彼と彼女の話 (斎草)
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2001年〜
00.再会


 

ラクーンシティ壊滅事件から3年。

15歳になったメアリー・ワトソンは張り巡らされたバリケードの前で自転車を降りた。

「瓦礫もそのまま……全然何も片付けてないのね」

フェンス越しに見える故郷は遠目から見ても無惨に崩れ去っていた。当時の、爆撃で地図上から消し飛んだままのその姿は握りしめたフェンスが軋む音を響かせる。

 

メアリー・ワトソンは、あの未曾有の生物災害から生き残った人間の1人だった。他の、彼女と関わりがあった人物達はたった2人を除いて既に故人となっている。その深い傷は未だに癒える事がない。

だが、彼女が提出した事件前後の関連記事を網羅したスクラップ帳や、親友であり被害者であるリリィ・フローレスの事件当時の警察署の様子を記した手記は裁判所に提出済みで、この事件を引き起こした大元である製薬会社アンブレラとの裁判に貢献している。

それでもまだ、収束には至っていないが。

 

メアリーはあれから学校に再度入学し、瞬く間に飛び級するとアメリカの大学へ行く事が決まった。寮生活になり、共に暮らしていたカルロス・オリヴェイラとは一度離れる事となり、今日はその寮に引っ越してきて2日目になる。ラクーンシティ跡地の最寄りまで電車に乗り、レンタサイクルでここまで来た次第だった。

新聞で見た通り、その場所は遠目から見ても更地とは言い難く、瓦礫と灰にまみれて薄汚れている。フェンスですら年季の入った剥き出しの金属が錆びついていた。

「……!」

そんな灰色の街を見つめていた、そこに突如すぐ横のバリケードの間に錆びた音を立てて隙間が開いた。その様子を唖然としたように暫し見つめ、数回瞬きした後に湧き出した疑問をゆっくりと整理し始める。

風は吹いているものの、脚に中身入りの土嚢袋が敷き詰められたバリケードを動かす事までは出来ないだろう。周囲には誰もおらず、更に言えば土嚢袋ごとバリケードば移動したようにも思える。

一体誰が、何が、何のためにこのバリケードを動かしたのか。

しかしその疑問すら上回ったのは奥底から湧き上がる好奇心だった。

メアリーは再び周囲に人がいない事を確認すると、自転車のスタンドを蹴り上げバリケードの向こう側に押しながら入る。

脇の看板に躍る"WELCOME TO RACCOON CITY"の下の"HOME OF Umbrella"が嗤うように錆を滴らせているようにも見えた。

 

バリケードの向こう側に真っ直ぐ伸びるハイウェイを自転車で走る事数分。

砂と灰の混じった埃っぽい匂いを纏った街の跡地まで辿り着き、そこで自転車を降りた。

ここにミサイルが落ち、慣れ親しんだ街を市民諸共消し飛ばした。よく遊んだ公園も、高くそびえる時計塔も、通い詰めたバーガーショップや図書館、警察署、親友の遺体も想い人の墓さえも。

瓦礫の山はそれが何の建物のものかすらも分からない。

「手を触れない方がいい」

コンクリートの塊でしかないそれを拾い上げようと手を伸ばした時、何処からともなく男の声が聞こえ咄嗟にそれを引っ込めた。声がした後方を振り返ると、そこには黒いコートを着込んだ金髪にオールバック、サングラスといった特徴的な風貌の男が立っていた。

「えっ……」

その容姿には見覚えがある。忘れるわけがなかった。

「子供の成長は早い。君も大きくなったな」

男はゆっくりとした足取りでメアリーに近付いてきた。一方のメアリーは信じられないといった様子で目を見張ったまま瓦礫の中へと後退りを始める。

それもそのはずだ。その男の名は、間違いでなければアルバート・ウェスカー。メアリーの想い人で、ラクーン事件以前のアークレイ山の火事で死亡しているはずのその人なのだから。

「わっ!」

だが足場が悪い中では逃げる事は叶わない。瓦礫に足をもつれさせれば、男——ウェスカーはすぐに歩み寄りその体に手を添えて支える。

「気を付けたまえ」

そのまま引き寄せて己が体にすっぽりと収め、薬品を染み込ませた布を見上げてきた顔の口と鼻を覆うように押し付けた。

「君ならいずれここに戻ってくると思っていたよ」

くぐもった声を上げながらも少女の見張った目はウェスカーを捉えていた。それに応えるように彼もまたメアリーを見つめていたが、彼女の目蓋は眠りにつくように閉じられ、全身から力が抜けていく。

「約束通り"君を迎えに来た"、と言っておこうか」

そんな様子を見てウェスカーは含み笑いを漏らした。

 

ウェスカーからしたら、あの日紡いだ言葉は日々真実味を帯びるものになっていた。

エイダ・ウォンからの定期的な監視報告で彼女がカルロス・オリヴェイラという青年と共に辺境の街で暮らしている事は知っていた。彼女が日々勉強をし、学校に入り、飛び級を使って15歳という早い時期にアメリカの全寮制の大学に入る事が決まった事も、全て。彼女の成長は目覚ましく、元々持っていた才能は更に磨きが掛かったものになっていた。

そしてアメリカに来るとなれば、崩落したラクーンシティに訪れる事も踏んでいた。

 

この日を待っていた。彼女の周りから人がいなくなるこの日を、ずっと。

 

己を慕う少女は己の望む通りに成長した。ここからは己が教育を施せばいい。大学など必要ない。

「共に"高み"を目指そう。メアリー・ワトソン」

彼は少女を抱えて含み笑いを漏らすと、その場を去っていった。

 

———

 

気がつくと知らない部屋のベッドで横たわっていた。

メアリーはハッと意識を覚醒させると起き上がる。服はやけに簡素な検査着のようなものに変わっており、部屋内もまるで病院のように白い壁と色々な器具に囲われている。

「目が覚めたか」

白い空間に見える長い黒。それはメアリーが起き上がったのを確認すると唇の端を吊り上げた。その彼女があからさまに警戒の色を見せながらベッドの上で後退りを始めるのを、面白そうに視界に入れながら黒い男は歩み寄り、あっという間にすぐそばまでやって来る。

