近まで迫れば、やはり背が高い。既に170後半はあるだろうという長身にユカは少しだけおののいた。

「な、なに……?」

「手、見して」

「え……!?」

 手……? と反射的に右手を出すと、及川は何を思ったのかグイッとユカの右手を引っ張ってまじまじと掌を見やるような仕草を見せた。

「な……なに……?」

「へえ……”天才”の手ってこうなってんだ。ふーん……」

「え……!?」

 天才? と何を言っているか分からず見上げると、及川はどこか遠い目をして肩を竦めた。

「だって……有名じゃん、美術部の栗原ユカちゃん。あんまり君ばっかり表彰されてるからちょっと調べたら、”コンクール荒らし”なんて呼ばれてるんだって?」

 え、とユカは瞬きをした。──そう言えば、と及川と初めて話した日、彼が自分のことを知っているような風だったことを思い出した。なるほど、自分がバレー部を強豪だと知っていたように彼も同じような理屈で自分を知ったのだろう。

 が──なぜこうも憎々しげなのだろうか? そういえば、今にして思えば、及川は一度も自分に他の女生徒に見せるような笑みを見せていない。気がする。いまだって、およそ彼が常日頃女生徒に向けている態度とは思えない。

「あ……あの……」

 何か気に障ることを無意識にやってしまったのだろうか。と様子を窺うと、及川は少しだけ眉を寄せた。

「別に普通だよね。天才の手って、もっと特別な何かがあるんじゃないかって思ってたけど……じゃあ何が違うってんだろ」

「な、なんのこと……? 天才、って」

「ま、バレーと絵じゃ違うかもしんないけどさ」

 そう言われて、ユカはピンと来た。彼は自分に突っかかっているわけでなく、他の誰かを思い浮かべて言っているのだ。と。が──及川のことなど何も知らないユカにとって及川の言葉の意味を解釈するのは不可能に近く、知る限りの少ない情報を脳裏で照らし合わせて、一つだけ思い当たって口にしてみた。

「あ……もしかして、白鳥沢学園の牛島くん、のこと?」

 とたん、及川の瞳に鋭さが増して睨むようにこちらを見据えてくる。

「え、なに、ユカちゃんウシワカ野郎と知り合い?」

「え……!? え、と……新聞で読んだの。その、うちの準決勝の相手だったって。牛島くんのことを凄く褒めてた記事だったから、なんとなく覚えてて」

 すると、なんだ、と言いたげに及川は肩を落とす。

「そ。ま、仕方ないよね。ウシワカの力は圧倒的だし。けどアイツはスパイカーだからね。スパイクの神にでも愛されてんだろうと思うしかないよ。けど……」

 憎々しげに言い下したあと、及川は少し目を伏せて再びユカの手に視線を落としてきた。

「もし、天才の手ってのがあるなら……、天才セッターの手も、どこか特別なのかなって思ったんだけど……。別に違いなんてないよね」

「天才……セッター……」

「いつでも、どこにでも精密にトスをあげられる手。俺は……そんな技術、持ってないし」

「及川くん……」

「ま、この世に存在してるかどうかも分かんないけどさ。そんな特殊な才能持ったヤツなんて」

 言って、及川はユカの手をようやく解放した。そうして再びユカに背を向け、ボール籠の中からボールを手にとってユカはさすがにハッとした。

「及川くん、まだ続けるの? 今日って朝から練習だったんだよね……?」

 思わず言ってしまえば、及川は一度ボールを突いたあとに呆れたような顔でこちらを振り返った。

「ユカちゃんがそれ言う? 人のこと言えんの?」

 言い返されて、う、とユカは言葉に詰まる。──そうだ、基本的にこの時間に顔を合わせられるという意味では、自分たちは同類でもあるのだ。

「で、でも──」

「あと数十本打ったら上がるから」

 反論しようとすれば遮るように固い声で言い返され、ユカはそこで言葉を止めた。元々無理に止めようとも思ってはおらず、そっか、と頷く。

 そうして挨拶だけを及川の背に投げ、ユカは体育館に背を向けた。

 たぶんキャプテン就任で張り切っているのと、白鳥沢に負けた悔しさとが入り交じっての練習時間の延長なのだろうが。身体壊さないといいんだけど、と思いつつふと自身の右手に目を落とした。

 「天才」などと自分自身で思ったことは一度もないが──。及川はその言葉の先に見ている人間──牛島若利──がいるのだろう。

 けれども、岩泉は及川をセンスのある選手だと評していたし。分からないな、とユカは一つ息を吐いた。

 一つ分かったことは。及川の自分に向ける顔は、普段に学校生活で見せる顔と違っているということだ。

 何か気に障る事でもしたのかな……と再度浮かべつつ、ユカは帰路を足早に自宅へ向けて歩いていった。



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02話:及川徹と天才の手

 ──新学期。

 学校生活に特に目新しいことなどはなく、登校し、授業を受け、部活をする。ユカだけでなく、きっとおおよその生徒が似たような日常を送っていることだろう。

 

 及川徹もそのうちの一人であり、基本的に生活は朝練・授業・部活というローテーションで回っていた。

 学内での自由時間らしい自由時間は休み時間程度のもので、授業の合間に友人と喋ったり、クラスを出て女の子に囲まれればにこやかに対応したり、ごく普通の中学生活だ。──そういえば、女の子から騒がれるようになったのっていつ頃からだっけ? 数秒ほど考えてみるも、どうにも思い出せない。まあ、これだけ美少年なんだから当然なのかな。と、ごく自然に口に出したら岩泉辺りから殴られそうな事をうっすらと廊下の窓ガラスに映った自分の姿を見て過ぎらせたのは、違うクラスの女の子から差し入れと称して御菓子をもらった直後の事だった。

 今日のお昼は岩泉と取ろうと教室を出た矢先の出来事だったゆえに、及川はその足を岩泉のクラスに向けた。

 そうして足を踏み入れた途端、傍目にも教室が色めき立ったのが伝った。むろん、自分のせいという自覚はある。

「やっほー!」

 遠巻きに名を呼ばれたので、取りあえず手を振って笑みを浮かべてから岩泉の机の方へ視線を向ければ、心底イヤそうな顔をした岩泉が映って「ヒドイ!」と及川は反射的に主張した。

「なんでそんな顔すんの」

「おめーこそ何しにきやがった」

「岩ちゃんが寂しい思いしないようにお昼ご飯一緒に食べに来てあげたんじゃーん」

「頼んでねえ」

「岩ちゃんってほんと俺の扱い酷いよね!」

 こんなやりとりが当然の事になったのはいつ頃からだっただろう? 岩泉との付き合いは長すぎて、お互いに当然のように親友同士だと思っているから気にもならない。きっと。たぶん。いくら否定されても親友のはずだ。と過ぎらせつつ及川は岩泉の前の空いていた椅子に腰を下ろした。

「岩ちゃん、今日もお母ちゃんの手作り弁当?」

「まーな」

「岩ちゃんのお母ちゃんほんと偉いよね。朝練前にきっちり弁当用意するって大変そうだしさ」

「まあ……そうかもな」

「俺は今日は自分で夕べの残りとか詰めてきたよ! 俺エライ!」

「それが言いたかっただけじゃねえか!」

 笑いながら弁当を広げ、及川はふと顔を上げて「そういえばさ」と岩泉を見やった。

「あの子、いつも教室にいないよね。どこにいんの?」

「あの子……?」

「美術部の栗原ユカちゃん」

 岩ちゃんと同じクラスなんでしょ、と続けると「ああ」と岩泉が視線をどこかへ向けた。おそらくはユカの席なのだろう。

「そういや、いねぇな」

「エ、まさかいま気づいたの!?」

「お前な……、クラスメイトだからって一人一人の行動把握してるわけねぇだろ」

 呆れたように言い返され、む、と及川は口をへの字に曲げた。悪い頭でも少しは働かせてないとますます悪くなるよ。と口から出かけたが、その後が分かり切っているので止めておいた。──以前、岩泉がユカと2人で体育館に現れた夜、岩泉はユカを律儀に家まで送っていったが。これは本当に律儀以外の理由はないようだな、と思いつつ箸を弁当につける。

 ──まさか、な。と及川はなんとなくユカの居場所を察した。たぶんきっと美術室だろうな、と思いつつ。もしかして自分も昼にトレーニング追加をした方がいいのだろうか? と思いつつ岩泉の顔を見たら、なぜか睨まれてしまった。

 なんでそんな顔すんのさ、と再度突っ込みつつ思う。これ以上やると今度は身体が悲鳴を上げそうだ。やりたいが、物理的にやれない。絵を描くだけだとそんな心配いらなさそうでいいよな、と我ながら意地の悪さに感心してしまうことも過ぎらせてしまった。

 でも──。彼女の手。「普通だね」と言いはしたが、普段見ている女の子とは全然違っていた。「天才の手」という意味ではない。使い込んでいるのだとありありと分かる手をしていた。

 まあ、自分だって負けてないけどね。とうっかり箸を置いて自分の手を凝視していたらボソッと「キメェ」と声が聞こえた。

「なに自分の手に見とれてやがんだ。気色悪ぃな」

「ヒドイってば!」

 ──冬には新人戦が控えている。主将として初めて臨む大会。トーナメント方式の試合ではおおよその場合、準決勝もしくは決勝まで白鳥沢とは当たらない。とはいえ、白鳥沢も必ず勝ちあがってくるはずだ。そう、今度こそ白鳥沢に勝って優勝してやる。と及川は岩泉と冗談を飛ばし合う裏で強く思った。

 怪童と呼ばれる牛島若利を迎え、白鳥沢学園中等部は宮城県のいち強豪から「県内最強」と謳われるまでの絶対王者の座についた。同じ中学生、まして同い年なのだから「怪童」などと大げさな。と感じた事とは裏腹に、中学に上がってからというもの一度も白鳥沢に勝てていないどころか一セットすら取れていない。中学一年の夏は、さすがに正セッターは取れずに控えセッターだったが、それでも試合にはピンチサーバー等で出させてもらった。そして夏以降はずっと正セッター。つまり、いままでの全試合を自分は牛島のいる白鳥沢と戦っている。

 夏の中総体、冬の新人戦、そして春の選抜。今まで4度対戦して、全てストレート負けだ。

 今度こそ勝って次に繋げなければ、悲願である全中出場の道は閉ざされてしまう。全国大会への出場チャンスがあるのは夏の中総体のみ。つまり、チャンスはあと一回なのだ。

 夏以降、3年生が引退してメンバーが大幅に替わっている。これからのチームは自分が主軸となるのだ。だから自分が頑張らないと──と考え込む及川は、眼前の岩泉が不審そうに自身を見ていることにとうとう気づけなかった。

 

 

 秋から冬にかけては学校行事の多い時期だ。

 運動部は新人戦。文化部は文化祭。加えて球技大会等々校内スケジュールは予定に次ぐ予定で埋まっている。

 10月に入ってすぐに始まった運動部の新人戦で北川第一はことごとく地区予選敗退を余儀なくされ、こうなってくるといつも通りバレー部の活躍に期待が集まっていた。バレー部自体が試合をするのは冬休み前ということだったが──、ユカがそのようなバレー部情報を知っているのは同じクラスに岩泉がいるせいだ。

 

「かっ飛ばせー、ハ・ジ・メ!!」

「ホームラン! ホームラン! ホームラン!」

 

 岩泉は校内でも屈指のスポーツ万能で有名であり、体育祭や球技大会等々では一躍スターに躍り出る。

 10月中旬に開催された球技大会で、野球を選んだらしき岩泉が華麗にホームランを飛ばす様子を見かけてユカも「わあ」と感嘆の息を漏らした。

 球技大会は全て男女混合で、運動部は所属部以外の球技を選ぶことになっており岩泉は最初からバレーは選べなかったわけだが。あの様子であれば、どの部に転部しても活躍間違いなしだろう。

 及川も今日ばかりは違う競技に励んでいるのだろうか。と、ユカは時計を見つつ体育館に向かった。

 ユカ自身は、生まれ故郷が有明であるため、しょっちゅう目にして馴染みのあったテニスを選びたかったが、あいにく種目にすらなく自動的にバスケットとなってしまっていた。

 むろん本格的にバッシュで臨む気合いの入ったものではなく、体育館シューズで行うものだ。

 が──、体育館に入るなり黄色い歓声が耳に飛び込んできて、ユカは反射的に目を見開いた。

 

「及川先輩ッ、ナイッシュー!」

「いいぞいいぞトオル! いいぞいいぞトオル!」

 

 ──ああ、及川もバスケを選んだのか。と本人を確認するまでもなく分かる声援だった。

 足を踏み入れれば体育館は2面を使ってバスケット競技が行われており、ちょうど及川のクラスがプレイ中で、体育館二階のギャラリーにも観客が出来ている光景が視界に飛び込んできた。

 とはいえ球技大会の規約上、即席バスケチームは素人ばかりのはずである。どういうチームが出来ているのだろう? と過ぎらせつつユカは思い出した。クラスでサッカーのポジションについて相当に揉めていたのを、だ。ほぼ全員が攻撃をやりたがるという典型的な揉め事だった。

 バスケットで言ってもフォワードだろうか。と何とはなしに及川のチームを見やった。及川は背が高い。この中で、ポジション的に合っているのはセンターだろう。が──。

 

「さあ、もう一本いくよ!」

 

 スローインを受け取って指示を出すそのポジションは、ポイントガードだ。なるほど、根っから司令塔が好きなのか。とさすがに感心するやら呆れるやらで肩を竦めてしまった。きっと、センターをやってくれ、と希望が出ただろうに。見たところセンターはさすがに男子を配置しているがフォワードは女子だ。

 とはいえ先ほどの歓声を聞くに、ポジションは形だけで自ら張り切って得点しているのかもしれないし。そもそもバスケ部ではないのだから、そう深く考えていない可能性の方が高いか。とユカは自分のクラスメイトを捜した。

「なんか……、ギャラリー全部あっちに取られてると思うと気分悪ぃな……」

 近くでクラスメイトの男子がそう呟き、ユカは苦笑いを漏らした。

 結局、球技大会は岩泉の活躍もあり、ユカのクラスは良い成績で終わることができた。

 

 そうしていよいよ秋が深まってくれば、街中の木々は秋らしく色づいてくる。

 用事のない休日にユカがすることと言えば、もっぱらスケッチブックを抱えてひたすら風景を描いていくということだ。

 自宅から少し歩けば仙台市の中でも大きめの川が通っている。土手沿いにていつも持ち歩いているレジャーシートを広げてスケッチブックを広げるのは、いわばユカにとっては一つの習慣でもあったが、さすがに寒いかな、と紅葉も見頃の11月上旬に川沿いから山吹色や赤に染まる木々を見つめた。

 そして二週間ほど経てば、学生にとっては今学期最後にして最大の山場でもある期末試験がいよいよ近づいてくる。

 試験開始一週間前から全ての部活は活動停止になるため、ユカとしても試験前の一週間はあまり好きではない期間の一つだった。なぜなら自宅よりは美術室の方が圧倒的に作業環境が整っているためだ。

 コンクールの締め切りが近い等の理由があれば活動許可を取れるが、今回はそんなせっぱ詰まった理由もない。家で一週間みっちりデッサン練習をしていようか、などと悩みながら週明けから始まる部活停止期間のことを過ぎらせつつ金曜は午前の授業を終えて教室の外に出ると、ユカはふと担任の教師に呼び止められて立ち止まった。

「少々頼みたい事があるんだが……」

 そんな声と共に職員室に付いてくるように言われ、むろん嫌などとは言えるはずもなく付いていく。すると、担任は自身のテーブルに戻るなりあらかじめまとめておいたらしきプリント類をユカに手渡してきた。

 疑問符を頭に描いていると、なんのことはない。どれもこれも見覚えがある。中間試験以降に宿題等々で既にやったことのある問題だった。しかも、数学・理科・そして英語の三教科のみだ。

「あ、あの……、これは?」

 宿題は滞りなくやっているし、理数系に至っては得意科目である。なぜこれを、と考えあぐねていると、担任はこう切り出してきた。

「バレー部の新人戦が試験開け直後に予定されている。そこで、レギュラーのみ試験前及び期間中も通常通りの活動を行いたいと申請があった」

「あ……、そう、なんですね」

 バレー部の新人戦が冬に行われる、というのはユカも知ってはいた。が、よりによって試験直後とは。ちょっと大変だな、と同情を寄せていると担任はさらに話を続けた。

「そこで、岩泉なんだが……。お世辞にも成績のいい生徒とは言えん」

「……」

「お前も放課後は部活停止になるだろう? 自分の復習にもなるし、岩泉の勉強を手伝ってやって欲しい」

 岩泉には誰か一人付けさせると既に伝えてある。と切り出され、ユカは拒否権のない状態でそんなことを押しつけられて文字通り絶句した。

 確かに部活はないのだから時間が出来ると言えば出来るが。──と職員室を出て取りあえず教室に戻ろうとドアの所まで来てユカはピタリと足を止めた。

「あ……」

 珍しいことではないが、岩泉の席の前には及川が座って何やら雑談をしつつ昼食を取っている。

 これはいま話しかけるのは面倒だな。けれども及川はキャプテンだ。先ほど教師に言われたことを伝えた方がいいのだろうか? とはいえ、それは岩泉自身がきっと伝えているだろうな、とユカはそのまま踵を返していつも通り美術室に向かった。

 そうして放課後。岩泉が部活へと行く前にユカは彼を呼び止めて話を切り出す。

「岩泉くん。あの、先生から聞いと思うんだけど……。その、部活停止期間の間の勉強のこと……」

 が、どう説明すれば分からず曖昧な言い方をすると、おう、と岩泉は瞬きをした。

「先生、誰かに頼むっつってたけど栗原だったのか。悪ぃななんか」

「う、ううん。それはいいんだけど……どうしよう? いつにする? 私、先生からプリント預かってるんだけど」

 そう言って先ほど担任から渡されたプリント一式を出せば、岩泉は露骨に「ゲッ!」と顔をしかめた。

「私は部活ないから、バレー部に行くのを少し遅らせてやってもいいし、早めに切り上げて部活のあとでもいいし……」

「ああ、そうだな。そういや停止中の練習メニューについてまだ監督とも及川とも話してねーや」

「そ、そうなの?」

「悪ぃ。何とか都合つけてみるわ。栗原、携帯持ってるよな?」

「え……うん」

 連絡先を教えて欲しいと言われてユカは携帯を取り出し、岩泉は取りあえず後で連絡すると言って部活へと駆けていった。

 ふぅ、とユカは息を吐く。──彼の成績はそれほど芳しくないのだろうか? 来年は受験生なのに、と思うも岩泉より練習過多と思われる及川はその辺りどうなのだろう? バレーが強いならバレーで進学ということもあり得るだろうが。と過ぎらせつつ自分も部活へと向かう。

 文化祭後に3年生が引退してしまい、美術部はさらに少人数制になって場所を広く使えるという意味ではありがたかった。が。高校はもっと設備的にも充実した所に進みたいな、と思う。仙台に越してきていなかったら東京で通ってみたい学校もあったが、とついつい過ぎらせてしまって視線が落ちてきてハッと首を振るう。取りあえず、高校までは仙台にいると既に決めた。ここで出来ることを精一杯やるしかない。

 などと考えつつ日も落ちてきてそろそろ帰ろうかと準備していると携帯が鳴った。着信だ。見れば岩泉からで、メールを打つより電話した方が早いと思うタイプなのか。と、どことなく岩泉らしさを感じ取りつつ受信ボタンを押す。

「はい」

「おう、俺、岩泉だけど。いま大丈夫か?」

「うん」

 どうやら周辺の音から外にいる様子だ。帰宅中なのだろう。

「今日話してたヤツ、放課後でいいか? 俺、ちょっと遅れて部活参加するってことで話つけたわ」

「うん、分かった。じゃあ、土日のうちに今日渡したプリント進めてもらっていい?」

「は……!?」

「放課後、分からなかった所とか間違ってる所の復習した方がいいかな、って。時間もあんまりないみたいだし……」

「お……おう。そうだな」

 なんとかしてみる、と岩泉が答えて電話を終え、ふ、とユカは息を吐いた。取りあえず帰ろう、とコートを手にとって美術室を出て校舎を出る。とたん、吐いた息が白く空気に溶けていった。やはり日が落ちるといっそう寒い。

 ユカはちらりと体育館の方を見やった。まだ明かりがついている。大会前で、及川は主将として臨む初めての大会。おそらく優勝を狙っているのだろうし、当然なのかな。と、ユカは体育館に背を向けた。



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03話:及川徹の憂鬱

 ──翌週。月曜日の放課後。

 ユカは取りあえず岩泉が土日の間に進めてきた数枚の理科のプリントを見やって渋い顔をしていた。半数近くの問いが空欄で、他の半数は間違いが目立つ。

「い、岩泉くん……コレ……。電気回路とか物理分野のところ、全部空欄なんだけど……」

「あ? 全て意味不明だ」

「え……」

「記号の羅列にしか見えん」

「……」

 岩泉はそんなに不真面目な人間には見えない。きっと彼なりにノートなりを広げてやってはみたのだろう。ということは余計に厄介だな、とユカは自分のノートの空白ページを机に広げた。

 ユカにしてみれば全て得意分野。図解して基礎の理屈からの説明に入った。ユカにとっては得意分野である以上に好きなことでもあるため、きっと岩泉だって分かれば楽しいだろうとなるべく興味をそそるように伝えていく。

 岩泉の良いところは躊躇や遠慮などおよそ感じさせない部分のようで、分からなければすぐに何故そうなるのか質問が飛び、ユカとしてもやりやすかった。

 少しコツが掴めたのか、一問解けたときには笑みを見せてくれ、ユカもつられて笑った。が、あっという間に一時間が過ぎ、岩泉も部活に参加したいということで今日はここまでと切り上げる。

「じゃあ、今日の部分は復習してきてね。明日また進めようね」

「おう。わりぃな」

 岩泉の背を見送って、深い息を吐きつつ思案する。このペースで間に合うのだろうか、と。

 案の定、火曜・水曜と思ったように勉強は進まず、木曜日の放課後は一時間で切り上げずに延長した。

 取りあえず数学を今日終えられるだろうか? 英語はどうしよう。と、悩んでいたら二時間ほどが過ぎてきたようで、廊下から聞こえてくる足音にユカは顔を上げた。と、同時に勢いよく教室のドアが開かれた。

「岩ちゃーん!? なにやってんの、もう二時間経ったんだけど!?」

 ドアの方を振り返る前から、おそらく岩泉も声の主が誰であるか理解しただろう。二人揃って目線をやると案の定ジャージ姿の及川がいて、なぜか目を丸めている姿が映った。

「あれ、クラスメイトに勉強教わってるって……。なんだ、ユカちゃんだったんだ」

「こ、こんにちは……」

 なぜそんな不本意そうな顔をするのだろう? 眼前の岩泉もややうんざりしたような顔をしている。

「おめーは何やってんだよ」

「たったいま休憩に入ったの! それに副主将がいないんじゃ示しつかないじゃん」

「示しつかすほど部員いねーだろ。レギュラーしか部活出てねえんだし。こっちも好きで残ってるわけじゃねえしよ」

 そこまで言い下して岩泉はハッとしたのか、焦ったようにこちらを見て「スマン」と一言言った。

 ううん、と首を振っていると及川が近づいてきてひょいと机に置かれていたプリント類を掴み上げた。

「ふぅん。ユカちゃん、数学得意なんだ?」

「え……、うん」

「絵だけじゃなくて、お勉強もできるんだ。へぇ」

「オイ、なに絡んでんだよ」

 試すような目線だったせいか岩泉が強く突っ込み、ユカは目を瞬かせた。相変わらず自分はなにか及川の気に障るような事でもしただろうか? と思い巡らせるも、話したことすら数回しかないわけで、当然ながら思い当たらない。

「及川くん、あと少し時間いいかな? 予定通り進んでなくて……」

「人のことより及川、おめーは大丈夫なのかよ?」

「ん、なにが?」

「期末」

「ああ、岩ちゃんよりは大丈夫なんじゃない?」

 ヘラッと及川が笑い、ハッキリと岩泉の額に青筋が立つのが見えたが、ユカとしてはどうしようもなく岩泉に続きを促す他ない。

 及川は休憩中ゆえか、適当に椅子を見繕って座ってしまい、取りあえずユカは及川のことは置いておいて岩泉に集中しようと目線をプリントに向けた。

 なんだかとても視線を感じる、と思いつつも岩泉が質問してきたため、答えることに意識を向ける。

 及川がまだ手をつけていない英語のプリントを掴み上げたのが目の端に映った。

「ねえ、コレ授業で一回やったヤツ?」

「え? うん。試験範囲のプリントを復習してるの」

「ふーん。俺、あんま英語好きじゃないんだよね。勉強する意味わかんないし」

「え……!?」

 あまりにサラッと言われて、ユカは及川の方を思わず向き直ってしまった。意外だったのか及川もこちらを見て目を見開いている。

「な、なに?」

「え、だって……勉強する意味わからない、って。世界に出たとき困るよ……?」

 すれば、及川はいっそう目を見開いて、次いで声を立てて笑い始めた。

「なに、世界!? ユカちゃん、なに、世界目指してんの!?」

 笑われてキョトンとしたユカだったが、すぐにどうやらバカにされているらしいと気づいて、む、と唇を尖らせた。

「及川くんは違うの?」

「は……?」

「バレーで世界に出る、とか一度も考えたことないの?」

「は……!?」

 何を言っているか解せない、とでも言いたげに瞠目する及川を見て、ユカはこんな時ですら「綺麗な目をしているな」と相も変わらず甘ったるいココアのような色をした及川の目を見つつ感じた。

 及川は少し何か言いたそうに唇を揺り動かしたあと、一度キュッと結んでから歪んだ笑みを作り出した。

「世界、ね。やっぱ天才ってスケールが違うよね」

 言って、ガタッと及川は席を立ち、こちらに背を向けた。

「じゃあ岩ちゃん、早めに切り上げてさっさと部活来なよ」

 そのまま教室を出て行ってしまい、再び2人きりになった空間にやや気まずい空気が流れた。

 「あー」と岩泉が言いづらそうな声を漏らした。

「ワリぃ。あいつ、試合前で元からのクソな性格に輪をかけてクソになってやがんだ」

「そ……そう」

「けど……。女に絡んでるとことか見たことねえんだがな」

 岩泉が不思議そうに眉を寄せ、ユカは少し肩を落とした。──たぶん「天才」という言葉の先にいたのは、県大会で対戦する白鳥沢の牛島の事なのだろう。と察するも、なぜ自分と彼を重ねている風なのかユカには全く解せない。

「あ……、もしかして、牛島くんって日本代表とかに選ばれたことあったりする?」

「は……? 牛島、ってウシワカのことか?」

「え、っと、白鳥沢の……」

「ああ、ウシワカ。さあ……さすがにまだねぇんじゃねーか」

 そっか。とそこで雑談を打ち切り、勉強を再開する。何とか一通り終えて岩泉を送り出し、ユカは肩で息をした。はやく帰って少しは自分も勉強しようと思う。なにせ期末は9教科だ。さすがにいくつかは復習をしっかりやらないと心許ない。

 岩泉は元よりみっちり部活を入れているバレー部の他のレギュラーは試験対策は平気なのだろうか。それほど勉学に厳しい学校とも思えないが、集団赤点などになったら部活動はどうなるのだろう。と思いめぐらせるも、ユカにとってはあまり関係のない事であることも事実であり。

 翌日、なんとか担任に渡されていた分のプリントを終え、土日の午後はバレー部はオフにしたのか何度か岩泉から質問の電話がかかってきて答え、一応は自分に課せられた役目は果たし終えた。

 そうして週明けの三日間のテスト期間を終え、岩泉にどうだったか声をかければやや青い顔をしながら「まぁまぁかな」と力なく答えていた。

 

「岩泉ー! 新人戦っていつやんの?」

「今週末、ホットアリーナでだ」

「マジか。遠くない?」

「まー、市内の方が楽っちゃ楽だったけどな」

「じゃあ決勝! 決勝はぜったい見に行くよ!」

「及川君の初キャプテンっぷりも超見たいしね!」

「及川君に私ら応援行くって伝えといてよね!」

 

 そうして女子から質問攻めされて答える彼を横目に見つつユカは感じた。今さらながら、「及川徹の幼なじみ」というポジションにいる以上、彼の気苦労が今の会話の中に見えた気がして同情心のようなものが少しだけ芽生えてしまった。

 バレー部は北川第一中学校きっての期待の星だ。土日の試合。しかも試験開けのストレスから解放された直後となれば、部員以外にも多数の生徒が応援に駆けつけるだろう。

 及川は、主将として初めて臨む大会。勝負である以上は毎回100%勝つという事は不可能であるし、そこは仕方のない世界なのだろうが。それでも、初キャプテンは気合いが入るだろうな。と、夏の終わりに「1」の背番号を付けて遅くまでサーブ練習に明け暮れていた及川の後ろ姿を思い出してユカは少し肩を竦めた。試験前の及川はどうやらピリピリしていたようだが、やはり出来る限り頑張って欲しいと思う。

 とはいえ。ユカはむろんバレー部の行方に心を割いている暇はなく、今度の土日に至っては上京の予定が入っている。そのまま慌ただしく残りの日々を過ごし、「バレー部の新人戦があった」という事実を思い出したのは試合明けの月曜日の朝のニュースでの出来事だった。

 

「宮城県中学新人バレーボール大会は大本命である白鳥沢学園の優勝で幕を下ろしました。主将の牛島若利選手を中心とした攻撃力の高いチームとして知られる白鳥沢は、決勝相手の北川第一中学校を全く寄せ付けず──」

 

 ローカルニュースで、画面には白鳥沢の牛島と思しき選手のスパイクシーンが映し出されていた。

 ──そっか。負けちゃったのか。とユカの脳裏にチラッと及川の後ろ姿が過ぎった。

 夏、白鳥沢に負けて彼は少し荒れているように見えた。今回は主将として臨んだ大会で、きっと優勝を狙っていたはずだ。もしかして夏以上にダメージを受けているのだろうか? それとも、新人戦は全国へ続くわけではないゆえにそこまででもないのか。

 バレーに関してだけは、彼のひたむき具合を良く知っている分、これ以上がむしゃらに突っ走らないといいのだけれど。などと思いつつ登校する。

 すれば、バレー部の勝敗は結構なニュースとなっていたのかちらちらと通り過ぎる生徒達からバレー部の話をしているのが聞こえた。「及川先輩残念だったよねー」「ねー」。そんな会話が主だ。

 それからユカが「違和感」に気づくまでそう時間はかからなかった。

 時おり、廊下や校庭で及川を見かける。そういう時はたいてい、彼は笑顔だった。その笑顔をいつも「作り物みたいだ」と感じていたのは事実だ。しかし体育館外で見る彼はいつも笑っていた。

 だというのに、新人戦以降、ユカは一度も彼の笑っている姿を見ていない。はじめのうちは気に留めていなかったが、はっきりと気づいたのは冬休みに入る直前に女生徒に囲まれてすら笑みを見せなかった様子を見かけてからだ。

「及川くん……」

 意識しなくとも及川の姿や声はそれなりに目に付く。なのに、ぱったりとそれが止むと違和感しか残らない。

 とはいえ、ユカには何もできることはなく──。ユカはその日の美術室で一人、スケッチブックを広げていた。他の部員は顔見せ程度で既に帰ってしまっている。あまり熱心でない部員ばかり抱えているのは悲しくもあり、自由に美術室を使えて快適でもあり。

 ユカはパラパラとスケッチブックを捲った。──自分は元来、あまり人物画というのに興味を抱いたことがない。だからだろうか? 「正確に出来ればいい」と思っているスケッチは、人物に至っては「機械のようだ」と揶揄される事があった。まるで、体育館外で見かける及川の笑顔のような、だ。

 しかしながら、今日の及川は──、とユカは自身のスケッチブックを見据えながらやや顔をしかめた。例え機械のようでも、笑みを作る余裕すら失ってしまったということだろうか。と、小さく息を吐きつつ、パタン、とスケッチブックを閉じた。

 長時間練習を続けることの弊害がどれほど身体に出るかは分からないが。自分だって腱鞘炎や指の怪我には気を遣っている。ただ、それでも、身体への負荷など気にも留めずひたすら描き抜くこともある。例えば狙っていた賞に漏れたときなど、だ。

 だから。及川の気持ちも少しは分かる。──と、帰宅時に明かりの付いた体育館を見やってユカはキュッと唇を閉じた。

 通り過ぎれば良かったのに、ユカは足を体育館に向けた。さすがに真冬。体育館の扉は閉じている。一定の打撃音とシューズが床を擦る音がドアの先から聞こえてくる。中に誰がいるんだろう? とは今さら思わない。今日も及川が残ってサーブ練習をしているのだろう。

 ふる、とユカは肩を震わせた。さすがに寒い。帰ろう。ここにいても自分に出来ることはない。と踵を返してハッとした。

「岩泉くん……」

「栗原……」

 いったん体育館から離れてまた戻ってきたのか、振り返った先には岩泉がこちらに歩いてくる姿が映ったのだ。

「及川に用事か?」

「え? あ……その、そういうわけじゃないんだけど。その……」

 ユカは目を少し伏せた。その先に白いものが落ちていく様子が映った。伏せた先で目を見開く。雪だろう。

「及川くん、最近、様子が変じゃないかな……って思って」

「まあ、ヘラヘラできねえ程度には凹んでんだろうな。白鳥沢には連戦連敗だ」

 ユカは返事に詰まる。岩泉も口をへの字に曲げ、そうして話を逸らすように空を見上げて「降ってきたな」と呟いた。

「お前、傘持ってきたか?」

「え……。ううん」

「なら、これ使え」

 すると岩泉は鞄の中からゴソゴソと折り畳み傘を出して差し出してきた。

「え? いいよ、雪だし、平気」

「いいから使っとけ。今日はあのバカの回収に手こずりそうで送って行けそうにねえからな」

「でも──」

「部室に置き傘あんだろうし、あんま酷けりゃ親に来てもらうから心配すんな。帰り道、なんかあったらすぐ電話しろよ」

「う……うん。じゃあ、ありがとう」

「おう」

「また明日ね」

 半ば押しつけられるようにしてユカは傘を受け取り、岩泉に背を向けた。帰れ、と暗に言われているのだと察したためだ。元々及川に会って帰るつもりは少しもなかったが、岩泉なりに今は顔を合わせない方がいいと感じての行動だったのかもしれない。

 

 岩泉はそんなユカの背を見送って、ため息を吐きつつ体育館に入った。

 コートの半分にはいっそ無惨なほど無数のボールが散らばっており、その反対側にいた及川はまるで自分がコートに現れたことなど気づいていないといった様子でサーブを放った。

 そうして岩泉は3本ほどサーブを見送り、はぁ、とため息を吐いた。

「おいコラ、及川──」

「なんで勝てないんだ……?」

 声をかけると同時に、及川は強くボールを握りしめて唸るように呟いた。

「なんで勝てない──ッ!?」

 岩泉は眉を寄せた。何度も聞いた台詞だった。──白鳥沢学園は、牛島若利は、及川にとって初めての壁であると言える。

 及川は小さい頃から体格にもセンスにも恵まれていた。実際、彼に敵う人間はそうそういないし、いなかった。及川も自分自身で理解していただろう。自分は強いし、強くなれる、と。けれども彼の思いはまるで幻想であると突きつけるかのように牛島が及川の前に立ちはだかった。

 ポジションの被っていない牛島にああも対抗心を燃やすのは、個人として負けていると実感しているからだろう。事実、及川は今すぐ牛島と同じウィングスパイカーにコンバートしたとしてもやはり優秀な選手だろうと断言できる。が、圧倒的なスパイク力を持つ牛島に勝るかと言えば、答えはノーだ。

 秀でている、と自覚があるから苦しむのだろうか? 自分ははっきりと、個人としても同じポジションとしても牛島に負けている、という事実を認めているし、それを踏まえて、北川第一が負けているとは認めていないというのに。

「次、勝てばいいだろうが」

「次ったって、白鳥沢とやれるチャンスはあと2回。全国のかかった中総体は来年の夏、たった一回しかない……!」

「つったって、次は勝とうと思う以外に出来ることはねーべや……!」

「だから、そのためにやってんだよ俺は! 俺がサービスエースで25点取れば、それで勝ちだよ!」

 言って及川はそのまま持っていたボールを空に投げ上げた。

 あと30分以上続くようなら、さすがに止めるか。と、岩泉は大きくため息を吐いた。

 

 二学期が終わり、冬休みが開けても及川の様子に変化は見られなかった。

 ユカの目に「機械的」と映っていようとも及川が常に笑みを浮かべて明るい様子だったことは、きっと親しみやすさにも通じていたのだろう。

 女生徒も話しかけにくいのか、ここ最近は女生徒に囲まれている様子さえ見ない。

 けれども及川の人気が落ちたかというとそういうわけでなく、美術部内ですら「アンニュイな及川先輩も素敵」等々の声が流れていて、ユカとしてはいっそ感心もしたが。

 それでも、あのままで大丈夫なのか、というのは気がかりでもあった。もし、白鳥沢に一度でも勝てば笑みも戻るのだろうか?

 ぜったいに勝てない相手がいる。というのは多かれ少なかれ誰しも持っているものだろう。及川の気持ちが分からないわけではないが、はやく立て直せると良いのだが──。

 

 という思いとは裏腹に、北川第一男子バレー部は今年度最後となる県春季選抜大会にてまたも白鳥沢学園に敗北を記した。

 

 そして4月──。

 及川にとって、自分の人生に大きな影響を及ぼす人間に出会うことになるなど、この時はまだ誰も知るよしもなかった。



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04話:及川徹と天才の出会い(なお3人目)

「秋山小出身、影山飛雄です。バレーは小2からです。よろしくお願いします」

 

 小柄な少年だった。これからの部活動に期待と希望いっぱいというのが瞳の輝きから眩しいほどに伝った。

 第一印象は、ずいぶん早くから始めたんだな、といった漠然としたものだった。

 一通りの新入部員の紹介が終わって、及川は監督に促され全員の前に立った。

「ようこそバレー部へ。俺は主将の及川徹。一緒にプレイ出来る期間は長くないけど、よろしく」

 ──こんな時すら、うまく笑えない。と及川はいっそ自分を呪った。笑みを作るなんて得意中の得意技だったというのに。一年生もあまりに無愛想な主将にびびっているかもしれない。が、そんな事を気遣う余裕さえなかった。

「では練習は通常通り。一年生は球拾い。後半は力を見るためにコートに立たせるから、気は抜くなよ!」

「はいっ!」

 監督の声に全員が返事して、いつもの部活の始まりだ。

 今日の入りはサーブ練習。それからポジション別の練習に入る。

 及川はいつものようにボールを手にしてエンドラインから少し距離を取った。

 小さく息を吐いてから、ふ、と前を見据える。ボールを投げ上げ、助走を付けて跳び上がっていつものように打った。

 が──、着地した瞬間、ゾクッ、と身体を悪寒のようなものが走った。

 驚いて目を凝らし周囲を見渡すと、さっきの、小柄な少年と目が合って、パッと逸らされてしまった。

 なんだ? と及川は眉を寄せたが、ジャンプサーブが珍しかったのかな、と気にも留めずにもう一本、さらに一本と打った。

 そうして一通りのメニューが終われば休憩が宣言され、監督が新入部員にコートへ入るよう指示を出した。

 及川はタオルで汗を拭きつつ何となくコートの外からその様子を見た。

 北山第一は強豪校だが、全ての選手が経験者なわけでも強いわけでもない。まして新入部員ともなるとつたないことが多く、去年の一年生達を思い出して微笑ましささえ感じた。

「次、影山入れ!」

「はいッ!」

 が──先ほどの少年がコートに入って微笑ましさなどは完全に一変した。

 彼は、今の自分ではあり得ないような嬉しくてたまらないといった眩しい表情でコートへ入った。あまりの眩しさににいっそこちらの目が潰れそうだ、と客観的に分析できたのはこの瞬間までだった。

「オーライ!」

 影山はセッターの位置に入った。そうして浮いたボールがセッターに返った瞬間、及川は影山の指先が光ったような錯覚を見た。

 そのまま影山の指先に吸い込まれるように落ちたボールは、目を奪われるほどのフォームで正確にスパイカーのいる位置へ弾き出された。

 一連の動きはまるでスローモーションのように及川の目に映り、及川が息を呑んだ瞬間──、振り返った影山と確かに目が合った。今度はそらされなかった。かち合った視線が、まるで世界に2人しかいないと思わせるほどに正確に互いを見据えていた。落雷に打たれたかのように微動だにできない。及川には影山と見つめ合った瞬間が、まるで永遠だったような気さえした。

「次──ッ!」

「──はい!」

 監督の声に影山が答え、ハッと及川は意識を戻す。

 身体の芯から震えるような感覚が伝った。たった1プレイだというのに。──ああ、あれが「神に愛された手」を持つ人間なのか。と恐ろしいほどに感じ取ってしまった。

 いや、けれども。やはりただの錯覚なのでは──と期待して及川は再びコートに目をやり、影山を見た。まるでコートに立っているのが嬉しくて仕方ないと叫びたいような表情だ。

 遠目に監督が驚いたような表情を浮かべつつ、そして次第に感心したような笑みに変わっていくのが見えた。おそらく彼もまた、影山の才能を感じ取ったのだろう。

 及川はただグッとタオルを握りしめた。

 

 ──神に愛された才能。なんて自分でも随分とばかげている。

 

 そんなこと、あるわけないのに。

 と、信じたい心とは裏腹に、影山の能力は群を抜いていた。日を追うごとにそれは確信に変わった。むろん、バレーを早期に始めたせいもあるのだろう。が、それだけではない。バレーを愛する純粋さと、ボールに触れているだけで幸福だと全身で訴える表情と、そして、ボールの扱いへの慣れ方が他者とは違っていた。

 何より、トスを上げる精度が普通の人間のそれとは桁違いだった。──あんな精巧なトスをあげる人間を、及川は生まれて初めて目にした。

 いっそ、部活に行くのさえ憂鬱だ。と朝から晴れない気持ちのまま朝練に出向く。自分はたいてい一番乗りか、それでなくとも早く着く方だが、この時期の一年生は主将より遅く来るとペナルティがあるとでも思っているのか異様に早い。体育館に入る前から、やはり先着がいるらしいと及川は気の滅入る思いがした。

「キャプテン! おはようございます!!」

 コートに入るなり、いっそ「いなければいいのに」とすら思っていた相手が大声で挨拶をしてきて及川は目を合わすことすら叶わない。

「……。おはよ」

 おまけに。その相手──影山はストレッチの間ですらこちらに視線を投げてくるのだ。なに見てんだよ、と怒鳴れたらどれほど楽だろう。と苛つきつつ何とか我慢する。

 こんな後輩になど気を取られている場合ではないというのに。もうすぐ最後の中総体が始まるのだ。今度こそ白鳥沢に勝って全国へ行くんだ──と自身をどうにか叱咤する。

 自分はキャプテンで、チームの司令塔。自分がやらなくては──と気を張り続けて4月の下旬。新入生が入ってきてから二週間近くが経っていた。

「影山の事ですが……」

 零れたボールを追っていると、ふとコーチのそんな声が聞こえ、及川は無意識に耳を澄ませていた。

「ああ、基本色々なポジションはやらせるが……ゆくゆくはセッターだな」

 すれば、監督のそんな声が届いて、ひゅ、と及川は自身の肺に冷気が流れ込んでくるような感覚に陥った。

 ──影山がセッターとして入ってくる。それは当然だろう。彼は一番セッターとしての才能を見せているのだから。

 けれども、なぜ? 北川第一の正セッターは自分だ。トスの精度で勝てなくても、他はまだまだ自分の方が上だという自負はある。

 監督達はなんの話をしているのだろうか? 自分が引退したあとの、自分の後釜としてのセッター?

 それとも──、と考えたくもない考えが過ぎって及川は強くかぶりをふった。

 冗談じゃない。夏の中総体は最後のチャンスなのだ。白鳥沢に勝って全国へ行く、最後のチャンスだ。急に現れた「天才」一年に自分のポジションを奪われてなどなるものか。

 なぜ、いつも「彼ら」は自分の邪魔ばかりするのだろう? なぜ、牛島も、影山も、いつも「天才」とやらは自分の前に立ち塞がるのだ?

 ぜったいに負けるわけにはいかない。──と及川はその日以降、自身に課していた練習量をさらに増やした。

 

 一方、ユカはバレー部の諸事情など知るよしもなく、ようやく暖かくなってきた春の気候を嬉しく思っていた。

 校庭の桜はもう散ってしまったが、新緑がまばゆく、これはこれで瑞々しいものだ。

 昼休みに美術室に向かう道すがら、うっかりと渡り廊下でその緑に目を捕らわれてスケッチブックを広げていると、ふと校庭の隅の方で一人でボール遊びらしきことをしている少年が目に入り「あれ?」とユカは首を捻った。

 ぽんぽんと、規則的に上空へ投げ上げられているカラフルなボールは、バレーのそれだ。バレー部の新入部員だろうか? と、どこか「着られている」感じの学ラン姿と小柄な背格好からユカはそう感じた。

 昼休みも練習とは随分と熱心な部員だ。が、体育館を使えばいいのに。と思った先でユカは少々肩を竦めた。

 及川は相変わらずの様子であるし、昼休みの今でさえ体育館に籠もっている可能性も高い。あれでも彼は3年、それも主将。おまけに笑みも見せない及川のいる体育館に新入部員が入っていくのはさすがに難しいのかもしれない。と、察しつつも、新入部員が入って空気も変われば、及川も良い方向に刺激を受けているかもしれないと思いつつユカは自身のスケッチ作業に意識を戻した。

 季候がいい、というのは純粋に嬉しいものである。冬の寒さが特別に嫌いということはなかったが、それでも春は外でのスケッチがはかどる。

 花が咲き乱れ緑も青々とした季節は、やはり絵になるものだ。

 四月の最後の日曜、ユカは川沿いの土手でスケッチブックを広げていた。シロツメクサやタンポポが無数に絨毯のように広がっている。花冠を無数に作れそうだ。

 今日は久しぶりにあまり好んでは使わない水彩色鉛筆も持ってきたし、日暮れまでは粘って描こう、と張り切って作業に入ってしまえば時間の感覚というのはすぐに失われてしまう。

 日が傾き、目の前が茜色になってからユカはようやくハッとして顔を上げた。見上げた空は、端の方が既に紺色に変化している。

 さすがに帰ろうかな、と立ち上がって道の方を振り返ってユカは、あ、と目を見開いた。

「お、──」

 前方に見慣れた青のジャージが目に映ったのだ。男子バレー部のジャージだ。

「及川くん……?」

 それが及川であると気づいた時には、彼はこちらには気づかず道をそのまま走り去って行ってユカは絶句した。

 この土手は北川第一とは反対に位置している。ロードワークにしては随分と遠い場所のはずだ。その証拠に、自分は頻繁にここに来ているがロードワーク中の同級生とすれ違ったことは今まで一度もない。

 それに──。横切った時に見えた及川の横顔がなぜだか泣き出しそうな様子だったのは気のせいだろうか?

 どこまで行くつもりなのだろう。と、小さくなってしまった背を追ってユカはギュッとスケッチブックを抱きしめた。

 去年の新人戦以降ずっとああなのだ。先月も白鳥沢に負けてしまったらしいが、さすがにもう立ち直ってもいいのでは──との思いからユカは週明けの月曜に廊下で岩泉を目にして歩み寄ってみた。

「岩泉くん」

 去年は同じクラスだった岩泉だが、今年度は違う。話をするのは久々でもある。

 おう、と応じた彼にユカは単刀直入に切り出した。

「及川くん……大丈夫?」

「は……?」

「昨日、川の方の道で見かけたの。たぶんロードワーク中だったと思うんだけど……。なんか、すごくせっぱ詰まってるように見えたから。その、去年の暮れからずっと、だし」

 すると、岩泉は少し目線をそらして唇を噛むような仕草を見せた。そして数秒、考え込んでいるのか黙り込んだ岩泉を見てユカはハッとする。

「あ、ごめんなさい。私、関係ないのに……」

「いや、いい。ったくあのボゲ、身体壊したら元も子もねえってのに」

「岩泉くん……」

「ああ、スマン。週末、練習試合があんだ。それで根詰めちまってんだろ。俺も気ぃつけて見張っとくわ」

 ──これは、あの雪の日と同じようにはぐらかされたかな。とユカは感じた。

 岩泉なりに自分と及川の相性の悪さのようなものを感じているのかもしれない。自分は及川を良く知らないが、なぜだか及川には好かれていないと感じるのだから。内々に及川自身が岩泉に自分を苦手だとでも告げているのかもしれない、とユカは肩を竦めつつ、そっか、と頷いて引き下がった。

 

 しかしながら、それが事実かはユカには確かめようもなく──、裏腹にバレー部内の緊張の糸は今にも切れそうな状態にあった。

 

 岩泉にも及川の焦りは手に取るように分かっていた。

 ただでさえ白鳥沢に6戦6敗。1セットすら取れない完敗続き。いよいよ最後の中総体が近づいてきたという状況で、追い打ちのように背後に迫った「天才」。

 影山飛雄は岩泉の目から見ても圧倒的にセンスに恵まれていた。いずれはどれほどの選手になるのか。スケールの大きな夢を見てしまうほどの可能性を秘めていた。

 及川も当然、影山の才能を感じ取っただろう。そして、影山の希望ポジションはセッター。監督もそのつもりらしいというのは岩泉も知っていた。

 白鳥沢に、牛島に勝てない焦りと、追われる焦り。目に見えて練習量を増やした及川を、オーバーワークだと怒鳴りつけたことも1度や2度の事ではない。

 あんなにヘラヘラした人間が、もう数ヶ月も笑みを見せていない。それどころか状態はますます酷くなっていっている。

 何をそんなに追い込んでいるのか? 及川は優秀な選手だ。優秀だからこそなのだろうか? だからあと一歩と届かない彼らの持つ才能に苦しみ、自身を悲観しているとでもいうのか。

 今の及川の目に映っているのは、牛島と影山の2人のみなのか。

 そう思うと酷く歯がゆい気がした。自分たちの付き合いはもう10年近くになるというのに。

 最初にバレーを始めたのは及川だった。なんだそんなボール遊びなんて、と最初は相手にしなかったのにいつの間にかつられるように自分もバレーボールを手に取った。そして同じクラブチームに入って、今までずっと一緒にバレーを続けてきたのだ。

 なのに、及川の目には牛島と影山しか、「天才」の姿しか映っていない。自分はおろか、北川第一の仲間さえも。──と感じる岩泉の脳裏には、影山も「北川第一のチームメンバー」という考えは完全に欠落していた。

 これが、後々の人生に悔恨を残すことになったかどうかは今はまだ分からない。

 ただ、主将である及川があの状態でチームがまとまっていない事に焦燥を覚えていた。

 そうして、岩泉の抱えていた懸念は最悪の現実となって目の前に現れた。

 週末に予定されていた、近隣中学を北川第一に招いての練習試合での事だ。

 メンバーはいつも通り。岩泉もいつも通り、レフトに入った。その日の試合前のミーティングでも特にいつもと変わったところはなかった。

 が、最初に違和感を覚えたのは及川がサーブミスをした事だ。

 及川のジャンプサーブは決まれば強力な武器であるが、コントロールは完全とは言えないゆえにミスも多い。だが、その日のミスは岩泉に漠然とした違和感を抱かせた。

「おい、トス低い」

「あ、……ごめん」

 試合中に声をかけてみるも、反応も特におかしな様子は見せなかった。が。次に全くタイミング外れのトスがあがって、さすがに岩泉は瞠目した。

 及川らしくないミスに、ベンチからもどよめきの声があがった。なにより、及川自身が一番自分のミスに驚いているといったような愕然とした表情をしていた。

 及川自身、自身の感覚のズレに意識が追いついていなかったのだろう。その日のミスは1度や2度に留まらず、過去最高数のコンビミスとなって現れ、ついには体育館にけたたましいホイッスルの音が鳴り響いた。

「影山、入ってみろ。及川と交代だ」

「はいッ!」

 及川の背中が硬直したのがはっきりと岩泉の目に映った。それでも交代を告げられた彼は、手を掲げて自分の替わりに入ってくる影山の手にタッチした。

 そうしてコートに入ってくる影山の、緊張と昂揚が一体になったような初々しい笑みを視界に映しながら、岩泉の意識の中には初めての試合に臨む後輩を気遣う余裕などどこにもなかった。

「よろしくお願いします!」

 頭をさげる影山の声が耳に響いた。が、ベンチで俯く及川の姿が気にかかり、眉を寄せるも息を吐いて首を振るう。取りあえず、今は試合に集中するのが先決だ。

 影山は中学初試合とは思えないほどのセットアップを見せた。岩泉にとっても、おそらく他のメンバーにとっても慣れている及川の方がやりやすかったが、それでも寸分狂いなくあげられる正確なトスに、影山の才能を感じずにはいられなかった。

「よっしゃ、ナイスキー!」

「ナイスッ!」

 けれども。どうしても岩泉には影山を褒める言葉が出てこなかった。影山のトスでスパイクを決めてさえ、ハイタッチの一つもしてやれなかった。──それがのちの影山に影響を与えたかまでは岩泉には知るよしもない。嬉しそうに笑う後輩が、及川のいるべき場所にいるのがなぜだか無性にいたたまれなかった。

 結局、試合はセッター交代が功を奏したのか巻き返して北川第一の勝利で終わった。

 

「お疲れっしたー!」

「お疲れー!」

 

 夕方には解散となり、一同、今日も残るという及川を背に「またか」と半ば様式美のように「お先」と告げて帰っていった。

 岩泉もそのうちの一人であり、普段通り帰ろうといったんは帰路についた。今日の交代はおそらく堪えただろうし、少し一人にした方がいいかもしれないと感じたからだ。

 が、やはり気にかかってくるりと踵を返し、元来た道を足早に戻っていく。どう声をかけようか。幾通りもの台詞が頭を駆け抜けていった。どう言えばいまの及川の心に響くのだろう?

 開いたドアから体育館を覗けば、やはり及川は一人でいつものようにサーブの練習をしていた。さすがに声をかけづらく、しばしその様子を見守る。

 が──、ふと、思いもよらない影が現れて岩泉は瞠目した。

「及川さん!」

 影山だ。まだ残っていたのか──と過ぎらせたときには彼はボールを手に持ったままはにかんだような笑みを浮かべて及川のそばに歩み寄っていた。

「サーブ、教えてください!」

 さすがに岩泉はおののいた。いくら才能のある新入生といっても、新入りの一年生と主将の及川では当然のように距離がある。おそらく影山は、今日、及川と交代したことで初めて及川との距離が縮まったと感じたはずだ。そして居残り練習していた及川を見かけて思い切って声をかけてみた。とか、そんな心境なのだろう。

 が、影山の心情など思いやっている余裕は岩泉にはただの少したりともなかった。及川は影山の声が遅れて届いたように全身をしならせ、ゆっくりと顔をあげて影山の方を向いた。

 岩泉の位置からは及川がどんな表情をしているかは見えない。が、及川の肩が震え、左腕を振りかざしたあたりで「あ、ヤバイ」と本能的に悟った岩泉は体育館に駆け上がった。

 そうして影山を振り払おうとも殴ろうともしていた手首を掴んで押さえ、思い切りがなり付ける。

「落ち着けッ、このボゲッ!!」

 及川は自分がなにをしようとしたかさえ自覚できていない様子で、瞳孔を開いたまま愕然と腕をおろした。

「……ごめん……」

 細いその声を聞いて岩泉は手を放し、訳の分からない状態だろう影山の方を見やる。

「影山、悪いけど今日は終わりだ」

「あ……、はい」

 言えば、影山は及川の方を気にしながらも素直に体育館を後にした。それを見届けて、岩泉はまだ呆然としている及川の方を見やる。

「今日の交代は、おめーの頭を冷やすためだろうがよ。ちょっとは余裕持て!」

 それは岩泉がずっと指摘したかった一言であり、及川にとっては言われたくない一言だったのだろう。ハッとしたように彼は瞳を釣り上げる。

「今の俺じゃ白鳥沢に勝てないのに、余裕なんてあるわけない! 俺は勝って全国に行きたいんだ! 勝つために俺はもっと──ッ」

 強くなりたい、とでも続けたかったのだろうか? その言い分にいい加減怒りのゲージが振り切れた岩泉は皆まで言わせず憤りのままに及川の顔面に頭突きを入れた。

「俺が俺がってうるっせええ!!!」

 勢いのままに吹っ飛ばされて鼻血を吹き出した及川を見下ろしながら岩泉はなお続けた。

「てめーひとりで戦ってるつもりか!? 冗談じゃねえぞボゲッ! てめーの出来がイコールチームの出来だなんて思い上がってるならぶん殴るぞ!」

 及川のTシャツの襟元を掴み上げて訴えれば、「もう殴ってるよ……」と小さく突っ込みが入ったが、岩泉は構わず及川を見据えた。

「一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ! けど、バレーはコートに6人だべや!? 相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!」

 岩泉は思ったままを吐き出した。紛れもない岩泉の本心であり、きっと及川にとって救いになる言葉だろうと分かっていた。それ以上の影響はこの時は全く頭になかった。無意識のうちに後輩であり、今日はプレイさえ共にした影山を「倒すべき相手」と定めてしまったことさえ今の岩泉には無意識のことだった。

 及川はその言葉に、付き物の落ちたような顔をした。笑みさえ漏らした彼に、当の岩泉でさえ困惑したほどだ。

 けれども、久々に、本当に久々に笑う及川を見て心底ホッとしたのも事実だ。これでもう大丈夫だろう。この時は、本心からそう思った。



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05話:及川徹の勘違い

『一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ! けど、バレーはコートに6人だべや!?』

『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 

 ──あの言葉に、急に視界が晴れた気がした。

 6人で強い方が強い。その言葉はまるで魔法のようで、一瞬にして俄然無敵な気分になった。

 まるで魔法にでもかけられたような気分。あくまで「気分」になった……、そんな些細な引っかかりには気付けず、ただただ視界が晴れて全てが吹っ切れた。

 6人ならばきっと負けない。怪童・ウシワカだろうが天才一年だろうが、だ。そう……天才一年は、あいつは、自分、いや自分たちにとって「敵」。

 それでいいんだ。──と及川は無意識のうちに理解した。

 天才はやっぱりキライだけど。でも、敵は目下あの二人。だから……とちょっとだけユカの姿が過ぎった。

 

 

 季節は5月も中旬が近づいてきた。

 

「及川せんぱーい!」

「及川さーん!」

 

 ユカは校庭にて後輩と思しき女生徒に呼び止められ、笑顔で対応する及川を見かけて少し目を見開いた。

 ここ最近、以前のように及川が笑っている姿を見かけることが多くなった。

 精神的に持ち直したということだろうか。

 なんにせよ、良かったかな。と思いつつもユカにとって及川は「顔見知り」以上の存在ではなく、普段通りの生活をするだけだ。

 ユカにとって、今年度に入ってから少し気になることがあった。昼休みに校庭で一人でバレーの練習をしている一年生と思しき少年のことだ。

 5月も中旬の昼休み、その日もユカは校庭の隅でその少年を見かけた。相も変わらず一人で楽しそうにボール遊びをしている様子だったが、いま現在は及川の機嫌も良さそうだし体育館に行けばいいのにな、との思いから何となくユカは通り過ぎずに渡り廊下からその少年の方を見ていた。

「あ……!」

 そうしてしばし見ていると、ヒュ、と吹いた風のせいでボールが流れたのか少年の手から零れ、ユカの方に転がってきてユカはしゃがんでそのボールを手に取った。

「あざっす!」

 顔をあげると、駆け寄ってきた少年がはにかみながらそう言った。大きくて切れ長の涼しげな目元は、幼さのせいで猫みたいに愛嬌があった。彼のさらさらの黒髪のように瞳まで真っ直ぐに黒い。

 どうぞ、と渡そうとしたユカだったが、少年がふと別方向に視線を奪われているのに気づいてユカは首を捻る。

 視線を追うと、その先には野良猫と思しき小さな猫がいて、ああ、と察してユカは笑った。

「可愛いね」

「……ッス」

 少年は小さく頷き、目をキラキラさせてそっと野良猫に近づいていった。が、しゃがみ込んでゆっくりと手を伸ばそうとしたところで猫の方が怯えたように毛を逆立てて走って逃げてしまい、がっくりと肩を落とした少年がさすがに気の毒でユカも彼の隣にしゃがみ込んだ。

「きっとびっくりしちゃったんだね」

 話しかければ少年は、む、とまるで唇をアヒルのように尖らせた。拗ねたような表情に幼さが混じってなんとも可愛らしいのは新入生だからだろうか。

「俺、嫌われてるんです」

「え……」

「いっつも、逃げられてかわされる……。ぜんぜんわけわかんねえ」

 少年は少しだけ辛そうに眉を寄せて、え、とユカは目を見張った。そんなに猫に逃げられているのが悲しいのだろうか? と思案していると、少年が手を差し出してきたためハッとしてユカはボールを渡し、彼はぺこりと頭をさげて行ってしまった。

 機会があればそのうち岩泉にでも、一年生は昼休みに体育館使用禁止なのか否か訊ねてみようか。などと思いつつユカは美術室に向かった。

 

 美術部の活動というのは基本的には多岐に渡る。

 ユカは一貫してコンクール出品作品の制作に時間をアテていたし、そもそも北川第一の美術部自体がそう活動熱心でないため、多岐に渡る、と言っても実際に実行しているかは甚だ疑問であったが。それでも共同作業は出来うる限り手伝っていた。

 が──。いま現在、一部の部員で少々面倒なことで盛り上がっていて、放課後は部活中に本格的にキャンバスを立てて筆を走らせていたユカは流れてきた会話に少しだけ頬を引きつらせた。

 それは、中総体に臨む運動部の応援ポスターを作ろうというものだった。

 北川第一はそんなにスポーツに秀でた中学校ではない。例外的に男子バレー部が伝統的に強いというのみだ。

 けれどもそんなバレー部ですら、全校生徒体勢で試合会場に応援に駆けつけているかというとそうでもない。が、今年に限っては違うかもしれない。なにせあの及川が主将を務める最後の大会でもあるからだ。だからだろうか? 彼女たちの「応援ポスター」のターゲットは、当然のように男子バレー部のようだ。

 どうも話の内容を聞いていると、彼女たち自身が手持ち無沙汰なのと、純粋にバレー部を応援したいというのと、及川と話してみたいという動機によるものらしい。特に新一年生には及川徹という存在がひどく眩しく映っているようだ。

「ねえ、ユカちゃんどう思う?」

「えッ──!?」

 急に話をふられてユカの腕がしなり、間違って筆を滑らせる所を寸ででこらえてホッと胸を撫で下ろす。

「えー……と、応援ポスターの話、だよね? いいんじゃないかな」

「バレー部の顧問に話通せばいいかなー」

「及川くんに聞いてみたらどうかな」

 たぶん二つ返事するんじゃないか、とまでは言わずに言ってみれば、下級生から黄色い悲鳴があがった。

「話しかけちゃって大丈夫なのかなー」

「だよねー放課後は部活だしー、休み時間とか?」

「えー、緊張するー」

 とはいえ及川の事で女生徒が騒ぐのは今さらでもあるため、ユカはそのまま作業に戻りつつ何となく話は耳に入れていた。

「ユカちゃん、OK出たら描いてくれる?」

「え!? えー……それは、人物画はちょっと……。構図くらいなら……」

「えー、私たちで上手く描けるかなー」

 話を耳に入れつつ、そういえば、とふと気づく。ユカ自身、及川が試合をしている所は一度も見たことがない。

 及川が敵視する牛島もどんな選手か少し気になる。が、たぶん、きっと見ることはないのだろうな。と、その日もギリギリまで居残りを続けて学校を出る頃にはすっかり夜が更けていた。

 今日も体育館は明かりがついている。どうやら今日は及川がラストかな、とユカはそのまま通り過ぎようと思った足を止めた。

 部活中にバレー部の話が出たせいか、少し様子が気になって体育館へと足を向けてみた。

 真冬とは違って開きっぱなしのドアから中を伺えば、相変わらずサーブ練習に明け暮れる及川がいて、ふ、とユカは笑った。

 調子も良さそうだ。一年の頃の彼のサーブはコースアウトの確率も高かったが、いまは格段に決まる率があがっている。

 よくよく見れば、背も伸びたし一年生の頃よりはずいぶんとがっしりしてきた。2年も経ったんだから当然と言えば当然かな。と、懐かしくそのまま見ていると、気配でも伝ってしまったのだろうか? ふいに及川が振り返って、ユカがしまったと思った時には彼は目を見開いて少しだけ後ずさっていた。

「──わっ!? なにやってんの!?」

 しまった。と再度思う。ユカとしてはバツが悪いことこの上ない。

「特に……なにも……」

「じゃあなんでそこにいんのさ!? ていうかユカちゃんいつも無言だよね!? 声かけてよ声!」

 声をかけるほどの事ではない。とか、そもそも練習中に声をかけて邪魔したくない。とか、本当に意味があって来たわけではない。とかぐるぐる考えているうちになぜか及川はツカツカとこちらに歩いてきてユカは目を瞬かせた。

「あの……」

「見たいなら堂々と中入って見ていきなよ。ユカちゃんって好きなんだよね? 俺のサーブ」

「え……!?」

「だっていつも見てるし、俺のこと」

「え……、え……!?」

 もしかして自分は毎日のようにここに来ていたと思われているのだろうか? とんだ誤解をされている。どうしよう、と答えあぐねて困惑するも、彼はなぜか機嫌良さそうに笑っている。怒っているわけでも咎めているわけでもなさそうだ。その反応に多少ホッとしたしたせいか、ユカはつい今しがた考えていたことを口にしてしまった。

「あ……でも、及川くん、すっごく上達したよね。一年生の頃のサーブより、今のほうがずっと素敵」

 ──しまった、と思ったときには及川はどこか試すように笑っていた。

「ほらね、やっぱ好きなんじゃん」

 けらけらと笑う彼は、やはり普段女生徒に向けているような愛想のいい笑顔とは違っていたが、ユカは少々面食らった。彼は気分屋の気があるのだろうか? 今までの事を思い出しても、自分は及川には突っかかられた経験の方が遙かに多い。これほど機嫌良く向こうから話しかけてきたのは初めてのことだ。

「ん、どうかした?」

「あ……その。私、なんか及川くんには嫌われちゃってるのかな、って思ってたから」

 むしろ嫌われるほど接点もないと言った方が正しかったが。言えば、及川はキョトンとしたような表情を晒した。

「天才は嫌いだけどね」

「え……?」

「だってムカつくじゃん。天才とかって」

 さも当然のように言われ、さすがにユカは唇を結んだ。「天才」とやらが誰のことかは知らなかったが、及川はその言葉をたびたび自分に向けていた。つまり、その括りに、少なくとも及川の中では自分も入っているということだ。

「そっか……。なんかゴメンね、邪魔しちゃって」

「え……?」

「もう二度と放課後にここに来ないし、及川くんにも話しかけないから、安心して」

 及川徹がどういう人間か理解できるほど深い付き合いはない。けれどもこれ以上は彼と関わらない方がいい気がしてくるりと背を向ければ、なぜか背後からは焦ったような声が漏れてきた。

「え、ちょ、ちょっと待ってよ。なんでそんな話になんのさ!?」

「だって、及川くんがいま──」

「天才は嫌いって言ったけど、ユカちゃんが嫌いだとは言ってない!」

「は……?」

 さすがにユカは訳が分からず顔を歪めた。

「色々なんか吹っ切れたっていうか! そりゃ、天才はいまもヤだけど、それとこれとはまた別で……。そうだ、俺もうあがるし一緒に帰ろ?」

 及川の言い分は全く解せなかったが、ユカは何となく悟った。及川は、きっとたぶんかなりややこしく面倒な性格をしているのだろう、と。ユカ自身、やや面倒に感じてやはりこれ以上関わらないうちに帰ろう、とそっと半歩後退した所で、体育館には及川とは違う声が響いた。

「及川さん!」

 瞬間、及川の頬がピクッ、としなったのがユカの目にはっきりと映った。が、一瞬だけ浮かべた嫌そうな顔が嘘だったかのように、及川は普段にコート外で見せているような機械的な笑みを浮かべた。

「なに、トビオちゃん。まだ残ってたの?」

 振り返った及川の目線をユカも追うと、視界にいつも校庭の隅で練習をしている例の少年が映って、あ、と目を見開いた。

「はい。今日は宿題がいっぱい出てて、さっきまで金田一たちとやってました」

「そ。で、なんで金田一たちと帰んなかったの」

「練習しようと思って、あの、及川さん。サーブ教えてください!」

 ほわ、とユカは思わず及川が「トビオちゃん」と呼んだ少年に目を奪われた。まるで全身で及川に憧れていると訴えているかのようだ。普段、女生徒に囲まれる及川しか見ていなかったが、よくよく考えれば及川は主将で優秀な選手らしいし、後輩から慕われているのも当然だろう。

 が、及川は軽い調子で少年にこう言い放った。

「んー、悪いんだけど及川さん今日はもう上がるんだよね。行こ、ユカちゃん」

「え……!?」

 笑みを崩さないまま及川がこちらを向き直り、いきなり話をふられたユカは面食らった。見やると少年は猫に逃げられた時のように、む、と唇を尖らせている。

「え、と……。わ、私は一人で帰るから……あの子に付き合ってあげたら? せっかくああ言ってるんだし……」

「なに言ってんの。そもそももう下校時刻でしょ」

「え……でも及川くん、もうちょと遅くまで残ってることけっこうあるのに」

「それはそれ! だいたい飛雄だってさっさと帰さなきゃ飛雄のお母ちゃん心配するよ!? 俺、主将だし監督責任が──」

「あ、俺、そこは平気です」

「お前は黙ってな」

 ユカは一連の会話を聞きつつ脳裏に疑問符を抱いた。及川はあの少年と練習をしたくないのだろうか? とはいえ、一年生をはやく下校させた方がいいというのは確かにもっともであるし。と過ぎらせつつユカは思った。一つ確実な事は、バレー部の事情にあまり巻き込まれたくない、という事だ。

「と、とにかく……私は先に帰るね。その子と一緒に帰ってあげて」

「え、ちょっ──」

 じゃあまたね、と取りあえず笑みを浮かべて告げ、くるりと体育館に背を向けて足早にその場を去った。

 むろんその後、及川とあの少年がどうしたかなどユカは知るよしもなく──。ただ、素直に微笑ましいと思った。あの少年もそうだが、ああやって慕われている及川を、だ。

 思えば、後輩にしろ同級生にしろ「教えて欲しい」なんて聞かれた覚えは一度もない。

 用事ならよく頼まれるが。──と、それから数日後。どうやらバレー部の顧問及び及川に応援ポスターの承諾を得てきたらしい部員たちを前にしてユカは頬を引きつらせた。

「どんなの描けばいいかなー?」

「好きなように描いていいんじゃないかな……」

「えー、でも校内にもたくさん貼るんだし、配ったりもするし、かっこよくしたいよー!」

「そもそも、私、バレー部あんまり知らないし……」

 暗に、図案から何から描いて欲しいと言われてユカは少し肩を竦めた。実際、バレー部のレギュラーで知っている人間はせいぜい岩泉と及川だ。それにしたって岩泉がバレーをしている姿は見たこともないし、及川がサーブ練習している後ろ姿くらいしか脳内には情報がない。

「ダイジョウブ! 昨日、みんなで練習見学に行ってきてさー、ほらコレ!」

 言いながら部員の一人がメモやら撮ってきたと思しき写真やらを見せてくれた。ユカ自身、昨日はサッカー部のスケッチに赴いていて部活の時間は美術室にいなかったため、そんなことになっていたとは知るよしもない。

 目を瞬かせつつレギュラーのルックス等々の説明を受けて、やれ及川がどれだけ格好良かったかを説明してくれる声を聞いてユカは肩を落とした。

「この前も言ったけど……。私、人物画って好きじゃなくて。構図考えるだけでいいかな?」

「えー、そんなに上手いのにー?」

「スケッチはするし、もちろん描けるけど……。せっかくみんなで作るんだから、私が描いたら意味がない気もするし……」

 少し苦笑いを混ぜつつ、ユカは考えた。彼女らの目的は及川と話すことと、純粋にバレー部の応援、ということで。作業そのものにはあまり重点を置いていないのかもしれない。もしかしたら技術的な不安もあるのだろう。

 んー、と悩みつつ、ちらりと部員の方を見やる。

「選手の顔とかって描かなくてもいいんじゃないかな? 例えば、影絵みたいな感じで……」

 バレーボールは6人制。守備専門のリベロというポジションを入れるとレギュラーメンバーは7人らしいが、ユカは取りあえず分かりやすく6人をそれぞれ配置して背格好の個性を出しつつポーズの指定と色指定、背景案などを描き込んで部員らに手渡した。

「あ、いいかもー!」

「うん、これなら私たちでも描けるかも!」

「ユカちゃん、あとで修正してくれる?」

「うん、もちろん」

 取りあえず提案を気に入ってもらえたようでホッと息を吐きつつ、お互いそれぞれの作業に戻る。

 

 それから数日間、美術部の大多数はバレー部の練習見学に行った。むろん、バレー部の顧問を始め及川も承諾していることである。

 及川にとっては誰に練習を見学されようが些末な問題だった。部の活動であれファン活動であれ常に誰か、特に女の子に見られるのは慣れているし、何の問題もない。問題があるとしたら──。と、アップも終えてサーブ練習も終えて一息ついているところにさっそく近づいてきた気配を感じ取って、歪みそうになる顔に無理やりに笑みを浮かべて構えた。

「及川さん! サーブトスのコツを──」

「え、なに? 及川さんの好物はなにかって?」

「いえ、あの──」

「せっかくだから教えてあげよう。牛乳パン! けっこう意外って言われるんだよねー」

 振り返ってピースサインを決めれば、話しかけてきた人物──影山は、さすがにイラッとしたように顔を強ばらせた。

「そうですか、分かりました。俺の好物はポークカレーです。温卵つきだともっと嬉しいです」

「そっか。別に聞いてないけどね」

「じゃああの、サーブトスのコツを──」

「いやだね、ばーかばーか! しつこいんだよ飛雄は!」

 なんで将来の敵を自ら鍛えなきゃなんないのさ。と大人げなくベロを出したところで岩泉が後ろから声を投げてきた。

「及川、一年に絡むんじゃねえ」

 最初に絡んできたのはあっちなのだが。との反論はさすがにやめて、及川はプイッと影山に背を向けた。

 なぜこう毎回毎回、懲りずに聞きに来るのだろう? 影山だって主将相手に毎回玉砕するのは心理的に負担ではないのだろうか? それとも、天才はそんな部分すら鈍感なのか。と、及川はため息をひとつ吐いた。

 ──同じポジションの後輩。普通なら自分が直接指導しなければならない人間、なのは分かっているが監督からも別に指示されていないし。自分は夏でここを去る人間だし。何より今の自分は影山を気にしている暇などないのだ。影山の天性の才能に敵わないと思うからこそ、せめて軽くあしらうくらいしか平静を保つ道がない。これしかバランスを取る方法がないのだと思う。岩泉も言っていたではないか。6人ならば天才一年にも負けない、と。いずれ彼と戦うことがあれば、きっちり6人で叩き潰してやる。と思い巡らせて及川は、ふ、と息を吐いた。さすがにそれはまだ先のことだ。が、もう既に自分の中で影山は「後輩」ではなくはっきりと「敵」のポジションにいる。

 と、理解する頭に少し矛盾が混ざるのも及川は気づいていた。「及川さん」と自分を呼ぶ影山が、どんな表情をしているか──なんて。ずっとずっと自分の背中ばかり見ていて、その視線が痛くて鬱陶しくてたまらない。今すぐ視界から姿を消してくれて、二度と自分を見据えるあの視線を感じないで済めばきっと心底安堵するはずだ。なのに、実際にそうなったときに酷く自分は動揺するような気がして、及川はその矛盾をあえて無意識のうちに心の奥の奥へと押しやっていた。

 ともかく、どのみちいまは後輩にあまり構っている暇はない。中総体の宮城県大会まであと二ヶ月。勝ち上がって行かなければ、全国には進めない。

 そのままスパイク練習のためのトス上げに入って一段落ついた所で休憩に入り、ドリンクを手にとって、ふぅ、と息を吐いた。

 何となく目線を上にあげれば、二階のギャラリーにいる美術部員が目に入って「あれ?」と及川は自分と同様にドリンクを取りに来た岩泉の方を見やった。

「ユカちゃん、来てないね」

「あ……? ああ、美術部の話か」

 岩泉もぐるりとギャラリーを見渡してから腰に手を当て、こちらに視線を流してくる。

「良かったじゃねえか」

「え……?」

「お前、アイツのこと苦手なんだろ?」

「え? 何ソレ。別にそんなことないけど?」

 いきなり何を言うんだ、と言えば岩泉は驚いたように目を丸めたあと、解せない、というような表情を晒した。──なんだろう、先日のユカといいこの反応。もしかして岩泉がユカに自分がユカを嫌っているとでも伝えたのだろうか? いや、まさか。

 あ。でも。そういえば、と思い返す。ユカの名前を覚えたきっかけは、やたら校内の授賞式等で名前を挙げられ表彰されているからであった。かなりの難易度の賞を幼少時からバンバン取っていたらしく、その才能を讃えるような場面も何度も目にした。──ああ、嫌だな、天才って。と、時おり彼女と白鳥沢の牛島がダブってみえて。

 でも、その「才能」とやらに興味があったのも事実で。我ながらめんどくさいな、と及川は小さく唸った。おかげで愛想良く笑顔で対応なんてできずに過ごして、もはや今さらどうにも修正できなくて、でも、なんとなくそれでいい気がして。

 彼女がバレー選手だったら、ぜったい仲良くはできなかっただろうな。と、及川は自分の感情がいくつもの矛盾で形取られているのを感じ取った。まるで、影山に向かうそれと同じように。

 しかし沈思している暇などあるはずもなく、自ら休憩終了を宣言してコートへと戻る。

 そうして今日も居残り練習をいつも通りこなすわけだが。──なぜ帰らないのだろうか。と背中に視線を感じて及川は小さく舌打ちをした。

「トビオちゃーん、練習しないならもう帰りな?」

 しばし我慢していたが耐えかねて、努めて笑顔で視線の主の方を向けば、その主・影山は、むぅ、と唇を尖らせた。

「見てるだけです」

「帰れ、気が散る」

「じゃあ──」

「教えないよ、いま忙しいし」

 言い捨てて、及川はボール籠から新たなボールを手に取った。──ああ嫌だ、と思う。サーブはおろか、隙があれば影山はこちらの一挙手一投足を盗むようにして見ている。レシーブ、スパイク、ブロック、影山の方が勝っているだろうトスでさえ。全てだ。

 きっと彼はその有り余る才能で、教えずともいずれ自分の技などコピーしてしまうだろう。冗談じゃない、と投げ上げたボールを気持ちのままに叩き打った。小さく影山が「すげぇ」と呟いた声が伝った。

 自分はセッターだが、サーブは自分の持つ最高にして最大の武器だ。まだ遊び程度でバレーボールに触っていた頃、テレビでジャンプサーブが決まった場面を見て強烈に憧れた。なんてカッコイイんだろう。自分もあれをやりたい。そう思った日から毎日毎日見よう見まねで練習を続けた。

 そうして何年も何年もかけて磨き上げてきたのだ。急に現れた天才に、血の滲むような努力をして得たものを奪われたくはない。

 ──遠いあの日に覚えた「憧れ」。カッコ良くて自分もできるようになりたいと純粋に思った気持ち。影山がかつての自分と同じ目で自分を見ているなんて、考えなくても分かっている。けれども、彼はきっと自分の何倍もの早さであっという間に自分を越えていくだろう。自分は所詮、天才の踏み台になる程度でしかないのなら、彼の養分になどなりたくない。

 ああ、嫌だ。飛雄がいるだけで、こうも簡単に心が乱されてしまう。笑わないと。得意技じゃないか。笑って、いつものようにあしらえばいい。

 祈るように思いながら、ひたすら及川は気持ちをボールにぶつけた。

 そうして続けているうちにいつの間にかボール籠の中が空になっており、荒い息を吐きながら呼吸を整える。

「飛雄……?」

 そういえば、とふと気づいた。影山の気配を感じない。帰ったのだろうか? と視線を巡らせると、彼は教えを請うことを諦めたのか「練習しないなら帰れ」という言葉を正面から受け取ったのか、隣のコートに入ってトスの練習をしていた。

 どうやら狙った位置にトスでボールを落とすという遊びなのか練習なのかよく分からない練習をしているようで、床に無造作に並べられたバレーボールを器用にバレーボールで弾いていく様が目に映って、つ、と及川は息を呑んだ。

 まるで精巧な機械だ。どうやったらあんなトスをあげられるのだろう? 目を見張る頬に汗が幾重にも伝っていく。

「飛雄……お前、やっぱ天才だよ……」

 口元が歪んだのが分かった。──あの手を欲しいと願うことは、そんなに間違っているのだろうか?

 掻き消すように、岩泉に言われた言葉を思い浮かべた。

『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 そうだ。仮にこの先の未来に彼に追い抜かれたとしても、それはイコールチームの負けを意味するわけじゃない。

 6人で強い方が強い。そう思えば何でも出来るような気がして不思議と落ち着いた。大丈夫だ。笑うのは得意技。いつものように笑えばいい。そうして今は、中総体予選を勝ち抜くことだけを考えていればいいのだ。



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06話:及川徹への憧れ

 試合中、一番多くボールに触れているのがセッターだ。

 チームの司令塔であり、敵ブロックを欺きかわしてスパイカーにボールを運ぶ。

 一番格好良くて、一番面白い。それがセッターだ、と影山飛雄は純粋にセッターというポジションに強い憧れを抱いていた。

 バレーを始めたのは小学二年生の頃。とにかくボールに触れているのが楽しかった。そのせいか、けっこう練習熱心な方だと自分でも思う。が、好きでやっていることで、自分にとっては当たり前のことだった。

 だから人より多少は秀でている自覚があった。でもそれは早期に始めたことと豊富な練習量によるもので、きっと他人も自分と同じようにやれば同じようにできると思っていた。

 

 中学にあがることをずっと楽しみにしていた。

 自分の学区は強豪と名高い北川第一。より良い環境でバレーをできるのが嬉しかった。もしかしたら全国大会にも行けるかもしれないし、見たこともないような凄い選手がいるかもしれない。

 そんな思いで入部の日は興奮を抑えるのに苦労した。

『ようこそバレー部へ。俺は主将の及川徹。一緒にプレイ出来る期間は長くないけど、よろしく』

 さすがに強豪。新入部員は多いし先輩も多い。主将だと名乗った人はどことなく固い雰囲気で厳しそうで、身体も大きくて威圧感があった。

 入部したての初日からコートに立たせてもらえるとは思っておらず、取りあえずのコートに散らばる零れ球拾いを指示されて黙々とボールを拾い集めつつちらりとコートを見やった。そしてなんとなく、主将と名乗った人を目で追った。単純に主将ならば一番上手いのかと予測したからだ。

 そうして、彼は目の前でジャンプサーブを打った。跳び上がった瞬間、完全に目を奪われた。テレビなどでジャンプサーブを見たことがないわけじゃない。でも、こんな近くでこれほどのサーブを見るのは初めてで、まるで取り憑かれたようにその人をジッと見つめた。瞬間、伝ったのか振り返られて、目が合った瞬間に自らそらしてしまった。

 ──すげえ。あの人、すげえ……! 中学って凄い所なんだ……!

 昂揚を抑えきれないままにそう感じた。でも、それはすぐに見当違いだと悟った。もちろん中学生は小学生よりはレベルは上だしレギュラー陣は相応の選手たちだ。でも、凄かったのはその人──及川徹だったのだ。

 おまけにポジションはセッター。あんな選手になりたい、と強く思った。けれども彼は主将で自分は新入部員。話しかけるチャンスなんてそうそうないし、近づくことさえ難しい。

 ようやくチャンスが巡ってきた、と感じたのは練習試合の日だ。その日、及川は調子が悪かったのか交代を指示され、かわりに自分が入った。中学で初めての試合というのも嬉しかったが、及川のあとを任されたのが何より嬉しかった。思ったよりも上手くプレイできて、試合には勝てたし、レギュラー陣とも初めて話ができて、チャンスだと思った。

 その日は及川が一人で残って練習していて、思い切って声をかけてみたのだ。サーブ教えてください、と。

 なのに──と影山は授業中の眠気と戦いながら、ハァ、とため息をついた。

 あの日以来、チャンスがあれば教えを請いに出向いているが、毎回あしらわれて終わっている。なんでだよ……と思うも、なぜなのか本気で分からない。

 嫌われている……、とはいえ嫌われるほど接したことはない。でも、特に理由がなくともこちらの存在を受け付けない、ということはあるのかもしれない。昔から、自分はなぜだか動物に懐かれないというか嫌われているような気がしているし、近づいたらもれなく逃げられるからだ。それと同じで、及川もそうなのかもしれない。

 いや。というか、単純に性格が悪いに違いない。いつだったか「トビオちゃん」と呼ばれて反射的に不本意な顔を浮かべたら、それが痛く気に入ったのか、以来なぜか名前で呼ばれている。それはもう慣れたし嫌じゃない。が、性格悪いことこの上ない、と思ったのは確かだ。

 けれども自分にとって重要なのは、及川に教わりたいことがたくさんあるということ。別に及川の性格まで気にしていない。と、影山は再度ため息を吐いた。

 県総体前だし、もしかしたら引退して時間ができたら教えてくれるかもしれない。サーブだってブロックだって、セットアップも。色々教わりたい、と思う心とは裏腹に、国語教師の読み上げる朗読文がまるで子守歌のようで、影山はついに耐えきれずに瞳を閉じた。

 

 

 6月に入り、ユカはまさかいつも校庭の隅で一人熱心に練習をしている少年と及川の複雑にもつれ合った事情など知るよしもなく、普段通りの生活を続けていた。

 先月に美術部が取りかかったバレー部応援ポスターは既に完成し、刷り上がってきたばかりだ。

 おまけに県大会を前にして及川には地元テレビ局の取材が入ったらしく、生徒達がその噂で騒いでいたのはユカも耳に入れていた。ゆえに、北川第一はバレー部の中総体県予選へ向けて普段以上に盛り上がりつつある状況にあると言っていい。

 しかし。バレー部を学校一丸で応援しようという主旨は当然だと理解できるけれども。ポスターを貼っていくのはやっぱり少し恥ずかしい。と、部員みなで各教室、掲示板等々へ貼るという作業を分け合ったユカは3年生の共同掲示板にポスターを貼りつつ少し耳を染めていた。

「何やってんの?」

 よほど恥ずかしいと思ったのか、今はあまり聞きたくない声が耳に響いた気がする。と理解して数秒後。ハッとしてユカは振り返る。

「お、及川くん……。岩泉くん」

 視線の先には声の主である及川と岩泉がいて、無意識にユカはポスターを隠すような姿勢を取った。が、当たり前のようにそれは無意味に終わった。

「これアレか? 先月、美術部がポスター描くだの言ってたヤツか?」

「え……う、うん」

 当然のように岩泉に問われて、ユカは頷いた。ポスターの出来自体はユカ自身もなかなかだと思っているし、見られるのは全く構わないのだが。自分の提案でないとはいえ、そしてバレー部が学内で唯一の強豪クラブであるとはいえ。ピンポイントでバレー部を対象にポスターを描いたということがやはり恥ずかしくて少々いたたまれない思いを抱えていると、ジッとポスターを見ていた及川がこちらを向いた。

「これユカちゃんが描いたの?」

「え!? う、ううん……。その、構図と色指定、あとデッサン修正だけ」

「へ? それって全部じゃないの?」

「ち、違うよ。私、基本的にノータッチだったもん」

「あー、そういえば居なかったよねえ……。美術部の子たちが部活見学に来てた時」

「うん、別のことしてて」

「でも放課後見にくるくらいなら、みんなと来た方が効率イイよね? 及川さん部活中はサーブ以外もやってるよ?」

「だから、見に行ってるわけじゃないって言ってるのに……!」

 ケラケラと笑われて、思わず言い返したユカはハッとした。あまり及川と話している所を他の女生徒に見られたくなくて周囲を見渡すも誰もいなくてホッと息を吐く。

「おい及川、その薄ら笑いヤメロ。気持ち悪い」

「ヒドッ、気持ち悪くないしステキだし!」 

 ユカ自身、こうして黙って見ていれば及川は端正で整った容姿をしているとは確かに思うのだが。やはりこの性格は──と思うも、そういえば彼は女生徒の前では作り物のような笑みを向けてにこやかに対応する人、女生徒曰く「素敵な人」だった。と若干引いていると気づかれたのか及川がこちらを見た。

「え、なに?」

「……なんでもない……」

 けれどもやっぱり。瞳は凄く綺麗だ……とうっかり目が合ったものだからユカは少しだけ斜めにそらしてから、そうだ、と岩泉の方を見た。

「県大会、夏休みに入った直後なんだよね」

「おう」

「きっとウチの生徒、いっぱい行くよね」

「お前も来んのか?」

「え……!?」

 特に他意なく言った言葉を聞き返され、反射的にユカは硬直した。その予定はない、とは言えずに黙していると「え」と困惑気味の声が及川からあがった。

「ユカちゃん、こんだけ招致活動やっててまさか来ない気?」

「え、でも、これ、私の企画じゃなくて……その……」

 さすがに、行かない、と言い切るのはこの場では難しく、ユカはどうにか言葉を濁した。美術部のみんなは応援に行くのだろうか? けれども仮に行くとしてもそれは美術部の活動外なはずで、きっとプライベートなことだ。かくなる上は、早いところ退散した方が賢明だろう。

「じゃああの、私、続きやらなきゃいけないから行くね」

 これ以上話がややこしくなる前に行こう、とユカはまだポスター貼りの作業が残っていた事をいいことに、笑みを浮かべて2人の横を抜けた。

 足早に廊下を歩きつつ、窓にうっすら映った自分の姿を目に留めて、う、と髪を押さえる。仙台は梅雨入りを迎えたばかり。ゆるく天然パーマの入ったクセっ毛は普段よりも波を打っている。

 そういえば及川の髪も普段より跳ねていた気がするし、及川ももしかしたら天然パーマなのかも、と過ぎらせればその部分だけは親近感が沸いて少しだけ口元を緩めた。

 そのままユカは梅雨をテーマにしたコンクールの出品等々に追われてバタバタ過ごし、あっという間に一学期は終わりを告げた。

 そうして今年の夏は最初から最後までみっちり東京での絵画と語学の夏期講習を入れており、ユカは終業式の次の日には新幹線に乗っていた。

 バレーの県総体は週明けから三日間かけて行われる。さすがにポスター作業を経て日付も場所も覚えた。

 ユカの脳裏に、もうずっと一年生の頃から見知っている及川の後ろ姿が過ぎった。

 応援には行けないが。今度こそ白鳥沢に、牛島に勝って優勝して欲しいと思う。きっと白鳥沢の選手だって、牛島だって日々努力し続けているのだろう。それでもやっぱり、及川は誰より頑張ってきたことを知っている。未だに彼の性格を面倒に感じる部分もあるが、やっぱり自分は及川に一番最初に感じた印象を完全には忘れ去る事はできないだろう。

 ──名前も知らない、とびきり練習熱心なバレー部の男の子。その少年・及川へ向かう第一印象は、間違いなくプラスのものだった。

 それは今も、変わってない。たぶん。きっと。いやぜったい。根はバレーに真摯な人だから。

 だから頑張って欲しい。と窓の外の流れる風景を見ながら思った。



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07話:及川徹の進学先

 東京の夏は暑い。

 ユカは東京に留まるときは、母方の祖父母の家に身を寄せていた。ユカの目から見てもけっこうな資産家なのだろうな。と思うが、それを上回る豪邸などは近所を歩けばごろごろしている。

 ユカの父親はバイオニクスを専門とする自然科学の権威で、ユカ自身は生まれ持った資質にプラスして父の教育の甲斐あって理数系は得意であり抜けているという自負があった。

 加えて語学教育に熱心な父の後押しもあり、英語に加えてフランス語を学んでいるのだが、これはユカ自身の将来に関わることでもある。

 なにせいずれは絵の勉強のため渡仏しようと思っているのだから、フランス語ができなければ話にならない。

 仙台に越して以降、中央で教育が受けられないマイナス面を補うようにユカは夏休みは一日中絵も含めた勉強に明け暮れていた。東京にいたときに世話になっていた絵画の恩師もむろん東京にいるため、やはり東京の方が都合が良かった。

 すっかりバレー部のことも忘れて忙しく日々を過ごし、そういえば、と県総体の事を思い出したのはお盆になって上京してきた両親の顔を見た時のことだ。

「お母さん、うちのバレー部がどうなったか知ってる? ニュースで見た?」

「バレー部……、さあ、どうだったかしら」

 ダメ元で母親に聞いてみるもやはり知らないらしく、ユカはパソコンを借りて調べてみることにした。きっと勝敗くらいは出ているだろう。

「あ……!」

 適当に関連ワードを数個入れて検索すれば、仙台の地元紙のニュースが引っかかり、ユカはそのページを開いた。

 

 ──王者V! 白鳥沢学園・今年も宮城を制す!

 

 そんな見出しの記事であり、さすがにユカも言葉を失った。躊躇したものの、ふ、と息を吐いてから読み進めていく。

 白鳥沢の決勝の相手は北川第一中学校。という文字に、及川たちは取りあえずは決勝に勝ち上がったのだと知った。

 決勝はかなりの接戦となったらしく、北川第一は1セットを白鳥沢から奪う健闘を見せたこと。そして及川はベストセッター賞を受賞したと書いてあり、わ、とユカは目を見開いた。

 各種ベストセッター、ベストリベロ、ベストブロック賞等々の受賞者リストと選考基準の解説及びスタッツも載っており、ユカは純粋に興味を持って記事を読んだ。

 ベストセッターの基準は、端的にはブロックをはがしフリーでスパイカーに打たせた数。及川は今大会で一番、敵ブロックを欺きトスをあげた優秀なセッターだった。ということなのだろう。

「及川くん、すごい……!」

 セッターとしての及川はユカは一度も見たことがないため、良かったという思いからそう呟いたが、同時にハッとした。結論から言えば、北川第一は今年も全国を逃したということだ。

 及川たちはこれが中学最後の公式戦──。あれほど意気込んでいただけに、ユカとしても残念であるし心配でもあった。なにせ、白鳥沢に敗戦したあとの及川は毎回どこか精神的に不調になる傾向にあるのだから余計だ。

 落ち込んでないといいけど、と思いつつ携帯を取り出す。岩泉に及川の調子を聞く、というのも何か違う気がしてユカは深いため息を吐いた。

 考えてもどうにもならないことは考えていても仕方がない。自分のことに集中しよう。

 そうしてあっという間の夏休みを終えて新学期が始まれば、待っているのは進路指導だ。

 ユカにとっての第一条件は絵に集中できる環境が整っている場所、かつ時間の確保であったため、進学クラスや進学校はまったく考えておらず、たびたび指導室に呼び出される羽目になっていた。

「第一志望、第二志望と私立だが、なぜ公立校を受けないんだ? お前ならもっと上を狙えるだろう。それとも特進科で授業免除を狙っての志望か?」

「いえ、通常授業以外の課外で時間を取られたくないので、公立の進学校や私立の特進には行く予定ありません」

「それじゃ大学はどうする?」

「普通の大学の受験予定は今のところなくて……」

「少し絵で有名とはいっても、もっと将来を考えて──」

 春から再三繰り返されてきたやりとりにぐったりしてユカは指導室を出た。昼休みだというのにコレだ。このやりとり、もしかして受験が終わるまで続くのだろうか。とうんざりしつつ少し風に当たりたくて廊下の窓をあけた。今日は肌寒い。

 ぼんやりと風景を眺めていると、急に黄色い歓声があがった。とはいえ、この歓声が上がる時に誰がいるかなど、この中学校の全校生徒が知っている。

 そういえば今週の家庭科の授業は御菓子作りの調理実習だった。と、きっとソレをプレゼントされているんだろうな、と女の子に囲まれて相変わらず愛想を振りまいている及川を見やって、ふ、とユカは笑った。

 予想に反して、新学期以降に見かける及川は通常運転だった。夏休みの間に夏の敗戦を消化したのか、それとも健闘してある程度の満足を得たのか。いずれにしても変わりない様子にユカはホッとしていた。と、女生徒と喋り終えたのか笑顔で手を振り彼女らを見送る及川をそのまま眺めていると、手を下ろして身体を半回転させた及川とバッチリ目があってしまい、う、と硬直した。

 及川は何を思ったのか一瞬目を見開いたのちに、ヘラッと笑ってこちらに向かって手を振り、反射的にユカは目をそらした。

 相変わらず何がしたいのか分からない。と、恐る恐る視線を戻すと、及川は既に立ち去ったのか姿がなく「あれ?」と思うもホッと息を吐く。いまから美術室に行ってもたいして時間もないし、コーヒーでも買いに行こう。中庭のすぐ横にある出入り口のすぐ外には自販機がある、とそのままユカはいったん下駄箱を経由してから外の自販機に向かおうとした。

 が──。

「なんで無視すんのさ?」

 ひ、と中庭の端で後ろから声がかかった時、ユカはリアルに硬直した。もしかして追いかけて来られていたのだろうか? と、恐る恐る振り返る。

 すると案の定、腑に落ちないといった表情の及川が立っていて、ユカは少し頬を引きつらせた。

「ご、ごめんね。びっくりしちゃって」

「ずっと俺にアツーイ視線送ってたんだから、手くらい振り返してくれてもよくない?」

「べ、別に見てない」

「じゃあ何で目が合うのさ?」

「た、たまたま……!」

 相変わらず、岩泉風に言えば「薄ら笑い」を浮かべる及川を見てユカは心底めんどうなことになった、と心内でため息を吐いた。

 話題を変えようにも話題がない。県総体の事は、もしも地雷だったとしたらあまり触れたくないし、と思うもせいぜい見つかった話題はさっき女生徒に囲まれていたことくらいだが。それはいよいよどうでもよく、どうしよう、と思っていると及川の方が先に口を開いた。

「ユカちゃん、さっき指導室の前にいたよね。なんかあった?」

「あ……うん。進路指導。志望校の事とかいろいろ」

「ああ。俺たち受験生だしねぇ」

「及川くんは──」

 どこ志望なのか、と聞こうとしたところで「なにやってんだ」と見知った声が割って入ってきた。

「岩ちゃん。うん、別になにしてるわけでもないんだけど」

 岩泉だ。まるで見張っていたかのようなタイミングの良さもユカはまったく気に留めず、「こんにちは」と岩泉の方を向いて、先ほどの話を続けた。

「進路の話をしてたんだけど……。2人はもう志望校決めちゃった? やっぱりバレーの強い高校に行くの?」

「おう。もう決めてある」

 すれば岩泉が頷き、及川は──なぜだか分からないが、一瞬だけどこか不自然に眉を寄せてから「うん」と頷いて、ユカは首を捻った。

「そっか……。県内だとやっぱり白鳥沢とか? 白鳥沢のバレー部って高等部も強いんだよね?」

「ハァ──!?」

「ちょ、ちょっとまってユカちゃん! なんで俺たちが白鳥沢行かなきゃなんないの!?」

「え……だって」

「そもそもウシワカ野郎とか敵なんだけど!?」

「あ、牛島くんってそのまま上がるんだ。そうだよね」

 半ば噛みつかれるように言われ、ユカは半歩後ずさりつつも首を傾げた。

「でも、強い学校なんだよね?」

「そうだよ!? いずれ倒すけどね!?」

「で、でも……そういう学校ってきっと県外からも強い選手集まるんだろうし、及川くんたちだって強いんだし、そういう人が揃ったらもっと強いチームになるんじゃないかな」

 言えば、2人揃ってしかめっ面をされ、「え……」とますますユカは首を傾げた。

「あ、その……。牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……」

「ハァ!? ちょ、ちょっとソレって俺がウシワカ野郎にトスあげなきゃなんないって事!? ムリムリムリムリ死んでもムリ!!」

「そうだぞ。俺たちは打倒・白鳥沢を高校で果たすつもりだからな」

 言われて、何となくユカは察した。「中学で」の公式戦は夏の中総体で終わったが、彼らの中で打倒・白鳥沢は高校の公式戦に持ち越されたのだと。それ故に及川は敗戦後も落ち着いているのかもしれない。と解釈しつつ少し眉を寄せる。

「でも……、同じ県内の選手だし、この先、牛島くんと同じチームになる機会ってあったりするんじゃ……」

「うー……。あんま考えたくない……。俺あいつキライ」

「え、そんなに問題ある選手なの?」

「存在自体が問題だよね。ああいう天才バカってほんっと腹立つ!」

 すれば及川は眉を釣り上げて言い捨て、ユカはもしかして彼らは個人的に何かあるのだろうか、と感じたが確かめる術はなく、そんな及川の隣で岩泉が神妙そうな表情をしていたことにも気づけなかった。

 ひゅ、と9月にしては寒い秋風が吹き、「さみぃな」と小さく岩泉が呟いた。

「おい及川。寒いからなんかあったかい飲み物買ってこいや」

「え、ナニ俺パシリ扱い?」

「金はやるぞ。ほれ」

「ナニそれ。まあ別にいいけど」

 あ、そういえば自分も飲み物を買いに行こうとしていたところだったんだ。と中庭の出入り口から消えた及川の背を見送って思い出したユカだったが、タイミングを失ってちらりと岩泉の方を見やる。

「そ、そういえば……。県大会の決勝、惜しかったんだってね」

「なんだお前……、結局来てなかったのかよ」

「うん。私、夏の間は親戚の家にいたから行けなくて……。オンラインニュースで見たの。フルセットの接戦だったって」

「ま、いままでで一番マシな試合ではあったことは確かだな」

「及川くん、ベストセッター賞獲ったんだってね」

「俺がなにー?」

 話していると及川が戻ってきて話に入ってきたため、ユカは及川の方を見上げる。

「ベストセッター賞のこと話してたの。おめでとう」

 すると及川は少しだけ目を丸め、意外にもこう言った。

「ありがと。うん、でもアレは岩ちゃんをはじめとしてウチのアタッカーが立派だったって証拠だからねー」

 ユカは瞬きをした。賞の選考基準を見る限り、あれは及川個人の能力に依存した数値から得られた賞だ。及川がそれを知らないとは思えない。なのにこのような言い方をするとは、意外とまでは思わないが意外に感じていると「はいコレ」と及川は買ってきたらしき飲み物を差し出した。

「みんな考える事は一緒だったみたいで、あったかいのココアしか残ってなかったんだよね。ま、岩ちゃん甘いのでも平気だよね?」

「う……まあ、平気だ。サンキュ」

「はい、ユカちゃんも」

「え……? あ、ありがとう」

 どうやら及川は全員分買ってきてくれたらしく、手渡されて受け取り及川を見上げてユカは、あ、と気づいた。そういえば、とジッとそのまま及川を見つめているとさすがに及川は不審に思ったのか目を瞬かせた。

「ど、どしたの?」

「前から思ってたんだけど、及川くんの目ってココアみたいだね」

「え……!?」

「ちょっと赤みがかってて、すっごく綺麗な色だな……ってずっと思ってたの」

 そして改めて、本当に綺麗な瞳をしているな、と感じつつ告げた先で、ゴク、と隣にいた岩泉が喉を鳴らした気配が伝って、ハッとユカは我に返る。

「あ、その……」

「な、なにユカちゃん。もしかして俺、口説かれちゃってる!?」

 珍しく及川がやや狼狽えたような仕草で、それでも茶化すように自分で自分の身体を抱きしめるように言えば、ハッとしたのか岩泉が拳を握りしめた。

「キメェ仕草すんな、キメェ!」

「二度もキメェって言わないで!」

 ユカはというと、手に持ったココアの缶が異様に熱い気がして、少し頬が熱を持つのを感じた。本当に思っている事ではあるが、さすがに言い回しは少し恥ずかしかったかもしれない。

「へぇ、俺そんな風に思われてたんだ。自分じゃそんなこと思ったことなかったけど」

「安心しろ、俺も思ったことねえよ」

 岩泉が突っ込んでくれているおかげでこのまま話が逸れそうだ、とユカはホッと息を吐く。が、及川はこちらに視線を流してきて、少しばかり気まずくて目線を流してしまった。

「え? なんで目、そらしちゃうの? 好きなだけ見つめてイーよ?」

「え、遠慮します」

「即答!? たったいま、好きだって言ってくれたのに!?」

「綺麗だって言ったんだけど……」

「ほぼ好きって意味だよねソレ?」

 ぜったい違うだろう。という突っ込みはせずにいると、「ウゼェ」と岩泉が及川の背を叩いてから話を変えるようにこう切り出してきた。

「さっきの話だが、お前はどこ受けるんだ? やっぱ公立か?」

「あ……、ううん。私、公立にはいかない。私立受ける」

 話を進路のことに戻してくれたらしい。ホッとしつつ答えると、岩泉はおろか及川も意外そうに目を見張った。

「私立? お前なら公立の一番ムズい学校もいけんじゃねえか?」

「でも、勉強はともかく、設備がいい場所が良くて……」

「私立で県一番の難関って言ったら白鳥沢だね。あ、もしかして白鳥沢が第一志望? だから俺と一緒に白鳥沢行きたくてさっきあんなこと言ったの?」

 残念だけど、さすがにウシワカと一緒はないね。と及川が続け、ユカは苦笑いを漏らした。

「ううん。そういう進学校だと絵を描いてる時間が欲しいだけ取れないから、もっとゆったりしたところが良くて。市内の私立で美術部があって、美術部の設備とかが一番整ってるところにしたの」

「ああ、そういやお前、絵の有名人だったな。で、どこだそこ?」

「青葉城西。だから受けるのは青城一本かな」

 言うと、2人揃って面白いほど目を丸め、揃ってお互いの顔を見合わせてユカは首を捻る。

 見ていると岩泉が頭を掻き、及川は小さく吹き出して肩を揺らした。

「え……なに……?」

 青葉城西は北川第一からも直線距離は遠くないし、駅のすぐそばではないが上手くバスを乗り継げば家からは30分強で行ける。北川第一学区の生徒だったら自転車通学を視野に入れる生徒もいるだろう距離だ。そんなにおかしな進学先ではないと思うのだが、と困惑していると笑いを収めた及川がなぜかウインクをくれた。

「じゃあ、春からもヨロシク。また好きなだけ及川さんの居残り練習見に来てイーよ」

「え……!?」

 後半なにかめんどくさいことを言われたが、ユカはとっさに目を見開いた。

 つまり──。

「え、2人も青葉城西に行くの……?」

「うん。ていうか北一のバレー部は伝統的に青城に行くメンバーが多いんだよね。だからレギュラー陣にはけっこうな確率で推薦の話が来るし、これで頭脳が心許ない岩ちゃんも安し──あいたッ!」

 眼前で繰り広げられる一連の動きを眺めながら、そっか、とユカは息を吐いた。また及川と3年間一緒か……。そっか、と嬉しいような困ったような複雑な感情が飛来した。

 そうしてふと引っかかった。先ほど及川は、白鳥沢には「行かない」と言った。及川自身が言ったように、白鳥沢は県内一の難関私立。及川の学業成績がどれほどかは知らないが、少なくとも「行かない」と言い切れるほどではないだろう。だというのに、及川の言い分は「行ける」ことを前提とした言い分だったのだ。

 なぜ、「行かない」と言ったのだろう……? まずは合格ラインを越えなければ、牛島云々を語るスタートラインにすら立てない。

 なぜ……? と瞬間的に考え込むも、ただの話の流れで、それほど深い意味はないだろうな。と思い直すとココアに口を付けた。やっぱり甘い、とまだ岩泉と言い合いをしている及川の横顔を見据えて、ふ、と笑みを零した。



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08話:及川徹の葛藤

 及川徹は非常に厄介な男だ。

 基本的にヘラヘラした上辺からは想像も付かないほどに、内面には面倒でどうしようもないものを抱えている。

 昔はもっと単純な性格だったはずだ。時に直情的で泣き虫ですらあった。いまもその名残か、感情に振り回されやすく激情型だ。異様に外向けの笑顔作りが上手いのは、そんな自分を上手く隠すための及川なりの処世術なのかもしれない。

 そもそも、及川の厄介な内面が表面化したのは中学に入ってからだ。

 白鳥沢学園の牛島若利。ヤツとの会合が全ての始まりだった──、と岩泉は青葉城西の推薦試験の準備・面接対策にやや疲れを感じつつそんな事を考えていた。

 牛島の存在が、及川に「世の中には神に祝福されて生まれてきた才能を持つ人間」が存在しているという、ある種の劣等感と嫌悪感を植え付けた。

 牛島に敗北するたびに及川の中の「天才」という象徴に対する反発心は増え続け、どこかで歪んでいった。

 岩泉にとってはクラスメイトであった栗原ユカに絡んでいる及川を見て、その嫌い──天才に反発する──を疑った。彼女はバレーとは全く違う畑に生きている人間とはいえ、紛れもなく牛島側の人間だ。ゆえに、その才を感じ取った及川は彼女に牛島を重ねて見ているだけだと思っていた。及川でさえ、彼自身がそう解釈している様子を見せていた。天才を、牛島を気に入らないから彼女も気に障るのだ、と。

 しかし、それだけではないと悟ったのは影山が入部してきたあとだ。影山のポジションは及川と同じセッター。そしてまさにバレーの神に愛されたような手を与えられた天賦の才を持っていた。

 当然及川は、そうなるだろうと岩泉が予測した通り、影山の存在を拒絶した。ユカの例と同様で影山に牛島を重ねて見た部分もあるのだろう。だが、及川は牛島以上に影山の存在を常に意識するようになっていった。これは岩泉にも予想外のことだった。

 好意の反対は無関心とはよく言ったもので、岩泉自身、及川には牛島と影山を同じステージにあげて「敵」だと言った。無意識レベルで後輩である彼をチームメイトから除外した。たびたび及川に教えを請いに行く影山をあしらう及川に「絡むな」と注意はしても「教えてやれ」と言ったことは一度もない。そもそもが、いまとなっては自分は部活を引退した身であるし、影山は天才であろうがそうでなかろうが大勢いる一年生の中の一人。それ以上でもそれ以下でもない。──無関心。まさにそれだ。

 しかし及川はそう割り切れるほど吹っ切れた性格ではない。人間、才ある存在を羨み妬む心とは裏腹に惹かれてしまう傾向にもあることは疑いの余地はなく、及川はおそらく、その振れ幅が他人より極端に大きかったのだろう。結局のところ、彼はどう足掻いても「天才」とやらに惹きつけられてしまう厄介で面倒な人間なのだ。天才相手に傷ついてボロボロになっても、惹かれるのを止められない。

 そうして厄介な事に、天才とやらは常に臆面もなくこちらに切り込んでくる存在なのだ。牛島も、影山もだ。ユカだってそうだ。

『え、だって……勉強する意味わからない、って。世界に出たとき困るよ……?』

『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』

 さも当然のように──上へ上へと突き進む。彼女の発言を受け取ったとき、及川は自身の感情が揺れ動くのを無理やり抑えつけたように見えた。

 ハァ、と岩泉はその時の及川の表情を思い出しながらため息を吐いた。

 将来のチームのためにも及川にはなるべく安定していてもらいたい。が。ユカに近づくなとも惹かれるなとも言えるわけがない。

 なんで自ら面倒ごとに突っ込んでいくのだろうか、あのボゲは。と再度息を吐いて、面接対策書に目線を戻す。

 ほぼ合格の決まった形だけの面接で、自分も及川も青葉城西に落ちることはまずないだろう。ユカの成績から言って、同じく試験に落ちるとは考えられない。この先の3年間も彼女とは一緒だ。

 ──うっかり考えすぎたせいで頭が痛くなってきた。知恵熱が出るかもしれん。と岩泉は本を閉じてぱったりと机に突っ伏した。これ以上の思考は無理だ。

 面倒なことにならなければそれでいいか、とついいままで考えていたことは瞬時に頭から消した。

 

 

 文化祭が済めば、文化部の三年生もいよいよ引退である。

 絵を描く場所が得られないのは困ったな。卒業まで使わせてもらうか、部活後に使うか。

 昼休みの時間だけでは足りないしな、とユカはその日の昼休みはぼんやりと校庭を歩きながら色づく木々を眺めていた。

 高校の資料集めをしていて見知った事だが、白鳥沢学園は規模も大きく学園そのものもまるでホテルのように美しく整っているらしい。面積も広く、スケッチ場所に困らないような美しい校庭の写真を見て少しだけ揺れた。

 けれども白鳥沢はスポーツにはかなりの力を入れて設備投資をしているようだが、文化部は特に目立っていない。

 結局、ユカは美術部の充実を優先して青葉城西に決めた。白鳥沢ほどではなくとも、公立校よりは環境の整った場所だ。

 そういえば、とユカはいつも昼休みにボールで遊んでいた少年が校庭の隅に見あたらないことに今さらながら気づいた。

 及川たちが引退して、昼休みに体育館を使えるようになったということだろうか?

 練習熱心な子なのだろうし、上手い子だったのかな。と、ユカはなんとはなしに足を体育館に向けた。

 そうして体育館の正面入り口のドアを開いてユカは目を見開いた。入り口の隅の所で、ボールを抱えた少年があろうことか座っておにぎりを頬張っていたからだ。

 どういう名だったか。この少年。確か「トビオちゃん」とか「飛雄」と及川に呼ばれていたような、と思い返しつつ取りあえず近づいてみる。

「こ、こんにちは」

「……ちわっす」

 声をかければ少年は、こちらを見上げてキョトンとした顔を浮かべた。

「なにしてるの? 体育館、入らないの?」

「……。メシ、食ってるんで」

 歯切れが悪そうにそう言われて、ユカは首を捻りつつ靴を脱いで体育館に上がった。一定の打撃音が聞こえてくるため、中に誰か居るのは確かだろう。もしかして、と思いつつドアを開けば、案の定というか予想通り及川がいて、彼は一人で壁打ちをしている様子だった。

 今回は正面から入ったせいか、ドアを開けた瞬間に及川がこちらを見て、跳ね返ったボールは及川の手をすり抜けてこぼれた。

「ユカちゃん!?」

 及川は目を丸めつつ、こちらに歩いていくる。

「ど、どうしたの? あ、俺のこと探してたとか?」

「違うけど……あの」

「そうだユカちゃん! 俺、面接通ったよ! まあ当然なんだけどさ、さっき結果知ったからやっぱちょっとホッとしちゃってボール触りたくなったんだよね」

 そうして彼は、珍しく屈託のない満面の笑みを浮かべたものだから、ユカは少し惚けた。口振りから、突発的に体育館にやってきたということだろう。

「それって、青城の推薦面接?」

「うん! 岩ちゃんも受かったよん!」

 ブイ、とピースサインを向けられてユカも驚きつつ微笑む。

「そっか。おめでとう」

「及川さん、青葉城西に進学するんですか?」

 すれば、違う声が混じって露骨に及川の表情が凍った。

「──ゲッ、飛雄じゃん。ナニやってんの、こんなところで」

「メシ食ってました」

「は……?」

「練習しようと思ったら先客がいたんで、とりあえずおにぎり食ってました」

「そう、相変わらずおかしな子だねお前は」

 飛雄、と及川が呼んだ少年は相も変わらず及川を前にして嬉しいのか、目の輝きがあからさまに先ほどより増した。が、及川の方は極力それを見ないようにしているかのように目線を外し気味だ。

「及川さん、あの、青城に行くんですか? 白鳥沢じゃないんですか?」

「ハァ!? なに言ってんのお前。なんで俺が白鳥沢に行くと思うの!?」

 ──なんか既視感のあるやりとりだ、とユカは感じた。少年はなお続ける。

「だって、白鳥沢って県内一の強豪ですよね? ウチも決勝で負けました」

「だからだよ! お前、表彰式のあとで俺が言ったこと覚えてないの?」

「……”高校行ったら今度こそ白鳥沢凹ましてやる”……?」

「正解。おバカなトビオちゃんが覚えててくれて及川さんウレシイ」

 ──常々、及川を面倒な性格だと感じることはあったが。これほど子供っぽい態度の彼は初めて見るかもしれない。とユカが不審に思うも少年は意に介さないように首を傾げている。

「でも……、白鳥沢って強豪ですよね?」

「青城だって強豪だよ! ウチの先輩たちだってけっこう行ってるだろ」

「そうですか。……あれ、じゃあ俺たちも青城に行くんですか……?」

「知らないよ。お前がこの先どう進むのかなんて知らないしね! けど──」

「及川さんいるなら、俺も青城考えます」

 すれば少年は及川の言葉を遮って真っ直ぐそう言って、ほわ、とユカは絆されかけた。が、当の及川は固まったあとに頬を引きつらせている。

「なんで高校行ってまで天才・一年に付きまとわれなきゃなんないのさ! お前は、高校で戦うことがあったら俺がぶっ潰したい相手その2だよ分かってんの!?」

「ちょ……及川く──」

「俺だって、いつかは及川さんを越えてみせます! そして俺が県で一番のセッターになります」

「ほんっとムカツク、このクソガキ。なら、お前が白鳥沢に行けよ! そうすりゃお前とウシワカまとめて倒せて手間省けるんだからサ。──行こ、ユカちゃん」

「え──ッ!?」

 そのままグイッ、と及川はユカの手を引いて、ユカはその力に逆らえずに引っ張られる形でわたわたと体育館を出た。

 そのまま渡り廊下の突き当たりまで引っ張られて行くも、何とか振り払う。

「ちょ……と、待って!」

 すれば及川の方もハッとしたのか、驚いたような顔をして「ごめん」と小さく呟いた。

 ユカは引きずられるように体育館を出たせいできちんと履けていなかった靴を履き直しながら困惑気味に及川を見上げる。

「さ、さっきの子となにかあったの……?」

 言えば、及川は顔を歪めて拳を握りしめ、ますますユカは困惑した。状況は分からないが、取り繕う余裕すらなさそうだ。さすがにこのまま放っておくのも気が引けて、そうだ、とユカは及川に向き直った。

「私、なにか飲み物買ってくるね。コーヒーと甘いの、どっちがいい?」

「……。甘いの」

 小さく頷いた及川を見て、ユカはいったんその場を離れる。戻る頃には多少は落ち着いているだろう、と足早に外の自販機から自分用のコーヒーと、甘いホットドリンクはココアくらいのもので、ユカはココアのボタンを押した。

 戻れば及川は背の低いブロック塀に腰を下ろしており、ユカも手渡しながら隣に座った。

「ありがと……」

「ううん」

 そうしてどうしようかと思案する。及川のことに深入りするつもりはないし、話したくない事なら聞くつもりもないし、と考えあぐねていると先に及川の方が口を開いた。

「いつか、ユカちゃんにさ、言ったよね」

「え……?」

「天才セッターって、どんな手をしてるのかなってさ」

 言われてユカは眉を寄せる。そういえば、もう一年以上も前のことだろうか? 及川に手を掴まれて「天才の手ってこうなってるんだ」などと言われた覚えがあったような、と思い返していると、ふ、と及川は自嘲気味の笑みを零した。

「飛雄のトスを最初に見たとき、驚いたよ。やっぱり天才の手ってヤツは存在してたんだってね。でもさ、よりにもよって、俺の後輩にサ……そんなの持ってこなくてもいいのにさ……」

 ユカは思わず及川の横顔を見やった。そういえば先ほどは激高していた及川に驚いて聞き流してしまったが、及川は彼のことを確かに「天才・一年」だと言っていた。

 でも──。

「で、でも、ぶっ潰すとかって……。あの子、あんなに及川くんのこと慕ってるのに」

「そりゃあ、俺は飛雄とってはいい踏み台だかんね。ま……そう簡単に抜かせるつもりはないけど」

「でもあの子、天才かどうかは全然知らないけど、たぶんすっごくいっぱい練習してるよ。お昼休みだって、ずっと校庭で一人でボールに触ってるところ、何度も見かけたもん」

「知ってる。あいつバレーバカだからネ」

 色なく呟く及川の声を聞きながら、ユカの脳裏に既視感が過ぎった。天才は嫌いだけどユカちゃんは嫌いじゃない、と以前彼は自分に言った。たぶんソレはあの少年にも当てはまる事なのかもしれない。いや、きっともっと大きく、複雑なはずだ。先輩と後輩、同じポジション、同じスポーツに心血を注いでいる者同士なのだから。

 けれども自分でも及川のそういう複雑な面を見るたびに面倒に感じているのに、あの少年は及川のその感情を受け止めて処理できるのだろうか? いや及川自身でさえ、自分で自分を受け止めきれるかどうか。

 おそらくは出来ていないからこその、先ほどの及川なのだろう。ものの数分の間に喜怒哀楽という喜怒哀楽を全て見せ付けられた。

 コート外でみんなに見せる彼の顔はあんなにも機械的で綺麗に笑えているのに。そんな彼を揺さぶってしまうのは皮肉なことに「天才」という人種なのだ。

 もしも、もしもまだ及川が自分のことを「天才」だと感じているのなら。やっぱりもう及川には関わらない方が及川のためにも良いのでは──とぐるぐる考えていると、ココアを喉に流して喉元を上下させた及川は、ふ、と息を吐いてからこちらに視線を流してきた。

 あ、やっぱり、なんて綺麗な瞳……とユカはうっかり甘ったるいココア色に目を奪われてしまう。

 瞬間、ふ、と及川が口の端をあげた。

「ナニナニ、やっぱり及川さんの瞳に見惚れちゃった?」

「ち、違……ッ!」

 そうしてケラケラ笑う及川の声を聞きつつ、ユカはホッと息を吐いた。少しは落ち着いたらしい、と解釈したからだ。

 及川の中にある才能への渇望、劣等感。それらが想像を遙かに越えたレベルで複雑だということに、この時のユカはまだ気づけるはずもなかった。



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09話:及川徹の北一卒業

 ──二月。

 私立高校入試の合否は各高校に掲示されるとはいえ、基本的には教員から直接知らされる事になっている。

 むろん、家族が見に行きメール等々で子供に知らせるという手段を使う家庭も多かったが、ユカの場合は担任からの呼び出しで知ることとなった。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

 結果は無事に第一志望の青葉城西に受かっていたが、少々厄介なおまけが付いていた。

「特進科に授業料免除というオファが付いているが……」

「特進科には行きません」

 春からの進路指導以降、気の遠くなるほど繰り返したやりとりをさらに繰り返し、ユカは肩を竦めた。たいていの私立高校は特進クラスを持っており、試験の成績次第で授業料を免除にしても学生を確保しようとする枠がある。その見返りは有名大学への合格者数を上げることだが、課外授業の多さは避けられない。

 ユカとしては進学の目的は美術活動が一番であり、再三のやりとりを終えると礼をいって進路指導室を出た。

 ともかくあと一月ほどで卒業式だ。公立を受ける生徒達は卒業後に合否を知ることとなり、きっと落ち着かないだろうな。と思いつつ美術室に向かった。2,3時限目は合格発表のおかげで自主学習となっており、授業がないためだ。

 3月頭には一年に一度の大きなコンクールの締め切りが控えている。終わらせて出品してから卒業せねば──と励んでいるうちにあっという間に一月が過ぎ、あっという間に卒業の日がやってきた。

 

 卒業式なのに、あまり感慨がない──。

 と感じてしまうのは、もう5年は住んでいるのにまだ仙台に慣れていないと感じているせいか。それともいずれここを去ると分かっているためか。

 

 日々の思い出といえば、毎日美術部に居残っていた事くらいで──。

 ああ同じような人がいるな、と思った相手が及川だった。と思うと、及川は自分の中で中学時代の大部分を占めているのかもしれないな。と、式が終わった後の体育館を少しばかり感傷的に見やってユカは苦笑いを漏らした。

 この先の三年も一緒なのに……と思いつつ、周りを過ぎ去っていくセーラー服や学ランの群れ、歓声を眺めつつハッとする。烏の羽が濡れたような黒髪が風に揺れたのが見えた。泣いたり笑ったりと忙しい生徒達の中に不自然に佇む学ラン姿の少年がいたのだ。

「あれ……」

 その少年は、飛雄、と及川が呼んでいた少年だ。ユカは首を捻った。2年生は在校生代表で全員が式に出席していたが、1年生は今日は休みのはずだ。

 とはいえ、彼はバレー部だし、北川第一はバレー強豪校で、バレー部の先輩を送る会でもあるのかもしれないし。じゃあなぜ一人でキョロキョロしているのだろう? と思い至ってユカはそっと彼に近づき声をかけてみた。

「こんにちは」

 春先よりだいぶん伸びた身長でこちらに振り返った彼は、相変わらずの黒い瞳を瞬かせてこちらを見た。

「ちわっす」

「もしかして、及川くん探してるの?」

 それ以外に理由が思いつかなかったユカがそう問いかければ、少年は少し唇を尖らせて目線をそらした。

「でも、及川くん捕まえるの大変かもしれないね。たぶん、どこかで女の子に囲まれてるんじゃないかな」

 ユカ自身、今日は何度か及川を遠巻きに見かけたがいずれも女生徒という女生徒の群れに囲まれていてバレー部の後輩が近寄れるような空気はいっさいなかった事を思い出していると、眼前の少年は呆れたようなうんざりしたような表情を浮かべた。

「そういうわけじゃないです。俺、このあと体育館片づいたら部活なんで」

 それは本心からの言葉だったのか。彼は唇を尖らせたままそう言い下し、ぺこりと頭をさげるとそのままユカに背を向けた。

 ユカ自身はバレー部でなにがあったか知るよしもなく、過ぎ去っていく少年の背を見送って自身も歩き出した。

 式も済んだし、帰ろう。北川第一の制服を着るのもこれで最後かと思うとちょっとだけ寂しいかな、と外に向かうと校門の付近に岩泉がいた。

「岩泉くん」

「おう」

「あ、もしかして及川くん待ってるの?」

 さっきのいまだったため何となく聞いてみれば、岩泉は少しの間を置いて心底嫌そうな顔をした。

「いや。帰るところだ」

「そ、そう……。あ、バレー部のお別れ会とかってないのかな?」

「いや、特にねーけど」

 帰る、と行った手前なのか岩泉はそのままユカに並び、帰り道もほぼ同じであるため校門を出て帰路についた。

「そうなんだ。さっきバレー部の一年生見かけたんだけど……」

「一年が? なんでまた……。二年はけっこう式のあと挨拶に来てくれたけど、俺たち三年は一年とはあんま関わってねえからな」

 頭の後ろで腕を組む岩泉を見つつ、小さくユカは唸った。岩泉ならば及川と先ほどの少年の事情を知っているだろうか?

