この醜くも美しい世界 (三只)
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やはり、あたしの身体は相当傷んでいたらしい。

 

エヴァに乗り込んでいたときには気づかなかったが、根本的な肉体の衰弱が激しい。

 

何週間も病院のベッドの上だったのだから当然といえば当然だ。

 

くわえて、量産機による―――思い出したくもない。左目が疼く。

 

正直生きているのが不思議なくらい。

 

だから、熱が出た。

 

考えごとをするのも面倒くさい。

 

プラグスーツのまま毛布にくるまり、悶々と時間が過ぎるの待つ。

 

どうしてあたしは生き残ってしまったのだろう?

 

どうして。

 

どうして。

 

「アスカ、大丈夫…?」

 

どうしてこんなヤツと二人だけで。

 

ボロ布のつぎはぎだらけの天幕を上げ、覗き込んでくる最低男。

 

このあたしを殺そうとした張本人。

 

「近づくんじゃないわよ!!」

 

叫んだとたん唇が割れた。血の味が口内に広がる。くそ。

 

「ご、ごめん…」

 

慌ててシンジのヤツは天幕を降ろす。

 

隙間から腕だけが入ってきた。腕の先の手にはビニール袋が吊されている。

 

袋の中身は、水かなにかのペットボトル。

 

乱暴にむしり取り、袋から出すのももどかしくキャップを開けた。

 

唇に当て、一気に飲み込む。

 

信じられないくらい新鮮な感覚が、口の端からつたって胸元へ滑り落ちる。

 

半分ほど貪るように飲み、案の上むせて咳き込んだ。

 

しばらく経口摂取をしていなかったのだから当たり前だ。

 

また天幕をたくし上げ覗き込んでくる黒い瞳を睨み付ける。

 

鬱陶しい。

 

近づくな。

 

あんたなんかに心配されるほど落ちぶれてないわよ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天幕の隙間から、そっと外の様子を伺う。

 

白い砂地の浜辺だ。

 

海の方向は見たくなかった。

 

ただ広いだけの海から響く潮騒は絶望を象徴しているかのよう。

 

対比となるあたしは嫌でも孤独を意識させられる。

 

そしてなにより赤い空。その下に横たわる巨大なファーストの顔など悪夢そのものだ。

 

5メートルほど離れた場所に、こちらより貧相で小さな天幕がある。

 

そこにシンジが寝泊まりしている…らしい。

 

らしいというのは、アイツがいないことが多いからだ。

 

ふらりと出かけていってはしばらく帰ってこないことがある。

 

30秒ほど天幕を凝視し、あたしは首を引っ込めた。

 

どうやらいないようだ。

 

どこにいったのか、詮索してやる義理もない。そこいらで野垂れ死んでいたってかまわない。

 

無事な左腕を額に乗せる。

 

火照ってる。まだ熱があるようだ。

 

喉の渇きを覚え、ペットボトルに口を付ける。

 

中身はなかった。

 

腹立ち紛れにボトルを投げ捨てた。

 

途端に冷静になる自分がいる。

 

もう、この世界に医者はいないのだ。

 

満足な治療も受けられず、あたしは死ぬ。

 

頬が自虐的に吊り上がる。

 

それがあたしの死に様だ。

 

おそらく最も相応しいだろう。

 

理不尽だとは思わない。

 

あたしも自分の手で他人に理不尽な死を強要したのだから。

 

詫びる気持ちなどサラサラない。

 

罪悪感だって、多分、ない。

 

そうなってしまったのには、全て個人に責任がある。

 

幾つもの選択肢があったはずだ。その果てに得た結果は、全て個人のものとなる。

 

かくいうあたしもそうだ。

 

エヴァに乗ったことは後悔していない。

 

後悔しているとすれば、こんな珍妙な世界に、あのバカと二人きりで残されたこと―――。

 

いけない、思考がまとまらなくなってきた。

 

ヒリつき始めた喉を手で覆いながら、あたしは瞼を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を覚ますと、目前にペットボトルがあった。

 

反射的に手を伸ばす。

 

確かな重量感。

 

キャップを捻り、唇をあて、思うままに渇きを癒す。

 

落ち着いてよく見れば、缶詰が二個になにやら薬のような小瓶まで置いてある。

 

缶詰はともかく、薬瓶になんて書いてあるかよく分からない。とにかく漢字が多すぎる。

 

でも、おそらく解熱剤かなにかだろう。

 

こんなことをするヤツは一人しかいない。

 

あたしの今の状態を知る人も一人しかいない。

 

感謝の気持ちなんぞ沸いてこない。

 

代わりに皮肉と苛立ちがあたしの背中をムズムズさせた。

 

ふん、贖罪のつもりなのかしら?

 

缶詰のプルキャップに指を伸ばす。

 

ところがなかなか引っ張り上げられない。

 

情けないほど力がなくなっている。

 

意地で無理矢理こじ開けた。

 

中身は脂でギトギトのコンビーフ。なのにとても美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最低だ。

 

最悪だ。

 

ついさっき、あたしはシンジに犯された。

 

薬が効いてきて、ボーッとしていたからかもしれない。

 

久しぶりに何かをお腹に入れ、眠くなっていたからかもしれない。

 

とにかく、油断した。

 

天幕に現れた影は決して中に入ってこようとしなかったのだ、今までは。

 

ところが、今日のアイツは、ふらりと中へ入り込むと、いきなりあたしに覆い被さってきた。

 

組み伏せられ、プラグスーツをむしり取られる。

 

嫌悪感を催す感触が、あたしの身体の上を遠慮がちに這いずり廻る。

 

歯を食いしばって堪えていると、無理矢理唇を重ねられた。

 

首を振って追い払えば、今度は鎖骨あたりを舐められた。鳥肌がたった。

 

一方的にシンジはあたしの身体をまさぐり、股間に欲望を吐き出した。

 

破瓜の痛みは、エヴァに乗っていたときより酷かった。

 

なにより、あたしの体内深く侵入してくる違和感に、吐き気すら催した。

 

あたしにはアイツの行為を拒むだけの力が残されていなかった。

 

だから、せめてもの抵抗に、被さってくるシンジの肩に噛みついた。

 

思い切り噛んだから血が滲んでいた。もしかしたらあたしの割れた唇から出た血かもしれない。

 

唇の端の血を拭い、足下に散らばった血を眺め、しばらく呆然とした。

 

今度きたら殺してやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身体の中心に杭が埋め込まれているよう。

 

体温がまた上がったようだ。強い目眩がする。

 

動くと痛みが走るので、今日はじっと横になったままだ。

 

だけど、牙を研いでおくのを忘れない。

 

今さらながら、恥ずかしい。

 

あたしは、シンジに犯されたのだ。抱かれたのだ。

 

よりにもよって、あんなヤツに純潔を渡してしまったのだ。

 

ふつふつと沸き上がる怒りが視界を灼熱に染め上げて行く。

 

羞恥を悔恨と憤激が塗りつぶす。

 

思い知らせてやらなければならない。

 

対価を支払わせてやる。

 

罪を贖わせてやる。

 

あたしは待ちかまえた。

 

その時を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、シンジはやってこなかった。

 

どれだけの時間こなかったのか、分からない。

 

時計もない。空は相変らず暮れようともしない。

 

本能に従い、あたしは生きている。

 

お腹が空いたら食べ、眠くなったら寝る。

 

唯一天幕の外へ出るのは、排泄する時だけ。

 

アイツに犯された直後、出血があって困った。

 

寝て起きたら止まっていたけど、しばらくしたらまた出血した。

 

とんでもない傷がついたのかと思って心配になったけど、よくよく考えてみれば生理が始まっただけだった。

 

腰のあたりが重苦しくて、あたしは横になったまま過ごす。

 

ナプキンなんて気の利いたものはないから、清潔そうな布を畳んで股間に入れた。

 

はっきりいって不快だ。

 

痛みから逃れる為にも、あたしは浅い眠りを貪る。

 

切れ切れの眠りに、夢の断片が散らばっている。

 

どういうわけか見る夢は、日本に来てからのことばかりだった。

 

ミサトの顔。ヒカリの顔。加持さんの顔。

 

夢でみんなと笑い、目をさましてむなしさと切なさに胸が痛む。

 

辛かった。

 

間違いなくあたしは世界で一番孤独だった。

 

寂しさを紛らわすため、また眠る。それの繰り返しだ。

 

やがて、夢と現実の境界が曖昧になる。

 

 

 

 

ねえ、シンジ?

 

 

何も怒ってやいないわよ。

 

 

ただ、驚いただけ。いきなりでしょ? 心の準備ぐらいさせなさいっての。

 

 

それに、あたしの身体、痩せちゃったでしょ?

 

 

醜くなかった? 汚くなかった?

 

 

 

 

―――泣きそうなシンジの顔に語りかける。

 

 

 

マンションの部屋。

 

熱い日射しに、風鈴が揺れていた。

 

ひたすら、ごめんごめんと繰り返すシンジに、あたしの怒りは萎えてしまっている。

 

しょうがないよ。あんたも寂しかったんだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を覚ます。

 

一瞬、状況が把握出来ず、辺りを見回してしまう。

 

いつもの雑然としていて貧相な天幕の中。

 

あたしはボサボサの髪をかき回す。

 

どうしてあんな夢を。

 

シンジを許してしまう夢を見てしまったのだろう。

 

胸に手を当てる。

 

痩せてすっかり小さくなってしまった胸の中に、あれほど滾っていた憤りがなくなってしまっている。

 

かわりにぽっかり空いた穴の底で染みだしてくる感情は。

 

嫌だ。

 

あたしはシンジを許したくない。

 

水でも飲もうと枕元を漁った。すると、見慣れない袋が増えている。

 

中身は、乾パンやらの保存食に生理用品とかウエットティッシュなんかが入っていた。

 

シンジが帰ってきたのだろうか?

 

ふと、先ほどの夢が脳裏にオーバーラップする。

 

まさか…。

 

いや、そんなことは断じてない。

 

もよおしたので天幕を出る。

 

シンジの天幕には人の気配はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにやら、外でがらんごろん音がする。

 

うるさくて天幕から顔を出したら、シンジがドラム缶を転がしていた。

 

「なにやってんのよ、あんたは?」

 

声をかける。

 

「あ、そ、その、おはよう…」

 

いつもの小動物みたいに怯えた表情。間抜けな返事。

 

久しぶりの会話なのに、たちまち気分が悪くなる。

 

鼻を鳴らして天幕の中へと引っ込んだ。

 

そう、アイツが何をしようと関係ない。

 

外で懲りずに砂浜を踏みしめる音が続いている。

 

何かを運んでいるみたいだけど、知ったことか。

 

無理矢理瞼を閉じた。

 

「アスカ、起きて…」

 

と思ったら、シンジに起こされた。

 

眠ったのだろうか? 瞼を閉じただけなのだろうか?

 

判然としない頭で、シンジをにらみ返す。

 

同時に腹がたった。

 

また天幕の中に侵入してきたシンジと、完全に無防備な自分に、だ。

 

「なによ!!」

 

必要以上に言葉に感情を込める。

 

「え、そ、その、ちょっと出て見て欲しいんだけど…」

 

呆れる。相変らず、他人に選択権を依存した台詞だ。

 

でも、断わってもメリットがないわね。

 

そう判断したあたしは、シンジのたくし上げた天幕から上半身だけを出す。

 

アイツの脇を抜ける時、身体が強張った。

 

見飽きた砂浜には、見慣れないものが鎮座していた。

 

ブロックを積み上げたものの上に、ドラム缶が乗っている。

 

ドラム缶からはゆらりと湯気が立ち上っていた。

 

もしかして―――お風呂?

 

「ちょっとお風呂沸かしてみたんだ…」

 

上目遣いでシンジが言う。

 

ご機嫌を伺うような仕草でカンに触ったが、あたしの興味は粗末なドラム缶に集中していた。

 

もうどれだけお風呂に入っていないのだろう。

 

入りたい。たっぷりお湯を浴びて、髪を洗いたい。

 

何ものにも逆らいがたい欲求が沸いてくる。

 

天幕から這い出す。

 

「お風呂、入るわよ」

 

そういって立ち上がろうとして、あたしは大きくよろめいてしまった。

 

すかさず支えてきたシンジの手を振り払う。

 

大丈夫、大丈夫だ。

 

しかし、三歩進んであたしは砂浜につんのめった。

 

足に力が入らない。

 

歯を食いしばり、頬についた砂を払う。

 

またシンジが支えてくる。

 

「ごめんね」

 

「…」

 

何謝ってるのよ、コイツは。そう思ったけれど、今度はシンジの手を振り払わなかった。

 

肩を借り、どうにかドラム缶の側まで来る。

 

お湯の匂いがたまらない。

 

軽く身を揺するだけで、するりとボロボロのプラグスーツは地面に落ちた。

 

「ちょ、ちょっと、アスカ!! そんないきなり脱ぐなんて…」

 

にらむとたちまち口をつぐむ。

 

無理矢理あたしを犯したヤツが今さらなにをいうのだろう。

 

そんなことより、お湯だ、お風呂。お風呂、お風呂…!!

 

「手ぇ貸しなさいよ」

 

「え?」

 

「いいから、あたしを支えなさいよ!!」

 

「う、うん…」

 

シンジに腰を支えさせて踏み台に登る。

 

おそるおそるドラム缶の中につま先を入れた。

 

熱い。久しぶりの感触。懐かしさすらある。

 

肌に刺すような痛みがあったが、構わずざぶりとドラム缶の中に潜り込む。

 

まもなく痛さはむずがゆさに変わった。

 

肌に水がしみいってくる。

 

ボサボサの髪もお湯を吸うように揺らめいた。

 

湯面に顔を埋める。

 

ああ……。

 

思わずため息が洩れた。

 

全身を覆うあたたかな膜に、筋張った手足がほぐれていく。

 

しばらくすると、全身が痒くなってきた。

 

ゴシゴシこすろうとして、右手が包帯に包まれていること知る。

 

左目もだ。

 

むしるように包帯をはぎ取る。

 

現れた傷跡は眺めた。赤い線がくっきりと残っている。一生消えることはないだろう。

 

左目は…鏡がないので分からない。

 

でも、ぼんやりとしか映らなくなっている視界に、これも完治するとはないだろうと本能的に悟る。

 

ざぶざぶと顔を洗う。傷が痛まないのはありがたかった。

 

髪は洗えば洗うほど痒さを増す。

 

髪は女の命だ、などという言葉を聞いたことがあったけれど。

 

これほど汚れてしまっていたら、きっとあたしは魂まで薄汚れてしまったに違いない。

 

ふと、ぼーっと突っ立ているシンジに気づく。

 

「洗剤は?」

 

「…え?」

 

「シャンプーくらい、ないの!?」

 

「あ、あるよ、ちょっと待って」

 

といって、シンジは自分の天幕に戻っていった。

 

しばらくしてから持ってきたのは、どうみても安物の固形石鹸とシャンプー。

 

でも、ないよりは遙かにマシ。

 

乱暴に受け取って、タップリ手に擦り込む。

 

ガサついていた肌がぬるぬるしてきた。

 

細くなってしまった指の間も念入りに洗う。節が目立ってしまい、何か悲しくなった。

 

まず顔を洗い、ついで首筋、胸、脇、お腹と洗い下げて行く。

 

お湯に浸かったままだから、あっというまに泡が立つ。

 

溢れてきたシャボンを捨てながら、ドラム缶の下で火を燃やしているらしいシンジに命令する。

 

「ほら、お湯を注ぎ足してよ!!」

 

「あ、うん…」

 

よっこらしょ、とシンジが持ってきたのは半透明のポリタンク。

 

10リットルくらい入るやつだ。

 

「ちょっと冷たいよ…」

 

タンクの縁をドラム缶につけ、水が一気に注ぎ込まれた。

 

急にお湯がぬるくなるのは仕方ない。またすぐシンジに命令する。

 

「もっと火を焚いて。でないと風邪引いちゃうわ」

 

だいたい身体も洗い終え、お湯がまた熱くなってきてから、洗髪を開始。たちまち頭皮が痒くなる。

 

たっぷりシャンプーをつけたのに、全然泡が立たない。よっぽど汚れているんだろう。

 

ドラム缶の外で首だけ出して、残った水で髪をすすぐ。

 

三回髪の毛を洗い、すすぎも繰り返す。

 

ようやく痒みも治まり、髪も幾分しっとりとした。

 

でも光沢は全盛期の半分以下。

 

毛先の痛みが酷いな、なんてチェックしながら、今度はゆっくりと肩までお湯に浸かる。

 

なんか湯面に色々な汚れが浮かんでいる。すくって捨てても捨てきれないので無視することにした。

 

ささくれた神経がほぐれていく。

 

久々の文化的な生活に幸福感すらある。

 

「お湯の温度は丁度いい?」

 

ドラム缶の下から声がしたので覗き込むと、煤を頬につけたシンジと目があう。

 

「―――まあまあね」

 

そっけなくいい、視線を逸らす。

 

周囲を見回せばやはり殺伐とした光景が広がっていた。

 

横たわる巨大な顔を見ないように海を眺めれば、果てしなく広がる水平線。

 

その海岸でドラム缶のお風呂なんてのは、少しばかりシュールだ。旅番組じゃあるまいし。

 

海の反対を見れば荒野が続き、その奥に倒壊しまくった建物が臨める。

 

いくら目をこらしても、やはり動くものはなかった。

 

信じたくないが、これが現実なのだろう。

 

ぜーぜーいいながら薪を運んでいるシンジを横目で見る。

 

この世界に生き残った人間は二人だけ。

 

シンジとあたしだけ。

 

アダムとエヴァ。

 

何にしろ皮肉過ぎる。

 

聖書の一節を反芻しようとして止めた。

 

この瞬間のささやかな幸せなど瞬時に吹き飛んでしまうだろう。

 

それはあまりにも希望のない未来図。

 

「上がるわよ」

 

それだけ告げてドラム缶風呂から出ようとしたら、シンジが慌てて飛んできた。

 

真新しいタオルを押しつけてくる。中には袋に入ったままの下着までくるまっていた。

 

踏み台の上で身体を拭き、ショーツを履く。

 

その間、ずっとシンジはあたしに背を向けていたが、なんの冗談なのだろう?

 

髪も拭いていると、その格好のままシンジは声をかけてきた。

 

「…負ぶさって、いいよ?」

 

「…なんで?」

 

「だって、裸足で戻ったら、砂だらけになるじゃないか…」

 

少しだけ考えて、Yシャツの背中に負ぶさった。

 

とたんに猛烈な臭気。

 

「あんた、汗くさい…!!」

 

「ご、ごめん。ちょっとだけ我慢して」

 

できるだけ顔を離し、鼻で呼吸をしないようにする。

 

汗やらなにやらで汚れまくったシャツは湿っぽい。くわえて、垢じみた首筋が目に入った。

 

 

 

 

 

 

 

―――ここを、思い切り締め付ければ。

 

 

 

 

 

 

 

殺意がこみ上げる。

 

眠っていた凶暴な本能が、間欠泉のように吹き上げる。自分でも驚くほどに。

 

ただ、実行に移すには、天幕までの距離は短すぎた。

 

手が伸びる寸前、あたしの身体は天幕の毛布の上に降ろされていた。

 

入浴したばかりだからだろうか、この中も凄い匂いだ。

 

生活臭というか、恥も外聞もなくいってしまえば獣臭い。

 

「シンジ!!」

 

そそくさと出て行こうとする背中に声をかける。

 

「幕を全部めくっておいて。空気を入れ換えたいの」

 

「…うん」

 

骨組みだけ晒されると、風が吹き込んでくる。

 

熱い風なのだが、お風呂あがりだと涼しく感じる。

 

適当な布で髪を拭きながら、ドラム缶のお湯を捨てているシンジに声をかけた。

 

「ねえ!!」

 

駆け寄ってくる姿はまるで犬。

 

「ブラシはないの、ブラシは?」

 

見ると、明らかにしまったという顔をしている。

 

「…ごめん。多分ないや。後で探してくるよ」

 

表情が険しくなるのが自分でも分かった。

 

「今欲しいの!!」

 

「…今すぐは無理だよ?」

 

上目遣いの怯えた視線。

 

どうしてこう腹が立つのだろう?

