東方理想郷 ~ Unknowable Games. (まこと13)
しおりを挟む

プロローグ  
第1話 : 異変


 

 容赦なく追撃の雨が降り注いだ。

 その身体は突風に舞う小石のごとく空しく吹き飛び、何度も、何度も地面にたたきつけられている。

 溢れ出した血で全身を朱に染め、目の焦点はどこか空を切っているその姿からは、いつもの覇気など欠片も感じられない。

 

 だが、それでも少女は立っていた。

 

「もういい! もういいから……だから!!」

 

 妖怪は叫んだ。

 自分がまだ、こんなにも感情的に叫べるのかと不思議になるくらいに。

 だけど少女は振り返らず、ただゆっくりと口を開いて、

 

「それでも、私は……」

 

 それだけ呟いて、また立ち向かっていった。

 

 妖怪はもう何も言えなかった。

 何かを言える資格があるだなんて思えなかった。

 その運命に少女を縛り付けてしまったのは、他でもない自分なのだから。

 

 妖怪の喉から湧き上がりかけた、少女を呼ぶ声は再び静寂へと還っていく。

 そして、既に死に体の少女から発せられたとは思えないほど真っ直ぐな声が、辺りに微かに響いたような気がして、

 

「霊符、『夢想…」

 

 声は途切れた。

 その声を遮るように鳴り響いた鈍い音とともに、少女は遂に倒れて動かなくなった。

 もう、誰の目から見ても限界だった。

 

 それでも再びその影は、動かぬ少女に向かってゆっくりと迫っていく。

 

「やめて……」

 

 だが、その声はもう届かない。

 その身体はもう動かない。

 いくら泣き叫ぼうとも誰もやめてくれないし、一瞬たりとも待ってはくれない。

 

 妖怪はもう知っていた。

 

 世界は、ここで奇跡が起きるほど優しくできてなどいないことを。

 世界は、残酷さに満ち溢れていることを。

 

 もう、痛いほどに思い知っていたのだ。

 

 だからこそ、妖怪は意識を保つことすら辛いその身体を奮い立たせて決断する。

 容赦なく現実が目の前を真っ黒に染め上げようとも。

 誰が何を嘆こうとも。

 誰が何を願おうとも。

 たとえその先に待っているのが、深い、深い絶望だとわかっていたとしても。

 

 それでも、守りたいものがあるから。

 

 

 ――だから、せめて私は――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第1話 : 異変

 

 

 

 

 

 幻想郷。

 

 それは忘れ去られた者たちの世界。

 幾多の種族がひしめき合いながらも調和を保ち続ける世界。

 そこは外の世界の住人から見れば、ただの日常すらも全てが新しい物語だった。

 

 それ故、外の世界から幻想郷に来た人間である東風谷早苗の胸は、いつも期待にあふれていた。

 外の世界のような退屈などない。 

 毎日が驚きとワクワクでいっぱいだった。

 

 そして、ただでさえ退屈のないその世界にとびっきりの変化、つまり『異変』が起きた時、彼女の目には一体何が映るのだろうか――

 

 

 

 

「……はぁぁ、どうしましょう」

 

 早苗は大きくため息をつき、守矢神社の廊下へ倒れこんだ。

 地底での異変から間もなく起こった新たな異変は彼女を発起させたが、始動から2日が経った今日も全く進展がないのだ。

 

「どうした早苗? お前がため息をつくなんて珍しいじゃないか」

「むーっ、何ですか神奈子様。 その言い方じゃ私がいつも何も考えてないお気楽娘みたいじゃないですか」

 

 そう答える早苗の表情は、いつもよりも不機嫌そうだった。

 

「まぁ、異変解決はお前の仕事ではないとはいえ、自分もやるといったのはお前だろう」

「それはそうなんですけど……」

「ため息をつきたくなるのもわかるが、やると言ったからには守矢神社の巫女がそんな体たらくでは困るな」

 

 ここ守矢神社は、外の世界で失った信仰を取り戻そうと最近幻想郷に引っ越してきた新たな神社である。

 そこに住まう軍神の八坂神奈子、土着神の洩矢諏訪子、その巫女である東風谷早苗の3人は、幻想郷に来て早々に博麗神社の巫女に宣戦布告をした。

 博麗の巫女は幻想郷で起こった異変を解決する、いわば幻想郷の中心ともいえる人物であるから、それを傘下に治めれば幻想郷を掌握して一気に信仰を集めることができると考えたのだ。

 しかし、現在の博麗の巫女である博麗霊夢は、幻想郷独自の勝負である『スペルカードルール』に則った決闘において他を寄せ付けない強さを見せる天才であり、守矢神社のメンバーは結局3人とも霊夢に完全敗北してしまい、幻想郷の信仰を独占する計画は夢に終わってしまった。

 

 それでも、早苗は諦めてはいなかった。

 その敗戦以来、早苗は勝手に霊夢をライバル視するようになり、同じ巫女なのだから自分も異変解決をすると言い始めた。

 元々負けず嫌いだった早苗は負けっぱなしで大人しくしていることが耐えられず、異変解決という霊夢のお株を奪うことで汚名返上をしようと思ったのである。

 そして間もなく、そんな早苗の対抗心を迎合するかのように、2つの異変が発生した。

 暇を持て余した天人による地震騒動や地底世界から間欠泉が湧き出てきた異変は、その解決を誰よりも先んじようとする早苗を奮起させた。

 だが、その2つの異変も……いや、全ての異変は霊夢によって解決されていた。

 異変が起きても、早苗が張り切って右往左往してる間に、いつの間にか霊夢は異変を解決してのんびりとお茶の時間に入っているのだ。

 

「はぁ。 まったく、いつになったらお前は一人前に……ん?」

 

 そこで突如、ブワッと守矢神社に強い風が吹いた。

 寒さを乗り超えてやっと生え始めた木の葉が空しく境内に舞い散り、整えられた地面を砂埃が覆う。

 

「おっす早苗、調子はどうだ?」

 

 そして、もう一人。

 

「ちなみに私はまだ手がかりナシだぜ」

 

 突然の爆風とともに現れたのは、白と黒の服を身に纏い、箒にまたがった怪しげな少女だった。

 

「もう! だからなんで貴方は普通に来れないんですか!!」

「おう、隣失礼するぜ」

 

 霧雨魔理沙。 彼女は普通の魔法使いを自称する人間である。

 落とした帽子の砂を払いながら、悪びれた様子もなく荒らした境内には目もくれず、魔理沙は早苗の隣に遠慮なく座りこんだ。

 

 この横暴な魔法使いもまた、霊夢をライバル視し、異変解決に乗り出そうとする一人である。

 魔理沙も早苗と同じく異変を解決したことはなかったが、それでもその活躍は幻想郷中に知れ渡っていた。

 

 早苗が幻想郷に来る少し前に起こった花の異変。

 その異変はいつも通り霊夢が解決したが、魔理沙はその異変で、スペルカードルールに則っているとはいえ、誰もが恐れる花の大妖怪、風見幽香を黒幕と勘違いして勝負を挑み、なんと勝ってしまったのだ。

 それ故、その異変では異変を解決した霊夢よりも、むしろ霧雨魔理沙の名が知れ渡ることとなった。

 

 つまり、幻想郷の異変解決を試みる3人の中で、早苗だけがまだ何もしていないのである。

 

「それで、今回の異変について結局早苗は何かつかめたのか?」

「……実は、まだほとんど何も見つかってないんですよぅ」

 

 そう答える早苗の声は随分と弱弱しかった。

 

「そうかー、これじゃ今回もまた霊夢に先を越されちまうかな。 実は今日の朝博麗神社に寄って来たんだが、霊夢はもう異変解決に行っちまった後だったぜ」

「ええええええ!?」

「多分あいつのことだから、そろそろ解決して神社でお茶でも飲んでるかもなー」

「そんなあ……」

 

 今回の異変こそは! と、奮闘していた早苗はガックリとうなだれた。

 

「まぁ、終わったことをくよくよしてもしょうがないし、私はちょっくら博麗神社に寄って宴会の準備の手伝いでもしてくるぜ」

「で、でもまだ霊夢さんが解決したとは限らないじゃないですか!!」

「私もそう思いたいけどなぁ。 でも、今まであいつが動き始めた日の内に解決しない異変はなかったし…」

 

 霊夢は気まぐれで時々動き出しの遅いこともあるが、ひとたび異変解決に乗り出せばその日のうちに全てを解決してしまう。

 恐らくは彼女のサポートをしているだろう妖怪の賢者、八雲紫の情報力が大きな要因を占めているのだろうが。

 

「やっぱり紫がついてるってのはズルいよな。 ちゃんと自分の力で何とかできないとな。 そう、私みたいに!」

「そ、そうですよね!」

 

 紫に勝るとも劣らないほどの力を持つ神が2人もついているにもかかわらず結果を出せていない早苗は、そう言いつつ冷や汗をかいていた。

 

「……まぁ、そうは言っても実際は霊夢が紫に頼らなくても大して結果は変わらないんだろうけどな。 結局は私たち自身の力不足って訳だ」

「そう、ですね……」

 

 ――どうして私はダメなんだろう。

 

 幻想郷に来る前は、早苗は自分の弱さに悩むことなんて決してなかった。

 たいていのことなら自分にもできると何事にも自信を持って取り組んできた早苗は、幻想郷に来てからは優秀すぎるライバルに囲まれ、次第に弱気になってきていた。

 

 だが、それは早苗にとってはむしろ嬉しいことだった。

 自分で何でも簡単にできてしまう世界ほどつまらないものは無いことを、早苗は外の世界で思い知っていたからだ。

 自分の思い通りにならない現実、それに立ち向かうことのできる喜びを感じられる機会を与えてくれた神奈子と諏訪子に、早苗はこの上なく感謝していた。

 だからこそ、その2人の名に恥じないような立派な巫女になろうと決めていた。

 

「……このままじゃダメですよね」

「ん?」

 

 早苗は一人ボソッとつぶやいた。

 ただ成り行きに任せるなんてことは自分には似合わないし、そんな退屈な時間の使い方はまっぴら御免だった。

 

「とにかく! まだ霊夢さんが異変を解決したと決まった訳じゃないんですから、私はもう少し頑張ります!」

 

 早苗はそう言うと勢いよく立ちあがった。

 

「どこに行くんだ?」

「とりあえず、私も霊夢さんの様子を見に博麗神社に行ってみます。 何かしら情報共有をできるかもしれないので」

「ああ、じゃあ行くか」

 

 もし霊夢がまだ異変を解決していなければ、自分にもまだ汚名返上のチャンスはあるのではないか。

 そんな淡い期待を抱きながら、早苗は博麗神社へと向かうことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そういえば早苗は結局、この異変についてどこまでつかんだんだ?」

「へ?」

 

 博麗神社へと続く長い階段を早苗が律儀にも歩いて登っている隣で、魔理沙は箒の上に寝そべるような体勢で飛びながら尋ねた。

 

「早苗もなんだかんだで少しくらい見つけたこともあるんだろ?」

「それが、実際のところ有益な情報はほとんどないんです。 わかったことといっても、何が起きてるかぐらいで……」

「そうか。 まあ、私も特に何も見つけられなかったしな。 ここまで進展がないと流石に何かの陰謀を感じるぜ」

「そうですよね。 確かに今回は何かこう、つかみどころのない異変でしたよね」

 

 

 ある日を境に、幻想郷の生態系が少しずつ狂い始めた。

 ただの動物や妖精が妖怪を襲い、弱い妖怪がより強い妖怪を襲う。

 そんな非日常が日常となってしまうほどに、幻想郷のパワーバランスに異常が発生してきたのだ。

 

 そして、ある事件をきっかけに、その異変は一気に幻想郷中に浸透することになる。

 

 天狗の住処の壊滅だった。

 幻想郷の最大勢力の一つである天狗社会が、何の前触れもないまま崩壊したのだ。

 運よく妖怪の山から出ていて難を逃れた者もいるが、当時住処にいた天狗は一人残らず消え去っていた。

 誰の仕業かもわからない。

 ただ、多くの者はこう考えた。

 今まで多くの妖怪たちを支配してきた天狗。

 それに恨みを持つ者が、その恨みを晴らせるほどの大きな「力」をこの異変の影響で得て犯行に至ったのだと。

 

 それ以来、異変の恐怖は一気に幻想郷中に広まっていった。

 天魔や大天狗といった、幻想郷の中でもトップクラスの力を持つ者たちすらも越える力が、自分の知らないところで生まれていくのだ。

 誰がいつ他を圧倒する力を手にするかもわからない。

 弱肉強食の概念さえも否定され、昨日まで自分が見下していた相手が次の日自分に牙をむくかもしれないという恐怖に誰もが怯えて暮らすようになっていった。

 

 

「でもさ。 まだ霊夢が解決してなければ……なんて軽い期待してるけど、本当にまだ解決してないとなるとちょっと厄介なことになるんじゃないのか?」

 

 魔理沙は少し真剣な表情で言った。

 早苗も今回の異変は早々の解決をみないと本当に危険なことは重々理解していた。

 

 そもそも力とは、知性や理性と共存するからこそ、その存在が許容されるのである。

 神も、月人も、鬼も、大きな力を持つ者は凡そ一定以上の知性、あるいは理性を持ち合わせている。

 理性や知性に欠けるにもかかわらず大きな力を持った、世間知らずの吸血鬼や向こう見ずの地獄烏も、それは理性的で知性を持った主人に護られているからこそ、それは力を持った個として存在しうる。

 つまり、大きな力を常に監視・抑制する内的、あるいは外的な要素というものが存在するからこそ、世界は調和を保つことができるのである。

 

 では、力のない者の行動には何の制約が課されているのか。

 大きな力を持たぬ者には知性があろうとなかろうと、その行動がそれほど深刻な事態を招くことはないが故に、現状ではその存在を軽視されることに何ら問題はない。

 しかし、例えばもしあの自由気ままで悪戯好きな氷の妖精が必要以上の力を持ってしまえばどうなるだろうか。

 自分の力の脅威もわからず、制御の仕方も知らず、それを抑制してくれる者もいない。

 そんな力が思うままに動けば、それだけで一つの異変となり得る。 

 何の前触れもなく幻想郷が氷河期に突入する、氷河異変なるものが日常的に起きかねないのだ。

 そんな存在が目の届かないところで増えていけばどうなるかは、想像に難くない。

 扱い切れない程の力を持つ者が人知れず増えてしまえば、それだけで幻想郷は大きな爆弾を無数に抱えることになるのである。

 

「そうですね……」

 

 楽観的に博麗神社に向かった2人だったが、冷静に異変のことを考えてみて複雑な気持ちになった。

 やっぱり今回こそは自分が異変を解決したい。

 でも、今回ばかりはもう霊夢が解決済みであってほしい。

 そんな期待と不安の入り混じった思考を巡らせながら二人が博麗神社への階段を登り切った時、既に日は暮れていた。

 辺りは静まり返り、2人の足音だけが響く。

 

「静か、ですね」

「ああ。 神社の明かりもついてないってことは、まさか…」

 

「我を呼び覚ます者は、誰だぁぁぁぁ?」

 

 そこに、ふと唸るような声が聞こえた。

 誰もいない、ただ霧がかかっているように見えるだけのそこから声が湧いてくる。

 それまでの不安も相まって、二人は緊張で一瞬足がすくみそうになる。

 

 だが、冷静に考えるとその霧こそが声の主であることを2人は知っていた。

 

「もう、何やってるんですか萃香さん」

「なんだ。 早苗と魔理沙か」

「なんだとはなんだ。 随分な挨拶だな、萃香」

 

 魔理沙はすっかり緊張を解いていつものように軽口をたたく。

 すると、博霊神社を包むようにして覆っていた霧が収束し、やがて二本の立派な角を生やした小さな鬼の姿が現れた。

 しばらく前から博麗神社に住みつくようになった、鬼の四天王として悪名高い伊吹萃香。

 霊夢に負けて以来牙を抜かれたのか、すっかり大人しくなってはいるが、『密と疎を操る能力』という巨大化することも分身することも霧のように霧散することもできる強力な能力を持ち、未だ多くの者から恐れられている超危険人物である。

 だが、魔理沙と早苗はそんなことを全く気にしていない、というよりも萃香が危険であると考えてすらいなかった。

 

「霊夢さんはまだ帰ってないんですか?」

「ああ。 せっかく驚かしてやろうと思ってたのにな。 まったく暇ったらないぞ」

「そーか。 まぁ、外で待つのもアレだし、私は中で待ってるぜ」

 

 もはや萃香の悪戯に慣れてしまっていた魔理沙は、何事もなかったように先へ進む。

 また勝手に入って……という顔をしている早苗を無視して、魔理沙は遠慮なくズカズカと神社の中に入っていった。

 魔理沙は当然のように辺りを物色しながら進んでいく。

 しかし目ぼしいものも見つからず早々に諦めて、図々しくも勝手に茶室に寝転んだ。

 

「ちぇっ。 相変わらず大したもの置いてないな」

「そりゃそうさ。 一日中神社でダラダラしてるだけの巫女のところに新しい物なんてある訳ないだろ」

「まぁいいや。 霊夢が帰って来るまでとりあえずお茶でも飲んでるか」

「そうだな。 おーい早苗、お茶」

「えー」

 

 魔理沙と萃香は、まるで自分の家であるかのようにくつろいでいる。

 外の世界の住人であるが故に中途半端に常識の残っている早苗は、こういうところではいつも流されて雑用を引き受ける羽目になってしまっている。

 

「それにしても遅いな。 朝には出かけてたはずなのに」

「そうだな……今日は紫も見かけてないし、2人で行ったのならもう戻ってきてもいい時間だと思うんだけど」

「お茶、入りましたよ」

「おう、早かったな……ん?」

 

 早苗がお茶を運んできたとき、突如として魔理沙たちの前の空間が歪み始めた。

 空間に亀裂が入り、その隙間から言葉にできない色をした異空間が現れる。

 まるで世界の崩壊を思わせるその光景を前に魔理沙は、

 

「やっと帰って来たか。 遅せーぞ、霊夢、紫」

 

 そんな、いつものような気の抜けた言葉を放つ。

 

 八雲紫。

 妖怪の賢者と呼ばれる彼女は、『境界を操る能力』を持っている。

 その能力は応用性が高く、様々な事に使うことができるのだ。

 ある事象と事象を隔てる境界を思うままに創り、操作し、破壊する。

 そして、この空「間」に存在する境界を軸に異空間を創り、そこを通じて遠方からの空間転移をするのは紫の最も使う能力の一つである。

 

 だが――

 

「……あれ? どうしたんでしょうか」

「なにやってんだ、紫は」

 

 いつもなら境界が開くとほぼ同時にそこから顔を出す紫が、今日は何故かなかなか出てこない。

 魔理沙は怪訝な表情を浮かべて境界の様子を伺う。

 

 ――また何か企んでんのか?

 

 何かあるとだいたい紫が問題を起こす。

 それが魔理沙が紫に抱く、おおよそのイメージだった。

 実際は特段そういう訳でもないのだが、謎の多い妖怪である紫は多くの者の中で問題児として捉えられていた。

 境界が開いてからまだほんの数秒であるが、魔理沙はイライラして頭を掻き始める。

 早苗も少し心配そうな顔をしながら境界を見つめていると、しばらくして隙間からやっと霊夢の姿が見え始めた。

 

「はぁ。 まったく、なにしてたんだ霊…」

 

 だが、魔理沙が放った声は、その境界から何かが落ちた短い音に遮られる。

 何が起こっているのか誰もわかっていない。

 ただ、言葉を失っていた。

 そして、早苗が運んできた湯呑が割れた音と共に我に返った3人の視界に映ったのは――

 

「霊夢っ!?」

 

 全身を血に染め、動かなくなった霊夢の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人里離れた異境の竹林。

 その中に、永遠亭と呼ばれる建造物がひっそりと存在する。

 どんな薬でも作れるといわれている賢者、八意永琳が住まうそこの明かりは、ここ数日一度たりとも消えたことはない。

 

「あぁぁぁぁ。 もう限界……」

 

 両手両足を投げ出し、長く伸びたその兎の耳が床に付くのではないかというほどだらしなく椅子に腰を掛けた鈴仙・優曇華院・イナバは、気力ない声でそう言った。

 

「師匠ー、もっと誰か雇うとか何とかしてくれないんですかぁ?」

「あら、そんなだらしない格好して暇そうね、うどんげ。 じゃあもっと仕事を増やしてあげるわ」

「それだけは勘弁してください……」

 

 永琳にそう言われ、うどんげは僅か10秒程度の休憩を終えて処方箋をまとめる作業に戻った。

 

「なんなら、貴方のために10日間くらい眠らなくても死なない薬を調合してあげてもいいけど」

「……いえ、それはもう師匠に一昨日飲まされました」

「あら、そうだったかしら?」

「そうだったです」

 

 最近起こっている異変で怪我人が続出している影響で、永琳の薬を欲しがる患者がかつてないほど増えている。

 そのため、永琳は一日中薬の調合に追われることになったが、うどんげは朝と昼に様々な場所に出向いて薬の配達・患者の症状確認、それが全て終わり次第、夜は処方箋やその他情報をまとめて永琳に渡すというハードスケジュールを、全て一人でこなすことになった。

 もし永遠亭の近くに住む因幡てゐが薬の材料を集める仕事を引き受けてくれなかったら、彼女は過労で死んでいてもおかしくなかっただろう。

 

「でも、念のためにもう一本どう?」

「いいです。 本当に副作用とかで死にます」

「あらあら、私の薬も今一つ信用されてないみたいで残念ね。 でも今のうちに飲んどかないと、この後もっと面倒な仕事がありそうよ」

「へ?」

 

 そう言うと永琳はおもむろに立ち上がり、窓を開けて結界を張った。

 次の瞬間、その結界に向かって何かが猛スピードで突っ込んできた。

 結界に阻まれて勢いをなくしたそれの首を、永琳が無造作に掴む。

 その掴まれたものを見て、うどんげはかつてない程大きなため息をついた。

 全身に白と黒の服を纏ったそいつは、うどんげの知る中で最も面倒事を起こす人間の一人だったからだ。

 

「あらいらっしゃい、永遠亭へようこそ。 でも、来るときはちゃんと入口から来なさいっていつも言って…」

「永琳!! 霊夢が……霊夢がっ!!」

 

 笑顔で自分の首を絞める永琳の言葉を遮って、魔理沙は泣きそうな顔で言った。

 永琳は魔理沙が抱きかかえるようにして連れてきた血まみれの霊夢を見て簡単な状況を把握すると、その後ろから迫ってくる2つの気配を察知して言った。

 

「はぁ、わかったわ。 じゃあ霊夢のことは診てあげるから、とりあえず――」

 

「魔理沙さん、霊夢さんは!?」

「霊夢は無へぶっ!?」

「――貴方は帰りなさい」

 

 魔理沙に追いついて早苗と萃香が到着したが、何故か萃香だけが謎の力で永遠亭の外へ吹き飛ばされてしまった。

 

「痛た……おい、なにすんだよ!!」

「だから、貴方は勝手にここに来ちゃダメって前にも言ったでしょう」

 

 そう言って永琳は萃香を永遠亭から追い出した。

 

 永琳の本来の仕事は薬師ではない。

 永遠亭の奥に住まう月の姫君、蓬莱山輝夜を護衛することこそが彼女の目的であり、薬師というのは幻想郷にうまく溶け込むための表の顔なのである。

 それ故、輝夜に危害を加えかねない者には永遠亭への出入りに規制をかけている。

 スペルカードルールがなければ幻想郷最強との呼び声さえもあり、好戦的な鬼の四天王として悪名高い萃香を永琳が警戒するのは当然のことなのである。

 

「ちぇっ。 そう心配しなくてもさぁ、私は別にもう輝夜になんて興味はないよ」

「貴方の言うことなんて、信用できないわ」

「……ふん、そうかい。 まぁ別にいいよ、霊夢を治してくれるんなら私は外にいるからさ」

 

 拗ねたような声でそう言って、萃香は永遠亭の外の壁に寄りかかるように座り込んだ。

 永琳はそれに対し、少し小馬鹿にしたような態度で言う。

 

「そう、お利口さんね」

「子ども扱いすんな!」

「師匠、準備できました」

「わかったわ」

「おい、聞いてんのか!」

 

 永琳が萃香と無駄口を叩いているうちに、既にうどんげは霊夢を寝台に乗せ、必要な道具を揃えていた。

 ひたすら萃香の不平が響く中、それが聞こえていないと思える程に永琳は集中して霊夢を観察する。

 そして、永琳は片手で霊夢の頭を触れながら何かを察し、もう片方の手で寝台の横にある液体に霊力を込めて調合し、そのまま霊夢の身体に浸透させた。

 

「多分、これで大丈夫ね」

 

 そう言って永琳は治療道具を置く。

 まだ霊夢の治療を始めてからほとんど時間は経っていないが、霊夢の血は止まり、顔色も少し良くなっているように見えた。

 永琳のもつ『あらゆる薬を作る能力』を用いれば、たとえ不治の病を治す薬でも、不老不死になれる薬でも、材料さえあればどんな薬でもつくれる。

 だから、この程度の疾患を治す薬を作ることなど造作もないのだ。

 しかし、あっという間の出来事に実際何が起こってるのか全然わからなかった魔理沙は少し疑問の声を上げる。

 

「おい、それだけで本当に霊夢は大丈夫なんだろうな!?」

「大丈夫よ。 ちょうど薬の材料のストックは十分あったからね」

「信用できないな。 そんなあり合わせの薬だけで本当にいいのか?」

 

 外から萃香の不満そうな声も聞こえてくる。

 必要以上に突っかかってくる萃香に、永琳は少し面倒そうに言う。

 

「別にここに連れてこなくても、普通の町医者に見せて問題ないような疾患よ」

「はあ?」

「確かに霊夢がこの傷を負ったのは間違いない。 でも、それが無理矢理何らかの力でほとんど治されていたわ。 ……これは単なる私の推測だけど、八雲紫の力でそれが治されたってところね。 気絶した直接の原因は多分頭部への打撲による脳震盪。 それと全身に結構なダメージがあるみたいだけど、あとは放っておいても明日か明後日には目を覚ますと思うわ。 まぁ、まともに動けるようになるまでは少なくとも1週間くらいかかると思うけどね」

「……そうか」

 

 紫が傷口という境界を閉じることくらい朝飯前であることは、2人にも容易にわかった。

 古くからの紫の知り合いである萃香は元より、魔理沙や早苗も紫の力については信用している。

 それ故に、霊夢はもう大丈夫だと理解し、ようやく落ち着くことができた。 

 だが、魔理沙が浮かべていたのは安堵の表情ではなかった。

 

「それにしても、紫は一体何やってんだよ」

「まぁ、紫にもいろいろあるんだろうさ」

 

 少しは紫のことを理解している萃香とは対照に、魔理沙は紫に対する不満を口にした。

 

 紫は幻想郷を管理する大妖怪、つまりは幻想郷を形成する博麗大結界を維持している博麗の巫女を管理することが役割の一つである。

 しかし、かなりの頻度で霊夢に会いに行く魔理沙は、そんな理由がなくとも紫が霊夢の傍にいることを知っていた。

 何かあるたびに、いつも突然霊夢の所に現れることを知っていた。

 だからこそ、魔理沙は許せなかった。

 

 ここに来るまでの間、いくつもの戦闘があった。

 異変の影響なのか、いつもならただ通り過ぎるだけの獣たちが血の匂いを嗅ぎつけて狂ったように手負いの霊夢に襲い掛かってきたのだ。

 幸い早苗や萃香がいたおかげで、何の問題もなく永遠亭に辿り着くことはできた。

 だが、すぐに駆けつけられる能力を持っているはずの紫は、なぜ霊夢を助けに来なかったのか。

 

「……もしかして、紫さんがこの異変に関わっていると考えていいのでしょうか」

 

 早苗がつぶやいた。

 そう考えると納得がいく、と魔理沙も思っていた。

 考えたくはないケースだが、異変解決に来た霊夢を傷つけて博麗神社に送り返したこと自体が紫の仕業なのではないかとさえも思った。

 だが、仮にそれが真実だとしても、魔理沙は紫が異変に関わっていることに怒っているのではなかった。

 

 幻想郷で使われているスペルカードルール。

 これはもともと紫の発案により使用されるようになり、その目的の一つは戦闘による被害を最小限にとどめることだった。

 だから、たとえ紫がこの異変に関わってるのだとしても、スペルカード戦が終わればそこで終わり。 

 その後の霊夢の身は最大限に気遣ってもいいはずなのだ。

 傷の手当てをしただろうことや、霊夢を博麗神社に送り届けたことについては感謝している。

 だが、霊夢が倒れていることを知っているはずの紫が、霊夢を放っておいていることが魔理沙には許せなかったのである。

 

「いつもいつも問題起こしやがって、まったくあいつは…」

「残念だが、それはお前の勝手な思い込みだ」

「うおっ!?」

 

 魔理沙の言葉を遮って、声が聞こえた。

 そこには、いつの間にか九本の大きな尻尾を揺らした一人の妖怪が立っていた。

 八雲藍。

 彼女は紫の式神であり、自身も九尾の妖狐という最上級クラスの妖怪である。

 辺りを見回すと、いつものようにその抑揚のない声で、藍は口を開く。

 

「やはりここにいたか」

「今日は随分とお客さんが多いのね。 今日は貴方がここに来るとは聞いていないのだけど…」

「突然の訪問をお許しいただきたい。 霊夢は、無事なのでしょうか?」

「しばらくは眠ってるだろうけど、命に別状はないわ。 貴方の主人のおかげでね」

「そうですか」

 

 淡々と用件を確認していく藍。

 しかし、魔理沙は今日の藍の様子にどこか違和感を感じていた。

 霊夢を見る藍の目は、どこか物悲しそうにも見えた。

 

「おい、藍! 霊夢がこんな状態だってのに紫は一体何してんだ!」

「それは……」

 

 そして、やはりその違和感は間違っていなかった。

 藍はいつも憎たらしいほどに自信に満ちた妖怪だった。

 幻想郷を司る大妖怪、八雲紫の式神として、これ以上ないほどの威厳を持っていた。

 しかし、今日は藍の振る舞いにも、言葉にも、いつものような覇気がまるで感じられなかったのだ。

 

「まぁ、その様子だと今回のことについてはお前も紫から何も聞かされてないんだろうな」

 

 魔理沙はただ立ち尽くす藍をからかうように言ったが、藍は何も答えなかった。

 

「……それで? 今日は貴方は霊夢の様子を見に来た、ということでいいのかしら?」

「いえ。 八意殿、今日は貴方に頼みがあって参りました」

「私に?」

 

 霊夢の様子を見に来たのだと思っていただけに、永琳は少し怪訝な表情を浮かべた。

 霊夢のことでないというのなら、突然の藍の来訪が事前に計画されていたものである可能性があるからだ。

 

「……それは、一体何の用かしら」

「貴方に、しばらくの間幻想郷の管理を一任したい」

「はあ!?」

 

 突拍子もない藍の依頼に答えたのはなぜか魔理沙だった。

 

「ちょっと待て、いきなりどういうことか訳が分からないぜ。 こっちにもわかるような説明を要求する!」

「魔理沙、私は今日はお前と話しに来たんじゃない、黙っててくれないか」

「ああん!?」

「それで八意殿、返事を聞かせていただきたいのですが…」

 

 逆上する魔理沙と、それを無視してあくまで淡々と事を進める藍。

 その光景はいつも通りのことで、別に珍しいものでもなかった。

 しかし、今日はいつもとは状況が違った。

 

「……珍しいわね、貴方がそんなに動転しているなんて」

「ああ!? 私が一体何してるって?」

「魔理沙のことじゃないわ。 貴方のことよ、八雲藍」

「私が、動転? それは一体どういうことでしょうか」

「どういうも何も、魔理沙の言う通りよ。 いきなりそんなこと言われても私は別に全知全能の神でも何でもないわ。 どういうことか説明してもらわないと私も判断のしようがない。 そんなことくらい、考えるまでもないでしょう?」

 

 永琳の言ってることは誰でもわかるような、もっともなことであった。

 今日の藍は、物事を誰よりも冷静に、理性的に進めるいつもの藍と同一人物とは思えなかった。

 

「……そうですね、その点は私が悪かったです。 改めます」

「そうだ、今回は私は悪くないぜ」

 

 魔理沙が何か言っていたが、そんなことは気にも止めずに藍は続けた。

 

「緊急事態が発生したので、大至急この幻想郷を任せられる人が必要なんです」

「大袈裟だな、緊急事態っていってもどーせ異変のことだろ? そんなの私たちがすぐ解決して…」

 

 魔理沙が茶化すようにまた何か言おうとしたが、藍の異変を感じて言い止まった。

 藍が、ただ何かをこらえているように見えて、魔理沙はいつものように藍に話しかけることに抵抗を感じたのだ。

 

「藍? 一体何が…」

「率直に言います」

 

 そして魔理沙の言葉を遮って、藍がその重い口を開けた。

 

 

 「紫様が、死にました」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 : それぞれの道

 

 

「……え?」

 

 突然のことに、誰一人として状況を把握しきれていなかった。

 紫が死んだ? 何をバカな事を言ってるんだこいつは?

 ただ、皆が一様にそんな顔をしていた。

 そして誰も二の句が継げないまま、藍は話を進める。

 

「霊夢が倒れ、紫様がいない今、代わりに博麗大結界を維持できる人が必要です。 そこで、貴方に協力を依頼したく参上した次第です」

「ちょっと待てよ、紫が死んだって……そんな訳ないじゃねーか! だって、紫の式神のお前がまだいることがその証拠だろ!?」

「私は紫様からの霊力供給がなくても少しの間なら動ける。 今はまだ大丈夫だが、恐らく私も明日には消えているだろう」

「消えっ…!? いや、ちょっと待ってくれ、私にはちょっとどういうことか、その……」

 

 式神は主人からの魔力や霊力の供給によって活動しているため、主人に何か異変が起きれば式神はそれをすぐに察知することができる。

 そして、主人からの供給が途切れれば当然に式神はその力を失う。

 それを頭では理解していても、そんなことをただ淡々と告げていく藍を前に、魔理沙は明らかに狼狽していた。

 いや、魔理沙だけではない。

 早苗も、そもそも藍の言ったことの意味がわかっていないかのように固まっていた。

 

 紫は人間などとは比較にならないほど長い寿命を持つ。

 しかし、普通に考えればわかることだが、紫も妖怪である以上、いつかは必ず死に直面する。

 それでも魔理沙や早苗には、あの紫が、人間である自分が生きている間に死ぬなんてことはあり得ないという根拠のない、しかし絶対的な思い込みがあった。

 だから、素直に藍の言葉を受け止めることができなかった。

 

「そうか、わかった!!」

 

 突然、魔理沙が引きつったような笑みを浮かべながら叫んだ。

 

「お前も紫とグルなんだろ? 紫が動きやすくなるように、そう言えって頼まれたんだろ?」

「……」

「じゃなきゃおかしいだろ、だって、あいつは……」

「……」

「あいつは……」

 

 藍は何も答えなかった。

 そして、魔理沙たちとは違い、紫にもいずれ死が訪れることを覚悟していた萃香ですらも、それを素直に受け止めることはできなかった。

 しかし、紫同様に藍とも長い付き合いであるが故に、萃香は知っていた。

 藍が、そんなことを冗談で口にするような妖怪ではないことを。

 

「えっと、いろいろ聞きたいこともあるんだけど、まず最初にいい?」

「何でしょうか」

「八雲紫はこの異変を解決に行った結果、敗れて死んだ。 そう考えて問題ないかしら」

「すみません。 私は同行していなかったので、何が起こっていたかまではわかりませんが……一緒に行った霊夢が倒れているのならば、そういうことなのだと私も予想しています」

「そう……わかったわ。 じゃあ、とりあえず八雲紫が死んだという話は一旦置いておきましょう。 もう一つ聞いておきたいことがあるわ」

 

 それだけ確認すると、永琳は紫の死という事態を何事もないことのように流して話を変える。

 混乱している魔理沙たちを放っておいて、永琳は落ち着いて会話を進めた。

 

「私に博麗大結界を維持してほしいってことみたいだけど、私には彼女のような能力はないわ。 わかってはいると思うけど、私の能力はただ薬を作ることだけよ」

「知っています。 ですが、事態は深刻な状況になっているので、貴方に頼むしかないのです」

 

 博麗大結界とは、外の世界と幻想郷を隔てる結界のことである。

 普段は博麗の巫女が代々管理し、博麗の巫女が死ぬとまた紫が新しい巫女を探し、その引継ぎまでの間を紫が管理している。

 だが、博麗の巫女と紫が2人とも結界を張れなければ、博麗大結界は消えてしまい、外の世界と幻想郷が繋がってしまう。

 そうなれば、文明の進んだ外の世界の兵器が簡単に幻想郷に流入し、存在しないとされる妖怪たちが外の世界に行くことが可能な、非常に危険な状態になってしまう。

 そうなる前に、何とかする必要があったのだ。

 

「でも、そんな役を私に頼むのはお門違いでなくて?」

「自分に何かあった時は貴方を頼るようにと、紫様から言われていましたので。 それに、私もこんな大役を任せられるだろう人が他に思い当りません」

 

 藍は、永琳がそれを引き受けることを確信しているかのようにまっすぐに永琳を見ていた。

 

「……そう。 それはまた、随分と買いかぶられたものね」

 

 永琳はとぼけるように言うが、同時に内心では少し動揺していた。

 確かに永琳には、紫のような強力な能力などなくても、たいていのことは自分でこなせるという自負はあった。

 幻想郷を自分なりに知り、博麗大結界の生成くらいならその場しのぎになら容易にできると思っていた。

 だが、それを表に出したことはない。

 自分は幻想郷では、あくまで表向きはただの薬のスペシャリストとしての立場を確立できていると思っていた。

 それにもかかわらず、紫が下したこの判断は、隠し通していたつもりの永琳の力量を既に測り終えていたという証拠なのである。

 紫のことは認めていた。 

 それでもなお、自分の方が優れていることを疑う余地は欠片もないと思っていた。

 それ故、永琳は紫に実質自分を見透かされていたという事実が、内心不快だった。

 

「……まぁ、考えておくわ。 とりあえず応急措置程度には何とかしておいてあげる」

「はあ!? 何でお前がそんな…」

「ありがとうございます」

 

 博麗大結界をそんな軽いノリで引き受ける永琳に魔理沙が疑問の声を上げたが、藍は当然のような顔をして、特段驚く様子もなかった。

 そして、その反応が紫の予定調和の中で動かされているかのようで、また永琳を不快にさせる。

 

「……そうそう、うどんげ。 そこの3人はもうお帰りよ。 送ってあげなさい」

「そこの3人って…私たちのことか!? ちょっと待てよ! まだ話は…

 

「帰りなさい」

 

 突如、背筋が凍りついた。

 永琳から発せられたその冷たい視線は、魔理沙と早苗だけでなく、外にいる萃香までも戦慄させた。

 

「な、なんだよ……そんな風に言われたって、納得するまで私は帰らないぜ」

「そうですよ! 私たちにも詳しい話をちゃんとしてください!」

 

 それでも、魔理沙と早苗がそんなことを言われて大人しく引っ込む訳がない。

 むしろ、そう言われて前より反抗的にすらなっているようにも見えた。

 だが、永琳はそもそも魔理沙や早苗のことなど見ていなかった。

 ただ目を瞑って言う。

 

「聞こえなかった? うどんげ、そちらの3人がお帰りよ」

「…はいはい、聞こえてますよ師匠」

 

 そして、声が止んだ。

 

 いつの間にか魔理沙と早苗はすっかり大人しくなっていた。

 その目の焦点は合わず、動かなくなっている。

 2人の正面にいるのは、眼を赤く染めたうどんげの姿だった。

 『狂気を操る能力』を持つうどんげの瞳を見たものは、一種の幻覚を見てしまうのである。

 幻覚を見て動けなくなってしまった2人に、うどんげはゆっくりと近づいて抱え上げた。

 

「では、私はこの2人を人間の里あたりにでも置いてきます」

「よろしくね」

 

 そう言うと、うどんげはすぐに永遠亭から走り去っていった。

 

「ほら、貴方も帰りなさい。 霊夢のことはちゃんと診といてあげるから」

「……気に入らないな」

 

 外にいる萃香の表情は見えないが、それでもその声が明らかに苛立ちを含んでいることだけはわかる。

 

「あいつらを、信用してないのか?」

「あの2人のことは、一応信用はしているわ。 ただ、信頼するには足りないけどね」

 

 確かに永琳の言うことは正しいのかもしれない。

 あの2人がもしここにいれば、ここで集められるだけの情報を集めようとするだろう。

 霊夢をこんな状態にし、紫を殺した犯人がいるかもしれないのだ。

 仇討ちという訳ではないが、この異変を解決しに行こうとすることは目に見えていた。

 

 しかし、それは簡単に許すべきではない。

 

 今や幻想郷のほぼ全土に広まっているスペルカードルール。

 「美しさと思念に勝る物は無し」という理念のもとに存在するそれのおかげで、力ずくの殺し合いは幻想郷から徐々に廃れ、人間と妖怪が対等に戦うことすら可能となった。

 だが、それは全ての者に浸透している訳ではない。

 それを理解して受け入れようという知性のない者、プライドのない者、そもそもルールに納得しない者など、未だにスペルカードルールに則らない者が多いのもまた事実である。

 そして今回、過度に傷つくことを避けるスペルカードルールがあるにもかかわらず、妖怪としての高い生存能力を持つはずの紫は死に、霊夢は倒れている。

 つまり、スペルカードルールを無視する相手である可能性が高いのだ。

 しかもその相手は、幻想郷を統括してきた大妖怪である紫が、スペルカードルールなら幻想郷最強だと誰もが認め、博麗の巫女として史上類を見ないほどの高評価を受けている霊夢が敗北した相手だった。

 人間であり、異変解決を成し遂げたことすらないあの2人が請け負うにはあまりにも荷が重く、霊夢の二の舞になるであろうことは、萃香もよく理解していた。

 

 だが、それを理解しているからこそ、萃香は悔しかった。

 

「そうかい……まぁ、あいつらをあまりナメないこった」

「あら? 今の貴方はもう少しくらいは理性的に物事を考えられると思っていたのだけれど」

 

 永琳は、少しだけ萃香を挑発するかのように、小さく嘲笑して言った。

 だが、萃香は振り向くことすらなく、永琳の言葉を遮るように不機嫌な声で返す。

 

「ああ、わかってるよ。 あいつらだけじゃ放っとけば犬死にするだろうな」

「だったら」

「だけど、あいつらは一人じゃないんだ。 自分一人で何でもできると思ってるような奴らと違ってな」

 

 永琳は、少し冷めたような表情でそれを聞いていた。

 2人の態度は、どう見ても互いに友好的に接しようとするものではなかった。

 

「……そう、まあいいわ。 じゃあ、あの2人のおもりは貴方に任せたからよろしくね」

「………」

 

 萃香はそれに答えなかった。

 ただ、おもりという言葉に苛立ちを覚えながら消えるようにその場を去った。

 その苛立ちが本当に永琳に向けられたものなのか、それは萃香自身にもはっきりとはわからなかった。

 ただ、走りながら一人思う。

 

 ――あいつも結局、周り奴のことなんて足手まといくらいにしか思ってないんだろうな。

 

 

 そして、部屋には永琳と藍だけが残される。

 その重々しい空気の流れを変えるように、藍が先に口を開いた。

 

「……すみません」

「あら、別に私は謝られるようなことをした覚えはないわ」

「いえ、余計な気を遣わせてしまいました」

 

 藍は少し、不自然な笑顔を浮かべていた。

 

「それは、魔理沙や守矢の巫女のこと?」

 

 藍は何を言う訳でもなく、少し頷いた。

 しかし、それを無視するかのように永琳は少し間をおいて、

 

「それとも、貴方のこと?」

 

 少しだけ、意地悪そうにそう言った。 

 藍はハッとしたように、少しだけ下に逸らしていた目線を上げた。

 

「私の……それは、どういう?」

「ここには貴方が敬うご主人も、護ってあげる式神も、手本になって見せるべき魔理沙たちもいない。 いるのは、ただの町医者が一人だけよ。 霊夢もすぐには目を覚まさないだろうしね」

「だから、貴方は何が言いたい」

 

 そう言いながらも、藍は永琳の言いたいことはなんとなくわかっていた。

 

「誰も見ていないの。 だから……」

 

 永琳はそっと藍の頭を撫でながら、

 

「貴方はもう、無理しなくてもいいのよ」

 

 そう言った。

 永琳のその目は、優しさに溢れたというよりも、まるで藍を値踏みするかのようなそれだった。

 しかし、それでもその言葉は藍の心に鳴り響いていた。

 それは、自分の中のどこかが、誰かに言ってもらいたかった言葉だったから。

 

「……何を言ってるかわかりません」

 

 だが、そう言われても藍は何も変わらない。 

 変えてはいけないと決めていた。

 自分は幻想郷を司る大妖怪、八雲紫の式神なのだから――

 

「私は、無理などしていませんから」

 

 だから、誰よりも強くあろうと思っていた。

 だから、誰かに弱さを見せてはいけないんだと思っていた。

 だから、人前で泣いたりなんて絶対にしてはならないと誓っていた。

 

「私は……」

 

 藍は溢れそうになった涙を、それでも拭うことはなかった。

 ただ、自分の目の前にいる相手をしっかり見据えて、

 

「紫様がいないのなら、私が霊夢を、幻想郷を護らなくてはいけない。 ただそれだけです」

 

 はっきりと、そう言った。

 少しだけその目は潤んでいるようにも見える。

 しかし、その視線はほんの少しの弱さも迷いも感じさせない程に強く、まっすぐに永琳の目だけを見ていた。

 

「……そう。 なら、私から言うことはなさそうね。 ちょっと余計なお世話だったかしら」

「いえ、ありがとうございました」

 

 藍のその反応を見て永琳が少し微笑む。

 その微笑みが何を意味するのか、藍にはわからなかった。

 だが、元々自分のものさしで測れるような相手ではないと理解していた藍は、できるだけ気丈に、自然に振る舞うことだけ気を付けていた。

 

「私が知っていることは、ここにまとめておきました」

 

 だから、必要以上に多くのことは語らない。

 至らぬ自分が余計なことまで口走る前に、立ち去ろうとしていた。

 藍は口で説明せず、ただ分厚いレポートを永琳に手渡す。

 

「ええ。 確かに受け取ったわ」

「では私はこれで失礼します。 霊夢と博麗大結界の件、よろしくお願いします」

 

 そして、それだけ言い残して藍は颯爽と永遠亭から出て行った。

 最期の一瞬まで、ほんの少しの弱みも見せることはなしに。

 

「……まったく、相変わらず嫌になるくらい優秀な式神ね。 貴方にもあのくらいの強さが欲しいものだけど」

「いやー、多分それは無理でしょう」

 

 いつの間にか戻っていたうどんげは、少し冗談めかして答えた。

 

「そもそも、私がこんな場面に出くわすことなんて一生ないでしょうからね」

「……そうね」

 

 なぜなら、うどんげと藍には絶対的な違いがあったからだ。

 藍には確率が低いとはいっても、主人が寿命のある存在である以上、今回のように主人に先立たれてしまうことがあり得る。

 しかし、うどんげにはそれが絶対と言っていいほどない。

 蓬莱の薬の効果によって不老不死となった永琳に先立たれてしまうことなどあり得ないのだ。

 

「それにしても、随分と早かったわね」

「途中であの鬼が2人を引き取ってくれたので」

「……それならいいわ。 それで、うどんげ」

「なんですか?」

「貴方はこれから、この異変の調査をしてくれるかしら」

 

 来た! その一言を待っていた! と言わんばかりに、うどんげの耳がぴょこんと跳ねる。

 異変調査も、それはそれは大変な仕事ではあろうが、今自分がやっている仕事よりは楽だろうと思ったからだ。

 

「ですが師匠。 私に他の仕事が残っていては、真面目な私はそちらに気をとられて異変調査が疎かになってしまいます」

「はぁ……かなり嬉しそうに見えるのが気になるけど、いいわ。 これからは異変調査に専念してちょうだい」

「はい、わかりました!」

 

 お為ごかしのようなやりとりを経て、うどんげは自分の仕事を投げ出す免罪符を得た。

 とはいえ、うどんげが元々請け負っていた仕事も重要な案件であるため、異変調査に行くとなればそれを代わってくれる人を探すことになるのだが、永遠亭に住む他のイナバ(兎)たちはあまり高い知能を持っておらず、自分の仕事を代わってもらうのには少し荷が重い。

 だから、てゐにもっと多くの仕事を押し付けるのもいいな、輝夜にこれまでのツケが回ってくのもそれはそれで面白いのではないかと、うどんげはこれからのことに思考を巡らせた。

 これまでの疲れが嘘であるかのように身が軽くなったうどんげは、あからさまと言っていいほどに嬉しそうだった。

 

「随分とやる気みたいね。 ちょっと心配だから、異変調査に行くにあたってこれからどうするつもりなのか、確認しといてもいい?」

「そうですね。 今までに起こった事件の……特に妖怪の山の周辺調査と、まだ怪しい部分のある藍さんの動きの監視あたりですかね」

「ふむ、悪くはないわね。 じゃあ調査については任せるわ。 詳細が分かり次第私に報告しなさい」

「はい、師匠! では、私はまずこれから、私の元の仕事を代わってくれる人を探しに…」

 

 と、意気揚々と自分の代理探しに行こうとするうどんげに向かって、永琳は、

 

「それはいいわ。 貴方の分の仕事程度なら私がやっておくから、早く異変調査に行ってらっしゃい」

 

 そう言った。 

 永琳は何の悪気もなくそう言ったつもりだったのだろう。

 だが、さっきまでのうどんげのウキウキ気分は、その一言だけで全て吹き飛んでしまった。

 

「……? どうしたの?」

「あ、いえ、何でもないです。 では行ってきます」

 

 そう言って、うどんげは逃げるように永遠亭から走り去った。

 

「……なによ、それ」

 

 永琳も、薬の調合に追われているうえに博霊大結界の生成まで引き受けてしまって忙しいどころの話ではないはずだった。

 それなのに、永琳はそれに加えてうどんげの仕事を請け負ったとしても簡単にこなせると言ったのだ。

 

 ――私が必死にやっていたことなんて、本当は片手間で済むってこと?

 

 ――私なんて、いてもいなくても変わらないってこと?

 

 ――この異変の忙しさの中で、師匠の役に立てていると初めて思えたから、どんな過酷な仕事にも耐えられたのに。

 

 ――結局は、私は本当は必要とされてなんていなかったって、そういうことなの?

 

 うどんげには、ただそんなことしか考えられなかった。

 

 紫と藍のように永遠の忠誠を誓い合うことのできる妖怪とは違い、うどんげは永琳の永遠に続く人生の中のほんの一瞬の存在に過ぎない。

 そんなことは、わかっていた。 

 わかっていても、それでもいつか自分が少しでも永琳に必要としてもらえる日が来ると信じて、今までずっと頑張ってきた。

 そして、そんな日は多分来ないんだろうと気付いてしまった。

 

「ああ、そうだよね……」

 

 迷いの竹林の長い道を駆け抜けながら、うどんげは泣きそうになっていた。

 

「私は本当の意味であいつのようにはなれないんだよね」

 

 うどんげは不謹慎と思ってはいても、主人の死に出くわした藍のことを心の底から羨ましいと思った。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第2話 : それぞれの道

 

 

 

 

 

「そうか、紫が……」

 

 守矢神社上空の雲一つない空をただ見上げながら、神奈子は呟く。

 その顔からは、その感情は読み取れない。

 

「はい。 藍さんがそう言ってたので、恐らくは」

「それで、お前は詳しいことも聞けずにおめおめと帰ってきたわけだ」

「実は、気づいたらなぜか朝になっていまして……」

 

 色々情報を引き出せる場にいながらも、結局早苗が得られた情報は紫が死んだということだけなのだ。

 この子はまた大事なところで今一つ足りなかったな、と神奈子は小さくため息をついた。

 しかし、逆にそこがかわいいのだという親心に少しニヤけそうになるくらいには、余裕を持って話を聞いていた。

 

 そして、同時に早苗からの自分への眼差しがいつもと少し違うことに気付いてはいた。

 

「それで早苗。 何か私に言いたいことでもあるのか?」

 

 なかなか話を切り出さない早苗に、神奈子は真面目な口調でそう言った。

 早苗は露骨に神奈子から目を逸らす。

 

「いえ、その、私は何も……」

 

 早苗は、言いたいことがあるなら言うはずだった。

 ましてやそれが神奈子や諏訪子に対してなら、隠し事などしない。

 それ故、神奈子には早苗が言いたいことが想像できた。

 

「私を、疑っているのか?」

 

 早苗は、俯いたまま動かなかった。

 ただ、目線を下げたままゆっくりと口を開く。

 

「私は何度も会ったことがあるので、紫さんのことを知っています。 本気になれば太刀打ちできる人なんてほとんどいないような、大妖怪だったってこともわかります。 この幻想郷に彼女を、しかも霊夢さんと同時に相手にできる人なんて、数えるくらいしかいないと……私は思います」

「なるほどな。 それでお前は私が怪しいのではないか、私が異変の首謀者なんではないか、と?」

「……」

 

 その無言は、肯定しているのと同義だった。

 普段の早苗だったら、声を上げて否定している状況だからだ。

 

「だが、昨日私はお前が博麗神社に行くまで一緒にいただろう?」

「私は日中は異変調査に行ってましたし、魔理沙さんと一緒にここを出てから博麗神社に着くまでの間も、随分と時間がありました。 それに…」

 

 それでも、早苗は核心の部分を声に出して言うことができない。

 それは、自分の中の何かが許さなかった。

 自己嫌悪で強く握りしめたその手は、充血して微かに震えていた。 

 

「………ぷっ」

「え?」

「あはははははははははははは」

 

 だが、そんな重苦しい雰囲気の中で、神奈子が突然笑い出した。

 

「なっ……!? 神奈子様、私は真剣に…!!」

「いや、すまない。 だがいいんだ、お前はそれでいいんだ! そうか、お前も遂に私を疑うことを覚えたか」

 

 神奈子は、自分が疑われていることがむしろ嬉しかった。

 ずっと自分たちに遠慮気味だった早苗が、初めて自分のことを疑っているのだ。

 こんな日がくるのをどれだけ待ったことだろうかと言わんばかりに、神奈子は愉快そうな笑みを浮かべていた。

 

「あの、違いますよね? やっぱり神奈子様がそんなことする訳…」

「だから!!」

 

 神奈子はいつになく本気だった。

 こんなタイミングを逃したら早苗の次の成長期がいつ来るのかもわからないからだ。

 

「お前が幻想郷の異変を解決しようとする一人の人間として、私を一個人として信じるのなら別にいい。 だが、お前が守矢神社の巫女として、その神である私を信じようというのなら、それは許さん」

「え……?」

「くだらん身内贔屓などするな。 お前はただ、お前の思うように動けばいい」

 

 早苗は自分が何と言うのが正しいのかわからず動揺していた。

 実際に早苗は神奈子のことを疑っていた。

 面と向かって言えなくても、疑うのに十分すぎる理由もあった。

 それにもかかわらず、何も言えずにいた。

 今まで自分が最も信頼してきた相手を疑うということに、ただ自己嫌悪を感じるばかりで、何を信じたらいいのかすらわからなくなっていたのだから。

 

 だが、神奈子は自分の思うように動けと言った。

 その真剣な眼差しを感じ、早苗は悟る。

 自分が何を信じ、どう行動するのかに正しい答えなど存在しないのだと。

 

「……そう、ですね。 わかりました、神奈子様!」

「よし。 では、わかってくれたところで、私も少し弁明させてもらおうかな」

「はい! それで神奈子様、実際のところどうなんですか?」

 

 突然人が変わったようにシリアスな雰囲気が消し飛び、いつもの早苗に戻っていた。

 まるでどこぞの新聞記者を思わせる変なインタビューのような聞きかたをする早苗を見て、神奈子はまた笑いそうになった。

 

「まぁ、とりあえずお前が信用するにしろしないにしろ、私は紫に手を出してなどいない、とだけ言っておこう」

「本当ですか!?」

「ああ。 確かに私は軍神として幻想郷でも、まぁ、たいていの奴よりは強いとは自負しているよ。 だけどな……」

 

 神奈子は、さっきまでとは違って少し寂しそうな目をして言った。

 

「もしあいつと……紫と本気で殺し合ったりしたら、たとえ勝てたとしても今頃私は五体満足でお前と話してなんかいない。 そのくらいには、あいつを評価しているつもりだよ。 ましてや博霊の巫女と一緒ならなおさらな」

「……ですが、もし神奈子様が諏訪子様と一緒だったとしたら?」

 

 それも早苗が神奈子を疑う理由の内の一つだった。

 あの2人を一人で相手取るなんてことができる人なんていないだろう、と早苗は思っていた。

 だとしたら、強力な力を持つ2人以上。 

 そう考えた時に、早苗が真っ先に思い浮かべたのは神奈子と諏訪子だった。

 その力を信じているからこそ、神奈子と諏訪子が怪しいのではないか、という思いに早苗は至ってしまったのだ。

 

「くっくっく、なるほどなぁ、そういうことか。 まぁ、確かに諏訪子と一緒なら、可能かもな」

 

 笑ってはいけないとは思いつつも、神奈子はこらえることができなかった。

 

「で、でも、私は神奈子様と諏訪子様を信じます! いえ、信じるために動こうと思います」

「ほう……?」

「大切な人が犯人かもしれないなら、自分がボロボロになるまでその人が犯人でない証拠を探せ。 外の世界で有名な探偵さんの言葉です!」

「はっ、そうか。 それなら私は、お前が私たちの無実を証明してくれることを楽しみに待っているとしよう」

 

 そう答えると、神奈子は立ち上がった。

 

「では、私はしばらく神社の奥の方で大人しくしていようかな。 それと、お前が信頼できる者を見張りにでもつけてもらおうか」

「えっ? 見張りだなんて……あ、いえ、そうですね。 ではそうさせてもらいます」

 

 早苗はそこまでして神奈子と諏訪子を疑いたくはなかったが、信じているからこそ、その対応が必要なのだと判断した。

 そして神奈子は、遂に早苗が巣立つ日が来たのかと、嬉しいような寂しいような複雑な心境で早苗を見ていた。

 

「それで、お前はこれからどうするつもりだ?」

「そうですね……とりあえず私は紫さんに会いに行ってみます」

「はあ? 何を言ってるんだ、紫はもう死んだんだろう? それに会いに行くって…っ!? お前まさか…」

「はい! ちょっと彼岸に行ってみたいと思います」

 

 紫の能力のおかげで、しばらく前までは現世と冥界との境界が曖昧になっていたため、生きたまま冥界に行くことも可能だった。

 しかし、紫がいない今、死者に会うには彼岸を通って行くしか方法はない。

 彼岸とは、三途の川の先にある、死者の霊魂が閻魔に裁かれるのを待つ場所。

 当然、生者が立ち入ることなど絶対に許されない場所なのである。

 

「待て、ちょっと待て……あのな、早苗。 彼岸っていうのはそう簡単に行っていい場所ではな…」

「ふっふっふ、甘いですよ神奈子さま。 私は気付いたのです。 そう、幻想郷では常識にとらわれてはいけないということに!!」

「お、おうう……」

 

 そういえば暴走した早苗は話を聞かないんだったな、と神奈子は思い出す。

 そして、早苗が本当に巣立ってしまっていいのか、自分たちが見張ってなくて大丈夫なのだろうかと不安になった。

 

「……まあいい。 お前が変なことを言い出すのはいつものことだからな」

「何ですかそれ!?」

「それで、お前はもしかして一人で動くつもりなのか?」

「あ、安心してください! 私は既に、心強い仲間たちを……あ、ちょうど来たみたいです」

「……はぁ、あいつか」

 

 ため息をついた神奈子の前に、突風が吹き荒れる。

 風というよりは、小さな竜巻のようだった。

 

「ふう。 どうもこんにちは、清く正しい射命丸です」

 

 そして、お決まりのセリフと共に取材スタイルの烏天狗がどこからともなく降ってきた。

 

「いやぁ。 八坂様、この度はまことにご愁傷様でした」

「ご愁傷様って……いや、別に紫はウチの神社の関係者でもなんでも…」

「わかります。 わかりますよ。 信頼する紫さんに先立たれておよよおよよと泣き腫らす毎日……ですが、その悲しみを振り切って異変解決に乗り出そうという東風谷早苗さん! 今の心境を一言でどうぞっ!!」

「えっ!? あの、えーっと…」

 

 突然マイクを向けられた早苗は、どうしていいのかわからず狼狽えている。

 それを見ていた神奈子は、あからさまに面倒だと言わんばかりの顔をして言う。

 

「あー、わかってはいたが再確認。 なんて失礼かつ面倒くさい奴だ」

「あややややや? 八坂様、それは褒め言葉ととらせていただいても?」

「心底どっちでもいい」

 

 『文々。新聞』の記者である射命丸文は、決して会話の主導権を譲らないという謎のポリシーの下にひたすら喋り続けていた。

 また面倒くさい奴を連れてきて……と神奈子は頭を抱えたくなったが、この異変で住処をやられた被害者であるにも関わらず、こんなテンションを維持できる文はある意味では評価できた。

 

 最近まで妖怪の山には2つの大きな勢力が存在していた。

 元々妖怪の山に住んでいた天狗や河童たち、妖怪の階級社会。

 そして、新たに妖怪の山に移転してきた守矢神社。

 2つの勢力はそれほど仲の良い関係ではなかったが、異変の影響で天狗の住処が壊滅し、そのトップである天魔や大天狗らがまとめて不在となったため、天狗社会の復興が済むまでの間、階級社会である天狗や河童の勢力で混乱が起きないように、運よく難を逃れた者たちの保護の意味も含めて一時的に神奈子が妖怪の山全体の指揮をとることになった。

 それに納得しない者もいたが、文のように守矢神社に友好的な者も割と多いようだ。

 

「と、いう訳で私は早苗さんに同行させてもらうことになったんですが、今回は早苗さん初の異変解決の独占取材ということでいいんですか?」

「えっと、実は私と射命丸さん以外にも、もう一人いるんです」

「おおっとおおぉぉ、ここでまた新事実発覚! 謎のヴェールに包まれた3人目の正体とはいかに!?」

「ちょっと本当にウザいぞこいつ」

 

 久々の大規模な異変で一人謎のテンションになっている文に、神奈子のイライラは最高潮に達しようとしていた。

 だが、この烏天狗の実力は一応神奈子も認めるところではあり、異変解決の友にはふさわしいのでこの場合は良しとしていた。

 

「おーい、早苗―」

 

 そこに、声が響く。

 

「あ、よかった。 ちゃんと萃香さんも来てくれたみたいですね」

「……萃香、さん?」

 

 すると、さっきまでマシンガンのようにしゃべり続けていた文が、突然静かになった。

 というよりも少し、いや、かなり震え始めた。 

 そして――

 

「あ、あやややややややや、早苗さん、私ちょーっと用事を思い出しちゃいましたー……なので、失礼しますっ!!」

 

 と、言い残して飛び立とうとしたが、しかし足がもつれてコケてしまう。

 よく見ると、足がもつれたというよりも、霧のようなものに足をとられてしまっているようだった。

 

「いやぁ、いきなり逃げることはないんじゃないかねえ?」

 

 そう言って突然現れた萃香を目の前にして、文は口をぱくぱくさせながら立ち上がると、背筋をぴーんと伸ばして礼儀正しそうに言った。

 

「は、初めまして、私、烏天狗の射命丸文と申します!」

「ああ知ってるよ、お前んとこの新聞は面白いからな。 伊吹萃香だ、よろしく」

「え? あ、ああ、そ、そうですよね、宜しくお願いします」

 

 友好的な態度の萃香とは対照に、文は緊張のせいか、いつものような営業トークをできていなかった。

 

「それで、今日は伊吹様はどうしてこちらに……?」

「ああ。 実は早苗の異変解決に同行することになったんだが…」

「そ、それは大変ですね! では私は邪魔にならない内に帰って…」

「実は射命丸さんも私たちと一緒に行くことになったんですよ」

 

 ――さ、早苗さん空気読んでえええええ!!

 

 そんな風に言いたげな面持ちで文は早苗を見た。

 

「そうか、なるほどねえ。 それじゃよろしく頼むよ」

「あ、あははははははは、はい、よろしくお願いします、伊吹様……」

 

 誰がどう見ても、文が萃香を苦手に思っているのは明白だった。

 いや、萃香というよりも、昔の怖ーい上司であった鬼を恐れているだけの話だが。

 

「せっかくこれから一緒に行くってのに伊吹様だなんて他人行儀だし、萃香でいいよ」

「い、いえいえいえいえいえいえ!! そんな、恐れ多いです! 私は、その…」

「……そっか。 まぁ、そうだよな」

 

 文のその反応に、萃香は少し寂しいような、申し訳なさげな表情になった。

 そして、文は少し混乱していた。 

 萃香から感じる印象は、自分の知っている鬼とはずいぶん違うようだったからだ。

 

 ずっと前のことになるが、妖怪の山を鬼が支配していた頃は、もっと殺伐とした雰囲気が漂っていた。

 異常な身体能力を持つ鬼によって、天狗や河童を中心とした妖怪たちはずっと虐げられ、支配されてきた。

 それからしばらくして妖怪の山から鬼がいなくなるのだが、幼少期に鬼に支配されて育った文にとっては、鬼はただの恐怖の対象でしかなかった。

 特に、鬼の四天王である伊吹萃香の名前は、噂でしか聞いたことがなかったが、凶暴で高圧的なイメージしかもっていなかった。

 そのため、今まで萃香と対面することはできる限り避けてきたのだが、実際に話してみると萃香は自分の知っている鬼とは違うのではないかと思えた。

 

「お前が鬼をどう思っているかは、なんとなくわかるよ。 そして、そうなったのは私たちが悪いってことも」

「……」

「私たちが妖怪の山を支配してた頃のことが許してもらえるとは思わない。 その頃のことは水に流してくれ、というのもムシのいい話だとは思う。 でも、それでも私は今からでもお前たちと仲良くしたいんだ」

「……」

 

 文は久々に自分を恥じた。

 こんな簡単なことだったというのに、何故今まで向き合おうとしなかったのか。

 しかも、萃香は自分のことを知っていると言ったのだ。

 鬼の実力者が、会ったこともないただの烏天狗の一人が書いた新聞なんかを読んでくれていると、その新聞の記者である文のことを知っていると、そう言ったのだ。

 鬼のことは恐れていたが、鬼が嘘をつかないことも知っていた。

 つまり萃香は山を去ってから長い時間が経ってなお、自分のような一天狗のことを個人として見ていてくれたということなのである。

 そんな鬼がいることを、自分は知ろうとすらしなかったのだ。

 

「は、ははは。 そっか、私もバカだなぁ」

 

 これでは真実を伝える新聞記者として失格だな、と文は自虐的に笑ったあと、いつもの営業スマイルで

 

「そうですね、私も貴方と仲良くさせてほしいです」

「本当か!?」

「はい! 先程は不躾な態度をとってしまい失礼しました、改めてご紹介させていただきます。 この度は早苗さんの異変解決に同行させていただくことになりました、『文々。新聞』記者の射命丸文と申します。 これからよろしくお願いします、萃香さん!」

「あ、ああ、よろしくな、文!」

 

 文は、もし許されるのであれば萃香を鬼ではなく、妖怪の山、いや、幻想郷の一員として、仲間として付き合っていけたらいいなと思った。

 そしてもし仲良くなれたのなら、いつか椛たち天狗仲間にも紹介できたらいいな、と。

 

「ふふふ。 じゃあ、萃香さんと射命丸さんが仲良くなれたところで、そろそろ行きましょう」

「ああ。 ってよりも早苗はこれからどこへ行く気なんだ?」

「ちょっと紫さんに直接話を聞きに彼岸に行きたいと思います」

「彼岸!?」

 

 射命丸は再び声を上げた。

 

「どうしました?」

「あはは、いやー、もう何でもいいです。 早苗さんといればネタに困ることはなさそうですね」

「まあ、早苗がとっぴなことを始めるのはいつものことだからな」

「むーっ、何ですかそれ」

 

 萃香にまでそんな風に思われてたのか、と早苗は少しショックだった。

 

「あ、それと射命丸さん。 椛さんに少し頼みがあるんですが、取り次いでもらってもいいですか?」

「椛に? 別にいいですけど、どうしたんですか?」

「いえ、今回の件で少し、その、神奈子様と諏訪子様に見張りをつける必要があるかなぁと……」

 

 それを聞いて、文は驚いた顔をした。

 そして、少しヒソヒソ声で早苗に問う。

 

「早苗さん、もしかしておふたりのことを疑って…?」

「……はい。 一応それなりの対策も必要かと」

「監視って、あの2人をか? それは、早苗も思い切ったことをするなぁ」

 

 文や萃香は、早苗はなんだかんだで最終的には神奈子と諏訪子の言いなりになるのだと思っていたため、その提案が少し意外だった。

 

「ってか、椛って意外と守矢神社でも評価高いんですよねー。 私なんて来ただけで嫌な顔されたのに」

「それは自業自得、と言っておきたいと思います」

「なんだ、文はダメな奴認定されてるのか?」

「いえいえいえいえ、私は清廉潔白な新聞記者として皆さんからの信頼を…」

 

 さっきまであれほど距離感があった2人も、この短時間でこんな会話を交わせるようになっていた。

 こんなふうにすぐに人と打ち解けられるのもこの天狗の魅力の一つであろう。

 

「……まあ、別にいいですよ。 それなら私はとりあえず椛に頼んで来ます。 すぐ追いつくと思うので、先に行っててください」

「え? そ、そうですか、わかりました! じゃあお願いしますね、また山の麓で会いましょう」

「はい、行ってきます」

 

 そう言って、文はすぐに飛び去って見えなくなった。

 幻想郷最速と呼び声の高い文ならすぐに追いつくだろうと、早苗と萃香は言われた通り先に山を下りることにした。

 

 

「……行った?」

「ああ」

 

 3人を見送った神奈子の頭上。 

 身を隠すように、神社の屋根裏から蛙の目が早苗たちを覗いている。

 蛙の目というよりも、そんな感じの目が付いた帽子を被った守矢神社のもう一人の神、洩矢諏訪子が気配を消して天井に張り付いていたのだ。

 

「いやぁ、早苗もちょっとだけ大人になったみたいで嬉しいよ」

「まぁ、まだ不安なところだらけだけどな」

「だね」

 

 諏訪子は話しながら天井を軽く蹴り、音も立てない程鮮やかに回転して神奈子の後ろに着地した。

 

「それで、アレはちゃんと順調に進んでいるのか?」

「うーん、早苗に気付かれないようにだと、なかなか厳しいね」

「仕方ないだろう、私たちの罪だ。 早苗にまで背負わせることはできないだろう? それに、もしあの子が知ったら絶対に私たちを止めるはずだ」

「……そうだね」

 

 神奈子の少し強がっているような声色を聞いて、諏訪子も無理に笑って言う。

 

「まぁ、それでも意外と鋭いところもある子だから気を付けないとね。 あとは射命丸が上手いことやってくれるといいんだけど」

「ん? あいつを同行させるよう仕向けたのはお前だったのか」

「別に仕向けたってほどのことじゃないんだけどね。 一応信頼できる協力者としてけっこう深いところまで話してあるよ」

「信頼? あいつをか?」

「まあねー。 私は神奈子よりは射命丸のこと評価してるつもりだからね」

 

 文の話を通じて少し和やかなムードにもなるが、それでもピリピリした空気は消えることはなかった。

 神奈子と諏訪子は一度たりとも視線すら交わさず、ただ言葉だけを交わしていく。

 

「まあいい。 では、とりあえず早苗たちが妖怪の山を出たら計画を進めるとしよう」

「うん。 じゃあ、表向きのことは神奈子に任せたよ」

「わかった。 健闘を祈る」

 

 そう言うと、諏訪子が姿を消す。

 神奈子は少しだけためらった様子だったが、やがて行動を開始した。

 

 そして間もなく、守矢神社を謎の結界が覆う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 湖の先に一軒だけある大きな屋敷、紅魔館。

 その地下には数えきれないほどの本が蓄えられた図書館が存在する。

 本のページをめくる音さえも鳴り響くほどに静かな場所だったはずのそこは、今やそんな面影は跡形もなかった。

 

「……それで、魔理沙はまずパチュリーを頼ろうと思ったという訳ね」

「いや、だからそういう訳じゃなくて、ほら、お前もよくここに来るじゃん。 だから図書館に来れば都合よく2人に会えるんじゃないかなー、なんて」

「へぇー、なるほどねー、そうなんだー」

 

 魔理沙は、まるで浮気がバレた男のように一人言い訳を続ける。

 自分の帽子を手汗で濡らすほどに頭を掻きながら必死に思考を巡らす魔理沙の前では、一人の少女が腕を組みながら不機嫌な顔をしていた。

 

「そ、そうなんだよ。 だから機嫌直してくれよ、アリス」

「別に私は機嫌悪くなんてないけどね、別に」

「だからそう言わずに、な? ほら、パチュリーも何か言ってやってくれよ」

「……」

「ああ、もう……」

 

 魔法の森に住む人形使いのアリス・マーガトロイドと魔理沙のこんなやりとりを聞くのにもう慣れてしまった図書館の主、パチュリー・ノーレッジは、まるで2人とも最初からいなかったかのように読書にふけっていた。

 この大図書館は最近まで自分だけの城と言っていいような場所だったが、紅霧異変以来魔理沙が本を借りに、それにつられるかのようにアリスが本を読みに来るようになった。

 もっとも、許可もなく本を持っていく魔理沙の場合は借りるというよりも盗むと言った方が近い気もするが……そんな騒がしい2人が来るようになってから、今までのように落ち着いて本を読めるほどに慣れるまではけっこうな時間がかかった。

 

「ふふふ、仲が良さそうでいいことじゃないですか」

「仲がいい、ねえ……うるさいから、いちゃつくなら外でいちゃついて欲しいわ」

「私としてはパチュリー様もあんな活発な子に育って欲しいと心から…」

「はいはい」

 

 自分の使い魔のくせにまるで母親のような口ぶりで紅茶を運んできた小悪魔を華麗にスルーしながら、パチュリーは紅茶に口をつけた。

 

「それで、魔理沙は結局私とパチュリーのどっちを選ぶのよ?」

「いや、どっちをっていうよりも2人ともに協力してほしいんだが…」

「はあああああ!? 信っじらんない、二股かけようっていうの!?」

「だからさっきから何言ってんだお前は……」

 

 そこで、2人の会話を遮るように、本を閉じる音が図書館に響き渡った。

 

「それで、そろそろ夫婦漫才は終わった?」

「いやだわパチュリー、夫婦だなんて…!!」

「誰が夫婦だ誰が!」

 

 仲がいいのか何なのかよくわからない3人の掛け合いを見て、小悪魔はまたほほえましい表情になる。

 

「はぁ……頼むから真面目に考えてくれよ……」

 

 しかし、魔理沙はこんな状況でちゃんと対応しきれるほど大人ではなかった。

 異変のことで既に頭がパンクしそうになっている魔理沙を見て、パチュリーはやれやれ、とため息をついて言う。

 

「ほら、アリスはちょっと調子に乗りすぎよ。 魔理沙はまだ子供なんだから」

「だって、面白いんだもの」

 

 アリスはさっきまでの不機嫌が嘘だったかのように、あっけらかんと答える。

 

「面白……っ!? おいアリス、私は真面目に…」

「わかってるわよ。 紫と霊夢がやられたんでしょ? 今回はいつもよりも状況は深刻みたいね」

 

 一人激昂している魔理沙を後目に、アリスが右手の指を動かすとともに小さな人形たちがいくつもの本を持ってアリスに近づいてきた。

 さっきまでのふざけた態度とはうってかわって冷静になったアリスの指の動きに合わせるように、人形は本を開いて並べる。

 

「紫が何者なのかなんてことは詳しくは私も知らないけど、簡単に言うと幻想郷の管理者みたいなものでしょ? その紫がこの異変解決に動くまで数日かかった。 まぁ、霊夢の動き出しに合わせていたのかもしれないけどね」

「え? あ、ああ」

 

 アリスは多くの本に目を通しながら話を進めていく。

 さっきまでアリスにツッコみをしていただけだった魔理沙は、まだ真面目な話に頭を切り替えられていないようだった。

 

「そして紫は、情報収集にそれほどの時間を要した上に敗れた。 つまりは、妖怪の賢者とまで呼ばれる実力者である紫と、異変解決のスペシャリストである霊夢の想定を上回る程の相手だった、ってことでしょ?」

「……つまり、お前は何が言いたいんだ?」

「今回は私たちの手におえるような異変じゃないってことね。 今日明日にでも目が覚めるなら、霊夢が起きるのを待った方がいいと思うわ」

「なっ!?」

 

 魔理沙は何か言い返そうとしたが、しかし何も言い返せなかった。

 その提案に言い返せるほどの実力が自分にはないことくらいは、理解していたからだ。

 

「っ……」

「まあ、そこで冷静に自分を見つめられるならまだ大丈夫ね」

「そうね。 ムキになって言い返すだけだった頃よりは成長したわ」

 

 そう言って、必要な情報を読み終えたのか、パチュリーは立ち上がった。

 

「どうしたの?」

「どうしたって、異変調査に向かうにきまってるでしょ?」

「はあ!? 今、私たちの手には負えないって説明したばかりでしょ?」

 

 話を聞いていたのかと言わんばかりにアリスがパチュリーに疑問の声を上げた。

 パチュリーは落ち着いた表情のまま、淡々とそれに答える。

 

「私たちだけで異変を解決することについては、多分そうね。 それは間違ってないわ。 だけど、調査くらいならできるでしょ? 聞いた感じ、この異変をこれ以上放置してたらどうなるかわからないわ」

「でも、調査っていっても……魔理沙も守矢の巫女も2日かけてほぼ手がかりナシだったのよ?」

 

 魔理沙も早苗も、異変の影響で幻想郷のパワーバランスが崩れてきていることや天狗の住処が崩壊したことは知っているが、そんなことはもう幻想郷の誰もが知っているレベルにまで広まっている。

 だが、魔理沙も早苗も異変解決に乗り出せるだけの実力は十分に持っているはずであり、その2人が2日かけてそれ以上の新しい情報を何一つ掴めないというのは今までの異変からは考えられないことなのである。

 

 実は、そうなっている原因は、この異変のもう一つの側面にあった。

 異変の影響で力をつけた者の多くが、いつの間にか行方知れずとなっているのだ。

 それ故、魔理沙も早苗も、ほとんど異変にかかわらない者や喋れる程度の軽傷しか負ってない者からの話しか聞けず、調査の過程で掴むことができたのは、他愛のない噂やどうでもいい知識の域を出ない情報ばかりだった。

 手がかりを探そうにも、異変に関わった者が次々と神隠しにあっていくために、うまく異変調査を進めることができないのである。

 

「まぁ、確かに私やパチュリーが手伝えばもう少し何か見つかりそうな気もするけど……流石に私たちには荷が重すぎるんじゃない?」

「そうね。 私もアリスも八雲紫ほど優秀って訳でもないし、魔理沙もまだまだ霊夢には及ばない。 私たちだけで異変の黒幕を見つけて倒そうって言ったって、それは厳しいと思うけど」

「けど?」

「あの2人で解決できなかったことを見ると、今回の異変は幻想郷の存続自体が危ないような規模かもしれない。 だとすれば、私たちにできる範囲のことだけでもしておいた方がいい気もするわ」

 

 本来ならば、幻想郷でもトップクラスの勢力を誇っていた天狗社会が謎の崩壊をしたというだけで、十分な異変と言っていいはずのものだった。

 しかも今回はそれに加えて、幻想郷の生態系の崩壊、幻想郷の管理者である紫の死、博麗の巫女の不在という問題も抱えた異常事態だった。

 そんな規模の異変を放っておくなど、まるで隣の家が燃えているというのにのんびりと寝室でテレビでも見ているかのような危機感のなさであろう。

 

「でも、やれることっていっても何をすればいいんだ? 私は一応、幻想郷中を飛び回ってみたんだぜ? 天狗の住処のあたりはちょっと入らせてもらえなかったけど、今度はそこにでも忍び込むのか?」

「……怪しい場所筆頭の妖怪の山すら調べ切ってないのね。 ま、どうせ魔理沙は何も考えずに適当に動き回ってただけなんだろうけど、ちょっとくらいは頭を使いなさい」

「頭をって……そんなの、何の手がかりもなかったからしょうがないだろ!」

「そうかしら?」

 

 パチュリーの何か心当たりがあるかのような口ぶりに、すかさず魔理沙が突っ込む。

 

「何か考えがあんのか、パチュリー!?」

「偶然かもしれないけど、多分魔理沙が行ってなくて今回の異変に関係あるかもしれない場所があるわ」

 

 パチュリーは相変わらず淡々と話を進める。

 アリスはそれを、少し嫌そうな目をしながら黙って聞いていた。

 

「それは?」

「……そもそもだけど、今回の異変、早すぎると思わない?」

「異変が早い?」

「今回の異変の兆候が見られたのはこの前の異変が終わってから1週間も経たないうちよ」

「……まさか、地底か?」

 

 魔理沙が恐る恐るパチュリーに聞く。

 

「そうよ。 地底での異変が、今回の異変と何らかの繋がりがあるかもしれない。 八雲紫の手が回らない場所、という意味でも有力な候補だと思うし」

「でも、地底への入口は…」

「閉じられていたわ。 昨日までは、ね」

「そうか! 今なら…!!」

 

 地底への入り口は、地上の住人が安易に地底へ入らないように紫が結界を張っていた。

 しかし紫亡き今、その結界は消えている、もしくは弱まっていることが考えられる。

 その話を聞いて、アリスはまるでわかっていてその話を魔理沙にはしたくなかったかのように露骨に嫌な顔をしていた。

 

「地底ねぇ……私はできれば行きたくないけど」

「そんなの私もよ」

「じゃあなんで魔理沙にそんなこと言ったのよ」

「あら、私は可能性を一つ提示しただけだけど」

「そんなの、魔理沙が聞いたら…」

 

「じゃあ私は地底に行くぜ! 2人とも来てくれるよな?」

 

「……って言うに決まってるじゃない」

 

 そもそも、魔理沙は地底に行ったことがない。

 いつもならば異変が起きれば霊夢よりも早く真っ先に現場に急行しようとする魔理沙だが、なぜか前回の異変では霊夢の動き出しが早く、魔理沙が気付いた時には解決し終わっていたからだ。

 それ故、魔理沙は行ったことのない地底への興味が元々かなりあったのだ。

 既に魔理沙はノリノリになっている。

 頭を抱えてため息をつくアリスに、パチュリーは言い訳をするように言う。

 

「まぁ、確かにあんな面倒くさそうなところ普段なら絶対行かないだろうけど。 私としては一番怪しいと思うし、地上と地底の関係を保ってる八雲紫がいない今なら地底に行くのも簡単なんじゃないかと」

「……で、本音は?」

 

 アリスが横目でパチュリーを睨む。

 

「……さっき読んでた本の舞台が地底だったから、せっかくだし一度くらい地底を見てみようかと」 

「ああ、もう。 どうせそんなことだろうと思ったわよ。 っていうかそんな行動力あるならたまには自分から外に出なさいよ」

「私は気が向いた時しか動かないのよ」

 

 一人異変解決に燃えている魔理沙、ただ地底に興味があるだけのパチュリーに、あまり乗り気じゃないアリス。

 いまいち気持ちがバラバラであるが、どうやら方向性は決まったようだった。

 

「あら、3人してどこへお出かけ?」

 

 そこへ、メイドを連れた小さな少女が現れた。

 歩き方から姿勢まで完璧な佇まいの紅魔館メイド長、十六夜咲夜。

 そして、その隣にいる一見10歳にも満たないように見えるその少女は、実は500歳を超える吸血鬼にして紅魔館当主のレミリア・スカーレットである。

 

「……珍しいわね。 レミィがこんな朝から図書館に来るなんて」

「別に用があって来た訳じゃないわ。 いつも以上に五月蠅く感じたから、紅魔館の主として見回りに来ただけよ」

 

 レミリアはパチュリーにそっけない返事をし、隣で騒いでいた魔理沙たちに目を向けた。

 魔理沙はいつものように片手を上げて軽いノリで言う。

 

「よっ、久しぶりだなレミリア、咲夜。 ちょっと異変を解決してくるから、パチュリーを一泊二日のレンタルで頼む」

「レンタルって、私は別にレミィの持ち物じゃ…」

「いいわ。 勝手になさい」

「おい、待て」

 

 そこに、パチュリーの口から出たとは思えないツッコみが聞こえた。

 だが、それすらも聞こえていないかのようにレミリアは続ける。

 

「今ならセットで咲夜もついてくるけど、どうかしら」

「あー、咲夜はいいや」

「そう、残念ね」

「おーい、話聞いてますか―?」

 

 自分たちといる時よりも軽いノリのパチュリーを見て、魔理沙は少しだけレミリアに嫉妬する。

 しかし、気持ち楽しげに見えるパチュリーとは対照に、こんなふざけたやり取りをしながらもレミリアは全くの無表情だった。

 いや、そもそも魔理沙は自分よりも子供にすら見えるこの吸血鬼が笑ったところなど、今まで一度も見たことがなかった。

 

「ああもう。 咲夜の教育がなってないからレミィがこんな横暴に育つのよ」

「ふふふ。 まぁ、お嬢様は生まれついてのカリスマの権化ですから」

「はぁぁ……あまり甘やかすのもレミィのためにならないから、たまには主人に厳しく接することもメイド長の役目よ」

「なるほど、そういう考え方もできますね。 ではそのお言葉、心のほんの隅っこの方に放置しておきます」

「いや、だからちゃんと話聞いてよ」

 

 パチュリーがいろいろと不平を言うが、レミリアの傍にいる咲夜に全て笑って受け流されてしまう。

 それはいつものことではあるが、周りからその様子を見ていると、まるで咲夜がレミリアの元気を奪っているかのようにすら見えた。

 

「じゃあ、私たちはそろそろ行ってくるぜ」

「今日はどちらまで?」

「とりあえず地底に行ってこようかなーと」

「地底、ですか…… … ……そしたらこれを」

 

 話をしている一瞬の間に、咲夜は小さなバッグを持っていた。

 おそらくは彼女の『時を操る程度の能力』を使って時間を止めて、待ち時間をとらせないように用意してくれたのだろう。

 中身はどうやら地下探索用のライトや非常食などの簡単な持ち物のようだった。

 

「おお、さすが紅魔館のメイド長だぜ」

「お誉めにあずかり、光栄です」

「一瞬たりとも待たせないとは、完璧な仕事ね。 ……やっぱりパチュリーの代わりに貸してもらおうかしら」

 

 アリスが少し冗長めいた口調でパチュリーに目を向ける。

 

「ああ! パチュリー様が長年の引きこもり生活から脱却し、自分から外へ出る日が来るなんて!!」

「……うるさいわよ小悪魔」

 

 一方でそのパチュリーは、パチュリーの自主的な行動に感極まって目を輝かせている自らの使い魔を、面倒そうに相手している。

 そして、それに耐えきれなくなったのか、パチュリーが一人先に歩き始めた。

 

「もう、時間の無駄だしそろそろ行きましょう」

「ええ、そうね」

「よし、んじゃ行ってくるぜー」

「いってらっしゃいませ」

 

 こうして紅魔館メンバーたちに見送られ、3人は紅魔館を出発した。

 その姿が見えなくなるまで深くお辞儀を続けている咲夜は、久々にパチュリーがいなくなったことで寂しがるかという淡い期待を抱きながら片目でレミリアを見ていた。

 しかし、わかってはいたことだが、その期待が報われるまもなく3人は行ってしまった。

 

「……ではお嬢様、私は朝食の準備に取り掛かります」

「そうね、お願い」

「咲夜さん、私久々にビーフシチューが食べたいです」

「あっ、こぁばっかりずるい! 咲夜さん、私今日はハンバーグが食べたいです」

「朝食からそんなに重いものを……って美鈴、いつから起きてたの?」

 

 呆れる咲夜をよそに、いつの間にか現れた紅魔館の門番である紅美鈴は、寝起きのその体でスキップしながら食堂へ向かった。

 そんなこんなで紅魔館では今日も賑やかな一日が始まる。

 パチュリーはいないが、それ以外はいつも通りの日常。

 だが、レミリアだけは虚ろな目で3人の行った方向をいつまでも見ていた。

 

「……どうしましたか? やっぱり寂しいのですか、お嬢様?」

「なんでもないわ。 私は少し部屋に戻ってるから、食事ができたら呼んでちょうだい」

 

 そう言ってレミリアは一人歩き始める。

 それにすぐ反応できなかったのは、咲夜が驚いていたからだ。

 レミリアが少し、ほんの少しだけ悲しそうな顔をしていたから。

 それは咲夜以外の誰も気付かない程のわずかな変化。

 しかし、レミリアが感情を表に出したところを見たことのない咲夜にとって、それは呆気にとられてしまうには十分なものであった。

 

「お嬢様……?」

 

 そして、咲夜の呼びかけに気付く間もなく、レミリアは一人自分の部屋へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 無駄と言っていいほど広い寝室。

 他に誰もいない部屋のベッドに横たわり、レミリアは呟く。

 

「……異変解決、ね」

 

 小さく呟いたはずの声は、その静けさ故に鮮明に聞こえる。

 それを聞くものなど、他にいない。

 それでも、必要以上にレミリア自身の耳には響く。

 

「まぁ、せいぜい足掻くといいわ」

 

 それは誰に言ってる訳でもなかった。 

 ただ、レミリアは誰にも見せたことのないような悲しい顔で、まるで自分自身を責めるかのように言った。

 

 

「どうせこの運命は、誰にも変えることなどできないのだから――」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

前編ノ壱 ~異変~  
第3話 : 友達


 

 そこは一面氷の世界だった。

 春も近づいてきている時期に、そこだけは氷点下の異常な気候だった。

 少し前まで、そこは春を待つ動物たちの住まう普通の森だったが、今はその姿を見ることはおろかほんの少しの鳴き声すらも聞こえない。 

 ただ、微かに妖精たちの笑う声だけがこだましていた。

 

「あははははは、やっぱりあたいったら最強ね!」

「す、すごいよチルノちゃん! これならもうあの巫女さんにだって負けないよ!」

「いやー、ここまでとは。 私もびっくりだなー」

 

 かつては森だった場所で、氷の妖精チルノとその友達の大妖精、そして暇つぶしについてきた妖怪のルーミアがそんな会話をしていた。

 

「でも、流石に一緒に行動するには私たちにはちょっと寒すぎるわ」

「ル、ルーミアちゃん!」

「あ」

「え……あ、そう、だよね……ごめんね、ルーミア」

 

 少し前から、チルノの様子がおかしかった。

 妖精は悪戯好きで、チルノの冷気でちょっと人間や妖怪を驚かして逃げるというのがいつものパターンだったが、最近は驚かすだけのつもりだった自分の力で相手が完全に凍って動かなくなるようになった。

 最初はチルノも周りで見ていた妖精たちも大はしゃぎだったが、気付いたら辺り一面が氷の世界になっていたりと、だんだん手が付けられなくなっていく自分の力に、チルノ自身も少しずつ怯えるようになっていった。

 

「だ、大丈夫だよ、チルノちゃん。 私はずっとチルノちゃんの味方だよ! ルーミアちゃんもそうだよね?」

「まあ、チルノは面白いしなー」

「でも、みんなは……」

「……」

 

 そして、それに最初に耐えられなくなったのは、チルノの周りにいた妖精たちだった。

 チルノは妖精たちの間では人気者だった。

 いつも明るく皆を先導してはしゃぎまわって、いざという時はその氷の力を使って皆を護ってくれる、そういう存在だった。

 だから皆、チルノの周りに集まって悪戯をして過ごすことが好きだった。

 しかし、最近のチルノは力をつけすぎて、だんだん恐怖の目で見られるようになっていった。

 チルノの傍にいるだけで凍えてしまう妖精もおり、皆がチルノから距離を置くようになってしまった。

 そして、ほとんど自分の力を制御できなくなってしまったチルノの周りには、いつの間にか大妖精とルーミアしかいなくなっていた。

 

「……ねえ。 大ちゃん、ルーミア」

「何?」

「あたい、もう悪戯するのやめた方がいい気がするよ」

「……うん」

「あたいは最強じゃなくてもいい。 それでもいいから、またみんなと一緒に遊びたいよ」

「……」

「なんで、こんなことになっちゃったのかな。 あたい、バカだからわかんないよ。 あたいは、ただみんなでちょっと悪戯してるだけで楽しかったのに……」

 

 チルノの目から涙が溢れ、そしてそれはすぐに結晶となる。

 チルノにはもう、自分の涙が凍らないようにする程度の調整もできなくなっていた。

 

 そこに突如、閃光が走る。

 

「っ、何だー?」

「あやややややや? あのチルノさんが泣いているなんて珍しい」

 

 三人が目を開けると、そこにはカメラを構えた一人の烏天狗がいた。

 

「これは……シャッターチャンスいただきまーす!」

 

 そう言って文は状況も気にせず、何も断らずに写真を撮り始める。

 突然現れて一人ニヤニヤしながら高速移動でアングルを変えて写真を撮り続ける文に、大妖精は不快感をあらわにした。

 

「ちょっと、なんなんですか!? いきなり無神経じゃないんですか!!」

「記者というものはただ真実を知らせるために存在する。 だから最高の一枚を撮るためには躊躇しないのさ!」

 

 勝手な理論を展開して、話を聞かずに文は撮影を続けた。

 だが、次第に異変に気付いてその足は止まる。

 

「あれ? 何か、カメラがおかし…あれ、何も見えない…」

「それ以上撮ったらさすがの私も怒るぞー」

 

 よく見ると、カメラのレンズは何か得体の知れない黒いものによって覆われていた。

 それはどれだけ振り払ってもとれず、ただカメラのレンズ上を漂っていた。

 

「……なるほど、これが噂の闇を操る能力ってヤツですか」

「あんまり汎用性もないし便利な能力でもないんだけどね」

「でも、我々新聞記者にとっては天敵ですね」

「そうだろ? まあ、とりあえず今回はこれくらいにしといてやってよ。 チルノも傷ついてるみたいでさ」

 

 チルノを庇うかのように、ルーミアは文の前に立ちふさがって言う。

 そこに、早苗と萃香がようやく追いついた。

 

「もう、速いですよ射命丸さん」

「んあ、こいつらは何だ? ってか寒っ!? 何だこれ!?」

「ああ、ちょっとチルノさんの珍しい顔が見られたもので、取材をさせてもらおうかと思いまして」

「珍しい顔?」

 

 早苗がチルノのことを覗き込む。

 そこにはもはや泣いているというよりも、目を赤くして凍ってきているだけに見えるチルノの顔が見えた。

 

「一体、どうしたんですか?」

「それが、ちょっと前からチルノちゃんの様子がおかしいんです」

「チルノさんの様子って……ああ、もしかして」

 

 早苗は、この異変で力をつけて妖怪の集団を一人で蹴散らした妖精がいたという噂を思い出した。

 そして、あり得ない程変わり果ててしまった一面凍りついた森を見て、その噂がチルノのことであったと理解する。

 

「なるほど、もうチルノさんの力に手をつけられなくなったと」

「……うん。 あたいもう嫌だよ。 このままこんなことが続いて、いつか大ちゃんやルーミアまでいなくなっちゃったら…」

「そんな! 私たちはチルノちゃんを見捨てたりなんて…」

「でもそれで大ちゃんやルーミアがケガしちゃったら、あたいはどうすればいいのさっ!?」

 

 チルノが大妖精の言葉を遮るように叫んだ。

 その言葉に、大妖精とルーミアは何と答えていいかわからず黙っているしかなかった。

 どうしたらいいのかもわからなくて、ただチルノは泣き続けていた。

 

「だからもう、これ以上2人とは一緒にいられないから。 だから、あたいは……」

 

 チルノが振り絞るように声を出す。

 しかし、その先をなかなか言うことができない。 

 本当に一人になってしまうことが怖かったから。

 

「だから……」

「仕方ありませんね。 だったら……勝負しましょう、チルノさん!」

「へ?」

 

 そんなチルノに、早苗がまた突拍子もない提案をした。

 

「勝負って、なんで?」

「なんですか、ちょっと力をつけたくらいでもう最強気取りですか? いや、最強気取りなのは前からでしたけど、でも! そんな「自分が存在するだけで世界が崩壊する」みたいな中二病みたいなこと言えるほど本当にあなたが強いとでも思ってるんですか!?」

「でも…」

「でもじゃありません!!」

 

 早苗がまた訳の分からないことを言い始める。

 キョトンとするチルノたちをよそに、文と萃香はニヤニヤしながら2人の会話を黙って見ていた。

 

「私が、貴方がまだ最強じゃないって証明してあげます。 私は射命丸さんや萃香さんといても大丈夫なんですから、私より弱いチルノさんが誰といたって問題ないことを思い知らせてあげます!」

「でも、あたいは…」

「わかりましたか?」

「あの…」

「わ か り ま し た か ?」

「は、はいっ!?」

 

 何故か説教するかのように凄む早苗に、チルノは一瞬敬語になる。

 それを見て早苗は両手を広げ、にっこりと微笑んで言う。

 

「では始めましょう。 スペルカード使用回数は3回でいいですね?」

「えーっと……うんっ!」

「それじゃあチルノさん、スペルカード宣言を」

「うん、わかった! 大ちゃん、ルーミア、離れてて!」

「う、うん、頑張ってチルノちゃん!」

「はいさー」

 

 早苗はチルノを、子供をあやすかのように説得した。

 チルノはさっきまでの様子が嘘のように元気になった、というよりも早苗の強引な話の持っていき方で、さっき考えてたことを忘れてしまったかのようだった。

 

「いっくぞー、凍符『パーフェクトフリーズ』!!」

 

 そして、スペルカード戦が幕を開ける。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第3話 : 友達

 

 

 

 

 

 チルノと早苗が勝負をしたのはこれが初めてではない。

 かつて一度戦った時、チルノは早苗にとって問題にもならないような相手であり、そのスペルカードの難易度も早苗は知っていた。

 それ故、スペルカードは3枚と言ったのにいきなり切り札を使ったチルノに対し、「いきなりそんな大技いっちゃうんですか!?」と早苗は一瞬ほほえましい気持ちでツッコみそうになる。

 

 しかし、早苗はすぐに気持ちを切り替えて臨戦態勢となる。 

 いや、ならざるを得なかった。

 早苗がチルノを見くびっていた一瞬の間に、いつの間にか視界は全て氷の大気に覆われていた。

 それは、ただ氷を操るなんてレベルの弾幕ではない。 

 空間全体に広がったその冷気は、早苗が戦闘モードに入ったときには既に、スペルカード宣言前に早苗が吐いていた息すらも凍らせていた。

 

「っ……!!」

 

 考えて行動した訳ではない。

 早苗は驚きの声を出しそうになって寸前で踏みとどまる。 

 外気が一瞬で凍るならば、息をするだけで命取りになりかねないからだ。

 早苗は無呼吸状態のまま大きく回転し、周囲の冷気を振り払う。

 だが、早苗が再びチルノの方を向いた時には、払いきれなかった冷気の弾幕が壁のように隙間なく目の前の世界を埋め尽くしていた。

 迫りくる冷気の壁は、次第に冷たい死の雰囲気を帯びていく。 

 人間など、気付いたら死んでいてもおかしくないような弾幕を前に、

 

 ――風よ。

 

 それでも早苗は冷静だった。

 今のチルノの力はただ避けるには強大すぎる。

 そして、強すぎる力は自分には受け止めきれないことも知っている。

 魔理沙と霊夢、そして諏訪子や神奈子たちとの勝負で自分を知り、その感覚が身に着いていた早苗に迷いはなかった。

 

 突如として吹いた風は、冷気の壁を受け止めずに左右に受け流すことで、中央に細い道をつくった。

 両脇を死に囲まれたその道を、風の流れに乗るように早苗は一瞬で駆け抜ける。

 そして、早苗はチルノの背後をとろうと回り込んで……

 

「あれ?」

 

 しかし、その先にチルノはいなかった。

 

「チルノさん、どこに…」

「しっかりしろ、生きてるか!?」

 

 ただ何も考えずに全力で全てを凍らせたチルノは、攻撃を放った次の瞬間、自分の力の異常を思い出した。

 このままでは早苗が危ないという思考が頭を埋め尽くし、早苗が元いた場所に助けに行くために一直線に飛んで行ったのだ。

 涙目になりながら凍ってしまった場所をかき分けるチルノを見て、早苗は笑って言う。 

 

「……私を助けようだなんて、随分と余裕みたいですね」

「え?」

 

 自分の冷気で早苗が凍ってしまったと勘違いしたチルノは、後ろから聞こえてきた早苗の声に驚いていた。

 

「私を舐めてるんですか? と言おうと思いましたが、その甘さが無ければもう貴方の負けでしたから、その選択は正しかったんだとしましょう」

「おお、おおおお!! あたいの攻撃を全部避けるなんて、やるじゃないかっ! その、えっと……誰だっけ?」

「……えっと、東風谷早苗っていいます。 ってよりもこの前もこの流れありま…」

「やるな、早苗っ!」

 

 自分の名前はまだ覚えてもらえてないんだなぁと、早苗は少し残念そうな顔になる。

 それでも、早苗は戦いを楽しむように、再びチルノが繰り出した弾幕に向かっていった。

 

「……うわあ、これはとても妖精のレベルじゃないな」

「そうですね。 これは、さすがに放っておく訳にはいかないですよね」

 

 文は自分と萃香の周りに風の壁を作りながら、のんびりと早苗とチルノの戦いを見ていた。

 何もかもが凍っていくその中で、自分たちの周りだけはほんの少しの冷気すら来ない。

 ふざけた態度をしていながら、そんなことを片手間にできてしまう文の実力は、数多くいる天狗の中でも指折りのレベルのものだろうことがわかる。

 それを肌で感じたのか、萃香が文に興味本位で聞く。

 

「ずいぶんと涼しい顔で見てるが、文だったらこの妖精の相手をしたらどうなる?」

「どうですかねえ……まぁ、実際に対峙してみないとわからない部分もあると思うんですが、私は早苗さんより自在に風を操れる上に速く動けるので、早苗さんが対応できてるなら私が負けることはないと思いますよ」

「へえ。 つまり文は早苗よりも強いのか?」

「そうだ、と少し前までなら言いたかったんですけど……スペルカード戦だと今はもうわからないですね。 私としては異変で力を得たチルノさんよりも、早苗さんの成長の方が目を見張るものがあるので」

「まあ、そうだな。 早苗はあの神様たちに揉まれてる上に、よく霊夢や魔理沙と勝負してるからな。 そこらへんの妖精とは経験の量が圧倒的に違うよ」

 

 2人は早苗とチルノの戦いを見ながら談笑する。

 霊夢に勝てないとはいっても、スペルカード戦での早苗や魔理沙の実力は既に幻想郷のトップクラスにまで上り詰めつつあるのだ。

 今回の異変も、相手がスペルカードルールに乗ってくるという保証があったのなら、早苗は異変解決のための大きな戦力として数えられていただろう。

 

「スペルカードブレイク」

 

 早苗は既にチルノのスペルカードを3枚全て攻略していた。

 最初に一番の大技を破られたせいでチルノが焦ってしまった影響もあるが、結局チルノの弾幕が早苗にあたることは一度もなかった。

 

「さて、次は私の番ですか」

「ど、どこから、でも、かかって、こい!」

 

 チルノは全力を出し過ぎて既に息切れし、余力が残されているようには見えなかった。

 もう少しチルノが頭を使えていれば危なかったな、と思いながら早苗は宣言する。

 

「じゃあ行きますよ。 スペルカード宣言、秘術『グレイソーマタージ』」

 

 早苗の手から発せられたその五芒星の弾幕は、とりあえず威力は最小限に、しかしスピードだけは速く、なるべくすぐに終わらせられるようにチルノにただ当てに行く。

 そして、チルノにはそんなものですらも避ける力はもう残されておらず、弾幕に当たったチルノはゆるやかに落ちていった。

 

 それは、結果だけ見れば何の危なげもない早苗の勝利だった。

 無傷の早苗は、地面に転がっているチルノの元に降り立って言う。

 

「どうですか、チルノさん? まだ自分が最強だと思いますか?」

「……」

 

 チルノは悔しそうな、それでも嬉しそうにも見える顔でただ黙っていた。

 大妖精とルーミアが心配そうにチルノに近寄っていく。

 

「チルノちゃん……」

「あははは。 ごめん大ちゃん、ルーミア。 あたい負けちゃった」

「ううん、チルノちゃんは強かったよ。 私、感動しちゃった」

「そうか? 結果的にチルノボロ負けじゃなかった?」

「ルーミアちゃん!」

 

 空気を読まずに思ったことを口にするルーミアに大妖精は叱咤する。

 そんな光景すら、今のチルノには心地よいものだった。

 

「いいよ。 まあ、あたいは最強だけど今回は負けってことにするよ」

「うわあ、この状況でもそう言えますか」

「でも、なんであたい戦ってたんだっけ?」

「……はぁ、もういいですよ」

 

 今まで自分がやってたことは何だったんだろう、と早苗はため息をついた。

 そして同時にチルノに笑顔が戻ってホッとしていた早苗をよそに、文がチルノたちに近づいて、

 

「では、私たちが勝ったので、約束通り私の取材に応じてもらいましょう」

 

 何のためらいもなく、そんなことを口にした。

 

「え、あたいそんな約束したの?」

「し、してないよチルノちゃ…」

「では、まずは少し質問をさせていただきます」

「ちょっと!? だからチルノちゃんはそんな約束は…」

「いいんだ、大ちゃん! 今回はあたいは負けたんだ、あたいはちゃんと約束は守るよ!!」

「だからぁ……もう!」

 

 それを遠目に見る萃香とルーミアは、本当に話聞かねえなこいつらと言いたげな表情を浮かべ苦笑していた。

 

「では、チルノさん。 あなたの様子がおかしくなったのはいつからですか?」

「えっ? うーん、何か気づいたらおかしくなってたんだよね…あれ? いつからだっけ?」

「あの……だいたい一昨日の昼くらいには気付いたんですが、本当に手が付けられなくなったのは昨日からです」

「なるほど。 その力を持った時、あるいは今まで誰かからの介入を受けましたか?」

「かいにゅう?」

「ほら、誰かがチルノちゃんに何かしたかってこと」

「わかんないけど、よく覚えてないよ」

「でも、私はチルノちゃんがおかしくなってからはずっと一緒にいたんですけど、その後に誰かと接触したようには見えませんでした」

「そ、そうですか。 では、他に何か気になった点はありますか?」

「ない!」

「すみません、詳しいことは私も…」

 

 チルノに取材しているにもかかわらず、大妖精からしか何の情報も得られなかったことに文は苦笑する。

 だが、その話を聞いて、早苗は少しだけ気になることがあった。

 異変で際立った力を手にした者の多くはその後まもなく姿を消しているのに、比較的大きな影響を受けているチルノが2日経過した今も平然とここにいることに違和感を感じたのだ。

 しかし、文は早苗の考えがまとまる前に話を進めてしまう。

 

「わかりました、ご協力ありがとうございます。 これからも『文々。新聞』のご愛読、よろしくお願いします」

「ぶんぶ…何?」

「チルノが新聞なんて読む訳ないだろ」

「それでもルーミアさんなら……ルーミアさんならきっと読んでくれる……!! そういう目をしている」

 

 そう言って文はルーミアをじっと見つめる。

 

「私はパス」

「私もちょっと、遠慮しときます」

「大妖精さんにはまだ言ってないじゃないですか!?」

 

 次は自分に来るんだろうなぁ、と早々に察知した大妖精はあらかじめ断っておいた。

 

「まったく、しょうがないですね。 では、最後に1枚……ってルーミアさん、この黒いのいつまでついてるんですか?」

「もっと遠くまで離れればとれるぞ」

「それじゃ撮影できませんよぅ」

「しょうがないですよ。 いろいろ聞けたんですから、写真は諦めましょう」

 

 そもそもチルノたちに会ったこと自体が偶然だったため、思わぬところで少し調査が進んだ分、御の字だと早苗は思った。

 しかし、結局最初の出会いがしらにしかまともに写真を撮れなかった文はしょぼくれていた。

 

「あ、そうだ…」

「そうだ、チルノさん!」

 

 文が何か言おうとしたが、それに気付かず早苗がチルノに向かって言う。

 

「なに?」

「私たちは今、チルノさんに起きている異変を解決するために動いてます」

「えっ、そうなの!?」

「はい。 でも、もしかしたら解決するのに時間がかかって、この先またチルノさんが辛くなることもあるかもしれません」

「えっ、じゃああたいは…」

 

 チルノがまたちょっと涙ぐみそうになる。

 しかし、早苗はそんなチルノに向かって満面の笑みで言った。

 

「でも、辛くなったその時は、妖怪の山の頂上にある神社の神様を訪ねてみてください」

「神さま?」

「はい。 初めて会った人にとってはちょっと怖いかもしれませんが、きっと力になってくれます」

「本当?」

「本当です。 だから、これからも困ったときはいつでも守矢神社にお参りに来てくださいね!」

 

 チルノは少し迷った様子だったが、大妖精とルーミアがチルノの方を向いてうなずいたのを見て、ぱっと明るい表情になった。

 そして、チルノが元気に答える。

 

「わかった! あたい、大ちゃんとルーミアと一緒に行ってみるよ!」

「ふふふ。 では、楽しみに待っています。 私もいるかもしれないので、そのときにまた会いましょう」

「うん!」

「では行きましょうか、射命丸さん、萃香さん」

 

 チルノはもう、いつもの笑顔を取り戻していた。

 いつものように元気になった3人は寄り添いながら早苗に向かってずっと手を振っていた。

 だが、満足気な早苗をよそに、萃香だけは少し遠い目をしてその3人を見ていた。

 

「……? どうしましたか、萃香さん?」

「え? あー、いやあ、さりげなーく布教する辺りが流石守矢の巫女だなって思ってね」

「べ、別に布教って訳じゃないですよ、萃香さん」

「でも、大丈夫なんですか? 確か八坂様と洩矢様はこの異変の容疑者なんじゃ……」

 

 文は少し不安そうに言った。

 それを聞いて、早苗の表情が曇る。

 

「それは……多分、大丈夫だと思います」

「多分って、もし本当にあの2人の仕業だったとしたら、どうするんですか?」

 

 早苗の表情は、少し俯いたままで悲しそうに見える。

 だが、それでもその顔は少しだけ無理をしているかのように笑っていた。

 

「たとえ神奈子様と諏訪子様が何かしていたとしても、あんなに無邪気な子たちが困ってるのに何もしないような人たちじゃない。 私は、そう信じていますから」

「そうかい。 でも、その口ぶりからするとやっぱりあの2人を本気で疑ってるのか?」

「……実は神奈子様と諏訪子様の前ではちょっと言い辛かったんですが、最近少し2人の様子がおかしいんです。 私に隠れて何かしてるみたいで」

「早苗さん、気づいてたんですか!?」

「気付いて、って……もしかして射命丸さん、何か知ってるんですか!?」

 

 文は一瞬しまった、という顔になりそうになるが、すぐにお得意の営業スマイルに切り替えて答える。

 

「いやあ、実は私もあの2人が何かやってる、とは思っていたんですが……実際何をしているのかは私にもわからなかったので」

「そうなんですか?」

「はい」

「文、本当に何も知らないのか?」

「え!? えっと、その……」

 

 しかし、文は鬼が嘘を嫌うことを知っていたので、このまま知らないで通すことをためらった。

 いくら萃香が信用できるかもしれないからといって、文から鬼に対する恐怖が完全に消え去った訳ではないのだ。

 

「あ、あややややや、早苗さん! チルノさんたちが呼んでるみたいですよ!」

「えっ、本当ですか!?」

「はい。 何かすごい緊急の用みたいですけど」

「ちょ、ちょっと行ってきます!」

 

 早苗はそう言われて、すぐにチルノの元へ飛んで行った。

 もし早苗がこんな子供すら騙せるか怪しいごまかしに引っかかってくれるくらい単純じゃなかったら、文は完全に行き詰まっていただろう。

 

「……それで、どういうことなんだ?」

「すみません、実は早苗さんには黙っておくように、との洩矢様からのお達しがあるんです」

「なるほど、そうかい。 それは悪いことをしたね。 私に言って大丈夫なことなことだったのか?」

「いえ。 できれば内密にしたい話なので」

「内密、ね。 それは本当に信頼してもいい内容なのか?」

 

 文を試すかのように萃香は少しだけ凄んだ。

 

「それがもし……早苗を裏切るような内容だったのなら、私は容赦をしない」

 

 初めて目の前で感じる萃香の殺気に、文は一瞬恐怖に押しつぶされそうになった。

 だが、文はそれでもまっすぐ萃香の目を見て、

 

「少なくとも、私は納得して協力しています」

 

 はっきりとそう言った。

 その目には嘘偽りも、迷いも、後ろめたさもあるようには見えなかった。

 

「……わかった、それならいいよ。 変な疑いかけちまってすまない、早苗には黙っておくから」

「ありがとうございます」

 

 そう言ってすっかり警戒を解いて謝罪する萃香を見て、文はホッとした。

 そして、その萃香の言葉が本当に早苗を思ってのことだと理解し、文は萃香の不器用な優しさを感じ取った。

 そこへ早苗が帰ってくる。

 

「どういうことですか射命丸さん! 別に呼んでないって言われちゃいましたよ」

「あ、すみません。 ちょっと気のせいみたいでした」

「はぁ、そうなんですか」

「そうなんです」

 

 早苗が文を疑いの目で見つめる。

 文は上手くごまかそうと思ったが、中々いい言い訳が浮かんでこない。

 しかし、萃香が文に少し助け船を出すように口を開く。

 

「まあ、そんなこと別にいいじゃないか。 このままじゃ帰る前に日も暮れちゃうし、とりあえず私たちはこのまま予定通り彼岸に向かおう」

「そうです、急ぎましょう」

「えー」

 

 文がアイコンタクトで萃香に礼を言う。

 そして、何か納得いかないという顔の早苗を放っておいて、文は急かすように先へ進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗く淀んだ霧と、中が見えないほど濁った水の漂う三途の川。

 彼岸に渡る前の霊魂が彷徨うそこに、一隻の舟が浮かんでいる。

 傍から見ればそれは誰も乗っていない無人の舟に見える。

 しかし、そこには誰も乗っていない訳ではなく、ただ一人の乗務員が舟の中央で寝転がっているのだ。

 

「……やっぱり、おかしいよなあ」

 

 舟の船頭である死神の小野塚小町は、微動だにせずただ一人呟いた。

 小町の仕事は死者の霊魂を彼岸まで渡す船頭をすることなのだが、最近その霊魂の様子がどう考えても異常なのだ。

 

「まあ、そんなのは別にどうでもいいんだけどね」

 

 しかし、小町はそれを気にしない。

 彼女の上司である閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥの目をいかにかいくぐって仕事をサボるか考えることを生きがいとしている小町にとって、たとえ問題が起こっても、その分の面倒事が自分に降りかからなければそれでいいのだ。

 だから、問題が深刻化したときにどうやって言い訳するかだけを考えていた。

 

「……でもどうせ、何の対策も練らなかったら後でまた映姫様に怒られるよねえ。 あーやだやだ」

 

 そう言いながらも、小町は動くことはおろか目を開けることすらしない。

 

「何か映姫様が目を丸くして見逃してくれるような上手い言い訳はないものかねえ」

「言い訳ですか」

「ああ。 言い訳……って、うわあああああ!?」

「こんにちは」

「ちょっと邪魔するぞ」

 

 舟の上にはいつの間にか早苗たちが立っていた。

 自分以外がいるはずのない、いや、いてはいけないはずの舟の上にいつの間にか乗っている3人を見て、小町は声を上げた。

 

「何で、お前たちは実体化しているんだ!?」

「いや、実体化というか私たちまだ生きてるんだけどな」

「え? いやいやいやいや、それもっとダメだって。 ここ越えたら死んだことになっちまうんだよ?」

「そうなのか? だって霊夢は渡ったことあるって言ってたけど」

 

 しばらく前のことになるが、霊夢は花の異変の時に一度彼岸へ行ったことがある。

 早々に映姫たちをこらしめて帰ってきたことを霊夢から聞いていた早苗と萃香は、彼岸へ行くのがそれほど大変なことだとは思っていなかった。

 

「霊夢って……ああ、あの博麗の。 でも、あれは特殊なケースなんだって! そんなこと本当は駄目なんだよ」

「いいじゃないですか。 何か不都合でもあるんですか?」

「いや、だから…」

 

 死後の世界に生者が行くこと自体が駄目であることくらいは、考えなくてもわかるだろう。

 にもかかわらず、突然現れてそれに不都合があるかと言う早苗を前にして、小町は頭を抱えたくなった。

 

「それに、私は半分神なので大丈夫です」

「いや、そういう問題じゃなくてだな」

「じゃあどういう問題なんですか!!」

「だから…」

 

 面倒事が嫌いな小町にとって、勝手なことを言いまくるくせに話を聞かない早苗の相手をするのは、一種の拷問のようなものだった。

 

「いきなり来てそんなこと言われても、そんなの三途の川を渡るのは死者だけだって決まりなんだからしょうがないだろ! それに例外的に渡るにしろ、いろいろ手続きとか必要なんだよ」

「じゃあそれをすればいいんですね?」

「だからダメなんだって」

「何でですか!? 私たちはこの先に用があるんです。 何かどうしても駄目な理由でもあるんですか」

「あるよ」

 

 小町は面倒そうに頭をかきながら言った。

 

「だって、そんなの面倒くさいじゃないか」

 

 小町は、そういう奴だった。 

 そんなに面倒くさいことなんてそこの3人が来なければ自分はしなくてよかったのだ。

 だから来るな、帰れ。

 そんなことを何のためらいもなく言う。

 

「なっ……面倒ってそんなことで…」

「そんなこととは何だあ!!」

「えっ!?」

 

 小町は突然叫んだ。

 いつもは自分勝手に押し進める早苗だが、今回ばかりは自分が何を間違ったのかわからず困惑している。

 

「今、お前さんはあたいの存在を全否定した」

「え? えっ?」

「映姫様の目をかいくぐって面倒事をいかに回避するか。 それだけがあたいの生きる意味だというのに、それなのに…」

「……うわあ、こいつ、なんてダメ人間だ」

「ああ、ダメ人間でけっこう。 そんなことは自覚してるしそもそも人間じゃないからね」

 

 小町を見る3人の目が、だんだんかわいそうなものを見る目に変わっていくのがわかる。

 しかし、そんなことすらも小町は気にしない。

 

「だが、そんなあたいに今、過去最大になるかもしれないピンチが起きている」

「ピンチ?」

「ただでさえ異変の影響でこの先面倒事が増えそうにもかかわらず、生きたまま彼岸に渡りたいなんていう面倒事を運んできたはた迷惑な奴が3人もいることさ」

「まぁまぁ、そう怒らずに。 実は私たちはその面倒事の片方を解決するために動いてるんですよ」

 

 文にそう言われ、一瞬小町の体がピクッと跳ねる。 

 しかし、それでも小町は半目のまま言う。

 

「ん? 騙そうったってそうはいかないよ。 異変解決に動くのは博麗の巫女の仕事だってことくらいあたいも知ってる」

「ふっふっふ。 情報不足ですよ、小野塚小町さん」

「なに?」

 

 会ったこともないのに何故か自分の名前を知っている文を、小町は少し警戒する。 

 警戒したとはいっても、小町の言動が何か変わる訳でもないのだが。

 

「実は何を隠そうこのお方は、博麗霊夢のライバルと言われる幻想郷のもう一人の巫女、東風谷早苗さんなのです!!」

「……いや、誰だよ。 博麗の巫女のライバルに変な魔法使いがいるってのは聞いたことあるけど」

「うぐう」

 

 やはり、ここでも早苗の名前はまだほとんど知られてはいないようだった。

 早苗は少し涙目になりながらも引き下がらずに言う。

 

「で、でも、それでも私は異変を解決するんです!」

「本当にお前さんにできるのかい?」

「それは、その…」

 

 小町はあからさまに面倒そうな目をしていた。

 もしここに来たのが霊夢だったなら、小町はすぐに行動しただろう。

 自分や映姫を負かして花の異変を解決したことのある霊夢になら、協力すれば異変を何とかしてくれるだろうという信頼がもてたからだ。

 しかし、小町にとってはどこの馬の骨とも知れない早苗に協力しても、解決する見込みなんてないし、むしろ協力する分面倒事が増えるだけなのである。

 

「まあまあ、ちょっとくらい協力してくれたっていいんじゃないかい?」

「そうは言ってもねえ。 どこにこの子が異変を解決してくれる保証があるんだい?」

「私が信頼を置いてる、っていうのじゃ証明にはならないかい?」

 

 萃香がほんの少しだけ力を込めて、小町を睨みながら言う。

 もし文がこんな風に言われたら、すぐにでも仕事に取り掛かってしまうものだが、

 

「駄目だね。 お前さんのことは知ってるよ、伊吹萃香。 でも人間だろうが鬼だろうが、生きたまま無許可でここに来るような奴は平等にただのならず者でしかない。 それに、お前さんは今まで異変を起こしたことはあっても、異変を解決したことはないだろう?」

「ちぇっ、手厳しいなあ。 どこ行ってもだいたいはこれで通るのに」

「ははは、そうかもねえ。 でもあたいにはもっとおっかない上司がいるんで、たいていの脅しなんかは通じないよ。 だから今日は諦めて帰んな」

 

 そう言って小町はまた目を閉じる。 

 それは、もう話を聞くのも面倒だと言わんばかりの態度だった。

 

「仕方ありませんね。 貴方がそういう態度なら…」

「ちなみにあたいはスペルカード戦なんて受け付けないよ。 それに船頭であるあたいに危害を加えて、その後うまく彼岸で動けるとでも思ってるのかい?」

「いえ、それは結構です。 私たちは勝手に行かせてもらいます」

 

 自力で向こう岸に行こうと考えている早苗に、小町は目を瞑ったまま警告した。

 

「自分で勝手に行くなんて言うけど、お前さんはなんでこの川にあたいみたいな船頭が必要かわかってるのかい?」

「え? いた方が雰囲気が盛り上がるっていう、気分の問題じゃないんですか?」

「あははは、いいねえ、それだったらあたいはどれだけ楽だったことか。 ってよりも、お前さんはそんな風に思ってたのかい?」

「いえ、そもそも全然知りませんでした」

 

 馬鹿正直に話を進める早苗に小町は少し好感が持てたが、それと協力するかは全くの別問題だった。

 

「まあいい、教えてあげるよ。 あたいは霊魂たちの案内役なのさ」

「案内役?」

「ああ。 三途の川ってのはただ向こう岸に渡ればいいように見えて実は複雑な場所でね。 船頭なしで渡れば霧の中に迷い込んで永遠に出てこられなくなるのさ」

「ええ!?」

「つまり、あたいたち死神がいなきゃ彼岸に渡ることもできず永遠に成仏できない霊があふれちまうってことさ」

 

 そんな大役を担ってることがわかってるならサボるなよ、という3人の目を無視して小町は続ける。

 

「だから、送ってやるからお前たちは大人しく現世に戻んな。 これ以上先に行った奴は……まあ、普通は生きてこっちに戻っては来れないよ」

「普通は? 渡れる人もいるんですか?」

「ん? まあ、神みたいに死の概念を超えた奴や特殊能力持ちなら別だけど、普通の人間や妖怪じゃ基本的には無理だね。 あたいの経験だとただ一回だけ、博麗の巫女が勝手に渡って向こう岸までたどり着いて戻ってきたことがあるんだが、あいつはまぁ…」

 

 そこまで言って、小町はしまった、と言わんばかりに目を見開いた。

 目線の先には、何故かやる気満々になっている早苗の姿があった。

 

「おい、警告したとは思うけど、この先に行けば間違いなく死ぬぞ」

「でも霊夢さんは大丈夫だったんですよね?」

「いや、だから…」

 

 早苗は小町の話を聞かずに、既に自力で行く気になっている。

 今まで落ち着いた様子だった小町に、焦りの表情が浮かび始める。

 

「それなら私は霊夢さんに負けるわけにはいかないので、ちょっと行ってきたいと思います。 なので射命丸さん、萃香さん、現世の方の調査はよろしくお願いします!」

「えっ、ちょっ、早苗さん!?」

「流石にそれは…」

 

 文と萃香が止める間もなく、早苗は一人飛んで行ってしまった。

 それを見ていた小町は、瞬間全身に冷や汗をかいた。

 いや、ちょっと待て、この話聞いて行くか普通? とツッコみを入れる間もなく早苗の姿は見えなくなっていた。

 

「嘘、だろ……?」

 

 小町は見るからに焦っていた。

 

 ――何? 今何が起こってる? あたいの舟に勝手に乗り込んできた生きてる奴らがいて、それだけでも怒られそうなのに、それを現世に戻すことなく霧の中に向かわせちまって……それで、あいつが戻って来なかったら何? これあたいの責任になんの? ってよりもバレたらかなり重い罰くらうんじゃないのこれ!?

 

 こんな感じに、その頭はかつてないほどめまぐるしく回っていた。

 

「う、うわあああああああああ!?」

「ぅえっ!?」

 

 突然小町が叫びだし、猛スピードで舟を漕ぎ始める。

 文が舟から振り落とされるが、そこは持ち前のスピードで再び舟に乗り込んだ

 

「ど、どうしたんですか小町さ…」

「待て待て待て待て、そこの巫女、ちょーっと待って、あれ、ほら、あたいが悪かったから、彼岸行きたいなら行かせるから、だからちょっと待ってええええ!!」

 

 さっきまでとは別人のような小町の焦りっぷりに、文と萃香はポカーンとなる。

 しかし、早苗は随分と先に行ってしまったようで、舟のスピードではどれだけ急いで追いかけてもなかなか追いつけない。 

 というよりも、離されてるような気すらする。

 それは非常にマズい状況だった。

 三途の川というのは、渡る人によってその道筋も長さもまちまちになるものであり、たとえ死神であっても一定以上離れてしまった相手を探すのは至難の業なのである。

 

「ヤバい、やばいやばいやばいやばい頼むよ、頼むから誰でもいいからあいつを止めてくれええええ!!」

「……えっと、じゃあ私が止めてきましょうか?」

「んえっ!?」

 

 涙目になっている小町は必死に舟を漕ぎながら、すがるように文を見る。

 

「ただし、私の密着取材に協力すること、私たち3人全員が無事に彼岸に行って帰って来れること。 その条件をのんでくれるのなら早苗さんを連れて…」

「何でもいい!! 頼むよ、もう何でもいいから頼む、あいつをおおおお!!」

「えっと……はい、わかりました」

 

 必死過ぎる小町の姿を見て、文は少しかわいそうだとすら思う。

 そして文は早苗の行った方向に飛んでいき、一瞬で見えなくなった。

 だが、舟を漕ぎながらよく考えた結果、小町の顔色は再び青ざめる。

 

 ――あれ、これ迷った奴が2人になっただけじゃないか?

 

 小町には、既に舟を漕ぐ気力すらなくなりつつあった。

 もう終わりだ。

 全部、終わった。

 涙目のままそんな絶望的な感情に支配されながら、それでも小町は全力で舟を漕ぎ続けた。

 

 だが、その絶望とは裏腹に、すぐに早苗を連れた文が戻ってくる。

 

「もう、連れてってくれるなら最初から言ってくれればいいじゃないですか」

「あれ……? なんで、お前さんどうやって…」

「まぁ、早苗さんには一応『奇跡を起こす能力』がありますからね。 少しくらいのことは偶然でなんとか出来ますよ」

「それに、早苗は一応普通の人間じゃなくて現人神ってことになってるからな。 霧の中でも無事なくらいの神性はあるんだろうさ」

「え……だったら何で! …あ、いや、もういいや。 何かもう、お前たちと、話す、のは、疲れた、よ」

「何ですかそれ!?」

 

 何とかピンチを乗り切った小町は舟のオールを放り出し、そのまま倒れこんで動かなくなった。

 まるで一週間働きづめだったかのように疲れ切った小町には、もはや早苗を説得する元気は残っていなかった。

 

「……それで、彼岸で一体何をするつもりだい?」

 

 そして、ようやく観念し、寝たまま手足をだらーんとさせた状態で話す小町の舟に乗って、一行は彼岸へと向かうのだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話 : 決意

 

 一隻の舟が、ゆっくりと彼岸へ進んでいく。

 そこに乗っているのは、三途の川にいるはずがない生者が3人。

 それと、真剣な顔つきで寝転がっている一人の死神だった。

 

「八雲紫?」

「知らないか? 幻想郷ではかなり名の知れた妖怪のはずなんだが」

「いや、そいつのことは知ってるよ。 だけど……八雲紫が死んだ?」

「ああ。 そいつの式神がそう言っててな。 あいつは冗談を言うような奴じゃないはずなんだが」

「でも、それはちょっとおかしいねえ」

 

 萃香の質問に答える小町は、深く考え込むように言葉を濁した。

 何も知らないという訳ではない。

 嘘をつこうとしている訳でもない。

 ただ一人で怪訝な表情を浮かべていた。

 

「おかしい?」

「ああ。 あたいは幻想郷の死者の魂を運んでるから、それが本当なら知らない訳ないんだけど」

「でも、けっこう仕事サボってるんだろ?」

「否定はしないけどね。 でも、それほどの大物が死んだのならそれなりの情報は入ってくるだろうし、流石のあたいも気づくさ」

「じ、じゃあ、紫さんはまだ生きてるってことですか?」

 

 小町のその答えを聞いて、早苗が期待のこもった声でそう言った。

 三途の川に来ていないのならば、紫はまだ死んではいないと考えられるからだ。

 しかし、小町は少しバツの悪そうな顔をして頭を掻いていた。

 

「それが、そうとも言えないんだよね」

「えっ?」

 

 小町はめんどくさそうに少しだけ体を起こした。

 そして、川の上を漂っている霊魂を指差して言う。

 

「幻想郷で死んだ奴の魂は全部この三途の川に集まってくるはずなんだけど、最近どうも霊魂の様子がおかしい気がするんだ」

「霊魂の様子が、おかしい?」

「ああ。 お前たちが話したほどの異変が起きているのなら、死者が増えて必然的に霊魂の数も増えるはずなんだ。 でも、最近の霊魂の数は普段と大して変わらない……いや、むしろ少ないんだ」

「……つまり、どういうことですか?」

 

 彼岸のシステムをいまいち理解しきれていない早苗は、首をかしげて聞く。

 

「あー。 まぁ、あたいの推測にすぎないけど、八雲紫やこの異変の影響で死んだ奴らの魂が何らかの原因で現世に取り残されている可能性があるってことさ。 あるいは、実は死んでいないかね」

「……じゃあ、この先に紫さんはいないんですか?」

「まあ、一概にそうは言えないけどね。 実はあたいが見逃しちまってたとか、八雲紫が能力を使って三途の川や映姫様の審判をすっ飛ばして勝手に白玉楼あたりにいるって可能性もあるからね」

「えっと、三途の川ってそんなことが許されちゃうんですか?」

 

 早苗はその予想外の緩さに、驚きの表情を浮かべていた。

 外の世界でも有名な地獄の王である閻魔が統括する三途の川や彼岸は、もっと厳格な法の下にあるのだと思っていたからだ。

 

「そんなの、許される訳がないだろう? ただ、時々生きていた時の姿のまま霊体化して三途の川に来るやつもいるからね。 あの妖怪がそんな状態でここに来たならありえるって程度さ」

「ああ、それが本当なら紫らしいな」

 

 だんだん面倒くささが顔ににじみ出てくる小町や混乱する早苗と文をよそに、萃香は笑っていた。

 紫がもしかしたらまだ生きているという可能性は、藍の様子を見たときには絶望的だと思っていたにもかかわらず、ほんの少しだけにしろ希望が見えてきたからだ。

 だが、もしそうだとしたら藍は嘘をついていたのか。

 それとも、藍を騙してまで紫が何かをしているのか。

 いずれにせよ、そうだとすれば異変の件については再び紫が怪しいという話になるのだが、紫について調べるのが容易ではないことを萃香はよく知っていた。

 

「でも、もし紫が彼岸にいなかったら私たちは一体何しに行くんだろうな」

「そうだったら嬉しいですけど……でも正直、ここまで来ておいてそう考えると、ちょっと複雑な気分ですね」

「まあ、お前たちが彼岸で何をするつもりかは知らないけどさ。 そんなことより、映姫様への報告の内容はちゃんとわかってるんだろうね?」

 

 異変や紫のことよりも、小町が一番注意して話したのはそのことだった。

 小町は3人を無事に彼岸と現世へ送り届ける代わりに、交換条件を求めてきた。

 その要求はこうだ。

 

 今日もいつも通り、彷徨う霊魂を導くために三途の川を懸命に見回っていた小町は、彼岸に行くつもりで三途の川に来たものの霧の中で迷って途方に暮れていた早苗たちを偶然にも発見する。

 小町は無事3人を保護し、厳重注意の下に現世に送り返そうとするが、どうやら3人は異変解決のためにどうしても彼岸に行く必要があったようなので、そこは既に彼岸の近くだったことも相まって、小町はそのまま彼岸へ行き、一時的な滞在の許可申請をするために映姫に話をしに来た。

 

 こういう設定にしろということである。

 

「閻魔がそんな作り話っぽいことを信用するかねえ」

「それを信用させるのがお前たちの役目だろう? うまく説得できなかったら、帰りの舟に乗せることもなく地獄行きにされちまうよ」

「何ですかそれ……ってよりも、そんなに怖い人なんですか、その映姫さんって人は?」

「ああ、怖いなんてもんじゃないよ。 どんな奴だろうと、絶対的に潔白であろうと、映姫様がクロだって言ったらそいつはもうクロになっちまうのさ」

 

 映姫の持つ『白黒はっきり付ける能力』。

 それは物事を絶対的に決定してしまう能力である。

 この世界に彼女の決定を覆すことのできる者など存在せず、彼女のことを知る誰もがその力を恐れているのだ。

 

「思い出しただけでも寒気がするよ。 この前の花の異変の後なんて、あたいは10日間拷問器具に座ったまま仕事をすることになったんだから」

「そ、そういう怖いですか。 でも、それは異変になるまで放っておいた小町さんが悪いんじゃないんですか?」

「おっと、そろそろ着くみたいだ」

 

 花の異変の原因の一端は小町にある。

 それ故、その話題は小町にとって都合の悪い話であるため、露骨に話を逸らしたのだ。

 そして、小町にこれ以上追及しても意味がないだろうことは、ほんの10分足らずの舟旅だけで早苗たちはもう理解していた。

 

「さて、それじゃあたいはまず彼岸入りの許可をとってくるから、しばらく舟で待っててくれよ」

「えっ? 私たちも一緒に行くんじゃないんですか?」

「そういう訳にもいかないんだよねえ。 そもそもあの石頭の了承なんかを得るためには何日も前から奮闘する必要があってね」

「何日もって……そんな話聞いてませんよ!!」

「だって今初めて言ったし」

 

 小町は悪びれる様子もなく言った。

 

「でもとりあえずちゃんと協力を得たいなら大人しくしててくれよ。 不法侵入なんかしたら、それこそ追われて情報収集なんてできなくなるしね」

「でも、私たちは急いで…」

「まあ、心配しなくても大人しくしててくれれば今日中には何とか許可は取ってきてやるからさ。 だから少しくらいここで……」

 

 そう言って彼岸の方を一瞥したとき、小町が困惑した声を上げた。

 

「……どういうことだ?」

 

 三途の川を渡り切ったそこには、やたら大きな建物と、無数の霊魂があるだけだった。

 

「どうしたんですか?」

「いつもなら、霊魂を管理する死神たちが何人もいるはずなんだ。 なのに何で……?」

「み、見てください、あれ!」

 

 文が指をさした先には、大きなクレーターができていた。

 いや、そこだけではない。 

 海岸の地形が無残なほどに荒れていたのだ。

 それは無力化された霊魂以外来るはずのない彼岸においては、ありえないはずのことだった。

 

「なんだよ、これ? ……おい、お前たちはここにいろ!」

 

 そう言うと小町は一人先に舟から飛び出して、一瞬で建物の方へと消えていった。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第4話 : 決意

 

 

 

 

 

「ボサッとしてんな、行くぞ!」

 

 辺りの様子を見て戸惑っていた早苗たちだったが、萃香にそう言われ、我に返ったように舟を飛び出して小町を追いかけた。

 

「どういうことでしょうか、ここで一体何が…?」

「わからないが……多分、この異変と関係ないってことはないだろうな」

 

 萃香のその一言に、早苗と文は気を引き締める。

 紫や霊夢を倒した相手が、この先にいるかもしれないのだ。

 そして、突然気づいたように早苗が言った。

 

「待ってください!? だとしたら、小町さんが危ないじゃないですか!」

「ああ、そうだ」

「だったら私が…」

「待て文、危ないから一人で先走るな」

 

 萃香はあくまで冷静だった。

 この状況での単独行動はあまりに危険だからである。

 萃香にそう言われ、文は萃香と早苗のスピードに合わせるように飛んでいたが、その顔は見るからに焦っていた。 

 それは、早苗も同じである。

 まだ小町と会って間もないとはいえ、この状況で放っておけるほど他人ではなかった。

 それが、今も危機にさらされていると思うと、落ち着いてはいられなかった。

 

 仰々しい門や扉を抜け、3人はひたすら先に進む。

 そして、長い廊下の先に、やっと広間へ出る光が見える。

 その中には、一人で佇む小町の姿があった。

 

「小町さん! よかった、無事でしたか」

「………なんで」

「え?」

 

 だが、早苗たちは広間へ出ると同時に言葉を失った。

 そこからは、生命の息吹きというものを全く感じられない。

 もう原形を留めていない、元は恐らく裁判所のような場所であっただろうそこには、あちこちに焦げ落ちた物体があるだけだった。

 その中心にある大きな席は、横に倒れるように崩れている。

 そこで何かがあったことは明白だった。

 

「小町、さん…?」

「え? ……あ、ああ、何だよ来ちゃったのか。 まいったなぁ、無許可でこんな所まで来られちゃ映姫様に怒られちゃうよ」

 

 小町は笑いながら振り向いて言った。

 しかし、舟の上と同じように頭をかきながら面倒くさそうに話す仕草は、見ていて明らかに不自然だった。

 その手には、二つに折れてただの燃えカスのようになってしまった何かが握られている。

 

「……あの、それは?」

「あ、これ? 映姫様の悔悟棒ってやつだよ。 ほら、悪いことしたらこれで叩かれるんだ。 あたいもこれで何度叩かれたことか。 今回も危うくこれで叩かれるところだったよ、いやー折れててよかった」

「え……?」

「って、映姫様は何本も持ってるんだっけ? しまったなぁ、こんなところ見られたらそっちで叩かれちまうよ。 ほら、お前たちは映姫様に見つからないうちに早く逃げてくれ」

 

 そう言って小町は笑う。

 だが、その顔はどう見ても完全に引き攣っていた。

 

「……」

「はっはっは、なんだよ、なんで黙ってんだよ……それに映姫様も実は見てるんだろ? 早く出てこないと、この無法者たちが何か問題を起こすかもしれませんよ」

「小町さん、多分…」

「いやいや、騙されないぞー。 また映姫様ってばあたいをからかって…」

「小町さん!!」

 

 小町の口が止まる。

 その手から折れた悔悟棒が床に滑り落ち、乾いた音が2つ鳴る。

 

「……ははは、こんなの、嘘だ。 だって、映姫様は本当におっかないんだぞ? あたいがどんな無法者を取り逃がしても、全部一蹴して、それでその後「ちゃんと仕事しなさい!」って言ってあたいに罰を与えるんだ」

 

 早苗たちから異変のことは聞いていたはずだった。

 だがそれでも、小町の中でそれはあり得ないことだった。

 スペルカードルールなんてものさえなければ、映姫は誰よりも強い存在なんだと信じていた。

 だから、たとえ誰を相手にしたとしても、映姫が今ここにいないはずがないと思っていた。

 

「あー、そうか。 これが侵入者をここまで通しちゃったあたいへの罰なんだ。 いやー、やっぱり映姫様はドSだなぁ。 悔悟棒なんかで叩かれるよりよっぽどキツイお仕置きだ」

「……」

「……でもさ、順番が違うだろ?」

 

 小町の肩が震える。

 

「あたいに罰を与えるのは、こいつらを裁いてからじゃないのかっ!? いつもみたいに何もかも全部解決してからなら、あたいはどんな罰だって受けるから、だから……出てきてくれよ、映姫様!!」

 

 小町は、舟の上にいた時からは考えられない程大きな声で叫んだ。

 だがその言葉は届かずに、空しく消えていく。

 早苗も文も萃香も何も言えない。

 そして、そこにはただ、小町の言葉にならない悲痛な叫びだけが響き続けた。

 

「小町さん…」

「……」

「……」

 

「何の騒ぎだ?」

 

 ふと、新たな声が響く。

 振り向くと、そこには小町と同じ大きな鎌を持った死神が数人立っていた。

 

「っ……!! これはっ!?」

「あ、みんな……大変なんだ、映姫様が…」

「動くな!!」

「え…?」

 

 先頭にいる死神が、小町に鎌を向ける。

 

「そいつらは一体何者だ? お前の差し金か、小町?」

「あ、確かにあたいが連れてきたんだけど…」

「……なるほど。 この惨状はそいつらの仕業って訳か」

「!?」

 

 死神たちが敵意を見せるように一斉に構える。

 それを見て文は両手を上げて言う。

 

「ち、違います! 私たちは幻想郷で起きてる異変調査のために来ただけで…」

「言い訳するな!」

「ちっ。 早苗、文、こりゃどう考えても分が悪い。 退くぞ」

「えっ!? でも…」

「いいから行くぞ!」

「逃がすな、追え!!」

 

 萃香が早苗を引っ張り、逃げようとする。

 それを追いかける死神たちの前に、小町が立ちふさがった。

 

「小町さん!?」

「待ってくれ! こいつらは確かに怪しく見えるけど、今来たばかりで本当に関係ないんだ、だから…」

 

 小町は枯れきった声で懸命に叫ぶ。

 しかし、死神たちはその言葉を全く気にする様子もなく言う。

 

「うるさい、裏切り者の言うことなど聞けるか!」

「裏、切り…?」

「ああ、そうさ。 お前はよく仕事をサボってよく四季様に怒られていたよな。 それで鬱憤がたまって、こいつらと共に四季様を襲った。 そうだろう?」

「なっ……!? 違う! あたいがそんなことする訳…」

「黙れ! お前の言い訳など聞き飽きた。 もういい、こいつもひっ捕らえろ!」

 

 死神たちが一斉に向かってくる。

 だが、小町は動けなかった。

 映姫を失って間もなく仲間に疑われ、何が何だか分からなくなっていた。

 ただ、今になって何か熱いものがこみ上げてくる。

 

  ――はぁ。 また貴方ですか、小町……

 

 確かにいつも怒られてばかりだった。

 だけど本当は、それを本気で嫌だと思ったことなんて一度もなかった。

 サボってばかりの自分を認めてくれる人も、叱ってくれる人も他に誰一人としていなかったから。

 だから、それを嫌だと言って避けることだけが自分の目的なんだと自分自身に言い訳しながらも、ずっとそれを繰り返してきた。

 

  ――とりあえず今回だけは何とかしておきましたが……次はありませんからね?

 

 そんな風に言って、いつも自分を叱ってくれた。

 いつも自分を庇ってくれた。 

 それだけが、自分にとっての全てだった。

 その時間だけが何よりも心地よく、かけがえのないものだった。

 

 だけど、そんな時間はもう来ない。

 もう、永遠にその説教を聞くことはないのだ。

 

「なんで、こんな……」

「全員、かかれ!!」

 

 小町はもう、俯いたまま動かない。

 ただ一筋の涙を流しながら一人立ち尽くす小町に向かって、死神たちが容赦なく襲いかかる。

 

「がっ……!?」

 

 だが、そこに突然横切った大きな腕が死神たちを塞き止めた。

 いつの間にか小町の前には、その腕だけを巨大化させた萃香が立っていた。

 

「……お前、今なんて言った?」

「っ……!!」

 

 萃香が一言そう呟くと、死神たちの空気が一瞬で張り詰める。

 

「な、何やってるんだ! お前さん、早く逃げないと…」

「黙ってろ!!」

 

 萃香が叫ぶと、そこにいた全ての者が本能的に一歩後ろに下がる。

 その敵意を向けられた死神たちだけではない。

 庇われているはずの小町も、文や早苗でさえ、恐怖で少し身震いしそうになった。

 

「裏切り者……って言ったか? 私たちは一応ただの侵入者だ、たとえ極刑になったって文句は言えねえ。 だが、小町はお前たちの仲間だろ? 話くらい聞いてやれよ!!」

「いいよ、あたいが悪いんだ、元々あたいが仕事をサボってばかりだったからこんなことに…」

「……はっ、くだらない。 そいつは元々、ここの癌だったんだよ。 ろくに仕事もしないで周りに迷惑かけてばかりの…」

「っ!!」

 

 先頭の死神がそう言いかけた次の瞬間、文字通り鬼のような形相を浮かべたかに見えた萃香の姿が消えた。

 

「――――――」

 

 その死神は声すら上げることはできなかった。

 萃香に薙ぎ払われて吹き飛んだ死神は、後ろにいた数人も巻き込んで壁に叩きつけられた。

 辺りに轟音が響き渡り、衝撃で壁は崩れ落ちる。

 

「クズが……」

 

 幸い死神の頑丈な身体のおかげで原型は留めているものの、萃香に直接薙ぎ払われた死神はそのまま瓦礫の下敷きになり、もはやピクリとも動かなくなった。

 突然死神たちを殴りつけた萃香を見て、小町は驚いた表情で言う。

 

「な、ななな、なんてことをするんだ! こんなことして……お前さん地獄行きじゃすまないよ!! そっちの2人も…」

「いいんだよ。 ……すまないね、私の勝手な行動でこんなことになっちまって」

 

 萃香はそう言って早苗と文の方に振り向く。

 2人は、もう笑っていた。

 

「いいんですよ萃香さん、私もスッキリしました!」

「そうですね。 まぁぶっちゃけるとここで死ななきゃいいだけの話ですよ!」

「な……!?」

「ほらな。 こういう奴らなんだよ、こいつらは」

 

 ほんの数十分程度の付き合いだろうと、早苗や文の中で、小町は既に仲間だった。

 それがけなされ、裏切られて黙っていられるほど大人ではなかった。

 

「っ……なんだこれは?」

「何があった!?」

「このっ……貴様ら、生きて帰れると思うな!」

 

 目の前には既に、騒ぎを聞きつけた死神たちが集まってきていた。

 巻き添えをくらっただけの死神も、そのおぼつかない足取りで既に立っていた。

 

「……あー。 でもまあ、確かにこんなところに長居してもしょうがないな。 このまま逃げるとするか」

 

 萃香は死神たちの方を一睨みし、拳に力を入れる。

 しかし、死神たちはその気迫に少し身震いしながらも、逃げ出す訳でもなく構える。

 

「……ちっ、今のでも脅しにゃならないか」

「駄目なんだ、こうなったらこの先出てくるのはもうただの死神たちだけじゃない。 本当に映姫様レベルの奴が出てきたら…」

「そりゃ、ちょっとマズイね。 紫のことを探してる暇なんてなさそうだ」

 

 この状況でそんなことを言う萃香に、小町は呆れた顔を向けた。

 そして、萃香はそのまま早苗と文に言う。

 

「おい早苗、文! ここは私が引き受けた。 その間に小町連れて適当に情報収集頼むよ」

「え? でも、萃香さんは…」

「大丈夫だ、私もすぐ戻る。 だから頼むぞ!」

 

 そう言って萃香は背中を向ける。

 2人を完全に信頼しきったその姿を見て、早苗と文はすぐに走り出す。

 

「わかりました萃香さん!」

「ほら小町さん、行きますよ!」

「えっ!?」

 

 早苗が小町の腕をつかむ。

 しかし、小町はそれを振り払った。

 

「バ、バカ言っちゃいけないよ、生き残ることすら危ういこの状況で! それに、あたいは…」

「言ったでしょう? 誰がどう言おうと私たちはこの異変を解決する。 小町さんはどうしますか?」

「え?」

「無実の罪を着せられて、ただ捕まりますか? それともここは逃げて、映姫さんをこんなにした人を捕まえたいですか? どっちですか!!」

「っ!!」

 

 その言葉に小町はたじろいだ。

 そして床に落ちている、折れた悔悟棒が目に入る。

 自分は今、一体何をすべきなのか、何をしたいのか。

 映姫ならば何が正しいかを、何をすべきかを大局的に見て冷静に判断するだろうし、そうするようにずっと言われてきた。

 

 だけど、冷静になんて考えられなかった。

 すべきことなんて、正しいことなんてどうでもよかった。

 小町はただ、感情のままに思う。

 

 ――映姫様の仇を討ちたい。

 

 既に小町の目には光が戻っていた。

 

「……あたいが安全な道を案内する。 ついてきな!」

「は、はい!」

「萃香さん、お気を付けて!」

「おーう。 すぐ戻る」

 

 萃香は3人に気楽に後ろ手を振る。

 

「逃がすな、追え!」

「まあ、そう焦るなよ」

 

 集まった死神たちが、早苗たちを追おうと走り出す。

 だが、その前に突如として巨大な影が立ちはだかった。

 

「なっ!?」

「スペルカード宣言、鬼符『ミッシングパワー』。 私がここを通すとでも思ったか?」

「っ……怯むなっ!!」

「まあ、少し私と遊んでこうや」

 

 巨大化した萃香が挑発するように笑ってそう言うと、死神たちが一斉に襲い掛かってくる。

 一振りで相手を死に誘う鎌が、たった一人を相手に10本以上も四方八方からその命を刈り取りに来る。

 しかし、その鎌は刈り取るどころか刺さりすらしない。

 

「え……?」

 

 一撃で仕留められないどころか、鎌が刺さりすらしないという初めての体験を前に、死神たちが困惑する。

 そして、その刃に向かって萃香が腕を振り回すと、個体としては決して弱くはないはずの死神たちが、鎌ごとゴミのように吹き飛んでいった。

 それにもかかわらず、萃香につくのはほんのかすり傷程度に過ぎない。

 

「なんだ? 死神っていってもこの程度かい? とんだ期待外れだな」

「ちっ、この化け物が……」

 

 まるで蚊に刺されただけのように体を掻きながら喋る萃香に、死神の一人が悪態をつく。

 それでも、数で勝っている死神たちは、何度も何度も萃香に飛び掛っていく。

 しかし、それを全くものともしない。

 それどころか、殺す気で萃香に飛びかかっていく死神たちとは対照に、萃香はその腕に纏った霊力を直前で弾幕化して当てるという、あくまでスペルカードルールの範囲での攻撃しかしていなかった。

 本気で何度飛び掛っても、まるで遊び感覚で全てを薙ぎ倒す萃香を前に、次第に死神たちにも恐怖の色が浮かび始める。

 そして、動ける死神の数が減り、その猛攻が収まってきた頃に萃香が退屈そうに呟いた。

 

「あーあ、せっかくカッコよく残ったってのに、なんかこれじゃ本当にすぐ戻ることになりそうだな」

「なっ!? この、ナメヤがって…」

「そんな訳ですまないね、もう十分時間は稼いだだろうし、ヤバいのが出てくる前に私もそろそろ逃げることにするよ」

 

 そう言うと、萃香は元の小さな姿に戻る。

 

「チャンスだ、今のうちに…」

「……と、思うじゃん? だが残念、酔神『鬼縛りの術』!!」

 

 萃香の持つ瓢箪から飛び出した鎖が、一斉に死神たちを襲う。

 何が起こったかもわからないまま、その鎖に死神たちが捕えられる。

 

「なっ、何だこれは!?」

「じゃあなー、お前たちの上司によろしく」

「待、待て! この、こんな鎖…」

「お前たちごときじゃあしばらくは外せないよ。 まあ、その鎖は特別にプレゼントするからせいぜい頑張ってくれ」

 

 そう言って萃香は早苗たちの行った方向へ振り返る。

 早苗たちにすぐ合流するか、自分もそれ以上の情報を集めてビックリさせるか、先に舟に乗って驚かすか、迷いながら萃香は走り出す。

 

「ひっ…!?」

 

 その直後、後ろで悲鳴が聞こえた……ような気がした。

 しかし、それは一瞬で消え、

 

「――あら、残念ね。 私とは遊んでくれないのかしら?」

 

 新たに声が響く。

 その声に萃香が恐る恐る振り返ると、いつの間にか死神たちは一人残らず倒れ伏して動かなくなっていた。

 ただ、崩れた映姫の席の上に何事もなかったかのように一人の妖怪が座っている。

 室内にもかかわらず傘を差し、罪人を裁く席に座るにはあまりに場違いな明るい色の服を着たそいつは、見ただけで誰もが逃げ出したくなるようなその妖艶な瞳で萃香をじっと見ていた。

 

「……ああ、なるほど。 この惨状はお前の仕業か」

「あら、意外とリアクションが薄いのね」

「いーや、十分驚いてるつもりなんだがね」

 

 さっきまで半分遊び気分だった萃香の目つきが真剣になる。

 

「お前が、この異変の首謀者なのか?」

「さあ、どうでしょう」

「一体何を企んでいる?」

「さあ、何でしょう」

「……はっ、答える気はねーってか」

「いいえ、別にそういう訳じゃないわ。 ただね…」

「あん?」

 

「これから消える貴方に、それを教える意味はある?」

「っ!?」

 

 その時、辺り一帯に巨大な爆発音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「けっこう色々ありましたね」

「ええ。 でも、勝手に持ち出してよかったんでしょうか」

「本当は駄目に決まってるんだけどね。 こんな騒ぎを起こした後なら、何をしてももう同じだろうさ」

「それもそうですね」

 

 早苗たちは既に建物を出て三途の川へ向かっていた。

 文の鞄には最近の死者名簿などの大量の資料が詰めこまれている。

 

「それにしても何だったんでしょうか、さっきの音は……?」

「多分、萃香さんが暴れてくれてるんだと思いますよ。 そのおかげで私たちの方には全然誰も来ませんでしたし」

「だけど、あの鬼も早く来ないと、待ってる間にもっと厄介な奴が来ちまうよ」

 

 文と小町は心配そうに振り返る。

 萃香の持つもう一つの能力、『萃』の力。

 それは、あらゆる者を自然と自分の周りに集めることのできる能力である。

 つまり、本来なら早苗たちが進んだ先にいたはずの、今彼岸にいる死神のほとんどが萃香一人に襲いかかっていることが予想できる。

 個体としてかなりの力を持つ死神たちに囲まれてしまえば、少なくとも文や早苗では無事に済まない脅威となることくらいはわかっていた。

 しかし、早苗は振り返らない。

 

「大丈夫ですよ、萃香さんは強いですから」

「とは言ってもねえ」

「あの人数相手では少し心配で…」

 

 文は萃香のことを噂で聞いたことはあっても、会ったのは今日が初めてだった。

 萃香の性格は文の知っている噂とは違っていた。 

 だとしたら、その暴力的なまでの力の噂も違っていてもおかしくはない。

 大丈夫だとは思っていても、文は一抹の不安を拭い去ることができなかった。

 

「萃香さん……」

「私、よく博麗神社で萃香さんに相手をしてもらうんですが、私なんていつも子ども扱いなくらい、本当にすごい人なんです。 だから、心配しなくても萃香さんは誰が相手だろうと大丈夫だって私は信じてます」

「でも、それとこれとは…」

 

「そうだそうだー。 私はまだ文に信頼されちゃいないのかい?」

 

 突然発生したその声は、何故か前から聞こえてきた。

 3人が驚いて舟を覗き込むと、萃香が先に乗り込んでいた。

 

「えっ?」

「なんだー? 文は私があんな奴らの足止めすらできないと思ってるのか」

「え、あ、いやー、私は大丈夫だと思ってましたよ、ええ!」

 

 文から不安の表情が消え、ぱあっと嬉しそうな顔になる。

 

「本当かー?」

「本当ですってば、ねえ、小町さ…」

「ほら、無駄口たたいてないで! ボヤボヤしてると追いつかれる。 全員揃ったならすぐに出るよ!」

「おおっ!?」

 

 そう言って小町は乗り込むとすぐに舟を動かし始めた。

 

「よし。 とりあえず、まずはこのまま現世まで無事に着ければ…」

「うわぁ。 小町さんいつもそれくらいテキパキ行動できればいいのに」

 

 頼りになる小町に少し気持ち悪さを覚えた文が笑いながら言う。

 

「まったく、こんなことは今日だけだよ。 あたいはこの異変が終わったら長期休暇をとらせてもらうんだ」

「何ですかその死亡フラグ!? やめてくださいよ!」

 

 すっかり危機を乗り越えた気分になって、早苗がそう言う。

 文も少しだけ緊張が解けていた。

 そして、萃香が口を開く。

 

「ははは、何だそれ。 じゃあ私も何か言わせてもらおうかな。 ……早苗、文」

「もう、萃香さんまで何ですか」

 

 文は笑いながら、冗談めかして答える。

 萃香も少し笑って、

 

「私さ……お前たちに会えて、よかったよ」

 

 そこに、また爆音が響く。

 今度は地響きで舟が揺れるほどのものだった。

 

「……え? ちょっと、おかしくないですか? だって私たちは皆もうここにいるんですよ。 なのに、なんでまだあんな音が鳴ってるんですか?」

「すまない」

「萃香さん……?」

 

 少し、萃香の体が透け始める。

 

「なっ……どうして、どうなってるんですか萃香さん!?」

「まさか……」

「もう、こっちに分身を置いとく余裕もあんまりないみたいでね」

「っ!? 小町さん、すぐに舟を…」

「戻すな!!」

 

 萃香が叫ぶ。

 また地響きが舟まで届く。

 

「……もう、遅いよ。 それにお前たちが来てどうなるものでもない。 まあ、この舟が現世に戻るくらいまでは持ちこたえてやるからさ」

「どうしてですか!? だって、萃香さんならあんな人たちに…」

「ちょっと厄介な奴がいてね。 多分、閻魔をやった犯人だ」

「えっ!? それは一体…」

 

「……風見幽香。 幻想郷に住む花の妖怪だ」

 

 萃香からその名を告げられ、早苗たちはますます混乱する。

 

「待ってください!? 幽香さんって……確かまだ生きてるはずじゃないですか! なんでここに…」

 

 小町はそれを聞いてうろたえるように言う。

 

「なんだって!? そんな、待ってくれ、そんなのあり得ないよ! だって…」

「いいから聞け!」

 

 その気迫に押され、小町が黙る。

 

「ちょっと、おかしいんだ。 あいつは確かに厄介な奴だったが、これほどの力を持ってはいなかったはずなんだ」

「え……? まさか、幽香さんも…」

「ああ、多分あいつもこの異変の影響を受けてるんだと思う。 だけど多分それだけの話じゃない。 私も何がどうなってるのかはわからないが、ただ一つ言えることは、これは今の時点でわかってるような単純な異変じゃないってことだ」

「ちょっ、待ってください! 一体どういうことですか!?」

「……だから、それを調べるのがお前たちの役割だ」

「役割って……」

 

 萃香は答えない。

 今にも消えそうなその顔で、ただ微笑んでいる。

 

「……なら、萃香さんも一緒に来てください」

「お前たちの役割がこの異変の解決なら、私の役割は今お前たちを無事に逃がすことだ」

「私たちだけじゃ無理なんです! だから…」

「無理じゃないさ、お前たちなら…」

「萃香さん!!」

 

 早苗が叫んだ。

 その目には涙が滲んでいる。

 

「そんなことを……そんなことを言ってるんじゃないんです。 私たちは、萃香さんと一緒に行きたいんです」

「……」

「私たちには、萃香さんが必要なんです」

「……」

「何とか言ってくださいよ、萃香さん」

 

 早苗は、縋るような目で萃香に訴えかける。

 文と小町は、何も言えずに佇んでいる。

 そして、萃香が口を開いた。

 

「いいんだ、その言葉だけで十分だよ」

「いい訳ないじゃないですか!」

「言っただろう、早苗。 私はお前たちに会えてよかったって。 それが、本当に私が今思う全てなんだ」

「全てって…」

 

 萃香は少し間を置いて舟の端に一人歩き出す。

 誰の方を見るわけでもなく、ただ一人その暗く淀んだ空を見上げながら言う。

 

「……文も知ってると思うけどさ、私たち鬼は昔はそりゃひどい奴だったんだよ。 自分たちが誰よりも優れてると思い込んで、力を振りかざすだけの最低な奴らさ。 その中でも、私はとびっきりのクズだったよ」

「え……?」

「でも、そんな私も完膚なきまでに打ちのめされたことがあってさ。 それ以来考えるようになったんだ、私から力をとったら一体何が残るんだろうって。 ……そしたら、初めてわかったんだ。 皆が私たちを嫌っているんだって、私は孤独なんだって」

「……」

「だけどさ、私はそんなのが嫌だったんだ。 だから、私は変わろうと思った。 もう今までみたいなことはしないって誓った。 ……でも、もう遅すぎたんだ。 結局もう、誰も私を必要とはしてくれなかった」

 

 紫とも長い付き合いだし、地底にも、妖怪の山にも、知っている相手は割といるはずだった。

 だが、ただそれだけだった。

 今さら変わろうとしたところで、萃香は誰にとっても別に必要ではない、いてもいなくてもそれほど変わらない存在にしかなれなかった。

 紫も霊夢も魔理沙も、誰も萃香を本当に必要としてはくれなかった。

 

「そんなことは…」

「大丈夫、そんなことはないことくらいわかってるよ。 でも、私が本当に欲しかったものは違うんだ。 あの妖精たちみたいに、どんな時でも無条件で自分を受け入れてくれる、必要としてくれる、そんな仲間がずっと欲しかったんだ。 だから……」

 

 萃香は思いっきり笑って振り返る。

 

「早苗が私を誘ってくれて嬉しかった。 昔のことを気にせずに、文がこんな私を認めてくれて嬉しかった。 そんな風に……私のために泣いてくれて嬉しかった」

「萃香さん……」

「私は今日、やっと出会えたんだよ。 ずっと待ち望んでいた、夢にまで見た本当の友達ってやつに」

 

 それが、純粋な萃香の気持ちだった。

 こんな気持ちのままなら、このまま終わってしまってもいいと思った。 

 ただ、それだけだった。

 

「だから、私はもう満足なんだ。 もう、私なんかには勿体ないくらい、お前たちにはそんな気持ちをもらったから。 だから、最後に…」

「っ……いやです!!」

 

 文が俯いたまま叫ぶ。

 

「射命丸さん?」

「……まったく、これだから鬼は嫌いなんですよ」

「え……?」

「最後だとか、ずるいんですよ。 いつも……いつもいつもいつも、勝手にそんなこと言って!!」

 

 そう叫ぶ文自身も、そんな口を聞いている自分がいることに驚いていた。

 今までずっと、鬼に向かって言いたいことを言ったことなどなかったのだから。

 

「私だって!! ……私だって、やっと会えたんです。 鬼が怖いって、鬼なんて嫌いだって、今までずっとそう思い続けてきたのに!」

「文……?」

「今までずっとそう思って生きてきたのに! 今になって初めて、やっと……やっと……!!」

 

 そして、涙と鼻水でくしゃくしゃになったその顔を上げて、

 

「本当に、心の底から好きになれたのに……」

 

 掠れた声でそう言う。

 文はいつものように話すことができない。

 ただ、考えず思いのままに、全てを吐き出す。

 

「……戻ってきてくださいよ、萃香さん。 私に希望を持たせた責任、とってくださいよ。 私の友達はこんなに強くて優しいんだって! そう、皆に自慢させてくださいよ……」

 

 萃香は何も言えなかった。

 こんなにも自分のことを想ってくれる相手になんて会ったことがなかったから。

 それも、2人も同時に。

 だから、どう答えていいのかわからなかった。

 ただ、その目からは生まれて初めて涙が零れ落ちた。

 

 戻ってくることを諦めていた訳ではない。

 鬼というのは、もともと退治されることを前提とされた存在であるが故、自らの死の瞬間を潔く受け入れてしまうという、独自の倫理観を持つ種族なのだ。

 だから萃香は本質的に、ただみっともなく逃げてくるよりも、こんな気持ちのままこの2人を護って消えられたらそんなに幸せな人生はないと思ってしまうのだ。

 

「そうだな」

 

 だが萃香は今、その自分の倫理観を超えて、初めて生きたいと思った。

 またこの2人と共に、笑いあいたいと。

 

「私は……――――っ!?」

 

 しかし、無情にも萃香の姿は加速的に消えていった。

 

「萃香さん!?」

「……ははは、ごめんな」

 

 ――ああ、勝てなかったか。

 

 ――バカだな、私も。

 

 ――始めから本気でやっていればだなんて言い訳するつもりもないけどさ。

 

 ――だけど、それでも……

 

 突然、萃香はまるで自嘲するかのように笑って言う。

 

「そうさ。 私は……鬼は自分勝手な生き物なんだ。 文だってよく知ってるだろ?」

「……」

 

 その時、萃香は初めて自分の弱さを呪った。

 そして、初めて自分の強さを誇りに思った。

 今まで誰に勝っても心の底から嬉しいと思ったことはなかったし、誰に負けても本当に悔しいと思うことなんてなかった。

 勝ち負けなんてものは、全て自己満足に過ぎなかったから。

 

「勝手だって思われたっていい。 だけど、私はただそんな風に私のために泣いてくれた最初で最後の大切な人たちを護りきって……最後に見せる姿くらい、私らしく見せたいんだよ」

 

 だけど、今初めて本気で思った。

 口ではこんなことを言っていても、本当は勝って2人の所に戻りたかったと。

 ……そして、たとえその願いが叶わなかったとしても、この2人を護りきったことこそが、自分の人生の中で何よりも大きな勝利だったのだと。

 

「萃香さん……」

「だから、私は最後まで鬼らしく、勝手に言いたいことだけ言って勝手に消える。 それが私だ。 それが、私の最後の望みだ! だから……早苗、文!!」

「っ……はいっ!」

 

 早苗も文も、それが萃香のただの強がりであるとわかっていた。

 だけど、もう何も言い返さなかった

 もう、何も言い返せなかった。

 萃香が望んだ最後の時間を、無駄にしたくはなかった。

 ただ、その涙をためた目でじっと萃香の目を見つめる。

 

「何度でも言う。 お前たちに、無理なことなんてない!」

「…はい」

「霊夢に勝てない? 鬼が怖い? そんな自分で決めた固定概念に惑わされんな!」

「っ……はぃ」

 

 早苗も文も、かすれて声が上手く出ない。

 目がかすんでもうその姿を見ることもできない。

 ただ、萃香はそんな2人にゆっくりと近づいていく。

 

「……お前たちは誰よりも強くなれるって、何だってできるって、私が保証する。 だから――」

 

 そして最後に、その小さな手を2人の頬に添えて、

 

 ――頑張れ

 

 そんな声が聞こえた気がした。

 もう萃香の姿はどこにもなかった。

 ただ、最後の萃香の顔は最高の笑顔だったと思う。

 

「……」

「行こう」

 

 小町が呟くように言う。

 小町にも、早苗と文の気持ちは痛いほどわかっていた。

 だからこそ、その最後の時間を邪魔したくはなかったから今までずっと黙ってきた。

 だが、もうその時間は終わったのだ。

 

「小町さん……」

「みっともない顔見せんなよ。 あいつの気持ちを、無駄にすんな」

 

 少し前に映姫を失ったはずの小町がもう前を向いているのだ。

 自分たちだけが感傷に浸っている訳にはいかなかった。

 

「……はい」

「行ってきます、萃香さん」

 

 自分の頬に、まだ微かに温もりを感じる。

 ただそれだけで、早苗と文は前を向くことができた。

 

 いつの間にか、舟はもう現世側の陸に着いていた。

 

「ほら、行きな。 こんな異変、さっさと解決するんだろう?」

「小町さんは…」

「あたいには少し、やることがある」

 

 小町は三途の川の方を向いたまま、振り向かずにはっきりとそう言った。

 

「そう、ですか」

「ああ」

 

 だが、早苗も文も、何をとは聞かなかった。

 聞いてどうするというのか。

 たとえ聞いたとしても、自分たちが小町を手伝う、なんてことには多分ならない。

 そして、恐らくもう小町は決めているのだ。

 だから、一緒に来てくれだなんてことも言えるはずがない。

 それはきっと、小町の進む道ではないのだから。

 

「……わかりました。 行きましょう、早苗さん」

「はい」

 

 何を言うわけでもなく、そのまま舟を降りて歩き出す。

 もう、2人は振り返らない。

 挨拶すらなしに、その姿はゆっくりと霧の向こうへと消えていく。

 それでも、小町も振り返らない。

 ただ、海岸から遠ざかるその背中だけが小さくなっていった。

 

「……行った、か」

 

 一人そう呟く小町を乗せたその舟は、ただ水の上を漂っていた。

 どこへ向かう訳でもない。

 死の香りのする霧が充満する川を、一隻だけで漂っている。

 

「……はーあ、なんでだろうね」

 

 小町のその声は、またいつものような面倒そうな声だった。

 だが、いつものように気怠そうな顔でため息をつく小町の目は、どうしようもないくらい確かに生きていた。

 

「あたいにまだ悲しいって感情なんかがあっただなんて……それに、あたいがこんな奴だったなんて、考えたこともなかったよ」

 

 一人そう呟く小町は、笑っていた。

 その笑いを声には出さずとも、ただ自らを嘲るような笑みを浮かべていた。

 

「あたいはずっと一人で、誰も信用せずに、適当に、何も考えずに、ただ寝て、サボって、時間を無駄に浪費するだけの奴だと思ってたのにさ……」

 

 そこに、突如として異変が現れる。

 静かな、何もない川が、次第に大きく波打ち始める。

 いつだって避けてきた、嫌だったその面倒事が目の前で起こっていく。

 

「これだけ長く生きてきたつもりなのに、今更になってたった一日でそんなことに気付かされるだなんて」

 

 だがそれでも、小町は笑ってその先の虚空を見つめて――

 

「本当に……面倒でしょうがないよなあ!!」

 

 小町がその背に括っていた大きな鎌を振るのとほぼ同時に現れた光の束が、その鎌に断ち切られ二つに割れて消えていく。

 それが合図だったといわんばかりにまた無数の光が小町を襲う。

 だが、その光は全て小町を避けるように曲がり、霧の彼方へ消えていく。

 

 そして、その隙間を縫って舟上の小町の首を獲りに来た腕さえも――

 

「っ!? 結界、かしら?」

 

 気付けば舟から遠く、引き離されていた。

 

「結界? そんなのあたいは知らんよ。 ただ単にお前さんがビビッてあたいから離れすぎただけだろう?」

「……安い挑発ね。 死神には三途の川の構造を変える力でもあるのかしら」

「さあね、ご想像に任せるよ」

 

 そこにあったのは、全身に傷を負い、身体の多くの部分を引き千切られながらも五体満足で小町の前に立つ幽香の姿だった。

 突然現れて当然のように小町の首を刎ねようとした幽香は苛立ちを含む声でそう吐き捨てるが、小町はその笑みを崩さない。

 

「まあ、でも正直言うとそんなことには興味ないから、とりあえずさっさと消えてくれるかしら。 さっきからこの川を渡りきれなくて困ってるのよ」

「そもそもただの妖怪はここを渡れないものさ。 それに消えるも何も、ここはあたいの領域だ。 消えるのはそっちだろう?」

「死神風情が随分な口を聞くものね。 貴方は……確か、閻魔の腰巾着だったかしら」

「……ああ、そうさ。 うちの上司が随分と世話になったみたいで」

「そうね。 こっちも昔、随分と世話になったわ。 でももう用済みよ――あいつも、貴方も」

 

 そう言うと、再び幽香の持つ傘から閃光が放たれる。

 その目には警戒の色などない。

 幽香は小町をただの虫ケラ程度にしか思っていなかった。

 一瞬で全て消し去った死神たちと同じように。

 だが……

 

 ――死歌『八重霧の渡し』

 

 薄暗い三途の川に日が昇ったと思えるほどの明るい光と共に、辺り一帯の霊魂が一瞬で消し飛ぶ。

 普通の死神なら、もう終わっているはずだった。

 さらに言えば、そこにいるのは普通の死神ですらない。 

 三途の川の癌とまで言われた、誰よりも怠け者の死神のはずだった。

 

 しかし、消え去ったのは全て幽香の正面にいる霊魂たちだけだった。

 幽香の首にはいつの間にか背後から大きな鎌が突きつけられている。

 

「……おやまあ。 お前さん、厄介な力を持っているようだねえ」

「――っ!?」

 

 小町の鎌は、幽香の首擦れ擦れのところで、得体の知れない何かに阻まれていた。

 それに気づいた幽香は反射的に腕を振り上げ、鎌の刃を圧し折る。

 

「なっ!?」

 

 簡単に折れるはずのない死神の鎌を、木の枝でも折るかのように無造作に破壊されたことに驚き、小町は再び幽香から大きく距離をとる。

 だが、武器を折られた小町以上に、幽香が取り乱していた。

 

「お前は――っ」

 

 ――本当に、ただの死神なのか!?

 

 その声はもう、出ていなかった。

 

 普通の死神ならもう終わっているはず。 

 だが、小町は普通の死神ではなかった。

 

 他の死神に溶け込め切れないはぐれ者。

 真面目にやればほとんどのことは自分一人でできてしまう。

 適当にやってもエリート扱い。

 昼寝して、霊とおしゃべりして、サボってサボってサボって、ようやく一人前。

 いつしか妬まれ孤立し、その結果周りに合わせるために適当にサボることばかりを身に着けてしまった死神。

 それが、小野塚小町という優秀すぎた死神なのだ。

 

 だが、そんなことを幽香は知る由もない。

 屈辱。

 屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱。

 

 ――アレが無ければ、私が敗けていたと? 閻魔でも、鬼ですらない、ただの死神ごときに?

 

「……あはは、ははははははははははは」

 

 幽香は無機質な笑い声を響かせながら、圧し折った小町の鎌を握力だけで砕く。

 粉々になった刃が手の平をズタズタに切り裂いていたが、幽香はそれを気にも留めていないかのようだった。

 その心に湧いていたのは怒り。

 何に対するものなのかもわからない。

 ただ全てが殺意の衝動に侵されていく。

 そして、

 

「――殺すわ」

 

 突如として幽香の姿が消える。

 

「ぐっ!?」

 

 小町の体からは、いつのまにか血が噴き出していた。

 それに気づいた小町は、目の前に迫る攻撃を直感だけで避け、受け止め、受け流す。

 視界の全てを覆うような殺気の嵐。

 突き出された腕が少しでも掠った部分の肉片が飛び散る。

 時々放たれる閃光に触れた部分は、焼けて崩れ落ちる。

 徐々に上がっていく幽香の速度に、流石の小町も全てには反応しきれない。

 その『距離を操る能力』を使おうにも、何がどこから来るのか予測できない。

 目の前にあるのは相手を殺すことだけを考えた、洗練された動き。

 油断も、冷静さすらなくただ破壊を繰り返すその動きは、徐々に小町を追い詰めていく。

 

「あぐっ……こりゃ、本格的に、マズいねぇ」

「このっ……消えろ消えろ消えろ消えろ消えろっ!!」

 

 既に、小町の表情から笑みは消えていた。

 だが、明らかに死にかけの小町よりも、小町との戦闘では未だ一撃も食らっていない幽香がだんだん精神的に追い詰められていく。

 幽香は一瞬で終わると思っていた。

 小町に考える余裕すら与えないままに、終わらせるつもりだった。

 それにもかかわらず、小町は未だに幽香の猛攻をギリギリのところで耐えきっているのだ。

 そのことが、幽香のプライドを必要以上に刺激する。

 

「ただの死神風情が、私と対等とでも思っているの? 勘違いも甚だしいわ!」

「あの鬼すら倒したお前さんとあたいが対等だなんて、そんな訳ないだろう? 普段のあたいならとっくに諦めて死んでるさ」

「なら死ね。 みっともなく地に伏して、そして跡形もなく消え去れ」

「……ああ、それは魅力的な提案だねえ。 できればそうして、釜茹で地獄にでも浸かってゆっくりしたいところだ。 だけど――」

 

 幽香の腕が、小町の中心線を捕える。

 それを察知したわけではない。

 ただ偶然、不意に小町が放った弾幕が、幽香の腕を僅かに逸らす。

 確実に心臓を獲りに伸ばしたその腕にわき腹を貫かれるも、それでも小町は僅かに即死を免れた。

 そして、幽香の腕を掴んで――

 

「なっ……ここ、は?」

「――だけど、お前さんは手を出しちゃいけない人に手を出した。 あたいを怒らせる、たった一つの手段をとった」

 

 小町はそのまま、その能力を使って幽香を三途の川の果てへと連れ込んだ。

 さっきよりもさらに暗く、淀んだ空気の漂う川。

 その雰囲気に驚いている幽香の一瞬の隙をついて自分のわき腹からその腕を引き抜き、再び小町は幽香から距離をとる。

 そして、そこに存在する、永遠の迷路に取り残された絶望を抱えた霊魂たちを、小町は自らの周囲に集めて言う。

 

「だから、あたいはお前さんを許さない。 どんな手を使ってでも地獄に送ってやるさ」

「……はっ。 貴方に、それができるとでも?」

「別にあたいが直接手を下せなくてもいい。 三途の川の最果て――どんな強力な妖怪だろうと、ここから生きて帰れる奴なんていないからね」

「私を貴方ごときの物差しで図らないでくれるかしら。 ……それに、たとえ私一人を止めたところで、それでこの異変が終わるとでも思って?」

「……ああ、どうせそんなこったろうと思ったよ。 でも、あたいはお前さん一人止められれば別にいいのさ」

「何?」

「あたいはただ、ここで自分勝手な復讐心を果たしたいだけだ。 異変のことはあたいじゃない、あいつらが何とかする。 こんなあたいを信じて助けた、あのバカ共がきっとな!」

 

 小町の口元には、腹部の傷から上がってきた血が溢れていた。

 致命傷ともいえる負って多くの血を失い、既にその顔色は青ざめて弱り切っていた。

 だが、それでも小町は懐から一枚のスペルカードを取り出し、幽香に向かって宣言する。

 

「だから、諦めな。 ここを切り抜けられようと切り抜けられまいと、お前さんが乗っちまった舟は片道切符の地獄行きさ。 どう足掻こうと二度と日の目を見ることなき無間地獄、せめてこの僅かな間だけでもあたいと一緒に踊ってくんなあ!!」

 

 そして、無限の距離という名の監獄の中で、小町は再び不敵に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう三途の川は見えない。

 気付けば、いつの間にか速足になっていた。

 どこへ行くつもりかも決まっていないが、自然と2人の足は同じ方向を向いていた。

 

「これから、どうしましょうかね」

 

 文が一人、ポツリと呟いた。

 それを誰に向けて言っているのかはわからない。

 ただ、文は何かを後悔するような、それでも何かを信じているような複雑な顔をしていた。

 

「……そうですね」

 

 早苗が不意に立ち止まる。

 そして、早苗も文と同じように一人呟く。

 

「私は、守矢神社に戻ろうと思います。 確認しておきたいことがあるので」

「守矢神社、ですか……」

 

 文がまた少し言葉を濁す。

 早苗がそう言うだろうことはわかっていたというのに。

 その足は、最初からその方向を向いていたというのに。

 それなのに、ただそんな言い方をする文に、早苗が反応する。

 

「どうしましたか? 私が守矢神社に行くことに、何か問題でもあるんですか?」

「いえ……」

 

 そう言う早苗の声はいつもよりも落ち着いた声だった。

 言いよどむ文に対して、早苗はいつになく真剣な表情で言った。

 

「射命丸さん、私もそこまでバカじゃありません。 神奈子様と諏訪子様が、それに射命丸さんが私に何か隠してることくらいわかってます」

「早苗さん……」

「私は今まで、本当は怖かったのかもしれません。 神奈子様が、諏訪子様が、この異変に関わっているかもしれないと思いながらも、真実を知ってしまうことが怖くて……2人と対峙することが怖くて、ずっと逃げていました」

 

 早苗は俯いたまま、ただ懺悔するかのように言う。

 それは、早苗が初めて文に打ち明けた自分の弱さであった。

 そんな弱さは文も、早苗さえも、ずっとわかっていたことである。

 それでも、今までずっと、口に出してその弱さに向き合うことができなかった。

 

「……だけど、私はもう逃げません」

 

 早苗はその目に溜めた涙を切って顔を上げた。

 

「たとえ誰が何をしていようとも、私がこの異変を解決してみせます。 私なら何だってできるって言った、萃香さんの言葉を幻想にしたくはありませんから!」

 

 そう言う早苗の目は今までのような興味本位や不安の目ではない。

 確固たる信念を持って文の目を見ていた。

 そして、文はゆっくりと口を開く。

 

「わかりました」

 

 文は今までのような冗談めかした態度ではなく、本気で早苗を見据えて言った。

 

「……守矢神社への道すがら、お話ししましょう。 妖怪の山で今進められている、破邪計画のことを――」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話 : 地底世界

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第5話 : 地底世界

 

 

 

 

 

 地底。

 それは幻想郷の地下に広がる世界。

 地上で忌み嫌われた妖怪たちが巣食うそこには、地底の住人の代表と八雲紫の合議により、本来地上の妖怪の侵入は固く禁じられていた。

 

「おい、いつになったら着くんだ?」

「ああもう、うるさいわね。 黙ってついてこれないの?」

 

「……」

 

 しかし、紫がいない今、地底への侵入を阻止する結界はなくなっていた。

 そのため、魔理沙たちは容易に地底に入ることができたが――

 

「それにしても……パチュリー、あんた一体何しに来たの?」

「しょうがないじゃない。 思った以上に空気が悪いし歩きにくいのよ」

 

「……」

 

 元々喘息持ちだったパチュリーは、地底に入ってわずか3分足らずで体調を悪くした。

 そして、長年の運動不足のツケも溜まって動けなくなってしまい、今はアリスの操作する人形たちに運ばれている。

 

「あーあ、こんなことなら来なきゃよかったわ」

「あんたが地底を薦めたんでしょうが」

「気が変わったのよ」

「……本当に、レミリアのこと文句言えるような立場じゃないでしょあんた」

 

「……」

 

 パチュリーと一緒に外出するのは初めてだったが、こんな時でもマイペースを崩さないパチュリーを見てアリスは呆れ果てる。

 

「それよりも、さ。 さっきからついてきてるあの猫は何だ?」

「ん?」

「……あー、やっと気づいてくれたよ」

 

 そこで、魔理沙の反応を待ってましたと言わんばかりに、物陰に佇んでいた猫が突然跳び上がる。

 その猫は空中で華麗に数回転したかと思ったら、着地と同時に人型になっていた。

 

「じゃじゃーん。 お姉さんたちどうしたんだいこんなところで」

「何だお前は? 地底の番人か何かか?」

 

 自分の精いっぱいのパフォーマンスを経て、お燐こと火焔豹燐は得意気に姿を現した。

 随分と印象的な登場の仕方だったが、魔理沙たちの反応は薄い。

 

「あ、いや、そういう訳でもないけど…ちょっと気になっただけさ。 ほら、地上の妖怪は地底には来れないことになってるからね」

「ところがどっこい、私は地上の人間だぜ」

「あー、それはまあ別にどっちでもいいんだけどさ。 いや、人間はちょっとマズイかな」

「なんでだ?」

「地底にはいろんなヤバい妖怪がいて、中には病気を操る妖怪とかもいるからね。 普通の人間なんかじゃ下手すりゃすぐあの世行きだよ」

「ああ、それなら私は風邪ひいたことないし大丈夫だぜ」

 

 魔理沙は空気を読まずに屁理屈をこねる。

 だが、その反応が意外とお燐には好感触だった。

 

「……ぷっ、面白いお姉さんだねえ。 でも、地底に来ちゃいけないことくらい知ってるでしょ? ってよりも八雲紫がそれを許さないはずなんだけど…」

「それが、その紫が死んじまったんだよ」

「はい?」

 

 この反応から判断すると、やはり地底の住人は紫の死を知らないようだった。

 

「まあ、信じらんねえかもしれないが、これは本当のことだぜ」

「……ああ、別に疑ってる訳じゃないよ。 そいつが何者だろうが、ただの妖怪ってことには変わりないからね。 死んだと言われても別に驚かないけどさ…」

「ん? 思ったより反応薄いんだな」

「いやあ、悔しいよ。 それほどの奴の死体ならあたいが運んでやりたかったのに」

「はぁ……」

 

 『死体を持ち去る程度の能力』を持つお燐にとっては、紫が死んだことの驚きよりも、その死の瞬間に立ち会えなかったことの悔しさの方が大きいようだ。

 そんなお燐の様子を見てると、確かに地底では地上と違って紫は特段重要人物として扱われてはいないように見えた。

 

「それで、お姉さんたちはわざわざそのことを地底に伝えに?」

「そういう訳じゃないんだが」

「ああ、そのことなら私が説明するわ」

 

 そう言ってアリスが話に割り込み、話し始める。

 地上で、天狗の住処が壊滅するほどの異変が起こっていること。

 紫と霊夢さえもが、その異変を手におえなかったということ。

 今までの異変とは違い、その調査が全く進まないこと。

 そして、その異変が今後幻想郷の存在を脅かすほどに深刻化する可能性があること。

 その異変の内容についてアリスは知っていることを詳しく話したが、なぜか地底を調査しに来たとは言わなかった。

 

「なるほどねぇー。 地上はそんなことになっていると」

「だから、私たちはこの際地底にも協力を仰ぎたいの」

「でも、それは…」

「地底と地上の関係については知ってるわ。 地上人と手を組むのは抵抗があるかもしれない」

 

 地底の妖怪は地上で忌み嫌われたり、迫害を受けてきた妖怪ばかりである。

 そのため、地上に出ることは地底の妖怪にとっては苦痛であり、地上の妖怪にとっても地底の妖怪は忌まわしい存在であったため、今までその領域が互いに不可侵になっていたのだ。

 

「でも、そうも言ってられない状況になってる。 たとえ今は大丈夫でも、いずれこの地底にもその脅威が襲い掛かってくるわ」

「……なるほどねえ。 それで、お姉さんたちはこれからどうしようと」

「地底の実力者である、鬼に協力を仰ぎたいと思ってるわ」

「へえ。 わざわざ地底の鬼に会いに行こうってのかい?」

「ええ」

 

 アリスは全く動じる様子もなく、話を進める。

 その存在を知っていれば、誰もが恐れおののくはずの鬼に会うことに何のためらいもないアリスに、お燐は少し不審な目を向ける。

 

「……だけど、やめておいた方がいいよ。 鬼はお姉さんたちが思ってる程生易しい存在じゃないからさ」

「そうか? 萃香なんて普通に話しやすいけどなー」

「多分萃香はちょっと別物なんでしょ」

「萃香……? それって、もしかして伊吹萃香のことかい!?」

「そうだけど」

 

 お燐が少し驚いた顔をする。

 

「まあ実際のところ、私は萃香とは3勝7敗で圧倒的に負け越してるからなぁ。 あんなのが何人もいると思うと少し気が滅入るが…」

「3勝って……あの鬼の四天王を相手に!?」

「四天王? なんだ、萃香ってそんなにすごい奴なのか」

 

 地底で話したら一目置かれるどころじゃないようなことを、魔理沙は平然と言う。

 普通なら信じられないような話にしばらくお燐は目を丸くしていたが、やがて笑って言う。

 

「……はははははは、いいよ、やっぱりお姉さん面白いよ。 わかった、地底のことならあたいがいろいろ取り次いであげるよ」

「本当か!?」

 

 お燐は人間が鬼に勝てる訳ないと思っていたが、少し前にスペルカードルールに則ってるとはいえ、たった一人で自分や旧都にいる鬼たちをあっさり倒してのけた巫女のことを思い出す。

 だからといって魔理沙の話を信じてはいなかったが、そんなことを何の気なしに言う魔理沙に興味を持った。

 

「ああ! ただし、その前にちょっとさとり様に会ってもらおうかな」

「っ!?」

「さとり?」

「あたいのご主人様さ。 地底じゃ荒くれ者の鬼より先にまずはさとり様に認めてもらう方がいいだろうからね」

「そうなのか」

「そうさ。 まあ、裏のある奴にとっちゃ鬼なんかよりもよっぽど大変な相手かもしれないけどね」

「へえー。 じゃあ、よろしく頼むよ」

「ああ。 それじゃ案内するよ、ついてきておくれ」

 

 そう言うと、お燐は先導して進み始める。

 魔理沙はそれに続くように軽やかに進んでいく。

 しかし、アリスとパチュリーの顔色はあまり優れなかった。

 

「……ねえ、パチュリー。 さとりって、もしかして古明地さとりのことじゃないの?」

「多分、そうね。 あーあ、一番会いたくない奴に最初に会いに行くことになるとは…」

「どうした、2人とも?」

「なんでもないわ」

「そーか」

 

 暗く長い道を進みながらも、アリスはパチュリーを運んでいるうえに何かを相談しているため、自然とその足取りは遅れてしまう。

 しかし、魔理沙はそんなことも気づかず、ワクワクしながらお燐についていく。

 そのせいで、いつの間にか魔理沙たちとアリスたちとの距離が開いてしまっていた。

 

「いやー、最初に話の分かる奴に会えてよかったよ。 えっと、えっと、」

「ああ、あたいは火焔猫燐。 お燐って呼んでおくれ」

「お、おう、お燐」

「それにしてもお姉さん、なかなか身軽だねえ。 あたいは猫だってのに、こう簡単にあたいの動きについてこられちゃ自信を失っちまうよ」

「ふっふっふ。 私の名は霧雨魔理沙。 スピードだけなら文を除けば……そうだ、ちくしょう文さえ…文さえいなければ!!」

「ど、どうしたんだい!?」

 

 しばらく前まで自称幻想郷最速を名乗っていた魔理沙は、いつの間にかその名を文に奪われていたことを思い出す。

 しかし、すぐに我に返って話を戻した。

 

「あ、いや、何でもないよ。 ところで、お燐の主人のさとりってのはどんな奴なんだ?」

「内緒だよ」

「教えてくれよケチー」

「はっはっは。 そーれーはー、会ってからのお楽しみさ」

 

 魔理沙はすこし不満そうに言うが、お燐は決してさとりのことを言わなかった。

 『心を読む程度の能力』という、忌み嫌われる能力の代表と言うべき力の持ち主であるさとりについては多くは語らない。

 さとりのことを知った者の多くは、会うのを拒否してくることをお燐はよく知っているからだ。

 

「さて、多分そろそろ…」

「おっ! 光だ」

「あ、ちょっと、お姉さん!」

 

 長い道の先に、魔理沙は遂に出口を感じる。

 さっきまでついてきていただけの魔理沙が、お燐を追い抜いて走り出す。

 そしてその狭く暗い道を抜けると……そこには地下とは思えない程明るい街並みが視界いっぱいに広がっていた。

 

「何だこれ、何だこれえええええ!?」

 

 噂でしか聞いたことのない地底都市を生で見た魔理沙は、興奮を隠しきれなかった。

 

「驚いた、本当に地下にこんなでかい町があるとは……なあ、アリス、パチュリー!!」

 

 振り返ると、そこには既にアリスとパチュリーの姿はなかった。

 

「あれ?」

「連れの2人なら、だいぶ前から離れちまったよ」

「……あちゃー、しまったなぁ。 なあお燐、ここまでって一本道じゃないよな?」

「ああ。 結構分かれ道もあるけど」

「まったくあいつらは。 しょうがないから少し戻って……ん、何だこれ?」

 

 魔理沙がポケットに潜んでいた小さな人形を見つける。

 その人形は一枚の手紙を抱えており、そこにはこう書いてあった。

 

『私たちは少し情報収集などをしています。

地底の地図についてはあらかじめパチュリーが地底全土を調べていたので大丈夫です。

なので、地霊殿の調査は魔理沙に任せるわ。 

旧都の方で落ち合いましょう。 じゃあよろしくね。

あなたの愛しのアリスより』

 

「………はぁ」

 

 ――何があなたの愛しのだ。

 

 魔理沙はまたため息をつく。

 この手紙をアリスがどんな顔で書いていたのか、魔理沙には容易に想像できた。

 

「アレだろ? どうせまた私が一人取り残されて困ってるのを見て楽しもうってんだろ?」

「どうしたんだい?」

「……いや、あの2人は別のところを調査するから地霊殿は私に任せたってさ。 ところで、地霊殿って何だ?」

「ああ」

 

 地霊殿のことを知ってるのなら当然さとりのことも知っているのだろう。

 だから、アリスとパチュリーはさとりに会う前に逃げたのだと、お燐はすぐにわかった。

 

「あたいたちがこれから行く場所さ」

「ふーん。 まあいいや、あの2人なら多分大丈夫だろ。 後で旧都ってとこで落ち合えばいい」

「うん? 地霊殿は旧都の中心にある館で、この辺一帯を旧都っていうんだけど」

「…………はああああああああ!?」

 

 魔理沙はガックリと膝を落とす。

 この状況でここまでするか普通、と。

 

「やられた……そんなんどこで落ち合うかわかんねえじゃんかよ」

「ま、まあまあ、多分それはなんとかなると思うよ。 だって…」

 

「何だい、お燐。 そいつは」

 

 突然聞こえてきた声に、魔理沙たちが振り向く。

 そこにはいつの間にか、何人もの妖怪を引き連れ、頭に立派な角を生やした妖怪が立っていた。

 

「まあ、こんな風に、地上の人間なんかがいたら目立っちまうからね」

「地上の人間? また何でこんなところに」

「おっ久しぶりですね、勇儀さん。 このお姉さんはさとり様の客人でね、ちょいとこれから地霊殿に行くのさ」

「お、おう。 霧雨魔理沙だ、よろしくな!」

 

 魔理沙はいつもの軽いノリで自己紹介をする。

 だが、その軽い態度が気に入らないのか、ガラの悪い妖怪たちが声を荒げて魔理沙を睨む。

 

「あん!? てめえ勇儀さんに向かって何様のつもりだ?」

「待ちな! いいよ、魔理沙か。 名乗られたからには名乗り返さないとねえ。 私は山の四天王の一人、星熊勇儀。 まあ最近は山になんて行ってないけどねえ」

「四天王って……もしかして萃香と同じやつか?」

 

 萃香のことを呼び捨てにする魔理沙に驚き、辺りが少しざわめく。

 その騒ぎを聞きつけて、辺りには多くの見物人が集まってきていた。

 

「なんだ、お前も萃香を知ってるのかい?」

「お前も、ってのはどういうことだ?」

「ああ、少し前ここに博麗の巫女らしき奴が来たのさ。 名前も名乗っちゃくれなかったが、そいつのことが忘れらんなくてね」

「なんだ、もしかしてお前も霊夢にやられたのか?」

 

 その言葉に、お燐はビックリしたように魔理沙に注意する。

 

「ちょっ、バカ、何て事を…」

「ああん!? ケンカ売っとんのかワレ!?」

「ぶっ殺すぞコラァ!!」

 

 妖怪たちがメンチを切りながら魔理沙を取り囲む。

 しかしそれに全くビビる様子もなく、魔理沙はただそこにいる妖怪たちの頭であろう勇儀だけを見据えている。

 

「……くっくっく、愉快な奴だねえ。 ああそうさ、言い訳するつもりもない。 私はそいつに負けたよ」

「そうか、やっぱりな。 まあ、霊夢がスペルカードルールで負ける訳ないしな」

 

 悪気はないのだろうが、魔理沙は挑発するような言葉を次々と吐いていく。

 勇儀を取り囲む妖怪たちからの殺気が一気に魔理沙に向けられる。

 

「ああ、もう知らないぞあたいは」

「え?」

 

 魔理沙にはお燐の言葉が意に介さないようだった。

 今にも飛び掛って来そうな妖怪たちを抑え、勇儀が口を開く。

 

「まあ待ちな、お前たち。 ……おい、お前もあの巫女の知り合いってことはちょっとはやるんだろう? どうだい、私と少し遊んで行かないかい?」

「遊ぶ?」

「ああ。 お前たちの得意なスペルカードルールでな」

「え? あ、ちょっと待ってくれ、私は…」

「ルールは簡単。 その決闘中に私が持っている杯から少しでも酒をこぼさせたらお前の勝ちだ」

「……は?」

 

 勇儀は取り巻きの妖怪が持っていた大きな盃をおもむろに受け取り、そこになみなみと酒を注ぎ始めた。

 そしてそれを片手に持ったまま魔理沙と向かい合う。

 それを見て、今度は魔理沙が露骨に不機嫌そうな顔になった。

 勇儀は当然のようにその酒に口をつけ、妖怪たちは魔理沙を小バカにしたような顔つきで言う。

 

「なに、ただのハンデさ。 ワンサイドになっちゃ面白くないだろう?」

「そうだ、勇儀さんとタイマン張ろうなんざ100年早いんだよ小娘が!!」

「なるほどね……」

 

 そう言うと、魔理沙は背中にしょっていた箒をおもむろに上方へ投げ、一回転させる。

 そのまま、その柄の先を人差し指に立てて乗せた。

 それを見た勇儀は、怪訝な表情を浮かべて言う。

 

「……おい、何のつもりだ?」

「ワンサイドになっちゃ面白くないんだろ? だったら、ハンデだ。 スペルカード戦中にこの箒を私の指から落としたらお前の勝ちな」

 

 誰一人として魔理沙が何を言っているのかわかっていなかった。

 しかし、次の瞬間気付く。 こいつは鬼の四天王をバカにしているのだと。

 その一言に勇儀の取り巻きたちの怒りが最高潮に達する。

 お燐はそれを見て、焦るように魔理沙に言う。

 

「バカ、早く謝んないと取り返しのつかないことになっちまうよ!」

「……謝る? どっちが?」

 

 しかし、魔理沙は動じない。

 むしろ、その声はいつもよりも落ち着いていた。

 

「バカにしやがって!!」

「ふざけんなよテメエ、今ここで消したるわ!」

「待て、お前たち!」

「いや、勇儀さんが出るまでもねえ。 覚悟せえや小娘が!!」

 

 そして、遂にキレた取り巻き数人が腕を振りかぶり、一斉に魔理沙に飛びかかった。

 

 しかし次の瞬間、そこに一陣の風が吹く。

 いや、風ではない。

 気付かれぬほど鮮やかに妖怪たちの背後に回っていた魔理沙の移動が、妖怪たちにはそう感じられたのだ。

 一斉に魔理沙に殴りかかった妖怪たちは何が起こったかもわからないまま、いつの間にか下方から飛び出してきた色とりどりの弾幕に顎を綺麗に打ち抜かれて崩れ落ちていった。

 

 そして、それを背後から見据える魔理沙の人差し指には、彼女の背丈ほどもある箒が未だ静かに立っていた。

 

「バカにしてんのは、どっちだよ」

 

 辺りが静まり返る。

 周囲の妖怪より頭一つ分以上小さい身長と深くかぶった帽子のせいでその目を見ることができないにもかかわらず、その場にいる誰もが魔理沙から強く鋭い視線を感じていた。

 

「私の名は霧雨魔理沙。 幻想郷最強と言われている博麗霊夢のライバルだ。 それを相手にハンデだ? ふざけんのもいいかげんにしろよ」

 

 決して種族としても、その力も強くはないはずの魔理沙の気迫に、妖怪たちが気圧される。

 しかし、ただの人間にしか見えない魔理沙に、勇儀の前で屈辱を受けた取り巻きの妖怪たちがフラフラと立ち上がり、また魔理沙に敵意を向ける。

 

「……てめえ、もう許さねえ。 こっちが手加減してやったってのにツケ上がりやがって」

「そうだ、スペルカードなんて関係ねえ。 俺たちが本気になりゃたかが人間なんざ…」

 

「――黙れ」

 

 突如、勇儀が妖怪たちを睨むようにそう言い放った。

 さっきまでの陽気な声から一転した低い声が辺り一帯に響き渡り、その気迫だけで魔理沙は一歩後ずさってしまう。

 

「見苦しいぞ」

「で……ですが、勇儀さ…」

「何度も言わせるな」

 

 勇儀が言うと共に、妖怪たちが一斉に黙り硬直する。

 そして、勇儀は手に持っていたその杯を後ろに放り投げた。

 その盃が割れることも、秘蔵の酒を捨てることも気にせず、勇儀は魔理沙に向かって真剣な表情で膝をついて頭を下げた。

 

「勇儀さん!?」

「今までの非礼、詫びよう。 すまなかった」

「……まぁ、別にいいよ」

 

 勇儀が謝る姿を見て、お燐は開いた口が塞がらなかった。

 お燐だけではない。 ただの人間に頭を下げる勇儀の姿に、辺り一帯が騒然となった。

 

「あ、あの、勇儀さん! あたいこれからこのお姉さんを地霊殿に連れて行かなきゃならないんだけど…」

「それは、ちょっと待ってくれないか?」

「は、はい……」

 

 勇儀の真剣な表情にお燐がたじろぐ。

 

「今度はあんな無礼なことなんてしない。 あの巫女のライバルと言われるその力、見せてもらおうか。 鬼の四天王が一人、力の勇儀。 全力を持って応えよう!」

 

 勇儀が力を込めると共に、辺りの空気が一変した。

 辺りに潜んでいた動物たちが、本能的に一斉に勇儀のいない方向へと弾けるように逃げ出す。

 その気迫だけで、周囲の建物がミシミシと悲鳴を上げているようにすら感じる。

 気付くと、さっきまで全く恐れる様子のなかった魔理沙も震えそうになっている。

 しかし、そんな中でも魔理沙はあくまで冷静に箒を持ち直して言った。

 

「すまないが、私は地霊殿に急用があってね。 だから今は行かなければならない」

「なに?」

「だけど、もう一度。 今度はさっきみたいなくだらないことは無しでやろうっていうのなら、帰りにもう一度ここに寄らせてもらうよ」

「……本当だろうな?」

「ああ」

 

 勇儀と魔理沙は静かに視線を交わす。

 そして、勇儀はゆっくりと力を抜き、納得して言った。

 

「……わかった。 ではお前が戻ってくるまで、私はここで待っていよう」

「そうか。 じゃあお燐、案内の続き頼むよ」

「え? あ、ああ、わかったよ」

 

 勇儀たちにそう言い残して、魔理沙はお燐を連れて足早に地霊殿へと向かった。

 呆気にとられていた妖怪たちは、それを追うことすらできなかった。

 

 地霊殿への道中、魔理沙は全く口を開かない。

 第一印象とはあまりに違う魔理沙のその雰囲気に、お燐は少し困惑していた。

 しかし、しばらくは無言だったお燐も、沈黙に耐え切れずにやがて口を開く。

 

「い、いやー、しっかしあたい驚いたよ。 お姉さんあの勇儀さん相手に一歩も退かないなんて……」

「……」

「あたいなんか見てるだけで寿命が縮んだよ」

「……」

「ねえ、それにしても、お姉さんこんなに寡黙な人だったっけ?」

「……なぁ、お燐」

「うん?」

「………どうしよう」

 

 そう言う魔理沙は、なぜか涙目だった。

 

「なっ!? どうしたんだい、お姉さん」

「いや、だってあの鬼マジで怖いよ! なに? 萃香と同じような感じじゃないの? なんであんなのと本当の決闘みたいなことになってんの!?」

「一体何があったのさ!? さっきまであんなに頼もしかったのに…」

「そんなの、あんな三下相手なら別にいいよ! だけどあの勇儀って奴超怖いし、できればもう会わない方向で…」

「で、でも、さっきもう一度行くって言ったじゃないか! 鬼は嘘が大嫌いなんだ、そんなのすっぽかしたら…」

「だって、あの場じゃそう言わなきゃ殺されるかもしんないだろ!? なんで霊夢はあんなのと決闘なんかできんだよ!!」

 

 突然弱気になった魔理沙の様子を見て、お燐は少し呆れてしまう。

 

 魔理沙のスペルカード戦の実力自体は誰もが認めていた。

 その異常な成長速度から、いつか霊夢すら超えるのではないかとさえ言われるレベルに達していた。

 しかし、残念ながら魔理沙には強大すぎる相手を目の前にして向かっていく勇気がないのだ。

 すっかり友達感覚で慣れてしまった霊夢や萃香たちについては問題ないが、たいていの異変の黒幕なんかには向かっていけない。

 幽香に勝った時も、実は自分から向かっていったのではなく、あの戦闘狂に追い詰められて死に物狂いで戦っていたら、気づいたらルール上は勝っていただけなのである。

 

「……まあ、でもいいよ。 あたいもお姉さんはそのくらいの人の方が付き合いやすいし」

「そんなもんか?」

「いやー、だって見た感じお姉さんかなり強いでしょ? なのにそれを笠に着ないでこんな風にできるのも…」

「あー……実はな、あれは別に私だけの力じゃないんだよ」

「へ?」

「ってか、もうそろそろ出てきてくれよ2人とも」

 

 そこに、どこからともなくアリスとパチュリーが顔を出した。

 

「はぁ……まったく、着いて早々問題起こさないでよ」

「しょうがないだろ。 ってか、勝手にいなくなったお前らが悪いんだからな!」

「あんたが勝手に先走って鬼にケンカ売っただけじゃない」

「うっ……それを言われると」

 

 そう言ってアリスとパチュリーは何事もなかったかのように合流する。

 

「お姉さんたち、いつから……?」

「え? 魔理沙があの手紙見つけたあたりからだけど」

「早えよ!!」

「魔理沙が「はああああああああ!?」とか言いながら膝を崩すところとか笑ったわー」

「……いい性格してるね、お姉さん」

 

 お燐が呆れ顔でそう言う。

 魔理沙はいつものように頭を抱える。

 パチュリーはすっかり地底への興味を失って、アリスの人形に運ばれながらもただ黙々と本を読んでいる。

 こんな未開の地でピンチになっても3人はいつも通りだった。

 

「……まぁ、とりあえずそういうことだ。 箒のハッタリはアリスにうまいこと箒を操ってもらってたんだけど、実は私は箒無しだとそこまで速く動けなくてさ、あの時の華麗な移動術は少しだけパチュリーの魔法でごまかしてたんだ」

「な、なるほどねえ」

 

 お燐はそのタネを聞いて、ガッカリというよりむしろ感心した。

 あんな状況で何の打ち合わせもなしにそんな行動をとれた2人と、それを信じて一瞬も疑わなかった魔理沙の信頼関係など一朝一夕でできるものではないからだ。

 こんな変な3人でも、そのチームとしての力は恐ろしいとお燐は思った。

 しかも、お燐の知る所ではないが、さらに恐ろしいのはこの3人が組んで戦ったのは実はこれが初めてだったということだ。

 

「そういうことね……と、合流したばかりなんだけど、私たちはちょっとここで一回抜けるわ」

「え? どうしたんだよ」

「ちょっと理由があってね、私とパチュリーは地霊殿には入れないのよ」

「なんでだ?」

 

 アリスがお燐に目くばせをする。

 お燐にとっては少し癪なことだったが、なんとなく言いたいことはわかった。

 要するに、アリスとパチュリーはさとりに会いたくないのだ。

 

「……実はね、地上の妖怪はここに入っちゃいけないんだよ」

「そうなのか?」

「ああ。 でもお姉さんは地上の人間だから大丈夫だけどね」

「ふーん、そんなもんか」

 

 この説明でとりあえず魔理沙は納得したようだった。

 そして、アリスとパチュリーは当然のように再び魔理沙と別れようとする。

 

「それじゃあね」

「ちょっ、待てよ! 今度はちゃんと集合場所決めて行けよ! さっきみたいにどこで合流するかわかんないと…」

「じゃあ、旧都入口の茶屋前にしましょう」

「ああ、あそこな……って、それさっきの勇儀って奴が待ってるところじゃねーか!」

「そうよ」

 

 アリスは当然のように答える。

 

「そうよって、お前は私を殺す気か!!」

「まぁ、これは別に冗談でもなんでもないわ。 私たちが地底に来た理由、覚えてる?」

「え?」

 

 アリスはお燐に対して、地底に来たのは地底の住人に協力を仰ぐためだと言った。

 しかし、魔理沙たちは元々異変調査のために地底へ来たのだ。

 だから、アリスが本当は何が言いたいのか、魔理沙にはよくわからなかった。

 

「さっきの勇儀ってのは鬼の四天王、つまり地底を取り仕切ってるような奴の一人だと思うから、私たちは本来あいつに用があって来たようなものでしょう?」

「あ、ああ」

「だったら、結局話を付けなきゃいけない相手って訳。 だから、ちゃんと来るのよ?」

「でも……って、おい! 待てよアリス…」

 

 そう言い残して、いつの間にかアリスとパチュリーはいなくなっていた。

 

「あー、大変だねえ、お姉さんも」

「……ああ、わかってくれるか?」

「でも、とりあえず気持ちを切り替えることだね。 さとり様の相手は、ある意味で勇儀さんよりも大変だから」

「え?」

 

 そう言っている内に、2人は大きな屋敷の前に着く。

 魔理沙は紅魔館で慣れているため大きな屋敷に入ること自体に抵抗はなかったが、実際に勇儀に会ってしまった魔理沙は、さとりの相手がその勇儀よりも大変だというお燐の言葉が今になって気にかかる。

 

「あのさ、勇儀より大変ってのは…」

「まぁ、会えばわかると思うけど、とりあえず一つだけ言っとくよ。 さとり様の前で嘘は言わない方がいい。 意味がない上にただ信用をなくすだけだから」

「わかったけど、どうして…」

「さとり様は相手の心を読める。 お姉さんが思ったことなんてさとり様には全部筒抜けってことさ」

「いっ!?」

 

 本来なら、お燐はそのことは実際にさとりに会うまで言わないが、今回は違った。

 これまでの魔理沙の様子を見て、好感が持てるし信頼できる、というよりもなんだかんだで逃げることはないだろうと判断できたからだ。

 だから、少しくらい魔理沙にも心の準備ができるようにと考えた、お燐なりの気遣いだった。

 

「じゃあ行くよ」

「ま、待って…ちょっと、心の準備が…」

 

 だが、それを聞いた魔理沙は混乱し、焦りが絶頂に達する。

 そして、そうこうしている間に地霊殿の扉が開いた。

 紅魔館のようにメイドの出迎えがある訳でもなく、誰もいない広い廊下を魔理沙とお燐だけで進んでいく。

 その道中、魔理沙はただひたすら「無心、無心、無心、無心」と心の中で唱え続けていた。

 何故そんなことをしたのかはわからないが、実際アリスはお燐に対して嘘をついていたのである。

 それがバレたらどうなるのか、不安でいっぱいなままだった。

 そして、奥の部屋の前に着く。

 

「入っていいわ」

 

 ノックをした訳でもないのにそんな声が聞こえてきて、魔理沙は緊張で唾をのむ。

 

「し、失礼します!」

 

 普段なら絶対に言わないような言葉を口にしながら、魔理沙は扉を開いた。

 そこには、机と少量の本以外ほとんど何もない殺風景な広い部屋に一人佇む小柄な少女と、植物の蔓のように少女にまとわりついている不気味な瞳があった。

 

「さっとりっ様あああっ!!」

「ご苦労様、お燐」

 

 お燐は部屋に着くなりさとりの胸に跳びつく。

 魔理沙はどんな屈強な妖怪が出てくるのかと気を張っていただけに、地底の他の妖怪たちと比べるとあまりに華奢なさとりの姿を見て唖然としている。

 そんな魔理沙には目も向けず、さとりはただお燐の頭を撫でながらぽつりと呟いた。

 

「大丈夫よ。 これでも私にはここら一帯の管理を任されるくらいの力はあるわ。 貴方程度なら今すぐ挽肉にしてあげることも容易いくらいにね」

 

 その一言を聞いた瞬間、魔理沙は凍りついた。

 「こんな子供が本当にあの地底の妖怪をまとめられるのか?」などという気の迷いを瞬時に読み取られていたのだ。

 

「……ははは、まいった。 確かにあの勇儀って奴より怖えかもな」

「もう、さとり様。 そうやってすぐ相手を脅しちゃダメですよ」

「いいじゃない。 地上からの来客なんてめったにないんだから、私も少しくらい楽しみたいわ」

 

 魔理沙には既に、心の中で「無心」などと唱える余裕もなかった。

 妖怪たちに囲まれても少しもビビらなかった魔理沙の頬から、汗が流れ落ちる。

 

「……それで、今日は何の用かしら」

「そ、そんなこと、お前には言わなくてもわかるんじゃないのか?」

 

 魔理沙は今、用件のことを必死に考えないようにしていた。

 嘘がバレるのを防ぐ目的もあるが、考えなくてもさとりが自分の深層心理を読めるのか、その能力の範囲を試すつもりだったが…

 

「ええ、わかるわ。 でもね、私が今、貴方に質問をしているのよ?」

「あ……」

 

 さとりが見透かすような視線で魔理沙に言う。

 

「質問に質問で返さないでくれるかしら?」

 

 そして、さとりが睨み殺すように放った一言で、魔理沙は完全にパニックに陥った。

 

「あ、わ、私たちは、その、地上の異変を解決したくて…」

「私を利用しに来た、と?」

「えっ…!? ち、ちちち違います! あの、協力を、利用とかじゃなくて、頼みに、」

 

 たった二言三言交わしただけなのに、魔理沙は既に全身汗だくになっている。

 無意識のうちに普段絶対使わないような敬語が交じったような言葉遣いになる。

 それどころか、声は震え、涙目になってきていた。

 

「……で?」

 

 その魔理沙に追い討ちをかけるように、さとりが見下して言う。

 次第に魔理沙は自分が何を言うつもりで、何を言おうとしたのかすらもわからなくなっていった。

 

「だから、私は、その…」

「あー、もう見てられないわね」

「え……?」

 

 そこに突如、新しい声が響く。

 魔理沙の背後には、いつの間にかアリスの人形が一体浮かんでいた。

 その人形はひとりでに動いて、さとりの前に立つ。

 

「こんな姿で失礼、初めまして。 私はアリス・マーガトロイド。 地上の魔法使いよ」

「あら、初めましてなのに姿を現さないなんて随分と礼儀知らずなのね」

「私は貴方の力を知ってるからね。 魅力的な女には守りたい秘密の一つや二つくらいあるのが普通じゃなくて?」

「そうね、よくわかってるじゃない」

 

 魔理沙は、さとりの興味がアリスに向いてようやく少しホッとする。

 

「でも、私は貴方みたいな冷静な人より、こっちのかわいい魔法使いさんの相手の方が好きよ」

「いっ!?」

「ウチの子をあまりいじめないでくれるかしら。 まだまだ未熟なんだから」

「アリス! 私は…」

「あら魔理沙、どうしたのそんなに汗かいちゃって。 たった10分くらい私に会えないのがそんなに寂しかった?」

 

 アリスは、蛇ににらまれた蛙のように動けなくなっている魔理沙をからかうように言う。

 

「う、うるさいな! 今の私にそんなこと言ってる余裕は…」

「余裕は、本当にない? あんたには心を読まれて何か困ることでもあるの?」

「え? だって…」

「冷静になりなさい。 子供のくせに古明地さとりを相手に心理戦をして勝てる訳がないでしょ。 少しは身の程を知ることね」

 

 アリスが魔理沙に説教する。

 ようやく魔理沙も少しだけ落ち着いて、アリスの話に耳を傾け始めた。

 

「じゃ、じゃあ私にどうしろっていうんだよ!」

「心が読まれようが何しようが、あんたはいつも通りにしてればいいのよ」

「あ……?」

 

 アリスとのいつものようなやり取りを経て、やっとのことで魔理沙が正気に戻る。

 よくよく考えるとそもそも地底には協力も求めに来たのだから、嘘だなんていうほどのことでもない。

 それに心理戦なんて、そんなまどろっこしいものは自分には合わないことはわかっていたはずだった。

 それなのに、自分は一体今まで何をやっていたんだと魔理沙は自省する。

 そして、吹っ切れたように何も気にせずに話し始めた。

 

「……あー、そうだな。 すまないね、心を読むとか勇儀って奴よりヤバいとか言われてちょっと混乱してたみたいだ」

「もう落ち着いちゃったの? つまらないわね」

「そう。 それでいいのよ、じゃあ後は任せたわ」

「って、ちょっと待てよ、アリス!?」

 

 アリスの人形が力を失って倒れる。

 ここにはもう、アリスはいなかった。

 

「……ちぇっ、なんて勝手な奴だ」

 

 そんなことはずっと前からわかっていたが、魔理沙は少し嬉しそうにそう呟く。

 その表情は、いつものようなニヤケ顔に戻っていた。

 

「それで、もう大丈夫なの?」

「ああ。 お前は古明地さとりっていうのか」

「ええ」

「なら、私も自己紹介しないとな。 私は霧雨魔理沙。 地上で起きてる異変を解決するために…」

「断るわ」

「えっ?」

 

 さとりの顔に笑みが戻る。

 そして、再び魔理沙に不安の表情が現れ始めた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話 : 封印

 

「あー、あのバカまた相手のペースに巻き込まれてるわね」

「もう、この際アリスが人形使って魔理沙の傍に待機しとけばいいじゃない」

「いやよ。 古明地さとりの相手なんて、あのちょっとの間だけでも疲れたっていうのに」

 

 地霊殿の屋根の上。

 アリスとパチュリーは魔理沙につけた人形の視界を共有しながらさとりとのやりとりを見ている。

 

「それに、魔理沙が一人であたふたしてる方が面白いじゃない」

「……それもそうね」

 

 アリスは相変わらず魔理沙で遊んでいる。

 そして、パチュリーもそれを止めるでもなく、むしろ徐々に魔理沙をからかう楽しみを覚え始めていた。

 

「それで、アリス。 鬼たちの相手は結局どうするの?」

「あー、そうね。 忘れてたわ」

「今の魔理沙をただ向かわせても、あの鬼が相手じゃ多分厳しいわ」

「でも、私たちだけで手に負えるような奴でもなさそうよ」

 

 当面の問題は、魔理沙がついさっき敵対してしまった勇儀のことだった。

 勇儀の実力が萃香と同程度だとするのなら、スペルカードルールでは魔理沙に少しくらいは勝算があるかもしれない。

 しかし、魔理沙は慣れない相手には実力を出し切れない上に、地底の妖怪たちは本当の殺し合いすら始めかねないような殺伐とした雰囲気をしていた。

 

「もう、古明地さとりが鬼も全部まとめられることを期待するしかないわ」

「結局は魔理沙次第ってことね」

 

 それならアリスが魔理沙の交渉を手伝えばいいだけだが、アリスはあえてそれをしない。

 その方が面白いというのも当然理由の一つだが、自分がさとりの相手をすると、お燐についてしまった些細な嘘がネックとなってしまいかねないことも理由の一つである。

 そもそもアリスとパチュリーは、鬼を指名して協力を仰ごうとしていると言うことで、容疑者ではなく協力者として鬼に好意的に接した上で、さとりを避けようとしていた。

 そのため、開口一番にそのペットに出くわして嘘をついてしまうというのはアクシデントだったのだ。

 そうなった場合、その提案が完全に計算ずくの嘘であると認識している自分たちではなく、偽ることなくその提案を好意的に認識してその場のノリで動ける魔理沙の方が、さとりの相手をするには向いていると思ったのだ。

 そして、そこにはそろそろ強大な相手にも魔理沙が一人で立ち向かえるようにという、アリスのわずかながらの親心も含まれていた。

 

「……ところで、私そろそろ疲れたから代わってくれない?」

「えー。 私は古明地さとりの相手をしたせいであんたの3倍は疲れてるわ」

「でも、私もそろそろ限界よ。 ほら」

 

「もらった!」

 

 という声と共に飛びかかってきた妖怪が、それと同時にパチュリーの指先から放たれた光線に当たって吹き飛ぶ。

 地霊殿に来る前からずっと魔理沙を追ってきている妖怪たちを、パチュリーは既に20体以上返り討ちにしていた。

 

「それにしても、本当にキリがないわね」

「まあ、一応あの鬼の四天王と対等に見えるかのような振る舞いをした魔理沙だからね。 もしそれを自分が倒せば地底でデカい顔をできるってことでしょ? 雑魚の考えそうなことだわ」

「逆に言えば、来てるのが力の差もわからない低級妖怪ばかりってのが救いね。 まぁ、多分ないとは思うけど、もし鬼なんかが一体でも来たら手伝ってあげるわ」

「えー。 正直もうだめー。 持病のぜんそくが…」

「……はいはい、わかったわよ」

 

 そう言うとパチュリーはその場に座りこむ。

 すると、物影に隠れていた妖怪たちが、今だ! と言わんばかりに一斉に向かってくる。

 

「よっしゃ、これで…」

「ああ。 言っておくけど、私はパチュリーほど優しくはないわよ」

「へ?」

 

 勢いよく飛び出した妖怪たちに、武器を持った人形たちが突如として襲いかかる。

 人形の攻撃に翻弄される者。

 人形に気をとられている間にそれを操る糸に縛られてしまう者。

 そして、その間を縫って飛んでくるアリスの魔法に被弾してしまう者。

 僅かな隙もない、アリスの流れるような攻撃を前に、妖怪たちは自ら火に入る虫のように次々と倒れていった。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第6話 : 封印

 

 

 

 

 

 言いたいことを言い終わる前にさとりに断られてしまった魔理沙は、焦って何か言い返そうとして思いとどまる。

 少なくとも落ち着いて話さないとまた簡単に手玉に取られてしまうだろうことは、十分理解していた。

 だから、ただ一人笑みを浮かべているさとりを前に、魔理沙は慌てず冷静に一度深呼吸をしてから言った。

 

「……あのなあ。 断るって、私はまだ何も言ってないだろ?」

「あら、お燐から聞いてなかった? 私は心を読めるって」

「いや、聞いてたけど」

「地上で起こってる異変の影響で八雲紫が死に、博麗霊夢が倒れた。 このままでは幻想郷全体が危険に晒されかねないと思った貴方たちは、異変の元凶であると疑わしい地底を調査しに来たけど、なぜか連れの魔法使い、アリス・マーガトロイドがお燐に対して私たち地底人の協力を仰ぐために地底に来たと嘘をついたことに若干の疑問が残っている。 だけどそれもいいアイデアだと思って、私に話を聞くことも含めて地底の住人に協力を仰ごうとした。 そういうことでしょう?」

「あ、ああ」

 

 自分の中ですら上手くまとめられていない自分の思いを、逆に全て説明された魔理沙はまた冷や汗をかき始める。

 わかってはいても、口にする前に全てを知られるというのはやはり恐ろしいことだと再確認した。

 

「あの……多分、アリスも悪気があってそんなこと言った訳じゃ…」

「そんなことはどうでもいいわ。 嘘をつかれるのなんて、もう慣れてるしね」

「はあ」

 

 てっきり何か怒られるか邪険にされるかと思っていた魔理沙は、少し拍子抜けした。

 しかし同時に、嘘をつかれることに慣れたなどと何の感情もなく言うさとりに、少しだけやるせなさを感じていた。

 

「それにしても……貴方の中で、八雲紫というのは随分と大きな存在みたいね」

「え? だって、そうだろ? あいつは妖怪の賢者って呼ばれてて、幻想郷の管理者でもあるし」

「地上では、ってことでしょう? 地底での彼女の認識はただの地上との窓口程度よ」

「はあ?」

「八雲紫が負けたから、幻想郷全体が脅かされる程の異変になる? 彼女を買いかぶりすぎよ。 確かに彼女は優秀だったけど、結局は単なる一妖怪に過ぎないわ」

 

 その発想は魔理沙の中にはないものだった。

 霊夢が勝てないなら誰にも勝てない。

 紫が届かないなら誰も届かない。 

 魔理沙にとって、その2人はそう思えるほど絶対的な存在だったからだ。

 

「それは、そうかもしれないけど……でも、この前の異変での霊夢の活躍は知ってるんだろ? その霊夢ですら負けたんだ。 だから…」

「それはスペルカードルールに則るなら、という話でしょう。 ルールを破るような相手だというのなら、むしろこちらとしてはやり易いくらいよ。 地底には幻想郷最強と言われる鬼がいるからね。 ……それに私だって、そんなルールさえなければ博麗の巫女なんて片手で消せるくらいの自信はあるのよ?」

 

 微かに妖艶な笑みを浮かべたさとりの目を見て、魔理沙はまた少し縮こまる。

 たったこれだけ話しただけでも、それが冗談や誇張じゃないと本能が理解した。

 さとりが本当に紫と同等、いや、もしかするとそれ以上の力を持っているかもしれないことは身を持って感じ取らされていた。

 

「でも、せっかく貴方たちは長い道のりを経てここまで来た。 だから、少しくらいチャンスをあげるわ」

「本当か?」

「ええ。 今回の件に関しては少しだけ、こちらにも非が無い訳ではないからね」

「え?」

 

 やはり地底が何か関係あるのかと、魔理沙は少し期待の眼差しを向ける。

 だが同時に、さとりがこの異変に関わっているのならば、もしかしたらこの場で……という不安もあった。

 

「ああ、別に私たちが関わってるって言うほどのことではないから、安心していいわ。 少し原因に心当たりがあるだけよ」

「心当たり?」

「でも、それをすぐに教えてしまっては面白くないでしょう。 だから、少し私と賭けをしてみない?」

「賭け? それは一体…」

「そうね……」

 

 さとりが少し、楽しそうな顔をしながら考え事を始める。

 その間、心を読むさとりの第三の目はじっと魔理沙のことを見ていた。

 沈黙の中、心を読まれていると理解しながらただじっとしている魔理沙は、必要ないことまでいろいろと考えてしまう。

 

「……じゃあ、今貴方が抱えている地底へのもう一つの偽りを真実にできたのなら、私の知ってることも教えるし、貴方たちに協力もしてあげるわ」

「本当か!? ……でも、もう一つの偽り?」

「貴方、さっき旧都で嘘の約束をしたでしょう?」

 

 勇儀との決闘の約束のことだ、と魔理沙は瞬時に思い当った。

 そして、実は妖怪たちを出し抜く際にアリスとパチュリーに協力してもらっていたことも思い浮かべてしまう。

 

「まぁ、さっきの一件で何があったかなんていうのは別にどうでもいいわ。 だけど、もし貴方がこの後本当に勇儀さんと戦って、勝つことができたのなら協力してあげる」

「それは…」

 

 魔理沙が少し言いよどむ。

 少し考えただけで、さっき勇儀と対峙したときの恐怖が魔理沙の頭を過ぎったからだ。

 

「……」

「でも、やっぱり逃げたいというのなら、勇儀さんたちに気付かれないように3人とも地上まで無事に送ってあげてもいいわ」

「そんなこと、できんのか?」

「ええ。 でも、それなら当然何も教えないし、異変調査の協力なんてしないけどね」

 

 そのさとりの言葉が真意かどうかは魔理沙にはわからないが、何もできずに地上に帰ることなんてできない。

 しかし、勇儀の力が未知数であり、もしかしたら本当に命のやり取りすら始めかねない以上、簡単に要求を呑むこともできなかった。

 

「少…」

「少しとは言わずに好きなだけ考えるといいわ。 その間にお友達がどうなってもいいのなら、ね」

 

 さとりはクスクスと笑って言う。

 それを聞いた瞬間、魔理沙の表情が変わった。

 

「おい、どういうことだ……?」

「今も、貴方の命を狙った妖怪たちがこの館を取り囲んでいるわ」

「えっ!?」

「驚くことはないでしょう、あなたは鬼の四天王に喧嘩を売ったのだから当然よ。 私がいるからこの館の中は平気だけど、外にいるお友達はどうかしら?」

「まさか……!?」

 

 魔理沙はしばらく前まで饒舌に話していた人形を手に取る。

 当然ながら、それは全く反応しない。

 

「そういえば、2人の心の声が聞こえなくなったみたい。 もうこの近くにはいないのかもね」

「っ……!? なんだよ、結局お前は外にいるアリスとパチュリーの心も読んでたってのか?」

「さあ、どうでしょう?」

「くそっ、性格の悪い奴め!」

 

 そう言うと、魔理沙は慌ててさとりの部屋を飛び出した。

 それをただ笑って見送るさとりに、お燐は少し寂しそうな顔で言う。

 

「……ねえ、さとり様。 どうしてそんな風に言うのさ」

「なにが?」

「魔理沙は別に悪い奴じゃないじゃないか。 さとり様を必要としてくれてるのに、そんな憎まれ口をたたかなくても…」

「あら、案外これが私の本心かもしれないわよ」

「……そんなことない」

「優しいのね、お燐は。 でも、これでいいのよ」

 

 さとりは自分の膝に横たわるお燐の頭を撫でながらそう言った。

 

 さとりには他人の心が見える。

 しかし、さとりの心は誰にも見えない。

 だからこそ得られる強さというものがあるのだ。

 それ故、さとりは誰にも自分を見せることはない。

 だが……

 

 ――どうして、さとり様ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないのさ。

 

 同時にお燐は、どこか納得のいかない顔をしてそう思った。

 優しいはずの自分の主人。

 なのに、この能力を持ってるせいで、管理している地底の住人どころか初対面の相手にさえ嫌われてしまうことに、ひどく不条理を感じていた。

 

「それじゃあお燐。 私は少し用事があるからここを出るわ」

 

 さとりはそう言って立ち上がる。

 

「……ああ」

 

 ――なんだ、やっぱり魔理沙のことを心配してるんじゃないか。 

 

 だが、それはもう、お燐にはわかっていたことだった。

 さとりはこれからもずっと、誰に対してでもこんな風に自分というものを隠しながら生きていくのだろう。

 たとえ誰にも理解されなかろうと、ずっと――

 

「わかったよ。 行ってらっしゃい、さとり様」

「ええ、行ってきます」

 

 そう言ってさとりを見送ると、お燐はサッと立ち上がる。

 

 ――だからこそ、きっとあたいだけがさとり様を守ってあげられるんだ。

 

 ――あたいが、陰からさとり様を支えてあげるんだ!