「その子、今日は部活があるからって言ってたんだけど……。もしかしたら、及川くん探してたのかなって思って気になっちゃって」

「一年が及川を……? 誰だよそれ」

「えー……と、”飛雄”くん……?」

 そういえば下の名前しか知らない、と思いつつ言えば、ピタ、と岩泉は足を止めた。あれ? とユカが思った時には再度歩き出して「あー」と少し目線を斜め上にあげた。

「影山か。なんでこんな日に及川を……」

「あ、私が勝手にそう思っただけだから。でも……仮にそうでも、今日の及川くんってぜったい捕まえられないよね」

「……。かもな」

 何となくユカが後ろを振り返れば、岩泉は心底うんざりしたような息を吐いた。おそらく岩泉も朝からユカの見た光景と同じものを目にしていたのだろう。

「学ランの第二ボタン争奪戦、とかってお話の世界じゃけっこう見たりするけど……、現実でもそういうことってあるのかな」

「俺は都市伝説だと思いたい。少なくとも俺の周りで”第二ボタン下さい”なんて言われてたヤツは一人もいなかった」

 言いつつ互いに苦笑いを漏らす。互いに思うところは同じだったようで、及川は制服が無事な状態のまま自宅に帰り着けるか、とか、いっそいくつボタンが残っているか賭けるか等々の話をして程よく学校から遠ざかった所で岩泉の携帯が鳴った。

「──もしもし?」

「岩ちゃん!? いまどこ!?」

 及川か。と分かるほどに大声なのか声が漏れており「うるせぇ!」と岩泉が一喝した。

「あ? わざわざおめーを待つわけねぇだろボゲ。……あ? もう家に向かってる途中だ。──うるせぇ! ……チッ、切りやがった」

 岩泉は憎々しげに携帯を仕舞うと、ハァ、とため息をついた。

「あ、あの……岩泉くん、帰ってきちゃって大丈夫だったの?」

「ああ、まったく問題ない。なんで女にキャーキャー言われてるヤツを待ってなきゃなんねえんだよ」

 うんざりしたように言い下した岩泉にユカは苦笑いを漏らし、そのまま違う話題を続けてしばらく。後方から凄い勢いで足音が近づいてきて、ユカだけでなく岩泉も、ゲッ、と眉を寄せた。

「岩ちゃーん!」

「あのボゲ……走ってきやがった……」

 おそらく全速力で駆けてくる及川をうっかり視界に入れてしまったために2人は立ち止まり、及川もこちらに追いつくとさすがに膝に手を付いて肩で荒い息を零した。

「置いくなんて酷いよー……ッ」

「ウゼェ……! なんでおめーを待たなきゃいけねぇんだよボゲ」

「ていうかなんでユカちゃんと仲良く帰っちゃってんのさ……! 俺だけ仲間はずれなの!?」

「たまたまだ、たまたま」

 愚痴をこぼしつつ荒い息を吐いていた及川は少しして呼吸を整え、もう一度深い息をしてから顔をあげた。

 その及川の姿を見て、ハッとしてユカは岩泉と顔を見合わせた。どうやら岩泉が感じた事も同じだったようだ。

「え、2人ともなに……?」

「ぶ、無事だね……」

「ああ、無事みたいだな」

「え、何が!?」

 及川の学ランはきっちり全てのボタンが揃っており、てっきり全て奪われてしまっただろうなどと話していたユカたちにとっては意外だったのだ。

 その旨を伝えれば、及川はおどけたように笑いつつなぜかウインクをした。

「もしかして2人とも及川さんの第二ボタン欲しかったのカナ? ──あいたッ!」

「気持ち悪いこと冗談でも言うなボゲ!!」

 コメカミに青筋を立てて岩泉が及川を叩き、ユカは肩を竦めた。けれども本当に意外で、何となく及川を見上げていると「だって」と及川が笑った。

「たった数個しかないボタンをあげちゃったら不公平じゃーん。博愛主義の及川さんとしてはそんな申し訳ないこととてもできないんだよネ」

 そうしてピースサインをしつつ舌を出した及川を再度岩泉が文句を言いながら叩き、ユカは「痛そう」と感じつつも、そういうものなのかな、と感じた。

 確かにあれだけ女の子がたくさんいて、もしも配っていたら余計な争いになるかもしれない。普段からそういうことを考えて接していたのだろうか、とジッと見上げていると、こちらを見返してきた及川がニコッと笑った。

「ユカちゃん、欲しい? 俺の第二ボタン」

「……いらない……」

「また即答!? なんで? 及川さんの第二ボタンだよ!?」

「んなもん売り飛ばして金にするくらいしか使い道ねえだろうが」

「売り飛ばさないで!!!」

 このやりとりを見るのも今日で最後かと思えば感慨深かったが、きっとこの先数年は見ることになるのだろうな、と思うと滲んでくるのは苦笑いで、4月から高校生か、と今日で最後になるだろう2人の学ラン姿を見つつ思う。

「青城の制服ってブレザーだよね。入学案内に指定のお店とか書いてあったけど、2人とももう買っちゃった?」

「まだだけど、青城の制服ってめちゃくちゃ俺に似合いそうだよネ!」

「あ……うん。そうだね」

「リアクション薄ッ!」

「否定されなかっただけマシだろ」

 すれば及川はショックを受けたように固まり、岩泉がそう突っ込んで「え」とユカは瞬きをした。

「ほ、ほんとにそう思ったんだよ。及川くん、たぶんすっごく似合うよ。学ランも似合ってるけど、青城の白のブレザーはもっと似合いそうだなって思って」

 青葉城西の男子生徒の制服は紫がかったグレーのシャツにブラウンチェックのパンツ、濃赤のネクタイに白のブレザーである。なかなかに着こなしが難しそうな配色だが、及川には似合うだろうなと思って言えば、眼前の2人は若干固まって、及川に至っては大げさに口元を手で覆っている。

「ユカちゃんって、時々サラッと俺のこと口説きにかかるよね」

「え!? 口説……え!?」

「おい栗原、あんまコイツ褒めんな。調子乗ってウザイ」

「嫉妬はみっともないよ岩ちゃん!」

「うるせえ! 俺はあのチャラチャラした制服は好きじゃねえ!」

「わ、私も白のセーターはちょっと……。男子のジャケットが羨ましい」

 青葉城西の女生徒の制服は、ジャケットの替わりに白のセーター、ネクタイの替わりにリボンである。スカートは同じブラウンチェックであるが、なぜ男子だけジャケットとネクタイなのだろう? 女子も同じでいいのにな、と思う。

「確かに……ユカちゃん、絵を描くんだし袖口汚れそうだよね」

「んー……なるべくジャージ着て描かないとダメかも……」

 そういえば北川第一のセーラー服は濃紺で気にならなかったが、高校の制服は色々と汚れやすそうだな、とそのまま雑談を続けて分かれ道までやってくる。

「じゃあ、2人ともまたね」

「うん、まったねー!」

「おう、入学式でな」

 自然とお互いそんな言い方をして、あ、とユカはなおさら実感した。

 今日で中学生活は終わり。だが、またこの先の数年間を彼らと一緒に過ごすのだ、と。

 今度こそ少しむずかゆいような嬉しさを覚え、笑みで手を振る及川と岩泉にユカはにこりと笑みを向けた。



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10話:及川徹の青城入学

 

「ねえ、入学式で見た!?」

「見た見た、すっごいカッコいい人いたよね!」

「ねー! なんかね、バレー部の期待の新人なんだって! 中学でも有名だったらしいよー」

「えー、こんど見に行こうよー!」

 

 及川徹、という人間の持つ、それこそ天性の「華」とやらを北川第一出身の人間はまだまだ見くびっていたようだ。

 と、高校入学以降絶えることのない及川の噂を耳にしてうんざりした様子の人間がいた。

 気持ちはちょっと分かるかな。と、ユカは高校で再び同じクラスになったその人物──岩泉が廊下の先で複数の女生徒に囲まれ、いくつかの差し入れと思しき包みを抱えて教室に戻ってきたのを見て思った。

 隣の席に腰を下ろした岩泉は、ユカが何かを訊ねる前に自分から愚痴り始めた。

「まーた及川に渡してくれだとよ」

「そ、そうなんだ。た、大変だね」

「中学んときもうざったかったが、高校のレベルなめてたわ。これから先が思いやられる」

 眉間に皺を寄せながら岩泉は預かり物を鞄に仕舞った。

 中学時代、及川がいくら女生徒に人気だったとは言え北川第一はあくまで地元の公立校。及川とは小学校から一緒だった人間も多く、ある意味で及川の存在に慣れていたのかもしれない。加えて、中学生という年齢層のせいもあるだろう。

 しかし、高校になると一気に年齢層はあがるし、県内から大勢の人間が通ってくる。及川を知らない人間にとっては、彼の華やかさはある種の衝撃でもあったのだろう。

 そうしてまた及川自身が愛想を振りまくことを怠らない人間というのも災いして、さっそくアイドルのような扱いになってしまっている。

 岩泉は及川とは同じバレー部であるし、そもそもが幼なじみで仲がいい。ゆえに強制的に橋渡し役として女生徒に先ほどのように使われており、日々イライラを募らせている様子だった。

 ユカもまさかこれほど騒ぎになるとは思ってもみなかったが、それはそれである。関わらなければ実害はないし──、と思いつつ午前中の授業を受けながらちらりと時計を見やった。そうして少し焦る。あと一分で午前の授業が終わるが、まだノートを写し終えていない。

 昼休みは一秒でもはやく教室から出たいのに。と焦る心とは裏腹に、チャイムが鳴って教師が去ってもノート写し作業が終わらずに数分が過ぎた。

 そうして書き終えてからノートを仕舞い、スケッチブックを掴む。その時──。北一時代でもここまでの歓声は聞いたことない、というレベルの歓声が教室を包んだ。

「岩ちゃーん!」

 次いで聞き慣れた声が響き、目線を上げられないユカの脳裏に明確に及川が弁当を抱えてやってきた図が過ぎった。

 北一の頃ならば誰かしら及川に声をかけて及川はそれに応えるというタイムラグがあったが、入学したての現在、彼はまだまだ遠巻きに、それこそ本物のアイドルのように見られている存在だ。ユカの席は岩泉の隣。つまり顔を合わせずに教室を出るのは不可能に近い。

「やっほー、ユカちゃん! 珍しいね教室で会うって」

 ひ、と案の定声をかけられてユカはおののいた。けれどもさすがに顔を下に向けたまま無視は気が引けて顔を上げれば、予想通り弁当を抱えて満面の笑みを浮かべる及川がいた。

「う、うん。ノ、ノートまとめてたの」

「さすがまっじめー。あ、ユカちゃんも一緒にご飯食べる?」

「う、ううん。私、用事あるから。それじゃ」

 取りあえず笑みで応え、ユカはスケッチブックを抱えて逃げるように教室から出た。──ものすごい針のむしろだった気がするのは、気のせいだろうか?

 岩泉によれば、入学以降に昼に及川が訪ねてくる率は半々らしいが。ともかく、いまの青葉城西の状態、端的に言えば及川フィーバーの中で及川に話しかけられるのはユカとしては申し訳ないが避けたい所であった。

 親しいと誤解されて変な騒動に巻き込まれるのも、岩泉のように橋渡しに使われるのもできれば避けたい。

 とはいえ、今が4月だからそういう状態なだけで、いずれ落ち着いていくだろう。

 及川のことはともかくも、ユカは青葉城西に進学して早くも良かったと感じていた。なぜならば北川第一よりも圧倒的に美術室のクオリティが高いからだ、と教室を出た足でそのまま美術室に行き、ユカは笑みを零した。

 美術準備室には各種画材が揃っているし、中学校よりも予算が豊富なのか質・量ともに桁違いである。

 特別教室棟の三階は角に位置している美術部の窓を開ければ、綺麗に整備された中庭が見えて見晴らしもいいし、学校そのものがスケッチ場所で溢れている。

 北川第一が好きでなかったわけでは決してないが、3年間楽しくやれそうだ。と、予鈴までユカはスケッチをして過ごし、教室に戻って午後の授業を受けた。

 そして5限目の授業が終わって休み時間に入ったところで隣の岩泉が席を立ち、代わりに複数の女子生徒がユカの席に近づいてきて、ユカは目を瞬かせた。

 何やら考えあぐねている様子の女生徒たちに首を捻ると、彼女たちはこう訊ねてきた。

「な、名前教えて貰っていい?」

 ユカもむろん彼女たちの名前は覚えておらず、言われたとおりに告げると「そっかー」などと前置きされてこう切り出された。

「あの、栗原さん……さっきお昼休みに見たんだけど……」

「及川君と仲がいいの!?」

 う、とユカは喉元を詰めた。やっぱりそう見えたのか、と頬を引きつらせつつ笑みを作る。

「同じ中学出身なの。だから顔見知り、かな」

「あ! そうなんだー。あ、だから岩泉君とも仲いいっぽいんだ?」

「う、うーん。岩泉くんは2年生の時に同じクラスだったから、話しやすいかな。やっぱり同じ中学だったからね」

 無意識のうちに「同じ中学」を強調していると、彼女たちは納得したように頷いた。

「えー、じゃあ中学の頃の及川君とか知ってるんだー?」

「いいなー、羨ましいー!」

「ねえねえ、今度紹介してよ!」

 次々と言葉を受けつつ、ドウシヨウ、という単語がリアルにユカの脳裏に過ぎった。やっぱりどう転んでも厄介だ。と本気で困惑していると岩泉が戻ってきたのか、後ろから声をかけてくれた。

「おい栗原、ちょっといいか?」

「え? う、うん」

「悪ぃな。急ぎの用事あんだ」

 岩泉は周りにいた女生徒にそう断ると、教室の外に促し、ユカもその後に続いた。

「あの、岩泉くん。用事って……?」

「言葉のアヤだ、ボゲ」

 ハァ、とため息を吐かれてユカはハッとした。同時に、そんなに困った顔をしてたのか、とややいたたまれない気持ちになる。

「あ、ありがとう」

「だいたいなんだってクソ及川のせいで俺たちが被害に合わなきゃなんねえんだよ。あいつマジぶん殴ってやる!」

「お、及川くんは関係ないんじゃ……」

「そもそもアイツが存在してなかったら発生してない問題だからな」

 及川が聞いていたら「酷い!」と大抗議していただろうな、という発言を聞きながらユカは肩を竦めつつもキュッと唇を結んだ。

 ともかく、せめて夏頃になれば状態も落ち着くだろうし、いまは余計なことに煩わされるよりとにかく絵を描いていたい。と、ユカは毎日遅くまで居残って絵を描き続けた。

 中学の頃は及川の方が遅くまで残っている事もあったが、高校に入って以降一度もそんなことはない。

 というよりは、バレー部は第3体育館を専門で使っており、体育の授業は別の体育館を使っていたためユカはまだ一度も第3体育館には足を踏み入れたことがなかった。ゆえに正確には、ユカは及川が部活後に居残っているのかさえはっきりとは知らないといった方が正しい。

 そうしてひと月も過ぎれば学校にも慣れ、6月が近づく頃にはユカはすっかり自分のペースが出来ていた。

 とは言っても中学時代と同様に授業中以外は絵を描いて過ごす、という実にシンプルな生活サイクルだ。おそらく、他の熱心な部活動の部員も似たような生活だろう。

 ユカはその日も昼休みになるといつものように美術室に向かった。途中、購買でコーヒーをひとつ買い、美術室に着くと一息つきつつ考える。

 持ってきた複数のスケッチブックから、デザイン案だけをまとめているノートをパラパラと捲って思案顔を浮かべた。せっかく高校に入ったのだし、一度、青葉城西の風景を描きたいな、などと考えていると、コンコン、と美術室のドアをノックする声が響いてパッと顔をあげた。

 休み時間の来客は中学時代からごくごく稀だ。ゼロと言ってもいい。誰だ? とドアを見やると、同時に開いた扉から現れた人物を見やってユカは硬直した。

「あ、やっぱりいた。やっほー!」

「及川くん……」

「昼休みってユカちゃんほとんど美術室にいるよね。中学の頃から一度行ってみようと思ってたんだよねー」

「な、なんで……」

「ん? だって不公平じゃん。ユカちゃんは俺の練習いっつも見にくんのにさ」

「だから、何度も言ってるけど、見に行ってたわけじゃないのに……」

「またまたー」

 さも当然のように及川が何やら昼食のようなものを抱えてやってきて、ユカはますます首を捻った。

「ちょ、ちょっと……ご飯、ここで食べるの?」

「そうだけど?」

「え? え……で、でも、オイルくさくない?」

 ユカ自身は慣れてしまっているが、美術室は常に油絵の具の匂いが充満していると言っていい。すれば、及川はきょとんとして、小さく吹き出した。

「バレー部の部室に比べれば全然爽やかなニオイだよ。平気平気」

 言いながら近くの椅子に腰を下ろす及川を見て、ユカはため息を吐きつつそばの窓を開けた。さすがに6月も近いため、風はそこまで冷たくはない。

「あ、もしかして俺邪魔だった?」

「ん……、邪魔と言えば……そう、かも」

「えー、ヒドーイ。少しくらい俺に付き合ってくれてもいいじゃーん。ていうかユカちゃん、何も食べてないじゃん。コーヒーだけなの?」

「そんなにお腹空いてなくて……」

「俺だったらぜったい部活まで持たない! あ、そうだコレ食べる?」

 そうしてガサゴソと買ってきたらしきパン類の中からズイッとひとつ差し出され、首を振るうと及川はなお笑った。

「コレ、俺の大好物なんだよね。牛乳パン。美味しいから食べてみなよ」

「え、いいよ……好きなものならなおさら」

「美味しさを共有するから良いんじゃん。あ、じゃあさ、半分こしよ?」

 言うが早いか返答など待たずにバリッと袋を破って半分にした牛乳パンを「はい」と差し出され、さすがに受け取るしかなかったユカは素直に受け取った。

「ありがとう」

「コーヒーにも合いそうだしね。あ、ユカちゃんもしかして甘いものダメ?」

「ううん。そんなに大好きってわけじゃないけど……」

「俺はけっこう甘党だったりするんだよね」

 なぜだか及川は上機嫌そうで、ユカはこの状況がますます解せずにいた。甘いな……と口に付けた牛乳パンの味を感じて、さらにこの状況が解せずに困惑する。

「今日は岩泉くんと一緒じゃないの? あ、もしかしてケンカ……とか」

「岩ちゃんとは朝から晩まで365日のうちほぼ毎日顔合わせてるんだから、昼ご飯くらい別々な時もそりゃあるよ」

「そ……か」

「リフレッシュだよリフレッシュ。俺、高校入ってけっこう疲れ溜まってたからね」

 笑いながら言われて、ユカはよく意味が分からなかったが、そんなに練習キツイのだろうか、と解釈した。それもそうだろう。中学よりも厳しくなって当たり前のはずで、上級生とは体力差もあるだろうし、ようやく慣れて疲れが出てきた頃なのかもしれない。

「そっか。あんまり無理しないでね」

「へ? なにが?」

「何がって……部活の話、だよね?」

「あ~……うん、まあ、そうだね」

 すると及川はやや眉を曲げて、くっきりと形の良い二重の瞳を少し伏せた。相も変わらず、及川の目は全てが整った及川の顔のパーツの中でも特に綺麗だと思う。見慣れていてもこう感じるのだから、やはり騒がれるのも当然だろう。

「ユカちゃんさ、高校入ってから一度も放課後に体育館来てないよね?」

「あ……。うん、たぶんいつも私の方が遅くて、電気も落ちてるから」

「毎日そんな遅くまで残って何してんの?」

「そりゃ、絵を描いてるんだよ。青城の環境、すっごくいいし。それに……3月に一年で一番大きなコンクールがあったんだけど、結果が思ったよりよくなくて、もっと頑張らなきゃって思って」

「へえ、ユカちゃんでもダメだったんだ。なに、落選したとか?」

「ううん、最優秀が欲しかったんだけど……優秀賞止まりでちょっと悔しくて」

 少し口調に悔しさを滲ませて漏らせば、及川はキョトンとした後に、「ハッ」とやや口元を歪ませた。

「出たよ天才メンタリティ、ほんっとこれだから……」

「だって毎年狙ってるんだもん」

「へえ、否定しないんだ?」

「んー……もうどっちでもいいかなと思って」

「最近、俺の扱い雑だよね!? 岩ちゃんの影響!?」

 相も変わらず、やはり彼の感情を揺さぶるのは「天才」という単語で、それに本人も振り回されていて。けれども自分相手だからこそ彼はこの程度で済んでいるしこちらも対処に慣れたが、何となく牛島や影山相手だともっと極端になるのだろうな、とユカは感じた。

 とはいえ中学の頃は自分は及川とは相性が悪くて仲良くなどきっとできないと思っていたのだから、いま普通に話せているのはけっこうな進歩かもしれない。と考えていると、さっきの話だけど、と及川は話を変えた。

「もし少しはやく帰る事があって、もし体育館に寄ったらさ。今度はちゃんと声かけてね」

「え、と……バレー部って第3体育館使ってるんだよね? 私、行ったことなくて……それに外から直接入れるドアがないから、中を覗いたりも出来ないし」

「上がってくればいいじゃん」

「う、うーん……」

 言葉を濁しつつ、一度くらいならバレー部がどんな環境で部活をしているか見るのも悪くないかな、と考えながら話していると予鈴が鳴った。

 そこで途端に現実に引き戻される。

「及川くん、先に戻ってて。私、窓閉めてからいくから」

「窓閉めるのって数秒で終わるんじゃないの」

 一緒に美術室を出て普通教室棟に戻るのは避けたい、との思いからそう言ってみたが、瞬時に言い返されてさすがにユカはバツの悪い顔を浮かべた。

 少しばかり黙していると、ハァ、と及川はため息を吐いた。

「ま、いいけど。でも俺が話しかけても、普通に話してね」

「え……」

「これでもけっこう傷つくんだからサ。じゃーね」

 ニコ、と笑って及川はドアを開けて先に行き、なんだ、とユカは悟った。分かってたのか、と感じると同時に、何となく及川にしてもいまの環境があまりに北川第一と違いすぎて戸惑っているのかもしれない、と感じた。

 岩泉もあからさまに苛ついているし、自分自身もなるべく及川に関わらないようにしてしまっていた。かもしれない。

 中学時代だって、なるべく意味もなく及川と目立つ場所で話すのを避けていたとはいえ、いまほどではなかったはずだ。

 せめて中学時代に戻そう、と思いながらユカも自身の荷物を抱えて美術室から出た。

 

 

 6月も終わりに近づいてくれば、ユカは北川第一時代のようによく女生徒に囲まれて笑みで対応している及川を見かけるようになった。

 彼女らも案外、彼が直接近づいても対応してくれる事を知ったせいだろう。岩泉は直接橋渡し役を頼まれることが減って「ようやく平和になってきた」と喜んでいたが、見るからに北川第一時代と規模が違う。

 初旬に行われたインターハイ予選で及川はピンチサーバーとして試合に出たらしく、よほど目立っていたのか他校の女子が出待ちしていることもあるらしい。

 及川の機械的な笑みのレベルもますますあがって、普段の及川を知っているだけに、岩泉がああいう彼を見ていちいち青筋を立てているのも理解できない事もないかな、とちょっと廊下に出ただけでアイドル顔負けの完璧な笑顔で女生徒に囲まれている及川の姿を見てしまい、ユカは肩を竦めた。

 

 男子バレー部はインターハイ予選で及川が目下の敵扱いしている白鳥沢と対戦する前に準決勝で敗退したらしい。

 白鳥沢はさっそく牛島がレギュラーで出ていたらしく及川も岩泉も文句を言っていたが、及川にしてみてもピンチサーバーで出してもらえただけでありがたかったらしく「春高では先輩から正セッター奪ってやる」とやや物騒な事を言っていた。

 

 7月が近いといえど、日が落ちればまだ肌寒い日もある。

 そんな肌寒い日の放課後、ユカはいつも通りの時間、つまり一番最後というくらい遅くに校舎を出て、いつも通り帰ろうとした。

 時おり、及川がまだ残っているのか気になることもあったが、なにせ第3体育館まで足を運ばなければ体育館の電気が付いているかどうかすら分からない。──と体育館の方を見やって「あれ?」とユカは瞬きをした。

 ボワッと薄暗い空間が若干明るくなっており、電気が付いているのだとユカは悟った。珍しいな、と逡巡することしばらく、ユカは足を体育館に向けた。

 まだ行ったことのない場所だし、興味もあるし。と何故だか言い訳めいた言葉が浮かんできてふるふると首を振るう。

 やっぱりいつものように及川がサーブ練習をしているのかな。と、近づいてきた第3体育館の入り口ドアを開ければ中はシンとしていて「あれ?」と目を見開いた。

 誰かが中にいて練習していれば多少なりともボールの音が響くはずである。もしかして今度こそ電気と鍵の閉め忘れだろうか、と靴を脱いで中に上がる。廊下の先の手洗い場を抜ければ室内入り口のようだ。

 さすがに広いな、と若干ドキドキしつつ恐る恐るドアに手を掛けた。そうしてドアを引けば、視界にはバレーボールネットとコートの半面に多数のバレーボールが転がっているのが映り、「あれ?」とユカは首を捻った。

 誰もいない。しかしボールは残ったまま。片づけないで帰ったのだろうか? と不思議に思ってそのまま中に入ると、横の方から「ギャッ!」という悲鳴のような声が響いた。ユカも「ひっ!」と驚いて反射的にそちらを向くと、ドリンクを片手に持った及川が壁際に立っており、「なんだ」とホッと息を吐いた。単に休憩していたのだろう。

 及川の方もホッとしたのは同じだったのか、息を吐きながら「もー」と腰に手を当てた。

「脅かさないでよ。びっくりしたじゃん」

「音が聞こえないから、誰もいないかと思っちゃった」

「ちょうどね、あがろうと思ってたんだよね」

「あ、じゃあボール拾うの手伝おうか?」

「いいの? ありがと」

 本当にあがる所だったのだろう。及川はバレー部員がいつも練習中に穿いているハーフパンツではなく普通のジャージのパンツを穿いていた。

 と、ユカはそこで違和感に気づいた。普通のジャージではない。青葉城西の一般用のジャージとは色が違う。

 とはいえ、北川第一の時もバレー部は専用のジャージを持っていたし、このジャージもバレー部専用のかな、とジッと見ていると「なに見とれてんの?」とニヤッと笑われて面倒くさい絡まれ方をしたため、「なんでもない」とコートに走りボール集めを開始した。

「あれ、及川くん。このボールちょっと大きい?」

「あー……うん。中学までは4号球だったからね。こっちは5号球。でもほとんど変わんないよ、よく気づいたね」

「んー……何となく」

 相も変わらず散らばっているボールはカラフルで、なんだかこんな球を受けていたら目が回りそう、などと思いながら黙々と拾って籠に収め、最後は及川が用具室に籠ごと仕舞った。

 そうして戻ってきた及川はコートサイドに置いていたジャージの上着らしきものを羽織り、わ、とユカは思わず及川を見上げた。

「な、なに?」

「それってバレー部専用のジャージ?」

「ああ、うん。青城男子バレー部専用。横断幕もこの色なんだよね。……って、ほんとどしたの?」

「綺麗な色だね……!」

 白を基調としたジャージは、青みがかったペールグリーンとのツートンカラーで、北川第一の青と白のそれよりも爽やかさを感じさせた。思わずユカは頬を緩める。

「私、こういう色大好き……! それに及川くんにすっごく似合ってる。北一のジャージよりも似合ってるんじゃないかな」

「そ、そう……」

 通常ジャージよりも格段にユカの好みで、いいな、という思いも込めて言えば及川は「及川さん何でも似合うから!」等々の予想されたリアクションではなく、口元を押さえて顔を背けられ、ユカは首を捻った。

「及川くん……?」

「うん……、ユカちゃんってそういう子だったよ。知ってた、知ってたけどネ」

「え……!?」

「あー……でも、うん、まあ及川さん何でも似合うから。ユカちゃんが見惚れちゃう気持ちも分かるけどサ」

「え!? ジャージの色の話だよ……?」

 確かに似合うとは言ったが、それは本当に似合っているからで。そもそもジャージなんて万人に似合うのでは、と巡らせて、あ、と口元に手をやる。

 岩泉だったら北川第一のジャージの方が似合っているかもしれない。と、何となく浮かべて、そうでもないかな、と考えあぐねていると及川がため息をついた気配が伝った。

「取りあえずさ、帰ろ?」

「あ……うん。そうだね、帰らないと」

 ユカは自身の腕時計に目線を落としてハッとしつつ2人して第3体育館を出る。そのまま道沿いを真っ直ぐ歩いていけば正面玄関だ。

「じゃあ及川くん、またね」

「え!? ちょ、ちょっと待って、待っててくれないの? 酷くない!?」

 及川は帰宅準備に部室に行くだろうし、自分は真っ直ぐ帰ろう。と先に行こうとすれば後ろから手を引かれ「え?」とユカは硬直した。

「え……と」

「もうさ、他に生徒なんて残ってないんだからいいじゃん。ちょっと待っててよ、そんな時間かかんないからさ」

 それもそうかな、とユカは頷いた。時計を見やる。確か次のバスは15分後だ。それを伝えれば及川は「急いで着がえてくる!」とダッシュで部室棟の方へ向かった。

 正門そばで待っていると、程なくして制服姿の及川が駆けてきて並んですぐ目の前のバス停に向かった。

「及川くん、バレー部はどう? やっぱり部員数とか中学の時みたいに多い?」

「あー、うん。でも他の運動部に部員が分散されてるから、人数で言えば北一の方が多かったかな。何人かコイツ近いウチにレギュラーだろうな、ってのがいて、けっこう仲良くやってるよ」

「え、レ、レギュラーになれそうだから仲良くするの……?」

「まあ、それだけじゃないけど。セッターってポジションはメンバーとのコミュニケーションが必須だからね。仲良くなれた方がやりやすいんだよね」

「ふーん……」

「たまに一緒に帰る流れになったら仙台駅で遊んで帰ったりね。中学の頃は真っ直ぐお家へ直行だったからこれがけっこう楽しかったりするんだよね。他の奴らってバレー一筋ってより多趣味だったりして話聞いてて飽きないしさ」

「そうなんだ。あ……そうだ思い出した。バレー部って毎週月曜日がオフなんだよね?」

 岩泉くんから聞いたんだけど、と言えば「うん」と及川が頷きユカは及川を見上げた。

「それで、月曜の放課後に勉強を教えて欲しいって言われてて……。及川くんも良かったら来ない?」

「え、べ、勉強?」

「うん、なんか中間試験の結果があんまり良くなかったみたいで……。いくらスポーツ推薦でも赤点あると部活停止処分とかって言ってたの。だからだと思うけど」

「……そうだった……」

 言えば及川はサッと青ざめ、ユカは首を捻った。それほど成績が悪かったのだろうか? 聞いてみれば彼は小さく首を振るった。

「ま、岩ちゃんほど散々じゃないけど! でも、ま、成績がいいに越したことはないからサ」

 そうしてどこか意味深に遠い目をして呟き、ユカは首を捻ったものの「そうだね」と相づちを打った。

 そうこうしているうちに仙台駅に着き、二人して地下鉄に乗り換える。

 ユカの最寄り駅は及川よりも一駅手前だったため、車内で別れを告げてそのまま帰宅した。



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11話:及川徹と新しいチームメイト

 6月は第4金曜日。

 仙台はまだまだ湿気が多く、梅雨真っ盛りである。

 この時期、及川のクセ毛はいつも以上に跳ねまくって一事が万事で大騒ぎしては岩泉の神経を逆撫で、ユカですら髪の毛の事となると「ストレートが羨ましい」と零していたりする。

 が、剛毛を誇る岩泉にはまったく無関係であり、そもそも髪の毛一つで大騒ぎする軟弱な神経は持ち合わせていない。

 ──と、部活を終えて帰宅した岩泉は制服をハンガーに掛けて、ふぅ、とため息を吐いた。

 青葉城西の制服も部活ジャージも自分にケンカを売っているとしか思えない配色で未だに慣れない。北一の学ランと青ジャージは我ながらなかなかに似合っていたと自負していたのだが。それをうっかり零してみたら「大丈夫だって、ちゃんと似合ってるよ! 俺ほどじゃないけどネ!」と微塵も似合っていると思ってなさそうなふざけた顔と声で及川に返された事をうっかり思い出してコメカミに青筋が立った。

 部活は良くも悪くもまだまだ3年生が中心であるが、多少は北川第一の元レギュラーということで優遇されており、顔見知りの先輩もいて居心地は悪くない。

 取りあえず3年が引退したあとのベンチ入りが目下の目標か。とカレンダーを見やって岩泉は頬を引きつらせた。近々、今学期最大の難関となるだろう期末試験がやってくる。中間試験において9教科中3教科で赤点を叩きだした結果、期末で一つでも赤点を取ればベンチ入りどころか一気に部活停止処分に処されることが確定している。おまけに期末は教科数がさらに増えるのだから、考えただけでうんざりである。

 だが、一応は対策は万全だ。既に数週間前にオフの日に勉強を見てくれるようユカに頼んでおり早め早めの復習を行っている。最低でも赤点は免れるだろう。でなければ困る。この土日も、空き時間は試験勉強にアテる予定だ。

 ──と、テスト前の部活停止期間目前となった次の月曜日。

 ユカと居残って勉強を続けてしばらく、2人きりになった教室に「やっほー!」と苛つく声が割って入ったものだから、チッ、と岩泉は思わず舌打ちをした。確認せずとも声の主は知れている。

「なんでおめーが来るんだよ、及川」

「だってユカちゃんに誘われたんだもーん」

「その口調とトーン本気で引くわ」

「辛辣!!」

 一気に勉強モードであった空気が乱され、なんだってユカはコイツを誘ったのか。と岩泉はちらりとユカを見やったものの、彼女は及川の様子を慣れたように見やって少し肩を竦めつつ笑っていた。これが及川のことをいつも笑顔で紳士的な美少年だと勘違いした女子だったらドン引きしている場面だろうが、さすがに慣れているのだろうと岩泉はため息を吐いた。及川の成績も手放しに良いとは言えないレベルなのは知っているし、赤点回避に越したことはないか。と気を取り直して黙らせるためにもノートを広げさせた。

「ゲッ……、数学じゃん。俺キライなんだけど」

「おめーの好き嫌いは聞いてねえ。邪魔すんなら帰れ」

 ぶすっと頬を膨らませる及川に再度突っ込みを入れて、取りあえずは3人での勉強を再開した。

 基本的にやっていることは少しでも躓けばユカに訊いて解説してもらうというスタンスで、岩泉は中学で強制的にユカと補習を受けさせられて以来、いっそユカの分かりやすい説明に感心していた。

 それでも及川が合流してさらに一時間が過ぎた頃にはずしっと頭の重みを感じて、うっかり「頭いてぇ」と呟いてしまった。

 及川も一度伸びをして、ため息を吐いている。

「ユカちゃんさー……、理数系の成績、異様にいいよね」

「英語もな。特進じゃないのを不思議がられてるし、ちょくちょく転科勧められてるよな」

「ゲッ、そーなの? なんで? 勉強もできるとかずるくない?」

 神様ってほんと不公平! だの愚痴り始めた及川にユカは頬を引きつらせて苦笑いを漏らし、彼女はパラパラとノートを捲りながらこう言った。

「私のお父さんね、学者なの。専門がバイオニクスで……えっと、端的に理系で、私も小さい頃から物理とか好きだったし、いまだってしょっちゅう教わってるから」

「あー……」

「それに、お父さん長いことイギリスで勉強してて、とにかく語学だけはけっこう厳しく仕込まれたから……中学から始めた他の子より、やっぱり有利かな」

「なるほど、そーいう……」

 理由を聞いてしまえば至ってシンプルで。単なる幼少からの積み重ねの差か、と岩泉は納得した。

 だけど、とユカはシャープペンをノートに向けた。

「空間認識能力って、画家には必須だから意識して鍛えてるの。及川くんもそうだよね?」

「へ……?」

「セッターって空間認識能力必須でしょ?」

「は……!? なんで……!?」

 ガタッ、と椅子を慣らした及川に、ユカはそのままシャープペンを走らせて、何やらバレーボールネットとセッターらしき人物とボールの軌道を描き始めた。

「だって、ほら、セッターがこの位置にいて、ボールの落下地点をココだって予測して回り込んで、さらにこの位置に上げたい、って思ったら空間的にはこうなってるんだから、ここの値を求めるにはこうなって……」

 そうしてターゲットポイントらしきところに星マークを描き、そこの値を求める式をつらつら書いて「できた」と言って彼女は及川を見やった。

「こういうこと、考えながらやってるんだよね?」

「やってないよ!?」

「え……そうなの? そっか……でも、じゃあ無意識にやってるんだね」

「だからやってないからね?」

「じゃあ意識した方がいいんじゃないかな……」

「あー、理系屋っぽい理屈だね。あー……でも、うん。そっか。空間認識能力、ね」

「バレーの練習になると思ったら、数学も物理も楽しくなる?」

「うまく乗せたね」

 岩泉は少しだけ目を見開いてそのやりとりを見つめた。やや反発しかけた及川を、ユカは及川が言うとおり「上手く乗せ」た。けれどもユカにそんな意図があったとは思えない。いつも通りユカは柔らかく笑っており、及川もしてやられたような表情を浮かべて笑っている。

 なんなんだコイツ。とゴクッ、と喉を鳴らした岩泉はそのままガタッと席を立った。

「限界だ。ちょっと購買行って食いモン買ってくるわ」

「あ、俺、牛乳パン!」

「自分で買え!!」

 言いながら教室を出て廊下を購買に向かって歩いていく。

 ──”天才”は上へ上へと突き進む。さも当然のように。少しだけ不穏なものが岩泉の胸中に沸き上がった。

 なぜ不穏に感じたのか、いまは分からない。分からない。が、いまはこのままでいて欲しい。いままで通り、及川と同じチームで、及川が自分にトスをあげて、そうして自分が打つ。

 もう記憶も定かでないほど昔から続けてきた関係を、いまはまだ。と、ふっと岩泉の脳裏に大昔の記憶が過ぎって、振り切るように舌打ちをした岩泉は全力で廊下を駆けた。

 

 

 期末試験が終われば、あっと言う間に夏休みである。

 バレー部は当然のようにほぼ毎日部活漬けで、日々を部活に励む及川は自身でトスをあげながら内心苛ついていた。

 ──飛雄のヤツは、おバカなくせにユカちゃんの言うところの空間認識能力とやら「も」秀でているということなのだろう。

 と、脳内で描いた理想のトスと自身の手から放たれるトスとの差異を感じ取って内心舌を打つ。

 思えば彼の目には、狙った場所の空間がスコープで見えているかのように正確に把握できていた。ような気がする。

 だとしたら結局、影山はセッターに必要な頭脳と、目と、そしてイメージを実現できる手という全てを持って生まれたということになる。

「次、Dクイック!」

「及川、もうちょい高く頼む!」

 影山のように。脳裏に描いたイメージとピタリと合わさった場所にピンポイントでトスを上げられたら、どんなにか気持ちがいいのだろうか。などと考えたところで苛立ちが増大するだけで無意味だ。

 影山が1の労力で10を得ることができるのなら、自分は10の労力で10を得るしかない。例え半歩でも追いつかれなければこちらの勝ち。今ごろ彼がどれほど上達しているのかは知らないが、まだまだ負けているつもりはない。

 それに自分にはサーブだってある。セッターとしてではなくサーバーとして名が知られるようなセッターは疑問が残る。などと揶揄されることもあるが、サーブは自分の最大の武器だ。ブロックだって得意だし、今すぐウィングスパイカーにコンバートしてもエースを張れる自信がある程度にはスパイク力にも自信を持っている。

 影山ほど精密なトスは上げられずとも、総合力ではぜったいに負けない。──と思う心とは裏腹に、やはり苛立ちが残るのは他でもない、自分自身がセッターだからだろう。

 ──いけない。セッターはアタッカーの打ちやすいトスをあげてこそ。チームメイトが打ちやすいボールを上げられれば、それが一番いいのだ。

 と、注文が来るたびに修正を繰り返して繰り返して、コーチから休憩を宣言されて及川はコートから出るとドリンクを手に取った。

「マッキー、さっきのトスいまみたいな感じでいい?」

「あ? まあいいんじゃね?」

 そうして同じくドリンクを手に取った、ウィングスパイカーの同級生である花巻貴大に声をかけた。及川よりも若干背の高い彼は自分たちの世代では間違いなくレギュラー入りするだろうというポテンシャルを秘めた良い選手でもある。

 そういえば彼に限らず、初対面の時はみんなに「おー、ベストセッター賞!」「有名人有名人!」だのと言われたものだ。決して慢心しているつもりはなく、彼らが自分を知ってくれていても、自分はそこまで他校の選手を覚えていないし、ちらほら見覚えがある顔がいても「もしかして試合したことあったかも?」程度でまさに「初対面」だった。

 それでも入学から数ヶ月が経ち、夏休みにも入ったいまはそこそこ打ち解けたし、将来はレギュラー入りするだろうなというメンバーとは積極的に打ち解け、歩調も合わせられるようになった方だと思う。彼、花巻もそうだ。

 及川は自分のコミュニケーション能力と、それに伴う観察眼にある程度の自信を持っていた。それはセッターとして必要な能力だからだ。けれども、必要以上に他人と親しくしているかと問われれば、即座に肯定はできない。

 どんな自分だって自分自身であると思っているが、自分はたぶん、「素の自分」とやらをそう簡単に他人に見せるのは得意ではない。そもそも、素の自分ってどういう人間なのか。──と考えすぎそうになったところで及川は首を振るった。

 そんな小難しい事を悩まずとも、自分は上手くやれている。先輩達にだって溶け込めているし、自分の代のチームメイトには他でもない岩泉がいる。来年入ってくる後輩とだって上手くやれるだろうし、岩泉を度外視しても将来レギュラーになりそうな部員と良い関係が築けそうなのは単純に良いことだ。仮に表面的な関係でも、チームとしてやっていくには十分だろう。

 

「あっつい、さすがに東北といえどあっつい」

「疲れたなー……」

「部室くっせ! 窓開けて窓!」

 

 夏休み期間は練習に次ぐ練習で、その日は部活後に数人の一年で居残り練習を行ってから片づけを済ませ、揃ってあがって部室にてぐだぐだ言いながら着がえていた。

 すると、誰かが「そうそう」と及川と岩泉の方を向いた。

「北川第一ってさ、2年にいいセッターがいるって話じゃない。やっぱ及川の秘蔵っ子的な感じ?」

 その一言に、ピキ、と及川のコメカミがしなった。

「え、松つんなに言ってんの? なんの話?」

「いや中学んときの後輩が言ってたんだよね、なんでも北一と今年の中総体で当たったとかで、セッターに凄いのがいたって」

 松つん、と及川が呼んだのはミドルブロッカーの松川一静だ。彼も花巻と同様、将来はレギュラー確実だろいうという選手でもある。

 ──飛雄のことか。と、内心及川は動揺した自分を隠すように「どうだったっけなー」ととぼけ笑いを浮かべる。すると花巻がネクタイを締めながら「でもさ」と笑った。

「及川の後輩なら、高校はウチに入ってくるデショ。青城セッターこの先も安泰でめでたいじゃん?」

「ん? ちょっとマッキー、なに言ってんの?」

「おい、及川──」

「飛雄がウチに来るとは思えないね。そりゃ──」

 『及川さんいるなら、俺も……』と真っ直ぐ言われたことが瞬時に頭に過ぎって、グ、と及川は言葉に詰まる。

 へえ、と花巻が表情を変えないまま淡々と言った。

「飛雄ってんだ。名前呼びかよ仲良しじゃん」

 指摘されて言葉に詰まっていると、松川が目線を岩泉の方へと向けた。

「岩泉、その飛雄クンって実際どうだったの?」

「あ? あー……いや、俺ら3年だったから数ヶ月しか関わってねえしな。けどま、センスは抜けてんじゃねえかな」

「まあ北一でスタメン張るようなヤツだったらウチから確実に推薦行くだろうしな。いいじゃん及川、ポジションの同じ直属の後輩だろ? 可愛がってやんなよ」

 ──ヤだよ。とつい言い返しそうになるのを及川はグッと絶えた。きっと二人からは「大人げない」だの引かれるのが目に見えている。現段階の親密度では、いつも自分が岩泉に向けているような言動を二人は許容してはくれないだろう。

 それに、花巻と松川は及川の目から見ても及川よりも精神的に成熟しているように見えた。自分だって、影山や牛島さえ絡まなければ──と過ぎる心情をどうにか奥に押しやって、「それよりさ」と及川もネクタイを手にとって締めながらみんなの方を見やった。

「2人とも夏の課題終わった?」

「いや」

「終わってねーけど」

「だよね。あ、岩ちゃんは聞くまでもなく終わってないよね」

「殴りたいのに図星で殴れねぇ……!」

 岩泉が拳を震わせ、花巻と松川が吹き出して及川は「じゃあさ」と切り出した。

「今度のオフの日、どっかで集まって片づけちゃおうよ。4人でやれば多少ははやく終わるだろうしさ。予定、空いてるよね?」

「腹立つわー……、こっちだってデートの約束のひとつくらい──」

「ねーな」

「だな」

 そうして満場一致で次の休みの予定が埋まり、四人揃って部室を出てバス停に向かう。そうしてバスに揺られて仙台駅へ向かっている最中で花巻がこんな提案をしてきた。

「せっかく4人揃ってんだし、久々にビリヤードやらね?」

 ほぼその一言で寄り道が決定し、仙台駅についてゾロゾロと4人揃って移動する。

 花巻は多趣味なようで、ビリヤードに始まりダンスゲームなど及川がいままで触れたことのなかった風を吹き込んでくれた張本人でもある。及川自身は物心がついた時から中学時代までバレーに次ぐバレーで全てが埋め尽くされており、趣味はイコールバレーでもあった。

 いまでもそれは変わらないが、高校に入って必然的に行動範囲も広がったし、週に一度の強制オフに加えて将来のレギュラー陣とは仲良くしておこうという切っ掛けもあり、いまでは共に楽しめる程度には出来るようになった。

 とはいえ。やはり花巻発信の趣味は花巻に一日の長があるのだが。と、ビリヤード場について及川・松川、岩泉・花巻というチームに別れてゲームを開始すれば、やはり花巻チームの優勢でゲームは進んだ。

「あ、あれ青城の制服じゃない?」

「うわぁ、背、たかーい……!」

 及川・花巻・松川が揃っていると背の高さからかなり目立ってしまうことは及川自身も自覚していた。つまり、いつも以上に目立ってしまうということだ。及川は敏感に自分へと視線と噂話を向けている女の子の存在を感じ取って、そちらに目線を送ると、得意の笑みを向けて手を振った。

 すれば小さく悲鳴が上がり、3つ舌打ちが重なったのが聞こえた。

「イケメンまじ腹立つわー」

「爆発しねーかな」

「いけ、花巻! 一気に全部落としてやれ!」

 岩泉がそう叫び、花巻はニッ、と笑って台の縁に腰掛けると後ろ手でキューを持って構え、難しい位置にあるボールを連続で弾いて上手く6-7番をポケットに沈めた。とたん、遠巻きに小さく歓声があがった。

「あの人うまーい……!」

「カッコイイ……!」

 それを聞いた松川がケラケラ笑って花巻とハイタッチし、及川はムスッとギャラリーに背を向けて頬を膨らませた。

「ちょっと松つん、マッキーは敵だよね?」

「いや俺らの敵イケメンだから」

「いまは勝負に集中しよう! ていうかさ、岩ちゃんが殺気放ってるせいで女の子達怖がってるよ?」

「お前が黙れば殺気なんざ立てねえよ、負け川さんよ」

「まだ負けてないし、ていうか略さないで!」

 そんなやりとりをしつつゲームを続け、そのゲームは花巻・岩泉が取り、結局数ゲームをこなしてやはり花巻チームの勝ち越しで終わって4人はビリヤード場を出た。

 すっかり夕暮れだ。いったん帰ってロードワークに出ようかな、などと考えつつ及川は駅で松川・花巻と別れ岩泉と共に地下鉄に乗った。

 2人になったせいか、ふと部室での松川の言葉が脳裏に蘇ってきて及川は小さく呟いた。

「飛雄、上手くなってんのかな」

「あ? ああ、松川がそんなこと言ってたな。ま、アイツに限らず伸びてくる時期だろ」

「ま、そうなんだろうけどさ」

 考えるな、とでも言いたげな岩泉の突き放すような声に、及川は座席の背にグッと体重を掛けて、ふ、と息を吐いた。──影山は天性の才能に加えて努力を惜しまない。情熱もある。他者より圧倒的にだ。そんな彼がどう育っているか、考えるだけでも焦燥感や緊張といったぐちゃぐちゃな感情が胸に飛来する。と、顔が歪みそうになったところでハッとした。そういえば、と別の事を思い出したのだ。

「美術部って、夏休みに部活やってないのかな……」

 夏休みに入って数度、及川は美術室を訪ねていった事があった。が、いつもは美術部にいるユカがおらず、あれほど練習熱心な彼女でも夏は休むのかと意外に思ったのだ。

 岩泉がこちらを見て二度ほど瞬きをすると、ああ、と肩を落とした。

「栗原の事なら……、あいついまこっちにいねえぞ」

「え……!?」

 一言もユカの名前は出していないのに何故分かったんだ、という突っ込みはあえてやめておいた。この辺りはさすがに幼なじみといった具合だろう。

「なんでも夏の間、親戚んちに行くとかって休み前に言ってたからな」

「そう。ていうかなんで知ってんの……」

「雑談ついでだ。クラスメイトだぞ」

 岩泉が眉間に皺を寄せ、ふーん、と及川は目を伏せた。別に仙台にいようがいまいが、学校で会えない以上は連絡を取る手段もないし。夏の間こっちにいないって知っても何の意味もないけどさ、と及川は少し眉を寄せた。

 別に関係ないけどね、と思いこもうとする意識とは裏腹に、話したかったのにさ、と相反する思いも浮かんで。ああ我ながら厄介。と自分に苛立っていると車内に降車駅のアナウンスが響いてハッとした。

 取りあえずはやく帰ってロードワークに行こう。と急く背中に「走りすぎんじゃねえぞ」などという声が投げかけられて「岩ちゃん怖い……、エスパーなの?」と呟いてしまって盛大に回し蹴りをくらって意識が完全に飛んだ。



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12話:及川徹の文化祭1

 2学期になり、秋もだんだんと深まってきて──。

 ユカはすこぶる上機嫌で美術室のキャンバスの前に座っていた。

 文化祭用の展示品、「仙台の春」「夏」に続き「秋」を作成中なのだ。今年度の風景ゆえに、冬が欠けてしまうのが惜しかったが、我ながら良い作品に仕上がりそうだと微笑む。

 いずれ「冬」も描いて、うまくいったらそれを来春のコンクールに出品しようと思う。

 青葉城西の文化祭と体育祭は隔年で開催されており、今年は文化祭の年だ。やはり高校、それも私立。中学の時より規模も大きく、2学期に入ってから文化部の活動も活発になってきて、ユカも個人作品とは別に校門に飾るパネルなど部員達と協力して作業を進めた。

 ユカ自身のクラスの出し物も、あまり揉めずに視力や体力などを図る参加型の「測定コーナー」と決まり、オプションで腕相撲コーナーが設置されることも決まった。なぜなら一年では腕相撲最強と謳われる岩泉の存在のおかげだ。むろん、彼に勝てれば景品が与えられる。

 当の岩泉は午前中はバレー部の公開部内戦に出るらしく、当日はそこそこ忙しいらしい。

 バレー部は先日行われた春高予選の県代表決定戦で優勝を逃し、3年生が引退したことで2年中心体勢に移行したということだった。しかしながら1年である岩泉はようやくベンチメンバーに昇格、及川は最初からベンチメンバーであったがスタメン昇格はまだで、それ故にスターターで出られる文化祭の部内戦は楽しみということだった。

 それとは別にして、岩泉は文化祭に関して一つぼやいていた。

 というのも及川のクラスに関してである。及川のクラスの出し物は「執事喫茶」。なんでも女子は及川の正装見たさ、男子は及川で女性客を釣って大儲けという目論見で一致したらしく、ほぼ満場一致で決まったらしい。各クラスの出し物案内の最終決定版がプリントされ、クラスで配られて個人個人に行き渡った途端、「ビリッ」と紙の破れる音が隣の席から響き、ユカが驚いて隣を見やったら頬を引きつらせた岩泉がいた。曰く、瞬間的にふざけた顔の及川が浮かんでつい力んでしまった、とのことだった。

 

 文化祭は11月3日。文化の日。一般公開で、青葉城西を受験候補にしている中学生もたくさんやってくる。

 

 当日──、登校する生徒達の足取りがどことなく軽い気がするのは気のせいではないだろう。

 及川もその一人だった。基本的にイベントごとは好きな方だ。

 もっともその日も朝練は通常通りで、いつも通り朝早く学校へ向かった及川はいつも通りの朝練をこなしてからいったん自身のクラスへ顔を出し、再び第3体育館に戻った。今日は文化祭開幕と同時に部内チームでのデモンストレーションマッチが入っているのだ。

 試合用のユニフォームを着た及川は、試合開始前にチームメンバーを見やっていつも通りの笑みを浮かべてみせた。

「よーし、やりますかー! それじゃあ先輩がた、マッキー、ふつつかなセッターではありますがひとつヨロシクおねがいしまーす!」

 チームはレギュラー・サブの混合チームだ。岩泉・松川とは離れてしまったが、一年は及川と花巻、あとは全て2年生である。

「おう!」

「客向けの公開試合とは言え、本気で行くぞ!」

 円陣を組んで、こちらのチームに入った副キャプテンを中心に声を掛け合った。そうしてコートに入ったその瞬間。

 

「キャーー! 及川クーーーン!」

「及川せんぱーーい、がんばってくださーーーい!」

 

 黄色い声が飛んだが、試合中はさすがの及川といえどもギャラリーに応える事はしない。ただ、北川第一の女生徒も来ているのか、という事だけうっすら思った。

 もしかしてバレー部の後輩も来ているのだろうか。とも思った。が。北川第一は365日休みナシと言っても過言ではないド根性ばりばりの部だったことを思い出し、アイツらは今日も練習だよな、と思いつつ前衛のポジションにつく。ローテーションはバックオーダーのS3。青葉城西が高頻度で使うオーダーだ。と、及川はセンターに立ってネットの先をちらりと見やった。

 できればアナタから正セッター奪いたいんですよねぇ、とちらりとネット越しにいる正セッターを見やるも、ふ、と息を吐く。

 岩泉とチームが別れる事は珍しい。が、こっちは正レギュラーが多いし、自分さえうまくセットできれば有利だ。互いに見知った仲ゆえに長所も短所もバレている。

 だからこそ欺くのが楽しいんだけどさ、と及川はさっそく試合開始直後にブロック2枚を剥いでバックに高めのトスを上げてポイントを奪い、ニ、と笑った。

 我ながら、セッターはつくづくイイ性格をしていないと務まらないと思う。スパイカーではなくあえてセッターでありたいと願っているのはやはりこのポジションが好きだからだ。

 そうして拮抗した試合展開ながらも2セットを奪って勝敗が決し、及川は勝ちが決まった瞬間にパッと満面の笑みを浮かべた。すると、やや呆れたような声を副キャプテンが漏らしてくる。

「お前、勝った瞬間だけはほんと掛け値なしでいい笑顔浮かべるよなー」

「え!? 俺いつも真っ直ぐ満面の笑み浮かべてません?」

「いや、他はなんか悪巧み浮かべてるような笑みしか見たことねぇな」

「マッキーひどっ!」

 ギャラリーから拍手を貰いつつそんな会話をして、全員で整列してギャラリーに頭を下げた。

 さすがに今日は体育館シャワー室の使用許可が降りており、全員でサッと浴びてから部室に駆け込み、制服に着替える。

 花巻と松川のクラスは全員参加の舞台をやるらしく、拘束時間が短くて自由時間が多いらしい。2人は昼食を屋台で取ると張り切って先輩たちが出たあとすぐに部室を出ていき、残された及川は岩泉の方を見やった。

「岩ちゃん、ご飯食べないの?」

「いや、食う」

 及川は最初から屋台で食べる時間は取れないと弁当を持参しており、それは岩泉も同じだったのだろう。互いにその辺りに散らばっている椅子に腰掛けて弁当を広げた。少し早めの昼食となったが致し方ない。

「あーあ、せっかくの文化祭なのに岩ちゃんと部室でご飯なんてサビシイ。凹みそう」

「物理的に凹ましてやろうか、まず顔面な」

「今日はそれは困る!!」

 なんて。ちょっと静かな環境での食事が良かったから今日はこれでいいんだけど。と過ぎらせつつちらりと目線をあげた。

「岩ちゃんのクラスって全員でシフト回してんの?」

「まあ、だいたいそうだな。文化部のヤツもいるし、そこまできっちり分かれてねぇけど」

「ふーん」

 食べ進めつつ、少し間を置いて携帯を取りだして時間を表示させた。11時半。12時には準備して自分のクラスに入らなければならない。まだ時間はある……が。

「ごめん岩ちゃん、時間ないや。俺さきに行くね?」

「あ、おう」

「戸締まりヨロシクね」

 急いで食べ終え、バッグに弁当箱を詰め込んで背負うと及川は岩泉に手を振って部室を後にした。さすがに部室棟周りに人はいなかったが、校舎に近づけば見慣れない制服や私服の来客が一気に目に飛び込んできて、うわ、と及川は目を見開いた。中学の時とはやはり規模が違う。

 及川はその足を普通教室棟ではなく、美術室のある特別教室棟の外部入り口に向けた。──美術部の展示品は今年の目玉だとパンフレットにも大きく記載されていたし。まだ少し時間あるし。なんて、足先が美術室に向かう理由付けが勝手に頭に流れ込んできて自分で苦笑いを漏らしてしまう。

 部内試合でスタメンで出て、キャプテンのいるチームに勝ったよ! とか。正セッター負かした、ブイ! とか。及川さんのサーブめっちゃくちゃ決まったよ、見たかった? とかって言いたい。なんてそんな事、考えたらぜったい負けだ。ユカはたぶん、そんなにバレーに興味を持ってないなんてとっくに気づいてるけど。それでも。公開型の試合でセッターとして出られるなんて滅多にないし、やっぱり自分でも想像以上に嬉しかったんだろうな。と今日は来客用に大量に用意してあるスリッパに履き替えて普段は使わない入り口から校舎にあがり、美術室のある三階へ行けばけっこうな賑わいで思わず目を見開いてしまった。

 混んでるな……と入り口からひょいと中を覗き込むと、視線が一気に自分に集まったのを感じた。色めき立つ、とでも言うのか。自分でも条件反射のように、ニコ、と笑みを浮かべれば小さな悲鳴があがったのも耳に届いた。

 ユカはいるのだろうか。と視線を巡らせるが見あたらず、及川は美術部員らしき女生徒に声をかけてみた。

「すみませーん。栗原ユカちゃんっていまいますか?」

 すると、よほどその問いが意外だったのか「え?」と数人の美術部員が互いに顔を見合わせ、及川は「あ、まずいかな」と悟った。

「彼女とは同じ中学出身で、いつも美術部の展示は賑わってたから気になって来てみたんですよネ」

 ──なんて全然知らないけど。彼女は有名人だったし、嘘でもないよな。とニコニコと対応すれば「なんだ」とみんなしてこちらを見上げてきた。

「栗原さんはいまいないけど、彼女の作品はあっちだよ」

「ていうか、及川君って絵に興味あったんだー……」

「運動部のひとが美術に興味持ってくれるなんて嬉しい!」

 口振りから、上級生かな? と及川は感じた。それとなく話を合わせつつ、及川はユカの作品が置いてあるという方向を見た。室内はいつも並べてある大きなテーブルが片づけられ、代わりに衝立のようなものを立てて絵画を中心に展示してある。

 何やらユカの作品の一角にはスーツ姿の年輩の男性や女性が陣取って熱心に見ているようで、及川は頭に疑問符を浮かべながら近づいた。

 こういう時、背が高いと便利だ。後ろからでも余裕で前が見える──、と及川はひょいとユカの作品群を見やった。

 付けられていたタイトルは、明らかに文化祭展示用に描いていたらしい「仙台の春」「夏」「秋」。生の油絵を見るのはほぼ初めての体験だ。絵心なんてありはしないし、美術の授業すら何を習ったか覚えていないレベルの及川であったが、それでも。そんな及川ですらも瞳にパッと飛び込んできた色に、筆遣いや質感に、いっそ戦慄した。ゾクッ、と肌が粟立つ。ああ、なんで。なんで「才能」というヤツはこうも分かりやすいのだろう? ほんの一瞬、初めて影山のトスを見た瞬間に感じた電流に触れたような感覚さえ思い出してゴクリと喉を鳴らした。

「”仙台”というよりは、ほぼ学内だけを題材にしているのが惜しいくらいの出来ですなあ」

「しかし相も変わらず、いっそ不自然なほどに彼女の絵には人間が一人も出てきませんね」

「人物をこれだけ排除してここまで描けるというのも、ある意味では恐ろしい腕ですね」

 ユカの絵を見ているのは絵画関係者なのか、そんな話が聞こえてきた。口振りから、かなりの評価を得ている様子だ。

 ──美術の世界にも、大学スカウト的なものがあるのだろうか。などとついうっかり考えてしまい及川はグッと手を握った。

 だめだ。いまそれを考えるのはよそう。とそっとその場を去る。

「もう行っちゃうのー?」

「クラスの仕事が始まるんです。なにぶん12時からで」

「あ、じゃあすぐ行かないとだね。及川君のクラスって喫茶店だよね。後輩が騒いでたから知ってる」

「ハイ。先輩方もよければ来てくださいネ」

 そうして美術部の上級生に手を振って美術室を出て、いったん下駄箱を経由して靴を仕舞ってから普通教室棟へと戻った。

 飾り付けの施された廊下を歩きつつ自身のクラスを見やると、ドアの前には量販店から仕入れてきた執事セットの服装に身を包んだクラスメイトが客引きのためか立っていた。及川のクラスの出し物は執事喫茶である。

「おう、及川。戻ったか。お前の衣装、準備室に置いてあるからな」

「オッケー。どう? 客入りは」

「そこそこだな。期待してっぞ、しっかり稼げよ」

「そんな期待されても困るんだけどなぁ。ま、頑張るよ」

 言って及川は廊下の一番奥にある準備室に向かった。1年の全てのクラスが物置やら着替えやらに使っている準備室であるが、及川が準備室のドアをノックして中に入ったときは誰もおらず、取りあえず自分のクラスのスペースに足を運ぶ。

 そうして「及川用」と書かれた衣装を手に取った。体格の問題上、自分に合うサイズを見つけるのは至難の業だったと零していたのは文化委員会のクラスメイトだ。

 まさか本物の執事が着ているような服は割り振られた予算では到底買えるはずもなく、何ともコスプレじみた衣装だが、これはこれで祭りっぽくていいか。と及川は鼻歌を歌いながら着がえた。

 白いシャツにパンツ、ベストを着込み、燕の尾状にテールの伸びた黒のジャケットを羽織る。そうしてネクタイを付けて、白の手袋を付けながら衣装チェック用の全身鏡の前に立って、思わずゴクリと喉を鳴らした。

「やばい……俺似合いすぎる……!」

 思わず真顔でそう言ってしまうほどの、執事衣装を違和感なく着こなした整った男が鏡の中にいたのだ。及川は鏡に映った自分相手に絶句し、数秒ほどまじまじと眺めてしまった。

 足下も、これまた予算内で買える程度のたたき売りされていただろう靴だが、要するに似合っていればいいのだ。うっかり携帯を取りだして自撮りしそうになったがさすがに寸での所で思い留まり、準備室を出る。

 廊下を歩いているとさっそく女の子が「わ」と小さな悲鳴をあげてくれて、ニコ、と及川は笑みを返しておいた。

 ドアの前にいたさっきのクラスメイトがちょうどいま客が引いていることを教えてくれ、それならば、と及川はいつもの調子でピースサインをしながら教室に足を踏み入れてみる。

「皆さんお待たせしましたー、俺です!」

 すれば先に仕事をしていた執事陣が振り返り、商品を用意してくれている女生徒陣も振り返って「わ」と声をあげた。

「及川君、似合うーー!」

「ほんと? ありがと」

「及川、やっぱイケメンか!」

「だよね、俺もそう思う」

 程良く笑みで嫌味にならない程度の軽いノリで対応していると、そのうちの一人が携帯を取りだした。

「写真撮ろうよ写真!」

 そうしてちょっとした撮影会を済ませてから男性陣の方へ行けば今日の状況を詳しく話してくれ、業務の最終確認をして仕事開始だ。

 まずは中ではなく外で客引きという名の宣伝業務を言い渡され、クラス名と喫茶店名の入ったプラカードを持たされて外へ出されてしまった。

 これが功を奏したか否かは分からない。が、いつも以上に女の子に囲まれてひっきりなしに声をかけられ、及川はいつも通りにこやかに対応した。

 一度、噂が広まればあとは芋蔓式で客が増え、及川が接客に入ったことでますます客足は伸び、休憩すら入れてもらえず酷使され続けた及川は午後3時を目前にしてさすがに抗議をした。が。

「あと2時間程度で終わりだ。頑張れ」

「酷すぎる!!」

 却下されたが粘ってどうにか休憩をもぎ取り、一息つく。さすがに着がえるわけにもいかず、その足で岩泉のクラスを目指した。

 

「やっほー! 岩ちゃん、いるー?」

 

 ひょっこりと現れた、何やら燕尾服のような服を着た男に岩泉及びユカのクラスは、ざわ、とどよめいた。

「及川君だ……!」

「やだあれ、喫茶店の衣装?」

「カッコイイ……!」

 クラスで各々の仕事をしていた女生徒が色めき立つのをユカは身長計の横で見ていた。

 ユカのクラスの出し物は「測定コーナー」であるため、客がくればその都度測ってやるというシンプルなモノである。内容のせいか男性客の方が多く、賑わっているかといえば微妙である。

 岩泉に用事かな、とユカが見やった先で及川はさっそく女子に囲まれて携帯のカメラを向けられている。とはいえ中学時代からの見慣れた光景でもあるため、特に物珍しいものでもない。

 お願いします、と来客から声がかかり、ユカの意識は測定の方に向いた。腕相撲コーナーのデスクでデンと構えて座っていた岩泉は及川が現れた瞬間は殺気だっていたが、こちらも来客で気がそれたようだ。

 そうして、2,3人測定して見送ると、ヌ、と文字通りに黒い影が現れた。

「俺も測ってもらっていいかなー?」

 コンマ単位遅れて、その声が及川だと認識したあとにユカは本人を見上げた。ニコニコ笑っているその顔から、たぶんいま着ている服装について何らかの感想を求めているのだろうな。と察したが、コメントに困って「どうぞ」と促したらやはり「冷たい!」と返されてしまった。

「ユカちゃんもさ、もっとこう。キャー及川くんカッコイイーみたいなのないの?」

「う、うん……。及川くん、背が高いから見栄えするし、似合ってると思うよ」

 取りあえずそう言えば及川はその返答では不満だったのか、むぅ、と唇を尖らせた。

「いつもと違う及川さんにドキっとしない?」

「え、と……。ここが晩餐会会場でちゃんとした正装だったらしたかも……」

「文化祭にそんなクオリティ求めないで!」

 この人の場合、遠巻きに見ているだけなら絵になるのかもしれないが。と、表情をいちいち大げさに変える及川を身長計に促して測定バーを頭のてっぺんにぴたりと付けた。デジタル表示ゆえに機械が勝手に測定してくれ、ユカは表示された目盛りを読み上げる。

「181,2センチ」

「ゲッ、春から1センチしか伸びてない!」

「及川くん、中学の時にけっこう伸びてたもんね。でも十分高いのに」

「んー、せめて180台後半は欲しいんだけどね……」

 平均身長からすれば十分高い部類であるが、及川はバレー選手だから出来うる限り伸びて欲しいと思うのも当然かな。とややうなだれた様子の及川を見やってユカは少しだけドキリとした。考え込むように目を伏せた及川が白い手袋を着けた手を口元に当てたのだ。

 やはりこうして黙っていると相変わらず整った顔をしているな、と感じていると「ん?」と及川が目線をあげて目が合い、さすがにユカの心音はドキッ、と高く脈を打った。

「どしたの?」

「え? あ……えっと」

 やっぱり綺麗な目だな、などとこの場で言うのは憚られて少し目線をそらすと、及川はやや不審そうな顔をしつつも「そうだ」と思いついたように話を切り替えた。

「今日さ、バレー部は部内戦を公開でやったんだよね」

「うん。岩泉くんに聞いた。2人ともスターティングメンバーだったんだよね」

「そうそう。岩ちゃんとは違うチームだったんだけど、勝ったのはモチロン俺の──」

「おいこら、クソ及川! 後ろが詰まってんだろうがどけよグズ及川!」

 及川がピースサインを作ろうとしたらしきモーションを見せたところで横から怒声が飛んで、ビクッ、と彼は肩を揺らした。そうして彼は後ろを振り返ったが、特に順番待ちの客はおらず、怒声を飛ばした超本人の岩泉の方をムッとした目線で見やった。

「別に誰も待ってないじゃん!」

「うるせえ、用事が済んだらさっさとクラス帰れ!」

「俺はいま貴重な貴重な休憩時間なんですぅ! だいたい岩ちゃんはなにやってんのさ」

 言いながら及川は岩泉の方へ行き、岩泉は腕相撲で自分に勝てたら景品プレゼントだということと、まだ一度も負けてない旨を説明していた。

「花巻も10回ほど挑戦したが、全戦全敗してったぞ」

「ふーん……。ま、しょうがないよね。岩ちゃんのパワーってゴリラ並──いたっ!」

「そろそろ相手不足でつまんねーんだわ。おめー相手しろや」

「へ? 本気? 俺、正直パワーで岩ちゃんに負けてると思ったことないんだけど?」

「あ"? じゃあゴリラはおめーじゃねえか」

 及川限定らしいとはいえ。なぜ岩泉は及川相手だとああも簡単に手が出て言葉も荒れるのだろう。と、ユカにとってはある意味慣れたやりとりを繰り広げている2人を見ていると、及川もその気になったのかジャケットを脱いでネクタイを緩め、遠巻きに見ていた女生徒が小さく悲鳴をあげたのが聞こえた。

 ユカにしても、シャツとベストの方が何となく及川に似合っているな。と感じていると及川は右手のシャツの袖を捲り上げて岩泉に向かい合い、手を覆っていた白の手袋を脱いでから席について右手同士を掴み合わせた。

「レディ──」

「ゴー!」

 互いに合図を言い合った途端、2人の表情はすさまじく力んで青筋が立っている。

 クラスの男子達はクラスメイトのよしみゆえか岩泉に声援を飛ばし、女生徒はいままで連戦連勝を誇っている岩泉に拮抗した力を見せている及川が意外だったのか「及川君……」「すごい……」と呆然としていた。

「──っシ!」

 しばらくの攻防のあと、及川の掌を机の上につけて競り勝った岩泉が拳を握りしめ、及川は一瞬だけ心底悔しそうな顔を浮かべたあと、何ごともなかったようにヘラッと笑った。

「あいたー。やっぱ強いな、岩ちゃん。……はいもう一回」

「あ? 俺の勝ちで終了だろ」

「いいじゃん、マッキーとは10回もやったんでしょ」

 それに俺、お客だしね。と笑って手を差し出した及川に岩泉もムスッとしながら応じる。

 そして二度目は及川は作戦を変更したのか、途中で一瞬だけ力を抜き、一気に叩き潰すという強攻策に出た。功を奏したようで、ドッ、という大きな音と共に岩泉の右手が机に叩き付けられてギャラリーがワッと沸いた。

「いえーい、俺の勝ちー!」

「及川君すごーーい!」

「岩泉に勝ったヤツ、初めて見た……!」

 女子が手を叩いて、男子も度肝を抜かれたような表情を晒し、及川はピースサインを浮かべて颯爽と立ち去ろうとした。が。

「一勝一敗だろうが、フザけんな!」

 そんな及川を岩泉が止め、再チャレンジを申し込んでいる。いつもならこういう場面、及川は上手く逃げてしまうのだが今日は珍しく岩泉に応じて再々勝負を始めた。

 そうして腕相撲を続ける2人を手持ち無沙汰で何となく見ていると、クラスメイトの一人が近づいてきた。

「栗原さんゴメン、ちょっと遅れちゃった。交代するよ」

「あ……うん。ありがとう」

 そう言えば、と時計を見やると3時を回っている。持ち場は3時までの予定で、3時半には美術部に行くと部員には伝えてあった。

「にしても、岩泉君と及川君、すごいね……。及川君って力あるんだねー」

「そうみたいだね」

 ユカとしては及川のパワーなしには成し得ないジャンプサーブを長年見ていたせいか、及川のパワーが通常以上なのは驚くことではない。むしろ体格で劣っている岩泉が及川と同等のパワーがあることの方が凄いような気がしたが。

 凄い、と言われるのはやはり端正な顔のせいなのだろうか。と、何戦やったか分からない2人を横目にみつつ、教室をあとにした。



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13話:及川徹の文化祭2

「24勝23敗……、まあ今日はこの辺で勘弁しといてあげてもいいよ岩ちゃん?」

「おめー息あがってんぞ、あんま無理すんじゃねえよ」

「そっちこそゼーゼー言ってるじゃん。ま、キリもいいし25勝目までやってもいいけど」

「24勝24敗タイになるのが見え見えだけどな」

 

 及川VS岩泉の腕相撲対決。24勝目を掴んだ及川が岩泉を見据えれば、岩泉もそう言い返してきて、ふ、と及川は笑った。

 うっかり単純に楽しんでしまった。と、あはは、と笑っていると「なに笑ってんだボゲ」といつも通りにがなる岩泉の声を聞き流しながら汗を拭う。

 そして、ふぅ、と息を吐いてハッとあることに気づいた。身長計の方を見やれば先ほどまでいたはずのユカの姿が見あたらない。

「あれ、ユカちゃんは?」

「あいつ3時までだったから、休憩入るか美術室戻るかしたんだろ」

「なにソレ聞いてないんだけど!?」

「聞かれてねーよ」

 むぅ、と及川は唇を尖らせる。話したいことが色々あったのに。とは口には出さず、代わりにため息を吐いて机に突っ伏した。

「ユカちゃんて俺に冷たいと思わない?」

「フツーだろ」

 ボソッと小さく呟くと、さも鬱陶しいと言わんばかりの適当な返事が返ってきた。──別にユカでなくとも話を聞いてくれる女の子なんて、たくさんいるんだけど。でも。きっと「天才」という存在が自分にとって鬼門だって分かっていても。それでも……と突っ伏した先で考え込んでいると、ゴン、と後頭部に何かを置かれた衝撃が伝った。

「いった。……なに?」

「景品だ。ホレ。岩泉一に勝ててオメデトウゴザイマス賞」

 顔を上げるとラッピングされた箱が目の前に置かれていた。

「一個だけなの? 俺、24回勝ったんだけど。──いたッ、すぐ暴力に訴えるのやめてよ岩ちゃん」

 冗談めかして手を差し出せば叩かれて、及川は払いのけられた手を大げさにさすった。そうしてちらりと壁時計を見やる。すっかり一時間ほど居座ってしまった。さすがに戻らないと文句を言われそうだ。

 一般公開は5時までだし、あと一時間くらいきっちり働きますか。と、及川は立ち上がって椅子の背に引っかけていたジャケットを羽織った。

「じゃーね、岩ちゃん。コレありがと」

 そうして貰った景品をありがたく受け取って岩泉のクラスをあとにして自分のクラスに戻れば「遅い!」と一喝されたあげくにこき使われて無事に公開時間は終了した。

 そうして期待通りなのか期待以上だったのか、総売上をニヤニヤしながら数えている文化委員を横目に制服に着替えにいけば、何となく全員で後夜祭を見ようという話になる。

 片づけは明日に持ち越しで、これから2時間かけて後夜祭が行われる。主にステージでの軽音部やダンス部が中心となったライブ形式だ。その後はメイングラウンドで締めに花火を打ち上げるらしいが、なにぶん及川にとっても初めての文化祭でどういうものかは分からない。

 第一体育館の横に設置された特設ステージの前には既にけっこうなギャラリーで埋まっていて、とても椅子に座れそうにはない。周りも「人多いねー」とそれぞれ呟き、立って見ようということになり、なんとなくその辺に立ってステージを見ていると、クラスメイトの一人が一般公開閉店前に仕入れたと思しきたこ焼きと焼きそばを大量に抱えてやってきた。

 みんなちょうどお腹が空いてきた頃で、歓声をあげてそれぞれ摘みあった。そして始まった後夜祭は、さすがにそれぞれツボを抑えており、ヒットチャートの曲を次々に披露して暮れゆく空間を存分に盛り上げていた。

 及川も一緒に盛り上がりながらふと思う。──バレーしたいな、と。この時間、オフでもないのにバレーをしていないのはどうにも感覚が狂う。

 いまから体育館を使って練習したらさすがに不味いだろうか。などと考えつつ、小休止中に数人でゴミを捨てに行った先でふと及川は特別教室棟を見上げ、目を見開いた。

 三階の一番角の教室──美術室の明かりが付いていたのだ。

「ごめん、俺ちょっと抜けるね」

 きっとユカだ。と悟った及川は一緒にいたクラスメイトにそう告げて彼らから離れた。まさか消し忘れというオチはないだろう。

 後夜祭は強制参加ではないが、校舎に残っている物好きな生徒はそういないはずだ。校舎の中に入ればいっそ不気味なほどシンとしていて、及川は非常用のぼんやりとした明かりを頼りに三階へあがって美術室に向かった。

 コンコン、と取りあえずノックをして中に入ればそこにいたのは案の定で、自分の作品の前だろう場所に立っていたユカが驚いた顔でこちらを凝視した。取りあえず及川は笑って手を振ってみる。

「や。ここだけ明かりついてたから気になっちゃってさ」

「及川くん……」

「後夜祭、見ないの?」

 言えば、ユカは少し考え込むような仕草を見せた。答えあぐねているのかもしれない。が、及川は何となく、さきほど「バレーがしたい」と感じた自分と同じ気持ちで彼女はここにいるんだろうと理解した。

 違うとすれば、それをためらわず実行しちゃうところかな、と少し肩を竦めつつ近づくとユカは目線を自身の作品の方へ戻した。

「ちょっと考え事してたの。もう一作、作品を追加したいんだけど……どういう絵にしようかな、って」

「ああ、”冬”? 冬だけ描いてなかったもんね」

「え……!?」

 昼間に見たユカの作品は三つ。春、夏、秋がテーマだった事を思い返して言えばユカは驚いたような声をあげ、「あれ」と及川は瞬きをした。

「先輩たちから俺が昼間に来たこと、聞いてない?」

「え……き、聞いてないけど。そっか、来てくれてたんだ」

「うん。ちょうどお昼前に来たんだけど、ユカちゃんいなかったんだよね」

「お昼はちょっと早めに休憩とってたの。12時過ぎには戻ってきたけど……」

「あ、じゃあ入れ違いだったね」

 話をしつつも、ユカは再度自らの絵の方に視線を向けた。──そういえば、と思う。実際のところ、ユカがどれほどの頻度で自分のサーブ練習を見に来ていたかは知らない。でも、ユカは自分が再三「声をかけてくれ」と言うまで一度も声をかけてくれたことはなかった。

 ということは。彼女にとっては「声をかけない」という選択肢の方が正しいのだろうか、と思案しつつ訊いてみる。

「俺……、お邪魔デスカ……?」

 するとユカはハッとしたようにこちらを見上げて、ううん、と首を振った。

「そんなことないよ。ごめんなさい。なかなか冬のイメージが浮かばなくって考え込んじゃって」

「冬になってから考えればいいのに」

 言えば、ユカは「そうだね」と小さく笑った。窓の外からは後夜祭で盛り上がる生徒達の声と音楽が聞こえてくる。

「ユカちゃん、戻んないの? クラスの子とか心配しない?」

「一応、岩泉くんに美術室に行くって伝えてきたし、そのまま帰るかもって言ってあるから大丈夫」

「……なんで岩ちゃんなの……」

「? 目の前にいたからだけど……」

 なぜそんなことを訊くのだと言わんばかりの表情で答えられ、及川はさすがに言葉に詰まった。ユカは首を傾げつつも、そうだ、と思いついたように見上げてきた。

「及川くん、岩泉くんと何戦くらい腕相撲やってたの?」

 私、途中で抜けちゃったから。と続けたユカに及川はハッとしてブイサインを作ってみせる。

「24勝23敗で俺の勝ち越しエンド!」

「わ、50戦近くもやったんだ……! みんな及川くんが強い事に驚いてたみたいだね。岩泉くん、すっごく強いから」

「えー、そんなに意外かなー。俺、そんなに弱そう?」

 及川自身は自分の腕力にある程度の自信を持っているため、やや茶化すようにして軽く息を吐きつつ言った。割とけっこう心外である。やはりこれだけ顔がイイとひ弱に見られてしまうのだろうか。などと考えていると、ううん、とユカは首を振った。

「私は中一の時から及川くんのサーブ見てて、及川くんのパワーが凄いのは知ってたから」

 ふ、と小さく微笑まれて、及川は少し目を丸めたあとに、ふ、と目元を緩めた。

「そうだよね! ユカちゃん、及川さんの追っかけみたいなモンだもんね!」

「……うん、もうそれでいい……」

「呆れたように言わないで!」

 すればユカが頬を引きつらせて色のない声で呟き、及川は慌てて突っ込んだ。──ユカがバレーにあまり興味がなさそうなのは知っているが。でも、だったらどうして……、と考えあぐねていると「景品、見てみた?」と問われて、ああ、と向き直る。あの後、制服に着替えた時に開けてみたが、明らかに岩泉自身が選んだのだろうと丸分かりのゴジラのプラモデルが入っていた。岩泉は幼少の頃からゴジラの大ファンだ。きっと勝者ゼロだった場合は景品は岩泉の持ち物となっていたのだろう。公私混同もいいところだ、と及川はあまりの分かり易さにいっそ笑ったが、いくら幼なじみといえど岩泉とは趣味や好みまでは共有しておらず、すぐにプレゼントすべき相手の顔が浮かんだ。

「中身プラモデルでさ、せっかく貰ったんだし……、甥っ子にあげるつもり」

「及川くん、甥っ子いるんだ。年の離れた兄姉がいるんだね」

「うん。まあ、たまに甥っ子の面倒見てるからニワカ兄気分も味わってるけどね。ユカちゃんは?」

「私は一人っ子。だから兄弟のいる人、ちょっと羨ましい」

「生まれた瞬間から弟だと、逆に一人がイイナって思ったりもするけどね」

 ユカのマイペースぶりは確かに一人っ子のソレだろうなと及川は瞬時に納得した。──飛雄もそうだっけ。ウシワカもそうなのかも。いやまさか、天才は一人っ子なんて法則は、あるわけないか。と及川は自嘲気味に肩を揺らした。

 自分がソレを持って生まれなかったことの理由を探してもなんにもならないのに。と、ユカの絵を見やる。

 自分がもしバレー選手でなく、画家とか目指してたら。彼女を脅威に感じて排除しようなどと思っていたのだろうか。と、小さく眉を寄せる。全くの畑違いのいまですら、そのことを脅威に思うことがあるのに。

 ──やっぱり、そばにいると苦い思いも思い出してしまう。

「及川くん……?」

 よほど変な顔をしていたのか案じるように見上げられて、及川は笑ってみせた。離れていると、話したくなるのだから自分でもどうしようもない。ほんと、厄介。と心の中で呟きつつ「あのさ」と窓の外に目配せした。

「もうすぐ、グラウンドで花火がはじまるよね」

「あ……そう、だね。7時半からだっけ……」

 ユカは美術室内の壁時計に目線をやって及川もつられて見た。19時15分だ。特設ステージの方も終盤だろう。

「見にいこ?」

「え……?」

「せっかくなんだしさ、もったいないよ?」

「う、……うん。そうだね」

 ユカはあまり乗り気でないといった具合に頷き、嫌なのかな、と及川が唇を少しだけ尖らせていると携帯の震える音が響いた。

 及川の携帯ではない。ユカのだろう。脇に置いていたらしきバッグから取りだして操作している。

「はい! ……うん。まだ美術室だけど。え、花火? ちょうどよかった。いまね、及川くんと一緒にいるんだけど」

 ん……? と及川が眉を寄せた時には、ユカの口元は緩んでいた。

「うん。岩泉くんも一緒に見ない? ……え、大丈夫だよ。じゃあ特別教室棟の入り口のところで待ってるね」

 そうして電話を切ったらしき彼女は「岩泉くんからだった」と既に聞いていれば分かる情報を提供してくれた。

「岩ちゃん……、なんで……」

「私がこっちに来たっきり帰ってこないから心配してくれたみたい」

 そうではなく、なぜ岩泉がユカの携帯番号を知っているのかという意図は全く伝わらなかったようだ。

 けど、聞いたところでどうせクラスメイトだからとかそんなありふれた理由に決まっているし。全然気にしてなんかない。全然別に……と思うもムッとした表情が表に出たのかユカが首を捻ったため「なんでもない」と慌てて取り繕う。

「岩泉くん待たせちゃうかもしれないし、出ようか?」

「……。そうだね」

 さっきは微妙な反応だったユカだというのに、今度は嬉しそうだ。何なんだろう。と思いつつ電気を消して入り口に向かう。すると岩泉は既にいて、ユカは「靴を持ってくる」と小走りで下駄箱のある一般教室棟の方へ向かった。

 すかさず及川は岩泉の方を向いた。

「なんで岩ちゃんがユカちゃんの連絡先知ってんのさ?」

「は? なんで、って……。あ、中学ん時、たまたまアイツに勉強教わる事になって、それで入り用だったからだな」

「なに、そんな前からなの!?」

「クラスメイトだったんだぞ! 知りたきゃおめーも自分で聞きゃいいだろうがよ」

「……。なんか断られそうでヤダ」

 ボソッと呟くと、ハァ? と岩泉はさも面倒くさいと言いたげな顔をした。実はユカからは話の流れの中で何度も「携帯あまり使わない」「メールあんまり得意じゃない」等々の、深く考えれば牽制じみた事を言われている。──たぶん自分はけっこうメールとか送ってしまう方だし、返信なかったら凹みそうだし。というかメールスルーは岩泉相手ですら普通に凹むし。慣れてるけど。でも凹むし。と考え込んでいるとユカが「お待たせ」と戻ってきた。

「それじゃ、行くとしますか」

 及川が率先して歩き出し、賑わっているらしきグラウンドの方へ歩いていく。この時間に制服の生徒がこれほどの数いるのはやはり違和感がある。いつものこの時間は熱心な部活動でさえ通常練習は終わっているし、バレー部だってぼちぼち帰り始める頃で、その後の最後まで残っているのは本当に限られた生徒だけだ。

「岩ちゃん、後夜祭のあとって体育館使ってもいいと思う?」

「は……? お前、これから練習するつもりなのか?」

「だって、今日ぜんぜん練習できてないし」

 呆れたような声を受けつつ及川は空を見上げた。だって、今日の試合はいい感じだったし。はやくボールに触りたいのだ。

 グラウンドに出れば、既にたくさんの生徒達が打ち上げ開始を待っている様子が見えた。

 遠巻きにグラウンドを見下ろしつつ、ブルッ、と及川は夜風に身を震わせた。

「寒っ……!」

「もう11月だもんね」

 話しているうちに第一弾が点火されたらしく、グラウンドの真上をパッと華やかな光が覆って生徒達からは歓声が上がった。次いで次々と打ち上げられる花火はなかなかに本格的だ。

「綺麗だねー……!」

「高校の文化祭でこんなんやれるんだな。北一じゃ考えられねえな」

 打ち上げられては花開き、散っていく光の屑を観ていたら余計に急かされるような気持ちになってきた。早くバレーがしたい。ボールに触りたい。コートに立ちたい。

 おそらく、体育館を使っても咎められはしないはずだ。が、いまそれを躊躇わず実行する事はやっぱり自分には無理かな。と、パッと夜空に咲いた華の眩しさに及川は目を窄めた。たぶんそれは彼女と……そしてアイツらと自分の最大の違い。と過ぎらせて見やったユカの頬が花火に照らされて及川は少しだけ眉を寄せつつも頬を緩めた。よそう。考えても仕方ない。

 明日の朝練も絶対いつも通り一番乗りだ、と思い直してもう一度及川は夜空を仰いだ。



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14話:及川徹と青城ブルー

 及川徹は、こういう男である。

 

 と、周りがどう評価しようとも、及川自身は自分のどうしようもなく厄介な性質をある程度は認めていた。

 

 今さらどう厄介かなんて考えることすら面倒だ。

 どーせ天才じゃありませんよーだ。べー! ってあっかんべーして逃げられたらきっと楽になれるのに。

 などとどうでもいい事が浮かぶのは、きっと現実逃避というヤツだろうな──、と及川は、グシャ、と自室の机に突っ伏した。

 逃げたい。が、どう足掻いたところで逃げられない。そう、2学期最後の恐怖イベント・期末試験である。

 突っ伏した先でハッと目を見開く。ふとあることに気づいた及川はしまったとばかりに頭を抱えた。

 ──分からないところあったら電話していい? ってカンジで携帯番号聞き出すって手があった。と、いま自分の下敷きになっている数学のプリントにびっしり赤ペンを入れた張本人であるユカのことを過ぎらせて小さく唸る。

 ──セッターには空間認識能力が必須だよ。と、言われて以降、以前より真面目に数学の授業に取り組むようになった。とはいえ毎日部活に追われている身で完璧に授業に付いていくのは困難で、きちんと理解しているかと問われれば我ながら甚だ疑問である。

 が、少し楽しくなってきたのは確かで、こういうのを影響されてるって言うのかな? と、ム、と考え込むも、ある程度の成績をキープしておくに越したことはない。

 ただ、やっぱり自分は基本的には捻くれていて。

『え、だって……勉強する意味わからない、って。世界に出たとき困るよ……?』

 なんで天才ってさも当然のように見えもしない先まで一直線に突っ走ろうとできるの? とか、それが才能に裏付けされた自信ってヤツなのかな。とか、どうしても過ぎらせてしまう。

 自分もそうなれれば、あちら側に、天才側の人間になれるのだろうか? なんて生まれ変わりでもしなければあり得ないことをいちいち考えてしまうのは、いまに限って言えばただの現実逃避だろうな。と、及川は再びため息をついて顔をあげるともう一度机と向き合った。

 

 期末試験のあとには新人戦が控えている。日程はクリスマス前。あとひと月ほど先である。レギュラー陣は部活動停止期間中の活動許可を取るようであるが、ベンチ要員である自分は対象外だ。つまり、大人しく勉強しろ、という事に他ならない。

 すっかりユカとの勉強が定着しているらしき岩泉に便乗して、及川はこの時ばかりは本気を出して勉強した。

 試験前・期間中もロードワークやこっそりと近所の公営体育館を借りての練習もしてはいたが、それでも学校側の思惑通り勉強した。

 そして。

 

「終わったーー!」

 

 本番の期末試験最終日の最終科目の終了チャイムが鳴った瞬間、及川は思いっきり拳を天に突き上げた。

 いままでで一番自分を追い込んでやった分、開放感もひとしおだ、とその足で部室へ駆け、体育館に飛び込んだ。

 新人戦が近い。といってもピンチサーバーに使ってもらえる程度しか出番はなさそうな気がするが。せいぜいウシワカからサービスエース取ってやる。首洗って待ってろ。と機嫌がいいだけに良い方向に気合いが入った。

 他の部員も部活停止でフラストレーションが溜まっていたのか、その日の居残りはけっこうな部員が遅くまで残り、及川の同級生たち──岩泉、花巻、松川も最後まで居残る及川に付き合って揃っての帰宅と相成った。

「なあ、クリスマスの予定ってどうなってる?」

 ふとバス待ちのバス停で花巻がそんなことを呟いて、シン、と場が凍った。

「え、まさかの予定ナシ?」

 花巻が目線だけを及川に向け、及川は少し眉を寄せる。

「なんで俺を見るのさ……」

「いや、お前予定埋まってそうじゃん。数人ハシゴとか」

「人をなんだと思ってんの……。フツーになにもないよ」

「イケメンに”予定ないよ”って言い切られるとそれはそれで腹立つよな」

「松つんは俺にいったい何を望んでるの!?」

 横やりを入れてきた松川も加えて軽くそんな言い合いをしつつ、全員が予定ナシと確認するや否や、及川から「そうだ」と皆に提案した。

「じゃさ、4人でクリスマスパーティでもやる? 新人戦も終わった直後だし、県大会優勝パーティってことでさ」

「まだ優勝してねえけどな」

 花巻、松川、岩泉から一斉に突っ込まれ、「予定は優勝だからね」と突っ込み返して話を続ければ、最終的には岩泉の家に集まってパーティをやるということで落ち着いた。

 すれば悪ノリがはじまり、プレゼント交換をしようだのジャンケンで負けた人間がサンタコスして配る係だのと決め合い、次の月曜の放課後に4人で買い物に出向くこととなった。

 12月も中盤となればクリスマス商戦一本なのはどこも同じで、仙台も至る所でクリスマスを全面に押し出した広告やショーウィンドウで溢れかえっている。

 翌週の放課後、4人は仙台駅をぶらぶら歩きつつデパートを目指していた。

 やはり長身の男が4人で練り歩いていると目立ち、デパートの客層も相まっていっそう視線を集めた。既に全員が慣れている事とはいえ、心地が良いかはむろん人による。

「百貨店じゃなくて適当でよかったんじゃねえの」

 どことなく居心地悪そうに視線を巡らせた松川に「やだよ」と及川は唇を尖らせた。

「お前ら自由にしたら全員スポーツタオルとかサポーターとか買って来そうじゃん」

「いや、さすがにそれはない」

「岩泉だけだろ、そんなチョイスすんの」

 松川と花巻が反論し、すかさず岩泉が「オイ!」と突っ込んで及川は肩を揺らした。

 この時期のデパートのグランドフロアはどこもクリスマスプレゼント用品の特設会場が出来上がっている。ファンシー系から高級品まで幅広く揃っており、きっとお得な商品とやらもあるのだろう。

 が、やっぱり男4人でウィンドウショッピングする場所でもないかな。と、雑貨系のセレクトショップエリアを歩いていた及川はハッと足を止めた。

 不意に、可愛く陳列された青葉城西カラー、──正確に言えばティファニーブル─、─―のマグカップが目に留まったのだ。青城色のブルーと白のツートンカラー。同時にこの言葉が過ぎった。

『綺麗な色だね……!』

 この色を好きだと言った。そして、及川くんに似合ってる、と頬を緩めながら言ってくれたユカの声。

 ──ユカの好物ってそういえばコーヒーだっけ。にしても、本当に青城をモデルにしたみたいな色だ。

 などとジッと立ち止まっていると「及川?」「なんかあったか?」と岩泉たちの声がして及川はハッと意識を戻した。

「なんでもないよ。そっちこそ何か見つけた?」

 少し先に行った仲間を追いつつも、さっきの商品が気になる。でも岩泉たちに見られるのはな、と思案した及川の脳裏に妙案が過ぎって、「じゃあこうしよう」と切り出してみる。

「お互い、当日までプレゼントの中身は知られたくないだろうし。いったん別れて30分後に集合ってのはどう?」

「は……?」

 3人はそれぞれ思案顔をしたが、おそらくこの提案は正解だったのだろう。すぐに「それもそうだな」と全員が同意して及川はホッと胸を撫で下ろした。

 じゃあまた後でねー、と手を振ってそれぞれが別方向に散ったのを確認して、不自然じゃないように足取りに気を付けながらさっきのコーナーに戻ってみる。そうしてもう一度、先ほどのマグカップをまじまじと見つめた。

「うわー、やっぱり青城男子バレー部ってカンジ……」

 別に深い理由なんてないケド。クリスマスなんだし、プレゼントしたくなった、という理由でも成り立つよな。というか、これぜったいユカにあげたい。それにちょっと自分も欲しいかも。と考えていると「プレゼントですか?」と店員の女性らしき声がして、及川はハッとすると同時にごく自然にいつもの対外用・対女性用のスマイルを浮かべた。

「カワイイなーと思ってみてたんです」

「可愛いですよね。特に女性に人気のある商品なんですよ」

「っぽいカンジしますよね。僕はなんていうか、部活のオリジナルカラーと一緒だったんで欲しいなーとか思っちゃって」

「あ、もしかして……ご使用されているバッグのお色のことですか?」

 女性はよく訓練された、しかし相手に確実に好印象を与えるだろう笑みを浮かべて少しだけ目線を及川の肩にかかっているバッグへと向けた。

 確かにそうだ、と及川は手を自身の肩にかかっているバッグに添えた。

「はい。そっくりでしょう?」

「本当に素敵なお色ですよね。こちらの商品は──」

 そうして女性は、このマグカップは普段は市場に出ているものではないこと。だいたいがペア売りだが、クリスマス用にばら売りもしている事などを説明してくれた。飾られているのはいかにもなペアだったが、彼女は自分が自分用に欲しいと言ったためにそのことも説明してくれたのだろう。

 ──ペア用を買って一緒に使おっか。は、さすがにドン引きかな。と及川なりに状況を冷静に判断し。けれどもバラで二つ買えば結局同じ事なのでは。と葛藤しつつも最終的に及川はばら売り用のものを二つ購入する事にした。

 そして。──どうしよう、と思案する。商品を入れた小さな紙バッグまでもが青城カラーで可愛らしい。これは早急に岩泉たち用のプレゼントを購入して、大きめの紙バッグをもらっていま買った商品を隠さねば。と、小さな紙バッグを二つ抱えてフロアをキョロキョロと見やる。

 シャツ。──は誰に渡るか分からない以上サイズが違うし。マフラー。──同じく似合う似合わないがあるし。もういっそ牛乳パン10個とかネタに走ってもいいのでは。

「あ、そうだ……!」

 考えあぐねた及川にハッとアイディアが浮かんだ。バレー選手は、少なくとも自分はセッターとしてこの時期は特に手の手入れが欠かせない。彼らと身体の手入れ方法までいちいち言い合っていないが、きっと似たようなものではあるだろう。ちょっとモノのいいハンドクリームにしよう。うん、無難だ。と、思いついて医療系のテナントに行き無事に商品を手に入れた瞬間にハッとした。

 ハンドクリームでは先ほどの商品を誤魔化せるほどの袋には入れてもらえないだろう。少し頬を引きつらせつつ、荷物をまとめたいので大きな袋を下さいと言って何とか事なきを得、及川は集合場所となっていた入り口の方へ向かった。

「お、きたきた」

「おせぇ。なにチンタラしてんだグズ川」

「30分ギリ前なのにその言い方は酷すぎる!」

 既に全員揃っており、自分を見るなり開口一番に文句を付けてきた岩泉に言い返して、そのまま4人揃って外へと出た。もうすっかり夕暮れ時だ。

 その足で格安量販店に向かって一番大きなサンタコス衣装を購入した。理由は及川がジャンケンに負けて見事にサンタ役をアテたからに他ならない。

「よッ、楽しみにしてるぞイケメン」

「お前イケメンだから似合うだろ、ヘーキヘーキ」

「たまにはイケメン役に立てろよ。まあ本音はどこがイケメンなのかサッパリわかんねぇけど」

「お前らありがとう楽しそうで俺嬉しい! けど俺はイケメンだけどね!」

 衣装を自分に押しつけながら棒読みで囃し立てる3人を一蹴してから、ハァ、と及川は息を吐いた。まあ、どうせ似合うだろうからいいか。と前向きに考えつつ暮れた道を歩きながら「あ」と思いついて言ってみる。

「どうせなら光のページェントでも見て帰る?」

 光のページェントとは仙台市が12月に期間限定で行っているイルミネーションで冬の風物詩でもある。ここから目と鼻の先であるため何気なく言った及川だったが、返ってきたのは目の据わった3人の男の姿だった。

「あそこいまカップルの巣窟だぞ」

「大男4人で突撃する勇気は俺にはねぇよ」

 その返事に、え、と及川はおどけてヘラッと笑ってみせた。

「俺らただの学校帰りのいたいけな美少年集団じゃーん。気にしなくて大丈夫だって!」

「そうか。じゃあ存分に楽しんできてくれ。また明日な」

「お先」

「え……!? ちょっと酷くない?」

 くるりと花巻と松川が及川に背を向けて駅の方角に歩き出し、及川が俄にショックを受けていると岩泉が「おう」と花巻たちに声をかけた。

「俺らはこっから歩いて帰るわ。じゃーな」

 すれば後ろ手で2人が手を振り、岩泉は及川の方を見上げてきた。

「どうせそのつもりだったんだろ?」

 言われて及川は、ふぅ、と息を吐く。

「まぁね。ここからなら歩いてもあんま変わんないし」

 そうして並んで自宅の方へ向けて歩き出せば、程なくしてイルミネーションで彩られた通りが見えてきた。が、当然横切るだけで素通りである。

 腹減った、などと呟く岩泉の声をぼんやり耳に入れながら、明日も晴れるかな、と澄んだ夜空を見てぼんやりと考えていると岩泉が声をかけてきた。

「お前、ずいぶんでかい紙バッグ持ってんな」

 とたん、ギクッ、と及川の肩がしなった。岩泉は幼なじみの贔屓目込みでも決して頭の回転は速い方ではないというのに妙に鋭いところがあるゆえ油断はできない。

「うん。なんかクリスマスでお客さん多いのか小さい紙袋切れてたらしくてさー」

 こうでも言わなければ、いずれ自分の選んだプレゼントを目にした岩泉は商品の小ささと紙袋のギャップに気づいてしまうだろう。まあ、気づかれたところでどうということはないのだが。と「へぇ」と適当な返事をしつつ紙バッグを不審そうに見た岩泉を見下ろしながら思った。

 ──しかし、だ。勢いで買ってしまったとはいえ、果たしてどう渡そうか。クリスマスイブは岩泉たちとパーティの約束をしているし。そもそもユカの連絡先すら知らないし。終業式前に学校で渡すのもなんかカッコ悪い。と考えているうちにずーんと気が沈んでくる。

 自分でも分かっているが、感情がグワッと動いたときの「こうしたい」「こう言いたい」と感じた言動を自分は自分で制御できない傾向にある。それがマイナスなことでもプラスなことでも、だ。つまるところ、後先はあまり考えていない。

 でも多分それって俺の長所だし。と心のどこかで思える程度には自分はプラス思考なのかもしれない。いや、基本的に自分は超絶プラス思考の持ち主だという自信がある。今ですら、バレーしてるときは沈着冷静だし逆に凄い、などと思っていたりするのだから相当にプラス思考で間違いない。

 マイナスに振れるのはいつだって「特定」の存在のせいだ。と、うっかり余計な存在の大きな後ろ姿も浮かべてしまい、及川は目線を鋭くした。

 そうだ。いまは取りあえずクリスマスの事は置いておいて、新人戦だ。

 ピンチサーバーで出たら。そしたらウシワカからサービスエース奪って、仮に拾われてもウシワカのスパイクぜんぶ俺が拾ってやる。覚悟しとけよ。と意識を牛島に奪われ支配されていたら相当に凶悪な顔をしていたのか、岩泉から本気で「キメェ……」とドン引きされてハッと意識を戻した。



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15話:及川徹のクリスマス

 ──新人戦。県大会最終日。12月第三月曜日。

 青葉城西は決勝戦で白鳥沢と対戦して2セットダウンで敗戦した。

 

 正レギュラーで出ている時ほどの悔しさはないものの、ベンチで指をくわえて牛島のプレイを見ていなければならないというのはそれはそれで腹の立つものだ。

「まあサービスエース取ってやったけど!」

 及川はひとしきり苛ついたあとにブツブツ言いながら手洗いに出向き、送迎バスの方へ向かっていた。が、不意に後ろから「及川」と誰かに声をかけられ、全身が一瞬だけ強ばる。

 見知った声だ。確認するまでもない、と及川は自慢の美貌を極限まで歪めて振り向いた。すると案の定、及川にとっては「いつも澄ましたいけ好かない顔」を浮かべる敵・牛島若利が立っていた。

「なに、ウシワカちゃん。俺急いでるんだけど?」

「その呼び方、やめろ。ちょうどお前が見えたから声をかけただけだ。少し話がある」

「へえ、優勝校の一年生スーパーエース様が敗戦校のピンサー程度になんのお話ですかぁ?」

 声のトーンすら全く変わらない相手に苛ついて肩を竦めてみるも暖簾に腕押し。こういうところがほんと可愛くない。──飛雄ならごくごく多少ながら違った反応を見せるのに。やっぱコイツ嫌いだわ。もう無視して行こうか。とイライラを募らせていると牛島はこう切り出した。

「ピンチサーバーは立派な役割だろう。それで今日一番、サーブで点数を稼いでいたのはお前だ」

「そういう話してんじゃねーよ。バカなのお前」

 真顔で答えられ、相も変わらず嫌味が暖簾に腕押し状態で口調までついつい荒れてきてしまう。

「? 気に障ったようなら謝るが」

「あー、ハイハイ。お褒めの言葉をアリガトウゴザイマス。話ってソレ? なら俺行くよ」

 嫌味は通じないし。苛立つだけバカを見る。と及川が踵を返そうとしたところで牛島はなお「及川!」と呼び止めた。

「お前はいいセッターだ。能力も十分にある。だというのに、なぜ白──」

「黙れ牛島!」

 牛島はおそらくこの世で一番、ただでさえ振り幅の大きな自身の感情を極限まで逆撫でるのが上手い存在だ。話の続きを予想できた及川は牛島の声を掻き消すように一蹴し、顔だけで振り返って出来うる限り怒りを込めた目線を牛島に向けた。

「──しつこいんだよ」

 そうして最後まで頭に疑問符を浮かべていそうな澄ました顔を見やり、今度こそ及川は牛島に背を向けて会場の外に向かった。

 待っていた青葉城西のバスに乗り込めば「おせぇ!」と岩泉に一喝され「すみませーん」と周りに頭を下げつつ席に座る。

「あー、腹立つ。さっきそこでうっかりウシワカ野郎に会っちゃってさー。最悪だよホント」

「何だ、それで遅れたのか」

「相変わらず会話が成立しなくてさー。あいつホント何なの。飛雄よりバカなんじゃないの。天才ってほんとどいつもこいつも」

「まあ、ウシワカは別に悪気あるわけじゃねえだろうけどな。影山もだろうけど」

「余計タチ悪いよねソレ」

 及川は話の内容には触れずに愚痴だけを岩泉に伝えた。岩泉も牛島の性格は見知っているため、ある程度はどういう雰囲気だったか予測できているはずだ。

 ほんと、こっちの意思はいつだってお構いなし。と、及川はグッと拳を握りしめてどうにか苛立ちを逃がそうとした。

 とはいえ。未だかつて会話を成立させようと努めたことは一度もないのだから、相手を非難するのもどうなのか。と、冷静に考えられるほど及川の性格は冷静ではない。嫌いなものは嫌いだし、苦手なものは苦手だ。

 なのに、どいつもこいつもなぜ自分に関わってくるのか。距離を取っても取っても、無断でずけずけ入り込んでくる。

 ああ、だめだ。頭に血が昇った状態で何を考えても無駄。今日の事はさっさと忘れよう。

 と、及川は学校に戻って反省会をこなしたあと、解散後も残って居残り練習をいつも通り行った。

 最初は複数の部員が残っていたが、結局最後まで居残ったのはいつも通り自分だけで、そろそろ上がろうかとストレッチをこなしながら思う。

 今日の負けは悔しいが、自分はあくまでセッターとして白鳥沢に勝ちたいのだ。その日はまだ今日じゃない。

 そう。セッターとして、北川第一時代に出来なかったことを岩泉とやり遂げたい。と思う脳裏に中学3年の冬にユカに言われたことが不意に過ぎった。

『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』

 志望先は白鳥沢なのかと聞いてきたユカに、なぜ敵校に行かなければならないのかと答えたら彼女はそう言った。強い選手が集まる場所ならより強いはずだ、と。

 影山にしてもそうだ。青葉城西が志望校だと知って、驚いたように言ってきた。

『及川さん、あの、青城に行くんですか? 白鳥沢じゃないんですか?』

 ──どいつもこいつも。人の気も知らずにいい気なものだ。

 結局、こう考えるときユカは明らかに牛島や影山と同類だと思うのに。

 いまだって、ひょっこりここに寄ってくれたらいいのに……と思っている自分に我ながら「ホント厄介」と呟いてみる。

 ああ、やっぱり顔を見て話したい。今日あったこととか、負けたことも、牛島に会ったことも。仮に彼女が自分にとってトゲとなるような言葉をかけてくるのだとしても。

 でも、たぶん。こんな風に考えているのは自分だけなんだろうな……と思うとちょっとばかり辛くなって、む、と唇を尖らせて及川は立ち上がった。

 めんどくさい。ほんっとめんどくさい。何がめんどくさいって自分だからイヤになる。

 よく岩泉や花巻から「お前の本性知られたら」「いまお前に群がってる女全員ドン引きだろうな」とか言われているが。その都度「そんなわけないじゃん」「妬みはみっともないよ?」なんて返しているが。

 もしかして、本当にそうなのかな……と一瞬だけでも過ぎらせた自分を全力で否定するように首を振るうと及川は体育館を出た。

 

 今週の金曜日は24日。クリスマスイブだ。終業式でもあり、部活は式のあとから始まるために早く終わる。

 だから各自いったん家に帰って着がえてから岩泉宅に集合ということで。及川は、その日の学校にユカへのプレゼントを持っていくか考えあぐねた末にやめた。

 

 終業式なのだから、たぶんユカだって放課後に美術室へ向かうと思うのだが──と思いつつ、当日。

「及川クーン、今日ってなにか予定あるのー?」

「部活だよー。いまから夜までずっと部活」

「えー、残念。私たち今日みんなで集まるから及川君もどうかなーって思ったのに」

「そうなんだ、残念。ヒドイよねー、イブまで部活漬けなんてさ」

 クラスの女子に囲まれて肩を竦めつつ苦笑いを漏らし、及川は放課後になると真っ直ぐ部室に向かった。人気者だからしょうがない。と慣れてはいるもののイベントの日というのはいつもより女の子に囲まれる率が高く、学校での行動はかなり制限される。

 やっぱり学校でユカにプレゼントを渡すのはどのみち不可能だったな、と部活をこなして帰宅する途中で及川は仙台駅そばのケーキ屋に向かった。今朝、母親からメモを渡され予約しているケーキを引き取ってくるよう頼まれていたからだ。今年は二つ予約してあるとのことだった。一つは岩泉の家に行く際に持っていくよう手配してくれていたらしい、と滞りなくケーキを引き取って帰宅し、シャワーを浴びて自室に置きっぱなしにしていたサンタコス衣装を着てみて唸る。

 サンタ役はコレを着て来いというお達しだったが。いくら自分が美少年で何を着ても似合うと言っても。コレを着て街中を歩くのは……と、多少躊躇する。長めのコートを羽織ればそこそこ隠せるしイケるかな、と思いつつ机に乗せてあるプレゼントの入った紙袋に目をやった。

 そして、ふと閃いて瞬きをする。

 そうだ。サンタさんからのプレゼントですよ、ってノリでこの衣装のままユカに渡せるではないか。と妙案が浮かんだ直後にハッとした。

「俺、ユカちゃんちも連絡先も知らない……!」

 自分の家より岩泉の家の方が彼女宅に近いらしい。という事だけは知っているが。とがっくりとうなだれる。なんかもう格好悪いの極みじゃないのか。と、若干自分に嫌気がさしつつ一応はプレゼントも抱えてサンタ衣装の上からロングコートを羽織った。

 出かけようとしていたところで入れ違い気味に母親が帰宅し、靴を履きながら及川は声をかける。

「お母ちゃーん。岩ちゃんち行ってくるねー!」

「はじめ君のご両親によろしく言っておいてね」

「ほーい」

 そうしてケーキとプレゼント類を持ってから家を出ると、まず最寄りの地下鉄駅に向かった。花巻と松川を迎えに行くためだ。彼らは岩泉の家は知らないため、案内するほかない。

 改札から出てきた彼らと顔を合わせて早々、コートから出ている真っ赤なズボンを見て爆笑していた2人であるが、イケメンへの嫉妬みっともない、と適当にあしらって及川にとっては慣れた道を案内した。

「俺、この辺って初めて来たわ」

「まあ用がないと来ないよね」

 ごくごく普通の住宅街を物珍しげにキョロキョロする松川に、及川は相づちを打ちつつ見えてきた岩泉宅の先の方を見据えた。岩泉の家は学区の境目にある。たぶんあの先がユカの家の学区のはず。と考えつつもインターホンを押して岩泉を呼びだし、玄関のドアを開けてもらう。

「やっほー、岩ちゃん」

「よく来たな。松川、花巻」

「俺もいるよ!?」

 ドアから顔を出した岩泉は視線を松川と花巻にだけ向け、及川は突っ込みつつも「おじゃましまーす」と勝手知ったる岩泉家にあがってやけにシンとした室内を不思議に思った。

「あれ、岩ちゃんもしかして一人?」

「ああ。なんかクリスマスディナーとかで帰り遅くなるんだとよ。お袋もさっき出かけてったわ」

「え!? 岩ちゃん一緒に行かなくて良かったの?」

「いや別に」

 及川に続き花巻たちも「そりゃ悪かったな」等々口にしたが岩泉は特に気にするそぶりもなく皆をダイニングに先導した。すれば、そこにはパーティ用の典型的なメニューが並べられすっかり用意が調っており、岩泉は母親が「徹君達と食べて」と用意してくれたのだと説明した。

「岩ちゃんのお母ちゃん最高! ありがとう!」

「おお、すげーな……」

「なんか悪ぃな。あ、そうだ岩泉これ……」

 言って松川が何かを差しだし、花巻も「俺も」と差し出した。するとそれぞれクラッカーやノンアルコールシャンパン等々が用意されており「おお」と岩泉は笑みを浮かべる。

「サンキュ。さすが花巻、松川、気が利くな」

「う……。お、俺だって、ホラこれ。お母ちゃんから」

 言われて及川はズイッと持ってきたケーキを差し出せば、岩泉はごく自然に受け取ってそれをテーブルに乗せた。

「すまんな。お袋さんによろしく言っといてくれ」

「さすが及川の母さんだな」

「そうだな。母親がしっかりしとかないとこの息子じゃあな」

「お前らさっきからヒドイよ!?」

 心外なことを言ってくる3人にムッとしつつ言い返しながら及川は着ていたコートに手をかけた。そして、フフン、と鼻を鳴らしながらバッとコートを脱ぎ捨てて着てきたサンタ衣装を3人にお披露目した。

「ジャーン! どう、及川サンタ! イケメンすぎてびっくりした?」

 瞬間、3人が固まり……数秒後に出てきたのは及川の思っていた反応ではなく爆笑で、及川は思わず眉を寄せた。

「なんで笑うのさ……」

「いや、似合ってる似合ってる!! やっぱ及川にしか着こなせねーわ!」

「よっ、イケメン!」

「ジャンケン勝ってマジで良かった……、危ねぇ」

「素直に及川さんカッコイイって言っていいんだよ!?」

 ──これが女の子なら、キャー及川君カッコイイ、とか言ってくれるのに男どもは。と心内でブツブツ言いつつもお約束の反応であり、誰ともなくクラッカーを取りだして鳴らしたのを合図にシャンパンをあけ、テンションをあげたところで及川と花巻が携帯で写真を撮りまくって全員で食事を堪能した。

 そうして片づけたあとに岩泉の部屋に移動して、プレゼント交換の時間である。

「それでは及川サンタから良い子のみんなにプレゼントでーす!」

 そうして及川は笑みで袋を背負ってピースとウインクでポーズをキメてみるも、返ってくるのは冷ややかな反応だ。

「ここでそのポーズやってもウゼェだけで何もいいことねーべ?」

「ウルサイな、いいから乗ってきてよ!」

 各自のプレゼントは回収してヒモをくくりつけてひとつの袋に収めてあり、及川は冷たい反応に突っ込み返しつつも皆の前に袋を差し出した。そして、それぞれ「せーの」で糸を引くように各自紐を握る。

「せーの!」

 そうして全員で声を揃えて一斉にプレゼントを引っ張れば、それぞれに釣れたプレゼントが行き渡った。各自さっそく手にとって開封し、及川も自分が引き当てたごわごわした包みを開けた。

 フリーサイズのルームウェアのようだ。

「お、暖かそう。ありがと、誰からだろ?」

「あ、俺だ」

 手を挙げた松川の方を見やると、松川は小さな包みを持っていて、それは及川の選んだ品だと悟って、ニ、と笑う。

「そういう松つんは俺のだね。すごい偶然じゃーん」

「4人で”すごい偶然”ねェ……。お、ハンドクリームか」

「うん。冬は特に手、荒れるからね。セッターだと割と死活問題だったりするし」

「女ウケ気にしてじゃないんだな」

「バレーのためだってば!」

 ふーん、とプレゼントを一望しながらも満足げに笑う松川を見て及川も笑いつつ他の2人を見やる。彼らは必然的に自分で自分のプレゼントを引き当てたか、交換したかのどちらかである。

 すると花巻が、ククッ、と笑い声をあげた。

「岩泉、図書カードとか! さすが実直!」

「う、うるせェな……。あの場所でコレ以外浮かばなかったんだよ……!」

 対する岩泉の手には何やらオシャレな文具類が握られており、花巻のチョイスだろうと悟る。

「岩ちゃん、良かったじゃん。お勉強頑張れってことだよコレ!」

 すると岩泉はイヤそうな顔をして、チッ、と舌打ちをした。それぞれ個性が出ているチョイスに取りあえず全員でプレゼントを持って記念撮影をし、ゲームやバレーの試合観賞をして程々に夜が更けたところで解散することとなった。

「じゃあ岩泉、ごちそうさん」

「おう」

「2人とも道覚えてる?」

「ああ」

 出ていく松川と花巻を見送り、パタン、と玄関のドアの閉まる音が消えればシンと一瞬だけ辺りは静まった。

「……俺もそろそろ帰ろうかな……」

 ちらりと携帯を取りだして画面を見やる。8時半過ぎだ。そろそろ岩泉の家族も帰ってくる頃だろう。

 どうしよう、と及川は岩泉をちらりと見やった。岩泉はおそらくユカの家を知っているはずだ。いまでもはっきり覚えている。彼女と初めて話をした日、彼女は岩泉と共に体育館に現れた。正直、内心驚いていた。なにせ岩泉が彼女と親しかったとは知らなかったのだから。

 でも違った。あの日はユカが汗だくの自分にドリンクを持ってきてくれて、彼女が時おり居残っている自分を見ていたらしいことを知った。──美術部の有名人。突出した才能を持っている、と噂されていた彼女を相手に、あの日はずいぶんと愛想良く接することに努めていた気がする。「天才」へ向かうどうしようもない感情を隠すためだ。自分の中で牛島への対抗心や焦り、悔しさが増幅するに従って、身近な天才が全て煩わしくて、それは彼女も同じだった。同じだったはずなのに──結局、自分はたぶん、もっと彼女と話がしたい。

「何だよ……?」

 黙っている自分を不審に思ったのか岩泉に怪訝そうな目で見られ、及川は無意識のうちにゴクリと喉を鳴らした。

 ──あの日、岩泉は彼女を送っていった。岩泉の記憶力がある程度普通ならばきっと覚えているはずだ。

 けど、どう切り出せば……。やっぱりいっそ諦めようか。とグダグダ考えつつ取りあえず帰り支度を整えようと荷物を取りに行き、着たままだったサンタ服の上からコートを羽織る。

 ふぅ、とため息を吐いていると、同じくなぜかジャケットを手に取った岩泉がこんな事を言った。

「おい、サンタ川さんよ」

「なんでわざわざ変な呼び方すんの」

「俺になんか言うことあんだろ?」

「──!?」

「おめーがみんなでプレゼント買った日に不自然だったのはあからさまだったからな」

 その一言で、及川は岩泉の鋭さを改めて確信した。なんでバレるかな、と肩を竦める。

「……岩ちゃん怖い……。やっぱりエスパーでしょ。──いたッ!」

 ゴン、と鈍い音とともにどつかれるも、うへへ、と及川は歯を見せてはにかんだ。これほど息の合う相手は、やはり長く付き合ってきた岩泉をおいて他にいないだろう。

 そのまま揃って家を出て街灯の照らす道を歩いていく。人通りはほぼない。白い息だけが立ち上っては消え、時おり家の中からはしゃぎ声のような音が漏れてくるのが聞こえた。

 きっと家族でクリスマスを祝っているのだろうな。と思っていると岩泉が「あそこだ」と顎でしゃくるようにして一軒家を指した。見たところ築年数の新しそうなモダンな家だ。そういえばこのエリアは高級住宅街だっけか、あれ、違う? などと考えていると「オイ」と岩泉が声をかけてきた。

「お前、どうすんだ?」

「え。どうするって……さすがにこの時間にお宅訪問ってヤバくない?」

 言えば、チッ、と舌打ちした岩泉は自身のジャケットから携帯電話を取りだした。そうして何やら操作をしている様子に、岩泉がユカの連絡先を知っていた事を思い出す。

 そうこうしているうちに岩泉は携帯を耳にあて、数秒ののちに「おう」と瞬きをした。

「岩泉だけど、おう、お前いま家にいるか? ……悪ぃけど窓から玄関の方見てもらっていいか?」

 すると岩泉がそんな事を言って、ドキッ、と及川の心臓が跳ねた。岩泉に目配せされ、おそらくユカは承諾したのだろうと思う。

 見上げて玄関側から見える窓をジッと見ていると、ふいにパッとカーテンが開かれて窓が開けられユカが顔を出した。そしてこちらに気づいたのか、数秒後には絶句している姿が映った。

「な、なにしてるの2人とも……!」

 ステレオのように窓からと岩泉の携帯からとユカの声が漏れてくる。及川は取りあえず笑ってみせた。

「やっほー、ユカちゃん。メリークリスマス!」

「え……、う、うん。メリークリスマス」

「栗原、ちょっと降りてこれるか?」

 ユカは困惑気味のまま「うん」と頷き、岩泉は携帯を切った。──あ、ちょっと緊張してるかもしれない。と及川がプレゼントの紙バッグの持ち手を握りしめて深呼吸をしていると、ガチャ、と玄関のドアの開く音が聞こえ、コートを羽織ったユカが門の扉から出てきた。

「及川くん、岩泉くん……。びっくりしちゃった、どうしたの?」

「クリスマスイブだからねー。見てほら、及川サンタでーす!」

 そうして先ほど花巻たちにはウケなかったポーズを決めて、前を開けたままだったコートから覗くサンタ衣装を見せれば、ユカは目を見開いたのちに小さく笑った。

「どうしたの、そのかっこう」

「似合ってる?」

「似合ってるけど……」

「岩ちゃんちでバレー部の部員とクリパしてたんだよね。で、俺はサンタでプレゼント配る役!」

「罰ゲームだけどな」

「いまそれ言わなくていいから!」

 岩泉に突っ込みつつ、ひとしきりピースサインをして笑ってくれたユカを見届けてから、及川は持ってきた青葉城西バレー部色の紙バッグをスッとユカの方に差し出した。

「だから、ハイ。及川サンタからプレゼントでーす」

 努めて明るく、ウインクと共に差し出したが、ユカには全くの予想外だったのだろう。零れそうなほど瞼を持ち上げ、固まっている。

「え……!?」

「プレゼント。受け取って?」

 今度は茶化さずに言えば、ユカはますます頭に疑問符を浮かべているような解せないという表情を浮かべた。

「え……、で、でも……」

「ユカちゃんにどうしてもあげたいもの見つけちゃってさ。たまたまクリスマスが近かっただけだから、深く考えないで受け取ってよ。ね?」

 なぜ? と言いたげなユカに念を押すようにして差し出せば、ユカはおずおずとそれを受け取りつつもまだ首を傾げている。

「あ、ありがとう。でも……私、いまお返しできるものなにもない」

「そんなのいらないよー」

 ユカらしい返しに笑って手を振れば、ユカはますます「でも」と口籠もり、及川はハッと思いついて、じゃあさ、と切り出した。顔をあげたユカにこう言ってみる。

「携帯の番号とメアド、教えてよ」

 え、とユカが目を見張った。及川はなおニコっと笑うものの、胸中はハラハラでそれどころではない。が、断りにくいこのタイミングを選んだのは計算ではないが、無意識の計算ではあったかもしれない。

「わ、私……あんまり携帯使わないんだけど……」

 ああ、やっぱり予想通り。と想定内の反応をユカは見せつつもおずおずとポケットから携帯を取りだした。かなり古い型のガラケーが、ユカの「あまり携帯使わない」が嘘ではなく本当なのだと如実に語っている。

「登録しちゃっていい?」

「あ……うん」

 ユカの携帯を受け取って及川は慣れた手つきで鼻歌さえ混じらせながら自分の携帯にユカのアドレスを登録し、ついでにユカの携帯にも自分のものを登録して「ありがと」とユカへと携帯を戻した。

 そうして未だに何が何だか訳がわからないと言いたげなユカへ向けて、ニ、と笑った。

「急にびっくりさせちゃってごめんね。それ、部屋に戻ったら見てみて。気に入ってもらえるといいんだけど」

「え……あ、うん。どうもありがとう」

「うん。じゃあ俺たちそろそろ行くね。またね、ユカちゃん」

「う、うん」

 じゃーな、と若干居心地の悪そうだった岩泉もユカに告げ、及川はユカに背を向けた。そうしてしばらく見送ってくれていただろうユカが家の中に入った気配を僅かな音で感じ取って、さっそく携帯を取りだしてメールを作る。

「なにやってんだよ?」

「ちょっとね」

 ──どう? 青城カラー! すっごい青城っぽくない? 俺たちの色、ってカンジで気に入っちゃって俺も買っちゃったんだよね。お揃いだネ!