「大好きな人の顔も忘れてしまったか?」

彼女の顎に手を添えこちらに顔を向けさせる。

「う…嘘よ。だってあの人は、隊長は死んだはずだもん……」

あの頃より少し落ち着いた声音は震えていた。

当然だ。今目の前にいる黒い男、アルバート・ウェスカーは3年前に死んでいるはずだった。公園に併設されていた墓地にもしっかり墓が立っていたはずなのだ。何より、メアリーは瀕死のウェスカーと山の中で会っている。必ずS.T.A.R.S.に入ると、皆の役に立つように努力すると誓いを立て、彼と別れた。

「そうか。俺の三文芝居はしっかりとお前に響いたようだな」

しかし、彼女のその記憶は仕組まれたものだったのだ。

「惜しかったな、メアリー。俺を信じる余り、俺の行動に何の疑問も抱かなかったのか」

掠れた疑問符を浮かべながら目を見張る彼女を、ウェスカーはやはり面白そうな様子で眺めていた。

思慮深い彼女がここでミスを犯したのは、紛れもなくウェスカーを信じていたからだ。もしかしたら彼女なら己を追いかけて来るという可能性を視野に入れていたが、律儀にあの芝居を信じ、"アルバート・ウェスカーは死んだ"と思い込んでくれていた。

メアリーもまた、3年前のあの日を思い出して息を呑んだ。

言われてみれば、ウェスカーの死をこの目で確認していたわけではない。彼は"情けない姿をこれ以上は見せられない"と、己に背を向けて山奥へ歩を進めていた。一方の己は、それを見て踵を返し、下山した。だから、彼が死んだかどうかまでは見ていない。

「……騙したんですか。あんな怪我までして」

途端に涙が溢れた。今もほんのりと憧れを抱いていた人物は、ずっと己を騙し続けてのうのうと生きていた。その事実が付けた傷は深く、目の前の男を涙目にキッと睨む。

「違うな。俺は確かにあの傷のおかげで一度死んだが、お前を騙すための傷ではない」

ウェスカーは今にも溢れそうなその涙を空いた手で拭ってやった。不思議にも彼女は抵抗しなかった。

「だが騙されて良かっただろう?俺との約束を守って飛び級までして大学に入ったのだからな」

偉いぞ、と頭を撫でてやるが、彼女はその手を掴んで再び睨んだ。

「一体何が目的ですか?」

その問いにウェスカーは小首を傾げて見せた。彼女ならここまで言えば分かると思ったのだが、やはりまだ未熟のようだ。

「分かるだろう?俺の役に立てる日がとうとうやって来たんだよ、メアリー」

"役に立つようになれば、迎えに行ってもいい"。

ウェスカーは冗談でも何でもなく、3年前の——12歳のメアリーにそう言っていた。彼女の才能に最初に目を付けたのは己だ。大学に行けば磨きが掛かった才能はすぐに開花するだろうが、何処の馬の骨とも分からない輩にその才能を渡すわけにはいかない。だから、その前にこうして己の手中に収めたのだ。

華奢な彼女の体をベッドに押し倒し、検査着を捲り上げると傍にあった機器から伸びる電極を体に貼り付けていく。

「やっ、やめてよ!何するの!?」

「暴れるな。まだこれからお前の体を調べるところだったのだからな」

彼女が抵抗するのは肌を見られているからなのか、得体の知れない器具で体を調べられるからか、或いはその両方か。ウェスカーは暴れ回るメアリーの両手首を片手で掴むと頭の上で拘束した。

「それとも、別の意味で"調べ"られたいのか?」

彼はサングラスを下げ、鮮明な視界の中で電極が貼り付けられた目の前の体を見る。15歳、まだ発展途上ながら3年前よりは発育が進んでいる。その言葉にビクッと揺れた体はすぐに大人しくなり、彼もまた拘束を解くと器具のモニターの方にサングラスを直しながら向き直った。

「今の組織に目を付けられても困るから俺が検査している。辱めている訳ではない」

これは本心だ。あの惨劇を生き抜いたのであれば、何らかの抗体が彼女の体に宿っている可能性が高い。それが今の段階でここの組織にバレてしまえば、研究員らの手によって望まずとも彼女が己の元を離れてしまう可能性もある。だから必要な器具が揃っているこの部屋が空いている時間帯を何とか探り当てて今こうしているのだ。仮にメアリーの体がウェスカーにとって"良い物"だとしても、それで時間を潰すわけにはいかない。

ウェスカーは出た結果を記録デバイスに詰め、すぐに元データを削除した。彼女の体から電極を外し検査着を正してやれば、手早くその身を抱え上げて白い部屋を出て行く。

「大人しいな」

「…………」

彼女は無抵抗だった。見ようによれば呆けているようにも見えるが、表情は彼の肩に埋められていて見えない。

「何を考えている?」

今までの会話でもいくつか彼女にとって知るべき事柄があったはずだ。恐らく彼女が考えているのは"今のアルバート・ウェスカー"そのものであろう。

「見られたのに何も思われないなんて……」

だが、少女が口にした言葉はどの予測とも違った。ウェスカーが拍子抜けた様子で再度彼女に視線を向けると耳が赤い事に気付いた。

「……まぁ、検体としてしか見ていなかったからな」

彼女の言葉が何を意味するか分からないわけではない。しかしウェスカーの研究員気質は今も変わらず、被験体として対象の裸体を見ている時に性的な興奮を覚える事はないのである。

それしにても彼女がそんな事を考えているとは予想外だった。てっきり怯えと羞恥の方が勝っているとばかり思っていた。それにいくら彼女が成長したからといって、ウェスカーにとってはまだまだ子供である。手を出せるような年齢ではない。

「とにかく、今日は着替えてから俺の家に帰るぞ」

窓の外は暗闇に包まれている。夜も更けてこの施設には今所属する組織の研究チームしか残っていない。彼女が元々着ていた服のある小部屋に入り、検査着からそれに着替えさせた。それを待っている間、くるくると先程の記録デバイスを片手で弄ぶ。

彼女はまだ己を誤魔化したつもりでいる。メアリーは呆けたフリをして話題を逸らした。だから己の腕に収まったままだったのだ。ウェスカーが少女の恋心を利用するのと同じように、少女もまた、それに気付いている彼の思考回路を利用しようとしたのだ。