 

「今すぐったら今すぐ!!」

 

シンジはちょっとだけ空を仰いで、あたしに向き直る。

 

「わかったよ」

 

自分の天幕に取って返したシンジは、袋をぶら下げて戻ってきた。

 

中には食べ物が覗いていて、あたしは空腹だったことを思い出す。

 

まあ、食事でもして待っていてくれ、ということだろう。

 

フルーツの缶詰がめちゃくちゃ美味しそうに見える。うん、一時間くらいなら待ってやってもいい。

 

「それじゃ、行ってくるよ…」

 

「うん、早くね」

 

さっそく缶詰を開けながら、あたしはシンジを見送ろうともしなかった。

 

砂浜を踏む音が遠ざかって行くのを耳に、せっせと缶詰の中身を口に運ぶ。

 

シロップも飲み干し、立て続けに三個くらい空にしてからようやく人心地がついた。

 

時間にして、20分もたっていないだろう。

 

まだシンジのヤツ、帰ってこないかな?

 

何気なく周囲を眺めて、たくし上げられた天幕の向こうに見てしまった。

 

こちらに背を向けて歩くシンジの姿。

 

だいぶここから離れたたのだろう。もう、親指の爪くらいの大きさになっている。

 

アイツが向かっているのは、倒壊した街並み。

 

…探しにいくって、あんな遠くへ!?

 

声をかけようにも、もう届かない。

 

そして、街並みはまだ遙かに遠い。

 

ただ驚きながら、あたしは歩き続けるシンジの姿を目で追った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれくらい待ち続けたのだろう。

 

結局、待ちくたびれて、あたしは眠ってしまったらしい。

 

人の気配で目を覚ます。

 

「…ただいま。ブラシとってきたよ…」

 

目を開けると、更にボロボロの格好でシンジが袋を差し出していた。

 

「ばっかじゃないの!?」

 

跳ね起きて、あたしは怒鳴っていた。

 

瞬間的に血が沸騰している。猛烈に腹が立っている。

 

「あんたね、近くに無いなら無いとか言いなさいよ!! 何もあんな遠いところまで取りに行くって知ってたら…!!」

 

驚いて、それから泣きそうな顔になってシンジは笑った。

 

「僕には、それくらいのことしか出来ないから…」

 

それは決定的な一言だった。

 

全然力が入らない拳を固め、シンジの横っ面を殴り飛ばす。

 

反対側も一発。

 

シンジは大きくよろめき、尻餅をつく。

 

あたしの怒りはまだおさまらない。

 

上半身に馬乗りになり、胸元を締め上げる。

 

「誰がそんなことをしろっていったのよ!? ふざけたことしてんじゃないわよ!! あんたね、贖罪のつもり!?

いくら尽くしたってね、罪なんか消えないんだから!しょせん自己満足よね!! 

僕はこんなに頑張ってるーって、あたしから頭でも撫でてもらいたいの!? それとも、自分で自分を褒めてるわけっ!?」

 

呆然としている黒い目をにらみつける。

 

メデューサみたいににらみ殺せればいいのに。

 

「答えろっ、シンジ!!」

 

ガクガク襟を揺さぶる。

 

壊れた人形みたいになすがままだったシンジの顔が歪む。

 

ようやく目の縁に涙が盛り上がり、口からは嗚咽を漏らす。

 

「だって、そうするしかないだろ…」

 

小さな声。

 

「え!? だからなんだっていうのよ!?」

 

更に胸元を揺さぶる。

 

「だって、そうするしかないだろっ!?」

 

怒鳴り声に、思わず掴んでいた襟を離してしまった。

 

あたしに乗っかられたまま、シンジは興奮に顔を真っ赤にしていた。おまけに泣いている。

 

「そうするしかないじゃないかっ!!

 僕はアスカを傷つけて、世界をこんな風に変えてしまって!!

 何をしたって、もう元には戻らないんだよ!!

 そんなこと、僕が一番知ってるさ!!」

 

あたしは黙ってしまう。対照的にシンジは更に叫ぶ。

 

「アスカの怪我は治らないかもしれない!!

 傷が元で死んでしまうかもしれない!!

 僕はそんなの嫌だ!! でも、僕に治療は出来ない!!

 だから、せめて、アスカが生きているうちは、役に立とうって…!!」

 

後半は完全な涙声で聞き取りづらかった。

 

泣きじゃくるシンジの上から、あたしはそっと身体を離す。

 

完全無欠な殉教者の論理。

 

そして、殉じる対象はあたしだ。

 

ならば、なおのこと理解できない。

 

どうしてあたしを犯したの?

 

考えがまとまらないまま、シンジの身体を蹴りだし天幕を降ろす。

 

臭い毛布を頭から被り、外界を遮断した。

 

シンジがまた襲ってくる可能性を思い至り、恐怖が背骨を貫く。

 

だけどシンジはやってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気まずい告白があったからといって日常が変わるわけもなく。

 

気まずさでいったら、シンジがあたしを襲った時の方が酷かったと思うんだけど。

 

もはや非日常が日常の日々。

 

過ぎた日々は過去へ追いやられ、二度と同じ体感を得ることは叶わない。

 

熱い第三新東京市の日々も、屈辱の戦闘記録も、シンジに犯されたことでさえ、心の奥にしまわれ温度を失ってしまった。

 

それが生きる、ということなのだろう。

 

身体の方も大分良くなってきたようだ。

 

証拠に、眠る時間が少なくなって来ている。

 

起きていれば、考え込む時間が長くなる。

 

思考の大半は自分の内面へ向けられた。

 

色々と発見があって、今なら本の一冊も書き下ろせそうだ。

 

―――退屈と思えるのは、やはり健康なのだろうか。

 

今日も毛布に横になったまま、天幕を一方だけ上げ、シンジが動き回っているのを眺める。

 

Yシャツを脱ぎ、せっせと薪を運ぶシンジ。

 

お風呂の準備をしているのだ。

 

最近は頻繁にお風呂を沸かすようになっている。

 

なんでも、近くに水場が確保できたからだそうだ。

 

それでも、何度も水を運搬しなければならなく、半端じゃなく大変そうだ。

 

なのにあたしは無感動にその光景を眺めている。

 

努めて感情を動かさないようにしている。

 

でなければ、シンジに感謝してしまいそうだ。

 

違う。

 

シンジのせいだ。

 

今の状況は全てシンジのせいだ。

 

これは、シンジが好きでやっていること。罪滅ぼしにやっていること。

 

感謝することはない。

 

違う違う。

 

あらゆる状況には、そこへたどり着いた個人に責任がある。

 

一つきりの選択など存在しない。選べるから選択肢なのだ。

 

艶を取り戻してきた髪を掻き上げ、毛布に顔を埋める。

 

あたしは何をしたいのだろう?

 

あたしはどうすればいいのだろう?

 

許す?

 

許せない。

 

許してもいい?

 

許せるわけ無いでしょ。

 

許してどうするの?

 

何を許すというの?

 

それはたった一つのあたしの権利。

 

じゃあ、義務ってなによ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お風呂、出来たんだけど…」

 

前にもましておどおどとしたシンジの態度。

 

腫れ物に触るみたいな感じで気持ちが悪い。

 

どうしてこんなにビクビクしているのだろう。

 

その気になれば、あたしを蹂躙できるのに。

 

いや、既に蹂躙してくれた後だ。

 

なのに怯えているのは、怖がっているのか後悔しているのか。

 

「…あんたが先に入りなさいよ」

 

「え?」

 

驚くシンジを無視、あたしは立ち上がる。

 

歩けるくらいまでに体力は回復していた。

 

それでも気を抜くと砂に足を取られそう。

 

よろよろとドラム缶まで歩き、シンジを手招きする。

 

「ほら、火は見ておいてあげるから」

 

「で、でも…」

 

躊躇うシンジをどやしつける。

 

「いいから早く入りなさいよ!! だいたい、あんたはどれだけお風呂に入ってないの?

 すっごく臭いんだけど」

 

顔を真っ赤にしてシンジは上着を脱ぎ始めた。

 

真っ黒なシャツの匂いを嗅ぎ、顔をしかめてる。

 

本当にバカじゃないのコイツ?

 

こちらに背中を向けてズボンを降ろし、途中で手を止める。

 

「何恥ずかしがってるのよ? あたしのは全部見たくせにさぁ」

 

「う…」

 

困ってる困ってる。

 

頑なに前を隠し、こちらにお尻を向けたままシンジはドラム缶に入った。

 

肩まで浸かり、なんか幸せそうな顔をしているので、頭に両手を乗せ押し込んでやった。

 

「ぶはっ!! や、やめてよ…!!」

 

「顔も洗いなさいよ、真っ黒なんだから」

 

不満そうな顔に洗顔クリームを投げつける。

 

「じ、自分で洗うから…」

 

そういってゴソゴソ身体を洗っていたようだけど、たちまち湯面が真っ黒になった。

 

すごい汚れっぷり。

 

あたしが呆れていると、シンジはますます口籠もる。

 

慌ててドラム缶から上半身を出して水を継ぎ足し、汚れた上澄みを流そうとする始末。

 

仕方ないから見ないふりをして薪を足した。

 

すると今度は、

 

「ちょっと、アスカ、熱いよ…!!」

 

全くもってやかましい。

 

それでもどうにか丁度よくなったらしい。

 

緩みきったバカみたいな表情を眺めていると、こっちまでバカが移りそう。

 

何気なくシンジの肩を眺め、そこにはっきりとした傷跡を見つける。

 

赤黒く腫れ、盛り上がっているのは、紛れもなくあたしの歯形だ。

 

閃光のようにあの記憶が甦る。

 

身体をまさぐる手。

 

感触。匂い。

 

股間を貫いた痛み。

 

気持ち悪い気持ち悪いキモチワルイ………!!

 

「アスカ!?」

 

気がつくと、あたしは砂浜へ倒れ込んでいた。

 

「大丈夫!? しっかりして!!」

 

お風呂から飛び出したらしい素っ裸のシンジがあたしを抱き上げる。

 

やめてよ、びしょ濡れになっちゃうじゃない…。

 

なのに声が出ない。

 

天幕まで運ばれて寝かされる。

 

覗きこんでくるシンジの顔からお湯のしずくが伝っている。

 

シンジは全裸だ。

 

これほど男性を意識させられることはない。

 

視線を下げれば、股間にぶら下がっているものがゆっくりと持ち上がってくるのが見えた。

 

「あ…」

 

あたしの視線に気づいたのかシンジは赤面した。

 

そっぽを向き、あたしは瞼を閉じる。たとえようもない恐怖がそこにあった。

 

「止めて…」

 

驚くべきことに、シンジは逆らった。

 

濡れた指が胸元に侵入してくる。

 

続いて、唇が首筋をはった。

 

止めて、止めて…!!

 

身体を震わせるだけで、あたしは抵抗できなかった。

 

前の時は殺したいほど憎んだのにどうして抵抗しないのだろう。

 

まるで他人事のように、あたしは全身をまさぐる感覚を眺めていた。

 

ああ、あたしは全裸の男に犯されている。

 

自覚したのはシンジが腰を前後に動かしている段になってからだった。

 

初めての時と比べて痛みはそれほど酷くない。けど、不快感のほうが先に立つ。

 

それでも頭の芯が、身体の芯が熱く、力が入らない。

 

ほとんど一人で動いていたシンジは、あたしの中から違和感のもとを引き抜き、毛布へと欲望を吐き出した。

 

それで終わり。

 

「…ごめんね、アスカ」

 

放心していたらしい。シンジの声で我に返る。

 

首だけ上げて声の方を向くと、シンジはメソメソ泣いていた。

 

まだ素っ裸の身体は、やけに貧弱そうに見えた。

 

「…謝るくらいなら、泣くくらいなら、するなっ!!」

 

気怠さが吹き飛び、なにか酷く侮辱されたような気になった。

 

なぜか涙まで出てきた。

 

突き飛ばし、天幕の向こうへ押し出し、あたしは毛布に倒れ込む。

 

青臭い匂いに、先ほどの感覚が生々しく甦り―――。

 

シンジの精液が飛び散った毛布を丸めて隅っこにおいやり、あたしは枕に顔を埋める。

 

あたしは混乱していた。

 

憎い。悔しい。

 

あんなヤツに軽々しく身体を許してしまうなんて。

 

なのに、どうして、アイツにまさぐられた部分が優しく火照るの?

 

服を脱ぐ。

 

全裸になって、あたしは自分の身体を見下ろした。

 

シンジの触れた胸。

 

太股、腕…。

 

痩せて、すっかり貧相になったあたしの身体。

 

自慢のプロポーションは影もない。

 

腕の傷を眺めながら気づく。

 

あたしが怒りの理由は、複雑な感情で寄り合わされていたことに。

 

犯されるという理不尽さへの怒り。

 

このボロボロの醜い身体を見られたことに対する羞恥。

 

セックスへの幻想と現実の落差。そして落胆。

 

力無く座り込む。

 

好きな人に初めてを捧げるなんて信じていた。

 

なのに、もう、この世界は選り好みすらできないという矛盾。

 

…矛盾?

 

あたしはシンジのことが嫌いだわ。

 

好きなわけないじゃない、あんなヤツ。

 

優柔不断で弱虫で。

 

なよなよしてて、自信なんかカケラもなくて。

 

お調子者で、褒められるとすぐ図に乗る。

 

そもそも他人から褒められたり、必要されたりしたことがないのね。

 

結局、人にいわれなきゃなにも出来ない。止めろと言われなかったからチェロを続けてたなんてバカの極みよ。

 

大いなる矛盾。

 

嫌いなのに、嫌いなハズなのに、あたしが一番シンジのことを知っている。

 

一番あたしの記憶の中で鮮明なのは、あのバカの顔―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

缶詰の食事を終え、あたしはシンジを手招きした。

 

おっかなびっくり近づいてくる手を掴み、天幕へと引き込む。

 

「アスカ…?」

 

不安そうな表情をしているシンジの目前で、あたしは服を脱ぐ。天幕が開きっぱなしでも構わず。

 

ちょとだけ躊躇って、腕と顔の包帯も外した。

 

そのまま毛布に横たわる。

 

「ねえ、あたしの身体、綺麗…?」

 

ごくり、とシンジの喉が鳴る音が聞こえる。

 

「とても、綺麗だよ…」

 

いつのまにか覆い被さるようにしてシンジが側に来ていた。

 

晒された胸の上に、シンジの指が乗せられる。

 

黙っていると、おずおずという感じで指が動き出した。

 

すかさず、睨み上げる。

 

「なんであたしを襲ったのよ?」

 

有無をいわせず強い口調で、目を逸らさない。

 

「…寂しかったから」

 

弾かれたよう指を離して顔を伏せ、シンジは呟くように言った。

 

「一人きりになるのが怖かったんだよ。だから、確かな他の人の温もりを感じたかったんだ……」

 

反射的にあたしも口を開いていた。

 

これが致命的な一言になってしまうかもしれない。その懸念を承知しながら。

 

「最初、あたしの首を締めて殺そうとしたくせに!!」

 

「………!!」

 

時間が凍り付く。

 

このことを面向かって糾弾したのは初めてだった。

 

茫然自失で砂浜に横たわっていたあたしの首を締め付けたシンジ。

 

結局、あたしは殺されるのを免れたが、明確な説明も謝罪も受けてない。

 

あたしの嫌悪と憎悪の根元だ。

 

どれくらい時間が過ぎたろう。ゆっくりとシンジは顔を上げた。

 

真っ青だった。

 

「…いくら謝ったって仕方ないことだと思う。でも…ごめん」

 

この世界を創世する元となったエヴァ初号機の中での出来事は聞いている。

 

結果、世界中の人々はLCLに還元されたこと。

 

彼らが戻ってくるのかどうかも、もちろん分からない。

 

二人だけが残された世界。

 

シンジが選んだ他人を他人と認識できる世界。

 

シンジが望んだ世界。

 

なのに、あたしを殺そうとしたのはなぜ?

 

それの説明が聞きたかった。

 

「怖かったんだよ…」

 

呟やいて、シンジは顔を覆った。

 

「僕のしたことを責められるのが怖かったんだ。嫌われるのが怖かったんだ。だから、いっそのこと…」

 

完全なエゴだ。短絡的な話だ。許される行為じゃない。

 

だけど、シンジは後悔している。

 

あたしにしたことの数々を。

 

それが、あそこまでの献身的な行動につながっているのか。

 

納得して、そしてふと気づく。

 

シンジがあたしを、あたしだけを傷つけたように、シンジを許すことが出来るのはあたしだけ。

 

だって、この世界には二人しかいないんだもの。

 

法律? 倫理? 道徳? いったどれが役立つというのだろう?

 

複雑な内心を顔に出さないように吐き捨てる。

 

「ったく、あたしの初めてが無理矢理なんて、トラウマものだわ」

 

覆っていた手をどけて、シンジは絶句する。

 

なおにらんでいると、叫ぶように頭を下げてきた。

 

「ごめん!!あんな乱暴にする気はなかったんだ。今さらかもしれないけど…ごめん!!」

 

あたしはまた伏せた顔を無理矢理上げさせる。

 

「誰でも良かったの? ヤレれば、あたしじゃなくても良かったっての?」

 

『そんなこといっても、この世界にアスカしかいないじゃないか―――』

 

などとほざいたら、間違いなくあたしはシンジを殺していただろう。

 

性欲の対象としか見ていないということだ。あたしの最も嫌悪する答え。

 

「…アスカには、ずっと憧れてて…」

 

また顔を伏せ、シンジはボソボソと言う。

 

「そ、その…。キスだって、キミが初めてだったし…」

 

本心なのか疑わしい。

 

そもそも理性がすぐ蒸発して猿になるのはこの年頃だとか聞いたことがある。

 

問いつめようとして、あたしは止めた。

 

妥協しなきゃ。少しくらいの譲歩も必要だろう。

 

シンジのホッペタを挟み込み、ぐっと顔を近づける。

 

「アンタ、あたしのことが好きなの?」

 

驚きに見開く目をじっと覗き込む。

 

逸らさず、シンジは小声でいった。

 

「…うん」

 

「ファーストよりも?」

 

ちょっとだけ意地悪な質問も追加してみる。

 

「…アスカが好きだよ」

 

ちょっと間があいたのは気にくわないけど、ぴしゃりとホッペタは叩いて微笑んでやった。

 

「大事に、しなさいよ?」

 

まだまだ許してやらないから。

 

まだまだあたしは死なないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三度目のセックスを迎えても、股間は痛みを訴えていた。

 

いつかは快楽を得られるようになるというけど、甚だ疑わしい。

 

でも、壊れ物をさわるように触れてきたシンジの指は、少しだけ気持ちが良かった。

 

目を覚ますとシンジに抱きすくめられた格好。

 

手はしっかりとあたしの胸を覆っていた。

 

いつのまにかゴツゴツになってしまったシンジの指を見ながら思う。

 

そんなに触り心地のいいものかしらね?

 

でも、他人の体温を感じながら起きられるのは、くすぐったいような満足感があった。

 

不意に胸が揉まれる。

 

どうやら、シンジも目を覚ましたらしい。

 

「ねえ、アスカ?」

 

「なによ…」

 

あまりに優しい声に、ちょっとだけ身構えてしまう。

 

「どこか別の場所にいかない?」

 

え?

 

意味がわからなかった。

 

「もっと、食べ物とかある場所に。…正直、お風呂沸かすのもしんどいんだよね」

 

「オヤジ臭いこといってんじゃないわよ」

 

憎まれ口を叩きながら、あたしはシンジの提案を吟味する。

 

たしかにいつまでもこんな砂浜にいるのはナンセンスだ。

 

もっと、そう、できれば無事に残っている建物。設備が整った場所のほうが遙かに便利だろう。

 

そういえば。

 

「ねえ、何で今もこの場所で暮らしてるわけ?」

 

口に出してから馬鹿な質問をしてしまったと気づく。

 

「…それは、アスカの怪我が治らないから…」

 

案の定、照れたような返事。

 

こっちまで照れくさくなる。

 

「じゃあ、早速起きたら移動しましょ」

 

甘ったるくなってきた空気を散らすように身体を引きはがし、乱暴に毛布を被る。

 

「うん、おやすみ…」

 

もぞもぞと毛布を抜け出そうとしたシンジの手を、あたしは反射的に掴んでいた。

 

掴んでしまった以上、なにかいわなけりゃならない。

 

「…もう、あっちにもどる必要はないでしょ…?」

 

「…うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を覚ますとシンジはいなかった。

 

でも心配はいらない。外で動く気配がある。

 

新しい包帯をあて、髪をブラシで梳いていると、シンジが天幕を上げた。

 

「これ…」

 

差し出してくれたのは紙袋。

 

中を見て驚いた。

 

「この日のために、見つけておいたんだ…」

 

天幕の向こうで、照れたようなシンジの声。

 

…キザというかなんというか。

 

でも、少しだけ、嬉しい。

 

何かホッペタが熱かった。触ったらしずくが指についた。

 

涙を拭い、あたしはシンジのくれた服を着る。

 

懐かしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おまたせ」

 

天幕の外へ出る。

 

あたしが着ているのは黄色のワンピース。

 

初めてシンジとあったときに着ていたのと同じもの。

 

笑顔を浮かべるシンジに、よく見つけてきたものだと思う。

 

シンジも真新しいYシャツを着ていた。新しい旅立ちに相応しい。

 

それが太陽に反射して眩しかった。

 

…太陽!?