 という文章を顔文字と装飾も混ぜて努めて重くならないよう配慮し、おそらくユカが中身を見ただろうな、という頃合いで送信してみた。

 ちょっと緊張するな。と無言で携帯を握りしめたまま歩いて一分経っただろうか? 携帯が震えて「わ」と及川は声をあげた。

 見れば、画面に”ユカちゃん”と表示されている。

「電話がきちゃった……」

 不味かったかな、と思いつつ受信ボタンを押してみる。

「もしもーし」

「あ、及川くん? あ、あの……プレゼント、開けてみたんだけど……」

「気に入ってもらえた?」

「も、もしかして私が前にこの色が好きだって言ったから?」

「それもあるけどー……、何となくだよ。ユカちゃんコーヒー好きだし、ぴったりかなと思ってね」

 って、本当はユカが好きだと言ったのもあるが、自分がいつも着ている青城カラーのものを持っていて欲しかったとか、お揃いとか、他にも色々理由はあるんだけど。とは言わずに明るく笑って答えると、さらに戸惑ったような声が聞こえてきた。

「で、でもこれ高かったでしょ……? その、やっぱり私──」

「そんな大げさなものじゃないよ。気に入らない?」

「そ、そんなことないよ。可愛いし……嬉しいけど、でも……。その……そうだ! 私もなにかお返ししなきゃ。なにがいいかな?」

 そうきたか。と及川は口をへの字に曲げた。まあこれも想定内かな、と思いつつ「うーん」と考え込み、ハッと妙案が浮かんで言ってみる。

「じゃあさ、一緒に光のページェント観にいってくれる?」

「え……!? え? え、と……定禅寺通りあたりでやってるイルミネーションのこと?」

「うん」

「あれって今月いっぱいとかじゃなかったっけ……」

「うん。だから今月中に。俺、部活あるから夕方とかからさ。まあイルミネーション見るならどっちみち遅くからじゃないとダメだけど」

「わ、分かった。じゃあその時になにかご馳走するね!」

「うーん……」

 そういうことじゃないんだけど。まあそれでいっか。と頷く。

「じゃあ曜日とか時間はまたメールするね」

「う、うん」

 それじゃ、おやすみ。と携帯を切り、うっかり鼻歌を漏らすと隣から呆れたような視線を感じて及川は岩泉の方を見やった。

「なに……?」

「いや、別に」

 すると岩泉は眉を寄せ、頭を掻いてから大きくため息を吐き、もう一度こちらに目線を送ってきた。

「なんで栗原なんだよ」

「え……?」

「お前、あいつのこと苦手じゃねえのか……」

 そうして既視感のある事を低めの声で言ってきた岩泉に、及川は少しだけ目を見開いたのちに肩を揺らす。

「何ソレ。前も言ったけど、そんなことないよ」

 すると、解せない、と言いたげに岩泉は眉を寄せ、数秒後に目線をそらした彼は更なるため息を吐いた。

 小さく舌打ちが響いたのは気のせいだろうか? 小首を傾げていると、まあどうでもいいけどな、と小さく聞こえてきた。その声がどこか不満げで及川は更に首を捻るも、まあいいか、と空を見上げて闇夜に消えていく白い息を眺めつつうっすら微笑んだ。



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16話:及川徹と外出1

 ──及川から、なぜかクリスマスプレゼントを貰った。

 

 ユカは、自室デスクの上に置かれた青葉城西男子バレー部色──正確にはティファニーブルーと呼ばれる──の可愛らしいマグカップを見やって「うーん」と唸った。

 確かに色遣いは青城男子バレー部を思わせるもので、及川の性格なら衝動的に買ってしまったというのは十二分に考えられるのだが。

 それなら自分用だけでいいのでは……。男性用にしては可愛すぎるかもしれないが、結局そんなものは個人の好みであるし。それとももしかして、期末の勉強を見ていた礼、だろうか。だから岩泉と一緒に来たのだろうか。

 と、考えても答えなど分かるはずはない。

 でも可愛い……、とそのままジッとマグカップを見つめていると、不意に携帯が鳴った。メールの受信を知らせる音だ。

 開いてみると、及川からで、29日の17時に仙台駅西口前でどうか、というものでユカは少し目を見開いた。

 及川のメールは予想に違わず顔文字や装飾を多用してあり、画面そのものがキラキラしている。

 一瞬煌びやかな画面に目が滑りそうになったユカだが、首を捻る。ライトアップをやっている通りは仙台駅からは少し距離があるし、わざわざ仙台駅まで行かずともユカの家からでも歩いていける。それに17時だとまだ点灯していないのでは? と思うも、お礼に何かご馳走すると言ったし、食事でもすればいいか。とユカは了承の旨を返信した。

 そして、ふ、と息を吐く。

 学校の外で及川に会うのは初めてだ。──本当に、なにを考えているのだろう。と分からないままに29日を迎え、ユカは支度をして家を出た。

 ヒュ、と冷たい風が頬を撫でていく。ここ数日は比較的暖かい日々が続いていたが、今日は冷えそうだ。ロングブーツにして正解だった、と、登っていく白い息を見ながら思う。

 及川の好きなものってなんだろう? 牛乳パンが大好物だとは言っていたが、さすがに夕食にそれは……と考えつつ地下鉄に揺られて仙台駅に着いて目的地へ向かいつつ、腕時計に視線を落とした。17時10分前だ。5分前には着くだろう。待ち合わせ場所はステンドグラス前という超メジャースポットだし、お互い見つけられないという事もないだろうな。と、それなりに人でごった返しているコンコースを歩いていって遠目にも派手な待ち合わせ場所に近づいて、あ、とユカは思わず足を止めた。

 ──やはり、及川は目立つ。人波より頭ひとつ抜け出た上半身にカーキのピーコートを羽織ってマフラーを巻いた彼は両手を無造作にパンツのポケットに突っ込んで視線を人波に投げており、明らかに道行く女性陣の視線を引きつけているのが見て取れた。

 かと思えば、幾人かが及川に近寄って声をかけ、笑顔でいつものように対応している様子を見てユカはグッと肩に掛けていたバッグの持ち手を握りしめた。さすがにあの中に「お待たせ」などと入る勇気はない。と、まごついていると先に及川の方がこちらに気づいたのだろう。パッと明るく笑って手を振ってくれたものだから、自然に彼を見ていた人間の目線も貰う羽目になってしまった。

「ユカちゃん!」

 そのまま早足で駆け寄ってきた及川に、ユカは少々引きつりながらも笑みを浮かべた。

「こ、こんにちは。ごめんなさい、待った?」

「ううん。ヘーキヘーキ」

 上機嫌そうに笑う及川を見上げて、ユカは一度息を吐いた。いくら視線を気にしても仕方ない。気を取り直して取りあえずその場を離れる。

「そうだ。マグカップ、本当にありがとう。可愛くて机に飾ってるの」

「えー、飾ってないで使ってよ。けどホント、青城カラーだよね。コーヒー飲みながら及川さんのサーブ姿でも思い出してね?」

 ふ、と笑いながらも試すように言われてユカの口からは苦笑いが零れた。及川の中では未だに自分は彼のサーブ練習を頻繁に見ている事になっているのだろうか? それとも分かって言っているのか。もうどっちでもいいけど、と諦め混じりに思いつつ「あ」と瞬きをした。

「でも、私、及川くんが試合でサーブ打ってるところって見たことないな」

「じゃあ試合見に来ればいのに」

 ケラケラと笑われて、ユカは曖昧に笑った。──そういえば先日の新人戦でも結局いつものように白鳥沢に負けた、と岩泉が言っていた気がする。彼は試合に出ていないせいかどこか淡々としていたが、及川はピンチサーバーで出ていたという。

 けれども新人戦の話題を出すのは悪手かもしれない。過去のことを思うと白鳥沢や牛島にはあまり触れない方がいい気がするし、と駅ビルの外に出て肌寒い風に頬を震わせつつ及川を見上げた。

「及川くん、イルミネーションってまだ始まってないよね?」

「うん、そうだね。まだ明るいし」

「どこか行きたいところある? 食べたいものとか。なんでも言ってね」

 すると及川は珍しく困ったように眉を八の字に下げて肩を竦めた。かと思うと視線を明後日の方向に飛ばして、まあいっか、などと呟いている。

「ユカちゃんさ、この辺だとどこ遊び行ったりする? 学校帰りとか」

「え……? うー……ん。学校帰りって、本屋さんとか用がある時しか寄り道しないよ。いつも遅いし」

 すると及川は「ハハッ」とまるで予想していたかのように笑う。

「だよね。俺も思った」

「あ、遊びって言っても……。休みの日は、用事がないと絵を描いてるから、外にはよくいるけど駅前に来ることはあんまりないと思う」

「ユカちゃんってほんと絵バカだよね」

「お、及川くんだって……!」

 バレーバカじゃないのか。という言葉は飲み込んだユカだが、及川は同意するように肩を揺らした。

「うん、まあそうなんだけどさ。中学の頃より部活の時間長くなったし、遅くまで残れるし、高校入ってからのほうが総合的な練習量は増えてると思うしね。けど結果的に月曜が強制オフだから、俺はバレー外の時間取りやすくなったんだよね」

「それって月曜には遊ぶようになったっていう意味……?」

「いつもじゃないけど。同期の部員にやたら多趣味なヤツがいて、最初は仲良くしとくかー的に付き合ってたんだけど」

「あ、前にそんなこと言ってたよね。上手い選手なんだよね?」

「かなり、ね。俺の代だとたぶんレギュラー取るんじゃないかな」

 曰く、及川にとっては「仲良くしといたほうが得」な同期と連んでいるうちに本当に気も合ったのか、たまに岩泉も含めて数人で学校帰りに寄り道するのが一種の恒例になっているということだった。

「そいつがさー、ビリヤードだのなんだの仕込んでくるワケでさ」

「ビリヤード……」

「ユカちゃんできる?」

「んー……ルールは知ってるけどあんまり……」

「じゃあゲーセンとか行ったことある?」

 問われて、ううん、と首を振ると「やっぱり」と及川は肩を揺らした。けれども人生においてゲームセンターに用事があったことなど一度もないのだから仕方ないだろう。

「じゃあさ、行ってみる? それとももっとオシャレな場所がいい?」

 ニ、と笑われてユカは少し逡巡したのちに頷いた。行きたい場所が特にあるわけでなく、及川が行きたい場所があるならそっち優先で構わないためだ。

 なんだか本当によく分からないことになった。と、及川と連れだって歩きながら思う。とはいえ、思い起こせば及川の突拍子もない行動はいつもの事であり、及川の中では通常通りの事なのだろう。楽しそうだし、いいか。と先ほどから鼻歌でも歌い出しそうなほどニコニコしている及川を見上げて少しだけ口元を緩めた。

 及川も、ユカも中学時代から見知っていた事ではあるが、普段は部活一色で遊び歩かないために娯楽スポットには疎く、現在の知識はたいていが仲がいいという部員の影響なのだという。どこそこにこういうのがあってーと楽しそうに同期から得たという情報を話す及川は、本当に部員と上手くやっているのだな、とユカにしても安堵した。及川自身、いまの環境を気に入って楽しんでいるのだろう。

 ゲームセンターというとなんとなく騒がしいというイメージが先行していたユカだが、及川の先導で辿り着いた場所はアミューズメントスポットといった具合で、予想よりも明るくて想像していたほどの騒々しさは感じなかった。

 年の瀬で休みなためかそこそこ賑わっており、男女比も半々といった具合だ。

「どうしよっか。プリクラでも撮る?」

 若干こちらを覗き込むように言われて、う、とユカは引いた。写真を撮るのは得意だが、撮られるのはあまり好きではない。と渋っていると、ふと雑音に混じって斜めの方向から音楽が聞こえてきてなんとなく音のした方を振り返った。

 すると少し広めのスペースで女性が画面を見つめながら音楽に合わせて踊っており、ユカは自然と足を止めた。そういえばテレビCMでゲームメーカーがこの手のゲームを宣伝してるのを観たような覚えがある、と思案していると「あれ?」と及川から明るい声があがった。

「なに、ユカちゃん踊りたいの?」

「え!? え、ち、違うよ……ちょっと観てただけ」

「ふーん。じゃあ俺、次踊っちゃおっかな」

「え……」

「実はコレも覚えたモノのうちのひとつなんだよね」

 曰く、好きな曲を選んで画面を見ながらフロアで画面の振り付けと同じように踊っていくゲームらしく、最初にやった時は散々だったが現在は割と上達したという。

 ゲームエリアへ向かいつつ及川を見上げると、彼は楽しそうにペロッと舌を出してから着ていたコートを脱いだ。

「これ持っててもらってもいい?」

「う、うん」

「ありがと」

 次いで及川はスッと巻いていたマフラーを取ってコートと共にユカに手渡し、ニコ、と笑ってから使っていた女性がゲームを終えたのを待って機械の方へ向かった。

 ユカはそのまま、とりあえず正面側に移動して見守る。曲を選んでいるのだろうか? 鼻歌でも歌っているかのようにご機嫌な様子がうかがえて少しだけ微笑ましく思う。

 そうして2,3度屈伸や伸びをしている及川に、ずいぶんと本格的だな、と感じていると彼は少し画面から離れ、おそらく踊る用のフロアに移動した。

 すると前奏が流れ始めて、ユカはピンとくる。きっとかなりの人が知っているだろう曲。──なんだっけ、と前奏に合わせて準備なのかゆるゆると身体を揺らしている及川を見つつ、あ、と浮かんだ。ブリトニー・スピアーズの”Circus”だ。と思い出した瞬間、及川の見せた表情にユカは、ゴク、と息を呑んだ。

 

 ──この世には、2種類の人間しかいない。

 

 スッ、と流れ始めた歌の歌詞が頭に入ってくる。

 照れとか、戸惑いとか一切ない。そういえば、学内で見かける及川の表情はいつだって完璧なアイドル然としていたっけ、と浮かべた。けれども、もしかしたら試合中のオンコートでもそうなのでは……と感じさせるほど、歌詞のせいなのか挑発めいた表情を浮かべる及川に自然と瞬きの頻度があがった。

 やっぱり彼の瞳はいやでも他人を惹きつける力がある気がする。それに、改めて見ると高校に入ってずいぶんと大人びて身体付きも大きくなった。

 いや、それよりも。女性歌手の歌を男性が踊ると、ここまで妙にたおやかで色っぽくなるのか。とやや胸が騒いでいると、ユカは周りにギャラリーが出来ているのに気づいてハッとした。及川の容姿を褒めるような女性の囁きが聞こえてくる。いつもの事とはいえ……偶然か否か、及川が視線を飛ばした先の女性が小さく悲鳴をあげて、ユカは少々いたたまれなくなってきた。

 ──全ての視線が私に集まる。と、まるで歌詞を体現しているかのような彼のパフォーマンスに目を奪われながらもたじろぐ。

 これほどギャラリーを作った彼は、踊りが終わればおそらく「お待たせ」と笑ってこっちに来るだろう。その時のプレッシャーを俄に想像してしまい、少々逃げ出したい衝動にかられた。

 時おり、及川が歌詞を唇に乗せているのが見て取れた。及川はたぶん、見た目に反してかなりストイックな人間だ。それは自分が一番といっていいほどに知っている。けれども同時に、きっとこうしてスポットライトが当たる位置にいるのも好んでいるのだろうな、などと考えながらぼんやり見つめていると音楽が終わってギャラリーから拍手があがった。

 及川の方は踊りに集中してギャラリーに気づかなかったのか、ハッとしたように瞬きをしてからいつものように愛想の良さそうな笑みで女性陣に手を振った。

 そうこうしているうちにぼんやりその様子を見ていたユカと及川の視線とかち合い、う、とユカが半歩引くも及川の表情ははっきりと緩んだのが見て取れた。そうしてすっかり舞台を降りて「素」に戻ったような風体で「お待たせー」と足早に近づいてきた。

 そのまま及川はごく普通にユカの手から「ありがと」とコートとマフラーを受け取り、ユカもやや周りからの視線を感じつつも笑った。

「お、及川くん……上手いんだね」

 気にしてもどうにもならない、と思うもやはり耐え難く、さりげなくその場を離れるように誘導しつつ歩くと、及川は「えー」と肩を竦めた。

「色々間違えちゃったし、まだまだだよー」

「でも……、ギャラリー凄かったし」

「んー、今日はマッキーいなかったし普段よりギャラリー少なかったと思うケド。ま、及川さんだもんね。ユカちゃんも見とれちゃった?」

 ニ、と悪戯っぽく笑われて──今日ばかりは少しだけその通りで、やや目線を泳がせがちに話をそらす。マッキーというのが誰かは分からなかったが、バレー部のメンバーなのだろう。

「いつも、って……。岩泉くんも一緒なんだよね? 岩泉くんもああいうダンスやるの?」

「あはは、ううん。岩ちゃんはいくらみんなで勧めてもテコでもやんないよ。頭かったいからね」

 ケラケラと笑う及川に、ユカにしてもその場面が目に浮かぶようで苦笑いを漏らしていると「あ」と及川が何かを見つけたのか声をあげた。

「ユカちゃん、あれやろ! エアホッケー!」

 張り切って及川が指をさした先にあったのは卓球台のようなもので、プラスチックの円盤を弾き飛ばして相手のゴールに落とすゲームらしい。

 承諾してさっそく台を挟んで及川と向き合うも、ユカにとっては初体験である。

「わッ……!」

 エアホッケーのラリーに慣れる間もなく及川の持ち前のバカ力で派手に弾き飛ばされた円盤が轟音と共に自身のゴールにシュートされ、ユカはおののくより前に得意げに笑う及川を見て少し唇を尖らせた。

 パワー勝負で勝とうと思ったら負けに決まっている。ストレートを狙うと不利だ。だから上手く跳ね返りを利用すれば及川も防御は難しいはず。と角度を計算してラリーを続けてどうにか食らいつくも、パワーのごり押しに対抗するのはなかなか難しく、あっさり負けて「もう一回!」と食らいつくのを繰り返して数回。

「ユカちゃん負けず嫌いだねえ」

「及川くんもね……」

 ようやくやめようという運びになって、全力を出したユカはぐったりしつつ愉快そうに笑う及川を恨めしげに見上げた。

 たぶん、この人は他の女の子相手だったら手加減して花を持たせてあげたりするタイプな気がするが。及川が昔から自分相手になぜだかそういうそぶりをいっさい見せないのは知っている。昔はそれを相性が悪いせいだとか、嫌われているのかもしれないと思っていたが──いまは。

「いま何時くらいかな? 俺ちょっとお腹空いてきちゃった」

 ジッと及川を見つつ考え込んでいると及川が小さく呟いて、ユカは腕時計を見た。6時半だ。そろそろ出ようか、とゲームセンターの外にでると辺りは既に暗くなっており、急に冷えた空気が頬にあたって、さむ、と思わず呟く。

「なにか食べに行く? 及川くん、なにか食べたいものある?」

「え……?」

「なんでも言ってね。なんでもご馳走するから……!」

 そもそも今日の目的は及川に礼をすることであるし。と力を込めて言えば、及川は再び困ったように眉を下げて頭に手をやっていた。

「別にそういうのいらないんだけどね……」

「わ、私の気が済まないよ……」

「んー、ユカちゃんらしいねぇ……」

 言って及川は、うーん、と逡巡するようなそぶりを見せた。ユカも考える。及川の好きな料理ってどういうものだろう、と。牛乳パンが好きで、たぶん甘いものも好きなんだろうということは何となく知ってはいるが、それ以外はまったく見当が付かない。

 でもこの時間帯だとスイーツよりご飯の方がいいだろうし、と考えあぐねていると「そういえばさ」とごく自然に及川が言った。

「ユカちゃんの好きな食べ物ってなに?」

「え、私……?」

 うん、と頷かれて顎に手をやる。

「オムライスかなぁ……」

 そして思ったままを答えれば、なぜか及川は、ニ、と笑った。

「よし決まり。じゃ、オムライス食べいこ」

「え……!?」

「洋食屋だよね。それなら俺、場所分かるかも。あ、ユカちゃんどこかオススメ知ってる?」

 そうしてがぜん足取りの軽くなった及川にユカは当然ながら困惑した。

「え、あの……そ、そうじゃなくて。及川くんの食べたいものじゃないと……!」

「えー、たったいま俺オムライスな気分になったんだからいいじゃん」

 そうして、してやったり、なのか、本当に愉快なのか判断に困るほどの笑みを見せられて、ユカは押し黙るしかない。が──。

「む、無理してない……?」

「してないしてない。ていうか俺、ユカちゃんの前で無理したこと一度もないしね」

 良くも悪くも。とサラッと付け加えられ、ユカは少しだけ頬が熱を持ったのを感じた。やぶ蛇だったかも、と思いつつ浮かべる。きっとそれは及川の本音だろう、と。良いのか悪いのか、及川は自分に対してなぜか最初から無遠慮だった。きっと自分は苦手とされていて、お互いに相性が悪いのだ、と感じてしまうほどに。──と、厄介で感情の波の激しい及川とのいままでのやりとりを思い返しつつ、隣に並んで歩いていく。

 結局、現在地から一番近いレストランにしようということで、やはりゴキゲンに笑う足取りの軽い及川を見上げつつユカも薄く笑った。



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17話:及川徹と外出2

「いらっしゃいませー!」

 

 レストランは適度に混んでいたものの待つことなく席に通された。

 及川がレストランに入った瞬間、彼を目に留めた女性客が目を奪われるのもいつもの事で、ユカはもうなるべく気にしないよう努めることにした。思えば4年近く、出会った時からソレなのだから今さらでもある。ただ、いつもはなるべく人目のある時は及川の半径数メートル以内には近づかないようにするか、もしくは岩泉と三人で話すよう無意識的に努めており。こうも長く2人でいるのは初めてだな、と席についたユカがメニューに目を落とす及川をなんとなく眺めていると「なに?」と目線をあげられて「なんでもない」と自身もメニューに目をやる。

 ユカは当然のようにオムライスを選んだが、及川も本当にオムライスが食べたかったのかユカとは違うソースのオムライスをウエイターに頼んでいた。その様子から、もしかすると及川も本当に洋食が好きなのかもしれないと思う。

 しばし雑談していると比較的早く二人の注文したオムライスが運ばれてきて、二人して「いただきます」と口を付けた。

「そういえばユカちゃんと美術室以外でご飯食べるの初めてだね」

 ふと及川がオムライスを見つめながらそんなことを言い、ユカは頷いた。及川はごくたまに昼休みに弁当やパン持参で美術室に現れることがある。が、基本的には及川のみが何かを食べているそばでユカは絵を描いている事が多く、向き合って食事をするのは初めてだと言っていい。

「さっきさー……、俺、ユカちゃんの前で無理したことないって言ったけど。よく考えたらそうでもなかったかも」

「え……」

 思案顔で目を伏せた及川がそんな風に言ったものだから思わず手を止めてしまう。

「いっちばん最初の時だけは別。あの時だけはたぶん猫かぶってた」

「? 最初……」

「え、ヒドイ忘れたの!? ほらー、俺にドリンク持ってきてくれたじゃん。岩ちゃんと一緒にいきなり体育館来てさ」

 言われてユカは、ああ、と3年ほど前の中学二年だった頃の出来事を薄ぼんやりと思い返した。そうだ、確か蒸し暑い夜で。蒸し風呂のような体育館でひたすらサーブを打つ及川を案じてスポーツドリンクを差し入れたのだった。

「思い出した。あの時、ちょっと不思議に思ったの。一度も話したことないのに、及川くん私のこと知ってたみたいだから」

「そりゃ知ってるよ。ユカちゃん有名人だったもん。美術部の天才ってサ」

 そうして少し瞳を濁らせた及川を見て、ユカは悟った。──たぶん、その「天才」というワードのせいで彼は牛島に感じているような嫌悪感を自分に重ねていたのだろう。それを隠すための「猫かぶり」だった。きっとそんなところだ。

 よくよく思い返せば、あの日ばかりは及川の外向き用の笑みを自分にも向けられていた、気がする。

 ということは、いつも及川が浮かべている機械的な笑みというのは、やはり敢えて作っているのだろうか……と思うもさっぱり分からない。

 そもそも、理解した、と思えるほど自分は及川徹という人間を知らない。

 けれども目の前で美味しそうにオムライスに口を付ける彼の笑みはとても自然で、ユカにはこうして及川と向き合っていることがユカにとっても自然なことのように思えた。

 ならば、相性が悪いと感じたことが間違いで、本当は良かったのかも。と、さすがにそれは今さらすぎるかな、と食べすすめてレストランを出る頃には20時近くとなってきた。

 今日の第一の目的はケヤキ並木のイルミネーションであるため、どちらともなくその方向に向かって歩き出す。

「混んでるかな」

「どうだろうね。たぶん、カップルでいっぱいなんじゃない?」

 ハハハ、と及川がポケットを手に突っ込みながら軽く笑って、う、とユカは首に巻いたマフラーに唇を埋めた。もしかしなくても自分たちも周りからそう見えるのでは、と今さらながらに気づくも、別に何も困ることもないし。とちらりと及川の横顔を見上げる。そういえば一度も考えた事はなかったが、及川に特定の恋人はいるのだろうか? いた場合はちょっと困るかもしれない。けれどもそんな噂は聞かないし、いるようにも思えないし、もしもいた場合はいくらなんでも自分を外出に誘わないのでは。と思い至ってはたと気づいた。

 そういえば、なぜ及川は自分を誘ったのだろう──。岩泉を誘ったら断られたから、などというありがちな理由かな。と少しばかり唸っているうちにイルミネーションのメインストリートであるケヤキ並木が見えてきた。遠目にもぼうっと周りが明るいのが分かる。

 ユカにとってこのケヤキ並木はスケッチスポットのひとつで、日中は割と頻繁に足を運んでベンチで絵を描くというのが休日のパターンのひとつでもある。が、夜にここを訪れることはほぼないと言っていい。

 遊歩道の両脇を彩るドレスアップしたケヤキの木々が作り出す光の中に足を踏み入れて、わぁ、とユカは感嘆の息を漏らした。

「綺麗だね……!」

 思わず及川を見上げれば、いつもは甘いココア色の瞳が電飾に照らされて琥珀色に光り、ふ、と同意するように細められてさすがにユカの胸が騒いだ。やっぱり本当に彼は整った顔をしている。綺麗だな……と思うもやや恥ずかしくて瞳をそらせば、及川が首を捻った気配が伝った。

「? どうかした?」

 及川の容姿なんて、過去に何度も褒めた気がするが。今日は鼓動のせいで妙に気恥ずかしくて、なんでもない、とだけ呟いた。寒いのに頬が熱い。

 たぶん、この独特な雰囲気のせいでもあるだろう。周りは本当にカップルだらけだし……とやや伏し目がちのまま歩いていると、あ、と及川が空いていたベンチの方を見て言った。ちょっと座ろう、と促され、頷いてベンチに歩み寄り腰を下ろす。吐いた息の白さが降り注いでくる光と合わさって、キラキラと星くずが降ってくるような感覚さえ覚えた。

 少し黙っていると、及川が「あのさ」とやや重たげに口を開いた。

「ユカちゃんにさ、話したいと思ってたんだけど」

「うん……?」

「先週さ、新人戦の決勝で白鳥沢とやって……。ま、結果はいつも通りだったんだよね」

 すれば憎々しげながらも及川は肩を竦め、及川自らその話をするとは思っていなかったユカは少し驚いて目を見開いた。

「そ、そっか……。残念……だったね」

「ま、俺はピンサーだったし、エースも取ってやったけど。試合後うっかりウシワカ野郎と会ってうっかり話しちゃってさ」

「え……。及川くんって牛島くんと仲いいの?」

「いや良くないよ!? むしろ友達ですらないよ!?」

「え、でも」

「だって、あっちが話しかけてきたからさ。毎度毎度……」

 ブツブツ言いつつも及川は少しだけ逡巡するそぶりを見せた。その様子でユカは何となく、ただ愚痴りたいだけ、ではなく何かを相談したいのだという気配を感じた。が、及川は「んー」と瞳を寄せてしばし黙りこくったあとに、小さく息を吐いて首を振った。

「いいや。また今度話そ。いまウシワカの顔とか思い出したくもないしね」

 そうしてドサっとベンチに背をもたれかけて腕を気怠げに後ろに回した及川を見て、なんとなく牛島と対峙した及川がどういう状態であったかをユカは察した。

 基本的にユカの知る限り、及川には及川の中の「喜怒哀楽」を刺激する人間が3人いる。牛島と、影山と。そしてたぶん、自分。岩泉にさえ滅多に向けないだろうその感情を引き出してしまうのは、彼の中で自分たちが「天才」というくくりの存在だから、なのかもしれない。

 おそらく及川は、牛島と話して極度にマイナス面に感情を振られたのだろう。ユカはなんとなく既視感を覚えて、数年前の記憶を手繰り寄せた。

 ──あれは確か、ちょうど2年前の今ごろだった。ちょうど新人戦のあとのことだ。及川が北川第一の主将となって初めての大会で北川第一は白鳥沢に負けた。あの頃を境に、及川はいっさい笑みを見せることがなくなった。

 あの頃の事を思えば、いまの及川はこうしてちゃんと白鳥沢の名を口に出せているし、感情を表現できている。精神的には落ち着いているのだろうが、とちらりと及川を見上げるユカの瞳にふわりと柔らかいものが舞い降りて、あ、と目を見開く。

「雪……?」

 目線をあげればふわふわと無数の粒が漂う様子が映って、そういえば寒いかも、と、目を細めたと同時にハッと思い出した。

 ちょうど2年前、全く笑わなくなった及川を案じて思い切って放課後の体育館を訪ねようとした日のことだ。岩泉に会って、やんわりと彼は及川から自分を遠ざけようとした。きっと彼は気づいていたのだろう。自分もまた、及川の感情を刺激してしまう人間だということを。だからおそらく、幼なじみを守るために自分を警戒していた。

 そういえば、あの夜も雪が降ってきたんだっけ……とユカはなんとなく及川を見やった。

 及川徹に抱いた最初の感情は、間違いなくプラスのものだった。なんて練習熱心な人なのだろうと親近感さえ抱いた。その感情が消えないまま、ああきっとこの人とはお互いを傷つけ合うような極端に相性が悪いタイプなのだと少しばかり失望した。

 いまも、その気持ちが消えたわけではない。でも、たぶん、それを越えるレベルで相性も良かったのだと今は感じている。と2年前に及川に会うことなく体育館に背を向けた雪の日の光景を思い出していると、眼前の及川が挑発を含んだような目でニヤッと笑った。

「なぁにそんなに見つめちゃって。そんなに及川さんカッコイイ?」

「ちっ、ちが……ッ!? か、考え事、してたの」

 うっかりカッとなって言い返すと、ぷ、と及川は吹き出してケラケラ笑った。黙っていればずいぶんと大人びた表情をする彼は、笑うと一気に幼くなる。

 どっちの顔が素なのだろう。と、ユカはバツの悪い顔を浮かべつつもスッと両手で四角のフレームを作って、その中に及川を閉じこめてみる。

 やっぱり分からない……と、む、と唇を尖らせる先に雪がふわふわと降りてきて、光を受けてキラキラと光る。枠越しに切り取った絵のようにその光景が流れ、ピン、とユカの脳裏になにかが降りたような錯覚が伝った。そのままその手をスライドさせ及川をフレームアウトさせ、枠越しに光景を捉える。

「? ユカちゃん……?」

 何してんの。という及川の声を聞きながらフレーム越しの世界を見つめた。光で染まる木々にふわふわと雪が降りてくる──。

「ユカちゃ──」

「見えた……!」

 ユカは立ち上がって手を上空に滑らせた。視界を雪が覆って、自分でもよく分からないほど鮮明に視界に広がる風景がスッと胸に染みこんでくる感覚を覚えた。

「え……?」

「”冬”……!」

「は……?」

「ね、及川くん、そろそろ帰らない? 私、いま絵が描きたい」

 逸るように言えば、及川は極限まで目を大きく見開いてから肩を竦めた。

「なんかよく分かんないけど。ほんと絵バカだねぇ」

 きっとそれは承諾だったのだろう。及川も立ち上がって、ユカは先に歩き出した。この場からなら歩いた方が家に近い。

「じゃあ及川くん、今日はありがとう。またね」

「え、ちょっと──、駅反対だよ?」

「歩いて帰る」

 振り返って急くように言うと、及川は今度こそ呆れたようなため息を吐いてユカに並んだ。

「及川くん……?」

「送ってくに決まってんじゃん」

「え……、い、いいよ、大丈夫」

「やーだね」

 そんなやりとりのあと、ユカちゃんちってどのみち通り道じゃん、と返され。それもそうか、と並んで光の道を歩いていく。

 頭の中は先ほど見えた光景ですっかり埋まっていたが、それでも。もしかしたら隣に及川がいたから見えたのかも……と過ぎらせながらも自然と足取りが早くなって、及川はなお苦笑いを漏らした。

「まったく。この及川さんと一緒にいて早く帰りたいとか信じられないよね」

 おまけに道すがらずっとそんな愚痴めいたことをブツブツ漏らしていて、多少は申し訳なく思ったユカだったが返す言葉に詰まっていると足早に歩いたおかげか比較的はやく自宅が見えてきた。

 門の前まで来て、ユカが及川に挨拶しようと声をかける前に及川の方が先に口を開いた。

「ユカちゃんはさ、携帯あんま使わないって言ったけど。俺、めちゃくちゃメール送る方だから」

「え……?」

「岩ちゃんで慣れてるって言っても返信ないと凹むし、けど慣れてるからたぶんヘーキ」

「え……」

 ややまくし立てるように言われて、何の話か分からずユカは首を捻る。瞬時にかみ砕いてみるも、たぶん及川のいつものやや面倒くさい言い回しなのだろう。が、勢いに押されたユカは「うん」と頷いた。すれば及川は口元を緩めてくしゃりと笑い、つられるようにしてユカも口元を緩めた。

「あの……。今日はありがとう。楽しかった」

「俺も」

 うへへ、と及川が笑ってユカも笑みを返して「じゃあまたね」と手を振る。及川も手を振り返してくれたものの「あ」とピタリとその手を止めた。

「プレゼントはちゃんと使ってね」

 そして念を押すように言われ、ユカは若干目を見開きつつも頷く。そうして門の中へ入って一度振り返ると、及川は笑って「じゃーね」とユカに背を向けた。

 ヒュ、と風が吹き抜け、思わず震えた身体を抱きしめて「寒っ」とユカは呟いた。──キラキラ、と光っていた光景が脳裏に蘇ってくる。

 なんだか本当にサーカスみたいな目まぐるしい夜だったな。と、一瞬だけダンスフロアで踊っていた及川が蘇れば、一瞬で頬に熱が戻ってくる。

 

 ──この世には二通りの人間しかいない。

 

 まさにスポットライトを浴びていたような及川の姿が過ぎり、ユカはふるふると首を振るうと急いで家の中へと入った。

 身体を昂揚が駆けていくのが分かった。理由は分からない、が、いままでで一番良い絵が描けるような、そんな予感がした。



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18話:及川徹の高校二年目

 ──「仙台の冬」。

 描き上がった絵に、予定通りそう名を付けた。「春」「夏」「秋」よりも格段に上の仕上がりになった。

 仙台に越してきて初めて、いま住んでいる場所と、そして隣にいた人を心から強く意識した──。

 

 

 

 季節はもう初春。青葉城西に入学してあっと言う間だった一年という月日が経とうとしている。

 その締めくくりとも言うべき3月の下旬には県民大会がある。むろんバレー部が出場するものだ。

 だいたいが3月の第三もしくは第四の週末をメインに行われており、今年の場合は春休み開始直後の週末だった。

 

 そんな県民大会の最終日を前にして、及川は試合帰りのバスの中で携帯を睨みながら、む、と唇を尖らせていた。

 

”ごめんなさい、いま東京にいるの”

 

 なるべく鬱陶しくならないように、だがテンション高めに試合の日程をユカに送ったらそんな返信が来たことが及川の表情の主な原因である。

 ユカは三学期に入って、いままで以上に絵に熱中しているように見えた。及川自身、大きなコンクールが年度末にあって常に最優秀を狙っているとは以前にユカから聞いた覚えがうっすらあったため、ソレに集中していたのだろうとは思っていた。

 曰く、文化祭の時に欠けていた「冬」の絵を描いていたらしい。一緒に光のページェントを見入った時に思いついた絵のようで、思わず「あ、俺の絵だったりしてー」と言ってみたらきっぱりと否定された。

 自信がある、と言っていたユカはその言葉の通りいままで取れていなかった最優秀を受賞したらしく、いま東京に出向いているのは美術館に飾られた自身の絵を確認に行くためらしい。

「これだから天才むかつく……!」

 ケッ、と悪態を吐いてみるが、気にくわない理由がもう一つあった。

 

”上野の美術館で、ひとつ年下の男の子に会ったんだけど、びっくりした。及川くんの声にそっくりなの! 及川くんかと思っちゃった”

 

 珍しくユカから「いまなにしてるの?」系の質問に対する返信が来たと思ったら少し興奮気味のそんな中身で「ハァ!?」とバスの中にも関わらずうっかり不機嫌な声を漏らしてしまった。

 多少イラッとしつつ、ユカのメールの内容には触れず勢いだけで文字を打って速攻で送り返した。

 

”俺、明日準決勝で勝ったら決勝なんだけど”

”頑張ってね”

 

 するとこちらの「苛ついてます」アピールは伝わらなかったのか意に介していないのか、そんな一言が返ってきた。

 まあ別にいいいけど。と肩を落としつつも唇を尖らせる。たぶんユカは自分のバレーに興味があるわけではないだろうし。仮に試合を見に来てくれたとして、うっかり牛島を気に入られでもしたら目も当てられないし。

 牛島自体はやっぱり宮城どころか全国でもトップクラスのスパイカーであることは腹が立つが認めざるを得ないし、腹立つけど。と考えていると本格的に胸が悪くなってきて及川は気を紛らわせるために窓の外を見た。

 

 

 ──東京。

 ユカが及川にメールを送る少し前。

 

 ユカは上野の美術館に赴いていた。

 3月下旬を目処に、毎年その年で一番大きなコンクールの結果発表がある。その中学・高校生部門の油絵の最優秀賞をユカは中一の時から狙っていたのだが、いつも最高で優秀賞止まりであった。

 最低でも中学のうちにトップを取りたかったのに、少し遅れてしまった──と「最優秀」と書かれた自分の絵を見上げた。

 ──”仙台の冬”と名付けた、ユカにとっては「仙台の四季」の一番最後を締める作品である。が、仙台をモチーフとして全面に押し出した絵をコンクールに出したのも、それで賞を取ったのも初めてのことだ。

 今回はいける自信があったが、本当に良かった。と胸を撫で下ろしているとふいに背後から声がかかった。

「栗原ユカさん……ですか?」

 聞き覚えのある声に反射的に瞳が大きく見開いた。──ここにいるはずないのに。と、理解しつつもその「声」の主の姿を勝手に想像して口からは小さな呟きが漏れた。

「及川くん……?」

 そうして振り返った先には、及川と同じくらい長身の柔らかい雰囲気の少年がいた。

 あ、とユカが人違いに慌てると、眼前の彼もどこか慌てたように言った。

「あ、すみません、いきなり声をかけて。その……俺、あなたの絵が好きで」

 受賞おめでとうございます、と柔らかく笑った声が本当に及川に似ていて、ユカは内心驚きつつも笑った。

「ありがとうございます」

「俺、実は公開初日にも来たんです。この作品……本当に感銘を受けました。なんていうか、風景画なのに、もっとこう……いままで栗原さんの絵で感じたことのない、感情的な温かみがあるというか……」

 少年はそうしてどこをどう気に入ったのかを説明してくれ、ユカも聞きながら自分の絵をもう一度見上げた。

 もしも。最優秀を取った理由が技術的なことではなくプラスアルファが付加されたものだとしたら。あの時──及川の笑顔にかかった雪がとても綺麗だと思えたから。数年前の雪の日には笑顔をなくしていた少年が、目の前で笑っていたのが嬉しくて。自分の周りの光景がいっそう煌めくような錯覚さえ覚えた。

 なんて、いくら自己分析しても本当のところは分からないが。と、ユカはそのまま少年と何となく話をしながら美術館をあとにした。

 ひとつ年下であるという少年はユカがもしも仙台に越さなければ入学していただろう中学校に通っているらしく、ついつい話し込んでしまい。一人になってようやくメールが何件も溜まっていることに気づいた。

 そのほとんどが及川からで、メールを読んでいると先ほどの少年の声と及川の声が脳裏でオーバーラップして「いま何してんの?」とリアルタイムで受信したのも相まって及川にそっくりな声の少年に会ったことを伝えた。

 すれば明日は準決勝、勝てば決勝だと言われ──、しばらく東京に留まる予定だったユカにはどうしようもなく、頑張ってという返事を返した。

 

 翌日、及川は試合の結果を知らせては来なかった。

 だから、何となくユカは結果を察した。

 ユカからも聞くことはなく、一週間近く経って。負けた。いつ帰ってくるの? と、用事のついでのように結果を知らせてくれた。

 始業式直前まで戻らないと返事をすると、よく意味の分からない絵文字の返信が来た。が、及川のメールは往々にして解読が難しく、気にしても仕方がない。

 返信頻度が極端に低いという岩泉の気持ちも分かる気がする──、とやや苦く笑いながらメールを眺めつつ、そのまま東京の祖父母宅で過ごして新学期は始業式。

 

 青葉城西に入学してもう一年か、と登校して一番に掲示板に張り出されていたクラス割りを見て自身の新しいクラスを確認したユカは二年生用の階へとあがってクラスに入った。

 黒板には出席番号がランダムに席順として書かれており、名簿から自身の出席番号を確認して席も確認する。中央の列の最後尾だ。

 席について一度クラスを一望する。一年目は中学の同級生でもあった岩泉が一緒だったが、今回は見知った顔がいないな。とぼんやりと雑音を耳に入れていると、不意に前の席に人影が現れた。席の主だろう。

 顔を上げると、すとんと前の席に座ったその人物の大きな背中で一気に視界が覆われてユカは少し頬を引きつらせた。かなりの長身のようだ。──これはもしかして黒板が見えないのでは、と感じているとそれを察したかどうかは分からないが、前の席に座った人物がユカの方へ振り返った。

「あ、もしかして前見えない?」

 短髪の、きっとオシャレでそうしているのだろうなという気配のする独特の雰囲気を持った少年だった。

「え、と……。う、うん、ちょっと。背、高いんだね」

「じゃあ俺の席と変わる? 黒板見えないと大変デショ」

「え……でも」

「俺も最後尾だとラッキーだし、お互い様」

 あっけらかんとそう言われて、ユカは戸惑いつつも言葉に甘えることにした。やはり黒板が見えないのは辛い。ありがとう、と言いつつ立てば少年の方も立ち上がって机に乗せていたらしきバッグを掴み、あ、とユカは互いの席を交換しつつ少年のバッグに目線を送った。

「もしかして、バレー部? バレー部のバッグだよね」

 少年が持っていたのはユカにとっては見慣れた白とペールグリーンの青葉城西男子バレー部特有のバッグで、少年も後ろの席に腰を下ろして頷いた。

「うん。俺、花巻貴大。よろしく、栗原さん」

 花巻、と名乗った少年がそう言ってユカは目を丸めたが。有名人だから知ってる、とどこかで聞いたような台詞を持ち前の切れ長の瞳を微動だにせずに淡々と言いくだされ、そっか、と肩を竦めた。

 にしても、先ほど立ち上がった時の感じ。もしかしたらこの少年──花巻は及川よりも背が高いのかもしれない。バレー部に部員が何人いてどういうメンバーが揃っているのかはまったく知らないが、やっぱり身長の高い人が集うスポーツなのだなと感じつつユカも「よろしくね」と返した。

 新学期ということは新一年生も入ってくるということで、今年もまた去年と同じように一年生の女生徒によって「2年にカッコイイ先輩がいる」と大きな騒ぎになっていたが、同じようにひと月も経てば少しは収まるだろう。

 ユカと及川は相変わらずではあったものの、携帯の番号を交換して以降は連絡ごとに関してはスムーズになった。

 放課後勉強おしえて、や、一緒に帰ろう、等々細々と連絡をくれ、ユカは時間が合った場合は行動を共にしていた。

 雑談メールの頻度も相変わらず高く、メールでも喜怒哀楽が激しいというよりは感情表現の豊かなことが伝わる文面であったが、さすがに付き合いも長くなればユカとしてはあまり気にならなかった。

 だが。時おり、本当にこの人と同一人物なのだろうか……と、相も変わらず女の子に囲まれては隙のない笑顔で対応している及川を見かけて自分でも混乱しそうな瞬間があった。

 日常というオフステージでさえもステージにあがっているように自らを造っているように見えるのは、及川なりの人付き合いの術なのだろうか?

 別に、”こっち”の及川が造り物だと言う気はないが。と、6月も迫った日の放課後。今日も今日とて差し入れ類を渡されている及川の笑みを横目でみつつ部活に赴いて励み、いつも通り日が暮れてくる。

 少し早いがそろそろ帰ろうかな、とユカは時計を見やった。7時過ぎだ。バレー部はインターハイ予選が迫っているし、いまの時間は及川は元より部全体がまだ練習中のはずだ。

 そのまま帰宅して夕食を済ませてから机に向かって勉強をしていると、10時を過ぎた辺りで携帯がメールの受信を知らせた。

 開いてみると「お知らせです!」と装飾されたタイトルのメールに画像が添付されているのが分かった。及川からだ。

 何だろう、と思いつつ開いたメールは、インターハイ予選の日時・会場等々の載ったプリントの写メだった。何なんだろう。と再度思いつつ日付を確認する。6月の第一土曜、日曜、そして月曜の3日間をかけ仙台体育館で行われる、と記載されており少しだけ頬が引きつった。

 ──6月の第一日曜は、一年に二度あるフランス語の検定試験のオーラル部門が控えている。今日いつもより早く帰宅して机に向かっている理由もそれだ。

 半年前に受けた試験で落ちているため、今回は受かりたいし何よりここで落ちたらまた半年後だ。

 と、自身のスケジュールを浮かべつつ机に置いていた青城カラーのマグカップを手にとってコーヒーに口を付けた。及川は見に来て欲しいと言っているわけではないし。でもたぶん、いままでずっと結果的に誘いを断っているから「お知らせ」だと言葉を濁している気もするし。

 ただ一つ確実なことは。返信をしないときっと拗ねられる。──と、にわかに頭が痛んできて、ユカは「練習遅くまでお疲れさま。頑張ってね」とあえて核心には触れないような内容の返信を短く送った。

 とはいえ。試合は丸一日やっているわけではないし、頑張れば調整できるかな……とジッと青葉城西のユニフォームカラーのマグカップを見つめ、息を吐いて机に戻す。ふ、と一度深呼吸をして先ほどよりも集中して机に向かった。

 

 そして6月4日。土曜日。

 ──結局、来てしまった。とユカは大会開始前の午前中に最寄り駅から仙台市体育館を目指していた。

 青葉城西の生徒であるし、一応は制服を着て、うっかりスケッチブックまで抱えてきてしまった。バレーの試合など滅多に見る機会はないし、もしかしたらものすごくいい練習になるかもしれないし。と、ギュッと大きなスケッチブックを抱えて歩いていくこと数分。美術部のユカにはあまり縁のない仙台市の体育館が見えてきた。

 及川のくれたプリントの情報によると、バレーの会場は第一競技場。メインの会場だろうし、中に入れば分かるかな、と道沿いからそれなりに賑わっている会場に入りエントランスに向かおうとしていると、ちょうど反対側から歓声のようなものがあがった。

 何だろう、と視線をそちらにやると、大勢の彩り豊かな制服に囲まれた、見知ったジャージを着た長身の少年がいた。

 

「及川さーん、これ受け取ってくださーい!」

「わあ、わざわざありがとう」

「及川さん、あの、写真一緒にとってもらってもいいですか!」

「モチロン」

 

 さすがにユカは一瞬固まってしまった。が、相変わらずだな、と肩を竦めつつそのままエントランスへ入る。

 案内によると第一競技場は奥にあるらしい。玄関ホールを抜け様々なジャージの群れを横切っていると、正面から何やらキョロキョロしている青葉城西のジャージが見えて「あ」とユカは声をかけた。

「岩泉くん」

「ん? おう、栗原じゃねえか。来たのか」

 うん、と頷くと声をかけた相手──岩泉はキョロキョロ視線を巡らせていた行動そのままにこう聞いてきた。

「及川のヤツ見なかったか?」

 ユカは目を瞬かせる。少しだけ目線を外してから、頬にかかった髪を耳にかけながらつい今しがた見たことをそのまま答えた。

「入り口のところで、女の子に囲まれてた」

「は──ッ!?」

「及川くんって試合会場でも人気なんだね……」

「あ……いや。あんの……クソボゲが……!」

 岩泉はよほど腹に据えかねていたのか腕まくりをして今にも殴りかかりそうなモーションを見せつつ眉を釣り上げた。連れ戻しに行く気なのだろう。

「じゃあ私、うえで見てるね。頑張ってね」

「お、おう」

 そのままユカは第一競技場へ向かい、二階の客席へと上がった。案内図によればバレーコートは3面、つまり3試合同時に行われるということだろうが、どのコートで青葉城西が試合をするかまでは分からない。

 

「あ、岩ちゃん。やっほー!」

「遅ぇんだよグズ及川!」

 

 一方、ユカに背を向け気合いを入れて大股開きでエントランスへ向かっていた岩泉は、一歩早く荷物を抱えて現れた及川のいつものヘラヘラした笑みに青筋を立ててがなりつけていた。

 ごめんごめんそんな怒んないでよ。と、呑気な様子になお苛立ちが募りつつ、先ほどユカに会ったことを言おうか考える。──そして、初日だし平気だろう。と判断した岩泉はギロリと及川を睨み上げた。

「さっき、ここで栗原に会ったぞ」

「──は?」

「”及川くん、女の子に囲まれてたよ””試合会場でも人気者なんだね”だってよ」

 正確にどう言われたかは覚えていなかったが、言われたニュアンスをそのまま伝えれば、ピタ、と及川は歩みを止めた。

「なんでユカちゃんがいんのさ……!」

「知るかよ! おめーが誘ったんじゃねえのか?」

「誘ったけど! けど、なんか試験がどうのとか言ってたし……。俺もしかしてなんか誤解されちゃってた??」

「誤解もなんも、おめーは通常運転だろーが」

 うぐ、と及川が若干焦ったように携帯を取りだしたのを見て、岩泉は今度はグーで背中をどついた。

「いった!」

「バレーに集中しろボゲ!」

「けど……ッ」

「安心しろ。栗原は1ミリもお前のことなんざ気にしちゃいねえしいつも通りだった」

「それはそれでヒドイよね!?」

 そうして真顔で突っ込めば、数秒ののちにむくれたような表情を見せた及川に岩泉はため息を吐いて「ほら行くぞ」と先を急がせる。青葉城西はシード校。今日やるのは一戦のみだ。



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19話:及川徹の雄姿は目に入らず

 一方のユカは、スタンドにあがって「わあ」と見下ろした会場の光景に息を呑んでいた。

 試合は既にどのコートでも始まっている。

 それにしても色とりどりの横断幕だ、とズラリと会場に下げられた個性豊かな横断幕を一望していて「あ」と青葉城西の、まさにユニフォームと同じ青みがかったグリーンの横断幕を遠くに見つけて「しまった」と肩を竦めた。逆サイドに来てしまったらしい。

 ──が、ここからでも見えないわけでもないし、そもそも青葉城西の試合はまだのようであるし、おそらくあのエリアにはバレー部員やその家族が大勢いるのだろうし何となく自分には場違いな気がする。と何となく目線を青城側から間近のコートに向け、眼下を見下ろした。

 カラフルな色のユニフォームが多い中、試合をしている二つのチームのうちのひとつは真っ黒だ。異彩を放っていると言っていい。が、その中の一人は鮮やかなオレンジ色のユニフォームに身を包んでおり、自然と目が惹きつけられる。この位置からでも分かる、小柄な選手だ。

 確か守備専門のリベロというポジションは識別のために一人だけ色が違う。というようなことを体育の授業で習ったような……と考えつつ追っていると、黒いチームの対戦相手がスパイクを打ち、オレンジを纏ったリベロが稲妻のような速さで反応して見事に拾い上げ「ワッ」と会場が沸いた。

「すっげええ、さすがスーパーリベロ!」

「千鳥山のベストリベロ賞のヤツだろ? 相変わらずすげえ反射!」

 ユカもその動きに、ゴクリ、と息を呑んでいた。ボールはセッターに綺麗に返り、黒いチームは攻撃を繋げている。

 が、それよりも。リベロとはあんなに派手な動きをするのか──、と一瞬で小さいオレンジ色の選手に興味を抱いた。

 これはいい練習になるのでは。と、うずうずしつつギュッとスケッチブックを握りしめる。──しまった。カメラを忘れた。と思ったのは彼が二度目のスーパーレシーブを決めた時だ。

 いまスケッチブックを広げるのはもったいない。少し観察していよう。と長引いた第一セットを見守って第二セット目に入った序盤。

 

「キャーーー、及川さーーーん!」

「及川せんぱーい、ナイッサー!!」

 

 青葉城西の試合が始まったのか、ユカの位置の逆サイドからそんな歓声があがった。さすがにそちらに目線を移せば、いつもの練習通りのサーブを繰り出す及川が遠目に映って相手側は為す術もなくエースを許し、ますます歓声があがった。

 

「いいぞいいぞトオル! おせおせトオル! もーいーっぽん!」

 

 自校とはいえ、想像以上の盛り上がりだな、とユカは目を瞬かせた。少なくとも美術部の自分には縁のなかった盛り上がりだ。

 やはりあのエリアには立ち入れない気がする……と若干疎外感を感じていると、そばからも大きな歓声があがった。ハッとして間近のコートに視線を戻す。すればまたオレンジのリベロがスーパーレシーブを決めたようで、周りからも感嘆の息が漏れていた。

「ほんとにいいリベロだなー」

「あいつまだ一年だってよ」

「一年!?」

 難しいレシーブをあげたことがよほど嬉しいのか、オレンジを纏った少年は、ニ、と歯を見せて笑っておりユカもつられるように笑った。素人が見ても分かる凄さだ。動きも凄いし、バレーがこれほどスケッチし甲斐がありそうな競技だったとは、とやや興奮気味に試合を見つめた。

 ──及川はおそらく、今回もピンチサーバーで出ているのだろう。女性の歓声が桁違いの量で聞こえるため、及川がいつコートに入ったか、何をしたかはそれだけでだいたい伝ってくる。

 青葉城西の試合も気にならないわけではないが。もう少しこのリベロを観察していたい……との欲求が勝って、ユカは結局眼前のチームの試合が終わるまで見届けた。試合は長引いたが黒い方が勝って次の日へとコマを進めたようだ。

 青葉城西は、と奥のコートを見やるとちょうどコート中央に整列して選手達が握手を交わしており、あまりの早さに驚いてスコアボードを見やれば圧勝で3回戦行きを決めたようだ。

 あまり観られなかったが取りあえず良かった。と胸を撫で下ろしつつ近場の席に座ってスケッチブックを広げる。最近、自分比で絵を描く時間がかなり少なかった。その分を勉強にあてていたためだ。だから少しフラストレーションが溜まっている、と先ほど観た「スーパーリベロ」を記憶のままに数点描いてみた。

 サッカー部やテニス部へはよくスケッチにしに出向いているが、バレー部の練習をスケッチしに行ったことは今までに一度もない。そのせいか凄く新鮮だ……! としばし熱中して描き終え、ハッとする。

 すっかり頭から明日の試験のことが抜け出ていた。帰って勉強しなければ、と自省して立ち上がると一階ロビーへと降りていく。すればまだたくさんの学校の生徒が残ってごった返しており、何となくユカはキョロキョロと辺りを見渡した。

 すると、ロビーの一角に真っ黒なジャージを着込んだ異質な集団がいて「あ」とユカは目を見開いて呟く。

「さっきのスーパーリベロの人……!」

 その中にひときわ小柄な幼い顔立ちの少年がいて、先ほどオレンジ色のユニフォームを着ていたリベロだと悟り、つい視線を向けてしまった。どこの高校の生徒だろうか? もう一度あのプレイを見てみたいかも。と思うも、明日は試験。帰って勉強しなくては、と足早に会場を去り、その後はきっちり気持ちを切り替えて自身の試験に集中した。

 そうして何とか試験も乗り切り、月曜日──、ユカは後ろの席の花巻が欠席しているのを見てバレー部が最終日まで勝ち上がったことを知った。

 優勝したら及川はきっと連絡をくれるはず……と思うも、午後になっても携帯は一向に鳴らず、ダメだったのかも、と悟る。

 案の定、翌日に登校してきた花巻が決勝で白鳥沢に敗戦したことを肩を竦めながら語ってくれた。甘党らしい彼は朝練後はカロリー補給のためかスイーツを頬張っている事が多く、今日もシュークリームを携えている。

「最近じゃウチと白鳥沢がだいたい決勝で、結局、白鳥沢が優勝みたいなのがパターンになってんだよね」

「そ、そっか……。ほんとに強いんだね、白鳥沢って」

「白鳥沢ってより、ウシワカ? あ、そこのエースなんだけど。中学の頃から一人抜けててさ、俺らの代じゃほぼ毎回白鳥沢VS北川第一って中学が決勝やってて毎回白鳥沢だったわ」

「そ、そう……」

「北一って及川の……ってさすがに知ってるデショ、及川徹。アイツの出身校で、毎回火花散らしててさ。俺はてっきり及川は白鳥沢に進むモンだと思ってたけど、まあまさかの青城でさ。この調子じゃ来年以降も勢力図は中学ん時のまんまってかウシワカVS及川っぽいんだよね、客観的に見てさ」

 花巻はそう淡々と言い下して、ユカは曖昧に相づちを打った。いま現在チームメイトの花巻が及川の過去をこう語るとは、バレー選手の中では及川は県内では有名な存在だったのだろう。

 そういえば、と中学の頃に及川や岩泉と進路について話した事をふと浮かべる。あの時、自分は彼らに白鳥沢に行かないのかと訊いた覚えがある。及川は全力で否定していたが、目の前の花巻もそう思っていたということは、強い選手がより強い場所へ行くのは自然の流れなのだろう。

 牛島といえば……と、ユカの脳裏に去年の暮れに及川が言いかけた台詞が浮かんだ。

『ユカちゃんにさ、話したいと思ってたんだけど』

『いいや。また今度話そ。いまウシワカの顔とか思い出したくもないしね』

 あれ以降、及川は自分に一度も牛島の話をしていない。悪態以外で、だが。

 それが気になる、という訳ではなかったが、なんとなくその日の放課後にユカは第三体育館に寄ってみた。

 正門から比較的近い特別教室棟とずっと奥にある第三体育館は離れており、わざわざ足を向けなければ及川が居残り練習をしているかどうかは分からない。そういう物理的な理由もあり、ユカは中学の頃よりは格段に体育館を訪れる機会が減っていた。

 たぶん、わざわざ中に入らなければ様子が窺えないというのも一因だろうな。と、明かりの漏れている体育館の入り口から中に入って聞き慣れた打撃音が聞こえてきて思う。

 靴を脱いであがって一番近くのコート入り口ドアに手をかけるこの瞬間はいつもちょっと緊張する。と、無意識に小さく喉を鳴らしてドアを開くと、いつも通り、及川が大きな体育館を一人で支配してサーブを打っていた。

「! ユカちゃん」

 及川のいるエンドラインからユカの開けた入り口は見えやすい位置にあるため、及川もすぐ気づいたのだろう。こちらを向いて汗を散らせながら笑った。

「どうしたの、珍しいね」

「うん……ちょっと」

「もうちょっと待っててもらえる?」

 言われてユカは頷き壁際に寄って、ボール籠から新たなボールを手にする及川を見守った。

 数日前、彼はこのサーブをあの大歓声の中で打っていたのだ──と思うも、すっかり目の前のスーパーリベロに夢中になって同時進行していた青葉城西の試合はほぼ見られていない。

 しかしあのリベロはどこの学校の生徒だったのだろうか。決勝に残ったのが青葉城西と白鳥沢ということは、もちろん負けてしまったということで。

 と考え込んでいると、籠を空にした及川があがると言ったためにユカもボール拾いを手伝い、二人して体育館をあとにした。

 部室棟の前で着がえに向かった及川を待ち、揃って人影のすっかり消えた学校を出てバス停に向かう。

「ユカちゃんさ、この前の土曜……試合見に来てくれてたんだって?」

 そしてバスに乗り、椅子に座りながら及川がそんな話を切りだしてきて「え」とユカは目を見開きつつ、ああ、と納得した。おそらく岩泉が自分に会ったと話したのだろう。

「うん。ちょっとだけ時間作って行ってみたの」

「そ……そっか。どうだった……?」

 及川はどことなく目をそらしがちに、及川にしては珍しく控えめに訊いてきてユカは首を傾げたものの、もしかしたら及川ならあのリベロを知っているかもしれないとバッグに入れていたスケッチブックを取りだしてみた。

「あのね……すっごく上手なリベロの人がいたの」

「──は?」

 リベロ? と、とまったく予想だにしない答えだったのか及川は目を丸め、うん、とユカはスケッチブックを開く。

「”スーパーリベロ”って会場の誰かが言ってて……ほんとに大げさじゃないくらい凄い選手だったよ」

「え。なに、ユカちゃんなに観てたの……? リベロ? ウチの?」

「ううん。学校はどこか分からないけど……その選手はオレンジのユニフォームだった」

 この人、と描いたページを見せると、及川はいったん絵をまじまじと見据えて考え込む仕草を見せた。

「んー……、見覚えあるようなないような……」

「確か……千鳥山……? ベストリベロ賞の人、とか周りの人が言ってたけど……」

「千鳥山、って……中学の強豪だよ……。あ、でも、そっか。うん、なんか対戦した覚えある……。あれ、もしかして俺がセッター賞とったときのベストリベロ……?」

 うーん、と考え込んだ及川は記憶を手繰るように一人ごち、そうしてハッとしたように瞬きすると、クルッと首を回してユカの方に顔を向け不審げな色を瞳に浮かべた。

「ていうか、ユカちゃんなにしてんの? このリベロ観てたの? なんで絵まで描いてんの?」

「え……」

「もしかして当てつけ?」

「え……? あ、当てつけ……?」

「……だって……」

 するとバツの悪そうに唇を尖らせて目をそらされ、ユカは何のことかさっぱり分からずに首を傾げるも「ううん」と否定した。

「このリベロの選手の動きがすっごくスケッチ練習し甲斐がありそうだったからつい夢中になっちゃって……。どんなスパイクでも拾っちゃうんだもん、リベロって凄いんだね……!」

「……ふーん……そう」

 そうして少しだけその光景を思い出して興奮気味に伝えると、あからさまに面白くなさそうな表情をされ、ユカは「しまった」と自省した。

「あ、あのね……その、私、青城とは逆サイドの席に行っちゃってね……それで」

「それで……? 移動しないで違う学校観てたんだ」

「お、及川くんがプレイしてたのは分かったよ……! その、凄い声援だったし……、私、ちょっと圧倒されちゃって」

 言えば脳裏に及川へ向けられていた圧倒的な歓声が蘇ってきて少し肩を竦めると、及川は2,3度瞬きをしてから、そう、と呟いた。

「ま、ピンサーだったから出番はそう多くはなかったんだけどさ。でも緒戦だったし、サーブだけでかなり点とったんだよ?」

「うん。応援は聞こえてたから知ってる。サーブしてるところも観た。でも、私、サーブはいつも観てるから……」

 さっきも観たばっかりだし、と続けると及川は「んー」と目線を流してから、なぜかニコッと笑った。

「だよね。ユカちゃんはずーっと及川さんのサーブ観てるんだから今さらだよね。うん。けど……今度はちゃんと観ててよね。まだ俺のセットアップは観たことないんだし」

「え……、う、うん」

 なぜだか分からないが機嫌は直ったらしい。と感じ、ユカも及川の笑みに合わせるように笑った。

 それにしてもさー、と及川は話を変えるように背もたれに体重をかけて天井を見上げた。

「飛雄のヤツ、なんかいま”コート上の王様”とか呼ばれてんだってさ。インハイ予選でたまたま他校の一年が話してんの聞いて……、アイツ、どんだけ上手くなってんだろうね」

 そうして辛いのか悔しいのか、それとも渇望なのか良く分からない色を瞳に浮かべて顔を歪めている。

「俺だってそんな二つ名みたいなの付けられた事ないのに……。やっぱ天才ってそういうモノなんだよネ」

「コート上の王様……。あの影山くんが……」

「あんなちっこい飛雄が”王様”ってさー。飛雄のくせに生意気ってか腹立つ。──やっぱ、俺のいた頃より凄くなってんだろうね」

「そ、そりゃ……及川くんが北一のバレー部引退して2年経ってるんだし、影山くんはいま最終学年なんだし……」

「ソレって2年前の俺より凄くなってる可能性アリってこと!?」

 そうして及川は歪めていた顔を更に引きつらせて地団駄を踏んだ。──相も変わらず、彼の心の中には常に影山飛雄の存在があるのだろう。来年は彼も高校に上がってくるのだし、尚さら気にしているのかもしれない。

 けれどもあの影山が”王様”。いまいちピンとこない、とユカは自分の見知っている影山の姿を浮かべた。あどけない、まだほんの幼い少年のままの姿だ。

『あざっす!』

『あの、及川さん。サーブ教えてください!』

『及川さんいるなら、俺も青城考えます』

 とはいえ。あれは彼が12歳やそこらだった時の話で。きっと大きくなっているんだろうな、と思うもやはり想像がつかない。

 来年、彼は青葉城西へ入ってくるのだろうか? それとも別の高校へ行くのか。

 いずれにしても、来年は”天才”の彼が高校にあがってきて、及川はおそらく正セッターを務めるだろう最終学年。牛島は相変わらずのエーススパイカーで──。きっと来年は及川にとってタフな年になるのだろうな、と思うと少し不安に感じてユカはまだブツブツと考え込んでいる及川の横顔をそっと見上げた。



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20話:及川徹と”コート上の王様”

 インターハイ予選で、他校の1年生が噂していた。

 ──北川第一男子バレー部の”コート上の王様”。影山はいま、宮城中学バレー界でそんなあざなで呼ばれているらしい。

 

 ──なんて誉れ高い。

 

 単純にそう思った。

 影山の作り出す神がかったトス回しがコート上を支配して、きっと鮮やかにブロックを剥いで誰も手がつけられず──人々はその才能にひれ伏して言うのだ。彼が王だ、と。

 及川は影山の異名を聞いたとき、真っ先にそう感じた。

 自分の後ろをずっと付いて回っていた、憎悪と羨望と嫌悪の対象で、そしてたぶん、認めたくはないが、カワイイ後輩。天才・影山飛雄。

 影山に出会ったあの日から──彼のトスを見て落雷に打たれたような感覚に陥り、足掻いても足掻いても勝てない才能の差に打ちのめされたように思った日から既に二年以上が経っている。あの頃はまだ幼いだけだった後輩も、きっと逞しく成長していることだろう。

 きっとたぶん、自分がベストセッター賞を取ったとき以上に──、と思うと胸のつっかえが酷くなるような焦燥感が襲って、及川は寝付けない布団の中で無理やりに寝返りを打った。

 いや、自分だってこの2年間遊んでいたわけではない。少なくとも、いくら影山が王様と呼ばれていようがいまの自分だったらきっと影山には負けない。

 ──いつか対戦する時がもしも来ることがあっても、自分は絶対に影山には負けない。

 二つ年下の直属の後輩にずっとそう言い続けていた中学時代。来年、彼がどの高校に進むのかは分からないが、いずれ本当に戦うこともあるかもしれない。でも。

 

『及川さんいるなら、俺も青城考えます』

 

 彼は本当に青葉城西にあがってくるのだろうか……?

 自分のあとを追って……?

 影山に限らず北川第一時代の後輩は何人も青葉城西に入学してくるだろう。驚くことではない。

 でも──。来年こそは自分が正セッターだし、現時点でいくら王様だろうが天才だろうが影山に負けるとは思っていない。が、もしも正セッターの座を追われたら?

 もしも影山が青葉城西にあがってきたら、自分は北川第一時代を繰り返してしまうのだろうか?

 彼はまた自分のあとを付いて回るのだろうか。及川さん。及川さん。と、どれほど振り払っても追いかけてきた、あの2年前のように。

「……っ」

 ゴチャゴチャと複雑な感情が押し寄せて、寝付けない及川は更なる寝返りを打った。

 いけない、と思う。想像だけでどんどん自分の中で影山の影が大きくなっていくかのようだ。

「飛雄……」

 このままでは自分自身のためにも良くない。北川第一は自分の出身校でもあるし、この時期はだいたい監督やコーチもスカウトのためか中学の公式試合も見に行っているし。中総体は夏休みに入ってすぐであるし、そうなれば時間が取れる。きっと自分の後輩らは最低でも準決勝にはあがってくるだろう。──行ってみるか、と決意して及川は今度こそ眠れるよう祈りながら瞳を閉じた。

 

 

 ──7月は第5週、火曜日。

 

 宮城県中総体バレーボール大会最終日。

 及川の予想通り、青葉城西バレー部は監督不在で午前中は自主練習となっていた。それでも及川は早朝に練習をこなしてから、岩泉を伴って最終日の試合会場に赴いた。

 会場ロビーには結果が張り出されている。既に準決勝が済み、決勝までのインターバルのようだ。

「お、北一決勝に残ってんぞ。あいつらなかなかやるじゃねえか」

 内心、影山がどう成長しているか気になって仕方ない及川自身と違い、岩泉は単純に母校と自身の後輩たちの行方が気になっている様子だ。

「相手は光仙学園か……。白鳥沢もいねえし、あいつら全国行けるといいな!」

「そだね。でも俺たちも行けなかったのに飛雄たちが行くってのもなんかちょっと腹たつ」

「ハァ!? 後輩の応援しろよクソ及川! おめー主将だったろうが!」

「そうだけど! でも、なんで俺が飛雄の応援なんてしなきゃなんないのさ……」

 ぶつぶつ言っていると、おかんむりだった様子の岩泉は呆れたような表情に変えてそれ以降は何も言わなくなった。──岩泉は、影山の名を出せば後輩だった彼にいくら敵愾心を抱いても自分を咎めない。それが居心地がいいようで悪いようで、でも自分はきっとそれに救われていて。でも、その事が正しいのかはわからない。と考え込みそうになったところで思考を振り切って階段先の観客席入り口ドアを見上げた。

 影山のプレイを見るのも、彼に会うのすらも久々だ、とドアをくぐるとパッと明るい空間に聞き慣れた懐かしい応援の声が聞こえてきた。

 

「北一! 北一! 北一! 北一!」

 

 隣で岩泉が、おお、と懐かしそうな声を漏らしている。

 反対エリアの応援席には見慣れた真っ青な生地に「必勝」と書かれた横断幕が下げられており、相も変わらず大多数の部員が声援をコートに送ってきた。

「試合、これからみたいだな」

 岩泉が身を乗り出すように北一ベンチ側の最前列に移動してコートを覗き込んで言った。声をかけたら驚かせるだろうか。などとやや興奮気味に彼はかつての後輩を見つけて嬉しそうにしている。

 その側で及川は「2」の背番号を付けた選手をじっと見据えた。

 ──なんだ、主将じゃないのか。

 ──ちょっと待った。おがりすぎじゃないの飛雄。中三の時の俺よりでかくないか?

 無言でそんな感想が浮かんだ。主将マークのない番号をつけたその選手は紛れもない、影山飛雄だ。2年前よりだいぶあどけなさが抜けた代わりに、小柄だった彼の背は想像より遥かに伸びていた。

 コート上の王様。彼はどんなセッターに育っているのだろう? 技術は、うん、今も申し分ない。表情がちょっと硬いかな? そんな顔して、ちゃんとチームメイトとコミュニケーション取れてんのか?

 アップを見守りながら、そんな言葉と共に違和感が過ぎった。

 あれだけ嬉しそうにボールに触るヤツだったのに。元々、笑顔を他人に振りまくようなタイプではなかったのは確かだ。でも、バレーが好きでたまらないと全身で訴えるように綻んだ顔でボールに触れる影山は、その才能ゆえに自分を苛立たせ憔悴させると同時に、やはり微笑ましくもあった。

 だというのに、まるで。──と、僅かに及川の脳裏に既視感が過ぎった。そして試合が始まるとだんだんとその違和感が強くなり、第一セットの中盤。相手が勢いづいて点差を付けられ、影山のあげた速すぎるトスにミドルブロッカーが追いつけなかったところで既視感が確信に変わった。

 

「速攻はもっと速く入ってこいって言ってるだろう!?」

 

 焦燥を露わにする影山に、ミドルブロッカ──―及川にとっても後輩にあたる金田一勇太郎が「わるい」と謝っていたのが見えた。

 違和感の正体はコレだ、と及川は少しだけ眉を寄せた。──北川第一にいたころ、一度も白鳥沢に、牛島若利に勝てずに焦りばかりが募っていた。どんどんと強くなった焦りはついに自分から笑うことさえ忘れさせ、まったく周りが見えなくなってしまった。

 あの時の自分に影山はそっくりだ。と、気づいて手すりを無意識のうちに強く握りしめていた。

 ──お前は本当に、どこまで俺を追ってくるんだろうね……。

 見事なまでに自分の来た道をトレースする影山に、及川は焦りや恐怖と共にある種の奇妙さを抱いた。

 バレーに対する情熱も、勝ちに対する貪欲さも、当たり前の事を当たり前のように自分たちは共有している。

 けれども、自分と影山は違う。自分には少なくとも、岩泉がいた。コートで戦っているのは自分だけではないと当たり前の事を思い出させてくれた。

 そして影山と自分は違う。彼には自分にはない才能という名の天性の贈り物がある。その突出した才能に周りは追いつけず、彼はなぜ周りが自分と同じように出来ないのか理解できない。なぜなら彼は、自分を微塵も「天才」などとは思っていないのだから。

 と、及川はスッと目を細めてやや冷めた視線をコートに送った。

 ──飛雄、お前は天才だ。お前みたいにピンポイントのトスを上げられる人間を、俺は他に知らない。でも、金田一はお前の望む速攻に付いてこれていない。もっと金田一のやりやすいトスをあげて攻撃に繋ぐことも出来るんじゃないのか。

 とはいえブロックを振り切るのはセッターの重要な役目の一つである。相手を振りきろうと速いトスをあげてはミスを繰り返して苛立ちを募らせている様子の影山をジッと及川は見下ろした。

 北川第一のアタッカー達が、自分の後輩達がレベルが低いということは決してない。むしろかなりハイレベルだ。しかし、影山の望んでいる能力を有しているかといえば残念ながらまだまだである。だからこそ影山はセッターとしてちゃんとチームメイトの能力を見極め、それを最大限に引き出すよう努めるべきなのだが、本人はそこに気づいてさえいない様子だ。

 なぜ自分のトスに追いつけない? なぜもっと跳ばない? 勝ちたいのならこのトスに合わせて打てばいいだろう。

 きっとそんな事でも頭の中で考えているのだろう。なぜならおそらく、自分の脳裏に描いているイメージのスパイクを影山自身だったらやれるのだろうから。とも過ぎらせて及川はキュッと唇を結んだ。

 あのトス──。金田一ではなく自分だったら。アタッカーとしての自分ならあのトスもちゃんと打ってやれるかもしれない。と考えてしまって及川は眉をきつく寄せた。

 影山の才能は、きっとこんな場所に留まる程度のものではないのだろう。でも、それ故に彼はセッターとしての基本を理解できていない。冷静にコートを見渡して、ブロックを振り切る精密なトスがあげられるのに──と、相手のセットポイントが近づいてきて及川は小さくうなり声を漏らした。

 次第に北川第一の雰囲気が緊迫して悪くなっていくのが手に取るように分かった。負けているという焦りが影山のトス回しを加速させ、アタッカーが追いつけず、そして自滅していっている。

 ──お前は一人で何とかしようとしすぎだ、飛雄。

 もっと速く動け、もっと高く跳べと憤る影山を見下ろして及川は心の中で呟いた。

 相手が強いからこその焦り。ブロックを振り切らなければならないというセッターとしての焦り。どれも手に取るように分かる。そのせいで、チームメイト達の事が、アタッカー達のことが見えなくなっていることも分かる、と考える先に迫り来た相手のセットポイントで一つの「事件」が起こった。

 影山はバックトスをあげた。が、その先でアタッカー達は跳ぶことを拒絶したのだ。無情にも空中を舞ったボールはコートに落ち、北川第一は自殺点同様のポイントを相手に与えて1セット目を放棄した。

 隣で岩泉が憤っている声が聞こえた。当然だ。これを勝てば全国という場面で、しかも相手のセットポイントという重要場面を戦わずに打つことを拒絶したのだ。いかなる理由があろうとも正当化できることではない。

 けれども──。トスミスを重ねてチームメイトと諍いを起こした結果、トスの拒絶を招いた影山は目の前の失点よりも自身のトスを拒否されたという現実に愕然とし、打ち拉がれたように見えた。

 勝ちたい、という気持ちが先走った結果、チームメイトが彼についていくことを拒絶するなど考えてもみなかったのだろう。

 監督が影山に交代を促すのが見えた。影山は愕然としたままベンチに戻り、タオルを被ってうなだれた。──まるで練習試合でベンチに下げられ、影山と交代することになった時の自分のように。

 

 ──コート上の王様。

 

 なんて誉れ高い異名だと思った。彼の才能ならその名にふさわしいプレイヤーに育っていると思っていた。そんな誇らしい名を与えられた彼を羨ましいとさえ感じた。

 けれども、意味が違っていたのだ。

 孤独で、独裁的な「王様」。むろんその意味の中に彼自身の揺るぎない技術の高さが含まれているのは確かだろう。けれども、そのあざなの意味するところは皮肉だ。

 ──お前は一人で何とかしようとしすぎだ、飛雄。

 かつて自分が辿った道を辿る後輩を見下ろして、及川はもう一度心の中で呟いた。

 第二セットも相手校有利で試合は進んでいる。当然だろう。影山が周りが見えなくなるほどに焦りを募らせた相手なのだ。控えセッターでどうにかできる相手ではない。

 結局、北川第一はそのまま追いつけずにストレートで敗戦し、自分たちの代からの定位置でもある準優勝に収まって今年も全国への道は閉ざされた。

 ずっと顔をあげられないでいる影山を見つつ、及川はコートに背を向けた。岩泉にしても数ヶ月しか関わっていない後輩に声をかけるつもりはなかったらしく、そのまま2人で会場をあとにした。

「……ま、惜しかったよな……、一応決勝までは勝ち上がってるし、まあまあなんじゃねえの」

「そうだね……」

「金田一とか順調にでかくなってるし、あいつウチに上がったら速攻レギュラーかもな」

「かもね。いま金田一くらいでかい選手うちにいないし」

 どことなく芯のない声で話す岩泉に、及川もどこか空返事を返していく。空気が微妙なのは岩泉にしても後輩達のトス拒絶を目の当たりにしたショックがあるからだろう。

 飛雄のヤツ、おバカに育っちゃってほんとバカだよね。などといつもの自分の悪態が出ないのも不審に思っているのかもしれない。が、生憎とそういう気分ではない。

 及川さん。及川さん。と、自分のあとをついてきていた影山の声が先ほどからずっと脳裏に響いている。拒否しても拒否しても、少しでも相手をすると嬉しそうに頬を緩めていた、憎らしくてあどけなかった頃の後輩の姿。あの頃、もしも主将としてセッターとして彼に何かを伝えていたら──。そしたら、あんな結果にはならなかったのではないか、などとうっかり過ぎらせてしまって小さく舌打ちをした。

 将来、確実に脅威になると分かっている人間をなぜ自らの手で育てなければならないのか。と、良い先輩・良き主将でいることを放棄したのは他ならぬ自分だ。そもそも彼らの指導はすぐに引退する自分たちの仕事ではなかったし、監督に指示されたこともない。

 自分はあくまでもう卒業してしまった人間で、いまの北川第一の問題は彼ら自身が解決すべきことであって自分には関係はない。

 だというのに。──ああ、イヤだ、と思う。後味の悪い、言ってしまえば最悪の試合だった。きっと岩泉も感じていることは同じだろう。だから妙な沈黙が続いてしまうのだ。

 そのまま及川は午後からの練習に出て、出たら出たで花巻たちから「試合どうだったよ?」などと聞かれたものだから適当に「負けちゃったよー、残念」等々と誤魔化して、練習後はいつも通り居残った。

 いつも通りというよりは、一人になりたかったが正解かな。と、及川はボールを持ってセッターポジションに立った。──今日見た影山のトス。良いトスだってあった。思い出して真似てみても、やっぱり自分はああは出来ない。と、ふわりとトスを上げてみて脳内の影山のトスとズレたボールの軌道を目で追って、く、と眉を寄せる。

 こういうとき、どうしようもない影山との才能の差を感じて腹立たしいというのに。でも。と及川はボールを拾い上げて、今度は速めのバックトスを打ち上げた。そうして振り返った先に、誰もいなかったのだ。今日の影山は。

 もしもトスをあげた先のスパイカーが自分の意志で跳ぶことを拒否したら。自分のあげたボールの先に誰もいなかったとしたら。きっとそれは心底恐ろしいことなのだろうな。と、まだ昼間の試合を引きずっている自分にも苛立ってくる。

 ──飛雄、お前いったいどうしちゃったの。

 次から次へと浮かび上がってくるモヤモヤを振り払えないまま、及川は居残り練習を早めに切り上げて学校をあとにした。

 さすがに早めとは言っても夏休み。バスの中は自分一人だけだ。と、仙台駅で地下鉄に乗り換え、そのまま最寄り駅の一つ手前で降りると住宅街を無言で歩きつつ携帯を取りだして電話帳を開いた。

 メールはしょっちゅう送っているが、電話はあんまりしたことないっけ。と、過ぎらせつつ発信ボタンを押して耳に当てる。

「もしもし……?」

 しばらく待ったあとに相手が出て声が聞こえ、及川は少しだけ口元を緩めた。

「や。ユカちゃん、いま家? 話して平気?」

「え……うん、そうだけど。どうしたの……?」

 電話の相手、ユカは自分からの電話がやや珍しいのか不思議そうな声が漏れてきて、及川は「うん……」と少し言葉を濁しつつも目を伏せた。

「今日さ……、北一の試合観てきたんだよね」

「え……、バレーの?」

「うん。今日が中総体の最終日でさ、ウチは決勝まで勝ち上がってたからそれでね」

「へえ、凄いね……! やっぱりウチの男子バレー部って強いんだね」

「うん、まあ……結局負けちゃってたけどね」

 言えば、そっか、とユカは少し残念そうな声で言った。彼女にとっても北川第一は出身校。残念な気持ちは畑違いといえどあるのだろう。

「負けは残念ではあるんだけどサ……。肝心の試合なんだけどさ」

「うん……?」

「最悪だった……」

 ボソッ、と岩泉にもこぼせなかった事を率直に言えば「え」とユカが戸惑った気配が伝った。

「え……、な、なにかあったの……?」

「飛雄がさ、コート上の王様って呼ばれてるって話……前にしたよね?」

「うん」

「あいつ、上手くなってたよ。個人としてはね。2年前の俺より上手いかはともかく、技術的には圧倒的に抜けてた。ま、それは昔からだけど。けど……」

 けど……? と続きを促したユカにどう言えばいいか惑って眉を寄せる。別にいま、影山に対して悪態を吐きたいわけではない。ただ、自分が思っていた「王様」の意味と影山に付けられたあだ名の意味は違っていて。それで──と考え込んでいると、視線の先にユカの家が見えてきて、及川は無意識に二階側の窓を見上げた。

「ユカちゃん、いま家なんだよね?」

「うん」

「俺、いまユカちゃんちの前にいるんだけど」

「え──ッ!?」

 すれば驚いたような声が聞こえて数秒。ガラッ、と窓を引く音と共にユカが玄関側に面している窓から顔を出して、及川は小さく手を振った。

「な、なにしてるの……!?」

「んー……? さぁ、なにしてんだろうね。ちょっとユカちゃんと話したいな、って思ってさ」

 窓からと携帯からと聞こえてくる声にやや弱々しくそう返せば、少し戸惑ったような息が漏れてきたが「ちょっと待ってて」という声と共に携帯が切れ、しばらくして玄関のドアが開いた音が聞こえてユカが門の扉から姿を現した。

「及川くん……!」

「ごめんね、いきなり」

「ううん、いいけど……。いま部活帰り?」

 ユカはジャージ姿の自分を見て言い、及川も頷いて肯定した。そして少し壁際に移動して壁にもたれ掛かればユカは心配そうにこちらを見上げてきた。

「あの……、試合、最悪だったって……なにかあったの? もしかして、誰か怪我とか……」

「ううん、そういうんじゃないんだけど……」

 及川はゆっくりと腰に手をあてて小さく息を吐いた。試合は第一セットの中盤から劣勢だったこと。影山がトスミスを重ねていたこと。そして第一セットの最後に北川第一の選手達はポイントを放棄して第一セットを落としたこと。それに伴って影山がベンチに下げられ、ますます不利となった第二セットも落としてストレートで負けたこと。淡々と及川は見てきた事実だけを話した。

「最悪、だよね……。飛雄の自己中トスも最悪だけど、全国のかかった決勝の相手セットポイントでトス無視とかさ。まさか俺の後輩達が、あんな試合するなんてさ……。コート上の王様なんて、ただの皮肉じゃんって」

 そうして胸につっかえていた気持ちを混ぜると、黙って聞いていたユカは少しだけこちらから視線をそらした。

「私は……試合を観てないし、バレーも詳しくないから何とも言えないけど……。あの影山くんが……なんて、ちょっと信じられない。影山くん以外の部員も知らないし、影山くんがチームでどういう存在だったかも分からないけど」

「飛雄は単に一人で何とかしようとしすぎなだけだよ。あいつ……天才だから勝手に周りを置き去りにしてくんだろうね。金田一たちは、後輩たちは飛雄の進む速さで歩いていけない、だってあいつ天才なんだから。けど、飛雄にはそれが理解できない」

「でも……」

「飛雄の方が金田一たちに合わせなきゃなんないんだよ。そもそもそれがセッターの仕事なんだし。まったくおバカな方向に突っ走っちゃってサ、あんなヤツを脅威に思ってた自分がバカらしくなってくるよまったく」

「及川くん……!」

「けど……! トス無視は、胸が悪い。どんな理由があっても、だよ」

 自分が引退したあとの北川第一のバレー部がどんな雰囲気であったのかは知りようがない。彼らにも色々と深い事情とやらがあるのかもしれない。けれどもソレを表面化させるには、決勝の相手側セットポイントというタイミングは悪すぎた。

 影山が思ったようには脅威の選手に育っていなかった事はむしろ喜ばしいはずだというのに、まったく胸が空くような思いがしないのはそのせいだろう。

「それは……私じゃなくて、影山くんとか、金田一くんたちに言ってあげればいいんじゃないかな……」

 すると、ユカが戸惑いがちに肩を竦めて「う」と及川はリアルに顔を顰めた。

「だって! それって敵に塩送る行為になりそうなんだもん……!」

「いま、敵じゃなくて後輩たちって言ったのに」

「も、元だよ元」

「北一のバレー部ってけっこう青城に入ってくるんだよね? 影山くん、及川くんがいるなら青城に行くとかって言ってたし、他の後輩だって入ってくるならまた同じチームになるのに……」

「と、飛雄が俺の後輩であることと飛雄が俺の敵だってことは俺の中で矛盾なく成立してるからいいの!」

 我ながらむちゃくちゃな事を言っている、と自覚していると案の定目の前のユカも呆れたような表情を晒していて、及川は居心地が悪いままに視線を泳がせて咳払いをした。

 けれども、そうだ。彼らは、もしかしたら影山も、あのまま全員が青葉城西に入ってくる可能性もあるのだ。別にそれは構わない。今日の影山を観れば、自分が現役のうちに正セッターの座を彼に追われることはないと言い切れる。視界に常に居座られることは鬱陶しいが、焦る必要は全くない。

「あいつら、ほんとにウチに来るかな……? 飛雄だって、あんな諍い起こした連中とまた3年も同じチームとかイヤなんじゃないの」

「分からないけど……、ウチには及川くんがいるから、影山くんは来たいんじゃないかな」

 前にそう言ってたし。とユカが繋げて及川は、む、と顔を顰めつつも頬を掻いた。

「ま、飛雄はともかく……。金田一たちが入ってきたら、俺はアイツらもトスを上げるんだから無視なんてふざけた真似はぜったいにさせない。無視したくなるような思いもさせない。あんなイヤな試合だって二度とさせないよ」

 そうして、自分でもハッとするほど「これが言いたかったのだ」という思いが口から出て、及川は自分で驚いて思わずユカの顔を見やった。するとユカは薄く笑って頷き、うわ、と及川は慌てて顔を明後日の方向にあげた。

「ま、まあ……飛雄は凹んじゃってるだろうから、バレー続けられるか分かんないけどね!」

「そんな……、練習熱心な子だったから、きっと大丈夫だよ」

「そうやってユカちゃんはすぐ飛雄の味方するー」

 そうしておどけるようにして不機嫌を気取って頬を膨らませてみれば、ユカは困ったように苦笑いを漏らした。

 飛雄はきっと大丈夫。なんて、アイツがこんな事で凹んで勝手に自滅してくれるようなヤツなら自分は最初から脅威を抱いていない。腹は立つが、どうせ既にケロッとしていつも通り練習でもしていることだろう。分かっていても、ユカがそう言ったことで不思議とどこかホッとした。ああホント、我ながら自分自身が一番厄介、と自身に呆れつつも及川は小さく笑う。

「ありがとユカちゃん。話したらなんかすっきりしたよ、うん」

「そっか、良かった」

「ごめんね、急に、しかも夜に来ちゃってさ」

「ううん。岩泉くんには話しにくい事……だったんだよね? 北一出身で影山くんのこと知ってるの、他は私くらいだもんね」

「え……、あ、うん。そう、だね」

 ──なんか違う気がするけど。まあいっか。いや、良くないけど。と、しばし葛藤するもどうしようもなくて、ハハハ、と及川は肩を落とした。

「じゃあ俺、帰るね」

「うん、気を付けてね」

「ん。じゃ、またね」

 バイバイ、と手を振ってユカが門の内側に入ったのを見届けつつ手を下ろして及川はハッとした。

 やっぱり良くない気がする。と、しばし立ち止まるも明日以降考えよう、と結局はユカの家に背を向けた。と、同時に再びハッとする。

 そうだ。この時期、ユカは決まって東京に行くのだ。自分がベストセッター賞を取ったときだってユカは東京にいたではないか。むしろ今日会えたのはラッキーだったのでは、と焦りつつ携帯を取りだしてメールを送ってみた。夏の予定を聞くためだ。すると案の定、東京に行くという返事が来て及川は痺れをきらしてさっきのいまだというのにユカに電話を入れた。

「あ、もしもしユカちゃん? 東京っていつから行くの?」

「え……、あ、明日の夜からだけど」

「じゃ、明日のお昼はまだいるんだよね? ね、じゃあ明日会える?」

「え……!? え、でも……及川くん、部活は?」

 ──しまった。そうだった。焦ってすっかり失念していた、とあまりのうかつさに勝手に拳が震えてくる。

「ど、どうかしたの? なにか大事な用事……?」

「……ううん何でもない。……じゃ、また新学期だね……」

 おやすみ、と力なく携帯を切って、ハァ、とため息を吐いた。

 別に何を話したいというわけでもないが。でも、なぜ今日は真っ先にユカのところへ向かったのだろう?

 ユカだって自分の嫌いな「天才」の一人で、近づけば傷つく事もあると分かっているのに。

『お前、あいつのこと苦手じゃねえのか……』

 分かってるのに。それ以上にもっと色々な別の感情を得られることの方が多くて、そして自分でもなぜなのかよく分からない。

 何が面倒かって、結局やっぱり自分自身だよな。と一つため息を吐いて、目まぐるしかった今日という日を終えるべく及川は一人暮れきった道を生温い風に吹かれながら自宅へ向けて歩いていった。



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21話:及川徹の夏合宿

 翌朝、ユカは朝刊の地元スポーツ情報の載っているページを探してめくった。バレーの中総体の記事を見るためだ。

「あ……!」

 すると、”北川第一、惜しくも破れる”と小さな見出しが目に飛び込んできて直ぐに文章を追った。

 北川第一がストレートで負けた事、チームの司令塔である影山を第1セットでベンチに下げた戦略への批判、あとは優勝校を讃える記事で、昨日及川が言っていた話以上の情報は得られなかった。が、セッターをめぐって一悶着あっただろうという事だけは確認できた。

 昨日の及川を見るに、きっとよほどのことがあったのだろう。あの影山が……と、ユカが記憶の中の小さくていつも嬉しそうにバレーボールに触れていた影山の姿を浮かべていると、テーブルに置いていた携帯が震えた。メールの受信を知らせるものだ。

 開けば及川からのいわゆる「おはようメール」で思わず首を捻ってしまう。そうこうしている間にもう一通のメールを受信し、むろんそれも及川からで、いつ仙台に戻るのかを問う文面だった。

 始業式の一週間前には戻ると返事をすれば、じゃあ戻ったら一緒に夏の宿題をやろうというメールが派手なデコレーションと共に来て、ユカは一瞬固まった。──いくら何でも休暇が終わる寸前まで夏の課題を全て放置はないだろう。きっと答え合わせとか最終確認とかだろうな、と解釈してOKの返事をした。

 岩泉も一緒に来るのかな、などと考えつつ東京行きのためのパッキングをしていると、しばらくして再び携帯のメール受信ランプが光っている事に気づいた。

 また及川からかなと開いてみると差出人は意外な人で、ユカの両まぶたが大きく持ち上がった。

 

 一方の青葉城西バレー部も夏休みに入れば強化合宿と言う名の集中練習が入ってくる。基本は3,4日ほど学校に泊まり込んでの強化合宿であるが、時おり遠方へも宿泊込みで出かける。

 休みもまだ序盤の時期、青葉城西バレー部はレギュラー・ベンチ及び数人の有力選手のみ泊まり込みで5日間の合宿を行っていた。むろん他の部員も通常練習には参加するため、合宿参加組にとっては練習時間が強制的に伸びる事、逃げ出したくとも帰れない事以外はいつもと同じだ。

 

「オイこらクソ及川! 一人でメシ盛ってんじゃねーよ!」

「えー、だって俺、岩ちゃんより5センチ以上も大きいし食べ盛りだし」

「身長関係あるかボゲ!!」

「あるよ! それに今日の超美味しいカレー作ったの主に俺だしね!」

 

 夕食時に繰り広げられるいつもの光景を他の部員はもはや空気のように扱っていた。

 青葉城西は私立ゆえに昼食だけは学食の厄介になれるものの、朝夕は自分たちで用意せねばならず、得手不得手に関わらず炊事は強制作業だ。

 及川は「得手」の側なのか仕切りたがりの性格がそうさせるのかいつも率先して食事の用意をし、先輩陣に滞りなく食事が行き渡ったあとに岩泉と悶着を起こすなど例年通りすぎて今さら誰も興味を抱かないというのが現状だ。

 が──。

「及川さんて……こう言うのもなんですけど、随分イメージと違う人ですよね。俺、中学の頃に北一の試合を何度か見たんですけど、もっとクールな人かと……」

 ボソッと目の前でそんな事を呟かれて吹き出したのは花巻だ。

「ちょっと! 矢巾聞こえてんだけど!?」

「──は、はい! すみません!」

 及川の耳にもその少年──矢巾の呟きが届いたらしく花巻は肩を揺らすも、花巻の隣に腰を下ろしていた松川が「まあまあ」と諌めた。

「あんま後釜クンびびらせんなよ。夢壊されてかわいそうだろ」

「それな。女バレと同じパターンな。どんなイケメンかと思いきや実態はコレという」

「マッキーさりげに悪口挟んでくるのやめてくれる」

 結局、及川は盛りに盛った白米の3分の1程度は岩泉に渡したらしく、それでも大盛りのカレーライスを片手にツッコミを入れながら花巻の斜め前にいた矢巾の隣に腰を下ろした。

 その矢巾は中学時代に同じセッターである及川に、やはりある種の憧れのようなものを抱いていたらしいが……と、花巻は少しばかり肩を竦めた。

 及川は自分たちにとってもむろん有名人であり、入部当初は「ああ、あのベストセッター賞の及川徹」と遠くの存在を見る目で見ていたが、県内でも一、二を争う実力者であった彼は予想に反して酷く子供じみた性格だった。と、本人に伝えればむくれるだろうから言わないが、そもそもむくれると予想がつくあたりが子供っぽい、と一人で少し肩を揺らす。

 しかしながらあれでいて外面は良く、あの容姿と人当たりの良さに群がる女子は後を絶たず……そのことは少なからず部員のやっかみと、及川ならしょうがない、という相反する感情を買っていたが、なにせ実態はアレである。何かと行動を共にすることも多い女子バレー部の面々には早々に本性がバレ、彼女らの及川への感情は憧れから既に珍獣を見守るような目に変わっており、図らずも及川への男子部員の妬み嫉みというものはだいぶ緩和されたという結果を与えている。

 とはいえ、と花巻は考えた。及川は基本的に外面がいい。本性、と言ってもこの場にもしも岩泉がいなければ彼はいたって普通の態度だったはずで、そしてそれが及川の素であるのか見せかけなのかは自分たちには分からない。セッターというポジションに自ら好んでついているだけあってコミュニケーション能力に長け、社交的であるが、ある程度は仲良くなったという自覚のある今ですら、「及川徹」という人物がどのような人間であるかと真面目に問われたら、自分は返事に窮してしまうだろう。

 もしかすると、及川には岩泉にさえ見せていないような一面があるのでは、と疑問に思うことが時おりある、と何気なく及川の方に目線を送っていると先方は気づいたのかキョトンとしたのちにヘラッと笑われピースサインをされて花巻は苦笑いを漏らした。

 

 寝食の場所は武道場の隣の簡易宿泊施設を利用しており、部屋割りはおおよそ学年別となっていて部員としてもその辺りは気が楽であった。

 及川たちの四人部屋もいつもの四人であり、夕食が済み風呂も済んで及川は自身の布団の上に寝転がってメールを打っていた。

 ──合宿、超疲れる! 閉め切った体育館やばいよ。暑い。

 ほぼ無意識でゴテゴテとデコレーションしてそんなメールを送ってみると、珍しく送った相手であるユカからリアルタイムで返事が来て及川は目を見張った。労いの言葉と東京も暑いという返事に、及川はさらなる返事を送る。

 ──俺、ディズニーランド行きたいなー。

 我ながらなんの脈絡もないと思ったものの、「東京」で連想できる単語は東京タワーや来年開業予定のスカイツリーくらいのもので、仙台と東京なんてそう離れてないのに随分と遠く離れている気がするな、なんて思っているとユカから返事が来た。

 ──いま人いっぱいだしきっと暑いよ。でも及川くんってミッキーのカチューシャとか似合いそうだね。

 う、と及川は思わず赤面した。自分と違っていっさい顔文字もデコレーションもないシンプルな文章だが、たぶん、コレって自分がランドにいるところを浮かべてくれたってことだし。でも、これって素で言ってるんだよな、とやや目を泳がせつつ携帯画面を高速でタップした。

 ──だよね俺もそう思う! けどディズニーランド遠いし、こっちにはベニーランドあるしね!

 きっとほぼ反射的にメールを打っている自分のことを、用事がなければメールしないタイプのユカは不思議に感じているかもしれない。実際、岩泉ほどではないが自分が一方的にメールを送りつけているだけということもしょっちゅうだし、と過ぎらせているとまたも携帯はメールの受信を知らせて震えた。

 ──学校の近くの遊園地、だよね? 私、一度も行ったことないな……。

 動物園はあるんだけど。と続いていた文章を見るや否や及川は目を剥いた。ベニーランドとは仙台に住むお子様、いや老若男女必ず一度は行っているだろう鉄板のスポットだ。少なくとも及川にとってはそういう認識の場所だ。そんな場所に行ったことがないとは。本当にこの子、仙台市民なのか? と脳内で突っ込みつつピンとある考えが過った。

 ──”ウソ!? ベニーランド行ったことないなんヤバいよ! 今度一緒に行こ!”

 なんて自然な返事なんだ。と思いつつ、打って送信する瞬間に及川は躊躇した。──べ、別に深い意図はない。本当にこう思っただけだし、全然意味なんてない。などと考えている自分の面倒さに口をへの字に曲げつつ、エイ、と思い切って送信ボタンを押した。

 が。無駄に脈拍が速くなりつつ携帯を握りしめてしばらく。今日は珍しくすぐに来ていた返信が途切れ、及川は思わず声をあげた。

「ここで返信ナシ!?」

 すれば他の三人が勢いよく振り返るも、及川の視界にその姿は映らなかった。──別に変なこと書いてないし。もうけっこう前とはいえ、年末に一緒に出かけた時はユカだって楽しそうにしていたし。たぶん、お風呂とか入りに行っちゃってメール読んでないだけに決まってる。絶対そうだ。

 そんな事を考えてジッと携帯を睨み続けるも一向に携帯は震えず、加えてこうしている時間というのは普段より何倍も長く感じるもので、及川はついに携帯を握って上半身を起こした。いっそ電話すればいい、とそのまま立ち上がろうとするもののグッと思いとどまる。──電話して問いただすのもなんか違う気がするし。今ならまだ、いつものように全然違う話題のメール送って誤魔化せるし。そうだそうしよう。いまメール途切れさせたら気まずいし、それが一番。と思って新規メール画面を立ち上げるも、全く文面が浮かばずにため息を吐いて及川はそれを破棄した。

 ユカはこういう返事が必要そうな問いかけには絶対に返事をくれる。だから、どう答えてくれるか知りたい。──ハァ、ともう一度ため息を吐いて及川はボスっと再び布団に横になった。いっそ寝てしまおうか。そうすれば朝までには返事が来ているだろう。と、そのままウトウトしてどれくらい経っただろうか。ぶるっと携帯が震えてぱちっと及川は目を見開いた。

 ──うーん、お互い平日は部活だし、及川くんは週末も部活だし時間見つけるの難しいんじゃないかな……。

 そうだけどそうじゃない。と、「今度」に焦点をあてたようなユカの返事に及川は思い切り脳内でツッコミを入れた。というか、もしかしてやんわり断られてる? ていうかコレが熟考した結果? それともお風呂だった? そんなツッコミで頭を埋め尽くしていると、急に後頭部に衝撃が加わり「ぶっ!」と及川の喉から反射的に声が漏れた。

「さっきからウゼェ! 顔もウゼェし独り言ウゼェ! 寝るなら寝ろ!」

「さすがにヒドイよ!?」

 岩泉から枕を投げつけられたのだと後追いで気づいて抗議しつつ、ハァ、とため息を吐く。周りをみれば、松川はすでに寝ているし、花巻はイヤホンで音楽を聴きながら何やら身体を揺らしている。

 ほんとこいつら自由だよな、と人に言えた義理ではないことを浮かべながら及川はそっと布団に横になった。目を閉じれば急に聴覚が冴えて、うっすら花巻の聴いている曲が漏れて及川の耳にも届いた。──この曲、そうだ以前にユカとゲームセンターに行った時に踊った曲だ。

 どんな歌詞だっけ。洋楽だから、意味なんて完全には把握してない。確か、この世にはふた通りの人間しかいないとかなんとか。と考えているうちに本格的に眠気が襲ってきて、及川はそのまま瞳を閉じた。



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22話:及川徹と出会ったこと

 ──ウソ!? ベニーランド行ったことないなんヤバいよ! 今度一緒に行こ!

 

 お風呂からあがってメールを開いたら、及川からそんなメールが届いていた。

 ベニーランド、とは仙台では知れた遊園地で、ユカにとっては偶に足を運ぶ動物園の隣にあるテーマパークという認識だった。が、そんなに驚かれるほどみんな行っているのだろうか。という疑問と、あんな学校そばのメジャースポットに及川と出かけるのは考えただけでちょっと面倒かな、とその事自体は及川のせいではないため本人には多少申し訳なく思いつつ及川のメールにあまり深い意味があるとも思えず。そもそもお互いに部活で「今度」を見つけるのは難しいだろうという旨の返事を返して携帯を閉じた。

 ともかく、来年は受験が控えているし自分は自分の事に集中しようと思う。取り敢えずお盆までの2週間の集中講座に今は集中して、と考えつつユカはふと上京した日に受信した一通のメールの事を思い浮かべた。

 意外な差出人からのメール。──差出人の名は鳳長太郎。春に上野の美術館で出会った、いまは氷帝学園高等部に通う一年生だ。彼も絵が好きで、自分の絵を好きだと言ってくれた事、仙台に越していなければユカ自身が通う予定であった氷帝学園の生徒という事など意気投合して連絡先を交換し、たまにメールをする仲になっていた。それに──とユカは少し頬を染めた。初めて鳳の声を聞いた瞬間、及川だと勘違いをしてしまった。そのくらい鳳の声と及川の声は瓜二つで、彼と話しているとなんとも奇妙な気がしたものだ。

 その鳳から、氷帝学園を見に来ませんかと連絡があった。もっと言えば、紹介したい人物がいるのだという。鳳の所属するテニス部の一つ先輩で二年にして部長兼生徒会長でもあるというその人物も絵画に一家言を持っているらしく、鳳が自分の事を話したら興味を持ってくれたらしい。

 8月上旬は鳳はインターハイで忙しいらしいが、インターハイが終われば部活自体が自由参加になるということで、部活も含め学校見学を兼ねてどうかとの誘いにユカは二つ返事をした。今さら通わなかった学園を知ってもどうにもならないが、やはり興味はあるしきっと自分にとってプラスになることだと感じたからだ。

 それに、いずれにせよ部活風景はいいスケッチ練習になるだろうし、楽しみだな──と、そのまま忙しい日々を過ごしてお盆開け。ユカは鳳との待ち合わせ場所である氷帝学園高等部の正門前に向かった。

 すると、校門のところにジャージ姿の見知った影があって「あ」とユカが声を上げる前に相手の方が気づいたのかこちらに向かって手を振ってきた。

「栗原さーん!」

「鳳くん……」

 そうして気持ち足早になったユカの方へ駆けてきてくれた人物──鳳はそばに来るやいなや笑顔で挨拶をしてくれた。

「お久しぶりです。お暑いところをわざわざ来ていただいてありがとうございます」

「ううん、こちらこそ。お招きありがとう」

 ──相も変わらず、声だけは及川とそっくりだ。と、内心驚きつつ、背格好さえも及川に似た鳳を見上げ、ユカは鳳の背後の校門へも目配せした。

「だけど、部外者の私が入っちゃって大丈夫なの?」

「平気ですよ。跡部さんに……、あ、うちの部長兼生徒会長なんですけど、ちゃんと話を通しましたから」

「そ、そっか……。えっと、鳳くんはこれから部活、なんだよね?」

「はい。自主練なので、軽めにやる予定です。跡部さん、あとで少し顔を出すと言っていたのでその時に紹介しますね」

「うん。にしても、氷帝テニス部って強いんだね。インターハイに出たんでしょう?」

「はい。全国制覇には届きませんでしたが……、俺が言うのもなんですけど、ウチのテニス部は強いですよ。インターハイで三年生が引退されて、今後はますます俺たちで盛り立てていかないと、と気持ちを新たにしたところです」

「頑張ってるんだね」

 そんな話をしつつ、学園に足を踏み入れる。さすがに首都の私立校。大きな校庭には緑がたくさん植えられており、中庭の奥にはまるでシンボルのような噴水が爽やかに景色を彩ってた。目に映る西洋風の豪奢な建物の一つ一つをカフェやシアターだと説明する鳳の声を聞きながら、ユカは感嘆の声を漏らすとともに青葉城西との明らかな環境の違いを一瞬にして感じ取ってしまった。

 むろん青葉城西だって標準以上に設備投資された私立であるし、気に入ってはいるが。と巡らせていると、スタンドが見えてきた。鳳曰く、テニスコートだという。

「ス、スタンド付き……」

 思わず目を見張ってしまう。今日はお盆明けで家族旅行などに出ている部員も多いらしく、自主練という事を抜きにしても部員が少ないようで、好きな席で自由に見ていてくれという鳳の言葉に従ってユカはスタンドにあがった。

 眼下には三面のハードコートが広がっており、そのうち二面を使って部員がラリーをしている。

 コート側に入った鳳は練習している部員たちに声をかけてからボール籠を引いて空いているコートに入った。そうしてサーブ練習を始めた鳳を見て、ユカはあまりに予想外の威力に瞠目した。

 テニス部の練習は北川第一でも青葉城西でも定期的に見ている。それゆえ、彼の選手としてのレベルの高さがそのサーブだけで理解できてしまったのだ。──さすが全国区の部活だな、と思いつつふと脳裏に及川の姿が浮かんでくる。だってそうだろう。及川とそっくりな声で及川に似た背格好の人物が強烈なサーブを打っているのだ。

 今日も及川は一人でサーブ練習に励んでいるのだろうか。と浮かんだのはきっと自明の理だと思う。

 

 ──及川徹という人間に最初に抱いた感情は間違いなくプラスのものだった。と少しだけ遠い昔の、まだ及川の名前も知らなかった頃の記憶をユカは蘇らせた。

 

 彼の人となりなど全く知らない頃から、誰よりも熱心にバレーに打ち込んでいた事は知っていた。だから今も、それがあるから。それがあるから……と深く考え込みそうになったところでハッとする。

 もしも、の話があったとして。もしも、父の転勤がなければ。あるいは東京に残る事を選んでいれば。自分はごく自然にこの場に馴染んでいたかもしれない。けれどもそうすれば──自分はきっとあの「仙台の冬」は描けなかった、とあの日に及川と共に見た雪空の光景が勝手に蘇ってきてハッとユカは首をふるった。

 少し絵を描いて落ち着こう。と、持参したスケッチブックを広げて筆を走らせる。そうして黙々と描いていればいつものペースが戻ってきて、気持ちのいい打撃音を聞いているのにもすっかり慣れた頃。

「部長!」

「ちわーっす!」

 コートから声があがってユカはパッと顔をあげた。見ると、コートサイドに制服姿の少年が立っていて、鳳が頭を下げながら近づいていくのが見えた。

 そうして言葉を交わした2人が揃ってスタンドを見上げてきて目が合い──、え、と一瞬ユカはおののく。

 そうこうしているうちに2人がスタンド側に歩いてきて鳳が軽く手招きしたものだからユカも戸惑いつつ側まで降りていった。すると鳳がニコッと笑ってこう言った。

「紹介しますね、こちらテニス部部長で氷帝学園生徒会長の跡部景吾さんです」

 ユカとしては反射的に自分も自己紹介するしかない。

「は、はじめまして。栗原です」

「跡部さん、こちらが先日お話しした栗原ユカさんです」

「ああ。俺様の氷帝学園に入り損ねたってのはお前か、あーん?」

 すれば制服姿の少年──跡部に尊大な物言いで言われて、ぴく、とユカの頬がしなった。

「あ、跡部さん!」

「ま、この俺様がわざわざ来てやったんだ。コートで立ち話でもねえだろ。カフェテリアに移動するぞ。鳳、お前はさっさと着替えてこい」

「あ、はい。分かりました。では……少し失礼しますね」

 目の前で繰り広げられる光景にユカはあっけに取られて少々対応に遅れつつも言われるままにコートから移動せざるを得ない。そのまま流れに任せて跡部についていき、先ほど鳳にも教えてもらったカフェが入っているという建物に移動した。

「わー……!」

 そうして足を踏み入れれば、まるでヨーロッパのクラシックカフェにでも迷い込んだような空間が広がっておりユカは素直に感嘆の息を吐いた。これが校内とはとても信じられない。

「二階が喫茶スペースになってる。俺様の高等部進級に際して作らせた憩いの場だ」

「え、作らせ……?」

「食とティータイムは日常生活を営むうえでの基本だからな」

 ──そういう問題ではない。とユカはとても追いつかない疑問を脳内でのみ訴え、二階にあがってとりあえず席についた。無難にコーヒーを頼んだユカとは違い、跡部は紅茶にスコーンという典型的なクリームティーを頼んでおり、どことなくイギリス好きなのかな、と感じて微笑む。

「紅茶党なんだね」

「コーヒーが嫌いなわけじゃねえ」

「クリームティー……、イギリスだと定番なんだよね。うちも父がクリームティーには目がなくて、メニューにあったら必ず頼んでるの」

「ああ、お前の父親はイギリスで博士号をとったんだったな」

「──え!?」

 なぜそれを知っているのか。という驚きで目を見開いたユカに対し、跡部は何を驚いていると言いたげに少し目を見開いた。

 聞けば、跡部はあまり詳しく自身のことは話さなかったものの自身もイギリス出身であるという納得の答えをくれ、それをきっかけとして氷帝の留学関係の強みなどについて熱心に話を聞いていると制服に着替えた鳳が「お待たせしました」とやってきて改めて3人でテーブルを囲んだ。

「栗原さんは、休みの間は東京で絵や語学の勉強をされているんですよね」

「うん。今年は絵というより受験対策をしてたの。来年、受験生になるから」

「美大を受験されるんですか?」

「ううん。芸大が第一志望。もし中等部から氷帝に通ってたら、高校からパリに行ってエコール・デ・ボザールを受けたかったんだけど……」

 言えば、なんだ、と跡部がユカの方へと視線を流した。

「高校からパリに行く予定だったってんなら、現状はずいぶん遅れてんじゃねえの、あーん?」

 そのものズバリを言われてユカは苦笑いを漏らした。

 小学校中学年の時、父のメインラボを仙台に移すことが決まった。単身赴任あるいはユカの中学受験を睨んでユカだけ東京に残す等々両親も悩んだようだったが、結局家族で仙台に越すことが決まった。

 ユカ自身も悩んだが、どの道、あの当時のユカには全部を自己判断で決めるのは不可能だった。ただ、東京を離れることで受ける不利益は分かっていたつもりだ。最終的に自分の志望通りの道に行けるよう将来の予定を練り直して、追いつくための努力は惜しんでいない自負もある。

 というような事を説明すれば、ふ、と跡部が不敵な笑みをもらした。

「で、芸大に受かってどうするつもりだ?」

「内部選抜で残ってパリ・ボザールに留学したいなって思ってるの。そしてそのまま……、実力でパリに残りたい」

「ほう、言うじゃねえの。そこまで言うってんならフランス語は喋れんだろうな?」

「ま、まだまだ……だけど。ある程度は」

「フ、ウチに来てりゃフランス語のカリキュラムも留学制度も整ってた。余計な回り道で人生無駄にしねえようにせいぜい精進するんだな」

 初対面の人間にこの言い様。たぶんこの人、元から素でこんな人なんだろうな、とユカが頬を引きつらせていると鳳が焦ったように割って入った。

「い、いくら何でもご家族の転勤なら仕方ないじゃないですか! 小学生だったのならなおさらです。それに……俺は栗原さんさんの”仙台の冬”にとても感銘を受けました。あれって氷帝に来てたら描けなかった絵ですよね?」

 ね、と鳳がフォローついでに言うものだからドキッとユカの胸が脈打った。やっぱり、あまりに彼の声は及川に似ている。

「跡部さんもあの絵をご覧になったって言ってたじゃないですか」

「ま、確かに賞賛に値する絵だったが。それはただの結果論じゃねえか」

 言い合う二人を見つつ、ユカは思う。もしも自分や両親の選択が違っていたら。自分は氷帝学園の生徒として、いまこの場にいたかもしれない。そうなれば彼らとは同級生や先輩後輩という関係だったのだろう。

 けれども。──たとえ結果論でも、氷帝に通っていれば「仙台の冬」を描くことはなかった。あれは今までで一番大きな賞をとった最高傑作でもある。得意としている風景画だが、あのキャンバスの外側には及川がいたのだ……とユカの脳裏にはあの冬の日の光景が蘇った。

 最初に抱いたプラスの感情とは裏腹に、きっと及川とはお互いに傷つけあってしまう間柄なのだと少しだけ失望した。でもきっとそれ以上に相性も良かったと思い直して──。描き損ねいていた「冬」の絵を埋めたと同時に、初めて仙台に来た意味を見つけたような、そんな気がしたのだ。

 もしも仙台に越していなければ、及川と会うこともなかったのだな。なんて過ぎらせてしまって少しだけ目を見開く。考えても詮無いことだ。いずれ自分が進む道は一つ。いまはそこへ行くための通過点でしかない。と思い直していたところでふと携帯の震える音が響いた。

 ユカのものではなく、ハッと顔をあげると跡部が制服のポケットから携帯電話を取り出して耳にあてるのが映った。

「はい。ええ、もう着てますよ。……わかりました。いまから向かいます」

 誰かからの呼び出しだろうか? と何となく思っていると、跡部が携帯を切って立ち上がった。

「俺様はこれから学長とミーティングだ。もう行くぞ」

「あ、はい。お疲れ様です」

「おいお前。お前のセンスは悪かねえ。これからもせいぜい精進しな」

「え……? あ、ありがと」

 去り際まで上から目線というよりはひたすら尊大な物言いで去っていった跡部に半ば唖然としていると、隣で鳳が苦笑いを漏らす気配が伝った。

「すみません、うちの部長……ちょっと独特で」

「う、ううん」

「でも本当に凄い人なんですよ、跡部さんは。テニスも学問も素晴らしくて、俺、尊敬してるんです!」

 鳳は、フォローではなく、本当に心からそう思っているような物言いで、素直な子だな、とユカは素直に感心した。及川と同じ声でこんな素直なセリフが聞けるなんて、と少し気を抜けばやっぱり及川の顔が浮かんできて内心焦っているとなお鳳は続けた。

「栗原さんの絵も跡部さんはけっこう見てるみたいで、今日だって跡部さんはあなたに会うのを楽しみにしてたみたいなんですけど……」

 そうして今度こそフォローするように言われてユカは少し肩を竦める。

「仙台の冬、褒めてくれてたもんね」

「あの絵、本当に素晴らしかったです! 栗原さんなら芸大も現役でぜったいに受かると思います。俺、応援してます!」

「ありがとう」

「それに……、俺もちょっと受験を考えてるんです」

 そうして鳳は思ってもみなかった言葉を続けて、ユカはさすがに瞠目した。

 鳳も絵を学ぶつもりなのか……と、鳳の腕は知らないながらに思っていると、学部は同じであるが鳳は建築に興味があるらしく。

 もしもお互いに受かれば今度こそ先輩後輩ですね。などと話す鳳との雑談もそこそにユカは今日の礼を言うと帰路についた。

 その夜、ユカはお盆明けに東京での用事のために祖父母の家に留まっていた父に今日の出来事を話した。

「そうか……。ちょうど父さんの転勤が決まった頃、イギリスの跡部財閥がご子息の帰国のために都内の中学に投資しようとしているって話を小耳に挟んだ事があったんだよ。イギリスではあそこの子息はパブリックスクールに行くだろうって見てたから情報としては確実ではなかったんだけど……結局、その通りだったということだね」

「跡部財閥……」

「うん、日本にも多方面に投資してる世界規模のグループだね。氷帝学園は国際関係に力を入れようとしていたし、きっと利害が一致したんだろうね。ユカは……それで氷帝に行っていれば良かったと思ったのかな?」

「ううん。行ってれば……プラスにはなったと思うけど……」

「父さんは、ユカを仙台に連れて行くって決めた時から後々不利にならないよう勉強も語学も少し厳しめにさせてきたつもりだから、東京に残っていれば得られなかったこともあると思うよ」

「うん……。ただ、すっごく氷帝が華やかでびっくりしちゃったの。通ってても馴染めたかな……って」

 ふぅ、と息を吐くと父ははははと軽く笑った。

 けれども今日だって鳳たちとは違和感なく話せたし、きっと慣れだろうと思う。これから先、絵画の世界で生きていくなら今日見たような世界に慣れなくてはならないし、と考えていると「そうだ」と父から声があがった。

「今日あったミーティングで付き合いのある教授に聞かれたんだけど、ユカの中学の同級生にバレー部でセッターをしてた子がいただろう?」

「──え!?」

「その教授が言うには体育専門学群の人が次世代のセッター候補を探してるらしくてね。話のついでに宮城のバレー事情について聞かれたから、ユカの同級生にセッターで有望な選手がいたことをチラッと話したんだよ。北川第一はバレー部がとても強かったようだからね」

 ──及川のことだ。と、悟るも話がかなり漠然としており首をひねっていると父はなお続けた。

「そしたらその教授、宮城だったら白鳥沢ですねって言って、体専に白鳥沢のセッターを注視するように伝えておくなんて言ってたけど……ユカはなにか知ってるかい?」

「う、うーん……。たぶん、そのセッターって及川くんのことだと思う」

「え……?」

「及川徹くんっていう同級生の子なんだけど、中学三年の時にベストセッター賞を取ったの。県内では有名な選手みたいだけど……でも白鳥沢じゃないよ。青城に進学して、今も同じ学校なの」

 少し苦笑いを漏らしながら言うと、そうか、と父は漏らした。もとより雑談ついでだったらしいが、でも。やはり宮城で優秀な選手というのは、イコール白鳥沢の選手になるのだな。と否が応でも感じた。

 そうして改めて思う。及川はなぜ白鳥沢に行かなかったのだろう? と。牛島を倒すため、などとは言っていたが。

 それこそ自分と氷帝学園のケースと違い、及川は本人がその気なら白鳥沢には行けたのでは。と感じるもそれ以上考えても意味のないことで、ユカは父との話もそこそこに切り上げて自分の勉強に入った。夏の課題は父に聞くまでもなく自力でなんとかなりそうな内容だ。

 及川はもう済ませてしまっただろうか。とそんなことを浮かべた。なんだか随分と長い間会っていないような気がする。

 彼は今日から遠征で、それが済めばあとは夏休みが終わるまで軽めの練習で楽になる、というメールが今朝きたばかりだというのに。

 でも。いくら練習が楽でも、及川は結局体育館に残ってきっとずっと練習するのだからちっとも楽などできないのに。と、いつものように一人体育館でサーブ練習に明け暮れる及川を浮かべて、ふふ、とユカは口元を緩めた。



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23話:及川徹と天才の影

 青葉城西男子バレー部は、お盆明けの県外遠征を済ませたあとは近隣高校との練習試合をメインに練習メニューを組んでいた。

 場所は青葉城西だったり相手校だったりまちまちだが、この日は青葉城西側が相手校に赴いての練習試合となっていた。

 お互い、レギュラーチーム、サブチームを出しあってそれぞれ入れ替わり戦で試合をするという半日がかりのスケジュールになったのはそこそこ付き合いのある学校同士だからである。

 それでも青葉城西は県ベスト4の強豪であり、 サブチームでセッターを務める及川は二試合どちらとも快勝で終えて上機嫌で笑みを漏らしていた。

 その隣にはまんざらでもなさげの岩泉と、相手校のユニフォームを着た選手がいる。

「及川のサーブ、コントロールもえげつなくなってんな。お前、どんだけ練習してんだ」

「それは今は企業秘密だね」

「ハジメもますますパワーバカになってるしな」

「バカは余計だバカは」

 その相手校の選手は及川や岩泉にとっては北川第一時代のチームメイトでもあった。

 進んだ高校のバレー部のレベルはそう高くもなく、強豪の北川第一でレギュラーをはっていた彼は及川たちとは違い一年の頃からスタメンで、こうしてお互いコートを挟んで試合をするというのは今日が初めての事だった。が、勝ったのは及川たちに青葉城西サブチームであり、彼は悔しさを滲ませるもお互いに気心の知れた仲だ。

 そんな軽口を叩き合って、そういえば、と彼は話題を切り替えた。

「昨日だったか、白鳥沢と練習試合したってダチから聞いたんだけどさ……試合のとき、ウシワカのやつ不在だったらしいのよ」

「──は?」

「なのに負けたーって愚痴だったんどさ、ウシワカ不在の理由がまた……なんだと思う?」

「知るか」

 白鳥沢及び牛島は及川にとっても岩泉にとっても、そもそもが北川第一にとっての宿敵でもある。牛島の名前が出た途端に及川の表情がわかりやすく歪み、岩泉でさえ眉を寄せた。が、元チームメイトならその反応すら慣れたものだろう。

「あの野郎さ……、全日本ジュニアの選抜合宿に呼ばれてんだとよ」

 しかしながら続けられた言葉は予想をはるかに上回る破壊力で、及川は文字通り目を見開いて硬直した。おそらくは隣の岩泉も似たような反応だっただろうが、感じ取っている余裕などあるわけもない。

「……なに……ウシワカ野郎が全日本ジュニア入りってニュースなわけ?」

「さあな。俺も又聞きだけどさ、白鳥沢のメンバーが言うには全日本ジュニアの監督だかコーチだかがウシワカに声かけてる大学の監督で、その縁もあって呼ばれたーみたいな話だったぞ」

 スポーツドリンク片手に語る彼は、もう既に打倒・ウシワカの第一線から引いてしまったつもりなのかもしれない。が、現役の及川にとっては心情を掻き乱すのに十分で、対抗心なのか焦燥なのか嫉妬心なのかよく分からないぐちゃぐちゃな感情が湧き上がってきた。

「ハッ、やっぱ違うよね、全国常連の大エース様ってのはさ」

 自分とあまりに違いすぎる。とはっきり口にするのはさすがに惨めすぎて、及川はただ悪態だけを声に乗せた。

「ぜったい、あいつ凹ましてやる!」

 その後、ほどなくして集合をかけられ青葉城西は専用バスに乗り込んでの帰路となったが車内の空気は重い。基本、口数の多い及川が黙り込んでいるせいだ。それは及川自身も自覚していたが、とうてい口を開く気分になどなれずにひたすら窓の外の流れる風景を腕で顎を支えつつ見ていた。

 モヤモヤするなという方が無理だろう。牛島はいつもいつも自分のはるか先を歩いていく。それはきっとバレー選手として約束された未来だ。自分には決して手に入れられないもの。と考えてしまうのがいやで、ひたすら考えないように眉間にシワを刻んで思考をそらした。

『お前はいいセッターだ。能力も十分にある。だというのに、なぜ──』

 ──うるさい。黙れ牛島。振り切ろうとしても入り込んでくる思考とひたすら戦う自分を岩泉が隣で不審げに見つめていたが、とても気づけない。

 やっぱり天才は嫌いだと思う。勝手に先へ進んで、勝手に追いついて、そして追い越していく。牛島に追いつけないどころか、きっと自分はいつか──と、脳裏に後輩の影が過った。

 いっそあいつずっと孤独な王様でいればいい。そしてそのまま、あの才能を発揮することなく消えてしまえばいいのだ。なんて、ついには影山に八つ当たりすることで思考をそらそうとするなんて。ほんと自分が一番厄介で、一番いやだ。と、及川は固く瞳を閉じた。

 ああいやだ。ほんと厄介。──はやく東京なんかから帰ってきてよ。と閉じた瞼の裏にユカの姿が過った。

 ──勝手に遠くに行かないでよ。そう唇を噛みながら過ぎらせた先に見えた姿が誰だったのか。及川は自分ですら気づけないように強くかぶりを振った。

 

 

『及川さん。及川さん』

 

 見知った声が前方から聞こえた気がして、及川は思わず眉を吊り上げた。

 ──飛雄、お前なに俺の前なんか歩いちゃってんの?