(面白い。互いの腹の内を探っているかのようだ)

メアリーは大学の寮に帰る事ではなく、ウェスカーの思惑を暴く事を選んだ。先程の事は想定外だったが、疑問を与えればどこまでも追求するという性質は変わっておらず、やはり己の手中に自ら飛び込んできてくれた。こんなに嬉しい事はない。

これからメアリーはウェスカーのあらゆる情報を嗅ぎ回るだろう。それも計画のうちだ。

(俺の目的を知った時、お前はもう逃げられない)

離してやるつもりなんてない。己の手足となり得る逸材とはもう巡り合えないだろう。

それに己の支配下に入るのだ。これくらいはしてもらわなければ困る。

 

再会から幕が上がる物語は、始まったばかりである。



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01.生活

 

「隊長、朝ですよ」

メアリーはゆさゆさとベッドに転がる体を揺さぶる。彼の寝起きが悪い事はこの1週間、共に生活をしていて生まれついてのものなのだと理解してきた。

しかし今日は彼の出勤日だ。カーテンを開けて朝日を部屋に溢れさせれば、彼は唸りながらベッドの上で身動ぎし始める。

「隊長、朝ですよ」

もう一度先程と同じセリフを言う。彼——ウェスカーはむくりとようやく身を起こし、不機嫌そうに細めた目をメアリーに向ける。

「……何時だ」

掠れた低い声はサイドボードの目覚まし時計に目を向けようとするが、窓から差し込む朝日が眩しくて眉間にシワを寄せた。

「朝7時です」

代わりにメアリーが時刻を告げれば、ウェスカーは短く返事をしてから床に足を付けた。

「朝ごはん準備しますから、着替えて歯を磨いて……」

「朝食などいらないと言っているだろう」

ウェスカーは長らく朝食抜きの生活をしてきた。

そもそも昔から仕事が忙しいからか、彼は食生活について無頓着である。メアリーを迎え入れた初日、小さな冷蔵庫に栄養ドリンクがびっしり並んでいるのを怒られた記憶がある。

「だめです!」

突如、ビッとウェスカーの顔の前に人差し指が突き立てられた。元を辿ると案の定メアリーであり、その勢いに彼は少しだけ身を引く。

「お仕事なんですから、ちゃんと食べてください!」

彼女を引き入れたのは果たして正しかったか。有能であるが少々口煩い。

「そう言うお前こそ、報告によれば朝は食パン1枚だったらしいな」

自分の事は二の次のくせに。彼女は「うっ」と短く唸り、それでも果敢に噛み付いてきた。

「それとこれとは別です!とにかく、今日も食べてもらいますからね」

そう言ってメアリーは寝室を出て行った。残されたウェスカーは困ったように頬を掻いてからいそいそと部屋着から出勤用のシャツに着替え始める。リビングを経由し、洗面所に入り歯を磨いて身支度を整えてから再度リビングに戻ってくると椅子に座り、台所に立つ少女をテーブルに肘をつきながら眺めた。

 

穏やかな朝。己には似つかわしくない。

しばらく使われる事のなかった台所のコンロは、心なしか炎が嬉しそうに揺らめいているようにも見えた。鼻腔を掠める芳ばしい香りは自然と食欲が湧く心地になる。気付けば先程まで突き刺すようだった朝日は柔らかな陽射しになっていた。

 

「はい、どうぞ」

目の前のテーブルに置かれたのはサラダが添えられたベーコンエッグだった。ちょうど良くトースターからは焼けた食パンが2枚飛び出し、向かいにも同じような盛り付けの皿が並んで出来たばかりのトーストがそれぞれに並ぶ。

「いただきます」

向かいに座ったメアリーが食べ始めるのを見て、ウェスカーも用意された朝食を手にする。

バターを塗ったトーストにベーコンエッグを乗せて一口。卵の優しい味わいとベーコンのジューシーさ、トーストのカリカリの食感。気に入っている食べ方。とろとろの黄身に辿り着いた瞬間が堪らない。

メアリーは料理が上手い。ベーコンの焼き加減も目玉焼きの半熟具合もウェスカーの好み通りに作ってくれる。エイダからの報告でカルロスと住んでいた頃も家事の担当は彼女であった事は知っていたが、ここまでとは思っていなかった。

先程ああは言ったものの、正直この朝食がなくなるのは惜しい。それに彼女が上手いのは朝食だけではない。

「お夕飯は何がいいですか?」

あっという間にベーコンエッグトーストを平らげたウェスカーにメアリーの眼差しが向けられていた。

「……何でもいい」

「あ、それ1番困るって前にも言いましたよね?」

サラダを口にする彼は悩んでいた。メアリーの言う事は尤もであるが、食に無頓着だった己には何をリクエストすればいいのかが分からないのだ。さすがに難しい料理は彼女を困らせるだろうし、軽食では夕飯としては物足りない。カレーはこの前食べたし。

「……卵料理、では駄目か?」

料理名ではなく、食材名でのリクエストを試みる。さて、何が飛び出してくるか。

「じゃあ、オムライスにしますね。勿論半熟で」

ニコリと笑った少女の表情は眩しい。

この笑顔を見たら、彼女がウェスカーに拉致されてきたなんて誰も信じないだろう。

 

無垢を装う少女はウェスカーにサンドイッチの入ったランチボックスを持たせ、職場に向かう彼を見送った。玄関が閉まると新聞を受口から取り、まずは見出しをチェックするためにパラパラとページを捲っていく。

「やっぱりどこにも載ってない……」

探しているのは"メアリー・ワトソンが何者かに拉致された"という旨の見出し。だがこの1週間、新聞の記事にもなっていなければテレビやラジオで話題に上がる事もない。1面にならずとも、小さな記事くらいにはなっているだろうと思っていた。しかもそれなりの期間があるというのに、何もない。

「ラクーンの時みたいに、情報操作されてる…?」

だが今のウェスカーにそれだけの権力があるのだろうか。それとも、背後にもっと強力な何かがついているのか。

己が自らウェスカーの手中に収まったのは、彼の素性を知るためだ。それが何になるかなんて分からないが、もし3年前にジルから明かされた"ウェスカーがアンブレラの研究員で、S.T.A.R.S.を実戦データのために利用した"という事も真実であれば、今彼が生きているのは大問題である。ジルは今もクリスと共に反アンブレラを掲げて活動しているはずだ。この行動が何かの形で彼らの役に立てばいい。