 

 どんなことだっていい、たださとりを信じて、その役に立ちたい。

 自分は、そのために生きていくんだ。

 お燐の目には、そんな小さな炎が灯っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、ミスったわ」

「本当に。 バカじゃないの? 自分の人形の糸に絡まるなんて」

「……否定はできないわ、あんな状況で素人みたいなミスをするなんて。 こんなことなら全部魔力操作にしておくんだったわ」

 

 次から次へとキリがない妖怪の急襲に、アリスはまとめてそれを片づけようとして失敗した。

 そして、自分の出した糸に絡まって動けなくなっているアリスとパチュリーの前に、タイミング悪く勇儀が現れたのだ。

 今は魔理沙との待ち合わせ場所である茶屋の中に軟禁されている。

 

「それで、私たちをどうするつもり?」

 

 特に気を遣うこともなく、アリスは気軽に勇儀に視線を移す。

 

「信用してない訳じゃないがね。 お前たちはあいつが来るまでのエサにさせてもらうよ」

「あー、はいはい。 そういうことね。 別に抵抗する気は無いわよ。 私は魔理沙とは違って身の程は弁えてるわ」

「……そうかい」

 

 アリスのその緊張感のない返事に、勇儀は少し不満気だった。

 そして、パチュリーは囚われてなお本を読んでいる。

 

「お前たちには少しは危機感ってもんはないのかい」

「少なくとも私にはあるわ」

「私もよ」

「本を読みながらそんなこと言われても説得力がないねぇ。 私が機嫌を損ねてお前たちを殺すかもしれないんだぞ?」

「……」

 

 それに2人は答えない。

 魔理沙が来ることを信じているからなのか、それとも自分たちだけでこの状況を何とかできる自信があるからなのか、勇儀にはわからなかった。

 

「ところで、せっかくだから一つ頼みがあるんだけど」

「何だ?」

「今、地上で異変が起こってるんだけど、ちょっとその解決を手伝ってくれない?」

 

 この状況で、パチュリーはもののついでのように勇儀に協力を要請する。

 2人の態度は、ここに勇儀の取り巻きがいたら完全にキレそうなものだった。

 そして、それは勇儀自身も例外ではない。

 

「っ……!!」

 

 勇儀が力を込めてその部屋の壁を殴るとともに、壁が一面大きく吹き飛び、そのまま建物は傾いた。

 

「な、何だ!?」

「勇儀さん、どうかしましたか?」

「……」

「ちょっと、なんでこのタイミングでそんなこと言ってんのよ」

「だって、いつかは言わなきゃいけないことじゃない」

 

 無言で建物を傾けて睨んでくる勇儀を前に、アリスとパチュリーはそれでも全く動じる様子はなかった。

 むしろ2人は、この提言に対する勇儀の反応を試しているかのごとく冷静に状況を見据えていた。

 

「……気に入らないねえ。 お前たちといい、あの魔法使いといい、鬼の恐ろしさってものがわかっちゃいないようだね」

「わかってるわ」

「本当にわかってたら、そんな口聞けないって言ってんだよ!!」

 

 勇儀が殺気を込めて叫ぶと、アリスやパチュリーよりもむしろ、周りの妖怪たちが怖がっていた。

 だが、それでもパチュリーは本に目を落としたまま、興味のなさそうな声で呟く。

 

「わかってるからこそ、落ち着いてるんじゃないの」

「はあ? ……まあいい。 私の目的はお前たちじゃない。 あくまで…」

 

「勇儀! 出て来い!!」

 

 突如、そんな叫び声が聞こえた。

 勇儀のことを、今この場でそんな風に呼び捨てにできるような命知らずは一人しかいなかった。

 その声を聞いて、アリスとパチュリーが初めて焦ったような反応を見せた。

 2人は、吹き飛んだ壁から顔を出す。

 

「魔理沙……?」

「悪い、遅くなった」

「いや、逆よ! なんでこんなに早く来るのよ!? 古明地さとりとの話し合いは…」

「知らねえよ、そんなこと」

「な……」

 

 そう言って身構える魔理沙は、明らかに怒っていた。

 勇儀が道の中央に出てきて言う。

 

「……ああ、待ってたよ。 霧雨魔理沙って言ったか?」

「アリスとパチュリーを、解放しろ」

「第一声がそれとは、つれないねえ。 ま、いいだろう。 ただし、お前が私に勝ったらな!」

 

 魔理沙が勇儀を睨みつける。

 勇儀が構えると共に、魔理沙はスペルカードを取り出した。

 そして、背中にしょっていた箒を放り投げると、魔理沙は指を一本だけ立てる。

 それは、一枚のスペルカードだけでの決着を申し込む合図だった。

 

 勇儀がにやけるように笑ってそれに頷くとともに、魔理沙は箒の上に跳び乗り高く舞い上がった。

 

「スペルカード宣言、恋符『マスタースパーク』」

 

 そして魔理沙は勇儀に向かって、両手から魔法波の弾幕を照射する。

 だが、勇儀はそれを見て不機嫌そうに舌打ちした。

 

「何だ……ガッカリさせんじゃねえよ、人間!」

 

 勇儀は怒ったように拳を突き出す。

 その拳圧だけで、その魔法波ごと魔理沙は少し押し返される。

 それは、傍目からは攻撃にすらなっていないように見えた。

 周囲の妖怪たちが怒号を上げる。

 

「何だこの小娘が! 話にもならねえじゃねえかよ!?」

「俺たちはこんな奴にバカにされてたってのか? ふっざけんじゃねえ!」

 

 しかし、魔理沙は怯むこともなく再び同じ単調な弾幕を上空から撃ち続ける。

 勇儀はそれを相殺し、軽くいなし、避けながら睨むように魔理沙を観察する。

 

 ――手加減でもしてるのか? それとも…

 

 確かに、スペルカードルールに則るなら攻撃に殺傷能力はいらない。

 だが、それが軽くいなせるような威力とパターンしかなければ、そもそも相手に届くこともない。

 勇儀はしばらく魔理沙を観察し続けたが、やがて失望したような目をして言う。

 

「スペルカード、ブレイクだ」

「……」

 

 それでも、まるでそれが聞こえていないかのように魔理沙はその貧弱で単調な弾幕をただ永延と放ち続ける。

 

「聞こえなかったか? ブレイクだ」

「……」

「……そうかい。 もういい、終わりにしよう」

 

 勇儀はそのまま、脚力だけで跳び上がる。

 もはやスペルカードルールなどどうでもいいと言わんばかりに、その弾幕を避けようともしない。

 勇儀は魔理沙の弾幕を、ただの空気抵抗のごとく受けたまま上空までたどり着き、腕を伸ばした。

 

 しかしその刹那、勇儀の目が見開く。

 

 当初、魔理沙が両手で放っていたかのように見えた魔法波は、今は左手一本で放たれている。

 そして、その右手にはいつの間にか小さな八角形の物体が握られていた。

 

「お前っ!?」

「食らえよ……星符」

 

 空中で無防備に腕を伸ばしきった勇儀は、突然のことに防御が間に合わない。

 というよりも、麻痺性の魔法波を全身に浴び続けてしまったその身体は上手く動かなかった。

 そして魔理沙は、ミニ八卦炉を勇儀の胸に直接当てる。

 

「『ドラゴンメテオ』!!」

「ッ――――!?」

 

 次の瞬間、ゼロ距離での魔理沙の本気のマスタースパークが勇儀を垂直に貫いた。

 一瞬で勇儀を地面に叩き付け、その衝撃で旧都一帯を揺らす。

 その気になれば山一つ焼き払える光の束は、勇儀と地面だけでは相殺しきれずに四方八方に広がり、近くの建物を飲み込んでいく。

 その砲撃の予想外の威力に、辺り一帯は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 魔理沙のことを軽んじていた地底の住人たちは突然のことに反応できず、逃げ惑いながらも焼かれ、吹き飛ばされていく。

 そして、その余波が去ってなお建物は次々と崩れ落ちていき、砂煙が濛々と立ち込めているそこからは悲鳴や怒号だけが響き続けていた。

 

 ……やがて、煙が晴れる。

 崩れ落ちた茶屋の残骸の中から出てきたアリスが、大量の砂煙を吸って顔色を悪くしたパチュリーを背負いながら、惨劇の中心に一人で佇む魔理沙に駆け寄った。

 

「ケホッ、ケホッ……ちょっと、魔理沙、何やってるのよ?」

「そうよ! こんなことしたら、この後協力を仰ぐのも難しく…」

「うるせえ!!」

 

 魔理沙は右手にミニ八卦炉を構えたまま、勇儀のいた方を睨んでいる。

 そこには、ボロボロになりながらも未だ二本の足で立つ勇儀の姿があった。

 そして、どこからともなく声が響く。

 

「……てめえ、せっかく勇儀さんがスペルカードルールに乗ってやったってのに、どういうつもりだあ!?」

「そっちがその気ならこっちも容赦しねえぞコラァ!」

 

 魔理沙のその戦法は、スペルカードルールに則るなら完全な反則だった。

 宣言枚数は1枚としておきながらも偽の宣言をして、スペルカードをブレイクされてなお麻痺性の魔法波を当て続けたあげく、その後に必要以上に殺傷力を高めた攻撃を手加減なく不意打ちで行うというものだったからだ。

 勇儀が魔理沙を睨んで言う。

 

「ああ、そうか。 結局お前たち人間はそうなのかい」

「……」

 

 それは、怒りというよりも憎しみの目だった。

 

「そうやって、私たちのことを平気で裏切る。 いつも……いつもいつもいつも! まったく、冗談じゃねえよなあ?」

「……うるせえよ」

「オイ、何とか言って…」

「うるせえって言ってんだろうが!!」

 

 魔理沙のその叫びは、勇儀の圧力すらもかき消して妖怪たちを圧倒した。

 そして、勇儀を強く睨みつける。

 

「お前にケンカを売ったのは私だ。 アリスとパチュリーは関係ないだろ。 なのに、なんで2人に手を出した?」

「あ?」

「決闘? 別にいいよ、それは。 でも私言ったよな? くだらねえことをしないならってさ」

「それは……」

「先に卑怯な手を使ったのはそっちだろうが! 私はこの二人がやられるくらいなら卑怯な手だって何だって使ってやる!」

 

 魔理沙は勇儀を前に、一歩も退かない。

 それどころか一歩ずつ近づいていく。

 

「さあ、今度は私をどうする? こんな騒ぎを起こしたんだ、もうどうなっても覚悟はできてる。 また卑怯な手で私をねじ伏せるか?」

「……」

「お前はさ、私に全力をもって応えるって言ったよな。 あれが全力か? いいや私は信じない!」

 

 勇儀は何も答えられない。

 魔理沙は勇儀の目の前に立ち、見上げるように睨みつける。

 勇儀がその腕をほんの少し振うだけで魔理沙の華奢な身体はバラバラに消し飛んで終わってしまう、そんな位置関係。

 そんな状況で、勇儀は動けないまま自分の頬を一筋の汗が流れていくのを感じていた。

 

「少なくとも、萃香はもっと誇り高い奴だったよ。 勝負に汚い手なんか使わねえ」

「……」

「こんなのがお前の全力だってのなら、私はお前なんかが萃香と同じ鬼の四天王を名乗ることは絶対に許さない!」

 

 勇儀には理解できなかった。

 今まで、どんな妖怪も一人で自分に立ち向かっては来なかった。

 ましてやそれが、こんな自分よりも頭一つ以上小さな人間ならなおさらだった。

 

 ――私が殺気立っているだけで、たいていの奴は恐怖して逃げていくはずなんだ。

 

 ――博麗の巫女でさえ、結局はスペルカードルールで勝った後、そのまますぐに逃げたんだ。

 

 ――なのに、こいつは何だ? なんで――

 

「何とか言ってみろよ!!」

 

 ――なんで、私が人間なんかを相手に怯んでいる?

 

 魔理沙の言霊に気圧され、勇儀は一歩下がってしまう。

 そして、

 

「……ははは、悪かった。 私の負けだ」

「え?」

 

 そう言って勇儀はそこに座り込んだ。

 耳を疑うような勇儀の一言に、辺りがざわつき始める。

 

「勇儀さん!? でもこいつらは…」

「黙れ!」

 

 そして静かになる。

 勇儀が周りの妖怪を制して言う。

 

「……確かにそうだ。 先に裏切ったのは、私だ」

 

 勇儀からはもう敵意は感じられない。

 ただ静かに、自分を責めるような弱弱しい口調でそう言った。

 だが、それでも魔理沙の機嫌は直らない。

 

「謝ったところで今更私が許すと思うか? もう私は…」

「はーい、そこであんたは調子に乗らない」

「っあたたたたたた!?」

 

 しかし、そこで突然アリスが魔理沙の耳をつねる。

 予想外のアリスの攻撃に、魔理沙は少し涙目になりながら言う。

 

「何すんだよ、アリス!!」

「あんたは早とちりしすぎなのよ」

「はあ?」

「私たちは別に何もされてない。 というよりも、むしろそこの鬼に護られてたって言うべきだからね。 そうでしょう?」

「……」

 

 勇儀は答えない。

 

「は……? どういうことだ、アリス?」

「最初にあんたが暴れたせいで、地底の低級妖怪たちがあんたのことを、それと私たちのことも狙い始めたのよ」

「そ、それは…」

「それで、私とパチュリーのところにも何十体も妖怪が襲い掛かってきた。 その都度撃退はしてたものの、正直限界が来て、ちょっと私がヘマしちゃったの」

「そうね。 あのミスは流石にないわー」

 

 パチュリーがジト目でアリスを見つめる。

 それを感じ取ったのか、アリスは少しバツの悪そうな顔をして続ける。

 

「パチュリーはちょっと黙ってて。 そこで動けなくなってるところを、私たちはそこの鬼に保護された。 あんたは古明地さとりに、私たちはこの鬼に護られてるから誰も手出しができなかった。 そういうことよ」

「そう、なのか……」

「知らないね、そんなこと」

 

 勇儀は露骨に魔理沙から目を逸らして言う。

 それを見て、アリスは大きくため息をついた。

 

「……はぁ。 どうして強い奴ってのは皆こう不器用なのかしらねえ」

「はあ!? どういう意味だ!」

 

 勇儀はムキになったように反発する。

 だが、アリスは勇儀から少し目を逸らし、それに答えなかった。

 その目線の先には、目線を伏せている魔理沙がいる。

 

「……ごめん」

「あん?」

 

 魔理沙はかぶっていた帽子をとって、呟くように言う。

 

「私、そんなこと、何も知らないくせにお前を貶して……」

「だから、そんなこと知らねえって言ってんだろうが!」

「でもっ…」

「うるせえんだよ!!」

 

 勇儀が叱るように魔理沙に言う。

 

「お前が、他の奴が、私をどう評価しているかなんて、そんなことはどうでもいい。 卑怯者の汚名だろうが何だろうが、私は受け入れる。 ……だけどな、私に勝った奴が、そんな情けねえ声出してるのだけは許せねえんだよ!」

「え?」

 

 その気になれば、勇儀はいつでも容易に魔理沙を打ち伏せることができた。

 だが、魔理沙の気迫に怯んでいる自分に気づいてしまったら、たとえその後どれだけ魔理沙を痛めつけて勝利を掴むことができたとしても、その心に残ったどうしようもない敗北感だけは一生消えない。

 どれだけ取り繕ったとしても、自分の中の矜持に則って一度でも負けたと感じてしまったのなら、勇儀にとってそれは自分がボロ雑巾のように打ち捨てられてしまうことよりも認めざるを得ない負けなのだ。

 勇儀にとっての魔理沙は既に、自分を打ち倒した、鬼退治をした勇者なのだ。

 だから、その魔理沙が弱弱しい姿を見せていることは、それに負けた自分の矮小さを必要以上に浮き彫りにさせるかのようで、勇儀にとって、いや、鬼という種族にとっては耐え難い屈辱なのである。

 

「だから、お前は勝者らしく傲慢に振る舞うといい。 何なら私の首をくれてやってもいいし、何でも言うとおりにする。 それで…」

「勇儀さん!?」

「いや、いやいやいやいやちょっと待て、私は別にそんなことを望んでたわけじゃ…」

「そうです、それに勇儀さんは負けてなんて…」

「黙れ! 誰が何と言おうと今回は私の負けだ。 誰にもそれを否定することは…」

 

「ああ、それなら貴方はその子たちの手伝いをしてあげるといいわ」

 

 その声が聞こえるまで、そこには何の威圧感も、気配さえも感じなかった。

 だが、突然の声に振り向くと、戦いを見守っていた妖怪の群れの中にいつの間にかさとりが立っていた。

 

「さとり……?」

「少なくとも、その子は貴方の首なんて気持ち悪いものを欲しがってはいないわ。 そんなものをもらって喜ぶのは、貴方みたいな時代遅れの脳筋くらいよ」

 

 その存在に気づいた周囲の妖怪たちは次の瞬間一斉に跳び下がる。

 いつの間にかアリスとパチュリーの姿もなかった。

 そして人ごみが割れるように、いつの間にかさとりの前には魔理沙たちに向かう道が開けていた。

 そんな周囲の様子を当然のことのように受け止め、ただゆっくりと魔理沙の方に歩き出すさとりに、勇儀が一喝する。

 

「なっ……おい! お前は必要もない時に地霊殿から出てくるなとあれほど…」

「あら、私はここら一帯を管理しているのだから、町が吹き飛ぶような騒ぎがあれば来るのは当然でなくて?」

「ちっ、まぁそれは…」

「そんな強い言葉を使っちゃって、それでまた失敗したみたいね。 相変わらずかわいいわね、勇儀ちゃんは」

「っ!? ぶっ殺すぞテメエ!!」

 

 横槍を入れようとした妖怪の声をかき消すほどの大声で、勇儀は顔を真っ赤にしてさとりに叫ぶ。

 勇儀はそのまま永延とさとりに罵声を浴びせ続けるが、それもさとりは気にせず話を進める。

 

「さて、それじゃあ本題に戻るわ」

「おい、何無視してやがる!? それに、今は私が…」

「あら、勇儀ちゃんはそんなに私に構ってほしいの? でも今は忙しいから、後でなら聞いてあげるわー」

「―――――っ……はぁ、もういい」

 

 一人で騒いでいた勇儀だが、そうして遂に大人しくなる。

 鬼の四天王さえも子ども扱いするさとりに、妖怪たちは畏怖の念を感じざるを得なかった。

 それは、魔理沙すらも例外ではない。

 自然と少し緊張気味の姿勢になってしまう魔理沙に、さとりは相変わらず微かな笑みだけを浮かべながら言う。

 

「それで、勇儀さんは貴方たちの異変調査に協力する。 私は今の異変について知ってることを話す、でいいかしら?」

「え? ああ、でもいいのか?」

 

 魔理沙が勇儀の方を見て言う。

 さとりに向かって叫びすぎた勇儀は、露骨に疲れた表情を浮かべていた。

 

「……ああ。 私はお前の言う通りにしてやるってさっき言っちまったしな」

「じゃあ問題ないわね。 まぁどういう経緯であれ、貴方は賭けに勝ったのだから私も約束は守るわ。 ただ、その前に――」

 

 さとりは少し、不快そうな目をして周囲を一瞥する。

 

 ――古明地さとり……クソッ、なんでこんなところに。

 ――チッ、相変わらず気味の悪い……

 ――無無無無無無無無、無ーっ、無ーっ!

 ――偉そうにしやがって、この際ここで消してやろうかねえ。

 ――ひいっ!? に、逃げ…

 

 それは、ただの心の声だった。

 各々でさとりに対する感情に差はあれど、本来なら誰にも聞こえることのない、あっても無くても変わらぬただの感情の奔流。

 だが、それはさとりにとっては騒音だった。

 さとりは別に能力をコントロールして聞く声を選べない訳でもない。

 それでも――

 

「目障りよ」

 

 ただ、静かにそう告げた。

 勇儀とは違う小さな声が、ただ静かに波紋のように広がっていく。

 静まり返ったそこでは、その声は何よりも不気味に響き渡り、妖怪たちはまるで金縛りにでもあったかのように固まってしまう。

 動くことすらできないまま、畏怖と嫌悪の混じった表情でさとりのことを睨んでいた妖怪たちも、ほんの少しさとりと目が合った瞬間、引き攣ったような表情を浮かべて目を逸らす。

 その様子を見て、さとりは露骨にため息をつきながら歩き出した。

 

「はぁ……ここは、少し騒がしいわ。 話を聞きたいのならついてきなさい」

「あ、ああ、別にいいけど」

「それとお燐、この騒ぎの収拾と後始末は頼んだわ」

「に”ゃっ!?」

 

 そして、物陰に隠れていたつもりのお燐は突然の指名に悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 地霊殿を過ぎてさらに奥。

 地の底とは思えないほど明るいそこは、進むにつれてだんだんと気温を増していく。

 

「あぁぁ、熱いぃ……なあさとり、一体どこに向かってるんだ?」

「旧灼熱地獄よ」

「げぇっ、灼熱地獄って……」

 

 灼熱地獄と呼ばれるほどの温度だったのは一昔前までであり、今はその気になれば人間でも耐えられるくらいになっている。

 とはいっても、耐えられる程度とはいえ人間にとっては暑いというより熱いレベルなので、涼しげな顔で進むさとりや勇儀とは対照に、先に進むにつれて魔理沙のテンションは徐々に下がっていく。

 

「そもそも何でそんなところまで行く必要があるのよ。 ちゃんと説明してくれない?」

 

 それはアリスの声だった。

 しかし、アリスとパチュリーの姿はない。

 ただ、いつものように魔理沙の後ろをアリスの人形が2体浮遊している。

 自分たちだけ楽をしてついてこないアリスたちへ抗議の意味も含めて、魔理沙は恨めしげにその人形を睨む。

 

「この子に異変の手掛かりになるものを見せてあげようと思ってね。 この先にそれがあるのよ」

「だから、何があるのか聞いてるのよ」

「それは着いてからの、お・た・の・し・み」

「そんなの、勿体つける必要ないわ。 時間の無駄だし、何があるのか歩きながらでも話してくれないかしら」

「……そうね。 じゃあ少し話しながら進みましょうか」

 

 ちょっとした遠足気分で歩いているような態度のさとりだったが、アリスとパチュリーはそれを一蹴する。

 風情も何もあったもんじゃないと、少しだけ残念そうな顔をしながらさとりは続けた。

 

「まず、貴方たちはこの前の異変がどんな異変だったか知ってるかしら?」

「前の異変? いや、地底から温泉が湧いてきたってことは知ってるんだけど……なんか張り切って温泉に入る準備してるうちに霊夢が解決しちまってて、異変だったっていうのは後で聞かされたんだよな」

「私も気付いた時には終わっていたわ。 霊夢にしては珍しく、随分とやる気だったみたいだけど」

「多分それは少し違うわ。 やる気だったのは恐らく、八雲紫のほうよ」

「紫が? それは……どういうことだ?」

 

 そもそも幻想郷の異変は人間の代表である博麗の巫女の霊夢が解決すべきで、妖怪である紫は異変を解決しない。

 たとえ霊夢のサポートをしたとしても、異変解決に直接は乗り出さない。

 それが、紫の立ち位置であるはずだった。

 

「それと、一つ訂正があるわ。 前回の異変の問題は温泉が湧いたことではなく、それと一緒に怨霊が地上に出て行ってしまったことよ」

「怨霊!? ちょっと待て、私はそんなこと知らないぞ」

「貴方たちが気付いた時には解決済みだったのなら、それはそうでしょうね。 ほら、着いたわ」

 

 着いた先は灼熱地獄というほど熱い場所ではなかったが、辺りには視界がかすむほどの熱気がこもっている。

 しかし、同時に微かに寒気を感じさせるような、負の感情が混じった嫌な空気が漂っていた。

 

「なんだ、これ……熱いのに背筋が冷たいというか、なんか…」

「ここには怨霊がたくさんいるから人間にはそう感じられるのかしらね。 でも、少し前までは今とは比較にならないくらい多くの数の怨霊がいたわ。 異変の影響でほとんどの怨霊は地上に出て行ってしまったけど」

 

 元々は地獄だった名残もあり、ここには昔から多くの怨霊が巣食っていた。

 怨霊とは、ただ死んだ者がなる霊魂とは違う、この世への未練によって成仏できない死者の魂のなれの果てである。

 基本的に地上に怨霊はいないから大丈夫だが、もしそれが地上で人間に憑りついててしまえば、その人間の精神を支配し、破滅に追い込んでしまうことすらある。

 

「まさか、怨霊が地上の奴らに憑りついたのが、今回の異変の原因だってのか?」

「待って、そんなはずないわ。 怨霊が憑りつくのは人間だけのはずよ。 でも、今回はかなり多くの妖怪や妖精たちにまで影響が出てるわ」

 

 怨霊は、とある理由から妖怪に長時間憑りつき続けることはない。

 故に、パチュリーには怨霊に憑りつかれた妖怪たちが幻想郷中にいるという状況が考え辛かった。

 

「そうね。 私も、怨霊が原因というのは正確には少し違うと思うわ」

「どういうことだ?」

 

 怨霊が出て行ったのに、怨霊が原因ではない。

 魔理沙はその意味がわからずにさとりに聞き返す。

 

「ここにあったのは怨霊だけじゃなかったのよ。 地上と地底間での不可侵協定が結ばれる前、八雲紫がこの旧灼熱地獄に良くない「何か」を隠したらしいわ」

「何か?」

「ごめんなさい。 詳しいことは私も知らないのよ」

「はあ!? ちょっと待て、お前が…」

「「地底の管理者の私が知らないのなら一体誰が知っているというのか」、ね。 別に私は皆に望まれてここの管理者になったわけじゃないわ。 地底のことを私に詳しく教えてくれる人なんていないから、地底について私が知っている情報はほとんど自分で調べたことや誰かの心を読み取ったものばかりよ。 だから、詳しいことは古くから地底にいる勇儀さんの方が詳しいでしょう」

「私が?」

「そうよ。 だから一緒に来てもらったの」

 

 さとりがそう言うが、勇儀も今一つ何のことかわかっていないかのようだった。

 

「確かに私はだいぶ昔から地底にいるが……そういう政の話は私には向かなかったからなぁ」

「でしょうね。 貴方が筋肉バカなのは見ればわかるわ」

「はあ!?」

「それでも少し思い当たることはある、と」

「……はぁ。 だからお前は人の考えを勝手に先に言う癖直せって言ってんだろ」

 

 勇儀の睨みをさとりはまた華麗にスルーする。

 その若干微笑ましい場面を見て笑いそうになりながらも、魔理沙は勇儀に冷静に問う。

 

「それで、結局紫はここに何を隠してたんだ?」

「まぁ、そうだな……隠すってよりは、何かを封印してたんじゃないかと思う」

「封印?」

「私も詳しくは知らないが……昔、八雲紫が閻魔様と何かを協議してたらしくてな。 私たちは閻魔様から地底を任されたとき、危険だから旧灼熱地獄を必要以上に荒らさないよう言われたのと、地上の妖怪を地底に入らせない代わりに旧灼熱地獄にいる怨霊たちを地上に出さないようにという取引を八雲紫としただけだ」

「なるほど、じゃあその2人が旧灼熱地獄の怨霊たちに何かを封印したってことね」

「いや……すまないが、はっきりとはわからない」

 

 一昔前、鬼たちが妖怪を引き連れて地底に来た際、閻魔と旧地獄の管理についてを、地上との関わり方についてを紫と協議した。

 だいたいの仕事は最初は鬼が対応していたのだが、基本的にはそういう面倒事を鬼たちはやりたがらないので、自然とさとりのような妖怪が担当する形になっていった。

 しかし、当然だがさとりと進んで会話をしようという者などほとんどおらず、その情報の引継ぎがうまくいってなかった。

 そのため、現状をはっきりと知る者は既にほとんど地底にいない状況になってしまっているのだ。

 

「そうか。 勇儀もさとりもわからないってことは……紫もいないし、今度は映姫に聞きに行かなきゃいけないのか。 めんどくさいな」

「って、閻魔様のことまで知ってるのかい。 まったく、お前の友好関係の広さには驚かされるよ」

「でも、紫の能力でもない限り閻魔になんて普通は会えないから、その案はちょっと厳しいわね」

「そうね。 でもなんとなくわかったわ。 つまりは、その何かが怨霊たちと一緒に地上に出て今の異変を起こしている可能性が高いってことでしょ」

「つまりは、結局よくわからないってことか」

「……そうね」

 

「まぁ、現状ではね」

 

 さとりは、人形越しに少しため息をついたパチュリーにそう言うと、一人怨霊の集団に近づいていった。

 大部分はすでに地上に出て行ってしまったとはいえ、さとりの姿が隠れてしまう程度の量の怨霊は未だそこに残っていた。

 突然怨霊の集団の中に入っていったさとりに向かって魔理沙は怪訝な顔をして聞く。

 

「なにしてるんだ?」

「ここに残ってる怨霊たちの声を聞くのよ。 そのために、わざわざこんなところまで来たってわけ」

「そんなことできるのか?」

「怨霊にだって心はあるからね。 事実、私が地霊殿を任されたのは怨霊の考えが読めるってことが大きな要因を占めているわ」

「そうなのか」

 

 話せないが故にその統率が困難な怨霊は、基本的に厄介ごとの種にしかならない。

 だが、さとりには怨霊の考えが読めるため、その統率が可能なのである。

 誰からも嫌われる存在であるさとりは、怨霊の心を読んだ上で管理するという面倒事を引き受けることで、地底でもそれなりの地位を得ることができたのだ。

 

 さとりは通りがかりに多くの怨霊の心を読み、時には苦悶の表情を浮かべ、時には笑いそうになる。

 しかし、そんな声の奔流に流されることなく、隅にぽつんと佇む一体の怨霊に向かってまっすぐに歩いていた。

 

「皆、少し下がって頂戴」

 

 そう言われると、一体を除く怨霊たちが一斉にさとりから離れる。

 その怨霊はさとりに近寄ろうとするのでもなく、かといって下がれと言われて下がるわけでもなく、ただそこに存在しているだけだった。

 さとりはその一体の怨霊を引き連れて、魔理沙たちのもとへ戻ってくる。

 それを見て少しだけ勇儀が顔をしかめたようにも見えたが、さとりは気にすることもなく魔理沙の前にその怨霊を連れてきて言う。

 

「それは?」

「この子は地上に出て行った、とある怨霊の欠片よ」

「欠片? なんだ、怨霊っていくつにも分かれられるものなのか?」

「そういう訳じゃないけど……この子は特別ね」

「そうなのか、まあそれは別にいいや。 それで、そいつは何て言ってたんだ?」

「さあ。 自分で確かめてみたら?」

「はあ!? 確かめるって、どうやって…」

「こうやって」

 

 言いかけた魔理沙に向かって、さとりが突然その怨霊を叩き込んだ。

 するとその怨霊は魔理沙に吸収されるかのように消え去る。

 一瞬何が起こったかいまいち理解できていない魔理沙だったが、すぐにその顔が青ざめ始めた。

 

「ぅぁ……何だ、これ、うぐぁ、っぁぁあああああ!?」

「魔理沙!? ちょっと、あんた何してんのよ!」

「おいさとり! これはいくらなんでも…」

「人間相手なら、説明するよりも憑りつかせた方が早いでしょう? 私の口から聞くより、よっぽどリアルな声を聞けるわ」

 

 さとりは涼しげな顔で魔理沙を観察している。

 だが、怨霊に憑りつかれてしまえば、人間の心などすぐにでも大きく変化してしまう。

 ましてやそれが強力な怨念を持った怨霊であるというのなら、乗っ取った相手の精神などすぐに崩壊させてしまう一大事なのである。

 こういうことの対処法を知らない勇儀やただ人形を操ってるだけのアリスやパチュリーは、突然起こったことに適切な対応ができなかった。

 

「っ……。 さとり、これは流石に洒落になんねえぞ。 下手すりゃこいつは壊れちまう!」

「そしたら、この子は所詮ただのか弱い人間だったってことになるだけね」

 

 そう言うさとりの顔を見て、勇儀はゾッとした。

 魔理沙のことを心配している様子もない。 貶めようとしているようにも見えない。

 ただ、苦しむ魔理沙の様子を見て愉しむかのように、微かに笑みを浮かべていたから。

 

「大丈夫よ、貴方を倒すほどの人間だもの。 その辺の人間なんかとは違う屈強な精神を持ってるでしょうからね」

「それは…」

「違う! あんたも知ってるでしょ、魔理沙は――」

 

「うあああああああ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!」

 

 そして、魔理沙の精神は深い闇の底へと消えて行った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話 : 怨霊

 

 

 ――‥‥‥‥‥‥

 

 ――なんだろう、不思議な気分だった。

 

 ――少しだけ、幸せな記憶の中を漂っていたような気がする。

 

 ――大きな野望があるわけでもない、特別な何かがあるわけでもない。

 

 ――だけど、そいつはきっと幸せだったんだと思う。 

 

 ――そう、ほんの少しの間だけは――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第7話 : 怨霊

 

 

 

 

 

 ――私は、人間も妖怪もみんな大好きだったんだ。

 

 誰かの傍にいることが喜びだった。

 普通の日常が嬉しかった。

 ただちょっとした幸せを感じていたいだけだった。

 

 だけど――

 

 

   *********

 

 

 ――それすら叶わない。

 

 感情が黒く染まっては消えていく。

 まるで、普通であろうとするのが許されざることであるかのように。

 小さな幸せを求めることさえも禁じられているかのように。

 

 ただ――

 

 

   *********

 

 

 ――それが、地の底で終りなく続く。

 

 誰からも愛される事無く。

 誰からも疎まれ。

 何を憎むべきかも解らず。

 

 其して――

 

 

   *********

 

 

 ――何も、要らなく為った。

 

 自分が何を求めたかも忘レ。

 生に意味スラ無ク。

 唯ダ独リ消逝ク耳ミ。

 

 否――

 

 

   *********

 

 

 ――独ニ非ズ。

 

 

   *********

 

 

 ――永ノ無ヲ全ニ。

 

 

   *********

 

 

 災厄ヲ破滅ヲ惨劇ヲ禍ヲ――

 

 嘆キヲ悲ミヲ哀惜ヲ不幸ヲ――

 

 絶望ヲ苦悩ヲ諦念ヲ空虚ヲ――

 

 怒リヲ邪気ヲ狂気ヲ殺意ヲ――

 

 憎悪ヲ恨ミヲ怨嗟ヲ復讐ヲ――

 

 

   *********

 

 

 全ノ闇デ、此ノ世界全テヲ――

 

 其シテ、何時カ――――

 

 

   *********

 

 

 ――――ニトリニ、

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――っ!?」

 

 魔理沙が飛び起きたそこは、地霊殿の中だった。

 旧都の一件で妖怪たちの気が立っているだろうことを考えると、現状で一番安全な場所ではあるため、勇儀が急いでそこに魔理沙を運び込んだのだ。

 すぐ近くにさとりがいるその状況にもかかわらず、パチュリーとアリスは必死に結界で魔理沙を覆い、魔法をかけ続けていた。

 そして、魔理沙が怨霊に完全に乗っ取られる寸前で、ようやくそれを浄化することに成功したのだ。

 

「ふう、起きたみたいね。 調子はどう?」

「……行かなくちゃ」

「え?」

 

 汗だくになって疲れた様子のパチュリーが心配そうに覗き込むが、魔理沙はそう呟くと傍らにあった箒を片手に突然走り出した。

 だが、上手く体が動かずにそのまま崩れ落ちる。

 それをとっさにアリスが支える。

 

「ぐっ!?」

「ちょっ、待ちなさい魔理沙、病み上がりなんだからそんなにいきなり動いたらだめよ」

「でも、私は行かなきゃいけないんだ……」

「行くって、どこに…」

「にとりが危ないんだ!!」

 

 魔理沙は見るからに焦った様子だが、アリスとパチュリーは状況が掴めていない。

 ただ一人、魔理沙の心を読んで事情を知っているさとりだけが少し微笑みながらその様子を眺めていた。

 

「にとりって……確か、妖怪の山にいるっていう河童の?」

「ああ。 そういえばおかしいと思ってたんだよ、最近全然会えなくて…」

 

 魔理沙は守矢神社のメンバーが起こした異変の解決に妖怪の山に行って以来、妖怪の山に住む河童の河城にとりと仲良くなった。

 河童は科学の分野に非常に強い種族であり、中でもにとりは幻想郷にはない機械を次々と自分で考えて開発していく、幻想郷一の技術者と言っていい存在である。

 魔理沙は何か面白い物を見つけるたびにそれを持ってにとりの所に遊びに行っていたが、ここ最近は異変の影響なのか天狗の監視の目が厳重で、妖怪の山に行ってもにとりに会うこともできず追い返されていたのだ。

 

「……なぁ、さとり。 あの怨霊は…」

「ええ。 地上に出て行ったとある怨霊の一部よ」

「怨霊ってのは…」

「大体が強い負の感情を抱えてるわ。 怨霊は恨みや悲しみでこの世に未練を遺したまま死んだ者たちの末路だからね」

「だったら…」

「その怨霊が地上に出れば、真っ先に向かうのはその感情の向く相手の所ね。 怨霊が外に出た時期を考えると、多分もう手遅れよ」

「……」

 

 さとりは、ただ淡々とした口調で魔理沙の質問に答える。

 魔理沙の頭には考えたくもないイメージばかりが浮かび、それを払拭しようとひたすら地面を殴りつける。

 

「……ちくしょう。 なんでこんなことになってんだよ。 もう、訳わかんねえよ!」

「落ち着きなさい魔理沙。 とりあえずゆっくりでいいから、何が起こってるのか説明してくれないかしら」

 

 そこで、ずっと蚊帳の外におかれていたパチュリーが流石に痺れを切らして魔理沙に聞く。

 

「あ……そうだな、ごめん。 それと私、さっきは多分2人のおかげで助かったんだよな。 ありがとう、パチュリー、アリス」

「今はそういうのは別にいいわ。 さっきは、一体何があったの?」

「……ああ。 怨霊に乗っ取られた後、夢を見てるみたいに誰かの記憶の中にいたんだ。 内容はボンヤリとしか覚えてないけど、何か辛い記憶の中を漂ってたような気がする。 誰かに傍にいてほしくて、でも誰からも避けられていく、そんな記憶だった。 その記憶が、だんだん何かどす黒い感情に侵されていくような感じがあって、最後には復讐をって……」

 

 少し思い出しただけでも吐きそうになる。

 一体どれほどの苦悩を受けたらああなるのか。

 自分だったら、すぐにでも精神が壊れてしまいそうな感情。

 そして、それが崩壊する刹那、最期に浮かんだ相手が、

 

「……それで、そいつの最終的な標的が、にとりだったんだ」

「ふーん、なるほどね。 つまりその怨霊はにとりって河童にとんでもない殺意を持っていた奴だと。 そんなに恨まれるなんて、そいつは一体何をしたのかしら」

「それは、よくわからない。 だけど……なんか、無性に不安になるんだ。 もう手遅れなんじゃないかって、地上に戻ってもそこにはにとりがいないんじゃないかって……」

 

 不安と焦りで魔理沙の手が震え始める。

 動けるのならすぐにでもにとりの所に向かおうと思っていたが、脳裏に浮かぶ最悪の結末に恐怖し、その身体は動かなくなっていく。、

 そして、冷静さをなくした魔理沙が一人言い立てる。

 

「くそっ、どうして……霊夢も紫もやられて、今度はにとりまで奪われるのかよ! 私はどうしたらいいんだよ……私はっ…」

「そしたら、貴方も気晴らしに復讐でもしてみたら?」

「え?」

 

 そこで、何故か突然そんなことをさとりが微笑みながら提案した。

 アリスは少し不機嫌そうにさとりを睨みながら聞く。

 

「はあ? あんた、何訳の分かんないこと言ってんのよ」

「元々貴方たちはこの異変を解決するためにここに来たんでしょう? それなら、異変の元凶に復讐でもして気を晴らしてみたら?」

「元凶って、そんなもんがわかってれば…」

「解き放ってはいけないものを怨霊と一緒に逃がしたのは誰? 怨霊たちを操って地上を混乱に陥れようとしたのは誰?」

「え……?」

 

 魔理沙には、さとりが何を言っているのかわからなかった。

 だが、唖然とした魔理沙の横で少し考え込んだアリスが、

 

「………まさかあんた、」

 

 ――地上に、復讐を?

 

 それを最後まで言わずに、ただ睨むようにさとりを見る。

 

「ええ、大体貴方の考えてる通りよ」

 

 最初に人形を介して会っていた時とは違い、そこにいるのはアリス本人である。

 たとえ言わなくとも、考えただけの部分すらさとりに筒抜けの状態だった。

 

「……そこまで地上の民が憎い? 関係のない奴まで巻き添えにして、あんたは楽しいの!?」

「ええ。 だけど別に貴方にはそんなこと関係ないはずよ。 ただ私がそれを地上に逃がした、それだけのことでしょ? 博麗の巫女にしろ貴方たちにしろ、異変を起こした妖怪を退治するのに理由なんていらないはずじゃない?」

「っ!!」

 

 さとりは、そんなことを全く悪びれる様子もなくまるで挑発するかのように告白する。

 それを聞いたアリスは、何かを言いかけた魔理沙を遮り、完全な敵意をさとりに向かって放つ。

 

「いいえ、あんたが起こしたのは異変なんかじゃないわ! 日光を避けようとした吸血鬼も、興味本位で春を集めた亡霊も、宴会をしたかった鬼も、月からの逃亡者たちも、仕事を怠けた死神も、信仰を集めようとした神も、寂しさを紛らわせようとした天人も……きっと、誰一人として誰かを貶めようだなんて考えなかったはずよ!」

 

 幻想郷にいる問題児たち。

 それは皆、ただ自分の望みのために周りが見えなくなっていただけだった。

 だが、今回は違う。

 さとりはただ無作為に誰かを苦しめるためだけにわざと異変を起こしたと言うのだ。

 

 アリスに向かって微かな嘲りの笑みを浮かべながら、さとりが言う。

 

「だったら、どうだっていうの?」

「っ!! ……そう。 あんたがそういうつもりだったのなら、あんたにはもうこの幻想郷にいる資格はない。 私が引導を渡してあげるわ」

 

 アリスは殺意を押し殺しきれずに、そのまま臨戦態勢に入る。

 さとりは無言のまま、それを少しだけ残念そうな顔で見ながら立ち上がる。

 だが、さとりがアリスを見る目には次の瞬間にはもう何の感情もなかった。

 まるで、こんなことに慣れ切ってしまったかのように。

 

 さとりは懐から何かを取り出そうとするが、結局何も取り出さなかった。

 アリスの手にはスペルカードは握られていない。

 つまりは、そういうことだった。

 これから行われるのはスペルカードによる異変解決ではない。

 妖怪と妖怪の殺し合い。 幻想郷から失われたはずのそれが再び始まるだけだった。

 

 だけど、誰も口を出せない。

 ただアリスと同じくさとりを睨みつけるパチュリーも。

 ただ腕を組んだままじっと目を瞑っている勇儀も。

 

 そして、2つの地面を蹴る音が同時に鳴り響いて――

 

「ストーーーーップ!!」

「ぐっ!?」

 

 それとともに、アリスに向かって横から魔理沙のドロップキックが炸裂した。

 少しだけ吹き飛ばされたアリスは、それでも瞬時に体勢を整えて再びさとりに対峙しながら言う。

 

「……何すんのよ、魔理沙」

 

 うまく動かない身体をおして少し冗長めいたツッコみを入れた魔理沙とは対照に、アリスの反応はいつもの魔理沙へ向けるようなふざけた態度ではなかった。

 そこにあったのは、殺意の湧いたアリスの目。

 相手を睨み殺すかのように冷たい、妖怪の目。

 初めて見る、「妖怪」を感じさせるようなアリスの姿を前に、魔理沙は少し後ずさりしそうになりながらも懸命に強がってみせる。

 

「や、やめろよアリス、今の幻想郷のルールはスペルカードルールのはずだ。 それを…」

「邪魔よ魔理沙。 どいてなさい」

「断る! なぁ冷静になれよ、お前らしくないぞ」

「ええ、私もそう思うわ。 でもね、私はこういう奴が一番嫌いなのよ」

 

 アリスが吐き捨てるように言う。

 にとりのことで冷静さを失っていたはずの魔理沙だったが、突然のアリスの変貌を見て別の意味で気が動転していた。

 魔理沙と話しながらも、アリスの指は既に次の攻撃の準備を始めている。

 

「わかってる? あんたが嫌われ者なのはその能力のせいなんかじゃない、あんた自身のせいだって」

「はあ?」

「この世界で最も嫌われる存在って言われてるのも納得できるわ。 お願いだからすぐにでも消えてくれないかしら」

「っ……!!」

 

 魔理沙はそれを聞いて、アリスに対してあまり良くない感情を抱いた。

 アリスがくだらない冗談を言うことはわかっていたが、そんなことを言うとは思っていなかった。

 誰かの存在そのものを貶すような言葉を、アリスの口から聞きたくはなかった。

 だから、魔理沙の口調も次第にアリスを叱るように昂っていく。

 

「おいアリス。 ちょっと黙れよ、さとりにだって…」

「黙らないわ。 こいつをこのままにしちゃいけない。 たとえ今回の異変を解決しても、いずれまた幻想郷に害をなす。 だから、その前に私が…」

「っ、黙れって言ってんだろ!!」

 

 そして、魔理沙が遂に耐えきれなくなって怒鳴りつけると、アリスは少しだけ魔理沙を睨んだ。

 逆上する魔理沙、半ばキレているアリス、無干渉の勇儀に、それを冷めた目で見ているさとり。

 

「はいはい! あー、もうやめましょう。 アリスも魔理沙も少し熱くなりすぎよ」

 

 この場を収集できるのは、もうパチュリーくらいしかいなかった。

 パチュリーは少しだけ呆れたような顔で、アリスのことを見てため息をつく。

 

「何よ」

「らしくもない、別にそこまでキレるほどのことでもないでしょう。 地底に来た当初から思ってたんだけど、アリスは古明地さとりに必要以上に敵意を向けすぎだわ。 別に何か因縁でもあるわけじゃないでしょうに」

「ええ、今日初めて会ったわ。 でも一目見て直感で思ったわ、こいつは気に食わないって」

「直感って…」

 

 パチュリーは今まで、アリスは根っこの部分では自分よりずっと大人で冷静なのだと思っていただけに、明らかに滅茶苦茶なことを言ってくるアリスに違和感を感じていた。

 何かアリスの逆鱗に触れる言葉でもあったのか、それとも何かのスイッチが入ってしまったのか。

 だが、今はそれを気にしている場合ではなかった。

 魔理沙の話を聞いた限りでは、にとりのことを考えると、すぐにでも妖怪の山に向かった方がいいからである。

 

「直感!? そんなことで…」

「落ち着きなさい。 たとえこいつが異変を起こしたのだとしても、私たちには先にやらなきゃいけないことがあるわ。 魔理沙は早くにとりっていう河童の所に行くんでしょ?」

「え? あ、ああ……」

「まだ、そいつが襲われたと決まった訳じゃない。 それなら、私たちにできることだってあるでしょ? 古明地さとりのことは別に急がなくてもいいわ、だからアリスも行きましょう」

 

 激昂していた魔理沙をなだめて、パチュリーはアリスに手を差し出す。

 しかし、アリスは攻撃する手は止めたものの、未だにさとりの方を向いている。

 そして、そのまま振り返らずに言った。

 

「私はちょっと、ここに残るわ」

「っ!! アリス、貴方は…」

「わかってるわよパチュリー。 別にスペルカードルールを無視しようなんてつもりはないわ」

 

 アリスはすっかり冷静さを取り戻して、いつものような表情に戻っていた。

 だが、その目にはさとりへの嫌悪感だけはどうしようもないくらいしっかりと残っていた。

 

「それに、とりあえず今の異変の状況を考えると結局地底の協力は必要になるでしょ。 だから、結局は誰かが地底のことを解決して今後の話をする必要があるってわけ」

「でも…」

「大丈夫よ。 もう頭も冷えたし、ちょっと熱くなりすぎたことは反省してるわ。 だから、パチュリーは魔理沙と一緒に先に妖怪の山に行っておいて」

 

 本当はパチュリーはアリスと魔理沙を向かわせて自分がここに残るつもりだったのだが、まだ少し魔理沙が熱くなっているところを見ると、アリスと2人だけで行動させるのに若干の不安を感じていた。

 だが、さっきまでとは別人のようにすぐに冷静になったアリスを見ていると、実はこの状況もアリスの計算の上だったのじゃないかとさえ思えた。

 いろいろと思うところはあったが、今そんなことを考えてもしょうがないので、パチュリーは諦めたようにため息を一つついて言う。

 

「はぁ……わかったわ。 じゃあ、妖怪の山で待ち合わせってのもいろいろ難しいし、とりあえず地底のことが一段落したら図書館にでも来て頂戴」

「はいはい」

 

 まるでアリス一人でも地底を何とかすることくらい簡単であると言わんばかりのパチュリーの態度に、さとりと勇儀は少し怪しむような表情を浮かべていた。

 

「それと、くれぐれも熱くなりすぎないように」

「あーもう、わかってるわよ。 そっちこそさっさと行きなさいよ」

「そうね。 ほら行くわよ魔理沙、面倒だから帰りは貴方が乗せてって頂戴」

「……ああ」

 

 魔理沙が箒にまたがると、パチュリーは当然のようにその後ろに座る。

 来るときはずっとアリスの人形に運ばれ、帰りの移動も魔理沙に任せるパチュリーに呆れた目を向けられるくらいには、アリスは戻っていた。

 だが魔理沙は、にとりの方に気持ちを切り替えたものの、アリスに向けたその不機嫌そうな目は直っていなかった。

 魔理沙はアリスを一瞬睨んだ後、露骨に目を逸らして小さく呟くように言う。

 

「あのさ。 さとり、勇儀……」

「何かしら?」

「せっかく2人とも協力してくれてるけど、私は行かなきゃならないんだ。 だから……ごめんっ!」

 

 そして、魔理沙はパチュリーを乗せて一気に地霊殿から飛び立った。

 

 

 しばらく無言の時間が流れる。

 少し居心地が悪そうにその場に佇むアリスに、さとりと勇儀は何も話しかけない。

 

 ――あーあ。 スペルカードルール、正直得意じゃないのよねぇ。 ま、しょうがないか。

 

 そう思いながら、アリスが動こうとする。

 さとりはその心を先読みしたという優位性を見せつけるかのように、今度はアリスより先にスペルカードを取り出して言う。

 

 ――さて、こいつにはどのスペルが有効かしら……

 

 「それじゃあ、始めましょうか。 今度は貴方の望むスペルカードルールでの決闘を…」

 「火車……でしょ? あの猫」

 「っ!?」

 

 しかし、それを遮ってアリスはおもむろにその場に腰を下ろして口を開いた。

 さとりが珍しく驚いた顔をしている。

 

 ――っ!? やっぱり先手を取られたか……古明地さとり、侮り難し!!

 

 「死体を運ぶ妖怪みたいだけど、実質怨霊を操ってるのはあの猫でしょ? 多分、怨霊を地上に逃がしたのもね」

 「え? あれ……?」

 

 明らかにアリスの感情と言動が噛み合っていなかった。

 さとりは片手にスペルカードを構えたまま動けずにいる。

 目を見開いてうろたえているさとりの姿など見たことがなかった勇儀は、驚きを隠せない。

 口をぱくぱくさせながら、次に言うことを思いつけないさとりをよそに、アリスはただ淡々と続ける。

 

 ――あっるぇー、どうしたの? もっしもーし、何で固まってるの? もしかして……これはチャンス!?

 

「まぁ、でも怨霊と一緒にそんなものが封印されてるだなんて知らなかったんでしょう。 どう見てもわざと地上に害をなそうとするような奴には見えないわ。 あんたと違ってね」

「なんで? だって、貴方は…」

「あら、あんたのことを少し買いかぶりすぎてたかしら。 まだ気づかない? 例えば、そうね、これが今の私の本心なんだけど」

 

 焦りきっていたさとりは、そう言われて反射的に注意深くアリスの心を読もうとしてしまう。

 そこにはこんな感情が見えた。

 

 ――さとり!さとり!さとり!さとりぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!! あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!さとりさとりさとりぅううぁわぁああああ!!! あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん んはぁっ!古明地さとりたんの桃色の髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!! 間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!! さとりんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!! あぁあああああ!かわいい!さとりん!かわいい!あっああぁああ! いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ……

 

「―ーー―っ!?」

 

 さとりが絶句する。

 それを見てアリスは相変わらず面倒そうに、それでも少し満足気に言う。

 

「まぁ、大体わかってくれたかしら」

「……ふふっ、あははははははは」

 

 そして、さとりはやっと理解した。

 

「なるほどね。 どうやってるのかは知らないけど、今までずっと私は貴方の心を読んでたんじゃない、別の何かを読まされてたって訳ね」

「そういうこと。 でも、私がスペルカードルールが苦手なのは本当よ。 だからこういうことをしたんだけど…」

 

 ――面倒だから、今回は私の勝ちってことにしてもらえないかしら。

 

 アリスはそれを口には出さずに、ただ考えただけだった。

 今しがた騙されたさとりには、本当にそれがアリスの考えていることなのかどうかはわからない。

 だが、それでもさとりは、

 

「ああ、そうね。 私の完敗よ」

 

 そう言って両手を上げて降参した。

 

 さとりが心を読めないのは別に初めての経験ではなかった。

 心を閉ざしてしまった自分の妹。

 境界を操る能力で自分の心を隠す紫。

 機械のように、本当の意味での心を持たない存在。

 本当に何も考えていない馬鹿。

 さとりにはそれらの思考を読むことができなかったが、それはそれで読めないなりに対処法はある。

 心が読めない相手にも、それでも「もしかしたら心が読まれているかもしれない」という不安感が残っている優位性と、周囲の悪意を一挙に受け続けて手にした話術で、さとりは紫にすら心理戦では優位に立てるという自負があった。

 

 しかし今回は、アリスが偽った心を読ませることによって、さとりは自分が圧倒的優位に立っているという慢心を抱かされ、その心理を根底から突き崩されたのである。

 力やスペルカードルールなど介在しない、純粋な心理戦での敗北。

 それはさとりにとって、どんな負け方よりも認めざるを得ない大敗だった。

 

「……まったく、こんなこと初めてよ。 私に感情をミスリードさせることができるなんて、貴方は一体何者なのかしら」

「さぁ? お得意の読心で読んでみたら?」

「ぶっ!?」

 

 それを読んださとりは、堪えきれずに噴き出す。

 そして、少し小刻みに震えながら言う。

 

「なるほど、世界を司る魔神の血族……ね。 わかった、もうわかったから。 話が進まないからもう貴方の心を読むのは止めにするわ」

「できればそうしてほしいわ。 読まれないように話すのも疲れるのよ」

 

 さとりは少し笑いながら、そっと第三の目を伏せる。

 それと同時に、アリスがさとりに問う。

 

「で、合格かしら?」

「………はぁ。 もう、本当に貴方みたいなのの相手をするのは嫌だわ。 どっちが心を読めてるのかわからなくなる」

「あー、もう! お前たちさっきから何言ってんだよ!!」

 

 さっきまで黙っていた勇儀が、遂に耐え切れずにそう言った。

 勇儀も一応は怨霊の一件の原因がお燐にあることは知っていたが、それを自分の仕業だというさとりが、また自分のペットを庇おうとしているのかと思っていたため、そのさとりの決意を無駄にしないために黙っていた。

 だが、さとりに殺意を向けていたはずのアリスが実はそのことを知っていたり、さとりが突然負けを宣言したりと、途中から意味がわからなくなっていた。

 

「……まぁ、そうね。 合格ってよりも、正直私は貴方よりもさらにあの子の方が少し怖いわ」

「はあ!? だから、何なんだよ!?」

 

 2人に問う勇儀を、アリスとさとりはあからさまに無視する。

 

「いきなり怨霊を叩き付けられた後で、事情も知らないのに普通私を信用なんてできる? あんな状況で少しも私を嫌悪せず、たった一人の妖怪のためにあそこまで一生懸命になれる? そんな人間まずいないわ。 いるとしたらまっすぐ過ぎる、ってよりもそれを通り過ぎて極度の馬鹿なんじゃないかしら」

「多分、後者寄りね」

「……おい」

 

 さとりもアリスも勇儀に何も説明しない。

 いちいち相手をするのが面倒、というよりもさとりはそれを面白がっているかのようだった。

 まるでさとりにとっての勇儀は、アリスにとっての魔理沙のような、からかう対象であるかのように。

 そして、それを何となく理解していたアリスは面白そうなのでさとりに合わせていたのだ。

 

 だが、勇儀の顔にもだんだんと怒りの色が見え始める。

 それを感じて、流石に面白さよりも本能的な身の危険が勝ってしまったアリスが口を開く。

 

「このいけ好かない妖怪が、私たちのことを試してたのよ。 わざと私たちを挑発するようなことを続けることで自分に敵意を向けさせて、どう動いてくるかや力量を自分自身で直接試そうとしたってところね。 まぁ、私はこいつが怨霊の管理を実質してないだろうことを知ってたから何かたくらんでるのも予想できたけど」

「な……待てよ、何でさとりがそんなことを…」

「まあ半分はただの興味本位だけど……貴方みたいな運動能力しか能のない単細胞をただスペルカードで倒したっていうだけの集団なら、たとえそいつらが困っていたとしてもそれは多分大した異変じゃないだろうし、正直わざわざ私が協力する価値を見出せないってことよ。 それに、たとえそれが原因で危険な殺し合いになったとしても、最終的には貴方が止めてくれるから安心でしょう?」

「お、おう」

 

 また微妙にバカにされたことに怒りそうになった勇儀だったが、自分を信頼してくれているかのようなさとりの言葉に、中途半端に高ぶった感情の行き先がわからなくなって少し照れくさそうにうなずく。

 そんな子供だましの飴と鞭の使い分けで懐柔される勇儀を見たアリスは、そんなんでいいのか鬼の四天王…と、笑いを通り越して少し呆れそうだった。

 

「まぁ、でも正直あの子も貴方も予想以上だったわ」

「あら、それは褒め言葉ととらえていいのかしら」

「ええ。 八雲紫が死んで、貴方みたいなのですら地底に協力を求めるべきと判断したってことは、地上は本当に面倒なことになってるんでしょうね」

「そういうこと。 できれば、そこにいる鬼やら何やら、地底の有力者にまとめて話をつけられると嬉しいんだけど…」

「でも、多分貴方にも予想はついてるだろうけど、私にそこまでの権限はないわ。 ただ、私は興味が湧いたから少し地上に出てみようと思うけど」

「別に、あんたは…」

「実際はそこまで強い妖怪じゃないから、地上に来たところで諍いが増えるだけで特段戦力にもならないし地底で怨霊の管理でもしてろ……とか言いたいんでしょう? でも、流石にそれは私を甘く見すぎじゃなくて?」

 

 そう言ってさとりは自分の腰の後ろを指でサッと払うような仕草をする。

 それをアリスは見逃さなかった。

 実際は、アリスはさとりのことを侮っているつもりなど一切なかった。

 さとりが何をするか、細心の注意を払っていたつもりだったが、

 

「………―――っ!?」

 

 次の瞬間、アリスの隠し持っていた人形が一体、突然音もなく爆散した。

 髪が落ちた音にも反応するほどに集中していたアリスだったが、何をされたか全くわからなかった。

 突然の出来事に、アリスは驚きの声も出なかった。

 勇儀すらも何が起こったかわからず、ただ驚いていた。

 その様子を見て、さとりは少し満足気に言う。

 

「確かに今回は私の負けよ、それは認めるわ。 だけど、あの魔理沙って子に最初に言った通り、私はスペルカードルールさえなければ貴方たち程度なら一瞬で消せるっていうのは本当よ。 それは、そこにいる勇儀さんだって同じ。 その辺は、努々忘れないよう」

 

 そう言ってさとりはゆっくりと立ち上がる。

 アリスはそれに反応するように、とっさに後ろに飛び退いて身構えた。

 しかし、さとりはアリスに何をするわけでもなく、ただ勇儀のほうを向いて言う。

 

「そうそう勇儀さん、お燐とお空に伝言を頼めるかしら」

「え?」

「お空はお燐から今回の事情を聞いて、後は貴方たちの動きたいように動きなさい、と」

「別にいいが、お前は…」

「私は少し行ってくるわ。 この異変の果てを知りに、ね。 じゃあ行きましょうか――」

「はあ? 何だそ……れっ!?」

 

 勇儀がそう言いかけた次の瞬間、少し手を伸ばしたかに見えたさとりの姿が目の前から忽然と消えた。

 まったく気配もなく、音も立てず、文字通り消えたのである。

 突然の静寂を前に、塵になってしまった人形の成れの果てを見ながらアリスは独り言のように言う。

 

「……流石に、これは予想してなかったわ。 ハッタリだけの読心妖怪だと思ってたのだけど」

「ああ、私もさとりにこんな力があるなんて知らなかったよ」

「まぁ、そこは嬉しい誤算だと思っておくわ」

 

 そう言って、アリスはそのまま踵を返す。

 そして、無言のまま地霊殿の外へ出ようとしていた。

 次は自分に何か頼んでくるのだろうと思っていた勇儀は、少し焦るようにアリスを引き止める。

 

「ま、待てよ、私には何か…」

「貴方がこれから何をするかは任せるわ。 ってよりも、何か言ったところで別にそれに従ってくれる訳じゃないでしょう?」

「え?」

 

 アリスは至極当然のことのように鬼の四天王の勇儀に対して上から目線で話す。

 勇儀がそれだけのことで腹を立てるような相手だとは思っていない。

 ただ、鬼が自らの矜恃に従って動く存在で、誰かに命令されるのを好まないことは知っていた。

 

「古明地さとりはただの脳筋だとか言うけど、貴方は別に馬鹿じゃない。 だから、異変のことや私たちの要件はもう十分に伝えたから指示なんて出す必要はないだろうし、私は運よく何かいいことでも起きないかなーと期待しながら地上に帰るわ」

「……なるほどね、了解した」

 

 そっけない、しかしそれでいて鬼の性分というものをわかっているかのように話すアリスに、勇儀は少し嬉しそうに返事をする。

 誰かに言われたからやるのではない。

 自分が納得したが故にやる。

 自分が思うが故にやる。

 基本的にはそれだけが鬼の行動原理である。

 たとえ勇儀が納得したとしても、人伝に、しかも地上人からの依頼で積極的に動く鬼など、他にいないだろうことはわかっていた。

 だからこそ、勇儀の自発的な行動を誘発するその言い方が何を依頼するよりも一番効果的だとアリスは判断したのだ。

 

 そして、アリスは勇儀の返事に何も返さず、そのまま立ち止まることもなくゆっくりと地霊殿を後にした。

 

 

 地霊殿には勇儀だけが残される。

 アリスたちを追いかけるわけでもなく、ただ一人そこにどっかりと座り込んでいる。

 そして、誰に話しかける訳でもなく、それでも何かに語りかけるように言った。

 

「ああ、面白い奴らだったよなぁ。 もしかしたら、あいつらだったらお前のことも救ってやれたのかな」

 

 当然だが、返事はない。

 

「……いや、もうそんなこと言っても後の祭りか」

 

 そこには誰もいない。

 だが、勇儀はそれが当然聞こえていることを疑わないかのように続ける。

 

「私は結局お前に何もしてやれなかったけどさ、それでも……」

 

 勇儀は何かを言おうとして小さく口を開ける。

 しかしそれをやめ、隠し持っていた酒を一本、言いかけたことを呑み込むように豪快に飲み干してしばらく俯いた。

 

 勇儀は動かない。

 酔ってなどいない。

 ただ、誰かに捧げるようにしばらくの間静かに黙祷していた。

 そして数十秒の後、何かをごまかそうとするかのように突然大きな声で、

 

「さぁて、そんじゃ私もそろそろ行くとしようか!」

 

 誰に向けるでもなくそれだけ言って、立ち上がる。

 勇儀が一瞬だけ目線を向けたのは、魔理沙を助けるためにパチュリーが張った結界だけ。

 そこにはもう誰もいない。

 ただ微かに、その結界の上を白い煙のようなものが消えゆこうとしているだけだった。

 それでも勇儀は、そこに軽く後ろ手を振りながら、

 

「じゃあな、―――」

 

 とても似つかわしくない小声で誰かの名を囁き、一人歩き出した。

 勇儀はもう振り返らない。

 

 ただ、その声に呼応するかのように、その煙はゆっくりと空気に溶けていった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話 : 悪

 

 早苗が出かけて静かになった守矢神社。

 既に日も傾きかけた頃にそこにいたのは神奈子と、守矢神社の屋根の上から妖怪の山一帯を見渡している白狼天狗の犬走椛。

 そして、妖怪がもう一人。

 

「それで、博麗の巫女の容体はどうなんだ?」

「命に別状はないそうですが、まだしばらくは動けないようです」

「そうか……」

 

 黄金色に輝いていたその九本の尻尾は、既に色を失い始めている。

 それでも藍は、ただ黙々と守矢神社の奥に複雑な魔方陣を張り続ける。

 その手際は神奈子ですら目を見張るほどのものであった。

 しかし、それでも…

 

「だが、紫が退場してしまった以上、やはり代わりに…」

「……」

「……すまん、無神経だった」

「いえ、大丈夫です」

 

 重々しい空気が流れる。

 藍は話しながらも手を止めることなくひたすら作業を進めていく。

 

「神奈子、こっちはだいたい終わったよ」

「ああ、お疲れ諏訪子。 どうだった?」

「大体の奴は、おおよそ理解してくれたよ」

 

 そこに、どこからともなく諏訪子が現れる。

 諏訪子が来ても一瞬たりとも手を止めずに一人作業を進める藍を見て、諏訪子は少し心配そうに言う。

 

「それにしても…大丈夫? 貴方、全然休んでないんでしょ」

「……私に休んでる時間などありません。 どうせ今日限りの命なのですから」

「代わりに私が貴方を新しく式神にしてあげてもいいけど…」

「……」

「まあ、貴方がそんなこと許すわけないよね」

「すみません、気持ちだけ頂いておきます」

 

 藍にはもう、紫以外を主と思うことはできなかった。

 そんなことを聞いたら紫は喜ぶだろうか、呆れるだろうか、からかうだろうか、そんなことはわからない。

 ただ、すぐに気持ちの整理をつけられるほど簡単な問題でもなかった。

 

「何者っ!?」

 

 そこに突如、守矢神社の上から声が響いた。

 それに呼応するように草陰で何かが動いたが、それはすぐに身を翻して逃げて行った。

 

「どうした、椛?」

「侵入者です。 バカな、私に気付かれずにこんな近くまで……」

 

 椛は信じられないと言わんばかりに頭を抱える。

 

「逃げるってことは、部外者か…マズイな」

「すみません、私はすぐに追います!」

「私も行ってくる!」

 

 そう言うと諏訪子は椛と共に、その影を追った。

 神奈子は焦っているようにも見えたが、実際はそれほど心配していなかった。

 なぜなら、そこに椛がいたからだ。

 数多くの天狗の中で、「見張り」の能力の一点に限るのならば彼女が最も優秀であると誰もが口をそろえて言う。

 それが諏訪子と一緒にいるのなら捕まえられないものなどないと、神奈子は思っていた。

 

「どっちに行ったの?」

「方向はこっちであっています」

「よし、じゃあこのまま…」

「ただ、気を付けてください。 こいつ、速……なっ!?」

「どうした!?」

 

 椛の持つ『千里先まで見通す能力』。

 それはその気になれば妖怪の山の中くらいならどこにいても標的を監視できる能力で、今まで狙ったものの行方を見失ったことは一度もなかった。

 しかし――

 

「こいつ……5人、10人……そんなっ、何故こんなに……!?」

 

 椛は目を疑った。

 確かにまだ標的は見失っていない。

 しかし、その標的は椛の視界を埋め尽くさんばかりに無限に数を増殖させていた。

 

「バカな、こんな!?」

「落ち着いて、椛!」

 

 そして、椛は次の瞬間足を止める。

 加速の勢いが余って行き過ぎてしまった諏訪子は椛の場所まで戻り、少し不安な表情で椛に聞く。

 

「何があったの?」

「……あり得ない」

 

 椛の視界からは、無数に映っていたはずの標的が、いつの間にか全て消えていた。

 今その眼に映っているのは、いつも通りの妖怪の山だけ。

 まるで夢を見ていたかのような出来事に、椛は動揺を隠せない。

 そして、椛は初めて何の成果も上げずに配置に戻ることになった。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第8話 : 悪

 

 

 

 

 

「捕えたか?」

 

 椛と諏訪子が守矢神社に戻ると、神奈子が気楽に問う。

 

「申し訳、ありません。 完全に見失いました…」

「なっ…」

 

 その報告を聞いて、神奈子は驚いていた。

 椛の口からそんな言葉を聞くとは思ってもみなかったからだ。

 

「……そうか」

 

 神奈子はため息をついた。

 椛は本当に信じられないという顔をしている。

 そのまま申し訳なさで切腹でもしてしまいそうな雰囲気すら出していた。

 

「まあ、取り逃がしてしまったものは仕方ない。 それで、侵入者はどんな奴だった?」

「その、兎のような風貌の…」

「っ!!」

 

 藍は瞬時にその侵入者に思い当った。

 

「心当たりがあるのか?」

「ええ、多分永遠亭の従者です。 これは……拙いですね」

 

 藍は顔をしかめてそう言う。

 

 永遠亭の鈴仙・優曇華院・イナバ。

 確かにそいつの『狂気を操る能力』、いや、正しくは『波長を操る能力』とでも言うべきそれは、椛の能力には天敵であった。

 自身の波長を短くして、そもそも相手から認識されにくくする。

 そして、たとえ相手に見つかったとしても、相手に幻覚を見せて逃げ切る。

 その能力は諜報活動においてこれ以上ないと言っていいものであり、たとえ椛であっても、それを捕らえることは容易ではないのだ。

 

「永遠亭というと……確か、お前が博麗大結界を張ってもらっているという」

「はい。 月の頭脳と呼ばれる八意永琳。 もし、彼女に本気で探られたら……」

「私もたまに頭のキレる奴だという話は聞くが、そいつはただの薬師じゃないのか? そこまで危ない奴だとは思わないが」

「それはあくまで彼女の表の顔です。 実際は紫様ですらが、知略においても戦闘においても、たとえ私と2人がかりで挑んだとしてもまず敵わないだろうと明言するほどの人です」

「それは……」

 

 紫はその昔、強力な妖怪を集めて月に戦争を仕掛けたことがある。

 第一次月面戦争と呼ばれたその戦いでは、月社会の誇る近代兵器の力や月人自体が持つ圧倒的な力を前に、紫率いる妖怪軍団は大敗を喫してしまった。

 それ以来月人の恐ろしさを思い知っていた紫は、月人である永琳のことを秘密裏に調べ、実は永琳が月の頭脳と呼ばれ、かつてはその中枢を担っていた人材であることを知った。

 他にも本能的に永琳を恐れる情報や出来事もあったのだが……とにかく、紫は永琳を幻想郷で最も警戒すべき人物と位置付けていた。

 藍も今回は、永琳に博麗大結界の維持という決して断れない大役を押し付けることで、その行動を縛っているつもりだったが…

 

「彼女たちについて、まだ少し認識が甘かったようです」

「だが、こうなってしまった以上、仕方がないだろう。 そいつを仲間に引き込むというのは?」

「この計画は穴が多い分、彼女には受け入れてもらえないと思います」

 

 藍と紫は、今進めている計画の存在自体を決して永琳に知られないようにしてきた。

 永琳は常に全てを自分で計算し、自分の考えに基づいて行動するため、味方につけたところで藍たちの思い通りには動いてもらえるとは考え辛い。

 そして、もし計画の詳細を話してしまえば、恐らく永琳は話した以上の情報を自ら収集し、すぐにそれに対する最善の対応を自分でするだろうことが予想できる。

 実際、永琳は輝夜を守るためならどんなことでもするのだ。

 そうなることだけは、避けなければならない。

 藍には、絶対に永琳に気付かれてはいけない秘密があった。

 

「彼女にこの計画のことを教えるのは、リスクがあまりにも高いんです」

「そうか」

 

 藍は少し含みのある言い方をするが、神奈子はそこに突っ込まない。

 紫と藍は、互いの不可侵であるべき部分を認めてくれる相手でなければ深く関わろうとしないことを、神奈子は知っているからだ。

 神奈子は元々大雑把な部分があり、紫や藍に秘密が多いことを容認しているからこそ協力することができた。

 だが、恐らく永琳はそうはいかない。

 

「だが、そうは言ってもその従者に既に知られてしまったのだろう?」

「……はい」

「だとしたら、我々がとるべき手段は……」

 

 だからといって、放っておける相手でもない。

 一時的とはいえ妖怪の山のトップである身として、神奈子は決断しなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 うどんげは早くも迷いの竹林に着いていた。

 迷い込めばまず脱出はできない迷宮を、わき目も振らずに走っていた。

 

「よし、これならきっと師匠も…!!」

 

 予想外の収穫に、気が急いている。

 そもそも妖怪の山には、天狗の住処の状況を確かめるために寄っただけだった。

 それにもかかわらず、監視対象の藍と山の神との会談という重大な現場に出くわした。

 永琳の予想を超えるかもしれない収穫を短時間で手に入れたのだ。

 だから、

 

「っと、うわあああああああっ!?」

「オーイエーッ! かかったなっ!!」

 

 こんな罠に引っかかってしまうほど浮かれてしまうのもしょうがないのだ。

 永遠亭の近くに住む悪戯好きな妖怪兎、因幡てゐの逆さ吊りトラップに見事にかかってしまったうどんげは、少し恥じるように冷静さを取り戻して言う。

 

「……あ、うん。 とりあえず、降ろして」

「なんだよ鈴仙、リアクション薄いな」

 

 そう言って、てゐはトラップの糸を緩める。

 うどんげはそのまま両手で華麗に地面に着地するつもりだったが……

 

「うわああっ!?」

「よっしゃあああああ!!」

 

 今度はそのまま逆さ吊りトラップの下にある落とし穴にかかってしまう。

 久々に成功した連続トラップに、てゐのテンションが最高潮になる。

 

「……てゐ。 こんなことできるほど暇ならもう少し仕事手伝ってくれてもよかったじゃない」

 

 思いの外深かったその落とし穴から顔を出し、うどんげが言う。

 

「いや、お師匠様に頼まれたんだけど」

「はあ!? なんで師匠が…」

 

 そこまで言ったところで、うどんげは永琳が自分の代わりに町に出向いたり博麗大結界を張りに行ったりしていることを思い出す。

 基本的に永琳とうどんげが同時に永遠亭を空けることはほとんどないため、自分の留守中てゐに永遠亭近辺の見張りを頼んだのだろう。

 だが、恐らくこの落とし穴が無許可だろうことは、うどんげにはすぐにわかった。

 

「それで鈴仙、こんなトラップに連続でかかるなんて珍しいじゃないか。 何かあったのか?」

「ああ、とりあえず異変の調査が一段落ついたから師匠に報告に来たんだけど…」

 

 地面に綺麗にあけられた穴や冷静に見れば至る所にあるのがわかるトラップを見ながら、うどんげは大きくため息をつく。

 どうせこのトラップの発動後に荒れた道を修繕することになるのは、自分であるからだ。

 

「へー、それはよかったね。 んで、結局このはた迷惑な異変の犯人は誰だったんだい?」

「まだ詳細はわからないんだけど、山の神様たちが何かしてるみたい。 ただ、藍さんがそこにいたことも、ちょっと小耳にはさんだ破邪計画ってのも気になるし」

 

 まだ確証がない分、うどんげは悩むように言う。

 途中で見つかって逃げてきてしまったため、計画の詳しい内容まではわからなかったのだ。

 

「破邪…? よくわからないけど、黒幕が分かったならとりあえず早くお師匠様のところに行った方がいいんじゃない? お師匠様には、鈴仙が今日中に戻ってきたのなら博麗神社に来るよう伝えろって言われたんだけど」

「そう、わかったわ。 じゃあてゐ、留守番を…」

 

「あら鈴仙、おかえりなさい」

 

 真面目な顔に切り替えかけたうどんげに、少し気の抜けたような声がかけられる。

 うどんげとてゐが慌てて振り向くと、そこには地面に付くのではないかと思うほど長い黒髪をした一人の少女が立っていた。

 

「って、姫様じゃないですか。 こんなところまで来てどうしたんですかい」

「いやそのね、せっかく久々に永琳もいないことだし、ちょっとお出かけしようかなーと」

「はぁ」

 

 永遠亭の奥に住む姫君の蓬莱山輝夜は、ちょっとした悪戯を企む子供のような顔で2人の前に顔を出した。

 輝夜は永遠亭から出ることはあまりなく、外で見かけること自体が珍しいが、時々永琳の目を盗んで気まぐれに出歩いているのだ。

 別に輝夜を永遠亭に閉じ込めている訳でもないが、異変の影響で危ないことも考えて永琳に輝夜の護衛を頼まれている今は、その勝手な行動を許さないのがてゐの仕事だった。

 

「ダメですよ姫様ー。 私はお師匠様から姫様を守るように言われてるんですよ。 だから外に出させたら私が怒られちゃいますよー」

「相変わらず永琳はお堅いわねー。 ねえ、鈴仙からも永琳に何とか言っといてよ」

「でも、師匠も姫様のことを思ってのことですから……」

「えー、いけずー、つまんなーい」

「……」

 

 うどんげはその感情を表には出さずとも、少し面倒そうに輝夜の相手をしていた。

 永琳がその生涯をかけて護衛をしている輝夜のことを、うどんげはそこまで価値のある存在ではないと思っていた。

 幻想郷に逃げてくる前も月でただの傀儡の姫君として扱われていただけとされる輝夜を、なぜ永琳がそこまで守ろうとするのかがわからなかった。

 要するに、気に入らなかった。

 

 ――まったく。 どうせ師匠がいなくちゃ何もできないんだから、こんな時くらい邪魔しないでほしいよ。

 

 別に輝夜は頭が悪いわけでも仕事ができないわけでもない。

 ただ、月の姫君としてのプライドがあるのか、ただ面倒くさいだけなのか、表立った仕事をしたがらないのだ。

 永遠亭のことを全て永琳一人に投げ、こんな異変の時でも一人だけ何もせずにただ勝手なことをしているだけの輝夜を、うどんげは内心では疎んでいた。

 だが、その半分はただの嫉妬だった。

 どんなに頑張っても永琳に必要とすらしてもらえない自分と違って、何もしないくせに当然のように永琳に慕われている輝夜が、単純に羨ましかった。

 いろいろとそんなことを考えていたうどんげだったが、こんなところで油を売っていたらせっかく早々に終わらせた仕事の報告が遅れてしまうことに気付いて焦り出す。

 

「そ、そうだ、そんなことより早く行かないと…」

「れいせーん」

「……何ですか?」

 

 焦るうどんげとは対照に、輝夜はまるで平時のようなのんびりさでうどんげの頭を撫でながら言う。

 

「行ってらっしゃい」

「……行ってきます。 くれぐれも勝手に外に出たりしないようにお願いしますね」

「はいはい」

 

 うどんげが少しだけ視線を逸らすと、その先ではてゐが何事もなかったように次のトラップ準備の道具を持ち始めていた。

 それに気づいたうどんげは、誰がこれを片づける思ってるんだ…という目をてゐに向けながら走り出した。

 もっとも、てゐには本来自分がやらなくてはいけない仕事をいくつか請け負ってもらっている以上、あまり文句を言える立場にはないのだが。

 

 そして、うどんげは博麗神社に向かいながら頭の中で情報を整理する。

 結局何が起こっているのか詳しくはわからないが、藍たちのこと以外にもそれなりの成果は得ていた。

 だが、平然とした態度でてゐに話しかけていたうどんげだったが、内心は今も怖がっていた。

 もし自分が十分だと思っていた成果が、もし永琳に認めてもらえるだけのものではなかったら。

 ただの自己満足に過ぎないものだったとしたら。

 自分が結局はいてもいなくても変わらない存在だったと思い知らされたら。

 そしたら自分は立ち直ることができるのか、不安だった。

 

 そして、あれこれ考えているうちに博麗神社にたどり着く。

 既に日はほとんど沈んでいた。

 境内の上空には巨大な結界が張られている。

 

「うわぁ……」

 

 博麗大結界を目に見える形で見たのは初めてだったが、複雑な術式が絡み合い、世界間を隔てて存在するそれは、とてもうどんげの理解できるような代物ではなかった。

 それは応急処置どころか、むしろ元の博麗大結界よりも強固なものにすら見えた。

 自分では決して手の届かないであろうそれを間近で見たうどんげは、言葉を失う。

 

「あら、うどんげ。 随分と早かったのね」

 

 呆然とその結界に目をとられていたうどんげに、どこからか声がかけられた。

 その方向に目を向けると、永琳が博麗神社内から顔を出していた。

 異変調査が恐らく明日くらいまでかかると思っていた永琳は、完全に日が沈みきる前に戻ってきたうどんげに少しだけ感心したような目を向ける。

 

「あ、師匠。 異変の調査が一段落しました」

 

 そんな永琳の視線に気付いたうどんげが、境内に近づいていく。

 だが、取り繕ってはいるものの、内心は緊張でいっぱいだった。

 時間の流れが遅くなっているようにすら思える。

 たった2,30メートルほどの距離を歩いているのが、永遠にも感じられた。

 だが、そんな中、ふと永琳が小さく笑い出した。

 

「な、何ですか、師匠?」

「うどんげ……耳が3本あるわよ」

 

 そう言われてうどんげが自分の頭を触ると、頭の頂点に何かがあるのがわかった。

 それは、取り外し可能な小さな玩具の耳だった。

 そして、うどんげは迷いの竹林の去り際に輝夜に頭を撫でられたことを思い出す。

 恐らくその時に付けられたのだろうことはすぐにわかった。

 

「……本っ当にあの人はあああああっ!!」

「まったく、随分と注意力散漫ね」

 

 成果の報告の前に、変な所で呆れられてしまった。

 その瞬間うどんげは輝夜に殺意が湧いたが……それを通じて少しだけ自分の心が楽になっているのを感じた。

 その耳をつけた輝夜の行動がただの悪戯だったのか、内心緊張で一杯だったうどんげを思ってのことだったのかはわからない。

 だが、確かにそれに救われたのも事実だった。

 だからその時、うどんげはほんの少しだけ心の中で輝夜に礼を言った。

 

「まあいいわ。 それじゃあ、報告を聞こうかしら」

「はい――」

 

 そして、うどんげは自分の知っている情報を全て永琳に話す。

 人間の里では凶暴化した近隣の野生動物や、普段は人間の里には現れないはずの妖精や妖怪による被害が深刻で、特に夜に大きな被害が出ているということ。

 種族に関係なく様々な者が襲われ、その加害者のほとんどは理性を失い、すぐに行方不明になっていること。

 壊滅したはずの天狗の住処の周辺はあまり荒れておらず、そんな出来事があったとは思えないほど形を保っていたこと。

 神奈子と諏訪子が、残された妖怪の山のメンバーだけではなく、藍や紫とも協力して破邪計画なるものを策定していること。

 また、守矢神社付近に何らかの結界を張り、現在もその規模を拡大中だということ。

 永琳は黙って聞いた後、やっぱり、と言わんばかりに頷く。

 

「なるほど、やっぱり八雲紫が一枚噛んでるのね」

「そうみたいです。 会話の内容からすると一応妖怪の山でも紫さんは死んでいることになってるみたいですが……正直、それも少し怪しくなってきましたね」

「そうね。 ……それにしても、破邪計画、ねえ」

「やっぱりこの異変はその計画のせいなんでしょうか」

「いいえ、多分それは違うと思うわ」

 

 永琳にそう言われ、うどんげは少し疑問の表情を浮かべる。

 自分が持ってきた情報から判断すれば、その計画が異変の元凶であると思うのが当然なはずだからだ。

 

「どういうことですか?」

「確かに貴方の持ってきた情報から考えれば、怪しいのは八雲紫と守矢神社の面々ね。 だけど、八雲紫には今回の異変の元凶足り得ない理由が一つだけあるわ」

「それは……?」

「彼女が、この幻想郷を誰よりも愛しているということよ」

 

 それだけは、謎の多い紫に関して、ただ一つ誰もが首を揃えて同意することである。

 今回の異変は、既に幻想郷の存在自体を危機に陥れかねないほどのものになりつつある。

 ならば、紫がそんな異変に加担するはずがないと考えられるのだ。

 

「だから、その計画が異変の原因になっているのではなく、むしろ異変を解決するために計画を進めていると考えることもできるんじゃないかしら」

「な、なるほど。 ……でもそしたら、結局異変の黒幕の手がかりは無しってことですか」

 

 うどんげは恐る恐る永琳に尋ねる。

 まる一日かけてやっと掴んだと思った有力な情報が、結局役に立たなかったのかと不安になったのだ。

 しかし、永琳は少し微笑んでうどんげに返す。

 

「いえ、手がかりにならないという訳でもないわ」

「え?」

「そもそも山の面々に対するこれからの振る舞い方も変えることができるし、何より……破邪計画。 その名が聞けたってだけで十分よ」

 

 必要以上に弱気になっていたうどんげだが、予想外に褒められたことで少し驚いていた。

 だが、それに何の意味があるのかはわかっていなかった。

 

「師匠は知ってるんですか、その破邪計画っていうのを」

「知らないわ。 ……だけど、一つだけ思い当たることがあるの」

 

 永琳の表情が少し真剣になり、勿体つけるかのように言う。

 それを見て不安になったのか、うどんげが少し急かすように聞いた。

 

「それは?」

「……うどんげ、貴方は『絶対悪』の存在を信じるかしら」

「え? いきなり何ですか」

「いいから、答えなさい」

「そうですね……ってか、信じるもなにも、本当に悪い奴がいたらそいつが絶対悪なんじゃないんですか?」

 

 うどんげには質問の意図がよくわからなかった。

 鬼の存在を信じるか。

 幽霊を信じるか。

 それは幻想郷では特段珍しいものではないが、そういった架空の存在か否かわからないものについて信じるかと聞かれているのならわかる。

 だが、悪の存在というものを信じる、信じないの二択で聞かれることの意味が理解できなかった。

 

「そうね。 じゃあ、本当に悪い奴って何?」

「え?」

「世界征服を企む奴? 意味もなく誰かを殺そうとする奴? でも、それは誰の目から見ても全てが絶対的な悪と言えるかしら」

「それは…」

 

 たとえば「人類の皆殺し」を企む者ですら、人間に虐げられる動物たちからすれば、まるで女神のような救いの存在だろう。

 たとえば「世界を滅ぼす」ことが悪になるのなら、着実に温暖化などを進め、地球環境を破壊している外の世界の人間は全て絶対的な悪となってしまうが、そうではないことは容易に理解できるだろう。

 誰にどんなに悪だと思われる行動であっても、視点や、行為の程度を変えるだけで、それは悪であるとすら思われないものになる。

 ただ単純に、実質的に世界を支配して規律を作っている、知性を持つ存在の多数派が悪だと考えた者が「相対的に」悪と呼ばれているだけなのである。

 つまり「絶対的な」悪とは定義など存在しない、ただの概念に過ぎないのだ。

 

「うーん……」

「難しく考えなくてもいいわ。 結局何が言いたいかっていうと、絶対悪というものは明確に存在するとは考えられていないってことよ。 昔は悪魔だとか邪神だとかそういったものが絶対悪とされた頃もあるけれど、実際はそれすらも絶対悪ではないのはわかる?」

「はぁ」

「今でも宗教的にそういった邪神のようなものを信じている人はいるかもしれないけど、外の世界のほとんどの人は具体的に存在はしないと思っているわ。 となると、今やもうその存在を認識できない、「忘れられた」存在であると言えるんじゃないかしら」

「忘れるってよりも、そもそも…っ!? って、まさか…」

 

 幻想郷は人々に忘れられた存在が住まう場所。

 外の世界で実在しないものとされて人々の記憶から消えていったとき、その存在は幻想郷に迷い込む。

 幻想郷の住人の多くは外の世界の幻想の中の存在であり、永琳が護衛している輝夜も、外の世界で有名なお伽噺の登場人物なのである。

 

「……でも、よく考えると絶対悪なんてものは具現化することはないんですよね」

「ええ」

「だったら、いくら幻想郷がそういう場所だからといって、存在し得ないんじゃないですか?」

 

 幻想の世界でなら架空と考えられている存在であっても形を成せる。

 例えばレミリアは吸血鬼として存在できるし、神奈子たちも神として存在することができるのだ。

 だが、絶対悪なるものが絶対悪として存在することはできない。

 邪神や悪魔として存在することはできても、絶対悪そのものは具体的な存在としてあるものではなく、そもそも信じる信じないでは測れないただの概念に過ぎないからだ。

 それは、幻想の世界の中ですら定義さえままならない虚の存在なのである。

 

「そうね。 ……だけど、もし仮にその絶対悪っていうのがいるとしたら、貴方はその存在をどうすべきだと思う?」

「え? それは……正直よくわからないですね。 実際にどんな奴であるか想像もつきませんから」

「それはそうでしょうね。 だけど、もし仮にそんなものが存在するとしたら、ほとんどの者は当然にそれを消そうとするはずよ」

「ああ、確かに……」

 

 それは、どの世界であっても当然に行われる排除である。

 生物は自分と相いれないものを、平穏を脅かすものを拒むのだ。

 ましてや、本当に絶対悪などというものが存在するとすれば、少なくとも世界にロクなことが起きないだろうと予想し、誰もがそれを排除しようと考えるだろう。

 

「そして、八雲紫はセオリー通りそれを人知れず封印した」

「えっ!?」

「と、いう話が昔あったのよ。 まあ、実際は何の信憑性もない虚構の話だけどね」

「な、なんだ、驚かさないでくださいよ」

 

 降って湧いたような話をされて驚いたうどんげだが、そう聞いてホッと胸をなでおろした。

 だが、真剣な眼差しのまま永琳は続ける。

 

「……だけど、今はそれが虚構の話だと片づけられる状況にはなくなっている。 もしかすると破邪計画っていうのは、封印したはずのそれを消滅させようっていう計画だとも考えられるわ」

「でも、だとすると何で紫さんたちは今更そんなことを?」

「そうね……たとえば封印したはずのそれが復活して、今の異変を起こしている元凶になってるとか?」

「……ってことは、既にそれの封印が解けていて、今も幻想郷にいるってことですか?」

「まぁ、私の勝手な憶測だけどね。 だけど、彼女が幻想郷でも名の知れた有力な神様や妖怪の山全体すらも巻き込むほどの計画に着手していることを考えると、少なくとも深刻な状況にあることだけは確かだと思うわ」

 

 うどんげは唾をのんだ。

 絶対悪などという得体の知れない存在が、永琳によって肯定されようとしているのだ。

 

「……まぁどっちにしろ、これは本人たちから直接話を聞く必要がありそうね」

 

 そして、永琳は神社の床に座ったまま鳥居の方を見て言う。

 

「そうでしょう、そこの貴方?」

 

 うどんげが振り返ると、そこには大きな一つの影が浮いていた。

 いや、正確には一つではない。 

 そこら中に漂う黒い何かが、その中心にいる人物を囲むように一か所に集まっているのだ。

 

「……ああ、やはり貴方は厄介だわ。 できれば最後まで蚊帳の外にいて欲しかったのだけど」

「っ!?」

 

 うどんげが身構える。

 突然現れたそいつからは、殺気のようなものが感じられた。

 

「……あら、あまり好意的な来客じゃないみたいね。 せっかく私が博麗大結界を維持してあげているのに、神様にそんな態度とられちゃたまらないわ」

「神様…!?」

「まあ、神とはいっても守矢神社にいるような2人とは違ってこいつはそんなに強力なものじゃないわ。 鍵山雛。 ただ厄を集めるだけの低級神よ」

「あら、随分と舐められたものね」

 

 雛は不快感をあらわにするわけでもなく、ただ微笑みながら2人を見ていた。

 永琳の話を聞いて少し安心したのか、うどんげは前に出て言う。

 

「それなら、ここは師匠が出るまでもないでしょう。 どうしてもかかってくるというのなら、私が相手をします」

「あら、ずいぶんと可愛らしい子ね。 でもやめておいた方がいいわ。 所詮世界を知らない…」

「御託はいいわ。 やるの、やらないの?」

「……お好きにどうぞ」

 

 雛はただ不気味にそう言う。

 そして一枚のスペルカードを構え、うどんげが宣言した。

 

「スペルカード宣言、幻爆『近眼花火(マインドスターマイン)』」

 

 うどんげからいくつものミサイル状の弾幕が発射され、その標準が雛に向いた。

 雛は神とはいえ、『厄をため込む程度の能力』で厄を集め続けるだけの、あまり戦闘能力を持たない低級神である。

 だから、月の民であるうどんげの弾幕は、たとえ威力の抑えられたものであったとしても普段の雛にとって十分驚異となる難易度の弾幕であるはずなのだ。

 だが、雛は笑って、

 

「だから言おうとしたのよ。 子供と――」

 

 そう呟いた。

 突如、うどんげの首のすぐ横を一筋の閃光が貫く。

 それは雛ではなく、永琳から放たれていた。

 

「って、うわわわわわ師匠!? 一体何を…」

「あら、随分と過保護ね」

「……やっぱり、そういうつもり?」

「え?」

 

 永琳が雛を睨んで言う。

 うどんげが振り返ると、雛が纏っている厄がいつの間に背後に回り込み、弾け飛んでいた。

 もし永琳が介入しなければ、うどんげは気付くこともないままそれに飲み込まれていただろう。

 

「これは……!? ちょっとあんた、スペルカードルールは…」

「必要ないでしょう? だって、私は別に勝負で勝敗を決めたい訳じゃない。 ただ邪魔者を消したい、それだけよ」

「なっ……」

 

 そう言って雛は腕を振り上げる。

 それに呼応するかのように、禍々しい黒をした厄が辺りから溢れ出し、雛の右手に集まっていく。

 そして、その厄の塊は雛の等身の3倍以上はあるだろう程に膨れ上がっていった。

 

 スペルカードルールはそもそも、「相手に負けを認めさせる、諦めさせる」ことを目的とした勝負を可能にするものである。

 それ故、勝敗に意味がある場合でないと使うことが難しい。

 勝敗がそのまま命に関わることや、本当に命を懸けてでも止めたいことならば、いくらスペルカードルールで負けたところで基本的に諦めることはない。

 つまり、ルールもプライドもなく命がけで行われる殺し合いの代替品にはなり得ないのだ。

 

「師匠、これは…」

「まぁ、あっちがいいというのなら別にいいんじゃないの?」

「……あー、そうですね。 わかりました!」

 

 うどんげは元気よく返事をしてその足に力を込めると、雛に向かって一気に駆け抜けた。

 それをしっかりと目で捉えながら、雛はうどんげに向かってその右手に溜めた厄を発射する。

 

「こんなもの……――っ!?」

 

 スペルカード戦の弾幕のように攻略の余地が残されているものとは違い、マシンガンのように発射されたその厄の雨には避ける隙間が存在しない。

 そのため、うどんげは受け流すようにそれに軽く触れる。

 しかし、少しでも触れた厄はその場に留まってうどんげの全身を侵食し、蝕んでいった。

 

「なっ、これは……?」

「ふふふ、これだけの厄よ。 きっと貴方は少なくとも100年は絶望の中で苦しみながら生きることになるわ」

 

 雛が纏う厄が与えるのは、身体へのダメージではない。

 それは、幻想郷中の災厄をすべて集めた無限の負の記憶。

 一欠片だけで一つの生命を破滅させるほどの絶望、嘆き、憎悪、怒り。 

 負の感情の何もかもを凝縮してその精神を蝕んでいく。

 

「ああ、あああああああ?」

「さあ、苦しみなさい! そうしていつか生まれる貴方の新しい厄も、全て私が受け止めてあげるわ」

 

 うどんげは膝から崩れ落ち、目を見開いたまま全身を震わせている。

 もがき苦しむうどんげを、雛は恍惚とした表情で見つめていた。

 しかし、そんな雛に向かってどこからともなく声が聞こえてくる。

 

「……それはそれはご丁寧な説明をどーも」

「え?」

「でも、子供なのはそっちでしたね」

 

 次の瞬間、雛の右手に溜まった厄の塊は全て弾け飛んでいた。

 そして、気付くと雛の視線の先には誰もいなかった。 

 ただ、弾け飛ぶ厄の影から声だけが聞こえてくる。

 

「スペルカードルールを無視するなんて馬鹿なことをしたわね。 私たちが本気になれば、貴方程度の低級神じゃ相手にもならないわ」

 

 永琳は神社の床に座りながら笑ってそう言う。

 飛び散っている厄の影から突然現れたうどんげは、そのまま雛の体に後ろ跳び蹴りを食らわせる。 

 そして、雛は何が起こったのかもわからないような呆然とした表情のまま吹き飛び、地面を何度もはね返って転がっていった。

 

 避ける隙間などあるはずのなかったその厄の弾の雨は、うどんげには全て見えていた。 

 だが、うどんげはそれを正面から見ていたのではない。 

 油断して話している間には既に、雛はうどんげの能力によって幻覚を見せられ、厄の弾は全てが何もない方向へと飛んで行っただけなのである。 

 

「貴方がスペルカードルールを無視したので、私もこの眼を自由に使わせてもらいました。 貴方が悠長に私を見ながらその厄を集め始めた時には既に幻の中。 その時にもう勝負は決していたんですよ」

「……」

「まあ、一応神様ということなので少し手加減はしておきました。 このまま大人しくしてなさい」

 

 うどんげは右手で銃の形を作ったまま構えている。

 十分な手ごたえがあり、普通ならもう起き上がってくることはないはずだった。

 だから、それでもう終わりだと思っていた。

 

 だが、雛は気味の悪い笑いを浮かべて、

 

「ああ、残念。 穢れがないと言われる月の民の厄というのにも興味があったのだけれど……」

「ちっ、まだ動けて…」

「やっぱり、私の力だけじゃ無理みたいね」

「っ!?」

 

 その目を見開いたまま不自然な方向に関節を曲げて、雛は起き上がる。

 そして、うどんげが驚いて一歩下がった隙に、雛は上空に飛び上がった。

 その周りに纏った厄は、さっきまでとは違う得体の知れない力を漂わせている。

 

「っ……うどんげ!!」

「大丈夫です!」

 

 今度は厄を集めているというよりも、それは雛の全身から溢れ出ているように見える。

 それを見て、その攻撃の直下にいるうどんげよりも、離れて見ている永琳の方が明らかに狼狽えていた。

 なぜなら、雛のその力が突然異質なものに変貌し、信じられない程強大になっていたからだ。

 この異変で大きな力を得た生物がいることくらいは知っていた。

 その力に限界があることも知っていたはずだが、これはまるで――

 

「学習しない奴め!」

 

 そんなことには気づかずに、うどんげは今度は両手を構えて弾幕の連撃を放った。

 しかし、その弾幕はいとも簡単に降り注ぐ厄にかき消される。

 

「え……」

 

 かき消されるなんてものではない。 

 木々も地面も、空気ですらも、それは少しでも触れた物を侵食して飲み込んでいるように見えた。

 うどんげの周りを隙間なく厄が覆い隠す。

 

「くそっ!」

 

 うどんげはそのまま全力で弾幕を放ち続ける。

 だが、それは全て消えていく。

 全て飲み込まれていく。

 

「そんな…」

 

 うどんげは何が起こっているかもわからないまま、ただ呆然としていた。

 そして、うどんげが為す術もなくその厄に飲み込まれた……かに思えたその時、厄の壁に覆われたはずの世界に一筋の星が流れたように見えた。

 それにかき消されるように、うどんげを取り囲んでいた厄が全て弾け飛ぶ。

 

「――少し、下がってなさい」

「っ!!」

 

 うどんげはその星の流れてきた方向を見ると、反射的に必要以上後ろに跳び下がった。

 ふと目に入った永琳のその目は、自分が今までに見たことのないほど鋭い眼光を帯びている。

 いつの間にか永琳の手には弓が握られているが、そこに矢は存在していない。

 そして、うどんげは自分の上を流れた星が永琳の放った矢だったことに気付く。

 

「ふふふ、やっぱりその子だけじゃ不安? でも…こうなったらもう、貴方が出てきても無駄よ!」

 

 雛が再びあちこちから現れる厄を直接永琳に飛ばす。

 だが、その全ては永琳にたどり着く前にはじけ飛ぶ。

 

「え……!?」

 

 永琳はその場を一歩も動いていない。

 それにもかかわらず、向かってくる厄を全て的確に撃ち落としていた。

 だが、永琳は弓を構えてすらいない。

 永琳は自らが纏う霊力を、その場で無数の矢と化して発射しているのだ。

 そして、

 

「少しだけ、眠ってなさい――」

 

 厄を撃ち落としていた無数の霊力の矢がそのまま雛を襲った。

 大気を切り裂き、並の者ならその余波だけで消し飛びかねない霊力の刃。

 だが、それは雛には届かなかった。

 雛を取り囲むように存在する厄が、その全てを飲み込んでしまう。

 

「そんなっ!?」

「残念だけど、そんなものは私には通じないわ」

「……あら、それはどうかしら?」

 

 そう言って、永琳は今度は手に持ったその弓を構える。

 それと同時に、博麗神社に大きな衝撃波が発生した。

 

「っ!!」

「わわっ、わああああああっ!?」

 

 その戦いを間近で見ようとしていたうどんげは、吹き飛ばされるように慌ててその場から逃げた。

 

 恐らくは霊力を大きな矢の形にして、手に持ったその弓で飛ばしているであろう永琳の攻撃。

 しかし、永琳には矢を構え、引き、放つという動作が存在しないようにすら見える。

 それほどの早業だった。 

 蚊の入り込む隙間すらないような霊力の嵐をただ雛に叩き込み続ける。

 それは、空間そのものが全てを分解する刃であるのではないかとさえ感じられるような怒涛の霊撃だった。

 

 そして、やがてその猛攻が止む。

 

「って、危ないじゃないですか師匠!」

「だから、下がってなさいって言ったでしょう」

「いや、言ってましたけど……」

 

 地形変動を起こすほどに放たれ続けた矢を防ぐ術は存在しない。

 後方にあった本殿はなんとか形を保っているものの余波でボロボロになり、石碑から鳥居まで、永琳の前にあったものは全て跡形もなく消滅していた。

 それを見て、ここまでやる必要があったのかとうどんげは不安になる。

 

「まぁ、でもこれは霊夢の目が覚めた後何を言われるのか怖いわね」

「ははは、そうですね」

 

 そして、2人とも少し軽口を叩く。

 そのくらいには、緊張を解いてしまった。

 しかし次の瞬間、永琳の足元から突如として厄が再び溢れ出し、それが一気に弾け飛んだ。

 

「っ!!」

 

 永琳は反射的に跳び上がり、足元で爆発した厄から間一髪逃れるものの、右腕を捕えられてしまう。

 何かが触れた感触を知覚し、永琳は一瞬も躊躇わずに自分の右腕を切り捨てた。

 

「師匠!?」

 

 切り落とされた腕が、厄の中に飲み込まれて……そして、消えた。

 そして、砂煙が晴れるとともに声が響く。

 

「残念……片腕を失っちゃ、もうおしまいみたいね」

「そんなバカな!?」

 

 うどんげは思わず叫んだ。

 跡形もなく消えていたはずの正面の景色。

 だが、砂煙の隙間から見えた雛は、あれだけの猛攻を受けてなお、その身体どころか纏った厄さえも全く健在であった。

 雛はただ、薄ら笑いを浮かべたまま勝った気分でいる。

 

「はぁ、そうね……」

 

 永琳はため息をつきながら、左手に残された弓をそのまま足下に広がる厄の中に投げ捨てた。

 

「なっ……師匠!?」

「あら、もう諦めたのかしら?」

 

 雛が油断したその瞬間、永琳は残された左手をかざして言う。

 

「……馬鹿ね」

 

 すると、突如として雛の上空が明るくなる。

 だがそれは、今発生した光ではなかった。

 弓を構える前、様子見で放っていた無数の連撃で外れた……いや、わざと外した矢の残照が、雛の上空に光の塊として凝縮されていたのだ。

 

「っ!?」

 

 そして次の瞬間、博麗神社上空に太陽ができたのではないかと思うほどまぶしい光の柱が雛を飲み込んだ。

 神社の境内が、雛の立っている場所以外、数メートル下に沈み込む。

 だが、それでも雛の周辺の大地だけは辛うじてその形を保ち続けていた。

 流石の雛の表情も歪むが……その光さえも、間一髪雛を覆う厄が完全に防ぎきっていた。

 ホッとしたように今度こそ勝ち誇った雛の顔は、

 

「ふふ、惜しかっ…」

 

 次の瞬間、凍りつく。

 上方に集中していた雛は、既に自分の懐まで近づいている永琳に反応できなかった。

 そして、今の永琳の左手に集う霊力は、さっきまでの比ではない。

 

 ――まさか……今まで苦戦してたように見えたのは全部ブラフだったっていうの!?

 

 そんな考えが頭をよぎり、雛は焦りで反応がさらに一瞬遅れてしまう。

 全ての厄を上方に回してしまっていた雛は、瞬間的に前方が無防備だった。

 

「惜しかったわね、小娘」

 

 そして、永琳がそう言って笑うと、全開の霊力を乗せた拳を雛に叩き込んだ。

 雛は全身を折りたたまれるかのようにその身体を曲げ、衝撃波をまき散らしながら沈降した地面を抉るように吹き飛んでいく。

 そして神社の階段を突き破って飛び出し、そのまま麓まで転げ落ちていってピクリとも動かなくなった。

 

「ふぅ。 終わったわ」

 

 永琳は当然といわんばかりに背伸びをし、神社へと戻る。

 

「……ははは、やっぱり師匠は強いや」

「そう思うのなら、貴方ももう少し研鑽をつみなさい」

 

 そう言われても、うどんげはただ苦笑することしかできなかった。

 年季が違いすぎる。

 たかだか数百年生きただけのうどんげとは違い、先史時代から月の社会を創り上げて己を磨き続けていた永琳の力は、もはや一介の妖怪が考えうるレベルなど遥かに超越していた。

 だが、余裕そうな表情を浮かべていた永琳が、ふいに不機嫌そうに呟く。

 

「それにしても……これは、多分また八雲紫に一杯食わされたわね」

「え? ちょっ、ちょっと待ってください、どういうことですか!?」

「あ、いえ、こっちの話よ。 別に八雲紫がアレを差し向けたって訳じゃないと思うから安心していいわ」

 

 なぜか永琳はうどんげを見て少しだけ照れるような、気まずそうな顔をしていた。

 突然出てきた紫の名前に混乱していたうどんげだったが、滅多に見ない、というよりも見たこともないほどレアな永琳の表情の方に既に気持ちが向いてしまっていた。

 思い切って少しからかってみようかとも思ったうどんげだが、流石にそんな大それたことをする勇気はなく、片腕がなくなってしまった永琳を見て露骨に話を逸らして言う。

 

「師匠、戦闘中に腕を切り離すなんて……」

「ああ、アレに直接触れたからね。 念のためよ」

「アレ…?」

「気付かなかった? 貴方が一撃を入れた後から、あいつが纏ってるものがただの厄じゃない、全く違う何かに変わったわ。 それが何なのか分からない以上、当然の処置でしょう」

「でも…」

「別にいいじゃない。 こんなのは死ねばすぐ元に戻るのだから、後で一度死んでおくわ」

 

 永琳はさらっと恐ろしいことを言う。

 蓬莱の薬の力で不老不死になった永琳は、死ぬと同時に全身が元の健康体に戻って生き返るのだ。

 

「まぁ、それはそれとして……これはかなり厄介よ。 ただ異変の影響って言葉で片付けられるほど甘い問題じゃないわ」

「え?」

「あれは、あんな低級紳が簡単に手にできるような次元の力じゃないわ。 腕一本の犠牲だけで済んだのが幸運だったってレベルのね。 もしあんなのが何人もいたら、流石に私もお手上げよ」

「は、ははは、大げさですよ師匠」

 

 そう言いながらも、うどんげは冷や汗が止まらない。

 最初の攻防では自分が圧倒していたはず相手に、次の瞬間まるで歯が立たなくなったのだ。

 そして、本気になった永琳ですらが片腕を持っていかれる程の苦戦を強いられた。

 この異変が異質だというのは話には聞いていたが、実際に目の当たりにすると急に不安になってきていた。

 

「そ、それより、さっきの相手は大丈夫なんですか?」

「大丈夫よ。 念のため飛ばし際に毒も打ち込んでおいたし、あれなら多分1か月くらいは意識すら戻らないはずだけど」

「あ、いや、そういうことじゃなくて…」

 

 そう言って、うどんげは神社への階段を覗き込む。

 

「何をする気?」

「いや、一応神様なんですよね、アレ。 師匠の全力を受けたんだったら回収して死なないようにちゃんと手当てしとかないと。 それに、彼女の体に何が起きてるのかも調べた方がいいかと思って」

「そうね」

 

 うどんげは無防備に博麗神社の階段を下っていく。

 しかし、雛の姿は見当たらない。

 

「……あれ?」

 

 うどんげは不思議そうに麓を見渡すが、そこには何もいない。

 

 いつの間にか雛はうどんげの上空にいた。

 だが、雛は何も喋らない。

 ただ不自然な恰好のまま、何かに操られるかのように浮かんでいた。

 

「っ!!」

 

 雛から、得体の知れない黒い何かが再びうどんげに向かって溢れだす。

 永琳はそれを逸早く察知して叫ぶ。

 

「どきなさい、うどんげ!!」

 

 しかし、まだうどんげはそれに気づいていない。

 そして永琳は判断する。

 

 ――間に合わない。

 

「っ…!!」

 

 その瞬間、うどんげの身体が突如として宙を舞う。

 永琳は自分の発したその声が届くよりも速くうどんげの場所まで走り、うどんげを突き飛ばしたのだ。

 そのまま階段を転げ落ちたうどんげが着地して顔を上げた時、永琳は既にその黒に浸食されていた。

 

「師匠!?」

「これ、は……?」

 

 永琳がもがく。

 これが本当に雛の纏う厄ならば、ただの精神攻撃のはずだった。

 それならば、たとえどんな拷問より強力なものだったとしても、永琳は耐え抜く自信があった。

 だが、永琳は身動きがとれないまま全身が蝕まれていくのを感じる。

 その力に抵抗できないことを察知する。

 そして今度は既にほぼ全身を侵食されていた。

 この相手に、右腕の時と同じように半身以上を切り捨てて戦うような余裕などないことくらいは永琳も理解していた。

 

 そのまま見る見るうちに全身が黒く染まっていく永琳を見て、うどんげは思わず走り出す。

 

「師匠、今助けに…」

「っ、来ないで!!」

 

 永琳が叫ぶ。

 初めて聞く、永琳の焦るような叫びに、うどんげの足が止まる。

 そして、永琳はただ何かを悟ったように静かに自分の帽子を脱ぎ、うどんげに向かって投げつけた。

 

「え?」

「うどんげ……」

 

 永琳の帽子がうどんげのもとに落ちてくる。

 そして、永琳は今まで一度も向けたことのないような、優しい目をして――

 

「後のことは、頼んだわよ」

「し…」

 

 それだけ言い残して、次の瞬間永琳は飲み込まれるように消え去った。

 そこにはもう、何も残っていなかった。

 

「師匠? ……え?」

 

 直前に受け取った永琳の帽子だけを抱えたまま、うどんげは立ち尽くす。

 死んだのならすぐに生き返ってくるはずの永琳は、全く姿を現す様子はない。

 

「うそ……なんで。 だって、師匠が、そんなわけ…」

 

 しかし、雛の攻撃は止まらない。

 一人残されたうどんげに向かって、再び黒い何かが降ってくる。

 だが、それすらも目に入らないほど、うどんげの目はまだ何かに期待していた。

 

「違う、師匠は…」

 

 それでも、永琳のことを信じていた。

 それでも、永琳はすぐに戻ってくるのだと思い込んでいた。

 それでも、永琳が――

 

 

  ――後のことは、頼んだわよ。

 

 

「――――――ぁぁぁああああああああああ!!」

 

 うどんげの目が赤く染まる。

 その光は黒く染まったその世界を一瞬だけ照らし、そして……

 

 ……うどんげは、一目散にその場を逃げ出した。

 

 感情のままに向かっていくことが許されるのなら、向かって行きたかった。

 だけど、それはできなかった。

 永琳に生かされたから。

 永琳に任されたから。

 ただ、その最期の言葉が頭に響き続けて…

 

「っ―――――――」

 

 うどんげはただ、自分の無力さが許せなかった。

 何もできない、自分の無力さが許せない。

 そんな自己嫌悪から、唇を噛み切るほど歯を食いしばって耐えながら走っていた。

 

 どこを目指す訳でもなく、その目を赤く光らせたままただがむしゃらに走り続ける。

 やがてその光は夜の闇に消えていった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

前編ノ弐 ~計画~  
第9話 : 終焉と始まりと


 

「大ちゃん、ルーミア、早くー!」

「待ってよチルノちゃん!」

 

 妖怪の山の道なき道をチルノは軽快に登っていく。

 ワクワクしながら一人進んでいくチルノに、大妖精とルーミアはついていくのがやっとだった。

 

「チルノ―、もう休もうぜー」

「だって頂上までもうすぐでしょ。 ルーミアは妖怪のくせに山を登りきる元気もないのか!」

「あー、低級妖怪で悪かったな。 でも、なんというかもう全然力が出ないんだ」

「そうだよ、私もちょっと疲れちゃった。 もうすぐ頂上だからこそ、ここらで少し景色でも楽しんでいこうよ」

「むーっ、大ちゃんまでそう言うのか」

 

 チルノは今日の昼間に泣いていたことなど忘れて、すっかりいつも通りになっていた。

 日が沈み始めるまでずっと大妖精とルーミアを引っ張りまわして遊んだあげく、最後に早苗に言われた通り守矢神社に行こうということになったのだ。

 

「しょうがないな。 じゃあ、あたいもあいつをやっつけるためにちょっと休むよ!」

「あいつをやっつけるって……?」

「神社で早苗ともう一回勝負するんだ。 あたい、今度こそ負けないぞ!」

「……まだやる気なのか。 元気でいいな、チルノは」

「でも、やっといつものチルノちゃんに戻ったみたいで安心したよ」

「そーだな」

 

 一日中チルノに付き合ってヘトヘトな2人をよそに、チルノは一人燃えている。

 そんな時間を、3人とも楽しんでいた。

 休むと言ったにもかかわらず、ウズウズしながら走り回っているチルノを見てルーミアが言う。

 

「多分この感じなら、異変が終わり次第他の妖精たちもすぐ戻ってくるだろ」

「うん、大丈夫だと思うよ。 だって皆、なんだかんだ言ってチルノちゃんのことが大好きだもん」

「まあ、あたいは最強だからね! 妖精の皆のことはあたいが守ってあげないとダメなんだから」

「……そーだな」

「もちろん、ルーミアもね! ルーミアも、ルーミアの友達も、皆あたいが守ってあげるんだから!」

「ああ」

 

 チルノの言葉に答えるルーミアは、心なしか沈んで見えた。

 大妖精が少し心配そうな目で見つめるが、ルーミアは目を合わさずに上を向いて、

 

「……でも、私はいいよ。 どうせ異変が終わったらお別れだからな」

 

 そんなことを言う。

 

「えっ!?」

「ど、どうしてさ!?」

「ほら私がいた時ってさ、他の妖精たちは少し居辛そうだったし……何より、妖精の中にあんまり長いこと妖怪が一緒にいたらマズいだろ」

「そんなことないって! ルーミアのことならきっと皆認めてくれるよ」

 

 ルーミアは首を振る。

 

「いいんだ。 だってチルノたちはアレだろ? 妖怪を驚かして楽しむ側だ。 そして、私は驚かされる側の存在だ。 だから、この異変が終わったら私はまた一人に戻るよ」

「一人って……」

 

 ルーミアには同族がいない。

 人食い妖怪にしてはひ弱で、他の種とも異なる存在。

 それ故何にも属せず、ずっと一人で生きてきた。

 こんな性格をしているため自然と他の種に混じることもできたが、長い間誰かと一緒にいることなどなかった。

 地底にいる妖怪のように忌み嫌われていた訳ではない。

 妖怪としては外れ者。 

 妖精にも人間にも混じれない。

 ただ、そういう存在だった。

 

「でも別にそんなこと気にしなくていいじゃんか、みんなもきっと…」

「わかってないなぁ、チルノは」

「ど、どういうことさ!?」

 

 だが、ルーミアがそれを気に病んでいる様子など全くなかった。

 むしろ、自らのそんな境遇に満足しているかのように少し笑って言う。

 

「こういうのが楽しいんじゃないか。 私みたいな外れ者だからこそ、妖怪でも、妖精でも、神や月人って奴らとだって誰とでも接していける。 私は一応、名目上は人食い妖怪だから人間と接するのはちょっとキツいかもしれないけど、中には守矢の巫女みたいな変わり者だっているんだ。 こんな風にいろんな奴と出会っては別れてを繰り返す人生だって、それはそれで楽しいもんさ」

 

 ルーミアは今までずっとそうして生きてきた。

 もう誰かと別れるのが辛いとは思わない。

 誰かと別れるということは、また新しい誰かと出会えるかもしれないということなのだ。

 それは、ずっと一つの種族に、集団に属し続ける者には見えない世界なのだろう。

 

「……」

「そんな顔すんなって。 まあ、たまには私を驚かしにでも来てくれれば嬉しいけどね」

 

 こんなことに慣れきって笑っているルーミアとは対照に、友達とはずっと一緒にいることが当たり前だと思っているチルノや大妖精は寂しそうにうつむく。

 しかし、それでもチルノは無理して笑って、

 

「…わかった! じゃああたい、いつか絶対にルーミアが泣いて驚くような悪戯を仕掛けに行ってあげる!」

 

 ルーミアに向かって小指を差し出す。

 

「約束だ!」

「うん、私も一緒に頑張るよ!」

「……へえ、それは楽しみだ」

 

 ルーミアが手を差し出すと、それに掴み掛るようにチルノが小指で小指を握ってくる。

 そして、少しびっくりしたような顔のルーミアに向かって、

 

「だけど、それまではずっと一緒だからね!」

 

 自分の体の異変も忘れて、チルノは満面の笑みでそう言った。

 大妖精も頷きながらルーミアの目を見ている。

 

「……はいはい、わかったよ」

 

 ルーミアが少し視線を背けて顔をかきながらそう言った。

 

「……それより、冷たいんだが」

「ってわあっ!?」

 

 チルノの小指を伝って、ルーミアの手が少し凍る。

 チルノの近くに来るようになってから自分が凍らない対策を練っていたルーミアだが、さすがに直接力いっぱい接触されてはどうしようもなかった。

 

「ごめん、ルーミア…」

「まったく、相変わらずだなチルノは」

 

 少し目を逸らしてそう言いながらも、ルーミアは残ったほうの手をかざす。

 すると、チルノたちの視界が突然真っ暗になった。

 

「うわっ!? なんだこれ?」

「ちょっと、ルーミアちゃん!?」

「はははー、それじゃ休憩終了。 私は一足先に頂上に一番乗りだー」

 

 チルノと大妖精の視界を闇で覆ったまま、ルーミアは一人足早に進んだ。

 自分の顔が少し紅潮しているのを感じる。

 2人の顔を見るのが、今の自分の顔を2人に見せるのが何か少し照れ臭かった。

 

「約束、か」

 

 ルーミアは振り返らず、逃げるように進みながらそう呟く。

 

「待て―、あたいが一番だー!」

「ま、待ってよチルノちゃん!」

 

 随分と遠くからそんな声が聞こえた。

 だが、既に守矢神社が見えている。

 ルーミアは一気にスピードを上げて駆け抜けた。

 

「よーし、一番乗りー」

 

 猛スピードで迫ってくるチルノから逃げ切って、ルーミアは一人先に守矢神社の境内に着いた。

 しかし、守矢神社に着いてすぐに異変に気付く。

 

「……ん?」

 

 守矢神社は強力な結界で覆われていた。

 その中には神社に置くにはとても似つかわしくない、見たこともないような無機質な物体が並べられていた。

 

「なんだ、これ?」

 

 ルーミアにはそれが何なのかは全くわからない。

 ただ、辺りを覆う不吉な空気だけを感じる。

 そして……

 

「ルーミア、ずるい…」

 

 そう言いかけて、チルノは次の瞬間ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

「……え?」

「すまない。 お前たちに恨みはないが…」

 

 突然守矢神社の上から降ってきた何かが、ルーミアに向かって大きな刀を振り下ろしていた。

 それと共に宙を舞った鮮血が、目の前の白狼天狗を染める。

 

「ルーミア……?」

 

 そして、そのまま地面に倒れ込んで動かなくなったルーミアを、朱に染まった椛が静かに見下ろしていた。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第9話 : 終焉と始まりと

 

 

 

 

 

「……邪悪を、消滅させる?」

「ええ。 今は八坂様と洩矢様が引き継いでいますが、そもそもこの計画の立案者は紫さんでした」

 

 文は後ろを向いたまま木や岩肌を華麗にすり抜けながら進んでいく。

 早苗は荒れた道に苦戦しながらも、なんとか文についていく。

 

「待ってください! 何なんですか、その邪悪っていうのは……?」

「まぁ簡単に言えば、その昔存在した、世界を滅ぼすほどの邪悪……絶対悪とでも呼ぶべきものと紫さんは言ってました」

「世界を滅ぼすって……何ですかそれ。 そんな途方もない話、聞いたことないですよ」

「私も、今回初めて聞かされました。 ……続けてもいいですか」

「……はい」

 

 まだ少しだけいつものような異変を想像していた早苗は、突然出てきた世界単位の話に頭がついていけない。

 話の触りを聞いただけで、早苗の顔が少し緊張で歪む。

 

「しかし、その邪悪は生まれる前ですら非常に強大な力を持っていて、完全に消滅させることも、封印することも、容易ではありませんでした。 そこで紫さんは閻魔様たちの協力も得て、その邪悪を3つに分けて封印することにしたそうです」

「3つに、分ける?」

「ええ。 その構成要素を閻魔様の能力で明確化し、決定づけられた3つの要素を紫さんの能力で境界分けして、それぞれ別の僻地に封印しました」

「まさか、その一つが…」

「そう。 前回の異変の舞台、旧地獄の最深部にある旧灼熱地獄です。 そして、その異変では間欠泉と一緒に地底の奥底にいた怨霊が湧き出てきたそうです。 紫さんはその時大急ぎで地底に向かったそうですが、そこに封印したはずの邪悪はもうどこにもいなかったみたいです」

「ということは…」

「ええ。 恐らくは怨霊を経由して、地上の生物たちに憑りついたのでしょう。 恐らくそれが、今回の異変の根本的な原因だろうとされています」

 

 そして、それが神奈子たちが紫に協力せざるを得なかった理由の一つであった。

 そもそも地底での異変は妖怪の山のエネルギー開発のために、神奈子が地底に八咫烏の力を送り込んだことが原因で起こったのだ。

 神奈子たちなりに幻想郷の未来を思って始めたことが、まさか幻想郷どころか世界を危険にさらすことになるとは思ってもみなかったのだろう。

 

「なるほど。 なんとなくですが、今回の異変のことについてはわかりました。 ……それで、神奈子様と諏訪子様は今、結局何をしているんですか?」

「それは……」

 

 文がまた少し口ごもる。

 しかし、早苗は何か口をはさむでもなく、そんな文のことをただまっすぐ見ている。

 しばらく無言のまま2人は守矢神社に向かっていったが、やがて文が口を開く。

 

「その怨霊の……邪悪の力の『感染者』を確保し、状態によっては隔離、封印。 あるいは……抹消、しています」

「なっ……抹消って、まさか」

「言葉のとおりです。 それに感染した者の存在が、そのままその邪悪の原動力になるんです。 だから、どんな手を使ってでも、その感染者を減らしていく必要がありました」

 

 実際、現状ではそうするしかなかった。

 感染者たちが持つ力は次第に増幅され、放っておけばそれは紫や神奈子たちですら手に余るものとなってしまう。

 そして、力をつけた感染者たちは手当たり次第周囲に危害を加え続けるのだ。

 それを治す手段が今のところ見つかっていない以上、居場所が発覚した時点で即捕える、あるいは消す必要があった。

 だから、異変で力をつけた者をどれだけ探しても見つからなかった。

 その能力を使って瞬時に捕えることのできる紫が昨日から不在となったため活動は少し停滞気味にはなっていたものの、藍や神奈子や諏訪子という実力者たちがその存在を隠していたのならば、魔理沙や早苗がいくら頑張ったところでそれを発見することは容易ではないのである。

 

「ふざけないでくださいっ!!」

 

 だが、そのことを知った早苗は文に向かって怒鳴る。

 それは文がかつて見たことのないほどの、早苗の怒りの表情だった。

 

「射命丸さんは…自分たちが何をやっているのかわかってるんですか?」

 

 しかし、文は動じない。 

 そうなることがわかっていたかのように、冷静な口調で返す。

 

「……だから、私たちは早苗さんに黙っていたんです。 早苗さんがこんな計画に乗ってくれる訳がないですから」

「当たり前じゃないですか、そんなことしなくても…っ!?」

 

 そこで、早苗が怯む。

 激昂する早苗以上に、文の視線が冷たく、真剣だったからだ。

 

「そんなことしなくても、なんですか? だったら早苗さんはどうすればよかったと思いますか?」

「どうって、そんなの…」

「こんな事態は初めてだというのに、私たちに失敗は許されないんです。 もしこのまま感染者が増えてその邪悪が蘇ってしまえば、その被害はこの異変の影響で今出ている犠牲者なんてレベルじゃない。 何千、何万の命、もしかしたら幻想郷、いや、世界そのものが滅びてしまうかもしれないという責任を負ってなお、そんな甘い考えが口にできますか?」

「……」

 

 早苗には何も言えなかった。

 恐らく、萃香が今ここにいない原因もこの異変が進行してしまったことにあるのだ。

 それを放っておけば、こんな悲しみがまた繰り返されるだろうことは早苗にも容易に想像できた。

 だが、頭ではわかっていても、早苗はそれを受け入れることができない。

 どんなことでも受け入れると覚悟していたつもりなのに、まだその覚悟が足りていなかったと痛感させられていた。

 それでも……

 

「私は…」

「ですが、早苗さんはそのままでいてください。 今回のことについては疑ってかかる人も必要です」

「え?」

「私も、紫さんたちを完全に信用した訳じゃありません。 私が教えてもらったことだけでは説明できない秘密が、少し多すぎますから」

 

 正直に言うと文にはわからないことだらけだった。

 早苗に言ったことが知っている全てという訳ではないが、それでも考え出したらキリがないほどに疑問が残っていた。

 だが、聞いたところで神奈子たちはそれ以上を教えてくれないし、そもそも紫や藍以外の誰かがそれ以上のことを知っているのかも怪しいのだ。

 そして、疑問が残るのは早苗も同じである。

 明らかに許容範囲を超えた状況を前に、早苗の頭は既にパンク寸前だった。

 

「あまり考え込まないでください、早苗さん。 もうすぐ守矢神社に着くんですから、思うことがあるのなら聞けばいいんですよ。 今の早苗さんには、この異変のことをしっかり知るだけの資格が十分あると思います」

「……そうですか」

 

 本当はまだ自分は口だけで何の覚悟もできていないのではないかと思い始めていた早苗は、文の言葉を素直に受け取れない。

 異変のことを知る資格なんてものが、本当に自分にあるのか。

 たとえあったとしても、それに伴う覚悟や力が果たして自分にあるのだろうかと。

 

「……あれ? あれは、大妖精さんじゃないですか?」

 

 文が、大急ぎで山を登っていく大妖精を見つける。

 そう言われて早苗が目線を上げると、一瞬だけ視界の片隅に映った大妖精の姿がすぐに見えなくなった。

 

「そういえば、チルノさんたちにはいつでも守矢神社に来てくださいって言いましたからね……――っ!!」

 

 早苗はさっきの話とチルノのことを照らし合わせる。

 神奈子たちは、その感染者たちを抹消しようとしていると文は言った。

 ならば、チルノがその例外になるはずがない。

 早苗は我を忘れて大急ぎで大妖精を追いかけた。

 

「待ってください、早苗さん!」

 

 ――このままじゃ、チルノさんがっ!?

 

 文さえも抜き去って、早苗はすぐに神社の境内にたどり着く。

 そこにあったのは異様な光景だった。

 

「チルノちゃん、一体何が…」

「ルーミアっ!?」

 

 そこには既に氷の鎧を纏ったチルノがいた。

 その前にあったのは、冷静な表情でチルノに向かって大きな刀を構える椛の姿だった。

 チルノは無我夢中で飛びながらも、半ば自働で行われているかのように椛に向かって大量の氷の刃を飛ばしていた。

 椛はそれに気づき、刀で制そうとするが、

 

「なっ……!?」

 

 その刀は一瞬で空気と一体化し、全ての熱を失う。

 椛は瞬時にその脅威を察知し、凍りかけた自分の手をそれでも刀から離して大きく後ろへ跳んだ。

 椛の持っていた刀は空中で氷漬けになって静止していた。

 そして、刀を持っていた手はほぼ凍傷の状態で、特に前に出していた右手はしばらくはまともに動きそうもない。

 その状況を察知した瞬間、椛は既にチルノの力が自分を上回っているだろうことを確信して身構えた。

 しかし、そんな冷静な椛とは違い、文は突然目の前で起きている状況を飲み込めないまま口を開く。

 

「ちょっと待って、椛、どういう状況!? なんでルーミアさんまで斬られて…」

「文……っ!? このバカ、なぜ東風谷様まで一緒にいる!!」

「なっ…バカって!?」

 

 状況が読めていないまま狼狽えている文を、椛はいつも以上にイライラした顔で睨む。

 その隙に、チルノは倒れているルーミアを抱きかかえた。

 

「しっかりしろ、ルーミア!!」

「……あー、チルノ、冷たい。 っていうかその状態で直接触られると冷たいってよりもはや痛いぞそれ」

「え?」

「なっ!?」

 

 しかし、そこに倒れていたルーミアはほぼ無傷だった。

 ルーミアは何事もなかったかのように立ち上がって言う。

 

「……ははは、残念。 ギリギリで闇を纏って斬撃を防いだのだー」

「バカな!? 動けるわけがないっ、だって、こんなに…」

 

「椛さん!!」

 

 狼狽える椛に向かって、早苗が叫ぶ。

 

「……何を、しているんですか?」

 

 椛は少し気まずそうな顔をするが、その目は早苗のことなど見ていない。

 あくまでこの隙に逃げようとするチルノたちだけを追っていた。

 

「逃がすか…!」

「待って椛! 多分チルノさんはまだ大丈夫だから…」

 

 そこに文が割って入る。

 早苗もチルノたちを守るかのように立ちふさがった。

 だが、椛はあくまでチルノたちと文のことだけをその目に捉えている。

 

「……命令を聞いていなかったのか? 少なくとも今日一日は東風谷様をここに近づけないのがお前の任務だっただろう」

「えっ!?」

「いいんだよ、椛。 もう早苗さんは子供じゃない。 少しくらい…」

「誰に許可を得てそんなことを言っている!!」

 

 本来であれば文よりも下の立場であるはずの椛が、文に向かって怒鳴る。

 それは階級社会である妖怪の山においては許されざることであるが、今は状況が違った。

 今妖怪の山の全権を担っているのは身分などに囚われない神奈子であるし、何より、たとえ文がどう判断しようと早苗が計画に立ち入っているこの状況は文が招いたものだからだ。

 

「その言葉、そっくりそのままお返しします、椛さん。 射命丸さんには私がここに連れてくるように頼みました。 椛さんこそ誰に断ってこんなことを…」

 

「私だよ」

 

 早苗がそう言いかけると、それを遮るように守矢神社の方から聞き覚えのある声が届いた。

 そして、突如として大きな揺れと共に大地が割れるかのような低い音が響く。

 

「うわっ!?」

「きゃあああああ!?」

 

 その音とともに、逃げたはずのチルノたちが早苗の前に転がり落ちてきた。

 チルノたちの進もうとした先の地面はえぐれるように大きく反り返り、まるで壁のようになっていた。

 早苗が目を向けると、その大地の壁の上にはチルノたちの前に立ちはだかるように諏訪子が、守矢神社の中には神奈子がいた。

 

「……神奈子様、諏訪子様」

 

 それを見て早苗は理解する。

 今チルノたちに攻撃を仕掛けたのは諏訪子なのだろう。

 そして、椛にこんな指示をしたのは神奈子だ。

 

「どうして……」

 

 それを実際に見てしまった早苗は、どれだけ覚悟をしていようとも、まだ心のどこかで2人のことを信じていただけにその顔が悲しく歪んでいく。

 

「大丈夫か!? 大ちゃん、ルーミア!」

「ああ。 私は何とか…」

「ぅ……」

 

 3人の内、チルノだけはまだ無事だったが、ルーミアは負傷し、大妖精はもうほとんど動けなくなっていた。

 ただ呆然と立ち尽くしていた早苗だったが、その様子を見て、神奈子と諏訪子に向かって一切怯むことなく食って掛かる。

 

「……だとしたら、なおさらです。 チルノさんたちは私の客人です。 いくら神奈子様と諏訪子様でも勝手に…」

「何をしている、射命丸。 早苗をさっさと連れていけ」

 

 しかし、やはり神奈子は椛と同じく早苗の話など聞かない。

 ただ、文だけに強く言った。

 

「っ、話を聞いてください、神奈子様!」

「ですが八坂様、話が違います! チルノさんはまだ十分な自我を保っていますし、何より無関係の大妖精さんとルーミアさんまで…」

「馬鹿が、まだわからないのか!!」

 

 そう怒鳴り、神奈子が文を睨む。

 一瞬戸惑った様子だった文だが、やがて握りしめたその拳からゆっくりと力を抜く。

 そして、何かを悟ったように呟いた。

 

「……ああ。 そういうことですか」

「射命丸さん…?」

 

 そして――

 

「……スペルカード宣言、風符『天狗道の開風』」

「え?」

 

 突如発生した風が早苗に襲い掛かる。

 予想外に起きた突風を避ける術はなく、早苗は無残に飛ばされて、来た道を転げ落ちていく。

 

「――――っ!!」

 

 とっさに逆風を出して減速したものの、早苗は神社から遠く引き離れされてしまう。

 ようやく勢いの全てを相殺して止まることのできた早苗が顔を上げると、そこには文が守矢神社へと続く道を塞ぐように立っていた。

 

「何を……何をするんですか射命丸さん!!」

 

 早苗は至る所が破れて泥だらけになった服のことも、折れた木の枝や地面に当たって体中にできた傷跡のことも気にせず、文に向かって叫んだ。

 

「すみませんが、しばらくは守矢神社から離れていてください」

「……その理由が分かりません。 どうしてか説明してください」

「言えません」

「そんな……神奈子様と諏訪子様は一体これから何をしようとしてるんですか!?」

「言えません」

 

 早苗は必死に文に聞くが、文は淡々とそれを拒絶する。

 早苗は、気付くと両手の指を地面に突き立てるようにして力いっぱい握りしめていた。

 

「なんでですか、射命丸さん……」

「……」

「私たちはついさっき誓ったばかりじゃないですか。 私たちがこの異変を解決するんだって。 私たちのことを信じてくれた萃香さんを絶対に裏切らないって!」

 

 早苗の目には、微かに涙が浮かんでいた。

 まるで世界の何もかもに裏切られたような悔しさに、ただ歯を食いしばっている。

 それでも、文なら話せば絶対にわかってくれると思っていた。

 

「ええ。 誓いました」

 

 しかし、文は表情を一切変えずにサラッと言う。

 

「ただ、一つ勘違いしていませんか?」

「……私が、何を勘違いしてるっていうんですか」

「今、守矢神社に向かうことが早苗さんの正義だというのなら、それでいいです。 何も間違ってなんかいません」

「だったら!」

「ですが、それはあくまで早苗さんの正義です。 そして――」

 

 そのまま、文はまた新たなスペルカードを構える。

 

「――これが、私の正義です」

 

 それは明確な決別の合図だった。

 さっきまで本当に信頼していた文は、一瞬で早苗の敵となり代わった。

 しかし、文の目には一点の曇りも迷いもない。

 そこに宿っているのは、言葉で言って通じるような覚悟では、なかった。

 

「……そうですか」

 

 早苗は静かに答えた。

 そして、懐に手を入れながらゆっくりと立ち上がる。

 

「それなら、私はここを押し通らせてもらいます」

「いいでしょう。 ではスペルカード枚数は…」

「一枚です。 今の私には射命丸さんのために割いているような時間はありません」

 

 一方的にそう言うと、早苗は一枚のスペルカードを取り出した。

 文は早苗とは今まで何度かスペルカード戦の勝負をしており、全てのスペルカードやその難易度を把握しているはずだった。

 早苗の成長速度を考えるのならば、恐らくは五分五分の戦いとなる。

 そう考えていた文だったが、早苗の懐から取り出された、一度も見たことのないスペルカードを見て戸惑う。

 

 そして、早苗の周りの空気の流れが変わった。

 

「霊夢さんとの勝負のためにずっと温めておいたんですが……本気の射命丸さんが相手ならそうも言ってられませんよね」

「これ、は…?」

 

 早苗を中心に強い風が渦を巻き始める。

 いや、ただの強い風ではない。

 風を司る文には風のスペルカードなど通用しそうもないものだが、これはもはや風と呼べるような代物ではなかった。

 辺りに巻き上げられた木の葉が、木々が、石が、大地が、風に呑まれるように散っては消えていく。

 分解されたそれらは早苗が上げた腕に沿うように渦を巻きながら結合し、天に向かっていく。

 その姿はまるで…

 

「龍……?」

 

 早苗を取り囲むように現れた塵と暴風の弾幕から成る龍を前に、文はただ言葉もなく立ち尽くしていた。

 それは他の早苗のスペルカードからは感じられない、強い死のイメージを初めて文に抱かせた。

 だが、それでも文の目は冷静にその弾幕を見ながら次の一手を模索している。

 文が退く様子は、全くない。

 

「……お願いですから、死ぬ前に諦めてくださいね」

 

 そして、早苗はその腕を振り下ろして宣言する。

 

 

「――大奇跡『八坂の神風』――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「椛、お前は引き続き見張りに戻れ」

「はい」

 

 そう答えて、椛は守矢神社の屋根の上へと戻った。

 腕が使い物にならなくなったからといって、椛は戦線を離脱したりはしない。

 もう戦うことのできる状態にはなくとも、状況を見張ることくらいはできるからだ。

 その眼には、遠くで早苗の繰り出す風に翻弄される文が映っている。

 

「さて、そいつらのことは頼んだぞ、諏訪子」

「はいよ」

 

 そう言って神奈子は何をするつもりなのか、再び神社の奥に戻っていく。

 そしてただ一人、諏訪子だけがチルノたちの前に立ちふさがっている。

 2人を後ろに庇いながら、チルノは敵対心をむき出しにして諏訪子に対峙していた。

 だが、ルーミアは動けなくなった大妖精を抱えながらも冷静にチルノに言う。

 

「チルノ……まともに戦おうだなんて思うな。 こいつ、神だ。 それも多分、最上級の。 ちょっとくらい力がついた程度で太刀打ちできるような相手じゃない」

「でも、こいつは大ちゃんを!!」

「冷静になれ! 今大事なのはこいつを倒すことじゃない、大妖精を連れてどうやってこの場を逃げるかだろ?」

「あ……う、うん、わかった!」

 

 ルーミアが目くばせをすると、チルノはすぐに諏訪子に大量の氷の刃を飛ばす。

 それと同時に守矢神社全体が暗闇に覆われる。

 

「あれっ!? 見えない! なんで、なんにも…」

「いいから逃げるぞチルノ! 大丈夫、私の能力だから」

 

 ルーミアが暗闇をつくり、チルノの氷でかく乱する。

 その隙に逆の方向に逃げるというのが、単純ではあるが最善だとルーミアは判断したが……

 

「ああ、一応言っておくけど逃げられるだなんて思わないでね」

 

 諏訪子がそう言って指を鳴らすと、諏訪子に向かって飛んできた氷の刃はひとつ残らず砕け散る。

 暗闇の中で何が起こっていたのかはわからないが、自分が全力で圧縮して放った氷の刃が一瞬で全部砕けたことを察知したチルノは顔を引きつらせる。

 自称最強を名乗るチルノですら、瞬時にその力量差を本能に刻み込まされていた。

 そして、チルノはすぐにルーミアの言う通り逃げることに頭を切り替えたが……同時に周囲を取り囲むように隙間なく水柱が上がっていく。

 それは特段殺傷力のあるものではなかったが、そこにチルノがいたのがダメだった。

 

「痛っ!?」

「はい、簡易リングのできあがり」

「これは……?」

 

 チルノは暗闇の中で全力で何か分厚い壁のようなものに激突してしまう。

 冷やされた水柱が、チルノたちを取り囲むように氷の壁を作り出していた。

 今はそれぞれが冷気への対策を練っているから平気なものの、暴走したチルノの纏う冷気によって今の守矢神社付近の気温は氷点下にまで下がっていたのだ。

 混乱するチルノをよそに、暗闇の中で目が効くルーミアは一人冷静に逃げ道を探してはいたが、あまりに分厚すぎる氷のドームに囲まれ、空に逃げることすらできず、逃げ道は完全に閉ざされていた。

 

「どうなってるのさ、これは!」

「落ち着け、チルノ。 今この辺は氷の壁で囲まれてる。 逃げ道はなさそうだ」

「そういうことだよ。 ほら、しばらくここで大人しくしててね」

「……なんでさ。 どうしてこんなことするんだ、あたいたちが一体何をしたっていうんだ!!」

「そんなこと、妖精に言っても多分理解できないわ。 それに、たとえ伝わったとしても、それは決して相容れることはないものよ」

 

 ただ闇雲に叫んでるだけのチルノとは違い、ルーミアは冷静に諏訪子の隙を伺っていた。

 今この状況で目が見えているのは自分だけのはず。

 だから、どこかに突破口はあるはずだと思っていた。

 だが、見えているはずのない諏訪子のその目は、完全な暗闇の中でも明確に3人の姿を捉えているように見える。

 

「……マジかー」

 

 諏訪子クラスになると、たとえ目が見えなくとも、気配がなくとも、空気や地質の流れを感じるだけで誰がどこにいるのかがわかる。

 こんな低級妖怪1人と妖精2人という格下相手であっても、諏訪子が一瞬たりとも油断することはなかった。

 これでは自分の能力はチルノの妨げになるだけだと思ったルーミアは、諦めてその闇を消していく。

 

「あれ、見えるぞ?」

「……」

「ああ大丈夫、侮ったりなんてしないよ。 そこの氷の妖精も、今は割と高位の妖怪と戦えるくらいの力があることは把握してるからね」

「ちっ」

「よくわかんないけど、とにかくあたいたちはもう帰るんだ! 邪魔するならお前も凍らせていくよ!」

「そういう訳にもいかな…」

 

 諏訪子がそこまで言いかけて、全身氷漬けになる。

 チルノが前方につくった氷の塊の中心に閉じ込めたのだ。

 

「今のうちに逃げるよ!」

「でも、どうやって?」

「それは……」

「無理だよ。 諦めてじっとしててよ」

「えっ?」

 

 そこに、凍っていて喋れるはずのない諏訪子の声が響く。

 諏訪子が氷の塊の中で、まるで木の葉をかき分けるがごとくその腕を動かすと共に、取り囲む氷は粉々に砕け散っていた。

 

「そんな…」

「周りは全部氷の壁に囲まれてるから逃げられないよ。 今の貴方は凍らせることはできてもその氷を溶かすことも壊すこともできないんでしょ?」

 

 完全に凍らせたはずの諏訪子は、何事もなかったかのように3人の前に座り込んで、気楽そうな声で言う。

 いくら強化されているとはいえ、もはやチルノの力などほんの少しの足止め程度にしかならないことは明白だった。

 だが、諏訪子は特段何をする訳でもなく、のんびりと座りながら3人を見張っているだけだった。

 まるで、何かを待っているかのように。

 

「洩矢様!!」

 

 そこに、椛の声が響く。

 余裕の表情だった諏訪子はそれを聞いてゆっくりと立ち上がり、振り向きかけて……目を見開いて身構えた。

 

「っ!!」

 

 諏訪子が反射的に地面に手のひらをつけると同時に、氷の壁の向こうに分厚い大地の壁ができる。

 だが次の瞬間、その大地の壁ごとチルノたちの周りを覆っていた氷の壁が全て弾け飛んだ。

 

「うわあああああっ!?」

「何だっ?」

 

 それでも中の4人にケガはない。

 突如襲い掛かった巨大な龍は正確に大地の壁と氷のドームだけを消し飛ばしていた。

 

 そこには天まで届かんとする風龍を纏った早苗が立っている。

 

「……あー、射命丸はどうしたんだ?」

「向こうで少し眠ってもらってます」

「……確かに成長してくれるのは嬉しいんだけど。 ここまでとはねえ」

 

 早苗を取り巻いているその風はもはや人間が単独で出せるような大きさの力ではなかった。

 その身体に相当の負荷を、犠牲を伴って初めて出せるであろう力。

 もう一歩進めば風神の背中に届くだろうほどの風を、諏訪子に向けながら、

 

「――諏訪子様」

 

 早苗は龍を纏っていないもう一方の手でスペルカードを構えた。

 それを見て諏訪子が驚く。

 

「本気かい?」

「こうでもしなければ、諏訪子様は本気で私と話なんてしてくれないのでしょう?」

「……そうだね」

 

 早苗はもはや諏訪子に言い訳の余地すら与えるつもりはなかった。

 問答無用にスペルカードルールで諏訪子を打ちのめして解決するつもりなのである。

 しかし、早苗は今まで何度も諏訪子にスペルカード戦の手ほどきをしてもらっていたから理解していた。

 早苗と諏訪子の間には、ライバルというよりも師弟関係と言っていいほどの力の差があったことを。

 早苗は今の自分では諏訪子に勝てないことくらいわかってるつもりだった。

 それでも――

 

「……今まで諏訪子様と神奈子様は、未熟な私をいつも正してくれましたよね」

「そうだったっけ」

「こんなに出来の悪い私を、それでも見捨てることなくずっと見守っていてくれた」

 

 早苗がその風の力を溜めこんだまま、俯いて言う。

 だが、早苗は顔を上げ、諏訪子に向けたことのないような強い目をして、

 

「……だからこそ、私は何があっても絶対に逃げません! 諏訪子様が、神奈子様が道を外れたのなら、今度は私が2人を叱って正していきます。 たとえ何度負けようとも、どれだけ打ちのめされようとも、絶対にです!!」

 

 そう宣言した。

 予想外の早苗のその一言に、諏訪子の口元が緩む。

 

 ――あの早苗が、ここまで……

 

 諏訪子の頭からは既に計画のことなど吹き飛んでいた。

 そして、諏訪子の目つきが変わる。

 真剣なだけの目ではない。

 怒り狂ったときの目でもない。

 ただ、本気の目。 目の前の獲物を捕らえるために見開いた、久しく忘れていた野生の目。

 

「っ――!!」

 

 今まで感じたことのないほどの諏訪子の気迫に、早苗の足が震える。

 いや、そこから発せられているのは気迫でもない、覇気でもない、殺気でもない。

 ただ、祟神さえも支配する「恐怖」を纏った圧倒的な狂気。

 誰もが抵抗もなく服従してしまうような圧倒的な力。

 

 しかし、それを前に早苗は――

 

「へえ。 今の私を目の前にして、笑うか」

「あれ、私そんな顔してますか? ……でも、」

 

 そこにいたのは、いつもの諏訪子ではない。

 本来の自分を押し殺すように存在していた諏訪子ではない。

 その昔、神奈子と戦った時。

 霊夢に打ちのめされた時。

 そんな、本当の強敵に出会った時にしか見ることのない、諏訪子の本気の表情。

 そんなものを自分に向けられた早苗は、今度は思いっきり笑って言う。

 

「そんなの、笑うにきまってるじゃないですか!」

 

 初めて自分が認められた。

 見守られる対象じゃない、諏訪子の前に立つ対等なものとして認められたのだ。

 今の早苗の震えは恐怖から来るものではない。

 それは、嬉しさと高揚感から来る武者震いだった。

 

「そうかい、だったら御託はいい。 さあ、来なよ!」

 

 諏訪子に駆り立てられ、早苗は纏った風龍をさらに凝縮させる。

 それに伴って早苗の顔が苦痛に歪んでいく。

 元々人間に扱いきれるような大きさの力ではないのだ。

 暴走するそれを、ただ無理矢理押さえ込んでいるに過ぎない早苗には既に限界がきていた。

 だが、明らかに許容範囲を超えて悲鳴を上げる自分の体を、早苗はそれでも気遣うことはない。

 

 今、この瞬間のために生きてきた。

 異変を解決することじゃない。

 霊夢を超えることじゃない。

 ただ、神奈子と諏訪子に本当の意味で認めてもらう日だけを夢見てきた。

 だとしたら、この先のことなど考えていられない。

 早苗の頭からも、既に当初の目的など完全に消え去っていた。

 

 そして、早苗の風龍が大気を支配し、そこに存在するものを全て塵に変えていく。

 世界さえ消し飛ばしてしまいそうな脅威を纏った風龍をその右腕一本に乗せ、早苗が宣言する。

 

「行きます! スペルカード宣言、大奇跡…」

 

「そこまでだ」

 

 だが、その言葉と共に、早苗は自分の纏う風が不安定になるのを感じる。

 風龍の体はいつの間にか細切れになっていた。

 

「え……?」

 

 流れを断ち切られ、圧縮された風が拡散されていく。

 しかし、本来ならば神社ごと消し飛んでもおかしくない風の残照が取り残されたその地には、それでも次の瞬間何事もなかったかのように静寂が戻る。

 

「なんで、そんな……」

「気持ちはわかるが、遊びすぎだ諏訪子。 今は目的を忘れるな」

「あ……ごめん」

 

 諏訪子の表情が元に戻っていく。

 自分の限界さえも超えて放ったそのスペルカードが簡単に消え去ってしまった早苗は、動揺を隠しきれない。

 神奈子はその『乾を創造する能力』、即ち大気の全てを司る力を使ってその風を治めた手を、何事もなかったかのようにゆっくりと下ろした。

 そう。 人間である早苗がどれほどの風の力を放とうとも、本物の風神の前ではそれはあまりに無力だった。

 

「すまない、早苗。 今回のことはいつかきっと説明する」

「……」

 

 その声はもう、早苗に届いてはいなかった。

 

 今までずっと努力してきた。

 そして、初めてその努力が報われたと思った。

 初めて自分が認められたと思った。

 なのに…

 

 ――こんなにも、遠い。

 

 早苗は膝から崩れ落ちてその場に座り込む。

 その目は自らの放った風があったはずの静寂の空を、ただ呆然と見つめていた。

 

 神奈子はそんな早苗を横目に、早苗のスペルカードと諏訪子の狂気にあてられて腰を抜かしているチルノたちの方へ向かう。

 

「さて、不測の事態もあったが、やっと準備が整ったよ」

「あ……いや……」

 

 大妖精は既に気絶していた。

 そして、ルーミアでさえも、その目には明らかに恐怖の色が滲んでいた。

 神奈子はそのまま3人に向かって手を伸ばす。

 しかし、

 

「ぐっ!?」

 

 突如、神奈子の表情が歪んだ。

 その前には、俯いたままチルノが立ちふさがっている。

 

「……あたいは、逃げない」

 

 チルノは少し強がるように呟く。

 その身体は震えていた。

 怖くて、本当は泣いて逃げ出してしまいたい。

 そんな自分の感情を理解しながらも、それでもチルノは神奈子を強く睨む。

 

「お前がどんな奴だって知らない。 それでもあたいは最強なんだ」

「お前は……」

 

 チルノの力はさらに膨れ上がっていた。

 チルノに睨まれただけでその芯まで凍った神奈子の指が一本、折れて落ちる。

 

「だから、大ちゃんとルーミアには……もう、指一本触れさせるもんか!!」

 

 そして、チルノの震えが止まった。

 チルノを取り囲むように再び氷の鎧が出現し、守矢神社全体を覆うほどの無数の氷の刃が次々に神奈子に向かって飛んでいく。

 

 しかし、神奈子はその刃にも指の落ちた自分の手にも目もくれず、チルノの方を見て、

 

「……ああ、もう手遅れだったか」

 

 悲しそうな顔をしてそんなことを言った。

 神奈子に飛んできた氷の刃は、全て神奈子の直前で薄い風の膜に阻まれ、粉々に砕けて消える。

 

「え……?」

「少しは穏便に済ませようとも思っていたんだがな」

 

 そう言って神奈子が目を閉じると共に、大きな地震が起きる。

 正確には地震ではない。

 何か大きなものが動いたかのような振動。

 そして、気付くとそこには地面から大きな柱が何本も生えてきていた。

 

「なに、これ……?」

 

 大木を切り出して作られる御柱は、神奈子が戦闘で使う武器の一つであった。

 しかし、今回神奈子を囲うように現れた柱は、早苗が知っているような「スペルカード戦のために用意された柱」ではない。

 そこにあったのは、特殊な木を呪詛や札で覆った禍々しい代物だった。

 それを見て早苗は我に返り、神奈子が本気であることを確信する。

 

「逃げてください!!」

 

 チルノに向かってそう言うと、早苗は神奈子の方に走り出そうとする。

 しかし、早苗の足は大地の枷に拘束されていた。

 

「頼むよ、少しだけじっとしててよ」

「諏訪子様……っ!」

 

 諏訪子は木の蔦を早苗に絡ませ、さらに拘束する。

 動けない早苗はただ必死にチルノに呼びかける。

 

「チルノさん、逃げてください!!」

「うおおおおおおお!!」

 

 チルノにその声は届かなかった。

 チルノは全力で溜めた冷気を纏ったまま、神奈子に向かって突っ込んだ。

 だが、結果は火を見るより明らかであった。

 神奈子によって飛ばされた一本の御柱は、その空気摩擦の熱だけで冷気を全て掻き消してチルノにかすった。

 ほんの少しかすった。 ただそれだけで、チルノは地面に叩きつけられ、全身を得体のしれないものに焼かれるような痛みを感じていた。

 

「うぐあ、ああああああああああ!!」

「チルノ……?」

 

 ルーミアが不安そうな顔でチルノを見る。

 チルノのその痛がり様は異常だった。

 チルノはその氷の力を使って傷口を塞ぐことも、痛覚を麻痺させることも容易なはずだった。

 しかし、今のチルノにはそれができていないのだ。

 

「痛いよ、なんで、痛いよおおあああああ!?」

 

 本来なら、使うこと自体が躊躇われるような呪詛を纏った強大な力。

 妖怪や妖精が自らの身体を再生する力すらも、それごと消滅させるほどの呪いを乗せた禁呪の力。

 それを食らった痛みは、チルノにとって初めて経験するものだった。

 そのあまりの痛みに起き上がることができない。

 神奈子は申し訳なさそうな目をして、言う。

 

「……すまない、外したか」

 

 チルノは何も聞こえていないかのごとくのたうちまわっている。

 

「やめてください、神奈子様!!」

 

 早苗の必死の叫びも空しくかき消される。

 神奈子は、今度は大量の御柱を3人の周囲を取り囲むように構える。

 そして――

 

「……大丈夫、もう痛みなど感じさせない。 これで終わりにしてやる」

「やめてえええええええ!!」

「痛い、痛い、あああああああ!!!」

 

「――チルノっ!!」

 

「神祭、『エクスパンデッド・オンバシラ』」

 

 神奈子の宣言とほぼ同時に、ルーミアがチルノを呼ぶ声が響き渡った。

 突如、ルーミアが纏っていた闇が実体をもってチルノと大妖精の体を包む。

 そして、御柱の間を縫って、早苗の後ろに向かって2人を放り投げた。

 

「……え?」

 

 チルノは激痛の中、自分が元いた場所を見る。

 ルーミアは、笑っていた。

 

「……お前は、生きろよ」

 

 そして、その笑顔は神奈子の放った御柱の影に消えていった。

 

「ルー、ミア?」

 

 返事はない。

 返事というよりも、その影はおろか、砂煙さえも上がっていない。

 一か所に向かって衝突した御柱はそれを無残に粉砕した。

 あらゆる力が集約して融合したそこには、爆発どころか何かが起きたようにすら感じなかった。

 ただ、無音のまま空間そのものを歪ませて消し去り、そこには完全な「無」だけが存在していた。

 

「そんな……」

「ルーミア、なんで……」

 

 自分を襲う激痛のことなど、既にチルノの頭からは消え去っていた。

 

「……いやだ。 なんでよ、いやだ嘘だ、こんなの……」

 

 チルノはただ、ルーミアが「いた」はずの空間を見つめて、呆然と立ち尽くしていた。

 そして、

 

「嘘だああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 チルノが叫ぶとともに、突如妖怪の山が震える。

 

「っ、なんだ!?」

「神奈子! まさかこれは…」

「バカな、あり得ない!! どうして…」

 

 チルノを中心にして妖怪の山が枯れていく。

 枯れていくというよりも、全ての生命が止まっていくかのようだった。

 守矢神社が、わずかに残っていた木々が、薙ぎ倒された残骸たちが、全てが形を失って崩れ落ちていく。

 細胞組織そのものが崩壊し、やがて全てが一体化していく。

 無差別に、全ての存在の生命エネルギーそのものを凍結させていく。

 

 そして、誰に向けるでもなく、チルノが小さく呟いた。

 

「……許さない」

「チルノさん…?」

「殺してやる。 全員、絶対に殺してやる」

 

 涙さえ出ないその目からは、完全に光が失われていた。

 

「チルノさん、落ち着いて…」

「お前も、裏切ったんだな」

「え?」

 

 早苗が困惑した表情を浮かべる。

 

「あたいは……信じてた。 お前は友達なんだって信じてた! それなのに!」

「違うんです、チルノさ…」

「うるさい! うるさいうるさいうるさい。 あたいは、あたいは…!!」

 

 《そう。 お前は、全てが憎い》

 

 そこに、何か声が響く。

 早苗たちには聞こえない、ただチルノだけに直接語りかけるような声。

 チルノはそれに答えるように、ただその感情を乗せた言葉を吐き捨てる。

 

「……憎い。 ただお前が、お前たちが憎い」

「チルノさん!?」

「あたいはもう、何もいらない! 何もかも、全部っ!!」

「しっかりしてください…」

「こんな……こんな世界なら――」

「チルノさん!!」

 

「――全部、壊れてしまえばいい」

 

 そして、チルノの口から発されたとは思えないほど冷たく、無機質な声が辺りに響き渡った。

 突如として辺り一面が何か得体のしれない黒いものに覆われていく。

 チルノの発した氷の力などではなかった。

 それは強いて言葉にするならば、一面の闇――

 

「何、これ……?」

 

 早苗はただ呆然としたまま動けない。

 だが、それに触れてはいけないことを神奈子はすぐに察知して叫ぶ。

 

「早苗っ、逃げろおおおおお!!」

「えっ……?」

 

 気付くと、早苗の周りは全てがその闇に覆い隠されていた。

 早苗は何が起こってるのかもわからず動けなくなっている。

 

「あ……」

 

 それを見かねた諏訪子が両手を地面につくとともに、早苗のいた地面が空高く隆起する。

 早苗の元いた空間は闇に飲まれ、隆起した大地すらも不安定になって倒れていった。

 そして早苗はすぐに冷静さを取り戻して飛ぶ。

 早苗が立っていたはずの大地は、既に消え去っていた。

 

「これは…」

「ボーっとするな、早苗、神奈子!」

 

 早苗が無事だったことを見て、ほんの一瞬安堵したように見えた神奈子はまた叫び始める。

 

「椛、お前は早苗と一緒に今すぐ逃げろ! おい、聞いてるのか……っ!?」

「すみません、八坂、様……」

 

 椛の身体は既に闇に飲まれ、蝕まれていた。

 抵抗するように黒く染まった腕を伸ばそうとするものの、それは次第に形を失っていく。

 

「椛いいいいいっ!!」

 

 そこに、目にもとまらぬスピードで文が突っ込んでくる。

 椛に向かって、その手を差し出してくる。

 だが、それを察知した椛は……

 

「……文? っ!? バカ、来るな!!」

「え?」

 

 伸ばしかけたその手を、勢いよく引っ込めた。

 そして、その反動で崩れ落ちてしまった椛の形をした何かは、そのまま闇の中に消えていった。

 

「あ……」

「椛さん……?」

 

 文が手を伸ばした先にはもう何もなかった。

 椛がいた場所、守矢神社が元あった場所にはもう何もなかった。

 ただ、そこには一面の暗闇が広がっている。

 そしてその暗闇は、何もかもを手当たり次第に飲み込み、その勢力を次第に増していく。

 

「なんで……」

「椛……っ!! くそっ。 射命丸、そこはもう危険だ! 早苗も早く逃げろ!!」

「ですが!!」

「頼む、行ってくれ!」

 

 神奈子からはもう、いつもの余裕は全く感じられなかった。

 だが、それでも早苗は逃げない。

 自分はもう逃げないと決めていたから、神奈子や諏訪子を置いてはいけないから。

 

「でも、私は…」

「っ……失礼します!」

 

 文が猛スピードで早苗の腕を掴み、そのまま引っ張っていく。

 

「射命丸さん!? どうして…」

「早苗さんのことは、任せてください!」

「ありがとう、頼むよ」

 

 山が次々と飲み込まれ、勢力を増した闇が残ったものを食らいつくす。

 そして、その脅威が文と早苗に向かって襲いかかる。

 

「……くっ」

「させるか!!」

 

 諏訪子は新たに両手に構えた鉄の輪を何重にもして投げつけ、それを封じ込める。

 闇の動きを一瞬止めたように見えたそれは、しかし次の瞬間飲み込まれて消える。

 

「そんなっ!?」

「くそっ、いいから早苗は…」

 

 そこで、諏訪子の声が止まる。

 いつの間にか闇の中から近づいていたチルノが伸ばしたその手が、諏訪子の胸を貫いていた。

 その身体はそのまま中から凍っていく。

 

「諏訪子!!」

「諏訪子様っ!?」

 

「……はっ」

 

 しかし、諏訪子は自分を貫いているその腕を掴んで、

 

「甘えよ」

 

 凍りかけたその身体で、不敵に笑う。

 その足元からチルノを縛るように次々と蔓が生え、闇を切り裂いて大地の柱が諏訪子ごとチルノを取り囲んでいく。

 そして、

 

「神奈子っ!!」

 

 それ以上の言葉はかけなかった。

 ただ、神奈子は頷きながら天に手をかざして言った。

 

「射命丸、早く行け!」

「しかし…」

「行けっ!!」

「――――っ、はい!!」

「待ってください神奈子様、そんな…」

 

 早苗が空を見上げると、そこには異様な光景が広がっていた。

 山の天気が変わった――ではない。 

 天が割け、雲がその狭間から崩壊していく。

 幻想郷の終焉すらも思わせるその光景の中心には、そこから漏れ出す大気の全てを司るかのように神奈子が君臨している。

 そして神奈子はその全霊の力を瀕死の諏訪子に向ける。

 まるで、諏訪子ごと全てを消し飛ばそうとしているかのように。

 

 そんな光景が存在することが、早苗には耐えられなかった。

 

「行きます、早苗さん!」

「お願いです、やめてください神奈子様! 待って!! 嫌ぁぁ、諏訪子様ああああああああ!!」

 

 そのまま文は、泣き叫ぶ早苗を連れ去っていく。

 そんな早苗の叫び聞きながらも、諏訪子の口元は笑っていた。

 いや、既に聞こえてなどいないのだろう。

 元は諏訪子だったそれは既に、ただの氷のオブジェと化し、既に闇に飲まれかけていた。

 だが、それでもチルノを掴んだその腕を決して放しはしない。

 

「ああ、お前らしい最期だったよ、諏訪子」

 

 そう言って神奈子は諏訪子に一瞬だけ黙とうし、集約した力を放つ。

 そして――

 

「「あばよ」」

 

 その声は重なった。

 

 それは神奈子が諏訪子に向かって放った別れの言葉のはずだった。

 だが、誰の声が重なったのか。

 凍ってしまった諏訪子のはずがない、早苗たちももういない。

 だとしたら……

 

「な…に……」

「ダメだろ? 友達は大切にしないと」

 

 その力を放つ直前、神奈子の両肩から先が切り離されて落ちていった。

 それは飲み込まれて消え、その傷口から広がった闇が既に神奈子の体を蝕んでいた。

 

「なぜ、お前が生きて…」

 

 神奈子の後ろには、いつの間にか何者かが浮かんでいた。

 気配などしなかったし、さっきまでそこに存在してすらいなかった。

 神奈子ほどの実力があれば、それほどまでに近づかれれば気配に気付き、こんな奇襲にかかることはないはずなのである。

 だが、そいつは気配を消してなどいない。

 今この瞬間、ここに「生まれた」のだ。

 

 ――ああ、そうか。 あいつも既に堕ちていたのか。 

 

 それがあり得る状況を、神奈子はすぐに理解する。

 

「どうした、少しは抵抗してみたらどうだ?」

「……いや、もういい」

 

 いつの間にかそいつは、全てを掌握していたのだろう。

 神奈子は観念したように目を瞑って呟く。

 

「私たちの……完敗、か」

「いーや。 少しくらいは楽しませてもらったよ」

「……はっ。 そう、か…」

 

 そう言って、そいつはいつの間にか闇に溶け込んで消えていた。

 神奈子は力を失って落ちていく。

 動かなくなった諏訪子も、ついに力尽きて倒れこむ。

 そして、2人ともそのまま闇の中に消えていった。

 

 完全崩壊した守矢神社。

 そこにはただ、虚ろな目をしたチルノだけが立っていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 : 技術者

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第10話 : 技術者

 

 

 

 

 

 

「逃がすな、絶対に捕えろ!!」

 

 守矢神社とは反対側の妖怪の山の麓。

 その上空を何かが超スピードで飛んでいく。

 並の者には目にも止まらぬそれは、旋回し、遠回りしながらも白狼天狗や烏天狗の間をすり抜けて進んでいく。

 

「木符『シルフィホルン』」

 

 その言葉とともに遥か下方から木の葉が刃となって急上昇し、周囲を取り囲むように乱舞する。

 一撃の殺傷力自体は小さいが、それは大量の木の葉で目をくらまし、刃の奔流に飲み込まれてしまえば並の妖怪であれば対応しきるのは困難を極める。

 だが、周囲を取り囲んでいるのは並の妖怪ではなかった。

 魔理沙の箒の後ろに座りながら、いつも半分閉じたような目をしているパチュリーが珍しくしっかりと開いた目で敵の姿を捉える。

 

「……流石に辛いわね。 どっちかだけならともかく、両方同時は…」

 

 魔理沙とパチュリーの目の前にいるのは烏天狗1人と白狼天狗2人。

 魔理沙と同等のスピードを持ち、単純に妖怪の上位種としての高い能力をもつ烏天狗。

 相手を逃さない眼を持ち、忠実に仕事をこなす白狼天狗。

 単純に上空を逃げようとも、烏天狗に追いつかれる。 

 森の中に逃げ込もうとも白狼天狗に捉えられる。

 3人の天狗が持つ力は文や椛には遠く及ぶべくもないが、それでも手練れの天狗を3人同時に相手にすること自体が辛かった。

 しかも、こちらには敵意がないにもかかわらず、相手は本気でその大きな刀や爪を振ってくるのだ。

 

「くそっ、なんでこんな時に限ってこんなにしつこいんだよこいつら…」

「こんな時だからこそ、でしょう。 多分自分たちの住処がやられて気が立ってるのよ」

 

 確かにいつもよりも数は少ないように感じる。

 しかし、その執拗さはいつもの比ではなかった。

 振り切ったと思った烏天狗が、木の葉の刃を蹴散らして再び正面へと回り込む。

 

「終わりだ!」

「……あああああああもう、めんどくせえ!!」

「ちょっ、魔理沙!?」

 

 遂に耐えかねた魔理沙が、その手にミニ八卦炉を構える。

 パチュリーは焦り、魔理沙を止めようとする。

 実際にマスタースパークのような目立つ攻撃を仕掛けては、この急いでいる時に残存する他の天狗に気付かれかねないからだ。

 だが、それをパチュリーが止める間もなく…

 

「恋符、『マスター…」

 

「『のびーるアーム』!!」

 

 そこに突然現れた何かに正確に顎を撃ち抜かれて、目の前の烏天狗が気絶して落ちていく。

 突然撃墜された烏天狗を見て呆然としている白狼天狗たちも同じく下方から打ち抜かれて落ちていく。

 それは一瞬の出来事であった。

 そして、何が起こっているかもわからず呆然としている魔理沙に、下から聞き覚えのある声が届く。

 

「おーい魔理沙、何してるのさ?」

「にとり!!」

 

 魔理沙はそのままにとりに向かって急降下する。

 そこにはいつもと変わらない、謎の機械を携えたにとりが立っていた。

 

「久しぶりじゃないか魔理沙! 今日も何か持って…」

「にとり、無事で良かった!」

「無事って? ああ、この前の天狗の住処の事件のことかい?」

「え? あー、そうじゃなくて、話すと長くなるんだけど…」

「ってよりも、後ろにいるのは誰?」

「あ、ああ、紹介するな。 こいつは私の魔法使い仲間の…」

 

 そこまで言って、魔理沙はパチュリーが魔法を放とうとしているのに気づく。

 魔理沙と同じ箒に乗っていたとは思えないほど距離をとって構えていたパチュリーの目は、明らかににとりを標的として見ていた。

 

 ――月&木符『サテライトヒマワリ』

 

 そして、にとりを取り囲むように向日葵の花が、蔦が、絡み付こうとして……それは全て一瞬で切り刻まれる。

 

「わわっ!?」

「って、いきなり何してんだよ、パチュリー!?」

「下がってなさい魔理沙! これは……守護の式神ね。 貴方の能力じゃないでしょう、どこでそんなものを身に付けたの?」

 

 パチュリーがにとりへの警戒を強める。

 確かに感じたにとりへの違和感。

 妖怪としては河童より上位種にあるはずの烏天狗と白狼天狗を一瞬で3人仕留めた手際に、周囲を取り囲む魔力の波動。

 ただの河童が持っているとは思えない力だった。

 

「えっと……」

「おいパチュリー! 聞いてんのか…」

「冷静になりなさい魔理沙。 貴方は今幻想郷で起こってることを、地底であったことを覚えてないの?」

「え?」

 

 そして魔理沙は少しだけ思考を巡らせる。

 幻想郷で数多くの者が強力な力を得て暴れまわっている現状。

 恐らく異変の原因である、地底に眠る何かを宿した強力な怨霊に狙われていて既に手遅れだと思っていが、心配して損したと思うほど無事に見えるにとり。

 だが、その身には『水を操る能力』しか持たないにとりが持っているとは思えない能力を纏っていた。

 

「まさかにとり、お前既に…っ!!」

 

 そう言いかけた次の瞬間、魔理沙の首元に数本の刃が突きつけられる。

 しまった、と思う間もなく命を握られてしまった魔理沙の前に、

 

「……何だ、お前か」

 

 安堵したのか、呆れたのかわからない声が聞こえてきた。

 木陰から出てきたのは、あからさまに面倒そうな顔をした藍だった。

 藍はため息をつきながら、魔理沙の首元に突きつけた刃の式神を消し去る。

 

「藍!? なんでここに…」

「そいつを護らせていた式神が反応したんでな。 急遽駆けつけたのだ」

「ってことは、にとりを囲ってた力はお前の式神だったのか」

 

 そう気づき、魔理沙はホッと一息つく。

 そしてパチュリーはもう一つ唱えかけた魔法を止める。

 しかし、その目にはまだ少しだけにとりへの警戒の色が残っていた。

 

「……一つ、聞いていいかしら」

「なんだ?」

「なぜ、貴方ほどの妖怪がこんなただの河童を守っていたのかしら」

「ただの河童って…」

 

 そんなパチュリーの言い方に魔理沙が少し不平を漏らすが、当の本人であるにとりはただ苦笑しているだけだった。

 

「さあな。 私がそれを言う必要があるか?」

「はあ? だって、どうせお前も多分私たちと同じで異変を解決しようとしてんだろ? だったら色々と…」

「足手まといだ。 お前に何かを頼めるようなことではない」

 

 藍はいつもの調子を取り戻したかのように魔理沙に冷たく当たるが、それは当然の反応だった。

 紫さえもたどり着けなかったこの先。

 それに巻き込めば恐らく魔理沙は後戻りはしない。

 だが、藍にとっての魔理沙は今でも、ただ霊夢に闘争心を燃やすだけの子供なのである。

 だからもう魔理沙にできるようなことはないし、これ以上巻き込むことはできないと思っていた。

 

 しかし、魔理沙は少し意地の悪そうな顔でニヤついて藍に言う。

 

「もういいんだよ、藍。 お前と紫が地底に封印してた奴を捕まえるために動いてるのは知ってる」

 

 それを聞いて、藍は驚いたようにビクッと反応した。

 

「何故、それを……」

「心配してくれるのは嬉しい。 だけど私も……いや、たとえ私がお前にとって役に立たない存在だろうと、パチュリーはそうじゃないだろ? 紫さえいないこの状況なら、優秀な魔法使いの協力者が一人でもいた方がいいんじゃないのか?」

 

 魔理沙のその反応に、藍は目を丸くしていた。

 自分たちのしていることが魔理沙にバレているのを驚いただけではない。

 いつもなら感情的に自己主張するだけの魔理沙に、今は自分が諭されていることに驚いていた。

 そして、一つ大きくため息をついて言う。

 

「……ああ、そうだな。 確かに少しでも協力者は必要な状況だ。 お前に諭されるとは、本当に私も疲れているみたいだな」

「どういう意味だ」

 

 少し魔理沙を小馬鹿にしたように笑う藍に、魔理沙は不機嫌そうな口調で言う。

 それを藍は、やれやれと少し頭を抱えるようなポーズを取っているように見えながら、それでも成長した魔理沙を見て少し嬉しそうに言った。

 

「まあいい、ならば少しくらいはお前たちにも手を貸してもらうとしようか。 パチュリー・ノーレッジ、貴方も協力してくれるだろうか」

「別にかまわないわ」

「おう、どんとこい!」

 

 そう返事をする魔理沙の顔は、見ただけでわかるほどウキウキしたものへと変わっていた。

 異変のことを詳しく聞けるからというのもあるが、今まで一度として自分を頼ることなどなかった藍に協力を要請されたことが、単純に嬉しかったのだろう。

 

「ではその前に、まず質問させてほしい。 そもそもお前たちはなぜ地底の封印のことを知っている?」

「実際にちょっと地底に行ってきてな。 そこでさとりからいろいろ聞いたんだよ」

「さとりとは、あの古明地さとりのことか? よくあの妖怪と話ができたな」

 

 紫ですらまともに会話など成り立たないという偏屈妖怪。

 そこから情報を引き出せたことに、藍は口を隠しながら驚く。

 だが、魔理沙はそれを見逃さず鼻をふふんと鳴らし、ドヤ顔で藍を見てくる。

 それに気づいた藍は「ウザッ」という気持ちを噛み殺しながら、話を続けた。

 

「……それで、そいつからどこまで聞いたんだ?」

「ああ、なんか紫が昔、映姫とかと一緒に地底に封印した何かが、この前の異変で怨霊と一緒に地上に出てきたってことまでは聞いたな」

「なるほど。 「何か」と口にするということは、詳細までは掴んでいないのか」

「まあ、そういうことだな」

 

 さとりも、紫が永琳と並んで危険視する存在の一人だった。

 様々な秘密を抱える藍は心を読まれるわけにはいかないため、今まで直接さとりに会ったことはないが、それが警戒すべき存在であることは紫から聞かされていた。

 そのさとりに既に今回の計画が漏れているのではないかと身構えた藍だったが、そこまで深く知られている訳でもないことを知って少しだけホッとしていた。

 だが、依然として警戒はしていた。

 本当にさとりからそれ以上の情報を与えられていないのならば、魔理沙が一直線にここにたどり着くはずがないからだ。

 

「ならば、何故お前はここに来ようと思った?」

「え? あー、いや、それはだな、まぁなんとなくだ。 にとりのことが心配だったからな」

 

 魔理沙はにとりの方を一瞥してそう言う。

 地底にいた時にはその安否すらわからなかったにとりだったが、無事どころか、今は藍に守られていてむしろ安全な状態だった。

 だから、地底で見た怨霊のことはまたややこしい話になりそうなので、魔理沙は軽くごまかすことにしたのだ。

 

「ってかそんなことよりさ、そもそもその何かっていうのは一体何なんだ?」

 

 そんな露骨な話の逸らし方をする魔理沙を、藍が怪しく思わないはずがない。

 だが、たいていの場合は魔理沙に何かを問い詰めても結局ただの徒労に終わることを知っている藍は、諦めて話を進めることにした。

 

「……まあいい。 地底に封印していたのは、とある危険な能力だ」

「能力?」

「ああ。 負の感情を原動力に力を増幅し、全てを飲み込む闇の能力だ」

 

 それを聞いて、魔理沙は少し頭を傾げていた。

 そもそも能力を封印するというのがよくわからなかった。

 能力というのは単独で存在するようなものではない。

 誰に付属的に存在するものなのである。

 だとしたら、それを持っている何者かがいるはずなのだ。

 

「まぁ、お前もわかってはいるだろうが、その闇の能力にも当然ながら持ち主がいた」

「だろうな。 ってか闇とかルーミアとキャラ被ってんじゃねーか」

「……続けるぞ。 それを持っていたのはその能力に加え、その力も、存在自体も全て危険極まりない邪悪だった。 だから今から500年ほど前、閻魔様の能力でそいつの構成要素を「能力」、「力」、「存在」の3要素に明確化し、紫様の能力でその3つを境界分けし、それぞれ別の場所に封印することで、そいつが幻想郷に害を成す前に無力化しようとしたのだ」

「それで、その内の「能力」ってヤツがこの前の異変で解き放たれて、地上の奴らを乗っ取ったってことか」

「ああ、そういうことだ。 たった一つが解放されただけでこの騒ぎだ。 それを残る2つの要素と結びつかせることだけは絶対に避けなければならない」

「そりゃそうだぜ」

 

 魔理沙は大きく頷いた。

 誰もが手に負えていない今の状況で、それはまだ3分の1の力しか持っていないのである。

 それがもし全ての力を手にしてしまえば、本当に異変どころの騒ぎではなくなることは魔理沙にも容易に想像ができた。

 

「それで、残る2つはどうなってるんだ?」

「詳細を漏らすわけにはいかないが……簡単に言えばそいつの「力」の要素については今は安全な場所にある。 だから、問題はもう一つの「存在」の要素だ。 これは他の2つとは違い、言ってしまえばその邪悪の人格も含めた要素だったから、その封印には生物を使う必要があった」

「生物? ってことは、もしかしてその「存在」って要素を宿してる奴がいるってことか?」

「そうだ。 まあ、封印している間はそいつにはその記憶も影響もないから、普段は幻想郷に置いて監視しているだけだったがな」

 

 たった一つの要素だけで幻想郷全体を混乱に陥れる力。

 それと同等のものを常に宿している者がいるというのは、考えたくない恐怖であった。

 

「だが、「能力」の要素が幻想郷をさまよっている状況では、それをただ監視しているだけではいけなくなった。 だから、「能力」と結びつく前に「存在」という要素を完全に消滅させることにしたのだ」

「あん? そんなことできるんなら最初からやってろよ」

「いや、今まで魔力の力でも、霊力の力でも、それを完全に消すことはできなかった。 私と紫様や閻魔様の力よりも、その邪悪のもつ力の方が圧倒的に大きかったからだ」

「げっ。 紫と映姫よりもっとヤベえのか」

「だが、その邪悪が全く知らない、対応することのできない未知の力があった。 それが、科学の力だ」

 

 そこまで言われて、魔理沙は半ば忘れかけていたにとりのことを思い出す。

 藍が来てからというもの、にとりは縮こまったように大人しかった。

 おしゃべりなにとりが科学の話題になってなお口を挟んでこないことに若干の違和感を感じたが、いつも藍が近くにいたせいで辛気臭さが伝染ったのか、説教ばかり受けて苦手意識が出てきたのかだろうと予想し、魔理沙は少し苦笑する。

 

「なるほどな。 それでにとりが」

「そうだ。 その存在を魔力などの力ではなく、原子の性質やエネルギー反応といった幻想郷ではまだ試験段階の最新技術を利用して判別、変容させることによって、古い存在であるその邪悪の力が及ばぬようしたのだ」

「へぇ……ま、そういう難しい話は私にはよくわからんけどな」

「それでもいい。 とにかく、科学の分野に強い河童たちにその技術を開発させ、その中でも一番の科学者である彼女を守るのが私の役目の一つだったということだ」

 

 そもそも幻想郷においては科学が大きな力を生み出せることを知る者自体が少数派であり、外の世界ですら画期的な技術力が見られ始めたのはここ100年くらいだということを考えると、数百年単位で封印され続けてきた者がそのメカニズムを知っているはずがないのである。

 いくら強い力を持った者であっても、その力の介在しない事象への対処法はそう簡単に見つけることはできないのだ。

 

「つまり、もうその「存在」ってのも根本から消滅させることが可能になったわけだ」

「ああ。 その方法が確立したのは今日のことだがな」

 

 それを聞いて、魔理沙は少し拍子抜けする。

 自分たちが右往左往している間に、藍たちは既に異変の解決策の一端を練り終えていたのだ。

 地底にいたときは初めて異変の核にたどり着いたと少しだけぬか喜びしていたのに、既に解決のめどが立っていると言われてしまい、魔理沙は本心では安心したものの、残りは後始末だけかーと少し残念そうに言う。

 

「ちぇっ、結局またおいしい所は持ってかれちまったみたいだな」

「いや、そういう訳でもないだろう。 その能力自体は未だ幻想郷を飛び交っているからな、お前たちにはその能力に乗っ取られた感染者を無力化して守矢神社まで連れてくる役目を担って欲しい」

「守矢神社? なんだ、神奈子たちも関わってるのか?」

「今回の件に関して協力してもらっているだけだがな。 まあ、細かいことは気にしなくていい。 だが、感染者の中には非常に強い力を持った奴もいるからな。 あまりに危ない相手なら迷わず逃げるといい」

 

 そう。 いくら異変解決の目処が立ったとはいえ、それが未だ深刻な異変であることには変わりないのだ。

 妖怪の山や地底まで巻き込んでの大異変。

 ましてや、敵の中には霊夢や紫でさえ敗れるような相手がいる中で楽観的にいることはできなかった。

 だが、結局は今回も自分が解決するに至らなかった魔理沙は、拗ねるように二つ返事で返す。

 

「へいへーい、それはそれはご配慮ありがとうございました。 でも、私たちはもうその存在やら何やらの件に関しては気にしなくていいわけか」

「そういうことだ。 その件については、お前たちは心配しなくていい」

「……心配しなくていい?」

 

 藍の何気ないその言葉に、なぜかそこまで大人しかったにとりが敏感に反応する。

 

「ん? どうしたんだ、にとり?」

「本当に、魔理沙が何も心配しなくていいの?」

 

 にとりが少し不安そうな声で藍にそう言う。

 藍はその表情を崩さずに返す。

 

「ああ。 そもそもそのことを一番よく知っているのは、システム開発者のお前のはずだ。 そうだろう?」

「っ!!」

 

 にとりが少し、何かに一瞬怯えたように見えた。

 だが、その表情はすぐに無理矢理作ったような笑顔に戻る。

 そして、何を言う訳でもなく、ただ少し寂しそうな目で魔理沙の方を見ていた。

 

「どうしたんだ?」

「少し疲れてしまったのだろう。 どうやら彼女には少し仕事を頼みすぎたようだ。 しばらく休ませてやるとしよう」

「……ああ」

「にとり?」

 

 少し、にとりの様子がおかしかった。

 魔理沙の知っている、いつもの元気なにとりとはかけ離れてしまった表情。

 どんな時だって、たとえ徹夜でだって発明に熱中していたにとり。

 だが、幻想郷を救うような大発明に打ち込んでいるはずの今のにとりに、そんな楽しそうな雰囲気はない。

 そして、何かに冷めてしまったかのような投げやりな目をして、突然一人呟き始める。

 

「……いつもそうだよね。 それだけしか教えてくれない」

「え?」

「その陰で誰が苦しんで、誰が悲しんでるかなんてどうでもいいんだ。 勝手な正義感だけ押し付けられて、私たちみたいな弱い妖怪はただ従ってることしかできない」

 

 突然、にとりは人が変わったように嘲笑の混じった声で話し始める。

 何が言いたいのかよくわからなかった。

 ただ、その目はどこを見ている訳でもなく、少しだけ虚ろな影を落としていた。

 にとりのその態度に、藍は少し高圧的に問う。

 

「……何が言いたい?」

「言ったよね。 もう何も心配しなくていいって」

「ああ」

「だったら、その妖怪はどうなるの? あんたたちに勝手に存在だとか訳のわからないものを植えつけられたそいつは」

「……」

「どういうことだ、藍?」

 

 魔理沙も、少し怪訝な表情で藍に問う。

 藍はにとりを睨んでいた。

 さっきまでとは違う表情。

 にとりに脅しをかけるかのような、強く冷たい目。

 藍からにとりに対する静かな敵意を感じて、魔理沙は何か嫌な予感を感じ取る。

 

「余計なことは言わなくていい」

「余計なことって何だ! 私たちはお前に協力するんだぞ、隠し事は…」

「文句があるのなら、お前は何もしなくていい。 このまま大人しく帰っていろ」

「なっ!?」

 

 魔理沙は不快感をあらわにする。

 やっと自分を認めてくれたと思った藍が、再び魔理沙のことを冷たく捨てる。

 まるでもう用済みだと言わんばかりに魔理沙から目を背ける藍にかわって、にとりが口を開く。

 

「だったら、私が代わりに答えるよ。 こいつらは、存在ってのごとその妖怪を消してしまおうって考えだ」

「っ!!」

「はあ!? どういうことだよ!」

 

 魔理沙はそれについては解決した問題だと思っていた。

 藍が、もう心配することはないと言ったから。

 だから、藍には当然その妖怪を助けることだって出来ると思っていたのだ。

 

「貴様は…」

 

 そして、膨れ上がった藍の敵意とともに、にとりは再び大きく震える。

 怪しく思った魔理沙が目を凝らしてよく見ると、にとりを護っていたはずの刃の式神が内側を向き、その喉元に突き付けられているのがうっすらと見えた。

 

「なんだよ、これ。 おい、藍! 一体どういう…」

「簡単だよ。 そいつらはたった一人や二人が苦しもうが死のうが知ったことじゃないってだけだよ。 その能力の感染者たちだって同じ。 そいつに邪魔だと思われた奴らが、もうどれだけ消されたかもわからない」

「なっ……」

 

 魔理沙はそれ以上言葉が出なかった。

 信頼していたつもりだったのに。

 表向きは『スペルカードルール』なんて聞こえのいいことを言って、そんなことをしているのを、ずっと隠していたのか。

 自分たちにその感染者とやらを集めさせて、全部殺す気でいたのか。

 

 ――ふざけんな。

 

 ――ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな。

 

 ただ、そう言いたかった。

 それを知ってか知らずか、藍は開き直ったかのように言う。

 

「だったら何だ? 全を救うためには多少の犠牲は付き物だ。 それは、為政者として当然の役目だろう」

「……なんだよそれ。 ふざけんなよ」

「そうしなければ何も救えない。 ただ理想論を語るだけでは何も変わらない。 まぁ、そんなことをお前に言ってもわからないだろうがな」

「わかってたまるかよ! きっと、何かそんなことをしなくても済む方法が…」

「ほらね、もういいよ魔理沙。 こいつらに何を言おうと、いつだってそういう勝手な考えを通すだけだ」

「え?」

 

 だが、魔理沙は少し違和感を覚える。

 少なくとも、にとりはさっきまでは藍の協力者だったはずなのに。

 こんな話し方を、しなかったはずなのに。

 

「どうせ私たちは虐げられることしかない。 そうやって、勝手な都合で切り捨てられるだけなんだ」

「……にとり?」

「だからさ。 私、わかったんだよ、魔理沙」

 

 にとりは、突然笑う。

 それは、魔理沙が今まで見たことのないような、言いようのない不気味な笑顔だった、

 

 そして……

 

「支配するような奴らがいるからいけないんだ」

「え?」

「だから、それが全部消えれば――」

 

 にとりが右手を振り上げ、パチンと指を鳴らすと同時に、

 

「――それで、全部解決じゃないか」

「っ!?」

 

 ――日符『ロイヤルフレア』

 

 次の瞬間、藍の立っていた場所が光ったような気がした。

 だが、魔理沙がはっきり見たのはそこまでだった。

 気づくと魔理沙は発生した爆風に吹き飛ばされて、木に強く叩きつけられていた。

 

「がっ!? なん……だ…」

 

 そして、微かに見開こうとした目に映ったのは、

 

「……え?」

 

 天高く昇る火柱だけだった。

 そこにいたはずの藍の姿は、もう見えなかった。

 

「藍っ!? ……ぐっ!?」

 

 おそらく背骨にヒビくらいは入ったであろう自分の体を気遣うことなく、激痛に耐えながら魔理沙は跳び出す。

 だが、あまりに強く圧縮された高エネルギーの塊に、人間である魔理沙は近づくことすらできない。

 

「嘘だろ? なあ藍! 返事しろよ、藍!!」

「……ここにいるわ」

 

 魔理沙の上空にいたのは、藍を片手に、もう片方の手に大きな魔道書を持ったパチュリーの姿だった。

 

「パチュリー!?」

「……すまない、助かった」

 

 パチュリーがその炎を発する直前、周囲から藍に向かって何かが放たれようとしていた。

 何だったのかはわからない。

 ただ、現状を考えれば、少し危険を冒してでもそれを全て焼き尽くすという判断は間違っていなかったはずだった。

 

「構わないわ。 それより――っ!?」

 

 そこに突如、パァンと大きな破裂音が響いた。

 それが何の音かわからない3人であったが、

 

「何よ、これ……」

 

 パチュリーは次の瞬間口から血を吐き、その胸からも大量の血が噴き出していた。

 

「パチュリー? おい、一体何が…」

「邪魔、するなよ」

「っ!!」

 

 そして、にとりの声と共にもう一度同じ破裂音が響き渡る。

 得体の知れない攻撃を、藍はすぐに式神を駆使してガードしようとするも、あまりにも速過ぎるそれに対応しきれず、今度は藍の肩に当たる。

 

「ちっ……っ!? 何、だ、これは…?」

 

 そして、藍が何かに引きずり込まれるように、そしてそのまま引っ張られるようにパチュリーも、突然頭から真っ逆さまに地面に落ちた。

 2人を襲っていたのは、体が痺れて思うように動かず、まるで上下が反転したかのような感覚。

 なにかの薬物か、それとも能力か。

 状況を把握しようと考えているうちに、藍はにとりを取り囲んでいた式神の力が既に消されていることに気付く。

 そして、その足はいつの間にか何かに捕えられていた。

 のびーるアーム。 藍とパチュリーを捕えていたそれは、手の形をしたにとり愛用の機械だった。

 

「もしかして、にとりなのか……?」

 

 それを目にした魔理沙が、呆然とした表情で言う。

 しかし、にとりはそれに答えずに、得体の知れない道具を再び藍に向けていた。

 細長い筒のような形状に、上にはスコープ。 そして、持ち手には引き金がついている。

 幻想郷にあるとは思えない、恐らくは外の世界の技術である代物。

 それが何であるかは、にとり以外の誰にもわからない。

 ただ、それが恐らくパチュリーと藍を傷つけたものであろうことを察知した魔理沙は、藍たちを守るようににとりの前に立ちふさがって言う。

 

「おいにとり、何してんだよ!!」

「……邪魔しないでくれよ、魔理沙」

「はあ!? おいにとり、ちょっと落ち着けよ」

「そこをどこないと、たとえ魔理沙でも……」

「っ――!? くそっ!!」

 

 言いようのない威圧感を感じた魔理沙は、とっさににとりに向かって箒を構える。

 そして、訳もわからないまま一枚のスペルカードを取り出した。

 

「何考えてるか知らないが、しばらく大人しくしてもらうぜ、にとり!」

「……」

「スペルカード宣言、光符『ルミネスストライク』!」

 

 瞬く間に箒の先端に発生する、巨大な魔法弾。

 それは、魔理沙による奇襲であった。

 拡散せず、迂回せず、まっすぐ飛んでにとりまで1秒以下でたどり着く弾幕。

 仕留めようなどと思っていない、ただその道具をはじき飛ばそうとした魔理沙の判断は、

 

「え……?」

 

 あまりに、軽率だった。

 それは、にとりがスペルカード戦に応じるという前提があって初めて機能する奇襲。

 だが、本当に奇襲のつもりなら、魔理沙はスペルカード宣言などをすべきではなかった。

 魔理沙がそのことに気付いたのは、再びその破裂音が響いた後だった。

 既に倒れて状況すら掴めない状態になっている藍に向けて放たれた何かが、魔理沙の首筋を掠めて飛んでいく。

 魔理沙はそれを前に一歩も動けないまま、呆然と立ち尽くして言う。

 

「なんで……にとり、だって、お前…」

「落ち着きなさい、魔理沙!!」

 

 狼狽する魔理沙の耳に、パチュリーの消え入りそうな声が微かに聞こえてくる。

 恐る恐る振り返ると、一人冷静に、藍の前に分厚い土の壁を作り出しているパチュリーの姿があった。

 その甲斐あってか、魔理沙の位置からでは見えないものの藍は無事である。

 だが、その身体に限界が来たパチュリーが倒れるとともに、土の壁は魔力を失って崩れ去る。

 パチュリーの足元では、既に血が水たまりのようになっていた。

 

「パチュリー!? おい、大丈…」

「いいから、前を、向きなさいっ! あいつは、多分…」

「え? 何だってっっ……!?」

 

 そして、魔理沙の声が止まる。

 バチッと白い線が魔理沙を貫いたかに見えた次の瞬間、無傷の魔理沙は一言声を出す余裕もないまま地面に倒れ伏していた。

 

「がっ…? なんだ、これ、動けな…」

 

 魔理沙は体が痺れて動けない。

 それは、少し身に覚えのある感覚。

 しばらく前に天界に登る途中で味わった、雷の力をくらったような感覚だった。

 

「大丈夫だよ魔理沙。 傷も残らないし、しばらくしたら動けるだろうから心配しないでね」

「なんで、だよ。 やめろよ、にとり、お前、は…」

 

 そこまで言いかけて少し目線を上げた瞬間、魔理沙はもう声が出せなくなった。

 何が起こってるかもわからない。

 どうしてにとりがこんなことをしているのかはわからない。

 だが、たった一つだけ魔理沙には理解できた。

 

 ――ああ、そうか。 結局私は間に合ってなかったんだ。

 

 魔理沙を見下ろすにとりの冷たい目。

 一切の光が失われたそれは、いつもの元気な姿からは想像もできないものだった。

 

 そう、既ににとりはそれに感染していたのだ。

 それも藍が護衛につくもっと前から。

 だが、そのことにはもっと早く気づくべきだった。

 魔理沙はにとりが地底の怨霊の標的であることは知っていた。

 ならば、既にその影響を受けている可能性があることを最大限考慮しておくべきだったのだ。

 それなのに、ちょっと元気そうに見えてたから大丈夫だと楽観的に思い込んでいた。

 藍にそのことを伝える絶好の機会もあったというのに、それを怠った。

 

 ――その結果が、このザマか。

 

 魔理沙は動けない。

 だが、体が動かないにもかかわらず、その目からは悔しさで涙がこぼれ落ちていた。

 そんな魔理沙の横をにとりは素通りしていく。

 

 ――頼むよにとり、やめてくれよ。

 

 だが、そんな声すら出ない。

 いくら悔しくたって、自分には何もできない。

 一人苦しんでいたにとりに何もしてあげられなかった。

 たった今、瀕死のパチュリーと藍が見えたって、自分には助けることができない。

 何も救えない。

 所詮これが自分の限界だった。

 

 にとりはただ無言のまま、その道具を再び藍に向ける。

 それはきっと、今のパチュリーと藍を殺すには十分な代物だった。

 

 ――たすけてくれ。

 

 魔理沙はただ、泣きながら心の中でそう叫んだ。

 だけど、誰にも聞こえない。

 にとりは、既にそれを構えている。

 何か、引き金のようなものに既に指をかけている。

 だけど、藍もパチュリーも、もう一歩も動けない。

 それを見て何かが吹っ切れたかのように、魔理沙は自分の中にある最後の力を振り絞って、

 

「たすけてくれよ……アリスッ!!」

 

 そして、無常にもまたその破裂音が響いた。

 それにかき消されて聞こえたのかすらわからないが、魔理沙はただ思い切りその名を叫んだ。

 それは、魔理沙が一番信頼する名。

 どんな状況でも、本当のピンチの時には自分を絶対に助けてくれると信じたその名は、

 

「あー、アリスじゃなくて悪かったわね」

「え?」

 

 聞き覚えのある、少し寝ぼけたような声にかき消される。

 魔理沙がふと前を見ると、にとりが放った小さな鉛の塊が藍の額の直前で結界に阻まれて静かに動きを止めていた。

 その隣に立っていたそいつは、横目で魔理沙を一瞥し、すぐににとりの方に向き直って言う。

 

「それよりあんた、なに物騒なもん使ってんのよ。 スペルカードルール知らないの?」

「……」

 

 だが、何も言わずに、にとりは今度はそれを目の前の相手に向ける。

 

「邪魔だよ、どいてくれないかな?」

「……あー、はいはい、そういうつもりね。 あいつらといいあんたといい、これはちょっと躾が必要ね」

 

 魔理沙は目を疑った。

 その目に映っていたのは、印象的な赤と白の装束を着た一人の巫女。

 凛とした目でスペルカードを構えた――

 

 

「スペルカード宣言、境界『二重弾幕結界』!!」

 

 

 いつもと同じ、霊夢の姿だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11話 : 虐げられし者

 

 沈みかけの夕焼けが映える妖怪の山。

 その色が微かに薄まったと思われた瞬間、2つの立方体が結界となって霊夢とにとりを覆いこんでいた。

 

「これは…」

 

 それは、霊夢のスペルカード宣言とほぼ同時だった。

 警戒する間もなく周囲を取り囲まれてしまったにとりは、少しだけ困惑していた。

 そして、霊夢の登場自体が想定外だった魔理沙は取り乱しながら言う。

 

「霊夢! なんで、もう身体は大丈夫なのか!?」

「何よ大袈裟ね、あの程度の傷で寝てられる訳ないでしょ?」

 

 永琳の話では、霊夢は少なくとも一週間は動けないだろうということだった。

 それなのに、目の前の霊夢はそんな雰囲気を一切感じさせないのだ。

 霊夢のその言葉が本心から言えているものなのか、ただの強がりなのかはわからないが、魔理沙は再びにとりがそれを霊夢に向けている状況を思い出し、慌てて叫ぶ。

 

「霊夢、にとりが持ってるやつに注意しろ! 何だか知らないけど…」

 

 そして、魔理沙が言い終わる前に再びその音が鳴り響いた。

 全く躊躇なく霊夢の心臓めがけて発射されたそれは、

 

「霊夢っ!!」

「……そうね、見ればわかるわ。 秒速にするとだいたい800メートルってところかしら。 そんな速さで飛んでくる鉛玉なんかに当たったら、妖怪ならともかく人間なんてひとたまりもないでしょうね」

「えっ?」

「まぁ、弱ってるとはいえ藍やパチュリーならこの程度で死んだりしないから安心しなさい」

 

 霊夢の胸の前で、その右手に構えられた2枚の札によって挟むように受け止められていた。

 魔理沙にも、藍やパチュリーにすら何なのかわからなかったそれは、霊夢には見えていた。

 そして、にとりも敵意を見せるような目をして言う。

 

「なるほどね。 これが、博麗の巫女か」

「なるほどね……じゃないわよ!」

 

 霊夢は自分に向けられたそれを、まるで何の脅威とも思ってないかのようににとりを叱咤する。

 そして、今一度スペルカードを構え、

 

「今の幻想郷で殺し合いは御法度よ。 いい? 今から見せるのがこれからの喧嘩の仕方よ、見てなさい!」

 

 一方的にそう告げて飛び上がった。

 霊夢はスペルカードルールの説明なんてしなかった。

 にとりがスペルカードルールを知っていてあえて無視していることを、霊夢は知らないにもかかわらずだ。

 ただ、見ればわかると言わんばかりに、にとりに向かって周囲の結界から大量の弾幕が放たれる。

 

 ――ああ。

 

 そして、その瞬間世界が変わった。

 その光は夕焼けに染まった空を、満天の星空のように染め上げた。

 

 ――相変わらず、綺麗だ。

 

 夕焼けに映えるはずのない星空は、それでも結界の周辺だけがその赤に溶け込んで不思議な景色を創り出していた。

 その弾幕は見る者全ての心を照らし、魅了する。

 それは魔理沙だけではなく、瀕死の藍やパチュリーでさえも例外ではなかった。

 

 弾幕を見れば、その個人のだいたいの特徴がわかる。

 たとえば、威力と勢いに任せたパワータイプの魔理沙。

 様々な属性魔法を使い分け、手数で攻めるパチュリー。

 境界を操る能力を使って、予測不能な弾幕を操る紫。

 皆それぞれ違う特徴をもつ弾幕を使うが、その誰もに一つだけ言える共通点がある。

 それは、弾幕が最終的には「相手に当てるため」、「勝負に勝つため」に練りこまれたものであるということである。

 しかし、霊夢だけは別だった。

 

 それは、背景に合わせるように溶け込んでいく。

 まるで絵を描くように周囲の世界を美しく染め上げる光。

 隙だらけのよう見えて、一分の隙もない芸術の虹。

 たとえ戦いの最中であろうとも、それすらも忘れてただ見入ってしまうような弾幕。

 それはまさに、「美しさと思念に勝る物は無し」という、スペルカードルールのあり方そのものを体現しているかのようであった。

 

「……なるほどね」

 

 それを、霊夢と向かい合っているにとりさえも即座に理解する。

 守矢神社の異変で魔理沙と戦っていた時にはいまいち納得しきれなかったそのルール。

 ただ美しさこそが至高であるという考え方。

 相手を魅了したほうが勝ち。

 だが、たった今それがルールの全てである理由を理解させられたにとりは、一人呟くように言う。

 

「――くだらない」

 

「え?」

 

 魔理沙たちが見とれていたその星空は、突如としてその色を失い始める。

 ただ、元の夕焼け空に戻っていく景色の中に、喉を抑えて苦しむ霊夢の姿があった。

 

「ぁっ、ぐ……」

「霊夢!? おい、どうしたんだ!」

「どうでもいいよ。 美しいだとか、そうでないとか。 私の一番嫌いな考え方だ」

「まさか、これは……っ、霊夢、今すぐ結界を解け!」

 

 よく見ると霊夢だけではない、にとりの周囲にあった草木は枯れ、大地が砂となって形を崩し始めていた。

 藍のその声を聞いて、霊夢はその目を閉じながらも、激痛の走るその体に鞭打って結界につくった微かな隙間を潜り抜ける。

 結界を抜けた霊夢は、少しだけやせ細っているように見えた。

 喉を枯らし、口元からは微かに血が滲んでいた。

 

「霊夢、大丈夫か!?」

「……ええ。 これは多分、水分をやられたわね。 とっさに全身に結界を張ったおかげで助かったけど」

 

 にとりは、結界内の湿度を瞬間的に完全な0%にしていた。

 一般的には砂漠ですらありえないとされるその湿度は、闇の力で強化されたにとりの『水を操る程度の能力』によって可能になっていた。

 全ての水が吸い上げられ、極限まで乾燥していく。

 そんな状況に人間がいれば、まともに呼吸することすらできず、死に至ってもおかしくはない。

 それは、あまりに危険な裏切り行為だった。

 だが、スペルカードルールを否定され、殺されかけてなお、霊夢はただにとりに向かって面倒そうな目で語りかける。

 

「……あんた、一応言っておくけど今のはルール違反よ」

「……」

 

 にとりには反省の色など見えなかった。

 霊夢が助かって悔しそうにするでもなく、安堵の表情を浮かべるのでもない。

 ただ、何事もなかったかのように霊夢に問いかける。

 

「ねえ、ひとつだけ聞いていいかい?」

「なによ」

「さっきのあんたの弾幕が美しいのなら、ルールを破った今の私や……負けた奴は醜いっていうのか?」

「はあ?」

「いくら御託を並べても、結局それで勝つのは力のある奴や美しい奴だけなんだろ? 弱い奴に、醜い奴に生きる意味なんてないのか? 強いのが、美しいのがそんなに偉いのか?」

 

 ――そんなのが、正義なのか。

 

 ――そんなのが、幻想郷のあり方だというのか。

 

 そして、口には出さなくとも、にとりの表情はそんな嘲るような色を浮かべていた。

 

「別にそんなことはないわ」

「はっ。 もう聞き飽きたんだよ、そんな戯言は!」

「違うわ、どんな奴にだって…」

「っ、うるさい!! じゃあ、だったらなんで…っ!!」

 

 叫ぶようにそこまで言って、にとりは口を閉ざす。

 ただ悔しそうに唇を噛みながら、光を失った目には微かに涙が滲んでいた。

 

「まぁ、あんたに何があったのかは知らないけどさ」

「……別に知ってほしいとも思わないよ」

「そうね、私も別に知りたいとは思わないわ」

「……っ」

 

 そう言って、霊夢は再びスペルカードを構えた。

 にとりは憎しみのこもったような表情で霊夢を見る。

 

「なんだよ。 そんなこと言っておいて、結局それか」

「ええ。 それとこれとは話が別だからね。 幻想郷の決闘のルールはただ「美しい方が勝ち」。 私はただそれに従って、博麗の巫女としてすべきことをするだけよ!」

「……そうかよ」

「スペルカード宣言、霊符『夢想妙珠』!!」

 

 そう宣言するとともに、大きな弾幕が虹のように色彩を変えながら四方八方に飛び出し、にとりを取り囲むように回転していった。

 それもまた、光のコントラストが目を奪う、ただ美しさだけを追求した弾幕だった。

 

 だが、にとりはそれを見てすらいなかった。

 ただ一人立ち尽くす。

 弾幕がどんな軌跡を描こうとも。

 どんな景色が広がろうとも。

 それに決して目も向けずに、

 

「……ははは、はははははは」

 

 にとりは乾いた声で、笑い出す。

 その目は完全に死んでいた。

 何も信じていないような、ただ悲しみに支配されたような目。

 

 ――そうか、結局そうなのか。

 

 相手のことなど顧みない。

 力を持つ者は、いつもそんな風に力ずくで勝手な言い分を、欲望を貫き通す。

 どれだけ表向きは取り繕っても、それが結局強い者の、支配する者の、そして、世界の在り方なのだ。

 

 ――どうせお前たちにとって私たちは、ただそうやって支配して、嘲笑って、使い捨てるためだけにいる存在なんだろ?