 視界にぼんやり映った影山の背を追おうとした先に、ぼうっと大きな影が過った。

 

『及川、なにをしている。その調子じゃいつまで経っても追いつけないぞ』

 

 ──牛島! 誰がお前のあとを追うなんて言ったよ。勝手に先行けよ。

 ──岩ちゃん! ねえ聞いてよ飛雄とウシワカがさ……!

 

 なぜか後ろに岩泉がいると確信していた及川は勢いよく後ろを振り返った。すればやはり彼はそこに居てホッと息を吐いたのも束の間。読めない表情で踵を返して歩いて行こうとして、及川は焦ってあとを追おうとする。

 ──待って岩ちゃん、どこ行くの!? 飛雄たちが……!

 そうして岩泉を追う及川の背中に、また声が届いた。

 

『及川くん……!』

 

 ピクッと及川の背がしなり、そのまま振り返る。

 ──ユカちゃん! ユカちゃん、なんでそっちにいるの? こっちにおいでよ、ねえってば。

 呼びかけは虚しく、うっすら見えたユカの影も牛島や影山の影も遠ざかって、及川は逆方向へと消えていく岩泉を焦って呼び止めた。

 ──岩ちゃん、どこ行くの!? 待ってよ、待ってってば!

 そして岩泉を追おうにも、追えばユカ達から遠ざかることが分かって及川は足を止めた。岩泉に背を向けて前へ進むべきか。それとも岩泉を追えばいいのか。

 

『及川さん』

『及川くん』

『及川』

 

 動けない脳裏に影山たちの声がリフレインする。けれども前へ進めば、岩泉を見失ってしまうだろう。けれども。確実に消えていく影山たちの気配をリアルに感じて及川は動けないままに声をあげた。

 ──待てよ、牛島! 待てって……ねえユカちゃん、ねえってば。牛島! ユカちゃん……ッ、飛雄!

 

「飛雄……ッ!」

 

 そうしてカッと目を見開いた先に映ったのは見慣れた天井で、ムクッと布団から起き上がった及川は、あれ? と首をかしげた。

「……なんか夢見てた気がするんだけど……」

 忘れた。と、10秒ほど思い出そうしてみたが無理だと結論づけて一つ伸びをした。一つ分かっていることは、あまりいい夢ではなかっただろうということだ。

 きっと胸くそ悪い悪夢だったに違いない。それもこれも──。

「ま、だいたいウシワカ野郎のせいだけどな」

 起き抜けに悪態を吐いて、及川は起き上がった。昨日、練習試合で他校に赴いた際に元チームメイトから牛島が全日本ジュニアの選抜選考会に参加しているらしいと聞かされて逆上したせいだろう。本当に牛島若利という存在は、ただ存在しているだけでこちらの気分を最大限に害することができるのだから大したものだと思う。

 が、朝っぱらから牛島の顔を浮かべるなんてぞっとしない。とふるふると首を振るって思考を切り替え、及川は洗面所に行って顔を洗った。

 ふぅ、と息を吐きつつ顔をぬぐって鏡を覗けば相も変わらず整った顔の男がいて、今日も俺イケメンだなと思うことすら慣れたもので、朝食を済ませたら軽くロードワークに行こうと今日こなすスケジュールを脳裏で参照した。

 夏合宿・遠征・練習試合等々、夏休み中の特別スケジュールが終わって今日からは通常練習のみに戻る。主に練習は午後からで、自室に戻った及川は机に上に置いていた携帯を手にとってカレンダーを表示させた。

 週中にはユカが帰ってくる。──とやや浮かれ気味だったのもつかの間。

 

 ──明日って岩泉くんも来るのかな?

 

 ユカが仙台に戻ってきた翌日の午前中に会う約束を取り付け、どの課題が終わってないのか等々を話しつつ、明日美術室でね、と話を締めようとしたあとの就寝前。

 ユカからそんなメッセージが届いて及川はピシッと固まった。

「なんで岩ちゃん!?」

 脳裏に、及川さんと二人っきりがイヤってこと!? とか、岩ちゃん来ないとダメな理由ってナニ!? 等のセンテンスが疾風のごとく駆け抜けていったが、高速で返信を打ちそうになった手を及川は止めた。

 たぶん、どうせユカに他意などない。せいぜい、勉強は岩泉も含めた3人でやることが多かったために純粋に疑問に思っているだけだろう。

 ユカはどうせ、こちらが思ってるほどホントは自分に興味なんて……とうっかり悟りそうになったところで及川はハッとして首を振るった。

「ナイナイ! きっとこれ照れ隠しだし! ぜんぜん気にしてないし別に!!」

 ああ、もう。本当に面倒くさい。──自分が。と、脳裏で突っ込みを入れて携帯をポスッと枕元に投げた。

 ユカは自分からの返信がないことすら気にも留めないだろう。なんて考えれば虚しくなりそうで思考を止めて布団に入り、電気を落として瞳を閉じた。



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24話:及川徹の自覚

 8月24日。水曜日。

 仙台のおおよその学校は明日から新学期開始であり、今日は生徒にとっては悲惨な日でもある。が、青葉城西は全国標準の年間スケジュールを採用しており夏休みは8月末まで続く。その分、他の休みが短いことになるわけだが、及川にとっては単純に得した気分を味わえて嬉しい悲鳴だった。

 と、ユカと約束している朝9時に間に合うように家を出た。ジャージ姿なのは午後から部活が入っているためである。

 美術部は夏の活動はしていないようで、それならば美術室で会おうということになっている。とはいえ「宿題を一緒にやろう」は口実のようなもので、実際はもうほぼ全て終わっているのだが……と考えつつ夏休みと言えど毎日のようにくぐっている正門をくぐって校舎にあがり、特別教室棟を目指した。

 

 トントン、と美術室のドアがノックされる。

 

 及川との待ち合わせ時間である9時前に美術室に来ていたユカは、ノック音にパッと顔を上げた。

 と同時に約一ヶ月ぶりに会う及川が開いたドアから顔を出して、反射的に座っていた椅子から立ち上がった。

「や。ユカちゃん、久しぶり」

「うん。久しぶり」

「はやいねー。そんなに俺に早く会いたかった?」

 ニ、と笑われピースサインを貰って、ユカは相変わらずな様子に苦笑いを浮かべて「そうだ」と切り出す。

「昨日もメールしたけど……、岩泉くんも来るの?」

 すると、ピク、と及川の頬が撓った。ように見えた。が、彼は笑みは崩さず言った。

「なんで? 岩ちゃんに来て欲しいの?」

「来て欲しいっていうか……、岩泉くんはもう終わったのかなって思って」

「さあ、どうだろうね。けど、俺たちけっこう合宿の空き時間とかみんなで課題やったりしてたし、終わってんじゃない?」

「え、そうなの? じゃあ及川くんも終わってるの……?」

 昨日のメールでは及川は理数系に少し不安なところがあると言っていたのに。と純粋に疑問で言ってみれば、う、と及川は言葉を詰めて少しだけ唇を尖らせた。

「お、俺は……岩ちゃんと違って完璧に仕上げようと思ってね。分かんないトコとかいくつかあったし」

 言いながら背負っていたバッグを下ろす及川を見て、そっか、とユカも頷いた。

 以前、及川に「セッターには空間認識能力が必要」とハッパをかけたのが実になったのかどうかは定かではなかったが、及川は単純にバレーの糧になるならとそれまで嫌悪していたらしき理数系を得意分野に変えていた。

 むろん、一朝一夕で結果が出るものではないが、あれから一年は経っているし徐々に結果は出ている。と、ユカは付箋の付けられたページを捲って及川のやり残している問題を見ながら感じた。

 この調子なら来年の三年のクラス編成で彼は国立・私立いずれにしても理系を選ぶのでは。と考えてハッとする。

 及川はいったいどこを受験するのだろう、とハタと気づいてうっかり及川の方を見やってしまい、めざとく気づいたらしき及川が懸命に走らせていたペンを止めて顔をあげた。

「なに?」

「え……!? あ、別に……」

「ナニー? 久々の及川さんに見とれちゃったー?」

 ケラケラと心底楽しそうに笑って軽口を叩く及川の手元の化学式が間違っていて、取りあえず違うことを指摘すると「話題の逸らし方が辛辣!」とショックを受けたような顔のあとにまたしっかり勉強に戻ってユカはしばらくその様子を見つめていた。

 及川は午後から部活だというし、今日で終わらなければ明日、明後日も……と考えていたが、この調子だと午前中に終わるかもしれない。

 などと考えつつ2時間近く経ち、キリの良いところまで終えたらしき及川はペンを置いて伸びをすると「ちょっと休憩」と宣言した。

「喉乾いちゃったねー」

「あ、コーヒーならあるよ」

 ユカは鞄から持参していたダンプラーを二つ取りだして一つを及川に差し出した。

「ありがと。マイダンプラーとかさすがユカちゃん! 相変わらずコーヒー好きだね」

「及川くん、カフェオレの方がいいかなと思って及川くんのはミルク入りで少しお砂糖も入ってるんだけど……大丈夫だった?」

「うん、ばっちり。ありがと」

 満面の笑みを零す及川を見てユカも、ふ、と笑うとそれぞれコーヒーに口を付ける。勉強から離れれば話題は夏休みの事で、相も変わらずバレーばかりしていたという及川はユカに何をしていたかを訊いてきて、ユカも「んー」と天井を仰いだ。

「私も、絵ばかり描いてたんだけど……」

「ディズニーランドとか行ったりしなかったの?」

「んー……行ってないなー。変わったことなんて特に……、あ」

 前のめりで聞いてくる様子によほどディズニーが気になるのかと肩を竦めつつ、特に何もなかった夏休みを振り返ってユカはハッとした。

 そういえば、と氷帝学園での珍体験を思い出したのだ。

「あのね、東京に氷帝学園って私立高校があるんだけど……そこにちょっと行ってみたの」

「ヒョウテイ……」

「氷に帝国の帝って書くんだけど」

「ゲッ、すごい名前だね……氷の帝国とか……。でもなんで? 試合、とかはないよね……美術部だし……」

「前に話したと思うけど……ほら、及川くんの声にそっくりな男の子と会ったって。その子が氷帝学園に通ってて、一度来てみないかって誘われたの」

 言えば、及川の目が点になって数秒後、顔を顰められた。

「及川くん……?」

「あー、うん。覚えてる覚えてる。確か県民大会の最中に来たメールだ、うん」

「え……」

「なに、ユカちゃん。その俺の声にそっくりの男とやらと連絡取ってんの?」

「え……あ、うん、その……。上野の美術館で会って、私の絵を好きだって言ってくれてそれで」

「俺、ファンの女の子と連絡先とか交換しないけど?」

 え──とユカは目を見張った。眼前の及川はなぜかムッとした表情をしているが、言い分自体は及川らしいと何故かしっくり来た。

 基本的に及川は見た目よりずっと真面目だし、そもそもが練習の虫なのだし。と過ぎらせたところでハッと頭を本題に戻して首を振るう。

「ファンだからじゃなくて、その……。私ね、本当は氷帝学園に通うつもりだったの。それで、色々偶然が重なって意気投合したっていうか……」

 そもそもなぜその人物──鳳と親睦を深めた事に対して及川に弁解しなければならないのか少々理不尽さを覚えたユカだったが、ピク、とその言葉に及川の頬がなお撓った。

「氷帝学園って……東京の学校じゃん。通うつもりだったって、そんなの無理って分かるよね」

「え……あ、でも──」

「東京の男と仲良くなれたことがそんなに嬉しかった? 楽しかったの?」

 元々自分は東京生まれだし。と続けようとしたら、遮るようにそんな事を言われてユカは目を見張る。

 当の及川は眉をひそめて少しだけ視線を逸らしていた。

「俺は毎日バレーばっかだったのに……」

 ボソ、と吐き出すように言われてユカとしても困惑した。が、理不尽なことは変わらず、いったん息を吐いてから言い返してみる。

「氷帝学園にはホントに通う予定だったんだよ。ずいぶん進学するか迷ってたの……」

「だから、氷帝って学校は東京でしょ!? ここ仙台だよ? なに、ユカちゃんそんなに東京好きなの!?」

「そ……そりゃ好きだよ! 東京は私の生まれ故郷だもん!」

「──え!?」

 そこまで言えば及川は文字通り鳩が豆鉄砲を喰らったように目を見開いてぽかんとした表情を晒し、「え?」とユカも少し取り乱した。

「あ、あれ……言ってなかったっけ……?」

「聞いてない! なにユカちゃん東京の子だったの!?」

「東京の子、って言うか……仙台には小学校中学年の時に越してきたの。それまで生まれも育ちも東京だよ」

「それ100%東京の子だよね!?」

 そうして及川は、ハァ、と大きくため息をついて項垂れた。

「なんだ、都会っ子だったからベニーランド行ったことないんだ……。そりゃディズニーランド行き放題だもんね……」

 そうしてそんなことを言うものだから、ベニーランドはいま関係ないのでは、などと突っ込むことすら忘れて目を瞬かせるしか術はない。

「お、及川くん……」

「そっか……ユカちゃんにとって東京に行くことは楽しい楽しい里帰りだったんだね……」

「里帰りもあるけど、基本的には勉強だよ。来年は受験だし、どっちみち東京に戻ることになるし」

「え!?」

 すれば及川は心底驚いたようにこちらに顔を向けて「え」とユカも驚いて瞠目した。

「ユカちゃん、東京の大学受験するの?」

「うん。……及川くんは? 違うの……?」

 東京じゃなくとも関西でもその他でも、宮城から出る生徒も多いだろうと含ませると及川は急に意気消沈して唸った。

「……話をするのも腹立つんだけどさ……」

「え……?」

「ウシワカの野郎が全日本ジュニアの選抜合宿に呼ばれたって噂聞いたんだよね」

 ウシワカ、とは白鳥沢学園の牛島若利のことで及川が目下ライバル視しているバレー選手である。が、いまこの瞬間に牛島の話は関係あるのだろうか? と思いつつもユカは告げられた内容を素直に賞賛した。

「全日本……! やっぱり凄いんだね、牛島くんって」

「それはムカツクけど知ってるけど! その全日本ジュニアの現監督が東京の深沢にある体育大学の監督でさー……牛島に声かけてるって話で、さ」

「あ……そうなんだ。じゃあ牛島くんってバレー推薦で大学行くってことなのかな?」

「たぶんね。ま、そーだよね。アイツはアレでも全国屈指のアタッカーだしさ」

 ケッ、と吐き捨てるように及川が言って、ユカは何気なく及川を見上げた。

「そっか。その深沢の大学って強いの?」

「強いよ、深体大は。いっつも大学一位二位争いにいるしOBは全日本メンバーなんてざらだし、バレーだけじゃなく他の競技もオリンピックメダリストごろごろだしね」

「そうなんだ。じゃあ及川くんも受けたら今度こそ牛島くんと同じチームだね……!」

「じゃなくて! だから! なんで、俺が、ウシワカ野郎と同じチームになんなきゃなんないのさ!」

 既視感のあるやりとりを済ませ、ユカは眉を寄せる。いまいち及川が何を言いたいのか分からず黙していると、及川は少しだけ眉を寄せて口調に棘を含ませた。

「やっぱ天才はさ、いいよね。あっさり日本一のチームからお声がかかっちゃってさ。こっちなんてまだスタメン取れないってのにあっちは大学決定済み? ハッ、笑わせるよ、まったく」

 その言葉は自虐だったのか否か。相も変わらず牛島若利という人物はこうも及川の心を掻き乱してしまうのか。

「及川くんの第一志望がどこかは知らないけど……、もしもその大学に牛島くんが進学したら、及川くんは行かないの?」

「──行かないね」

「どうして?」

「ユカちゃんさぁ、北一の時から俺がアイツをぶっ潰したいって言ってるの知ってるよね? 同じチームとか冗談じゃない」

 憎々しげに眉を寄せた及川に「じゃあ」とユカは続ける。

「白鳥沢に、牛島くんに勝ったら……そのあと及川くんはどうするの?」

 すれば、及川はまるで不意打ちを受けたように目を見開いた。

「──え?」

「? だから、白鳥沢に勝ったあと」

 すれば、及川はまるで想定外の質問だと言わんばかりに固まり、ユカはますます首を傾げた。

「白鳥沢に勝ったら、次は全国大会なんだよね? やっぱり全国制覇……?」

 言葉を繋ぐように言えば及川は口元に手を当ててしばし考え込むような仕草をしてから呟いた。

「ウシワカ、ぶっ潰して……そのあと……。ああ、うん、全国だよね。勝って全国に行くんだって……確かにずっと思ってた。でも、そのあと……か」

 一人ごちるように呟いたあと、及川は乾いた声で小さく笑う。

「そっか、うん。そうだよネ。白鳥沢を倒したって、道は続いてるわけだ」

「う、うん。それに、一度勝てたって次も勝てるかは分からないんだし……一度白鳥沢に勝ったとしても、また試合ってするんだよね?」

「そ、そうだけど。でも、その後どうするかなんて……分かんないよ。勝ったことなんて一度もないんだからサ」

 そうして及川は本当にその先のことを考えたことすらなかったのか、少々愕然とした様子で宙を仰いでいた。

 ユカとしては何か不味いことを言ってしまったか気がかりなのと、及川が先を見越して何も考えていないというのは俄に信じられず……けれども口を挟めずに黙してしまう。

 そうしてしばらく無言の時間が続いたあと、及川は思いだしたように口を開いた。

「ユカちゃん、さ……中学の頃に言ってたよね」

「え……?」

「”バレーで世界に出る、とか一度も考えたことないの?”って」

「え……」

「もしかしたら小さい頃に一度くらいはあったかもしれない、いわゆる現実味のない空想の世界ってヤツでね。でも……中学にあがってそんなの所詮は幻想だって気づいてからは虚しい想像なんてしなくなったよ」

 ユカは一瞬思案する。そういえばそのようなことを話したかもしれない。確か記憶が正しければ、英語を学ぶ意味が分からないとぼやいた及川にいずれ世界に出るのならば英語は必要だ等々話した流れだったような気がする。と思い起こしていると及川の眉間が険しさを増した。

「あの時、俺、思ったんだよね。天才ってすぐ突拍子もない事言えてイイヨネってさ。だって現状、ウシワカにすら勝てない俺が世界とかお笑いだからサ。君も、牛島も……飛雄も……! 真っ直ぐ自分に与えられた道を真っ直ぐ走っていけるから、そんなこと簡単に言えるんだって」

 ああ、また……とユカは思う。及川にとって、彼の中で「天才」という枠組みに入る人間は牛島と影山と、そして自分なのだろう。

 そしてそれを感じ取ったとき、自分は及川には嫌われている存在なのだと理解した。けれども、いまは違う。及川とはもう大丈夫。そう確信があったからこそユカはグッと拳を握った。

「及川くん、パブロ・ピカソって知ってる?」

「は……?」

 ピカソ? と突拍子もない発言だっただろう自分の言葉を受けて呟いた及川の瞳を、ユカは真っ直ぐ見上げた。

「私、ピカソみたいな画力が欲しいって思ってるの」

「え……?」

「及川くんは私を天才だって言ってくれるけど……。私の絵はピカソが10代の頃に描いた”ル・ムーラン・ド・ラ・ギャレット”に遠く及ばない。私は……自分を天才だととても思えない。仮にそうでも、ピカソ以下なんだからあんまり嬉しくないよ」

「そ、そういう事じゃなくて! ピカソって俺でも知ってるくらいの有名人じゃん! さすがにユカちゃん図々しいよね!?」

「じゃあ妥協しなきゃダメなの?」

「う……ッ」

 不本意だ、と含ませて言ってみれば及川は言葉に詰まったように唇を噛み、グッと拳を握りしめてテーブルの上に置いた。

「俺は天才なんてだいっきらいなんだよ……!」

「それは前も聞いたけど……、私は嫌いじゃないって言ってくれたのに」

「そッ、そうだけど……!」

 カッと及川はバツの悪そうな顔を浮かべて視線を泳がせ、頭を抱えた。そうして少し頬を膨らませる。

「だいたいユカちゃんがさ、東京の男と遊んだりするから……!」

「え……」

 そこに戻るのか、と目を瞬かせると及川は尚さらバツの悪そうな顔を浮かべた。

「だって、腹立つじゃん! ウシワカ野郎が意気揚々と深体大に行こうとしてんのにユカちゃんまで東京とかさ……!」

「及川くんは行かないの……?」

「行けないじゃん! 仮に受かったってさ、俺なんて現状ウシワカ以下じゃん」

「でも……及川くんってセッターなんだよね? 牛島くんはスパイカーなんだし、仮に同じ大学でもポジションだって被ってないし」

「ウシワカ野郎と同じトコは行かないよ!?」

「でも……じゃあもし及川くんが大学ですごいセッターに成長して、牛島くんももっとすごいスパイカーになって、もしも2人とも全日本とかに選ばれたら……及川くんは牛島くんにトスあげないの?」

「──ッ!」

「中学の時も言ったけど、もし牛島くんと同じチームだったら及川くんももっと強くなれるんじゃないかな。牛島くんだけじゃなくて……もっと強い選手っていっぱいいると思うけど……そういうチームでセッターやりたくないの?」

「そ……そういうチームは元から強いじゃん! バレーは6人で強い方が強いんだから、俺がどんなスパイカーだって最大限能力引き出して、そんなバケモノチームなんか絶対凹ましてやるの」

「だ、だったらやっぱり……もっと強い選手ばっかりのチームでセッターすれば、もっともっと強くなるって事なんじゃ」

「青城だって強いチームだよ!」

「う、うん、でも……。部活引退しちゃったらいまのメンバーとはきっとバラバラになっちゃうし……。及川くんがどこに進みたいかは分からないけど、私だったらたぶん、たぶんきっともっともっと強いチームでセッターしたくなるんじゃないかな、って思っただけ」

「そんな、飛雄じゃあるまいし、俺は──」

「やりたくない?」

「やりたいよ! けど──ッ」

「けど……?」

「──ああ、もう!」

 もどかしい、と言いたげに及川はガタッと立ち上がった。反射的にユカは及川を見上げる。

「及川くん……?」

 及川はどこか言葉を探しているような顔つきで視線を揺らした。開きかけた唇をキュッと結び、また開きかけて結んでから視線を流して、ユカもさすがに気になって立ち上がった。

「ど、どうしたの……?」

 すると、ゴク、と及川が喉を鳴らしてから気まずそうに視線をなお揺らしてユカはますます首を捻る。

 そうして僅かに間を置いて、あのさ、と及川は小さく言った。

「ちょっとだけ……抱きしめてもいい?」

「え──!?」

 言われた言葉はあまりに突拍子がなく、ユカとしては目を見開くしかない。思わず一歩後ずさってしまった。

「え、なんで……」

「だって、そうしたいんだもん!」

「そ、そうしたい、って……」

「外国だと挨拶じゃんそのくらい!」

「こ、ここ日本だよ……!?」

「ユカちゃん世界に出たいって言ってたのに」

「そ、それとこれ、関係ない……!」

「じゃあイヤ……!?」

 キュ、と真っ直ぐ見据えられて、う、とユカは頬が熱を持つのを感じた。──相変わらずなんて綺麗な瞳なんだろう、なんて浮かんでくる頭がいっそ憎らしい。

 たぶん、イヤじゃないな。と悟って、ゴク、と小さく喉が鳴った。声に出していたかは分からない、が、及川は自嘲気味に言った。

「ヤだったらゴメンね」

 そうして、フワッ、と視界が及川の着ていたシャツの青城ブルーで覆われたかと思うとキュッと及川の腕で包まれた感覚が走って、ユカは瞠目するしか術がない。

 背の高い及川に抱きしめられると、すっかりすっぽり胸の中で……Tシャツ越しに及川の鍛えられた肌の感触が伝って、つ、と息を詰めた。

 急に抱きしめたいなんて、どういうつもりだと驚いたというのに。及川の体温はひどく心地よくて、こうされているのが自然の事のようで無意識のうちにユカもキュッと及川のシャツの裾を握りしめた。

 それが及川に伝ったかどうかは分からない。が、及川は小さく笑みを漏らしてから頷いたような気配が伝った。

「あー……うん。やっぱり。なんかしっくりきちゃった」

「え……?」

「俺、やっぱりユカちゃんのこと好きだなーって」

「え──!?」

 そうしてやけにあっさりとさも当然のように言われてユカは硬直した。対する及川は納得したように頷きながらなお笑っている。

 好きって……そういう意味の「好き」なのだろうか? やや混乱する心情とは裏腹に、本当に及川の体温が心地良い。触れられているのがとても自然のことに思えるなんて、としばし及川の含み笑いをぼんやり聞いていると、及川は少し身体を離してんなことを聞いてきた。

 

「ユカちゃんは? 俺のこと好き?」

 

 及川はようやく自分の抱えていた感情の答えが出た気がして、思ったままをユカに聞いた。

 え、とまごつくユカが腕の中にいたが、たぶん自分と同じ気持ちだという妙な確信があった。

 ユカは自分に抱きしめられるのがイヤ、もしくはイヤだった場合はとっくに確実に拒否している。そうしないということは、ユカもきっとしっくり来ているのだろうと思う。

 ああ、分かってしまえば簡単なことだった、と得心がいった。むしろなぜ気づかなかったのか不思議なほどだ。心の底からあったかい、と笑みを浮かべるもいい加減まごつくユカに焦れて少し頬を膨らませてみる。

「好きじゃない男に抱きしめられたままで平気なの?」

「そ……! それは、その……。別にイヤじゃないっていうか」

「それって俺が好きだからだよね?」

「そ……! そう、なのかな」

「ていうか、ユカちゃん昔から俺のこと絶対好きだったよね? ずっと練習見てたのユカちゃんじゃん」

「そ、それは別に好きだからとかじゃなくて……!」

「及川さんの目が素敵ー、ってあんなにキラキラした目で言ってくれたのに」

「そ、それは本当に綺麗だったから……!」

 やや頬を染めて反論するユカに及川は、へへ、と笑った。──カッコイイと褒めてくれる女の子はたくさんいたが。

 

『及川くんの目ってココアみたいだね』

『ちょっと赤みがかってて、すっごく綺麗な色だな……ってずっと思ってたの』

 

 ああ言う言われ方をしたのは初めてだっけ。といつかユカに貰った言葉を浮かべていると、ユカが少し俯きがちに唇を動かした。

「あの、ね……。私ね、前も言ったけど……及川くんには嫌われてるってずっと思ってたの」

「うん。でも、それは違うって言ったよね」

「うん。でも……ずっと及川くんとは相性が悪いのかなって思ってたから、そうじゃないんだって思って嬉しかった。ほんとはすっごく相性が良かったのかも……って思って」

「うん。俺もそう思う。天才はやっぱりキライだけど……」

 でも。たぶん、だから惹かれる。──と脳裏に浮かんだ別の影をいまは意識の外に追いやって少し屈んでからコツンとユカの額と自分のそれを合わせると、ユカの身体がぴくっと撓ったあとに小さな微笑みが漏れてきた。

「うん。やっぱり……私もしっくりくるかも」

 その言葉に及川は目を見開いたあとにパッと笑みを浮かべた。

「だよね……!? 俺のこと好きだよね?」

「──うん」

「うへへ、もうとっくに知ってたけどね!」

 ワッと舞い上がりそうになった気持ちを最大限に笑みで表して及川は歯を見せて笑った。だってそうだろう。むしろ舞い上がるなという方が無理だ。

「じゃあさユカちゃん、来週の月曜ヒマ? 俺、完全オフなんだよね」

「うん……?」

「ベニーランド行こ! 一度も行ったことないって言ってたよね?」

 そうして浮いた気持ちのまま言ってみれば、ユカは及川から身体を離しつつキョトンとした顔を浮かべた。

「行ったことはないけど……」

 どうして? と、さも心外とばかりに、なぜ一緒に出かけないといけないんだと言いたげなユカに「アレ?」と及川はにわかに焦る。

「どうして、って……デートだよ、デート!」

「え──ッ!?」

 デート!? と、更に心底驚いたような顔をするユカに及川はなお焦って言った。

「そんなに驚く!? 遊園地でデートとか超定番じゃないの!?」

「え、でも……デートってカップルがするものなんじゃないかな」

「ハァ!? ユカちゃんいま俺のこと好きだって言ったよね!? 俺、ユカちゃんのカレシってことだよね!?」

 すればユカはハッとしたような表情と共になおさら驚いたような顔をした。

「お、及川くんを好きだとは言ったけど……付き合うとは言ってない……」

「ハァ──ッ!?」

 なぜそう言うことになるんだ。これが天才の思考回路ってヤツか。と及川は追いつかない突っ込みを脳内で繰り広げつつユカに正面から向き直った。

「付き合う……って、両思いの2人の自然な関係性なんじゃないの?」

「そ、そうかな……」

「そうだよ! なんか映画で見た覚えあるんだけど、お付き合いしてくださいーとかってのは日本だけで世界のスタンダードは両思いなら自然と付き合ってる感じなんでしょ!?」

「そ、そうなの……!?」

「ああもう、どっちだっていいし言葉が必要なら言うよ。付き合お?」

 何だかやけっぱちになってきた。と、あまりの展開に自分で呆れつつ言えば、予想外にもユカは返答に詰まった。困惑しているようにさえ見えて、え、と及川は顔面から血の気が引くのを感じた。

「な、なんでそこで悩むのさ……!?」

「だ、だって……付き合うって言っても、来年は受験だし」

「受験いま関係ある!?」

「だって、私、東京に戻るもん……」

「俺だって東京行くかもしれないし!」

「でも、私……私、すぐまた違うところに行く……かもしれない、し」

 困惑気味のユカを見て、むー、と及川は口を尖らせた。

 分かってはいたが、ユカにはたぶん明確な将来設計というのがあって、そこにたぶん自分は存在していなくて。だから、いずれ別れる相手と付き合うなんて無意味なことはしたくない、という事なのかもしれない。

 けれども──と拳を握りしめる。

「そんな先のことなんて知らないしまだ分かんないじゃん! それはそれで、その時考えればいいんじゃないの?」

 つ、とユカが息を詰めたのが伝った。

「ぜっったいないと思うけど、ユカちゃんが東京行っちゃうより先に別れちゃうかもしれないし。ぜったいないと思うけど。……だからそんな先のこと心配するより、いま俺と一緒にいてよ」

 真っ直ぐ見つめたユカの瞳が少し揺らいで、そして頬が震えたのが及川の目に映った。

 逡巡するように何度か瞬きを繰り返したあと、小さく「うん」と頷いたユカを見て、ホッと胸を撫で下ろすと同時にパッと笑う。

「じゃあ月曜はベニーランドで決まりでイイよね?」

「ベ、ベニーランドはちょっと……」

「なんでさ? もうほとんどの学校は休み終わってるからぜったい空いてるって」

 とはいえ。だからこそ逆に青葉城西の生徒で溢れている可能性もあるが。と思いついて及川は肩を竦めた。

「動物園でもいいけど、月曜休園日なんだよね確か。って、都会っ子からしたらベニーランドとかイヤ? ディズニーじゃないとダメ!?」

「そ、そんなことないよ! その……」

 口籠もるユカを見て及川は息を吐いた。──ユカが北川第一の頃から自分と「2人きり」というシチュエーションをあまり好んでいなかったのは知っている。何かと岩泉の存在を気にしていたのが何よりの証拠だ。ほんの少し、0.0001%くらいはユカはもしかして岩泉が好きなのではと思わないこともなかったが。現にそのせいで今日の勉強会に岩泉も来るのかと問われて苛立っていたわけだが。そうではないと分かったいまは理由は一つだ。

 自分はおそらく相当に女の子にモテるということを自覚している。モテているのかアイドル扱いなのか自分でも定かではないが、それでも自分のそばにいたら無意味に目立ってしまうのは避けられず、ユカはそんな状況になるのを避けていたのだろう。

 けれども。自分の隣にいることで悪目立ちするのはイヤ、なんて。こっちだって好きで目立ってるわけじゃないし。いや目立つのは好きだけど、そう言う問題じゃなくて。自分でもどうしようもないのだから慣れてくれなきゃ困る、と及川はため息をひとつ吐いた。

「ま、どこでもいいけど。俺はユカちゃんとデートがしたいんだし」

「う、うん」

「取りあえずさ、ご飯食べに行こ。お腹空いたしさ」

「え……、でも、課題……」

「ソレはもういいの」

 もうユカに会う理由作りなんてしなくていいし。と思う。

 課題が終わっても終わらなくても、こうしてこれからいつでも彼女に会える、と及川は屈託のない笑みをユカに向けながらそっと彼女の手を引いた。



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25話:及川徹との新しい関係

 ──新学期。

 

 始まってしまえば特に目新しい事などゼロなのは当たり前で、けれども及川にとっては一学期より二学期の方が何倍も登校するのが楽しみになっていた。

 今までは、たまに、ごくたまに昼休みに何とか理由を付けてユカに会いに美術室を訪ねる程度だったが、これからは理由なんて作らなくていいし。楽しくないわけがない。

 と思いつつも……。

「ユカちゃーん、お昼くらい普通に食べなよー」

 んー、と生返事するユカの視線はスケッチブックに落ちていて微動だにしない。

 二学期も二週目。昼休みを毎日は潰せないというユカは昼休みでも絶対に絵に集中していたい日があるらしく、今日は新学期二度目の「ちょっとゴメンね」という日だ。

 別にユカを邪魔するつもりはないし、この場にいるのは構わないと言ってくれているのだからいいんだけど、と紙パック入りのヨーグルトをストローから吸い上げながら思う。

 昼ご飯は、叶うなら校庭とか教室で一緒に食べたりしたい。けど、そうしたら外野の視線が鬱陶しいのは目に見えているし。自分もたまにその視線から逃れたくてユカを訪ねていた面もあるため、昼食場所が美術室ということになんの文句もないのだが。

 我ながら面倒だと分かってはいるが、構われていないとサビシイと感じてしまうし、それよりも昼ご飯くらい食べた方がいいと思うし。

 ユカの好きなオムライスでも作って持ってきたら食べてくれるのだろうか。などと考えているとユカが鉛筆を置いて、ふ、と息を吐いため及川も反射的に声をかけた。

「ユカちゃん」

「ん……?」

「今度の月曜、放課後空いてる?」

 言ってみるとユカが困ったような顔を浮かべて、むすっと及川は頬を膨らませた。

「一昨日の月曜もダメって言ったじゃん。ユカちゃんのスケジュールって休日なさすぎだよ? 休みって必要なんだよ!?」

「ご、ごめんね。10月頭に締め切りがあるコンクールの絵に急いで取りかからなきゃいけなくて……あんまり時間もないし」

 ユカが申し訳なさそうに眉尻を下げ、及川は肩で息をした。

 男子バレー部のオフは月曜のみであるため、ユカとデートするなら月曜しか時間が取れないのだ。むろんオフとは言っても軽くロードワークしたり等々何かとバレーと関わることも多く、毎週完全に遊び呆けているわけでもないし、毎週がっつりデートしたいと言っているわけではないのだが。

 当の相手がこれだとな……と諦めにも似た息を吐きつつユカのスケッチブックに目をやる。

「コンクールの絵ってなに描いてんの?」

「いまそれを考えてるの……。どうしようかな、って思って」

「じゃあさ、俺とかモデルにしたくない?」

「──え!?」

「だって絵のモデルが画家の恋人とかって超定番でしょ? かっこいいカレシがバッチリモデルになっちゃうよ?」

 さっそくちょっと携帯で有名画家の絵画をサーチして得た知識を披露しつつピースサインを決めると、ユカはあっけに取られたような顔をしたあとに苦笑いを漏らした。

「ありがとう。でも……私、人をモデルにしたことなくて」

「へ……?」

「人物画って描いたことないの。もちろん、スケッチはするし人体が描けないとかじゃないんだけど」

 言われて及川も、そう言えば見覚えのあるユカの絵は全部風景画だったような、と思い返しつつ「それじゃあ」と切り返した。

「ユカちゃんの初人物画のモデルは俺で決定しといてね」

「え……!?」

 へへ、と及川はそう宣言して笑みを見せた。たぶんユカはきっとそうする。ぜったいそのはずだ、と根拠もなく思えるのだから自分でも相当にプラス思考だと思う。

 そう。基本的に自分はプラス思考なはずなのだが。と考えていたところでハタと及川は気づいた。

「そうだ、今月って修学旅行があるじゃん!」

 それは高校生活最大のイベントと言ってもいい修学旅行だ。

 青葉城西は私立校らしく、行き先は毎年海外である。今年も例年通り5泊7日で行き先はロンドン・パリと決まっており既に班分けも終わっている。

 スケジュールが出た段階でユカとはメールで話していたが、ユカの「花巻くんと同じ班だよ」辺りで話が終わっていたのだ。

 そのスケジュール──パリでは丸一日のフリータイムがある。

「パリでの自由時間どうしよっか? どこか行きたいトコとかある?」

 及川の中ではユカと過ごすのがもはや決定事項でありさっそく話を切り出すと、ユカは予想に反してキョトンとして申し訳なさそうな顔を浮かべた。

「ごめんなさい……。私、行かなきゃいけないところがあるから……一緒には回れないと思う」

 ガン、と頭をハンマーで叩かれるというのはこういうことか、というほどの衝撃をリアルに感じ「へ!?」と及川は自分でも驚くほどの間抜けな声をあげた。

「な、なんで!? だって自由時間だよ? 普通カップルで行動って常識だよね!?」

「そ、そう言われても……」

「行かなきゃいけないところってどこ!? 俺が一緒にいたらダメなの?」

「完全に私の私用だから、及川くんは及川くんの行きたいところに行った方がいいよ」

「そうじゃなくてさ! 俺はユカちゃんと一緒がいいの! ユカちゃんいなきゃつまんないじゃん」

「い、岩泉くんと回るとか……」

「パリで岩ちゃんとツーショットとか冗談だよね!? ぜったい行き先まとまらないし、きっと迷子になるのが関の山だよ!」

 そうしてかなり必死に訴えれば、うーん、とユカは困ったように考え込んだ末こう言った。

「本当に私の用事に付き合わせる形になっても平気……?」

「モチロン、平気平気だいじょーぶ!」

 力強く頷けば、それなら、とユカは控えめに頷いた。

 及川はホッと胸を撫で下ろす。月曜のデートはともかく修学旅行でのデートまでキャンセルはさすがに避けたい。が、パリで行きたい場所とはどこだろう? と過ぎらせるも昼休みはそろそろ終わりが近づき、その場は切り上げて教室へと戻った。

 

 

「ただいまー」

 9月下旬の修学旅行を間近に控えた夜、帰宅したユカは着がえてから夕食を取って愛用のマグカップを携え自室に戻った。

 ──8月の終わりから、ほぼ成り行きに近い形で及川と付き合う事になった。

 とは言っても、昼休みに及川と過ごす事と一緒に帰宅する回数が増えたこと以外は特に変わったことはない。

 つまり、「付き合っている」とお互いが認識した以外に変わったことはないということだ。

 むろん及川に触れて不思議なほどはっきりと及川が好きだったのだと理解したし、及川もそうだったんだろうし、及川の言うとおり付き合い自体は「自然な関係」だと思うが……と考えているとさすがにちょっと恥ずかしくなりマグカップを握りしめて小さく唸る。よく手に馴染んだそれはクリスマスに及川に貰ったお気に入りのマグカップだ。

 でも──、とユカは思う。

 来年、自分は東京で進学し、そしてパリに留学して、出来ればそのままパリで勉強を続ける。というのが描いている将来像だ。

 だから、及川との付き合いはどれほど長くても留学が決まるまで……と考えるとさすがに胸が痛んで小さく唇を噛みしめる。

 

『そんな先のことなんて知らないしまだ分かんないじゃん!』

『だからそんな先のこと心配するより、いま俺と一緒にいてよ』

 

 あの及川の言葉に納得したからこそ頷いたのだが──。と深く考え込みそうになったところで小さく首を振るってマグカップを机に置き、ノートパソコンを開いた。

 メールをチェックするとパッと目にフランス語で書かれた件名が飛び込んできて「あ」と目を見開く。

 一通り目を通し、返信を済ませてからユカはしばしフランス語のニュースに目を通した。勉強の一環で各種ニュースには目を通すため、その中には当然スポーツもあって、フランスがバレーのプロリーグを持っている程度の知識はあったが。

 最近ちょっとだけ意識してもう少し深い知識を得ようとついついバレー解説などをクリックしてしまうのは、勉強になるから、というのもあるが。

 きっと及川のせいもあるよな。と考えると急に恥ずかしくなって「う……」と頬を染めながら呟いた。

 

『俺だって東京行くかもしれないし!』

 

 及川はああ言っていたが、及川自身は自分の進路についてまだ決めかねているように見えた。

 バレーを続けるのか、それとも高校で終わりにするのか。いずれにしても、出来れば……と考えていたところで携帯が鳴った。メールだ。

 

 ──パリの旅行ガイドブック買ったよ!

 

 及川からだ。写メまで付いている。相変わらずキラキラとデコレーションの施されているメールは付き合う前とまったく変わらない。が、そう言えば、と思う。

 以前ごくたまに首を傾げていた、何が言いたいのかよく分からない遠回しな文面はまったくなくなった気がする。そしてストレートな言い回しが増えた。

 気のせいかも知れないけど。と思いつつユカは、ふ、と頬を緩めた。

 

 そうして修学旅行も一週間と迫ってくると、必然的にクラスの同じ班で話し合うことも増えてくる。班分けは男女3人ずつのグループであり、自由時間以外のおおよその行動を共にする事になっている。

 揉めないようにとの配慮なのか、班分けは席順で決められ、ユカは必然的に前の席である花巻と同じ班となっていた。

 月曜日の放課後ロングホームルームの時間、班で机を寄せ合って予定表を確認していると「お」と花巻が携帯電話を片手に声をあげた。

「特進科のヤツからLINE来た!」

 言って花巻が皆にスマートフォンタイプの携帯電話の画面を見せ、「おお」と数人が反応する。”LINE”とはソーシャルネットワークのアプリケーションサービスであり、テキストメッセージや写真を送りあったり等が可能でスマートフォンユーザーにとってはメジャーなコミュニケーションツールである。

 ユカも画面を覗き込めば写真が添付されており、やや薄暗い空気の中にロンドン・アイと思しき観覧車が映っていて「わ」と呟いた。

「そっか、特進科って昨日出発したんだっけ」

「うん。バレー部も何人か特進科いるからこいつもそのウチの一人」

 青葉城西は特進科だけで数クラス持っている。普通科と特進科を合わせると航空チケットを抑えられるかどうかという問題を解消するため、修学旅行は日程をずらして二度に分けて行くことに決まっていた。そして昨日出発した特進科と入れ替わる形で普通科が出発するという予定なのだ。

「ていうか花巻、バレー部員同士でLINEやってんの!?」

 花巻の、バレー部、という単語は他の女子の興味を引いてしまったのか一人が身を乗り出して花巻の方を見やり、花巻は軽く頷いた。

「ま、スマホ持ってる部員多くないし超限定的だけど」

「え、じゃあ及川君とLINEとかやってたりする!?」

「及川君、確かスマホ持ってるよね!」

 するともう一人の女子もやや被せ気味に花巻に視線を送り、にわかに女子2人に注視された花巻は目を瞬かせつつ肩を竦めた。

「まあ、そりゃモチロンやってるデショ同じ部だし」

「マジで!? ね、どんなこと話すの?」

「どんな、って……部活で散々会ってるからLINEでマンツーで話すことあんまないな。連絡事項くらい?」

 言いつつ、ああ、と花巻は含み笑いを漏らした。

「そうそう、美味いスイーツショップの情報交換とか? 主に俺が教える側だけど」

 すれば、えー、と女子2人の声が重なる。

「及川君、甘党なの!?」

「意外ー、でもカワイイよねー!」

 花巻としてはその好意的な反応が予想外だったのか、肩すかしを食らったような表情を浮かべたあとに苦笑いを漏らした。

 ユカにしても、及川の話に花巻の名は良く出てくるし、きっと仲がいいのだろうな。と思いつつ花巻の方を見やる。

「花巻くん、よく甘いもの食べてるもんね」

「まーね。スイーツショップの開拓は趣味かもね、一つの」

 ニ、と笑う花巻を見つつ、多趣味なのだな、と感心していると「そうだ」と花巻は何か思い出したようにスケジュール表を指さした。

「ロンドンの最終日にちょっとだけ班での自由行動あんじゃん?」

 うん、とみなが頷くと花巻はいまの流れで自分が甘党であることを再度念を押しつつ──本場のアフタヌーンティーを試したい、と希望して班内がざわついた。

 他の男子2人からは「女子か!」と突っ込みが入り、自由時間にはパブでフィッシュ&チップスを食べたいだのアフタヌーンティは高いだの意見が割れ。

 ユカは父親に良い場所がないか聞いていこう。と小さく息を吐いた。──修学旅行。楽しみだけど、少しだけ緊張もするな。と思いつつ盛り上がる班メンバーの声を聞きながらスケジュール表に目線を落とした。



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26話:及川徹の修学旅行 in London

 ──9月の最終週。土曜日。

 早朝6時に仙台駅集合というスケジュールで今年度の修学旅行は始まった。

 

 これから新幹線で東京駅に向かい、そこから羽田の東京国際空港に移動して午後一番の便でロンドンに飛ぶこととなっている。

 復路は成田着の便であるが、東京-成田間の移動時間を考えれば往路だけでも羽田を使えるのは御の字だろう。

 修学旅行中は基本的に班行動となっており、パスポート忘れなどのハプニングもなく新幹線に1時間半ほど揺られてユカ達は東京に着いた。

 東京の朝──、いつもであればそろそろ混み始める頃合いの東京駅であるが、さすがに休日だなとユカは駅構内を移動しつつ感じたが、大半の生徒は修学旅行というただでさえ昂揚状態の中で首都に着いて更にテンションが加速していた。

「あ、あれ東京タワーじゃない!?」

「マジで!? さっきも見なかったっけ?」

 新幹線の中から、視界に映った普通の鉄塔を東京タワーだとはしゃいでいた生徒が浜松町からモノレールに乗ったとたんに眼前に現れた東京タワーを見て更にはしゃぎ、一斉に携帯カメラのシャッターを切る音がそこら中で響いた。

 ユカとしてもやはり東京に帰ってくるとホッとする。光る海面を見やって目を細める。

 9時には羽田に着いたが、なにせ200人を越える人数のチェックイン・出国審査を終えるのは想像以上に時間がかかり、結局は搭乗まであっという間に時間が来てユカたちのクラスは搭乗待ちの列に並んだ。

 もう少しで搭乗というところまで来て携帯が震え、ユカはハッとした。メールだ。開いてみる。

 

 ──これからしばらくメールできなくなるね。サビシイ!

 

 及川からだ……と、煌びやかなメール画面を確認するや否やパッと隠すように胸元に押しつけ、ユカの視線は無意識にまだ待機している及川のクラスの方へ向かった。

 すると及川はずっとこちらの様子を伺っていたのかパチッと目が合い、その瞬間にウインクとピースサインでポーズを決めてくれてさすがにユカは笑みを漏らした。

 スマートフォン同士であれば環境によってはLINE等を使えば通信費はかからないだろうが。ガラケーであるユカは海外では好きに使うわけにはいかない。

 緊急の時はむろん通話機能を使うが、旅行中は基本的に携帯が使えないことは及川にも伝えてあるし、仕方がないか。とユカはそのメールを最後に自動受信機能をオフにしてから携帯の電源を落とし、そのまま機上の人となった。

 ロンドンに着くのは16時を過ぎるだろう。ロンドンはまだサマータイム中であるが、日照時間も気温もこの時期ならばそう仙台と変わらない。──というのは父からの情報だ。

 イギリスは若い頃に父が長い間学んでいた場所でもある。楽しみだな、と薄く笑った。小さい頃から父にスパルタ的に教え込まれてきた英語が本国で通じるか試すチャンスでもある。それもまた楽しみである。

 裏腹にやはり長時間のフライトは若い身体であってもそれなりにダメージを与え──離陸直後は朝からのテンションを維持していた生徒たちもロンドンはヒースロー空港に着く頃にはぐったりとしていた。

 それでも空港に着けば、海外に来たという事実がまた生徒達の気力を回復させ、長い長い入国審査の時間も体感的には短く済んだ。

 ヒースローからは手配されていたバスでの移動となり、各クラス中型バスに乗って今日はホテルに移動して終わりだ。

 市内中心地が近づくとバス内から歓声があがり、ひっきりなしにシャッターを切る音が車内に響いた。

 ユカは生徒一人一人に持たされている予定表に目を落とす。ホテルの住所を見るに大英博物館に近いらしい、などと考えているうちにバスが止まり、まずは男子生徒が降りるように指示された。修学旅行中、ホテルは男女別となっているのだ。

 そのまま男子生徒を降ろし終えると、バスは女子の止まるホテルに向けて走り出す。

 

「女子と別とかまじねーわ……」

「ツマンネー」

 

 ゾロゾロと指定されたホテルに入りながらぼやく周囲の声を耳に入れつつ、及川も「確かに」などと内心思っていた。

 けれども。気が楽と言えば楽かな、とチェックインを終えて取りあえず荷物を部屋に仕舞う。ツインという都合上、及川のルームメイトは違う班の男子だ。

 適当に会話をしつつ携帯を見やる。wifiが飛んでおり無料でインターネットを使えるようで、すぐに接続すれば自動的にデジタル時計が時刻補正されて「お」と目を見開いた。

「って、ええ!? もう7時過ぎてんじゃん!!」

 予想以上に入国審査や移動で手間取っていたのだと知って驚いてるとルームメイトが制服のジャケットをクローゼットにかけながら言った。

「各自、荷物置いたらダイニングで夕食って予定だったよな」

「そだね。出よっか。鍵一つしかないけどどうする?」

「俺持っとくわ、たぶんお前より早く戻る気ぃするし」

「そう? じゃあヨロシク」

 そうして揃って廊下に出て何となく一緒に会場に向かう。

 予定表には今日の夕食はホテルでバイキングだと記してあった。着けば、取りあえず腹を空かせた男子高校生の胃袋は満たせそうな料理が並んでおり、各自自由に夕食を取るようにとのことで及川は流れに従って適当に皿に料理を盛るとキョロキョロと辺りを見渡した。

 普段なら痛いほどの視線を周りから集めている場面であるが、さすがに今日は男子のみのせいか一つも感じない。存分にぐるりと辺りを見渡して、探していた人影を見つけると及川はその人物が座るテーブルに近づいていって声をかけた。

「マッキー、隣いい?」

 すると話しかけた人物──花巻と花巻の前に座っていた松川が及川の方を向いた。

「なんだ及川一人かよ。岩泉は?」

「さあ? そのうち来るんじゃない」

 まるでこういう時はバレー部で集うのがお決まりのような空気であり、及川はそのまま花巻の隣に腰を下ろした。が──及川があえて花巻を捜していたのには理由がある。

「イギリス料理はまずいって聞いてたけど、食えないほどじゃねーな」

「いやいやこれイギリス料理じゃないでしょ明らかに。フライドポテトとか一応フランス料理じゃん」

 フライドポテトやサラダを口にしながらそんな話をする花巻と松川の声を耳に入れつつ、及川はちらりと花巻をみあげる。

「マッキー、あのさ」

「ん……?」

「一生のお願いがあるんだけど……!」

 言えば、ピタ、とナイフとフォークを器用に使っていた花巻の手が止まった。

「は……?」

 一生の? と怪訝そうな顔をする花巻に及川は手を合わせてみた。

「明日のミュージカルの席、俺と交換して!」

 花巻としては予想外の言葉だったのか、切れ長の目が大きく見開かれた。

 ──ロンドンでの旅程は大英博物館・バーミンガム宮殿等々メジャーな観光スポットが組まれていたが、見ていく順番は混雑を避けるためかクラス単位で違う。それが唯一重なるのが明日の夜に組み込まれている観劇だった。

 ホテルも違う、クラスも違う以上、及川にとってはイギリスでユカの顔を見る機会はほぼその時間だけと行ってもいい。逆にユカと同じ班だという花巻はほぼ全ての時間彼女と一緒。──さすがにちょっと羨ましい、とは口には出さないでおいた。

「なんで? 俺の席がロイヤル・サークルだから?」

「え……」

「まァ我ながらラッキーシートだと思うけど。お前の席だって悪くないだろ」

 じゃなくて。だってマッキーの席ってユカちゃんの隣じゃん! と軽く流され思わず突っ込みそうになり、けれどもまだ誰にもユカと交際している事を話していない事実を思い出してグッと言葉に詰まっていると聞き慣れた声が割って入ってきた。

「何騒いでるかしらねえけど、めんどくせーこと言ってんじゃねえぞクソ及川」

「岩ちゃん聞いてなかったのにその言いぐさ酷くない!?」

 岩泉だ。と条件反射のように反応すれば話の流れが途切れて、テーブルに岩泉が腰を下ろしたことで更に話題が変わって及川は口を曲げてから、ハァ、と肩で息をした。

「マッキー、明後日の午後の班行動どうすんの?」

「え、いや……別に普通じゃん? 班のメンツで名所回ってメシ食う的な」

「ふーん……」

 なんて。花巻の班の予定を聞いたところで自分たちは自分たちでもう決まっているから意味のないことであるが。

 そのまま雑談しつつ夕食を終え、部屋に戻った及川は室内で出来る限りの筋トレを始めた。修学旅行に来てまで筋トレか、と突っ込んでルームメイトが先にバスルームに行ったおかげで室内は少し広い。

 一週間、ボールに触れられないというのは地味にキツイ。身体がなまりそうだし、何より一週間もバレーを出来ないことが、である。来月には春高予選が控えているし出来る限りのことはしておきたい。と思いつつ、ふ、と笑う。

 今ごろたぶんユカも確実にホテルの部屋でスケッチブックを広げているだろうな、とその場面をうっかり想像してしまったためだ。

 ユカの場合はスケッチブックさえ持っていればいつでもどこでも絵が描けるとはいえ。スケジュール通りの班行動な以上はスケッチに時間など割けるはずもないし。フラストレーションを溜める様子が手に取るように分かる、と喉を笑みで鳴らした。

 

『私、行かなきゃいけないところがあるから……一緒には回れないと思う』

 

 あれってどこの事なんだろうか。

 ユカの用事にどのくらいの時間がかかるのかは分からないが、それが済めば普通にデートできるかな。と、あとでもう一度パリ情報をチェックしておこう。などと考えつつ筋トレを済ませてシャワーを浴び、及川はそのままベッドに入って瞳を閉じた。

 

 翌日──。

 本格的な観光が始まり、及川も予定通り迎えに来たバスに乗ってホテルを出た。

 今日は朝からビッグベン、ロンドンアイ、ウェストミンスター寺院、バッキンガム宮殿の衛兵交代を見たあとにランチ、その後は主要ランドマークを駆け抜けて大英博物館を見学したのち早めの夕食をホテルで取ることになっている。

 基本的にバス移動であるため、楽と言えば楽、面白みがないといえば面白みがなかったが、それでも及川を含めておおよその生徒が海外は初めてで、及川も班のメンバーと共に記念撮影に精を出してはしゃいだ。

 

 むろん、それはユカも同じで──。

 

 特にテムズ川からの景観はユカの心を強く打ち、うずうずと「描きたい」欲求が身体のそ底から沸き上がってきたが時間が取れるはずもなく。得意としているカメラのシャッターを通常の何倍も切り、日本とは違う美しさの景観にため息を吐いた。

「ロンドン・アイ乗りたーーい!!」

「料金17ポンドって高っ!! ていうか時間ねーし!」

 周りも箸が転がっても面白いといった様子で、時差ボケなどどこ吹く風ですこぶるテンションが高い。

 バスから見る街の様子も、とても緑が多く公園が多いといった印象で、春や夏に来ればきっと素敵なブリティッシュガーデンが観られるのだろうなと目を細めた。

 そうして今日の夜は観劇の予定が入っている。

 日本の、それも地方都市ではそうそう本場の芸術に触れる機会はなく、この機会に──という学校の計らいで修学旅行先がロンドンだった場合は毎回組み込まれているハーマジェスティーズシアターでのオペラ座の怪人の観劇だ。

 ユカも楽しみにしていたイベントの一つである。19:30の開演に間に合うようにホテルを出れば、陽はかなり落ちかけており、ピカデリーサーカス周辺のネオンは華やかさと共にどこか東京を思い起こさせてユカは薄く笑った。

 バスを降り、重厚な建築物にゾロゾロと入っていく制服を着たティーンズの集団という図は周囲から視線を集めたが、制服……特に男子はジャケットである青葉城西の制服は基本的にどこへ行っても場違いではなく便利である。

 青葉城西の生徒達のチケットはほぼ全て一階席であるストールズであったが、ユカたちのクラスはロイヤル・サークルと呼ばれる二階席に割り振られた班が多く、ユカたちの班はその最前列で「一階が良かった!」という生徒と「ラッキー」という生徒に分かれていた。

 花巻はラッキーと思う側だったようで、ユカの隣に腰を下ろした花巻は身を乗り出すようにしてステージを見下ろしながら、淡々としつつもニと笑った。

「この劇場、二階がせり出してるから前方で観るならこの席が一番いいって情報だったんだよね。あのダイアナ妃も観劇の時は必ずロイヤル・サークルに座ってたって話だしね」

「へえ……そうなの?」

「まあネット情報だけど」

 そうして花巻は淡々と言いつつ、お、と小さく瞬きをして下の座席の中央あたりを見た。つられてユカも視線の先を追うと──自分の班の女の子と雑談しているらしき及川が映り、そしてまるでこちらの視線に気づいたように及川が振り返ってユカは少々ギョッとした。

 あ、と及川も目を見開いた直後、満面の笑みでこちらに向かって手を振り──ザワッと周囲の青葉城西の生徒がどよめいた。

「なんだよアイツ……」

 ユカがどよめきに目を瞬かせる横で花巻は呆れたような声と共に適当に及川に向けて手を振り替えし、周囲からは「なんだ」「花巻じゃん」などという声が雑踏の中から聞こえた。しかし。

「なんだよ、次はガン飛ばしかよ」

 及川はというと花巻が手を振り替えしたあとは、ジトッと花巻を睨むように見据えており、そのうちに隣の生徒に声をかけられたようでまた前を向いた。

「そんなにアイツこの席に座りたかったんかね」

「え……?」

「ああ、及川のヤツがさ、ロイヤル・サークルの方が良かったらしくて俺に席譲ってくれとか言ってきたんだよね昨日」

 え、とユカが目を見開いた直後、花巻とは反対側の席にいた女子がざわついた。

「え、花巻なんで替わらなかったの!?」

「今からでも替わんなよ!」

 すると花巻とは違う男子生徒が横やりを入れる。

「お前らが替わってやればいいじゃん。及川も花巻と一緒の方がいいだろ」

「それじゃ意味ないし!!」

 そんな話を耳に入れつつ、ユカとしては、たぶん自分と一緒に観たいと思ってくれたんだろうな、と感じたものの。おそらく花巻の言い分を聞くに、自分と付き合っているとは言ってはいないようだと少々ホッとしつつ気持ちを切り替える。

「でも、本当に良い席だよね。私、すっごく楽しみにしてたの」

「ああ、栗原さん英語得意だもんね。全部理解できる自信アリ?」

「どうかな……、たぶん大丈夫だと思うけど」

「俺は理解出来なきゃソンじゃんって思って映画版レンタルして観ちゃったよ。字幕付きのヤツ」

 淡々と言い下す花巻は、ちゃんと事前学習をしていたようで。本当に多趣味な人だな、と雑談をしているうちに開演時間となってユカは舞台に集中した。

 予想よりも遙かに台詞が聞き取りやすく、何よりも生のオーケストラ、照明、歌の迫力が圧倒的であっという間に一幕目が終了し、ふ、とユカは感嘆の息を吐いた。

「凄かったね……!」

「うん。やっぱり生は違うよね」

 昂揚したまま隣の花巻とそんな事を話し合う。幕間ともなればジッとしていられないのが人の性か、みな思い思いに席を立ち花巻もめざとく何か見つけたのか「お」と瞬きをしてから席を立った。

「俺、アイス買ってくるわ。栗原さんも食う?」

「え、ううん大丈夫。ありがとう」

 幕間にアイスを売りに来るのはここの名物でもあるらしい。花巻はアイスを買いに行って、ふぅ、とユカは息を吐いて眼下を見下ろした。オーケストラの演奏者たちはそれぞれ調子を確かめているのか不規則な音が聞こえてきて耳を傾けているだけでも楽しい。

 素敵だな、と微笑んでいると隣の席に誰かが腰を下ろした気配が伝ってユカは「え」と瞬きをした。

「花巻くん、ずいぶん早かっ──」

 もう戻ったのか、と驚いて横を見やると──そこにいたのは花巻ではなく鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌でニコニコしている及川で、ユカは一瞬固まった。

「やっほ、ユカちゃん」

 ついでにピースサインまでくれて、ユカは少し肩を竦める。

「及川くん……」

「ほんっとイイ席だよね、ココ。オーケストラ見えるじゃん」

「うん。舞台全体が見えてすっごく素敵」

「俺さー正直、ミュージカル楽しめるか全然自信なかったけどけっこう夢中で観ちゃった」

 うん、とそのまま及川と雑談を続けていると今度こそ本当に花巻が戻っていて「何やってんの」という声に及川は席を立った。

「ちょっと眺めを確認してただけじゃーん」

「お前、マジでこの席に座りたかったのな」

「マッキーいいもん食べてんね」

「やらねーぞ」

 微妙に噛み合わない会話をしながら笑い合う2人はやはり仲は良いのだろう。自分もコーヒーでも飲みに行こうかな。混んでるだろうか。と考えつつユカは薄く笑った。やっぱり少しでも及川と非日常の空間を共有できたことは嬉しい。と感じていると第二幕が近づいてきて「じゃーね」と及川はその場を離れた。

 やっぱり、ちょっと寂しいかも。と、及川が自分のクラスの自分の席に戻ったのを二階席から見つつ、第二幕が幕を開けてユカはそっちに意識を集中させた。

 オペラ座の怪人自体が知名度も高くある程度のストーリーは一般に認知されていたせいか、語学の得手不得手に限らず生徒達はみなそれぞれ楽しんだようで、修学旅行二日目の夜は無事に終わりを告げた。



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27話:及川徹の修学旅行 in London and Paris

 翌日──。

 朝一番でロンドン郊外のウィンザー城を見学し、午後はおおよその生徒が楽しみにしている班での自由行動だ。

 とはいえスケジュールの駆け足感は否めず、ユカはウィンザー城の庭に一日留まって絵を描いていたい強烈なフラストレーションに襲われたがどうしようもなく、せめて写真だけはとシャッターを切れるだけ切った。

 そうして午後の班行動──、生徒達はピカデリー・サーカスにて解散及び集合となっており、ユカたちもバスを降りるや否やさっそく班で集まり、二手に分かれる。

「じゃ、14時半にエロスの像前な」

「おう」

 現在時刻は13時過ぎ。ロンドンで唯一自分たちで選べるランチとあって、班内はアフタヌーンティー派とパブ派に分かれたのだ。

 アフタヌーンティーを推したのは花巻で、ユカともう一人の女生徒が同意し、他の3人はパブでフィッシュ&チップスというこれまた王道を選んだ。

 ユカ自身も父親にお勧めのティールーム等々を聞いてリストアップしていたが、花巻は花巻でかなり調べてきたようで、既に花巻の「高くても行ってみたい」という場所にユカたちも同意していた。

 ピカデリー・サーカス周辺ということで花巻が調べてきた場所はユカの父親がいくつか教えてくれたものの中の一つであり、ユカのメモには「老舗社交場だった。現在は超高級ホテル」と記されてあった。つまり服装に気を遣った方が気持ちよく過ごせる場所ということになる。とはいえ、女子の制服はともかくも男子はジャケットにローファーだ。花巻はやや奇抜な配色の青城制服を良く着こなしており、長身も相まって一端の紳士に見える。きちんとしているし大丈夫だろう、とピカデリー・サーカスからは目と鼻の先のホテルに向かった。

「グッドアフタヌーン、レディ」

 入り口には正装したポーターが構えておりドアを引いてくれ、ユカの前にいた班メイトの女生徒が露骨に動揺したのが見えた。

 ユカにしても慣れているわけはなく、挨拶をしつつ中に入れば一面豪奢なエントランスが見えて「すごッ!」と言いかけた班メイトがハッとしたように口元を押さえた。

「しゃ、写真って撮っていいのかな?」

「いいんじゃないかな……」

 そうして小声で聞いてきた彼女に応えつつ、ちらりと花巻を見た。花巻によれば夜はバーになる場所でアフタヌーンティーができるらしい。

 それらしき場所に歩いていけば気づいたスタッフがやってきて、花巻の喉から普段の淡々とした声にやや緊張を交えたような音が漏れた。

「よ、予約している者ですが……!」

「お名前よろしいですか?」

「ハナマキです」

「少々お待ち下さい」

 そうして確認に行ったのか背を向けたスタッフを見届けてから、ユカの隣にいた女生徒が声を目一杯殺しつつ拳を握りしめた。

「花巻すごい英語ペラペラじゃん!」

 花巻もまんざらでもなかったのか淡々とピースサインで応え、ユカがそのやりとりを微笑ましく眺めているとスタッフが先導に来て3人は席へと案内された。

 とたん、まるでベルサイユ宮殿のような煌びやかな空間が現れてユカの目の前の彼女が小さく悲鳴をあげた。

「うちら場違いじゃない? ねえ場違いじゃないの!?」

「だ、大丈夫だよ……」

 気後れしているらしき様子をなだめつつ、客もまばらな中でテーブルに付いた。オーダーは3人ともあらかじめ決めていた。シャンパンの付いていないタイプのアフタヌーンティーだ。

 オーダーを終えてほっと一息つきつつ、BGMにはピアノの生演奏という贅沢な空間に、ふふ、とユカは笑みを零した。

 こういう場所、及川だったら好むだろうか? ものすごくはしゃいでしまうのか、それともスマートにこなしてしまうのか。

 考えていると、三段重ねのプレートという典型的なアフタヌーンティースタイルでサンドイッチ類とスイーツがサーブされ、さすがに3人のテンションが上がった。

 次いで紅茶、別プレートでスコーンが提供されて花巻は東北の少年らしい白い頬をうっすら染めた。表情は変わらなかったがよほど感激しているのが見て取れるようだ。

 いそいそと携帯を取り出し、写真を撮っている。

 紅茶、もうちょっと蒸らした方がいいかな? などと話しつつもう一人の女子が携帯を操作している花巻に何をしているのか聞いた。すると花巻は一言こう答えた。

「LINE」

「誰に? てか携帯使えなくない?」

「及川。俺、海外パケホ入ってきたから使い放題」

「マジかよ。てか及川君に送ってもあっち受信できないんじゃないの」

 ん、と頷く花巻を見つつ、ユカは急に及川の名が出て内心ドキリとした。そのまま何となく花巻を見やっていると間髪入れず返事が来たのか、あれ、と花巻は瞬きをした。

「速攻で既読になった。アイツどこいるんだ。……ってスタバかよ! ロンドンに来てまで!」

 花巻は及川の所在地を聞いたのか否か、取りあえず及川がスターバックスにて携帯を使える状態にあるという情報が伝った。何気なくユカはそのまま花巻を見やる。

「どのクラスも今ごろそれぞれランチだもんね。及川くんの班ってスタバでご飯なのかな」

「そうかもね。ていうか、なにやってんのか訊かれたからホテルでアフタヌーンティーって返事したらこの有り様だよ」

 すれば花巻はやや呆れたように淡々と言いつつ携帯画面をこちらに向けた。するとそこには怒っているようなキャラクターのスタンプと「マッキーずるい!」という文字が書かれており、ユカは思わず口元を押さえた。ずるい、とはどういう意味合いなのか──。

「えー、及川君ってこういうカンジなんだー! そんなに甘い物好きなんだね、意外だけどカワイくない?」

「いや可愛くは断じてない」

 おおむね好意的に受け取ったらしい班メイトに花巻は淡々と切り返し、ユカは苦笑いを浮かべた。

 ともあれせっかくのアフタヌーンティーを堪能しようと食事に移る。プレートは下から食べていくのが本来のマナーだとかスコーンはどう切るのかとか話しつつ食べ進め、3人とも本場のスコーンとクロテッドクリームに痛く感動してたっぷり一時間以上かけてのティータイムを堪能した。

 そしてホテルを出て約束の14時半にピカデリー・サーカスはエロスの像前で他の3人と落ち合い、眼前の地下鉄駅へと向かう。貸し切りバスで行動していたユカ達にとっては初めての体験だ。駅内に入るだけでもちくいちテンションが上がるのは致し方ない事だろう。

「ちょ、この発券機見てよ日本語表示あるんだけど!」

「マジかよ。せっかく俺の英語力が火を噴くところだったってのに」

「じゃあ英語バージョンで買えよ」

 発券機を前にしてもこの盛り上がりようで、やはりなんでもないこと自体が酷く刺激的なのだと克明に告げている。

「花巻、行き先の値段どれ?」

「ゾーン2」

「オッケ」

 一人一人買っていき、花巻の番になると彼は本当に英語が得意なのか日本語切り替えのタップを押さずそのまま英語で切符を買った。ユカもそのままでゾーン2の切符を買い、べーカールー線な、と言う花巻の言葉通りに茶色のべーカールー線乗り場を目指す。行き先はアビー・ロード。ビートルズファンなら誰もが知っている聖地の一つだ。

 今回、既にめぼしい観光地はクラス単位で回っており班行動の行き先はなかなか決まらずにいた。17時にはピカデリー・サーカスに戻らなければならなず、あまり欲張った行動は出来ない。当然、遠くには行くなとお達しがあるわけで最終的にアイディアがまとまらなかったところに花巻が「完全に俺の趣味だけど」と淡々と切り出した。

 その一つがアビー・ロードだったわけであるが、かなり知名度の高い観光地ということと、音楽の授業でビートルズに触れた経験から全員が知っておりすぐに目的地の一つとしてまとまった。

 目的は──()()だろうな。とユカにしても花巻がアビー・ロードで何をしたいかは聞くまでもなかったが、案の定だった。と、最寄り駅で降りて目的地が見えてきて小さく笑った。

 それはアビー・ロードの横断歩道でビートルズのアルバム「Abbey Road」と同じ図で写真を撮るという、ここを訪れた観光客ならほぼ全員がやっていることである。案の定、けっこうな観光客でごった返しておりユカはさりげなく言った。

「私、写真撮るね」

 5人では完全にアルバムと一緒というわけにはいかないが、許容範囲だろう。それにけっこうな交通量と観光客でごった返すこの場では横断歩道を長くは占領できない。

 何より自分は写真も得意だし、とサッとデジカメを取り出すと班のメンバーも素直に応じた。

 そうしてユカは撮りやすい場所にスタンバイし、しばし観光客の途切れと車の流れを見ながら待つこと何分だっただろうか。誰とはなしに順番待ちをしていた中でユカの班の番が来て、車の流れが途切れたタイミングでユカはみんなにゴーサインを出した。

 彼らはスタンバイの間に打ち合わせでもしていたのか全員が横断歩道のそれぞれの目的地に走り、ユカはシャッターを押した。そうして全員が横断歩道を渡りきり、ホッと息を吐く。

「おー、バッチリ。それっぽい」

「ありがとう栗原さん」

 デジカメ画面を見せて笑い合いつつ、取りあえず周辺の写真も撮りながら少し歩いた。

 良く見渡すとけっこうな高級住宅街のようで、広い一軒家も建ち並んでいる。その風景一つ一つが英国らしさを感じさせ、ユカはまたもうずうずと絵を描きたい衝動にかられたが何とか抑え込んで風景をしっかりと脳裏とカメラに収めた。

 そうして早々に次の目的地に向かう。次は──これも花巻の提案であるが、ベーカーストリートと決まっていた。むろんアビー・ロードに負けず劣らず知名度の高い、シャーロック・ホームズの舞台であるが、こちらは色々な媒体のおかげで更に班内で認知度が高くすぐに決まった。

 ユカにしてもコナン・ドイルは父親に読まされていた影響もあり興味深い場所だ。

 花巻調べによればアビー・ロードからベーカー・ストリートへはバスが便利ということで、地下鉄よりも安価でロンドンらしい二階建てのバスに乗りたいという全員の希望も相まってバスを使用することに決まった。

 ただ、問題は切符を直接ドライバーから買わなければならないという点であり──。

「栗原さん、悪いけど頼んだわ」

 花巻にそう投げられて、ユカは少し頬を引きつらせたものの、やってきたバスのドライバーに目的地を告げて値段を聞き出し滞りなく乗車をした。

 むろん全員で二階に上がってバスを堪能し、ベーカーストリート駅に着いたのが16:00。ゆっくりしている時間はない。が、駅に着いた途端に目に映ったホームズの銅像でやはり班のテンションは上がり、時間はないが取りあえずシャーロック・ホームズ博物館まで行ってみようという運びになった。

 着けばむろん、いや、予想以上の長蛇の列で……全員が中に入るのは無理だと悟る。が、建物や雰囲気はドラマ、映画、アニメーションを問わず誰もが一度は見たことのある光景で、列を入り口に向かって歩きながら皆いそいそと建物だけでもと写真に収めた。そうして誰ともなく呟き出す。

「中に入りたいのに時間がない。諦めが悪いのは僕の悪いクセ」

「それ刑事ドラマじゃねーか。しかも国産」

「バーロー! 俺だって諦めたかねーよ!」

「それアニメじゃんバーロー!」

「やれやれ、時間がないよワトソン君」

「やっと本家キタ!!」

 妙なテンションで盛り上がる男子陣をユカは微笑ましく見つめ、今ごろ及川はどこで何をしているのだろう。と、そんな事が気にかかった。

 ともかくあまり浸っている時間がないということで16時30分にはベーカーストリート駅に戻り、地下鉄に入ったら入ったで一面のホームズ仕様にまたも撮影会が始まって、ひとしきり撮り終えるとピカデリー・サーカスに戻った。

 17時を前にしてピカデリー・サーカスに着いたと同時に花巻の携帯が鳴ったようで、画面を確認した花巻の表情が珍しく歪み、男子陣も「どうした?」と首を捻った。

 聞けば、いまはマクドナルドにいるという及川からのLINEだったらしく。添付されていた写真を花巻が無言でみなに向けた途端、男子陣の顔が歪み、女子からは悲鳴があがった。

 ユカも「わ……」と少しだけ目を丸めた。──どうやら及川の班は長蛇の列を並ぶ覚悟で手早くスターバックスで昼食を済ませ、シャーロック・ホームズ博物館に行ったようで、写真にはホームズの帽子を被ってマントを羽織り、パイプを携えてこれ以上ないほど、普段の岩泉やいまの男子陣の言葉を借りれば「その顔腹立つ」「ウザイ」と形容される表情をした及川が映っていた。

「及川くん、すっごく似合ってる……」

 ついポロッと言えば、他の女子2人がすごい勢いで賛同し、男子からは舌打ちが聞こえた。ような気がした。

「及川くんの班って博物館行ったんだね。ニアミスだったのかな」

「だね。腹立つから既読スルーするわ」

「花巻くんも似合いそうだよね、この帽子とマント」

 そんな事を話しつつも、花巻は律儀に及川に返信をしたようだった。この辺り、いつも返信をしないらしい岩泉とは違うところなのかもしれない。と感じつつユカは微笑んだ。

 少しだけ及川の様子を知ることができて嬉しい。なんて、少し前までは数日及川と会わないなど普通のことだったというのに。好きだと自覚したせいなのか。それとも「付き合って」いるせいか。

 これから先を思うと、この感情は厄介なのかもしれないな。と思いつつ、隣の花巻と雑談を続けながら他の班が戻ってくるのをしばし待った。

 

 ロンドン4日目の朝──。

 青葉城西の生徒達は朝食を済ませるとバスにてキングス・クロス駅に向かった。

 そこでかの有名な「プラットホーム9と4分の3線」を見学した後に、隣のセント・パンクラス駅に移動した。同駅はユーロスター国際列車の発着駅となっている。今日はこれからパリへ移動するのだ。

 ユカはセント・パンクラス駅の外観の美しさにすっかり見惚れてしまい、近い将来きっとまたロンドンに来ようと誓ってユーロスターに乗った。

 パリへは一度、まだ仙台へ越す前に家族旅行で行ったことがある。あの時は漠然といずれ自分はここに戻ってくるのだと思ったが……、予定よりもだいぶ遅れた。しかも修学旅行とは、と肩を竦める。

 もしも東京に残って氷帝学園に進学していたら。きっと今ごろ、高校はパリで──と過ぎらせてしまい小さく首を振るう。

 選べなかった道の方が良かった、なんて無意味な後悔はしないよう努めてきたつもりだ。これから進む道がベストだったと言い切れるように絶対にしてやる。と、強く思う心とは裏腹に一つ気がかりがあった。

 他でもない、及川のことだ。及川に出会わなければ、きっと「仙台の冬」は描けなかっただろう。けれども、及川にさえ出会わなければいまの厄介な感情を抱えずに済んだのでは……などと考えるも、それこそ無意味な事だ。仙台に越すことを決めた瞬間から、及川に出会わない道なんてなかったのだから。

「パリ、楽しみだねー!」

 ふと隣の席から声をかけられて、ユカはハッと意識を戻した。

「う、うん」

 そうしてスケジュール表を見たり、撮った写真を見せ合ったりしつつ車内でランチも済ませればあっという間に3時間弱が過ぎて午後2時前にはパリはノルド駅に着いた。

 出発前から身の回りの手荷物に注意するよう再三言われていた通り、ノルド駅はあまり雰囲気が良くない。

 感動のパリ、という雰囲気は味わえないままみな急いで待っていた貸し切りバスに乗り、そのまま今日のメインであるベルサイユ宮殿に向かった。

 学校側はパリ中心部にホテルを用意できなかったのか、それとも治安の問題か、ベルサイユにホテルを取っており、生徒達はいったんホテルで荷物を下ろしてからベルサイユ宮殿へと向かった。

 フランスとイギリスは海を挟んで隣国同士とはいえ、やはり国が変われば風景もガラッと変わる。建築物は華やかで丸みを帯びたアール・ヌーヴォーが至る所に散見され、庭の造形はナチュラルなブリティッシュではなく幾何学的なフランス式がたびたび目に付いた。

 ベルサイユ宮殿はそんなフランス式庭園の代表格であるが──宮殿見学ではなくスケッチをして過ごしますなどという勝手が許されるわけもなく。ユカも自分の班のメンバーと共に宮殿内を見学する。執務室、寝室等々想像を絶する豪華な世界に女生徒は歓声をあげ、男子生徒も感心しきりでカメラを構えていた。

 その悲鳴はいわゆる「鏡の間」で最高潮を迎え、ユカの隣を歩いていた花巻が淡々と言い下した。

「こんな豪華な城建ててからたったの100年後にブルボン朝は革命で終わりとか、諸行無常だよね」

「そうだね」

 相も変わらずな様子の花巻に相づちを打って、ユカも少し思いを馳せた。いまは観光客の絶えないフランスでも随一の観光名所であるベルサイユ宮殿だが、最盛期のサロンの華やかさ、革命、戦後の調印など様々な歴史の流れを見てきた場所でもある。

 ──権利は自分の力で勝ち取る場所、それがフランスだ。この場所で自分はいずれ生きていくのだ。と、うっかり険しい表情をしそうになり、ハッとしてユカは肩を竦めた。

 ベルサイユ宮殿からホテルは徒歩圏内で、見学を終えたクラスから順々にホテルに帰っていく。むろんここでも男女別であるため、途中で男子と別れ、ユカたちは自分達のホテルに戻ってチェックインを済ませると部屋で一息ついた。

 この界隈はどう見ても高級住宅街。治安も良さそうだ。まだ外も明るいし、ちょっと外まで散歩……という自由は当然許されるはずもなく、生徒達はホテルで夕食を取ってその日はそのまま就寝した。



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28話:及川徹の修学旅行 in Paris

 翌日──パリ二日目。今日は全体でいわゆる「お決まりコース」を回ることになっている。

 まずはバスで凱旋門を通りシャンゼリゼを抜け、モンマルトルで下ろされサクレクール寺院を見物する。

 ノートルダム大聖堂を観てランチを取って、シテ島の探索に少々時間を取り、ルーブル美術館を足早に見学し……と、こなしていけばあっという間に日は暮れてくる。

 最後に行ったのはエッフェル塔で、それでも登る時間は取れず、生徒達はエッフェル塔に連なる公園で少し時間を取って思い思いに写真を撮った。

 とはいえ「パリ」という街は、地名だけでも人々を興奮させる作用があるのか、修学旅行を謳歌する生徒の一人である及川も一日中テンションを保ったまま班行動を楽しんだ。

 旅行の間中ずっとユカと行動を共にする花巻をどれほどズルイと羨んだところで詮無いことだ。明日の自由行動では一日中一緒。しかも二人っきりだし。と無意味に勝ち誇った顔でホテルに戻ってからの食事中も笑みを浮かべていたら苛立った様子の岩泉から「その顔苛つくヤメロ」と冷たく突っ込まれ、ヒドイってば、と突っ込み返しておいた。

 だって実際に酷いだろう。こっちは純粋に明日の自由行動を楽しみにしているだけだというのに。と口を尖らせつつ夕食を済ませる。グルメにはあまり煩くないが、料理の質はパリの方がロンドンより上だというのは取りあえず理解できた。

 

 翌日──。

 朝食を終えてホテルを出た及川たちはバスに揺られてルーブル美術館前広場を目指した。9時には目的地に着くという。

 それから各クラスの担任が解散宣言をしたら18時までは自由だ。逸る気持ちから及川はうっかり車内で鼻歌さえ口ずさんだ。

 40分近くバスに揺られて目的地で降り、広場まで移動して担任からの注意事項を聞けばついに自由行動開始だ。

 解散を宣言されるや否や、及川は青葉城西の生徒と各国からの観光客でごった返す周辺をキョロキョロ見やって「あ」と目を見開いた。

 ルーブル美術館のシンボルとも言えるピラミッドの横の噴水の縁に腰掛けて携帯をチェックしている人物──花巻が目に付いたのだ。

「マッキーなにしてんの?」

 取りあえず声をかけて駆け寄る。花巻のクラスはもうとっくに解散していたようだ。つまり、ユカはもう「待ち合わせ場所」に向かったということだろう。

 ん? と花巻は一度顔を上げて、ニ、と笑った。

「今日のルートチェック」

「マッキーどこ行くつもりなのさ」

 何気なく聞いてみれば、あまり普段は表情の変わらない花巻の瞳が輝いた気がした。

「パリのスイーツショップ巡りに決まってるだろ」

「え……!?」

「シュークリーム、エクレアの名店はチェック済みだ。お前も来るか?」

「え……ッ、あ……いや、ちょっと今日は間に合ってるかな」

 やや視線を逸らしがちに答えれば、そうか、と花巻は相づちを打ちつつチェックが終わったのか立ち上がった。そうして歩き出した花巻に倣って及川も歩き出せば、後方から「よう」と声がかかる。振り返れば松川と岩泉がいて、ハハ、と及川は笑った。

 ──なんだ、いつものバレー部のメンツじゃん。遠巻きに多数からチェックされていた視線の空気がそんな風に変わった気配を及川は感じ取った。

 実は既に多数の女生徒から今日の予定を聞かれたり誘いを受けたりしていたが、その都度及川は誤魔化していたのだ。仮に見せかけでも、岩泉たちと回るというのはこれ以上ない理由だろう。

「松川、なんなら一緒に行くか?」

「スイーツハシゴはちょっと遠慮したいかなァ。岩泉どうするよ?」

「ノープランだ」

「さすが岩ちゃん、パリが似合わない男暫定ナンバー1なだけあるね!」

「ウルセー自分でも似合ってるとか思ってねーよクソ及川!」

 いつもの調子で話をしながら取りあえずは最寄りの地下鉄1番線駅に向かう。駅構内に降りればいきなり日本語で「スリにご注意下さい」等々のアナウンスが流れ始め、全員がビクッと背を撓らせた。

「日本人どんだけスられてんだよ!」

 岩泉が突っ込むも全員それなりに身を引き締め、まずは一日乗車券を買った。

 どうやら全員が同じ方向に向かうようで、改札を抜けて同じホームで電車を待ち、乗る。

 及川自身は二つ先のシャトレ駅で4番線に乗り換える必要があるのだが、他はどうなのか。一つの駅が過ぎ、及川は軽く3人に言ってみた。

「じゃ、俺次の駅で降りるから」

「俺も」

「俺もだ」

 すると松川と岩泉が同意して、及川は肩を竦めつつも笑った。花巻はそのまま乗っているようで取りあえずシャトレ駅に着いて花巻に手を振り3人は降車する。

「俺、4番線だけど2人は?」

「取りあえず郊外電車。適当に降りてブラブラするわ」

 どうやら松川と岩泉は共に行動するようで、及川は相づちを打ってから「じゃあね」といつものノリでピースとウインクをして別れた。

 たぶん岩泉辺りは自分が今日誰と一緒にいる予定かなんて気づいているだろうが。めんどくさいのか深入りされなかったのは残念なようなありがたいような。などと考えつつ4号線に乗ってサンジェルマン・デ・プレ駅を目指した。

 ユカとどこで落ち合うかと修学旅行前に話していたとき、彼女が「じゃあ、サンジェルマン教会の前で」と指定したのだ。

 初めての土地でそう上手く待ち合わせできるのか不安がないと言えば嘘になるが、まあ大丈夫だろう、と思える程度にはちゃんと調べてきたし、ちょっとワクワクしている。

 それに、はやくユカに会って顔を見て話がしたい。これほど連絡手段を絶たれるのが辛いなどと想像もしていなかった。丸一日顔を見ていないだけで、既に何ヶ月も会えなかったような感覚にさえ陥っている。

 もちろんずっと以前からこんな気持ちは抱えていたが。彼女を好きだと気づいたせいだろうか? 会いたくて会いたくて仕方ない。と、逸る気持ちのままに及川はサンジェルマン・デ・プレ駅に着くと出口案内を見て教会側の階段を駆け上がる。すると出口の真横は既に教会の敷地のようで、目線をあげれば柵のやや先に教会の屋根が映った。目の前の道を右折すれば正面に出られそうだ、と小走りで通りにでる。

 案の定、道沿いには教会入り口があり、入り口正面の歩道側に大きなトートバッグを肩にかけた青葉城西の制服が目に入って及川はパッと笑った。

「ユカちゃーん!」

 笑顔で手を振ると、気づいた制服の少女・ユカがこちらを振り向き「あ」と唇を揺り動かして笑顔になったのが見えた。

「ごめん、待った!?」

「ううん、平気」

 そんなやりとりにさえ無性に感動して、及川は自分でもどこか感極まって自身の大きな両手でユカの頬を覆った。

 え、とユカが目を見開いたがそのまま額と額をコツンと会わせて目を閉じる。

「あー……会いたかった」

 呟きながら及川は「ああ、やっぱり」と再度彼女を好きな自分を自覚した。認めてしまえば本当に楽ですごく簡単なことだった。触れただけでじんわり気持ちが暖かくなるのが何よりの証拠だ。

 などと微笑みつつ目を見開くと、眼前のユカは頬を染めており、目が合うと少し逸らされて自分から離れてしまった。

「なに、ヤだった?」

「そうじゃないけど……」

「ていうかユカちゃん、すごい荷物だね。なに持って……ってまさか絵の道具一式!?」

 ユカの肩に下がっていた大きなトートバッグに目線を移せばユカは肩を竦めながら「うん」と呟いた。

 まさか今日一日スケッチしたいとか言い出すのかな、と考えていると、ユカが行こう促して並んで歩き始める。この辺りはガイドブックによればパリでもっともパリらしく華やかな地域らしい。その証拠に、既に周りのカフェはどこも観光客でいっぱいだ。

 道なりに歩いていくと、道沿いにライトグリーンの可愛らしい建物が目について「あれ」と及川はショーウィンドウを覗き込んだ。するとそこには色とりどりの可愛らしいマカロンが可愛らしく飾ってあり、中には美味しそうなスイーツが並べられていて思わず窓に張り付くようにして見入ってしまった。

「うっわ……超美味しそう……!」

 まさにスイーツの本場らしい光景だ。これは花巻でなくともスイーツのハシゴなどと言い出すのも分かるというものだ。

「ほんとだ。可愛い……!」

「ここってもしかしなくても有名なお店!?」

「え……と。……”ラデュレ”。あ、うん、そうだね。名前だけだけど知ってる」

「やっぱり!? ねえユカちゃん時間まだ大丈夫!? 大丈夫なら俺ちょっと何か買っていい!?」

 うっかり勢いで言ってしまい、ユカは瞬きをしたあとに自身の腕時計に目を落としてから「うん」と頷いた。やった、と及川はパッと笑っていそいそと入り口の方に回ってドアに手をかける。

「ボンジュール!」

「ボンジュー」

 取りあえず挨拶は基本ってガイドブックにも書いてあったし。照れずに笑顔で挨拶できるのは自分の長所。などとノリノリで中に入れば予想よりも遙かにファンシーでどこかエキゾチックな世界が広がっており、ユカも「わあ」と声を弾ませていた。

 が、及川としてはファンシーさはそこまで興味を引くわけでなく。色とりどりのスイーツを物色しつつ、んー、とマカロンの方を見やる。

「このお店ってマカロンが有名だったりする?」

「うん、そうみたい」

「そっか」

 じゃあマカロンにしようと思いつつ、ハッとどう買えばいいのか分からないことに気づいて顔面蒼白でユカの方を振り返った。

「何個からじゃないと買えないとか決まりあるのかな!?」

「え、さあ……」

 困惑するユカの反応は当然だろう。及川はおもむろにレジの女性の方を向いた。そうしていつも通りの、対女性用の笑みを浮かべる。

「すみませんお姉さん。いくつから購入できますか?」

 このくらいなら英語だってできる。向こうが英語できなかったら詰んだけど。などと過ぎらせていると、女性は笑顔で応えてくれた。

「いくつでも大丈夫ですよ」

 どうやら1つでも大丈夫のようだ。しかし一つだけ購入するというのもチョット気が引けるし。せっかくだし。ユカも一緒に食べるなら3個ずつくらいかな、と及川は6個注文した。

「どのお味になさいますか?」

「え!? えっと……。ユカちゃん、なにか食べたい味ある?」

 隣でスイーツケースを覗き込んでいたユカに質問を投げ渡せば、「え!?」と瞬きをされ首を振られた。

「え……わ、私は別に……」

「えー、せっかくなんだし一緒に食べようよ。じゃあもう俺が選んじゃうよ?」

 言いつつフランス語と英語で説明してあるらしき文字を見やる。ラズベリー、レモン、バニラと15種類近くあるようだ。ユカはコーヒー味が好きそうだけが色的に地味だし、派手な物の方が見栄えが良いし。と色々考えつつ6個注文すれば、店員の女性は詰める箱の色は何色が良いか聞いてきた。

「えー……と。じゃあグリーンでお願いしまーす」

 すれば女性だったら手放しで喜びそうな綺麗な箱に詰めてくれ、更に同じ色の紙バッグに入れてくれた。

「メルシーボクー!」

 そして支払いを済ませ、笑みで挨拶をしてから及川は満足げに外へと出た。

「可愛いお店だったね」

「ね」

 今ごろ花巻はこんなファンシーな店で一人スイーツを頬張っているのか。花巻には悪いが、ちょっとシュールかな。とマカロンの入った紙袋を見やる。

「ちょっと味見だけするつもりだったんだけど……」

 たいそうな箱に詰められ、何だか味見するのが申し訳ないような気分になりつつ、あとで公園にベンチにでも座って食べようかなと考えながら「マッキーにあとで写真送ろっと」と呟けば、そうだ、とユカが歩きながら思い出したようにこちらを見上げてきた。

「及川くん、一昨日はホームズ博物館にいたんだよね? 帽子とマント、すっごく似合っててびっくりしちゃった」

 及川にとっては不意打ちで、目を見開いた先で一昨日にその写真を花巻にLINEで送ったことを思い出して頷く。

「俺も我ながら似合ってると思った。さすが俺だよね!」

 何でも似合っちゃう、とピースしてみせれば、ふふ、とユカは小さく笑った。

「博物館、どうだった? 私たちも行ったんだけど、時間がなくて中に入れなかったの」

「んー、良かったよ。俺はあらすじ程度しか知らないけど楽しかったし。ユカちゃん、ホームズ好きなの?」

「うん。コナン・ドイルは数年前にお父さんに読まされて……。難しいけど面白いよ」

「あ、そうそう。俺ね、ちょっと思ったんだけど」

「ん?」

「俺、けっこう英語向いてるかもしれないって思ってるんだよね」

 軽く言えばユカには予想外の事だったようで目が見開かれるのが映った。それもそうだろう。過去には及川自身がユカに「英語なんてなんのために勉強するのだ」と突っかかった事があるのだから。

「フランス語もだけどさ、アルファベットだけじゃん。俺さ……あんまり漢字が得意じゃなくて、けっこうアルファベット目で追うのって楽だって気づいたんだよね」

「へえ……すごいね」

「まあ漢字苦手なのはどうかと思うけどね。我ながら」

 さすがに苦く笑いつつ、今さらながらユカにどこに行くのか訊いてみると、ちょうど道を挟んで斜め前に見えてきた建物をさして「あそこ」とユカは言った。何やら立派な門の大きな建物だ。

「え、と……美術館?」

「エコール・デ・ボザール・パリっていう、パリの国立美術学校」

「ふーん……、って、え!? 学校!?」

 なんでまたそんなところに。と言うとユカは少し言いづらそうにしながらも、その「美術学校」を目の前にして酷く興奮しているのが手に取るように分かる程に頬を染めた。

「私、小さい頃から、ここで絵の勉強をするのが夢だったの」

「──は!?」

「ルノワールやモネも若い頃ここで勉強したんだよ」

 ──誰だそれは。あ、印象・日の出の人か。と脳をフル回転させて思い出している間にもユカは隅の方の入り口から中へ入り、掲示板のようなものをチェックして構内図を確認していた。

「勝手に入っちゃって平気なの!?」

「あ、その……。今日は人と会う約束してて……」

「へ……?」

「ダメ元で、教わりたいなっていう教授にメールしてみたの。いずれここで勉強してみたい、って私の絵も添付して。そしたら興味持ってもらえたみたいで幸いにも今日はアトリエにいる予定だからどうぞって言ってもらえて」

 はにかみながら言うユカの言葉に及川は絶句した。理解するのに時間を要したと言い換えてもいい。──ユカが何となく仙台に留まらずに外に外に出たがっているのは感じていたが。実際、東京の大学を受験するというのも聞いてはいたが。

 これほど具体的にパリに留学するつもりになっていたとは聞いてない。と、整理できない頭でトボトボとユカの横を着いていく。

 噴水の爽やかな前庭を通ってメインビルディングと思しき建物に足を踏み入れれば、メインホールのような開けた空間が広がっていて「わあ」と声を弾ませたユカに負けず劣らず及川も見入った。

 これが「学校」とはにわかに信じられない。アトリエはその先だというユカに着いてメインホールを抜ければ、歴史の教科書の写真に出てくるような中世ヨーロッパの城の回廊そっくりの回廊が現れて、修学旅行が始まって数日は経っているのに改めて日本との違いを強烈に感じた。この建物が観光地ではなく現在も使われている「学校」という事実のせいかもしれない。

 ユカはそれらしき部屋をぐるぐる見つつネームプレートを確認して、そして見つけたのか「あ」と呟いてから深呼吸をしてドアをノックした。さすがに緊張しているのだろう。

「ボンジュー」

 扉を開けて中に入れば、だだっ広い空間にまるで美術準備室のように辺りに絵の具や画材道具が置いてあり、いくつかのデスクでは学生と思しき西洋人が2人ほど作業に勤しんでいた。

 教授と思しき年輩の紳士がこちらに気づき、ユカがぺこりと頭を下げたのが見えた。

「Enchantee! Je m'appelle──」

 そうしてユカは、おそらくフランス語で自分の名前を告げて男性と握手を交わした。

 ユカが英語が得意なことも普段からフランス語を勉強していた事も知っている及川としては、ユカがフランス語を喋っていること自体は驚かなかったが、及川自身がフランス語が分からないために話している内容は分からない。

 男性と2,3言葉を交わすと男性はアトリエの外にユカを促したようで、ユカも「外で話そうって」と短く告げてくれ及川も従って外へ出た。

 先ほどの大きな前庭以外にもいくつも開けた庭があるらしく、四方を建物に囲まれた小さな庭に学生用なのか小さな椅子とテーブルが見え、座るように促されてユカも及川も腰を下ろした。

 及川としては黙って見ているしかなく、ユカが「用事がある」と一人で出かけようとしていた理由が痛いほど分かる程度には場違い感を感じていると、ユカは自身のトートバッグからスケッチブックや本を取りだして教授に渡した。

 そうして何やら熱心に、おそらく自分の作品について解説している。会話の内容など想像でしかないが、きっと自己アピールなのだろう。

 先ほどユカはモネやルノワールも通っていた学校だと言った。及川自身ですら知っている美術史の巨匠たちだ。この学校は誰もが入れるわけではなく、相当な難関なのだろうという予想はおそらく外れてはいないだろう。

 「天才」の彼女ですら難しいのだろうか……と視線を教授の方へ送ると、及川の目には熱心にユカのスケッチや作品の写真を見やって語っている彼はユカの絵を好意的に捉えているように見えた。

 が──、それからどれほど経っただろうか。教授がふとユカに何か言葉をかけ、ユカの身体が一瞬硬直したのが伝った。見やると、僅かに複雑そうな顔で「ウィ」と頷いた様子が目に映り、首を傾げているとその瞬間から使用言語がフランス語から英語に代わり、ああ、と及川は納得した。

 おそらくユカのフランス語が複雑な会話をするには稚拙だったのか英語は使えるのかと聞かれたのだろう。屈辱だったんだろうな、とテーブルの下でキュッと拳を握りしめたユカを見て思うも、会話は流暢すぎてサッパリ聞き取れない。断片的に、おそらく留学の話をしているのだろうという事はTokyoやUniversityというフレーズから悟った。

 及川自身は自分でもお喋りな方だと自覚しているし。ロンドンに着いた瞬間から思ったが、「話ができない」「通じない」というのはけっこう辛い。それに、別に世界に出たいなんて大それた事を考えているわけではないが。もしも言葉が通じたら。自分のバレーだってもっと広がりが持てるのでは、と疼く心とは裏腹に「なにバカなこと考えてんの」と抑えつける自分もいた。いまのメンバーと、岩泉と白鳥沢に勝つって最大の目標があるのに何を考えているのだ、と。

 けれども──、とぐるぐると考えていると、ユカが礼を言った声が聞こえてハッと及川は意識を戻す。

 すればユカも教授も席を立ち、慌てて及川も席を立つと教授がこちらを見て話しかけていた。

「君はずいぶんと体格がいいけど……なにかスポーツをやっているのかな?」

「え!? …………──、あ、えーと、バレーボールやってマス!」

 取りあえず何かスポーツをやっているのかと聞かれたと理解して答えれば、なるほど、と納得したように教授は頷きながらユカの方を向いた。

「彼をモデルにすれば有意義なデッサン練習が出来そうだね。見たところ、筋肉量も申し分ないようだ」

「そ……、そう、ですね」

「君もここに来れば嫌になるほど人体のみを描かされる事になると思うけどね」

 しかし続けて話している内容は半分程度しか理解できず首を捻っていると、教授とユカは握手を交わして、及川も流れにならって握手を交わした。

「じゃあ、次に会うときはフランス語で話ができることを楽しみにしているよ」

「──は、はい!」

 そうして最後に教授が笑いながらユカにかけた言葉は及川にも理解でき、ユカが感極まったように返事をして頭を下げている様子を見つつ及川もぺこりと頭を下げた。

 そうしてユカは、ふぅ、と一息吐いて、そして笑みでこちらを見上げてきた。

「付き合ってくれてありがとう」

 ユカは一仕事終えた安堵感からか満足からかホッとしたような表情をし、完全に「隙」を晒したその表情に、う、と胸がざわついてしまう。

「お、俺がついてきたいって言ったんだしね!」

 うっかり不覚にも照れて視線を泳がせると、ユカが首を傾げた気配が伝った。そのままユカは改めてぐるりと校舎に視線を巡らせている。もしかしたらそう遠くない未来にここに通っているだろう自分を想像しているのかもしれない、と及川は少し眉を寄せた。

 ユカにはユカの人生設計が明確にあって、その中には自分は少しも存在していない。なんて知ってはいたが。東京と仙台ならともかく、仙台とパリなんて遠すぎて想像すら出来ないし現実味すらない。

 ──天才、っていつもこうだよな、とふと無意識のうちに過ぎらせてしまった。

 

『及川……』

『及川さん……』

 

 こっちのことを鬱陶しいくらい気にかけるのに、その実、本当はこっちの事なんてお構いなしに突き進んでいく。

 こちらを苛立たせたいだけ苛立たせる存在。──ユカだってそうなのに。

 ユカちゃん、と小さく声をかけて及川はユカの手を引くとグッと強くユカの身体を抱きしめた。

 え……、と驚いたようなユカの声を聞きながら目を閉じる。

 ホント、厄介。──俺から離れないでずっとそばにいてよ。なんて言って、絵じゃなく自分を選ぶユカを想像したら、それはもうユカじゃなくて、きっと自分はそんな彼女を好きにはなれないのに。

「お、及川くん……」

「俺、ぜーったい別れないから」

「え……」

「ユカちゃんがどこ行っても絶対別れない」

 口を尖らせて拗ねたように言うと、ピク、とユカの身体が撓ったのが伝った。彼女がどんな表情を腕の中でしていたかは分からない。が、少し間を置いて無言で抱きしめ返してくれて、及川は小さく笑った。

 この先、自分たちがどう進むのかなんてまだ分からないが。ともかく今はそんな見えもしない事を考えても意味がない、と改めて過ぎらせて、及川は少しユカから身体を離して顔を覗き込んだ。

「そういえばさ、さっきあの先生なに言ってたの? 俺をモデルに云々って言ってたのは分かったけど」

 聞いてみれば、瞬きをしたユカの目元がうっすら染まったように見えた。

「えっと……。及川くんの身体、筋肉が綺麗についてて体格もいいからデッサンのモデルには最適だって……」

「え、俺のカラダ!?」

 そこまで言われていたとは知らず、思わずおどけて自分の身体を自分で抱きしめるとユカはやや恥ずかしそうにしながらも頷いた。その反応に及川も少しどもって瞬きをする。

「ま、まあ及川さんの肉体美にほれぼれする気持ちは分かるけどさ」

「及川くん、着やせするのにね……。ブレザー越しでも分かるなんて、びっくりしちゃった」

「そこはさすが教授なんじゃない? じゃあ教授のアドバイス通り、及川さんいつでもモデルになっちゃうから遠慮なく言ってね」

 明るく笑みで言い下すと、ユカは「う」と言葉に詰まった。──教授とユカが「どういう」モデルについて語っていたかは知らないが、この反応と筋肉という単語からもしかしてヌードモデルとかの話だったのだろうか。さすがフランス。と思うも取りあえず深く追及しないでおこう、と切り替える。

「ユカちゃん、次の用事ってある? それとも終わり?」

「終わりだけど、どこか行きたいところある?」

 ユカが笑みで答え、パッと及川も笑った。頷いてパッとユカの手を引く。

「取りあえず、ポンデザールいこ! ここから近いよね」

 そういえば手を繋いで歩くのは初めてかもしれない。ようやくデートっぽくなってきた、と及川は上機嫌で鼻歌を歌った。 



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29話:及川徹とパリの恋人たち

 ポンデザール──芸術橋。またの名を「恋人たちの橋」。

 元はナポレオンの命令によって建てられた、パリでは初めてとなる金属製の橋である。が、近年はもっぱら恋人たちが愛を誓う場所として有名な、いわばデートの聖地のような場所である。

 

 ポンデザールはエコール・デ・ボザールの前の道を真っ直ぐセーヌ川方面に抜けて右折した先にあり、ユカは上機嫌で歩いていく及川をちらりと見上げた。

 まさか及川がポンデザールに行きたいと言い出すとは思っておらず。それよりも何よりも、やっぱり大きな手だな、と繋いだ手の温かさに恥ずかしいよりも心地よさが勝って微笑んでいるとすぐにセーヌ川が見えてきた。

 横断歩道を渡って橋を見やれば、フェンスに重々しくずっしりズラリと取り付けられた南京錠が目に飛び込んできて「わあ」と2人声を揃えて瞠目した。

 ポンデザールのフェンスには恋人たちが名前を書いた南京錠を取り付け、その鍵をセーヌ川に投げ入れ永遠の愛を誓うという一種のイベント的なものが近年流行っている。そのあまりの流行ぶりにフランス政府は南京錠の重みによる橋の崩壊を危惧し、最近ではフェンスを撤去して南京錠を付けられないよう作り替えるという議論も活発らしい。

 及川は感心したようにぐるりと視線を巡らせて言った。

「すごい数の南京錠だねー……、てかすごいカップルの数」

 有名な橋であるという事実を除いても、橋は寄り添い合うカップルで溢れており、さすがにその光景はヨーロッパにいるという実感を得るには十分であった。日本ではこうも堂々とした光景はまず拝めない。

 橋を渡りきってしまえばルーブル美術館だ。及川がルーブルに戻りたがっているとは思えないし、どうするのかな、とユカがさりげなく聞いてみると彼は笑顔でとんでもないことを言い放った。

「ん? キスしようよ、橋の真ん中あたりでさ」

「──え!?」

「ファーストキスがパリの橋の上とか超リリカルじゃーん」

 うへへ、とはにかんだように言われてユカは絶句した。何をサラッとさも当然のように言っているのだろうか。

「ん、イヤ?」

「えっと……いや、ていうか……」

「見たところ、ウチの生徒いないっぽいよ?」

 キョロキョロ辺りを確認している及川に、そういう問題ではない、と突っ込もうとしてユカは止めた。確かに及川と一緒にいるところを青葉城西の生徒に見られたら面倒というのは常々思っていることではあるものの。こうもはっきり宣言されると照れるという感情さえ追いつかない。

 フェンス側に寄ればますます重々しい様子が映り、んー、と及川も口を曲げた。

「これ寄りかかったら壊れちゃいそうだよネ」

「うん。近いうちに撤去しちゃうかもって話、ニュースで読んだ覚えがある」

「そうなの!? えー、じゃあ思い出の場所も変わっちゃうのかー……」

 及川が何気なく呟き、思わずユカの心音が跳ねる。

 おそらく自分は、数年後にはこの場所に戻ってくるだろう。それが小さい頃からの夢で、叶えられるよう精一杯頑張ってきたつもりだ。けれども、その時は及川とは──と過ぎらせてユカは繋いでいた手に無意識に力を込めた。

 5年後、10年後、自分はここに立って、それで今日を思い出すこともあるのだろうか。フェンスに取り付けられた無数の南京錠と、秋晴れの空の下で繋いだ温かい手の温もりと、こうして及川と2人で過ごしたことと。──過ぎらせつつそっと及川の顔を見上げる。少し見開かれた瞳は相変わらず整っていて、やっぱり綺麗な顔だな、と感じて少し目尻が震えた。

「キスしていい?」

 そっと及川の大きな右手が頬に触れ、先ほどよりも控えめに言われて、聞かなくてもいいのに……と感じつつ頷くと、及川の手から彼が少し緊張したような気配が伝った。

 目を閉じると一瞬だけ唇に触れた感触が伝い、目を開けると間近で及川のココア色の瞳と目があって、互いに頬を染めた。

「は……恥ずかしい……」

「俺も……」

 言い合って小さく笑い合い、再び何となく目があって自然ともう一度唇を重ねた。

 初めて及川に抱きしめられた時よりももっとドキドキして昂揚して、けれどももっともっと心地よくて。ユカは改めて及川を好きな自分を自覚した。

 しばし間を置いて自然と唇を離し、へへ、と互いに笑い合う。──5年後、ここに立っている時は一人。一瞬その姿が過ぎって、思わず振り切るようにギュッと及川の身体を抱きしめた。

「ん? ユカちゃんてばそんなに俺と離れたくない?」

 頭上からいつもの軽い声が笑みを含んで下りてきて、うん、と素直に頷くと僅かに狼狽えたような気配が伝った。

「──俺も!」

 そうして感極まったような声と共にギュッと抱きしめられて、ユカはくすりと笑った。ちょっとだけ涙が滲みそうだったが何とかこらえて及川から身体を離し、ふふ、と笑う。及川も、ニ、と歯を見せて笑った。

「ちょっとあそこのベンチ座ろ。ちょっとこれからの行き先確認もしたいし」

 そうして及川に促されて橋のほぼ中央に数メートル間隔で設置されているベンチに腰を下ろすと、及川はバッグから小さなガイドブックを取りだした。行きたいところをチェックしていたのか、いくつか付箋が挟んである。

「マッキーじゃないけど、俺もさっきの駅の辺りちょっとブラブラしてパンとか食べたいんだけど……」

 パラパラと捲りながらそう言う及川にユカは及川が甘いパンを好物にしていたことを思い出した。及川の好物──牛乳パンがパリにあるかはともかく、気にはなるのだろう。

「それと……ココ行かない?」

「ん……、モンパルナスタワー……?」

 うん、と及川は頷いた。モンパルナスタワーとは、モンパルナス地区に建っているフランスで一番高いビルである。そして、モンパルナスといえばかつてはアーティストがこぞって集まっていたエリアであり、ピカソやシャガールも住んでいた芸術家たちの聖地の一つでもあってユカにとっても興味を惹かれるエリアであった。

「穴場って書いてあるし、たぶんウチの生徒そんなにいないと思うんだよね。ゼロとは言わないけどさ」

 そうして及川はそんなことも付け加えた。及川曰く、さりげなく他の生徒達が自由行動でどこへ行くかをリサーチした結果、大半が昨日は外観だけ見て終了したエッフェル塔に登ると答えたらしい。

 なぜ及川がそんなリサーチをしたのかは分からない。が、ユカは自分があまり及川と2人でいるところを青葉城西の生徒に見られたくないと思っていることに彼が気が付いているのだと悟った。

 ランチもそこでしよっか、と言いつつ及川はバッグからさっき買ったマカロンの紙バッグを取りだして箱を手に取った。

「味見してみよ。……あ、その前にマッキー用に写真っと」

 言いつつ携帯を取りだしてマカロンの入った綺麗な箱を開け、中身が見える状態にしてウインクをキメて自撮りをした及川は相変わらずと言っていいだろう。

 こんな写真を送り合うとはよほど仲が良いのだな、と思いつつ、もしも岩泉に送ればきっと文句を言われるのだろうな、などとも考えていると及川が箱を差し出してきた。

 ドーゾ、と言われて断るわけにも言わず、礼を言って受け取る。白っぽい色のマカロンを手にとって口に入れると、サクッと軽い歯触りと共に上品なココナッツの甘さが広がった。

「美味しい……!」

「うん、美味しい! やっぱりパリだね!」

 2人で笑い合って一通り試食を済ませ、手を繋いで元来た方向に向かって歩き始める。先ほどとは違う道に入ってメトロ駅を目指していると、ひときわ賑やかな通りが見えて誘われるように右折してみた。

「うわー、凄い人!」

 及川もキョロキョロと辺りを見渡している。カフェやビストロの多い通りらしく、辺りのテラスは昼を前にしてけっこうな人で埋まってしまっている。

 バゲットをかじりながら歩いている人も多く、何となく2人で通りを注視していると外まで行列の出来ているスイーツショップが見えた。

 及川が何やら店名を見つめて、先ほどのガイドブックを取りだして熱心に見入っている。

「あ! あのお店、クロワッサンが美味しいらしいよ!」

 言うが早いか行こうと手を引かれてなし崩し的に列に並ぶ。ショウウィンドウには華やかなスイーツも色とりどりに並んでいて、やはりスイーツの本場らしさを感じさせた

 並んではいるものの回転は速く、ユカもせっかくだから食べてみようと二人して一つずつクロワッサンを購入した。

 店を出て通りを歩きつつ周りのパリジャンたちに倣ってさっそく試食してみる。ユカよりも及川がその美味しさに感動したらしく、彼は頬を震わせて紅潮させた。

「ナニコレ超おいしいじゃん! 俺ちょっとパリ見くびっちゃってたよ! 本場ってやっぱ凄いね!」

 作った人もここまでリアクションを取ってくれればきっと笑顔になるに違いないという褒めようで、ユカはくすりと笑った。

 マカロンにクロワッサンと立て続けに食べ、ユカの喉はコーヒーを欲して駅に向かう道沿いでカフェラテを買って及川にも渡した。

「ありがと。なんかすっごいパリを満喫してる感じするよね俺たち」

 及川はいつもに増して上機嫌で、そうだね、とユカも笑った。そのまま見えてきたサンジェルマン・デ・プレ駅に入り、モンパルナスタワーの最寄り駅であるモンパルナス=ビヤンヴニュ駅を目指す。

 駅を出ると、目の前に目指していたタワーが飛び込んできて、その前にはパリの名物の一つでもあるマルシェが開かれていた。

 少しマルシェを見物していこうと物色すれば、氷の上に乗せられた牡蠣や魚、山盛りに詰まれたキノコ等々あまり日本の日常ではお目にかかれないものばかりで及川はひっきりなしに携帯カメラのシャッターをきっていた。

 その笑顔につられてユカも笑う。

 常日頃から基本的には笑みを浮かべている及川であるが、いまの及川の笑みは邪気のない心から楽しんでいる時の笑みで、自然とユカも笑顔になったのだ。

 そうしてひとしきり見て回り、タワーへと向かう。並ばずスムーズにチケットも買え、そのまま専用エレベーターで最上階を目指した。

 一面ガラス張りの最上階のさらに上には屋上テラスが設置されており、せっかくなら屋上に出ようと階段を登っていけば、この上ない開放感とパリ全貌を見渡せるこれ以上ないロケーションで2人は声を弾ませた。

 タワーそのものがエッフェル塔正面へ続く道に建っているため、真っ直ぐエッフェル塔を見下ろせ、2人で食い入るように見つめた。

 やはりこうして時間や光景を共有できることはこの上なく嬉しい……とユカは感じた。きっと及川もそう感じてくれていたのだろう。自然と寄り添い合って風に吹かれながら互いに笑みを零した。

 そのまま景色を一望していると、遠くにサクレクール寺院も見え「そういえば」と及川が口を開いた。

「昨日サクレクール寺院に行ったときも思ったけど、パリって似顔絵屋っぽい人がたくさんいるよね。さっきもセーヌ川沿いにたくさんいたし」

 うん、とユカは頷いた。

「画家を志してる人が世界中から集まる場所だもん」

 すると及川は肩を竦めて遠くを見やる。

「それで……よく戦う気になるよね」

 それはユカ自身の事を指したのか、あえて曖昧な言い方をしたのか及川は「ふぅ」と肩で息をした。

「そろそろランチ行こっか。俺、お腹空いてきちゃった」

「え、さっきクロワッサン食べたのに? マカロンも」

「さっきって、もう一時間は経ってるし、そもそもあんなんじゃ足りないよ」

 腕時計に目を落とせば、既に午後二時近く、とっくに昼食時間ではある。ユカとしてはそこまで空腹は感じていなかったものの、及川の希望通りランチに向かうことにした。

 この界隈はピカソたちが頻繁に通っていたブラッスリーやカフェが軒を連ね、地元の人間や観光客で賑わっている。モンパルナスはガレットを出すクレープリーが多いことでも有名であったが、及川はきちんと食事がしたいようでユカは近くのブラッスリーかビストロを探そうとした。が、及川はというとガイドブックに出ているような有名店に行きたがり──それならば、とピカソたちが通っていた店の一つであるカフェレストランをチョイスした。

 そうして辿り着けば、店の前にはパリらしくオープンテラスで食事を楽しんでいる人で賑わっている。ユカ達はテラスはカフェタイムに楽しむ事にして店内に入った。どちらかというと高級な部類の老舗であるが、ジャケットとローファーという及川の服装は申し分なく、ギャルソンから「ムッシュ」と呼びかけられて上擦っている及川を見てユカは笑みを浮かべた。

 席に通され、メニューを渡されてまず及川が項垂れたような姿勢をみせた。

「……フランス語、わかんない……」

 それは切実な声で、ユカは及川にどういった料理が食べたいか訊ねた。このカフェレストラン自体はシーフードが得意だということはガイドブックに書いてあって及川も知っているようだったが、及川はメインは肉料理にしたいらしくメニューを解説すると、彼は鴨のコンフィを選んだ。

「あ、あとさ。コレ……ちょっとモノは試しで食べてみたいんだけど」

 そうして及川がガイドブックのグルメページを開いて指さしながらこちらに向けた。そこにはエスカルゴの写真が載っており、ああ、とユカは笑う。

「エスカルゴ、美味しいよ」

「え!? これカタツムリだよねぇ!? 美味しいの!?」

 ゲテモノだよ、とおののく及川に「うーん」とユカは肩を竦めた。「俺が無理だったらユカちゃん食べてね」と念を押され、及川の前菜はエスカルゴに決まった。更に及川はせっかく魚料理の美味しい店に来ているのだからブイヤベースを頼むと言い始め──ユカも少々おののく。

「た、食べられる……!?」

「味が無理とかじゃない限りヘーキだよ」

 あっけらかんと言い放った辺りはさすがに育ち盛りと言うべきか。ユカ自身はクロックムッシュだけに留め、ギャルソンを呼び止めて注文をした。

 そうして改めて店内を見渡せば、さすがに老舗らしい重厚感で、かつて文豪やピカソらの画家がここに座っていたかと思うとちょっとソワソワした。同じ場所に居るだけで絵が上手くなるわけではないと分かっていてもやはり嬉しい。

 そんな話をしていると、前菜のエスカルゴが運ばれてきて取り皿も2人分用意されていた。ギャルソンが丁寧に道具の使い方を説明してくれ、ユカが及川に通訳をすれば、彼は、ぐ、と息を飲み込むような仕草を見せた。

「うっわ、ホントにカタツムリ……」

 エスカルゴは専用の、まるでたこ焼き器のような穴の空いた皿に一つずつ乗せられており、確かに食べたことのない人間にとってみれば奇妙に映るかもしれない。

 ユカはフランス料理店で何度か食べたことがあり、バジルとニンニクの効いた味は素直に美味しいと感じていたが──と見守っていると、及川は意を決したように殻を押さえて身を刺し、パクッと口に放り込んだ。

「──あ、オイシイ!」

「でしょ?」

 飲み込んだ及川が意外そうに言って、ユカはニコッと笑った。平気だと分かったらもう大丈夫なのか、及川はさっそく二つ目に手を伸ばしている。

「よくよく見ればサザエとそんなに変わんないしね。俺のガイドブック見て”こんなん食えるかボゲ”とか言ってた岩ちゃんぜったい損してるなぁ」

 この変わり様が及川らしくもあり、岩泉はそんなことを言ったのかと少しばかり岩泉の顔を浮かべているうちに及川は完食し、皿が下げられてしばらくすると2人分の新たな皿がサーブされた。ブイヤベース用だろう。魚とスープが別々にサーブされるスタイルらしく、テーブルにはまず大きな皿に入ったスープが置かれ、次いでギャルソンがギョッとするほど大きなプレートを持ってやってきた。

 どうやら取り分けてくれるらしく、予想以上の大きさのためか目を見開いている及川にその旨を伝えれば「こんなにいっぱいあるんだし、ユカちゃんも食べなよ」と言われユカはギャルソンに自分には少な目であとは及川に取り分けてくれるよう頼んだ。

 が、それでもまだまだ残っており──。

「うわ、おいっしい!」

 食べきれるのかな、と案じたユカだったがどうやら杞憂だったらしい。とさっそく平らげてお代わりする及川を見てホッと胸を撫で下ろしつつ肩を竦めた。

 でもブイヤベースそのものは上品な味付けで美味しく、おおよその日本人の口には合うだろうと思わせるものだった。

 結局及川はブイヤベースもペロリと完食し、ようやくユカの頼んだクロックムッシュと、及川の三品目である鴨のコンフィが運ばれてきた。

「ボナペティ」

「メルシー」

 クロックムッシュはいまでは日本でもそう珍しいメニューではなくなったが、やはり本場で食べられるのは嬉しいとユカが舌鼓を打つ前で及川は器用にナイフとフォークを使って鴨肉を口に運んでいた。

 曰く、及川にとっては珍味に近い鴨肉は食べてみると意外なほど美味しかったらしく、この上なくクラシックなフランスらしい食事に及川自身とても満足しているようでユカも嬉しく感じた。

 これだけ背が高くて筋肉もあると、色んな料理がたくさん食べられてちょっと羨ましいかもしれない。と感じながら食事を済ませ、及川は食後のデザートを注文するか迷っていた様子だったが最終的にはまた別の場所でということになり、支払いを済ませて店を出た。

 美味しかったね、などと話しながらモンパルナス通りをもと来た西側に向かって歩きつつ、どこへ行こうか思案し合う。

「あー、でももう4時だね」

「ホントだ。18時に集合だからあと一時間くらいしかないね」

 言われてユカも腕時計に目を落とせば既に4時5分で、集合場所まで戻ることを考えればあと1時間ほどしか自由に歩けないことを悟った。

 それならばこの界隈を歩きつつお茶でもしてから帰ろうということになり、適当に路地に入ってみる。

 高級マンションと思しき通りの地上階には雑貨やスイーツショップ、フラワーショップなどが建ち並んでいるのが見えた。

 金曜の夕方という時間帯がそうさせるのか、それとも日常なのか。フラワーショップにはスーツ姿のサラリーマンがじっくりと花を品定めしている様子が目立ち、及川は物珍しそうにキョロキョロと観察している。

「もしかして花束抱えてカノジョに会いに行くとかって感じかな? さすがヨーロッパってカンジだね」

「そうかも。でも素敵だね」

 手を繋いでその様子を横目に見つつ微笑み、チョコレートショップの前で立ち止まった及川にならってショーウィンドウを覗き込む。

 楽しい、と感じるのはいつもと違う風景に囲まれているせいか、それとも……とうっかりポンデザールでかわしたキスの感触を思い出して頬を染めていると、うっかり及川に伝ったのか「ユカちゃん」と小さく名前を呼ばれた。

 顔を上げると及川と間近で目があって、ドキッと心音が鳴り──反射的にキスされると分かって瞳を閉じた。

「ん……」

 ちょうど後ろに植えられていた木の幹に背を預け、ギュッとユカも及川の背を抱いた。頬が熱くて、ドキドキして心地いい。

 こんなに自分が及川を好きだなんて気が付かなかった……、としばらくして唇を離し、微笑み合う。

 へへ、とはにかんでそのまま及川の胸に顔を埋める。仙台ではこんなこと出来ないかな、と過ぎらせると少し寂しい気がして、ふ、と少し眉を寄せた。

「どこかその辺りでお茶してから戻ろっか」

「うん」

 戻ろっか、と呟いた及川の声が少しだけ寂しそうに聞こえたのは自分の思い違いだろうか? 少し歩いてオープンテラスのカフェを見つけて腰をおろし、ユカはエスプレッソを頼んだ。

 及川はというと先ほどあれだけ食べたというのにケーキを頼み、ユカは肩を竦める。

 ルーブル美術館にどうやって戻ろうか、と及川に携帯で地図を表示してもらってすぐ近くに駅があることを確認した。この場所からなら30分以内でルーブルに戻れそうだとホッと息を吐く。

 及川も携帯を仕舞って、運ばれてきたケーキに満足そうに口を付けた。

「もう明日帰国だと思うと何だかあっという間だったよネ。帰ったらさっそくバレーしないとカンが鈍っちゃった気がする」

「ほんと、あっという間だったね。ロンドンもパリも素敵だったな……」

「ずっとユカちゃんと一緒にいられたらもっと良かったんだけどね! マッキーずるいよホント」

 そうして口を尖らせた様子を見て、やっぱり花巻に送ったメッセージの意味はそういう意味だったのかと悟りユカは嬉しく思いつつ頬を染めた。

「私も……、及川くんとずっと一緒だったら嬉しかったんだけど。でも、今日はホントにすっごく楽しかった」

「じゃあ仙台に戻ってももっと俺とデートしてよね?」

 すればそう突っ込まれ、返事に窮すれば及川は頬を膨らませた。──及川は月曜の放課後しかオフがないし、自分は出来れば部活に出たいし、となかなか噛み合わない事情はあるが。もう少し一緒にいられるように努力しよう、と思い直して頷くと、及川は、くしゃ、と破顔してユカも口元を綻ばせた。

 5時も15分を過ぎたあたりでそろそろ戻ろうとカフェを出て、最寄りのメトロ12番線に乗り、コンコルド駅で1番線に乗り換えるべく移動していると不意にユカの目に青葉城西の制服が映って反射的にパッと身構えた。及川と一緒の所を他の生徒に見られるのは──と構えたところで、一瞬の間の後に及川と口を揃えて「あ」と呟く。

「岩ちゃん!」

「岩泉くん」

 その後ろ姿は紛れもない岩泉一で、岩泉も反射的にその声で誰に呼ばれたのか悟ったようで心底嫌そうな顔で振り返った。

「やっほー岩ちゃん! 一人で寂しくなにやってんの? てかその顔酷くない?」

「ウルセーよ寂しいは余計だ、酷くもねぇ」

「松つんは?」

「昼飯食ったあとから別行動だ」

 そのまま当然のように並んで1番線を目指し、ユカは内心ホッと胸を撫で下ろしていた。及川と2人で集合場所に戻るのは、やはり少し躊躇っていたからだ。岩泉も一緒ならば、いつもとさして変わらない。

 駅について地上へと出て、ルーブル美術館前の広場に向かっているとさすがに他の生徒達の姿も見えてきた。

 モンパルナスでは一人も見なかったというのに……、何だか2人きりの時間は終わりだと告げられているようでちょっとだけ寂しく感じていると、伝わったのか及川が軽く言ってきた。

「手、繋いじゃう?」

 すれば岩泉が眉を釣り上げ及川を睨み、「岩ちゃん嫉妬やめて!」と切り返した及川のせいで一悶着始まってしまい、ユカは肩を竦めた。

 その先で、集合場所の目印でもあるルーブル美術館のピラミッドが見えてきた。17時55分。既に大部分の生徒は集まっていて、その集団の中から「あ」と明るい声があがった。

「及川クーン! こっちこっちー!」

 その瞬間、及川はいつも通りのよそ行きの笑みをパッと浮かべて、声のした方向に手を振った。

「やっほー! いま行くー!」

 及川の班の女生徒なのか、及川は軽く答えたあとにユカたちの方を振り返る。

「ゴメン、じゃあ行くね」

「うん」

 ユカが頷くと及川も頷いて背を向け、呼ばれた方向へと小走りで駆けていった。

 残されたユカと岩泉は何となく並んで歩きながら自分たちのクラスを探す。そのままキョロキョロしていると、集団より頭一つ抜けた色素の薄い髪が目に入って、あ、とユカは呟いた。花巻だ。

「じゃあ岩泉くん、私のクラスあっちみたいだから」

「おう」

 岩泉に手を振って花巻達の方に歩いていけば、やけに班のメンバーは盛り上がっており何ごとかと話に加わる。見れば、花巻が今日食べたスイーツ一覧の写真をみなが食い入るように見ていた。

「パリ、最高だったわ」

 明らかに食べすぎだと突っ込まれながらも満足げに淡々と言い下した花巻を見て、ふ、とユカも笑った。

 いろいろあったが、やっぱり最高だったかな、と思う。

 エコール・デ・ボザールに入れたし、師事したい教授にも会えた。それに──と自分の唇にそっと手を触れてみた。

 自分の夢が叶うということは、自分は5年後、10年後もここに居るということ。ここに居るということは、及川とは離れるという事だとしても。

 

『ファーストキスがパリの橋の上とか超リリカルじゃーん』

 

 この思い出と共に居られるなら、それでいい……とスッと秋の空を見上げた。



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30話:及川徹のキャプテン就任

 修学旅行が終われば、青葉城西男子バレー部は春の高校バレー県大会予選に向けて練習一色となる。

 この試合の結果次第では3年生は引退ということになり、チームの意気込みは日を追うごとに強くなっていっていた。

 

 が──。

 

「ちょっと聞いてよ岩ちゃん!」

「くだらねえ話だったらブットバスからな」

「酷くない!? てか酷いんだよ! ユカちゃん、また俺の試合来れないって言うんだよ!?」

 

 ユカと付き合い始めて最初の公式戦である春高予選、及川は初めて彼女を正面からまっすぐ試合に誘った。が、言いづらそうに生憎その日は既に用事があると断られたのだ。

 聞けば用事というのは試験だという。ユカが受けているフランス語のレベル認定試験は春と秋の年二回実施で、かつ仙台では毎年一度しか同レベルを受けるチャンスがないらしく。今回の実施日は大会最終日にあたる日曜で、更にユカは受験のため東京まで赴くという話だった。ゆえにまるまる試合実施日と重なっており、二日目も三日目も来られないということだった。

「よりによって毎回試合日と試験日が重なるとかなくない!?」

 ユカにそれを告げられた日の放課後、部室に入って岩泉の姿を見つけた及川は開口一番にその事を愚痴って聞かせた。

 対する岩泉は能面のような張り付いた表情で一通り聞くそぶりは見せたものの、ハァ、と終いには深いため息を吐いた。

「及川……」

「なに」

「俺はガキの頃からお前を知ってる。認めたくない事実だが、付き合いは誰よりも長いという事実は変わらねえ。が……」

 そうして岩泉は及川を睨み上げるようにして見据えた。

「お前と栗原の事情は心の底からどうでもいい」

「大切な幼なじみって前振りしといてソレ!?」

「誰が大切っつったよ曲解すんなボゲ!」

 それより早く着がえろと背中を蹴られて、及川はブスッと頬を膨らませた。

「この調子じゃ俺が主将になっても試合来てくんないんじゃないかなァ」

「仕方ねえだろ、試験ならよ」

「そうだけどさ」

 岩泉は本当に愚痴に付き合いたくなかったのかそこまで言うと、パタン、とロッカーの扉を閉めてさっさと出ていき、及川は「ヒドイ!」と岩泉の背中に向けて呼びかけたものの一人きりとなった部室に虚しく響くのみで、ハァ、と息を吐いた。

 岩泉にさえ、及川はまだユカと付き合っていることは言っていない。が、どうせバレていることは百も承知だ。岩泉は気づいていて、あえて何も言ってこない。及川もあまり言うつもりはなかった。岩泉はあれでいてどんな状況でも100%自分の味方をしてくれると信頼しているが。ゆえに何も言ってこないのだと思っている、が。何となく彼は自分とユカの交際に関して好意的ではないように思う。

 ──岩泉はユカを嫌っているわけではない。むしろ中学時代から好意的だとすら思う。が、なぜか岩泉は自分とユカが近づくことに昔から懐疑的……なように思う。そう、まるで──影山の時のように──とうっかり過ぎらせて及川はハッとした。

 いったい自分は何を考えそうになったのだろう? 分からない。と自問しつつ地団駄を踏む。

「なんで飛雄なんかの顔が浮かぶんだよ!」

 ともあれいけ好かない天才の姿が過ぎって自業自得とはいえ胸が悪くなり、及川も急いで着がえるとロッカーを閉じて部室を出て体育館へと駆けた。

 

 

 ──10月21日、第四金曜日。

 春高県予選初日、青葉城西は順調にベスト8まで残り、二日目へとコマを進めた。

 二日目も予定通り勝ち進めば、最終日は決勝。相も変わらず対戦相手は白鳥沢学園である。

 

 一年に数えるほどしか顔を合わせないとはいえ。存在しているだけで人を苛立たせる面構えというのもそうは存在しないだろう。と、三日目、決勝の整列時。ネットを挟んだ反対側にいる宿敵・牛島若利を見据えて及川はコメカミに青筋を立てた。ファックサインでもキメてやりたいが、即刻退場になりかねないため出来もしない。

 今日こそ勝ってやれば、この苛立ちも収まるのだろうか。と及川は挨拶を終えてウォームアップエリアに入った。

 ベンチスタートはいつものことであるが、今日は確実に出番だ。その時はせいぜいお前を狙ってやるから覚悟しとけ。と白鳥沢コートを睨むとうっかり牛島と目が合ってしまった。ギョッとしたものの相手は何食わぬ顔で視線を逸らし、及川は思わず拳を強く握りしめた。

 ──相変わらず腹立つ……! と、沸き上がってくる怒りのボルテージをどうにかパワーに変えようと努める。

 第一セット終盤、先に白鳥沢が20点代に乗せて及川は監督に呼ばれた。

 いまは正セッターではない及川だったが、サブセッター兼ピンチサーバーとして自分は監督の信頼を得ているという自負が及川にはあった。重要な局面を任せられるとは、そういうことに他ならないからだ。

 それに──とちらりと白鳥沢コートを見やる。いま現在、牛島は後衛。狙い打ちしてやる、と交代を命じられてミドルブロッカーの一人と交代をし、及川はエンドラインへと歩いていった。

 牛島のポジションは、オポジット。セッターの対角という意味のこのポジションは、時おりスーパーエースと呼ばれる攻撃のみに参加する選手を置く。ライトという性質上、左利きの選手が多く、牛島もそれだ。

 オポジット故にレセプションには参加しないのが常だが、そうはいかないよ。と、及川は審判からボールを受け取って目線を鋭くした。

 自分への大きな歓声がコート内を包んだ。毎日毎日、数え切れないほど打っているジャンプドライブサーブ。高校にあがってから徐々にコントロールの精度が高まり、今では威力を殺さずにほぼ思い通りのところに打つことが出来る。

 だから絶対、お前のエリアに落としてやる。──と、及川は牛島が取らざるを得ないギリギリを狙ってサーブを放った。

 牛島がサーブレシーブすることには意味がある。体勢を大きく崩させれば、少なくともバックアタックの威力が多少は落ちる。と、及川のサーブを受けて体勢を崩しながらのレシーブだったにも関わらず、白鳥沢のセッターは牛島にトスをあげた。

 青葉城西センター陣がコミットで対応し、それでも突き破って打たれたバックアタックを青葉城西のリベロが何とか拾い、ボールが舞い上がった。

 そしてこれも、自分がピンチサーバーとして入っている意味だ。と及川はボールを目で追いながら内心笑った。サーブを打つ直前、セッターはボールが上がりさえすれば自分にあげるというサインを出していた。

 ──エース以上のアタック力。それも自分の武器だ。と、及川はアタックラインのギリギリ後ろで踏み切って勢いよく白鳥沢コートにスパイクを叩き込んだ。

 ワッ、と着地と同時に歓声が沸く。

 

「いいぞいいぞトオル! 押せ押せトオル! もーいーっぽん!」

 

 自分はセッターとして期待されて青葉城西へ入った。そうして実際の自分をそばで見て、監督はずいぶんとウイングスパイカーで使おうか迷っていた様子だったが、結局はセッターとして残した。なぜなら練習内容が違ってくるし、替えの容易でないセッターのサブは絶対に必要だからだ。

 そうなって心底良かったと思う。自分はセッターが好きで向いていると思ってるし、なにより牛島と同じポジションとなって正面衝突した場合、100%勝てないと悟っているせいもある。と、脳裏に刻み込まれていた台詞が蘇ってくる。

 

『一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ!』

 

 ああ、そうだ。一対一では牛島に勝てない。だからセッターとしてチームで勝とうと思ったのに。

 トス回しでは絶対に勝てない相手も現れたんだった、といま思い出す必要のない影まで過ぎって苛立ってくる。

 

「及川もう一本ナイッサー!」

 

 不意にウォームアップエリアから岩泉の声が届いて、ハッとした及川は強く頷いた。

 いまは目の前の相手をぶちのめす。と、深呼吸してから放ったサーブはエースとなり、今日で一番の大歓声が試合会場にこだました。

 

 

 ──結果。

「ありがとうございました!」

 2-0で白鳥沢学園の勝利が決まり、センターコートは華やかな白鳥沢応援団の歓声で包まれた。

 その裏で、これを最後に引退の決まった青葉城西の三年生は膝から崩れ落ち──主将は目を腫らして表彰式に臨んだ。

 大会MVPとウィングスパイカー賞の両方を手にした牛島を見据えつつ、及川は拳を握りしめた。こうして後方からスポットライトを浴びる牛島を見るのもいつものこと。次こそは、と何度誓ったことだろうか。

 表彰式後に報道陣に囲まれる牛島を後目に、及川は手早く準備を済ませて青葉城西の専用バスに乗り込んだ。車内はいつもに増して神妙な空気が漂っている。学校に戻れば引退式だ。

 

「キャプテン……ッ!」

「お世話になりました……ッ!」

 

 何だかんだ目頭を熱くして涙ぐんでいる岩泉はそんなに上級生に思い入れがあったのか。と、及川は学校の体育館に戻って挨拶を終えたあと次々ともらい泣きを始めるメンバーをどこか冷静に見つめていた。

 そうして慌ただしく引退式を終え、部員全員で送り出し会を兼ねて食事を共にした。

 とは言っても負け試合のあとだ。全員が陰鬱な雰囲気にならないよう努めた食事会は早々に終わり、まとまって帰る三年生を見送って残りは散り散りとなった。

 及川たちはいつもの4人でまとまり、とぼとぼ仙台駅界隈を歩いて何となく帰路を目指す。

「どうよ新キャプテン、いまの心境は?」

 不意に花巻に聞かれて、及川は目線だけを花巻の方へ送った。

「明日からよろしくお前ら」

「すっげー棒読み」

 するとケラケラ松川が笑い、岩泉に至っては頭を叩いてきた。痛いと抗議しつつ及川はピタリと足を止める。

「悪いんだけど、俺ちょっと用事思い出しちゃった。先帰ってて」

 すると3人は一様に目を丸めたものの、特に追及するでなく「そうか」「お先」と及川に背を向けた。

 ふぅ、と及川は息を吐いて携帯を取り出す。──ユカは夜には帰ってくると言っていた。

 いまは19時を過ぎたばかりだ。と携帯のデジタル時計を見つつユカにメールを送る。

 

 ──何時に仙台に着くの?