しかし気に掛かるのはカルロスの事だった。彼は今もメアリーが元気に大学生活を送っていると思っているだろう。ここまで情報操作が徹底されているならば、大学側も押し黙らせている可能性がある。カルロスには連絡すら行き渡らない。

「ごめんね、カルロス……」

彼は稼いだ資金を貯めてメアリーを大学に送り出してくれた。その親切心を踏みにじるようで心が痛かった。しかし今更ウェスカーの手から逃れられるとは思えない。それは彼と生活をし始めた1週間前から感じている事だった。

彼は今この瞬間も、見えない鎖でメアリーを繋ぎ止めている。だからこそ、彼女をここに目に見える形で縛り付ける事をしない。きっと彼女がこうして情報を集めようとしている事も看破済みだろう。寧ろ、そうなるように仕向けているようにすら思える。

メアリーは先日彼から習ったばかりのパソコンの電源を入れ、彼が書いたと思われるレポートのファイルを開いた。

——普通は情報を盗まれないよう、パソコンの使い方など教える必要などないのだ。あからさますぎる。

そのレポートには通称"洋館事件"と呼ばれる、あのアークレイ山で起きた山火事の前日に起きた事件について記されていた。そしてこれが、S.T.A.R.S.を実戦データとして使い多くの隊員を殉職させた事件であり、レポートにはその実戦データがまとめられている。誰が、どの怪物によって、何時に殺害されたか。淡々と記される様はニコライ・ジノビエフの調査レポートとよく似ている。

そして同じフォルダには先日のメアリーの検査結果もあった。

「やっぱり私には……T-ウィルスの抗体があるんだ」

己にウィルス抗体がある事は、実は3年前に知っている。いち早く気付いたニコライから明かされ、一時は彼に捕まり危うくアンブレラに売り払われるところだったのだ。あのままアンブレラに己の体が渡ったら。想像しただけで身の毛もよだつ心地になる。

あの時はウィルス抗体があると言われてもピンと来なかったが、ウェスカーが行った検査でこの結果が出るのなら信憑性が増す。実際、ゾンビに襲われても己はゾンビにならなかった。確定で間違いないのだと思う。

そして1番謎なのはウェスカーが今どの組織に所属しているかである。

普通に考えればアンブレラに所属していると思うのだが、今アンブレラはラクーン事件の事で裁判にかかっている。彼がそんな会社に今も在籍しているとは思えないのだ。それに、パソコンのどこを探してもアンブレラに関する資料やデータが見つからない。ここにあったのは洋館事件のデータとメアリーの検査結果だけだった。

「もしかしたら仕事用のパソコンの方に入れてるのかな……」

彼にはこれの他にいつも仕事に持って行くノートパソコンと記録用デバイスがある。恐らく重要なデータ、メアリーには見せられないものはそこに収められているのだろう。

何度も同じものを見ても仕方がない。メアリーはパソコンの電源を切ると椅子から立ち上がりながら伸びをして、気を取り直して家事に勤しむ事にした。

 

———

 

「美味いな」

「本当ですか?」

ウェスカーが帰宅し、先に夕食にしたいと言ったのですぐに支度を始めた。今朝のリクエスト通りの半熟オムライスを仏頂面ながらも2口目を口に運ぶ彼を見て思わずメアリーもパッと表情を明るめる。

やはり誰かと食卓を囲むのは楽しい。カルロスと暮らし始めた頃もそんな事を思っていた。それは例え相手がウェスカーであっても同じ事だった。

「えへへ……」

というか、今目の前にいるのは初恋の相手なのだ。そんな人に手料理を褒めてもらうのは純粋に嬉しい。

照れ笑いを浮かべるメアリーを視界に入れ、ウェスカーは少しだけホッと安らぐ心地になる。

どうしてか、彼女の手料理は温かくて優しい。長年無機質だった己にじんわりと染み込むようなそれは、振り解くのが惜しい程に感じる。

「隊長、食べたいものがあったら遠慮なく言ってくださいね」

しかし、その微笑みは信じていいものだろうか。

彼女はパソコンを使って情報を得ようとしたはずだ。ログイン履歴には昼間にパソコンが立ち上げられた事が記録されている。新聞もまずは彼女がチェックする。しかしお目当ての記事は見つからないのか、新聞はどこも切り取られた様子がない。

彼女は己の素性を暴く事が目的でここに留まっている。この生活も態度も、そうする事が1番怪しまれずに済むからだ。

「……ああ」

しかし、何故かその微笑みを拒めない己がいた。

「……どうかしましたか?隊長」

嬉しそうだった声が転じて心配するようなものに変わる。それにハッといつの間にか俯かれていた顔を上げると、案の定目の前には眉を下げて心配そうにするメアリーがいた。

「ああ……美味くて食べ終えるのが勿体なく感じてしまってな」

咄嗟にそんな事を口走っていた。一応、嘘は言っていない。

「ふふ、冷めて美味しくなくなる方が勿体ないですよ。それに、全部食べてくれた方が嬉しいです」

それを聞いてメアリーはまた笑みを零した。

彼女の思考を上手く読み取れないのは、己の性質のせいなのだろうか。しかし、この心を掻き乱すような気持ちは彼女のせいなのだろうと、半ばなすり付けるかのように思考を奥へ押しやる。

「そうか」

短く返事をするのがやっとだった。少し冷めた3口目はそれでも品質を損なう事はなく、口の中いっぱいにあの優しい味が広がった。



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02.教育

 

メアリーには戦闘技術も少しはあった方がいい。その方が使い勝手が良いからだ。

ウェスカーは空いた時間を使って彼女に基礎から訓練を施した。ハンドガンの基本の扱い方は誰に教わったのか完璧だったがその他の事はやはり何も知らず、一から十を全て教える。

元々運動能力は悪くない。褒められて伸びるタイプなのかしっかり褒めてやると効果が上がった。難しい事はじっくり教えてやればちゃんと出来るようになるし、それほど手を焼いた記憶がない。新しい事を教えてやるのが段々楽しみになっていた。