 

 いつもそうだった。

 それは、永遠に変わらない強者の倫理だと知っていた。

 それは、永遠に悲しみを生み続ける世界の摂理だと知っていた。

 

 そんなことを、にとりはずっと見続けてきたから。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第11話 : 虐げられし者

 

 

 

 

 

 妖怪の山に住む、河童を含めた多くの妖怪たちは、長い間ずっと鬼に支配されてきた。

 もう、それがいつの記憶だったのかもわからない。

 確かに言えるのは、そこにあったのは道徳も権利も何もない、ただ強者のための世界だったことだ。

 勝手なことをした。

 鬼に従わなかった。

 気に障った。

 ただの気まぐれ。

 そんなことで仲間が傷つけられ、殺されていく。

 だけど、それが当然のことで、逆らう気すら起きなかった。

 死んだら運が悪かった、しょうがないと思うしかない。

 自分たちにはどうしようもない、弱い自分たちが悪いと思うしかない。

 それが、世界のあり方なのだからと思うしかなかった。

 そんな日々だけが、ずっと続いていた。

 

 そして、たとえそんな日々に終止符が打たれる日が来ようと、歴史は繰り返す。

 

 鬼たちが地底に移り住むと、次は天狗による支配が始まった。

 鬼の時のような殺戮はない。

 だが、天狗には強い力だけではなく、鬼よりも高い知性があった。

 だから、その支配はもっと固く、逃れがたきものとなった。

 自由なんてない、ただ組織のためだけに奴隷のように動かされる。

 全てその組織の決まりに、倫理に染め上げられて支配される。

 

 だけど、それに慣れていた。

 逆らう力のない者に、希望なんてないことを知っていたから。

 

 だけど――

 

 

  ――どうして? いやだよ、待って、行かないで!! 姉さん――

 

 

 ……それでも、そんな世界でも、いずれ誰もが悲しみに気付いていく。

 それも、本当に大切なものを奪われてからやっと。

 悲しいという気持ちが、こんなにも苦しいものなのだと初めて気づく。

 

 ――それなら、そうなる前に消してしまえばいい。

 

 始まる前に。

 脅かされる前に。

 奪われる前に。

 悲しみに、気付く前に。

 

 そんな感情を、誰も感じることのないようにすればいい。

 この世界は素晴らしいと、誰もが思える世界を創ればいい。

 それを妨げる奴らが全部、消えてしまえばそれでいい。

 

 ――私はもう、お前たちが悪いとは思わない。

 

 ――だけど、今度は私がお前たちの全てを奪ってやるから。

 

 ――だから、もう心配しないで。

 

 ――私たちは間違っていない。

 

 ――悲しみだけを平然と生み出し続ける世界が間違っているって、私が証明してみせるから。

 

 ――そんな世界は、私が壊してみせるから。

 

 

 ――そして、いつかきっと、迎えに行くから――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 にとりは俯いたまま立ち尽くしていた。

 霊夢の弾幕が周囲を覆い尽くしてなお、にとりは動かなかった。

 霊夢に、その勝負に、一切興味を示さずに、

 

「……もう、いいよ。 わかった」

 

 投げやりな口調でそう言った。

 にとりは霊夢の弾幕に目を向けずに、持っていたその道具を、機械を全て投げ捨てる。

 ただ、そのまま静かに地面に手をつけて言う。

 

「だったら、今度は私たちじゃなくてお前たちが逃げ惑えよ」

 

 それとともに、妖怪の山が大きく揺れていった。

 大地が干上がったように地割れを起こし、全ての木や草が枯れて崩れ落ちていく。

 そして、消え去った水が塊となって霊夢の目の前の地面から飛び出し、突如として散弾銃のように勢いよく弾けとんだ。

 

「――っ!!」

 

 避ける隙間など全く用意されていない水の弾丸。

 それは大岩さえもヒビ一つ入れずに貫けるほどに圧縮され、強く放たれていた。

 にとりを取り囲んでいた霊夢の弾幕すらも、あっさりと掻き消して辺りの景色を塗り替える。

 それは、もしかしたら霊夢一人だったなら防ぎきれたかもしれない攻撃。

 だが、後ろにいる魔理沙たちに結界を張ることに気を取られて判断が鈍ってしまう。

 

「霊夢っ、大丈夫か!?」

「大丈夫……じゃないわねっ!」

 

 それでも霊夢は全ての水の弾丸をギリギリで躱しきっていた。

 その弾丸を受け流すように霊力を展開し、避けられる隙間のないはずの猛攻を、自ら受け流してつくったわずかな隙間をくぐり抜けて、何とかグレイズ(かする)だけで済んでいた。

 しかし、それは掠っただけで人間にとっては致命傷になりかねないものだった。

 体の至るところから再び血を吹き出し、傷だらけになりながらも、それでも止まることのないにとりの水撃を捌き続ける。

 その攻撃を何とか凌いでいるようには見える霊夢は、完全に防戦一方だった。

 それはもはや、弾幕といえるものではない。

 ただ終わりなく放たれ続ける殺傷兵器の洪水は、確実に霊夢を追い込んでいく。

 

「流石に、これは……」

 

 視界を完全に埋め尽くすほどの水の弾丸。

 それを捌いてつくりだした隙間から……いつの間にかにとりが霊夢の懐まで一歩で踏み込んでいた。

 

「っ!!」

「消えろよ」

 

 にとりの手に導かれるように辺りを漂う水流が、薄く、細く形を変えていく。

 やがてそれは一本の細長い剣のようになって、辺りの景色を縦に一閃した。

 

「おわっ!?」

「そんな……」

 

 魔理沙とパチュリーが絶句して声を漏らす。

 霊夢がとっさの判断で避けた、高密度かつ細く生成された水の剣は、魔理沙たちを取り囲んでいた結界さえも切り裂いてわずかにパチュリーの頬を掠める。

 一般に最高硬度を誇るとされるダイヤモンドの加工にすら使われる、ウォーターカッターという名の圧縮された水の刃は、一瞬にして大地を真っ二つに裂いていた。

 辺りは2つに分かれて崩れ、再びにとりに水分を吸い上げられて風化した景色が砂となって流れ出す。

 

「魔理沙!」

「ああ、わかってるっ!」

 

 流石の霊夢にも他の誰かを守っている余裕がないことくらいは魔理沙にも理解できた。

 魔理沙は微かに動くようになった腕を無理矢理伸ばして、箒を掴む。

 たとえ自分の体が動かなくても、魔力で動かした箒に掴まっていればいいのだ。

 

「つかまれ、パチュリー、藍!」

 

 そして、崩壊していく土砂に飲み込まれかけていた2人を逆の手でぶら下げた直後、その場所は津波のように押し寄せた砂に飲み込まれていた。

 形を成すものが全て細かくなって流れ出し、その地獄のような光景とは対照に、不気味なほど静かに辺りが崩れていく。

 気付くと、多くの草や木々が生い茂っていたそこは、砂漠のような殺風景な場所になっていた。

 誰もが絶望すら感じる状況。

 だが、それでもにとりの追撃は終わらない。

 

 岩をも貫く水の弾丸の雨と同時に、ダイアモンドさえ切り裂ける水の刃が今度は蛇の大群のようにうねりながら霊夢に襲いかかっていく。

 弾丸の勢いすら止める、霊力のこもった札さえも、ただの紙切れのように切り裂かれていく。

 それは、不死の能力でも持っていなければ人間であろうと妖怪であろうと、まともに当たれば即死必至の明確な殺意だった。

 

「どういう気分? 見下してきた相手に殺されかける屈辱は」

「っ……悪いけど、今はそんなことに答えてあげられるほどの余裕はないわ」

「だったら、そんな下らないプライドを捨てて早く私を殺せよ。 いつものように、私をただゴミのように切り捨ててみろよ!」

「……」

 

 霊夢は答えない。

 答える余裕すらないのか。

 反撃する余裕すらないのか。

 逃げる道すら閉ざされているのか。

 ただ、終わりなく続くそれを辛うじて避け続けていられるのは、霊夢が持つ能力のおかげだった。

 

 霊夢が持つ『空を飛ぶ程度の能力』。

 それは、霊力や妖力といった力、あるいは翼や箒といった媒体を使わずに空を飛べる能力である。

 誰もが空を飛ぶことが当たり前の幻想郷においては意味がないとすら思えるその能力。

 吸血鬼のように強く飛べる訳ではない。

 天狗のように速く飛べる訳でもない。

 紫のような異空間の移動もできない。

 それでも、「自然と」空を飛ぶことのできる霊夢は、空を感じ取る力に関してだけは他の誰よりも長けていた。

 それは、言葉にするとすればただの直感。

 何かある、嫌な感じがする、危険な気がする。

 ただ、それを本能で感じ取ることができる。

 それは弾幕の飛び交う空を、誰よりも自在に動ける能力なのである。

 

 だが、その力も万能ではない。

 本来避けることのできないはずの攻撃から致命傷は避けているものの、その服や体は弾丸に掠り、鞭に切り裂かれて、だんだんボロボロになっていく。

 それを見ていた藍は、遂に耐え切れなくなって叫び出す。

 

「ダメだ霊夢、そいつはもうスペルカードルールに則るつもりなんてない!」

「……」

「たとえお前がそれを避け続けてもずっと終わらない、いつか絶対に捕えられる」

「うるさいわ。 勝負の途中よ、藍」

 

 だが、霊夢は藍の言葉を一蹴する。

 霊夢はただ避け続ける。

 その体は既に傷だらけで、たとえ避け続けられようと、いつかは出血多量で死んでしまう。

 そんな状態でなお、霊夢はただひたすらににとりの殺意を避け続けた。

 

「やめろ、もういい霊夢! もういいから…」

「嫌よ」

「霊夢っ!!」

 

 少し離れた空から藍と魔理沙が叫ぶが、霊夢は答えなかった。

 にとりの攻撃を躱すだけで、逃亡はおろか反撃すらしようとしない。

 霊夢はあくまで、スペルカードルールに則った動きだけを続けていた。

 

「……何だよ、それ。 私へのあてつけか? そんな遊びみたいなことして、私なんて取るに足らない存在だって見せつけたいのか? そんなに、自分たちが上だって見せることが楽しいのかっ!?」

「ちょっと何を言いたいのかわからないわ。 それより、あんたはそんな調子で大丈夫なのかしら?」

 

 霊夢が何を心配しているのかは知らないが、にとりはそれに惑わされない。

 終わらないにとりの猛攻に、霊夢は既に限界を感じているはずだったからだ。

 そして、疲れがたまっていく霊夢とは対照に、にとりを取り巻く力の波動は衰えるどころかどんどん勢力を増してすらいる。

 霊夢が倒れるのも、もう時間の問題だった。

 だが、そこでふいに霊夢が口を開く。

 

「制限時間よ。 スペルカード・ブレイクね」

「……はあ?」

 

 スペルカード。

 殺意だけが込められた今までのにとりの攻撃を、霊夢は確かにそう呼んだ。

 既に息も切れ切れになり、満身創痍の霊夢は、それでも再び自分のスペルカードを構えて言う。

 

「まだ諦める気はない? それなら、今度は私がスペルを唱える番ね」

 

 にとりは、霊夢が何を言っているのかわからなかった。

 諦める。

 それも、目の前にいる死にかけの人間ではなく、ほぼ無傷の自分がだ。

 そして、何も言わないにとりに向かって放たれたのは、

 

「スペルカード宣言、霊符『夢想封印』!」

 

 またも、色とりどりの光球たちだった。

 霊夢の代名詞ともいえる、そのスペル。

 数多の光から広がる波紋が空間に咲き、小さな銀河が幾重にも重なりあって辺りを包み込む。

 にとりはそれを見て一瞬呆気にとられてしまう。

 流石のにとりもそれに見惚れてしまったからなのか、ただ霊夢の言動の意味を理解できなかったからなのか。

 ただ、気付くとその死角から迫った弾幕に、にとりは被弾してしまっていた。

 

「しまっ……え?」

「あら、あんたやる気あるの? ま、でもとりあえずはこれで私の1勝ね」

 

 しまった、と思おうとしたにとりだったが、しかし実際には傷一つなかった。

 実は、霊夢の放つ弾幕は、殺傷能力が皆無のただの光の塊なのである。

 相手を傷つける気など一切ない、スペルカードルール以外に使い道の全くない弾幕。

 霊夢の放つ弾幕は、いつもそうだった。

 被弾後にまだ動けるかなど関係ない。

 相手はただ、その弾幕に見惚れてしまう。

 そして、それに被弾した者はただ、どうしようもなく「負けた」と思ってしまうだけなのである。

 

 だから、ルールを気にしていない者には、当然霊夢の弾幕は何の意味も成さなかった。

 

「……ふざけんな」

 

 ――こいつは、どこまで私を馬鹿にすれば気が済む?

 

 そんな風に言いたげな目をしながら、にとりは強く拳を握り締める。

 

「いい加減にしろよ……お前がどれだけそのくだらないルールを続けても、私には知ったことじゃない」

「……」

「私はお前たちを殺す。 それだけが目的なんだ。 だから、お前は…」

「はっ。 それこそ、私の知ったことじゃないわ」

 

 そう言って霊夢は、この絶望的な状況の中、いつものように弾幕ごっこをするかのような気安さで笑う。

 にとりには、それが気に入らなかった。

 この余裕は何なのか。

 自分が死にそうでも気にかけず、ただルールだけを遵守するその姿勢。

 いや、これはむしろルールを遵守してるというよりは――

 

「知ったことじゃない? 私は幻想郷を滅ぼそうとしているのに? 博麗の巫女なら、それを止めるだろ?」

「ええ、そうよ」

「……なら、私を殺せよ。 いつもみたいに、全部奪ってみろよ!!」

 

 そして、余裕のあるはずのにとりの方が耐え切れなくなり、力のまま霊夢に向かって走り出した。

 その水の刃を避ける隙間すらない網目状に変えて、ただ霊夢に明確な死を振りかざそうとしているにとりを前に、藍が必死に叫ぶ。

 

「頼む霊夢、もう無理だ! そいつを…」

「嫌よ」

「なんでだ、お前には…」

「だって……」

「霊夢っ!!」

 

 言いかけた霊夢に、遂にそれが直撃した。

 

 人間ならば、受けた瞬間に全て終わりの一撃必殺。

 全てが細切れになり、血の色だけが散乱する凄惨な光景。

 目の前に広がるだろうそんな光景に恐怖し、思わず魔理沙たちは目を背けた。

 だが、その腕の感触に違和感を感じたにとりが目線を上げると、

 

「……だって、こいつは悪くないじゃない」

「なっ……!?」

 

 そこには、目の前でにとりの腕を掴んでいる霊夢の姿があった。

 その状況に戸惑ったにとりは、動けずにただ固まっている。

 

「なんで……」

「結界の強度を限界まで引き上げたのよ。 動きが鈍って弾幕に当たりやすくなるから、スペルカード戦では使えないけどね。 でも、実質当たったようなものだし、今回は私の負けね」

 

 そう言って霊夢はにとりから距離をとって、再びスペルカードを構える。

 

「っ!!」

「だから、これで1勝1敗よ。 続きを始めましょうか」

「なんでっ!! ……なんで殺さなかった」

 

 にとりが思い切り叫ぶ。

 霊夢ほどの力があるのなら、ここで終わらせることもできたはずだった。

 いや、今だけの話じゃない。

 さっき当てた弾幕にしろ、そこに少しでも殺傷力を込めていたのならば、少なくともにとりは無事ではすまなかったのだ。

 それにもかかわらず、これだけ目の前で隙だらけだった自分を、霊夢が殺さずに再び離れたことが、にとりには理解できなかった。

 

「なんで殺さなきゃならないのよ」

「私は、幻想郷を滅ぼそうとしてるんだぞ」

「そうね」

「私が天狗たちを……幻想郷の奴らを皆、皆、消した元凶なんだぞっ!」

「……そう。 それは問題ね」

「だったら退治しろよ!! 都合の悪い奴は、いつもみたいに…」

「そんなつもりはないわ」

 

 焦燥しきったにとりに、霊夢ははっきりとそう伝えた。

 そして、その手に構えたスペルカードを下ろす。

 

「どうしてっ…」

「……じゃあさ。 あんたは、なんでこんなことをしようとしたのよ」

「はあ?」

「あの時、なんて言おうとしたの? だったら何で…って、何を言いかけたの?」

「……別に関係ないだろ? お前も、知りたいとも思わないんだろ!?」

「そうよ。 私はあんたの過去を聞こうだなんて思わないわ」

 

 霊夢ははっきりとそう言う。

 だが、その目にあるのは無関心ではなかった。

 

「……だって、それを聞くなんて無責任じゃない。 あんたがどんな悲しみを抱えてるかなんて、どれだけ辛い思いをしてきたかなんて、聞いたところできっと私にはわかってあげられないのに」

「……」

「あんたが何かに苦しんで、誰かに復讐をしたいと思っても、その気持ちを消してあげることなんて、私なんかにはきっとできない。 でもね…」

 

 そう言って、霊夢は今までの真剣な表情とは打って変わって優しい目を向ける。

 

「それでも……私はただ、あんたを助けたいのよ」

「なっ……」

「未熟な私にも、あんたを受け止めてあげることくらいならしてあげられるからさ」

 

 にとりは戸惑っていた。

 もしかしたら、自分を油断させるための罠かもしれない。

 だけどそれでも、その目は一切の迷いも見えないほど、ただ真っ直ぐににとりの目だけを見つめていた。

 そして、霊夢はその両腕を開いて、

 

「幻想郷は全てを受け入れるわ。 あんたの悲しみも、苦しみも、過去も、未来も」

「何を、言って…」

「だから、あんたはもう心配しなくていい」

 

 次の瞬間、雷鳴と共に夕焼け空が色褪せ、不気味な雲が空を覆う。

 誰もが幻想郷の終わりすら予感する、異様な空の色。

 だが、そんな状況でなお、霊夢はにとりから一瞬たりとも目を逸らさずに、ゆっくりと歩き出す。

 にとりはただ、怯えたように霊夢を見ながら立ち尽くしていた。

 

 ――なんなんだよ、こいつは。

 

 今まで、ずっと虐げられてきた。

 ルールを犯した自分たちに優しさが向くことなんて、決してなかった。

 

 にとりは今、ルールを破って霊夢を殺そうとしているというのに。

 それなのに、霊夢はにとりに一切の危害を加えようとしない。

 それなのに、霊夢はにとりを助けたいと言う。

 それなのに、霊夢はそのボロボロの身体でにとりに向かって笑いかける。

 

 理解できない。

 にとりには理解できない、今までに向けられたことのない優しさ。

 

「だって、私は――」

 

「ぅ……うわああああああああ!!」

 

 初めて自分に向けられたそれに恐怖し、にとりは思わずその力の全てを本能のままに霊夢にぶつけようとしていた。

 山一つ分の水を凝縮して放ったそれは、そのまま妖怪の山全てを消し飛ばすことすらできる兵器だった。

 その後のことなんて考えていない。

 魔理沙も、藍も、パチュリーも、そして、にとり自身さえも跡形も無く消し飛んでしまいそうな力の塊が炸裂しようとして、

 

 

 ――霊符、『夢想封印』

 

 

 突如としてその周囲に現れた光球が、取り囲むようにそれを押しつぶして飲み込む。

 さっき出した霊夢の弾幕と同じはずの光の球と、そこから広がっていく波紋。

 だが、今度はただ強く光ったそれが、破裂しかけたその兵器を消し去って広がっていく。

 

「―――っ!?」

 

 誰ひとりとして、何が起こっているのかわからなかった。

 にとりから放たれたのは、神ですら消し去れるかわからないほどの絶望的な力の塊。

 だが、突如として現れた光に、その力ごと世界が覆われて……

 

 …。

 ……。

 …………。

 

 しばらくの沈黙。

 誰も目を開くことも、声を発することもできない、まぶしい光に包まれた世界。

 

「……ごめんね」

 

 ふと、にとりの耳元で小さく囁くような声が聞こえた。

 それを聞いて我に返ったにとりは、いつの間にか自分が目を瞑っていることに気づく。

 そして、慌ててその目を開くと、

 

「……え?」

 

 そこには、霊夢の姿だけが見えた。

 そのボロボロの身体で、ただ自分を優しく抱きしめる霊夢の姿。

 

「なんで……」

「あんたは悪くない。 あんたの苦しみをわかってあげられなかった、何もしてあげられなかった私たちが未熟だっただけよ」

 

 そう言って、霊夢は強くにとりを抱きしめる。

 にとりには何が起こっているのかが未だによくわかっていなかった。

 そこにあるのは、いつものような蔑みの目ではない。

 ただ、自分のことを優しく包み込む手があるだけだった。

 

「……でもね。 今までずっと悲しい思いをしてきたのかもしれない、辛い思いをしてきたのかもしれない。 だけどあんたはもう、一人で抱え込まなくてもいいでしょ」

「うるさい、私はっ!!」

「だって、あんたには居場所があるんでしょ。 あんたには、頼んでもないのに助けに来てくれるようなバカがいるんでしょ?」

「あ……」

 

 

  ――にとり、無事で良かった!

 

 

 そう言われ、にとりの脳裏にふと浮かんだのは、温かい声。

 こんな自分を心配してくれた友人の、屈託のない笑顔だった。

 

 ――そうだ。 どうして、忘れていたんだろう。

 

 自分にはまだ、大切な友がいた。

 バカみたいで、時々迷惑で、だけど頼もしくて、優しくて……

 そんな、かけがえのない人が待っていてくれる世界。

 そして――

 

「だけど、それでも……それでもあんたが辛くてどうしようもなくて、壊れそうになったときは、今度は私が助けてあげるから」

「……」

「たとえあんたが何をしようと、その時は私があんたの気持ちを何度だって受け止めてあげるから」

「私、は……」

 

 昔とは違う。

 もう、見捨てられたりしない。

 こんなにも自分たちのことを想ってくれる人たちがいてくれる。

 きっと、これからもずっと。

 

 ――ああ、そうか。

 

 ――私たちは間違っていないのかもしれない。

 

 ――世界は、きっと残酷だ。

 

 ――だけどそれでも、私たちには信じられるものがきっとできるから。

 

 ――だから――

 

 にとりの体から力が抜け落ちる。

 その表情は柔らかく、ただ霊夢に身を任せるかのように倒れかけて、

 

 

  ――……ごめんな、にとり。

 

 

「―――っ!!」

 

 それでも、にとりは霊夢を突き飛ばして大きく後ろへ飛び下がった。

 その目に残る悲しみの色が消えることは、なかった。

 

「……嘘だ」

「嘘じゃないわ、私たちは…」

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! それならなんで……なんで姉さんは見捨てられたんだ!!」

「姉さん?」

 

 にとりに姉がいたというのは、魔理沙には初耳だった。

 そんなそぶりすら、一度も見せたことはなかった。

 そう言ったにとりは光のない、それでも涙を溜めたその目でただ霊夢を睨んでいた。

 

 

 人間と河童の間に生まれたにとりの姉。

 ちょっと不器用で厳しいところもあったけれど、優しくて、にとりにとって誰よりも大切な人だった。

 だけどそれは、そこにいることすらも許されない。

 人間でも河童でもない姉は次第に人間から疎まれ、他の妖怪たちからも、誰からも避けられていった。

 誰もが自分と違う者を、醜い者を自然と避けていく。

 それが世界のあり方だからと、諦めていた。

 

 それでも、にとりだけは姉のことが大好きだった。

 どんなときも、ずっと傍にいた。

 他に何がなくとも、ただそれだけで幸せだった。

 

 だけど、それは突然いなくなってしまった。

 人間でも妖怪でもなく誰ともうまく打ち解けられない、山の社会に不適合な存在だと烙印を押されていた姉は、天狗たちによって追放されたのだと後から聞かされた。

 それを信じた訳でもない。

 それがいつのことだったかすらも、もうわからない。

 ただ、にとりは考えないようにしていた。

 考えれば、辛くなるから。

 その悲しみに、押しつぶされてしまいそうになるから。

 

  《お前は、何を嘆く》

 

 だが、その力に巡りあった時、にとりはその声に答えてしまった。

 鬼がいなくなれば。

 天狗がいなくなれば。

 支配する者がいなくなれば。 

 この山が変わる日が来れば。

 そうすれば、姉が帰って来れる社会ができるのだと、心のどこかできっと思っていたから。

 それで、またいつか幸せな時間がくるのだと思っていたから。

 

 それでも、歴史は繰り返す。

 今度はその力を消そうとする妖怪と神々の支配。

 まるで、物のようににとりを操る藍の冷たい目。

 にとりは結局、それに抗うことはできなかった。

 自分に変えることなどできないのだと、気づいてしまった。

 もう、自分たちの居場所なんて、どこにもないと気づいてしまった。

 

 だから、にとりは壊そうと思った。

 変わることがないのなら、その世界ごと壊してしまおうと思った。

 そうして新たに始まった世界は、きっと何もかもを受け入れてくれる。

 そうすればいつか、姉が戻ってくる日が来るのだと信じていたから。

 

 

 端を切ったように大声でそう言ったにとりに、霊夢は寂しそうに返す。

 

「……悪いけど、私は知らないわ」

「そうだよね、知ってるわけないよね。 どうせどうでもいいんだろ、お前たちに見捨てられていなくなってしまった姉さんのことなんてっ!!」

「っ!!」

 

 それを聞いて、なぜかパチュリーが顔色を変える。

 何か、気づいてはいけないことに気づいたかのような目。

 それを、にとりに感づかせてはいけないとする目

 だが都合よく、今のにとりにはパチュリーのことなど見えていなかった。

 

「だけど、お前たちが消えれば、きっと姉さんは帰ってくる」

「……」

「支配する奴らさえいなければ、私たちみたいに弱くたって、蔑まれる存在だって、きっと安心して暮らせる」

「……」

「ただ、それだけでいいんだよ。 それ以上のものなんていらないんだ! ……それなのに、私たちみたいな存在がそんなことを望むのすら、いけないことだっていうのかっ!?」

 

 

「――ああ、いけないことさ」

 

 

 そこに突如、どこからともなくそんな声が響いた。

 寒気のするような、悍ましい気配とともに。

 

「え……?」

「それが世界の摂理だ。 虫ケラは虫ケラらしく、ただ闇を抱えて消えればいい」

 

 そして、気配だけが近づいてくる。

 どこに存在する訳でもなく、ただゆっくりとそれだけを感じさせる。

 

「まさか……」

 

 それに伴って藍の顔が次第に恐怖に歪んでいく。

 いや、藍だけではない。

 その場にいる誰もが、自然とその体を震えさせる。

 やがて崩れ去った砂の中から黒い何かが無限に溢れ出して、それを形作っていった。

 そして――

 

 

「そうだろ? 嘆きの支柱よ」

 

 

 そこから現れたのは、その黒に合わない金の髪を靡かせ、どこか見覚えのある帽子を被ったルーミアの姿だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12話 : 化物

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第12話 : 化物

 

 

 

 

 

 あまりに突然の出来事に、誰も口を開けなかった。

 いや、開くことすらできなかったという方が正しいだろうか。

 いつも軽くあしらっていた、いつもと同じ姿の小さな妖怪。

 あえて視覚的に変化があるとすれば、少しだけ長く伸びた髪と、その頭につけていた大きなリボンの代わりに蛙のような帽子をかぶっていたことだけだった。

 だが、それは全くの別人といえる雰囲気を纏っていた。

 

「なん、なのよ、あんたは……」

 

 霊夢だけが、辛うじてその声を発することができた。

 だが、その目には一切の余裕はない。

 目の前にいるそいつがとてつもなく危険なものであると、直感が、本能が告げていた。

 それは、霊夢以外の者ですら同様だった。

 動くことすらできず、それでも心の底から「逃げろ」という危険信号だけが湧き上がっていた。

 

「どうして、だってお前は…」

「ああ、そのつまらない反応……懐かしいな九尾の妖狐。 だけど、もう薄々勘づいてはいたんだろ?」

「っ……ああ、そうだな」

 

 藍はにとりが感染していることを知った時、計画に支障が出ているだろう予感はしていた。

 だから、霊夢や魔理沙たちを不安にさせてはいけないと、藍は少しでも強がって見せようとする。

 だが、そう思えば思うほどに、体はうまく動かなくなっていった。

 

「お、おい、藍! 何で、ルーミアが……」

 

 そして、その重圧に耐え切れなくなった魔理沙が会話を遮るように震えた声で問い詰める。

 

「紫様が「存在」の要素を封印した容れ物……それが、ルーミアという妖怪だ」

「っ!!」

 

 闇の能力と聞いた時、魔理沙は少しだけ予想はしていた。

 だが、普段とはあまりにかけ離れたルーミアの雰囲気を前に、魔理沙はうまく対応できない。

 そして、嫌でもその目に入ってくる見覚えのある物体。

 諏訪子がいつもかぶっていた蛙の帽子。

 魔理沙が何度も奇襲をかけて盗もうとして、それでも触れることすらできなかったそれは、ボロボロになってルーミアの頭に乗っていた。

 

「おい、それは……まさか、洩矢様は…」

「洩矢様? ……ふふふ、なるほどなるほど。 お前はもう八雲紫から乗り換えていたのか、この尻軽め」

「いいから、答えろ!!」

 

 この状況を愉しむかのように藍をからかって笑い始めるルーミア。

 だが、それとは対照的に他の誰にも笑う余裕すらない。

 

「私はお前のそういうところは嫌いじゃないよ。 わかっている現実から少しでも目を逸らそうとする、その歪んだ性格はな」

「おいルーミア、さっきから話を逸らしてんじゃ…」

「安心しろー、あの蛙ならさっき消してきたさ」

「……え?」

 

 堪えきれずに叫んだ魔理沙は、その二の句を継げなかった。

 神々の中でも最高位に位置するはずの諏訪子。

 だけど、ルーミアはそれをまるで歯を磨いたと言うくらい気軽な口調で、ただ消したという。

 

「……ははは、なんだよそれ、冗談もほどほどにしろよ!! お前程度の妖怪にどうやって諏訪子が…」

 

 魔理沙が声を震わせながら叫ぶ。

 だが、今のルーミアがただの低級妖怪と呼べるような代物ではないことは、魔理沙にもわかっていた。

 それでも、心のどこかでは未だに信じられずにいた。

 それを聞いたルーミアは、少し首をかしげながら答える。

 

「そうだな……こうやって、かな」

 

 突然ルーミアがその腕を振り上げる。

 何をしようとしているのかわからず、一瞬戸惑った魔理沙だったが、

 

「お前が動くと、死ぬぞ」

「――っ!?」

 

 ルーミアのその忠告の意味を、魔理沙は考える余裕すらなかった。

 直感のままにその身を屈めると、そのままルーミアの腕から溢れだした何かが魔理沙の上を細く広がっていく。

 魔理沙は、何も考えていなかった。

 ただ、本能から湧き上がる恐怖に導かれるように身を屈めただけだったが、

 

「ぁっ……」

 

 後ろから、消え入りそうな声が聞こえかけて振り向く。

 そこには……

 

「え?」

「だから言ったろ? 動くと死ぬって」

 

 返事はなかった。

 ただ首のない身体と、目を見開いたまま地面に転がっているにとりの首だけが目に入った。

 それを見て、魔理沙は呆然としたまま、

 

「そんな、にとり……嘘、だろ……ぅわあああああああああ!?」

 

 泣きながら駆け出す。

 他に何も見えていないかのような目で、ひたすらに走る。

 ただ、その耳に届いていた言葉だけは消えなかった。

 自分が動いたせいで、などという訳のわからない自責の念にとらわれながら、魔理沙の表情は崩れていく。

 その姿を見て、ルーミアは満足そうに笑っていた。

 そして、魔理沙は無残に転がったそれを拾い上げようとして、

 

「落ち着け、魔理沙!!」

「っ――!!」

 

 その首が、紙になって崩れ落ちる。

 魔理沙の見覚えのある、十字型の紙の束。

 それは、藍の使う式神の札だった。

 

「え……?」

「……何とか、間に合ったか」

 

 いつの間にか、藍がにとりを抱えて立っていた。

 だが、藍はもう限界だった。

 にとりの攻撃で傷つき、ほとんど霊力が残されていない藍には、一度身代わりの式神を出すだけが精一杯だった。

 それに気付いて、藍のことを未だ信用していなかったにとりが声を漏らす。

 

「なんで、私を……」

「……別に、意味なんてない。 私はただ、お前を護れという紫様の命令に従ったまでだ」

「でも、お前は!!」

「私のやり方がお前を追い詰めたというのなら謝ろう、すまなかった。 ……だが、私は他にやり方を知らんのだ」

 

 式神は基本的には主人の命令だけに従って動く。

 そして、それが徹底できればできるほど、式神が出せる力は大きくなる。

 だが、そのためには多くの感情を押し殺さなければならない。

 それ故に、優秀な式神ほど相手の感情を汲み取ることが下手なのである。

 にとりを護れ。

 にとりに技術を開発させろ。

 紫からにとりに関してこの2つの命令だけを受けた藍には、ただそれを遂行することしか見えていなかった。

 

「だから……」

「あーあー、余計なことを」

 

 そのやりとりに、ルーミアがつまらなそうに口を挟む。

 だが、そのつまらなそうな表情の裏には、何かをあざ笑うような笑みが含まれているようにも感じられた。

 たった今にとりを殺そうとしながらも、そんな表情で挑発してきたルーミアに対し、霊夢は怒りを抑えきれずに睨みながら言う。

 

「余計なことって、何よ……」

「余計なことは、余計なことさ。 そいつも私の気まぐれに任せてそのまま死ねれば幸せだったかもしれないのになー。 その狐が横槍を出したばっかりに、更なる悲しみを背負うことになった訳だ」

「はあ?」

 

 霊夢は何を言っているのかわからず、不服な声を上げる。

 そして、ルーミアはただにとりに目を移して問いかける。

 

「なあ? 確かお前には、大好きな大好きな姉がいるんだろ?」

「っ――!!」

「え?」

 

 にとりは意に介してないようだった。

 だが、ルーミアがそう言うと、なぜかパチュリーが何かに気づいたように叫ぶ。

 

「やめなさい! それは…」

「いや……いた、とでも言うべきかな」

 

 それを聞いたにとりの表情が変わる。

 他の誰も知らなかった、にとりの姉の行方。

 にとりの目には既に、そのことを知っているかもしれないルーミアしか映っていなかった。

 一人、藍のもとを離れてルーミアに近づいていく。

 

「お、おい…」

「姉さんのこと、知ってるの!?」

「ふふっ……ああ。 そいつな、」

「ダメっ!!」

 

「もう、死んだよ」

「……え?」

 

 にとりはただ呆然とした顔でルーミアの方を見ながら固まっている。

 その目の焦点は合っていなかった。

 

「そんな……違う、そんなの嘘だ、だって……」

「ちなみになー、そいつはお前のことを恨んでたよ」

「え?」

「同じ姉妹のくせに自分と違って才能もあり、周りから疎まれもしない。 ただ自分に哀れむような目を向け続けてくる妹を、地の底で怨霊になってからもずっとな」

「まさか……」

 

 そこで魔理沙は何かに気づいたように声を上げる。

 地底で見た怨霊の記憶。

 世界を、何もかもを、そして、にとりを恨んだ怨霊の記憶。

 

「やめろ! それは…」

「まあ、たとえ私の言うことが信じられなくても、実際に地底に行ったこいつらの反応を見ればわかるだろ?」

「あ……」

「――っ!!」

 

 魔理沙とパチュリーは、しまったと言わんばかりに顔を引きつらせる。

 だが、もう遅かった。

 微かに光の戻りかけたにとりのその目は、また暗い色に侵食されていく。

 

「事実、なぜお前が真っ先にこんなものに感染したと思う? 一体誰がお前を貶めようと、お前に復讐しようとしたと思う?」

「違う……そんな訳ない。 だって、姉さんは…」

「はっ。 なんだ、お前がまだ気づいていないのなら、お前の姉に代わって私が言ってやるよ」

「!!」

 

 ――日符、『ロイヤルフレア』

 

 これ以上は、いけない。

 それを感じ取ったパチュリーがルーミアを止めようとして、

 

「このっ……!?」

 

 全力で放ったはずの火柱は発生した直後、辺りから溢れ出した闇に飲み込まれ、初めから存在していなかったかのように消え去った。

 そして、闇の波がそのままパチュリーに向かって広がっていく。

 

「恋符『マスタースパーク』!!」

「式神『十二神将の宴』!!」

 

 それに気づいた魔理沙と藍がその勢いを止めようと、とっさに自分ができる最大級の魔弾を放った。

 それはほんの一瞬だけ闇の波を止めたかに見えたが、それでもすぐに全てを飲み込んでパチュリーに襲いかかる。

 そしてパチュリーが飲み込まれる寸前……間一髪、飛び出していた霊夢がパチュリーを抱えて何とかそれを避け切っていた。

 

 だが、ルーミアはその一連の攻防に目を向けてすらいなかった。

 まるで何も起きていないかのように、ただにとりに語りかける。

 

「お前の姉はな、死ぬ直前までずっと…いや、死んでからさえずっと」

「やめろっ!!」

 

 魔理沙は遠くから叫ぶ。

 だけど、それは届かない。

 

「お前のことが――」

「やめろおおおおおおおおお!!」

 

「大嫌いだったんだよ」

「ぁ――――」

 

 にとりの口から、少しだけ声が漏れたように聞こえた。

 だが、にとりはもう何も感じてすらいなかった。

 ただ微かに涙を浮かべ、何もかもに絶望してしまったかのようなその目からはゆっくりと力が失われ、そのままにとりは膝から崩れ落ちていく。

 魔理沙は慌ててにとりのもとに駆け寄った。

 

「にとり!!」

「脆いもんだな。 まぁ、私としてはその方が好都合だけど」

「黙れよ! おい、にとり、しっかりしろ!!」

 

 魔理沙が必死に肩を揺すりながら呼びかけるが、にとりは何も反応しない。

 もう二度と何も見えることすらないのではないかと思うほど光の失われてしまった目は、閉じることもなく少しだけ開いていた。

 そして……

 

「魔理沙、離れろ!!」

「えっ―――?」

 

 突然、藍の放った式神に魔理沙が弾き飛ばされる。

 そして魔理沙がにとりから引き離された次の瞬間、にとりの身体が黒く染まって……消えた。

 

「え……にとり…?」

「ふぅ。 やっと揃ったか」

「っ!? お前は……っ!!」

 

 魔理沙は、ただ怒りのこもった目でルーミアを睨む。

 だが、その怒りはどう向けたらいいものかすらわからない。

 魔理沙が会ってきたどんな相手からも今まで一度として感じたことのない、確かな悪意。

 それに対する感情は、魔理沙が初めて感じるものだった。

 アリスとパチュリーがさらわれたとき勇儀に向けた怒りとは違う。

 全てを忘れて殺してしまいそうになるほどの、殺意。

 それを感じているのは、パチュリーも、その身に限界が来ている藍ですらも同じだった。

 

「……ああ、それだ、その目だ」

 

 だが、それを見たルーミアは恍惚とした表情になる。

 それを待っていたと言わんばかりに、満足そうに笑いながら3人を見つめていた。

 誰も理解できなかった。

 目の前の妖怪が何をしたいのか、何を言いたいのか。

 

「……ねえ」

 

 そんな中、霊夢だけが一人、無理矢理作ったような冷静さで呟いた。

 それに不満なルーミアが聞き返す。

 

「何だよ、博麗の巫女」

「こんなことして……あんたは一体、何が目的なのよ」

「さぁね。 聞きたいと思わないんだろ? お前には何もわからないから、聞くこと自体が無責任なんだろ?」

「それは……」

 

 霊夢が少しだけ口ごもる。

 そんな霊夢に向かってルーミアが満面の笑みを浮かべるとともに……突如として闇の中から何かが次々と飛び出してきた。

 

「だから、優しい優しいお前はきっと私のことも許してくれるんだろ? たとえ私がこの帽子も、標縄も、瓢箪も、鏡も、鎌も、弓も…」

「――っ!?」

 

 それは、どれも霊夢に見覚えのあるものだった。

 ボロボロの諏訪子の帽子。

 切れた神奈子の標縄。

 穴の開いた萃香の瓢箪。

 割れた映姫の鏡。

 刃が砕けた小町の鎌。

 折れた永琳の弓。

 突然飛び出したそれらを、ルーミアは全て目の前で粉々に粉砕する。

 

 そして――

 

「この、センスの悪い日傘も」

「っ!? 待って…」

 

 一つだけ、ルーミアは自らの手でそれを取り出す。

 それは、霊夢がいつも見てきたもの。

 ずっと霊夢の傍にいた紫の日傘は……そのままルーミアが虚空に投げるとともにぐしゃぐしゃに折れ曲がり、そのままバラバラに砕け散って再び闇の中に消えて行った。

 

「ぁ……」

「私が全部、消し去ったとしても」

「そんな……」

 

 霊夢や魔理沙だけではない。

 状況を把握していると思っていた藍ですら、自分の目を疑っていた。

 紫たちだけではない、既に神奈子や映姫、そして永琳すらも敗れたという事実に。

 

「だけど私はあの河童の望み通りに、幻想郷を支配するような奴らを消してやっただけさ。 だから私は悪くないんだろ?」

「……」

「それでも、私にも哀れみを向けるか? お前の大事な大事な相棒を、八雲紫を消した元凶である私にも」

「……ふざけんなよ」

 

 霊夢は呆然とした表情で膝をついたまま、もう何も喋らなかった。

 ただ信じられないという顔の目からは一筋の涙が流れていた。

 そして魔理沙は、まるで霊夢を挑発するかのようにうすら笑いを浮かべながらそんなことを言うルーミアに対し、もう我慢の限界が来ていた。

 魔理沙は、初めて自らに芽生えた殺意という感情に身を任せ、たった一人でミニ八卦炉を構えて言う。

 

「もう、喋るな。 お前はこの幻想郷にいちゃいけない」

「そうだなー。 いいよ、それなら私のことも煮るなり焼くなり好きにするといいさ」

「っ!! そうかよ、なら消えろよ、魔砲『ファイナルマスター…」

 

 魔理沙は全ての殺気を乗せて魔力を凝縮する。

 だが、そこから一瞬ルーミアの姿が消え、

 

「……ん? どうした、ほら、早くしろよ」

「ぐっ!?」

「なっ……」

 

 次の瞬間、魔理沙の目の前には、藍の首を無造作に掴んで盾のように自分の前に構えているルーミアの姿があった。

 

「何故ためらう? こんな、今日には消えるような式神一匹のために」

「お前は…」

「私を許せないんだろ? 消すんだろ? なら、それでいいだろ、早くすればいいさ」

「っ―ー」

 

 魔理沙のその手は震えていた。

 その態勢で固まったまま、ルーミアを睨む。

 ただ、その視界には、どうしてもその前にいる藍の姿が焼かれるように入ってくる。

 やがて魔理沙は悔しそうな表情のまま、構えたミニ八卦炉を下ろしかけた。

 そして、霊夢は……

 

「……ごめんね、藍」

 

 一人、震えた声で口を開いた。

 それに気づいた魔理沙が霊夢を見ると、霊夢はゆっくりと立ち上がり、ただ何かを堪えるように上を向いていた。

 

「へえ、切り捨てるか。 さすが、博麗の巫女は冷静だな」

「……ごめんね、紫」

「まさか、霊夢…っ!?」

 

 魔理沙には霊夢が何をする気なのかはわからない。

 ただ、ルーミアに掴まれている藍だけが、霊夢を見て焦った表情を浮かべていた。

 

「ごめんね、―――」

 

 そして、霊夢が誰かの名を呟いたように見えた。

 だが、それは誰にも聞こえなかった。

 ただ、霊夢の纏う気配が変わって――

 

 

「私……もう、我慢できそうにないわ」

 

 

 その瞬間、霊夢の姿が消えた。

 同時に辺りの闇が拡散して爆ぜる。

 

「――――え?」

 

 その間抜けた声を漏らしたのは、ルーミアだった。

 自分の周りを囲んでいた闇は弾け飛び、藍を掴んでいたはずの自分の左腕は消え去り、その肩から大量の鮮血が飛び散っていた。

 だが、ルーミアはそれを理解できない。

 ここには今、ルーミアの思う虫ケラ以外誰もいない。

 自分を脅かす者など存在するはずのないそこで、いつの間にか自分の片腕が爆ぜて消え去っていた状況を把握できなかった。

 

「な…」

 

 しかし、驚く声を上げる間もなく、いつの間にか藍の姿は消えている。

 そして、次の瞬間にはルーミアの胸に大きな風穴が空けられていた。

 ルーミアが貫かれた自分の胸を見ると、そこにあったのは血に染まった手。

 全てが赤く染められた巫女服の袖。

 鋭く吊り上がり、赤く光った二つの眼。

 そこでやっと、ルーミアは我に返る。

 

「あ”っ!? ああああああああああ!!」

 

 ルーミアはとっさに全ての闇を纏い、その力を自らに注ぎ込む。

 それに伴って、誰の目からもわかるほどに、ルーミアから発される力が増幅する。

 だが、ルーミアの周囲に存在した力は、増幅したそれを掻き消すほどに強大だった。

 その速さは、それでもやっとルーミアの目にさえ辛うじて見えるかどうかの速さだった。

 

 辺りの闇が飛び散って形を失くす。

 ルーミアの全身が切り刻まれる。

 ルーミアの身体が徐々に爆ぜていく。

 

「何だ、これ。 何が起こってるんだよ……」

 

 魔理沙は立ち尽くしたまま、声を漏らす。

 

 ――まさか……霊夢、なのか?

 

 そんな思考が魔理沙の頭をよぎる。

 そして、その考えを無理矢理に払拭する。

 その身に湧き上がっていたのは、ルーミアが現れた時以上の体の震え。

 言葉にできない、身の毛もよだつほどの恐怖だった。

 そんなものを、自分が霊夢から感じているなんてことは考えたくもなかった。

 だが、そこから目を背けていられるような状況ではなかった。

 

「なんなんだ、お前はスペルカードルールが無ければ何もできないただの人間じゃないのかっ!?」

 

 ルーミアは、訳がわからずに叫ぶ。

 既に魔理沙の目にすら映らない光速の移動。

 余裕の表情で挑発していたルーミアは、得体の知れないそれに追い詰められていた。

 

「なんで、こんな……だって、あいつは…」

「違うわ」

「え?」

 

 もはや誰に言っているかもわからない魔理沙の声を、微かに否定する声が聞こえた。

 何を否定されたのかはわからない。

 ただ、その声は魔理沙が何を言おうとしたかがわかっているかのように、はっきりとそう言っていた。

 

「一体、どういうことだよ」

 

 魔理沙は、そう呟くことしかできなかった。

 

「……そうね。 じゃあ一つ昔話をしてあげるわ」

 

 その声に答えるように、霊夢は迫り来るルーミアの闇を、身体を切り裂きながら、その声が届くよりも遥かに速い速度で動きながら言う。

 その姿はもう、魔理沙には見えない。

 だが、その声はどこか寂しそうな響きを放っていた。

 

「むかしむかし、幻想郷に一匹の化物がいました」

 

 そんな話が辺りに響きながらも、ルーミアに残っている右腕が飛ぶ。

 ルーミアはその傷口を闇で覆いながら少しずつ身体の再生を繰り返すものの、その再生速度は明らかに失うスピードについていけていない。

 

「その化物は、ただ何もかもを破壊し、奪い、終わらせるだけの存在でした」

「まさか、霊夢……っ!?」

 

 いつの間にか魔理沙の後ろにいた藍が、その話を聞いて焦った声を上げる。

 魔理沙には藍の感情を読むことはできない。

 だが、その目の奥に浮かんでいるのが明らかに悲しみの色だということだけはわかった。

 

「そして、幻想郷を壊される訳にはいかなかった妖怪の賢者は立ち上がり、それを止めようと必死に策を練りました」

「やめろ霊夢、もういい!!」

 

 藍が叫ぶが、それでも霊夢はただルーミアの闇を吹き飛ばしながら、藍の声など聞こえていないがごとく嘲笑するような声で続ける。

 

 相手の四肢を破壊しながら。

 辺りの景色を欠片すら残さないほどに蒸発させながら。

 敵味方問わず、あらゆる者に恐怖だけを撒き散らしながら……

 

「だけど、それでも化物は止まりませんでした。 やがて化物は山を消し去り、動物たちを殺し、妖怪たちを殺し、そして――」

「霊夢っ!!」

 

「その妖怪の賢者の……大切な人さえも殺しました」

 

 霊夢に向かって伸ばしかけた藍の手は、まるでスイッチが切れてしまったかのように地に落ちる。

 魔理沙とパチュリーはただ唖然とした顔でそれを聞いていた。

 理解が追いつかない。

 それでも、その化物というのが誰のことを指すのかだけはなんとなく理解できた。

 

「それでも、妖怪の賢者は幻想郷を守るために化物をどうあっても制御する必要がありました。 ……そこで生まれたのが、スペルカードルール」

「じゃあ…」

「そうよ。 スペルカードルールというのは、私という化物を縛り付けるために紫がつくった鎖。 私からこの幻想郷を守るために作られたシステムなのよ」

「……」

 

 魔理沙には、もう何も言えなかった。

 いつも、ただ殺傷力のない光の弾幕しか使ってこなかった霊夢。

 誰が相手でも、今回のにとりのように霊夢を殺しにかかる相手にでも、一度として威力のある弾幕を使わなかった霊夢。

 だが、霊夢は強い弾幕を使わなかったのではない、使えなかったのである。

 少しでも本気になれば、全てを壊してしまう。

 今まで魔理沙が見てきたのは、本当の霊夢の姿ではなかった。

 

「霊夢、お前は……」

「……ああ、そうかなるほど。 お前が――」

「――っ!!」

 

 だが、既に両手両足を失い満身創痍のルーミアが、それを聞いてなぜか笑い始める。

 その目は、もう霊夢を追ってはいなかった。

 ルーミアに微かに残ったその命を刈り取ろうと回り込んでいた霊夢も、それに気付く。

 そして、一歩遅れて藍は何かを察すると、

 

「魔理沙、逃げろ…」

 

 そう言いかけて、気付く。

 その闇が迫っていた先は魔理沙ではなく、藍だった。

 だがそれを理解した藍は、少し微笑むような顔でゆっくりと目を閉じ、心の中で呟く。

 

 ――ああ、よかった。

 

 自分ならいい。

 自分ならば、もう消えてしまってもそれでいい。

 紫の言いつけを守り切って、紫と同じ場所にいけるのなら、それでいいと。

 

 それはルーミアが自らの防御すらも全て捨てて放った、いわば捨て身の一撃。

 この隙に霊夢がルーミアを殺せばそれで終わりの状況。

 だが――

 

「藍っ!!」

「なっ……!? 来るな、霊…」

 

 霊夢はルーミアに突きつけかけたその霊力を、直前で曲げて藍のもとに向かっていた。

 藍を取り囲むように溢れ出した闇は全て爆ぜて消える。

 だが、ルーミアに背を向けた霊夢の身体を、次の瞬間闇が貫いていた。

 

「ぁっ……」

「霊夢っ!?」

 

 霊夢の全身が侵食されていく。

 そこにあったのは、中から染め上げられていくかのような感覚。

 その心の中が、暗く、深い闇の底に沈んでいくかのような感覚。

 そして、倒れこんだ霊夢は、

 

「嫌……なんで? やめて…もう、お願いだから…」

 

 目を見開いたまま微かに体を震わせていた。

 そこにあったのは、ただ何かに怯えるような霊夢の姿だった。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、私は……」

「しっかりしろ、霊夢!!」

 

 そして、そんな霊夢を見て、魔理沙は叫びながら駆け寄った。

 だが、魔理沙が伸ばしたその手が届く寸前に…

 

「霊夢っ!!」

 

 辺りの闇に溶け込んで、霊夢の姿が消えていった。

 

「あ……霊、夢…」

 

 魔理沙は立ち尽くす。

 その目に焼きついていたのは、初めて見た霊夢の怯えきった表情。

 そして、最後の表情だった。

 魔理沙は自分自身でも何なのかわからない、湧き上がってきたどす黒い感情に支配され、思わず呟いていた。

 

「殺す……お前を……っ!!」

「ふふふ、あははははははははは」

 

 そこに、突然高笑いが響いた。

 魔理沙が振り返ったその時には、満身創痍だったはずのルーミアは既に全身を再生させていた。

 その力は、最初に現れた時よりもさらに強大になっているようにすら感じる。

 

「あー、やっと戻った。 やっと……どれだけこの日を待ったことか。 なあ!!」

 

 殺意を向けている魔理沙のことなど、ルーミアは見てはいなかった。

 ただ勝ち誇った目で藍を見下して言う。

 

「ぁ……」

「屈辱だったよ……何百年もずっと無能で居続けるのは」

 

 藍は、魔理沙がかつて見たことがないほどの絶望の表情を浮かべていた。

 為す術の見つからないその状況に、抗う気力すら失っていた。

 

「だけど、これで終わりだ。 お前を消して、それで…」

「いい加減にしろっ!!」

 

 魔理沙は殺気立ったまま、ミニ八卦炉を再びルーミアに向ける。

 だが、それは全く相手にされていない。

 最大の殺意を向けている魔理沙を、ルーミアはまるで最初からそこに存在していないがごとく無視しながらただ藍に近づいていく。

 

「止まれよ……」

「いいぞー、お前のその諦めきった表情。 ずっとそれが見たかった」

「本気だぞ……私は、お前を――」

「じゃーな、狐。 その絶望を抱いたまま…」

「――っ、魔砲『ファイナルマスタースパーク』!!」

 

 そして、それは放たれた。

 一切手加減のない、魔理沙の最終兵器。

 小さな山一つくらいなら簡単に消し飛ばしてしまうほどの魔力の暴走。

 だが、ルーミアはそれに目線すら向けずに言う。

 

「……何だ、来たのか」

 

 その言葉とともに、魔理沙の砲撃は押し返される。

 ルーミアの前には誰かがいた。

 そいつは魔理沙に対抗する攻撃を放っているのでもない。

 ただ魔力のこもった手で押し返すように……魔理沙の砲撃を全て受けきっていた。

 

「なっ……嘘、だろ……」

 

 魔理沙には自信があった。

 たとえこれで終わらせることができなかったとしても、それでも深刻なダメージを負わせることはできると思っていた。

 だが、それはルーミアに届くどころか、突然現れたそいつに片手で消されてしまった。

 闇に飲み込まれたわけでもなく、何か特別な力で相殺されたのでもなく、ただ正面から。

 そしてその煙の中、ルーミアの前にあったのは……

 

「……レミリア?」

 

 無表情のまま立っているレミリアの姿だった。

 それを見たパチュリーは、唇を震わせながら弱弱しい声で問いかける。

 

「なん、で……嘘、でしょ?」

「……」

「答えてレミィ、貴方は!!」

「どうした? 今はお前が来る必要など無いんだけどな」

「ごめんなさい、別に来たことに意味はないけれど…」

「――っ」

 

 パチュリーは、口を動かしてはいるものの、もう声が出ていなかった。

 ただ、そこにあったのはレミリアがルーミアの言葉に答えたという事実だけだった。

 

「なんで……レミリア、お前は…」

「……もう、いいでしょう? 貴方たちは十分頑張ったわ」

 

 突然レミリアが発したその言葉に、魔理沙は困惑する。

 憔悴しきっていた魔理沙は、この状況でレミリアが助けに来てくれたのではないかという希望すらもった。

 

「レミリア、まさか私たちを助けに…!?」

「だから、もう諦めなさい」

「え……?」

「もう、貴方たちの足掻きに意味なんてないわ。 だって――」

 

 そして、レミリアはその光のない目を向けて言う。

 

 

「幻想郷は、滅びる運命にあるのだから」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13話 : 運命

 

 全ての事象が予想通りに進んでいく。

 それは、誰もが羨むことであるかもしれない。

 だが、実際にそんな世界が存在するとしたら、そこには一体何の面白みがあるのだろうか。

 全てはただ決められた運命に従って動いていく。

 運命を知る吸血鬼、レミリア・スカーレットはそんな世界に絶望していた。

 

 

「こんなに月も紅いのに」

「楽しい夜になりそうね / 永い夜になりそうね」

 

 ――わかっていた。

 

 異変を起こせば、自分が退治される運命にあることくらいわかっていた。

 それでも、いつか何かが変わる日が来るのではないかと思っていた。

 

 

「聞いたわよ魔理沙。 あの風見幽香に勝ったんだって?」

「いやー、正直自分でもあんまし覚えてないんだけどな」

「奇跡ね。 てっきり手足の1本や2本くらい失くしてくるかと思ってたのに」

「ってオイ!!」

 

 ――それも知っていた。

 

 誰もが目を疑うような奇跡であっても、その奇跡が起こるのが必然の運命であると知っていたならば、そこに何の感動があるというのか。

 「努力や執念で運命を変えた」などという戯言は、それは別に何も変わってなどいない、「最初からその運命だった」に過ぎない。

 

 何が起ころうとも、その結末は決まっている。

 全ての事象には何の新しさも希望も無い。

 

 ――そんな人生を、果たして私は「生きている」と言えるのだろうか。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第13話 : 運命

 

 

 

 

 

「……幻想郷が滅びる? ちょっと待てよ、何言ってんだよレミリア!?」

「言葉通りよ、今日この世界は崩壊するの。 貴方たちがどれほど足掻こうとね」

 

 周囲の困惑の目をよそに、レミリアはただ淡々とそんな言葉を発していく。

 そこには何の負い目も悲しみもあるようには見えない。

 ただ、疑いようのない事実を述べているだけのようだった。

 

「何だよ……冗談もほどほどにしろよ!」

「はっ。 冗談?」

 

 レミリアの後ろでルーミアが嘲笑うように言った。

 ルーミアが一歩前に踏み出す。

 そしてその手を振り上げる直前、それを遮るようにレミリアの放つ圧力がさらに強大なものと化した。

 

「――――っ!?」

 

 満月と闇の力を得て強大化したレミリアの爪が、突如として大地をゼリーのように切り裂く。

 それを察知した魔理沙が後ろに飛びずさったのは、その攻撃が届いた後だった。

 魔理沙のいる場所をわざと外して囲うかのように景色が割れ、大地を覆う砂が地の底に飲み込まれるように流れ出していった。

 

「ぁ……」

 

 魔理沙は腰を抜かしたまま、無意識に小さく恐怖の声を漏らした。

 レミリアに殺意はなかった。

 もし仮にレミリアが殺意を持っていたのならば、魔理沙は気づくことすらないまま頭と胴体が離れていただろう。

 だが、レミリアはあえて魔理沙に攻撃を当てずに、ただ魔理沙を見下していた。

 まるで、抵抗に意味のないことを本能に刻み込むかのように。

 それを見たルーミアは自ら上げかけたその腕をゆっくりと下ろし、満足気に問う。

 

「じゃあ聞くが、お前たちにはこの状況を変える策があるのか? 八雲紫も、山の神々も、博麗の巫女さえも失った烏合の衆に、一体何の運命を変えられるんだ?」

「……」

 

 誰一人として一言発することすらできない。

 霊夢とルーミアの戦いを前に一歩も動くことすらできなかった自分たちに、今のレミリアの急襲に反応すらできなかった自分たちに、何かができるだなんて思えなかった。

 

「そういうことさ。 お前たちには何も変えられない、救えない。 もう、わかってるんだろ?」

「……」

「自分の無力さを嘆き、絶望し、私への怒りと憎悪を抱きながらただ有象無象のように消えていく運命しかない。 そんなお前たちに、もはや何の希望がある?」

「それは……」

 

 そんなことを言われてなお、何もできない。

 魔理沙の表情が悔しさと絶望に満ちていく。

 その様子をレミリアは何の感情の変化もなく、ルーミアは満足そうな表情で見下ろしていた。

 

「でも、そんなの知ったことじゃないわ」

 

 だが、既に諦めていたとさえ思われていたパチュリーが、ふいに立ち上がる。

 パチュリーの反応に、ルーミアは露骨に不服そうな声を上げた。

 

「……はあ?」

「そんな運命だって、誰が決めたっていうの?」

「私よ。 もういいでしょう、パチェ。 終わるなら終わらせてしまえばいい。 無駄に足掻くことの無意味さを知らない貴方でもないでしょう」

 

 もう決まった運命だから。

 だから、抗う意味は無い。

 そんなことはわかっていた。

 だが、それでもパチュリーは何かを思い出すかのように少しだけ微笑みながら、まっすぐにレミリアに視線を向けて言う。

 

「ねえレミィ、覚えてる? 私たちが初めて会った時も、貴方はそんな感じだったわよね」

「……何の話かしら」

「私はよく覚えてるわ。 死にかけだった私を見て、貴方は今と同じような絶望に満ちた目で、それでも私を救ってくれたこと」

「そう」

 

 パチュリーは大切な記憶を慈しむかのようにレミリアに語りかける。

 だが、レミリアは何の感慨も受けていないような顔だった。

 全く何一つ届いていないのではないかと思うほど、レミリアの受け答えは淡々としていた。

 

「それは、咲夜や美鈴の時だって同じ。 貴方はそんな光のない目をしながら、誰よりも何かを変えようと思ってきたはずよ。 なのに……」

 

 パチュリーはレミリアに問いかけようとした言葉を、何かに気付いたかのように飲み込む。

 

「……いや、霊夢の言うとおりか。 レミィが今までどれだけ辛い時間を送って来たかなんて、聞いたところできっと私たちには一生かかっても理解なんてできないでしょうからね」

「何?」

「どれだけ足掻こうとも全てが無駄になるってわかってる人生なんて、想像したくもないわ」

「そうでしょうね」

「……だけど――」

 

 ――火水木金土符『賢者の石』

 

 そう言ってパチュリーが手をかざすと、周囲に5つの大きな石が現れた。

 その石はそれぞれがレミリアの方向に向けて力を増幅し、異なる属性を帯びていく。

 

 ――神槍『スピア・ザ・グングニル』

 

 それに無反応のままレミリアはただ片手に槍を構えた。

 その槍は、存在するだけでパチュリーの魔法などかき消してしまうほど強大な魔力の波動に包まれている。

 だが、まるで巨像と蟻の戦いでとも言うべき力量差の前でも、パチュリーは一歩も退かずにレミリアを強く見据えていた。

 

「だけど最後に、これまでの感謝の意味も込めて、いつまでたっても子供な貴方に一つだけ教えてあげるわ」

「……」

「運命なんて知らなくったって、未来に希望なんてなくたって、それでも誰だって前に進んでる。 どんな力を持っていても誰もが平等にね。 私もそれなりに長く生きてきたつもりだけど、そんなことを考えたことすらもなかったわ」

 

 パチュリーが少しだけ魔理沙の方を見る。

 

「だけど貴方に会って……そして魔理沙たちに、いろんな奴に会って、私も少しだけ気付いたわ」

「……」

「何かをする過程で運命を変えられたか? 人生の中で何かを成せたか? そんなのはきっとどうでもいいことなのよ」

「……」

「でもね。 たとえ何も変わらないとわかっていても、報われないとわかっていても……それでもみっともなく足掻くのが、きっと「生きてる」ってことなのよ!!」

 

 そして、パチュリーはそのまま無数の弾幕をレミリアに飛ばす。

 それは今のレミリアには指先一つ振るだけで消し去れるような矮小な魔力の弾。

 だが、パチュリーの目はそれでも何かを信じているような強い光を帯びていた。

 

「五月蝿いわ」

 

 そう言うレミリアは、パチュリーの目に宿る眩いばかりの光を見てなどいなかった。

 ただ、まるで自分のものであるかのようにパチュリーの魔法を自らの槍に纏い――

 

「……そんなこと、もうわかってるのよ!!」

「っ―――――!?」

 

 その槍はそのまま半回転し、闇を貫いてルーミアに向かって一直線に飛んで行った。

 それはルーミアの首元を掠めて、それでも最後には闇に飲まれて消えていく。

 完全な不意打ちにもかかわらず、ほぼダメージはなかった。

 だが、少なくともルーミアを含め、その場にいた全員が一瞬呆気にとられていた。

 

 ――冥符『紅色の冥界』

 

 レミリアはその手を緩めない。

 レミリアの放った弾幕が、ルーミアを取り囲むように炸裂し続けた。

 そして、ふと楽しそうな声が辺りに響く。

 

「何なのパチェ? 大して長く生きてもいないくせに私に説教? 随分と偉くなったじゃない!!」

「レミィ……!?」

 

 レミリアは満月の力を集めるように両手を上げ、凝縮した魔力の塊を爆発させる。

 その爆音とともにルーミアへ降り注いだ光の十字架を操るレミリアの表情は――

 

「紅符『不夜城レッド』!!」

 

 確かに、笑っていた。

 

「どうしたのレミィ!? なんで…」

「私のことなんて気にしてる場合じゃないでしょう。 貴方たちは早くここから離れなさい」

「え?」

「流石の私も、この人数は守りきれないわ」

 

 レミリアの視線の先には、僅かについた傷跡を摩りながらレミリアを睨むルーミアの姿があった。

 その表情はさっきまでとは一転して不機嫌なのが、一目見てわかるほどになっていた。

 

「どういうつもりだ?」

「どういうも何も、私がいつお前の手下に成り下がった? この誇り高き吸血鬼、レミリア・スカーレットがお前のようなただの妖怪風情に手懐けられるとでも思ったか?」

「……ああ、そうか」

 

 だが、ルーミアは別に焦ってなどいなかった。

 少し面倒事が増えたという程度の感覚で、小さく呟く。

 

「お前にはもう一度、絶望を見せてやる必要があるか」

「っ!!」

 

 ルーミアが手をかざすと、再びパチュリーの周りに闇が湧き出てくる。

 レミリアが気付いた時には、既にそれはパチュリーを覆い切ろうとしていた。

 しかし、闇の隙間を縫って魔理沙の箒がパチュリーをぶら下げるようにすくい取り、そのまま高く舞った。

 

「ふぅ。 間一髪だぜ」

「魔理沙!」

「よくやったわ。 貴方たち、さっさと消え失せて頂戴」

「はぁ? いきなり来て何命令してんだレミリア、私たちも一緒に…」

「邪魔よ」

「うおっ!?」

 

 レミリアは魔理沙の提案を一蹴し、魔理沙に向かって何かを放つ。

 とっさに魔理沙が避けたそれは、いつものスペルカードルールで使う弾幕だった。

 

「な、なにすんだよ!?」

「それが、貴方の得意分野でしょう? そしてそれが、これからの時代の証」

「レミリア……?」

「問答無用で殺しにかかるような、今の幻想郷の風情も解さぬこの古臭い根暗妖怪は私が引き受けてあげるわ」

 

 そう言って、レミリアは再びルーミアに対峙する。

 その後ろ姿からは、死んだような目でただ生きてきただけのレミリアの面影など全く感じられなかった。

 この場にいる誰よりも強く、まっすぐに前だけを見据えて言う。

 

「だから、貴方たちは貴方たちの、今すべきことをしなさい」

「待って、レミィ!!」

「……わかった、礼を言う。 行くぞ、魔理沙」

「あ、ああ!」

「ちょっと!?」

 

 既にほとんどの力を失っていた藍だったが、それでも残った僅かな力を振り絞って跳ぶ。

 魔理沙も、パチュリーを箒にひっかけたまま飛び立とうとする。

 

「誰が逃げていいって言った?」

 

 だが、それをルーミアが黙って逃がす訳がなかった。

 レミリアに向けていた視線を外し、静かに地面を蹴る。

 そのスピードは明らかに魔理沙のそれよりも速かった。

 だが、無音のまま一瞬で距離を詰めるルーミアの腕を、

 

「誰が、私に背を向けることを許可した?」

「――っ!!」

 

 レミリアはそれよりもさらに速いスピードで動き、その左手でルーミアを纏う闇ごと捕える。

 そして、その腕に魔力を込めて、

 

 ――『レッドマジック』

 

 そのまま闇に汚染された己の腕ごと爆発させた。

 飛び散った血飛沫でできた弾幕は、網のように広がって辺りを覆い尽くす。

 レミリアの血液に触れた大地は熔け、微かに残っていた枯れ木の残骸は焦げ落ちていく。

 幻想郷の王たる吸血鬼が片腕を犠牲にしてまで放ったその力。

 だが……それはやはりルーミアに届くことなく無情にも闇の中へ消えていく。

 

 それでもレミリアは笑っていた。

 気づいた時には、既に魔理沙たちの姿は遥か遠くに消えようとしていた。

 その殺風景な砂漠には、レミリアと、それを睨むルーミアの姿があるだけだった。

 

「どうした? そんなに悔しそうな顔をして」

「……ああ、本当に飼い犬に手を噛まれた気分だよ。 お前はあの中でも優秀な方だと思っていたんだけど」

「そうか。 それは、残念だったな!」

 

 爆発させて失ったはずのその腕を、満月の吸血鬼の再生力によってすぐに再生させたレミリアは、再び弾幕の雨をルーミアに浴びせ続ける。

 その弾幕はさっきよりもさらに強力なものだった。

 そこにはもう、レミリアとルーミアしかいなかったからだ。

 誰を気遣う必要もないからこそ、レミリアは己の出しうるすべての力を開放することができた。

 

 しかし、ルーミアはまるで蠅でも振り払うかのようにそれを軽く飲み込む。

 レミリアを見る目には、失望の色が浮かんでいた。

 ルーミアにはレミリアの行動がまったく理解できないのだ。

 

「……わからないな。 お前には、今もこの世界の終わりが見えているんだろ?」

「ああ」

「今さら何をしても何も変わらないことくらいわかっているんだろ?」

「そうだな」

「だったら、なんで……」

 

 運命が変わらないことくらい、誰よりもレミリアが知っているはずだった。

 幻想郷にいる誰よりも、深い絶望を抱えているはずだった。

 それなのに、どれだけ全力の攻撃を潰されようとも、レミリアのその目は誰よりも強い光を帯びていた。

 誰よりも未来を見ていた。

 ならば、もうその目にはきっと、ルーミアを失望させる希望の光しか残っていないのだろう。

 

 だが、それでもルーミアは諦めきれなかった。

 数百年間、ただ絶望だけを見続けてきた吸血鬼。

 その目に再び闇を取り戻すことは、何よりも最優先にすべきことだった。

 だからルーミアはただ、レミリアに疑いようのない力の差を見せつけるかのようにその猛攻を防ぎ続ける。

 レミリアが死なない程度に加減しながら、徐々にその身を蝕んでいく。

 だが、自分の血肉を、魔力を、全てをないがしろにして続けている猛攻をあっさりと掻き消され、自分の身を侵食されながらも、レミリアは楽しそうに笑う。

 

「……確かに、私はどうしようもないくらい自分の力を呪っていたよ。 何も変えられないくせに結果だけが見えてる。 たとえ幻想郷が滅ぶ運命が見えていても私には何もできない。 そんな無力さにずっと絶望してきた」

「それなら」

「ああ、もう希望なんてものは持ってなかったよ。 でもな……」

「……何だ」

「さあ、なんだろうな」

 

 レミリアはそんな含みのある言い方をする。

 侵食されかけた自分の体を自ら切り落とし、何度も再生させながらルーミアに立ち向かい続ける。

 それは、傍目から見ても勝ち目などまるで見えない無駄な足掻き。

 だが、それが無駄だとしてもレミリアは足掻き続ける。

 

 いや、その目はむしろ、それが決して無駄ではないと信じているような目だった――

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そろそろね」

「何がですか?」

 

 時はしばらく戻って紅魔館の食堂。

 数百人は入れるのではないかというほど広いそこにいたのは、ゆっくりと食事を口に運ぶレミリアと、一歩下がった位置に立つ咲夜だけだった。

 

「この世界の終わりが、よ」

「え?」

 

 何かの冗談かとも思ったが、唐突すぎるそれに、流石の咲夜もうまく対応できなかった。

 レミリアは全てを悟ったかのような、諦めの表情をしていた。

 咲夜はただ、どう反応していいのかわからず困惑した表情を浮かべている。

 

「それは、新しい遊びか何かですか? お嬢…」

 

 そう言いかけて、咲夜が倒れる。

 死んだのではなく、気絶させられていた。

 それも、気配すら全く感じられない内に突然である。

 だが、そんな出来事にもレミリアは顔色一つ変えない。

 

 ――ああ、もう時間か。 思ってたよりも早かったわね。

 

 レミリアだけが知っている、幻想郷の運命が消えるその時間。

 今何が起こっているのかはわからなくとも、これから何が起こるのかだけはわかっていた。

 そう、全ての終わりが来るだけである。

 

「ごきげんよう。 貴方が、レミリア・スカーレットかしら」

 

 誰もいないはずの背後から、何者かの声が聞こえた。

 レミリアがゆっくりと振り返ると、そこには小さな細腕の少女が立っていた。

 突然現れたそいつを見て、レミリアは驚く様子もなくただ淡々と答える。

 

「そうよ」

「あら、突然仲間を気絶させられた上に背後をとられたのに全く焦らないのね」

「わかっているからよ。 これから起こる出来事も、もう私にはどうしようもないことも」

「……なるほど、これは重症ね」

 

 纏っている雰囲気から言いようのない不気味さだけが感じられたが、その少女はどう見ても吸血鬼であるレミリアより強大な力を持っているようには見えない。

 だが、レミリアはそれに抵抗する気すら全く見せない。

 たとえ何がどう見えていようとも、結局自分の力では何も変えられないことを知っているからだ。

 

「……それで、貴方は私に何の用?」

「貴方が持つ『運命を操る能力』っていうのにちょっと興味があってね」

「運命を操る? ……はっ、そんな大それたものじゃないわ。 見たくもない、変えることすらできない結果が見えてしまうだけのつまらない力よ」

 

 レミリアは自虐するように言う。

 だが、少女はその言葉に大きな反応を示さない。

 ただ静かにレミリアを見据えながら、ゆっくりとそれを追及する。

 

「変えられない結果? それは一体何なのかしら」

「さぁ、教える必要なんてないでしょう? もう私にも貴方にも、いえ、誰にだってどうしようもないのだから」

「……そういう運命だから?」

「そうよ」

 

 レミリアはそう断言し、最後の晩餐を少しでも愉しむかのように再び食事に戻る。

 その様子をしばらく黙って見ていた少女は、つまらなそうに呟く。

 

「……つまらないわ」

「そうよ。 この世界は、つまらない」

「いいえ。 貴方が、よ」

「何?」

 

 そう言った少女は突然、背に抱括りつけていた小さな木の杭を手に取り虚空に向かって投げつける。

 すると、次の瞬間その杭が忽然と消え去った。

 

 木の杭を心臓に突き立てるのは吸血鬼を殺す手段の一つであり、木の杭というのは吸血鬼にとっては見過ごせないはずの武器である。

 それが突如として投げられ、視認できなくなったのならば、吸血鬼にとってそれほど脅威のあることはないだろう。

 しかし、レミリアはそれに大した興味を示さない。

 

 ――どうでもいい。 ここでお前が私を殺さないことくらいわかっている。

 

 そんな無関心を貫きながら食事に戻るレミリアを前に、少女は奇妙な薄ら笑いを浮かべながら、誰に言っているのか一人呟いた。

 

「ここを出て右。 つきあたりを曲がった先にある左側6番目の部屋の床」

「……え?」

「地下に行ける隠し階段があるはずよ。 そこにいる奴を……可能な限り残虐に殺しなさい」

「っ!? お前、何を…」

 

 何か見てはいけないものを見てしまったかのように、レミリアの表情が突然変わる。

 ただ焦ったような、激昂したような表情のレミリアが目線を上げると……そこに立っていた少女には、いつの間にか得体の知れない瞳が絡み付いていた。

 それまで視認することのできなかった瞳が大きく見開き、レミリアを射抜くようにまっすぐに向けられていた。

 それを見たレミリアは、呆然と呟く。

 

「そんな、まさか……お前、古明地さとりか? でもなんで、さっきまでその瞳は…」

「あら、何をそんなに焦ってるのかしら。 私にはどうしようもないのだから、何をしても運命は変わらないのだから、関係ないでしょう?」

「それは……」

 

 レミリアの表情が歪んでいく。

 初めて出会ったイレギュラーに怯えるかのように、その身体は硬直していく。

 

「ふふっ、そんなに失うのが怖い? 良くない結果が待っている未来に向かうことが怖い? だけど、誰だって皆そういう世界に生きてるわ。 貴方はただ、自分の能力を言い訳にして逃げてきただけよ」

「っ……違う!!」

 

 そこにいるのは、いつもの無表情なレミリアではなかった。

 目に涙を浮かべ、悔しそうに歯を食いしばり、我慢できなくなったように言い立てる。

 

「お前に……お前なんかに何がわかる!? どうしようもない運命を何百年も見せられ続けて、どれだけ努力しても結局何も変えられない。 そんな絶望だけをずっと見続けてきた私の気持ちが、お前なんかにっ…!」

「ええ。 わからないし、わかりたいとも思わないわ。 ただ心が読めるだけの嫌われ者の私なんかにはね。 ……だけど、貴方は違うでしょう?」

 

 さとりはレミリアに向かって静かに手を伸ばす。

 レミリアは警戒し、僅かに後ろに下がって身構える。

 

「貴方には今、どんな運命が見えているのかしら? ここで貴方が死ぬ運命? 私が死ぬ運命? ……それとも、あの子が死ぬ運命?」

「っ……」

「それに目を向けるのが怖い? まだ実感が湧かない? でも、貴方にはもう見えているとは思うけれど、一度だけ言葉にしてあげる。 このまま運命を変えられなければ、あの子は死ぬわ」

 

 レミリアに見えてしまったのは、そしてさとりに読まれてしまったのは、たった今生まれた新たな死の運命だった。

 一度芽を出してしまった運命は、決して変えられないことをレミリアは知っていた。

 今まで変えられたことのない絶対の運命。

 それを知ってしまったレミリアは目を見開き、怯えた表情になる。

 そして、両手で顔を覆いながら震えた声で言う。

 

「やめて……」

「嫌よ。 あの子はこのまま無残に壊れて、何もかもを恨みながら考えうる限り最も残酷な最期を越えて消えていく。 どんな死に方よりも苦しく絶望に満ちた…」

「お願い、やめ…」

「黙りなさい!!」

 

 レミリアがビクッと跳ね上がる。

 

「泣けば誰かが助けてくれると、何かが変わるとでも思ってるの? いいわね、嫌われ者でも何でもないお子様は」

「……」

「でもね、貴方が今までどれだけ甘い環境で育ってきたのかは知らないけど、世界はそんなに優しくできてはいないわ」

「でも、私は……」

 

 そこにあるのは、誰もが恐れる吸血鬼の姿などではない。

 自分がどうしたらいいかもわからない、どうしようもなく弱いただの子供。

 ただ怯えた瞳で縋るように見上げてくるレミリアを、さとりはまるでゴミでも見るかのような目で見下して吐き捨てる。

 

「この世界で何かを得たいのなら、自分の手で勝ち取るしかないわ」

「……」

「どんなに絶対的に深い暗闇しか見えなくても、どんな手を使ってでもそれに抗おうとする気の無い奴になんて、決して何も起こりはしないわ! だから――」

 

 そう言いながら、さとりはもう一つ隠し持っていた、吸血鬼の弱点である銀のナイフを片手に、レミリアに向かって地を蹴った。

 

「――抗いなさい」

 

 そして、静かにそう告げる。

 レミリアは恐怖した。

 だが、それは自分に向かってくるさとりにではない。

 

 さとりがどんな手段を使っているかはわからない。

 だけどあと数分。

 いや、もしかしたら数秒しかないかもしれない。

 それで全てが終わってしまう。

 

 ずっと、それだけを望んできた。

 ずっと、それだけを求め続けてきた。

 それさえ叶うのなら、何もかもを捨ててもいいと思っていた。

 

 ――あの子が

 

 

    ――ありがと、おねえちゃん。

 

 

 ――いつか、もう一度笑ってくれるのなら……

 

「――っぁぁぁぁあああああああああああ!!」

 

 レミリアは力の限り叫ぶ。

 ただひたすら、何も考えずに。

 

 運命を。

 

 自分の力を。

 

 今までの全てを。

 

 それからの何もかもを。

 

 全てを忘れ、力の赴くままに全てをさとりにぶつけようとして、

 

 

「――――何が見えたかしら」

 

 

 銀のナイフを粉微塵に粉砕して焼けただれたレミリアの左手の爪が、さとりの顔を抉り取る寸前で止まる。

 レミリアのその目に写っていたのは、自分の目の前で涼しい顔をしているさとりの姿。

 

 だけど、レミリアの瞳の奥に浮かんでいたのは――

 

「なん、で……」

「私にも貴方の知る運命が見えているからね。 私はちょっとしたきっかけを与えただけよ。 そして、貴方は変えようと思った。 だから変えられた、それだけよ」

 

 消えるはずのない死の運命は、そこから完全に消滅していた。

 そこにあったのは昨日までと同じ、ただ幻想郷の滅びる運命だけだった。

 だが、レミリアは未だに何が起こっているのか理解しきれていない。

 そんなレミリアに、さとりはさっきまでとは一転して優しく言葉を投げかける。

 

「何度だって言うわ。 貴方がいくら無理だと言おうと、運命は変えられる」

「……」

「それでもこの世界には絶望しかない? 抗う意味すらない?」

「私は……」

「違うでしょう? むしろ、貴方には誰よりも希望が見えているはずよ」

 

 そして、最後にさとりは呆然と立ち尽くすレミリアの頭を少し撫でながら通り過ぎ、振り向かずに囁く。

 

「だって、貴方には――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふふっ」

「……何がおかしい?」

 

 ふと、笑い声が漏れていた。

 押し寄せる闇の津波を避けながら、ルーミアに向かって弾幕の嵐を放ち続けているレミリアは、ただ自らの何もかもを嘲笑していた。

 

「さあな。 強いて言うなら自分の滑稽さが、かな」

 

 

 ――そうだ。 馬鹿だったんだな、私は――

 

 

 自分のせいじゃない。

 この世界が悪い。

 どうしようもない絶望だけしか存在しない、この世界が悪い。

 そう決めつけて、勝手に自分が不幸なのだと思っていた。

 救いなど何もないのだと嘆いていた。

 

 だけど、違った。

 ただ自分が未熟なだけだった。

 ただ自分が逃げていただけだった。

 思い通りにならない世界に、立ち向かい続ける勇気が無いだけだった。

 

 

 ――それなのに、私はこんなにも長い間、何を枯れたフリなどしていたのだろう――

 

 

 どんな力を持った妖怪も、神も、あの霊夢ですら決して変えることなどできない運命。

 だけど、それは変えられる。

 誰にできなくとも、『運命を操る』ことのできる自分になら変えられる。

 

 

 ――そう。 運命を変えること。 それは他の誰にもできない、世界でただ一人私だけに許された『特権』なのだ――

 

 

 そこにあるのは、他の誰にも成し得ない希望。

 容易くはない、けれどそれでも、世界を変え得る力。

 自分を包み込んでいたのは、くだらない人生なんかじゃなかった。

 

 

 ――為ればこそ、私は生れて初めて神に感謝しよう――

 

 

 だから、もう決して歩みを止めないし、何も恐れない。

 どんな運命を前にしようとも諦める理由なんて何一つとしてない。

 たとえ未来に待っているのが絶望だけだとしても、それでも構わない。

 

 

 ――決して変わらぬ絶望の運命を、世界を、全てを打ち砕ける力がこの手に宿っているのだから!!

 

 

 ――そして――

 

 

 ただ一人笑いながら弾幕を撃ち出し続けているレミリアは、しかし既に限界だった。

 幾度となくその闇に飲まれかけ、感染した腕を、足を、内蔵を、頭すらも、すぐに切り捨てて再生し直す。

 だが、残された魔力でレミリアが再生できたのは半身だけだった。

 満月の夜だからこそ可能なその戦法は、それでも徐々にレミリアに残る体力を、魔力を奪っていく。

 

「どうした、その程度か? あまりガッカリさせてくれるなよ、闇の帝王よ」

 

 そんな状況でなお、レミリアは強気にそう言う。

 そこに残されているのは、全てを再生しきる余裕すらなく、存分に力を発揮することなどできない左半身。

 もう、その闇をほんの少しすら切り裂くことのできない程度の魔力。

 それでも、その目にだけは、もう誰にもどうしようもないくらい強い光が奥底まで根差していた。

 

「……ああ、そうだな。 本当にガッカリだ」

 

 そして、ルーミアは白けた目でレミリアを見ながら、

 

「お前を連れ戻すことすらできなかった、今の私の無力さがな」

 

 遂に臨戦態勢に入った。

 恐らくもう戻ることのないであろう、その目の奥にあったはずの暗く淀んだ色。

 ルーミアはまるで、その色への餞のように一瞬だけ黙祷して言う。

 

「だけど、せめてお前に相応しい最期くらいは贈ってやるよ」

 

 そして、気づけばレミリアの周囲には一瞬にして黒一色に彩られた景色が広がっていた。

 全てを飲み込み急成長する闇の花畑。

 束になって形成された大きな闇の蔓に、レミリアは掴まれかけていた。

 だが、レミリアは動かない。

 ただ静かに、自らに片方だけ残された左腕を振り上げて言う。

 

「……ならば、私も全霊をもってそれに応えるとしよう」

 

 誰もが平伏すはずの吸血鬼の全力の力が、制御しきれないほどに強大化してその手の中で渦巻いている。

 だが、その力の渦すらも今のルーミアには全く届かないであろうことは明白だった。

 たとえ逃げたところで、立ち向かったところで、決して敵わぬと本能が告げていた。

 それでもレミリアは、狙いすら定まらないその力をただ全力で解放する。

 そして、為す術もなくレミリアが闇に飲み込まれかけて……

 

「――月符『サイレントセレナ』」

 

「――幻象『ルナクロック』」

 

 レミリアの姿が、次の瞬間ルーミアの視界から消えた。

 

「なっ!?」

 

 ルーミアの目前にあったのは闇に阻まれて飲み込まれていく、しかしそれでもルーミアの視界を遮るように存在する大量のナイフ。

 そしてその頭上から降ってくる、眩いばかりに増幅された月の光と、

 

「紅魔、『スカーレットデビル』!!」

 

 その月の光を存分に浴びて、最初よりもさらに強大な力を纏ったレミリアの放った光柱だった。

 月よりも明るく、太陽よりも眩しいその光は、さっきまで全く貫くことのできなかった闇の壁を霧散させて突き進む。

 やがてルーミアの元にたどり着いた光は乱反射し、幻想郷に束の間の朝を導いた。

 

「っぐ、ぁぁああああああっ!!」

 

 その朝は日の光を浴びた余韻すら残さないほど一瞬で、再び完全な暗闇へと戻っていく。

 だが、そこにあったのは一面の暗闇だけではない。

 闇が支配する景色の中心には、その黒を押しのけるほどの赤い色が飛び散っていた。

 

「お前たちは……」

 

 その身を焼かれ、焦げ落ちた傷跡から血を滴れ流しているルーミアが恨めし気に空を睨むと、そこには2つの影が浮かんでいた。

 

「あーらら。 これでもまだダメとは、正直もう万策尽きたってところね」

「ダメですよパチュリー様。 諦めたら試合終了ですよ、ね、お嬢様」

「……ええ、そうね」

 

 

 ――……そして、もし許されるのならば、私はもう一度だけ感謝しよう――

 

 

 そこにいたのは、いつものように少し眠たげな声を出すパチュリーと、笑ってレミリアに語りかける咲夜の姿だった。

 まるでいつもの食事風景のごとく気楽な雰囲気を出している3人。

 それでも、その目はルーミアだけをしっかり見据えて身構えていた。

 そこでふいにレミリアが、2人に目を向けることすらなしに口を開く。

 

「ねぇ。 パチェ、咲夜」

「何よ」

「何ですか、お嬢様」

「私は今まで、この幻想郷を見捨てていたわ。 自分の目的のために、貴方たちが生きるこの世界を」

 

 レミリアは少しだけ懺悔するかのように言う。

 だが、その声に弱弱しさなど全くなかった。

 まるで一国の王のような上から目線の態度でそんなことを言うレミリアに、パチュリーはため息をつきながら言う。

 

「レミィが周りに迷惑かけるのなんていつものことじゃない。 今さら気にすること?」

「かまいません。 私はいつも、お嬢様の仰せのままにいますから」

「いや、お願いだから咲夜はレミィを止めて」

「すみませんが、今日ばかりは丁重にお断りさせていただきます」

「……それも、いつものことでしょ」

 

 そんなパチュリーと咲夜の反応を聞いて、レミリアは小さく笑う。

 それは、とても切羽詰まった状況でするようなものではないバカ話だった。

 

 それを見ていたルーミアは、何も言わず奇襲するかのように3人を闇で振り払った。

 身体の再生をできないパチュリーと咲夜など、今のルーミアにとっては本当に手を払えばそれで息絶える羽虫と同じ程度の存在なのである。

 少しでも気を抜けばその瞬間死が待っている、危機的状況。

 

「時符『プライベートスクウェア』!!」

 

「日月符『ロイヤルダイアモンドリング』!!」

 

「夜王『ドラキュラクレイドル』!!」

 

 だが、その声は恐怖で震えるどころか、かつてないほどまっすぐに響き渡っていた。

 

 時空が歪んでいく。

 ルーミアが、ルーミアの放った闇が……いや、辺りに吹く風の流れさえも全てが時に置き去りにされていく。

 何もかもがゆっくりと動く中で、咲夜の放ったナイフだけが、ルーミアの纏う闇の動きを掻き乱すように高速で乱舞する。

 その隙に太陽と月が交錯し、日光に照らされた闇が消耗し、月光に照らされたレミリアの力が増幅していく。

 そして、暴走した力を纏ったレミリアのその腕の一振りとともに辺りを包む闇が爆散し、3人はその隙間を突き進んだ。

 

 そのスペルを唱えるまで、いや、唱えてなお、3人は互いに一度たりとも目線を交わさない。

 一瞬たりとも目線を外してはいけない相手だということくらいは、本能で理解していたからだ。

 だがそれ以上に、たとえ見なくとも、口には出さずとも、その脳裏には互いを信じて動いている2人の姿が確かに浮かんでいたのだろう。

 それくらいの絆があることはわかっていたから。

 だがら3人はお互いの姿を、無事を確認することすらなく、ただ目の前のルーミアの姿だけをしっかりとその目に捉えていた。

 

「まったく、もう何でもいいからさっさと終わらせてお茶でも飲みましょうか、レミィ、咲夜」

「承知致しましたパチュリー様。 行きましょう、お嬢様!」

「ええ。 しっかり私についてきなさい――パチェ、咲夜!!」

 

 

 ――こんなにも素晴らしき友に巡り会わせてくれた、その運命に!!

 

 

 そして、何者も恐れぬ希望をその目に宿した3人は、軽口をたたきながら一斉に虚空を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ちぇっ、ちょっと妬けちまうぜ」

 

 既に妖怪の山から離れていた魔理沙は、魔法の森を進みながらそんなことを呟く。

 

 急スピードでルーミアから逃げている途中、パチュリーだけは一人浮かない顔をしていた。

 まだ迷っていたような表情のパチュリーだったが、その横を咲夜が颯爽と走り抜けていった。

 こちらに気付いて一瞬だけ目を向けたものの、そのままスピードを落とすことすらなく過ぎ去っていく咲夜をパチュリーは引き留めて、

 

  ――ごめん魔理沙、やっぱり私はレミィと一緒に戦うわ。

 

 それだけ言い残して、パチュリーは咲夜と一緒にレミリアのもとに向かった。

 それを、魔理沙は止めることなどできなかった。

 止められる訳がなかった。

 

「……まあ、しょうがないよな。 あれがパチュリーの選んだ道なら、私はそれでいいさ」

「……」

「何だよ、その目は」

「いや、なんでもないさ」

 

 本当は、レミリアよりも自分のことを選んでほしかった。

 そう思いながらも強がって言い訳する魔理沙を、藍は少し生温かい目で見ていた。

 それに少し居心地の悪さを感じたのか、魔理沙が真面目な口調に切り替えて藍に言う。

 

「それより藍……私に、霊夢のことで何か言うことがあるんじゃないのか?」

「……」

 

 それを聞いた藍は、露骨に魔理沙から目を逸らした。

 だが、魔理沙はそれを追及するでもなく、ただ黙って飛びながら藍が自分から話すのを待っていた。

 やがて、藍がゆっくりと口を開く。

 

「……もう予想はついているとは思うが、霊夢のあの力は、封印した「力」の要素によるものだ」

「ああ、やっぱりな」

 

 ルーミアは霊夢を取り込んだ際、「やっと戻った」と言っていた。

 それが、元々ルーミアの持つ力であったことくらいは、魔理沙にもすぐに予想できた。

 

「だけど、私が聞きたいのはそこじゃない」

「……」

「お前は……お前たちは、今までずっと霊夢を封印のための人柱として利用してきたのか?」

 

 ずっと霊夢の傍にいた紫。

 そして、それをサポートし、見守ってきた藍。

 魔理沙からは、2人の姿は霊夢の家族のように映っていた。

 他に身寄りのない霊夢の、心の支えなのだと思っていた。

 だから、それが偽りの信頼だったなどと思いたくはなかった。

 

「……最初からそういう目的が全くなかったと言えば、嘘になる」

「……」

「だが、そうするつもりはなかったし、そのためだけに霊夢と一緒にいたつもりもなかった。 霊夢は……私たちの、大切な家族のようなものなのだから」

 

 藍は、目を逸らしたまま呟くように言う。

 どんな誹りでも受ける覚悟はあった。

 だが、それを聞いて魔理沙は安心したように言う。

 

「そうか、ならいい」

「……それでいいのか?」

「ま、お前が不器用なのも嘘が下手なのも知ってるしな。 ましてや、こういうことに嘘をつくような奴じゃないことくらいはわかるさ」

 

 魔理沙には、それだけわかれば十分だった。

 霊夢の中にあるものが何だったのかは別にどうでもいい。

 霊夢に近づいた当初のきっかけが、目的が何だったのかも、どうでもいい。

 ただ、藍や紫に霊夢を想う気持ちがあるのなら、それでいいと思っていた。

 だから、魔理沙が気になることはあと一つだけだった。

 

「なぁ藍。 霊夢とにとりは……まだ、生きてるのか?」

「……わからない。 だが、奴があの闇の中から物を取り出したことを考えると、ただあの中に取り込まれているだけだという可能性もある」

「紫たちも……か?」

「……その可能性も含めて、な」

 

 藍は、あの能力について詳しくは知らない。

 藍のその言葉がただの希望的観測に過ぎないことが、魔理沙にもわかっていた。

 だがそれでも、魔理沙はそれを聞いて元気を取り戻したかのように笑顔になった。

 そして、いつものような口調で話し始める。

 

「じゃあ、それなら私たちも今できる限りのことを頑張らないとな! それで、私たちはこれから何をすればいいんだ?」

「……ああ」

 

 そんな魔理沙を見て、藍は少しだけ笑った。

 ここにいるのが自分だけだったのなら、そんな僅かな希望にすがって前を向けるほどの精神的余裕はなかったからだ。

 ずっと子ども扱いしていた魔理沙が、わずかながらも今の自分の心の支えになっていることを、嬉しく思っている自分に気付いたからだ。

 そんな魔理沙にしっかりと応えるべく、藍は真面目な表情に切り替えて話し始める。

 

「現状で私にはもう戦う力はないうえに、スペルカード抜きではお前も戦力としては心もとない。 だから、私たちに今できることは…」

「あ、……ちょっと、待てっ!」

 

 そう言って魔理沙が少しだけ身を逸らすと、黒い影を纏った異形の妖怪が魔理沙が元いた空間に向かってその腕を振り下ろしていた。

 さっきから、すれ違う者のほとんどが闇の力を纏いながら襲いかかってきている。

 狼や熊のような野生動物から辺りを彷徨う妖怪まで、全てを相手取っていたらキリがないほどになっていた。

 だが、魔理沙は流れた体勢のまま指先から放った魔法波を妖怪の頭部にぶつけて気絶させ、また何事もなかったかのように体勢を立て直して進み始める。

 その魔理沙の動きを、藍は何を言うでもなくただじっと見つめていた。

 

「……なんだよ」

「いや……少し訂正しよう。 お前も少しは頼れるようにはなってきたな」

「っ!? 何だよ、気持ち悪い!」

 

 魔理沙は照れくさそうに目線をそらす。

 だが、魔理沙にはそれが残された時間の、力のほとんどない藍の精一杯の受け答えなのだと、なんとなくわかっていた。

 

「まあいい、続けるぞ。 今私たちがすべきことは……2つだ」

「それは?」

「まず一つは博麗大結界の再構築だ。 が、現状でそれを構築できるような者はいない」

 

 藍の知る者の中でそれができるのは、紫、霊夢、そして可能性があるとすれば永琳や映姫、そして神奈子と諏訪子だった。

 つまり、博麗大結界を張れるような人材は既にいないのだ。

 

「いないって……じゃあ、どうするってんだよ!? 例えばお前が…」

「わかっているとは思うが、私にはもうそんな力は残っていない。 幻想郷にいられるのすら、もってあと2時間程度だろう」

「……っ」

 

 わかってはいたことだが、改めて本人からはっきり言われると魔理沙は息が詰まりそうになる。

 

「なら、私は何をすればいい」

 

 だが、だからこそ魔理沙は自分がすべきことをしっかり確認しておこうとする。

 その魔理沙の真剣な表情を見て、藍は少し安心したように続ける。

 

「……ああ。 だから、お前には博麗大結界を構築できる人材を探してほしい。 お前の友好関係の範囲は多分もう私よりも広いからな」

「探すって、どんな奴を……」

「そうだな。 普通ならば新しい博麗の巫女が2,3年かけて習得するものなんだが……そんな時間はない。 霊夢のように直感で構築できる天才か……あるいは高い知能と能力を持つ者ならば博麗神社にまだ微かに残っている結界の残照を参考にして構築することも可能だろう」

「いや、そんなこと言われても……」

 

 条件が漠然としすぎていて、魔理沙はうまく判断できない。

 

「それって例えば…」

「それを探すのがまず一つだ。 そして、もう一つ」

「って、ちょっと待て、もう終わりか!?」

「ああ。 今、博麗大結界について私から説明できることはそれだけだ、それについての判断はお前に任せる」

 

 藍は急かすように話を進める。

 魔理沙は納得のいかない表情だったが、すぐに頭を切り替えた。

 

「もう一つは……」

「……何だよ」

「だが、それは危険な…」

「危険かどうかなんて聞いてねえよ、何をすればいいんだ?」

「……ああ。 奴の力の糧。 ただの感染者とは違う、闇の支柱たちを止めることだ」

「闇の、支柱?」

 

 魔理沙には、その単語は少し聞き覚えがあった。

 支柱という言葉。

 それは、確かにルーミアの口から発された言葉のはずだった。

 

「順を追って話そう。 奴の今の能力の原動力は感染者だけではなく、この世界の闇全てだ。 そして、その闇は幻想郷に住む者たちの負の感情から生まれる」

「負の感情?」

「ああ。 大まかに分けて、絶望、嘆き、怒り、憎悪の4つ。 そして、そんな感情を司る支柱たちがそれぞれ存在しているはずだ。 現状で最も強い感情を持ち、極限までその力を高めた奴らがな」

「それが、にとりやレミリアって訳か」

「ああ、そういうことだ」

 

 魔理沙は、ルーミアがにとりのことを嘆きの支柱と呼んだことを覚えていた。

 そして、レミリアもその支柱の一人だったと考えられる。

 

「なるほど。 じゃあその支柱って奴らを倒せばいいってことか」

「ああ。 だが異変の影響で力を持った奴らは多くいるが、その支柱だけは別格だ。 元々大した力を持たない河城にとりですら、全盛期の私を超える力を持っていたのだからな」

 

 魔理沙もそれを重々承知していた。

 魔理沙とパチュリーと、弱っているとはいえ藍さえもいてなお、にとりに全く歯が立たなかったのだから。

 個としての力がそれほど大きくはないはずのにとりでさえ、妖怪としては最上級の力を持つ藍の全盛期を上回る力を持っていたという。

 もしレミリアのように、元々大きな力を持っている者がそれを手にしてしまったとしたら、その力は計り知れない。

 事実、魔理沙が残った全てを懸けるように放った全力の最終兵器は、レミリアに片手で消されてしまったのだ。

 一体くらいその支柱を何とかしたいとは思うが、自分一人ではそれが無理であることを魔理沙は悟っていた。

 ましてや藍はもうほとんど動けず、パチュリーすらいない状態で倒せる相手ではなかった。

 だが、魔理沙の表情はまだ希望を宿していた。

 

「だけど、勇儀やさとりなら…」

「何?」

「アリスが今、地底の奴らに協力してくれるように頼んでいるはずなんだ。 ……多分、少なくとも勇儀は私たちを助けてくれると思う」

「勇儀、だと……? それは星熊勇儀のことかっ!?」

「ああ」

 

 藍は本気で驚いた顔をしている。

 実際に地底を取り仕切るような政治的活動はしないものの、その力は実質的には今の地底のトップであると言っていいほどの実力者。

 それと話をつけてきたことなど、普段の魔理沙だったらかつてないほどのドヤ顔で胸を張れる話だが、今の余裕のない魔理沙はそうせず、ただ冷静に続ける。

 

「まぁその辺はアリス次第だけど、きっと何とかしてくれる。 それに、アリスが戻ってきてるのなら、もしかしたらあいつなら博麗大結界も何とかしてくれるんじゃないかと思う」

 

 アリスは、特段目立った能力を持った妖怪ではない。

 それを必要以上に持ち上げる魔理沙に、少しアリスを買いかぶりすぎではないかと言おうとしたが、藍はそれを止めた。

 既に魔理沙の行動は藍の想定を遥かに超えるものになっている。

 それならば、今の無力な自分よりも、魔理沙の判断の方が正しいのではないかとすら思ったのだ。

 

「なるほどな。 ……では、それに関してはお前を信じて任せるとしようか」

「任せるって……お前はどうするんだ?」

「私にも、現状を打破できる可能性のあることに、あと1つだけ心当たりがある。 私にそれができるかはわからないが……少しでもやれることはやっておこうと思ってな」

「そうか」

 

 それは、さっきまで藍は無理だろうと、やるだけ時間の無駄になるだろうと思っていたことだった。

 だが、藍が無理だと思っていたことを次々と成し遂げていく魔理沙を見て、自分も何かをすべきであると決断したのだ。

 

「……それでは、私はもう行くとしよう。 彼女たちがいつまで奴を足止めできるかはわからない。 事態は一刻を争うからな」

「ああ。 ま、パチュリーたちなら大丈夫だと思うけどな」

 

 レミリアたちがどれだけ時間を稼げるか、という計算を頭の中でしていた藍だったが、魔理沙は少し違った。

 少なくとも、魔理沙はレミリアたちが負けることなど考えてはいなかった。

 

 霊夢に紫、神奈子に諏訪子。

 それだけではなく、魔理沙は相手にしたらまず自分では歯が立たないであろう相手を数多く知っている。

 だが、チームとして絶対に敵に回したくないのは誰かと聞かれたら、それは霊夢たちでも神奈子たちでもない、紅魔館のメンバーだと魔理沙は即座に答える。

 幻想郷でも最強クラスの破壊力とスピードと再生力を持つレミリアに、あらゆるサポートや遠距離攻撃に長けたパチュリー、そして時間操作という反則的な能力を使って独自の世界を創り出す咲夜。

 そこに近接戦のスペシャリストの美鈴やもう一人のサポートの小悪魔が揃えば非の打ちどころがないが、たとえその3人だけでも、誰も敵うはずのない無敵のチームだと魔理沙は思っていた。

 だから魔理沙は、今自分のすべきことはルーミアに対抗できる策を練ることではなく、その他の不安要素をどうするかということだと考えていた。

 

「じゃ、とりあえず私もさっさとアリスと合流してくるぜ。 あいつは多分、もう紅魔館に着いてるはずだからな」

「わかった。 それでは健闘を祈る」

 

 それだけ言って、藍は今までの道から外れて一人で走り去ろうとする。

 それを見た魔理沙は少しだけ足を止めて言う。

 

「藍!!」

「何だ?」

「……明日、さ。 久々に博麗神社で霊夢や紫と一緒にお茶でも飲もうな」

「……ああ、そうだな」

 

 藍は少しだけ優しい目を魔理沙に向けて、そのまま森の中に消えて行った。

 そして、魔理沙はすぐにまた飛び立つ。

 その目は前だけを見ていた。

 

 ――絶対、取り戻す。

 

 レミリアたちの方を振り返らない。

 藍の行った方向に視線を向けない。

 ただ、まっすぐ前だけを見つめて、

 

 ――皆が笑っていられるような明日を……霊夢も、にとりも、きっと藍たちもいてくれるような、

 

「そんな明日を……私は、絶対に諦めてなんかやらねえからなっ!!」

 

 そう、誓うように口にした魔理沙は、紅魔館へと一直線に飛んで行った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中編予告

 

 

 

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!

 

すみませんが、多分次の話まで2、3週間くらい間が空いてしまうことが予想されるので、せっかくなのでノリで劇場版CMっぽい感じの中編予告を書いてみました。

今までは春休み中に何とか前編を終わらせるつもりで書いてきたので割と早く投稿できたんですが、4月からは土日にしか書けなくて更新ペースが落ちるためです。これからも1カ月に2~3話くらいは何とか書けるよう頑張りたいと思うのでご了承ください。

とりあえずなイメージを書いただけのもので、読む人によっては意味不明だったりネタバレと感じることもあると思うので、それを好まない方は見ないことをお勧めします。

ちなみに、前編は説明回的なのが多くていまひとつ盛り上がりに欠ける感じになっちゃったと思いますが、その分ところどころにミステリー要素を散りばめてあったりもするので、今まで読んでて感じた違和感などを頭の片隅に置いて予想しながら中編以降を読んでいってもそれはそれで楽しんでもらえるとは思います。

では、今後ともよろしくお願いします!

 

追記 : これからの書くモチベーションが上がったりするので、感想などくださると非常に嬉しく思います(笑)

 

 

 

 

 

 

以下、中編予告。 (ネタバレ? 注意)

 

 

※予告に出てくるセリフは、現在のイメージです。 小説投稿時に若干セリフが変わっていてもご了承ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――いつからだろう、何もわからなくなったのは。

 

現実も夢幻も。

生ける者も死せる者も。

正義も悪も。

 

――それでも、世界は決して止まることなく――

 

 

 

「来いよ。 私が、お前の気が済むまで相手してやるさ!」

 

それが、無謀とわかっていようとも。

 

「きっと、貴方を待っている人がいるんです」

 

それが、ただの願望に過ぎないとわかっていたとしても。

 

「たとえ死んでも、私は不敵に笑ってやるよ」

 

何を犠牲に、何をかなぐり捨ててでも。

 

「だから……私に従え!!」

 

少女たちはただ、その目に宿った炎だけを信じて、自らの道をひたすらに突き進む。

 

 

だけど、情熱や力だけでは成し得ない。

何も動かせない、救えない、変えられない。

そんなことは、誰もが嫌というほどに知っているから――

 

 

「レミリアの言う『運命』には矛盾があるのよ」

 

だから、少女たちは知恵と計略を駆使する。

 

「貴方は、誰の思惑で動いてるの?」

 

過去も、真理さえも追い求める。

 

「貴方の望みを叶えてあげる。 最後に見えた、貴方の本当の望みを」

 

そして何もかもを知り、それでも未来を見据えて進む姿は。

 

「……私はもう行くわ。 あいつらが待ってるから」

 

誰よりもただ気高く、美しく――

 

 

 

――でも、私はそんな美しさなんて、もういらない。

 

誰にも理解されなくてもいい。

それが悪と呼ばれる答えだとしてもいい。

たった一人で全てに抗わなければならなくてもいい。

 

――それでも、私はただ……

 

 

 

 

   東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

        ――中編――

 

      4月中旬に再開予定

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中編ノ壱 ~支柱~  
第14話 : 狂気


 

 気付くと、囲まれていた。

 得体の知れない黒を纏った猛獣たち。

 暗く淀んだ目に支配された妖怪たち。

 何度倒しても、また新たな敵が次々と襲ってくる。

 それも、弾幕を使わずに。

 

 ――ああ、血が騒ぐ。

 

 その拳を交わしあう。

 その腕を投げ飛ばす。

 その体を地に叩き付ける。

 その肉を引きちぎる。

 その骨を砕く。

 その胸を貫く。

 その首を飛ばす。

 

 「フフ、フフフフ」

 

 気付くと、笑っていた。

 恐怖すら感じない猛獣たちも、次第にその足が止まり始める。

 

 ――ああ、懐かしい感覚だ。

 

 スペルカードルールが始まって、どれだけの時間が経っただろう。

 平和な日常を過ごして、どれだけの時間が経っただろう。

 

 彼女は平和は嫌いではない。

 彼女はむしろ、平和を好む。

 だが、その身体に染みついた武は彼女を決して放しはしなかった。

 

 ――今、私は何を守っているのだろうか。

 

 その門の奥にある屋敷を守っているのか。

 そこにいる人たちを守っているのか。

 そこにある平穏を守っているのか。

 

 ――否。

 

 最初は1対1、1対3、そして次第に増えていく敵は、一度に10を超える数が同時に彼女に襲いかかっていく。

 だが、それはただの烏合の衆だった。

 一匹、また一匹と、猛獣たちは、妖怪たちは倒れていく。

 その足元には、弾幕戦では決して強いとはいえない彼女の力からは想像もできないほどの屍の山が築き上げられていた。

 そして彼女は再び恐怖を誘う笑みを浮かべて、

 

 ――私はただ、何人たりともここから先に通さないという誓いを貫くことで、自らの矜持を――

 

 

「――――――お邪魔するぜー」

 

 

 そこに一瞬響いた声が彼女の横をすり抜けて門の向こうへと消え、窓を突き破って紅魔館の中に入って行った。

 しばらくの沈黙。

 やがて、彼女はゆっくりと目線を上げ、

 

「……あーん魔理沙ー、せっかく私久々にいい感じだったのに―」

 

 若干涙目でそう言うが、そこにはもう魔理沙はいなかった。

 不機嫌な表情を浮かべながらも、美鈴は再び門の外にいる猛獣や妖怪たちと向かい合う。

 

 紅魔館の門番である紅美鈴は、『気を使う能力』をもち、武術を得意とする珍しい妖怪である。

 自らが持つ妖力はそれほど大きなものでもなければ、単純な力も妖怪としてはそれほど強いものでもない。

 それでも、美鈴は1対1の肉弾戦においては、格上の妖怪にも勝つことのできる技術を持っていた。

 

「あー、もういくらなんでも限界ですよー」

 

 しかし、それはあくまで個人の戦いにおいてである。

 いくら相手が弱くとも、その拳を、足を、自分より堅く大きな数十体もの相手に当て続ければ、その身体は次第にボロボロになってくる。

 

「めーりんさん、ファイトですっ!」

「そんなこと伝えるのに魔力使う余裕あったら手伝ってよ、こぁー!」

 

 美鈴が泣き言を漏らすが、返事はない。

 パチュリーもレミリアも咲夜も出かけてしまい、紅魔館に残っていたのは美鈴とパチュリーの使い魔の小悪魔だけだった。

 一応メイドの妖精たちもいることにはいるが、猛獣や妖怪の相手ができる戦闘能力は持っていない。

 そして、小悪魔は何を調べているのか、ずっと図書館に籠りっぱなしで美鈴を手伝おうとはしない。

 しばらく前に客人の魔法使いも来たが、

 

「……うぅー、流石にお客さんに門番の仕事なんてやらせたら後で怒られるよねー。 いや別に怒られないけども、お嬢様のあの無言で見下すような眼差しは地味に精神にチクチクくるんですよ、ええ」

 

 美鈴はただ一人ブツブツと独り言を漏らしていた。

 美鈴は基本的に紅魔館の門番として仕事を自分が請け負ってる以上、客人に仕事を押し付けづらいという妙な責任感がある。

 そのせいで、既に紅魔館の図書館にこもっていたアリスに協力を頼めないのだ。

 

「あ、でも魔理沙は客じゃなくて泥棒じゃん! 魔理沙―手伝えー!」

 

 駄々をこねる子供のような声で、美鈴は叫ぶ。

 声だけを聞くとそれは日常の一コマのようなほのぼのとした空気すら感じる。

 だが、手刀で刎ねた虎の首から返り血を浴びながらそんな気の抜けるような声を出す美鈴の姿は、それはそれでちょっとした恐怖だった。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第14話 : 狂気

 

 

 

 

 

「運命、ねえ……」

 

 だだっ広い図書館で、さとりに壊されてしまった人形を直しながらアリスはそう呟いた。

 本棚の裏で新しい本を探しながら、小悪魔が不安そうな声で聞く。

 

「……あの、アリスさん。 私たち、こんなことしてる場合じゃないんじゃないですか?」

「こんなこと?」

「もう、ルーミアって妖怪は復活しちゃったんですよね?」

「そう言ったのは貴方じゃない。 それに、復活したのはルーミアじゃなくてそれに憑りついてる邪悪の方でしょ」

 

 霊力の供給以外は基本的に独立している式神とは違い、小悪魔は主人であるパチュリーと魔力で繋がっている使い魔であり、2人の間で情報を交信することができる。

 そのため、小悪魔は妖怪の山で起こっていたことをパチュリーを経由して知ることができたのだ。

 

「だったら、私たちはその邪悪の情報を集めるか、パチュリー様たちの助けに行った方がいいんじゃないですか?」

 

 だが、ルーミアと直接交戦中の今は、パチュリーには小悪魔と交信をする余裕などない。

 そのため、小悪魔には今のパチュリーの状況がわからず、少しでも助けになりたいという気持ちがはやるのである。

 そして、図書館に来たアリスに妖怪の山での出来事についてわかる範囲のことを伝えて協力を要請したところ、なぜかレミリアに関する情報を図書館で探すことになったのだ。

 疑問の表情を浮かべながらも、小悪魔は吸血鬼の記述や運命という概念についての記述、そしてレミリア自身の記録など、関連する物を探していた。

 

「それについては、どれだけ調べるより藍に聞いた方が早いことはわかるでしょ。 紫や藍が既存の記述の調べ残しなんてすると思う?」

「しない、ですね」

「だったら、それは時間の無駄にしかならないわ。 それに、あの3人の所に今さら私や貴方が行ったところで多分大した戦力にはなれないし、むしろ足手纏いになりかねないわ。 それなら、私たちは私たちのすべきことをした方がいいでしょ」

「それはそうですけど……でも、なんでお嬢様のことを?」

 

 レミリアは、現状では少なくともこちらの味方のようだった。

 それにもかかわらず今更レミリアのことを調べようとするアリスの狙いが、小悪魔にはわからなかった。

 

「……ねえ、小悪魔。 もし貴方が、幻想郷が滅ぶ運命を知ってたらどうする?」

「え?」

「貴方がレミリアと同じ立場だったらどうするかって聞いてんのよ」

「それは、えっと……そうならない方法を探します」

「そうならない方法、あると思う?」

「わからないですけど……でも、お嬢様の判断を考えると、少なくとも困難なことではあると…」

「私はそうは思わないわ」

 

 少し自信無さ気に応える小悪魔に、アリスはピシャリと言い切る。

 

「え……?」

「たとえば、もしレミリアがあらかじめ山の神に打診して地底の異変を回避していたら、それだけで今の運命は変わっていたんじゃないの?」

「あ、確かに……」

 

 レミリアは運命が変わらないと嘆いていたが、冷静に考えれば運命とは知らなければ変えることは不可能だが、知ってさえいれば変えることはそこまで難しくないものも多いはずなのである。

 たとえば、じゃんけんの運命について考えてみる。

 運命を知らない者が、運命の裏の裏の裏を数百回も読もうとした挙句に混乱して相手に目つぶしをくらわせる悲惨な結果になったとしても、運命を知る者から見れば、そいつは最初からあった「混乱して目つぶしを食らわせる」という運命の通りに踊らされているだけの哀れなピエロに過ぎない。

 だが、たとえば自分がじゃんけんで勝つ運命だと知っている者ならば、何かしらの手段で相手にパーを出すよう協力を求め、自分がグーを出せば、それだけで簡単に運命は変えられる。

 今回の異変についても、地底から怨霊が湧き出てきたことが原因で起こったため、レミリアがその運命を知っていたとすれば、怨霊を地上に出さないための行動を少しとるだけで、今の運命を未然に回避することができたはずなのである。

 要するに、『運命を知っている』ことと『運命を変えられる』ことはほぼ同義のなのだ。

 

「だから、レミリアの言っていた変えられない運命っていうのには矛盾があるのよ。 でも、レミリアはそんなこともわからないような馬鹿じゃないわ」

「……じゃあ、一体どういうことなんですか?」

「それは、私にもわからないわ。 でも多分、レミリアが今の今まで諦めざるを得なかった理由が何かしらあるはずなのよ」

「理由……ですか。 でも、今この状況でそれを調べたところで何になるっていうんですか?」

「そうね……でも、レミリアに運命を変えられない理由があったのか、変えたくない理由があったのか、変えてはいけない理由があったのか。 いずれにせよ、それを明らかにして解決すれば、少なくとも何かしらの対策は打てるんじゃない?」

「そう、なんですか?」

「それに、その理由がレミリアの能力の特殊性に起因するものなのか、感情的な問題なのか、ただの勘違いなのか……あるいは、レミリアがルーミアに加担せざるを得ない理由があるとすれば…」

 

「アリスっ!!」

 

 そこで、空気を読まずに図書館の扉を突き破って、箒に乗ったまま魔理沙が現れた。

 それとともに、示し合わせたかのようにアリスと小悪魔の表情が少し変わる。

 

「アリスっ、大変なんだ!!」

「知ってますよー、もうパチュリー様から聞きました。 ルーミアさんがヤバいらしいですね」

「え? ああ」

「それで、何のご用ですか、霧雨さん?」

「――っ!?」

 

 霧雨さん、などという口の聞き方をしたのは、小悪魔ではなくアリスだった。

 普段は使わない謎の丁寧語を使うアリス。

 そこで魔理沙は、地底でアリスと喧嘩別れしてしまったことを思い出す。

 

「あのなアリス、今はそんな場合じゃ…」

「気安く話しかけないでもらえますか?」

 

 ――ああ、こいつマジめんどくせえ!!

 

 魔理沙は頭を抱えながら何か言おうとするが、それを遮ってアリスも口を開く。

 

「アリ…」

「小悪魔ー。 そういえば私、しばらく前に誰かに地底で思いっきり蹴られたあげくめっちゃ睨まれたのよー」

「まあひどい! 一体どうしてそんなひどいことを!?」

「いや、それは…」

「それがね、気に入らない奴とケンカしそうになったら、横からいきなりよー?」

「それは、お前がさとりを貶したり消えろとか言ったりするから…」

「こーれはこれはルーミアさんに向かって消えろとか言ってた魔理沙さんチィーッス」

「っ!!」

 

 そこで小悪魔が早口で謎のツッコみをいれてくる。

 パチュリーを経由して妖怪の山での会話が丸聞こえだったのだろうことは、魔理沙にもわかっていた。

 

「それは……」

「それは?」

「あいつは……だって、あいつはっ!!」

 

 だが、冗長めいたアリスや小悪魔の態度とは対照的に、魔理沙には再び怒りの感情が溢れてきていた。

 にとりを、霊夢を、皆を傷つけた挙句、今この瞬間も幻想郷を滅ぼそうとしているルーミア。

 思い出しただけで殺意が湧いてくる相手。

 そんな相手に出会ったこと自体が始めての魔理沙には、その感情をどうしていいのかもわからなかった。

 

「あいつは、何?」

「……って違う違う、今はそんな話をしてる場合じゃないんだよ!」

 

 そこでやっと状況を思い出したのか、魔理沙が話を戻そうとする。

 だが、アリスはそれを遮って続ける。

 

「いいから答えなさい。 あいつは何だって?」

「だから、このままじゃマジで…」

「答えろ」

「っ!?」

 

 そこで、一人熱くなっていた魔理沙は背筋が凍る思いをした。

 いつものアリスと違う、寒気のするような声。

 魔理沙だけではない、小悪魔すらも気付けば背筋を伸ばして立ち上がっていた。

 

「何? あいつだけは別なの? 私に説教までしたくせに、ルーミアだけは許せない、消えるべき存在なの?」

「それは……」

「私の知ってるルーミアは、別に気にかけるほどの妖怪じゃない。 むしろ、今でも古明地さとりの方がよっぽど危険な奴だと思ってるわ」

「そんなことは…」

「それは、魔理沙が勝手にそう思ってるだけでしょ? 私が言うのは許せないくせに、自分が同じことをルーミアに言うのはいいの? それとも、魔理沙だけが正しいってことを、私に納得させられるような理由を提示できる?」

 

 魔理沙は、答えられなかった。

 初めて殺意というものを感じていた魔理沙は、どうしていいのかわからなかった。

 今のルーミアだけは、どうしても許せない。

 さとりとは違う。

 理由なんていらない、存在するだけで皆が不幸になる、そんな相手だと思っていた。

 だから、魔理沙には一つしか答えを出せなかった。

 

「じゃあ何だ、お前はこのまま幻想郷が滅んでもいいってのか?」

「……」

「紫も霊夢もにとりもみんな……みんなあいつのせいで今も不幸になってんだよ! あいつがいる限り、もう誰にも幸せな明日は…」

「もういいわ」

「え……?」

 

 だが次の瞬間、本当に魔理沙はもう喋れなくなった。

 そこにあったのは、地底の時よりもさらに冷たい、もう魔理沙への興味の全てを失ったかのようなアリスの眼差し。

 にとりやレミリアのような全てに絶望した目とは違う、自分だけに向けられているその冷たい目は、確実に魔理沙を追い詰めた。

 

「え、あの、アリス、私は……」

「続けましょう、小悪魔。 まだやることもあるでしょう」

「あ……はい、アリスさん」

「私は……」

 

 アリスはもう、ほんの一瞬すらも魔理沙に目を向けていなかった。

 そのまま振り返らずに図書館の奥に歩いて行く。

 誰よりも信頼していたはずのアリスに見捨てられた魔理沙は、言いようのない孤独感に襲われていた。

 

 ――わからねえよ。

 

 ――何がいけないんだよ。

 

 ――どうやって、あんなのと分かり合えっていうんだよ。

 

 そんな悪態を心の中でつきながら一人立ち尽くす魔理沙の前には、既にアリスも小悪魔もいなかった。

 もう、誰にも頼れない状況。

 霊夢はいない。

 にとりもいない。

 パチュリーは、魔理沙よりもレミリアのことを選んだ。

 そして……

 

「……ははっ。 懐かしいな、この感じ」

 

 魔理沙の目からは、気づくと涙がこぼれそうになっていた。

 アリスたちと出会う前、魔法使いになるために一人で実家から飛び出した時と同じ孤独。

 だけど、この孤独はその時とは違う。

 魔理沙はもう知ってしまっていた。

 誰かと一緒にいることの楽しさを。

 いざというときに頼れる誰かがいるという心強さを。

 全てを失ったことの喪失感は、知らなかった頃のそれとは比較にならなかった。

 それも――

 

「っ―――何だ!?」

 

 この、危機的な状況ではなおさらだった。

 

 突如として発生した、本棚が倒れるほどの揺れ。

 耳が痛くなるほどの轟音と、何かが崩れていく音。

 そこで異常事態が起こっていることは明白だった。

 

「アリっ…」

 

 だが、魔理沙がアリスを呼ぼうとした声は小さくなっていった。

 

 ――もし、この状況でもアリスが私の声に応えてくれなかったら……

 

 それが魔理沙には怖かった。

 目を背けたくなってしまった。

 

「……くそっ」

 

 魔理沙は箒を手に一人図書館を出ようとする。

 だが、扉が開かない。

 来るときに突き破ったはずの扉は図書館を覆う魔力で再生され、来た時以上に固く閉ざされていた。

 どれだけ力を入れても全く開かない扉に向けて、魔理沙はイライラしながらミニ八卦炉を構えて、

 

「開けよっ!!」

 

 勢いのままに魔法波を放った。

 それとともに図書館の扉は勢いよく吹き飛ぶ。

 その外には、見渡す限りただ瓦礫の山があるだけだった。

 

「……なんだよ、これ」

 

 そう呟いた魔理沙はただ呆然と立ち尽くしていた。

 地下だというのに月光が差している。

 地面は削れ、恐らく紅魔館の1階や2階にあっただろうものもバラバラになって地下と一体化していた。

 図書館は特殊な魔力で守られているため無事だったものの、修復不能な被害が紅魔館に出ていることは明白だった。

 そして次の瞬間、何かが瓦礫の中に突っ込み、辺りを砂煙が舞った。

 

「ぐっ……」

「美鈴っ!?」

 

 魔理沙の目に入ったのは、瓦礫の中で血まみれになっている美鈴の姿だった。

 魔理沙が叫ぶが、返事はない。

 少しずつ瓦礫を吹き飛ばし、名前を呼びながら急いで美鈴のもとへ駆け寄る魔理沙に、

 

「美鈴!! おい、しっかりしろ美…」

 

「ああ、やっと見つけたわ」

 

 後ろからそんな声がかけられた。

 その声が聞こえた瞬間、魔理沙の体が硬直する。

 

「……嘘、だろ?」

 

 本当に金縛りに遭ったかのように動けないのに、まるで痙攣を起こしているかのような全身の大きな震えだけは止まらない。

 魔理沙が僅かに動いた首と目線だけでゆっくりと振り返ると、そこには魔理沙の脳裏に深く焼きついている姿が映っていた。

 ただ、姿形だけは同じでも、そこにいるのは魔理沙の知っているそれとは違った。

 そこには、かつて感じた身も凍るような恐怖だけでなく、さっきルーミアに会った時と同じような、本能から湧き上がってくる恐怖があった。

 それは、目の前のそれが藍の言っていた支柱としての力を持っているだろうことを意味していた。

 

「なんでだよ」

 

 魔理沙は呆然と呟く。

 魔理沙には、信仰心などなかった。

 霊夢や早苗のような巫女とは友達感覚だし、神奈子たちのような神をありがたがることもなかった。

 だが、それでも――

 

「恨むよ、神様……」

 

 ただ、そう言わざるを得なかった。

 

 そこにあったのは、日光の全くない夜中にもかかわらず日傘を構えた一人の妖怪の姿。

 貫くような眼光を帯びた瞳で、まっすぐに魔理沙を見る幽香の姿だった。

 魔理沙は涙目になったまま、動けない。

 ただ、ゆっくりと向けられた日傘の先端が魔理沙を直線上に捉えて、

 

「ぐっ!?」

 

 魔理沙の頭が誰かに地面に叩き付けられると同時に、頭上を閃光が走った。

 魔理沙の後ろにあった瓦礫の山が爆ぜて跡形もなく消滅する。

 そんな状況を前に反応すらできなかった魔理沙に向かって、叱咤するような声がかけられる。

 

「バカ魔理沙、何ボーっとしてんの!」

「美鈴……?」

 

 ボロボロになった身体で、それでも美鈴は幽香の攻撃を察知して間一髪で魔理沙を助けていた。

 美鈴は一瞬で体勢を整えて幽香の方に向き直る。

 それを見た幽香が、また少し美鈴に関心を戻す。

 

「あら、まだ息があったの。 随分と頑丈なのね」

「あいにくと、それだけが取り柄なので」

「そ。 じゃあ、私の魔力が尽きるのと貴方が消し飛ぶの、どっちが早いか勝負してみる?」

「いやー、それはちょっと勘弁してほしいかなーと…」

 

 美鈴がそう言いかけたところで、幽香が一瞬で間合いを詰めて美鈴の腹部に突きを入れた。

 それはたとえ分厚い鋼鉄であっても粉々にできる威力を誇っていたが、美鈴はそれに合わせるように後ろへ跳んで威力を和らげる。

 それに追い打ちをかけるように幽香は美鈴の身体に何度もその腕を、足を叩き込むが、美鈴はそれを和らげ、逸らし、それでもダメなら自らの腕を犠牲にして致命傷を避ける。

 無傷とまでは言わないが、普通なら内臓が全て破裂し傷口や口から飛び出して絶命してもおかしくない攻撃を受けきってなお、美鈴は両の足を震わせながら未だ立っていた。

 

「あぐっ。 それは、ズルいですねぇ……パンチやキックじゃ何回耐えても魔力は減らないじゃないですか」

「ええ、そうね。 でも貴方みたいな妖怪は珍しいからつい肉弾戦を挑みたくなるのよ、ごめんなさいね」

「ははは……それは、武術家にとってはこの上ない褒め言葉ですよっ、と!」

 

 そして、今度は美鈴から仕掛ける。

 幽香を飛び越すほど高く舞い、後ろ足で渾身の蹴りを放つが、幽香はそれを片手で掴んだ。

 美鈴のように技術を使って威力を和らげたのではない。

 子供のパンチを手の平で受ける大人のように、ただ真っ直ぐ受け止めただけだった。

 だが、そこで終わるほど美鈴は凡庸ではない。

 掴まれた足を軸にして空中で回転し、そのままもう片方の足で捻りを入れた踵落としを放ったが……それを幽香は微動だにせずに額で受け止めていた。

 

「……うひゃぁ、マジっすか」

「ええ、マジよ」

 

 美鈴の放った渾身の一撃は、幽香の右手を微かに痺れさせ、その額に凝視すればわかる程度の痣をつけただけだった。

 幽香はそのまま掴んだ美鈴の足をヌンチャクのように無造作に振り回して投げつける。

 威力を分散できない地面に叩き付けずに、真横に投げ飛ばしたのは幽香のミスか、気まぐれか。

 美鈴は振り回されて方向感覚が狂ってる中で、それでも周囲にあるものに少しずつ身体を当てて威力を減衰していったが、やがて大きな一枚岩に叩き付けられて沈んでいった。

 

「さて、次は……」

 

 幽香が辺りを見渡すが、魔理沙はいなかった。

 魔理沙は岩にはりつけにされた美鈴のもとに逸早くかけつけ、抱きかかえようとしていたのだ。

 

「大丈夫か、美鈴!?」

「……う、ん。 いや、大丈夫、じゃ、ない、かな…」

 

 戦っていた美鈴の姿は、遠目から見ても既に限界だった。

 確かに美鈴の能力を使えば、全身に気を張り巡らせて打撃のダメージを抑えることも、身体を少しずつ治癒することもできる。

 だが、この状況ではそんな力はほんの気休め程度にしかなっていなかった。

 両の腕はグシャグシャに折れ、痙攣を起こしたような足でそれでも幽香に蹴りを入れる。

 そんな美鈴に、魔理沙は畏敬の念すら抱いていた。

 普段は昼寝ばかりのダメ門番のイメージだった美鈴のそんな姿を見て勇気づけられたのか、少しだけ冷静さを取り戻していた魔理沙は大急ぎで美鈴を箒に乗せて飛び立つ。

 だが、地下から飛び出した魔理沙たちを待っていたのは、

 

「なっ……」

「うわぁ……」

 

 暗闇の中に浮かぶ、数百の眼。

 狼のような猛獣から空中に浮かぶ妖怪まで、身体に漆黒の闇を纏ったそれらが群をなして紅魔館を取り囲むように留まっていた。

 

「あら、逃げるなんて随分と連れないのね」

 

 魔理沙は、全身から溢れ出す汗を止めることができない。

 今の自分に、目の前にいる数百匹の妖怪たちを同時に相手取ることなんて、とてもできるとは思わなかった。

 そして、背後にはその数百匹を軽く超える脅威が構えている。

 

「……さーて。 じゃあ、もう一踏ん張りしますか」

「え?」

 

 だが、そんな状況でなお美鈴は魔理沙の箒から降りておぼつかない足取りで地に立ち、再び身構えた。

 呆然とする魔理沙に、美鈴はいつものような気楽そうな声で問う。

 

「魔理沙ー。 あの妖怪一人と、あっちの集団の相手ならどっちがいい?」

「いや、でも…」

「遠慮しない遠慮しない。 ま、無理だって言うなら私が両方引き受けるからその間に逃げてくれればいいよ」

「はあ……?」

 

 美鈴は、この状況でもヘラヘラと笑っていた。

 レミリアのような吸血鬼とは違い、普通の妖怪に過ぎない美鈴の身体がこの短時間で治癒するはずがない。

 だが、数百体はおろか指で数えられる程度の数を相手取ることすら無茶なその身体で、その目だけは凛とした輝きを放っていた。

 それを見ていた幽香が、少しだけ笑みを浮かべて言う。

 

「へぇ、やっぱり貴方面白いわね。 隣のチビなんかよりも、よっぽど」

「ははは、もうそれ以上褒めても何も出ませんよ」

「そう。 でも、貴方なら少しくらいは私のイライラも解消してくれそうね」

「どうですかねー。 パチュリー様や咲夜さんにはむしろストレスの原因ってよく言われますけど」

 

 もう真っ直ぐに立つことすらできない、半分崩れたような姿勢で立つ美鈴は、それでも武術家としての誇りを捨てることはなかった。

 その姿は、誰よりも美しく咲き誇っていた。

 どんな逆境でも真っ直ぐに前を見据える美鈴を前に、魔理沙は既に諦めかけていた自分を恥じるように、決心して箒を構える。

 

「……ったく。 分業、できるほどの余裕なんて無いんだろ?」

「まぁ、そうなんだけどさ。 モチベ下がるからそういうこと言わないでよ」

「だから、一撃で終わらせる。 2人で幽香を倒してそのままトンズラこくぞ」

「えー。 私は一応紅魔館の門番だから、終わったらあっちの妖怪たちも片づけなきゃいけないんだけど」

「はあ?」

「これ以上紅魔館を滅茶苦茶にされたら、後で咲夜さんに半殺しにされるどころじゃなさそうだしね」

 

 笑顔のまま美鈴にナイフを突き立てていく咲夜の姿を想像するのは、そう難しいことではなかった。

 

「……ははは。 まったく、こんな時だけ真面目な奴めっ!!」

 

 そして、魔理沙が苦笑しながらそう言うとともに、間髪入れずに美鈴が幽香に向かって飛び出した。

 それとともに上空に飛び上がった魔理沙が、速攻でミニ八卦炉を構える。

 

「星符『ドラゴンメテオ』!!」

 

 美鈴がたどり着く前に、真上から幽香を魔理沙のマスタースパークが襲う。

 だが、幽香の指先から飛んだ細い閃光が衝突した瞬間、魔理沙の砲撃は全て弾け飛ぶように消えた。

 

「っ……だけど、読んでたぜっ!!」

 

 それは、確かに魔理沙の全力の一撃だった。

 だが、長時間の魔力の溜めが必要な本当の最終兵器さえも、ついさっきレミリアに片手で押し返されてしまった魔理沙には、それはわかっていたことだった。

 勇儀の時のようにゼロ距離で発射したのならまだしも、この距離でそれを放ったところで今の幽香にはまるで通じないだろうことは予想していた。

 だから、魔理沙はその最大の攻撃をただの目くらましに使った。

 自分の全力の魔法波を貫いて到達した閃光をそれでも回避し、幽香とは逆側に構えていたもう一つのミニ八卦炉の出力を全開にして、

 

「『ブレイジングスター』!!」

 

 箒に乗ったまま、マスタースパークを放った推進力で加速する。

 幽香が正面の美鈴に目を向けている間に、魔理沙は上空から挟み撃ちにしようとしたのだ。

 しかし、それを見ていた幽香は少しつまらなそうな顔をして、

 

「……くだらないわ」

「がっ…!?」

「ぐ……」

 

 突っ込んできた美鈴の腹部にカウンター気味に掌底を食らわせると、美鈴はそのまま崩れ落ちる。

 自分から突っ込んできていた美鈴には、その威力をほとんど和らげることができなかった。

 そして幽香は、上空から超スピードで迫っていた魔理沙が手に構えていたミニ八卦炉を弾き飛ばしつつも、まるで美鈴がしたように華麗にそのスピードを片手で和らげて吸収し、そのまま無造作に魔理沙の首を絞めていた。

 

「……何だよ、お前もそんなん、できんのかよ」

「当たり前でしょう? この妖怪みたいに完全に洗練しきったようなものじゃないけど、基本的な動きの一つよ」

「ははっ、そうかよ」

「それにしても、随分とつまらない選択をしたものね。 せめてあの烏合の衆に突っ込んでいけば少しくらいは生き残る可能性もあったでしょうに」

「それは、無理な、相談だぜ。 私はな、お前を、止められなきゃ、意味が、ないんだよ。 どうせお前も、ルーミアの、手駒の、支柱って奴、なんだろ?」

 

 魔理沙は詰まったような声で、それでもまだ微かに笑みを浮かべながら幽香を挑発する。

 しかし、手駒呼ばわりされた幽香はそれを怒るでもなく、ただ空虚な目をして言う。

 

「さあ、どうなんでしょうね」

「……はあ?」

 

 幽香の性格を考えると、てっきり否定して怒り狂うと思っていただけに、魔理沙は疑問の声を上げる。

 

「……正直、もう自分でもよくわからないのよ。 そんな現状が我慢できないと思いながらも、止められないの」

「っ……!!」

 

 魔理沙の首を絞める幽香の力が強まっていく。

 幽香の見開いた目がだんだんと狂気に侵され、何かの中毒者のように魔理沙を掴む腕が震え始める。

 自らの首を守っていた魔力の障壁が臨界値に近づき、徐々に魔理沙の顔色が真っ青になっていくが、幽香はそれに気づいているのか気付いていないのか、ただ俯いたまま言う。

 

「……疼くのよ。 何をしても、誰を倒しても、何度殺しても、この手の疼きが止まらないのよ!!」

「何、を……っ!!」

「魔理沙っ!!」

 

 そこで美鈴が幽香の死角から放った蹴りが幽香の腕の芯をとらえ、魔理沙を掴む腕が離される。

 だが、幽香はそれを気にしていなかった。

 ただ、震えるその手で強く握り過ぎた拳が、充血して赤く染まっていった。

 

「ゲホッ、ゲホッ、サンキュー、美鈴」

「はは、もう限界だけどね」

 

 そのまま美鈴は立っていられなくなって膝をついた。

 そして、一日中過酷な戦いを続けてきた魔理沙の身体にも、もう戦う余裕はなかった。

 人間である魔理沙には、身体の治癒などほとんどできない。

 とても一人で幽香を相手取ることなんてできる状態じゃなかった。

 それでも魔理沙は無理矢理立ち上がり、幽香に向かい合っていた。

 

「ふふふ、でもこれで少しはこの陰鬱な気分も晴れてくれるのかしらね」

 

 幽香は少しだけ薄ら笑いを浮かべ、その殺気を乗せたまま既に死に体の2人に近づいていく。

 普段の幽香ならば興味すら抱かず、その場に捨て置くような瀕死の人間と妖怪。

 だが、今の幽香がそんな判断をするようには見えなかった。

 絶体絶命の状況。

 たとえアリスや小悪魔が駆けつけたところで、どうにもならない絶望的状況。

 よほどのイレギュラーでもない限りは、もう魔理沙たちに打つ手はなかった。

 

「終わりよ。 さぁ、消えなさい!!」

「っ……」

 

「――はは、ぁははは」

 

 ……そう、よほどのイレギュラーでもない限りは。

 

「あははははははははははははははははははははははははははははははぁっ――」

 

「何だ!?」

 

 突如、聞いている方が気が狂いそうになるほどの甲高い笑い声が辺り一帯に響いた。

 それを発したのは魔理沙や美鈴ではない、幽香でも辺りを取り囲む妖怪たちでもない。

 ただ、紅魔館があった場所の上空に一つの小さな影が浮かんで、

 

「魔理沙っ!!」

 

 言葉にできない身の危険を感じた美鈴が、突然魔理沙を押し倒した。

 美鈴が魔理沙を押し倒す寸前、確かに幽香も何かを感じ取ったのか、身を低くして地面を駆けていた。

 だが、魔理沙が立っていた場所に特段変化があったようには見えなかった。

 ただ、それと同時に微弱な悲鳴が無数に集まったような音が一瞬聞こえた気がして魔理沙が振り返ると……そこにいた数百の妖怪たちの群れが、半数以上も弾け飛んで塵と化していた。

 

「なっ!? 一体何が……」

「魔理沙、顔を上げちゃダメ!」

 

 それは、美鈴の武術家としての勘だった。

 そもそも武術とは、究極的には身を守るための技術である。

 その達人である美鈴は、本能的な命の危機に対して誰よりも敏感だった。

 そして、その勘は間違っていなかった。

 空中に浮かんだその影が大きな鎌のようなものを振ったかに見えた次の瞬間、突如として発生した灼熱の海が紅魔館周辺の森を焼き尽くしていた。

 

「あはは、あはははははははは――」

 

 猛獣や妖怪たちが焦げて、溶けて、微かに聞こえる悲鳴が轟々と燃え盛る音と奇声に混じって消えていく。

 頭を伏せていた魔理沙にはその様子は見えないが、何か得体の知れないものを感じていた。

 ルーミアや幽香から感じる恐怖とは違う何か。

 それは、言うなれば無限の狂気。

 同じ世界に存在すること自体を疑うような、異質な存在。

 そして魔理沙が少しだけ目線を上げると、今度はその姿がはっきりとその目に映った。

 

 小さな子供のような姿。

 その背には枯れ枝に宝石を散りばめたような、翼と呼ぶにはあまりに奇妙な物体。

 子供のような見た目とはとても不釣り合いな、禍々しく見開かれた瞳。

 何よりも、甲高い奇声と共に止めどなく溢れ出ている狂気の混じった魔力の渦が、その異質さを際立たせていた。

 だが、それを見ていた幽香はその死角に回り込み、

 

「うるさいわ」

「ははははは、はっ……」

 

 日傘から放った魔力で少女の胴体を消し飛ばし、真っ二つに裂いていた。

 空高く浮かんでいた少女は、それに全く抵抗しなかった。

 

「何よ……随分とあっけないわね」

 

 それの出現に身構えた幽香だったが、そのあまりにあっけない幕切れに少し失望の声を漏らす。

 その少女は上半身と下半身が切り離されて落ちていきながらも、未だ耳障りな笑い声を放っている。

 だが、切り離された下半身が突如として燃え尽きると同時に、上半身から生えてくるように全身が瞬時に再生され、不自然なほどに方向を変えて、

 

「っ!!」

 

 狂気に満たされた笑みが幽香の目前に迫っていた。

 

 目を向けた時には既に振り上げられていたその爪が、幽香の頭部を捉える。

 その寸前で、幽香は手刀でその少女の肩ごと抉り取って回避した。

 しかし、その腕は瞬時に再生する。

 その隙に頭上に渦巻く魔力の奔流が幽香を飲み込む。

 それを回避して、幽香が今度は全力の突きで少女の顔面を弾き飛ばす。

 しかし、その頭部さえも瞬時に再生する。

 

「ぅぁあ、はは、あはははははは」

「何なのよ、こいつ――っ!!」

 

 それは、あまりに不気味な存在だった。

 そのあまりに稚拙な動き故に強敵というほどのものでもないが、ただの有象無象と一緒にするには強大すぎる。

 そんな力を持っているにもかかわらず何を考えているのか全くわからない狂った存在が、何度殺しても次の瞬間には再び目の前にいることは、名状しがたい恐怖であった。

 それを遠目で見ていた魔理沙が呟く。

 

「何なんだよ、あれ……」

「わからない。 私もけっこう紅魔館には長くいるつもりだけど、あんなの初めて見たよ…」

「……だけど、チャンスだ。 あの変なのが幽香を押さえてる間に、一旦退いて立て直すぞ」

 

 混乱に乗じて幽香を倒す、というのも一つの策だったが、魔理沙はその選択肢を捨てる。

 もしアレが自分に向かってきたらを考えると、理性が全くない分、むしろ幽香よりも厄介だった。

 そもそも敵か味方かわからず、仮に敵でないとしても何をするかわからない得体の知れない存在を計算に入れて動けるほど簡単な状況ではないことくらいは理解していた。

 だから、魔理沙は動けない美鈴を連れてこっそりと図書館へ向かう。

 それを見逃す幽香ではないが、今は魔理沙たちに構っていられる余裕はなかった。

 

「このっ……消えなさいっ!!」

「あ”はっ、……ぅああっ、あはっ」

 

 幽香は、ひたすら目の前のそれを破壊し続ける。

 首を刎ね、全身を切り刻み、貫いた胸に魔力を流し込んで暴発させ、強大な魔法波で全身を粉微塵にする。

 しかし、それでも少女は瞬時に元の姿に戻る。

 その傷口から飛び散った血飛沫はすぐに気化し、それに少しでも触れた物を溶かすほどに凶悪な猛毒と化す。

 どの部分を弾き飛ばしても、それとともに猛毒をまき散らしながら再生して襲いかかってくる少女を前に、流石の幽香からも笑みが消えていく。

 だが、自分と比較することすらできぬほど理解不能な狂気を目の前で見続けた幽香は、次第に自分自身の中にある狂気すらも忘れ冷静さを取り戻していった。

 

 ――これは……吸血鬼の再生力かしらね。 今日がちょうど満月ってのもあるでしょうけど、多分ただの魔力の溜め込み過ぎね。

 

「ぅあはっ……はは…」

 

 そして、冷静になりさえすれば、それは大した脅威ではなかった。

 その単調な動きに合わせて幽香が軽く腕を振るうだけで、少女の身体は勝手に弾け飛んでいく。

 いや、たとえ幽香が触れなくとも、少女が強く振った腕は空振って千切れ、必要以上に放出された自分自身の魔力に焼かれていく。

 その攻撃の直撃を避け、なるべく返り血を浴びない。

 ただそうしているだけで、目の前の少女は勝手に自壊していく。

 

 ――つまらないわ。 これなら、まださっきの武術使いの方が楽しめたわね。

 

 幽香は、すぐに目の前の少女から興味を失っていった。

 少女の攻撃を多少は警戒しながら、幽香は周囲を見回す。

 紅魔館周辺に配置していた妖怪たちは、一匹たりとも原形を保っていない。

 そして、さっきまで目の前にいたはずの魔理沙と美鈴もいつの間にかいない。

 だが、美鈴から溢れ出たであろう血の雫の跡が、確かに紅魔館の地下へと続いていた。

 

「……そこにいるのね」

 

 幽香は既に目の前の少女に目を向けてすらいなかった。

 ただ直感で攻撃を避け続けるだけで勝手に自滅していくそれには、もう興味を持っていなかった。

 だから、幽香はその手に持っていた傘を紅魔館の図書館に向けて、

 

「さぁ、出てきなさい!!」

 

 巨大な魔法波を放った。

 それは図書館など一撃で消し飛ばし、中にいる者ごと一瞬で灰にできるものだった。

 だが、それは目の前の少女が放出した魔力に相殺される。

 

「あはっ!!」

「……何?」

「ぅぁは、ははは」

 

 それは、偶然ではなかった。

 幽香が紅魔館に向かって放ったそれを、目の前の少女は確かに紅魔館の前に立ちふさがるかのように回り込んで受け止めたのだ。

 目の前にいるそれに理性があるのかどうかはわからない。

 ただ、確かに――

 

「ぅぅぅ、ぅああああああっ!!」

「――――っ!?」

 

 次にそれが叫び声とともに放った突きは、今までとは違い、確かな信念を幽香に感じさせた。

 そして、それは再びただの狂った化け物に戻っていく。

 結局それが何を考えているのか、何なのかは全く分からない。

 だが、幽香は微かに笑みを浮かべて言う。

 

「……そう、いいわ。 かかってきなさい」

「あはっ、はははっ!!!」

 

 それに呼応するかのように少女は再び魔力を溢れさせて幽香に向かって飛ぶ。

 幽香はもう、目を逸らしたりはしない。

 再び少女と幽香は正面からその魔力をぶつけ合う。

 

「はは、っあ”っ!?」

「力の差をわかりやすく思い知らせてあげる。 たとえ正面からでも、貴方を跡形も残さぬほどに消し飛ばすのくらい簡単ってことをね」

 

 そして、幽香は両の腕に溜めた魔力を弾状にして目の前の少女に向かって放つ。

 それに合わせるように少女から魔力が溢れ出すが、その全ては掻き消されて少女は全身を消し飛ばされる。

 …再生する。

 少女は今度は魔力だけでなく、血液という毒を纏った腕を幽香に振り上げる。

 幽香はその拳を迎え撃つように斜め上から魔力を纏った拳を重ね、少女の全身ごとスクラップのように叩き潰す。

 ……再生する。

 

 ただ、そんなことをずっと繰り返す。

 10回、20回、いや、もう何十回繰り返したかわからない。

 

「はは、あはは……」

 

 少女は次第に立ち上がることすらも困難なほどに弱っていった。

 魔力が尽きなくとも、その身体は無茶な再生に耐えられるほどの余裕を残してはいなかった。

 もう、幽香に向けた攻撃に殺傷力すらなくなりつつあった。

 魔理沙の魔法波と同じ程度か、それ以下の威力でひたすら幽香に向かい続け、そして……遂に倒れ込んだ。

 

「は、は…」

「……やっと、終わりね」

 

 少女は倒れたまま目を見開き、全身を震わせたまま動かず、それでも止まることなき狂気の混じった魔力を放出し続けていた。

 もう、放っておいても勝手に消滅するだろう存在。

 流石の幽香も、もはやそれに手を出し続ける気にはなれなかった。

 

「じゃあね。 小さな吸血鬼さん」

 

 そう言い残した幽香がその横を通り過ぎようとして……再び少女が腕を立てた。

 まるで骨だけで立とうとしているかのように震える腕と足で、確かに立ち上がろうとしていた。

 その少女に、幽香は少しだけ畏怖の念を抱く。

 

「なんで、貴方はそこまで……」

 

 少女は、あくまでも紅魔館を守るように背にしていた。

 紅魔館への流れ弾をあえて自らの身で受けて消し飛ばされ続け、それでもそこに立っていた。

 もう、その少女からは脅威は感じられない。

 もう、その少女からは強い狂気も感じられない。

 もう、その少女からは数分先を生きられる生気すらも感じない。

 

 だが、確かにその見開いた狂気の瞳に宿った微かな光だけは、幽香を射抜くように灯っていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15話 : 妹

 

 ただ、姉が憎かった。

 それが感情の全てだった。

 

「……ねえ、少しでいいから私にも外の世界を見させてよ!!」

「何度も言ったでしょう、外の世界なんてものはないわ。 ここにあるものだけが、この世界の全てよ」

 

 ただそれだけ告げられ、狭い小部屋に囚われ続けてどれだけの時間が経ったのか。

 100年、200年…いや、それ以上になるか。

 そもそもこの部屋の外の記憶などなかった。

 それが当たり前だった。

 その人生には何もなかった。

 

「なんで……? 私が何をしたっていうの? なんで……なんで、なんで!!」

「五月蠅いわ。 貴方は黙って私に従ってなさい」

 

 希望なんてものはそもそも持っていなかった。

 ただ、止めどなく憎しみが溢れてくるだけだった。

 

 ――殺してやる。

 

 だから、一つだけ決めていた。

 いつかここから出ることができたその時は、姉を殺そうと。

 自由が欲しいだなんて贅沢は言わない。

 自分のために何をしたい訳でもない。

 いつか自分を苦しめ続けた姉を殺すその瞬間だけを求めて、吸血鬼フランドール・スカーレットは悠久の時を生きてきた。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第15話 : 妹

 

 

 

 

 

 そして、その日は何の前触れもなく、突然やってきた。

 

 静かな満月の夜。

 満月であることなど、閉じ込められているフランには知る由もない。

 しかしそこにあるのは、200年以上もの間溜め続けた、幻想郷の王たる吸血鬼の力なのである。

 

「……あれ?」

 

 結界の中で何もできないまま渦巻いていた魔力が月の力を得て遂に溢れ出し、巨大な音とともにその小さな世界を破壊した。

 結界を壊そうなどと意識した訳ではない。

 それでも、気づくと部屋の壁には外へと続く大きな穴が開いていた。

 

「……ははは、あはははははははははははは」

 

 訳も分からないまま、フランは笑い出す。

 

 ――出られる。 やっと、ここから……

 

 フランの口角が上がったのは、久しぶりのことであった。

 だが、そこにあるのは外の世界へ出られることへの、自由への興奮などではなかった。

 

 ――殺せる! あいつを、肉片の欠片も残さない程に!

 

 身体の奥底から、魔力とともに止めどなく殺意の衝動だけが湧きあがってくる。

 フランはただ、たった一人のターゲットを求めて、その部屋から一歩踏み出そうとした。

 

「どこ…? お姉さまは……私を苦しめ続けたあいつはっ!?」

 

 しかし、外に向けて歩き出そうとしていたその足は、次の瞬間貫かれていた。

 

「え……?」

 

 そして、唖然としているフランに向かって魔力の雨が降り注ぐ。

 

「――――ぁっ」

 

 身構える間もなく吹き飛ばされたフランはいつの間にか小部屋の中に押し戻され、小さな槍状のものでその壁に両手両足を磔にされていた。

 そこにはたった一言の言葉すらもない。

 ただ、有無を言わさずフランを部屋に押し戻したその先には、

 

「……」

 

 確かに冷徹な目でフランを見る姉の、レミリアの姿があった。

 

「なんでよ」

 

 フランは瞬き一つせず、その見開いた目で目の前のレミリアを睨みつける。

 レミリアはそんなフランの殺気に怯む訳でもなく、結界を壊したフランを怒る訳でもなく、ただ淡々と結界を張り直す。

 

 まるで、この日こうなることがわかっていたかのように、淡々と。

 

「ねえ、答えてよお姉さま。 外の世界なんて無いんじゃなかったの? 全部嘘じゃない! なんで……? なんでお前は私をこんなに苦しめる!? なんで、なんで……!!」

 

 ――なんで、私ばっかりこんな目にあわなくちゃいけない!?

 

「ああああああああああああああああああッ!!」

 

 フランは叫び、そのまま槍ではりつけにされた自分の腕を、足を引きちぎってレミリアに向かって勢いよく跳ぶ。

 しかし、そうなることすらわかっていたかのように、

 

「あ”っ!?」

 

 今度は大きな槍がフランの体を垂直に貫いた。

 その身体は動かない。

 槍で床に縫いつけられて飛ぶこともできず、その槍を引き抜く腕も、地を蹴る足もない。

 そして、いくら満月の夜の吸血鬼の力をもってしても、その両腕両足を再生して動けるようになるまでには数秒の時間を要する。

 この瞬間に備えて準備をしていたレミリアにとっては、それだけの時間があれば結界を張り直すのには十分なはずだった。

 だが――

 

「なんで……」

「……」

「どう、して…なんでよ……どうしてっ!!」

「―――っ!?」

 

 満身創痍のまま泣きじゃくるフランのその姿が目に入り、ほんの少しだけレミリアの反応が鈍ってしまう。

 しかし、コンマ1秒の油断すら、今のフランの前では命取りだった。

 フランから無意識のうちに溢れだした魔力が、一気にレミリアを飲み込んだ。

 

「ぐっ……かはっ!?」

 

 かろうじて反応したレミリアの体は、それでもその衝撃で壁に叩きつけられ、直撃を避けきれなかった右足はそのまま消し飛んでしまう。

 想像を絶するほどの衝撃で頭を打ち付け壁に磔にされたレミリアは、そのまま気絶して動かなくなってしまった。

 

「…あはは。 はははははは、やったぁ」

 

 既に両手両足を再生させていたフランは、自分の腹を貫く槍を無造作に抜き取り、その傷さえも数歩の間に消していく。

 フランは気絶して動かなくなったレミリアを見て、不気味な笑いを浮かべる。

 

「無様ね、お姉さま。 これで私の気持ちも少しはわかった? 少しは反省した?」

 

 フランがその身体を左右に揺らしながら、ゆっくりとレミリアに近づいていく。

 レミリアの返事はない。

 

「だけど許さない。 許さない許さない許さない。 今度は私がいっぱい、いっぱいお姉さまと遊んであげるから!!」

 

 そう言うと、フランは自分に刺さっていた槍でそのままレミリアを貫いた。

 だが、それにもレミリアは反応しない

 

 爪を剥ぎ、そのまま残った四肢を引きちぎる。

 自分の魔力を炎へと変え、レミリアの体を焼き尽くす。

 その『ありとあらゆるものを破壊する能力』を使って、レミリアの体を跡形もなく消し飛ばす。

 200年以上も溜め続けた憎しみを全てぶつけるかのように、一切の手加減なくレミリアを破壊し尽くす。

 

 しかし、それでも吸血鬼であるレミリアの体は徐々に元の形を取り戻していく。

 

「……まだまだ終わらせないよぉ?」

 

 レミリアが再生していく姿を、フランは嬉しそうに見守っていた。

 

 ――この程度で私の憎しみが晴れる訳がない。

 

 ――何度も苦しみを与え、何度も破壊し、生きることすら嫌になるような地獄を見せ続けよう。

 

 ――命ある限り、私自身の体さえも朽ち果てるまで、ただこいつを苦しめよう。

 

 ただ、そんな顔をしていた。

 フランは再び自らの魔力を凝縮し、その腕に纏わせる。

 

「どれだけ泣いても、どれだけ謝っても、私以上の苦しみを永遠に………?」

 

 だが、フランは異変に気付く。

 レミリアは既に再生を終えていた。

 だが、消し飛んだレミリアの右半身だけは未だに元に戻るどころか、再生する気配さえ見せずに止まっている。

 まるで、それが元の姿であったかのように。

 

「……え?」

 

 そこで、フランは自分の足元に燃えカスを纏った鉄の塊があることに気付く。

 それは最初の攻撃で消し飛ばしたはずのレミリアの右足だった。

 いや、足と言うより、あえて言葉にするのなら、まるで義足のような――

 

「なに、これ……?」

 

 既に気を失っているレミリアは何も答えない。

 だが、右半身を失ったレミリアのその姿はどこか見覚えがあった。

 

「――っ!?」

 

 そのとき、突然の頭痛がフランを襲った。

 無理矢理に刻み込まれるかのように、その頭に何かが流れ込んでくる。

 いつしか忘れ去られた、懐かしい記憶が――

 

 

 

 

 

 

 

 

 よく晴れた空の下。

 広い花畑の中を小さな少女が一人走り回っていた。

 

「おとーさま、おかーさま!!」

「待ちなさい、フラン!」

 

 正確には一人ではない。

 同じくらいの背丈のもう一人の少女が、大きな傘を持って必死に走って追いかけていた。

 

「はぁ、はぁ、まったくフランったら、ちょっとは貴方に付き合わされて走る私のことも考えなさい」

「へっへー。 ありがと、おねえちゃん」

「もうっ!」

「いたっ」

 

 生意気そうな雰囲気のあるまだ幼きレミリアは、妹のフランドールの額を軽く小突く。

 

「ダメだぞフラン。 吸血鬼は太陽光を浴びちゃいけないんだから」

「えー」

「「えー」、じゃないの! せっかくお父様が外に連れてきてくれたんだから、ちゃんと言うこと聞きなさい」

「はーい」

 

 太陽光を苦手とする吸血鬼は自分の行動を自制できるようになるまでは基本的に昼間に外に出ることはない。

 それでも、フランが一度くらい昼に外に出てみたいということで、その日スカーレット一家は屋敷の中庭にある花畑に来ていた。

 多少の危険は伴うものの、家族総出でフランのサポートをすればいいということになったのだ。

 

「それで、どう? 初めて明るいうちに外に出てみた気分は?」

「うん! おはながきれーだし、とってもたのしい!」

「そう、それは良かったわ」

「まあ、楽しむのもいいけど、ほどほどにしておきなさい。 自分で傘もさして歩けないんだから」

「そう言わずに、ね? レミリアも楽しいでしょう?」

「……そ、そうね。 たまには悪くはないわ」

 

 レミリアは自分自身も楽しんでいるのだが、フランのように無邪気にはしゃぎまわるのが照れ臭いのか、少し目を逸らしながらそう言う。

 父と母がそんな2人の様子を見て、にっこりと微笑む。

 

 ――幸せだった。

 

 ――他に何もいらなかった。

 

 ――お父さまと、お母さまと、そしてお姉さまが傍にいてくれれば、それだけでよかった。

 

 ――ただ、3人に喜んでほしかった。 それだけだった――

 

「おとーさま、おかーさま、あと、おねえちゃん」

「あとって何よ!」

「みせたいものがあるの!」

 

 そう言ってフランが取り出したのは、両手いっぱいの黄色い花だった。

 レミリアが少し不満そうな目をして言う。

 

「駄目よフラン。 花だって生きてるんだから、むやみに千切るものじゃないわ」

「まあまあ、いいじゃないかレミリア」

「ふんっ、お父様もお母様もフランに甘いのよ」

 

 フランの父と母は笑顔でフランが両手に持った花を覗き込む。

 レミリアは露骨に目を逸らすが、一人取り残されるのが寂しいのか、フランたちの方を横目でチラチラと見ていた。

 

「きれいな花だね、フランのお気に入りかい?」

「うんっ。 でもみせたいものはちがうの、みててっ!!」

 

 そう言うと、フランは両手いっぱいの花を空高く放り投げる。

 館の中で偶然気付いた、フランの必殺技だった。

 

 ――きゅっとしてっ!

 

 そして両手を掲げ――

 

「どっかーんっ!!!!」

 

 突如、周囲一帯が霧散した。

 高く放り投げた花は爆散し、その鮮やかな黄色はまるで花火のように舞い散った。

 

「ねっ! きれいでしょ…」

 

 だが、その黄色い景色はすぐに真っ赤に染まる。

 

「……え?」

 

 『ありとあらゆるものを破壊する能力』。

 それは、幼い子供が使うにはあまりに大きすぎた、危険な力の暴走だった。

 フランには、そこで何が起こったのかすら分からなかった。 

 ただ、さっきまで笑ってフランのことを見ていた父と母の姿は、声すら上げないまま一瞬でただの肉片へと変わっていた。

 そのままそれは煙を上げて消えていく。

 

「……おとーさま、おかーさま? なんで…? いやだ、おとーさ…!!」

 

 そして、フランの体を突如として焼き尽くすような痛みが襲った。

 

「あ……なん、で……ぅぁ、あついよ、ああああ、ああああああああ」

 

 周囲に日影をもたらしていた傘や壁も同時に消し飛び、フランにも、転がっている両親の死骸にも、日光が燦々と照りつけていた。

 

「いやだ、だれか、たすけて……おとーさま、おかーさま……おねえ、ちゃん」

 

 フランは日光に焼かれ、徐々に意識が遠のいていく。

 そして、その意識の消える間際、フランの視界に入ったのは、

 

「フ、ラン……?」

「おね……っ!?」

 

 右半身が消し飛び、その傷口を日光に焼かれているレミリアの姿だった――

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぅあっ、ああっ、あああああぁぁぁぁ」

 

 フランは目を見開いたまま、頭を抱えてうずくまっていた。

 その顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

 

「違う、私、こんなつもりじゃ……うっ」

 

 フランはそのまま胃に入っていたものを吐き出す。

 目を閉じるたびに蘇ってくる、父と母の死骸、倒れたレミリアの姿。

 呼吸は整わず、体内の物全てを吐き出していると思えるほどに、何度も嘔吐する。

 

「……ごめんなさい」

 

 ――ああ、やっとわかった。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 ――だからお姉さまは私を閉じ込めたんだ。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 ――お姉さまに対する私の憎しみなんかよりずっと、ずっと深く私を憎んでいたから。

 

「……あはは」

 

 ――私がお父さまを、お母さまを……お姉さまの幸せを、全部奪った化け物だから。

 

「あはははははははははははは――」

 

 ――だから――

 

 

「――死んじゃえ」

 

 

 その声と共に、辺りに肉が破裂したような嫌な音が響く。

 フランの胸に大きな風穴が開いていた。

 その風穴の前にあったのは、あろうことかフラン自身の手だった。

 

 しかし、それはすぐに再生する。

 

 ――ごめんなさい。 もう、消えるから……私、もういなくなるから…

 

 フランは自分に残っているありったけの力を、自分自身に向けて放出する。

 

 その爪で全身を切り裂き――

 内部から魔力を暴走させて体を焼きつくし――

 灼熱の剣で首ごと焼き飛ばして灰にし――

 その能力を使って全身を爆散し――

 

 それでも、再生する。

 

「壊れろ。 壊れろよ。 消えろよ、この化け物がっ! こんな奴さえ……こんな…!!」

 

 それはもう、狂気の沙汰だった。

 何度再生しても、その度にまた自分を壊し続けていた。

 

「こんな……こんな、ぁはは、ははははは、あははははははははははは」

 

 そして、いつの間にか笑い声が漏れていた。

 フランは自分自身が何をしているのかすらもわからなくなっていく。

 ただ、止めどなく全てが狂っていく。

 

 破壊する――再生する。

 破壊――再生。

 破壊、破壊破壊破壊破壊――

 

 そして、全て再生する。

 

 何度も、何度も、ただ同じことを繰り返していく。

 その度に、その表情は次第に狂気の笑みに支配されていく。

 辺りにはただ、狂ったような奇声だけが永延と響き続けて――

 

「フラン!!」

 

 その時、フランの右腕に光が突っ込んだ。

 その腕に溜められていた魔力は拡散し、辺り一帯に飛び散った。

 

「何を……しているの?」

 

 そこには地面に這いつくばりながらも、残った左手をフランに向けるレミリアの姿があった。

 狂気に支配されかけていたフランは、その姿を見て我に返ったかのように青ざめ、再び自らの手に魔力を凝縮する。

 

「っ!! ごめんなさい、もう死ぬから! だからお姉様はもう心配しないで!」

「……え? フラン、貴方何を!?」

「そうでしょ? お姉様は私が憎いんでしょ? 私みたいな化け物が!!」

「っ!?」

 

 フランはその涙を溜めた目でレミリアに向かって少しだけ微笑む。

 その目からはもう光が失われかけていた。

 そのまま、魔力の溜まったその腕を自分に向けて…

 

「……だから、今日で終わり。 もうこれ以上お姉様を苦しめないから。 今までごめんなさい、お姉様…」

 

「フラン!!」

 

 レミリアは、渾身の力でフランに飛びついた。

 フランの腕に溜まっていた魔力はフランの頭上を一直線に通過し、館の屋根を貫いて消える。

 そして、レミリアはそのまま残された片腕でフランのことを力いっぱい抱きしめていた。

 

「……え?」

「ごめん……ごめんね、フラン」

 

 フランには、レミリアが何を言っているのかわからなかった。

 謝るのは自分のはずなのに。

 なぜレミリアがそんなことを言うのか、理解できなかった。

 

「なんで? なんで謝るの…? 悪いのは私なのに」

「違う……」

「私がお姉様から全部奪ったんだよ? 私はお姉様からなにもかも奪ったのに!! 私なんてもう死んだ方がいい、ただの…」

「違う!!」

 

 レミリアが思いっきり叫んだ。

 

「お願い、やめて……私を置いていかないで」

「お姉、様?」

「ごめんね、辛かったでしょ。 私のこと、憎かったでしょ。 私、フランのことずっと閉じ込めて…」

 

 そう言うレミリアの顔を見たフランは、驚きのあまり声も出なかった。

 レミリアが泣いているところなど、初めて見たから。

 

「だけど、そうするしかなかった。 あの部屋を出たら、貴方は思い出してしまうから。 外に出れば、貴方は壊れてしまうから…」

 

 その運命は、レミリアには全て見えていた。

 

 特殊な結界を張っているあの部屋の外に出れば、フランはあの事件を思い出してしまう。

 そして、フランの中に眠る『狂気』が目覚めてしまう。

 それはフランには制御することなどできるはずのない、強大すぎる狂気。

 今はまだ自我も残っているが、いずれフランはそれに支配されて本当に壊れてしまう。

 ただ力の限り自分ごと全てを破壊して消えていく、本物の化物になってしまう。

 そうなれば、もう二度とフランは戻れない。

 それが、フランに課せられた運命だったのだ。

 

「でも、私はそんなのは嫌なの。 フランまでいなくなるのなんて、私には耐えられないからっ…!!」

「私、は…」

「……ごめんね、私の勝手で辛い思いさせて」

 

 フランは言葉が出なかった。

 今までずっと、フランは閉じ込められ続けてきた。

 だが、それは他の誰でもない、フランのためだった。

 レミリアは胸を締め付けられるような感情に耐えながも、フランのためにずっと悪役を演じてきたのだ

 それなのに、フランはずっとレミリアへの憎しみだけを溜め続けてきた。

 レミリアの優しさに、気づくことができなかった。

 

「……だけど、私、頑張るから」

 

 レミリアはぎゅっと、さらに強くフランのことを抱きしめる。

 

「あとどれだけ時間がかかるかもわからない。 だけど、たとえあと何十年、何百年かかったとしても、いつか絶対……お姉ちゃんがフランを外に出してあげるから…」

「ぁ……」

 

 フランをこのまま外に出せば全てが終わってしまう。

 そうさせないために、レミリアは今までフランを閉じ込めてきた。

 たった一人で200年以上もフランを外に出せる方法を、フランと共に外に出られる運命が見つかる日だけをずっと求めて続けてきたのである。

 

「ごめん、なさい。 お姉様…」

 

 ずっと憎いと思っていたレミリアは、誰よりもフランのことを想ってくれていた。

 親を奪われ、自らの身体を奪われ、それでもたった一人の妹を、フランを守ろうと戦っていた。

 

 ――ああ、なんで気付かなかったんだろう。

 

 ――私の人生には何もないなんてことはなかった。 

 

 ――こんなにも、優しいお姉さまがいてくれた。

 

 ――私は……こんなにも幸せ者だったんだ。

 

「ごめんなさぃ、ぅぁぁ、うああああああああああ……」

 

 フランはそのまま、レミリアの腕の中で泣き続けた。

 何も考えられなくなるほど、疲れきってしまうまでずっと。

 そして、その狂気が再び目覚める前に、フランの意識は沈んでいった。

 

 

 ……目覚めると、フランは再び元の小部屋の中にいた。

 

 それまでのことが夢だったかと思うくらい、何事もなかったかのようにフランは閉じ込められていた。

 何事もなかったかのように、レミリアの右半身は元に戻っていた。

 その部屋を覆う結界の効果で、その日の記憶、もちろんあの事件の記憶はフランの中から消えていた。

 

 だが、それでもフランの頭にはたった一つの思いだけが残っていた。

 

 レミリアを信じると。

 レミリアだけは、絶対に自分のことを裏切らないのだと。

 

 

 それから数カ月が過ぎた。

 

 あの一件以来、レミリアは怒らなくなった。

 代わりに、よく笑うようになった。

 

「お姉様、今日のごはんは!? もしかして…」

「残念だけど人間の血はちょっと難しいわ。 代わりと言っては何だけど、ちょっとケーキを焼いてみたわ」

「お姉様が!?」

「い、いいじゃない、別に!」

「そっか……えへへ、ありがとね、お姉様」

「……ええ、どういたしまして」

 

 フランの記憶が戻っていた訳ではない。

 だが、それでもフランは少しずつレミリアへの警戒を解いていた。

 レミリアも最初は結界の不具合かと思っていたが、そんな日常を過ごしていくうちに、少しずつフランとの距離は縮まっていった。

 次第に、フランは一日一回レミリアが食事を届けに部屋に顔を出すときだけを楽しみにするようになった。

 一人の時はレミリアに貸してもらった本を読んで様々な知識をつけ、レミリアが来てくれた時はレミリアの話を聞く。

 毎日それだけの日々だったが、それだけで楽しかった。

 いつかレミリアと一緒に外に出られることへの期待が、日に日に膨らんでいった。

 

 ……だが、その期待がレミリアを苦しめた。

 

 

 それから100年が経った。

 

 その頃から、レミリアは笑わなくなった。

 代わりに、泣くようになった。

 

「ごめんね、フラン……もう少しだけ、もうちょっとで何とかしてあげられるから」

「だ、大丈夫だよお姉様! こうやってお姉様が来てくれるだけで私は嬉しいから!」

「でも、ごめん……本当にごめんね」

 

 レミリアは自分を責めるように、ただフランに謝り続ける。

 だが、フランにはレミリアが何を謝っているのかすらわからない。

 それでもフランはただ、毎日のようにレミリアを慰め続ける。

 傍から見ればどちらが姉なのか、どちらが閉じ込められているのかすらわからなくなるほど、レミリアの心は弱っていった。

 

 依然としてフランを外に出せる運命は見つからなかった。

 レミリアは一人で図書館にこもって、何か方法がないかと知識をつけ続けた。

 フランの狂気を沈められる可能性のある者もずっと探し続けたが、良い運命はいつまで経っても見つからなかった。

 

 それでも、レミリアが諦めることは決してなかった。

 何も見つけられなかった。

 なら、寝る間も惜しんで探し続ける。

 失敗した。

 なら、他の全てを削ってそれ以上の努力を続ける。

 ずっとそれの繰り返し。

 それでも何も変わらない。

 何度も。 何度も何度も何度も何度もレミリアは次の手段を考えて奔走したが、結局それが実ることはなかった。

 

 

 それから、また100年が経った。

 

 その頃から、レミリアは泣かなくなった。

 

 そして、レミリアは遂に壊れてしまった。

 何をしても決して変えることのできない運命に絶望して。

 

「もういいから、お姉様! 私はこの部屋の中だけでも十分楽しいから……だから!!」

「何を言ってるの? そんな訳ないでしょう」

「いいの! 私は、これでいいから……」

 

 光のないその目の下には大きな隈が染みついている。

 睡眠も、食事すらもとっているかわからないその身体は、痩せこけてボロボロになっている。

 どこに行ったのか、何と戦ってきたのか、それが想像できないほどに服も肌も傷だらけで、まともに再生すらされていなかった。

 たとえそこにいるのが不死身の吸血鬼ではなく、400歳を過ぎてしまった死に体の人間だと言われたとしても、全く違和感がないほどの死臭が漂っていた。

 だが、レミリアはそんなことすらも全く気にしていないかのような声で淡々と続ける。

 

「……じゃあ、もう行ってくるわ」

「待って! もうやめて、お姉様……お願い、だから…」

 

 レミリアにはもう、感情など残っていなかった。

 この世に希望なんてない。

 いつも通り。

 何かが変わる訳でもない。

 何か感動がある訳でもない。

 それでも、自分は諦めるわけにはいかない。

 ただ、実るはずのない未来に向かって進まなければならないという絶望だけを抱えて毎日を過ごしていく。

 

 そうしてレミリアはゆっくりと壊れ、ただの動く人形へと変わっていった。

 

「……なんでよ」

 

 フランは部屋の隅でいつも泣いていた。

 もう、あの頃のレミリアはいない。

 死ぬほど憎らしかったあの高慢な表情も、全てが楽しかったころの笑顔も、弱さを感じさせるあの涙も、もう見ることはない。

 

「いやだよ、こんなの。 もう外に出たいなんて言わないから……だから、もう一度だけでもいいから、あの頃みたいに笑ってよ……」

 

 もう、フランの頭の中にはレミリアのことしかなくなっていた。

 自分の幸せすら考えてはいなかった。

 

 ――私が死ねば、お姉様はもう苦しまなくて済むのかな?

 

 そして、いつしかまたそんな考えを持つようになっていった。

 

 

 それから何十年経っただろう。

 

 遂に限界が来てしまった。

 それも、先にフランの精神に。

 

 フランは、レミリアに友人ができたと聞いた。

 それからレミリアの生活が変わったのか、ボロボロの服や肌は少しずつ元に戻っていった。

 それを見たフランは、再びレミリアが笑ってくれる日が来るのではないかと大きな期待を抱いた。

 

 だが、結局その期待が報われることはなかった。

 見た目だけ元に戻ったかのように見えたレミリアだが、それでもその目に失われた光が戻ることは決してなかった。

 そしてその事実は、フランにどうしようもない絶望だけを叩き付けた。

 

 たとえ信頼できる友人ができても、何も変わらない。

 たとえ何が起こっても、レミリアが幸せになることは決してない。

 

 ――そう、私がいなくならない限りは……

 

 それからというもの、一日一度の会える機会でさえフランは次第にレミリアを避けるようになっていった。

 死んだ魚のような目でフランに話しかけるレミリアを見る度に、胸が張り裂けそうになっていく。

 自分のせいで幸せを失っていくレミリアを見ていることなんて、できなかった。

 

「……もう、いいや」

 

 フランに、もう心残りは無かった。

 

 ――明日の朝、ここを出て日光に焼かれて死のう。 それで、きっとお姉様は救われるのだから。

 

 既に結界の綻びは見つけていた。

 知識を身に付けていたフランは、それを利用して冷静に自分を殺す計画を立てていた。

 

「フラン」

 

 そこに、いつものようにレミリアが入ってくる。

 しばらくの間、レミリアが来る度に部屋の隅に縮こまって避けていた。

 だが、これが最後の日だ。

 最後くらい、どんなことであっても話しておきたい。

 そう思いフランがゆっくりと振り返ろうとしたとき、不意に抱きしめられた。

 

「……え?」

「もう少しだけ……明日まで待ってなさい」

 

 だけど、聞こえてきたのはいつもと違う声だった。

 それは懐かしく聞き覚えのあるあの声。

 あの頃の、その高慢な声で――

 

「ちょっと出かけてくるわ。 だから今日は留守番よろしくね、フラン――」

 

 レミリアは不敵に笑い、そのまま身を翻して音もなく去っていた。

 

 突然のことに、フランは反応できなかった。

 そこにあったのは、フランがずっと憎み続けてきた頃のレミリアの表情。

 だけど、それは何よりもずっと待ち望んだものだった。

 

「……あはは、帰ってきた」

 

 そう言って笑うフランの目には涙が浮かんでいた。

 

「やっと……やっとっ」

 

 この日をどれほど待っただろうか。

 今だってその気になればレミリアと一緒にここを出ることはできる。

 だけど、やめておこう。 

 レミリアに留守番を頼まれたのだから。

 だから今日だけは、あと一日だけはこの紅魔館で大人しく明日を楽しみに待っていよう。

 明日になれば、きっとレミリアが笑顔で迎えに来てくれるから。

 明日になれば、手を伸ばせばそこにはきっと、どんな瞬間よりも幸せな時間が待っているから。

 

 だから――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――痛くない。

 

 フランは何十回という再生を繰り返してボロボロになった体を、それでも無理矢理叩き起こす。

 

 ――お姉様はもっと辛かったんだ。 何百年もずっと…ずっと苦しみ続けて、それでも諦めなかった。

 

 足は震え、傍目からは最初の頃の脅威などまるで感じない。

 明らかに限界を超えてなお立ち上がるフランを見て、幽香はそれをあざ笑うかのように、それでも微かに畏敬の念のこもったような声で言う。

 

「……まだ立つのね。 もうこれ以上やっても無駄でしょうに」

「ぅぁぁ、ぁはは、ははは」

「まぁ、もう聞こえてなんていないんでしょうけどね」

 

 フランが纏った狂気は、月から得た魔力を無理矢理暴走させてその身体を侵食する。

 沸騰したように蒸気を上げる血液が、自らの皮膚を、周囲の全てを溶かしながら広がっていく。

 意味もなく、目的もなく、ただそこにある全てを破壊するだけの衝動。

 いくら満月の吸血鬼の体をもってしても、強すぎる狂気がその命を破壊するのは時間の問題だった。

 

 ――そのお姉様が、やっと帰ってきたんだ。 これからやっと、お姉様が笑っていられる時間が来るんだ。

 

 それでも、限界を超えてなおその行動を支えているのは、ほんの僅かに残っているフランの精神だった。

 自分の命が壊れる前にあと少しだけ、もう少しだけその破壊を続けようとするフラン自身の意志だった。

 

「……でも正直、もう飽きたわ。 そろそろ消えなさい」

 

 だが、既に幽香はフランへの興味を失っていた。

 力だけは強力、魔力も尽きる気配がない。

 ただそれだけ。

 意志のない、大きいだけの力では幽香の相手にはなり得なかった。

 

 幽香が冷めた口調でそう言うとともにその足元が抉れ、目にもとまらぬスピードでフランへと一歩で踏み込む。

 フランの目はそれに向いてはいない。

 ただ不気味に呟くような笑いを浮かべながら、全身に強大な魔力を集わせておぼつかない足取りで立ち尽くすだけだった。

 

 ――だから……

 

 ……ただ呟くように笑いながら、立ち尽くすだけだった。

 

 聞いてる者さえも狂ってしまいそうになる狂気の高笑いはない。

 その狂気に任せて全てを破壊することもない。

 命が尽き、その身体が崩壊するでもない。

 

 ――お姉様が帰る、この場所だけは……

 

 ただ静かにその目線を上げ、幽香の姿をしっかりと見据えて――

 

「――――絶対……私が守るんだっ!!」

 

「っ―――!?」

 

 そう叫ぶとともに、フランの周囲の大気が灼熱を帯びて刃と化す。

 勢いに任せてフランに向けて伸ばされた幽香の右腕は、為す術もなくその刃に焼き切られた。

 

「このっ…」

 

 幽香は拳から肘にかけて縦に切られたその腕を、それでもそのままフランの顔面に叩き込む。

 だが、フランはそれを読んでいたかのように大きく後方に跳んで回避する。

 前に大きく振り出された幽香の腕は、そのまま衝撃で灰となって飛び散った。

 

「ぐっ……随分とやってくれるじゃない。 何よ、さっきまでの狂ったような態度は演技だったってわけ?」

 

 今まで言葉という言葉を発さず、ただ暴れまわっていただけのフラン。

 それを見て完全に油断していた幽香に向かって、フランが突如として強力な刃を向け、深刻なダメージを負わせた。

 冷静に、油断せずに対処していれば回避できたかもしれない状況。

 それにもかかわらず自分の腕一本を持って行かれた幽香は、不快感を露わにする。

 

「……調子に乗るんじゃないわ。 この私に傷をつけたこと、死んでもなお消えることのないトラウマを植え付けて後悔させてあげる!!」

 

 幽香の力がさらに強大化していく。

 幽香の中に新たに生まれた怒りの衝動。

 だが、それは恐らくフランに対してではない。

 何よりも、こんな屈辱を味わってしまう自分自身への怒りだった。

 

  ――ふふふ、いい感じに逆上しちゃって。

 

 目線を伏せたまま地面を滑るように後退しているフランに、その怒りの矛先をぶつけるように幽香が再び向かっていく。

 フランの目はまだ幽香に向いていない。

 幽香は怒りの衝動に支配されながらも、冷静だった。

 フランに近づくまでの僅かな間に、幽香は周囲から魔法波を放つ。

 ただ単純に正面から向かっていくだけではない。

 一撃で全てを粉砕する拳と同時に繰り出される、避けられるはずのない死角からの最速の攻撃。

 フランは一瞬で目前まで来ていたそれらを……目線を向けることすらなく真上に跳んで避けた。

 

「なっ……!?」

 

 幽香はその足を止める。

 フランは全く幽香を見てなどいなかった。

 それなのに、無傷で全てを躱された幽香は驚きを隠せなかった。

 跳んだフランを目で追うでもなく、ただフランが元いた場所を見たまま呆然としていた。

 

  ――そんなに驚いちゃって、かわいいところもあるじゃない。

 

 だが、幽香はすぐに我に返って自分を叱咤する。

 油断。

 今まで幾度となくそれで苦汁を舐め続けてきた。

 まして本物の、しかも満月の吸血鬼を相手にしているというのに、何が油断なのだと。

 そして、幽香が空を見上げると、

 

「……そう。 やっぱりそういうことだったのね」

 

 そこにあったのは、並の妖怪ならば掠るだけで粉微塵になりかねないほど凝縮された魔力の塊を司るフランの姿だった。

 今までのように、ただ大きいだけの稚拙な力ではない。

 油断に油断を重ねた幽香を、一瞬で葬り去れるほどの力の結晶だった。

 

「まさか貴方が計略を謀るタイプだとは思っていなかったわ。 それが、貴方の本気って訳ね」

 

 その力の大きさだけを見るのなら、それは恐らく今の幽香の全力と同等の力。

 避けられるはずのない攻撃を避けた直後、それほどの攻撃を完成させていたフランを見て、幽香はフランが自分と同格以上の存在だと確信する。

 だが、本能ではわかっていても、幽香の感情はそれを納得してくれなかった。

 その左腕に集中させていた全ての魔力をフランに向けて、

 

「だけどそれでも……私の方が、上なのよ!!」

 

 フランがその魔法弾を放つとともに、幽香はそれを掻き消すように魔法波を放つ。

 それは、幽香が万が一の場合に備えて常に溜めこんでいた全力一撃分の魔力だった。

 フランと幽香の放った魔弾の威力だけを比べたならば、恐らくは魔力を溜めこんでいた幽香が上。

 そして、その洗練度も戦闘センスも幽香の方が上である。

 拮抗しているように見えた魔力のぶつかり合いだが、幽香の魔法波が徐々にフランの魔法弾を押し返していく。

 

「はは、ははは、やっぱり私が…」

 

  ――その勝手な思い込みが、命取りなのにね。

 

 それを見上げた幽香が勝ち誇ったような表情を浮かべかけて……異変に気付く。

 確かにその魔法弾はフランの魔力で放たれたものだった。

 だが……

 

「なん、で……私、どうして……」

 

 フランのその表情は幽香以上に今何が起こっているのかわかっていないかのようだった。

 フランは自分が正気のままでいることに驚いていた。

 決して避けることのできないはずの狂気は、今は自分の中に全く感じられない。

 ただ呆然としたまま、幽香の方を見てすらいなかった。

 

  ――ほら――

 

 そして、それに気づいた次の瞬間、幽香は総毛立つような死を予感した。

 片腕を失い、もう片方の手はフランに向かって魔法波を放ちながら、上空に目を向けるために首を上げたあまりに無防備な姿を前に、

 

「チェックメイト」

「ッ――――――」

 

 突如として幽香の首を刎ねようとした何かが――再び幽香の首を守るかのように現れた黒い何かに阻まれて止まる。

 

「あれっ?」

 

 それは、ルーミアがかけた保険の一つだった。

 奇襲で支柱の首が飛ばされて終わることなどないよう、少しだけ貸していた闇の力。

 それのおかげで一命を取り留めた幽香は、

 

「っ……ああああああああああッ!!」

 

 狂ったように叫んだ。

 

 二度目。

 小町の時に続いてたった一日で二度もそれに命を救われた幽香のプライドは既にズタズタに裂かれていた。

 幽香が放ったのは、理性のない猛獣のようにただ腕を振り回して背後の敵に当てようとするお粗末な攻撃。

 だが、それでもそれは十分な殺傷能力を誇っていた。

 

「きゃっ!?」

 

 いや、むしろこの場合、それは洗練されたものよりも有効な一撃にさえなっていた。

 幽香の攻撃を食らったそれは、悲鳴と共に幽香の後方に飛ばされて転がっていく。

 

「何、なの……?」

 

 怒り狂ったかのように見えた幽香は、それでも何か不可解なものを見るような目をしていた。

 実際、幽香が振り回したその腕は当たっていない。

 いや、そもそも当たる当たらないの問題以前に、幽香にはそこに誰かがいたのかすら認識できていなかった。

 ただ、振り回されたその腕が音速を超えたことで発生したソニックブームという名の衝撃波が、偶然にもそれを吹き飛ばしていただけだった。

 

「痛たた……困ったなぁ。 今ので決められないと、私にはちょっと荷が重いなぁ」

 

 尻餅をついたような体勢で、それは何かを独り言のように呟いていた。

 だが、その姿を視認した今でもなお、幽香はその存在をボンヤリとしか認識できない。

 

「答えなさい! 貴方は一体何者なの!?」

「え、私?」

 

 ――禁弾『スターボウブレイク』

 

「――っ!?」

 

 突然現れたそれに気を取られてしまっていた幽香は、後ろ上方から降ってきた矢に気付くのが遅れた。

 それは幽香には不可解な出来事だった。

 幽香自身、突然現れたアンノウンに気を取られながらも、フランには最大限の注意を払っているはずだった。

 だが、まるでフランへ向けていた注意が意図的に全てそれに向けさせられてしまったかのように、フランの放った魔力の矢が到達する直前まで幽香は気付くことができなかった。

 幽香は後方から降ってくるフランの魔力を感じ取って反射的に跳び、地面を転がりながら全て避けきる。

 そこに、どこからともなく声が聞こえてきた。

 

「自己紹介なんて、意味ないよ。 貴方はもう私を見つけられない。 私は道端に転がっているだけの、ただの小石だから」

 

 その声に、幽香は敏感に反応する。

 

 ――多分、自分の姿を消す能力者。 だとしたら、気配さえ察知すれば…

 

 幽香がその声のする方へ目を向けて……それが再び少しだけ視界に入る。

 小柄な少女に絡み付いた、形容するのも不気味な瞳は開くこともなく閉じられている。

 ただ薄く、儚く映る微笑が、フランに割いていたはずの幽香の注意を再び無意識のうちに全て引き付けて…

 

「ぐっ!?」

 

 無防備な幽香の背中を、フランの放った魔力の矢が貫く。

 だが、自らの胸を貫くそれに少しだけ気を取られながらも、幽香はすぐに前を向き直ろうとする。

 普通なら致命傷になる傷を、幽香は全くと言っていいほど気にしていなかった。

 

 ――こいつは、危険すぎる……!!

 

 幽香は、自分を貫けるほどの矢を放った満月の吸血鬼に背を向けた。

 そして、目の前に存在する何かを消し去ろうと目線を上げかけて……再びそれを見失っていた。

 

「なっ……!? そんな、あり得ない!!」

 

 そこから目を逸らしたのは、自らに刺さった矢に意識をとられたコンマ1秒にも満たない僅かな間だけ。

 そんな瞬きをする程度の時間だけで、目の前の少女は幽香の視界から消えたどころか、気配さえも完全に消え去っていた。

 そんなことはお構いなしに再び背後から降り注ぐ弾幕の嵐を、今度は早々に察知して残された左手で全て叩き落とす。

 だが、フランの強力な魔弾に直接触れた幽香の手のひらは、少し焦げたように煙を上げる。

 背後にいるのもまた、幽香にとって見過ごせないほど強大な力を持った吸血鬼。

 そして前方にいるのは、保険をかけていなければ自分を殺していただろう、得体の知れない危険因子。

 前後に絶望的な状況を控えた幽香は、

 

「……二度同じ手は食らわないわ」

 

 自身の妖力を開放し、周囲に大きな球体を描くように纏う。

 気付かないうちに再びそいつが自分に近づいていることを想定して、幽香は周囲全てに振り撒けるだけの力を放出したのだ。

 たとえ幽香に見えない存在でも、その射程範囲にいればただでは済まない。

 常人なら一瞬で精神ごと身体を崩壊させてしまうほどの妖力の塊の中には……しかし誰もいなかった。

 

「貴方、フランドールちゃんだよね? フランちゃんって呼んでもいい?」

 

 突然、フランの後ろからその声が聞こえてきた。

 幽香とフランが振り返ると、黒い帽子をかぶり、得体の知れない瞳を纏った少女が、今度ははっきりとその目に映った。

 

「え? う、うん、貴方は?」

「ふっふっふ、私はね……じゃじゃーんっ!!」

 

 そして、その少女は小さなカードのようなものを見せつけ、高らかに宣言する。

 

「私はなんと、お姉ちゃんファンクラブナンバー001なのだっ! そして、私のことはこいしちゃんって呼んでくれるとうれしいな!!」

 

 フランと幽香はポカーンとしている。

 「お姉ちゃんファンクラブ」という太文字が手書きで書かれたカードや意味不明な自己紹介も相まって馬鹿そうな雰囲気だけが演出されているが、それは紛れもなく幽香が危険因子と判断したアンノウンだった。

 

「一体何なの? 貴方は…」

「ぶっぶーっ! 悪者には何も教えてあげないよーだ」

「はあ?」

 

 幽香とフランは未だによくわかっていなかった。

 子供っぽい印象の、目の前のそいつが一体何者なのか。

 敵なのか、味方なのか、目的は何なのか、全く分からない。

 

「ねぇねぇ、フランちゃん」

「な、なに?」

 

 そして、こいしと名乗る少女はフランに対し一切の警戒心を示すことなく話しかけていた。

 フランは少し身構えながら、細心の注意を払ってこいしに向かい合う。

 

「あの悪者を倒すの、手伝ってくれない?」

「う、うん、でもどうして…」

「大丈夫だよ、お姉ちゃん好きに悪い人はいないんだよー。 それにね、多分簡単だよ。 私は『ありとあらゆるものを見えなくする能力』を持ってるの。 だから、私がフランちゃんの姿を消している間に…」

「っ!?」

 

 幽香は焦りながらこいしの元へ一瞬で駆け出す。

 その能力が本当だとしたら、幽香にとってあまりにも厄介な状況だった。

 自分の姿を消せるだけじゃない。

 もしあれほどの力を持ったフランの姿を消すことができるとしたら、いくら今の幽香といえども一方的にやられかねない。

 それだけは阻止する必要があった。

 

 そして、こいしがフランに触れるとともに2人の姿が消えたかのように感じて……それは、幽香には見えていた。

 

「はっ、馬鹿ね! 全部見えてっ……な…に?」

 

 だが次の瞬間、幽香は目を見開いて驚いていた。

 何故かはわからない。

 確かにこいしの姿を捉えたと思っていた幽香は、何もない虚空に向かってその全力の拳を振りかぶっていた。

 いや、正確には何もないわけではない。

 宙を舞う小さなカードに向かって全力疾走していた。

 自分自身がたった今とった行動の意味が理解できない幽香は……それでもふと目に入ったカードに書かれた「ナンバー001」という文字の後に続く名前を凝視してしまい、

 

「八雲、こいし……っ!?」

 

 その思考は再びあさっての方向を向いてしまう。

 

 ――八雲紫の式神!? いや、まさか新たな……

 

 その名から導き出せる可能性はいくらでも出てくる。

 だとすれば、次にすべきことは何か、何を警戒すべきか。

 だが、ほんの少しでもそんな思考を巡らせたことを、幽香は後悔することになる。

 

「バイバイ、花の妖怪さん」

「……え?」

 

 幽香にそう告げた眼差しには、ほんの少しの温もりもなかった。

 数秒前までの子供っぽさなど微塵も感じさせない、冷たく見下すような微笑を浮かべた目。

 辺りを漂う瞳と同じくらい不気味なその視線が視界の隅に映った瞬間、何かを思い出したように、

 

「まさか、お前は――――」

 

 そう、言いかけた幽香の身体は、既に地に伏して動かなくなっていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16話 : 覚悟

 

 春の並木道を歩く者の心はどこに向いているのだろうか。

 満開の桜の花に人ごみの喧噪、あるいはそれを引き立てる料理や酒の味や香りに春を告げる風の感触。

 きっと、誰もがそんなものに心を向けているだろう。

 誰一人として、その路肩に落ちている石ころに気付く者などいないのである。

 だが、完全に意識の外にあったはずの石ころが突然、空中を縦横無尽に駆け巡ったらどうなるか。

 誰もがきっとその一瞬、周囲を取り囲む春の風物詩のことなど忘れてその石ころに意識を奪い取られてしまうだろう。

 

 そんな石ころのような存在であるのが、彼女の持つ『無意識を操る能力』の本質だった。

 相手の意識の外側に溶け込むことも、介入することも、そこから表出することもできる能力。

 それを使えば、自分や自分が触れているものを他者が認識できなくすることも、相手の意識の全てを瞬間的に自分に集めることも可能なのである。

 そして他者の無意識、今回はフランの無意識に介入することで狂気から一時的にフランを開放することを可能にしたのも、実は彼女の能力の応用によるものであった。

 

 だが、彼女の恐ろしさはその反則ともいえるほど強力な能力にあるのではない。

 

 その行動原理の半分は彼女自身の趣味のようなものでもあるが、それでも幽香が倒れる直前、いくつかの戦略的行動をとっていた。

 あえて子供っぽい態度をとりながら自らの能力を『ありとあらゆるものを見えなくする能力』という視覚に介入する能力だと誤解させることで、幽香の焦燥感や視覚的な警戒を誘発しながらも、ペラペラと自分の能力を明かすような心理戦に縁のない存在であると幽香の無意識に刻み込んだ。

 特徴的で意味不明な自己紹介によって、希薄な存在である彼女自身よりもむしろカードの印象を幽香の脳裏に強く残すことで、幽香が無意識に彼女とカードの存在を繋げるよう仕向けた。

 彼女と「八雲」という幻想郷の誰もが知る名を結びつけることで、幽香の意図せざる思考を無意識のうちに誘発させ、冷静な思考を一瞬だけ奪った。

 

 その結果が今の状況である。

 右の手袋があれば当然左の手袋も一緒にあると思い込んでしまうのと同じように、彼女がカードと一緒に存在すると無意識のうちに思わされてしまった幽香は、罠の可能性すら考えずにそのカードに向かって全力疾走した挙句、八雲という名に踊らされているうちに、いつの間にか完全にその意識の外になっていたフランに打ち伏されてしまったのだ。

 

 それは、当然のように彼女の頭の中で完成していたストーリーだった。

 だが、たとえ他の誰かが同じ能力を持っていたとしても、同じことは決してできないだろう。

 実はその能力は制約が多く、能力の意味を深く理解しなければ使いこなせない。

 たとえば紫のようにその存在や能力を多くの者に知られ、自分自身が他者から意識される存在となってしまうだけで、その能力は力の大半を失ってしまうのだ。

 それを知っていた彼女は、その力を使いこなすために自分を捨てた。

 心を閉ざし、他者と交わらないことでその能力を更に強固なものとしていた。

 戦略のためにそれを徹底できる彼女の血筋は、その戦闘スタイルをそのまま表している。

 

 彼女の本当の名は八雲こいしではない。

 ハッタリと知略を張り巡らせて戦況を支配する地底の頭脳、古明地さとりの妹にして懐刀。

 その名を、古明地こいしという――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第16話 : 覚悟

 

 

 

 

 

 幽香は地面に這いつくばった体勢のまま、目線だけでこいしを見上げていた。

 そして、こいしの冷静な表情とその隣に漂う瞳を見て、恨めし気に言う。

 

「っ……思い出したわ、その瞳。 何が八雲こいしよ。 貴方、古明地さとりでしょう」

「あ、やっぱり知ってるんだ」

「その気味の悪い第三の瞳に卑怯で嫌らしい戦い方……噂通りのっ!?」

 

 そう言いかけた幽香の頭を、こいしは思いっきり踏み潰す。

 動けない相手の頭を踏みつけながらも、こいしの表情はほんの少しも変化していなかった。

 だが、表情は変わらなくとも、こいしが今の言葉に怒りを抱いたことくらいは幽香にもわかった。

 

「くだらないお喋りはいいわ。 いくつか質問をするから、貴方は大人しくそれに答えていればいい」

「はっ、くだらない。 なんで私がそんなこと――っああああああ”あ”っ!?」

「自分の立場がわかってない? 今、貴方に拒否権はないんだよ」

 

 幽香が泣き叫ぶような悲痛な声を上げる。

 今の幽香の両手足と胴体は灼熱の炎を纏った剣で貫かれている。

 さっきまで、幽香は自分の身に起こっているそれに気付くことすらなかった。

 それにもかかわらず、身を引き裂かれて焼かれるような痛みが、突如として幽香を襲ったのだ。

 

「今、私は貴方の意識を痛みから外すことも、必要以上に痛みに向けさせることも思いのままにできるの。 それだけ言えば、私に逆らったらどうなるかくらい、わかるでしょ?」

「っ……」

 

 幽香は、もう言葉が出なかった。

 反撃するどころか体を動かすことすらできないまま、未だかつて味わったことがないほどの痛みに屈しそうになっていた。

 そして、幽香の全身を貫いているフランも、状況を把握できずにただ立ち尽くすだけだった。

 そんな中で、たった一人全てを知っているかのような目をしたこいしが淡々と幽香に問いかける。

 

「じゃあ、まず一つ。 貴方のその力は、誰から手にしたの?」

「……闇の能力を操る胡散臭い奴の…っ!?」

「あ、違う違う。 ちょっと聞き方を間違えたかな」

 

 幽香は、自分がそれに答えたことに驚いていた。

 どれだけ脅されようとも、こいしの質問に答える気などないはずだった。

 今もなお打開策を練っていたからだ。

 幽香が、まだ諦めていなかったからだ。

 だが、それにもかかわらず無意識のうちにその口は開かされていたのだ。

 それはつまり、もうこの戦いが終わっていることを意味していた。

 この先の結果には幽香の意思すらも関係ないということだった。

 自分が既に相手にされてすらいないという屈辱。

 それが、幽香の中にあった何かを壊した。

 そんな幽香に向かって、こいしはこんなことを聞く。

 

「力の持ち主の話をしてるんじゃない。 貴方は今……誰の思惑で動いてるの?」

「……もう、いいわ」

「え?」

 

 だが、その言葉は幽香の無意識にすら届いていなかった。

 幽香の脳裏には、既に他の言葉が入る余地などなかった。

 

 ――全部、持っていきなさい。

 

 ただ、殺意。

 プライドなど、既になかった。

 はらわたが煮えくり返るほどの怒り、などという生易しいものではない。

 

「え……っ!?」

 

 こいしは幽香を踏みつけていた体勢からフランの手を取って飛び下がり、瞬時にフランと自分を幽香の意識から外した。

 それとともに幽香の身体が痙攣を起こしたかのように震え、夜の暗闇に混じって得体の知れない黒が溢れ出す。

 それは、さっきまで幽香を守っていた闇の力のようにも見える。

 だが、このまま幽香の力になっていくとさえ思われたそれは、逆に幽香の魔力に掻き消されるかのように爆ぜていく。

 強大になりすぎた魔力が、大気を震わすほどに闇を押しのけて溢れだしていく。

 

「うわぁ……これは流石に聞いてないよ、お姉ちゃん」

 

 幽香は無言のままゆっくりと立ち上がる。

 溢れ出した魔力が全てを包み込んでいく。

 辺り一帯で、一か所に留まりきれなくなった魔力が核分裂を起こしたように無限に膨張していく。

 その中心に佇む幽香の目は光を失ってなどいない。

 ただ紅く、睨み殺すような眼差しが辺りを照らしていった。

 

「……ねぇ、フランちゃん」

「……」

「アレ、なんとかなる?」

「……」

 

 こいしは呟くように聞く。

 フランは呆然と口を開いたまま声も出せず、ただその様子を見ていることしかできなかった。

 

 さっきまで、幽香は支柱としてありながらも未だ完成してはいなかった。

 幽香の中に僅かに残っていたプライドが、完全に手駒として操られることをギリギリのところで拒んでいた。

 だが、こいしから受けた屈辱が、それを完全に消し去ってしまったのだ。

 そこにあったのは、幽香を支配しているはずの者ですらも手が付けられなくなるのではないかと思うほどの、殺意の混じった狂気。

 フランとこいしが2人同時に立ち向かったところで、近づいた瞬間に虫でも潰すかのように消滅させられてしまうだろう、絶対的な力の差。

 確かな絶望が、そこにはあった。

 

「私には……無理、かな」

「そっか。 じゃ、逃げよっか」

「えっ!?」

 

 そして、幽香が自分の手に負えないことを理解した途端、こいしは本当に一瞬で興味を失った。

 紅魔館どころか幻想郷すらも滅ぼしてしまいそうなほどの力を手にした幽香を放っておいて、こいしは一切の躊躇もなくフランの手を引いてその場を離れようとする。

 だが、フランはそこを動かなかった。

 

「どうしたの? 早く行こうよ、フランちゃん」

「……ごめんね。 たとえ勝てなくても、一人でも私は戦うから。 お姉様の帰る場所だけは、私が守らなきゃいけないから」

 

 フランの闘志は未だに衰えていなかった。

 更に力を増幅させていく幽香の姿を見据えながら、こいしの手を放して一歩を踏み出そうとする。

 だが、こいしは放されかけたフランの手を強く握り返して言う。

 

「それって、大事なこと?」

「え?」

 

 震えるその身体で再び臨戦態勢になったフランだったが、こいしはそれに疑問を投げた。

 

「フランちゃんのお姉ちゃんって、フランちゃんの命を捨ててまであの廃墟を守って、それで喜ぶような人?」

「それは……」

「私は直接話してないけど、お姉ちゃんと話してたあの人は、傍目から見てもわかるくらいフランちゃんのことを誰よりも大切に思ってたよ」

 

 それは、フランもよくわかっていた。

 レミリアが何百年もただフランのためだけに苦しみ続け、そのためだけに生きてきたこと。

 紅魔館と引き換えにフランが死ぬようなことがあれば、これまでのレミリアの人生は無駄になってしまうだろうこと。

 その自覚があるからこそ、今日に至るまでフランは死ぬことをためらい続けてきた。

 

「でも、私は……」

 

 だが、それでもレミリアのために何かできないかということしか、今のフランの中にはなかった。

 そんなフランに、こいしはただ優しく告げる。

 

「私のお姉ちゃんも、ね。 色々と無理難題も言うし、時々厳しかったりもするんだけどさ。 一つだけ、絶対に守れって言われてる約束があるんだ」

「……」

「たとえ数万や数億の命が失われる場面でも、世界が滅びるような状況でも、貴方が死ぬくらいなら任務も義理も全部放り投げて逃げなさいって」

 

 こいしは嬉しそうにそう言う。

 フランも、それを聞いて少しだけ戦意を失っていった。

 レミリアも絶対同じように言うだろうことが、フランにもわかったからだ。

 だが、フランを説得するためにそう口にしたはずのこいしの手は、微かに震えていた。

 

「……なのにね。 そんなこと言うくせに、自分は何もかも全部一人で背負おうとして無茶ばっかりしてさ」

「え?」

「お姉ちゃん、私に行き先も伝えずに行っちゃったんだ。 多分フランちゃんのお姉ちゃんと一緒に、この異変を解決しに」

「そうなんだ…」

 

 こいしは、さとりに対して憤りを感じていた。

 今まで、こいしはいつだってさとりに従ってきた。

 それが間違いだったことなんて、ただの一度もなかったから。

 何より、こいしを大切にしようとする、さとりの優しさを感じることができたから。

 だが、さとりは自分自身に対しては全く優しくなかった。

 汚れ仕事や一番危険なことはいつだって自分一人でやろうとするさとりへの不満が、こいしの中で日に日に溜っていく一方だった。

 そして、今回もこいしを置いて行ってしまったさとりに対して、遂に我慢の限界が来てしまった。

 

「あーあ……まったくさ。 ほんっと、優秀すぎる姉を持つと妹は大変だよね」

「そう、だね」

「お姉ちゃんたちに守りたいものがあるのもわかる。 だけど、私にだってフランちゃんにだって、守りたいものくらいあるんだよ」

「……うん」

 

 憤りを感じているのはフランも同じだった。

 何百年もたった一人で苦しみ続けて、今もなお運命と闘っているレミリアに言ってあげたかった。

 自分も、レミリアのためなら何でもすると。

 どんな苦境に立たされたって、それでもかまわないと思っていると。

 

「私だってお姉ちゃんの役に立ちたい。 そのためなら、私もどんなことだってする。 だから……」

 

 こいしはフランの手を、ぎゅっと強く握りなおす。

 そして、何かを決心したかのようにその目線を上げて言う。

 

「やろっか、フランちゃん。 少しでもお姉ちゃんたちの負担を減らせるように、あの妖怪一人倒すくらい私たちで頑張ってみよう!」

「うんっ!!」

 

 フランは元気よく返事してこいしの手を放す。

 2人のその目は、再びしっかりと幽香のことを捉えていた。

 そして、フランはその手にありったけの魔力を凝縮しようとして……その選択を後悔することとなる。

 

「っ!! こいしちゃん!!」

「え?」

 

 フランがこいしの能力から僅かに外れると同時に幽香の貫くような眼光が刺さり、同時に放たれた暗闇を貫く無数の光の束が辺りを照らしていく。

 本来ならば幽香の意識の外にいるこいしに届くはずのないそれは、余波だけでこいしを消し飛ばすこともできそうなほど凶悪な威力を感じさせた。

 

 ――禁忌、『フォーオブアカインド』!!

 

 それを瞬時に察知したフランは、自らの力を4つに分けて分散させた。

 フランの3体の分身が、自分を、こいしを守るように同時に飛びかかる。

 だが、幽香の放った光はそれらを全てあっさりと消し飛ばしてその残照だけでこいしを貫いた。

 

「ぁっ……」

 

 こいしには、何が起こったかすら把握しきれていなかった。

 自分の腹部を焼かれ、その衝撃で地面を転がるように叩き付けられ、気付くと倒れて動けなくなっていた。

 それを見て大急ぎでこいしに駆け寄るフランだったが、

 

「こいしちゃん! しっかり…」

「うし、ろ…」

「えっ――――」

 

 こいしの目に僅かに幽香の姿が映ると同時に、鋭く伸びた幽香の手にフランの胸が貫かれ、そのまま全身がトマトのようにあっけなく弾け飛んだ。

 フランの姿が消滅し、幽香の視線が自分に向いたことに気付いたこいしは、

 

 ――あ……これは。 ダメ、かな。

 

 瞬時に理解した。

 こいしは自分を幽香の意識から外すことができない。

 あまりに多くを幽香に見せ過ぎてしまったことの弊害が出てしまったのである。

 先の戦いで幽香の中にこいしの存在が強く残り過ぎてしまい、簡単にその意識から外すこともできなくなっているのだ。

 しかも、意識が飛びそうになるほどの痛みのせいでまともに能力を使いこなすことすらできない。

 

 ――やっぱり、お姉ちゃんの言うとおりにしなかったからバチが当たったのかな。

 

 フランは、なぜか今までのように一瞬で再生してはこない。

 そして、今のこいしの能力では現状を打破することはできない。

 もう、どうにもならないことがわかっていた。

 こいしは諦めたように目を瞑る。

 

 ――ごめんねお姉ちゃん。 約束、守れなくて……

 

「――――おいっ!」

 

 そこに、突如として一つの声がこいしの耳に入る。

 だが、こいしは一瞬だけそれに注意を向けかけ、目を向けることすらなく興味を失った。

 その少女が、あまりに矮小な力しか持っていないことがわかるからである。

 この状況で起死回生の一手を打てるほどの力を持っていないことを知っているからである。

 その少女に気付いた幽香は、再びその手に凝縮した魔力を放つ。

 こいしはただ、死地にタイミング悪く踏み込んでしまった少女を哀れむだけだった。

 

 だが……

 

「そのまま伏せてろっ!! 恋符、『マスタースパアアアァクッ!!』」

 

「……――――え?」

 

 再び放たれた幽香の魔力は、魔理沙の魔法波に相殺されるように消え去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔理沙が去ってからしばらく、図書館には重々しい空気が流れていた。

 そこにいるのは、さとりに壊されてしまった人形を直しながら他の人形に運ばせた本を読み漁るアリス。

 

「いい加減にしてくださいっ!!」

 

 そして、いつもは決して見せることのない怒りを露わにして怒鳴る小悪魔だった。

 だが、アリスは小悪魔の怒鳴り声を受け流して黙々と人形たちに次の本を開かせている。

 

「確かに、魔理沙さんの言い分にはおかしいことだってあったと思います。 でも、だけど! そんな見捨てるような態度をとる必要なんてないじゃないですか。 今だって、きっとアリスさんのことを待ってるはずなんです」

「……」

「……私はちょっとしたバカ話をしてるアリスさんと魔理沙さんの姿を見るのが好きでした。 でも、今回の扱いはあんまりです!」

 

 小悪魔は見てしまっていた。

 アリスに見放された直後の、魔理沙の泣きそうな顔。

 強がって無理に笑おうとして、それでも溢れ出しそうになる涙が止まらない、そんな表情。

 そして……

 

「それに、魔理沙さんだけじゃない。 美鈴さんだってもう限界なんです、だから……」

「そうね」

「っ!!」

 

 小悪魔は、その気になれば魔力を使って紅魔館の外の状況を見ることもできる。

 だが、パチュリーがギリギリの戦いをしている今、もはやそちらに魔力を投入する余裕はなく、その様子を見ることすらできない。

 最後に見た時に映っていたのは、幽香の掌底で沈んだ美鈴と、首を絞められて真っ青になっている魔理沙の姿。

 そして、今なお図書館に揺れが伝わるほどの戦闘が行われているのはアリスにもわかっているはずだった。

 だが、それでもアリスがその手を止めることはなかった。

 無関心を貫くような態度で人形の修復と読書だけを続けるアリスを見て、小悪魔にも我慢の限界が来る。

 

「この、わからずやっ!!」

「……」

「本当なら、私だって2人のところに助けに行きたいですよ! でも、私にはアリスさんと違ってそんな力はないんです。 こうやって、お願いすることしか…」

「あーもう、うるさいわね」

 

 そこで、やっとアリスが少しだけ小悪魔に反応する。

 だが、それでもアリスが手を止めることはなかった。

 アリスは立ち上がるでもなく、本を読んでいた視線を少しだけ小悪魔の方に向けて言う。

 

「しょうがないからこの際貴方にだけは言うけど……魔理沙やパチュリーには言わないでくれる?」

「……何の話ですか?」

「いいから、秘密守れるかって聞いてるのよ。 あ、フリじゃなくて真面目な話ね」

「内容に、よります」

「……まあいいわ」

 

 少しだけ言い辛そうに勿体つけて言うアリスだったが、小悪魔はイライラしていた。

 この状況で何を秘密にすることがあるのかと思っていたが……

 

「私はね、弱いのよ」

「え?」

 

 その言葉の意味が、小悪魔にはよくわからなかった。

 

「もちろん、その辺の木っ端妖怪相手なら多対一でも負けるだなんて思わないけど、それだけよ。 スペルカードルールなしでも魔理沙に敵わないだろうし、本気のパチュリーとなんて勝負にすらならないわ。 この子が、私の主力の人形が使えない状況じゃ、多分貴方と大して変わらない程度の戦力でしかない。 だから、あそこに行っても私には何もできない」

「何を、言って…」

「ま、自分で言うのもアレだけどとりあえず知識量だけはあったからね。 普段は魔理沙に知恵を貸すような形でサポートして、勝負をして負けた時もただスペルカードルールが苦手って言ってごまかしてきただけよ」

「そんな、言い訳みたいなっ…!!」

 

 小悪魔には、それはただの言い訳にしか聞こえなかった。

 今まで小悪魔は、アリスがパチュリーと同等以上の魔法使いなのだと信じていた。

 見習うべき大魔法使いとして、ずっと尊敬し続けてきた。

 それは小悪魔だけではない、パチュリーさえも同様に思ってきたはずなのである。

 だが、アリスはそれは違うという。

 小悪魔は、そんなことをアリスの口から聞きたくはなかった。

 それが、ただの言い訳なのだと思いたかった。

 それでもアリスは一人続ける。

 

「ぶっちゃけ、地底の時なんて冷や汗もんだったわよ。 あの時古明地さとりが降参してくれなかったら、決闘みたいになった時に魔理沙が止めてくれなかったら、小細工が通用せずに心を読まれてたら、私はそこでお終いだったもの」

「……もう、いいです」

「でも、実戦になればすぐにボロが出るわ。 たった10体程度の地底の低級妖怪を相手にフル装備で全力を出してあのザマよ。 普段はこんな態度とってるくせに笑っちゃうでしょ」

「だから、もういいですっ!!」

 

 小悪魔はアリスの言葉を遮るように叫ぶ。

 裏切られた、騙された、そんな気持ちは確かにあった。

 だが、そう叫んだのはどこかいたたまれなくなったからだった。

 淡々とそう告げるアリスが、聞いている小悪魔よりも辛そうに見えたからだった。

 

「……そ。 貴方のそういうとこ、私は嫌いじゃないわよ」

「私は、嫌いですっ。 アリスさんが、そうやっていつも自分だけ悟ったような顔をしてるのがっ!」

 

 小悪魔は俯いたまま震えるようにそう言った。

 そして両手を強く握りしめたまま立ち尽くす小悪魔に、アリスは今までと同じような冷静な口調で告げる。

 

「なら、嫌いついでにもう一つだけ頼まれてくれないかしら」

「……なんですか」

「これから魔理沙に取る対応を、いつもみたいに私に合わせて。 それで、貴方への頼みごとは最後にするから」

 

 そこに、強く扉を開く音が鳴り響いた。

 いつもみたいに扉を突き破っては現れない。

 アリスのことを呼ぶ声も、ない。

 それでも小悪魔の目に入ったのは、重傷の美鈴を背負う魔理沙の姿だった。

 

「め、美鈴さんっ!?」

「悪い小悪魔、美鈴のこと頼んでいいか」

「は、はい。 魔理沙さんは…」

「ちょっと、な」

 

 それだけ言って、魔理沙は踵を返す。

 小悪魔は魔理沙の目に宿った寂しそうな色を見逃さなかった。

 だが、今の小悪魔には魔理沙に言ってあげられることはなかった。

 恐らくはアリスのことを待っているだろう魔理沙に、望むことはしてあげられない。

 アリスが魔理沙と一緒に行けない理由を、もう知ってしまったからだ。

 それでも、たとえ一緒に行けないとしても、アリスにできることがあると思った小悪魔が口を開こうとするが、

 

「アリスさ…」

 

 アリスを呼ぼうとした声は、そのアリスの冷たい視線に遮られた。

 アリスは魔理沙に目を向けることすらない。

 人形を修繕する手を進めながら、完全な拒絶を見せ続けるだけだった。

 

「……じゃ、行ってくるぜ」

「って魔理沙! あんたも動けるような身体じゃないでしょ、立て直せるまでここにいるんじゃなかったの!?」

「私は別に平気だぜ。 もう一仕事くらいなら、多分な」

 

 美鈴が引き留めるが、魔理沙は振り向くことすらなかった。

 ただ後ろ手を振りながら、一人で図書館を後にした。

 

「……あーもう、だったら私もすぐ行くから、ちゃんともちこたえなさいよ! って聞いてんの魔理沙ー!!」

 

 美鈴がそう叫ぶが、返事はなかった。

 既に、魔理沙の姿はなかった。

 魔理沙は本当にただ美鈴を送り届けに来ただけだった。

 アリスや小悪魔に助けを求めようとなんてしなかった。

 だが、本当は助けてと言いたかっただろうことが、小悪魔にはわかっていた。

 扉を開ければアリスがまたいつものように話しかけてくれるのではないかと思っていたのに、それでも拒絶されたから逃げるように一人で出て行ったのだろうことがわかっていた。

 

「……正直、そこまで薄情だとは思いませんでした」

「……」

「たとえ戦えなくても、声をかけてあげることくらいできるんじゃないですか? 少し元気づけてあげることくらいはできるんじゃないですか!?」

「え? 何? どうしたの?」

 

 小悪魔とアリスの険悪なムードに美鈴は混乱している。

 いつもアリスを慕うように付きまとっていた小悪魔が、アリスに蔑むような目を向けている状況が、わからなかった。

 

「いいのよ、これで」

「なんでですか!?」

 

 小悪魔がアリスに食って掛かる。

 そんな小悪魔に、アリスはあくまで冷静に返す。

 

「魔理沙はね、周りに依存し過ぎなのよ。 霊夢にも食らいついていけるポテンシャルを持ちながら、自分一人じゃ動けない」

「え?」

 

 いきなりそんな話を始めたアリスに、小悪魔は怪訝な目を向ける。

 だが、それをアリスは気にせずに続ける。

 

「まぁ確かに霊夢には紫や藍がついてるけど、霊夢は多少のサポートを受けることはあっても自分の力で異変を解決しようとするわ。 守矢の巫女にしたって、よほどのことがない限りそこの神に頼ったりなんてしない。 自立したい、認めてもらいたい、あるいは霊夢を超えたい、そんな気持ちがあるのかもしれない。 でも、魔理沙は違うわ」

「……何が、違うっていうんですか」

「そうね……自分の力で何かを成し遂げたい。 でも、困ったときはいつでも私やパチュリーが、誰かが助けてくれる。 それでもダメなら、きっと霊夢が何とかしてくれる。 それが魔理沙の心情よ」

「だから何ですか。 それが、いけないことだっていうんですか? いざって時に誰かを頼ったり、誰かと一緒にいたいと思うことが、そんなにいけないんですか!?」

「……あー、ちょっといい?」

 

 そこで、美鈴が2人に口をはさんだ。

 少しバツの悪そうに頬を掻きながら一瞬だけ目を逸らした美鈴だったが、それでももう一度真っ直ぐに小悪魔のことを見て言う。

 

「なんですか」

「いや、何の話なのか私には詳しいことはわからないけどさ。 でも、多分それは私たちが口を挟んでいいような問題じゃないと思うよ」

「……意味がわかりません。 私にはとても納得できません」

「そうだね。 私は紅魔館の門番で、こぁはパチュリー様の手伝い。 そういう道を選んだから、そう思うだけ。 だけど、魔理沙はそれじゃいけないんですよね」

「そうよ」

 

 アリスは人形を直す手を休めることなく相槌を打つ。

 あとの話は美鈴に任せたと言わんばかりに、目を向けなかった。

 

「霊夢と同じ道を歩くことを決めたのは、いばらの道を歩くことを決めたのは魔理沙だから。 それなら、魔理沙には乗り越えなきゃいけないことがあるんだよ」

「でも……」

「ま、私も納得いかない気持ちはこぁと同じだけどさ。 だけど、あの場でアリスさんが声をかけてたら少なくとも魔理沙はあのまま一人でここを出たりなんてしなかった。 きっと、アリスさんが助けてくれるんだって妥協してた。 違う?」

 

 確かに、いつもそうだった。

 魔理沙は今まで、ずっと逃げてきた。

 異変を解決する寸前まで何度も行きながらも、結局一人で黒幕に立ち向かうことはできなかった。

 霊夢が異変を解決するのを、陰から見ていることしかできなかった。

 まるで、誰かが助けに来てくれるのを待っているかのように。

 

「だけど、今回みたいに私がいたところでどうにもならない状況もあるし、霊夢がいない時に幻想郷の危機が来ることだってあるわ」

「それは……」

 

 アリスにそう言われて、小悪魔は少しだけ言葉に窮したように目線を下げる。

 そんな小悪魔に向かってアリスは、

 

「……そんな時には、ね。 私は魔理沙がきっと、この幻想郷を救ってくれるんじゃないかって思ってるわ」

「え?」

 

 さっきまでとは違って少しだけ優しい色を帯びた目をしてそう言う。

 それは本当に心から誰かを信じた、そんな表情だった。

 

「魔理沙にはまだまだ無限の可能性がある。 それこそ、いつか霊夢だって超えられるって私は信じてるわ」

「アリスさん……」

「魔理沙はもっと自分の力を信じていい。 私なんかに頼ってダメになっちゃいけない。 だからね……これで、いいのよ」

 

 そう言って黙々と人形を直しているアリスの手は、微かに震えていた。

 それを見た小悪魔は、もう何も言い返せなかった。

 本当は少しでも魔理沙の助けになりたいのに、身を切る思いで悪役を演じ続けているだろうアリスの気持ちを、痛いほどに感じ取ったからだ。

 たとえ理解されなくとも自分のすべきことを冷静に判断して行動に移しているアリスを前に、ただ喚いているだけの自分を恥ずかしく思ったからだ。

 

 ――ああ、やっぱり敵わないなぁ。

 

 小悪魔はただ立ち尽くしながらそう思った。

 さっきまでアリスに向けていた蔑みの気持ちは、もはや小悪魔の中には全くなくなっていた。

 たとえ戦闘ができなくても、強く生きることはできる。

 強力な魔力がなくても、誰よりも頼れる存在になることはできる。

 わき目も振らずにただ一人情報を集めながら人形の修復を進めるアリスのその姿は、小悪魔の目指す理想の魔法使いの姿そのものだった。

 

「……美鈴さん! 私にケガの様子、見せてください」

「え? あ、うん、お願い」

 

 そして、小悪魔は何かを決心したかのように美鈴に駆け寄る。

 自分の得意とする治癒魔法で、少しでも美鈴の力になろうと思ったのだ。

 今自分に何ができるか。

 今自分が何をすべきか。

 それを、自分なりに考えた結果だった。

 

 ――私も、頑張らなくちゃ!