 ──7時半過ぎかな。

 ──オッケー。じゃあ俺、改札で待ってるね。

 

 ユカは新幹線内で手持ち無沙汰だったのかすぐに返事が来て、及川はそう送り返して携帯を仕舞った。

 相も変わらず気持ちがどこかすっきりしない日ほどユカに会いたくなるもので、こういうとき彼氏彼女という関係になったことは便利だと思った。

 遠方から帰ってくる彼女を迎えに行く、なんて。ごく当然のことだし。とそのまま暮れた繁華街を仙台駅に向かって歩いた。

 駅3階の新幹線改札口まであがってしばらく待つ。日曜の夕方なせいか、遠方から帰ってくる人も多いようでけっこうな賑わいだ。

 往来の邪魔にならないよう改札口やや後方で人波を眺めていると、及川の目に大きなトートバッグを肩にかけたウェーブがかった髪の少女が映って「あ」と及川は組んでいた腕を解いた。ユカだ。

 及川にしても長身に青葉城西男子バレー部のジャージは目立つのだろう。改札をくぐる直前でユカはこちらに気づいたようで及川も笑みで手を振った。

「やっほ。おかえり、ユカちゃん」

「わざわざ来てくれてありがとう」

「試験どうだった?」

 流れで聞いてみれば、笑みを浮かべていたユカの頬がぴくっと撓った。あ、と及川も理由を悟って瞬きをする。

「ちょっと自信ないけど、また再来週に口頭試験あるし、頑張る」

「そ……そっか。俺もダメだったんだよね、決勝」

 そうして流れで今日の試合結果を告げれば、ユカも「そっか」と口籠もり、互いに顔を見合わせてしばし沈黙した。

「ま、取りあえずさ。どっかでお茶でもしようよ。あ……俺は夕飯食べちゃったんだけどユカちゃんは?」

「まだだけど……」

「じゃあご飯の方がイイよね? どっかご飯も食べられるトコ行こうか」

 言いつつ及川はユカの手を取った。そのまま高架歩道に出れば夜の仙台はなかなかいい雰囲気で及川は口元を緩める。

「先輩たち、今日で引退だったんだよね。だから今日、もう引継しちゃったんだ」

「そっか。じゃあ及川くんが新キャプテン?」

「そ」

「北一の時と一緒だね。これからは及川くんが正セッターなんだよね?」

「うん。岩ちゃんとマッキーがウィングスパイカーで松つんがミドルブロッカー。スタメンはまだ決まってないけど俺たち4人は確実だね」

「及川くん、去年からずっと言ってたもんね。花巻くん達はレギュラー確実だって」

 そうして他愛もない話をしつつ人波を抜け、地上に降りようと足を向けた直後に笑みを浮かべていた及川の表情が凍った。と、同時に無意識にピタリと立ち止まり、「え」とユカが戸惑ったような声をあげた。

「及川くん……?」

 ユカがこちらを見上げた気配が伝う。が──及川は正面から目を逸らせずに硬直していた。

 その目線の先には自分よりも長身の少年の姿。紫のジャージに「白鳥沢」の文字。

「ウシワカ……」

「及川か、ここで何をしている」

 ──いま一番会いたくない人物と言っても過言ではない宿敵・牛島若利だ。

「俺がどこで何してようと、なにかお前に関係ある?」

 どうしても無意識に顔が歪んで言葉にトゲが含まれてしまうのは、もはや自分ではどうしようもない。

 牛島は「解せない」と言いたげな顔を浮かべた。

「いや。お前も練習帰りなのかと思ったが……、どうやら違ったようだな」

「ハァ……ッ!?」

 そのまったく邪気も裏もなさげな声に及川は思わずカッとした。牛島の言葉に裏などあるとは思えないが、つまり。真っ直ぐ解釈してジャージ姿の自分を見ていままで練習していたと思ったが、いま現在ユカを連れている自分を見てそうではないと悟った。ということだろう。

 それ以上含みなどないと分かっているのに。──バカにされたように感じて及川は眉を釣り上げる。

「なに? 俺がカノジョ連れてるからって嫉妬!? なんかソレがお前に関係あんの!?」

「ちょ……、及川くん……!」

 少し語気を強めた自分を見て、ユカが諫めるように繋いでいなかった方の手で腕を引いた。

「俺はそんな事は言っていない」

「ああそう。悔しかったらお前も作れば? 白鳥沢なんてチアリーダーからいつもキャーキャー言われてんだろ」

「? チアリーダー部は部の活動として試合に来ているだけで、個人的な接点を持った覚えはないが……?」

「……ッ……ほんっとイチイチ腹立つ……! 行こ、ユカちゃん!」

 そうしてグッとユカの手を握ってさっさと牛島の隣を抜けようとした。が、「及川」と呼び止められ反射的に立ち止まってしまう。わざわざ顔を見たくなくて振り返らないでいると、勝手に牛島が背中に向かって言葉をぶつけてきた。

「まだ先の話になるが……、俺は深沢体育大学へ進学することを決めた」

 刹那、及川の目は反射的に極限まで見開かれた。ふるふると唇が震えたが、一度キュッと結んでからあえて不遜な声を漏らす。

「あっそ。オメデトウ良かったじゃんさっすがスーパーエース様」

「お前はどうするつもりだ?」

「──は? なにお前……どう考えたら俺がもう進学先決めてるとか思えるわけ?」

「決まっているとは思っていない」

 ──クッソむかつく。と、ブチッと及川は自身のコメカミに青筋が立つのをリアルに感じた。牛島の言っていることは嫌味でも何でもなく、事実ではあるが。それでも彼の物言いはこちらの心を無惨に抉ってくるのだ。

「バレー選手として、大学でどう過ごすかが貴重なのはお前も分かるだろう。そこで回り道をすれば、のちに悔いることになるぞ」

「ふーん、スーパーエース様は未来透視能力まであるんデスカ」

「? ただの忠告だ」

 ──そうじゃねえよ。ていうか嫌味だよ気づけよ。と眉を寄せていると少しだけ牛島が遠ざかる気配が伝った。

「及川。今日のサーブ……見事だったぞ」

 じゃあな、と言って去っていったらしき牛島に及川は血が滲むほど唇を噛みしめた。──なにその上から目線。と、投げつけたい言葉をどうにか抑えていると困惑したような声が聞こえてくる。

「お、及川くん……」

 ハッとして及川はユカの方を向いた。

「ごめんユカちゃん」

「い、いまの人が牛島くん……?」

「そう。ほんっとヤなヤツ! 見た、あの不遜な態度!?」

 そしてそう訴えてみれば、ユカは困惑気味に目線を揺り動かしながらそっと及川の手を放した。

「と、とにかくちょっと落ち着いて……! 私、なにか飲み物買ってくるから座ってて!」

 そうして彼女はそばのベンチに座るよう促し、すぐそばの階段を駆け下りて行ってしまった。

 ハァ、と及川は自嘲気味の息を吐いた。我ながら情けない、が。相も変わらず牛島を前にすると感情のセーブが効かない。これは牛島に限った話ではないが。──と牛島とは別の影が過ぎって、小さく舌打ちをした。

 

「お待たせ……!」

 

 及川用にキャラメルマキアートと自分用にカフェラテを携えて高架歩道に戻ってきたユカは、やや腰を丸めてベンチに腰を下ろしていた及川を見つけると歩み寄ってカップを差し出した。

「ありがと……」

 受け取った及川に笑いかけてユカも及川の隣に腰を下ろす。──少しだけユカは既視感を覚えていた。以前にもこんな事があった。酷く興奮した及川を落ち着けるためにココアを買って持っていった。あれは北川第一時代のことだ。そして、あの時の相手は牛島ではなく、影山だった。

 ふぅ、と及川は温かいものを口にして少し落ち着いたのか息を吐いた。

「さっきさ、ウシワカの野郎が言ったじゃん。カノジョ連れてて余裕だな、みたいなさ」

「え!? そ、そんなこと言ってなかったと思──」

「だってそういう意味でしょさっきの! なんかユカちゃんと付き合ってるのが悪いみたいにさー」

「か、考えすぎなんじゃ……」

「別にバレーに支障がでるようなことはしてないし! 確かに今日は白鳥沢に負けたけど! ユカちゃんは……ッ」

 そこまで言って及川はハッとしたように目を瞬かせ、そしてムッとしたように唇を尖らせた。

「ユカちゃんもどっちかっていうとウシワカみたいなカンジだよね。ユカちゃんは絵が一番大事だし、俺のこと好きなのに付き合うのはヤだとか言ってたし」

「い、今はそんなこと思ってな──」

「けど! ウシワカの思惑通りになるのなんて死んでもゴメンだから。俺、一生別れないから!」

 そうして畳みかけるように言われてユカは絶句してしまう。ココア色の瞳は真剣そのものだったが言葉を返せないでいると、ム、と眉が寄せられた。

「なに、不満?」

「そうじゃないけど……。牛島くんの言葉に左右された結果だとしたら不満……かも」

 言ってみると及川は不意打ちを受けたように目を丸め、数秒固まったのちに憑き物が落ちたように頷いた。

「うん。ゴメン。そうだよね」

 その様子を見て、ユカはふぅと息を吐いた。──及川の喜怒哀楽を大幅に揺らす事のできる人間を自分は少なくとも3人知っている。牛島と、影山と……そして自分。かつて自分も多少なりとも牛島や影山と同じような感情を及川から向けられていた。故に自分たちは気が合わないのだと、及川には嫌われているのかとすら思っていた。

 けれども違った。自分の例が他の2人に当てはまるかどうかは分からないが、少なくとも、及川はきっとあの2人に惹かれるものがあるのだろう。

 それに──。

「前に及川くんも言ってたけど……、牛島くんってホントにもう大学決まっちゃってるんだね」

「ま、ムカつくことに全国トップレベルのアタッカーだからねアイツ」

「及川くんはイヤだって言ったけど……、だったら一度くらい同じチームでやってみるのも悪くないんじゃないかな」

「またユカちゃんはそう言う……。あのね、俺、キライなんだけどアイツ」

「さっきの及川くん見てて、思い出したの、中学の時のこと。及川くん、私にもいつもあんな感じだったから……私、ずっと嫌われてると思ってた」

 すると及川は、う、とバツの悪そうな顔を浮かべた。

「だから……」

「ユカちゃんとウシワカ野郎はぜんっぜん違うから! 俺がウシワカ好きになるとかあり得ないから! ていうか止めてよね気味悪い」

 そうして心底嫌そうな顔をしたため、ユカはそこで口を噤んで肩を竦めた。

 及川がこの先どう進むのか。今日、主将に就任したばかりの彼に問うのも酷というものだろうか。けれども牛島は実際にもう自分の進路を決めていて、自分だって決めている。

 決めるのは及川本人だが、及川が本当に心から望んだ道へ行って欲しい思っているのに。とギュッとカップを握りしめていると「寒い?」と訊かれてユカは首を振るった。

「ううん、大丈夫」

 すると及川は不満げに頬を膨らませた。

「及川さんにくっついたらあったかいよ、って言おうと思ったのに」

 思った、ではなく、もう口にしているではないか。という突っ込みは何とか喉元に留めてあっけに取られたユカは、次いで小さく肩を揺らした。

「なんで笑うのさ……」

 及川は少しバツの悪そうな表情を浮かべたあとに、じゃあ、と言いづらそうに言った。

「俺が寒いからくっついていいデスカ?」

 ユカは小さく頷いてからそっと及川との距離を詰めてぴたりと身体を寄せると少しだけ頭を及川の肩に乗せた。

 及川が自身の内側の手をユカのそれに重ねて、うん、と頷く。

「あったかいね」

「そうだね。もうすぐ11月だし……寒くなったよね」

 夜の電光が明るく辺りを照らしている。

 相も変わらず行き交う人は途切れ知らずで、2人はしばらくの間そのまま道行く人の波を眺めていた。



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31話:及川徹の後輩の影

 秋の大きなイベントは、文化部にとっては文化祭──。

 と言いたいところであるが、生憎と青葉城西は今年は体育祭の年である。

 

 11月3日の文化の日に行われた体育祭の目玉の一つは、三年引退後に新メンバーへと移行した部活紹介であった。それは春高県予選以降に新チームに移行した男子バレー部もむろん例外ではなく。

 及川が競技に出場するだけで女生徒からの歓声を集めるなどもはや恒例行事だったが、男女混合で行われたバレー部の紹介はその比ではなかった。

 

 そのすさまじさを改めてユカが実感したのは週明けの月曜日だ。

 体育祭翌日の金曜日は振り替え休日で、週末はそのまま東京にフランス語の試験を受けに行っていたユカはいまいちな手応えに失望しつつ気持ちが晴れないまま登校した。

「おはよ、栗原さん」

「おはよう、花巻くん」

 後ろの席の花巻と挨拶を交わしつつ席に座る。いつもなら大抵はスイーツを頬張っている花巻が今日はなにも食べていないのは月曜日だからに他ならない。男子バレー部は朝練も含め月曜は完全オフだからだ。栄養補給する理由がないのだろう。

 そのまま一、二限目を終えての中休み。ユカが次の授業の用意をしてるとクラスの女子が数人ほどそばにやってきた。

 何だろうと目線をあげ追えば、彼女たちは花巻の席を取り囲むようにして立ち、彼を見下ろしている。

「花巻、ちょっと聞きたいんだけど」

「なに?」

「及川君と女子バレー部の主将ってもしかして付き合ってたりする!?」

 え、と思わず手に持っていた教科書を落としそうになってユカは慌てて堪えた。反射的に後ろを向けば、目に映るのは取り囲まれていてさえ普段通りの花巻の淡々とした表情だ。

「さあ……、違うんじゃないの」

「でも仲良くない?」

「そりゃ女バレだから仲はいいデショ普通に」

 花巻の淡々とした声が漏れてきて、女生徒達は腑に落ちないといった声を漏らしていたが最終的には「そっか」「分かった」等々を口にして自分たちの席に戻っていった。

 ふ、と肩を落としたらしき花巻の小さなため息が漏れ、うっかり振り返ると目が合ってユカの胸がドクッと脈打った。対する花巻は、やれやれ、と言いたげに肩を竦めている。

「同じ質問、体育祭が終わったあとに別の女子にも聞かれたんだよね」

 どうやら少し愚痴りたいのだと理解して、ユカは「そうなんだ」と相づちを打った。

「及川が主将になって、何かと女バレの主将と話すことが増えてさ。主将会議とかで。そのせいで女バレの主将からも女子から絡まれて鬱陶しいって苦情がくるしアイツも災難だと思うわ」

「そ、そう……」

 ユカは無意識のうちに持っていた教科書を強く握りしめていた。

 男子バレー部と女子バレー部の関係はまったく知らないが、確かに体育祭では部員全体が仲良さそうにバレー部を紹介していたのは事実だ。

 男子バレー部の練習を見に行ったことはないが、もしかしたら一緒に練習することもあるのかもしれない。

 が──。主将同士というだけでさっそく余計な注目をされるとは。北川第一時代から分かっていたことであるが、学校関係者の近くで及川と親しく話すのはやっぱり難しいことなのかもしれない。と、重い息を吐いた。

 

 一方の及川は──。

 主将も二度目となれば既に板についており、部を仕切ること自体には何の苦も感じていなかった。

 そもそも北川第一よりは規模の小さい部であるし。ていうか北川第一のほうがよほど大変だった。部長は初めてだったし、いけ好かない一年は入ってくるし。と脳裏にうっかり影山の神懸かり的なトスが過ぎって、そしていま自分があげたトスの軌道が脳裏の影山のトス軌道とズレて、チッ、と舌打ちをした。

「及川、もうちょい上頼む」

「ほーい」

 打った松川に言われて返事をしつつ、思う。──影山のトス技術は完璧に近い。けれどもその影山の技術に大抵のスパイカーは付いていけない。影山の望むような攻撃には繋げられないだろう。──ナショナル、あるいは世界に出れば話は違うかもしれないが。あいにくと彼がいるのは日本の宮城県の中学の部活だ。

 セッターに必要なのはスパイカーの最高の攻撃力を引き出すこと。岩泉なら岩泉の、花巻ななら花巻の、もっとも打ちやすいトスをあげる。その見極めが影山には出来ていないからこそ、あの結果に繋がったのだ。──と及川は夏に観たあの「最悪の試合」を思い返して舌打ちをした。

 ──バカだね、飛雄。

 脳裏に浮かんだ彼の項垂れた姿に何度も投げかけた一方で、自分ならば影山の望むように打ってやれるのでは、とも何度も過ぎらせては掻き消してきた。

 影山は天才だ。そして歳の近い彼が頭角を現せばいずれは自分の脅威になる。だからこのまま潰れてくれればそれが一番いい。

 いっそバレーを辞めてくれれば。──そうドロドロと胸中を巡る感情が渦巻いているのに。ああイヤだ、と思う。

 あの指先から放たれるトスはいつだって美しくて、腹が立つほどに目が離せない。真っ直ぐな瞳がいつだって自分を見据えてきて、こっちは天才になんて太刀打ちできないと分かっているのに、なのに真っ直ぐにいつだって自分を追いかけてきて呼ぶのだ。及川さん、と。

 どうせいつか追い抜いて、あっという間に自分の事なんて忘れてしまうだろうに。

「──川、及川」

 一通り今日の練習メニューをこなし、終了時間になって終了を宣言して汗でタオルを拭っていると、ふと声をかけられて及川はハッとした。

 すれば眼前には監督がいて、及川はいつも通り人懐っこい笑みを浮かべてみせる。

「すみませーん、ちょっと考え事しちゃってて」

 監督は挨拶後にはたいていすぐ体育館を出てしまうが、残ったということは話があるのだろう。

 部員達も察したのか次々と「お疲れっしたー」と出ていって、あっという間に2人だけのシンと静まった空間が出来上がった。

「来年入ってくるだろう新一年生についてなんだが……。例年通り北川第一の生徒もウチに来るだろうな」

「ああ、そうですね。レギュラーが全員来るかは分かりませんけど……」

「うむ。いまウチには長身のセンターがいない。そこで金田一勇太郎君には推薦を出そうと思っているんだが」

「へえ、いいんじゃないですか。素直なイイコですよ、彼」

 瞬間的に、及川は監督が今冬に推薦という形で青葉城西に誘う生徒の情報を直属の先輩かつ主将であった自分に聞きたいのだと理解して笑った。

 ──とはいえ、あの世代と接したのは数ヶ月であるし詳しい人となりは知らないが、それでも直属の後輩だ。悪く言うはずもない。

 もしかして自分の時も彼は自分の北川第一の先輩にこうして質問していたのだろうか。だとしたら先輩達はどう答えたのだろうと思考を巡らせてちょっとだけ面白く感じていると「それと」と監督が切り出した。

「溝口コーチとも話し合ったんだが、もう一人……。影山飛雄君を是が非にでもウチに欲しいと考えている」

 瞬間、ドクッ、と及川の心音が嫌な音を立てたが、それでも及川は何とか笑みを作った。

「飛雄を……ですか」

「うむ。彼のセットアップ技術は中学生にしてほぼ完成していると言っていいだろう。総合的な力も申し分ない」

「トスは昔から上手かったですケド……。先生、観ました? 中総体の県予選」

 うむ、と監督は頷いて渋い顔をした。おそらく彼も、あの決勝を観たのだろう。

「飛雄と金田一をまた同じチームにして……上手くいくかは俺には分からないですよ」

 答えつつ、グ、と及川はタオルを握りしめた。

 来春になれば新一年生が入ってくるのは避けられない事で、その中に北川第一時代の後輩も含まれているなど今さらだ。その中の一人が影山である可能性は割合としては大きいはずで、監督が影山に興味を示したとしても驚くことではない。と、必死に自分に言い聞かせて笑みを保つ。

「金田一君はおそらくセンターでは即戦力になるだろう。そうなればトスをあげるのはお前だ。心配いらんだろう」

 すれば監督がさも当然のように言って、及川は少し目を見開いた後に心底ホッとした。そして、心底ホッとしている自分に呆れてしまう。仮に影山がセッターとして入部してきたとしても、主将の自分が正セッターの座を追われるなんてあり得ないのに。よしんば、1000%ありえないが、よしんば影山が自分の実力を上回っていたとしても、この監督はそういうタイプだ。が……やはり自分の中で練習試合とはいえ影山とセッター交代させられた記憶は苦く残っているらしい。

「が、影山も即戦力にはなる。矢巾には悪いが……、矢巾のセッターとしての能力は影山には到底勝てまい」

「それは……まあ。矢巾にはカワイソウですけど、飛雄は才能だけはありますからネ」

 及川はどこか人ごとのように言った。影山が入部すれば、自分の後釜は矢巾ではなく影山という事だろうか。──当然だな、と無慈悲なほど及川は即座に納得した。

 自分に降りかかれば恐ろしく無慈悲な出来事だと思うだろうが、外から見ている分には実力主義の世界として当然だと思える程度にはしっかりスポーツのなんたるかはインプットされていて。

 本当、心底厄介なのは自分という人間の性格だと改めて感じてしまう。

「中総体の県予選で、影山はスパイカーに無茶なセットアップを繰り出していた。それが決勝では残念な結果に繋がったのは百も承知だ。が……及川、お前であればあのトスを打てるんじゃないかと思ってな」

「え……、俺がですか? 打てるんじゃないですかー? 俺だったらそもそもあんなナメたトス出させませんからネ」

 及川はあえてヘラッといつものように軽く言った。が、これが失敗だったのか監督は何か確信したように「うむ」と頷いた。

「そこだ。お前なら影山をうまく使ってやれるだろう。もし影山がうちに来れば、北一の時と同様、主将としてセッターとして目をかけてやって欲しい」

「──は? ちょ、ちょっと待ってくださいよ先生。俺が飛雄に……って、俺が3年の時は飛雄は部に入ったばかりで、馴染む間もなく俺は引退したし、面識はありますけど仲がイイわけじゃないですよ」

「中学ではそうだったかもしれんが、高校だとお前は秋まで残るだろう?」

「ですけど……」

「影山が入れば、お前は打てる機会が増える。白鳥沢に対抗する手段が増えるということだ」

「それは──」

「2年前の白鳥沢と北川第一の試合は今でもよく覚えている。2-1の接戦だった。北川第一が初めて白鳥沢を追いつめた試合と言ってもいいだろう。あの時、もし北川第一にもう一枚強力なスパイカーがいれば……勝てた可能性はグッと上がっていたはずだ」

 言われて、グッ、と及川は言葉に詰まった。

 監督は影山を即戦力のレギュラーとして迎え入れたいつもりらしい。そして、彼は自分の高校生活最後の公式戦となるだろう春高の事までも見越している。しかも──。

「それは……まさか飛雄をセッターにして俺にウィングスパイカーになれって事ですか?」

 及川は解釈したままに、あえてニコッと笑って感情を目一杯抑えて明るく言った。

 うーむ、と監督は顎を撫でる。

「及川、お前の長所は総合力だ。サーブもスパイクも申し分ない。見たところ影山もそのタイプのようだ……。ブロック、スパイクモーション。どれを見てもお前にとても似ている」

「でしょうネ。あれでも可愛い可愛い俺の後輩ですから」

「及川……俺は現時点でお前が影山に劣っているとは思わない。正セッターとしてお前を変えるつもりもない。だが……影山が入れば攻撃のパターンが何倍にも跳ね上がる。それは影山が攻撃力も備えたセッターだからだ」

 お前と同じな、と念を押されて及川は少し目線をそらせた。

「いずれにせよ……お前次第だ。お前と合わなければ影山は使わない。が……お前が3年になる来年が一番のチャンスだ。かつて北川第一が白鳥沢に肉薄したように、白鳥沢を抑えて全国へ行くためのな。全国へ行く……というのはお前にとっても将来がかかっていると言っていい」

 及川は返事に窮した。監督はおそらく自分が抱えている畏怖──自分の立場が影山にすげ替えられる──も見抜いて不安材料を取り除いた言い方をしてくれている。

 笑って「そうですね」と言えばいいのだろうか。そうだ。それが無難のはずだ。と精一杯笑みを浮かべて及川は「そうですね」と答えた。

 監督も満足したのか一度深く頷いた。

「まあ、まずは影山がウチに来てくれんことには話にならんがね」

 言って監督は及川に背を向け、ふ、と及川は肩の力を抜いて近くの壁にもたれ掛かった。

 

『及川さんいるなら、俺も青城考えます』

 

 何度も何度も考えた。

 影山が青葉城西に入ってきたら、自分はまた北川第一時代を繰り返してしまうのだろうか、と。

 あの才能が怖くて、はね除けるだけだった日々。一度もあの真っ直ぐな瞳に向き合えずひたすら避けていた、彼にとっては嫌な先輩だっただろう自分。

 

『ウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 

 影山は自分にとっては「敵」で、牛島と同じようにコートの反対側にいる叩き潰したい相手に他ならない。

 でも──もしも違ったら?

 

『バレーはコートに6人だべや!?』

 

 もしも影山が「仲間」だったら。

 腹の立つことにアタックも上手い影山の事だ。自分のトスで完璧なスパイクを決めてしまうだろう。

 そして自分が後衛にいたら。きっと影山は絶妙のタイミングで完璧なトスを上げてくれて、気持ちいいスパイクが決められる気がする。

 そしたら「ナイストス、飛雄!」とか声をかけたりしてハイタッチしたりするのだろうか。──と一瞬、12歳の頃の影山が嬉しそうに自分のハイタッチを受ける姿が過ぎって及川の全身に鳥肌が立った。

「ギャーキモイ!! なに考えてんの俺、気持ち悪い!! 無理!!」

 思い切り体育館にこだまする声で叫びつつ頭を掻きむしる。

 余計なこと考えてないでさっさと今日のサーブ練習をやろうと立ち上がり、ボール籠を抱えて、ふぅ、とため息を吐いた。

 一定のリズムで打っているといつものペースが戻ってきて、だいぶん気持ちも落ち着いてくる。

 ──先輩と後輩。

 もしも影山が本当に自分のあとを追ってきたら。そうしたら今度は上手くやれるだろうか。北川第一の時にはやれなかった事を……と無意識に考えつつ肩で息をする。

 いや、やはり無理かもしれない。

 自分はやはり、「天才」という存在に胸中を乱されるし、今でも思い出すだけで天から与えられた指を持つ影山が羨ましくて仕方ない。けれども。

 もしも、何かが変われば──と及川の思考は乱れていく息で徐々に消されていった。

 

『飛雄が俺の後輩であることと飛雄が俺の敵だってことは俺の中で矛盾なく成立してるからいいの!』

 

 あの「最悪の試合」を観たあと、ユカに無茶苦茶な事を言い放った自分の言葉が遠くで響いていた。

 

『飛雄は単に一人で何とかしようとしすぎなだけだよ。あいつ……天才だから勝手に周り置き去りにしてくんだろうね。金田一たちは、後輩たちは飛雄の進む早さで歩いていけない、だってあいつ天才なんだから。けど、飛雄にはそれが理解できない』

『飛雄の方が金田一たちに合わせなきゃなんないんだよ。そもそもそれがセッターの仕事なんだし。まったくおバカな方向に突っ走っちゃってサ、あんなヤツを脅威に思ってた自分がバカらしくなってくるよまったく』

『けど……! トス無視は、胸が悪い。どんな理由があっても、だよ』

 

 ユカはやや呆れ気味に、影山に直接言えばいいのに、と言った。

 もしも影山がまた自分の元に来れば……今度は上手く伝えられるのだろうか?

 「良い先輩」とやらになれるのだろうか。

 

『あんなイヤな試合だって二度とさせないよ』

 

 今度は──、今度こそは。

 そんな答えのでない葛藤を続けながらも新チームの組み立てや日々の勉強に追われる及川はそのことだけを考えている余裕など到底ない日々を送った。

 

 そうして月末が近づいてくれば例年通りの例のイベントがやってくる。

 そう、期末試験かつそれに伴う試験前の部活禁止期間である。

 

「あのさー、一つ文句言っていい?」

「黙れクソ及川」

「まだ何も言ってないじゃん!!」

 

 11月最終月曜日。

 中学の頃からのお約束となっている及川、岩泉、ユカによる勉強会は今回からは3人のそれぞれの家の中間地点である岩泉の家でやる事が決まり、ダイニングテーブルで教科書類を広げているわけであるが。

 及川が定期的に愚痴をこぼしては岩泉にどやされるという様式美も例年通り繰り返されていた。

 

「バレー部のオフって月曜だけだしー、試験前って貴重な時間なのにさー」

「ウルセー」

「毎週デートしてるわけじゃないしー、二人っきりのラブラブお勉強会でもよかったのにさー、よりによってなんで岩ちゃん家で──」

「うるっせえつってんだろが!」

 

 バン、と強烈な音と共に岩泉の放った分厚い歴史の教科書が及川の顔面にクリーンヒットして及川は悶絶した。

 隣でユカはもはや苦笑いを浮かべるしか術はない。

「ウチに来てもらっても良かったんだけど……」

「俺んちに来ればいいじゃん! 岩ちゃん抜きで!」

「おめーが帰れや!! つーかオマケはお前だっつーこと忘れんな!」

「──ッた!」

 岩泉は駄目押しとばかりに公民の教科書さえ及川に投げつけ……いったい彼らはこの手のやりとりを何年続けてきたのか。17時を過ぎて仕事から帰宅したらしき岩泉の母親が及川を見てさも当然のように「あら徹君いらっしゃい」と笑顔で言っていたため、少なくともこの空間に及川が居ることは岩泉家にとっては普通のことなのだろう。

 そんな2人に混ざる奇妙さも既に慣れたもので、ユカは中学の時と変わらない姿勢で岩泉に重点的に理数英を教えていった。

 勉強に関してもある程度は要領のいい及川と違い、岩泉は真面目ではあるものの成績の伸びはいまいち良くない。赤点となれば部活停止処分等々の恐れがあるため彼も必死なわけであるが、高校になって難易度は年々上がっているという。

 大学受験に向けておおよその生徒が授業に付いていこうと学習塾に通う等々の時間を部活にアテているのだから致し方ないといえばそうなのだろうが。

 岩泉は大学受験はどうするのだろうか。と、そんなことも過ぎらせつつそろそろ夕食の時間という頃合いでユカたちは岩泉の家から引き揚げることにした。

「おじゃましました」

「じゃーね岩ちゃん、また明日」

「おう。じゃあな」

 挨拶をして岩泉の家を出れば、既に外は真っ暗だ。肌寒い冬の風が不意に襲って、ブル、とユカは唇を震わせた。

「さむ……!」

 言って巻いていたマフラーに口元を避難させるようにして埋める。

「もう12月だもんねー」

 及川が軽く笑いながら手を繋いできて、ユカも自然とその手を繋ぎ返した。及川の家とユカの家は岩泉の家を挟んでほぼ正反対であるためすぐに分かれ道が来たが、及川は家まで送っていくと言ってユカも素直に受け入れた。

「光のページェントって今週末からだっけ? 今年も行っちゃう?」

 何気なく及川がそんな事を言って、ああ、とユカも去年の事を思い出した。去年は──そうだ。クリスマスにサンタに扮した及川が突然プレゼントを持って現れて、成り行きで一緒に出かけることになったのだ。

「あれからもう一年か……」

「早いよね。ほんとあっという間」

「及川くんにマグカップもらった時はびっくりしちゃったけど、あのカップすっごくお気に入りなの。あれから毎日、コーヒーを飲むときはあのカップ使ってる」

「ホント? 俺ってば愛されてるね!」

 すれば及川はいつもの調子でニコッと笑ってピースをし、ユカは一瞬固まったものの取りあえず頷いた。気に入って使っているのは本当だし、まあいいか、と同じく笑みを浮かべていると及川はなお言った。

「俺、去年はあれをペアで買うかすっごく迷ったんだよね。ま、結果的に俺もバラで買ったからペアといえばペアだけど。今年は最初からお揃いでなんか買う?」

「え……?」

「クリスマスじゃーん。どっか行きたいところとかある?」

「え……。で、でも、及川くん部活なんじゃ」

「部活だけど夜は空いてますぅ。だいたい週末だよ今年のクリスマス。部活早く終わるって」

「──あッ!」

 週末、という単語にピンと来て、ユカは思わず足を止めた。

 「え、なに?」と及川がきょとんとして聞き返してくる。

「あの……、確か、連休なんだよね今年のクリスマス。ちょっと前に12月の連休は温泉でも旅行に行こうかってお父さんが言ってたの。だから……」

「えッ──!?」

 記憶を手繰り寄せつつ言ってみると、ピシ、と及川が凍り付いた。

「……じゃあ大晦日は……」

「……えっと……東京に帰ってると思う……」

「デスヨネ」

 少しだけ沈黙が続いて、ユカはさすがに申し訳なさがこみ上げてきた。いまは部活停止期間であるし、試験が終われば及川は来月に控えている新人戦に向けての練習でオフを返上してバレーにかかり切りだろう。なにせ初めて青葉城西の主将として臨む大会だし──と過ぎらせてユカの脳裏に苦い思い出が過ぎった。

 3年前の冬のことだ。及川は同じように北川第一の主将として初めての試合に臨んだ。そこで白鳥沢に負けてからの数ヶ月間、いっさい笑みを見せることがなくなったのだ。

 あの時は牛島の事や、直後に入学してきた影山のことなど色々あって及川も追いつめられていたのだろう。が、自分はそこまで及川と深く関わっていたわけではないし、何より岩泉が極力自分を及川に近づけないようにしていてなかなか会うことすら叶わなかったため、詳しい事情は知らない。

「ユカちゃん……?」

 及川だってもう3年前の及川と同じではないはずだし、過去の繰り返しになどなるわけがないが──と思案していると及川が慌てたような声を漏らした。

「ゴメン、家族旅行ならしょうがないって。俺ぜんぜん気にしてないから!」

 及川は自分が責めるように言ってしまったと誤解したのだろう。

 ううん、とユカは首を振るった。

「まだ旅行が決まったかどうかは分からないし……。その、私も会いたい、から」

 そうしてギュッと握った手に力を入れると、及川は少しだけ目を見開いてから小さく笑った。

「うん。一分でも会えるなら会いに行くし、会えないなら電話する」

「──うん」

 空いていた及川のもう片方の手がユカのマフラーに触れて、ユカは瞳を閉じた。露わになった唇に及川の唇が触れた感触が伝い……温かい、と胸が熱くなる。

 

 このまま何ごともないといいのに──。

 

 そんな思いとは裏腹に、試験明けの及川は朝から晩までバレー一色の日々を過ごした。

 及川が主将に就任して以降、部活見学に来る女生徒がますます増え、終いには地元テレビ局が大会直前の取材にまでやってきて騒がしさと華やかさが何倍にも増した。

 が、及川自身は新人戦は新チームの腕試しと割り切ってもいた。

 むろん優勝は狙っているが、優勝したところで新人戦は県大会止まりである。

 ──先を目指すならば全国に行かなければ意味がない。

 そんな思いと、ただひたすら白鳥沢を凹ませて潰したいという思いとの間でせめぎ合っていた。

 

『白鳥沢に、牛島くんに勝ったら……そのあと及川くんはどうするの?』

 

 白鳥沢を倒したあと──そんなこと長らく考えていなかった気がする。

 昔は考えていたのだ。白鳥沢とか牛島とかそんなの関係なく、「全国へ行きたい」「もっと大きな舞台へ」そう思っていた。

 でも──。

 

『俺が俺がってうるっせええ!!!』

『一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ! けど、バレーはコートに6人だべや!?』

 

 あの時から、岩泉や仲間と共に「個」では到底叶わない「天才」を撃破することが第一目標に切り替わった気がする。

 チームなら、岩泉と一緒ならどんな「個」が相手でも勝てると。どう足掻いても牛島や影山といった天賦の才には勝てないと絶望していた自分が拾い上げた希望の光。それこそが真実だと、証明してみせたかった。

 そして言ってやるんだ。「どんなに上手くても、一人じゃ勝てないんだよ」と。

 だから──。

 

『もし牛島くんと同じチームだったら及川くんももっと強くなれるんじゃないかな』

『影山が入れば攻撃のパターンが何倍にも跳ね上がる』

 

 もっと大きな舞台へ──。それが叶った究極の先で、牛島と同じユニフォームを着ている自分など想像したことすらなかった。

 まして、影山と同じコートに立つなんて考えることさえ拒否していたように思う。だって、アイツは「敵」。後輩であっても、それは変わらない。

 でも。もしも再び影山が自分の後ろに現れたら……、今度は良い先輩でいられるのだろうか。

 やり直せるのだろうか……。今度は真っ直ぐ彼と向き合って、逃げずにあの真っ直ぐな視線を受け止められるのか。

 

 今度は──、今度こそは……。



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32話:及川徹と”クソ可愛い後輩”

「しーらとりざわ! しーらとりざわ!」

「いっけーいけいけいけいけ青城! おっせーおせおせおせおせ青城!」

 

 ──新人戦、最終日。12月19日。

 最終日は月曜ということもあり観客はいつもより少なかったものの、両チームの応援席は張り合うようにそれぞれの声をぶつけ合っていた。

 それでも白鳥沢のチアリーダー部を含めた大応援団の華やかさは圧倒的で、応援に後押しされるように白鳥沢はいつも通り青葉城西を圧倒した。

 白鳥沢は牛島が入部した時から牛島をスーパーエースとして牛島中心のチーム作りをしてきた。オマケに白鳥沢は来月の春の高校選抜全国大会を控え最終調整段階だ。新人戦ゆえに当然ながら白鳥沢の3年生は出場していないが、既に3年生が引退して新メンバーになったばかりの青葉城西とはチームとしての完成度が桁違いだった。

 及川にとっての大本命、そして「ラストチャンス」は来年のインターハイ予選である。──そう自覚していた及川は準優勝に甘んじるといういつもの結果を普段よりは冷静に受け止めていた。

 それでも悔しくないかといったらむろんそうではなく。試合後はいつもの4人で自棄食い大会と反省会に長々と時間を費やし、翌日からはいつものハードワークに戻った。

 ──12月22。木曜日。その日は一年で一番夜が長い日だった。

 祝日である23日と週末が重なる今年は終業式の日でもあり、及川はいつもより早めに自主練習を切り上げた。

 さすがに終業式の今日はユカは夜までは残らなかったらしく、一人での帰宅だ。

「うー……、お腹空いた」

 帰宅したら夕飯が用意してあるとはいえ、仙台駅で食べ物を購入しなかったことを及川は地下鉄に揺られながらやや後悔していた。

 手持ち無沙汰で携帯を見やり、なにげなく既に読んでいた花巻からのLINEを開く。何でもローソン新作のシュークリームを痛く気に入ったらしく、写真付きでいかに美味だったかが淡々と綴られており、「んー」と及川は思案した。

 いつもより早く帰ってきたし、ちょっと遠回りになるけど行ってみるか。と、最寄り駅についた足を自宅ではなくローソン側へ向けて歩き出す。

 すっかり日の暮れた中、白い息を吐きながら辿り着いたローソンでは温かそうな肉まんにうっかり浮気しそうになったが予定通りシュークリームを購入してさっそく頬張ってみた。

 ホイップクリームとカスタードの程良い甘さが口に広がって、100円程である程度の満足を得られるのだからやっぱりコンビニは便利だよな。と、花巻に「美味しかったよん」とスタンプ付きで送って自宅への道を歩き出す。

 普段通っていない道とはいえ、一応は地元だ。迷う事はないが──とポケットに手を突っ込みながら歩く。時おりすれ違う人々も寒そうにコートを着込んでおり、今夜は冷え込むかな、と登っていく白い息をぼんやりと見ていたその時。

 ふいに前方の路地から黒い影がヌッと現れて、及川は眉を寄せた。暗がりではっきり見えないが学ランの学生のようだ。

 うわぁ、コートもマフラーもナシだ。と、寒そうな出で立ちにうっかり自分まで鳥肌が立ってしまったと頬を引きつらせる。

 案の定、一分もしないうちに前方の学ラン少年は盛大なくしゃみをして、いっそ同情した。が──その学ランの少年が街灯に照らされた瞬間、及川は目を見開いた。

「──と、」

 飛雄!? と言いそうになった口を慌てて塞ぐ。──短髪にさらりとした黒髪のその少年は紛れもない影山飛雄だ。及川は口元を引きつらせた。影山とは同じ中学出身なのだから、家もそこそこ近いはずで。別にこの界隈を影山が歩いていてもなんら不自然ではないのだが。

 なんで寄りにも寄って……と眉を曲げる及川の脳裏は、このまま分かれ道まで気づかないフリをしよう、と思う心と、話しかけようか、と迷う心に二分された。

 影山と話す事など特にないが、監督が影山に推薦を出すと言った以上は影山の進路も気になるし。それに──、と考えている先でまたも影山がくしゃみをして及川は舌打ちをした。そうして自分のマフラーに手をかけるも、どう声をかければいいのか。話をするのは2年ぶりだし……と出した答えは、やっぱり昔のままで接するという事だった。

「おやー? そこにいるのはトビオちゃんかな?」

 努めて軽く後ろから声をかけると、ビクッ、と影山の背が露骨に反応したのが分かった。

 何だよその反応。とイラッとするも、ゆっくりと振り返った影山は大きく目を見開き、顔を引きつらせるのが見えた。

「……及川、さん……?」

「やっほ。トビオちゃん久しぶり!」

「……ッス」

 明るく手を振ってみるも、影山は心底嫌そうに目を逸らし及川はムッと唇を尖らせる。

「なにその態度。久しぶりに先輩に会った態度がソレ?」

 2年前までの影山は少なくとも自分が声をかけて嫌そうにすることなどなかったというのに。いったいこの2年で何があったのか。まさかこの鈍い影山ですら自分が邪険にしていたことについに気づいてしまったのだろうか。と自分でも理不尽だと分かっていながらイライラしていると、影山は今度は2連発でくしゃみをして及川はため息を吐いた。

「お前ね、こんな寒い日にそんな格好とか東北の冬ナメてんの?」

 そうして自分のしていたマフラーを首から引き抜いて、ふわ、と影山の首にかけてやった。

「……?」

「それしてな。見てるこっちが寒い」

「……。あざっす」

 影山は腑に落ちないという顔をしたが、逆らっても無駄だと悟ったのだろう。何より本当に寒かったに違いない。素直に頭を下げて及川も頷くとそのまま影山の隣に並んだ。どの道、帰り道はある程度は同じだ。

 無言でそのまま歩いていると、ぼそりと影山が口を開いた。

「……先週末……、新人戦観ました。日曜だけですけど」

「へえ、来てたんだ」

「及川さんのサーブ、相変わらずかっけーです」

「そう。アリガト」

「あのドライブサーブ、どうやってコントロール効かせてんですか!?」

「あのね、飛雄。お前、俺の顔見たらサーブのこと訊かなきゃ死んじゃう病気にでもかかってんの?」

 2年前とまったく同じ発展性のない会話に及川は肩を竦めた。けれどもほんの少しだけ、なぜか嬉しいと感じた。なにも変わっていない……と、そう感じたせいかもしれない。

 なんだ変わってないじゃん。飛雄はやっぱり飛雄のまま。「コート上の王様」なんかじゃなく「及川さん」「及川さん」ってうるさかったあの12歳の頃となにも変わってない。──と過ぎらせつつ及川は影山に視線を流す。

「飛雄、ウチから推薦来てるよね? 一応試験はあるけど、岩ちゃんでも受かったんだしお前でも受かると思うよ」

「え……」

「ま、教えてはやんないけど練習くらいなら見せてやっても──」

 言いかけた及川の言葉を遮るように影山は立ち止まってキョトンとした。暗闇に紛れるような漆黒の瞳が真っ直ぐ及川を見上げてくる。

「俺、推薦断りました。青城には行きません」

 え──と及川は大きく目を見開いた。まさか彼が断っているなんて完全に予想外で、直後、反射的に何故かと影山に問い質してしまう。

「俺、白鳥沢に行きます。今の県下ナンバー1は白鳥沢だし」

「なッ……なんで、お前、白鳥沢から推薦来てんの!?」

「いや、来なかったんで……試験受けようかと……」

 すると影山が言いづらそうに目線をそらし、おののいていた及川は少しだけホッと息を吐いた。影山に「は」推薦は行かなかったのだと知れて少し余裕も生まれたのかもしれない。

 及川は腰に手を当て、呆れたような口振りで言った。

「あのね飛雄、お前の頭で白鳥沢に受かるとでも思ってんの? 白鳥沢って県最難関だよ知ってんの?」

「う、受けてみなきゃ分からないじゃないですか」

「分かるよ。俺、お前がおバカなの知ってるし。で、どうすんのさ。お前どっちみち白鳥沢は落ちるからウチしか選択肢ないじゃん」

 口籠もる影山の額を指で弾けば、ぐ、と影山は言葉に詰まって唇を噛んだ。当然だろう。白鳥沢に行きたいという理想はともかく、現実的に彼が試験を突破するのはほぼ無理だ。そんな悪あがきをしたあげくに結局は青葉城西に来る羽目になるのだから最初からそうしとけばいいのに。と肩を竦めていると、影山は背負っていたビニールバッグの持ち手を掴み直しながらこう言った。

「白鳥沢に受かんなかったら……、俺、公立受けるからヘーキです」

「──は? 公立? なにバレー辞めんの?」

「? いや辞めないですし、烏野ってとこですけど」

「烏野……」

 言われて及川は眉を寄せた。確かにそんな名前の公立高校が県内にあった気がする。対戦した覚えはないが、確か5年以上前は県内屈指の強豪で強かったという話は聞いたことがある。

「思い出した。今じゃせいぜい県ベスト8ってトコじゃん。お前……そんなにウチが嫌なワケ?」

「? 嫌とかじゃなく、フツーに白鳥沢行きたいです。烏野は……強豪時代の監督が復帰するって聞いたんで、白鳥沢が無理ならそっちで指導受けようと思ったんですけど」

「お前ね、分かってんの? タダでさえ白鳥沢倒さなきゃ上に行けないこの県内で、ベスト4のウチ蹴って公立校って……。意味わかんない」

「けど及川さん、言いましたよね。俺に白鳥沢に行けって」

「言ったよ。お前とウシワカが一緒なら倒す手間省けてちょうどいいじゃん。でもお前は──」

 ”及川さんいるなら、俺も青城考えます”って言っただろ。とは及川は言い返せなかった。

 あんなに及川さん及川さんって追いかけてきてたくせに。あれは嘘だったのかよ。との言葉を飲み込んで及川は影山を見下ろす。

「お前、ウチに来るのが怖いの? 金田一たちとまた一緒にやる自信ないんだろ、”王様”だもんねお前」

 そうして言った言葉は及川の予想を遙かに超えた力を持っていたのか、影山の顔が強ばった。そこで及川は悟る。あの夏の「最悪の試合」が影山の心に今なおトゲとなって残っていることを、だ。少しだけ及川は口の端を上げた。

「それとも、王様にとっては青葉城西程度じゃあ不足だとお思いなのかな?」

「それ……、関係ねーです。青城を不足とも思ってねーし、別にアイツらとまた同じチームになったって……俺はやれる」

「へぇ……たったらウチに来なよ。公立受験なんて逃げに走んないでサ」

「逃げてねーです」

「ウソだね」

「ウソじゃないです。及川さんを越えて県一番のセッターになるのは俺ですから」

「──は?」

「アンタがいるから……、俺は青城には行かない」

 ピク、と及川の頬が撓り、及川は今度は本気で眉を釣り上げコメカミに青筋を立てた。

「あいっかわらずクソ生意気だねお前! あんなみっともない試合したセッターが俺を越える? 冗談だろ、面白くもない」

「──ッ」

「まあやりたいならやってみれば? 無理に決まってるけどね。だいたいお前が言ったんだろうが、俺がいるから青城に来るってサ。100%違うよね言ってること」

「じゃあ俺が青城行けば及川さんサーブ教えてくれるんですか?」

「教えねーよクソガキ!」

「なら意味ないです」

「ああそう。お前が白鳥沢に受かったら、怪童・ウシワカも天才セッターも俺がまとめてぶっ潰してやるからせいぜい受験勉強に励むんだね!」

「及か──」

「じゃあ俺あっちだから!」

 売り言葉に買い言葉とはいえ、これ以上話していると自分を制御できなくなる気がして及川は無理やり路地を曲がろうとした。が。

「及川さん! あの、マフラー……」

「やるよ! ソレもういらないし! 優しい及川さんに感謝して風邪ひく前にさっさと帰れ、バーカ!」

 呼び止められて捨て台詞を吐き、影山に背を向ける。律儀に彼が頭を下げた気配が伝って、チッ、と舌打ちをしながら及川は路地を駆けた。

 ──ああ、バカだ。と思う。やり直しなんて出来るはずがなかったのに。

 ──今度こそ良い先輩に、なんて一瞬でも思った自分が心底バカらしい。

 分かっていたことではないか。影山は所詮はただのバレーバカ。心の底から自分を追って、なんて殊勝なわけがないのだ。彼にとって最もプラスになるだろう白鳥沢という進路を何のためらいもなく選ぶし、サーブも教えてくれない自分には価値がないとあっさり切り捨てる。最初からバレー以外のなにも見えていないのだ。

 そんなんだから、あんな結果になったのに──。と、あの胸の悪くなるような試合を思い出して拳を握りしめる。

 ああもう。と及川は勢い任せでポケットから携帯を取りだした。そうしてしばし躊躇する。岩泉にこんなことを話せるわけがないし──と思う脳裏に過ぎったのは相も変わらずユカの姿で、グ、と眉を寄せた。

 影山が白鳥沢を受けると言っている、なんてユカに告げたところで「さすが影山くんだね。白鳥沢って強豪だもんね」等々こちらの期待とは100%違う言葉をくれるに違いない。

 ──分かっているのに。ああもう、本当に厄介。と及川はそのまま携帯を耳元にあてた。

「ユカちゃん? ごめん、今から少し時間ある……?」

 突然の自分からの電話に、ユカは酷く驚いた様子を見せた。けれども、話があるから少し会って欲しい、と訴えれば自分の様子がおかしいと悟ったのだろう。頷いてくれ、及川はそのまま真っ直ぐユカの家を目指した。

 何度も通った住宅街を抜け、見えてきた一戸建てに逸る気持ちで駆け寄る。すればこちらの姿が見えていたのか、コートを着込んだユカが門を開けたのが目に映った。

「及川くん……」

「ごめん、ユカちゃん。急に来ちゃって」

「ううん……大丈夫だけど……。なにかあった?」

 うっすら家の明かりに照らされたユカの表情はやけに心配げだ。けれども及川には笑いかける力はなく、一度キュッと唇を結んでから少し瞳に影を落とした。

「飛雄にさ、会ったんだ」

「え……」

「あいつ、白鳥沢受けるんだって。無理に決まってんのに……」

 そうして喋れば勝手に顔が歪んでくる。胸までじんわり熱くなってきて、及川は絶えきれずに腕を伸ばしてそばに歩み寄ってくれたユカの身体を強く抱きしめた。

「仮に白鳥沢に落ちても、青城には来ないんだってさ。なに言ってんだろうねアイツ。ユカちゃん覚えてる? 飛雄のヤツ、2年前は俺がいるなら青城に来るって言ったのに……!」

 声が震えるのを止められない。ユカの身体が少し撓った。きっと彼女は覚えているだろう。

 2年前の冬──確かに彼は自分を見据えて言ったのだ。無邪気に、無神経にも、白鳥沢に行かないんですか? と訊いてきた。そして行くわけがないと答えた自分に告げた。自分がいるなら青城に行くことも考える、と。

 覚えてるけど……、とユカは少しこちらの胸を押し返しながら戸惑いつつも言った。

「白鳥沢は強豪だから……、影山くんが白鳥沢を目指すのはごく自然なことなんじゃないかな」

 案の定な言葉に「そうだけどさ!」と及川は声を強める。

「てか、そう言うと思ってたけどさ。ああもう、なんで天才ってああなんだろう。こっちの気持ちなんてお構いなし……! いつもいつも、勝手に真っ直ぐ進んで行ってさぁ……!」

「及川くん……」

 飛来する感情がゴチャゴチャで、及川は自分自身でも自分の気持ちが上手く制御できていないのを痛いほど感じていた。

 ただ、改めて感じたのだ。──天才、っていつもこうだよな、と何度も何度も確認したことを改めて思い知らされた。

 

『及川さん』

『及川さん』

 

 こっちのことを鬱陶しいくらい気にかけるのに、その実、本当はこっちの事なんてお構いなしに突き進んでいく。

 こちらを苛立たせるだけ苛立たせて、引っかき回すだけの存在。──ユカだって、と及川はユカの頬を包み込むようにして両手で触れた。

「飛雄になんか、負けてやんない……! 及川さんのところに来ればよかった、ってあとで後悔すればいいんだよ飛雄なんか」

「及川くん……」

「ほんっと、かわいくない……」

 ──言いたいことがいっぱいあったのに。と言葉を飲み込んで及川は無理やりに考えた。これで良かったではないか、と。これでもう影山は本当に自分の手を離れて別の場所へ行く。後輩ではなく敵としていずれ自分の前に立つだろう。

 それで良いのだ。あの才能を持てあまして、勝手に潰れればいい。天才なんて大嫌いだ。あの神に愛された手から放たれるトスを持てあまして……そして絶望すればいい。

「……残念、だね……」

「残念じゃない!」

「でも……」

「でも?」

 案ずるような顔をしたユカは逡巡するそぶりを見せ、小さく首を振るった。

「この先……影山くんと同じチームになることだってあるかもしれないし」

「ぜったいないしぜったいヤダ」

「影山くん、強くなってるだろうし、この先影山くんと試合するのだって楽しいよきっと」

「そりゃ楽しいよ俺がぶっ潰すからね!」

 そうしてそんなやりとりを繰り返しているとユカはやや呆れたようにほんの少しだけ肩を竦めた。──及川はどこかホッとした。

 岩泉だったらこちらをボロクソにけなしつつも100%自分の味方でいてくれるという確信がある。

 大多数の女の子だったらきっと無条件に優しく慰めてくれる。

 けれどもユカはそうではない。──影山の味方、とは思っていないが、ユカはこうだ。大キライな天才でちっとも自分の思うような答えなんてくれないのに。そんな彼女が好きでたまらないのだからどうしようもない、と及川は自嘲しつつもう一度ギュッとユカを抱きしめた。

 

 ありがと。と少しは気が晴れたらしい及川を見送って、ユカは空を仰いだ。錯覚だろうか。冬至の今日はいつもより夜の闇が深い気がして、ブルッと身震いした。

 及川と影山がどんな会話を交わしたかは知りようもない。が、及川が昔から影山の才能に畏怖して惹きつけられていたのは知っている。及川が何より欲しがっていた神に愛された手を持つ少年・影山飛雄。

 その彼は及川を慕って、追って──噛み合わない思いは2人をきっと普通の先輩と後輩という関係に留めなかっただろう。それでも及川は影山をずっと気にかけていたし、「コート上の王様」と異名を付けられた影山の試合を見て、「後輩達にあんな試合は二度とさせない」と言っていた。

 そう、及川は影山のことをいつも頭から離せない。けれども影山はそうではなかったのだろうか……?

 

 ──なんで天才ってああなんだろう

 ──いつもいつも、勝手に真っ直ぐ進んで言ってさぁ

 

 あの言葉、少しだけドキリとした。

 不意にとあるフレーズが過ぎった。ちょうど一年前の冬、及川と初めて2人で出かけたときに及川が踊った曲。

 華やかで、なんて華やかな場所が似合う人なのだろうと思った。でも。

 

 ──この世には二種類の人間しかいない。

 ──そっちで見てないで、ついてきて、ちゃんと力を見せてよ。

 

 舞台に立っていたのは及川ではなく──と考えてしまってユカは眉を寄せた。「天才」は望んでいるのだ。彼にこちら側に来て欲しい、と。

 覚悟を決めて欲しい、とそう望んでいるのは自分もそうなのかもしれない。及川には及川の心から望む道を行って欲しい。

 だって誰よりも何よりも及川がバレーだけに生きてきたのを知っているのだから。とユカはそっと瞳を閉じた。



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33話:及川徹の葛藤2

 ──クリスマス・イブ。

 

 午前中、ユカは仙台を目指す車内にいた。

 というのも23日からの連休を使って家族旅行を計画していた栗原家だったが、イブと重なったことで上手く宿が取れずに一泊だけの旅行と相成ったのだ。

 旅行先の山形は銀山温泉は風情のある場所でユカとしても日程さえ違っていたらもっとゆっくりしたいところだったが、今回ばかりは24日に仙台に帰れることにホッとしていた。なぜならば及川と会う時間が取れるからで……とユカは後部座席から運転席に声をかけた。

「何時くらいに家に着くかな……?」

「12時には着くと思うよ」

「そっか。ありがと」

 両親に、ほんのちょっとだけ早めに帰りたい、と伝えたら彼らはなにも聞かず承諾してくれた。が、きっと理由は悟られているだろうな。などと考えると少々気恥ずかしい気もしたが、今はともかく及川のことが気がかりだ。

 一昨日の冬至の夜に突然訪ねてきた及川。帰り道で偶然、中学の後輩である影山飛雄に会ったという。──及川の影山に向かう感情が複雑さを極めている事はもうずっと昔から知っている。そしてこれから先、2人がバレーを続けていく限りは彼らの関係はどう足掻こうにも完全には断ち切れないということも、だ。

 及川にとっての影山は後輩であることと同時に、脅威の天才。

 けれども影山にとっての及川は──と考えるユカの脳裏に浮かぶのは、いつだって及川を慕い真っ直ぐ追っていく大きな瞳を湛えた中学時代の影山の姿だ。

 北川第一にいた頃は一度も噛み合わなかっただろう2人。彼らは今後も縺れたままなのだろうか? 部外者であるユカに出来ることはなく、気になるのは及川自身の事だけだ。

 及川は物事を引きずるタイプではないが、影山に関しては例外なだけに気になる。──と12時ぴったりに家に辿り着いたユカは急いで外出の準備をして家を出た。

 

 クリスマスはぜったいにベニーランドがいい! と譲らなかった及川に根負けして今日のデートはベニーランドだ。

 

 12時過ぎには部活が終わるという及川は青葉城西から直接行った方が近いということで、ユカはいったん仙台駅に出て一人でバスに揺られつつ待ち合わせ場所であるベニーランドのバス停前広場を目指した。

 13時半前には着くかな、と腕時計を見る。だいたい13時半を目安にとの約束だったため何とか間に合いそうだと息を吐きつつジッと窓の外を見ていると目的地が近づき、下車する人に従ってユカもバスを降りて辺りを見渡した。

 人混みの中から及川を見つけるのは容易い。人より頭一つ二つ飛び出た長身であるし、何より及川自身の華やかさはどこにいても目立つ──と思うより先に及川のほうがユカを見つけたのかこちらに向けて手を振っているのが見えた。

「ユカちゃーん! こっちこっち!」

「及川くん……!」

 防寒のためか制服っぽく見せないようにするためか、キャラメル色の短めのダッフルコートをきっちり着込んだ姿は一見学校帰りには見えず、何よりいつも通りの笑顔の及川を見てユカはホッと胸を撫で下ろした。

「ごめんなさい、待った?」

「ヘーキヘーキ。行こ!」

 言って及川はさも当然のようにユカの手を取り、う、とユカは頬を撓らせた。すれば「なに」と及川が口をへの字に曲げる。

「そんな気にしなくても、今日はほとんどカップルだけだからウチの生徒がいたって大丈夫だよ」

「う、うん……」

 やはり。学校の近辺で及川と2人でいることには未だに無意識に身構えてしまうのはもはやどうしようもない。

「温泉、どうだった?」

「う、うん。楽しかったよ。うっすら雪が積もってて景色もすっごく綺麗で寒かったけどずっと絵を描いてて飽きなかった」

「良いよね、温泉。俺も温泉でのーんびりしたい!」

「え……」

「そのうち絶対二人で行こうね!」

「え……、う、うん」

 満面の笑みで言われてユカは取りあえず頷くと、「やった!」と及川は明るい声で言った。ともあれ、元気そうで良かった、と見えてきた入り口をくぐる。今日はカップルは入場料フリーというのも及川が是が非でも行きたがった理由でもある。

「わー、やっぱりカップルばっかりだねえ」

 いたって上機嫌な及川は本当にテーマパークが好きなのかもしれない。ともすればいつも以上にはしゃいでいるように見えた。

 さっそくのりもの券を購入して、及川に手を引かれてコーヒーカップの列に並んだ。

「ていうか、ユカちゃんて絶叫マシーン系平気?」

「う、うーん……苦手ではないけど……」

「俺めちゃめちゃ好きだから。覚悟しといてよね!」

 ニ、と及川が笑って、う、とユカはおののいた。──分かってはいたが、及川と遊園地に来て静かな時間が流れるわけがない。と、さっそくコーヒーカップで破天荒運転を繰り出す及川にユカは必死で着いていく。

 三半規管は強いと自負しているが、及川のテンションについていくのは容易ではなく。けれども日頃のストレス発散とばかりに笑顔ではしゃぐ及川を見ているのは楽しくて、あっという間に閉館時間が近づいてきた。

「あーもう、髪ボサボサー」

 最後のアトラクションにと選んだ八木山サイクロンから下り、及川は満足そうに笑いながら髪に手をやった。及川の髪は天然で跳ねており普段からなかなか思い通りにはまとまらないらしいが、確かに普段の部活後よりも遙かに乱れている。とはいえ人のことを言えた義理ではないかな、とユカも髪に手をやった。

「ほんと……」

 ただでさえ天然パーマの髪だというのに風で乱されてさぞや不格好だろうと手櫛で整えつつ笑う。

「でもすっごく楽しかった」

「うん。これでユカちゃんも立派な仙台っ子だね!」

「え……え、と」

「あ、なにそのビミョーな反応。やっぱり東京っ子のままでいたいワケ?」

 そのまま手を繋いで園を後にし、バスに乗って仙台駅へと戻れば夕暮れ時の繁華街は華やかなネオンで彩られていた。

 早めに夕飯を済ませようという意見で一致して、その辺りの空いていそうなピッツェリアにでも入ることにした。なにせ直前までデートできるかすら不明だった有り様でディナーの予約などできているはずもなく、時間が押せばどこも満席になるだろうことは簡単に予測できたからだ。

 それに今日に限ってはベニーランドを優先させたため及川は制服。ユカ自身もショートパンツにヒールのないブーツとあまり高級な場所に出入りするには憚られるスタイルで。

 来年はお互い18歳になるし、ディナーを予約するのも良いかもしれないと話しつつ入ったピザ屋でピザに舌鼓を打ってから店を出た。

 夜のメインイベントと言えばやはりイルミネーションであり、光のページェントに向かう途中でコーヒーを購入して寒空の下を手を繋いで歩いた。

「すごい人……!」

「イブだもんねぇ」

 イルミネーションのメイン通りは流れに沿って歩くのがやっとな程の盛況ぶりで、ユカたちはそのままゆるゆるとイルミネーションの煌めきの中を歩いていく。それでもこうやってくっついて歩いているだけでもユカには楽しくて、ふふ、と無意識に微笑んでいると及川がどうかしたのかと聞いてきた。

「ううん。及川くんとこんなに長く一緒にいたのって久しぶりだな……って思って」

 すると、ああ、と及川は肩を竦めた。

「新人戦前で練習ばっかだったし、その前の試験期間はずーっと岩ちゃんがくっついてたからねぇ」

「それは別に……。というか、あれはどっちかというと及川くんがくっついて来たんじゃ……」

「なに言ってんの!? いくら岩ちゃんでもマンツーで勉強とかダメに決まってんじゃん!」

「でも中学の時からそうしてたんだし……」

「それはそれなの!」

 そして、むー、と唇を尖らせる及川を見てユカは苦笑いに変えた。

 一年前は、こうして一年後のクリスマスを及川と二人で過ごすことになるとは想像すらしていなかった。

 ならば来年はどうなのだろう? 来年、及川はどんな進路を選んでいるのか──。

 けれどもどのような進路を選んだとしても、結局、自分たちの道は違えてしまう。と、過ぎった考えを振り切るようにギュッと及川の腕を握りしめてしまい、ハッとしたのは及川が笑った気配が伝ったからだ。

「なに、ユカちゃんてばそんなに及川さんと離れたくないの?」

 明るく笑う冗談か本気か分からない声は付き合う前から少しも変わっていない。──そうだよ、と答えてそれが現実になるならどれほどいいか。と頷く声が雑踏に溶けていく。

 そのまま流れに身を任せて、イルミネーションも終わりに近づいたところでユカたちは右折して住宅街へと入った。もうここまで来れば歩いて帰った方が近いからだ。

 時刻はもう8時を過ぎていて、何だかんだあっという間で楽しかったことを話しているうちに自宅が見えてきた。

 及川と共に門の前まで行き、礼を言って別れようとしていると「あれ?」と及川が視線を家のほうへ投げた。

「真っ暗だね……。家の人いないのかな」

 ユカは、ああ、と同じように家のほうに目線を送ってから及川を見上げた。

「お父さんとお母さん、クリスマスディナーに出かけてるの」

「──え!? え、じゃあいま、ていうか今日はずっと家に誰もいなかったの!?」

「うん。私は及川くんと出かけるし、お母さん達もお昼過ぎから出かけるって言ってて……もうすぐ帰ってくると思うけど」

 そうして改めて時間を確認しつつ腕時計に目線を落とせば、及川は硬直したあとに少し項垂れてやや頭を抱えるようにして何かを考え込んだあとに首を振るった。

「お、及川くん……?」

「あ、うん。ゴメン、なんでもない」

 そのまま及川はユカをギュッと抱きしめてきて、ふ、と頭上で息を吐いた。

「じゃあ、次に会えるのは年が明けてから?」

 及川は週明けに今年最後の遠征練習試合が入っているらしく、2泊かけて県外に行くという。入れ替わりでユカは東京に帰省するために仙台に戻るのは年を越してからだ。

「そう、だね……」

「そっか。ねえユカちゃん、東京で──」

 及川は何かを言いかけて口を噤み、ユカが顔を上げると逡巡したように口籠もってから「ま、いいや」とニコッと笑った。

 

 

 ──新年。

 日付変更とほぼ同時に、ユカの携帯には及川からの写メールが届いた。

 開いてみれば、及川のドアップと及川のピースサインの犠牲になり顔が見切れた岩泉、その間から顔を出した松川と花巻の自撮り画像が目に飛び込んできた。4人で初詣に出向いたのだろう。

 相変わらずの様子が微笑ましくてユカは少し笑った。元気が出たと言ってもいい。そう、ユカは新年早々気落ちしていたのだ。

 というのも去年を締めくくった最後のニュースが、フランス大使館から試験管理局経由で届いたフランス語のレベル認定試験の結果だったのだ。残念ながら僅差で不合格というものであり、わざわざ東京まで出向いて試験を受けたユカは去年で一番といっていいほど落ち込んだ。

 一番点数の低かった項目はライティング。さっそく克服すべく年末からフランス語の勉強漬けであったが──、ユカ自身は英語をフランス語よりも得意としており、これはおそらく一生変わることはない。

 というのも、幼少時は英仏と並行して緩く学んでいたが、仙台に越すことが決まって以降は父親が英語をメインに強制的に切り替えたからだ。

 母国語が日本語の人間が、まだ未熟な他言語二つを同時習得するのはそう容易い事ではない。英語がある程度のレベルに達してから再び並行学習するようになったフランス語はどうしても英語に一歩劣る。

 そのおかげで英語は父のように英国のトップアカデミーに入れる基準は既にクリア出来ているのだから、父の方針には感謝はしている。

 が──。

 

『次に会うときはフランス語で話ができることを楽しみにしているよ』

 

 ギュッとユカは膝を抱えた。そうして考える。

 半年後、再受験して合格して、そのまた半年後に次のレベルに受かって……。うん、問題ない。まだ時間はあるのだし。

 一年後には大学受験が控えているし、それを突破して……内部選考でも勝ち残って。それから。と、この腕一本で勝ち進まなければならない道の遠さにうっかり怯んで「いけない」とユカは首を振った。

 勝ち残っていかないと。と身を引き締めてフランス語まみれで元旦を過ごした翌日は昼頃。ユカの携帯が震えた。見れば知らない番号からで、ユカは出ることをやや戸惑ったものの何となく出なければいけない気がして受信ボタンを押した。

「はい……」

「ああ、俺だ」

 ──詐欺かな、と聞き慣れないが妙に耳に残る声に「どちら様」と聞こうとした直前。声の主はこう言った。

「跡部景吾だ。まさか俺様を忘れたわけじゃねえだろうな、アーン?」

 ユカは眉を寄せたものの、ピンと来る。氷帝学園の生徒会長で去年に鳳長太郎が会わせてくれた人物だ。

「ああ、あの……氷帝の……だよね? あれ、でも、どうして携帯番号──」

「鳳に聞いた。ちょっとお前に用があってな」

「え……」

 突然の電話に、あまりにも突拍子のない言葉が続き──ユカは目を見開きつつギュッと手を握りしめた。

 

 一方その頃、仙台。

 さっそく正月は二日目から練習始めのバレー部は朝から新年の挨拶とともに稽古始めと称してごく基本的な練習をこなし、身を引き締めて今年も打倒・白鳥沢を部長である及川が宣言しつつ午後には練習を終えて引き揚げた。

 さすがにレギュラー陣は練習に顔を出したものの、仙台を離れている部員も多く、出席率は半々といった具合だった。

 特に寄り道することもなく地元駅まで戻り、及川は岩泉と二人で住宅街を家に向けて歩いていた。

「ユカちゃんさー、いま東京にいるんだよね」

「そうか」

「東京といえば明後日から始まるよね、春高」

「なんだ、栗原のヤツ春高観に行くつもりなのか?」

 いいな、と岩泉が羨ましげに呟いたところで「なワケないじゃん!」と及川はがなる。

「俺の試合だって来ないのに春高行ってたら俺がびっくりだよ!」

「あー……、けどまァ。この時期に春高ってまだ慣れねぇよな」

「だね。そのおかげで俺の主将就任も数ヶ月遅れちゃったし」

「逆に言や俺たちもそんだけ長くバレーできるって事だけどな」

「そりゃ春高行ければそうだけどさ。春高ってめちゃくちゃ取材入るし全国ネットだし、この及川さんが出なくて誰が出るって感じなのにさー……って、ナニ?」

「おめーはテレビに映るためにバレーやってんのか!?」

「テレビが俺をほっとかないんだからしょうがないじゃん!」

「お前、年末やってたバレー特集覚えてるよな? 宮城代表で映ったのはおめーじゃなくてウシワカだったじゃねえか」

 放置されてんぞ、と突っ込まれて及川はショックを隠さず表情に出す。

「思い出させないで! あれ俺の中では無かったことになってるんだから!」

 とりとめもないそんなやりとりを交わしながら、ふぅ、と及川は息を吐いた。春の高校バレーは一昨年までは3月開催であったが、去年から3年生も大会に出られるようにと一月開催に変更されたという経緯がある。

 それに伴い3年生の引退が伸び、公式戦に出られるチャンスが増えたと言っていい。が。

「結局さぁ、お茶の間の皆さんもウシワカばっかで飽きてると思うんだよね! インハイもウシワカ、国体もウシワカ、春高もウシワカでうんざりなんだけど俺」

「お前がかよ。てか国体の宮城代表は最初から白鳥沢じゃねーか、諦めろや」

「不公平じゃん!! 県選抜チームだったら絶対俺が代表なのに!」

「100歩譲っておめーが選ばれたとしても、どうせウシワカも選ばれんぞ」

「それはイヤ!! ていうか岩ちゃん、俺がウシワカ抑えて選ばれてやるとか言えないワケ!?」

「ああ!? ──無茶苦茶言うなよクソ及川」

 すれば、ギロッと睨まれた上にドスの利いた低い声で凄まれて「う」と及川は口籠もった。──「個」で牛島に勝てないという暗黙の了解のようなものが自分たちの間にはあって、岩泉は既にそれを受け入れていて、及川はクレームを上げることさえ叶わない。

 もちろんその暗黙の了解を自分も受け入れてはいるのだが──。と、抗うように一度グッと拳を握りしめてから、ハァ、と息を吐く。

「岩ちゃん……、先生から聞いた? 先生、金田一に推薦出したって」

「ああ。ま、うちは長身の選手いねーから当然だな。ついでに金田一がどんなヤツだったかチラッと聞かれたぞ」

「ふーん。じゃあ飛雄のことは?」

 そしてチラッと岩泉を見やると、岩泉は顔をしかめて口籠もった。それを及川は肯定と受け取る。

 岩泉が監督に影山のことをどう答えたかは知らない。聞くつもりもないが、岩泉は少なくとも影山の才能は素直に告げただろう。

「飛雄さ、推薦蹴ったらしいよ」

「は? マジかよ。……ってまあ、金田一も来るんじゃそうかもな」

「──白鳥沢に行くってサ」

 及川は影山に会ったことも影山が一般受験で白鳥沢を受けようとしていることもいっさいを隠してその一言だけを告げた。

 さすがに岩泉は驚いたように表情を張り付かせていたが、「そうか」と少し間を置いて頷いた。

「ま、良かったじゃねえか」

「なにが」

「お前の凹ましたい相手その1とその2が手を組むってんだ。まとめてぶっ潰せば済むだろ」

 すれば彼は真顔で真っ直ぐそう言って、及川も、ふ、と笑った。

「──そうだね」

 簡単な話だ。彼らは倒すべき宿敵で、いつか凹ませてやるという意思に変わりはない。それが負け続けてきた自分たちが誓ったことであり、「個」に勝てなくてもチーム一丸となれば勝てると信じているからこそ今もバレーを続けているのだ。

 その先に見える景色なんて──いまは考えられない。考えちゃいけない気すらする。

 

『白鳥沢に、牛島くんに勝ったら……そのあと及川くんはどうするの?』

 

 いまは考えられない。考えちゃいけない。考えるな──と及川は無意識に過ぎった考えすら気づかないままにスッと前を見据えた。



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34話:及川徹の秘密の露見

 新学期が始まり、青葉城西高校の3年生は自由登校となって学校全体が少し寂しくなった。

 が──、それもつかの間。二月に入ればすぐにソワソワと活気づいてくる。

 理由は──そう、バレンタインデーである。たかだかバレンタイン、されどバレンタイン。盛り上がる理由は北川第一出身の生徒であれば痛いほど身に染みて理解していた。そう──及川徹の存在だ。

 バレンタイン商戦も本格的となった1月下旬。それとなく及川の好みをリサーチに来る女生徒の姿をユカは数え切れないほど見ていた。

 理由は後ろの席に座る花巻である。岩泉と同じクラスの時もそうであったが、及川と近しい人間は及川について質問攻めにされるという運命から逃れられないらしく。あまり物事に動じない花巻も2月に入る頃にはやってくる女生徒の姿を目に留めてはゲッソリした顔を浮かべるようになっていた。

「今年はあいつ、主将だからな……。当日が思いやられるわ」

 ついには愚痴りだした花巻の声に耳を傾ければ、及川のファンは彼が主将になって露出が増えたことでますます増えているらしく、当日は他校からも女生徒が押し寄せるだろうという話だった。

「そ……そう」

「ま、俺もバレンタインは楽しみではあるんだけど」

「花巻くん、甘いもの好きだもんね」

「ん。この時期限定チョコってのもあるから毎週月曜はデパートはしごして物色してんだよね」

「そうなんだ。自分用に買うのも楽しそうだよね」

「まァね。バレンタイン限定のチョコシューとかもあったりしてさ、マジで特設会場キケンだよ」

「限定チョコシューか……確かについ欲しくなっちゃいそう」

 花巻くんシュークリーム好きだもんね。と言えば花巻は、二、と目を細めた。

「コレくれちゃった子には一発で落ちちゃう自信あるわ俺」

 そうして少しだけ笑みが戻った花巻の顔を見て、ふふ、とユカも笑った。

 その脳裏で考える。ユカ自身も北川第一出身であるため、バレンタインの大騒ぎはおぼろげながら覚えている。そもそもバレンタインに限らず及川が女の子からのプレゼントを抱えているなど日常茶飯事であるし──と浮かべつつ少しばかり顔をしかめた。

 女の子が好きな人にチョコを贈る日。となってはいるものの、及川はおそらく数え切れないほどのチョコを当日受け取るわけで。どうにも自分がチョコを渡す必要性を感じられない。

 そもそもが栗原家のバレンタインといえば、父が花束を抱えて帰宅し母にプレゼントを渡し──そのままバレンタインディナーに繰り出すのが常となっている。イギリス時代に培った習慣らしく、栗原家のバレンタインは本場のそれだ。

 仙台に越してきて以降はユカ自身も両親のバレンタインディナーに便乗していたが、今年は遠慮しようかと考えていた程度で特にプランはない。

 だからバレンタインにチョコレートを買うということにいまいちピンと来ない。が、及川はどう考えているのだろう?

 とはいえ、大騒ぎがほぼ決定事項である当日に及川とゆっくり話が出来るとは思えず。あまり気にしなくていいのかな、と気持ちを切り替えた。

 

 2月も二週目に入ればいよいよバレンタインまであと数日と迫り、女子生徒のみならず男子生徒もどこかソワソワしてくるのが常だ。

 その2月は第二金曜日。男子バレー部レギュラー陣とベンチ数名は土日に入っている一泊二日での遠征を前にして少しばかり居残り練習をこなし、あまり遅くならない時間帯に揃って引き揚げて部室にて着替えていた。

「及川、ちょっと質問いいか?」

「なに松つん」

「”及川君てミルクチョコとビターチョコどっちが好きかな?”」

「あー……。どっちかというとミルクだね」

「分かった。そう伝えとく」

 淡々と進められた話に、これまた淡々と話に加わったのは花巻だ。

「ったく、毎年毎年とばっちり受ける俺らって何なんだって話だわな」

「そんなに妬まないでよマッキー。マッキーなら岩ちゃんよりは貰えると思っ──あいたッ!」

「いちいち人を引き合いに出すんじゃねーよクソ及川!」

 着がえずに部誌を書いていたらしき岩泉がノートを及川の背に投げつけ、言い合いを始めた二人の横で「でもさ」と花巻が小さく笑った。

「俺、今年はちょっとイイカンジかなって思ってる子がいるんだよね」

 すると、ピタ、と全員の挙動が停止して全員が花巻を注視する。

「なんだよ花巻、一人でリア充生活に突入する気とは聞き捨てならねぇな」

「マッキーにイイカンジの子って……そんな子いたっけ? 誰? クラスの子?」

 ん、と頷く花巻の後ろでは後輩の一人である矢巾も聞き耳を立てており、及川も床に落ちた部誌を拾い上げて岩泉に渡しつつ花巻を見やった。が──。

「美術部の栗原ユカってコ。前からイイナって思ってたけど修学旅行以降なんかイイカンジなんだよね。有名人だし、お前らも知ってると思うけどさ」

 バサッ、と及川は花巻がユカの名を口にした段階で日誌を手から零していた。さすがの岩泉も固まった気配が及川に伝い、盛り上がる周りとは一気に温度差が生じてしまう。

 裏腹に、ああ、と身を乗り出したのは矢巾だ。

「知ってます知ってます、美術部の栗原先輩! かわいいですよね、俺も一度声かけたことありますよ」

「お、さすが矢巾クン。女子情報鋭いね」

 彼は他校の女子マネージャー情報まで網羅しているほどの猛者で、松川が突っ込みを入れる横で及川は矢巾に鋭い視線を向けた。

「──で、何て声かけたの矢巾」

「え? あー……、たまたま特別教室棟ですれ違った時に”絵、お上手ですよね。いつも見てます”って言ってみたんですけど」

「それで?」

「”ありがとう”って笑ってくれて……、そこで会話は終わりました」

「ブハッ! 相手にされてねーじゃん」

 及川が突っ込むより先に松川が声をあげて部室は笑い声に包まれる。

 でも、と矢巾はめげずに言葉を繋いだ。

「なんか、良いとこのお嬢さん、ってカンジがいいですよねあの先輩」

「そうそう、ほんわかしてて癒し系っての?」

 頷いた花巻が「なあ」と視線を岩泉に送り、岩泉は一瞬しかめっ面をしたものの、数秒後には真面目な顔をして頷いた。

「まあ、そうだな。普通にかわいいべな」

 だろ? と盛り上がる横でついに我慢の限界に達した及川が盛大に地団駄を踏んだ。

「岩ちゃんまでなに言っちゃってんの!? 正気!?」

 すると少しだけ空気が張りつめたものの、少しの間を置いて「ああ」と矢巾が思いついたような声をあげつつ肩を竦めた。

「及川さん、クール系の美人がタイプですもんね……」

「好みじゃないからって、いまの言い分はヒデーだろ。モテ男度し難しだな」

 松川に至っては呑気にネクタイを結びながら言って、そうじゃねぇし、と及川は歯ぎしりをしつつ事の発端となった花巻を睨み上げるようにして拳を握りしめた。

「だいたいマッキー、彼女とイイカンジとかマッキーには悪いけどそれ盛大な勘違いだから! あり得ないから!」

「は……?」

「あの子、超超超カッコいいカレシいるしね!!!」

 部室中に響き渡った大声に、シン、と一瞬みなは静まり返る。全員が目を見開き、あのさ、と最初に口を開いたのは花巻だ。

「なんでお前がそんな事知ってるワケ?」

「えッ……、それは……その」

 すれば及川は一瞬答えを躊躇した。正直に答えるか否か。迷っている間に先に答えたのは岩泉だ。

「あー……、その、な。俺ら同じ中学出身なんだよな」

「え、栗原さんて北川第一!?」

「ああ。俺はクラスも一緒だった」

 岩泉は核心に触れていないせいかどこか目を逸らしがちに答え、花巻は「そうか」と肩を落としている。

「じゃあ、中学のときからそのカレシってのと付き合ってるって事か」

 ──そうだよ。とはさすがにウソであるため及川は声を張れず、「とにかく」と鞄を掴んで言い放った。

「お嬢ぽいとか癒し系とか、よく知りもしないで勝手なこと言うのやめてよね! じゃあねお疲れ!」

「え……ちょ、及川?」

「先帰る!」

 そのまま部室の外に出て、目指したのは特別教室棟だ。ユカはまだ美術室にいるだろう。

 ──普段、自分はモテているという自負はこれ以上ないほどあったが、ユカに関してはあまり意識したことがなかった。ユカは絵の虫だし、男子に告白されたなどという話も聞かないし。

 でも、自分が知らないだけでひょっとしてユカにも色々その手の話があったのだろうか? と、む、と頬を膨らませる。

 ──いやいや別に気にしてないし。ほんとぜんぜん気にしてないし。ていうかあんな絵の虫のユカに付け入る隙なんてあるわけないのにとんだ身の程知らず。とイライラしつつ八つ当たり気味な思考をしてハッとする。

 そもそも。だ。そもそも、そんなユカの恋人は何を隠そうこの自分だ。そうだ、ユカは自分こと及川徹が大好きなのだから何を心配することもないではないか。と、特別教室棟に辿り着いた頃には及川は落ち着いており、案の定まだ電気の付いている美術室に足早に近づいてノックをした。そうして明るく扉を開ける。

「ハァイ! 愛しのカレシが迎えにきたよ!」

 いつも通りピースサインをすると、驚いたような顔をしたあとに笑うユカが奥の方の椅子に座っていた。

「及川くん……、どうしたの? はやいね」

「明日から遠征だからちょっとはやく切り上げたんだよね」

「そっか……。もうちょっと待ってもらってもいい?」

「モッチロン!」

 ニコッと笑いかければ、ユカも頷いてキャンバスのほうへと視線を戻した。及川もそばの椅子に腰を下ろして携帯を取り出しつつ邪魔をしないように作業が一段落するのを待つ。

 

 一方のバレー部部室では──。

 ひとしきり及川の様子のおかしさが話題になったものの「あいつはいつもおかしい」と結論付けられ早々に忘れられ、「花巻ドンマイ」等々慰めの言葉を花巻にかけたのちに松川や矢巾たちも部室を出、当の花巻は日誌に追われている岩泉に付き合って残っていた。

 岩泉は花巻のことを必要以上に案じたが、ユカのことは良くある「ちょっといいな」と思っていた程度らしく「なんだカレシ持ちか」と切り替えたようでホッと胸を撫で下ろしていた。

 花巻はいま現在はパラパラと過去の練習試合のスコア表を眺めており、岩泉はふと手を止めて花巻を見上げた。

「悪ぃな花巻。付き合わせちまって」

「いいって別に。けど……こうして歴代のスコアとか見てっと、ウチの得点源って及川のサーブに偏りすぎてんの丸分かりな」

「あんま言いたかねーけど……ま、すげーかんなアイツ」

「スパイカーの俺らよりよっぽど強烈なスパイク打つしな。今じゃチームメイトだけどさ、中学の頃は北一のバケモンって俺らの中じゃそんなあだ名だったぜアイツ」

「ま、試合中はな。逆に普段はガキそのものだけどな」

「それな。矢巾なんか及川に憧れてたらしいけどショック受けてたもんな、入部直後」

 話しながらも岩泉は手を動かし、日誌を書き終えると二人でスコア表を見やりながらしばし試合内容について語り合ったのちに部室をあとにした。

「明日、7時に正門前だったよな」

「ああ。盛岡だからこっからは2時間半ってトコだな」

「つーか寒くね?」

「二月だかんな」

 そうして話しながら校舎を道沿いに正門のほうへ歩いていると、ちょうど対面側を正門に向けて歩く影が過ぎって、二人はぴたりと足を止めた。

 見覚えのある影だ。正体を悟って、岩泉は思わず頭を抱えた。──及川とユカである。しかも手を繋いでいる。

 及川が部室を出たあと、ユカを迎えに行くのだとは岩泉には容易に想像が付いていた。が。なにもこのタイミングで──とちらりと花巻を見上げると、完全にあっけに取られていた。

 さすがにかける言葉に詰まって岩泉が黙していると、二人の影が正門の外へ消えた辺りで花巻がぼそりと言った。

「……”超超超カッコいいカレシ”って、自分の事かよ……」

「……スマン……」

 なぜ自分が謝らねばならないのかまったく理不尽に感じた岩泉だったが、いたたまれず思わず口にしてしまった。

「なに、もしかして北一の時から?」

「いや……しらねえ」

「いやまあ、及川はカノジョいるんだろうなってのは感じてたけどさ……。よりによって……栗原さんもそんなそぶりは──」

 そこまで言って花巻は考え込む仕草を見せた。そうして10秒ほど黙りこくった後、彼は合点がいったというような顔をした。

「ああ、あったわ。いま考えればありまくりだったわ」

「は、花巻……」

「つーか及川ってさ……クールビューティがタイプだったんじゃねえの? グラビアとかだいたいソレ系がイイとか言ってんじゃんいつも」

「……しらねえ……」

 ただでさえ寒い二月の風が突っ立っているとますます寒く感じて、岩泉は何をどう言えばいいのか皆目見当も付かず途方に暮れていると「なあ」と花巻がぼそりと口を開いた。

「バス、一本あとので帰らね?」

「おう」

「あ、けど俺腹減ったわ。歩いてラーメンでも食いにいかね?」

「おう」

 いたたまれない、という思いで岩泉は花巻に従った。取りあえず明日顔を合わせたら一発ぶん殴ってやる。と及川にとってこの上なく理不尽だろう事を浮かべつつ、そのまま正門を出てひたすら歩いていった。



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35話:及川徹のバレンタイン

 ──バレンタイン当日。

 

 結局なにも用意していない……と、ユカは寒空の下を登校しながらため息を吐いた。

 及川は及川でバレンタインについてなにも触れなかったし、今日の及川が忙しいのは目に見えているし。

 けれども。チョコはともかく、デートはしたかったかも。と、正門をくぐったユカの頬が一気に引きつった。

 正門からの道を直進すれば第三体育館があるのだが──その入り口には女生徒による人だかりが出来ており、一瞬にして彼女たちの目的を悟ったのだ。朝練後の及川にチョコレートを渡すのだろう。

 そうこうしている間にもユカを追い抜いていった女生徒たちが可愛らしい包みを持って第三体育館の方向へ駆けていくのが見え、ユカは小さく息を一つ吐いて校舎の入り口に向かった。

 その後、一限目開始のギリギリになって花巻が現れ、手に大きめの紙袋を提げているのを見てユカは少し微笑んだ。彼も色々とチョコレートを受け取ったのだろう。

「おはよう、花巻くん」

「おはよ」

 甘いモノが好きだからバレンタインは好きだと言っていた花巻にとってはきっとチョコは嬉しい贈り物に違いない。

 及川にしても甘いモノを好んでいるのは知っているが──、と2限目が終わって中休みに入り、ふと廊下に響いた黄色い声につられてユカは外を見やった。

 すると磨りガラスの向こうに見えた長身の影にたくさんの女生徒が駆け寄って取り囲んでいるのが見え──、声まで聞こえてきてその主が誰かを悟った。見るまでもなく及川だ。

 あのチョコ、全部食べるのだろうか……とそのままぼんやりと窓の方を見ていると、こちらを見ていたらしき花巻の視線に気づいた。瞬きをして花巻を見やると、彼は少しばかりこちら側に身を乗り出してきた。

「気にならない?」

「え……」

「及川。イヤでも目に入るだろうし、あんなひっきりなしだとさすがに気になるデショ」

 言われてユカは目を見開いたが、数秒後に「ああ」と悟った。彼は自分が及川と交際していることを知っているのだろう。

「うん……、でもいつもの事だし」

 ユカは少し肩を竦めて笑った。

 出会った頃からあの光景はごく身近にあったもので、今さら思うことはなにもないし思ったところでどうにもならないことも分かっているため、結局はどうしようもなく。

 ユカにとってはごくごく普通の一日だった。

 ただ、今夜は両親が家をあけるため晩ご飯を自力で何とかするしかなく。やっぱり及川を誘えば良かっただろうかと少しばかり後悔していた。

 とはいえ。いくら一年で一番女生徒に囲まれる日であっても、及川が練習時間を削ってまで彼女らに時間を割くとは思えない。──あとでメールしてみようかな。

 という考えもそこそこにすっかり人の気配が消えて静まりかえった特別教室棟でキャンバスを前にしつつ、ユカは壁時計に目を向けた。7時半だ。通常、部活は7時まででそれ以降は自主練習となる。

 及川の場合は通常練習後も1時間、2時間、いやもっと長く残っている日も多いが……今日はどうだろうか。

 及川は体育館までは携帯を持っていっていないため、たいてい一緒に帰るときはこちらが第三体育館に出向くかあっちが美術室に来るかである。──まだ残っているなら一緒に帰ろうと後でメールしておこうと思いつつ絵へと意識を戻すと、いつの間にか30分ほど時間が経っていた。

 ふと廊下に足音が響いてユカはハッと顔を上げた。次いですぐに美術室のドアがノックされ、ドアのほうへ向き直る。すればガラッと開いたドアの先には常と同じようにウインクでピースサインを決める及川がいた。

「イェーイ! ユカちゃんの大好きな及川さん参上デス!」

「及川くん……!」

 思わずユカは立ち上がった。及川もこちらへ笑顔で歩み寄ってくる。バレンタインだというのに意外にも身軽そうだ。

「ちょっとはやく切り上げてきちゃった。ユカちゃん、このあと時間あるよね?」

「え……」

「バレンタインじゃーん。デートしようよ」

 さも当然のように言われてぴくりとユカの頬が撓った。嬉しい反面、ややどう反応すればいいか迷っていると、及川が少し屈んで解せないと言いたげに首を捻る。

「どうかした?」

「う、ううん。なんでもない」

「あのさユカちゃん。今日バレンタインなんだけど……」

「うん」

「俺宛に、カノジョからのチョコレートとか有りマスカ?」

 う、とユカは思わず瞳を逸らして後ずさった。あ、やっぱり、と及川は笑顔でまるで予測していたように言う。

「うん。そんな気はしてた」

「だ、だって……及川くんいっぱいもらうし」

「カノジョからのは特別に決まってんじゃん!」

「う……」

 さすがにバツが悪く、ユカは俯いた。そもそもバレンタインという行事に馴染みがなく、自分の家では日本式ではなく本場式がまかり通っている事も説明すると、及川は「なんだ」と軽く笑った。

「それイイね。だったら今夜は俺とご飯食べるしかないよね!」

「え……」

「はい決まり。行こ!」

 そうしてあっけらかんと言う及川にユカはあっけに取られたものの、この柔軟なところはいかにも及川らしい。

 うん、と頷いて後片づけを済ませ、揃って学校を出て駅に向かうバスに乗る。バスはいつも通りガラガラで、ユカたちは後方の二人がけのシートに腰を下ろした。

 及川は鼻歌を歌いながら携帯をチェックしている。曰く、夜遅くまで営業しているカフェを調べているらしい。一応はバレンタインであるしチョコレートケーキで良ければプレゼントすると言ったら二つ返事で、スイーツの美味しいカフェを見つける、と張り切っているのだ。

 だいたいこの手のスイーツやオシャレアイテム的な情報は花巻が情報源である事が多いのだが、とちらりと及川を見やると「あった!」と及川は上機嫌で笑った。

「駅まで行かないで途中で下りた方が近いっぽい」

「うん、分かった。あの……及川くん」

「ん?」

「荷物ってカバンだけ? チョコ、いっぱいもらってたのに……」

 ユカは及川が美術室に現れたときから疑問に感じていたことを聞いてみた。すると及川は意外そうに瞬きしたのちに、ヘラッと笑った。

「部室に置いてきちゃった。とてもじゃないけど持って帰れないし、食べきれないしね」

 ちょっとずつ部のみんなでシェアしながら食べる、と及川が続け「そっか」とユカは頷いた。特に聞いたことはなかったが、及川は毎日のようにもらっている差し入れもほとんど部で消費しているという。

「安心した? それとも俺がプレゼントもらうだけで妬けちゃう?」

「そ、そんなこと言ってない……!」

「えー、ホントかなァ」

 及川は軽く笑いながらさりげなく膝に置いていたユカの手に自身の大きな手を重ねてきて、ドキ、とユカの心音が跳ねた。頬も熱い気がする。たぶん顔、赤い。と思わず俯いてしまう。

 及川が女の子に囲まれているのなんて、それこそ及川を及川徹として認識する以前からの事で、ごく当たり前のことで。妬いたりなんてしていないつもりだったが、本当は及川の言うとおりだったのだろうか、とバスに揺られながら考えるも答えなど出るわけなくて「次のバス停ね」と及川に声をかけられてハッとユカは意識を戻した。

「んーっと……、広瀬通りの方みたいだね」

「じゃあ帰りは歩いた方が早いかな」

「だね。そうしよっか」

 下車して話しつつ手を繋いで歩く。こうやって歩くことには段々と慣れてきたが、いまも誰かに見られたらと思うとちょっとだけ周りが気になってしまう。と雑談混じりに歩いていくと及川は目的地を見つけたようで、入り口へと誘導した。

 ビルの中に位置するカフェは階段を上がらねば入り口に辿り着けず、登っていくとエントランスが見えて及川がドアをあけた。

「いらっしゃいませ」

 まず目にアンティークのピアノが飛び込んできて「わ」とユカは小さく呟いた。

 店内は雰囲気ある照明にバラバラだが不思議と統一感のある木のテーブルが程良い間隔で並べられており、客層は学生が目立つようだった。

 二人であることを告げればちょうどあいていた座り心地の良さそうなシングルソファが向き合ったテーブルに案内され、及川がぼそりと呟いた。

「うっわ、オシャレー。さっすがマッキー」

 それを聞いて、やはり花巻情報だったのか、と悟ると同時にユカは痛いほどの視線を背中に感じる。

 バレンタインなためかカップルも多かったが、女性客も多く──必然的に及川が視線を集めているためだ。彼の容姿を褒める声もどこからともなく聞こえ、いつものこととはいえ慣れない、とユカはソファに座った。

「お腹空いたね。なんにしよっか」

「んー……。あ、及川くんほら、ケーキ付けられるみたい」

「ホント? やった。じゃあ俺チョコケーキね」

 けれども嬉しそうに笑う及川を見ているとやっぱり嬉しくて、ユカも頬を緩めた。

 及川はビーフシチューを大盛りで頼み、ユカはパスタセットを頼んで及川にのみ食後にチョコレートケーキを付けてもらった。

 店内には静かにクラシック音楽が流れており、ユカとしては非常に好みで無意識にテンションが上がってくる。

「そういえばユカちゃん、いまって何の絵描いてんの?」

「あ、実はね……。ある人に誘われて3月に開かれる展覧会にいくつか絵を出させてもらうことになったの。それで、ロンドンの絵を描いて欲しいって指定されて……いま描いてるのはそれ」

「え、ていうか……3月って、まさかまた県民大会中に東京ってオチ!?」

「あ……!」

 言われてユカはハッとする。自身の予定を思い返すと、確か3月の3週目の週末だった気がする、と思い当たって唇を引いた。県民大会もその頃のはずだ。

 及川は小さく肩を落とした。

「まあ、いいけどさ。ユカちゃんはいつになったら及川さんのセットアップが見られるんだろうね」

 諦めたように言った及川は決してこちらを責めているわけではない。及川は部活や用事を押して試合に来てくれと言ったことは一度もないし、自分がそうできないこともきっと理解してくれているはずだ。が──そのうちに必ず行こうと思ってもユカは返事はできなかった。なぜなら来年度のインターハイ予選も試験と被っている確率が高くて、と段々と視線が落ちていっていると及川は慌てたように言った。

「ちょ……、俺気にしてないから!」

 その様子にユカも、うん、と頷いていると料理が運ばれてきて二人で舌鼓を打つ。

 そういえばさ、と及川はビーフシチューを頬張っていた手をふと止めた。

「先週って私立高校の合格発表があったよね」

「あ……そういえばそんな時期だね」

「白鳥沢行きますーとかタンカ切った飛雄がどうなったか、俺夜も気になって眠れないんだよね」

 ハァ、と及川は思い切り「心にも思っていない」と言いたげな声を漏らした。事実、彼は影山が白鳥沢に合格したとは思っていないのだろう。

 けれども気になる、というのが本音のはずだ。相も変わらず厄介だな、とユカは肩を竦めた。

「白鳥沢じゃなくても、影山くんはどこにいたってバレー続けるだろうからきっとそのうち会えるし対戦できるんじゃないかな」

「俺、別に会いたくないんだけど」

「でも、対戦したいんだよね?」

「そりゃあね。白鳥沢に落ちてウチも蹴って、いくら天才だからって一人で何とかしようったって無駄だってことしっかり教えたげないとだからね。先輩として」

「またそんな……。でも、それって影山くんは選手として優れてるから、ウチとか白鳥沢に来たらもっと強くなるって意味だよね?」

「う……!」

「やっぱり強い選手がいっぱいいるチームは強くなると思うもん」

 ね? と言えば、及川はしまったと言いたげに心底嫌そうな顔を浮かべた。

「その手には乗んないよ。俺はウシワカ野郎には一生トスあげません」

「別に牛島くんじゃなくても、強い選手なんてこれからいくらでも……。あ、そうだ及川くん、志望校とかもう決まった? バレー、大学でも続けるんだよね?」

 すると及川は、ぴく、と少しだけスプーンを持っていた手を撓らせて言いにくそうに目を泳がせた。

「んー……、まあ、何となく」

「ホント? どこ?」

「言えない! 行けるかなんて分かんないし、とにかく、白鳥沢に勝たないことには話になんないからね……」

 そこまで言って及川は口籠もり、ユカも追及はしなかった。ただ一つだけ言えることは、及川の中で志望校が以前よりも明確になったということだろう。

 そうだ、と及川が切り替えたように明るい声で言った。

「次のクラス替えこそ俺たち一緒のクラスになれるよね、たぶん」

「え……?」

「ほら、ウチの学校は3年は第一志望校に合わせて割り振られるじゃん」

「あ……そうだね。え、じゃあ……及川くん、国立理系クラス志望なの?」

 ん、と及川は頷いた。

 ユカは意外な答えに目を見開いた。青葉城西普通科はほぼ私立受験を想定──実際は普通科で大学進学するのは半数以下であるが──しているため、3年次は私立理系・私立文系がそれぞれ複数あってほとんどの生徒はそこに分類される。残りが国公立の文理に分かれるわけであるが、ユカは国立を受験するため得意の理系クラスを志望していた。それは及川も知るところだ。

 及川にしても今や理系の方を得意としているため、理系を選ぶのは理解できたが。国公立ではなく私立だと思っていたのに──と巡らせる。国立大でパッと浮かんだスポーツの強い大学は全国でたった一つだけだったが、及川の学力ないしはバレーの実力で「そこ」に行けるかは皆目見当も付かず、押し黙る。

 もしかすると自分が知らないだけでバレーに特化した大学が他にあるのかもしれないし、と考え込んでいると及川が、ニ、と笑った。

「同じクラスだったら、昼休みにご飯一緒に食べたり喋ったりできるよね」

「え……、うん、そうだけど……でも」

「一緒のクラスなら喋ってても不自然じゃないし、バレたっていいじゃん。ね?」

 諭すように言われて、ユカは曖昧に返事をした。

 中学の頃から及川とは一度も同じクラスになったことがないため、もしもクラスが一緒ならば嬉しいし、毎日教室で顔を合わせられればきっと楽しいだろう。が──と考えるユカとは裏腹に及川はすこぶる楽しそうに笑っている。

「ユカちゃんお昼ご飯食べなさすぎだし、この際お弁当の日とか作っちゃおうよ。絶対楽しいって!」

 その笑顔を見ていると、純粋に自分と同じクラスになることを心待ちにしてくれている様子が伝って、ユカも今度は笑って頷いた。

 そうして料理を食べ終わり、及川は運ばれてきたチョコレートケーキを頬張った。

「あ、美味しい! ありがとユカちゃん」

「どういたしまして」

 本当に嬉しそうな及川を見ているとユカも嬉しくて、来年はチョコレート用意しておこうかな、と考えつつゆっくりとコーヒーを飲み、そろそろ出ようかと高校生のタイムリミットである22時を前に店を出た。

「んー、美味しかった。満足満足」

「うん。素敵なお店だったね」

「ほんとマッキーていつ新規開拓してんだろうね。バレー真面目にやってんのか主将としては甚だ疑問だけどさ」 

 花巻の多趣味ぶりに舌を巻く及川の気持ちはユカも十二分に理解でき、そうだね、と相づちを打った。趣味がイコールそのままバレーの及川にとっては花巻を真似ることはほぼ不可能に近いのだろう。

 けれどもこうして他人の価値観を受け入れて吸収していく及川の柔軟な部分はユカの好きなところでもあり、良い気分のまま並んで歩きながら横断歩道を渡って家へ向けて進み始めた直後に及川はぴたりと足を止めた。

「ごめんユカちゃん。ちょっとだけ待っててもらえる?」

「え……」

「すぐ戻るから!」

 言って、及川は急にユカに背を向け小走りで走って行ってしまいユカはあっけに取られつつもその背を見送った。

 この辺りは石畳の続くヨーロッパ風の通りで人も多く雰囲気も良く、ユカはすぐそばのベンチに腰を下ろした。

 トイレにでも行ったのだろうか。そういえばちょっと先にはレンタルショップがあった気がする。ビデオでも返しそびれていたのか。と待つこと数分。

 元来た道から及川が走って戻ってくるのが見えて、自然とユカは立ち上がった。

「お待たせー!」

 言いながら及川が笑顔で目の前までやってきて、ううん、と首を振ろうとしたその時。「はい」と及川が透明なシートに包まれた真っ赤なバラを一輪差し出してきて、ユカは極限まで目を見開いた。その先にはいつも通り笑顔を絶やさない及川が常のように笑っている。

「パリで見た時からいつかやろうと思ってたんだよね。ちょうどバレンタインだし」

「え……」

「ジュテーム!」

 そしていつも通りパチリとウインクを決めた及川を見て、ユカは思わず口元を両手で覆った。

 確かにパリで、デートに向かうだろう男性が花を購入している所を二人で見たが。確かに今日は父が母に花を贈ることが習慣だと話したが。まさか及川が花をくれるなんて──しかも、と言われたフランス語の意味を後追いで理解して「ボン!」と効果音でも付きそうなほど一気に頬が熱を持つのを感じた。

「? あれ? なんかそんな真っ赤になるような事だっけ?」

 しかも本人はあまりよく理解してなさそうなのが余計に羞恥心を煽り──ユカは小さく呻きつつも及川の手からバラの花を受け取った。

「モ、モワ・オスィ。メルシー」

 そうして小さく言えば、「え?」と及川は首を傾げた。

「え、それ何て意味?」

「お……教えない……!」

「えー!?」

 ショックを受けたような顔をする及川を見つつ、ふふ、とユカは頬を染めて笑った。たぶん夜まであいている花屋の場所とか色々前もって調べてくれていたのだろう。胸がいっぱいで滲みそうになっていた涙を拭ってからユカはギュッと及川の腕に自分の腕を絡めた。

「ん、ユカちゃん、くっつきたいモード?」

「うん」

「ほんとユカちゃん俺のこと大好きだよね」

「うん」

「え──ッ」

 そんな会話を交わしたのちに見上げた及川はなぜか頬を染めており、小さく唸っているのが見えてユカは肩を揺らした。

 ──いつまで一緒にいられるか分からない。いまはそんな言葉は頭の隅の隅に追いやって、ユカは素直に「幸せだな」と感じていた。

 できればずっとこのまま一緒にいられればいいのに……と、ひたすらそう考えて胸がいっぱいのまま家への道を二人で歩いていった。



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36話:及川徹の知らないところで

 ──3月。

 ユカはとある人物からの依頼品である絵を無事に完成させ、ホッと胸を撫で下ろしていた。

 

 というのも、ソレが起きたのは遡ること1月2日の事だ。

 

『ああ、俺だ』

『跡部景吾だ。まさか俺様を忘れたわけじゃねえだろうな、アーン?』

 

 東京は氷帝学園で顔を合わせた跡部景吾から連絡があった。連絡先は鳳長太郎に聞いたという。

 跡部の家はイギリスを拠点として世界展開している跡部財閥。そのビジネスは多岐に渡り、ユカは把握しようもないが、財閥や財団にありがちな要素の一つとして芸術関係にも力を入れ積極的に支援をしているということだった。

 跡部家の場合はむろんその対象のほとんどはイギリス人であり、今回彼らが主催するという展覧会は財閥で支援しているイギリス若手画家の作品とイギリスの著名画家の作品を集めたものが中心ということだった。

 跡部がその説明を始めたとき、ユカは単純に展覧会に招待を受けたのだと思った。が、違った。客としてではなく画家として自分を呼びたいという跡部の声に二つ返事で乗った。

 跡部からの依頼は二つ。「仙台の冬」と貸し出しと、ロンドンを題材にした新作の展覧会での発表だった。

 まだ自分の絵をビジネスとして扱った経験のないユカは、むろん自分の絵に値をつけられることに懐疑的で、両親とも相談の結果、貸出料と依頼料だけを受け取ることとした。

 が──それでも破格である。なぜ跡部がそこまでしてくれるのかは分からなかったが、ユカは素直に乗ることにした。──生前、ピカソが存命中に評価を受けたのは彼が天才であると同時に商才に長けていたからである。それはユカの目標の一つでもあったし、チャンスは掴まなければ意味がない。

 それに、もしも氷帝に通えていれば跡部とは同級生であったという思いもあり、彼への依頼品はいつもに増して気合いを入れた。

 

 ロンドンは跡部の故郷だという。

 彼がこの絵を気に入ってくれるかは分からないが、ともかく。頑張ろう──と3月は3週目の金曜日。学校を終えたユカはその足ですぐに家に帰り、そのまま新幹線に飛び乗って東京へと向かった。