そして教えたのは戦闘技術だけではない。

「なるほど……私にパソコンを教えたのはこういう目的ですか」

目の前のパソコンの画面には今の組織がどのように動いているのか、つまりサーバー侵入で得た情報が並んでいた。

ハッキング技術もあれば文句なし。寧ろ彼女はこちらの方が飲み込みが速かった。その過程で得た情報は彼女にとっても有用だっただろう。ウェスカーが所属している組織の事も、ジルとクリスが反アンブレラを掲げてロシア政府が編成する対バイオテロ組織に所属している事も知れたのだから。

 

「メアリー、もう寝ろ」

「んー」

そんな生活も半年が経とうとしていた。ディスプレイの明かりに照らされた彼女の顔は真剣そのものだったが、夜ももう遅い。唸るような返事で流そうとしたメアリーに溜息を吐き、彼は背後に忍び寄りコツリとその頭を小突く。

「ん!」

「寝ろ」

そんなに真剣に何をしているのかと思えば、パソコンに内蔵されていた地雷探知ゲームをしていた。脳のトレーニングには良いかもしれないが、いつの間にこんな事を覚えていたのか。

「隊長のせいで誤爆した……」

ゲームオーバー画面がディスプレイに映っており、誤爆したマスにバツ印が付いている。口を尖らせながらウェスカーを振り返るのを見て、また彼は溜息を吐いた。

「知らん。寝ろ」

わさわさと髪を乱してやればまた「う!」と声が上がる。

「隊長、パパみたい!」

「パ…!?」

回転式の椅子をくるりと半周してウェスカーを振り返るメアリーの口から放たれた言葉は彼にとっては衝撃的で暫し固まった。

「パパだよ……口煩いパパ」

また口を尖らせ、床から浮かせた脚をパタパタと動かしている。

メアリーは片親で、その父親をラクーン事件で亡くしている。いや、彼は事件以前に亡くなっている可能性があった。アンブレラ社の研究員だった彼——アラン・ワトソンはウィルス実験の被験体となり、廃棄処分されたと予想している。

「……俺を父親にしたいのか」

彼女の父親は忙しくて家に帰れない生活を何年もしてきた。その間、彼女は1人で生活し、そのおかげで家事全般が出来る。

初めて彼女と食卓を囲んだ時、相手がウェスカーであるにも関わらず楽しそうにしていたのを覚えている。よくよく考えれば、ウェスカーとメアリーには親子ほどの年齢差があった。確かウィリアムの娘もこのくらいの年頃だったはずだ。

「え、何言ってるんですか…?」

しかしそれは空回りだった。きょとんとした顔でメアリーは彼を見上げている。それに思わず彼も目を瞬かせた。

「私のパパはアランだけよ。隊長は、隊長。さっきのは喩え話」

すん、と真顔で当たり前の事を説明するのを聞いてウェスカーは呆然としていた。次の瞬間、途端に恥ずかしさが込み上げてきて目元を片手で覆って俯く。

「俺は一体何を……っ」

今、彼は情けない顔をしているに違いない。その様子を少し意外そうにメアリーは見ていたが、やがてそれをにんまりとした笑みに変えて彼の顔を覗き込む。

「もしかして隊長の方が私のパパになりたかったりして?」

「バカな事を言うな!寝ない奴は強制連行だ!」

ウェスカーはハッと顔を上げるとパソコンの電源を落とし、いやらしく笑う少女を抱え上げて寝室に足を向けた。抱き上げた時に小さな悲鳴が聞こえたがお構いなしである。そのままベッドに身を横たえさせ、自身も同じベッドに潜り込むと彼女に背を向けて転がる。

「隊長、からかったのは謝るから機嫌直してよ」

この半年間、2人は1つのベッドで眠っている。狭い寝室にはベッドを2つ置く事は出来ないし、かと言ってソファで寝るのは疲れが十分に取れない。最初こそ抵抗があったものの、今はさすがに慣れてしまった。

メアリーの方が朝が早いため、ウェスカーは壁側を陣取っていつも眠っている。その壁に彼は顔を向けてメアリーには視線もくれなかった。

「隊長……」

彼女はその背中に呼びかけ、キュッと寝間着の裾を握る。

「私は隊長がパパでも、叔父さんでも、その……彼氏でも嬉しいですよ」

メアリーは言った後で静かに息を呑む。今、自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。

彼は本来の目的であれば、警戒すべき対象のはずだ。しかし日常生活や世話を焼く過程で、彼の人間らしいところが少しずつ見えてきた。そしてそれを、愛しいとすら思えてしまっていた。

こんな感情は今の状況に不釣り合いだ。それこそ彼に利用される隙を作ってしまう。なのに、何故だろうか。拒めない己がいた。

「くだらん事を言ってないで寝ろ……」

ウェスカーは鼻をフンと鳴らして目を伏せる。裾を摘んだ指がゆっくりと離れていくのを感じて侘しい気持ちになるのを理解したくなかった。

確かに一般教養の他に戦闘やハッキング技術等、己の達成したい事柄に必要なスキルを師のように叩き込んできた。しかしそれは、見ようによれば親のような素振りでもある。先程のメアリーのからかいは、あながち間違いではないのかもしれない。

少女をまるで、己の娘同然のように扱っていた。

(違う。必要な事を教えてやっているだけだ。俺の手足にするにはまだ教える事は山程ある)

そのための時間なら喜んで投資するが、彼女と絆を育む必要などない。情を持てば手放すのが惜しくなる。——それはスキルの成長次第でもあるが。

「おやすみなさい、隊長」

背に掛けられた声は少し寂しそうに聞こえた。程なくして静かな部屋に小さな寝息が聞こえ始め、ウェスカーは寝返りを打ち少女の姿を視界に収める。

3年半前。ラクーンシティ壊滅事件は彼女の故郷や親しかった者達を根こそぎ奪っていった。この半年間過ごしてきて、それを夢に見るのか深夜に魘されているのを何度も見ている。

あれは紛れもなくアンブレラの過失によるものだ。だが、全ての責任を政府になすりつけ、奴らは裁判の長期化を狙っている。3年半経った今でも。

無様で往生際の悪い事だ。早いうちに離反しておいて正解だった。

彼女はアンブレラが憎いのだろうか。それとももう思い出したくもないのだろうか。忘れたいのだろうか。

(考えたところで無駄だな……)