 

 すぐにはできなくても、いつかアリスのような立派な魔法使いになりたい。

 小悪魔の中には、そんな新しい炎が灯っていた。

 そして、そんな小悪魔を横目で温かく見守りつつ、アリスはただ黙々と作業を進めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔理沙はしばらくの間、瓦礫に寄りかかりながら目を閉じていた。

 地下にいてなお感じる、自分とは次元の違う世界にある力の波動に押しつぶされそうになっていた。

 さっきまでとは違う。

 そこにあるのは、自分の全てを懸けても相手にすらされずに消し飛ばされてしまうだろう、強大すぎる魔の力。

 強く発現しては消え去ってを繰り返す、目の前にすれば自分がどうなってしまうか予測もつかない、得体の知れない無の力。

 そして、それらを超えてあまりにも大きく膨れ上がってしまった、対峙しただけで腰が抜けて動けなくなってしまうだろう、悍ましいほどの妖の力。

 魔理沙には、わかっていた。

 自分に、一人でそこに飛び込んでいけるような勇気なんてないことくらいわかっていた。

 自分が、どうしようもない弱虫だということくらいわかっていた。

 

「……逃げんなよ」

 

 だが、それでも魔理沙は一人で立ち向かおうとしていた。

 聞こえてしまったから。

 既に限界のはずの身すらも顧みずに共闘を誓ってくれた美鈴の声が。

 声を荒らげて、本気で魔理沙のことを心配してくれた小悪魔の声が。

 そして、本当は誰よりも深く魔理沙のことを信じてくれているアリスの声が。

 図書館を出るとともに怖くなって扉に寄りかかっていた魔理沙の耳に、届いてしまったから。

 

「誓っただろ? 諦めないって」

 

 魔理沙は自分を必死に奮い立たせる。

 だが、それでもその身の震えは簡単には止まらない。

 今までずっと、甘え続けてきたから。

 アリスに、パチュリーに、いつも魔理沙を引っ張るように前を進んでいた、かつての自分を救ってくれた霊夢に。

 

「紫のことも、藍のことも、霊夢のことも、にとりのこともっ……」

 

 だけど、ここに霊夢はいない。

 アリスもパチュリーも、自分のことを助けてくれる人は誰もいない。

 今の自分は、助けてもらう側ではない。

 自分にしか助けられない人たちがいるから。

 だから、もう弱い自分ではいられない。

 

 救うんだと誓った。

 ずっと自分を引っ張ってくれたライバルを、あの時怯えた表情をしていた霊夢のことを。

 今もたった一人で苦しんでいる友人を、あの時助けてあげられなかったにとりのことを。

 大切な人たちがたくさんいるこの世界を、大好きな皆のことを。

 

「今度は……私が助けるって誓ったんだろうが!!」

 

 そう叫んで魔理沙は飛び立つ。

 その身体の震えは未だに止まってなどいなかった。

 今魔理沙が選んだのは勝算など全くない、ただ命を捨てるだけになるかもしれない選択だからだ。

 だが、たとえ怖くても、無謀だとしても、この先にあるのがただの死地だとしても、魔理沙はもう振り返らない。

 ただ、固い覚悟を宿したその目の炎だけは、誰よりも強く灯っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 辺りには濛々と煙だけが立ち込めていた。

 既に自分が死んだと思っていたこいしは、その出来事を理解するのに少し時間を要した。

 あまりに矮小な魔力しか感じられなかったはずの魔理沙。

 それが、フランすらも一瞬で消し飛ばすほどの幽香の力を、確かにたった一人で相殺したのだ。

 幽香の意識は、今や完全に魔理沙に向いている。

 今なら、こいしは幽香の認識を自分から十分に外すことができるはずだった。

 

 ――これは……まだ可能性はあるかな。

 

 だが、その気になれば逃げることも可能な状況で、こいしはまた少しだけ希望を戻した。

 今の満身創痍のこいしには起き上がることすらできない。

 それでも、こいしのその目は魔理沙を見ながら微かに笑って……

 

「おい、お前は…」

「じゃあ、後は全部託すよ。 小さな魔法使いさん――」

「え?」

 

 何か言いかけた魔理沙を遮ったこいしの姿は、いつのまにか消え去っていた。

 そんな出来事を前に、一瞬だけ固まったように見えた魔理沙だったが、

 

「……ははっ、何だ。 神はまだ私を見捨てちゃいないみたいだな」

 

 その直後、なぜか笑っていた。

 たった今誰に話しかけようとしていたかすらも忘れてしまったかのように、魔理沙は幽香だけを見ていた。

 まるで、そもそもこいしがそこに存在していなかったかのように。

 

「随分と。 情けない姿になっちまったもんだなぁ、幽香」

「……」

「ああ、もう口を開くことすらできないのか?」

 

 今ここにいるのは余裕の表情で挑発する魔理沙と、既に焦点すら合っていない目で佇む片腕の幽香の2人だけ。

 幽香はもう口を開かない。

 何も言わないまま、再びその魔力を放出して……

 

「おっと! ……焦んなよ、幽香」

 

 察知した魔理沙が、再びそれを相殺する。

 魔理沙はそれが当然のことであるかのような顔をしていた。

 だが、魔理沙がたった今放った魔法の源は、実は自分自身の魔力ではない。

 増幅しすぎて辺りに溢れだしていた幽香の魔力を、自らの構えたミニ八卦炉に集めて放っていたのだ。

 

 魔法使いとしての熟練度も格も、幽香の方が魔理沙よりも遙かに上だった。

 その中でも、魔理沙と幽香の間に決して埋まることのない差として隔たっていたのは、一杯のコップと湖の水量の差ほどもある圧倒的な魔力量の差だった。

 だが、辺りを漂う濃すぎる魔力が、その差を埋めることを可能としたのだ。

 普段から多くの魔力を自分以外の媒体から利用している魔理沙にとって、それを使って魔法を放つのはそう難しいことではない。

 それは、生まれ持った才能というものが劣る人間だからこそ成せる技なのである。

 辺りを無限の魔力が覆っているこの状況は、魔理沙にとって千載一遇のチャンスだった。

 

 だが、それでも魔理沙は既にいっぱいいっぱいだった。

 ただ自分を奮い立たせるために、必死に強がっているだけに過ぎなかった。

 この状況下なら幽香の攻撃を防ぐことも確かに可能だが、ほんの少し反応が遅れるだけで貧弱な自分の身体など一瞬で木端微塵になる状況を前に、本当は今すぐにでも逃げ出したいほどの恐怖を抱えていた。

 

「あの時はさ。 私は逃げ回ってただけだったよな。 ルールに助けられただけで、正直全然勝った気がしなかったぜ」

「っ……」

「だけど、今の私はあの時とは違う」

 

 何かに反応するように、幽香から溢れる力がさらに膨れ上がっていく。

 まるでこの世の全ての殺意が魔理沙に向けられているとすら思えるような眼差しが、魔理沙の全身をさらに震えあがらせる。

 だが、それでも魔理沙にはほんの少しの迷いもなかった。

 魔理沙は懐から何の変哲もない一枚のカードを取り出して、宣言する。

 

「スペルカード宣言、魔符『スターダストレヴァリエ』」

 

 魔理沙の周囲を青白く光る星々が埋め尽くしていく。

 その光は生死を懸けた戦いにはふさわしくないほど、ただ美しかった。

 それとは対照的に、幽香を取り巻く魔力はただ相手を殺すためだけの禍々しさで染まっていく。

 今の幽香がスペルカードルールに則る訳がないことくらい、魔理沙にはわかっているはずだった。

 

「もう逃げたりなんてしない。 今度こそ胸を張ってお前に勝ったって……私が異変を解決したって言うんだ! だから――」

 

 だが、たとえ幽香がそれに乗ってこないことがわかっていても、それでも魔理沙はたった一人カードを構える。

 これは、殺し合いなどではないのだから。

 だから魔理沙は、その身に弾幕を纏って不敵に笑う。

 

 もう、覚悟は済んでいた。

 戦う覚悟、ではない。

 一人で立ち向かう覚悟、でもない。

 それは、ただ自らの勝利のためだけではない。

 

「来いよ。 私が、お前の気が済むまで相手してやるさ!!」

 

 魔理沙の目にあるのは、霊夢と同じ覚悟。

 この世界に生きる一人の魔法使いとして、幻想郷の未来を自らが背負う覚悟を確かに宿していた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第17話 : 強者と弱者

 

 荒れ果てた大地に、彼女は一人立ち尽くしていた。

 その手の平に力なく乗っている花の残骸が、彼女の目からこぼれた雫で微かに濡れる。

 最後に少しだけ活力を取り戻したかのように見えた花は、それでももう元に戻ることはない。

 

「……ごめんね、守ってあげられなくて」

 

 その花が死んでしまったのは彼女のせいではない。

 それでも彼女は決して自分を許さなかった。

 彼女はただ、優しすぎただけだった。

 

 ――もう二度と、こんなことは起こさせないから。

 

 そして、彼女は誓った。

 誰よりも強くなると。

 もう二度と敗けないと。

 

 だけど、それでもただ残酷な現実だけが彼女を蝕んでいって――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第17話 : 強者と弱者

 

 

 

 

 辺りは奇妙なほどに静まり返っていた。

 毒々しい色をした力の渦と、美しく輝く星々だけが世界を覆っている。

 その中心に立っていたのは、空間すら歪めるほどの魔力を溢れんばかりに纏った大妖怪と、吹けば飛ぶほど華奢な体つきの人間。

 あまりの力量差に、ただの捕食の場であるのではないかとさえ思われる状況。

 だが、それでも魔理沙の表情は確かに生きていた。

 

 スペルカード宣言をしたはずの魔理沙はまだ動かない。

 軽率な行動が一瞬で命取りになることをわかっていたからだ。

 沈黙の中、魔理沙は微かな風の音さえも騒音に感じるほどに全神経を集中させていた。

 

 そして、魔理沙は幽香の立っていた大地が僅かに軋んだ瞬間を見逃さなかった。

 地盤沈下を起こすのではないかというほどの揺れとともに大地を蹴った幽香は、瞬きをする間すらなく魔理沙の目の前に現れていた。

 幽香はただ、そのまま手を真っ直ぐ前に突き出した、だけだった。

 

「―――――ぉっ―――」

 

 魔力を纏った腕は、その衝撃波だけで景色を一瞬で塗り替える。

 木や岩が削れる、などといった次元の話ではない。

 幽香の正面にあった景色は、地平線が見えるのではないかと思うほどまっすぐに姿を消した。

 もし魔理沙がその場に留まっていれば、その全身は一瞬で血煙となって蒸発し、灰の欠片すらも残らなかっただろう。

 

「――来いよ、こっちだ!」

 

 だが、あまりのことに心臓が飛び出そうになりながらも、魔理沙はそれを避けて幽香の後ろに回り込んでいた。

 魔理沙は初撃後の無防備な幽香の背中から一度距離をとる。

 ただ隙をついて突っ込んだところで今の幽香に通じるわけがなく、むしろカウンターの餌食になって終わってしまうだろうことがわかっていたからだ。

 魔理沙は無数の星の弾幕をあえて幽香に向けず、辺り一帯を埋め尽くすように散りばめながら縦横無尽に飛び回る。

 流星群のごとく流れていく天の川は、霊夢の弾幕にも劣らぬほどに空間を美しく彩っていく。

 だが、その一つ一つは幽香にとって全く脅威にならない程度の魔力しか持たない。

 それ故、その星々に目を向けることすらなく魔理沙だけを目で追っていた幽香だったが、

 

「弾けろっ!」

 

 魔理沙がそう言うとともに、幽香の周囲を取り囲むように浮かんでいた星々が突如として弾けるように分裂してドーム状に幽香を囲い、その視界全てを覆い尽くした。

 当然ながら威力が極限まで分散された弾幕が幽香に届くことはないが、視界を覆われた幽香は一瞬魔理沙の姿を見失ってしまう。

 だが、幽香は惑わされない。

 幽香を囲うように存在する星々の隙間から、突如として現れた一つの影に本能的に目を向けた。

 そこにあったのは魔理沙の姿ではなかった。

 

「スペルカード宣言、恋心『ダブルスパークッ』!!」

 

 そんな声が、幽香の後ろから響き渡る。

 幽香を挟み撃ちにするかのように、前からは魔理沙が飛びながら空中に向けて投げていたミニ八卦炉が、後ろからは魔理沙が構えたもう一つのミニ八卦炉が火を噴いた。

 突然の急襲にも幽香は動転することもなく、ただ淡々とそのまま目の前のエネルギーごとミニ八卦炉を弾き飛ばす。

 あまりにあっけなく粉々になったそれから即座に注意を逸らし、幽香は後ろから迫り来る魔法波にも対応しようとする。

 だが、魔理沙が構えるミニ八卦炉は直接幽香に向けられてはいなかった。

 虚空に向かって放たれた光は、幽香の周囲をドーム状に囲う星々に当たって反射される。

 そして、その反射光がまた別の星に当たり、その度に幾多にも分裂しながら威力を増していった。

 

「いっけえええええええっ!!」

 

 幽香の視点は定まらない。

 あまりに複雑に絡み合っていく弾道の迷路を前に、自身の周囲360度、どこから攻撃が来るか全くわからないのだ。

 

 派手な魔法や幻想郷トップレベルの移動速度に目を奪われがちだが、実は魔理沙の真価はそこにあるのではない。

 この世に生を享けてたった十数年、魔法を知ってたった数年の歳月だけで、百年以上を生きてきた魔法使いと渡り合えるほどの魔法を使いこなせる学習能力、つまりは思考速度にあった。

 霊夢のように直感で物事を掴んでいくのではない。

 魔理沙は焦らずに落ち着いて行動さえできれば、戦況を的確に把握して緻密に計算しつつ、常に論理的に脳内を展開して最善を導いていくことができるのだ。

 今回も魔理沙が投げたミニ八卦炉の魔法波は、攻撃のために放たれたのではない。

 魔理沙が放った弾幕は、直接の攻撃のために放たれていたのではない。

 一瞬だけ幽香の注意を奪うために偽のミニ八卦炉を囮に使い、その隙に撃った魔法波を反射・増幅するための媒体として僅かなズレまで計算してあらかじめ星々を配置していたのだ。

 

 その魔法波は無数に分裂し、寸分の狂いもなく幽香に向かって集束するように四方八方から襲い掛かっていく。

 もはや避ける隙間など存在しない不可避の光は、その戦いに終止符を打つかに思われた。

 

「……なっ!?」

 

 だが、魔理沙にはミスがあった。

 今の幽香は確かに驚異的な身体能力と魔力を持つが、今なら自分の方が上手く魔法を使いこなせるのではないかと驕ってしまったことだ。

 幽香がこの無数の光の弾道に対応しきれないことを見越して、一撃で決めようと必要以上に反射を繰り返させてしまい、幽香に時間を与えてしまったことだ。

 それでも、たとえ意識が定まらなくとも、そこにいるのは実際の実力では魔理沙の遥か上に位置する、数百年の経験を蓄えた大妖怪なのである。

 その魔法が幽香の魔力によって構成されていたが故に、それを自分の魔法であるかのように幽香は簡単に書き換える。

 幽香に向かって飛んでいくはずの光はその場に留まりながら色彩を失って脈動し、突如として化学反応を起こすように破裂した。

 そして、辺りに飛び散ったどす黒い光の弾が2人の周囲を覆っていた星々を弾き飛ばし、一気に幽香に攻勢が傾いた。

 

 ――バカか、私はっ!!

 

 それは、魔理沙の中にほんの僅かに生まれていた驕りが生んだ結果だった。

 少しとはいえ格上の相手を侮った自分を叱咤し、痙攣を起こすほどに酷使した腕で再び強く箒を掴んで全速力で飛んだ。

 幽香を中心に無差別に放たれた弾は、少しでも触れたものを消滅させながら突き刺すようにひたすら真っ直ぐに飛んでいく。

 それは単純すぎる弾道が故に、魔理沙に当たることはない。

 だが、魔理沙が見ていたのは自分に向かってきている弾だけではなかった。

 その隙間を縫って飛びながら手にミニ八卦炉を構えて、

 

「間に合えっ!!」

 

 とっさに魔理沙が放ったのは、マスタースパークだった。

 心の中で宣言する余裕すらないほどに大急ぎで放ったそれが掻き消したのは、図書館へと飛んでいく弾だった。

 しかし、当然のことながら今の魔理沙に自分のこと以外に特大魔法を使う余裕などあるはずがなかった。

 図書館を守るように攻撃を放った魔理沙が振り返ると……

 

「ぁ……」

 

 懐かしい記憶が、走馬灯のように駆け巡っていった。

 幽香の手の平が自分の顔の寸前まで迫った光景を前に、魔理沙は目を閉じることすらできなかった。

 

「…………」

 

 だが、幽香は動かなかった。

 ほんの少し魔力を放出すれば全てが終わるその場面で、幽香はなぜか苦悶の表情を浮かべていた。

 それでも、やがて幽香は何かに気付いたように魔法波を放つ。

 それは、魔理沙から逸れて頭上を通過していった。

 

「……っ!? 待って…」

 

 一命を取り留めたはずの魔理沙は、引き攣ったような顔をして振り返る。

 今魔理沙の後ろにあるのは、紅魔館の図書館。

 美鈴が、小悪魔が、アリスがいるはずの、その場所だった。

 もしそれが図書館に直撃すれば、中にいるアリスたちは何が起こったかすらもわからないまま消し炭と化すだろう。

 

 だが、幽香がその目に捉えているのは紅魔館ではなかった。

 

「……ぁはは」

「え?」

「あはははあ”っ!?」

 

 そこにあったのは、その小さな体とはとても不釣り合いなほど大きな炎の剣を構えたフランの姿だった。

 フランのその目は再び狂気の色に支配されている。

 フランは幽香の放った魔法波に向けてその剣を振り抜いたが、そのまま自分ごと跡形も残らぬほどにあっけなく消え去った。

 それでも、確かにフランは幽香の魔法波の弾道を逸らして紅魔館を守り切っていた。

 そして、その姿が消えたように見えた次の瞬間、フランは何事もなかったようにもう一度現れる。

 そこを守るかのように浮かびながら、再び奇声のような笑い声を上げると、

 

「あは…」

 

 幽香はそれを遮るかのように、移動したことすらも悟らせないほど疾くフランの元へと飛び、消滅させる。

 フランは目にも止まらぬスピードで消滅と再生を繰り返していく。

 再生は一瞬、そこから再び幽香に全身を消し飛ばされるまでもほぼ一瞬。

 ほんの数秒で、既にフランは数えきれないほど死んでは生き返っていた。

 

「――――――っ」

 

 だが、よく見ると消滅を繰り返しているフランではなく、幽香の表情が何かに苦しむように歪んでいた。

 

「何だ、一体何が起こってる?」

 

 魔理沙は、自らそう口にしなければならないほどに混乱していた。

 突然フランが現れたことも、確かに戦況に大きな影響を及ぼす。

 だが、魔理沙が気にしているのはそこではなかった。

 

 ――幽香は、一体何に苦しんでいる?

 

 幽香が、なぜあの時自分を攻撃しなかったのか。

 なぜ、攻勢のはずの幽香が苦しんでいるのか。

 異常な力を行使したことによって身体が悲鳴を上げているのならまだわかる。

 だが、幽香を苦しめているのは身体の痛みでも疲れでもないように見える。

 まるで、その心が何かに掻き乱されているかのごとく表情が歪んでいるように魔理沙は感じた。

 

「……いや、だけど今はそんなこと考えてる場合じゃない」

 

 魔理沙の視線は、再び幽香を鋭く捉える。

 

 それはまだ1分にも満たない攻防だったが、実は既に魔理沙の限界は近かった。

 音速を超える速度での移動によって発生する空気抵抗は、妖怪のように強靭な身体を持つ者ならまだしも、人間にはとても耐えられないのだ。

 実際にまだ幽香の攻撃を一度も受けてはいなくとも、自分が一度まっすぐに移動するだけで重傷を負うと考えていい現状。

 それ故、長期戦になればまず勝機のない魔理沙は、幽香の注意が少しでも自分から移った千載一遇のチャンスを無駄にはしない。

 次の一手に全てをかけるつもりで精神を統一する。

 

 

「――――――■#△●※ッ!!!」

 

 

 そして次の瞬間、再びフランが消し飛ぶ嫌な音とともに、辺りには幽香の声にならない声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

『無意識の表層は……ちょっと揺れてるかな。 再構築』

 

 何かが、そう呟いた。

 

 魔理沙と幽香が戦っている空の下。

 そこに、ただあてもなく彷徨う一つの影があった。

 呆けたような表情でその戦いを見上げながら、時折飛んでくる流れ弾を時には回避し、時には直撃する。

 全身が自らの血で赤く染まり、骨が見えるほどに皮膚が焼け落ちた痛々しい姿で、まるで自分の状態にすら気づいていないかのようにその表情に感情は無かった。

 その姿はさながら戦場の跡地に漂う亡霊のごとく、ただ不気味に漂っていた。

 だが、存在するだけであまりに目立つはずのそれは、それでも誰からも認識されることはない。

 

 それは、こいしの最終兵器だった。

 こいしは元々、「意識」の全てを支配する第三の目を閉じることで、誰にも認識されることのない「無意識」の領域を得た妖怪である。

 そして今や全ての意識の外、いわば「集合無意識」とでも言うべきものを支配する力を得ていた。

 ……いや、この場合むしろ失ったと言ってよいのかもしれない。

 『古明地こいし』という「個」が存在するうちは、完全なる無意識になることはできない。

 全ての無意識の集合と同化するには、自分の存在も過去さえ持たない、いわば個として認識され得ない存在である必要がある。

 つまり、完全な無意識になるということは、自分がたった一人で世界から取り残される、永遠の孤独に身を投じることを意味するのだ。

 

 だが、それでもこいしは戦略のためにそれを決行した。

 全ての認識から外れてなお戦場に介入するために、自分の存在を捧げた。

 フランの無意識を完全にその手で操るために、自分の身体を捨てた。

 幽香の記憶の奥底にある無意識と同化するために、自分の過去さえも消した。

 もう二度と、誰一人としてこいしに気付くことも思い出すこともなくなったのだ。

 

 そして、こいしの全てを犠牲にして手にしたその力からは、流石の幽香も逃れることはできなかった。

 その脳裏を支配するのは、拭いきれない負の記憶、永遠の苦悩を生み出し続ける心的外傷、その果てに失った自我の末路。

 幽香の表情が徐々に苦悶に満ちていく。

 

『――さあ見せて。 貴方の無意識は、一体どこに向いているのか――』

 

 そして、こいしは幽香の奥底に眠る無意識の扉を無理矢理こじ開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その世界は、赤黒く染まっていた。

 鮮やかに彩られていたはずの景色は、辺りに飛び散った赤と、焦げ落ちてその血の色さえも失った黒に埋め尽くされていた。

 

「頼む、許してくれ……」

「助けて…」

 

「…………」

 

 幽香は、うめき声を上げながら地面に這いつくばっている妖怪の大群を静かに見下ろしていた。

 とても人とは似つかない姿をした異形の妖怪から幽香の頭身の軽く3倍はあるであろう巨大な妖怪まで、そこにいる者たちは例外なく恐怖に震え、戦意を失っていた。

 別に、幽香はその妖怪たちを進んで痛めつけようとしたわけではない。

 ただ目の前の花を守ろうとしただけだった。

 命ある花々を物のように千切っては踏み荒らす者たちを、少しこらしめただけだった。

 

「もう、こんなことしない?」

「っ!! は、はい、二度と、二度としませんからっ……!!」

 

 妖怪たちは、涙を流しながら掠れた声でそう誓った。

 それだけで、幽香の前で花をぞんざいに扱う者はいなくなった。

 花を粗末にした者の末路を、誰もが理解したからだ。

 どんなに屈強な妖怪が群を成そうとも、全てをたった一人で一蹴できるほどに幽香が強かったからだ。

 次第に花の妖怪という名称すらも忘れ去られ、いつしか幽香は最強の妖怪と呼ばれるようになっていた。

 それは別に幽香の本意ではなかったが、その名が抑止力となるのならそれでいいと思っていた。

 

 だが、その時の幽香は気付かなかった。

 それが、新たな災厄の種となってしまったことを。

 

 

「お前が、風見幽香か?」

 

 満開の向日葵で埋め尽くされた太陽の畑をいつものように散歩していた幽香に、突然後ろから声がかけられた。

 

「あら、貴方は?」

「いやぁ、ちょっと暇だったんでね。 私もお前のようにここを散歩しに来たのさ」

「そ。 軽く触れたりするのはいいけど、乱暴に扱わないでね」

 

 幽香はその少女に微笑みながら軽く忠告する。

 何も心配などしていなかった。

 自分のことを知っている者なら、この場で問題を起こすはずがない。

 この数百年の経験則から、それがわかっていた。

 それに例外があるなどと、思ってはいなかった。

 

「乱暴? それは、例えば――」

「え?」

 

 だが、目の前の少女は子供のような笑みを浮かべながらその腕を振り上げる。

 幽香に向かってではない、その横に広がる花畑に向かってまっすぐにその腕を突き出した。

 その直後、嵐のように吹き荒れた拳圧が花々を風塵に変えた。

 

「こんな風に…ごっ!?」

 

 それとともに、少女の視界から消え去った幽香がその腹を殴り飛ばしていた。

 普通の妖怪ならそのまま貫かれて絶命するか、少なくとも数年は立ち上がることすらできない致命傷となりかねないが、そこにいたのは普通の妖怪ではなかった。

 少女は苦しそうな顔をしながら吹き飛んだが、傷らしき傷はほとんどなかった。

 むしろ、なぜか殴ったはずの幽香の手の方が深刻なほどに赤くはれ上がっていた。

 

「……へぇ、いいモン持ってるじゃないか」

「っ……何なのよ、貴方は」

 

 軽く数十メートルは飛ばされただろう少女は、ほんの少しだけよろけるように立ち上がった後、何事もなかったかのように幽香に向かって歩き出した。

 その時初めてその姿をはっきりと目に捉えた幽香は、即座に臨戦態勢に入った。

 その少女の頭に、印象的な二本の角が生えていることに気付いたからだ。

 目の前のそいつが、今や伝説上の存在となっている鬼だということがわかったからだ。

 だが、その時の幽香はそこまで焦ってはいなかった。

 自分より強い者など存在しないことを知っていたからだ。

 だから幽香は、周囲の花畑をできる限り荒らさないようにしながら、穏便にその鬼を帰らせるにはどうすべきか冷静に思考を巡らすが、

 

「もっとだ。 もっと本気でぶつかってこいよ、なあ!!」

「っ――――」

 

 そんな冷静な思考は、幽香の中からすぐに消えていった。

 目の前の鬼が、再び周囲の花畑を薙ぎ払ったからだ。

 ただ幽香を挑発するように嫌らしい笑みを浮かべながら花々を傷つけていく鬼を前に、幽香の纏う妖気が禍々しく膨れ上がっていく。

 それを見た鬼は満足気に笑った。

 

「……そうだ、それでいい。 私と喧嘩しようぜ」

「そう、そんなに死にたいのならここで殺してあげるわ。 お前は――」

「伊吹萃香だ。 その名を頭に刻み込んでおきな、最強の妖怪」

 

 そして、2人の拳が交わった瞬間、その衝撃だけで辺りの花が全て散っていく。

 普段の幽香ならば即座に戦闘を終わらせるか止める状況。

 

「っ――――――!?」

「ははっ、まだまだヌルいなあ!!」

 

 だが、今の幽香にはそんな余裕などなかった。

 互いに全力でぶつけたはずの拳が、自分だけぐしゃぐしゃに折れ曲がって血まみれになっていたからだ。

 ぶつけ合ったはずの萃香の手は、僅かに充血したものの、全くの原形を保っていたからだ。

 

 ――なんなのよ、こいつは……っ!?

 

 それは、幽香にとって初めての経験だった。

 一度拳を交えただけで、萃香の力が自分を上回っているだろうことを幽香は嫌でも瞬時に理解させられた。

 だが、それでも幽香は止まれない。

 この短時間だけで萃香の性格がわかっていた。

 もし自分が逃げれば、萃香から距離を取れば、萃香が自分を挑発するために周囲の花をゴミのように消し飛ばすだろうことがわかっていた。

 これ以上、周囲を取り囲む花たちを傷つける訳にはいかない。

 だから、幽香はその身の限界までただひたすらに力を振り絞り続けた。

 自らの全身の骨がまるで木の枝のように簡単に折られ砕けていく中で、それでも幽香は戦い、戦い続けて……気付くと倒れていた。

 

「ぐっ……」

「ははっ、確かに強いな。 最強の妖怪って呼ばれるのも頷ける。 ……だが、それだけだ」

 

 全身に幾多の大きな傷を負っていた萃香は、それでも見下すような視線を向けながら幽香の頭を踏み潰す。

 幽香は必死にその腕に力を入れて立ち上がろうとするが、全く動くことはできなかった。

 

「所詮これがお前の……妖怪の限界だ」

「このっ……」

「ま、だけど私にここまで傷をつけた褒美くらいはやるよ。 ありがたく受け取りな」

「な……っ!?」

 

 そう言った萃香は、その口から上空に向かって炎を吐いた。

 それはただの火ではない、一度灯れば辺りを燃やし尽くすまで消えることのない鬼火。

 それが一か所に集まり、萃香の『密を操る能力』で圧縮されていく。

 

「やめて!! もういいでしょう、もう私の負けだから…」

「はあ? 何ふざけたことをぬかしてやがる」

「え?」

「覚えときな。 敗者には言葉を発する権利すらねえんだよ。 お前はただそうやって地に這いつくばりながら、これから起こることを黙って見ていればいい」

 

 そう言って笑いながら、萃香の姿は徐々に霧に変わり、薄くなっていく。

 その上空には、巨大な炎の塊が強く圧縮されて沸騰したように暴走している。

 

「お願い、やめて……」

「あー? 聞こえねえなあ。 でもまあ、せっかくだし最後に一つだけ教えてやるよ」

 

 萃香はその炎の球が出来上がっていくのを笑いながら見ていた。

 いや、萃香が見て笑っていたのは炎ではない。

 最強の妖怪として名高い幽香が、自分に懇願するように泣きついてくる姿を満足気に見下ろしていた。

 

 そしてその場から消えるように、それでも声だけははっきりと響かせながら、

 

「弱いってのはな……それだけで罪なんだよ」

「やめてえええええええっ!!」

 

 萃香の姿が消えると同時に、最高密度で留まっていた炎の塊が爆散した。

 辺り一帯に降り注ぐ火の粉の雨が、全てを溶かすように広がっていく。

 2人の戦いで既に死にかけていた花々は、それでも僅かに残っていた命の灯すらも飲み込まれるように灰となっていく。

 

「いやっ、お願い、もうやめてっ!!」

 

 だが、幽香の悲痛な叫びは届かない。

 それを守ろうにも、どれだけ力を入れてもその身体はピクリとも動いてくれなかった。

 ただ目の前で、全てが灰塵に帰すのを見ていることしかできなかった。

 

 そしてその数分後、太陽の畑はこの世から姿を消した。

 

 

 それから、幽香が敗れたという噂は瞬く間に広まっていった。

 幽香が弱っているのをいいことに、今までの仕返しに来る妖怪たちも後を絶たなかった。

 身体を動かすことすらもできなかった幽香は、ただされるがままに毎日ボロボロにされていった。

 屈辱の日々は、確かに幽香の身体を、心を痛めつけていった。

 だが、幽香が気にかけていたのは自分の身体のことではない。

 『風見幽香』という名に抑止力がなくなっていたことを嘆いていた。

 萃香に敗れ、その辺の木っ端妖怪にすらされるがままになっている幽香を恐れる者など、もういなくなっていたのだ。

 力なきその名では、幻想郷の花は守れない。

 動けぬその身体では、目の前で傷つけられる花さえも守れない。

 今やもう、名実ともに幽香は何も守れなくなってしまった。

 そして、その事実から逃げるかのように、幽香は人知れず姿を消した。

 

 

 それから数カ月が過ぎた。

 幽香はフラフラの足取りでただ一人あてもなく彷徨っていた。

 誰にも会わないように、人目を避けて日陰で生きるだけの日々。

 何もできなかった罪悪感から、自分を騙していくだけの日々。

 かつての自分を忘れようとするかのように、虚ろな目をしながら歩くだけの日々。

 

 だが、それでも幽香はある日無意識のうちに何もない荒野に迷い込んでいた。

 

 そこは、かつての自分の領域と言っても過言ではない、綺麗な花が咲き誇っていたはずの場所だった。

 だが、もうその頃の面影など、見る影もなかった。

 そこは妖怪たちの闘争によって、無残に荒れ果ててしまっていたのだ。

 

「なんで、こんな……」

 

 幽香の目からは、気付くと止めどなく涙が溢れてきていた。

 弱い自分では何も守れないと思っていた。

 むしろ、萃香の時のように自分のせいで傷つけられる花をなくすために、自分など消えてしまえばいいと思っていた。

 だが、幽香は気付いていなかった。

 それでも、幽香の存在が幻想郷の花々にとっては最後の砦であったことを。

 幽香がいなくなった世界が、こんなにも残酷であることを。

 たった一時の敗北を忘れようなどと思って自分が逃げたせいで、あまりにも多くの大切なものを失ってしまったことに、幽香は今まで気付かなかったのだ。

 幽香は、足下に落ちていた一本の花の残骸を拾い上げる。

 そっと包み込むように手に取ったはずのそれは、それでも息を吹き返すことなく死んでいった。

 

「……ごめんね、守ってあげられなくて」

 

 幽香は、今までずっと一人で全てを守ろうとしてきた。

 だが、目の前の本当に僅かな命を守ることしかできない。

 それが限界だった。

 萃香の時のように自分の目の前で花を傷つけられる花もいれば、自分の目の届かない場所で傷つけられる花もいる。

 もう、弱い自分では何もできない。

 この世界は結局、弱者に優しくできてなどいないのだ。

 

 ――これが……こんなのが、この世界の摂理だというのなら――

 

 だから、幽香はその身に刻み込んだ。

 今のままの自分では、結局何も守れないということを。

 自分の思いを通すためには、この世界に抗わなければいけないということを。

 

「……だったら、誰よりも強くなればいい」

 

 幽香は、掠れた声でぽつりと呟いた。

 

 ――誰も逆らう気すらも起きないほどの強さを手にすればいい。

 

 ――罪のない花を殺す者には、世界で最も強く恐ろしい妖怪が制裁を加えに来ると森羅万象の心に刻み込めばいい。

 

 ――情け容赦など一切捨てて、私が恐怖の象徴とでもいうべき存在になればいい。

 

 それが、幽香の出した答えだった。

 涙を流しすぎて赤く腫れ上がったその目は、世界そのものに反逆するかのように鋭く見開かれていた。

 

 

 それからの幽香は変わっていった。

 ただ自分を痛めつけるかのように、狂ったように己の力を磨いていった。

 日に日に強大化していくその力は、必要以上に暴力的なまでに振われていく。

 幽香の怒りに触れてしまった者は、今まで以上にただ悲鳴と命乞いをまき散らすだけだった。

 

 そして、花の妖怪への恐怖は再び幻想郷中に浸透していった。

 そこにあるのは、花を大切にしようという感情などではない。

 いつ現れるかもわからない幽香への恐怖から、誰もが花を傷つけることそのものを恐れるようになっていっただけだった。

 それは、紛れもなく幽香の目指したゴールだった。

 

 ――私は、間違っていなかった。

 

 ――誰にも敗けなければいい。

 

 ――全てを、恐怖で支配すればいい。

 

 そして、次第に幽香は壊れていった。

 何かに憑りつかれたように力だけを追い求めるようになった。

 花を傷つけるか否かなど関係なく、全ての者に恐怖だけを植え付けていく。

 人間であろうと妖怪であろうと、幽霊であろうと妖精であろうと、大した理由もなく全てを攻撃していく。

 気付くと、もう誰一人として幽香に刃向う者などいなくなっていた。

 あの時自分を打ち負かした萃香にすら敗けない力を手にしたのではないかと思うようになった。

 

 だが……

 

「貴方は少しおかしくなっているのかもしれない」

 

 それはあまりに突然、天災のように現れた。

 相手に有無を言わさぬ絶対的な力を持った存在。

 幻想郷最強と言われる鬼のさらに上の存在である閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥとの出会いだった。

 そして、それは萃香の時以上に拭いきれない敗北を幽香に叩き付けた。

 

「貴方は少し長く生きすぎた」

「……」

「このまま生き続けてもろくな事にならない」

 

 映姫は、あろうことか手加減しながら幽香をひれ伏させた。

 まるで、子供に説教する親のように。

 そして、幽香は種族としての自分の力の限界を嫌というほどに思い知らされた。

 たとえどれだけ強くなろうとも、自分では決して敵わない相手がいる。

 妖怪である自分が誰よりも強くなれる日など、未来永劫来ることはない。

 そう理解させられた幽香の心は、その日からますます壊れていった。

 

 

 ――私は……

 

 

 ≪許せないんだろ? 弱い自分が、妖怪の限界を超えられない自分が≫

 

 

 ――……ええ。

 

 

 幽香を支配していたのは、怒りの感情。

 萃香への、ではない。

 映姫への、でもない。

 ただ、それを超えられない自分自身への、止めることのできない憤り。

 

 

 ≪鬼を、閻魔を、何もかもを超えられる力が欲しいんだろ?≫

 

 

 ――そうよ。 それだけでいい。

 

 

 もう、幽香にはどうでもよかった。

 たとえ得体の知れない何かから与えられた力でもよかった。

 ただ、誰もが恐怖するような絶対的な強さがほしいだけだった。

 

 そして、幽香はその声に答えて堕ちていった。

 ただの妖怪には決して届き得ない、次元の違う力を手に入れた。

 かつての自分に土をつけた萃香すらも自らの手で葬り去った。

 だが、あまりにあっさりとそれを成し遂げた幽香には、達成感以上に更なる乾きが待っていた。

 

 

 ――もう誰も私を倒すことなんてできない。 

 

 ――もっと、もっとよ。 ただ、全てを――

 

 

 全てを支配できる力を手に入れた時、幽香の心はもう何もかもを忘れていた。

 自分が、元々何を求めていたのか。

 自分が、本当は何をしたかったのか。

 自分が、一体何のために戦っているのかすらも。

 止めどなく溢れてくる殺戮への渇望は、幽香をさらに暴走させていく。

 そこにあるのは、自分が何よりも強い存在であるための焦り。

 死神ごときに遅れを取るわけにはいかない。

 吸血鬼に、得体の知れない妖怪に出し抜かれるわけにはいかない。

 

 そして、何より――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ス、スペルカード、ブレイク、だぜっ!

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぁ……」

 

 気付くと、目の前の少女が声を漏らしていた。

 だが、幽香は動けなかった。

 スペルカードルールという一種のゲームによるものとはいえ、一度は自分を打ち負かした人間を目の前に固まっていた。

 その人間に向かってかざしている手から僅かでも魔力を放出すればそれで全てが終わる。

 自分を苛立たせる、敗北の記憶から解放される。

 だが、それでも幽香は動けなかった。

 

 ――何をしている。 私はこいつを……私はもう誰にも……

 

 頭でそう思ってはいても、身体は動いてくれない。

 その表情が恐怖に歪んだ魔理沙に、止めを刺すことができない。

 

 ――違う、そうじゃない、こんな……っ!!

 

『無意識の表層は……ちょっと揺れてるかな。 再構築』

 

 ほんの一瞬の葛藤の中、幽香は自分の目線の先にある空間が少しずつ歪んでいくことに気付いた。

 再生というよりも、むしろ生まれようとしているかのように、そこに小さな少女の姿をした何かが現れようとしていることに気付いた。

 幽香はそれを攻撃しようと思ったわけではない。

 ただ、魔理沙を前にして自身の中に生じた感情から目を背けるように、突然現れたそれに向けて魔法波を放った。

 魔理沙に攻撃できなかった自分に言い訳するかのように、標的をその少女に移した。

 

「っ……!? 待って…」

 

 ――何?

 

 だが、自らの絶対の死を回避したはずの魔理沙は、次の瞬間それ以上に絶望した表情へと変わっていった。

 今の幽香には、それが理解できなかった。

 奇跡的に一命を取り留めた人間が、なぜそんな表情をするのかがわからなかった。

 魔理沙の目線の先にあるのは、幽香とその少女の直線上にある廃墟だけ。

 なぜ、そんなものを自らの命よりも気にかけるのかがわからなかった。

 

 ――違うでしょう? 私を目の前にしているのなら、もっと放心したように恐怖するべきよ。

 

 ――幸運にも生を賜ることができたなら、もっと安堵の表情を浮かべるべきなのよ!

 

 それが、幽香の抱いた感情だった。

 そんな思考の中、幽香の放った光を逸らして同時に消滅したはずのフランが、何事もなかったかのように再びそこに浮かんでいた。

 もう、幽香に向かってはこない。

 狂気に満たされた笑い声を上げながら、そこから動かずに両手を広げていた。

 まるで後ろにある何かを守るために、再びその身を投げ打とうとしているかのように。

 

 ――何よ……何なのよっ!!

 

 幽香は自分の心を掻き乱すフランを、即座に再び消し飛ばす。

 だが、それは無限に再生して幽香の前に立ちふさがる。

 無駄な足掻きを、永延と繰り返す。

 幽香の脳裏には、その光景が何かと重なりかけていた。

 勝てるはずもない相手を目の前にして、それでも立ち向かい続ける姿。

 ただ、何かを守るように自らを犠牲にし続けるその姿が、

 

 

  ――弱いってのはな……それだけで罪なんだよ。

 

 

「――――――■#△●※ッ!!!」

 

 

 かつての、萃香から何も守れなかった時の自分と重なった。

 

 ――違う、私はこいつらとは違う! 私は……

 

 奇声のような叫び声を上げた幽香は、微かに浮かんだ自分のイメージを払拭しようとフランを破壊し続ける。

 だが、フランの姿は消えることなくひたすら幽香の目前に現れ続ける。

 決して消えることなき過去の記憶と無限に再生するフランの姿が重なり、幽香の精神を徐々に追い詰めていく。

 

 ――私は、ただ……

 

「――――スペルカード宣言っ!!」

 

 そんな幽香の思考を遮るかのように、再び後ろから声が響く。

 その手に構えられているのは魔力を増幅するための小さな装置と……またも何の力も持たない、いや、むしろその力を制限することを宣言するカードだった。

 魔理沙は不意打ちなどしなかった。

 明らかに格上の相手に、あくまで正面から立ち向かっていた。

 

「魔砲、『ファイナルマスタースパークッ』!!」

 

 魔理沙は、自分の出せる最大出力を幽香にぶつける。

 だが、真正面からの攻撃では幽香には届かない。

 幽香は再び残された腕を軽く前に出す。

 

 ――何? またそのお遊び? ……あまり調子に乗るなよ、人間風情がッ!!

 

 そして、幽香はそれを片手で押し返す。

 背後から迫りくる吸血鬼を自らの纏った魔力で消し飛ばしながらも、それを片手間に止めてみせる。

 まるで、明らかな力の差を見せつけるかのように。

 たとえどれだけ続けようとも絶対に敵わないことを、魔理沙の心に刻み込むかのように。

 だが、幽香の目論見に反して、魔理沙の目に灯った光は消えることなく輝いていた。

 

 ――……なんで? なんで諦めない? たかが貧弱な人間の分際で――

 

 

  ――所詮これがお前の……妖怪の限界だ。

 

 

 そして、ふと浮かんだその記憶が、また少し幽香の心を蝕んだ。

 魔理沙の魔法波を片手で受けながら、幽香は呆然と立ち尽くす。

 その背後に、いつの間にかフランの姿はなかった。

 まるで、誰かが故意に今の幽香の思考を進行させようとしているが如く、戦況は誘導されていた。

 

「うおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 魔理沙は、全力だった。

 その攻撃は幽香には届かない。

 

 ――……たかが人間、か。 違うわ、そうじゃないでしょ。

 

 だが、その攻撃は直接幽香の身体には届かずとも、幽香の思考の底を揺るがした。

 魔理沙の姿を見た幽香は、何かを思い出すように固まっていた。

 それは、幽香が花の異変で魔理沙と出会った日の記憶にまで届いていた。

 

 

 あの時も、魔理沙は隠れていた。

 草陰から覗くように、遠くからその姿を見ていた。

 幻想郷中で大量の花が咲いていくその異変では、花の妖怪である幽香がその黒幕であるという線は濃厚だった。

 それをわかってはいたものの、魔理沙は遠くからその姿を見ただけで動けなくなっていた。

 最強にして最恐と呼ばれる妖怪に自分が立ち向かっているビジョンを思い描けないまま、霊夢が来てくれるのをいつものように待っていた。

 

  ――あれが、風見幽香…っ。

 

 だが、その時の魔理沙は隠れ通すことができなかった。

 それまでの異変の黒幕とは違い、幽香が飢えていたからだ。

 その微かな呟きが、遥か遠くから幽香の耳に響いてしまったからだ。

 相手が誰かなど関係ない。

 まだ映姫と出会う前の幽香は、たとえ隠れている者であろうと全てを攻撃していた。

 それ故、魔理沙は逃げることができなかったのだ。

 

 幽香は微かに自分の視界に入った魔理沙との距離を瞬時に詰め、その手を振りかざしていた。

 最初の一撃は高位の妖怪さえも一撃で殺すほどの攻撃でもって、外した。

 その気になれば一瞬で殺せたものを、あえて外していた。

 魔理沙の恐怖感を煽り、二度と自分に近づく気も起きないようなトラウマを植え付けようとしていた。

 

  ――ぁぅ……いゃ、助け、助けて……ぅぅぁっ。

 

 突然のことに、魔理沙はまともに喋ることすらできなかった。

 憐れな姿で逃げ惑う虚弱な人間に、それでも幽香は更に追い打ちをかけていく。

 魔理沙は自分が何を考えているのかすらもわからないほどに、冷静さなどなかった。

 戦いにすらなっていない、ただ一方的に蹂躙されていく絶体絶命の状況。

 だが、そんな中でも、魔理沙はたった一つだけ、確かに言葉を放っていた。

 

  ――ぅ…くそっ……ス、スペル…ぁド、んげんっ、まふっ、ミルキ、ぇいっ!!

 

 ただ魔理沙を恐怖に陥れようとする幽香とは対照に、魔理沙の顔はあまりの恐怖に涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

 魔理沙には避けられない死がすぐそこに待っているかに思われた。

 だが、それでも魔理沙は自分が覚えていないほどに必死に戦った。

 辺りに弾幕を散りばめながら、木陰の隙間を潜り抜けていった。

 幽香の攻撃をスペルカードに擬えて、ひたすら避け続けた。

 

  ――ス、スペルカード、ブレイク、だぜっ!

 

 そして、結果的に魔理沙は生き残った。

 そのスペルの取得宣言は高らかに世界に響き渡り、その耳に届いていた。

 幽香の耳だけではない。

 それを見ていた、第三者の耳にも。

 

  ――ええ、確かにブレイクね

 

 決着とともに、魔理沙は背後に現れた異空間に飲み込まれていた。

 その勝負を偶然見ていた紫の能力によって、幽香の手の届かない地へと飛ばされたのだ。

 それと同時に紫の姿も消え去り、そこにはほぼ無傷のまま呆然と立ち尽くす幽香の姿だけが取り残されていた。

 

 それは、見る者が見れば魔理沙が逃げていたところをただ紫に救われただけにも見える。

 だが、確かに魔理沙は幽香の攻撃を避け切った。

 攻撃の間を縫って自ら放った弾幕も、少しとはいえ幽香に直撃していた。

 それはスペルカードルールが普及した幻想郷においては、紛れもなく魔理沙の勝利だったのだ。

 

 それは萃香と幽香の戦いのように、実際に起こるまで結果を予想できない勝負ではない。

 誰もが、魔理沙自身ですらも満場一致で魔理沙の敗北を予想した戦い。

 だが、それでも魔理沙は諦めなかった。

 泣きそうな顔で恐怖に震えながら、それでも魔理沙はただ逃げるだけではなく、幽香から勝利をもぎとった。

 博麗の巫女である霊夢のような、妖怪退治のスペシャリストが倒したのではない。

 誰もが恐れる大妖怪を相手にただの人間の少女が勝利するという、スペルカードルールの存在意義を幻想郷全体に知らしめる快挙を成し遂げたのだ。

 

 

 ――……そうよ。 私はこいつを見下してなんかいない。 

 

 ――そんなことが、あるはずない。

 

 そして今もなお、魔理沙は逃げない。

 人間という貧弱な種族に縛られながらも、自分の限界を出し続けていた。

 現実から逃げ出してしまわないように。

 その魂に誓った覚悟を、嘘で終わらせてしまわないように。

 

 ――だって、本当は私は……

 

「―――――ッ!!」

 

 そして、幽香がそんな思考に耽っている間に、魔理沙はいつの間にか幽香の懐にいた。

 その魔法波を放ちながら少しずつ幽香に近づき、飛び出すように現れていた。

 その身に僅かに纏っていた魔力は、全て手に構えた箒に集束されている。

 幽香の隙を見抜いた魔理沙は、一切の防御を捨てて自ら死地に踏み込んだのだ。

 

「――ラストスペル――」

 

 そして、その箒で全ての魔力を切り裂いて幽香の身体ごと振り払った。

 空高く打ち上げられた幽香は、それでもほぼ無傷だった。

 だが、その身体を静止できるまでのほんの僅かな時間、幽香の自由は奪われた。

 恐らく1秒すらもかからずに万全の状態を取り戻すだろう幽香のその目に映っていたのは……無数の、いや、分身しているようにしか見えないほどの速さで幽香の周囲を縦横無尽に飛び回る魔理沙の姿だった。

 

「―――っぉぉぉおおおおおおおおッ!!」

 

 魔理沙は自分が叫んでいることにすら気づかぬほどに、無心で飛び回っていた。

 乗っている箒から無差別の方向に放たれ続けているのはファイナルマスタースパークと同じ光、つまりは魔理沙の出せる限界だった。

 その推進力による加速で飛び回っている魔理沙は徐々にその速度を増し、最高の瞬発力を持つとされるレミリアを超え、幻想郷最速と呼ばれる文をも超え、そして本気の霊夢すらも超えるものと化していった。

 だが、虚弱な人間の身体がそれに耐えられるはずがない。

 魔理沙はその後に自分がぶっ倒れて動けなくなろうとも、たとえそれで自分の全てが終わっても、それでもかまわないという気持ちで自分の出しうる全てを懸けていた。

 

 それは誰の目から見ても無謀な選択。

 だが、それでも魔理沙は本気でそれを決行した。

 決して諦めることなく、自らの選んだ道を真っ直ぐに駆け抜けていく。

 

 その姿を間近で見ていた幽香は……

 

 ――だってあの日、私はそんなこいつの強さに、確かに『憧れた』のだから。

 

 自らの内に秘めた本心を嘲るように、ただ静かに微笑んでいた。

 

 恐怖に震えた心で、それでも幽香を破った。

 人間という弱い種族でありながらも、それでも自分の力だけで萃香にすらも何度も挑み、遂には勝利をもぎとった。

 そして今なお、敵うはずのない相手に向かって立ち向かい続けている魔理沙を前に――

 

「………ほんっと、バカみたいよね」

 

 幽香はぽつりと呟いた。

 全身を脱力させたような無防備な体勢で、目を瞑っていた。

 

 

 ――五月蠅いのよ。

 

 

 そして、勝負の最中に目を瞑るなどという隙を、今の魔理沙が見逃すはずがなかった。

 意識すらも飛びかけていた魔理沙は、無心で最高速度のまま幽香に向かって飛んでいく。

 それは今の幽香をして止めきれるかわからぬほどの速度と爆発力を秘めた一撃。

 ただ、音速を軽く超えたその速度は、何かに衝突すれば人間の身体など一瞬で原形も残らぬほどに飛び散らせて即死に至らせる、いわば捨て身の業だった。

 

 だが、魔理沙の目に宿った炎は未だ燃え尽きてはいなかった。

 考えてやった結果なのか、無意識のうちの結果なのかはわからない。

 このスペルは元々、箒に乗ったまま相手に突っ込む技のはずだった。

 だが、魔理沙は割れかけた箒に必死にしがみついていた両の腕を、それでもとっさに離して自ら空中に投げ出される。

 そしてその手に構えたミニ八卦炉に、残る全ての魔力を凝縮して、

 

「『サングレイザアアアアアアアアッ』!!」

 

 その箒をさらに押し出すように、残る力の全てを込めて魔法波を放った。

 恐らく、その宣言はもう幽香には届かないだろう。

 その魔法波が押し出す箒のスピードが、魔理沙の声よりも遥かに速いからだ。

 その箒は幽香を突き刺すようにまっすぐにぶつかっていく。

 

 

 ――お前は、一体誰に向かって命令しているつもりだ?

 

 

 幽香の直感によるものか、偶然によるものかはわからない。

 だが、それでも目を瞑ったままで、幽香は確かにその箒を受け止めていた。

 残された手の平で、完全に堰き止めていた。

 その衝突は幻想郷と外の世界の境界を越えるのではないかというほどに、空間を歪めて火花を散らしていく。

 競合いはほぼ互角のまま、幽香の手の平には亀裂が入り、端から砕け落ちていくミニ八卦炉を構える魔理沙の腕には、ヒビが入って悲鳴のように血を噴き出している。

 両者がともに命を賭した、そんなぶつかり合い。

 その状況でなお、幽香の目は未だ閉じていた。

 

 

 ――お前の力なんていらない。 こいつは私が、私自身の全てでもって潰す。 だから――

 

 

「っ………いっけええええええええええっ!!!!」

 

 魔理沙は自分の中の全てを燃やし尽くすかのように叫んだ。

 既にその叫びなど轟音に掻き消されて蚊の羽ばたきほども聞こえない。

 魔理沙の表情がだんだんと青ざめていく。

 だが、それに対峙する幽香の口角は確かに上がっていった。

 

 そして、幽香はその目をゆっくりと開いて、

 

 

「――――消えなさい――――」

 

 

「っ――!?」

 

 一言、地の底から這いあがったような重々しいその声とともに、辺りを覆っていた魔力が、闇が、弾けるように無に帰した。

 その鋭い視線は、今まで必死に自分を奮い立たせてきた魔理沙をも硬直させる。

 

「――――――」

 

 だが、その一方で幽香の纏う力は急激に萎み、魔理沙の箒は幽香の手の平を裂いてその身体を抉るように貫いた。

 さっきまで魔理沙が乗っていた箒は、あまりにも速く、そしてあまりにも強力な魔力を纏い過ぎていた。

 最後の魔理沙にもはやスペルカードルールを意識する余裕すらもなかったとはいえ、それは当たっただけで即死を意味するほどの兵器と化していたのだ。

 その箒は幽香の体細胞を破壊しつくし、幽香に声を上げる余裕すらも与えなかった。

 そして、幽香を貫いて飛び出した箒は、そのまま空の彼方へ消える前に燃え尽きて散っていった。

 

「……え?」

 

 放った魔法波の反動で減速し、何とか無事に地面に着地することに成功した魔理沙は、そのまま呆けた様な声を上げた。

 耳をつんざくような轟音の後に訪れた静寂の中、魔理沙の目に映っていたのは、既に元の形を成していない幽香の姿だけだった。

 

「幽、香……?」

 

 幽香はもう動かない。

 血まみれのその腕をまっすぐに突き出したまま、左のわき腹がごっそりと消え失せた姿で固まっていた。

 それは、たとえ妖怪の強靭な身体をもってしても、耐えられるはずのない致命傷であるのが魔理沙には一目でわかった。

 目の前に佇む幽香が、既に生きてなどいないだろうことがすぐにわかった。

 

「そんな……私は、こんな…」

「……ああ。 悔しいけど、これは一本取られたわね」

「え?」

 

 だが、魔理沙の予想に反して、幽香は楽しそうに笑いながら魔理沙の方へと振り返った。

 何かに支配されていただけのさっきまでとは違う、確固たる意志を持った妖怪としての力を秘めた瞳で、確かに魔理沙のことを捉えていた。

 

「じゃあ、今度はこっちの番ね」

 

 普通なら死んでいるはずの傷を負ってなお楽しそうに笑う幽香の姿を前に、魔理沙はただただ唖然としていた。

 そして、幽香は自らの懐に手を入れる。

 そこから出てきたのは、血に濡れて端が焦げ落ちた、小さな一枚のカードだった。

 

「スペルカード宣言――花符『幻想郷の開花』――」

 

 夜の闇と灰に覆われた暗い世界は、突如として華やかに彩られる。

 そこに現れていたのは辺り一帯に咲いた花、ではなく、花を形どるように魔力で創られた弾幕だった。

 

「……はは、はははは」

 

 何が起こっているかわからない魔理沙だったが、その口からは自然と笑みがこぼれていた。

 既に感覚すら失い、自分の力で動かすことのできない四肢に、無理矢理魔力を通わせて魔理沙は立ち上がる。

 立つことも、ましてや戦うことなどできるはずのない身体で、魔理沙は既に灰となりかけた大きな一本の枝を折り、箒の代わりにそれを構えて言う。

 

「参ったな……こりゃ、さっきまでなんかよりよっぽど手強い相手だぜ」

 

 既に攻撃の手段も、まともに空を飛べる媒体すらも無い状況。

 それでも魔理沙はまっすぐに前を見据えていた。

 なぜなら、幽香もそれ以上の傷を負っていたからだ。

 戦うことはおろか、数秒生きることすらも叶わぬように見える身体で、それでも魔理沙に向けてスペルカードを構えていたからだ。

 そこから逃げ出すような無粋でつまらない生き方など、今の魔理沙には考える余地すらもなかった。

 

「さて、今度こそ決着をつけましょうか。 私と貴方の、本当の決着を!」

 

 そう言う幽香からは、もう支柱としての力は感じられない。

 だが、最強の妖怪の名に恥じぬほどの覇気でもって魔理沙を迎えていた。

 それを目前に控えた魔理沙にも、もう身体の震えなどなかった。

 ただ、この宿敵との本当の勝負をどれほど待ち望んだのかと言わんばかりに、魔理沙と幽香の表情はかつてないほど嬉しそうに笑っていた。

 

「……ああ、いいぜ。 何度でも、どこまででも付き合ってやるよ、幽香!!」

 

 そして、自らの中に芽生えた抑えきれない衝動のままに、2人は目の前の相手に向かって同時に大地を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

『……終わった、か』

 

 魔理沙と幽香の死闘の末に始まったスペルカード戦。

 そこに一人佇む少女は、もはやそれには興味を持っていなかった。

 その戦いの目的を、既に果たし終えたからだ。

 その人生の意味を、たった今全て終えたからだ。

 

『あーあ。 人の気も知らずに、あんなに楽しそうにしちゃってさ』

 

 少女がその言葉を発したことに、意味などなかった。

 

『……なーんて、ちょっと言ってみただけ』

 

 恨み言ではない。

 羨ましいと思っている訳でもない。

 祝福している訳でもない。

 ただ、何となくそう思ったからそう言っただけだった。

 誰かがそれに、言葉を返してくれるなどと思ってはいなかった。

 

 なぜなら、少女はもう全てを失ったからだ。

 認識されないままその戦場に君臨するために。

 フランの無意識を完全に操るために。

 幽香の奥底にある無意識を表出させるために。

 そのために『古明地こいし』という存在を捨てて、世界の無意識と一体化してしまったからだ。

 もうその存在は、目の前の魔理沙たちにも姉であるさとりにさえも、視認することはおろか、思い出すことすらできないからだ。

 

『あと、何分あるのかな』

 

 かつてこいしと呼ばれていた少女に残された時間は、もうなかった。

 既に妖怪としての死が不可避となってしまったからだ。

 

 妖怪も、確かに寿命や傷病で死ぬことはある。

 だが、妖怪には人間とは違い、「存在の死」というもう一つの死の概念があった。

 幻想の生物は、それを信じる者がいるからこそ存在しうる。

 その存在を肯定する者が誰一人としていなくなったとき、その妖怪は死滅するのだ。

 この幻想郷でさえ、妖怪は誰かに観測され得るが故に存在できる。

 誰も観測できない、存在していたことすら忘れ去られたこいしに、もうどこにも生きる道など残されていないのだ。

 

『あれ、おかしいな。 こうなるのも覚悟してたつもりなのにな……』

 

 気付くと、その目からは涙が溢れていた。

 あまりにあっけなく訪れた自分の最期に、生まれて初めて無意識のうちに悲しみを感じていた。

 だが、そこにあったのは自分がまだ死にたくないという未練などではなかった。

 

『ごめんねお姉ちゃん、約束やぶっちゃって。 でも私、頑張ったんだよ。 私もちょっとくらい、お姉ちゃんの役に立てたのかな』

 

 その頭に浮かぶのは、もう二度と会うことのできない姉のことばかりだった。

 既に自分のことを覚えているはずのない、大好きな姉の喜ぶ顔だけだった。

 

『最後に、もう一度だけ会いたかったな――――』

 

 こいしは目を瞑る。

 少しずつ自分が消えていくのを感じていた。

 その身体は微かに震えていた。

 恐怖で震えているのではない、ただその目から溢れ出ようとする何かを必死にこらえようとしていた。

 

「――――おーい!!」

 

 そして、こいしの耳に最後に届いたのはそんな声だった。

 スペルカード戦をしている2人のところに向かって歩いていく、3つの影。

 

『……まぁでも、別にいいのかな』

 

 それに少しだけ目を向けたこいしは、何かを思い出したかのようにゆっくりとしゃがみこんだ。

 こいしはもう思い残すことはないと言わんばかりに、安らかな表情で目を閉じる。

 その中の一つは、確かにさとりが初めて認めた魔法使いの姿だったからだ。

 そして、幽香と今戦っているのは、確かにさとりのことを心から信じてくれた魔法使いの姿だったからだ。

 

「って、無視すんじゃないわよ、おーい!」

「あー、もうちょっとくらい待ってあげましょうよ」

「そうですよ、私も流石にそれは無粋だと思いますよ」

 

 魔理沙と幽香は、周りの状況が見えていないほどにスペルカード戦に夢中だった。

 その言葉は2人に届くことなく弾幕の音に掻き消される。

 フラフラの足取りで歩く傷だらけの女性と、固唾を飲んで魔理沙を見守っていた小さな黒い羽をはやした少女が、その魔法使いの隣で楽しそうに笑う。

 その微笑ましい光景は、最後のこいしの表情を笑顔で固めた。

 

『――もし最後に、こんな私の願い事が一つだけ叶うのなら――』

 

 もう、こいしの姿はほとんど消えていた。

 その身体が光の粒子となって空気に溶けていく中で、こいしは両手を合わせて何かに祈るように、

 

『――どうかあの輪の中で、いつかお姉ちゃんが笑っていられますように――』

 

 そう、最後に言ったこいしの姿は、

 

「だから無視すんなって言ってんでしょコラァ!!」

「痛っ!! ……えっ!?」

 

 アリスのツッコみとともに、再び幻想郷に現れていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第18話 : 奇怪

※注意

この話はちょっとしたアクシデントにより、執筆途中に誤って投稿してしまったために内容を訂正したことのある部分です。投稿直後の数時間とは少し違う内容となっているのですが、ご了承ください。


 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第18話 : 奇怪

 

 

 

 

 

 その光は、あまりに矮小な輝きを放っていた。

 空間に咲く弾幕の花は、決して美しいとは言えないほどに弾道が乱れていた。

 そして、それを避ける少女もまた、あまりに鈍く重い足取りで跳び回っていた。

 何もないところで突然膝の力を失ったように躓き、地面を這うようにそれを避ける。

 弾幕ごっこという名のその勝負は、先の戦いと見比べると文字通り児戯に等しい「遊び」だった。

 強大ではない、多彩でもない、美しさすらもない。

 

 だが、それを愉しむ少女たちの表情は、何よりも魅力的だった。

 

 既に生きることもままならないはずの身体で、凛として君臨する妖怪の姿。

 既に動くこともままならないはずの身体で、まっすぐに立ち向かう人間の姿。

 そんな、命という花を誰よりも美しく咲き誇らせる姿に、

 

「……カッコいいなぁ」

 

 紅魔館の残骸の上に座りながらそれを眺めていた小悪魔は、ぽつりと呟いた。

 自分に、そんな力がないことくらいわかっていた。

 自分が、そんな物語の主人公のようになれるわけがないことくらいわかっていた。

 それでも、その姿は小悪魔の心を羨望でもって魅了していた。

 

「あの状態でスペルカード戦とかバカじゃないのかしら」

「……それ言っちゃダメですよ、アリスさん」

 

 だが、アリスはそんな空気に流されずに呆れたような目で魔理沙たちを見ていた。

 治ってからやれと言わんばかりに、ため息をついていた。

 自分もその勝負に半ば魅了されつつあった美鈴は、アリスに隣でそう言われて我に返ったようにツッコミを入れた。

 

「……さて。 それじゃあ私たちもそろそろ一仕事しましょうか」

「え?」

 

 そして、アリスが一人魔理沙たちのもとへ歩き始める。

 少しだけ気を抜いてその戦いを見ていた美鈴と小悪魔は、一足遅れてそれに続く。

 

「どうしたんですか、アリスさん」

「何もう終わった気になってんのよ美鈴。 別に幽香を止めたところでこの異変は終わらないっていうのに」

「それは、そうですけど……」

 

 少し前にやっと人形の修理と美鈴の治療が終わった3人は、ちょっとでも魔理沙のサポートができないかと思って紅魔館の外に出た。

 だが、そこにあったのは既に美鈴一人でも倒せそうなほど弱り切った姿で弾幕ごっこをしている幽香と魔理沙の姿だった。

 それは傍目から見れば幽香を叩くチャンスではあるが、あまりに生き生きとした表情で弾幕ごっこに身を投じている2人の姿は、その戦いを遮ることすらも無粋に思わせていたのだ。

 しかし、そう思っていた美鈴と小悪魔をよそに、アリスだけはあくまで冷静に物事を進めようとする。

 

「でも、これから何をしようっていうんですか?」

「まぁ、とりあえず今のうちにいろいろと聞いておかなくちゃいけないこともあるかなと思ってね」

「聞いておくって…」

「おーい!!」

 

 そう言って、アリスは突然手を振りながら呼び声を上げた。

 それを見た美鈴と小悪魔は少し苦々しい表情をした。

 あの勝負の中に割って入るような無粋なことを本当にするつもりなのかと、いくら何でも少しくらい空気読めよと言わんばかりの苦笑だった。

 

「って、無視すんじゃないわよ、おーい!」

「あー、もうちょっとくらい待ってあげましょうよ」

「そうですよ、私も流石にそれは無粋だと思いますよ」

 

 美鈴と小悪魔はアリスを制止しようと声をかける。

 だが、アリスの視線は魔理沙たちから少しだけ逸れた方向を向いていた。

 そのまま目の前の空間に向かって手を振り上げて、

 

「だから無視すんなって言ってんでしょコラァ!!」

「痛っ!! ……えっ!?」

「え?」

「えっ!?」

 

 その手を振り下ろすとともに、何もなかった空間に突如として一人の少女の姿が現れた。

 閉じた第三の瞳から細長く伸びた何かがその身体に力なく巻きつき、血のシャワーを浴びたかのように痛々しく全身を赤く染めた少女の姿。

 何が起こっているかもわからない3人は呆然としていたが、アリスだけは淡々と話を進める。

 

「さて、いろいろ聞きたいこともあるんだけど、まずは貴方が何者なのか聞いていいかしら」

「え、あの……」

「アリスさん! この子、今どこから来たんですか!?」

「ってよりも、すごいケガじゃないですか!! じっとしててください、今治療しますから」

 

 大急ぎで駆け寄って治癒魔法を使い始める小悪魔だったが、それに気付かないほどに、こいしにはアリスの姿しか目に入らなかった。

 既に誰一人として、さとりすらも認識できないはずのこいしの姿が当然のように見えていたアリスを前に、今の状況を理解できなかった。

 だが、同時に何か奇妙な納得感もこいしの中にはあった。

 

「まぁ、ずっと古明地さとりの傍にいたこととかその第三の瞳から考えると、どうせ姉妹とかそんな感じでしょうけどね」

「あー……やっぱり、見えてたんだ。 地霊殿の時にはもう」

「他の奴は見えてない感じだったからポーカーフェイス気取るのも大変だったけどねー。 それより、貴方が私の人形壊したせいでだいぶ時間無駄にしちゃったじゃないどうしてくれんのよ」

「あはは」

 

 こいしの能力は姿を消すのではなく、「認識されにくさ」を極限まで高める力である。

 それ故、誰かがその存在を個としてはっきりと認識した上でそこに存在しているように振る舞うことによって、一時的に第三者が認識することも可能となるのだ。

 完全な孤独のまま自分が死んだと思っていたこいしは、アリスが自分を再び世界に連れ戻してくれたことに、心の中で深く感謝していた。

 だが、同時に畏怖の念も抱いていた。

 目の前の魔法使いの得体の知れなさは、今までこいしが見てきたどんな相手よりも不気味で恐ろしいものだからだ。

 

「……そうだね、あの時はごめんなさい。 私は古明地こいし。 貴方の言う通りさとりお姉ちゃんの妹で、『無意識を操る能力』っていう、簡単に言えば無意識に混じって認識から外れたり、相手の意識の外側を操ったりできる能力を持ってるの」

「あら、やけに素直に正体をバラすのね。 それは…」

「私なりの敬意だよ。 お姉ちゃんすら出し抜いた貴方には嘘をついても無駄な気がするからね」

「それは私を買いかぶりすぎよ。 あの時だって、私は元々古明地さとりのことを知っていたけど私のことは知られていなかった。 ただそれだけの差よ」

「それも含めて、実力だよ。 誰の目からもわかる強者よりも、本当の力を隠してる相手の方がよっぽど怖いからね」

 

 こいしは、アリスの目をじっと見ながらはっきりとそう言った。

 たとえ命を救われたとしても、こいしはそんなことでその相手に服従したりはしない。

 運よく生きることができたのだから今自分が成せることは何であるかとすぐに思考を切り替え、アリスを利用しようという結論に至ったのだ。

 

 だが、アリスは簡単に利用できるような相手ではない、さとりと同等以上の相手であるとこいしは認識していた。

 心を読むというさとりの「意識」を司る能力から、「無意識」を司る能力をアリスが連想していてもおかしくはないと思っていた。

 だから、ここで至らぬ自分が下手に出し抜こうとして結局見抜かれるくらいなら、最初から争わずに信頼を得に行こうと考えたのだ。

 そのこいしの反応を受けたアリスは、少しめんどくさそうに言う。

 

「……なるほどね。 そのいけ好かない反応、貴方は確かにあいつの妹みたいね」

「ありがとう。 私にとってそれは最高の褒め言葉だよ」

「まぁ、だからこそ私は貴方を信用しないけどね」

 

 こいしは全く裏のなさそうな、無邪気な笑みを向けながらそう言う。

 だが、それとは対照にアリスの表情には、胡散臭い何かを敬遠するかのような、誰の目からもわかるほどの拒絶が貼り付いていた。

 

「ちぇっ。 なんで貴方はそんなにお姉ちゃんを目の敵にするの?」

「貴方が今自分で言ったことでしょうが、本当の力を隠してる奴の方がよっぽど怖いって。 私は正直、幽香やルーミアなんかより古明地さとりの方がよっぽど警戒に値すると思ってるわ」

「……ふーん」

 

 実は、相手に必要以上の警戒を煽らせるというのは元々はさとりの戦略だった。

 アリスのように平和に暮らすことのできる妖怪は、今回のさとりを相手にした時のように、とるに足らない存在であると相手に認識されていた方が優位に立ちやすいこともある。

 その一方で、嫌われ者であるにもかかわらず地底を管理する立場にあるさとりはただでさえ敵が多く、少しでも自分の弱さを露呈してしまえばそれを突いてくる者が後を絶たない。

 それ故、自分に刃向うおうと考える者自体が一人でも減るように、自分のことを周囲に必要以上に警戒させるよう振る舞っているのだ。

 それを知っているこいしからすれば、アリスがさとりのことを警戒している現状は、アリスがさとりの戦略の内にいるようにも見える。

 だが、アリスが実はその戦略を知った上でなお、さとりの根底を警戒しつつ見透かそうとしているのだろうことが、こいしにはわかっていた。

 

「さて。 じゃあ無駄話はこの辺にしておいて、そろそろ本題に入りましょうか」

 

 と、こいしが考えていたところで、アリスが突然会話の流れを切った。

 無駄話とアリスが言うが、それは無駄ではなかった。

 恐らくこれから始まるのは、情報交換という名の戦い。

 自分の持っているカードをいかにうまく使って、より少ない情報で相手からより多くの情報を引き出すかという戦争である。

 だが、こいしは現時点で既にアリスと自分の力量差を感じ取らされていた。

 心理戦において右に出る者のいないと思っていたさとりを出し抜き、逃れられる者などいないと思っていた自分の能力すらもいとも簡単に破って見せたアリスは、今のこいしにとっては全く掴むことのできない奇怪な存在なのだ。

 だから、こいしは自分の優位な点を見出せない情報戦を挑むという選択肢を排除し、アリスにいかに上手く取り入るかだけを考えながら言った。

 

「私が知ってることは全部話すよ。 それで、何を聞きたいの?」

「あら、物分かりがよくて助かるわ。 レミリアのことよ。 あの枯れ切った吸血鬼に、貴方たちが一体何をしたのか聞かせてくれないかしら」

 

 アリスは、こいしたちがレミリアに何かをしたと確信めいた口調で言う。

 だが、こいしはもうそれに驚くことはなかった。

 

「うーん、あの人を変えたのはお姉ちゃんだからさ。 私には詳しいことはわからないよ?」

「それでもいいわ。 全てを聞こうだなんて思ってない、知ってる範囲のことだけでいい。 その「無意識」とやらを操る能力で見たことだけで、ね」

「そっか」

 

 知ってる範囲のことだけ。

 だが、ただ見て得た情報だけでは恐らくアリスが満足しないだろうことはわかっていた。

 アリスがこいしの実力を、そして少なくともこいしが信頼に値する相手であるかを試していることくらいは理解していた。

 こいしは自分が間違えないように一度落ち着いて息を整えてから、ゆっくりと語り始めた。

 

「……あの人の心はね、私たちが会った時にはもう死んでたんだ。 何も信じていない、何一つ希望を抱いていない、絶望に支配されたような目をしてた」

「そうね、それは私たちもよく知ってるわ。 昨日までのレミリアは何を言っても感情すら抱かないような、つまらない奴だったはずよ」

 

 レミリアの反応には、少しの冗談を交える程度の人間臭さを感じさせる部分もある。

 だが、あくまで文字的にしか人間味を感じさせないその半端な反応が、レミリアの心や感情の無機質さを余計に際立たせていたのだ。

 それ故、アリスは今まで本能的にどうしてもレミリアと上手く打ち解けることができなかった、というよりも少し苦手意識を持っていた。

 

「でもね、あの人の無意識を覗いてて気付いたんだ。 あの人が抱く絶望の根底には、一種の強迫観念とでも言っていいような核があったことに」

「強迫観念?」

「うん。 決められた『運命』を絶対に変えてはいけないってこと」

「変えてはいけない? 変えられない、ではなくて?」

「そうだね。 変えること自体は簡単だけど、たとえどんな些細な運命でも変えてはいけないみたい。 あの人は運命というものの不可侵性を、自分の力の絶対性を無意識の内に盲信しようとしていたんだ」

「……自分の力の絶対性、ねぇ。 確かに自尊心の強い奴らには時々あることだけど」

 

 自分自身の絶対性を貫こうとする者はよくいる。

 例えば鬼などは、「自分が誰よりも強い」という先天的に備わった絶対的な感情が、その行動や倫理観、アイデンティティーすらも作り上げている。

 確かにレミリアのそれも、鬼と同じように自分の力の絶対性を誇示するものと考えることもできる。

 だが、こいしはそれを否定するように少し首を傾げて言う。

 

「でも、あの人のは多分自尊心とかとは違うんだ。 自分自身の能力を誇ってる訳でもなく、まるで誰かに無理矢理植えつけられたかのように無意識の底に深く絡み付いてたんだ」

「ふーん。 で、貴方がそれを解いたってわけ?」

「ううん、私には無理だったの」

「無理? 貴方は相手の無意識を操れるんじゃないの?」

「無意識の中だけの単純な問題だったら、できたかもしれないけどね。 だけど、あの人は意識の領域においてはその絶対性に抗おうとしてるみたいだったから」

「何?」

 

 それを聞いたアリスたちもまた、首を傾げていた。

 レミリアは無意識の内では運命を変えないようにしていたが、一方で意識の内では運命を変えようとしていたという。

 無意識と意識が相反しているそんな状態を、うまく理解することができなかった。

 話についていけなくなりそうになった小悪魔が、こいしの身体を治癒しながら恐る恐る尋ねる。

 

「えーっと…お嬢様の無意識は運命を変えないようにしてたけど、自分の意志では運命を変えようとしていたってことですよね。 でも、それって何か矛盾してませんか?」

「うん。 だからお姉ちゃんが心を読んで、その自己矛盾を無理矢理解いたんだ。 そしたら、いつの間にかあの人の無意識は解放されてたんだよ」

 

 ただ見ていただけのこいしには、さとりとレミリアの心の間に何が起こっていたのかはわからない。

 だが、確かにさとりがレミリアに接触した結果、レミリアの無意識からその強迫観念が消えていったのは事実だった。

 

「なるほどねぇ。 それで、その変えてはいけない運命ってのを変えたことで、一体何が起こったのかしら」

「わからないけど、見た感じ別に何も起こらなかったよ」

「はあ? だったら、レミリアはそもそも何のために苦しんでたのよ」

「それは私にはわからない。 だけど、私の個人的な意見を言わせてもらうと、運命を変えたらあの人の大切な人を守れないからじゃないかと思うよ」

「大切な人?」

 

 こいしは、少しだけ目線を美鈴に移して言う。

 

「えっとね。 さっきまで私とあの2人の他に、ここにもう一人いたのを知ってる? そっちのお姉さんは目の前で見てたから、多分わかると思うけど」

「あ、もしかしてあの変な羽の子のこと?」

「うん。 あの子の名はフランドール・スカーレット。 あの屋敷の地下に500年近くも幽閉され続けてきた吸血鬼で、あの人……レミリア・スカーレットの実の妹だよ」

「「えっ!?」」

 

 それを聞いた美鈴と小悪魔は驚きの声を上げた。

 

「待ってください、その、お嬢様の妹って……そんなの、私初めて聞きましたよ!?」

「そうだね。 あの人はフランちゃんの存在を誰にも話さなかった、というよりも誰にも気付かれないように隠してたみたいだからね」

「ふーん、そういうこと。 そいつを隠した原因も、例の強迫観念にあるってことかしら」

「多分ね。 フランちゃんが地下から外に出られないという運命。 それを誰かに気付かれることをあの人は恐れてたの。 その運命を変えてしまった結果何が起こるのかはわからないけど、少なくとも知られれば何かが変わりかねないから」

「それを、古明地さとりがレミリアの心を読んで変えてしまったと」

「まぁ、お姉ちゃんが何をしたのかは詳しくはわからないけどね。 でも、あの人はフランちゃんを守るためにずっとその運命に縛られてきたんだと思うよ」

 

 さとりが「フランを殺せ」という命令をこいしに下した瞬間のレミリアの焦り様はあまりに強烈にこいしの中に残っていた。

 フランを殺すことが、レミリアの全てを壊してしまうほどの重大な出来事であるのは、こいしは一人の妹である身として何となく感じることができた。

 だが、それを聞いたアリスは不審な目をこいしに向けて言う。

 

「……でも、何故そもそもそんな運命が発生したのかしら。 500年も幽閉し続けなきゃならないなんてのは、普通じゃ考えられないほどに残酷な行為よ。 そいつは何か、そんな運命を背負わなきゃいけないほどのことをしたのかしら?」

「うーん……断言はできないけど、多分フランちゃんの持つ異常な力のせいだと思うよ」

「異常な力?」

「うん。 生い立ちや能力から色々と特殊な部分は多いけど……一番の問題はあの精神状態と驚異的な再生能力だね」

「ああ。 確かにとてもお嬢様の妹だなんて思えないほど危ない人でしたしね」

 

 美鈴がフランを見た瞬間に感じたのは、明確な死のイメージだった。

 あの時、美鈴はほぼ反射的に命の危険を察知できるほどに、フランの存在の異質性を本能が警告していたのだ。

 確かに吸血鬼という種族の力は美鈴にとって強大すぎるものだが、美鈴はその時あまりに極端に反応した自分に、自分自身でも違和感を感じていたのだ。

 

「なりふり構わず全てを破壊する狂気の衝動に、全身が粉々になってなお瞬時に元に戻る再生能力。 でも実はね、あれはフランちゃん自身の狂気でも再生力でもないんだよ」

「え?」

「あの再生力は、フランちゃんが狂気に支配されている間だけ、吸血鬼の再生力も満月の力も使わずに瞬時に全身を再生する力なんだ」

 

 確かに満月の吸血鬼は最高クラスの再生能力を持つが、それを考えてもあの時のフランは異常だった。

 全身を粉々にされたのなら、万全の状態のレミリアさえも数秒の内に完全に元に戻ることなどできない。

 だが、確かにフランは粉微塵にされた自分の身体を、瞬きをする程度の時間で何度も完全に再生させていたのだ。

 

「満月の吸血鬼以上の再生力なんて想像できないけど……でも、別にそいつが自由に使える能力って訳じゃないのよね?」

「そうだね。 まぁ、フランちゃんの意識も力も、狂気に支配されてる時には曖昧なまま無意識下に置かれてるからこそ、私がフランちゃんを元に戻すことももう一度狂気に支配させることもできたんだけどね」

 

 こいしがフランの無意識を操ることで、フランは自分の意識を取り戻す。

 だが、その間フランは自分の吸血鬼としての再生能力の範囲でしか生きられない。

 その性質を利用して、こいしは自身の能力のオンオフを使い分けることで、フランの再生と沈黙を自在に操ってきたのだ。

 それを聞いた美鈴が、心配そうにこいしに聞く。

 

「……でも、今はその子はどうしてるんですか? まだ、生きてるんですか?」

「うーん、今のフランちゃんの身体は吸血鬼としての再生力だけじゃどうにもならないくらい限界がきてるからね。 今は私がその狂気を引っ込めてるから再生はしてこないけど、狂気の状態でなら再生できると思うよ」

「やめて。 今そんなのに出てこられちゃ面倒でしょうがないわ」

「あはは、そっか」

 

 こいしは冗談を言うような気軽さで笑った。

 それとは対照に美鈴と小悪魔の顔は不安に満ちていた。

 自分の主人がずっと守り通そうとしてきたものの存在をたった今知り、その生死が曖昧な状況で笑っていることなどできなかったからだ。

 

 だが、笑っているように見えながら、こいしも真剣だった。

 フランのことを心配しているのではない、ただアリスの様子をじっと窺っていた。

 自分の持つカードの情報が一番印象強く伝わる瞬間を、窺っていた。

 そして、アリスが少し考えるように目線を逸らしたのを見計らって、奇襲するかのように言う。

 

「ああ、ちなみにね。 フランちゃんを支配してる狂気と、さっき戦ってた妖怪さんの無意識は繋がってる部分があったんだ。 だから、2人を支配してたのは同じ人の力だと思うよ」

「なっ……!?」

 

 突然出てきた情報に、小悪魔は驚きの声を上げる。

 それは、幽香を支配していたものとフランを支配していたものが同じ人物、つまりはルーミアの力であることを示唆していた。

 だが、アリスはそれに返事をしなかった。

 ただ一人考え込むように黙っていた。

 そんな中、美鈴はその事実から考えられることを予想して聞く。

 

「じゃあ、その子もルーミアって妖怪の手先の一人だったってことですか!?」

「……いいえ、少なくとも幽香とは敵対関係にあったし、その可能性は小さいわ。 それに、幽香や河城にとりのことから判断した限りでは、その再生能力はルーミアの手下に与えられた力ではない。 だから、これは多分もう一つの可能性の方だと思うわ」

「もう一つ?」

 

 美鈴は何のことか全くわかっていなかった。

 だが、それを聞いた小悪魔も何かに気付いたように考え込んで言う。

 

「……ああ。 確かに、重なりますもんね」

「ええ。 藍が言ってた、封印の時期とほぼ一致するからね。 だけど、これは……」

「え? 何の話ですか?」

 

 妖怪の山での出来事を詳しく知らない美鈴は首をかしげるが、アリスと小悪魔はそれに気付かないほどに集中していた。

 フランが幽閉された時期と、妖怪の山で藍が言っていた、紫たちが邪悪を封印した時期は重なる。

 幽香と繋がっているということは、フランを支配する狂気や再生能力も、その邪悪の力だと考えられる。

 だが、藍は確かにその邪悪の要素が3つだと言った。

 一つは地底の最深部、一つはルーミアの中、そして、もう一つは霊夢の中に封印されていただろうことは容易に想像できる。

 だとしたら、そこから考えられることは……

 

「邪悪の4つ目の要素である『狂気』とでもいうものを封印した、フランドール・スカーレットの存在を紫たちが隠しているか、もしくは…」

「本当に紫さんたちは何も知らない。 紫さんたちの封印とほぼ同時期に、知られざる第三者がその子に力を与えていたということですか」

 

 こいしはそう推理したアリスを見て、少しだけ安堵の表情を浮かべていた。

 自分が恐れた相手が、ここでフランが幽香の支柱だという安易な発想に帰着する者ではないことを再確認したのだ。

 そして、こいしはその話に割って入る。

 

「多分ね。 お姉ちゃんも、フランちゃんに何か悪いものを植え付けた人がいるってことは教えてくれたから」

「古明地さとりが?」

「うん。 だけど、お姉ちゃんはそれが誰なのかを教えてはくれなかった。 多分、自分の行く場所を私に悟らせないために」

「じゃあ、さとりさんはそれを与えた人を最初から知ってたってことですか?」

「もしくはレミリアからそれを読み取ったか、ね。 でも、だとしたらレミリアは500年も前からその力のことを……それを与えた相手のことを知っていた? そもそも何のためにそれを受け入れた? いや、むしろ古明地さとりの能力を考えるのなら、あるいは……」

 

 アリスは目を瞑ったまま、独り言のように呟きながら思考を巡らせていた。

 憶測でなら、いくらでも可能性は出てくる。

 しかし、どれだけ考えても確実な答えは出なかった。

 

「まぁ、とりあえず私の知ってることはそのくらいだね。 お姉ちゃんがその運命を変えた途端、あの人は突然人が変わったように飛び出して行ったから、その後のことはわからないかな」

「……そ。 まぁいいわ、礼は言わないわよ」

「え?」

 

 そう言って、アリスは一人満足気な笑みを浮かべる。

 そのままこいしのもとまで歩いて、その肩をポンと叩く。

 そして、すれ違いざまにこいしにしか聞こえないほどの小声で、

 

「――貴方には、もう少しだけ役に立ってもらうからね――」

 

 耳元で、そう囁いた。

 こいしは返事をしないまま、ただその場に立ち尽くす。

 やがて、こいしの口元が少し笑ったようにも見えた次の瞬間……

 

「……あれ? 私たち、何してたんでしたっけ?」

 

 美鈴は、少し首を傾げてそう言っていた。

 

「もうボケたの、美鈴? とりえあずこれから3人で魔理沙たちのところに向かうんでしょうが」

「……あ、そうでしたね。 っていうかアリスさん、流石に勝負がつくまで待ってあげた方が…」

「嫌よ、面倒くさい」

「あ……ま、待ってくださいよ、アリスさん!」

 

 そのまま、アリスは美鈴と小悪魔に背を向けて一人歩き出す。

 ごく自然に、こいしの姿と記憶はその場から消え去っていた。

 そして、釈然としない表情で魔理沙たちのもとに歩き出す美鈴と小悪魔をよそに、ただアリスだけが別のどこかを一瞥して微笑んでいた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第19話 : 偽り

 

 微かに差し込む月光の中を昇るかのように、一筋の流れ星が夜空に舞う。

 それを追うように咲き乱れる光の花びらが、遮られることなく散っては大地に溶け込む。

 勢いを失った流星と色彩を失った花の鬼ごっこは、終春の夜桜のように儚く時を刻んでいく。

 やがて桜吹雪が風に消えた空には、満月を僅かに欠かすように一つの影だけが浮かんでいた。

 

「いくぜ。 スペルカード宣言、魔空『アステロイドベルト』」

 

 そして束の間の小休止の中、今度は大地に咲く花を覆うように小さな流星群が無秩序に散らばっていった。

 

 魔理沙と幽香のスペルカード戦は、既に終盤に差し掛かっていた。

 新たな弾幕を放とうとする魔理沙の身体には、大技を支えるほどの余力はもうない。

 たとえ撃てようとも、その反動に耐えられず狙いを定めることすらできない。

 それ故、魔理沙が構えたスペルカードは個々の力は微小ながらも数で圧倒する弾幕だった。

 だが、重なり合った星々が描くのは、さっきまでの戦いのように計算され尽くした弾道ではない。

 戦略性など全くなく、数撃ちゃ当たると言わんばかりに放たれた弾幕である。

 既に魔理沙の身体が限界を超えているこの状況では、無駄に魔力を消費するが故に愚策にも思えるその宣言。

 それでも、その弾幕を放つ魔理沙の表情は満足気だった。

 それが魔理沙が自身の弾幕に「望む」あり方だったからだ。

 

 「弾幕はパワー」という合言葉のもとに、どんな相手でもまっすぐに威力と数で圧倒する。

 それが、魔理沙の弾幕ごっこの流儀だった。

 それは本来ならば幽香のように魔力量で他を圧倒できる者が放つべき弾幕であり、魔力量の劣る人間、ましてや頭脳戦を得意とする魔理沙には向かないはずの戦略である。

 だが、魔理沙はそれでもスペルカード戦においてその流儀を捨てようとはしなかった。

 理由は簡単。 その方が好きだから、それだけだった。

 たとえ緻密に計算された勝負を得意としようとも、魔理沙は計算上で自分の弾幕を運用することを好みはしない。

 これは楽しむための、弾幕の「ごっこ遊び」なのだから。

 

 ――だったら、楽しまなきゃ損だろ?

 

 そういう意味では、魔理沙は幻想郷で誰よりもスペルカードルールを楽しんでいる一人と言っていいだろう。

 その弾幕は、霊夢のように「弾幕の美しさ」で相手を魅了するものとは違う。

 「楽しむための弾幕」。 故に魔理沙と勝負した者は、弾幕の美しさではなく、何よりも楽しめる勝負そのものに魅了される。

 

 それは、幽香さえも例外ではなかった。

 

 「……はっ、随分と鈍ってきたじゃない! もう限界かしら?」

 「ははっ、何バカなこと言ってやがる。 まだまだこれからだっ!!」

 

 ――ああ。 そうでなくちゃ、面白くないわ!!

 

 迫りくる弾幕を避ける幽香の口からは、少しだけ笑みが零れていた。

 余裕の笑みでも挑発の笑みでもない。

 それは幽香が久しく忘れていた、楽しげな笑顔だった。

 

 まだ生まれたばかりの頃、生き抜くためにただがむしゃらに戦っていた。

 生死にかかわる状況ながらも、格上の相手に自らの全てを出し切り、戦いを経て新しい何かを得ていく喜びを感じていた。

 だが、幽香はあまりに大きな力と天賦の才を持って生まれついてしまったが故に、次第にその感覚を失っていった。

 自分の強さに気付いた頃、かつての強敵を前にしても、まるで虫を振り払うかのように蹂躙するようになった。

 大切なものに気付いた頃、それを守るためにあらゆる者を望まずしてただ痛めつけるだけになった。

 そして自分の弱さに気付いた頃、もう結果にしか興味を向けなくなった。

 幽香は、戦いに本気で楽しみを感じることなど、既に忘れていたのだ。

 

 だが、今は自身の限界の中で、魔理沙との戦いを心から楽しんでいた。

 生まれて間もない頃のように、相手を殺すためではなく自らが生き抜くために手段を尽くしていく。

 その頃の感覚を思い出すかのように、幽香は無邪気な心でもって戦いの過程に喜びすら感じていた。

 

 ――動きなさいよ。 もっと、もっと疾く――

 

 だが、たとえ抑えきれないほどに感情が高ぶっていようとも、もうその身体は思うように動いてはくれなかった。

 半身を潰された傷口を妖怪としての治癒力でふさいでいたものの、それは吸血鬼のようにすぐに再生はしない。

 灼熱に焼かれるような痛みが奥底から這い上がってくる感覚に、絶えず意識を持って行かれそうになる。

 もう休めばいい。

 死んだ方がまだ楽だ。

 だが、そんな思考はそれよりも遥かに大きな感情によって押しつぶされていく。

 それは、幽香が初めて感じる貪欲なほどの勝利への渇望だった。

 今までのように何かを守るために「負けられない」のではない。

 ただ、最高に楽しい勝負だからこそ「勝ちたい」。 ひたすらに弾幕を避け続ける幽香の心を埋めつくす思いはたった一つだった。

 

 当たったかのように見えた弾幕の数々を、幽香は掠りながらもギリギリのところで躱していく。

 貧弱な弾幕をグレイズするだけで激痛の走る身体を気遣うことなく、幽香はひたすら地を飛び進む。

 前へ。 ただ、前へ。

 弾幕から逃げるのではない、その弾幕を自らの手中に収めるように「攻略」していく。

 そして、やがて行く手を阻む流星群が空に溶けて消えた地で、幽香はゆっくりと口を開いた。

 

「……スペルカード、ブレイクね」

「ちっ!」

 

 幽香は残された両の足と痛々しいほどに割けた左手を駆使して跳び回り、魔理沙の弾幕を避けきった。

 これまでお互いに一枚も取得できなかったスペルカードを、遂に一枚打ち破ったのだ。

 

「さて、次は私の番ね。 スペルカード宣言、幻想『花鳥風月、嘯風弄月』!!」

 

 闇の力を失って自分の魔力がほぼ空となっているはずの幽香は、残された僅かな生命エネルギーすらも魔力に変換して弾幕を放つ。

 それに伴って幽香の身体を蝕んでくる激痛と苦しみは、麻薬のように脳内から分泌される高鳴りが掻き消していく。

 幽香が放つのは、まるで花火の中心にいるかのように空間から広がり咲いていく弾幕のつもりだった。

 だが、今幽香が放った弾幕の9割以上は不発の駄作だった。

 命の灯を削ってまで生まれた弾幕が貧弱で醜いものだと、放った幽香自身が一番よくわかっていた。

 それでも、その弾幕は今宵の空を照らすには十分な花を咲かせていた。

 

「っと、危なっ!!」

 

 魔理沙は躓いたように頭を下げ、目前に迫った花びらの舞いを避けた。

 ただの棒きれのような枝を片手に、大地を跳び回って幽香の弾幕を避け続ける。

 魔理沙はもう空を飛べないという訳ではないが、箒ではなくただの枝きれで飛んでいる現状ではうまく軌道をコントロールできず、無暗に飛べばかえって被弾しかねない。

 それ故に、弾幕が込み合ってきた時、即ち勝負所以外は最小限しか飛ばないようにしているのだ。

 だが、飛ぶことが前提であるスペルカードルールにおいて、それはあまりにハイリスクだった。

 

「くっ――――恋符、『マスタースパーク』!!」

 

 魔理沙を囲うように不可避の弾幕が迫った瞬間、魔理沙は残された魔力を振り絞って微弱な魔法波を放った。

 ヒビの入った魔理沙の骨を砕くように振動をもたらしたその光は、とても幽香の弾幕を打ち消せるほどの威力を秘めてはいなかったが、それでも魔理沙の目前に迫った弾幕は魔法波に掻き消されていく。

 だが、自らの放った弾幕を魔理沙に消し去られたはずの幽香は、なぜか満足気な笑みを浮かべていた。

 

 相手のスペルカード宣言中に自分が宣言するのは反則なのではないかとも思えるが、実はそうではない。

 今魔理沙が使ったのは、『ボム』というスペルカード戦の特殊ルールなのである。

 それを使えば、相手の宣言中に自身のスペルカードを使い、一定時間に限り弾幕を掻き消して無効化することが許される。

 そして、たとえ完全に掻き消すことができなかったとしても、ボムの使用中は弾幕に当たっても被弾扱いにはならないというルールだ。

 その使用可能回数は個人の申告によるが、スペルカード一枚あたり一回というのが一般的である。

 普通に考えればボムの回数が多い方が戦いにおいて有利ではあるが、それはあくまで緊急回避のための手段に過ぎない。

 

 スペルカード戦のルールは、相手の放つ弾幕に当たったら負けというものである。

 たとえまだ動けても当たれば負けとなるこのルールは、勝負をする者同士のプライドの上に成り立っていることは言うまでもない。

 そして、ボムというのは自分のプライドの高さを申告する特殊ルールなのである。

 相手がスペルカードを使用している間に一度でもボムを使えば、負けではないがそのスペルカードを取得することはできない。

 つまり、相手の技を完全に攻略したことにはならないのだ。

 それを使ってしまえばたとえ勝っても完全な勝利ではないが故に、プライドの高い者の中には絶体絶命の状況でもボムを使わなかったり、申告回数をそもそも0回にする者もいる。

 

 そして、魔理沙と幽香のボムの申告回数は共にスペル一つにつき一回という一般的な回数だった。

 魔理沙は幽香の1枚目、2枚目のスペルカードで1回ずつ、そして今も1回、全てのスペルで使っていた。

 つまり魔理沙は、この弾幕を消すことなく避け続けなければならない。

 そして、たとえ避けきったとしても、幽香のスペルカードを取得しての完全勝利はできないのだ。

 

 だが、そんなことは今の魔理沙にはどうでもよかった。

 この相手に、完全勝利などと言ってはいられない。

 ただ、どんな形であっても自分が勝つという目的のために、魔理沙は普段の冷静さすら失っていた。

 そして、それは幽香も同様だった。

 憎んでいる訳でも敵対関係にある訳でもない。

 それでも、心の底から勝ちたいと思える相手との勝負に、他の全てを忘れて没頭していた。

 

 2人はただ本能のままにその弾幕を放出し、ただがむしゃらに動き回って弾幕を避け続ける。

 脳内麻薬によって痛みを忘れた身体に鞭打って。

 魔力を使って無理矢理動かしている、既に細胞が壊死しかけている両手足の筋肉を蔑ろにして。

 

「――――っ!!」

 

 そして、先に限界が来てしまったのは幽香だった。

 弾幕を放った反動を支え続けてきたその足が、遂に体重を支え切れなくなって倒れ込んでしまった。

 

「まだよっ!!」

 

 それでも、そのスペルはまだ終わらない。

 不意に幽香が倒れ込んだことで発生した不規則な弾道は、ボムを放って消耗してしまった魔理沙の逃げ道を完全に塞ごうとしていた。

 

「だろうなっ!!」

 

 だが、魔理沙も幽香がそれで終わるなどとは思っていなかった。

 既に飛行もかなわぬほどボロボロの枝に最後の魔力を注いで加速し、退かずにあえて出始めに突っ込んで目の前の弾幕を避けようとする。

 幽香も再び立ち上がることすらできないその身体で残された腕を振り上げ、魔理沙を追撃する最後の弾幕を飛ばす。

 

「はあああああああああッ!!」

「っおおおおおおおおおッ!!」

 

 普段の花の妖怪からは決して聞くことのできない雄叫びは、それを引き出した人間の叫びとぶつかり合って辺りに響き渡る。

 最後の瞬間まで、両者共に自らの勝利を全く諦めてなどいなかった。

 その目の輝きはただ気高く美しく、ただ目の前の相手だけを強く見据えて……

 

 ……そして、満月を掻き消すかのように強く弾けた光が、ただ静かにその終幕を告げた。

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第19話 : 偽り

 

 

 

 

 

 

 その静寂は、さっきまで気にならなかった微かな物音をも際立たせていた。

 途切れることなく起こる息切れの音。

 速く、大きく高鳴る鼓動の音。

 目の前の相手が静かに地面に着地する音。

 そして、地にひれ伏した幽香の前に降り立った魔理沙は、おもむろに大の字に倒れ込んで言った。

 

「あー、くそっ! 私の負けか」

 

 魔理沙の口から、その言葉は自然と出てきた。

 だが、絶対に勝ちたかったはずの勝負の敗北宣言をした魔理沙の心は、不思議なほどに軽かった。

 悔しくない訳ではない。

 ただ、目の前の妖怪とこれだけの勝負を作り上げられた自分を誇らしく思うかのように、その気持ちは晴れやかだった。

 

「……随分と、あっさりとしてるのね」

「悔しいけど負けは負けだ。 それをちゃんと認められねーと、スペルカードルールの意味がないからな」

 

 最後に幽香が放った弾幕は、強く光って魔理沙を包み込んだ。

 それは後ろに下がって冷静に対処すれば避けきれない弾幕ではなかったが、あえて魔理沙は真っ向から立ち向かった。

 幽香は魔理沙の弾幕に真正面から突っ込んでスペルカードを取得したのだから。

 ならば自分も、幽香の渾身の弾幕から逃げたくないと思ってしまったのだ。

 その結果、魔理沙は避けきれずに被弾してしまったのである。

 

「なら、これで一勝一敗かしらね」

「ああ、そうだな。 今のところ引き分けって訳だ」

「じゃあ、ここで決着付ける?」

 

 幽香は余裕のありそうな声で言うが、その腕に力を込めても痙攣を起こしたように震えるばかりで、うまく立つことができなかった。

 魔理沙は少し苦笑して立ち上がり、幽香に手を差し伸べながら言う。

 

「いや、今日はやめとこーぜ。 お前ももう動けるような状態じゃないだろ?」

 

 そう言う魔理沙自身も既に膝が笑っていたが、せめてもう少しだけでも強がって見せようとしていた。

 だが、それを見た幽香は、少しだけ余裕の表情を浮かべながら鼻を鳴らして言う。

 

「……あら。 それは私も随分と舐められたものね」

「え?」

 

 幽香はその手を微かに上げたが、魔理沙の手をとらなかった。

 ただ、幽香がパチンと指を鳴らすとともに大地が揺れるように割れて、その隙間から数多の木や花が湧いてきた。

 

「え……っ!? な、何だよこれ!?」

「落ち着きなさい。 私の能力よ」

 

 そう言って、幽香は伸びてくる木や花に身を任せて目を閉じた。

 その表情は闘争心などもう感じさせないほどに、ただリラックスしていた。

 それに倣うように魔理沙も全身の力を抜くと、

 

「おっ。 おおおおおおっ!?」

 

 魔理沙は驚きの声を上げた。

 長く伸びた木の蔓が、幽香と魔理沙の傷口に沿うように絡み付いていく。

 そこから咲いた花の香が、魔力を満たしていく。

 そこから生えた薬草が、傷をあっという間に塞いでいく。

 そして、1分もした頃には魔理沙の魔力はほぼ回復して傷口も塞がっていた。

 

 その戦闘能力の高さのせいで忘れられがちだが、花の妖怪である幽香は『花を操る能力』を持っている。

 能力を使わない方が強いから幽香はそれを使わないのだと思う者もいるが、実はそうではない。

 幻想郷には、外の世界で忘れ去られた伝説上の植物が至る所に存在する。

 その丈夫で長い蔓や猛毒の胞子を、治癒や魔力補充効果のある薬草や花を、戦いの最中に自在に操ることができるのならば、それが弱い能力であるはずがない。

 それにもかかわらず、幽香は決してその能力を戦いには使おうとはしなかった。

 戦いの最中に使ってしまうということは、それが即ち花を傷つける行為に繋がりかねないからである。

 それを使えば更なる強さを手にできるにもかかわらず使わないのが、幽香の弱さであり、そして強さでもあった。

 魔理沙は痛みもなく開いたり握ったりできる自分の手を見ながら、感心したように言う。

 

「スゲーな。 もうほとんど元通りだぜ」

「まぁ、貴方の場合は傷も浅いし魔力の絶対量も少ないからね。 そんなのは、すぐに戻るわ」

 

 そう言う幽香の手はその場で元通りとまではいかないが、その場しのぎになる程度に木で形どられた義手がつけられていた。

 いくら妖怪といえども、吸血鬼とは違って失った手がすぐに生えてくるわけではないからだ。

 だが、幽香は致命傷だったはずのわき腹の傷などそもそも負っていなかったかのように塞ぎ、普通に立ち上がっていた。

 

「さて、これで元通りよ。 私も貴方も、存分に戦えるでしょ?」

「……ああ」

 

 そう言って幽香が手を伸ばすと、繭のように膨らんだ樹の幹が開いて中から愛用の日傘が出現する。

 それを取り出して、幽香は再び魔理沙に向き直った。

 魔理沙も立ち上がって身構える。

 そして、両者ともに動かないまましばらくの沈黙が流れて、

 

「……いえ、やめておきましょうか。 貴方にはもう魔法を使える媒体はないみたいだしね」

 

 幽香は少しだけ自嘲的な笑みを浮かべながら、魔理沙に向けて構えた傘をゆっくりと下ろした。

 

「だな。 まぁ、正直言うと箒もミニ八卦炉も無しじゃ勝てる気がしないしな」

「でしょうね。 そんな状態の貴方に勝ったところで何も嬉しくはないわ」

「ははっ、そうか」

「だから、リベンジしたかったら相手してあげるから、いつでもかかってきなさい」

 

 そう言い残して、幽香は一人踵を返す。

 もうこれで終わりと言わんばかりにそっけなく背を見せた幽香を前に、魔理沙は少しだけ迷ったように立ち尽くす。

 それでも、やがて何かを思い出したように走り出し、幽香を呼び止めた。

 

「幽香! あのさ、頼みがあるんだが……」

「断るわ。 今日は、他にすべきことを思い出したから」

「え?」

 

 幽香は振り返らずにそう言った。

 だが、魔理沙に声をかけられるのを予想していたかのように、幽香の歩みは止まっていた。

 そして、少しだけその口角を上げて振り返り、

 

「……ねえ、魔理沙――」

 

 その声とともに、魔理沙は背筋をヒヤリとしたものが走った気がした。

 初めて幽香に自分の名を呼ばれたことにも気がつかないほどに、強大で妖艶な笑みは魔理沙を戦慄させていた。

 

「私はこれから、私を利用しようだなんて考えた身の程知らずを潰しに行くんだけど、貴方はどうするかしら?」

 

 そこにあったのは、目の前にすれば裸足で逃げ出したくなるほどの妖気を纏った、紛うことなき大妖怪の姿だった。

 改めてその正面に立った魔理沙は、自分は今までこんなのを敵に回していたのかと、自分自身が恐ろしくなった、

 だが、そこにあったのは恐怖の感情だけではない。

 その強さを知っているからこその、頼もしさを感じていた。

 

「……ああ。 いいぜ、それなら私も――」

 

「って、待ちなさーい!」

「え……?」

 

 だが、幽香に応えようとした魔理沙に突然ツッコみが入った。

 聞き間違えるはずもない。 それは小悪魔と美鈴を背に、呆れた目をしたアリスの声だった。

 

「アリス?」

「何でいきなり特攻かける話になってんのよ。 あんたは藍から博麗大結界のこととかいろいろ聞いてたんじゃないの?」

「え? ……あーっ!! そうだ、忘れてた…ってかアリス、何でそれを?」

「そんなのは、あんたの懐に小型の人形一体入れとけば何とかなるのよ。 まったく、これだから脳筋どもは」

 

 アリスはいろいろと面倒そうな顔をしながら、大きくため息をついていた。

 いきなり現れて不平を言うアリスに文句の一つでも言おうと思った魔理沙だったが、ついさっきまで険悪な雰囲気だったことも忘れるほどいつも通りのアリスを前に、安堵の表情を浮かべる。

 だが、突然のアリスの登場に、幽香はなぜかあからさまに不機嫌な表情になっていた。

 

「ま、とりあえずいきなりルーミアにケンカ吹っかけるのは禁止ね、禁止。 どうせ返り討ちに遭うのがオチよ」

「……はあ? 何で貴方がそんな――っ!?」

「ああ、口答えしない方がいいわよ。 スパーンと飛ぶからね、主に首とかが」

「ちょっ、アリスさん!? 何やってんですか!?」

 

 いつの間にか、アリスが人形を操る糸を幽香の首に巻きつけていた。

 それを見た美鈴は、焦ったようにアリスを止めようとしていた。

 直接幽香と対峙した美鈴には、そんな糸など幽香の前では輪ゴム程度の強度でしかないことがわかっており、ただ徒に幽香の機嫌を損ねる行為だと思ったからだ。

 そして美鈴が危惧した通り、幽香は自分の首に巻きついたその糸を素手で引き千切ってアリスを睨みつける。

 

「何のつもり? こんなもので私を…」

「わかってるでしょ、あんたなら。 逆らったら刎ねるって言ってんのよ、あんたの命を」

「っ……」

 

 魔理沙たちは、アリスと幽香が何を言ってるのかわからなかったが、無言のまま幽香の不機嫌さだけが一気に増大していることだけはわかった。

 今まで以上に禍々しく膨れ上がった妖力をアリスに向けている幽香を前に、魔理沙たちは焦りを隠せなかった。

 このまま幽香を怒らせ続ければ、アリスの命が危ないと思ったからだ。

 だが、そんな魔理沙たちとは対照に、幽香を挑発するアリスの態度はまるで平凡な何かを見るかのように白けきっていた。

 そして、なぜか幽香は諦めたようにため息をついて言った。

 

「……はぁ。 その性格、相変わらずみたいね。 そんなだからろくに友達もできないのよ」

「え?」

「よけいなお世話よ。 っていうかあんたにだけは言われたくないわ、お花だけがお友達のメルヘン妖怪」

「え? え?」

「あら、それを言うなら貴方は生物ですらない人形に話しかける痛い妖怪かしら」

「はあ?」

「何よ?」

 

 なぜか火花を散らすように睨み合う2人。

 突然口喧嘩を始めたアリスと幽香を前に、魔理沙たちは訳がわからずポカンとしていた。

 

「おいアリス、お前幽香と知り合いなのか?」

「知り合いってよりも……そうね、なんていうのかしら…」

「ただの腐れ縁よ」

「それよ」

 

 そう言うアリスと幽香の口調は、長年の付き合いを経てきたかのように軽いものだった。

 だが、そこにあるのはどう見ても信頼関係や友人関係ではなかった。

 お互いに、相手をすることすらも億劫だと言わんばかりの険悪な雰囲気だった。

 そして、幽香は疑い深い目をアリスに向けて言う。

 

「で? そうまでして私を阻止して、貴方は一体何が目的なのかしら?」

「んー。 っていうか何を強がってるのか知らないけど、ぶっちゃけあんたは今のルーミアが自分の手におえる相手じゃないことくらいわかってんじゃないの?」

「はあ? 私があんな低級妖怪ごときに? ……ってよりも、なんでさっきからそんな奴の話ばっかり出てくるのよ」

「……え? もしかして知らないで言ってたのか? あいつは紫や映姫が昔封印した邪悪で、この異変の黒幕なんだぜ」

 

 魔理沙は意外そうな顔をして言った。

 それを聞いた幽香は少し納得がいかない表情で、それでも冷静に考え込む。

 

「ふーん。 あんなのが、ねえ……」

「ってよりも、正直お前がそれを知らないってことがビックリだぜ」

 

 確かにレミリアはルーミアのことを知っているようだったが、にとりはルーミアのことを知らなそうだったため、支柱が全員ルーミアを知っている訳ではないと考えられる。

 もっとも、魔理沙は幽香の支柱としての格がレミリア以下だと思ってはいなかったので、にとりと同じくルーミアを知らないことに少しばかりの違和感はあった。

 そして、幽香が何気なく放った次の一言で、魔理沙は混乱することになる。

 

「まぁ、私に直接接触してきた奴は誰の代理人かは名乗らなかったからね」

「え?」

「代理人?」

「ええ。 昨日、闇の能力を纏ったエージェントを名乗る奴が来たのよ」

「昨日? それって……昨日の時点でルーミアの復活に加担する奴がいたってことか!?」

 

 さとりや藍の話から判断すると、邪悪への感染は地上に出てきた怨霊によってもたらされると考えられる。

 そしてその邪悪が復活したのは今日のことだから、幽香はルーミアから直接闇の力を得たのではなく、偶然闇の能力に感染しただけなのだと魔理沙は勝手に理解していた。

 だが、実際には偶然ではなく、エージェント(代理人)として恣意的に幽香に力を与えた何者かがいたという。

 

「……要するに、怨霊に溶けた能力を逸早く手中に収めて異変を起こした……邪悪の復活を助長した本当の元凶がいるって訳ね」

「多分、そういうことになるのかしらね。 だから、私はルーミアなんかじゃなくてそいつを潰すつもりだったのよ」

「ちょ、ちょっと待てよ! 誰なんだよそれは!?」

 

 魔理沙が焦ったように幽香を問い詰める。

 それに対して、幽香は少しだけ首を傾げながら曖昧に答えた。

 

「さあね、名前は知らないわ。 ただ、異常に大きいリボンを緑の髪に付けた厄神よ。 っ……ああ、やっぱり思い出すだけで寒気がするわね、あの気味の悪い笑みは」

「大きいリボンをつけた緑髪の厄神? それって……まさか、雛のことか?」

 

 魔理沙の口調は、何か信じられないというものだった。

 だが、アリスはそれを最悪のパターンとして予想していたと言わんばかりに、ゲンナリとした顔で頷いていた。

 

「はぁ……やっぱり、鍵山雛か。 多分そいつで間違いないわ」

「何で雛が……ってアリス、間違いないって、何か雛のこと知ってんのか!?」

「あんたから話に聞いてただけよ。 ほら、守矢の異変の時に勝負したんでしょ?」

「え? そうだけど、何で…」

 

 魔理沙がにとりと初めて会った時、その直前に戦った厄神。

 アリスは、直接会ったことはなくても魔理沙から雛のことを少しだけ聞いたことがあった。

 

 雛は、流し雛の厄を始めとしたあらゆる厄を集めて自らの力とする厄神である。

 基本的に温厚で人間に対しても友好的な性格とされるが、その話題が日常会話に現れることはない。

 なぜなら、厄神である雛には近づくことはおろか、その話題を口にするだけで不幸に襲われるとされるからである。

 それ故に、雛の話題を誰かが好んですることはなく、その『厄をため込む能力』を深く考察する者はほとんどいないのだ。

 だが、アリスはその能力を、地底で異変の話を聞いた時点で既に警戒していた。

 

「地底で話を聞いた時、おかしいと思ってたのよ。 この異変の原因になったのは地底から湧き出した怨霊だったはずなのに、そもそも地上で怨霊を見かけないのが」

「え? ……あ、そういえば確かに全然見つけてないな」

「だけど、鍵山雛が地上に出た怨霊の全てを厄として収集していたとすれば、そして力を与えたい相手にそれを憑りつかせていたとすれば、ある程度の辻褄が合うわ」

 

 本来なら、わざわざ感染者を探さなくとも怨霊を始末すれば犠牲者を減らせるはずだった。

 だが、藍は魔理沙たちに怨霊ではなく感染者を捕えるようにと言った。

 藍たちに怨霊を始末できない理由が何かあれば別だが、そもそも怨霊を地上で発見すること自体ができなかったのだと考えれば、地上に出た怨霊を収集・管理する者がいたことが予想できる。

 そして、自身が感染せず確実に怨霊を集められる者として、アリスは真っ先に厄神である雛の存在を頭の片隅においていたのだ。

 それを聞いた小悪魔が、恐る恐るアリスに尋ねる。

 

「……じゃあ、もしかしてその厄神さんがこの異変の本当の首謀者なんですか?」

「その可能性は十分に考えられるわ。 鍵山雛には、この異変を起こす動機もあるしね」

「動機?」

「ええ。 厄神の目的は厄を集めることよ。 そしてこの異変はただでさえ異常な厄を抱えた怨霊が地上に放出されて、計り知れないほどの負の感情を、厄を生み出しているわ」

 

 神の存在の大きさというのは、確かに元々その神が持っている力や格にも左右される。

 だが、周囲の状況や他者の心情も神の持つ力に大きな影響を及ぼす要素であり、必要不可欠なものなのである。

 例えば神奈子や諏訪子も、自身の存在の証である「信仰」が外の世界で薄まったために力を失い、新たな信仰を得ようと幻想郷に移転してきたのだ。

 つまり、最高位の神ですらも、その力の大きさは信仰という第三者の要素に大きく左右されると言ってよい。

 

 そして、雛の存在の源となるものは世界に存在する厄、生きとし生ける者全ての抱く負の感情だった。

 それ故、多くの人が不幸となり世界を覆う厄が増える異変は、雛にとって歓迎すべき事態なのだ。

 

「でも待てよ。 この異変で雛が敵だとしたら……厄介ってレベルじゃねーぞ!?」

 

 魔理沙が何かに気付いたように言った。

 闇の能力は、負の感情を糧に力を増していく能力。

 雛の能力は、幻想郷中の厄、即ち負の記憶を収拾して溜め込む能力である。

 この異変で増殖した全ての厄を雛が集めて自らの力の原動力とできるのならば、いくら元々強力な力を持つとはいえ一個体である幽香やレミリアとは比較にならないほど強大な存在となりかねない。

 要するに、雛の能力と闇の能力は相性が良すぎるのだ。

 

「……でもね、よく考えてみて魔理沙。 逆に言えば紫たちがそんなことにすら気付かない訳がないのよ。 だから、普通なら真っ先にそいつは確保されてるはずなんだけど」

「あ、確かに。 だったら、どうして……」

「さあね、憶測でならいくらでも可能性はあるわ。 鍵山雛が何らかの手段を使って紫たちの目を逃れていたかもしれないし、実は紫たちに何かしらの思惑があって鍵山雛を野放しにしていたのかもしれないしね」

「つまり、現状では何もわからないってことか」

 

 雛が異変の元凶である可能性も、雛の能力を利用して紫たちがまだ秘密裏に何かを進めていた可能性も、現時点で否定できる材料はなかった。

 魔理沙と小悪魔は考えれば考えるほど混乱していく。

 途中で会話から置き去りにされた美鈴と幽香に至っては、既に考えてすらいなかった。

 次第に言葉を発する者はいなくなり、辺りにはただ沈黙だけが流れる。

 

「ま、でも正直そんなことを憶測で話していてもしょうがないわ」

 

 そこで、アリスは皆の注目を集めるようにパンと手を叩いて言った。

 

「たとえ何が起こってるとしても、今はこんなところで無駄にしている時間は無いわ。 藍に言われたとおり、さっさと博麗大結界を構築しなきゃならないんだから」

 

 アリスは博麗大結界の構築という大仕事のことを、まるでちょっと参拝に行くくらいの口調で言った。

 それを聞いた魔理沙の目は、期待に輝いていた。

 

「もしかしてアリス、お前博麗大結界の構築もできるのか!?」

「できないわ」

「えっ?」

 

 アリスは即答した。

 そして、当然のように魔理沙と幽香を指さして言う。

 

「あんたたちでやりなさい。 魔理沙、幽香」

「はあ?」

「ま、待てよ。 アリスができないのなら、幽香はともかく私ができる訳ないだろ!?」

「でも、霊夢はノリでできたって聞いたわ、初めてやった時にね。 なのにあんたはできないの? 自称博麗霊夢のライバルのあんたは」

「いや、それは……」

 

 魔理沙は突然アリスにそう言われて次の言葉に詰まる。

 霊夢ができるのなら魔理沙もできるのではないかというのはあまりにも乱暴な理論だが、アリスが魔理沙を推した理由はちゃんとあった。

 霊夢だけでなく、紫や歴代の博麗の巫女ができたことからも、博麗神社、ひいては幻想郷に縁の深い者の方が結界を構築しやすいことが考えられる。

 だから、アリスは頻繁に博麗神社に通っていた魔理沙や、幻想郷の創設期からの古参妖怪である幽香なら、少しでもその感覚を掴んでいるのではないかと思ったことも理由の一つなのだ。

 

「はい、じゃあ決まりね。 今の結界が完全に消える前に博麗神社に急ぎましょう」

「待てよ、そんなのもしできなかったら…」

「そしたら、幻想郷が滅ぶか、少なくとも大変なことになるわね。 あんたたちのせいで」

「えー」

 

 幽香は露骨に舌打ちしていたが、なぜか諦めたように反発はしなかった。

 その一方で、魔理沙は自分がアリスに急な要請をしたことを棚に上げて困った顔をしていた。

 だが、ちょっと前に見たアリスの冷たい態度を思い出して、アリスを失望させるようなことを言うこと自体も怖がっていた。

 魔理沙は腕を組んだまま、しばらくの間唸るような声を上げる。

 そして、しばらく迷った挙句、絞り出すように遠慮がちに言った。

 

「……でもさぁ、藍は高い知能を持つ奴の方が可能性は高いって言ってたじゃん? だから、私よりもアリスの方が確実に…」

「ああもう、うじうじと面倒くさいわね。 あんたがそういう態度なら……」

「って、うわっ!?」

 

 そんな魔理沙の煮え切らない態度に痺れを切らしたアリスが、苛ついた表情で再びその指に付けた糸を張り巡らせる。

 すると、槍を持った小さな人形たちが魔理沙を囲い込むように飛び出した。

 それを操るアリスは、いつものような適当な声で魔理沙に言う。

 

「もう面倒だから5秒以内に決めなさい。 やるか、やらないか」

「ちょ、ちょっと待てよアリス、そんなこといきなり言われても…」

「ほら。 ごーぉ、よーん、さーん…」

 

 アリスが魔理沙を急かすようにカウントする。

 それに伴って魔理沙を囲う人形の槍が首元に近づいていく。

 だが、すっかりいつもの調子に戻ったアリスを前に、魔理沙の表情ははそんな状況の中でむしろほっとしたように和らいでいく。

 幽香はそんなアリスと魔理沙の掛け合いを、冷めた目でじっと見たまま微動だにしない。

 美鈴と小悪魔も、いつもと何一つ変わらないその光景を、苦笑しながら見ているだけだった。

 そして、刺さるほどに人形に近づかれた魔理沙が気楽な声を上げると同時に、

 

「にーぃ、いーち…」

「はいはい、わかっ…」

 

「――――隙ありっ!!」

 

 その声は、あまりに突然聞こえてきた。

 アリスの真後ろ、そしてこの中で最も早い反応速度を持つだろう幽香からはアリスの陰で見えない位置。

 気配もなくそこに現れた少女の手には、鈍い光を放つ何かが握られていた。

 

「アリスさんっ!!」

 

 偶然そこに目を向けていた小悪魔が、反射的に飛び込んでアリスを突き飛ばす。

 その瞬間、アリスを庇った小悪魔の胸には刃物のようなものが突き刺さり、その魔力が急速に失われていった。

 

「え……?」

「ぁ、ぐ……」

「小悪魔っ!?」

 

 青ざめた顔でゆっくりと倒れ込む小悪魔からは、明らかに生気が失われていた。

 その小悪魔の姿が視界に入ると同時に、魔理沙は周囲の人形を振り払って小悪魔に駆け寄る。

 突き飛ばされて倒れかけたアリスも体勢を整えてすぐに振り返ると、そこには小悪魔に何かを突き立てたまま微かな笑みを浮かべているこいしの姿があった。

 

「ちょっと、あんた一体何を――」

 

 そして、その場の誰もが突然現れたこいしに意識を奪い取られると同時に、それは起こった。

 

「ぁはは」

「え?」

 

 こいしの方に振り返ったアリスの背後に突如として現れたのは、見覚えのある吸血鬼の姿。

 全てを焼き尽くす灼熱の鎌を構えたフランの姿だった。

 突然のことに呆気にとられた魔理沙たちは、瞬時に冷静な判断をすることができない。

 

 ただ、微かに聞こえてきた笑い声とともに――

 

「あはははははははははは」

「アリスっ!!」

「っ――――」

 

 いつの間にか、アリスの首が飛んでいた。

 その直前に響いたのは、消え入りそうなアリスの呟き。

 

「―――せ」

 

 アリスが何を言ったのかは、フランの笑い声に掻き消されて聞き取ることができなかった。

 それでも、それと同時にアリスとフランの姿は灼熱の火柱に包まれる。

 

「ぁ、うわああああああああああっ!?」

 

 辺りには魔理沙の悲鳴が響き渡る。

 力を失った小悪魔の姿は、既に消失していた。

 そして、ほんの2,3秒だけ上がった火柱が消えた跡には、アリスとフランの姿はなかった。

 そこに残るのは、ほんの微かに燃え損ねた灰の欠片だけ。

 それすらも、辺りに吹く微弱な風に吹かれて消えていく。

 魔理沙はただ泣き叫ぶばかりで、その目には何も映っていない。

 美鈴もただ呆然と立ち尽くすだけで、こいしに向かって身構えることすらできない。

 ただ、幽香だけが一人息をのんでその状況に備えていた。

 

「っ……」

「あ、別に身構えなくても貴方には手を出さないよ。 私の目的に、貴方たちは含まれてないから」

 

 そうサラッと言って、こいしは何事もなかったかのように目線を魔理沙に移す。

 それに気づいた美鈴が、ハッとしたように声を上げる。

 

「魔理沙っ、逃げて!」

「なんで……なんでっ、お前はああああああああっ!?」

 

 だが、冷静さを失った魔理沙はそのまま全力でこいしに飛びかかっていた。

 その様子をにやついた表情で見つめていたこいしの姿は次の瞬間、魔理沙の視界から消える。

 その記憶も、消える。

 そして、誰に向かって飛んでいたのかすらもわからなくなって僅かに魔理沙の軌道が逸れると同時に、

 

「あっ……」

 

 魔理沙の顎先を、薄皮一枚だけ掠めるようにこいしの拳が振われる。

 それは小刻みに人間の脳を揺らして無力化する、達人の技だった。

 脳を揺らされてまっすぐ立っていることすらできなくなった魔理沙はそのまま倒れ込み、それでもこいしに振り返ってその姿を目に焼き付けようとする。

 

「任務完了、っと。 じゃあね、魔法使いさん」

「待て、よ……」

 

 だが、小馬鹿にしたような微笑とともに、次の瞬間こいしの存在が世界から消えた。

 魔理沙は何が起こったかもわからない。

 いや、覚えていないと言った方が正しいだろう。

 ただ、朦朧とする意識の中そこに残っていたのは、何者かに小悪魔とアリスが殺されたという事実だけだった。

 目の前でそれが起きていながらも、自分が何もできなかったという記憶だけだった。

 

「ちく、しょう…」

 

 そして、流れ出る涙を止められないまま魔理沙の意識は途絶えた。

 

「……え、何? 何が起こったの?」

 

 呆然とそう言う美鈴の表情には、悲しみの一欠片すらも見られない。

 あまりにも突然目の前で起きて、気付いた時にはもう終わっていたその出来事を未だに理解しきれていないのだ。

 さっきまで気楽に見ていた、アリスと魔理沙が言い合っているいつも通りの光景。

 そこからほんの1分も経たない内にアリスと小悪魔の姿が消えて、魔理沙が気絶している状況。

 その落差は、美鈴から冷静な思考の一切を奪っていた。

 

 ――目的に、私たちは含まれていない? だったら――

 

 だが、幽香だけは一人冷静に状況を分析しようとしていた。

 こいしの存在を忘れてしまった今はもう、誰が放ったかすらもわからないその言葉。

 その目的を、理解することはできない。

 それでも確かに一つ分かるのは、こいしの目的がアリスと魔理沙に向けられていただろうこと。

 

 ――だったら、なぜ姿を消したまま実行しなかった?

 

 だが、幽香の頭には違和感があまりに強く残っていた。

 確実にアリスや魔理沙の命を狙うつもりならば、直前にわざわざ声を出して幽香に介入する隙を与えるはずがない。

 ましてや、小悪魔ですら反応して動けるようなお粗末な襲い方をするはずがない。

 ならば、その目的には……

 

「……ねえ、さっきの赤髪の子は誰の使い魔だったのかしら」

「え? あの、今、一体何が…」

「いいから、答えなさい」

「……えっと、こあ…小悪魔はパチュリー様の…」

「そいつは今どこに?」

「確か、ルーミアって妖怪と交戦中だと…」

 

 ――なるほどね、この状況は――

 

「……やっぱり、出来すぎよね」

「え?」

 

 そう言って、幽香は異常なほどの苛立ちを含めた目をゆっくりと閉じて辺りの微かな魔力の流れに集中するとともに、ある事実を確信する。

 そして、舌打ちしながら気絶した魔理沙を拾い上げ、そのまま一人で走り出した。

 美鈴も慌ててそれを追うように走り、幽香を問い詰める。

 

「え? ま、待ってください! 一体どこ、に…」

 

 だが、そこまで聞きかけて、美鈴から血の気が引いたように声が途切れる。

 幽香の目は冷淡で、それでいて何かを睨むように鋭く見開かれていた。

 さっきまでのように、闇の力に支配されているわけではない。

 ただ、そこにあるのはたった一人の対象に向けた、幽香自身の確かな怒りの感情だった。

 

「博麗神社よ。 気に食わないけど、色々と無駄にならないようにあの詐欺師の計画に乗ってやるのよ」

「……え? もしかして、さっき何が起こっていたのか知ってるんですか!?」

「ええ。 完全に理解してる訳じゃないけど、だいたいの予想はできるわ」

「っ!!」

 

 それを聞いた美鈴の拳が強く握りしめられる。

 いつの間にか友人を目の前で殺されていた美鈴には、何が起こったかわからなくても、ただその相手への怒りだけは抑えることができなかった。

 

「じゃあ、一体誰が……誰がこあとアリスさんを!!」

「……使い魔が消えると、その記憶が情報となって主の元に還ることは知ってる?」

「え?」

「その性質を利用して、魔力を無駄に浪費する使い魔に必要な情報を与えてから消させる」

「ま、待ってください。 貴方は一体、何を言って…」

 

 美鈴が力を込めて握りしめた拳は、行き先を失って少しだけ緩んだ。

 それに気づいてか気付かずか、幽香は一人淡々と進める。

 

「魔理沙の退路を断つために邪魔になった人形を、その記憶に刻み込むように目の前で消させる。 そして残りの計画を継がせるために、幻想郷全ての花を人質にとって私を使役する。 あいつは自分の描く最善のシナリオのために、それを顔色一つ変えずに「演出」できる奴よ」

 

 そう断言する幽香の口調は、確信めいていた。

 あの一連の流れの中で幽香はこいしを警戒していたように見えて、実はこいしには終始注意を向けていなかった。

 その気になればこいしを止めることもできたかもしれないのに、あえて動かなかった。

 そうする必要があることを知っていたからだ。

 一度は自分を追い詰めたほどの実力者であるこいしを、あの状況で度外視してでも警戒すべき、常識から外れた存在を知っていたからだ。

 だが、幽香の言ったことの意味を理解しきれなかった美鈴は、怪訝な表情を幽香に向けながら聞く。

 

「どういう意味ですか? 演出って……それじゃあまるで…!!」

「ええ。 多分、今貴方が考えた通りよ」

「そんな……なんでそんなことをする必要があるんですか。 だいたい、なんで貴方にそんなことがわかるんですか!?」

「ずっと昔から、あいつのことを知ってるからよ。 私がこの世で一番嫌いで警戒する相手だからこそ、何を考えてるかも、この状況で私に何をさせたいのかも少しなら予想できるわ」

「え? 貴方が、警戒って…」

「ああ、多分貴方は何も知らないんでしょうね。 じゃあ、ちょっとだけ面白い話を聞かせてあげる」

 

 面白い、と言った幽香の目は笑っていなかった。

 魔理沙を抱えたまま、苛立ちをぶつけるように地を強く蹴りながら、幽香は静かに話し始める。

 

「魔界って知ってる? 幻想郷とはまた別の、妖怪たちが住むとある世界のこと」

「……何の話ですか? それが今本当に必要な…」

「いいから答えなさい」

 

 少しだけ幽香に怪訝な目を向けて言った美鈴だったが、幽香の真剣な眼差しを感じてそれに返す。

 

「……聞いたことくらいは、あります。 確か一昔前、魔界の妖怪たちが幻想郷に攻め入ったことがあるってことも。 それを、貴方が一人で制圧したとか」

「まぁ、一般に知られてるのは大筋そういう話になってるみたいね」

 

 それは、幽香の名を最強の妖怪として知れ渡らせる最大の要因となった異変だった。

 当時、幻想郷と同等の勢力を誇ると言われていた魔界。

 そこから溢れ返るほどに出てきて幻想郷を、幻想郷の花を荒らしていた妖怪たちを、幽香がたった一人でこらしめて魔界を制圧してきたという話が広まったのである。

 

「でも、それが何ですか? 貴方はこの状況で、そんな自慢話がしたいんですか?」

「いいえ、そんなのはとても自慢になんてならないわ。 そこにいた妖怪たちは、平和ボケした名ばかりの魔界の神が創った烏合の衆に過ぎなかったからね」

「え? ……じゃあ、その頃の魔界の妖怪たちが幻想郷と渡り合えるほどの勢力があったっていう話は嘘だったんですか?」

「いいえ、一概に嘘とは言えないわ」

 

 美鈴は、幽香の言うことの意味がわからず疑問の表情を浮かべていた。

 この状況では関係ない話だと思って今まで適当に聞いていた美鈴だったが、気になってその続きを聞いてしまう。

 

「だったら、どうして……」

「その烏合の衆の中に、たった一人で魔界の評価を塗り変えられるほどの異端がいたからよ」

「異端、ですか」

「ま、そいつは私や鬼みたいに、その力が表立って恐れられていた訳じゃないけどね」

「……でも、にわかに信じられない話ですね。 それに、結局そいつも貴方が退治したんですよね?」

 

 美鈴は胡散臭いと言わんばかりの眼差しを幽香に向けていた。

 現在ほどの勢力はなくても、それでも妖怪の山を筆頭に多くの屈強な妖怪や、吸血鬼までも存在していたその頃の幻想郷。

 それと対等な評価を得るほどの力を、たった一人で持っていたという存在を想像することはとてもできなかった。

 だが、美鈴にそう言われてしばらくの間何かを躊躇うように黙ってしまった幽香は、やがてその重い口を開く。

 

「……白状すると、ね。 私はそいつを退治してなんかいないわ」

「え?」

「むしろ、それを退治しきれずに幻想郷に解き放ってしまった私は、魔界を制圧した最強の妖怪だなんて分不相応な評価を本来は受けるべきじゃなかったのよ」

「幻想郷に解き放ったって……っ、まさか、それって!?」

 

 だが、幽香が少しだけ何かを悔むように言ったそれを聞いて、美鈴はやっと理解する。

 幽香がこの状況で、こんな話を持ち出してまで言いたかったことを。

 今まで誰一人として知る由もなかった、平穏な日常の中にあった偽りを。

 

「ええ。 有象無象に紛れながら策謀を巡らせて世界を欺き、生みの親や自分自身さえも簡単に切り捨てて無機質に最善の結果のみを創り続けた、旧魔界の陰の支配者」

 

 冷たい目で語る幽香の声を聞きながら、美鈴はゴクリと唾を呑む。

 そして、幽香は吐き捨てるようにその名を口にした。

 

 

「冷徹の禁呪使い――『魔神』アリス」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中編ノ弐 ~支配~ 
第20話 : 階級社会


 

 守矢神社から遠く離れた森の中。

 早苗はそこで、両手両膝をついた体勢で泣き崩れていた。

 守矢神社の巫女として神奈子と諏訪子を祀ってきた早苗には、2人の力を感じることができる。

 それがついさっき、ほぼ同時に消滅したことに気付いてしまったのだ。

 

「嫌ぁぁ。 神奈子様、諏訪子様、お願いです、応えてくださいよ。 なんで、なんでぇっ……」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった早苗の顔は、それに加えて地面の泥にまみれて、もう目も当てられない状態だった。

 だが、文はそんな早苗の隣で一人佇みながらも、何一つとして慰めの言葉をかけなかった。

 そして、早苗に背を向けたまま言う。

 

「私はもう行きます。 早苗さんは…」

「っ!!」

 

 文の声は、平淡だった。

 そんな文の冷静な声を聞いた早苗は、激昂するように文の首元に掴みかかった。

 

「なんで、逃げたんですか……?」

 

 文は何も答えない。

 ボロボロの服を纏い、流しすぎた涙で目を赤く腫らした早苗は、声を荒らげて文を捲し立てる。

 

「あの状況で、なんでそんな風に逃げられたんですかっ!?」

「……」

「いいですよね……関係ないから、射命丸さんには神奈子様のことも諏訪子様のこともどうでもいいんですよね。 だけど……だけど私には大切な――っ!!」

 

 その途中、パンッと乾いた音が響き、早苗の声が遮られる。

 頬を叩かれて尻餅をつくように倒れた早苗は、逆に文に掴みかかられていた。

 

「……泣きたいのがっ」

「射命丸さん……?」

「泣きたいのが、自分だけだなんて思わないでください!!」

「あ……」

 

 早苗はそう言われてようやく、あの場でやられたのが神奈子と諏訪子だけではなかったことを思い出す。

 文も、目の前で椛が消えていく所を見てしまった。

 親友が伸ばしかけたその手が、文のことを巻き込まないようにと自ら闇の中に崩れ落ちていった様を目に焼きつけてしまっていた。

 ほとんどの天狗仲間たちが消され、萃香が消され、椛が消された文には、もう何も残されていなかった。

 この異変で、誰よりも辛い思いをしている一人であるはずなのだ。

 

「……今、泣き言を吐いていてもしょうがありません」

 

 それでも文は前を向き続けていた。

 それが、文の強さだった。

 1000年以上も生きる妖怪の、決して折れぬ心の強さだった。

 だが、年齢としては普通の高校生と変わらない早苗が、簡単にそんな強さを持てるわけがなかった。

 早苗はただ一人、何も言えないまま呆然とそこに座り込んでいるだけだった。

 そんな早苗に向かって、文は一冊に纏められた資料を投げ渡す。

 

「……これは?」

「彼岸から持ち帰った、ここ5日分の幻想郷の死者名簿です。 さっきのスペルカード戦の後に、私がまとめておいた分です」

 

 なぜ今それを渡されたのかはわからないが、早苗は霞む視界の中でその名簿をめくっていく。

 しかし、無言のままおよそ数十ページに渡るそれをペラペラとめくっていくうちに、早苗の表情が少し怪しむようなものに変わっていく。

 

「これ……全部じゃないですよね? 日程が抜けてるとか、人間の分だけとか」

「いえ、それで全部です」

「そんなはずないじゃないですか。 だって、ここには紫さんの名前どころか天狗の方たちの名前すら一つも……っ!!」

 

 早苗が、そこまで言って固まる。

 小町と会った時に、その可能性は僅かにあると思っていた。

 それを今までずっと忘れていた。

 

「そうです。 この異変による犠牲者の名前は、恐らくそこには載っていません。 私の勝手な想像ですが……あの黒い何かに飲み込まれた人が、死ぬこともなく中に閉じ込められているのかもしれません」

「ってことは……」

「ええ。 椛や洩矢様たちも、紫さんや天狗たちも、もしかしたら萃香さんや閻魔様すらもまだ生きているという希望はあります」

 

 だが、それはあくまで希望的観測に過ぎなかった。

 それがほんの僅かな可能性に過ぎないことを、文もよくわかっていた。

 それでも、今はそれを信じて進むしかなかった。

 

「だから、こんなところで泣いているような無駄な時間はありません。 私は一刻も早く異変の解決に向かいます」

 

 文は既に一人立ち上がっていた。

 だが、異変解決に向かうなどと簡単に言った文に、現状を知らない早苗は少しだけ怪訝な表情を浮かべて聞く。

 

「……待ってください。 今まで射命丸さんが私に話したことは、射命丸さんが知ってる全てではありませんよね」

「そうですね」

「だったら、あの時守矢神社で一体何が起こっていたのか、私にも教えてくれませんか?」

「ええ、いいでしょう」

 

 神奈子たちすらいない今、もう早苗に現状を隠す必要はなかった。

 文は、自分の知ることをできる限り手短にまとめて早苗に伝える。

 紫や映姫が封印した邪悪の要素の一つが、恐らくはルーミアの中に封印されていただろうこと。

 チルノがその邪悪の原動力となる闇の支柱として既に十分な力を完成させていただろうこと。

 そして、それらを科学の力を用いて消滅させようとしていたこと。

 

「ですが、なぜか計画は上手くいかなかったようです。 計画通りに進んでいたのなら、守矢神社内に設置した装置の作動中に神社付近でルーミアさんを……消滅、させれば、それで終わりだったはずなんです」

 

 消滅という言葉を使うのに少しためらった文だったが、それを聞いた早苗は何かを耐えるように拳を強く握りしめてはいたものの、反発しようとはしなかった。

 自分一人の感情に振り回されている場合ではないことくらいは、早苗にもわかっていたからだ。

 

「それなのにチルノさんの暴走は止まらず、恐らくその邪悪の力であろうあの黒い何かが復活してしまいました」

「なぜ、そんなことが……」

「紫さんの計算に狂いがあるとは思えませんし、八坂様たちや藍さんが失敗するとは考え辛いですから……考えられるとすれば河童たち技術開発チームのミスか、あるいはその邪悪が未知の技術にも対応できるほどの力を持っていたか。 いずれにしろ、私にははっきりとした理由はわかりません」

 

 文は何かしら新たな指針を見出すためにそう言ってはみたものの、そのどちらの予測も考え辛いものだった。

 10人編成の河童の開発チームの中で、たった1人でもシステム異常に気付いたのならばそれを修復させることは可能であり、それが計画そのものを完全に失敗させてしまうほど顕著なものならば藍が気付いてもおかしくはない。

 そして、科学技術というものは多くの天才の知恵が世代を超えて受け継がれて初めて発達するものであり、数百年前の科学を知らぬ時代の存在が現代の発達した技術を自ら解くことは、たとえ紫のような賢者であっても不可能に近い。

 だが、そんなことは言っている文自身が一番よくわかっていた。

 

「だから、私は現状を確認するために藍さんや河童たちと合流してきます。 早苗さんはどうしますか?」

「私は……」

 

 早苗は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。

 神奈子たちのことを引きずっているのではない。

 その頭にはいろいろな思考が巡っていた。

 今、自分がすべきこと。

 したいこと。

 約束を、したこと。

 

「……ごめんなさい、射命丸さん」

「そう、ですか」

 

 そう答えた早苗を、文は責めたりはしない。

 紫や神奈子たちですら敗れたこの異変は、明らかに当初の予測を逸脱した異常事態だからだ。

 妖怪より遥かに脆く、スペルカードが無ければ十分に才覚を発揮できない人間である早苗に、この異変に立ち向かうのを強要することはできない。

 だから、文はそのまま一人で飛び立とうとして、

 

「私は、異変を解決すると言いました」

「え?」

 

 早苗が独り言のように発したその声に、呼び止められていた。

 

「なのに、私ならできるって言ってくれた萃香さんの期待に何も応られなかった。 チルノさんたちに、あんなに悲しそうな顔をさせてしまいました」

「早苗さん……」

「……だから、すみません。 私は射命丸さんと一緒には行けません。 私には、やらなければいけないことがあるので」

 

 そう言って早苗は文から視線を背ける。

 早苗はこの異変から逃げようとしていたのではなかった。

 早苗の目は、チルノがいるであろう守矢神社の方をまっすぐに見据えていた。

 それは、早苗が自分一人でこの異変に立ち向かおうという決意表明だった。

 

「……わかりました。 なら、ここでお別れです」

 

 早苗がここで逃げる訳がないことくらい、本当は文にはわかっていた。

 そして、感情に流されて自分も早苗と一緒に行こうなどと、甘えたことを言うつもりもなかった。

 

「はい。 射命丸さんも、頑張ってくださいね」

「ええ……健闘を祈ります!」

 

 それだけ言い残して、文は飛び立つ。

 文も早苗も、振り返らなかった。

 ただ、文は少しだけ嬉しそうな、それでも寂しそうな顔をしていた。

 文は、この場面なら早苗は絶対に自分を頼ってくると思っていた。

 いや、むしろ自分と一緒に来てほしいと思っていた。

 文は早苗の成長を喜ぶと同時に、自分でも気づかないほどに早苗を強く頼りにしていたのだ。

 そんな複雑な気持ちを抱えながら、文は河童の住処へと超スピードで突き進んだ。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第20話 : 階級社会

 

 

 

 

 

 風よりも速く、音よりも速く、文はひたすら真っ直ぐ飛んでいた。

 河童の住処までの距離はそう遠くはない。

 文の速度なら、ほんの1,2分もあれば辿り着くはずだった。

 だが、河童たちが必ずしも都合よく住処にいる訳ではない。

 いくら速く動けようとも、この広い山の中でたった一人で河童たちを見つけることは容易ではないのだ。

 

「……椛が、いてくれたらな」

 

 ふと呟いていたその思考を、文は必死で振り払う。

 どれだけ早苗の前では強がっていても、その寂しさが消え去ることはない。

 もう、文を助けてくれる人は誰もいないのだから。

 

 ――いつ以来かな、この感覚。

 

 だが、それで文が挫けてしまうことはなかった。

 その感覚に、少しだけ覚えがあるからだ。

 一人でいることに、特段の違和感はないからだ。

 何かを思い出すように、文の視線が冷たく鋭く変化していく。

 

「……っと、いけないいけない。 まったく、こんな時に何を考えてるんだ私はっ!」

 

 文は首を振って、一人おどけるように笑いながらそう言った。

 沈んだ気分を奮い立たせるように、文は自分の両頬を叩いて気合を入れる。

 

「ん? ……あれは?」

 

 そして、幸か不幸か、気合を入れるために足を止めた文の視界に、それは偶然入ってきた。

 

「助けっ、助けて…」

「許してくださいっ」

 

 何かから必死に逃げているその2人に、文は少しだけ見覚えがあった。

 今回の技術開発チームの一員である河童たち。

 文が今探している、その相手だった。

 だが、文はその偶然に感謝するとともに焦っていた。

 今まさに、それが危機的な状況に晒されているからだ。

 

「これは……マズいっ!!」

 

 河童たちが助けを求めながら逃げている以上、何らかの敵がそこに現れたことは明らかだった。

 文は、河童たちの元へ全速力で急降下する。

 だが、とっさに飛び出してしまった文だったが、その河童たちを追っているのが誰かによって、文の取るべき行動は変わる。

 追っているのがただの感染者ならいいが、それが支柱やルーミア本人だとしたら文一人でどうにかできるはずがなく、誰かの協力が必要不可欠となる。

 文はそれを冷静に判断する必要があったが、今回の計画で使われた技術を担っているはずの河童が消されてしまえば異変の収束が困難になるため、ここで迷ってるわけにはいかなかった。

 覚悟を決めて、河童たちを追っていた一つの影の前に立ちふさがる。

 

「終わりよ」

「助…げふっ!?」

「やめ…」

「そこまでよ!! ……って、え?」

 

 文は河童たちを追っていたそいつの足を、受け止める。

 そこにいたのは意外な人物だった。

 逃げていた河童の片方を蹴り飛ばし、そのままもう一人の河童を踏みつけようとしていたのは、

 

「はたて?」

「……何だ、あんたか」

 

 文と同じ烏天狗の、姫海棠はたてだった。

 はたては止められた足を素早く引き、怯えたように地面を這いつくばって逃げようとする河童を追おうとするが、その道を文が塞ぐ。

 

「待って、何してんのはたて! なんで、こんなこと…」

「邪魔しないでくれる? あと2匹で終わりなんだから」

「え?」

 

 はたては、抑揚のない声でそう言った。

 文ははたてが何を言っているのか一瞬理解できなかったが、よく目を凝らして見ると周囲の山林がところどころ荒れていることがわかった。

 それはただ荒れているのではない。

 見るも無残な、虐殺の跡。

 倒れた河童たちが、荒れた地と一緒に転がっていたのだ。

 それに気づいた文が、顔を引きつらせて身構える。

 

「まさかはたて、あんたも既に感染して……!?」

「感染? 何言ってるのよ」

「え?」

「こいつらは山の秩序を乱した。 だから始末した。 ただそれだけのことでしょ?」

「――――っ」

 

 はたては、当然のことのように淡々とそう言った。

 それを、文は少しだけ予想していた。

 はたては闇の力に感染してなどいない。

 元々、こういう奴だということを知っていた。

 

 天狗社会には、二つの勢力があった。

 幻想郷の様々な種族と比較的友好的で、今回の件でも守矢神社に協力的だった、文や椛のような穏健派。

 直接鬼から妖怪の山を継いだ上層部と繋がりが大きく、妖怪の上位種としてのプライドや排他的で支配的な思想を持つ、はたてのような強硬派。

 それは後者の方が勢力的に大きく、妖怪の山は今まで強硬派を中心とした排他的な社会として成り立ってきたのだ。

 そして、その強硬派の中でもはたては有名な存在だった。

 身内を売り、上層の顔色を窺いながら弱者を甚振り脅し、どんな汚い手も平然と使ってのし上がってきた烏天狗。

 卑怯者の姫海棠という蔑称で知られる彼女は、強硬派の中であってもその評判は最悪だった。

 

「……秩序を乱した? はたてはこの子たちが何をしたのか知ってるの? 今、何が起こってるかわかってるの!?」

「ええ。 今の状況がこいつらの失態によるものだってことくらいはわかるわ」

 

 確かに、計画が失敗したからこそ守矢神社は壊滅し、邪悪が復活するに至った。

 今の状況の原因の一端が、この河童たちにあるとも言えるかもしれない。

 だが、文ははたてのやり方を否定するように言う。

 

「……確かに、そうなのかもしれない。 でも、それならこの子たちにまず何があったのかを聞いて異変の収集に努めるべきでしょ!?」

「いいえ。 そういう時は、まずは自分の失態を身体にわからせてやるのが先よ」

「違う! 本当にその子たちが悪いのか、ちゃんと見極めてから…」

 

 そう、言いかけた文の身体は次の瞬間硬直する。

 

「黙りなさい。 口が過ぎるわよ、射命丸文」

 

 はたてが睨むような視線を向けながら、冷たい口調で言ったからだ。

 文はその先を言うのをやめようと思ってやめた訳ではない。

 1000年を生きてきた本能が、反射的に文を思いとどまらせたのだ。

 

「これが、報いよ」

「っ!! 待っ……」

 

 はたてが文の横をすり抜けて、逃げようとする河童を追う。

 文はその気になれば、はたてを止めることもできるはずだった。

 だが、文の脳裏を過ぎった記憶が、その反応を鈍らせた。

 

「お願い、助け…かはっ!?」

「あ……」

 

 そして、はたてがそのまま倒れた河童を背中から踏み抜くと、河童は血を吐いて痙攣しながら動かなくなった。

 だが、その河童の姿を見て少しだけ声を漏らした文は、それでもただそこから目を逸らしていることしかできなかった。

 階級社会の妖怪の山において、上の命令に逆らった者の末路を嫌というほどに知っていたからだ。

 はたての階級が、文よりも上だからだ。

 文は、やるせない思いで呟くように言う。

 

「……どうしてそんな風になっちゃったのさ、はたて」

「さて。 これで、あと一匹ね」

「ねえ、答えてよ! 昔のはたては…」

「うるさいわ。 口のきき方がなってないわよ」

 

 文が叫ぶように言うが、はたてが文に向ける視線は冷たかった。

 一瞬だけ文を見下すように一瞥したはたては、すぐに興味を失ったように視線を逸らし、既に死にかけの河童の足を片手で持ち上げて回収する。

 

「用が無いなら、もう消えてくれない? あんたの顔なんて、見ていて気持ちのいいものじゃないわ」

 

 瀕死の河童をまるでゴミをつまみ上げるかのように持ち上げたはたてを前に、それでも文は殴り掛かろうとする気持ちを必死に抑える。

 ここで冷静になって自分が助けなければ、恐らくあの河童に未来はないだろうことくらいはわかっていたからだ。

 文は感情を心の奥に押し殺し、ゆっくりと膝をついて言う。

 

「……用なら、あります。 私は、その河童たちに聞かなくてはいけないことがあるので」

「っ……」

「お願いします。 その子たちの後処理は……私にお任せください」

 

 その時はたての表情にあったのは、静かな怒りの色だった。

 はたてに向かって服従の体勢で頭を下げてそう言う文に向けた、確かな蔑みの目だった。

 

「……勝手にしなさい」

 

 そう言って、はたてはその手に持った河童を文に向かって投げつける。

 

「ありがとう、ございます」

「私はね……あんたの、そういうところが一番嫌いなのよ」

「え……?」

「チッ」

 

 はたては、露骨に舌打ちしながら歩き出す。

 はたての言葉が意に介さない文だったが、その目線が外れると同時に飛び回り、倒れた河童たちを集めて寝かせた。

 視認できる範囲にいるのなら、幻想郷最速と言われる文が河童たちを全て回収するのに時間はかからなかった。

 幸いにも、9人とも命に別状は無さそうだった。

 

「よかった、まだ息がある…! もう少し我慢してください、今手当を…」

「なんでですか」

「……え?」

 

 だが、必死に止血や応急処置を試みる文の耳に、掠れたその声はあまりにも弱弱しく聞こえてきた。

 倒れた河童の一人が、涙を流しながら声を振り絞るように言う。

 

「なんで、私たちばっかりこんな目に遭わなきゃいけないんですか」

「それは……」

「私たちはただ言われたとおりにやっただけなのに。 なのにどうして……どうしてっ!!」

「……」

 

 文は、何も言えなかった。

 妖怪の山に鬼がいた頃の、自分と同じ境遇の河童たち。

 力が無いばかりに支配され、自由も、まともに生きることすらもままならない現状。

 だが、そんな光景を見るのを、文も慣れてしまっていた。

 自分がその対象に入っていないのを、ただ安心していることしかできなかった。

 

「っ……」

 

 だが、その河童たちの痛々しい姿を見て、遂に文にも我慢の限界が来る。

 なぜ、こんな状況でこの子たちはこれほどまでに虐げられなければいけないのか。

 この1000年以上の間、文には全く理解できなかった。

 歯を食いしばりながら、その目にはただ憤りだけが湧き上がっていた。

 そして、文はその場でゆっくりと立ち上がって言う。

 

「待ちなさい」

 

 返事はなかった。

 それは、下の階級からの命令口調という許されざる行為であるはずだが、はたては振り返りすらしない。

 ただ、文の声が聞こえていないかのように遠くを見据えながら言った。

 

「……見つけたわ、最後の一匹」

「待ちなさいって言ってるでしょ、はた…」

 

 だが、はたてに食って掛かろうとした文の身は、それに気付いた瞬間硬直した。

 遥か遠くに微かに見えるのは、文もよく知っている一人の河童。

 技術開発チームの主任技術師にして幻想郷一の技術者と言われた河童、河城にとりの姿だった。

 だが、それは文の知っているものとは明らかに違った。

 暗闇に溶け込んだ闇に、禍々しい雰囲気。

 そして、文たちの存在に気付いたのか、強大になりすぎた力とともに光の無いその目がゆっくりと向けられて、

 

「伏せて、はたて!!」

「何……っ!?」

 

 文がはたての頭を地に叩き付けると同時に、その頭上を何かの刃が通過していった。

 河童たちも、倒れて動けなくなっていたことが幸いした。

 辺りの山林は腰ほどの高さで一閃され、バランスを失った木々が一気に崩れていく。

 だが、それで終わりはしないことを文は知っていた。

 

「何、すんのよ…」

「はたて、あんたは逃げて! 自分で動けるでしょ、早く!!」

 

 それだけ言って、文はすぐにその場を飛び立った。

 焦った態度の文とは対照に、特段の危機を感じていないはたてはゆっくりと立ち上がるが、

 

「何よ、一体何が――」

 

 その目の前では、にとりが既にその手を振りかざしていた。

 道端のゴミを掃除するかのごとく無感情な表情で、にとりはその手に水の力を集わせる。

 そして、辺りの景色から吸い上げられた水流が弾丸となって、はたての腹部を弾き飛ばした。

 

「―――――――っ」

 

 とっさに直撃を避けたはずのはたては、それでも言葉を発することすらできない。

 辺りの切り株を自らの身体で抉りながら、地面を跳ねるように数百メートル先まで転がっていった。

 自分がなぜそんな状況になっているかすらもわからないまま、はたては全身の骨を砕かれて、気付くと倒れ込んでいた。

 

「く、ぁっ、ぁが……」

「はたて!? しっかりして!」

 

 風の力を操って倒れた河童たちを守っていた文がはたての姿に気付いたのか、すぐに駆け寄る。

 幸いにも天狗の丈夫な身体のおかげで生きてはいたものの、腹に風穴があくほどのダメージを負ったはたては動けなかった。

 

「ぁぐっ、何、なのよ、あいつ……」

「多分、あれは闇の支柱。 感染者の中でもずば抜けた力を持ってる、はず」

「支柱……?」

 

 文も支柱の話は聞いていたものの、実際に見たのはチルノが初めてだった。

 そのチルノからも早々に逃げてきてしまったが、それが諏訪子すらも仕留めたことを知っていた文は、にとりの脅威も早々に察知することができた。

 だが、神奈子たちからそれなりの信頼を得ていた文はその存在を知っていたが、支柱の存在はごく少数の者にしか知られてはいなかったため、はたてにはその脅威がそもそもわからなかったのだ。

 はたては、その気になれば少し動くくらいの余力はあったものの、そんな相手に立ち向かえるような状況ではない。

 そして、視線の先には、無情にもこちらに向かって再びその手を向けているにとりの姿があった。

 

「……はっ。 悪運尽きたってところかしらね」

 

 だが、そう言ったはたては、それでもまだ諦めてはいなかった。

 震えるその両足に力をこめて、無理矢理に立ち上がろうとするが、文ははたてを止めるように一歩前に出て言った。

 

「……はたては逃げて。 それと、この子たちをお願い」

「え?」

「お願いっ!!」

 

 文は、たった今まで誰がその河童たちを傷つけていたのかすら忘れたかのようにそう言って構える。

 そして、一度大きく深呼吸をして、自らを奮い立たせるように呟いた。

 

 

「――『幻想風靡』――」

 

 同時に、文の姿が消える。

 それは同じ烏天狗のはたての目にすらも捉えられなかった。

 辺り一帯に吹いた暴風は、その中心にあるはずの影を目に映さないほどに疾く、にとりを囲むように飛び回った。

 

 ――よし、これなら…!

 

 文は、チルノほどの脅威をにとりから感じてはいなかった。

 にとりが、文の速度に全く反応できていないからだ。

 幻想郷で並ぶ者がいないはずの、圧倒的な速さ。

 河童がその速度に反応できるはずがない。

 自分が恐れる鬼ですらもその速度にはついていけないことを、文は知っていた。

 文はにとりの近くを通り過ぎる際に無数の風の刃を浴びせていく。

 殺すつもりで放ってはない。

 文は辺りを暴風の網で埋め尽くし、にとりの全身を絡め取って無力化しにかかっていた。

 そして、仕上げにそのままにとりを縛りつけようと近づいた文を、

 

「―――――ぁっ」

 

 かつてないほどの悪寒が襲った。

 鬼のもとで何度も命の危機にさらされてきた文だからこそ、瞬時に理解した。

 コンマ1秒後の自分が既に死んでいるビジョンが、文には明確に浮かんでいた。

 

 文は弾丸のようににとりに向かってまっすぐに飛んでいた軌道を、無理矢理に曲げてその死から逃れる。

 その時点では、逃げるという選択肢はあくまで直感に過ぎないものだった。

 だが、自分の僅か横を過ぎていくにとりの目を見た文は、身も凍るような恐怖を確信した。

 真っ暗で、何も見えてすらいないようにしか見えないその瞳に、確かに自分の姿が映っているのが見えたからだ。

 幻想郷最速を自負していたはずの自分を、確かににとりがその暗く淀んだ目で追うように、はっきりと捉えていたからだ。

 

 そう。 にとりは、文の速度に反応できていない訳ではなかった。

 周囲を飛ぶ蚊に大して注意を向けないのと同じように、その攻撃を歯牙にもかけていないだけだった。

 そして今、にとりが鬱陶しくなった羽虫を潰そうとするが如く視線を向けただけで、文はその力量差を嫌というほどに感じ取らされたのだ。

 

 ――無理っ! 絶対無理っ!!

 

 にとりの傍を飛んでいたほんの僅かな飛翔だけで、文は自分が数百年も老けたように感じていた。

 肺が破れているかのような息切れを起こし、心臓の音しか聞こえないほどに頭は真っ白だった。

 鬼を目の前にした時ですら感じなかった明確な死のイメージは、今のにとりと戦うという選択肢を一瞬で文の中から排除し、逃亡の一択だけが思考を支配していた。

 文はそのまま空の彼方へと飛んでいく。

 決して振り返ることなく、ほんの少しも速度を落とすことはなかった。

 にとりの周囲に張り巡らせた風の網など、一本の蜘蛛の糸で猛獣の進撃を止めようとするかのように無意味なものであることがわかっていたからだ。

 だから、文はにとりの力が及ばないくらい可能な限り遠くへ遠くへと逃げ、遂に雲の中に身を隠すことに成功したが、

 

「ここまで、来れば……え?」

 

 その周囲は、いつの間にかどす黒い色に染められた雲に覆われていた。

 隙間なく帯電していく雷雲が、文を逃がさないように勢力を増していく。

 

「マズいっ!?」

 

 文は自身を囲む雲から逃げるようにその隙間を飛んでいく。

 その姿を隠せるが故に一見逃げ道として最適に見える雲の中だが、相手が今のにとりではむしろ最悪の道となっていた。

 水蒸気によって形作られた雲が、にとりの『水を操る能力』で勢力を増し、普通の天候ではあり得ないほどに電子を帯びていく。

 それは、音速の数百倍の速さで獲物を捕らえる雷の檻。

 幻想郷最速と呼ばれた文でさえも止まって見えるほどの、最速の追撃者だった。

 

「助けて、誰かっ誰か……」

 

 文は頭が真っ白になったまま必死に飛び回る。

 だが、その思考の空白は、焦りではなく徐々に寂しさが埋めていった。

 必死に助けを求める文には、もう誰も助けてくれる人はいないからだ。

 天狗仲間たちはもういない。

 神奈子や諏訪子や紫のような頼れる上司ももういない。

 椛や萃香のような友人も、もういない。

 たった一人生き残った早苗すらも、もう傍にはいない。

 どれだけ泣き叫ぼうとも、文には誰一人として残されてはいなかった。

 そして……

 

  ――お願い、助け……かはっ!?

 少し前に目にしたその記憶が、文の心を埋めていた。

 

「……いや、もういいのかな」

 

 そう呟いて、文は次第に減速していく。

 辛うじて雲の隙間を逃げ続けていた文の周囲を、蚊が一匹入り込む隙間がないほどに雷雲が一瞬で囲い込んでいた。

 だが、そんな絶体絶命の文の表情を支配していたのは、恐怖ではなかった。

 

 ――私は、あまりに多くを見捨てて長く生き過ぎた。 なら、これが河童たちを見捨てて生き永らえた私への報いなのかな。

 

 文は、観念したように目を瞑る。

 その周囲を囲う雷は次第に増幅され、文を取り囲むように電気の球と化していった。

 それが放たれた時、文の命は一瞬で果てるだろう。

 その雲は、文の力ではもう抗いようがないほどに勢力を増していた。

 

 ――だから、もういい。 どうせ、私にはもう何も……

 

「っ!!」

 

 だが、そう思いかけた文の耳に、突如として爆音が響き渡った。

 大地から数千メートル上空にいるはずの文に届くほどの、あり得ない爆音。

 文は、それに聞き覚えがあった。

 それが聞こえた瞬間、既に諦めていた文の身体が本能的に何かに怯えるように震え出す。

 

「まさか、これは……!?」

 

 そこに、もう一度同じ音が響く。

 あまりに巨大すぎる何かが大地に衝突したような、爆音。

 空を飛んでいてなお、大地に揺れが発生しているだろうことを文は感じ取る。

 そして、文は知っていた。

 その音が更に大きく、もう一度だけこの世界に鳴り響くことを。

 

 大地の震えは、大気にも伝わるかのように世界を揺らす。

 地震の予兆のように震える大気が、これから起こる惨劇に備えるよう警笛を鳴らす。

 その音がまだ文に届かなくとも、空中に舞った木々の残骸や岩が既に散っている姿が容易に想像できた。

 文はただ反射的に、周囲の雷雲に目もくれずに大地に向かって風の障壁を構える。

 

 そして――

 

「―――――――――――」

 

 ただ単純な「空圧」が、大地から真っ直ぐ駆け上るように大気を分解し、真空と化した衝撃波を天に届けた。

 上空数百メートル、数千メートル、いや、一万メートルを超えてなお衰えないそれは、雷雲の檻のみならず風の壁ごと文の全身を消し飛ばすかのように貫いた。

 自身へのダメージを最小限に抑えたはずの文は、それでも朦朧とする意識の中でゆっくりと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やっぱり、何も変わってないか」

 

 はたては、飛んで行った文を見ながら吐き捨てるようにそう言った。

 まるでこれから自分がにとりに立ち向かうような口調で飛び立ったくせに、次の瞬間には怯えるように逃げた文に落胆していた。

 それが仕方ないことだというのは、はたてにもわかっていた。

 遠くから見据える自分ですらも、にとりの周囲に確かに死地を見たのだから。

 だが、それでもはたての目は失望の色を隠せなかった。

 

 今の文の周りは、遠目からもわかるほどに異常な量の雷雲が覆っている。

 それが誰かの力によるものであることくらい、一目でわかる。

 放っておけば文が死ぬだろうことくらいわかるが、はたてはもはや興味を抱いてはいなかった。

 にとりの目が文に向いている今なら逃げることもできるだろうが、それでもはたては脱力したままその場を動かなかった。

 

「……こんな終わり方、か。 なんてつまらない…」

「つまらないだぁ? そう思うのなら、お前が自分で変えてみたらどうだ?」

「え?」

 

 だがその時、はたてはゆっくりと歩いてくる気配に気づいた。

 それに伴って自分の鼓動が速くなっていくのを感じる。

 

「貴方は、まさか……」

「ったく、相変わらず逃げ足だけは一級品だな。 あの頃と何も変わっちゃいない」

「っ……!!」

 

 はたては、少しだけ不愉快な視線を投げかける。

 まるで、自分と同じような失望の視線を文に向けるそいつに反感を抱いたかのように。

 

「まあいいか。 これは……ちょっと、遠いか?」

「え?」

「ま、大丈夫だろ」

 

 そいつは、そんなはたてに目も向けずに一人そう言って、おもむろに一歩だけ前に出た。

 そしてその拳を構え、足を振り上げると、

 

「―――――っ!!」

 

 鼓膜が破れるのではないかというほどの轟音とともに、気付くとはたての身体は空高く舞い上がっていた。

 はたてだけではない、河童も、岩も、周囲にある全てが衝撃で空に放り出されるように舞っていた。

 周囲の景色が、巨大な地震の震源地のように縦に揺れている。

 だが、はたての目を奪ったのは揺れる世界ではない。

 足元には巨大な隕石が落ちたのではないかと思うほどのクレーターができ、その前後では地殻変動を起こしたように大地が盛り上がり、空へと向けた高台が作り上げられていた。

 

「――四天王奥義――」

 

 そして、次の一歩を踏み出す。

 その一歩は、加速。

 後方に盛り上がった大地を蹴り崩して加速し、今度は世界を横に揺らして地形を塗り替える。

 前方の高台の頂点に向かって加速する右手は、強く握りしめられすぎて朱く腫れ上がっている。

 そして、その三歩目が大地に着く寸前、

 

「『 三 歩 必 殺 』」

 

 その宣言が聞こえたのは、声を発した本人だけだった。

 超新星爆発のごとく辺り一帯を消し飛ばして暴走した拳圧は、あらゆる方角に暴風と爆音を生み出した。

 自身の横や後方にあった全てを余波だけで紙切れのように吹き飛ばし、前方にある全てを何も存在しなかったかのように塵と化す。

 そのまま真っ直ぐに伸びた衝撃波は、大きく膨れ上がった雷雲さえ欠片一つ残さないほどに掻き消して天への道を繋いでいた。

 そして、嵐のような暴力が過ぎ去った後に残るのは、まるで長い戦争を終えた地のように荒れ果ててしまった世界だけだった。

 

 ――これが、伝説の……

 

 はたては噂でしか聞いたことのないそれを初めて目の前にして、身の震えを止めることができなかった。

 一歩で景色ごと硬直させ、望む世界に塗り替える。

 二歩でその世界ごと破壊して、時を置き去りにする。

 三歩でその破壊に標的ごと巻き込んで、全てを滅する。

 それが三歩必殺。

 かつて幻想郷最強の暴力と恐れられた鬼の四天王、星熊勇儀の全力だった。

 

「あ、ヤバっ。 やりすぎたかな……」

 

 核兵器とすら渡り合えるのではないかという技を出した勇儀は、その震源地ともいうべき場所で頬を掻きながら苦笑していた。

 そして、慌てて周囲を見回すと、既にボロボロのはずのはたてが腰を抜かしながらも9匹の河童たちを物のように無造作に、それでも守るように自分の後ろに移動させていた。

 

「ははっ、すまないねえ。 ちょいといきなり過ぎたか」

「いえ。 ご協力、感謝します」

「はあ? ……何故私がお前に協力しなきゃならない?」

「え?」

「私はただ、獲物を狩りに来ただけさ。 だから、お前が何を勘違いしているのかは知らないが、とりあえず――」

 

 勇儀が目を向けた先には、にとりの姿があった。

 自身の力を遥か遠方から掻き消されたにとりは、勇儀に確かな敵意を向けていた。

 だが、敵意を向けられているはずの勇儀は、なぜか楽しそうに笑っていた。

 

「アレは、私に任せてくれないかい?」

「それは…っ!!」

「いいから、任せな」

「ま、待ってください! あいつの始末は、私が…」

 

 だが、次の瞬間はたての本能が警告を発した。

 それは、そこにいてはいけない、それに逆らってはいけないという拒絶反応だった。

 

「邪魔だ、ってのがわからないのか?」

「っ――――」

 

 勇儀に睨まれたはたては反論の一つもできなかった。

 ただ、何かを耐えるように唇を噛みながら、河童たちを両手に抱えてその場から一目散に逃げ出した。

 それは、結果的には今のにとりを目の前にすることの危険からはたてや河童たちを遠ざける正しい判断だったかもしれない。

 だが、勇儀は別にはたてや河童たちを気遣ったわけではなかった。

 勇儀の目には、既にはたての姿など映っていない。

 まるで目の前にごちそうが並んでいる肉食獣のように、にとりに向かってその目は見開かれている。

 

「――さあ、楽しい祭りの始まりだ――」

 

 そして、勇儀が愉悦の表情でそう言うと同時に、にとりが動いた。

 突如として現れて隙間なく視界を埋め尽くした水の弾丸が全てを貫いて、貫いて、貫いて、跡形も残さぬほどに景色に無限の穴を開けて空へと還っていく。

 そこに残っているのは、僅かに一つの影。

 

「はっ。 それじゃ、ヌルいんだよ!!」

 

 その影に向かった弾丸は逆風によって速度を奪われ、ただの水滴となって大地に落ちる。

 文ですら操れるかわからないほどの強風を、勇儀はあろうことか拳圧だけで創り出していた。

 そのまま大地を蹴った勇儀は、吸血鬼を思わせるかのようなスピードで距離を詰めていく。

 僅かに威力の残っていた弾丸も、皮膚という名の鎧に弾かれるようにただの水飛沫と化していった。

 

「シャッ!!」

 

 そして、勇儀はその拳を振り抜く。

 にとりを守るように現れた水の壁が、勇儀の拳で変形して簡単に飛び散る。

 それでもなお威力の落ちない拳は、そのまま正面の大地を塵に変えて巨大な穴を空けた。

 

 だが、そんな状況でなお、にとりは顔色一つ変えずにそれを避けて飛び上がっていた。

 それに合わせるように勇儀が目線を上げた先にあったのは、霧に覆われた世界。

 既ににとりの姿が見えないほど水蒸気が充満した空間に、限りなく薄く研がれた無数の水の剣が浮かんでいた。

 あらゆるものを切り裂く、最高の切れ味を誇る刃。

 それを前にした勇儀は、子供のように笑った。

 

「いいねぇ……ゾクゾクしてきたよ」

 

 勇儀は、その拳に力を纏う。

 それは霊力や魔力のような特殊な力ではない。

 単純に、強く拳を握りしめただけである。

 それでも、上空へと跳びながら硬度を増したその拳を振りかざすと、その空圧で刃の先端がひしゃげてただの水飛沫へと変わっていく。

 

「だが、こいつで終わりだ!」

 

 そして、再びその拳を振りかぶった勇儀の目線の先には、既ににとりの姿があった。

 恐らく最後の一口となるであろう御馳走を楽しもうとするかのように、勇儀はその決着を確信していた。

 どれほどの力を持った相手だろうと、次で終わりだということを知っていた。

 

「あ?」

 

 だが、それでは終わらなかった。

 勇儀が目の前に突き出した拳圧は確かに大気を切り裂いていたが、にとりの前に突如として現れた闇の盾に、勇儀の腕の肘から先が飲み込まれて消えていた。

 

「……ははっ」

 

 それでも、勇儀は笑っていた。

 それに合わせるように全身から溢れだした「気」が、辺りを揺らすように膨れ上がって飲み込まれた勇儀の腕に集まる。

 

「しゃらくせえええええええ!!」

「――――――っ!?」

 

 そして、地を揺らす掛け声とともに勇儀がその腕を振ると、勇儀の腕を飲み込んでいたはずの闇が爆ぜて飛び散り、そのまま拳が油断したにとりの体を直撃していた。

 強く圧縮され過ぎたその衝撃波で辺りの景色は殺風景なほどに消え去り、辺りにはもう何も残らなかった。

 そこにはただ、戦いの後とは思えないほどに疲れの見えない勇儀が、一人名残惜しそうに立っているだけだった。

 

 腕力、硬度、速度。

 その全てが幻想郷の頂点に立てるほどの、異常な身体能力。

 それが、勇儀の強さだった。

 勇儀には能力というものが存在しない。

 『怪力乱神を持つ程度の能力』というのは、実は勇儀の持つ特殊な能力などではない。

 それは、自身の右に出る者などいない計測不能な力と、その腕一本で世界を揺るがすこともできるという絶対の自信を表すための、ただの言葉遊びに過ぎない。

 能力も技術も小細工も、全てを拳の一振りで一蹴する。

 そんな、幻想郷最強の種族と呼ばれるに相応しい力を勇儀は自負しているのだ。

 

 だが、その圧倒的すぎる力は、次第に勇儀から本気で戦うという選択肢を奪っていった。

 勇儀には、戦いの最中であっても、相手の攻撃から逃げるという選択肢はほとんどない。

 たとえ相手が何をしようとも、ただまっすぐ前に進み、拳を突き出すだけの戦闘スタイルで、それでも勝ち続けることができるからだ。

 魔理沙や霊夢と勝負をした時でさえも、実は勇儀は全く本気になってなどいなかった。

 どんな相手だろうと、自分が全力になれば対等な戦いになること自体が皆無に等しいため、手加減をしながらいかに戦いを楽しむかという傲慢な思考に根底から支えられ続けてきたのだ。

 

 それ故に、勇儀にはこの状況では致命的な欠点があった。

 

「……さーて、もうお終いかな」

 

 勇儀はもう、にとりの末路に目を向けてすらいなかった。

 最後の瞬間、闇の力の防御に慢心したのか、にとりはほぼ無防備だった。

 自分が本気で突き出した拳を、そんな状態でくらった者が原形を留めているはずがないことを勇儀は知っていた。

 勇儀はにとりが消し飛んだだろう方向に背を向けて次の戦場へと歩き出そうとする。

 それが、この状況における勇儀の致命的な欠点だった。

 自分と並ぶ者がいなかったが故の、退屈、慢心。

 

 そして、命の危機への疎さ――――

 

「……ほう?」

 

 勇儀は、誰かが背後から迫る気配を感じて振り返る。

 たとえ粉微塵にならなかったとしても、少なくとも山の麓くらいまでは吹き飛ぶはずの拳打を受けたにとりは、既に勇儀が目視できるほどの距離にいた。

 さらに言えば、勇儀の全力をその身に受けたとは思えないほどに、にとりの負傷は微々たるものだった。

 その異常事態ともいうべき状況で、勇儀はにとりを歓迎するように笑っていた。

 

「ははっ、面白い! だったら……あれ?」

 

 そう言って軽く腕を回そうとした勇儀は、異変に気付く。

 闇に飲まれてダメージを負ったのではない。

 水の力で切り裂かれたのでもない。

 ただ、ついさっきまで確かににとりを殴り飛ばしていたはずの自らの腕を、上げることができなかった。

 その腕が自分のものではないと感じるほどの、圧倒的な違和感があった。

 

 

   ――動スルコトヲ、禁ズ――

 

 

 そして、突如としてにとりがその身に纏った闇が溢れんばかりに増幅していく。

 そこにあるのは、にとりという一個体が抱える嘆きだけでは説明できないほどの、異常な負の記憶。

 全ての怨霊を引き受けたかのように止まることのない無限の負の連鎖。

 その威圧感は、今まで目の前にしていたにとりの比ではなかった。

 

「あん? 一体何、が――――っ!?」

 

 怪訝な表情のまま無防備な体勢でいる勇儀の前に、目にも止まらぬ速度で踏み込んだにとりは、いつの間にか片手で絞めるように勇儀の首を掴んでいた。

 その巨体を、にとりはそのまま軽々と持ち上げる。

 慌ててそれを振りほどこうとする勇儀だったが、

 

 

   ――抗スルコトヲ、禁ズ――

 

 

「な、にっ……」

 

 その身体は、硬直したように動かなかった。

 指一本動かすこともできないまま、刃すらも通さない勇儀の鋼の皮膚に次第ににとりの指が食い込んでいく。

 それを弾き返そうにも、首の筋肉に力を入れることすらできない。

 流石の勇儀も首を引き千切られるほどの圧力を前に、その顔色が青ざめていく。

 そんな勇儀の目に、それをただ冷たい目で見据えるにとりの姿が、半分闇に隠れながらも少しだけ入った。

 

「なっ……!? どう、して、お前が……」

 

 そして、何かに気付いたように辛うじて勇儀がそう口にするのとほぼ同時に、

 

 

   ――生スルコトヲ、禁ズ――

 

 

 戦いは、終わった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第21話 : 約束


※注意

 もう気付いている方も多いとは思いますが、今回の話では正確には原作キャラではない名前が出てきます。
 かなり有名で原作に最も近い部類の存在だと思っているので、その辺のモブ以外に自分で考案したキャラとかは出てこない話で、この一人だけのために「オリキャラ」タグをつけるのはどうかと思い、つけない方針にしました。
 本人の名前タグも、始まる前からタグで中盤のネタバレになるのも嫌なので、つけない方針にしました。
 ここまで読んでくださった方で完全な原作キャラ以外を好まない方は大変申し訳ありませんが、これからも読んでいただけると幸いです。




 

 彼女は一人、地の底へと向かっていた。

 妖怪からも人間からも拒絶された彼女の目が、地底に向くまでにそう時間はかからなかった。

 自分と同じような嫌われ者たちが虚ろな目をしてひっそりと暮らしているだろう地底世界の存在に、少しだけ救いの光を求めていた。

 繋がりを捨てるために。

 誰にも干渉されず、孤独に身を捧げるために。

 だが、自分自身にそんな言い訳をし続けながらも、彼女は本当はただ誰にも嫌われたくないだけだった。

 

 それすらも、世界は拒絶する。

 

 地底世界は彼女の期待に反して、嫌われ者の楽園とでも言うべき場所だった。

 争いは絶えず、それでもそこにいる者たちは嫌われ者との繋がりの中で生き生きとした目をしていた。

 そんな世界が、彼女に馴染むことはなかった。

 

「放してっ!!」

 

 孤独を求めた彼女はある日、ただ自らに降りかかる火の粉を振り払っただけだった。

 それでも、彼女の持つあまりに危険な力は問答無用に全てを敵に回してしまった。

 嫌われ者の中でさえ、嫌われる。

 誰の隣にいることも決して許されない。

 それを痛いほどに再確認した彼女は、旧都すらも捨てて誰もいない地獄の底へと向かった。

 決して交わることのない繋がりを、これ以上持ちたくはなかったから。

 

「待ちな。 そこから先は、通行止めだ」

 

 だが、それでも彼女が孤独になることはなかった。

 たった一人の鬼の気まぐれによって、その道が阻まれたからだ。

 その出来事が彼女にとって幸運だったのか不運だったのかは、わからない。

 ただ確かに言えるのは、その新たな繋がりから彼女が再び始まったということだけだった――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第21話 : 約束

 

 

 

 

 

 妖怪の山は炎に包まれていた。

 見渡す限りの全てが灰と化し、麓と天を繋ぐかのようにきのこ状の雲が昇っていく。

 先の勇儀の奥義が最強の暴力とするのなら、これはまさしく最凶の虐殺だった。

 

「……何、だ?」

 

 何か懐かしい記憶の中を漂っていた気がした勇儀は、自分の身がひどく揺れる感覚で、失っていた意識を取り戻した。

 掠れた景色を見る勇儀の頭は、まだ十分に働いていない。

 あの時、確かに勇儀は死を覚悟した。

 だが、自らの命が破壊される直前に光った何かに、個の死という概念ごと全てを持って行かれてしまったのだ。

 

「ありゃ、生きてましたか勇儀さん。 これは失敬」

 

 そして、その声を聞いて勇儀はやっと自分が何かに運ばれていることに気付く。

 勇儀が起きていることに気付いたお燐は、嫌らしい笑みを浮かべながら勇儀を乗せた手押し車を止める。

 

「……何のつもりだ、お燐?」

「いやぁ。 あのまま勇儀さんの死体が燃え尽きちゃ勿体ないので回収しようかにゃーと」

 

 状況から考えて、恐らくお燐が勇儀のことを助けたのだろう。

 いや、助けたというよりは『死体を持ち去る程度の能力』を持つ彼女の本能が、全身火だるまになって気を失っていた勇儀を自然と回収していたと言った方が正しいのかもしれない。

 それでも、結果的にお燐が勇儀を助けたというのは確かに事実のはずだった。

 

「そういうことを聞いてるんじゃない」

「え?」

「まだ勝負は終わっちゃいなかったんだ、邪魔をするな」

 

 だが、助けられたはずの勇儀の目に感謝の色など全く浮かんでいなかった。

 むしろお燐を睨むように、不機嫌な表情を浮かべていた。

 少しだけ予想はしていたものの、勇儀から明らかな敵対の目を向けられたお燐は、バツの悪そうな顔でそれに返す。

 

「……あー、そんなのあたいに言わないでくださいよ。 ってよりも、ぶっちゃけ勇儀さん負けてたじゃないですか」

「違う、私はまだ負けちゃいなかった。 ……いや、別に負けてもよかったんだ」

「……」

「本当に強い奴に撃ち滅ぼされる。 それほど名誉ある最期は無い」

 

 鬼は、自らの命に執着はしない。

 強大すぎる生を享けながらも、その力を超える誰かに退治されるために生きているといっても過言ではない種族なのである。

 そして、勇儀もまた自分より強い者にいつか負かされるために自らを高めてきた。

 最高に楽しい戦いの中で、実力で滅ぼされるのならそんなに嬉しいことはない。

 それが、勇儀の胸の奥を鎖のように固く縛り付ける矜持だった。

 そんな待ち望んだ瞬間に横槍を入れられた勇儀は、不快感を拭いきれずに憤っている。

 だが、それを聞くお燐の目は白けきっていた。

 いや、むしろ苛立ちを抑えきれなくなったかのように、ため息を一つついて呟く。

 

「はぁ……。 全く、本当に軟弱な思考だなぁ」

「何?」

「まぁいいです。 とりあえず、あくまであたいたちに介入するなと命令するつもりなら、あたいが言いたいことは一つですよ」

「はあ? さっきから、お前は誰に向かって…」

 

 地底にいる時より明らかに強気なお燐。

 それでも、勇儀はいつものように自分が一睨みすれば、お燐は大人しく退くと思っていた。

 だが、その予想に反して、お燐の目はいつもからは想像できないほど挑発的に、見下すような視線を勇儀に向けて、

 

「あんたこそ邪魔すんな。 負け犬は負け犬らしく、尻尾巻いてとっとと地の底に帰りな」

「なっ……!?」

 

 そう言われて逆上しかけた勇儀の気迫は、虚しく空を切る。

 お燐の目には、既に勇儀の姿など入っていない。

 勇儀を乗せた手押し車から手を放し、目を光らせてその先で起こっているだろう戦いを見据えていた。

 

「さーて。 お空はどうしてるかにゃー、っと!」

 

 そう言って、お燐は勇儀を置いてまだ煙の消えない戦場に飛び込んだ。

 その先で何が起こっているかはわからない。

 ただ、勇儀に残されていたのは、その辺の有象無象と同じと言わんばかりに自分を無視された耐えがたい屈辱だけだった。

 

「っ……待ちやがれ、お燐!!」

 

 そして、勇儀はその拳を握りしめ、お燐の後に続いて煙の中に駆け入った。

 

 そこには既に視界など存在していなかった。

 全てが灰色に染まった世界。

 灼熱地獄にいるかのような異常な気温。

 問答無用に生きる者を拒絶するかのような景色だけがその目に入ってくる。

 その光景の原因に心当たりのあった勇儀は、焦りを隠せなかった。

 

「こいつは、まさか…」

「動くなあっ!!」

 

 そして、聞き覚えのある無邪気な声が聞こえてくる。

 そこにいたのは、宇宙空間のような深淵を思わせるマントを羽織った、一羽の地獄烏。

 いや、それは烏と呼ぶにはあまりに異形だった。

 人間のような姿容をしながらも、その胸には不気味なほどに大きな眼が覗いている。

 右足は鉄に覆われ、左足は電子を纏い、右手のようにも見える第三の足に付けられた制御棒の先からは、妖怪の山を燃やし尽くした火を物語る煙が出ていた。

 

「動くと撃つよ、もう撃っちゃったけどねっ!」

「っ!!」

 

 ただ一面の白煙とその影しか見えない中で、それでも勇儀は脅威を察して飛び退く。

 それは、長い間どんな相手にでもまっすぐに向かっていた勇儀が、ここ最近になって初めて覚えた「逃げ」の一手だった。

 そうさせるだけの凶悪さがその一撃にあることを、勇儀が知っていたからだ。

 突如として発生した光は辺りを覆う煙を掻き消し、勇儀が立っていた場所のみにくっきりと穴を開けて余波で大地を溶かしていった。

 それは、魔理沙が放つような魔法波でも、勇儀が放つような空圧でもない。

 一撃で草も生えないほどに世界を破壊する核エネルギーを、一点に集中させて放った超高密度のエネルギー波だった。

 

「あれっ、避けた!?」

 

 だが、それを避けられると同時に地獄烏は驚いた表情を浮かべて立ちすくんでいた。

 まるでその先の展開を全く考えてなかったかのように、次の手段をとれずあたふたとしていた。

 そこに猛スピードで勇儀が距離を詰めていく。

 

「あわわ、あわわあわわわわわ」

「待て。 私だ、お空!!」

 

 だが、勇儀のその声は届いてはいなかった。

 辺りに残る轟音の余響と、大気さえも焦がして視界を遮る黒煙が、勇儀の存在を認識させなかった。

 ただ、「誰か」がいるという気配だけを頼りに、とっさに制御棒を一振りすると、

 

「えっと、えーっと…えいっ!!」

「くっ……!!」

 

 大地から突如として高密度エネルギーの柱が飛び出し、天空を突き破って昇っていく。

 それは、万全の勇儀をしてまともに受けることなどできない、絶対の破壊。

 いくら強靭な体を、強力な能力を持つ者でも、近づいた瞬間に全てを跡形もなく蒸発させる、この上なく理不尽な力だった。

 

「あーっ、また避けたっ!? じゃあもう一発…」

「落ち着きな、お空」

「ふぎゃっ!?」

 

 だが、突如として背筋に何か悍ましいものが走ったかのように地獄烏の身体は硬直する。

 首にヒヤリとしたものが当たっている気配を感じて、恐る恐る振り返ると、

 

「あ、お燐!」

「まったく、誰に向かって撃ってんのさ。 あそこにいるのは勇儀さんでしょうが」

「えっ!? ……あ、ほんとだ!」

「はぁ…もうちょっと落ち着きを持ちなさいよ、お空」

「あはは、ごめんねー勇儀さん」

 

 そう言って、さっきまでの危険極まりない力を出していたとは思えないほど屈託のない笑顔で手を振られた勇儀は、ため息をつくばかりで何も言い返せなかった。

 緊張感のない表情で地に降り立った彼女の名は、霊烏路空という。

 一見ただのアホの子に見える空だが、その実態は八咫烏という高位の神をその身に宿すことで『核融合を操る能力』という幻想郷最高の破壊力を持つ力を得た、古明地さとりの左腕である。

 空がその力を手にしたのは最近になってのことだが、それでも八咫烏の力は日に日にその身体に定着し、今や地底最強の称号を勇儀と争うほどになっている。

 もっとも、本人には別に勇儀と争おうという気など全くないのだが。

 

「……まあいい、そんなことよりお空。 お前、ここにいた奴がどうなったのか知らないか?」

「え?」

「さっきまで、私ともう一人いただろう」

 

 一度深呼吸して冷静になった勇儀は、そんな空のことも自分を挑発するような目を向けてきたお燐のことも大して気にせず、周囲を警戒していた。

 さっきまで戦っていたはずのにとりのことを、忘れた訳ではなかった。

 それでも、その気配は不思議なほどに感じられなかった。

 

「あ、それならもう大丈夫ですよ。 さっきの敵は、私がやっつけちゃいましたから」

 

 そう言って空はドヤ顔で胸を張る。

 その片割れが勇儀であると気付かないまま消し飛ばそうとしたことにも問題はあるが、全力で打ち抜いたが故に、空はもうにとりを倒したのだと気楽に思っていた。

 だが、勇儀は自分の全力で仕留められなかったにとりが、そんなに簡単に終わるとは思っていなかった。

 

 

   ――消スルコトヲ、禁ズ――

 

 

 そして、その予測は間違っていなかった。

 

「っ! お空!!」

「ほえ?」

 

 勇儀が叫んだその瞬間、空の後ろには異常な量の怨霊に囲まれたにとりの姿があった。

 気配もなくそこに現れたにとりは、空の全力をその身に受けてなお、まるでたった今戦場に降り立ったかのごとく健在だった。

 突如として背後に回り込んだにとりに、空は反応することすらできなかった。

 もしここにいたのが勇儀と空だけだったのなら、この瞬間に全て終わっていただろう。

 

「おっと。 流石にいきなりそれはないでしょ、お姉さん?」

 

 だが、そこに響いたのはまるでそれを危機的状況とも思っていないような軽い口調だった。

 にとりは身体の奥底で何かが暴走するような生理的嫌悪感に襲われ、その足が一瞬止まる。

 そんなにとりを見て……いや、にとりから溢れ出しそうになった怨霊たちを見て、お燐は一転して顔に喜色を浮かべながら言った。

 

「おお、久しぶりだね皆ァ! 元気してたかい?」

「***、************!!」

「っ――――!?」

「ははっ。 そっかそっか、それは何よりだねぇ」

 

 お燐の声に答えるがごとく、怨霊たちの「声」が辺りに響き渡った。

 それは他の者にとっては聞くに堪えない雑音の塊だが、お燐はそこから怨霊たちの声色を聞き分けている。

 お燐の持つ能力は、自己申告において『死体を持ち去る程度の能力』とされているが、それは彼女の本質ではない。

 怨霊の声を聞き、怨霊の思考を誘導し、怨霊を思うままに操ることのできる力を持っているのだ。

 

 

   ――答スルコトヲ、禁ズ――

 

 

「……あれ?」

 

 だが、邪悪の力の、怨霊の感染者には天敵ともいえるその能力を、今のにとりが黙って使わせる訳がなかった。

 お燐と話をしていた怨霊たちが突如としてその口を閉ざし、辺りを静寂が覆う。

 そして、怨霊の声が聞こえなくなって呆気にとられたお燐のもとへ、にとりは即座に駆け抜ける。

 

「まぁいいや、弾けなっ!」

 

 その声と同時に、にとりを取り囲んでいた怨霊たちが四方八方に弾けるように飛んでいった。

 それに伴ってにとりから感じられる力が急激に萎んでいく。

 にとりは慌てて怨霊を引き戻そうとするが、そんな余裕はなかった。

 

「お空、頼んだよっ!」

 

 お燐がそう合図すると、ボーっとしていた空が我に返ったように構える。

 

「わ、わかったよお燐っ! 地熱『核ブレイズゲイザー』!!」

 

 そう高らかに宣言して空が制御棒で地を突くと、若干の時間を置いて地面が大きく揺れていく。

 遥か地の奥深く、マグマ溜りに発生した核エネルギーが、その熱で核分裂を起こして地上へと溶岩を伴って噴出していた。

 大地に空いた数多の穴が噴火し、視界を埋めていく。

 それは触れることなど叶わぬ力だったが、それでも弾道があまりに単純であったが故に、にとりは怨霊の暴走によって痛む自らの頭を押さえながらもそれを避けて再び怨霊を治めようとする。

 

 

   ――離スルコトヲ、禁―――ッ!?

 

 

 だが、にとりは何かに気付いたように、集めかけた怨霊を振り払った。

 そこにあるのは、さっきまでにとりが纏っていた怨霊だけではない。

 怨霊たちの集団の中には、お燐によって新たに召喚された怨霊が混じっていた。

 

「恨霊『スプリーンイーター』。 惜しいねえ、もう少しだったのに」

 

 そう言って、お燐は挑発するような笑みを浮かべる。

 たとえ空の攻撃が当たらずとも、一瞬でもにとりの注意を引ければお燐にとっては十分だったのだ。

 隙をついてお燐が召喚したのは相手の負の感情を食らう怨霊。

 もしそれを取り込んでしまえば闇の力の源を根こそぎ奪っていただろう、今のにとりにとっては悪夢のような力だった。

 

「……」

「あらら、そんなに睨まないでよお姉さん。 こいつらは元々あたいの所有物だ、それをあるべき姿に戻そうとして何が悪いのさ?」

 

 お燐はあっけらかんと言う。

 にとりの目は、もうお燐の方にしか向いていなかった。

 お燐の持つ能力は、怨霊の感染者にとってはあまりに相性の悪い、天敵と言うべき力だったからだ。

 そして、少しずつ、それでも確実に自分の力を削ってくるお燐の周到さは、今のにとりをして最大の警戒を払うべき危険因子であることをよく理解していた。

 それ故に、空のことも勇儀のことも、既ににとりの思考からは外れかけていた。

 だが、その2人は戦いの最中に軽視していいような相手ではなかった。

 

「さーて。 んじゃ、お次はっと…」

「よし! 下がってて、お燐!」

「え? ……げ」

 

「爆符っ!!」

 

 そこに、空気を読まずに空の声が響いた瞬間、お燐は青ざめた顔をした。

 にとりだけでなく、勇儀や自分も蒸発してしまうほどの大技を、空が放とうとしていたからだ。

 別に、空はお燐や勇儀ごとにとりを倒そうなどと思ったわけではない。

 ただ、それを放てばその2人も危ないということを、この鳥頭は何も考えていないだけなのだ。

 空の上空に溜まった小型太陽は、そのまま破裂寸前にまで膨れていく。

 

「あー。 ご武運を、勇儀さん」

「何?」

 

 お燐は小さくそう呟き、とっさに小さな猫の姿となって空の背中に張り付いた。

 勇儀の前に怨霊で逃げ道をつくって、後は勇儀の身体能力を信じることしかできなかった。

 そして空の宣言とともに、留まりきれなくなったエネルギーが暴走して、

 

「『ギガフレア』!!」

 

 幻想郷は核の炎に包まれた。

 

 

   ――融スルコトヲ、禁ズ――

 

 

 かに思われた瞬間、その炎は突如として無に還った。

 鎮火されたのではない。

 ただ、にとりが上げたその手に微かに爆風が触れると同時に、まるでエネルギー源の全てを失ったかのように、完全に消滅していたのだ。

 

「えっ……」

「嘘っ!?」

 

 それには、空だけでなくお燐も驚愕の表情を浮かべていた。

 相殺された訳でも掻き消された訳でもない。

 何の前触れもなく、空の全力など初めから存在しなかったかのごとく消滅させたその力を、理解することができなかった。

 そんな唖然としている2人に向かって、にとりは既に駆けていた。

 思考をとられて一瞬だけ隙のできてしまったお燐は、とっさに対応しきれなかった。

 

「しまっ…」

「はッ!!」

 

 だが、勇儀だけは空の放った力が消滅すると同時に走り出していた。

 まるで、こうなるのが予想通りの出来事だったかのように。

 

「きゃっ!?」

「ちょっ……」

 

 勇儀が張り手のような突きを打つと、その風圧で空とお燐が吹き飛ばされる。

 それと同時に飛び散った土石流がにとりの足を止めていた。

 勇儀はすぐさま空とお燐の前に立ち、にとりに向かって再び構える。

 だが、なぜか振り抜いた勇儀の手は見るも無残なほどにボロボロだった。

 

「……なるほどな。 これは、お空の砲撃を止めた時に禁則が解除された……いや、弱まったか?」

 

 勇儀は今まで、お燐や空がにとりと戦っているのをただ指を咥えて見ていた訳ではない。

 ずっとその戦いに加わろうと奮闘していたが、どれだけ頑張ってもにとりに近づくことも、その拳を構えることすらもできなかったのだ。

 だが、空の砲撃が掻き消されると同時に、拳を突き出すことができた。

 それでも、その行動をとろうとした瞬間に自分の腕が拒絶反応を起こしたように壊れ、気付くとその拳はにとりから逸れて空たちに向けられていた。

 それを理解して、勇儀はようやく確信に至った。

 身体が上手く動かなかったのは、負ったダメージが原因ではない。

 これが、そんなに単純な力ではないことを知っていた。

 

「実際に身に受けて……この目で確かめてわかったよ。 これは破壊や洗脳の力なんかじゃない、法則や因果律そのものへの干渉だ。 私の知る限りじゃ、そんなことができるのは閻魔様を除けば一人しかいない」

「……」

「なあ、答えろよ。 この理不尽な力……お前なんだろ――――みとりッ!!」

 

 みとりという名は、しばらく前に地底で死んだはずの勇儀の友人のものだった。

 だが、死んだはずの相手の名を呼ぶのに、勇儀は躊躇わなかった。

 ここにいることがあり得る特殊性を、彼女が持ち合わせていたからだ。

 

 怨霊が憑りつくのは一般的に人間とされるが、それが妖怪に無害なものであるかと言われれば、そうではない。

 確かにさとりのように怨霊が憑りつくことを忌避するほどに強い精神を持つ者や、お燐のように怨霊から好かれ敵対されない者にはそれほどの脅威はないように思える。

 だが、妖怪が怨霊に憑りつかれることは精神を乗っ取られることを意味するのではない。

 妖怪としてのアイデンティティーを乗っ取られ、自らの存在定義を失って消滅してしまう、実際には人間よりも深刻な被害を被る出来事なのである。

 それ故に妖怪は怨霊を恐れ、怨霊に近づくという行為そのものがタブーとされるため、本来ならば妖怪に怨霊が憑りつくのはごく稀な出来事なのだ。

 

 そして、河城みとりは人間と妖怪の間に生まれた、その両面性を持つ特殊な存在だった。

 みとりは自らの内にある人間の血と妖怪の血が補助し合い、怨霊に憑りつかれても自らの精神が完全に乗っ取られることもなく、存在が乗っ取られて死へ導かれることもなく生き残っていた。

 更に、その時の彼女はもう一つ特殊性を持ち合わせていた。

 それは、怨霊に憑りつかれた時にいた場所だった。

 誰も近寄ろうとしない地底の奥底、無数の怨霊に囲まれた地。

 そこで怨霊に憑りつかれながらも生き残った彼女は、たった一人で数多の怨霊にその精神を蝕まれながらも、完全に乗っ取られることなく消滅することなく永きを生き続けた。

 そして、闇の力を抱えた無限の怨霊を身に宿し、その果てに死んだ彼女の魂は、異常な力を溜め込んだ最大の怨霊となって留まりきれずに分裂した。

 魔理沙が憑りつかれたのはその怨念の欠片に過ぎなかったが、もしその本体が誰かに憑りついたのならば、その存在をまるごと乗っ取ってしまっても不思議ではない。

 それこそ、ここにいるのが地上の河童の存在を乗っ取ったみとりであることは、十分にあり得るのだ。

 

 にとり……いや、みとりと呼ぶべきそれは、勇儀の言葉に答えなかった。

 何を言う訳でもなく、ただじっと何かを狙うように様子を窺っていた。

 それに対峙する勇儀は、遂に耐え切れなくなって、叫ぶ。

 

「……おい、何とか言いやがれ!!」

 

 勇儀は地を蹴り崩して無理矢理に駆ける。

 だが、それでもみとりは何も反応しなかった。

 そこからは、ダメージや疲れなど欠片も感じられない。

 全ての攻撃は、彼女の持つ『あらゆるものを禁止する能力』で無力化されるからだ。

 その身体に直撃したはずの勇儀の拳も、それが触れると同時に右手の動作を禁じてダメージを最小限に抑えていた。

 奇襲のようにくらった最初の空の攻撃すらも、とっさに自らの幻想の生を否定して一時的に世界から外れることで完全に回避し、時間差でその死を拒絶して無傷のまま幻想郷に再び舞い戻っていたのだ。

 それは、因果律さえも無視して全てを否定する、絶対的で呪われた力だった。

 

 その力を相手に真っ向から一歩を踏み出そうとした勇儀の表情は、その身に奔った激痛で曇る。

 まだその拳を振り抜かずとも、目や耳から噴き出した血飛沫と切れていく全身の筋繊維の音が、「抗うことを禁止」する力にたった一歩だけ立ち向かおうとした勇儀の身体にかかる負担の大きさを物語っていた。

 

 ――それが、どうした。

 

 それでも勇儀は止まらなかった。

 皮膚が破れたのなら筋肉で受け止めればいい。

 筋肉が壊されたのなら、骨で殴ればいい。

 骨が砕けたのなら、その破片を飛ばせばいい。

 その一撃の後に自分が死んだとしても、後悔は無い。

 

「ォオオオオオオ雄雄雄雄雄雄ッ!!!」

 

 勇儀はまるでそれが自分に残された「最後の」使命だと言わんばかりに、命を賭した雄叫びを上げる。

 そして、ただ力のままにその腕を振りかぶり、もう一歩を駆けようとして……

 

「……あーもう。 だから、邪魔すんなって言ってんでしょうが」

「え? ……なっ!?」

 

 それが夢か、現実か判断することすらできない。

 ただ、勇儀はいつの間にかお燐に伏されて大地と対面している自分に気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 みとりの足は、自然と大きく一歩後ろに下がっていた。

 自分に向かって駆けだそうとしてそのまま倒れ込んだ勇儀に、攻撃を仕掛けられなかった。

 その後ろで構える2つの視線に気付いていたからだ。

 勇儀を足蹴にしながらも鋭く自分を捉え、辺りの怨霊を操るお燐の視線。

 そして、お燐の後ろで呆然と自分を見つめる、もう一つの視線。

 

「みとりさん……なの?」

 

 空は、信じられないという顔でそう言った。

 突然勇儀を押し倒したお燐の姿など、今の空の目には入ってこない。

 ただ、ヨロヨロとした足取りでみとりに近づいて行く。

 攻撃を仕掛けようとしてなどいない。

 感情のままに、空は叫んだ。

 

「覚えてる? まだちっちゃかった頃しか知らないのかもしれないけど、私だよ、空だよ!」

 

 まだ空が八咫烏の力を手にするより昔。

 空は旧灼熱地獄の温度調節をするだけが仕事の、一介の小さな地獄烏だった。

 そこにあったのは、毎日ただ同じ仕事の繰り返しの日々。

 現状に満足はしながらも、変化のない退屈の中を過ごし続けていた。

 そんな中、ある日空は偶然、一人洞穴の奥で暮らすみとりに出会った。

 誰もいない場所でひっそりと暮らすみとりに、空は興味を持っていた。

 お燐の運んでくる死体以外に新しい出会いがなかった空は、暇を見つけてはみとりに、そしてそれに時々会いに来る勇儀に付きまとうようになった。

 みとりが進んで空と関わりを持とうとすることはなかったが、それでも空は確かにみとりを友達だと思っていた。

 

 だが、数年前みとりは何も言わずに突然姿を消した。

 空がどれだけ待っても、もうそこに戻ってくることはなかった。

 その相手が今、目の前にいる。

 それも、自分や勇儀の敵として。

 

「なんで? わかんないよ。 どうして、みとりさんと争わなきゃいけないの? どうして……」

「……」

「なんで、そんな顔をしてまで戦わなきゃならないの!?」

 

 みとりの表情は、変わってなどいない。

 暗く淀んだ無表情な目で、空のことを捉えているだけである。

 だが、勇儀に名を呼ばれて立ち尽くしていたみとりの目に、確かに何かが溢れかけていたのを空は見逃さなかった。

 

「……こんなの、おかしいよ。 戦いたくないなら逃げればいいのに、苦しいなら助けてって言えばいいのに」

「……」

「ねえ、答えてよ!!」

 

 それでも、みとりは答えなかった。

 空の言葉も虚しく、みとりは空のことをただ敵としか認識していない。

 周囲に漂う怨霊を警戒しながら、みとりは再び地を蹴る。

 対話など考えてはいない。

 ただ目の前の異物を排除しようとするかのように、感情もなく空に向かっていた。

 

「っ……このっ、わからずやっ!!」

 

 そんなみとりに向かって、空もまた核の力を纏って全力で飛んだ。

 

 

   ――燃スルコトヲ、禁ズ――

 

 

「っ―――!? …まだまだああああああっ!!」

 

 空が纏っていたエネルギーは、灯ることなく消滅していく。

 それでも空は止まらず、灯らない火を無理矢理に自らの中で暴走させる。

 そして、燃えることなく外に溢れだしたエネルギーが化学反応を起こし、炎を遥かに超える熱を生み出して空を包み込む。

 

「核熱、『核反応制御不能ダイブ』っ!!」

「っ――――――!?」

 

 そして、空はそのままみとりに向かって突っ込んだ。

 究極のエネルギーが破裂したことで発生した推進力。

 それは空を一瞬でトップスピードまで加速させ、みとりに能力を使う隙を与えなかった。

 その身体を貫かんばかりに加速した空に正面から衝突したみとりは、そのまま宙を舞う。

 

「うぐっ、あぁぁっ…」

 

 それでも、それは決定打にはならない。

 空自身の身体が、それに耐えきれなかったからだ。

 空は一人、掠れて消えそうな声を上げながら力を失い、地面を滑るように倒れ込んだ。

 

 空は近接戦を得意としない。

 最近になって八咫烏の力を手にしたとはいえ、少し前まで非力な木端妖怪の一人だった空に、複雑な戦闘はできない。

 大きすぎるダメージに耐えられるほどの屈強な肉体を持ってもいない。

 それ故に、空には近づかれる前に遠距離から一撃において相手を粉砕する戦術しかとれないのだ。

 だが、空はそうしなかった。

 そこにあるのは、相手を破壊しようという思いではないからだ。

 自らの身を危険に晒してでも、友人と対話するための覚悟があったからだ。

 空はゆっくりと起き上がり、咳き込みながらも少しだけ笑顔を向けて言う。

 

「ぐっ……けほっ。 ほら、やっぱりそうだよ。 みとりさんは戦いたくなんてないんだ。 今だって本当は私を殺せたのに、そうしなかった」

「……」

「私も少しだけわかるよ、その気持ち。 ……だけど、きっと私とは違う。 みとりさんは私なんかとは違って、優しすぎるから」

 

 そう言って空は立ち上がり、腕を広げて再びみとりに向き直る。

 

「ねぇ見てよ、みとりさん。 私こんなに強くなったんだよ。 あんなにチビで弱かった私が」

「……」

「どうしてこんな力が私についたのかはわからないんだけどさ。 最初は、少しだけ嬉しかったんだ。 何の役にも立たなかった私が、大好きな人のためにできることがある、って。 でも、だんだん自分が制御できなくなってきて、全部壊そうとして……それでも、自分じゃ止められなかった」

 

 空が八咫烏の力を得た時、最初にあったのは間違いなく戸惑いと、そして嬉しさだった。

 自分に何かできることがあるかもしれないという、献身の心のはずだった。

 だが、それが身体に馴染むにつれて、空は次第に暴走していった。

 誰かのためという目的など忘れ、強すぎる力に支配されて地上の侵略さえも考えるようになっていた。

 

「それを止めようとしてくれたのが、私の友達……お燐だった。 でも、私はお燐すらも邪魔者扱いして、傷つけた」

 

 空は少しだけ拳を握りしめ、悔むように唇を噛んだ。

 一見すると隙だらけなその状況。

 だが、そんな空を前に、みとりは動かなかった。

 

「だけど、それでもお燐は私を助けてくれた。 自分が危険に晒されるのを、さとり様に怒られるのを承知で……それでも、私なんかを助けるために異変を起こした」

 

 地底の異変。

 それは、お燐が空を助けるために起こしたものだった。

 空の暴走が地底で知られてしまえば、空に厳罰が下る。

 ただのペットの一人に過ぎない空など、そのまま始末されてしまってもおかしくはなかった。

 だからこそ、お燐は怨霊を地上に逃がすことで、地上に空の異変を伝えようとした。

 地底で問題にすることなく、地上人に人知れず異変を解決してもらおうという、お燐の作戦だったのだ。

 

 そして、結果として異変は人知れず霊夢によって解決され、空は何のお咎めを受けることもなく日常に帰ることができた。

 その裏でお燐がどれだけ奔走していたかなど、誰一人として知ることすらなく。

 

「そう。 お燐のおかげで、私は今ここにいる。 私に、そんな友達がいてくれたから!」

「……」

「……だから、私は決めたんだ」

 

 空は暴走する力を再び自らの中に巡らす。

 自らが太陽と化していくかのように全ての光を吸収し、月光を掻き消して辺りを染める。

 

「ぐっ……あああああああああああああッ!!」

 

 だが、それは空の身体を極限まで蝕んでいた。

 空はその痛みを忘れようと必死に叫ぶ。

 それは、核反応の蓄積。

 言うなれば、体内で無数の爆弾を爆発させ続けるような無茶な所業。

 だが、明らかに限界を超える力を自らの内に治めながらも、空はみとりを強く見据える。

 

「どれだけ大変でもっ! 私は絶対に友達を見捨てない!!」

「……」

「たとえどれだけ拒まれても、なんて言われても! それでも今度は私が、苦しんでる友達を……みとりさんを助けるって決めたんだ!!」

 

 そして、空は留めきれなくなった力を放出して宣言する。

 

「『アビスノヴァ』!!」

 

 突如として目の前に太陽ができたかのように視界は白く潰れる。

 それは全てを掻き消す光。

 全ての闇を照らす、陽の波動。

 相手を壊すためではない、ただ何もかもを光に染める恒星となって空は飛び立つ。

 

 それを前に、みとりは未だ動いていなかった。

 空に心を動かされてしまったからなのか、空を傷つけたくないとでも思ってしまったのか。

 だが、それは違った。

 

 

   ――……光スルコトヲ、禁ズ――

 

 

 みとりは冷静だった。

 空が一人で叫んでいる間、みとりの意識は空から外れていた。

 みとりは空の話を聞いていたのではない。

 空から受けた衝突のダメージは、予想を遥かに超えてみとりの身体を蝕んでいた。

 故に、空の攻撃も勇儀の攻撃も来ないチャンスを使って、朦朧とする意識を回復しようと専念していたのである。

 そして、空が再びその力を放つとともに臨戦態勢に戻り、再びその能力で空の力を禁じたのだ。

 それと同時に、空から発される光が無情にも途絶える。

 

「っ……諦める、もんかあああああああっ!!」

 

 空は飛び立ちながらも自らの中に溜めた力を全力で放出するが、それは光を発するどころか微かな熱すらも持たない。

 何も起こらないまま耐え切れなくなった自分の皮膚が、血肉が崩れ落ちるだけ。

 どれだけ頑張ろうとも、みとりの能力の前ではそれはあまりに無力だった。

 それでも、空が屈することはなかった。

 

「……だって、私は一人じゃないから! 信じるって決めたから!!」

 

 空の身体は限界を超えて次第に痛みを失っていく。

 だが、今にも消えそうな命の灯の中で、その目だけは確かに何かを信じていた。

 そして、決して灯ることのない光を練り続ける空は、みとりを強く見据えて、

 

「っ――――!?」

 

 突如としてみとりの足が、何かに絡め取られるように停止する。

 稲妻が走ったかのように足から脳にまで伝わった振動は、みとりの思考を一瞬止める。

 そして、空は更に高く舞い、

 

「私は、私の仲間を……友達を、信じるって誓ったんだ!!」

 

 そう叫んで、灯るはずのない光を辺りに拡散した。

 それはあまりに無駄な悪あがきのはずだった。

 もし、みとりがあと少しでも空にその力を向ければ、終わりの状況。

 だが、その時みとりの目に映っていたのは、空ではなかった。

 その視線の先で、心の奥深くにまで響かん声とともに膨らんでいく一つの力の暴走に、みとりは思考を奪われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 何が起こったかを理解できない。

 ただ、少しだけ意識のとんだ後に勇儀の目に映ったのは、一人でみとりと交戦している空の姿。

 そして、自らの腕を絡め取って地に叩き伏せたお燐の姿だった。

 勇儀はうまく体を動かすことができない。

 さっき一度拳を振り抜けたのは、それが逸れて空たちへと向けられ、付属的にみとりに土が飛んだだけだからなのだ。

 だが、今回はそうではない。

 みとりに向けて直接駆けただけで、たった一歩を踏み出しただけで、自分が一瞬とはいえ意識を失い、お燐に叩き伏されるほどに弱らされてしまったのだ。

 それを理解していてなお、勇儀は自分の限界を認めなかった。

 お燐に向かって脅すように言う。

 

「……放せ、お燐」

「嫌なこった」

「放せって言ってんのが、聞こえねえのかっ!!」

「足手纏いなんだよ、今のあんたは」

 

 だが、無理矢理にお燐を引き離しかけた勇儀の身体は、それを聞いて硬直する。

 足手纏い。

 それは、勇儀が初めて聞く自分への評価だった。

 

「あの河童との間に何があったかなんてどうでもいい。 でも、今のあんたはどう見ても戦える状態じゃない。 それで死なれちゃ迷惑なんだよ」

「……邪魔だというのなら私を放っておいて、最悪盾にでもすればいい。 その結果私が死のうと、お前には関係ないだろ?」

「いいや、大ありさ」

 

 そう言うお燐の目は冷静に、そして真剣に勇儀に向けられていた。

 

「知ってるよ。 この異変が、お空を止めるためにあたいが逃がした怨霊のせいで起きたものだってことくらい。 それを、さとり様やあんたが、あたいたちに、誰にも気付かせないように隠してることくらい」

「……」

「あたいたちが気に病まないように? あたいたちに非難の声が行かないように? どうせ、さとり様やあんたはそんなこと考えてるんだろうさ」

 

 数百年に渡って守られ続けてきた閻魔の忠告、妖怪の賢者との契約を勝手に反故にした結果起きてしまった、計り知れないほどの犠牲を生んだ大異変。

 その原因をつくった妖怪がその先どんな扱いを受けるか、どれほどの苦悩を背負って生きていくことになるのか、想像に難くない。

 だからこそ、さとりと勇儀はそれを隠そうとした。

 これから先の空とお燐の人生を、深い苦悩の中に追い込まないために。

 

「でもね、そんなの余計なお世話なんだよ」

「何?」

 

 だが、お燐はピシャリと言い切る。

 

「これはあたいとお空の問題だ。 さとり様にも、ましてやあんたにも関係ない」

「だからって…」

「それに、自分の立場ってものを理解しなよ。 もし、それであんたが死んだらどうなる? 地底のカリスマ星熊勇儀が、古明地さとりのペットが起こした異変のせいで死んだ。 もしそれが知られれば、あたいたちが処分されるだけじゃない。 さとり様が迷惑を被るんだよ」

 

 ただでさえ危うい地位についているさとりが、辛うじて地底を纏められている理由の多くは勇儀にあった。

 嫌われ者のさとりを差別せず、ただ力のある者が上に立つべきだという、鬼神や天魔と同じような思想を持つ勇儀が仕切っている地底だからこそ、さとりは認められていた。

 だが、その勇儀がいなくなれば、ましてやそれがお燐たちのせいだとバレてしまえば、すぐにでもさとりは追われる身となってしまうだろう。

 お燐は、それだけは絶対に避けなければいけなかった。

 

「だから、あたいはあんたを死なせるわけにはいかない。 そして、あたいたちはこの異変を「存在しなかった」ことにする」

「はあ!? どういうことだ?」

「簡単なことだよ。 そもそも、あたいたちのせいで起きた異変なんてものを地底に伝えなければいいだけだからね。 そのために、この異変が地底まで広がる前に怨霊を回収して、さっさと元凶を潰す。 そして、あたいたちは何事も無かったかのように地底に帰る、ただそれだけのことさ」

 

 ただそれだけのこと。

 簡単にそう言うお燐の目に、迷いはなかった。

 そのための前準備はもう済んでいると言わんばかりに、怯えのない目だった。

 

 そして、勇儀はようやく理解した。

 自分と同等の力を持つ空を差し置いて、お燐がさとりの右腕だとされる理由。

 それは簡単である。 お燐の思考が、本当は他の誰よりもさとりに近いといえるほどに冷静で周到だからなのだ。

 裏表のない冴えないペットとして知られるお燐が、実はさとりの計画すら越えて陰で行動する妖怪であるなどと、誰が想像するだろうか。

 自分を隠しながらも常に一歩先を見据えて状況を調整するお燐の存在は、既にさとりには決して欠かせないものになっているのだ。

 

「だから、悪いけど今回だけは大人しく退いてくんな。 この異変が終わったら、別にあたいは何でも言うこと聞くからさ」

 

 そう言ってお燐は立ち上がり、勇儀に背を向ける。

 お燐は、振り返らない。

 勇儀が誰よりも仁義を重んじる鬼であることを、知っているからだ。

 勇儀には、今の自分以上の目的はない。

 その計画を無視してでも、この異変に介入する理由などない。

 それにもかかわらず自分の邪魔をするような無粋なことを、勇儀が絶対にしないと知っていた。

 

「ま、安心してよ。 あんたのお友達は、あたいとお空でちゃんと成仏させてあげるからさ」

 

 お燐は勇儀に背を向けながら気楽にそう言う。

 恐らくは勇儀の気がかりになっているだろう一人の河童のことも、忘れてはいないという合図。

 それは勇儀が安心してそこで見ていられるようにという、お燐なりの気遣いのつもりだった。

 

 

  ――勇儀。 一つだけ、お願いがあるんだ。

 

 

「……いや。 ダメだ」

「に”ゃっ!?」

 

 だが、勇儀は走り去ろうとするお燐の尻尾を掴んで引っ張り、独り言のように呟く。

 その一言は、お燐のミスだった。

 それは、勇儀の心に眠っていた一つの記憶を蘇らせてしまった。

 

「ぁぁああああ、ちょっと、何を…」

 

 涙目で勇儀に振り返ったお燐の言葉は、そこで止まる。

 まだ伏したまま話す勇儀の表情は、今まで見たことがないほどに真剣だった。

 

 

  ――もし、私がまた誰かを傷つけそうになったら――

 

 

「悪いお燐、そいつは……」

 

 勇儀がみとりと交わしたたった一つの、そして最後の約束。

 みとりが亡き今、もう終わったものであると勇儀の中からも消えかかっていた誓い。

 誰も信じようとしなかったみとりが、たった一人最後に信じて託した想い。

 

 たとえそれが、残酷な願いであったとしても――

 

 

  ――その時は、勇儀の手で私を終わらせてほしい。

 

 

「そいつだけは……絶対に、譲れねえんだよっ!!」

「っ―――――!!」

 

 それでも、自分しかいないから。

 その昔、その能力に抗って彼女を孤独から引き上げてしまった。

 『あらゆるものを禁止する能力』という、全てを遠ざける力を持った彼女に救いを与えてしまった。

 それに後悔などない、あるはずがない。

 だが、それならば自分には彼女に希望を持たせた責任がある。

 その能力に抗うことのできる強さと、しがらみに囚われることなき自由さ。

 彼女を止めることができるのが、できると彼女に託されたのが、それらを兼ね備えた自分だけなのだから。

 

 ならば、せめてその最期の餞は自分が贈るべきなのだろう。

 本当は心優しき彼女が、再び誰かを傷つけ、傷ついてしまう前に。

 そして何より、彼女を慕っていた空の手を、彼女の血で染めてしまう前に。

 

 ――それが、何もできなかった私が、みとりの気持ちに報いてやれるたった一つの方法なのだから!