 絵は既に先方に送ってあるが、今日は展覧会開催前夜のレセプションがあるということで跡部に呼ばれていたためだ。

 まずは祖父母宅に駆け込み、持参したドレスに着替える。──相手は英国人。英国社交界にはうるさい父の意見を参考にしつつも露出の多いイブニングドレスを国内で着ることに抵抗のあったユカは、失礼でない程度のセミイブニングを着てタクシーに乗った。

 行き先は六本木のホテル内のバンケット会場である。

 目的地に到着し、会場入りしてすぐにユカは父の選択が正しかったことを悟った。スーツ姿のビジネスマンも散見されたが、イギリス人と思しき白人の男性陣はこぞってホワイトタイを着用していたからだ。

 華やかに着飾った客と、その客の邪魔にならないよう給仕がさりげなくドリンクを運ぶ様を目に留めつつユカは目的の人物を捜した。

 が──。

「よく来たじゃねえの」

 どこで手に入れたか皆目見当もつかない紫色の奇抜なスーツを着た人物がおり驚いて注視するとまさかの跡部敬吾本人で、ユカは目を白黒させつつも取りあえず挨拶に向かった。

「こんばんは、跡部くん。お招きありがとう」

「ああ。今日のプレ・オープンでここにいる客は既にお前の絵も観てるはずだぜ」

「ホント? 私も観たい……! ウィリアム・ターナーの作品も展示されてるんだよね?」

「そう焦んじゃねえよ。それよりお前に依頼した絵だが……テムズ川辺りの絵だったな。何故あそこを選んだんだ?」

「ああ、私ね……東京にいたときは有明に住んでたの。去年、初めてロンドンに行ったときにテムズ川からの光景を見て、有明を思いだして懐かしくなっちゃったから……」

「なるほどな。なかなか良い絵だったぜ」

「ありがとう」

 そうして笑みを浮かべれば、跡部が英語はできるかと訊いてきたためユカは肯定した。

 国内の画商やキュレーターは元より本国イギリス有力紙のプレスも呼んでいるらしく、紹介するという跡部に従って挨拶回りを始めた。正確には回らずとも向こうから次々と挨拶にくるわけであるが──、同じ17歳だというのにいっそ清々しいほど堂々とした跡部の立ち振る舞いにユカは感心した。しばらくすれば奇抜な格好すら気にならなくなるほどの振る舞いだ。

 ユカはまだ未成年でアルコールは飲めないため、しばし挨拶や歓談に精を出し──夜も更けたところで跡部と共に会場を出て跡部家の所有するリムジンに乗せられ帰路についた。

 さすがにリムジンなど慣れずに居心地悪くしていると、「さて」と跡部が話を切りだしてきた。

「今日、お前をこの場に呼んだ理由だが──」

「え……?」

「平たく言や、青田買いだ」

 ふ、と跡部は足を組みながら不敵に言った。え、とユカが再度首を捻ると、さも当然のように彼は言い放つ。

「お前、渡仏するつもりだと言ってただろ」

「それはそうだけど……」

「早い話が、フランスの画商どもに目をつけられる前に俺様の家と専任契約を結べということだ。悪い話じゃねえだろ、アーン?」

「え──ッ!?」

 なぜか命令口調で言われてユカは混乱した。話の内容的に跡部は依頼している立場だろうに、だ。おそらくは跡部は元々がこのような口調でこのような物言いなのだろうとは理解したものの、困惑したまま眉を寄せてしまう。

「フ、フランスに行けるかなんてまだ分からないし……、私はフランスの画商の名前も知らないよ……!」

「だから青田買いだつってんだろ、バーカ。ワケも分からないままお登りさん状態でテメーの絵を安く買いたたかれたらどうするつもりだ? アーン?」

「う、売る予定なんてない……」

「少なくとも、マネジメントは必要だぜ」

「わ、私はまだ学生だし……! そんなの、すぐに決められないよ」

 すると、跡部は露骨にため息をついて肩を竦めた。

「ま、だろうな。お前の絵を誰に売ろうがお前の自由だ。権利はお前にある。が……いずれ俺様が跡部財閥を継いだ時、優先権が欲しいと言っているだけだ。悪い話じゃねえだろ?」

「そ、それは……!」

 そうかもしれないけど、と小さく続けると、跡部は面白そうに喉を鳴らした。

「お前は俺様の氷帝学園に入り損ねた時点で既に遠回りの道を選んでんだ。そこから這い上がるためなら全てを使え。自分を甘やかすな。てめーでチャンスを掴み取りな」

 次々と止めどなく不敵な声と共に浴びせられる言葉に、ユカはあっけに取られつつも何とか落ち着こうと深呼吸をした。おそらくこの人は元来こういう物言いをする人なのだから。たぶん他意はない。と今日で何度目になるか分からない思いを過ぎらせて、ふ、とユカは息を吐いた。

「跡部くんは……」

「あ?」

「それだけ……私の絵に可能性を感じてくれたってこと?」

「あん? そうじゃねーならわざわざ呼び寄せるわけがねえだろ。仮にビジネスじゃなく俺様の趣味であっても、だ」

「そっか……」

 何をバカなことを訊くんだと言いたげな跡部を見やり、ユカはようやく少しだけ笑った。単純に跡部は自分の絵を好きだと言ってくれている。そう思えば幾分気が楽になった。

 リムジンが祖父母の家の前に止まり、ユカは跡部に礼を言って車を降りた。そして再び発進したリムジンを見やった直後、ドッと疲れが押し寄せてうっかり壁にもたれ掛かってしまった。

「……疲れた……」

 無意識に呟いた言葉は、他ならぬユカの本心だった。

 が、つい先ほどまで自分が居た世界こそが、自分が飛び込もうとしている世界。──慣れていかなくては、と考える脳裏に強く及川の姿が過ぎった。

 いま無性に及川に会いたい……と強く思うも仙台に戻るのは日曜の夜。会えるのは週明けか……と夜空を仰いで一つため息を零した。

 

 

 一方の仙台。日曜の午後。

 金曜から日曜にかけて行われた県民大会は最終日・決勝──相も変わらずカードは白鳥沢VS青葉城西となったものの、新人戦の時よりは青葉城西は白鳥沢に迫る結果となった。が、センター陣の弱さが浮き彫りになる形で面白いほどに牛島にスパイクを決められ、1セット目は粘ったものの、2セット目は比較的容易く取られて青葉城西は定位置の準優勝で終わった。

 

「んなカリカリすんなよ。準優勝って割とすげーじゃん」

「マッキーそういう目標低いこと言うのやめてください!」

「まァ、お前にとっちゃ北一時代からのインネンだからな」

「松つん人ごとみたいに言うのやめて!!」

 

 及川はというと、青葉城西に戻っての解散後にいつもの4人で帰り道にラーメン屋に寄ってのヤケ食い大会を開催していた。

 とはいえヤケ食いをしているのは及川のみであり、替え玉を繰り返しては地団駄を踏んでいる及川に付き合うことに全員が飽きてきた頃。

 花巻はすっかり空になったラーメンを横に携帯をチェックしつつ、「お」と切れ長の目を瞬かせた。

「及川」

「なに?」

 ん、と花巻は携帯をカウンター横並び一列に座っていた及川へと隣の松川の背中越しに差しだし、及川はラーメンをすすっていた箸を止めてやや眉を寄せた。

「なんなのさ……」

「面白いもん見つけた」

 見てみ、と差し出した花巻の携帯を及川は腑に落ちないといった表情で受け取る。こんな最悪の気分の時に「面白いもん」もなにもないだろうとでも言いたいのかもしれない。

 その及川が携帯画面と向き合い──彼は長い睫毛で縁取られた整った瞳を大きく見開かせた。

 

 ──イギリス若手画家展・本日より開催。

 

 まず及川の目に飛び込んできた文字はそれだ。日付から察するに昨日の記事のようだ。及川が言葉を失っていると花巻がこちらに向けて言った。

「栗原さんだろ、それ」

 及川は無言で記事を追う。そこにはいくつか写真が掲載されており、そのうちの一つは奇抜なスーツを着た少年とドレスアップをしたユカのツーショットだ。及川には何が何だかサッパリ分からない。

「彼女、六本木の美術館に絵を出展してるんだって? やっぱスゲーのな」

「──聞いてない」

「は……?」

「東京で展覧会があるから今日試合に行けないとしか聞いてない!」

「知ってんじゃん……」

「ニュースになってるとか聞いてないよ!」

「ウルセー及川! 黙って食え!」

 すれば及川の隣に座っていた岩泉ががなって及川の頭を叩き、「いたッ!」と及川は抗議して岩泉の方を睨んだ。

 岩泉も負けじと及川を睨み上げる。

「おめーも意味不明なテレビとか雑誌、たまに出てんじゃねーか」

「ヒドイな意味不明じゃないしイケメンかつバレー選手としてだし! ていうかそんなのはどうでもいいの! なにこの変なスーツの男!」

 ユカが美術関連の記事に取り上げられるのは及川としても意外ではなく慣れてもいたが、問題はユカと一緒に写真に写っている相手だ。さすがにドレスアップしたうえ男と一緒に写真を撮られたなどとは聞いていない。

 ああ、と花巻が及川の方へ手を伸ばして自身の携帯を取り戻しつつ目線を流した。

「ソレ、跡部財閥の一人息子だろ」

「え、マッキー知り合い!?」

「なわけねーし。記事に書いてあんじゃん。跡部財閥、って世界展開してるイギリス財閥でロックフェラーみたいな……って知らねぇの?」

「知らない」

「……。まあ……要はパトロンみたいなもんなんじゃね?」

 花巻は淡々と投げやり気味に言って、松川はスープを飲み干しながらちらりと目線だけを及川に送った。

「けっこうイケメンっぽいな、そのおぼっちゃま」

「ハァ!? 松つんなに言ってんの全然イケメンじゃないし! 俺の方がイケメンだし!」

「けど金持ちじゃん」

 その一言に、うぐ、と及川は押し黙る。すると途端に花巻たちから声があがった。

「ドシャット! 松川ナイスキー」

「ナイス、松川」

「お前ら酷すぎる!!!」

 及川は踏んだり蹴ったりのまま今の替え玉でラストにして、その後は4人揃ってラーメン屋をあとにした。

 

「じゃあな、岩泉」

「また明日」

「おう」

 

 しかしながら負け試合のせいか、それとも本気でユカのことがショックだったのか。

 及川は帰宅を拒んで一人そのまま学校に戻り、岩泉達はのらりくらりと徒歩で仙台駅を目指して繁華街までたどり着いた辺りで岩泉は花巻達と別れた。

 そうして岩泉が目指したのはスポーツ用品店だ。

 そろそろ愛用のシューズがくたびれてきて買い換え時なのだ。

 実際に今日の試合でちょっとヒヤッとした場面もあったしな、とうっかり牛島に綺麗にスパイクで抜かれた場面を思い出して岩泉は小さく舌打ちをした。

 岩泉の愛用しているアシックスのバレーボールシューズは手頃な値段で基本的にどこでも手に入るものであり、岩泉は特に考えることなく適当に頭にインプットされているスポーツ店の一つに入ってシューズを探した。

 が、生憎と自身のサイズが売り切れで、次の店を目指す。ところが次の店も売り切れで、痺れを切らした岩泉はこの界隈で在庫のある店舗を店員に訊ねた。

 すれば駅の近くの百貨店には置いているということで、岩泉はそこまで出向くことにした。

 しかしながら大会帰りのジャージ姿で百貨店に単独突入というのはそれなりに羞恥心を煽る。エントランスまで辿り着いた岩泉は無言で早歩きにてグランドフロアを突破しエスカレーターを駆け上がるようにして目的地に着くと、さっさと用事を済ませようとぐるりと棚を見渡した。そして自身の探していたシューズを発見するとさっそく手に取ろうとした。が、またもやサイズが違い、近場にいた店員を捕まえて自分のサイズを持ってきてもらえるよう頼んだ。

 そうして時間つぶしに他の靴を物色している時──。

「岩泉か……?」

 聞き慣れない、だが聞いた覚えのある声に呼ばれて岩泉は振り返った。その顔が一気に硬直してすぐさましかめっ面になる。

「ウシワカ……」

「その呼び方、やめろ」

 振り返った先にいたのは長身の少年。今日の決勝戦で会ったばかりの相手であり中学時代からの宿敵でもある白鳥沢の牛島若利だ。

 彼にしても試合帰りなのか、白鳥沢のクラブジャージを身に着けている。

「こんなところで何をしている」

「あ? スポーツ用品店に来る用事なんざ買い物に決まってんじゃねーか」

 自然と口調が敵意を含んでしまうのは、もはや致し方ないことだろう。

 それもそうだな、と牛島は牛島でやはりシューズを見に来たのか棚に目線をやり、岩泉も「お待たせしました」と店員が目的物を持ってきてくれたため足早にこの場を去ろうとした。

 が──。

「待て、岩泉」

「は……?」

「お前に少し話がある」

 言われて岩泉は眉を寄せた。

「話……?」

 怪訝に思った岩泉ではあるが、僅かの逡巡の結果聞いてみることにした。珍しく及川ではなく自分に話があると言った牛島に興味が沸いたからだ。

 それぞれ目的のものを購入して無言で百貨店を出て、少し先にある小さな公園に場所を移した。

 歩きつつ、我ながら何ともシュールな図だ、と岩泉は思ったもののちらりと見上げた牛島は相も変わらず読めない表情をしている。この「表情」に自分たちは何度苛立たせられて来たことか──と余計なことまで思い返していると公園に着き、さっそく牛島が切り出してきた。

「まず、前提として話しておきたい」

「何だよ」

「俺は、及川を優秀な選手だと評価している。中学の頃からだ」

「何だ……話って及川の事かよ。それなら直接アイツに言ってくれ」

 チッ、と岩泉は舌打ちをして両手をジャージのポケットに突っ込んだ。

「及川にも何度か話そうと試みた。が、及川が俺の話を最後まで聞いたことは一度もない」

「だろうな」

「だからお前に聞きたい。及川は……なぜ白鳥沢でなく青城に行った?」

「──は?」

 ピキ、と岩泉のコメカミに青筋が立つ。

「んなもん、テメー含めて白鳥沢をぶっ潰すために決まってんだろーがボゲ! むしろなんでアイツが白鳥沢に行くと思える? 宿敵じゃねーか!」

「だが、ウチは及川を誘った。破格の特待生としてだ」

「は……」

「それでも及川は白鳥沢を蹴り、青城に進んだ。その結果が今だ」

 岩泉は、「頭が真っ白になる」という文字通りの体験をまさに生まれて初めてしていた。──及川が白鳥沢からの誘いを蹴った。そんなこと、いま初めて聞いたからだ。

「てめぇ……、ホラこいてんじゃねえだろうな!? 俺はそんな話、聞いちゃいねえぞ!」

 思わず牛島に掴みかかった岩泉を、牛島は解せないという面もちで見下ろした。

「なぜウソを付く必要がある? 及川は、あの年のベストセッター賞。つまり県でもっとも評価されたセッターだった。サーバーとしてもスパイカーとしても高位置で安定しているのは知れたこと。むしろなぜウチが及川を誘わない理由がある?」

 言われて岩泉は歯ぎしりをする。チッ、と舌を打ちながら牛島を解放し、眉を寄せた。

 確かに道理は通っている。いやむしろ考えれば考えるほど当然のことだ。

 けれども──、と言葉を発せないでいると牛島はなお言い放った。

「今さら、過去のことをどうこう言う気はない。だが、もしも及川が白鳥沢に来ていれば少なくとも奴は全国ベスト4の正セッターだったことは確かだ。それがどういう意味だか分かるか?」

「何が言いてえんだよ……、はっきり言えよクソが」

「これからバレーを続けるならば、最低でも全国ベスト8という成績は必須だ。俺は既に進む大学が決まった。だが、及川にはそれは無理だ。及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った」

「それは……、青城に来たのが間違いだったと……そう言いてえのか、ああ!?」

「端的に言えばそういうことになる。だがそれも今さらだ。俺が忠告したいのは一つだけ。これから進む道は誤るなと、そう及川に伝えて欲しい」

 それだけだ、と言い返せない岩泉に言い捨てて牛島は岩泉に背を向けた。

 岩泉は血が滲むほどに自身の手を握りしめていた。──脳裏に、中学最後の大会で泣きながら白鳥沢にリベンジを誓った時の光景が過ぎった。

 

『高校行ったら、今度こそ白鳥沢凹ましてやる……!』

『当然だ……!』

 

 それは負けた直後の一時的な気の高ぶりだったとしても、自分たちには必然の選択だった。及川も心からそれを望んでいたはずだ。

 なぜなら──と忘れたくても忘れられない出来事が蘇った。

 

『一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ! けど、バレーはコートに6人だべや!?』

『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 

 焦って自暴自棄となり今にも爆発しそうだった及川にぶつけた言葉。それが及川の救いとなったことを岩泉はイヤと言うほど自覚していた。

 時には恐ろしいほどに及川がその言葉に依存していることも見てみないふりをしていた。

 だってそうだ。元来の及川は、「個」で上に駆け上がることを望んでいたのだ。だからこそ「自分」が「牛島」に勝てないことに絶望し、そして「影山」という才能に打ち拉がれて焦燥していた。

 それがあの時以降、彼は自分の元来の欲求を心の奥底に眠らせてしまった。全ては「天才」に対抗する手段として彼が無意識に選び取った事だ。天才には勝てない。だから6人の凡才で立ち向かうと彼は決めた。

 だから──と岩泉はなお拳を握りしめた。

 だから、及川は後輩でありチームメイトであった「天才」を「敵」だと認識して除外した。

 そして自分は見て見ぬふりをした。──あれほど及川を慕っていた後輩を、と影山のことを考えるたびに僅かな罪悪感は過ぎったが岩泉にとっては詮無いことだった。

 自分にとって、及川はかけがえのない幼なじみで相棒で。及川を守るためならその他の犠牲など取るに足らない事だったからだ。

 及川の影山に対する揺らぎには気づいていた。才能への嫉妬と、羨望と、追われる焦り。そして慕われている事へのくすぐったさと、影山へ向かう抗いきれない先輩としての情。

 「敵」だと認識することで、及川の揺らぎが平穏になるならそれで良かった。

 及川徹は、体格にもセンスにも恵まれた自慢の相棒だ。けれどもそんな彼は、「天才」ではなかった。

 無理に「天才」と同じステージに立つ必要はない。そうすれば、アイツはまた暴走していずれは壊れてしまうかもしれない。そんな畏怖の念が岩泉を支配していた。

 だから──。

 

『え、だって……勉強する意味わからない、って。世界に出たとき困るよ……?』

『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』

 

 「天才」はさも当然のように──上へ上へと突き進む。それは及川の心を揺らす。及川は常人よりも遙かに「天賦の才」とやらに惹きつけられてしまう。

 だから……近づかなければ良かったんだ、と岩泉は歯ぎしりをした。

 及川にとって自分の存在が大きいことは自覚している。他人の言葉に左右されやすい及川にとって、自分の一言が時に大きすぎるほど大きく影響するというのも自覚している。

 だが、それ以上に及川は牛島の、影山の、そしてユカの一挙手一投足に全身で感情を揺り動かされてしまう。

 ──これ以上、そいつに構うな。そいつはお前ら「天才」とは違う。そのボーダーを踏み越えさせないでくれ。

 いっそそう叫べればどれほど楽か──。

 自分が間違っていたかもしれない。踏み越えろと背中を押すのが正しかった可能性だってある。──時々込み上げる感覚に全身で抗ってきた。

 だってそうだろう。そのラインを越えさせてしまえば、自分は二度と及川と並べない。──と岩泉は俯いた。

 

『これから進む道は誤るなと、そう及川に伝えて欲しい』

 

 クソが……ッ、と血が滲むほど歯ぎしりをして、岩泉は夕暮れの公園から一歩も動けずただジッと立ちすくんでいた。

 

 

 ──その頃の及川は。

 岩泉と牛島の会合など知るよしもなく、一人でいつも通りの自主練習に精を出していた。

 体育館に入る前に一度だけユカに電話をかけてみたが繋がらず、イライラも募っていっそう今日のサーブ練には力が籠もった。

 やや焦りもあったのかもしれない。ユカはどんどん遠くへ行こうとしていて、自分はいつまで経っても白鳥沢に勝てない。

 数え切れないほどのサーブを叩き込んで、少しだけ朦朧とする意識の中で及川は両膝に手を付いた。

 

 ──いつか、夢を見た気がする。

 前を見たら、影山がいて、牛島がいて、そしてユカがいた。呼ぶ声が聞こえた。こちらへ来い、と確かに呼んでいた。

 けれども後ろを振り返ると岩泉がいて、彼は自分に背を向けて歩いていって。

 どちらを追うか決めかねて、立ちすくんだ。立ち止まったまま動けず、立ち竦んでしまったのだ──。

 

 荒い息を吐く中で、ハッとして及川は意識を戻した。見渡せばいつも通りの体育館である。

 一瞬意識がトンだ、と頭を押さえつつ壁の時計に目をやる。もう19時を回っている。

 確か16時にはラーメン屋を出て学校に戻ったはずだ。

 さすがにやりすぎたかな……とため息を吐いてストレッチをこなし後片づけをして帰り支度を済ませ、体育館を出た。

 携帯を取りだして見やるとユカからの不在着信があって「あ」と及川は目を見張った。折り返しかけてくれたのだろう。

 そのまま発信ボタンを押して、及川は携帯を耳にあてた。ユカは携帯を手元に置いていなかったのか、しばらく待ってようやく彼女の声が聞こえた。

「もしもし」

「あ、ユカちゃん? いまどこ?」

「え……新幹線の中だけど」

「え、話して大丈夫?」

「デッキに移動したから平気」

 ユカの声を聞きながら、及川は少しホッとしている自分を自覚した。開口一番にあの変なスーツの男の事を問い質そうと思っていたのに、と肩を竦める。

「ユカちゃん……、あのさ」

「ん……?」

「展覧会、行ってたんだよね? そのことで……俺になにか言うことない?」

 しかしながら気になるのも本音で、やや口を尖らせ気味に言ってしまうと「え」と携帯の先のユカは息を詰めたように感じた。

 戸惑うなんて何か後ろ暗いことでもあるのだろうか、とその反応を勝手にネガティブな方向に受け取り、少し眉を寄せて返事を待つことしばらく。実際はほんの数秒ほどだったかもしれないが、やけに長く感じた間のあとにちょっとだけ躊躇したようなユカの声が漏れてきた。

「及川くんに早く会いたい」

「──え」

「だから明日、学校に行くの楽しみなの。ね、お昼一緒に──」

 はにかんだような声と共に流れてきた彼女の言葉を遮るように及川は反射的にギュッと携帯を握りしめていた。

「ユカちゃん、何時に仙台駅に着くの?」

「え……と8時過ぎだから、あと30分後くらいだけど……」

 どうして、と言いたげなユカに及川は校庭を走りながら明るく告げた。

「オッケ。じゃあ俺、改札で待ってるね」

「え……!?」

「だって及川さんに会いたいんでしょ?」

 言って及川は携帯を切り、急いでバス停を目指した。いったい何をモヤモヤ考えていたのか、一瞬で忘れてしまった。

 自分もはやくユカに会いたい。会って話したいことがたくさんある。──なんだ、いつも通りじゃん。と全開の笑みを一人で零して及川はやってきたバスに飛び乗った。

 

 

 高校生活最後の春が訪れようとしている。

 みなそれぞれの分岐点があることをまだ知らずに──同じ道を歩いていたい。

 そう考えていたのは誰だったのか、まだ誰も知るよしもない。



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37話:及川徹の最終学年

 ──4月。

 

 またこの季節がやってきた。──と、少なからず新3年生は誰もが思った。

 しかも、「ソレ」は3年目にして最大の規模を誇った。

 なぜならば──。

 

「及川せんぱ──い!!」

「及川先輩、お久しぶりでーす! 及川先輩に会いたくて青城入りましたあ!」

「及川さーん!」

 

 毎年恒例、春の風物詩である北川第一時代から続く及川フィーバーである。その伝統行事の始まりは、今年は入学式であった。

 入学式を始業式の前日に行っている青葉城西は、在校生代表として生徒会や各種委員会のメンバーに加え複数の部活の代表者が出席するのが習わしだ。

 一つは吹奏楽部。これは演奏のためであり、あとは活躍の目立つ部の代表者が部活紹介という形で出たわけであるが。

 青葉城西随一の活躍を誇る男子バレー部は毎年出席しており、部長及び副部長が参加する決まりで、今年は及川と岩泉であった。

 そして美術部もまたしかりで、美術部はユカ自身の活躍で名が知られるようになった事もあり、ユカは部長ではなかったが今年は部長と共に式に参加した。

 ゆえに、ユカもしっかりと目撃した。及川がステージに上がった瞬間に保護者を含めた女性全体がどよめいたのを、だ。

 

 光速で新入生は「青葉城西にカッコイイ人がいる」という事を周知し、及川フィーバーは空前絶後の規模となった。

 

 そうして翌日の始業式に2,3年生は新しいクラスに割り振られ、午前中はオリエンテーションと式が行われた。

 午後からは部活勧誘の時間となり──この有り様である、とユカは正門から第三体育館へ続く道に設置された各部活勧誘ブースでひときわ盛り上がる男子バレー部を遠目に見てさすがに圧倒されていた。

 

 今朝、クラス割りの掲示板を見て──予測が付いていた事とはいえ、ユカは及川と同じクラスとなったことを知った。

 そうして割り振られたクラスに入れば席順が黒板に示してあり、及川は窓際の後ろの席、ユカは廊下側から二列目で比較的離れてしまった。

 しかしながら6年間で及川と同じクラスとなったのは初めてのことであり、ユカは黒板に及川の名があることを単純に嬉しく感じた。

 が。ユカより遅れて登校してきた及川はクラスに顔を出すや否や「及川君って国立理系なの!?」「えー、どこ受けるの!?」と女子に取り囲まれており、ユカは例え同じクラスでも話しかけるチャンスはそうは巡ってこないのだと早々に悟った。

 ──と、つい午前中のことを思い出しつつ遠巻きに男子バレー部を見やっていた思考は「すみません」と声をかけられたことで途切れた。

 

 一方の及川は視線を送ってくる女生徒ににこやかに対応をしつつも、新入部員の方もちゃんと見ていた。

 行き交う初々しい新入生たちを眺めつつ、めざとく見知った影を見つけてさっそく声をかけて笑みを浮かべる。

「やっほー! そこにいるのは金田一に国見ちゃんじゃーん!」

 及川にとっては懐かしい北川第一時代の後輩だ。及川の声に呼応するようにブースに座っていた岩泉も立ち上がって声をかけた。

「おう。金田一、国見。久しぶりじゃねえか」

「岩泉さん!! 及川さんも、お久しぶりです!」

「え、ちょっと岩ちゃんと俺で反応違くない?」

 真っ先に岩泉を見つけたのか破顔した長身の少年・金田一と無言で頭を下げた少年・国見に突っ込みつつ取りあえず二人を誘導してさっそく入部届けを書かせる。もちろん2人もそのつもりで来ただろうからだ。

 その様子を見下ろしながら及川は思った。──いるわけないよな。と、うっかり影山の姿を探した自分に内心笑ってしまう。

 彼らは自分が北川第一にいたころは比較的に影山と親しい仲に見えていたが──あの中総体県予選決勝以降はどうなのか。

「ところで金田一、トビオちゃんは? どうしてんの?」

 取りあえず訊いてみるか。と、及川は努めて明るく北川第一時代の口調そのままで金田一に笑いかけた。

 とたん、金田一の顔が分かりやすく曇った。

「知りませんよ。部活引退してから一度も話してませんから」

「えー、そうなの? 俺、飛雄も青城来るんじゃないかって楽しみにしてたんだけどなぁ」

 さも残念そうに言えば、悪趣味だと言わんばかりに岩泉が睨み上げてきて及川は肩を竦めた。

 けれども、と思う。本当に彼はどこへ行ったのか。

 

『白鳥沢に受かんなかったら……、俺、公立受けるからヘーキです』

『烏野ってとこですけど』

 

 その「烏野」とやらにいるのか。

 思えば影山に出会ったのはちょうど3年前のこの時期だ。

 あの日もこうして新入生を部に迎え入れ、自分は部長として挨拶をしたのだった、と部活勧誘のあとに早速いま集まった新入部員を体育館に招き入れ、一人一人自己紹介をしていく新入部員を見守りつつ及川は過ぎらせた。

 

『秋山小出身、影山飛雄です。バレーは小2からです。よろしくお願いします』

 

 これからの部活動に期待と希望いっぱいだと訴えかけるように瞳を輝かせていた小柄な少年だった。

 そんな彼の手から放たれるトスは恐ろしいほどに正確無比で、初めて見たときには文字通り落雷に打たれたような衝撃を受けたものだ、と及川は遠い目をした。

 天才のくせに、自分のあとばかり追ってきて、かつて自分が躓いた道さえも彼は辿った。そしていまなお、彼はそこから抜け出せていないはずだ。

 しかしながら「天才」とは、凡人が躓いた道など自力でやすやすと突破できてしまうものなのかもしれない。

 

『及川さんを越えて県一番のセッターになるのは俺ですから』

 

 ──生意気なクソガキ。一人でやれるもんならやってみればいい。せっかく差し伸べようとした俺の手を振り払ったのはお前だ、飛雄。だから俺は宣言通りにお前を潰してやるよ。

 

 お前には、まだ負けない。──と無意識のうちに眉間に皺を寄せていると、自分を呼ぶ声が耳に届いてハッと及川は意識を戻した。

 すれば新入部員、監督、岩泉たちの全員が自分を注視しており──しまった、と及川は誤魔化すようにニッコリ笑った。全員、自己紹介を終えたのだろう。

 

「ようこそバレー部へ。知ってる子もちらほらいるみたいだけど、俺は主将の及川徹。ポジションはセッター。今年の目標は何と言っても全国出場だ。練習は厳しいけどちゃんとついてきてよ? 青城バレー部に新しいパワーを加えてくれる事を全力で期待してるからね! よろしく!」

「──はい! よろしくお願いします!」

 

 そうして挨拶が済めば、練習の開始だ。

 及川たちレギュラー・ベンチ陣はいつも通り。そのほかは新入生の力量テストをやるつもりらしい。

 とはいえ少なくとも金田一はすぐにこちら側に入るのかな、とちらりとテストの様子を見守りつつ及川も練習に精を出した。

 

 そうして練習が終われば一人で居残るのもいつも通りだ。

 しばらくは岩泉も付き合ってくれたが、なにせ今日は始業式であり部活開始時間が早く──通常の部活終了時間である19時を待たずに彼は引き揚げてしまった。

 が。意外にも彼が去ったあと数分と経たず体育館の扉が開いて、及川はボールを掴んだまま反射的に扉の方へ顔を向けた。

「岩ちゃん、忘れ物でも──」

 しかしながらそこに立っていたのは岩泉ではなくユカで、ユカは少し困ったように笑った。

「さっき体育館の前で岩泉くんとすれ違った……」

「そっか。ごめん、岩ちゃんが戻ってきたと思っちゃった」

「邪魔だった?」

「まさか。ユカちゃんの大好きな及川さんのサーブ、たっぷり見てってよ」

 いつもの調子でピースをすれば、ユカは緩く笑って壁際に寄った。

 

 規則的にボールを打ち鳴らす音が大きな体育館に響き渡る。

 

 こうして及川がサーブ練習に明け暮れる様子を見守る事も、もう6年目だ。──とユカは一定のリズムでサーブを続ける及川を見つめながらぼんやり考えた。

 練習熱心で、真面目で、どこまでもバレー一直線。及川に最初に抱いた印象はいまも変わらず、けれどもあの頃はこんな風に勝手に頬が熱くなるような気持ちは抱いていなかった。

 5年前よりも身長が伸び、筋肉も増した。不安定だったコントロールは安定して、球威も上がっている。筋力が増したせいか跳躍力も伸びて、長身も相まってサーブ角度の鋭さなど段違いだ。あの頃もコートに立っている時は凛とした大人びた表情をしていたが、ずいぶんと精悍な青年になった。──周りが騒ぐのも無理はないかな、と今さらながらに実感してギュッと胸の辺りで手を握りしめてしまった。

 散らばりきったバレーボールを集めて「もう一回」と言う及川を見守って、再び籠の中のボールが全てコートに散らばって及川は、ふぅ、と息を吐いた。

「そろそろ上がろうかな」

 そうして及川はこちらにやってきて床に置いていたタオルで汗を拭いつつストレッチを行う。散らばったボールを拾い集める作業をユカも手伝い、用具室に仕舞い終えて及川はどこか力なく笑った。

「今日さ、新入部員が入ってきたんだよね。北一の時の後輩もけっこういたよ」

「そっか。知ってる後輩だときっとやりやすいよね」

「うん。けどさ、あんまり知った顔が多いから……うっかり思い出しちゃったんだよね、3年前のこと」

 そして及川は自嘲するようにして肩を竦めた。首に引っかけていたタオルでもう一度汗を拭っている。

「あいつらがいるのに、飛雄がいない。飛雄のいない北川第一なんて理想的なはずなのにさ……振り返ったら誰にも見られてないってのも奇妙でサ」

 及川という人間が、内面に計り知れないほどの複雑な感情を抱えていることは知っている。そして、その感情を向ける相手が複数いるのも知っている。と、ユカは唇を結んだ。

 影山は及川を追って青葉城西に入るという選択を自ら蹴った。そして選んだのは白鳥沢……という影山らしく、そしてバレー選手として最善だろう選択。叶ったか否かはともかくも及川にとっては影山に拒絶されたという事実があるのみで、彼の中で失望や安堵や敵愾心という相反する想いが今なお渦巻いているのだろう。そして北川第一時代の直属の後輩たちに会って強烈にその事実を思い出した。それだけだ。

「残念……だね」

「残念じゃないってば」

「でも、きっと会えるよ。及川くんがバレーを続けてたら、きっとまた影山くんと同じチームになれる時ってあると思うもん」

 ね? と笑いかけると及川はキョトンとしたあと、ブスッと頬を膨らませた。

「飛雄と同じチームなんてまっぴらゴメンだね。アイツは敵なの、敵!」

「影山くんが及川くんの後輩なことと影山くんへの敵対心は矛盾なく成立してる、って言ってたの及川くんなのに」

「う……ッ」

 いつか及川が言っていたことを思い出して言えば及川は言葉に詰まり、次いで「もー」と唇を尖らせた。

「ユカちゃんはそうやっていつも飛雄の味方するんだから」

 そうしてため息をついた及川は、ジッと何かを求めるようにこちらに視線を向けた。が──すぐにハッとしたように少し後ずさって逡巡するように顔をしかめ、ユカは首を捻る。

「お、及川くん……?」

 どうかしたのか、と問えば及川はバツの悪そうな顔をしてぼそりと言った。

「いま、すっごく抱きしめたいって思ったんだけど……、俺いま汗だくだったって気づいた。ヤだよね」

 言いにくそうに言われ、ユカはきょとんとしたのちに、ふ、と笑った。そうして自ら一歩進み出て、ギュッと迷わず及川の胸にしがみつく。

「えッ、ちょっとユカちゃ──」

「平気」

 戸惑ったような声が降ってきたがユカは迷わず及川の汗で濡れたシャツに顔を埋めた。──ジャケットのない青葉城西の女子制服に初めて感謝しつつ笑う。

 すると息を詰めたように及川の身体が撓り、すぐに力強い腕が抱きしめ返してくれた。

「ほんっと、ユカちゃんはもう………俺のこと大好きだよね」

 いつも通り一人ごちるような声が僅かに震えていた。少し顔を上げれば、感極まったような照れたような顔を浮かべる及川がいた。そうして及川が少しかがむ。

「好きだよ、ユカちゃん」

 囁くように言われたかと思うと、そのまま急くように唇を塞がれてユカは反射的に瞳を閉じた。

「……ん……ッ」

 相も変わらず及川に触れられると身体が熱くなって、汗でじっとり張り付いたシャツの感覚さえ昂揚を煽って脈が速くなるのを感じた。

 触れるだけじゃないキスを初めてしたのいつだっけ。と、頭が白むような感覚を覚えながらユカも及川を求めた。もっと触れたいと素直に思った。

 そうしてユカは少しだけ自覚した。ふわふわと身体が浮くような感覚に、唇が離れてからもギュッと及川にしがみつくようにして目を瞑る。

「なんか……今日はじめて及川くんとこうして話したような気がする」

「え……」

 すると少し息を乱していた及川が戸惑ったような声を漏らした後に、ああ、と頷いた気配が伝った。

「教室だと話す余裕なんてなかったもんね」

 うん、とユカは小さく相づちを打つ。

 たぶん、少しだけ寂しいと感じていたのだと思う。及川が女の子に囲まれている事なんて今さらで、及川がよそ行きの顔で彼女らに笑みを振りまくのも何もかも全て慣れているというのに。教室という区切られた空間で一言も話せない事はやっぱりちょっと辛かったのだ。──と、これほど及川に触れていたいと感じていたらしき自分を自覚して理解した。

 ふ、と一度固い胸板に額をつき、離れがたく感じつつもユカはそっと及川から身体を離した。

「そろそろ帰ろうか」

「そだね」

 そうして揃って体育館を出て、中庭を横切り校舎群を越えて部室棟まで歩いていく。

 急いで着がえてくるという及川を部室棟の下で待ち、制服に着替えた及川が出てくれば並んで夜の学校をあとにした。

「ねえユカちゃん、寄り道してこっか。俺、もうちょっと一緒にいたい」

「え……」

「西公園の夜桜とか綺麗だと思いますケド?」

 バスを待ちながら手を繋いでいると鼻歌交じりに言われて、う、とユカの心が揺らぐ。──離れがたい、と感じてくれたのは及川も同じだったのか、それともこちらの気持ちを察してしまったのか。それともそんなスケッチし甲斐のありそうな場所を断るわけがないと悟られているのか。

 どんな理由であれ断るという選択肢はユカにはなく、うん、と頷いてキュッと及川の手を握り返した。

 

 

「ユカちゃーん!」

 

 翌日。通常授業の始まったその日の中休み、開口一番に及川はユカを呼んだ。

 むろんユカの表情が強ばったことも教室がざわついたのも瞬時に感じたが、及川はいつも通りの笑みを浮かべてユカの前の空いていた椅子に腰を下ろしてついいま受けたばかりの数学のノートを開いた。

「お、及川く……」

「ちょっといまの授業でわかんないとこあってさ。教えて、お願い!」

「え……」

「北一の時からそうしてるじゃーん! せっかく一緒のクラスになったんだし、お互い部活あるんだし、休み時間の有効活用だと思わない?」

「え……と」

「試験前には岩ちゃんの面倒見なきゃいけないんだからさ、ね!」

 ──これで周りはユカと自分が同じ中学出身で、かつ昔から交流があると認知した。と及川は手を合わせてウインクしつつ内心笑った。ユカは普通科にいるのが疑問視されているほどの優等生。理系・外国語に関してはずば抜けてトップだ。だからこそバレーバカに付き合って昔から勉強を教えていた、というストーリーを周りが勝手に作ってくれるだろうし、別にウソじゃないし。

 と、思惑を巡らせていると、ユカが悟ったかどうかはともかく「うん」と頷いて解説を始めてくれた。

 こういう事は最初が肝心で、「こんなもの」とさえ理解してもらえれば案外上手くいく。せっかく一緒のクラスになれたのに他人行儀とか冗談じゃないし、と解説を耳に入れながら及川は物理的にも正解だったと感じた。実際に部活に追われている身、授業後に即復習できるならばこれ以上ありがたいことはない。

 功を奏したかは分からないが、けっこう正解だったようだ。と、その後も特にユカとの事に突っ込まれずに過ごした及川は上機嫌で部活に向かった。

 夕べのユカは何だか甘えたモードで可愛かったし、何よりユカと同じクラスで幸先のいいスタートだ。と、着がえて軽い足取りで第三体育館に向かっていると、入り口のところで監督とスーツ姿の見慣れない男性が話をしているのが見えた。

「ん……?」

 話をしている、と言うよりはスーツ姿の男性が一方的にペコペコ土下座せんばかりの勢いで頭を下げており「なんだ?」と歩きつつ観察していると、及川が入り口に着く頃には深々と頭を下げて「また来ます!」と踵を返し正門の方へ歩いていってしまった。

 何やら頭を抱えている監督に話しかけてみる。

「先生……、なにか問題ごとですか?」

「ん? ああ及川か……いや、な」

 そうして監督は、ふー、とため息を吐きながら腕を組んだ。

「練習試合の申し込みをされたんだが……断るのに一苦労でな」

「練習試合……へえ、断るほど弱い学校だったんですか?」

「うむ。烏野高校という、昔は強かった学校なんだが……」

 え、と及川は目を見開く。烏野──と一気に脳裏を可愛くも憎らしい後輩の姿が過ぎるも監督は露ほども気づかず苦笑いを浮かべている。

「こう言ってはなんだが、こちらも相手を選ぶ必要があるからな。インターハイ予選までそう時間はない。申し訳ないが全部を相手にはしていられない。……さ、行こうか練習だ」

 そうして促され、及川も返事をしつつ体育館に向かった。

 烏野──と浮かべたまま練習を開始し、休憩時間になったところで及川は真っ直ぐ新入生のたまり場になっている場所に歩み寄っていく。

「金田一、ちょっといいかい」

 ザワッ、と辺りがざわめいた。主将という立場上、まだ部に入ったばかりの彼らが自分との距離を掴みかねているのは当然だ。が、直属の後輩であった北川第一の一年生はそうでもないだろう。

 呼ばれた金田一は少し目を丸めたものの、はい、とすぐに応じた。

「お前も知ってるかもしれないけどさ、ウチはお前と飛雄の二人に推薦を出したんだよね。で……飛雄はそれを蹴った。そのおバカなトビオちゃんが現在どこにいるか……お前知ってるだろ? ちょっと及川さんにも教えてよ」

 壁に手をついてニッコリと笑いかければ、金田一は眉を寄せて少し俯いた。

「昨日も言いましたけど、俺……引退してからあいつと一度も話してないんで」

「まぁね。あんな無茶ぶりトス上げられたら苛ついちゃう気持ちも分かるよ? 金田一はセンターだから、飛雄のクイックの煽りを一番受けちゃってたからね」

 ぐ、と金田一は喉元を詰めた。まさかあの中総体県大会決勝を自分に見られていたとは思いもしなかったのだろう。

「ま、何にせよ飛雄は青城には来なかった。ということは、だ。今度はお前はコートを挟んで飛雄と再会することになる。お前……飛雄に勝つ自信ある?」

「も……もちろんです! アイツは個人技はちょっと抜けてますけど、それだけです。チームプレイもできない独裁の王様には負けません!」

「ふーん……」

 ちょっと抜けてる、か。と及川は内心呟いた。──セッター以外の人間には分からないのだろうか。影山が「天才」だということが。面白いと思った。影山の元チームメイトは影山を天才だと思っていないとは。

 本当に影山は北川第一で何をやっていたのか、という思いはいまは抑えて及川は笑った。

「先生が練習試合を考えてる相手がいるんだよね。県立の……烏野高校ってトコ」

「──影山の学校とですか!?」

 すれば間髪入れず金田一が反応し、やっぱり、とカマをかけただけの及川は肩を竦めつつも笑った。

「なんだよ金田一、やっぱり知ってたじゃーん」

「あ……! べ、別に……元チームメイトに聞いただけです。あいつ、公立受けて……バカだから落ちるかもって担任とかも気にしてたみたいで、それで無事に受かったって。それだけです」

「なるほどね。確かに俺が飛雄の担任だったとしても不安だよ。ホントーにおバカだったからねあいつ」

 ふぅ、と及川は片手を腰にあてた。目的は達したし、そろそろ休憩時間も終わりだ。

「お前がちゃんと飛雄と戦えそうで安心したよ、金田一。さ、休憩のあとの速攻練習にはお前もメインメンバーとして加わるよう先生から指示されるはずだ。この及川さんが金田一の一番打ちやすいトスを上げてやるから、力一杯ぶち抜けよ」

「ッ──は、はい!」

 姿勢を正した金田一を見て、ふ、と及川は笑った。

 ──影山は烏野にいる。早々にチャンスが巡ってきたと感じた。いつか戦う事があれば負かしてやると宣言してから3年。影山は自ら、今度こそ本当に自分の「敵」となった。しかも白鳥沢でも、ベスト4に入るような強豪でもない高校だ。

 ──天才セッターが聞いて呆れる。バカだね飛雄。お前ほんとに何やってんの。と巡る考えに及川は微かな矛盾を感じたが、気づかないフリをした。そして何より、いい証明になると思った。正々堂々と戦って天才を負かして、天才一人いたからって勝てるもんじゃないんだよ、と突きつけてやるのだ。バレーは6人で強い方が強いのだ、と。

 出来れば公式戦が望ましかったが、何もこのチャンスを逃がすことはない。──と及川は練習後に体育館を出ていく監督とコーチを追った。

「先生……!」

 振り返った監督に「さっきの話なんですけど」と切り出してみる。

「烏野との練習試合……受けてもらえませんか?」

「は……?」

 目を丸めた彼らに、及川はいつも通りの笑顔でなお畳みかけた。

「中学の時の後輩……、先生も知っての通りの影山飛雄が烏野に入ったみたいなんですよネ」

「影山が……!?」

「烏野……?」

 なぜだ、と言わんばかりに監督もコーチも口を揃えて目を見張り、及川は頷いて口の端をあげる。

「まあ、だからといって烏野がウチの脅威になるとは思えませんけど。力量を見るのにちょうど良い機会かなーと思ったんですよね。飛雄が……俺にどこまで食らいついて来られるのか知りたいですしネ」

「しかし……仮にそれが事実でも、影山は入部したばかりだろう。現段階で正セッターかどうかは分からないんじゃないか」

「じゃあ先方にそう伝えてください。飛雄をフルで出してくれ、って。先生も気になるんじゃないですか? ウチを蹴った飛雄が烏野ってところでどう育ってるか」

 う、と考え込んだ監督に及川はあえていつも通りに、ニコ、と笑った。

「もしも実現できたらイイナーって話ですけど。じゃあ俺、自主練に戻ります!」

 お疲れさまでしたー、と頭を下げて踵を返し、及川はペロッと唇を舐めて笑った。

 まったく幸先のいいスタートだと思う。──もしも烏野との試合が実現すれば見せ付けてやろうと思った。

 影山など、まだまだ自分に全然敵わないということを、だ。

 影山はまだ、かつて自分が躓いた道──孤軍奮闘で現状突破しようと突っ走る──で足止めされているはずだ。いずれ自力で脱出するにせよ、いまじゃない。だから今のうちに植え付けてやるのだ。まだまだ「及川さん」には敵わない、と。

 

『アンタがいるから……、俺は青城には行かない』

 

 そしてせいぜい後悔すればいい。白鳥沢に落ちたあげくせいぜい中堅レベルの高校に進んだ自分を。

 

『及川さんのところに来ればよかった、ってあとで後悔すればいいんだよ飛雄なんか』

 

 ──俺は、負けない。



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38話:及川徹はやや弱気

 金田一と国見が露骨に顔を強ばらせたのが伝った。

 その横で及川は鼻歌でも歌いださんばかりに上機嫌で、ニ、と口の端を上げた。

 花巻と松川は顔を見合わせて解せないという顔をしている。岩泉に至っては直球で「なんで?」と呟く始末だ。

 

「明日、先方の顧問が改めて訪ねてくるということで……まだ仮決まりの段階だが、全員そのつもりでいるように」

 

 4月の第二金曜。練習開始前の挨拶を監督はそんな言葉で締めた。

「ハァイ、みんな。じゃあ練習始めるよー!」

 及川は上機嫌で手を叩いて部員全員の顔を見渡し、笑った。

 ──来週の火曜、烏野高校と練習試合を行う。

 監督はそう言ったのだ。金田一と国見が顔を強ばらせたのは、烏野にかつてのチームメイトである影山がいると知っているからだろう。そして岩泉は影山が烏野にいることを知らない。ゆえに花巻達と同様に「なぜ大して強くも付き合いもない烏野と急に練習試合を?」という純粋な疑問を抱いたに違いない。

 そして──、と及川はボール籠をコートに移動させつつスパイカーを呼び寄せて攻撃練習を始めながら、内心自分の望みが通ったことを確信していた。おそらく監督は影山を正セッターで出すならばという条件付きで練習試合を受けるのだろう。やや無茶な要求であるが、そこは強豪校の強みでもある。

「なにニヤニヤしてんだ及川、気持ち悪ぃ」

「酷いなイケメンに向かって!」

「俺の目にお前がイケメンに映ったことは生まれてこの方一度もねえけどな」

「カワイソウ岩ちゃん、美的感覚がおかしいんだね──あいたッ!」

 岩泉にトスを出したあとのそんなやりとりを経て頭にボールをぶつけられ、大げさに痛いと抗議しつつ及川は思った。

 ニヤニヤなんて冗談ではない。むしろ気合いが入りいすぎるのを抑えるのに苦労しているほどだ、と。

 そうしてブロック練習のために、サブのセッターである矢巾を呼んで及川はセンター陣と共にコートに立った。

 矢巾側は攻撃、及川側はブロックという練習だったが──開始して10分ほど経った頃。コート脇でボール拾いをしていたらしき一年から悲鳴が上がった。

「危な──ッ!」

 え──と悲鳴が聞こえたとき、及川はブロックに跳んでおり空中にいた。一瞬意識がそれ、岩泉の放ったスパイクを掌で弾いて空中で体勢が崩れる。

「及川ッ!」

「及川さんッ!」

 ボールがコートに転がり入ったのだ、と気づいたのは着地と同時に足下に転がってきたボールと接触してズルッと床に腰から落ちたあとだった。

 ゴン、という鈍い音が体育館に響き──瞬間的に及川は受け身を取ったものの身体を打ち付けた痛みが走って、う、と顔をしかめた。

「及川!」

「及川、おい、大丈夫か!?」

 ギャラリーから女の子の悲鳴が飛んだのが聞こえた。こんな時ばかりはさすがの岩泉も心配げな声を出し、手を差し伸べてくれた彼の手を及川は何とか掴んだ。

「てて……。ありがと、岩ちゃん」

「なにやってんだよ……。おい一年! 気ぃつけろアブねえだろうが!」

「す、すみません!」

 どうにか立ち上がった及川を、ハァ、とため息を吐いた岩泉が見上げてくる。

「大丈夫か?」

「うん。転んだだけだしヘーキヘー……ッた!」

 安心させるように笑って足を踏み出してみた及川だったが、ピシ、と左足をついた瞬間に痛みが走って顔をしかめ、思わず座り込んでしまう。

「及川!? ──おい、誰か救急箱! コールドスプレー持ってこい!」

「はい!」

 岩泉が叫び、監督を始め部員達が慌てたように駆け寄ってきた。

 あれよあれよという間に取り囲まれ、アイシングを受けつつ自身でも痛んだ箇所を見てみる。腫れているようには見えないし、軽い捻挫だろうと監督を見上げたものの彼は深刻そうな顔をして言った。

「取りあえず、お前は病院行って来い」

「え!? あの、先生……週明けの練習試合は……」

「医者の判断次第だろう。取りあえず診せてこい」

 監督の言い分は当然であり、及川も普段ならすぐに同意していた場面であるが。さすがに少し落ち込んで10秒ほど固まった後、力なく返事をして立ち上がった。

「一人で行けるか?」

「そんな先生……子供じゃあるまいし……」

「手助けが必要なら一人連れていくか?」

「いいです。練習させといてください。アテはありますから、友達に頼みます」

 じゃあ行ってきます、と取りあえずテーピングを施した足を引きずって体育館を出て、無言で部室棟に向かう。

 そうして部室に入って携帯を取り出すと、メールを打った。

 

 ──転んじゃった。足、捻挫しちゃったみたい。

 

 宛先はユカだ。今日は金曜で美術部の公式活動日ではないが、ユカは100%間違いなく美術室にいる。

 たぶん携帯も手元に置いているだろう、とそのままジャージから制服に着替えていると、携帯が鳴って及川は受信ボタンを押して耳に当てた。

「もしもーし」

「及川くん? 捻挫って……大丈夫?」

「ああ、うん……。大丈夫だといいんだけど、分かんないからいまから病院」

「そ、そっか。一人で行くの?」

「うん。みんな練習中だしね。けど俺、足痛いから一人で歩けないかも。ユカちゃん、もし手があいてるなら付き添ってくれない?」

「わ、分かった。すぐ行く!」

 電話が切れ、及川はそのまま着がえると部室を出て正門の方へ向かった。ユカとは正門辺りで会えるだろう、と校舎の横を歩いていると、前方から焦ったように駆けてくるユカの姿が見えた。

「及川くん……!」

「ごめんね、わざわざ来てもらっちゃって」

「ううん。あの……歩けるの? 肩とか支えた方がいい?」

 どこかオロオロした様子のユカを見て、及川はほんの少しだけ頬を緩めた。捻挫のショックで頭が真っ白だったが、ユカの顔を見て少し落ち着いたのが自分でも分かった。

「ヘーキ。テーピングしてるし、ゆっくり歩けば問題ないよ」

 するとホッとしたように息を吐いたユカと共に校門を出てバス停まで行き、及川は時間を確認した。かかりつけのスポーツ整形外科の営業時間は6時まで。どうにか着けそうだ、とやってきたバスに乗り、一番後ろの席に座った。

「金曜のこの時間にバスに乗るのって何か不思議なカンジ」

「そうだね……」

 車内は生徒がまばらで、及川はそれもそうかと納得した。帰宅部はとっくに帰宅しているし、部活に入っている生徒はまだ部活中だからだ。

 と、少し息を吐いてユカの肩にもたれ掛かるようにして体重を預ける。

「及川くん……?」

「やっちゃったよ、もう……ほんっとマヌケ」

「え……?」

「来週の火曜にさ、練習試合やることが決まったんだよね。本決まりじゃないけどたぶん確実」

「うん」

「──飛雄の高校と」

 目を伏せてぼそりと呟けば、ユカの肩が少し揺れたのがダイレクトに伝った。及川はなお目を伏せて零す。

「及川さん試合に出られないかも……」

 たぶん、こんな事を言える相手は世界でユカただ一人で。ハァ、とため息をついてユカの肩に顔を埋めるも、少し間を置けばさすがにやや気恥ずかしさが込み上げてきた。

 ユカは小さく「そっか」と相づちを打ち、及川は慰められる前に先手を打って明るい声を出してみた。

「なーんてね。飛雄にしたら命拾いだよね。入学早々俺にボコボコにされるなんて、いくら飛雄でもカワイソウだしさ」

「うん……。でも、影山くんも残念なんじゃないかな、きっと」

「そう? 飛雄はラッキーなんじゃない」

「そうかな……。影山くんだって及川くんのプレイ、見たかったんじゃないかな」

「あー……。ソウダネ」

 ユカの言葉に、及川は一瞬だけ冬至の夜に偶然会った影山の姿を浮かべた。新人戦、見てました。と言った。キラキラした目で「及川さんのサーブ、相変わらずかっけーです」などと言う彼は12歳の頃から少しも変わっていない。そう思ったのに──と無意識のうちに拳を握りしめていると、そっとその上にユカが手を重ねてきて及川はハッとしたのちに緩く笑った。

 そのままユカの肩にもたれ掛かったままバスに揺られ、仙台駅につけばほとんどの乗客が下車していく。入れ替わりのように多くの人が乗ってくるのを見て及川はユカの肩から身体を離した。

「降りないの?」

「うん。もうちょっと先」

 青葉城西の学校前を通るバスは全て仙台駅を経由しているが、その先はバラバラだ。ゆえに及川もユカもバスと地下鉄の連絡定期券を使っているわけであるが、いま乗っているバスはちょうど目的地を通るバスで二人はそのままバスに揺られた。

 そうして二つほどバス停を過ぎた辺りでバスを降り、及川はユカを連れて整形外科の入っているビルに向かった。

 小学校の頃から本格的にバレーをしている及川は常日頃から保険証を持ち歩いている。既にかかりつけの医院のスタッフとも顔なじみで、及川はいつも通りの外向けの笑みで「足捻っちゃったんですー」と軽く状況を説明しつつ診察券と保険証を出して待合室の椅子に腰を下ろした。

 しばらくして名を呼ばれ、ユカに待っててくれるよう告げて及川は診察室に入った。僅かに心拍数があがるのが自分でも分かった。きっと大したことはないと思っていても診られるというのは常に不安を煽るものだ。

 念のためとレントゲンを撮られ、目立った異常はないと告げられたものの様子見ということで数日間は部活を控えるよう言い渡された。及川は安堵する自分と、やはりどう足掻いても週明けの練習試合には出られないと落胆する自分とでせめぎ合う感覚を覚えつつ、医師に礼を言って診察室を出た。

「どうだった?」

 待合室に戻ればユカが心配そうに訊いてきて、及川は腰を下ろしつつ肩を竦める。

「軽い捻挫だって。取りあえず数日は通常練習を控えるように言われた。また火曜に来てくれってさ」

「そ、そっか……」

「やっぱ練習試合は無理だね」

 話していると受付に名を呼ばれ、会計を済ませて病院を出れば外はすっかり茜色だ。

 練習試合は残念だけど、と前置きをして地下鉄に向かう道すがらユカが励ますように微笑んだ。

「大きな怪我じゃなくてほんとに良かった」

「ま、そうだけどさ……」

「今回は影山くんと試合できないかもしれないけど、バレー続けてればそのうちぜったい試合できるよ。きっと何度でも」

「やーだよ。なんで飛雄と何度も試合しなきゃなんないのさ」

「なんで……、って。したくないの?」

「ヤだね。俺はアイツを叩き潰したいの! 正々堂々、できれば公式戦でね。それで飛雄は一生及川さんには敵わないって思ってりゃいいんだよ」

「んー……、でも影山くんだって一度負けたってめげないんじゃないかな……」

「なら俺は勝ち逃げしてやるもんね!」

 ついついそんな言葉を重ねていると、ユカは呆れたような顔をした。この「またか」と言いたげな彼女は既に自分の性格を熟知しているのだという証左でもある。

 ──たぶん、パブロ・ピカソをライバル視するような「天才」には凡才の苦悩なんて分からないんだろうな、とうっかり口に出しそうになって及川は止めた。

 分かっているのだ。ユカは……、いやユカだけではない。影山も牛島も、彼らが見ているのはいつだって前だけ。彼らにとって自分はただの通過点に過ぎず、追い抜かれ突き放され、決して追いつけない恐怖と戦いながら、それでも何とか虚勢を張っているだけ。

 敵わないから、虚勢を張って、徒党を組んで、足掻いてみせて。天才を少しでもその高みから引きずり下ろしてやろうと足掻いてる可哀相な名もなきプレイヤーその1。

 でも出来れば、自分は──と恨みがましくユカを見ていると、ユカはこちらを見上げてきて言った。

「及川くん、家に帰るんだよね? 一人で大丈夫?」

「……痛くて一人じゃ動けないから、手を繋いでクダサイ……」

 頬を膨らませてズイッと手を差し出すと、ユカはあっけに取られたように目を丸めつつも頬を緩めて手を取ってくれた。

 ──うっかり怪我をしたせいだろうか。ぜったい超絶ウルトラ格好いい男前のはずの”及川さん”が、ずいぶんと今日は格好悪い気がする。と少しばかり落ち込みつつも繋いだ手が温かくて及川は無意識のうちにヘラッと笑っていた。

 及川の家の最寄り駅で降りて、一緒に住宅街を歩く。ユカはまだ自分の家を知らないはずだと今さらながらに思い出した。

「お母ちゃん、まだ帰ってないと思うんだよね」

「え……」

「寄ってっちゃう? 及川さんの部屋」

 何気なく言ってみれば、ユカはきょとんとしたのちに冷静に自身の腕時計に視線を落として、んー、と唸った。

「でも、もう6時過ぎてるし……。及川くんは今日はゆっくり休んでた方がいいんじゃないかな」

 気にしないで、と笑って言われ、及川少し頬を引きつらせたものの「だよね」と肩を落とした。

「けど帰ってもバレーできないしー。明日も明後日もヒマだよ」

「じゃあプロの試合観るとか……。そうだスポーツ科学の本とか読むのもけっこう面白いと思うよ」

「またそういう……。まあ、確かにやれることはあるケドさ。ウチのチームだってこの機会に外からじっくり観察できるしね」

 そんな話をしていると自宅が見えてきて、及川はユカに自身の家を紹介した。

 洋風の壁に囲まれたモダンな造りのユカの家とは違い、どちらかというと和風の一軒家である。

「じゃあ、今日は付き合ってくれてありがとねユカちゃん」

「ううん。お大事にね」

 じゃあまたね、と背を向けたユカに手を振って、ふ、と及川は息を吐いた。

 たかだか捻挫。一生バレーができなくなるわけじゃないというのに、やっぱりヒヤッとしてしまった。オマケにせっかく影山と相対できると意気込んだ矢先だったというのに。

 ──やっぱりバレーの女神様は、飛雄を愛しちゃってるんだな。なんてすぐに卑屈になる自分は本当に厄介。アメリカンヒーローみたいなブレない心ってやつはどうやったら手に入れられるのか教えて欲しいくらいだ。

 だけど、と及川はバシッと自分の両手で自分の頬を叩いて気合いを入れ直し、鋭い目線を前に向けた。

 

 ──飛雄の前では、ぜったいに余裕の大先輩でいてやる。

 

 そうして改めて思えば良いのだ。自分は及川さんには一生勝てない、と。



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39話:及川徹の親友は悩む

「及川君、バレー部って今日の放課後に練習試合やるんだって?」

「うん。俺は怪我しちゃって出られないけどね」

「えー、残念。観に行こうと思ったのにー」

 

 週明け、火曜日。

 バレー部が練習試合を行うことは珍しいことではなく、むしろ週末は毎週のように組まれているが、平日に行うことは珍しい。

 ゆえに及川の勇姿を観ようと噂を聞きつけた女生徒が朝から騒いでいたものの、及川は生憎と静養中である。

 ユカは窓際で女生徒に囲まれる及川をちらりと見て、ふ、と息を吐いた。本人は通常練習に参加できず、フラストレーションが溜まっているという。

 気持ちはユカにも分かった。絵を描くなといわれて3日も経てばおそらく平常心ではいられなくなるだろう。及川にしても思い切りバレーができないという状態は苦痛のはずだ。

 と、昼休みになって来月に迫ったフランス語のレベル認定試験の対策のために教材を広げていると、しばらくして机にスッと何かが置かれてユカは顔を上げた。

 すれば牛乳パンを抱えた及川が前の席に座っており、目を瞬かせる。置かれたものは焼きそばパンだ。ここで昼食をとる気なのだろう。

「ユカちゃんも何か食べればいいのに。牛乳パンあげよっか?」

「いい。ありがとう」

「なにしてんの? ってフランス語……? ていうかこの時期って試験の時期だよね!? いつやんの?」

「5月の第三日曜日と6月の第一日曜日。今度は会場は仙台だけど……」

「あー……、うん、6月、ね」

 及川は一瞬苦い顔をしたものの、すぐにいつも通りの表情に戻して焼きそばパンの袋をあけた。

 ユカもそれに付き合い、手を止めて持参していたコーヒー入りのタンブラーを取りだして一息ついた。

「及川くん、足は平気? 今日ってまた病院行くんだよね?」

「うん。授業が終わったらすぐ行く。また学校戻ってくるけど、試合は終わっちゃってるかもね」

「そっか……。私も部活がなかったら観に行きたかったんだけど……」

 何気なく呟くと、及川は不意に焼きそばパンを頬張っていた手を止めた。

「なんで?」

「え……」

「俺の試合なんかちっっとも観に来ないのに、飛雄が来るなら観に来たいとか思っちゃうワケ?」

「え……ッ」

 ユカは面食らって持ち上げていたタンブラーを、コト、と机に置いた。一言も「影山が観たい」とは言っていないというのに。というか影山の事などいっさい頭になかった自分と、相も変わらず頭の中には常に影山飛雄という存在が居着いているらしき及川の明確な差を感じてユカは肩を竦めた。

「でも及川くんがいないってことは、ウチはセッター不在ってこと?」

「二年のサブを入れるんじゃないかな。けど飛雄相手だとキビシイだろうし、今日は岩ちゃんがコートキャプテンだし、みんな俺がいなくて心細いだろうね」

 ハァ、とため息をついた及川を見て、ユカは口を噤んだ。及川は自分が不在で影山と会えないかもしれない事を残念に思っているのでは? と感じたが、それを口にしたところで否定されるのがオチであるし、何よりいまは及川の足が無事に治っていることのほうが重要だ。

 そのまま放課後のホームルームが終われば、病院へ行くという及川を送り出してユカは部活に向かった。

 この時期の文化部は運動部に負けず劣らず、高文連への出品で美術部も自己作品の制作に取りかかる時期であり部員は熱心に活動している。

 ユカは既にこの手の中高生の部活動向けデッサン部門で作品を出せば最優秀を獲ってしまう自身の実力をある程度は客観的に理解しており、どのコンペに臨むかは自分で選ぶようにしていた。が、部活は部活として週三回の部活動の時間は請われればデッサン指導や修正にも力を注いでいた。

 ゆえに活動時間を多く取りたいユカは部活が終わったあと、更には部活のない月曜・金曜も美術室に籠もっているわけであるが──今日ばかりは少し事情が違った。

「お疲れさまー!」

「お疲れさまです」

 19時となって部活は解散となり、ユカも携帯に目をやる。

 

 ──もう通常練習に戻っていいって。ブイ!

 

 そんなメールが及川から入ってきたのは2時間前。及川が烏野高校との練習試合に間に合ったかは分からない。

 もしかして出たのだろうか……と思うとさすがに気になった。それに、病み上がりでいつも通りの居残り練習をやるつもりでいるとしたら。いやそれよりも、影山と顔を合わせたあとの及川というのは知る限り精神的に不安定な事が多い。

 大丈夫だろうか、と案ずる気持ちが脳裏を支配してしまいとても絵に集中できる状態ではないと判断したユカは、みんなが出たあとすぐに美術室を出るとそのまま第三体育館へ向かった。

「あ……」

 すると、入り口階段のところに見知った影が座り込んでいるのが見えた。岩泉だ。

「岩泉くん……」

「よう」

「な、何してるの……」

 こんなところで、と言うと岩泉は立ち上がって背後の体育館に目配せした。

「30分経ってもあのバカが切り上げなかったらブッ飛ばそうと思ってな」

 その言い分に、及川はやはり部活後に残ったのだと悟ってユカは苦笑いを漏らした。

 そうしてふと懐かしく思い出した。及川になにか気がかりがあるときは、たいてい岩泉はこうして彼を見守っていた。北川第一の時からそれは変わらない。

「今日、影山くんの高校と練習試合だったんだよね? どうだったの?」

 すると岩泉は間髪入れず、ブスッとした顔つきをした。

「負けた。1-2で」

「え……」

「影山、なんか凄くなってたわ」

「え……、及川くんは……」

「アイツは相手のマッチポイントの時にピンサーで入った。数点エースで稼いだし、レシーブも完璧に上げた。けど、ま……なんせマッチポイントだ。及川は後衛で、あれ以上に出来ることはなかったな」

 そうして岩泉は今日の練習試合について少し零した。曰く、岩泉は今日の対戦相手であった烏野高校に影山が進学していたとは知らず、まず彼が現れたことに驚いたということだった。しかも影山の速めのトスに対応できるアタッカーが相手チームにおり、情報がゼロだった青葉城西は及川不在も相まって攪乱されたということだ。

「しっかし、なんで影山が烏野に行ったか分からねぇんだよな。アイツのトスに合わせられるアタッカーがいたってのは、いわゆる結果論ってヤツだしよ」

「影山くん、白鳥沢に行きたかったって聞いたけど……」

 及川くんから、と続けると岩泉はユカの予想よりも遙かに驚いた様子で硬直して瞠目した。

「白鳥沢……」

「う、うん……。その……でも、その、強豪だし……自然なんじゃないかな」

 ユカは岩泉の反応に驚きつつ、控えめに言った。岩泉にしても打倒・白鳥沢を今なお掲げていることをユカ自身知っており、その相手を「選手なら目指すべき強豪」と断言してしまうのは憚られたからだ。

 けれどもどこか愕然とした色を瞳に浮かべる岩泉は明らかに様子がおかしく、さすがにユカも不審に思って岩泉の顔を覗き込む。

「岩泉くん……?」

「お前……北一の時も言ってたよな。俺と及川に、白鳥沢に進むのか、ってよ」

「え……? あ、そう……だったかも……?」

「お前には、それが自然に思えるのか? 及川は白鳥沢に進むべきだったと……そう思うのか?」

 どこか責めるような、訴えかけるような声にユカは眉を寄せた。影山の話をしていたというのにいつの間にか及川の話にすり替わっており、まったく要領を得ない。

「及川くんがどうすべきだったとかは分からないけど……。白鳥沢は県で一番の強豪で、全国でも名前が知られてるような学校だから……そりゃ、もっと上に行きたい選手は行くんじゃないかな。影山くんが白鳥沢に行きたいって思ったのは、私には自然の事だと思う。そりゃ、影山くんは──」

 及川を追って行きたいとかつては言っていたけど。という言葉をユカは飲み込んだ。ここでそれを岩泉に訴えてもどうしようもないからだ。

 だが岩泉はその部分は聞こえていなかったかのように考え込むような仕草を見せた。

「もっと、上……」

「岩泉くん? あの、ほんとにどうしたの? 及川くんがどうかした……?」

 苦悶の表情を浮かべる岩泉の意図が全く読めず、案じて強めに訊いてみると岩泉はそこでハッとしたように目を見開いてこちらを見た。そして数秒後に、いや、と首を振るう。

「ワリぃ。なんでもねえ。お前があいつ連れて帰るってんなら俺は先帰るわ。じゃあな」

「え!? え、ちょっと待って、一緒に──」

「あと20分経っても切り上げなかったらタコ殴りして止めてくれ」

 じゃあお先、と岩泉はそのままスタスタと中庭の方へ足を向けて行ってしまいユカはしばし呆然とその後ろ姿を見送った。

 何かあったのだろうか、と不審に思いつつ体育館に入れば、聞き慣れた規則的な打撃音とバレーボールシューズが床を擦る音が聞こえてきた。

 ──ピンチサーバーとはいえ、及川は試合に出て影山相手に負けた。おそらくいつもの比ではないほどに気が立っているはずだ。

 さすがに邪魔したくないな、とユカはコートへの扉は開かずに踵を返して体育館入り口の壁にもたれ掛かると、ふぅ、と息を吐いた。

 岩泉に言われた通り、20分待ってこの打撃音が止まなければ止めに入ろう。そう考えつつ打撃音だけが聞こえる空間に佇んでいると、ふと北川第一の頃に戻ったような錯覚さえ覚えてしまった。

 そういえば、以前こんなことがあった。こうやって体育館の入り口に、影山が座っていた。中では及川が壁打ちをしていて、彼は入れずにいたのだ。あの時、彼はどんな思いでボールの音を聞いていたのだろう……とそのまま物思いにふけっているといつの間にかボールの音が止んでいた。

 ハッとして聞こえてきた靴音に振り返ると、「のわッ!?」と小さな悲鳴が聞こえて、後ずさるようなポーズで固まる及川がいた。

「ナ、ナニしてんのユカちゃん」

「及川くん……」

「ていうか……あー、なんだコレすっごいデジャブってか懐かしいね。来てるなら声かけてって散々言ってたころのアレだねこれ」

 そして畳みかけるように言われたものだから、さすがに気恥ずかしくなってユカは頬を染めつつ目線を泳がせた。

「その……、試合のあとだし……声かけない方がいいかなって思って」

 すると、及川はキョトンとしたあとに軽く笑って片手を腰にあてた。

「へえ、試合のこと知ってるんだ?」

「岩泉くんに会ったの……、それで」

「なんだ。でも俺、最後の最後にピンサーで入っただけだし、ショックだったのは負けちゃった岩ちゃんなんじゃない?」

「そうなのかな……そうだったのかも。でも岩泉くん、影山くんのこと凄くなってたって言ってた」

 話しながら外へ出れば、既に日は落ちている。そのまま自然と二人して部室棟へと足を向けた。

「確かに、想像よりも良いチームだったよ烏野は。なんか飛雄、活き活きしてたしね」

「え……」

「ま、空回ってた北一の頃よりは飛雄にとってスパイカーに恵まれてるんじゃない? けどま、今日見てて確信したよ。サーブもスパイクもブロックも、まだまだだってね」

 ユカは自然と足を止めた。──トスは? とは聞けずに口籠もると、察したのか及川は、ふ、と笑った。

「俺はトスは飛雄には敵わないからね。あんな”天才の手”、俺は持ってないんだし」

「及川く──」

「けど、それだけじゃ勝てないってこと……この及川さんがインハイ予選でたっぷり教えてあげるつもりなんだよネ。あー楽しみ!」

 じゃあ着がえてくるね、と及川は笑顔のまま部室棟へ行ってしまい、ユカはその背を見送って少しだけ眉を寄せた。

 影山が活き活きしていた、と言ったときの及川は、心から嬉しそうで、そして寂しそうな色を確かに瞳に浮かべた。

 

『手、見して』

『へえ……”天才”の手ってこうなってんだ。ふーん……』

 

 ふとユカは自分の右手に目線を落とした。出会った頃に及川に言われた言葉が過ぎった。

 

 

 一方で、ユカと及川が学校を出る頃には家に帰り着いていた岩泉はひたすら今日の試合での出来事を思い返していた。

 ──なんで影山が烏野にいるんだ。

 それが放課後いきなり現れた元後輩を見たときの率直な感想だった。

 青葉城西の推薦は蹴ったというのは周知の事実だったし、個人的に影山に恨みはないものの金田一達との確執に加えて及川のことを思えばむしろ推薦を蹴ってくれたのはありがたくあった。

 及川が一度「飛雄、推薦蹴って白鳥沢に行くってさ」と曖昧な言い方をしていたが、そうなったらなったで及川の宿敵2人が一カ所に集って都合がいい程度でそれ以上は何も考えていなかった。及川も特に言及しなかったからだ。

 だというのに──。

 

『今日、影山くんの高校と練習試合だったんだよね?』

『影山くん、白鳥沢に行きたかったって聞いたけど……』

 

 ユカは及川にそれを聞いたと言った。つまり、及川は何もかも全てを知っていて自分に黙っていたということだ。おそらく今日の烏野との試合さえ、及川が望んだのだろう。そう考えればただの中堅の公立高校で付き合いもない烏野と急に練習試合が組まれた事の合点がいくからだ。

 そう、及川は知っていたのだ。影山が烏野に進学したことを。──はっきりと思い知った。及川の中には未だに影山へ向かう揺らぎが燻っていることを、だ。才能への嫉妬と、羨望と、そして慕われている事へのくすぐったさと、影山へ向かう抗えきれない先輩としての情。その全てを、彼は何一つまだ忘れていないのだと思い知った。

 

 ──トス回しで飛雄に勝てるヤツ、県内にはいないんじゃない?

 

 及川は事あるごとに、自分は彼にトスではぜったいに勝てないと言い切っていた。腹立たしかった。及川は、及川徹という選手は自分にとっては最高のセッターだというのに、その彼が「勝てない」などと平然と言う事を腹立たしく感じるのは当然の事だろう。

 だが同時に、岩泉は自らの中で矛盾も覚えていた。

 なぜなら、自分は本気で及川を叱咤することなどできないからだ。

 生まれる前から与えられた才能という意味では及川は「天才」とは言えないということは分かっている。どれほど体格に恵まれセンスに恵まれていても、越えられない才能という壁が存在していることは痛いほど理解しているつもりだ。

 無理に、「天才」と同じステージに立つ必要はない。もし次に及川が暴走したら──今度は本当に彼は壊れてしまうかもしれない。それだけはぜったいに避けたい。

 ──及川はお前らのような天才とはちげえんだよ。と極限まで眉を寄せた脳裏に、もう何度過ぎらせては無理やり忘れようとしたか分からない牛島の言葉が蘇った。

 

『もしも及川が白鳥沢に来ていれば少なくとも奴は全国ベスト4の正セッターだったことは確かだ。それがどういう意味だか分かるか?』

『及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った』

『俺が忠告したいのは一つだけ。これから進む道は誤るなと、そう及川に伝えて欲しい』

 

 ──及川は、何一つ自分に言わなかった。

 白鳥沢から推薦が来ていたことなど、一言も自分に言わなかった。当然のように二人で青葉城西に進むことを決めた。その裏で、彼が白鳥沢に誘われていたなど自分は知るよしもなかった。

 むろん言う必要などなかったのかもしれない。及川にとっても宿敵である白鳥沢を倒すのは悲願だったはずで、その敵陣に乗り込むような真似はどう考えてもあり得ないからだ。

 と考える胸に少しばかり疑問が走る。本当にそうだったのだろうか、と。

 一瞬でも考えはしなかったのだろうか。白鳥沢に行けば、もっと上のステージに行ける、と。

 

『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』

 

 ああ言ったユカの言葉は確かに事実で、及川は白鳥沢に行っても正レギュラーを勝ち取れる実力を兼ね備えていて。

 そしておそらく、もしも及川が白鳥沢に進んでいれば彼は白鳥沢のメンバーとして既に全国トップの舞台を踏んでいただろう。その先にはきっと、約束された未来が開けていたはずだ。

 

『及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った』

 

 くそッ──、と岩泉は壁に拳を叩き付けた。

 まだそうと決まったわけではない。まだ違う……と岩泉は頭を掻きむしって思考を逃がそうと努めた。

「くっそ……!」

 時々、及川が本当は何を考えているのか分からなくなる時がある。3年次のクラス分けもそうだ。

 及川は国立理系のクラスを選んだ。それは単純に、ユカと同じクラスになりたいから彼女に合わせたのだと理解していた。

 けれども、それだけなのだろうか? 実は既に彼は将来を見越しているのではないか?

 だとしたら、何を考えているのか。それとも全ては考えすぎで、及川は現状に満足していていつも通り。目標は打倒・白鳥沢で、自分たちは何も変わらずいつも通り。

 ああ、きっとそうだ。考えすぎているのだ。自分たちは何も間違っていない。だから次こそ白鳥沢に勝たなければ──と過ぎらせる口の中に鉄の錆びたような味が滲んで、ハッと岩泉は我に返った。

 血が滲むほど唇を噛みしめていたのだと気づいて、チッ、と舌打ちをすると口元を拭って思い切り顔をしかめた。



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40話:及川徹のとあるオフの日

 男子バレー部には月曜という週に一度のオフがある。

 そして美術部の公式活動日は火・水・木の週3日。ゆえに双方の休みは完全に合っている。

 はずなのだが、そうは問屋が卸さないのが栗原ユカという人間だ──と及川は4月最終週の月曜の放課後、自宅への道を急いでいた。

 公式活動が週3日とはいえ週5体制で部活をこなしているユカには月曜のデートをたびたび断られている。集中したいらしい時には3週連続で断られるなどザラだ。現に先週だって断られているし、来週は滅多にないオフと祝日が重なったデート日和のはずだったが……滅多にないためか及川自身が家族で出かける予定を既に親に入れられておりデートは不可能だ。

 というか、その祝日──ゴールデンウィーク──がクセモノだ。

 どこぞのカップルは有給を使って9連休を目論んでいるらしく。そのしわ寄せが自分に来ている……と及川は携帯のデジタル時計に目線を落として「ヤバ」と自宅までの道を走った。

 そうして自宅が見えてくると、玄関側からひょこっと小さい影が顔を出して「ゲ」と及川は走る速度をあげた。

 その影の主の元まで駆け寄り、及川は膝に手をついて息をする。すれば、咎めるような幼い声が響いた。

「遅いぞ、徹」

「ごめん猛。ていうか呼び捨てはやめなさいって言ってんでしょ!」

 徹、とさも当然のように呼んだ影の正体は及川にとっては甥である及川猛だ。息を整えつつ窘めれば、「えー」と猛は腑に落ちないと言った具合に見上げてきた。

「だって徹は徹じゃん」

「もうちょっと年上は敬いなさいって学校で習わなかったの!?」

「んー……、じゃあ徹オジさん」

「はッ!?」

「だって叔父さんじゃん、徹」

「そうだけどそうじゃなくて! ああもう……、まあいいけど。ほら猛、さっさと入んな」

 さすがにオジさん呼びはご免被りたかった及川はため息を吐きながら自宅の鍵を取りだし、猛を中に促す。

 猛は普段は小学校が終わったあとは学童で過ごしているが、それでも両親どちらも残業で時間内に迎えに行けない時は及川の家に帰宅することがあった。決まって月曜なのは及川家の人間が及川の部活オフ日を知っているからである。

 つまりは甥っ子の面倒を押しつけられているわけであるが。──と手荒いうがいを一緒にこなし、及川はいったん着がえに自室へと足を向ける。

 猛の両親はゴールデンウィークに9連休を取る弊害か仕事が立て込んでいるらしく、今日は遅くなるという。

 及川の両親も遅くなるということで、今夜の晩ご飯は猛と2人でとらなければならない。

「猛ー、宿題終わった? わかんなかったら見てあげよっか?」

 言われる立場になれば「宿題終わったの!?」なんてウルサイ小言でしかなかったが、立場が変われば言うしかなく。お母ちゃんその昔はウルサイってはねつけてゴメン。などと思いつつ居間に顔を出せば、猛は「なにを言っているんだ」と言わんばかりの呆れたような表情を晒した。

「もうとっくに終わったぞ。宿題は出たらすぐにやらなきゃダメだからな」

 穏やかに語りかけた及川の頬が、ヒク、とひくつく。

「ほんっとデキのいい甥っ子でお兄さんウレシイ!」

「徹は叔父さん」

「うっさいよ!!」

 口ばっか達者になりやがって。と、自分とはあまり似てない利発な甥っ子を見やって肩を竦めつつキッチンへと向かう。ともかく猛に晩ご飯を食べさせなければならない。

 夕食を作るべく白米を早炊きでセットしてから材料を確認する。──猛の両親はともかく、自分の両親は食事を済ませてくるか分からないから多めに用意していこう。と鼻歌を歌いつつ夕食作りを開始した。

「なに作ってるんだ?」

「フッフーン。できてのお楽しみ!」

 しばらくしたら匂いに惹かれたのか猛がダイニングにやってきて、及川は、二、と笑った。

「徹、今日の昼休みに友達とバレーしたぞ」

「へえ、どうだった? バレー楽しい?」

「うん! 叔父さんが北川第一の主将だったって言ったら少年バレーやってるヤツがスゲーって言ってた」

「え、ちょっとその子にちゃんと叔父さんは現役高校生のお兄さんなんだって説明した!?」

「徹、一度小学校に教えに来てくれよ」

「猛がちゃんと”徹兄ちゃん”って呼べるようになったらね」

「徹は叔父さん」

 でも約束だぞ。と言う猛を見て及川は笑みを浮かべた。やや生意気に育ってしまったが、赤ん坊の頃から近所で育ってきた甥っ子は可愛いことに変わりない。自分の影響か否かバレーに興味を示しているようで、今のところは中学に入ったらバレー部に入るつもりでいるようだ。

 やっぱり血筋ってヤツかな、と夕食作りを済ませて食卓に並べる。今日のメニューはオムライスのデミグラスソースがけとサラダだ。

「じゃーん! 徹兄ちゃん特製のオムライス! 美味しそうだろ~?」

「徹の十八番だな」

「お、難しい言葉知ってんじゃん。ていうか、今日のはぜったい特別美味しいから!」

 いただきます、と手を合わせた猛に言い聞かせ、及川も手を合わせて食べ始める。

 普段は、強制的に炊事全般をやらされる合宿時を除き、料理をしている時間も機会もないが月曜だけは別だ。両親が残業の時は部活オフ幸いとばかりに丸投げされる場合も多く、猛が一緒の時はもっぱら彼は試食役を担ってくれている。

 オムライスをスプーンですくって口に付けた猛の頬が緩んだのを見て、及川は、二、と笑った。

「どう? 美味しい?」

「うん、おいしい! いままでで一番おいしいぞ」

「やっぱりねー、今日のは俺もかなり完璧に近いと思ってたんだよね」

「だけど徹はもうカノジョにフラれたんだから頑張らなくてもいいんじゃないのか?」

「は──ッ!?」

 いきなり何を言い出すんだ、と及川は猛を凝視した。「だって」と猛は淡々と綴る。

「徹、この前の月曜もヒマだってゆってたじゃん。カノジョにフラれちゃったーって」

「それはデート断られたって意味だから!! フラれてないから!!」

 全力で否定して、ドカッと及川は椅子に深く座り直した。

 ユカの好物がオムライスだと知って以降なんとなく意識して機会があるたびに作って、今ではこの通り猛も認めるプロっぷりになっている。いつだったか浮かれてオムライスがカノジョの好物であることを猛に暴露してしまった覚えはあるが……とんだマセガキ、と肩を竦めつつ息を吐く。

 ──そう、フラれてはないのだ。が。

 2週連続でデートを断られており、来週は自分の用事で会えない。不満がないかと問われれば正直に言うとある。と、猛が帰ったあと風呂上がりの就寝前に自室でパソコンを弄りつつ思う。

 もっぱらバレー観賞用か宿題の調べモノ用と化しているパソコンではあるが、時おりとんでもない情報が目に飛び込んでくる事がある。

 今もふとニュース一覧を眺めていると美術系の見出しが気にかかって、ほぼ無意識のうちにクリックしてしまった。すれば次々と関連ページが出てくるのがインターネットの常で、いくつかページを流し読みした先に「栗原ユカ」という文字が目に映って及川はハッとした。

 どうやら彼女の経歴・受賞歴一覧が記載されているページらしく、及川は一瞬逡巡したもののカーソルを合わせてクリックしてみた。──別に深い意味はない。ユカの経歴なら既に知っているし。ただ、最近特に忙しそうにしているユカが実際に何をやっていたかを知りたいだけ。と文字を目で追っていく。

 文化部にも運動部のように「公式戦」に該当する大会があるらしいが、ユカは同年代相手のデッサンコンクール等ではもう自分が優勝すると分かっているらしく──はっきりとは口にしていなかったが──どのコンペに出るかは自分で選別しているという。

 天才にありがちな、他人の可能性を潰さないために。ってヤツだろうか。と考えてしまって「ケッ」と悪態をつく。

「ていうかホンット天才むかつく……!」

 長い長い受賞歴を上から順に見つつ吐き捨てる。そもそもこれだけ賞を取って何になるというのだろうか? 美術コンペなど自分の生活からはほど遠いし全く想像すらできない。と、ちょうどページの端に現在募集中のコンペの宣伝があり及川は別窓で開いてみた。

 そこにはコンクールの名前、賞金やら賞与の一覧が記載されており……とあるコンクールの優勝賞金が目に留まって及川は目を剥いた。

「賞金50万!!??」

 あまりに驚き、思わず口に出してしまった。

 絶句しつつ、改めて一覧を眺める。どのコンクールも基本は賞金付きだ。ピンからキリまであるとはいえ、高校生の想定を遙かに越えた額が提示されていて開いた口が塞がらない。

 そういえば、とユカが「コンクール荒らし」と呼ばれていることを及川は思いだした。

 そのあだ名から察するに、獲ってきた賞の賞金額を合計すればかなりの額になることが想定され……及川はにわかに頭が痛んでコメカミを押さえた。

「ユカちゃんどんだけ稼いでんの……!」

 いや、でも。絵画は道具の消費も激しそうだし。賞金は全て道具代に消えたりするのかもしれない。

 とはいえソレを考えるのはさすがに悪趣味だろう。やめよう、とその一覧ページを閉じて改めてユカの受賞歴一覧を見やった。

 最新のものが二つ。一つは企業主催のコンペで、もう一つは公的な展覧会の公募作品のようだ。前者が大賞、後者が特別賞。──今さらそんなことでは驚かない。

 後者はごく最近発表された賞のようだ。──とタイトルを調べて及川は目を見張った。

 ”バレンタインの夜”。と、ユカが名付けたらしきソレで獲ったコンペの公募条件は特に記載されておらず、バレンタインについて描くように決まりがあったわけでもなさそうだ。ということは、ユカが自分の意志でバレンタインの絵を描いたことに他ならない。と及川は考える。

 バレンタインって、バレンタインって……今年のバレンタインの事だろうか。

 

『ん、ユカちゃん、くっつきたいモード?』

『うん』

『ほんとユカちゃん俺のこと大好きだよね』

『うん』

 

 その時の光景が脳裏に蘇って及川の頬がカッと染まった。──いやいやいや。別に舞い上がってはいない。タイトルはともかく、どんな絵なのか分からないのだし。と、もう一つの大賞の方を調べてみる。

 さすがに企業のコンペらしく受賞者のコメントも記載されていた。絵そのものは提携の美術館でいま展示中ということで載ってはいなかったが──。

「あ……ッ!」

 ”修学旅行の時に行ったパリの思い出を絵にしました”とのユカのコメントと共に記されていたタイトルは──”恋人たちの橋”。

 一気に及川の脳裏にパリで交わしたファーストキスの感触が蘇って思わず口元を手で覆った。これはたぶんきっと自惚れでも間違いでもないだろう。

「……ユカちゃんってほんと俺のこと好きすぎ……!」

 そうだ、ぜったいに間違いない。いま思えば、ユカが今までで一番大きい賞が獲れたと喜んでいた「仙台の冬」だって自分と一緒に観た風景だったわけで。

 ほんとに俺ってば愛されてる……、とジンとしたところでハッとする。

 とはいえ、だ。好かれていれば好かれていると実感する度に思い知らされるのは、ユカにとってはそんな自分に会うことよりも絵を描く方が大事だという現実で。

 ハァ、と及川は深いため息を吐いた。

 ユカにとっては国内はもう物足りないフィールドなのかもしれない。けど。

 まだ全然パブロ・ピカソに及ばない、なんて真顔で言い出す人間の満足する場所ってどこだよ……と机に突っ伏して及川は眉を寄せる。

 ──ああやっぱり天才ってキライ。でも。

 

『もう二度と放課後にここに来ないし、及川くんにも話しかけないから、安心して』

 

 ──いまあんな事言われたら、きっと立ち直れない。

 と、ちょうど3年前に言われた台詞を思い返してふるふると首を振るった。

 というか。単純な話だ。フラストレーションが溜まっている。それだけの話。

 突っ伏したま、うう、と及川は低く唸った。

 

「……デートしたい……」



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41話:及川徹のとあるオフの日2

 5月に入れば、運動部は夏の大会に向けてますます活気づいてくる。

 その中でも青葉城西随一の活躍を誇る男子バレー部はとりわけ多忙を極めた。

 ゴールデンウィークは強化合宿。週末は遠征かホームでの練習試合で埋まり、朝から晩までバレー漬け。

 

 それでもユカとしては教室で毎日及川の顔は見られるし、話も出来る。だから特に不満なく過ごしていたが、及川の方が不満らしいというのは薄々感じていた。

 なぜなら自分がたびたび月曜のデートを断っているからだ。及川には悪いが、自分は自分で部活に出たいし、美術部の公式活動は週三日とはいえ自分は週五体制でこなしているわけだから休んでもいられないのだ。

 

 ──明日、放課後あいてる?

 

 五月も三週目に入ろうという日曜日。

 部屋に携帯を置きっぱなしにしていたユカが寝る前にふと携帯をチェックすると、複数のメールが溜まっていて「う」と思わず息を詰めてしまった。

 一通目のメールは昼頃の受信になっている。及川からだ。きっと部活のランチタイムにでも打ったのだろう。

 

 ──美術室に籠もってないとダメ?

 ──ケヤキ並木の緑、きっとスケッチにはもってこいだよ!

 ──スケッチブック持参で及川さんと散歩しない?

 

 及川は自分が返事をしないことを否定だと受け取ったのか、段々とこちらにおもねるような内容に変化していてユカは少し居たたまれなさを覚えた。

 確かにケヤキ並木の緑は盛りで綺麗だろうし、スケッチをしていいという事であれば断る理由はなく。僅かな罪悪感も相まって釣られていると分かっていてもついつい承諾してしまう。すればすぐにハートマークや星などでデコレーションされたよく分からない返事が来て、相変わらずどういう意味なのか分からず、ユカは少し肩を竦めた。

 けれども、辛うじて「デート」と呼べるような寄り道をしたのは始業式の日に夜桜を見に行ったのが最後だし、そう考えると一ヶ月以上前である。

 最近の休日は受験・試験対策に追われていることも多くて外にスケッチに行くことも少なくなっていたし、明日晴れるといいなと思いつつ携帯をベッド脇に置いてユカはそのままベッドに入った。

 

 及川徹は基本的にいつも笑みを浮かべている人間である。

 それでも今朝はいつも以上にニコニコしているというのがいやでも分かる。──と翌日の月曜日に教室で顔を合わせた及川を見てユカは苦笑いにも似た笑みを漏らした。

 及川と同じクラスになって改めて思ったことは、及川は基本的にはクラスでは大人しくよそ行きの対応をしているということだ。

 女子にはもちろん、男子にもである。

 

『ていうか俺、ユカちゃんの前で無理したこと一度もないしね』

 

 「無理をしたことがない」というのは、及川の他人よりも振れ幅の激しい喜怒哀楽の感情をマイナスであれプラスであれぶつける、という意味に他ならず。──逆に言うと普段の及川はあまり感情的な揺れがないということで。

 及川は自分といると、おそらくマイナスに振れてしまう事もあるはずだ。影山や牛島と同じように。

 今さら「それでいいのか」などと言うつもりはないが。──と何となく授業の準備をしつつ窓際の方を見ていると席に座っていた及川と目があってヘラッと笑われて手を振られ、ユカは肩を竦めつつも笑った。

 及川と月曜日に行動を共にする時は、大抵がバス停で待ち合わせだったり及川が予告なく美術室にやってきて自分を連れ出すというのが常であったが、同じクラスであれば特に待ち合わせをする必要はない。

 そう、待ち合わせる必要はないのだが。と、本日最後の授業が終了した途端、うっかりユカの心音が脈打ってしまった。

 クラス内で及川と一緒にいることは既にクラス中が「中学の頃からの勉強仲間」として認識したらしく問題ないとはいえ──。

「帰ろ、ユカちゃん」

 及川の方は気にも留めていないのかいつも通り声をかけてくれ、「うん」とユカも立ち上がった。

 そうしてロッカーから荷物を取りだして教室を出て、並んで廊下を歩く。3年の校舎内では平穏そのものであるが、ひとたび他のエリアに出ればそういうわけにもいかず、下駄箱に辿り着く前にさっそく2年生と思しき女子の集団に声をかけられて愛想を振りまく及川を横にユカは自分の下駄箱から靴を取りだして履くと、外へと出た。

 

「及川せんぱーい、さようならー!」

「はーい。バイバーイ!」

 

 及川曰く、及川のファンはバレー部が月曜オフということも周知していて月曜日に差し入れの類をもらうことは滅多にないという。

 それでも下駄箱から正門までという短い距離の間にいったい何人の女生徒が及川に声をかけたのだろうか、といっそ感心しつつバス停まで行けばさすがに放課後。混んでいた。

 やってきたバスにすし詰め状態で乗り込めば、降りるのも一苦労だ。なにせほぼ全員、目指すのは仙台駅である。その手前で降りる予定のユカたちは人混みを掻き分けてどうにか降車までこぎ着け、ふぅ、と息を吐いた。

「俺は朝練と夕練あるからラッシュに捕まることって滅多にないんだけど、月曜だけは別だね」

「ほんと……」

 零しながらも自然と手を繋いで、目的地である定禅寺通りのケヤキ並木に向けて歩き始める。

「及川くん、最近の月曜日ってなにしてたの?」

「ん? ユカちゃんにフラれて落ち込んでマシタ」

「……」

「あ、ウソウソ、落ち込んだのはホントだけど気にしてない!」

 ふくれっ面をしたかと思えば瞬時に慌てたように及川は首を振り、そうして「んー」と考えを巡らせるようにして彼は少し視線を上向けた。

「ま、何だかんだロードワーク行ったり、甥っ子の面倒見たり、おさんどん押しつけられたり。イロイロだね」

 いい気分転換にはなってるけど。と続けた及川はその他の時間はいつも以上にバレー一色だったのだろう。なにせ貴重な休息であるはずの休み時間さえほぼ全てを復習にアテているのだ。その分ほかの時間は全てバレーに費やしているに違いない。

 及川の復習に付き合っているのはむろんユカだったが、ユカにしても授業の確認が手早く済ませられるのはありがたくお互いにとって良い時間の使い方だと思っていた。が、及川の場合は──果たして予備校通いを続けているだろう他の受験生と同じレベルをキープできるのだろうかという懸念は少なからずあった。

 自分たちのクラスである国立理系は普通科の中ではそこそこ真剣に進学を希望している生徒が多い。とはいえ……と思う。「バレーの強豪」である国立大は知る限りただ一つ。ソコは特進科でさえ青葉城西からは滅多に出ないレベルである。及川の志望校は分からないが、もしも予想が当たっていればかなり厳しいのでは。と考えつつ話ながら歩いていると、目的地が見えてきた。

 元より仙台は「杜の都」と称されるほど緑豊かな都市である。ユカにとっては故郷の有明に勝る場所ではなかったが、いまではずいぶんと仙台に居ることがしっくり来るようになってしまった。

 たぶん、その理由は及川の存在……なのかもしれない。と繋いだ手が温かくて微笑みつつ、見えてきたケヤキ並木の緑にユカは頬を緩ませた。

 中央分離帯の遊歩道に立てば傾いてきた太陽の光がケヤキの葉を縫って屈折を伴いながらキラキラと瞳に差し込んできて、へえ、と及川も感嘆のような息を漏らした。

「キレイだね」

「うん」

 イルミネーションの時期も綺麗だが、初夏の緑もまた格別である。ただ歩いているだけで活気が漲ってくるような風景をさっそく吟味しつつ及川の手を離し、指でフレームを作ってどこをどうスケッチするかを焦点を絞って考えていると時間の感覚などすぐになくなってしまう。

 しばし景色に見とれてケヤキの葉や幹の色の微妙な色の違いを観察していると、ふと「すみません、ちょっといいですか?」とそばで声があがってハッとした。

 そして振り返ると及川が数人の男女混合の社会人らしき人々に囲まれており、そのうち一人は立派なカメラを携えていてユカは目を見開いた。

「やっぱり! どこかで見たことあると思ったら、青葉城西の及川クンだ! いつだったかな……テレビの特集で見たことあるよ!」

「ドーモ」

「実は街中で見かけた格好いい高校生の取材をしてるんだけど、どうかな?」

「こういう雑誌で──」

 どうやら何かの雑誌の編集者やカメラマンなのか。名刺を差し出しながら及川に詳しく説明している様子が映ってユカはちょっとだけ距離を取ってしばし様子を見守ることにした。

 すると熱心に説明を聞いていた及川は、いつも通りのよそ行き女性向けの完璧な笑顔でニコッと笑った。

「モッチロン。イーですよ!」

 そうしてあれよあれよと言う間にケヤキ並木を背景にポーズを取った及川の撮影会が始まり、何度かポーズを変える及川に向けられたカメラのシャッター音が大量に鳴り響くのがユカのところまで聞こえた。

 しばらく見守っていると一通り済んだのか彼らは及川と挨拶を交わして去っていき、ふ、と息を吐いた及川がこちらを振り返る。

「びっくりしちゃったよー。なんか雑誌の特集だってさ」

 いま撮られた写真は上手く撮れていたら今月末にはティーン向けの雑誌に載るらしく、慣れたように説明する及川の声に耳を傾けながらユカはそばのベンチに腰をおろし、及川も座った。

 及川のルックスは目立つ。それはユカもよく理解しているし及川も自分で理解しているだろう。実際にたびたびテレビ取材なども入っており、他校の女生徒にまでファンが大勢いるのはその辺りにも理由がある。

 だけどさ、と及川はぼそりと呟いてベンチにもたれ掛かった。

「そろそろバレー雑誌が俺の特集組んだりしてくれてもイイと思うんだよね」

 やや悔しさ混じりの声だ。そしてどこか諦念した声でもあった。

 及川はアイドル扱いされている自分をも楽しめるタイプで、実際、そういう扱いが嫌いなわけではないだろう。だが、及川はバレーに対してどこまでも真面目で、基本的には交友関係も何から何まで知る限り真面目だ。

 騒がれることを嬉しく思う反面、ルックスではなくバレー選手として評価をされたい、というのが彼の本音なのだろうなという思考もそこそこに、ユカはバッグからスケッチブックを取りだした。

「しばらく絵を描いててもいい?」

「ドーゾ。それ目的で来たんだしね?」

「そ、そういうワケじゃ……ある、けど」

 冗談めかしたように、ニ、と笑った及川にややバツの悪い顔を浮かべつつ、パラパラとスケッチブックを捲る。

 気持ちのいい陽気だ。及川が隣で伸びをしつつベンチにもたれ掛かったのを感じながらユカは鉛筆を滑らせた。

 そのうちに不意に及川がユカの肩にもたれ掛かってきて、見やると寝息を立てている及川がいてユカは小さく笑った。

 こうして絵を描いている自分の隣に及川がいてくれることが嬉しくて、身体から伝わる温もりが心地いい。ふふ、と笑みを零して一度及川の頭に自分の頭を寄せてからユカは再びスケッチに集中した。

 どことなくいつもよりはかどっている気がするのは、そばに及川がいるせいだろうか──と集中してどれくらい経っただろうか。陽もすっかり傾き、西日が木々の隙間から差し込み始めた頃、ぴく、と肩にもたれていた及川の身体が撓ってゆっくり及川が目を開けた気配が伝った。

「……あれ……。ゴメン、俺寝ちゃってた……」

「ううん、平気」

 ユカは手を止めて口元を緩めながら及川を見上げた。及川はやや眠そうな顔で伸びをし、時間を確認するように辺りを見渡している。

「もう夕方かぁ……」

「もしかして疲れてた? けっこうぐっすり寝てたから」

「んー……そういうワケじゃないけど。でも、なんかスッキリした。ユカちゃんの肩枕が気持ちよかったのかもね」

 そうして探るように瞳を覗き込まれて、ぴく、とユカの心音が跳ねる。

「わ、私も……。今日はけっこうスケッチはかどったよ」

 少し目線をそらせつつ言ってみれば、はは、と及川はさも当然のように笑った。

「知ってる。俺ってけっこうユカちゃんの絵に貢献してるもんね」

「え……?」

「あれ、心当たりない? ”コンクール荒らし”なんて呼ばれちゃってる栗原ユカさん?」

 そして悪戯じみた笑みで誇らしげに歯を見せて微笑まれ、ユカは思わず瞠目した。まさか……と、一気に背中に汗が噴き出てくる。

「……え……」

「”恋人たちの橋”と”バレンタインの夜”だっけ? なんのコンクールか忘れちゃったけど、前者が最優秀で後者が特別賞──」

「ちょッ……!」

 ユカは及川の軽口に被せるようにして声をあげ、カッと熱の走った顔で及川を見上げた。

 ──ユカは定期的に応募したいコンクールには出品し、小規模なコンクールであれば決まって最優秀を獲っているため付いたあだ名が「コンクール荒らし」というのは既に知れたことだ。が、最近はもう少しレベルを上げて年齢を問わない成人に混じった世間一般にも価値の重い賞に絞って応募していた。

 その一つは年末に出品して獲った賞と、春先に獲ったばかりの賞であるが……なぜ及川が知っているのかと汗を流していると上機嫌で及川は説明をしてくれた。

 なんでも跡部とのツーショット記事を見つけて以降、それとなく目に付いた美術関係のニュースは目を通すようになっていたため自然と見つけてしまったらしく。

 及川が自分の絵画に興味を持っていたとは露ほども思っていなかったユカはただただ赤面した。

「”恋人たちの橋”の絶賛ぶりは凄かったよね。一人も人間を描いてないのに、そういう雰囲気が出てるってこぞって褒められてたしさ」

 ──”恋人たちの橋”、はポンデザールを描いた風景画で、”バレンタインの夜”はベンチに一輪の薔薇が置かれた様子を描いたこちらも風景画である。

 ポンデザールは及川と初めてキスをした場所で、バレンタインの絵は及川に薔薇をもらって嬉しくて。どちらも風景画ではあるが、ユカにとっては実際の風景以上に美しい記憶が残ったゆえにモチーフにした。

 人物は今まで通り一人も描かれていない。とはいえ、描かれていないキャンバスの外に及川の存在があったのは否定しようもない事実だ。

 おそらくは、「仙台の冬」を描いたときのように──と思うも気恥ずかしさは変わらず口籠もってしまう。

「俺ってほんと愛されてるよね!」

 笑う及川の声に、事実なだけに否定できない。と恥ずかしさで耳まで赤くしていると、ふ、と及川が柔らかく笑った。細められた瞳のココア色は相変わらず優しくて、やっぱり綺麗な瞳だな、とこんな時だというのに見惚れてしまう。

 そっと及川が自身の大きな右手を膝に置かれていたユカの手に重ねてきて、ぴく、とユカの頬が撓った。

 そうして左手がそっとユカの頬に触れて、間近でココア色の瞳と目があった。

「ユカちゃん、顔真っ赤」

 愉悦を含んだような声で囁かれた直後、及川の薄めの唇が軽く唇に触れた感触が伝ってユカはキュッと瞳を閉じた。

「……ッ……」

 何度か啄むようなキスを繰り返して自然と互いに指を絡ませて、ふと唇が離れるとユカは気恥ずかしくて俯いた。その額に及川がこつんと自分の額をくっつけ、小さく笑った気配が伝う。

 次いでユカも小さく笑い、しばらく二人で笑い合ってから及川はそのままユカの身体を抱きしめてきた。

「俺さ……最近すんごいユカちゃん不足だった」

 どこか感慨深げな声だ。

「え……」

「そりゃ毎日学校で会えるし教室で話もできるけどさ……、教室だとこういうコトってできないしね?」

 言いつつ及川はユカの右サイドの髪を手で掬って、チュ、と露わになった耳元に軽く唇を寄せてくる。

「スキンシップってお付き合いの大切な要素だと思うんだよね」

 何度か耳や頬に軽くキスされたあともう一度ギュッと抱きしめられ噛みしめるように言われて、ユカも及川の背中にキュッと腕を回して肩口に顔を埋めた。確かにこうしてゆっくり及川の体温を感じるのは久々だ。ふわふわ心地よく浮いたようなこの甘い感覚は教室では味わえず、じんわりと胸が熱くなる。

 うん、と頷くと及川の零した笑みに合わせて及川の喉元が上下したのが伝った。

「だったら毎週……とはいかなくてもなるべく月曜は俺とデートしてよね?」

「う……うん」

「ホラまたそうやって返事を濁す! 大好きなカレシとのデート渋るなんてほんと信じらんない!」

 すればすぐに脹れっ面をした及川は相も変わらずでユカは苦笑いを零すしかない。

 とはいえ及川も現状が変わることは特に期待してはいないのだろう。言うだけ言って満足したのか、「さて」と一度大きく伸びをして彼はベンチから立ち上がった。

「夕方になっちゃったし、晩ご飯食べてかない? 俺、中華な気分なんだけど」

 どう? と聞かれてユカも立ち上がりつつ考える。それほどお腹は空いていないし、麺類くらいなら、と答えると「オッケ。決まり」と先導して歩き出した及川に並ぶ。

 自宅にその旨をメールしつつ、及川はいくつか候補の店を挙げてあまり普段はバレー部員と行かないという場所をチョイスした。

 部活帰り、特に遠征や練習試合帰りは学校近くのラーメン屋に部員と繰り出すことも多いという及川だったが、今日はオフであるため久々に普段は行けないところに行きたいという。

 何より部員と鉢合わせしたくないし、と話しつつバスに乗っていくつか停留所を過ぎた辺りで降りる。

 酸辣湯麺の美味しい店だと上機嫌の及川が語る店はユカも名前だけは聞いたことがあり、見えてきた店内に入ればカウンターと畳のテーブル席に分かれていた。

「いらっしゃいませー!」

 生憎と満席のようで、畳の席で相席でも良いかと聞かれて取りあえず進んでいくと、及川が固まった気配が伝った。

「ゲッ……!」

 先導先の一番奥のテーブルに座っていたのは及川と同じ制服に身を包んだ少年二人。

「マッキー、松つん……」

「及川!?」

 あ、とユカも目を丸めつつ声をあげた。

「花巻くん……!」

「栗原さん……」

 ともあれ知り合いということに店員はホッとしたような顔を浮かべ、ユカがちらりと及川を見るとややしかめっ面をしていたものの気心の知れた相手ということも変わらず、二人は靴を脱いで花巻と松川が座っているテーブルに向かい合わせで腰を下ろした。

 自然、ユカは花巻の隣に腰をおろし、斜め前の松川は面白そうにこちらの様子を見やっている。

「なに、デート?」

「見れば分かるよね」

「いやいや、学校一のモテ男のデートコースがまさかの中華屋とは予想外だわ。これは拡散案件だな」

「ちょっと僻まないでもらえますぅ?」

「中華屋はないデショ」

「うっさいよマッキー!」

 そんなやりとりにユカとしては苦笑いを浮かべるしかない。

 そうこうしている間にも店員がメニューを聞きに来て、ユカは酸辣湯麺を普通の辛さで注文し、及川は酸辣湯麺を普通の辛さとミニマーボー丼をセットにして付けていた。

 そうして入れ替わりのように花巻と松川が注文していたらしきものが運ばれてくる。

 花巻の前に置かれたのはオーソドックスにラーメンで、松川の前に置かれたものは一見すると真っ黒な料理で、ツン、と辺りに柑橘類のような香りが広がった。

「わ……もしかしてそれ全部山椒……?」

 思わずユカが口にすれば、ん? と松川がこちらに目をやってから小さく頷いた。

「そう。本場四川式のマーボーらしいけど、舌が痺れる感じがクセになるんだよな」

「へえ……」

 そうして二人は「お先」とそれぞれ料理に箸を付けた。

「だいたい、マッキー達はなにやってんのさ」

「何やってたって、まァ、普通にビリヤードやって適当に買い物?」

「花巻がトラストシティでスイーツ買いたいっつーから付き合ったけど、俺は絶えきれなくなってこっちに逃げてきたんだよな……。で、まさかのそこに現れる学校一のモテ男」

「俺たちがどこに行こうと松つんには関係ないじゃんほっといてよ!」

 くく、と喉を鳴らす松川に及川が食って掛かり、花巻は肩を竦めてユカの方に視線を流してきた。

「ていうか、いまの時間ならあの辺のタワーの方が眺めいいんじゃない?」

「そうかも。でも花巻くん、相変わらず甘いモノに目がないんだね」

「日々の活力だかんね」

「パリで花巻くんが撮ってきたシュークリームとかエクレアの写真、ほんとに美味しそうだったもんね」

「そうそう、ロンドンのアフタヌーンティーも良かったしね」

 そうして花巻と雑談しつつふと目線を前にやると、及川が不機嫌そうに眉を寄せていてユカはおののいてしまう。

 それを見たのか花巻が吹き出し、松川も面白そうに笑った。

「ウチの主将まじ余裕ねえな。──ねえ栗原さん、好きな食べ物とかってなに?」

「え……? え、と……オムライスとか、グラタン……かな」

「お。俺と趣味似てるかも。イイよね洋食、この前テレビで名取市にあるハンバーグの美味い店特集やってたんだけど観た? グラタンも美味そうだったし、何なら今度──」

「ちょっと松つん! 人のカノジョをナンパするのやめてクダサイ」

 がなる及川に松川が肩を揺らし、ユカはオフコートにおける及川の扱いというのを垣間見た気がして苦笑いを浮かべた。

 そうこうしているうちにユカと及川の頼んだ料理も運ばれてきて、取りあえず食事へと意識を移した。

「あ、美味しい……!」

 酸辣湯麺は文字通りぴりりとした辛さも兼ね備えつつサッパリとしていて、そこまで空腹ではなかったユカでも食べやすくて思わず唸ってしまう。

 及川も料理で気持ちが切り替わったのか「うん、美味しい」と上機嫌で、その様子を見やった花巻達も、ヤレヤレ、と言いたげに笑みを浮かべていた。

 そうして先に来ていた花巻達は先に食べ終わり、箸を置くや否や二人とも立ち上がった。

「じゃーな、お先」

「明日、朝練でな」

 ユカも及川も二人を見送り、及川は真っ先に複雑そうな顔をして零した。

「部員を避けたつもりが、ばっちりバッティングしちゃった……」

「き、気が合うんだよきっと……」

「んー……」

 仙台は少なくとも東京よりは狭い。行動パターンが似通った人間が街でバッタリというのはそう珍しくもないだろう。

 とはいえやっぱり少し緊張したかも、とそのまま麺に舌鼓を打って店を出ると、もう薄闇模様だ。

 及川は空を見上げつつ、やや不満そうな声を漏らす。

「どうしよっか? マッキーアドバイスに乗っかってタワー登っちゃう?」

 及川は基本的に花巻のオススメリストをこなすことに積極的ではあるものの、直接口を出されるのは微妙ではあるのだろう。だが、ユカは笑って「うん」と頷き及川の手を取った。

「もう少し一緒にいたいもん」

「だよね、俺も」

 お互いに部活一色で忙しい日々で明日からはまたいつも通り。

 でも、触れ合うことが大切だという及川の意見はきっとその通りなのだろうな。と繋いだ手はそのままにキュッと及川の腕にもう一方の手を絡ませて身を寄せたユカは体温の心地よさに頬を緩めた。



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42話:及川徹の最後のインハイ予選

 ──半年前、東京にまで出向いて受けたフランス語のレベル認定試験に落ちた。

 

 ほんの数点の不足だったため、次は確実に受かるだろうという自信はユカにはある程度はあった。

 が、気を抜けないことには変わりなく──。

 

 偶然、クラスの女生徒が男子バレー部のインターハイ予選の日程について話していたのが聞こえた。

 初日が6月2日、最終日が6月4日。最終日は月曜であるため、土日に応援に行こうかと彼女たちは相談していたのだ。

 6月3日には試験の第二パートが控えている。だからだろうか。及川は一言も予選の日程について言わなかった。と、ユカは自宅自室の机でカレンダーを見つつ唇を結んでいた。

 ノートパソコンを開いて、検索したい文字を打ち込む。宮城県高体連のホームページに行けば日程及び対戦トーナメント表がチェックできるのだ。

 青葉城西はAブロックのシード。そして白鳥沢はトーナメント反対側Cブロックのシードだ。彼らは当たるとしても決勝である。だが──。

「あ、烏野……Aブロック……!」

 影山のいる烏野高校もAブロックに入っており、もしも烏野が勝ち上がってくれば青葉城西とは二日目に行われる3回戦で当たる事がトーナメントからは読みとれた。

 とはいえ、だ。どう考えを巡らせたところで、その日は試験実施日。自分が観に行ってもどうにかなるものでもないし、そもそもが試験。及川は一度も自分の試合を優先してくれと要求してきた事はないし──でも、と焦燥のような申し訳なさのようなものがユカの脳裏を駆けめぐった。

 白鳥沢とのことはあまり心配していない。何だかんだ及川は牛島との対戦には慣れており、そもそもポジションが違う。

 だが、影山はセッター。及川の直属の後輩で、彼は及川を慕っており、そして及川が最も欲する「バレーの女神に愛された手」を持つ「天才」でもある。

 ユカ自身はバレーをしている影山は一度も見たことないが──、やはり気がかりだ、とスケジュール表を見てグッと拳を握りしめた。

 

 

「おーい岩泉、これ見た?」

「なんだ……?」

 

 インターハイ予選を明後日に控えた木曜の早朝。

 朝練のために部室で用意をしていた岩泉はあとから来た花巻に声をかけられ、振り返った。すると花巻の手には雑誌が握られており、差し出されて手に取った岩泉の顔が一気に歪む。

「さっきコンビニ寄ったついでに雑誌パラ見してたら見つけちゃったんだよね」

 花巻の声を耳に入れながらも岩泉はとっさに反応することが叶わなかった。

 手に取った雑誌のページには、「高校バレー界話題のイケメン選手を激写」などという見出しで満面の笑みでダブルピースをした及川の写真が飾られており、うっかり舌打ちを漏らしてしまった。

「ウゼェ……なんだこれ」

「さあ。ま、街で声かけられてとかデショたぶん」

 背景に映っているケヤキ並木は定禅寺通のソレだ。おそらく花巻の言うとおりの経緯なのだろう、と雑誌をその辺りの椅子の上にでも置こうと岩泉が腕をおろしたその時。

「おっはよー!」

 部室の扉が開いたと同時にまさに渦中の人間の声が響き、岩泉の眉はほぼ自動的に釣り上がった。

「朝っぱらからウゼェ声出すなクソ及川!」

「え、なにイキナリ? 酷くない?」

 今日ばかりは及川のクレームに正当性があると分かりつつも岩泉は苛立ちのままに雑誌を及川の方に放り投げた。すればきっちりとキャッチした及川が「なに」と首を捻りつつもページに目線を落として、ああ、と笑った。

「これちょっと前に定禅寺通りで撮られたんだよね。けどさ、この俺、真剣にイケてない? カメラマンがつい撮りたくなっちゃう気持ちもわかるよね? あ、岩ちゃんにはそんな経験ないか。ゴメンゴメン」

 そうして自分の背後にまとわりつくようにしていつものように軽口を叩き始め、今度こそ本気で眉間に皺を寄せ青筋を立てた岩泉は「うるせぇ!」とがなりつけた。

「さっさと着がえろ、グズ及川!!」

「ヒドっ! 嫉妬は見苦しいぞ岩ちゃん!」

「するかボゲェ!」

 そのまま部室に置かれた花巻の雑誌は部員に回し読みされる事となったが、取りあえずは切り替えて体育館に向かう。

 アップを取りながらの話題は当然のように目前に迫ったインターハイ予選だ。

「3回戦……、あれデショ、たぶん伊達工か烏野でしょ。どっち上がってくると思うよ?」

 柔軟をしながら花巻が言えば、それぞれがそれぞれの思いを口にした。

「伊達工じゃねえか? 烏野は県民大会で伊達工にストレート負けしてるだろ」

「うーん、烏野なんじゃない? ていうか俺がそうじゃないと困るんだけど」

 及川の意見を聞いた岩泉はジッと及川を睨み、ああ、と花巻は目線だけで及川を見やった。

「及川の後輩がいるんだっけか、烏野。あの神業トス使う黒髪の……」

 言い分に岩泉はうっすらと眉を寄せた。──「お前らの後輩」ではなくピンポイントで「及川の後輩」と覚えられてしまうほど、花巻にとってセッターとしての影山が印象に残ったのか。それとも、影山があまりに及川に似ていたせいか。

 ちらりと及川を見れば、ムスッとふくれっ面をしているものの否定はしておらず。──岩泉は何も言わないでおいた。中学の時の後輩だろ、とか、元後輩じゃねえか、などと言葉遊びをするつもりはないが。少なくとも及川の中では未だ、確かに憎い敵であるはずの影山の存在はごく自然に「自分の後輩」なのだと再確認させられた気がして、チッ、と小さく舌を打った。

 

 

 ──6月2日、土曜日。高校総体男子バレー宮城県予選初日。

 

 ユカは自宅の自室でフランスの時事問題等について自分の意見をまとめ、喋る練習をひたすら繰り返していた。

 明日は口頭表現試験の実施日。一つのトピックについて面接官と10分ほどディスカッションしなければならない。むろん内容よりもいかに喋れるかに重点が置かれているため、喋れれば良いのだが。と、ユカは一つ息を吐いた。

 前回、一番点数が良かったのが口頭表現。これに関してはあまり心配していない。

 ──コーヒーでも入れようかな、と立ち上がったと同時に携帯が鳴って、ユカは携帯を手に取りつつ一階のキッチンに向かった。

 愛用のマグカップをエスプレッソマシーンにセットして、携帯を開く。

 

 ──緒戦突破! 学校に戻ってこれから軽く練習デス。

 

 及川からだ。煌びやかな文面を見てホッと胸を撫で下ろしつつ、出来上がったコーヒーを持って何気なくリビングのテレビを付けてニュースにチャンネルを合わせると、パッとスポーツニュースが飛び込んできた。

 

「──2セット、25-6と全く流れを渡すことなく大差で圧倒。王者の貫禄を見せ付けました」

 

 画面に映ったのは「白鳥沢」の文字。ちょうど今日のバレーボール男子宮城県予選のニュースのようだ。

 牛島だ、と牛島若利を画面内に確認すると共にユカは息を呑んだ。緒戦とは言え圧倒的なスコアである。

 

「そして、続いての注目はAブロック……」

 

 そこでドキッとユカの心音が跳ねる。青葉城西のいるブロックだ、と注視している間にも画面はユカも足を運んだ事のある仙台体育館に切り替わり、次いで──。

 

「注目はやはり、青葉城西高校主将の及川徹君ですね。華やかなルックスで女の子のファンも多く──」

 

 う、とユカはコーヒーを吹きそうになるのを必死で堪えた。

 不意打ちのようにカメラは及川をアップで捉え、キャスターはいかに及川が実力と人気を兼ね備えているかを説明しながら、背景ではそれを裏付けるかのように女の子の黄色い声が飛んでいる。

 ──花巻だったかが言っていた気がする。こうして主将になってメディア露出が増えた及川には比例するように女性ファンが増えているのだ、と。

 やや複雑な心境になっていると、キャスターはさらに続けた。

 

「そして明日、この青葉城西に挑むのがベスト8確実と思われた伊達工業をまさかのストレートで下し、勝ち上がってきた古豪・烏野高校です」

 

 その声に、更にユカの心音が跳ねた。

 烏野と当たるのか……と思わず及川の姿が脳裏に過ぎったユカにシンクロするように画面は及川の笑顔を捉えた。どうやら及川は試合後にインタビューに呼ばれたらしく、烏野の印象を聞かれている。──影山の学校だけにハラハラしていると、及川はいつも通りのよそ行きの笑顔を更に余所余所しくさせ、完璧な笑顔で言い放った。

 

「良いチームですよね。全力であたって……砕けて欲しいですネ」

 

 その及川の声を最後にニュース画面はスタジオのキャスターに戻り、キャスターは明日の彼らの奮闘を祈りつつ次の天気予報へとニュースは移った。

 10秒ほど呆然と画面を見やり、ユカは息を吐いた。そのままソファに腰をおろし、持ってきていた携帯を開いて取りあえず返信を打ってみる。

 

 ──お疲れさま。いまちょうど試合結果のニュース観た。及川くんテレビに映ってたよ。

 

 すると及川はまだ学校に向かうバス内にいるのか、間髪入れず返事が届いた。

 

 ──そうそう、さっき会場前でインタビュー受けちゃった。イェイ! 及川さんカッコ良かった??

 

 どんな早業を使えばこんなにすぐ返事を打ててかつデコレーションまで出来るのだろう、といっそ感心しつつユカも返事を打つ。

 

 ──うん。明日、頑張ってね。

 ──ユカちゃんも試験ガンバ!