今まで敢えて話題には出さなかったが、こういう事は本人に聞くのが1番良い。答えがどうあっても、やる事は同じだが。

アンブレラはここで一度潰しておいた方が良い。沈みかけている船に奇襲を掛けて沈没を早めさせる事の何がいけないか。クリスとジルに大っぴらに動いてもらえば、己達は行動しやすくなる。

それを実行するのを何処にするか。これはメアリーにやらせれば良いか。今のところ概ね期待通りに成長している。実践にはちょうど良いだろう。

(明日からやらせてみるか)

なるべく早い方がいい。どれくらい成長したかを見れるのは楽しみだ。

今日は穏やかな夢を見ているらしい彼女の頬をひと撫でし、ウェスカーはまた寝返りを打って背を向けると己も明日のために就寝する事にした。

 

翌朝、メアリーはいつものようにウェスカーの出勤を見送り、パソコンと向き合った。言い渡されたのは"アンブレラの中枢サーバーに侵入し、U.M.F.-013の在処を調べる"という任務だった。

———

今朝方交わした会話は重たかった。

「メアリー。お前はラクーンを滅ぼしたアンブレラをどう思っている?」

ウェスカーは今朝は珍しく早く起きたかと思えば、調理中のメアリーにそう問い掛けてきたのだ。

メアリーにとってあの事件は悪夢に等しい。現実とは受け入れがたい、今でも夢なら醒めてほしいとすら思っている。しかし、あれは現実で起きた事だ。己と関わった人物達は一部を除いてラクーンで死んでしまった。

「もしかして私、"また"魘されてた?」

カルロスと暮らしていた頃は自室があったので彼にそれを知られる事はなかった。だが今はウェスカーと1つのベッドで眠っている。魘されていればすぐに彼は気付くだろう。実際、何度かそんな事があった。

「ああ……まあな」

「そう……」

が、今日のは嘘だと分かった。昨晩の己は快眠そのものだったからだ。しかしそうするのは彼なりの理由があるのだと思い、話を続ける事にした。

「……どう思ってるかなんて、正直分からないわ。ただ悲しくて、訳が分からなくて……アンブレラが憎いというよりは、…ああ、複雑ね。とても」

メアリーは出来上がったベーコンエッグをサラダを盛った皿に乗せ、ちょうど良く焼き上がった食パンがトースターから出てくるのを横目に見る。

「私ね、あなたが生きてたの……正直、安心しちゃって。そんな私が"アンブレラが憎い!"って言うのも変じゃない?だってジルの話なら、あなたはアンブレラの研究員だったんでしょ?」

彼の質問の意図からして、そんな個人的な事情はどうでも良いのだと思う。だが彼女は話を続け、彼はそれを黙って聞いていた。

「私のパパもアンブレラの研究員だった。どんな研究をしていたかは知らないけど。だから……余計に分からなくて。どうしようもない気持ちになるの」

苦笑いを零す彼女には影が差し込むようだった。その様子にウェスカーの眉がぴくりと動く。

「そうか。すまないな、朝から」

「ううん、別に。こっちこそ朝から暗くてごめんね」

挨拶をしてからベーコンエッグトーストを作って食べるが、いつもより黄身が固く感じて今後この事を訊くのはやめようと思った。

「それで、この話を今するって事は何か——」

———

今頃メアリーはU.M.F.-013の所在を調べてくれているだろう。U.M.F.-013はラクーンの地下研究所にあったコンピュータの事で、それにはアンブレラの研究データの全てが収められている。ウェスカーの憶測ではセルゲイ・ウラジミールという幹部が持ち出していると見ている。今どこにそれがあるかまでは掴めていないが、他のものと一緒にこれも塵にしたとも思えない。

ウェスカーは車を走らせながら今朝の話を思い返していた。

メアリーの父親がアンブレラの研究員だったからと言って、誰も彼女の事までは責めなかったはずだ。少なくとも、カルロスとジルは。それでも彼女の胸にはずっと蟠りとして残っていたのだろう。そこにかつての想い人の生存が示され、更にその人物と今生活を共にしているなら尚更。

 

「俺が生きていて安心したと言っていたか?」

今朝、ふと思い出して出勤直前に玄関先に立つメアリーを振り返った。そうすると彼女はきょとんとした後に照れたような笑顔を見せた。

「だって、隊長は私の初恋の人だから。再会した直後は怖かったけど……隊長、怖いってだけじゃなかったから」

 

(怖いだけじゃない……とは)

信号待ちを利用して考えてみるが、思い当たる節がありすぎる。無意識とはいえ己の娘のように扱っていたのだから当たり前だ。しかしメアリーだって、己と父親のように接していた。昨晩も父親のようだとからかってきた。

「困ったな……」

何の引力が働いているのか。互いの腹の内を探り、互いに探りやすいように信用を得ようと接しているうちにその気になっていたという事なのか。

しかし、今の関係は不思議と心地よいもので。食事も、指導も、寝る時間さえも安らぎや楽しさを覚えてしまう。

これではまるで彼女を愛しているかのようだ。くだらない。己の中で最も必要のない感情だ。なのに、何故だろうか。それを拒めない己がいた。

(くだらん。今はやるべき事に集中しろ)

アンブレラを終焉に導く事。それが今の最重要項目だ。実現出来ればついでにあの少女の蟠りも消える。

——と、また彼女の事を考えている己に嫌気がさした。



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03.女狐

 

H.C.F.はアンブレラとはライバル関係にあった組織だ。そして、現在アルバート・ウェスカーが籍を置く組織でもある。

(ラクーンではアンブレラの薬ばっかりだったけど、外にはこの会社の薬もたくさんあったな)

ラクーンシティはアンブレラのお膝下だった。ライバル会社の薬なんて置きたくないだろう。

だがラクーン壊滅後、カルロスと共に暮らし始めてアンブレラの薬は一切買わなくなった。薬局にも何度か足を運んだが、株価が暴落するにつれてアンブレラのものは棚の隅に置かれるようになり、代わりにH.C.F.社やトライセル社の薬が幅を利かせていた。