 

 勇儀は立ち上がり際に思いっきり大地を踏み抜く。

 それとともに、お燐とみとりの足が何かに捕われたように地に縫い付けられた。

 神経を麻痺させるほどの振動で、全てを硬直させる震脚。

 それは、直接みとりに向けた攻撃……いや、攻撃と呼ぶものですらないが故に辛うじてできたことだった。

 

 だが、そこから先は勇儀にとっても一つの賭けだった。

 勇儀は、みとりの能力を知っていた。

 触れた物に対し一定の禁則を創り、「それが結果的に起きない事実」を創れるよう世界を歪められる力。

 たとえば「みとりへの接近」という事象を禁じたのならば、みとりに近づくほどに相手に大きな傷が生じたり、あるいはみとりへと続く道の一切が崩れ落ちるなど、その禁則を破ることを世界が妨げるようになる。

 それは禁じる事象の質や大きさによって妨げる力の大きさも変化し、たいていの禁則に関しては決して破れないというほどに強力な妨害ではなかったが故に、みとりの存在は危険視されつつも、今までそれほどの脅威になることはなかった。

 

 だが、闇の力を得て強大化した今のみとりの能力がそんなに甘いものではないことを、その力を実際に受けた勇儀はよくわかっていた。

 抗う者の意志や力の強さなど関係なく、禁じた事象が起きなかった事実を問答無用に創るために因果律を捻じ曲げる、絶対不可避の力。

 それでも、勇儀はそこにわずかな活路を見出していた。

 勇儀は単純であっても馬鹿ではない。

 みとりの能力には制約があることを、これまでに学習していた。

 みとりが科すことのできる禁則には、数、あるいは禁則の程度によって質的な限界があること。

 右手を動かす禁則やみとりに抗うことへの禁則は、太陽神の全力を完全に掻き消す禁則や、自らの死と生を世界から騙すというあまりに大きな禁則に上書きされて弱まったが故に、勇儀は自らの身を犠牲にしながら少しならみとりに抗うことができた。

 それは、みとりが新たな禁則を創る度に、それ以前の禁則は徐々に弱まっていくことを意味する。

 つまり、もし勇儀が倒れている間にみとりが禁則を乱立させていたのなら、全力でみとりに攻撃を仕掛けることもできるのだ。

 

 それでも、その仮説が実行できるためには、みとりがこの短時間で必要以上に能力を使っていることが前提である。

 さっき倒れた時も、「途中でお燐が止める」という結果があったからこそ、勇儀は今こうして生きているに過ぎない。

 だが、もしその禁則が十分に弱められず、勇儀を止めるものもないまま拳を振り抜こうとすれば、その瞬間に自分がまるで存在していなかったかのごとく世界から消滅してしまうだろうことが勇儀にはわかっていた。

 

 それでも、勇儀は次の一手に自らの全てを懸けていた。

 認めていたから。

 今みとりと向かい合っている空の力が、心の強さが、本物であると。

 そして、恐らくは自分と同じくらい、みとりへの気持ちが本物だと知っているから。

 だから、勇儀は疑うことなく全力でもってその拳を振りかぶる。

 

「四天王奥義っ!!」

 

 その一歩目は、思考を止めるほどの地響きを引き起こした。

 二歩目以降が成就しやすくするための一歩目、つまりは望む世界を創り出すために、その一歩目は状況により様相を異にする。

 そして、その力は一度目のようにはるか遠方まで届かせるためのものではない。

 空間そのものを歪ませ、目の前の世界の一切を無に還すほどに凝縮していた。

 

 それに気付いたみとりは、空に向けていた注意を本能的に一気に勇儀へとシフトさせた。

 遥か遠くから一瞬で三歩目を踏み込もうとしていた、勇儀の突然の急襲。

 完全に意表を突いた、渾身の一撃だった。

 

 

   ――近スルコトヲ……ッ!?

 

 

「……まったく。 本当に話を聞かないんだから」

 

 それを再び禁じようとしたみとりの思考を、しかし次の瞬間怨霊たちが妨げる。

 無数の怨霊たちの声がみとりの中で鳴り響き、その力の根源を喰らい尽くそうとしていた。

 空に、勇儀に、あまりに注意を割き過ぎたが故に忘れてしまったもう一つの脅威。

 お燐が召喚した怨霊の残照が、みとりの奥に潜みながら侵食していた。

 お燐は戦いを長引かせるよう誘導することで、怨霊がみとりの負の感情を食らいつくし、弱らせるのをずっと待っていたのだ。

 

 本当はあと数秒で、空の力だけでもみとりに勝てるほどに弱らせられるはずだった。

 だが、勇儀が勝手に飛び出したことで狂った計算は、それでも瞬時に計画を早めて無理矢理に帳尻を合わせていた。

 みとりの力が萎むとともに、空が発した光は徐々に色彩を帯びていく。

 そして、勇儀の拳が阻まれることなく世界を切り裂いて、

 

 

「いっけえええええええええっ!!」

 

「『三歩必殺』ッ!!」

 

 

 みとりは朦朧とする意識の中、なす術もなくその力の奔流に飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ――唯、一ツ――

 

 ――私ハ最後ニ、禁ズル――

 

 

 

 

 

 

 

 

 空は目を閉じながら、ゆっくりと息を吐いた。

 その表情は苦痛に歪みながらも、安らかだった。

 お燐や勇儀のことを信じていた。

 自分一人ではダメでも、2人がきっと助けてくれる。

 そう信じてただ自分の全力を出し切った空は、疲れ切った身体を休めるように、ゆっくりと地に降り立つ。

 

 ――やっと、終わったよ。 これで……

 

「……え?」

 

 だが、微かに目を開いた空の視界に映ったのは、全てが終わった世界だった。

 

「どうして、こんなに……」

 

 空が放ったのはみとりを傷つけるための力ではないはずだった。

 その闇を照らし、みとりを助けるための力のはずだった。

 だが、その一方で勇儀の放ったそれは、とても助けるための力ではなかったのだ。

 その一撃で確実にみとりを殺すための、確かな殺意。

 そして、そこには未だ煙の上がるほどに熱を帯びた拳を突き出したままの勇儀の姿があった。

 既にボロボロで動くのも辛いはずの空は、それでも勇儀に掴みかかる。

 

「なんで……どうしてっ!? みとりさんだったんでしょ? なのに、なんでっ!!」

 

 勇儀なら、絶対に助けると思っていた。

 みとりを助けたい気持ちは自分と一緒なのだと思っていた。

 そう信じて戦い抜いた空は何もかもに裏切られたかのような思いに駆られ、勇儀を捲し立てる。

 勇儀は何かを耐えるように唇を噛んだまま、微動だにしなかった。

 それでも、その顔に後悔の色はなかった。

 

「お空……」

「せっかく会えたのに、どうしてっ!?」

「違うんだ、お空。 みとりは……」

「言い訳なんて聞きたくない! だって、勇儀さんは…」

「聞け、お空!!」

 

 勇儀に気圧された空は、一瞬口を閉ざす。

 勇儀は何かを躊躇ったような表情を一瞬浮かべ、少しだけ申し訳なさそうに話し始める。

 

「みとりはな……もう、何年も前に死んでるんだよ」

「え?」

「悪いなお空、黙ってて。 あれは、みとりの怨霊の欠片……みとりに憑りついた無数の怨念が生んだ、ただの負の遺産なんだ」

 

 勇儀が地底でみとりの異変に気付いたのは手遅れになった後、もう戻れないところまで怨霊の浸食が進んでいたのだ。

 だから、勇儀にはどうすることもできなかった。

 死に逝くみとりの願いを、聞いてあげることくらいしかできなかった。

 

「どうして……? そんなの私、聞いてないよ!」

「お前には伝えないことにしたんだ。 お前を傷つけたくないと、みとりが望んだことだからな」

「……私を?」

 

 みとりは、誰かを傷つけることを恐れていた。

 無邪気に近づいてくる空を、自分でも気づかない内に傷つけてしまうのではないかと恐れていた。

 そして、次第に怨霊に支配されて制御できなくなっていく自分の力が、非力な空を傷つけることを避けたいと、勇儀に頼み込んでいたのだ。

 それ以降、みとりは空から離れるようなった。

 勇儀が、2人を引き離したのだ。

 嘘はつかずとも、ただ遠ざけることだけならできるから。

 そして、みとりの死という悲惨な事実を、空に伝えないようにすることくらいはできるから。

 

「そして、もしもう一度自分が誰かを傷つけようとしたのなら、その時は殺してほしいと。 誰かを、お前を傷つける前に、終わらせてほしいと。 そう、みとりが望んだことなんだ」

「そんなのって……!」

「恨むなら、私を恨めばいい。 だが、私は後悔なんてしていない。 やっと、あいつを静かに眠らせてやれたんだからな」

 

 そう言って、勇儀はみとりが消えていったその煙の先に目を向ける。

 もう、そこには自分を縛る制約も、空を縛る制約も、感じられなかった。

 それはつまり、もうみとりの力が消滅したことを意味していた。

 それ故、終焉を悟って寂しそうな目でその先を見据えていた勇儀だったが……

 

「……何、だとっ!?」

 

 その先には未だ、消滅したはずのみとりの姿があった。

 

 ――バカな、アレで生きていられる訳が……

 

 そう思いながらも勇儀には少しだけ違和感があった。

 風圧が当たったのではない。

 確かに勇儀の拳はみとりに直撃した……ような気がする。

 だが、その拳にあった感触には、どこか距離があったように思える。

 まるで、それが当たる寸前に巨大な壁が立ちふさがったかのような。

 みとりの身体が勇儀の拳に合わせるように後ろに跳んだかのような。

 

 ――まさか、避けたってのか?

 

 勇儀は信じられなかった。

 一歩目で、確かに動きを封じた。

 その隙を突いた最速の二歩目と不可避の三歩目、絶対の破壊。

 それ故に必殺。

 スペルカードルールを除けば、それが完全に決まって終わらせられなかったことなど、未だかつて一度も無かった。

 確かに自分が万全であったとは言えないが、少なくとも三歩目の時にはみとりの禁則はほとんど感じられなかった。

 それにもかかわらずみとりが無事だとは、とても考えられなかった。

 

「……え?」

「な、何だい、これっ!?」

 

 そして、その瞬間3人の足を何かが地に縫い付ける。

 それは、あまりに堅く圧縮された大気の枷。

 いつの間にかみとりとの間にできた暴風の壁は、近づく全てを切り刻まんほどに強く張り巡らされていた。

 それに気づいた勇儀が改めてみとりを見ると、それは自らの力で立っているのではなかった。

 気絶したまま、ただ虚空に浮かんでいた。

 まるで、何かに守られているかのように。

 

 やがて辺りを覆っていた煙は霧消し、みとりの前に一つの影を浮かび上がらせる。

 

「お前は……」

 

 勇儀は、それを強く睨む。

 その表情に浮かんでいたのは、怒りだった。

 目の前の相手に向けられた、殺意とでも言うほど確かな威圧だった。

 その殺意は、耳障りなほどに鳴る風の音に遮られながらも、辺り一帯の景色を貫くほどに鋭く向けられる。

 

 だが、そんな勇儀の殺気をものともせずに、文は倒れたみとりを背に一人悠然と立ち塞がっていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第22話 : 卑怯者

 

 虐げられていたのがいつのことかなど、もう覚えてはいなかった。

 それでも、ただその時の恐怖だけが脳裏に刻み込まれていた。

 たとえ自由を得ても、自分が道具のような存在である感覚が抜けることはない。

 恐怖から逃避するために捨てた自分の心が、元に戻ることはなかった。

 

「あのっ! 射命丸文さんですよねっ!?」

 

 そんな記憶から解放されたのは、とある友人に出会えたからだった。

 文のことを尊敬の眼差しで見る一人の天狗に、出会えたからだった。

 

「……そうだけど」

「きゃあああああ! 私、文さんのファンなんです! 握手してもらってもいいですか!?」

「はぁ……」

 

 余計な感情を捨ててただ淡々と仕事をこなし続けてきた文は、妖怪の山随一の実力の持ち主との呼び声も高かった。

 そのため、それにあやかろうとする者や、自分の保身のために文に近づく者も少なくはなかった。

 だが、誰一人として文と長い時間を供にする者はいなかった。

 数百年にも渡る時間を無機質に生きてきた文は、もはや目の前の存在に興味を抱かなかったからだ。

 自分の周りにいる者だろうとそうでない者だろうと、ただ平等に処理していくだけだったからだ。

 それ故に、文に近づく者は僅かな時間だけ取り入るように接し、自分にその恩恵が向かないことを察するとすぐに失望したように文から離れていった。

 それを文が咎めることはなかった。

 それ以前に、そんな相手にはそもそも見向きもしなかった。

 誰かと一緒にいることに、特段の価値なんてないのだから。

 文は誰も愛さず、誰にも寄り添わず、一人で孤独に仕事をこなしていくだけの一生を送るはずだった。

 

「文さん! 今度、私の友達も連れてきてもいいですか?」

 

 だが、その天狗が文から離れていくことはなかった。

 どれだけぞんざいに扱おうとも、文を支えるように勝手に傍に寄り添い続けていた。

 

「……何だ。 噂に聞いていた通り、本当につまらない奴だな」

「椛!? 文さんに向かってなんて口きくのよ!!」

「純然たる事実だろう?」

 

 そして、いつの間にか勝手に傍に居座る者は、もう一人増えていた。

 烏天狗よりも下位で従順な種族であるにもかかわらず、なぜか上から目線で話す生意気な白狼天狗。

 だが、不平を述べながらも、その白狼天狗も文から離れていくことはなかった。

 文の周りに勝手に集まって勝手に騒いでいくだけの2人。

 文にとって、それは初めての経験だった。

 不思議と、それが嫌ではなかった。

 

「何をしている、さっさと来い」

「ほら文さん、早く早く!」

「ま、待ってよ2人とも――」

 

 それから、文はいつもその2人と一緒の時を過ごしてきた。

 時には難解な任務を共に切り抜けながら。

 時には他愛のない話で平穏を過ごしながら。

 そんな日常は、それでも文が初めて感じた安らぎの時だった。

 自分が生きていると感じられる、幸せという形だった。

 そんな日々に身を委ねながら、文は長い年月をかけて少しずつ自分の心を取り戻していった。

 

「ねえ、2人とも。 私、自分の新聞を作ろうと思うんだ」

「新聞? 文さんがですか?」

「まあ、自分で言うのもアレだけど、それなりに顔は広いつもりだしね」

「それにしても、文がいきなり新聞とはどういう風の吹き回しだ?」

「いやあ。 何ていうか、面と向かって言うのも照れくさいんだけどさ」

 

 時間の経過とともに、それまでの能面の面影など全く感じさせないほどに、文の表情は誰よりも明るくなってきていた。

 文は少し照れるように、それでも裏のない屈託のない笑顔を2人に向けて言う。

 

「こんなに楽しい世界なら、それを皆に知ってもらわなきゃ損じゃない?」

 

 そして、いつしか文は新しい人生を生きる希望を得るまでに至った。

 

 だが、そんな幸せは永遠には続かなかった。

 

「聞いたぞ、文。 天魔様に呼び出されたそうだな」

「……うん」

 

 ある日、文に天狗社会のトップから直々の辞令が下った。

 それは文を2人の元から遠ざける、異例の異動だった。

 

「で、どうした?」

「断ったよ。 私には耐えられそうもないから」

「……そうか。 ま、文らしいといえば文らしいけどな」

 

 一人は、文のことをわかってくれた。

 今の時間を大切にしたいと思う文のことを尊重してくれた。

 

「……なんで?」

「ほら。 私そういうガラじゃないし、それに私は今が十分に楽しいからさ」

 

 だから、もう一人の親友も、きっとそれをわかってくれるのだと思っていた。

 今までのように楽しく、3人一緒に過ごせるその選択は間違っていないと、そう思っていた。

 

「ふざけないでよ」

「え?」

「どうして……なんで、文さんは――――っ!!」

 

 だが、それを聞いた天狗は涙を浮かべながら文から離れていった。

 その目に微かに浮かんでいたのは、確かに文を睨むような憤りの色だった。

 

 その日以来、その天狗は文を避けるようになった。

 それでも無理にいつも通りに接しようとする文を、次第に道端のゴミを見るかのような冷たい目で見るようになっていった。

 いや、文に対する視線ではなく、むしろその人格が変わったと言った方がいいのかもしれない。

 身内を売り、弱者を虐げ、上層に媚を売ることで一人その社会を昇りつめるようになっていた。

 それは、その天狗が文のことをあくまで出世の道具として見ていたのだろうという周囲の思考を、確固たるものとしていった。

 手段を選ばず、あらゆる者をただ自分の地位のためだけに利用していく烏天狗。

 そして、その名は遂に文を追い抜くところまで台頭してきた。

 

 卑怯者の姫海棠という異名が。

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第22話 : 卑怯者

 

 

 

 

 ――あれ? 私は……

 

 気付くと、一人森の中で木にもたれかかっていた

 朦朧とする意識の中、文は何かを試すように自分の手を握ったり開いたりを繰り返す。

 その身体に思ったほどの外傷はなく、その気になればすぐにでも全力で飛べることがわかる。

 

「……また生き残った、か」

 

 だが、その心だけはどうしようもないくらいに砕けかけていた。

 

「こんな時に私を助けたのが、あの人だなんてね」

 

 文は、自分がくらった技の正体を知っていた。

 三歩必殺。 鬼の四天王の一人、星熊勇儀の奥義。

 それは紛れもなく、文の根底を侵食する心的外傷だった。

 文がこの世で最も恐れていた存在。

 文を支配し、その心に消えることのない傷を負わせた張本人。

 それに命を救われたという事実は、文から憎しみという負の原動力すら奪っていた。

 

「いつまで、寝てんのよ」

「え?」

 

 そんな文の目に入ってきたのは、自分と同じように木に寄りかかって座り込んでいるはたての姿だった。

 その木陰には、傷ついた河童たちが丁寧に横たえられていた。

 

「ああ……ありがと、はたて。 約束、守ってくれたんだ」

 

 はたてはあの戦場から、倒れた河童たちを全て避難させていた。

 最悪の天狗として名高いはたてがこの状況で何を企んでいるのかは文にはわからなかったが、それを考える力などもう残されてはいなかった。

 ましてや、立ち上がる気力など、もう残されていなかった。

 ただ、昔のように少しでも自分の気持ちを汲み取ってくれたのかもしれないはたてへの、裏のない感謝を向けるだけで精いっぱいだった。

 それを、はたては憎しみのこもったような目で見る。

 

「……だったら、あんたはどうしたのよ」

「え?」

「私はあんたの言いつけを守ったわ。 それで、私にこの子たちを任せたあんたは、何をしてんのかって聞いてんのよ!」

 

 そう叫んだはたての口からは、唾と混じって止まることなく血が飛び散っていた。

 その身体は、どう見ても文よりも重傷だった。

 まともに立つことすらもままならない身体で、それでも両手に9人もの河童を抱えてここまで飛んできたはたて。

 それに気付いた文の心には、必要以上に自分の情けなさがこみ上がってきていた。

 

「見ての通りだよ。 私は何もできなかった。 一人でカッコつけて異変を解決するつもりで無様に敗けて、嫌いなはずの鬼に頼ることしかできない…」

「誰が、あんたに異変の解決なんて頼んだのよ」

「え?」

「あんたがそうやって助けようとした河童の、最後の一人はどうしたのかって聞いてんのよ!」

 

 文は、困惑した表情を浮かべていた。

 はたてが、何を言いたいのかがわからなかった。

 そんな文に向かって、はたては小さな何かを投げ渡す。

 それは、はたて愛用の携帯電話だった。

 電話というものが存在しない幻想郷において使い道のないオーバーテクノロジーに思えるそれは、はたてのカメラとして使われていた。

 自分が潰した河童や妖怪たちを写してコレクションするための、悪趣味な道具。

 そして、『念写をする程度の能力』を持つはたてが、遠くにあるものを記録するための道具。

 それは、はたてを最悪の天狗として知らしめる最大の要因である能力だった。

 はたては人知れず起こっているはずの出来事を記録に残し、それを使って誰かを脅し、陥れるためにその力を使い続けてきた。

 文にとってもそれは他人ごとではなく、その携帯は忌むべき道具であった。

 だが、落ち着いてその画面を見ると、そこにはにとりを追い詰めていく勇儀の姿が映っていた。

 

「これは……」

「星熊勇儀。 あんたも知ってると思うけど、アレは掛け値なしに幻想郷最強と言っていいような鬼よ。 それに加えて、今は多分そいつと同等の実力の助っ人もいるわ」

「そう。 だったら、任せておいても…」

「ええ。 多分あんたが行かなくても、あの河童を殺せるでしょうね」

「そっか」

 

 文は、自分が責められているのだと気付いた。

 自分が、見下されているのだと思った。

 何もできない、いてもいなくても変わらない自分が、一丁前に出しゃばったことを責められているのだと理解した。

 だけど、それを謝るつもりなんてなかった。

 どうしようもないのだから。

 今さらあの場に行ったとしても、自分が勇儀たちの助けになることなどできないのだから。

 

「……そっか、ですって?」

 

 だが、それを聞いたはたての表情に浮かんでいたのは、出会ってから今まで見たことのないような、殺意すら浮かべるほどの目だった。

 はたてはまともに立つことすらできないはずの身体で、それでも文に掴みかかった。

 

「あいつらは、殺せるのよ。 この異変の犠牲になっただけのあの子を、何の躊躇いもなく殺すのよ!」

「え?」

「あんたは助けるんじゃないの? 弱い妖怪が虐げられてるのを、黙って見ているつもりなの!?」

 

 文は未だにわからなかった。

 弱い妖怪。

 虐げられる。

 そこに成り立つ方程式はわかっていた。

 だからこそ、文は文なりに自分のできる範囲で、はたてに追われている河童たちを助けようと思った。

 誰よりもそれを傷つけてきたはずのはたてに、そう言われる意味が理解できなかった。

 

「……そんなの、はたてにだけは言われたくないよ」

「っ――――」

 

 その瞬間、文の頬は思いっきり叩かれていた。

 手の形の痣ができるほどに思いっきり。

 だが、文は何も言い返すことができなかった。

 自分に掴みかかってくるその顔を見てしまったから。

 悔しさに震え、大粒の涙を流したはたての表情など、あの決別の日以来一度として見たことがなかったから。

 

「私だって……」

「え?」

「私だって、助けたいわよ!! この子たちを! 今も何かに苦しんでるあの子を!!」

 

 端を切ったようにそう打ち明けるはたての言葉は、もう止まらなかった。

 

「確かに私は、上層の気に障った子たちを何度だって傷つけたわ。 この子たちを虐げて、「制裁」を受けさせた! そうしないと、この子たちが受けるのは拷問なんかじゃすまないから。 誰かに壊されでもしてない限り、この子たちにもう明日は来ないから!!」

 

 妖怪の山の支配体制は、一種の「恐怖政治」だった。

 鬼がいた頃から、上の意向に反する行動をとれば命を奪われるという恐怖から、弱い妖怪は逆らえないという構造が定着していたのだ。

 だが、鬼が去って天狗の支配が始まってから、妖怪の山では殺戮はなくなった。

 正確には、最近になって殺戮は徐々に減っていった。

 「死よりも辛い体験」と銘打って生きたまま恐怖を植え付けることで妖怪たちをより強い支配下に置くべきだと進言し、それを執り行ってきた一人の烏天狗がいたからだ。

 

「辛くても、何度吐いても、それでも続けたわよ! いつかこんなことをしなくても済むように。 いつか私が頂点に立って、社会そのものを変えられるように!」

 

 何かを成すのは、常に力ある者だということを知っているから。

 何かを変えられるのは、常に高みから世界を見渡せる者だけだということを知っているから。

 ならば、力ある者が成すしかない。

 それでも駄目なら上り詰めて変えるしかない。

 たとえ誰かを傷つけるとしても。

 たとえ誰かを裏切るとしても。

 たとえどんな汚いことに手を染めてしまうとしても。

 

「だけど、私じゃ無理なのよ。 私の力じゃ、どれだけ頑張ってもこれが限界なのよ!!」

 

 だが、力なき者が何かを変えるには、自らの全てを懸けてもまだ足りないことを知っていた。

 はたてはあくまで上層の手足の一人であることしかできなかった。

 変えることなどできない。

 血反吐を吐きながら、弱者に「死」を与える代わりに「苦しみ」を与えることしかできない。

 卑怯者の烙印を押されてまでずっと続けてきたはたての行いは、そこが限界だった。

 

「なんでよ……あんたにはその力があるのに。 あんたにはそれができるのに! どうしてよ!?」

「それは……」

「私に、あんたの半分でも力があればいいのに……なんで、どうしてっ……」

 

 文を、いや、ただ力のない自分を責めるよな言葉を何度も吐きながら、はたては泣き崩れていた。

 掠れて裏返ったような声を聞きながら、文は何も言えずに立ち尽くしていた。

 自分に縋り付くように泣いている、かつての親友に声もかけられなかった。

 

 自分は誰かを虐げてなんていない。

 自分はもう関係ない。

 そう自分に言い聞かせてずっと見て見ぬふりをしてきた。

 目の前で起きていることからすら目を背けて、何もしないくせに終わったことにだけ憤慨していた。

 自分ができるはずのことからすら逃げて、ただ自己満足に浸っていただけだった。

 

 ――最低だ、私。

 

 それなのに、ずっと裏切られたと思っていた。

 上層に取り入って弱者を虐げる親友を、卑怯だと陰で罵ったこともあった。

 自分がただのうのうと生きている間に、はたてがどれだけ苦んでいるかも知らないまま。

 

「……卑怯なのは、私じゃないか」

 

 文は、覚悟を決めた。

 自分には荷が重すぎると、できないとずっと逃げ続けてきた一つの道。

 だが、自分にしかできないのなら、それを継ぐ覚悟を決めた。

 こんなにも頑張ってきた親友と比べれば、自分の覚悟など紙切れにも等しいほどに薄く容易いものなのだから。

 文は一度大きく深呼吸し、はたての頭を撫でるようにゆっくりと引き離す。

 そして、目を赤く腫らして見上げてきたはたてに言った。

 

「今度こそ。 この子たちのことは頼んだよ、はたて」

「え……?」

「あの子は、私が絶対助けるから」

 

 そして、涙で霞んで見えないはたての視界から、文字通り風のように文の姿が消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何のつもりだ?」

 

 みとりを消滅させる寸前に立ちはだかった文を、勇儀は憎々し気な目つきで睨んでいた。

 正面に浮かぶ文は、みとりを風の檻で覆ったまま動かない。

 そんな文に、勇儀は脅すように強く言う。

 

「何故、邪魔をする? 昔お前の上司だった私へのあてつけのつもりか?」

「……」

「だがな。 そこにいるのはこの異変の元凶であり、私の友人だ。 お前に手を出す権利は…」

 

「黙りなさい」

 

 だが、文から返ってきたのは、勇儀が全く予想していなかったそんな言葉だった。

 自分に対して従順な文から出るはずのない、確かな命令口調だった。

 

「……ほう?」

 

 突如、殺気という言葉では表せないほどの威圧感が妖怪の山を覆った。

 勇儀の後ろにいる空とお燐さえも、突然の気迫にあてられて僅かに身がすくんでいた。

 そして、勇儀は本気の言霊を文に向けてぶつける。

 

「なるほどねぇ。 お前は、誰に口を聞いてるのかまだわかっちゃいないみたいだなァ!!」

「黙れと言ったのが聞こえないのか、この痴れ者がっ!!」

 

 だが、その叫びは勇儀の気迫をものともせずにまっすぐ響き渡った。

 

「貴様こそ、誰に物を申しているつもりだ?」

「はあ?」

「ただの野良妖怪風情が、誰に向かって意見しているのかと聞いている」

 

 勇儀は、それに返すことができなかった。

 言い負かされたからでもない。

 そこに脅威を感じたからでもない。

 ただ、自分の記憶とはあまりに違う文の強い声に、戸惑いを隠せなかった。

 そして、文は勇儀の拳が届くほど目の前に降り立ち、宣言する。

 

「我が名は射命丸文。 天魔様より次代『大天狗』を拝命し、守矢神社が一柱、洩矢諏訪子様より統括を一任された、妖怪の山の全権だ」

「なっ……」

 

 勇儀は開いた口が塞がらなかった。

 大天狗。 即ち天魔にその力を認められた、全ての天狗の頂点に立つ者。

 さらに、たった2人で天狗社会全体と張り合えるほどの実力を持つ、土着神の頂点とまで言われた神から認められた存在。

 それは鬼の四天王という名にすら匹敵する、幻想郷の一大権威だった。

 

 そして、文がその手を振り上げると、周囲を竜巻のような風が覆った。

 それは、この数百年一度として全力でぶつけたことのない自らの力。

 誰かを傷つけ傷つけられることから逃げるために隠してきた本気の力を、文は初めて目の前の相手に向けて振う。

 流石の勇儀も、予想以上のそれを前に困惑していた。

 文はそんな勇儀に敵対の目を向けたまま、厳かな口調で続ける。

 

「そして、貴様がたった今手に掛けようとした河童は我が部下だ。 それを許可もなく傷つける権利が、山から逃げ出した貴様ごときにあると思うか?」

「何、を……」

「それでも貴様が、鬼としての矜持すらも忘れて彼女に手を出そうというのなら、我が山に仇名す敵として今ここで私自ら討伐してくれよう」

「っ……」

「だが、貴様にまだ、この社会を構成する一員としての誇りが一片でも在るというのなら」

 

 そして、文はその手に構えた大天狗の団扇を勇儀の喉元に突きつけて、

 

「私に従え――――星熊勇儀!!」

 

 そう、強く宣言した。

 だが、文の足は微かに震えていた。

 いかに覚悟を決めようとも、そこにあるのは紛れもない自分の心的外傷なのだ。

 

 

  ――お前たちは誰よりも強くなれるって、何だってできるって、私が保証する。

 

 

 それでも、今ここにいるのは、誰よりも強き友が信じてくれた自分だから。

 文は、もう自分の強さを疑ったりはしない。

 

 

  ――……文? っ!? バカ、来るな!!

 

 

 自分に宿っているのは、誰よりも勇敢なる友に助けられた命だから。

 文は、もう自分の気持ちに嘘をつき続けるような無駄な生き方はしない。

 

 

  ――あんたには、それができるのに! どうしてよ!?

 

 

 そして、誰よりも心優しき友の覚悟を継ぐと決めたから。

 文は、もうどんな困難からも逃げたりしない。

 どこまでも、たとえ誰が相手であっても立ち向かい続けると誓った。

 その強き眼差しは、勇儀の心の奥まで貫かんほどに迷いなく真っ直ぐ向けられる。

 

 それに対峙する勇儀は、動かなかった。

 いや、動けなかった。

 いつの間にかそれに聞き入っている自分に気付いていたからだ。

 

 ――嗚呼。

 

 勇儀は、振り上げかけたその拳をゆっくりと下ろす。

 

 ――あの弱虫が、よくぞここまで……

 

 そして、一瞬だけ自らを嘲るような笑みを浮かべて片膝をつき、拳を自分の胸に当てるようにして宣言する。

 

「……失礼した。 礼の到らぬ我が身の無礼を、お許しいただきたい」

「……」

「私はもはやこの社会の一員ではない。 だが、志を同じくする一人の鬼として、貴方のもとで共に戦うことを認めてほしい」

 

 だが、そう言った次の瞬間、勇儀はその拳を文の顔面めがけて振り抜く。

 それは、ただ文の力を試すための行為。

 この程度のことに反応すらできない弱者に与するつもりはないという、一種の試験のようなものだった。

 それを前に、文は瞬き一つしなかった。

 突然のことにもかかわらず、風の力で華麗に受け流した勇儀の腕をとって、

 

「了承した。 鬼の四天王、星熊勇儀。 貴殿を我が山の一員として快く迎え入れよう」

 

 そう、厳格な口調で言った。

 そして暫くの沈黙。

 鋭く、静かな視線が交わり合ったままただ時間だけが流れていく。

 やがて、勇儀はその口角を上げて、

 

「……ふふふ。 はははははははは」

 

 大声で笑い始めた。

 

「なるほどな。 まだまだ天魔にゃ及ばないが、それでも十分だ。 成長したなぁ、射命丸」

「……いえ。 私なんて、まだまだですよ」

「ああ、そうだな。 それで満足してもらっちゃ困る」

 

 勇儀は今さっき自らの拳を流されてしまった風の盾に再び手を突っ込んで食い破る。

 そして、文の額を掴んで言った。

 

「私が従うのは、私が認めた相手だけだ」

「……」

「だから、お前が妖怪の山の頭として相応しくないと思ったら、その時は遠慮なくその喉笛掻っ切って好きにさせてもらうからな」

「ええ。 そんな覚悟くらいできてますよ」

「ははっ。 まぁ、せいぜい私を失望させないようにな」

 

 そんな厳しい言葉を吐く勇儀は、それでも声色は軽く、その表情は滅多に見ないほどに愉快そうだった。

 少しだけ、文はそんな勇儀に怪訝な目を向けていた。

 今の勇儀からは、昔のように暴虐的で憎むべき鬼の姿を感じることができなかったからだ。

 だが、別に勇儀は昔と比べて性格が変わった訳でも何でもない。

 それが、鬼の中でも異端として知られる勇儀の特徴なのだ。

 

 勇儀は他の鬼のように、自らの力を誇示するために弱者を甚振ったりはない。

 いや、そもそも弱者に対しては興味すら抱かない。

 だが、強い者、自分が認める者、そして期待する者に対しては誰よりも厳しかった。

 その勇儀が唯一長期に渡って厳しく接し続けていた一人の烏天狗は、裏を返せばそれほどまでに勇儀を期待させる潜在能力を秘めていたのだろう。

 それこそ、いずれ社会の頂点にすら立てるほどの逸材であるかのように。

 

「さて、それで『大天狗』射命丸殿。 そいつを、これからどうするつもりだ? まさか勢いで止めただけ、なんてぬかすんじゃないだろうな」

 

 そう言われた文は、臆することもなく勇儀の後ろに目線を移す。

 

「ええ。 ……そこにいるのは、地霊殿の火焔猫燐さんと霊烏路空さんですね」

「え?」

「火焔猫さんは、確か旧地獄の怨霊の管理者ですよね。 そして、怨霊の声を聞いたり操ったりすることもできる」

「あ、ああ、そうだけど」

 

 返事をしたお燐は、答えつつも文を警戒していた。

 

 幻想郷において、異変の関係者の多くはその存在が広く知られる。

 異変の解決後に、博麗神社で宴会が行われるからである。

 だが、地底の異変についてはまだ解決から十分な時間が経たない内に今回の異変が起こってしまったので宴会はまだ行われず、地上にお燐たちのことは広まっていないはずなのだ。

 それにもかかわらず、お燐や空の名のみならず、お燐が実質的な怨霊の管理者であるという、地底の住人であっても知る者が少数である情報を地上の天狗が知っているというのはお燐には理解できないことだった。

 だが、お燐の怪訝な目を、文は当然のことのように特段気にしてはいなかった。

 

 幻想郷一の速度、というのは何も飛行速度のことだけではない。

 誰よりも速い「情報力」という新たな武器を、文は手にしていた。

 それは、天狗という強大な種族のエリートでありながらも気取ることなく、あらゆる種族を超えて気ままに幻想郷を飛び回っていた文にしか手にすることのできない、その人生の結晶とでもいうべき力だった。

 そして、文はみとりのことを指さして言う。

 

「火焔猫さんの力を使えば、彼女を怨霊から分離させて解放することができると思います。 協力してくれませんか?」

「何でそんなことを知ってるのかは知らないけど……随分と簡単に言ってくれるねえ」

 

 お燐が文に向けたのは、厳しい敵対の目だった。

 

「ここまで深く絡み付いた怨霊とのリンクを外すには、本人の意識の覚醒が不可欠だ。 だけど、あたいたちがそいつを追い詰められてるのは運が良かっただけで、今そいつを始末する機会を逃したら次に捕えられる保証なんて無い強敵だよ? お姉さんは、それであたいたちが返り討ちにあってもいいってのかい?」

 

 確かに、お燐の力でみとりが弱っていったことを考えると、文の案は不可能ではないように思える。

 だが、今なら簡単に始末できるはずのみとりをもう一度起こして助けようとするのは、お燐にとっては必要のないリスクを再び負うだけのことでしかないのだ。

 それでも、それを承知の文は何でもないことのようにサラッと答える。

 

「わかりませんか? 妖怪の山の頭が今、貴方に頼みごとをしているんですよ。 地上の一大勢力に恩を売って強い後ろ盾を得るのは、古明地さとりの地位をより確固たるものにできるチャンスではありませんか?」

「なるほどねぇ。 あたいたちにもメリットはある、と。 だけど、本当にそのリターンは、これから負うリスクに見合ってるのかい?」

「ええ、貴方たちにリスクを負わせるつもりはありません。 もし仮に返り討ちになりそうになったら、貴方たちは私やこの星熊勇儀を盾にして逃げていただいても結構です」

 

 それを聞いて、お燐の思考は一瞬だけ逸れる。

 いくら種族の長になったとはいえ、勇儀に対して全く遠慮の欠片もないそんな物言いをする相手だとは思っていなかったが故に、お燐は一瞬勇儀の反応を察しようとしてしまったのだ。

 だが、当の本人である勇儀はそれに反発するでもなく、愉快そうに笑っていた。

 そして、ほんの少しだけ面食らったようなお燐に気付いた文は、会話の主導権を得たとばかりに畳み掛ける。

 

「それと、この異変が起こってしまったのは貴方だけの責任ではありません」

「え?」

「元はと言えば、山を上手く支配できなかった我々天狗や鬼の不始末ですからね。 貴方たちや古明地さとりに非難の声がいかないように情報を操作してもいいんですよ?」

「あ、ああ。 まぁ、それなら別に…」

「いや、少し待ってもらおうか」

 

 なぜか自分が異変の元凶であると知られていて戸惑うお燐への提案を、遮ったのは勇儀だった。

 勇儀は文を試すように食ってかかる。

 

「一つ聞いてもいいか? どうしてお前は自分の命や私たちの命を懸けてまでその河童を助けようとする?」

「どうして、とは?」

「今のお前は、この山にいる妖怪全ての代表なんだ。 そのお前が下っ端の一人にそこまで入れ込むのは、巨大社会の上層として正しい判断なのか?」

 

 勇儀は文を試すように言う。

 今この瞬間にも、幻想郷全体で犠牲者は増えているはずだったからだ。

 生き残った天狗たちも、ましてや力のない他の河童や妖怪たちも、無事である保障はない。

 だが、大天狗と鬼の四天王に加えてお燐や空という大戦力が4人もいれば、相当数の者を助けることができるかもしれない。

 それにもかかわらず、助けられる保証もないたった一人の河童の救出にその全てを使うのが本当に正しい判断であるかと聞いているのだ。

 文は、少しだけ口ごもる。

 

「それは……」

 

 理由なんていらない、ただ助けたいと思ったから。

 かけがえのない友に、彼女を助けると約束したから。

 今までの文なら、そう答えていただろう。

 そして、恐らく勇儀も、そんな真っ直ぐな答えを一番気に入ったことだろう。

 だが、それはここにいるのが烏天狗の射命丸文だったらの話である。

 事実上、今の妖怪の山の頂点である大天狗としての射命丸文に、そんな回答が許されないことくらい、わかっていた。

 だから、文が口にしたのはただの感情論ではなかった。

 

「今私の後ろにいる彼女は、河城にとり……いえ、河城みとりと言った方が正しいでしょうか」

 

 文は、みとりのことも当然のように知っていた。

 だが、勇儀の興味を引いたのは、みとりのことではなく、「河城にとり」という名の方であった。

 

「河城にとり? って、待て!? その名……偶然じゃないんだよな?」

「ええ、彼女は河城みとりの妹です。 その2人は昔、天狗社会に引き裂かれた不幸な姉妹なんです。 恐らく、それが原因で心を壊してこの異変の犠牲になったのでしょう」

 

 文は、みとりの能力も、その危険性から天狗社会を追放されたことも知っていた。

 個人的な感情から新聞の記事にすることは避けていたが、それが妖怪の山が抱える闇を象徴する出来事であることは知っていた。

 そして、文以上に勇儀が、その話題には敏感だった。

 

「なるほどな。 みとりの怨霊が支配してたのは、自分の妹だったってことかい。 そりゃあ、何とも皮肉な話だねえ」

「そうですね」

「……で? それなら、そいつらを引き裂いた張本人であるお前は何が言いたい?」

 

 勇儀は少しだけ文を責めるように問い詰める。

 実際に文が2人を引き離した訳ではないことくらい、勇儀にはわかっていた。

 だが、そんなことは関係なかった。

 大天狗であると名乗った以上、妖怪の山、天狗社会での出来事に「自分は関わっていない」などという言い訳は通用しないのだ。

 

「私は、この2人を助けます。 殺さず、罰さず、彼女たちに憑りついた邪悪を引きはがします」

「殺さず、罰さず? それでこの異変で住処を壊滅させられた天狗どもの生き残りを納得させられるのか?」

「力ずくにでも、認めさせます。 そしてそれを契機に、この異変の真の元凶である、妖怪の山の悪しき風習を変えます」

「何?」

 

 悪しき風習を変える。

 それはつまり、妖怪たちの心に多くの闇を生み出した、恐怖政治による支配体制を根本から変えようということだった。

 だがそれは、異変の影響で大半を失ったとはいえ、未だ残りの天狗の大部分を占める強硬派をたった一人で敵に回すことを意味していた。

 勇儀がまだ山にいた頃から、誰も変えることのできなかった支配構造。

 それを変えるなどとは、軽々しく言えることではなかった。

 

「……戦争になるかもしれないぞ? お前を目の敵にして、今回の責任も全て押し付けられて消されるかもしれないぞ?」

「その時は、その時です。 我々が、天狗社会が間違った結果なんですから、その代表である私が責任をとるのは当然のことでしょう」

 

 文の目に、迷いはなかった。

 もともと言い訳をするつもりなど、文にはなかった。

 今まで知りながらも見て見ぬフリをしていた自分など、実際に虐げていた者たちと何一つ変わりはしないのだから。

 

「ですが、私は簡単に退くつもりはありません」

「……ほう?」

「強硬派の圧力を抑えるために、同じ志を持つ穏健派の妖怪を集める必要があります。 ですが、長期に渡って恐怖で支配されてきた者たちに私を信じさせ、奮い立たせるのは容易ではありません。 ですから、私が本当にこの山に変革をもたらす意志を示すためのシンボルとして、妖怪の山が抱える闇を象徴する彼女たちの……今回の異変の元凶である彼女たちの救出という、目に見える成果が必要不可欠なんです」

 

 つまりは、今危機に瀕している他の妖怪たちを見捨てて、異変の元凶の一角であるにとりたちを、将来的に妖怪の山を変えるための道具として助けるということ。

 それは、ある意味では残酷で政治的で利己的な物言いだった。

 そして、それは勇儀が何よりも嫌う、狡猾なやり方のはずだった。

 だが、それを聞く勇儀の表情は笑っていた。

 自分がそんなやり方を嫌うことなど、文がわからないはずがない。

 にもかかわらず真剣にそれを主張する文に、勇儀は確かな信念を感じとったのだ。

 

「くくっ、はははははは! なるほどねぇ、そうかいそうかい。 よし、それならこいつらを無事に助けなきゃならないな。 山の支配構造の犠牲者である、河城の姉妹を」

「ええ、よろしくお願いします。 火焔猫さんも、霊烏路さんも、いいですか?」

「……今さら反対したところで聞いてくれるつもりもないでしょうに。 どうするよ、お空」

「え? 私たちでみとりさんを助けるんでしょ? なら、反対する理由なんて、なんにもないよ!」

 

 空の目は、輝いていた。

 少し前に死んだと聞かされたみとりを、いつの間にか助けられるかもしれない状況に好転しているのだ。

 そんな作戦に、空が反対するはずがなかった。

 

「……はぁ。 人の気も知らないで」

 

 そうため息をついて、一人だけゲンナリとした表情を浮べながら、お燐は一人みとりに近づいていく。

 そして、その手をみとりに翳してから、文に確認する。

 

「まぁ、こいつから怨霊を引き剥がすのなら、出来る限り怨霊が定着し直す前にした方がいいから今すぐにでも始めるけど……もう一度だけ確認するよ。 もしここでこいつを始末すれば、異変の解決に一気に近づける。 あたいたちの手も空いて、恐らくは数百や数千以上の命を救うこともできる」

「ええ、そうですね」

「でも、もしこいつを開放して失敗すれば、あたいたちはここで犬死だ。 下手すればそのせいで幻想郷が滅ぶかもしれない。 ……それでも、やるのかい?」

「覚悟の上です」

 

 その言葉は、一点の曇りもなく響き渡った。

 勇儀と空の目にも、一切の迷いもなかった。

 お燐は諦めたように、それでもその口角を上げて、

 

「……まったく。 ま、そういうバカな奴も嫌いじゃないけどね」

 

 ボソリと言ったその言葉で、4人は微かに笑って気持ちを一つにする。

 

「じゃあいくよ。 あたいは、こいつを起こした後に怨霊たちを治めて引き剥がす。 お姉さんたちは、その間こいつの注意を引き付けて止める。 それで、いいかい?」

「ああ」

「うんっ、大丈夫だよ!」

「お願いします」

 

 それを確認したお燐は目を閉じると、そのまま大きく息を吸って、

 

「野郎共、起きなァ! 一世一代の祭りの始まりだっ!」

 

 

「************************」

「************************」

「************************」

 

 

 それとともに、一斉に「声」が辺りに木霊する。

 とても言葉には思えない騒音が、世界を揺らすように産声を上げていく。

 文たちはそれを聞きながら、黙って身構えたまま待ち続ける。

 それが起こる瞬間を。

 みとりが再び起きる、その刻を――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸せなんて、いらない。

 嬉しいことや楽しいことなんていう贅沢は、自分には望むことすらおこがましいとわかっている。

 それでも、何もかもを捨ててでも、たった一つだけ成さなければならないことがある。

 だけど、それすらも叶わない。

 どれだけ力を手にしたところで、それを妨げる者が存在するから。

 どれだけその力を封じようとも、それを超える覚悟で立ち向かってくる敵がいるから。

 

 

 ――為レバ、其ヲ――

 

 

 妨げる全てを禁じればいい。

 そう、思ってきた。

 

 

 ――否――

 

 

 だが、それでは足りない。

 どれだけ禁じようとも、その力を超える意志を打ち砕くことなどできない。

 ならば、禁則でもって相手の意志を挫くのではない、止められないほど強い意志でもって迎え撃てばいい。

 

 

 ――唯、一ツ――

 

 

 たった一つ、それを成し遂げると誓った自分が、その意志を打ち砕けばいい。

 そうして全てに勝ち続ければいい。

 それさえできれば、あとは何も必要ない。

 

 

 ――私ハ最後ニ、禁ズル――

 

 

 だから、この世界に禁じることは、一つだけ。

 

 

 ――唯、我身ノ敗北ヲ――

 

 

 

 

 

 

 

 

   「――禁ズル――」

 

 

 

「っ――――――――!!」

 

 4人が同時に感じた。

 耳が痛いほどの怨霊の声がぷっつりと切れて訪れた静寂の中、不気味なほどに響き渡ったその一言。

 みとりの口から微かに漏れたその声と同時に、心の奥から悍ましいほどに湧き上がった危険信号に従って文たちは一斉に大きく飛び退く。

 みとりから発されるその力は、さっきとは別人のように一線を画す勢いで溢れかえっていた。

 いや、むしろその姿は、既に河童ではない何かに変化しつつあった。

 

 その細き腕では、鬼の腕力には及ばない。

 

  ――ならば、それを超える力を――

 

 その静かなエネルギーでは、太陽神の破壊力には及ばない。

 

  ――ならば、それを超える力を――

 

 河童という貧弱な種族では、天狗の速度には及ばない。

 

  ――ならば、それを超える力を――

 

 みとりを敗北に導きかねない弱さは、世界から拒絶される。

 勇儀の拳をも砕く、異常に膨れ上がりながらも最適化された屈強な肉体。

 空の砲撃をも掻き消す、肉眼で見えるほどに大気を歪ませる絶対のエネルギー。

 文の飛翔をも追い越す、禍々しい黒に染まった巨大な翼。

 そこにあるのは、まさしく異形の魔物とでもいうべき姿だった。

 

 だが、みとりの身体はその力の増幅に耐え切れず、崩れるように悲鳴を上げている。

 一切の感情の抜け落ちたような表情に、それでも何かが流れ落ちる。

 血の涙だった。

 流す涙すらも失った、悲痛な叫びだった。

 みとりも、確かに苦しんでいるのだ。

 それでも、暴走した闇の全てを取り込んだみとりに同情していられるような余裕はなかった。

 見ただけで瞬時に感じる、全員で挑んでも届くかわからない最強の敵。

 それを前に声も出せずに立ち竦んでいる文たちに目も向けず、みとりはゆっくりと身を浮かび上がらせながら、その音を発する。

 

 

  「――喜ヲ、信ヲ、願ヲ、想ヲ、愛ヲ――」

 

 

 ただ世界に響き渡るように。

 全ての心に刻み込むように。

 何もかもを、自分自身さえも拒絶するかのように。

 

「ははっ。 はははははは」

「あはははははは……」

「……ふふっ」

 

 それと対峙する4人は、皆が違う笑みを浮かべていた。

 勇儀は生まれて初めて出会った、足が竦むほどの恐怖という感情を愉しむかのように喜々とした笑みを。

 空はあまりに次元の違う力にあてられて、壊れたように呆然とした笑みを。

 お燐は数秒前にこの選択を受け入れた自分を恨むように、乾いた諦めの笑みを。

 そして……

 

「怯むなっ!!」

 

 文はその3人を、いや、震える自らを奮い立たせるように叫んだ。

 それでも、たった一人、文の表情に浮かんでいるのは恐怖による笑みではなかった。

 

 神奈子たちの計画に協力したときも、感染者やルーミアを犠牲にするプランに、文は本当は反対だった。

 それでも、自分ではどうしようもないと言い訳して逃げていた。

 だが、今の文は諦めない。

 たとえ容易ではなくても、それを救える力を持ってしまっているから。

 人生を懸けてそれを成し遂げようとしてきた友人に、必ず助けると誓ったから。

 この絶望的な状況で自らの意志を通すことのできた自分に向けて、文は初めて称賛の笑みを浮かべていた。

 文の強い目を見た勇儀たちも、我に返ったように息を整える。

 

 そして、静かに向けられたみとりの視線に合わせるように、

 

 

   「――全ノ希望ヲ――」

 

 

「来るぞっ!!」

 

 

 

    「永久ニ、禁ズル」

 

 

 

 決戦が、幕を開けた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第23話 : 目覚め

 (H27,3,29)読み返してみて、ふとあらすじのくどさが目に付いたので、せっかくなので本編の誤字や文章のミス等とともに修正してみました。
 多少の表現違いはありますが基本的には内容自体は変えていないので、これまで読んでくれた方も特に読み直す必要はありません。



 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第23話 : 目覚め

 

 

 

 

 

「力業『大江山颪』!」

 

 大地が飛び散った。

 開戦と同時に足元を踏み飛ばした勇儀は、衝撃で浮き上がった山ごと辺りの景色そのものを掴んで放り投げる。

 飛翔するその岩盤に合わせるように乗った文は、地を蹴るが如くそこから飛び立つ。

 最強の遠投に最速の飛翔を掛け合わせたその速度は、土煙の中から一瞬で文を遥か上空へ飛ばしていた。

 

「『サブタレイニアンサン』!!」

 

 そして、宙に舞った山というあまりに巨大な塊の裏で、それでも隠しきれないほどに溢れ出した太陽の光は、月光が遮られた世界を眩しく染め上げる。

 

「――『無双風神』――」

 

 そんな光の世界に自らの影というものを残さぬほど疾く、それは天から降り注ぐ雷光の如く飛び立つ。

 その連携に、一切の手加減はなかった。

 足場を失っている内に、全てを飲み込む嵐のように辺りを覆い尽くす崩山の塊。

 そこを襲う、前方の最大出力と上方の最速。

 初撃から、全員が全力の一手のはずだった。

 だが、みとりはそれを止めるための能力を使うことも……いや、目を向けることすらもなかった。

 

「はあ!?」

「あれっ……なんで!?」

「っ、ぐっ!?」

 

 嵐のように不規則に降る山は、偶然にもみとりのいる場所だけを避けるかのように弾道が外れていく。

 暴走しかけた太陽エネルギーは、偶然にも数百年に一度の休止期を迎えたかのように小さく萎む。

 飛翔の速度を遮るかのように、偶然にもみとりへと続く軌道の全てを塞ぐほどに崩山の塊が集中していく。

 それは普通ではあり得ないほどの、偶然の重なりだった。

 だが、それは100回やって100回起こるほど必然の出来事だった。

 因果律にまで刻み込まれた「みとりの敗北の禁止」という法則は、数億、数兆、数京分の1を下回るほどの確率すらも当然のように起こしていく。

 

 そして、まるでスローモーションになった世界を歩くかのように簡単に3人の包囲網から外れたみとりは、その背に不自然に生えた翼を、広げた。

 そこまでは、視認できた。

 次の瞬間、世界は暴風に覆われていた。

 その暴風はただの移動。 質量をもつ物体が最速の飛翔をしたために発生したただの風圧。

 だが、その風に煽られて僅かに瞬きをした後の視界には、もうみとりはいなかった。

 気付いた時には、みとりは移動したことも悟られないほど瞬時に文の背後をとっていた。

 それを遠巻きに見ていたお燐が、とっさに叫ぶ。

 

「伏せなっ!」

 

 だが、「音」などという遅い伝達手段が届くはずがなかった。

 辛うじて文の命を救ったのは、怨霊と思考をリンクさせたお燐からの電気信号だった。

 いざという時のためにお燐が文の背に貼りつけていた怨霊が、弾けるようにみとりの視界を塞いだのだ。

 お燐はそれでみとりが一歩でも退いてくれることを期待したが、みとりの纏ったエネルギーは近づいただけで怨霊など存在しなかったかのように無に還す。

 自分の本来の役割をそっちのけで放ったお燐の切り札は、コンマ一秒に満たない時間しか稼げずに潰えた。

 だが、それほどの時間がありながら何もできないほど文は凡庸ではない。

 反射的に身を屈め、振り返りざまに次の一手は実行されていた。

 

 ――竜巻『天孫降臨の道しるべ』――

 

 自分が次にとる戦術を、他の3人に伝えるためのスペル詠唱。

 それを、今の状況で言葉に出す余裕はなかった。

 だが、それでも勇儀だけは文の微かな動きから次の一手を予測して即座に動き出す。

 

 文が放ったのは、自分とみとりを囲う大きな竜巻。

 それと同時に、文はみとりと交差するように飛び立つ。

 みとりも、文を追うように即座に飛び立つ。

 文と今のみとりの速度の差は歴然だった。

 それでも、交差して飛び立ったが故にみとりに必要な「振り返る」という動作が、2人のスタートの早さに大きな差をもたらしていた。

 元々の距離の差などすぐに詰まっていくが、竜巻の内外を通過する際に起こる一瞬の視界の遮断と軌道の変化が、その度に2人の距離を離しては再び縮めてを繰りかえす。

 竜巻の中と外を行き来しつつ縦横無尽に飛びながら、文はその時を待っていた。

 そして、まさに文の背にみとりの手が届く寸前……文は竜巻の風速を急激に上げてその中に突入し、一瞬みとりの視界から消えたかと思うと逆側へと飛んでいた。

 自分が張り巡らせた竜巻の中でその流れにうまく乗った文とは違い、竜巻の中での方向転換はみとりへ僅かな負担を強いる。

 その、たった一瞬の静止時間。

 その一瞬に飛び出していたのは、その竜巻の螺旋軌道に乗るように加速し、腕を振りかぶった勇儀だった。

 

「止まりやがれ、みとりッ!!」

 

 文はただ逃げようとしていたのではない。

 みとりの注意を引き付けつつ、その本命を悟らせないように距離をとり、タイミングを見計らっていたのだ。

 文が飛んで行った方向の真横、つまりは竜巻の中で急ブレーキをかけたみとりの真横に飛び出した勇儀は、まだ自分に気付いていないだろうみとりに向かってその全力を風に乗せる。

 そして、その拳を振り抜く刹那、

 

「え……?」

 

 勇儀は目を疑った。

 気付くと、視線の先にあったのはみとりの姿ではなかった。

 そこにあったのは、自分が振り抜いた拳を正面からがっしりと掴んで不敵に笑う、鬼の頂点である鬼神の姿だった。

 

 ――何故、鬼神様がここに?

 

 だが、冷静にもう一度視線の先を見据えると、それが見間違いであったことに気付く。

 そこにあったのは、自分とまっすぐ拳をぶつけあって互角に火花を散らす、かつての宿敵である萃香の姿だった。

 いや、それも違う。 勝てるはずの相手からすらも無様に逃げ続ける、情けない文の姿だった。

 そして、その文の姿がいつの間にか、一人寂しく暗闇に佇み、虚ろな目で自分を見てくるみとりの姿に変わっていたことに気付いた瞬間――

 

「逸れろっ!!」

「なっ……」

 

 文は竜巻の流れを変えることで勇儀の軌道を逸らして下方に叩き付け、振り抜かれた勇儀の拳は深く沈みこんだはずの大地をそれでも砕いていた。

 

「射命丸! 何を、して…」

 

 勇儀は文を責めるように視線を上げる。

 その視線の先では、本来ならば勇儀がいたはずの場所に向かって、みとりが振り返りざまに斬るような蹴りを放っていた。

 その衝撃で辺りを覆う竜巻が真空波と化して消滅し、切断された空間は悲鳴を上げるように歪んでいく。

 そして、あまりに大きな歪みに耐え切れずに生じた空間の狭間から、微かに見えた巨大な鉄の塊が折れて塵と化す。

 その光景は束の間の夢だったかのように、次の瞬間には消失していた。

 

 文たちは言葉を失った。

 まだ幻想郷にはない、未だ幻想入りしていないはずの外の世界。

 それが見えたという事実は、みとりのたった一度の蹴りで幻想の理が一瞬とはいえ崩され、外の世界すらも破壊したことを意味していた。

 たとえ起こらなかったとしても、もし2人の攻撃が交わっていた場合の未来は、見えていた。

 いや、危機察知能力の高い文だからこそ、それが見える前から気付いたのだ。

 文がとっさに勇儀の軌道を逸らしていなければ、既に星熊勇儀という存在が世界から完全に消え去っていただろうことを。

 

「……潮時、か」

 

 お燐がそう呟いた。

 だが、まだ開戦から10秒と経っていない。

 みとりから怨霊を引き剥がし終わるには、まだ早すぎるはずだった。

 お燐は、その作業を終えていたのではない。

 既に、この作戦の継続を諦めていたのである。

 みとりが未だ掠り傷一つ負っていないにもかかわらず、生まれて初めて走馬灯というものを、世界の理をも破壊する力を目の当たりにして呆然としている勇儀に気付き、完全に戦意を喪失していたのだ。

 お燐にはもはや、異変を解決することや、勇儀を死なせないことなどに思考を割く余裕はなかった。

 この状況でいかにして自分が、空が助かるかということに思考をシフトさせる。

 それはつまり、みとりを助けるための手段が、もう機能していないことを意味していた。

 

 ――『死灰復燃』――

 

 辺りに残る怨霊の残照が集束し、視界を包んでいく。

 みとりの天敵である、負の感情を食らう怨霊で自分や空の前を壁のように覆うことで、みとりの標的から外れようとしたのだ。

 そして、我に返って再び核の力を集わせ始めていた空に向かって叫ぶ。

 

「逃げるよ、お空!」

「え? でも、お燐!!」

 

 お燐には冷静に空を説得する余裕が、いや、反抗する空の言葉を聞き入れる余裕すらもなかった。

 ただ感情のままに叫ぶことしかできなかった。

 

「いいから早く!!」

「……嫌だ」

 

 だが、空がそれに納得する訳がなかった。

 危なければ文や勇儀を見捨てて逃げていいと言われてはいたものの、空も身を賭してでもみとりを助けたいと思っていたから。

 空は自らの内のエネルギーを絶やすことなく燃やし続ける。

 

「私は、絶対にみとりさんを助けるんだ!」

「お空っ!!」

「鴉符『八咫烏ダイブ』っ!!」

 

 次第に熱を帯びていく核の暴走は、辺りを熱帯に変えてなお留まることはない。

 空は再びその力を身に纏い、みとりに向かって飛翔する。

 

 ――あれは……マズいっ!!

 

 だが、それは悪手だった。

 そんな出来合いの力では、とても今のみとりに太刀打ちすることはできない。

 その選択が無駄に命を散らす一手であることは、文には瞬時にわかった。

 空を失う訳にはいかない。

 いや、誰か一人でも欠けさせる訳にはいかない。

 そう思った文は、空が速度に乗り切る前に止めようと全速力で飛ぶ。

 

「危ないっ!!」

 

 熱く膨れ上がった空のエネルギーに触れた文の手は、風の鎧を纏ってなお深刻なほどに焼け爛れる。

 それでも、空の速度をものともせずに回り込んでいたみとりの前から、文は間一髪で空を押しのけていた。

 だが、その判断は遅すぎた。

 突き飛ばされた空の視界に次の瞬間映ったのは、飛び散った一面の血の色。

 空は辛うじて助かったが、そこで終わり。

 身を挺してみとりから空を助けた文の命は、そこで潰えるはずだった。

 だが、空の目に映った血濡れの文は、それでも無事だった。

 その色は、文から発されたものではなかった。

 

「え?」

「よかった……」

 

 文は目の前で起きているそれを理解できずに、ただ呆然と声を漏らした。

 文を庇うように立ち塞がった一人の烏天狗から飛び散った何かが、その視界を埋めていた。

 そして、無情にもみとりがその手をもう一振りすると同時に、

 

「はた、て……?」

「やっぱり、文さんは…」

 

 文の無事な姿を見て安堵の笑顔を浮かべかけたはたての姿が、空間の歪みとともに蒸発するように消滅した。

 誰一人として動けなかった。

 そのあまりに凄惨な光景に、言葉を発することすらできなかった。

 

「あ、ぁぁぁあああああ”あ”あ”あ”っ!?」

 

 その沈黙を破ったのは、文の悲痛な叫びだった。

 

 はたてが、死んだ。

 それは萃香や椛を失った時のように、僅かでも縋りつける可能性が残っている出来事ではない。

 闇に飲まれたのでもなく、文の目の前で肉片も残らぬほど木端微塵に消し飛んでしまったのだ。

 はたてが吸血鬼のような再生能力や特殊な力を持っている訳でもなければ、消し飛んだのが偽物の身代わりである訳でもない。

 それを否定し得るものなど、何もない。

 いくら泣き叫ぼうとも、それが現実だった。

 

 ――なんではたてがっ。 嫌だ何でっ、どうしてっ!!

 

 文を支配していたのは、後悔。

 自分がこんな選択をしなければ。

 いや、それだけじゃない。

 恐らく作戦が失敗するだろうことは、薄々わかっていたことだった。

 みとりが起きた瞬間に感じた悪寒は、この作戦の無謀さを認識する最後のチャンスだった。

 それにもかかわらず、退き際を誤ってしまった。

 今の自分なら何にだって立ち向かえるのだと、驕ってしまった。

 諦めたくない、などという根拠もない希望に縋っていなければ。

 そうすればこんなことにはならなかったという、取り返しのつかない後悔の念があるだけだった。

 

「逃げなっ!!」

 

 そんな文の目に入ったのは、お燐が最後の力を振り絞ってみとりを囲うように召喚した怨霊たちだった。

 それは、現実を受け入れられず狼狽する文と、ただ呆然と立ち尽くす空を逃がす隙をつくるための、お燐のとっさの行動。

 だが、文はそこから動かなかった。

 

「あ……」

「何やってんだい、早く…」

 

 動けなかったのではない。

 あることに気付いて、動かなかったのだ。

 

 ――……そっか。 そういう、運命か。

 

 文の視界を埋めるのは、お燐が召喚した怨霊の壁。

 そこには、お燐が焦って怨霊を動かしてしまったが故に、みとりから引き剥がすことに成功した一部の怨霊が混じってしまっていた。

 それは本来なら後は消滅させるだけの、闇の力の残照。

 だが、それに気づいた文は…

 

 ――もう、いい。 私はもう、自分の未来なんていらない。

 

 ――私には、もう何もないから。

 

 突然、自ら怨霊に向かって手を伸ばした。

 

「っ!? 待って、お姉さん何を……」

 

 だが、お燐がそれを止める間もなかった。

 その目から溢れる涙を拭うことすらなく、文はそこにある怨霊たちをその手で握りつぶすように自らの内に取り込む。

 

 ――だけど最後に、はたての想いだけは私が成し遂げてみせるから――

 

 そして、世界はどす黒く染まった。

 文を襲うのは、思考を奪い、その存在自体を乗っ取ろうとする怨霊の侵食。

 何もかもを黒く塗りつぶし、闇に染めようとする邪悪の力。

 自らの全てを奪われるような、耐えがたい感覚が文を蝕んでいるはずだった。

 

 だが、文はそれを自然と受け入れていた。

 文には元々、闇の力の素質があった。

 その根底を支配しているのは、虚無。

 かつては孤独の極地を越えて生きてきた文だからこそ、いや、再び希望を得ていたからこそ、その反動は大きかった。

 そこにあるのは、信じる全てを失い、最後に残されていたたった一つの心の支えさえも失い、心が空っぽに潰れていく無感情。

 それは無感情であるが故に、全ての闇を受け入れる。

 そして、その果てに辿り着く、一つの結末。

 

 

  ≪――お前は、何を嘆く――≫

 

    ≪――何を、憎む――≫

 

 

 その感情は、文を深い闇に導いていく。

 取り込んだ当初は、ただ目的のために利用しようと考えていた闇の力。

 だが、それは簡単に制御できるような甘い力ではなかった。

 その気がなくとも極限の中で曲解されていく負の連鎖に、文の全てが侵食されていく。

 

「私は、お前に……」

 

「待て、射命丸!! お前は…っ」

「マズいよ、逃げなっ!!」

 

 そんな文に向かって、再びみとりがその力を開放する。

 それに気づいたお燐が叫ぶが、その声はもう届かない。

 だが、それが放たれる瞬間――

 

「……この、世界に」

 

 言葉が届くより遥か前に、文は消えた。

 消滅させられたのではない。

 今のみとりの目にすら映らない漆黒の塊は、いつの間にか空高く世界を見渡していた。

 そして……

 

 

 ――復讐を――

 

 

 それは、完成した。

 支配された無感情は、虚構の隙間を埋めるように刹那的な嘆きと憎悪を積み上げ、文の力を変容させる。

 

 

 ――破滅を――

 

 

 そして、世界は巨大な竜巻に断ち切られる。

 視界を真っ二つに割った風は、そのまま分断された大地の位相を更にずらすかのように、地球という星そのものを分解しながら沈み込ませて勢いを増していく。

 やがて誰の目にも映らないその姿は大気そのものと同化し、残像さえも残さぬほどに加速して全てを覆いこむ。

 その速度は今のみとりさえも超えて……いや、速度などという概念では測れないほど、存在が世界に溶け込んでいった。

 

  ――ならば、それを超える力を――

 

 すると、その文の速度さえも超えられるように、法則が再びみとりの身体を変容させる。

 だが、それは既に河童の、個として生きる者の耐えうる限界を遥かに超越していた。

 鬼という、力の頂点に位置する種族の四天王を超える腕力。

 太陽神という、最強のエネルギーを持つ存在を超える破壊力。

 その身体の限界を超えて命を削り、一時的に成した力。

 だが、そこに加わるのは闇の力を纏った大天狗の、最速を遥かに超えた概念。

 それは本来が飛ぶ種族ではない河童の身体構造で耐えられるものではなかった。

 その身に宿し得る力の最大容量を超えたみとりは、無理矢理に強大化される変化に耐え切れず、先に精神が自壊するように苦しみ始める。

 そんなみとりに向かって、文は容赦なくその力を放つ。

 

「―――■■■■■■■!?」

 

 みとりが声にならない声を上げる。

 それは大気の流れ全てを、みとりの体内の空気さえも沸騰させ暴走させていく竜巻の力。

 内側と外側から全てを引き裂く、絶対の破壊だった。

 だが、みとりを死に誘う力を発し続けるほどに、みとりを敗北へと導こうとする文の身体は、相反する法則に殺されるかのように崩れ落ちていく。

 それでも、まるで自らの存在そのものに興味がないと言わんばかりに、文が止まることはなかった。

 

「っ!? 待て、射命丸! そんなことしたら…」

 

 文が、死ぬ。

 みとりが、死ぬ。

 焦ってそう言いかけて、勇儀は言い留まった。

 たった今、目の前で親友を殺された文に、自分は何を言おうとしているのか。

 自分の身を案じろなどという腑抜けた物言いを、それでもみとりを助けろなどという残酷な物言いを、今の文にしようというのか。

 だが、そんな考えが浮かんでほんの一瞬だけ躊躇った勇儀の目に入ったのは、明らかに現状に苦しんでいる文の姿だった。

 その足は今、肉眼ではっきりと認識できるほどに止まっていた。

 文はじっとその力をみとりに向けながらも、涙を噛み殺しながら唸るような声を上げていた。

 

「……ちっ。 あの、バカ!!」

 

 勇儀は、そう吐き捨てて拳を握りしめる。

 かつてはただの弱虫だった文が、今は自分さえも遥かに超える力を得てそこに君臨している。

 だが、それでも勇儀にはわかっていた。

 たとえどれだけ力を得ようとも、その根底が完全に変わることなどないのだと。

 文が、誰かを傷つけようと望んではいないことを。

 たとえ何を奪われようとも、自らの身が滅ぼうとも、それでも文が本心ではみとりを、にとりを助けようと望んでいることを。

 

「目ェ覚ましやがれ、射命丸!!」

 

 そして、勇儀は空高く地を蹴る。

 あまりに次元の違う力を前に、その行動を抑止しようとする自らの本能など関係ない。

 それは、その後のことなど考えていない、退くつもりなど全くない特攻だった。

 だが、無我夢中で勇儀が伸ばしかけた手は、

 

 

「――近づくな、勇儀っ!!」

 

 

 唐突に眩しく光った世界に遮られる。

 気付くと、勇儀が伸ばした手は反射的に引っ込められ、文から距離をとっていた。

 

「なっ……これ、は」

 

 その光と同時に勇儀の耳に届いた声は、なぜか文の口から発されていた。

 それでも、勇儀は今自分を襲っている感覚に、覚えがあった。

 自分の意志とは関係なく通される、絶対の禁止命令。

 それを信じることができなかった。

 そんな勇儀の目に飛び込んできたのは、さっきまで文に身体を引き裂かれようとしていたみとりの姿……ではなかった。

 そこからは既に闇の力など感じられない。

 そこにいるのは特段の力など持たない、一人の河童。

 気を失い、力なく地に落ちていこうとするにとりの姿だった。

 

「燐!」

「――っ!!」

 

 お燐のことをそう呼んだのは、文だった。

 とっさのことにもかかわらず、お燐は何を求められているかを瞬時に察したかのように、落下しかけたにとりの身体をギリギリのところで受け止めていた。

 

 だが、その声を発した文は、正気に戻っていた訳ではない。

 口ではそう言いながらも、振り上げられた文の手からは天空をかき混ぜるように広がった巨大な竜巻が渦巻いている。

 その力が更に強大化されるに伴って、文の身体はひび割れて崩れ落ちていく。

 それは、いわば捨て身の破壊。

 その命を犠牲にして全てを滅ぼそうとする力の暴走。

 だが、文はあまりに巨大な力を前に苦悶の表情を浮かべながら、

 

 

「――自壊を、禁ずる――」

 

 

 自らそう呟くとともに文の身体の崩壊は減速し、その姿は自然と大気に溶けていった。

 まるでその精神が何かに乗っ取られたかのように、文の言動と行動は相反していた。

 それでも、世界一つを消し飛ばさんほどの暴風は空高く昇り続け、天空を染め上げる。

 そんな中、現状を理解しきれずに唖然としている勇儀たちに向かって、どこからともなく声が降ってくる。

 

「勇儀、空っ! ボーっとしてんな、お前たちで何とかしろ」

「ま、待て!? お前は…」

「まさか、みとりさん…」

「口答え禁止!」

「んっ!?」

 

 すると、空の口が何かに縫い付けられるように閉ざされる。

 

「言いたいことがあるなら後で聞く! だから…」

 

 瞬間、その声は奇声のような叫びに断ち切られる。

 天より高く昇って宇宙の無空にまで届いた風は、やがて星々の流れに干渉し、星一つを荒野に変える大気の断層と化す。

 文の存在が大気に溶け込み、そのまま世界を滅ぼす天災となって降り注ぐ。

 だが、それは今までの文の速度を前にしていた者の目には、あまりにゆっくりと映った。

 巨大すぎる隕石の落下が遅く見えるように、あまりに大きな力の前では、もはや速度など感じられなかった。

 闇の力を得た文が自らの全てを犠牲にして放っただろう破滅への導きは、まざに絶対神の所業とでも言うべき絶望。

 勇儀も空もお燐も、自分という一個体のちっぽけさを、無力さを、一目で刻み込まれるように理解した。

 

「だから…今は、こいつを止めてやってくれ!!」

 

 それでも、最後に虚空から降り注ぐように響き渡ったその声は確かに勇儀と空を信じていた。

 まるで竜巻の中心に二匹の蟻を放り込むかのように無謀な選択を、本気で主張して消えていった。

 

 その声とともに、空は我に返ったように遥か天空に消えた文を探す。

 その脳裏に浮かぶのは、親友を失った文が嘆く姿。

 たとえ会って間もなくとも、それでもみとりを助けるために一緒に戦った友が、一人もがき苦しむ姿だった。

 

「……手伝って、お燐」

「え?」

「私は逃げない。 今度は、私があの人を助けるんだ!!」

 

 空を支配していたのは、絶望ではなかった。

 みとりの声が聞こえたから。

 既に諦めかけていた作戦に、僅かながらも希望が見えたから。

 たとえどれほどの困難だろうと、それを成し得る可能性を見出せたから。

 

「……はぁ。 ま、どっちにしろダメならここで死ぬんだ。 なら、あたいはあんたに賭けるよ、お空」

「うん! ありがと、お燐!!」

 

 ならば、きっと文を助けることだってできるのだろう。

 友達を信じると、助けると誓った空の決意は、消えることなく更に燃え盛っていく。

 お燐と勇儀が、そしてみとりまでいるのなら、きっと何だってできると信じていた。

 空の目は、お燐の諦めの色を光に染めんばかりに、強く輝いていた。

 

 だが、その一方で勇儀の顔色は優れなかった。

 空のように一時の希望に縋れるほどの余裕はなかった。

 今勇儀が直面しているのは、本来ならば何よりも勇儀が求め続けてきたはずの、絶対なる強者との戦い。

 それでも、今の勇儀に楽しげな表情はなかった。

 

 ――アレは、無理だ。

 

 勇儀には、わかっていた。

 遥か上空から降ってくるその力が、自分の手に負えるものではないことを。

 空の全力さえも、あっけなく掻き消してしまうものであることを。

 勇儀の脳裏にあるのは、限界を悟った冷静な思考。

 たとえ自分が幻想郷最強などと呼ばれていることの自覚があろうとも、それでも知っていたから。

 自分たちに決して超えることのできない世界があるという諦めが、その記憶に刻まれていたから。

 

『……ちょいと弱気が過ぎないかい? 怪力乱神』

 

「っ―――!?」

 

 だが、そんな勇儀に向かって響いたのは、一つの声。

 幻聴か。

 聞き違えか。

 それでも、聞こえてきたその声は、文の声色ではなかった。

 今ここにいないはずの声の、小馬鹿にしたような口調だった。

 

「……萃香、か?」

 

 勇儀の声に、返事はなかった。

 もう、逃げ場などないのだから。

 お喋りする余裕があるのなら、その前に実行してみせろと。

 まるで勇儀にそう叱咤するかのように、その声はもう聞こえてくることはなかった。

 

 だが、それは確かに勇儀の心の奥深くを揺るがすほどに響き渡った。

 冷静な思考を、吹き飛ばした。

 きっかけになったのは、今の勇儀を形成させる最も大きな要因の一つであったその声。

 

 ――そうだ。 私は今まで、一体何を忘れていた。

 

 何より、忘れかけていた一つの単語。

 勇儀の奥に眠っていた何かが暴れ出すかのように、辺りに殺気が溢れていく。

 

 ――私は一体、今まで何をしていた?

 

 そして、突如として世界は静寂に包まれた。

 いや、膨れ上がった竜巻が悲鳴を上げ、あまりに大きな騒音が辺りを覆っているはずだった。

 それでも、極限まで研ぎ澄まされた勇儀の感覚は、静寂に包まれていると思えるほど静かに、自らに問うた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――いつからだ。 私が逃げるようになったのは。

 

 戦いからではない。

 ただ強くあるという決意。

 貫き通せなかったその信念から逃げるようになったのは。

 

 鬼符『怪力乱神』。

 

 何故それが自分の初手に、遊びになってしまったのか。

 誰にも測り知れない力、誰にも届き得ぬ絶対の力。

 いつからそれが、ただの言葉遊びであるなどと言うようになったのか。

 

 臆病な烏天狗を、導けなかった時か。

 病んだ河童の魂を、救えなかった時か。

 死した宿敵の雪辱を、果たせなかった時か。

 

 ――嗚呼。 なんと見苦しき言い訳か。

 

 誰かのせいなどではない。

 本当はただ最初から、自分が逃げていただけだった。

 

 その昔、鬼神に打ち負けた時。

 鬼の四天王などという称号を与えられ、退治されることすらなく生かされた屈辱。

 かつて、閻魔に屈服させられた時。

 実力者の選別などという名目で土をつけられ、死を選ぶ自由すらなく旧地獄の管理を一任された恥辱。

 それらを受け入れてしまった時、勇儀の中の『鬼』は死んだのだ。

 

 それでも、勇儀の胸には消えることなき決意だけが宿る。

 いつか鬼神様を超える。

 いつか閻魔様を超える。

 そんな、鬼としての名目に縋り付こうとするかのような、見せかけの決意が形成されていく。

 

 ――嗚呼。 なんと浅ましき決意か。

 

 敗北を、強者との戦いを求めるなどと言いながら、本当は自分の中の鬼が完全に否定されることを恐れていただけだった。

 好戦的な振る舞いと、負けを負けと認める潔さは、自分が鬼としての矜持を捨てていないと信じ込むための、不安の裏返し。

 周囲の目を、そして自分自身の信念を騙し続けるための強がり。

 そんな偽りの決意を抱えたまま、何もできずにどれだけの時間を無駄に浪費したのか。

 

 それでも、勇儀は長い年月をかけて一つの力を身に付けた。

 格上さえも打ち負かす、最強の技を手にした。

 

 一歩で景色ごと硬直させ、望む世界に塗り替える。

 二歩でその世界ごと破壊して、時を置き去りにする。

 三歩でその破壊に標的ごと巻き込んで、全てを滅する。

 四天王奥義『三歩必殺』という、絶対破壊のジョーカー。

 勇儀はそれを会得した時、遂にその2人を超えられる力を得たのではないかと、思った。

 

 ――嗚呼。 なんと貧弱な思考か。

 

 何が、三歩。

 世界。

 時。

 全て。

 それは弱さの証。

 一歩において勝てぬと認め、みっともなく足掻いた小細工に過ぎない。

 

 ――なんて、醜い。

 

 ――情けない。

 

 ――憐れな。

 

 ――死ね。

 

 ――死んでしまえ。

 

 ――そんな下劣な半生など、消えてしまえ。

 

 かつて勝てなかった相手を倒すためという決意。

 誰よりも強くあり続けるという決意そのものが、ただの逃避。

 勇儀が真に求めてきたのは、そんなものではない。

 誰かと比べて得る強者の称号などではなかったのだから。

 

 それは、何かに突き動かされるような強さなどではない。

 ただこうあるべきと、自ら貫き通した者。

 そうして初めてその上の高みを、その先を見据えられる。

 

 それにもかかわらず、目の前の目的に囚われて自分の生き様すらも忘れてしまった。

 過去の敗北に囚われて、自分の中に勝手に限界を作ってしまっていた。

 ただの鬼である自分では、鬼神という頂点には敵わないという常識に。

 ただの鬼である自分では、閻魔という絶対者の決定は覆せないという法則に。

 

 ――そんな見せかけの概念に勝てないだなんて、私はいつから思うようになったんだ?

 

 決して誰も抗うことのできない、人知を超えた不可思議の境地。

 それでも、それを打ち砕ける。

 いや、そんな不可能だからこそ、砕く。

 

 ――それこそが『語られる怪力乱神』、星熊勇儀という『鬼』の生き様ではなかったのか――

 

 

 

 

 

 

 

 

「……滑稽だな」

「え?」

 

 暫くの無言のまま拳を固めて微動だにしなかった勇儀から放たれた、突然の一言。

 その言葉が勇儀自身に向けられたものであるなどと、誰も思わなかっただろう。

 それは空を、必死にそのサポートしていたお燐を戸惑わせた。

 2人は勇儀に向けて一斉に怪訝な目を向ける。

 

「あれっ……!?」

「どうした、お空?」

「どうしよう、制御が、あれっ、何でっ!?」

 

 勇儀に一瞬気をとられてしまった空が、慌てて自分の力を制御しようとする。

 その両手に集めていたのは、遥か天空から降る風を止めようとして集めた、自らの出し得る最大出力。

 爆符『ペタフレア』。

 実際にギガフレアの100万倍の威力という訳ではないが、その上の単位を飛ばしてでも表現すべき、最高の危険性。

 それが今まさに、空の手の中で制御しきれなくなっていた。

 

「ま、まずいよっ!? このままじゃ…」

 

 お燐は狼狽えるように言う。

 それが、本当に世界を破壊しかねない力の暴走だからだ。

 このままでは、その嵐が届く前に空の力で幻想郷が滅ぶと言っても過言ではないのだ。

 だが、そんな異常事態を気にかけてすらいないかのように、勇儀はゆっくりと口を開く。

 

   「下がれ」

 

 それが制御できないのは、空のせいではなかった。

 静かに響き渡った、地獄から湧き上がったようなその一言は、生きとし生ける全ての身に悪寒をもたらす。

 目を開くことすらなく、勇儀は心を鎮めたままその場を支配する。

 

 ――ラストスペル――

 

 同時に、辺りに走る螺旋状の亀裂。

 そこにあるのは、吸い込まれていくかのような感覚。

 ある地点にある物質やエネルギーが消失すれば、均一化しようと自然と別の地点から流入しようとする当然の法則。

 普通に考えればわかる、普通の出来事のはずだった。

 

「なっ……」

「何っ、これ!?」

 

 ただ、目の前で起きているそれは、とても現実と信じられるものではなかった。

 勇儀の周囲にある全てが、吸い込まれるように凝縮されていく。

 空が集めて融合させた核の力さえも、まるでブラックホールに飲み込まれて無に圧縮されているが如く縮んでいく。

 強く圧縮した拳の中に一つの世界を閉じ込めんばかりに、何もかもが勇儀に向かって萃まっていく。

 それは天空より遥か高く降ってくる無空の風さえも引き寄せんばかりに、世界を書き換えていった。

 そして、勇儀は独白するかのように呟く。

 

「……返事はいらない」

「え?」

「私はこれから、鬼の四天王という名を返上して一匹の野生の『鬼』として生きていく」

 

 それは勇儀の決意を乗せた言霊。

 特定の誰かに向けた言葉ではない。

 世界の全てに向けた宣言。

 今までの自分自身との決別の合図。

 

「何をするかなんて決めちゃいないけどな。 だけど、それでも――」

 

 勇儀は開眼し、上空を貫くように捉える。

 幻想郷の滅亡は、既に数秒前まで迫っていた。

 誰にも止められない力の暴走は、星々の一切を視認させないほどに天を覆い尽くしている。

 誰もが絶望に震え、諦めざるを得ない光景だけが、全ての思考を支配していた。

 

 だが、それでも勇儀には見えていた。

 何が見えたか、などという答えは誰にもわからない。

 ただ、それが当然のことであるかのように塗り替えられた景色の軌道が、全てを押しのけて真っ直ぐ続くような錯覚とともに、

 

 

 「『― ― ― ―』!!」

 

 

 言葉が消失した。

 勇儀の拳の一振りで発生した、爆音などという表現ではとうてい表せない現実の崩壊が脳裏を駆け巡っていく。

 世界の終焉をもたらす、不可避の破壊。

 存在を理解することすらできない、不可識の破壊。

 それは余波だけで何もかもを滅ぼす、究極の力同士の衝突だった。

 

 だが、ぶつかり合った片方はただの「力」ではなかった。

 誰一人として疑うことのなかった絶対の強さ。

 その奥深くで、数百年も渦巻き続けてきた歪み。

 それは幻想の理に溶け込んで、勇儀の内に眠っていた力を呼び覚ました。

 

 どれだけ強大な相手でも関係ない。

 自分が全ての一歩先であるという絶対性。

 誰もが認める最強故に、不可能さえもたった一人成し遂げかねないという幻想。

 強大な相手だからこそ、打ち砕ける訳がないという相手だからこそ、それを超える不可思議。

 現実となって現れたそれは、法則さえも掻き消して天空に静寂をもたらしていた。

 

「―――――――」

 

 そこには、衝突の余波すらもない。

 絶句した地上の生物たちは、驚きつつも声を出すことすらできない。

 何事もなかったかのように消えていく力は宙に溶け込み、静寂の空から現れた一つの影を際立たせる。

 勇儀は、その光景に目を向けることすらない。

 ただ、まるでそれが当然の出来事であるかのように右手を振り上げ、五体を投げ出して落ちてきた文を受け止めて世界に言葉を戻した。

 

「――それでも、私はここからもう一度『私』を始めることにするよ」

 

 勇儀が何と声を発したかなど、誰の耳にも響くことはない。

 何が起こっていたかなど、誰にも理解することはできない。

 だが、確かにその束の間の歪みの消えた世界にはそれを滅ぼす破壊など影も形もなく、戦いの終焉があるだけだった。

 ただ一つ、その瞬間に全ての記憶に刻まれた、新たな伝説だけが残る。

 真っ白に消えていった奇跡の中心に君臨する、その背中。

 誰が言い始めるでもなく、誰もが自然とそう呼ぶ絶対の証。

 

 その姿はまさに、人知を超えた『怪力乱神』―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――最初は、ただの憧れだった。

 

 魔が差したという訳でもない。

 その烏天狗は、自らの意志でもってただの木端妖怪を守ろうとして、上層に刃向ってしまった。

 それは、本来ならば妖怪の山においては許されざる愚行。

 だが、厳罰や処刑は免れないその行為は、突然現れた一人の烏天狗によって一蹴された。

 

「文句があるのなら、私にどうぞ」

 

 怒り狂う上層の天狗たちをたった一人で当然のように打ち伏せて事務的な口調でそう言った彼女は、か弱き烏天狗に向けられていたはずの怒りの全てを無理矢理に自分に向けさせていた。

 そして、その罰も罵詈雑言の一切も、全てを淡々と引き受けてなお凛として立つ姿は、あまりに眩しすぎた。

 誰よりも強く、それでも誰よりも優しくある、一つの奇跡。

 名を名乗ることすらなく、多くの者は自分が彼女に救われたことに気づくことすらなく、数えきれないほどの同胞を救い続けた一人の烏天狗。

 

 だが、彼女は本当はそんな大層な存在ではなかった。

 誰かを救おうなどと思ってはいない。

 ただ自分というものを持っていないだけだった。

 慣れているから。

 天狗の横暴など児戯に等しき暴虐の中で育った自分なら、その程度のことは死ぬことも壊れることもなく平然と受け流せるから。

 それはただ、無意味な争いを治めるための、最も簡単で効率的な方法の自己犠牲に過ぎなかった。

 誰に虐げられたのか、誰を助けたのか、彼女はそれすらも覚えていないだろう。

 

 だが、それでも一部の救われた者の心には確かに残り続ける。

 憧れと、その存在の危うさを気がかりにして。

 

 無自覚に、そして着実に敵を増やしていった彼女への風当たりは、日に日に強くなっていった。

 邪魔な存在であると目の敵にされ、意味もなく虐げられていく日々に、それでも彼女は凛として何も変わらなかった。

 だが、彼女に向けられ続けるのは、見ている方からすれば痛々しいほどに辛辣な扱いであった。

 彼女の心が、いずれ来る限界へと刻一刻と迫っているのが明らかだった。

 

 ――だったら、今度は私がその助けになろう。

 

 その心が、いつか壊れてしまう前に。

 一緒に笑っていられる幸せというものを、彼女と分かち合いたい。

 時にはその喜びを共有して。

 時にはその苦しみを共有して。

 いつかその背中に追い付ける日まで、支え続けようと。 

 そして、そんな日が来たのなら、いつも傍で笑っていようと誓った。

 

  ――ほら。 私そういうガラじゃないし、それに私は今が十分に楽しいからさ。

 

 だけど、彼女は変わってしまった。

 自分の幸せを見つけると、今度は周りが見えなくなってしまった。

 誰もを救える道を手の届く距離にまで控えながらも、それでも目の前の小さな幸福に縛られるようになった。

 だが、実際はそれこそが彼女の本当の姿だった。

 誰よりも争いを嫌う臆病な烏天狗は、自分の心と引き換えに恐怖を捨てていただけに過ぎなかったのだ。

 そして、自分の心を取り戻した彼女は、その笑顔と引き換えにその強さを捨ててしまっただけなのだ。

 

 ――だったら、今度は私が代わりに強くなろう。

 

 だけど、別にそれでもよかった。

 それで彼女が笑い続けてくれるのならば、喜んで代わりに汚れ仕事を引き受けようと思えた。

 たとえその結果、彼女に嫌われようとも。

 たとえ彼女の隣に、自分の居場所がなくなろうとも。

 本当は優しき彼女が再び心を捨てて犠牲にならなくて済むように、たとえ彼女を貶めてでも、今度は自分が一人で耐え続けようと思えた。

 

 だが、その決意を最後まで貫き通すことはできなかった。

 

  ――あんたにはそれができるのに! どうしてよ!?

 

 ずっと一人で耐え続けることなんて、できなかった。

 誰もが彼女のように、一人で成し遂げられるほど強くはないから。

 誰もが彼女のように、強い心を持ち続けられる訳じゃないから。

 だから、本当は気付いてほしかった。

 やっと笑えるようになった彼女が、それでもあの時みたいにまた助けてくれるのだと、信じたかった。

 

  ――私はね……あんたの、そういうところが一番嫌いなのよ。

 

 その優しさを心の奥に押し殺すようになってしまった彼女に、ただそんな罵詈雑言を吐くことしかできなかったけれど。

 本当は、助けてほしくて。

 それでも、彼女には幸せになってほしくて。

 そんな自分勝手な葛藤に、気付いてほしくて。

 

 だけど、彼女はもう一度手を差し伸べてくれた。

 

 あの頃のような強さと優しさを兼ね備えた目で、こんな自分をもう一度信じてくれた。

 この残酷な世界でも前を向いて歩いて行ける、希望の光を灯してくれた。

 

 ――だからこそ、私はもう一度、貴方のために生きると誓おう。

 

 ――そして、私は今度こそ、貴方とともに生きると誓おう。

 

 一緒に立ち向かうことができるのなら、もう何も怖いものなどないから。

 もう、その苦しみを一人で抱え込まないし、抱え込ませない。

 たとえどれだけ辛い困難があっても、振り向かずに一緒に前だけを向いて進んでいこう。

 

 ――いつか文さんと一緒に、皆で笑っていられる幸せな世界を掴める、その日まで――

 

 

 

 

 

 

 

 

「……はたて」

「ぁ……」

 

 自分が呟いたその言葉で目を覚ました時、最初に目に入ったのは空の姿だった。

 文が起きて一瞬だけ喜色を浮かべかけた空の表情は、それが聞こえた途端に曇る。

 「はたて」と呼ばれた天狗の末路を、知っていたからだ。

 いくら忘れっぽくとも、そう簡単に拭える記憶ではなかった。

 

「目ぇ覚めたか、射命丸」

「……ええ。 おかげさまで」

 

 青ざめた顔の空の前に出て、勇儀は文に問う。

 その声に答える文の目に、光はなかった。

 もう闇の力に支配されてはいないが、その時の記憶はおぼろげにはあった。

 闇に支配され、みとりを、この世界ごと破壊しようと暴走したこと。

 命すらも投げ打ったはずの自分の全てを、恐らくは勇儀に一蹴されただろうこと。

 

 だが、記憶があるだけだった。

 そこから何も感じることはない。

 生きているのが奇跡と言っていい生還を果たしたはずの文は、それでも涙すら流すことはなかった。

 

「無事に、終わったよ。 私も、お空も、お燐も戻れた。 お前のおかげでな」

「そうですか」

「にとりって言ったか。 あの河童も無事だ、お前のおかげで」

「そうですか」

「……あと、お前が聞きたいことはあるか」

「ありません」

 

 全ての反応は無感情に、そして即座にされた。

 お燐に抱えられながらも未だ意識の戻らないにとりについて、何も触れなかった。

 いや、あえて勇儀が触れなかったみとりのことについて、確認すらしなかった。

 

 文が一番気になっていたこと。

 その結末が、聞かなくてもわかっていたからだ。

 その最期を目の前で見たのだから。

 ならば、あとのことはどうでもよかった。

 

 ――いや。 どうでもよくなんてない。

 

 ――この先、やることなんていくらでもある。

 

 ――異変を、終わらせる。

 

 ――この山を、変える。

 

 ――……いや、それだけか。

 

 たとえはたてがいなくても、それを継ぐという決意は消える訳ではないのだから。

 それを成し遂げるためだけに、残りの人生を使うと決めたのだから。

 だから、その他のことに何ら興味はなかった。

 ただ、それを成し遂げるために邪魔になる自分の心が、完全に死に逝くのを座して待つだけだった。

 そんな文に、空が耐えきれなくなって叫びながら頭を下げる。

 

「あ、あのっ!! ごめんなさい、私の、せいで……」

 

 だが、その言葉は徐々に弱弱しくなっていった。

 文はそれに、何事もなかったかのように淡々と返す。

 

「いいんですよ、もう」

「っ!! よくないっ!!」

「……」

「だって、だってわだじが、あんなっ、がっでなごど、じだげでばっ、」

 

 空は喋れば喋るほどに、自分がわからなくなっていった。

 自分が勝手に飛び出したことを、謝ろうと思っていた。

 はたてを失った文を、慰めようと思っていた。

 そして、自分を助けてくれた文とはたてに、ありがとうと言いたかった。

 なのに、言葉が続かない。

 文には何一つとして響かない。

 ただ自分の情けなさが浮かぶばかりで、その声は何一つ届かない。

 そこにあるのは、一人で壁に向かって懺悔しているだけに思えるかのような虚しさだけだった。

 そして、文はまるでそんな空の様子が目に入っていないかのように一人立ち上がって言う。

 

「では、私はもう行きます」

「え?」

「異変は、まだ終わってませんから。 すみませんが、貴方たちへの報酬はそれが終わってからでもいいですか?」

「―――っ」

 

 文のその淡々とした受け答えは、空を極限まで追い詰めた。

 泣きじゃくって、自分のことを罵ってくれればよかった。

 力いっぱい、殴ってほしかった。

 それで文の気が晴れるのなら、何でもよかった。

 

 だが、文は涙などとうに枯れ果てていた。

 空を怒っている訳でも、みとりを恨んでいる訳でも、自分に対して憤っている訳でもない。

 そんなことを考えるような余計な感情は、邪魔にしかならないから。

 これからは目的のために心を捨て、昔のように一人で黙々と生きるだけと決めたのだから。

 だから、いくら泣いたところで文の心が動くことなどもうない、ただそれだけのことだった。

 

 だが、そう言って一人飛び立とうとした文に向かって、「忘れ物」とでも言う程度の軽さで勇儀が聞く。

 

「手を、貸そうか」

「ええ。 それでは、闇の力の感染者を止めてあげてください。 この周辺にはもういないでしょうが、恐らくまだ幻想郷中にいますから」

 

 文は振り返らずに答える。

 その返事も、即座に出てきた。

 一切の迷いも躊躇いもないその言動は、まるで既に昔の文に戻ったかのようであった。

 

「幻想郷中、か。 そいつは大変だな。 だったらもっと手がいるよなあ。 お空にお燐に、みとりとその妹も……」

 

 だが、勇儀はほくそ笑むような表情を微かに浮かべながら、

 

「それと、こいつも」

「え?」

 

 事実関係の確認。

 ただそれだけのために視線を戻した文の思考は、止まった。

 その目を疑った。

 

「どう、して……」

 

 いつの間にか勇儀が支えるように抱えていた一人の烏天狗は、寝ぼけ眼で辺りを見回す。

 したり顔の勇儀をよそに、文はフラフラの足取りで駆け寄る。

 ただその一点だけを見続けて。

 次第に足早になるのを止めることはできずに。

 

「あれ? 私は…」

 

 その声に向かって、文は飛びつくように遮る。

 その目はもう、何も見ていなかった。

 

「え? ちょ、ちょっと!? いきなり何を…」

 

 突然のことで戸惑う彼女に、文は返事すらもできない。

 今はただ何もかもを忘れて、その確かな温もりを感じていたかった。

 それが幻想でないことを確かめるように。

 それが確かにここにいる証を、自らの身に刻みこむように。

 枯れ切ったはずの涙は止まることなく、周囲の視線さえも気になることはない。

 文はその荒れ果てた地で、失くしたはずの親友の身体をただ力いっぱい抱きしめる――

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第24話 : 科学兵器


 長い繁忙期を乗り越えて、私は帰ってきたっ!!

 ……いや何かほんとに3か月以上も空けてしまってすみません、予想以上に時間が取れなかっただけで、失踪した訳ではないんですm(_ _)m
 夏は少し余裕があると思うんで、安定して月1ペースくらいには更新できるよう頑張ります。
 そして、誤字脱字の修正をして更に誤字脱字が増えるという大失態……これからはもっと落ち着いて書くようにします。




 

 戦いは終わった。

 誰も欠けることなく成し遂げられた、奇跡とでも言うべき所業。

 それでも、それは終幕ではない、新たな旅路への始まり。

 それまでの自分を捨て、新たに高みを見据えた勇儀。

 それまでの自分の弱さと向き合いながら、それでも世界を変えると決めた文。

 それまでの自分の罪を背負いながら、人生をかけて文を支えていこうと誓ったはたて。

 

 だが、その3人の新たな旅立ちの裏に、もう一つの誓いの始まりと、そして一つ戦いの終わりがあった。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第24話 : 科学兵器

 

 

 

 

 

 彼女は世界の因果に支配されていた。

 既にその身が限界まで酷使されている中で、それでも新たな敵が現れるとともに、彼女の身体は苦痛を伴って変容していく。

 身体だけではない、その存在を書き換えるかのごとく何もかもが歪んでいく。

 なす術もなく、ただ闇に飲まれていく。

 だが、自らの存在そのものが引き裂かれるほどの苦痛の中、それでも彼女の魂は必死にもがいていた。

 彼女が追い求め続けてきた、本当の願いだけを探して。

 

 ――私はただ、敗北を禁じた。

 

 それは即ち、自らの願いが妨げられなくなるということ。

 望むままに世界を書き換えられるということ。

 

 だから、世界は彼女の弱さを拒絶した。

 彼女が目の前の敵に打ち滅ぼされることのないように、超える者なき強さを与えた。

 

 だが、次に世界は彼女の闇を拒絶した。

 

 ――どうして?

 

 そして、鬼を蝕む記憶を拒絶した。

 烏天狗の死を拒絶した。

 

 ――何のために?

 

 それは必然の出来事で、簡単な問だった。

 彼女が禁じたことは、たった一つ。

 世界は、彼女にとっての本当の敗北を禁じただけ。

 彼女はただ、あまりに強大すぎる力に支配されて、わからなくなっていただけなのだ。

 自分にとっての、本当の敗北とは何なのかを。

 

 敗北とは、死ぬことなのか。

 

 ――違う。

 

 それとも、天狗や鬼に支配されることなのか。

 

 ――そうじゃない。

 

 たった一つ、守りたいものがあるから。

 たとえ自分が生き残ろうとも、全ての支配を打ち砕けようとも。

 それを失うことは、何よりも最悪の敗北だから。

 全てに嫌われ拒絶された自分を受け入れてくれた、たった一人の大切な人を。

 

 ――そのために、私はあの社会を捨てた。

 

 嫌われ者の自分のせいで、彼女まで迫害されることのないように。

 自分の犠牲と引き換えに、彼女が平和に暮らせるように。

 

 ――そのために、私は地上へ出た。

 

 暴走していく世界に、彼女が傷つけられることのないように。

 せめて自分が彼女を護ってあげられるように。

 

 ――そのためならば、私は悪魔にだって魂を売ろう。

 

 たとえ全ての災厄を自分一人で引き受けることになろうとも。

 その結果、たとえ世界さえも闇に染めることになろうとも、絶対に見失わない。

 全てを失ったはずの自分に残されていた大切な子が、いつまでも笑っていられる未来を。

 それさえ叶えてくれるのならば、もう何も未練はないと願った。

 

 

 だから、この結果はそんな彼女の呪われた能力が、最後にその願いでもって書き換えた奇跡。

 この残酷な世界に立ち向かおうとする心強き烏天狗が壊れる世界は、あの子が生きる未来にとっての敗北だから。

 木端妖怪にも隔てなく手を差し伸べてくれる心優しき烏天狗が死ぬ未来は、あの子が生きる世界にとっての敗北だから。

 

 彼女はただ、願った。

 種族など関係なく、誰もが手を取り合って生きていける未来を。

 誰もがそんな日常を進んでいける幸せな時間を。

 

 そして、いつか――

 

「――にとりに、そんな優しい世界を見せてあげたいから」

 

 それが、河城みとりが願った全てだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、あまりに強くにとりの心に響いていた。

 自分の悲しみなど一瞬で押しつぶされてしまいそうなほどに強く流れ込む苦悩の中、それでも全てを押しのけて脳裏を支配する、たった一つのみとりの願い。

 懐かしいその感覚は、深い暗闇の中で、それでもにとりの心を包み込むように守り続けていた。

 

 ――バカだなぁ、私。

 

 姉が自分のことを嫌いだなどという戯言に惑わされて、勝手に一人で嘆いていた。

 みとりのことを、最後まで信じてあげられなかった。

 みとりが、その人生の全てをかけて……いや、死してなおにとりを守ろうとしていたことに気付かないまま。

 

 ――ごめんね、ありがとね。 私はもう、大丈夫だから。

 

 にとりは、自分の中にある一つの力が消えていこうとするのを感じていた。

 にとりを守るためだけに全てを投げ打った一つの人生が、今ここで終わろうとするのを悟っていた。

 だが、にとりは嘆かない。

 本当は泣いて引き留めたい気持ちを抑えて、一人強がってみせる。

 最後の瞬間を悲しみで終わらせないために。

 たとえ一人でも強く生きていける自分を見せるために。

 だから、にとりは掠れた声で、それでも笑顔のままぽつりと呟く。

 

「……大好きだったよ、姉さん」

 

 そして、その力の消滅と同時に、にとりの目から一筋の雫が溢れかけたところで、

 

「いやあ、そう言ってもらえると姉冥利に尽きるってもんだねぇ」

「ひゅいっ!?」

 

 突然至近距離から聞こえたその声で、にとりは飛び起きた。

 ニヤニヤしながら自分に膝枕をしていた妖怪のもとから飛びずさり、まだ頭痛の残る中、辺りを見回す。

 そこでは、妖怪の山の妖怪なら誰もが知る有名人たちが、揃いも揃ってにとりを取り囲んでいた。

 

 かつて幻想郷最強の暴力と恐れられた鬼の四天王、星熊勇儀。

 妖怪の山最悪の卑怯者と知られ、上層との癒着を繰り返して権力に溺れた烏天狗、姫海棠はたて。

 その実力は天狗随一であると噂されながらも、自ら好んで下っ端に紛れている天狗一の変わり者、射命丸文。

 それに加えて、肌で感じられるほど強大な力を身に宿した地獄烏の姿。

 そこにあったのは、目の前にすれば河童であれば卒倒必至の層々たる顔ぶれだった。

 自分が異変の元凶であることを考えると、それは自らの死を確信するほどの、絶体絶命の状況のはずだった。

 

 だが、それでもにとりには勇儀たちのことなど目に入らなかった。

 自分に向かって笑みを浮かべているお燐だけを、ただ呆然と見ていた。

 

「まったく。 いつまでボーっとしてんだい、にとり」

「えっと、あの…」

「お、お燐、どうしたのいきなり!?」

 

 突然口調の変わったお燐に、一番反応していたのは空だった。

 それを見るお燐は、少しため息をついて空に言う。

 

「はぁ。 お前も図体はでっかくなったくせに、中身は全然変わらないんだねえ、空」

「え? お燐?」

「ははっ。 まぁ、そう言ってやんなよ、それがお空の持ち味だろう。 みとり」

「えっ!?」

 

 勇儀の言葉に、にとりは跳ねあがるように反応する。

 だが、そこにみとりはいない。

 そこにいるのは、どう見てもみとりとは似つかない、猫のような妖怪だった。

 

「ど、どういうこと? みとりさんって、だって、お燐がみとりさんで、そしたらみとりさんがお燐で…」

「ああもう。 ちょいと身体を借りただけだ、心配するな」

 

 戦いが終わった時、既にみとりの魂は文から弾き出されていた。

 それに気づいていたお燐は、自らの操る怨霊を使って、みとりを侵食する負の感情を食らわせることに成功していた。

 そして今は、ただの怨霊と化したみとりを一時的に自分に憑りつかせているのだ。

 

「……本当に、姉さんなの?」

「ああ、そうだよ。 久しぶりだね、にとり」

 

 にとりは信じられないという顔で、お燐の姿容をしたみとりに飛びつきそうになる。

 だが、その前にその言葉の意味をどうしても確認したかった。

 

「でも、待ってよ。 身体を借りたって、どういうこと?」

「……ま、それは隠してどうなるもんでもないか。 実は私はもう死んでてね、今は誰かの身体でも借りないと言葉を発することもできないただの怨霊なのさ。 ここに留まれるのも、あと数分が限界のね」

「っ…!!」

 

 みとりの魂は、既に限界まで消耗していた。

 いや、限界というよりは、むしろ成仏とでも言うべきものだった。

 怨霊は、この世に負の未練を残した魂のなれの果て。

 その未練を既に成し遂げ、お燐の力によって残る負の感情さえも食らわれていたみとりの魂は、怨霊としての存在意義を失ったが故に、この世に留まることができなくなった。

 それでもみとりに残っていた僅かな未練を汲み取ったお燐が、にとりが起きるまでみとりの魂を保護し、そして今その最後の灯を自らの身体に乗せたのだ。

 

 故にこれは、お燐がここにいるという偶然がなければ決して成すことのできないはずの時間。

 だが、少しだけ希望を持ったにとりの表情は、また曇る。

 ずっと探し続けて、やっと見つけた自分の姉。

 それでも、そこにあるのはもう少しで消えてしまう幻なのだ。

 

「えっ!? ちょっと待ってよ、数分って……私まだいろいろ聞きたいこととかいっぱいあるのに!!」

「落ち着け、お空。 ってかちょっと黙れ」

 

 みとりのタイムリミットを聞いて一番取り乱していたのは、空だった。

 だが、勇儀に引き止められて、ついさっき決めたことを思い出す。

 

 にとりが起きるしばらく前、目を覚ましたはたてを見て泣きじゃくっていた文は、やがて冷静さを取り戻し、お燐や勇儀と異変について知っている情報を交換していった。

 その中で、恐らくは今眠っているにとりと、特にみとりが大きな情報を持っているだろうと考えた。

 そして、お燐は自分が今みとりの怨霊を保護していること、少しの時間ならそれを自分の身体に入れられることを打ち明けた。

 だが、それは僅かな時間のみ。

 それ故、空にみとりのことを事前に伝えるとその僅かな時間を無駄話に使いかねないと考え、お燐はにとりが起きた後に何が起こっても必要以上にその時間を妨げないということだけを取り決めて空に伝えていたのだ。

 

「……そっか」

 

 にとりは呟き、ただ自分の手を握りしめたまま何かを耐えるように目線を下げている。

 本当は、昔のようにまた一緒に暮らせるのではないかという期待もあった。

 それができないのならせめて、今の自分のことと、自分にできた友達のことを聞いてほしかった。

 どうして自分を置いていなくなったのか、問い詰めたかった。

 

 だが、にとりは知っていた。

 今、幻想郷がどんな状態にあるのか。

 そして、勇儀や文たちが今、自分を取り囲んでいる状況。

 にとりは、恐らく自分が試されているのだろうと察した。

 破邪計画の技術主任として、果たすべき責任がある。

 みとりに残された時間があと僅かであるならば、今が感傷に浸るために、自己満足のために使っていいような時間ではないことがわかっていた。

 

「だったら、教えてよ姉さん。 幻想郷で今、何が起こってるのか」

 

 だから、にとりは迷いのない真っ直ぐな目でそう聞いた。

 自分は今まで、取り返しのつかないことをしてきた。

 天狗たちを消し、大切な友人を傷つけ、そして世界を壊そうとしたこと。

 その原因が未だ幻想郷を取り巻いている現状を、知っていたから。

 ならば今すべきなのは、その解決のために自分の全てを尽くすことなのだろう。

 確かに、闇の支柱として存在した自分にもわかっていることはある。

 だが、何年間もずっと闇の力をその身に纏い、多くを知ってきただろうみとりに聞くべきことが、たくさんあった。

 何より、みとりがいなければ決して解明できないだろう謎の存在を、にとりは知っていた。

 

「ま、少しは冷静みたいで安心したよ。 この状況で私のことなんか聞こうとしてきたら、引っぱたいてやろうと思ってたからね」

「大丈夫だよ。 こうやってまた少しでも話せるだけで、私は十分だから」

 

 本当はそんなことはなかった。

 だけど、今は少しでも強がって見せようと思っていた。

 にとりは一度大きく深呼吸してから、真剣な表情で口を開く。

 

「……それで、姉さん。 あの力の正体は一体何だったの?」

「正体、とは?」

「時間がないんだ、とぼけなくてもいいよ。 多分、あれに混合されてたのは科学の力だよね。 それも、とても私たちなんかの手におえるような代物じゃない、数世代先の」

「えっ!?」

 

 それを聞いていた文は、会話を妨げはしなくとも、戸惑いを隠せなかった。

 およそ500年前、外の世界ですらまだ木炭によるエネルギー、せいぜいが石炭への移行を迎える程度の発展しかない頃。

 そんな時代の存在が強力な科学力のメカニズムを知っているはずがない。

 ましてや、そんな技術を創造できる者など、それに対応できる者などいるはずがない。

 それ故の、破邪計画。

 だが、飛び出してきたのはその根拠を完全に打ち崩す情報だった。

 いや、忘れていたと言った方が正しいのかもしれない。

 それがあり得る、一つの可能性を。

 

「さあな。 だが、だとしたらその技術の存在があり得る可能性くらい、お前がわからない訳じゃないだろう?」

「うん。 ……第一次月面戦争、だよね?」

 

 およそ1000年前、紫の率いる妖怪軍団が月に攻め入った戦争。

 地上の民の大敗に終わったその戦争は、それでも月面で起こったが故に攻め入った妖怪以外に被害は出なかった。

 地上には特段の影響をもたらさなかった。

 その、はずだった。

 

「恐らくは、な。 科学者の端くれなら誰もが一度は憧れる月の先端技術。 ただの都市伝説だったはずのそれが、地上に実在していた」

「ちょ、ちょっと待ってください! そんな、ことが…」

 

 文は、遮ってはいけないとわかりつつも、思わず会話に割り込みそうになる。

 文の脳裏にはあまりに違和感が強く残っていた。

 自らが参加したわけではなくとも、第一次月面戦争のことくらいは知っていた。

 月の民が持つ、圧倒的な技術力のことも。

 だが、破邪計画が科学の力に頼ったものであることを知りながらも、なぜかそれを今まで考えることができなかった。

 いや、むしろ一番の疑問は、幻想郷で誰よりも月の技術の恐ろしさを熟知しているはずの紫が考えたとは思えない穴が、計画に存在したことだ。

 本当に紫もそれを考慮していなかったのか、それとも知っていてあえて放っておいたのか。

 それでも、残る時間の少ないにとりたちは、混乱する文をよそに次々と話を進める。

 

「……姉さんは知ってるんだよね。 それが一体どんな技術だったのか」

「ああ、何年もそれを取り込み続けてきたんだ、予想くらいはつく。 あれは恐らく、生命のストレス反応を無理矢理に起こし続けて負の感情を増幅させる医療科学の完成形だ。 多分、本来は心を砕くため……拷問か何かに使うための技術、だったんだろうな」

 

 それは、完成された技術体系を持つ月社会において、ただ相手を無限に苦しめるためだけに作られた、精神を破壊するための技術。

 本来ならばそんなオーバーテクノロジーが幻想郷にあるはずがない。

 だが、この状況で考えるべきことはその技術の内容などではなかった。

 

「拷問……でも、それだけだったら問題はなかった。 重要なのはそこじゃないよね」

「え?」

「たとえどんな技術だろうと、使う人によっていくらでも良いものにも悪いものにもできるからね。 だから、大事なのはその技術を地上に送り込んだのが……あるいはその力を手にしたのが誰かってことでしょ」

「ああ、それがわかっているのなら及第点だ。 厄介なのは科学の力ではない。 その力とあまりに強く適応してしまった、一つの人格だ」

「人格……? それに侵食された誰かのせいで、ここまで異変が発展したってこと?」

「そうだな。 正確には、その心の闇。 たった一人の絶望と嘆き、怒りと憎悪が無限の闇を創造し、暴走した力に支配されて永遠に止まらぬ殺戮兵器と化した」

 

 元々は、みとりが怨霊に感染してしまったのは、旧地獄跡に入り込んでしまったが故の偶然だった。

 それでも、本来ならばみとりの生まれの特殊性のおかげで、怨霊の侵食はみとりを完全に破滅させるほどのものではないはずだった。

 だが、みとりは怨霊に侵食されながら、自らの内の負の感情が不自然なまでに増幅されていくのを感じていた。

 そして、同時に怨霊の奥に潜む、それを遥かに超える脅威に、闇の力の根源となる一つの存在に気付いてはいた。

 自分の抱える闇など塵にも等しく思えるほどに深く歪み、全てを破滅に導きかねない異物。

 それ故に、みとりはあえてそれを自らの内に封じてその暴走を禁じ、地獄のような負の圧力を長年耐え続けてきた。

 にとりが住む世界に、そんなものを解き放つわけにはいかないから。

 それでも、やがてその闇は無数の怨霊よりも深くみとりを侵食し、たった一つでみとりを死に追いやるほどに巨大化していった。

 

「それは、一体誰の…」

「そいつが何者なのかは、わからない。 その記憶はあまりにも真っ黒に塗りつぶされていて、私の力なんかじゃとても入り込むことは許されなかったからな。 ……ただ、私に一つ分かるのは、そいつの感情が考えうる限り最悪の理の上に存在していたことだ」

「最悪の理?」

 

 みとりはそれを口にするのを少しだけ躊躇った。

 だが、それでも大きく息を一つ吸ってから、

 

「悪。 そいつが持っていたのは、誰とも相容れることなき『絶対悪』としての存在原理だ」

「絶対悪? それって…」

「いや、多分お前が想像しているようなものとは違うだろうな」

「え?」

「多分、お前は邪仙や天邪鬼、あるいは悪魔や邪神なんてものを想像したのかもしれない。 だが、そいつらはただその名や行動故に相対的に悪と認識されるに過ぎない。 ただ平和に暮らしたいだけの嫌われ者がいるように、そしてどこかにそれを受け入れてくれる奴がいるようにな」

 

 嫌われ者も、邪悪な存在も、それは絶対的な悪になることなどできない。

 みとりやさとりを受け入れる勇儀がいるように、誰かがそれを肯定することはできるはずなのだ。

 

「実際、勇儀なんかは目の前に悪魔か何かが現れたところで、別に邪険に扱ったりしないだろう?」

「さあ、実際に会ったことはないからわからんが……ぶっちゃけ地底はそんな奴で溢れてたしな。 相手の種族なんてどうでもよくなってくる」

「そうだろうね。 だが、そいつにだけはそうはいかない。 善悪の二元論において悪であることを絶対的に義務付けられた存在。 たとえどれだけ温和な奴にも、邪悪な思考を持った奴にさえも相容れることなく、目の前にしただけで問答無用に排除すべき悪として「認識させられてしまう」、私以上に呪われた存在さ」

 

 思考とは関係なく敵対され、排除すべき存在と捉われてしまう。

 魔理沙や霊夢ですらもが、スペルカードルールの存在も忘れて躊躇なく「殺そう」と思ってしまう。

 いや、共有された意識の中で、無理矢理にそう思わされてしまうのだ。

 そうなるためには、森羅万象の心に例外なくそう認識される必要がある。

 それこそ、世界の法則に組み込まれるほどに。

 

「二元的に、認識……なるほどね。 そういうことか」

「え?」

「そいつは悪として自然に誕生した訳じゃない。 そういう風に、裁かれたんだろ?」

「ああ。 ま、勇儀なら知ってるか、閻魔の持つ力くらいは」

 

 映姫の持つ『白黒はっきりつける能力』、それは物事に「絶対」を決定することのできる能力である。 

 その存在が比べるまでもなく悪であるということを因果律にまで刻み込み、それ以外の結果の帰結を棄却することのできる力。

 その力を用いれば、存在不能であるはずの絶対悪を無理矢理に創造することすらも可能なのだ。

 

「だからこそ、閻魔はお前を取り込んだんじゃないのか、勇儀?」

「何?」

「『怪力乱神を持つ程度の能力』……ある意味で的を射てるじゃないか。 法則や因果律、そんな一介の生命の手に及び得ないものと同じ次元に立てる力。 それが勇儀の持つ本当の能力だろう?」

「……そう、なのか?」

 

 怪力乱神を持つ、即ち理屈では説明しきれない不可思議に届く力。

 森羅万象が従う法則からも外れることのできるその力は、確かにあらゆる力を打ち破る可能性を秘めている。

 勇儀は単純な力だけでさえ幻想郷の頂点に立てるほどの実力を持ちながら、世界の理さえも壊しかねない、誰よりも危険な能力をも持っているのだ。

 

「ま、それが可能なのも無自覚で無邪気ゆえか。 だが、だからこそ閻魔は勇儀の力を恐れ、逆に利用しようと考えたんだろう。 封印した絶対悪という記号に勇儀が意図せずに接触してしまわないように、旧地獄を守る番人として使うことによって、ね」

 

 勇儀が地底で持つカリスマは、確かなものだった。

 勇儀がたった一つ触れるなと命じたそれに、この数百年必要以上に進んで関わろうとする者はいなかった。

 そして、仁義を通す勇儀自身が、自らその禁を破ることはない。

 映姫がそれを理解していたのだとすれば、それは確かに危険なものから万人を遠ざけるための正しい判断だったと思えるかもしれない。

 誰かが興味本位で怨霊の巣窟に、邪悪を構成する「能力」の要素に近づかないようにするため。

 だが、仮にそうだとすれば、文には不可解なことがあった。

 いや、前々から気になっていた一つの懸念が、今の話で確信へと変わったのだ。

 

「……ちょっと、待ってください。 閻魔様は封印した邪悪の危険から皆を遠ざけるために、勇儀さんに旧地獄の管理を任せたんですよね?」

「ああ、そう思うが…」

「でも、だったらおかしくないですか。 勇儀さんに守らせるのなら、わざわざ旧地獄跡になんて封印する必要はなかったじゃないですか。 負の感情を増幅させる科学の力と、それを糧にする闇の力。 そんなものに絶対悪なんて原理を植え付けて、よりにもよって怨霊の巣窟なんて場所に誰の手にも触れないように一緒に置き続けるなんて、それじゃまるで…!!」

「怨霊の持つ全ての負の感情を絶対悪という記号に無理矢理に向けさせることで怨霊を闇に「感染」させ、人知れずその力を増幅させるために閻魔が手を回した…ってとこか」

「恐らくは、ね」

 

 そして、それこそが異変の真の元凶であるとみとりには確信があった。

 それはきっと、文たちもただ知らされていないというだけの話ではない。

 今までのようにただ破邪計画の歯車の一つであったのならば、決して知ることのできなかった裏の事実。

 本来の計画からは明らかに外れた、月の科学技術の存在。

 気づかなかったのか、あえて無視したのか、それを視野に入れていなかった紫の計画。

 そして、紫と協力者であったはずの映姫の、不可解な行動。

 藍たちから文が聞かされていた話では、邪悪の「能力」の要素は、本来ならば旧地獄跡に単独で封じたはずだった。

 微弱な力しか持たない怨霊たちの中に細かく分けて溶け込ませることで、その増幅を永久に分散させ続けてほぼ無力化するために、そこに隔離したのだ。

 それにもかかわらず地獄の底にあった『絶対悪』の存在は、その話の前提を覆すのに十分なものだった。

 それを考えた時、とある懸念が文の脳裏に駆け巡る。

 話を遮ってはいけないと思いつつも、文にはみとりに確認したいことが山ほどあった。

 

「だったら…」

「でもまぁ、すまないが私も詳しいことは知らんよ。 それと、そろそろ時間だ」

「え?」

 

 だが、緊張の面持ちで唾を飲んだ文たちに、みとりはあっけらかんとそう言った。

 あまりに突然のことに、にとりは上手く反応できなかった。

 

「え、ちょっと待ってよ。 だって、時間って、まだそんなに…!!」

「いやー、実は私が今やってるのはこう見えてけっこう危険なことでね。 あんまり長く続けると燐が危ないんだよ」

「え……?」

「だから、伝えることを伝えたら、後はすぐに身体を返す。 そういう約束だったからね」

 

 お燐の好意でその身体にみとりを憑りつかせてはいるものの、妖怪に怨霊が憑りつくという行為は、憑りつかれた妖怪の存在を消滅させてしまうほど危険なことなのだ。

 今のお燐は、みとりに憑りつかれることによって「火車」という妖怪のアイデンティティーを失っている。

 もしその状態が長く続いて世界に溶け込んでしまえば、火車という妖怪の消滅、すなわち火焔猫燐という妖怪自体が消えてしまうことになる。

 実際には、負の感情に支配された怨霊が宿主に身体を返すこと自体があり得ないため、妖怪を怨霊が乗っ取ることはそのままその妖怪の消滅を意味する。

 これはあくまで、みとりが裏切らないとお燐が信じて身を委ねたが故に成せただけで、本来は実現自体があり得ないことなのである。

 

「ま、でも私は最後ににとりの声を聞けただけで満足だ、燐には感謝しないとねえ」

 

 今から消えるとは思えないほどいつも通りの態度で話すみとりを前に、にとりは焦りを隠せない。

 そんなにとりに、みとりは軽い口調で言う。

 

「そう心配するなって、私はただ成仏するだけさ。 あ、せっかくだしついでに彼岸で閻魔のことでも問い詰めてみるかな」

「……」

「それに、そんなに心配しなくてもさ。 確か幻想郷は、冥界と行き来することもできるんだろ?」

「え?」

「だから、この異変を無事解決できた暁には、たまーに冥界にでも遊びに来てくれりゃいいだけだろう? ま、もしかしたら私は地獄行きかもしれないけどね」

 

 にとりの頭を撫でながら冗長めいた口調で思いつくままに言うみとりが、笑顔を崩すことはない。

 にとりには、みとりの考えていることがわかった。

 まだ心配の残るにとりを、少しでも励まそうとしているのだ。

 そして、この異変を乗り越えてみせろと、にとりを奮起させているのだ。

 

 ――そうだよ、何やってるんだ私は。 決めたじゃないか。

 

 もう、みとりを心配させないと。

 最後くらい、強い自分を見せようと誓ったのだから。

 ならば、ここでわがままを言ってみとりを困らせる訳にはいかない。

 にとりは気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと口を開く。

 

「……そうだね。 じゃあ、そうできるように頑張るよ。 だから、お別れなんて言わない」

「そうか。 頑張れよ、にとり」

 

 みとりの返事はそっけなく、それでいて表情は柔らかかった。

 そして、みとりはにとりの頭を撫でながら、大きな声で、

 

「あー。 それと、空!」

「え……?」

「確かにお前は強くなったよ、本当に。 だけど、一つだけ約束しろ」

「……」

「お前の良さは強さなんかじゃない、そんなもんはどうでもいいんだ。 だから、たとえこの先どんだけ強くなったとしても、お前のその最高に無邪気で馬鹿みたいな優しさだけは、絶対に忘れんじゃないよ」

「……うん」

「あと、勇儀……は、別にいいか。 お前にもう言葉はいらないよな」

「ああ。 達者でな、みとり」

「あいよ」

 

 俯いたまま顔を上げられない空と、いつもと変わらぬ表情でみとりを送り出す勇儀。

 最後にそれを見て満足気な表情を浮かべたみとりは、それでも何かを思い出したように、

 

「……ああそうだ。 そういえば言い残したことが、一つだけあった」

「え?」

「そこの2人!」

 

 そして、みとりは文とはたてに視線を向けて、

 

「今度また私の妹を泣かせたら、末代まで祟ってやるからな」

 

 その顔は、まるで喧嘩を売るような不敵な笑みを浮かべていた。

 それでも、それは確かに文たちを信じる、まっすぐな目だった。

 

「ええ。 絶対、させません」

 

 文はみとりとまっすぐ視線を交わし、芯の通った声で答えた。

 それを隣で聞くはたては返事どころか、みとりに目線を合わせることすらしない。

 だが、それでもみとりは笑みを浮かべていた。

 

  ――大丈夫だよ、貴方は何も悪くないから。

 

 それが、その優しさを押し殺して無理に作っている非情さなのだと、身をもって知っているから。

 その昔、面識もない嫌われ者のみとりを、自分の身も顧みずに庇ってたった一人そう笑いかけてくれた、心優しき烏天狗のことを知っているから。

 

  ――文句があるのなら、私にどうぞ。

 

 そして、みとりの代わりにその烏天狗を処罰するという理不尽をたった一人で蹴散らして立っていた、強き烏天狗のことを知っているから。

 だから、それで十分だった。

 にとりが生きる世界に、勇儀たちだけではない、その2人がいてくれる。

 最後に、みとりの願いを聞き入れてくれるというのなら……

 

「……そうかい。 それだけ聞けりゃ――」

 

 

 ――私にはもう、何も思い残すことはないな――  

 

 

 みとりはゆっくりと目を閉じてにとりを強く抱きしめる。

 それに力を入れ返したにとりに向かって、

 

「っ……痛たたたた、ちょっとお姉さん、強いって」

「あ……」

 

 お燐がいつもの口調でそう言った。

 目の前にいるのは、もうみとりではなかった。

 あまりにあっさりと、みとりの魂は旅立っていた。

 にとりは、強く力を入れていた腕をゆっくりと解く。

 

「……すみません。 ありがとう、ございました」

 

 にとりは、そう言って頭を下げ、一歩退く。

 みとりがもういないと考えるだけで、目頭に熱いものがこみ上げてくる。

 だが、にとりは泣かないと決めていた。

 強くなると決めていたから。

 だから、にとりは涙を切り、すぐに気持ちを切り替えて思考を巡らす。

 

 なぜなら、そこにまだ最も警戒すべき敵が残っていたからだ。

 会話の流れから、恐らく勇儀やお燐や空がみとりの味方だったのだろうことはわかる。

 そして、穏健派の天狗であり、今回の計画の協力者の筆頭である文も、やり方によっては味方につけることもできるのだろう。

 だが、残るもう一人は、妖怪の山に住む力無き妖怪なら誰もが警戒する強硬派の中でも特に最悪の天狗。

 にとりが闇の力を得た時、本当は最も復讐を果たしたかった相手だった。

 故に、にとりは緊張の面持ちで口を開こうとして……

 

「……っぇぐ。 うっ、うぇっ」

「え?」

 

 だが、聞こえてきたのは、なぜかすすり泣くような声だった。

 

「いい、お姉さんじゃない、本当に……」

「うん……なのに、ぅぁぁ、みとりさんが…うわああああああああん」

「えっと……」

 

 そこにあったのは、文の背中で泣き続けるはたてと、一人で大泣きしている空の姿だった。

 それを、にとりは理解できなかった。

 一人困惑の表情のにとりに向かってはたてが駆け寄って、その手をがっしりと掴む。

 

「貴方も、頑張って強く生きるのよ。 お姉さんの分まで! 私も…わだじも、ぎょうりょぐずるがらっ!!」

「あの、えっと……」

「うああああああ、お燐、お燐っ、みとりさんがあぁぁぁ」

 

 にとりは、ただ困惑するばかりで何もできなかった。

 収拾のつかなくなった現状を見て、文がため息をついてはたてを引き剥がす。

 

「あー、ほら、はたて。 にとりさんが困ってるでしょ? 離れて離れて」

「……う、うん、ごめん」

「お空も、いつまでも泣いてんじゃないよ。 みとりの妹は泣いてなんかいないぞ?」

「だって、だって……」

 

 お燐に諭されて、空もやっと泣き止む。

 そして、文はにとりの前に立って一つ咳払いしてから言う。

 

「騒々しくてすみません。 何度か取材中に顔を合わしたこともあるので初めましてって訳でもないけど、私のこと覚えてますか? にとりさん」

「は、はい」

「それと、多分はたてのことを警戒してるんだと思いますけど、大丈夫ですよ。 もう、はたては誰かを傷つけたりなんて絶対にしませんから」

「え?」

「あ……」

 

 にとりは、目を赤く腫らしたままのはたてを、怪訝な表情で見つめる。

 すると、はたての顔は血の気が引いたように青ざめ、にとりに頭を下げて叫んだ。

 

「ごめんなさい! 貴方のお姉さんを山から追い出したの、私なの。 私が全部悪いの!!」

「え……?」

「だから、私のことなら煮るなり焼くなり好きにしていいから! 貴方たちがそうなったのもみんな私が、私の、せいで…」

 

 にとりは、言葉が出なかった。

 突然目の前に現れたのは、にとりが長年ずっと恨み続けてきた仇敵の姿。

 にとりはずっと、はたてが上層のご機嫌取りのために、危険分子であるみとりを追い詰めたのだろうと思っていた。

 だが、そこにどう見てもにとりが憎むべき烏天狗の姿はなかった。

 本気でみとりのことを想う姿。

 それ故に、にとりは確信した。

 はたての行動が必要なことだったという、たった一つの可能性を。

 

「いいんですよ」

「そんなの、いい訳…」

「だって、姉さんのためだったんですよね」

「っ!!」

「姉さんを貶めるためじゃない、姉さんを逃がすために……助けるために、仕方なかったんですよね」

「……ごめんね、本当に、ごめんね」

 

 はたては、答えない。

 ただ謝り続けるだけ。

 危険な力を持ちながらもいずれ妖怪の山の社会に反旗を翻しかねないみとりが、いずれ始末されてしまうだろう立ち位置にいたこと。

 そして、もしみとりを妖怪の山から追い出していなければ、みとりだけではない、にとりまでも排除の対象となっていたかもしれないこと。

 それをはたては伝えない。

 それは、言い訳にしかならないから。

 自分の地位を上げるためにみとりを利用したというのも、あながち間違いではないのだから。

 いや、そもそも自分がもっと強ければ、そんなことをする必要すらなかったのだから。

 ただ自分を責めるように謝り続けるはたてを見て、文はその頭を軽く叩いて言う。

 

「まぁ、確かに彼女は取り返しのつかないことをしたのかもしれません。 それに、私たち天狗が今まで数えきれないほどの妖怪たちを虐げてきたのも、また事実です」

「……」

「ですが、その責任なら私がとります。 貴方たちに、もう二度とそんな悲しい別れをさせないと、私が約束します」

「え?」

 

 文の目は、まっすぐにとりに向けられていた。

 ただの下っ端の天狗の一人である文に、そんなことをできる力がある訳がない。

 それでも、それは有無を言わせないほど強く、力ある言霊だった。

 そんな文に向かって、勇儀は一つため息をついて言う。

 

「……ってかよぉ。 迫力に欠けるから、その口調は何とかならねえのか、大天狗殿?」

「へ? 大、天……えええええええっ!?」

 

 勇儀が皮肉めいた口調でそう言うと、にとりとはたてが思わず叫んだ。

 はたても、文が大天狗を継いだという話は、まだ知らなかったのだ。

 

「だ、大天狗って、そんな、まさか…」

「文さん、それって…」

「……そうですね、その件ですが」

 

 文が一つ息を吸う。

 勇儀は、一時的とはいえ天狗の長となった文がどう振る舞うのか楽しみにニヤニヤと笑っていた。

 だが、文は頭を掻いて、何事もなかったかのように、

 

「まぁ、ぶっちゃけると嘘です」

「はあ?」

「さっきまでそういうことにしてましたけど、正式に天魔様から辞令を受け取った訳でもありませんし、洩矢様たちからも有事の際に早苗さんのことを任されただけですからね」

「……ほう?」

 

 突如、空気が重くなった。

 勇儀の視線が、文に向かって一瞬で鋭く突き刺さるものになったのだ。

 はたてとにとりは焦りを隠せない。

 どんなやり取りがあったのかは知らなくても、文が勇儀に嘘をついたことだけはわかる。

 その勇儀が嘘を嫌うということは、誰もが周知の事実だった。

 

「つまり、アレか。 お前がさんざん語った決意は、ただの虚言だったと。 私に対して、偽っていたと」

「ええ。 事実として、私はさっき嘘をついたことにはなるんでしょうね」

「そうかい。 そいつは随分ナメたことしてくれるなぁ、射命丸。 それは私に喧嘩売ってると…」

 

 だが、殺気を放っている勇儀に向かって、文は怯むことなく淡々とした口調で、

 

「でも、私はそれをただの虚言にするつもりなんてありませんよ。 ってよりも、別にそんな辞令になんて興味はありません」

「何?」

「私は、大天狗ごときで終わるつもりはありませんから」

 

 大天狗ごとき。

 それがたとえ最上級のものであろうと、天魔から与えられた役職などに興味はない。

 それは紛れもない、いずれ天魔にとって代わるという意思表示。

 穏健派や強硬派などというレベルではない、それは天狗という種族全てに喧嘩を売るほどの物言いだった。

 それを聞いて一瞬呆けた様な表情を浮かべかけた勇儀は、

 

「……ぷっ。 はははははっ。 何だ、言うようになったじゃねえかよ、射命丸」

「また、背負うものが増えちゃいましたからねぇ」

「え?」

 

 文は少しだけにとりに視線を流す。

 

「約束しちゃいましたからね、お姉さんと。 もうにとりさんを泣かせないって」

「あ……」

「なら、私はたとえ天魔様が……天魔が相手だとしても、それを下してこの山を変えなきゃいけない。 ただ、それだけのことですから」

 

 少し面倒そうな口調で言う文は、それでも表情は晴れやかだった。

 必要以上に気負ってはいない、自然体での静かな闘志。

 それは、組織の長として十分な貫録を備えた佇まいだった。

 そんな文を前に何も言えず立ち尽くしているにとりに、勇儀は軽い気持ちで肩を叩いて言う。

 

「ま、そういうことだ。 お前は何も心配せずに、生きたいように生きればいい。 この適当で自由気ままな、新しい妖怪の山の長に任せてな」

「それは……」

 

 にとりには、今起こっていることが現実とは信じられなかった。

 だが、それに現実味を持たせるように、文は自らの内の何かを切り替える。

 いつものような親しみやすい雰囲気を消し、鋭く全てを見通すような目で大きく息を吸う。

 

「だから……河城にとり!」

「は、はいっ!」

「私は、これからこの山の腐った体制を変える。 そのために、お前の力が必要だ。 真にこの山の今を憂う、この異変の首謀者であるお前だからこそ、私には必要だ!」

 

 そこまで言って、文は少しだけ躊躇う。

 それがどれだけ自分勝手な物言いなのかを。

 今までずっと一人で逃げ続けてきた自分に、そんなことを言う資格がないのを知っているから。

 だが、文はそこから目を逸らすつもりなどない。

 その罪を背負いながらも、一切の弱さも感じさせないほどに強くにとりに言う。

 

「……だから、私は偽らない。 私はお前を使う。 この山の未来を切り開く同志として、これからお前をボロボロになるまで使ってやるつもりだ!」

「っ!!」

 

 それを聞いたにとりは、一瞬だけ震える。

 「使う」という言葉が、支配されてきた者の心をどれほど痛めつけるか、文は知っていた。

 自分も、昔はそちら側の立場だったのだから。

 それでも、文はあえてその言葉を使った。

 真にその痛みを知っているからこそ、それを偽るべきではないと思った。

 これから本当に、味方につく全ての者の力を酷使しなければ成し得ない、想像を絶するほど過酷な道を進むのだから。

 だから、文は迷いなくその道を見据えるために、まっすぐに心からの言葉で――

 

「だが! もしそれでも。 それでも、貴方が私を信じてついてきてくれるというのなら―――」

 

 そして、文はにとりに手を差し出して、

 

「いつか私が、みとりさんが望んだ優しい世界を実現させることを約束します」

「あ……」

 

 最後に、そう微笑んだ。

 それを聞くにとりの目からは、自然と何かが零れ落ちる。

 にとりが長年追い求めて、それでも決して叶えることのできないと諦めていた夢。

 それを本気で成そうと立ち向かう天狗が目の前にいる。

 今までの経験上そう簡単に信じることはできないはずのこと。

 だが、それは確かに現実だった。

 にとりは、感極まってその目から溢れた何かを必死で隠しながら、

 

「……はい。 貴方の、仰せのままに」

 

 下を向いたまま跪き、胸に手を当てて誓った。

 迷うことは何もなかった。

 この人についていけば大丈夫だと、そう思える上司に初めて巡り会えたのだから。

 だが、心から自分を信じてくれたにとりの姿を目の前で見る文は、微かに赤面して言う。

 

「……いやー、やっぱり私には似合いませんよね。 こういうのは」

「ったく、そういうところが最後まで締まらねえな、お前は。 だがまぁ、むしろそれがこれからの天狗の正しい姿になんだろ。 お前が本当に天魔を下した暁には、きっとな」

「あー……改めて考えてみると、けっこうヤバいこと言ってますよね、私」

「ま、正直言うと「何を血迷ったことを言ってんだこの馬鹿は」と一蹴してやってもいいくらいの戯言だな」

「ははは、そこまで言いますか」

 

 天魔を一介の烏天狗が下す。

 それは、長く続けてきた天狗という種族の理の全てを否定して塗り替える、一つの革命だった。

 それを勇儀の口から聞いた文は、自分でも現実と想像できない未来の姿を思い浮かべ、少し苦笑する。

 

「ああ。 だがな、射命丸。 だからこそ私は――――」

 

 だが、その笑みは瞬時に凍りつく。

 突然、勇儀はその場に座り込むとともに、表情を変える。

 そのまま文を見上げるような態勢で、その言葉は重く響き渡った。

 

「私は、お前を初めて真に認めよう」

 

 その鋭い気迫は、まっすぐ文を貫いていく。

 さっきまでそこにあった柔らかな雰囲気など、一瞬で断ち切られていた。

 目の前にしただけで震えるほどに感じる圧倒的貫禄は、たった一言で場の空気を支配する。

 

「だから、聞かせろ。 お前がこれから思い描く、お前が進まんとする道を」

 

 真に認める相手だからこそ、殺気を向けるほどに本気でぶつかる。

 それが勇儀の在り方だった。

 だから、勇儀はもう文に一切の加減もするつもりはない。

 

「……ええ、いいでしょう」

 

 そして文も、勇儀の本気を前にしても縮こまったりはしなかった。

 文は、その正面に同じく座り込む。

 目の前の相手への畏怖など欠片も感じさせない、不敬な態度でもって。

 その身体は、勇儀に劣らないほどに大きく見えた。

 そこには上下関係などない。

 勇儀と対等の気迫でもって向かい合う文は、自らの言葉でゆっくりとその未来を語り始めた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第25話 : 宿敵


 割とすぐ投稿できると思ったんですが、予想外に遅くなりました。
 どうしてもこういう繋ぎ回っぽいのは得意になれなくて、何度も書き直したんですよね……
 ただ、その分次の章の話は半分弱くらい書き溜められたので、更新ペースは少し上げられると思います。



 

 

 

 

「――残念だけど、これはもう手遅れね」

 

 その一言は、反論を許さぬほど静かに響いた。

 だが、そんな現実を突き付けられた彼女の感情に、不思議と揺らぎはなかった。

 期待する気持ち以上に、もう無理なのだろうという諦めが心のどこかで強くあったから。

 

「……そうか」

 

 それ以上の言葉は出てこなかった。

 彼女の心を支配するのは悲しみではない、失望でもない、目の前で淡々とそう告げた妖怪への猜疑の気持ちでもない。

 

 ――空虚。

 

 自らの弱さに気付き。

 立ちはだかる勇者には出会えず。

 そして、共に競い合ってきた強敵は、あまりにあっけなく死んだ。

 

「その気になれば、いつかは自分の意志で立てるようにはできると思うわ。 でも……」

「わかってる。 もう、今までのあいつには戻れないんだろ?」

 

 その返事を聞こうとすらせず、彼女は背を向けた。

 もう、その場に居続けたくなかった。

 かつて憧れた一人の鬼の、あまりに弱弱しく縮こまった姿をこれ以上見たくはなかったから。

 だから、彼女は目の前の現実から目を背けてしまった。

 そこが、彼女の前に続いていた最後の道の終着点だった。

 自分の中にある何もかもが終わったかのような感覚に支配されたまま、彼女はそれ以来ずっと惰性で生きてきた。

 

 だが、閉ざされたと思っていたその視界に、突如として新たな道しるべが現れる。

 

 それは、高い潜在能力を持ちながらも、自分と似た弱さを持った烏天狗。

 その内に秘めた可能性に期待し、かつては無意識の内にいつも目で追い、厳しく叱咤していた。

 時には自分自身の弱さを見ているような苛立ちを感じ、痛めつけたこともあった。

 まるで親のような心境で、その成長を喜んだこともあった。

 

 だが、そんな目線からの態度は今日ここで終わった。

 彼女は今、初めてその枠から天狗を外した。

 その天狗を、自分と矜持を交わし合う価値のある、対等以上の存在として認めたからだ。

 

 そして、烏天狗はそれに応えた。

 彼女を怯ませるほどの覇気でもって、高みを見渡していた。

 自らの憎むべき心的外傷とまで思い続けてきた相手の期待を、遥かに上回る存在として君臨していた。

 

 彼女は歓喜に震える。

 自分の目は、曇ってなどいなかったと。

 自分の選択は、間違ってはいなかったと。

 遂には当初はなかったはずの、その先の希望さえも見出す。

 

 ――いつか、こいつが私の――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第25話 : 宿敵

 

 

 

 

 

 

「私はこの妖怪の山を構成してきた倫理そのものを、一度破壊します」

 

 勇儀の問いかけに、文は第一声をそう返した。

 一度は勇儀たちに語ったはずの、文の描く妖怪の山の未来地図。

 異変の元凶であるにとりたちの救出、それを契機に残存する妖怪たちの中で多くの仲間を探し、これまでの社会を変革していこうという道。

 それを、勇儀はあえてもう一度尋ねた。

 はたてやにとりが文の展望をまだ知らないからもう一度確認したという訳ではない。

 その目に宿している覚悟が、見据える視線が、先の文とは明らかに異にしていると感じたからだ。

 そして、それは確かに全く別の道へと繋がっていた。

 

「倫理そのものを壊す、だと? お前はこの山の風習を変えるつもりじゃなかったのか?」

「……あの時はまだ、私自身が天狗という種族に縛られていましたからね。 そのくらいしか、考えられませんでした」

 

 あの時の文は、あくまで天魔によって認められた大天狗としての名を使い、内側から支配構造の中身を変えていくことまでしか考えてはいなかった。

 いや、それだけしか考えることができなかったと言った方が正しいだろう。

 なぜなら、たとえ各個人がどんな思想を持っていようとも、文を含めた天狗という種族の根底には鬼への畏怖、そしてそれをものともしない天魔という一個体への絶対的な崇敬があるからだ。

 その天魔を下すというのは、種族としての常識から明らかに外れた思考であり、本来はそれを考えることすらおこがましい世迷言なのだ。

 

「なるほどね。 だが、今のお前の標的は天狗社会の強硬派などという有象無象ではなく、天魔の支配していた社会そのものだと」

「ええ。 一介の烏天狗の一人である私がこの異変を終結させて全ての天狗を救い、そして天魔を下す。 それによって天魔という妖怪の山の頂点に君臨する「力」の象徴を失墜させ、天狗という種族の倫理そのものを一度崩壊させてから、この山の全てをやり直す。 それが、私の最終的な目的です」

 

 だが、文は既にそんな常識など捨てていた。

 力があるが故に支配が正当化されるという常識。

 妖怪の山に鬼がいた頃から続くその理を、回り道などなしに、強さの象徴であり山の支配者である天魔を文が負かすことによって否定する。

 そうして正当性を失って破綻した混沌の社会を、種族の壁を取り払い、はたてやにとりたちと協力して一から構築し直していこうという展望。

 それは今までの歴史そのものを蔑ろにし、天魔への畏怖や崇敬そのものを無理やり打ち砕くという、争いを嫌う文にしてはあまりに傲慢で暴力的なやり方だった。

 

「だが、お前は今までは、偽りとはいえ天魔に認められた大天狗という看板を掲げて妖怪の山を変える計画を立てていたはずだろう?」

「そうですね」

「それなら、河城にとりを助けられた今、ここまでの道のりは順調だったはずだ。 後はお前が当初思い描いていた通りに、ただ天魔を含めた強硬派の天狗を見捨てるだけでよかった。 そうすればお前が大天狗に任命されたという偽りに気付く者もいないし、その気になれば天魔に成り代わることだってできた。 なのに、どうしてお前はわざわざ天魔を超えるという困難な道を選んだ?」

 

 確かに勇儀は、既に文のことを十分に認めていた。

 だが、今の文が天魔以上であるかと聞かれると、まず首を縦に振ることはできない。

 天魔、即ち第六天魔王波旬と呼ばれしそれは、天狗という種において比類なき豪傑。

 天狗でありながらも鬼の四天王とすらも拮抗する強さを持っていた、他の天狗とは一線を画す、神に等しき存在である。

 それを超えるというのは、今この場で文が勇儀を正面から打ち負かすと言うのと大差はないのだ。

 

 ならば、異変で犠牲となった天魔や強硬派の天狗たちはこのまま見捨てた方がいい。

 その存在が、異変の後に文が進む道の邪魔になるからだ。

 確かに、お燐の力によって闇の力の感染者を助けられるだろうことは新たにわかった。

 闇に飲み込まれていった者の末路についても、詳細がまだわからなくとも、それを助けられる十分な可能性は文が彼岸から持ち帰った死者名簿が説明してくれる。

 だが、それでもその全てを救いはせずに、残存する者の中だけで文の意志に賛同してくれる仲間を集めて妖怪の山をまとめていく道の方が、文には都合がよく現実的であるはずなのだ。

 そんな残酷な提言を、勇儀は遠慮しない。

 それを、にとりも固唾を飲んで聞いていた。

 実際、にとりが選んだ道も、それだったからだ。

 実質的に山を支配している者たちが、天狗たちがいなくなれば、きっとみとりが帰ってきてくれるのだと思ってしまったから。

 

「……ええ。 確かに、そういう考え方もできるのかもしれませんね」

 

 そして、文自身もそれを否定はしなかった。

 これまでの天狗社会の在り方を変えるなら、今ほど良好な状況は無い。

 もし上層が帰ってこないまま異変を収束できれば、破邪計画の実行に失敗した河童たちを責める者もいない。

 上手くいけば、これから多くの妖怪たちが妖怪の山で自由に暮らしていくことができるだろう。

 その方が遥かに簡単な道であることは、文も十分に理解していた。

 

「でも、それじゃ意味がないんです」

「何?」

「たとえ表層的な変革をもたらしたとしても、その先に待っているのは結局は争いだけです。 私を認めない人、納得しない人は絶対にいます。 ……そして多分、この異変で仲間を奪われた憎しみを、永久に心に抱え続ける人も」

「そうだな」

 

 だが、それは長期的な目で見れば解決にはならない。

 理不尽に仲間を奪われた者が、それを見捨て、混乱に乗じて天魔や大天狗に成り代わった文を認めるはずがない。

 今の文にとって邪魔な存在であっても、それを必要としている者もいるのだ。

 そうして仲間たちを見捨てた文への、異変の原因を作ったであろうにとりへの新たな憎しみが生まれていく。

 憎しみが憎しみを生む、負の連鎖を止めることはできないのだ。

 

「都合の悪い相手をただ見捨てていっても、結局は何も解決しません。 弱いのが悪いだとか、支配する側が悪いだとか……少なくとも、みとりさんはそんな世界を望んではいなかったはずです」

「……」

 

 一時的とはいえ実際に闇の力に感染した文だからこそわかる、暗闇の底にあった壁のようなもの。

 その精神が完全に闇に溶けて消える前に、飲み込まれた者の死を拒絶しようとした力。

 自分の心が最後の一線を越えないよう守っていた何かが、確かにそこにあったことを文は知っていた。

 確証はなくとも、文はそれがみとりの力だったのだろうと思っていた。

 たとえ相手が憎むべき天狗であっても、それすらも全て守ろうとしたみとりの強き決意なのだと理解していた。

 だからこそそれを蔑ろにする訳にはいかないと思い、それが文の決断の最後の後押しとなったのだ。

 

「だから、私は誰を見捨てるつもりもありません。 この異変の犠牲者の全てを救うことができて初めて、胸を張ってこの山に挑む資格があると思ってます」

「……そうかい。 だがな、それはただの綺麗事だ。 お前はそんな理由で、わざわざこんな無謀な選択をするってのか?」

「無謀だから、何だっていうんですか」

「何?」

 

 勇儀に食って掛かる文の目に、恐れの色など全くない。、

 無謀で諦めるのなら、そもそもこの山の社会に立ち向かおうなどとは思わない。

 みとりを助けようなどという困難を選ぶこともなかった。

 今さらそんなことが、文が退く理由にはならないのだ。

 

「誰も泣かなくて済む道があるのなら、私はたとえどれだけ無謀と笑われようともその道を進みます」

 

 文は今日、知ってしまったから。

 萃香も勇儀も、本当は憎むべき敵などではなかった。

 心の中で蔑んでいたはたては、本当は誰よりも優しく気高かった。

 互いにわかり合おうとすれば、きっと誰もが共存していけるはずなのだから。

 だから、文はもう誰からも決して逃げない。

 誰を見捨てることも、誰を憎むこともない。

 

「鬼も天狗も河童も、誰だって関係ない。 誰もが互いに助け合って、ちょっとした日常の中で笑いあえるような……」

 

 萃香がいて、椛やはたてがいて、にとりがいて。

 天魔や大天狗たちも、暴力的な鬼たちも、嫌われ者も、そして悪と呼ばれる存在すらもがいつか隣で笑っていられるような、

 

「そんな世界が、私の目指す理想郷ですから」

 

 それを、文はまっすぐに言葉にした。

 誰も泣かない、傷つかない、皆に優しい世界。

 誰もが一度はその心に思い描きながらも、絵空事と笑ってしまうような戯言だった。

 だが、それはただの空想ではない。

 本気で成そうとする者がいる時、それは現実に変わるから。

 文の目に宿っているのは、妖怪の山を変えるなどという次元ではない、世界そのものを新しく作り変えて背負っていくという覚悟だった。

 

「……はっ。 そりゃ随分と馬鹿げた理想論だな。 お前がそんなロマンチストだとは思わなかったぞ」

「そうですね、私もそう思います。 でも…」

 

 文の目線は少しだけ後ろに移る。

 本当は、その心の中は不安でいっぱいだった。

 それでも、迷いは一切なかった。

 どれだけの困難を前にしようと、それでも文を支えると誓った、はたてがそこにいた。

 どんな無謀な理想でも、それでも文についていくと誓った、にとりがそこにいた。

 だから、文は迷わずその道を進める。

 信頼できる友がそこにいるから。

 

「もう、決めましたから。 誰に何と言われようと、それを曲げるつもりなんてありません」

「そうかい。 そりゃ、高尚な野望なこって」

 

 勇儀は、一つ笑い飛ばす。

 だが、それは文のことを笑ったのではない。

 軽々しく文の決意を聞いた自分が抱えるものの、薄っぺらさを。

 まるで、今の文と対等などと驕っていた自分を嘲るように、勇儀はその口をゆっくりと開く。

 

「……ま、せっかくだ。 そんな愉快な話を聞かせてくれた礼に、お前にも私の薄っぺらな野望を教えてやるよ」

「え?」

 

 勇儀の返答を前に、文は少し戸惑う。

 何故、今の状況で勇儀が突然それを口にしようとしたのかがわからなかったから。

 だが、不思議と遮る気にはならなかった。

 それは、文が初めて聞く勇儀の本音。

 鬼の中でも異端と言われ続けた目の前の鬼が何を考えているのか、今までずっとわからずいた。

 気になりながらも一度も聞けずにいたそれが突然目の前に現れた文は、身構えるように聞き入る。

 

「私はな…」

 

 だが、皆が一様にそれを聞こうと身構える眼差しの中に、一つだけ冷めた視線があった。

 その場の雰囲気の全てをぶち壊すように、

 

 

 ――失望、させんなよ。

 

 

 突如として、悍ましいほどに冷めきった空気が辺りに充満した。

 

「――――っ!!」

「何だっ!?」

 

 無数に溢れ出す怨霊と、世界を染め上げる漆黒の闇が天高く渦巻いていく。

 大地が裂けるように揺れ、まるで闇に染まったみとりを前にした時のような悪寒が辺りを覆う。

 そして、次の瞬間その視界に現れたのは……

 

「ぇ……」

「嘘っ!?」

 

 その姿を見てしまったにとりとはたては、恐怖のどん底に突き落とされる。

 勇儀と比べてなお一回り以上大きな体躯に相応しき大刀と、無条件に見る者をひれ伏させる程の貫禄を備えた大天狗の姿。

 それを遥か高みから見下ろしながら、存在するだけで天空を歪ませるほどの気迫を纏った天魔の姿。

 そして、周囲を取り囲むのは、暗闇に溶けるような黒に染まった天狗たちの姿。

 それも、恐らく数多くいる天狗の中でも特に高い実力を誇る精鋭たちなのだろう。

 それらが闇に染まって強大化し、僅かに光を取り戻したにとりの目を再び絶望に染めていく。

 

 だが、そんな絶望の中に、瞬時に思考を切り替えた2つの笑みがあった。

 勇儀だけではない、そこには……

 

「……はっ。 何を笑ってやがる、射命丸」

「ちょうど、探す手間が省けましたからね」

 

 文はそう言って天魔の姿をまっすぐその目に捉える。

 強がっている訳ではなく、むしろその表情は喜々としていた。

 なぜ、それが今ここにいるのかはわからない。

 それでも、異変の犠牲になったはずの天狗たちが確かに目の前にいる現実は、文にとって最も歓迎する事態だった。

 それは、椛や萃香たちがまだ生きていると期待するのに十分な出来事だったから。

 そして、お燐の力を使えば、それを闇から切り離して救うこともできると知っている。

 だから、文は強大な敵に囲まれた恐怖以上に、今の状況に希望を見出していた。

 

「くくっ、つくづく愉快な奴になったよなぁ、お前は」

「それは、どうも。 あと、一つ頼みがあります。 私が天魔の相手をするので、勇儀さんは他の天狗を…」

「いや、ダメだな」

「え?」

 

 だが、希望も、武者震いするほどの高鳴りも、全ての感情は突如として現れた何かに掻き消された。

 闇の中心から現れたあまりに静かな殺気が、有無を言わせず文の五感を支配する。

 多くの者は感じることすらできない、それでも一瞬で目の前の世界を塵に還すほどの力。

 それに反応すらできていないはたてたちに目も向けず、大天狗が一瞬で文の目の前に踏み込んでいた。

 

「っ――――!!」

 

 文は、誰よりも早くそれに反応した。

 単純な速度なら、反応速度も含めて、文はここにいる誰よりも速かった。

 故に、文にとってそれを避けるのはさして難しいことではなかったが、

 

 ――止めきれるか、私に。

 

 文はその気になれば避けられるはずのそれを前に逃げない。

 はたてとにとりがいるから。

 自分がそれを避けた途端、後ろにいる2人の首が一瞬で飛ぶことを理解しているから。

 天狗一と知られる現大天狗の剣技は、上位の鬼の首さえも一刀にて断ち切る達人の業。

 たとえ避けることができたとして、止めることなど誰一人として考えようとすらしない一撃必殺のはずだった。

 それでも、文はその常識に抗おうとする。

 目の前に迫る剣筋を逸らそうと、自らの全神経を集中させて……

 

 

  ――鬼符『怪力乱神』――

 

 

 だが、その常識はいとも簡単に打ち砕かれる。

 次の瞬間そこに満ち溢れたのは、大天狗の静かな殺気とは対照に、もはや狂気とすら呼べるほどに激しく勇儀から溢れだした殺気の塊。

 一歩遅れて反応したはずの勇儀は、それでも大天狗の前に立ちはだかるように素早く地を蹴る。

 そして、大天狗が振り下ろした一太刀に合わせるように正面から拳を叩き込んで、嘲るように笑った。 

 

「はっ。 素手じゃ刀を止められない、と?」

 

 辺りに何かが折れたような鈍い音が響くと同時に、誰もが目を疑った。

 それは、今の文の表情すらも驚愕に染める。

 

「そんな法則、誰が決めた?」

 

 刃の正面から大刀を圧し折りながらも衰えない拳撃は、そのまま大天狗の巨体を視界に映らぬほど一瞬で殴り飛ばしていた。

 文に襲いかかったのは、確かに今の天狗社会で第二の実力を誇る大天狗の、闇を纏った全力の一太刀。

 本来ならば誰もがひれ伏す間もなく切り捨てられるはずの圧倒的暴力が、一撃でゴミのように吹き飛ばされて山肌に磔にされる。

 そして、勇儀は振り返りすらせず、まるでそれが当然のことであるかのように言った。

 

「……ぶっちゃけるとな。 この程度で驚いてるような今のお前じゃ、まだ足りねえんだよ」

 

 その一瞬で、誰もが理解した。

 そこにいるのは、天狗たちが忘れかけていた『鬼』。

 その昔、口答えすることすらも許されなかった、圧倒的支配。

 天狗の記憶の底を埋め尽くすほどの恐怖は、闇に支配されていようともその本能に危険信号を発する。

 ただ一人、遥か高みからそれを見下ろす天魔を除いて。

 

「射命丸。 お前はまだ、天魔と闘るには早い。 今はまだその時じゃない。 だから、そいつら連れてさっさと行ってこい」

「え? で、ですが…」

「私はな、この異変のことはよくわからない。 ってよりも、正直言うともうどうでもいい。 だが、お前は妖怪の山の長として、この異変をどうにかする責任があるだろう?」

「待ってください! それなら、私は…」 

 

 その光景は、文には記憶に新しかった。

 仲間を逃がそうと、一人で残る鬼の傲慢。

 萃香のそれを許してしまった文には、その時の後悔が残っていた。

 もし、あの時自分も残っていれば、少しでも萃香の助けになれたかもしれない。

 もしかしたら、早苗と小町だけではない、帰りのあの舟には萃香も一緒に乗っていたかもしれない。

 そう思うと、文には自分がこの場から逃げることなど、とても考えられなかった。

 

 だが、勇儀は文から自分の身を案じられている視線を感じ取ったのか、少しだけ不快な目をして言う。

 

「……何だ、お前は私の力が信じられないのか? 私はお前の持つ可能性を本気で信じてるってのにな」

「え?」

 

 そう言う勇儀の表情には、照れも偽りもない。

 ただまっすぐに、自分の言葉で、

 

「いいか、射命丸。 私はお前たちを助けるためにここに残るんじゃない。 お前の強さを信じて、この異変を託すんだよ。 それにな―――」

 

 言いかけた勇儀に、天狗たちが一斉に飛びかかってくる。

 だが、勇儀はそれに目を向けることすらなかった。

 

「みんな伏せてっ!」

 

 ただ微かな笑みを浮かべながら、反射的にその声の通りに伏せるとともに、

 

「『ヘルズトカマク』!!」

 

 突如として文たちの周囲を覆った核熱の壁が爆散し、闇に染まった天狗たちをいとも簡単に焼き落としていった。

 天狗の集団は半数近くを失い、その一撃でほぼ勝負はついていた。

 それほどに、空と天狗たちの力の差は歴然だった。

 目を向けずともそれをわかっていた勇儀は、その出来事を前に眉一つ動かさずに言う。

 

「私も、一人じゃない。 偶然にもな、ここにいる馬鹿はお前一人じゃないんだよ」

 

 だが、その中にたった一つだけ、空の圧倒的な力をものともしないほどに強大な存在が君臨していた。

 勇儀は素早くそれに視線を向けて牽制しながらも、最後に文を決起させるように、

 

「だから、私たちの心配も、こいつらの救出なんていう些事への憂慮も要らない。 お前はただ、私が萃香以来初めて真に認めた「宿敵」として恥じないくらい、こんな異変なんて簡単に打ち破ってくりゃいいんだよ!」

 

 一方的にそう言い残し、目の前に迫った核熱を触れることすらなく無に還した天魔に向かって地を蹴った勇儀は、楽しげな笑みを浮かべて、

 

「……待たせたな天魔ぁ。 せめてお前は、少しくらい私を愉しませてくれんだろうなあ!!」

 

 振り抜かれた勇儀の拳は天魔の手の中で圧縮された暴風と正面からぶつかりあった。

 他の天狗とは一線を画す頂点に君臨する者の力は、勇儀の力とも互角に渡り合って辺りに無数の嵐を拡散させる。

 その風に煽られて天狗たちの飛行はままならず、にとりやはたても立っているのがやっとだった。

 それでも、その戦いの隙を冷静に窺っていた文に向かって、

 

「早く行きなって、お姉さん」

「え?」

「お姉さんなら、今の状況のヤバさくらいわかるでしょ。 ま、これで貸し2つってことにしといてくれればいいからさ」

 

 そう言って、お燐は文の後ろに目を向ける。

 そこにいるのは、恐怖に震えたにとりと、強がってにとりを支えてはいるものの、やっとのことで立っている状態のはたて。

 それを守りながら戦えるような状況ではないことくらい、わかっていた。

 そして何より、実際に目の前にすることで文は理解していた。

 天魔はまだ、文の手の届き得る相手ではない。

 しかも、今は闇の力を宿した得体の知れない存在になってすらいるのだ。

 

 だが、勇儀はいずれ文がその天魔にすらも届くほどの可能性を信じている。

 あの勇儀が、萃香と同等の宿敵と呼ぶほどに本気で文のことを認め、異変の全てを託したのだ。

 ならば、今は目の前の出来事に気を取られている時ではない。

 天魔を下すのは、その目的を達するのはこの異変が終わった後でいい。

 

「……行きましょう。 はたて、にとりさん」

「え?」

「私たちには、まだ他にできることもあるはずです」

 

 文の目は、既に勇儀たちに向いてはいなかった。

 萃香が一人で残った時とは違う。

 勇儀だけではない、空とお燐がいるのなら、心配はいらないことを知っていた。

 だから、文はまっすぐに友人たちに呼びかける。

 この異変を最速で解決して、これから妖怪の山を引っ張っていくのは自分なのだから。

 

「だから、今はとにかくこの場を離れましょう」

「は、はいっ!」

「行きましょう、文さん……っ!? 危ないっ!!」

 

 そこには既に、空の砲撃を凌いだ天狗たちが迫ってきていた。

 つまりは、それほどの手練れたちが。

 まだそれに反応できていないにとりに向かって、その刀が、鋭い爪が振り上げられる。

 にとりを庇うように、反射的にその前にはたてが立ちはだかる。

 だが、そんな敵の存在に気付きながらも、文は目も向けずに呟く。

 

「突風、『猿田彦の先導』」

 

 それとともに突如として文たちの周囲を取り囲むように吹き荒れた一筋の竜巻が、天狗の群れを弾き飛ばして一直線に遥か天への道を繋いでいた。

 その中心で呆然とする2人を横目に、文は何事もなかったかのような軽さで言う。

 

「……え?」

「じゃあ2人とも。 しっかり掴まってくださいよ」

「一体、何が…」

 

 そして、文は2人の手を掴んだまま、竜巻の中を音よりも遥かに速く飛び抜けた。

 それを追おうとする天狗たちは、竜巻に近づくことすらできずに弾き飛ばされていく。

 必死に文にしがみつくにとりとはたては、いとも簡単に落ちていく天狗たちのことを目を見開いて見ていた。

 実際に文の本気を間近で見たのは、初めてだったから。

 その辺の妖怪などとは比較にならない圧倒的な力は、闇に染まっていた天狗たちをも簡単に押しのけて前に進む。

 

 だが、それはにとりに少なからず畏怖の念を与えていた。

 結局は文も力のある側の、支配する側の存在なのだと。

 そんな思考が過ぎって微かに震えていたにとりに気付いたはたては、にとりの手をぎゅっと握って言う。

 

「大丈夫だよ」

「え?」

「文さんは、絶対に貴方を見捨てたりしないから」

 

 はたては満面の笑みで、にとりに言う。

 その声が微かに聞こえていたのか、文は少し気恥ずかしそうな顔をしていた。

 圧倒的な実力差のあるはずのはたてと文の間には、それでも力による支配など全くない。

 そして、にとり自身も感じていた。

 文は、にとりをはたてと同様の友人と思ってくれていることを。

 それは、今までになかった種族を超えた一つの信頼の形。

 自分の居場所がそこにあれば嬉しく思えるような、温かい雰囲気があった。

 

「……そっか」

 

 だからこそ、にとりは自分の中にある文たちへの信頼を再確認し、決断する。

 この2人になら、全てを話してもいいと。

 隠していた秘密を打ち明けても、それでもきっと助けてくれると信じられるから。

 

「だったら、一つだけ。 お願いしたいことがあります」

「え?」

「これから、博麗神社に向かってくれませんか」

「博麗神社に、ですか?」

 

 文は、一応はこの先のすべき案も考えてはいた。

 傷ついた河童たちを避難させていた場所まで行き、はたてにはその河童たちの手当てとその場の死守を頼み、そしてにとりにはそこで邪悪の持つ科学の力の感染をどうにかできないか対策を練ってもらう。

 そして、その間に文は守矢神社のチルノを助けるために早苗の協力に行くか、もしくは幽香を始めとした支柱と怪しき人物の居場所を突き止めに行くつもりだった。

 だが、そう思っていた文を説得するように、にとりは少しだけ躊躇いながらも、それでもはっきりと伝えた。

 

「……友達を、止めてほしいんです。 私や姉さん以上にこの異変に縛られた私の友達を、助けてほしいんです」

「にとりさん以上? それって、一体…」

「そうですね……どこから、説明しましょうか」

 

 最大の怨霊として大量の闇を抱え、支柱として存在した挙句に消滅してしまったみとりと、それを身に宿していたにとり。

 それ以上の犠牲者がこの異変に存在するというのは、文には考え辛かった。

 だが、にとりが冗談を言っているようには見えない。

 にとりは迷いなく、文たちを信じきったまっすぐな目をして言った。

 

「八雲様たちは確か、邪悪とその4人の支柱がこの異変の最大の敵なのだと言っていましたね」

「ええ。 ですから、邪悪の力の完全な復活を阻止するために、私はこれから支柱の一人であろうチルノさんを止めようと思って…」

「いえ、それはもう手遅れです。 邪悪の存在は、既に全ての要素を得て完全に復活を終えています」

「っ!! そう、ですか。 じゃあ、計画はもう…」

「破綻した。 そう考えていいでしょう」

 

 守矢神社での出来事を考えれば、邪悪の復活は文の予測の範囲内だった。

 だが、現状でそれを素直に受け止めることはあまりに厳しかった。

 文はもう支柱の持つあまりに大きすぎる力を、身を持って体感している。

 そして今や支柱以上の敵、即ち勇儀と空とお燐がいてなお正面からは敵わなかったみとり以上であろう邪悪の本体が、既に幻想郷に現れている。

 自分がそれを止めることなど、現状でできるはずがないことを文は十分に理解していた。

 ならば、それは文の向かうべき道ではない。

 今の文たちがすべきことは……

 

「だったら、だからこそ他の支柱を止めなきゃ、その邪悪はとても止められないんじゃないですか?」

「そうですね。 支柱を止めれば邪悪の力は弱まる……確かにそれも間違ってはいないと思います」

 

 にとりは、闇の支柱としての自分の存在意義をわかっていた。

 そして、邪悪の力を取り戻して目の前に現れたルーミアのことも覚えていた。

 その言葉に惑わされ、自分が完全に闇に墜ちてしまったことも。

 だが、それ以上に重要なことを、にとりは知っていた。

 

「ですが、それは八雲様たちの経験上の……前回に邪悪を封印した時の話ですよね」

「え?」

「八雲様は、500年前に閻魔様と協力して一度は邪悪を封印することに成功した。 そして、恐らく今回の計画はその時に起こったことを踏まえて立てられたものでしょう。 ですが、今回の異変がその時と同じと考えることはできないと思います」

「ど、どうしてですか?」

「今回の異変には、前回とは明らかに違う関与があるんですよ。 邪悪の力の執行代理人である雛による、闇の支柱の調整が」

「なっ……? 雛って、まさか鍵山雛さんのことですか!?」

 

 その『厄を溜め込む能力』の危険性故に、最優先に発見が求められていた雛の存在。

 だが、異変が始まってから、完全に幻想郷から消えていたとすら思われるほどに、誰一人としてそれを見つけられなかった。

 それにもかかわらずにとりの口から簡単に出てきたその名に、文は驚きを隠せない。

 

「はい。 まだいるかはわかりませんが、雛は博麗神社に向かったはずです。 今日雛に会った時、そこに最大の標的がいると言ってましたから」

「そんな、どうして今になって!? だって、紫さんたちがどれだけ探しても雛さんは見つけられなかったのに!」

「……見つかるはずが、なかったんですよ。 雛の存在は、この異変を円滑に進められる力を蓄えられるまで……いえ、全ての闇を生み出し司る『災厄の支柱』として完成するまで、ずっと隠されていたんですから」

「ちょ、ちょっと待ってください! 一体何ですか、災厄の支柱とは……いや、それよりも、ずっと隠されていたってことは…!!」

「ええ、そうです。 多分、八雲様たちも八坂様たちも、誰も気付いていなかったんでしょうね」

 

 混乱している間に次々に飛び込んでくる新たな情報は、文を追いこんでいく。

 藍の話では、邪悪の力を支える支柱はあくまで生物の感情に根差した4人だけのはずだった。

 藍がその存在を隠しているようにも見えなかった。

 つまり、災厄の支柱とは恐らく藍たちも知らない、前回の邪悪の出現時にはいなかったはずの新たなイレギュラー。

 みとりの話を聞いていた時に、僅かながらもその可能性があるとは思っていた。

 だが、そんなものが存在するなどと考えたくはなかった。

 それでも、現実は非情にも文に困難をつきつける。

 

「邪悪の側でもこちらの味方でもない。 この異変には雛を利用して人知れず闇の力を暴走させようとする、第三の勢力がいることに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その視界は、光に覆われていた。

 誰もが新たに見えた未来に期待し、信じ、そこに大きな希望を見出していた。

 だが、そんな中で彼女だけが一人、冷めた心で佇んでいた。

 表向きの表情だけ微笑みながらも、目の前に広がるその光景に向かって心の中で吐き捨てる。

 

 ――くだらない。

 

 その耳に聞こえていたのは、都合のいい未来地図。

 現実を見ようとしているようでまるで見えていない、滑稽な戯言。

 文は迷いなき目で、自らの掲げる展望をまっすぐ言葉にする。

 勇儀は、それに真剣に耳を傾ける。

 そして、固唾を飲んで見守るにとりとはたての眼差しは、それが正しき道なのだと疑わない信頼を宿す。

 

 ――誰もが笑っていられる世界、か。

 

 彼女は、それを心の中で笑い飛ばした。

 何の犠牲も無く、ただ希望だけを追い求めた非現実的な世界。

 にとりを助ける前まで現実を見ていたはずの文が掲げた新たな展望は、今やひどく馬鹿げた話に聞こえていた。

 

 ――それはね、あんたへの狂気的なほどの信仰心に身を委ねて初めて信じられる理想論なんだよ。

 

 彼女は、希望などという幻想が大嫌いだった。

 そんなものは、自らの力で勝ち取れはしないから。

 いや、正しく言い直すのならば、世界が平等ではないことを。

 それを当然のように得られる者と、そこに決して手が届かない者がいることを、嫌というほどによく知っていたから。

 

 彼女は生まれた時のことなど覚えていない。

 ただ、気付いた時には誰からも忌避される個性に支配されていた。

 誰にも理解されず、次第に理解を得ようとすることすら辛くなっていく。

 どれだけ嫌悪の目を向けられようとも、染みついたその習性をどうしても捨てられないまま、ずっと孤独に逃げ続けてきた。

 その果てに、彼女は自分の運命を恨んだ。

 自分が神の気まぐれでそんな運命を背負わされた世界一不幸な存在なのだと思い込むことで、辛うじて自我を保ってきた。

 

 それでも、かつては心のどこかで信じていた頃もあった。

 こんな自分にも、いつか希望の光が差す日が来ると。

 そんな奇跡が起きる日が、きっと来るのだと。

 

 そして長い年月の先に、確かに彼女を救った奇跡的な出会いがあった。

 彼女が不幸ではないと教えてくれた人がいた。

 だが、彼女を救ったのは眩いばかりの希望の光ではい。

 それは、どす黒く染まった闇。

 彼女を遥かに超える憎悪と絶望でもって、彼女の抱える闇などあまりにちっぽけだと脳髄の奥深くまで刻んでくれる人がいてくれた。

 だから、彼女は今ここにいる。

 心の底に根差した闇を、恐怖と畏怖で残さず掻き消してくれた人がいたから。

 

 それ以来、彼女は深遠なる闇に畏敬の念を抱くと同時に、何一つ救ってくれはしなかった希望というものに完全に失望した。

 かつて信じたその幻想は、結局その恩恵を受けられる一部の者のことしか見ない。

 裏切りを幾度となく経験して、彼女はそれを学習する。

 彼女は理解する。

 希望などという戯言では、結局何も変えられない。

 ただ徒に期待させて、結局はその陰で泣いている者を更に苦しめるだけなのだと。

 そんな偽りの救いに、信じる価値など無いと。

 

 ――それでもあんたが、そんな甘い考えで本当に全てを救えると思ってるのなら、あんたの存在は希望の光なんかじゃない。

 

 そして、その瞳の奥に根差した憎しみの悲鳴で一人囁くように、

 

「ただの、危険因子だ」

 

 辺りに闇が充満した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その戦場は、あまりに静かだった。

 そこに残された天狗たちは、既にほとんどが地に落ちていた。

 空の核熱に焼かれて。

 文の風に弾き飛ばされて。

 今の文の力は、空と比べてなお遜色のないものだった。

 天狗という種族で文と一戦交えられる者など、もはや天魔や大天狗くらいのものだろう。

 いや、その潜在能力たるや、天狗という種族の壁を超えてなお――

 

「……はっ。 こりゃ、いつか本当にあいつに追いつかれる日も来るんかね」

 

 天魔と組み合いながらも、勇儀の目は既に遥か遠くに消えた文の方に向いていた。

 その心の奥にある闘争心を、ここにいない文に向けるように笑っていた。

 やがて、勇儀は周囲を一度ゆっくりと見回してから口を開く。

 

「で? お燐、そっちはどうだ」

「あ、もう終わりましたよ。 お空が頑張ってくれましてね」

「えっへへー。 勇儀さんはどう?」

 

 そこにあったのは笑顔で手を振る空と、空の力に巻き込まれないよう避難していたお燐の姿だけ。

 もう、辺りにいる天狗たちは誰一人として立ってはいなかった。

 残るは、ただ一人。

 

「ああ。 こっちも終わった」

 

 だが、それも既に動いてはいなかった。

 そう言って、勇儀は天魔の首を絞めていた手を解く。

 いとも簡単に落ちていった天魔に一瞬だけ失望の目を向けて、勇儀はもう興味を失っていた。

 

「ったく、とんだ期待外れだな。 この程度とは思ってなかったぞ」

「……まぁ、多分この闇の力ってのは抱える負の感情の大きさで増幅する力も変わる類のものですからね。 普段から何のストレスも無い奴らには、むしろ思考を奪う分マイナス効果なんじゃないですか?」

 

 あるいは、勇儀が既に鬼の四天王や天魔の強さの次元を超えてしまっていたからなのか。

 先の戦いで覚醒した勇儀の最後の一撃を目の当たりにしたお燐には、この程度の力では今の勇儀には決して届かないことを元々理解していた。

 

「だとしてもだ、これじゃ準備運動にすらなりゃしない。 こんなんなら…」

 

 その先を言おうとして、勇儀はやめる。

 ずっと探し続けていた相手を、やっと見つけたのだから。

 どこまでも高みを見据えたその先で対等に競い合う価値のある、本当の意味での宿敵を。

 そして、いつかそれが自分に追いつく日まで待つと、ついさっき決めたばかりなのだから。

 それでも、闇の力を得た天魔に少しは期待していた勇儀は、自らの内の衝動を止めることができない。

 

「ちっ。 せめて鬼神や閻魔の前哨戦くらいにゃなると思ってたんだがな」

「あー、勇儀さんも結局とんでもないこと考えてるじゃないですか」

 

 勇儀の視線は、既に次に向いていた。

 彼岸の閻魔、地獄の鬼神長、過去に敗れたそれすらも一つの通過点として捉えていた。

 実際には、その更に上さえも。

 だが、僅かに天を見上げていたように見える勇儀の視線は、実際は冗長めいた態度で話すお燐を横目で観察していた。

 行き場を失ったその手の疼き以上に、今の勇儀には気になることがあったからだ。

 

「まあいい。 で、お燐」

「何です?」

「あいつらを呼び寄せたその力が、お前がみとりと交わした契約の産物って訳か」

「……はい?」

「別にとぼけなくてもいい。 負けるとは思っちゃいないが、流石にこの程度と言われて納得できるほど私は天魔や大天狗を見下しちゃいねえよ。 それに、お前がここに残ったのも、私たちが全くの無傷ってのも不自然だ」

 

 たとえ思考が定まらなくとも、天魔に大天狗、そして上位の天狗たちに一度に囲まれたのならば、たとえ勇儀といえど容易にそれを切り抜けることなどできるはずがない。

 たとえ空とお燐がいたとしても、少なくとも自分が戦いの後に立ってなどいられない程度の死闘は、覚悟していたはずだった。

 だが、勇儀や空やおろか、お燐すらもこの戦いにおいてはほぼ無傷の状況。

 いや、それ以上に、お燐がわざわざ危険な場所に何事もなかったかのように身を置いていること自体が、ここが安全な場所であるための何かしらの介入をお燐がしたことを証明するのに十分だった。

 反論を許さぬほどまっすぐ勇儀にそう言われたお燐は、ため息をついてそれに答える。

 

「……はぁ。 ほんっとにそういうとこ目敏いですねぇ、勇儀さんは。 ただの脳筋ならもっと可愛げがあるのに」

「それに、お前のことだ。 何の目的も無しにみとりに身体を貸したりなんかしないだろ」

「そりゃそうですよ。 なんで得る物も無いのにあたいがそんなリスクを負わなきゃいけないんですか」

 

 お燐は状況を観察し、そこに高いリスクがあれば、得られるだろうリターンがそれに見合うものでなければ関わろうとはしない。

 たとえみとりが信じるに値する相手だろうと、怨霊への身体の貸与という自らの存在そのものが消えてしまいかねない危険を、一時の感情で負うはずがないのだ。

 お燐の思考にあったのは、闇の力を得たみとりの常軌を逸する力と、その後に出てきた途方もない異変の謎。

 先の戦いはみとりの力のおかげで奇跡的に助かっただけで、本来ならば全滅しているはずの無謀な賭けだった。

 それ故、お燐はこの異変へ立ち向かい続けるにあたり、異変に対抗しうる力を身に付け、新たな策を練る必要があった。

 それが、みとりに一時的に身体を貸す代わりに得た力。

 最大の怨霊としてその全てを身に宿していたみとりの魂を取り込み、自らの内で成仏させることで、闇を宿した怨霊を引き寄せる体質を引き継いだのだ。

 

 そして、みとりに時間を残すことで最後に行使するだろう能力について、お燐は確信しているものがあった。

 「にとりの罪の拒絶」、つまりはにとりの関与によって闇に飲まれた者の解放。

 にとりが自らの罪に思い悩むことのないように、みとりがその影響を最小限にしようとするだろうことはわかっていた。

 だが、既に闇の力を失っていたみとりに、それほどの事象を成し遂げることは恐らくできない。

 それでも、お燐はその願いに、自らが新たに得た体質と『怨霊を操る能力』を更に加えることで、この周辺で闇の底に沈んだ者を怨霊の欠片ごと呼び寄せ、その欠片分だけ使役することを可能としたのだ。

 それを闇から引き上げられるかは一つの賭けであったが、結果手にしたそれは一固体が持つにはあまりに過ぎた力。

 即ち、この妖怪の山で闇に飲まれた天狗たちを簡易的に操る力を、お燐は新たに身に付けたのだ。

 

「……だが、一つ解せない。 どうして、お前はあのタイミングでその力を使った?」

 

 上位の天狗、そして最上級の力の持ち主である天魔を呼び出せるその力は、うまく使えばたった一人で地底を支配することさえも可能な兵器。

 それほどの力を、あの状況でお燐が使うメリットなどない。

 しかも、その全てを勇儀と空で倒してしまった今の状況は、お燐がせっかく手にした切り札を無駄使いしたに等しいだろう。

 だが、そう思っていた勇儀に、お燐は意外な回答をした。

 

「ああ、その件ですか。 まぁ、天狗たちを負けさせるのは計算の内ですから、ここで使うこと自体に問題はないんですけど……あえて一つ言うとしたら、あの天狗のお姉さんを早く遠ざけたかったから、ですかね」

「天狗の…射命丸のことか? それは、どうして…」

「どうも信頼できない……いや、本音を言うと好きになれないんですよ」

「はあ?」

「最初は、少しくらい見どころもあると思ってたのにね。 だけど…」

 

 ――本当は何も見えちゃいないんだよ、あいつは。 反吐が出るくらいに。

 

 言いかけたお燐は、それを外に出さずに噛み殺す。

 ただ、文の行った方向を見るお燐の目は、明らかな敵意に溢れていた。

 

「一体、どうしたんだ?」

「でも、別に今はその辺のことはいいでしょう。 ただ、あたいはたとえこの手札を切ってでもあの理想主義者にこちら側の……この先の地底の事情に触れてほしくなかったってだけですから」

「地底の、事情?」

 

 勇儀にはお燐の言うことがわからなかった。

 この状況で、文に知られたくない地底の秘密があっただろうか。

 あるいは、この異変にこれ以上の地底の関与があっただろうか。

 だが、そんな勇儀の疑問の目を無視して、お燐は別の方向を向く。

 

「まぁ、焦らなくてもいずれ時が来れば説明しますよ。 ただ、今はちょっとやることがあるんで」

「何?」

「お燐、早くっ! ねえお燐ってばっ!!」

「はいはい、今行く今行く」

 

 お燐は困惑する勇儀を放っておいて、大声を出しながら手を振ってる空に駆け寄る。

 いつの間にか、空は倒れた天狗たちをお燐の手押し車に乗せて集めていた。

 一つの車に山のように積み上げられた天狗たちを目の前にし、お燐は真面目な表情から一転して喜色を浮かべていた。

 

「ねえお燐、大丈夫そう?」

「どうだろうねぇ、ちゃんと見てみないと」

「何をしてんだ?」

「まだ生きてる奴と死体を分けようと思いましてね。 それに怨霊の浸食が浅い奴なら、まだあたいの力で何とかできるかもしれませんから」

 

 文は、天魔を含めたこの異変の犠牲者を全て助けると言っていた。

 それを今の状況で助けられるのが実質自分だけだということを知っているお燐は、当然のようにそれを自分の役割として認識していた。

 文のことを悪く言いながらも、わざわざ新たに得た能力を使ってまで天狗たちを闇の中から引き上げ、その無事を確認していくお燐を見て、勇儀は苦笑する。

 

「……そうかい。 お前もそういうとこは随分と律儀だよな」

「ま、あのお姉さんにもついでに恩の一つでも売っとけば後で利用価値はあるかもしれませんし、それに死体は全部あたいの取り分ですからね~。 少しくらい役得を期待しても…おっ。 こいつはっ! こいつも! こいつも、こいつ、も……」

 

 空に集められた天狗たちを見たお燐は鼻歌交じりにその身体を調べていく。

 だが、すぐにその表情から笑みは消え、複雑なものに変わっていった。

 その出来事をお燐の本能では歓迎しているが、素直に受け止めることができない。

 ただ、目の前で起こっている現実を、呆然とした口調で漏らす。

 

「……何だい、これ」

「え? どうしたの、お燐?」

「こいつも、こいつも……いや、全員死んでるじゃないかっ!」

「えっ!?」

「何っ!?」

 

 空と勇儀が驚きの声を上げる。

 文の目的を知っていた勇儀は、天魔や大天狗を殺さない程度に加減したつもりだった。

 いや、たとえ自分の手元が狂ったとしても、空がこの人数を全て殺すなどとは考え辛かった。

 それ故に、勇儀はまたお燐の悪い癖が出たのだろうと思っていた。

 

「おいおい、お燐。 だから、そうやって何でもかんでも死体にするのはやめろとあれほど…」

「違いますって! 怨霊に乗っ取られて魂が消滅してるって訳でもなさそうなのに……一人残らず全部、何かの抜け殻みたいなんですよ、こいつら」

「待ってよ! だって私、そんなつもりじゃなかったのに」

「違う、多分お空や勇儀さんのせいじゃない。 多分、もっと前から既に…」

「はあ!? ちょっと待て、どういうことだ?」

「こいつらが今ここで死んだのなら少しくらい本人の魂の残照が残るはずなのに、それを全く感じられないんですよ。 まるで、ここに来る前から魂そのものが何かに切り離されてたみたいに!」

 

 お燐の焦り様は異常だった。

 普段のお燐なら目の前に天狗という強大な種族の死体が大量に転がっている今の状況は、むしろ喜ぶべき事態なのだ。

 にもかかわらず、今のお燐は、望まずして天狗たちを死なせてしまったかもしれないと焦っている空や勇儀よりも、明らかに狼狽していた。

 そして、お燐は普段なら宝の山にさえ見える死体の山に背を向けて言う。

 

「っ……行きましょう勇儀さん、お空。 これは、思ってたより拙い事態みたいです」

「何?」

「あたいは、今まで勘違いしてたみたいです。 あたいの力を使って怨霊から感染者を解放すれば、それで異変を止められるって楽観的に思ってました。 でも、そうじゃなかった。 ただあの姉妹が特殊だっただけなんだ」

 

 にとりが支柱として存在していたからなのか、それともみとりが憑りついていたからなのか、理由はわからない。

 ただ、一つだけお燐にはわかることがあった。

 いつも怨霊に触れているお燐だからこそ気付く法則、その残酷な現実に。

 

「多分、怨霊の影響なんてものはほとんど関係ない。 闇の力に飲み込まれたら時間とともに魂そのものが食われまうんだ。 そうなったら、たとえどんな奴でも後にはただの抜け殻しか残らない」

「待て、じゃあ何だ? 闇に飲まれた奴らは…」

「急がないと、助からないでしょうね。 ……あの天狗のお姉さんには悪いけど、多分ほとんどは手遅れだよ」

 

 怨霊はみとりが司っていたが故に目立つ動きをしたものの、ほとんどの感染者はそもそも怨霊に憑りつかれてなどおらず、それを媒介として、あるいは直接闇の力に感染しただけなのである。

 現状で考えるべき問題は、あくまで邪悪の持つ闇の力という得体の知れない未知の力なのだ。

 だから紫や神奈子たちは感染者を助けるのではなく、異変を解決できるまで時間稼ぎをするために、闇から遠ざけて魂が食われないように封印し、あるいはこれ以上感染が広がらないように抹消していた。

 怨霊などという広く知られているものから解放する程度のことで解決できる問題なら、とっくに対応している。

 お燐のちょっとした思いつきが、数百年もその対策を練り続けた紫の計画を超えることなどできるはずがなかったのだ。

 

 それを聞いた勇儀は、落胆の色を隠せない。

 文は萃香や椛たちが既に闇に飲まれているだろうと言っていた。

 そして、天魔たちが蘇った姿を見て文が浮かべた笑みが、あまりに強く勇儀の中に残っていた。

 文は今、その時の希望を胸に前を向いているのだろう。

 それがもう助からないという事実を知らないまま。

 文にこんな絶望を見せずに済んだと安堵する一方で、勇儀にはやるせない思いがあった。

 だが、そんな勇儀の沈んだ気持ちも天狗たちの現状も、そんなものは知ったことではないと言わんばかりに、お燐が急かして言う。

 

「だから、急がないと。 早く行かないと、手遅れになっちまう!」

「だが、行くってったって、どこに…」

「さとり様を、止めに行きます」

「はあ?」

 

 勇儀には、お燐が何をしたいのかさっぱりわからなかった。

 なぜ今さらになって、さとりを止めようと思ったのか。

 そして、なぜお燐が突然ここまで取り乱すほどに焦り始めたのか。

 

「どうして、今になってさとりを?」

「……まぁ、この際もう隠しません。 落ち着いて聞いてください」

 

 お燐は一つ深呼吸し、告げる。

 

「さとり様は既に怨霊に……いえ、恐らくは闇の力に感染しています。 しかも、魔理沙が地底に来るよりもずっと前に」

「なっ……!?」

「そ、そんなっ!?」

「馬鹿な! どうしてさとりが…」

「話、聞いてなかったんですか勇儀さん。 支柱ってのは現状で最も強い負の感情を持つ者に依拠する存在だって」

「いや、聞いていたが…」

「だったら、別に驚くことでもないでしょう? 地上人だって真っ先に思い浮かべますよ、最もこの世界を恨んでるだろう人が、最も心に闇を抱えた人が誰かと聞いたら」

 

 その昔、全てに嫌われ敵対されて地上を追われ、地底に辿り着いてなお誰にも受け入れられなかったさとり。

 にとりやみとりのように少しでも信じられる希望があった訳でもなく、その人生には敵しかいなかった。

 そして、何よりもその心を追い詰めたのはその能力だった。

 表向きに敵対されるだけではない、本来ならば直接は見えてこないはずの闇までもが全て自らに襲い掛かってくるのだ。

 最近になってお燐やお空のようなペットに恵まれ、勇儀という異端児に会えたが故の今があるのかもしれない。

 それでも、その記憶の底にある憎悪や絶望は、簡単に想像できるようなものではないはずだった。

 

「じゃあ、まさかさとりは…」

「ええ。 恐らくさとり様は憎悪か絶望の支柱。 それも、他とは比較にならない闇を抱えた、邪悪の全ての力の根源になってるんだと思います」

「……全ての力の根源だと? ちょっと待てよ、支柱ってのは4人がそれぞれ別の負の感情を司ってその源になってるんじゃないのか?」

 

 嘆き、怒り、憎悪、絶望、その4つの感情をそれぞれ最も強く持つ者が闇の支柱として存在し、邪悪の力の根源となる。

 それが文から聞いていた支柱の存在意義であり、一人がその全てを担っているのなら、4人も存在する意味が無くなってしまうのだ。

 

「まぁ、それについてはあたいの勝手な推測なので確証はありませんけど……多分、間違ってはない気がするんですよね」

「はあ? 一体、どういうことだ」

「うーん、それじゃあ勇儀さんにもわかるように少し言い方を変えましょうか。 そもそも、支柱の力の増幅量が不自然だと……いや、支柱が抱える負の感情があまりにヌル過ぎると思いませんか?」

「何?」

「世界を滅ぼすほどの闇を抱えた支柱、そう聞いた時は正直どれほどの奴かと思ったんですがね。 でも、あのお姉さんが言ってた支柱ってのは、たかが姉妹で離れ離れになった河童だとか、目の前で友人を殺された妖精だとか、何があったのかも知れない花の妖怪だとか、その程度のもんでしょう?」

「その程度って……」

 

 計り知れないほどの苦悩の中を生きてきたみとりを知っている勇儀には、それをその程度と言われることに少し不快感はあった。

 だが、確かにみとりの抱える闇も、世界単位の規模からみればあまりに小さな嘆きだったのだろうこともわかる。

 むしろ、この世界はそんな残酷さで満ち溢れているのだ。

 その内の一人に過ぎないみとりやチルノや幽香の感情が勇儀さえも超えるほどの力をもたらし、邪悪の力を根幹から支えているということ自体がお燐には違和感があった。

 

「そいつらは多分、そもそも邪悪の力の根源になっているんじゃなくて、実は別の役割を果たすために恣意的に選ばれて、邪悪の力を分け与えられた何かだったんだとあたいは思ってます。 怨霊の核となる河城みとりや幻想郷一の科学的知識の持ち主である河城にとりに、邪悪の容れ物の傍にずっといた妖精。 それだけ見ても、抱える闇の大きさだけを加味して集められたにしては、あまりに都合がよすぎるんですよ」

「じゃあ、支柱ってのはその邪悪とやらの力の源になってるって訳じゃないのか?」

「いいえ、そういう訳でもないと思います。 多分、他の支柱がいなくても足りたから、結果的に都合のいい奴を支柱に選ぶことができたんでしょう。 その全てを網羅できるほど巨大な闇を抱えた支柱がいたから」

「……それが、さとりってことか?」

「ええ、恐らくは」

「じゃあ、さとりは最初からその邪悪とやらに支配されてて…」

「ま、でもさとり様の精神はそんなものに支配されるほどヤワじゃないからね。 精神的な面は心配いらないと思うんですけど……」

 

 地底の異変の後、お燐はさとりの異変に気付いてはいた。

 どうしてそうなったのかはわからなくとも、怨霊を操る力を持つお燐には、さとりの中に大量の怨霊が巣食っていることがすぐにわかったのだ。

 だが、妖怪ならば即ち死を意味するはずの異常事態を前に、お燐は特段焦りはしなかった。

 さとりの精神が怨霊の侵食などに屈することが、あり得ないと知っているから。

 この世には、宿主から逆流する負の感情に耐えられずに、むしろ憑りついた怨霊の方が消滅してしまうほどの想像すらもできない闇を平然と心に抱えた人がいることを知っているから。

 

「むしろさとり様は侵食する闇の力を逆に利用して、始めから邪悪の情報を得てたんだと思います」

「はあ!? じゃあ、さとりは…」

「ええ。 さとり様は魔理沙たちが来ようが来まいが、いずれ地上に出るための……闇の力の根源に接触するための準備をしてたんでしょう」

 

 地底を出る際、さとりは何のためらいもなく一人で行った。

 正確にはこいしと2人であるのだが、こいしも異変について知っている訳でもない。

 さとりには、少なくともあの場面では怨霊から多くの情報を収集することも、あるいはアリスとともに地上に出ることもできたはずなのだ。

 にもかかわらず、さとりは真っ先に地上へと向かった。

 しかも、実際には邪悪の力を強く受けているだろうレミリアのもとへと一直線に。

 それは、あらかじめ十分な情報を得ていない限りは、さとりのように常に策謀を巡らせて動く者にはあり得ない行動なのだ。

 

「どうして、さとりはそんなことを……」

「さあ、あの人は何でも自分一人で背負いこもうとしますからねぇ、そんなの誰にもわかりませんよ」

 

 だからこそ、お燐はさとりが一人で深きに入り込み過ぎない内に異変を解決するか、あるいは既に異変の核を知っているだろうさとりの手助けをするために、空を連れて地上に出た。

 ここにたどり着いたのは、さとりの匂いを追っている途中で勇儀がみとりにやられている場面に出くわしてしまい、空がそれを放っておかず、結果的に勇儀に合流することになってしまったからに過ぎないのだ。

 

「でも、今はもうさとり様を放っておける段階じゃなくなった。 アレの浸食が本当に魂そのものを食らっちまうような類のものなら、手遅れになる前にさとり様を助けないと…!!」

 

 だが、それはあくまでさとりが闇の浸食を受けているとしても、最終的には助けられるだろう前提があったからに過ぎない。

 たとえ勇儀に義理立てしようとも、お燐の中ではさとりや空が全ての最優先事項なのだ。

 さとりの命が危ないのならば、お燐は他の全てを平気で見捨てるほどに冷徹に、自らの命すらも蔑ろにできる。

 もし仮に今の段階でお燐が勇儀の危機に出くわしたのなら、恐らくお燐はそれを素通りしてさとりのもとへ向かっていただろう。

 

「なるほどね。 だから、さとりを闇の力から一刻も早く解放するために私にも手伝えと。 そういうことか?」

「不満ですか? 多分さとり様が向かったのは、河城みとり以上の力を持っているだろう、異変の黒幕の居場所だと思います。 死にたがりの勇儀さんには、うってつけの戦場じゃないですかね」

 

 お燐は、もう勇儀の命を心配したりはしない。

 今の勇儀の力を十分なほどに理解していた上、それを心配するような精神的余裕がないからだ。

 

「……いや、不満なんざ無いさ」

「でしょうね、じゃあ急ぎましょう。 行くよ、お空」

「あ、待ってよお燐!」

 

 お燐は一方的にそう言って走り出す。

 たとえその先にあるのが疑うことなき死地であろうとも、今のお燐が躊躇うことはない。

 それに続くように、空も迷わず飛び立つ。

 そして、勇儀は少しだけそこから距離を空けて追っていった。

 

 3人は無言のまま前に進む。

 冷静に次の手を、計画を練りながらも一心不乱に駆け抜けるお燐。

 不安な表情を浮かべながらも、お燐を信じてついて行く空。

 だが、それを追いかける勇儀は、さっきのお燐の言葉を思い出して一人微かに笑っていた。

 

 ――死にたがり、か。

 

 勇儀は今までの自分のふがいなさを思い起こす。

 死に場所を求め続けてきたと言わんばかりの、言動の数々。

 鬼として生まれつき、ずっとそれを体現してきたとさえ思われ続けてきた勇儀の信念。

 実際は、そうではないのに。

 あの時文に言い損なった、勇儀の生き様は……

 

 ――私は本当は、誰よりも生というものに執着している、ちっぽけな鬼なのにな。

 

 崇高な目的も、目を見張るほどの野望も、何もない。

 ただ、常識も法則も、自分を縛り付けるあらゆるしがらみに囚われずに、『星熊勇儀』という一人の鬼として全力で生きていたいだけだった。

 強敵との純粋な戦いでもいい。

 鬼退治に来る人間との、矜持の交わし合いでもいい。

 自分と互角に高めあう宿敵との、心躍る競争でもいい。

 勇儀はただ、本気で自分がこの瞬間を生きていると実感できる、そんな居場所が欲しいだけだった。

 

 ――だから、私はそれを叶えてくれる奴にこの命を捧げても惜しくないだけなんだ。

 

 手加減してなお相手にならずに散っていく有象無象とは違う。

 全力の自分を負かしたかつての鬼神や閻魔やみとりになら、その命を討ち取られてもよかった。

 卑怯な裏切りを繰り返して勇儀を陥れ、偽りの鬼退治を成そうとした昔の人間とは違う。

 その貧弱な種族にありながらも、たった一人で正面から自分に立ち向かった魔理沙になら、その命を差し出してもいい。

 生きる意味さえも見出せないまま、目の前の出来事から逃げ続けたかつての文とは違う。

 遥かに高みを見据えてまっすぐ前に進む今の文と共になら、その命を燃やし尽くしてもいい。

 

 そして、その中の誰よりも命を懸けるに相応しかった、勇儀がずっと憧れ続けた相手。

 自らの種族への誇りと、暴虐の限りを尽くしてなお決して迷わぬ強さを併せ持った、四天王の中でも一人別格だった『鬼』。

 伊吹萃香という宿敵を超えるためになら、その命を使い果たしてもいいと。

 そう、思っていたはずだった。

 

 だが、萃香は死んだ。

 生命としての死ではない。

 たった一度の敗北で、萃香は鬼として終わった。

 恐怖に支配され、それまでの猛々しさなど微塵も感じさせないほど弱弱しいその姿は、勇儀に失望さえ覚えさせた。

 

 それでも、さとりが救ってくれたから。

 誰とまともに目を合わせることも、拳を構えることすらできなくなった萃香に、新たな道を与えてくれた。

 その記憶の奥深くに根差していた心的外傷を散らし、その心を僅かに蘇らせてくれた。

 

  ――こんなのがお前の全力だってのなら、私はお前なんかが萃香と同じ鬼の四天王を名乗ることは絶対に許さない!

 

 霊夢や魔理沙が知る今の萃香に、たとえ昔の面影などなくとも。

 それでも、かつては自分と半生を共に競い合った宿敵に、新たに誇りある生を与えてくれた。

 さとりには、そんな借りがあるから――

 

「……しょうがねえよなあ」

 

 勇儀は地を蹴りながら呟いた。

 その視線の遥か先を見据えながら、

 

「だから、今回はお前のためにこの命を捧げてやるよ、さとり」

 

 もう一度、不敵に笑った。

 だが、勇儀は本当はそんな貸し借りに囚われている訳ではない。

 そう言う勇儀の目には結局、まだ見ぬ強敵との命を燃やし尽くすほどの死闘への、子供のような期待の炎ばかりが宿っていた。

 

 

 

 





 本当は、ここからは文からにとりへの口調をはたてや椛と同じ呼び捨てタメ口にする予定だったんですが、いきなりにとりにそういう口調を使い始める文をどうしても脳内再生できなかったため、やむなく今まで通りに。
 やっぱり自分の中で固まったイメージは簡単には払拭できないなーと思いました。

 次回から新章で、この辺から徐々に物語も山場に入っていきます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中編ノ参 ~真実~ 
第26話 : 呪縛


 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第26話 : 呪縛

 

 

 

 

 

 あれから、どれだけの時間が経っただろう。

 かつては妖怪の山だった場所で、まるで世界からはじき出されたかのように誰もが正常な時間感覚を失っていた。

 

 ただ、たとえ感覚がなくても時は刻まれていく。

 地平線まで届かんばかりに真っ直ぐ伸びた衝撃波に、時空を歪ませるほどの力の衝突。

 山の一部から昇った灰色のきのこ雲や、宇宙まで届かんほどに天空を覆った得体の知れない暴風と、それを掻き消した何か。

 数えきれない異常事態は、それぞれが確かに世界を破滅に導くほどの力の暴走だった。

 だが、それらに最小限の注意を払いながら、誰一人として気にかける者などいなかった。

 そんなものに構っていられるような余裕は、1秒たりとも無いからだ。

 

「魔符『全世界ナイトメア』!!」

 

「土符『レイジィトリリトン』」

 

 パチュリーに操られた砂嵐が、レミリアの飛散させた血と混じり、辺りを取り囲んでいく。

 呪術の込められた吸血鬼の血に染められた塵ほど小さな砂の粒の集合体は、やがて触れた全てを侵食していく毒となり、最強の攻撃と防御を兼ねた盾と化していく。

 それは大地そのものを侵し、たった一つだけで最悪の異変と言って過言ではない負の遺産を幻想郷に遺しかねない、あまりに凶悪な連携技だった。

 

 だが、それすらも攪乱の手段の一つに過ぎなかった。

 視界を覆った毒の砂嵐を、ルーミアは触れることすらなく、自らを取り囲む闇の力で半自動的に簡単に飲み込んでいく。

 その視線も、思考すらも、レミリアとパチュリーに向いてはいなかった。

 まるでその程度の攻撃など対応するに値しないと言わんばかりに、ルーミアは2人のことを気にかけていなかった。

 それでも、1分ももてば大健闘というほどの相手を前に、未だレミリアたちは全くの健在だった。

 吸血鬼であるレミリアの強力な攻撃と能力や、パチュリーの多彩な魔法がそれに貢献する部分は確かにある。

 だが、ここまで互角の勝負を繰り広げられているのは、ひとえに彼女の能力のおかげだった。

 

「奇術『ミスディレクション』」

 

 ルーミアが時空から取り残されて、四方八方からナイフの嵐が襲い掛かってくる。

 ルーミアは別に、そのナイフ自体には微塵も脅威を感じていない。

 だが、徐々に時間感覚が狂わされ、自分自身の感覚と操る闇の動きの連動の認識すらも曖昧になっていく。

 そのせいで、レミリアとパチュリーの攻撃を防ぐのが、次第に困難になってきているのだ。

 更に言えば、そこにあるのはただ「時間」の問題だけではない。

 時間とともに視界が歪み、標的の場所も、方角すらもままならなくなっていく現状に、ルーミアは次第に混乱していった。

 

「ちッ……」

 

 ルーミアが珍しく舌打ちするほどに不快感を露わにする。

 

「時間を操る能力、か。 まさかここまで厄介なものだとはなー」

「ふふっ。 それは嬉しい評価ですね」

 

 紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は優雅な笑みを浮かべながら再びルーミアの視界から消える。

 人間でありながらも『時間を操る能力』という最強ともいえる力を持つ彼女は、未だその全てを出し切ってはいなかった。

 彼女の本質を知るのは、レミリアとパチュリーと美鈴の3人だけ。

 それ以外の者は、誰もが彼女の能力をただ時間の流れを操るだけのものだと疑っていなかった。

 ただ一度霊夢に敗れた時ですら、底の見えかけた彼女の力は、それでも全てを明かされることはなかった。

 

「どこを見ている!!」

「ッ!!」

 

 咲夜の能力に気をとられている隙に、闇に蝕まれた砂の盾の隙間から、レミリアがルーミアの前に飛び出していた。

 感覚の狂わされた闇の力は、パチュリーの魔法を飲み込もうともレミリアを捕えきることはできなかった。

 それでも、ルーミアは未だレミリアを気にかけてなどいなかった。

 間近で振われた鋭い爪を、ルーミアはほんの少し目線を流すだけで軌道を見切り、レミリアの手首を無造作に掴んで骨ごと握り潰して止めていた。

 闇の能力を退けてやっとの思いで成したレミリアとルーミアの一騎打ちは、あまりにあっさりとレミリアの敗北に終わった、かに思えた。

 だが、それでレミリアが怯むと思って目線を咲夜に戻したルーミアを嘲るかのように、

 

「貫け―――紅符『スカーレットマイスタ』」

 

 事前に放たれ、咲夜によって時間軸をずらされていたレミリアの閃光が、レミリアの腕ごと、それを掴んでいたルーミアの肩から先を弾き飛ばしていた。

 虚を突かれて片腕を失ったルーミアにできた隙を、レミリアは逃しはしない。

 千載一遇のチャンスにレミリアが思い浮かべるのは、自身の天性の身体能力にかまけた乱雑な攻撃ではなく、洗練された一つの流れるような芸術とも言うべき動き。

 体勢の崩れた自らの身体で、その「崩れ」という動きさえも利用した回転蹴りをルーミアに叩き込む。

 

「ぐっ……」

 

 傷口を抉るように追撃をかけられたルーミアの表情が、微かに歪む。

 だが、それは決定打にはならない。

 いや、レミリアは元々それを決定打にするつもりなどなかった。

 中途半端な体勢で放たれたそれで、勝負を焦って決めに行こうとするほどの―――

 

 ――そんな愚かな動きなど、美鈴なら絶対にしない。

 

 だからレミリアはその蹴りを、流れてしまった自らの体勢を万全に整えるための「反動」として使うために、あえて力を抑えて放っていた。

 そして、まっすぐな姿勢で着地する間際、レミリアはほんの一瞬だけ呼吸を整える。

 ただの突きの連打という単純な動きだけで美しさを感じさせるほどの、完成された「武」のイメージ。

 

「虹符――」

 

 近くで長年見続けてきたそれを、レミリアは自らの内で更に昇華させる。

 背後から迫ってきた闇に既に侵食されつつある自らの身体など気にも掛けないほど、ただ心を静めて、

 

「『烈虹真拳』」

 

 既に体勢を整えたルーミアが纏い始めていた闇の、未だ脆い部分。

 まだ完全に戻りきっていないそれを分散させられる点穴を見抜き、レミリアは針の穴を突くかのように正確に、それでも全力で次々と穿っていく。

 大気を切り裂く「気」の乱打が辺りを覆う闇の軌道を逸らし、再び無防備になったルーミアに向かって、

 

「からのッ!」

 

 その静なる「武」から一転して、自らの天性の動なる「暴力」を一つの形にし、その身体ごと全て捧げる。

 

「神槍『スピア・ザ・グングニル』!!」

 

 レミリアの魔力を吸いつくし、やがて巨大な槍と化した魔力は、ルーミアの身体を一直線に貫いて吸血鬼の血肉の混じった呪いとともに大地に磔にした。

 同時に、レミリアの身体が幻想郷から消えていく。

 それは、ルーミアの驕りから生まれた隙を見逃さず放たれた、レミリアの全てを懸けた捨て身の一撃だった。

 

「月符『サイレントセレナ』」

 

 だが、その直後パチュリーが高らかに本を掲げると同時に天が輝き、降り注ぐ月光が辺りを刺すように包み込んでいく。

 魔力を使い果たして消滅したはずのレミリアは、その空間で薄い蝙蝠の群れとなって飛び回り、やがて一つに収縮していく。

 そして、月の魔力を得たレミリアは、気付くと何事もなかったかのように身体を再生してそこに立っていた。

 

 レミリアはもう何度も死にかけたが、それでもここまで誰一人として死ぬことはなかった。

 この戦いで初めて、レミリアが自らの魔力を消費してまでその『運命を操る能力』を積極的に使い始めたからだ。

 咲夜が傷つく運命。

 パチュリーが傷つく運命。

 レミリアが再起不能になる運命。

 レミリアは瞬時にそれを察し、その瞬発力でもって咲夜やパチュリーに向かう攻撃を全て肩代わりしつつも、自らの限界を超えない一線を保てる運命を模索して変え続けていたのだ。

 その無理な力の行使に必要な魔力が尽きないよう、パチュリーがレミリアに月の力を与え続ける。

 そして、それに合わせるように咲夜が時間を操作することにより、消滅と再生の間で発生する僅かなタイムラグさえも支配する。

 そのおかげで咲夜はほぼ無傷で、パチュリーもにとりから受けた傷がほんの少し残っているだけだった。

 だが、簡単に再生を終えたレミリアだったが、その昔傷口を日光に焼かれてしまった右半身だけは自分で再生することはできない。

 それでも、レミリアはまだ余裕の表情を浮かべていた。

 

「咲夜」

「かしこまりました、お嬢様」

 

 咲夜がそれに答えるとともに、再生するはずのないレミリアの右半身が瞬時に元に戻る。

 再生したのではない。 一瞬という間すらもなく元に戻っていた。

 

「……さて。 仕切り直し、だな」

 

 だが、そこで終わったかのように思えた戦いは、未だ折り返し地点にすら辿り着いてはいなかった。

 レミリアは一つ息を大きく吐いて、正面を見据える。

 その視線の先では、確かにルーミアを貫いたはずの巨大な槍が、平然と歩くルーミアの手に、まるで自分のものであるかのように握られていた。

 

「……」

 

 ルーミアはそれを無言のまま圧し折り、投げ捨てる。

 ルーミアが睨んでいたのは、自分を貫くほどの槍を放ちながら余裕の表情で再び向き合っていたレミリアではない。

 その隣に悠然と佇む咲夜を恨めし気に見据えていた。

 レミリアの右腕右足に合うように作られた義手や義足。

 咲夜は時間を止めてそれをレミリアに装着し直しているのだろうが、そんなものをいくつも隠し持っている様子など全くない。

 ナイフも、同様である。

 ほんの少し上背があるものの、人間の一般的な女性とそれほど変わらない体格である咲夜が持ち運べるはずのない量の物体を、平然と次の瞬間にはその手に構えているのだ。

 

 ――飲み込まれる前まで時間を逆行させている? いや、そんなことができるのならとっくに異変前まで時間を戻して私を消滅させてるだろ。 

 

 ――なら、近くに武器を隠している……いや、まさかわざわざ取りに戻っているのか?

 

 遮蔽物のほとんどないここにおいては前者はあり得ないし、後者は考え辛い、というよりも考えたくもないことだった。

 この一瞬で遠方まで物資を取りに戻っているというのならば、それは咲夜が可能な停止時間や範囲に制限が無いことを意味するからだ。

 無制限に時間を操れる、などという反則的な能力があるとしたら、そもそも霊夢にすら負けるはずがない。

 だとしたらどういう原理で咲夜がそれを用意しているのか、理解できない。

 ルーミアは咲夜の能力を打ち破る手がかりを、持ち合わせてはいないのだ。

 だが、打つ手が見当たらず苛立つルーミアよりも、少しずつパチュリーが精神的に参ってきていた。

 

「それにしても、本当にキリがないわね。 一体何なのよ、あいつは」

 

 戦況は進みながらも、パチュリーは疲れたように2人にそう話しかけていた。

 隙だらけに見えるそれは、実は隙にはならない。

 3人の会話とその認識速度だけが、咲夜の能力によって速めて進められているのだ。

 一歩間違えば次の瞬間に死が待っている状況で、そんなギリギリの手段を駆使しながら起死回生の一手を探して相談し続けていた。

 

「特に厄介なのは、あの再生力ですね。 お嬢様の吸血鬼としての再生力どころか、永遠亭の蓬莱人の再生力より得体が知れませんから」

「そうね」

 

 ついさっきレミリアが弾き飛ばしたルーミアの肩も、完全に貫いたはずのその身体も、いつの間にか元に戻っていた。

 レミリア曰く、吸血鬼が傷を負った場合、自らの魔力を使って自分の身体を元の形に再生しているという。

 紫曰く、蓬莱人は不老不死という生と死のどちらにも属さない曖昧かつ不変の存在であるため、死という片方に天秤が傾くとともに、身体が再生するのではなく概念的に元の状態に戻ろうとする力が働くのだという。

 だが、ルーミアのそれは、一体どういう原理によって再生されているものなのか、未だに解明できずにいた。

 闇の感染者の力を自分の再生力としているのだろうか、それともルーミアの存在そのものが不死性を持っているのか。

 だとすれば、闇の感染者の全てを消さなければルーミアを倒すことはできないのか、それとも一撃で存在すら全て塵も残さぬほどに消し去れば倒すことができるのか、あるいは何か弱点になるものがあるのか。

 とにかく、その原理がわからない限り、とるべき戦略が決められない。

 今は一撃にてルーミアを消し去る隙を狙いつつも、長い間ずっと、魔理沙たちが他の支柱の全てを始末するまでの時間稼ぎをしているだけなのだ。

 

「せめて何か、前例になるものでもあれば……っ!!」

 

 だが、動きのない戦況の中、それはパチュリーの脳裏に突然映った。

 パチュリーの思考が、ほんの一瞬だけ止まる。

 戦況に影響を与えないほど短い時間、虚空を見つめていただけだが、その直後のパチュリーの表情は、

 

「……パチェ?」

「パチュリー様、どうなされましたか?」

「え? あ、ああ……ごめん、ちょっといろいろあってね」

 

 その真剣な眼差しに、いつのまにか一筋の涙が流れていた。

 パチュリー自身すらも気付かないほどに、自然に。

 

「ただ、少しだけ活路は見出せそうよ」

「活路?」

「……何かあったのですか、パチュリー様?」

「ええ」

 

 咲夜は少しだけ心配していた。

 ほんの一瞬だけパチュリーが浮かべた表情を、見逃さなかったからだ。

 微かに悲しく歪んだ、その色を。

 

「小悪魔が、死んだわ」

「……」

「そう、ですか」

 

 死を迎えた小悪魔の記憶が今、パチュリーのもとへと還った。

 状況を整理するために、まずは自分が落ち着く必要がある。

 だから、パチュリーは魔法を一つ唱え終わった合間に一度深呼吸してから、情報を共有する。

 

「邪悪の力について調べていた小悪魔の記憶が、もう私の中に戻ってる。 だから、現状でわかっていることを手短に報告するわ」

「お願いします」

「まず、あいつの力の源である怒りの支柱。 それと疑わしき風見幽香を、魔理沙が倒したわ」

「……へえ。 やるじゃないの」

 

 レミリアは無理に笑みを浮かべてそう言う。

 スペルカード無しで、いかにして魔理沙が幽香に勝ったのか気になるところではあった。

 だが、それを深く追及はしない。

 そんなことを聞いている余裕はないし、それ以上に、小悪魔を失ったという話のショックが大きかったからだ。

 たとえパチュリーの使い魔に過ぎなかったとしても、共に紅魔館に住む仲間であったことに変わりはないのだから。

 だから、それを無駄にしないためにも、パチュリーは涙をこらえて淡々と次に進む。

 

「だけど、ここで問題が発生したわ。 風見幽香を支柱としてそそのかしたルーミアの代理人、鍵山雛が恐らく敵側の主要人物よ」

「鍵山雛……厄神、ですか。 それはまた、厄介ですね」

「そうよ。 そいつが敵だというのなら、相応の対処が必要になるわ。 なのに、何でレミィはそんな重要なことを黙ってたのかしら」

「……いえ、黙ってたというよりも、私はそもそもそんなこと知らなかったもの」

「え?」

 

 支柱であろう幽香が雛から闇の力を与えられたのならば、レミリアもそうだったのではないかと思っていた。

 だが、それは違うという。

 それは、異変の様相を塗り替える一つの事実を浮かび上がらせる。

 

「……そういうこと。 だったら、支柱には二種類いるってことなのかしらね」

「え?」

「風見幽香、それと河城にとりは、ルーミアのことを知らなかった。 だけど、レミィが知らない鍵山雛によって、風見幽香は支柱としての力を与えられた」

「つまり、お嬢様のようにルーミアの持つ闇の能力そのものに選ばれた支柱と、風見幽香のようにその厄神によって恣意的に選ばれた支柱がいる、ということですか?」

「多分ね。 でも、問題なのは鍵山雛が支柱を創り出すことができるっていう事実よ」

 

 つまりは、幽香を倒した今も、どこかで雛によって新たな闇の芽が生み出されているのかもしれない。

 たとえルーミアをどれだけ足止めしたところで、支柱を倒したところで、邪悪の力を止めることはできないのだ。

 

「だから、恐らくそう簡単に闇の力の感染は衰えないわ。 そいつを止めない限り、時間稼ぎをしてもキリがない。 ……ここまでが、確実に言えること」

 

 だが、そんな絶望的な事実から思考を切り替えて、パチュリーは一つ深呼吸する。

 その視線は、少しだけレミリアの方に向いた。

 

「そしてね。 小悪魔の記憶にあったのは、後はほとんど貴方のことよ、レミィ」

「……私?」

 

 疑問の声を上げたレミリアを前に、パチュリーは少しだけ躊躇う。

 この状況でとぼけたような反応をするレミリアに、僅かにでも信頼が薄らいだのか、その事情すらも飲み込もうとしているのか。

 パチュリーはただ、感情を表に出さずに確認する。

 

「レミィがどうしても私たちに言いたくないことなら、咲夜の耳にも入るだろうしこれ以上は聞かない。 だけど、大事なことだから一つだけ聞かせてほしい。 ルーミアの再生力の前例、レミィは本当に心当たりが無い?」

「……」

 

 それを聞いたレミリアの表情が曇る。

 そう聞いてくるということは、恐らくパチュリーが知っているからだ。

 レミリアが隠し続けてきた秘密を。

 

「それは……」

 

 レミリアは答えられない。

 迷いか、制約か、レミリアの心に何があるのかはパチュリーにはわからない。

 ただ、レミリアが重大な事実を隠していることだけは知っていた。

 

「お嬢様?」

「もう一度言うけど、レミィが言いたくないのならそれでもいい。 でも、そしたら私たちにはもう打つ手がなくなるわ」

 

 パチュリーは冷静を装いながらも、心の奥にある焦燥は隠せない。

 そんなレミリアの迷いを、ルーミアが待っているはずがないからだ。

 そんな会話の最中にも、戦況は進んでいるからだ。

 

 咲夜の時間操作による妨害を越えようと、時を止めてなお避ける隙間が無いよう周囲を取り囲む闇の檻。

 それすらも、その力の最も弱い穴を、辺りに流し続けている魔力の流れから瞬時にパチュリーが感知し、3人で協力してそこに穴を空けることで、逃れる。

 運命操作による回避にレミリアが手をまわしきれないように、3人同時に向けて放たれていく闇の刃。

 それすらも、咲夜がそれぞれに攻撃が届くまでの時間をずらすことで、一人一人に最善の対処をしていく。

 パチュリーの補助魔法を無力化しようと、3人のいる空間を分断し遮る闇の壁。

 それすらも、レミリアの運命察知能力が事前に攻撃を見切り、分断されない陣形を再構築する。

 不可能と言っていいほどの奇跡的回避の連続を、パチュリーが張り巡らせた魔力フィールドと咲夜の時間操作とレミリアの運命操作によって、無理矢理に成し続けているだけ。

 そんな、本来ならばとても会話などままならないはずの死線を切り抜けながら、パチュリーと咲夜は待っていた。

 ほんの少しのミスが瞬時に全てを終わらせてしまう危機的状況の中で、それでもレミリアの返答を待っていた。

 打つ手がなくなるとは言ったものの、どうしてもレミリアが言えないというのなら、それはそれで別の道を探すことはできる。

 だからこそ、一刻も早く次の手段を練るためにレミリアには即断が求められるのだが、しばらくの間レミリアは口を閉ざしていた。

 だが、その沈黙はレミリアにとってそれほどまでに重要な問題であることを2人に理解させるのに十分だった。

 

「……パチェがそう言うってことは、小悪魔は知ってたのよね」

「そうね。 ちなみに風見幽香は、その子と交戦したわ。 あと、小悪魔以外にそれを知ってるのは、魔理沙とアリスと美鈴……そして、その詳細を知っている誰かがもう一人いたはずよ」

 

 小悪魔が消えたのがこいしが現れている間であったために、その記憶は僅かながらもパチュリーのもとに還っていた。

 予想以上に多くにそれを知られている事実を悟り、レミリアは一つため息をついてその重い口を開く。

 

「そう。 だったら、もう隠す意味もないわね……私の、妹のことを」

「……お嬢様の妹君、ですか?」

 

 それは、咲夜にとってすらも、初めて耳にすることだった。

 あまりに衝撃の事実を前に、驚きを隠せない。

 小悪魔からの記憶の流入を自然と受け入れるはずのパチュリーの思考が一瞬止まってしまった原因も、少なからずその戸惑いによるものがあったのだろう。

 

「そうよ。 500年ほど前、とある事件によって本当は死ぬ運命にあったはずの私の妹、フランドール・スカーレットの力。 それが、恐らくルーミアの力と同じ原理によるものだと思うわ」

「フランドール? でも、死ぬ運命にあったってことは、その子は…」

「いいえ。 その時の私が、運命を無理矢理変えたの」

 

 フランが両親を殺し、レミリアの半身を消し飛ばしたあの日。

 まだ幼い体のまま日光に長時間晒され続けたフランはその時に死んでしまう運命にあった。

 だが、レミリアは自らの『運命を操る能力』を使って運命の行く先を無理矢理捻じ曲げ、フランを生かそうとした。

 あらゆる可能性の中で、唯一フランを生かすことのできる運命線をたどるために、多くの犠牲と苦悩を伴いながらも、それに成功した。

 そして、その結果起こった光景は……

 

「そしたら、あの子は得体の知れない力を得て生き返ったわ。 ……同時に、私には決して抗えない呪いがかけられたけれど」

「呪い?」

 

 それこそが、レミリアにとっての悪夢の始まり。

 レミリアの耳に届いた誰かの「声」こそが、レミリアの絶望の源泉だった。

 どこからともなく聞こえてきた無機質で冷たいその声は、レミリアの人生を狂わせた悪魔の囁き。

 理解しきれない、それでも今なお脳裏の奥深く、無意識の領域にまでその意味だけが刻まれ続けている、レミリアの心的外傷。

 

 そのトラウマを、レミリアは少しずつ言葉にしていく。

 忘れられるはずのない、運命の歯車が狂ってしまった、あの日の出来事を―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 周りの音など、もう聞こえなかった。

 泣き叫ぶような余裕すらもなかった。

 自分の身体の半分を妹に突然消し飛ばされ、日光に焼かれている絶体絶命の状況。

 それでも、そこにあったのは自分の身の安全を確保しようとする本能ではなかった。

 全身を破壊されてただの肉塊に変わってしまった、かつて父と母だったはずの何かが蒸発していく光景を前に、

 

 ――嫌だ、お父様、お母様! 死なないで!