 

 少し間を置いての及川からの返事は意外にも全く影山の事については触れられておらず、ユカはその短い文面に及川の明日へかける意気込みと共に試合を観に行けない自分への配慮さえ感じ取って、ギュ、と携帯を握りしめてしまった。

 

『ユカちゃんはいつになったら及川さんのセットアップが見られるんだろうね』

『俺はトスは飛雄には敵わないからね。あんな”天才の手”、俺は持ってないんだし』

『けど、それだけじゃ勝てないってこと……この及川さんがインハイ予選でたっぷり教えてあげるつもりなんだよネ。あー楽しみ!』

 

 むろん、及川がどんな気持ちで試合に臨むとしても、及川は及川のベストを尽くすだろう。その試合を自分が観ているか否かに関わらず、だ。

 けれども──、と、ふとユカの脳裏に北川第一時代の記憶が過ぎった。毎日のように昼休みに外で練習をしていた影山と少しだけ交わした会話。

 零れたボールを拾って届けて、そしたら茂みに猫を見つけて──すぐに逃げられた猫を見送って彼はどこか寂しそうに言った。

 

『俺、嫌われてるんです』

『え……』

『いっつも、逃げられてかわされる……。ぜんぜんわけわかんねえ』

 

 あの時は、彼がなぜ辛そうに眉を寄せたのか理解できなかったが……とユカは眉を寄せた。

 あれはおそらく、及川のことを言っていたのだ。及川を追って、追って、そして彼はついに違う進路を選んだ。

 そして及川は──追ってこなかった彼に失望して、安堵して、そして。

 

『なんで天才ってああなんだろう。こっちの気持ちなんてお構いなし……!』

『飛雄になんか、負けてやんない……! 及川さんのところに来ればよかった、ってあとで後悔すればいいんだよ飛雄なんか』

 

 ユカは及川を案じる気持ちから眉を寄せた。

 おそらく及川は、岩泉にすらあのような感情を見せたことはないだろう。まだ付き合う以前から、影山のことになると及川は必ず出口の見えない感情を自分に零してきた。いや、自分に見せた部分さえきっとほんの一部でしかないはずだ。

「……」

 ユカはテーブルに置いていたマグカップの取っ手をギュッと握りしめた。青葉城西の男子バレー部の色。否が応でも及川を思い起こさせる。

 考えても仕方がない。──そう思って部屋へ戻り、思考を振り切って勉強の続きを開始する。

 夕飯をとり、また一通り復習して風呂に入り、ベッドに入って思考が勉強から解放されればいやでもまた及川の事が浮かんでくる。

 もう寝ているだろうか。考えながらそっと瞳を閉じた。──明日、自分の試験は午後からだ。そんなことを浮かべながらそのまま眠りに落ちた。



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43話:及川徹の最後のインハイ予選2

 ──仙台市体育館。

 

 結局来てしまった、と青葉城西の制服に身を包んだユカは久しぶりに来る体育館を前にしてギュッと胸の前で手を握りしめた。

 ユカ自身の口頭試験の開始は午後。試験当日は脳の混乱を避けるためにテキスト類には手をつけない、もしくは軽く流し見しかしないユカにとって本来であってもこの時間は家でリラックスタイムである。

 ならば、と試合を観てから行くことにしたのだが──。

 試合の結果次第では自分が精神的に引っ張られるという危惧がないわけではない。

 観ない方が気になって試験に集中できない可能性もある。

 つまるところどちらにしても試合を観てから行くという選択肢しかなく。

 なにせ、どういう理由にせよ影山は及川にとっては特別な人間だ。それにやっぱり、影山自身のことも気になる。──と、頭に12歳だった頃の影山を思い浮かべつつ中に入って会場を確認し、階段をあがって観客席へと向かう。

 コートサイドに出てパッと差し込んできた光の眩しさに目を窄めていると、相も変わらず熱気に包まれた運動部特有の応援の声が聞こえてきた。

「青城……」

 ぐるっと会場を見渡せば反対サイドの端に青葉城西バレー部特有の青緑の横断幕が見え、しまった、とユカは少しだけ肩を落とした。また逆サイドに来てしまった、と過去にここで観戦したことを思い出しつつ思う。

 

「いっけーいけいけいけいけ青城!」

「おっせーおせおせおせおせ青城!!!」

 

 が。やはりあの集団に混ざるのは気後れするな、とユカは比較的空いている、というよりはほどんど人のいない烏野サイドで観ようと移動しつつ遠目にコートを観ていると、コートサイドから両チームの選手陣が出てきてワッとコートが湧いた。

 これからアップなのかな、と思ったその時。盛りあがる応援団に混じってひときわ明るい声が会場にこだました。

 

「及川クーーーン、がんばってーーー!!」

 

 複数の女性の声だ、と声のした方を見ると可愛らしい女性が3人ほどコートに向けて手を振っており、その視線の先を追えば及川が立ち止まって笑顔で手を振り返していて、一瞬ユカは足を止めて立ち止まった。

「……」

 調子良さそうな顔だな、とか、いつも応援に来ている人たちなのかな、とか一瞬で駆け巡った思いを抑えつけるように一度キュッと唇を結んで、ユカは会場の応援席の一番角に立った。全体が良く見える位置であるし、無意識に自分の姿を誰かに見咎められないような場所を選んだのかもしれない。

「あ……」

 なんとなく自分に近い方のコートを見やると、特徴的なオレンジのユニフォームを身に纏った少年が目につき、ユカは数秒遅れで目を見開いた。

「あ……! ”スーパーリベロ”……!?」

 その少年は確かに一年前に見た、誰よりもギャラリーを沸かせていたリベロだ。一瞬で興味がそのリベロに移って、ユカは思わず身を乗り出して見てしまう。

「あのリベロの人……烏野だったんだ……!」

 確か及川は彼をベストリベロ賞も取った優秀なリベロだと言っていたような気がする。

 だとすれば烏野は思ったよりも強い学校なのでは──と、ユカはコート中央に目線を移してトスをあげているセッターに注視した。

 そしてユカは絶句してしまう。なにやら大柄な少年がトスを出している。サラリとした黒髪は確かに見覚えがある。が。

「か──影山くん!?」

 思わず口元を覆ってしまった。

 新聞等で中三の頃の影山を見た覚えはある。が、ユカの記憶の中の影山は、小さくて、黒目がちなくりくりした釣り目をまっすぐに前に向けたほんの幼い少年で。だというのにコートに立っている影山らしき少年は、下手を打てば高校に入りたての頃の及川よりも長身に見える。

「わぁ……すっごく大きくなってる……!」

 及川と比べてしまえば体格ではだいぶ劣っているが、それでもこれほど身長が伸びていたとは予想外であった。

 3年も姿を見ていないとさすがにこうなるか、としみじみ時の流れに思いを馳せていると、両チームに集合がかけられ、挨拶を交わしていよいよ試合開始が近づいてきた。

 そうして選手がいったんベンチの監督のところに戻っていくのを見守っていたユカの目に、ふと及川が影山の方へと近づいたのが見えた。

「あれ……」

 そして何やらネット越しに声をかけている。むろん会話は聞こえない。が、不遜な表情からおそらく激励ではなく煽っているのだろうなと確信してユカは肩を竦めた。

 「嫌い」な相手に自らああして近づいていく及川の厄介な性格は身に染みて知っているユカとしては及川の行動はある程度は想定の範囲内だが、果たして影山はどうなのか。

 真っ直ぐに及川を慕っていた、12歳の頃のままの影山だとしたら。

 

「──行くぞッ!」

 

 円陣を組んで仲間を鼓舞する及川は、先ほど影山と相対していた時とはまるで別人のようだ。

 別人、と言うよりはこういうキャプテンらしい顔をしている及川を見るのは初めてかもしれない。及川との付き合いはそれなりに長いし及川徹という人間を多少なりとも知っているという自負はあったが、思わずドキリと胸が騒ぐ程度にはオンコートモードになった及川は雰囲気が変わった、とユカは試合開始を息を呑んで見守った。

 ──烏野の攻撃でスタートだ。バレーのルールは一通り知っている。授業でやった通りは覚えているし、何よりフランス語の勉強ついでとはいえそれなりにバレーのスポーツニュースには目を通している。──ゆえにフランスのバレー事情については詳しい自負がある。

 でも、及川のセットアップを見るのはこれが初めて。及川がどんなセッターなのかは全く予想がつかない。

 烏野側のサーブだ。及川は誰にどのようにトスを上げるのか。と、青葉城西は一年生らしき選手がレセプションしたボールがセッター側に返るのをジッと見守っていると、及川は何食わぬ顔でさも当然のように跳び上がって──そしてボールを相手コートに叩き付けた。

 

「い、いきなりツーアタックだあああ!」

 

 一瞬、度肝を抜かされて静まりかえった館内が息を吹き返して沸いた。

 ツーアタック──いわゆる「ダンプショット」や「セッターダンプ」と呼ばれる、セッターがダイレクトに相手コートにボールを叩き込む攻撃だ。

 歓声を受けても及川は顔色一つ代えず、それどころか彼の目線はコートを挟んで目の前の相手に真っ直ぐ向けられている。

 

「ほらほら、次も同じのやるからね。ボケッとしてないでちゃんと警戒してね」

 

 なにか言ってる……とユカは顔をしかめた。

 及川の活躍を青葉城西の生徒達と一緒になって盛り上がれない事はやや申し訳なく思いつつも、やっぱりハラハラしてしまう。

 及川が得点したことでサーブ権が青葉城西に移り、松川がサーブを打った。烏野はきっちりレセプションして、ユカは影山に注視する。──あの及川が「天才」と恐れた後輩。どんな選手なのか、と考える余裕はなかった。瞬きする間すらなく素早いトスがセンターに上がり、そのまま背の低いミドルブロッカーが流れるようなスパイクを打った。が、花巻が綺麗にレシーブして再びセッターである及川のところに戻る。

 及川は先ほどよりもあからさまなアタックモーションを見せた。またダンプを仕掛けるのか。観客の歓声とは裏腹に、及川は空中でアタックモーションからセットに切り替えてレフトにいた岩泉にトスを上げた。

 そうして岩泉のスパイクが決まって青葉城西応援団は沸いたが、観客の注目はがぜん及川に集まっていた。

 

「すげえ……なんかムカつくけど、すげえ……」

「格好いいーー!! 及川さーーん!」

 

 及川はおそらく高度なことをしたのだろう。が、及川の派手な攻撃で打ち消されてしまったが、その前の影山のトス。よく分からないが凄かった気がする……とそのまま影山を見ていると、次のレセプションでボールが上がった際に烏野のセンターが一気に前に出てきて跳び上がった。影山は彼にあげるのか、それともレフトか。それとも、とユカ側から見ると後衛がバックアタックのモーションに入ったのが見えた。実際、後衛の選手は助走を付けて打ちに入っていた。

 が──。後衛の選手が跳び上がろうとしたまさにその時。影山はまるで先ほどの及川をコピーするかのように青葉城西側のコートに自らボールを叩き込んで、会場は静まりかえり、そして沸いた。

 

「ツ、ツーでやり返したああああ!」

「すげえ烏野のセッター! 一年なのに及川に張り合ってる!!」

 

 ユカも思わず目を見開いて口元を手で覆った。

 しかも、当の影山は何やら及川に言葉をかけているようで自然と目を凝らしてしまう。

 

「次も同じのやるんで。ちゃんと警戒してくださいね」

「──この、クソガキ」

 

 露骨に及川の顔が強ばったのが見えた。

 何を言い合っているのか。及川は影山が何を言っても気にくわないというのは見知っているし、たぶん詮無いことなのだろうが。まさか試合中に喧嘩なんてことには……と見ていると、影山がエンドラインまで下がってきた。

「あ、影山くん……。そっかサーブ」

 呟きながらふと思い返す。北川第一の頃のことだ。影山は及川にサーブの教えを請おうとしていた、が、及川はそれをかわしていたように思う。実際、バレー部で彼らがどういう関係だったのかは知らないが、いまの及川を見るに及川が影山の要求に応えることはきっとなかったのだろうな、とサーブに入る影山を見てユカは思いきり瞠目した。

 

「アウトアウト!!」

 

 影山は打ちミスをしてサーブは盛大なアウトコースに乗った。が、ユカは目を見張った。

 サーブトスのタイミング。助走の付け方。ジャンプモーション。どれを取っても……中学時代の及川に瓜二つだったのだ。

 間違えようがない。及川のサーブは自分だって誰よりもよく見てきた。それこそ及川が12歳だったころから見てきている。

 サーブは及川の最大の武器。及川が自分の持てる体格とパワーを活かして努力で磨いてきた最大の得点源だ。

 その及川のサーブを完全にコピーしたというのだろうか? 教えられていないとしたら、見よう見まねで真似た事になる。しかも中学の頃の及川のサーブに似ているということは。影山がコピーしたのは、彼が中学一年の時にほんの数ヶ月間一緒だった頃の及川のプレイだ。

 ごく、とユカが息を呑んでいる間にも影山のミスによってサーブ権は青葉城西に移り、ワッ、と会場が沸いた。

 

「及川クーーーン、ナイッサー!」

「及川さーーーん!」

 

 及川にサーブが回ってくると相も変わらず青葉城西応援団に加えて及川のファンらしき女性陣からの歓声で会場が一気に盛り上がり、やはりユカはやや居心地の悪さを感じてしまう。

 いつも見ている及川のサーブ。──といつも通りの及川のサーブは烏野リベロに狙いを定めたのかリベロ側に飛ぶも、烏野リベロは難なく軽やかにふわりと完璧なレセプションでユカは思わず感嘆の息をあげた。

「及川くんのサーブ拾った……!」

 さすがは「スーパーリベロ」。やっぱり凄い、と思っている間にも影山が綺麗にブロックを剥いでセンターに打たせ、烏野は得点を重ねた。

 彼が「天才」かどうかは良く分からないが、確かに技術的に上手いのは数プレイ見ただけで分かった。それに何より、ジッと観察しているとサーブだけではなく、レシーブ、ブロックその他の動きそのものが及川に似ていることに気づいた。

 おそらく影山は中学時代の及川を手本にプレイを鍛えてきたのだろう。

 

『そりゃあ、俺は飛雄とってはいい踏み台だかんね。ま……そう簡単に抜かせるつもりはないけど』

 

 ずっと昔に及川と交わした会話の中で、彼が言っていたことが過ぎった。踏み台、と言い切ってしまえば聞こえが悪いが、及川がそう感じるほどに影山の視線は真っ直ぐに及川を追っていたのだろう。

 それは知っていたつもりだったが、まさかプレイそのものがここまで似ているとは思わず──ユカは自然と影山を目で追っていた。なぜなら、サーブもブロックもアタックさえも明らかにまだ及川の方が優れている。ブロックを剥ぐ技術はもしかすると影山の方が既に上なのかもしれない、が、及川は全体的に多彩に戦術を使いこなしているし選手として劣っているようには見えない。

 それでも及川は影山を恐れている。そして影山を「バレーの女神に愛された、天才セッターの手」を持っていると評した。その理由をちゃんと知りたい。

 

「キャーー!! 及川さーーん!!」

「及川ナイッサー!!!」

 

 そうこうしている間にまた及川にサーブが回ってきて会場が一段と沸いた。

 あれほど毎日練習しているサーブだ。もう5年は彼のサーブが成長していく過程をそばで見ている。いまの及川のサーブはむろん一朝一夕で得たものではなく、威力もコントロールも気の遠くなるような時間と練習を経て磨いてきたものだ。

 オンコートの及川はいつもの及川ではない気がして何だか別人を見ているような気分だが、それでもサーブが決まるとユカはグッと手を握りしめて頷いた。

 及川は執拗に一人の選手を狙う戦術に出たが、こういうプレイができるのもまた及川の強みなのだろう。

 烏野は事態を重く見たのか2度も及川のサービス中にタイムアウトを取り、その度に及川は一人ベンチに座って、まるで周りの雑音を避けるように瞳を閉じていた。

 あれだけ練習してなお、集中力が途切れると普段通りに打つのが難しいのだろう。

 しかしやはりあのサーブで狙いうちされている側には少し同情してしまう、と肩を竦めて烏野を見やり、スコアを確認する。

 烏野はだいぶ引き離されている。両チームの力の差は分からないが、あまり離されては巻き返すのは骨だろう。

 その点差がプレッシャーとなったかは定かではないが、目に見えて影山が焦っていくのがユカにも分かった。──スポーツ記事で読んだ覚えがある。いまの時代のセッターの主流はアタッカーの攻撃力に合わせられるタイプ。コミュニケーション能力、判断力に優れ、視野が広く社交的かつ冷静であることがベースとして求められる、と。

 目に見えて焦っているようでは視野は狭くなるし、影山はあまりチームメイトとコミュニケーションを取っているようには見えない。大丈夫なのだろうか、と敵チームながらに影山はユカにとっても元後輩だけに案じていると、ミスが嵩んでついに彼は交代を言い渡されてしまった。

 ──彼はきっと、及川との力の差を感じて焦ったのだろう。実際、ネット際で何度か及川に競り負ける場面があった。それはそうだろう。パワー、体格で比べればいまの影山は明らかに及川に劣っている。及川もそんなところで優越感を覚えはしないに違いない。及川が恐れているのはあくまで影山のトス技術と、将来への可能性。だからそれが芽生える前に潰したいし、その反面、その才能の行方が気になって仕方ないのだから。

 それにしても、と思う。素人目にも、及川は青葉城西の中で一人だけ実力が抜けているのが分かる。セッターに似つかわしくないほどの攻撃力に加え、良くスパイカー達を見て上手く使いこなしているのが分かる。

 岩泉や花巻達が極端に劣っているわけではないが、おそらくはセッターである及川の方がアタッカーとしても優れているのだろう。アタッカーに今すぐコンバートしても何ら問題はないはずだ。

 とはいえ。及川が昔から司令塔ポジションを好んでいたのは見知っているが、と中学生の頃に球技大会でバスケットのポイントガードをやっていたことを過ぎらせつつ思う。

 スパイカーより攻撃力の優れたセッター。それはもう、及川の力はこのチームでは余ることを意味しているのではないか、とふと牛島の言葉が浮かんだ。

 

『バレー選手として、大学でどう過ごすかが貴重なのはお前も分かるだろう。そこで回り道をすれば、のちに悔いることになるぞ』

 

 及川の選手としてのレベルがどの程度なのかは分からないが。それでも、やはり及川は望めば牛島と同じステージにさえ立てるのでは?

 考えているうちに烏野は第一セットを落とし、続く第二セット中盤で影山をコートに戻してきた。控えセッターでは青葉城西に打ち勝つには力不足だと判断したのだろう。

 その影山復帰の一発目のサーブは気持ちのいいエースが決まり、会場が沸くと共にユカは初めて彼の強さに触れた気がして目を見張った。

 冷静ではないと判断されてベンチに下げられたあとの復帰一発目で最高のパフォーマンスを出せる。まだ一年生ということを考えれば、精神的にタフだということは明らかだ。

「影山くん……!」

 そうして次の攻撃、影山は返ってきたボールから見事なセンターへのクイックを上げて更にポイントを重ねた。

 この影山の活躍もあり第二セット、烏野は先に20点の大台に乗せ、復帰していきなり調子をあげた影山に及川はやや焦りを覚えているように見えた。

 影山は第一セットの自分を越えるかのように少しずつ味方のスパイカー達をまんべんなく使いこなし始め、及川はその影山のパフォーマンスの向上を敏感に感じ取ったのか及川のプレイそのものにも凄みが増してきた。

 それでも第二セットは烏野がセットを取り返し、勝負の行方はファイナルセットにゆだねられることとなってさすがにユカは息を呑んだ。

 ただ試合を見ているだけなら、試合を通してずっとスーパーレシーブを連発しているリベロのいる烏野を見ている方が楽しい。が、及川にとって最後のインターハイ予選。ここで負けて欲しくないし、本人も最低でも決勝へ行くつもりだろう。

 及川にとって、「天才」影山を倒して上へ行く事には意味があるはずだ。現時点では自分が勝っていると影山に示す絶好の機会でもあるだろう。

 ただ2年後はどうなのだろうか? 影山はおそらく対外的な評価という意味で、中学時代に及川を越えることは叶わなかった。

 けれども──、と観ていると影山はファイナルセットに入って真価を発揮しだした。時おり、スポーツ記事では「ブロード・クロス」などと書かれる主に女子選手が使うセンタープレイヤーをライトへ走らせそのまま跳ばせて打つ移動型のスパイクを多用し始めたのだ。

 主にバックトスで、助走を付けて跳び上がるスパイカーに寸分の狂いもなく高速のトスを上げる影山を観てさすがにユカも動揺した。

 むろん打てるスパイカーも凄いのだろう。が、影山のボールコントロールの異様なまでの精密さは端から見ていても明らかに異彩を放っている。

 これが及川の言う「天才」という意味なのか。及川は今さら驚きもしないのか、表面上はあくまで冷静に対処しているように見えた。事実、技術的に影山のトスが抜けていても、それだけでいまの及川に勝っているとはやはり思えない。

 

『飛雄は単に一人で何とかしようとしすぎなだけだよ。あいつ……天才だから勝手に周りを置き去りにしてくんだろうね。金田一たちは、後輩たちは飛雄の進む速さで歩いていけない、だってあいつ天才なんだから。けど、飛雄にはそれが理解できない』

『飛雄の方が金田一たちに合わせなきゃなんないんだよ。そもそもそれがセッターの仕事なんだし。まったくおバカな方向に突っ走っちゃってサ、あんなヤツを脅威に思ってた自分がバカらしくなってくるよまったく』

 

 少しだけ、及川の言わんとしていることが分かった気がした。

 が、それは──影山にはもっとレベルの高い環境が必要だったと言い換える事もできる。

 そして今と違う環境が必要なのはおそらく及川も同じ……、となかなか勝てそうで勝てない試合の行方を見守って迎えた青葉城西のマッチポイント。烏野のレシーブが大きく青葉城西側に返り、ダイレクトアタックのために及川が跳び上がった。

 決まれば青葉城西の勝利が確定するという場面で一気に応援団は沸いたが、そのダイレクトを阻止するように跳び上がった影山の目一杯に伸ばされた右手がタッチの差でボールに触れ、彼はそのままワンハンドでトスを上げてセンターからの攻撃のアシストをした。

 そのスパイクが決まってデュースとなり、息を呑むユカの視線の先で及川も息を呑んでいるように見えた。さすがにいまのトスは予想していなかったのだろう。

 それを脅威に感じたか否かは定かではないが、青葉城西はアドバンテージを烏野に取られ、さらには今日で初めてとなる及川のサーブミスが出て応援団はおろかコート内がどよめいた。

「及川くん……!」

 及川は普段の生活においてその場その場で自分の感情に流されやすい性格をしている。喜怒哀楽も激しく、そこは及川の長所でもあり短所でもある。

 いくらオンコートの彼が自分のあまり知らない顔をしているといっても、性格まで変わるわけではないし、とハラハラしていると及川の不調を真っ先に感じ取ったのか岩泉が及川の代わりを勤めるように全体を鼓舞して青葉城西は空中分解を避けたように見えた。

 そんな仲間を見て及川も落ち着いたのだろう。ローテーションが一周する頃には元のテンションに戻せたようで、今度はそんな及川を見て影山の方が焦っているように見えた。

 ──彼らはお互いの出来に常に影響されてしまうのか。

 ああしてネットを挟んで相対せず、同じコート内にいられれば、あるいは二人は上手くいっていたのだろうか。それとも北川第一の頃を繰り返すだけだったのか。

 

「飛雄……、急速に進化するお前に俺は負けるのかもしれないね」

 

 再びのマッチポイントでエンドラインに立った及川が何を呟いたかユカには届くはずもなく、ただ試合の行方を見守るしか術はない。

 しかし数度のラリーのあとに烏野のリベロが受けたボールを追ってアタックラインの外からというロングトスを高速で上げた影山を見て、初めてはっきりとユカの脳裏に「天才」の二文字が過ぎった。

 まさに空間を割くようなトスが精密にミドルブロッカーに上がり──、けれども及川はそれを読んでいたのだろう。コートのバックゾーンで、及川が確かに笑ったのがユカの目にも映った。

 ブロック3枚が迷うことなく飛び上がり、影山の精密トスから繰り出されたミドルブロッカーのスパイクは壁のようなブロックに阻まれて無惨にも弾かれ、自身のコート側にこぼれ落ちた。

 そうして決した勝敗に青葉城西サイドは沸き、烏野の選手はコートに崩れ落ちてしまう。

 そのまま淡々と挨拶が進められ、影山は顔を上げきれずに下を向いていた。及川もそんな影山に声をかけることはせず、ただ岩泉が項垂れる影山をジッと見据えていたのがユカの位置からも見えたが──。

 

「ありがとうございました!」

 

 ユカは烏野のサイドに立っていたため、挨拶に来た選手達を見下ろしながら悔しそうに唇を噛みしめる影山を目で追い、そして小さく目を伏せた。

 そのまますぐに次の試合のチームがバタバタとコートに入ってきて、烏野は撤収し、青葉城西は次の試合の準備に入ったのだろう。コート脇でユニフォームを着替えながら水分補給をしているのが見えた。

 ──あんなに拘ってたのに、あまり嬉しそうじゃないな。

 と、遠目に及川を見ながらユカは思った。勝った直後は、純粋に眩しいほどの笑みを浮かべていたが。それは単に試合に勝利した嬉しさで、いまの及川を見るにあまり影山に勝てて嬉しいと思っているようには見えない。

 及川のことだからきっと色々複雑で面倒なことを考えているのかもしれないな、と試合が終わったことで少し冷静になった頭で考えているとコートを出た烏野の選手達が観客席にあがってきて「あ」とユカはそちらに視線を移した。

「影山くん……」

 先ほどよりも落ち着いているように見えた彼の視線は真っ直ぐにコートに向けられており、その視線の先を追ってユカは思わず口元を覆う。

 コートでは準々決勝に臨む青葉城西が整列し、影山の視線の先には及川がいたのだ。

 そして準々決勝が始まってからも、影山の視線は微動だにすることなく常に及川を見据えていて、ユカはその様子に肩を竦めてしまった。

 影山がこの3年間をどう過ごしてきたかは知らない。けれども、12歳の頃の、自分の知る影山の本質はきっと何も変わっていないのだろう。真っ直ぐに及川に憧れていた、あの頃のまま。

 その視線の先のコートで、及川たち青葉城西は危なげなくストレートで準々決勝を勝ち上がり、明日の最終日進出を決めた。

 勝ちが決まった瞬間に見せた及川の屈託のない笑みにユカも少し口元を緩め、ハッとする。

「あ……!」

 さすがにそろそろ行かなければ試験に間に合わない。──元々いきなり来たのだし、声をかけている時間もないし。

 影山のことも少し気になるが、とちらりと帰宅準備のためか横断幕を下ろす作業をしている烏野サイドに目をやってからユカは足早に観客席を出て、仙台市体育館をあとにした。

 試験会場までは地下鉄で一本。足早にすぐそばの地下鉄駅に駆け込むと、頭を完全に切り換えてユカも試験に臨む体制を整えた。

 

 ──夕刻。

 試験を終え、ユカにとっては定期的にフランス語レッスンを受けている場所でもある会場を出て徒歩にて帰路につきながら携帯を見てみると、メールが二つ入っていた。

 

 ──やっほー、試験どうだった? 天才セッターは及川さんの前にひれ伏しました。ブイ!!!

 

 ピースサインの羅列で飾られたメールはむろん及川からのもので、試合後の及川とのあまりのテンションの違いにうっかりユカは絶句してしまった。

 

 ──残るはウシワカ野郎ただ一人!!

 

 書き忘れたのか二通目にはそんな事が書いてあって、ユカは苦笑いと共に肩を竦めてしまった。

 今日の及川を見るに、おそらくコートで影山にしていたように牛島を毎回煽っているのだとしたら。あまり牛島にああやって噛みつく義理はないのでは、といつだったか仙台駅で牛島とバッティングしたときの様子を思い浮かべつつ、明日も頑張って、と返信をしてそのまま家への道を急いだ。



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44話:及川徹の決勝戦の翌日

 ──翌日、月曜日。

 

「及川君、試合だから欠席なんだよねー」

「えー、つまんなーい」

 

 ちらりとユカは一限が終わったあとの主のいない窓側の席を見やった。

 試合はもう始まっているだろうか。

 できれば及川にはインターハイに進んでほしい、が、おそらく今日の相手は牛島率いる白鳥沢学園。牛島は全国でも数本の指に入るスパイカーだと聞いた。

 対する青葉城西は──、チームトップの攻撃力を誇るのはセッターである及川。そして及川はセッターであるがゆえに自らは高頻度では攻撃には出られない。

 簡単な図式だ。勝負に絶対はないという前提はあるにせよ、どうしても力の差は生まれてしまう。

 勝負に絶対はない、という甘言は前提でしかなく、縋り付くようなものではない。それはどの世界でも同じだ。

 

『自分を甘やかすな。てめーでチャンスを掴み取りな』

 

 ハァ、とユカはため息を吐いた。

 まさかこんな時にあの跡部の姿が過ぎるとは。それほど青葉城西の優勝は厳しいだろうと感じてしまっているということだろうか。

 と、昼休みになっても鳴らない携帯を見てなお小さく息を吐いた。

 まだ試合は終わっていないのかもしれない。けれども、及川は勝利の報告はしてきても敗戦の報告をしてきたことは一度もない。

 試合、どうなったのだろうか。と、案じたまま結局は放課後になり、ユカは美術室を目指した。

 月曜は美術部の活動の日ではない。ゆえにおおよその場合は一人だ。今日はバレー部も通常ならばオフであるため、もしかしたら今日は彼らは現地解散で学校には戻ってこないのかもしれない。

 などと考えつつ、扉を開ければやはり誰もいない美術室の一角に座ってスケッチブックを広げた。

 そろそろ夏も近づいてきたし、本格的に受験対策をしなければならない。万に一つも現役で芸大に合格できなければ、いっそもうフランスに飛んで高校修了及び大学入学認定の証でもあるバカロレアを受け、エコール・デ・ボザールの受験資格を満たしてからフランスで受験すべきか。

 いまの自分のフランス語能力でバカロレアを取得できるのか。昨日の試験に受かっていれば、フランス留学に必要な語学力の最低基準は満たせる。が、最低基準程度では言語で苦労するだけなのが目に見えている。

 せめて英語力と同程度には引き上げないと──と、考えすぎてやや焦ってきたせいかうっかりフランス語の復習に熱中してしまい、ふとハッとして顔をあげると一時間以上が過ぎてしまっていた。

 もう5時か、と腕時計に目を落とす。携帯を未練がましく取りだして確認してもメールの受信は一通もなく、ふ、と息を吐いた。

 決勝戦どうなったのかな……、と過ぎらせる。便りがないのは良い便り、などとは言ったものだが及川の場合は試合に勝てば真っ先に連絡をくれるはずだ。

 もちろん、優勝で今なお盛り上がっているのならそれが一番であるが──とぼんやり窓越しに空を眺めていると、コンコン、と美術室のドアがノックされて反射的にユカの身体が撓った。

 振り返れば、ガラ、と扉が開いて──見慣れた青葉城西男子バレー部のジャージが目に入ってユカは反射的に立ち上がった。

「及川くん……!」

 扉の開いた先に立っていたのは及川で、及川は色のない表情を晒したまま静かに扉を閉めるとこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。

 声をかける間もなくそばまで来た及川は、ポテ、と大きな身体を丸めてユカの肩に頭を乗せてから軽くユカの身体を抱きしめ、ユカは思わず目を見開いた。

「お、及川くん……」

「……負けちゃった……」

 ボソッと及川は頭を肩に乗せたまま呟き、ユカはぴくっと反応したもののそのまま数秒遅れで及川の身体を少しばかり抱きしめ返した。

「そっか……」

「まあ……、まだ春高があるけどね……」

 ふわりと及川の柔らかい髪が及川が喋るたびに首筋あたりでゆるゆると動き、及川は「だけど……」と何かを言いかけたところで言葉を濁した。

 だけど、何なのだろうか? 言葉の続きを待っていると、小さく息を吐いた及川が肩から顔をあげこちらの顔を覗き込んできて、ドキ、とユカの心音が跳ねる。

 及川は少しだけ苦しそうに瞳を細めた。

「キスしていい……?」

 え、とユカは少し目を見開く。及川はこうして何かをする前にこちらに確認を取ることがままある。が、たいていは答えを待ってくれない──、とユカが頷くより前にそのまま唇を重ねられてユカはキュッと瞳を閉じた。

「……っ……んっ」

 敗戦のせいか、それとも試合後だからなのか。及川が自分に触れたがっているというのを否が応でも感じてしまうほど性急にキスの深さが増し、ユカはギュッと及川の胸にしがみついた。

 及川に応えたくて、懸命に合わせて言葉にならない言葉を飲み込むようにして互いの息を合わせた。

 熱くて柔らかくて、頭がぼんやり痺れてくる感覚に少しユカの身体がふらつけば及川が片手でしっかり腰を支えた。

「………ッ……」

 ふ、と少しだけ唇が離れ、熱っぽいココア色の瞳と間近で目があって反射的に脈が高鳴っている間に及川はあろう事か唇を耳元へと移動させてさすがにユカは驚いた。

 首筋に這うように唇が移動してきて、ぞく、とユカの背中が粟立つ。

「……ぁ……っ!」

 そうして首元にピリと刺すような痛みが走って思わず眉を寄せたユカは及川の肩口を押し返した。

「ま……待って、待って……!」

 すると及川が目線だけでこちらを見てくる。

「ヤだった……?」

「そうじゃなくて……」

 美術室だし、と言う前に及川は言いたいことを悟ったのか被せてくる。

「場所、変えればイイ……?」

「う……」

 そう問われると急に恥ずかしくなって返事に窮していると、及川もそんな様子を見て少し落ち着いたのか、小さくため息をついてユカの身体を解放した。

 そうして何故かこちらに背を向けてしまい、ユカは小さく首を捻る。

「及川くん……?」

「6年連続だよ、もういい加減準優勝飽きちゃった。インハイ……、最後のチャンスだったのにサ」

 見えない顔はむくれているのか、それとも悲しげなのか。及川が何を訴えたかったのかは分からない。が……大きな背中だな、とユカはいつもより少し肩を落として丸められた背中にそっと手を伸ばすと、ギュッと後ろから抱きしめてその背に身体を寄せた。

 瞬間、ぴく、と及川の身体が撓る。

「え、ナニ、いきなりのデレ!?」

「昨日……、試合観にいったの」

 焦ったような声を聞きながら目を瞑って言うと、「え……」と及川が驚いたような声を漏らした気配が伝う。

「え……試験は?」

「午後からだったから、試合観てから行った。気になっちゃって……」

 すると少し間を置いて「そっか」と呟いた及川の大きな手が及川の身体の前に回していたユカの手にそっと重ねられた。

「で、どうだった? 及川さんカッコ良かった?」

 そうしていつも通りの本気なのか冗談なのか分からない軽い声が聞こえてユカは目を開けて少し笑った。

「影山くん、予想以上に大きくなっててびっくりしちゃった……。あんなに小さかったのにね」

「エ、なに、俺の試合観た感想が飛雄の身長?」

 確かに育ちすぎだけどさ、と続けた及川に「あ」とユカはもう一つ思い出して声をあげた。

「あの”スーパーリベロ”って烏野のリベロだったんだね!」

「……は……?」

「びっくりしちゃった。及川くんのサーブも一発で取っちゃうし、昨日も圧倒的に目立ってたもん。やっぱり凄いんだね、あのリベロの人」

 やや興奮気味に言うと、ぴく、と手に重ねられていた及川の手が反応し、次いで及川はその手を握ってくるりと身体を反転させユカを正面から見やった。

「ユカちゃん、一つ質問いいかな?」

「え……」

「ユカちゃんの、カレシは誰デスカ?」

 喋る及川の口元がヒクつき、ユカは思わず唇を結んだ。が、及川は構わず捲し立てる。

「ようやく及川さんの試合を観に来たと思ったらナニ? またあのリベロ君見てたワケ? 飛雄が大きくなってようがどうでもいいじゃん、なんで烏野ばっか注視してんのさ!」

「そ……、そう言われても……その。及川くんも見てたけど……」

「けど?」

「え、っと……及川くんが凄いのは分かったけど……。でも、影山くんがバレーしてるところは初めて観たから、どの辺りが天才なのか気になったの。最初は良く分からなかったけど、ずっと観てて分かった。すごく速くて正確なトスを上げてたから」

「だろうね。あんなピンポイント上げられるヤツ、世界でも飛雄くらいなんじゃない。そこ張り合ってないよ俺は」

「終盤、同点に追いついた時のワンハンドドス……凄かったよね」

「ソウデスネ」

「マッチポイントの時の長距離のクイックも本当に凄かった……。どうして及川くんが天才って言ったのかあの時よく分かった」

「あー……、うん」

「でも……、あの時、及川くん影山くんがクイック使うの読んでたよね……?」

 笑ってたもん、と伝えるとさすがに及川は目を見開いて、少しだけ肩を竦めた。

「まァ、ね。飛雄は第二セットの終わりに俺が岩ちゃんにトスあげるの読んでた。俺は同じコトを仕返しただけだよ。あいつ……てんでポンコツのくせに試合中にさえ進化してたからね」

 そうして悔しそうに口を尖らせたかと思うと、少しだけ意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「けど、飛雄もショックだったんじゃない? あの3枚ブロック、飛雄の元チームメイト二人と岩ちゃんだったからね。俺に読まれて北一メンバーにドシャットされるとかぜったいツライよね」

 そして肩を揺らす様を見てユカは小さくため息を吐いて頭を抱えた。むろんあの時、前衛にいたのがたまたま元北川第一のメンバーだっただけという話なのだろうがそれにしてもだ。

 相変わらず影山の事になるとこれだ、と肩を竦めつつ及川を見上げる。

「でも影山くん、ずっと及川くんのこと見てたよ。準々決勝の時もずっと及川くんの事だけ見てた。サーブだってほんとに及川くんにそっくりでびっくりしちゃったもん。ずっと及川くんのことお手本にしてたんだね」

 すると及川は、むー、と不機嫌そうな顔を浮かべて眉間に皺を寄せた。

「──で、ユカちゃんは俺を見てる飛雄のことわざわざ見てたわけ?」

「え……」

「飛雄が俺のプレイをストーキングしてんのなんて今さらだけどさ。さすがに準々決勝ガン見されてたとかドン引きなんだけど」

「え、でも烏野って最前列にいたけど……気づかなかった?」

「気づいてたよ! 慣れてるからね俺はあの飛雄の視線が背中にチクチク刺さる嫌な感覚に悲しいことに! 改めて第三者から知らされてドン引きしてんの!」

 ていうか、と及川は真っ直ぐこちらを見据える。

「むしろなんでユカちゃんが最前列にいないのさ? 来てるとか全然気づかなかったんだけど?」

「え……と」

「まさかとは思うけど……、本当に俺のこと見てなかったの?」

 言われてユカはさすがに言葉に詰まるも、やはりあの運動部の独特の空気に混じれず場違い感を拭えなかったのも事実で──それにオンコートの及川はどこか別人に見えて、少し遠く感じたのも事実だ。

「その……コートにいる及川くんとか、キャプテンしてる及川くんを見るの初めてでちょっと及川くんじゃないみたいだったって言うか……」

「ふーん。それって良い意味? 悪い意味?」

「わ、悪い意味じゃないけど……。でも、試合に勝ったあとは及川くんホントに嬉しそうだったから……あの顔、見られて嬉しかったな」

 試合中の及川はともすれば普段とは別人のように見えたが、勝った瞬間に見せた笑顔は屈託なく本当に嬉しそうでホッとした。と思い出しながら少し目を伏せると、及川がキョトンとしたような気配が伝って、次いで「そっか」と呟きながら軽く抱きしめられた。

「じゃあ、今日の試合は観に来られなくて正解だったね……」

 静かな声が自虐も孕んでいて、ユカはそのまま及川の胸に顔を寄せる。

「試合……どうだったの?」

「ストレート。まったくこっちの作戦なんてお構いなしで突破されるんだからたまんないよね。あいつこれで三年連続MVPだし、ベストスコアラー賞だし」

 あいつ、とはむろん牛島の事なのだろう。憎々しげに語る及川の声に、そっか、とユカは相づちを打った。

「及川くんは……?」

 そしてちらりと見上げれば、う、と及川は一度息を詰まらせてから少し目を逸らした。

「ベストセッター賞、それからベストサーブ賞」

「すごい! ダブル受賞だったんだ!」

「別に。どうせこの賞獲ったって全国行けないんだし、中三の初受賞のときみたいな気持ちになれるほどもうピュアじゃないよ」

 言って及川は少し遠い目で息を吐いた。本当にどこか少しだけ諦念したような瞳の色をしていてユカは気にかかる。

 先ほど、「まだ春高があるけどね」「だけど」と言いかけて止めた事といい、なにか引っかかっていることでもあるのだろうか?

 むろんインターハイがダメになってしまったことはそう簡単に気持ちの処理が出来ることではないのだろう。だが、及川の中には別の感情もある気がして思わず訊いてしまう。

「もしかして、なにかあった……?」

「え……?」

「あ、その……さっきから何かもっと別のこと話したかったんじゃないかな、って気がしたから」

 すれば及川は目を見張って、そして少しばかり眉を寄せた。

「──大学」

「え……?」

「これが最後のチャンスだったんだよね。全国ベスト4が定位置、最低でもベスト8には入る白鳥沢破ってインターハイ行けてたら、どう少なく見積もってもベスト16は堅いからサ」

「え……と、何の話……?」

 話が見えずにぽかんとすると、及川は唇を尖らせてゴソゴソとポケットから携帯を取りだした。そうして操作をしながら呟く。

「ウシワカが言ってたけど、あいつはもう大学決まってんだよね。なんでか分かる?」

「ううん」

「ウシワカの進学先は関東一部リーグの深沢体育大学。そんなトップレベルの大学から推薦が来るような選手ってのは一年の頃から全国大会で活躍してて、もう二年の終わりには進学決まってるモンなのさ。あいつみたいにネ」

「で、でも……。推薦来なくても、一般受験で行けばいいんじゃ……」

「だから俺はウシワカと同じ大学行く気はないからね!?」

 がなりながら及川は携帯を操作しつづけ、何かを見つけたのかズイッと携帯をユカの方に差しだしてきた。

 受け取ってユカは画面を見やる。あ……とユカは記されていた名前を呟いた。

「筑波天王大学……」

「そ。深体大と同じく関東一部リーグ。いま上手いセッターがいるんだけど後釜がいなくてサ。分不相応って笑っていいよ、でも俺、ちょっと狙ってたワケさ」

 筑波天王大学──通称・筑波大。体育専門学部のある国立の大学だ。及川が国立理系のクラスを選んだ時からもしやと思っていたが、やっぱり、とユカはなお画面に目を通した。

 そこには筑波大のスポーツ推薦の対象になる基準項目が事細かに書かれており、読んでいると苦しげな声が頭上から降ってきた。

「俺じゃあもうこの基準は満たせない。仮に春高に出られたとしても、それじゃ遅すぎる。俺は……ユカちゃんと一緒に東京には行けないよ」

 きつく眉間に皺を寄せながら言われて、ユカは唇を引き結んだ。受験すればいいのでは、という疑問は愚問なのだろうか。

「受験……してみるのは? 私も出来る限り勉強に付き合うから」

「仮に俺が一般で受かっても……、筑波大は関東一部リーグだよ。けど俺は全国に一度も出たことないただの宮城の一選手。誰がどう見ても……場違いだよね」

 いつもはあれほど自信たっぷりの及川がこういう事を言うとは……と目を見開いた先で「ああ」とユカは理解した。

 自分にも、影山にも突っかかってきていた理由の一つ。それが「先を見ないで突っ走る」という事だった。

 

『ユカちゃん、さ……中学の頃に言ってたよね。”バレーで世界に出る、とか一度も考えたことないの?”って』

『あの時、俺、思ったんだよね。天才ってすぐ突拍子もない事言えてイイヨネってさ』

『君も、牛島も……飛雄も……! 真っ直ぐ自分に与えられた道を真っ直ぐ走っていけるから、そんなこと簡単に言えるんだって』

 

 及川は必要以上に自分の才能を自分で評価出来ていないのかもしれない。いや、かつては信じていたのだろう。が、目の前に現れた「天才」たちがその自信を奪ってしまったのか。それとも他に理由があるのか──。

 自分は何をどう言えばいいのか、と考えあぐねていたところでハッとユカの脳裏にいつか父親に訊かれた何気ない会話が浮かんだ。

 会合でたまたま宮城のバレー事情について聞かれた、という話だったはずだ。

 

『その教授が言うには体育学群の人が次世代のセッター候補を探してるらしくてね。話のついでに宮城のバレー事情について聞かれたから、ユカの同級生にセッターで有望な選手がいたことをチラッと話したんだよ』

 

 父は確かに体育学「群」と言った。あれは、まず間違いなく筑波大の事を指す独特の言い方だ。

 現に及川もいま、筑波大は次のセッターを捜していると言っていたし……とユカはゴクリと息を呑んだ。

「及川くん………」

「ん?」

「この、条件、だけど……」

 ユカは及川に見せられた携帯の画面を指しながら及川を見上げた。そこにはスポーツ推薦に関する条件──日本代表経験者。全国大会16位以上。そしてそのどちらかに準ずるもの──が書いてある。

「及川くん、最後のに当てはまるかもしれないんじゃないかな。だって全国ベスト4のチームがいる県のベストセッターなんだし、サーブは間違いなく宮城一なんだよね?」

「は……!? な、なに言い出すのユカちゃん。いくらなんでも無理があるよねソレ」

「白鳥沢と競ったチームは、それだけの価値があるかもしれないよ。決めるのは私じゃないから……分からないけど」

「何の話……」

「今日の決勝戦のビデオデータとかってあるかな? 貸して貰えたら、私、聞いてみる」

「──誰に!?」

「お父さんに!」

 そうしてユカはかつて父に訊かれたことを一通り及川に説明した。まだ先方がセッターを捜しているのであれば、及川のプレイにもしかしたら興味を持つかもしれないという「可能性」の話だ。

 むろん父に資料を渡すだけで、バレーとは何の関係もない父が見た段階でノーと言われればそれまでだ。が、示したのはあくまで可能性だ。

 及川はやや困惑したように考え込んだ。その様子を見つつユカは「私だったら……」と続ける。

「もしも本当にやりたかったら、何でもする。きっと使えるものはなんでも使うと思う」

「そりゃ……ユカちゃんはね。大学に乗り込んで直談判なんてマネ、普通はできないよ」

「前に、氷帝学園の跡部敬吾くんって人に言われたことがあるの。”自分を甘やかすな。てめーでチャンスを掴み散れ”って。私はそんな大層なことは出来ないけど、あとは及川くんがどうしたいかだよ」

 ぐ、と及川が言葉に詰まったのが分かった。それはそうだろう。及川にはおそらく明確に自分が「こうしたい」というビジョンはない。この辺りははっきりと自分や影山や牛島と違う。けれどもそれは「才能」の差が理由なのだろうか?

 もしかしたら別に何か深層心理に深く引っかかっていることが……と黙していると、及川は小さくため息を吐いて再びユカをそっと抱きしめた。

「ごめん、まだ分かんない……。進学のこと考えたとき、ユカちゃんが上京するなら、って思ったけど……」

「私が東京に戻るから……?」

「だって、ホントに分かんないんだもん! 俺はバレー続けたいし、中学の時は白鳥沢凹ませてやるって単純に青城に決めたけど、でもこれから先はそんな目標もないし、岩ちゃんどうするか分かんないし、俺は……俺は牛島が言うような”回り道”なんかしてきたつもりないのにさ……!」

 子供じみたようでいて、本当に困惑している自分を吐露するような声だった。ユカは次第に力の籠もる及川の腕に息苦しさを覚えつつもハッとした。

 

『バレー選手として、大学でどう過ごすかが貴重なのはお前も分かるだろう。そこで回り道をすれば、のちに悔いることになるぞ』

 

 及川と牛島の関係はよく知らない。けれども必要以上に牛島に感情を露わにしていた及川は牛島が「天才」だということ以外に、別の理由もあったのかもしれない。

 牛島はおそらく及川を選手として評価している。そしておそらく何度もあのような忠告めいた助言をしていたのだろう。

 及川は激高する反面、どこかで図星を刺されたと感じた部分もあるのかもしれない。

 だってそうだろう。及川がもしも進路を白鳥沢に決めていれば、今ごろ彼は全国でも名の知れたセッターだったに違いない。そしておそらく、希望通りの進路が容易に手に入っていたはずだ。仮にそれが気心の知れた仲間と別れることになっても、だ。

 牛島や影山や、そして自分も選んでいるのはそういう道。その世界で生きていくと決めた人間にとって牛島の言い分はどこまでも正しく、そして残酷だ。

 回り道──、それは自分が苦しんでいる事でもある。得たものがたくさんあったにせよ、仙台に越してきたために失ったものの方が自分にとってはきっと大きい。

 けれどもそれは仕方のない道だった。そして及川も……自分で決めた事とはいえ、中学生の段階で自分の将来を見極められる人間はそうはいないだろう。だから牛島も「これから」について忠告したのだ。

 及川には及川自身が一番望む道に進んで欲しいと思っている。それがどんな道であったとしても、だ。とユカもギュッと及川の背中を抱きしめ返した。

「及川くんのしたいようにすればいいと思う。仙台に残っても、どの県のどんな大学に進んでも……」

 すると及川は、ぴく、と身体を撓らせて少し腕の力を緩め、むくれたような表情をした。

「ユカちゃんは、俺と一緒に東京に行きたい、とか思わないの?」

「そりゃ……一緒にいられたらいいなとは思うけど、それは私が決めることじゃないもん」

「ヒドイ! 冷たい!」

 それに筑波大は茨城県だし東京ではない。と余計なことは言わずにいつも通りの言動をする及川を見やっていると、ハァ、と及川は息を吐いた。

「俺にとっては、けっこう重要なんだよね。ユカちゃんとか飛雄とか、そういうのいっさい考えないで突っ走るけど、俺は……」

 そうしてコツンと額を合わせてきた及川は瞳を閉じて黙し、しばしその整った顔を間近で見つめる。そのまま少し間を置いて、及川はようやく目を開けて右手で頬に触れてきた。

「ありがと。ちょっと考えてみる」

「う、うん」

「決勝戦のビデオは、負け試合だからホントはあんまり見せたくないんだけどね」

「私、観てみたいな。牛島くんのプレイ、観たことないもん」

「ヤダね! ユカちゃん派手なスパイクとか好きそうだもん、ウシワカに夢中になられたらさすがの及川さんも凹むよ!」

「あ、でもスパイクは確かに好きかも。及川くんも昨日の試合で何本も決めてたけど、すっごく格好良かった」

「え……!? じゃあビデオ観る? ウチ来る!?」

 及川さんの試合ビデオたくさんあるよ、と急に上機嫌になった及川の相変わらずな様子を見つめながら、ユカも緩く笑った。



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45話:及川徹の親友と後輩

 

 ──中学にあがったら、凄い選手がいた。

 

 インターハイ予選の決勝で青葉城西は白鳥沢に負けた。

 そのことを知らされた影山飛雄は自宅への道すがら、及川徹を初めて観た日の事を思い返していた。

 強烈なサーブに力強いスパイク、強力なブロックスキルにレシーブさえ際だって巧く、勝手に目が追うのを止められなかった。

 けれどもその人は性格に多大な問題を抱えていて、いつだって自分に向き合ってはくれない。ぼんやりと嫌われているのだろうと感じていたが、それさえ定かでない。

 分かっていたことはその人は凄い選手で、県で一番のセッターで、いずれ自分はあの人を越えたいと強く思ったということだ。

 及川のような選手になりたい、いやきっと及川を越えてみせると励んだ中学では結局及川を越えるに至らず、ふと足を向けた高校の新人戦ではますます凄くなっていた及川がいて……差は縮まるどころか開いていたのだと愕然とした。

 その及川をいつも抑え負かしている白鳥沢学園に入学して高校ではきっと及川を越えてみせると誓っていた矢先──。

 

『おやー? そこにいるのはトビオちゃんかな?』

 

 あれは、冬至の日。自分が唯一、「ナントカの日」を記憶している日でもあった。

 偶然、帰り道で及川に声をかけられた。驚いたが自分たちは同じ中学出身。家同士はたぶん近い。

 久しぶりに話した及川は相変わらず性格が悪く、なぜこの人は自分にこんなに突っかかってくるのか理由さえサッパリ掴めない。

 白鳥沢を受けるといったら機嫌が悪くなり、青葉城西に行かないと言ったら気分を害し。じゃあ青葉城西に行けば今度は自分にバレーを教えてくれるのかと問えば、それも嫌だと言う。

 及川は何かと自分を「天才セッター」だの「ぶっ潰す」だの言ってくるが、どこがだ、と思う。こんなにいまなお及川に追いつけなくてもがいているのに。及川みたいになりたくて、なれなくて、いつもいつも「ああやっぱり及川さんに勝てない」と思い知らされているのに。

 いつも意地の悪い及川は、学ランのみというこちらの格好を哀れんだのかマフラーを貸してくれた。

 

『それしてな。見てるこっちが寒い』

『やるよ! ソレもういらないし!』

 

 あれは、冬至の日。及川は知らないだろうが、あの日は自分の誕生日だった。

 別に誕生日に特別な意味なんて見出していない。ただ、チームメイトと仲違いしたまま部活を引退し、人と関わることもなくなっていた自分にとってあの時の及川の気まぐれは、勝手に及川に祝ってもらえた気がして少しだけ嬉しかった。

 もしも青葉城西に進学すれば、今度こそ少しは手を差し伸べてくれるのでは。なんてありもしない期待をしてしまうほどに。

 

『及川さん!』

『サーブトスのコツを教えてください!』

 

 時おり、いまでも夢に見る。いつものように及川に教えを請いにいって、及川が振り返って──そこで記憶が途切れて目覚めるのだ。振り返った及川がどんな表情をしていたのか、何を言ってくれたのかはサッパリ覚えていない。

 ただ、たぶん自分は望んでいたんだと思う。及川が自分以外の後輩へ笑みを向けるその姿を見つめながら、「及川さん」と声をかけた背中が同じ笑顔で振り返ってくれることを。

 でも──。

 

『よ、トビオちゃん。今日は天才セッターを倒すのを楽しみにしてきたから。ガンバって食らいついてね』

 

 白鳥沢に落ちて烏野に進んだ自分は、結局はネットを挟んで及川と初めて公式戦で相対した。

 ほんの少しだけ及川に対する畏怖の念もあったが、試合をするからには勝つつもりで臨んだ。元より及川に勝たなければ県で一番のセッターにはなれない。

 けれども、結果はプレイヤーとしてはもとよりセッターとしても力の差を見せ付けられただけに終わった。

 ネットの向こうで、ほんの少し前まで自分にとってはチームメイトだった国見や金田一と笑い合う姿がいっそ果てしないまでに遠く思えた。

 自分とは上手くいかなかった国見たちが笑っていて、及川も岩泉も笑っていて。はっきりと自分だけが外の世界に追い出されたような、そんな気さえした。まるで永遠に及川の背に届かないような、そんなイメージさえ沸いた。

 懸命に及川を真似て覚えたジャンプサーブも、及川はもっともっと上手くなっていて自分はまだまだパワーもコントロールも足りない。

 まだまだ及川は遠くて、やっぱり凄い人で、けれども──そんな彼も白鳥沢に負けた。

 ──ん? と影山ははたと気づいた。

「あれ……、及川さん、なんで青城行ったんだ……?」

 今さらながら、北川第一のメンバーの多くが青葉城西に進学するためあまり疑問を抱いてなかったが。及川ならば白鳥沢にも行けたはずだ。誰がどう見てもいまの県内トップは白鳥沢であるし……と考えて口をへの字に曲げる。

 

『高校行ったら今度こそ白鳥沢凹ましてやる』

 

 確か中三の夏の大会直後はそう言っていた気がするが、まさかそれで白鳥沢を蹴ったなどもったいない話があるわけないし。

 なんでだ……? と考え込むこと数秒。首を捻るも分かるはずもなく、息を吐いてさっさと帰ろうと切り替えたその時。

 

「影山……?」

 

 ふと名前を呼ばれて影山が振り返れば、白地のジャージを纏った見知った人影が映って影山はハッと姿勢を正した。

「岩泉さん……! お、お疲れッス!」

「あ……ああ、いや。お疲れ」

 青葉城西の副主将で中学時代の先輩でもある岩泉だ。つい中学の頃のノリで頭を下げると岩泉は居心地が悪そうに苦笑いを浮かべた。

「お前、いま帰りか?」

「ッス!」

「そうか……」

「あの岩泉さん、今日は──」

 決勝戦だったんですよね、と訊こうとしたその時。盛大に腹の虫が鳴って沈黙が走り、目の前には目を見開いたかと思えば笑いを堪える岩泉がいた。

 

「そこのコンビニで肉まんでも食うか?」

「! あ、あざっす!!!」

 

 岩泉はというと、ついつい口走ってしまった自分に再び頭を下げて素直に着いてくる影山をチラリと見やった。

 どことなくソワソワしている様子が見て取れ、そんなに腹が減ってたのか、とコンビニに辿り着くと肉まんとカレーまんを購入して手渡してやる。

「あざっす! あの、岩泉さんは……」

「ああ、俺はいま青城の奴らとラーメンたんまり食ってきた帰りだかんな。遠慮すんな」

「は、はい! あ……けど、珍しいっすね。及川さんは一緒じゃないんですか」

 さっそく肉まんに手をつけた影山にそんなことを訊かれ、岩泉は無意識のうちに苦み走った顔を浮かべていた。

「あいつの個人行動に俺はいっさい関係ない。コート外で俺と及川は無関係。いいな?」

 思わず力んで詰め寄れば影山はコクコクと頷き、岩泉は腕組みをして息を吐いた。

「お前……昨日凄かったな。練習試合の時も思ったけど、烏野にいって正解だったみてーだな」

「あ、ありがとうございます! けど俺……第一志望は白鳥沢で」

「ああ、聞いた。けど白鳥沢は県内一の難関だし落ちても仕方ねえ。気にするな」

「決勝戦の結果、聞きました。俺、昨日試合してやっぱ及川さん達スゲーって思いましたし、今日も負けると思ってなくて正直驚きました」

 あまりに率直な物言いに岩泉は大きく目を見開く。そして肩を竦めた。

「お前……相変わらずズバッと来るな。そういうとこ、全然変わってねえのな」

 影山は言われている意味がまるで分からないのか口を尖らせて首を捻った。岩泉はそんな影山を見つつ苦笑いを零す。

「ま、お前も知っての通り相手は白鳥沢だからな」

「俺、思ってたんすけど」

「ん?」

「なんで及川さん……岩泉さんもですけど、白鳥沢に行かなかったんですか?」

 全く邪気のない、当然の疑問と言わんばかりの影山の問いに岩泉はこれ以上ないほどに瞠目した。

「俺には白鳥沢から推薦来なかったけど及川さんには来たんじゃねーかと思って」

 違うんですか? と問う影山の真っ直ぐな瞳は純粋な疑問からの問いだ。何の含みもない。いや、そもそもが影山は元がこういう性格。言葉の裏に意味など持たせるタイプではない。

 だが──。

 

『及川は……なぜ白鳥沢でなく青城に行った?』

『もしも及川が白鳥沢に来ていれば少なくとも奴は全国ベスト4の正セッターだったことは確かだ』

『及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った』

 

 どうにも春先に告げられた牛島の言葉が脳裏に過ぎって、岩泉は懸命に顔を歪ませまいと拳を握りしめることで衝動を逃がした。

「岩泉さんが及川さんと小学校のクラブチームから一緒だったのは知ってますし、二人の連係スゲーし……白鳥沢でも十分やれますよね?」

 何の含みもない言葉の一つ一つがトゲとなって突き刺さるとはまさにこのことか。と岩泉は眉を寄せた。

 及川は確かに白鳥沢でも間違いなく正セッターを務めるだろう。現に今日、及川はベストセッター賞とベストサーブ賞を受賞した。どう言葉を取り繕っても、その賞は単純に及川の個人としての能力の高さを示すものだ。

 そう。及川は白鳥沢に行ってもレギュラーを張れる。そのつもりで白鳥沢も彼に推薦を出したはずだ。が、自分はどうだ? 白鳥沢で、牛島を抑えて「エース」を名乗れるか? ──否だ。勝てないと理解していたからこそ中学時代に及川に告げたのだ。牛島に勝てる選手なんか北川第一にはいない、と。

 とんだお笑いぐさだ。目の前の「天才」は、元先輩の自分の能力も見抜けないらしい。いや、そもそも影山の視界に映っていたのは及川ただ一人だしそんなものか、と岩泉は懸命に自分を抑えて肩を竦めた。

「ウシワカ個人に俺が対抗できるかは分かんねえけどな」

「牛島さんはスゲーっすけど、岩泉さんもカッケーです! エースはカッコイイです!」

「だから、そのエースになれねぇんだっつの、ボゲ」

 しかし肉まんを頬張りながら力説する影山を見ていると苛立つのもバカらしくなって、自分と目線が変わらないほどに育った元後輩の頭をペシッと軽く叩けばなぜだか影山は少し嬉しそうにソワソワした表情を浮かべた。

 それを見て、やっぱりこいつも俺の後輩なんだな、と岩泉は今さら自分自身でも呆れるほどに身勝手な思いを過ぎらせた。

 ただただ「天才」というだけで、ただただ及川の脅威となる存在というだけで、自分は「先輩」であることを放棄した。あれほど純粋にただバレーをすることが嬉しくてたまらないと全力で表現するほんの子供だった後輩を、と今さらながらに思っても後悔など一つもしていない。

 影山がいれば及川は焦るし、混乱もする。良いことなど一つもない。及川の影山に向かう本音がどうであれ、だ。

 だが影山を個人的にどうこう思ったことはないし、及川がいないいまこの場だけは。普通に接しても罰は当たらないだろうと解釈するのはやはり都合が良すぎるだろうかと岩泉は自嘲した。

「烏野のメンバーとは上手くやれてるみたいだな」

「はい。一年は腹立つヤツもいますけど、先輩たちのレベルは高いです」

「すげーリベロいるもんな、烏野は」

「ッス! 西谷さんカッケーです!」

「お前、何でも”カッケー”だな」

「うぐッ……!」

 すれば肉まんを詰まらせてバツの悪い顔を浮かべた影山を見て岩泉は笑った。──ああ、普通の後輩だ。金田一や国見たちと何も変わらない。そう思った。だが、自分たちはそうはなれなかったのだ。

 分かれ道が見えてきた。どちらかと言えばユカの家寄りの岩泉の家は、秋山小学区の影山とは1ブロック先の交差点で確実に道が違う。

「俺んち、交差点左だけど、お前んちは真っ直ぐだろ?」

「あ……はい」

 訊いてみれば図星だったらしく、岩泉は「じゃあな」と一言告げて分かれようとした。

「あ、岩泉さん!」

「ん……?」

「肉まんあざっした! それから……春高予選であたった時は今度こそ負けません!」

 すれば影山が律儀に頭をさげて挨拶をくれ、岩泉は少々面食らったものの「おう」と応じた。

「じゃあな、気を付けて帰れよ」

 そうして再度声をかけてから影山に背を向ける。

 そうして岩泉は一つため息を吐いた。──素直な後輩だ。素直に誰でも「格好いい」と讃えて憧れてくれる。だからこそ思い知った。そんな影山にとって、絶対的に特別な人間が及川なのだと。

 一つ岩泉は舌打ちをした。

 

『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』

 

 揃いも揃って、お前らは……と思わずにはいられない。

 なぜこぞって及川を上のステージに連れて行こうとするのだろう? そいつは「個」では決して天才に勝てない、才能溢れる凡才だ。だから徒党を組んで「天才」を打ち破ろうとしている最中なのに。放っておいてくれ、と思う心に岩泉は矛盾も覚えていた。

 及川は自慢の相棒で、自分にとっては最高のセッターだ。誰よりも努力を惜しまない、体格にもセンスにも人一倍恵まれた優等なプレイヤー。「飛雄にはかなわない」と零すたびに叱咤をしていたのは他ならぬ自分だ。だってそうだろう。自分にとって最高のセッターが「かなわない」などと簡単に言うことがどれほど腹立たしいか。

 ──お前は最高のセッターだ。だから白鳥沢に行け。

 そう言って背中を押すのが正しかったというのだろうか? 及川は自分の言葉にひどく影響されやすいというのを知っている。自分がそう突き放せば、及川はおそらくそうしていただろう。

 ──大学で一緒に日本一目指すべ。

 そう言えば、それこそ及川はその通りにしてしまうだろう。けれども自分の実力で「一緒に」コートに立てるような場所では、おそらく確実に日本一にはなれない。

 もしも白鳥沢に行っていれば、今ごろは牛島のように約束された道を歩んでいただろう彼を、今度こそ本当に永久に埋もれさせることになるだろう。

 それでも──。

 

『バレーはコートに6人だべや!?』

 

 このまま一緒にプレイし続けるのが正しいのか。今なおあの言葉に縛られている及川を、自分は何もせず見守っていていいのか。

 バレーを始めたその瞬間から一緒にバレーをしてきた。最初に始めたのは及川。追うように自分もバレーにハマった。及川がいなければ、自分はおそらくバレーという競技にのめり込むことはなかっただろう。

 その張本人が「天才」の壁に阻まれ壊れていくのを見ていられなかった。自分にとって及川は幼なじみで相棒で、バレーを始める切っ掛けをくれた恩人で、腐れ縁の親友。ずっとずっと及川のトスでスパイクを打ち続けてきたのだ。これからもずっと……そう思う気持ちに代わりはない。

 けれども──、誰よりもずっとそばで及川を見てきた。及川徹の才能を誰よりそばで感じてきた。少しばかりの悔しさと、けれども何倍にも勝る誇らしさと共に「俺の相棒はスゲーだろ」といつもいつも思っていた。

 それはこれから先も、変わらない。──と思い至って、岩泉はハッとした。

 そうして小さく笑う。──なんだ、簡単なことだった。といままさにはっきりと気づいた。

 

 ──俺の相棒はスゲーだろ!

 

 その気持ちが全てだ……と。

 それが自分の隣に立っているときでも、どんなに遠く離れていたとしても一つも変わらないのだ……と。



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46話:及川徹の相棒の決意

『”自分を甘やかすな。てめーでチャンスを掴み散れ”』

 

 自室の布団に転がって、及川はジッと天井を見つめていた。

 

『あとは及川くんがどうしたいかだよ』

 

 白鳥沢との決勝で負けが決定したとき、自分の「可能性」もこぼれ落ちた気がした。

 関東一部リーグ大学への進学が決まっている牛島のように、日本のトップレベルでバレーができる「可能性」。

 もしも、に賭けていたのかもしれない。チームプレイであるバレーボールにおいて、チームメイトはみな同等の成績・結果が手に入る。もしも自分が全国ベスト8になったとすれば、それは岩泉も同等であることを意味するのだ。それは、これから先も自分たちが何も変わらないという「可能性」。あり得ない、と心のどこかで痛いほどに理解しながらも縋り付きたい「可能性」だった。かつて岩泉がくれた言葉のような「可能性」。

 

『一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ! けど、バレーはコートに6人だべや!?』

『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが』

 

 自分と岩泉と、それから他の誰でもいい。自分がその5人を上手く使いこなせさえすればどんな相手にも勝てるという「可能性」だ。

 

『もし牛島くんと同じチームだったら及川くんももっと強くなれるんじゃないかな』

『もっと強い選手ばっかりのチームでセッターすれば、もっともっと強くなるって事なんじゃ』

『私だったらたぶん、たぶんきっともっともっと強いチームでセッターしたくなるんじゃないかな、って思っただけ』

 

 ユカが言ったことは「現実」。反発すればするほど、当たり前の事実は膨れあがって押し寄せてくる。

 牛島はいずれやがて全日本の代表にさえ選ばれるような器だ。きっとこのままでは差は開いていくばかり。元々「個」で勝てないからチームで勝とうとした。けれども結局は「個」にも拘っている自分を捨てきれない。自分にとって「チーム」とは結局、居心地の良い仲間のいるチーム。

 牛島や影山のように、現状を突き破って突き進んでいくほどの向こう見ずな真っ直ぐさは自分にはない。

 まして──。

 

『私、小さい頃から、ここで絵の勉強をするのが夢だったの』

『ダメ元で、教わりたいなっていう教授にメールしてみたの』

 

 あっさり海を越えて直談判に繰り出すユカは規格外すぎてとても真似できるものではない。──とパリでのユカのことを過ぎらせて及川は頬を引きつらせた。

 あんな風には絶対なれない。という思いを「自分は天才ではないから」だと結論付けて、自分もああできれば、という思いを心の奥の奥に仕舞い込んだ。だってそうだ。自分ははっきり、そんなユカに惹かれていると知っているのだから。

 

『ユカちゃんは、俺と一緒に東京に行きたい、とか思わないの?』

『一緒にいられたらいいなとは思うけど、それは私が決めることじゃないもん』

 

 ユカの進む道に自分はいっさい関与できないことなど嫌と言うほど理解している。

 それでも……自分はユカと離れたくない。だから彼女が東京の大学に進むなら、自分もそうしてもいいと思った。そこに岩泉もいればもっといい。単純な話だ。単純で、そしてひどく他力本願な事情。

 その実──、本当に筑波大でプレイしたいと思っている自分もいるから厄介なのだ。

 環境的にも、セッターを現在捜している状況的にも自分にドンピシャ。問題は、宮城のいちプレイヤー程度などお呼びでないほどの実績を誇る大学だということ。

 分不相応なのは分かっている。自分は分不相応の頭脳で白鳥沢を受けた影山みたいに当たって砕けたい願望があるわけではない。どうしても直前でブレーキがかかってしまう。より良い環境へ……と、単身で飛び込む勇気とパワーはどうしても持てない。

 何故なのだろう、と自分でも不思議で仕方がない。バレーを始めたばかりの頃は、当たり前のように思っていた。自分もいずれあんな風になるんだ、とモニター越しの世界を夢見ていた。

 そうして突き進んで、自分にはその才能がないのだと思い知ったから? だったらそれでもなおバレーを続けている自分はいったい何なんだろう。

 バレーを辞めたいなどと思ったことは一度もないというのに、なにを尻込みしているのか。

 牛島に負けたくない。影山に負けたくない。そんな闘争心だけは一人前で、結局、自分はここから飛び出せない。

 

『及川』

『及川くん』

『及川さん……!』

 

 ハッとして目を開けたら、いつもの天井が映っていた。

 夢か……と頭に手をやってムクッと起きあがる。

「……朝練……」

 いつの間にか夜が明けており、呟きつつハッとした及川は急いで身支度を整えて家を出ると学校に向かった。

 いつも通りの通学路。これからの部活は春の高校バレー予選に向けて気持ちを切り替え、練習して行かなければならない。

 が──、春高の本戦に仮に出られても大会は一月。その頃には関東の強豪校の推薦試験は終了しており、推薦待ちなど当然望めない。しかも、その一週間後にはセンター試験が控えている。勉強など間に合うはずがない。

 では春高に出られなかったら? いずれにせよ推薦の可能性はゼロで、センター試験までは3ヶ月。──筑波大志望です、と言って教師が絶句する姿が浮かんだ。

 しかし、だ。学力はそこまで大きな問題でもないのだ。死ぬ気でやれば何とかなるかもしれない。

 けれども自分一人が頑張ったって……と目を伏せる。

 何も関東一部リーグなんて大層なところを狙わずとも、県内の大学からなら話が来るかもしれない。青葉城西の卒業生が多数行くような大学からならきっとレギュラー陣には声がかかるだろう。

 けれども──、と思う。牛島は深沢体育大学。それでもなお地元に残って「打倒・深体大」とでも言えばいいのか。どうやってそれを叶える? 戦うチャンスすら有りはしない。青葉城西vs白鳥沢とは話が違う。

 そうして少しずつ確実に広がっていく差を「天才だから」と恨み言を言いながら指をくわえて見つめ続けるしかないのだろうか。牛島だけではない。もしかしたら影山でさえ、いずれは日本のトップに──と過ぎらせてしまって及川は髪が乱れるのも気にせず反射的に頭を掻きむしった。

 

 結局、それから進路のことには触れずに6月も中旬を過ぎれば試験期間となった。

 

 いつも通りにユカと岩泉の3人でかっちり勉強して、どうにか試験を乗り切った試験明け──。

 試験中に溜まったフラストレーションのせいか、珍しく岩泉が最後まで及川の自主練習に付き合ってくれ、二人して部室に戻って黙々と着がえつつ及川は何気なく聞いてみた。

「岩ちゃん、試験どうだった?」

「あ? あー、まあいつも通りだな」

「まあ俺たち受験生ど真ん中だしね。そろそろ進学先もはっきりさせないとヤバいよね」

 そうしてちらりと岩泉を見やると、なぜか岩泉は黙り込んでTシャツを脱ぎ捨て、無言で制服の半袖シャツに腕を通している。

「岩ちゃん?」

「何だよウルせえな」

「岩ちゃんさあ……、進学先ってもう決めちゃった? まさかとは思うけどウシワカみたいにどっかから推薦とか来ちゃったりしてる?」

 あえて軽い調子で言ってみると、ぴく、と岩泉の眉が反応して三白眼が目線だけでこちらを睨むようにして見てきた。

「ああ、決めた」

「──え!?」

 あまりに予想外の答えで、及川はただただ瞠目した。むろん3年生のこの時期、おおよその進路を決めているのが普通であるが──、一言もどこに進むか言わなかったのに、と動揺してしまう。

「な、なになに!? なんで俺に黙って決めちゃってんのさ、ねえ、どこ? どこ行くの!?」

「うるっせえ! 俺がどこに進もうがおめーになんか関係あんのか!?」

 そして今度は真っ正面から睨まれて、さすがに及川も眉を釣り上げた。

「なにソレ。酷くない?」

「だったらおめーはどうなんだ」

「質問してるの俺なんだけど」

「──東大だ」

「は……!?」

「俺が”東大”つったらおめーは東大受けんのか?」

「な、なに……それ……。岩ちゃんなに怒ってんの?」

 さすがの及川もはぐらかされた事を察しムッとするも、岩泉は黙々とシャツのボタンを留め、ネクタイに手を伸ばした。

「俺の進路は俺が決める。おめーの進路もおめーで決めろ」

「な、何なのささっきから……。岩ちゃん、俺と同じ大学行きたくないの!?」

「俺は仙台に残る。おめーは違うべ?」

「そッ……、そんなこと言ってないじゃん! 俺だって地元に残ったっていいし! ていうか何で仙台に残るの!? 俺と一緒に東京行ってくんないの!?」

 そこで及川はハッとして言葉を止めた。岩泉もネクタイを結ぶ手を止め、肩を竦めている。

「だろ。お前は東京の大学に行くつもりなんだろ? ならそうしろや」

「だから、俺と一緒に──」

「おめーが関東の強豪で正セッターになれても、俺はエースになれねーだろうが! それに俺は……地元に残っていずれ北一でバレー教えんのも良いと思ってんだ。おめーとは目指してるモンが違う」

「な、なんで……エースになれないとか誰が決めたのさ! ていうか教員になりたいの!? だったら俺と一緒でも教員免許取れるんじゃないの!?」

「自分の進路、自分で決めて何が悪いんだボゲ!」

「だって、岩ちゃんが言ったんじゃん! 一人でウシワカに勝てなくても6人なら勝てるって……、6人で強い方が強いって言ったの岩ちゃんじゃん!」

 及川は岩泉に縋るように岩泉の両肩を掴んで訴えた。が、岩泉はそれを振り払って睨み上げるようにしてこちらを見据えてくる。

「だから……白鳥沢からの推薦蹴ったのか?」

「──え?」

 何で知っているのだ……と及川は愕然としてとっさに言い返すことが叶わなかった。

「俺と青城に進むために、白鳥沢の推薦蹴ったのか……?」

「そ、そうだけど違うよ! ウシワカと同じチームとか頼まれてもゴメンだし、それに中総体のあと誓ったじゃん、高校行ったら白鳥沢ぜったい凹ませてやるって」

「だから……それ高校で終わりにすんべって言ってんだろうがよ。それともお前はこのさき一生、ウシワカだ白鳥沢だって言ってるつもりか? 冗談じゃねえぞ」

「い、岩ちゃ──」

「6人で強い方が強いってのは、その6人に俺が含まれてなくても変わんねえだろうが、ボゲ!」

「けど……ッ」

「俺がいなくても……お前は最強のセッターだべや!!」

「──ッ!?」

「お前が東京に行こうが、俺と同じ大学に行こうが意見するつもりはねえよ。けど……俺の自慢の相棒はここで埋もれるような選手じゃねえべ!」

 そうして岩泉に襟元を掴まれて凄まれて、及川は言葉を失った。岩泉は自分の背中を押してくれている。だというのに、勝手に裏切られたような気分になっているのだから自分でもいっそおかしいと思ってしまう。

「岩ちゃんのいないチームなんて……きっとつまんないよ」

「まずその甘えた根性たたき直せや、ボゲが」

「俺と離れて寂しくない!?」

「気色悪ぃこと抜かしてんじゃねーぞ、クソ及川! 俺は……おめーがいねえとむしろ清々するわ」

「ヒドイ!!!」

「だからお前は、自分の思うとおり真っ直ぐ進め。どんなスパイカーでも活かしてより強いチームを作っていけ。仮にそこにウシワカがいても関係ねえ」

「岩ちゃん……」

「けど春高予選では白鳥沢ぶっ潰す」

「──!?」

「俺が将来、おめーのチームと当たっても全力でぶっ潰す。だからキバれや、相棒」

 ふ、と真剣な瞳で見据えられて、ぐ、と及川は言葉に詰まった。

 子供の頃から当たり前のように隣にいた親友とは、きっと残り少ない時間でしか一緒にプレイできなくて。けれども、自分たちの関係が変わるわけではない。自分たちはこの先の未来も永遠に幼なじみで、けれども違う一歩を踏み出すだけ。

 ぐ、と及川は込み上げてきた思いを振り切るように頷いてから軽口を叩いた。

「岩ちゃんが俺に勝てるとは思えないけどね」

「あ!? だいたいおめーがいつ俺に勝ったってんだ?」

「全体的にいつも俺が勝ってる!」

「よし、いま歯ァ食いしばれクソ及川!」

「暴力反対だってば!」

 そのまま取っ組み合いが続いて、せっかく着がえた制服がしわくちゃになるころには二人で部室に転がって笑い声を立てていた。

 

 ──ああ、と及川は思った。

 

 今度こそ本当に、俄然無敵だ、と。

 自分には仮に遠く離れたとしても、こうしてこんなにも自分のことを考えてくれる親友がいる。

 当たって砕けても、きっと大丈夫だ。とくしゃくしゃの笑みを浮かべた。



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47話:及川徹の緊張

「お父さん、ちょっといい?」

 

 7月上旬。ユカは夕食後に書斎に籠もった父を訪ね、書斎のドアをノックして中に入った。

 相変わらず所狭しと数々の文献に囲まれた部屋の先のパソコンデスクに座っていた父親がこちらを見やる。

「受験勉強かな?」

「ううん。今日は違うの。ちょっと話したいことがあって……」

 ユカの手にはDVDケースが握られている。及川から受け取ったものだ。

 今日の放課後、及川からDVDを渡された。白鳥沢との決勝の録画だという。──熟考の結果、及川は自分の提案を呑み、父に話を通すことを望んだ。

 が──父はあくまでバイオニクス専門だ。それに一年前の「雑談」がまだ生きているかも定かではない。

「あの……一年前、同級生のバレー部のセッターに上手い子がいたかどうか訊いてきたでしょ? そのことなんだけど……」

「ああ、確か……筑波大の話だったかな」

「そう。うん、そうだと思った……。あのね、それでね」

 記憶を手繰るように目を窄めた父親の話に、やっぱり、と頷き、ユカは説明した。及川の戦歴、受賞歴、そして及川が筑波大への進学を望んでいること。それから現在のおおよその学業成績、性格等々だ。

 一通り聞いて「うーん」と父は考え込む。

「話をしてみることは出来るけど……、取りあえず父さんもまずDVDを観てみるよ。白鳥沢に競っているというのは確かに考慮は可能な要素だと思うけどね」

「う、うん……」

「それから、いずれにしてもその及川君に一度会ってみないことには何とも言えないかな」

 言われて、ドキ、とユカの心音が脈打った。

 まず父自身の目で及川の人となりを見なければならないというのは当然の事ながら、やや気恥ずかしくて取りあえず礼を言ってから書斎を出る。

 そのままパタパタと自分の部屋に戻り、及川にいまのことを伝えようと電話をかけてみた。

「はいはーい。俺です」

「あ、及川くん? あのね、お父さんにDVD渡して話をしたんだけど……」

 そう言っていまの状況を一通り話し、近いうちに家に来てもらうことになると伝えれば、「え!?」と上擦ったような声が携帯から漏れてきた。

「え、ナニそれもしかして俺、ジャッジされちゃう感じ!? 将来の義理の息子的な!?」

「……」

 相変わらずの言い分に肩を竦めるも、父にも立場がある以上は下手な人間を紹介できないというのは当然のことで。

 とにかく普段通りで大丈夫だからと念を押し、電話を切って、ふ、と息を吐く。

 及川は、決勝戦のあとに迷いを見せていたのが嘘のようにあっさりと進路を決めた。

 詳しくは聞かなかったが、ここ一ヶ月あまりずっと悩んでいる様子だったのに──いったい何があったのか。

 とはいえ及川が自分自身でちゃんと決めた事ならばそれが一番いいはずだ。問題は状況が厳しいということに変わりなく、かなりの確率で一般受験を覚悟しなければならないということだが。

 大丈夫なのかな、と案じつつその日はそのまま就寝し、翌日に改めて父に及川を連れてくるよう言われたため、ユカは月曜日を指定した。

 すれば父もなるべく早く帰宅するから、と夕飯を一緒にということになりユカは来週の月曜の放課後に一緒に家に来て欲しいと登校後すぐに及川に伝えた。すれば、及川はにわかに緊張した面もちを浮かべて息を呑んだ。

「俺、ちゃんとカレシとして認められるかな……?」

「そ、それはあんまり関係ないと思うけど……」

「けど重要だよねそこも!?」

 そもそも及川と交際していることは伝えていないし、と苦笑いをしつつ次の月曜日。

 ユカは及川と一緒に帰路についた。

「ちょっと仙台駅に寄ってっていい?」

「え……?」

「なんかスイーツとか買わなきゃじゃん!」

 及川は手土産を購入するつもりらしく、ユカは気を遣わないよう言ったものの及川としてはそういうわけにもいかないらしく仙台駅でスイーツショップを物色して回る。

「何が良いと思う? ていうかユカちゃんのお父ちゃんとお母ちゃんって甘いもの好き?」

「うん、2人とも好きだと思うよ」

「ユカちゃんの両親てやっぱ東京の人だよね? じゃあ仙台っぽいのがイイかな?」

 と、チラリと駅ゆえに並べてあった萩の月に目線を送った及川を見てユカは少しだけ苦笑いを零す。

「でも、もうずっと仙台に住んでるし……」

 しかしながらあまりに高級なものはユカとしては気が引け、しばし2人で見て回って見つけた仙台らしいずんだ豆のロールケーキを及川は購入していた。少し前にテレビで紹介しているのを見た母が美味しそうだと言っていた事をユカが零したのが決め手になったらしい。

 ユカとしても値段も手頃でホッと胸を撫で下ろしつつ仙台駅をあとにして家に向かう。夕食を一緒に、とはいえこのままでは16時台には着いてしまうだろう。

 母親は家にいるだろうが、どう時間を潰そう、とちらりと及川を見上げるとすこぶる上機嫌で鼻歌さえ歌っている。

「う、嬉しそう……だね」

 言ってみれば、及川はこれ以上ないほどの屈託のない笑みを零した。

「嬉しいに決まってんじゃん。ユカちゃんちって何度も行ったことあるけど、あげてもらうの初めてだし!」

「そ、そう……だね。でも夕食までまだ時間あるし、なにしようか? あ、私まだ白鳥沢との決勝のDVD観てないから観たいな」

「えー……あれ負け試合なんだけど」

「あ、そうだ。そういえば牛島くんって全日本ユースに選ばれたんだったよね」

 ちょっと前にニュースで見たんだけど、とユカが言えば及川は一転して顔を曇らせる。

「あああヤなこと思い出しちゃったよ! あいつジャパンだよ腹立つ!!!」

 地団駄を踏む及川を見つつ、やっぱり及川は少し変わったような気がする、とユカは感じた。確信は持てないが、牛島へ向けていたトゲトゲしさがどことなく減ったような気がする、と感じつつ全日本に選ばれた牛島への愚痴をこぼす及川の言い分に一通り耳を傾ける。

「全日本ユースの代表ってことは、牛島くん海外の大会にも出るってことだよね?」

「そうだよ。だってジャパンだもん」

「凄いね……!」

「ケッ。世界の強豪にボッコボコにやられてくればいいんだよあんなヤツ」

 そうして悪態を吐きつつ及川は空を仰いだ。

「けど……ウシワカでも勝てない相手って世界にはたくさんいるんだよね、やっぱり」

「そりゃ……そうなんじゃないかな。牛島くんだってまだ高校生なんだし」

「やっぱ遠いねえ……」

 しみじみと言う及川の瞳がどこに向いているのか、ユカには分からない。

 分からなかったが、それでも及川は先に進むという答えを自分で出したのだ。だから、これから先は牛島と同じ道を歩いていくのかもしれない。

 それは自分とは違う道──とうっかり意識してしまって、ユカは振り切るように及川の鍛えられた腕をギュッと掴んだ。

「ん……?」

「あ、イヤだった……? 暑い?」

「なワケないじゃん」

 離そうとすると及川は肩を竦めてクシャッと笑い、ユカはドキッとしつつも、ふふ、と笑ってそのまま及川の腕に身を寄せ、自宅までの短い距離をそのまま歩いた。

 やっぱりどんな理由でも及川と帰宅するのは嬉しい、と思いつつも家が見えてくるとやはり少しばかり緊張してしまうものだ。門を越えて玄関前でインターホンを押す時は自分でも分かるほどにドキドキしてしまった。

「ただいまー」

 応答した母親に帰宅を告げて待つこと少々。ガチャ、と扉が開いていつも通り母親が出迎えてくれ、ユカは及川を紹介する。

「ただいま、お母さん。えっと……紹介するね、クラスメイトの及川徹くん」

 すれば及川はいつも通り、いやいつも以上に完璧な女性向けスマイルでいっそ背景に花でも飛んでいるのではないかというほど華やかな笑みを母に向けた。

「ドーモ、はじめまして及川徹です。本日はお世話になります」

「あら……まあ」

 さすがの母もにわかにその眩しさにアテられたのか頬が緩むのが分かった。

「はじめまして、ユカの母です。暑かったでしょう? さ、あがって」

「ハイ。おじゃましまーす」

 ニコニコと一瞬で母の心を掴んだらしき及川にいっそ感心しつつ、ユカも玄関にあがって手土産を母に渡し終えた及川を誘導し二階の自分の部屋に連れて行った。

 エアコンを入れつつ、辺りに座っているよう促す。

「何か飲み物持ってくるね」

「うん、ありがと。にしてもユカちゃんのお母ちゃん美人だね!!」

 及川は及川で母が好みのタイプだったのかそう言って、ユカは肩を竦めた。

 母は確かに美人だが、自分は父親似で全く似ていないだけに複雑に思いつつ部屋を出て冷たいジュースでもとキッチンに向かう。

 すれば母が既にグラス類の準備をしてくれており、礼を言って冷蔵庫を開けてジュースを取りだしていると母が笑いながら言った。

「すごくハンサムな子ね、及川君。背もとっても高いし、素敵ね」

「う、うん。学校でも女の子にすっごく人気があるんだよ」

 中学の頃から、と呟くと「そうよね」と母が同意してユカは苦笑いを浮かべつつジュースをグラスに注ぎ、「そうだ」とDVDの事を思い出して父の書斎から持ってくるとそれも持って部屋へと戻った。

「おまたせ」

 ノックをしてから部屋に入り、部屋のローテーブルにグラスを置いて及川の対面に腰を下ろす。

 すると及川は戸棚の方を見やりながら感心したように言った。

「賞状とかメダルとか凄いいっぱいあるね」

 いままで獲ってきた賞の一部を飾ったものだ。頷きつつユカがDVDを観ようと提案すると、及川はあからさまにふくれっ面をした。

「せっかくユカちゃんの部屋にいるのに、ウシワカの顔とか観たくないんですケド」

「じゃあ受験勉強でもする……?」

「そうじゃなくてさあ……」

 しかめっ面をしている及川を横目に、机の上からノートパソコンを持ってきてローテーブルに置いて電源を入れた。

 すると及川はピンと来たように、「じゃあさ」とこんな提案をしてきた。

「ユカちゃん、ココに座ってよ。それなら観てもイイよ」

 そうして及川の両足の間を指定され、ユカは頬を引きつらせた。

「それだと及川くん、私が邪魔で観れないんじゃ……」

「そんなことないって。ほら」

 グイッと腕を引かれて半ば強制的に及川の足の間に座らされ、ユカはため息を吐きつつ「まあいいか」とDVDをセットした。

「うん、やっぱこういうのが家デートってカンジじゃない? 例え画面に映るのがウシワカ野郎でもサ」

 上機嫌と憎々しさを混ぜたような声が頭上から降ってきて、ユカは大人しく及川の胸に体重を預けて緩く抱きしめられる形で画面を見やった。

 パッと現れた画面はセンターコートを青葉城西サイドから撮ったものらしく、比較的大きな音で青葉城西応援団のいつもの声が聞こえてくる。

「会場、いつもすごい応援だよね」

「うん、北一ほどじゃないけど青城バレー部もけっこうな大所帯だしね。でも、決勝の日は平日だったからお客さんはそんなにいなかったけど」

「及川くんのファンも来てなかった?」

「んー……、大学生とかは来てくれてたかも。声、聞こえたしね」

「そ、そっか……」

「あ、もしかしてヤキモチ? ヤキモチかな??」

 すれば面倒に絡んでくる及川の声を聞き流して、画面を見やる。見たところ牛島は左利きのようだ。ライトにいる。

「もしかして、牛島くんってオポジット?」

「そ。けどあいつフツーにレシーブできるけどね。ま、とにかく左利きは受けづらいから厄介この上ないのさ。渡っちが責任感じちゃってて、なんかカワイソウだったんだよねえ」

 渡っち、とは青葉城西のリベロの事だろう。いまも三枚ブロックを力業で打ち破った牛島のスパイクを拾えず、項垂れる姿が映っている。

 それにしても、だ。ブロックを打ち抜いてなお観客席まで跳ね上がる勢いの強打を何度も続ける牛島を見てユカはゴクリと息を呑んだ。

「牛島くん……、ほんとに凄いね……」

 まさに男子バレーの花形とも言うような強力なスパイクに素直な感想を告げると、及川がむくれたような声を漏らした。

「こっちがどんな戦略練って実践しても、あのスパイク一本でねじ伏せられるんだからたまったもんじゃないよね」

 青葉城西はというと、一方的にやられているわけではなくそれなりに競っている。特に及川はよくブロックを振れており、ベストセッター賞もさもありなん、という動きを見せてはいるが──。

 いざ牛島をブロックする時にセンター陣が力不足なのと、何より攻撃の枚数が心許ない。

「及川くん」

「ん……?」

「3回戦と準々決勝を観たときも思ったんだけど、及川くんってスパイク得意だったりする?」

「得意だよ。スパイク苦手だったらジャンサー打てないし」

「そう……だよね。もしかして、セッター別に入れて及川くんは攻撃に専念した方が良かったりする?」

「へ!? なんでさ! 俺はセッターがいいの! そりゃどのポジションもやれるけど、俺はセッター! だいたいセッターはチームの司令塔だよ? 面倒なポジションでもあるけど、やりがいは一番だね」

「そ、そっか……」

 セッターへの想いを語りつつも否定しないということは、やはり及川はチーム内でも一番攻撃的に優れているのだろう。確かにセッターは育成が大変なポジションでもあるらしいし、そうそう代わりはいないか、と思う脳裏に、もしも影山が青葉城西に入っていれば、と浮かんだが。言えばきっと面倒な事になると察して口を噤み、再び画面に集中した。

 及川のサーブの番が来ても、いつもよりも歓声は上がっていない。ということは、やはり平日でファンの数も少なかったのだろう。

 相も変わらず及川のサーブは青葉城西きっての得点源のようで、白鳥沢相手でもエースを取り、受けられても確実に攻撃から点数に繋げている。

「やっぱり及川くんのサーブ、凄いね」

 乱したレセプションからの攻撃できっちりと速攻で点を稼いで画面が沸き、ユカが感嘆しつつ呟くと「へへ」と頭上からは上機嫌そうな声が漏れてきた。

「ユカちゃんが及川さんのサーブ大好きなのは5年以上前から知ってマス」

 そうして及川はキュッと腕に力を込めて来て、ユカは否定はせずに薄く笑うだけに留めた。今さら及川の誤解を解くのも野暮だと悟りきっているからだ。

 それに、やっぱり5年以上観てきた及川の努力とともに進化していっているサーブをこうして試合を通して確認すると、改めて凄いと素直に思う。

 けれども裏腹に徐々に追いつめられていく青葉城西を観ているのは結果を知っていても決して気持ちのいいものではなく、しかしながら及川は何だかんだ見入りながら次への対策を講じている。

 そうして第一セットが終わり、第二セットも終盤に入って白鳥沢のマッチポイントになると露骨に及川の身体が強ばった。おそらくどの攻撃、どのタイミングで負けたかを正確に覚えているためだろう。

 白鳥沢のセッターが牛島にオープントスをあげ、牛島がそれを見事に打ち抜いて笛が鳴り、勝敗が決した瞬間にユカの視界が暗転した。

「わッ──」

 後ろから及川がユカの両目を両手で隠すように覆ったのだ。

「俺、このあとめちゃくちゃ情けないから観ないで」

 ぴく、とユカの頬が反応する。そういえば、とユカは決勝戦の日の夕方に及川が美術室を訪ねてきた時の出来事を思い出した。あの時の及川はこう言っていたのだ。自分が試合を見に行った日、試合に勝ったあとの及川の笑顔が見られて嬉しかったと言ったら、だったら決勝戦は来なくて正解だった、と。

 おそらくは項垂れていたのだろうな、とそのまま大人しくしているとビデオが終わったのかぷつりと音が切れ、ようやく及川も手を離して急にパッと視界が開けた。

 目を窄めつつ少し振り返ると、バツの悪そうな顔をした及川と目があった。

「ゴメンね。笑って優勝だったら良かったんだけどさ」

「で、でも、みんな格好良かったよ!」

「んー……」

 サラッと及川の片手が髪を撫でて、ドキ、とユカの胸が騒ぐ。そもそもがDVDに集中していたとはいえ、長時間に渡って後ろから抱きしめられている状態で……と今更ながらに意識していると及川の唇が、チュ、とコメカミあたりに触れた。

 あ、ちょっと不味いかも──と思ったときには大きな手が顎に添えられて少し後ろを向かされ、及川の唇が唇に重ねられた。

 そのまま一度上唇を甘噛みされて柔らかい舌が入り込んできて、キュ、とユカは及川の腕を掴んで瞳を閉じる。

「……ッ……ん」

 しばしそのまま互いの熱を堪能しあい、一度唇が離れても追うように再び重ねられてユカの思考回路は次第にぼんやりとおぼつかなくなってくる。

「……ふ……」

 どのくらいの時間、キスしていたかは分からない。が、気づいたときには及川の片足に自分の両膝を乗せて半分向き合うような体勢になっており、熱を帯びた息が首元にかかってユカは無意識に制服の上から身体を這う及川の右手に自分の左手を重ねた。

「及川……く……ッ」

「なに……?」

「なに、って……ちょっ、と」

 ペロ、と首筋を舐められた感触に瞳を閉じると、自身の左手ごと重ねていた及川の右手が、つ、と少しだけ胸元に触れてユカは反射的にギュッとそのまま及川の右手を掴んだ。

「ま、待って……ね、ちょ──ッ」

 やや抗議をすると、顔をあげた及川の濡れたような瞳と目が合い、瞬間的に言葉を詰まらせた隙に再び唇を重ねられて本格的に言葉が途切れた。

 やっぱり夕飯まで外で時間を潰してくればよかった、なんて過ぎらせたのかもしれない。けれども及川と触れ合っているのは心地よく、振り切れない。母親が下にいるし及川もこれ以上なにかしてくるとは思えないが、でも……とそのまま夢中でキスを続けていると、家中に響き渡るインターホンの音が駆け抜けて、ハッと意識を戻した。

 及川もそうだったのか、ハッとしたようにお互い少し息が乱れたまま見つめ合い、そして苦く笑い合う。

「お父ちゃんカナ?」

「た、たぶん……」

 言いながら及川はユカから身体を離し、ユカもふっと息を吐いて何となく制服の襟元を直した。

「あ、あの、私……ちょっと見てくるね」

 ともかく確認がてら父であれば及川が来ていることを改めて伝えようと立ち上がると、及川は頷いてやや力なく手を振ってくれた。

 パタパタと部屋を出て下へ降りていくと、案の定インターホンを押したのは父親で、「おかえりなさい」と出迎えつつユカは及川を連れてきたことを伝える。

 一階には良い匂いが漂っていて母親がすぐに夕飯だと言い、ユカも頷いて部屋に戻ると及川は普段通りに「どうだった?」とジュースを片手に笑いながら聞いてきた。

「うん、お父さん帰ってきたからご飯にしようって」

「う……やっぱり緊張してきちゃったカモ。好青年風で行けばイイ? それとも天真爛漫なカンジ?」

「い、いつも通りでいいと思うよ」

 たぶんどう取り繕ったところで父は見抜くだろうし。とは言わずにユカは胸元に手を当ててやや緊張の走った顔を浮かべる及川を見て苦笑いを漏らした。

 例えば見た目に反していつもきっちり制服を着ているところとか。そもそも外見から受けるイメージに反して人一倍どころか2倍も3倍もバレー馬鹿なところとか。素直に誤りを認めることができる柔軟さを持っていて見栄など張らないところとか。及川には良いところがたくさんあって、やっぱり自分の受けた第一印象のまま、いまも自分は及川が好きで。というのは欲目なのだろうか、と人知れず顔を赤くしつつ部屋を出て下へ向かう。

 ダイニングには和洋折衷の色とりどりのおかずが並んでおり、運動部の男子高校生がいるためかいつもよりボリュームもあって及川も感嘆の声を漏らしていた。

 及川が父に挨拶をして、4人で食卓を囲む。

 料理は及川の口に合ったようで何度も美味しいを連呼する及川を微笑ましく見つつ学校生活や部活の事など雑談まじりに食事を進めていると、父が本題を切り出してきた。

「及川君は……なぜ筑波大を志望しようと思ったのかな?」

 ドキッとユカの胸が脈打つ。及川もそうだったのか、一度息を呑んだのが伝った。

「まずは……筑波大は関東一部リーグ唯一の国立なので、他の私大と違って有望選手がスカウト入学してくる確率がゼロだからですね」

 例えば牛島みたいな。と続ける及川のあまりの単刀直入さにユカはやや冷や冷やしてしまう。

「現在の正セッターが卒業したら有力なセッターがいなくなるというのも大きいです。できればいま全国で名の売れているセッターが入るような大学は避けたかったというか……」

「レギュラーになれる可能性があがるからかな?」

「それは……ハイ。全国経験のない俺がおこがましいかもしれないですケド。けど……理由は他にもあって、一番というか最重要視したのはカリキュラムと環境、それに設備です」

 父が一度瞬きをしたのをぼんやり見ていると、及川がこちらに目線を流してきたのが伝った。

「以前、ユカちゃんに言われたことがあるんです。セッターなら空間認識力を鍛えた方がイイって」

 ね、と言われてユカはそんなこともあったっけ……、と頬が熱を持つのを感じつつも頷く。

「それまで俺、勉強はあんまりだったんですケド……よくよく思い返せば試合観て相手を研究するの好きだし、いま自己流でやってることがもっと科学的にっていうか……こんな風にトレーニングしたら伸びる、とか、こんな勉強したら役に立つ、みたいなことが筑波だと出来ると思ったんです」

 そう言った及川を見て、これは父にとっては一番の回答だったはず、とユカは感心しつつ父を見やった。すれば彼はやや口元を緩めて頷いている。

「筑波はスポーツ科学には強い研究所を持ってるからね」

「まあ、俺の頭でついていけるかはわかんないですけど……」

 及川としては自身の現在の学力と筑波大の最低合格ラインに開きがあることを自覚しているのか少し気恥ずかしそうな声を漏らし、父はこう言った。

「確かにそれぞれの大学には入試があるし、筑波には良い学生が多く入ってくると思う。でも大学は学ぶための場所だからね。僕は、学習意欲のある学生は誰でも受け入れたいと常に思っているよ。残念ながらそれは不可能だけど……君がもし筑波大に入れば、一番大事なのはそこで学ぶ意思があるかどうかだからね」

 バレーだけがしたい、というなら行くのは勧めない、とやんわりと父は続けた。

「バレーの実績も学業の実績も自分の遙か上という場所に飛び込もうというのはとても勇気がいることだと思う。仮に現状が辛くて不満だったとしても、人はその状況には慣れることができるからね。それを変えるのには勇気が必要だ」

 及川はどこか図星を刺されたような顔を浮かべ、少しだけ肩を竦めた。

「手遅れでなければいいんですケド」

「なにかを始めようとする事に手遅れなんて事はないよ。それに、君はまだ十分に若い」

 ははは、と父が穏やかに笑い、及川も少しだけ笑みを浮かべた。

 それにしても、とユカは思う。おそらく及川がいま父に告げた志望動機は本音なのだろう。──バレーのためだと思ったら勉強も頑張れる? なんて言った覚えは確かにあるが、やっぱりどこまでもバレーのことばっかり。と過ぎらせていると及川がこちらを見て、ふ、と笑い、ドキッとユカの胸が脈打った。

「ユカちゃんとは北一の頃から一緒なんですけど、俺たちそれぞれ第一志望に受かったらまたご近所さんになるねーなんて話したんですよね」

 そうして及川がそんなことを言うものだから、今度は背中から冷や汗が吹き出してきた。

 母は呑気に、これからもユカのことよろしくね、などと言っているが……などとぐるぐる考えているうちに食事も済み、及川の手土産のロールケーキを母が切って出してデザートも済ませてあまり遅くならないうちにと及川が帰宅準備に入った。

 結局、及川は自分と交際していることを両親にサプライズ宣言するなどということはなく、ホッと胸を撫で下ろしつつ両親に挨拶して玄関を出た及川を門まで送っていく。

 ふー、っと及川が肩で息をしたのが伝った。

「俺……ちゃんと話せてたかな!?」

「う、うん。すっごく良かったと思う」

「ホント? でも俺、ユカちゃんのカレシだって言ってない! もしユカちゃんのお父ちゃんが今日の俺をダメ判断したら、カレシとしてもダメって事だよね!?」

「……。で、でも、そこは私たちの問題なんだし」

 そもそも父の性格からして自分の交際に口を出してくるとは思えないが。などと考えていると、及川は少し頬を膨らませたのちに切り替えたように息を吐いた。

「ユカちゃん、ありがとね。もしダメでも、俺受験勉強頑張る」

「うん」

「じゃ、また明日学校でね」

 言って及川は、チュ、とユカの額に軽くキスをしてから門をくぐった。ユカも手を振って見送ってから、ふ、と息を吐く。

 しかし、だ。母はどうか分からないが、父には及川と交際をしていることはバレてるような気がする。と思うと少し居たたまれない感じを覚えつつ家に入る。

 リビングのソファで本を読んでいる父親を見つけてやや躊躇したが、やはり及川の印象が気になって声をかけてみた。

「とても……真面目そうな青年だね。なかなか誤解をされそうな印象を受けたけど、父さんはとても真面目な青年だと思ったよ」

「そ、そう……! 及川くん、すっごく真面目なんだよ!」

 父の返答に思わずユカは興奮して力んでしまい、ハッとする。すると父は小さく笑った。

「それに……ユカをとても好きなことが伝ってきた。きっとあまり隠す気がなかったんだろうね」

 ぎく、とユカの肩がしなる。

「ユカもそうなのかな?」

 ──やっぱりバレてた。と目線を泳がせつつ「でも」と漏らす。

「お、及川くんを連れてきたのは、好きだからじゃないよ……! 本当にやりたいことがあるなら、そうしてほしいと思ったから……」

「うん、そうだね。彼にも言ったけど、父さんは学ぶ意思のある学生は全部受け入れたいと思ってるからね。彼が本当に筑波大で学びたいと思ってるなら……それが一番だ。周りの学生との差で苦労するかもしれないけれど、大事なのは入学することだけではないからね」

「うん……」

 頷きつつユカは改めて思う。及川は自分の進路への答えを出した。それにもともと、自分の将来は決して及川とは交わることのない道。

 そんなことは付き合い始めた瞬間から分かっていたこと。──いまはとにかく及川の希望が叶うことだけを考えよう。と、いずれ来る別れの事が過ぎった脳裏を振り切るようにユカはギュッと手を握りしめた。



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48話:及川徹の誕生日

 7月も中盤に入り、夏休みが近づいてくる。今年の終業式は7月20日だ。

 

「及川さんも18歳で、いよいよオトナってカンジかな?」

 

 その日が及川の誕生日だと知ったのは、昼休みに進路志望の資料等々を確認しつつ及川の昼食に付き合っている時だった。

 カレンダーを見やって、ペロッと舌を出しつついつもの調子で彼はそう言ったのだ。

「あ……そういえば、一学期の終わり頃の及川くんっていつも以上に女の子に囲まれてた気がする。そっか、誕生日だったんだね」

「って、ええ!? 知らなかったの!?」

 露骨に顔を強ばらせた及川に相づちを打ち、「そうだね」とユカは自身のタンブラーを手にとってコーヒーに口を付けた。

「大人か……18歳で成人になる国ってけっこうあるもんね」

「ていうか俺もユカちゃんの誕生日知らないや……ごめん。絶対忘れないから教えて」

「え? 6月だけど……」

「は!? なに、じゃあもう18歳なのユカちゃん?」

「うん」

「俺全然知らなかったんだけど!? 何で言わないのさ! ていうか岩ちゃんも誕生日6月なんだよね。二人してズルイんだけど!」

 そうして頬を膨らませる及川にユカは肩を竦めるしかない。ズルイもなにも誕生日は自身で選べないというのに、と過ぎらせていると及川はため息を吐きながら頬杖をついた。

「ユカちゃん、夏休みはまた東京行っちゃうんだよね?」

「うん。今年はさすがに受験対策講座をみっちり入れてるから。一ヶ月の講座だから、まるまる仙台にいないわけじゃないけど……」

 及川は小さく唸りながらも息を吐いた。が、及川たちにとっても今年の夏休みは部活に受験対策にと通常以上に忙しいはずだ。

 及川が推薦で大学を決めたいと希望している理由も、最後の春高へ向けて出来る限り部活に時間を割きたいという思いがあるからだろう。

 実際、推薦を得るのに必要な及川の内申点はかなり上位のはずだ。そもそも、ユカが岩泉と行っている試験前勉強会に及川は毎回加わっており及川のテスト成績自体は元々悪くない。加えて三年生になって以降は休み時間ごとに細かい復習を重ねて勉強の効率化を図っているのだ。その成果が出て及川のテスト成績は伸びており、バレー部の主将ということも相まって内申点は申し分ない。

 元から推薦を見越していたのなら、及川にとってはコツコツと内申点を稼いでいくのは大事なことだったのだろう。

 だというのに、及川はユカの父親に話を通すか否かという選択に一度は迷いを見せた。

 チャンスがあればいつでも捕まえられるだけの準備は怠らないのに──、そのチャンスを掴む手を一瞬緩める。例えば影山の、「天才」のように前のめりにはなれない。というのが及川の及川自身に対する自己分析であり、ユカ自身もそう感じている事でもある。おそらくは牛島もそう感じていたから毎回のようにアドバイスめいたことをしていたのだろう。

 チャンスを掴もうとする手をふと手控える。──というクセを彼が克服できたかどうかは定かではないが。推薦の話、上手くいくといいな。とユカはタンブラーの持ち手にキュッと力を込めた。

 そうして数日が過ぎ、終業式の朝。

「おはよう、ユカ」

「おはよう……」

 及川を家に連れてきてから10日ほどが過ぎた早朝。まだ眠い目を擦ってキッチンでコーヒーを入れようとしていると父がやってきて話しかけてきた。

「夕べ、筑波大の担当者からメールが来ていたんだけど」

「え……」

「及川君のことだけど、ぜひ見てみたいと言っていてね。父さん、来週の出張で筑波大にも寄るから……どうだろう? その時に一緒にと思ってね」

「ほ、ほんと……!? 良かった……!」

 あくまでキャンパス見学のついでに時間が合えば、とニュアンス的には「そこまで期待をしないで欲しい」という雰囲気であとは彼次第だろうと続ける父だったが、ユカはそれでもホッとして笑みを零した。

 今日は及川の誕生日だ。良い知らせができる。おめでとうメールと一緒にその知らせを入れようかと携帯を取りだしたユカだったが、少し間を置いて考え直した。おめでとうは直接会って言いたい、とそのままソワソワしながら登校したものの──、校門に入った瞬間に見えた第三体育館入り口に出来ている人だかりを見てその思いは途切れた。

 ──これは今日は話をするのも大変かもしれない。と悟ったからだ。

 むろんメールでもいいのだが、とそのままクラスに向かうも、経験上、今日のような日に及川を捕まえるのは難しいと身に染みて知っている。

 なにせ中学から同じ学校なのだし。と、一限目の準備をしていると及川はギリギリになって教室に飛び込むようにして朝練から戻ってきた。

 ともかく声をかけるなら一限目が終わってすぐだ。と、ユカは一限目が終わると共に席から立って窓際の方を向いた。

「及川く──」

「及川クーン、今日誕生日なんだって!?」

「おめでと──!」

 が、ユカの発した声は複数の女生徒によって掻き消され、あっと言う間に及川はクラスの女子に囲まれてしまった。

 ユカは力なく自身の席に座り直して小さく息を吐く。そして案の定、午前の授業後に行われた終業式が終えるまでいっさい話しかけるチャンスはなく。

 普段なら部活後の夜まで待っていればいいのだが、あいにくと今日は終業式。部活開始時間が早いゆえに及川も自主練習をはやく切り上げるだろう。誕生日を家族と祝う予定だってあるに違いない。それになにより、及川が早めに切り上げる事を見越したファンがきっと待っているだろう。

 

 ──今日、時間ある?

 

 あまりにらちがあかず放課後の美術室でメールを送ってみると、しばらくして返事がきた。

 

 ──なになに、デートのお誘いですか???

 ──話したいことがあるから、少し時間作ってもらえると嬉しいな。

 ──んー、6時過ぎにはあがると思うけど。ユカちゃんもそのくらいに帰るなら、仙台駅で待ち合わせでもいい?