今いる薬局もそう。アンブレラの薬は何処にも見当たらない。

「すみません。アンブレラの薬はここにはないんですか?」

ちょうど店長が店内を見回っていたので声を掛けてみた。すると彼は驚いたように目を見張ってメアリーを見る。

「ええっ、お嬢ちゃん"あの"アンブレラの薬まだ買ってるのかい?オレはもう信用なくしちゃったよ」

やっぱりか。メアリーは溜息を吐く店長を見て内心で安堵した。アンブレラは今やスキャンダルの宝庫だ。なのにまだ裁判を長引かせるなんて往生際が悪いにも程がある。

「いえ、アンブレラの薬を扱ってる薬局では買いたくないなって思って」

「なんだ、そういう事か。実は入って来てはいるんだけどね。うちでは置かない事にしたんだよ」

メアリーが笑顔で否定すれば、彼はそうやって事情を説明してくれた。そんなやり取りをしてから目的の痛み止めの薬とスキンケア用品、包帯等の医療道具を購入して薬局を出ると、カルロスと住んでいた街よりも都会な道は平日の昼間でもそこそこの人通りがあった。

今日買ったのはどれもH.C.F.社の製品だ。が、ウェスカーがこちらに転身したという事はこの会社も似たような事をやっているに違いない。実際、サーバー侵入で得た情報ではウィルス研究や生物兵器の開発を行なっている部門がある事が分かっている。これをジルやクリスが知ったら怒り心頭であろう。

(という事はアンブレラを潰せたとしても、結局状況は変わらない……って事よね)

アンブレラの忌まわしき研究はいろんな形で世に出されていく事になるだろう。いや、もしかしたらそれ以前から競合する形で製薬会社業界では行われていた事かもしれない。そして、いつかはラクーンシティのような大規模な災害も再発するかもしれない。

(隊長、何考えてるんだろう……ただの正義感でアンブレラを潰そうとしているわけじゃないよね。何かもっと、別の目的でもあるのかな)

ウェスカーは彼女にU.M.F.-013の所在を割り出すよう指令を出した。それにはアンブレラの全ての研究データが保管してあり、そのデータを政府に提出すればアンブレラ壊滅の決定打になり得る。

だが、ウェスカーがそこまでする理由とは。

 

「わっ」

そこまで考えた時、何かに真正面からぶつかった。それの正体を確認しようと視線を上げてみると、黒髪の東洋人の顔立ちをした女性がそこに立っていた。

「こんにちは」

「あっ……あっ、エイダ?お久しぶりです…!」

ぺこりと頭を下げると女性も会釈をしてくれる。

この女性——エイダ・ウォンはカルロスと住んでいた頃にちょくちょくその街に観光に来ていた人だ。なんでもあの街が気に入ったらしく、そして何よりメアリーに会いたいから——なんていう男なら一発で落ちる口説き文句まで携えていつも会いに来てくれる。

「ねえ、メアリー。少し時間あるかしら?」

再会の喜びもそこそこに、エイダはそこにある喫茶店を指した。

 

エイダはコーヒーを、メアリーは紅茶を啜り一息つく。

「エイダはここに住んでるの?それとも観光?」

メアリーがそう切り出すとエイダは口許にあの綺麗な微笑みを浮かべた。

「ここに住んでるのよ。会社もこの近くなの。H.C.F.っていう製薬会社よ」

「わぁ、有名じゃないですか!」

すごい!とメアリーは目を輝かせてみせるが、内心驚く。まさかウェスカーと同じ会社で彼女が働いているとは夢にも思わなかった。彼も特に話題に出す事もないので、違う部署で働いているのだろうか。

「ふふ、でも私の仕事なんてそんな大層なものじゃないのよ。上司にもこき使われるしね」

彼女は首をコキコキ鳴らすように左右に傾けておどけてみせる。よくある愚痴。少女も思わずクスリと笑った。

「その上司も人遣いが荒いのよ?私よりも後に入ってきたのに偉そうで」

「えっ、そんな事あるんですか?」

子供らしい疑問符を浮かべる少女を見てまたエイダは和むように口許を緩め、向かいに座る彼女の両頬に手を伸ばして包む。

「あるわよ、大人は複雑なの」

そうウィンクしてみせれば、少女の頬がほんのり赤く染まるように見えた。

「んん……でも、エイダにそんな事する人は嫌だな……」

直視出来ないのか、メアリーは視線を俯かせて右往左往させる。

なんて純粋で可愛らしい子なんだろう。あの街で監視をしたり実際に接していくうち、エイダは素直にメアリーに好感を抱いていた。3年間、直に少女を見ていた彼女からすれば、"彼"に少女を渡すのは正直惜しいとも思っていた。だが、ここにいるという事はそういう事のようだ。

「そう?あなた、とてもその人に懐いているみたいだけど」

「え…?」

途端に少女の頬から赤みが消えた。視線がこちらに戻り、眉間にシワを寄せながらエイダを見ている。

「もしかして家で仕事の話とか聞いてない?まぁ、彼の性格からして話したくもないわよね……」

「ち、ちょっと待って、どういう事?」

さすがにこの戸惑った顔は演技ではないだろうが、メアリーは勘もいい。ちゃんと気付いているはずだ。だが、ここでその勘に委ねるのは意地が悪い。

「私の上司、アルバート・ウェスカーっていうの。私があの街に来てたのは、彼の命令であなたを監視するためだったのよ」

エイダがそう明かせば、メアリーは唖然としたように彼女を見つめていた。

何故ウェスカーは彼女にエイダの事を言わなかったのか。理由として最もそれらしいのは、単純に仕事の話を彼女の前ではしなかったから、だろう。恐らくウェスカーは彼女の能力を試したくて、敢えて情報を与えなかったのだ。……と、思いたいが、これまた本当に単純な仕組みになっている。

「彼、職場ではあまり評判が良くないの。だってここに来る時に"お土産"がなかったから」

彼はアンブレラからライバル会社であるH.C.F.に鞍替えした。しかし、彼には何の強みもなかったのだ。アンブレラの情報を手土産に持ってくるかと思えば、その情報や生物兵器、ウィルスすら持ち合わせていなかった。加えてそこまで大した経歴もなく、H.C.F.内では無能呼ばわりされていたらしい。