 

あたしは思わず空を振り仰ぐ。

 

抜けるような青い空がそこにあった。

 

ああ、世界が還ってきたんだ。

 

「何見てるの、アスカ?」

 

シンジが側まで歩いてくるけど、あたしは空を見上げたまま。

 

「あんたも見なさいよ。夜が明けたのよ?」

 

「……?」

 

不思議そうに一緒に空を見上げ、シンジは首をひねる。

 

「ずっと前から快晴が続いているけど…?」

 

思わずあたしはシンジの顔を見直す。

 

嘘を吐いている気配はない。

 

では、あたしの見ていた空は―――。

 

頭を振る。

 

もうどうだっていいことだ。

 

少なくとも、あたしの長い夜は明けたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、行こう、アスカ」

 

笑顔とともに差し出された手をゆっくりと握り返す。

 

この手を掴んだこともあたしの選択。シンジと一緒にいくことを選んだあたしの選択。

 

そして思った。

 

この先なにがあろうとも、この手を掴んだことを絶対後悔なんかしてやらない、と。

 

 

 

 

 



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ベランダから屋根に降りて、その縁に腰を下ろす。

 

前髪を揺らす風。

 

雲に翳る太陽。

 

ねっとりとした大気。

 

全てが身体にまとわりつく。

 

瞼を閉じ、S-DATのスイッチを入れた。

 

アニーローリーの歌が、あたしのはつられたチーズみたいな周囲を満たす。

 

ゆっくりと瞼を開けた。

 

左片方が滲む世界。

 

たなびく灰色の煙が幾筋も伸びた町並み。

 

眼下に広がる、人っ子一人見えない、動くもののいない閑散とした風景。

 

それなのに、空は無邪気なまでに青くて。

 

あたしは疲れてきた視覚を休めながら思う。

 

ああ、地獄ってのは結構こんな景色なのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この醜くも美しい世界2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたしたちがあの海のほとりから旅立って、一ヶ月以上経とうとしている。

 

当初はシンジが見つけてきた半分壊れたシェルターの中で生活していたけど、一週間ほどでそこも引き払った。

 

最初のバラックより快適ではあったけど、比較論に過ぎない。

 

この場所を離れれば、無傷でもっと文化的生活を送れるところがあるんじゃないの?

 

二人とも異存はなかった。

 

交通機関が稼働していない今、車の運転も出来ないあたしたちの移動手段は、至極原始的なものになる。

 

シンジの漕ぐ自転車のリヤカーに横になったあたしは、ボロボロの第三新東京市に別れを告げた。

 

長い山道を下り、麓の街までの小旅行。

 

対向車もこない道を進むそれは、何かのTVゲームに酷似していたんだけど、思い出せない。

 

リヤカーの上や、近くの民家を借りて眠りながら辿り着いた大きな街の光景は、出発点よりはマシだったけど、酷いものだった。

 

シンジの話を聞いて、予想してしかるべきだった。

 

全世界の人間が、命の水に還元されたのだ。

 

その瞬間、全員が大人しく座って、祈りでも捧げていたわけは絶対にない。

 

地球のあちこちでは戦争をしている国もあっただろうけど、多くは日常的な生活が営まれていたはずだ。

 

そんな中で、なんの前兆すらなく起きたサードインパクトは、天災といえるのだろうか?

 

人的被害の出ない災害は、単なる自然現象と定義されるのかも知れないけれど。

 

あたしたちの目前に広がる街の風景。

 

無人の車の先頭がビルにつっこんでいて、その後ろにも数台の車がぐしゃぐしゃになって連なっている。

 

焦げ臭いにおいが鼻を突く。

 

コンビニの軒先の黒い固まりは、車だったものの残骸だろうか。

 

ただただシンジは茫然としていたけれど、あたしは恐ろしさに身震いしていた。

 

電車だって走っていた。飛行機だって飛んでいた。

 

それらの操縦者が一斉に水に還元された。

 

乗客もそれに準ずるから気にする人はいなかったろうけど、無人の乗り物はどうなる?

 

制御されて自然に止まる類のものもあるだろうが、世界中に似たような状況が存在したのだ。

 

もし、仮に、ジャンボジェット機が制御不能で、原発にでも墜落でもしたら…?

 

大型客船が猛スピードで沿岸都市に突っ込んだりしたら…?

 

無いとは言い切れない。

 

少なくとも、今この瞬間も、世界のどこかで、もしかしたらごく近所で、未曾有の大事故が発生しているのかも知れない。

 

管理者のいなくなった実験設備とかだって…。

 

………。

 

……。

 

それ以上、あたしは考えないことにした。

 

馬鹿馬鹿しい、何様のつもりなのだろう、あたしは。

 

そこまで責任を負う義理もなければ、世界を維持する義務もないのに。

 

今こうやって生きているのが不思議なくらいなのに。

 

「とりあえず、ここじゃなくて、少し離れた場所に住むことにしようよ…?」

 

シンジが言ってきた。

 

あたしの顔色を窺うような、答えに自信のない生徒がおそるおそる教師に答え確認するような素振りがむかつく。

 

でも、状況を判断して自主的に発言してきたことを評価すべきだろう。

 

「そうね。それしかなさそうね」

 

当座の不安は、電気や水などのライフラインがいつ止まるかだった。

 

そう遠くないことだけは断言できる。

 

ならば蓄えも必要だろう。

 

笑えるほど将来設計の立たない未来に思いを馳せ、あたしは乾いた唇を噛んだ。

 

…未来?

 

そもそもその言葉に、辞書に載っているほどの意味も価値もあるのだろうか?

 

誰もいない世界をたった二人で生き抜くことが出来るのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

街を見下ろせる、ちょっとした高台にできたモデルハウス。

 

あたしたちはそこを住処に定めた。

 

他人の生活臭がある家で暮らすのなんかごめんだった。

 

シンジは、「もっと商店街に近い方が…」などと言っていたけど、それは浅はかというものだ。

 

街で物理的なトラブルが発生するとしたら、建物が集中している所の危険性が増すのは自明の理。

 

正確な状況把握、避難をするためには、密集地域にいるのは避けるべきだ。

 

それともう一つ。

 

『人が望めば、自分の姿を取り戻すことが出来る』

 

シンジから聞いた、シンジが聞いた台詞だ。

 

つまり、あの海から、人間が還ってくるかもしれない、ということ。

 

どんなプロセスで人間が再構成されるか、どんな格好で戻ってくるのか、少し興味がなくもないけど。

 

問題は、還ってきた人間があたしたちに好意的だとは限らない、ということだ。

 

善良な人間だけが優先的に還ってくるわけはないし。

 

そもそも、いつ還ってくるのか、本当に還ってくるのかもわからないのだ。

 

それでも、海が見える場所にいた方がいいのかも知れない。

 

だけど、あの海だけから世界中の人類が還ってくるとも思えない。

 

だから街を見下ろせるこの場所だ。

 

何か変化が起きれば、少なくとも平地より分かり易いハズ。

 

そこから毎日シンジは自転車で街まで降りていく。

 

街で色々日常品や食料品を探しては持ち帰ってくる。

 

その間、あたしが義務的にすることは掃除くらい。

 

窓を開け、空気を入れ換え、掃除機をかける。

 

それでおしまい。

 

洗濯なんかしなくていい。新品の服がいくらでもあるし。

 

食事は、朝と昼は大抵インスタントで済ます。

 

夕食のみ、シンジが何か作ってくれるけど、あたしがリクエストしたことは一度もない。

 

自然と時間を持て余す。

 

目の焦点が合わせづらいので本を読むと疲れる。

 

TVをつけても砂嵐。

 

なのに、シンジもあたしもなぜか映像ディスクとか見る気になれなかった。

 

だからあたしの時間の過ごし方は、屋根にのぼってS-DATから流れる音楽を聴くこと。

 

聴覚を封鎖し、何も考えないように努め、身体の痛みも遠ざけやがて無機質と同化することを願う。

 

束の間の一体感も、喉を焼くような暑さやシンジの声で破られるのが常だ。

 

吐き気を催す不快感を経て、あたしは有機物へと復帰する。

 

たぶんこの気持ち悪さが生きている証なのだろう。

 

 

 

 

「精肉店の倉庫を見つけたから、もうしばらく肉は食べられるかも知れない…」

 

ガスコンロからフライパンを下ろしながらシンジは呟く。

 

「そう…」

 

あたしは適当に相槌を打ちながら、お皿の上にのったステーキをフォークで口に運ぶ。

 

久しぶりに豪勢な夕食だ。

 

なのに、食欲が沸かない。

 

ほとんど事務的に口に放り込み、奥歯ですりつぶし咀嚼。それを繰り返している。

 

味覚が変わったわけではないのだろうけど、鈍化したのだろうか。

 

美味しさより脂の多さに辟易しているあたしの対面で、シンジの食事のペースも遅い。

 

日焼けした顔は逞しくなっていたけれど、すごく疲れたように見えた。

 

「…あんた、大丈夫なの? 疲れてるんじゃない?」

 

訊ねる。

 

弾かれたように顔を上げ、シンジは二、三回目を瞬かせた。

 

「う、うん! 大丈夫だよ!!」

 

そういって、慌てたように肉を口いっぱい頬張っている。

 

…相変わらず嘘が死ぬほどヘタだ。

 

「まあ、せいぜい健康には気をつけなさい。…重い病気とか罹ったら、治せないんだから」

 

「アスカ…」

 

真剣な黒い瞳があたしを見ていた。

 

「な、なによ…」

 

「アスカの方こそ、身体は大丈夫なの?」

 

シンジの視線があたしの左目と右腕をなぞるのを感じる。

 

「…大丈夫よ」

 

思わずあたしは腕を抱え込んでしまう。

 

不意に寒気がしてきた。

 

そんなあたしを、シンジはそっと抱きしめてくれた。

 

腕が触れる。

 

料理の匂いを圧して、シンジの汗の匂いが鼻を突く。

 

顔を上げ、見下ろしてくるその顔に、ぶつけるように唇を重ねた。脂まみれでもかまうものか。

 

互いに飽きるまで唇をむさぼり、どちらともなく離す。

 

倍に腫れあがってしまったかのような唇を、名残惜しげにもう一度軽く合わせ、それでおしまい。

 

あたしは、都合三度、シンジと肌を重ねている。

 

だから、シンジがあたしを抱きたいのはよくわかる。

 

あたしだって抱かれてもいいと思う。

 

だけど、この世界で生きていくと決めた時点で、欲望のままに性交渉をもつのはリスクが大きすぎた。

 

三回もの前歴の中で、あたしたちは一度も避妊をしていない。

 

そんな中で妊娠しなかったのは、幸運というしかない。

 

こんな不確定な世界で子供を産むのはもとより、あたしの傷んだ身体が妊娠という現象に耐えられるかどうか。

 

抱き合いたいと思うのは、突き詰めれば一種の生存本能だ。

 

だけど、感情的にあたしはシンジに間違いなく惹かれている…と思う。

 

この世界で二人きりだから、という理由じゃない。

 

あの海から旅立ったとき、たしかに決めた。

 

一緒に行くことを。

 

悲しそうなシンジの瞳が、辛い。あたしだって、背筋のあたりが苦しい。

 

…なのに。

 

唇の温度がまだ消えてないのに。

 

この生活を倦み始めている自分がいる…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝、シンジが出かけた後。

 

インスタントの食事を終えたあたしは、ゴミをまとめて袋に突っ込むと家の後ろに運んだ。

 

ゴミなんかそこらにまき散らしてもいいんだろうに、きちんと分別しているシンジは律儀というかなんというか。

 

未だアイツの価値観はサードインパクト前のそれと同じなのだろう。むしろ回帰したとでもいうべきか。

 

言い換えれば、まだシンジは開き直りも出来ていないということ。

 

いずれ、あたしと同じ価値観に染まるだろうか。

 

誰もいない世界でポニー&クライドをしても、きっとつまらないとは思うけれど。

 

綺麗だけど、どこかプラスチックをイメージさせる家の中へと戻る。

 

静かだ。

 

椅子に座り頬杖をつく。

 

そして退屈。

 

また屋根の上にのぼろうと、S-DAT片手に二階へ上がって、ふとシンジの部屋のドアが少し開いてるのが気になった。

 

躊躇無く開け放ち、中に籠もった匂いに顔をしかめる。

 

カーテンの降りた薄暗い中を縦断し、窓を開ける。

 

部屋を明るくしてみれば、最低限のものしか置いてない。

 

くしゃくしゃのままの薄い寝具、ゴミ箱、それと―――グラビア雑誌が数冊無造作に放置されていた。

 

自分でも不可思議な気持ちがゴミ箱をのぞかせる。

 

当たり前のように丸まったティッシュが詰まっていた。

 

なぜかため息が洩れた。

 

同時に仕方ないのかな、と思う自分もいる。

 

アイツは夜な夜なこれで欲望を処理しているのだろう。

 

あたしの部屋から数歩離れたこの場所で。

 

気がついたら、あたしは窓を全開し、グラビア雑誌を外に投げ捨てていた。

 

少しすっきりして、少し後悔する。

 

そもそもあたしは何に腹を立て、何を可哀想に思っているのか。

 

答えは出ている。至ってシンプルだ。

 

…今更ながら街から持ち帰ってきたものの中に避妊具を見つけ、反射的にシンジを怒鳴りつけてしまったことが悔やまれる。

 

これだって、万全じゃないのよ!? アンタそこまでしてしたいの!?

 

つい前日、セックスのリスクが高すぎることを話し合ったばかりだったから。

 

傷ついたように見てくるシンジの目を思い出さないようにして、逃げるようにあたしは屋根へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

屋根の一角にビーチパラソルがたてられ、下には厚手のクッション。

 

そのままでいいと言ったのに、シンジが無理矢理設えたものだ。

 

使わないとシンジが怒るので、渋々あたしはそこに横になる。

 

適度な日陰の下で、喉の乾きを無視しながら、ひたすらゴスペルに耳を傾けるあたしはきっと救われない。

 

どれくらいそうしていたことだろう。

 

喉の渇きではなく、シンジに起こされるわけでもなく、不意にあたしが有機物へと戻ったのは、S-DATが音を奏でるのを止めたからだ。

 

片目を開けて見れば電池切れのマーク。

 

先日、交換したばかりだと思ったのに。

 

全身の感覚が再接続されていくのを感じながら、仕方なく上体を持ち上げる。

 

軽い眩暈を覚え、ただぼんやりと視界が輪郭を確保するのを待つ。

 

直後、視界の下の動くものに焦点を合わせてしまったのは、極めて正常な反射反応だ。

 

シンジだろう。この世界で動くものは極めて少ない。

 

推測は正しく、すぐ証明された。

 

シンジのヤツが自転車に乗って、緩い坂道を上ってくるところ。

 

フラフラと揺れる身体を眺め、相変わらずの貧弱さを軽く嘆く。

 

それにしても帰ってくるの早いわね、まだ夕方じゃないのに…?

 

乾き粘つく口内を、すっかり温くなったペットボトルの水でゆすいでいるときだった。

 

シンジが派手に転倒した。

 

乾いた土が舞い上がり、横倒しになった自転車の前輪がくるくる回っている。

 

まったく鈍くさいヤツ、などとしばらく眺めていたあたしは、すぐ違和感に襲われる。

 

「……?」

 

シンジが倒れ伏したまま、起きあがらない。起きあがろうとしない。

 

まさか。

 

冗談でしょ。

 

ふざけてんじゃないわよ。

 

そう考えたと思った瞬間、あたしは裸足でシンジのすぐ側に立っていた。

 

慌ててうつぶせの身体を揺する。

 

「ほら、起きなさいよ! 何やってんのよ!?」

 

反応がない。

 

無理矢理身体をひっくり返す。

 

シンジは荒い呼吸を繰り返していた。苦しそうに閉じられた目はピクリともしない。

 

「こらっ!! シンジ!!」

 

ほっぺたを張る。

 

力を込めてもう一往復。

 

返事がないので、額に手をあててみた。

 

とんでもなく熱かった。

 

…おそらく、熱中症かなにかだろう。

 

シンジのヤツ、畑を作らなきゃとかいってたし。

 

きっとそうだ。

 

そうに決まっている。

 

薄汚れたシンジのシャツの襟首をつかみ、家まで引きずっていく。

 

それだけでえらく骨が折れた。我ながら体力のなさが恨めしい。

 

涼しいリビングの、フローリングの上までとりあえず運ぶ。

 

息をつく間もなく濡れたタオルを額にあててやり、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを引っ張り出す。

 

全然握力の無くなった手が、キャップすら回せず表面を撫でる。

 

いらついたので腕に抱え込んで噛みつき、噛筋力でこじ開けた。

 

ボトルの先端をシンジの唇に押し当てる。

 

こぼれた流れは、床の木目に小さな水たまりを作った。

 

愕然としたのも束の間、次にあたしが取るべき行動は決まっていた。

 

中身を自分の口に含み、唇をシンジのそれに押し当てる。

 

舌先で歯をこじ開け流し込む。シンジの味がした。

 

垢じみた喉が動くのを確認し、それを何回も繰り返す。

 

幾分、激しかった呼吸が穏やかになったように思える。

 

そうしてから、急いで救急箱を探した。なんか顎がガクガクする、くそ。

 

どうにか見つけ出した体温計をシンジの脇下に挟み込み、もどかしく待つこと数分。

 

高い数字がデジタル画面に示されていた。

 

とりあえず、脇下と背中にアイスノンをあて、シンジをタオルケットでくるむ。

 

それから「家庭の医学」という本を読んだけど、字が細かくて読むのが辛かった。

 

それでなくても漢字が多すぎてよくわからない。

 

なんとか熱中症の項目を読み終える。

 

やはり、電解質を含む水での水分補給が必要だとのこと。

 

そして、重度化していれば死に至る、というくだりが頭の中で冷たくリフレインしている。

 

重度化していないことを祈りつつ、あたしは更に冷蔵庫を開ける。

 

困ったことにスポーツドリンクのストックがなかった。

 

仕方ないのでキッチンの調味料を漁り、塩を見つけ出した。

 

ミネラルウォーターのキャップも開け、口にあらかじめ塩を含んでいるところに、更に水も含む。

 

吐き気がするぐらい口の中が不味くなった。

 

それでも、またシンジの口をこじ開け、即席の電解質水を送り込んでやる。

 

味覚が馬鹿になるくらいそれを繰り返す。

 

繰り返しながらも、本当に熱中症なのだろうか? という疑問が、胸をかき回す。

 

もし、熱中症じゃなかったら?

 

改めてシンジの症状を観察する。

 

高熱は言うにおよばず、意識障害も…あるようだ。

 

チカチカする目で、また家庭の医学を読む。

 

だけどやっぱりあまり専門的なことが書いていない。

 

仮に熱中症だとしても、酷ければ口腔内からの水分摂取で間に合うのだろうか。

 

ここには、当然点滴もなにもない。

 

そのうち、シンジの全身が震え始めたのに、驚く。

 

…いや、震えているのはあたし自身だった。

 

知らぬ間に奥歯がガチガチいっている。

 

口の端からこぼれた塩水が、喉を伝って胸元へ入ってきているのが異様に冷たく感じる。

 

思わず両腕で自分を抱きしめた。

 

気温と体温が一気に下がったような感覚に襲われる。

 

頭の後ろ奥から首筋にかけて、冷たい感覚が頻繁に流れ落ちている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは――――恐怖だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジに襲われたときの恐怖と違う。

 

心を覗かれるときの恐怖とも違う。

 

ただ、怖い。奥歯を打ち鳴らす。

 

怖い、

 

怖い、

 

怖い、

 

何で怖い?

 

シンジが死んでしまう?

 

シンジが死んでしまう?

 

シンジが死んでしまったら、

 

あたしは、

 

 

 

 

 

 

 

シンジの胸ぐらをつかんで揺さぶる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ねえ、起きなさいよ

 

目ぇ開けなさいよ

 

好きなだけ抱かせてあげるからさあっ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

額をむかつくくらい真っ白な壁に打ち付けた。

 

目の奥で火花が散る。

 

視界が滲んでいるのは、額を打ち付けたから出た涙のせいだ。

 

冷静になれ、あたし。

 

まだシンジは死ぬなんて決まったわけじゃない。

 

死ぬわけがない。

 

コイツは、あたしより先に死んじゃ駄目だ。

 

決めたから。

 

罪を償わせるまで死なせてやるものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなた、何を怖がっているの?