 

 ――お願い、誰か、誰か……!!

 

 レミリアは何もできなかった。

 自分自身の意識さえも飛びそうになる激痛の中で、声を出すこともできなかった。

 いつだって優しかった、自分とよく似た水色の髪をした母の笑顔は、見ることも躊躇われるほど醜く焼き爛れ、泥の塊のように崩れ落ちて細かく分離していく。

 そして、この世界から消えた。

 あまりにもあっけなく、目の前で母が死んだ。

 それを嘆く暇すらないままに、その隣で何かが弾けるように砂と化した。

 レミリアが尊敬し続けた、妹とよく似た金の髪をした父の身体は、その屈強さを全く感じさせないほど弱弱しく細かく崩れ、風に吹かれて消えていった。

 そんな簡単に、レミリアは両親を失った。

 まだ幼きレミリアは、それを目に焼き付けてしまった。

 戦いの中で死んだのでもなく、寿命で死んだのでもなく、何の意味もなく目の前で死んでしまった両親を前に、レミリアは潰れた声でそれでも泣き叫ぼうとして、

 

「あ……なん、で……ぅぁ、あついよ、ああああ、ああああああああ」

 

 それは、聞こえてきた。

 たった今、父と母を殺した妹の、もがき苦しむ声。

 

「いやだ、だれか、たすけて……おとーさま、おかーさま……おねえ、ちゃん」

 

 自分で殺した両親に向かって、助けを求める声。

 死にかけのレミリアに向かって、助けを求める声。

 レミリアの中にあったはずの悲しみは、それが聞こえてきた途端、いつの間にか別の感情へと変わっていた。

 

 ――ふざけるな。

 

 ――お前は、自分が何をしたのかわかっているのか。

 

 その心の中には、異常なほどに憎悪だけが渦巻いていく。

 その身には止めどなく負の力が湧き上がっていく。

 レミリアの奥底に眠る、まだ自分で制御することのできない能力さえも呼び覚ましていく。

 両親の死の悲しみなど、既に掻き消されていた。

 ただ、呪われた運命を刻み込むべき、憎き相手の名前を思い出そうとして、

 

「フ、ラン……?」

「おね……っ!?」

 

 フランの驚いた声が微かに耳に入るとともに、レミリアの視界は完全に閉ざされた。

 代わりに、最後にその瞳に映ったのは、1つの運命。

 レミリアがその『運命を操る能力』を使って初めて創り出した、この世界の運命は……

 

 

 ――死ねよ、この化け物が。

 

 

 それを刻むとともに、力を使い果たしたレミリアの意識は消えていった。

 すぐにでも日光から逃げなければ両親と同じ末路を辿る状況で、それでもレミリアはそれを選択した。

 自分の身体が焼き尽くされていく。

 でも、もう何もかもどうでもいい。

 自分にはもう、何もないのだから。

 両親の仇である、憎きあの化物を殺せたのだから、それでいい。

 そのまま、ただ全てが終わっていく。

 その内に秘めた憎悪だけに支配されながら、何もかもが暗く染まっていく。

 そして、そんな醜い感情とともに、レミリアは自らの死を悟って……

 

 

「…だ、……でよ」

 

 

 何かに押しつぶされるような感覚で、レミリアは微かに意識を取り戻した。

 押しつぶすというよりは、何かが自分の上に被さったかのような。

 そして、焼けた頬を伝っていく雫と、そこから聞こえてくる消え入るような声。

 全てを諦めたはずのレミリアが、微かに目を開くとともに見えたのは、

 

「おねがい、かみさま……わたしのことはいいから。 なんでも、するから、せめておねえちゃんだけはたすけてよ」

「……え?」

 

 レミリアの傷口を日光から庇うように覆いかぶさったフランの姿だった。

 自らの身を焼かれながら、それでも必死にレミリアを守ろうとするフランの姿だった。

 レミリアは、自分の目の前にあるそれを理解しきれなかった。

 まだ動ける力があるのならば一人で逃げればいいものを、それでも必死にレミリアを守ろうとしている化物のことを。

 そこにあるのは、両親を殺した、ただの―――

 

「しなないで、おねえ、ちゃん…」

 

「ぁ……」

 

 そこで、レミリアはやっと我に返った。

 無邪気に笑っていた、フランの笑顔を思い出す。

 

 

  ――みせたいものがあるの!

 

 

 フランに悪気などなかった。

 レミリアたちを喜ばせようと頑張って、ただ不幸にも起こってしまっただけの事故だったのに。

 そんなことは、本当はわかっていたはずなのに。

 

 ――何やってんだ、私。

 

 レミリアは、自分の愚かさを呪う。

 少しでも余力があるのなら、フランを助けるべきだったのに。

 まだ自分で日傘を差すことすらできない妹を、守ってあげるべきだったのに。

 なのに、勝手にフランを呪って、諦めた。

 こんなにも優しい妹を放って、一人で憎悪に支配されていた。

 

 ――待ってて、フラン。

 

 レミリアが、その身体を無理矢理動かそうとする。

 今度は憎しみではない、家族を守るために力を振り絞る。

 そして、自分の上に被さっているフランを守るために立ち上がろうと、残されたその片腕に力を入れようとした。

 

「今、お姉ちゃんが助けてあげるから……っ!?」

 

 だが、それに気づくのはあまりに遅すぎた。

 レミリアに被さっていたはずのフランの身体が、遂に形を失って目の前で崩れ落ちて。

 レミリアを覆うように伸ばしていたフランの手が、砂のように細かく流れ去って。

 さっきまでずっとレミリアを想って泣いていたフランの顔が、空に溶けて消えていって。

 そして、何もかもを失って遺されたフランの服だけが、辛うじてレミリアの身体を日光から守り続けていた。

 

「ぁ……ぁぁあああああああ”あ”あ”あ”っ!?」

 

 レミリアは、もうそこにいない妹の残骸を見つめながら、泣き叫んだ。

 

「……違う」

 

 そう呟くレミリアの顔を、日光が溶かしていく。

 だが、その激痛さえも無視して、レミリアは叫ぶ。

 

「こんなのは、違う!!」

 

 死ぬのなら、自分であるべきだった。

 苦しむ運命を背負うのなら、自分であるべきだった。

 フランは、何も悪くない。

 あまりに愚かだった自分が、全て悪いのだから。

 ただそんな自己嫌悪の中で、それでも一つだけレミリアは希う。

 

「誰でもいい、お願いだから、私はどんな罰だって受けるから!!」

 

 そう言うレミリアの前には、もう誰もいない。

 そんなことは、レミリア自身もわかっていた。

 それでも、レミリアは叫ばずにはいられなかった。

 

「私はもう、他に何も望まない! この世界に神がいるのなら、私の全てを捧げるから!! これから先、どんな現実だって受け止めるから!! だから――――」

 

 そして、最後の力を振り絞って、感情のまま叫んだ。

 

 

「フランを、助けて!!」

 

 

 すると、レミリアの声に応えるかのように辺りをかつてない天変地異が襲った。

 レミリアがその『運命を操る能力』を使って成したのは、決して起こり得ない虚構へと運命を無理矢理に捻じ曲げる、いわば一つの世界そのものの否定。

 それによって起こったのは、時空間の欠落、法則の乱れ、因果律の逆流、平行次元の超越。

 やがてその歪みに耐え切れなくなった世界には、突然の雷鳴が轟くとともに天が裂け、暗く淀んだ闇が空間の狭間から溢れ出していく。

 辺りに射していた日光は全て遮られ、辺りを夜が覆っていく。

 

 そして、奇跡が起こった。

 

「……え?」

 

 レミリアはただ、呆然としていた。

 身体を動かすことすらできないまま、その信じられない光景を見ていた。

 自分の上に乗っている、確かな重さを感じていた。

 

「フラン……?」

 

 レミリアの上には、元の姿形を取り戻したフランが立っていた。

 本当なら、起こるはずのないそんな奇跡に感謝すべき時なのだろう。

 だが、レミリアは喜び以上に不安を感じていた。

 そこにあるのは、レミリアの知っているフランの表情ではなかった。

 狂気に満たされた瞳が、鋭く見開かれるとともに、

 

「……あはは」

「え?」

 

「あはははははははははははははははははははは――――」

 

 耳が痛くなるほどの奇声とともに、フランの周囲に発生した灼熱の炎が、世界を焼き尽くした。

 生き返ったはずのフランが、自身の身体ごと全てを一瞬で燃やしたのだ。

 突如として間近に発生した炎に焼かれ、苦悶の声を上げるレミリアの前で、

 

「あははっ……ぅあ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”ッ!!」

 

 一瞬で自らの身体を再生させたフランが、今度は狂ったような怒りの声を上げる。

 再生された自分の身体を見て、まるで自分を殺すことに失敗したと言わんばかりに、今度はその手を振り上げる。

 

「ぁぐっ、やめなさい、フラ…」

 

 レミリアの声に一切の反応を見せないまま、フランは自らの首を刎ねる。

 レミリアの目の前に、目を見開いたままのフランの首が落ちた。

 だが、それが瞬時に跡形もなく消滅するとともに、その身体に新たに首が再生する。

 それを、再び壊していく。

 殺す、再生、殺す、再生、それをレミリアの目の前で繰り返していく。

 そんな異常な光景を前に、レミリアは次第に声を出すこともできなくなった。

 フランが蘇った喜び以上に、得体の知れない恐怖をそこから感じていた。

 

 確かに何でも受け入れるとは言った。

 だけど、これでは再びフランは死ぬ。

 理解不能な狂気の中で、自らの力によって苦しみながら死ぬ。

 それを、レミリアは見ていられなかった。

 だが、その殺戮が何回目になるのか、フランがその身の奥から絞り出した力の塊を掲げるとともに――――

 

「あははははは………………」

 

 その奇声が、突如として凍結されたかのように止まった。

 

「――え、何?」

 

 同時にレミリアの身体も動かなくなる。

 だが、なぜかレミリアは口を動かすことだけできた。

 まるで言葉を発することだけを許されたかのように、レミリアの身体は何かに支配された。

 ただ、目線を動かすこともできないまま、誰かが近づいてきたことだけがわかった。

 そいつは無言でフランをじっと観察し、状況を把握する。

 そして、レミリアの視界に入らないまま、言った。

 

「……そう。 一度決定した運命を、もう一度捻じ曲げようとしたのね」

 

 レミリアの反応を確認するかのような視線の動きだけが感じられる。

 心の奥底を抉られるような、かつてない寒気に襲われる。

 レミリアに、冷たい声色が届く。

 

「でも、それは貴方に許された力じゃないわ。 このままだと、この子は死の運命を回避することはできない」

「え?」

 

 唐突過ぎるそれを聞いても、レミリアは何を言われているのかがわからなかった。

 ただ、視界にすら入らないまま告げるそいつに反発しようとして、

 

「だけど、私が特別に貴方の覚悟を尊重してあげる。 この子と、貴方の屋敷の地下深くにある部屋に、魔法をかけてあげるわ」

「……魔法?」

「ええ。 この子の存在をその中で誰にも気づかれず孤独に閉じ込めておくのなら、この子が死ぬ運命を騙し続けることはできるわ。 ただし、その運命を騙すためには貴方の力の全てを捧げ続ける必要があるけどね」

「私の、力って?」

 

 その頃のレミリアは、まだ自分の能力に気付いてはいなかった。

 運命を変えるなどという認識の難しい能力は、まだ幼きレミリアが理解するには早過ぎたのだ。

 

「多分、貴方は運命を変える力を持っているのよ。 世界の理そのものを破壊し変革し、起こり得ない未来さえも創り出してしまう、神を超えた力を」

「運命……」

「でも、それは貴方みたいな子供が使うには強大過ぎる力よ。 その力を使って決定づけられた運命はもう変えることなんてできないの、本来はね」

 

 それでも、レミリアは変えてしまった。

 一度はフランを殺す運命を創り出し、その後にフランを生かすために再び運命を捻じ曲げてしまった。

 だが、それはレミリアに可能な力ではないという。

 

「それでも、もしそれを変えようというのなら、その運命を騙すためだけに貴方の能力を一生捧げ続ける必要がある。 もう二度と、他の運命を変えることはできなくなるわ。 それが貴方の限界だから。 それを超えた時、この子の死の運命が逆行して再び蘇るから。 それでもいいのなら…」

「それでいいわ」

 

 レミリアは、それを遮って即答した。

 

「別に何でも構わない。 フランを救えるのなら、私はどんなことだって受け入れる」

 

 それが、顔もわからない誰かの言うことでもかまわない。

 僅かにでも縋れる可能性があるのなら、迷うことはなかった。

 

「そう。 でも、忘れないでね。 これから先、たった一度でも貴方の瞳に映った運命線から世界の流れが逸れた時、この子は歪められた運命の力によって縛られている狂気の血に支配されて、死を迎えることを」

「……ええ」

「それじゃあね。 貴方はまだ幼いから今は耐えられるでしょうけど、いずれ永遠に見え続ける残酷な運命に苦しんで絶望に墜ちることになると思うわ。 でもまぁ、せいぜい頑張ってね」

 

 そして、凍結された世界が解かれるとともに、気付くとレミリアとフランは静かな小部屋の中にいた。

 今の話に出てきたと思われる、フランを助ける魔法がかけられただろう、紅魔館の地下の小部屋。

 全く気付くことのできないまま、レミリアは景色の違うそこにいた。

 だが、そんな異常な出来事の後でも動揺することなく、レミリアはすぐにフランのもとに片手で這うように近寄る。

 再生しない傷口が地面と擦れる度に激痛が奔るが、それを気にしない。

 そこにいるフランからは、もう狂気など感じられなかった。

 ただ静かな寝息を立てている妹を見て、安堵の表情を浮かべたレミリアは、 

 

「……上等よ」

 

 一人静かに小さな天井を見上げる。

 その、まだ希望に満ちていた頃の瞳で、どこまでも真っ直ぐ見据えて―――

 

「私は、この子を守るために生きる。 たとえどんな運命が待っていようと、絶対に!」

 

 レミリアは、そう宣言した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それがこの500年、私に課せられ続けた運命よ」

 

 パチュリーと咲夜は、何も言葉にできなかった。

 神や悪魔の声か、運命そのものの声か、それが一体何者で、何の目的があってそんなことをされたのかはわからない。

 だが、少なくともレミリアの理解を超えた何かに、その瞬間からレミリアの全ては支配された。

 フランを、あの部屋から出すことはできないと。

 その苦しみを誰に伝えることも許されず、永遠に孤独に抱え込むと。

 そして、自分はどんな残酷な運命だろうと、二度と変えることは許されないと。

 それを破った瞬間に、フランの命は終わるのだから。

 

 それからレミリアにあったのは、ただその瞳に映った運命の通りに動くだけの人生。

 たとえフランが泣き叫ぶ運命が見えようとも、幻想郷の滅ぶ運命が見えようとも、抗いもせず淡々とその運命をなぞるだけの、死んだも同然な日々。

 それこそが、レミリアの心を壊した全ての元凶だった。

 

 ――だけど、あれは偽りの枷だった。

 

 さとりが今日レミリアに見せたのは、運命を変えても再発することのなかった、フランの死の運命。

 実際にはそんな簡単なことでレミリアは解放されたが、フランの死の運命が蘇ることを恐れて、今日に至るまで運命を変えることはできなかった。

 さとりに出会うまで、レミリアはたった一人そんな呪いに縛られ続けてきたのだ。

 

 だが、誰よりも強くレミリアの苦悩を気にかけながらも、パチュリーはそれを抑えて冷静にレミリアに伝える。

 

「その話なら、続きは今度ゆっくり紅茶でも飲みながら聞かせてもらうわ。 どうしてレミィが、その呪縛から解放されたのかもね。 でも、今大事なのはそこじゃないでしょう?」

「ええ、そうね」

 

 謎の制約の理由、そしてその声の主の考察。

 そして、今に至る過程も、全て話せばキリがないだろう。

 だから、今の状況で本当に重要な情報はただ一つ。

 フランの持つ力、フランが死ぬ条件、つまりはルーミアを倒す方法についてだった。

 

「フランはそれ以来、死ななくなった。 フランを本当の意味で殺すことができるのは、フランの中に眠っている力だけよ」

「それはつまり、吸血鬼の弱点である日光の力を使っても…」

「ええ。 吸血鬼の弱点では、フランは殺せない。 もしフランと同じ力を持っているのなら、多分あいつも然りってことね」

「要するに、ルーミアを殺せるのはルーミア自身の力か……もしくは、レミィの妹の力だけってことね」

「でも、フランは…」

「知ってるわ。 とてもここに来て戦えるような状態じゃないでしょう」

「そうよ」

 

 既に小悪魔の記憶が還っているパチュリーには、わかっていた。

 この場で話題には出さずとも、小悪魔が最後に見た光景を知っているから。

 突如として現れ、狂ったような笑みと共にアリスを殺したフランの狂気を。

 それを知っているからこそ、レミリアの途方もない話を、パチュリーは簡単に受け入れることができたのだ。

 

「ですが、お嬢様の妹君の、フランドール様の力というのは一体何なのですか? それを私たちが使うことは、可能なものなのですか?」

「現状では、無理ね」

「……違う。 考えるべきなのは、そういうことじゃないわ」

「え?」

 

 咲夜の疑問に対し、パチュリーは少し迷いながらも、その答えを絞り出す。

 

「レミィが運命を捻じ曲げて世界の法則にヒビが入ったことで、それまで何らかの封印を受けていただろう邪悪の力が解放されて、フランドールの中に入り込んだ。 レミィが言っていた話から判断すると、そういうことよね」

「……ええ」

「そして、あまりに強大すぎてフランドールという一個体の中だけでは入りきれなかった邪悪の力はそのまま幻想郷に解き放たれ、それを発見した八雲紫と閻魔が3要素に分けて新たに封印し直したってとこかしら」

「多分、そうでしょうね」

 

 邪悪の力が、そもそもは誰によってどこにどうやって封じられていたのかはわからない。

 ただ、そう結論付けるということは、500年前に運命を捻じ曲げたレミリアの選択こそが邪悪の力を幻想郷に解き放った諸悪の根源だということだった。

 レミリアの表情が、ほんの少しだけ罪悪感に染まりそうになる。

 だが、今はそれを気にしている場合ではなかった。

 咲夜とパチュリーはレミリアを責めることなど一切なく、ただ目の前の事態に思考を巡らせて言う。

 

「だったら、フランドール様の中に入っている力というのは、閻魔たちに要素を分けられる前の邪悪そのもの……その力の縮図ということですか」

「多分ね。 だから、フランドールの中に不滅の力とそれを殺す力が共存しているってことは、邪悪を構成する要素にもそれぞれ同じものがあると考えられるんじゃないかしら。 それは多分、ルーミアに封印されていた不滅の『邪悪の存在』の要素でも、地底に封印されていた『闇の能力』の要素でもない。 つまりは――――」

 

 そして、パチュリーはすっと息を吸い、

 

「恐らくは霊夢の中に封印されていただろう、『力』の要素。 不滅の邪悪を殺せる『不死殺しの力』こそが、唯一の対抗手段ってことでしょ」

「不死殺し、ですか」

「ええ。 あの時2人はいなかったけど、よく考えてみれば霊夢の攻撃は確かにあいつを一度追い詰めていたわ」

 

 ルーミアに再生されながらも、確かにルーミアを殺しかねなかった霊夢の連撃。

 パチュリーは今まで、霊夢を取り込んだことでルーミアの力がすべて完成したが故に、倒せなくなったのだと思っていた。

 だが、霊夢の力によってルーミアの再生力が完成したのではなく、霊夢だけがルーミアを倒せる唯一の存在だったのだ。

 

「……だったら、霊夢がルーミアに取り込まれた時に希望は潰えた。 私たちにもうなす術はないってことかしら」

「いえ。 逆、じゃないですか?」

「え?」

「まだ霊夢の力が完全に取り込まれたと決まった訳ではないでしょう。 だったら、その闇の力とやらから霊夢を解放できれば…」

「そうよ咲夜。 よくわかってるじゃない」

 

 それは、もしかしたらただの希望的観測に過ぎないのかもしれない。

 だが、それでも。

 この戦いに意味があるのだとしたら、

 

「さあ、ここで選択の時よ。 私たちは、魔理沙たちが霊夢を助ける方法を見つけるまでの時間稼ぎをするか、それとも」

「私たちの力で、目の前のこいつから霊夢を救出するか、ですね」

「そうね。 さっきより少しはわかりやすくていいわ」

 

 3人はその目に再び希望を宿す。

 この状況で、新たに進める道ができたのなら―――

 

 

「……なるほどな。 空間操作、か?」

 

「―――っ!!」

 

 

 だが、ルーミアの口から突然出たその一言が、レミリアたちを現実に引き戻す。

 その一瞬が、戦いの完全な分岐点だった。

 

「……空間?」

 

 咲夜は、ルーミアが何を言っているのかわからないと言わんばかりの表情を浮かべるが、内心では動揺していた。

 完全で瀟洒な従者という二つ名で知られる彼女の表情がそれで崩れることは無いが、パチュリーの表情が僅かに曇ったように見えたのをルーミアは見逃さなかった。

 

 『時間を操る程度の能力』というのは、咲夜の力の全てを表しているものではなかった。

 『空間を操る能力』。

 咲夜は空間そのものを広げたり縮めたりすることで相手の距離感覚や方向感覚を狂わせたり、四次元空間のように広げた自分の懐に無限に物を出し入れすることもできる。

 それを、今まで咲夜は感づかれたことはなかった。

 そもそもそこまで追い詰められたこともほとんどなかったし、たとえ追い詰められたとしても素直にそこで負けを認めていたからだ。

 だが、諦める訳にいかない今は、自分の能力を知っている相手と初めて本気で戦うことになるのだ。

 

「で? それを知ったところで何になるんですか?」

 

 咲夜は平然と笑みを浮かべていた。

 能力を知られたところで、それだけで破られるわけではない。

 しかも、咲夜はただ時間を操るだけでなく、空間操作、つまりは紫の能力と通じる力をも同時に使えるのだ。

 それはまさしく、幻想郷最強の能力。

 それでも、それを理解したルーミアには、再び余裕の色が戻っていた。

 

「そーだな、別に何もならないさ。 ただ、少し活路は見えたけどな」

「そうですか。 それなら、その活路とやらを見せてもらいましょうか」

 

 咲夜は、一切迷わない。

 自分が動揺を見せることが、即ち士気を下げ、相手につけ入る隙を与えることを理解していたからだ。

 能力的にも、精神的にも完璧な戦士。

 だが、咲夜には一つだけ、時間操作者としては致命的な、それでも一生拭うことのできない欠点があった。

 

「んーと。 確か、闇符ディマケージョン、だっけか?」

 

 ルーミアがそう言うとともに、世界は闇のカーテンに覆われる。

 月光の一筋すらも通すことのない絶対の暗闇は、視界の一切を奪っていく。

 それでも、そんなことで焦るような咲夜ではない。

 視界だけに頼っていては、このレベルの戦いにはとても対応できないのだから。

 

「幻世――」

「っ!? 待ちなさい…」

 

「『ザ・ワールド』」

 

 だが、瞬時に時間を停止した咲夜の脳裏には、少しだけ不安が過ぎる。

 時を止める直前、レミリアの焦った声が聞こえたからだ。

 恐らく、レミリアには何か良くない運命が見えていたのだろう。

 それでも、この状況で迷っている余裕などない。

 最後に視界に映った残像と自らの感覚を信じ、安全な位置を割り出して即座に行動する。

 だが、再び空間を広げ、その中から大量のナイフを取り出そうとした瞬間……咲夜は自分の腕を伝う闇の浸食に気付いた。

 

「咲夜っ!!」

「え……っ!?」

 

 凍結されていたはずのレミリアの声が聞こえるとともに、咲夜はなぜか時間の停止が解けていることにも気付く。

 突然の事態に驚いた咲夜は、それでも冷静に再び時間を止め直して、闇に侵食された自らの腕の皮膚や筋肉、骨や神経そのものを全てナイフでこそげ取った。

 おびただしい量の出血は人間である咲夜には致命傷となりかねなかったが、咲夜はそれを自らの細胞分裂の時間を速めることで、瞬時に治癒してみせた。

 だが、それは誰の目からもわかるほど確実に咲夜の体力を削り取っていた。

 

 咲夜の持つ『空間を操る能力』。

 それは時間の流れの長短を操ることで擬似的に空間の広さを操る力、つまりは時間操作の応用に過ぎない。

 それでも、時の流れの長短が空間の広さを変えうるというメカニズムが幻想郷でまだ知られていない以上、それは空間操作と同義である、はずだった。

 だが、幻想郷の誰も知り得ないはずのその穴を、ルーミアは突いてきた。

 ルーミアは、空間そのものに闇の粒子を溶け込ませ、停止した時間の中で咲夜が物を取り出すために空間を広げる瞬間を待った。

 つまりは、空間の広さを変える瞬間……咲夜が局所的に時間の流れを変えた瞬間に、僅かに時間軸の動くその地点から咲夜の体を侵食して取り込むことで、ルーミアは咲夜と同じ時間軸に立つことに成功したのだ。

 

「これで、もうその力は使えないだろ? お前もこんなところで老衰で死にたくはないだろうからな」

 

 そして、咲夜唯一の、それでも致命的な欠点。 それは人間という種族に縛られてしまうことだった。

 人間という種族のあまりに短い寿命というハンディキャップは、咲夜自身の時間を操作することを妨げている。

 もし咲夜が吸血鬼だったのなら、自らの時を数分後に進めるだけで体力のみならず魔力も回復させることができた。

 だが、人間が負った致命的な傷を時間の経過だけで完全に治すには、数か月や数年の時間を必要とする。

 今がちょうど身体的な全盛期である咲夜の時間を10年や20年も進めることは、その後の咲夜の身体能力を根本的に失墜させ、そのまま自身の寿命さえも迎えかねない諸刃の剣なのだ。

 故に、たった一度の深刻なダメージが、その後の咲夜の動きを鈍らせてしまう。

 今回負った片腕の重傷は、咲夜に「闇に侵食された片腕を切り落として戦う」、もしくは「侵食された部分を全て削ぎ落とし、数年の時間を進めて腕を再び使えるようにする」という選択を強いるものだった。

 そして、咲夜が選んだのは後者、つまり自らの腕を残したまま再び戦場に戻るために、この一瞬で自らの寿命を数年も縮めた上で戦っているのだ。

 それでも、咲夜は焦燥を感じさせないよう冷静に振る舞い、無理に笑みを浮かべていた。

 

「……ふふっ。 そんな安い挑発で私が退くとでも?」

「思わないさ。 だが、そっちの2人はどうだ?」

「っ!!」

 

 僅かに動揺していた咲夜の死角から、いつの間にか雨のように細かく降ってきた闇の粒に、咲夜はとっさに反応できなかった。

 その攻撃に反応しきれないほどに疲れ、更に身体能力さえも衰えていたからだ。

 レミリアは、咲夜を守るように闇の雨を全身で受け止めようとする。

 だが、レミリアの小柄な身体がそれを受け止めきれるはずがない。

 それを察したパチュリーから放たれた魔法の光が闇の力を微かに受け流し、咲夜にほんの少しの逃げ道を創り出す。 

 

「咲夜、早く!!」

 

 そこにあるのは、咲夜を気遣う確かな連携。

 それ故に、咲夜自身が気付く。

 自分の力が活路になると同時に、自分の弱さが足を引っ張っているのだと。

 今までは、時間操作者という最も攻撃を当て難い咲夜からは分散されていたルーミアの殺意。

 吸血鬼であるレミリアの全身が飲み込まれようと、妖怪であるパチュリーの魔力が尽きようと、今まではすぐに時間を進めてそれらを全て回復させることができた。

 だが、咲夜の能力の弱点が露呈した中で、その攻撃が全て咲夜一人に向けられたのなら、それを回避することは困難を極める。

 咲夜を守るためにレミリアが幾度となくその身を犠牲にし、パチュリーの身が危険に晒されていく。

 それは、咲夜には耐えがたい光景だった。

 耐えがたいものである、はずだが――

 

「言ったでしょう? そんな挑発では退かないと」

 

 目の前で闇に飲まれようとしているレミリアとパチュリーを放って、咲夜は時を止めて自分一人だけ身を隠した。

 だが、裏切った訳ではない。

 それが最善の選択であると、瞬時に判断したが故に過ぎなかった。

 

 ――そうよ。 それでいいわ、咲夜。

 

 咲夜は、自分の能力のおかげで今の状況が成り立っていることがわかっていた。

 自分がいなければ、レミリアもパチュリーもすぐにでも消されてしまうことを十分に理解していた。

 だから、咲夜が最も重視するのは主であるレミリアの身でも、身を守る手段を持たないパチュリーでもなく、自分の身だった。

 一時の感情に流され、戦いの要である自分を犠牲にしてレミリアたちを守るようでは、真の兵法者とは言えないのだ。

 そして、本当は咲夜がレミリアたちを守るために飛び出そうとする気持ちを、身を切る思いで押し殺していることくらい、2人がわからないはずがなかった。

 そんな信頼の上に、この戦いは支えられている。

 だからこそ咲夜は、迷わなかった。

 

 ――幻符『殺人ドール』――

 

「なっ……!?」

 

 空間操作をすれば、即ちルーミアに自らの弱点を晒すことになる。

 だから、咲夜は空間操作をせずに取り出せる残り数本のナイフを死角から投げ、ルーミアではなくレミリアを貫いた。

 辺りにレミリアの血が散乱し、僅かに驚愕の表情を浮かべたルーミアに向かってレミリアが突っ込んでいく。

 そのナイフには抜けることのない細工と咲夜から伸びた糸が繋がれ、それが刺さったまま、レミリアはルーミアの身体を喰いちぎっていく。

 そして、少しだけルーミアが怯んだ隙に、レミリアは溢れ出した闇の中へと自ら飛び込みながら、叫んだ。

 

「このバカ霊夢っ!! いつまで寝てるつもりよ!!」

 

 だが、当然ながら返事は無い。

 それとともに、レミリアに刺さっているナイフに繋がれた糸を咲夜が勢いよく引っ張った。

 闇の中から、レミリアが操り人形のように力なく引き揚げられる。

 咲夜は時を止め、レミリアの身体の闇に侵食されてしまった箇所を即座に切り刻みながら、再び時を早めてレミリアの半身を再生させる。

 計り知れないほどの激痛がレミリアを襲うが、それでもレミリアは戻った。

 そして、レミリアの身体を切り刻み終えた咲夜は、再び静かに身を隠していた。

 

「っ……ま、わかってはいたけど、これじゃダメみたいね」

 

 ルーミアは、自らの弱点を露呈した直後の咲夜が焦っていると思っていた。

 だが、ルーミアがそう考えただろう隙を利用して、レミリアたちは闇の中で直接霊夢に呼びかける作戦を決行した。

 そんな簡単なことで解決する訳がないと思いながらも、そんな思いつきを実行するためだけに、この危険な状況の中で咲夜はレミリアを道具のように使った。

 自分だけ安全な場所に身を移しながら、主であるはずのレミリアに危険と苦痛を与え、結局何の成果も上げなかった。

 それでも、咲夜が戦場に顔を出すことはない。

 そんな咲夜に聞こえるよう、ルーミアはどこへともなく笑い飛ばして言う。

 

「随分と薄情なんだな、お前は」

「……」

「薄情? はっ、お前の口からそんな言葉が出るとは、とんだお笑いだな」

 

 ルーミアは、レミリアに忠誠を誓ったはずの咲夜の行動を嘲笑うような目をしていた。

 だが、それに答えたのは咲夜ではなくレミリアだった。

 レミリアは、ルーミアに憐みさえこもった眼差しを向ける。

 

「何があろうと、たとえどれだけ酷い裏切りに見える行動だろうと、私には咲夜が間違ってなどいないとわかっている」

「はあ? 解せんな、お前は今ので死んでもおかしくはなかった。 なのに…」

「あーあー。 結局お前は何も見えちゃいないんだなぁ、ルーミア」

「何?」

 

 レミリアは再生を終えたばかりの身体で、立ち上がる。

 レミリアの瞳に映っているのは、敗北の運命。

 右に逸れても左に逸れても、どんな奇抜な奇襲をかけようとも勝つことは叶わない。

 そこにあるのは、たとえ闇の力などなくても勝負にすらならない明らかな力の差。

 だが、まだ絶望しか見えていないはずのその瞳で、それでもレミリアは再びルーミアに向かって愚直に突っ込む。

 

「……見えてないのは、お前の方だろ」

 

 ルーミアは当然のことのようにカウンター気味に手刀でレミリアの胸を貫き、そのままレミリアの身体を真っ二つに切り裂く。

 目の前の相手との力量差すらも測れないレミリアに失望したように、ルーミアは小さくため息をつく。

 だが、その身を両断されたレミリアが浮かべるのは苦悶の表情ではなく、ルーミアを嘲笑うような笑みだった。

 ルーミアの、真後ろ。

 その死角で一人大きな魔方陣を展開して魔力の流れを闇と融合しようとしていたパチュリーに、ルーミアが気付くと同時に、

 

「っと、月符『サイレントセレナ』」

 

「っ――!?」

 

 パチュリーは溜めていた魔力を解き放ち、眩しい月光でレミリアを突き刺すとともに飛び下がった。

 咲夜は空間操作によりルーミアの遠近感覚や方向感覚を阻害することでパチュリーの居場所をミスリードさせ、レミリアは愚直な特攻をかけてルーミアの目を自分に向けさせた。

 だが、それらは囮。

 パチュリーはルーミアの近距離に留まり、自らの魔力を闇の流れそのものに介入させることで霊夢の状況を探りつつ、レミリアのサポートをできる魔力も同時に溜めていたのだ。

 一歩間違えば、パチュリーが犠牲になっていた。

 もしパチュリーが月の光を発せなければ、そのままレミリアを死に追いやっていた。

 そして、空間操作を続けることで咲夜が自らの弱点をルーミアに晒し続けることになる。

 それは、リターンの少なさに対してあまりに大きなリスクを背負った、完全な捨て身覚悟の奇策だった。

 それでも、誰一人としてその連携を疑いはしなかった。

 

 ――何がしたいんだよ、こいつらは。

 

 ルーミアには理解できなかった。

 今のレミリアたちに、自分を倒せる算段があるようにも見えない。

 にもかかわらず、次々と目の前に現れる、自らの命を簡単に投げ捨てるような、それでいて他人任せな戦略。

 

「馬鹿じゃないのか? こんな無謀な足掻きに、一体何の意味がある。 お前らは一体、何のために…」

「はっ。 そんなの、たとえ説明したところでお前なんかには一生かかってもわからないだろうよ」

「……何?」

「馬鹿の一つ覚えみたいに絶望だの憎悪だの、そんな陰気なものしか見えてないから、お前は私一人従えることもできないんだよ」

 

 レミリアは、半分だけ再生を終えたその身体で空に浮かび、ルーミアを見下して言う。

 咲夜が時間操作と空間操作を同時に使えない今、失った右腕と右足を治すのはもはや容易ではない。

 だが、それでもレミリアが退くことはなかった。

 

「私には、命を賭してでも守りたいものがあるから」

 

 レミリアは、その記憶の底にある妹の笑顔を思い浮かべる。

 

「信じて背中を預けられる、友がいるから」

 

 レミリアに寄り添う、かけがえのない友たちの声を反芻する。

 

 友情。

 愛情。

 信頼。

 希望。

 

 レミリアの心に根付いたそれらは、所詮はただの記号。

 ルーミアにとっての闇のように、レミリアに直接の力をもたらしはしない。

 だが、形も根拠もない、それでも不思議なほどに自らの内から湧き上がってくる力に身を任せて、

 

「だから―――私は戦える! どんな絶望的なシナリオだろうと、乗り越えていける!!」

 

 その足掻きに意味があるか無いかなど関係ない。

 レミリアはただ前を向いて、運命に抗い続けるだけ。

 その笑みはもう、どれほど困難な状況だろうと、少したりとも崩れることは無い。

 そんなレミリアとは対照に、ルーミアの表情には次第に陰りが見え始める。

 

 ――何故、そんなものを信じられる?

 

 友情や愛情を感じることも、誰かを信じることも、その人生に希望を持つこともない。

 無意味なものだと思っていたから。

 そう、定義付けられてきたから。

 

 ――何故、そんなちっぽけな力で前に進める?

 

 それはルーミアの中には存在し得ない力。

 存在を、許されなかった力。

 ルーミアの理解の外にあるそんなものを信じて立ち向かう3人の戦士の姿は、ルーミアの目には滑稽にすら映っているだろう。

 

 それでも、レミリアはその目に宿った、もう何者にも染めることも遮ることも叶わぬほどの光で、まっすぐにルーミアを貫いていく。

 

「さあ、行くわよパチェ、咲夜。 このまま最終決戦と洒落込もうじゃないの!!」

 

 そして、希望に満たされたその瞳に映る、運命の果てに辿り着く景色はきっと――――

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第27話 : 無知

 

 

 

 

「……なんで、助けたの?」

 

 最初は、その言葉は耳に入ってこなかった。

 特に興味はなかったから。

 助けた訳ではない。 彼女を捕食しようとした魔物を、ただ自分がここで殺す運命だったからそうしただけだった。

 だから、窮地を救われた魔法使いが、自分に恩義を感じようと感じまいと、別にどうでもよかった。

 

「ならば、私が貴方の盾となりましょう。 いつか貴方を超えられる日まで」

 

 勝手にすればいいと思っていた。

 別に護衛が欲しくてそうした訳ではない。

 自らの進む道に迷った彼女を、ここで自分が打ち負かす運命だったからそうしただけだった。

 だから、目標を見つけた武術家が、自分について来ても来なくても、別にどっちでもよかった。

 

「……殺せ。 何故、私を生かす」

 

 それにも意味はなかった。

 ただ、自分がそこで生き残る運命だったからそうしただけだった。

 吸血鬼として悪名高い自分を殺しに来た彼女を、返り討ちにした後に生かそうが殺そうが、自分が変えたい運命には何の関わりもない。

 だから、新たに生きる意味を見つけた人間が、自分に忠誠を誓おうと誓わまいと、別に何も感じなかった。

 

 自分のことを彼女たちがどう思っているのかなど、考えようとしなかった。

 そんな余裕などないのだから。

 自分には、全てを投げ打ってでも成し遂げなければならないことがあるから。

 

 だけど、どれだけ考えないようにしていても、その気持ちは心の奥深くで眠っている。

 彼女たちと笑いあえる、幸せな日々を。

 そんな明日を夢に見ない夜は、一度としてなかった。

 

 そして、苦悩の日々を越えてやっと手が届いた、夢にまで見たその日は……

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第27話 : 無知

 

 

 

 

 

 微かに光る弾幕が夜の闇を少しだけ照らしている。

 レミリアの放った弾幕は、世界をほんの一瞬だけ照らしてすぐに闇に消えていく。

 

「呪詛『ブラド・ツェペシュの呪い』!」

 

 既に月光から得る魔力に限界が来ていたレミリアは、その身に禁呪を纏い、自らの生命力と引き換えに一時的に力を得て立ち向かい続ける。

 そんなレミリアを見るルーミアの目は、冷ややかだった。

 

「……もう、充分だろ?」

 

 だが、ルーミアとは対照に、闇の隙間を潜りぬけながら飛ぶレミリアは未だ笑っていた。

 身体を再生させる魔力すらも尽きかけていたにもかかわらず諦めないのは、昔のように孤独ではないからだ。

 レミリアの周りに、かけがえのない友がいるからだ。

 右を見れば、こんな自分に一生ついていくと誓ってくれた従者の姿が。

 左を見れば、こんな自分を見捨てることなく支え続けてくれた親友の姿が。

 

 無残な屍となって、ゴミのように打ち捨てられていたからだ。

 

 ――ああ、こんな状況でも私は笑えているのだろうか。

 

 本当は泣き出して、最後に2人を抱きしめてあげたかった。

 2人と一緒にただ闇の中に沈んでいっても、それでもよかった。

 だけど、それはできなかった。

 それは命を投げ出してまで自分についてきてくれた2人を、何よりも裏切る行為だから。

 その気持ちを、無駄にすることになるから。

 それをわかっていてなお、涙が溢れそうになってくる。

 

  ――あ。 咲夜、あとよろ。

 

 最初にやられたのは、パチュリーだった。

 誤ってルーミアの射程範囲に入ってしまった時、パチュリーは咲夜にレミリアのことを優先させ、最後にありったけの魔力を月の光に変えたところで貫かれた。

 ルーミアはあえてパチュリーの屍を消すことなく、レミリアに見せつけるように目の前に捨てた。

 それでも、レミリアは躊躇することなくルーミアに立ち向かい続けた。

 パチュリーが最後に遺した灯をその身に乗せ、レミリアは再びルーミアに牙をむいていく。

 だが、満月から魔力を得られるレミリアとは違い、人間である咲夜にも次第に限界が訪れる。

 パチュリーを失い、隠れている余裕を失って前線に出た咲夜の体力は、急速に奪われていく。

 いくら強力な能力を持とうとも、どれほどの忠誠のもとに気力を振り絞ろうとも、生まれついた種族という限界は超えることはできなかった。

 そして、満身創痍の咲夜に生まれた一瞬の気の緩みが、時を止めてなお避ける隙間を残さぬほどの無数の闇の刃で咲夜を囲うことを可能にしてしまった。

 いくら運命を弄ろうとも助けることなど叶わない絶体絶命の状況が、咲夜にも訪れる。

 それでも、その直前に咲夜がいつものように微笑みながら放った最後の言葉が、

 

  ――お嬢様の笑顔、いい冥途の土産になりましたよ。 メイドだけに。

 

 そんなだった。

 

「……ふふふ」

 

 それを思い出したレミリアからは、少しだけ笑みが漏れていた。

 涙を浮かべながらも、その表情はどこまでも笑っていた。

 最後の瞬間までレミリアを信じ続けて、そんなバカみたいな終わり方をした2人に報いようとしていた。

 だが、それも既に限界だった。

 

「っぐっ、あっ!?」

「……終わり、だな」

 

 レミリアの身体を刺すように闇の刃が貫き、捕えられていた。

 全身が侵食され、もう身体を切り離すことも再生することもできない、本当の決着。

 パチュリーを失い、咲夜を失い、レミリアも既に動くことなどできないにもかかわらず、ルーミアには傷はおろか息切れ一つない。

 だが、完全になす術を失ったレミリアは、それでも笑みを浮かべていた。

 そんなレミリアに、ルーミアは苛立ちを含んだ声で呟くように聞く。

 

「なぜ、この状況で笑う?」

「約束したからな。 私は絶対にお前には屈しないと、お前の望むとおりになどなってやらないと! だから、たとえ死んでも、私は不敵に笑い続けてやるよ」

「今更そんなに無理をして何になる? もうお前には何一つ残されていないというのに」

「……いいや、残されているさ」

「何?」

 

 もう、大事なものはほとんど失ったけれど。

 自分の命すらも既に消えかかっているけど。

 それでも、レミリアは最後まで大切な人を守って笑顔で死ぬ。

 誰よりも幸せにならなきゃいけない子を。

 化物なんかじゃない、誰よりも優しい子の未来を。

 

 何があっても、たとえ―――

 

 

「たとえこの身が朽ち果てようともフランだけは守る、ね」

 

 

 レミリアが自らの命を諦めかけたその瞬間、辺りに少しだけ声が響いた。

 世界の存続さえかけたその戦場に存在するにはあまりに矮小な力しか感じられなかったが故に、その声が聞こえるまで気付くことはできなかった。

 だが、既にレミリアへの興味を失いかけていたルーミアは、突然のそれの登場に警戒心を引き上げた。

 

「古明地さとりか。 何だ、お前もこの根暗妖怪を倒しにでも来たのか?」

 

 レミリアは目の前に現れたさとりを歓迎するかのような笑みを浮かべながら言う。

 心強い援軍の到来に、戦いの続行を諦めかけていた自らの闘志を再び燃やし始める。

 

「いいえ、私はただ貴方の足掻きを見物に来ただけよ」

 

 だが、再びその目の炎を灯したレミリアとは対照に、さとりの態度はどこか落ち着いていた。

 その返答に少しだけ落胆しながらも、レミリアは再び笑みを浮かべようとするが…

 

「……そうか。 まあいい、私がこいつに屈することなくいられるのもお前のおかげだ、少しだけ感謝の…」

「ふふっ、ふふふふっ」

 

 さとりが浮かべたのは、何か愉快なものを見るかのような笑みだった。

 まるで、レミリアのことをバカにしているかのような。

 それに気付いたレミリアは、怪訝な表情を浮かべて聞く。

 

「何が、そんなにおかしい?」

「いいえ、ごめんなさいね。 ただ―――」

 

 そして、さとりは少しだけ勿体ぶるように間を空けて、レミリアを嘲るように言う。

 

「そうやって何も知らずに一人で強がってる貴方の姿が、あまりにも滑稽だったから」

「……え?」

 

 レミリアは、さとりの言っていることの意味がよくわからなかった。

 確かにレミリアは今、ルーミアに敗けて捕えられている。

 だが、レミリアの闇を解消させたのは、ルーミアに立ち向かう状況になるよう仕向けたのは、他でもないさとりのはずだったのだから。

 

「どういう、ことだ?」

「その身が朽ち果ててでも、貴方が守ろうとしたのは―――」

「……え?」

「あの、死体のことかしら?」

 

 レミリアは動けなかった。

 何が起こっているのかわからなかった。

 ただ、その瞳の奥に浮かんでいたのは、さとりが紅魔館に現れた時と同じ運命。

 フランが死ぬ運命だった。

 

「お前、一体何を……」

「貴方はあの時、無事に運命を変えられたと思ったのかもしれないけど、実は変えられてなんかいなかったの。 私の持つもう一つの能力で、貴方が昔見た記憶を一時的に貴方の心に再現してあげただけよ。 その昔貴方が捻じ曲げた、「フランドール・スカーレットの死」という運命をね」

「なっ……」

 

 さとりの能力は心を読むことだけではない。

 相手の心的外傷を再現して、その心に映し出す力を持っている。

 

「貴方は昔、自分の能力を使って妹が死ぬ運命を創り出してしまった。 過ちに気付いた貴方は、もう一度その能力を使って妹の死の運命を無理矢理捻じ曲げた」

「待って、お前は何を言ってる、フランは…」

「だけど、一度決定づけられた運命を変えるそれは、因果律さえも塗り替える、貴方の能力の限界を超える所業だった。 それを成し遂げるためには貴方の生涯の力を全て注いで、本来あるべき運命を騙し続ける必要があった。 別の運命を変えることに力を使ってしまえば、代わりに貴方が捻じ曲げていた運命が戻ってしまう、妹の死という運命が再発してしまう。 だから貴方はどんな運命が見えていても、それが決して変わらないように必死になっていた。 そういうことでしょう?」

 

 何故さとりがそれを知っているのか、などというのは愚問だった。

 さとりは、レミリアの心を読めるのだから。

 だからこそレミリアは、さとりがその苦しみを理解し、偽りの枷を外してくれたのだと思っていた。

 

「だけど、ただ運命の通りにしか進まない世界なんていうのはつまらな過ぎるでしょ? だから私が、貴方の「運命を変えれば妹が死ぬ」という固定観念を壊したように見せかけてあげたのよ」

 

 だが、さとりはレミリアを救おうとした訳ではなかった。

 目前に差し迫った「フランの死」という、レミリアがその呪縛を無視してでも変えざるを得ない運命を擬似的に見せることで、衝動的に『運命を変える能力』を使わせただけなのだ。

 さとりは、一介の吸血鬼に可能なはずがない、数百年も世界の法則を騙し続けるほどの所業を、更にペテンにかけた。

 どんな些細な運命さえも変えないことにその人生を捧げ続けてきたレミリアを騙し、ずっと守り続けてきた禁忌を破らせたのだ。

 レミリアは、震えた声で恐る恐るさとりに尋ねる。

 

「何だ、意味がわからない、だったら何だ、今見えてるのは……」

「ええ、そうよ。 私は今、貴方に見せていた偽りの平穏の記憶を解いただけ。 今見えているのが……運命を変えられるだなんて希望を貴方が持ってしまったばっかりに再発した、あの子が死ぬ未来が偽りなき本当の運命よ」

 

 レミリアは、ただ呆然としたまま動けなかった。

 さとりの言っていることを理解した結果を、受け入れられなかった。

 つまりは、あの呪いは偽りの枷などではなかったことを。

 運命を変えることなんて、本当はレミリアには許されなかったということを。

 

「……ふざけるな」

「あら、何がかしら」

「だったら……フランは今どうなってる? 咲夜は、パチェは、一体何のために死んだ? 私は今まで、何のためにっ…!!」

「もう貴方自身も気付いているんでしょう? ま、でもしょうがないから貴方にもわかりやすいように言葉にしてあげるわ」

 

 そしてさとりは、レミリアを憐れむような視線を向けて、

 

「貴方の妹も、従者も、親友も、貴方の勝手な思い込みのせいで何の意味もなく死んでいった。 ただそれだけのことよ」

 

「っ!? ああああああ”あ”あ”あ”ッ!!」

 

 それが聞こえた瞬間、レミリアは奇声と共に自らを捕えていた闇を振り払ってさとりに向かって飛ぼうとしていた。

 限界を超えた身体で、その心に発生した負の感情が、レミリアの奥底に眠っていた闇の力を再び呼び起こしていく。

 だが、伸ばしたその手はさとりに届かず、もがくほどに辺りを覆う闇に飲み込まれていく。

 涼しい顔をしているさとりを睨みつけるレミリアの目にあったのは、誰よりも強い怒り、嘆き、憎悪の色、そして――

 

「ふざけるな……ふざけるなっ!! 殺してやるっ、お前だけは絶対っ……!!」

「ふふっ、いい顔をするようになったじゃない。 今までで一番魅力的よ。 でも、残念だけど私は負け犬の遠吠えに興味はないの。 だから――」

 

 そして、さとりは再びその能力をレミリアに向ける。

 レミリアの心的外傷、変えることのできなかった運命の末路。

 両親の死の瞬間。

 パチュリーと咲夜の死の瞬間。

 そして、フランが死んでいく、運命の果ての未来。

 その光景を、まとめてレミリアの脳裏に映して……

 

「ぁ……」

「さよなら、哀れな吸血鬼。 せっかくだし最後に一つだけ教えてあげる」

 

 レミリアはもう、何も信じてはいなかった。

 ただ止めどなく溢れていく絶望に支配されながら、

 

「貴方のそのくだらない人生には、結局最後まで何の価値もなかったわ」

「っ……ぅあああああああああぁぁぁっ――――」

 

 悲痛な断末魔を上げて、そのままレミリアは闇に飲み込まれていった。

 その一連の出来事を前に、ルーミアは一歩も動くことができなかった。

 ルーミアは目の前にいる得体の知れない妖怪に向かって、恐る恐る尋ねる。

 

「……お前、一体何をしたんだ? あいつは…」

「貴方がいくら絶望を叩きつけようと、闇には墜ちなかったと?」

「ああ」

「でも、私はただあの子に「昔の」運命をちょっと見せてあげただけよ。 そしたら、あの子が勝手に勘違いして絶望しただけ。 まったく、随分と間抜けよね」

「なっ……」

 

 さとりは別に、紅魔館にいた時から能力を使い続けていた訳ではない。

 たった今、かつてのレミリアの心的外傷を想起させただけ。

 たとえさとりが持つのが相手の「心的外傷を想起」させるだけの能力だとしても、その本質を知られていなければ、見せ方によってはそれを「あらゆる記憶を再現」する能力であるとミスリードさせることはできる。

 さとりはただ、追い詰められたレミリアの焦燥感を煽るようにその能力を使い、必要な分だけ偽の情報を与えることで、想起させたその心的外傷を現実と錯覚させただけなのだ。

 つまりは、別にレミリアの行動によってフランの死の運命が蘇った訳ではない。

 ただほんの少し、レミリアの心の奥を抉る未来を、レミリア自身が現実と思い込むように仕向けただけ。

 それだけで、レミリアはフランが死んだと勘違いし、その瞳に強く宿っていた光は簡単に消え去ってしまったのだ。

 

 だが、レミリアの全てを壊すような残酷な仕打ちをしたはずのさとりの表情には、一点の曇りもない。

 まるでただの日常の一コマを終えたかのような、いつもと変わらない態度でルーミアに向き直っていた。

 それと対峙するルーミアは一度ゴクリと唾を飲み込んでから、冷静を装って言う。

 

「……ははは、酷いことするな、お前。 流石の私もそこまではできないぞ」

「あら、一端上げてから落とすのなんて心理戦の基本中の基本じゃない? それより、貴方の今の調子はどうかしら」

「え?」

「レミリア・スカーレットが墜ちれば、貴方には本当の意味で力が戻るんでしょう? その感覚を聞いてるのよ」

「あ、ああ。 良好だな」

 

 さっきまでのように、レミリアたちを相手に苦戦してしまうような、中途半端にしか戻らない脆弱な力ではない。

 全ての闇を抱えたレミリアを飲み込んだルーミアの力は、多くの支柱を失ってなお再び膨れ上がっていた。

 ルーミアには、別に全ての支柱が揃っている必要はない。

 一度その力の復活を終えてしまえば、自分の力の糧にするに十分な力の源があれば、それで問題は無い。

 そして、今やレミリアの抱える闇は、たった一人で全てを支えうるものとさえなっていた。

 だが、今のルーミアはそんなことよりも、レミリアを陥れた直後とは思えないほど淡々と事を進めるさとりへの、生まれて初めて心から抱いた畏怖の念に支配されつつあった。

 

「そう、それはよかったわ」

「……お前、一体何が目的だ? 私に加担する気なんてなかったはずだろ」

 

 闇の支柱として、ルーミアが最もふさわしいだろうと思っていた人材。

 それは、実はレミリアではなくさとりだった。

 その人生の全てを絶望の感情に捧げてきたレミリア以上であり得るのは、人生の全てを嫌われて憎悪の中を生きてきたさとりくらいだろうと思っていた。

 その心の中は、世界への憎しみで溢れ返っているものだと思っていた。

 だが、さとりは闇の力に感染しようとも決して屈することはなく、ルーミアの支柱として存在することはなかった。

 それ故に、ルーミアの復活は容易に進まなかった。

 最大の闇を抱えるはずだった憎悪の支柱の不在により、チルノが墜ちる以前は一度は危機にすら陥ったのだ。

 

「別に、貴方なんかに加担する気なんてないわ」

「だったら、なぜ……」

 

 ルーミアは怪訝な表情を浮かべてさとりに問いかける。

 ルーミアには、さとりが支柱として存在している感覚は未だにない。

 ならば、さとりは闇の力に感染しているものの、実は支柱足り得るほどの憎悪など抱えてはいないのか。

 あるいは、闇の力の浸食を無効化できる能力を、さとりが持っているのか。

 だが、そんなルーミアの思考を読んだのか、さとりはため息をつきながら見下した目で言う。

 

「……貴方、何か勘違いしてるようね」

「何?」

「自分がこの異変の主導権を握ってるとでも思ってるの? 今進んでいるのが自分の描いたシナリオの上だとでも思ってるの? だとしたら、それはひどく滑稽だわ」

 

 ルーミアにはさとりの言っていることの意味がわからなかった。

 今の異変の元凶の全てが、自分にあると思っていたからだ。

 

「一体、どういうことだ?」

「そうね……じゃあ、一つ質問してあげる」

 

 そして、さとりは少しだけ意地の悪そうな表情を浮かべて、

 

「貴方――――『嫦娥計画』という言葉に、心当たりはあるかしら?」

「嫦、娥……っがぁぁあああ”!?」

 

 その瞬間、ルーミアは頭を押さえて苦しみ始めた。

 その脳裏を、どす黒く耐えがたい苦痛が過ぎっていた。

 それが何なのかはわからない。

 あまりに捉えどころがなく、心的外傷と簡単に言葉にするのも憚られる、何か。

 だが、得体の知れない記憶にもがき苦しむルーミアを、さとりは何故か既に興味を失ったかのように冷めた目で見ていた。

 

「……はぁ、何よとんだ期待外れね。 貴方は何も知らない。 いや、そもそも知ること自体を許されていないのかしら。 それなら、もう貴方は用済みよ」

「何だ、お前は、一体何を……っ!!」

 

 そして、ルーミアは何かを感じ取ったのか、突如として跳び下がって闇を纏った。

 だが、そこには誰もいない。

 いないはずだが、確かにその空間が歪んで――

 

「っあああああああッ!!」

 

 ルーミアはその場で纏った闇を散弾銃のように開放して辺りを飲み込もうとするが、それは次第に勢力を失っていく。

 今、確かにルーミアの目に映っているのは、法則の歪曲に耐え切れずに波打っていく空間。

 ルーミアの纏う闇さえも、全てを平等に飲み込んで無色に染め上げていく世界。

 そして――

 

 

 ――審判『ラストジャッジメント』――

 

 

 天空にそびえ立つ、光と闇に二分された大剣だった。

 ルーミアは現状を把握できていない。

 目の前にあったのは、既に消し去ったはずの、今ここに存在するはずのない能力。

 かつてルーミアを陥れた、そのトラウマとでもいうべき力だった。

 

 ――違う、そんなはずがない。 確かに…

 

「確かに、四季映姫・ヤマザナドゥは消したはず? 自分が直接手を下した訳でもないのに? その瞬間を直接見た訳でもないのにそう言い切れる?」

「っ――――黙れ、そんなこと…」

「信じられないのなら、信じなくてもいいんじゃない? ただ、一つ知っておくといいわ。 貴方は無知よ。 今何が起こってるのか……いえ、自分が何者かすらもわかっていないほどに」

 

 さとりは、狼狽えるルーミアを嘲るように笑う。

 だが、今のルーミアにさとりの言葉を気にする余裕などない。

 ルーミアの周りを再び空間の亀裂が覆っていく。

 

「黙れ黙れ黙れ黙れっ!! そんなに死にたきゃお前もすぐに消してやるよ、この嫌われ者がっ!」

「ふふっ、随分と混乱してるみたいね」

 

 そう言って、さとりは音も立てないほど軽やかに上空へ飛んで手を伸ばす。

 それを追うように、ルーミアの闇がさとりを一瞬で覆いつくした……かのように見えた。

 

「まあいいわ。 じゃあ、せっかくだし少しだけ遊んであげる」

「なっ……!?」

 

 だが、さとりが何か合図をするようにその手を振りかざすとともに、突如としてさとりを覆い尽くそうとしていた闇が断ち切られる。

 そして、その闇の中から一つの影が現れた。

 

「な……なんで…」

 

 ルーミアは目を疑っていた。

 いつもと変わらぬ姿で佇む彼女は、冷徹な表情を浮かべたままルーミアをその視界に捉えていた。

 その手に握られているのは、人間も妖怪も神をも平等に、その罪の重さ分だけ一方的に裁く悔悟の棒。

 だがそれ以上に、幻想郷最強と言われる鬼さえも屈服させるほどの、存在するだけで全てを委縮させる絶対者の力は、彼女が本物であることをルーミアの本能に刻みつけるのに十分だった。

 既にルーミアの目にはさとりの姿など入っていない。

 そんなルーミアをあざ笑うように、さとりは愉悦の表情を浮かべて言う。

 

「ま、せいぜい私を愉しませてね―――不死の亡霊」

 

 そして、ルーミアを囲うように発生した空間断裂が、世界を飲み込んでいった。

 

 

 

 





この章はレミリアパートだけで終わりではなく、いろいろな重要な視点が入り混じってきます。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第28話 : 追憶

 

 

 深く、暗い海のようなものに沈んでいた。

 身体ではない、心だけを押しつぶすかのような水圧に囲まれた世界。

 健常なはずの手足は、自分のものではないかのように固まっている。

 どれだけ力を込めようとも、ピクリとも動けない。

 それでも、その心だけは徐々に潰れていく。

 

「あんたみたいな化物なんて、さっさと消えちゃえばいいのに」

 

 既に限界まで痛めつけられた霊夢の心に、深い暗闇の中からそんな声が押し寄せてくる。

 僅かに残っていた光さえも粉々に砕いて飲み込もうとするような、悪魔の囁きが響いてくる。

 だが、霊夢はその悪魔たちの声を知っていた。

 

「どう取り繕おうとも、所詮お前は災いを呼ぶだけの化物だ」

 

 それは、いつも隣で聞いていたはずの家族の声。

 かわいい妹の声。

 優しい姉の声。

 

「どうして、貴方みたいな化物に奪われなきゃいけないのよ」

 

 そして、大切な母の声。

 それらが自分の存在そのものを拒絶するかのように、憎しみで歪んだ不協和音を生む。

 

 ――ごめんなさい。

 

 口を開くことすらできないまま、霊夢はただ心の中で謝ることしかできなかった。

 その記憶すら真っ黒に塗りつぶされた今では、何を、誰に、どうして謝っているのかすらもわからなくなっていった。

 その脳裏にはただ、闇の混じった悲鳴だけが鳴り続ける。

 嘆きに。

 絶望に。

 怒りに。

 憎悪に。

 何に対するものなのかもわからない感情に、支配されていく。

 永遠の暗闇の中で、ゆっくりと心が壊れていく。

 ゆっくりと、染まっていく。

 ただ、ゆっくりと。

 自らの頭が覚醒し始めるよりも遅く。

 まるで、何かに遮られているかのように。

 

「……え?」

 

 ふと、霊夢は記憶の海の中で我に返る。

 その感覚に、覚えがあった。

 闇に墜ちようとする自分の心を包み込むような何かを、知っていた。

 その声から霊夢を遠ざけるように、境界が分厚く世界を遮っている。

 これから全てを支配されるはずだった霊夢の心に、温かい想いが流れ込んでくる。

 

「紫……?」

 

 返事は無かった。

 それでも、霊夢はその想いを信じて身を委ねる。

 温かい何かに包まれながら、ゆっくりと思い出していく。

 その記憶を埋め尽くすほどの、かけがえのない何かを。

 

 何よりも幸せだった、かけがえのない時間を――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第28話 : 追憶

 

 

 

 

 

 ※ここから過去編、『霊夢と巫女の日常録』(別作)に続きます。

 読んだ方がこの先の展開を楽しんでもらえるとは思いますが、この小説で言うと実質3話分くらいの長さがあり、過去編としては少し長すぎるので、読まなくても一応先に進めるようには構成してあります。

 

 

 





 流石にここにリンクとか載せるのはあまりよくないと思うので、

 ・過去編を全て読む方
  →お手数ですが、作者ページの『霊夢と巫女の日常録』(別作)の途中18話ルート分岐からこちらの29話にお戻りください。

 ・進行上必要な分だけ読む方 
  →そのまま29話に進んでください。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第29話 : 博麗の巫女



ルート分岐
『母さんを、説得する』を選択。




 

 

 

 

 化物は、世界を食らい尽くそうとしていた。

 全てを奪い、消すだけの無限の力の暴走。

 妖怪たちはそれを止めようと、必死で戦い続けた。

 全身が血にまみれ、致命傷と言うべき傷を負ってなお、それに抗い続けていた。

 

「宝具『陰陽鬼神玉』」

 

「魔眼『ラプラスの魔』」

 

 天空を覆うほどに巨大化していく白と黒の球体は、回転とともに電子を帯びて内なる霊力を増幅させていく。

 その軌道からの逃げ場の一切を塞ぐように向けられた数多の眼が、追撃をかけようとその動きを追う。

 それは、たとえ最高位の妖怪ですらも避ける術なく追い込まれるはずの、完璧な連携技。

 

 だが、その標的となっていた化物の力はあまりに強大すぎた。

 化物はあろうことかその陰陽玉に自ら手を伸ばして回転を止め、眩いほどの光とともにそのまま破裂させた。

 同時に、その光で目のくらんだ妖怪を貫くように、化物から白き閃光が伸びる。

 

「紫っ!!」

 

 地面に付くほど長く白い髪をした少女が、胸を貫かれて紙切れのように力なく宙に舞った妖怪の身体を受け止める。

 それを追うように、化物は地を蹴っていた。

 化物が狙うのは、もうまともに動くこともできない妖怪の命。

 鋭く紅く吊り上がったその目が導くのは、「死」という完全な終焉の形のみ。

 命のやり取りというものに慣れ切っていた少女は、次の瞬間に訪れるだろう妖怪の死を瞬時に悟った。

 

「ぐっ……」

 

 だから、少女は自らの身を捨てて妖怪を庇った。

 自分の右肩を引き裂かれてほんの一瞬表情を歪めた少女は、それでも妖怪を抱きかかえ、口に咥えたお札を真っ直ぐ吹き出すように飛ばして宣言する。

 

「夢符『封魔陣』!」

 

 少女が飛ばしたお札は化物を取り囲むように結界を創造し、体勢を立て直す時間を稼ぐ。

 その間に傷口を抑えながら再び立ち上がった妖怪が手を振りかざすと、化物を取り囲むように境界の狭間が無数に開く。

 僅かに怯んだ化物から距離をとった少女は、疲れを一気に飛ばすように大きく深呼吸をして言った。

 

「紫、まだいけるか?」

「っ……ちょっと、厳しいかしらね」

「くそっ……せめてあと、閻魔か藍のどっちかにでも協力を頼めないのか」

「駄目よ、2人には残る2つの脅威を止めてもらってるもの。 あの白沢や橙の手に負える相手じゃないし、私たちで何とかするしかないわ」

「ちっ、しょうがないか。 それにしても……」

 

 少女は、複雑な表情で化物を見る。

 そこにいる化物は、巨大で異形な怪物などではない。

 見た目だけなら、ほんの6~7歳ほどに見える小さな人間の女の子。

 それでも、世界で指折りの実力者であるはずの2人を同時に追い詰めるその力は、あまりに危険だった。

 だが、少女がその化物を見る目は、憎いものを見る目ではなかった。

 

「来るぞ!!」

 

 そして、化物は数秒で結界と境界を破壊して再び牙を剥く。

 神社の本殿だけは妖怪の能力によってそこから隔離されていたものの、高台にあったはずの景色が既に平地と変わらぬほどに沈み込んでいた。

 博麗大結界さえも無残に砕け、このままでは幻想郷が崩壊するのも時間の問題だった。

 世界の存続をかけるほどの、死闘。

 たとえ死に瀕する重傷を負っていようと、幻想郷を管理する妖怪の賢者と博麗の巫女がそこから逃げる訳にはいかなかった。

 だが、少女がその相棒である妖怪に少しだけ目を向けると、

 

「ちッ!!」

 

 少女は、一瞬だけ意識の飛びそうになっていた妖怪を思いっきり蹴り飛ばし、自身もその反動で逆に跳ぶ。

 

「ボーっとしてんな、紫!!」

 

 すると、その2人がさっきまでいた場所を、何かが通過するように飲み込んだ。

 世界を分割するようにまっすぐに伸びた白き光は、2人の連携を一瞬奪う。

 だが、その勢いで逆に跳んだ少女は、手の指いっぱいに霊力を込めた札を挟み、虚空に投げつけていた。

 それに合わせるように出現した境界が、異空間を通じてその札を化物の周囲に届ける。

 妖怪は地面を滑りながら意識を取り戻し、とっさに少女の行動をサポートしたのだ。

 

 それでも、化物はそれをもろともせずに、霊術で焼ける自らの身体を気にもかけず少女に向かって手を伸ばす。

 

「がっ――――!?」

 

 化物の指先から放たれたのは、得体の知れない力の塊。

 無数の弾丸に全身を貫かれんばかりの衝撃を受け、少女は虚しく地面を跳ねるように吹き飛んでいく。

 その傷は人間にとっては致命傷どころではない、即死は免れない殺意の跡だった。

 いや、その傷に限らない。

 その少女が今までに負っていたダメージは、胸を貫かれて出血の止まらない妖怪よりも、遥かに手遅れであるはずのものだった。

 瞳孔すら開ききった生気の感じられないその姿は、傍目からはもはやただの屍にしか見えない。

 

 だが、それでも少女は自らの足で立っていた。

 

「っ……もういい! もういいから……だから!!」

 

 妖怪は、地に伏したまま叫んだ。

 その少女が既に限界を遥かに超えていることは、一目見ただけでわかる。

 妖怪である自分でさえもうまともに動けないというのに、人間がそれ以上の傷を負っているのだから。

 それでも、少女は振り返らずに、

 

「嫌だ。 それでも、私は絶対……」

 

 その死に体の身体からは考えられないほど強い口調でそれだけ言って、一人で立ち向かっていった。

 

 妖怪はもう、何も言えなかった。

 その少女が、どんな過去を生きてきたのかを知っているから。

 少女は、その化物に自分を重ね合わせている。

 望まずして化物と呼ばれ、孤独に身を宿した人間。

 その運命を救ってあげたいと思うのは、当然だからだ。

 

「――…」

 

 妖怪は、その名を呼ぶことができなかった。

 自分ではもう止められないことが、わかっているから。

 その強く真っ直ぐな声を妨げることなど、できないから。

 

 だが、その声は途切れた。

 突如として鳴り響いた鈍い音と共に、少女は膝をつく。

 背後から頭を割られたような夥しい出血で、少女の意識は消え入ろうとしていた。

 

 それでも再び化物は、少女に向かって迫っていく。

 

「お願い、もうやめて……」

 

 妖怪は懇願するように言う。

 だが、それは化物に向かってではない。

 

「……夢想、封…」

 

 妖怪のその言葉は、死んでいるようにしか見えない身体で立ち上がろうとし、諦めずに再びその霊力を練り始めた少女に向けられていた。

 限界を超えるほどに死してなお、その少女が決して止まらないだろうことを妖怪は知っていた。

 

 ――もう、いいでしょ? どうして、貴方はそこまで……

 

 それでも、妖怪はもう、諦めたかった。

 諦めるための手段を、既に持っていたから。

 妖怪はただ諦めるための機会が……言い訳が欲しいだけだった。

 これは、自分のせいで起きてしまった出来事だから。

 少女が諦めていないのに自分が投げ出すことに、ただ負い目を感じていただけなのだ。

 

「……ダメよ。 もう限界」

 

 だが、どれだけ逃げようとも、目を逸らそうとも、現実は思うままに進んでなどくれない。

 たとえ何かを犠牲にしてでも、誰かを裏切ってでも、成さねばならないことがあるから。

 妖怪は無言のまま、周囲一帯に張り巡らせた結界を開放する。

 

「っ!! 待って。 もう、少しだけ…」

 

 朦朧とする意識の中それに気づいた少女は、焦ったように妖怪を止めようとした。

 だが、妖怪は止まらなかった。

 どれだけ時間を引き延ばそうとも、その化物が止まることはないからだ。

 だから、妖怪は自らの切り札を使って、ここで終わらせると決めていた。

 そのまま2人に向かって突っ込んだ化物は、突如として何かに絡め取られるように動きを止める。

 誰にも止めることのできないように見えた化物は、とても声とは思えないほど悲痛な叫び声を上げる。

 

「■■■、■■■■■!?」

 

「……ごめんね」

 

 妖怪は呟くようにそう言って、その結界を更に練り上げる。

 化物の力と、その力の宿主の魂の境界を取り払って、一つにするための結界。

 それは宿主の魂を永遠に苦悩の中に閉じ込める、悪魔の所業だった。

 それが謝って済むようなことだとは思ってはいない。

 だが、どれだけ非情と思われようとも、妖怪はそれを曲げるつもりはなかった。

 目的のためには、他の何もかもを捨ててもいいと決めたのだから。

 

 その代償に、たとえその子の未来が真っ黒に染まろうとも。

 どれほどの嘆きを生もうとも。

 どれほどの願いが潰えようとも。

 その先に残されるのが、深い、深い絶望だけだとわかっていたとしても。

 

 それでも、守るべき世界があるから。

 

 

  ――だから、せめて私は――

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第29話 : 博麗の巫女

 

 

 

 

 

 

 

「……また、夢か」

 

 日が沈んで間もない宵の刻。

 まだ幼き霊夢は博麗神社の布団で目を覚ました。

 なぜか鮮明に思い出せる、たった今見た夢の登場人物。

 戦っていた妖怪は恐らく、妖怪の賢者である八雲紫。

 もう一人の少女は恐らく、霊夢の母である博麗の巫女。

 そして、残り一人の化物の正体も、霊夢はなんとなくわかっていた。

 

「……何よ。 最初から言ってくれればよかったのに」

 

 だが、そんな夢を見た後で霊夢が思ったのはほんの些細なことだった。

 自分の育ての親である博麗の巫女の髪は、茶髪のはずだった。

 それにもかかわらず夢に出てくる巫女は、白く長い髪をしていた。

 だが、それが別人だとは思わない。

 元々白髪だったということは聞かされていないが、いわゆる「おしゃれ」のために茶髪に染めたという話は聞いていたからだ。

 

「別に、隠さなくても綺麗な髪だと思うんだけどな」

 

 霊夢は、ボソリと呟いた。

 だが、自分で言っておきながらも、わかっていた。

 ただでさえその異常な力故に恐れられた巫女が、目立たぬようにそれを隠そうとするのに不思議なことなどないのだ。

 そして、それが恐らく霊夢の母親として自然に接するための手段だったのだろうことも、わかっていた。

 そんなことで、嫌いになるはずがないのに。

 

「ま、それも含めてこれから言ってあげればいっか」

 

 そう言って、霊夢は何かに気付いたように寝たふりを始める。

 部屋の襖が開く。

 床の軋む音さえも立たぬほど静かで洗練されたその足取りは、霊夢の横で少し止まる。

 そのまま、囁くような小声で言う。

 

「ちゃんと、寝てるか?」

「……」

「……じゃあ、ちょっと行ってくるよ。 霊夢」

 

 そして、そのまま巫女は音もなく部屋を後にした。

 だが、霊夢は微かな気配を逃さなかった。

 既に懐に忍ばせていた装備とともに、こっそりと起き上がる。

 

「さーて。 尾行開始、っと」

 

 そして、霊夢は自分の直感を頼りに暗い森の中に飛び込んだ。

 

 霊夢は、巫女の行き先が気になった。

 巫女はこれから、霊夢の中に眠っている力を引き剥がすために外に出るという。

 その力は、500年ほど前に紫が博麗大結界に封印したという邪神の力であり、暇を持て余した霊夢がそれを勝手に神降ろししてしまったが故に霊夢と結び付いて離れなくなった力である。

 それは人間であるはずの巫女が生きている間に関われる歴史であるはずがなく、それまではただの捨て子、赤の他人だった霊夢と結びついたのにも、巫女に直接の関係はないはずだった。

 それでも、勝手なことをして邪神の力を復活させた霊夢を自分の子として育て上げ、これからその力さえも引き剥がしてもう一度普通の親子として暮らそうと言ってくれた。

 

「でも、ちょっと異常よね」

 

 それは元々が赤の他人であった相手にとれるような行動ではないはずだった。

 そこには、巫女が自分を助けた理由が、何かある。

 だが、霊夢はそれを知ってどうしたい訳でもない。

 ただ自分の母のことをもっと知りたいだけだった。

 それがたとえ利己的な理由によるものだとしても、どんなことでも受け入れると決めていた。

 

「……ここって、まさか」

 

 霊夢は、呆然と立ち止まる。

 巫女が向かったのは、人間の里ではなかった。

 そこを避けるように通り過ぎて着いたのは、とある竹林。

 迷いの竹林と呼ばれるそこは、一度迷い込めば帰れない魔境と恐れられている。

 だが、巫女は何の躊躇もなくそこに入っていった。

 霊夢は一度躊躇った後、それでも巫女に続いて入ろうとして、

 

「ダメよ霊夢。 そこは入っちゃいけないって教わらなかった?」

 

 それを遮る声が聞こえてきた。

 そこにあったのは、不機嫌そうな表情で境界から顔を覗かせる、紫の姿だった。

 

「……いつからつけてたの?」

「最初からよ。 今日こそあの子の秘密を探ろうと思ってね」

「え?」

 

 今日こそ、ということは紫は今までに何度も巫女の行先を調べようとしていたのだろう。

 そして、失敗している。

 だが、『境界を操る能力』を使えばどんな場所にでも簡単に行けるはずの紫が尾行に失敗することなど、霊夢には想像もできなかった。

 

「そんなの、紫ならこっそり探れば何とでもなるんじゃないの?」

「そうなんだけど……なぜかいつも、途中であの子を見失っちゃうのよね。 特殊な結界でも張ってるのかしら」

 

 結界ならば、その生成能力において右に出る者のない『境界を操る能力』を持つ紫が、破れないはずがない。

 そう思った霊夢だったが、紫が嘘をついているようには見えなかった。

 紫が、本当に困った表情をしていたから。

 巫女が普通の人間ではない異常な力を持っていることは何となく知っていたが、結界の生成において紫を超えるなどとは思っていなかった。

 

「……母さんって、本当に何者なの?」

「さあ。 そんなの私が一番聞きたいわ」

「でも、何か知ってたから紫は母さんを博麗の巫女に選んだんじゃないの?」

「うーん。 まぁ、その辺は直感よ。 偶然でも博麗の巫女に相応しい力を持ってる相手を見つけたら、声をかけるようにしてたからね」

「うわぁ。 本当に適当ね、あんた」

「あら? 今さらじゃない、そんなの」

「そうね」

 

 それは、いつもと同じような適当な会話。

 紫は昨日の出来事について何も触れなかった。

 昨日、霊夢が起こした惨劇。

 霊夢が、誤って魔理沙を殺しかけたこと。

 瀕死の魔理沙を助けるために、幽香に挑んだこと。

 追い詰められた霊夢の中に眠る邪神の力が暴走して、妖怪の山の一部を消し去ってしまったこと。

 それらの出来事が全て、霊夢に恐怖を与えて邪神の力を表出させるための紫の演出だったということ。

 だが、それがたとえあらかじめ計画されていた出来事だとしても、実際には見逃せるような軽微なものではない、数千や数万人以上の犠牲者が出ているはずだった。

 そんな重要な話を何もしてこない紫に、霊夢は耐え切れなくなって聞く。

 

「紫。 昨日のことだけど」

「事実よ、あの子が言ったことは。 あの子に、私が霊夢に近づくのを禁止されたってことも」

「……いや、今会ってるじゃない」

「私がそんな、誰かに縛られるような命令を黙って聞くと思う?」

「ああ。 聞くわけないわよね」

 

 紫は少しおどけたようにそう言う。

 普通なら冗談では済まない、許されない行為。

 だが、霊夢は既に紫を許していた。

 紫のことを、信じていた。

 それが、紫の自分勝手な欲望による行動ではないことくらい、なんとなくわかっていたからだ。

 

「止まって」

 

 突然、紫が霊夢を制止する。

 霊夢には、そこに何があるようにも思えない。

 それでも、紫は真剣に見開いた目で辺りを見回していた。

 

「……この辺りよ。 私がいつも、そして今日もあの子を見失ったのは」

「見失う?」

「ええ。 いきなり神隠しにでも遭ったかのように消えるの。 だから、ここに何かしらの境界があると思ったんだけど…」

「うーん……私には何もあるように思えないけど」

「それは私も同じよ。 でも、霊夢ならもしかしたら何か見つけられるんじゃないかと思ってね」

 

 霊夢はその類の力には敏感な方だった。

 博麗大結界に封印された邪神を自分で見つけられる程度には、直感も働いた。

 だが、その直感がいけなかった。

 何かがあると思った訳ではない。

 ただ、おもむろに目の前の空間に向かって手をかざすとともに、

 

「そんなこと、いきなり言われても――――えっ……!?」

 

 世界が反転した。

 何が起こったかを把握する前に、霊夢は何かに酔ったように歪む世界の中にいた。

 

「うっ…紫、何を……」

 

 霊夢は言葉にできない気味の悪さを感じていた。

 最初は、霊夢はそれがまた紫の仕業なのだと思っていた。

 だが、そこに紫はいなかった。

 そこはさっきまでと同じ竹林だったにもかかわらず、まるで異次元の世界に迷い込んだかのような奇妙な感覚があった。

 

「……紫? ちょっと、どこに行ったのよ、返事しなさいよ!」

 

 どれだけ声を上げても紫の返事はない。

 その気配を感じることは、できなかった。

 いや、そもそもその空間から生命の息吹を感じることは、全くできなかった。

 

「紫! 早く出てきなさいよ! ねえ紫ってば!!」

 

 次第に、霊夢は焦ってきていた。

 紫が急にいなくなっても、霊夢がここまで取り乱したことは最近ではほとんどなかった。

 だが、今の霊夢にそんな余裕はなかった。

 その空間から、得体の知れない恐怖を感じ取っていたからだ。

 

「っ―――!?」

 

 そして、突如として後ろから霊夢の頬を何かが掠めた。

 大した傷を負った訳でもなければ、それほどの痛みを感じていた訳でもない。

 それでも、霊夢は足が竦んでいた。

 それが飛んできた方向に、振り向くことができなかった。

 

「何……これ?」

 

 それは、超スピードで飛び、その空気摩擦で燃え尽きてしまった指の、骨の残骸。

 それすらも、やがて煙を上げて無に還る。

 呆然とそれを見ていた霊夢を襲ったのは、今まで一度として感じたことのないほどの寒気だった。

 初めて格上の妖怪と戦った時。

 本気の幽香に蹂躙されていた時。

 そんな時に味わった身も凍るほどの恐怖ですら、今感じているものとは比較すべくもない。

 そこにあるのは、ただ殺気だけ。

 相手を殺すためだけの、確かな殺意。

 ただ一つの命を奪うため、という表現では表せないほどの、無限の死を感じていた。

 

 

  「『パゼストバイフェニックス』」

 

 

 突如として、そんな言葉が響き渡った。

 それは、聞き慣れたはずの霊夢の母の声。

 だが、静かな殺気の込められたその声が、霊夢には母の声だとは信じられなかった。

 そして、いつも優しく霊夢に笑いかけていたその表情は――

 

「母さ……っ!?」

 

 憎しみに染まり、景色を焼き尽くしていた。

 微かに視界の端に映った巫女の姿を、霊夢は追うことができなかった。

 その身を火の鳥と一体化し、自らの血肉を犠牲にしながらも目に映る全てを殺す狂気の姿。

 幽香を目の前にした時以上の、直視することすらできない死の恐怖が霊夢を襲っていた。

 

「……紫」

 

 気付くと、霊夢は呟いていた。

 そこにいない紫の姿を、必死に探していた。

 

「藍っ! 橙っ! 先生っ! 魔理沙っ! 誰か、誰でもいいから来てよ!」

 

 その空間に一人でいることが、怖かった。

 何が起こっているかもわからない、その時間から解放されたかった。

 だが、誰一人としてその声に答える者はいなかった。

 ただ、近づいてきた何かに向かって、最後に霊夢が思いっきり叫んだ声は、

 

「ねえっ、どういうことか説明してよ、母さん!!」

 

「っ!? 霊…」

 

 辺りを覆う殺気を、僅かに散らした。

 だが、その油断は一瞬で戦況を塗り替える。

 巫女の身に沿うように飛んでいた火の鳥は、突如として風に溶けたように消えていく。

 それとともに、無色の虹が巫女の身体を貫いて、

 

「ぐっ―――!?」

「え……? 母さん!?」

 

 それでも、巫女はその残照から霊夢を守るように軌道を変えて着地する。

 そのわき腹から溢れ出る夥しい出血は、明らかな致命傷を表していた。

 放っておけばたとえ妖怪であっても死を免れないだろう巫女の傷は、霊夢から冷静な思考を吹き飛ばしていた。

 だが、巫女はそんな自分の身体を気遣うこともなく、霊夢に背を向けたまま叫ぶ。

 

「どうして……どうして来たんだ霊夢!」

「だ、だって、母さんが…」

「くそっ。 ここは紫でさえ来れるはずがないのに、なのに―――」

 

 そこで、巫女は何かに気付いたように呆然と空を見上げた。

 その一方で、霊夢は一歩も動くことも声を出すこともできなかった。

 突如として現れた何者かから感じる静かな狂気を畏れるように、目線を上げることすらできなかった。

 

「……そういうことかよ」

「……」

「畜生。 それが、お前のやり方かよっ!!」

 

 その相手が、微かに笑った気がした。

 巫女は、逃げるように霊夢を抱えて一瞬で地を蹴る。

 周囲を取り囲む火の鳥は、霊夢が今まで感じたことのないほど強大な力に覆われていた。

 だが、それすらもあっけなく断ち切られたかと思えば、すぐに辺りを新たな炎が焼き尽くす。

 今の霊夢には、対処するどころか目で追うことすらとてもできない攻防。

 霊夢は、ただ巫女の胸元に顔をうずめたまま震えるばかりで、何もできない。

 故に、ただのお荷物でしかない霊夢を抱えながら飛ぶ巫女は、次第に追い詰められていった。

 

「ぐっ!?」

 

 そして、巫女は背中から得体の知れない光に焼かれ、地面を滑るように墜落する。

 その寸前に、霊夢だけを暗闇に隠すように放り投げながら。

 だが、既に死に体となった巫女の首を、それでも何者かが折るように片手で持ち上げて絞め上げる。

 それを見かねた霊夢が、飛び起きて叫ぶ。

 

「母さんっ!!」

 

 その声は、骨が砕かれたような音に遮られた。

 薄暗い景色のせいで姿の見えないその相手は、既に四体の動かなくなった巫女の首を、それでも最後の命の灯まで消さんほど強く絞めていく。

 

「大丈夫、だから……私は大丈夫だから、逃げろ、霊、夢……」

 

 巫女は、最後の力を振り絞ってそう言う。

 抗うことができずに苦悶の表情を浮かべながらも、それでも霊夢の身を案じる。

 それを、霊夢は直視することができなかった。

 

 ――母さんが死んじゃう。

 

 ――やめて、母さんが死んじゃう!!

 

 その声は、出ない。

 呼吸すら上手くできない震えの中で、懸命に叫ぼうとする。

 それでも、声は出ない。

 ただ、同時に霊夢の中で何かが暴れようとしていた。

 自らの身を襲う恐怖以上に、目の前で死にかけている母を放っておけないという気持ちが全身を駆け巡り、その奥底にある何かを自然と呼び起こしていた。

 

「……はなせ」

 

 霊夢は呟く。

 無言のまま巫女の首を絞めるそいつに、直視できなくとも殺気だけを向ける。

 

「っ!! 待て、やめろ、霊…」

 

 それに気付いた巫女は、霊夢を止めようと声を上げようとする。

 だが、その声を遮ろうとするかのように、そいつは巫女の首を絞める力を更に強めた。

 その口元は、霊夢を見ながら挑発するかのような笑みを浮かべていた。

 そして、霊夢に見せつけるように、巫女の首を折ろうと力を込めて、

 

 

「母さんを……放せええええええええええっ!!」

 

 

 何かが霊夢の身体の奥底から飛び出すような感覚とともに、世界が反転した。

 

 その空間にあった何もかもが白く染まって、目の前にあった全てを消し飛ばしていた。

 それとともに得体の知れない異空間は消え去り、次の瞬間辺りに戻ったのはいつも通りの夜。

 ただ一つ、竹林の中心にできた、まるで巨大な隕石が落ちたようなクレーターを除いて。

 

「……え?」

 

 その中心で、霊夢は我に返った。

 霊夢には、その数秒の記憶がなかった。

 気付いた時には、いつの間にか自分の周りには何もなかった。

 竹林も、大地も、塵の欠片すらも。

 ただ見渡す限りの無が、その視界を埋め尽くしていた。

 

「母さん……?」

 

 答えるものは、何もなかった。

 ただ、無我夢中で伸ばした手が握りしめていたのは、焦げ落ちた布の欠片。

 巫女がつけていたはずの赤と白のリボンの破片だけが、その手に握られていて…

 

「あ、ぁ……」

 

 その出来事を理解するまで、時間がかかった。

 

 ――母さんが。

 

 ――大好きだったのに。 大切な、大切なたった一人の母さんだったのに。

 

「私が、殺し…」

 

 そして、溢れ出る感情を抑えられないままに、

 

「ぃゃぁあっ、嫌ああああああああっ!!」

 

 霊夢の泣き叫ぶ声だけが、ただ夜の闇に虚しく鳴り響いていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第30話 : 物語

 

 

 

 その日は、よく晴れていた。

 そんな日は日なたで横になっていることを好むはずの霊夢は、博麗神社の正面に一人立っていた。

 何をするでもなく、食事も喉を通らないまま虚ろな目で、誰かがその鳥居をくぐって来ないかを見ている。

 

「紫」

 

 返事はない。

 

「藍、橙」

 

 それに答える者は、誰もいない。

 

「……母さん」

 

 そう呼ぶたびに、霊夢の目から涙が溢れる。

 ずっと握りしめ続けて手の中でくしゃくしゃになってしまった布の欠片が、また少し濡れる。

 

「誰でもいいから、返事してよ」

 

 その声は弱弱しかった。

 

 

 その日は、雨が降っていた。

 そんな日は布団に包まっていることを好むはずの霊夢は、博麗神社の正面に一人立っていた。

 雨に濡れながらも、何かを待つように立ち尽くしていた。

 

「帰ってきてよ」

 

 それが、ただの独り言でしかないことを、霊夢はわかっていた。

 

「いつもみたいに馬鹿なこと言ってよ」

 

 いつも適当に流していた言葉が、今は愛おしく感じる。

 今なら、それに付き合ってあげることもできる気がする。

 それでも、そこにはもう誰もいなかった。

 

「……寂しいよ」

 

 その声は雨の音に掻き消されて、自分の耳にすら届かなかった。

 

 

 その日の天気は、わからなかった。

 雨に打たれ過ぎて冷え切ったその身体は、まともに動くことすらも許さなかった。

 ひどい胸の痛みと困難な呼吸が、その身を蝕んでいた。

 そして、何より霊夢の中にある思い出が、その心を蝕んでいた。

 いつもならこんな時に聞こえてくるはずの、霊夢を看病する母の声。

 それが、今は聞こえない。

 もう二度と、その声が響くことはない。

 

  ――待て、やめろ、霊…

 

 ただ、最後のその声だけが頭から離れない。

 奪ってしまった大切な命の記憶が、霊夢の心を締め付けていく。

 

 ――もういい。

 

 霊夢の目は死んでいた。

 既に肺炎になっているだろう身体の辛さのせいではない。

 そんなものが気にならないほどに、霊夢は無理に立ち上がり、歩いていく。

 博麗神社の、裏へ。

 

「……」

 

 霊夢は立ち尽くしていた。

 怖くなった訳ではない。

 未練がある訳でもない。

 ただ、大好きだった母が一番悲しむだろう選択をしてしまう自分が情けなくなっていた。

 それでも、その感情はそれを押しのけるほどに強く――

 

 

 ――私なんかにはもう、生きてる価値なんてないから。

 

 

 霊夢は一言発することすらなく、神社裏の池に入水した。

 

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第30話 : 物語

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、目の前には不思議な景色が広がっていた。

 実際には存在しなかったはずの、どこか違和感を感じる空想上の世界。

 それでも、その世界は楽しい光に包まれていた。

 

 巫女と紫がいつものように馬鹿な掛け合いをしている。

 藍がその傍らで、やれやれと一人ため息をついている。

 そこに割り込もうと、霊夢が通う寺子屋の教師の上白沢慧音が乱入する。

 

 その光景を見ていた霊夢が、藍の式神の橙や魔理沙と一緒に、先生に続けと突撃をかける。

 

 霊夢はふと、そんな生き方もあったのではないかと思った。

 理由もなくただその場のテンションに身を任せて動く自分の姿は、傍目からはひどく滑稽に見えたけれど。

 それでも、楽しそうに見えた。

 クールで大人びた生き方なんてしなくていい。

 もっと、そんな風に思いきりはしゃいでみてもよかったのではないかと思った。

 もっと、母たちと一緒の時間を大切にすればよかったと、後悔していた。

 だが、それに気付くのはあまりにも遅すぎた。

 もう、未来は残されていないから。

 母はいない。

 そして何より、霊夢自身が自害してしまったのだから。

 

「……でも、それでもいいのかな」

 

 たとえ今見えているのが夢だとしても。

 ただの虚しい妄想だったとしても。

 残酷な現実の中を生きるよりは、よっぽどいいと思った。

 

「私はこの夢の中で、もう一度―――」

 

 だから、霊夢は何もかもから逃げるように、ただ手を伸ばして――

 

 

「…………あれ?」

 

 その先には、誰もいなかった。

 目の前に広がるのは、曇天の空。

 灰色の景色とひどく冷える身体は、現実を突きつける。

 霊夢は夢から覚めたのだ。

 だが、いつも通りのその光景は、これまでの全てが夢だったという束の間の希望を霊夢に与えて、

 

「……そう、だよね」

 

 再び霊夢を現実に押し戻す。

 その手の中には、母のリボンの欠片が未だ握られていた。

 ずぶ濡れになった身体は、それだけは決して離さずに握りしめていた。

 

「死ねなかった、か」

 

 霊夢は自分の情けなさが悔しくて、仰向けになったまま唇を噛みしめた。

 誰かが隣にいてくれないと前を向くことすらできない。

 そんな人生を自ら終わらせる勇気すらない。

 そんな、あまりに弱くちっぽけな自分の本性を突きつけられながら、ただ虚しく空を仰いでいることしかできなかった。

 

「……本当に。 何がしたいのかしらね、貴方は」

「っ!!」

 

 だが、突然聞こえてきた声で霊夢は飛び起きた。

 そこにあったのは、木に寄りかかるように立ちながら、冷たい目を向けてくる紫の姿。

 今までずっと帰ってこなかった紫は、当然のようにそこにいた。

 

「あ、紫…」

 

 紫自身が気付いているのか気付いていないのか、よく見るとその袖は少し濡れていた。

 霊夢は、死ねなかったのではない。

 孤独に死のうとしていた霊夢を、紫が池から引っ張り出して助けたのだ。

 それに気づいた時、霊夢は本当は嬉しかった。

 だが、同時にその胸は強く締め付けられていた。

 霊夢を見る紫の目の色が、明らかに違っていた。

 親友を奪われた紫が、霊夢に向けているだろう憤り。

 その罪悪感に、霊夢は押しつぶされそうになっていた。

 

「……ごめんなさい」

「……」

「私、母さんを殺しちゃった」

「……」

「殺したの。 私が、大好きだったのに、私が、私がっ…!!」

 

 縮こまって俯いたまま感情的になっていく霊夢とは対照に、紫は返事をしなかった。

 ただ黙ってそれを聞くだけ。

 別に霊夢は許しが欲しい訳ではない。

 それでも、何かを言ってほしかった。

 どれだけ罵られても、殺されても、それでも別によかった。

 

「……そう」

 

 いや、むしろそうでもなければ、心が壊れてしまう。

 何のお咎めもなく向けられ続けるその眼差しに、霊夢はこれ以上耐えられなかった。

 だが、次の瞬間聞こえてきたのは、霊夢が予想もしていなかった言葉だった。

 

「それは、ちょうどよかったわ」

「え?」

 

 霊夢は自分の耳を疑った。

 紫の口からそんな言葉が出たこと自体、理解することができなかった。

 

「もう邪魔だったのよ、あの子。 人間の代表である博麗の巫女のくせにまともに人間に混じることもできないし、そのくせ口を開けば面倒な口答えばかりの出来損ない」

「紫……?」

「だから正直言うと助かったわ、霊夢があの子を殺してくれて。 これでやっと、次の巫女を探せるわ」

 

 微かな笑みを浮かべながらそう言う紫を前に、霊夢は言葉にできない気持ち悪さを感じていた。

 自分の中の何かが、音を立てて崩れ落ちていく。

 こんなことなら、本当に死んでおけばよかった。

 何も知らないまま、終わっていたかった。

 そう思えてしまうほどに、現実は霊夢の心を蝕んでいく。

 

「……なんで、そんなこと言うのよ。 紫は母さんの友達だったんじゃないの? 紫は、母さんのことをっ…!!」

「友達? あはは、何を勘違いしてるの」

「え?」

 

 それでも、霊夢は信じたかった。

 どれだけ現実が残酷でも、楽しかったあの時間だけは嘘じゃなかったと思いたかった。

 だが無情にも、紫が次に放った言葉が、霊夢の全てを壊した。

 

「アレは、幻想郷を維持するためだけに利用してきた道具。 そんな唯一の役割すらまともに果たせない、ただのガラクタよ」

 

 霊夢は、何も反応することができなかった。

 ただ、そう言われた瞬間、霊夢の中で何かが切れた。

 悲しみよりも、絶望よりも、湧き上がってくる怒りを抑えることができなかった。

 

「……違う」

「何が?」

「母さんは、あんたの道具なんかじゃない。 母さんは―――」

 

 そして、それは何故か、次第に憎悪へと変わっていく。

 自然とその奥にある闇に囚われて、心が支配されていく。

 だが、紫はそんな霊夢に冷めた目を向けたまま、

 

「ガタガタ五月蠅いのよ」

「っ―――!!」

 

 瞬時に霊夢の後ろに回り込み、頭を地に叩き付けた。

 紫を睨んでいたはずの霊夢の視界は、いつのまにか地に伏されて何も見えなくなっていた。

 

「母さんは、何?」

 

 何が起こったかもわからないまま紫に頭を踏みつけられていた霊夢は、声も出せなかった。

 起き上がれないまま、ただ強く地面に押し付けられる。

 

「言いたいことがあるのなら言ってみなさい。 ほら、早く」

「っ――――、」

「……はぁ。 結局、出来損ないの子は出来損ないにしかならないのね」

 

 そう言って、紫は霊夢の腹を蹴り飛ばす。

 だが、倒れたまま地を跳ねるように滑りながらも、霊夢は受け身一つとろうとしない。

 傷を負うことなど、もはや気にもならなかった。

 ただ、感情と共に、自らの内にある何かが暴走し始めていることだけを感じていた。

 そして、霊夢はボロボロになったその身体で、目の前の憎き妖怪を睨みながら静かに立ち上がる。

 

「……取り消せ」

「はあ?」

「母さんは出来損ないなんかじゃない。 あんたに、そんなことを言う資格なんてない」

 

 霊夢はもう、全てを忘れていた。

 楽しかった日々を。

 母を喪った、悲しみを。

 自分の命すらも諦めた、絶望を。

 思い出も感情も、全てをただ目の前の妖怪への憎悪に変えて、その身に宿した最悪の力を纏っていく。

 

「出来損ないでしょう? 貴方みたいな弱い子供に殺されるような、使えない道具なんだから」

「違う。 違う違う違う違う!! あんたなんか私が…」

「貴方ごときに、私が殺せるとでも?」

「っ――!!」

 

 本当はそんなつもりなど、なかった。

 考えたこともなかった。

 だが、それでも霊夢はもう何も考えられなかった。

 

「……黙りなさいよ」

「だったら、やってみたら? 私は妖怪の賢者、八雲紫。 あんな出来損ないとは違って…」

 

「黙れって言ってんでしょ!! お前なんかっ――――」

 

 

 ――消えちゃえばいいんだ。

 

 

 そう言いかけた途中で、遂に激昂した霊夢の中から得体の知れない力の塊が溢れ出した。

 その力は辺りに拡散し、目の前の何もかもを真っ白に染め上げ、無に分解していく。

 存在そのものを喰らい、永遠の闇へと誘うその力は……

 

 そのまま、あっけなく全てを消した。

 霊夢は、ただ静かにその現実を目の当たりにしていた。

 返事などない。

 後には微かな砂煙が舞うだけのそこに目を向けて、

 

「……ははは」

 

 霊夢は、笑った。

 

「ざまぁみろ」

 

 今は亡き、憎き妖怪の消えた空間を見ながら、笑っていた。

 

「何が妖怪の賢者よ、結局何もできなかったじゃない」

 

 いつもからは考えられないほど、饒舌に。

 

「悔しかったら何か言ってみなさいよ、ほら」

 

 いつものように、そんな挑発的に。

 

「いつも、偉そうなこと言ってたくせにさ」

 

 そんな、憎き妖怪との記憶を思い出して。

 

「私のこと、散々苛めてきたくせにさ」

 

 その声は次第に震えてきて。

 

「私なんかと一緒に、笑ってたくせにさ…」

 

 その心にはむしろ、そんな楽しい思い出ばかりが浮かんできて。

 

「こんな化物と、本当に……家族みたいに……」

 

 遂には、その目から涙が溢れ出た。

 

「あ、ぁぁ……」

 

 漏れそうになる嗚咽を必死でこらえながら。

 

「……いやだ」

 

 もう誰もいない虚空を見つめながら。

 

「嫌だよ。 もう、一人にしないでよ……」

 

 ただ感情のままに、

 

「お願いだから返事してよ、紫……」

 

 何もかもが消えてしまったその空間に向かって、

 

「死なないでよ、ゆかりいいいいいいい!!」

 

 それは虚しく響き渡った。

 もう何もないと、わかっているのに。

 誰も返事などするはずがないと、わかっているのに。

 それでも、霊夢が叫んだその声は、

 

「……ほらね」

 

 その、砂煙の中から現れた声に遮られた。

 全身をボロボロにしながらも、両手を広げてそこに立っていた妖怪の、

 

「私は、強いでしょう?」

「ぁ……」

 

 優しい声色で語りかける笑顔に、届いていた。

 既に立つことすらできないはずの足で、妖怪は一歩前に出る。

 一歩。

 また一歩。

 そして、霊夢の前で遂に倒れ込むように膝をつき、それでも霊夢を抱きしめて言う。

 

「……ごめんね」

 

 霊夢は、何も言えなかった。

 ただ、自分を包み込む確かな温もりの中で、動けなかった。

 

「私、本当はもっと前から気付いてたの。 ……あの日、突然いなくなった霊夢を探して、やっと見つけた霊夢が泣いてるのを見てね。 本当はその時にはもう、あの子が死んだんだってわかってたんだ」

「え?」

「その時は信じられなかった。 あの子がもういないって考えただけで恐かったから。 本当に……身体が震えて、どうにかなりそうだったから。 でも、そうじゃない。 一番辛いのは、霊夢なのに。 私が、霊夢を支えてあげなきゃいけないはずなのに。 なのに、霊夢が一人で苦しんでる時に、私はずっと藍の背中で一人泣いてるだけだった」

 

 そう言って霊夢を抱きしめる紫は、震えていた。

 その目から零れ落ちた涙が、霊夢の首筋を伝っていった。

 

「……ごめんね、一人にしちゃって。 辛かったよね、寂しかったよね、霊夢」

 

 それは、紫が霊夢の前で初めて見せる弱さだった。

 誰よりも巫女のことを想い、それを喪った悲しみに震えている、一人のか弱い妖怪の姿だった。

 

「だけど、もう絶対、霊夢を一人にしたりしない。 霊夢が辛い時は、いつだって傍にいてあげるから。 霊夢が悲しみで壊れそうになった時は、私が何度だって受け止めてあげるから」

「ぁ……」

 

 だが、紫は自らの中の悲しみを押し殺して、霊夢を強く抱きしめる。

 霊夢の手からは力が抜けていった。

 自分の心の奥底から漏れてくる涙と嗚咽を、止めることができなかった。

 ただ、まっすぐに優しく自分に微笑みかけてくる紫に向かって、

 

「紫……母さんが」

「うん」

「大好きだったのに。 私、私…」

「いいのよ、もう。 我慢しなくて」

「ぁ……嫌だ、母さん…いゃぁぁ、いやあああああああああああっ!!」

 

 思うままに全てを吐き出した。

 その悲しみを支えてくれる相手が、いなかったから。

 誰を恨んだらいいのかも、わからなかったから。

 だけど、今の霊夢には、何もかもを受け止めてくれる人がいる。

 悲しみも絶望も、怒りや憎しみすらも、全てを受け止めてくれる、そんな家族がいてくれるから。

 だから、霊夢は初めて人前で大声で泣き叫んだ。

 声が枯れて泣き疲れるまで、ただ紫の胸の中で泣いた。

 

 やがて、疲れ果てるほどに悲しみを吐き出しきった霊夢に向かって、紫はそっと呟く。

 

「……ずっとね、考えてたの。 この世界に、悲しみなんてなくて済む方法を。 霊夢が、その力を恐れずに暮らせる方法を」

「え?」

 

 紫が片手を天にかざすとともに、空に数多の霊力の弾が咲いていく。

 花火のように光る弾幕が辺りを覆い、枯れ切るほどに涙を流しきった霊夢の瞳に光を映す。

 

「『スペルカードルール』」

 

 その言葉は、静かに霊夢の耳に響いた。

 霊夢は目の前で咲いていく、昼間の花火を見ながら、

 

「……綺麗」

「そうでしょう? これはね、ただ「美しさ」を競うだけの勝負よ」

「美しさ?」

「そうよ。 もう、誰も傷つかなくて済むように。 妖怪も人間も、ただ一緒に遊ぶかのように争いを解決できるようにって。 それが、あの子の願いだったから」

 

 そして、紫はもう一度霊夢を強く抱きしめて、誓う。

 

「今はまだ、こんな途方もないルールを浸透させるなんて無理に見えるけど、いつかきっと幻想郷に根付かせてみせるわ」

「……うん」

「もう霊夢が誰かを傷つけたり泣いたりしなくていい、皆で笑って喧嘩できるような、そんな幻想郷にしてみせるから――――」

 

 

 それから、紫はしばらく博麗神社には来なくなった。

 幻想郷でスペルカードルールを浸透させるために、一人必死に奔走していた。

 辺りを彷徨う妖精から各地の有力者まで、時には話し合いで、時には力ずくで、時にはその『境界を操る能力』を使って相手の意識に介入し、スペルカードルールそのものへの敷居を下げて。

 

 そして数年後、レミリアが起こした紅霧異変により、遂にそれは実用化された。

 その日に備えてずっと橙や藍と一緒に弾幕戦の特訓を続けてきた霊夢は、その異変でレミリアを含めた紅魔館メンバーを、全てスペルカードルールで負かすことに成功した。

 まだ十代前半の子供でありながらも吸血鬼の城を無血制圧した新たな博麗の巫女として霊夢は幻想郷に名を轟かせ、スペルカードルールは両者が過度に傷つくことなく対等に勝負できる決闘方法として、幻想郷に少しずつ浸透していった。

 そして、夢物語にさえ思えたそのルールは、今や幻想郷で最もメジャーな決闘方法として知れ渡っている。

 弾幕の美しさだけを磨き続けている霊夢が、誰かを殺してしまう心配もなく、誰もが決闘後に笑って握手のできるような世界が生まれたのだ。

 

 それを成し遂げた紫は、春雪異変という一つの区切りを終えて、やっと霊夢のもとに戻れるようになった。

 魔理沙や、今まで解決した異変の関係者たちとも一緒に、幸せな日々を暮らしていけるようになった。

 もう、一人じゃない。

 母の死を乗り越えて、ここからもう一度始められるのだと、次第に霊夢にも笑顔が戻ってきていた。

 紫がこれからも自分の隣で、この世界をずっと一緒に生きてくれるのだと、そう思っていたから。

 

 

 なのに――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……嘘つき」

 

 霊夢は呟いた。

 ルーミアの闇に飲み込まれてしまった霊夢の心を覆うのは、一面が暗闇に閉ざさせた世界。

 闇に墜ちた者の心を更にその深淵へと誘う、負の心象世界。

 だが、その中心には辺りの闇を遮るように光の空間が存在していた。

 広く開けたその光の世界に、霊夢は立っていた。

 

「あら、私がいつ嘘をついたのかしら?」

 

 そこには、もう一人。

 霊夢から少し離れたところには、一人の妖怪。

 いつものようにおどけたような表情をした、紫が立っていた。

 

「……ごまかさなくても、わかってるのよ」

 

 霊夢は、紫に向かって一枚の札を投げつける。

 だが、それは何にも当たらずに落ちていく。

 正確には、当たらないのではない。

 まるで紫が存在しないかのように、虚空を切って落ちていった。

 

「あんたは、紫のつくった幻影でしょ。 ……もう、本当は紫はいないんでしょ」

 

 そこにある紫の存在は、あまりに薄かった。

 辛うじてそこに残っている紫の姿を、霊夢は感じられていなかった。

 いや、本当は紫の存在を微かに感じてはいた。

 ただし、それは紫からではない。

 ただ、周囲を覆う空間そのものから、紫の空気を感じ取っていただけだった。

 

「……そうね。 私はもう、霊夢の深層世界を遮るための境界そのものになったから」

「っ……」

 

 紫は既に、闇に飲まれてから随分と時間が経っていた。

 それでも、紫はその中で自らの力を振り絞り、闇の浸食から霊夢の心を守るための強大な結界そのものと化していた。

 霊夢の心が闇に墜ちないよう遮る、ただそれだけのための存在となるために、自らの全てを捧げてしまった。

 だから、ここにいるのは紫の実体ではない。

 その心象世界に溶け込んだ微かな魂の残照に過ぎないのだ。

 だが、それを実際に言葉にされた途端、霊夢の心がまた締め付けられる。

 

「……なんでよ。 私を一人にしないって、言ったじゃない」

「……」

「傍にいてくれるって、言ったじゃない」

 

 霊夢は俯きながら、震えていた。

 そんな霊夢をいつものように挑発するような態度で、紫は言う。

 

「おやぁ、霊夢ちゃんはそんなに寂しがり屋さんだったのかしら? たかが私一人くらい…」

「当たり前でしょ!!」

 

 紫の声を遮って、霊夢は叫ぶ。

 もう、その目から溢れる涙を止めることはできなかった。

 

「あんたがいたから、私はまた生きようと思えた」

「……」

「楽しい時も、辛い時も、あんたが……紫が傍にいてくれたからっ!」

 

 普段なら照れくさくて絶対に言わないような、霊夢の本音。

 それを、紫は微笑みながら受け止めていた。

 だが、それに返事はしない。

 いつもの凛々しさなど全く感じさせないほど小さく見えた霊夢から、紫は背を向けて言う。

 

「……いい所でしょ、幻想郷って」

「え?」

「手の付けられない問題児も、頑なな社会構造も、解決すべきことなんて数えきれないくらいあるけど、それでも私はこの世界が好きよ」

「何の、話を…」

「忘れ去られた者たちが、それでも自分に意味を見出して生きられる世界。 ま、そこで望みどおりのものが得られるのかは、各々の努力次第だけどね」

「っ……話を逸らさないでよ、紫!」

 

 怒鳴るようにそう言った霊夢に、紫はもう一度振り返る。

 

「霊夢」

 

 そして、その微笑みを崩さないままに、言った。

 

「私は、嘘をついてなんかいないわ」

「……どういうことよ」

「いつ、私が貴方を一人にしたのかしら」

 

 すると、霊夢の周囲の空間に無数の境界が開く。

 その隙間から見えるのは、見覚えのあるいくつもの記憶。

 

  ――よっ。 今日も勝負だ、霊夢!!

 

  ――うーっ。 ……次こそは、次こそは負けませんから!!

 

 いつも霊夢の周りにいて、何かと突っかかってくる魔理沙の姿。

 何度負かしても、それでもしつこく霊夢の前に現れる早苗の姿。

 そして、視線を動かせば、その数だけ霊夢の世界が見える。

 

 何かと適当な理由をつけて、藍を引き連れて博麗神社に遊びに来る橙の喧噪。

 時々霊夢の様子を見に来る慧音と、すっかり博麗神社に居着いてしまった萃香の些細な諍い。

 紅魔館の吸血鬼や白玉楼の亡霊、異変を通じて繋がった様々な種族との飽きることなき日常。

 そこには慌ただしい日々の中で時に怒ったりため息をついたり、それでも笑顔で過ごしていく霊夢の姿があった。

 

「貴方はもう一人じゃない。 そんなこと、本当はわかってるでしょ?」

 

 わかっていた。

 周りにいるのは、本当に馬鹿みたいにまっすぐに、霊夢を受け入れてくれる人ばかりだから。

 昔のように孤独に悩むことなんて、ないのだから。

 

「それにね。 今の幻想郷に必要なのは、貴方なのよ」

 

 隙間から、永延と声が漏れてくる。

 霊夢やにとりを、友達を救おうと命懸けで戦う魔理沙の声が。

 せめて自分が少しでも霊夢の代わりに幻想郷を守れるように、必死で運命に抗う早苗の声が。

 だけど、聞こえてくる数々のまっすぐな想いは、それでも本当は霊夢を必要としていた。

 

「……でも、私なんかには無理よ」

「どうして?」

「私は紫みたいにはできない。 目の前で泣いてる子を一人、助けてあげることもできない」

 

 心が壊れそうになった自分を受け止めてくれた紫の強さに、憧れた。

 自分もそんな風に、泣いている子を助けてあげられたらと、思ったりもした。

 だが、霊夢にはにとりを救ってあげることができなかった。

 紫が自分にそうしてくれたように、壊れそうになってしまったにとりの目に光を取り戻すことは、できなかった。

 

「そりゃあねえ。 霊夢はまだ子供だしね、全部が全部一人でできる訳がないでしょ」

「だったら、紫が!」

「でも、言ったでしょう? 私なんかがいなくても、貴方は一人じゃないって」

 

 その隙間から見えたのは、既にその目に光を取り戻したにとりの姿。

 過去も全て乗り越えて、地底の妖怪と共に前に進もうとしている文たちの姿。

 そして……

 

「このバカ霊夢っ!! いつまで寝てるつもりよ!!」

「……え?」

 

 確かに、その声も届いていた。

 いつも虚ろな目をしていたレミリアの、聞いたこともないほどまっすぐな声。

 予想外のそれに、紫すらもが少し驚きの表情を浮かべていた。

 

「あらあら。 まさかあの子の声が、こんなところまで届くなんてね」

「……」

 

 誰一人として、立ち止まってなどいない。

 この幻想郷の未来を背負い、守るために前を向いている。

 自らの限界をも超えて、この異変に立ち向かっている。

 

「今の幻想郷の博麗の巫女は貴方なのよ、霊夢」

「……」

「でもね、霊夢は私やあの子みたいに自分一人で先に進む必要なんてないわ。 困ったときは、きっと皆が霊夢と一緒に進んでくれるから」

「私は……」

「だから、貴方は前を向けばいい。 これから始まるのは、私やあの子が創り上げてきた幻想郷じゃない。 これから、やっと―――」

 

 そして、紫は実体を失ったその身体で、それでもそっと霊夢を抱きしめるように、

 

「霊夢だけの、新しい物語が始まるんだから」

 

 頬を伝っていく涙とともに、霊夢の瞼の裏に浮かんでいたのは、幻想郷の皆が笑っている景色。

 その耳に届いていたのは、大切な友達が霊夢を呼ぶ声。

 その心に響いていたのは、温かい想い。

 

「……そっか」

 

 それを、霊夢は自らの内で噛みしめるように反芻する。

 もう、迷いはなかった。

 その想いを胸に、霊夢はそっと立ち上がり、

 

「私はもう行くわ。 あいつらが待ってるから」

「……そ」

 

 それだけ言って、霊夢は一人まっすぐに歩いていく。

 振り返らず、何も言わず、その空間の端まで。

 そして、闇と自分の心を遮る境界の前で一度だけ立ち止まり、

 

「……じゃあね、紫。 今までありがとう」

 

 涙を切って一度だけ笑顔で振り返り、霊夢はその境界へと手を伸ばした。

 紫が霊夢を守ろうと自らの命を費やしたそこに、霊夢は自らの存在を込めていく。

 すると、闇に閉ざされた世界が霊夢と一体化して輝き始めた。

 霊夢の持つ『空を飛ぶ程度の能力』の真骨頂。

 誰よりも空を近くに感じ取ることができる、つまりは空と、この世界と一つになれる能力。

 それを使って、闇に侵食されかけているこの世界そのものと自らを一体化しようと、霊夢は力を込めていく。

 もう、怖くなんてない。

 寂しくなんてない。

 紫が込めた想いが、霊夢の中に還っていくのが感じられたから。

 紫が自分の中に生き続けてくれるとさえ思えるほどに、その世界が温かかったから。

 

「いってらっしゃい」

 

 唐突に、声をかけられた。

 紫のその最後の声を聞きながら、霊夢は返事をしようとした。

 もう、涙なんて流さない。

 最後は強く涙をこらえて、笑顔でいってきますと返そうとして――――

 

 

「愛してるわ、霊夢」

 

 

 その涙腺は、再び決壊した。

 不器用な妖怪の賢者の口から聞いた、最初で最後の確かな愛情を受け取った霊夢は、

 

 ――私も……

 

 それでも、答えなかった。

 振り返ったら、迷いそうになってしまうから。

 声を出したら、想いが溢れてしまうから。

 だから、霊夢は何も返さなかった。

 最後の顔は、笑顔で終わらせたかったから。

 大切な、もう一人の母への、大好きだよという最後の言葉を心の奥に押し殺す。

 

 そして、霊夢は世界の全てを光に染めると同時に、高らかに宣言する。

 

 

 

 

        「―――『夢想天生』―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、時はしばらく遡る。

 

 ルーミアとの戦闘の後、魔理沙と別れて一人になった藍は、ただ黙々と走っていた。

 既に消えかかっているその身体で、懸命に走っていた。

 向かう場所は決まっている。

 今この状況で唯一、頼ることのできるかもしれない人物。

 だが、実はその相手のことを藍はよく知らなかった。

 いや、知ってはいるが、その人物は藍の知る限りの情報ではこの状況下で何かをできるほどの者ではないはずだった。

 ただ、それは妖怪の賢者として幻想郷を司ってきた紫をして決して敵わないと言わしめたほどの人物が、その生涯をかけて尽くす価値のあるはずの相手だった。

 

「……夜分遅くに申し訳ありません」

 

 稚拙なトラップが張り巡らされていたものの、その道を何度も通り続けてきた藍には、それを潜り抜けることは容易だった。

 永琳もうどんげもいない永遠亭。

 あとは知能の低い妖怪兎たちと、それを束ねる因幡てゐと呼ばれる賢い妖怪兎が時々いるだけとされているその場所。

 だが、そこには一部の知る人しか知らない、もう一人の住人がいた。

 

「あら、藍じゃない。 久しぶりね」

 

 膝をついて頭を下げるような姿勢の藍を、まるで遊びに来た友人を迎えるかのような気さくな声が出迎える。

 

「ってもう、そういう仰々しいのやめてってば。 普通にしてくれていいから、ね。 それで、今日も何か永琳に用? でも、永琳は今ちょっと出かけてて…」

「いえ、今日は貴方に協力を依頼したく参りました。 蓬莱山輝夜殿」

「私?」

 

 それを聞いた輝夜は、少し面倒そうな顔で首をかしげる。

 

「スペルカード戦の相手とかそういう? あ、でも今日は何かそういう気分じゃないし…」

「古くから封印し続けていた邪悪が異変の影響で復活し、このままでは幻想郷の存続すら危ぶまれる現状にあります。 今は吸血鬼のレミリア・スカーレットらが何とかそれを食い止めてはいますが…」

「え? ……だーかーらー、そういうのは永琳に言ってってば。 多分博麗神社とかにいるから」

 

 それは、時々見かける光景だった。

 何かを頼まれた輝夜は、全てを永琳に投げて自分は永遠亭の奥に引きこもる。

 そこで何をしているのかはわからないが、少なくとも藍は輝夜がスペルカード戦以外で何かをしているところなどほとんど見たことがなかった。

 そして、そのスペルカード戦の実力は確かに幻想郷全体で見れば有数のものであり、今の魔理沙とほぼ五分に渡り合えるほどのものだった。

 だが、それは輝夜自身の力によるものではなく、輝夜の持つ強力過ぎる財宝の力を使った結果でその程度であるということだった。

 故に、本来ならこの状況で優先して頼るほどの相手ではないと、藍は認識していたはずだったが……

 

「どうせあれでしょ? 確かスペルカードルール関係なく暴れまわってる奴がいて、霊夢と紫がやられたと」

「はい。 そして……八意殿も敗れました」

「……永琳が?」

 

 そこで、輝夜の顔が少し曇ったように見えた。

 だが、すぐにまた面倒そうな顔に戻って、

 

「あー……でも大丈夫よ、知ってるでしょ? 永琳は死なないし、今頃生き返って黒幕を返り討ちにでもしてるんじゃないのかしら」

「いえ、恐らくは……」

「何? それもないって? 何情報? ソースは?」

「その黒幕が、八意殿の折れた弓を所持していましたので、恐らく…」

「恐らく恐らくうるさいわ。 でもまあ大丈夫よ。 永琳は物に愛着なんて持ってないし、多分邪魔になったから捨てたのよ、はい論破」

 

 輝夜のその対応を前に、藍は次第に焦りを隠せなくなってくる。

 藍にはもう、ほとんど時間は残されていない。

 だが、案内もなく迷いの竹林を移動するにはかなりの時間を必要とする。

 つまり、輝夜から何も得るものが無ければ、藍は何もできないまま最後の時間を終えてしまうことになるのである。

 魔理沙やレミリアたちが命懸けで動いているにもかかわらず、自分は何一つ役に立てないのだ。

 藍は、土下座をするような体勢で輝夜に懇願する。

 

「お願いします……もう、私には頼れる人がいないんです」

「何? だったら貴方が自分で何とかすればいいじゃない。 九尾の妖狐って確か最強の妖獣なんでしょ?」

「……そう、できることならしたいです。 ですが、私にはもう時間が残されていないんです! あと1時間もしない内に、私は消えて…」

「それについては、いくらでも何とかしてくれる人はいたんじゃないの? 永琳でも、山の神でも……何なら私が新しく式神にしてあげてもいいわ」

 

 藍は答えられなかった。

 それだけは、できなかった。

 理屈などではない、唯一残った藍の僅かな感情がそれを拒んでいた。

 

「すみません。 私には…っ!?」

 

 だが、そう言った次の瞬間、輝夜の表情が変わった気がした。

 ずっと頭を下げていた藍は直接それを見た訳ではない。

 だが、明らかに雰囲気が変わったように感じた。

 いつものように真面目な藍を受け流す、適当な態度ではない。

 その目は冷たく、藍を見下すものであることが感じられた。

 

「……はぁ。 永琳が絶賛するもんだからどんな奴かと思ってみれば」

「え? あの…」

「最後の瞬間まで主の式神であり続けることが忠義だとでも思ってるの? 甘えたこと言ってんじゃないわ」

 

 輝夜は、明らかに藍に失望の眼差しを向けていた。

 それでも、藍の気持ちが変わることはなかった。

 

「でも、私は…」

「だったら、少しだけ。 ……昔話をしてあげるわ。 貴方みたいな半端者とは違う、本物の忠臣の話を」

「え?」

 

 輝夜は藍の方に目を向けず、ただ虚空に向かって語り始める。

 

「むかしむかしあるところに、政治の道具として利用されるだけの傀儡の姫君と、それに永遠の忠誠を誓った一人の臣下がいました。 自分の力だけで全ての者を認めさせることも、その気になれば頂点に立てる実力もあったはずの臣下は、それでもその生涯を姫君に尽くすために使うと誓いました」

「それは……」

「月日は流れ、ある日その姫君は所属する社会に存在する禁忌に触れてしまいました。 そして、その姫君が排除されるべき存在となった途端……臣下は一瞬も躊躇わずに姫君を切り捨てました」

「っ!?」

「その臣下は姫君を拘束し、拷問に拷問を重ね、禁忌を破った者の哀れな末路として人々の晒し者にし続けました。 かつては忠誠を誓った自分が、今はもう姫君と無関係の存在であることを周囲に証明しようとするかのように、自分がその社会での地位を失わないように」

「そんなのは、全然っ…」

「そして何年も、何十年もそれを続け、再び周囲の信頼を得ることに成功した臣下は、次にその姫君を汚れた地への流刑に処しました。 そして、やっと自由を得て安堵した姫君に絶望を叩き付けるかのように、それを殺す手段を携えた臣下は、遂に姫君を汚れた地で公開処刑することにしました。 その姫君を疎んでいる輩を引き連れて姫君を捕え、下卑た笑いに囲まれながら臣下はその手に持った神刀を姫君の首元に向かって振り上げて……そのまま、それを見物に来た下衆共を皆殺しにしました」

「え……?」

「姫君に仇名す者たちの陰謀を知っていた臣下は、あえて姫君に敵対する態度をとり続けることで数十年をかけてその油断を緻密に誘いつつ、人知れずその全てを始末できる場を作り上げようとしていたのです。 そして、その臣下は己の身一つで築き上げてきた地位や名誉を全て捨て、その姫君と同じ禁忌という苦悩を背負う罪人となった上で、そのまま何の問題もなく姫君を連れて遥か遠くの地へと逃げることに成功しましたとさ。 めでたしめでたし」

 

 それを語り終わると、輝夜は藍の方に振り返り、蔑むように言う。

 

「……それが忠誠を誓うってことよ。 形なんかにとらわれず、自分の身も顧みず、一時的に主を貶めることすら躊躇わず、感情の全てを押し殺して本当に主のために尽くすことのできるのが、ね」

「……」

「それが、貴方は何? 自分の感情ひとつ制御することすらできないの? そんなくだらない自己満足のために、主が命を懸けて守ろうとしてきたものを危険にさらすの? 何でそんな奴のために私が動かなきゃならないの? 冗談じゃないわ」

 

 藍は何も言えなかった。

 目線を下げたまま顔を上げることすらできなかった。

 

「私は……」

「私はくだらない奴は嫌いよ。 相手にする価値のない有象無象のことなんて、いつも適当に流しておくことにしてるわ」

「……」

「だから、さっきのは聞き間違えってことにしてあげるから、もう一度だけ聞くわ。 貴方は私にどうしてほしいの?」

 

 それは、輝夜が藍に与えた本当に最後のチャンスだった。

 ここで迷うようなら、輝夜は一切の躊躇なく藍を見捨てるだろう。

 そのくらいのことは、今の藍にも理解できた。

 自分を恥じるための時間をとることすら、おこがましいことくらいはわかっていた。

 

「私に……もう少しだけ幻想郷にいる時間をください」

 

 だから、藍は自らの中にまだ残る葛藤も、微かに浮かんだ涙も、何もかもをかなぐり捨ててそう言った。

 輝夜は何かを試すかのように、それに返す。

 

「何のために?」

「この異変を解決するため…」

「違うわ。 何のために?」

「……守るべきものを守るため。 紫様の意志を私が継ぐための……為し遂げるための時間をください」

 

 藍は、来た時と同じように膝をついた姿勢で輝夜に言った。

 だが、それは八雲紫の式神としての綺麗な姿勢でではない。

 そこにあるのは、プライドを捨て、一匹の野良妖怪としての決意を乗せた、そんな野生的な目だった。

 

「……まあいいわ、だったら復唱しなさい。 私は蓬莱山輝夜の名において命ぜられる全てを順守し、尽くすことを誓う」

「私は蓬莱山輝夜の名において命ぜられる全てを順守し、尽くすことを誓う」

 

 それは、主に一切背くことなく全てを捧げるという、式神の契約としては最上級の言霊。

 たとえ紫を相手にしたとしても、決して口にすることはないだろう契約。

 だが、藍は表情一つ変えずそれを復唱した。

 そして、その覚悟を見届けた輝夜が、藍の額に指をつけるとともに、

 

「はい、契約完了。 あとは貴方の勝手にしなさい」

「――――っ!?」

 

 藍は驚愕の表情を浮かべた。

 神奈子や諏訪子は、藍ほどの妖怪を式神として使役するためには少なくとも1時間以上の儀式を要すると言っていた。

 紫との再契約すらも、10分やそこらで終わるはずがないものだった。

 だから、もし藍に残されたわずかな時間だけで輝夜が式神契約をできるほどの力を持っていなければ、ただの徒労に終わるのではないかという懸念が藍にはあった。

 だが、それは一瞬の出来事だった。

 輝夜が藍に触れた1秒にも満たない間に、藍には全盛期と同等以上の力が戻り、その意識には輝夜の式神としての契約がインプットされていたのだ。

 

「貴方は、一体……」

「お喋りしてる暇があったら行動に移したらどう? 一時的なものとはいえ貴方は私の式神なのよ。 無能を使い続ける気は全くないから、そのつもりでいなさい」

「っ!! ……はい、ありがとうございます!」

 

 その気になれば藍を一生奴隷として使役することもできる契約を終えたはずの輝夜は、その命令権を自ら放棄した。

 ただ、藍の好きなように動けばいいと。

 それを理解した藍は、深く頭を下げた後、すぐに走り去った。

 振り返る様子など全くなかった。

 

 そして、一瞬で視界から消え去った藍を見送るでもなく、輝夜はしばらく一人で月を見上げる。

 何をする訳でもない、ただぼんやりと立ち尽くす輝夜に、

 

 

「……へえ、随分と酷いことをするのね」

 

 

 突然、どこからともなく声がかけられた。

 輝夜はその声のした方に振り返ると、驚いた様子もなしに口を開く。

 

「酷いこと? 何のことかしら」

「とぼけなくてもいいわ。 自分で八雲紫を消させておいて、まるであの式神を救おうとする女神のような顔をして振る舞う態度がよ」

「あら、気に入らない?」

「いいえ。 私も八雲紫やあの狐はいけ好かないと思ってたから、別に何とも思わないわ」

 

 それを聞いても、輝夜は顔色一つ変えない。

 まるでそれを知られているのが、そこにそいつがいることが予想の範囲内だと言わんばかりに。

 

「それにしても、これは困ったわね。 まさか貴方がここに来るだなんて」

「まさか、だなんて思ってないでしょう? 私がここに来た時のプランも考えてあることくらいわかるわ。 貴方にはジョークを言うような才能はないと思うからやめておきなさい」

「いいえ、本当に想定外よ。 でも、正直に言うと手間が省けて助かったわ」

 

 輝夜は目の前の妖怪に向かってゆっくりと歩き出す。

 そして、さっきまで藍に向けていたのとも違う、無機質で冷たい目をして言う。

 

 

「せっかくだし、貴方にはここで退場してもらうわ。 最大の不穏分子、古明地さとり」

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第31話 : 遊戯者

 

 

 

 

 その昔、一人の悪い鬼がいたそうだ。

 幻想郷で最も強い力を持つと言われる種族であり、その中でも飛び抜けて高い能力を持ったその鬼は、誰よりも強い自尊心を持っていた。

 全てを力で解決しようとする暴力の権化とも言うべき存在として、誰からも恐れられていた。

 スペルカードルールなどという遊びで人間の巫女にたった一度ルール上の敗北を喫しようとも、本当の実力では自分こそが、鬼こそが最強の種族なのだという自負に一切の陰りはなかった。

 だからこそ、鬼よりも強い種族であると知人に評価されていた一人の少女の存在が許せなかった。

 スペルカードルールで何度負けてもヘラヘラと笑っているその少女を、今度はルールなど関係なく、力でねじ伏せようという思いが膨らんでいった。

 

 だが、少女はその鬼の実際の力など気にも留めていなかった。

 いつものような弾幕ごっこの最中に突然ルールを無視して襲いかかったその鬼を、少女は赤子の手をひねるかのように蹂躙した。

 ちょっとした遊びのような感覚で、鬼の心を壊してしまった。

 恐怖に震え、顔を上げることすらできなくなった鬼を、少女は敵として認識することすらなかった。

 普段の表情からは想像もできないほど冷めた目でその鬼を見ながら、少女が言い放ったのは一言だけ。

 

「今日、ここでは何も起こらなかったし、貴方は何も見なかった。 それだけ、わかった?」

 

 そう言った次の瞬間、少女はまた元の笑顔を作り直して、地面に腰を下ろしながら鬼に手を差し出した。

 声すら出せなかった鬼は、ただ静かに頷いて手をとることしかできなかった。

 鬼は、その時初めて知った。

 今まで自分が虐げてきた者たちの気持ちを。

 思うように身体を動かすことすらできなくなる、恐怖という感情を。

 本能が逆らうことを拒絶する、絶対的な力の差というものを。

 

「姫様!!」

 

 そこに、一人の女性が走ってくる。

 その視界には、呆然と立ちつくす鬼が、尻餅をついた少女と握手している姿が映っていた。

 泥にまみれたまま敗者のような体勢で見上げる少女は、笑顔で。

 無傷のまま勝者のような体勢で見下ろす鬼は、引き攣ったような顔で。

 

「いやー、また負けちゃったわ。 やっぱり貴方強いわね、萃香」

「あ、ああ」

 

 その鬼の表情を見た瞬間、聡明な彼女はそこで何があったのかすぐに悟った。

 そこにはもう、鬼の四天王と呼ばれ、自信に溢れた強い目をした鬼の姿はなかった。

 そこにあったのは、捕食される側の立場に立たされて震えている、弱者の姿だけだった。

 

 その日、誰もが恐れる暴虐的な鬼の四天王としての『伊吹萃香』は死んだ―――

 

 

 それは、彼女が今まで狂わせてきた無数の物語の内の一つだった。

 永遠の苦悩の中を生かされることとなった、3人の蓬莱人。

 人生をかけて手に入るはずのない秘宝を求め続けた、人の世の有力者たち。

 恐らく彼女が覚えているのは、この1000年や2000年の間の、そんな出来事だけだろう。

 だが、それはほんの一部に過ぎない。

 それを、彼女はもう思い出して振り返ることすらない。

 彼女にとってそれは、永遠の退屈を紛らわすためのただの日常の一コマに過ぎなかったのだ。

 

 彼女は全てを持っていた。

 美貌も、力も、才能も、知能も、財も、地位も、時間さえも、欠けているものは何一つ無いと言っていいほどに。

 だが、同時にそれが彼女の最大の不幸だった。

 その気になれば自分が何もかもを簡単に手に入れることのできる世界に、面白さを感じることはできなくなってしまった。

 

 そんな中で唯一彼女を魅了したのは、自分の思い通りに進めることのできない『ゲーム』の世界だった。

 

 ある日それを手にした彼女は、夢中になった。

 数えきれないほどの時間を、それに費やしてきた。

 弱く冴えない、何も持たない主人公たち。

 それでも、その人生のひとつひとつは、彼女が決して味わうことのできない輝きを放っていた。

 多種多様な光を帯びた数々の結末は、物語の中を自分とは違うコマを動かして進むという、物事の一つの楽しみ方を彼女に知らしめた。

 そして、存在する僅かなゲームの全てを終わらせてしまった彼女は、次は自ら考案した新たなゲームの賽子を振ってしまった。

 

 それは、それぞれの思惑を巡って幾多の種族が憎み合い、協力し合い、その果てに何が起こるか誰も予測できない不可知遊戯。

 彼女はそれに、登場人物としては介入しない。

 ゲーム盤の外側から、自らの仕掛けたその爆弾が作動するのを、ゲームが始まるのを待ち続けるだけ。

 難しいことなどない、ただ選択肢を選ぶかのように現実を進めていく。

 そして、その選択の果てにどんな世界が広がるのかだけを楽しみにしながら、彼女は眺めている。

 

 ――私はただ、ゲーム開始の狼煙を上げるだけ。

 

 全てを破滅に導く永遠の狂気を、始まりの刻まで導くか否か。

 元凶の全てを収拾してしまった厄神の存在を、始まりの刻まで導くか否か。

 

 ――私はただ、登場人物を選ぶだけ。

 

 倒れて動けなくなった巫女を治し、再びゲームに戻すか否か。

 迷い憔悴しきった式神に力を与え、再びゲームに戻すか否か。

 

 ――私はただ、進行の妨げになる因子を排除するだけ。

 

 何の前触れもなく運命を無秩序に変化させ得る、あまりに興醒めな能力を持つ吸血鬼に、ゲームから外れてもらうか否か。

 幻想郷を誰よりも愛するが故に、始まる前に全てを空虚に終わらせかねない妖怪の賢者に、ゲームから外れてもらうか否か。

 

 

  ――そして――

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第31話 : 遊戯者

 

 

 

 

 

 

 初めて出会うタイプの心の形を前に、さとりは動けなかった。

 どういう反応をすべきかもわからなかった。

 それでも、さとりは会話の主導権を握ろうと、冷静さを装いながら口を開く。

 

「……なるほど。 それは、私も随分と買いかぶられたものね」

「いいえ、貴方は私の予想よりもずっと優秀だったわ」

 

 軽口を叩きながらも、さとりは輝夜のほんの微かな心の呼吸にまで神経を集中させ、その思考の全てを読み取ろうとする。

 だが、集中せずとも今の輝夜の思考はさとりには簡単に見えていた。

 口に出した通り、輝夜は本当にさとりが自分のもとに来ると思ってなどいなかった、それだけは揺るぎない事実ではあった。

 それでも、素直にそれを信じることなどできなかった。

 ゆさぶりをかけて、更なる奥底まで輝夜の思考を読み取ろうとしていく。

 

「別に私は、貴方を疑ってここに来た訳じゃないわ。 ただ、この異変の核になる要素を持ったフランドール・スカーレットの封印を解いた時、貴方の能力と似た力を感じたから少し気になっただけよ。 あの暴虐の鬼の心を壊した貴方の、時間膨張の能力とね」

「へぇ、あの子の封印を解いたのね。 それがどんな意味を持つのか、貴方は理解してるのかしら」

「そんなこと、私には関係ないわ。 それよりも――」

 

 第三の瞳を向け続けて会話の主導権を握っているはずのさとりは、それでも表情に陰りがあった。

 輝夜の心から読み取れるのは、この異変の真相。

 だが、そんな情報以上にさとりの目を引いたのは……

 

「……貴方には、私に対して思うことは何もないの?」

「あら、貴方は他人の評価を気にするような妖怪なのかしら」

「いいえ。 だけど……」

 

 目の前にいる、霊夢とそう変わらない程度の年齢に見えるはずの輝夜は、それでも雰囲気だけは1000年以上の時を生きてきた妖怪よりも遥かに静かで厳かなものを感じさせた。

 そして、その心の底は、生きているとは思えないほどあまりに無機質だった。

 何も読み取れない訳ではない、むしろ第三の目で輝夜から得られる情報量は他の者とは比較にできないほど多いくらいである。

 幻想郷で今、何が起こっているのか。

 過去に、何が起こっていたのか。

 そういった重大な情報の数々が、何の苦も無く、辞書を引いているかのように事細かに流れ込んでくる。

 だが、そこからは輝夜の感情を、生命の息吹きというものを感じとることはできなかった。

 さとりには、レミリアの「絶望の感情」が見えていた。

 アリスにも、「作られた感情」の裏に、霞がかった本当の感情があることを知っていた。

 こいしにすらも、読み取れないだけで、「閉ざされた感情」が心の奥底に眠っていることがわかっていた。

 それにもかかわらず、輝夜からは全く何も感じられなかった。

 輝夜から向けられているのは最初も今も全く変わらない、真実を知り得る唯一の因子であるさとりに、この『ゲーム』から外れてもらうつもりだという淡々とした未来の結果だけ。

 その結果に、輝夜の感情はほんの僅かすらも介入してはいなかった。

 心に何一つとして綻びを見つけられないのならば、さとりが真に主導権を得ることはできない。

 だからこそ、さとりは輝夜の心の隙を僅かにでも掴むために、わざわざフランの情報を出してゆさぶりをかけた。

 だが、表向きの言葉だけ取り繕いながらも、輝夜の感情に一切の変化はなかった。

 さとりが現れたことに対する驚きも、フランを解放したことへの反応すらも、実際には何一つとして存在しない。

 そこからはただ、疑いようのない事実関係が止めどなく流れ込んでくるだけだった。

 

 だが、その事実情報の中にたった一つだけ、際立ってさとりの目を惹くものがあった。

 本を読むかのように淡々と情報が流れてくる中で、それでもその奥深くでほつれて渦巻いている、とある『計画』の名称。

 さとりは、それへの興味を拭い去ることができなかった。

 

「貴方、その『嫦…」

「はい、そこまで」

「っぁ”っ!?」

 

 だが、その深層心理を読もうと集中したさとりは、次の瞬間倒れこんだ。

 さとりを襲ったのは、生きる者全ての記憶が同時に流れ込んできたかのような感覚。

 脳の処理能力が明らかに追いついていない、情報の奔流に脳細胞が壊されていくかのような頭痛。

 そして何より、苦痛のみが凝縮されたかのような生理的嫌悪が、容赦なくさとりの中で暴走していた。

 

「はっ、はっ……うっ」

「ほら、それでまだ意識があること自体が異常なのよ。 でもまぁ、これに懲りたら今後はあまり人のプライバシーに踏み込まないことね」

 

 輝夜はそう言って見下ろすが、さとりにはほとんど聞こえていなかった。

 ただ、目を見開いたまま全身が汗だくになり、肩で行う息に混じって何度も嘔吐していた。

 

 さとりを苦しめたのは、輝夜の持つ『須臾を操る能力』。

 1000兆分の1秒という限りなく短い時を操る、つまりは1秒間に約3000万年もの歴史を詰め込むことを可能とする能力である。

 いや、この場合の須臾はただの比喩で1000兆分の1などという限界などなく、有限の時間の中に無数の歴史を詰め込むことで、時を無限に圧縮できる力と言った方が正しいのだろう。

 1時間以上かかる藍との契約を一瞬で終わらせたのも、完治に1週間以上かかるとされた霊夢を一瞬で治癒させたのも、実はその能力によるものだった。

 そして今回、輝夜はさとりに心を読まれる一瞬に、1年分の歴史を詰め込んだ。

 それも、自らが月で不老不死という禁忌を犯したために受けることとなった、身も凍るような拷問の記憶をである。

 さとりの能力はただ心を読むだけではない、集中すればその記憶を自ら体験するかのごとく鮮明に知ることもできる。

 そんな苦痛の記憶を圧縮して一度に読まされたのならば、普通はそれだけで精神が崩壊するのに十分なのだ。

 

「そう、ね……私も、二度とこんな感覚は味わいたくはないわ」

 

 そう言って、さとりはフラフラの足取りでゆっくりと起き上がりながら、すぐに第三の目を輝夜から背けた。

 その時、さとりは生まれて初めて心の底から恐怖した。

 だが、さとりを恐怖させたのはその能力でも、たった今味わった苦悩の体験でもなかった。

 

 ――こいつ、イカレてるわ。

 

 輝夜のその能力は、瞬時にさとりに苦痛を与えることのできる類のものではなかった。

 須臾の時間を集めて自分だけが得た1年間という単位の中を確かに自分自身が進むことで、さとりにその記憶を読ませたに過ぎない。

 輝夜はさとりに自らの記憶を読ませるたった一瞬のためだけに、自身のトラウマともいえる苦悩の体験を自らの時間軸の中で丸1年間、微動だにせず思い起こしてきた。

 つまり今ここにいる輝夜は、平然とした表情を浮かべながらも、さとりと会って1分足らずの時間の中で既に1年以上もの間、自らの心的外傷を深く想起し続けてきたのだ。

 永遠の時を経てきた輝夜にとって1年という時間はあまりにも短いが、せいぜい数百年程度しか生きていないさとりにとっては、そんなことのためにこれほど長い時を自らトラウマの中に投じること自体が理解できなかった。

 

「……ふふっ」

 

 だが、そんな理解不能な相手を前に、それでもさとりは堪えきれずに笑った。

 恐怖ゆえの笑みではない。

 それは輝夜の怪訝な目を気にも留めていないかのような、完全に自分の中だけで完結した笑みだった。

 

「随分と嬉しそうな……いえ、愉しそうな顔ね」

「ああ、やっぱりわかるかしら? これから先の心躍る展開を考えたら、堪え切れなくてね」

「……そう。 だから、貴方は危険なのよ」

 

 第三の目を背けているその状況になって初めて、さとりは輝夜の確かな感情の起伏を垣間見た気がした。

 それは他の者がさとりに向ける嫌悪という感情とは少し違う、単純な苛立ち。

 それに気づかないフリをしながら、さとりは輝夜に背を向ける。

 

「それじゃあ、私は大人しく帰らせてもらうことにするわ。 ちょっと用事ができたからね」

「残念だけど、そういう訳にはいかないわ。 貴方をここから逃がすのは、私にとっても少し不都合だから」

「それは困ったわね、何とか多めに見てもらえない?」

「無理な相談ね。 どうしても行くというのなら、私を斃してここから逃げてみなさい」

 

 輝夜は、ただ静かにそう言い放った。

 別に、さとりは輝夜に回り込まれている訳ではない。

 戦わずとも、暗闇の中でこの竹林に身を隠せば、よほどのことがなければ逃げきれるはず。

 更に言えば、ここに来る前に用意してきた切り札を切ったのなら、たとえ目の前にいるのが勇儀クラスの相手であってもどうにかなるはずなのだ。

 あらゆる要素が、さとりを前に進ませるよう答えを導いているはずだった。

 それでも、さとりは一歩も動けなかった。

 静かに向けられた眼差しが、さとりを縛り付けるようにその背を刺していたから。

 振り向かなくとも、輝夜の眼差しに確かな敵意が混じり、そこに命の危機を感じていたから。

 こんなところで、意味もなくリスクを負う必要はない。

 だから、さとりは一つため息をつきながら、一切の敵意を消して言った。

 

「見くびらないでほしいわね。 これでも一部では地底の頭脳だとかまで呼ばれてるのよ? ハッタリでどうにかできる相手かの判断くらいできるわ」

 

 永遠にも思える苦痛の記憶を再び読まされることを考えると、易々と心を読むこともできない。

 自分自身で想起することに何の躊躇いもないトラウマを呼び起こしたところで意味がない。

 自分の持つ2つの能力が輝夜に全く通じないことは、さとりは既に理解していた。

 だが、何がとは言わずとも、さとりが逃げなかった理由は恐らくそれだけではない。

 ただ単純に、数百年の時を数多くの敵に囲まれて生きてきたさとりだからこそ、危険という概念そのものに本能的に敏感だったのだ。

 さとりは両手を上げて、抵抗の意志がないことをアピールする。

 アリスにとった行動とは違う、完全な降伏。

 そんな体勢のまま、さとりは輝夜に要請する。

 

「私は貴方に降伏する。 これ以上思考を読む気も、危害を加える気も、貴方の邪魔をする気も全くないわ。 だから、ここから帰らせてくれないかしら」

「私に、貴方を逃がすことのメリットがあると思う?」

「……そうね。 だったら、見逃してくれるのなら貴方の望みを叶えてあげるわ。 最後に少しだけ見えた、貴方の本当の望みを、ね」

 

 だが、さとりもまた、そこで何もできずに終わるほど無能ではない。

 ついさっき得た、さとりにとってのもう一つの切り札。

 輝夜から第三の目を背ける直前、つまりはあの精神攻撃を受けている最中。

 その時に読み取った僅かな感情は、まさに異変の核心に迫る情報と言っても過言ではなかった。

 

「私の、本当の望み?」

「最初は機械か何かじゃないかと思うような感情しか読めなかったけど……貴方もやっぱり心ある生き物なのよ。 1年もずっと同じ記憶だけを想起してれば、心の中に少しぐらい別の、本音が混じったとしても仕方ないわ」

「それが、異常だと言ってるのよ。 あの記憶を一度に凝縮して体験したのなら、普通はそんなことにまで頭が回らないわ」

 

 自分が抱えているそれは、体験してしまえばどんな者でも精神を崩壊させるに足る記憶であるはずだった。

 精神攻撃に弱い妖怪が、そんな悪夢に耐えられるはずがない。

 ましてや、その隙を窺う余裕などあるはずがない。

 にもかかわらず、それを平然と交渉材料にしてくるさとりを前に、輝夜の表情が微かに歪んだ。

 たとえ第三の目を向けていなくとも、さとりがそんな綻びを見逃すはずがなかった。

 

「あら、本当はそれを私に読まれることまで計算ずくだったのではなくて?」

 

 輝夜の弱みに付け込むかのように、さとりはその心の奥深くまで侵入していく。

 そして、さとりは少し挑発するように余裕の笑みを浮かべようとする。

 

「……さあね。 だけど、貴方よりも少しばかり永きを生きた者として、一つだけ忠告してあげる」

「何かしら……ぇ?」

 

 だが、それはさとりのミスだった。

 それは、主導権を得るのではなく、琴線に触れてしまう挑発だった。

 その笑みを浮かべる余裕すらないまま、さとりの足は力を失い、受け身をとることすらできずに尻餅をついて倒れ込む。

 輝夜の笑みが消えるとともに、突如として辺りが静まり返った。

 それはさっきまで向けられていた敵意とは違う、純粋な殺意。

 勇儀が本気になった時のように、命の危機を感じて弾けるように逃げ出していくのではない。

 微かに鳴いていた虫たちが、飛び立つことも呼吸をすることすらもできずに固まっていた。

 そこで感じるのは命の危機ではない。

 言うなれば自らの命への諦念、残された僅かな命を少しでも味わおうとする本能。

 確実な死を予感して走馬灯を見る瞬間というのはこういう時なのだろうと、その場に生きる者全てが否応なしに理解させられていた。

 そして輝夜は、腰を抜かして動けなくなったさとりを見下すでもない、まるで景色の一部程度にしか思っていないような冷たい眼差しで見ながら、独り言のように言う。

 

「度を過ぎた好奇心は、身を滅ぼすことになるわ」

 

「―――――」

 

 

  『 破滅 ―Scarlet― 』

 

 

 同時に、死が溢れた。

 突然のことで何が起こったか誰も理解することができないまま、微かな声すらも響くことはなかった。

 大気の裂け目が刃となって突き刺さっていく。

 温度という概念さえも無視して、辺りの空間そのものを分解していく。

 無慈悲なほど永続的に続くそれは、分子の欠片すらも細かく砕いて無限のエネルギーを一点に凝縮させる。

 それは、いかに強靭な肉体を持っていようとも、決して死から逃れられないことが一目瞭然の圧倒的破壊だった。

 

「……やりすぎ、じゃないかしら」

 

 そして、生きたままその殺戮を見る者は一人しかいなかった。

 だが、そこにいるのは輝夜ではなく、さとりだった。

 

 それは、とっさの判断だった。

 まだ何もされていなくとも、反射的に全ての終焉を悟ったが故の反撃。

 さとりの背中は冷や汗でびっしょりと濡れていた。

 だが、その汗は一向に止まる気配はない。

 目の前にいた相手が蒸発しただろう今では、それが何に対する汗なのかはわからない。

 暑さからなのか、疲れからなのか。

 

 それとも、自分でも気付かない内に迫っている、不可避の死への焦り故にか――

 

「今のも、貴方が持つ能力なのかしら」

 

 無限の破壊を続けているはずの空間が突如として爆ぜ、中から声が響いた。

 たった今、灰の欠片すらも残さず消滅したはずの輝夜が、何事もなかったかのようにそこに立っていた。

 それが、輝夜が蓬莱の薬を飲んで得た不死の力だった。

 どれほどの死をつきつけられようとも、再び蘇る力。

 更に厄介なのは、輝夜の持つ『須臾を操る能力』を使えば、死んだことすら誰も知覚できないほど短い時間での復活もできることである。

 

 だが、さとりほどの者が、この状況でただ呆けているはずがない。

 輝夜の再生を予想していたと言わんばかりに、さとりは気付かれないほど自然に再び第三の目を向けていた。

 そこでさとりは、さっきまで終始冷静さを失うことのなかった輝夜が初めて浮かべた、確かな驚愕の感情を読み取る。

 その心に僅かに生じた隙を、見逃しはしない。

 

「想起――『天網蜘網捕蝶の法』」

 

 すると、いつの間にか輝夜の全身を絡め取るように、光の網が辺りに張り巡らされていた。

 

「そう……そういう力ね」

 

 さとりが使ったのは、相手のトラウマを想起する能力。

 その心が僅かに乱れた隙に抉り取った、輝夜の記憶に眠る最も大きな力を擬似的に自らのものとして呼び起こす力。

 世界を光の網が覆い、輝夜の身体と思考を絡め取っていく。

 それは、須臾の間に瞬く光が記憶を無限にフラッシュバックさせ続けることで思考を永遠の走馬灯に縛りつけ、相手の身体だけでなく抗う意志すらも永久に無力化する、八意思兼神の奥義。

 さとりはそれを放ちながら輝夜から距離をとり、既に暗闇の中に紛れていた。

 

 

   『 創生 ―Verdure― 』

 

 

 同時に、世界は緑一色に覆われる。

 動けない輝夜の周囲で、突如として現れた木々の枝が、爆発したように全てを押しのけて鋭く伸びていく。

 そこから生えるように現れるのは、生きているかのように動き出す魔物たちの姿。

 身体と精神を同時に囚われている輝夜に向かって、無から創造されていく無限の生命が次々と襲い掛かって…

 

「がっ、はっ……!?」

「なるほど、これは私のミスね。 貴方がこれほどの力を持っているだなんて思っていなかったわ」

 

 だが、それは唐突に世界を染めた色彩に、あっけなく掻き消されていった。

 瞬きをする間すらもなく、輝夜は遥か遠くに逃げていたはずのさとりの正面に立っていた。

 灼熱の突風とともに魔物の群れも、辺りにあった竹林さえも跡形もなく塵に還っている。

 そして、灼熱地獄の熱にさえ慣れつつあったさとりの背はいつの間にか焼け爛れて倒れ込み、その表情は苦痛に歪んでいた。

 引き攣った顔で膝をついていたさとりの目の前にあったのは、まるで今の戦闘など存在しなかったかのように無傷のまま虹色の玉をつけた枝を構えている輝夜の姿。

 そこで何が起こっていたのかはわからない。

 それでも、輝夜の目には最初はそれほどなかったはずのさとりへの警戒の色が、深く刻まれていた。

 そんな光景を目の前にしたさとりは、それでもその痛みさえも感じさせないような軽いため息をついて、やれやれと両手を上げる。

 

「それはこっちのセリフよ。 今のでダメなら、もう私になす術はないわ」

「それもブラフでしょう? もう貴方を侮ったりはしないわ」

 

 そう言って、輝夜はさとりに向かって手を伸ばす。

 だが、さとりはそれを見て笑いながら、

 

「そう。 ……でもね、そんなおしゃべりをすること自体、侮ってるっていうのよ」

「何?」

 

 

    『 幻惑 ―Indigo― 』

 

 

 輝夜が手を伸ばす前に、さとりは消えていた。

 いや、消えたというよりもその姿容が歪み、代わりに一人の妖怪を形取っていった。

 それを、輝夜は少しだけ見開いた目で見て、それでもまた冷静に返す。

 

「……そういうこと。 私が相手にしていたのは、最初から古明地さとりではなかったのね」

「いいえ。 途中までは確かに、あいつがあんたの相手をしてたわ。 相手の心を読むような嫌らしい魔法は、私は使えないからね」

「そう。 ……で、貴方は一体何者なのかしら」

「あら、魔理沙と一緒の時に会ってるから、別に初めましてって訳じゃないでしょ?」

 

 いつの間にかさとりの代わりにそこにいたのは、アリスだった。

 特に脅威を感じさせるほどの力を持たない、一人の妖怪の姿。

 ただ、あえて一つだけいつもと違う部分を挙げるとすれば、その手に持っている大きな本を縛っていた鎖が、今は外れていることだけだった。

 

「違うわ。 私が聞いているのは、貴方が今「模している」人形使いのアリス・マーガトロイドのことじゃない。 その裏で禁忌のグリモワールを使いこなす貴方が何者かと聞いてるのよ」

 

 アリスは口を閉ざす。

 不快な何かを見るような、冷たい目をして。

 やがて、アリスは何かを切り替えたように、

 

「……あ-、やっぱり知ってるのね」

 

 一つ溜め息をついて、気怠そうに輝夜に向き直った。

 

 かつて、魔神が使っていたという七色のグリモワール。

 たった一つで世界を恐怖に突き落とすことさえできる、禁断の魔道書。

 それを使いこなせば、世界の理を超える七つの力を操ることができるという。

 『赤』はエネルギーという理を無視して全てを塵と化す、破滅の力。

 『緑』は生命という理を無から生み出す、創生の力。

 『藍』は叡智の理を司って万物の認識や思考を支配する、幻惑の力。

 それらは本来であれば一つ一つが一介の妖怪には使いこなせるはずのない、神に等しき力のはずだった。

 

「でも、私から言わせてもらうと、そのグリモワールの魔法を平然と受け切るあんたの方が異常なのよ」

「あら。 私はただ、貴方が手加減してくれたおかげで無事なようなものよ」

「……そう」

 

 アリスは表情を変えないまま、心の中で舌打ちする。

 確かに、アリスは手加減をした。

 だが、それは輝夜の身を案じてのことではない。

 強すぎる力は、使った者に相応の対価を強いるものである。

 ましてや、それが禁呪と呼ばれるものであるのなら、その副作用は計り知れない。

 アリスは輝夜が不死であることを、全力で殺しても無駄であることを知っているが故に、様子見程度にしかグリモワールを使わなかっただけなのだ。

 

 だが、手加減した魔法は通用しないどころか、ブラフにすらもならない。

 そして、手加減したことだけではなく、何度も使えないことも恐らく既に見破られている。

 

「じゃあ、私も少しだけ本気を出してみようかしら」

 

 それでも、アリスが持つ本は禍々しく光って、

 

 

    『 未知 ―Violet― 』

 

 

 同時に、色の欠落した空間の亀裂に辺り一帯が覆われていった。

 その狭間から溢れ出すのは、現実の理を外れた存在の、未知の力。

 観測され得ない暗黒物質と暗黒エネルギーによって構成された異世界。

 突如として幻想郷から外れた異空間に囚われた輝夜は、それでも冷静に、淡々とアリスに問うた。

 

「……どうして」

「何?」

「どうして、貴方はそこまでして彼女を助けるの?」

「助ける? 誰をよ」

「とぼけなくてもいいわ、古明地さとりをよ。 私の前に出て禁呪を使う危険を冒してまで彼女を助ける理由が、貴方にあるの?」

 

 アリスは、今まで決して自分が表舞台に出ようとはしなかった。

 表向きは道化のような振る舞いを続け、一部を除きその正体を知られることすらなかった。

 それは、輝夜さえも例外ではない。

 にもかかわらず、わざわざ自分が危険に晒されてまでアリス自らここに来た理由を、輝夜は理解できなかった。

 

「あいつ以上に興味を引けるものでもない限り、あんたはあいつを追うでしょ。 そして、追えばあんたは簡単に止められる」

「そうね。 でも多分、貴方は彼女のこと嫌いでしょ?」

「ええ、大嫌いよ」

「でしょうね。 でも、そんな風に言うのに、どうして命を懸けてまで彼女を助けようとするのかを聞いてるのよ」

「……別に、さっきまでそんな理由なんてなかったわ。 多分あいつの本質は幻想郷一の「嫌われ者」なんかじゃない、この世で一番「危険」な奴だからね」

「へぇ、貴方も随分と彼女を買ってるのね」

「敵として、だけどね」

 

 心を読める覚妖怪。

 嫌われ者として知られるその能力も、ただ心が読めるだけで幻想郷一と呼ばれるほどに嫌われることなどない。

 心を読まれることを気にしない者など、勇儀を筆頭としてこの世にいくらでもいるからだ。

 にもかかわらず、そういう風に認識されているのは、さとり自身の行動そのものに大きな要因がある。

 さとりはあえて嫌われ危険視されるように、自分がそういう存在だと認識されるように、自ら積極的に動いてきただけ。

 さとりは自分の目的のためならば、誰もが恐れる孤独を恐れず、どれほど多くを敵に回すことも厭わず冷徹に動くことができるのだ。

 それは、アリスにとっては最も扱い辛い……いや、本能的に最も苦手とする相手だった。

 

「だから正直言うと、むしろ私は少し前まではあいつを利用した後に罠に嵌めてやろうくらいに思ってたわよ」

「だったら…」

「でも、強いて一つだけ。 私があいつを助けた理由を挙げるとしたら――」

 

 だが、輝夜を見るアリスの目は、突然白けたように冷たくなって、

 

「あんたの心が……あんたの思い描いたシナリオが、つまらなかったからよ」

「何?」

「少なくとも、あんたよりはあいつを生かした方が面白くしてくれそうだと思えるくらいにはね」

 

 そして、2人の姿はそのまま異世界に飲み込まれて幻想郷から消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は進み、かつて妖怪の山だった場所。

 さとりとルーミアの戦いは、既に終盤へと突入していた。

 ……いや、そもそもが戦いになってすらいなかった。

 

「随分と、舐めた真似をしてくれたもんだな」

 

 ルーミアの目に映っていたはずの心的外傷は、それでも直接ルーミアに大きなダメージを与えることはできなかった。

 そこにいた映姫の姿は、さとりがルーミアの心から想起させていた幻影。

 ルーミアがその事実に気づくまで、それほど時間はかからなかった。

 

「あら、そんなに安心してていいの?」

「はあ?」

「何もわかっていない貴方に一つ教えてあげる。 今のは、ただの忠告。 彼女は……閻魔は今、貴方の能力に飲み込まれることなく幻想郷にいるわ。 取り返しのつかない後悔に自責の念、貴方の大好きな負の感情に支配された彼女がね」

「……それも、ハッタリだろ? お前の何の意味も無い言動はもう聞き飽きたんだよ」

 

 そこにあるのは、既にボロボロの姿でルーミアに捕えられて虚空に磔にされたさとりの姿。

 自らの用意していたハッタリが潰されたのならば、もはやさとりにルーミアを止める手段は皆無だった。

 

「本当に、意味が無いって言いきれる? そのハッタリのおかげでわかったこともあるのよ」

「……何だよ」

「貴方「自身」が恐れる心的外傷と、貴方の中にある「何か」が恐れる心的外傷は別物だってことよ」

 

 だが、対抗手段があるようには見えないさとりは、それでもルーミアを見て笑っていた。

 それを、ルーミアは理解できなかった。

 どう考えても勝ち目のない戦いにたった一人で挑み、ほんの僅かだけ戦況を引っ掻き回しながらも結局は何もできなかったさとり。

 いや、むしろそれはルーミアに利するものだったとさえ言えるほどに、さとりの行動には何の意味もなかった。

 にもかかわらず、さとりはレミリアのように無理に笑っているのではない、自分の今の状況を本当に愉しんでいるかのような笑みを浮かべていた。

 

「だから、何だ? たとえ何かを知ったとして、この状況でお前に一体何ができる」

「……」

「理解できないんだよ、お前の行動は」

 

 ルーミアは溜め息をついた。

 明らかに自らの理解の外にあるさとりを前に、苛立ちを抑えきれなかった。

 

「闇に染まる訳でもなく、レミリアを絶望に墜として私に利を与えながらも、私に仇名す。 お前は私の敵か、味方か? お前の本当の目的は、一体何だ?」

「……ふふっ」

 

 さとりは、思わず声に出して笑った。

 ルーミアの陳腐な質問を嘲るように、愉快そうに笑った。

 

「私の目的、目的……ねぇ。 そんなの、私がやりたいようにしただけに決まってるじゃない」

「答えになってないな。 お前は…」

「私が貴方の敵か、味方か? あはは、そんな見方しかできないから、貴方はつまらないのよ」

「何?」

 

 さとりは完全に勝敗の決したこの状況でなお、ルーミアを恐れてなどいない。

 ただ、ルーミアを小馬鹿にするように言う。

 

「もしかして、私が世界への復讐心から貴方に協力してると思った? それとも実は、私が誰かを救うために孤独に戦ってるだなんて、崇高な目的でも持ってると思った?」

「だったら、お前は一体何なんだよ」

「だから、言ったでしょ? 私はただ、気分的に私がやりたいことをしただけ。 本当に、それ以外の理由は無いのよ」

「……私には理解できないな」

「それはそうでしょうね。 私の本心なんてものは、お燐やお空も……妹のこいしですらも誤解してるでしょうから」

 

 そう告げたさとりは、とある記憶を自らの内に想起する。

 今日さとりが思い描いた、一つの未来。

 自ら震えるほどの愉悦を感じた、その運命は……

 

「地底の頭脳だの最大の不穏分子だのと、みんな揃って一体何を勘違いしてるかは知らないけどね。 実際の私は、ただ自分の人生を楽しみたいだけの誰よりも普通の妖怪よ。 嫌われようが、誰にも認められなかろうが、それでもただ自己満足に生きるだけのひどくちっぽけで矮小な妖怪なのよ」

「はあ? じゃあ、お前は…」

「そうね、別に世界を救った英雄になりたい訳でもないし、なりたくない訳でもない。 今の私は―――『運命』なんて面白いものを見つけてはしゃいでるだけの、ただの子供みたいなものよ」

 

 今日まで、さとりに大した目的はなかった。

 レミリアに会い、その心を読むまで、さとりは輝夜に会うつもりもルーミアと対峙するつもりもなかった。

 興味本位で闇の力に接触し、その場のノリで魔理沙たちを異変の核に誘い、気が向いたから特に意味もなく地上に出てしまった。

 ただ何となく、面白そうだったから。

 深遠な理由があるように思える言動とは裏腹に、実際のさとりの行動原理はそれだけの、はずだった。

 その、あまりに魅力的な玩具を、見つけるまでは。

 

「知ってる? あの子が最後に見た運命を。 泣き叫んで闇に消えていった憐れな吸血鬼が、最後に抱いていた絶望を」

「……さあな」

「幻想郷の崩壊と、そこから始まっていく世界の滅亡……つまりは、貴方の完全なる勝利よ」

 

 それが、この世界に決められた最後の運命だった。

 もう決して避けられない、世界の終焉。

 だが、それを口にするさとりは、かつてないほどの笑みを浮かべていた。

 

「やはり、お前はこの世界が憎いのか。 この世界の終わりが、そんなに嬉しいのか」

「ふふっ。 どうでもいいのよ、そんな些細なことは」

「些細なこと……だと?」

「そうよ。 大事なのはね、あの吸血鬼が消えた今、その運命を唯一知ってるのが……世界の終焉を変えられるのが、私だけって事実よ」

 

 運命を変える力とは、即ち運命を知る力に他ならない。

 幻想郷の、世界の終焉の運命を変えうるのは、その運命を「知っている」者、つまり今はさとりとルーミアだけなのだ。

 ならば、もしここからその運命が変わることが、この世界が救われることがあったのなら、それは即ち―――

 

「じゃあお前は、始めから世界を救うために…」

「はぁ……何で、貴方はこんなに面白いものをそんな狭い視野でしか見られないのかしら」

「面白い?」

「だって今、世界の全てが私の手の平の上にあるのよ。 暗く淀んだ絶望も、明るく輝く未来も、私の一存で自由に創り変えられるのよ」

 

 さとりはまるで無邪気な子供のように、ルーミアに期待する目を向けて言う。

 

「想像してもみて? 誰にも期待なんてされていない私の怠慢のせいで、全ての夢や希望が潰えていく」

 

 その口角が、上がる。

 

「疫病神の私の気まぐれで、明日の食事を笑顔で楽しんでいられる」

 

 耐え切れずにこみ上げてきた笑みで、その身体が震える。

 

「嫌われ者の私のおかげで、くだらない友情ごっこや愛情ごっこに現をぬかせる」

 

 そして、さとりは一度、天を仰ぐように見上げてから、

 

「ねえ――――」

 

 ただ、寒気のするような愉悦を浮かべた表情を向けて、言った。

 

「それって、素敵なことだと思わない?」

 

 かつてないほどの不気味な笑みを前に、ルーミアは言葉も出なかった。

 あらゆる闇を見てきた自分でも理解し難い……いや、理解しようとも思えない、さとりの狂気。

 世界を救った、滅ぼしたなどという結果にすら全く興味が無い。

 誰もが今感じている幸せが、実は誰よりも嫌われ者であるはずのさとりのおかげで存在する、あるいはさとりのせいで喪失したという確かな「事実」だけを、誰に知らせることもなく自らの内だけで完結させる愉悦。

 全ての喜びも悲しみも、何もかもをただ滑稽な戯曲に創り変えて眺めるだけの、ちょっとした戯れ。

 そんな自己満足のために周到に策を練り、自分の命も世界すらも軽んじた、あまりに理解から外れた妖怪を前に、

 

「……ははは。 私が言うのも何だが……歪んでるよ、お前」

「あら、それって貴方流の誉め言葉のつもり?」

「違えよ」

 

 もう、ルーミアはそれを目の前に置いておくこと自体が気持ち悪く、耐えられなかった。

 無限の闇も希望の光すらも、全てを平等に無意味なものに還してしまいそうな、狂気などという言葉ではとても表しきれないその歪みは、希望なんてものより遥かに危険な、ルーミアの天敵。

 一度でもそんなものを仲間に引き入れようとした自分の愚かさに恐怖しながら、ルーミアはさとりを闇で飲み込まないまま躊躇なく殺そうとして、

 

「―――さとり様っ!!」

「っ!?」

 

 突如として、辺りを怨霊たちが取り囲んでいった。

 怨霊の暴走とともに闇の力の制御を僅かに奪われたルーミアの上空に、天を光に染め上げるほどに眩い太陽が発生して、

 

「焔星『十凶星』」

 

 巨大な太陽は、そのまま落下した。

 それと同時に響いてきた声は、冷淡だった。

 それを操る空の目には、いつもの無邪気な色の光などない。

 なぜなら、さとりが傷つけられている姿が、その目に入ってしまったから。

 抑えきれない殺気を向けたまま、空はルーミアに向かって容赦なくその力を振う。

 あまりに突然の強大な力の登場に、とっさにそれを飲み込みながら、空に僅かに注意を向けようとしたルーミアの懐に、

 

「……せよ」

 

 地の底から這いあがったような気配が、その喉元へと迫っていた。

 

「お姉ちゃんを、放せよ」

「っ―――!?」

 

 直前まで、気付くことはできなかった。

 それでも、悪寒を感じたルーミアがとっさに避けたのは、感情の感じられないはずの殺気。

 だが、さとりにも読むことのできなかったはずの心は、誰もが見た瞬間に感じる。

 そこにあるのは、苦悩の末にやっと完全な制御を手にしつつあった『無意識を操る能力』さえも掻き消して感情を剥き出しにしてしまうほどの、かつてない憎悪。

 閉じたはずの第三の瞳を、睨み殺すように見開いてルーミアに向けているこいしの姿だった。

 

「……よう、生きてるか? さとり」

 

 そして、軽い口調で言いながらも、そこに存在する誰よりも強大な力と殺気を纏った勇儀の姿。

 それらが、一斉にルーミアを取り囲んで構えていた。

 

「ちっ。 次から次へと……」

「……ふふっ」

 

 それを前にしたさとりが静かに浮かべていたのは、恍惚とした笑み。

 だが、それは自分を助けに来た仲間たちを見て浮かべた、安堵の笑みではない。

 その瞬間を、その人生の最期の華を愉しむかのように、さとりは誰にも気づかれぬほど静かに、その奥深くに眠る闇の侵食を自らの意思で進める。

 その身体は、一瞬で大半が漆黒に染まっていた。

 

「ごめんね、みんな……やられちゃったわ」

「なっ……!?」

 

 それを見て一番驚いていたのは、ルーミアだった。

 ルーミアはもう、さとりを闇の感染者として飲み込むつもりはなかった。

 あまりに危険なその異物を、完全に拒絶するつもりでいた。

 だが、さとりはいつの間にか内に秘めた負の感情を……いや、闇の能力そのものさえも自らコントロールするが如く簡単に、深すぎる闇に染まっていた。

 

「お姉ちゃん!?」

「さとり様っ、そんな、待ってよ! 私が今…」

「来ないでっ!!」

 

 そんな、茶番とでも言うべきシナリオを、さとりは心の中で失笑しながら進める。

 さとりはさっきのやり取りを通じて、ルーミアにとって自分という存在が明らかな異物であることを理解した。

 ならば、その自分がこのまま完全に闇に染まれば、この運命の行く先はどうなるのだろうか。

 ルーミアの力が更に強大化されて簡単に幻想郷を飲み込んでいくのか、あるいは異質化した力がまた違う未来を創り出すのか、そもそも自分という存在が一体どうなってしまうのか。

 どんな結末が待っているのかは、全くわからない。

 さとりは、どんな未来を望む訳でもなく、ただ興味本位で自らの命を蔑ろにした。

 

 だが、さとりは別にそこで死にたいなどと思っている訳ではない。

 恐らくはいずれ自分を助けに来るだろう、ペットたちと妹の到着を待っていた。

 そして、仮に幻想郷が救われる未来が来たのならこいし達が何かうまいことやって結果的に自分を救出してくれればなぁ、などという適当な保険をついでに思考の隅に置いてはいたが、実はそれすらもどうでもいい。

 ただ、悲しみに歪むだろうその表情が、この運命の果ての景色にもたらす影響だけに期待しながら……

 

「後は頼んだわよ、みん、な…」

 

 さとりは、闇に飲まれた。

 完全に沈む直前に、その笑みで表情が崩れるのを我慢できないまま。

 

 今頃、勇儀はさとりを助けるために真っ先にルーミアへと突っ込み、お燐はこの状況でも焦燥を押し殺して冷静にさとりを助けるために最善の方法を模索しているのだろう。

 そして、空は泣き叫び、こいしの心は制御できないほどに暴走しているのだろう。

 誰もがただ怒りのままに、ルーミアに立ち向かっているのだろう。

 さとりが自分からこんな選択をしたことなど誰一人として知らないまま殺意に支配される、狂った喜劇の中で。

 

「……いや。 一人、気付いてたか」

 

 さとりが最後に思い浮かべたのは、恐らく初めて自分を理解していただろう相手のこと。

 その歪んだ思考を理解していただろう、一人の魔法使いのこと。

 

 

  ――私はこういう奴が一番嫌いなのよ。

 

 

 だが、地底でそう吐き捨てた相手のことを、逆にさとりも理解していた。

 たとえ第三の目で心を読まなくとも、本能的にわかっていた。

 それを、互いに知り得た理由は―――

 

「知ってる? 同族嫌悪っていうのよ、それ」

 

 そう、最後に呟いたさとりは、静かに闇の中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「終わり、かしらね」

 

 宇宙空間に囲まれた砂漠のような、異次元の狭間。

 現実の光景とはかけ離れた殺風景な世界で、輝夜は一人立っていた。

 その足元には、無残に散らばった魔物の屍が、地を覆い尽くすほどに積み上がっている。

 それでも、その中でただ一人、レミリアと大差ないほど小さな金髪の少女が、全身を得体の知れない何かに浸食されて膝をつきながらもグリモワールを片手に未だ輝夜の前に立ちはだかっていた。

 

「……そうね。 私にはもう、あんたに対抗するような力は残ってないわ」

「だったら、もう諦めてこの魔法を解いたら? 今も貴方の身体を蝕んでるんでしょ」

「それは、お断りね」

 

 その小さな妖怪こそが、アリスの本当の姿だった。

 元々は人間でありながらも、禁忌のグリモワールに手を染めて妖怪と化し、それを使って魔界を影から操っていた狂気の天才魔法使い。

 魔理沙たちが今まで見ていたのは、本来成長するはずだった自分の姿を模した人形に自らの精神を込めた仮初の姿に過ぎなかった。

 

 そして今、アリスはその「人形」で出せる力の限界を超えて本気を出すために自らの本体を戦場に晒した。

 それでもなお輝夜を打ち負かすには至らなかったが、既に勝敗の決した戦場で、アリスは輝夜を異空間に閉じ込める『紫』色の魔法だけは解かなかった。

 その禁呪の浸食を、命を張って未だに耐え続けていた。

 

「でも、私がここで貴方を殺せばこの魔法は解けるでしょ。 その前に諦めた方が、賢明じゃない?」

「嫌よ。 私はまだ、あんたの答えに納得してないもの」

「私の答え?」

「ええ。 この異変に対するあんたの向き合い方が、気に入らないのよ」

 

 輝夜が立つのは、あくまで第三者の視点。

 自分が異変に直接介入することなく、その結果を幻想郷の住人の力に任せるだけの、一種の無関心。

 それが輝夜が決めた、自分のいるべき場所だった。

 

「私が関わって、一体何があるの? ただ異変をつまらなくするだけじゃなくて?」

「ええ、そうかもね。 自分が直接介入すれば、いろいろとパワーバランスが崩れるとわかってるから」

「そうよ」

「……ただそういう風に、あんたは自分に言い訳してるだけよね」

「何?」

 

 怪訝な目を向けた輝夜に、アリスは一つ息を吐いて答える。

 

「私も昔、そう思ってたことがあったからね。 だからこそ若輩の私にも一つだけ、あんたに教えてあげられることがあるわ」

 

 かつての自分が、そうだったから。

 輝夜の抱える歪みを、恐らくはこの世で自分だけが理解できるのだから。

 だから、アリスはガクガクに痙攣している足で、再び立ち上がる。

 その手に持った本は、七色の光を放ちながらアリスを包み込んでいく。

 

 

      『 ―Iridescent― 』

 

 

 そして、アリスは自らの手の内にある全ての色を同時に開放して、

 

「最後まで傍観者でいることほど、つまらない結末の迎え方はないってことをね!」

 

 全ての魔力を解き放ち、自分でも何が起こるかわからない『虹』色の魔法に身を委ねて、アリスは輝夜に立ち向かう。

 辺りを覆う異空間すらも歪ませるほどに、得体の知れない力を宿したアリスの姿は輝夜と交錯し――――

 

「……そう。 じゃあ、少しくらいは肝に銘じておくわ」

 

 次の瞬間には、あっけなく地に伏して声も出せないまま動かなくなっていた。

 

 その一瞬に何が起こったか知覚することもできないまま、辺りに飛び散った七色の光だけが僅かに辺りの異空間を照らしてすぐに消えた。

 力の源を失い、地面を埋め尽くしていた魔物の屍の山が消滅し、そこには倒れて動かなくなった小さなアリスと、それを静かに見下ろす輝夜の姿しか残ってはいない。

 崩れゆこうとする異次元世界の中で、輝夜は自分と渡り合ったアリスの最期を、惜しむこともなかった。

 ただ、少しだけその最後の言葉を反芻するように、

 

「つまらない、か」

 

 消えることなく呪いのように鳴り響くアリスの言葉は、輝夜の中に留まり続ける。

 不思議とそれに反発しようとは思わない。

 それを奥底に宿した自分の中の何かが、ほんの少しだけ動いたように感じていた。

 

「それに、私の本当の望み……ねぇ」

 

 輝夜は、さとりが放ったその言葉を思い出す。

 そして、自分が今いる場所を見回す。

 そこは何もない砂漠、星一つない、誰もいない真っ暗な闇に閉ざされた世界。

 まさに滅びた世界。 他に何一つ余計な雑音の混じることなき、ルーミアに敗北した幻想郷の末路を映したものとさえ思えた。 

 そして、その世界の綻びがどこに繋がっているのかも気付いた輝夜は、微かな笑みを浮かべて、

 

「なるほどね。 これが目的だったのだとしたら、私も貴方の掌の上で踊らされていただけの道化師に過ぎなかったってことなのかしら」

 

 足元に這いつくばって動かなくなったアリスに向かって、そう呟いた。

 当然ながら、返事は無い。

 それでも、もう忘れ去りそうになるほどに矮小なその妖怪が込めた、最後の力への敬意を払うかのように、

 

「まぁいいわ。 だったら、少しだけ貴方の目論見どおりに進めてあげる」

 

 そう言って、輝夜は辺りを囲う異次元空間に干渉する。

 アリスの力が途絶えたならばあと数秒で消えるはずの、その空間。

 その気になれば、簡単に外に出ることもできるはずの、その空間。

 輝夜は自らの『永遠を操る能力』を使ってその空間の寿命を延ばし、あえて自分がその中に取り残されるよう細工する。

 

「さぁて、貴方の見ていた未来の先には、一体何があるのかしら」

 

 そして、輝夜はその世界へのもう一人の招待者を待ちながら、閉ざされた空なき闇を見上げていた。

 

 





 だいぶ長くなりましたが、これで中編は終わりとなります。
 次回、後編予告に続きます。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後編予告

 

 

 

 お疲れ様でした、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!

 よく考えると実は開始からもう2年以上経ってるんですよね……あまり引っ張り過ぎずに完結までいけるように頑張ります。

 この後から遂に色々とクライマックスで謎が明らかになっていくので一気にスパートかけたい気もしますが、19話の反省を活かして(校正前の話を投稿してしまったことがありました、すみません)ある程度書き溜めてから次を投稿していきます。

 後編の開始まで時間がかかりそうだったら、今までに書いたけど投稿しなかった部分とかを番外編にして繋いでいこうと思うので、気長にお待ちください。

 では、これからもお楽しみいただけるよう頑張るので、よろしくお願いします!

 

 あと、回収できそうもない過去の出来事とかは別作の日常録の方で回収するかもしれないので、よろしければそちらも併せてどうぞ。

 感想もお待ちしてます!

 

 

 

 以下、恒例の後編予告です。

 後編に向けてテンション上げるような感じで読んでいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           < 後編予告 >

 

 

 

 

 

 

 

   「さあ。 この難題、貴方はどうやって解くかしら」

 

 

         これは、とある異変の物語。

 

 永遠を生きた少女と、須臾に生きる少女たちの戦いの記録である。

 

 

 

       ――世界はいつも、変わらない――

 

 

 

    残酷な運命と、越えられない難題で溢れ返っている。

 いくら望もうとも、微かな希望さえも指の隙間から零れ落ちていく。

 

     だけど、そんなことは最初からわかっていた。

          悲しみや絶望は繰り返す。

      怒りや憎しみの連鎖は決して止まらない。

 

          いつだって、そうだった。

 

  目の前にあるのは、いつだってそんな景色ばかりだから――

 

 

    「だったら、私がお前の代わりに見てきてやるよ」

 

 

          だから、少女たちは願う。

  まだ見ぬ景色の果てまでも見渡せるほどの、力が欲しいと。

 

      「もう、何もできない自分は嫌だから」

 

         自分を超えていく強さと。

 

      「ならば、私はもう名前などいらない!」

 

        過去を乗り越えていく強さと。

 

  「じゃあ言ってみろよ。 お前は一体、誰なんだ!!」

 

        最後まで、想いを貫く強さと。

 

  「それでも私は、貴方の中にある『最強』を信じます」

 

         最後まで、信じ抜く強さ。

 

 

    それは、どんな時代も変わらない始まりの力で。

         誰もが求める、希望を呼ぶ力。

 

 

 そして、誰よりもそんな希望を想い続けた原初の少女は、叫ぶ。

        この世界に、絶望はいらないと。

 

     「あいつは、こんな私を許してくれるのかな」

 

              不安も。

 

     「これは私の、永遠に償いきれない贖罪だ」

 

              後悔も。

 

      「私にはもう、何も残されていないから」

 

              諦念も。

 

 

    「たとえ世界が拒もうと、私が絶対にあんたを――」

 

 

 

          ただ、全てを飲み込もう。

 

 

 

 

       東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

            ――後編――

 

 

 

 

        ……いつかきっと、辿り着くために。

 

 

        ――禁じられたパンドラの箱――

 

     『嫦娥計画』の全貌と、その果ての理想郷に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編
外伝ノ壱 : 最狂が笑った日




後編を書くのにもう少し時間がかかりそうなので、繋ぎで番外編を載せます。
特に本編で触れる必要がなかったため削った過去の描写について、短編にしたものです。
2~3話分くらい投稿すると思いますが、読まなくても進行上の問題はありません。

※番外編は本編と比べて割とR-15要素などが強めです。
また、人によっては若干のアンチ・ヘイトの描写を含んでるように感じることもあるかもしれないので、苦手な方は飛ばすことをお勧めします。





 

 

 

 

 地底世界。

 ならず者が集いしそこでは、毎日些細な諍いが絶えなかった。

 それでも、その諍いは怒りや憎悪に任せた醜いものではない、くだらないプライドをかけた一対一の殴り合いがほとんどである。

 嫌われ者たちがこぞって喧嘩に乗り出し楽しみ、それを見ながら盛り上げようとしていく。

 毎日のように起こる喧嘩には、決して禍根は残らない。

 地底は、ある意味では平和な場所であるはずだった。

 

 だが、そんな世界にも、表舞台の華々しい喧嘩の裏で一方的な虐殺は存在する。

 数人の屈強な鬼に囲まれて、人目のない路地裏でボロボロになるまで蹴られ続けている少女がいる。

 

「本当に救えねえよなぁ。 てめえはっ!!」

 

 2メートルを軽く超える鬼が、黒光りする筋肉を膨れ上がらせ、うずくまっている少女を容赦なく蹴り飛ばした。

 少女の身体はボールのように簡単に飛ばされ、その先で再び別の鬼に首根っこを強く掴まれる。

 首の骨がミシミシと音を立て、その目は飛び出しそうなほどに苦痛に歪んでいる。

 

「一体、どこに隠した?」

「かっ、はっ……」

「あの方を、一体どうしたのかって聞いてんだろうがっ!!」

 

 首を絞められた状態で、まともに声を出すことなどできるはずがない。

 それでも、返事すらもできないまま、少女は強く地面に叩き付けられる。

 そのまま殴打された身体からは、もう血反吐と吐き気だけしか出ない。

 

「ぅぁ……が……」

「ちっ。 もういい、時間の無駄だ。 行くぞ」

 

 そして、その少女をボロ雑巾のようにした鬼たちは、不快な視線で一瞥してその場を去った。

 やがて動かなくなった少女の身体は、最後に唾を吐きかけられて何よりも醜く打ち捨てられていた。

 

 ――嗚呼、またか。

 

 嫌われ者の楽園と呼ばれるここに来て、どれだけ経っただろうか。

 あまりに永く感じていたが、恐らくまだ1年も経っていない。

 まだ数か月、それなのに既に彼女に居場所はなかった。

 どこに行っても忌み嫌われる、その人生が変わることはなかった。

 

「……仕方ない、じゃんかよ」

 

 やがて、そこで倒れていた妖怪、火焔猫燐は掠れた声でそう呟いた。

 燐が犯した罪は、死体の窃盗。

 つい先日に多くの鬼たちに惜しまれながら命を散らした、一人の誇り高き鬼の死体。

 本来ならば盛大な酒盛りや喧嘩とともに送り出されるはずのそれを、燐は人目を盗んで勝手にどこかに持ち去ってしまったのだ。

 それがバレて集団リンチにされた、ただそれだけのこと。

 だが、どう考えても燐が悪いその出来事を、それでも誰が貶すことができるだろうか。

 

 鬼は、力を持つから悪なのか。

 妖怪は、人間を食らうから悪なのか。

 人間は、動植物を食らうから悪なのか。

 そうではない。

 そうしなければ自分が存在できない、それこそが自分が存在する糧だから。

 燐も、それと同じのはずだった。

 何かを食するのと同じように、死体を持ち去るという個性を失えば、火車として存在できないから。

 悪気があった訳ではない。

 その鬼の死を嘲笑う気持ちなんて欠片も無い、むしろ悼む気持ちすらあった。

 それでも、気付いたら我を忘れてそれを持ち去ってしまっただけ。

 燐はただ、あまりに周囲から嫌われる個性に支配されて生まれついてしまっただけなのだ。

 

「……これは、しばらく立てないね」

 

 両手両足の骨は、折られていた。

 内臓が傷ついたのか、吐血は止まらない。

 たとえ妖怪の治癒力をもってしても、少なくとも数日はまともに動けないだろう。

 それに加えてあまりにも汚らわしく捨てられたその姿では、誰かから手を差し伸べてもらうことすら望むべくもないだろう。

 だが、燐はそれほど気に病んではいなかった。

 

「ま、この程度ならまだいいか」

 

 そのくらいの仕打ちなど、慣れ切っていたから。

 地底の鬼のように、その場で殴って蹴って終わりなら、別に大したことはない。

 地上では、もっとひどかった。

 陰湿で、終わらない地獄が続くだけ。

 燐は今まで、動けなくなる程度の拷問なら幾度となく受け続けてきたから。

 だから、まだ耐えられる。

 他の誰にも耐えられないような苦痛も、燐なら気にも留めない。

 

「もう、どうでもいい……ぉ?」

 

 だが、燐のその精神的な強さは、この環境においては逆効果であった。

 

「これは、この臭いは……」

 

 その腐臭は、燐の本能を目覚めさせる。

 立つことのできないはずの身体を気遣うこともない。

 ただ、その臭いのする方へと再び燐は地を這って進む。

 知らない誰かが泣きながら運んでいる、小汚い布に包まれた何かを奪うために。

 そこにいるのは、見るからに屈強そうな妖怪が2人と、まだ小さく幼い妖怪が一人。

 今のボロボロの自分の力では、積み荷を略奪などできるはずがない。

 だが、燐はそんなことで諦めたりはしない。

 自分で立てないのならば、燐はそれを奪うために……

 

「ぅ、ぅっ、母さん……えっ?」

「な、何だこいつはっ、まさか……」

「怨霊っ!? どうして、こんな所に、うわ、うわああああっ!?」

「待って、ちょっと待ってよ…」

 

 自らの『怨霊を操る能力』を使って、その集団を襲った。

 それに憑りつかれれば即ち妖怪としての死を意味する、妖怪に最も忌み嫌われる天敵である怨霊を使って。

 突如としてそれに囲まれた屈強な妖怪たちは、積み荷を放り出して一目散に逃げていく。

 ただ一人、その積み荷を母と呼んだ幼き妖怪を除いて。

 

「……よこしなァ。 その死体は、あたいがもらっていく」

 

 怨霊をその身に纏いながら這い寄ってくる血まみれの燐は、まるで地獄から湧き出たゾンビのごとく不気味な姿であった。

 だが、普通なら目の前にしただけで卒倒するほどの恐怖をまき散らしている燐に、それでも妖怪は身を震わせながらも必死に抵抗する。

 

「待ってよ。 僕はただ、母さんを…」

「五月蠅い。 邪魔をするならあんたは―――」

「や、やめてよ、やめてえええええっ!!」

 

 燐はもう、相手の言葉など聞いてはいなかった。

 ただ欲望のままに怨霊を操り、無力な妖怪を再び脅しつけようとして……

 

 

「―――あら、随分と楽しそうね。 私も混ぜてくれる?」

 

 

 静かに響いたその声とともに、怨霊たちが何かの斥力を受けたかのように一斉にそこから距離をとっていた。

 怨霊が退いた理由を、怨霊の声を聞ける燐はわかっているはずだった。

 だが、わかっていてなお、燐は理解できなかった。

 怨霊たちが目の前のたった一人を怖れ、逃げたという事実。

 そんな事象自体が、燐は初めて会うものだった。

 やがて怨霊から救われた小さな妖怪が、安堵の笑みを浮かべて視線を上げると、

 

「あ、ありがとうお姉さ……ひっ!?」

「どうしたの? そんな、化物でも見たような顔して」

「こ、こめっ、こめいじさとっ……」

「失礼な子ね。 命の恩人を呼び捨てにするものじゃないわよ」

「ひっ、助け、助けっうわああああっ!?」

 

 妖怪は一目散に逃げ出して行った。

 怨霊を前にしてなお食い下がっていた妖怪が、その積み荷に目もくれずに。

 

「古明地、さとり……か」

「あら嬉しいわ、最近話題の死体泥棒にまで名を知られてるなんてね」

 

 燐は、目の前の妖怪を知っていた。

 嫌われ者の楽園と呼ばれた地底において、それでもその中で一番の嫌われ者と名高い覚妖怪。

 地底の鬼たちをして恐れ忌避し、近づくことすらないという噂のある妖怪。

 だが、燐はその噂を思い出しながら、笑い飛ばした。

 

 ――何が、地底一の嫌われ者だ。

 

 ――そんな、幸せそうな面してるくせに。

 

「あら、そんな風に見える?」

「っ!?」

「驚かなくても知ってるんでしょう? 私が相手の心を読めることくらい」

 

 突然心を読まれた燐は、自然と自分が嫌悪の表情を浮かべていることに気付いた。

 それでも、自らの内に芽生えていた嫌悪感は、同時にその心に一種の期待を生んだ。

 自分と同じ、不幸の星のもとに生まれついただろう相手に、抑えきれない興味を抱いていた。

 だが、その思考を読んださとりは、表情を変えずに言う。

 

「違うわ。 別に私は自分が不幸だなんて思ってないわよ」

「……何?」

「だって、ここでの生活は面白いもの」

 

 次の瞬間、燐は冷めていた。

 その言葉が、あまりに期待外れな、ただの幸せ者が発するものだったから。

 だから、燐の中には初めて同類に会えたと思えた次の瞬間に孤独に落とされたという、理不尽な怒りが湧いていた。

 

「ついでに言えば、貴方もね」

「はあ?」

「自分が世界一不幸な存在だなんて、何というか……面白いわね、貴方」

「っ!!」

 

 そして、その怒りはもう抑えきることができなかった。

 何もわかってなどいないくせに。

 燐が今までどんな人生を歩んできたかも知らないくせに。

 それを簡単に笑い飛ばすさとりに、気付くと殺意が湧いていた。

 

「……あんたなんかに、何がわかる」

「いや、わかるわよ。 だって心を読めるもの」

「そうかよ。 だったら、本気で全部読んでみろよ。 あたいが今まで、この人生で受け続けた苦悩を全部っ―――!!」

 

 そう言って、燐は自らが長年受け続けた負の記憶を深く想起した。

 燐は、さとりがその気になれば相手の記憶の全てを自ら体験するが如く鮮明に読めることも知っていた。

 嫌われ者の代名詞とされるさとりに元々興味があり、その能力について調べたこともあったから。

 自分の人生は最悪なのだという劣等感と、それでもさとりならもしかしたら自分の境遇を理解してくれるかもしれないという、微かな期待も抱いていたから。

 だから、燐は思い出したくもない、誰も耐えることなど叶わないような、苦痛の記憶をそれでもさとりにぶつけるように思い起こす。

 

 ――両手足の爪を抉られたことが何度ある?

 

 死体を漁るが故に嫌悪され、怨霊を操るが故に忌避され、燐はずっと孤独の中を一人生きてきた。

 いついかなる時も誰にも理解されず虐げられ、故に誰も信じられず、自分は最低の人生を生きてきたという自負があった。

 

 ――唯一自分を信じてくれた友が、目の前で嬲り殺されたことが何度ある?

 

 時にはそんな自分に同情してくれる稀有な人もいた。

 だが、それは燐にとっての弱みにしかならなかった。

 燐をおびき寄せるための、苦しめるための道具にする輩など、いくらでもいた。

 

 ――それが、自分への恨み事を吐きながら無残に死んでいく様を見たことが何度ある?

 

 むしろ自分に束の間の希望を与えてくれた友が、死に際に自分を呪っていくその姿は、信頼という言葉の全てを否定した。

 一度は信じた者が醜く命乞いをし、燐を罵りながら死んでいった光景に、一体何の救いがあるのか。

 何もかも、何一つとしていい思い出などなかった。

 ただ、ずっとそんな世界を生きてきた。

 ずっと最悪の記憶を反芻し続けてきた。

 そんな記憶をそれでも笑い飛ばせるのかと、燐は縋るようにさとりを睨みつけて……

 

「………ぇ?」

 

 燐は、かつてないほどひどい寒気に襲われた。

 さとりは、燐の記憶に耐えていたのではない。

 それに同情してくれていた訳でもない。

 ただ、誰よりも不幸だと思ってきたその記憶を読んださとりが、まるで愉快な物語を見ているかのような笑みを浮かべていたから。

 

「――へえ、貴方」

 

 そして次の瞬間、燐は震え上がる。

 

「随分と楽しい青春を送ってきたみたいね」

 

 その笑みには恐怖も同情も苦痛も何一つとしてない。

 燐には、さとりがその記憶を偽りなく楽しんでいるようにしか見えなかった。

 

 さとりは既に、燐の想起できる程度の苦痛なら、いくらでも体験したことがあった。

 誰かの記憶を読み続けて、そして何より、自分自身が受け続けた苦悩を噛みしめ続けて。

 それでも、さとりは今まで経験したあらゆる苦悩を、もう苦に感じてはいない。

 あまりに残酷過ぎる目の前の現実を生きるために、あらゆる出来事をただ自分の中で愉しんでいただけだった。

 

 ――生爪を剥がされる瞬間なんて、何が辛いの?

 

 何度も受け続けたその拷問の痛みに、今は特に苦痛すら感じない。

 さとりは別に、痛みに快楽を覚えている訳ではない。

 そこで真に憐れなのは、さとりではないから。

 その時のさとりは、覚妖怪という嫌われ者に苛立ちをぶつけることしかできない醜き豚共の心の叫びという滑稽な喜劇を眺めるだけの、一人の聴衆に過ぎないのだ。

 

 ――そんな私を憐れんで優しくした「偽善者」が、私への見せしめのために嬲り殺しにされる瞬間に、なんの悲しみがあるの?

 

 いい人ぶったそれが、死に瀕してなお、さとりに笑いかける姿。

 それが、本当は心の中でその行動を後悔し、さとりへの恨み事を永延と吐き続ける様など、見ていて失笑を禁じ得ない。

 今まで幾度となく、そんな光景を見続けてきたから。

 さとりは目の前の全てがくだらないことを、嫌というほどに知っていた。

 心を読めるが故に、真実の想いはいつも偽りの中にしかないことを知っているから。

 だから、さとりは既に希望や信頼などと言う記号に、価値を感じていなかった。

 ただ真実も偽りも関係なく、目の前の何もかもを滑稽な戯曲と化して愉しもうと。

 敵も、味方も、家族も、世界も、自分自身のことすらも、ただ面白ければ全てがどうでもいい、そういう生き方をしてきただけなのだ。

 

 ――何なんだよ、こいつ。 一体、何をっ…!!

 

 だが、そんなことなど燐が知る由もない。

 ただ嘲笑うような笑みを浮かべているさとりを見ていた燐の目には、もう余裕はなかった。

 さとりが恐怖するか少なくとも同情してくれるか、そんな未来しか予想していなかったから。

 

「さて、終わりかしら。 貴方の心は意外と面白かったのだけど、これではまだ…」

「ぁ、ぅあああああああっ!?」

 

 だから、燐は錯乱した。

 思い通りにならないさとりを、本能的に否定しようとした。

 確実にさとりを殺すための一撃を、無意識に放ってしまった。

 妖怪を死滅させる、怨霊を差し向けることで。

 

「あ、しまっ…」

 

 だが、燐が自分の過ちに気付いた時には、もう遅かった。

 燐の放った怨霊の群れが、まっすぐにさとりの中に入り込んでしまった。

 1つの怨霊に憑りつかれることが、妖怪には死を意味する。

 ましてや複数の怨霊に身体を乗っ取られることは、その存在意義の全てを乗っ取られて即死に至らせる行為に他ならなかった。

 だから、燐は慌てて怨霊たちをさとりから引き剥がそうとした。

 燐は怨霊を使って誰かを脅したことは何度もあっても、自ら殺しをしたことは一度もなかった。

 これはもう手遅れかもしれない、間に合わないかもしれない、そんな絶望感が燐の頭の中をめまぐるしく回っていく。

 そして、初めて犯してしまったかもしれない殺しの罪に、燐はまた心を狂わせそうになりながら……

 

「ふふっ、何を呆けた顔をしてるの?」

「……え?」

 

 本当に、燐は動けなくなった。

 いつの間にか、さとりに憑りついたはずの怨霊が次々と消滅していたから。

 何が起こっているかも、理解することができなかった。

 ただ、怨霊の発した声だけが嫌というほどに燐の耳に響いてくる。

 

「*―**――*――――*―」

 

 燐の耳には、普通であれば意味のある言葉として届くはずの音は、本当に何も聞き取れない雑音と化していた。

 それは叫びではない、悲鳴でもない。

 ただの断末魔。

 死してなお捨てきれない怨念を持つ、即ち負の記憶の塊であるはずの怨霊は、それでもさとりから逆流した記憶に自らの存在意義さえも掻き消されて消えていく。

 怒りが、憎悪が、悲しみが、絶望が。

 全てがそれを遥かに超える闇に掻き消されていく光景に、恐怖せざるを得なかった。

 さとりの中で今まさに消えゆこうとする声だけを聞きながら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 燐はたださとりに畏怖しながら俯き、それでも痙攣したように全身の震えが止まらない中で―――

 

「大丈夫よ」

 

 その声色で、燐の精神は辛うじて戻ってきた。

 ただ、優しくそう放たれた声に導かれながら顔を上げるとともに、

 

「貴方はもう、そんなちっぽけな記憶に苦しまなくてもいいのよ」

 

 目の前にあったその歪んだ笑みが、燐の人生における最後の心的外傷だった。

 

 さとりと出会うまでは、自分は不幸なのだと思っていた。

 自分のその記憶が、最悪なのだと思い込んでいた。

 だが、燐が抱いていたそんな悲痛な記憶を、さとりは楽しい青春と揶揄した。

 そんなものなど、ただの喜劇に等しいと言わんばかりに。

 まるでこの世の地獄など既に見尽くしたと言わんばかりの、冷たい目で。

 

 その日以来、燐はさとりに服従した。

 この世には、自分とは比較にならない闇を抱えながらも平然と、それでいて他者を思いやる心さえも持ち合わせながら生きている人がいる。

 それを知って初めて、自分の抱えるちっぽけな苦悩から逃れることができた。

 そして、幾多の苦悩の日々を超えて、遂に偽りなき真の友にも出会えた。

 馬鹿で幼い、それでも燐にほんの僅かな嫌悪感を見せることすらない、心優しき小さな地獄烏に出会うことができたから。

 

 そうして、燐は救われた。

 虐げられることすら、今ではほとんどない。

 あまりに強大すぎる、さとりという主の名のもとでは、周囲からの燐本人への嫌悪感など無いも同然だったから。

 そして何より、生まれて初めて、本当に心から信じられる家族に囲まれていたのだから。

 だから、燐はもう自分が不幸であるなどとは、欠片も思うことはないのだ。

 

 

 だが、それで人生が変わった燐とは対照に、その救いはさとりにとっては大した意味を持たない。

 それは、毎日の中でただ淡々と過ぎていく暇つぶしの一つに過ぎないのだ。

 自分を救ってくれた女神だと信じて、さとりについてくる燐や空の献身的な信頼も。

 本当はさとりが誰よりも優しいと勘違いしているこいしの愛も。

 さとりにとっては何もかもが、ただ自分が愉しむための滑稽な戯曲の1ページに過ぎない。

 

 

 ――さて、次は一体どんな喜劇が私を待っているのかしら。

 

 

 そうして、さとりはまた今日も次の愉悦を探していく。

 どれほどの人の苦悩も絶望も、さとりを満足させるには未だ至らないけれども。

 それでも、いつかはきっと見つかる。

 本当の愉悦の意味を忘れた頃に、どんな絶望も比較に値すらしない何かが。

 

 そして遂に見つけ出した、遥か地の底の深すぎる闇に根差した、とある歪みは……

 

 

「あはははは。 見つけたわ、こんなにも面白そうな―――――」

 

 

 いずれ、『運命』という最高の玩具へと、さとりを導いていく。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

外伝ノ弐 : 最凶が死んだ日



本編投稿までもう少し時間がかかりそうなので、繋ぎで投稿します。
6月中には次章を再開できると思いますので、もうしばらくお待ちください。



※閲覧注意
残酷な描写等の要素が強めなので、苦手な方はご注意ください。





 

 

 

 夜の竹林に、突如として爆音が鳴り響いた。

 華奢な少女の体が、自らの細い骨も太く頑丈な竹も諸共に乱雑に圧し折りながら、止まることなく地を跳ねるように滑っていく。

 既に絶命しているその死体は、なすすべもなく視界の果てまで飛ばされ、やがて動かなくなった。

 

「……何だ、この程度かよ」

 

 暴虐の鬼の四天王、伊吹萃香は落胆したような目でゆっくりと少女のもとに降り立ち、そう吐き捨てた。

 奇襲とはいえ、少なくとも自分と同レベルの者ならば耐えきれるはずの、ただの戦闘開始の狼煙である一撃。

 たった一度の殴打を受けてあっけなく地を転がっていった相手に向かって、萃香は苛立ちを込めた声で言った。

 

「やっぱり、紫の言うことなんざ信用できないんだよ。 何が鬼より強い種族だ」

「……」

「おい、何とか言ってみろよ、月人さんよ」

 

 その声を聞きながら、いつの間にか死体の命は再構築されていた。

 折れて砕けてしまった首の骨さえも何事もなかったかのように再生し終えた不死の月人、蓬莱山輝夜は大の字に寝転がったまま夜空を見上げていた。

 

 あまりに強力すぎる一撃、たった一発で輝夜の命を一度散らせたほどの圧倒的な力。

 だが、輝夜はそれに恐怖することも、警戒することもなかった。

 その目にはもう、少し前まで弾幕ごっこで遊んでいた時のような楽しげな表情はない。

 あるのはただ、空虚な失望だけ。

 冷めた目をしたまま、輝夜はゆっくりと立ち上がる。

 

「スペルカードルールに則れば、今のは反則よ。 萃香」

「だから、どうした?」

「……そう。 貴方は別に、弾幕ごっこで遊びに来てくれた訳じゃないのね」

「ああ、そうだよ。 地上人では決して敵わない相手だなんて紫がぬかすもんだから、どれほどの奴かと思ってね」

 

 萃香はあからさまに輝夜を挑発するような態度で向かい合う。

 だが、スペルカード戦中の明らかな反則に奇襲、輝夜を煽るような言動をあえて続けながらも、萃香の目には未だ僅かな期待が宿っていた。

 まるで、輝夜がこの程度で終わる相手ではないと、心から願っているかのように。

 

「だが、蓋を開けてみればただ死なないだけだってんだから本当にガッカリだ。 こんなんじゃ何も満たされはしない」

「満たされない?」

「ああ。 スペルカードルールなんて、いい迷惑だ。 喧嘩なんてのは、強え奴と互いをどついて蹴って殴り合って勝敗を決める、そんなシンプルなもんが最高だってのにな」

 

 萃香は、遠い目をしながらかつての強敵との戦いを思い出す。

 勇儀に天魔に紫に幽香、いずれも最強と呼ばれる相手たちと戦って得た価値ある勝利の数々。

 閻魔に鬼神、自分と同等以上に渡り合う好敵手と鎬を削り合った、心躍る戦いの日々。

 時には負ける日もあったが、それらは全て萃香の心を更に昂らせていくものばかりだった。

 

「なるほどね。 貴方は互いを壊し合う戦いにこそ価値を見出す、いわゆる戦闘狂ってやつなのかしら」

「……いや。 それは少し、違うな」

「違う?」

「別に戦いそのものが好きな訳じゃない。 ただ、単純に許せなくてね。 鬼が地底に移り住んだのをいいことに、勝手に最強だなんて呼ばれてる奴らが」

 

 妖怪の山の天狗や河童たちを支配している天魔が、実質的な「妖怪の支配者」であるという呼び声が高かった。

 だから、それを屈服させて、目に見える形で鬼との上下関係を示した。

 妖怪の賢者と呼ばれる紫が、「最強の能力」を持つと広く知れ渡っていた。

 だから、その能力を暴力でねじ伏せて、鬼にはどんな小細工も通じないとその記憶に刻み込んだ。

 その紫を差し置いて、「最強の妖怪」と呼ばれている幽香の噂を耳にした。

 だから、その強さを正面から完膚なきまでに叩き潰し、鬼こそが真の最強であると証明した。

 

 今まで一方的に喧嘩を売って負かしてきた相手に、別に恨みがある訳でも何でもない。

 ただ、鬼以外に最強の名を冠する相手の存在を、許容できなかっただけ。

 鬼という種族の力そのものを体現してきた、誇り高き力の求道者。

 それこそが、伊吹萃香という鬼の存在意義だった。

 

「私はお前と戦いに来たんじゃない。 紫に、この世界のたった一人からでも鬼より強いと評価されていたお前を、ただ一方的に蹂躙しに来たんだ」

「……」

「忘れ去られた『鬼』という存在への恐怖を、畏れを、森羅万象の心にもう一度刻み込む。 誰が信じている最強さえも簡単に踏み潰して進む、真の最強の種族としての誇りを取り戻しに来たのさ!」

 

 そう言って、萃香の身体は辺りの竹林さえも超えるほどの丈となって輝夜を見下ろす。

 自らの『密と疎を操る能力』を使って巨大化し、その圧倒的な「力」を目に見える形で体現する。

 

「さあ。 お前は鬼を前にして、恐怖のままに泣き叫んで命乞いをするか? それとも絶望のままに全てを諦めるか?」

「……」

「はっ、言葉すら出ない、つまりお前は後者って訳かい。 だがな、こんなのはまだお前がこれから味わう絶望の序章に過ぎない。 不死でよかったなんて、思わせてもやらない。 お前はこれから鬼の影に怯えながら、永遠に続く恐怖の中を…」

 

 それを言いかけた萃香は、違和感に気付く。

 輝夜は俯き、その身体は小刻みに揺れていた。

 だが、自分を目の前にした弱者の姿を見慣れていた萃香には、すぐにわかった。

 それが、恐怖ゆえの震えではないのだと。

 まるで自分のように、愉しさに震えているかのような。

 

「……ふふっ、軽々しく永遠を語るのね。 本当の恐怖も絶望の意味も知らない……いえ、それが自分には一生無縁なものと思い込んで、ただ平穏の中を生きてきた純粋無垢な子鬼が」

「はあ?」

「なるほど。 でも、これはむしろ――――」

 

 そして、輝夜が顔を上げると同時に、

 

 

「――――理想的ね」

 

 

「っ!?」

 

 萃香は身の毛もよだつような何かに導かれるままに饒舌な口を閉ざし、反射的に身構えていた。

 世界を支配する空気の質が、今までとは違った。

 静かだった。

 大気さえも震わせていた、萃香の強大な力など存在しないかのように、静寂が支配していた。

 

「貴方なら、少しくらいは正しい道を示してくれるのかしら」

「お前は、何を…」

「ああ、ごめんなさいね勝手に盛り上がっちゃって。 さ、気を取り直して遠慮せずかかってくるといいわ。 貴方がそこまでして本当の絶望や恐怖を追い求めるのなら、半端な空虚に閉ざされた貴方の心を、私がせめて虚無の彩りで飾ってあげる」

 

 さっきまでのように適当に振る舞う輝夜の姿など、もうどこにもない。

 そこにあるのは、この世の全てを見下したような、冷たい重圧を纏った微笑。

 萃香を襲うのは、心臓を握りつぶされるほどの悪寒。

 閻魔王や鬼神長、全ての頂点にいるはずの相手を目の前にした時以上の、得体の知れない感情だった。

 

「そうかい。 やっと、お前の本気を見せてくれるって訳かい」

「貴方が望むのならね。 互いをどついて、蹴って、殴っての戦いをしたいんでしょう?」

「ああ。 ……いつ以来だろうな、本当に。 ずっと待ってたんだよ、そういうのを」

 

 だが、萃香はその感情を喜々として受け入れていた。

 耳に響いてくる自分の鼓動の高鳴りを、心地よくさえ感じていた。

 萃香は、抑えきれない衝動のままに、その拳に力を込める。

 

「紫さえ恐怖させた月人とやらの力、見せてもらおうか。 頼むから、たった一撃で消えてくれるなよっ!!」

 

 そう言って萃香が張った一突きは、次の瞬間には世界に地殻変動を起こしていた。

 固い岩盤が砂のように簡単に抉られ、二つに分かれた衝撃波が視界の果てまで届けられていく。

 粉々になった竹が大地と混ざり合って飛沫を上げ、霧散した土煙が天を覆い尽くしていく。

 それはまさに幻想郷最強と呼ぶに相応しき……いや、幻想郷に比類する者すらいないと思わせるほどの圧倒的な暴力を形にしたものだった。

 

「ははっ」

 

 その光景を見る萃香は、笑っていた。

 だが、それは一撃で世界を塗り替えるほどの自分の突きの威力を見て笑ったのではない。

 萃香はただ、まっすぐに輝夜に一撃を当てたはずなのに。

 なのに、振り抜いた手の終着地点を完全に見切ったかのように、それをギリギリかわせる位置で輝夜が何事もなかったように立っていたから。

 しかも、そこから発生した巨大な衝撃波が、輝夜を起点にして二つに分かれていたから。

 

「何だよそれ、訳わかんねえよっ!!」

 

 確かに全力だった自分の一撃が完全に見切られ、その衝撃波さえも輝夜の目の前でだけ完全に塞き止められていた理解不能な光景に、萃香は喜びすら覚えていた。

 止めることなど叶わぬはずの自分の力を、いとも簡単に防いだ相手を前に、興奮を抑えきれなかった。

 期待以上だと。

 輝夜が一切手加減のない全力を尽くすに値する相手だと認めると同時に、

 

「だったら、これはどうだ!?」

 

 萃香は高く跳び上がり、上空からその巨大な踵を振り下ろす。

 正面からなら、上手く逸らされたのかもしれない。

 だが、真上からの攻撃ならばその衝撃を逸らすことなどできない。

 そのまま、避ける隙のない踵落としで輝夜を押しつぶそうとして……

 

「……おいおい、マジかよ」

 

 その光景は、流石の萃香の頬をも冷汗で濡らしていた。

 巨象をも紙のように薄く踏み潰して血飛沫に変えられるはずの巨大な足は、そっと触れるように優しく、輝夜が軽く上げた片手に止められていた。

 圧倒的な質量差と速度差があったにもかかわらず、輝夜の上で萃香の攻撃が完全に「止まっている」のだ。

 物理的にあり得ない力、それだけはわかった。

 なぜなら、輝夜の二本の足が平然と地を踏んでいるから。

 もしそこに輝夜がいなければ、隕石が落ちたかのように地面を数メートル以上にわたって粉々に沈下していたはずの一撃。

 それを上から受けて力で押し返したのならば、支える大地の方が先に悲鳴を上げるはずなのだ。

 

「どう見てもパワータイプにゃ見えないんだがな、お前は」

「別に、パワーとかそういう問題じゃないわ。 ただ貴方の動きが遅すぎるだけよ」

「……何?」

 

 その言葉は、萃香を心の底から苛立たせた。

 だが、萃香を苛立たせているのは、自分の遅さを、つまりは遠回しに弱さを指摘されたことなどではない。

 この瞬間を何より楽しみ、輝夜を認めている萃香とは真逆と言っていいほどに、輝夜の目が淡々と作業をしているかのように白けていたことが何よりの屈辱だった。

 まるで、自分など……鬼など取るに足らない存在だと態度で示されているかのように。

 

「だったら、お望みどおりにっ―――!!」

 

 萃香は巨大化を解いて、速度を重視した体勢になる。

 最適化されて発達した筋力が、鬼の中でも際立って軽く小さくなったその身体と相まって、爆発的な加速力を生む。

 瞬間的には天狗顔負けの速度をも可能とするその一歩とともに、萃香は自らの拳一点だけを最高密度に固め、妖力の全てを萃めていく。

 

「四天王奥義」

 

 一撃目から全力の一手。

 勇儀のように、全力の三歩目を放つために一歩目と二歩目を使うのではない。

 一撃で相手を再起不能にし、二撃で相手の体を粉砕し、三撃で骨の欠片も残さないほどに消し飛ばす。

 それは技と呼ぶ必要すらない、ただの怒涛の三連撃。

 だが、圧倒的な力を持つ者にとっては、どんな小細工を弄するよりも、それこそが最強の攻撃なのだ。

 

「『三歩壊廃』!!」

 

 そして、その一撃が輝夜の中心線上に鋭く刺さった。

 ガードをすることすらなくその一撃を受けた輝夜の身体は、衝撃波をまき散らしながら派手に吹き飛んでいく。

 一度死んで再生したようには見えない。 なのに血の一滴すらも流さず、全くの原型を留めたままで。

 たとえ同じ鬼でも、当たればその部分を起点に血煙に消し去るはずの一撃をまともに受けたのに、どう見ても輝夜が再起不能になったようには見えなかった。

 萃香はどこか怪訝な表情を浮かべながらも、宙に流れていく輝夜に追い打ちをかけるように、そのまま二撃目を振り抜く。

 その拳は疑うこともないくらい確かに輝夜の身体の芯を打ち抜いたが、それすらも手ごたえは軽かった。

 当たってはいる、それだけは確実のはず。

 だが、その拳が輝夜に届いているとは全く感じられない。

 言葉にできない、どこか嫌な予感が萃香の中で渦巻いていた。

 そして、その予感は止めを刺すはずの3撃目で現実となって萃香に襲い掛かる。

 

「……はい。 これで萃香からは、どついて蹴って殴ったわよね」

「っ―――!?」

 

 萃香の拳は、止められていた。

 しかも、正面から受け止めるのではなく、横から掴み取るように。

 それは、その拳を完全に見切っていなければできないはずの、たとえ見切っていても容易ではない所業。

 それを淡々とこなして言った輝夜の手を振り払って、萃香は本能的に一度距離をとる。

 気づくと、萃香の体は震えていた。

 萃香は、今の自分を襲う震えが、愉しさから来るものでも、武者震いとも違うとだけ感じていた。

 だが、自分でも気づかない内に心の底から新たに湧き上がっていたその感情を、萃香は何と呼べばいいのかを知らなかった。

 今までの強敵を前にした時の萃香は、どんな窮地に立たされても、気持ちが昂るだけだったから。

 その感情を恐怖と呼ぶのだと、気付くことができなかった。

 

「じゃあ、次は私の番ね」

「お前は、一体……っ!?」

 

 聞きかけた途中で、萃香は目を疑った。

 知覚することすらできなかった。

 ただ、大きく距離をとったはずなのに、一瞬の内に目の前の手を伸ばせば届く位置に輝夜がいて。

 

「っ!!」

 

 萃香は反射的に一歩踏み込もうとする。

 退くのではなく、前に出る。

 避け切れないと本能的に悟り、ならば先んじて相手を粉砕するために拳を振り抜こうとして……それが届く前に、輝夜の姿ごと目の前の世界が燃え尽きて消えていた。

 同時に、灼熱を纏った衝撃波が「既に」萃香の胸から下を灰と化していた。

 

「は……っ!?」

 

 何が起こったかも理解できなかった。

 激痛を知覚できる以前に、あまりにも遅く届いた轟音に気付くことすらできなかった。

 ただ、燃え尽きた世界の塵の中に消えたはずの輝夜の姿が、再び眼下にあって。

 

「どついて」

 

 目視できたのは、輝夜が足を振り上げようと構えたところまで。

 次の瞬間には、再び輝夜の姿が焼失するとともに、萃香の顔が顎から焼き抉られて空中に放り出されていた。

 

「蹴って」

 

 その言葉だけが、爆音とともに微かに後から耳に届いた。

 それだけで、萃香は全く何もできないまま終わっていた。

 抉られて焦げた自分の上半身しか存在しない状況で、萃香にはただ、輝夜が上空で拳を構えているのだけが見えた。

 

 輝夜は別に、強固な防御手段を持っている訳でもなければ、強大な霊力を放った訳ではない。

 萃香の攻撃の一つ一つの軌道を、ゆっくりと把握して止めただけ。

 そして、萃香の望みどおり、ただまっすぐ萃香の腹をどつき、その顎を蹴り上げただけだった。

 ただし、その『永遠と須臾を操る能力』を僅かに使って時間を圧縮・膨張することで、実質上の萃香と輝夜の速度を自在に操っていたのだ。

 10000000秒という限りなく長い時間の中に萃香の動きを分散させることで、自分に向かってくる実質的な萃香の攻撃の速度を、徒歩の数万分の1以下の速度にまで下げただけ。

 そして、0.0000001秒という限りなく短い時間の間に萃香に突きを入れることで、実質的な輝夜の攻撃の速度を音速の数万倍以上にまで上げただけ。

 たとえ萃香の一撃がどれほどの質量を持っていようとも、速度や重力加速度が限りなく0に近づけば抱えるエネルギーなど無いも同然であり、そもそも攻撃が未だ当たっていないかのように制圧できた。

 逆に、1秒とかからず日本全土を横断できる速度で放たれた輝夜の突きは、その摩擦熱が凄まじいエネルギーを生み出して輝夜自身の身体を一瞬で燃やし尽くし、異常な高温を纏った衝撃波が知覚できない速さで萃香の身体ごと辺り一帯を焼き飛ばした。

 そして、蓬莱の薬の効果で瞬時に生き返った輝夜は、再びその速度で自らが燃え尽きながらも萃香の顎を蹴り抜いた。

 ただ、それだけ。

 最速の天狗でさえも比較するに値しない光速の一撃をも肉眼で見切って止めることのできる力。

 そして、何より恐ろしいのは、自らが光速を超えることも可能とする、時間操作による圧倒的な速度から生み出される規格外の破壊力。

 その気になれば世界さえも簡単に滅ぼせる代わりに、一撃一撃で自らの命を費す必要のあるはずの力を、不死者が持っているというあまりに理不尽な組み合わせ。

 それは、いかなる身体能力をもってしても決して抗うことのできない、反則的な力だった。

 

 だが、全身の半分以上を焼き飛ばされながらも、それは『密と疎を操る能力』を持つ萃香にとっては致命傷にはなり得なかった。

 普通ならば既に息絶えているはずの状況で、それでも萃香は笑った。

 

 ――『百万鬼夜行』――

 

 朦朧とする意識の中で、それでも萃香は残された自らの身体を細かく分裂させ、密度の薄い小さな分身を創り出した。

 100万に達する萃香の群れが、輝夜を取り囲んでいく。

 その群れは全て、ただの雑魚ではない。

 今は本人が満身創痍と言っていい状態であるが故にそこまでの力は持たないが、平時ならば一人一人が低級妖怪と同等の力を持つ、十分な戦力として数えられるものなのだ。

 それこそが、萃香が『小さな百鬼夜行』の異名で知られる所以だった。

 その気になればたった一人で幻想郷の全ての妖怪を相手取ることさえ可能とする、萃香の最後の奥義。

 力による暴力ではなく、数の暴力でもって目の前の強敵を屈服させようとする。

 

「……ああ、何だよ。 最高じゃないか!!」

 

 萃香の目は、子供のように光り輝いていた。

 これほどの相手と戦うのは、いつ以来だろうか。

 こいつに勝てれば、自分は一体どれほどの高みに届くのだろうか。

 そんな、喜びにも似た闘争心が萃香の中で渦巻いていた。

 その、はずだった。

 

「さあ、これならお前は―――」

 

 だが、萃香はそこまで言いかけて異常に気付く。

 身体が動かない。

 いや、身体がではない。

 自分の分身も、輝夜の動きも、空気の流れも、この世の全てが止まっているように見えた。

 

 ――何だ、これは。

 

 時が止まって見える。

 その現象を、萃香は聞いたことがあった。

 死の間際に見えるという、走馬灯。

 弱者が見る弱さの証だと馬鹿にし続けたそれが、目の前に見えているのだ。

 

 ――っ!? ふざけんな、私はまだ負けちゃいねえ!