 

 時計を見やると、午後1時過ぎだ。おそらく今いるのは部室かな、とユカは18時半あたりにコーヒーショップで待っていると伝え、了解の返事がきたところで携帯を閉じた。

 珍しく仙台駅を指定してきたということは。及川なりに放課後は経験上、校内外問わず女の子に囲まれてしまうことを分かっているのだろう。そういう部分を極力自分に見せないよう及川が配慮しているのは知っているし、早めに切り上げてカフェでゆっくりしていようとユカは気持ちを部活に切り上げた。

 17時を過ぎたあたりで学校を出て、バスに揺られて仙台駅を目指す。及川に指定したのは比較的空いているコーヒーショップだ。約束の時間よりも早くついたユカは少しでも早く終わらせておきたい夏休みの課題を広げた。受験用にクラス毎に違う課題が出されたそれは、むろん及川とも同じものだ。

 そうして小一時間ほど経っただろうか。ふと店内がざわついて女性の小さな声が響き、ユカは手を止めた。

 たぶん及川だな……と察したからであるが、顔をあげると案の定、青葉城西の夏服を身に纏った及川が店内をキョロキョロしており、パッと目があったところで笑って手を振ってくれた。

 すれば店内の視線が一斉にユカの方を向くわけで──、ユカは少しだけ頬を引きつらせつつも小さく手を振り返した。

「ゴメン、お待たせ」

「ううん」

「俺、なんか買ってくるね」

 こちらに来た及川がバッグをユカの対面の椅子に乗せ、「あ」とユカは立ち上がった。

「私が行くよ。及川くん、誕生日だもん」

「え……」

「なにがいい?」

 すると及川はキョトンとしたあとに、少しだけ気恥ずかしそうにしながらも顔を緩めて「へへ」と笑った。

「ありがと。じゃあ、ストロベリーフラペチーノにしよっかな」

 可愛らしくも及川らしいチョイスに頷き、ユカは注文に向かいつつ考えた。今までの経験上、及川は記念日などのイベントを好んでいるように見える。が、自分は特にこだわりもなく。もう少しちゃんと誕生日のプランを練っておくべきだったかと今更ながら自省しつつ、出来上がったドリンクを受け取って席へと戻った。

 広げていた課題を興味深そうに見ている及川の前へ「はい」とドリンクを置く。

「ありがと」

「ううん。ちょっと遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」

 すると及川は先ほどと同様に不意打ちを受けたようにキョトンとしたあと、少しだけ頬を染めていつも通りピースサインをして「うへへ」と肩を揺らした。

「ありがと。どう? 18歳になった及川さんオトナ??」

 言葉とは裏腹に普段に増して子供じみた反応だったが、ユカは微笑んだ。もう散々言われた言葉だろうに、嬉しそうにしてくれた事がくすぐったい。

 そのまま「あのね」と話を切り出す。

「話、なんだけど……」

「ん? 話? 誕生日デートじゃないの?」

「そ、それはそうなんだけど……厳密に言うとちょっと違くて……」

 やはりもう少し誕生日らしい何かを用意しておくべきだったかと自省しつつ、ユカは朝に父から伝えられたことを告げた。

 来週、父の出張に伴って共に上京できるかという言葉に及川は目を丸めつつもコクコクと頷いた。

「モチロン! ていうかホント!? ホントにイイって!?」

「う、うん。いいっていうか……キャンパス見学も兼ねてどうぞ、って。でもたぶん本当に及川くんの力を気にしてくれてるんだと思う。でもまだ具体的には何も進んでないし、ここから先は手助けできないから……その」

 身を乗り出す勢いの及川へとユカはやや言葉を濁す。及川の状況は現段階では願書すら受け付けてもらえないものであり、どうにか願書を提出できる状態まで自身で持っていかなければならない。

 ここから先は完全に及川の実力次第ということになる。と、何とか伝えると及川は深く頷いた。

「やるよ。せっかくもらったチャンスだからね!」

「うん。お家の人にもお話ししてね。……あ、志望校って及川くんのご両親はどう言ってるの?」

 訊いてみると、及川はくわえていたストローを目一杯吸い込むようにしてしかめっ面をした。

「ジョーダンかと思われてた。失礼だよね、俺、けっこう成績イイのにさ」

「え……」

「けど、親も県外に出る可能性は頭にあったみたいだし、ホントなら大賛成で助かるってさ。ま、そうだよね」

 国立だし、と続けてユカは「そっか」と納得した。確かに学費や生活費の面でも国立かつ首都圏でありながら都心から離れた筑波大だと家計的には助かるだろう。

 そうだ、と及川はこちらに目線を移した。

「ユカちゃんの受ける大学ってさー、キャンパスは上野だっけ? 親戚の家から通うの?」

「ううん。上野キャンパスじゃなくて茨城の方で講義があるから、受かってたら部屋を借りるつもり」

 すると「え!?」と及川は目を丸め、数秒後には昂揚気味に頬を紅潮させて目を輝かせた。

「そ、それってユカちゃんも茨城に住むってこと!?」

「え、うん。そうだけど、でも──」

「じゃあ、俺も受かったら一緒に住んじゃう!?」

 ギュッと手を握りしめられ、あまりに突拍子のない物言いにユカは目が点になるも、あまりにも「良いこと思いついた」と言いたげに嬉しそうにする及川に苦笑いを漏らしつつそっと手を離した。

「筑波大と芸大のキャンパス、市が違うしけっこう距離があるから無理だと思う……」

 仮に同じ市でも一緒に住むのはさすがにどうか、とは言わずに告げれば及川はあからさまにがっくりと肩を落とした。そうして頬を膨らませて唇を尖らせている。

「ちぇー。いいもんね。県内ってのは変わらないんだし、お互い行き来するのも楽しそうだしさ」

 さすがに気が早すぎではないだろうか、と及川の言葉を聞きながら思いつつユカは考える。及川には第二志望以下はあるのだろうか、と。自分は受験がダメだった場合はすぐさま渡仏してバカロレアを受験というプランBに移行しなくてはならない。

 とはいえ。いま考える事でもないか、とユカ自身のすっかり冷め切ったカフェラテに口を付けつつ話を変える。

「そうだ及川くん」

「ん?」

「なにか欲しいものってある?」

 誕生日プレゼントに、と続けると及川は瞬きをしつつ肩を竦めた。

「いいよ。俺もなにもできなかったしね」

 それにコレもらったし、とフラペチーノを掲げて言われユカも肩を竦めた。きっとファンの子たちからたくさんもらっただろうしな、と考えていると「あ」と及川は何か思いついたように笑った。

「来週ってさ、ユカちゃんも一緒に行くんだよね?」

 東京、と続けられ「うん」とユカは頷く。

「そのまま私は東京に残るし……。どうして?」

「んー……、時間が余ったら、でいいんだけどさ」

「うん」

「ユカちゃんの地元に連れてってよ。プレゼント、それがいい」

 ニ、と少し照れたように言われてユカは面食らってしまう。

「え、地元……って言っても、もう家もないし。あ、でも有明だから観光としては良いかもしれないけど……」

「じゃあ決まり!」

 イエイ、と両手でピースを作る相変わらずな及川が眼前に映り、ユカは瞬きをしてから緩く笑った。

 及川が自分の故郷を知りたがってくれているということがくすぐったくもあり、二人で帰京できるということも嬉しくて。

 けれども何よりも及川の受験が希望通りになるといいな、と思いつつユカは頬を緩めた。



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49話:及川徹のプレ試験

 ──夏休み一週目。水曜日。

 

 早朝の仙台駅で待ち合わせをしたユカと及川はそのまま始発の新幹線に乗って東京を目指した。

「東京って中学の修学旅行以来、すんごい久々」

「そっか……、そういえば東京だったっけ、修学旅行」

「俺、あの時買ったSuica持ってるんだけどまだ使えるよね?」

「うん。あれば便利だと思う」

 二人とも朝食はまだで、及川は駅で仕入れた駅弁を広げ、ユカもサンドイッチとコーヒー片手に雑談に花を咲かせた。東京までは約一時間半。あっと言う間である。

 定刻通りに東京駅に到着して、ユカはホッと息を吐いた。

 東京はユカにとっては生まれ故郷であり、勝手知ったるということもあり、やはり自然と嬉しさが込み上げてしまう。

 が、及川はというと──。

「ナニコレ凄い人なんだけど!? 東京怖ッ!!」

 新幹線の改札を抜ければ平日の8時というラッシュアワーど真ん中の東京駅である。縮あがった彼が唖然としている間にも人波は無情に押し寄せてくる。

 突っ立っていては邪魔なため、ユカは「あっち」と及川の手を取って山手線の方へ歩き始めた。すれば頭上から意外そうでいて茶化すような声が降ってくる。

「ナニ、ユカちゃんてば地元だとずいぶん積極的だね?」

 そういうわけではなく地理に詳しいからであったが、人の波に乗りつつユカは少し頬を染めた。

「ま、ココだと知ってる人はいなさそうだしね!」

 キュ、と及川が指を握り返してきてドキッと胸が脈打つも、そうかもしれない、とユカは胸の内で頷いた。

 東京では知り合いに会う可能性は極めてゼロに近く、少なくとも仙台よりは人の視線を感じないで済む。

 そのまま山手線のホームにあがると、手を繋いだことで上機嫌な様子だった及川から急に悲鳴が漏れてきた。

「ナ、ナニアレ!?」

 見やると及川の視線は対岸の線路に向けられており、そこには新橋方面へ向かう電車に人々が押し寄せ押し込み合うという東京名物とでも言えるような光景が広がっており、ああ、とユカは納得した。

「私たちの乗る電車はあそこまで混まないから大丈夫だよ」

 おぞましい光景を目の当たりにしたとでも言いたげにショックを受けている及川を宥め、列に並んでやってきた山手線内回りの電車に乗り込む。ガラガラではないがラッシュ時だとは思えないほど車両は快適で、二駅目の秋葉原で降りてそのままつくばエクスプレスに乗り換え、席に腰を下ろしてようやく一息吐いた。

「やっぱ東京って人多いんだねえ」

 及川はラッシュ時の光景がよほどショックだったのかまだ苦笑いを浮かべており、ユカも相づちを打ちつつ自身の腕時計に視線を向けた。9時半前にはつくば駅に着けそうだ。

 父は既に用事で先に上京しており、今日も先に筑波大に行って知り合いの教授たちと会っているという。

 つくば駅に着いたら連絡してくれと言われていたため、駅に着いて大学へ向かうバスを待っている間にユカは父親に連絡を入れた。

 及川はというと、時刻表を見やって目を白黒させている。

「大学循環バスとかある! どんだけ広いのさ!?」

「自転車とかあった方が便利かもね」

 そんな話をしつつやってきたバスに乗り、バスに揺られて大学の施設らしき中を横切りつつ父の指定したバス停で降りると、バス停には父の他にもう一人、父と同い年くらいの男性が立っていた。

「やあユカ、及川君。よく来たね」

「お父さん……!」

「こんにちはー!」

 父は軽くこちらに手を振って、隣にいた男性にユカたちを紹介した。

「こちら娘のユカと、及川徹君です」

 言われてユカも挨拶をして頭を下げれば、及川は相手の男性を見知っていたのかやや緊張気味に姿勢を正して名を名乗ると握手をして挨拶を交わした。

 男性は大学の卒業生であり現在はバレー部の監督に就いているらしく、一通り及川の白鳥沢戦の感想を述べてから近くの大きな建物の方に促した。

「栗原教授にもお話したんだが、いま体育学群は夏のセミナーをやっててね。興味はあるかな?」

 監督曰く、現在サマーセミナーを実施中ということで国内外問わず講師も招きスポーツに関する研究・議論をしているらしくキャンパス見学も兼ねて見ていかないかということだった。

 公用語は英語ということで及川は若干引きつつも興味を持ったらしく、案内されるままについていった建物内のレクチャールームでは外国人の講師が「スポーツビジネスマネジメント」についての講義をしていた。

 既に始まっていたため、途中から拝聴して約一時間ほどで終わり、終了して隣に座っていた及川を見ると眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。

「ほとんど分かんなかったんだけど……」

「な、慣れだよ、きっと」

 ユカがそう声をかけると「けど」と及川は難しい顔を崩さないままに言った。

「こういう授業もあるんだねえ」

 それは内容を指していたのか言葉の事だったのか定かではないが、及川が講義内容に興味を持ったらしいというのは伝わり、ユカは瞬きをしたのちに薄く笑った。

 そのまま講義の行われていた棟を出て、バレー部の監督に誘導されるままに歩いていく。

 体育学群のエリアは芸術学群も集中しており、合わせて「体育・芸術エリア」と呼ばれるらしい。体育館も複数あり、バレー部は球技体育館を使っているということだった。

「筑波大が母体となったプロチームの拠点でもあるから、学生たちはプロと一緒に練習しているんだよ」

 監督が説明してくれ、へえ、とユカは相づちを打って及川を見上げた。

「すごいね。及川くん、知ってた?」

「モチロン」

 笑って及川が答え、及川はそんな環境も含めて志望校を決めたのだとユカは理解した。

 そうしてユカと父は監督と共に球技体育館に向かう及川を見送り、いったん彼らとは別れた。付いていっても出来ることは皆無なためだ。

「ほんとに広い大学だね」

「そうだね。キャンパス単位だと日本でも1,2を争う広さだからね」

「都心部からはちょっと離れてるけど……」

「きっと学生は隔離されている感覚を覚えるだろうね。父さんもイギリスにいた頃はそうだったよ」

 そうして父の勉学に励む環境が整っている、という話を聞きつつユカは内心少しだけハラハラしていた。

 

 上手くいくといいけど……とユカが祈りつつ、一方の及川。

 球技体育館に案内された及川は、持参した運動着に着替えてアップを取り、まずはサーブを軽く打ってみるよう指示されていつものように打っていた。

 

「コントロールが良いですね」

「威力はまだ発展途上かな。でもスパイカーでもいけそうな選手だね」

「宮城はここ最近はずっと白鳥沢が代表ですからね。彼の世代にはユース代表の牛島若利がいますから、なかなか他校の選手は表に出る機会がないですしね」

「ビデオを観た感じだと、セッターとしてもまだまだ改善すべき点があると感じたけど……。どうかな、来年は無理でも数年後に伸びてくる可能性は」

「さあ……、全国経験がないということで、他大学は彼を取ることはないでしょうから……そうなると宮城に埋もれる形になりますね」

「うーん……、それはちょっと勿体ないかもしれないな。技術なら、身に着けさせることはできるからね」

 

 サーブで狙う場所を指示され、終わればまばらに体育館にいたプロチームの選手と思しき選手達と軽く合わせるように言われた及川に監督達が何を話していたかは知りようがない。

 ともかく自分の力を最大限見せられるように必死で──短い時間だったはずだというのに、終わったときには1日中動き回ったあとのようにドッと疲れが押し寄せた。

 監督・コーチ陣は自分の評価にはいっさい触れず、チームの普段の練習方法や大学のカリキュラムについて軽く説明してくれたのちに解散となる。

 ユカとユカの父が体育館の外で待ってくれており、及川は監督陣に礼を言った。

 そうして監督陣とユカの父親が挨拶を交わしているのを観て、及川は今日のことはユカの父の顔を立てた事も大きかったのだろうと悟った。

 が。ユカが言っていたとおり、ここから先は自分次第。だが関東一部リーグのチームに自分がどう映ったかなど分からないし──と無意識に難しい顔をしているとユカが訝しげにこちらを覗き込んできた。

「大丈夫……?」

「へ!? う、うん。ぜんぜん大丈夫! バッチリ!!」

 取り繕いつつ、及川は自身を落ち着かせるように息を吐いた。

 ユカの父が昼食をとっていこうというのでつくば駅界隈で昼食を済ませてから筑波エクスプレスに乗った。秋葉原に着いたのは15時過ぎだ。

 

「それじゃ及川君。良い結果になることを祈ってるよ」

「ありがとうごございます!」

 

 昼食前までは緊張が抜けきっておらず気もそぞろな様子だった及川だが、いまは落ち着いたようでユカはホッと胸を撫で下ろした。

 父にはまだ行くところがあるらしくJRの改札にて別れを告げる。

 そのままぼんやり立っていると、及川が切り替えたようにユカの方を見て笑った。

「さ、行こっか」

「え?」

「ユカちゃんの地元」

 言われてユカはハッとした。そういえばそんな約束だっけ、と頷いて及川を伴い、山手線で有楽町まで出てメトロに乗り換え、豊洲を目指した。

 そして豊洲にてゆりかもめに乗れば、最前列に陣取った及川は興奮気味に目を丸めてはしゃいだ。

「なにこれスッゴイ! オートマチック!?」

 ゆりかもめはコンピューター制御にて無人で動いており、無人の運転席から視界良好で周囲を見渡せるのはきっと心くすぐるものがあるのだろう。

 ユカも相づちを打ちつつ笑う。

「私が住んでた頃は、まだ豊洲まで繋がってなかったんだけど……」

 ユカが有明に住んでいた頃は、ゆりかもめは延伸工事中であり完成には至っていなかった。と懐かしく思いつつ「有明テニスの森」で下車する。

「この駅も住んでた頃はなかったんだけど……、やっぱり何年も経つと変わっちゃうね」

 言いつつ道案内をしていると、テニスの森競技場が見えてきて、ユカは今はタワーマンションになっている場所を指した。

「あの辺りに家があったの」

 今はマンションが建ってしまっているが、と説明すると「へえ」と及川が興味深そうに見やり、ユカも懐かしく昔を思い出した。海にほど近いこの場所は今でもお気に入りの場所だ。

 そのまま小さい頃に毎日のように通っていたテニスの森競技場に入り、聞こえてくるテニスボールの打撃音に耳を傾けながらユカは周囲を見渡した。

「小さい頃、よくこの辺りでスケッチしてたの」

「ああ、だからユカちゃんテニス部の練習はよく見学に行ってるんだね」

「そういうわけじゃないんだけど……。やっぱり馴染みはあるかな」

 歩きつつ、「あ」とユカは及川を見上げた。

「でも、バレーってテニスが元になってるんだよね?」

「え……」

「バレーって、テニスのボレーのことだよね?」

 単語が一緒だし、と付け加えれば及川はしかめっ面をし「そうだっけ」と呟いてユカは少々苦笑いを漏らした。

 記憶が正しければバレーボールという競技はテニスのボレーにヒントを得て作られたはずだ。

「及川くん、テニスできる? バレーを応用したりできるのかな」

「わかんない……、テニスやったことないし。でも無理じゃないかな。逆はできそうだけどさ」

 そうして、でも、と及川は薄く笑う。

「テニスだと一緒にできそうだよね。バレーだとチーム集めなきゃだけど」

「あ、そうだね」

「じゃあそのうち2人でやろ!」

 周囲のテニスを楽しむ人々に目線を送りつつ及川は上機嫌そうに笑った。

 ユカとしても懐かしい空間で、木漏れ日さえ懐かしくて、口元を緩めて小さく頷く。

 そのままテニスの森公園を抜ければ国際展示場が見えてきた。

「やっぱ何かオシャレだね!」

 イーストプロムナードを手を繋いで歩いていると及川がそう言って、ユカは小さく笑った。

「ユカちゃんが小さい頃もこんな感じだった?」

「うん。ここはあんまり変わってない」

「俺なんて岩ちゃんが虫取りやってる横でバレーばっかやってる日々だったけど……、都会っ子は違うよね。こんなオシャレっぽいところが日常とかさ」

「そ、そこまで仙台と変わらないと思うけど……」

「はいウソ! 絶対そんなこと思ってないよね!?」

 これだから都会っ子は、とどうあっても絡んでくる及川に苦笑いを浮かべつつも、キョロキョロと楽しそうな及川を見て胸が温かくなる。自分の故郷を及川が楽しんでくれているのはやはり嬉しい。

「及川くん、どこか行きたいところある?」

 買い物とか、と訊いてみれば及川は「んー」と逡巡する様子を見せつつ携帯を取りだして時間を確認していた。

「7時前の新幹線に乗りたいから、あんま時間ないし……」

 呟きつつ及川は何か閃いたのか「あ!」とパッと明るい顔をした。

「そうだ観覧車乗りたい、観覧車乗ろ!」

 お台場って言ったらソレだよね、と屈託なく笑った及川にユカは頷いた。パレットタウンの大観覧車の事を言っているのだろう。お台場のトレードマークでもある。

 そのまま眼前の国際展示場正門駅からゆりかもめに乗って一駅。パレットタウンへと向かう。

 及川はカップルっぽいイベントで機嫌が良いのか並んでいる間にさえ鼻歌を漏らしており、ユカも知り合いに会わないだろう安心感から周囲の目線を忘れて笑った。

 搭乗前の記念撮影を終え、案内されるままにゴンドラに乗って席に着く。円形シートなためそのまま並んで腰をおろして、登っていくゴンドラから外の風景を眺めた。

 及川が遠くを見つめながら目を細める。

「夜だったら夜景が観れたんだろうけどねー」

「日の入りが遅いから、夕焼けが観られないのはちょっと残念だね」

「じゃあ今度は夜に来ようね!」

「え……、う、うん」

 頷きつつユカは思った。及川も自分も志望校に受かれば、こうして東京でデートを楽しむ事もあるだろう。それは楽しみかな、と外の風景に目をやる及川の横顔を見つめた。

 ゴンドラ内に流れる放送を聞きながら、自然と肩を寄せ合う。少し気恥ずかしい気もしたが、やっぱり心地よくて嬉しい。と頬を緩めていると、ゴンドラ内に流れるアナウンスがもうじき頂上だと知らせてくれた。

 すると及川が重ねていた手に指をキュッと絡めてきて、ドキッとユカの胸が騒ぐ。

「ユカちゃん……」

 もう片方の及川の大きな手が耳元を掬って、ユカは自然と瞳を閉じた。同時に及川の薄めの唇が自身の唇に触れて、キュ、と絡めた指に力を込める。

 風でゴンドラが少しだけ揺れているのがやけにダイレクトに伝った。温かい心地よさをそのまま静かに堪能していると、ふ、と唇が離れて薄く目を開ければ間近で及川の綺麗な目とかち合う。

 互いに小さく笑って、じゃれるように額を合わせあってからユカは及川の肩に顔を埋めた。離れがたくてそのまま瞳を閉じる。

「頂上過ぎちゃったね」

「うん……」

「景色、観ないの?」

「もうちょっと、このままがいい」

 キュッと及川のシャツを掴むと、少し及川の身体が撓ったのが伝った。

「ここでデレなの……!?」

 少々狼狽えた声が聞こえて、微かに肩を揺らしたユカはそのまま及川に身体を預けた。

 二人っきりのゴンドラで及川の体温が心地よくて……、けれども地上まであと数分のアナウンスをきっかけにユカは名残惜しく及川から身体を離す。

「ユカちゃん、せっかくの故郷の景色なのにぜんぜん観てないよね」

「わ、私は見慣れてるからいいの……!」

「まあ及川さんの逞しい身体に抱きついてたい気持ちも分かるけどさ」

 ケラケラ笑う及川に多少の気恥ずかしさも覚えつつ、やはりこうして故郷に2人でいることが嬉しくて勝手に頬が緩んでしまう。

 地上に降りて、何とか新幹線の時間には間に合うかな。と時間を確認していると、及川があろう事か搭乗前に撮られた写真を購入すると言い始めた。

「だって、ユカちゃんちっとも一緒に撮ってくれないんだもん!」

 写真ならいくらでも自分が撮ると言えばそんな返答が来て、ぐうの音も出なかったユカは上機嫌で記念フォトを購入した及川と一緒に再びゆりかもめに乗った。

 そうして東京駅に向かう。7時前には余裕を持って着けそうだ。

 ユカはそのまま東京に残るため帰るのは及川のみであるが、ユカは及川を見送るために新幹線乗り場まで共に行った。

「ユカちゃん、いつ帰ってくるの?」

「始業式の一週間前には戻るつもりだけど……」

「そっか、去年と同じだね。──ていうか記念日だよね!」

「え……?」

 急に声を張った及川に、何のだ、と訊こうとする前に彼は拳を握りしめて力強く言った。

「お付き合い一周年! 決まってんじゃん!」

 そういえばそうだっけか、と頭を巡らせる。ああ、そういえば夏の課題を見て欲しいと及川に頼まれて美術室で待ち合わせして、そして色々あったんだっけ。とにわかに頬を染めていると、及川は気にするそぶりもなく笑った。

「どっちみち一日時間があるのって月曜だけだし、どこか行きたいところある?」

 及川の中では8月の最終月曜日、イコール、デートと決定しているらしく、ユカは「んー」と唸った。及川お気に入りのベニーランドは回避したいし、動物園は休館日。

「もうちょっと早かったら海とか行きたかったんだけど……」

 さすがに9月間近の東北の海で海水浴は無理だろうな、と含ませると及川はハッとしたように目を瞬かせた。

「イイね、それ。海は無理だろうけどプール行こ!」

「え……」

「どっちにしても及川さんの肉体美、見放題だよ?」

 二、と笑いながら顔を覗き込まれてユカはカッと頬を染めた。

「そ、そういうことじゃ……」

 そもそも海水浴は無理でも海なら眺めているだけでも十分だし。と思うも及川はすっかりその気らしく、結局、市内のアミューズメントタイプのプールに行くこととなった。

 そうこうしているうちに及川が乗る予定の新幹線がホームに入るというアナウンスが流れ、二人ともハッとする。

「じゃ、じゃあ、及川くん。部活、頑張ってね」

「うん、ていうか一ヶ月会えないって長いんだけど……」

 言いながら及川はため息を吐きつつそっとユカの身体を抱き寄せて、ユカは目を見開いたものの「うん」と頷いた。

 付き合う前まではごく普通だったが、いざ付き合ってみると一日会えないだけでとてつもなく長い間会っていないような錯覚を覚えた事もまた事実で。確かに一ヶ月は長いのかもしれない。

「俺、毎日メールするから!」

「う、うん」

「シティボーイにフラつかないでよね!」

「う……うん」

 が、すぐさま面倒なことを言い始めた及川に感傷は一気に吹き飛んでしまう。取りあえず相づちを打てば、彼はこちらが頷いた事に満足したのかそっと身体を離して笑った。

「じゃあ、今日はありがとねユカちゃん」

「ううん。いい結果になるといいね」

「うん。けど俺、ダメでも頑張って受験する」

 及川にとって今日の大学訪問は確実にプラスになったようでユカも笑って頷き、手を振って新幹線内に向かう及川をそのまま見送った。

 そうして定刻通りに発車していく新幹線を待ってから踵を返し、祖父母宅へ向かう。

 これから一ヶ月は受験対策漬けである。おそらく他の同級生たちも夏休みはほとんどの時間を受験勉強に充てることになるだろう。

 裏腹にほとんどの時間を部活に取られる及川はやはり一般受験では不利である事に変わらず。できれば推薦で上手くいきますように……と祈りながらユカは夜の東京で一人電車に揺られた。



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50話:及川徹と仲間たちの進路

 8月──。

 ユカはほぼ毎日美大受験専門の予備校に通っての受験対策と並行して祖父母宅での文系科目のセンター試験対策に時間を費やした。

 とはいえ、合否に関してセンターの比重が大きいとは思えず、また、外国語及び理数系科目で高得点を得る自信があるユカにとってセンターはあまり問題ではなかった。

 問題は実技だが──、自分の技術に自信がないわけではないが、なにせ合否を決める人間がいる以上は絶対はないわけで。

 倍率的にも確実とは言えず、ユカにとってはプランBにあたる卒業後はすぐに渡仏という準備の方も下準備だけは整えておいた。

 

 一方の及川は8月に入ってすぐに担任に呼び出され、筑波大から内々に推薦入学の願書を受け入れると学校を通して連絡があったと知らされホッと息を吐いていた。

 担任曰く、「絶対に無理だと思っていたが掛け合ってみるものだ」らしく、及川は学校は学校で自分の無茶ぶりにどうにか応えてくれようとしていたのだと初めて知った。

 学校の無茶ぶりが通じたかは甚だ疑問ではあるが、及川は担任らの尽力に感謝して礼を述べ、すぐにユカにも知らせてユカの自宅へも報告と礼の電話を入れた。

 とはいえ、及川にとってはようやくスタートラインに立てたも同然だった。

 願書提出は9月。試験は実技と小論文で11月に行われる。自分はある程度勉学に励んでいた成果が出て、内申点は悪くない。小論文はあまり国語が得意でないゆえに対策をしなければならないだろう。が、問題は実技だ。

 他の受験者はどの競技にあっても全国で最低でも16位には入った実績のある選手たちばかり。倍率がどれくらいかは分からないが、その中で合格を勝ち取らなければならない。

 ダメな場合は一般受験になるが、現実的に言って一月のセンター試験に11月以降の勉強で間に合うとは思えない。

 けれども。その時はその時だな、と及川はいまは10月に迫った春高予選に向けて部活に集中した。

 

 そうして迎えた8月の最終日曜日。

 青葉城西男子バレー部はこの日、県外の高校と練習試合を組んでいた。

 朝は10時からの開始予定であったが、既に先方の顧問から交通渋滞に引っかかって遅れると連絡を受けており、バレー部は待ち時間に軽く練習を流していた。

「やっぱ休み中となると、ギャラリーもそうはいねえのな」

 ぐるりとギャラリーを見渡して呟いたのは花巻だ。ギャラリーにいたのは数人の見知った女バレのメンバーであり、いつもならば体育館を賑わせる及川目当ての女子がいない。

 こうなると少し侘びしい気もする、と視線を端に移した花巻の瞳はひょこっと現れた人影によって大きく見開かれた。

 ついで、花巻は「オイ」とそばにいた及川を呼んだ。

「なに、マッキー」

「ホレ、ギャラリー見てみ。真上の端」

 すると及川は解せないという面もちで目線をあげ、そして花巻から見ても形良く整った二重の瞳を大きく見開いた。

 

「ユカちゃん!!??」

 

 及川の目に映ったのは他でもない、ユカの姿であり。及川はあまりに予想外の出来事に固まった。

「え、え!? なんで!? 帰ってくるの今日の夕方って言ってなかった!?」

 そうなのだ。ユカは明日のデートに備えて今日の夜に帰ってくると聞いており。そんな及川の横にさも当然のような態度で立った岩泉がユカの方を見上げた。

「よう。悪かったな、無理言って」

「ううん、大丈夫」

 すると岩泉の言葉にユカがそう返し、訳の分からない及川は取りあえず岩泉の方へ向き直った。

「ちょ、なに岩ちゃんどういうこと!?」

「いや、あいつに英語の課題聞きたくていつ戻るか聞いたら今日の夜っつーし明日はおめーと会うってんで、じゃあ無理だな、つったら帰る予定を前倒しするって話になっただけだ」

「は……!?」

「なら、今日は練習試合やるからついでに観にくりゃいいべって誘った」

 けろりと言われて及川は口をぱくぱくさせつつ、ガツッと岩泉の肩を掴んだ。

「それいつの話!?」

「昨日の夕方」

「俺、なにも聞いてないんだけど!?」

 すると岩泉はさも鬱陶しそうな顔をして、軽く舌打ちしつつ及川の手を振り払った。

「なんであいつと話すのにおめーの許可がいんだよクソが」

 言われて、グ、と及川は言葉に詰まる。いくら気に入らないと言ったところでユカは自分より岩泉との方が多少付き合いが長く、加えて彼の言い分はあまりに正論だ。

 すると頭上からユカの声が降ってきた。

「夕べ急に帰ること決めて荷物とかまとめたりしてバタバタしてたの。ごめんね、驚かせちゃって」

「え!? ううん全然いいんだけどね。ていうかユカちゃん初めてだよね、練習試合観に来てくれるの!」

「え……、うん」

「バッチリこの及川さんの活躍観てってね!」

 我ながら調子が良いと思ったものの、ユカが早めに帰ってきたこと自体は大歓迎でありピースサインをしているとやりとりを観ていたらしき部員がざわざわし始めた。

 

「なんすか……岩泉さんのカノジョ……?」

「岩泉さんのカノジョなのに及川さんあの態度……?」

 

 それを聞いて吹き出したのは事情を知っている花巻及び松川だ。

 かといって2人は助け船は出さず、そうこうしているうちに上機嫌の及川がこちらに混ざってきた。

「さあお前ら、今日もいつも通り気合い入れて行くよ!」

 いつも「以上に」の間違いだろ、とは花巻は突っ込まずに主将の声かけに普段通りに応え、そうして30分ほど遅れて到着した先方のウォーミングアップが終えるのを待ってからの試合開始となった。

 

「マッキー!」

「よっしゃ!」

 

 いつもなら響いているはずの及川への黄色い声援がないと微かに違和感はあるものの、やっぱり自分にしても多少は気合いが入ってしまう。と、決めたスパイクに拍手をしてくれたユカをちらりと見上げて花巻は自嘲した。

 ユカと及川が中学時代からの付き合いだと言うのは今更だが、こうして試合に彼女が顔を出したのは知る限りでは初めてだ。

 あの及川の彼女でありながら、二人が交際しているという話を外部で全く聞かないのはそういう部分にも理由があるのかもしれない。

 などと分析しつつ回ってきた及川の本日初めてのサービス。

 これもいつもならば必ず飛ぶ声援がゼロだったものの、いつも以上に鋭いノータッチエースが決まって花巻はさすがに目を剥いた。

「及川、もう一本ナイッサー!」

 岩泉の声が響いて及川はそのまま滞りなく二本目もエースを決め、そのまま連続で得点して7本目を決めたところでさすがに花巻は無意識のうちにウォームアップゾーンにいる松川の方を見やった。すればバチッと松川と目が合い、お互い無言で肩を竦める。

「ウチの主将……」

「分かり易すぎだろ」

 無意識か意識的か、ユカに良いところを見せようと張り切っているのは自明だ。が、及川が調子が良ければ全体が活気付くといういいサイクルが生まれ、そのまま2セットを連取して青葉城西は快勝しそのまま昼食時間になった。

 昼食後にもう一試合をすれば今日の練習はほぼ終了だ。

 

「お疲れさまでした!」

「ありがとうございました!」

 

 午後も4時が近づいてきた辺りで練習試合が終わり、相手チームを見送ったら練習は終わりだ。

「じゃあな、先あがるわ」

 駆け足で誰よりも早く体育館を出た岩泉を見送って及川は肩で息をした。

 ユカは岩泉の課題の訂正箇所をチェックしておくと言って昼食以降は体育館を出ており、岩泉は今からユカと共にその課題を終わらせるのだろう。

 やっぱり少しは気になるが、岩泉のおかげでユカに試合を見せられたし、サーブたくさん決まって格好良かったと言ってもらえたし、いいか。と頷いて笑っているとふと横から吹き出したような声が聞こえて及川は主を睨むようにして見据えた。

「なに人の顔見て笑ってんのさマッキー」

「いや別に」

 ひらひらとかわされて花巻もそのまま「お先」と体育館を出てしまい、及川は「ふぅ」と息を吐いてからいつも通り一人でサーブ練習を開始した。

 ──少し前に、仲間内で進学先の話をした。

 おそらくみんなバラバラだという予想のせいかどことなくタブー視していたが、及川が自分の進路を告げるとみんなポツポツと話してくれ、意外にも、当たり前とはいえ全員がちゃんと考えてそれぞれに焦点を合わせてた事を知った。

 岩泉は地元の私大の体育学科を自分と同じく推薦で受けるという。ただ成績の評定がギリギリ足りるか否かという状況らしく案じているということだった。家から通える距離でもあり、私大でも親は渋々OKを出したという。

 花巻は関西の私大に絞っているらしく、判定もB判定でこのまま順当に行けば合格できるだろうと相も変わらず要領の良さを発揮していた。バレー部もそこそこ強い大学らしく、バレーを続けるか否かはまだ考え中ということだ。

 松川は、やはり成績面でかなり厳しいものがあるらしく、いっそ就職かと迷っていたらしいが取りあえずは岩泉と同じ大学を推薦で志望すると言った。

 それぞれ目指すものが違っていて、きっと数年後はもっとバラバラになってしまうだろう。

 このメンバーでバレーが出来るのもあと少し。──自分でも不思議な気分だった。慣れた仲間たちと、岩泉と離れてプレイすることなど以前は考えることすら拒否していたというのに。

 たぶんきっと大丈夫だ。自分が「一番」でない場所でも平気。自分はそこで足掻いて上を目指せる。そのくらいの強さはあると信じたいし、離れていても自分には仲間がいる。と、すぐにまた岩泉たちの顔が浮かんでしまうのは弱さかな、と自嘲しつつ、また一本と及川はサーブを重ねていった。



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51話:及川徹の夏の思い出

 翌日。8月の最終月曜日。

 ユカの家の前で待ち合わせた及川はそのままユカと一緒に付近のバス停へ向かった。

 そうして人もまばらなバスに座りつつ、頬が緩むのは久々のデートだからだ。

「晴れて良かったね。気温も高くなるっぽいし、絶好のプール日和だよね」

 鼻歌交じりに上機嫌で言えば、ユカも「うん」と緩く笑った。

「温泉もあるみたいだし、楽しみ」

 及川はキュッとユカの膝においてあった手に自分の手を重ねてみる。

 昨日学校で顔を合わせたとはいえ、こうしてゆっくりとユカに会うのは一ヶ月ぶりだ。毎日メールはたくさん送っていたが、基本的に送りすぎる自分に対しメールのマメでないユカの返信が追いつくはずもなく。──と少しだけ唇を尖らせているとユカが首を捻って、及川は慌てて「何でもない」と首をふるった。

 目的地は都心からはやや離れているが市内の温泉地だ。プールを夏期営業しているホテルもあり、どうせならと遠出を選んだ。

 どうせなら……、お盆バブルで予算もあるし。一泊を提案すればよかったかも。既に双方18歳だからダメではないのだし。と、行き先を決めたあとに思いついた及川であったが、むろん口に出す勇気はなくやめておいた。ユカの家はかなりの部分をユカの自主性に任せる教育方針のようだが、こっちにも色々しがらみが……と頭の隅で考えつつも雑談しつつ1時間ほどバスに揺られれば目的地だ。

 政令指定都市の仙台ではあるが市街地を離れると緑豊かで、やはりユカの故郷である東京23区とは違う。と及川は感じたものの、バスを降りたユカは緑いっぱいの辺りの風景に感嘆の息を漏らしていた。

 おそらくその光景は彼女の心を掴むのには十分だったのだろう。

「峡谷見に行きたい……!」

 上気した頬でシャツの裾をキュッと掴まれ、ぐ、と揺らいだ及川だったがほいほい首を縦に振るわけにもいかない。

「プール終わったあとでね」

「スケッチブック持ってくれば良かったな……」

 写真いっぱい撮ろう。というユカに、それならやっぱりさりげなく泊まりを提案すれば……と過ぎらせてしまい及川は首を振るう。

 お昼にはまだ少し早かったが、軽く何か食べていこうと近場のカフェで軽食を取ってから目的地へと向かった。陽が高くなってきて気温も上がってきた。歩いているだけで汗ばんでくるようだ。

 しばらく歩いていくと目的地である温泉ホテルが見えてきた。入って受付を済ませ、ユカとはプールサイドで落ち合う事にして及川も男子更衣室に入る。

 プールなど本当に久々だ。下手を打てば中学の体育の授業以来かもしれない。と過ぎらせつつ海パン一枚になって日焼け止めに手を伸ばした及川はハッと気づいた。

「背中塗れない……!」

 肝心の背中が自分では塗れず、眉間に皺を寄せながら及川はタオルと日焼け止めを手に持って外に向かった。ユカに頼めばいいか、などと思いつつ館外に出た眩しさで目を窄める。

 今日から新学期開始の学校が多いためか人もまばらだ。さすがにここまで来れば知り合いに会うこともないだろうし、都心から離れたのは正解だったな。とユカを待つことしばらく。

「お待たせ……!」

 ユカの声が聞こえて及川は反射的に振り返る。その瞳に歩いてくるユカの姿が映り──及川はその場に固まってしまった。

 ユカの動きに沿って揺れているのはいかにも彼女の好きそうなパステルカラーのフリルのパレオ。二重のトップスの紐を首で結ぶホルターネックのビキニで……及川はある種の衝撃を受けたことを硬直しつつも自覚した。

 ──自分の方が早いスピードで身長が伸びたために全く自覚がなかった。が。スラリと伸びた足が出会った頃より格段に背が伸びた事を告げている。それに……と及川は一気に頬が熱を持つのを感じた。華奢な彼女がこれほど着やせするとは知らなかった、と感じた自分にもう一人の自分が突っ込む。

 ──いや知ってた。ちょっと触ったことあるし知ってたけど! ていうか水泳の授業って中学にしかなかったしクラスも別で水着なんて見るチャンスなかったし。……あ、てことは岩ちゃんは彼女のスク水姿を北一の頃に見たことがあるということで。──いま岩ちゃんに殺意沸いた。生まれて初めて殺意沸いた。

 と、数秒にして怒濤のような感情が頭を駆けめぐっていると、ユカが首を捻るのが映った。

「どうかした……?」

 言われて及川はハッとして姿勢を正す。が、思ったように口が動かせない。

「か……」

「え……?」

「か、かわいい……」

 ドキドキしつつやっとのことで絞り出すと、え、とユカは目を見開いたあとに少し照れたように笑った。

「あ、ありがとう。この水着、買ったばっかりなの」

 ──水着も可愛いけどそうじゃない。と噛みしめた及川だったが、ユカにベンチの方へ促されてあとを追うように着いていく。

 ビーチパラソルで日陰となったビーチチェアに荷物を置いたユカは、シュシュを取りだして髪をサイドにまとめた。無意識にユカを見ていた及川は露わになったうなじにドキッとしつつ、ハッとして目をそらす。

 さすがにジロジロ観るのはいくらなんでも……と葛藤しているとユカが荷物から日焼け止めを取りだして「あ」と及川も呟いた。

「俺も背中うまく塗れなかったんだよね」

 するとユカがごく自然に塗ろうかと提案してくれ、及川は「え? い、いいの!?」と上擦った声で返事をした。……我ながらみっともない。と震えた声を自嘲しつつ気を引き締めてチェアに座りユカに背中を向ける。

「及川くんてほんとに肌が白いね」

 感心したように呟くユカの声を聞きながら、ユカの手が背中を滑る感覚にいやでも脈が速くなる。平常心平常心、と顔を見られていない及川は眉間に皺を寄せつつ息を吐いた。

「室内競技だかんね。おかげで外出時は日焼け止め必須だよ、元々日差しに強くないしさ」

「そっか。花巻くんなんかもっと白いもんね……」

「なんでそこでマッキーなのさ! ていうかユカちゃんだって十分白いじゃん」

「んー……、なんていうのかな。及川くんもだけど、2人とも東北の人っぽい肌の色っていうか」

「東北っぽい?」

「うん。ちょっとピンクっぽいって言うのかな……綺麗で羨ましい。それに及川くん、背中の筋肉すごいね……!」

「ま、まあ……き、鍛えてるからね!」

 ──及川さんの肉体美、触りたい放題だよ。なんていつもなら出てくる軽口さえ出てこない。と、ちっとも平常に戻らない心拍数のせいでやや呼吸の乱れを覚えているとユカが終わったことを告げてくれた。

「私も塗ってもらっていい?」

「え……!? ……も、モチロン」

 聞かれて、及川は狼狽えつつギクシャクしながら日焼け止めを手に取った。

 プールに行こうと言ったときに、ユカの水着姿が見られるという思惑がなかったとは言わない。けど、それよりも2人で水遊びを楽しんだり、自分の鍛えられている身体が好き──たぶんぜったい──なユカに格好いいところを見せられるという期待の方が大きくて。

 こんなの予想外だ……と及川はユカの背中に手を滑らせつつ頬に熱が宿るのをいやというほどに自覚した。──もちろんカノジョなのだし、ユカが可愛いなんて大前提だけど。でも、ユカに出会ったのは13歳の頃で……出会った頃のイメージが強く頭に残っていて。こんなに大人っぽくなってたなんて反則……と及川はユカに気づかれない程度に小さく唸りつつ、何とか塗り終える。

「ありがとう」

 ユカの方はというとすっかり水泳モードになっているらしく、スライダーやる前にちょっと水に慣らした方がいいかな? などと言いながら立ち上がって軽いストレッチを開始した。ハッとして及川もそれに倣い、済ませてプールサイドへと向かう。

「わ、ちょっと冷たいね」

「入っちゃえば慣れるんじゃない?」

 ユカがプールへと恐る恐る足をつけ、及川もゆっくりと中へ足を入れてみた。確かに冷たく感じるが、日差しも十分であるしすぐに慣れるだろう。

 スライダー付きのプールは主に子供が楽しめるように作られているため、水深はそう深くない。と、気づいて及川はしまったと内心舌を打った。自分の身長でギリギリ立てるくらいの深いプールだったら、ユカがこちらにしがみつかざるを得ない美味しいシチュエーションが堪能できたのに、などと考えているうちにすっかり水に慣れて冷たさは感じなくなった。

「ねえ及川くん、端まで泳ごう」

 ユカも水に慣れたのか、言うが早いか水面に顔を着けて泳ぎ始めた。及川はそれほど泳ぎは得意でなかったものの、取り合えずユカを追う。

 バレーは元より室内球技はそこそこ得意だが、水泳なんてそれこそ小中の体育以外でやることなどほとんどなかったし新鮮だ。逆にアウトドア派のユカは得意なのかな、なんて考えつつ泳いでいく。

 プールを横断して着いた先で顔をあげれば、同じく水面から顔をあげたユカは日差しに目を窄めつつ笑っていた。

「プール久々だけど気持ちいい……!」

「次はスライダー行く?」

「うん」

 周りにあまり人がいないのは幸いだったかもしれない。と、小さなスライダーをまるで子供のようにはしゃいで数回滑っているうちに及川は状況にもすっかり慣れ夢中で楽しんでいた。

 そうして何度目のスライダーを終えてプールに滑り込んだ時だっただろうか──。ユカに少し泳ごうと言われて及川はユカの手を引きつつ共にゆるく泳ぎながらプールの中央へと移動した。

 上機嫌そうに笑うユカを見つつ、やっぱりプールにして正解だった、などと思っているとユカがジッとこちらを見据えてきて及川は目を瞬かせる。

「なに、どうかした?」

 すればユカは及川の右肩にそっと左手を添えて感心したように頷いた。

「及川くん、やっぱり上腕二頭筋すごいね……!」

「え……ッ」

 まじまじと腕を見つめるユカとの距離が縮まった事で及川の脈がドキリと跳ねた。

 ユカはというと、スケッチのための観察対象を見るような視線なのだろう。わあ、とか、すごい、を繰り返しつつ腕に触れてきて及川は狼狽える他ない。

「そ、そりゃ及川さん鍛えてるからね……!」

 ──やばい声裏返った。と自嘲しつつも、見下ろせば目の前に水着姿の肌を露わにしたユカがいるわけで。やっぱりちょっと触れてみたい。たぶん今なら抱き寄せても嫌がられないと思うが……と分かっていても緊張で動けない。

 すればよほど挙動不審だったのかユカがやや申し訳なさそうな目で見上げてくる。

「い、いやだった……?」

 そっと及川から手を離しつつ言われて、及川はハッと姿勢を正した。

「そ、そんなわけないじゃん! そ、そうだそろそろ温泉いこ! ちょっと寒いなって思ってたんだよね!」

 動揺している自分を誤魔化すように言って、プールを出て露天風呂へと向かう。

 このホテルには水着で入れる露天風呂がプールに併設されており、プール使用者も温泉を楽しめるような造りになっている。

 露天風呂には誰もおらず貸し切り状態で、2人は湯に浸かると座ってホッと息を吐いた。

「俺、水着で温泉に入ったのって初めてだよ」

「私も。でも気持ちいい……!」

 ユカが湯から手を伸ばして湯を腕にかけながら薄く笑い、及川はややドキドキしつつその動きを否が応でも目で追ってしまった。──むろん裸ではなく水着を着ているのだが、とぐるぐる考えているとユカが何か思いついたように「あ」と瞬きをした。

「そういえば及川くん、前に一緒に温泉に行きたいって言ってたよね?」

「へ……?」

 及川は予想だにしなかった言い分に目を瞬かせた。──そういえば、と去年のクリスマスにユカが家族で温泉旅行に出かけていた事を思い出す。

 

『良いよね、温泉。俺も温泉でのーんびりしたい!』

『え……』

『そのうち絶対二人で行こうね!』

 

 そうだ。あの流れでいつかユカと二人で温泉に行こうという約束を取り付けたんだった。とその時のやりとりを浮かべて及川は慌てて首を振った。

「そ、そうだけどそうじゃなくて! あの約束に今日の事をカウントするのはナシだから!」

「え……でも……」

「温泉でのんびりって、もっとこう、二人っきりとかそういうのだし!」

「今も二人きりだけど……」

「そうだけど違うの! 二人っきりっていうのはもっと温泉地とかでゆっくり──」

 そう言いかけて、及川はここが日本でも有数の温泉地だったことを思い出して墓穴を掘らないよう言葉を飲み込んだ。

「きょ、今日の目的はプールだし。温泉は温泉目的でまたゆっくり行けばいいじゃん、ね?」

「う……うん」

 そうしてどうにか勢いで押し切り、頷いてくれたユカを見てホッと胸を撫で下ろす。

 しかし、だ。たかだか水着でこれほどドキドキしてるのに、二人っきりで温泉なんて果たしてこなせるのだろうか。それともその頃にはもう少しユカとの仲も進展しているのかな。と思いつつ温泉水を肌に転がして上機嫌そうなユカを見ながら考える。柔らかそうだな、と頭がボーっとしてきた。

 のぼせたせいだろうか? それとも、とぼんやりしていると視線に気づいたのかユカが少々怪訝そうに見上げてきた。

「どうかした……?」

 その額に張り付く濡れた髪が色っぽい。──かわいい。なんてカノジョに向かう気持ちとしてはごく自然なはずだというのに。やっぱり想定外、と及川はブンブンと首を振るい、ますますユカは首を捻ったもののそれほど気に留めなかったのか話題は周りの景色へと移った。

 市内だというのに緑豊かな風景をユカは気に入ったらしく、本日二度目となる「スケッチブック持ってくれば良かった」を呟いている。──こっちはこんなにドキドキしてるのに不公平。なんて憤ったところで無駄であるため、及川はそんなユカを見つつ一つため息を吐くだけに留めた。

 そのまましばらく温泉を堪能し、もう一度プールで一頻り泳いだあとに及川たちはプールをあとにした。

 ホテルを出て向かったのはこの辺りでは有名な峡谷だ。名取川にかかる橋の袂からは遊歩道が続いており、眼下には奇岩を割るようにして流れる清流が広がっている。

「わあ……!」

 ユカは感嘆の息を漏らしたものの、及川はゴクリと息を呑んだ。自然豊かな光景ではあるが、サスペンスドラマに出てきそうな光景でもある。

「足下おぼつかなそうだけど行く……?」

「うん」

 聞いてみたもののユカは乗り気で、柵もあるしゆっくり行けば平気か、と及川は慎重に歩きつつところどころでユカの手を引きながら谷底へ下りていった。

 しばらくすると滝が見えてきて足下も安定し、ユカの希望もあって立ち止まって景色を堪能する。

「綺麗だね……!」

 ともすると危なっかしいほどに身を乗り出して頬を紅潮させているユカはすっかり景色に夢中だったが、及川も木の陰と流水の作り出す涼しい空気に頬を緩めた。炎天下が嘘のように過ごしやすい。が。

 それにしても、だ。今日はお付き合い一周年のデートなのだから、もう少し自分にかまってくれてもいいのではないか。と、指で枠を作って眼前の光景を切り取ることに集中しているユカの横顔を、む、と見やる。そもそもゆっくり会うのすら久々だというのに。

 普段ならユカの興味が絵にそれる事にもう少し寛大になれるのに……、ていうか絵より自分に夢中なユカはそれで変だし、ほんと厄介。と少しだけ頬を膨らませてジッとユカを見つめていると視線に気づいたのかユカがこちらを見てハッとしたように手を下ろした。

「ご、ごめんね。つい夢中になっちゃって……」

「別に。ユカちゃんの最優先はなんなのかよーく分かってるからイイんですケドー……」

 唇を尖らせつつ、やや戸惑ったような様子を見せたユカの腕をグイッと引いて及川は彼女を自身の胸へ閉じこめてみる。

 すれば、ぶわっと胸が一気に熱くて温かくなるような感覚に襲われて……及川は一年前に感じた感情もだぶらせつつ目を閉じた。

「俺、この一ヶ月ずーっとユカちゃん不足だった!」

 そして、ギュッと腕に力を込めるとユカの身体が撓ったのが伝った。

「前も言ったけど、スキンシップってお付き合いの大切な要素だしね……」

 噛みしめるように言ってからユカを見やると、微かに頬を染めたユカが首を傾げる。

「でも……今日はいっぱいスキンシップしたと思うけど……」

 プールで、と細切れに言うユカにカッと及川の頬が紅潮する。

「あ、あれは違うし! ていうか──ッ」

 そうして勢いで言いそうになってハッとした及川にユカはますます首を傾げ、及川は唸る。──ああもう、と脳裏でブツブツ言いつつ少しユカから目線をそらした。

「俺……ドキドキしちゃってそれどころじゃなかったし……」

「え……!?」

 すると、心底驚いたような声がユカの口から漏れ、ますます及川の脈が速くなった。

「ていうか、ユカちゃんは違うの!? 水辺の及川さんにドキドキしなかった!?」

 もはやヤケクソ状態で言い放てばユカは瞬きをして口をへの字に曲げ、及川としては硬直するしかない。

 ていうかやっぱり変なこと言うんじゃなかった。もしかして引かれちゃったかも、とにわかに後悔しているとユカがこちらに一歩詰めてギュッと及川の腰に抱きついてきて及川は目を見張る。

「ユカちゃ──」

「プール、楽しみにしてたしすっごく楽しかった。私も会いたかったし、今もこうやって及川くんと一緒に綺麗な景色が見られて嬉しい」

 キュ、とシャツの裾を握って胸に顔を埋めてきたユカの言葉は及川の問いへの明確な答えではなかったが。それでも触れ合う身体が温かくて、及川はしばらくしたあとに、ふ、と頬を緩めた。

「うん……」

 やはりこうして触れ合っているのは心地いい。あったかくて柔らかい……と過ぎらせたがゆえにうっかりユカのビキニ姿が脳裏に蘇ってきて及川は慌てて思考を振り払った。

 そのまましばらく抱き合ったまま微笑み合って、川辺まで歩いていって一通り堪能してから元来た道へと戻る。

 そろそろ戻ろうとやってきたバスに乗って空いている2人がけの椅子に座り、及川は携帯を取りだして時間を確認した。6時前には着きそうだ。

「なんか俺お腹空いてきちゃった……、甘いものが食べたい気分」

「じゃあ着いたらなにか食べに行く? 近くに美味しいパンケーキのカフェがあるけど」

「ホント? 行く行く」

 バスはユカの家のそばに着くため、着いたら腹ごしらえをしようと話しているうちにプール疲れかウトウトしはじめたユカが及川の肩にもたれ掛かり、呼応するように及川もユカにもたれ掛かって寝息をたてた。

 しばしふわふわと心地の良く夢の中を漂いつつも眠りは浅かったのだろう。降りる予定のバス停名がアナウンスされてどちらともなく目を覚ました。

 そうして外に出ればそろそろ日の入り時刻で、茜色の空間に二人して目を細める。

「私もお腹空いてきちゃった……」

「お昼ご飯早めに食べたからね」

 及川はあくまでスイーツ気分だったが、ユカは夕食にしたいという。行く予定の場所は軽食も可能らしく、予定通りのカフェへと足を向ける。

「いらっしゃいませー」

 そうしてカフェへ赴いてメニューを一望し、ズラリと並んだオムライスのリストを見て及川は肩を揺らした。──確かにユカ的にはここで夕飯でも十分すぎる場所だろう。むろんパンケーキのメニューも充実しており、ユカはオムライスを、及川はフルーツとクリームたっぷりのパンケーキを選んだ。

 しばらくして運ばれてきたそれぞれの料理に感嘆の息をもらしていると、あ、と眼前のユカが何かに気づいたように声をあげた。

「そういえば、一年前にも及川くんパンケーキ食べてたよね」

 言われて及川は思考を巡らせた。──1年前、ユカとの初デート。そういえば、と確かにあの時は自分がパンケーキをチョイスした覚えがある、とパンケーキにナイフを入れつつ懐かしく思い出す。

「でもさ、その前は一緒にオムライス食べたよね。ほら、一緒に光のページェント観に行った時」

「え……うん」

「よくよく考えたらアッチが初デートだよね?」

 パンケーキを頬張りつつユカを見やると、彼女はキョトンとしつつ困ったように笑った。

「でも、あの時ってまだ付き合ってなかったし……」

「そりゃそうだけどさ。けど、どう考えてもあの時から両想いだったよね?」

「えッ……!?」

「ていうかどうせなら中学の時から付き合ってれば良かったのに……、なんか時間ソンした気分」

 ──ユカは中学の頃から自分の事好きだったに決まってるし、ぜったい。ユカと別れるつもりはさらさらないが、もしも離れ離れになるなら、やっぱりもう少し早くから付き合っていたかった。と思いつつ食べ進める及川とは裏腹にユカは困惑したような表情を浮かべている。

「なに?」

「んー……、私は及川くんと付き合うって想像もしてなかったから、中学の頃とかちょっと考えられないかも」

「え!? だってユカちゃんってずっと俺のこと好きだったよね??」

 困ったように言われて及川がショックを受けていると、んー、と唸りつつユカはオムライスに口を付けた。どこか誤魔化すように微笑んだユカはしばし考え込むようにして黙し、しばらくしてから少しだけ口元を緩めた。

「でも……、及川くんと付き合ってからもっともっと及川くんのこと好きになったから、もしも中学の頃から付き合ってたらもっと毎日楽しかったかも」

 そしてサラリとごく自然に言われ、ピク、と及川の手が撓る。

 そのまま美味しそうにオムライスに口を付けるユカとは裏腹に、及川は微動だにできにない。やっとのことで左手を動かしてフォークでパンケーキを口に運んだが、味がぜんぜん分からない、と早鐘を打つ自身の心音を聞きながら及川は思った。

「? 及川くん……?」

 当の本人はどれだけの破壊力を持った言葉を口にしたか無自覚らしく、首を傾げられて及川はふるふると首を振るう他はない。

「美味しかったね!」

「う……うん」

 結局、美味しいパンケーキを堪能しきれないほど胸がいっぱいになって終わってしまった。と、帰路で及川は肩を竦めていた。

 けれども。本当に一年間、あっと言う間だった。今ではもうユカと付き合っていない自分なんて想像もできない、と感慨にふける間もなくユカの家が見えてくる。

 キュ、とどちらともなく繋いでいた手に力を込めた。

「今日、すっごく楽しかった」

「うん、俺も。……あ、あのさユカちゃん」

「ん……?」

「これからもずっとよろしくね!」

 あえて「これからも」と曖昧な言い方をしたのは否定されるのを無意識に避けたからかもしれない。

 けれどもユカは、ふ、と笑ってそっと及川に身を寄せてきた。

「うん」

 及川も、へへ、と笑ってギュッと抱きしめ返す。じんわりと胸が温かい。──出会った頃は彼女と付き合うことになるなど考えられなかったが。いや、惹かれていた事を認めたくなかっただけで……本当は、と薄ぼんやり中学の頃を浮かべつつ、ユカと顔を合わせて笑いあう。

「じゃあ及川くん、おやすみなさい」

「うん、おやすみー」

 そうして門の前までユカを送って手を振り、及川はふっと息を吐いた。

 急に一人になって、蘇るのは今日の出来事だ。──中学の頃のユカは、と先ほどまで浮かべていた脳裏に一気に昼間のプールでの光景が蘇って、無条件でカッとなる。

「ああもう、また……!」

 だってホントにあんなに育ってると思ってなくて──と止めどなく鮮やかに流れてくる記憶の映像を掻き消すように髪を掻きむしる。けど。

「カノジョの水着にドキドキするのとかフツーだしぜんぜんフツーだし!」

 ブツブツと呟きつつ早足で自宅を目指す。明日も通常通り練習が入っているし、プールでいつもより体力を消費したぶん、しっかり身体を休めなくては。

 というか泊まりを提案しなくて良かった。こんな状態だったらテンパって恥を晒すだけだった……やっぱりさすが俺。とどうにかポジティブな方向に持っていきつつ夜道を走っていく。

 

 が──。

 

「眠れない……!!」

 

 結局、その日の夜は興奮状態のまま寝付けず気がつけば明るくなっていた天井を睨みながら及川は途方に暮れた。



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52話:及川徹と”俺様”

 ──11月。

 春の高校バレー宮城県予選で惜しくも予選敗退となった青葉城西高校バレー部は既に2年生以下が中心となっており、在籍していた3年生も全て引退して受験に備えていた。

 及川は筑波大に願書を提出し、岩泉と松川は目前に迫った試験に向けて目下面接・小論文対策に勤しんでいるらしい。が、この3人は実技があるゆえに週の半日以上は部活に顔を出していた。逆に花巻だけは完全に勉強の方に集中しているようだ。

 とはいえ──。それもこれも文化部であるユカにはあまり関係のない事であり、ユカは明日に迫った文化祭の準備に追われて悲鳴をあげる寸前であった。

 隔年で行われる文化祭は文化の日に行うと決まっている。

 高校に入って以降に獲った知名度のある賞の受賞作品は全て展示して欲しいという顧問の要請により、ユカは母に車を出してもらって丁寧に作品を搬入しどうにかこうにかそれらしく飾った。

 来客数の増員を見込みたいらしく、青葉城西のHPには華々しくでかでかと自身の事がほぼ無断で宣伝されており──ふとユカの脳裏にマネジメントをちゃんとしろ云々と言っていた氷帝学園の跡部敬吾の姿が過ぎった。

 

 もしかすると、その一瞬の回想が呼び水となってしまったのかもしれない──。

 

 翌日、11月3日。

 文化祭は2年生が中心となって取り仕切られているために文化部以外の3年生は自由登校の日でもある。が、この日ばかりは息抜きにとおおよその3年生は参加して自身の所属していた部活等に顔を出す。

 及川も例に漏れずで、午前中は第三体育館で行われていたバレー部の公開試合を見学した。

 自分たち3年生が見ていることで緊張の表情を走らせた後輩たちを見て思わず笑ってしまう。──自分が一年の時はどんな形であれ公開型の試合に出られたことが嬉しくて。先輩の正セッターを負かすことだけを考えていた可愛げのない後輩だった事を思えば、なんて可愛らしい後輩達だろうと思わざるを得ない。

 ホントに懐かしいな、と及川は2年前の文化祭の事を何となく過ぎらせた。一年の頃は岩泉とユカが同じクラスで、岩泉に会いに行くのだと自身に言い訳しつつユカに会いに行ったりしてたんだっけか、と我ながら苦笑いが漏れた。

 後夜祭を抜け出して美術室にいたユカに会いに行って、一緒に後夜祭に行こうと誘うも断られて、岩泉と一緒ならと行くと暗に言われて。たぶんあの頃に感じていたモヤモヤはきっとだたのヤキモチだ。全然気にしてなんかない、と自分に言い聞かせていたが、たぶんずっと中学の頃から自分はユカが好きだったんだろうな、と考え至るとさすがに居たたまれなくて及川は少し顔を伏せて僅かに宿った熱を必死に逃した。

 今日のユカはたぶんずっと美術室にいるだろう。代表作を数点展示すると言っていたし、試合が終わったら行こうかな。と、試合が終わって第三体育館を出て校舎の入り口を目指していると正門のあたりがザワついているのが見えた。

「ん……?」

 近づきつつ目を凝らすと、及川の目に黒塗りのリムジンらしき物体が飛び込んできて「へ!?」と間抜けな声が漏れた。

「ナニアレ!?」

 というか「リムジン」とやらは想像上の乗り物ではなく実在していたのか──と野次馬根性でいそいそと近づいて見ると、運転手らしき人物が開けた後部座席の扉からは制服姿と思しき青年が姿を現した。

「あれ……」

 及川はその面差しにどことなく見覚えがあり、瞬きをしつつ思考を懲らす。そしてハッと思い至って思わず大声をあげていた。

「あ……、跡部財閥のおぼっちゃま君だ!!」

 そうだ。確かユカの知り合いでユカをレセプションだかに招いた時の記事に写真が出ていた。と記憶を蘇らせつつ言えば、一気に視線を集めて当の青年本人からも睨むようにして見られ「しまった」と及川は頬を引きつらせた。

「アーン? なんだお前……俺様のこと知ってんのか?」

 うわ、しかも偉そう。と、その尊大な声と態度に脳裏で突っ込んだものの言葉はどうにか飲み込み、及川は少しだけ筋肉を引きつらせつつも得意の外向けの笑みを向けた。

「ドーモ! お会い出来て光栄デス。君のことは栗原ユカちゃんから聞いて見知ってるんだよネ」

「お前……、栗原の知り合いか?」

「知り合いっていうか……んー、まあいいや」

 にわかに注目を浴びていたため及川は言葉を濁し、青年──跡部の方へと近づいていった。

 すると「まあいい」と跡部の方が話を切りだした。

「文化祭で栗原の絵が展示されると聞いて来てやったんだが……。ずいぶん規模の小さい文化祭じゃねえの、アーン? やる気あんのかこの学校は」

 うわホントに偉そう。と、思ったことは口に出さず取りあえず笑顔でかわしてみる。

「う……ウーン。まあ、そこは予算の関係とかイロイロ。ね?」

「で、お前誰だ?」

「あ、俺? 及川徹デス。よろしく」

「及川、か……。まあいい、取りあえず俺様を美術室に案内しろ」

 君は俺の上司デスカ、とさすがに今度は喉から出かかったものの何とか飲み込み、ヘラッと及川は笑ってみせた。

「なに、ユカちゃんに会いに来たの?」

「あん? お前、数秒前に俺様が言ったことも覚えてねえのか?」

「あ……ハイ。絵、ですよね。ユカちゃんの絵」

 及川は思った。まだ生まれてたったの18年とはいえ、それなりに色んな人に会ってきたし自分はそこそこ適応力が高いと思っていた、が。この跡部は初めて接するタイプの人間である、と。まさか世の金持ちと呼ばれる存在はみんなこうなのだろうか、と唸りつつも取りあえず言われた通り跡部を案内してやる。

 にしても、と思う。過剰に堂々とした態度のせいか、自分よりも5センチは低い身長だというのにやけに大きく見え、それでいて派手な跡部は目立つらしい。今日に限っては他校の生徒など珍しくもないというのに、だ。おまけに我ながら自分は学内で一番目立つ男と自負しており、そんな二人が連れ立って歩いていればいつも以上に視線が突き刺さって久々に及川は「痛い」という感覚を覚えた。

 すると、チッ、と跡部が舌打ちをした。

「ここのメス猫どもはどうなってやがんだ。どいつもこいつもジロジロ見てきやがって」

「うわ……その言い方はさすがにないんじゃない? こーんなイイ男二人が連れ立ってんだからそりゃー女の子は見ちゃうよ!」

 いつもの調子におべっかも混ぜつつ、二、と笑ってみせれば跡部は露骨に「ハッ」と息を吐いて及川は内心「しまった」と呟いた。あまり冗談は通じない相手らしい。

 そのまま廊下を歩いて特別教室棟に入り、美術室に入ればまたも一斉に視線を浴びたものの気にせずユカの姿を見つけて声をかけると、ユカはギョッとしたような顔をした。

「あ、跡部くん……!?」

「よう。久しぶりじゃねえの」

「ひ、久しぶりって……。お、及川くん?」

「あー、うん、なんか正門のところにリムジンとまっててさ、ほらニュースでユカちゃんと跡部君が映ってた写真見たことあったから誰かは分かっちゃって、それで声かけちゃったんだよネ」

「リムジン!? え、車で来たの? 東京から?」

 ああ、と当然のように頷く跡部を見てユカは目を丸め、及川としてはもはやリアクションに困って取りあえず笑みを浮かべておいた。

「それで跡部くん、どうして……」

「アーン? お前の絵を見にきてやったに決まってんじゃねえの。”恋人たちの橋”と”バレンタインの夜”も展示してあんだろ?」

「あ……うん」

「あ、その絵、俺も生で見たいんだった」

 言うとユカは傍目には分からない程度に目元を染めた。

 跡部にしてみれば高名な賞を取ったユカの絵を見たいのだろうが、及川にとってはその絵はユカが自分との思い出を絵にしたものだ。──ユカがそう認めたわけではないが、それ以外考えられないし。と無意識に鼻歌を紡ぎ出し、跡部に並びつつやや人だかりの出来ていた絵を覗き込む。やはり背が高いと便利だ、と見やった先に描かれていたポンデザールを見て及川は口元を緩めた。

 修学旅行でパリに赴いた際の自由行動の日──、橋の上でキスをしようと言ったときも、直前に「キスしていい?」と訊ねたときも。懸命にユカには悟られないようにしていたが、けっこうあり得ないほど緊張してたんだよな。と思い出しつつちらりとユカに目線を送るとうっかり目があって、パッとユカは頬を染めた。

 あ、ユカもきっと同じことを思い出していたのだな。と及川はくつくつと笑った。

「なかなか良い絵じゃねえの、アーン?」

 おそらくそんな事情など知らないだろう跡部が満足そうに言い下して、ユカはハッとしたように跡部に礼を言っていた。

 そうして続く「バレンタインの夜」を観た跡部は、描かれていた薔薇がよほど気に入ったのか「この絵は俺様の目には──」と以下よく理解できない例え話を長々と始めた。

 でも……この絵は、と及川は思い浮かべる。この絵は、今年2月のバレンタインでの出来事を描いた絵であることだけは確かだ。

 

『ん、ユカちゃん、くっつきたいモード?』

『うん』

『ほんとユカちゃん俺のこと大好きだよね』

『うん』

 

 絵画など見る人の解釈でどう捉えてもいいのだろうが、たぶんきっと絶対この絵はユカが自分のこと大好きっていう気持ちが詰まった絵なのに。と己の自己解釈に満足しつつ及川は薄く笑った。

「おい栗原、この絵どうすんだ? 売るのか?」

「え!? えー……と、その予定はないけど……」

「だろうな。この先、どう値が上がるか分かったもんじゃねえしな」

「でも……、前に跡部くんに言われたマネジメントは近いうちにちゃんと考えた方がいいかなってちょっと思ってるの」

「ほう……良い傾向じゃねえの。お前がその気ならいつでも力になってやるぜ?」

 そういって跡部はユカとの間の距離を縮め、「ちょ、近い!」と脳裏で突っ込んだ及川はさりげなく跡部とユカの間に笑みを浮かべたまま割って入った。

「跡部君、もうユカちゃんの絵は見終わったよね? せっかく来たんだし学校見学でもしてかない?」

「あん? 見学するようなトコとかあんのか?」

「えー……と」

 言ってはみたものの、バレー部の試合は終わったばかりであるし、とぐるぐる考えつつ訊いてみる。

「あ、跡部君てなにか好きなものとかある? 部活とかやってた?」

「ああ、俺様はテニス部の部長で生徒会長だ」

「え!? 部活とかやってるんだ……!」

 おぼっちゃま君なのに。とは続けず、けれどもそれなら、と及川は取りあえず跡部を連れ出そうと試みた。

「んじゃテニス部のブースとか行ってみちゃう? エキシビションマッチみたいなのやってたかは覚えてないけど……」

「ほう、面白そうじゃねえの」

 すれば跡部は本当にテニスが好きなのか案外簡単に乗り、及川はユカの方を振り返って手を振りつつ跡部を美術室から連れだした。

 そうして道すがら適当に学校の説明などをして会話を繋げていると、ふいに「くく」と跡部が低く笑い及川はキョトンとした。

「ナニ? なんか俺そんな面白いこと言っちゃったっけ?」

「いや……。お前と話しているとどこか奇妙な感覚になってな」

「ん……?」

「口調もしゃべりの癖も正反対だが、俺様の後輩にお前と声質がほぼ同じヤツがいる。声だけ聞いていると、そいつがトチ狂ったかのように聞こえてまるでコントだぜ」

 言われて及川は口をへの字に曲げた。なぜなら聞き覚えのある話だったからだ。

「あー……うん、なんかユカちゃんに聞いたことある」

「そうか。ま、だろうな。それほど似ている」

「ふーん……。俺としてはあんま嬉しくないんだけど。ていうかアッチが似てんでしょ、俺より年下みたいだいしさ」

「たかだか一歳程度の歳の差になんか意味でもあんのか? あいつはまだまだ甘ちゃんだがこれ以上ないくらい優秀な後輩だ。俺様はあいつがいるから安心してテニス部を引退できた。あいつなら必ず我が氷帝学園を全国制覇に導いてくれるはずだ」

 そして跡部はうっすら笑い、及川はあまりに予想外のことに一瞬表情をなくした。──こんな偉そうなおぼっちゃまでさえ、こんな顔をして「後輩」を讃えられるのか。

「なに、その俺のソックリさんて跡部君より強い選手なの?」

「バーカ、まだまだ俺様レベルにはほど遠いぜ。だが、サーブだけは別だ。あいつはサーブの全国記録も持ってるしな」

「サーブ……」

 また余計な共通点を発見した、と思いつつ息を吐く。──なんかもう、財閥とか全国制覇とかきっと住む世界が違うんだ。そう思えば腹も立たない気がしてきた。

 やだな、と少しだけ思った。──「天才」の後輩に今まで振り回され続けて、きっとこれからもそうであろう自分がバカみたいじゃん。と目線が自然と下がってくる。

「あん? どうかしたか?」

「別に。しがない庶民の悩みですぅ」

 唇を尖らせてみれば、「ハァ?」と言いたげに跡部は呆れたような顔をした。

 ──跡部は本当に高校テニス界では有名な選手だったらしく、そこそこの強さを誇るテニス部に連れていけば全員が「氷帝学園」と「跡部敬吾」という名を知っておりテニス談義に華が咲いていた。

 おまけに跡部は使用人にリムジンに積んでいたテニス道具を持ってこさせて彼らと一戦交え、端から見ていても情け容赦なくコテンパンにのされていく青葉城西の選手をみて及川は人ごとのように「うわカワイソ」などと思った。

 そういえばお昼ご飯を食べ損ねた。お腹が空いた、と一時間以上テニス部と戯れて満足げに戻ってきた跡部を売店の方に促した。

「取りあえずなんか食べようよ。俺、お腹空いた」

「あん? この学園はカフェテリアでも併設してんのか?」

「そんなわけないし。ていうか文化祭なんだから露店でいいじゃん、焼きそばくらいならおごったげるよ」

 すると「焼きそば……?」と首を捻った跡部に及川も首を捻り、ピンと来た。まさかおぼっちゃまゆえに焼きそばも露店も知らない。という漫画じみたことがあり得ちゃったりするかもしれない。

 と、冗談交じりに思っているとまさかの案の定で、焼きそばを売っていたクラスの露店から2パック購入して周辺に設置されていた立ち食いスペース用の簡易テーブルの上に乗せると跡部はしかめっ面をした。

「なんだこれは……」

「跡部君、いくらお金持ちでも日本人で焼きそばしらないとかヤバいよ」

「生憎と俺様はロンドン生まれロンドン育ちだ」

「へ!? あ、そうなの? あれ、でも俺、ロンドンでこの手の麺類売ってんの見たけど?」

「お前、ロンドン行ったことあんのか?」

 及川が割り箸を割って焼きそばに有り付こうとしていると意外なところで跡部が食いついてきて、及川は修学旅行で行ったことを説明しつつ焼きそばに口を付けた。

「跡部君も食べなよ、冷めちゃうじゃん」

 言うと跡部は疑心暗鬼そのものといった具合に恐る恐る口を付け、及川は笑った。

「どう?」

「これが庶民の味というヤツか……。まあ悪くはない。が、特別どうということもないな」

「たかだか250円のしかも高校生作の焼きそばにトクベツなクオリティとか求めないでよ」

 肩を竦めつつ、及川は空腹も手伝ってハイスペースで完食した。何だかんだ跡部も空腹だったのだろう。最後まで訝しげにしていたものの全部食べきり、及川はなお笑った。

「食べ切れたじゃーん」

「ああ、まあ悪くない体験だった」

 相も変わらず偉そうではあるが、意外と面白い人間なのかもしれないと感じつつゴミを片し、「さて」と及川は携帯の時計を見やる。

「もう3時だけど……。まだ他に行きたいところとかある?」

「もうそんな時間か……。いや、そろそろ戻る時間だな」

 言って跡部も携帯を取りだし、おそらくはリムジンの運転手に車を回すよう告げた。

 それなら、と正門へと跡部を促すとタイミングよくリムジンが横付けされて運転手が降りてきて、やはり周囲からは好奇の目線を集めてしまう。

 が、跡部は慣れているのか気にするそぶりもなく及川の方に向き直った。

「今日は世話になったな。焼きそばとやらの礼もそのうち必ずしてやる」

「いや……別にイイよ気にしないで」

「及川徹……。覚えておいてやるぜ」

 じゃあな。と、最初から最後まで偉そうな姿勢を崩さず運転手に開けられた扉の向こうに消えてリムジンと共に走り去った跡部を見送り、及川は張り付かせていた笑みを通常に戻して肩で息をした。

 取りあえず校舎側に踵を返し、携帯を取りだしてユカに連絡を入れてみる。

「──あ、ユカちゃん? うん、跡部君なんだけどたったいまお帰りになられマシタ」

 ユカは美術室を出たあとずっと自分たちが一緒にいたとは思っておらず驚いたようで、及川は苦笑いを零しつつ「あとでゆっくり話すね」と携帯を切った。

 一般公開終了まであと2時間弱だ。ユカに「公開時間が終わったら美術室で待ってて」とメールを打ってから及川は後輩たちのクラスを周りながら時間を潰した。

 そうして17時になれば一般公開は終了となり、この後は青葉城西の生徒のみでの後夜祭となる。

 片づけは明日に持ち越しなため、展示品も基本的にはそのままだ。と、17時をやや過ぎた辺りで美術室に顔を出せば一人で残っていたユカが笑みで迎えてくれた。

 及川はさっそく今日の跡部との体験談を話し、後夜祭で盛り上がる外の音を聞きながらふと懐かしい気分に浸った。

 二年前の文化祭の日も、こうしてここでユカと話をした。美術室の電気が付いているのが外から見えて、ユカが一人でいることを確信して訊ねて来たのだ。

「ユカちゃんさー……」

「え?」

「二年前に俺が後夜祭のあとの花火を一緒に観ようって誘ったら、乗ってくんなかったよね」

 あげく、岩泉と一緒ならいいと暗に言われて自分はきっとたぶんショックを受けたのだった、と口を尖らせるとユカは困ったように眉を下げた。

「今日は乗ってくれるよね?」

「う……、うん」

 それでも未だに「完全に乗り気」ではなさげなユカを見て及川は肩を竦めてしまう。

 たぶん理由は、人の多い校内で自分とのツーショットを晒して悪目立ちしたくないということなのだろうし、二年前だってきっとそうだろう。万に一つも岩泉の方を好きだったなんてあり得ないし。あの頃からユカだって自分のこと好きだったし、きっと絶対そうに決まってるし。という自信はある程度はあるのだが……と及川はふと思う。

 ユカと自分とでは、互いへの気持ちの濃度とか温度とか重要度とかに越えられない壁があるのではないか、と。

 自分にとってはいまこの場に立っている事でさえ、ユカがいなければまるでダメで、ユカのいない生活なんて想像すらできない。が、ユカにとっての自分は、仮に自分と関わらない人生でもユカにとっては何の影響もない。凡才と天才のように越えられない溝があるのだ、と考えないように考えないようにと抑え込んでいる想いがほんの時たま、ふ、と表面化しそうになっては「そんなはずない」と首を振って考えないようにしてきた。

 だから……この絵を知ったときは嬉しかったっけ、と及川は視線を展示されたままの状態の「恋人たちの橋」と「バレンタインの夜」に目を向けた。

 ──「仙台の冬」を観たときには確証は持てなかったが、この二つは紛れもない。ユカが自分を好きにならなければ描けなかったものだと思えば、ユカの人生に自分が関わったことの意味を見いだせる気がして嬉しかった。

 でも、万一にあり得なくても否定されたら立ち直れないから本人には訊けないけど。と、ジッと無言でユカを見やると不審に思ったのかユカは首を傾げた。

「どうかした?」

「なんでもなーい」

 軽く言って及川は腕を伸ばして緩くユカの身体を抱きしめた。すればユカもこちらの胸に身体を預けてキュッと抱きしめ返してくれ、及川は緩く笑う。

 たぶんこうして触れているときが、ユカが自分を好きなことをちゃんと実感できる。ちょっと頬を染めて、でも嬉しそうで。でも──、自分はちょっともうキスだけだと足りなくなってきちゃったんだよな、と緩く髪を梳きながら唇を重ねて及川は思った。

「……ん……ッ」

 ユカは違うのかな……、と懸命に応えてくれるユカのふらついた身体をすぐ後ろの壁際に寄せながら過ぎらせる。

 けど、まあ。ユカもその気でも、ココじゃどうにもなんないけど。と、しばらくして唇を解放すると、ユカは荒い息を吐きながらやや力なく壁にもたれ掛かった。真っ赤に頬を上気させている様子が胸を抉るように揺さぶって、及川はユカの腰を抱き寄せてギュッと胸に閉じこめた。

 すれば小さく苦しいと抗議され、「ごめん」と呟いて少し力を抜く。すると素直に自分の方へ体重をかけて寄りかかってくれて、及川は薄く笑った。

 花火の前に少しだけ後夜祭も観ようと思ってたけど、もうこのままでもいいや。と抱きしめたユカの身体の柔らかさに酔うようにして及川はそっと目を閉じた。

 遠く外から聞こえてくる生徒たちの歓声でさえ、いまは耳に心地よかった。



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53話:及川徹の合格発表

 ──11月も下旬に差し掛かった頃。

 日に日に口数が減っていき表情すら乏しくなっていっていた岩泉と松川に笑みが戻った。

 二人して揃って志望校の推薦入学にパスしたからである。

 

「二人ともおめでとー!」

「一抜け、ずりぃよなァ」

 

 合格発表の日の昼休み、岩泉のクラスに4人で集まってコーラで祝杯をあげた。

 岩泉も松川も安堵で気の抜けた表情をしており、この中では一番日々勉強に追われている花巻が笑顔ながらもやや窶れた表情を覗かせた。

「まあまあマッキー、気楽にいきなよ。A判定なんだからサ」

「まあ正直な話、お前よりは合格率高いと思ってる」

「ヒドイ!!」

 しかしあながち間違いでもなくそれ以上は言い返せないでいると、花巻はなお肩を竦めた。

「つーかお前より栗原さんだよな……、彼女の志望校、日本一倍率高いスーパー難関デショ。現役合格だとさらにその数倍とか数十倍?」

「いや、俺はそれでも栗原より及川の合格の方が危ういと思ってる」

「確かに」

「だいたい邪だよな、カノジョと揃って上京狙いとか」

「お前らいちいちヒドイってば!!」

 好き勝手に喋る3人に突っ込みつつ、ハァ、と及川はため息を吐いた。

「まあ、ユカちゃんは大丈夫じゃない。天才だしサ。それにユカちゃんのホントの狙いは芸大じゃないし……」

 そうだ。あくまでユカの志望校はパリのあの美術学校、と過ぎらせつつも及川は肩を落とす。

「ていうか、ユカちゃんの大学って合否出るの三月の中旬らしいんだよね……」

「うわロングラン……、かわいそ」

「高校最後のクリスマスとかバレンタインなのに……、たぶんかまってもらえない……!」

 呟けば3人の挙動がぴたりととまり、ついで吹き出したような声が漏れた。

「ドンマイ及川! お前が無事に合格した暁には俺たちがクリスマス付き合ってやるよ」

「そうだな。花巻以外は割とヒマになるからな」

「あ、俺もバレンタインの頃には解放されるわ」

「ありがとう、お前らと最後の思い出作りが出来そうで俺とっても嬉しい!!」

 机に突っ伏しながら言えばドッと笑い声が沸き、及川はいつもの調子の仲間に安堵しつつも少し緊張もしてきた。

 月末は自分の番だ。一人で上京して、一人で全国区の選手に混じって試験を勝ち残らねばならない。

 けれども緊張しつつもどこかその難関に挑戦することを楽しんでいる自分もいて、我ながら危機感ないのかな、と自嘲した。

 ただ一つ自信が持てることといえば、いま自分の精神状態も肉体状態もベストな状況にあるということだった。

 こうしてみんなで、違う将来を見据えながらいつも通り笑っていられるのが良い証拠だ。以前の自分ならばきっと無理だった。

 

 

 ──頑張ってね!

 

 そして迎えた11月下旬。

 試験前日に現地入りした及川は、泊まったホテルで目覚めた先に受信していたユカからのメールに強く頷いた。

 本日から二日間をかけ、小論文と実技、面接による選抜試験が行われる。──問題は小論文だ。論文の内容はたぶん問題ない。ただ自分は漢字を苦手としているため、細心の注意を払って書かなければならない。

 この日のために学校が用意してくれた試験対策を受けて何本も小論文は書いて慣らしているし、きっと大丈夫。

 と、夏に訪れて以来の筑波大に足を向け、春からは同級生になるかもしれない受験生たちと顔を合わせて試験に臨んだ。

 思ったよりも人数が多く、驚いてしまう。が、むろん全員がバレー志望ではないということは実技試験に移った時に目に見えて分かった。

 一度足を踏み入れたことのある球技体育館。監督はむろんちらほら見知った顔がいる。対する受験生は──きっと全員全国区の上位チーム出身なのだろうが、知らないな、と及川は思った。

 それもそうかもしれない。特に知名度のある選手は牛島のように既に去年の段階で内々に進学先が決まっているはずだからだ。

 実技内容はポジション別ではなく、あくまで全ての能力を見られる。──総合力なら自分は少なくとも宮城県トップを自負している。やれないポジションもない。ブロックの高さだってその辺りのミドルブロッカーに負けているつもりはない。と、及川はいつも通り冷静に指示された課題を次々とこなしていった。

 むろんセッターとしても見られているのだと意識しており、数人コートに入っての入れ替わりのスパイクの際には積極的にアタッカーとコミュニケーションをとって自身のセットアップをアピールした。

 

 それほど頭を使ったわけでもなく、動いたわけでもないのにドッと疲れた。

 と、一日目の試験を終えてホテルに戻った及川はそのままベッドに突っ伏した。

 明日は面接──喋るのは得意だし、うっかり喋りすぎない事にだけ気を付けて頑張ろう。

 と、たっぷり休息を取って臨んだ二日目は、バレーについて、学問についての二種類の個別面接を受けて及川はきっちり自分のバレーボール観と志望動機を心おきなく取りあえずは自信を持って伝え終えた。

 

 あとは神のみぞ知るであるし、これで一応全てが終わった。とバンザイしてさっそく試験を終えたことをLINEにて、ついに岩泉がスマホに乗り換えたことで作ることが叶った4人用のLINEグループに投下すると間髪入れず返信が来てパッと及川は笑った。が。

 

 ──東京ばな奈。

 ──ハラダのラスク。

 ──サトウのメンチカツ。

 

 ねぎらいではなく土産品の催促のみが並んでおり、腹が立ったので怒りマークのスタンプを10連打くらい打っておいた。

 

 

 その後の2週間は気が気でなかった。

 ようやく受験から解放されたという安堵よりも合否の行方が気になっていたし、何より不合格であれば今から一般受験に本腰を入れなければならないという重圧とも戦わねばならなかった。

 合格発表は12月2週目の木曜日だ。生憎と合格発表は見に行けないが、その日の午後には通知が届く予定になっている。

 さすがに当日の及川のクラスはその日が及川の合格発表日であることを全員が知っており、及川を含めてどこかしらみなソワソワしていた。

 担任にしても、推薦とはいえ、自分のクラスから国立の難関の部類に位置する筑波大へと生徒を排出できるか否かは大きいらしくホームルームのさなかに激励される始末だった。むろん、結果は即伝えるよう釘を刺された。

 ホームルームが終わった直後、及川は真っ先にユカの席に向かって手を合わせた。

「ユカちゃんお願い! 今日は俺に付き合って!」

「え……」

「一人で合格通知開く勇気ないし!!」

 必死に訴えるとユカは頷き、次いで及川はユカを連れて岩泉のクラスに向かった。

「岩ちゃーん!」

 するとちょうど帰る準備をしていたらしき岩泉がカバンを携えてこちらにやってきた。

「どうした?」

「岩ちゃんも今日は俺に付き合ってくれるよね!?」

「は……?」

「今日、合格発表なんだもん!」

「あ? 俺はこれから部活──」

「やだやだ見捨てないでよ岩ちゃん!!」

 あしらおうとしたらしき岩泉に追いすがると岩泉は呆れたような表情をしながらも渋々了承してくれ、3人で帰路についた。

「あー……怖い、帰るの怖い。引き返したい」

「何度目だよ鬱陶しい。ビビってんじゃねーぞゴラ」

「き、きっと大丈夫だよ」

 譫言のように呟いては二人が叱咤と励ましをくれ、及川は寒さも相まって身を震わせつつ手を擦り合わせながらもどこか懐かしさを覚えた。

 こうして3人で帰路につくのは、中学校以来だろうか。と、見えてきた自宅にゴクリと息を呑んだ。

「も、もしかしたら明日届くかもしれないよネ!」

「往生際ワリーんだよクソ及川!」

 すれば頭を叩かれて「痛いよ岩ちゃん」と抗議しつつ、深呼吸をして及川は自宅のポストを開けた。

 すれば──案の定、筑波大からのやや大きめの郵便物が入っており及川はなおゴクリと息を呑んだ。

「開けてみろよ」

「ここで!?」

 急かす岩泉に突っ込みつつ及川はそれはないだろうと取りあえず玄関の鍵をあけて二人を中へ促した。

「ドーゾ」

「おう」

「おじゃまします」

 するとややユカが緊張気味に言って、そういえばユカが自分の家に入るのは初めてだったか、と今更ながら気づきつつ及川は二人を先導した。さすがに早くエアコンを入れなければ寒い。

「こいつの部屋、和室なんだが年がら年中布団出しっぱなしなんだよな」

「へ、へえ……」

「そんな数十秒後には分かる事実をネタバレしなくてもいいよ!」

 ていうか布団出しっぱなしだった。と気づいて及川は先に階段を駆け上がるとマッハの早さで布団を畳んで押入に仕舞い込んでエアコンのスイッチを入れた。

 遅れて岩泉がユカを連れてやってきて及川は取り繕うように笑ってみせる。

「ドーゾ適当に座ってて。俺、なんかあったかいモノでも──」

「及川!」

 言いかけると岩泉が言葉を遮り、ぴしゃりと入り口のふすまを閉めた。

「いいからとっとと開けろや」

 そして彼は顎でクイッとパソコン用のローデスクに置いた筑波大からの郵便物を指し、う、と及川は口籠もる。

 そうしてドカッと岩泉はその場に腰を下ろし、ユカもおずおずと腰を下ろしたため、及川も郵便物を手にとって座らざるを得ない。

「んじゃ、開けるね」

「おう」

「ホントに開けるよ!?」

「いいからとっとと開けろボゲ!」

 岩泉の怒声が響き、及川はデスクからはさみを取りだして恐る恐る開封した。

 そうして一枚の白い紙を取り出す。まず自分の名前と受験番号が目に入った。学長の名前と印字。そして──「合格通知書」という文字が飛び込んできた瞬間、はらりと及川は紙を手から滑らせた。

 パッとそれを岩泉が掴んで隣にいたユカが覗き込み、岩泉は目を見開いてユカは口元を両手で覆った。

「及川くん……! おめでとう!」

「やったじゃねえか、相棒!」

 岩泉は破顔して及川を讃えるように抱きしめ、思わず及川の視界が滲んだ。

「い"、い"わ"ちゃあん……ッ」

 ありがとう……! とひとしきり泣いたあとで鼻水をすすって、及川はハッとする。そしてパッと岩泉から身体を離すと、マッハの速度で鼻をかんで背筋を正して笑ってみせた。

「ま、まあ及川さんなら絶対受かると思ってたけどね!」

「……今ごろカッコつけてもおせーよ……」

 呆れたような岩泉の声を聞きつつ、ユカを連れてきたのは失敗だったかもしれない。とちらりと恐る恐るユカを見やると、ユカはもらい泣き状態だったのか目尻の涙を拭いながら笑みを浮かべてくれた。

「おめでとう。ホントによかったね!」

 それを見て、一瞬でも「引かれたかも」と感じた自分を及川は恥じた。そんなことあるわけないのにさ。と「うへへ」と笑って、及川はユカのそばに歩み寄るとギュッとユカを抱きしめた。

「ありがとユカちゃん、大好き!」

 そばで岩泉が引いたような気配が伝ったが、及川は気にせずそのまま上機嫌で立ち上がると今度こそ飲み物を取ってくると部屋を出てキッチンへ向かい、鼻歌交じりで熱い緑茶を入れて部屋へと戻った。

 そうして改めて一息つきつつ、同封されていた書類を見やると入学手続きに関する事が書かれており及川はハッとして両親に合格の旨を伝えるメールを打った。

「あ……、担任にも知らせないと」

 即知らせろって言ってたっけ、と思いつつ学校の電話番号って何番だっけと思案していると「それなら」と岩泉が言った。

「今から学校戻ればいいんじゃねえか? まだ部活中だし、バレー部の連中にも知らせてやれんだろ」

 するとユカも賛同して、及川も「そうだね」と立ち上がりバタバタと家を出る。

 さすがにユカはそのまま帰ると言い、及川と岩泉はユカを見送ってから元来た道を逸るように戻って学校へと急いだ。

 そうして辿り着けば、第三体育館に直行したい気持ちを抑えて職員室を目指す。

 職員室に入れば真っ先に自分の姿を目に留めたらしき担任が逸るように訊いてきた。

「及川! ど、どうだったんだ、結果は!?」

 その声に及川は満面の笑みでピースサインをした。

「おかげさまで合格デース!」

 瞬間、ワ、と職員室が沸いた。隣で岩泉が肩を竦める。

「俺と松川の合格発表の時とずいぶん反応ちげえな」

「僻まない僻まない」

「前言撤回。やっぱてめームカつく!」

 号泣野郎のクセしやがって、と悪態をつく岩泉に「号泣はしてない!」と突っ込みつつ職員室をあとにして及川たちは第三体育館を目指した。

 休憩のタイミングを見計らって監督及びコーチに合格の旨を伝えると、部員全体から歓声が上がった。

 

「さすがキャプテン! すっげええ!」

「及川さんおめでとうございます!!!」

「ぜったい正セッター勝ち取って、インカレ日本一目指してください!!」

 

 そして及川は、「そこ」に行けば当然のように要求されるのは「日本一」なのだと後輩たちの声でハッと気づかせられ、少しばかりの恐怖心を内包して武者震いに震えた。

「うん。ぜったい正セッターになってみせる」

 応えると後輩たちはまたワッと沸き、監督も嬉しそうな笑みを零して頷いた。

「及川……本当におめでとう。君のような優秀な選手を教え子に持てたことを心から誇りに思うよ」

「ありがとうございます、先生! あ……それから、受験終わったんでまたしばらく頻繁に部活に顔出しますけど、よろしくお願いしまーす」

 そうして笑って告げると後輩たちの空気が微妙に変わり、岩泉が笑いながら皆に告げた。

「まあ、目の上のタンコブで邪魔だろうがしばらく我慢してくれ」

「ていうか岩ちゃんもそうだよね!? 松つんもそうだよね!?」

 そうしてひとしきり話を終えると、今日は引き揚げて及川と岩泉は今度こそ帰路についた。

 一度目と違って、足取りはすこぶる軽い。鼻歌交じりで軽くスキップさえ踏んだ。

「及川」

「なに?」

「浮かれてるようだから言ってやるけど、大変なのは入学してからだからな」

「今日くらい浮かれても良くない!?」

 相も変わらず岩泉の水を差すような一言に突っ込みつつも、その通りだな、と思う。

 もしかしたら自分は、ただ思い知らされるだけなのかもしれない。凡人は引っ込んでいろと、ベンチにも入れないまま4年が過ぎてしまう可能性だってある。だが、それでも選んだのは自分だ。

「ウシワカが深体大なら、筑波大とも頻繁に試合とかすんじゃねえか?」

「たぶんね。あいつ一年からレギュラーとか取ったりしそうだし、やんなるよね全く」

「合同合宿とかあったりすんだろ。今度は同郷出身の仲間になんだし、仲良くやれよ」

「同郷関係ないし! てか違う大学なんだしあいつは今度も敵じゃん!」

 言いつつも及川は少しだけ予感めいたものを感じた。

 今後も幾度となく、あの「怪童・牛若」と相まみえることになるだろう。

 おそらくは、バレーを続けていく限りは自分を追ってくる影からも逃れられない。と、2年後には確実にどこかの名の知れた強豪に入るだろう元後輩・影山の姿も浮かべて及川はゴクリと喉を鳴らした。

 分かれ道が来て「じゃあな」と岩泉が自分に背を向けた。

 これからは彼とは違う道を行く。自分はもう、岩泉の歩く道を共に歩むことはないだろう。

 けれども、食らいついていけるのだろうか?

 こっちへ来い。と手招きする──「天才」の領域へ。踏みつぶされてボコボコになぶられてもしがみつく覚悟があるのか。

 ──「ある」とはまだ断言できないが、今まで避けていた「挑戦」という一歩を踏み出す覚悟は出来た。

 けれどもやっぱり少し怖いかな。と肩を竦めて、見えなくなった岩泉の歩いていった道に背を向けて及川も自宅への道を歩いていった。



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54話:及川徹と天才たち

 1月に入ればすぐにセンター試験があり、その後は自由登校となる。

 ユカはセンターは全く問題がなかったらしく、試験慣れとセンター併用も兼ねて受けた花巻もある程度の手応えを覚えていたらしいが、センター終了後も二人は依然として受験戦争に身を置く立場である。

 

 ユカに至っては受験まで東京で受験対策をするのだと、登校義務がないのを幸いに上京してしまっており現在は仙台にいない。

 及川は午前中は「上京まではやれ」と押しつけられた家事全てを午前中に片づけて昼過ぎに登校して体育館で自主練習を行い、その後に部活に参加して通常練習を行うという日々を過ごしていた。

 日中にある程度の空き時間が出来たゆえに、及川は今まであまり歩いていなかった場所をじっくり歩いてみたりを繰り返していた。

 この先、もしかしたら一生自分は仙台に戻ることはないのかもしれない。なぜだかそんな気がしたからだ。

 何だかんだ18年間過ごした場所で、愛着あるよな。と、散策ついでに及川はふらりと卒業後は一度も近寄らなかった北川第一の前に立ったりもしてみた。

 校門の外から中を見つめつつ思う。

 中学時代に良い思い出はあまりない。──牛島に出会って、ユカに出会って、そして影山に出会った。中学時代がなければ今の自分は確実に居ないのに、それでもまだ「良い思い出」に出来ていない。丸ごと消し去りたいのに、消し去れば自分が消えてしまう。そんな矛盾をあまり認めたくなかった。

 ──こう考えるとき、やっぱりユカは確実に自分に苦みや痛みも与える存在だというのに。厄介なことに、ユカがいない生活なんて自分にはきっともう耐えられない。

 たぶんきっとそれは牛島や影山も同じ……と考えそうになってハッと及川は首を振るった。

「ナイナイ! ウシワカ野郎と飛雄がユカちゃんと同じとかナイ!!」

 けれども、と思う。

 ユカを好きになったように、もう少し違う関係を彼らと築けていたとしたら。彼らのことも今よりは理解できていたのかもしれない、と。

 でも、そうできなかったのだ。未だに牛島の顔を見ると勝手に苛立ってしまうし、影山にだって今さらどう接していいのか。

 

『秋山小出身、影山飛雄です。バレーは小2からです。よろしくお願いします』

『及川さん、サーブ教えてください!』

 

 自分が欲しくて欲しくてたまらなかった、自在にボールを操れる手を持つ後輩。彼のトスを初めて見た時の衝撃は、いまもはっきりと脳裏に焼き付いている。

 あの衝撃はあの頃に抱えていた焦燥を加速させ、無邪気に自分を慕ってくる後輩をただただ拒絶した。

 ──「主将」さえ拒絶する後輩。そんな事実が後に影山を孤立させる遠因になったかは定かではない。

 己の「天才」ぶりを自覚できない影山は、周囲にも自分と同等の力を求める。いくら北川第一を離れた彼が「仲間」や「先輩」と呼ぶに相応しい人たちに出会ったとはいえ、そこは県内の一公立校。類を見ない「天才」と彼らの技能的なギャップはいずれ歪みとなって現れるだろう。

 だが。だが、もしも中学の頃に自分が影山とちゃんと向き合っていたら……? すれば何かが変わっていたのだろうか。

 すれば……彼はあっと言う間に自分を追い越して、その才能を存分に発揮するセッターへと育っていたのだろうか。

 だとすれば、もしかするとその「もしも」は北川第一に恩恵をもたらしたのでは、と考えそうになって及川は唇を噛みしめた。

 あの頃の自分がその事に……いや今でさえ耐えられる自信はない。仮にその事──影山と仲間で、「先輩と後輩」でいる──がどれほど自分のチームを高みに導くために有利に働くのであっても、だ。

 だから、自分たちはどうあっても元の関係性を変えることはできないのだ。どうあがいても、自分は彼の「先輩」にはなれない。

 それでもね、飛雄。と及川は呟いた。

 ──俺は例えそれが皮肉でも、「王」と呼ばれるに相応しい才能を持ったお前を羨ましく思ったんだよ。

 と、一度体育館の方へ向けようとした足を止めて及川は北川第一に背を向けた。まだ、あの体育館に足を踏み入れたいと思う心境にはなれていない。

 心から愛着のある青葉城西と違って、確実にこの場所にはわだかまりが残っている。

 だからなのだろうか──、と及川は「体育教師になって北一でバレーを教えるのもいい」と言っていた岩泉の言葉を思い出した。

 岩泉の中でも、影山とのことがわだかまりとなって残っているのかもしれない。

 

『バレーはコートに6人だべや!』

『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 

 無意識だったのか、意図的か、岩泉はあの時に後輩だった影山を「自分たちの共通の敵」だと暗に言った。言ってくれた、と言った方が正しいかもしれない。

 あの言葉はずっとずっと自分の希望だった。天才に対抗するためのたった一つの手段。それが間違いであると認めてしまえば、きっと自分はバレーを続けられない。そんな事すら思っていた。

 けれども──。

 

『6人で強い方が強いってのは、その6人に俺が含まれてなくても変わんねえだろうが、ボゲ!』

『俺がいなくても……お前は最強のセッターだべや!!』

 

 強い6人が機能したチームが強い。──そしてそんなセッターになれ、と岩泉はかつての自分の言葉を言い換えた。

 もしかしたら岩泉は、もうこれ以上、かつての後輩を敵視し続けることに嫌気がさしたのかもしれない。なんて考えすぎなのだろうか?

 けれどもたぶん、岩泉は岩泉なりに何かを抱えて、何かを変えようと、いずれ指導者として北川第一に戻りたいと言っているような気がしてならないのだ。

 子供だった自分たちが揃って一人の後輩に向けた「敵意」が、今も燻ってわだかまっている。

 ──って、飛雄はおバカだから、自分たちの彼へ向かう感情の正体になんか気づいてないだろうけどさ。

 と、いっそ憎らしいほどマイペースな後輩の姿が過ぎって及川は肩を竦めた。

 

『及川さんのサーブ、相変わらずかっけーです』

 

 そうだ、敵意なんて向けても無駄。飛雄はどうせ、飛雄でしかない。

 

『及川さんを越えて県一番のセッターになるのは俺ですから』

 

 せいぜい俺のいない宮城で一番のセッターになればいいよ飛雄。俺はもっと上に行く。いずれお前に完全に追い抜き去られる運命でも──そう簡単には負けてやらない。

 でも──。

 

『及川さん』

『及川さん』

 

 飛雄の中で、自分が飛雄の尊敬する「及川さん」でなくなったとき。ああ及川さんなんてこんなもんだったんだ、と自分を追い抜いた先で思われたとしたら。

 それに自分は耐えられるのかな……、と過ぎらせてしまうあたり、やっぱり自分はまだ「覚悟」とやらはできていないのだろう。

 ──「天才」が本当に羨ましいよ。天才のくせに、誰よりも貪欲で誰よりもがむしゃら。屈辱に耐えられないかもしれない、なんて恐れさえもなくて、ただひたすら真っ直ぐ。迷いなんてこれっぽっちも持ってなくて。

 

 だから自分は彼らを「天才」と感じて、皮肉にも惹かれてしまうのだろうか。と及川は相変わらずの自分の不毛さに苦笑いを浮かべて、どんよりと重苦しい冬枯れた空を見上げた。

 

 

 一方の影山飛雄は及川の心情など知るよしもなく、一昨年の暮れから愛用している及川にもらったマフラーに首元をすっぽり包んで月刊バリボーの最新号を手に入れるべく書店に寄ってから帰宅した。

「ただいま」

 部屋にあがって学ランを脱いで部屋着に着替え、さっそくパラパラとページを捲っている。今月号は主立った高校生の進路が特集してあるのだ。

「牛島さん……、は、深体大か。すげえ」

 全日本ユース代表でもある白鳥沢の牛島若利の進路は名門中の名門でもある深沢体育大学。──いいな、とちょっと羨ましく思った。

「あ、木兎さん……。東海大」

 木兎、とは烏野が合宿等で親しくしている東京の強豪校・梟谷学園の主将兼エースであった選手である。全国五指に入る屈指のアタッカーでありながら気さくで自分にもよく「トスあげてくれ!」とせがんでくれたりして他校ながら慕っている先輩の一人だ。

 彼は東海湘南大学──通称・東海大というこちらも名門に進学らしく、影山は少し心惹かれた。東海大から推薦がくれば、木兎と同じチームでプレイできる。というか推薦が来ない限り自力で進学は危うい気がする。と唸りつつページを捲って影山は思わず目を見開いた。

 

 ──筑波天王大学:宮城県私立青葉城西高等学校・及川徹。

 

 という文字が飛び込んできて「ハァ!?」と思わず声をあげてしまった。

「及川さんが筑波大……!?」

 マジかよ……、と思わず呟いてしまった。筑波大といえば国立の難関校かつ男子バレー部は関東一部リーグの超強豪校である。が、国立ゆえに他の私立大と違って内々で選手に声かけなどはしていないはずだ。

 ならばなぜ及川が? と頭を捻ったが、答えなど出るはずもなく読んだままを理解する。

 つまるところ及川は上京して関東一部リーグの強豪校でバレーを続ける、ということだ。

 目の前の事実を飲み込んで影山は、むぅ、と唇を尖らせた。

 ──目下、一秒でもはやく及川に追いついて追い越したいというのに、これではますます水をあけられた形になってしまった。

 ハァ、と息を吐いて雑誌を閉じると、影山はそばに置いていたバレーボールを手にとってごろんとベッドに仰向けになった。

 ──「あの」及川さんを越えるなんて、やはり大きすぎる野望だったのだろうか。

 性格は心の底から最低だと感じているが、コートに立った時の及川は誰よりもかっこよくて、強くて、初めて見た日から自分のヒーローだ。

 本当に嫌な人だが、セットアップ上手くて格好いいし、サーブも格好いいし、ブロック高いしレシーブ上手いし。

 やっぱり及川さんは格好いい。──マフラーくれたし、少しは良いところもあるのかもしれない、とちらりと制服と一緒にハンガーにかけたマフラーを見やって影山はため息を吐いた。

 けれども……と思う。筑波大では万に一つも自分が入るのは無理だ。学業面で完全にアウトである。

 それに、もう一度及川と同じチームになりたいなんて思ったことはない。と影山は眉を寄せた。

 どうせ彼は他の後輩たち──金田一や国見に向けるような笑顔を自分には向けてくれないし、なにも教えてくれない。

 それでもたぶん、自分は毎回期待しているんだと思う。「しょうがないな、いいよ」っていつか振り返って向き合ってくれるんじゃないかと挑み続けて100%の確率で玉砕して、断られることには既に慣れた。

 それでも──。

 

『俺、推薦断りました。青城には行きません』

『お前、ウチに来るのが怖いの? 金田一たちとまた一緒にやる自信ないんだろ、”王様”だもんねお前』

 

 もしも怖いものがあるとしたら、それは金田一たちと一緒にやることじゃねえ。アンタが、金田一たちに「だけ」良い先輩でいるとこを目の当たりにしたくなかった。と、影山は持っていたボールをグッと握りしめた。

 

『アンタがいるから……、俺は青城には行かない』

 

 自分はたぶん、他人の感情の機微を読みとるのはとてつもないほど下手で、他人の心情なんて良く分からない。だからずっと及川のあとを追っていた時も、なぜ及川が犬や猫と同じように自分を理由もなく避け嫌うのかワケが分からなかった。心底性格が悪いのだろうと解釈したし、実際に性格が悪いと思っているのは今も変わらない。

 けれども他のチームメイトは口を揃えて「及川さんは優しい」「良いキャプテンだった」と口にしていたし、実際に彼はチームをよくまとめていたと思う。

 じゃあなんで自分が……と分からないまま及川の卒業を見送って、そして自身が3年になり迎えた中総体の県予選決勝。スパイカーたちは自分のトスを拒絶し、自分のあげたトスは虚しくコートに落ちて自分は初めてチームメイトたちに仲間として受け入れてもらえていないのだと知った。

 ──コート上の王様。というあだ名を広めたのも北川第一のチームメイトたちだ。それほど彼らにとって自分は我慢のならない存在だったということだろう。

 「さすが、あの及川さんが嫌ってただけあるよな」「だよな、さすが王様」。そんな言葉をたびたび耳にした。そうして自分は初めて、客観的に「及川が自分を嫌っている」という事実を理解した。

 もしかしたら気づかないうちに彼の気に障ることをしてしまっていたのかもしれない。けれども、いくら考えても思い当たらないのだ。毎日毎日、あの大きな背中を追いかけていただけ。振り向いて、教えて欲しかっただけだ。

 見よう見まねで、サーブもブロックも全て及川を「見て」覚えた。けれど、自分が望んでいたのはそうじゃない。

 ──青葉城西から推薦の話をもらったとき、本当はずいぶんと悩んだ。

 第一志望は白鳥沢だったが、青葉城西のことも全く考えなかったわけではない。

 北川第一のメンバーが何人も進学するといっても全員じゃないし、トスを拒絶された事は青葉城西を蹴る決定的な理由にはなり得なかった。

 ただ、北川第一の頃を繰り返すのだけは心底イヤだった。自分はもう既に自分自身が及川に嫌われていることを知ってしまっていたし、自分以外にとって及川が良い主将であり先輩であったことも理解してしまっている。

 

『だいたいお前が言ったんだろうが、俺がいるから青城に来るってサ。100%違うよね言ってること』

『じゃあ俺が青城行けば及川さんサーブ教えてくれるんですか?』

『教えねーよクソガキ!』

『なら意味ないです』

 

 及川を追って青葉城西に行ってもいい。と思っていた頃の自分は、自分がトスを拒絶されるほどチームメイトに拒否される存在だとは、及川に嫌われている存在だとは自覚がなかった。

 だから、そんなメンツばかりの青葉城西に行っても北川第一の頃を繰り返すだけ。そんな無意味な時間の過ごし方は心底ゴメンだった。

 別に及川がいなくともバレーは続けられるし、手本になるような上手い選手はいっぱいいる。及川から得られなかったものは他で得ればいいし、目標が及川を越えるセッターになるということに変わりはない。

 なのに。なんであの人、こうも他人を引っかき回してばっかなんだ。といっそ嫌なる。

 もっと嫌なのは、こう思っている今でさえ不意に及川が気まぐれにでも「教えたげる」とでも言えばどこへでも飛び出して行ってしまうのだろうな、ということだ。

 

 ──いまなお、及川徹という存在の大きさが自分の中で変わらない。

 

 けれども筑波大への進学を決めた彼は、ますます遠い存在になってしまった。

 たぶんこの先、彼と再び同じチームでプレイするというチャンスにはきっと恵まれないだろう。だからもう、いい加減本当に諦めたい。たぶん及川に会えば、自分は及川を恐れながらも彼のあとを追ってしまう。きっとチャンスがあれば「教えてください」と言ってしまうだろう。話さえ聞いてくれないと知っていながら、きっとバカみたいに同じ事を繰り返してしまう。

 でも、もしかしたら死ぬまでに一度くらいは──。一度くらい、気まぐれを起こしてくれるかもしれない、と思っているからきっと自分はまた繰り返す。

 

「及川さん……」

 

 ぼんやりと視界に及川の背中が映った気がして、影山は呟きながら手からボールを零れさせた。

 ジャージの色、青……なのだろうか。北川第一の頃なのか。

 大きな背中が振り返って──、そして彼がどんな表情をしていたかを視認する前に影山は意識を手放していた。



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55話:及川徹の卒業前夜

 ──バレンタイン! 男4人でチョコケーキを食おうの会。

 

 などというはた迷惑な企画を試験明けのナチュラルハイ状態で花巻が立ち上げてくれ、バレンタイン当日。及川はいつものメンツで仙台某所のスイーツショップにて4人でテーブルを囲んでチョコレートケーキを頬張っていた。

「なんかスゲー視線感じるんだけど」

「俺たち目立つんじゃん?」

「今日の場合は悪目立ちだろ完全に」

 一人岩泉が居心地悪そうにしつつも、及川たちは花巻オススメのスイーツに機嫌良く舌鼓を打った。

 元より及川は今日ははじめから登校する予定もなく、もしかしたらチョコレートを抱えた女の子が自宅にやってくる可能性もあったために外出の誘いはありがたかった。しかし。

「俺、誰からもチョコもらわないバレンタインってはじめてかも……」

 何気なく呟けば、ピク、と目の前の男たちのコメカミがヒクついた。

「うわまじでイケメンないわー、ナチュラルにむかつくわー」

「さも当然のようにいっそホッとしたように主張してるところが腹立つな」

「それな」

「お前らの解釈悪意ありすぎじゃない!?」

 反論しつつ及川は思う。女の子がチョコレートを用意してくれているのは単純に嬉しいし、全て笑顔で受け取るようにはしているが、だからといって自分から能動的に欲しいかというとそうでもない。今日の場合は正式に登校拒否でも許されるため、自分は自分のいい方を選んだだけだ。

 そもそもチョコをもらいたい相手がそばにいないのに、あんまり他の女の子から受け取りたくもない。

「ていうか誰からももらわないってお前カノジョいたじゃん? ついにフラれた?」

「フラれてないし! ユカちゃんはセンターのあとからずっと東京。たぶん卒業式の前じゃない? 戻ってくんの」

 ふーん、と松川が相づちを打って、及川は頬を顎で支えた。

「けど、合格発表は卒業式のあとらしいし、たぶん式のために戻ってきてすぐ東京戻ると思うんだよね」

「あれ、及川はいつ上京すんの?」

「俺も卒業式終わったら行くよ。春休みの練習、参加したいしね。マッキーは?」

「俺は……、まあ受かってたら一人暮らし用のアパートとか本格的に決めるだけ決めて、移動すんのは直前かな」

「あー……俺も部屋決めないと」

「寮とか入んねーの?」

「ヤだよ。思ったより賃貸料安いっぽいし、俺は広々と快適に過ごしたいの」

 ──それに寮だとユカを部屋に呼べない。などという邪な理由があるわけではない。決してない。という言葉をどうにか飲み込むと、松川はニヤニヤと口元を緩め、隣の岩泉は固まった気配が伝って、花巻に至っては相手がユカと知っているせいか若干居たたまれないような反応を見せ、及川はがなった。

「ちょっと! お前らぜったい変な想像してるよねやめてくれる!?」

 そうしてケーキを食べ進め、店を出れば寒空に耐えきれずに早々にカラオケルームに避難して時間を潰した。

 たぶんこうして4人揃って出歩くことも今後はそうはないだろう。当たり前のように過ごしていた時間が凄く貴重で、たぶんそれは他の3人にとっても同じなんだろうなと及川は感じた。

 本当に自分はいい仲間に恵まれたと思う。最初は、きっと彼らはレギュラーになる人材だから仲良くしておかなければ、という義務感から連んでいたが、花巻も松川も自分にとっては一生涯の友人となるに違いない。

 青葉城西に入って良かったと思う。バレー選手としてのキャリアという意味で遠回りだったとしても、自分はここでしか得られなかったものをたくさん得られた。

「俺の合格が決まったら、4人で温泉とか行かね?」

「なに、卒業旅行ってヤツ?」

「男4人で温泉旅行かよ。最初から最後まで俺ら何なんだよ」

 最後にそんな話をして今日は解散となり、白い息を吐きながら及川は岩泉と共に帰路についた。

 温泉旅行ほんとにいいかもねーなどと話しつつ、渦中のユカを思えば自分たちがいまこうして呑気に楽しんでいるのが少し申し訳ないような気がした。

 今日はバレンタイン。家に帰ったらユカに電話しようかな、と浮かべつつ及川はそのまま上機嫌で夜道を歩いていった。

 

 

 一方。

 バレンタインを数日過ぎた辺りで及川から花巻も第一志望に合格して脱・受験したというメールを受け取ったユカは「良かった」と思うと同時に少々羨ましく思った。

 彼らは最後の思い出作りとばかりに、週末を使って山形に温泉スキー旅行に行くらしく……「いいなぁ」とリアルに呟いてしまった。

 たぶん例によって花巻の趣味の一つがスキーとかだったりするんだろうな。と、相も変わらず仲の良さげな四人を横目に自分は受験である。

 ──油絵科、一次試験はデッサン。ただしどんな素材や道具で描けと言われるかは不明なため、受験対策をしてあらゆる道具に慣れたつもりだ。

 おおよその受験者は現役の18歳から22,3歳ほど。その年齢が対象の全国規模のデッサンコンクールでは出せば自分がほぼ確実に一番を獲るというほど自信と自負があるのがデッサンだ。まだまだ完璧にはほど遠いと分かっているが、さすがにデッサンで落ちたら立ち直れないかもしれない。

 という不安と緊張も湛えて、ユカは2月の最終週の木曜日に一次試験に臨んだ。自分が会場に入れば……やはり多少は目立った。

「栗原ユカ……」

「栗原ユカだ…!」

 でも、見られているのも自分についてあれこれ言われるのも平気だ。絵に関してなら平気。

 課題は捻りなく木炭による石膏デッサンだった。

 ユカは気負わず、あくまでいつも通り自分のペースで淡々と描き終えて、自分の中で完成を決めると試験を終えて会場を出た。

 ──これで受かっていたとして。二次試験にまさかの「人物画」などが出たらぶっつけ本番になってしまう。もちろん描けないわけではないが。

 と、祖父母の家へ向かう電車に揺られつつ思う。一次の合否が出るのが週明けの月曜。受かっていれば、その週の水曜~金曜かけて二次試験。そして翌土曜は卒業式のために試験が終わればすぐに仙台に帰らなければならない。

 合格発表は3月の中旬だが、すぐに入学手続きに入らなければならないし、どっちにしろ二次に進めた場合、合否を問わず卒業式明けの月曜には東京に戻ってこようと思う。

 確か及川も春休みに入ればすぐに上京すると言っていたし──、一緒に、と考えつつ祖父母の家に辿り着くと、さすがにその日はゆっくり休息を取った。

 

 週末は夜になれば大量に届く及川からの卒業旅行楽しんでますメールを見やりつつ油絵の最終チェックをゆっくりやりながらソワソワして過ごし、週があけて午前中のうちに大学のウェブサイトをチェックして自身の受験番号が載っていたことにホッとユカは胸を撫で下ろした。

 

 

「センセー! ユカちゃん一次通ったってー!」

「ほんとか及川!!」

 

 及川はというと、最終週くらいはと学校に顔を出していた。というよりは筑波大から届いた事前課題なるものをこなすために取りあえず登校し、一限目の休みに届いたユカのメールを見るや否や廊下を歩いていた担任を捕まえて報告した。そうして自身もさっそく返信を送る。

 ──おめでと! 二次も頑張ってね。

 ──うん、頑張る。試験が終わったらすぐに仙台に帰るね。

 ──俺、迎えに行く。はやく会いたい。

 ──私も。

 珍しくユカからわざわざメールで「私も」と戻ってきて及川は少しだけ目を見開きつつも笑った。もう二ヶ月近くも会ってないし、さすがのユカちゃんも及川さんシックかな、と笑った。週末が待ち遠しい。きっとユカにとっては厳しい一週間だろうが、はやく週末になるといいな、と及川は鼻歌を歌った。

 

 

 ──二次試験・一日目。

 会場入りして恐る恐る課題を見やったユカの頬はにわかに緩んだ。

 ──今朝食べたものを描け。という課題で人物はいっさい関係なく、ユカは滞りなく課題をこなした。

 しかし本番は二・三日目である。でもこれまでも比較的得意な課題が出ているし、いけるのでは。と期待した翌日。「構内の風景を描け」という課題にユカは思わず心内でガッツポーズをした。

 持ち出し許可の出ている道具を持ち出し、さっそく美術学部構内の散策に出かけた。

 指でフレームを作り、枠から風景を覗き込んでみる。頭をフル回転させて、自分の技術力を全面に押し出せる難しい構図を選んだ。校舎・緑・コンクリートの光の反射。そしてここの学生として春には堂々とこの場所を歩いている自身の姿を思い浮かべて、強く頷いた。

 全ての情報とデッサンを試作用紙に書き込み、風景を脳裏にインプットさせて試験室に戻りさっそく作業に取りかかる。

 すっかり集中する最中にも、色んな人が自分の絵を覗いていっているのが分かった。その日の終了時間間際には現役の学生と思しき学生や助手などが自身の周りを取り囲んでざわついていた。──その反応でユカは既に手応えを感じたが、気を引き締め直して二日目を終えた。

 最終日に再び集中してしっかり仕上げまで済ませて、ようやく長かった自身の受験から解放されたユカは肩で息を吐いた。

 そしてもう明日は卒業式かと思うと、最後は駆け足で青葉城西を去ることになってしまい少し寂しく思う。

 なにより、自分はもうあと数日で仙台から永久に去るのだと思うと……あんなに越してきたころは馴染めなかったのに、「まもなく仙台駅に到着します」というアナウンスすら懐かしいと思うのだから随分と変わったものだと思う。と、いったん祖父母の家に戻ってからすぐに新幹線で仙台を目指したユカは、約二ヶ月ぶりの仙台駅にホッと息を吐いて新幹線から降りた。

 無意識に駆け足気味で改札に向かってしまう。及川には19時半には着くと連絡してある。

「ユカちゃーん!」

 聞こえた声に顔を上げると及川の方が先にこちらに気づいたのか改札の先で手を振ってくれており、ユカは思わず涙腺が緩みそうになってしまった。

 もどかしく切符を改札機に吸い込ませて、はやるように改札を抜ける。

「おかえりユカちゃん!」

「ただいま!」

 ギュッとそのまま及川の胸に飛び込んで抱きつき、及川もギュッと抱きしめてくれて二人で笑い合った。

「試験お疲れさま! どうだった?」

「得意な課題が出たから、大丈夫だと思いたい……」

 そのまま手を繋いで帰路につく。ユカは絵を描いてばかりの二ヶ月だったが、及川はバレーだけではなく仙台市内を今まで以上に散策したり、岩泉や花巻たちとの時間に費やしたりとメールや電話で伝えてくれた以上の話を聞かせてくれ、及川は及川で残された高校生活を目一杯充実させていたのだな、と光景が想像できるようで微笑ましく思った。

「ユカちゃん、明日なんだけどさ」

「ん……?」

「三人で学校行こ。俺と岩ちゃんで朝迎えに来るから、三人でさ」

 ね? と、ユカの自宅が見えてきたあたりで言われてユカは少しだけ目を見張った。

「岩泉くんと二人じゃなくていいの?」

「なんでさ。三人一緒がいいに決まってんじゃん。北一の時だってそうだったんだし」

「そういえば、卒業式のあとって三人で一緒に帰ったっけ……。あれからもう三年か、あっと言う間だったね」

「そうだね」

 あの頃は、まさかこうして及川と並んで歩くようになるとは少しも思っていなかった。と見上げた及川はすっかり中学生の頃のあどけなさが抜けて大人びた顔をしており、あっと言う間のようでいて、確実に三年という月日が経っていることをユカは改めて実感した。

「じゃ、また明日ね」

「うん。送ってくれてありがとう」

「どういたしまして。おやすみ」

 チュ、と及川が額にキスしてくれ、ユカは笑って手を振ると門をくぐって久々の自宅のインターホンを鳴らした。

「おかえりなさい、試験どうだった?」

「ただいま……。ちょっと疲れちゃった」

 久々に見る母の顔にホッと息を吐き、夕食をとってゆっくり風呂に入り、制服のチェックをしてベッドに入った。



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最終話:及川徹の新たなる旅立ち

 ──翌日。三月第二土曜日。

 

 ゆっくりと朝食を取って、最後となるだろう制服に袖を通すとユカは鏡の前に立って前後をチェックした。

 そうこうしているうちに携帯が鳴り「もうすぐ着く」と及川から連絡を受けて家を出た。

「いってきまーす」

 そうして門の前で待っているとすぐに及川と岩泉が連れ立って現れ、そのまま三人で学校を目指す。

「しかし、ようやくこの拷問制服とおさらばできると思うとせいせいすんな」

 道すがらボソッと岩泉がそんなことを呟き、及川がケラケラ笑ってユカは肩を竦めた。

「岩泉くん、北一の学ランほんとに似合ってたもんね……」

「俺的には青城の制服は俺のためにデザインされたと言っても過言じゃないほど似合ってると思うけどネ」

「おめーの話はしてねぇよクソが」

「制服似合わないからって僻みはみっともないよ」

「あと数時間で脱ぎ捨てるモンに誰が僻むか!」

 相変わらずのやりとりにユカは苦笑いを浮かべつつ「でも」と制服を見やる。

「何だかんだ、制服って便利だよね」

「まあ、毎日なに着るか考えねえで済むしな」

「センスない人は大変だね全く」

「おめーの私服ちょーダセエって花巻が言ってたべや」

「ウッソ!?」

 ショックだったのか目を丸めて固まる及川を横目に、彼らのこの漫才じみたやりとりを見ることも今後はないのかと思うとやはりどこかもの悲しい。

 仙台駅に出ればちらほら青葉城西の制服も散見されるようになり、揃って青葉城西行きのバスに乗ってしばし揺られ、学校に着けば正門には「卒業式」と大きく看板が掲げられており、正門をくぐるや否やワッと声があがった。

 

「及川せんぱーい!」

「卒業おめでとうございますー!」

「せんぱい、卒業しちゃわないでくださいー!」

「及川さあああん……!」

 

 思わずユカは無意識に岩泉と顔を見合わせてしまった。瞬間、岩泉も感じていたのは三年前のデジャブだったに違いない。

 

「みんなありがとう!」

 

 及川は今日が最後だからかいつも以上に華やかな笑みを女生徒たちに向けつつそのまま校舎に向かい、ユカと及川は揃って教室に入った。

 ユカたちのクラスは国立理系ゆえに、まだ後期受験予定の生徒が複数おり、みな晴れ晴れというよりはやや疲れの残った様子も見られた。

 ユカ自身も合否を待つ身ゆえにやはり心から晴れ晴れというわけにもいかず、最後の朝礼を受けて揃って第一体育館に移動し、卒業式の開始を待った。

 在校生代表は二年生全員と一年生の代表者のみで、卒業証書は式のあとのホームルームで担任から直接手渡されることとなっており、校長ならびに来賓挨拶、送辞・答辞に校歌斉唱と滞りなく式は進んだ。しかしながら在校生代表・卒業生ともに式が進むにつれて泣き出す生徒もちらほら見られ、しんみりとした雰囲気のまま式は終わった。

 やはり及川が会場を去る際には在校生代表の女生徒やバレー部の後輩らしき男子生徒から歓声があがっておりちょっとした騒ぎとなるも、青葉城西の生徒はその様子も慣れたもので各自が教室に戻ってそれぞれ担任から卒業証書を受け取って最後の挨拶を終え、解散となった。

「及川君、写真いい?」

「モチロン」

 しかし解散になったらなったで及川はクラスメイトに囲まれており、ふ、とユカは頬を緩めた。きっと教室を出たら他クラスの生徒に囲まれて、校舎を出たら後輩に囲まれてしまうのだろう。それは三年前と全く同じだ。

 最後だし、自分はゆっくり構内を回って来よう。と、ユカは毎日のように歩いていた場所を確認するようにじっくり見て回り、特別教室棟に足を踏み入れて多くの時間を費やした美術室をぐるりと見渡した。

 そのまま外に出て、校庭をゆっくりと歩いてみる。よくスケッチしに通ったテニスコート、グラウンド。ゆっくりと一周して第三体育館の方に戻ってくると、入り口あたりに女生徒の人だかりが出来ているのが見えてユカは瞬きした。

 及川だな……と騒ぎの中心にいる頭一つ二つ抜け出た長身を視認して、そのまま何気なく見ていると、「囲まれちゃってんね」と不意に背後から声をかけられ、びく、とユカは肩を撓らせた。

「ワリ、驚いた?」

 見やると、申し訳なさそうに肩を竦める青年がいて「花巻くん……」と呟きつつユカは笑みを浮かべると「ううん」と首を振るった。

「ちょっと懐かしいなって思ってたの」

「ん……?」

「北一の卒業式の時と全く同じなんだもん」 

 言えば花巻はキョトンとして、次いで「なるほど」と苦く笑った。

「及川ってさ、まあ有名人だったし俺も中学ん時から顔と名前は知ってたんだけど……。なんていうか、実際話してみると割と予想外なキャラだったんだよね」

「え……?」

「栗原さんもあいつのプレイ見たことあるデショ? やらしいプレイするし、もっとスカして気取ったヤーなヤツだろうなって思ってたんだけど……」

 言って花巻は言葉を濁したが、続けたいだろう言葉をユカは何となく察して少し肩を揺らした。すると花巻も呼応するように切れ長の目を細めた。

「あんなバレーバカでがむしゃらで痛々しいくらい一途なヤツだなんて反則だよね。だからさ……」

「え……」

「これからも仲良くやってね」

 言われてユカは瞬きをしたものの、すぐに「うん」と笑って頷いた。すると花巻も、ニ、と笑って頷いた。

「それじゃ、俺行くわ」

「あ……花巻くん」

「ん?」

「合格おめでとう。関西でも頑張ってね」

 すると花巻は一度瞬きをしてからいつもの淡々とした表情を崩して破顔した。

「サンキュ。じゃーね、栗原さん」

「元気でね!」

 手を掲げてくれた花巻に手を振り返して見送り、ユカは再び視線を及川の方へ戻した。何やら撮影会をしているらしく、当分終わりそうにないかな、とキョロキョロしつつ歩いてみる。

 たぶん岩泉も残っているのではないだろうか、と岩泉の姿を探した。三年前は痺れを切らせた岩泉が帰宅する自分と並んで歩き始め、そのあとを及川が追ってくる形で一緒に帰ったが。さすがに今日は及川を置いて帰るのは憚られる……とふらふらとそのまま正門の方へ歩いていくと校舎前の木の幹に寄りかかってしかめっ面をし腕組みをしている岩泉を見つけて「あ」とユカは声をあげた。

「岩泉くん……!」

「おう。ったく及川のヤツ、まだ終わんねぇのかよ」

「う、うーん……。もうしばらくかかるんじゃないかな」

 岩泉は心底うんざりした様子で第三体育館の方へ視線を投げ、ユカも少し肩を竦めた。そうしてまたしばらく時間が経ち、岩泉から漏れてきたのは盛大なため息だ。

「もう先帰るべ」

「え、も、もうちょっと待ってみようよ……!」

 痺れを切らしたらしき岩泉がくるりと踵を返そうとしてユカは慌てて止めた。

 その後、小一時間ほどして「ごっめーん」と笑いながら抱えきれないほど大量の花束やプレゼントを抱えて現れた及川に盛大にブチキレた岩泉は、さらに及川の手から溢れた荷物も仕方なく持ってやる羽目になり終止地団駄を踏んでいた。

「とっとと帰ってりゃ良かったわ」

「しょうがないじゃーん。岩ちゃんに挨拶したい女の子がいなくて、俺にお別れ言いたい女の子がたくさんいたんだからサ」

「くたばれクソが!」

「いたッ!!」

 バス待ちの列で岩泉が及川に蹴りを入れ、ユカはもはや苦笑いを漏らすしかなかった。

 それにしても、と思う。北川第一の時は及川の学ランのボタンはきっと全部奪われてしまうだろうなんて岩泉と笑い話をしていて、でも全部無事で。そんな漫画じみたことはないのだと感じた矢先に、どうやら本人が全部断ったのだと知って及川らしいと思ったものだが。

 今回もやっぱり断ったのかブレザーのボタンは無事だな、とちょうど目線の高さである及川の制服を見ていると「ん?」と及川から不審そうな声が降ってきた。

「なに、どうかした?」

「な、なんでもない」

「なになに、今回こそ及川さんの第二ボタン欲しくなっちゃった??」

 すると愉悦を含んだような声で及川がヘラッと笑い、ぐ、とユカは息を詰まらせる。さすがに「いらない」と切ってしまうのは憚られて曖昧な笑みを浮かべておいた。

 

 

 卒業式翌日の日曜日。

 及川は茨城に送る用の荷物の最終確認をして全て段ボールにまとめた。住所が決まればすぐに送ってもらう予定である。

 下旬に差し掛かる来週からはバレー部の練習に参加する予定であるし、とにかく、できれば明日中に部屋を決め、生活用品を購入して何とか新生活を始められる体勢を整えなければならない。

 既に何件か目を付けている物件があるし、先方も気に入れば即日入居可だと言ってくれている。向こうも学生相手に毎年の仕事ゆえに慣れているだろうしきっとスムーズにいくだろう。

「よいしょ、と」

 コレだけあれば数日は平気だろうという生活用品をスーツケースに詰め込み、その日の晩は家族と共にゆっくり食事をとった。

 

「それじゃ行ってきまーす! お父ちゃんお母ちゃん、元気でね!」

 

 翌日、及川はいつも通り、両親が仕事に出るよりも前に普段通りに笑って両親に別れを告げ家を出た。

 たぶん、こうしてこの家でこんな朝を迎えるのは人生で最後だろう。──なんて根拠もない予感が沸いたがむろん実感などまるでなくて、そのままゴロゴロとスーツケースを転がしていると後ろから見知った声に呼び止められる。

「及川!」

 いつも通りの聞き慣れた声。──岩泉の声だ、と及川は笑って振り返った。

「やっほー岩ちゃん。俺との別れがたい朝がついにきちゃったね」

「お前が最後まで気色悪いクソ野郎だったということをいま改めて確認した」

「最後までほんとヒドイよね!?」

 こんなやりとりも明日からはできないと思うと妙に感慨深かったが、それでも不思議と寂しさはなかった。だってそうだろう、自分たちは離れていても一緒だし、それにこれから自分にはやらなければならないことが山のようにあるのだから。

「岩ちゃんって春休み中ヒマなの?」

「あ? んなワケあるか。お前たち見送ったあと、大学の練習に参加する」

 そっか、と及川は頷いた。おそらく彼は自分を見送ったその足でそのまま大学に向かうのだろう。練習着等が入っていると思しき大きなバッグを提げている。

「松つんによろしく言っといて」

 おう、と頷く岩泉と並んで雑談を交えつつ仙台駅に行き、改札のそばでしばし待っていると、待ち人──ユカが及川とは違ってごく身軽そうな装いでやってきた。

「おはよう及川くん。岩泉くん、来てくれたんだ」

「おう」

「岩ちゃんが俺と別れたくないって泣いて縋ってついてきちゃったんだよネ」

「サラッと話作ってんじゃねーぞクソ及川」

 及川はいつも通りケラケラと笑い、何だかんだ当たり前のように新幹線ホーム内への入場券を買って見送りに着いてきてくれた岩泉に、ふ、と口元を緩めた。何だかんだ、家族の次に毎日のように長い間顔を合わせていた人物は岩泉をおいて他にはいない。バレーを始める前からの付き合いなのだ。いままでの人生の半分ほどの時間を自分たちは共有している。

「岩ちゃん、明日起きても俺には会えないからね!」

「しつけえ」

「一刀両断!?」

 ホームにあがって、新幹線の出発時間も近づいてきて最後の挨拶をしようと向き直ればバッサリ切られて及川は表情全体でショックを表しつつも肩を竦めた。

 一方の岩泉はなぜかユカに向き直っている。

「栗原。こいつに何か面倒な事を言われたら迷わず力の限り全力で殴っていいぞ。俺が許す」

「それ岩ちゃんが許しても司法が許さないよね!? ていうかユカちゃんに物騒なこと吹き込むのやめて!」

 及川は横から突っ込み、ユカはというと苦笑いのようなものを浮かべていた。

 

「13番線に8:33発、はやて112号・東京行きが16両編成で参ります──」

 

 ホームアナウンスが鳴り響き、ハッと三人は顔を見合わせる。

 ユカは黙って及川と岩泉を見やった。今生の別れというわけではないが、きっと互いに別れがたいはずだ。

 そうこうしているうちに新幹線がホームに入ってきて巻き起こった風がユカの髪を揺らし、岩泉の方が先に及川に向かって口を開いた。

「泣き言言って逃げ帰ってきたらブットバスからな」

「最後まで悪口挟むわけ!?」

「及川」

「なに」

「死ぬ気で正セッター、奪い取れよ」

 真っ直ぐに及川の瞳を見据えて岩泉が言い、及川は少しだけ目を見開いたのちに、クシャッと破願した。

「モッチロン! そのつもりだよ」

 言って二人はガシッと拳を合わせ、二、と笑い合い。ユカも改めて二人が確かな絆で結ばれた親友同士なのだと感じながら、ふ、と笑った。

「じゃーな栗原、大学受かってるといいな」

「うん、岩泉くんも元気でね」

「おう」

 ユカも岩泉に挨拶をし、一度及川と顔を見合わせてから二人で岩泉に背を向け新幹線へと乗った。そして席について窓から必死に岩泉へと手を振る及川の隣でユカも手を振り、新幹線は東京へ向けて定刻通りに出発していく。

 仙台駅を出てしばらくして、ふ、と及川は息を吐いていた。

「さびしい……?」

「ヘーキ。俺にはユカちゃんがいるしね」

 声をかけると、及川は切り替えたようにニコッと笑ってユカは苦笑いを漏らす。

 まだ自分の合否は出ていないし、それに例え合格していても及川と一緒にいられる時間はそう長くはない。──と考え込みそうになったところで「そうだ」と及川は明るく笑った。

「ユカちゃん、住む場所とかもう決めちゃった?」

「一応いくつか絞ってるけど、合否がでないと何ともいえない」

「合否が出るのって明後日だっけ? お互い揃えなきゃいけないものとかあるし、発表のあとで家電とか一緒に買いに行こうね」

「え……」

「だって東京はユカちゃんの方が詳しいし、一緒に選びたいじゃん」

 ニコニコと及川が声を弾ませて、う、とユカは唸った。確かに最低限の家電は必要であるし、むろん一緒に買いに行くのは構わないが──改めてお互い、もしも自分が受かっていればお互い一人暮らしが始まるのか。と考えていると及川がこちらの顔を覗き込んできた。

「部屋、決まったら遊びに行ってもイイよね?」

「え……」

「あ、俺のところにもモチロン来てイイよ! 余裕でユカちゃんも泊まれるスペースある部屋にするし」

 そうして及川は自分が割と広めの部屋に住む予定であることをつらつらと説明してくれ、ユカはほぼ自動的に頬が染まっていく感覚を覚えた。──元より大学が同じ市だったら「一緒に住んじゃう?」などと言っていた及川の真意など分かりきっているため探るつもりもない。が。

 それでも無意識のうちに小さく唸っていると、「ユカちゃん」と少し低く呼ばれた。

「さすがに……もうそろそろイイんじゃない?」

 軽く頬に触れられて甘ったるいココア色の瞳で覗き込まれて……ユカはほぼ無意識のうちに小さく頷いていた。すれば一変して子供っぽく笑った及川を見て思わず両手で頬を覆い、頬が熱い、と感じつつも少しだけ口元を緩めた。

 

 その様子を及川も口を緩めて見やる。

 きっとユカは間違いなく大学に受かっているだろう。そしてきっと彼女は近い将来は遠くへ──といつかのパリでの光景がよぎるも小さく首をふるう。ともかくいまは目前に迫った大学生活が先だ。楽しみのほうが格段に大きい。

 そして、と思う。これからもきっと自分は天才たちに苛まれていく運命に違いない。──バレーを続けていく限り避けらんないし。と脳内に憎き天才たち(ウシワカや飛雄)の姿をちらつかせる。

 でも、それでも。たぶん、こんな風に葛藤しながらもその道を選んで生きていくんだろうな……と天才に翻弄される自分の人生への悲観よりもいまはポジティブさが勝って、及川はまっすぐと前を向いた。

 

 




これから及川さんは大学で色んな人に出会い、学び、将来に悩み、たぶん彼女と別れるもきっとパリへ追いかけていき海外に拠点を移してバレーを続け、一方で影山と和解(?)したりもして充実した人生を送っていくのだろうな、と思います。

いままでありがとうございました。


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