 

本当は、何を怖がっているの?

 

 

 

 

 

 

 

あたしは耳を塞いでいる。

 

 

知らない知らない知らない!

 

 

 

 

 

 

 

いいえ、あなたは気づいてる

 

認めて

 

受け入れて

 

信じてあげて

 

彼は、決してあなたを荷物だなんて思わない。

 

あなたが彼の生きる理由

 

だからあなたも

 

 

 

 

 

 

 

あたしは叫ぶ

 

 

 

 

 

 

無理よ!

 

こんな身体、そんなに保たない!

 

じきに、あたしは死んじゃうのよ!

 

でも、

 

だから、

 

シンジに先に死んでも欲しくないの…

 

 

 

 

 

 

大丈夫、あなたは死なないわ

 

わたしが――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勢いよく瞼をあけていた。

 

夢を見た。

 

最後に瞼に残った像は、誰の姿だったのだろう?

 

…思い出せない。

 

膝に埋めた顔を上げれば、部屋は明かりに満ちていた。

 

どうやら夜が明けたらしい。

 

ほぼ同時にあたしは腰を浮かしている。

 

タオルケットにくるまれたシンジの顔を、半ば飛び込むようにのぞき込む。

 

顔色も呼吸も落ち着いているように見える。

 

回復してくれていてばいいんだけど…。

 

タオルケットの中に手を突っ込み、アイスノンに触れた。

 

まだ、冷たい。どうやら最後に交換してから、それほど長く眠ってはいなかったようだ。

 

のろのろと塩を口に含む。

 

塩辛さで、目が覚める刺激というより、吐きそう。

 

そうして例によって、ペットボトルの水を口に含み、よく溶け合わせる。

 

気持ち悪くなってきたけど仕方ない。

 

スポーツドリンクを街に取りに行くのは論外だ。

 

シンジを放っていけないし、遠すぎる。

 

もし、あたしが目を離していする隙に…なんて思えば、これくらいの気持ち悪さはなんだというのだ。

 

ぼさぼさの髪をすき上げ、顔を近づける。

 

シャワー浴びたいな、などとちょっと考えながら、半開きのシンジの唇に重ねた。

 

「……?」

 

ごくごくと勢いよく飲み込まれていく様子に、違和感を覚える。

 

密着状態で目だけを動かせば、シンジの瞳もこちらを見ていた。

 

唇を離し、まじまじとシンジの顔を見つめてしまう。

 

目をぱっちり開け、なんか困ったような顔をしている。

 

ついでに、不味いものでも口にした表情も浮かべている。

 

「…そ、その、おはよう…?」

 

間の抜けた返事を、間抜けな返事だとも思わなかった。怒りも沸いてこなかった。

 

ただ、あたしは、全身でシンジを抱きしめていた。

 

猛烈に汗くさいけど、全然気にならない。

 

シンジのざらつく頭をかき抱き、ちょっと長くなった髪の毛をかき回す。土の匂いがする。

 

「うるさい、しゃべるな、ばか…」

 

そう答えたつもりだけど、言葉になっていた自信はない。

 

ただ、シンジの温もりと、あたしの腕の中でもがいている振動が、この上なく気持ち良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからシンジがシャワーを浴びられるくらいまで回復するのに、三日ほどかかった。

 

どうやら重度手前の熱中症に加え、相当な疲労が蓄積されていたのも原因の様子。

 

適当に体力がつきそうなものを食べさせながら、みっちりあたしは説教した。

 

医者もいないのに、無理するな。

 

何もそんなに頑張る必要もない。

 

いずれ、人が戻ってくるはずなんだから、それまで保たせればいい。

 

などなど。

 

最後に小声で、

 

アンタがいなくなったら、あたしはどうすりゃいいのよ…

 

と付け加えてやった。

 

ひたすら「ごめん」だけを繰り返すシンジを、芸がないヤツだわね、などと眺めながら、あたしは内心でとても安堵していたのだ。

 

シンジが無事に回復してくれて、嬉しさすらある。

 

だから、その晩、たっぷりシャワーを浴びてから、実に久しぶりにシンジに抱かれた。

 

…その、ちゃんと、避妊具は使ってね。

 

肉体的な感覚がどうより、心がすごく満たされた気がしたのは、きっとシンジも同じだと思う。

 

カーテンから差し込む月明かりに目が覚めたので、そっと布団からはい出す。

 

そのまま窓を開け、ベランダへと出た。

 

綺麗な満月に目を細め、手すりを乗り越え屋根に降り立つ。

 

鼻の奥が切なくなるような夜風は肌に優しく、満点の星空。

 

昼間は地獄に思えた風景が、こんなに美しく見えるのはどうしてだろう?

 

いつもの指定席へと赴き、街を見下ろした。

 

一定間隔で点る街灯の他に、コンビニからこぼれる明かりが見えた。

 

誰もいないのに、街は生きているような気がした。

 

でも、人が帰ってこなければ、きっと死に絶えるだろう。

 

エデンの園も、きっとそうやって枯死したに違いない。

 

膝を抱え、焦点をぼやかせたまま空を見上げる。

 

淡い月光が周囲を踊っているみたいで、まるで夢のようだ。

 

こんな叙情的な気分になったのは久しぶりだ。そして悪くない。

 

太陽の光の下では鬱積する感情が、漂白されていくような気がした。

 

だから人間には夜が必要なのかも。

 

哲学的な文章をひねり出しながら、あたしは自分の感情にも想いを馳せている。

 

幻想的な風景は、たやすく夢を想起させる。

 

シンジを看病しながら見た夢。

 

全ての答えと方法はそこにある。

 

いつ死ぬかわからず、いつ死んでもおかしくないあたしの身体。

 

あからさまに足手まといだ。

 

シンジを満たせないあたしは、果たしてアイツに必要なのだろうか?

 

生きる目的なんか、この世界では意味がない。

 

生きることこそが目的であるはず。

 

だから、あたしはシンボルとしての力すら持ち合わせちゃいない。

 

じゃあ、助けあえないあたしはいったいどんな意味を持つ?

 

娼婦としてアイツを慰めるのすら拒否したのに。

 

傷んだ身体に託けての忸怩たる毎日。

 

生きているのではない。死ぬのを待っていたのだ、あたしは。

 

それも、なるべくシンジにショックの少ない方法で。

 

これを思いやりなどと強弁するつもりはなくなった。

 

結局、あたしが一番現実から逃げていたのだから。

 

シンジについて行く、一緒に生きていくと決意したあたしが、一番先に絶望していたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「…アスカ?」

 

ベランダから声。

 

「こっちよ。いい月だから、アンタも屋根に来たら?」

 

「う、うん…」

 

手すりを乗り越える気配に、背後を振り向いたあたしは眉をしかめる。

 

「なんでパンツなんか履いてくるのよ?」

 

「そんなことを言われても…」

 

口ごもりながら、それでもシンジの視線は、あたしの素っ裸のお尻あたりを見てるのがわかる。

 

「ったく、アンタ以外見るヤツはいないってのに。…まあ、いいわ」

 

隣まで来たシンジの手をつかみ、強引に座らせる。

 

そしてその肩に頭を預けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ただ、シンジが先に死ぬのを見たくなかった。

 

一人きりになるのが嫌だった。

 

自分が死ぬときは、誰かに側にいて欲しかった。

 

シンジだって、死ぬときは誰かに側にいて欲しいだろうに。

 

この世界には、あたしとシンジしかいないのに。

 

最後に残るのは一人だけ。

 

自分が死んだら、あとは丸投げして知ったこっちゃない。

 

寂しさを誰かに預けて、看取られながら死ぬ幸福。

 

ようはトランプのババ抜きのジョーカーと同じだ。

 

ものすごいエゴ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「綺麗だよね、アスカ…」

 

指を絡めながらシンジが言ってくる。声がうわずっているのが可笑しい。

 

「そうね。きっと昔の人たちは、これだけで満足していたんでしょうね…」

 

「うん、本当にそう思うよ。すごく綺麗な星空だ…」

 

そんなに奇をてらったつもりはないんだけど、案の定シンジは誤解していたように思う。

 

あたしがいった昔の人たちってのは、あたしたちに対比させている。

 

つまり昔の恋人たちってことなのに。

 

映画を見にいったり、流行のポップミュージックを聴いたり、美味しい料理を食べたりしなくても。

 

こんな月を一緒に見上げるだけで、きっと幸せだったに違いない。

 

その瞬間、間違いなく世界は二人のためだけに…ってのはちょっと恥ずかしすぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネガティブな考えを捨てよう。

 

価値観を切り替えよう。

 

生きるために生きて行こう。

 

絶望するのは一人きりになってからでも遅くない。

 

そう思い、シンジの手を握ると、強く握り返してくる手応え。

 

 

 

 

 

誰もいない世界を、たった二人で生き抜くことが出来るはずはない。

 

 

 

 

 

 

その命題を覆すほど、この温もりには価値があるのかも知れない。

 

 

 

 

 

 



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蝉が、鳴いている。

 

ある日気づいた。

 

全身を包むような鳴き声に、あたしは唐突に立ちすくむ。

 

「…どうしたの、アスカ?」

 

振り返ってくるシンジに、大丈夫だと手を振り返す。

 

なんとなく傍らまで走り寄る。

 

シンジから汗と太陽と土の匂いがする。シンジの匂いだ。

 

鼻を鳴らすあたしを見て、

 

「やめてよ、アスカ、恥ずかしいよ…」

 

相変わらずの物言いが可笑しくてしょうがない

 

「誰も見ている人いないのに、何を恥ずかしがるのよ?」

 

「……」

 

黙り込むシンジの額には汗が滲んでいた。

 

あたしはかぶった麦わら帽子のつばをつまみながら顔を上げる。

 

太陽は真上だ。

 

「ちょっと休憩しようか?」

 

シンジはそういってコンビニへと消えた。

 

軒下のベンチにあたしが座っていると、目の前に差し出されるアイスティー。

 

「…これ、飲めるの?」

 

「たぶん、大丈夫。あ、アイスも食べられると思うけど…」

 

「…遠慮しておくわ」

 

誰もいない世界。

 

あたしたち二人しかいない街。

 

まだ、かろうじて電気も水道も止まってはいないけど。

 

ああ、この街はまだ生きている。

 

冷たい液体が喉を滑り落ちた。

 

軽く瞼を閉じ、耳を澄ます。

 

風の音。

 

蝉の声。

 

微かな機械の駆動音。

 

そして世界は、まだ死んじゃいない…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この醜くも美しい世界3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジにくっついてあたしも街に降りるようになり、もう幾度目だろうか。

 

人っ子一人いない街で物を漁るのは、誰も手をつけていないクリスマスケーキを食べ荒らすのに似ている。

 

服も靴も本も電化製品もなんでもとり放題だ。

 

誰も咎めず、誰も気にしない。…あたりまえだけど。

 

スーパーの探索も、食料品エリアだけは避けた。

 

干涸らびた生鮮食品、一ヶ月以上放置されっぱなしの惣菜品など見たくもない。

 

クーラーの効きすぎたフロアをそぞろ歩き、くたびれてあたしはベンチに腰を下ろす。

 

鳥肌が立っていたので、剥きだしの肩の上に、手近にあったカーディガンを羽織る。

 

軽く呼吸が乱れていた。まだ体力は充実していないらしい。

 

白々しい照明に、エアコンの風に服が微かに揺れている。

 

ところどころ切れた電灯。

 

機械の匂いのする空気に、寒くすら思える光景。

 

なんだか不意に心細くなった。

 

「シンジ!!」

 

それほど大きな声で叫んだつもりはない。なのに、

 

「アスカ、呼んだ?」

 

背後のエスカレーターからひょっこり顔を出す日焼けしたバカ。

 

「…アンタね、心臓に悪いわよ」

 

「え? えーと、ごめん」

 

両手一杯に袋を抱えたまま、シンジは首をすくめた。

 

「あと何か持っていくもの、ある?」

 

あたしは首を振る。

 

何も好きなだけ持って行く必要もないと思う。欲しければ、また取りに来ればいいんだし。

 

横目で服の大群を眺め、少し気分が悪くなった。

 

だからベンチから立ち上がった途端、立ちくらみ。

 

「あ、アスカ…!!」

 

よろめいた途端、シンジに抱き留められた。

 

シンジの腕は温かかった。あたしの身体が冷えすぎていたのかも知れないけど。

 

磁石の同極のように身体を離す。

 

このままくっついていたら溺れそうだから。

 

コイツのぬるま湯のような雰囲気に。

 

溺れそうと思う自分にが少しだけ可笑しく、照れくさく、腹立たしかった。

 

 

 

 

 

 

蒸し上がるアスファルト。

 

ゆらゆらと歪む大気は、まるでどこかの砂漠のよう。

 

麦わら帽子をかぶっていても、暑い。

 

先ほどまで涼しすぎる場所にいたから尚更だ。間違いなく身体に悪いだろう。

 

「ごめん、ちょっと休むわ…」

 

スーパーを出て10分と経っていないのに、同じ通りの喫茶店にあたしは避難する。

 

エンドレスで流されていたらしいクラシックがあたしを出迎えた。

 

ここもクーラーは利いているのに、なにか空気が澱んでいるような気がする。

 

益々気分が悪くなりそう。

 

後を追っかけてきたシンジが手慣れた感じで埃っぽいカウンターの中に入った。

 

すかさずあたしは言ってやる。

 

「チョコパフェ!」

 

「ちょっと待ってね」

 

シンジのヤツ、律儀に冷蔵庫をごそごそ漁ってから、

 

「うーん、生クリーム抜きなら出来るけど…」

 

「冗談よ…」

 

つっけんどんにいい、頬杖をついて窓の外へ視線を向ける。

 

汚れたガラス越しに見える、誰一人、車一つ通らない光景も、それなりにオツなものだ。

 

あたしの機嫌を損ねたと思ったらしく、シンジは黙ってソーダの入ったグラスを二つもってきた。

 

違うのに。あたしはシンジの従順さが気にくわないだけだ。

 

…つくづく勝手なものだ、あたしは。

 

奉仕され、庇護され、傅かれている現状を不満に思っている。

 

身体が不満を許さないのに。状況が不平を容認できないのに。

 

なぜかため息が洩れた。

 

また当て付けてると思われるのもシャクだ。そっぽを向いてシンジの方を見れば、あたしと同じく窓の外の景色を眺めている。

 

「…アスカ、ちょっとここで待っていてもらえる?」

 

別に訊ねなくていいのに。いい捨てて出てってもいいのに。

 

どうせ、アンタがいなきゃ、あたしは街も歩けないんだからさ。

 

口に出すのはいかにも情けない気がしたので止めた。

 

代わりにストローをくわえたまま頷く。

 

軽く微笑んで、シンジは喫茶店を出て行く。

 

あたしはソーダ水を啜り、クラシックに耳を傾け続けた。

 

ちょうど良い温度の空気に、少しだけ眠気を催す。

 

持ってきた袋の中からカーディガンを羽織り、あたしはぼんやりとした。

 

気づけば、グラスの中の氷は全て溶けていた。

 

シンジは戻ってこない。

 

うたた寝する前、時計を見るのを忘れていたのを後悔する。

 

どれくらい時間が経ったのだろうか?

 

机に突っ伏した身体を起こすと、メリメリと嫌な音がした。

 

足下が覚束ないまま、店の外にでる。

 

相変わらず暑い。

 

それでも、太陽はだいぶ傾いていた。それなりに時間が過ぎたよう。

 

「シンジー!?」

 

返事はない。

 

蝉の声。うるさい。

 

「シンジーぃ!?」

 

もう一度、叫ぶ。

 

やはり返事はない。

 

たちまちあたしの頭の奥が冷たくなる。

 

脳裏に浮かぶのはこの間の光景。熱中症で倒れたシンジの姿。

 

アイツ、もしかして、また…?

 

動悸が速くなる。

 

探さなきゃ。見つけなきゃ。

 

胸が騒ぐ。背筋がざわつく。

 

闇雲に探しちゃダメ、と考えているのに、ふらつく足を必死で動かす。

 

耳を澄まし、目をこらす。滲む視界が憎たらしい。

 

数メートルほど進んだペットショップの前まで来たときだった。

 

なにかを打ち付ける音が聞こえた。

 

そう、まるで地面を掘っているような…。

 

まだ鼓動が早いまま、音のする方に駆け出す。八割方の希望と二割の不安を抱えて。

 

アイツの姿を認めて、残り二割が吹き飛んだ。

 

シンジが、スコップで穴を掘っている。

 

声をかけようとして、シンジの足下に包み紙を見つける。

 

結構大きく、熱い風に漂う嫌な匂いがあたしの足を止めた。

 

これは…腐臭だ。

 

「…アンタ、なにやってんの?」

 

鼻を押さえながら声をかければ、シンジはスコップを振るう手を止めてこちらを見た。

 

「あ、アスカ、ごめん…」

 

額の汗を拭いながら謝ってくる姿に、少しムカっとする。

 

全く、なんでも謝ればいいのかと思っているのだろうか、コイツは?

 

見回せば、裏路地に狭い土のエリアに、いくつも包み紙が転がっていた。

 

大小様々なその袋から、腐臭が漂ってきているみたい。

 

「なによ、これ…」

 

手近にあった包みを開けようとしたら、シンジが飛んできた。

 

包み紙を掴んだ手を叩かれる。

 

「何すんのよ!?」

 

思わず怒鳴れば、珍しく真剣な表情。

 

「見ない方が、いいよ…」

 

曖昧な表情と答え。

 

あたしが手を押さえて睨むと、シンジは視線を逸らした。

 

違う。視線はあたしの背後を見ていた。

 

振り返り、そこはペットショップ。

 

「まさか…」

 

シンジは頷いた。

 

「助けることは出来なかったんだよ…」

 

つまり。

 

包み紙の中身は、動物の死体なの…?

 

気づけば、シンジは無言でスコップを振るっている。

 

そして、掘った穴へ、次々と包み紙を降ろしている。

 

全て降ろし終えてから、シンジは土をかけた。

 

不思議と、汚いとか臭いとか、嫌悪の意識はなかった。

 

なにか崇高な事をしているように見えたのだ。

 

もちろんそれは錯覚で、シンジの言葉にあたしの意識は通常に戻る。

 

「これも、僕の責任みたいなものだから…」

 

「……もしかして、アンタ、今まで街に降りるたびにやってたの?」

 

「うん…目についた範囲内ではね」

 

「………」

 

「偽善だと思うけど、やらなきゃいけないとも思ったんだ…」

 

土まみれのシンジは、そういって少し笑う。

 

半分共感し、半分醒めたあたしがいた。

 

 

醒めたあたしが呟く。

 

 

バカみたい。

 

こんなことしても、なんの償いにもならないのに。

 

自己満足の極みよ。

 

 

 

もう半分が反論する。

 

 

 

そうかしら?

 

この行動、自己満足なのは確かだとしても。

 

その行動に他の意味を持たせられるのは、つまりは観察者、他人の視点。

 

あたしがどう思うか次第じゃないの?

 

 

 

 

…この世界で、他人はあたし一人だけ。

 

 

 

 

結局、あたしには、その光景は悲しいものに映った。

 

気づいたときには、あたりは夕暮れで橙色に染まっていた。

 

これもあながち無関係ではないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日が沈みきる前に食事を終え、シャワーを浴び、自室へと戻る。

 

食後の団欒なんか特に意識したことはない。

 

寝るのが早いので、必然的に朝も早く目覚める。

 

まだ涼しいうちに目を覚ますのは、極めて健康的な生活かもしれない。

 

真っ暗い部屋の中で布団にくるまっていると、時々無性に寂しくなる。

 

窓の外から響く音に、怖くなるときがある。

 

そういうときは、無断でシンジの布団に潜り込むことにしている。

 

その逆も当然あった。

 

互いに抱きしめあったまま、クーラーを効かせた部屋の布団の中で一緒に眠る。

 

そのまま素肌を重ねることも希じゃない。

 

シンジの寝息が穏やかになったのに、あたしは電気を消した部屋で目を凝らしていた。

 

月明かりで、胸にピッタリと寄り添ったシンジのバカ面まではっきり見える。

 

ふん、なによ、自分だけすっきりした顔しちゃって。

 

だいたいアンタだけ気持ちよくても不公平だっての。

 

…まあ、あたしも少しは気持ち良かったけどさ…。

 

無防備な笑顔が、奇妙に憎らしくなった。

 

だから、鼻をつまんでやった。

 

フガフガいって眉毛をしかめるシンジだったけど、目を覚まさない。どうやらかなり疲れている様子。

 

飽きたので鼻から指を離し、代わりに頭を撫でてみた。

 

少し伸びた髪はボサボサで、土の匂いがした。

 

連想するのは昼間の光景。

 

派生するのは、コイツへの想い。

 

 

 

 

 

…シンジは、あたしにどうして欲しいのだろう?