 

 萃香は目の前の世界を否定し続けた。

 どんな強敵を前にしても、その心が屈することはなかった。

 死を目前にした時でさえも、その足が一歩として退くことは決してなかった。

 むしろ、相手が強敵であればあるほど闘争心が昂っていく、自分はそういう存在なのだと思っていた。

 そんな自分が、走馬灯などという脆弱なものを見るはずがない。

 ならば、これは走馬灯ではない。

 

 だが、だとしたら……

 

 ――じゃあ、これは何だ?

 

 それは、走馬灯ではなかった。

 輝夜の能力によって、萃香の時の流れが止められていた。

 死の間際で、萃香の意識が時の狭間に閉じ込められたのだ。

 

「さて。 前座はこのくらいにして、そろそろ本題に移りましょうか」

 

 前座と、そう聞こえた。

 こんなのは、萃香の望んでいたものではないと。

 恐怖と、絶望と呼ぶに値すらしないと言わんばかりの口調で。

 丸腰の人間と妖怪の戦いですら、もう少し力が拮抗してると思えるほどの一方的な蹂躙を、輝夜は確かに前座と呼んだ。

 

「貴方はこの難題に耐えられるかしら。 自分の数万倍以上の強大な力を持った相手に立ち向かうことさえも、比較にすら値しない絶対の絶望であり最悪の恐怖」

 

 萃香の耳に、最後にそんな声が届いた。

 そして、その続きは声ではなく、ただ脳裏に響くかのように、

 

 

   「―― 『永遠』 ――」

 

 

 言葉を知覚すると同時に、萃香の分身の一つが突如として弾け飛んで消えた。

 

 ――え?

 

 目を動かすことすらできない萃香は、何故そうなったのかはわからなくとも、自分の100万の分身の内の一つが減ったことだけを感じ取れた。

 だが、それだけ。

 それから萃香は指一本動かすこともできないまま、何の動きもない世界に閉じ込められ続けた。

 数分、数時間を過ぎても、何の変化も無い。

 異常な苛立ちだけを抱えたまま、そろそろ1日が経過するかと思った頃に、

 

 ――っ!? また…

 

 分身が、一つ消えた。

 そして、また1日が経つとともに分身が一つ減っていく。

 だが、その事実を知ること以外の一切が許されない。

 それ以外の、一切の変化が許されない。

 ただ100万の分身が1日に一つずつ消されていくだけの日々が……

 

 気付くと、萃香の体感時間で既に1年間も過ぎていた。

 

 ――ふざけんなよ、いいかげんにしろよ。

 

 退屈、などというレベルではない。

 目の前で輝夜が拳を構えた景色のまま、自分が死ぬ1秒前の状態のまま、何もできず1年を過ごした。

 自分の分身が1日に一つずつ消されていくという、意味の理解できない殺戮の中で。

 萃香の心は苛立ち続けていた。

 あまりに退屈な戦いを前に、怒りに燃えていた。

 1年の時を経て消えた分身は、100万の内のたった365体。

 それから、抑えきれない怒りだけを宿したまま、また1年が経つ。

 3年が経つ。

 それでも数十年、百年が経った頃には、萃香の心に変化が起きていた。

 

 ――もう、勘弁してくれよ。

 

 次第に、萃香は弱気になっていた。

 最初の頃は輝夜に怒り、呪い、こいつをどうやって殺してやろうかという好戦的な思いを持っていた。

 だが、そんな感情は何年も続きはしない。

 萃香は、輝夜と対峙したこと自体を後悔し始めていた。

 紫の言うとおり、決して敵わない相手だと言い聞かせて戦いを避けるべきだったとすら思い始めていた。

 だが、萃香に似つかわしくないほど軟弱なその後悔すらも、長くはもたなかった。

 

 あれから、遂に2000年が経った。

 つまりは約70万日が経った。

 自分が今まで生きてきた時間よりも遥かに永いその時間を、残り30万人の分身を残して、未だ全く同じ世界に生きていた。

 

 ――ぁぁ。 まだ、死ねないのか。

 

 萃香の心は、既に限界だった。

 もう、死にたい。

 萃香は、生まれて初めてそんなことを願った。

 勇敢なる者に鬼退治をされてみたいと、死ぬならばそんな最期がいいなどと言っていたかつての強敵を、軟弱と罵ったこともある萃香が。

 何の意味もなく死ぬことさえ、追い求めるようになった。

 それでも、止まった世界は終わらない。

 あと、30万日が過ぎ去るのを心待ちにしたまま……

 

 また数百年が経ち、遂に萃香の分身は残り1人になった。

 この頃には、萃香の目には反動で希望すらも見えていた。

 あと2日で死ねる。

 あと2日で全てが終わる。

 

 そして、最後の分身が消し飛び、そこには分身を失くした萃香1人だけが残される。

 

 ――さあ。 最後の1日だ!

 

 萃香は、自らの「死」を待ちわびていた。

 その退屈すぎる世界を抜け出せる喜びに打ち震えていた。

 ただ、それでも萃香の心は屈服してはいなかった。

 その心には、一周回って逆に一つの達成感が根差していた。

 あまりに強大すぎる相手に立ち向かって、永遠の地獄を終えて死んだという、一種の満足感。

 

 ――この野郎、いつか絶対祟ってやるからな。

 

 そんな、陰気な捨てセリフさえも、萃香は希望を持って考えられた。

 これで終わりだと、思っていたから。

 自分の目的も鬼という種族の誇りも忘れて、その思考があまりに弱弱しく歪められようとも、萃香にまだ感情が残っていたから。

 

 だが、その時の萃香はまだ気付いていなかった。

 それが、地獄のほんの始まりに過ぎなかったことを。

 

 ――っがあっ!? ……何が、ぁ、ぁああああああ!?

 

 次の瞬間、輝夜は萃香の生爪を剥がすかのように一枚だけ弾き飛ばしていた。

 久しく感じていなかった、「痛み」。

 3000年もの間、何の変化もなかった時間という概念が、突然現れたその苦しみを計り知れないほどに増大させる。

 だが、その痛みに一瞬気をとられた萃香が再び意識を目の前に向けると、萃香の周りには再び100万の分身がいた。

 

 輝夜は、およそ3000年ぶりに萃香の時を進めた。

 正確には、鬼という種族の「治癒速度」という概念だけを極限まで速めて、一瞬で全てを治した。

 そして、再び分身を一つ消し飛ばす。

 そして、再び長い沈黙。

 それだけで、萃香は悟った。

 また約3000年もの間、同じ地獄が続くのだと。

 しかも、爪一枚を剥がされた痛みを伴ったまま。

 

 ――何だ、何なんだよ!? だったら、これはまさか……

 

 萃香の予想は当たってしまった。

 泣き叫びたいほどの激痛を伴ったまま、3000年。

 怒りも、後悔も、何一つとして考える余裕のないまま再びそれだけの時間を過ごしていく。

 壊れそうになっていく心の中で、萃香はただ恐怖のカウントダウンの中を生かされていた。

 そして約3000年後、萃香は再び最後の一人が消される直前に全ての分身を治されてしまった。

 自らの爪が2枚剥がされる激痛とともに、再び3000年が始まった。

 

 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 

 ――許してください許してください許してください許してください。

 

 その頃には、萃香の心は完全に屈服していた。

 口を動かすことも、表情を変えることすらもできない萃香は、激痛に堪えながらただ心の中でそう唱え続けることしかできなかった。

 萃香は今になってやっと、この殺戮の残虐さを理解した。

 これが先進技術を極めた月社会の拷問の形なのだと、心の底から恐怖した。

 1日に1体ずつ着実に、時計の針が動くかのように自分が壊されていくことがわかっている。

 それが100万回続いた後、今以上の激痛とともに再び3000年が始まることも、この時点でわかっている。

 だが、それでも萃香には何もできない。

 自らの人生より遥かに永い拷問を前に、萃香にはもう泣き叫ぶための心さえも残っていなかった。

 気絶できたら、死ぬことができたら、どれだけ幸せだろうか。

 そんな妄想に心を浸らせる余裕すらないほどに、その苦痛は次第にエスカレートしていく。

 1日、また1日と、同じ景色だけを見たまま、今以上の苦痛の時間に向けて、少しずつ、本当に少しずつ自分の分身という名の秒針が刻まれていく。

 何もできないままそんな光景を見続ける己の無力さを嘆きながら、何千年もの絶望の時間を何度も繰り返していく、地獄すらも生ぬるく見える世界。

 本来なら1秒後にあったはずの自分の「死」という、手の届かない甘美な幸福だけを求め続けて萃香は日々を過ごしていく。

 

 5枚の爪が剥がされた状態のまま、3000年。

 10枚の爪が剥がされた状態のまま、3000年。

 足の爪まで剥がされて11枚。

 12枚。

 次第に、20枚。

 そして、遂には片腕が飛ばされて。

 両腕。

 両腕片足。

 両腕両足。

 胃。

 肺。

 腎臓。

 肝臓。

 心臓。

 

 目の前で、既に握り潰され終えた自分の心臓が空中で血飛沫と化している恐怖の光景を見つめながら、また3000年を過ごしていく。

 だが、あらゆる器官が潰されようとも、萃香は死ぬことができなかった。

 たとえ心臓破裂による即死であっても、脳を潰されなければ、その死を感知できるまでのコンマ1秒程度の間くらいは生きられるのだから。

 激痛とともに、死ぬ直前の計り知れない絶望と恐怖を伴ったまま、次の瞬間には自分が死んでいるはずの時間だけが永遠に続いていく。

 

 次は舌。

 もう、何も味わえない。 味というものが一体何者かもわからない。

 

 鼻。

 何も匂わない。 空気というものが一体何者かもわからない。

 

 喉。

 何も発せない。 声というものが一体何者かもわからない。

 

 耳。

 何も聞こえない。 音というものが一体何者かもわからない。

 

 目。

 何も見えない。 光というものが一体何者かもわからない。

 

 神経。

 何も感じられない。 痛みという苦痛すら、一体何者かもわからない。 

 

 萃香は遂に、自分の分身という名の時計に気づくことさえもできなくなった。

 次に何を、いつ失うのかすらもわからない。

 それでも、きっと命だけは消してくれないことがわかっていた。

 永遠という名の無間地獄が、決して終わりはしないことだけがわかっていた。

 もう、萃香は何も考えられなくなった。

 許しを請う言葉さえ、思考の隅に置く余裕もなかった。

 そして、何一つ感じ取ることのできない虚無の暗闇の中で、遂に全てを失った萃香の心が完全に壊れて消え去る直前に―――

 

「念のため、もう一度だけ確認しておくわ。 どついて、蹴って……最後に、殴ってほしい?」

「……ぇ?」

 

 萃香は、いつの間にか大地に立っていた。

 およそ10万年にも及ぶ拷問を経て、殺されることもなく、全ての傷を治された状態で何事もなかったかのように元の時間に戻ってきた。

 それは幻術などではない、確かに萃香自身が受け続けた苦悩。

 10万年も経ったはずの時間は、それでも実際にはコンマ1秒すらも経っていない。

 10万年、およそ3兆秒という時間すらも、須臾……つまりは1000兆分の1という単位の前には100分の1秒にすら満たないのだから。

 だが、輝夜の能力の原理など、萃香に考える余裕などあるはずがなかった。

 ただ訳がわからず、輝夜の放った言葉の意味も、目に光が映るという概念すらも忘れた萃香が視線を上げると……

 

「……」

「ぁ、ぅぁ、ひっ……」

 

 輝夜は、冷めた目で萃香の回答を待っていた。

 萃香は微かな悲鳴を上げながらも、意味のある言葉を覚えてすらいなかった。

 とっさに逃げようにも、能力を使うことはおろか、身体が言うことを聞いてくれなかった。

 力を失って倒れこむことすらできず、立ったまま地面に足が縫い付けられたかのように動くことができなかった。

 ただ、目の前の相手の機嫌を損ねないためだけに、萃香は目の前に現れた走馬灯の中であらゆる可能性に思考を巡らせて…

 

「……今日、ここでは何も起こらなかったし、貴方は何も見なかった。 それだけ、わかった?」

 

 輝夜は、萃香に失望するでも同情するでもなく、ただ淡々とそう吐き捨てた。

 その瞳は、既に萃香の姿など映していない。

 もう用済みだと、まるでその辺の虫ケラと同じだとでも言わんばかりに興味を失った声で、萃香にそう命じた。

 だが、萃香にはほんの少しすらもそれに反抗する気など起こらなかった。

 その言葉は、萃香の中で死んでもなお抜けないほど奥深くまで突き刺さっていた。

 言われたとおりに、そこで何があったのかを全力で忘れようとした。

 だが、あらゆる拷問も比較にならないほどの、その心的外傷が消える訳がない。

 だから、今日のことは絶対に誰にも何も言わず、現実としてなかったことにする。

 たとえ何があっても、絶対に逆らってはいけない。

 輝夜の命令に背いてもう一度この地獄に落とされるくらいなら、一瞬も躊躇わずに自殺するという決意。

 地獄の体験は、萃香の心にそんな傷を確かに刻んだ。

 

 それが、永夜異変が終わって数週間が経った頃。

 伊吹萃香という『鬼』が終わった日の出来事だった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後編ノ壱 ~戯曲~
第32話 : 永遠


 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第32話 : 永遠

 

 

 

 

 

 

 ひどい寒気とともに目覚めると、そこには何もなかった。

 見渡す限りの全てが、果てしなく続く真っ暗な世界。

 

「……え?」

 

 霊力で光を灯し、辺りを360度見回した。

 何もない。

 おもむろに飛び立ち、数キロメートルを進んでみた。

 だが、何もない。

 下にはただ砂漠のような冷たい大地がどこまでも広がり、上は星ひとつ見えない暗闇が覆っているだけ。

 探し求めていたはずの世界は、もう影も形もなかった。

 

「冗談、でしょ?」

 

 やがて地に降り立った霊夢は、かつてないほどの眩暈に襲われる。

 過去を乗り越えて、紫に助けられて、やっとのことで脱出したはずの闇の呪縛。

 だが、その先に待っていたのは、それ以上の絶望でしかなかった。

 

「魔理沙、早苗! ねえ皆、誰かいないの!?」

 

 その声は、響くことなく虚しく消えていく。

 当然ながら、返事は無い。

 

「……なんでよ」

 

 失意のままに、やがて霊夢は膝から崩れ落ちた。

 遅すぎたのだ。

 既に、幻想郷は敗北した。

 ルーミアに、闇の力に飲み込まれた世界は、誰一人生き残ることなく滅びてしまったのだと、そう思っていた。

 だが、それを悟って呆然としたまま動けずいた霊夢に、たった一つの希望が届く。

 

「やっほ、霊夢」

「え?」

 

 肩を叩かれてとっさに振り返ると、そこにはいつの間にか一人の少女の姿があった。

 笑顔で霊夢を迎える、たった一人の姿。

 

「輝夜……?」

「久しぶりね、元気してた?」

 

 もう、誰にも会えないのではないかと。

 孤独のまま、誰にも見送られずに一人死んでいく未来しかないのだと。

 そう思い始めていた霊夢は、しれっとそう聞いてきた輝夜に会えた安堵で、泣いて飛びつきそうになった。

 それでも、霊夢は湧き上がってくるその衝動に身を任せることができなかった。

 

「……ん。 元気、とは言えないわね」

「そっか。 ま、こんな状況じゃしょうがないのかしら」

 

 その心の奥では嬉しさと、そしてどうしようもない不安がせめぎ合っていたからから。

 異変の日、他に誰もいない永遠亭で、目を覚ました霊夢を見守っていたのは輝夜のはずなのに。

 早く妖怪の山に向かったほうがいいと、見送ってくれたのは輝夜のはずなのに。

 なのに「久しぶり」と言われた違和感が頭から離れず、霊夢は恐る恐る輝夜に尋ねた。

 

「……ねぇ輝夜、一つ聞いてもいい?」

「なに?」

「生き残ってるのは、あんただけなの?」

 

 霊夢に会うことが久しぶりというのなら、まだいい。

 だが、もしかしたら輝夜は、人と話すこと自体が久しぶりなのではないか。

 どちらにせよ、異変の日からひどく時間が経ってしまっただろうことに変わりはないが、少なくとも前者であってほしかった。

 今この近くにいないだけで、実はどこかにまだ皆がいるのではないかという僅かな望みは……

 

「え? そうね、もう他に誰もいなさそうよ。 不満?」

「っ……いいえ。 あんたが残ってるだけでも、ちょっとは救いなのかしらね」

 

 あまりにもあっけなく、打ち砕かれていた。

 霊夢は、ゆっくりと座り込んでうなだれる。

 輝夜が生き残っているのに、ガッカリしたというのは失礼なのはわかっている。

 それでも、霊夢は溜め息をついた。

 その言葉の信憑性は、疑うべくもない。

 なぜなら、霊夢は輝夜が持つ特性を知っているから。

 不死。 つまりは、滅びた世界でも生きられる唯一の存在。

 妖精も、自然がなければ生きられない。

 妖怪や神でさえも、それを信じる者がいなければ存在できない。

 だから、この世界に不死の能力を持った一人しかいないという状況が、自然も人もない、他に誰一人いない状況を十分なほど霊夢に理解させた。

 

「冷たい反応ね霊夢。 せっかく会えたんだから、もうちょっとくらい嬉しそうにしてくれてもいいじゃない」

「……そうね」

 

 唯一の朗報は、孤独じゃないことだった。

 たった一人でも話す相手がいれば、気が狂うこともなく少しくらいは精神を保てそうだったから。

 それでも、再び空を見上げた霊夢は実感する。

 この世界には、他にもう誰もいないし、何もない。

 どこまでも続く同じ景色に、真っ黒な空。

 全てが闇に飲まれた世界、これが幻想郷の末路なのだ。

 

「……輝夜、もう一ついい?」

「うん?」

「幻想郷がこんなことになってから……あの異変の日から、一体どれだけ時間が経ったの?」

 

 輝夜が久しぶりと言ったからだけではない。

 1日や2日でここまで世界が変わってしまうことはないだろうから、相当に長い時間が経ってしまったのだろうことがわかる。

 全ての命が失われるほどに、全ての有機物が消えてしまうほどに。

 下手すれば数年、数十年、それ以上か。

 それでも、何があったのかとは、もう聞かない。

 そんなことを知っても今さら取り返しがつかないし、そもそも聞くのが怖いから。

 ただ、自分の生きていたはずのあの日々から、どれほどかけ離れた場所にいるのか。

 今の自分が一体どれだけ遠き世界に迷い込んでしまったのかだけでも、知りたかった。

 

「さあ、わからないわ。 ここは日が昇ることもないし、時間なんていちいち数えてるほど私も気が長い方じゃないしね」

「ああ。 そう、よね」

「そんなことより霊夢、ちょっと退屈なのよ。 弾幕ごっこでもしない?」

「……ごめん。 今そんな気分になれないわ」

「えー」

 

 そう言って霊夢は輝夜の不平を無視し、その場に寝そべって目を閉じた。

 もう、何もかもがどうでもよかった。

 どれほどの力を持とうとも何を誓おうとも、家族も、友達も、守るものが何もなくなった世界で、一体何を目的に生きればいいのか。

 これから輝夜と2人で、適当に喋りながら寝転がって一生を終えるのか。

 いや、そもそも水も食料もないこの世界では、人間である霊夢は数日もすれば餓死して終わってしまうだろう。

 そんな、何も無い終わりを待つだけなのだろう。

 

 ――だとしたら。

 

 霊夢は、ふと思った。

 輝夜は一体どうなるのだろうか。

 自分がこのまま死んだら、目の前の不死者はこれから先、一体何を思って生きるのだろうか。

 この、他にはたった一人の、数日もせず死んでしまう人間しかいない世界で今、何を考えているのだろうか。

 

「……輝夜」

「ん?」

「弾幕ごっこ、する?」

 

 自然と、その口は開いていた。

 これから永遠の孤独に囚われてしまうだろう輝夜の、最後の願いを聞き入れたくなっていた。

 

「あれ、そういう気分になれないんじゃなかったの?」

「気が変わったのよ」

 

 それは、せめてもの罪滅ぼし。

 自分がもっと強く、もっと早くに目覚めて異変に立ち向かっていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 輝夜が、こんな世界で孤独に取り残されることもなかったのかもしれないから。

 

「それって、同情のつもり?」

「……さあ。 どうでしょうね、私にもわからないわ」

 

 確かに、同情もあった。

 だが、霊夢自身もそうしなければ救われない。

 何もできず、何の意味もなく死んでいくということに、耐えられない。

 だから、せめて目の前の一人を最後に少しでも笑顔にできるのなら、それでいいと思っただけだった。

 

「そ。 だったら一つお願いがあるわ、霊夢」

「何?」

「本気で勝負してくれない?」

「当然よ」

 

 最初からそのつもりだった。

 恐らくは世界最後の弾幕ごっことなる勝負で、手を抜くはずがなかった。

 

「スペルカードは3枚。 ボムは互いに1枚につき1回ずつ。 それで、いいでしょ」

「了解~」

 

 この状況でも、輝夜はいつものような笑みを浮かべながら空に漂っていった。

 最後の「遊び」を、心から楽しもうとしているように見えた。

 だから、霊夢はその期待に応えられるよう力を練りながら空を飛び始める。

 最初から自分の切り札で、最高の一戦を。

 輝夜の記憶に何よりも美しい華を最後に遺せるよう、霊夢は全力で弾幕を解き放つ。

 

「じゃあいくわよ輝夜。 スペルカード宣言、霊符『夢想封印』!!」

 

 そして、数多の光が辺りを覆い尽くした。

 現実とは思えないほど神秘的な創生の光は、何もない世界でこそ真価を発揮した。

 暗闇の空間に咲いた光の波紋が、小宇宙の彼方に広がる無数の銀河のような未知の美しさを視界いっぱいに広げていく。

 それを発した霊夢自身ですらも瞼に焼き付いて離れない、まさに終焉を飾るに相応しき弾幕は―――

 

「難題――『火鼠の皮衣 -焦れぬ心-』」

「え?」

 

 同時に、輝夜を取り囲んで辺りに広がった炎に、あっけなく掻き消されていた。

 被弾しそうになったからでもチャンスだったからでもなく、輝夜は瞬時にボムを使って霊夢の弾幕を無効化した。

 その意味を霊夢はすぐに理解できずに、思わず弾幕を放つのを止めてしまった。

 たった今自分が放ったその弾幕が、輝夜を満足させるに足るものである自信はあったから。

 渾身の弾幕を蔑ろにされ、流石の霊夢も苛立ちを隠せなかった。

 

「……どういうつもりよ。 あんた、本当にやる気あんの?」

「それはこっちのセリフよ。 どうして、霊夢は本気になってくれないの?」

「え?」

 

 だが、その苛立ちはすぐに薄れていった。

 霊夢が本気ではない。

 輝夜がそう言った理由に、心当たりがあったから。

 

「本気じゃないって……なんで、そう思うのよ」

「だって私、知ってるもの。 霊夢の中に封印されてる力のことを」

 

 霊夢の中に眠っている、邪神の力。

 それは、幻想郷でまだほんの一部にしか知られていないはずの機密情報。

 今までずっと永遠亭に引きこもっていた輝夜が、知っているはずのないことだった。

 

「どうして、あんたがそんなことを知って…」

「あー。 まぁ、いろいろ御託を並べるより見せた方が早いかな」

「え……?」

 

 だが次の瞬間、霊夢は自分の目を疑った。

 

 輝夜の言葉と同時に、世界が歪んでいく。

 この世界の暗闇そのものが、輝夜の意志に合わせるように動いている。

 まるでこの世界を覆う闇の全てが、輝夜のものであるかのように。

 霊夢は、ただ唖然としてその光景を見ていることしかできなかった。

 

「まさか、あんた……」

「そうよ。 私が、ルーミアや貴方に封じられているその力を幻想郷に解き放って、世界をこんな風にした張本人よ」

 

 そんなことを、輝夜は何事もなかったかのように微笑みながら言う。

 要するに、幻想郷を滅ぼした原因が。

 この結末を招いたのが、他でもない自分であると。

 輝夜のそんな自白を聞きながら、霊夢は自分の鼓動が速くなっていくのを感じていた。

 

「なんで……どうして、あんたはそんなことを…」

「どうしてって言われてもねぇ……まぁ、強いて言えばちょっとした興味本位かしらね」

「っ!!」

 

 それを聞いた途端、霊夢は怒りのままに輝夜に掴みかかりそうになった。

 だが、そんな自分の気持ちを、必死に抑えた。

 目の前にいる最悪の敵に向かって、霊夢はそれでも理性を保とうとしていた。

 自分の人生は、母に、紫に託されたかげがえのないものなのだから。

 たとえ恨んで然るべき仇敵であったとしても、怒りや憎しみに支配されるような最後は、誰も望まないはずだから。

 

「あらら。 これだけ聞かされても、まだ本気は出さない?」

「……そんな戯言、私はまだ信じてないのよ。 幻想郷はあんたごときにどうにかできるほど弱い世界じゃないわ」

 

 あからさまに挑発するような輝夜の言動に、霊夢は惑わされない。

 霊夢は、輝夜の実力を把握していた。

 過去に一度異変の黒幕であった時でさえも、永琳に、強力な財宝の力に頼っていただけ。

 自分一人の力では何もできない箱入り娘、それが輝夜の本質なのだと思っていた。

 だから霊夢は、輝夜なんかに幻想郷を滅ぼすことなんてできるはずがないと思っていたが……

 

「ふーん、なるほどね。 じゃあさ」

 

 だが、それでも霊夢の直感が突如として危険信号を放った。

 輝夜はその身の奥深くに閉ざしていた何かを、少しだけ表出させる。

 そして、その視線が冷たく変化すると同時に……

 

 

「これでも、そう思う?」

 

 

「―――――っ!?」

 

 辺りの空気の質が、あまりに重く沈んだ。

 気付くと、霊夢は飛び退いて輝夜から距離をとっていた。

 身体の震えが止まらなかった。

 うまく声が出なかった。

 その感覚に、覚えがあったから。

 一瞬で身体の奥底まで冷やされるほどの、別次元の殺気。

 何より、忘れられるはずのないその静かな狂気に、確かに覚えがあったから。

 

「やっと思い出した? だったら、もう手加減なんていらないはずよね」

「あ、ぁ……」

 

 そして輝夜は、ただ呆然と立ち尽くす霊夢に向かって、

 

「あの子を……貴方の母親を殺した、その『存在喰らい』の力を使って」

 

 自らの内に眠る力の暴走で、霊夢が母を殺してしまったこと。

 それを知っているのは、誰だったか。

 紫や藍がそんなことを言いふらすはずがない。

 ならば、霊夢と。

 死んでしまった、母と。

 あとはもう一人、あの時に母を殺そうとしていた冷たい狂気の持ち主。

 

 目の前にいる、寒気のするような微笑とともに、その身に漆黒の闇を纏った―――

 

「貴方たち家族の人生を、幻想郷の未来を終わらせた全ての元凶である、私と遊びましょう?」

「ぁ……ぅぁぁあああああ"あ"あ"あ"ッ!!」

 

 霊夢の奥底から力が湧き上がってくる。

 もう、何も考えられなかった。

 霊夢はただ、憎しみに支配されて地を蹴る。

 殺す。

 殺してやる。

 霊夢にはもう、そんな感情しか浮かばなかった。

 紫や母の言葉など、既にどこかに消えてしまっていた。

 ただ抑えきれない衝動のままに、目の前の憎き仇敵の心臓を貫かんばかりに手を伸ばすと、

 

「違うでしょ。 それじゃあルール違反じゃない」

「なっ……!?」

 

 気付いた時には、輝夜が後ろから霊夢の腕を捻り上げるように掴んでいた。

 本気のルーミアさえ一度追い詰めたはずの霊夢の力は、それでもあっけなく止められていた。

 

「せっかくだし、ちゃんと弾幕で撃って来なさいよ、霊夢」

「っ……あんたなんかにっ!!」

 

 霊夢は輝夜の手を振り払って距離をとり、その身に秘めた力を腕一本に溜めていく。

 魔理沙たちが周囲にいた時には出し切ることのできなかった全力。

 妖怪の山など跡形もなく簡単に消し去ってしまうほどの力の暴走は、それでもこの世界でなら出し切ることができる。

 もう、スペルカードルールのことなど考えられない。

 ただ殺意だけを乗せて霊夢が自らの全てをかけたその力は……

 

「……何よ、興醒めね」

「がっ!?」

 

 いつの間にか、放つことすらできずに止められていた。

 知覚すらできない速さで霊夢の正面にいた輝夜は、片手で霊夢の首を絞め上げていた。

 

 信じられないという顔でもがき苦しむ霊夢は、別に油断をしていた訳ではない。

 それでも、今の状況を避けることなど、できるはずがなかった。

 どれほどの速度も力も、輝夜の前では全く意味を成さないのだから。

 その『須臾を操る能力』をほんの少し使うだけ……輝夜自身の「時間」という単位をたった千倍程度に圧縮するだけで、たとえ音速で動けたとしても、それは輝夜の目には徒歩の速度よりも遥かに遅く映るのだから。

 

「まぁ、霊夢がただの殺し合いを望むというのなら別にいいけど……それなら、これでもう終わりよね?」

「っ……ぁぐぁぁぁっ…」

 

 あと、数十センチ。

 たったそれだけ目の前に手を伸ばせば、それで全てが終わるはずなのに。

 なのに、届かない。

 輝夜に最後の反撃を試みる霊夢の思いは、永久に届かない。

 『永遠を操る能力』によって止められた霊夢の時間は、すぐ目と鼻の先にいるはずの仇敵に、いつまで経っても決して届くことはない。

 

「……で? この結末に、一体何の意味があったというのかしら」

 

 霊夢の声にならない憎しみの悲鳴を聞きながら、輝夜は独り言のように呟いた。

 その言葉は、誰に向けられているのかもわからない苛立ちに満たされていた。

 

 自分が介入しなければ、霊夢が幻想郷で何かを成していたかもしれない。

 自分と戦ったりしなければ、霊夢が未来を変えていたかもしれない。

 

 ならば、この選択は――――

 

「結局は、無意味だったってことよね」

「ぁ゛っ……」

 

 そして、遂に喉を握り潰された霊夢の呼吸が停止するとともに、世界が暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……輝夜」

「ん?」

「弾幕ごっこ、する?」

 

 暗闇に閉ざされた世界で、ふとそんな声が聞こえた。

 全てを諦めたような視線を感じながら、輝夜は軽い気持ちでそれに返す。

 

「あれ、そういう気分になれないんじゃなかったの?」

「気が変わったのよ」

 

 その気持ちも、わかる気がした。

 なぜなら、この世界にはもう何もないから。

 これからすべきこともなければ、守るものもない。

 それは、ただの消去法なのだろう。

 最後に残された2人で遊ぶくらいが、残された唯一の気晴らしなのだから。

 

「それって、同情のつもり?」

「……さあ。 どうでしょうね、私にもわからないわ」

 

 そして、それが唯一生き残った一人の少女の、霊夢からの一つの礼儀でもあるのだと、輝夜にはわかっていた。

 運命を変えられなかったのは自分のせいだと責めている霊夢の、罪滅ぼしという名の自己満足に過ぎないこともわかっていた。

 

「そ。 だったら一つお願いがあるわ、霊夢」

「何?」

 

 だから、輝夜はその提案自体に特に興味はなかった。

 ただ、それで霊夢が少しでも気楽になってもらえるのならば、別に何でもいい。

 霊夢が必要以上に思い悩む必要なんて、ないのだから。

 だから、輝夜はこれから自分の唯一の遊び相手になるだろう相手の気持ちを、少しでも晴らそうとして……

 

「あんまり気負わずに、気楽に勝負しましょう」

「……はぁ。 あんたは、いつもそうよね」

 

 最後の弾幕ごっこを本気で勝負するつもりだった霊夢は、気の抜けるような返答に溜め息をついた。

 

 輝夜はいつも、適当に弾幕ごっこで遊んでいた。

 自分が異変の黒幕であった永夜異変の時ですらも、勝とうが負けようがヘラヘラと笑ったまま、本当に弾幕ごっこをする気があるのかすらも怪しいほどに。

 だが、この状況でなおいつも通りの返答をする輝夜に、霊夢が一種の安心感を感じていたのもまた確かだった。

 

「そしたら、スペルカードは5枚。 ボムは……まぁ、私はセオリー通り1枚につき1回ずつにするわ。 あんたは?」

「じゃあ、私はボム2回ずつで」

「ああもう。 ほんっとそういうところ空気読まないわよね、あんたは」

「だって、私霊夢に勝ったことほとんどないしー。 最後くらいどんな形でもいいから勝ちたいじゃない」

 

 そう言う輝夜は、言葉とは裏腹に、別に勝ちたいと思っている訳ではない。

 負けたいなどとも思ってはいない。

 遊びの上では、その場で楽しければ勝敗はどうでもいいから。

 永遠を生きる者にとっては、勝敗なんてものは所詮、ただの事実関係の積み重ねに過ぎないから。

 

「……ま、それはそれであんたらしいし、別にいっか。 じゃあいくわよ。 スペルカード宣言、宝符『陰陽宝玉』!」

 

 そして、霊夢が軽い気持ちで放った弾幕から、弾幕ごっこが始まっていく。

 本気で勝ちに行く弾幕ではなく、ただ美しい光を辺りに散りばめるだけの、ただの遊び。

 互いにスペルを取得し、被弾することもほとんどない。

 それでも、時々視界に捉えきれなかった弾に被弾する。

 ただ、それだけの決着。

 何のドラマもない普通のごっこ遊びは、終わるとともにもう一回、またもう一回と繰り返されていく。

 次の日も。

 その次の日も。

 

 だが、永遠の狭間で、それでも次第に終わりが近づいてくる。

 

「……ごめんね、輝夜。 私、もう…」

「そっか。 まぁ、しょうがないわよね」

 

 既に倒れて動けなくなった霊夢を、輝夜は地面に座りながら静かに見下ろしていた。

 最初の頃は霊夢が勝っていたはずの勝負も、1日も経った頃には霊夢は一度も勝てなくなっていた。

 霊夢にはもう、弾幕ごっこをするほどの体力が残っていなかったから。

 水も食料も無く日に日に弱っていき、遂にミイラのように痩せ細って動けなくなった霊夢の姿は、それでも不死である輝夜の心に特に変化をもたらすことはなかった。

 それは、ただの無意味な結末の一つに過ぎないのだ。

 だから、どうでもよかった。

 その言葉を最後に、瞬きをすることすらなく冷たくなった霊夢を見つめたまま―――

 

 

 また、世界が暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間とは、『須臾』の集合体。

 感知できないほど短い歴史の集合体。

 その中を生きるということは、無数の歴史の全てを感じるということ。

 今までずっと、そんな世界を見続けてきた。

 

 目の前に広がるほとんどが、意味の無い結果。

 無限に広がる、虚無の連続。

 

 だけど、それすらも受け入れると決めていた。

 

 ……決めていた、はずだった。

 

 最初の頃は。

 幾千、幾万の時を重ねても、決してその気持ちが変わることはなかった。

 

 だが、それでも次第に歯車はずれ始める。

 

 数千万の時を経た頃から、何が善で何が悪なのかもわからなくなった。

 数億の時を経た頃から、何が現実で何が夢幻なのかもわからなくなった。

 時という概念すらもわからなくなった頃から、自分が何をしたかったのかさえわからなくなった。

 

 やがてその決意は、「永遠」という監獄の中で虚しくも――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永く眠っていたような気がするくらい、それまでのことがどうでもよかった。

 いつの間にか目の前に広がっていたのは、誰もいないし何もない、どこまでも暗闇に閉ざされた世界。

 だが、そんな空虚な世界にさえ何も思うことはなかった。

 ただ、その世界にはもう一人だけ、誰もいないはずの場所で叫ぶ人間の少女がいて。

 

「魔理沙、早苗! ねえ皆、誰かいないの!?」

「……」

 

 その声は聞こうとしたのではなく、ただ聞こえてきただけ。

 特にそれに耳を傾けるつもりはなかったから言葉の半分以上は頭に入ってこなかったが、自然と何を言っているのかだけは理解できた。

 それでも、理解できることと興味が湧くことは全くの別問題であり。

 たった一人の矮小な人間の存在が、特にその心を動かしてくれることはなかった。

 

「……輝夜?」

 

 暗闇の世界で何かを見つけた少女の呟きは、無音の空間で僅かにだけ届いた。

 輝夜。

 それはきっと、誰かの名前なのだろうと思った。

 それが自分の名前であると知覚できるまでに、ひどく時間がかかっていた。

 

「霊夢」

 

 だが、自分の名前を思い出すことも困難なのに、自分のことを呼んだ者の名は自然と口から出てきた。

 なぜかそれだけは、鮮明に思い出せた。

 理由はわからない。

 ただ、その名の持ち主に、きっと自分が何かしらの期待を抱いているのだろうことだけは、なんとなくわかっていた。

 たとえそれが、一体どういう期待であるかすらわからなくとも。

 

「やっぱり、輝夜じゃない! よかった、生きてたのね!」

「……」

「ねえ、一体何があったの? 他に誰か生き残ってないの!?」

 

 僅かな希望に縋るかのように質問をまくし立てる霊夢に、輝夜は反応を示さない。

 だが、返答がなくても、その反応は自然と霊夢に理解を促していく。

 

「……まさか、もう誰もいないの?」

「……」

「だったら、幻想郷は……皆は、もう…」

 

 その無言は、肯定と同義だった。

 霊夢は膝をついてうなだれる。

 その光景を見るのは初めてでも、なぜか輝夜は見飽きている気すらもしていた。

 その答えに、特に返答の必要性すらも感じることはなかった。

 だが、輝夜が一言も発さずとも、そこに静寂は訪れない。

 なんでよ、どうしてよと。

 理不尽を嘆くような、霊夢のそんな独り言だけが、永延と空間を覆い続けていく。

 

「……ねえ、輝夜」

 

 やがてその「沈黙」を破ったのは、霊夢だった。

 輝夜からの返答は何一つなくとも。

 自分一人で、勝手に何もかもを自己完結した思考の末に放った一言は、

 

「弾幕ごっこでもしない?」

 

 それでも、輝夜が予想していた通りのものだった。

 どうして霊夢がその結論に至ったかなど、今さら聞くつもりもなかった。

 なんとなく、知っていたから。

 それは恐らく、これから永遠の孤独に放り出される自分へ向けた、ただの同情。

 だけど、それは同時に霊夢自身の精神の限界。

 輝夜のためにと心の中で言い訳しただけの自己満足であり、行き場のない悲しみを散らすための無意味な逃避でしかないとわかっていた。

 

「そんな同情みたいなことするくらいならさ。 霊夢」

 

 だから、どうでもよかった。

 結局はいつも通りでしかないのだから。

 もう、何もない。

 この世界にも、この先の未来にも。

 そこから何かが変わろうと変わらなかろうと、自分には何も――――

 

 

 

「……もう、全部終わらせてよ」

 

 

 

「……え?」

「っ――――!?」

 

 だが、輝夜はそこで我に返った。

 自分が何か意味の分からない言葉を呟いていたことに気付くと、もう一度無理に笑みを浮かべた。

 

「え、何? 終わらせてって…」

「あー、何でもないの。 ほら、だいぶ長いことこんな陰気くさいところにいたから、ちょっと冗談言ってみたくなって」

「冗談?」

「そ、冗談。 弾幕ごっこね、退屈してたし丁度よかったわ」

 

 そう言って、輝夜は露骨に話を逸らすように、懐から一つの宝石のようなものを取り出した。

 『龍の頸の玉』。 輝夜の持つ、幻想上にしか存在しない秘宝のレプリカ。

 それでも、それは弾幕ごっこに使うには十分すぎる力を秘めていた。

 自分の力ではなく、財宝の力に頼った弾幕で戦う。

 それが輝夜の、弾幕ごっこの流儀だった。

 

「さ、それじゃあ始めましょうか。 スペルカードは3枚、ボムは1枚につき1回ずつでいい?」

「……」

「……霊夢?」

 

 だが、いつものようにそれを構えた輝夜を見る霊夢の目が、いつもと違った。

 何か悲しいものを見るかのような、切ない眼差し。

 輝夜はそれに気付いていた。

 それは恐らく、この暗闇の世界で永遠の孤独に閉じ込められる輝夜が、最後に無理に明るく振る舞っているのだろうという、霊夢の勝手な推測と憐み。

 そんなの、霊夢が理解できるはずがないのに。

 本当の気持ちなんて、欠片も知らないくせに。

 

「……何でもないわ。 そのルールでやりましょうか」

 

 霊夢のその視線に、輝夜は気付かないふりをしていた。

 どうでもよかったから。

 これも、結局はいつも通りの結末なのだから。

 ただ弾幕ごっこという遊びを楽しむだけの、永遠の始まり。

 そうなるはずだと、思っていたから。

 

「じゃあ、私から行くわよ。 夢符―――」

 

 だが、霊夢の奥底に眠る力が、突如として巨大に膨れ上がるとともに、

 

 

   「『封魔陣』」

 

 

 輝夜の視界が、真っ白に染まった。

 

「……え?」

 

 輝夜の肩から先を切断するかのように、その結界は境目の空間を世界から消し去っていた。

 不意打ちのごとく始まった弾幕ごっこは、とてもごっこ遊びとは言えない殺意をもって、輝夜の半身を消し飛ばしていた。

 殺傷能力の無い、いつもの弾幕ではない。

 霊夢の内に眠る邪神の力を結界の形に変えて放たれたそれは、再生する余裕すら与えないままに、輝夜の意識を少しだけ奪っていた。

 

「あら。 やっぱり不死身にも効くのね、これ」

 

 霊夢は、そう言った。

 少しだけ混乱する輝夜に向かって、霊夢はもう一度その力を身に纏いながら、

 

「何を驚いてんのよ。 あんたが言ったんでしょ、終わらせてって」

 

 その、あまりに無理して出したような震えた声を聞いて、輝夜は理解した。

 霊夢は恐らく、さっきの輝夜の言葉が、「もう死にたい」という意味だと受けとったのだろう。

 誰もいないこの世界で一人生き続けるのが辛いという、心の叫びだと思ったのだろう。

 だから霊夢は、屈強な妖怪さえも消滅できる力を持った自分が、輝夜の全てを終わらせてあげようとした。

 蓬莱人、本当の意味での不死者に自分の力が通用するかはわからなくとも、それでも成し遂げようと決めたのだ。

 輝夜には、それが殺意ではなく、霊夢の純粋な優しさなのだとわかっていた。

 自らの内に眠る力に怯え、誰かを傷つけることを恐れていた霊夢が、その気持ちさえも押し殺して絞り出した優しさなのだと気付いていた。

 そんな優しさを、求めていた訳じゃないのに。

 

「あはは」

 

 それでも、輝夜は久しぶりに心から笑った。

 

 

 ――これで、いいのかもしれない。

 

 ――ここが、潮時なのかもしれない。

 

 ――だったら、最後くらい楽しんでもバチは当たらないわよね。

 

 

 ――私の、最後の命をここで――

 

 

「……いいわ、それを待ってたのよ。 だったら始めましょうか。 永い永い、終わりの始まりを―――」

 

 

 そして、輝夜はその笑みのままに、最後の弾幕戦へと向かった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第33話 : 崩壊

 

 

 

 

「……何だ。 お前も、一人なのか?」

 

 記憶の海で、ふとそんな声が聞こえた。

 それは、一体誰の声だったのか。

 その時の自分にとって、印象的な記憶だったことだけはなぜか覚えている。

 だが、最近の出来事だったはずなのに、その他に何も思い出せなかった。

 最近のこと。

 ならば、恐らくは幻想郷での記憶。

 だが、幻想郷に来てからは、別に孤独ではなかった。

 いついかなる時も、自分を見捨てず傍に居続ける人がいたから。

 なのに、一体どうして一人だったのか。

 その記憶すらも、既に霞がかっている。

 

「はーっ。 私が言うのも何だけど、つまんない奴だな、お前」

 

 つまらない。

 そう言われたことは、微かに覚えていた。

 ごく最近。

 光の欠落した異空間で聞いたはずの、魔法使いの言葉。

 だが、彼女はこんな気さくな声ではなかったはずだった。

 ならば、これは一体誰の声なのか。

 

「じゃあさ。 だったら―――」

 

 その後に、その声は何を紡いだのだろうか。

 

 思い出そうとは、しなかった。

 どうでもよかったから。

 どうでもよかったから。

 どうせ、すぐに忘れる記憶だから。

 どうせ、すぐに意味のなくなる記憶だから。

 だから、もう関係ない。

 これから消えてなくなる自分には、関係ない。

 この、最後の歴史を終えたのならば……

 

『諦めないで』

 

 ――五月蠅い。

 

『ふ■けないでよ!』

 

 ――五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い!

 

『もう■度く■い、■■りな■い■』

 

 ――もう、放っておいてよ。

 

『逃■■■■!』

 

 ――もう、終わりにするから。

 

『■■■■、■■■■■■■■』

 

 ――私にはもう、関係ないから。

 

『■■■■■■、■■■■■■■』

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 ――誰か。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 ――お願いだから。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……誰か、助けてよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第33話 : 崩壊

 

 

 

 

 

 

 

「霊符、『夢想封印』!!」

 

 その弾幕は、美しかった。

 薄暗く殺風景な空間を、見惚れてしまうほど華々しく照らしていた。

 だが、それは同時に美しさを遥かに超える残虐さを持ち合わせていた。

 地に落ちた弾幕が、ただ破壊するのではなく、存在そのものを飲み込むかのように大地を消滅させていく。

 虚空に漂う弾幕が、空気をも喰らって星の生命を途絶えさせていく。

 

「……と、これは思った以上に持って行かれてるみたいね」

 

 それでも、最初にその存在を喰らわれたはずの輝夜の身体は、いつの間にか元に戻っていた。

 霊夢の『封魔陣』をくらって右肩を消し飛ばされたはずの輝夜は、自らの『須臾を操る能力』を使って一瞬の内に自害してから生き返ったのだ。

 方法は簡単。 自分の鼓動の速さ「のみ」を1万倍に圧縮することで、異常な血圧変化を起こして心臓を破裂させるだけ。

 そして、死ぬと同時に蓬莱の薬の力で生き返り、消し飛んだ半身を再生した、ただそれだけのことだった。

 だが、普通ならば万全の状態に戻るはずなのに、輝夜は自分の生命力の多くが失われたように感じていた。

 霊夢のスペルを避けようとする自分の身体が、自分のものではないかのようにうまく動かないことに気づいていた。

 それが、蓬莱人にとっての正しい意味での再生ではなかったから。

 再生したというよりはむしろ、消し飛んだ半身の部分へと自分の魂の一部が移ったと言った方が正しいのだ。

 

「私の力が……いえ、存在そのものが希薄になってるのかしら。 なるほど、本当に完成させてたってことなのね」

「何を、さっきからぶつくさ言ってんのよ!!」

 

 辺りに降り注ぐ銀河の粒が視界を覆い、存在する何もかもを喰らい尽くしていく。

 霊夢の力は、確かに不死者をも真に殺し得るものであった。

 蓬莱の薬を飲んだ輝夜ですら、それに何度も当たれば自分がこの世から跡形もなく消え去るだろうことを知っていた。

 だが、妖怪も神も、不死者ですらも抗えない死をまき散らしている霊夢の目には、全く迷いはなかった。

 その理由を、輝夜は理解していた。

 霊夢も、限界なのだと。

 心の弱い人間の子供が、全てを失った絶望と明日来る自らの死を簡単に受け入れられるはずがない。

 それは、ただの錯乱。

 せめて目の前の不死者を死なせてあげることだけが、自分の最後の使命なのだという勝手な思い込み。

 だが、輝夜が簡単に死ぬことはなかった。

 

「それにしても、意外ね。 少しくらい手加減するもんだと思ってたけど」

「はあ? 手加減?」

「そうよ。 私なんかを相手に、霊夢がそこまで全力だなんて…」

「そんなの、私の方すら見ずに避けながら言われても説得力ないのよ!!」

 

 本来なら、もう終わっている頃だった。

 霊夢がこれまで何度か勝負をしてきた輝夜の実力を考えるのならば、とっくに終わりにできているはずだった。

 今までのスペルカード戦での輝夜は、確かに弾幕を放つ側としては少しは強敵だが、避ける側としてはあまりに未熟だった。

 更に言えば、放つ弾幕もただ財宝の力に任せていただけの、単調な弾幕。

 故に、その攻略法を見つけてしまえば、弾幕ごっこで魔理沙にも早苗にも、何度も負けるのを見かけていた。

 だが、その勝負を霊夢はいつも苛立ちながら見ていた。

 魔理沙たちが本気で放っている弾幕に、輝夜が誠意をもって立ち向かっているようにはどうしても見えなかったから。

 

「それが、あんたの本気って訳ね」

「そんな怖い声出さないでよ、何か私が怒らせるような事でもした?」

「……そういうところが、ずっと嫌だったのよ。 あんたの、人を小馬鹿にしたようなその態度が」

 

 霊夢は内心、どうしても輝夜を好きになることができなかった。

 だが、それは別に嫌いになる出来事があったという訳ではなかった。

 

 多くの妖怪は高慢な性格でもって相手を見下す。

 自分の優位性を隠すことなく、圧倒的な力でもって人間を蹂躙しようとしている。

 だが、たとえ乱暴でも、自分というものを持ったその生き方は、少しなりとも霊夢は好感が持てた。

 一方で、輝夜のそれは相手に対して自分の優越感も劣等感も欠片さえ出すことなき、一種の「無関心」。

 目の前の一切に意味すら感じていないかのような、ただ上辺だけをなでた振る舞いが、その冷めた心の底がどうしても好きになれなかったのだ。

 

「それに、あんただけじゃないわ。 どうせ永琳にしろ、本気で私たちのことなんて見ちゃいなかったんでしょ」

「あら、別にそんなことないわよ。 私たちは…」

「嘘よ。 だってあんた、月の姫君ってことは要するに依姫の前任ってことでしょ? そのあんたが、あの程度な訳がない。 本当はいつも適当に皆をあしらってたことくらい、わかってんのよ」

 

 月の使者のトップに君臨する姉妹の一人、綿月依姫。

 それが、スペルカードルールにおいて霊夢を最強ではなく、幻想郷最強という枠に閉じ込めている原因だった。

 初めてのスペルカードルールで、それでも霊夢を破った相手。

 そして、霊夢が最後まで勝つことのできなかった、唯一の相手だった。

 

「あー、まぁ依姫は昔から空気読めない子だったからね。 でも、依姫と私は立場的に全く別物だったんだけど」

「でも少し考えれば、少なくとも依姫が師匠と呼んでた永琳が手を抜いてたことくらいわかるでしょ」

「そうね。 はい、スペルカードブレイク」

 

 そして、今の攻防を見れば、輝夜が今まで全く本気になっていなかったことなど、一目瞭然だった。

 どれだけ速く複雑に絡み合った軌道を描く弾幕を放とうとも、のんびりとそれを見てから後出しで避けているその動き。

 霊夢のように直感で導く隙間を潜り抜けるのとは違う、理論的な道筋。

 まるで極端にスローモーションにされた世界の中で避けやすい軌道だけを正確に選び続けているかのように、輝夜は何の危な気もなく霊夢の本気のスペルを避けきったのだ。

 しかも、『夢想封印』は2枚目のスペルではない。

 3つのスペルの内、輝夜に当てることができたのは最初の『封魔陣』の不意打ちだけだった。

 『二重結界』をいとも簡単に破られ、満を持して放った『夢想封印』が、あっけなく全てかわされてしまったのだ。

 

「じゃあ、次は私の番ね。 スペルカード宣言、神宝『ブリリアントドラゴンバレッタ』」

 

 そして、次の瞬間に放たれたそれも、今までに霊夢が勝負した時とは比較にならなかった。

 5色の軌道を描く光の弾と、その軌道を射し抜く閃光が複雑に絡み合って、視界を埋め尽くしていく。

 迫り来る弾幕に、身体を僅かに掠めながらとっさに避けた霊夢は、思わず笑った。

 

「っ……何よ、本当に嫌な奴ね、あんた。 そんなにわかりやすく本気出してくれちゃって!」

 

 それは、かつて霊夢が輝夜と勝負した時に最初に見た弾幕と似て非なるもの。

 『龍の頸の玉』という財宝のレプリカに頼り切っていたはずの、難易度としてはそれほど高くなかったはずの弾幕。

 それに輝夜自身の力、『永遠と須臾を操る能力』を込めることで生まれた速度の緩急が、霊夢の感覚を狂わせていく。

 本来ならば、数秒と経たずに誰もが軌道を見失うはずの弾幕。

 だが、それに簡単に被弾してしまうほど、霊夢もまた甘い相手ではなかった。

 

「なら、お礼と言っちゃ何だけど、私も手加減なしで行くわ」

 

 霊夢は、目を閉じた。

 視覚を遮断するという行為がどれほどのリスクを負うことなのか、霊夢は重々に承知している。

 それでも、霊夢は自らの「第六感」に身を任せるために、他のあらゆる感覚をシャットアウトしていく。

 霊夢の持つ、『空を飛ぶ程度の能力』。

 自分を取り巻くあらゆるものと感覚を共有し一体となることで、空を誰よりも近くに感じ取る能力。

 大気の速度。

 霊力の濃淡。

 光の呼吸。

 時の流れ。

 あらゆる概念を自分の感覚と融合して取り込み、自らの内の世界から聞こえる「声」に導かれるままに、霊夢は再び開眼する。

 そして、輝夜の秘宝の力が埋め尽くす空に向かって、霊夢は迷わず飛び込んだ。

 

「……へぇ」

 

 輝夜は感嘆の声を漏らす。

 普通なら、あまりに複雑な軌道に怯んで距離をとってしまう弾幕。

 だが、それは一歩でも退けば逃げ道を断たれる、不可避の迷宮。

 霊夢はそこに、躊躇なく飛び込んだ。

 押し寄せる弾幕の隙間に針の穴を通るように身を縮めて素早く特攻し、それを潜り抜けた次の瞬間には身を逸らし、迫りくる閃光を背の皮一枚で掠めていく。

 ほんのコンマ1秒ずれれば、ほんの1センチでもずれれば被弾してしまうはずの弾幕の嵐を、それでも霊夢は完全に避けきっていた。

 

 スペルカードルールは、妖怪と人間が対等に戦えるルールである。

 それが、表向きのスペルカードルールの存在意義のはずだった。

 だが、それは所詮ただ聞こえのいい、そのルールにおける強者に都合のいいだけの話。

 目の前にある、あまりに美しく弾幕を避けていく霊夢の姿は、そのルールの圧倒的な不平等さを浮き彫りにさせる。

 妖怪という強者に立ち向かうためのはずのルール。

 それでも、そのルールは妖怪と、たった一人の人間の力関係を完全に逆転させてしまった。

 スペルカードルールにおける圧倒的なアドバンテージを持った霊夢という絶対的強者の存在は、最高位の妖怪をして弱者に成り下がらせる。

 美しい者が勝つというルールは、結局はその美しさを持つ者だけが勝てるルール。

 言ってしまえば、度を過ぎて美しすぎるその動きは、このルールにおいてはただの一方的な暴力でしかなかった。

 スペルカードルールで本気の霊夢と戦ってしまったのなら、それだけで並大抵の妖怪の心は簡単に折れてしまうだろう。

 本来なら簡単に蹂躙して然るべき人間を相手に、勝てる訳がないと一目で理解させられてしまうから。

 

 だから、霊夢はその『空を飛ぶ程度の能力』に本気で身を任せて勝負したことはほとんどなかった。

 あまりに圧倒的すぎる力の存在は、幻想郷でスペルカードルールを浸透させる妨げになりかねないから。

 今まで手を抜いていた輝夜のあり方に不平を言いながらも、霊夢もまた本気を出そうとはしてこなかったのだ。

 

 ――でも、あんたなら最後に私を本気にさせてくれるのかしら。

 

 だが、今だけは博麗の巫女の重圧から外れて、霊夢はその遊びにのめりこんでいた。

 久々に、本当に全力で勝負ができる相手に巡り合えたから。

 この状況で、弾幕ごっこを楽しむかのように少しだけ笑っていた。

 

 ――貴方は、最後に少しくらい楽しませてくれるのかしらね。

 

 そんな霊夢を見て、輝夜もまた少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべた。

 その退屈を、わかってくれる相手がいなかった。

 いたとしても、自分を楽しませてはくれなかった。

 圧倒的な力というもののつまらなさを身に染みてわかっている輝夜だからこそ、今の霊夢は何よりも美しく見えた。

 

 だからこそ輝夜は、今になって初めて、手加減を捨てて『スペルカードルール』に臨み始めた。

 

 霊夢ならば、このくらいで終わったりしないという期待ができたから。

 弾幕ごっこというものを真に楽しむように、輝夜は本気になった。

 自分の持つ「能力」に頼るだけではなく、異世界そのものから溢れ出してしまうほどに内なる霊力を暴走させていく。

 

「――――っ!?」

 

 それとともに、世界の呼吸が乱れる。

 あまりに強大な弾と、その陰に隠れた矮小な弾。

 高速で迫り来る弾幕と、タイミングをずらして感覚を狂わせる鈍い弾幕。

 霊夢を取り巻くあらゆる流れが狂ったように変化し続け、悲鳴を上げる空間の歪みが霊夢の動きを鈍らせていく。

 鈍らせた、はずだった。

 

「……あはっ」

 

 輝夜は今度こそ本当に嬉しそうに笑った。

 霊夢はその変化に、苦悶の表情を浮かべながらも適応していく。

 避けられるはずのない弾幕の流れも、完全に見切っていく。

 強大すぎる力も、その歪みすらも、今の霊夢にとっては全てが自らの一部に過ぎないのだ。

 

「スペルカード、ブレイクね」

 

 そして、辺りの光は消え去った。

 霊夢はボムを使うことすらなく、輝夜の本気の弾幕を最後まで避けきったのだ。

 それを見ていた輝夜は、再び静寂を取り戻したその世界で、子供のような笑みを浮かべていた。

 

「ふふふ。 楽しいわね、霊夢」

「……」

「最後にこんな心躍る遊びができるだなんて、思ってもみなかったわ」

 

 だが、そう言う輝夜に、霊夢は反応しない。

 いや、反応することができなかった。

 

 輝夜が本気になり始めてからは、霊夢に余裕など一切なくなっていた。

 あまりに高い難度の弾幕を前に、霊夢はそれが今の自分の力だけでは避けきれないものであると瞬時に悟った。

 だから、自らの中に眠る邪神の力さえ解放して身体能力を高めることで、無理矢理動きを繋いで避けていたのだ。

 本来ならば、とっくに被弾して終わっている。

 虚勢を張りながらも、今の霊夢はもはや輝夜の声すらもまともに聞こえているか怪しい、出し得る100%を遥かに超えるほどの「全力」だった。

 

 それでも、霊夢は立っていた。

 自分がずっと恐れていた力に全て身を任せてまで、この勝負を続けようとしていた。

 だが、それは別に、負けたくないからではない。

 ただ、聞こえてしまったから。

 

 

 ――■■、■■■■

 

 

 本当は、そんな目的などなかったはずなのに。

 自分たちの他に何一つ無いこんな世界で、その『空を飛ぶ程度の能力』を使いすぎてしまったために。

 あまりに世界と近く結びついてしまったせいで、その悲鳴が聞こえてしまったから。

 

「……来なさいよ、あんたの次のスペルを」

 

 だから、霊夢は強がってそう言った。

 霊夢から笑顔は消えていた。

 余裕がないからそうなったのではない。

 自分の意志で、その思考を完全に切り替えていた。

 今から始まるのは、ただ最後の瞬間まで楽しむための弾幕ごっこ、ではないのだから。

 にとりの時に成し遂げられなかった、霊夢の決意。

 紫に憧れ、それでも何もできなかった自分を断ち切るために。

 霊夢はただ目の前にいる相手のことだけを、しっかりと見据えたまま構える。

 

「ええ、そうするわ。 神宝『ライフスプリングインフィニティ』!」

 

 突如として、霊夢の背後で閃光が弾けた。

 本来ならその一瞬で霊夢を貫いて終わっていたはずの光を、霊夢は直感のままに避けていく。

 ただひたすらに、輝夜の放つ弾幕を淡々と攻略していく。

 

「やるじゃない霊夢。 これは、私も切り札を出さないと厳しいかしら」

 

 輝夜は懐に隠していた何かに、既に手をかけていた。

 それは、輝夜の代名詞ともいえる最後の難題。

 だが、嬉しそうにそれを取り出しかけた輝夜に向かって、

 

「……ねえ」

 

 霊夢は、呟くように問いかけた。

 

「何を、そんなに無理してるのよ」

「……え?」

 

 霊夢はただ、輝夜を見ていた。

 辺りを覆いきるほどの閃光の網に目を向けず直感で避け続け、ただ輝夜の目だけを見ていた。

 

「何言ってるのよ。 無理って、何のことよ」

「……」

「それとも何? そんなブラフで勝ちに行こうとするほど、貴方は弱り切ってるの?」

 

 輝夜が霊夢に向ける目は、少し怪訝な色を含んでいた。

 だが、霊夢はその色など気にしてはいない。

 ただ、輝夜の視線の先に映っているものだけを。

 

「……今あんたの目の前にいるのは私なのにさ。 なのに、あんたは一体何を見てるのよ」

「だから、何の話を…」

「なんで、あんたは……!!」

 

 そして、霊夢が強くまっすぐな目を向けて放った、

 

「一体、何を一人で抱え込んでんのよ!?」

 

 

  ――はぁ。 そんな、一人で何でも抱え込むなよ。

 

 

「―――――っ!!」

 

 その言葉が、輝夜の遥か記憶の彼方にある何かと重なった。

 心を打たれた訳ではない。

 霊夢の言葉に、動揺した訳でもない。

 それでも、確かに輝夜の放つ弾幕は僅かに乱れていた。

 

「何を、言ってるのかしら……」

「私には、あんたが何を抱えてるかなんてわからないけどさ。 でも…」

 

 霊夢が何かを言っていたが、輝夜には全く届いていなかった。

 ただ、その心の奥に閉ざされていたはずの記憶が、輝夜の脳裏に響き続けている。

 忘れていたはずの何かが、望まずとも蘇り始めている。

 

「感じるのよ、あんたの心の声を。 苦しいって叫びを」

「……やめてよ、まだ勝負の途中よ。 ちゃんと集中してよ」

「嫌よ。 こんな勝負、私は楽しくないもの。 楽しいとか言いながら、あんたは全然私のことを見てないから!!」

「っ……」

 

 輝夜は次第に苛立ち始めていた。

 自分のことをわかった風に話す霊夢との会話に、嫌気がさし始めていた。

 久々に僅かながらも心躍った弾幕ごっこさえも、空虚に見え始めていた。

 

「……うるさい」

「何? 聞こえないのよ!」

 

 だから、いつの間にか輝夜の心は冷めていた。

 自らそうしようと思ったわけではない。

 ただ、輝夜はかつての敵を前にした時のように。

 気づくと、自然と殺気立っていた。

 

「―――黙れと、言ってるのよ」

 

「ぇ……?」

 

 輝夜の放つ弾幕が、止まった。

 だが、同時に霊夢の動きも止まった。

 その心の底に巣食う冷たい感覚が、霊夢の中で蘇っていた。

 

「何、これ。 ……いや、知ってる。 私は知ってる」

 

 霊夢は独り言のように、自分に言い聞かせるように呟く。

 何かに怯えるように震えながらも、その心的外傷を思い出していく。

 霊夢が母を殺してしまった、あの日。

 霊夢が殺してしまう前に、母を殺そうとしていた相手の放っていた殺気。

 それが、目の前に再び現れたから。

 

「あんたは、まさか……」

 

 輝夜は答えなかった。

 それを悟られてしまった失態に、戸惑っている訳ではない。

 ただ、既に興味を失っていた。

 これで終わりなのだから。

 本当は、最初からこうするつもりだったのだから。

 だから、ふと思っただけだった。

 もう、霊夢を拒絶しようと。

 

「そうよ。 私が、貴方の母親が死ぬ原因をつくった……いえ、正しく言えば貴方に母親を殺させた張本人よ」

「殺させ、た……?」

 

 霊夢のその戸惑いを、なんとなくではあるが、輝夜はわかっていた。

 それが霊夢の根底に巣食う、最も深き闇なのだと。

 そして、その事実を知れば、霊夢が壊れることもわかっていた。

 それでも、輝夜は打ち明けた。

 もう、今の戦いに興味を失っていたから。

 終わりにするのなら、この方が手っ取り早いから。

 

「だから、思う存分恨みを晴らせばいいわ。 貴方たち家族の全てを無意味に終わらせた、最悪の仇敵が今ここにいるんだから」

 

 そう言って、輝夜は目を閉じる。

 ただ、霊夢の中にある憎しみが膨れ上がっていくのを感じながら。

 

「……何で。 あんたが、あんたが全部…っ!!」

 

 気付くと、霊夢は我を忘れて駆けていた。

 その身に憎しみと、最悪の力だけを纏いながら。

 輝夜は、暴走した霊夢の力がすぐに自分を殺すのだとわかっていた。

 だが、それを避けようとも止めようとも思わない。

 本当は、それこそが霊夢と弾幕ごっこをする目的だったから。

 楽しむことは、ただ付属的についてきたおまけに過ぎず。

 ただ、不死者をも殺せる力を持っている霊夢に、自分を殺してもらおうと思っただけなのだ。

 

 だから、その気持ちはむしろ晴れやかだった。

 それで、全てが終わるから。

 あと数秒で終わる。

 楽しかった記憶も。

 苦しかった記憶も。

 何もかもが、これで終わってくれるから―――

 

 

 

 

 

 

  ――愛してるわ、霊夢。

 

 

 

  ――だったら、私がお前の代わりに見てきてやるよ。

 

 

 

 

 

 

「っ!!」

 

 

 次の瞬間、辺りに衝撃波が走った。

 不死殺しの力を全力で宿した拳を振りかぶった霊夢と、目を閉じたままそれを受け入れようとしていた輝夜。

 このまま、霊夢が輝夜を殺す。

 疑うこともないように思えたその光景は……

 

「……え?」

 

 目を開けた途端、驚きを隠せなかった。

 霊夢は輝夜の目の前で、その拳をギリギリのところで自らの意志で止めていた。

 そして、輝夜もまた自分の身を守るように、霊夢が止めたはずのそれを逸らすように、自らの意志で完全に避けていた。

 

「どうして……」

 

 輝夜は、その出来事を理解しきれなかった。

 霊夢が自分を殺さなかったこと、だけではない。

 この場で死ぬつもりだったはずの自分が、その気持ちと反する行動を、生きようとするかのような行動をとっていたことを。

 

 

 ――違う。 母さんも紫も、そんなことは望んでない。

 

 霊夢をギリギリで踏みとどまらせたのは、紫が最期に遺した言葉だった。

 紫から受け取った、最初で最後の確かな愛情。

 復讐に囚われて道を踏み外すことなど、あってはいけない。

 約束だから。

 母と同じくらい大切な、紫に託された自分の物語を、これ以上血に染めたくはなかったから。

 

「……ふう。 ちょっと、熱くなりすぎたかしらね」

 

 だから、霊夢は落ち着いて深呼吸し、もう一度輝夜から距離をとった。

 復讐を果たすのなら、こんな形ではない。

 スペルカードルールで輝夜を負かすことこそが、母や紫が何よりも望んだ幻想郷の理想なのだから。

 

「あんたがあの時の母さんの相手だったいうのなら、それで構わないわ。 私はあんたを、殺し合いなんかじゃなくてスペルカードルールで負かす。 ただそれだけのことよ」

「……」

「さ、続きを始めましょうか」

 

 もう、霊夢は冷静さを取り戻していた。

 本当はあの時、情動のままに輝夜を殺していてもおかしくはなかったと、霊夢は思う。

 それでも、我を忘れて殺さずに済んだのは、決めていたからだった。

 目の前にいるのは、憎むべき敵ではないのだと。

 それが自分の物語なのだと、決めたのだから。

 

 

 ――違う。 こんなの、私は知らない。

 

 その一方で、輝夜は未だに動けなかった。

 得体の知れないその記憶から、逃れられなかった。

 本当は知っているはずの、その記憶。

 いくら否定しようとも決して消えることのない記憶。

 

「……そうね、まだ私のスペルの途中だったわよね」

 

 輝夜の声は、震えていた。

 それでも、隠しきれない動揺に支配されたまま、輝夜は再び弾幕を放った。

 もう、何も考えたくはなかったから。

 弾幕ごっこという無意味な何かに熱中すれば、何も考えなくて済むと思ったからそうしただけだった。

 だが、今の輝夜からは、さっきまでのような悪寒は全く感じられなかった。

 

「……何? こんなのじゃ、全然足りないのよ!」

 

 霊夢は、軽々とその弾幕を避けていた。

 さっきまでのキレも複雑さも速さも、美しさすらもない。

 ただ乱暴に放たれただけの弾幕では、今の霊夢を捕えることなどできるはずがなかった。

 

「もっと本気で来なさいよ。 そんなつまらなそうな顔せずに、ちゃんと私のことを見なさいよ!」

 

 

  ――まぁ、こんなとこにいちゃ世界がつまんなく思えるのも仕方ないと思うけどさ。

 

 

「……黙れ」

 

 輝夜は、統一した口調すらもままならなくなっていた。

 その目は霊夢のことなど見ていない。

 霊夢の声など、聞こえていない。

 ただ、少しずつ蘇ってくるその記憶に、翻弄されていく。

 

「あんたと対等になれる相手がいないから、やる気が出ないっての? でも、私はあんたに届くわよ! あんたがたとえ―――」

 

 

  ――でもな。 たとえ、どんな生まれ方をしていても、どんな力を持っていたとしても。

 

 

「黙れ黙れ黙れ黙れっ!!」

 

 輝夜は頭を押さえながら、必死にそれを否定した。

 それでも、忘れかけていた何かが心の底から溢れ返ってくる。

 だから、輝夜は目の前の戦いだけに集中した。

 脳裏を埋め尽くしていく記憶を封じ込めようとした。

 ただ全てを掻き消すように。

 ただ全てを忘れ去ろうとするかのように。

 やがてその弾幕は、強大な力だけを帯びて暴走していく。

 辺りの闇の全てを掻き消すように、何もかもを光に染め上げていく。

 そして、他のどんな記憶も入り込めないほどに、輝夜がただ何もかもを懸けて放ったその弾幕は―――

 

 

  ――それでも、こんな世界も悪くないってお前に認めさせてやれるような思い出を、私が何度でもつくってきてやるからさ。

 

 

 硝子片のように、儚く砕け散った。

 

 刹那の間に粉々になった光の弾幕は、余韻すら残さないまま世界に静寂をもたらす。

 次第に、世界を暗闇が覆っていく。

 そして、世界は全てを失っていく。

 ただ、一人と、それを静かに見守る一人だけを残して。

 やがて何もなくなった世界で宙に浮いたまま動かなくなった輝夜に、霊夢は挑発するように言った。

 

「あら、もう終わり? まだ制限時間にはなってないと思うけど」

 

 あっけない幕切れに物足りなさを感じながらも、霊夢は既に次の弾幕に備えて呼吸を整えていた。

 輝夜の最後のスペルを、知っていたから。

 かつての輝夜との勝負の中で唯一、霊夢が苦戦し被弾したことのある弾幕。

 『蓬莱の玉の枝』。 輝夜の代名詞とも言える、唯一の「本物」である秘宝。

 その切り札に輝夜の本気が込められたのならば、今の霊夢をして避けきるのは至難の業である。

 だから、霊夢は輝夜の一挙手一投足にまで注意を向けていた。

 そして、輝夜は遂に自らの懐から最後の秘宝を取り出し……

 

「……貴方が、悪いのよ」

「え?」

 

 それを、捨てた。

 その行動の意味がわからなかった霊夢だったが、次の瞬間理解する。

 輝夜が、その手を天高く上げるとともに、

 

「貴方が、そうやって人の心を掻き乱すからっ……!!」

 

 星無き空が、突如として黄金に染まった。

 金色に輝く無数の弾幕がめまぐるしく回転し、宇宙を覆い尽くすほどに勢力を増大させていく。

 空気の流れが、静止しているかのような速度から光速に達するまで入り混じって変化していく。

 やがて時という概念の全てが秩序を失って暴走し、世界に爆発的なエネルギーを生み出した。

 

「…………ワォ」

 

 弾幕であり、それでも弾幕と呼ぶにはあまりに強大すぎるその光は、今の霊夢をして呆然と声を漏らしながら立ち尽くすことしか許さなかった。

 避ける、避けられないというレベルの話ではない。

 それは一度放たれれば、星一つの犠牲で済めば僥倖と思えるほどの、絶望的な破滅の力だった。

 

「……やっぱり、あんたも私と同じだったのね」

 

 全力を出さないのではない、出せない。

 本気を出してしまえば勝負が成り立たないから。

 相手を殺し、世界を滅ぼしてしまいかねないから。

 だから、霊夢が弾幕の美しさを追求することで手加減をしていたように、輝夜は勝負の一切を財宝の力に任せていた。

 自分の力ではなく、歯止めのきく別の何かを動かすことで、少しでも意味のある戦いにしていただけなのだ。

 

「でも、これは流石にそういうレベルの話じゃないわよね……」

 

 だが、最悪の力を持つ霊夢の目から見てなお、迫り来るそれはスペルカードルールで処理できるような弾幕ではなかった。

 避ける隙間など存在すらしない、天空という名の黄金の一枚天井は、明らかに弾幕のごっこ遊びを逸脱した最終兵器。

 それに少しでも当たれば……いや、たとえ奇跡的に避けられたとしても、その残照がこの世界ごと全てを破壊して終わってしまう。

 とても弾幕「ごっこ」としては成立しない、絶体絶命の状況だった。

 

「輝……」

 

 それでも、その名を呼ぼうとした霊夢が、輝夜を止めることはなかった。

 輝夜の表情を、見てしまったから。

 ついさっきまで無理矢理つくっていたはずの冷静な顔に、涙が浮かんでいるのが見えてしまったから。

 だから、霊夢は思考を巡らせる。

 記憶の糸を、辿っていく。

 殺すためではない。

 勝つためでもない。

 ただ、目の前の相手の情動の全てを、受け止めるための方法を。

 母や紫が遺してくれたルールなら、こんな時にどうするべきなのかを――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「伊吹萃香?」

 

 春雪異変が終わってしばらくした頃。

 新たな異変に悩まされていた霊夢は、その名を知っていた。

 かつての自分では全く歯が立たず、紫ですら勝てる保証のない最強の妖怪、風見幽香。

 それを完膚なきまでに叩き潰し、その住処である太陽の畑を焼き尽くしたという鬼。

 人間も妖怪も、誰もが忘れかけていた鬼という種族への恐怖を、たった一人で蘇らせた最強にして最悪の相手だった。

 

「で、紫はそいつが今回の異変の黒幕と睨んでる訳ね」

「多分ね。 でも、萃香は大人しくスペルカードルールに則ったりするような相手じゃないわ」

「……それは、とんだ困ったちゃんね」

「でしょう?」

 

 霊夢は溜め息をついた。

 紅魔館のレミリア・スカーレットや白玉楼の西行寺幽々子は、色々と厄介な問題児とはいえある程度は理性的な思考の持ち主だった。

 それ故に、それまでの異変はスペルカードルールにおいて解決が可能だった。

 いや、むしろ異変の黒幕であったその2人が理性的であったが故に、スペルカードルールがやっと幻想郷に浸透し始めてきたのだ。

 だが、今回の件で萃香がルールを無視してしまえば、せっかく受け入れられ始めたルールが再び破綻しかねない。

 今、万人の心に最も恐怖を与えている鬼の四天王がルールに則らないのならば、スペルカードルールが意味を失ってしまうのだ。

 

「だから、今回は私もちょっとだけ折れてみようかと思うの」

「折れる?」

「まぁ、全員がスペルカードルールに完全に則るだなんて夢物語が本当に実現すると信じられるほど、私も子供でもないしね。 少しくらいはその時のための対策も練ってたのよ」

「ふーん」

「ただ、ね……」

 

 紫は、複雑な目で霊夢を見る。

 その提案を躊躇うかのような、迷いを含んだ目で。

 だから、霊夢は紫の口から聞くのではなく、自分から先に言った。

 

「その方法だと、勝負の際に危険がつきまとう……つまりは私が追い詰められれば、邪神の力が暴走する可能性もあるってことでしょ」

「……そうよ。 だから、その方法を使うのなら霊夢が極端に追い込まれないように万が一を考えて、今回だけは私が先に萃香と勝負して弱らせておくわ」

「弱らせるだけ?」

 

 その、紫の弱気な提唱を受けて、霊夢は少し疑問の表情を浮かべる。

 

「そんなに話を聞かない奴ならさ。 もう、今回に限ってはいっそのこと紫が退治しちゃえば?」

「正直言うと、普通のスペルカードルールだったらともかく、正面からまともにやり合ったら私一人じゃ萃香には勝てないの。 私の立場上、藍と2人がかりで止めに行く訳にもいかないし、やっぱりルールに則った上で霊夢に解決してもらうしかないのよ」

「えー。 それはちょっと、荷が重くないかしら」

 

 確かに、昔と比べて霊夢は随分と成長していた。

 母の死という、霊夢の心に突き刺さったあまりに大きな負の遺産は、それでも霊夢の力を向上させるには大きな効果を発揮していた。

 もう二度とあんなことを起こさないように、それまで以上に自分を痛めつけるような修行を続けることで。

 その結果、初めての異変である紅霧異変の時点で、霊夢はスペルカードルールにおいて藍を超える力を身に着けていたし、今では既に紫とも五分の戦績を収めるほどになっていた。

 だが、紫以上の相手に、しかも普通のスペルカードルールを逸脱して挑むということ自体、まだ想定外のことではあった。

 

「でも、大丈夫よ。 あくまでこれはスペルカードルールの延長線上だし、いざとなったらアレを使えば霊夢に勝てる奴はいないでしょ」

「うーん。 まぁ、それはそうかもしれないけど…」

 

 だが、想定外だからといって避けられない道もある。

 博麗の巫女となったからには、それを覚悟しなければならないのだ。

 

「だけど、気を付けてね。 これはあくまで緊急手段で、普通のスペルカードルールで解決できるのなら、それに越したことはないの。 弾幕で勝敗を決するための、それでも昔のような殺し合いの決闘の一面を含んだ危険な特殊ルール」

 

 それは、ルールに則らない相手がいた時のための逃げ道。

 その被害を最小限に抑えるために妥協案として設けられた、幻想郷におけるもう一つの決闘方法。

 

 

「それが―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……スペルカード、変則ルール壱の採用を提唱するわ」

 

 霊夢は、そう宣言した。

 その言葉が、今の輝夜に届いているかはわからない。

 だが、それは言葉が届いていないからこそ必要な変則だった。

 弾幕に、ごっこ遊びで済ませられない明確な殺傷が不可避である時のための特殊ルール。

 スペルカードルールに納得しない、暴虐の鬼を止めるために。

 人の決めた規則に従わない、わがままな天人をこらしめるために。

 かつて二度、異変で使ったことのあるそのルールは、もはや言葉の届かない相手のために設けられた奥の手。

 弾幕を片方が放ち片方が避けるのではない。

 それは互いにスペルを、自分の技をぶつけ合って攻略することでその勝敗を決する。

 つまりは互いのスペルの美しさではなくスペルの強さを比べる、昔の決闘に近いルールだった。

 

「そうするしか、ないわよね」

 

 霊夢はそれを、積極的には使いたくはなかった。

 力比べでは、自分の中に眠る力の制御をしきれなくなりかねないから。

 その結果、誰かを傷つけ殺してしまうことを、恐れていたから。

 だが、今は躊躇している場合ではなかった。

 いや、むしろ今回はその力さえも頼りにして全てを出し切らない限り勝ち目のない相手であることが、わかっているから。

 

 ――母さん、紫、皆……お願い、力を貸して。

 

 霊夢は、自らの『空を飛ぶ程度の能力』を使って、もう一度この世界を更に深く取り込んでいく。

 命を捨ててまで今なお霊夢を守り続けている、紫の力を。

 歯止めのきかない邪神の力を。

 今まで霊夢が生きてきた、あらゆる喜びの歴史も悲しみの歴史さえも。

 臆することなく、何もかもを自らの内に再び還していく。

 

 

   ――新難題――

 

 

 その間にも、世界は劇的に変化していく。

 既に輝夜の姿すらも見えないほどに宇宙を埋め尽くしていく弾幕は、視覚も聴覚も感覚も、あらゆる情報でもって不可能という結末だけを否応なく霊夢に叩きつける。

 霊夢が死ぬか、世界が終わるか。

 そんな選択肢しか存在しないかのような死地だけが、霊夢を待ち受けている。

 

 

  ――ラストスペル――

 

 

 だが、それでも霊夢の視線が僅かにも揺らぐことはなかった。

 『∞』にまで膨れていく輝夜の力とは対照に、霊夢の存在は限りなく『0』に近づいていく。

 『博麗霊夢』という個の存在を世界から消し去って、暗闇に溶けた異空間の何もかもと一体化していく。

 あらゆる弾幕を、避けずとも避けられるように。

 逃げるのではない、まっすぐにその弾幕に立ち向かえるように。

 

「……いくわよ輝夜。 私も、手加減なしだから!」

 

 九天の中心に佇む輝夜に向かって、霊夢は最後の始まりを宣言する。

 揺らぐことなきその瞳に映っているのは、目の前に広がる死地への恐怖や絶望ではない、大切な人たちとの信頼や未来への希望でもない。

 その目の光は、ただ向き合うべき今の現実だけを。

 今そこにいる輝夜のことだけを、一直線に焼き付けたまま。

 その身を世界に溶け込ませ、天空から降り注ぐ兵器の中へとまっすぐに飛び立った。

 

 

 

   「『金閣寺の一枚天井』」

 

 

    「『夢想天生』!!」

 

 

 

 そして、輝夜の囁くような小声と霊夢の叫ぶような宣言が、同時に世界に轟いた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第34話 : 魂のスペル

 

 

 

 大気が燃え尽きる臭いがした。

 空を焼き焦がした熱さえも飲み込んで強大化した弾幕が分裂し、その欠片が絶え間なく地上に降り注いでいく。

 天井と表現するにはあまりに大きく、まるで地球という小さな星に太陽が降ってきたかのような絶望感だけが視界を覆っている。

 

 その絶望に、霊夢は一人立ち向かっていた。

 目の前に迫るのは、避ける隙間の全く存在しない弾幕。

 スペルカードルールにおいては反則とされるそれに、霊夢は……あっけなく被弾した。

 たった一欠片で一個体の命など容易く消滅させる光に被弾して、被弾し続けて、ほんの1秒足らずで何度死んでいてもおかしくない嵐の中を、それでも霊夢は突き進む。

 だが、次々に霊夢に襲い掛かる弾幕は、その全てが霊夢の身体をすり抜けるように素通りしていった。

 

 それこそが、霊夢の真の奥義。

 邪神の力ではなく、霊夢自身の『空を飛ぶ程度の能力』を極限まで研ぎ澄ませて完成させたスペル、『夢想天生』の力。

 この広大な空と、世界と完全に一体化することで、あらゆる事象の影響を無視することを可能とする力。

 かつて萃香と戦った時ですら、全ての攻撃をすり抜けながら自身の弾幕を放ち続けることで、一方的な勝利をもぎ取った。

 それは、制限時間という概念がなければ決して破ることができない、つまりはスペルカードルールに則らなければ決して霊夢に勝つことはできないと相手の思考に植え付けるための、いわば暴力の抑止力にもなる反則的な技だった。

 

「っ……違う、こっちじゃない」

 

 どれほど強力な弾幕に被弾しようとも、それは直接霊夢の身体にダメージを与えはしない。

 それでも、世界という大きすぎる要素と自分の心という小さな要素を一体化する、あまりに無茶が過ぎるその技は、霊夢の精神に大きな負担を強いていた。

 実際には自分が力尽きるまでという時間的な制約がある霊夢は、焦りながらその弾幕の中を飛び抜けていく。

 だが、霊夢はその先にいる輝夜を倒そうとしている訳ではない。

 そのスペルカードを正面から破ろうとしている訳でもない。

 ただ、輝夜の方へと向かいながらも、その弾幕を深く観察しながら飛び回っている。

 

「意味のない形なんかじゃない。 今の輝夜なら、きっと何か……」

 

 時という法則を完全に無視して君臨する弾幕の天井は、この世界にとって明らかな異物。

 霊夢が取り込んだ世界の法則と相反するそれは、今の霊夢には決して治めることはできない。

 なぜなら、『空を飛ぶ程度の能力』は無条件に全てと一体化できる能力ではなく、霊夢の心が観測可能な事象を共有する能力だからだ。

 

 ならば、もし輝夜の放つ弾幕の意味を感じ取れたのなら。

 その弾幕に、自らの感覚と共有できるような綻びを見つけられたなら。

 霊夢には、その弾幕を自らの世界と一体化させて鎮めることができる気がしていた。

 

「――――つっ!?」

 

 だが、霊夢の思考はそこまでだった。

 霊夢は、自分が被弾したように感じていた。

 感じていただけではない。 自分の身体を焼かれたような痛みとともに、全身がひどく痺れていた。

 

「え……?」

 

 霊夢は苦痛に表情を歪めながらも、何が起こっているのかもわからずに呆然としていた。

 被弾した訳ではない。

 夢想天生の効果が切れていた訳ではない。

 

「……何なの、これ?」

 

 ただ、霊夢がゆっくりと振り返ると、そこにはこの世のものとは思えない終焉の景色。

 大地が割け、色彩を完全に失った狭間へと全てが崩落していく。

 光速で乱舞する弾同士がぶつかり合い、悲鳴を上げた分子が、大気に亀裂を起こして壊れていく。

 そこにあったはずの暗闇の世界は既に、輝夜の放ったスペルの欠片に滅ぼされつつあった。

 この世界そのものと一体化した霊夢の力は、世界が壊れるにつれて徐々に奪われていく。

 それは、世界という概念に守られていたはずの霊夢を、逆に世界そのものを滅ぼすことで内側から消滅に導こうとする、夢想天生の攻略法だった。

 

「っ!? 冗談じゃないわよ!! こんな、ことで……」

 

 霊夢は焦燥を隠せなかった。

 それでも、再び決死の思いで前を向いた霊夢を待ち受けていたのは、もはや宇宙の終わりすら思わせるほどに無限に増幅していくエネルギーの暴走。

 霊夢はもう、目の前を埋め尽くしていく絶望を、ただ見ていることしかできなかった。

 そして、静かに悟った。

 

 ――敵わない。

 

 既に霊夢の心は折れかけていた。

 『夢想天生』を使えば無敵なのだと、自分でも思っていたから。

 理論上、この技には誰一人として太刀打ちすることすらできないはずだったのだから。

 故に、その絶対の自信が破られてしまえば、脆いものだった。

 

「これは……無理、かな」

 

 霊夢は、もう限界だった。

 強がってみても、霊夢にはもう何もないから。

 この世界が幻想郷の成れの果てで、もう他に誰も存在しないと思っているから。

 心の中に僅かに残る紫の声を信じて、ここまで戦ってきた。

 それでも、もう紫もいない。

 今の霊夢の心を支えるものは、もうないのだ。

 守るべきものも信じるものも何もない今、霊夢を突き動かすものなど何一つとしてないなずの世界で……

 

 

  ――誰か。

 

 

 それでも、霊夢は諦めはしなかった。

 『夢想天生』を使ったことで、更に深く共有できたこの世界の記憶。

 この世界に残された、たったひとつの自分以外の記憶。

 

 

  ――誰か、助けてよ。

 

 

 さとりのように、心を読める訳ではない。

 一体何に苦しんでいるかなど、わからない。

 それでも、あまりに悲痛なその想いは届くから。

 その強大すぎる弾幕を放つ輝夜の、心の叫びが聞こえてくるから。

 

「……そうよね。 まだ諦める訳には、いかないわよね」

 

 霊夢には、それだけで戦う理由としては十分すぎた。

 たとえここが終点だとしても、それは自分だけの物語なのだから。

 自己満足でも、たとえ無意味に終わろうとも構わない。

 ただ、目の前で泣いている子を助けたいという、自分の気持ちにだけは嘘はつけないから。

 

「さっさと目ぇ覚ましなさいよ、輝夜っ!!」

 

 そして、霊夢はそのまま勝機の無い弾幕の宇宙へと身を投げた。

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第34話 : 魂のスペル

 

 

 

 

 

 

 

 ――いつからだろう、何もわからなくなったのは。

 

 

 自分が何故ここにいるのか。

 自分が本当は何をしたかったのかすらも。

 何も、わからない。

 

 

 自分のやっていることが果たして正義なのか、それとも悪なのかすらわからない。

 

『別にどうでもいいでしょ』

 

 そんなことは気にも留めなかった。

 自分が悪であるとしても構わない。

 たとえどれほど険しく孤独な道を選んででも、それを成し遂げると決めたのだから。

 

 

 ――でも、もしかしたら目の前に見えている全ては、私の弱さが生み出した幻想なのかもしれない。

 

 

 その道のりの途中で苦しみ逃避し、遂に生み出されてしまった幻影は、現実と空想の境界線をも惑わせていく。

 いつしか、自分の決意もその道の果てに待つ結果も、今見えているそれが果たして現実なのか、それとも夢幻なのかさえわからなくなっていた。

 

『そんなの、どっちでも関係ないわ』

 

 だけど、深く考えることはなかった。

 今見えている光景が、ただの夢幻であるとしても構わない。

 たとえここが幻の中の世界であるとしても、いつかどこかでそれを救える道が見つかるのかもしれないのだから。

 

 

 ――だったら、私は一体何を救おうとしたっていうの?

 

 

 あまりに複雑に絡み合った迷路は、本来の目的すらも遥か彼方に消し去ってしまって。

 もう、自分が救おうとした何かに果たして生きる道があるのか、それとも死の道しか残されていないのかさえわからなくなっていた。

 

『だから、それが何だっていうのよ』

 

 それでも、迷う必要なんてない。

 その果てに死という結末しか残されていないとしても、構わない。

 たとえどんな残酷な運命が待ち受けようとも、それを自分が打ち砕くと誓ったのだから。

 

 

 ――なのに、いつしかそんな誓いすらわからなくなった。

 

 

 忘れようとしていた。

 その決意も、立ち向かう気概も、大切なものすらも。

 全てを自分の手の届かないほど遠くへと、無理矢理に追いやろうとしていた。

 もう、限界だったから。

 あまりに残酷な迷宮の中で、諦めようとしていた。

 

『諦めないで』

 

 本当は、何度も逃げようとした。

 

『逃げるな!!』

 

 だけど、心の中にあまりに深く根付いてしまった自分自身の声という魔物が、次第に牙を剥き始めて。

 

『もう一度くらい、頑張りなさいよ』

 

 それに、気付かないふりをしようとして。

 

『ふざけないでよ!』

 

 それでも、最後の瞬間には決まって、思い出したくもないあの記憶が再び蘇ってくる。

 何も救えなかった記憶。

 誰かを傷つけた記憶。

 誰かを殺した記憶。

 世界を滅ぼした記憶。

 どうして、何があってそうなったのかも、今はもう思い出せない。

 どうでもよかったから。

 それは、今の自分にとってはただの「虚構」の歴史に過ぎないのだから。

 それならいっそ、全て消え去ってくれればよかったのに。

 なのに、消えてほしいものだけは決して消えてはくれない。

 その時に負った心の傷だけは、いつまで経っても癒えることはなかった。

 

 もう、関わりたくはなかった。

 頑張れば頑張るほど。

 気持ちを入れ込めば入れ込むほど。

 それに失敗した傷は大きくなっていくから。

 だから、たった一つの記憶などどうでもよくなるくらい、離れたところから見ていた。

 ただ見ているだけだった。

 ただ逃げているだけだった。

 それでも少しずつ、ほんの少しずつ、その心は侵されていくから。

 

「……結局、また同じなんでしょ」

 

 目の前で命を懸けて自分の弾幕を攻略しようと奔走する少女に、特に期待はしていない。

 その少女に頼ることの無意味さを、嫌というほど思い知っているから。

 だったら、その迷路の出口は一体どこにあるのか。

 出口なんてものが、そもそも存在するのか。

 

「……もう、いいでしょ」

 

 彼女はそんな言葉を紡ぎながらも、再び進んでいく。

 自らの意志でもって、永遠に続くその地獄へと。

 目の前で奮闘する少女に諦めの視線を送りながら、僅かな希望すらも見えない闇の底へまた一歩を踏み出そうとして……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霊夢は焦っていた。

 その身体は、既に敗戦後であるかのように力なく。

 残されていた霊力は、邪神の力を酷使してなお残り僅かで。

 

 それでも、霊夢が焦っているのはそんなことではなかった。

 

 自分の限界ではない。

 この世界の限界でもない。

 ただ、目の前にいる輝夜の心の限界を、察してしまったから。

 必要以上に感じ取ってしまうその苦しみに、ほんの少し共有しているだけの自分でさえ気が狂ってしまいそうになっていたから。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 それは、輝夜の放つ弾幕に入り混じっていた記憶。

 希望も絶望も。

 信頼も憎悪も。

 嘆き怒りに友情愛情、あらゆる概念が滅茶苦茶に入り混じったかのような騒音。

 それらが皆平等に、得体の知れない何かに塗りつぶされていくかのような生理的嫌悪。

 頭が割れるような頭痛と耐えきれない吐き気は、ほんの僅かだけで霊夢の精神を崩壊させようとしていた。

 

「……何、なのよ」

 

 それでも、霊夢はただ必死に飛びながら注視する。

 これ以上ないほどに光を放つ、その弾幕を。

 蝕まれていく輝夜の心とは対照的なほどの輝きを放つその力を見ながら、叫んだ。

 

「あんたは一体、何と戦ってるのよ!?」

 

 霊夢と戦っているのなら、それでよかった。

 明確な敵が別にいるのなら、簡単だった。

 自分自身との戦いというのなら、まだ何とかなった。

 だが、輝夜はそんな分かりやすい何かと戦ってなどいなかった。

 

「答えなさいよ、輝夜っ!!」

 

 次第に、その空間は裂けてきていた。

 世界が終わろうとしていた。

 同時に、輝夜の心も死のうとしていた。

 いや、死にはしない。

 ただ、死よりも遥かに辛い何かに、自らの全てを投じようとしているだけだった。

 

 ――あの時に、あのまま楽に死なせてあげるのが正解だったの?

 

 霊夢は、次第に迷ってきていた。

 輝夜を永遠の孤独から解放する方法なんてものは、何もない。

 自分は寿命のある人間で、いずれは輝夜の目の前から消える儚い存在なのだから。

 ならば、せめてそれを終わらせてあげるのが、自分に残された最後の役目なのだと思っていた。

 

 ――だって、そうするしかなかったでしょ?

 

 ――他に、輝夜を止める方法なんて、助ける方法なんてなかったでしょ!?

 

 それは霊夢自身の中に渦巻く葛藤のようであり、その実、後悔という名のただの言い訳。

 今の現実が塞がっているが故の、過去へ見出した逃げ道に過ぎない。

 そんなことは、霊夢自身もわかっていた。

 それでも、他に何も道しるべがない以上、できることなど何もなかった。

 この閉ざされた世界の中で、他に選択肢なんてものは―――

 

「……待って」

 

 だが、霊夢はふと思った。

 今の状況の認識が、本当に正しいのか。

 ここは、既に闇の力に飲み込まれて滅びた世界。

 他に誰もいない、そんな世界。

 ならば、どうして。

 

「どうして、輝夜だけが……違う、私が生き残ってるの?」

 

 異変の黒幕であるはずのルーミアは、いない。

 いや、たとえルーミアが最後に自らの命すらも絶ったとしても、輝夜だけを残す意味はあるのか。

 輝夜と同じ不死者であるはずの永琳は、いないのだから。

 永琳と同じように全てを飲み込むことも、輝夜を消すこともできたはずなのだ。

 そして、自分が今ここに残っている状況。

 偶然にも闇の呪縛から逃れられたからなのか。

 こんな孤独と絶望しか残されていない、ただひたすらに苦しむだけの世界に。

 あの紫が、そんな場所に霊夢を黙って放り出すなんてことが、ありえるのか。

 そう考えたとき、霊夢の中に一つの仮説が浮かぶ。

 

「まさか、ここは……」

 

 幻想郷ではない。

 これは、誰かが恣意的に作り出した状況で。

 まだ、幻想郷は別のどこかにあって。

 自分や輝夜はそれに気づいていないだけ。

 そう考えれば、まだ少しだけ希望が持てる気がしていた。

 

「輝夜! もしかしたら、ここは幻想郷じゃないのかもしれないわ」

「……」

「こんなところで一人で取り残される心配なんてないのかもしれない、だから…!!」

「……知ってるわよ、そんなこと」

「え?」

 

 だが、それは当然の反応だった。

 ここは幻想郷ではない。

 アリスが禁忌のグリモワールの『紫』の魔法を使って創り出した異世界。

 その空間に、輝夜は望んで残っただけなのだから。

 

「だから、それが何?」

 

 故に、その事実が輝夜の思考に何ら影響を与えないことは当然だった。

 

「それが何って…」

「ああそうね、霊夢にとっては重要な問題よね。 この異世界を支配してる私を殺せば、貴方は幻想郷に戻れるかもしれないからね」

「っ……!!」

 

 霊夢と輝夜だけがこの空間に閉じ込められている今の状況を作り出したのは、他でもない輝夜であるという。

 それを聞いた霊夢の心に浮かんだのは喜びでも、輝夜への敵対心でもなかった。

 まだ無事な幻想郷に、皆のもとに戻れるかもしれない希望さえも度外視して浮かんでいた思考。

 そもそも輝夜は今、一体何をしてるのかという根柢の疑問。

 少なくとも、弾幕ごっこを続けようとしているようには見えない。

 ただ乱雑に力を振りまいている輝夜の姿は、霊夢に冷静な思考を取り戻させた。

 

 ――私を殺そうとしている?

 

 こんな回りくどいことをせずとも、その気になればすぐにできたはず。

 

 ――死のうとしている?

 

 それなら、少し前に霊夢の攻撃に身を任せるだけで終わっていた。

 

 それらの考え得る可能性には、その行動が理に沿わない。

 にもかかわらず、輝夜が止まることはない。

 だとしたら、その標的は……

 

「この世界、そのもの?」

 

 無想天生を攻略しようとしたのではない。

 ただ単純に目の前の全てを否定しようとして、結果的に霊夢を追い詰めているだけで。

 今の輝夜は、霊夢のことなど気にも留めていないのではないか。

 

 輝夜がおかしくなったのは、さっきの弾幕ごっこの最中。

 明らかに心を押し殺して、無理に笑っていた輝夜の姿を前に、霊夢が直感的に感じてしまったこと。

 輝夜は、誰にも言えない何かを一人で心の奥に押し殺していると。

 そう思って、なんとなくで放った霊夢の一言から、輝夜の全てが乱れ始めた。

 何かを否定するかのように、ただ破壊に身を任せるようになっていたのだ。

 ならばきっと、そこに今の状況を導いただけの何かがある。

 もしかしたら、輝夜の心の隙に割り込む手がかりが存在するのかもしれないから。

 

「……なるほどね」

 

 霊夢の目の光は、蘇っていた。

 輝夜の抱えているものが、一体何なのか。

 それが少しでもわかれば、きっと活路が見出せるだろうから。

 

「それなら、もう少しくらい遊んでみる価値はあるわよね!」

 

 霊夢は再び周囲に気を張り巡らせる。

 新たに希望を見出した霊夢の心と、絶え間なく絶望に囚われた輝夜の心。

 辺りを覆う暗闇の世界と、それを照らし尽くす光を放つ弾幕。

 霊夢は、その中に存在する違和感に気付いていた。

 誰よりも弾幕ごっこに長け、関わってきた霊夢だからこそわかることがあった。

 

 弾幕には、それを放つ者の魂が表れるのだと。

 

 誰かを傷つけないために、美しさを追求してきた霊夢。

 弾幕ごっこを楽しむために、あえて力技で押し通してきた魔理沙。

 優秀過ぎるライバルに追いつくために陰で努力を重ね、勝つための戦略的な弾幕を模索してきた早苗。

 その他にも多くの強敵と弾幕勝負をしてきた霊夢は、個人の持つ弾幕の性質から、ひとりひとりの想いそのものを感じることができた。

 それは、輝夜さえも例外ではない。

 ただ秘宝の力に任せて勝負をしていた頃の輝夜からは、それでも勝負相手のやり方に「適当」に合わせながら楽しもうという在り方が、霊夢には僅かながらも感じられていたのだから。

 

 だが、今の輝夜の弾幕から感じ取れるのは、明らかな不協和音だけだった。

 こんなにも深い闇に囚われながらも、それと対照的なほど輝かしい光を放つ弾幕。

 その想いと相反する色彩に支配された弾幕は、きっと輝夜の心の中で拒絶反応を起こしているはず。

 にもかかわらずそれを放ち続けることには、何かしらの理由があるのだろう。

 そして、それこそがきっと、輝夜が囚われている記憶の檻。

 そこに何かしらの意味を見つけることが、『スペルカードルール』の本当の意義。

 弾幕を通じて相手を理解できる、それこそが霊夢がこのルールを好きである最たる理由だった。

 

「いくわよ輝夜。 まずは、何よりも美しい弾幕!!」

 

 だから、霊夢は自らの得意とする弾幕とともに、空高く飛び上がった。

 霊夢はあえて自分が弾幕で表現することで、スペルカードに対する自分と輝夜の共感部分を探ろうとしたのだ。

 最初の弾幕は、霊夢自身の魂を込めた戦法で、再びごっこ遊びの中に身を投じた。

 それは、特段の殺傷力を持たない、霊夢が最も多用してきた弾幕。

 星々を散りばめ、小銀河のように無限を感じさせる、ただ美しさのみを追求した弾幕だった。

 

 だが、それは一瞬の輝きの後、輝夜の弾幕にあっけなく飲み込まれていく。

 その美しくも儚い弾幕の散り様に、輝夜が見向きもしていないことに気付くと、霊夢はすぐに気持ちを切り替えた。

 

「なら、誰よりも強い弾幕!」

 

 霊夢は両手を上げ、自らの中に眠る邪神の力を、いくつものエネルギー球体と化して解き放つ。

 参考にしたのは魔理沙と、かつての萃香の弾幕だった。

 誰よりもパワーを前面に押し出そうとしていた魔理沙と、鬼という種族が先天的に持ち合わせた強大な力を思うままに振るっていた萃香の弾幕。

 一見相反するように見える弱者と強者の2人が放つ弾幕には、それでも共通点があった。

 誰と比べても明らかに弱い人間である自分が、それでもどんな力を持った相手とでも対等でいられることを証明したいという思いと。

 自分が誰よりも強いという自信と、それが忘れ去られていくことへの反抗心。

 それは、この幻想郷という一つの世界に向けた、「私はここにいる」という自己主張を乗せて放つ弾幕だった。

 

 そんな想いを胸に宿し、霊夢が全力で放った霊力は、輝夜の弾幕さえも掻き消して一直線に飛んでいく。

 だが、それを軽く受け流した輝夜の心が、何一つとして気にも留めていないことを感じ、霊夢は間髪入れず次の弾幕を放つ。

 

「練り上げた弾幕を!!」

 

 霊夢は自らの霊力を拡散させるように放出し、それらを深く絡み合わせていく。

 それは、今まで自分の歩いてきた「努力」という道筋への信頼。

 早苗のように相手の特性さえ加味して、勝ちに行くための難しい弾道を描く弾幕の中を。

 永琳のように理路整然と、それでも知恵の輪のように複雑に絡み合った軌道の弾幕の中を。

 そんな、あまりに短い時間で得た経験値と、あまりに長い時間を重ねた経験値は、それでも数字や理屈では表せない信念の証。

 自分自身と戦い続けて培った、自分にしかない自信という何よりの主張のままに進む弾幕は、膨大な変化を起こしながら輝夜へと向かっていく。

 それでも輝夜は、その弾幕をまっさらな草原を歩くかのように淡々と攻略していく。

 

「速さを!」

 

 レミリアのように、吸血鬼の瞬発力のごとく、誰よりも鋭い一瞬の輝きを放つ弾幕も。

 文のように、幻想郷最速の名に恥じぬほど、音速を超えて縦横無尽に飛び回る弾幕も。

 それさえも簡単に止められてしまって。

 

 ――もっと、まっすぐに。

 

 妖夢のように、己の信念のままに振り続けた剣筋をなぞるかのように。

 

 ――より固い意志で。

 

 天子のように、振り返ることも遮られることもなき唯我独尊の信念とともに。

 

 ――眩しいくらい輝かしく。

 

 依姫のように、相手の心さえ奪うほど必要以上に光り輝かせて。

 

 ――何よりも幻想的に。

 

 紫のように、まるで夢幻の中にいるかのような想定外の形を創り上げて。

 

 霊夢はそんな、思いつく限りの全力の一手を絶え間なく放ち続ける。

 誰よりも多くの強大な相手と戦って得た経験を、惜しげもなく披露し続けていく。

 感じ取ってしまう輝夜の闇を否定するように、塗りつぶすように、ひたすらに借り物の弾幕で新たな一手を模索していく。

 

「……」

 

 それでも、輝夜には僅かにも響くことはない。

 輝夜の心に、何一つとして変化が起こることはなかった。

 

「だったら、次、は―――」

 

 だが、霊夢の心が、人間という矮小な種族の精神力が、不死である輝夜と同じく不変であれるはずがない。

 それに、耐えられるはずがなかった。

 

「希■を……」

 

 あらゆる光を信じて。

 

「■■、を」

 

 あらゆる闇を宿して。

 

 数多の想いや概念が滅茶苦茶に入り混じった弾幕を放ち続けている霊夢の中を、暴走した感情が走っていく。

 気付くと、霊夢は心の奥底に封じていた何かから湧き出た感情までも表出させていて。

 自分が何を叫んでいるのかさえもわからなくなって。

 いつの間にか、自分の心が光よりも強い闇に引きずり込まれていることを感じていた。

 

 ――悲愴的に。

 

 それは、あの時のにとりのような、悲しい一撃でもって。

 

 ――激昂して。

 

 あの時、霊夢自身がルーミアに向けていた怒りの矛先のごとく。

 

 ――絶望的に。

 

 そして、霊夢の中に巣食う最も大きな絶望の記憶は。

 

 ――憎悪さえ抱いて。

 

 それでも止まらない。

 溢れ出す感情のままに、弾幕を放ち続ける。

 今の状況を打破できる何かがきっとあるという思い込みに、ただ何もかもが囚われて。

 自分の記憶の奥底にある全てを、解き放っていく。

 いつか、輝夜に届く何かが見つかると愚直に信じて。

 

  ――大丈夫、だから……私は大丈夫だから、逃げろ、霊、夢……

 

 だが、それが見つけ出すのは希望だけではない。

 その心の奥底に封印していた、思い出したくもない記憶さえも思い出させて。

 

  ――私が、貴方の母親が死ぬ原因をつくった……いえ、正しく言えば貴方に母親を殺させた張本人よ

 

 自分の中の何よりも大きな闇を、その憎悪さえ引きずり出して。

 否定したはずの感情すら、気付かないままその身に宿して。

 

 ――私は。

 

 ――憎い。

 

 ――母さんを奪った、こいつが。

 

 ――憎い。 憎い憎い憎い憎い憎イ憎イ――

 

 いつしか霊夢は全てを失くしていた。

 『夢想天生』は、いわば諸刃の剣。

 それは、世界という大きすぎる概念と、霊夢の心という脆いものを一体化する、あまりに不釣り合いな所業。

 

 ――為れば、私ハ

 

 故に、その均衡が崩れてしまえば。

 一度その天秤が傾いてしまえば、一個体の心などは……

 

 

 ――唯、殺意ノ儘ニ。

 

 

 この世界に入り混じっていた別の何かに、いとも簡単に飲み込まれてしまっていた。

 鋭く吊り上がった霊夢の目は、いつの間にか殺意という魔物に憑りつかれていた。

 それは目の前の仇敵を殺すという、絶対の終わりの合図。

 輝夜の全てを終わらせるという、最初に相互に感じていたその目的の果てに―――

 

「………」

 

 輝夜は最後に、微かに微笑んでいた。

 だが、それを間近で見る霊夢にはわかっていた。

 それはただの、諦めの笑み。

 その瞳の奥にある何かは、決して笑ってはいない。

 決してそれを求めていはいない。

 ここで終わることなど輝夜は望んでいないと、霊夢も本心ではわかっていた。

 自分の中の醜い感情を、必死に抑えようとしていた。

 だけど、止まらない。

 もう止められない。

 

 ――だって、私にはもう、何も残されていないから。

 

 大切なものも、信じられるものも。

 そして、自分に最後に残された信念すらも。

 もう、叶える力は霊夢には残っていない。

 霊夢の心は、ほとんどがこの世界に逆に取り込まれてしまって。

 既に、その目的を果たし得る気力さえ無いのだから。

 

 だから、ここがきっと妥協点。

 ここで死ぬことは、きっと輝夜が本当に望む結果ではないけれど。

 ここで輝夜を殺すことは、霊夢にとって望ましい物語ではないけれど。

 だけど、何もできないまま終わるよりは、ここで輝夜の全てを終わらせてあげることの方が。

 ここで霊夢だけが倒れていく結果よりは、きっと意味のある最期だからと、そう自分に言い聞かせて。

 そして、霊夢は決断する。

 その身に宿した信念の果てに、最後の辛い選択を―――

 

 

 

   ――だから、せめて私は――

 

 

 

「―――――っ!!」

 

 だが、その選択は一歩遅かった。

 霊夢の身体は突如として力を失い、そのまま空から落ちていく。

 その行動を決断する前に、霊夢の身体が先に耐えきれなくなっていたのだ。

 だが、耐えきれなくなったのは正確には霊夢ではない。

 霊夢の心を包み込んでいた、一つの形が。

 霊夢の中の闇を、その記憶を綺麗に散らしていたのだ。

 

「…………なんでよ」

 

 全てを終わらせる直前で地に落ちていった霊夢を目で追うことすらできないまま、ただ輝夜は呆然していた。

 だが、それは必然の結果。

 霊夢をずっと見守っていた、とある力の残照が、この先に進むことを拒んだのだ。

 きっと、苦しむことがわかっていたから。

 たとえほんの少しだけ輝夜を救うことに繋がろうとも、その選択が霊夢にとって何よりも辛いものであると、わかっていたから。

 だから、霊夢にその選択をさせないために。

 いつの間にか、霊夢と邪神の力のリンクは途絶えさせられ、霊夢の心は闇の底から引き揚げられていた。

 

「……あー、そっか」

 

 それを理解すると同時に霊夢にも限界が訪れ、脱力感に抵抗できないままゆっくりと地に落ちていく。

 自分は結局、敵わなかったと。

 最後まで甘えてしまったという、情けなさであり一種の嬉しさ。

 そんな感傷に浸ることしかできないまま、霊夢はもう動くことができなかった。

 『無想天生』を解くこともできないまま、その身体は半分以上が言うことをきかなかった。

 つまりは、既にこの世界の半分以上は終わっているのだろう。

 

「ま、流石に相手が悪かったのかしらね」

 

 その戦場から離脱していく霊夢が放ったその諦めの言葉は、弱音は、一体誰に向けたものなのか。

 自分に言い聞かせているのか。

 母や紫に、先立たれてしまった者たちに、その顛末を報告しているのか。

 魔理沙や早苗たちに、まだ幻想郷で戦っている者たちに、後のことを託しているのか。

 それとも―――

 

「……どうして。 早く消えてよ。 消えて、消えて消えて消えて消えてよ、全部っ!!」

 

 未だに、たった一人で誰よりも苦しんでいる仇敵に、言い訳しているのか。

 だが、それはもうどれであっても、同じことだった。

 もう誰にも輝夜を止めることなどできない。

 ただ、世界を壊していく。

 ただ、それ以上に壊れていく。

 

「ごめんね。 私なんかにあんたを助けることなんて、最初から無理だったのよ」

 

 大地も、空も、何もかもが平等に壊れていく。

 その光景を呆然と見上げながら堕ちていくことしかできない霊夢に、輝夜が目を向けることもなく。

 それで、全てが終わり。

 暗闇が、眩いほどの光に染め上げられていく。

 ただ、壊れれば壊れるほどに何もなくなるはずの世界で。

 

「……え?」

 

 ふと、霊夢は偶然にも気付いてしまった。

 何もかもが壊れているのに。

 間違いなく、世界は終焉へと向かっているはずなのに。

 なのに、いつしか光に満たされていた世界には一つだけ、未だに壊れない一つの形があって。

 輝夜が消そうとしていた形は、たった一つで。

 その光が紡いでいたのは……

 

「まさか、これって」

 

 輝夜のことばかり気にしていたから、気付かなかった。

 その弾幕の強大さにばかり目をとられて、気付かなかった。

 だが、大地から見上げたその形は、霊夢の目にも印象深かった一つの弾幕の形と、酷似していた。

 それは、今の戦いの中ではとても連想することなどできないほどに、弱く儚い弾幕。

 馴染み深かった訳でも、強敵だった訳でもない。

 ただ、偶然にも覚えていた。

 

 それは、霊夢にとっても始まりの弾幕。

 闇夜に浮かんだ、二筋の光。

 霊夢が初めての異変で最初に取得した、思い出深きスペルカード。

 

 

「月符―――」

 

 

 その言霊は空間に溶け込んで、輝夜の心と霊夢の心に宿る同じ記憶の重なりを繋ぎ合わせていく。

 そこに見えるのは、遥か昔の一つの物語。

 霊夢はただ無意識のまま、それに向かって手を伸ばす。

 奇跡的に繋ぎ止めた最後の希望を掴み上げるかのように。

 永遠を遡る記憶の海を、虚無の世界に静かに映し出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その世界は、閉ざされていた。

 絶望でも希望でもない、ただ空虚な檻に囚われて。

 永遠の時の中で、静かに完結していた。

 

「……つまらない」

 

 幻想郷に来て、既に数百年。

 永遠の魔法に閉ざされた竹林で、輝夜は一人で空を見上げていた。

 

「つまらないつまらないつまらないつまらない」

 

 その言葉を、一体どれだけ放ち続けたかもわからない。

 その場に一体何日とどまり続けているかもわからない。

 永遠に変わらない時の中で、ただ無為に生きることしかできない。

 死ぬことすらもできない。

 だからといって、何かを成そうとも思わない。

 何かを成し終えた途端に、それ以上の空虚に襲われることを知っていたから。

 達成感も悔しさも、もう味わうことなど叶わない。

 それほどまでに、全ての事象を知り過ぎてしまっていたから。

 だから、輝夜は再び目を閉じた。

 いつもと同じ一日。

 いつもと同じ一年。

 いつもと同じ一世紀。

 だが、そんなものを感じ続けるのに、嫌気が差した頃……

 

「……何だ。 お前も、一人なのか?」

 

 突如として、そんな声がかけられた。

 聞き慣れた声ではない。

 従者たちのものでも、悪戯兎たちのものでもない。

 ただ、適当な態度の新しい声。

 それに気付いた輝夜は、同じく適当な態度で、それでも少しだけ弾むような声で返していく。

 

「……ごめんなさいね、別に一人じゃないわ。 今はちょっと、ただきまぐれに外出してるだけよ」

「いいや、違うな。 お前からは私と似た空気を感じるよ」

「あら、それって口説き文句のつもり?」

「そうだな」

 

 ここは永遠の時の狭間、紫の能力を使ってなお辿り着けないはずの閉ざされた世界。

 そこに平然と存在する、得体の知れない妖怪。

 だが、輝夜はその妖怪に、どうやってここに来たのかとは聞かなかった。

 そんな些細なことに、特に興味はなかった。

 ただ物珍しい何かを見るように、久々にその心は躍った。

 

「そ。 でも、まだ互いの名前も知らないような相手に口説かれて落とされるほど、私は純朴な子供でもないわよ」

「それは失礼。 で、お前の名は?」

「蓬莱山輝夜よ。 よろしくね、闇の妖怪ルーミア」

「っ!? ……何だよ、知ってんじゃないか。 だったら知ってるよなぁ、私が人食い妖怪だってことくらい!!」

 

 それは、ただの腹を空かせた人食い妖怪と人間の出会い。

 久々に見かけた人間、その中でもルーミアの決めた捕食のルールに抵触しない人間。

 これから死ぬであろう人間。 それが、ルーミアが自らに課したルールだった。

 ここは迷いの竹林という魔境の最果て。

 ここに迷い込んだ人間は、疲れ果てて餓死するか、他の妖怪に食われて終わる。

 それを、自分が導いてやるほどお人よしでもない。

 それなら別に自分がもらっても構わないだろうという、勝手なルール。

 輝夜はルーミアの倫理に反しない、久々の「食べれる人類」だったのだ。

 

 ただ一つ誤算があるとすれば、そこにいたのは正確には人間ではなかった。

 

「……マジか。 何者だよお前」

 

 ルーミアは大の字に倒れて、動けなかった。

 強さなどというものに特に興味はないし、そもそも本気を出す必要性も無かったから、確かに今まであまり本気になったことはない。

 だが、自分が負ける姿など、想像したこともなかった。

 その気になれば紫や鬼を相手にしても決して負けることはない、自分が最強と呼ばれるに相応しい大妖怪だという自負はあるはずだったから。

 

「地上の妖怪なら、月人ってのを知らない訳じゃないでしょ」

「あー、何だよ。 お前、紫が月面戦争で出くわしたとか言ってたアレか」

「まぁ、別に私は月面戦争には参加してないけどね。 それと同じ部類よ、自称最強の妖怪さん」

 

 だが、その勝手な自信は簡単に打ち砕かれた。

 ルーミアは紫の提唱した月社会の侵略に興味が湧かず、月面戦争に参加しなかったが故に、月人という存在の持つ力を今まで知らなかったのだ。

 

「これが、年期の違いってヤツか」

「まぁ、貴方たちの何万倍以上も生きてるしね」

「はっ。 ババアじゃねーか」

「貴方も人間から見たら同じようなものでしょ?」

「じゃあ、ババア仲間だ」

「そうね」

 

 そんな、殺し合いの後とは思えないほど他愛のない会話。

 それでも、輝夜は不思議と心地よさを感じていた。

 今の自分の周り人間関係に不満があった訳ではない。

 いつも自分のことを考え、尽くしてくれる優秀な臣下がいた。

 毎日のように、勝手気ままに悪戯を繰り返す妖怪兎もいた。

 それでも、輝夜の時間に刺激はなかった。

 今はまだ、表立って自分に反抗してくる相手も、自分と対等に話そうとする相手も、誰一人としていなかったから。

 

「それで、どうする? 私を殺すか?」

「なんで?」

「いや、私はお前を食い殺そうとしたんだけど」

「それで?」

「……ああ、そうかい。 お前にとっちゃ戦いですらなかったんだな、さっきのは」

 

 別に特段脅かされた訳でもないからどうでもいい、そういうことなのだろう。

 久々に本気になったはずのルーミアは、そもそも相手にすらされていなかったのだ。

 ルーミアの中に僅かにあったプライドなど、もはや介入する余地すらなかった。

 

「でも私は知ったぞ、ここのことを」

「そうね」

「なら、始末しなくていいのか? この場所、ずっと隠してたんだろ。 それがバレたら困るんじゃないのか」

「大丈夫よ」

「そうなのか? だったら、何で隠して…」

「だって、貴方ってそんなことを伝える友達もいないくらい一人なんでしょ? 誰に言うのよ」

 

 そんなことを、輝夜は遠慮なく言う。

 

「ははは。 サラッと心折るようなこと言うな、お前」

「貴方が最初に自分で言ったことじゃない。 それに、たとえ話す相手がいたとしても、そんなことを言いふらすほど私に興味を持ってる訳でもないでしょうしね」

「……まぁ、確かにそうだけどな。 だけど、どうしてそう思った?」

「簡単なことよ。 貴方と同じ空気を私から感じるってさっき言ってたからね。 だから、私が今思ってることをそのまま言っただけよ」

「なるほどな」

 

 不思議な感覚、心地よい空気。

 だが、輝夜はそれに多少の興味を抱いても、別にそんなものに特段心を動かされはしないし、次第に興味も薄れていった。

 なぜなら、たとえ自分に及ばないとはいえ、ルーミアは紛れもない「最強の妖怪」であるから。

 その気になれば、圧倒的な力でもって全てを支配できてしまう妖怪だから。

 

 つまり、ルーミアは万能であるが故に、面白みのない存在だから。

 

 物語に入ることのできない、入ってしまえばあらゆる興を削いでしまう存在。

 自分や永琳と、同じ。

 幻想郷にいる誰よりも、きっと自分と「似ている」と感じる相手だったから。

 無力でちっぽけな、物語の主人公なんかとは違って、世界につまらない結果しかもたらさない相手だろうと思っていたから。

 

「だから、別にこのまま帰ってもいいわよ。 もう会うこともないでしょうから」

「……そうかい。 そんじゃ、今日の所はお言葉に甘えさせてもらおうか」

 

 だから、ルーミアとは何事もなくそこで別れた。

 それからしばらく会うことも、会いたいと思うこともない、ただその程度の相手に過ぎなかったのだ。

 

 その日、輝夜の世界に起こったのは、ただそれだけのどうでもいい変化。

 特に感動も何もない、ありきたりな出会い。

 だが、それこそがその数百年後に起こる大異変の序章。

 幻想郷という一つの世界が変革へと向かう、全ての始まりだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第35話 : 隠蔽

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第35話 : 隠蔽

 

 

 

 

 

 

 

 それは、とある夜の出来事。

 数刻前までは何事もない、ただ平穏だけがあったはずの幻想郷での出来事。

 

「助けて、助けっ――」

「嫌だ、死にたくな――」

 

 辺りに響いた悲鳴と命乞いが、一瞬だけ響くと同時にこの世から消えてなくなる。

 動物も妖精も、妖怪も神ですらもが、なす術もなく塵のように夜の闇に消えていく。

 比喩ではない。 一個体の存在そのものが、得体の知れない黒に飲み込まれて跡形もなく世界から消えていくのだ。

 かつてない異常事態を前に、命あるものは皆一様に怯え、ただ祈ることしかできなかった。

 だが、誰もがこの状況に絶望しながらも、そこには未だ士気を落とさず先頭に立つ一人の妖怪がいた。

 

「怯むなっ! 総員、私に続けっ!!」

 

「っ!! ォ、ォォォオオオオオオオオッ!!」

 

 普段聞くことの無い冷静な九尾の妖狐からの怒号のような指令が飛ぶとともに、妖怪たちの雄叫びが響き渡った。

 

 突如として幻想郷に舞い降りた何かに立ち向かうべく、辺りでは妖怪の群れが団結していた。

 最強の妖獣と呼ばれた九尾を先頭に、木っ端妖怪から高位の妖怪まで、屈強な戦士たちが次々と突き進んでいく。

 ただ、その群れはまるで火に入る虫のように虚しく……

 

「がっ――」

「畜生、待っ――」

「やめっ、ああああ゛――」

 

 数分ともたずに、半壊していた。

 一人一人が一騎当千の猛者たちが、まるでゴミのように簡単に消されていく。

 それでも、妖怪たちは一歩も退かずに向かっていく。

 得体の知れない何かを操りながら笑っている、たった一人の化物に。

 

「相手は一人だ。 考える暇など与えるな、攪乱して一気に制圧するぞ!!」

 

 妖怪たちは化物に向かって、四方八方から一斉に襲い掛かった。

 九尾は状況を詳細に把握しようと視野を広げながらも、可能な限り犠牲を減らそうと、妖怪たちの中に式神の符を紛れ込ませて囮にしていく。

 それでも、犠牲は避けられない。

 助けられなかった、数えきれないほど多くの仲間たちの最期の姿ばかりが、目に焼き付いていく。

 心が締め付けられるような光景をそれでも心の奥底に押し殺しながら、九尾は残酷なほど冷静に戦況を支配していく。

 そして、数多の仲間たちの犠牲の上に立ち、九尾は遂に理想の突破口に辿り着いた。

 自分がその化物の命を刈り獲れる位置、その背後をとって、

 

「消えろっ!!」

 

 鋭い爪で化物の胸を貫き、その体を引き裂いた。

 同時に噴水のような血が飛び散り、辺りには歓声が沸き上がる。

 心臓を一突きにされた化物の姿は、それでこの事件に終止符を打ったように見えたが、

 

「あー。 何だ、お前が頭か」

 

 突如として襲い掛かった異様な感覚は、九尾の身体を硬直させた。

 聞こえてきたその声に、危機感はなかった。

 その致命傷は、化物を一歩退かせることすらない。

 ただ、適当に伸ばしたその手が、悪寒を感じてとっさに退こうとした九尾の首を掴んで、

 

「っが……」

「なっ!?」

「馬鹿な、どうして…」

 

 九尾は抵抗できないまま、目を疑った。

 化物に負わせたはずの致命傷は、既に傷跡も残らないほど綺麗に消え去っていた。

 そこに残るのは、化物を追い詰めたという結果ではない。

 それは、化物があえて手加減して九尾の一撃を受けてみせた余裕。

 妖怪たちはただ、多くの犠牲を出しながらもまるで歯が立たない絶望的な力の差を思い知らされただけだった。

 

「……このっ、狼狽えるな! 俺たちも行くぞ!!」

「ウオオオオオオオッ!!」

 

 だが、あまりにあっけなく敗北した九尾の姿は、それでも妖怪たちを退かせることは無い。

 むしろ、妖怪たちの目は怒りに燃えていた。

 妖怪たちの共通のその目の色は、その九尾の妖狐が、いかに妖怪を惹き付ける力を持っているかを物語っていた。

 

「なるほどねぇ……くくっ、随分と慕われてるみたいだなぁ、お前は」

「っ……ぃ、ぇ……」

 

 あまりに強い力で首を絞めつけられている九尾は、全く抵抗することができなかった。

 本能が否応なく理解させられてしまうほど次元の違うその力を前に、仲間たちに向けようとした「逃げろ」という言葉を発することさえも許されない。

 そして、妖怪たちが怒りのまま自分に向かってくる光景を眺めていた化物は、やがてそれを嘲るように笑って、

 

「放せ、貴様ああああっ!!」

「はいよ。 ほんじゃ、取引だ。 こいつ殺さずに放してやるから、お前ら全員じっとしてな」

「なっ……そんなこ―――」

「ほい、足止めご苦労」

 

 その、ほんの一瞬の迷い。

 殺さずに放してやる、という言葉。

 自分たちの頭である九尾が既に命を握られ、取引に使われている状況。

 それを再確認して僅かに焦りを見せて足を止めた妖怪たちは、次の瞬間には立っていなかった。

 

 妖怪たちの存在するその空間を黒い何かが鋭く過ぎ去るとともに、状況は一変していた。

 それに飲み込まれてしまった者、身体や首を刎ねられてそのまま絶命した者。

 ほとんどの者は、自分の最期がどんな形で訪れたかすらもわからなかった。

 一つだけ事実として刻まれたのは、妖怪たちの群れが一瞬で全滅したということ。

 ただ一人、無力に掴まれている九尾だけを残して。

 

「ぁ、ぁ……」

「あはは、まったく。 無能な大将を持つと大変だよなぁ。 そう思うだろ、九尾」

 

 その挑発は、まっすぐ九尾一人に向けられていた。

 そして、他にもう誰もいない状況で、怒りと憎悪に震えた九尾が死に物狂いで放った殺気は、

 

「殺してやるっ、お前は――」

「……なんだ、ありきたりでつまんない反応だな。 んじゃ、お望みどおりに」

 

 あっけなく、沈黙した。

 化物は九尾の身体の中心を貫き、大きな風穴をあけて捨てた。

 それだけで、戦いは終わっていた。

 力なく地に落ちた九尾は、その強力な生命力をもってしても数分と生きられないほどに致命傷を負っていた。

 だが、それに止めを刺すことすらない。

 それに興味を示すことすらない。

 その得体の知れない化物の力は、あまりに圧倒的すぎた。

 

「……殺、せよ」

 

 目の前で数百の仲間を殺されながら何もできなかった九尾は、苦悶の表情を浮かべながらそう懇願した。

 だが、その声はもう誰にも届かなかった。

 

 ――死ぬのか、私は。

 

 ――何もできないまま、誰も助けられないまま。

 

 いつの間にか九尾の目からは、その人生で最初で最後の涙が零れていた。

 弱い自分が情けなくて。

 何もできなかったことが、悔しくて。

 何よりも、あっけなく訪れてしまった仲間の死が、悲しくて。

 そんな、あまりに弱弱しい後悔だけを噛みしめたまま、やがて来る死をゆっくりと待つことしかできなかった。

 

「貴方かしら。 この妖怪たちを率いていたのは」

 

 九尾が死ぬ間際、突如として声が響いた。

 もう誰もいないはずのそこに、静かな声が聞こえてきた。

 

「……ああ」

「随分と無様ね。 誰一人として生き残ってないじゃない」

「……」

 

 誰一人として。

 その言葉が、九尾の心を更に締め付けていた。

 そんなことは、本当はわかっていたはずだった。

 それでも、誰か一人くらいは生き残ってくれていると、最後まで信じていたかった。

 だが、現実はあまりに残酷過ぎた。

 誰も、九尾本人ですらも、ここで死ぬ以外の運命がもう残されていないのだから。

 

「ま、でも少しだけ悼んであげるわ。 貴方たちの、その無駄な犠牲を」

「っ――!!」

 

 気付くとその身体の奥底から、何かが湧き上がってきそうになっていた。

 その言葉は、九尾に負の原動力を与えた。

 無駄な犠牲というあまりに報われない暴言は、九尾の心を憎しみに染めた。

 死に瀕してなお立ち上がろうとするための、僅かな気力をもたらしていた。

 

「……取り消せ」

「あら。 まだ、立ち上がる?」

「あいつらは、戦ったんだ」

「何のために?」

「幻想郷を。 この世界を、守るためだ!」

 

 僅かに身を起こそうと力を入れた腕は、すぐに体重を支え切れなくなって再び倒れ込む。

 九尾には、もう自分の命が1分ともたないだろうことはわかっていた。

 それでも、その目は未だにまっすぐ見開かれていた。

 命を懸けてこの世界を守ろうとした仲間たちの誇りだけは、無意味なもので終わらせたくなかったから。

 

「ふーん。 ……で、貴方はその覚悟に応えてあげたの?」

「っ、それは…」

 

 だが、その声は弱弱しく消える。

 何もできなかった自分のふがいなさだけが、その脳裏を駆け巡っていた。

 

「ああ、聞き方を間違えたわ、ごめんなさいね。 その覚悟に応える気が、貴方にあるのか聞いてるのよ」

「何?」

「何をかなぐり捨ててでも、幻想郷を守って死んだ戦士たちに報いる覚悟が貴方にある?」

「そんなの……当然だろう!!」

 

 絞り出すかのように叫んだ九尾に向かって、妖怪は少し微笑んだ。

 そして、その手を高くかざすとともに、

 

「だったら、決まりね」

「っ―――!!」

 

 突如として、辺り一帯が光り出した。

 妖怪たちの屍が、辺りを覆う光の結界に飲み込まれて消えていく。

 その光景を、九尾はただ呆然と見ていた。

 

「何を……」

「貴方たちの生死の境界を、少し弄らせてもらうわ。 これから貴方の命は私のもの。 死の世界からこの世界に、私の力で命を繋ぐだけの式神」

「なっ!? ふ、ふざけるな、私は…」

「黙りなさい」

「っ!!」

「それが、貴方があの子たちの気持ちに報いる唯一の方法よ」

 

 もう、仲間たちの姿は全て光に消えていた。

 同時に、九尾の傷は塞がり、その力が少しずつ戻ってきていた。

 辺りに散らばる死骸に残されていた僅かな生命力を全て切り離して九尾に注ぐために、この結界は動いている。

 それを止めることこそが、仲間たちへの最悪の裏切りなのだと、九尾にはすぐにわかった。

 

「……八雲藍。 それが、貴方のこれからの名前よ」

「八雲……っ!? お前は、まさか…」

 

 少しだけ回復した身体で九尾が起き上がると、そこにはあまりに有名すぎる一人の妖怪の姿があった。

 

「ええ、私の名は八雲紫。 貴方は彼らの誇りある犠牲を背負いながら、八雲の次席としてこれからの幻想郷の発展に貢献しなさい」

 

 そして、その視線は空に向けられた。

 藍がそれに合わせるように空を仰ぐと、天が割け、その境界線を分かつように2つの影が存在していた。

 それらは共に、世界を終わらせられる力を持った存在。

 藍を含めた数百の妖怪をたった一夜にして軽々しく葬り去った、あまりに規格外な化物。

 そしてもう一人、死者の世界を司る彼岸に生まれた一人の問題児。

 十王という頂点である存在でさえ御することのできない孤高の閻魔にして、誰より強大な力のままに己の正義を執行する幻想の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥ。

 それは九尾の妖狐という種族をして弱者に数えられるほどの、別次元の戦いだった。

 

「行くわよ、藍」

 

 そして、この場における弱者の側であるのは、紫とて例外ではない。

 それでも、紫の目には恐れも迷いもなかった。

 自分の無力さを知りながらも、ただまっすぐにその戦いの隙を窺っている。

 紫の目が一体何を信じているのかは、藍にはわからない。

 ただ、紫が信頼に値する相手であることだけは、藍には自然と理解できた。

 その身を捧げることに、躊躇いはなかった。

 既に戦えるほど回復した身を起こし、藍は決意を固める。

 

「……ああ。 一度は捨てた命だ、惜しくは…っ!?」

 

 だが、そう言った藍の額を、紫は不機嫌そうに弾く。

 

「ダメよ、そんな死ぬつもりの気持ちじゃ。 貴方には解決後の処理までやってもらうつもりなんだから」

 

 藍の目の前にあったのは、まるで子供のようなふくれっ顔で怒っている紫の顔。

 それを見た藍は、少しだけ笑った。

 明日にはこの世界がないかもしれない状況で、それでも笑った。

 

「そうだな。 これからの私は式神なのだからな、お前の言うとおりにしよう」

「あーっ! お前とか、そんなの式神の口調じゃないわよ。 もっと私に敬意を払いなさい敬意を」

「そう思うなら、させてみろ」

「……ふんだ。 いずれ、貴方には私のことを「紫様」とか呼ばせてみせるわ」

「そうか、ではその日を楽しみにしていよう」

 

 いつの間にか、気持ちは楽になっていた。

 仲間を失った悲しみが癒えた訳ではない。

 それでも、自分にはまだその意志を継いで生きる意義がある。

 そして、その意志を尊重してくれる主に出会えたのだから。

 藍は一度深呼吸し、他の全てを今は忘れて、これから始まる戦いのために精神を統一する。

 

「さてと。 じゃあそろそろ、準備はいいかしら」

「いつでも」

「いい心がけね」

 

 そう言って、紫は目の前に境界を開く。

 先の見えない異空間へと繋がる隙間は、それでも藍を驚かせることはなかった。

 そんな些事など気にも留めないほどに集中力を高め、既に臨戦態勢に入っていたから。

 藍のそんな強き目を確認するとともに紫もまた覚悟を決め、共に隙間の中に消えていった。

 上空に広がる戦場へと通じている、境界の狭間に。

 そして、その戦いはその後ますます激しさを増し、幻想郷は戦火に包まれて――――

 

 

 

 ……結論から言うと、その戦いは幻想郷の勝利に終わった。

 

 鬼をも遥かに超える力を持つ閻魔である映姫に加えて、妖怪の賢者である紫と、その式神にして最強の妖獣である藍の3人を、たった一人で同時に相手取ることなどできるはずがなかったのだ。

 だが、それはあくまで化物の力が、まだ十分な制御を得ていなかったが故に過ぎなかった。

 

「……何なのですか、これは」

 

 動かなくなった化物を見下ろしながら、映姫は戦慄した。

 幻想郷の最高戦力の一角である2人の協力がありながらも、自分がギリギリの戦いの中でやっと勝利を治められた相手。

 世界を滅ぼしかねない思想を持ち、僅かな時間で容易に数百を超える命を奪った、放っておけるはずのない危険因子。

 普通なら、それを即座に裁き地獄へと落とすのが閻魔の役割であるはずだが、そういう訳にはいかなかった。

 化物の抱える異常性が、その選択を受け入れることを拒んでいた。

 

「そもそもこの者は、一体何者なのですか?」

「……私の、旧知の妖怪です。 名をルーミア。 空亡妖怪という、こと戦闘においてはあらゆる妖怪の頂点に立つ者です」

「なっ…!?」

 

 それを聞いた藍は、戸惑いを隠せなかった。

 原初にして終焉の大妖、闇を飲み込む空亡と呼ばれしその存在は、伝説上の言い伝えでしかないはずだった。

 妖怪でありながらも夜を支配し終わらせる力でもって、全ての妖怪を蹂躙する規格外の存在。

 それは最高位の妖怪をして止めることなど不可能と伝えられた、まさに災害とでも呼ぶべき相手だった。

 

「妖怪の頂点? それは貴方のはずではなかったのですか、八雲紫」

「それは、幻想郷を平穏に管理するためのあくまで表向きの話です。 表舞台では影を潜めてただ普通の妖怪として暮らしている、そういう裏の世界の住人もいるんですよ」

「……そんな奴が、今まで何の問題も起こさずに幻想郷にいたというのか」

「ええ。 ただ、ルーミアは自分の力を振りかざすことを好まなかったから」

「何?」

「世界に混乱を招くほどに闇に染まり過ぎた妖怪を、ただ自分の仕事のように孤独に喰らっていただけ。 誰も好んで触れようとしない世界の闇を、一人率先して処理していた妖怪なのよ。 だから、今まで問題を起こさなかったというよりも、むしろ誰よりも幻想郷の平和維持に貢献してきた妖怪なんだけど」

 

 ルーミアは人食い妖怪であり、食物として人を食うことを最も好む。

 だが、同時にこの世界のあらゆる闇を喰らうことを存在意義とした妖怪だった。

 抑えきれないほどの怒りや憎悪に、耐えきれないほどの悲しみや絶望。

 それらに支配された者は、世界を滅ぼす因子へと変貌する前に、食物ではなく概念としてルーミアの『闇を喰らう能力』に人知れず飲み込まれていった。

 様々な種族が跋扈しながらも弱肉強食の概念のまま当然のように喰い喰われ支配し支配される残酷な世界で、それでも大規模な混乱が訪れなかったことの一因は、ルーミアにあると言っても過言ではないのだ。

 

「……それなら、一体どうしてこんなことになってしまったのでしょうか」

「私もルーミアから世間話程度に聞いたことなので、正しく理解を得てるかは怪しいのですが……多分、ルーミアの中に形成されていたもう一つの人格が抑えきれなくなったんだと思います」

「もう一つの人格?」

「ええ。 飲み込み過ぎた膨大な闇を処理するための人格……言うなれば、『悪』としての人格ってところです」

 

 たった一人で永きに渡って、この世の闇を喰らってきたルーミア。

 だが、取り込み続けた闇から、その精神が何の影響も受けずにいられるはずがなかった。

 長い歴史の中でルーミアという一つの容れ物にあまりに膨大に蓄積されてしまった闇は、遂に限界を超えてルーミアにもう一つの人格を生み出してしまった。

 それは、溢れ出してルーミアの心を蝕むほどの闇さえも自らの糧として昇華するための、自己防衛機能として生み出された人格だった。

 

「ですが、その悪の人格はルーミアの中に蓄積された闇を自分の力の糧に変質させるための、いわば内臓のような役割を果たすものであって、本来であればルーミアの人格を支配できるほどの力は持っていません」

「だったら、どうして…」

「条件があるんです。 そもそも、ルーミアがその能力を用いて飲み込んでいた闇の要素は、大まかに分けて、嘆き、絶望、怒り、憎悪の4つ。 その感情が、悪の人格の力を増幅させる起爆剤となるんです」

「4つの感情、ですか」

「ええ。 そして、ルーミアが乗っ取られてしまうほどに悪の人格の力が増幅する条件は、巨大すぎる4種の闇をそれぞれ同時期に取り込み、その感情の流れを支配する4支柱が同時に形成されてしまうことだそうです。 だから、本来であればルーミアはそれらを同時期に取り込まないよう調整することで、幻想郷に巣食う闇を、少しずつ減らしていたはずなんです」

 

 4種の闇を取り込む時期を調整することで、ルーミアは自らの中に巣食う悪の人格が表出しないよう、完全にコントロールしていたはずだった。

 だが、今回はなぜか、その人格がルーミアの本来の人格を抑え込んで表出してしまった。

 その結果が、今の状況。

 たった一人の妖怪の精神が乗っ取られただけで、幻想郷は一夜にして崩壊の危機を迎えたのだ。

 

「ですから、恐らくこれはルーミアにとっても完全に予想外の出来事のはずなんです。 4支柱が同時に形成された訳でもないのに乗っ取られるなんてことは」

「……まぁ、仕方ないでしょう。 こんなものの存在を、予測できるはずがありませんから。 たとえ幻想郷全ての悲劇を飲み込んだとしても、ここまでは……いえ、そもそもこんなに悍ましいものが、この世に…」

 

 映姫が目を向けたのは、ルーミアから少し上にある空間の境界に閉じ込められた、形を成さない何か。

 それは、映姫の『白黒はっきりつける能力』と紫の『境界を操る能力』を使って、ルーミアの中に巣食う危険因子を一時的に取り出して分割した、「4つの要素」だった。

 

 世界を滅ぼすほどの思想を持ち、負の感情を糧にして力を強大化する、ルーミアの中にある悪としての「存在」。

 それ1つで幻想郷を消滅させてしまいかねないほどの、神を超越するエネルギーを秘めた、破滅の「力」。

 心を侵食し、無限に負の感情を増幅させていく、未知の「能力」。

 それらは今の幻想郷での存在を許容できないほど、あまりに過剰な力を持ち合わせた「何か」だった。

 それでも、その時の映姫や紫たちが、それが一体何なのかを現時点で詳細に理解することはできなかったが故に、その3つの要素の危険性はあくまで未知数に留まった。

 

 だが、もう一つの要素だけは違った。

 

 ルーミアを壊した本当の原因、ルーミアの悪の人格を浮き上がらせてしまった諸悪の根源。

 それは、幻想郷に存在しないオーバーテクノロジーではない。

 この世界の誰もが少しは持ち合わせているはずのもの。

 故に、その危険性はその場にいる誰もが一目で理解できた。

 

 それは、無限の「闇」そのもの。

 あらゆる負の感情。 嘆きや怒り、絶望や憎悪などという言葉だけでは説明しきれないほどの異物。

 過去の行いを覗き見れるという映姫の持つ浄玻璃の鏡ですらも、かざした途端に粉々に砕け散ってしまう、この世界に存在する全ての闇を掻き集めて圧縮でもしたとしか考えられないほどの、膨大な感情。

 一体どうしたら、ここまで得体の知れないものを抱え込めるのか。

 一体、この世のどこにこんなに悍ましいものが存在していたというのか。

 そんな、答えの出ない問いをただ漠然と漏らすことしか許さないほどに歪んだ、「たった一人の感情」という名の兵器だった。

 

「……これは、とても我々の手に負える代物ではありません。 即刻、閻魔様のお力で浄化していただきたく…」

「無理です」

「え?」

「私でも……いえ、たとえ十王の誰であっても、これを完全に消滅しきることは恐らく不可能です。 そんなことを試みれば、彼岸だけに留まらず、この世界そのものが飲み込まれかねません」

「そんなっ!?」

 

 死者を裁くということは、つまりはその者の闇の深さを暴き、背負うということ。

 閻魔の所有物、悔悟の棒とは叩かれる者の抱える罪の分だけ重くなるのだ。

 つまりは、その世界で死に流れ着いたあらゆる者を裁き得るために、閻魔という種族にはあらゆる罪の重さを背負える絶対なる強さが必要不可欠とされる。

 故に、映姫という強大な力を持ってしまった閻魔が、幻想郷という一癖も二癖もある者の巣窟を担当することになったのはいわば必然だったのだ。

 紫のような妖怪を、そして鬼や神といった強大な種族をも全て裁ける力を持った閻魔など、十王を除けば彼女くらいなのだから。

 

 だが、映姫が抜擢されたのはあくまで常識的な範囲での、幻想郷の住人を裁く閻魔としての役割に限った話に過ぎない。

 ここまで得体の知れないものが幻想郷に眠っていたことなど、こんなものを処理しなければいけない状況など、そもそも誰にも想定されてはいないのだ。

 

「では、どうするのですか。 閻魔様の力ですら通じないとすれば、これはもう…」

「封じるしか、ないでしょう」

「封じる?」

「ええ。 解き放てば即ち幻想郷を崩し、滅すれば即ち彼岸を終わらせる力。 ならば、無力化して隔離、封印する方法くらいしかありません」

 

 その方法がただの問題の先送りであることくらい、紫や藍がわからないはずがない。

 それは映姫も重々承知の上だった。

 それでも、他に方法がないのだ。

 

「だったら、せめて他の皆様に、十王様や鬼神長様にもご協力を仰げませんか。 封じるにしても、これを幻想郷だけで全て処理することは容易ではありませんから」

「……いえ。 幻想郷のことを想うのであれば、それは賢明な判断ではありません」

「なぜですか、私たちだけでは…」

「貴方は知らないのです。 是非曲直庁というシステムが抱える、闇の深さを」

 

 若くして十王に並び得る力を持ち合わせた映姫だからこそ、妬まれ危険視され、故に誰よりもその闇を見続けてきた。

 巨大すぎるその組織の腐敗と、映姫は戦い続けていた。

 不毛なルールと責任論、保身のための陰謀が渦巻く巨大組織の闇に苦しみ続けた映姫は、この問題を是非曲直庁に持ち帰ることの危険性を誰よりも深く理解していたのだ。

 

「……恐らく、もし是非曲直庁にこの存在が伝わってしまえば、まず間違いなく幻想郷は捨て石にされるでしょう」

「捨て石、とは?」

「問題が起きないように、自分たちに責任の一端が降りかからないように。 幻想郷という世界ごと全て隔離され、この力を封印する場所として十王の監視下に置かれる。 今までのように貴方が望む自由な発展など望むこと自体が不可能な、死んだ世界となります」

「っ!? そんな、ことって……」

 

 それは即ち、紫の愛する幻想郷の全てが終わりを告げることに他ならなかった。

 『幻と実体の境界』が完成し、妖怪たちの楽園がこれからやっと始まる時になって突きつけられた、あまりに残酷な現実。

 歯を食いしばって俯く紫に、藍は何も声をかけてあげることはできない。

 だが、そんな紫に希望を与えたのは、他でもない映姫だった。

 

「ですが、そうさせない方法が一つだけあります」

「え? そんなの、どうやって…」

「隠せばいいんです」

「へっ?」

 

 紫は素っ頓狂な声を上げる。

 それは、真面目な映姫の口から出てくるとは想像すらしなかった提案だったからだ。

 

「十王の……いえ、他の誰にも知り得ない機密として、私たちだけで封じるんです」

「……いいのですか、その、それでは閻魔様の立場が…」

「いいんですよ」

 

 映姫の言葉は、決して軽いものではなかった。

 深く沈み込むほどに重い覚悟を乗せた、強き言葉。

 それでも、ただ晴れやかな笑みとともに放たれたのは、

 

「私はまだここに着任して間もない若造ですが……私も、好きなんですよ。 この、幻想郷が」

「っ!!」

 

 それは紫にとって、どれほどの言葉さえも右に出ることのない、最高の賛辞だった。

 まだ完全な信頼を置いてはいなかった映姫を、それでも信じたくなるような、甘美な誘惑だった。

 

「ですから、私たちの手で守りましょう。 この幻想郷という世界を」

「……ええ。 ええ! よろしくお願いします」

 

 そして両者の合意を得て、映姫と紫たちによる、この事件の機密事項に関する隠蔽工作が始まった。

 

 大まかな隠蔽計画の主軸は、ルーミアを支配していた要素を、どうやって封じるかというもの。

 調査の過程で、闇の要素には他の3要素との密接な繋がりがあることがわかった。

 つまりは、他の要素を完全に消滅させてしまうことが、闇の要素を暴走させるきっかけとなりかねないのだ。

 故に、4要素の全てを可能な限り引き離して封じ、それぞれの特性に合わせた封印方法を模索することとした。

 

 まず1つ目の要素、最も大きなエネルギーを抱えた「力」の要素については、紫が担当することとなった。

 少し前に完成させた『幻と実体の境界』、つまりは現実と幻想郷を隔てる境界の狭間に、紫の力をもってそれを封じることにした。

 莫大なエネルギーを必要としながらも現実の力と幻想の力が共に「0」に近づく、外力の最もかかりづらい境界の狭間が、強大な力を封じるのには最も適していると判断したのだ。

 

 2つ目の要素、ルーミアの中にある悪としての「存在」の要素については、藍と、そしてルーミアが担当することとなった。

 これについては、やむを得ない采配だった。

 その人格に適応し得る者など、ルーミアをおいて他にいない。

 故に、その人格をルーミアの中に戻した上で、ルーミア力そのものに封印処理を行うことにした。

 空亡妖怪の持つ強大な力を低級妖怪と同等程度に封じ込めた上で、藍が監視するという手段をとったのだ。

 それでも、その危険性を危惧した映姫が提案したのは、『闇を喰らう能力』と世界の闇を喰らう役割自体をルーミアから切り離すことで、支柱の構成を防止することだった。

 妖怪としての存在意義を失わない最低限度の『闇を操る能力』のみをルーミアに残し、他の全てを別の要素と融合させたのだ。

 

 即ちその3つ目の要素、無限に負の感情を増幅させる未知の「能力」の要素については、映姫が担当することとなった。

 映姫はそれを、怨霊の巣窟となっている地獄の底に、詳細は伏せた上で、信頼できる鬼の監視のもと封じることとした。

 もしこの力を誰かが取り込んでしまえば、その心の内に秘めたほんの僅かな闇が際限なく増幅し、別人のように変貌してしまう。

 故に映姫は、多少の危険は付き纏うものの、元々負の感情の塊であり、抱える闇の在り方が最も単調である怨霊という存在の中に、それを少しずつ分割して封印することを考えた。

 更に、その要素とルーミアの持つ『闇を喰らう能力』を混合して封じることで、安定して管理の可能な増幅量の闇を、その能力で喰らい自浄していくシステムを作成したのだ。

 

 そして、最後の一つ。

 無限の闇の要素については、映姫が秘密裏に処理することとなった。

 その要素は、ほんの欠片でも誰かが触れてしまえば、その者は発狂し数秒とせず狂気の中で死に至り、その残照だけで再び幻想郷を飲み込みかねない。

 仮にそれが悪用などされてしまえば、容易に一つの世界が滅び得るのだ。

 故に、誰一人としてその存在を知ること自体ができないよう、紫や藍にすら伝えないまま映姫一人でその封印処理を行った。

 封印場所は紫ですら知らされていない、あらゆるブラックボックスを封じるための聖域だという。

 幻想郷からは遠い世界、十王の追求も審査も受けることなき「とある」場所にそれを封じたというのだ。

 

 その4つの要素の封印方法は、それぞれが爆弾を抱えたギリギリの処理方法だった。

 更に言えば、その存在を誰にも気付かれずに封じ続ける必要があるため、その管理は慎重に慎重を重ねて行われる、はずだった。

 

 だが、その歯車は、最初から少しだけズレていたのだ。

 

 紫たちと映姫は、協力関係にはあっても同じ視点に立ってはいない。

 管理者である妖怪として幻想郷を守る立場の紫と、導き手である雇われ閻魔として幻想郷を監視する立場の映姫。

 互いを信頼しなければ成し得ない計画の中にあった僅かな溝は、小さな裏切りを孕んでしまった。

 

 それに誰も気づかないまま、時は流れていく。

 何の問題もなく、ただ偽りの平穏が戻った幻想郷で、その事件は忘れ去られていく。

 

 そして、異変とは無関係に策定されてしまったとある計画が、その僅かな綻びを押し広げて何もかもを狂わせてしまうのは、もう少し先の話だった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第36話 : 月光



大っ変、遅くなりましてすみません。いろいろあってしばらく執筆活動から離れてました。
とりあえず今章の終わりまでの目途は立ったので投稿を再開します。





 

 

 

 

 あれから、幾百の時が過ぎた。

 多くの命を散らした大事件の記憶は忘れ去られ、危機が去った幻想郷には何事もない時間ばかりが戻ったかに見えた。

 だが、いくら見かけ上の平穏を築き上げようとも、全ての者にとって平和な世界など決して存在はしない。

 新たにできた地底世界の脅威に妖怪の山の覇権争い、魔界からの侵攻に吸血鬼の襲来。

 争いの予感は、絶えることなく幻想郷を覆い続けていく。

 

 そして、彼女もまた一つの争いの中に身を置く者の一人だった。

 人里離れた竹林の奥地で続くたった2人による戦争は、百年を経過してなお熾烈を極めていた。

 何も変化のなかった景色は幾度となく激しい戦火に飲み込まれて、果てなく繰り返した殺し合いの日々は終結することなく彼女から平穏を奪っていく。

 だが、彼女はそんな日々を嬉々として受け入れていた。

 彼女を魅了したのは、戦いそのものではない。

 

 憎悪。

 

 彼女に向けられた、確かなその激情。

 感情の全てを一途に向け続けたとある人間の魂の叫びは、今までのどんな瞬間よりも自分が確かに生きていると彼女に感じさせた。

 

「殺してやる……っ!!」

 

 その人間は、ただ一人だけを見ていた。

 かつては人のために生き、人のために戦っていたその人間は、それでも他に何も持たない空っぽの存在だった。

 幾多の時代で化け物と呼ばれ続け、誰とも混じることのできない孤独に堕ちた人間には、もはや憎しみ以外に揺らがぬ確かな感情が残る余地はなかったのだ。

 高すぎる壁を超えるために、いつしか他の何もかもを捨てて力を求めるようになり。

 ひたすらに妖怪を退治して力をつけ、妖怪のみならず人からも恐れられ、それでもただ強さだけを探求し続けて。

 きっとその人生は、たった一人への復讐のためだけに存在した。

 

「是非とも。いつでも、楽しみにしてるわ」

 

 そして彼女もまた、その人間だけを見ていた。

 その人間がいつか自分に追いつくその日まで、いつか自分を殺し得るその時まで、繰り返し人間と向き合い続けた。

 見かけ上の百年という時間の概念だけではとても表しきれない、永遠の狭間における数百、千年を超える戦いはそれでも決して終わらない。

 妖怪を超え神を超え、もはや人とは呼ばないほどの力への渇望に支配された人間の存在は、他の全てを忘れさせるほど彼女を虜にしていた。

 

 だが、その人間との心躍る争いの日々すらも、彼女の人生にとって所詮は須臾の夢に過ぎなかった。

 

 いつしか、その人間が知ってしまったから。

 憎悪以外の感情を。

 復讐以外の生きる道を。

 それはその人間が決して手にすべきではなかった、禁断の果実。

 故に、それは必然だった。

 それを手にしてしまった人間との長い戦いの日々の、あまりにあっけない終焉は。

 

 

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第36話 : 月光

 

 

 

 

 

 

 

 その視界には、何もない空が映っていた。

 永遠の魔法に閉ざされた竹林の中で、何も変わり映えのしない景色だけが広がっていた。

 ただ、そこには一つだけ変化があった。

 

 つまらない。

 

 今までずっと響いていたはずのその声が、聞こえてくることはなかった。

 なぜなら、輝夜はもう何も期待などしていなかったから。

 新しい楽しみなんていらない。

 つまらないくらいの世界がちょうどいい、それを嫌というほどに再認識してしまったから。

 

「……儚いものね、人生なんて」

 

 別に期待していた訳ではなかった。

 むしろ一人の人間と争い続けた百年余りの時は、予想を超えて輝夜を楽しませた。

 それでも、最後には何も残らなかった。

 たとえどれほどの愉悦が目の前に舞い降りようとも、それは永遠を生きる輝夜にとってはほんの一瞬の出来事。

 それを謳歌する喜びよりも、それを失う喪失感の方が遥かに大きいのだ。

 そして、その喪失感は再び輝夜からあらゆる希望を奪い取るのに十分だった。

 この世の全てに、新たな可能性などない。

 いっそのこと全て終わってしまえばいいと、そんな投げやりな気持ちになってしまった。

 

「……いたいた」

「うん?」

 

 だから、それはただの偶然だったのかもしれない。

 綻んでしまった永遠の魔法の隙を発見して迷い込んだ、一人の木っ端妖怪との再会は。

 

「くらえっ。スペルカード宣言、夜符『ナイトバード』!」

 

 突然聞こえてきたのは、輝夜の聞き慣れた声ではなかった。

 それでも、真昼の光を蝕む黒き鳥の力の波動は、少しだけ記憶の片隅に残っていた。

 だが、知っているはずのそれは、輝夜の記憶の片隅にあった力とは比較にならないほど矮小だった。

 

「……えいっ」

 

 深く考えず、輝夜は隣に落ちていた小石を軽い気持ちで空に放り投げる。

 落ちてくるはずだった闇の鳥は、小石の弾丸に打ち抜かれてあっけなく霧散して影も形もなくなっていた。

 

「うわマジかー。わかっちゃいたけど、そこまで適当に破られると流石にへこむなー」

 

 身を起こして顔を上げると、そこには輝夜にとっては昔に一度会ったきりの、闇の大妖怪ルーミアがげんなりした顔で立っていた。

 だが、それはルーミアでありルーミアではなかった。

 見た目は初めて会った時とそれほど変わらない、ただ少し短く切りそろえられた髪にリボンがつけられただけ。

 それでも、今のルーミアは自称ですら最強を名乗るのがおこがましいほどに、矮小な姿になっていた。

 

「珍しいお客さんね。どうしたの、ちょっと雰囲気変わった?」

「ま、そりゃあな。前に会ってからもう500年近くになるか? そんだけありゃ、雰囲気の一つや二つくらい変わるさ」

「そうね。もう、本格的にただの老いぼれね」

「お前は……何も変わっちゃいないみたいだな。そういう、いろいろ悟ったところとか」

 

 変わらない、そう言われたことに輝夜は内心では少しだけ驚いていた。

 だが、すぐに納得して、反応を示すことはなかった。

 変わったと、希望を失ってしまったと思っていたのは実は自分だけで、きっとルーミアと初めて会った時も自分はこんな感じだったのだろうと。

 ただ世界の空虚さをより深く刻み込まれてしまっただけで、別に自分は昔から何一つとして変わってなどいないのだろうと、気付いてしまった。

 泡沫に消えたこの百年間など、結局は輝夜を変えるほどの何かをもたらしはしなかったのだ。

 

「そりゃあね。私にとっての500年なんて、貴方たちにとっての5日と大して変わらないから」

 

 だから、輝夜はまたそっけない返事で濁した。

 輝夜とは対照的なほど、ルーミアは昔とあまりに変わり果てていたけれど。

 何があったのかは聞かなかった。

 興味が無いからではない、知っていたから。

 ルーミアがそうなった根本の原因にさえ、輝夜が関わっているのだから。

 

 レミリアが暴走させた、『運命を操る能力』によって無理矢理に解き放たれた力。

 それは、とある事情から輝夜が時の狭間に封じていたはずの禁忌だった。

 不可避の死に見舞われていたフランを、唯一あの瞬間に生かすことのできる可能性を秘めていた常識外れの生命力は、確かにフランを死の運命から救い出した。

 だが、フランと同化したはずの力は、それでもあまりに強大すぎるが故にフランの中に収まり切らずに溢れ出し、幻想郷に流出してしまった。

 その存在にいち早く気付いたのは、この世の闇という概念そのものに最も敏感であるルーミアだった。

 放っておけば一日とせず幻想郷を滅ぼしてしまいかねない、あまりに危険過ぎる異物。

 ルーミアはそれを自分の『闇を喰らう能力』で飲み込むべきものと判断するのに躊躇しなかったが、その禁忌は今まで飲み込んできたどんな闇よりも深く歪み、いとも簡単にルーミアの奥底を侵食して精神を狂わせていった。

 だが、そこにいるにはこの世のあらゆる闇を司る、原初にして最強の妖怪。

 未熟なフランとは違い、ルーミアには残り全ての要素を自らの内に一時的に抑え込むことは、不可能ではなかった。

 それでも、ルーミアが抑え込んだ力は、元々ルーミアが自身の奥底に抑え込んでいた悪の人格までも表出させ、その力の一端だけで一夜にして数百の妖怪たちを屠り幻想郷に崩壊の危機を与えた。

 それを食い止めたのは、既に避けられない死の中にいた藍に式神の力を与えて共に戦った紫と、直接交戦していた映姫、そして何より……

 

  ――あー、流石にヤバいか。でもま、もうちょい耐えりゃ紫が何とかすんだろ。

 

 その裏で、決して知られることのなかった戦い。

 侵食されていく精神世界で、ルーミアは無意識に、それでも闇の人格と禁忌の力そのものを自らの命を懸けて必死に抑え込んでいた。

 それ故に、その力がルーミアの身体に馴染み切る前に封じることに成功した。

 紫や映姫が自分たちの力だけで打ち勝って封じたのではない、ルーミアの奮闘があったからこそ、その事件を無事に終結させることができたのだ。

 

「で、感想は? いきなり低級妖怪みたいになっちゃって、実際のとこどうなの?」

「……やっぱりか。それがわかるってことは、お前にゃ紫の能力は届いてないのな」

 

 そして、その戦いは語られることはなかった。

 ルーミアが喰らった力に関する全ての要素はあまりに危険過ぎるが故に、その力を悪用しようと企む者の手に渡らないよう、決して誰にも知られることなく封じられる必要があった。

 そのため、その要素の一端をその身に封じていたルーミアが目立つことなく他の妖怪の中に混じれるように、ルーミアという存在、空亡妖怪への認識そのものが、紫の能力によって誰の闇を喰らうこともできない木端妖怪として書き換えられたのだ。

 だが、ルーミアはそれに反発することはなく、あっさりと力の封印と、自らの存在の書き換えを受け入れた。

 一度は自分の中に入り込んでしまったそれが、野放しにできるものではないと理解していたから。

 何より、もし自分が体を張って止めることができなければ、その存在を抑え込んでおける力を持った妖怪など他にいないだろうことを知っていたから。

 そうして、紫と映姫が能力を使ってその力を分割して封印することで、幻想郷の平和は守られた。

 勇敢に戦った数々の妖怪たちと、一人の闇の妖怪の犠牲によって。

 

「ま、別に何も変わりゃしないさ、私は元々争いに興味はなかったしな。……強いて言うなら、今までやってた面倒な仕事がなくなって暇になったことくらいか」

 

 面倒と言いながらも、そう答えるルーミアの表情は曇っていた。

 気がかりがあるとすれば、幻想郷の闇の担い手が不在となってしまったことだった。

 今までルーミアが喰らい続けていたが故に幻想郷を覆うことのなかった負の感情が、ここ数百年、消えることなく蔓延している。

 厄神のようにルーミアと似た役目を担う者もいるが、それは喰らうのではなくただ集めるだけの存在であり、未来永劫に渡って幻想郷の全ての厄を担い続けるにはあまりに荷が重い。

 故に、絶えず生まれ続ける新たな闇が、いつか幻想郷を覆いつくしてしまうのではないかとルーミアは危惧しているのだ。

 

「ふーん、そ。で、貴方は私にわざわざそんな人生相談をしに来たの?」

「……いんや。それとは別件で、ちょいと頼みがあるんだよ」

「頼み?」

 

 だが、ルーミアがここに来たのはそんな理由ではない。

 世間話を打ち切って、ルーミアは輝夜の目の前で再び闇の力を表出させる。

 今出し得る力の全てを再び黒い鳥の形の弾幕にして解き放ったものの、その矮小すぎる力が輝夜の興味を惹くことは全くなかった。

 

「実は、これから幻想郷で『スペルカードルール』っていう新しい勝負方法が導入されるらしくてな。ちょいと練習しときたくて」

「何それ。そんなの、その辺の適当な妖怪でも相手にしてればいいじゃない」

「……私にだって、ちょっとくらいプライドはあんだよ」

 

 紫と映姫がルーミアに残した力は最低限度、紛れもない「最弱」の設定だった。

 その辺の木っ端妖怪とさえ比較にならないほど微弱な妖力、一般的な人間の子供と大差ない身体能力。

 戦いに慣れているが故に生き残れているようなもので、本来であれば人食い妖怪として生きていけるような力など残されてはいないのだ。

 故に、たとえスペルカードルールであっても、今のルーミアは勝つことはおろか、まともな勝負をすることさえほとんど望めない。

 最強の妖怪として比類なき力を持っていたはずのルーミアには、今の状況が多少なりとも屈辱的ではあるのだろう。

 

「だけど、前の私のことも虫ケラみたいに扱ってたお前になら、今さら負けても悔しくないし、いい練習相手になると思ってな」

「なるほどね」

 

 以前の自分にすら興味も抱いていなかった、幻想郷に潜む謎多き存在。

 だが、紫たちとも接触できない今のルーミアにとって、輝夜は以前の自分のことを知りながらも接触できる唯一の存在なのだ。

 

「だけど、面倒だし断るわ。新しいルールなんて、私には別に関係ないでしょ」

「……だろうな。ま、最初からダメ元だし、期待はしちゃいなかったけどさ」

 

 だが、それはルーミアからの一方的な考えに過ぎなかった。

 基本的に誰も足を踏み入れることのない永遠の狭間に住み続ける輝夜が、新しいルールで誰かと勝負することなどない。

 さらに言えば、今のルーミアを……いや、そもそも万全の状態だろうとルーミアの相手をするメリットなど輝夜には存在しないのだから。

 

「というかさ。そんな面倒なことするよりも、むしろ取り戻してくれって頼む方が早いんじゃない?」

「取り戻す? 何をだ?」

「貴方の力をよ。そもそも貴方たちが抑えて封じられる程度のものなら、最初から私を呼べば何とかできたでしょうに」

「……あー。本当に軽々しくそういうこと言うよな、お前は」

 

 そこには、数々の妖怪たちの命を賭した戦いがあった。

 幾百の命が奪われ、映姫と紫たちが必死に切り抜けた死線があった。

 それを軽視するのは、戦った者たちへの愚弄とでも言えることであるかもしれない。

 それでも、月人という種族にとって所詮は地上の些細な諍い、それを止めることなど朝飯前のゲームと同じような感覚でしかないのだ。

 

「まぁ、それが可能だってのなら、確かに悪くない提案だな」

 

 そして、ルーミアもそれがただの誇張ではないと自然と理解していた。

 目の前の相手の得体の知れなさは、自分が一番身に染みてわかっている。

 たとえ紫や映姫にできなくとも、輝夜ならあっさりと自分の力を取り戻して来かねない可能性を感じさせるから。

 

「けど、遠慮しとくよ」

「どうして?」

「……別に。私は今の状況もそれはそれで満喫してるしな」

 

 それでも、ルーミアは頼みはしなかった。

 数々の妖怪たちが命を懸けて必死に守り抜いた幻想郷を、再び危険にさらすことなんてできない。

 力の封印を受け入れたのは、ただ自分にしかできなかったからという消極的な理由だけではない。

 ルーミアもまた、自分を犠牲にしてでも守りたいと思えるほどに、幻想郷が好きなだけなのだ。

 

「でもいいの? 気づいてるかは知らないけど、このままだと貴方は…」

「ストップ。それ以上言うなよ、そんなん私が一番よくわかってんだよ」

 

 だが、輝夜にもルーミアにも見えていた。

 正確に言えば、知っていた。

 存在意義を失った妖怪の末路を。

 それを受け入れてしまった妖怪に残された、運命の行く末を。

 

「そんじゃな。私は行くよ」

「もう行くの?」

「ああ。お前に頼れないなら、早いとこ別のやり方でスペルカードルールの対策も練らなきゃならないだろうし」

「……そ」

 

 それだけ言って、ルーミアは踵を返す。

 500年前と同じ、そっけない別れ。

 特に何の感動も意味もない出会いで終わる、そのはずだった。

 

「でも、少し待ちなさい」

「ん?」

 

 だが、あの時とは事情が違った。

 輝夜は今のルーミアから、以前にはなかった魅力を少しだけ感じていた。

 

「えっと、こんな感じかしら。スペルカード宣言、難題『燕の子安貝 -永命線-』」

「へあ? って、ちょ待っ…」

 

 突如としてルーミアの視界が弾け飛んだ。

 四方八方に散った閃光は竹林を根元から消し飛ばし、ルーミアがいるその場所だけを除いて全て更地に変えていた。

 ルーミアはただ、腰を抜かしたまま呆然とそれを見ていることしかできなかった。

 

「あー。地上人に合わせて加減するってのも、なかなか難しそうね」

「おいおい、いきなり何を…」

「気が変わったのよ、貴方に協力してあげる」

「え?」

「私にもいざって時があるかもしれないしね、その時にこんな弾幕使っちゃったら洒落になんないでしょ。だから、貴方を相手に私も少しくらい手加減の練習でもしとくことにするわ」

 

 それはただの方便、お為ごかしに過ぎなかった。

 別に深い意味などない、輝夜はただ新しい玩具を見つけただけなのだ。

 

 もって、あと数年。それがルーミアに残された時間だった。

 妖怪という種族は存在意義を失って忘れ去られた時、この世から消滅する。

 力を失ってしまった空亡妖怪という種族には、もはや存在意義が残されていないが故に、今のルーミアはただ消えてなくなるのを待つだけの存在でしかないのだ。

 

 だが、だからこそ輝夜はルーミアに価値を見出していた。

 既に未来の確定してしまったルーミアという存在は輝夜にとってほんの一瞬のものに過ぎない、そしてそれが長くはないことも知っている。

 輝夜はもう、そんな寿命のある、終わりのある相手との付き合い方を間違ったりはしない。

 そこに深い繋がりや感動など求めてはいけない。

 自分を取り囲む全てはきっと何もかもがくだらない、それを嫌というほどに知っているから。

 

「……本当に、いいんだな? 私も遠慮はしないぞ」

「ええ。今の貴方は、少しだけ面白そうだから」

 

 だから、輝夜はせめて自分の世界から外れて、他者の世界の観測者でいようと思った。

 それはただ気まぐれに始めただけの、暇つぶしのゲーム。

 今のルーミアは前に会った時とは違う、自分を期待させる何かを持っている。

 最弱の妖怪に墜ちてしまった最強の妖怪という一つの物語の始まりと、短期間で必ず終わりがくるというゲーム性。

 輝夜はそれを、ただ第三者の視点から観測しようと思っただけなのだ。

 

 

 ――そう。これはただのゲーム。

 

 ――特に意味もなく、その運命の行く先を眺めるだけの遊び。

 

 ――本当にただそれだけの、思いつきに過ぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「夜符『ナイトバード』」

「ん」

 

 それから、ルーミアは輝夜のもとに時々顔を出すようになった。

 最初の時のように、ルーミアが自らの力で永遠の魔法を潜り抜けてくる訳でも、その綻びを見つけるのでもない。

 輝夜はただルーミアだけを迎え入れるように、その魔法を操作していた。

 だが、いつも唐突に始まる宣言とともに闇に浮かぶ鳥の舞は、散歩をするがごとく軽々と通り抜けられてしまって。

 

「闇符『ディマーケイション』!!」

「ふぁ~ぁ」

 

 欠伸をしながら弾幕を眺め避けている輝夜と、それを見ながら複雑な表情で弾幕を打ち続けるルーミア。

 輝夜にとってのルーミアは、特に目を見張る何かがある相手ではなく、かつて出会った人間のような面白い相手でもなかった。

 最初に期待した何かなど全く感じられない、ただ退屈なドキュメンタリーを見ている程度の認識でしかない。

 輝夜も、きっとルーミアでさえも、それは特に愛着のある時間などではなかった。

 

 

 ――別に何もない、つまらない時間だった。

 

 ――本当は、すぐに興味を失ってたと思う。

 

 

 それでも、その記憶を辿っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「この前、屋台を開いてる夜雀がいてさ、ミスティアっていうんだけど」

「別にそのくらい珍しいものでもないんじゃない?」

「それがさ、めちゃくちゃ歌が上手いんだよ。私も飯食いに行くってより、歌聞きに行ってる感じで」

 

 いつの間にか、その記憶には弾幕ごっこだけではない、そんな日常が紛れ込んでいて。

 だけど、気付けばそれも、いつも通りの記憶。

 ただ時々現れては、勝てる見込みのないスペルカードを挑み、文句を言いつつも適当に話して帰っていくルーミア。

 それを特にもてなそうとする訳でもなく、迎え入れては適当に世間話を聞いて帰らせる輝夜。

 そんな、何でもない時間ばかりが、意味もなく続いていた。

 

 

 ――そう。これも、普通の記憶。

 

 ――いつものように続いている、退屈な時間。

 

 ――なのに、どうしてだろう。

 

 

 何度も何度も繰り返した、変化のない日常を繋いでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、元最強の妖怪様は虫なんかに追いまわされて、おめおめと逃げ帰ってきたと」

「うるさいな。仲間が多いから、リグルはリグルで怒らせるといろいろ厄介なんだよ」

 

 ルーミアはそこに通い続けた。

 輝夜も、それを招き入れ続けた。

 どうして僅かな時間しか残されていないルーミアがこんな退屈な場所に来続けるのか、その理由は輝夜には理解できない。

 そして輝夜自身も、遂に低級妖怪に完全に溶け込むほど平凡になってしまったルーミアを、どうして自分が招き入れ続けているのかもわからない。

 ただなんとなく、2人の気まぐれでその時間は何度も続いた。

 

 

 ――そうよ。こんなの、もう切り捨ててもいいって。

 

 ――どうでもいいと思っていたはずなのに。

 

 ――なのに、いつからだろう。

 

 

 だが、次第に輝夜は気づき始めていていた。

 自分の心が、少しずつ変わってきていることに。

 その先に見えていた景色が、揺らぎ始めていることに。

 

 

 

 

 

 

 

 

「昔ね、幻想郷にもちょっと面白い奴がいたのよ」

「面白い奴?」

 

 いつしか、輝夜は自分の過去まで曝け出し始めていた。

 その時間に、孤独でいるよりも満たされる何かがあるような感覚を覚え始めて。

 それが少しだけ心地よいと感じてしまう自分がいたことに、輝夜は気づいていた。

 きっかけが何だったかなど、もう思い出せない。

 なのに、その記憶は必要以上に輝夜の中で渦巻いていた。

 

 

 ――どうして、私はこんなことをしていたの?

 

 ――こんな時間に意味がないことなんて、誰よりもよく知っているはずなのに。

 

 

「ええ。私に復讐をーとか言って喧嘩売りに来たバカな人間がいてね」

「……それって、面白いのか?」

「面白いわよー、何度ボコボコにしてもその度に強くなって戻ってくるのよ。おかげで全然退屈しなかったわ」

 

 その時の輝夜が振り返っていたのは、最も世界が光り輝いて見えていた頃の記憶。

 輝夜がその人間と過ごした100年余りの時間は、ルーミアと過ごしている退屈な時間とは違っていた。

 たった一人の人間から向けられ続ける憎しみという感情が、輝夜の心を躍らせていたから。

 その感情は別に、輝夜にとって目新しいものではない。

 だが、それまでと一つだけ違ったのは、その人間がどこまでもまっすぐに「蓬莱山輝夜」という一個人だけを見ていたことだった。

 輝夜に対する決して降り止まぬ感情の嵐は、退屈という名の淀んだ空気の全てを吹き飛ばしていた。

 もう、永遠など恐くはない。

 虚無の監獄を打ち砕いた宿敵との出会いは、輝夜の人生を初めて華やかに彩ってくれた、そう錯覚していた頃もあった。

 

「でもね、結局はそいつもいなくなったわ。友情や愛情だなんて、手を出すべきじゃない果実に誘惑されて」

 

 だが、そんな錯覚さえも、終わるときはあっけなかった。

 あまりに強く期待させて、最果てに落とされる絶望も。

 僅かな希望さえも許されない、虚無の連鎖も。

 輝夜は全てを淡々と受け入れて、目の前には再び空虚な世界ばかりが広がっていくだけだった。

 

 

 ――そう。これまでも、きっとこれからも、何を期待しても意味がないって知ってる。

 

 ――だって、私には結局何も残りはしないから。

 

 ――人間も妖怪も神々でさえも、いつかは私の前から消えていく。

 

 ――そして、こいつも。すぐに世界から消え去ってしまうだけの、無意味な存在なのだから――

 

 

 

 

 『……だっ■ら、私は■う何■■ら■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 

 

 

 

 

 

「っ!!」

 

 記憶の狭間で、霊夢の頭が突如として激痛を訴えた。

 意識が覚醒した訳ではない。そこは未だ宇宙を漂っているかのように広大な、輝夜の記憶の海の中。

 ただ、今見えているのは、さっきまでのように自然と流れ込んできていた記憶とは違う。

 真っ黒に塗りつぶされたかのような、得体の知れない何かに囲まれていた。

 

 

 『もう、何も■い出■■ないで』

 

 

 それは、ただの無意識。

 輝夜自身の明確な意志ではない、それでもこれ以上の詮索を拒絶する声。

 だが、その記憶さえも次第に塗りつぶされていく。

 得体の知れない何かに導かれるままに、何もかもが抜け落ちていく。

 今までの記憶の流れを逸脱して、ただ闇に閉ざされた終幕へと一直線に向かっていく。

 

「……なるほど。のんびりしてる時間は、ないって訳ね」

 

 さっきまでずっと記憶の奔流に身を任せていただけの霊夢は、今度は自分の意識をはっきりと持った。

 輝夜の世界と一体化できない明確な意識は拒絶され、すぐに弾き出されようとしているのがわかる。

 だが、流れてくる全ての記憶を受動的に受け入れている時間などない。

 

「わかってるはずよ、私と輝夜の記憶の繋がりは。今の私が見つけなきゃいけない答えは、きっとあの瞬間に――」

 

 霊夢は、輝夜の記憶と繋がる自分の記憶を、もう一度はっきりと意識する。

 閉ざされた異世界で見つけ出した、一つの形に。

 ただそれだけに、その記憶だけに全て集中する。 

 

 

 『■■、―――私に、関わらないで』

 

 

 そして、遂に拒絶され弾き出されかけた霊夢の意識は、それでも最後に輝夜の記憶から一片の光を掴み上げて…… 

 

 

 

 

 

 

 

 

 繋がった記憶の糸は、再び霊夢を新たな光景へと導いていた。

 

「あー、ダメだ。まるで勝てる気がしないな」

 

 それは、輝夜にとってのいつも通りの光景。

 ボロボロになりながら大の字に寝転がるルーミアと、服に埃一つついていない状態で腰かける輝夜。

 いつもと同じ、ただのスペルカード戦の後のひととき。

 

「そりゃあそうでしょうね。もう少しスペルカードの幅を広げてみたら? もしかしたら何かしっくり来るものがあるかもしれないわよ」

「あー、やめとく。私は名目上は低級妖怪で目立っちゃいけない訳だし、2~3枚くらいがちょうどいいんだよ。それに……」

「それに?」

「……」

 

 だが、ルーミアは神妙な顔で口を閉ざす。

 輝夜も別に気になって聞いた訳ではない、ただ会話の流れとして相槌を打っただけ。

 ルーミアがその後に何を言おうとしたかなど、本当は気になってなどいなかった。

 

「その、何というかさ……」

 

 だが、それは今のルーミアにとっては何よりも大事なことだった。

 故に、そこに数秒のタイムラグがあったのにも無理はない。

 それを聞き出すことは大きな前進、ルーミアがここに来続ける本当の目的に繋がっていたのだから。

 

「一つ、聞いてもいいか」

「何よ」

「今まで何度も私のスペル見てきて、どう思った? いつか私がお前に勝てる日が来ると思うか?」

「無理ね」

 

 一蹴だった。

 その質問には。

 その質問の仕方では、他に答えられる余地などなかったから。

 

「だけど……」

 

 だが、その後の言葉に、輝夜は少しだけ詰まっていた。

 意図して何かを考えようとした訳ではない、それでも次の言葉を紡げずにいた。

 ルーミアはその沈黙を遮ることなく、黙って輝夜の答えを待ち続ける。

 

「なんて言うのかしら。スペルカード以外の弾幕。貴方が最近スペルカード宣言をせずに最初に撃ってくるあの弾幕には、何というか、その……」

 

 そして、ただ言葉にするのが難しいと言わんばかりに、少しだけ悩んだ末に、

 

「……まぁ、別に何でもないわね。他の2つの弾幕と大して変わる難易度でもないし」

 

 輝夜は、結局それが何なのかを考えることを放棄した。

 別に意味なんてない、考える程のことでもないから切り捨てただけ。

 質問に真面目に答える気のない、見方によっては何よりも不誠実な返答だった。

 

「そうかい」

 

 だが、それを聞いたルーミアの顔には、含みのある微笑が浮かんでいた。

 

「何よ、文句でもある?」

「いんや別に。ただ、これは私が勝つ日も近いかと思ってな」

「……ここまでボロ負けしといてそう言える貴方の思考回路が、私には理解できないわ」

 

 今まで一度として、輝夜はルーミアの弾幕に被弾したことも、ヒヤリとしたことすらなかった。

 手加減した自分の弾幕も、ルーミアが完全に避け切ったことなど一度としてない。

 なのにそう言うルーミアの意図が、輝夜にはわからなかった。

 

「まぁ、確かに普通に戦っても一生無理だろうな。お前は私とは……地上人とは実力差がありすぎる。文字通り別世界の住人だ」

「だったら…」

「だけどな。スペルカードルールの勝敗ってのは、力の差だけで決まるもんじゃないんだよ」

 

 ルーミアは一人立ち上がる。

 一つだけ、小さな光を弾き飛ばして。

 

「確かに元々の力が強い奴はこのルールでも強いけどな。でも、こいつは弾幕の美しさを、想いの強さを形にするゲームなんだよ」

「想いの強さ?」

「信念、魂って言ってもいいかな。一枚のスペルカードにどれだけ強い気持ちを込めて相手の心を奪えるか。それが勝負を決めるんだとよ」

「ふーん」

 

 輝夜は今一つ納得できなかった。

 どれだけ必死に戦おうとも、結局は弱肉強食の摂理を覆すことなどできない。

 せいぜいが偶然、奇跡を願うくらいしかできない、そんなことは考えるまでもない自明の理なのだから。

 

「ま、今はわかんなくてもいいけどな。けどさ、いつか私が見せてやるよ」

「何を?」

 

 それでも、ルーミアの目は自信に溢れていた。

 暗く冷め切った輝夜の瞳の奥に、いつかその光を灯せると信じて。

 スペル宣言のない弾幕を……来たるべき時が来るまで輝夜には宣言しないと決めたその弾幕を、再び空高く打ち上げた。

 

 

「凝り固まったお前の心を動かしてやれるような、そんな弾幕を――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗闇の中で掴み取った記憶の終端と繋がっていたのは、輝夜の記憶ではなかった。

 それは霊夢自身の中にある、よく知った記憶。

 だが、自然と鮮明に浮かんでいたその光景は、別になんてことはないものだった。

 霊夢にとって深い思い入れのある記憶では、ないはずだった。

 

「弾幕ごっこか、いいぞ望むところだー」

 

 それは霊夢と、一人の妖怪の出会い。

 互いに因縁があった訳ではない。

 終わった後に深く繋がれるほどの特別な何かがあった訳でもない。

 ただ霊夢にとって最初の、始まりの一人だっただけ。

 

「でも、できれば私からスペル宣言させてくれると嬉しいんだけど」

「なんで?」

 

 聞いたものの、霊夢は別に妖怪の提案の理由が気になっていた訳ではなかった。

 そこに何があるのかも、考えてはいなかった。

 霊夢はただ、これから始まる異変へ向けた準備運動と変わらない、普通の一戦だと思っていたから。

 

「まぁ、何というかさ。このスペルは――」

 

 ただ、きっとその妖怪にとっては、それは何よりも大切な一戦だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 流れ込んできた記憶の奔流から目覚めると、そこには未だ殺風景な異世界と、それを終わらせる弾幕の天井が君臨していた。

 だが、霊夢はそれに目もくれず、瞼に焼き付いた一つの弾幕を思い起こしていた。

 その弾幕は、霊夢が知る中で最も難易度の低い弾幕の一つで。

 それでも、霊夢がこれまでに見た弾幕の中で最も印象強く残っている弾幕の一つだった。

 

「……おかしいと思ったのよね。闇をモチーフにした弾幕を使うあいつが、あんな綺麗な光の弾幕で始まったこと自体」

 

 霊夢は自分の間抜けさを呪った。

 自分にとって初めての異変での最初の取得スペルだから、強く記憶に残ってるのだと思っていた。

 だけど、勝手にそう思い込んで本当の意味に気づくことができなかった。

 心に残る弾幕には、魂が込められていることを。

 たとえ弱くても平凡でも。

 それでも、あの弾幕には強い想いが宿っていたということを。

 

「だとしたら、このままじゃいけないわよね」

 

 決して、壊させてはいけない。

 あの小さな妖怪が、あまりに世界に飽いてしまった姫君へ送ったメッセージ。

 そこに至るまでに何があったのかも、その奥底にどんな願いが込められていたのかもわからない。

 もしかしたら、それは今の輝夜の心を徒に蝕むだけのものであるのかもしれない。

 だけど、それでも。

 その形を、その想いを輝夜に否定させることだけは――

 

「それだけは――私が絶対に認めないっ!!」

 

 霊夢は、壊れかけの世界に再び飛び込んでいく。

 既に夢想天生は敗れた。

 それ以上の切り札などない中で、霊夢が意を決して放ったのは、

 

「スペルカード宣言」

 

 本来は霊夢のものではなく、霊夢のどんなスペルよりも平凡な借り物。

 たった一度だけそれを見てから、どれほどの時間が経っているかもわからないスペル。

 それでも、霊夢には自信があった。

 

  ――このスペルは、私の願掛けみたいなもんなんだよ。

 

 光栄にも最初にその想いを聞き入れた者として。

 その形を、その光を、誰よりも覚えているという自信が。

 自分ならきっと、それを寸分違わず再現できるという、確信が。

 

  ――いつかあいつが、私のことを友と認めてくれた暁には。

 

 その時に受け取った言葉が、今になって鮮明に脳裏に浮かんでくる。

 その友というのが、誰のことか知ろうとさえ思っていなかった想いが。

 まだスペルカードルールを始めたばかりの頃には、気にもかけなかったその願いが。

 

「月符『ムーンライトレイ』!!」

 

 空に昇っていく2本の光は、少しだけ削られて粉雪のように散っていく。

 それでも、天空から降ってくる世界終焉の光に向かって、一直線に向かっていく。

 それは、どう見ても意味のない無駄な足掻き。

 広大な海に、たった一粒の水滴が落ちたかのような無力さでもって。

 

 

  ――その時は、お前が一度は諦めた世界に、今度は私も一緒に立ち向かってやるって伝えてやるためのさ。

 

 

 それでも、その一滴の光は世界を覆い尽くす光の海を貫いて、天に伸びる二筋の道を描いていた。

 

「――っ!!」

 

「……見つけた」

 

 困惑するような、怯えるような輝夜の表情。

 それでも、その目の奥にある、何かを慈しむような色は――

 

「やっと……やっと捕まえたわよ、輝夜!!」

 

 それこそが、霊夢が探し続けた弾幕の綻び。

 輝夜の心を映し出して共有する手がかりにできる、最後のチャンスだった。

 余計なことはもう、何も考えない。

 霊夢はただ輝夜の心の扉をこじ開けるかのように、その道をまっすぐ、ただまっすぐに昇っていく。

 

「見えてる輝夜? ずっとあんたを待ち続けてたこの弾幕の……あいつの願いの形が!!」

 

 霊夢は輝夜の更に上空にまで昇り、小さな弾幕を降らしていく。

 遥か天高く鎮座する巨大な光の球体から2本の光の道を輝夜へと繋いだまま、光の欠片は降り注いでいく。

 次第に輝夜に落ちてくる弾幕はまるで、光の道の隣を過ぎ去っていく星々の欠片。

 まるで、2つの魂が決して互いを孤独にはさせないと、一緒に星降る道を月に向かって昇っていくかのような景色を、輝夜の瞳に焼き付けていく。

 

「もうやめて、私はもう…」

「嫌よ、絶対やめない!!」

 

 霊夢は自分の身体が燃え尽きてしまいそうになるエネルギーの渦の中心で、それでも脆弱な弾幕を放ち続ける。

 決して力強い弾幕であってはいけない、あえて微弱な光を灯し続ける。

 その想いが届くまで。

 輝夜の心の奥に閉ざされた何かに響き渡るまで。

 

「ねえ、あんたには助けたい奴がいるんでしょ。取り戻したい時間があるんでしょ。だから、あんたは一人で戦ってるんでしょ!!」

 

 返事はなくても、その沈黙と弾幕の乱れが何よりの証拠だと。

 輝夜の心の奥底に秘められた記憶を、想いを、霊夢は手探りで掴みあげる。

 

「違う。違う違う違う違う! もう黙ってよ、私は…」

「違わないわよ! あんたは意味もなく誰かを傷つけるような奴じゃない、あんたは――」

 

 そして、霊夢は遂にたどり着いたその「答え」を、輝夜に叩きつけようとして……

 

「あんたはただ、あんたの友達を、ルーミアを助けたかっただけ…」

 

 

     『くだらない』

 

 

 その刹那、世界は静寂に支配された。

 霊夢の答えを遮ろうとするかのように。

 輝夜の叫びさえも塗りつぶすかのように。

 突如として脳裏に直接響き渡ったその声は、時空そのものを止めたかのように他の音の一切を排除していた。

 

「え……?」

 

 

『何もわからないなら何も知らなくていい、思い出さなくてもいいわ。必要なものを、必要な分だけ見せてあげる』

 

 

 声質は輝夜の声のようでもあり、それでも確実に輝夜の声ではなかった。

 いや、声と表現すべきではないだろう。

 強いて言うなれば、音。

 生きている者の声とは思えないほど、あまりに無機質な言語情報。

 ただ冷たく、深く沈んだ感情なきその音は、ただ淡々とその次の文字羅列を紡いでいく。

 

 

『だから、刻み込みなさい。誰も知らない、この世界の真実を―――』

 

 

 そして、平坦に流れ込むその情報に応えることすら許されないままに。

 押し寄せた闇の狭間が、一瞬で世界の何もかもを真っ暗に飲み込んでいった。

 

 

 





次回、遂に決着。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第37話 : 潰えし世界の理想郷

 

 

 

 ――見渡す限りの全てが、赤だった。

 

 

 世界を焼き尽くす炎の色も、一面に飛び散った血の色も。

 ただ、全てが一色に染められていた。

 

「それで終わり? 貴方たちの覚悟は、貴方たちの幻想郷への愛は、その程度?」

 

 喉が焼けるような灼熱の海で、聞こえてきたその声だけは寒気を感じさせるほど冷たく。

 終わりゆく世界の中で、何よりも冷淡なその視線だけが刺さっていた。

 

「……どうして、こんなにひどいことができるのよ」

 

 倒れたまま動けない紫は、悔しそうな声でそう吐き捨てた。

 燃え尽きていく幻想郷には、既に満身創痍の人間と幽霊と。

 そして、半死状態のルーミアをゴミのように踏みつける、冷めた目が紫に向いているだけだった。

 

「どうして? 別になんてことはないわ、これはただのゲームよ紫。貴方たちの、この世界への愛を試すための」

「……ゲーム、だと? ふ、ふざけるなああああああっ!!」

「っ!! 待ちなさい妖夢…」

「いいや待たねえ! こちとらもう、我慢の限界なんだよっ!!」

 

 遂に耐えきれなくなった半人半霊の剣士、魂魄妖夢が泣き叫びながら切りかかっていく。

 妖夢に続くように、魔理沙もまた怒りのままに最後の力を振り絞って飛び立つ。

 大切な人たちを奪われた怒りを、憎しみを、全てぶつけるように向かっていく。

 だが、それと同時に天より降り注いだ光は、

 

「残念。これで魔理沙と妖夢も脱落ね」

 

 2人に、次の一言を発することさえ許さなかった。

 無残なほどに全身を貫かれて動かなくなった2人の残骸を、紫は唇を噛みしめながら、それでも目を逸らさずじっと見ていることしかできなかった。

 

「さて、これでそっちに残るのはあと2人だけかしら」

「……ふざけないでよ。私に一体、何が残されてるっていうのよ。霊夢も藍も幽々子も、皆、みんな貴方がっ…!!」

「ああ、そっか。そしたら――――」

 

 地に転がっていた半死状態のルーミアの身体が空高く蹴り上げられる。

 そして、その手に持った枝の先から放たれた光の玉が、その身体を跡形もなく消し飛ばすとともに、

 

「これで分かりやすいかしら」

「っ―――!?」

「じゃあ、今度こそ「幻想郷の生き残り」は貴方だけね、紫」

 

 頭上から生温かい血の雨が降り注ぎながらも、この世界に何一つとして感慨を抱いていないかのような冷たい声だけが響き渡っていた。

 紫にはもう、何もわからなかった。

 目の前の相手が、何を考えているのか。

 この世界が、夢か現実かさえも。

 

「さあ、貴方の描いた夢の結末を見せてもらいましょうか」

「……どうしてよ」

 

 気付くと紫は呟いていた。

 大切な人たちも世界も、訳も分からないまま全てを失った現実を受け入れられず、自分というものがわからなくなっていく。

 ただ壊れてしまったかのように心が乱雑に塗りつぶされていく中、それでも一つの感情だけが止めどなく湧き上がってくる。

 そして、間違いなく訪れる自らの死期とほぼ同時に、生まれて初めて心から抱いた憎悪に全て支配されて――――

 

「ねぇ、返して。私の大切なっ、全部……返せええええええええええっ!!」

 

 

 ――嗚呼、それよ。

 

 ――それで、いいのよ。

 

 

 それは、一つの記憶。

 世界の全てを滅ぼす絶対的な悪として憎まれた、そんな記憶。

 だけど、所詮は一つの通過点に過ぎない。

 

「覚悟しなよ。お前は私が、早苗の苦しみの百倍くらい痛めつけて、痛めつけてっ、狂うまで甚振ってから殺してやるっ!!」

 

 脳天を貫くような憤怒の叫びも、響かなくなった。

 

「ふざけないでよ衣玖っ! 私をっ、この私を置いて勝手に死ぬのなんて、絶対、絶対に、許さないんだからぁっ……」

 

 心を抉り尽くすような悲しみの涙も、見飽きた。

 

「お願い、だから。返事してよお姉ちゃん。ねぇ、どうしてこんな。どう、して……ぁぁあっ、嫌ぁぁっ…」

 

 全てが崩れ落ちるような絶望の断末魔にさえ、慣れた。

 

 だけど、それでいい。

 悲しみに絶望、怒りに憎悪。

 自分という存在そのものを否定してくれる声、忌み嫌い蔑んでくれる目。

 自分が世界に不要であるという絶対の証だけを、ただそれだけを向け続けてほしかった。

 

 決して。

 

「ありがとな、輝夜」

 

 そんな眩しい顔を、見せないでほしかった。

 

「私はいつでも、姫様とともにありますから」

 

 そんな優しい声を、聞かせないでほしかった。

 

 心が揺らいでしまうから。

 また、重荷が増えてしまうから。

 

 

『だったらもう一度始めましょう。何度でも、貴方の望むままに』

 

 

 そしてまた、始まってしまうから。

 決して終わることなき残酷な世界が、もう一度――――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第37話 : 潰えし世界の理想郷

 

 

 

 

 

「っ!!」

「かはっ!?」

 

 ひどい頭痛が輝夜を襲うとともに、霊夢がうずくまって息切れしていた。

 闇に飲み込まれたはずの異世界は、気付くと再び弾幕の光に覆われていた。

 その闇の狭間から流れ込んできたのは、綻んでしまった輝夜の心から溢れ出した光景。

 たった一瞬の間に味わった、血の色に染められたその一生は、誰も生き残ることなく世界が滅びた救いのない絶望の記憶。

 何もかもが、万人の心を握りつぶすような不快感を与えるだけのものだった。

 

「何なのよ、今の」

 

 霊夢はただ、呆然とそんな声を漏らすことしかできなかった。

 それは、正しくこの世界の光景ではない。

 世界でただ一人、たった一人を除いて誰も知ることすらない世界の結末。

 だが、それは妄想でも幻でもない、確かに実在した一つの歴史だった。

 

「……ふふっ」

「輝夜?」

「あはははははは」

 

 だが、輝夜はその先を口に出すことはできなかった。

 ただ全て一人胸の内にだけ秘めたまま、嘲るように笑って、

 

「やっとわかった? そうよ、この滅びこそが私の本当の目的……幻想郷が向かう末路よ、霊夢」

「っ!!」

 

 輝夜が霊夢に贈るのは、そんな言葉だけだった。

 これ以上、何も思い出したくはなかったから。

 何より、これ以上何も知ってほしくなかったから。

 

「私がルーミアなんかを助けたかったって? 笑わせないで」

「輝夜……」

「刻み込みなさい霊夢。私は貴方たちの憎むべき敵。幻想郷を気まぐれに滅ぼそうとした、この異変の黒幕なのよ」

 

 だが、輝夜は霊夢のことをよく知っていた。

 その『空を飛ぶ程度の能力』の真髄、世界と一体化して相手の心象風景すら共有する力のことも。

 きっと、今の自分の本当の感情さえも悟られている。

 それをわかっていてなお、輝夜は霊夢に偽り続けた。

 霊夢だけではない。たとえ誰が相手であっても、自分の気持ちなんて絶対に理解させたくなかったから。

 

「でも、バレちゃったのなら遊びはここまでね」

 

 突如として大気が揺れ動く。

 輝夜は辺りに散りばめていた弾幕の全てを、その手の平に一斉に集中させた。

 光を超える速度で一点に向かって次々に収束し衝突していく素粒子は、やがて極限まで圧し潰されて一つの物質を創り上げる。

 すると、世界は加速度的に一点に集中していく。

 輝夜の操る弾幕だけではない。万物が極小の塊に向かって吸い込まれ、次第に次元空間さえも歪ませていった。

 

「貴方を――世界の全てを壊して、もう終わりにしましょう!」

「っ!?」

 

 夢想天生を解かなかったことが幸いした。

 仮に霊夢が生身の状態だったのなら、今ごろその身体は原子サイズまで圧縮されて二度と光を見ることはなかっただろう。

 輝夜の弾幕の全てを飲み込んで完成したそれは、超高速の物体同士の衝突が理論上可能とする、最悪の禁忌。

 極限まで圧縮されることで無限の重力を生む、ブラックホールと呼ばれる超高密度物質。

 それは決して使用されてはならない、幻想郷という枠組みを容易に超えて世界を滅ぼし得る力だった。

 

「……今さらもう驚かないけどね。あんたがどんな力を使おうと」

 

 そう言いつつも、霊夢はこれ以上ないくらい心の中で悪態をついていた。

 悪態をついたのは絶望的なまでの力の差にではない。

 これ以上、一体何があるのかと。

 やっと見つけたと思っていた輝夜の心の底。

 輝夜はただ、死にゆく運命にあったルーミアを助けたかっただけなのだと、そんな答えを見つけたと思った矢先に見つけた新たな壁。

 それは未だ幻の中。

 輝夜から向けられたその視線は、何一つ感情さえ抱いていないかのような空虚な闇に閉ざされていて。

 そして何より、さっき見てしまったルーミアさえも皆殺しにした救いのない滅びの光景は、理解できない更なる難題を霊夢に叩きつけただけだった。

 

「それが、どうしたってのよ」

 

 それでも、そう呟く霊夢の目に迷いはなかった。

 退路などもう、どこにもないのだから。

 輝夜が抱えているものがたとえ何だとしても、諦める理由になんてならない。

 

「あんたがこの異変を起こしたってのも、一つの事実なのかもしれないけどね。でも、私はそれだけが正解じゃないって信じてるから」

 

 霊夢は未だに輝夜のことを信じていた。

 解決策は、きっとまだ輝夜の心の中にあると。

 輝夜を止めることではない、輝夜の奥底に眠る本心を見つけ出すことこそが、きっと今この瞬間で一番重要なのだと。

 

「……信じてる、ですって? 何も知らないくせに、随分と知ったような口を利くのね」

「いいえ、何もわかってないのはあんたの方よ! 自分の気持ちから、あいつの願った世界から目を背けてるだけ。今度は逃げずに、刮目して見てみなさいよ!」

 

 霊夢は再び両の腕を広げて弾幕を放つ。

 そこには一切の躊躇もない。

 この絶体絶命の状況で霊夢が選んだのは、

 

「スペルカード宣言、月符『ムーンライトレイ』!!」

 

 月へと昇る二筋の道と、過ぎ去っていく星々の弾幕だった。

 だが、今度はその弾幕は輝夜の力を打ち抜くことなく、一瞬という間すらなく漆黒の塊に飲み込まれて消えていく。

 それでも、ただ吸い込まれて消えていくだけの光の道を、霊夢は無理矢理に繋ぎ続ける。

 

「……それが、何だって言うのよ」

 

 絶えず繋がれていく光の道は、輝夜の目の輝きを取り戻すことも、声に生気を宿すこともできない。

 だが、その弾幕は輝夜に届く可能性を持ち合わせていない訳ではなかった。

 

 光の世界に広がっているのは、輝夜に優しく手を差し伸べるような、希望に満ちた光景ばかりで。

 そんな世界に身を委ねたい衝動は、絶え間なく輝夜の脳裏を駆け巡っているはずなのに。

 決して自分の心まで届かせないようにと、何一つとして響かないようにと、ただ輝夜自身が拒絶しているだけだった。

 絶望よりも、希望を抱く方がきっと心が満たされて。

 孤独よりも、友情や愛情に包まれている方がきっと力が湧いてきて。

 そんなことは、本当はわかっているはずなのに。

 ただ、それを忘れているだけ。

 忘れようとしているだけ。

 

「そんなものじゃ結局何も変えられない。何の価値も、何の意味もないのよ」

「ぐっ……!?」

 

 次第に質量を増していく超密度物質は、光さえも逃さず閉じ込めていく。

 霊夢の依拠する世界そのものを隔てなく飲み込み、次第に霊夢の存在そのものを希薄にしていく。

 まるで絶望の闇に飲まれるかのように、何もかもが色彩を失っていく。

 

「……違うわ。意味がない訳じゃ、ないのよ」

「……」

「悔しいけどね、私が悪いのよ。私が弱いから、私がどう足掻いてもあんたには勝てないって自覚しちゃってるから」

 

 それをわかっていてなお、霊夢が放ち続けるのは同じ弾幕。

 他の全ての光を失おうとも、未だ霊夢の放つ光は消えない。

 世界に溶け込んだ霊夢の姿が原形を失いつつあろうとも、それでも輝夜へと向かう微弱な二本の光の道だけは途切れることなく伸び続けていた。

 

「だったら、もう諦めなさい」

「嫌よ! だって私には聞こえるんだもの。あんたの声が、あんたの奥底から湧き上がってくる心の叫びが!」

「何を……」

 

 どれだけ絶望的な状況だろうとも。

 たとえ誰にも不可能に見える窮地に立たされようとも。

 今の霊夢には、もうその気持ちを抑えることなどできない。

 自分が今ここにいる意味を。

 目の前で泣いている子を助けたいという揺るぎない想いだけは、それだけは絶対に譲れないから。

 

「だから、私は諦めない。勝てるか勝てないかなんて関係ない。私の耳に助けを求める声が届く限り、私は絶対やめないって決めたのよ!!」

 

 霊夢はただ、貧弱な弾幕を放ち続ける。

 輝夜へと続くその2本の光の道だけは、決して途絶えさせないよう繋いでいく。

 他に術がないからではない。

 今この瞬間だけは、それこそがきっと他の何よりも強く輝夜に届き得るのだと思えたから。

 

「だって、この弾幕に込められた想いは」

 

 自分がルーミアの弾幕から感じ取った願いは。

 

「あんたが心から抱いていたその想いだけは」

 

 その弾幕を前に、輝夜が垣間見せた戸惑いは。

 

「それだけは、絶対に嘘なんかじゃないって信じられるから!!」

 

 だからこそ、自分の奥底から不思議なほど湧き上がってくる力に身を任せて、霊夢は魅せ続ける。

 この一枚のスペルカードに込められた、何よりも強い想いを信じて。

 そして、輝夜の奥底に眠る想いが、決してちっぽけなものなんかじゃないと信じて。

 霊夢は最後の力を振り絞って、世界の記憶の全てを繋ぎ止める。

 

「だから、これが本当に最後の弾幕よ! あんたの抱える希望と絶望、どっちが強いのか私がさらけ出させてあげるから!!」

 

 だが、その言葉を最後に、霊夢の姿を映し出していた光は遂に崩れ落ちるように散っていく。

 同時に、空しいほどあっけなく辺りは静寂へと還っていった。

 

 世界の全てが超重力の底に沈んでいく中、残されていたのは自分の周囲の時空間だけを静止させている輝夜と。

 そして、霊夢のいた場所に留まる小さな光の玉と、そこから伸びる二本の光の糸だけだった。

 この世界に僅かに残された色彩、それが飲み込まれて途絶えた時に世界は終わり、霊夢の存在はこの世から完全に消え去るのだろう。

 

「……」

 

 もう姿も見えなくなってしまった霊夢に、輝夜は既に興味を抱いてはいなかった。

 ただ無言のまま、何もかもを飲み込み消していく漆黒の塊だけを見下ろしていた。

 全てを無の世界へと誘ってくれる、終焉の力。

 自分がそれに飲み込まれてしまえば、どれだけ楽か。

 他に何一つない虚無へ飛び込めてしまえば、どれだけ救われるか。

 ただ、そんなことばかりを考えていた。

 

「この世界も、もう終わりかしら」

 

 次第に何もなくなっていく次元空間の中で、輝夜は呟いた。

 あと数秒、それできっと全ての光は暗い闇の底に消えていく。

 霊夢がどれだけ足掻こうと、輝夜がどれだけ拒絶しようと、それは変わらない。

 そして、何も残らない。

 霊夢が必死に探し当てた何かも、輝夜の記憶の中で渦巻く何かも。

 全ては、無意味なものでしかないとわかっているのだから。

 

「これで、よかったのよね」

 

 誰もいないはずの世界で、輝夜は問いかけた。

 それがただの独り言だとわかっていても。

 何の意味もない逃避なのだとわかっていても。

 

「こうするしか……なかったのよね」

 

 本心を騙しながら、ひたすら自分にそう言い聞かせ続けることしかできなかった。

 

 そうしないと、また塗り潰されてしまうから。

 自分の中に強く根付いていたはずの想いが。

 もう、僅かにしか残されていない自我が。

 

 

『――そうよ。諦めることなんて、許されないんだから』

 

 

 無機質に響き渡るその音に消されていく感覚だけが、永延と刻まれ続けてしまうから。

 

 一人で暗闇を見上げている時も、霊夢と話している時も、弾幕ごっこをしている時でさえも。

 輝夜の脳裏に直接響き渡るようなその音は、決して止まることはなかった。

 だが、世界を塗りつぶすほどに鳴り響いているかのように感じるそれは、音などという一般的な事象ではない。

 輝夜の『永遠と須臾を操る能力』によって創られた、この世界とは異なる歴史から生まれた異物。

 幾多の平行次元世界における蓬莱山輝夜という存在が発する感情の全てを集束させた、情報概念の混沌だった。 

 輝夜の敵ではない、されど決して味方でもない。

 この世界でたった一人、輝夜だけが受信してしまう無数の情報の洪水は、人知れず輝夜を鼓舞しながら、それでも極限まで追い詰めながら、無感情な音だけをどこまでも紡いでいく。

 

 

『もう、選択肢なんて残されてないのよ』

 

 

 本当は、今までずっと抗い続けてきた。

 幾度となく心を折られそうになりながらも、輝夜は脳裏を埋め尽くすほどに鳴り続ける無機質な悲鳴を、全て受け止めようとしていた。

 たとえ孤独に身を投げてでも、どれほどの絶望に囚われようとも、それでも戦い続けると誓ったはずだった。

 だが、最初の頃は耐えきれていたはずの音は、次第に大きくなっていく。

 時を重ねるほどに、目の前の現実はより困難に、より残酷に再構築されていく。

 

「……うるさいのよ。そんなこと、言われなくても私が一番わかってんのよ!」

 

 抑え込み続けた輝夜の心が、少しだけ耐えきれなくなって叫んだ。

 それでも、決して終わることはない。

 幾度となく打ち砕かれ続けてきた道の先は、気付くと全て閉ざされていて。

 いつしか、輝夜は抵抗の無意味さというものを嫌というほどに思い知らされてしまっていた。

 行き先を失った輝夜の心は、感情なきその音の羅列にあらゆる希望を奪われ、空っぽになるまで壊されていく。

 

 

『だったら、また何度でもやり直せばいいわ。貴方の本当の願いが叶う、その世界まで』

 

 

 そして、辿り着く先はいつも同じだった。

 目的の達成でもなければ挫折でもない。

 

 ――ただ、始まりへ。

 

 何度ゴールを目指そうとも、目の前に現れるのはスタート地点だけで。

 幾度繰り返そうとも、ただひたすらにその繰り返ししかなかった。

 今回だって、そうだった。

 霊夢が輝夜の心の隙を見つけ出して。

 それに、微かに心動かされたような気がして。

 今回は何かが違うのだと、何か少しでも希望を抱けると、そう思えるような世界を感じられようとも。

 結局は、徒に期待させて全て奪い去られるだけ。

 何一つとして変わらないと、最初からわかってしまっているのだから。

 

「……ええ、そうね」

 

 だからもう、今さら足掻いたところでどうしようもない。

 輝夜はただ、その音の指し示す運命に従っていく。

 その先の景色は、きっといつもと同じ。

 あと少しで終わってしまう。

 そして、また始まってしまう。

 終わりのない迷宮が。

 希望も、絶望さえも、決して許してはくれない世界が―――

 

「……え?」

 

 だが、輝夜はふと我に返った。

 遅すぎたから。

 この世界の終焉が。

 この世界から、光が消え去るのが。

 あと数秒と思ってから既にどれだけ経ったのかもわからない。

 それでも、霊夢が残した微弱な光と、そこから伸びてくる2本の道は未だに途絶えない。

 その光は一向に消耗する気配すらも見せない。

 むしろ、その光は消え去るどころか勢力を増しているようにさえ見えた。

 

「どうして、消えないのよ」

 

 物理的にあり得ない。

 法則として間違っている。

 そんな、理屈的な思考しか浮かばない。

 他に原因を説明できる事象を、今の輝夜は持ち合わせてはいなかった。

 

「なんで。早く消えてよ。これ以上、私にどうしろっていうのよ!」

 

 どれだけ否定しようとも、光は決して途絶えることはなかった。

 本当であれば既に終わっているはずの世界で、それでもただ同じ光景だけが続いていく。

 思い通りにならない光は、次第に輝夜の奥底を侵食し始めて。

 押し寄せる不安は、戸惑いは、その心を不安定にしていく。

 

「……どうして。こんなの、見たくないよ。もう、聞きたくないよ。ねえ、私はどうすればいいの、教えてよ――」

 

 そして、気付くと輝夜は考えてしまっていた。

 深く封じていたはずの、いつも通りを。

 誰よりも頼りにしてきた人の記憶を、僅かに思い出してしまった。

 

 すると、世界を覆う光は一気に勢力を強めた。

 

「……え?」

 

 まるで何かに押さえつけられるかのように。

 それ以上の強い力を持った何かに、塗りつぶされていくかのように。

 決して消えることなく響き続けた音の羅列は、突如として輝夜の脳裏から離れていった。

 

 その世界が、見えてしまったから。

 輝夜が、自覚してしまったから。

 光の道が2本ではないことを。

 光の玉から輝夜に向かって伸びる道が、いつの間にか一本増えていて。

 その光の道を見る自分の瞳の奥に、はっきりと一つの人影が映っていることを。

 

 

  ――言ったはずよ。私は、何があっても貴方の味方だと。

 

 

「っ――――!!」

 

 突如として響き渡ったのは、何よりも深く聞き覚えのある声。

 それは空耳なんかじゃない、心の奥深くまで揺さぶるような強い響き。

 他の誰よりもずっと自分の傍にいてくれた、永琳の声が。

 ふと、今も隣にいるような気がして。

 

 

  ――ったく。この貸しは高くつくよ、姫様。

 

 

 そこから、連想してしまっていた。

 ぞんざいな態度の、それでも心地よい響きを。

 自分たちに新しい居場所を開いてくれた、てゐの声を。

 その影は、また一つ増えていて。

 

 

  ――幻想郷は全てを受け入れるわ。たとえ貴方が、何を企んでいたとしてもね。

 

 

 そして、得体の知れない自分たちを、それでも幻想郷という世界に招き入れてくれた声。

 輝夜の世界を包み込むように広がった声とともに、いつの間にか光の道はその数を増やしていって。

 

 

  ――じゃあ、今度はウチに遊びに来てくださいね。あ、無理に信仰してくださいとか言ってるんじゃないんですよ、フリじゃないですよ?

 

  ――残念ですが、忠誠は誓えません。ですが、友人としてなら喜んで。

 

  ――約束ですよ!? また私と一緒に……あ、じゃなくて、幽々子様の気まぐれに付き合ってくださいね!

 

  ――ふっふっふ。姫君さえ陥落すればあとは芋づる式に購読者が……あ、いえ、何でもありません、こっちの話ですよ!!

 

  ――またいつでも待ってるよお姉さん。あたいたちと本気でじゃれあって遊んでくれる人間なんてそうそういないしさ。

 

 

 気付くと辺りを覆い尽くしていたのは、雑音を掻き消すほどの声だけではない。

 視界いっぱいに広がる光の道と。

 心を締め付けるほどの笑顔の奔流ばかりが、脳裏を埋め尽くしていって。

 

「何なのよ、これ」

 

 それは、決して止まることはなかった。

 人里離れた僻地に根城を構えた、自由気ままな吸血鬼たちの。

 不死人とは決して交わることなき冥界からやってくる、好奇心旺盛な亡霊たちの。

 平和な里で暮らす、真面目で暑苦しい人間たちの。

 未来永劫会えるはずのなかった彼岸を司る、堅苦しい裁断者たちの。

 遠き山奥に君臨する、トラブルメーカーの神々の。

 遥か天より全てを見下す、傍若無人な天人たちの。

 地下深くに隠れ住んだ、痛快で豪快な妖怪たちの。

 

「……違う」

 

 光の道は、いつの間にか世界を埋め尽くしていって。

 いろんな声が。

 ただ多様な声が。

 

 それでも、全て輝夜を肯定するような、優しい声ばかりが響いていた。

 

「そうじゃない!!」

 

 刹那、悲痛なほどの叫びが響き渡った。

 耳を塞ぎ、目を逸らして。

 それでも消えない声と光は、輝夜の心の奥に眠る記憶を無理矢理に侵食していく。

 

「こんなの、違う! 私なんかに、そんな声をかけてもらう資格なんてない!!」

 

 今の輝夜の脳裏に響いているのは無機質な情報羅列ではない、あまりにも有機的で感情的な、想いの込められた声の奔流。

 だが、そんな声なんて決して聞きたくなかった。

 何もできなったのに。

 今まで幾度となく、裏切り続けてきたのに。

 

 

  ――よく頑張ったな輝夜。今度は、私たちが戦う番だぜ!!