 

 

 

 

 

窓の隙間から忍び込んだ夜風に、レースのカーテンがフワリと揺れる。

 

まとわりつきそうなそれを眺めながら、あたしはシンジの髪を撫で続ける。

 

こんな世界を作った上に、無理矢理あたしを犯した男。

 

もう男の子じゃないだろう、コイツは。あたしが女の子でなくなったのと同様に。

 

献身的な行動。

 

全てあたしを念頭に置いた対応。

 

アイツにとって、あらゆるもの優先する存在。それがあたし。

 

そうやって大事にされるのは嫌じゃない。むしろ嬉しいくらい。

 

ただし。

 

庇護の対象だけのあたしを、シンジが望んでいるとしたなら。

 

でも、アイツは、そんなことを口にはしない。

 

態度に、表情に、行動の端々に滲ませるだけなのだ。

 

それが不満といえば不満。

 

贖罪なんてもうまっぴらごめん。

 

あたしたちは互いを貪りあうケダモノじゃない。

 

無邪気なアダムとエヴァでもない。知恵の実を食べた人間なのだから。

 

だから言葉でいってくれなきゃ、と望むあたしは、贅沢なのだろうか。

 

わざわざそのこと指摘してやるほど、あたしはお人好しでもないのだ。

 

「まったく、どういう関係なのかしらね、あたしたちは?」

 

気がついたら呟いていた。

 

全く、適切な関係を表現する言葉が見つからない。

 

多分、あたしは、シンジに…。

 

ちょっとだけホッペタが熱くなる。

 

だからといって恋人なんて甘ったるい表現がこの世界では許されない。

 

運命共同体ってのはより正確かもしれないけど、なんか殺伐としているし。

 

 

 

 

 

…シンジが望むなら、コイツにとってのファムファタールになってやってもいいのに。

 

 

 

 

 

つまりは、あたしも何かしたかった。

 

一方的になにかしてもらうのは、はっきり言えば性に合わない。

 

互いに互いを益することこそが対等の関係。

 

気持ちを切り替えたにしても、未だ忸怩たる思いがぬぐえない。

 

シンジに負ぶさってばかりいる不甲斐なさ。

 

ボサボサの頭を抱きしめて、あたしは目を閉じた。

 

コイツは、あたしを、お荷物扱いしてるわけはないと確信してるけど…。

 

それなら。

 

どうして。

 

一体、あたしは、何を焦っているのだろう…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軒下の木陰で、ブロックアイスで満たされたタライに両足を突っ込んで、あたしはぼーっとする。

 

ちょっとまってて、見せたいものがあるんだ、というシンジの言葉にしたがって。

 

今日も空は抜けるように青い。

 

風はなく、うるさいくらいの蝉の声。

 

ひどく怠い。何もする気がおきない。

 

全身から汗が滲む。

 

足下の氷に合わせて、身体も溶けていくような感じ。

 

その時、不意に耳に飛び込んできた異音に、あたしは目を見開く。

 

言葉であえて表記するなら、ペペペペペペペ、といった感じだろうか。

 

これは…機械の駆動音?

 

しかも、こっちに近づいてくるみたい。

 

思わずタライの中で立ち上がってしまい、よろめく。

 

そんなあたしの目の前に、土埃をあげて音を発していた物体が停止した。

 

スクーターに乗ったシンジだった。

 

「どう、アスカ?」

 

なんか自慢げにシンジはいう。

 

「これが、アンタが見せたいっていってたもの?」

 

あたしは睨む。そして、慌てて表情の険を取る。

 

期待はずれというより予想外だった。

 

「…そうだけど…」

 

あたしの険しい表情に気づいてたらしい。シンジおそるおそるいってくる。

 

「…もっと、なんか劇的なものを期待してたんだけどね」

 

正直にあたしは答えた。

 

「そうかなあ…?」

 

シンジは首を捻って、

 

「これなら、アスカも一人で乗れるかなあ、なんて思ったんだけど」

 

と、笑った。

 

情けないことに、ちょっとだけあたしの頭はフリーズした。

 

即座に解凍したけど、生煮えの頭はどうしても思考がスムーズに行かなく困る。

 

…確かに、今、街へ行くのは、シンジの運転する自転車の後ろに乗るか、歩いていくしかない。

 

それはそれで、まだ身体に辛い。

 

でも、このスクーターなら。

 

あたし一人でも楽に移動できるかもしれない。

 

「…そうね」

 

今まで気づかなかった迂闊さを追いやるように、そっけなく答える。

 

「どう? 今すぐ乗ってみる?」

 

スクーターを降りて、押しながらシンジ。

 

ちょっとだけ戸惑ってしまった自分に腹を立て、あたしはタライから冷たくなった素足を引っ張り出す。

 

即決即断があたしの信条なのに、鈍ったものだ。

 

黄色いサンダルを引っかけ、受け取ったスクーターにまたがる。

 

「キーはコレで、こっちがアクセルでこっちがブレーキ…」

 

一応、神妙にシンジの説明に耳を傾ける。そんな操作系統くらい、すぐに把握できたけどさ。

 

勢いよくキーを回してみた。

 

一際大きく機械の吼えるような音が響いて、微細な振動があたしの全身を揺らした。

 

この感覚、なんて形容すればいいのだろう。

 

嬉しいような、懐かしいような。

 

でも、気分が高揚していくのだけは間違いない。

 

アクセルをゆっくり捻る。

 

スクーターと身体が進み始める。

 

最初はちょっとふらついたけど、そのまま家の前の広場をぐるぐる回ってみた。

 

「うん、アスカ、巧いよ」

 

シンジがパチパチ手を鳴らしていた。嫌に子供じみて小馬鹿にしたような仕草なのに、不思議と腹は立たない。

 

今のあたしは、自分の乗り込んだ機械に夢中だったのだ。

 

「シンジ!! ちょっとそこいら辺を一回りしてくるわ!!」

 

「え?! 大丈夫!?」

 

眼を見張るシンジに言う。自分でも驚くくらい大きな声が出た。

 

「大丈夫よ! すぐ戻るわ!!」

 

「…わかった。じゃあ、僕、お昼ご飯の用意しておくよ」

 

返事を聞き終えるまでもなく、あたしはアクセルを回していた。

 

スクーターは勢いよく走り出す。

 

坂道をくだり、カーブを曲がる。

 

見慣れてきた光景が凄い勢いで後ろに流れていく。

 

見慣れない光景があたしを出迎えて、次々と追い越していく。

 

それはなにかひどく新鮮なものに見えて。

 

そう。

 

まるで世界が変わって見えているよう。

 

髪が風になびく。

 

頬が、額が、鼻が熱い空気をかき分けていく。

 

更にアクセルを捻る。

 

世界が割れた。

 

空が止まる。

 

風が止まる。

 

なのに、新しい感覚があたしの中を満たす。

 

…いいや、違う。

 

スクーターを止めて、あたしは気づく。

 

新しいこと知覚したんじゃない。本来、あたしが持っていた物を再発見しただけだ。

 

空は高く、青く。

 

全身を包む蝉時雨。

 

視覚、聴覚は依然と変わらない。

 

じゃあ、あたしが取り戻した新しい感覚って…?

 

言葉にしようとして、うまくできない。

 

すっきりして、それでいてまた釈然としないまま、あたしは家へと帰る。

 

…帰れる場所があることに、初めて気づいた。

 

 

 

 

 

 

 

家に帰れば、シンジが昼食を準備してくれていた。

 

冷たいソーメンだった。

 

結構あたしは麺類が好きだったし、こんな暑い日にはうってつけだ。

 

「すごく美味しそうね」

 

お世辞ではなくそういった。盛りつけも綺麗だったし。

 

割り箸と小鉢を持ってきたシンジは、笑っていた。それも、凄く嬉しそうな表情で。

 

この世界に放り出されてから、コイツがこんな嬉しそうな顔をしたのは初めてじゃないかしら?

 

「よかった…」

 

「……うん?」

 

何がいいのだろう?

 

意味を計りかね、曖昧な顔をしてしまうあたしに、シンジは素直な口調でいった。

 

「僕は、そ、その、アスカの笑顔が見たかったんだ…」

 

…あたしは多分、照れたようにそっぽを向いたバカの横顔を、穴が空くくらい見つめていたと思う。

 

どれくらいそうしていたことだろう。おそるおそる自分の頬に触れてみた。

 

柔らかく、歪んでいた。

 

なんのことはない。

 

あたしは笑っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジの後ろに乗って、一緒に街まで降りる。

 

あたし専用のスクーターも欲しい、といったのに、シンジは決して首を縦に振らなかった。

 

一緒に移動するのは非効率だと主張したんだけど、あたしの具合が急に悪くなったときが不安なんだってさ。

 

そんなに心配はいらない…と思う。このごろ、すごく体調は良いみたいだし。

 

でも、結局黙ってシンジの腰に引っ付いているわけ。

 

街へ降り、シンジの後について、いつもは行かない場所までくっついて行った。

 

このバカがまたペットの死体を片づけ始めたりしないよう監視の意味もあったけどね。

 

知らない風景が新鮮で、少しだけ嬉しい。

 

ほとんど無傷の街の、物資の山に圧倒された。

 

こじ開けた大型デパートの倉庫には、うずたかく積まれた食料品の山。

 

保存の利くモノだけをより分けても、相当な量になる。

 

二人で食べるにしても、当分困ることはないだろう。

 

本日の戦利品は、インスタントラーメンのトンコツ味に白桃の缶詰。

 

なんか楽しかった。

 

なにより、楽しいと思える自分に驚いた。

 

そんなあたしに反して、どういうわけかシンジは不安顔。

 

「一体、何を心配しているのよ、アンタは?」

 

スクーターの後ろから、耳元へ怒鳴る。

 

「うん…。食べ物は十分あるんだけど、いつみんなが還ってくるのかなあって」

 

その主張は共感できた。

 

でも、何もそんな風に悲壮な口調で言わなくてもいいんじゃないの?

 

どういうわけか、今日のあたしは自分でいうのも何だけど、ハイだった。

 

先日、スクーターに乗ってから何かが吹っ切れた感じ。

 

何でコイツ、こんなにマイナス思考なんだろう?

 

でも、そういえば昔からシンジはそうだった。

 

すると、元に戻ったのかしら?

 

少し可笑しい。

 

余裕のある自分にも少しだけ驚きながら、あたしは考える。

 

ちょっとだけ考え方を変えてみればいいのに。

 

マイナスをプラスに。

 

悲観を楽観に…。

 

 

 

 

 

そしてあたしの世界はまた変わった。

 

 

 

 

 

 

 

大量の物資。

 

二人では消費しきれないくらいの食料の山は、みんなが帰ってくるまで十分すぎるほどだと思う。

 

…じゃあ何も心配する必要はないじゃない。

 

気持ちを一つ入れ替えただけで、あたしはとても楽天的な気分になっていた。

 

こういうのをコロンブスの卵っていうんじゃないの?

 

明日になっても、他の人類は戻ってこないかも知れない、

 

じゃなくて。

 

明日になれば、誰かが戻って来るかも知れない。

 

否定と希望。

 

前向きと後ろ向き。

 

入れ替えるだけで、こんなにも世界が変わって見えて。

 

あたしは声に出して笑っていた。

 

何事かとシンジは振り返ってきたので、頭を叩いてやる。

 

「ほら、アンタも笑いなさいよ!!」

 

アンタが切望していたんでしょ、こんなあたしを?

 

「え? え、え?」

 

シンジのビックリした顔がまた可笑しい。

 

ぎこちないシンジの笑い声が、あたしの声と混じる。

 

あたしたち二人の笑い声が、風にのって流れていく。

 

なびいた声は、世界中を廻るといい。

 

そして、目覚めの声になれば嬉しい。

 

みんな早く帰ってくればいいのに。

 

だって、世界はきっと楽しいものなのだから。

 

明日はもっと楽しいに違いない。

 

明後日はもっともっと楽しくなるに違いない…。

 

それが錯覚ではないことを、これから先も永遠に続くってことを、その時のあたしは疑っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尖っていた石を打ち合わせ、表面を滑らかにするような作業。

 

突起の無くなった石は、互いにピッタリと重なるようになる。

 

伴い、あたしがあたしで無くなっていくよう。

 

昔のあたしに未練がないわけではないけれど、それはとても気持ちがいいもので。

 

ううん、やっぱりあたしはあたしなのだ。

 

夜、シンジと抱き合いながら、そう考えた。

 

相変わらず、泥のように眠るシンジに少し不満を感じる。

 

あたしが眠るまで見守ってくれるくらいの甲斐性を見せてくれてもいいだろうに。

 

でも、まあ、いいか。

 

二人だけの時間はまだいくらでもあるのだから。

 

…そんなことを考える自分に赤面を禁じ得ない。

 

まったく、あたしもずいぶんと感化されてしまったようだ。

 

なんか気分どころか脳みそまで弛んでしまったような気がする。

 

初めてのアレを思い出す。

 

初めての時を思い出す。

 

傍らで眠るシンジを見下ろした。

 

あれほど殺気だって殺伐としていたのが嘘みたいだ。

 

でも、思い返せば、まだ少し腹立たしい。

 

帳消しにするつもりはない。

 

一生許してやるつもりもない。

 

無理矢理から始まる恋もある、なんて世迷い言をいうつもりだってない。

 

いずれ、修正してやらなければならないだろう。

 

でも、それはこの二人きりの世界では意味のないこと。

 

いや、意味はなくもないけど、希薄だと思う。

 

…まあ、それらの清算は、いずれ。きっとね。

 

それにしても、本当に、あたしはコイツのことを…?

 

言葉に出してしまいそうになり、慌てて飲み込む、

 

馬鹿馬鹿しい。寝顔にささやいてどうする?

 

明日でいいや。

 

ううん、それこそそのうちでいい。

 

いつか言えれば、それでいい…。

 

だって、コイツはどこにもいかないもの。

 

絶対、あたしの側から離れないもの。

 

代わりに。

 

おやすみと、頬に軽く唇で触れてやる。

 

醒めた皮肉っぽいあたしは、いつの間にか姿を消していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――その夜、あたしは血を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 



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どうして人は、無くすとわかってからそのことに気づくのだろう。

 

失うと知ってから、より愛しく思うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この醜くも美しい世界4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜半、妙に気持ち悪くなり、洗面所にいった。

 

夕食で食べたトンコツ味のカップラーメンが悪かったのかしら、などと思いながら不快さを堪えられず嘔吐した。

 

自分でも思いがけないほど激しく吐いた。

 

「…アスカ、どうしたの? 大丈夫!?」

 

目を覚ましたらしいシンジが駆け寄って来る。

 

口を拭って、大丈夫よ、と振り返り、あたしはシンジの驚愕した顔を見ることになる。

 

真っ青なシンジの顔と裏腹に、あたしの手は真っ赤に染まっていた。

 

白磁の洗面台も、すべて朱色に塗りつぶされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…あたしの記憶はそこでプッツリ途切れている。

 

次に目を開けたとき、あたしは布団に寝かされていた。

 

頭の中が熱く、舌の奥でまだ血の味がする。

 

滲んでいた視界が輪郭を取り戻すと、こちらを覗き込んでくるシンジと目が合った。

 

「アスカ…アスカ…」

 

バカみたいに繰り返しながら、なんか泣き笑いを浮かべている。

 

「なによ、そんな顔して…」

 

喋って身体を起こそうとして、力が入らない。

 

全身がひどく怠い。

 

いや、そもそも喋れたのだろうか?

 

なにか、とても曖昧だ。

 

自分の身体なのに…。

 

シンジの手があたしの首に廻ってきた気配。

 

視線がゆっくりと持ち上がる。

 

ぼんやりとシンジを見つめる。

 

喉がヒリヒリする。口の中も乾いている。

 

「ほら、アスカ、水だよ…」

 

口元に冷たい感触。

 

唇の先端から冷たさが喉の奥へと流れていく。

 

感触が身体の奥へと滑り込んで行く。

 

直後、激しくむせた。

 

違和感のあった身体から瞬間的に主導権を取り戻し、あたしは口元に手をあて、咳き込む。

 

苦しさに背を丸める。

 

涙が染みる。

 

目を開けた。

 

赤い感触。

 

震える声が出た。

 

「…シンジ…」

 

どう言葉を続ければいいのだろう。

 

どう言葉にすればいいんだろう。

 

…それに直面したとき、それを自覚したとき、言葉なんて無力なものだ。

 

やはり、ずっと前からあたしは知っていたのかも知れない。

 

泣き叫ぶように騒ぎ立て血にまみれた手を拭くシンジを眺めながら、あたしは脳裏でその事実を静かに、平然と受け止めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたしはもうすぐ死ぬのだということを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予感がなかった、といえば嘘になる。

 

今思えば、常に感じていた焦燥感。

 

まるで、バベルの塔が積み上げられていくような充足も。

 

あるいは、蝉が鳴き続けるのにも似て。

 

遠くない未来に確実な破滅が訪ずれることを悟りながら、それでも信じたくなくて。

 

ただ、幸せな時間を作りたかった。それに浸っていたかった。

 

ううん、やっぱりそれも少し違っていて…。

 

考えるのにも疲れたあたしは、背中の枕に体重を預けた。

 

相変わらず続く微熱。全身の倦怠感。

 

それでも今日はずいぶんと調子が良い。頭も少しはっきりしている。

 

でも、これ以上回復することはないだろう。

 

小康状態だ。

 

少しずつ、あたしの身体は衰弱していく。

 

まるで他人事のようにあたしはそう分析している。

 

お腹の上を右手で撫でた。

 

痛みも感覚はないけど、そこはとてつもないダメージを負った箇所。

 

外見からも判明しない傷は、知覚しなかった傷は、じわじわとあたしを痛めつけていたのだ。

 

少なくとも、あたしたちに治療できないことはだけは確か。

 

…こんな世界で理不尽だなんて、今更思わない。

 

あたしたちは無力だった。

 

やっぱりあたしたちは子供だった。

 

今更ながら、記念碑のようにあたしはそのことを意識していた。

 

いくら肌を重ねたところで、あたしたちはちっぽけな子供だったのだ。

 

誰も人類がいなくなっても、残された世界に生かされる矮小な存在。

 

人にすがらずには生きていけない悲しい二人。

 

…あるいはこれは敗北宣言?

 

あたしたちは、生きることに失敗したのだろうか?

 

…いや、負けちゃいない。

 

少なくとも、あたしは負けない。負けてやらない。

 

そう心に決め、甲斐甲斐しく世話を焼き、あたしにスプーンを差し出してくるシンジに微笑む。

 

口の中に広がった温もりは、お粥なのかスープなのかすら判然としない。

 

吐きそうになるのを無理矢理飲み下す。

 

二口が限界だった。

 

後かたづけをしながらも、心配そうにこちらを振り返るシンジを見て、なにか悲しくなった。

 

あたしがいなくなった時、コイツはどうするのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不意に怒りが沸いてきた。

 

怒りの対象は、いまやシンジを通り越して、もっと目に見えないものへと向けられている。

 

一体あたしたちが何をしたの?

 

どうして一緒にいられないの?

 

せっかく世界が素敵なものに見えてきたのに。

 

これは罰なの?

 

じゃあ、何の罰?

 

あたしたちが肉欲に溺れた罰だとでもいうの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

食いしばる歯にすらもう力がない。

 

こぼす涙にも勢いがない。

 

決意は簡単に決壊した。

 

怒りの対象が繰り下がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジを怒鳴りつけた。

 

 

 

 

 

もう優しくしないで!

 

もう触らないで!

 

もう放っておいて!!

 

 

 

 

 

驚くシンジから視線を逸らした。

 

心の中で悲鳴があがる。

 

あたしの心が悲鳴をあげる。

 

そんな目で見ないでそんな目で見ないで。

 

頭に血が昇る。

 

違う回路が繋がる。

 

昔の怒りが再燃する。

 

燃えたぎった怒りがはじけ飛ぶ。

 

シンジを見つめ怒りを吐く。

 

ただ闇雲にぶつける。

 

 

 

 

 

 

 

 

全部、全部、アンタが悪いのよ!!

 

アンタが、こんなみょうちくりんな世界をつくって!!

 

アンタが、あたしを無理矢理犯して!!

 

 

 

 

 

 

 

 

唖然とするシンジに、更に言葉は止まらない。

 

 

 

 

 

 

アンタが、あたしを抱いたから!!

 

アンタが、あたしを女にしたから!!

 

アンタが、ご飯を探してくるから!!

 

アンタが、優しくしてくれるから!!

 

アンタが、アンタが、アンタが……!!!!

 

 

 

 

 

 

アンタはあたしを破壊した。

 

惣流・アスカ・ラングレーの甲冑を破壊した。

 

強い部分を破壊した。

 

 

 

 

 

だから、もうこれ以上、やめて、お願い!!

 

あたしはそんなに強くないのよ、本当は!!!

 

もう、恨んでいないから優しくしないで!!

 

許してあげるから触らないで!!

 

思いだしたくないの、楽しい時間は!!

 

でないと、あたしは、きっと…!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

受け入れない。受け入れられない。

 

あたしが死ぬ?

 

どうして死ななきゃならないの!?

 

ねえ、なんとかいってよ、なんとかしてよ、誰か教えて!!

 

嫌だよ、

 

死にたくないよ…。

 

もっと一緒にいたいよ、

 

一人は嫌、

 

死ぬのは嫌、

 

一人だけ死ぬのはもっと嫌!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

喚きたい。

 

シンジにすがって泣き叫びたい。

 

そのまま抱きしめられたい。

 

全身を砕かれるほど抱きしめて―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

殺してもらっても構わない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なのに、身を投げ出す力すら残っちゃいない。

 

だから、シンジの手を強く握る。

 

強く握り返してくる気配。

 

もっと力を込めた。

 

手から伝わってきた力で心臓が握りつぶされることを願って。

 

優しく優しく握り返された。

 

言葉が、心が伝わって来た。

 

大丈夫、僕はここにいるよ、と。

 

震える言葉は泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたしも泣き疲れ、眠りにつく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたしの容態が急変して、どれくらいの日が過ぎたのだろう?

 

最近瞼を閉じるのが怖い。

 

そのまま二度と目覚められないような気がして。

 

ひょっとしたら、あたしは既に死んでいるのかも知れない。

 

「アスカ、今日の具合はどう?」

 

疑う正気は、シンジの声で実体を取り戻す。

 

シンジがいるなら、これは現実。

 

紙のような思考の間にシンジの声を挟むように、ただ、日々を過ごしている。

 

薄く薄く、丹念に。

 

過ぎゆく日々は、ジュースをちょっとずつ水で割っていくのに近い。

 

やがてその比率は逆転し、薄い、かぎりなく水に近いものだけが残されるだろう。

 

でも、あたしの存在したことは、決して失われない。

 

コイツが覚えていてくれる限りは。

 

コイツが生きていてくれる限りは。

 

傍らで、あたしの手を握ったまま疲れ果て眠るシンジ。

 

この温もりの為だけに、残された全ての時間を使おうとあたしは決めた。

 

あたしがいなくなった後も、シンジが生きてくれるように。

 

そう思える自分が少しだけ可笑しく、照れくさかった。

 

実際にできないので、頭の中で肩をすくめる。

 

…そう、あの時、あたしは死んでいたのだ。

 

エヴァ弐号機と量産機との戦いで。

 

だから、今までの日々は、そう、お釣りみたいなもの。

 

死は、怖い。

 

でも、いずれ誰にでも訪れるもの。

 

感情を排さないと収拾がつかなくなるので、無理矢理そう決めて固定した。

 

揺らぐ意志を支えるのは、ちっぽけなあたしのプライド。

 

傲岸不遜で、意地っ張りな、でもあたしを支え続けてくれた源。

 

でも、こんなものでシンジが生き続けてくれるのなら、少しは価値があるのかも知れない。

 

もしかしたら、あたしは、少しだけ自分を好きになれるかも知れない。

 

きっと、最後の最後のその時に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       ねえ、ママ

 

            そこにいるの?

 

そこで待っているの?

 

 

 

 

     じゃあ いいじゃない

 

 

 

あたしもそこへ行く

 

だって ママが待っているんだもの

 

 

だから いくね

 

いいよね…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           …よくない!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞼を開ける。

 

気持ち悪い夢を見たのに跳ね起きられないのは、もっと気持ち悪い。

 

不思議な発見と感覚も、たちまち全身を満たす怠さの波に飲まれて消えた。

 

後には、感覚すらままならないあたしだけが取り残されている。

 

まるで浜辺に打ち上げられた貝みたいだ。

 

全身に汗が滲んでいる感触を不快に思えるほど、あたしには体力が残されていなかった。

 

いや、夢から立ち返るのに、全力を使ってしまったといったほうが正確かも知れない。

 

ならば、あたしに残された時間はもう…。

 

あたしの気持ちを代弁するように、隣のシンジが跳ね起きる。

 

「アスカ、大丈夫、アスカ…?」

 

もし、心配するコイツの声で身体が癒えるとしたら、あたしはきっと100万回くらい生き返っていたことだろう。

 

右手に意識を集中する。

 

感覚が無くて全身が冷えたような気がする中、そこだけは確かに温かかった。

 

ずっと、握っていてくれた。

 

昼夜問わず、あたしの傍らで。一時も手を離すことはなく。

 

この温もりが、まだ辛うじてあたしを肉体に繋ぎ留めているのだと思う。

 

でも、離れるのは時間の問題だ。

 

いくらシンジがあたしの掌を温めてくれたとしても、もうあたしには留まる力がない。

 

…いっそ、シンジも一緒に連れていってしまいたい。

 

でも、それはあたしの望むことではなくて。

 

相反する思考の奔流。

 

おそらく、最後の意志の迸り。残光と飛沫(ひまつ)…。

 

そこまで廻る頭を面白がれる余裕があるのがその証拠。

 

だから…最後の機会だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ずいぶんとうなされていたみたいだけど…」

 

口を開くのも辛いので、軽く頷き微笑んでみせた…と思う。

 

あたしの顔はどう見えているのだろう?

 

でも、シンジは泣き笑いの表情を浮かべるだけ。

 

ゆっくりとゴツゴツになった細い指が目前に映った。

 

シンジの指が、おそるおそるあたしの額に触れようとする。

 

ちょっとだけ離れて、結局震える感触があたしの前髪の生え際あたりをくすぐる。

 

どうやら四肢の感覚と引き替えに、頭の感覚だけは残っているよう。

 

血液が頭に行き渡っているから、思考もきっとクリアなんだ。

 

「ねえ、シンジ…?」

 

か細い声が出た。自分でも信じられないくらいガサガサの声。

 

これが今のあたし。悔やむ気持ちも名残を惜しむ気持ちもない。

 

あたしはあたし。

 

惣流アスカ・ラングレーだ。

 

そうやって叱咤し、震い立たせないと、今にも意識は落ちていきそう。

 

暗い暗い、冷たい泥の中へ。

 

「…誰か、還ってきた?」

 

シンジはゆっくりと悲しそうに首を振った。

 

今更、他の人類が還ってきたって、あたしの身体が治るなんて楽観しちゃいない。

 

これは繰り返す儀式みたいなもの。

 

でも、そうあたしが願っているのは本当。

 

せめて還ってきた人たちにシンジを託したかった。

 

だから。

 

「ねえ、約束して。あたしが死んでも、一人で生きるって。みんなが還ってくるまで一人で生き抜くって…」

 

これだけいうのにも時間がかかったと思う。

 

時間は貴重だという意識はあるんだけど、曖昧さが意味を駆逐していく。

 

一緒にあたしが貴重だと思うものまで。

 

それが悔しくて、あたしはシンジに更に訴える。

 

「でなきゃ、あたしはアンタのこと、一生許してやらないんだから…」

 

「…うん、分かったよ、アスカ。だから、死ぬなんていわないでよ…」

 

笑顔で答えたシンジの顔が、地滑りみたいに泣き顔に変わる。

 

何回繰り返したか分からない問い掛け。返答。

 

 

 

 

ねえ、アンタ、本当に分かっているの?

 

真剣なのに笑うあたし。

 

 

 

でも、ダメだ。コイツは連れて行かない。

 

寂しがり、叫ぶあたし。

 

 

 

もう、どうしようもないわね、コレは。好きにさせれば?

 

泣きじゃくり、醒めたあたし。

 

 

 

 

渦巻いた意識の中から、最後のあたしが唇を動かす。

 

残酷で、この上なく優しいあたしが。

 

 

 

 

 

 

そしてもう、この言葉を留める力は今のあたしに残っちゃいない。

 

 

 

 

 

…違う。

 

チガウ。

 

ちがうよ…。

 

 

これもあたしの言葉。

 

ううん、きっと、あたしが一番伝えたかった言葉。

 

涙がこぼれた。

 

嬉しくて、悲しくて涙がこぼれた。

 

決めたのに。

 

あたしのプライドに賭けて決めたのに。

 

きっと揺らがせてしまう。

 

分かっているのに、

 

知っているのに、

 

あたしは、

 

今、この上なく残酷なことを言おうとしている。

 

あまりにも醜い言葉を唇から紡ごうとしている。

 

 

 

 

一度目は、空気をうまく伝わらなかった。

 

 

 

あたしの様子に気づいたらしく、シンジは耳を近づけてくる。

 

二度目の言葉は伝わった。

 

 

 

 

 

「シンジ…あたしのことが好き?」

 

 

 

 

顔を近づけたまま、シンジは答えた。涙で頬を濡らしたまま。

 

 

 

 

 

 

「うん、僕もアスカのことが好きだよ…」

 

 

 

 

笑う。

 

『僕は』じゃなくて『僕も』

 

これがコイツの精一杯。

 

精一杯の誠意。格好の付け方。

 

 

 

 

知っていた。

 

知っていたから、あたしは次の言葉を紡ぐ。

 

 

 

 

 

「バカね、アンタは…。そんなこと分かってるんだから」

 

 

 

 

 

 

分かっていた。

 

アイツが困ったような顔になるのも。

 

 

 

 

分かっていた。

 

分かっていたから、あたしは呪いの言葉を紡ぐ。

 

 

 

 

 

精一杯微笑んで。

 

これがあたしの精一杯。

 

あまりに醜いあたしの心。

 

醜すぎるあたしの本心。

 

最後だから、

 

最後だから、

 

最後だから…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あたしは、アンタのことを愛している…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、醜くて

 

 

醜くて

 

 

あたしの心はこんなにも醜くて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

残酷で

 

 

この上なく残酷に

 

 

あたしはシンジの心にくさびを打ち込んでいる

 

 

水晶のような色で

 

 

永遠に消えないような傷を

 

 

泣きながら

 

 

心を痛めながら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なのに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

口から飛び出した響きは信じられないほど美しくて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛してる

 

 

ずっと側にいてくれて

 

 

 

 

思い出す。まだ平和だった日々。

 

互いの感情すらままならず、それでも一緒に暮らして学校に通った季節。

 

 

 

 

 

 

愛してる

 

 

ずっとあたしを守ってくれて

 

 

 

思い出す。二人だけの壊れた世界での日々。

 

一生懸命あたしだけを見ていてくれた、子犬みたいなシンジの目。

 

 

 

 

 

 

愛してる

 

 

いつからだろう?

 

 

 

愛してる

 

 

口にすることなんか一生ないと思ってた

 

 

 

愛してる

 

 

好きより上でしょ?

 

 

 

恥ずかしくなんかないわよ

 

 

恥ずかしがらずに

 

 

もっといっておけばよかった

 

 

ありがとうなんてありふれたものより

 

 

ねえ

 

 

こっちのほうがいいわよね?

 

 

 

なんとかいいなさいよバカシンジ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

微笑んで

 

 

 

あたしはお願いじゃなくて命令する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、キスしてよ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泣きながらシンジはキスをしてくれた。

 

塩辛い味。

 

冷たい頬があたしの顔に擦りつけられる。

 

震える指が、激しくあたしの頭を撫でてくる。

 

乱暴で、とろけそうなほど優しい愛撫。

 

「アスカアスカアスカアスカ…!!」

 

幾度となく顔を流れていく温もり。

 

流れては消えていく温もり。

 

そして遠ざかる言葉。

 

沈んでいくような感覚の中、悲しく笑う。

 

本当に、あたしは、この温もりだけは失いたくなかったのだ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、すべてが暗かった。

 

ぼんやりと、あたしは浮かんでいる。

 

どこに。

 

どこへ?

 

細い吐息が、頭の奥を、

 

ああ、

 

あたしはまだ生きているん…だあ…

 

あの丸いヒカリは、

 

ヒカリはきっとお月さまで、

 

シンジは、

 

どこ? どこに?

 

 

 

 

 

 

ねえ、シンジ

 

ねえ、シンジ

 

ねえってば…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静かだ、なにも聞こえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジったら どこへいったんだろ

 

最後の最後に側にいてくれないなんて

 

やっぱりアンタって ばかよね…

 

 

 

 

 

 

 

悲しい

 

くやしい

 

 

 

 

 

 

 

きっとアイツも自分の死に場所を探しにいったにちがいない

 

 

あんなにやくそくしたのに

 

 

あんなにおねがいしたのに

 

 

 

かなしい

 

かなしい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そばにいてやれない

 

もういっしょにいられない

 

ごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめん…ね…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたしも   もう   つかれたの

 

 

 

 

 

だ か  ら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう ねむる  ね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        さよなら シンジ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さ よ な      ら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さ    よ       な                ら…

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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…アンタは全部知ってたんでしょ?

 

もしくは全部アンタの仕業よね?

 

あたしたち二人だけと思った世界は、全部造りものか何かだったんでしょ?

 

…本当は、あたしもシンジも死んじゃってたりしてたんでしょ、ねえ?

 

考えてみれば変な世界だったもの。電気も水道も止まってなくてさ。

 

…ううん、ありがとう。

 

お礼をいうわ。

 

だって…色々あったけど、それなりに…嬉しかったしさ。恥ずかしくて照れくさい方が多かったけど。

 

だから、そんな悲しそうな顔しないでよ。

 

 

 

 

…え? 

 

 

違うの?

 

 

だって、

 

 

じゃあ、

 

 

 

 

何泣いているのよ、ファースト…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この醜くも美しい世界5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うっすらと瞼を開けた。

 

白い天井が眩しい。

 

思わず目を細めていると、仄かな臭いが鼻をつく。

 

…消毒薬の臭い…?

 

頭が酷く重い。

 

息を吸う。吐く。

 

痛くない。苦しくない。

 

…え?

 

ここはどこ…?

 

重い両手を目前に持ってくる。

 

まるで鉛が入ったように重い両手は、右手から腕に白い疵痕が残っていて…。

 

……ない!?

 

傷が、ない!?

 

……

 

 

まさか、左目も…?

 

そういえば、視界も滲んでいなくて。

 

おそるおそる上体を起こす。

 

右手をついて身体を持ち上げても、全然痛みはなかった。

 

あたしは、なんか前開きの検査着みたいなのを着せられていて。

 

薄い布越しにお腹に触れてみた。

 

やっぱり、痛みも何もない。

 

ゆっくりと周囲を見回して、エアコンの室外機の稼働音と共に、あたしは蝉の鳴き声に気づいた。

 

白い部屋。

 

何かの機械まで規則正しい電子音を立てていた。

 

病院…病室…。

 

染み一つない清潔そうなシーツ。

 

壁の無個性な時計はもうすぐ12時をさそうとしている。

 

あれ…、今日は何日で…?

 

穏やかだった胸がざわつく。

 

ざわつきはどんどん大きくなる。

 

なんだろう。

 

思いださなきゃ。

 

 

 

まずあたしの名前…惣流アスカ・ラングレー。

 

これはよし。

 

 

 

ここはどこ…?

 

分からない。

 

 

 

今日は何月何日?

 

分からない。

 

 

 

あたしは一体何をやってる?

 

分かるわけがない。

 

 

 

「ねえ、どうなっているの? 教えてよ、バカシン…」

 

…ジ! と言葉を継ぎそうになり、あたしは息を止める。

 

ああ、アイツは一体どこに…!!

 

それにあたしは、

 

あたしは生きている…?

 

両頬に触れた。

 

ひやりとした感触とともに、仄かに温かさが伝わってきた。

 

なのに動悸が少しづつ速くなる。

 

胸を押さえつけ、細く息をつく。

 

冷静になれ、と落ち着かせようとする自分。

 

動き出せと急き立てる自分。

 

埋めようと、あたしの中の何かが叫んでいる。

 

何を埋めるというの?

 

現実を?

 

夢を?

 

今見ているものは?

 

前に見てきたものは?

 

あたし自身が加速する。

 

過去に向かって加速した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、強烈すぎるフラッシュバック。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白い悪魔が 

 

           あたしを 

 

       シンジが 

 

                 無理矢理

 

     優しく 

 

           壊して 

 

  楽しく

 

                     悲しく 

 

 

 

さよなら

 

     さよなら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            愛してる…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲鳴が迸る。

 

奥歯を食いしばる。

 

飲み込む。

 

吐き出す。

 

叫ぶ、

 

叫ぶ、

 

叫ぶ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シンジっ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲を見回す。

 

ベッドから転げ落ちた。

 

痛みで、一瞬だけ頭が冷えて、更に加熱した。

 

「シンジっ!! どこ行ったの!?」

 

冷たい床を這う。

 

大声で叫ぶ。

 

だって、

 

アイツは、

 

あたしが生きているんだから、

 

アイツも生きて…っ!!

 

 

窓枠に寄りかかる。

 

足腰に力が入らない。

 

それでも震える足で立つ。

 

立ちながら、叫び続ける。

 

 

 

 

 

 

人の気配におののく。

 

しかも複数の人の気配が迫ってくる。

 

身構える。

 

病室のドアが開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスカぁっ!!」

 

 

 

 

 

期待した声は、別人のもので。

 

でも、その別人はよく知っていて。

 

…どうして、ここにいるの?

 

驚きとともに、呟きが口を出る。

 

 

 

「…ミサト…?」

 

 

 

涙で顔をグシャグシャにしながら、ミサトはあたしを抱きしめた。

 

温もり、匂い。

 

懐かしい。

 

とても懐かしく感じる。

 

ミサトの肩越しに人の群れを見た。

 

知っている顔もあれば、見たこともない顔も多い。

 

必死で探す。

 

でも、いない。

 

あたしが、一番欲しい顔が、いない。

 

「ねえっ、ミサト! シンジは、シンジはどこにいるのっ!?」

 

抱きしめられたまま、叫ぶ。

 

精一杯、訊ねる。

 

なのに、ミサトは答えない。人の群れも答えない。

 

みなが薄ら笑いを浮かべている。

 

 

…不意に、気味が悪くなった。

 

まるで、造りものみたいだ。

 

造りもの…偽物?

 

 

 

ミサトらしきものから身体をもぎ離す。

 

「アンタたち…誰よっ…!?」

 

声が震える。

 

世界には、あたしとシンジしかいなくて。

 

シンジとあたしだけの世界で。

 

だったら、この人間は偽物だ。

 

夢に出てくる人形だ。

 

 

 

 

「落ち着いて、アスカっ!」

 

ミサトの声。

 

違う、ミサトに似た声。

 

ミサトと違う声。

 

 

 

「うるさいっ!! シンジはどこよっ!!」

 

なにか涙がにじむ。

 

…ほら、答えが返ってこない。

 

偽物よ。

 

みんな偽物。

 

じゃなかったら、夢よ。

 

夢。

 

早くを目を覚まさなきゃ。

 

シンジにおはようっていわなきゃ。

 

…え?

 

でも、あたしは死んで…?

 

生きてる、今が夢だったら?

 

夢から覚めたら…死ぬ?

 

 

 

手近にあった椅子を掴む。

 

振り回す。

 

重い。

 

よろめきながら窓ガラスにぶち当てる。

 

耳が裂けるような音に、手応え。

 

遠巻きにする人形の群れの前で、あたしはガラスの破片へと手を伸ばす。

 

痛みを。

 

夢から覚めるような痛みと、今を切り裂く力を欲して。

 

ほっぺたが弾けた。

 

ミサトによく似た人形が、すぐ近くまで来てあたしのほっぺたを打ち据えている。

 

反対側ももう一度。

 

痛い。でも、全然心に響かない痛み。

 

やっぱり、これは夢だ。

 

ずいぶんと深い眠り。

 

嗤う。

 

声に出して嗤う。

 

ミサトもどきが泣いている。

 

それもまた可笑しくて、嗤う。

 

だって、夢なんだもの。

 

シンジがいないから、夢。

 

そうでしょ?

 

隣で寝てるんなら、早く起こしてよ、バカシンジ!!