 

 

 それでも自分を受け入れてくれる、優しい声を聞くのが辛かったから。

 

 

  ――私のことはいいんです。でも、せめて師匠のことだけは……最後まで、信じてあげてくださいね。

 

 

 報われない最期にも笑いかけてくれる、愛に溢れた笑顔を見るのが苦しかったから。

 

 だからこそ、輝夜はもう誰とも深く関わりたくなかった。

 ただのゲームの世界の住人であるかのように、無感情に遠くから見渡すだけでいい。

 今までの何もかもを忘れられるくらい、全てが自分にとって何でもない、諦められる存在でいてほしかった。

 そうでないと、心が壊れてしまう。

 助けられないことに、耐えられないから。

 見捨ててしまうたびに、心が張り裂けそうになってしまうから。

 

「だから、そんな眩しい目で見ないで。お願いだから私を嫌って。憎んで蔑んで、私のこと全部、否定してよ!!」

 

 そして、それさえも許されないのならば、せめて誰からも愛されないような悪役でいたかった。

 愛を忘れ、友情を忘れ、この世界に何も感じられないほど冷酷な存在になりたかった。

 今までの全ての記憶を塗り潰すくらいに、絶対に許さないと自分のことを否定してほしかった。

 かつて自分を憎み、自分への復讐だけを求め続けた、あの人間のように――

 

 

 ――はっ。似合わねーんだよ、お前に悪役なんて。

 

 

「……え?」

 

 だけど、遂にはそんな声すらも聞こえてきて。

 そこに、かつてのような憎しみはない。

 自分と背を合わせるかのように立って不敵に笑う、一人の少女の幻影すら見えた気がして。

 

「どうして、貴方までそう言うのよ」

 

 目に映るのは、真っ暗な世界などではない。

 輝夜の心に巣食う闇の存在など、誰も許してくれはしなかった。

 気づくとその視界には、漆黒の塊を覆い尽くすほどの光の道ばかりが広がっていた。

 

「もう認めなさい。無価値なんかじゃない、無意味なんかじゃない。今あんたの心を動かしてるそれこそが、あんたにとっての希望なのよ」

 

 そして、活力を取り戻した世界の中心で、光の起点が再び霊夢の姿を形どっていって。

 そこからまた一本の光の道が輝夜に向かって伸びていく。

 やがてその光は全ての細い道を束ねて、一つとなった大きな光の道を繋いでいた。

 

「だから、あんたは孤独に逃げなくてもいい、そうやって何でも抱え込まなくていいのよ!! だってあんたは一人じゃない。あんたが本気で助けを求めるのなら、どんなに辛い時でも苦しい時でも幻想郷の皆が―――」

 

 一挙に集った声が全て、雄叫びを上げる。

 ただ同じことを。

 霊夢の叫びと重なるように光り輝いて、

 

 

   「私たちが、ついてるから!!」

 

 

 押し寄せた声の津波は、閉ざされた世界で反響して大きくなって。

 その集合体は何もかもを飲み込むほどに力強く、輝夜の心を打ち抜いていく。

 そして――

 

 

  ――な、言ったろ? こんな世界も悪くないだろって。

 

 

 今の輝夜の瞳に映るものは。

 輝夜を温かく出迎えるように光の道を埋め尽くす数えきれない人たちと、その中心で手招きする一つの影。

 いつものように、適当に語りかけるルーミアの声と。

 

 

 『……そうね。少しは、楽しめそうかしら』

 

 

 その耳に響いていたのは、無感情な音の混沌ではない。

 それはただ、全ての世界で共通して湧き上がっていた想い。

 輝夜自身の心の奥底から溢れて一つになった声が繋がり、光の道は強く弾けんばかりに輝いていった。

 

「……そっか」

 

 世界が大きく揺れていた。

 辺りの全てを吸い込み尽くそうとしたブラックホールは、それでも飲み込みきれなかった光に覆われて。

 ひび割れた漆黒の塊は、次第に脈打ち胎動していく。

 だが、輝夜がそれに目を向けることはなかった。

 

「そんなの、忘れられるはずがなかったんだ」

 

 輝夜はただ、流れ込んでくるその声だけに身を任せていた。

 拒絶していたのではない。

 全て、思い出してしまった。

 自然にその記憶を、その声を受け止めるかのように、それでも……

 

「だって、こんなにも儚くて」

 

 憐れむように、その波の中を漂っていた。

 そんな想いだけでは、何もできない。

 希望だけでは、何も変わらない。

 そんな束の間の笑顔は、すぐに絶望に染まる。

 こんなちっぽけで貧弱な種族には、もはや美しくも儚く散るだけの、そんな未来しか残されていないことを知っているのだから。

 

「なのに、こんなにも愛おしくて」

 

 それでも、輝夜は気付いてしまった。

 幾多の世界を渡り歩こうとも、どれほどの苦難の中にいようとも、変わることはない。

 そんな儚く脆いものたちこそが、自分にとってかけがえのないものだと。

 決して失いたくない、何よりも大切なものなのだと。

 

「ああ、そうだ。だからこそ私は――」

 

 その声は、聞こえてきたのではなく。

 ただ、内側から。

 忘れていた感情とともに、力強く湧き上がった輝夜自身の想いが自然と声になって。

 

 

「私は、たとえ何を賭してでもこの子たちを守り抜こうと、そう誓ったんだ」

 

 

 同時に砕け散った暗闇は、溢れ出した光を抑えきれないまま世界を真っ白に染めていった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第38話 : 無間地獄

 

 

 

 気がつくと、薄暗い視界の中で喧騒に包まれていた。

 目を凝らすと見える人ごみの中には、見渡す限り幾多の種族。

 談笑する人間、酔って悪戯がエスカレートする妖精、引きつった顔をした夜雀を尻目に屋台の食料を食らい尽そうとする幽霊なんてものもいた。

 だが、それぞれ異なる者たちの中にいて、それでも思ったのは――ただ、皆が楽しそうだということだった。

 

「………や」

 

 昔の居場所では、決してこんなことなどなかった。

 穢れのなき永遠の中でほとんどの者の目はあまり冷めきっていて、同じものにしか見えなくて。

 何も変わらない日々が、いつまでも目の前で留まっているだけだった。

 

 だけど、ここでは全てが違う顔。

 それぞれの個性と定められた寿命の中で、誰もが毎日を精一杯に生きている姿はあまりにも眩しすぎた。

 自分は、本当にこの場にいていいのだろうか。

 こんな輝きの中に、自分の居場所なんてものが果たしてあるのだろうか。

 そんなことばかりを考えながら、漠然とその景色に気をとられていて、

 

「……ってば、ねえ輝夜!! ちょっと、話聞いてんの?」

「え?」

 

 隣で騒いでいる、全身を埃まみれにした紅白の少女に気付かなかった。

 荒い息をしながら自分を睨んでくる霊夢に、輝夜はキョトンとした顔で返す。

 

「どうしたの霊夢、そんな般若みたいな顔して」

「……流石に怒っていいわよね私。ねえ、いいわよね?」

「別にいいんじゃないの?」

「あんたが働かないから、代わりに私がさっきまで準備してたのよ! あんたが言い出したんでしょ、月の博覧会開くって」

「あー、そうだったかしら」

 

 永夜異変が終息してからさほど間をおかずに傾向の見られ始めた、花の異変。

 やっとのことでその後始末も落ち着き、咲き乱れていた花もそろそろ見納めということで開かれた花見の宴会に、きまぐれに参加した時の輝夜の何気ない思い付き。

 花見の次の酒のネタに、永遠亭にある月の財宝で博覧会でも開いてみようかという、そのたった一言の冗談を文に刈り取られた。

 別に輝夜が乗り気だった訳ではなく、一足早い独占スクープとばかりに文が勝手に話を広めただけ。

 それに便乗した魔理沙を始めとしたお祭り好きな連中が永遠亭に押しかけて、やれ何を展示するだの、いつ開催するだの、次から次へと誰かが集まってきて。

 それでも、言い出しっぺは輝夜だということで、何かと協力させられた挙句に結局のところこの喧騒の原因は輝夜にあるという。

 あまりに理不尽な理屈だったが、それでも霊夢は当然のように輝夜の首根っこを掴んで言う。

 

「ほら、準備は終わってんだからさっさとしなさい」

「何を?」

「何をって、主賓の挨拶なしじゃ始まんないでしょうが!!」

 

 霊夢はそのまま輝夜を引きずって壇上に上げる。

 そこはさっきまでより多くの表情が見える、この会場の特等席であった。

 

「こぉら、あんたたち! そろそろ始めるから静かにしなさい!!」

 

 だが、霊夢の声でも喧騒は止まない。

 両手を上げて何度も何度も繰り返し注目を集めようとするが、効果はない。

 1分、2分、喉を傷めるのではないかというくらいに叫び続ける霊夢の奮闘も空しく、辺りは混沌と化していた。

 

「あー、ほら魔理沙。あれ見なさい、霊夢よ霊夢」

「んあ? ぉぉぅ何だ霊夢じゃないかー」

 

 やがて魔理沙の絡み酒が面倒になったパチュリーが、壇上にいた霊夢を生贄に捧げてそそくさとその場を離れる。

 霊夢の、怒りのボルテージが上がっていく。

 

「お、輝夜も一緒か? いいぞ脱げ脱げー!」

「……いかげんにしなさい」

「あん?」

「手伝いもせずに何してんのって言ってんのよ、こんのバカ魔理沙あああああっ!!」

「お、ぁんだやるか霊夢ううううっ!!」

 

 そして、あとはいつも通りの光景。

 上空で星の弾幕を放つ魔理沙と、それを簡単にかいくぐってスペルカード……を、使わずに魔理沙を投げ飛ばした霊夢。

 追い打ちをかけるように飛んできた霊夢の札を、箒にまたがったままフラフラの飲酒運転で辛うじて避けながらも反撃とばかりにマスパをぶっ放す魔理沙。

 スペルカードルールとも呼べない子供の喧嘩は、主役であるはずの輝夜を放って辺りの喧騒を更に大きくしていた。

 

「ごめんなさいね、霊夢も魔理沙もあんなで」

「いいえ、別にいいわ。こういうのも、地上ならではの楽しみ方なんでしょ」

「そうね。月じゃ、こんな光景は見られなかったでしょう?」

「……ええ」

 

 いつの間にか隣にいた紫と談笑しながら霊夢たちを追っていた視線が、ふと地上へと落ちる。

 すると、木陰に寄りかかりながら一人佇むルーミアと目が合っていた。

 いつの間にか少し笑いながら紫と話していた輝夜に向かって、「ほらな、言ったとおりだろ?」と言わんばかりに勝ち誇った微笑を浮かべるルーミアが、少し憎らしくて。

 それでも、確かにこの時間を楽しんでいる自分がいることに、輝夜は気づいていた。

 ルーミアと過ごした時間だけではない、幻想郷の日常の全てが新しい物語になっていて。

 それが、悪くないって思えた。

 自分にこんな居場所ができるなんて、考えたこともなかったから。

 

「……確かに、こんな生き方もあるのかしら」

「え?」

 

 あまりにも眩しい世界を見つめながら、輝夜は呟いた。

 一人で悲観的になって世界を諦めなくてもいい。

 たとえ目の前に見える光景が、自分にとって束の間の夢に過ぎないものとわかっていようとも。

 それでも、今は。

 それが終わってしまうまでの須臾の間だけでも、こんな気分を味わっていてもいいのではないかと思ってしまったから。

 

 

 ――いいわ。だったらもう少しだけ、貴方たちと一緒の時を過ごすのも悪くないのかもね。

 

 

 そんな気まぐれが、全ての始まり。

 輝夜はただ、あまりに眩く希望に溢れていたそんな時間を守り抜こうとしただけだった。

 だから、その運命を知ってしまった時から、輝夜の戦いは始まったのだ。

 

 ルーミアに定められたタイムリミットが、間近に迫っていたから。

 だから、死にゆく運命にあったルーミアを助けようと思った。

 ルーミアを助ければ、即ち封じられた禁忌の暴走と、それに伴う幻想郷の滅亡が現実と化してしまうから。

 だから、滅びゆく運命にあった幻想郷を救い出そうと思った。

 決して報われるはずのない世界の運命を、自分が全て壊してみせようと思った。

 それで、何かが変わるのかもしれないと思ってしまったから。

 ただちょっと、軽い気持ちで。

 知らなかったから。

 友情や愛情というものが、こんなにもかけがえのないものだなんて。

 

 そして、こんなにも辛くて苦しいものだなんて、知らなかったから――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第38話 : 無間地獄

 

 

 

 

 

 懐かしくも辛い記憶に浸りながら、輝夜は大の字に寝そべっていた。

 世界に君臨していた弾幕の光など、もう存在しない。

 ひび割れた暗闇の隙間から微かに見える星々をじっと見上げている輝夜に、霊夢は何を言う訳でもなかった。

 ただ輝夜を静かに見下ろしながら、輝夜が次の一言を発するまでいつまでも待っている。

 

「……最初はね、ちょっとした遊びのつもりだったの」

「遊び?」

「ええ。幻想郷という盤上で、この異変を最高の形で終わらせるためのゲームよ」

 

 そして、ふと思いついたかのように、輝夜は霊夢に打ち明けていた。

 この異変で、自分が今までしてきた全てを。

 

 あまりに永すぎる終わりなき人生の中で、輝夜を唯一夢中にさせたゲームの世界。

 輝夜はただ、そんなゲームの中に幻想郷という一つの世界を組み込んでみただけだった。

 輝夜の持つ、『永遠と須臾を操る能力』の秘術。

 無数の『須臾』という限りなく短い時の中に、『永遠』という一つの歴史をいくつも分散させることで、異なる歴史を複数持つ力。

 いわばゲームのコンティニュー、無限に平行世界を渡り歩くことのできる力。

 輝夜はただ、それを使ってゲーム感覚で世界を攻略しようと思った。

 ゲーム開始の合図は幻想郷の在り方に沿って、博麗の巫女である霊夢が異変解決に乗り出したその瞬間。

 あらゆる悲劇を避けて全てをハッピーエンドに導く答えを探し求めるために、誰にも気づかれることなく、気まぐれに一人で始めた遊びに過ぎなかった。

 

「それは思ったよりも難しくて、簡単には成し遂げられない難題だったの」

 

 ある時は、邪悪の力の暴走を止められずに、世界が闇に飲み込まれた。

 そこに残されるのは、今いる異次元空間と同じような暗闇に閉ざされた世界。

 終わった幻想郷には誰も生き残ることなく、ただ全てが滅びていく。

 そんなつまらない結末を、変えようとした。

 

 ある時は、世界を救うためにルーミアを犠牲にした。

 長き時を経て幻想郷はいつも通りの日常を取り戻し、世界は再び平穏に包まれた。

 ただ、あの生意気で適当な声が、二度とそこに響くことはなかった。

 そんなつまらない未来を、変えようとした。

 

 何度も何度も、違う歴史に生き続けた。

 どれだけ失敗を重ねようとも、決して諦めることはなかった。

 

「最初の頃は、むしろ燃えたわ。こんなに苦戦して、こんなに先に進めないゲームは初めてだったから」

 

 輝夜は喜々として無数の歴史を渡り歩いていた。

 ある時は、たった一人で戦って。

 ある時は、霊夢や魔理沙のような若き力に託して。

 ある時は、紫や神奈子といった実力者たちと協力して。

 ある時は、幻想郷の全員で異変に立ち向かって。

 

「でもね、だんだん飽きてきたの。終わりの見えないゲームに」

 

 何をしても、望む結果が得られなかった。

 ほんの僅かな変化で無数に枝分かれしていく世界線の中には、妥協点ならいくらでも見つかる。

 それでも、最善に辿り着くことはできない。

 何度繰り返しても、全てが完全に救われた未来なんてものは見えなかった。

 そして、輝夜は解決策を見つけることのできないそのゲームに、遂に嫌気が差してしまった。

 

「だから、私はゲームという縛りを終わらせて、私が共有してる別の平行世界の記憶を打ち明けたわ」

 

 ゲームの登場人物と、その盤上で起こり得る未来の情報を共有してしまった。

 幻想郷の中心である霊夢と、幻想郷を管理する紫と、誰よりも優秀である永琳と。

 異変に隠されていたとある事実を永琳に伝えてしまうことは、心苦しかったけれど。

 それで終わると思っていたから。

 何より、永琳ならばルーミアに埋め込まれたそれに対応できる「はず」だと思っていたから。

 

「だけどね……」

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

「……どうして?」

 

 そこは、静かな世界。

 いつものような騒音が聞こえない永遠亭の一角で、輝夜はただ呆然と立っていた。

 ベッドに横たわる一人の少女を見下ろしながら、輝夜の声に生気は宿っていなかった。

 

「本人も納得したことよ。もう、こうするしかなかったの」

「違う!! そうじゃないでしょ、私が頼んだのは…」

「残念だけど、何の犠牲もなく解決できるほど私も万能じゃないわ。ここが貴方の願いの妥協点よ」

 

 そう言って永琳は輝夜に背を向け、一人去っていった。

 だが、輝夜はそれを追うことができなかった。

 知っているから。

 何もかもを全部自分で背負おうとしてしまう、優秀すぎる従者のことを。

 輝夜を苦しめないようにと、自分が悪役を買って誰よりも一人苦しんでしまう永琳のことを。

 

「ごめんな」

「……どうして、貴方が謝るのよ」

「私が犠牲になればよかったんだよ。こんなの、誰も幸せになれないだろ」

「……」

 

 輝夜は何の返事も返せなかった。

 少女の隣のベッドに横たわりながら消え入りそうな弱音を吐くルーミアと、目も合わさなかった。

 きっと、永琳なら何とかしてくれると思っていた。

 きっと、何もかもを解決してくれると思っていた。

 

「―――霊夢っ!!」

「霊夢さんっ!!」

 

 それでも、そこに残されたのは取り返しのつかない傷跡だけ。

 そこに駆け付けた、魔理沙の泣きそうな声と。

 霊夢の亡骸を抱きしめながら、憎しみを込めた目を向けてくる早苗の涙だけだった。

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

「っ――――!?」

 

 霊夢は、こみ上げてくる気持ち悪さを抑えることができなかった。

 当事者であるが故にあまりに強くリンクしてしまった、輝夜の心に根付いた一つの世界の結末。

 普通なら見ることなどできないはずの、自分が死んでいる世界の光景というものに霊夢は生理的嫌悪感を覚えた。

 その世界では、永琳はルーミアの中の力を、霊夢に封じられた力と融合して封印処理した。

 幾多に渡る世界の知識を用いた試行錯誤の上、世界と全て一体化する霊夢の力を使って霊夢の命と引き換えに、異変を終わらせる方法を見つけたから。

 それは最善ではない、それでも輝夜の心を守るための次善の未来を呼び起こせる唯一の方法だった。

 

「永琳にも、そこまでが限界だった。全てを救うのが無理だとわかった途端、永琳は汚れ役を買ってでも私を妥協させるための逃げ道を用意しようとするから」

「……」

「でも、私が望んだのはそんな未来じゃない」

 

 だが、永琳の作り出したその逃げ道を、輝夜が受け入れることはなかった。

 今まで無数の歴史を越えてきた輝夜が、そんな救われない結末で妥協するはずなどなかった。

 

「もう私はなりふり構わなかった。地底でさとりたちにも、彼岸で映姫たちにも、月まで行って依姫たちにも、頼れるものは何でも頼った。邪悪の力を私の能力で凍結してる間に解決策を探したこともあるし、私が異変の黒幕になってルーミアを裏で操るような、あらゆる可能性世界を見てきたわ」

 

 それでも、運命は変わらなかった。

 何をやっても、何度やっても、何かが必ず失われていく。

 そういう風に、世界は進んでいく。

 だが、道は探せない。

 輝夜は時間を早めることも遅めることも、複数の歴史を持つこともできた。

 それでも、輝夜がゲームを始めた瞬間、霊夢が動き始めた瞬間からいくつもの岐路に分かれた世界は、それ以前に戻ることだけはできなかった。

 最初はただのゲームという感覚だったから。

 だから、深く考えてはいなかった。

 それでも、もっと前の段階から始めるべきだったと、どれだけ悔やみ続けたかもわからない。

 地底の怨霊が地上に出てくるのを止めることも。

 そのそもの元凶が、幻想郷に流出するのを止めることも。

 新たな可能性に向かい得る道は、もはや全てが閉ざされていたのだから。

 

「そんな世界が何千万、何億回も続いて……もう、その頃には私の心は折れてたわ」

「何億って……」

「億なんてのは、まだ始まりよ。そこからが長かった。どうしようもないくらい、私は何が正しいのかも、何をしたいのかもわからなくなってた」

 

 その頃には、既に輝夜の精神は限界だった。

 出口の見当たらない迷宮に、音を上げそうになってしまっていた。

 それを聞いていた霊夢は、ふと思った。

 悪気があった訳ではない、それでも霊夢は軽い気持ちで言ってしまった。

 

「だったら、もうそんなことやめればいいじゃない」

「……」

「あんたが一人で全部抱え込む必要なんてないわ。私を犠牲にする方法だってあったのなら、どこかで落としどころを見つけることだってできるでしょ?」

「……落としどころとかっ、そんな簡単に言わないでよ!!」

 

 あくまで冷静な意見を発したつもりの霊夢は、突然激昂したような輝夜の叫びに、とっさに反応できなかった。

 表情を変えないままに、それでも輝夜はその苦しみを吐き出す。

 

「……だったら逆に聞くけど、霊夢だったら諦められた?」

「え?」

「貴方の力で、貴方の大切な人たちを助けられるかもしれないのに、この世界を救えるかもしれないのに。それでも妥協して投げ出して、一人でのうのうと生きていられる?」

「それは……」

 

 大切な人。

 そう言われた霊夢は、二の句を継げなかった。

 輝夜がそこまで強い気持ちで霊夢のことさえ救おうと戦っていることなど、知る由もなかったから。

 そして何より、自分が同じ状況に置かれたのなら、きっと諦めることなんてできないだろうと思ってしまったから。

 もし、自分に世界を変えうる力があって。

 今からでも死んでしまった母を、そして紫を助けられる可能性が僅かにでもあるとしたら。

 どれほどの困難の中に身を投じようとも、決して諦めはしないだろうから。

 

「もう、私にはどうしたらいいのかもわからなかった。これ以上傷が開かないようにするのが……終わりのない永遠の中でひたすら立ち止まってるのが精いっぱいだった」

「……」

「だけど、繰り返せば繰り返すほど、私の中にいる別の平行世界の『私』が叫ぶの。諦めるなって、助けろって。少しでも弱気になる度に、頭の中で響き続けるのよ!」

 

 何も救うことのできなかった、無数の記憶。

 幾度となく繰り返した、終わりなき記憶。

 だが、その回数を重ねれば重ねた分だけ、大切なものは増えていった。

 異変に立ち向かった記憶の分だけ、その声は次第に大きくなっていった。

 

「ルーミアを助けてって叫ぶの」

 

 それが、始まりだった。

 

「霊夢を、魔理沙を、早苗を、咲夜を、妖夢を、みんなを守れって叫ぶの」

 

 繰り返す歴史の中で、共に戦った者たちとの思い出だけが増えていって。

 それを救えなかった無数の痛みだけが蓄積されていって。

 

「レミリアたちも幽々子たちも神奈子たちも、今の時間軸の私が会ったことのない人たちですらも、誰も欠けることなく皆を救えって、諦めるなって叫ぶのよ!!」

 

 それでも、想いは更に膨らんでいく。

 最初はただの気まぐれで救おうとしていた誰もが、いつの間にか輝夜にとって大切なものになっていて。

 そして、輝夜の脳裏に諦めの二文字が過った頃には、その声は決して逃れられないほどに大きくなっていた。

 

「それでダメなら、もう一度って言うの」

 

 誰か一人でも助けられないのなら、やり直せと。

 まだ繰り返せるのなら、全てを救える時がくるまで、この地獄を繰り返せと。

 

「もう一度、もう一度って、私は言われるままに何度も何度も繰り返していって」

 

 その声は、次第に震えてきて。

 その弱音は痛々しいほどに止まらなくて。

 それでも、その心の叫びは何億回吐き続けたのかもわからなくなるほど自然と連ねられて。

 

「それでも、私には何もできなかった。何度も何度も失敗して失敗して、その度に声は大きくなって、その度に苦しみは大きくなって! それでももう一度、もう一度もう一度もう一度もう一度もう一度もう一度って言うから! 何度諦めても、心が張り裂けそうになる未来を何回繰り返しても!! もう無理だって、もう終わらせたいってどれだけ叫んでも、ずっと、そんな声だけが響き続けてっ――――」

 

 息を継ぐことすらなく輝夜はただそれを吐き出す。

 やがて堪えきれなくなった涙が、遂にその目から零れ落ちた。

 輝夜はそれを拭うことすらできないまま、ただ霊夢を静かに見つめて、

 

「……さあ。この難題、貴方はどうやって解くかしら」

 

 無理矢理に浮かべたその笑みにはもう、微かな温もりすらもなかった。

 全ての想いを凝縮したかに見えるその涙にすら、もはや感情など残されてはいなかった。

 助けられなかった悲しみも。

 終わらない難題への絶望も。

 何もできない自分自身への怒りも。

 こんな運命を創り出した全ての元凶への憎悪も。

 希望はおろか、そんな心の闇すらも全てを塗りつぶされ尽くして。

 心を空っぽにしてなお続く永遠という監獄に、ただ虚しく囚われ続けているだけだった。

 

 そんな輝夜に、霊夢は何一つとして言葉をかけてあげることはできなかった。

 さっきまで軽々しく助けたいなどと思っていた相手の、あまりに深く負った傷を、どうしてあげることもできなかった。

 こんな、たかが十数年生きてきただけの自分が。

 一時一時の絶望で壊れそうになってしまう弱い自分が。

 億を軽く超える難題に苦しみ続けた輝夜の傷を和らげることなど、できるはずがなかった。

 

「私は…」

「いいのよ、無理して答えなくても。もう、わかってることだから」

 

 霊夢は続きを口にできず、俯くことしかできなかった。

 輝夜にとって、その答えなど聞いても聞かなくても同じだった。

 何も変わらない。

 霊夢が弱音を吐く結末も、無理して強がる結末も、輝夜を勇気づけようとする結末も、輝夜の想いを継ごうとする結末さえも、結局は救われないことを既に知っていたから。

 

「また、繰り返すの?」

「そうね」

 

 だから、その答えに一切の躊躇はなかった。

 この世界を終わらせることに、迷いなど全く存在しない。

 

「……なんでよ。なんで、あんたが一人でそこまで苦しまなきゃいけないよ。あんたはもう十分戦ったでしょ、誰もあんたを責めたりなんて――」

「じゃあ、霊夢だったらここで妥協する? 紫が死ななくて済む世界が、あるのかもしれないのに」

「っ!!」

 

 一瞬でも、迷ってしまった。

 紫ともう一度会える世界があるのかもしれないという誘惑に、ほんの少しでも気持ちが揺らいでしまったから。

 その時点で、霊夢の負けだった。

 

 幻想郷が滅びた世界。

 ルーミアがいない世界。

 霊夢が犠牲になった世界。

 紫が死んでしまった、この世界。

 今の輝夜にとっては、それらはもはや全てが同じ。

 誰の犠牲ならまだ諦められるとか、そんな簡単な話ではない。

 あまりに多くの世界を渡り歩いてしまったが故に、輝夜はもう、大切なものが一つでも失われた世界を選ぶこと自体に耐えられないのだ。

 

「……ごめんね。こんなの、霊夢には酷な質問よね」

 

 そう言いながら、輝夜は空間に穴を空ける。

 人ひとりが出られるほどの、小さな空間の歪み。

 そこに目を向けて、静かに霊夢を促す。

 

「この先は幻想郷に続いてるわ。貴方が闇に飲まれてから、あっちの時間軸で3時間ってとこかしら」

 

 唐突な、そんな言葉。

 一歩踏み出せばそこにまだ無事な幻想郷が続いているという、本来なら喜びで再び希望を宿せるはずの事実。

 それすらも、今の霊夢は素直に喜べなかった。

 

「……あんたは」

「どうでもいいでしょ、私のことは。貴方は貴方で、今の幻想郷で生きたいように生きればいいわ」

 

 今の幻想郷で、という諦めの言葉。

 きっと、また輝夜はやり直すのだろう。

 空っぽになるまで押しつぶされた心で、僅かな光すらも見えない闇の中に再び身を投じるのだろう。

 だけど、止めることなんてできなかった。

 億を軽く超える地獄を経てなお戦い続けている輝夜の決意に、軽々しく口を挟むことなどできない。

 そんな無責任な言葉を吐くことなんて、できないから。

 それでも霊夢は、最後に言い残した。

 

「止めないよ、私は。私に、そんな資格はないから」

「……そ」

「でもさ。せめて、最後まで私を見ててよ」

「……」

「今さらあんたの選択を変えることなんてできないのかもしれないけど、私は私なりに頑張るからさ」

「……」

「また、つまらない結果に終わっちゃうのかもしれない。何も変えられないのかもしれない。それでも、せめてこの世界の最後の瞬間までは……今回の『私』を見ててよ」

 

 輝夜は返事をしなかった。

 だが、霊夢はそれでも別によかった。

 これから向かうのは、あくまで自分の物語。

 輝夜の覚悟を背負うのも、霊夢の勝手なのだ。

 だから、霊夢は輝夜の返事を待つことも、振り返ることすらもなかった。

 自分の可能な限りの力を振り絞って先に進もうと決めて、霊夢は一人その空間を去っていった。

 

「……ごめんね。もう、無理なのよ」

 

 だが、その言葉はもう輝夜には届いていなかった。

 失った感情のままに、それでも霊夢に語りかけていた輝夜の精神には、もはや何も響くことはなかった。

 霊夢が話している間にも、輝夜の心を侵食し続けるのは同じ記憶だけ。

 空っぽになった心でも、それは耐えられるようなものではなかった。

 

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 

 輝夜の渡ってきた数十億回を超える永遠は、ひとつひとつを感知することなど不可能なほどに混沌を極めていて。

 その軌跡は、今この瞬間にも輝夜の頭の中で鳴りっぱなしだった。

 それぞれの記憶の意味も、もはや理解はおろか聞き取ることすらできない。

 それでも、何を言いたいのか、その総意だけは自然とわかった。

 

 ――やり直せと。

 

 要約すれば、ただそれだけ。

 この世界は少なくとも紫の命が、それも輝夜の策謀によって失われてしまった世界。

 紫を失うことで変化していく霊夢の心、藍の決意、破邪計画の行く末、様々な要素の分岐点の過程を観測するため。

 結論として選ぶ気など最初からない、これからも枝分かれしていく無数の歴史への、新たな打開策を模索するための手段の一つに過ぎない世界なのだ。

 だから、ここで終われるはずがなかった。

 どんな形で訪れた喪失でも、それを失いたくないと願う、無数の世界を渡り歩いた輝夜自身の心の声が止まることはない。

 きっと、この声はこれからも永延と流れ続けるのだろう。

 死んだ方が楽な苦痛が、永遠に続くのだろう。

 

 ――誰か、助けてよ。

 

 そう願いながらも、それでも心の奥底から湧き上がる本心は皆を救いたいと叫んでいて。

 この地獄から抜け出したいと願いながらも、輝夜は既に次の一歩を踏み出そうとしていた。

 この世界を諦めて、次の世界へと。

 あと数百億回、数千億回、それ以上繰り返すことになるかもわからない。

 だけど、それでも輝夜の決意は決して変わることはない。

 

 たとえこれから先、自分がどれだけ苦しむことになろうとも。

 たとえ新しい時間軸に進んでも、繰り返せば繰り返すほどに今まで以上の地獄が訪れることがわかっていても。

 それでもなお、輝夜は再び時を遡る。

 いつか輝夜が本当に望む、誰一人として失われない世界を見つけるために。

 たった一人で何もかもを孤独に抱え込んだまま、輝夜は再び今の世界を終わらせようとして―――

 

 

「――ったく、らしくねえな。何を弱気になってんだよ」

 

「……え?」

 

 

 その瞬間、無数に積み上げられた歴史は微かに動き始めた。

 突如としてその耳に届いたのは、この世界に存在するはずのない、あり得ない声。

 にもかかわらず、はっきりと聞こえてきたその声に導かれるままに輝夜は振り向く。

 そこにあったのは、たった一人。

 どこか見覚えのある、白き長髪と鋭い眼光を帯びた人間の姿だけ。

 

 それでも、輝夜の瞳に映った新たな不可思議は、終わることなき永遠を刻んでいた幻想郷の時計を再び混沌の中へと引き戻していった。

 

 

 





 後編ノ壱、完。

 たった一章終わらせるのに丸一年かかってしまい、すみません。そろそろ仕事にも慣れてきたんで、次章からはもう少しスムーズに話を進められると思います。
 次の章は番外編を2話分挟んでから、長い間出番のなかったあの人がやっと動き始めます。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編
外伝ノ参 : 最恐が舞い降りた日




 番外編ですが、壱と弐とは違い追加の警告タグなどは必要のない内容ですので、安心してお読みください。
 今回の外伝2話分は読み飛ばすと少し進行上の疑問が残ると思います。





 

 

 

 

 ――ねえ知ってる? 流れ星に3回願いを唱えると、願いが叶うの。

 

 

 殺風景な大地で、少女は語りかけていた。

 他に誰もいない世界で、はた目からは母と子にしか見えない2人は、小さな少女だけが一方的に話を続ける。

 

 

 ――願いに込められた力は、集束する。

 

 

 だが、まだ子供に見える少女の口調からは、無邪気さなど全く感じられない。

 少女が口にするそれは、おとぎ話の内容ではない。

 その言葉は厳かに、力強い言霊でもって。

 少女はただ、膨大な知恵と底知れぬ探求心の果てに、辿り着いただけだった。

 

 

 ――たった一瞬で、幾多の強い願いが一極に集中する。だから流れ星には願いを叶える力が宿るの。

 

 

 地表から見られる最も広い視界にある、天。

 そこを流れていく星は、きっと世界で最も多くの者が同時に直接観測し得る一つの点。

 故に、その星が流れる間に観測者の全てが一斉に願った時、その星には刹那の間に無数の願いが蓄積される。

 神社に群がる人の願いの数など比ではない、世界中から願いが集まる可能性を秘めている。

 だからこそ、流れ星には願いの力が凝縮され、それを叶える力が宿る。

 それが、独自の魔導体系を築き上げた少女が研究の果てに導き出した仮説だった。

 

 

 ――だけどね、流れ星には限界があるわ。

 

 

 その一瞬の輝きを見つけ出せる者。

 自転と公転を続ける地球という星で、その流れ星が見える位置に運よく居合わせられる者。

 そして、たとえ見つけられたとして、願いを唱えようとする信心深い者。

 そんな条件下の願いしか集まらないただの迷信。それが所詮は、星に願いの到達点なのだ。

 

 

 ――でも、もしも流れ星以上の奇跡が。世界中の願いを一挙に集める何かがあるとしたら、一体何が起こると思う?

 

 

 ならば、それ以上の願いの力を見つけ出そうと。

 淡々と語りかけていたはずの少女の声は途端に弾み始め、複雑怪奇な理論情報を次々と垂れ流していく。

 まるで狂気に満たされたような情報の洪水を前に、それを聞く者の表情は次第に期待を追い越すほどの畏怖が支配し始めて。

 それでも少女はただ、新たな叡智に手を伸ばすかのようにまた一歩先へと歩みを進める。

 

 

 ――ねえ、考えただけでワクワクしてこないかしら――

 

 

 彼女はそんな、一つの仮説に生きる者。

 世界をただ自らの知的欲求を満たすためだけのフィールドと捉えた、飽くなき研究者の一人だった。

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

外伝ノ参 : 最恐が舞い降りた日

 

 

 

 

 

 

 魔神が創り出した魔物の蔓延る、幻想郷とは少し違う世界。

 魔界と呼ばれたそこは、濃密な瘴気の中で育った強大な魔力の持ち主が多数存在する。

 だが、そんな強力な魔物たちも今や死屍累々としていた。

 魔界に未曾有の異常事態を巻き起こしているのは、天変地異でも侵略者の大群でもない。

 魔物たちの屍を軽々と積み上げて戦場に君臨していたのは、たった一人の地上の妖怪だった。

 

「……子供の来る場所ではないわ。帰りなさい」

 

 花の大妖怪、風見幽香は屍の山に紛れるように立っていた少女に手をかけることなく背を向け、再び歩き始めた。

 幻想郷の景色を踏み荒らすように突如として押し寄せた魔物たちの元凶を潰すために、魔界の最果てへとたった一人で歩を進めようとする。

 その歩みを止めたのは、少女の一言だった。

 

「無駄よ。その先にいる人を倒したところで、魔物たちは止まりはしないわ」

「……どうして? こいつらの頭である魔神を潰せば、それで終わりでしょう?」

「違うわ。その先にいるのは、ただ静かに暮らしたいだけの平凡な人よ」

 

 少女がそう言って手に持った大きな本を開くとほぼ同時に、辺りの風景が一変していた。

 そこにいたのは、既に2人だけ。

 たった今まで幽香と戦っていた魔物たちの群れは、まるで初めから存在していなかったかのように忽然と世界から姿を消していた。

 夢を見ているかと思うほどの光景を唖然と見ていることしかできない幽香に、少女はただ淡々と次の言葉を紡いでいく。

 

「魔物は別にあの人の命令で動いてる訳でも何でもないわ。だから、そっとしておいてあげてくれない?」

「……へぇ、そうなの。じゃあ、どうすれば止まるのかしら」

「じきに止まるわ。貴方たちの世界での目的を終えたらね」

 

 それを聞く幽香は、既に理解していた。

 大妖怪である自分を目の前にして、まるで平凡な何かを見るような目をした少女。

 そこから感じられる不気味さは、他の魔物たちとは明らかに一線を画していた。

 故に、幽香は警戒していた。

 数百の魔物との激戦を潜り抜けてなお歩を進めていたはずの幽香が。

 吹けば飛ぶほど華奢な身体つきの、まだ幼きアリスを前に動けずいた。

 

「……その本。普通の魔導書じゃないわね」

「あら、わかる? 扱い辛いし疲れるし面倒なのよね、この本」

「でも、使ってたでしょう?」

「少しだけね」

「わかってるでしょ。たとえ少しでも、それを使えること自体が異常だって」

 

 幽香が注意深く見ていたのは、アリスの手にある大きな本。

 その魔導書は、幽香をして怯ませるほどのあまりに強力で禍々しい魔力を宿していた。

 だが、幽香が本当に警戒していたのはその魔導書ではない。

 自分でも扱いきれないと一目見てわかる禁書を、面倒という程度の認識で使いこなすアリスに、幽香は最大限の警戒心を向けていた。

 

「……そういえば、聞いたことがあるわ。魔界の魔物に一人、異端の天才がいたって」

「ああ、多分それ夢子ちゃんのことね」

「夢子? あの、向こうで伸びてるなんちゃってメイドのことかしら?」

「そうそう、それそれ」

 

 アリスは適当な二つ返事を幽香に返す。

 幽香自身、未だ目の前の相手のことを測りかねていた。

 この相手には、うかつに飛び出せば自分ですら危ないことがわかっている。

 ましてや、少し前まで幽香と死闘を繰り広げていた夢子は、魔神の側近である最高位の魔界人なのだ。

 幽香は既に力を使い過ぎている。

 これ以上戦い続ければ自分でも危ないことくらい、幽香は十分に理解していた。

 更に言えば、幽香がこれからたった一人で立ち向かうのは、この広い魔界を創造した唯一神。

 魔神と対峙した時に可能な限りの力を温存するために、幽香はできるだけ強敵と交戦することは避けたかった。

 

 

   『同化 ―Cerulean― 』

 

 

 だが、その慎重さが既にアリスの術中だった。

 

「とか言ってる間にどーん」

「っ――!?」

 

 気付くと、意志を持ったように飛び出した花々の蔓が幽香の身体を絡め取るように捕えていた。

 明らかに狼狽していた幽香だったが、それでも冷静に対処しようとする。

 

「これはまさか、貴方も花を操る力を…」

「違うわ。これは貴方と感覚を同一化する魔法よ」

「え?」

「貴方と同じ視点で世界を見て、貴方の力を使って花を操ってる。ただそれだけの話よ」

「なっ……」

 

 幽香はそれ以上言葉が出なかった。

 そんなものは幽香の予想の及び得ない、異次元レベルの魔法であったから。

 幽香は未だ、アリスが何者なのか測れずにいた。

 魔神の血族か、あるいは魔神が創り出した本当の秘密兵器か。

 いずれにせよ、魔神と戦う前にとんでもない化け物に会ってしまったと、幽香は自らの神経を最大限まで研ぎ澄ませた。

 

「あ、動かないでね。貴方が動いたら、その子たちが千切れちゃって可哀想でしょ」

「……ほんと嫌な奴ね、貴方」

 

 だが、極限まで集中した幽香だったが、実際には何もすることができなかった。

 抗えないほど強力な魔法ではない、それでも既にこの戦いの主導権はアリスにあるのだ。

 アリスは別に幽香を倒すために魔法を使ったのではない。

 幽香が守るべき花々すらも無限に操れるという、デモンストレーションを見せただけなのだ。

 この魔法のメカニズムを伝えることで、花を人質にとって幽香を脅迫するため。

 それが実際に可能であるかなど関係なく、幽香の自由は奪われた。

 幽香が本気を出せば出すほど、アリスは余計に花々を操って犠牲を増やすことになるのかもしれないのだから。

 幽香はもう、アリスに抗うことを事実上禁じられたのだ。

 

「そんなに怖い顔をしないで。私はただ、取引をしたいだけなんだから」

「取引?」

「ええ。最終的には貴方が魔神を倒して異変を解決したことにしてあげるから、ここは大人しく帰ってくれない? 地上にいる魔物たちもキリのいいところで帰らせるし」

 

 アリスは平然とそんな提案をした。

 魔神を倒したことに、そして魔物たちを帰らせるとアリスは言った。

 それは事実上、自分が魔神より上の立場にいることを、そして魔物の襲来の元凶がアリスにあると暗示しているのと同義だった。

 そんな戯言を、幽香は疑うこともなく受け入れていた。

 アリスがそれだけの実力を持っていることを、本能的に感じ取っていたからだ。

 

「……嫌よ。これ以上、地上は荒らさせないわ」

 

 だが、幽香はその提案を拒絶した。

 あまりに濃密な瘴気の中で育った魔物は、その体に瘴気が染みついてしまっている。

 故に、繊細な地上の花は魔物に近寄られただけで枯れてしまう。

 だからこそ幽香は魔界へと来た。

 プライドや感情の問題ではない。地上の花を守るためには、一刻も早く魔物たちの元凶そのものを止めざるを得なかったのだ。

 

「そう、交渉決裂ね。だったら残念だけど貴方は…」

「余裕ぶってるとこ悪いけど。貴方は今、誰に喧嘩を売ってるかわかってないみたいね――――」

 

 幽香はあくまで冷静だった。

 戦況を、アリスを観察することを怠らなかった。

 辺りを覆うように溶け込ませていた幽香の妖力が大地を揺るがし、同時に花の拘束を簡単に解いていた。

 そして、幽香の姿が消えた。

 それはほんの一瞬の出来事。

 アリス自身の身体能力が高くないことを見抜いていた幽香は、アリスの反応を超える速度で踏み込み、アリスの身体を地に叩き付けると同時にグリモワールを奪い取っていた。

 それだけで、あまりにあっけなく戦いは終わっていた。

 

「終わりね」

「そうね」

「……抵抗、しないの?」

「してもしょうがないでしょ? 接近戦に持ち込まれて本を奪われた時点で、私の負けよ」

 

 数秒前まで主導権を握っていたはずのアリスは、それでも即座に自らの敗北を宣言した。

 だが、幽香はそれを怪訝な目で見ていた。

 アリスの表情に、一切の変化がなかったから。

 まるで、ここで幽香に勝とうと敗れようとどうでもいいのだと言わんばかりに。

 

「貴方の負け? いいえ、違うわね」

「あら、どうして?」

「この状況も、貴方の狙い通りなんでしょう? 思い通りに事を進めた奴を負け犬とは呼べないのよ」

「……へぇ、鋭いじゃない」

 

 

     『 幻惑 ―Indigo― 』

 

 

 次の瞬間、押さえつけていたはずのアリスと魔導書が、幽香の前から消え去っていた。

 目の前にいたはずのアリスの姿は、幽香の認識を支配して見せていた幻。

 だが、アリスが何の策もなく終わるはずがないと予測していた幽香は、戸惑うことなくあらゆる方向に即座に注意を向け、遥か先に魔導書を開いたアリスの姿を確認する。

 そして、地を蹴った。

 アリスが次の魔法を使う前に止めるために。

 ただ小休止のように淡々と次の魔法を唱え始めていたアリスに向かって。

 

「だけど、残念ね。そんな鋭さなんて持たなければ、もっと長生きできたのに」

「はっ、そんなのはお互い様――」

 

 だが、幽香はその先の言葉を発せなかった。

 

 

  『 破滅 ―Scarlet― 』

 

 

 他者と同化する。

 智を支配する。

 それらは確かに、人知を超えた理の上に立つ力。

 それでも、幽香を倒すための力ではなかった。

 故に幽香は失念していた。

 足止めではなく、アリスが本気で幽香を始末しようとした場合。

 目の前にある魔導書がただ破壊のために力を撒き散らした場合に、一体どうなるのかを。

 

「ぁ……」

 

 喉が焼ける。

 呼気から全てが塵に変わり、体中が燃え尽きていく。

 そんな未来が、幽香には明確に見えていた。

 それはいわゆる走馬燈。

 死という名の、完全なる終焉の形。

 ただ動けないままに、幽香は瞬時に自らの最期を悟った。

 

 

     『還元 -Zwei- 』

 

 

 その、はずだった。

 

「―――けほっ」

「え……?」

 

 だが、幽香の全身が焼き尽くされるような感覚は、気付くと途絶えていた。

 同時にアリスは突然咳き込み倒れ、幽香だけが何事もなかったように立っていた。

 幽香はただゆっくりとアリスの隣に見下ろすように立って、アリスがもう動かないことを確認する。

 死んでいる訳ではない、それはわかった。

 それでも、一体何が起こっているのかは全くわからなかった。

 アリスはまるで、生命エネルギーそのものを奪われたかのように存在自体が休止していたのだ。

 

「……禁呪の副作用、かしら」

「違うわ、本当なら貴方は今ここで死んでいたの。私が介入しなければね」

「っ!?」

 

 返事をしたのは、アリスではない。

 目の前にいるアリスは、既に屍と変わらないほどに終わっていた。

 ただ、その状況で確かにその声は幽香の真後ろから聞こえてきた。

 気配もないままに、悠然とそこに立っていたのは、

 

「初めましてになるのかしら花の妖怪さん。私は…」

「魔神でしょ。魔界の創造神、神綺」

 

 振り返らなくても、幽香にはわかった。

 冷汗が自分の頬を静かに伝っていくのを感じる。

 今まで相手にしてきた有象無象とは違う。

 そこにあるのは、肌で感じられるほどの強者の予感。

 たとえ自分が万全の状態であったとしても、勝てる保証のない強敵。

 

 だけど、それでも―――

 

「あら、わかってるのにこっちを向いてはくれないのね。それとも、怖くて振り返ることもできない?」

「いいえ、別にそういう訳じゃないわ。ただね…」

「私に注意を向けることが、この状況で最善ではないと?」

「ご明察」

 

 この状況で幽香が最大限の警戒を払っていたのは自分の背後をとっている神綺ではない、ピクリとも動かないアリスこそを警戒していた。

 なぜなら、神綺は自分と同等以上に強いことが肌で感じられていたから。

 自分に死を悟らせる程の力を持ちながらも、その力を感じ取らせないままでいるアリスの得体の知れなさの方が、遥かに危険であると幽香は判断したのだ。

 

「流石ね、それで正解よ。今の私は創造神であっても、支配者じゃないから」

「やっぱりそうなのね。この子が実質的な今の……いえ、これからの魔界の神という訳?」

「そのつもり、だったんだけどね」

 

 答える神綺の声は、少し愁いを含んでいた。

 

「まぁ、その辺についてはゆっくり話をしたいわ。だからとりあえず――どこか落ち着ける場所が欲しいわね」

 

 そう言うと、神綺は静かにその魔力を解き放って、

 

 

    『創造 -Eins- 』

 

    『適応 -Vier- 』

 

 

 同時に、世界が変質した。

 殺風景で寒々しかった荒野は姿を変え、広がった土壌がアリスを包み飲み込んでいく。

 やがて温暖な気候と化した景色の中には、見渡す限りの花畑が広がっていった。

 

「っ……!?」

「ふふっ、これはちょっとした挨拶代わりよ」

 

 幽香は絶句し、一目で理解した。

 勝てる保証のない強敵などと、そんな評価はあまりにおこがましい自惚れであると。

 自分とはまるで次元の違うレベルの魔法を目の当たりにして、幽香はアリスにばかり割いていた視線を恐る恐る後ろに向けると……

 

「さあ、貴方の話しやすい環境を整え…あれ? え、ぁっ、待ってそんな、あぁっ…」

「……」

 

 そこには魔力切れでひざが折れて、プルプルと全身を震わせてながら辛うじて四つん這いの恰好で立ち直そうとしている、情けない神綺の姿があった。

 その姿を見て今度は別の意味で声も出なかった幽香だが、

 

「あふっ!?」

 

 とりあえず何かイラっとしたので、チャンスとばかりに神綺を蹴飛ばしていた。

 今度こそ地面に倒れてピクピクと痙攣していた神綺に、幽香は一つため息をついて聞く。

 

「……で、結局貴方は何がしたいの? 私はそんなコントを見るためにここまで来た訳じゃないのよ」

「ち、違うの、本当はもっとカッコよくキメようとしてたの! ほら私、神じゃない? もっと威厳のある姿を見せたかったというか、夢子ちゃんにため息つかれちゃうような私とサヨナラしたかったというか……ってああっ、そんな残念なものを見るような目で見ないでーっ!!」

 

 辺り一帯を花畑に創り替えて優雅に紅茶でも飲みながらの対談、恐らく神綺はそんな光景をイメージしていたのだろう。

 ただ、調子に乗って同時に二つの魔法を使おうとしたばっかりに失敗し、こんな残念な結果に終わってしまっただけなのだ。

 それでも、実際に目の前でその失敗を見てしまうと、それはそれはひどいカリスマブレイクだった。

 魔界の唯一神、自分を超える魔法の使い手という強者のイメージは、既に幽香の中から消え去ろうとしていた。

 

「うぅぅ、こんな簡単に魔力の限界きちゃうなんて、私ももう歳なのかしら……あ、でも違うのよ! まだお肌とかツルツルだし、気にするほどじゃ…」

「そういうのはもういいから。話を、進めましょうか」

「ふぇ?」

 

 幽香が指を鳴らすとともに辺りに咲き乱れていた花が神綺を取り囲み、その魔力を満たしていった。

 同時に地面から少しだけ盛り上がった巨大な蔓が、腰を掛けるのにちょうどいい場所に鎮座していた。

 

「あわわっ、まあ素敵! 植物の椅子ね」

「……随分と自然に受け入れるのね」

「何を?」

「何でもないわ」

 

 幽香も挨拶代わりではあるが、それは幽香なりに本気のパフォーマンスだった。

 だが、神綺の魔法に介入してみせ、それを利用して神綺の魔力を満たしてみせようとも、それは神綺にとって特段驚くものではなかったのだ。

 それが、幽香の気に障っていた。

 まるで幽香の能力や魔法など、神綺は最初から脅威として見ていないかのように。

 

「さてと、じゃあ単刀直入に聞くわ。どうして貴方たちは地上を侵略しようなんて考えたのかしら」

「地上を侵略?」

「……とぼけるつもり? 魔界の魔物が、地上を荒らしまわってるのよ」

「何それ私聞いてないわ!?」

 

 神綺は勢いよく立ち上がってそう言った。

 幽香は再び、深いため息をついた。

 アリスの話を聞いた時に、黒幕が魔神ではないのだという可能性も浮かんでいはいた。

 だが、ここまで蚊帳の外にされているとは思ってもみなかったのだ。

 

「……ってことは、本当にさっきの子が黒幕ってことかしら」

「アリスちゃんが?」

「ふーん、アリスっていうのね。まぁ、侵略って感じではなかったけれど、あの子が何かしらの目的を持ってたのは確実よ」

 

 神綺は、一人で深く考え込む。

 アリスが地上の侵略を企んだ、その理由を辿ろうとして……

 

「……まさか、もう完成の目途が立ったのかしら」

「何か、心当たりでも?」

「え、ええ。アリスちゃんは地上に溢れた「願い」の力にずっと興味を持ってたの。七色の魔法の先にある『虹』色の究極魔法を完成させる研究のためにね」

「究極魔法?」

 

 究極というのが何を指すのかはわからないが、それは幽香の興味を強く惹いていた。

 たとえ結果が残念な感じに終わってしまったとしても、神綺が使ったのは確かに地上の魔導水準を遥かに超えるレベルの魔法であったから。

 それを使いこなす神綺をして究極と言わしめるその魔法は、少なくとも魔導に身を捧げる者の一人として気にならないはずがないのだ。

 

「それについては、いろいろ難しい話になるんだけど……とりあえず最初から話すわね。まず、アリスちゃんが使ってる魔導書。あれは元々は、私の創世魔法を一冊の本にまとめたものなの」

「……創世魔法?」

「まず、何もない0の状態から万物を『創造』し、あらゆるエネルギーを世界に『還元』する。蓄積されたエネルギーは次第に生命を『創生』、生命は知性を持って世界の法則に『適応』を始めていく。やがて神の知恵を超えた無限の『叡智』に辿り着いた時、世界は手に負えない『混沌』の中へと向かっていく。そんな、神の支配を超えて幾多の世界を巻き込みかねない危険因子と化した世界をやがて『破壊』によって再び0へと導く、一つの世界を創り出してから破壊するまでのサイクルを記した魔法よ」

 

 幽香は、ゴクリと唾を飲んだ。

 あっさりと神綺が口にしたそれは禁呪などというレベルの魔法ではない、明らかに幽香の知る魔導としての常識を遥かに外れたもの。

 あまりに荒唐無稽な、それでも自分の力の到底及ぶべくもない魔導体系を前に、幽香は話についていくのがやっとだった。

 

「よかった。貴方は普通の反応をしてくれるのね」

「……馬鹿にしてるのかしら」

「いいえ、むしろ褒め言葉ととってもらって構わないわ。叡智の過程に狂っていない、正しい反応よ」

 

 意味深な言葉を吐きながら、神綺は淡々と続ける。

 

「でもね、アリスちゃんはそれを完成した魔法として見てはくれなかった。私の魔法を基礎にして、別の魔導体系へと書き換えたの」

「え……?」

「アリスちゃんは私が最後に記した『破壊』のサイクルを過去の終わり、つまり始まりの『破滅』の魔法と捉えて、生命の『適応』から先の理を個の進化の体系へと昇華させたのよ」

 

 それは、幽香には理解しがたい話だった。

 存在を受け入れるのがやっとだった魔導の形を、更に書き換えることなど想像すらできないから。

 

「生命の知恵はやがて幾多に渡る世界の滅びの記憶と『同化』し、一つとなった完全なる智の体系が、再び破滅の道を辿ることのないよう神を欺く『幻惑』を生み出す。そうして破滅のサイクルを回避した世界だけが神を超えた『未知』の領域に辿り着き、その先の世界を見渡せる。破滅までを一つのサイクルとしない、神の支配から外れて無限に進化していく過程を七つの色になぞらえた魔法。それが、アリスちゃんが築き上げた『七色の魔法』の力よ」

 

 神綺の魔法が基盤とするのは、無限に辿り着いて手に負えなくなる前に0へと戻して繰り返す神の支配による視点。

 それをアリスは、0へと戻さない。0から無限へと向かい、その先へとたどり着くための魔法と化したのだ。

 

「……だけど、それがどうしたっていうのよ。別に、そんな抽象的な概念になんて興味はないわ」

「そうね、結局のところ7つの魔法の持つ力は、私の創世魔法もアリスちゃんの七色の魔法も大差はないわ。だけど、アリスちゃんの魔法の執着地点は私みたいに支配のための7つの理を完成させることじゃない。全ての理の先へと辿り着くことだったの」

「理の先?」

「ええ。抽象的な因果の過程であっても蔑ろにしては決して届き得ない、この世の全ての理を超えた――『虹』色の魔法にね」

 

 七色の魔法は、ただでさえその一つ一つが神の力を越えた魔法。

 その理の全てを無視して存在するその魔法は、確かに究極と呼ぶに足るだろうことは幽香にもすぐにわかった。

 

「それが、さっき言っていた究極魔法って訳ね」

「ええ。多分アリスちゃんは、それを完成させるために地上に出ようとしたんだと思うわ。虹の魔法は、魔界にいては使うことができないからね」

「どうして?」

 

 神綺は少しだけ躊躇い、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をしてアリスの歴史を語り始める。

 

「そもそもアリスちゃんの起源は、地上にあるの。アリスちゃんはこの魔界で唯一、私が創った魔物じゃないから」

「でしょうね。他の魔物と比べると、あの子はあまりに異質すぎるわ。地上の妖怪として見ても普通じゃないけど」

「そう思うのも無理はないわ。だって、元々アリスちゃんは妖怪でも魔物でもない、普通の人間なんだから」

「人間……?」

 

 確かにアリスの力自体は、その辺の低級妖怪と大して変わらない、それを幽香は感じ取っていた。

 それでも、人間の、しかもこの年齢の人間が持つにはあまりに過ぎた力だった。

 

「アリスちゃんは人間でありながらたった一人で独自の魔導体系を切り開いた一種の「天才」。マッドサイエンティストみたいなものと言ったらイメージも湧くかしら」

「……逆にわからないわ」

「まぁ、それはいいわ。何の目的があったのかは知らないけど、とにかくアリスちゃんは地上にいた頃から魔法の力に魅入られてたみたいなの。魔界に来てからも狂ったように魔導書を読み漁って応用させ、身体の弱い人間としての生を捨てて妖怪として生きる道を選ぶのにもそう時間はかからなかったわ」

 

 どれだけの才能を持っていようとも、人間という短い寿命しか持たない種族が魔法を極めるにはあまりに時間が足りない。

 故に、アリスは人間を辞めた。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

「そこまでして、あの子は何をしたかったのかしら。力が欲しかったというのなら、少しは自分自身を鍛えた方が早いと思うけど」

「アリスちゃんは結局のところ、強さなんてものに興味を持っていないのよ。あの子の研究分野……一番心力を注いでいたのは、生物の抱える願いの持つ力だからね」

「願い?」

「ええ。特定の理を超える力じゃない、どんな願いであっても叶えるという、あらゆる理を無視した力を探し求めてたみたいなの」

 

 世界に願いの形は無数にあれども、それを叶えるためには確かに全ての理を超え得る必要がある。

 恋愛成就、一攫千金、死者蘇生、世界征服と、簡単なものから不可能と思えるものまで全てを叶え得るとすれば、それは確かにどんな魔法さえも比較に値しない究極魔法と言えるだろう。

 

「だけどね、願いの力なんてのは簡単に扱えるものじゃないわ」

「まぁ、願いの力なんてそもそも曖昧で存在すら怪しいものだしね」

「それが一般的な思考ね。だけど、アリスちゃんは違ったの。アリスちゃんがまだ人間だったころに立てた仮説は、世界中の人間すべての願いの力が一つになった時、どんな願いでも叶える力が宿るってものよ」

「……それは随分、非現実的な話ね」

 

 世界には、数十億の人間がいる。

 その全ての願いなど、どうあっても集まることなどあり得ない。

 ましてや国の違い、思想の違い、貧富の差によっても願いに対する考え方など千差万別である。

 ならば、世界中の願いが揃うことなど不可能と言って差し支えないだろう。

 

「でも、だからこそアリスちゃんは地上に出ようとしたんだと思うわ」

「え?」

「七色のグリモワールの第四……いえ、『青』色の魔法は、誰かと視点を同一化することを可能にするからね」

「それを使って、全人類の思考を同一化させようと? それこそ非現実的じゃない?」

 

 魔物たちを使って地上の全てを侵略するだけではない。

 世界中の全てを支配下に置くことで願いの力を集めようというのであれば、それは驚きを通り越して呆れることしかできない話だった。

 

「うーん、そういうことじゃなくて、アリスちゃんは地上の人たちを理解しようとしたんじゃないかしら」

「理解?」

「アリスちゃんは頭はいいんだけど、感情の部分については疎いみたいなの。だから、皆が何を考えてるか知りたいんじゃないかしら」

 

 願いを知るためには、少なくともその相手を理解する必要がある。

 何を考え、どうして何を望むのか、少なくとも人間が感情を抱く理由を理解できない内は、世界中の願いを集束させることなどできないだろう。

 

「……でも、それなら地上の侵略をする意味は? 人間を理解するためなら、他の魔物は必要ないじゃない」

 

 幽香は真剣な眼差しで神綺に問うた。

 それは、今回の異変の核であった。

 魔物が地上に溢れかえったその理由、それさえ解決できるのなら幽香にはアリスの目的などどうでもいいのだから。

 

「えーっと。それは多分、寂しいんだと思うわ」

「……はあ?」

 

 だが、神綺の返答を聞いた幽香は素っ頓狂な声を上げた。

 

「アリスちゃんは、ああ見えて寂しがり屋なとこもあるからね」

 

 つまりは、地上を理解したいけど自分一人で地上に出向くのは寂しいから魔物を連れていきたいと。

 そんなあまりに気の抜けるような理由を前に、幽香はツッコむ気も起きなかった。

 創世魔法や究極魔法、そんな高次元な話の後では、寂しいという感情などあまりに矮小なレベルの話にしか聞こえなかったから。

 

「……はぁ、馬鹿らしくなってきたからもういいわ。ま、真偽はどうあれ黒幕はわかったし、とりあえずそのアリスってのを地上に来たくなくなるくらい虐めてあげれば終わるのよね」

「え? ダ、ダメよ!」

 

 のんびりと話をしていた神綺は、焦って突然に立ち上がった。

 その身に強力な魔力を纏いながら、幽香の前に立ち塞がる。

 

「アリスちゃんを虐めるなんて、そんなの私が許さないわ!!」

「……あはっ、結局こうなるのね!!」

 

 神綺の殺気が膨れ上がっていく。

 さっきまでの間の抜けた態度からは考えられないほどの、まさに魔界の唯一神と呼ぶに相応しき魔力。

 だが、幽香も負けてはいない。

 花に囲まれていたおかげで、既に十分に体力と魔力は回復していた。

 最後の戦いを前に、その身に宿した妖力を最大限に膨らませて……

 

「さあ、来なさい。地上の花を傷つける奴は、たとえ誰であっても私が許さないわ」

「……え? お花?」

「ええ。瘴気が染みついた魔物は、地上の花にとっては毒なのよ。だからこれ以上魔物の侵攻を許すわけには…」

「あっ、あーーーっ!!」

 

 その瞬間、神綺の闘気が急激に萎んだ。

 手をポンと叩いて、閃いたと言わんばかりの表情で、

 

「そうよ! だったら、貴方が一緒に行ってくれればいいのよ!」

「……はあ?」

「ほら、貴方は魔物が地上から魔界に帰ればいいんでしょ?」

「それはまぁ、そうね」

「だったらそこは、貴方がアリスちゃんのお友達として一緒に地上に行ってくれれば解決じゃない!!」

 

 神綺は、これ以上ないほどの名案だとでも思っているのだろう。

 だが、一方で幽香は何言ってんだこいつと言わんばかりの表情で立ち尽くすことしかできなかった。

 

「ほらアレよ、魔物たちが地上に行かなくてもいいし、アリスちゃんは地上に行っても寂しくない! うん、我ながらナイスアイディアね!!」

「いやちょっと待ちなさいよ、そんなの…」

「ダメ? アリスちゃんは元々人間だからほとんど瘴気も染みついてないし、貴方にとっても悪い話じゃないでしょ?」

「それは、その……」

 

 確かに、それだけで幽香の目的もアリスの目的も同時に達成できるのかもしれない。

 それでも、その提案を受け入れることは躊躇われた。

 アリスを地上に出すこと自体に、幽香は何か言葉にできない不安しか感じなかったから。

 

「ね! ああ、でも寂しくなっちゃう、けどちゃんと笑って送り出してあげないと。うん、よーし、そうと決まったら早速アリスちゃんのお弁当作ってあげなきゃ!」

「え? あ、ちょっと待ちなさい、そんなの私はまだ納得して…」

 

 だが、幽香が言い終わる前に神綺の姿はマッハで消えていた。

 

 ……そんなことがきっかけで、泥沼化するかに思えた魔界と地上のいざこざは、あまりにあっけなく解決してしまった。

 魔物たちは大人しく魔界に帰り、たった一人で魔神を脅しつけてきた最恐の妖怪として地上に幽香の名が広まるのにも、そう時間はかからなかった。

 そして、幽香は結局アリスを連れて地上に行くことになってしまったが、そこに友情が芽生えることはなかった。

 幽香はどうもいけ好かない危険な相手として、アリスのことを警戒しつつも距離をとり。

 アリスはアリスで、神綺から友達になれと言われたものの幽香とは波長が合わず、関わりたくないし魔物も連れていけないし、苦肉の策でお人形を作って寂しさを紛らわすことにしたとか。

 とにかく、それで異変の全てはハッピーエンド、に終わったかに見えた。

 

 だが、その異変の終息は、アリスにとってはあくまで始まりに過ぎなかった――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もう、限界なのかしらね」

 

 魔法の森の自宅に籠りながら、アリスは一人呟いた。

 地上に出てきて何十年たっただろうか、最近は幾多の生物と関わってきた。

 特に面白いのは、人間の里を飛び出してきた一人の小さな人間。

 自分とは違ってあまりに強い感情でもって輝いているその姿は、まるで幻想郷という世界を駆け抜けていく一つの流れ星。

 その少女と関わり続けることでアリスも少しだけ人間の願いの、感情の何たるかを学び始めた、かに思えた。

 

 だが、その理解は逆にゴールへの道のりを遠ざけた。

 人の感情がここまで面白く、そしてここまで複雑怪奇だとは思っていなかったから。

 一人の人間を理解することすら、自分には荷が重すぎる。

 それに気づいて初めて、アリスは自分の仮説の厳しさを思い知った。

 

「……次の、他の研究を始めましょうか」

 

 だから、アリスはその仮説を切り捨てざるを得なかった。

 『虹』の魔法の基礎を完成させ、人の感情を知り始めたにもかかわらず、長年追い求めてきた全てを諦めたのだ。

 今の仮説に成就の可能性がないのであれば、また新たな研究をもとに別の楽しみを見つけるしかない。

 なぜなら、数人、数十人の願いを理解して集めることすらアリスにはあまりに遠き道のり。

 それを全世界の人類、数十億人分の願いを集めることなど、限りある時間の中では不可能だろうから―――

 

 

「でもまぁ、これに懲りたら今後はあまり人のプライバシーに踏み込まないことね」

 

 

 だがある日、そんな言葉を聞きながらアリスは呆然と動けずいた。

 それは、偶然に出会ってしまった奇跡。

 さっきまで自分の興味を僅かに引いていた、『青』色の魔法で同化していた覚妖怪が倒れたことなど気にもならない。

 ただ、それを冷たい目で見下ろす少女に、アリスはこれ以上ないほどの期待を抱いていた。

 なぜなら、その少女は最高の被検体だったから。

 

 ――私はずっと、貴方を待っていたのよ。

 

 その覚妖怪と同化して読み取った記憶の中にあったのは、とある能力から創り出された幾多の歴史。

 永遠と須臾を操り、無数の世界を渡り歩く力。

 既に億を超える平行次元世界を渡り歩いた少女の心には、数えきれないほどの感情が集っている。

 それを知ったアリスの思考は、その瞬間かつてないほどに冴えわたっていた。

 なぜなら、無数の感情には、それと同じ数だけの願いが宿っていたから。

 幾多の平行世界を渡り歩き続け、数億、数十億、いずれは全世界七十億超の人類と同等の数の願いを抱えることになるかもしれない一人の少女の存在は、アリスを再び『虹』色の魔法へと誘うには十分だった。

 

 ――そう。私はきっと、貴方と巡り合うこの瞬間のために地上に来たのよ!

 

 アリスにとってそれは、まさに運命の出会い。

 この少女なら、きっと自分の知的欲求を満たしてくれる。

 たとえ今ここで完成しなくてもいい。

 この世界で成せなくても、それでもいつかどこかの平行世界で自分の研究を成就させてくれると思ったから。

 

 だが、アリスの運命の相手はその少女ではなかった。

 

 気付いてしまったから。

 その少女では、決して願いを叶えられないことを。

 

「貴方たちのことは、私が守るから」

 

 なぜなら、少女は本当は誰よりも強く優しくて。

 

「……誰か、助けてよ」

 

 それでも、その強さや優しさは時に精神を蝕んで。

 

「だったら憎みなさい。幻想郷を滅ぼした私を、死してなお憎悪の止まることなきよう」

 

 いつしか抱え込み過ぎた重荷はその願いさえ否定し、全てを捨てることこそが願いと化してしまったから。

 

 それでは、ダメなのだ。

 分散してしまう。

 たとえどんな願いでも、最後まで貫けるのであればそれでいい。

 だが、誰一人として失わず全てを救いたいという願いは、あまりに困難でやがて自らの願いさえ否定させてしまう。

 願いの力が蓄積される前に、叶うはずのない願いの大きさに圧し潰されてしまうから。

 

 そうではない。

 もっと純粋で。

 もっとまっすぐで。

 何より、歪んでいるとさえ思えるほど一途な想いが必要だから。

 

 故に、偶然か必然か。

 その愛情の裏側にひっそりと共存する、一つの魂の欠片。

 無限に世界を渡り歩いた少女と融合し続け、それでも既に消えてしまいそうなほどに弱弱しいその灯が、熱く燃え上がろうとする姿。

 それは、アリスの目にはあまりに輝いて見えた。

 

 ――ふざけんな。

 

 友情や愛情じゃなくてもいい。

 たとえ、始まりが憎しみでも。

 

 ――何でもかんでも一人で抱え込んでんじゃねえ、自分のことばっかり責めてんじゃねえよ。

 

 本当に強い想いは、たとえ歪な形であろうとどこまでもまっすぐで。

 

 ――いいか。お前を憎んでいいのも壊していいのも、それは私だけの特権なんだよ。

 

 それはきっと、たった一人との繋がりのためだけに。

 何者にも遮れないほどに、どこまでも一途で。

 

 ――だから、相手が神だろうが悪魔だろうが、たとえお前自身だろうが。

 

 ただ自分の奥底から湧き上がってくる感情のために、生死の理さえも無視して「生きる」。

 どんな困難にも屈せず、己の境遇も過去も未来さえも、何もかもを捨てられるほどの執着。

 そんな、情熱的なまでの激情の集合体こそが、きっと奇跡を起こす魔法と化せるだろうから。

 

 

 「それだけは……絶対に譲れねえんだよ!!」

 

 

 ――嗚呼。やっと見つけたわ。

 

 

 幾多の世界で揃った、無数の一つの願いは次元世界を越えて。

 やがて全ての願いを繋げる星々となって想いを力に変えていく。

 

「――だからこそ若輩の私にも一つだけ、あんたに教えてあげられることがあるわ」

 

 興奮を抑えきれないまま、アリスは閉ざされた異世界で目の前にいる少女と、同時にその先にいる誰かに語りかけるように言葉を紡いだ。

 いつまでも世界の片隅で燻っている、小さな炎に語り掛けるように。

 世界に関わることのできない死の先にいるはずの存在に、この世に生きるための導きを与えていく。

 

「最後まで傍観者でいることほど、つまらない結末の迎え方はないってことをね!」

 

 幾多の世界の願いが集っていく。

 やがて全ての願いが一つに重なると同時に、アリスは解き放つ。

 何が起こるかもわからない願いの集合体に向けて、自らの生きた証の全てを。

 

 

 ――だから、私に見せてみなさい。貴方の、無数の貴方自身が抱く、その願いの力を。

 

 

 そして、遂に暗闇の世界に轟いた『虹』色の究極魔法は――――

 

 

 

      『 奇跡 ―Iridescent― 』

 

 

 

 七十億超の無間世界を超えて、決して変わるはずのない運命に風穴を空けた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

外伝ノ肆 : 最強が生まれた日


 だいぶ遅くなりましたが、次章の方針が割と固まったので投稿再開します。
 今回が番外編ラストになります。



 

 

 

 ――いつからだろう。自分が一体何者なのかわからなくなっていた。

 

 

 空亡妖怪。

 

 かつて、彼女はそう呼ばれていた。

 妖怪と冠されながらも、妖怪の賢者や最強の妖獣とさえ比較されることはない。

 会ったこともない多くの者は、存在そのものに恐怖し。

 一度でも会ったことのある者は、その力に畏怖し。

 一般的な常識から外れた闇の権化、世界を覆いつくす概念そのものとして認識されていた。

 

 故に、異次元の世界の住人である彼女を、個の名で知る者はごく僅かであった。

 それが、彼女の全てだった。

 だからこそ彼女は、そんな力の塊こそが自分という存在の原点なのだと自然と理解し始める。

 多くの生物が自らの命のメカニズムに大した興味を抱かないのと同様に、彼女もまた自分の存在の根幹にある強さになど興味を抱くことはなかった。

 

 

 ――だけど、いつからか。今度は自分が一体どこにあるのかわからなくなっていた。

 

 

 ある日を境に、会ったことのない多くの者が存在そのものを気にも留めなくなり。

 実際に会ったことのある者は、妖怪とは思えないほどの非力さを一笑し。

 確か、その頃から彼女はこう呼ばれていた。

 

 ルーミア。

 

 妖怪でありながらも、妖精たちとさえ同列にされる木っ端妖怪。

 有象無象に紛れた、あまりにちっぽけな弱者として認識されていた。

 故に、彼女の本当の種族を知る者はほとんどいない。

 

 だが、それは彼女の全てではなかった。

 彼女が概念としてではなく、個として認識され始めたから。

 いつの間にか、彼女の周りには仲間がいた。

 力を失ったが故に得た友情、信頼、次第にそんな新たな価値観に満たされていく。

 いつしか彼女は、友人たちと共に過ごすそんな世界こそが、自分のあるべき場所なのだと感じ始めて――

 

 ――だとしたら。今までの私は一体何だったんだ?

 

 同時に、その感覚は彼女を困惑させた。

 自分という存在の原点は、本当に力の在り方そのものにあったのか。

 もしそうだとすれば、ルーミアとして仲間たちと過ごしている今の自分はかつての自分とは全くの別人で、空亡として孤高に生きてきたあの妖怪は、力を失った時にこの世から消えてしまったのか。

 それは答えの出ない哲学的な問いかけであっても、彼女にとっては死活問題であった。

 彼女が今まで生きてきたあまりに永き人生は、簡単になかったことにしてしまえるほど薄っぺらいものではなかったのだ。

 

 だからこそ。当時の彼女は、無自覚ながらにも確かに一人の少女に二度救われていた。

 

 闇の権化としての概念的な存在であった頃の彼女を、いとも簡単に打ち負かした一人の少女がいたから。

 その少女がいたからこそ、最強の空亡妖怪ではなくルーミアという個としての存在を実感することができて。

 ただの木っ端妖怪に成り下がった彼女を、空亡妖怪としての彼女を知りながらも共に過ごしてくれた一人の少女がいたから。

 その少女といる時だけは、自分がただの木っ端妖怪ではなく空亡妖怪という種であるのだと自覚できた。

 その感覚が、何となく嬉しかった。

 たとえその少女に、彼女を救おうなどという気が全くなかったとしても。

 自分の力も心も、かつての自分も今の自分も同じくここに生きていると感じられる、そんな居場所をくれたから。

 

 ――だから、なのかな。私があいつにこだわるのは。

 

 故に、それは必然だったのだろう。

 そんな居場所をくれたたった一人の少女が自らの存在意義を見出せていないことに気付いた時、彼女の心を埋め尽くしていた想いは――

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

外伝ノ肆 : 最強が生まれた日

 

 

 

 

 

 

 ルーミアは当然のごとく地に横たわり、静かな夜空を見上げていた。

 派手に撃ち合った弾幕戦によって数多の竹をへし折られた景色は、空をいつもより少しだけ広く感じさせる。

 ふと、視界の中心に鎮座する満月が届きそうなほど近くにある気がして、ルーミアは手を伸ばした。

 だけど、目の前にあるのは傷だらけで泥にまみれた弱弱しい手でしかなくて。

 遥か遠きあの場所に決して届きはしない無力さに囚われそうになって、伸ばしかけた手をそっと目元へと下ろした。

 

「やっぱり、貴方も満月に想いを馳せたりするのかしら」

「……いんや、別に」

 

 その声に、ルーミアは曖昧な返事で返す。

 夜の闇を掻き消す光を灯すその星は、空亡妖怪にとって忌々しいものであって、それ以上でもそれ以下でもないはずだったから。

 だが、言葉には出さずとも、力を失って初めて気付くこともあった。

 固定概念を捨てて見てみると、存外悪くないと。

 たとえ自分が他の妖怪のように月の魔力を得ることができずとも、その美しさに心が惹かれる程度の感覚はルーミアの中にも存在したのだ。

 

「そーいうお前はどうなんだよ。故郷が懐かしかったりするのか?」

「まさか」

 

 その一方で、同じく月を見上げていたはずの輝夜は、ルーミアの質問を簡単に笑い飛ばした。

 

「別に何とも思わないし、もう何も期待してないわ。地上も月も、結局は全部一緒よ」

 

 月にいようとも地上にいようとも、何も変わらなかった。

 いや、たとえどこにいても変わるはずがないのだ。

 未来への期待も、過去への郷愁も、もはや感じることはない。

 輝夜は既に、そういう存在としての生き方を確立させてしまったのだから。

 

「何だ、月でも地上でもどっちでもいいのか。てっきり気に入ったから地上に残ってんのかと思ってたんだけどな」

「……そうね。まぁ、確かに一時期は地上が面白いと思ったこともあるけど」

「そーなのか?」

 

 それでも、かつては地上での生活に少しでも楽しみを見つけたこともあった。

 輝夜は少しだけ記憶を辿っていく。

 無理して思い出さなくても自然と浮かんでくる、最も輝いていた日々の記憶を。

 

「昔ね、幻想郷にもちょっと面白い奴がいたのよ」

 

 それはいつも通りの、他愛ない会話のように何気なく語られた。

 

「面白い奴?」

「ええ。私に復讐をーとか言って喧嘩売りに来たバカな人間がいてね」

「……それって、面白いのか?」

「面白いわよー、何度ボコボコにしてもその度に強くなって戻ってくるの。おかげで全然退屈しなかったわ」

 

 その感覚は、あまりに永き時を生きながらも最近になって初めて知ったものだった。

 見苦しいほどの執着を持つ人間の、歪みきった魅力。

 輝夜はそれを、深く想起しようとする。

 だが、その記憶を辿ろうとして、それでも表情は次第に曇っていく。

 

「でもね、結局はそいつもいなくなったわ。友情や愛情だなんて、手を出すべきじゃない果実に誘惑されて」

 

 なぜならそれは、既に失くして二度と戻ることなき時間。

 今さら思い出してもただ空しくなるだけで、何の意味もないことに気付いていたから。

 

「……わからないな」

「何が?」

「友情や愛情に手を出すべきじゃないって、そんなの個人の勝手だろ。私が言うのも何だけど、復讐なんかよりよっぽど健全な生き方に思えるぞ」

「いいえ、違うわ」

 

 それはルーミアや、世界に生きるほとんどの感情に則れば悪いものではない、そんなことは輝夜にもわかっていた。

 だけど、自分にとって、その人間にとってのそれは、同じではないことを輝夜は知っていた。

 

「貴方は、有限の世界の住人だから。いつか散りゆく儚さを持っているからこそ、そう言えるに過ぎないのよ」

「……やっぱ、何が言いたいのかさっぱりわからん」

「そうでしょうね。だけど、私たち蓬莱人は違う。希望なんてものを抱けば抱くほど、いつか世界の残酷さに飲み込まれていくだけなの」

 

 不死とは、つまり誰とも共に歩けないということ。

 不老不死という人類の夢は、叶えられない夢に過ぎないから尊く見えるに過ぎない。

 友や愛する者との思い出を大切にしておけるのは、あくまで自分の命がいつか必ず終わってくれるものであるからなのだ。

 だが、不死者にとって楽しい記憶とは、幸せな効果の長続きしない一種の麻薬のようなものでしかない。

 周囲の誰もが、いつだって須臾の間に目の前から消えていく。

 一方で自分を取り巻くのは、たとえ宇宙が終わり無間の狭間に飲み込まれようとも終わることのない人生。それは絶望などという言葉で表せるものではない。

 終わることなき永遠を生きる者にとっては、失ってしまったものが大切であれば大切であるほど。

 後から思い出せるその記憶が、楽しく光り輝いていたものであればあるほど。

 その反動で、それから無限に続いていく歴史をより深い虚無の中に落とし込むだけなのだから。

 

「だからね。こんなのは、可能であればすぐにでも終わらせた方がいいのよ」

「……終わらせる?」

「ええ。半端な希望に縋って無間の重圧に圧し潰されてしまう前に。束の間の夢に浸っている間に消えられることこそが、私たち蓬莱人にとっての何よりの幸福だからね」

 

 ルーミアは輝夜から、寒気を感じさせるような視線を感じ取っていた

 私たち蓬莱人ということからも、その人間もまた本当は不死だったのだろうことは何となく予想できる。

 だが、気になったのはそんなことではない。

 淡々とそう言う輝夜から、ルーミアは一種の予感――いや、確信に近いものを感じていた。

 

「まさか、そいつがいなくなったのって……」

「そうね、いなくなったというのは語弊があったかしら。私が、あの子を終わらせたのよ」

 

 人間社会で初めて幸せを見つけ、満たされようとしてしまった人間の人生を、そのままの形で終わらせるため。

 輝夜は自分の人生の中で最も輝いていたその時間を、自ら終わらせようと決意したのだ。

 

「だけど、あの子も随分と未練がましくてね。あと少しでも、生きることへの恐怖を与えられればいいんだけど」

「……未練? そいつって、もう死んでるんじゃないのか?」

「いいえ。蓬莱人の命を完全に終わらせるっていうのは、そう簡単なことじゃないのよ」

 

 だが、正確には完全に終わってはいなかった。

 存在を喰い尽くされ、そこで全て終わるはずだった人間の魂は、消滅の間際に輝夜の存在そのものに少しだけ割り込み融合してしまったのだ。

 残された僅かな生に執着しようとする人間の感情は、未だに輝夜の中で細々と生き続けている。

 それは、輝夜にとって望ましい結果ではなかった。

 もしもこの先、自分が再び永遠の中を生き続けるようなことになれば、即ちその人間の魂もまた永遠の牢獄に囚われ続けることになってしまうのだから。

 そうなる前に、その人間に完全に諦めさせる必要があった。

 

「どこかにいないかしらね。あの子を納得させられるくらい、劇的に永遠に堕ちてくれる誰かが」

 

 故に輝夜が求めていたのは、その人間の魂を完全に終わらせるための、絶望という名の特効薬。

 それはただの絶望では足りない、生への強い執着を完全に抹消するほどの何か。

 どれほどの精神力を持った相手でも生きることそのものに恐怖を感じさせられるような、過剰なほどに残酷な出来事を探していた。

 

「……なるほどな。そいつを本当の意味で終わらせてやることが、今のお前の目的って訳か」

 

 ルーミアはその話から初めて、輝夜の確かな信念、強い目的意識を垣間見た気がした。

 その信念に巣食っていたのは、一種の負の感情。

 だが、それはただの負の感情ではなく名状しがたい感覚だった。

 希望であるか絶望であるか、愛情であるか憎悪であるかの狭間に位置する何か。

 誰よりもこの世の闇を見続けてきたルーミアだからこそ、そんな歪んだ、それでも確かに輝夜の心の奥深くまで根付いた感情の息吹を強く感じ取っていたのだ。

 

「そうね。確かにそれは私が未だに生きてる理由ともいえるけど……でも残念、惜しいけど少し違うわ」

「……ちょっと待てよ。生きてる理由、だと?」

「ええ、そうよ。ただ、あの子はあくまで最初の一歩。いずれ残りのふたりも――」

 

 そこまで言いかけて、輝夜は止める。

 自分が久々に感情的になっていたことに気付き、

 

「……少し、喋り過ぎたかしら。ごめんなさいね、こんなしょうもない話聞かせちゃって」

 

 またいつもの取り繕った微笑を浮かべ、話を打ち切っていた。

 それ以上語るつもりはなかった。

 それが聞いていて気持ちのいい話でないことくらいは、輝夜自身もよくわかっていたから。

 

「……半分くらいは冗談のつもりだったんだけどな。そんなのが生きる理由とか、マジで言ってんのかよ」

「そうね。私たち蓬莱人は、もはや誰の道とも交わることなんてできないの。ただ苦悩だけしか背負えない無価値な命に、希望を求めること自体が不毛でしょ?」

「だから、お前がその苦悩を終わらせてやろうってのか?」

「まぁ、いずれはね。そういうことになるのかしら」

 

 ルーミアの疑問の声も、既に気もならない。

 永遠を手にした時に命は価値を失うと、かつての輝夜にその身をもって教えてくれた人がいたから。

 それは月社会にいた時に嫌というほどに思い知らされてしまっていた、輝夜の中の真理なのだ。

 

「……はぁ。そんな、一人で何でも抱え込むなよ」

 

 だが、それを聞いたルーミアは露骨にため息をついた。

 輝夜はルーミアの反応に、特に何を思うでもなく淡々と返す。

 

「別に、抱え込んでるつもりなんてないわ。ただ単に、私には特に他の生きる意味もないからそうしてるだけだもの」

「……はーっ。私が言うのも何だけど、つまんない奴だな、お前」

「そんなの、私が一番よくわかってるわ」

「いんや。お前は何もわかっちゃいねーよ」

「私が、何をわかっていないと?」

「そういうところだよ。今の話をして違和感を感じてない時点で、お前は間違ってんだよ」

 

 他人の絶望を断ち切るために生きるというのは、ある意味では劇的で壮絶な生き方なのかもしれない。

 ただ、そうなり得るにはあくまでそこに自分自身の感情が必要なのだ。

 誰かのために生きるのは、その相手が自分にとって大切だから。

 見ず知らずの人々を救うため自分を犠牲にできるのは、それで自分の中にある正義を貫けるから。

 そういった目的のために自らの命を費やすことは、ある意味ではその他大勢の人々と何ら変わらない。

 決められたルールの中で怠惰な生き方をする者も、面倒ごとを避けて楽な人生を送りたいから。

 悪を成したり誰かを貶めようとする者も、利益や歪んだ自己満足を得られるから。

 自分の人生を何らかの形で彩るために生きる。光を求めようと闇に堕ちようとも、それだけは変わらない生命の原則であるべきだとルーミアは思っていた。

 

「よくわからないわね、貴方の言うことは」

「……そうかい」

 

 だが、輝夜はその段階にすら届いていないようにルーミアは感じていた。

 ルーミアが感じ取った輝夜の想いの中にあるものは、後悔や自責の念であるかすらもわからない、少なくともその達成は輝夜の人生に何ら関わりがあるものでもない。

 むしろ、これから続いていく果てしなき人生を、望まずして自ら虚無に落とし込むだけの、そんな目的に感じていた。

 輝夜は別に、不幸や被虐性を求めている訳でも、人生には意味がないと悟った虚無主義者である訳でもない。

 ただ、不老不死の存在だけは何者にもなれないと諦めているだけ。

 終わりがないが故に始まることすらできない、そんな果てのない人生に希望を抱けていないだけなのだ。

 

 だが、膨大の闇を見続けてきたルーミアであっても、それは受け入れられるものではなかった。

 絶対に受け入れたくはなかった。

 ルーミアがこんな退屈な竹林に来続けるのは、本当はスペルカードルールの練習のためだけではないのだから。

 

「ああもう、わかった!」

 

 だからこそ、ルーミアは意を決して言った。

 

「じゃあさ。だったら、私がお前の代わりに見てきてやるよ」

「え?」

 

 それはただの気まぐれで思いつきだったのかもしれない。

 それでも、ルーミアは何とかしたいと思った。

 輝夜は知り過ぎてしまったのではない。何も知らないのに、勝手に一人で諦めてるだけ。

 この儚くも美しき世界から、目を背けているだけなのだと。

 ならば、こんな偽りの虚無に囚われた馬鹿を、今度は自分が引っ張り上げてやりたいと。

 

「まぁ、こんなとこにいちゃ世界がつまんなく思えるのも仕方ないと思うけどさ。世界は広いんだぞ? お前が知らないだけで、これから先にいくらでも可能性があるんだ」

「そんなの、誰にだって同じことが言える訳じゃないでしょ」

 

 輝夜はきっと、不死となってしまった自分が特別な存在なんだと思っている。

 自分たちだけが、何一つとして希望のない世界で生かされていると勘違いした、長生きし過ぎただけの子供なのだと。

 ならば、正論や一般論を並べて説得したところでどうにもならない。

 

「そうだな、私も昔はそう思ってたよ。自分だけは他と違う、特別で孤独な生き方を強いられてるんだって」

「貴方は、勘違いだって気付いたでしょ?」

「そうだな。私はそういう世界に、初めて飛び込んでみたから」

 

 闇の権化として君臨していた頃には決して関わることのなかった、低級妖怪たちとの繋がりも。

 世界を気ままに渡り歩ける自由さも。

 このままではきっと、輝夜は一生知ることはない。

 ルーミアとは違い、その殻から飛び出すことなんて一生ないのだろうと思う。

 

「でも私は…」

「どーせお前は、お前たち蓬莱人だけは違うって言いたいんだろ? だからこそ、私はお前の代わりに……いや、お前と同じで、一人になってやるよ」

「え?」

「お前みたいに永遠に生きられる訳じゃない、だけどそうすりゃ少なくとも今だけはお前と同じ条件だ。私は同族の一人すらいないし本来の生きる意義すら奪われた、孤独な妖怪でしかないんだからな。お前の言う通り、誰とも深く交われないことで本当にこの命に価値がなくなるのなら、この先の私の人生なんて何も残されちゃいないつまんないものに見えるのかもしれないけどさ」

 

 だからこそルーミアは、輝夜を自分たちの側に引き上げるのではなく、逆に自分が輝夜と同じでいてやろうと決めた。

 自分は何者にもなれない、誰の特別にもならないと決めつけたまま生きてやろうと。

 たとえこの数百年で得た友人の全てを失うことになろうとも。

 誰と深く交じり合うこともなく、一人で旅する姿を見せつけてやろうと。

 

「でもな。たとえ、どんな生まれ方をしていても、どんな力を持っていたとしても」

 

 そして、誰と共に歩けなくても、この世界を愛せることを。

 それでも、人は一人にはなれないんだと。

 一人にはさせてくれないんだと。

 

「それでも、こんな世界も悪くないってお前に認めさせてやれるような思い出を、私が何度でもつくってきてやるからさ」

 

 探そうと思えば、誰にだってそんな世界が見つかるんだって、知ってほしかった。

 すぐに伝わらなくてもいい、それでも輝夜には少しでもこの世界に興味を持って見てほしい。

 この世界に、そしてそこに生きる輝夜自身の人生に、少しでも希望を抱いてほしかったから――

 

 

 

 その日から、ルーミアは一人で歩き続けた。

 時々竹林に立ち寄るものの、それ以外はいつも違う場所。

 それでも、彷徨い歩くその道中で様々な相手に出会っていた。

 

「畜生あいつら、私のこと馬鹿にしやがって」

「しょうがないでしょ。光の3妖精ってネーミングが、既に貴方の天敵っぽいじゃない」

「あー、まぁ、イタズラ仕掛けられただけだし、別に天敵って程のもんじゃないけど」

 

 ただ次々と、世界を一人で渡り歩いた。

 

「白玉楼の亡霊姫が、ヤバい。幽霊のくせに右腕に古の邪神を飼ってるとか……」

「それって、妄想の類じゃないの?」

「それな。いや、幽々子の何がヤバいって、あの歳で中二病を卒業してないのがヤバい」

 

 行く先も、目的も定まらない。

 ただ気まぐれに行く先々で、偶然にいろんな相手に出会って。

 

「神様に会ってきた、ねえ」

「でも神様ってのも別に恐ろしいもんでもないぞ。穣子なんて、ちょっとおだてりゃ大量に芋くれたし」

「……それって、特殊なケースじゃない?」

 

 そして、全て別れ続けた。

 出会った中には、もしかしたら生涯の友にもなれそうな相手だっていたけれど、それに後悔なんてなかった。

 だって、目の前に開けている世界は、一つだけではないのだから。

 たとえどれほど心地よい居場所を見つけようとも、次もまた違った楽しみを見つけることもできるから。

 それを知って欲しかった。

 たとえ輝夜が、誰との出会いさえも須臾の夢に消えてしまう、不老不死の罪人だろうと。

 また、見つければいい。

 この世界には、自分みたいなはぐれ妖怪でさえ受け入れてくれる、こんなにも面白い奴らがたくさんいるのだから。

 出会って別れてを何度でも繰り返して、それでもそんな人生に少しでも希望を持ってほしかった。

 勝手に何もかもを諦めたりせず、自分という存在に価値を見出して、前を向いて生きてほしかった。

 

「……異変を起こす?」

「今の幻想郷はスペルカードルールのおかげで異変も起こしやすいし、ただの気まぐれでも受け入れてもらえんだよ。別に理由なんて何でもいいんだ。ほら、たとえば月から侵略者が来る――とか」

「ふーん。まぁ、気分転換にはいいかしらね」

 

 だから、その次のきっかけは何でもよかった。

 難しいことなんかじゃない、いつか輝夜が少しでも自分たちと同じ目線で世界を見てくれるのなら。

 

「今まで、何人もの人間が敗れ去っていった五つの難題。貴方達に幾つ解けるかしら?」

 

 そこに少しでも、何かを見つけてくれたら。

 

「月の都の博覧会でも開けば、少しは退屈も凌げるかしら」

「おっ、いいな。準備は私も手伝うぜ?」

「やめときなさい輝夜。そんなの魔理沙に手伝わせたら、開催前に半分くらいなくなるわよ」

「むっ、失礼な。ちゃんと責任もって全部借りてくぜ」

「こらこら」

 

 そして、いつかほんの少し。

 たとえほんの少しだけでも、心から笑ってくれたのなら。

 

 ――その時は、絶対に言ってやろうと思う。

 

 したり顔で「な、言っただろ?」と、この世界の面白さを共感し合って。

 そして、「少しは楽しめそうかしら」なんて可愛げのない強がった声で、それでも輝夜が返事をくれる日が来たのなら。

 

 ――その時は、もう一度見せてやろうと思う。

 

 ずっと温め続けた、その言葉―弾幕―を。

 僅かな時間に過ぎなくとも、今は自分という友が隣にいるのだと。

 たとえ自分が消え去る日が来ようとも、きっとまた誰かが一緒に、どれだけ遠き世界までだって歩んでくれるのだと。

 

 そして、ルーミアは願う。

 いつかきっと受け身じゃなくて、自らの意志で。

 共に笑い合うために輝夜の方から誰かを求めて手を伸ばしてくれる、そんな日が来ると信じて――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何なんだよ」

 

 ルーミアは苛立ちを込めた声でそう吐き捨てた。

 自分の奥底から絶えず湧き上がってくる何かは、きっと本当のルーミア自身の強い想い。

 それは恐らく、特定の誰かに向けたものなのだろう。

 だが、悪の人格へと裏返った今の自分とは関係のないはずの記憶に、どうしようもないくらいに気持ち悪さを感じていた。

 その想いは、本当にその一人に向けたものだったのか。

 その一人に伝えるために、ただそれだけのために紡いだ言葉だったのか。

 

「何か、不満か?」

「いいや。ただな、ちょっと自分が理解できないってだけだ」

 

 何もわからなくなっていた。

 気付くと、ルーミアは奇妙な感覚に支配されていた。

 今の自分にあるはずのないもの。

 友情、愛情、信頼、希望、そんな不可解な何かに「近い」だけの異物が、絶えず感情の中を暴れ回っていた。

 

「そうかい。だったら続きだ。まだ終わっちゃあいねえだろ?」

「……ああ、そうだな」

 

 勇儀からの問いかけに答えた「そうだな」という返事は、もはや肯定ではなかった。

 虚ろな目でそう言ったルーミアからはもう、少し前までさとりに向けていたような身も凍るほどの殺気を感じられなかった。

 

 復活を遂げてからどれだけの時間が経っただろうか、ルーミアの力の糧は既にいくつかが消え去ったのを感じる。

 幽香の抱える怒り、にとりの抱える嘆き、特にみとりが蓄積させた闇を失ってしまった穴はあまりに大きかった。

 何より、ルーミア自身の覇気が、どうしようもないくらいに萎えてしまっていた。

 

「シャッ!!」

 

 勇儀が振り抜いた拳に、ルーミアは避けることも受け身をとることすらもなかった。

 あまりにあっけなく勇儀の全力を受けたルーミアは、大地を削り取るような衝撃波とともに飛ばされ辺りの地形を激変させていく。

 

 やがて戦場に出現したクレーターの中心で、ルーミアは倒れたまま動かなかった。

 ただ呆然と広大な夜空を見上げ、やがてその中心にある満月に向かって無意識に手を伸ばす。

 綺麗な手だった。

 それは満月など目にも入らないほどに異常な光景。

 勇儀に殴られたその顔を拭ったはずの、それでも血の跡すらもない自分の手を、ルーミアはただじっと見ている。

 何をするでもなく、土埃の一つすらないその身体で寝転がったまま動けずいた。

 

「……何を寝てやがる。こっちを、見やがれ!!」

 

 無防備なルーミアの顔面に向かって、勇儀は上空から容赦なくその拳を振り下ろしながら叫ぶ。

 だが、その声は届かなかった。

 ルーミアはもう、勇儀を見ていない。

 世界を見ていない。

 ルーミアは自分の中で渦巻く何かに気を取られながらも、それが当然の摂理であるかのように迫りくる勇儀の拳を片手で軽く受け止める。

 その一振りで万物を粉微塵にするはずの一撃は、それでも今のルーミアには注視するに値しなかった。

 

「ぐっ―――!?」

 

 何が起こったのかすら見えなかった。

 確かに全力だった自分の一撃を簡単に止められた勇儀は、次の瞬間既にそこにいなかった。

 いつの間にか何かに顔面ごと弾き飛ばされ、折れた歯と噴き出した鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながら、無防備なまま地を滑っていく。

 だが、ルーミアはそれに追い打ちをかけはしない。

 

「っ……くそっ。余裕の、つもりか?」

 

 やがて地に両手両足を刺すようにして無理矢理その場に留まった勇儀は、息を切らして膝をつきながらも、決して背を向けず笑っていた。

 折れてしまった自分の鼻を力ずくで元に戻し、その二本の足でもう一度立ち上がり歩き出す。

 それがもう、ただの虚勢であることくらいはわかっている。

 それでも、恐怖や後悔など欠片も無い。

 この世界に生きる一匹の鬼として、その闘志はどこまでも折れることなくまっすぐに君臨していた。

 

「……強いよ、お前は。もしかしたら、昔の私になら届き得たのかもしれないくらいに」

 

 ルーミアはゆっくりと起き上がり、勇儀の方へ向き直る。

 だが、そう言いつつも、それはもはや同情でしかなかった。

 レミリアの闇を飲み込み、さとりの歪みを飲み込んだルーミアの前では、たった一人の鬼の力などあまりに無力だった。

 

 4対1で始まったはずの戦いは、今やルーミアと勇儀の一騎打ちとなっている。

 そもそも、勇儀以外はほとんど戦えてすらいない。

 さとりを飲み込むとともにルーミアの内で溢れ出した奇妙な何かは、気持ち悪さ以上にルーミアに強大すぎる力をもたらしていた。

 頭を押さえて苦しむルーミアを取り囲んだ闇の暴走は、とっさの瞬発力で反応できた勇儀を除き、空とお燐とこいしを自動的に飲み込んで消し去るのにものの数秒もかからなかった。

 そして、少し前にルーミアの中で新たに湧き上がった何か。

 いつの間にかルーミアの中に巣食っていた、先に失った幽香やにとりの感情など比較にならないほどの闇は、それまでの力の蓄積と相まって、期せずともルーミアに更なる力をもたらしていたのだ。

 それこそ、かつての自分を陥れた閻魔も、自分を有象無象のごとく負かしてみせた月人でさえも、もはや誰も届き得ないのではないかと思えるほどに。

 

「はっ。そんなの、何の慰めにもなりゃしねえんだよっ!!」

 

 勇儀は地面を強く踏み抜く。

 地割れを起こした衝撃はルーミアの足を地に縫い付け、同時に背後の逃げ道を塞ぐかのように地形を変革させる。

 そして、その二歩目を踏み出した勇儀は――

 

「かっ……!?」

「いいや。これはな、珍しくも私の本音さ」

 

 三歩目を踏み出すより遥か前の、たった一撃。

 それで全て終わったのは、一目瞭然だった。

 ルーミアは勇儀の速度を逆手にとったカウンター気味に、胸を貫いて過ぎ去っていた。

 だが、身体の中心に風穴を空けられてなお、それでも勇儀は退くことも倒れることもない。

 

「一応、最後に名を聞いておこうか」

 

 最後と、言われた。

 悔しいが、その通りだった。

 勇儀にはもう、あと1秒の虚勢を張る力もなかった。

 目の前にいるはずの相手に、かすり傷の一つをつけることも名乗ることもできずに倒れて終わり。

 そんな情けない終わり方しか、残されていなかった。

 その、はずだった。

 

「……星熊」

 

 だが、勇儀は口を開いた。

 そんな余裕があるはずのない中で放った言葉は、それでもそこで止まってしまう。

 

 ――ああ、畜生。

 

 悔しそうに、勇儀の口元は歪んでいた。

 最後まで言い切ることはできずに、そのまま倒れるように崩れ落ちて、

 

「―――――っ!!」

 

 一歩で、耐え抜いた。

 もはや機能していない足を無理矢理叩き起こそうとするかのように、強く地面に押しとどめる。

 身体の中心に空いた傷口さえも自ら焼き塞ぎ、僅かな意識を未だ留め続けていた。

 

「……情け、ねえよなぁ」

「そうだな。自分の名前くらい、最後まで言ってけよ」

「違えよ」

「あ?」

「そんなんじゃ、ねえんだよ!!」

 

 その叫びとともに勇儀は強く踏み込み、ルーミアを突き飛ばす。

 同時に勇儀の口から血が飛び散り、その血に混じって何かが飛んでいく。

 残された歯同士をぶつけ合わせて砕けた歯の欠片と、噛み切った舌だった。

 自らを戒めるその新たな痛みに集中することで、辛うじて意識を保っていた。

 

 誓ったはずなのに。

 なのに避けられない敗北の際は潔く、美しく最期を飾ろうとした自分の姿を想像して吐き気がした。

 何故、名乗る余裕があるのなら立ち上がらない。

 何故、踏みとどまる余裕があるのなら拳を振り抜かない。

 そう嘲笑せんばかりに、勇儀は笑った。

 

 ――ったく。まだまだだなぁ、私は。

 

 勇儀はただ、その右手一本に自らに残された生命力の全てを流し込む。

 何もかもが勇儀の拳に向かって萃まり、ルーミアの纏っていた闇すらも飲み込んで力という概念そのものを自らの拳の中心に凝縮する。

 隙だらけの、一対一の勝負では不向きに見えるその力。

 既に全身がボロボロで醜く汚れ、自ら拳を突き出すことすら無理に見える無様な姿。

 それは見るに堪えないほどの、ただの悪あがきでしかないはずだった。

 

 だが、ルーミアはそれを黙って見ていた。

 勇儀を軽視している訳でも、警戒している訳でもない。

 ただ恐らくは、その生き様を最後まで見届けたいと思ってしまったから。

 

 

    ――ラストスペル――

 

 

 やがて勇儀の姿を真正面に捉えたルーミアは、辺りを取り囲んでいた闇の力を自らの内に還して静かに構える。

 ルーミアは自分の意志で全力を身に纏った。

 ボロボロの、立っていることすら困難なはずの勇儀を見ただけで、それでも目の前の世界の一切が風塵に帰す未来が見えた気がしたから。

 だが、勇儀の全てを懸けたその一撃でさえ今の自分には決して届き得ないだろうことは、本当はルーミアにはもうわかっていた。

 

 それでも全力を出すのは、ただ純粋に自分がそうしたいと思ったからだった。

 

 

 ――嗚呼、そうだ。

 

 

 ルーミアは何かを悟ったようにもう一度正面を見据える。

 

 目の前にあるのは、自らの信念のもとに全てを懸ける誇り高き鬼の姿。

 この幻想郷に残存する者たちの中で、現状を打破しうる唯一と言っていい可能性を秘めた強者。

 だが、その全力さえも正面から簡単に打ち砕ける。

 この世界に最後に遺された僅かな希望さえも、軽々と掻き消せる圧倒的な力。

 あらゆる光を、問答無用に闇に染め上げていくための存在。

 

 

 ――それこそが、本当の私なんだ。

 

 

 いつの間にか、自然と笑みがこぼれていた。

 少しだけ気持ちが楽になっていた。

 誰も比することさえできない最強の妖怪、力の権化であった空亡妖怪としての自分を思い出して。

 やはりこの感覚こそが、本当の自分の在り方なのだと。

 ルーミアは自分の中の血が少しだけ騒ぐような気分とともに、僅かながらもこの瞬間に愉悦すら感じていた。

 

 そして、ルーミアは身体の奥底から湧き上がってくるその衝動に身を任せたまま、勇儀の目に灯った炎が――

 

 

   「『―」

 

 

 静かに、背後から押し寄せた闇の中に飲み込まれていく様を見届けていた。

 

 次の瞬間には、視線の先にはもう何もなかった。

 あまりにあっけなく、戦いは終わっていた。

 終わらされていた。

 命の全てを振り絞ろうとした勇儀の全力も、それを受け入れようとしたルーミアの意志すらも、介入する余地などない。

 それは誰の想いが果たされた訳でもない、無意味な終焉の形。

 ただ、勇儀の最期を見届けたルーミアの目は絶望でもなく狂気でもなく、

 

 

「……ふふふ。あはははははははははは」

 

 

 無機質な、乾いた笑いがこみ上げてきた。

 

 

 ――そうか。

 

 ――やっと、わかったよ。

 

 ――私が。

 

 ――私の意味が。

 

 ――私がもたらそうとするものが。

 

 

 自己嫌悪、というのとも違う。

 ただ、自分がこんなことのために生まれて、こんなことのために死んでいく。

 そう宿命づけられた存在なのだと、気付いてしまった。

 

 

 ――『常闇』が、巣食っていく。

 

 

 ――『災厄』が、降り注いでいく。

 

 

 ――『破滅』が、加速していく。

 

 

 ――『無間』が、覆い尽くしていく。

 

 

 ただそれだけが、今ここにいる理由。

 

 せめて、自分が悪であるのならよかった。

 誰も比することのできない最悪の敵、森羅万象に恐怖を与える『絶対悪』として存在できるのなら、まだよかった。

 だが、本当は自分の存在意義など、どこにもありはしない。

 空亡妖怪として世界の闇を飲み込み続けた生き様も。

 ルーミアという個として生きてきた記憶も。

 そして、それらを塗りつぶして表出した裏人格が感じていた衝動すらも、何もかもが自分の意志ではない。

 

 ただ定められた計画のままに、この世の全てを―――

 

 

「……さあ、終わらせようか」

 

 

 ルーミアは空虚な笑みを浮かべ、静かに闇の中へと消えた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

総集編
ここまでのあらすじ①




 感想欄にて、まとめ的なものが欲しいとのご要望をいただいたため書いてみました。
 内容ざっくりまとめるだけなので、更新にあんまり時間はかからないと思います(12月初旬には次章の投稿予定です)。

 特に読む必要はありませんが、何が起こってるのか忘れた方、また別作や外伝を飛ばして読んでる方等はご活用ください。


 今回は1話~13話(プロローグ、前編)のまとめです。




 

 

 

 

〇プロローグ(1~2話)

 

 

 

 地底の異変から間もなくして、幻想郷を覆う不穏な影。

 幻想郷の生態系が狂い、弱き者たちが力を得て下剋上を起こし始めていく。

 そして、天狗の住処の壊滅という事件をきっかけに新たな異変の恐怖は幻想郷中へと広がった。

 

 いち早く異変の解決に乗り出した早苗と魔理沙だったが、3日が経っても有力な手掛かりを得ることはできなかった。

 ほどなくして遂に霊夢と紫が動き出す。ようやく異変も終わるだろうと思って萃香と一緒に博麗神社で待っていた早苗と魔理沙の前に突然現れたのは……なんと、血まみれになって倒れた霊夢の姿だった。

 3人は大急ぎで永遠亭へと向かい、永琳による治療の成果もあって霊夢が無事であると確認する。

 だが、ホッとしたのも束の間、永遠亭に現れた藍から、霊夢と一緒に異変解決に向かった紫が死んだことを告げられる。

 

 紫の死と霊夢の敗北を知った者たちは、未曾有の危機に立ち向かうため、それぞれが別の道へと進んでいく。

 早苗は守矢神社に戻り、文と萃香とともに、死した紫から話を聞こうと彼岸へ向かった。

 魔理沙は紅魔館に行き、アリスとパチュリーとともに、前回の異変の舞台である地底の関与を疑い、地底へ向かった。

 うどんげは永琳から異変調査の命令を受け、一人で妖怪の山や藍の監視に向かった。

 

 だが、それを見守る者たちからは、不穏な空気が漂っていた。

 早苗に内緒で何かを始める神奈子と諏訪子。

 幻想郷の運命の行く末を、誰も変えられないものとして一人閉じこもるレミリア。

 

 異変は既に、手遅れになりかけていたのだ。

 

 

 

 

〇前編ノ壱

 

 

<早苗編>(3~4話)

 

 異変の影響で強大化したチルノの力によって、森が凍ってしまっていた。

 あまりに強大な力であるが故に妖精たちを遠ざけてしまったチルノは、遂には最後まで一緒にいてくれた大妖精とルーミアの身を案じ、一人になろうとする。

 だが、そこに現れた早苗がチルノにスぺルカードルールで勝負を挑み圧倒し、チルノの力がまだそこまで危険ではないと証明した。

 無事に元気を取り戻したチルノに、早苗はお悩み相談所とばかりに守矢神社を紹介し、チルノたちは守矢神社に向かうこととなった。

 

 早苗と文と萃香が三途の川へ到着すると、舟の上で仕事をサボっている小町がいた。

 早苗たちは小町から、彼岸に渡ることの不可能性を告げられてしまう。

 しかし、かつて博麗の巫女が勝手に彼岸に渡ったことがあるという小町の失言を聞いた早苗が、一人で勝手に三途の川に突入してしまった。

 早苗の奇行の責任が自分に降りかかることを恐れた小町は妥協し、最終的に小町の案内により彼岸へ向かうことで合意する。

 

 だが、彼岸へ着くと、そこには誰もいない荒れ果てた海岸ばかりが広がっていた。

 映姫の身を案じた小町が大急ぎで走り出したが時すでに遅し、既に彼岸は壊滅状態であり映姫の敗北を悟ってしまう。

 悲しむ間もないまま、そこに駆け付けた死神たちに、小町と早苗たちはその惨状の容疑者として追われることとなってしまった。

 萃香は一人で死神たちの足止め役を買って早苗たちを逃がそうと奮闘するが、そこに現れたのは――なんと、花の大妖怪風見幽香だった。

 異変の影響で力を得ていた幽香に、萃香は必死に抵抗するも敗北する。

 そして、自らの能力で作った分身で、早苗と文に最期の言葉を残し……消えた。

 萃香の消滅をきっかけに、早苗は異変ともう一度向き合う。

 神奈子や諏訪子の異変への関与に気付きながらも目を背けていた自分を恥じ、神奈子たちの企てている「破邪計画」の真相を知るべく文とともに守矢神社へ向かった。

 そして、小町はたった一人で三途の川に残る。

 早苗たちが異変を解決すると信じて。そして映姫の仇を討つために、たった一人で幽香に立ち向かって――――

 

 

<魔理沙編>(5~7話)

 

 地底に入って間もなく、魔理沙たちはお燐と出会った。

 地底の案内役を買って出たお燐であったが、お燐がさとりのもとへ向かうことを知るや否やアリスとパチュリーは逃げ出してしまう。

 仕方なく2人で旧都へと進んだ魔理沙とお燐の前に、勇儀率いる妖怪軍団が現れた。

 魔理沙を小馬鹿にしたような地底の妖怪たちの態度に魔理沙はブチギレ、妖怪たちを一蹴する。

 魔理沙の力を認め本気の勝負を挑もうとした勇儀だったが、魔理沙は地霊殿での用事が終わってからの再会を約束してその場を去る。

 だが、実際のところ魔理沙は約束を守るつもりもなく逃げただけだった。だって勇儀さん怖いんだもの。

 

 地霊殿へ辿り着いた魔理沙はさとりと話し合い、勇儀に勝てたら異変の情報を教えるとさとりから提案された。

 その提案を受け入れることに躊躇った魔理沙であったが、悩んでいる間にアリスとパチュリーが勇儀にさらわれてしまったことを知る。

 それに激怒した魔理沙は2人を助けるために急いで勇儀のもとへ向かい、卑怯な手を使って勇儀を撃破した。

 卑怯な手を嫌う勇儀であったが、アリスとパチュリーを守るという魔理沙の気迫に気圧され、最終的に自らの敗北を宣言した。

 そこに現れたさとりに連れられて、約束通り一行は異変の原因を探りに旧灼熱地獄へと向かうこととなった。

 

 旧灼熱地獄には、怨霊の巣窟があった。

 さとりはその中で最も強力な怨霊を、突然に魔理沙の中へ叩き込んだ。

 怨霊に乗っ取られ死にかけた魔理沙だったが、アリスたちのおかげで意識を取り戻すことに成功する。

 怨霊に一時的に支配された魔理沙が知ったのは、地上に出た怨霊に復讐の念があり、その目的がにとりへ向けられていることだった。

 魔理沙とパチュリーはにとりの無事を確認するため妖怪の山へと向かうが、アリスだけは地底の後始末のためその場に残り、さとりを心理戦で下した。

 さとりはアリスのことを認め、異変の果てを探りにこいしとともに地上へと向かうこととした。

 アリスはパチュリーとの待ち合わせ場所である紅魔館へ向かい、勇儀もまた地上へと向かうのだった。

 

 

<うどんげ編>(8話)

 

 妖怪の山では、神奈子と諏訪子と、そして藍が「破邪計画」のためにひっそりと動いていた。

 そこに、見張りをしていた椛から侵入者発見の警報があり、諏訪子とともに追いかけるもロストする。

 それが永遠亭の使いであることを知り、焦った神奈子たちは策を練り始めた。

 

 藍たちの企みを知ったうどんげは永遠亭へと飛び帰るも、途中でてゐと輝夜に遭遇した。

 永琳が博麗神社に向かったことを聞かされて急いで博麗神社に向かい、永琳に異変の調査結果を報告する。

 破邪計画の名から、永琳は紫たちが「絶対悪」なるものを封じようとしている可能性を示唆する。

 だが、その考察中に、いかにも敵という雰囲気で現れたのは雛だった。

 雛はうどんげにあっさり敗北してしまうが、雛が切り札を切った途端うどんげは一蹴されてしまう。

 力を得た雛の危険性に気付いた永琳は前線に立ち、片腕を失うほどの激戦の末、最終的に雛を撃破する。

 だが、永琳の全力を受けてしまった雛の身を案じたうどんげを、再び動き始めた雛が隙をついて攻撃。庇おうとした永琳が、なんと雛の力に飲み込まれて消えてしまった。

 永琳が蘇らないことに気付いたうどんげは、そのまま一目散に逃げだした。

 

 

 

 

〇前編ノ弐

 

 

<守矢神社編>(9話)

 

 チルノとルーミアと大妖精は、早苗に勧められるまま守矢神社に向かっていた。

 途中、異変後の別れを切り出したルーミアにチルノは再会を約束するも、守矢神社で待ち伏せしていた椛にルーミアが突然斬られてしまう。

 逆上したチルノが椛に攻撃したところで早苗と文が到着、椛の凶行が自分の指示だと告げる神奈子と、チルノたちを攻撃する諏訪子が登場する。

 神奈子の言葉で破邪計画の現状を把握した文は、早苗を神社から遠ざけようと早苗にスペルカード戦を挑んだ。

 早苗は切り札を使って文を負かし、チルノたちを助けようと諏訪子に勝負を挑むも、早苗の力は神奈子によっていとも簡単に打ち破られてしまった。

 

 そして、神奈子の標的はチルノたち、そしてルーミアへと向けられる。

 だが、神奈子がチルノとルーミアをまとめて消滅させようとした瞬間――チルノと大妖精を庇い、ルーミアが消滅してしまった。

 ルーミアの死を間近で見たチルノは、得体の知れない声に導かれるままに内なる憎悪を増幅させ、劇的に力を増していく。

 同時に神社周辺は闇に覆われ、椛がそのまま飲み込まれてしまった。

 早苗と文は何とか逃げ切ったが、早苗たちを逃がそうと奮闘する諏訪子の胸をチルノが貫き、何者かの力によって神奈子の身体が蝕まれてしまっていた。

 やがて力を失った神奈子と諏訪子は闇に飲み込まれ、守矢神社は完全に崩壊した。

 

 

<にとり編>(10~11話)

 

 天狗の生き残りの猛攻を避けながら、魔理沙とパチュリーはにとりのもとに辿り着いた。

 破邪計画なるものの主任技術師であるにとりは、藍に守られているため比較的安全だったのだ。

 魔理沙たちは藍の話から破邪計画の概要、そしてこの異変の原因である邪悪の力のことを知る。

 しかし、破邪計画の根幹を担う技術者であるはずのにとりは、既に邪悪の力に支配されていた。

 にとりは科学の力を使って突然藍とパチュリーを攻撃し、それを止めようとした魔理沙さえ攻撃した。

 そして、動けなくなった藍に向かって、にとりが無慈悲にもライフルを放つと――その銃弾は、危機一髪で駆け付けた霊夢によって止められていた。

 

 霊夢は銃を使うことはルール違反であるとし、にとりに正しいスペルカード戦を挑む。

 だが、にとりはスペルカードルールに則るつもりなどなく、霊夢を殺す攻撃を放ち続けていた。

 霊夢はそれを回避し、回避し続け、それでもにとりには危害を加えずに説得していく。

 やがて霊夢の気持ちが届いたのか戦いをやめようとしたにとりだったが、それでも妖怪の山の支配構造の犠牲になって追放された姉のことを思い出し、再び霊夢と対立する。

 そこに突如として、にとりの全てを否定するような言葉とともに、辺りを覆いつくす闇の中からルーミアが現れた。

 

 

<ルーミア編>(12話~13話)

 

 現れたルーミアは今までとは違う、とても低級妖怪とは思えないほどの力の波動を放っていた。

 ルーミアはその場の雰囲気を滅茶苦茶にするとともに、にとりの心を壊して闇の中に飲み込んでしまう。

 憤慨する魔理沙たちの中で、それでも霊夢だけは一人冷静にルーミアと対話しようとしていた。

 だが、霊夢はルーミアから聞かされる。

 幻想郷の皆を、そして紫を消したのは全てルーミアの仕業なのだと。

 

 それを聞いた霊夢は、我慢の限界を超えた。

 霊夢の中に眠っていた邪悪の力の片鱗が解放され、その力の事実が明かされるとともにルーミアが追い詰められていく。

 だが、ルーミアが最後の力を振り絞って藍を人質にとると、霊夢は藍を庇って闇に飲まれてしまった。

 霊夢を飲み込むとともに回復したルーミアに、魔理沙が遂にキレて全力の魔法波を放つが……それは、突然来たレミリアによって止められてしまった。

 そして、レミリアは皆に向かってその運命を告げる。

 

 ――幻想郷は、滅びる運命にあるのだから。

 

 ルーミアと、そして異変によって力を得たレミリアの、あまりに次元の違う力を前に皆が絶望していく。

 そんな中でも、パチュリーは諦めていなかった。

 そして、レミリアも。

 パチュリーの声に導かれるようにレミリアはルーミアを裏切り、皆を逃がすために一人でルーミアに立ちはだかった。

 ルーミアとの力の差は歴然であったが、レミリアは全く諦めていなかった。

 なぜなら、運命は変えられるものだと知っていたから。

 

 少し前まで、確かにレミリアは幻想郷崩壊の運命を知り、それを変えられないものとして全てを諦めていた。

 だが、突然紅魔館に現れたさとりが、レミリアの中にあった固定概念を壊し、救ったのだ。

 まだ、諦めなくてもよいと。

 レミリアにはそのための、運命を変える力がある。

 そして――――この状況でも自分と共に戦ってくれる、咲夜とパチュリーという素晴らしい友がいるのだから。

 

 戦場から藍とともに逃げ出した魔理沙は、博麗大結界の生成が必要なこと、そしてルーミアの力の源となる支柱を倒す必要があること藍から聞かされる。

 そして、2人はそれぞれ進むべき道へを行く。

 魔理沙はアリスの協力を仰ぐべきとし、紅魔館に向かうことにした。

 藍は、今まで自分にはできないと思っていた、異変を解決するための一つの方法を実行に移そうと、一人でとある場所に向かっていった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ここまでのあらすじ②



 今回は14話~27話(中編)のまとめです。





 

 

 

 

〇中編ノ壱

 

 

<魔理沙編>(14~19話)

 

 幻想郷は、既に邪悪の力の感染者で溢れていた。

 異変に対抗するため、アリスと小悪魔は紅魔館の図書館で調べ物を続けている。

 そして、それを守るかのように、美鈴は紅魔館に押し寄せる妖怪たちの群れをたった一人で撃退していた。

 

 程なくして、魔理沙が紅魔館に到着する。

 魔理沙はアリスに協力を求めたが、ルーミアへの殺意に囚われている魔理沙に対し、アリスは魔理沙を見捨てるかのように冷たく振る舞う。

 同時に図書館まで揺れが伝わるほどの異常事態が起こるが、アリスに拒絶されたと思った魔理沙はやむを得ず一人で外に出ることに。

 そこには、崩れた紅魔館の瓦礫に埋もれている美鈴と、そして邪悪の力に憑りつかれた幽香の姿があった。

 既に紅魔館の周りは闇に支配された数百の妖怪や猛獣たちによって取り囲まれ逃げることもできず、魔理沙と美鈴は四面楚歌の状況で幽香に挑むも、あっさりと敗北してしまう。

 己の死を待つだけの、絶体絶命のピンチ。

 だが、そこに突然現れた一人の狂った吸血鬼が周囲の妖怪たちを焼き払い、幽香に襲い掛かった。

 魔理沙たちはその隙をついて図書館へと逃げるも、吸血鬼はすぐに幽香にやられてしまう。

 それでも、狂っているはずの吸血鬼の目は諦めていなかった。

 そこに、譲れない想いがあったから。

 

 吸血鬼はレミリアの実の妹で、名をフランドール・スカーレットという。

 フランはかつてレミリアと両親とともに、紅魔館で幸せな日々の中を暮らしていた。

 だがある日、フランは自らの『あらゆるものを破壊する能力』の暴走によって自らの両親を殺しレミリアの半身を消し飛ばしてしまった。

 それでも、レミリアはずっとフランを守り続けてきた。

 その残酷な事故の記憶を忘れられるように、そしてその身に宿した狂気により自壊しないよう、フランはレミリアによって特殊な結界を張った地下室に500年近く閉じ込められてきたのだ。

 今のフランにその記憶はない、それでもフランは心の奥底でレミリアを信じていた。

 そしてレミリアもまた、いつかフランを無事に外に出してあげられる日が来ると信じて、ただフランのためだけに生きてきた。

 

 だが、レミリアは壊れてしまった。

 数百年の時をフランを救うためだけに費やしてきたが、何度失敗を繰り返してもその運命を変えることができなかったから。

 やがて感情を失くしていったレミリアを見ていることに耐えきれず、フランは自殺を企ててしまう。

 それでも、自殺を決行する前日にフランが見たのは、いつもと違うレミリアの表情。

 不敵に笑う、フランが何よりも求め続けたレミリアの姿だった。

 

 だから、フランは満身創痍で幽香に敗れそうになろうとも、絶対に諦めなかった。

 やっとレミリアが救われる日が来たのだから。

 何があっても紅魔館は、レミリアの帰るこの場所だけは守り抜くんだと、狂気の奥底で薄れていく意識の中で願って―――奇跡が起きた。

 フランは正気を保ち、幽香へと一矢報いることに成功したのだ。

 だが、それは奇跡でもフラン自身の力でもなかった。

 そこに存在した、もう一つのイレギュラー。

 『無意識を操る能力』を持った古明地こいしという策士の存在によって、終始攻勢だった幽香は、いつの間にかフランとこいしの二人に敗れてしまったのだ。

 

 だが、こいしに破れ、異変の情報源とされてしまった幽香のプライドは、その事実に耐えられなかった。

 全てを捨ててでも勝ち続けるために、幽香は邪悪の力に自らの全てを捧げ、更に強大化した幽香の力はあっという間にフランとこいしを圧倒する。

 なす術を失い、こいしは自らの命を諦めかける。

 

 そんなこいしを救ったのは、なんと魔理沙だった。

 

 本当は魔理沙は、幽香たちの戦いに恐怖し逃げ出そうとしていた。

 だけど、魔理沙は聞いてしまったのだ。

 臆病者の自分を心から信じてくれるアリスの声を、小悪魔の声を、美鈴の声を。

 もう、逃げ場などない。

 霊夢はいない、誰かを頼れる状態じゃない、それでも霊夢を、にとりを、大切な皆のことを守れるのは自分しかいないと気付いたから。

 だから、魔理沙は立ち向かう。

 それが無謀とわかっていようとも、たった一人で幽香の前に立ちはだかり、スペルカード戦を挑んだ。

 

 幽香は、スペルカード戦になど全く則る気はなかった。

 その気になれば一瞬で魔理沙など消し炭になっている状況で、それでも魔理沙を生かしていたのは幽香自身の魔力であった。

 自分の中に抑えきれない幽香の魔力が空間一帯に充満し、魔理沙はそれを利用することで幽香と互角に渡り合っていたのだ。

 だが、それでも力の差は歴然。魔理沙はあっという間に追い詰められ……それでも、こいしのサポートによって九死に一生を得ていた。

 こいしは幽香の無意識に介入することで、幽香の行動を誘導しようとしていたのだ。

 そのために、こいしは幽香の記憶を、その無意識の奥底を辿っていった。

 

 かつて幽香は最強の妖怪と呼ばれ、その名が放つ恐怖のもとに幻想郷の花を守り司る大妖怪として君臨していた。

 だが、最強という名は時に望まずして災厄を、伊吹萃香という鬼を呼び寄せてしまった。

 萃香は鬼の力を顕示するために幽香を正面から打ち負かし、幽香の住処である太陽の畑を焼き払った。

 幽香は太陽の畑を失い、そして最強の名を失ったことで花を守る抑止力を失い、幻想郷の花は次々と儚く散っていった。

 花々の命がゴミのように失われていく景色を見ながら、幽香は誓った。

 自分が真の最強となればいい。

 花を傷つける気持ち自体を誰の心にも生じさせないよう、情け容赦の一切を捨て全てを恐怖で支配すればいいと誓った。

 それでも再び映姫によってもたらされた新たな敗北は、幽香からプライドを奪い去っていく。

 幽香はもう、妖怪の限界を超えられない自分への怒りを抱いたまま、ただ願うことしかできなかった。

 たとえ何に縋ってでも圧倒的な力が欲しい、強くなりたいと。

 その願いが、幽香を邪悪の「怒りの支柱」へと導いたのだ。

 

 だが、幽香の記憶の中には、今の幽香と矛盾する強さの記憶があった。

 どれだけ弱くとも強くある、1人の人間の姿。

 その相手こそが、かつて花の異変で幽香を破った魔理沙だった。

 そんな魔理沙の強さに心のどこかで憧れていた幽香は、力を求めて何もかもを捨ててしまった今の自分にも全力で向かってくる魔理沙の眩しさを見て、我に返った。

 魔理沙には、こんな力に頼らずに自分の力で勝ちたい。無意識から生まれたその気持ちが、支柱としての力を幽香の中からはじき出したのだ。

 やがていつもの状態に戻った幽香は、満身創痍のままに、それでも魔理沙とともにスペルカードルールの中に身を投じていった。

 

 一方で、その状況をつくりだしたこいしには、限界が来ていた。

 幽香の無意識を操るために、自分という存在そのものを世界の無意識と一体化させたこいしには、もう誰も気付くことも思い出すこともできない。

 誰からも忘れ去られた時に訪れる妖怪の死を、こいしは覚悟したが……その運命は、アリスがこいしに気付いた途端に消え去っていた。

 アリスはこいしから異変の情報を聞き出そうとし、こいしは素直にそれに応じていく。

 さとりの力によってレミリアの心が蘇ったこと、フランの能力と幽香の能力に繋がりがあること。

 そして、必要な情報を聞き終えたアリスはこいしに何かを託し、それに呼応するようにこいしは姿を消した。

 

 その間にも魔理沙と幽香のスペルカード戦は進んでいき、死闘の末幽香が勝利した。

 スペルカード戦が終わるとともにアリスは魔理沙と幽香から話を聞き、幽香がルーミアではなく雛によって支柱の力を与えられた事実を知る。

 そして今後の計画を立てようとし、魔理沙と幽香に博麗大結界の生成をさせようとアリスが提案した時、それは起こった。

 突如として現れたこいしとフランによって小悪魔とアリスが消され、怒り狂った魔理沙も気絶させられてしまったのだ。

 呆気にとられる美鈴だったが、幽香だけは冷静に現状を把握し、魔理沙を連れて美鈴とともに博麗神社に向かうこととした。

 幽香には、その出来事を仕組んだ黒幕がわかっていたから。

 そしてこの後の結末はきっと、魔神アリスの立てたシナリオの通りに進めるべきなのだと、幽香は悔しくも理解していたから。

 

 

 

 

〇中編ノ弐

 

 

<文編>(20~25話)

 

 神奈子と諏訪子の気配が消えたことに気づき泣き叫ぶ早苗を文は叱咤し、今まで隠していた破邪計画の事実を早苗に伝えた。

 そして、まだこの異変の犠牲者を救える可能性があると。

 それを知った早苗は一人で守矢神社へ向かうことを決心し、文は破邪計画失敗の原因を探ろうと一人で河童の住処へと向かった。

 

 文はその道中、何かに追いかけられる河童たちを発見する。

 河童たちを追っていたのは、なんと同じ烏天狗のはたてだった。

 計画を失敗させた河童への罰として、はたては技術開発チームの河童たちを痛めつけていたのだ。

 はたてに対し憤慨する文だったが、はたてが次に目をつけた標的であるにとりの姿を見て、にとりが恐らく支柱としての力を得ているだろうことに気付く。

 文は河童たちのことをはたてに任せて一人でにとりに立ち向かうも、その力の差は歴然。やがて追い詰められ文は自らの死を悟る。

 だが、文は突如として現れた勇儀に救われた。

 勇儀はにとりの姿を見てその力量を把握、自分と渡り合える強者と認め戦いを挑んだ。

 互角の戦いに思われたそれは、あっけなく勇儀の勝利に終わってしまう。

 だが、それはあくまで、にとりからの勝利に過ぎなかった。

 その直後、にとりを支配した何かの力によって、勇儀は敗北した――かに思われた瞬間、妖怪の山は核の炎に包まれた。

 

 その炎を放ったのは、お燐とともに勇儀を助けに来た空の力であった。

 だが、核融合を操る力を持つ空、怨霊を操る力を持つお燐、それに加えて勇儀が3人がかりで挑んで、その相手はやっと互角であった。

 それほどまでに、邪悪の力によって強化された『あらゆるものを禁止する能力』を持つ河城みとりの力は圧倒的だったのだ。

 それでも3人は力を合わせ、みとりを止めることに成功した。

 だが、みとりに止めを刺そうとした時、みとりを庇うように文が一人勇儀の前に立ちふさがっていた。

 

 少し前に勇儀に助けられていた文は、それでももう自分にできることはないと諦めかけていた。

 だが、文はそこで、はたてがずっと抱え続けた想いを聞かされることとなる。

 はたてが妖怪の山の弱者を守るために、自分を犠牲にし続けてきたことを。

 自分が汚れてでも、どんな汚い手段を使ってでも妖怪の山の支配構造を変えようとたった一人で戦い続けて、それでもだめだったはたての涙を見て、文はずっと逃げ続けていた自分を恥じる。

 そして、文ははたての意志を継ぐと決めた。

 妖怪の山の支配構造の犠牲になっただけの、にとりとみとりを救い出そうと、勇儀たちの前に立ちはだかったのだ。

 

 文にとって、勇儀は昔からの心的外傷とでも言うべき相手だった。

 それでも文は、天魔から天狗社会の次席である大天狗を継いだ身として、そして何よりかけがえのない友が信じてくれた自分を奮い立たせ、勇儀の気迫を前に一歩も退かなかった。

 かつては勇儀を期待させる潜在能力を秘めながらも、ただの弱虫だった文。

 その確かな成長に気付いた勇儀は、文を改めて認めることとなる。

 そして、文はお燐の力を使ってにとりとみとりを救い出そうと提案し、それを成し遂げるために、お燐は気絶しているみとりを再び起こそうとする。

 だが、同時にみとりの纏う力は更に異質なものと化した。

 闇に支配され強大化したみとりの能力が、たった一つの事象を禁じていた。

 みとりの敗北の禁止。それによって、みとりの身体はこの場の誰も届き得ない力を得て異形の魔物のように変化したのだ。

 

 文たちは4人がかりでみとりに挑むも、あっという間に敗北する。

 そして、命の危機に晒された空を庇おうとした文を――更に庇ったはたてが、木端微塵に粉砕されて死んだ。

 萃香を失い椛を失い、そして目の前ではたてまで失った文の精神はもう限界だった。

 既に止め切れない負の感情をその心に宿していた文は、自らの意思で辺りに浮かんでいた怨霊を自分の中に取り込む。

 怨霊の中に混じっていた邪悪の力は文の中にある闇に反応して力をもたらし、復讐の衝動の赴くままに文はみとりを攻撃する。

 そして、強大化した文の力とみとりの力がぶつかり合う中で、それは起こった。

 いつの間にかにとりは、邪悪の力から解放されている。

 代わりに、文の精神をみとりが乗っ取っていた。

 みとりの暴走は止まった、あとは文の暴走を止めれば全て終わる状況だったが、それでも今の文の力はあまりに強大すぎた。

 勇儀は、たとえ空と自分が協力しても今の文を止めることが不可能と諦めかけて……そこに、声が聞こえてきた。

 あまりに弱気が過ぎるんじゃないかと、かつての勇儀の宿敵であった萃香の声が。

 そして勇儀は、鬼神や閻魔に敗れてから弱気になっていた自分を見つめなおす。

 今の自分は、本当の自分のあるべき姿ではない。

 誰が相手であっても、どんな不可能が目の前にあっても、それを打ち砕くのこそが自分という鬼のあり方なのだと、再認識する。

 そして、勇儀は覚醒した。

 その『怪力乱神を持つ能力』、法則さえも超えて全てを打ち砕く力でもって文の力を圧倒し、戦いに終止符を打ったのだ。

 

 にとりは救われ、文も生き残った。

 だが、はたては死んだ。

 その事実に押しつぶされそうになっていた文の前に、それでも再び奇跡は起きた。

 みとりが最後に叶えた願い。その『あらゆるものを禁止する能力』が最後に禁じた、みとりにとっての「本当の敗北」。

 みとりはただ、自分にとって何よりも大切な、妹のにとりが笑っていられる世界を望んだだけだった。

 そのためには、誰よりも強く気高い天狗である文が必要だったから。

 そして何より、誰よりも優しい天狗であるはたてが必要だったから。

 だからこそ、強大化したみとりの能力は、はたてを生かしたのだ。

 

 だが、同時にみとりの命はそこで終わりだった。

 既に死後の怨霊であったみとりは、その心残りが無くなったが故に、この世に留まれなくなったのだ。

 だが、それを知っていたお燐は、みとりの魂を自分に乗り移らせて、最後の僅かな時間を許すこととした。

 そこでみとりは、にとりに異変の事実を伝えていく。

 自分を支配していた邪悪の力が、負の感情を増幅させるための月の技術である可能性が高いこと。

 その技術とあまりに強く結びついてしまった、たった一人が抱える闇のせいで、ここまで異変が深刻化しただろうこと。

 そして、その闇に恐らく閻魔が介入し、『絶対悪』という記号を紐付けているのだろうこと。

 それを伝え終わったみとりは、今度こそ心残りが完全になくなって成仏した。

 にとりの隣に、かつて自分を救ってくれた文とはたてが、これからもいてくれるとわかったのだから。

 

 そして、みとりの成仏とともに、文は新たに決意する。

 新しい天狗社会の頂点である大天狗として、妖怪の山を変えるのではない。

 自分がこの異変の犠牲者を救った上で、天魔さえも超えてこの山の全てをやり直すのだと。

 勇儀の目からも、そしてこれから妖怪の山に住み続けるにとりやはたての目からも、それは文を信じるに十分な決意であった。

 だが、お燐だけは違った。

 現実を見ていない、本当の犠牲者の気持ちなどわかっていない文を、信用できなくなっていた。

 こんな戯言を、これ以上聞いていたくない。

 そして何より、今の地底の、自分たちの事情を文に知ってもらいたくない。

 だからこそお燐は、みとりの魂を自分の身に宿らせることで新たに得ていた力をこっそりと使って、闇に飲まれた天魔たちを召喚し、文を追い払おうとしたのだ。

 勇儀は異変のことを文に任せ、この場を自らが請け負うと提案する。

 文は勇儀たちにこの場を任せて、にとりとはたてを連れてその場から離れ、博麗神社に向かうこととなった。

 そこに、にとりの友人であり災厄の支柱である雛がいるかもしれないから。

 そして、雛を利用して邪悪の力を暴走させている、第三の勢力が存在するのかもしれないから。

 

 妖怪の山に残った勇儀と空は、闇に染まった天狗たちを一蹴する。

 しかし、天狗たちが既に死んでいることに気づいたお燐は、大急ぎでさとりのもとへと向かうこととした。

 お燐は、さとりが既に邪悪の力に感染していることを知っていたから。

 この天狗たちのように手遅れになって、さとりが死んでしまう前に助ける必要があると気づいたから。

 空と勇儀も、お燐をすぐに追いかける。

 空はお燐と同じく、大切なさとりを守りたいから。

 そして勇儀は、かつて萃香を救ってくれたさとりに借りがあるからと、そんな言い訳をしながら。

 

 

 

 

〇中編ノ参

 

 

<レミリア編>(26~27話)

 

 レミリアとパチュリーと咲夜は、その能力を駆使しながらルーミアを相手に未だ戦い続けていた。

 だが、辛うじて生き残っているだけで、今のルーミアは簡単に倒せるほど甘い相手ではなかった。

 偶然と偶然の積み重ねで与えた一撃さえも簡単に再生し続けるルーミアを前に、打開策を見つけられないまま時間だけが過ぎていって――その情報は、突然パチュリーの脳裏に浮かんだ。

 小悪魔が死んだこと、そして同時に小悪魔が調べていた情報の記憶がパチュリーと共有されたのだ。

 そこでパチュリーは、レミリアに妹のフランがいることを初めて知った。

 そして、フランの持つ不死性が、ルーミアと同質のものである可能性も。

 レミリアは観念し、今まで隠してきた全てをパチュリーと咲夜に打ち明けることとした。

 

 フランが両親を殺してしまった、あの日。

 レミリアは憎しみの衝動のままに自らの『運命を操る能力』を使って、フランの運命に絶対の死を刻んでしまった。

 だが、自らの身を犠牲にしてでもレミリアを守ろうとする本当のフランの優しさを感じ、両親の死が事故であったこと、そしてフランの死の運命が誤ったものであると気づく。

 しかし、一度決定された運命を変えることはできなかった。

 レミリアの目の前でフランが死んだことで、レミリアは自分の愚かさを呪うとともに、フランを助けてと強く願った。

 すると、暴走したレミリアの能力が奇跡を起こし、フランを生き返らせた。

 同時にフランは得体の知れない狂気に支配されたが、そこにその狂気を止める何者かが現れ、レミリアに告げた。

 フランを誰にも気づかれないまま地下の小部屋に閉じ込め続け、運命の一切を変えないようにし続ければフランを助けることができると。

 それ以来、さとりによって救われる今日この日まで、レミリアは数百年に渡ってその呪いに縛られ続けてきたのだ。

 

 だが、今重要なのはレミリアの能力ではなく、フランの能力だった。

 フランの持つ不死性、それは吸血鬼の弱点であっても死ぬことはない、ただし唯一フラン自身の力によって死ぬ力であった。

 ならば、恐らくはフランと同じ類の力を持つ者、霊夢ならばルーミアを倒しうる力を持っているのではないかと。

 そう考えた3人は、闇に飲まれた霊夢を救い出すことに気持ちを切り替え、思いつくままに次の手段を考えて戦い続ける。

 だが、それでも次第に限界はやってくる。

 最初にパチュリーがやられ、咲夜もやられ、そして遂にレミリアさえも捕えられる。

 ルーミアにとってレミリアだけは貴重な人材、再び誰よりも強い絶望を抱え得る支柱候補として生かされていた。

 だが、レミリアは追い詰められようとも決してルーミアに、闇に屈しはしない。

 絶体絶命の状況でも笑っていたレミリアの前に……突如としてさとりが現れた。

 

 さとりは自らの能力を使い、レミリアの思考に偽りの真実を植え付ける。

 レミリアが運命を変えようと思ってしまったばっかりに、フランはもう死んだのだと。

 咲夜もパチュリーも何の意味も無く死に、レミリアの人生には最後まで何の価値もなかったのだと。

 そうしてレミリアはただ絶望だけではなく、嘆き、怒り、憎悪、あらゆる負の感情に支配されたまま、再び闇に堕ちてしまった。

 

 だが、さとりは別にルーミアの味方をしに来た訳でもなかった。

 自らを全ての黒幕と思い込んでいるルーミアを嘲笑うかのように「嫦娥計画」の名を出すとともに、ルーミアを謎の頭痛が襲った。

 ルーミアはさとりをこれまで以上に危険視し、排除しようと考える。

 そこに現れたのは、かつてルーミアを陥れた映姫の姿だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

これまでのあらすじ③



 今回は過去編(28話~31話(中編)と別作:霊夢と巫女の日常録1~18話)のまとめです。
 今回で最後まで行こうと思ったけど長かったので分割しました。




 

 

 

<霊夢の回想>(28話)

 

 闇に飲まれた世界で、霊夢の心は侵食されていた。

 だが、霊夢を守ろうとする紫の力が、霊夢の心が完全に闇に飲まれることを拒んでいた。

 そうして霊夢は、温かい想いに守られながら思い出していく。

 大切な家族と過ごしてきた、かけがえのない懐かしき記憶を――――

 

 

<過去編>(別作:霊夢と巫女の日常録1~18話)

 

 まだ幼き霊夢は、いつも一人だった。

 誰にも傍にいてもらえない、誰にも認めてもらえない寂しい子供。

 だが、ある日偶然に見つけた、博麗大結界に封じられた邪悪の力を神降ししてしまったことで、霊夢の運命は変わった。

 

 邪悪の力をその身に宿してしまった霊夢は、当時の博麗の巫女の養子として育てられることとなった。

 巫女と2人で博麗神社で過ごす平和な日々。

 寺子屋で出会った、生意気な魔理沙や口うるさい慧音との日常。

 だが、ある日突如として寺子屋に現れた妖怪に対抗するため、霊夢は誤って邪悪の力を使ってしまう。

 邪悪の力の暴走を察知した紫と藍は、それをきっかけに霊夢がその力を使いこなせるようにしようと、霊夢を鍛え上げることとした。

 そうして、その日から博麗神社には3人の家族が増えた。

 霊夢と巫女に加え、紫と、その式神の藍、その更に式神の橙。

 にぎやかな5人家族の末っ子として、霊夢はキツイ修行に耐えながらもそれはそれで幸せな日々を過ごしていた。

 

 

 休みなく修行を始めておよそ1年、霊夢は遂に橙に勝てるレベルにまで成長した。

 その褒美として与えられた3日間の休日を使って、霊夢は魔理沙の家に行くことに決める。

 霊夢が邪悪の力を使ってしまった日以来、寺子屋に来なくなってしまった魔理沙のことが気になっていたのだ。

 だが、今の魔理沙からは霊夢が知っている頃の明るさは消え失せ、完全なガリ勉になっていた。

 

 霊夢は寺子屋において、知力においても体力においても自分は他の子とは別格なのだと自負するほどに優秀だった。

 だが、幻想郷の経済的権力を握る霧雨家の跡取りである魔理沙は、知力においては霊夢と比べてなお別格だった。

 負けず嫌いの霊夢のプライドは、それを許さなかった。

 自分と同い年の子に自分以上の相手がいることが耐えられず、今までの霊力や体力の修行を放り出して、魔理沙を見返してやるためだけに紫たちと1週間みっちり数学の勉強をすることになった。

 

 そして一週間後、霊夢は魔理沙の家に乗り込む。

 霧雨家の厳重なセキュリティを潜り抜け、遂に魔理沙のもとに辿り着くと――魔理沙は空虚な目で、ただ黙々と勉強に打ち込んでいた。

 その姿が、霊夢には気に入らなかった。

 霊夢は一週間の勉強を終えて、自覚していた。

 知力において、自分は魔理沙には決して届き得ないのだと。

 霊夢のプライドはそれを認めるのを拒んでいたが、同時に霊夢は心の奥では魔理沙のことを認めていた。

 だからこそ、本当は勉強なんてしたくないくせに、一人で殻に閉じこもっているだろう魔理沙にイライラしてしまった。

 だから、霊夢は魔理沙に言う。

 自分を追いかけてこいと。

 同じ道に来るのであれば、自分はどこまでも先の世界を切り開いてやると。

 

 魔理沙もまた、本当はそんな霊夢の生き方に憧れていた。

 自分は霧雨家を継ぎたいわけじゃない、本当は魔法使いになりたかったんだと、その夢を再び思い出して。

 そして、魔理沙は決心する。

 霊夢に追いつくと宣言して魔法使いになる道を探し、一人で霧雨家を飛び出して――

 

 

 およそ1年後、今まで通りの日常を過ごしてきた霊夢は、ある日夢を見た。

 誰にも認めてもらえない、一人の悲しい人間の夢。

 かつての紫と藍を2人同時に相手にしてなお退ける、とても人間とは呼べない化物の夢。

 だけど紫は夢の最後に、その人間に博麗の巫女をやってみないかと誘っていた。

 

 その夢が何だったのか、霊夢にはわからない。

 だが、少なくともその夢に登場する人間は、今の巫女とは別人なのだろうと思っていた。

 なぜなら、今の巫女は大人のくせに「今日はピクニック」とか言って霊夢の布団に飛び乗ってくるような子供っぽい人なのだから。

 

 今回のピクニックには、霊夢と巫女と紫、一年ぶりに会う魔理沙と、寺子屋の教師である慧音が一緒に来る予定だった。

 だが、別に呼んでないはずのアリスもいた。

 どうやらアリスは半年ほど前から魔理沙の魔法の師匠をしているそうだった。

 そしてアリスの奇行に振り回された霊夢は思う。こいつは苦手だ、と。

 今回は顔見せ程度のつもりだったのか、アリスは適当に霊夢たちをからかってからすぐに帰ってしまう。

 アリスのせいで微妙な再会になってしまった霊夢と魔理沙だったが、それでも魔理沙は最初から感動の再会になどするつもりはなかった。

 霊夢に追いつくと宣言したのだから、まずはその成果を見せたいと。

 そうして、霊夢と魔理沙の一対一の勝負が始まった。

 

 たかが一年の修行で自分に追いつけるはずがないと侮っていたが、霊夢は今の魔理沙の力を前に驚きを隠せなかった。

 確かに魔理沙は体力も戦闘能力も霊夢には遠く及ばない、それでも圧倒的知力でもって身に付けた魔法は、既に霊夢の喉元に届くレベルになっていたのだ。

 それを理解した霊夢は、少しだけ本気を出してしまう。

 だが、紫たちのような妖怪とばかり勝負していた霊夢は、人間の脆さを忘れていた。

 たとえ魔法を使えるようになったとはいえ、魔理沙はまだ10歳足らずの人間の女の子なのだ。

 屈強な妖怪さえ沈める霊夢の蹴りを受けられるはずがなく、それはたった一撃で魔理沙には致命傷となってしまう。

 死にゆく魔理沙を救う方法として、紫が提示したのはただ一つ。この状況を覆せる万能薬の材料となる伝説上の植物をも司る妖怪、風見幽香の協力を仰ぐことだった。

 だが、巫女は自分は他に魔理沙を救うあてがあると言い、魔理沙を連れて人間の里に向かった。

 霊夢もまた、魔理沙を助ける方法は多いほどいいと思い、幽香のもとへ向かうこととした。

 

 幽香のもとに辿り着いた霊夢は、ぶっちゃけ焦っていた。

 そこに着く途中、誤って花畑を踏み荒らしてしまったから。

 バレないように、バレないように気を付けながら幽香に協力を依頼したが――やはり、バレていた。

 花畑を荒らしたことで虐められ、幽香のドSっぷりに泣きそうになる霊夢だったが、魔理沙の命が危ないため今は泣き言を言ってる場合ではなかった。

 霊夢は魔理沙を助けるために幽香に真剣勝負を挑む……が、そんなの勝てるはずがなかった。

 やがて追い詰められた霊夢の心の奥で、何かが蠢いていた。

 このまま負ければ魔理沙を助けられない、魔理沙が死んでしまうと。

 その感情が霊夢の中にあった邪悪の力を呼び出し、目の前の景色の全ては一瞬の内に灰燼に帰した。

 

 目覚めると、霊夢は博麗神社で寝ていた。

 それを看病する巫女から、魔理沙が無事であったと聞かされるも、その一連の流れが紫の策略であったことを知らされる。

 霊夢の中にある邪悪の力の制御を次の段階に移すために、わざと幽香に挑まざるを得ない状況をつくったのだと。

 だが、巫女は霊夢を危険な目に遭わせた紫を許さず、絶縁状を出さんばかりだった。

 そして、巫女は霊夢から邪悪の力を引きはがすことを約束し、その後は邪悪の力のことや修行など忘れて2人で平和に暮らそうと言ってくれた。

 

 だが、霊夢にはわかっていた。

 紫は悪意を持ってこんなことをしたのではない、必ず何か必要な理由があったはずだと。

 そして、巫女と同じく紫たちも今の霊夢にとっては大切な家族なのだと。

 だから、霊夢は決断する。

 巫女を説得して、家族5人でもう一度やり直そうと。

 

 

 

<真相編>(東方理想郷29~31話)

 

 霊夢は、夢を見ていた。

 幻想郷を滅ぼさんばかりに博麗神社で力を振るう化物と、それを止めようとする2人の姿。

 その2人が、紫と巫女であることは自然と理解していた。

 そして、その夢で出てきた化物が、恐らく邪悪の力に支配された自分の姿であったことくらいなんとなくわかっていた。

 こんな出来事を経てなお、巫女も紫たちも自分を育て上げて一緒に過ごしてくれる。

 自分にはもったいないくらいの家族を、こんなすれ違いで今さらバラバラにしたくはなかった。

 

 夜遅く、巫女は一人で静かに博麗神社を出る。

 霊夢はこっそりと、巫女を尾行していく。

 辿り着いたのは、迷いの竹林だった。

 そこに入っていった巫女を追おうとして、霊夢は同じく巫女を追っていた紫と合流する。

 巫女は竹林に入り忽然と姿を消してしまったため、何か特殊な結界でも張ってあるのかと紫と共に探索していたが、気付くと霊夢は一人で異様な空間に迷い込んでいた。

 

 そこで見つけたのは、憎しみに支配された巫女の姿。

 そして、巫女を殺そうと立ちはだかる、何者かの姿だった。

 やがて霊夢の存在に気付いた巫女は、その相手から霊夢を守ろうと奮闘するが、やがて追い詰められてしまう。

 それを見ていた霊夢は、このままでは巫女が死んでしまうと、感情が不安定になっていく。

 そして、霊夢は無意識に邪悪の力を解放してしまい――次の瞬間、目の前には何もなかった。

 ただ、自分の手の中にあった巫女の焦げたリボンの破片を見て、自分が巫女を殺してしまったという事実だけを悟ってしまった。

 

 その日から、霊夢は博麗神社で一人待っていた。

 あの日の出来事が全部嘘で、巫女はいつか帰ってくるんだと信じていたが、そんなはずがなかった。

 やがて霊夢は、巫女を殺してしまった事実に耐えきれず自殺を目論むも、紫に助けられていた。

 霊夢は自らの罪を紫に打ち明けるが、逆に霊夢は紫に感謝されてしまう。

 紫にとって巫女は幻想郷を維持するための道具でしかなく、今はもう邪魔だったのだと。

 それを聞いた霊夢は、悲しみや絶望よりも、紫への怒りや憎悪に支配されていた。

 その感情のままに、霊夢は紫に向かって全てを吐き出す。

 紫はそれを、全て受け止めた。

 本当は紫自身も巫女を失った悲しみで壊れそうになりながら、それでも霊夢に巣食った負の感情を吐き出させ受け止めてあげるために悪役を演じていたのだ。

 そして、紫は霊夢に新しいルールを提案する。

 それが『スペルカードルール』。

 霊夢が誰かを傷つけなくて済むように、皆が笑ってケンカできるようにと、この日を境にそんなルールが広められていった。

 

 やがて、スペルカードルールが広まった幻想郷で、霊夢は再び笑顔を取り戻す。

 これからもずっと、紫はずっと自分の傍にいてくれるのだと、そう思っていたのだから。

 

 だが、もう紫はいない。

 異変の脅威から霊夢を守るために自らを犠牲にしてしまったのだから。

 だけど、最後に僅かに遺された紫の思念体は、霊夢に優しく語り掛ける。

 もう、自分がいなくても霊夢は一人じゃない、皆が霊夢を待っているのだと。

 だから、霊夢は再び立ち上がる。

 幻想郷の大切な仲間たちを助けるため、紫に最後の別れを告げた。

 

 

 そして時は異変の最中に戻る。

 魔理沙と別れてから、藍は一人永遠亭に向かっていた。

 現状を打破しうる唯一の可能性である、輝夜に助けを求めるために。

 だが、輝夜は自分で異変解決には向かわず、藍と新たに式神契約を結ぶことで藍に力を与えることとした。

 

 その力をもとに再び一人で異変の解決に向かう藍を尻目に、輝夜は永遠亭へと残っていた。

 そこに突如としてさとりが現れる。

 さとりは輝夜の心を読み、紫の死の原因が輝夜にある事実、そしてこの異変の黒幕が輝夜であることを知った。

 だが、輝夜は別に真相を知られたことを焦ってはいなかった。

 ただ静かに、さとりにはここで消えてもらうと、そう告げた。

 

 輝夜がこの異変が始めたのは、ゲームの世界の中に幻想郷を落とし込もうとしたことがきっかけだった。

 幻想郷に解き放たれた邪悪の力、それに対抗する幻想郷の住人たちの葛藤を眺めるだけの愉悦。

 直接自らが介入はしない、それでも異変の行く末が面白くなるように少しずつ誰かを動かしていたのだ。

 

 さとりはその事実を輝夜の心を読んで全て知ってしまうが、最もさとりの気を惹いたのは、異変の事実ではなかった。

 輝夜の心の奥底に、たったひとつ固く閉ざされた一つの計画の名。

 それを知ろうとし、更に輝夜の奥底に眠る心の乱れまでも読み取ろうとしたさとりは、輝夜から危険視されその場で排除対象となってしまう。

 だが次の瞬間、消滅したのはさとりではなく輝夜だった。

 その結果をもたらしたのはさとりではない、七色の魔法を操るアリスの力。

 アリスはそれを使って、輝夜を足止めすると同時にさとりを逃がしていたのだ。

 だが、禁呪の力をもってしても輝夜を完全に止めることは容易ではなかった。

 だからアリスは七色の魔法の切り札、『紫』色の魔法を使って輝夜を自分とともに異空間に閉じ込めることとした。

 

 そうして輝夜から逃げ出したさとりはルーミアのもとへ向かい、レミリアを陥れていたのだ。

 だが、たとえレミリアを陥れようとも、今のルーミアを相手にさとり一人で太刀打ちできる訳がなかった。

 ルーミアの目に映っていた映姫の姿さえも、相手の心的外傷を想起するさとりの能力によって生み出された幻に過ぎなかったのだから。

 だが、あっけなくルーミアに捕らえられてしまったさとりの目は笑っていた。

 全ては、さとりの計画通りだったのだから。

 

 さとりは世界を恨んでルーミアに味方をした訳でも、誰かのために孤独に戦っていた訳でもない。

 ただ、レミリアの『運命を操る能力』という玩具を楽しむためだけに、こうして輝夜やルーミアの前に現れただけなのだ。

 幻想郷の崩壊という運命を知り、その結果が嫌われ者の自分の気まぐれによって左右されてしまうという滑稽な戯曲を楽しむため。

 ただそれだけがこの異変の中でさとりが抱いた目的なのだ。

 そんなさとりの思考を、ルーミアは理解できなかった。

 自分とは決して相容れない危険な歪みを排除しようと考えた時、さとりの援軍が現れた。

 こいしにお燐に空に勇儀、強力な助っ人の登場という起死回生の状況を前に、さとりは……自ら闇に飲まれることに愉悦を見出した。

 こいし達が怒りのままにルーミアに向かっていくのを見ながら、さとりは自分という異物が世界の運命にどんな影響を与えるのかを期待しながら、一人闇の中に消えた。

 

 そして、もう一つの戦いも終盤に差し掛かっていた。

 輝夜を異空間に足止めしていたアリスにも限界が近づいていたが、それでもアリスは最後まで諦めなかった。

 最後に七色の魔法全てを超えた『虹』色の魔法を放ち、そして輝夜に敗れた。

 だが、輝夜はアリスの足掻きを無意味なものとはしなかった。

 アリスの目論見に合わせるかのように輝夜は『紫』色の魔法に介入し、自らその異空間に取り残されることを選んだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

これまでのあらすじ④



 今回は外伝1~4話(番外編)と32~38話(後編)のまとめです。
 まとめは今回で最後になります。
 ……今さらだけど、だいぶ短くしたつもりなのにむっちゃ長いですね。本編のここまでの総文字数が卒業論文20回分を軽く超えてました(笑)




 

 

 

〇番外編

 

 

<さとり編>(外伝ノ壱)

 

 かつて、地底に嫌われ者の妖怪がいた。

 名を火焔猫燐。死体を持ち去り、怨霊を操る彼女は、嫌われ者の楽園とされる地底世界に来てなお受け入れてもらえなかった。

 何度も拷問を受け、唯一友と思った相手からも裏切られ、人生に希望など何も抱いていなかった。

 だが、そんな彼女にも運命を変える出会いが訪れる。

 

 燐はある日、死体を運ぶ一行に遭遇し、その死体を盗もうと企んでいた。

 その死体を守ろうとした妖怪を脅しつけるために怨霊を使役して――突然、燐の操る怨霊が何かに怯えたように逃げ出した。

 そこにいたのは、一人の妖怪。

 地底で一番の嫌われ者と名高い、古明地さとりだった。

 

 燐は、さとりに期待していた。

 さとりならば、もしかして自分と同じくらいの地獄を知っているのではないか、自分の境遇を理解してくれるのではないかと。

 だが燐の予想に反し、燐が最悪を自負するその記憶を読んださとりは、まるで愉快な物語を見るかのように笑った。

 燐が苦しみながら過ごしてきた日々など、地獄と呼ぶに値しないと言わんばかりの目で。

 自分が誰よりも不幸だと思い続けてきた燐は、得体の知れないさとりに恐怖を感じ、とっさにさとりに向けて怨霊を放ってしまった。

 だが、負の感情の塊であるはずの怨霊すらも、さとりから逆流した記憶に蝕まれて消滅していく。

 その光景を前に、燐はたださとりへの畏怖で震えあがることしかできなかった。

 さとりは燐とは比較にならないほどの闇を抱えながら、それでも燐に笑いかけていたのだから。

 その日から、燐はさとりに服従した。

 自分より不幸な境遇にありながらも優しく生きているさとりと出会えて、そして自分に優しく語り掛けてくれる空に出会えて、燐の人生はそこで変わったのだ。

 

 だが、さとりにとって燐との出会いなど大した意味を持たない、日々過ごす中で見かける愉悦の一つに過ぎなかった。

 それでも、さとりでさえもやがて興奮を隠しきれない出会いに遭遇する。

 地底の奥深くに眠っていたとある歪み――それはやがて、さとりを運命という最高の玩具へと導いたのだから。

 

 

<萃香編>(外伝ノ弐)

 

 鬼の四天王、伊吹萃香は誇り高き鬼だった。

 鬼という種族の力を体現してきた力の求道者は、鬼以外に最強の名を冠する者を許容できなかった。

 だからこそ萃香は、幽香を、紫を、天魔を、種族を超えてあらゆる者を力でひれ伏させてきた。

 その萃香の次の標的は、紫から鬼以上だと評価されていた月人。

 少し前に幻想郷に新たに現れた蓬莱山輝夜を打ち負かすため、迷いの竹林へと単身挑みに来ていた。

 そして、萃香はスペルカードルールを無視し挑発を続けることで、輝夜に本気を出させようと画策していた。

 

 一方で、輝夜は萃香の力になど全く興味はなかった。

 ただ、輝夜には萃香と戦う理由があった。

 前々から抱いていた別の目的、萃香はそれを成し遂げるには理想的な相手だと思ったのだ。

 だからこそ輝夜は萃香の望み通りに戦ったが、それはあまりに一方的な蹂躙だった。

 萃香の全力が簡単に止められ、まだ手加減しているはずの輝夜の一撃で萃香は満身創痍となっていく。

 だが、輝夜の目的は萃香を倒すことではなかった。

 「永遠」という、どんな恐怖も絶望も比較に値しない、最悪の概念を萃香の脳裏に刻み込もうとして実行したのは……

 

 輝夜は自らの『永遠を操る能力』を使い、一瞬の間におよそ三千年、つまり百万日という歴史を創り出した。

 萃香の能力でつくられた百万の分身を、輝夜は一日に一体ずつ消していくというカウントダウンを行っていく。

 萃香は一切動くことのできないまま、ただじっと三千年の時を過ごす。

 そして百万の分身が消えれば、輝夜は『須臾を操る能力』を使って萃香の分身の再生を促し、三千年前と同じ状況を創り出す。

 ただ、前回と違うのは、次は一枚の爪を剥がして三千年。

 その次は二枚、三枚、足の爪まで全て剥がされて既に六万年の永遠を萃香は激痛の中で何もできないまま過ごしてきた。

 萃香の精神は極限まで追い詰められながらも、それでも永遠という名の地獄は終わらない。

 臓器も、五感も、全てを奪われてなお終わることはない。

 そして遂に、萃香の精神は壊れてしまった。

 かつての誇り高き鬼としての面影など欠片もない、そんな弱弱しい姿となって――ようやく、輝夜は萃香を解放した。

 輝夜に何の目的があったのかなど、萃香には知る由もない。

 ただ確かに言えることは、その日、暴虐の鬼の四天王として悪名高き伊吹萃香は、鬼として死んだということだけだった。

 

 

 

 

〇後編ノ壱

 

 

<輝夜編>(32~38話)

 

 霊夢はいつの間にか、何もない異空間に迷い込んでいた。

 実際はアリスの『紫』の魔法に閉ざされた世界であるのだが、霊夢はそこがルーミアに敗北した幻想郷の成れの果てなのだと理解する。 

 そして、霊夢がその世界で唯一出会うことができたのが、輝夜だった。

 輝夜は暇つぶしに霊夢にスペルカード戦を望み、霊夢も輝夜の最後の頼みを聞いてあげたいと思い、弾幕ごっこが始まる。

 だが、本気で勝負しようと思った霊夢とは対照に、輝夜からはやる気を感じられなかった。

 なぜなら、輝夜は霊夢が実際に本気を出していないことを、邪悪の力を出し惜しみしていることを知っていたから。

 だから、輝夜は霊夢に自分が異変の黒幕であることを、そして霊夢の奥底に眠る最も深き闇を抉り出した。

 霊夢の母を死なせた全ての元凶、霊夢の仇敵が自分であると輝夜が打ち明けるとともに、霊夢はその憎悪のまま邪悪の力に支配される。

 だが、邪悪の力を全開にしてなお霊夢は輝夜に届かず、返り討ちにされてしまう。

 やがて霊夢の死と同時に、この世界は終わりを迎えた。

 

 

 別の平行世界、輝夜は以前の世界とは一つだけ分岐点を変えていた。

 霊夢とのスペルカードルールを本気ではなく、ただ気楽に遊びで続けようと提案した、ただそれだけの違い。

 それでも、この世界は平和に弾幕ごっこをしながら終焉へと向かっていく。

 ゆっくりと無意味な世界は続き、やがて霊夢が餓死するとともに世界は終わりを迎えた。

 

 

 そんな、何も報われない世界をどれだけ繰り返しただろうか。

 数千万回、数億回――無数の歴史を渡り歩き続けた輝夜の精神は、既に限界を迎えていた。

 自分が何者かも忘れかけ、やがて輝夜を見つけて話しかけた霊夢にさえ、何も感じることはない。

 そして霊夢の、自分へ同情するかのような目に気付き、自然と出てきたのは――もう、全部終わらせてと、そんな言葉だった。

 

 輝夜はもう、自分がどうしてそんなことを言ったのかさえもわからない。

 ただ、気を紛らわすためにだけに、霊夢と弾幕ごっこを始めようとする。

 だが、輝夜のその言葉から、霊夢は何かを感じ取っていた。

 それがただの冗談ではない、輝夜の本音が漏れてしまったものだと気付いた霊夢は、邪悪の力でもって輝夜を消そうとした。

 終わらせてという言葉が、こんな孤独な世界で生きたくないという輝夜の願いなのだと、そう思ったから。

 だから霊夢は一切の遠慮なしに、邪悪の力を混ぜた弾幕でもって、輝夜との勝負へと向かっていった。

 

 そして、輝夜もまたそれを受け入れた。

 ここが終点でいい。もう何も考えられない今なら、全てを終わらせることができる。

 そう思った輝夜は、最後くらい弾幕ごっこを楽しもうと本気で霊夢とぶつかっていく。

 霊夢の全力の弾幕を軽々と攻略し、本気の霊夢ですら攻略困難な最高難度の弾幕を放っていく。

 だが、一見勝負を楽しんでいるように見える輝夜に、霊夢は違和感を覚えていた。

 『空を飛ぶ程度の能力』によって世界と感覚共有している霊夢には、その心の声が聞こえてしまっていた。

 

 ――誰か、助けてよ。

 

 輝夜が一体何に苦しんでいるのかは霊夢にはわからない。

 それでも霊夢は、言わずにはいられなかった。

 目の前で苦しんでいる子を、泣いている子を放っておくことはできなかったから。

 だから、霊夢は聞いてしまった。

 一体何を一人で抱え込んでいるのかと、思うままに聞いたその言葉は……それでも、輝夜の記憶の彼方にある何かの記憶と重なった。

 同時に、輝夜の記憶は混濁していく。

 忘れていた何かが、忘れようとしてきた何かが、止めどなく溢れてくる。

 だから、全てを思い出す前に終わりにしたかった。

 弾幕ごっこなんてもういい、霊夢の力で自分の命を終わりにしてほしかった。

 だからこそ輝夜は、自分こそが霊夢の母を死なせた元凶なのだと打ち明けた。

 霊夢の憎悪を買って、すぐにでも殺してほしかったから。

 そして、霊夢はそのまま憎しみに支配され、輝夜に邪悪の力の全てを向けて――――しかし、何も起こらなかった。

 紫が、母が、こんな憎しみに囚われた最期など望まないことを、霊夢はギリギリで気付くことができたから。

 そして、輝夜自身も思い出してしまっていたから。

 この世界で、生きたい。忘れられるはずのない記憶と共に、その気持ちが蘇ってしまったから。

 輝夜は溢れてくる記憶から気持ちを外そうと、再び弾幕ごっこに集中するが、次第に記憶は再び溢れてくる。

 どれだけ忘れようとしても、どれだけ拒んでも、その記憶は止めどなく輝夜の中を満たしていくから――

 

 だから、輝夜は目の前の一切を終わりにしようと思った。

 さっきまでのような財宝の力で抑制された半端な力ではない。

 輝夜の本当の全力、世界さえも滅ぼせる力でもって霊夢を迎え撃とうとした。

 霊夢には、目の前に広がる輝夜の弾幕が、止められるものではないとわかっていた。

 だからこそ霊夢は、変則的なスペルカードルールを提案する。

 萃香との勝負の時に初めて使った、緊急手段。

 お互いにスペル宣言をして強さを比べ合う勝負でもって、輝夜の全てを受け止めようとした。

 

 霊夢が使った『夢想転生』。それは、世界と自らの存在を完全に一体化することであらゆる攻撃をすり抜ける無敵の力だった。

 輝夜はそれすらも世界ごと破壊することで破ってしまうが、切り札を攻略されてなお霊夢は諦めなかった。

 輝夜の心の奥底に眠る何かを呼び覚まそうと、必死に弾幕を魅せ続ける。

 自分の力だけでは足りない、幻想郷にいる皆の弾幕を借りて、輝夜の心に訴えかけていく。

 それでも輝夜には届かなかった。

 だが、輝夜を助けることができなかったと諦めの思考に至る寸前で、霊夢は気づいた。

 輝夜の弾幕から抜け落ちていた、一つの形の記憶。

 輝夜の弾幕から否定されようとしていた、その形は……ルーミアのスペル、月符『ムーンライトレイ』と酷似していた。

 そうして霊夢は、微かに見つけた輝夜の記憶の糸を辿っていく。

 

 500年以上前、輝夜は一人の妖怪と出会っていた。

 名をルーミア。空亡妖怪という、あらゆる妖怪を超越した闇の権化は、それでも輝夜にあっさりと蹂躙されてしまう。

 別に興味を抱くほどの相手でもない、そう思い別れたルーミアとは、輝夜はそれでも後に再会することとなる。

 

 ルーミアはその後、幻想郷に巣食った一つの強大な闇を発見し、それを自らが抑え込もうとしていた。

 だが、それはルーミアの手にさえ負えるものではなかった。

 その闇を飲み込もうとしたルーミアは、自分の裏側に存在していた悪の人格に精神を乗っ取られてしまったのだ。

 ルーミアはそのまま幻想郷の妖怪の群れとその頭であった藍をゴミのように蹴散らし、幻想郷に崩壊の危機をもたらしていく。

 それを止めたのは映姫と紫、そして紫によって命を救われた藍だった。

 ルーミアを止めることには成功した3人だったが、ルーミアに巣食っていた闇の力は、紫や映姫の力をもってしても消滅させられるようなものではなかった。

 だから、3人はルーミアに巣食っていた要素を4分割し、それぞれ別の場所に秘密裏に封印することとしたのだ。

 存在の要素は再びルーミアへ、能力の要素は地獄の底へ、力の要素は博麗大結界へ、そして闇の要素は映姫が極秘裏に封印した。

 

 そうして力を封じられ、500年近くも低級妖怪として生き続けたルーミアは、偶然にも再び輝夜と出会った。

 少し前に宿命の相手を失って虚無感に囚われていた輝夜にとって、力を失ってしまった今のルーミアは格好の玩具だった。

 だから、ルーミアが死ぬまでのわずかな間、その行く末を観察しようと。

 最初はただ、それだけのつもりだった。

 

 だが、輝夜の記憶を辿っていく中で霊夢は気付く。

 ルーミアと過ごしているその時間に、輝夜が何かかけがえのないものを感じていたことを。

 だからこそ霊夢は、その記憶を手探りで探し当てる。

 自分がかつて、初めての異変でルーミアと勝負した時に感じた、あの感覚。

 霊夢はあの貧弱な弾幕が秘めていたメッセージを再現して、輝夜へと届けた。

 すると、輝夜の心は何かに掻き乱されるように乱れていく。

 やがて輝夜の心の奥へと手が届いたかに思えた瞬間――突如として、辺りは冷たい記憶に支配された。

 

 それは輝夜が幻想郷の住人を皆殺しにして、世界を滅ぼした記憶。

 誰も救われることのない世界の繰り返し、そして輝夜に向けられる負の感情の嵐。

 輝夜はそれを受け入れていた。

 いや、むしろ求めていたのだ。

 自分の中にある楽しい記憶や優しい記憶を、絶望と憎悪に満ちた負の記憶で掻き消すために。

 

 だから、輝夜は霊夢に偽り続ける。

 自分はこの異変の全ての元凶なのだと、憎むべき敵なのだと。

 そして輝夜は全てを終わらそうと、遂に禁じられた最後の手段を使ってしまう。

 それは輝夜の能力によって光速にまで加速した物体同士の衝突がもたらした、超密度物質ブラックホール。

 その力を前に、流石の霊夢すらもただ飲み込まれていくことしかできなかった。

 

 だが、それでも霊夢は諦めなかった。

 ルーミアの残したメッセージ、絶対に輝夜を一人にはさせないという弾幕の形。

 その強き想いは、輝夜の奥底に眠る別の平行世界の記憶をも誘発した。

 輝夜にとってかけがえのない大切なもの。

 それは、本当はこの幻想郷に生きる皆だった。

 本当はただ、輝夜はそんな大切なものたちと過ごした眩しい記憶の数々を忘れ去りたいだけだった。

 幾多の世界で皆を救えないかったことに、そして幾度となく見捨ててしまったことに、これ以上耐えきれなかったから。

 だからこそ輝夜は、憎しみで全てを塗り潰そうとしてきた。

 だが、そんな大切な記憶を忘れられるはずがなかった。

 やがて輝夜の中から溢れ出した、ただ皆を守りたかったという想いは、全ての闇を切り裂いて戦いの終焉をもたらした。

 

 そして、輝夜は霊夢に打ち明ける。

 自分が今まで『永遠と須臾を操る能力』を使って幾多の平行世界を渡り歩き、幻想郷の皆と生きるかけがえのない時間を守ろうと戦ってきたことを。

 最初はただ、ゲーム感覚の気まぐれだった。

 それでも、新たな世界に渡るたびに大切なものは増え続けて。

 だけど、全てを救うことなんてできない。

 大切な人たちを救えないたびに、見捨ててしまうたびに、輝夜は心が張り裂けそうになっていく。

 それでも輝夜は、いつか全てを救える世界が見つかると信じて数十億の世界を渡り歩いてきたのだ。

 

 霊夢は最後まで、そんな輝夜の傷をどうしてあげることもできなかった。

 きっと輝夜はまた繰り返し、地獄の中に身を投じていく。

 再び今の世界を諦めて、輝夜は次の世界に進もうとする。

 

 だが輝夜が今の世界を終わらせようと思ったその時、聞こえるはずのない人間の声が聞こえてきた。

 

 

 

〇番外編

 

 

<アリス編>(外伝ノ参)

 

 かつて、幻想郷と魔界の戦争があった。

 正確には戦争ではない、たった一人の幻想郷の妖怪、風見幽香と、魔界全土の戦いである。

 だが、その戦争を掌の上で転がしていたのは、一人の小さな妖怪、まだ幼きアリスだった。

 

 魔界人たちを次々と薙ぎ倒し、遂に魔界の奥地にまで迫った幽香に、アリスはここで退くよう提案した。

 幽香はその提案を受け入れず、アリスと戦うこととなった。

 既に数百の魔物との戦いを経て消耗していたこともあり、幽香はアリスの「七色の魔法」に敗れてしまう。

 だが、決着の寸前で、本物の魔神である神綺によってアリスが退避させられてしまっていた。

 

 神綺は、アリスによる地上侵略の目的が、『虹』色の魔法の完成のためであることを示唆する。

 虹の魔法はあらゆる願いを叶える力、全世界の願いが集まって初めて現実と化す力であった。

 アリスはそんな新たな理論を追い求めるすることだけを愉悦とする研究者であり、きっとそれを諦めるつもりはない。

 だが、幽香もまた、これ以上魔物が地上に出てくるのを許容する訳にはいかない。

 そこで神綺が考えた代替案は、魔物の代わりに幽香がアリスの友達として地上に出ればいいというものであった。

 友達、という訳ではないが、その戦争は、幽香がアリスを連れて地上に戻ることによって穏便に終息することとなった。

 

 その後、アリスが地上に出てから数十年が経ち、既に『虹』色の魔法の困難性、全世界70億人超の願いを集めることが不可能であることを悟り始めていた。

 今回の異変で、輝夜に出会うまでは。

 輝夜は既に億を超える平行世界を渡り歩き、その心にはその分だけの願いが宿っていたのだから。

 だが、アリスが本当に注目していたのは、既に心が壊れかけていた輝夜ではない。

 輝夜の心の奥に潜む、もう一人の誰かの魂が抱いた願い。

 輝夜と同じく無数の平行世界を渡り歩いてきた、とある人間の願い。

 七十億回以上繰り返された平行世界の願いは集束し、やがて全世界の人々の数まで届いた願いの力は、遂に『虹』色の魔法を成した。

 

 

<ルーミア編>(外伝ノ肆)

 

 輝夜は、不死者の生命に価値を感じていなかった。

 不死者は終わりがない故に誰かと深く交わることができない、月社会にいた頃からそれを思い知らされていた。

 だからこそ自分の人生を、そして自分と同じ蓬莱人の人生を、すぐにでも終わらせるべきものとして認識していた。

 

 だが、ルーミアは輝夜のそんな認識を受け入れなかった。

 自分を救ってくれた友人に、そんな思いなどしてほしくなかったから。

 だからこそ、この世界に生きる楽しさを輝夜に知って欲しくて、ルーミアもまた孤独を求めた。

 誰と一生を遂げることができなくても、また次の出会いを探せると。

 そして、たとえ自分がいなくなっても、きっと輝夜の隣にいてくれる友はいるのだと、そう伝えたかったから。

 

 だが、それはかつてのルーミアの願い。

 裏人格に乗っ取られた今のルーミアには関係のない願い。

 今のルーミアは何もできない無力な妖怪ではない。幻想郷最強の鬼、勇儀を相手にしてなお蹂躙できる別次元の存在なのだから。

 それでも、ルーミアの意志とは関係なく押し寄せた闇に勇儀が飲み込まれると同時に、ルーミアは気付いてしまった。

 自分の全ては結局、無意味なものであると。

 自分がただ、定められた計画のためだけに生まれた存在なのだと気付くとともに、闇の中に消えていった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

おまけ



 最後に、せっかくなのでわかり辛い設定をまとめてみたのを載せます。
 中二臭い設定集とかが大好物な作者が単なる趣味で書いたものなので、ぶっちゃけ読み飛ばしていいと思います。
 こういうのなら気分転換に瞬殺で書き終わるのに、どうして本編はあんなに時間がかかるのだろうか……

 次章は来週中には開始予定です。

※下記設定は、あくまで今作内の設定です。原作とは関係ないものですのでご注意ください。




 

 

 

○異変の概要

 とある日のこと。神奈子と諏訪子は幻想郷のエネルギー開発のため、地底世界の地獄烏であった空に八咫烏の力を託した。

 八咫烏の力を得た空の異変に気付いたお燐は、それを秘密裏に解決するため地上人の手を借りようと、旧灼熱地獄の怨霊を地上に逃がしてしまった。

 しかし、旧灼熱地獄の怨霊の中には、かつて映姫と紫が封じた邪悪の力の一端が封じられていた。

 地上に溢れた怨霊を経由して邪悪の力は次第に地上の生物に憑りつき、力を得た者たちは弱肉強食の概念を無視して地上に混乱をもたらしていく。

 そして異変の猛威は、遂には幻想郷の最大戦力の一つであった天狗社会さえも壊滅させ、霊夢と紫の敗北も相まって幻想郷を恐怖で覆い尽くしていった。

 

 異変の脅威を知り、その解決に奔走する魔理沙や早苗たち。

 邪悪の力を滅しようと、秘密裏に破邪計画を進めていく神奈子たち。

 そして、強き負の願いを糧に次第に勢力を増していく邪悪の力の感染者たち、様々な思惑が交錯していく。

 果たして異変の果てに邪悪の力が幻想郷を滅ぼすのか、それとも幻想郷が邪悪の力を打ち破って平穏を取り戻すのか――

 

 だが、異変の行く末は邪悪の思惑でも幻想郷の住人たちの思惑でもなく、全ては輝夜の思惑によって操作されていた。

 この世界は唯一無二のものではない。輝夜が自らの能力で創り出した数十億の平行世界の一つに過ぎない。

 輝夜は幻想郷を、邪悪の力に侵された者たちをも全て救い、この異変を完全なハッピーエンドで終わらせるための世界を探し続けてきたのだ。

 

 これは、そんな二面性を持った異変の物語。

 それぞれの思惑を巡って表舞台を必死に駆け回る者たちと、その裏で孤独に世界の運命と戦い続けた少女の記録である。

 

 

〇破邪計画

 紫が中心となって立てた、邪悪を消滅させるための計画。古い存在である邪悪を、科学という最新の技術を使って消滅させようというもの。

 技術を担うのは、にとりを主任技術師とした10人からなる河童のチーム。守矢神社周辺で科学的な磁場を発生させて邪悪の力を弱らせ、『存在』の要素を持ったルーミアごとそこで消滅させるつもりだった。

 

 

〇嫦娥計画

 詳細は語られておらず、今のところ作中でこの言葉を発したのはさとりだけ。

 

 

〇邪悪

 元々は、とある事情から輝夜が時の狭間に封じていたもの。決まった呼び方のあるものではない(現在のところ詳細は不明)。

 約500年前にレミリアの能力によって邪悪の力が解き放たれ、一部はフランに、残りはルーミアの中に入り込んだ。

 ルーミアに入り込んだ邪悪の力について、映姫と紫は以下の4要素に分けて封印した。

●『存在』の要素(紫の証言)

 これに関しては、元々は邪悪の力ではなく空亡妖怪としてのルーミアのものである。

・悪の人格

 ルーミアの中に蓄積された闇を中和するための機能として生み出された、ルーミアの裏人格。

・闇を喰らう能力

 ルーミアが取り込み続けて蓄積された、負の感情という毒素を力へと変換する能力。

 特に強力な感情を取り込む場合、それを支える支柱を自らの外側に生み出す。

 支柱はおおまかに分けて憎悪、怒り、嘆き、絶望の4つで、それはルーミアの裏人格の直接の力の源となる。

 支柱と化したものは、時間とともにルーミアの能力にその闇を喰らわれて時間の経過で消えていくが、4支柱が同時期に全て揃ってしまうと、ルーミアの裏人格の力は表人格を超えてルーミアの身体を乗っ取ってしまう。

 なお、「悪の人格」と「闇を喰らう能力」は元々は一つの概念であったが、映姫はこれを別々に分けて封じた。

 人格の要素は藍の監視のもと、能力の大部分を失ったルーミアに再度封じて様子を見ることとした。

 闇の能力の要素は、下記の『能力』の要素と融合することとした。

●『能力』の要素

 負の感情を無限に増殖させていく医療科学の完成形で、月の先端技術ではないかと疑われる(にとりの証言)。

 映姫はこの要素を、地底の怨霊と、更に上記の『闇を喰らう能力』と融合した。

 それにより、安定した負の感情を持つ怨霊が、『能力』の要素によって増幅させた闇を、闇を喰らう能力によって自ら喰らって自浄させるシステムを作成した。

 なお、地底に封じられていたものには、映姫の能力によって『悪』という概念が決定づけられていた疑いがある(みとりの証言)。

●『力』の要素

 不死殺しの力(パチュリーの考察)。

 存在喰らいの力(平行世界の輝夜の証言)。

 紫はこれを博麗大結界に封印していたが、霊夢が神降しをして引きはがせなくなったために、霊夢の中に定着してしまった。

 それ一つで世界を滅ぼしかねない危険な力であるため、霊夢は普段は使わないようにしている。

●『闇』の要素

 ルーミアが抑え込むことのできなかった、たった一つで四支柱の概念を超えるほど強大な闇。

 たった一人が抱えていた負の感情の塊であり、邪悪の要素の中で最も危険なもの(映姫の証言)。

 

 

〇今回の異変における支柱

 本人の負の感情を糧に、力を増幅させる。その感情がルーミアの裏人格の力になる。

 支柱となった時点で強力な力を得るが、完全に力に支配されると別次元の力と引き換えに自我を失う。

●怒りの支柱

 対象者:風見幽香

 妖怪としての限界を超えられない弱い自分自身への怒りから支柱と化した。

 異変中に幽香は彼岸へ渡航し、その後幻想郷に戻っている。

 闇の力の代理人を名乗る雛が幽香に接触し、幽香は力を得た。

 雛の異変への関与を知っていたが、ルーミアの関与を知らなかった。

●嘆きの支柱

 対象者:河城みとり(にとり)

 にとりは姉を失った悲しみから支柱と化し、みとりは地底の怨霊に巣食っていた闇を自らに蓄積させていた。

 実際に支柱であったのはにとりで、にとりにみとりの怨霊が憑りついていた状態。ただし、抱える闇の容量はみとりの方が圧倒的に大きい。

 雛の異変への関与を知っていたが、ルーミアの関与を知らなかった。

●憎悪の支柱

 対象者:チルノ?

 目の前でルーミアを殺された憎しみから支柱と化した。

 ルーミアの思惑では、本来であればさとりが憎悪の支柱となる予定だったが失敗し、やむを得ずチルノを支柱と化した。

 異変の影響を受けているように感じたのは2日前。その後早苗たちと会うまで、悪戯相手の妖怪、妖精たちやルーミア以外とはチルノは特に接触していない(大妖精の証言)。

●絶望の支柱

 対象者:レミリア・スカーレット

 およそ500年に渡り、変えられない運命に心を壊され続け、絶望の支柱と化した。

 さとりによって支柱としての力を解消されていたが、その後再びさとりによって闇に堕とされる。

 ルーミアの異変への関与を知っていたが、雛の関与を知らなかった。

●災厄の支柱(にとりの証言)

 対象者:鍵山雛

 全ての闇を生み出し司る、元々のルーミアの能力下では存在しなかったと疑われる詳細不明の支柱。

 雛を利用して邪悪の力を暴走させようとしている、第三の勢力の存在が疑われる。

 何者かの代理人を名乗っている(幽香の証言)。

 

 

〇霊夢の力

●『空を飛ぶ程度の能力』

 空間そのものと感覚を同化することで、空に存在する危険を察知する超直感。集中すれば、周辺の生物の感覚も共有する。

●『夢想天生』

 空を飛ぶ程度の能力を極限まで研ぎ澄ませたもの。世界と自身の感覚を完全に一致させることで個としての存在を消し去り、あらゆる事象の影響から外れて行動できる力。世界と一体化しているため、周囲の感情を必要以上に察知してしまう。

●邪悪の力

 強大なエネルギーをそのまま放出したり、自分と同化させて身体能力を上げるなど、現在の霊夢はある程度のコントロールはできている模様。

 

 

〇輝夜の力

●『永遠と須臾を操る程度の能力』

 時間を膨張・圧縮させる能力。限りなく長い時間と限りなく短い時間(時という単位そのもの)を自在に操り、応用すれば自らが光速を超えて行動することも相手の時間をほぼ静止させることも可能。

●平行世界間の移動

 須臾という限りなく短い時間の間に、永遠という一つの世界を入れることによって、無数の歴史を創り出す力。今回で言えば、霊夢が異変に飛び立った後の時間に、既に70億個以上の異なる永遠(歴史)を組み込んでいる。

 

 

〇レミリアの力

●『運命を操る程度の能力』

・あらゆる概念を無視して運命を変える能力。これによりフランの死の運命を変えた。輝夜はこの力を「何の前触れもなく運命を無秩序に変化させ得る、あまりに興醒めな能力」と評価している。

・運命を知る能力。運命を知ることで、それを変えるべく行動するだけで運命を変えることはできる。だが、知った運命を一度でも変えるとフランが死ぬと輝夜に告げられたため、レミリアは一度も運命を変えることなく数百年間この能力に縛られ続けてきた。

 

 

○フランの力

●邪悪の力

 狂気に満たされた際、前述の邪悪の要素(ルーミアが取り込む以前に手にした力であるため、元々ルーミアの力であった『存在』の要素は除く)について使用可能。

●『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』

 文字の通り。なお、レミリアの半身が再生しないのはフランの力の影響ではなく、単純に傷口を日光に焼かれたためである。

 

 

〇アリスの力

●『人形を操る程度の能力』

 一応メインの能力ではあるが、身に付けた理由は「一人が寂しかったから」。

●『主に魔法を使う程度の能力』

 普段使う魔法は一般的なものだが、七色の魔法は別物。

●七色の魔法

 神綺が使用していた創世魔法をアリスが改変させたもので、()内は神綺の魔法。

 アリスの各魔法の読み方は各色の特殊な英訳で、神綺は0~6までの独数字。

 なお、魔法の発動条件に発音は関係なく、当作におけるアリスと神綺の趣味みたいなものである(ただの中二病くらいに思ってもらえれば)。

『赤』:破滅の力。エネルギーの理を超えて、対象に破壊をもたらす。

『橙』:創造の力。詳細不明。

『黄』:還元の力。詳細不明。

『緑』:創生の力。無から生命を創り出す。

『青』:同化(適応)の力。自分とは異なる視点から世界を見られる。アリスは普段この魔法によって、アリス・マーガトロイドという人形視点で世界を見ている。

『藍』:幻惑(叡智)の力。智を支配し、対象の意識へ介入する。

『紫』:未知(混沌)の力。実世界の理が及ばない虚数領域を生み出す。

『虹』:願いの力。神綺は使用できないアリスのオリジナル魔法で、実と虚を問わずあらゆる事象を可能とする。世界中の意識全体に匹敵するほどの、膨大な願いのエネルギーを必要とする。

 

 

○アリスとさとりとこいしの行動

●地底から出る際、既に邪悪の力に感染していたさとりは、絶望の支柱であるレミリアの存在を知っていた。さとりはレミリアに会うためにこいしとともに紅魔館に向かい、アリスも時間差で紅魔館へと向かう。

●さとりとこいしはレミリアに会い、そこでさとりは「運命」という愉悦を発見し、レミリアを絶望から一時的に解放する。

●さとりはフランのいる地下室の封印を解き、それが時間操作による封印であることに気付く。また、その封印はかつて萃香の心を読んだ際に見た、輝夜の力と類似するものだと気付く。

●さとりはこいしを紅魔館に残し、レミリアの心的外傷の理由を探ろうと興味本位で輝夜のもとへ行く。

●その頃、アリスは『青』色の魔法によって2者と視点を同化していた。一つ目の視点は、小悪魔とともに情報収集していた、アリス・マーガトロイドという人形。二つ目の視点はさとりと同化しており、さとりが一人で永遠亭に向かったことを知り、アリスはそれに同行することとした。

●永遠亭でさとりが輝夜の心を読んだことで、アリスは輝夜の渡ってきた無数の平行世界のことを知る。それによりアリスは『虹』色の魔法の完成を期待した。さとりの本当の目的はレミリア、そしてアリスの目的は輝夜にあったため2人の利害が一致し、アリスはさとりを逃がして一人で輝夜と対峙した。

●さとりは今までに自分が得た情報をもとに、「運命」という玩具を最も楽しむ方法を画策しながらレミリアの前に再び現れた。

●魔理沙と幽香たちの戦いが終わるとともに、アリスはこいしに任務を託し、その報酬としてさとりが向かう先の情報を伝えた。

 

 

〇輝夜視点の時間軸

 異変開始初期の世界線からの、輝夜の心情の変遷。

●初期

 ルーミアの死の運命と幻想郷の滅びる運命を回避しようと、異変開始のきっかけを作り出す。

 輝夜は異変に直接関与せず、間接的関与から世界がどう進むかを観測する。

 輝夜の望まぬ結果を避けつつ、ゲームを操作する感覚で異変に関わっていた。

●2期

 熱中した輝夜自身が、ゲーム(異変)に直接介入し始める。

 様々な相手と協力しながらゲームを進め、次第に多くの者に愛着が湧き始める。

 救いたい対象が増えていく。

●3期

 全てを救える結末に辿り着けず、輝夜がゲームに飽き始める。

 平行世界間の記憶を他者と共有し、幻想郷の枠を超えて月社会にまでも協力を求めていく。

※この頃に生み出されたのが、永琳の力で霊夢を犠牲にして解決する方法を見つける世界線。

●4期

 どうしても解決ができず、輝夜に諦めの気持ちが芽生え始める。

 しかし、別の平行世界の輝夜自身の声が、諦めることを許さなかった。

 救い出すことも諦めることもできず、次第に逃避を始める。

●5期

 輝夜の心が折れていく。

 繰り返す度に大切な人が死に、世界が滅びていく運命を見続ける。

 大切な記憶を忘れようと、ゲームの画面を眺めるかのように無関心に世界を繰り返すようになった。

 救われるはずのない世界線をも生み出し、世界の分岐点の観測を続ける。

※この頃に生み出されたのが今作の世界線。アリスの観測では、この時点で歴史の数は億を突破している。

●6期

 輝夜が壊れ始める。

 無関心に観測しようとも繰り返す度に増えていく、皆との思い出や優しい声が頭から離れなくなっていく。

 脳裏を埋め尽くす別の平行世界の自分の声も、耐えきれないほど大きくなっていく。

●7期

 輝夜の精神が限界を迎える。

 自分の存在を悪として固め、故意に世界に闇をもたらしていく。

 皆から自分へ向けられる、悲しみや絶望、怒りや憎悪といった負の感情を集めていく。

 自分自身に根付いた思い出を、そうして憎しみで塗り潰すことで、大切なものを救えない痛みを少しでも和らげようとしていった。

※この頃に生み出されたのが、魔理沙と妖夢と紫、そして幻想郷全ての生命を輝夜が殺し、世界が滅亡した世界線。

●8期

 輝夜の心が崩壊する。

 希望、愛情、友情、信頼、絶望、嘆き、怒り、憎悪、数十億の世界のあらゆる声が脳内で響き続ける。

 それでも、諦めることだけはできなかった。

 全てを忘れられる日か来るまで、かつてアリスの『紫』の魔法に閉ざされた際の何もない世界線を、惰性で繰り返すだけの日々を続ける。

●9期

 自分が何者かもわからなくなるほど暗闇の世界を繰り返した中で、遂に自らの死を選び得る世界に辿り着く。

 しかし、不死殺しの力を持っている霊夢によって、それでも殺されることなく再び懐かしい記憶を思い出すこととなる。

 脳裏を埋め尽くす声が再発し、輝夜は再び永遠の地獄へと誘われていく。

 だが、数十億回に渡り歴史を渡り歩いてきたことでアリスの『虹』色の魔法が初めて発動し、今までどの世界線でも存在し得なかった人間の声が聞こえてきた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後編ノ弐 ~正義~
第39話 : 渡世


 

 その道のりは、ひどく長くて険しいものに見えた。

 最も馴染み深いはずのその道は、今や地獄へと続く道であるかのように感じる。

 

「……こんなに、遠かったんでしたっけ」

 

 息切れ一つない声で、早苗は呟いた。

 疲れている訳ではないが、その足取りが重かった。

 空を飛びはしない。

 飛べないのではなく、飛ばない。

 歩いてそこに向かうことで、少しでも気持ちを楽にしたかった。

 なぜなら、強がってはみたものの、これはただの自殺みたいなものなのだから。

 

「霊夢さんや魔理沙さんなら、こんなことはないんでしょうね」

 

 自分の心から湧き上がってくる不安が、誰もが持っている恐怖という感情が、早苗は未熟さ故なのだと思っていた。

 だが、今はそれを感じてしまうこと自体が仕方のない状況だった。

 

 早苗が向かっているのは、かつて守矢神社があった場所。

 神奈子が、諏訪子が、なす術なく敗れた戦場。

 そんな場所に自分が一人で向かっても、何もできない自覚があった。

 ただの虫ケラ、それ以下の足止めにしかならないと、弱気になっていた。

 せめて文に一緒に来てもらえれば。

 一人じゃなければ、こんな風に思わないはずなのに。

 そう、心の中で言い訳さえも始めていた。

 

「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」

 

 早苗は必死に自らを奮い立たせる。

 すぐそこから得体の知れない何かを感じながら、それでも自らの奥底から湧き上がってくる恐怖に必死に打ち勝とうとする。

 

 そして、意を決して顔を上げた早苗の視線の先にあったのは―――

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第39話 : 渡世

 

 

 

 

 気がつくと、宵闇の中に一人立ち尽くしていた。

 辺りに人気はなく、ただ古ぼけた神社があるだけ。

 

「……え?」

 

 早苗は目の前の現実に困惑していた。

 確かに少し前、闇に支配されたチルノによって守矢神社は崩壊させられた。

 全てが暗闇へと飲まれたそこにはもう何もない、それはわかっているはずだった。

 

 だが、それは確かに目の前にあった。

 神社だけではない、そこには平々凡々とした草木に、寂れた境内。

 早苗がいつも見ている守矢神社とはかけ離れたその神社に、しかし早苗は見覚えがあった。

 

「……どうして。諏訪大社ですよね、ここ」

 

 それは、守矢神社とは似て非なるもの。

 強いて二者の違いを挙げるとすれば、その立地。

 守矢神社は、妖怪の山にその概念ごと引っ越してきた神社である。

 そして諏訪大社は早苗たちが幻想郷に引っ越す前、日本という国にあった神社、つまりは――

 

「まさか、ここは……」

 

 ――現実世界。

 

 そこにあるのは紛れもなく、幻想郷の外の世界における守矢神社の姿だった。

 早苗はそれに気づきながらも、ただ唖然とするばかりで状況を把握しきれていない。

 自分はついさっきまで、間違いなく幻想郷で妖怪の山を登っていた。

 怯える自らの心を奮い立たせようと目を閉じ、再度目を開けた時にはここにいた。

 現状に至るまでの経緯を、早苗は少しずつ整理していく。

 

「こんなっ、私はこんなところでボーッとしてる場合じゃ……っ!!」

 

 慌てて空から辺りを見回そうとした早苗であったが、しかしすぐに思いとどまった。

 もし仮にここが幻想郷ではないとしたら、人が飛んでいてはあまりに不自然で、あまりに目立ってしまうから。

 早苗の持つ奇跡の力、神の力も霊力も、非常識な概念は現世においては存在すべきではないものなのだ。

 

「神奈子様! 諏訪子様! 聞こえてますか、返事をしてください!!」

 

 早苗は賽銭箱を跳び越し、無我夢中で神社の壁を叩く。

 しかし、必死の呼びかけは何にも届くことはなかった。

 ここには信仰に応えて風を呼ぶ風神も、地を操る土着神も存在しない。

 現実世界においては、神なんてものはただの偶像でしかないのだから。

 いくら叫んだところで、返事が返ってくる訳がなかった。

 

「……こんな夜更けに、お参りですか?」

「っ!!」

 

 だが、誰もいなかったはずの背後から、突然声が響く。

 そこから肌で感じられるのは、ただひたすらに厳かで寒々しい雰囲気。

 早苗がその声に導かれるまま恐る恐る振り向くと――しかしそこにあったのは、一人の小さな子供の姿だけだった。

 

 

 

 

 




 念のため言っときます。この物語はフィクションです。実在の人物・団体・出来事などとは関係ありません。諏訪市在住の方がいたとしても同名の全く別の場所の話ですので、ご安心ください。

H30.3.20 39話と40話で早苗が鈴を鳴らす描写を差し替えました。鈴がない神社もあるんですね、知りませんでした。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第40話 : 旅立ち

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第40話 : 旅立ち

 

 

 

 

 それはどこか、違和感を感じさせる光景だった。

 人気のない夜に神社に向かって大声で叫ぶ巫女服姿の早苗と、それを冷静に見上げている質素な服装の少女。

 やがて少女は、早苗に怪訝な目を向けて問いかける。

 

「貴方は……賽銭泥棒、ではないですよね?」

「い、いえっ、違います!! 私は幻想郷から来てて…」

「……幻想郷?」

 

 言い訳を考えながらも、早苗は自分を見上げるように観察してくる少女の異質さに気付いた。

 妖精と同じくらい小柄な子供。ここが外の世界であるのならば、恐らくは人間の小学生の低学年程度か。

 それがこんな夜に人気のない神社にいるはずがない、たとえいたとしても恐らくは迷子、ここまで冷静で流暢に話をできる訳がない。

 そして何より、自分と同じ緑髪。

 外の世界ではほとんどが黒髪や茶髪、稀に金髪の外人も見たことはある。

 だが、緑色の髪など外の世界では自分以外には見たことがないと、少なくとも非常に稀有な存在であると知っていた。

 そこから早苗が辿り着いた答えは――

 

「あの、もしかして貴方も幻想郷の人ですか?」

 

 緑髪は幽香もいたし、雛もいた。それに、たとえ子供のような見た目であっても幻想郷であれば特に不自然ではない。

 つまりはその少女が、早苗と同じく幻想郷から現世に流れ着いてしまった何者かである可能性があるのだ。

 

「幻想郷、ですか……」

 

 だが、少女は何やら考え込んでいた。

 何かをごまかそうとしているようには見えないが、明確な返答はない。

 

「……あれ? もしかして、違いましたか?」

「いえ、そういう訳ではなく、その……」

 

 少女の答えは曖昧で、歯切れが悪かった。

 やがて少女は、少し困ったような顔をして早苗に告げる。

 

「それが、実は現状に至る経緯を何も思い出せないのです。ついさっき、気付いたらここにいて……」

「え? それって…」

 

 偶然居合わせた記憶喪失の子供――ではないと、早苗は直感した。

 何もわからないまま気付いたら諏訪大社の前にいた者が、今この瞬間に自分の他にもう一人いるという事実。

 それが偶然であるはずがない、そこには何か必ず因果関係があるはずだと早苗は考えていた。

 

「そ、そしたら、何か少しでも思い出せることはありませんか?」

「……そうですね。幻想郷のことは、噂に聞いたことがあります。忘れ去られた者たちの楽園、貴方はそこの住人なのですね」

「ええ。そこまで知ってるのなら、貴方も幻想郷から来たのではないですか?」

「いえ、私には現世の記憶しかないのです。……でも私が動けていることを考えると本当に、いや或いは…」

 

 少女は一人言をぶつくさと呟いていた。

 早苗もまた深く考え込む。

 その少女が本当に現世の住人なのか、幻想郷の住人であるにもかかわらず記憶を失ってしまったのか、それとも早苗を騙そうと偽っているのか。

 可能性はいくつか浮かぶが、それでも――

 

「……なるほど。私も貴方も、一刻も早く情報収集が必要みたいですね」

 

 少なくとも、あてもなく考え込んでいても仕方がないことだけはわかった。

 幻想郷は今、危機的状況に陥っている。その状況下で自分たちが突然ここにいる理由。

 博麗大結界が壊れてその狭間から放り出されてしまったとすれば割と簡単に幻想郷に戻る手段はあるか、もしくは他に何か重大な問題が発生しているのか。

 まずは現状を確認していこうと、早苗は目の前の少女に続けざまに問いかける。

 

「まず、貴方の名前を聞いてもいいでしょうか」

「……私の名前、ですか」

「はい。あっ、そういえば私も自己紹介がまだでしたね。私は守矢神社で巫女をしている、東風谷早苗と申します」

「洩矢神社? ……ああ、あっちにある神社ですか」

 

 少女はあさっての方向を見てそう答えた。

 

「あー、少し違うんですけど……まぁその辺のことはおいおい説明しますね」

 

 その方向には、洩矢神社という現世の小さな神社が存在する。

 同じ読み方であるが故に、少女はそちらの神社のことが真っ先に浮かんだのだろう。

 だが、「もりや神社」と聞いて現世の神社を即時に連想するあたり、少女がある程度の現世の知識を持っているだろうことはわかった。

 

「それで、貴方の名前は?」

「……」

 

 少女は答えない。

 拒否しているのではない、何かを思い出そうと考え込んでいるようだった。

 早苗は少女が何か答えるまでじっと待ちながらも、その挙動を深く観察する。

 今この瞬間、早苗はただ少女の名前を聞こうとしているだけではなかった。

 早苗はまだ、少女のことを信じ切っている訳はない。

 自分がここにいる理由にこの少女が関わっている可能性も、そして敵である可能性もまだ十分に考えられるのだから。

 

「……正式な名ではなくとも構いませんか?」

「え?」

「私は本来は人間ではありません。現世で人々を見守る、名もなき地蔵菩薩の一つでしたから」

「お地蔵様、ですか」

 

 早苗は幻想郷で地蔵の化身に会ったことはない。

 しかしそれが本当のことだとすれば、動く不可思議はまさしく幻想郷の住人である証だった。

 

「ええ。ですから私にあるのは、遠き昔に旅人がつけてくれた仮の名だけです」

「それでも構いませんよ。幻想郷にもそういう人はたくさんいますから」

 

 だが、同時に早苗には疑問が芽生えていた。

 早苗の聞いた話では、幻想の生物は現世では確かな形を保ち続けることができない。

 その能力によって現世と行き来できる紫ですら、現世に留まり続ければ生命力が脅かされてしまうのだ。

 にもかかわらず、地蔵という現世において本来は無機物であるはずの少女が、人の形をとりながら平然と今この瞬間に話している事実。

 少女の話が本当だと仮定すれば、現世においても自分の窺い知れない何かが起きているという可能性は非常に高い。

 だからこそ、早苗は一刻も早く前に進む必要があることを再認識した。

 

「わかりました。では私のことは、巡り廻る季節を等しく見守り続ける地蔵菩薩――」

 

 そして、少女はすっと背筋を伸ばしてその名を告げる。

 

「四季と。そうお呼びください」

「……四季さん、ですか」

 

 早苗は表向きは取り繕いながらも、少しだけ警戒を強めた。

 その名は、早苗の頭の片隅に引っかかっていたから。

 どこかで聞いたことがある名。それも割と最近、つまりは幻想郷にいる時に聞いた、僅かながらもそんな記憶があった。

 自分はこの相手を知っているかもしれない。

 そしてそれが現世の住人を名乗っているという事実は、早苗を疑心暗鬼にさせるには十分であった。

 この少女を疑うべきなのか、信じるべきなのか。

 

「わかりました。改めてよろしくお願いします、四季さん」

「はい。お願い致します、早苗」

 

 だが、ここでそんなことを考え込んでいても先に進まないし、判断のしようがない。

 早苗は四季を警戒しながらも、まずは現状を一度受け入れることにした。

 

「では、行きましょうか」

「……行くとは、どこへですか?」

「そんなの、決まってるでしょう」

 

 今後の方針を考えるためにも、今いる現実世界での情報収集は不可欠である。

 だから、早苗はかつてこの世界にいた頃の記憶を遡っていく。

 自分がいるべきではない世界、それでも深く馴染みのあるこの世界の地形、人々、文化、様々なものを思い起こしていく。

 長居するつもりはない、ただの通過点に過ぎないこの世界を――早苗はそれでも少しだけ懐かしみつつ顔を上げる。

 

「私たちがここにいる原因をさっさと突き止めて、幻想郷に帰るんです!」

 

 こうして、早苗と四季の現実世界の冒険が始まった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第41話 : 帰郷


遅くなりましたが、再開します。今回から少し文体が変わります。



 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第41話 : 帰郷

 

 

 

 

 諏訪大社は長野県を代表する観光地の一つである。上社前宮(かみしゃまえみや)上社本宮(かみしゃほんみや)下社春宮(しもしゃはるみや)下社秋宮(しもしゃあきみや)という4つの神社が諏訪湖周辺に点在し、日々それなりに人々で賑わっていた。たとえ祭られる神の名前さえ知らずとも、大きな神社にはご利益を求めて集う。それは現代人の卑しさでもあり、逞しさともいえる。

 その内、早苗が今いる諏訪大社上社前宮は諏訪信仰の発祥の地とされる神社でありながら、4社の内では比較的人が少ない神社でもあった。利便性を求める現代人の中にあっては、交通手段が少なく山奥にぽつりと存在する前宮は観光地としての発展から少しばかり取り残されているのだろう。

 

 だが、その事情を除いてなお、早苗は寒気がするほどの静けさを感じていた。

 幼い頃から見続けてきた道路の傍には建設中の商業施設、機会があれば行こうと思っていた喫茶店の看板はいつの間にかなくなっている。

 そういった変化は、早苗が幻想郷に行ってから1年あまりの時間経過によるものだと納得できた。むしろ合理的な差異が僅かに存在する風景は、今見えているのが幻術や夢の類ではないことを自然と理解させる。

 

「これは一体、どういうことでしょうか」

 

 その一方で、人々に起こっている異常はとても受け入れられる類のものではなかった。

 高台から見下ろせる建物には一つとして明かりが灯っていない。代わりに、道路に乗り捨てられたり事故を起こしたまま処理されていない、自動車と呼ばれる四輪機械から直線状に発された光だけが辺りを点々と照らしていた。

 早苗が事故車に近寄ると、その周辺はまだ温かかった。事故が起こり、火が消し止められてからあまり時間は経っていないのだろう。にもかかわらず、周辺に消防隊はおろか、車の持ち主や野次馬すらも全くいないのだ。まるで突然に人だけが世界から消えてしまったかのような異様な光景は、早苗の不安を煽るには十分すぎるものだった。

 

「……行きますよ四季さん。ちょっと近道しますね」

 

 早苗は他にもいくつかの自動車や家の中を覗き込み誰もいないことを確認すると、躊躇なく脇道へと入った。雲が厚いためか月光の差さない真っ暗な細道、整備されていない道なき道も僅かな記憶を頼りに進む。駅に向かう曲がり角も、交番にすら目もくれず、早苗はただ一つの場所だけを目指していた。

 

「早苗、一体どこへ行くのですか?」

「……すみません。もう少しで、着きますから」

 

 連続する悪路に何度も足を取られている四季からの質問に、早苗は曖昧に返した。

 行き先を秘密にしたい意図がある訳ではない。ただ、その場所を何と呼ぶべきかわからなかった。自分が幻想郷へ渡ったことで、そこが一体どうなってしまったのかを考えるのが恐かったから。

 

「ここは?」

「……」

 

 やがて早苗は一軒の家の前で立ち止まる。そこは近所の平均的な一軒家と何も変わらない、強いて言えば少しだけ庭のガーデニングが彩られた家だった。

 庭に置かれた紫のチューリップの植木鉢をおもむろに持ち上げると、早苗はその裏に貼りつけてある一本の鍵を見つけた。

 

「……やっぱり、なんですね」

 

 早苗は少し掠れた声で呟く。

 剥がした鍵は当然のごとく玄関の鍵穴にぴったり合うも、早苗はしばらくの間動けずいた。ドアノブを握ったまま硬直した手から一度力を抜き、深呼吸を繰り返す。

 

「――ただいま」

 

 そして、ゆっくりと力を入れた。

 返事はない。やはり電気は点かず視界は悪いが、微かに感じる空気は早苗の記憶と同じだった。見覚えのある廊下と、庭とは一転して人工的な芳香剤の匂い、そして――昔のまま変わらない、玄関に並べてある3人分の靴。

 何も変わらないと。そう気付いた瞬間、涙が出るほど胸が締め付けられていた。

 

 外の世界にも、確かに早苗の家族がいた。神奈子と諏訪子ではない、早苗を産み育て上げた両親が確かに存在したのだ。

 ただ、早苗の両親は早苗とは違ってどこまでも普通の人だった。亡くなった祖父の家に住みながら、役所勤務の父と専業主婦の母が一人娘の早苗とともに暮らす、ごく一般的な家庭。年始に諏訪大社にお参りに行った時も、神社から神奈子たちの気配を感じていた早苗とは違い、賽銭を入れてお参りするだけの普通の思考を持った人たちだった。

 だからきっとあの扉の先には、まだそれがあるのだろう。早苗がずっと目を背け続けてきた、現実世界に遺してきた許されざる罪が――

 

「……」

 

 早苗は部屋の入口に置いてあった電池式の明かりを灯すと同時に、言葉を失った。

 そこは整然とした普通の部屋だった。物は多いが目に見える部分は整頓され、埃もないほど綺麗に掃除が行き届いている。にもかかわらず、全くと言っていいほど生活感はない。ゴミ箱は空っぽ、ベッドのシーツもシワ一つない状態で、洗った後に誰かが使った形跡もない。ただ、そこに誰がいつ来てもすぐ気持ちよく使えるような、そんな気遣いだけが見える部屋だった。

 

「なんで。泣かないって、決めてたのに」

 

 幻想郷に来て既に1年以上、それだけ経ってなお早苗は忘れられてはいなかった。いつでも帰ってきていいよ――誰もいない家からは、そんな声すら聞こえてきた気がした。

 

「ここは、貴方の家なのですか?」

「……はい。昔の、ですけどね」

 

 幻想郷に移り住んだあの日、早苗たちは選択を迫られていた。

 信仰を失い日に日に衰退していく神奈子と諏訪子に残されていた道は少なかった。現世に留まり、いつか訪れる消滅の日をゆっくりと待ち続けるか、それとも幻想郷という新天地で新たな信仰を得るか。神奈子と諏訪子の現状を考えれば迷わず後者を選ぶべきだが、そう簡単にはいかない事情があった。

 早苗をどうすべきか決断できなかったのだ。早苗自身が望んではいたものの、現世で戸籍も家族もある人間として生きている早苗を簡単に幻想入りさせることはできない。だからこそ、早苗の強い信仰によって辛うじて力を保っていたふたりは、最後に残された真の信奉者である早苗が大人になり、自分たちを認識できる力が途絶えるまでは現世に残るという選択肢も視野に入れていたのだ。

 しかし、早苗にはそれが耐えられなかった。自分が神奈子たちの重荷になっているという事実と、それでも自分は神奈子たちについていきたいという葛藤。その状況を打開するため、早苗は今までの自分を捨てる決断をした。

 

 現実世界において、早苗はいわゆる神童であった。本気にならずとも周囲と比べ成績は群を抜いていたし、だいたいのスポーツはその気になれば大きな大会に出られる才能があった。弱体化しているとはいえ神奈子や諏訪子という最上級の神の加護を一人で受けていた早苗には、現世の一般人とは別次元の力が満ちていたのだ。

 しかし、早苗は推薦も特待生の扱いも蹴って、諏訪市にある普通の公立高校に通っていた。早苗にとっては現世での名声なんてどうでもよかったから。諏訪大社の周辺、つまりは神奈子と諏訪子を感じられる地で暮らし続けるために、悪目立ちすることを避け髪も黒く染めて普通の学生をしていただけなのだ。

 それでも、早苗の才能に気付いていた周囲の声は皆が別の道を指し示す。一流の大学、プロのスポーツ選手、現実世界の価値観で言う成功者像ばかりを押し付けられ、廃れ行く神社の巫女になりたいという夢は否定され続けてきた。どれだけ頑張っても本当にやりたいことは誰にも理解してもらえない、それに気付いた頃から早苗は現実世界に嫌気が差してしまった。この世界は自分に合わない、そんな中二病じみた思考も、実際にその力が伴った者にとっては深刻な問題なのだ。

 だから、現世に心残りはないはずだった。

 自分をここまで育ててくれた、両親のこと以外には。

 

「私のことは忘れてって。あれだけ言ったのになぁ……」

 

 幻想郷へ行けば、例外はあれども基本的に現世の人にはもう二度と会えない。そして、幻想郷へ行くと伝えても普通の人に通じるはずもなく、家出や失踪事件として取り扱われるだけなのだ。そうなればきっと、両親は心配して早苗を探そうとする。残りの人生をかけて、見つかるはずない早苗の捜索に全てを費やしてしまうだろうことは容易に想像できた。

 だからこそ早苗は幻想郷に行く直前期、自分という存在の全てを捨てるためにわざと両親と大喧嘩した。学校でも素行不良、友人は作らず孤立し最後の方は誰も早苗を心配する者などいなくなっていた。そして別れの日まで早苗は両親に冷たく接し続け、最後は家を飛び出すような形で終わってしまった。これからは一人で生きていくと、二度と戻らないし探さないでと手紙だけを残して現世から去ったのだ。

 

 そうしてきたのは、いなくなってしまう自分のことを諦めてほしかったから。両親ではなく神奈子たちを選んだ親不孝な自分に、これ以上縛られてほしくないからだった。

 ただ、早苗に一つ誤算があるとすれば、当時の早苗の心がまだ子供だったことだろう。まだ親になったことのない早苗は、たとえどんな形で別れようと親から子への愛情は簡単には消えないということを理解していなかった。だからこそ早苗は、自分が両親に最低の裏切りをしてしまったと今になって深く認識することになってしまったのだ。

 

「大丈夫ですか?」

「……大丈夫です、すみません。さあて、いろいろと調べないと!」

 

 それでも早苗は、自分にはもう両親を想い涙を流す資格などないのだと、心の中で強く言い聞かせる。幻想郷という世界で守矢神社の巫女として生きていくと決めたのは、他でもない自分なのだから。

 

「ここも人の気配がありませんね」

「ええ、だからここに来たんです。こういう時、リアルタイムの情報収集は必須ですからね」

 

 早苗が行き先にかつての自分の家を選んだのは、ただ懐かしかったからではない。神社周辺の惨状を見て、恐らくこの辺りにはもう誰もいないことを予想していた。誰にも話を聞けないのならば自分で状況を調べる必要があり、勝手を知る家ならば情報を得やすい。そんな打算的な思考からこの場所を選んだだけなのだと、心の中で言い訳をしていた。

 

「確かこの辺に……」

 

 早苗は慣れた手つきでクローゼットを物色する。自分が出ていった日からおおよそそのままの形で部屋が残っているのだろうと思った早苗は、確信じみた手際で次々と物を放り投げていく。やがて手に取ったのは、電池式のラジカセだった。

 

「ありましたよ四季さん! 電気が止まってるみたいなのでテレビは無理ですが、ラジオなら……あ、聞こえるみたいです!!」

 

 早苗の思い通り、ラジカセの電源をつけるとともに音声が流れる。

 そして早苗は、ほぼ同時に聞こえてきたニュースの内容に聞き入っていった。

 

 

 

 




※今章からは更新ペースを上げるつもりでしたが、しばらくはだいたい2~3週間に1話程度のゆっくりペースになると思います。というのも最近、最新話と並行して文章の書き方を勉強しつつ、基本的には物語の内容を変えずに一話から書き直してリメイク版を作成し始めたからです。
 リメイクしようと思った理由としては、文章力の欠如や自己満足の表現方法が多いせいか、この小説を一話から読み直してみた時に伝えたい内容が自分の頭にすら入ってこない部分が多いことに改めて気付き、今一つこの小説の世界に入り込めなくなってしまったからです。

 ここから先、少しずつ文体が変わるかもしれませんが、今まで通り次話以降の更新も続けていくつもりではあります。しかし、4年も続けてきて納得のいかない半端なラストにしたくはないので、この先の話の完成度を上げるためにも、まずは自分の中のモチベーションを上げつつ文章力を上げていきたいと思っています。ここまで読んでくださっている方には大変申し訳ないのですが、ある程度書き直しが進むまでは少し時間がかかってしまうこと、ご了承をお願いします。




目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。