 

 

 

 

胸倉を掴んでも、いくらそんな怖い顔してもダメよ、偽ミサト。

 

あたしが目を覚ませば、アンタたちはみんな消えるのよ、ねえ?

 

現実は、あたしとシンジの二人きり。

 

寂しくて、それでもちょっとは楽しいのよ、羨ましいでしょ?

 

 

 

 

 

「アスカ…みんな還ってきたのよ、赤い海から」

 

 

 

 

 

 

 

悲しそうな声。

 

でも心に響かない。

 

夢だから。

 

そう望んでいたのは事実。

 

早くみんな還ってくればいいって。

 

だけど、間に合わなかったのよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたの身体はね、衰弱しきってたわ。すぐに病院に運び込んでから、一週間眠りっぱなしだったのよ…」

 

 

 

 

 

 

何を言ってるんだか。

 

今も夢を見ているんだから、眠りっぱなしなのは当たり前よ。

 

前髪をかき上げ、あたしはクスクスと笑う。

 

 

 

 

 

 

「外傷も内臓にも特に損傷はないわ」

 

 

 

 

 

ほら、夢だっていう証拠が出たわよ。

 

だって、あたしの疵痕がなくなっているもの。

 

現実のあたしは血を吐いたのに。

 

今はどこも痛くも苦しくもない。

 

そんなハズないのに。

 

ねえ。

 

だから夢なんでしょ?

 

あたしは泣きながら笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「喜んで。お腹の子供も無事よ…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………子供?

 

無意識で、あたしはお腹に両手を当てている。

 

子供?

 

あたしの中に子供?

 

笑う。

 

じゃあ、相手はシンジしかいないじゃない。

 

可笑しいね、シンジ。

 

あたしたち、子供だと思ってたのに、子供作っちゃったのよ?

 

ねえ、可笑しいわよね、シンジ?

 

可笑しいわよね……

 

 

…シンジ?

 

シンジ!?

 

どこにいるのよ!!

 

早く目を覚まさせてよ!!

 

一人じゃ嫌なの、側にいてよ!!

 

ほら、子供も出来て、あんたは父親で、可笑しいでしょ!?

 

笑って、

 

笑って、

 

でも夢で、

 

だったら子供もいなくて、

 

悲しくて、

 

嫌、嫌、嫌、嫌、

 

どれが夢でどれが本当で、

 

教えてよ、あたしには分からない

 

教えてよ、シンジぃ……!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

腰が砕けた。

 

身体が地面に引かれていく。

 

迫る床は、キラキラしていてとても綺麗だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…アスカ、落ち着いた?」

 

隣から声。

 

久しぶりに聞く、シンジ以外の人の声。

 

あたしは答えずぼんやりと天井を見上げている。

 

薄暗い天井にはオレンジ色の小さな電球。

 

ベッドに備え付けの蛍光灯の光がそれをかき消すように明るい。

 

「ごめんね。もう少しゆっくり時間をおいて説明するべきだったんだけど…」

 

右手に温もり。

 

シンジと違う手触り。

 

振り払おうと思ったけど、好きにさせておいた。

 

ますます強く握ってくる手応えに、少しだけ気持ちが良くなる。

 

それでも、気分の不快さはとても言葉にできない。

 

舌の奥がずっと苦い。

 

目を覚まして、ついさっきまで吐き続けていたのだから、当然といえば当然だけど。

 

「シンジはどこ…?」

 

苦みと声を吐き出す。

 

もう、何回同じ質問をしただろう?

 

返答は、やっぱりない。

 

首だけ動かした。

 

背中に影を背負って、心配そうに見ているミサトがいる。

 

…このミサトは本物だ。

 

意識が戻ってから幾日も経て、ようやくあたしも認める気になっていた。

 

この世界は、つまりは全人類が還ってきた世界。

 

どういうわけか、あたしの傷は癒えていて。

 

左手は気がつくとお腹に当てていた。

 

ここに子供がいるなんて、実感は全然ないのに。

 

「シンジはどこ…?」

 

ミサトの目を見つめ、もう一度訊く。

 

「…アスカ、本当にシンジくんのこと好きになったのね…」

 

微笑みながら、あたしの期待した答えじゃない言葉を返してくるミサト。

 

「好きなんかじゃないわよ、あんなヤツ…」

 

反射的に口をついていた。

 

だってそうよ。

 

あたしがここにいるのに。

 

いっつも、肝心なところで側にいてくれなくて。

 

そのくせに、嫌になるくらい優しくしてくれてさ…。

 

とても、好きなんて言葉じゃ足りないくらいにあたしの心を捕らえていたバカ。

 

ハンカチを握ったミサトの手が近づいてきた。

 

「泣かないで、アスカ…」

 

自分でもいつ流したか分からない涙を勝手に拭かせながら、あたしはまた質問する。

 

「シンジはどこ…?」

 

同じことばかりでバカみたいだ。

 

でも、答えてくれないミサトはもっとバカだ…!

 

「シンジくんとの子供なんでしょ?」

 

また、あたしの知りたい返答じゃない。しかも質問で切り返してきた。

 

「…そうよ」

 

それでも、すぐに答えたと思う。

 

あの世界とこの世界が繋がっていなければ、そもそも子供が出来るはずはない。

 

あたしにとってシンジは、その、初めての相手だ。そしてシンジしか知らない。

 

しかし、それはそれで、決定的な矛盾が生じる。

 

傷みきったあたしの身体が受胎していたという事実。

 

あたしの傷が癒えているという現実。

 

未だ非現実感がつきまとう。

 

左手を伸ばし、ミサトのほっぺたを引っ張る。

 

「アスカ…?」

 

首を捻るミサトに構わず、思い切り引っ張って、離した。

 

「イッタイわよ…!!」

 

涙目で訴えてくるミサトを見つめる。

 

「…やっぱり本物のミサトだぁ…」

 

「…当ったり前でしょ!?」

 

ほっぺたをさするミサトを横目に、あたしは仰向けになる。

 

少しだけ可笑しくなった。

 

「ねえ、ミサト。教えて。どうやって還ってきたの?」

 

仰向けのまま訊ねる。

 

隣で息を呑む気配がしたけれど、ずっと天井を見上げていた。

 

返事がないので、もう一度訊ねる。

 

「いいから教えて。もう暴れたりしないから。約束する」

 

全然自信はなかったけど、そういってやった。

 

隣で、ミサトが微かに動く気配。

 

しばらくワサワサと動く気配がして、あたしがいい加減飽きてきたころ、ポツリとミサトはいった。

 

「気がついたら、浜辺に寝ていたわ。…素っ裸でね」

 

声に少し笑いが混じる。

 

「でね、辺りを見回すと、他にも一緒に浜辺に寝ている人たちがいてね…」

 

あたしも想像する。俯瞰で眺めたりしたら、あまり気持ちの良い光景ではないかも知れない。

 

馬鹿な考えを振り払っていると、次にミサトが口にしたのは質問だった。

 

「その時、わたしは何のことを考えていたと思う?」

 

…まさか、あたしと同じで気持ち悪いとか考えていたのだろうか?

 

ミサトならありえるかも…と言いよどんでいると、ミサトはあっりと答えをいった。

 

「あなたのことよ、アスカ」

 

「……え?」

 

「わたしだけじゃない。たぶん、あの時、浜辺にいた全員が、アスカのことを考えていたわよ」

 

「……」

 

意味が分からない。ある意味、気持ち悪い。

 

なんで、還ってきたみんなが、あたしのことを考えるの…?

 

「…どうしてなの、ミサト?」

 

たっぷり一分くらい考え込んで、ミサトの方を向いてそう訊いた。

 

ミサトはやはり微笑んでいるだけで。

 

夜の静かさも相まって、錯覚に襲われる。

 

話し相手がミサトじゃなくてシンジであるかの錯覚に。

 

世界に、二人だけしかいなかった頃の幻影。

 

幻のシンジが動いた。

 

「わたしも、巧く説明できる自信はないから…」

 

声はミサトのもので、差し出された手もやはりミサトのものだった。

 

手の上には、束ねられた紙。

 

なにこれ、レポート用紙…?

 

首を捻りながら受け取るあたし。

 

そうしてから、ミサトに手伝ってもらって、ベッドに上体を起こす。

 

蛍光灯の明かりを調整してもらい、ページをめくる。

 

「還ってきた学生の一人がこれを書いたの。アスカに読んで貰いたいって置いていったわ」

 

途端にあたしは脱力した。そんなラブレターなんか、読みたくない。

 

めくる手を止めている間も、ミサトの声は続いていた。

 

「これを読んでもらえば、分かると思う。シンジくんがどこへ行ったのかもね…」

 

反射的に手元から顔上げ、ミサトの顔を見てしまう。

 

思わず睨むと、ミサトは苦笑する。

 

「本当は、もっとあなたが落ち着いてからのほうがいいと思ったのよ…」

 

それ以上耳を貸さず、あたしは貪るようにレポート用紙を読み進めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

---------------------------------

 

 

 

 

 

 

 

僕は幸せだった。

 

可愛くて、気だての良い彼女。

 

成績は優秀で、スポーツも陸上なら誰にも負けない。

 

父さんも出世して、新車を買った。

 

母さんも、新しくて広い家で嬉しそう。

 

僕は満ち足りていた。

 

学校生活も充実していた。

 

みな親切で、僕のことを悪くいう人もいない。

 

むしろ僕は注目の的だった。

 

誰もがあこがれる存在だった。

 

僕は毎日が楽しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

なのに。

 

ある日気づく。

 

僕の完璧な生活への闖入者。

 

僕の生活をひっかくような目障りな存在。

 

学生服を着た少年。僕より年下の痩せぎすの少年。

 

年齢からして中学生だろうか?

 

僕の行く先々に、彼が姿を見せるようになった。

 

無視していた。

 

だって、僕は幸せなのだから。完璧な幸せの中にいるのだから。

 

だけど。

 

まるで目の中のゴミみたいに気に障る。

 

彼はいつも僕の見る先にいるのだ。

 

勉強している時は校庭の隅から。

 

デートしているときはビルの壁の影。

 

部屋でくつろいでいるときは家の前の道路から。

 

 

 

 

 

ある日、僕はとうとうその少年に近づいた。

 

 

 

“何をやっているんだ、キミは? 目障りなんだよ、ストーカーか何かか!?”

 

 

少年は、驚くべき事に微笑んだ。

 

 

 

“良かった、気づいてくれて。僕のほうからはこれ以上近づけなくて…”

 

 

 

彼は、それはもう、心の底から喜んでいるように見えた。

 

だけど、その時の僕は、それに気づくことがなかった。ただ怒鳴りつけた。

 

 

 

“何わけわかんないこといってるんだよ!? これ以上つきまとわないでくれ、気持ちが悪い!!”

 

 

 

やおら少年は表情を変えた。

 

 

 

“お願いします! 彼女を、アスカを助けてください!”

 

 

 

“彼女? アスカ? 何いってるんだ、キミは!?”

 

 

 

“…時間がないので、率直にいいます。いま、あなたのいる世界は夢みたいなものなんです”

 

 

 

“…はあ?”

 

 

 

訝しがる僕に、少年は怯まない。

 

 

 

“この世界は、えーと、一つになった人類のそれぞれが勝手に見ている理想の夢みたいなものなんです。

 人類が一つになったことについては、ちょっと色々長くて説明できないんですけど…。

 でも、これは夢なんです。現実の世界はまだ続いていて、そこにはアスカが…”

 

 

 

意味が分からない。この世界が夢だって?

 

この幸せな世界が夢だって? ふざけるな!!

 

 

 

“これは、現実だよ。キミは頭がおかしいんじゃないか?”

 

 

 

はっきりと言ってやった。

 

 

 

“…はい。きっと、あなたにとっては現実だと思うし、ずっと夢を見続けることもできる…でしょう。

 でも、お願いします。どうか目を覚ましてください。現実に戻ってアスカを助けてください。

 お願いします…!!”

 

 

 

頭を下げる少年に背を向けた。

 

バカバカしい、付き合ってはいられない。

 

この幸せが偽物だって?

 

 

 

“お願いします、お願いします、お願いします…!!”

 

 

なのに、少年は足下に縋り付いてきた。

 

邪魔だよ、とばかりに蹴飛ばす。

 

どうして僕の邪魔をする?

 

僕は、誰からも好かれる学校一の優等生なんだぞ?

 

 

 

その時、僕は、何かにピシリと亀裂の入る音を聞いた。

 

否定された。

 

僕の世界を。

 

どうして邪魔をする?

 

誰も僕の邪魔をしないのに。

 

この少年は他人だ。

 

他の、人間だ。

 

 

 

途端に世界は音を立てて崩壊した。

 

 

 

崩れていく背景の中、僕は少年に殴りかかる。

 

 

 

 

“おまえが来たから!

 おまえが余計なこというから!

 他人のおまえが割り込んできたから!

 夢が、僕の理想郷が壊れちまったじゃないか!!”

 

 

 

 

怒鳴りながら殴りつける。

 

泣きながら殴りつける。

 

オモチャを取り上げられた子供のように暴れた。

 

その間、彼は、ひたすら謝罪を繰り返し、僕に殴られていた。

 

 

 

 

 

“これから僕は、どうすればいいんだよ…?”

 

 

 

 

何もない白い空間の中で、僕はぼやく。

 

浮かぶように少年が横たわっていた。

 

血まみれの少年が身体を起こす。

 

唇から血を流しながら、それでも少年は薄く笑った。なお謝罪の言葉をのせて。

 

 

 

“…あなたはきっともうすぐ現実の世界で目覚めると思います。

 勝手にあなたの夢を壊しておいて、本当に申し訳ないんですけど、お願いを聞いて貰えませんか…?”

 

 

 

息をするのも辛そうな声に、僕は渋々頷くしか出来なかった。

 

 

 

“しようがないよ。目覚めてしまったものはしようがない…”

 

 

 

“そういって貰えると、助かります…”

 

 

 

少年は痛々しく笑った。

 

 

 

“あなたが目を覚ました場所から山を下った街の高台の家に、女の子がいます。

 彼女は昔の怪我がもとで、今にも死にそうなんです。

 どうか、彼女を助けてください。僕には治療もなにもできないから…”

 

 

 

 

“…その子の名前が、アスカっていうのかい?”

 

 

 

“はい。僕の一番大切な人です。でも、僕一人では守りきれなかった…”

 

 

 

少年は泣いた。それはとても純粋な涙に見えて、今更ながら僕の心は痛む。

 

 

 

“わかった。引き受けたよ”

 

 

 

僕は医者でもなんでもない。治療なんて出来るわけもない。

 

でも、気がついたら、力強く頷いていた。

 

 

 

“あ、ありがとうございます…!”

 

 

 

そう答えて笑い、少年はまた泣く。

 

 

 

“そ、その悪かったな。そんなに一方的に殴り付けたりして…”

 

 

 

弱々しく立ち上がった少年に、どういうわけか謝る気になった。

 

 

 

“いいんです。もともとは全部僕が悪いんですから…”

 

 

 

 

白い世界が光る。

 

全てがホワイトアウトしていく。

 

ああ、これが目覚める前兆か。

 

なのに、少年の周囲は切り取られたように黒く落ち込んでいく。

 

 

 

“なあ、どうしたんだよ? 一緒に現実世界に還ろう?”

 

 

 

少年は悲しく微笑む。

 

 

 

“僕は、他の人も起こしにいかなきゃいけないんです。

 それが、きっと僕のしなきゃならないことです。 僕にしかできない贖罪なんです。

 そして、そうしないと、アスカが助けられません…”

 

 

 

その答えに、僕は絶句する。

 

 

 

 

“また、殴られるかも知れないよ?

 もしかしたら、殺されるかも知れない。

 いくら夢のなかでも、殴られれば痛いんじゃないのか?”

 

 

 

少年は頷いた。

 

なのに、どうして彼は行くというのだろう?

 

微笑みながら、辛い道を行けるといえるのだろう?

 

 

 

“アスカを、アスカをよろしくお願いします―――”

 

 

 

それが、僕の聞いた少年の最後の言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がつくと、僕は浜辺にいた。

 

見覚えのない場所だった。

 

見回すと、周囲に同じように人が横たわっていて、みんなが上体を起こすところだった。

 

まるでたったいま目を覚ましたみたいに。

 

 

 

 

僕は裸だったけど、構わず立ち上がる。

 

フラフラと砂浜を歩いて辿り着いたのは、砂地に半ば埋もれるようにして停車した一台のスクーターの前だった。

 

ごく自然に僕はそのハンドルに触れていた。

 

きっと、そこには強い想いが込められていたからに違いない。

 

案の定、頭に映像が浮かぶ。

 

 

 

 

 

―――虫の息の少女を前に、決意を固める少年。

 

高台の家を飛び出し、スクーターのキーを捻る。

 

血がでるほど唇を噛みしめ、涙をまき散らしながら少年は疾駆する。

 

彼は自分の無力さを痛感していた。

 

安らかな日々すら少女に与えることが出来なかった。

 

最後まで、自分のことを心配して少女は死のうとしている。

 

無力な自分が許せなかった。

 

彼女のいない世界が耐えがたかった。

 

この世界で少女を愛していた。

 

きっと世界が変わらなくても少女を愛せたと思う。

 

それは、愛するという表現すら生ぬるい温度をもって、少年を駆り立てる。

 

街を抜け、山を登る。

 

息をするのすら忘れ、少年がひた走り目指すのは、命の海。

 

少年の原罪の場所。

 

くねった道を曲がりきれず転んでも立ち上がる。

 

血を流しても、ハンドルを握り続ける。

 

骨を砕かれるより、心が痛いから。

 

明星が輝く頃、少年は命の海へと着く。

 

海へ向かって叫ぶ。

 

あらん限りの力で叫ぶ。

 

みんな還ってきて。

 

お願い、アスカを助けて。

 

海は、答えない。

 

ただ寄せては返すだけ。

 

少年は涙を流して懇願する。

 

お願いです。なんでもしますから。

 

やはり海は答えない。

 

少年は、涙を拭う。

 

そして、命の海に深く分け入る。

 

願う。

 

僕の身はどうなってもいいから、アスカを助けてください。

 

そう祈り、少年は海の中に身を投じる。

 

きっと、アスカは怒るだろうな…。

 

その頬には、微笑が浮かんでいる―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は、勢いよく瞼を開けた。

 

一緒に砂地からスクーターを引き起こす。

 

ついたままのキーを捻る。エンジンが吼える。

 

またがり、アクセルをふかした。

 

まるで呼応するように、浜辺の人たちも立ち上がる。

 

そして、走り出す。

 

先を争うように走り出す。

 

目指すは、山の麓の街。

 

高台の家。

 

走りながら襤褸切れをまとう。

 

走りながら、役に立ちそうなものを探す。

 

瓦礫の街を抜けるころ、一台のトラックが横転していた。

 

皆が示し合わせるように、力を合わせて引き起こす。

 

ごく自然に運転手が乗り込む。

 

優先的に荷台に載せられたのは、きっと医者だ。

 

車がないものは走る。

 

車を見つけて乗り込む。

 

バイクにも乗る。

 

自転車も漕ぐ。

 

みんな、その場所を目指す。

 

少年との約束の場所を。

 

進む。

 

みなが迷わず進む。

 

街へと降りて、高台の家へ。

 

見つける。

 

少女を見つける。

 

月光の丸い光に守られるように、少女はいた。

 

生きてるぞ!!

 

歓声が爆発する。

 

運び出せ。ゆっくりとだ。

 

気がつけば、少女を厳重に搬送するものと、病院に先行するものに分かれている。

 

少女は、まるで壊れ物のように大事に大事に運ばれる。

 

遅れてきたものに、少女が無事だったことを告げてやる。

 

喜び、安堵の表情を浮かべる人々。

 

少年との約束は完全に果たされたわけではない。

 

少女を守らねば。

 

誰もが、誇らしげな自分を抱えて、街に散っていく。

 

彼女を守るため、街が、世界がよみがえっていく。

 

それが、少年の、たった一つの望み―――。

 

 

 

 

 

 

 

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…読み終えたあたしは、ゆっくりと顔上げた。

 

読んでいた決して短くもない間、ミサトは身じろぎもせずこっちを見つめていた。

 

頭を一つ振り、ぼやく。

 

「まったく、あのバカらしいわね。自分の身と引き替えに、あたしを救おうなんてさ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホントにシンジは馬鹿だ。

 

あたしだけ残ってもしようがないじゃない。

 

誰が、世界を元に戻して欲しいってお願いしたのよ?

 

アンタのちっぽけな身体と引き替えにする価値なんかないのに。

 

まったく、単純な計算もできないんだから。

 

あたしが喜ぶわけないでしょ。

 

そもそも、世界が元に戻っても、アンタがいなきゃ、誰があたしのご飯作ってくれるのよ?

 

アンタがいなきゃ、あたしは……!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこまでが限界だった。

 

唇を噛む。

 

レポート用紙に、ポツポツと染みができる。

 

喉の奥から、頭の奥から、全力でせり上がってくるものがある。こみ上げてくるものがある。

 

それを押しとどめる術は、今のあたしには存在しない。

 

「シンジシンジシンジシンジ……!!!」

 

泣きじゃくるあたしを、ミサトは抱きしめてくれた。

 

涙が止まるまで、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…もう、大丈夫よ」

 

ミサトから身体を離して、あたしは鼻をかむ。

 

目は真っ赤だろう、きっと。

 

「ねえ、アスカ。今から出かけない?」

 

涙で濡れた胸元を拭こうともせず、ミサトはそう提案してきた。

 

「…どこに?」

 

「始まりの場所に」

 

真剣な瞳に、悟る。

 

「今も、人が還ってきているのね?」

 

「そう。今、この瞬間もね」

 

それは望むところだった。

 

病院着にミサトのジャケットを借りて羽織って、あたしたちは病室を出た。

 

もう夜遅いはずなのに、病院の中は多くの人が行き交っていた。

 

すれ違うたびに、みんなが足を止め大げさに喜ぶのも、先ほどの手紙のおかげで納得できた。

 

恥ずかしいので、なるべく顔を伏せて歩く。足にまだまだ力が入りにくくてミサトに支えてもらいながらだけどね。

 

病院の駐車場にあった赤いランドクルーザーに乗り込んだ。

 

「前の車は、全部吹っ飛んじゃったからね…」

 

そういって車を発進させてから、後は無言だった。

 

あたしは窓によりかかり、外の景色を眺める。

 

夜で街の様相は変わってみえるけど、幾つか見覚えのある景色があった。

 

何台もの車と行き交う。道を歩いている人もいる。

 

灯りも結構ついていて、近くに高台が見えた。

 

後ろの病院をチラリと見て、それほど距離がなかったことを知る。

 

街を抜け、車のヘッドライトが山へと登る道路を照らす。

 

来たときは気づかなかったけど、かなり曲がりくねった道だ。

 

ろくに灯りもないなか、この中をシンジが駆け上っていったのだろうか?

 

なにか、切ない。

 

窓ガラスにコツンと額を打ち付け、唇を噛む。

 

またわき上がってくる涙をすすり込む。

 

震えながら細く息を吐き、じっと堪えた。

 

月がやたらと眩しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その場所は、真夜中だというのにやたら明るかった。

 

元の第三新東京市の中心部。

 

命の水がたたえられた、母なる海。

 

いつのまにか巨大なファーストの頭はなくなっていて、かわりに広大な水平線が見えた。

 

そのほとりに、トレーラーが幾つも横付けされている。

 

強力なライトがたくさん設置されていて、まるで昼間のようだ。

 

広場の中を何十、いや何百人という人が行き交っている。

 

空間は膨大な想いで守られているよう。

 

優しさ? 善意?

 

そのあまりに圧倒的で純粋な空気の前で、あたしは佇む事しかできなかった。

 

たくさんの人の気配に少し気分が悪くなる。

 

今更ながら人類が還ってきたことを強烈に意識した。

 

でも。

 

「一体、どういう風に人間が還ってくるの…?」

 

「いいから見てなさい」

 

ミサトに促され、ちょっとした丘から海を見つめる。

 

黄金の水面が揺れている。

 

緩やかなリズムを刻む波。

 

 

 

 

…それは、感動的な光景だった。

 

優しく打ち寄せる波。

 

波が引いた後、その場に横たわる裸の人々。

 

それを見つけると、浜辺にいた人たちが先を争うように一斉に駆け寄ってくる。

 

手に持った毛布で茫然としている帰還者を抱え、次々とトレーラーの方まで戻っていくのだ。

 

そしてトレーラーには幾つもの服が用意され、温かい飲み物が振る舞われる。

 

落ち着いた帰還者は、待ち受けていた身内や友人の歓待を受ける。

 

いや、そんなことに関係なく、誰もが抱き合い喜び合っていた。

 

ただ無邪気に。純粋に。

 

世界に復帰したことを喜んでいるのか。

 

他人との再会を喜んでいるのか。

 

それは、あたしには分からなかったけど。

 

 

 

…これが、シンジの望んだ結末なの?

 

ジャケットの前を寄り合わせ、あたしはただその光景に見入っていた。

 

風に乗って響いてくる歓声は、まるであたしを包むよう。

 

ひたすら押し寄せてくる喜びの輪唱。命の賛歌。

 

「これが、シンジくんがあなたに贈るラブソングよ…」

 

背後から、そっとミサトが肩に手をのせてきた。

 

その手にあたしも手を重ねながら、震える声を出す。

 

「なによ、また泣かせる気…?」

 

…そんなラブソングなんか、いらないのに。

 

アンタが側にいてくれれば、それだけでいいのに。

 

ばか、

 

ばか、

 

ばか…。

 

 

 

 

あたしの前に回ってきたミサトは、背を向けたまま言った。

 

「ふと、わたしも思うのよ。もしかしたら、シンジくんはとてつもない罪を犯したんじゃないか、って」

 

「…どういう意味?」

 

涙を拭いながら、あたしは考える。

 

確かに、人類補完計画を発動させてしまったシンジは大罪人と言われるかも知れない。

 

誰よりそれはあたしが承知している。

 

でも、今、ミサトが口にしたニュアンスのとは違う気がする。

 

振り返ってくるミサト。表情は逆光で見えなくなった。

 

「きっと、シンジくんが身を投じて訴えなくても、いずれ人類は還ってきたはず。

 問題は、人類が還ってくる時期よ。

 もしかしたら、人類はもっと遙か未来、文明が滅びて消えてしまった頃に還ってきたかも知れない。

 自然の回復した地球で、人類は、新しくて優しい文明の発展を模索できたかも知れない…」

 

「そんなの勝手な理想論よ」

 

即座にあたしは反論していた。

 

「分かっているわ」

 

ミサトは肩をすくめて、

 

「でもね、アスカ。これだけは覚えておいて。シンジくんは、それだけのことをしたの。人類の可能性を摘み取ってまで。

 ―――あなたのためだけにね」

 

胸に響く。

 

全身が共振する。

 

砕けそうな身体を繋ぎ止めるように、あたしは胸に手をあてる。

 

あたしのためだけに。

 

大きすぎるアイツの想い。

 

忘れられるわけがない。

 

涙を飲み込み叫ぼうとして―――角度を変えたミサトの顔は泣いていた。

 

「ミサト…」

 

戸惑い、近づこうとしたら、手で制された。

 

「ごめん、アスカ。あんたが一番辛いのにね…」

 

またミサトはあたしに背を向けた。

 

全く、先に泣かれちゃしようがないじゃない…。

 

あたしが声をかけあぐねていると、ミサトは明るいトーンの声を出す。

 

そのギャップにあたしが対応出来ないでいるうちに、また背後に廻ってきた。

 

「シンジくんはね、海に溶けて世界中に散らばったんだと思う。

 そして今も、たくさんの人を起こしているんだと思う…」

 

ミサトの呟きから、あたしはイメージする。

 

広大な世界をそぞろ歩くシンジ。

 

蹴られ殴られ疎まれながらも、人々に目覚めの鐘を突きつける旅人。

 

同時に思い出すのは、二人きりの世界。

 

死んでいたペットを埋めていたシンジの姿。

 

…結局、中途半端にして還ってきやしないだろう。

 

あたしはここにいるのに。

 

アイツは優しすぎるから。

 

「待てるアスカ? 全世界の人が戻ってくるまで、待てる?」

 

ミサトの優しい問い掛け。

 

その裏に隠された意味に気づかないほど、あたしも愚鈍じゃない。

 

全世界の人類が、一人残らず還ってくる保証はない。

 

アイツが還ってくる保証も、また存在しないのだ。

 

それでも、あたしの返事は一つしかない。

 

「待つわよ。いつまでも」

 

お腹に手をあてる。

 

少なくとも、これの責任はとってもらうんだから。

 

還ってこないと許してやらないんだから…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――そして一年の月日が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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この醜くも美しい世界6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

還ってくる人類の数が急激に減ったのは、たしか四ヶ月前ころだったと記憶している。

 

前兆はあった。

 

人が還るにつれ色を失っていく命の海。

 

ほとんど透明と化した海は、同時に神秘性も剥奪していったようで、人々の関心も失われつつある。

 

放送を再開したTVがあれほど騒ぎ立てていたのも夢のよう。

 

 

 

『海から還ってくる人々は、まず健康な成人が先で、後から柔弱な幼児や老人が還ってきたのです。

 これは、非常に理性的で人道的な順番です。

 私は無神論者でしたが、なにか強大で優しい意志の力を感じずにはいられません…!!』

 

 

 

 

外国から報じられたニュース。

 

当然でしょ、なんてあたしは呟きながら、それでも意味を考えずにはいられなかった。

 

あちらでは、シンジのことを覚えていてくれる人がいない。

 

つまり、誰もがシンジに出会い、諭され、世界に復帰したわけではない…?

 

 

 

『きっとクラスター効果みたいなものじゃないかしら?

 一つになっていた人類の意志に、シンジくんの意志が加わったとき、一定の方向性が与えられた。

 人の形を取り戻すという意志は世界中に伝播、連鎖し、次々と顕在していった…』

 

 

 

 

 

リツコが還ってくれば、もっと詳しく分かり易く教えてくれるんでしょうけど…。

 

そう言って、ミサトは寂しく笑った。

 

その推論を聞きながら、あたしは別のことも考えている。

 

ミサトの言うとおり、リツコは還ってきていない。

 

司令も副司令も還ってきてはいなかった。

 

つまり、シンジがいかに説得しようにも、自ら帰還を拒む命もまた多いのかもしれないということ。

 

戻ってこないほうが幸せな場合もある…か。もしくは、そこはそんなに幸せなのだろうか?

 

あの時、より深く計画に関わっていた大人たちの気持ちは、あたしにはあまりよく分からない。

 

でも、確かに犯罪者とか悪人なんかは嫌だろう。戻ってきたところで法に裁かれるのだから。

 

…法? 

 

秩序を取り戻した世界を、あたしは複雑な気持ちで見ていた。

 

人数が増えれば、トラブルがおきる。

 

それを維持、管理、対処するための秩序、法、社会機構。

 

二人きりでは互いに互いを許せばすむのに、他人が増えれば混乱、複雑化していく世界…。

 

だからこその人類補完計画だったのだろうか?

 

分からなくもない。あたしは真っ平ごめんだけど。

 

大きくせり出したお腹を撫でながら、盛大にぼやいたのを憶えている。

 

産まれるまで還ってくればいいのに…と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして今、いつまでも待つと決意した場所に、あたしは来ている。

 

始まりの海とか呼ばれた元第三新東京市のこの場所も、あれだけ大量に設置されていたトレーラーや照明が撤去されて久しい。

 

今は、監視室という名目ばかりのプレハブ小屋に、常時三人の人間が待機しているだけだ。

 

仕方のないことだろう。ここ三ヶ月もの間、誰も還ってきてはいないのだから。

 

…結局、丸一年経っても、シンジは還ってこなかった。

 

そして、人々の興味も、その多くは持続しなかった。

 

あの優しさに溢れた空間は嘘のようだ。そして今やここを訪れる人はほとんどいない。

 

みんな、それぞれの生活を取り戻すために躍起になっているのだろう。

 

事情は分かるんだけど、少し頭に来る。

 

シンジのおかげで戻ってこれたくせに。

 

でも、シンジのせいであんな風になったんだから、プラスマイナスゼロか…。

 

寄せては返す透明な波を眺めながらあたしは呟く。

 

「なにやってるのよ、あのバカ…」

 

未だ開発も手つかずのこの場所は、かなり寂しい。

 

それでもいずれ瓦礫は撤去され、海も埋め立てられるかも知れない。

 

時間は、記念すべき場所も容赦なく奪い去っていく。

 

満ちあふれていた優しさや温もりさえも。

 

 

 

 

 

 

 

今日ここに来たのは、けじめみたいなものだ。

 

胸元へと視線を落とす。

 

そこにいる。

 

あたしとシンジの子供が。

 

この一年、シンジを待ちながらも、それなりに生活に変化がもたらされた。

 

新しい住居を定めたのはもちろんだけど、なにより出産があった。

 

年齢並にしか成長してなかったあたしの身体。

 

子供を産む苦痛は正常なケースの1.5倍増しくらい。

 

それでも無事に出産を終え、今こうしてここに立っている。

 

健康な男の子だった。

 

 

 

「早く還ってきなさいよ! アンタの子供なんだからさぁ!」

 

 

 

海に向かって叫ぶ。

 

返事はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…子供を産んでも、あたしの時間は止まっていた。

 

そう。二人きりで暮らしたあの世界から。

 

楽しかったことしか鮮明に思い出せないのは、やはり時間の魔力なんだろうか?

 

辛い記憶を掘り起こしても、せいぜい頭を抱えて叫びたくなるくらいだ。

 

あの時の感情の高ぶりも悔しさも、一日たった使い捨てカイロ程度の熱しかもっちゃいない。

 

或いは、これが許すということなのだろうか。それとも諦めに分類されるものなのか。

 

優しくなった記憶を幾度もリフレインしながら、あたしはこの一年間を過ごした。

 

だから耐えられた。

 

シンジが側にいないのも。出産の苦しみも。

 

でも、もう待てない…。

 

あたし一人だけなら、いつまでも待っているのだけれど。

 

視線を落とす。

 

小さな顔が涙で滲む。

 

この子の時間は動き出してしまった―――。

 

 

 

腕の中で無邪気に笑う顔を見つめる。

 

泣きながら、抱きしめる。

 

あたしとシンジの子供。

 

この子を放っておくわけにはいかない。

 

この子に、あたしと同じ体験をさせちゃダメだ。

 

あたしはこの子を守り、育てなければならない。

 

いずれ、大きな世界に組み込まれていくにしても。

 

今、この子の見ている世界には、あたしだけしかいないのだから―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな世界を守る決意を固める。

 

途端に、世界が巨大なガラスで区切られた。

 

不透明な曇りガラス。

 

そう、まるで箱庭みたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 

幼い顔に頬ずりする。

 

守るわ。

 

守ってあげる。

 

あなたが外の世界を見つめるその日まで。

 

あたしがあなたを守る世界の壁になってあげる。

 

 

 

 

 

 

それは同時に、あの世界への決別の言葉。

 

 

 

 

 

 

 

この子を守るには、同じ時間を歩かなければならない。

 

だから、あの二人だけの世界は記憶へと隔絶される。

 

あの世界と今は繋げられない。

 

なぜならシンジがいないから。

 

共有できない世界に囚われていては、前に進めない。

 

重すぎる想いを抱えたままでは歩けないのよ。この子の為に歩けない。

 

あの世界は不透明に隔絶される。

 

少しずつ曇っていくガラスは、透かしてみようにも、やがて見えなくなるはずだ。

 

それでいい、と思う。

 

不鮮明になった記憶は、やがてこの上なく美しいものへと変わる。

 

反比例するように、それを取り巻く、あたしたちを取り巻く大きな世界は、美しさを無くしていく事だろう。

 

一時の最上の美しさや優しさは汚され、醜く変貌していく。

 

それでも全てが失墜しないのは、その世界の中で、多くの人々が小さな美しい世界を幾つも抱えているから。

 

だから、神様が眺めたら、きっとこう叫ぶに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、なんてこの世界は醜くて美しいのだろう!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな世界を抱えたまま、神様なんて信じちゃいないあたしは夜空を見上げる。

 

本当にタイミング悪いわよ、ファースト。

 

夜空の満月に毒づく。

 

いくらアンタがあたしの身体を治してくれても、シンジが溶けちゃ意味ないでしょうが。

 

月は答えてくれない。

 

ただ優しくあたしを照らすだけ。

 

柔らかな光を浴びながら、ふと思う。

 

…もしかして、この子もアンタのチカラ…?

 

思い至るのは、昔話や幻想小説。

 

死に瀕した主人公は、恋人の子供として産まれ変わってめでたしめでたし。

 

…なによ、ちっともめでたくないじゃない。

 

自分の子供となんか恋愛できないんだからね!?

 

だから、この子にシンジなんて名前つけてやんないんだから!!

 

勝手に憤慨し、月へ向かって舌を出すあたし。

 

そうしてからチラリと後ろを振り返る。

 

離れた場所に一台の車。

 

何もいわずに付き合ってくれたミサトが待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…じゃあ、もう行くね、シンジ。

 

きっと、今もどっか世界を廻っているんでしょ?

 

ひょっとして、司令やリツコの説得に手間取っているのかしら?

 

そうだとしたら、少し面白くて、腹立たしい。

 

還ろうとしない頑迷な連中のせいでシンジが還ってこれないとしたら。

 

その予想を、否定したくても否定できない。

 

あのお人好しのバカのことだから…。

 

ううん、いい。

 

アンタが還ってこなくても。

 

この子は、あたしが立派に育ててみせるから。

 

そして、大きくなったらね、いかに父親が間抜けで自分勝手で無責任なヤツか教えてやるんだから。

 

悔しかったら、嫌だったら、還ってきなさいよ。

 

ほら、今すぐ。

 

今還ってきたら、遅れてきたことも少しだけ許してあげるから…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泣きながら微笑む。

 

微笑みながら泣く。

 

想いを、打ち消す。

 

無理矢理、打ち消す。

 

遠ざかる視界。

 

下りる巨大な曇りガラス。

 

分厚いそれに爪を立て……結局あたしは何もいえない。

 

涙をこぼし、見上げてくる幼い顔に笑いかける。

 

大丈夫よ。

 

きっと、大丈夫。

 

自分でも信じていない気持ちを隠し、頭を撫でてあげた。

 

なのに確信できることもある。

 

この先、あたしは、他人に対し二度と愛してるなんて言わないだろうことを。

 

 

 

 

 

 

 

ゆっくりときびすを返す。

 

海に、月に背を向ける。

 

もう、あたしはこの場所に来ることはないだろう。

 

 

 

 

それでいいの?

 

 

 

問い掛けてくる自分に即座に反論している。

 

 

 

いいわけないでしょ!?

 

 

でも、

 

 

そうしなきゃ、

 

 

この子は、

 

 

あたしは……!!

 

 

 

こぼれる涙は果てしない。

 

 

 

あたしって、こんなに泣き虫だったかなあ…。

 

 

 

幼い手がパタパタと動いて、あたしの注意をひいた。

 

 

 

 

…うん、ごめんね。

 

もう、ママは泣かないから。

 

はやくお家に帰ろうね…。

 

 

 

 

急に母親ぶる自分が少し可笑しかった。

 

ついこの間まで、自分が子供だったくせに。

 

子供なんかいらないって言っていたくせに。

 

でも、シンジとあたしの子供だ。

 

アイツを愛したあたしが、等しく愛せないわけがない。

 

だから、いい母親になることを決めた。

 

きょとんと見返してくる真っ黒い瞳に誓って。

 

いい母親になれるとも思う。

 

なにせ、このあたしが決めたんだからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのシンジそっくりの瞳が、不意に大きく見開かれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…冷たくなった夜風に響いたのは、あたしの幻聴だったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

いや、違う。

 

確かに聞こえている。

 

あたしの腕から聞こえている。

 

 

 

子供が声を立てて笑っている……!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思わず足を止め、瞳を覗きこむ。

 

どうしたの?

 

何がそんなに嬉しいの?

 

もちろん、返事はないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

代わりとばかりに、背後で歓声があがった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「誰か上がったぞ!?」

 

「おい、この人は……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予感ではない。確信があたしを振り返らせた。

 

 

 

浜辺に横たわる黒い髪。

 

 

 

瞬間、

 

 

 

ガラスが音を立てて砕け散る。

 

 

 

 

―――世界が、繋がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震える身体。

 

まるで雷に打たれたみたいに。

 

血が沸騰する。

 

力がみなぎる。

 

疑う気持ちはどこか遠くへ投げ捨てる。

 

大事に大事に子供を抱え直し、あたしは走り出す。

 

砂地に足を取られ、クツを放り出しながらも、あたしは駆け寄る。

 

 

 

鼓動が速くなる。

 

頭の中心が痺れる。

 

信じられないほど身体は軽いのに、なぜか距離はなかなか縮まらなくて。

 

走りながら笑う。

 

笑いながら泣く。

 

泣きながらもどかしく思う。

 

もどかしくて叫ぶ。

 

全力で。

 

ありったけの感情を込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シンジ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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