エイダがウェスカーの下に付いたのは上層部からの命令で、彼の見張りも兼ねている。

「そんな……どうりでお仕事の話聞かないと思ったら……」

ウェスカーはプライドが高い。無能呼ばわりなど屈辱でしかなかっただろう。それをメアリーにだけは知られたくなかったのだ。

「どうする?まだあの人のところにいる?」

そう問い掛けるエイダは、暗に自分のところに来るように誘っているようにも見えた。

エイダは3年間メアリーを見続けてきて、彼女に秘めた才能がある事に気付いていた。それが今度はウェスカーの手によって開花されつつある事も分かっている。ウェスカーが何を企んでいるかは知らないが、彼女の才能が悪用される事だけは避けたい。これは上層部の命令ではなく、エイダの独断である。

しかし、メアリーは少し考えた後にその申し出を断るようにエイダを見つめ直した。

「私はもう少し、隊長のところにいたいの。隊長が何しようとしてるのか、1番近くにいれば知れると思うから……」

彼女がそう返答する事は想定のうちだった。

それこそがウェスカーがメアリーに繋いだ"見えない鎖"だった。彼は外部に企みを悟らせる事はしない。だが、隣にいればもしかしたら知れるかもしれない。その僅かな希望が彼女を縛るのだ。そしてそれに縛られたが最後、絶対に離される事はない。

彼女を救うには手が遅すぎたようだ。

「そう……残念ね」

ウェスカーの彼女に対する思惑がなんとなく読み取れた気がする。エイダは溜息を吐きながら心底、本当に残念に思った。彼がそう思ったのと同じように、エイダにとっても彼女は才能あふれる人材だ。もし勧誘に失敗したとしても彼女を媒介にしてウェスカーの情報をこちらに流してもらおうと思っていたが、彼女は真面目だ。それは難しいだろう。

「ところで、その"隊長"っていうのは何?」

しかし折角のメアリーとの時間なのだ。もう少し話がしたい。エイダは先程から気になっていたウェスカーへの"隊長"呼ばわりに単純に疑問が湧いていたので、それを会話のネタにしようとした。すると少女の表情は照れたような微笑みに変わる。

「あの人、ラクーン警察の特殊部隊のS.T.A.R.S.の隊長だったの。私、隊長だった頃のあの人が1番好きなんだ」

その蕩けた表情にエイダはようやく真に納得がいった。

なるほど。彼女が彼のもとを離れたがらないのは、鎖で繋がれている以外の理由があるからのようだ。

「へえ、ラクーン警察の。私の好きな人も警察官だったのよ」

「え!エイダも好きな人いるの?」

女子は恋バナに弱い。エイダもこうして好きな人の話を他人にするのは久しぶりの事で、あわよくば彼女の話も聞いてみたい。警察関係の相手という他にラクーンで恋に落ちたのも共通点と言えるだろう。

恋バナに花を咲かせていると注文していたケーキがテーブルに運ばれ雰囲気は更に女の子らしくなり、時間が経つのが惜しくなる程だった。

 

———

 

ウェスカーが自宅に帰ってくると珍しくリビングは電気が消えて真っ暗だった。半年前はこちらが常だったが、今は違和感がある。電気を点けてみるとソファに転がって眠っているメアリーがすぐに視界に入り、溜息を吐いた。

「帰ったぞ」

手に持っていた箱を一旦テーブルに置き、ソファに近付くとその体を揺さぶる。するとすぐに目蓋が開かれ、むくりと身を起こして目を擦っていた。朝はウェスカーより彼女の方が早く起きるので、この光景は珍しい。

「んん……隊長、おかえりなさい……」

寝起きの掠れた声。よほど熟睡していたようだ。

「あ……ご飯用意するから、先にシャワー浴びてきて……」

メアリーは寝ぼけ眼で立ち上がり、すぐに台所の方へ足を向ける。しかしウェスカーはそんな彼女を引き寄せて己が体に収めた。

「いい。俺が用意する」

慈しむように頭を撫でてから解放してやると、寝ぼけ眼だった彼女の目は驚いたように見開かれ、頬が赤く染まっていた。それを尻目にウェスカーは台所へ移動しようとする。

「……!い、いや、隊長は料理できないでしょ?」

しかしハッと我に帰った少女がそれを阻止するように彼の前に躍り出たが、彼はそれを押し退けて冷蔵庫から卵を取り出した。

「出来る。見ていろ」

一体何を作るつもりなのだろうか。メアリーが心配そうに見守る中、ウェスカーは器を用意してから卵の殻を割ろうとした。——の、だが。

「うわっ……」

バキッ!と卵を割る音らしかぬそれが響き、振り下ろした卵は無惨にも中身が台の上で潰れてしまっていた。呆れたような声はメアリーのものである。

「違うのか……」

「いや、何もかもが違うから!もう〜っ、隊長はシャワー浴びてきて!」

メアリーは無理矢理にウェスカーを台所から押しやるように脱衣所まで連れて行き、そこのカーテンを閉めた。脱衣所に押し込められた彼のシルエットは何か言いたげだったが、それに背を向けるとやがて洗面台から水の流れる音が聞こえ、それが止むと服を脱ぐ時の布擦れの音が聞こえてくる。

「……隊長」

浴室に入る直前、まだ出てこないように見張っていたらしいメアリーがカーテン越しに声を掛けた。

「お夕飯、作ろうとしてくれたのは……ありがとう」

控えめに紡がれた感謝の言葉に、彼は思わず心臓が跳ね上がる心地になる。

礼を言われたのは何年ぶりの事だろうか。途端にくすぐったい気持ちが身体中を巡り、そこにまだいるであろう彼女を振り返る。カーテンの隙間から脚が見え、彼女の肩に触れようとしたが己は既に服を全て脱いでいる事を考慮して、その手を引っ込めた。

「テーブルにあるのはケーキだ。食後に食べよう」

ふと先程そこに置いた箱の存在を思い出して言い残し、そそくさとウェスカーは浴室に入って扉を閉めた。

「ど、どうしちゃったんだろう、隊長……」

しかしようやく脱衣所の方を振り返るメアリーは奇行とも言える彼の行動に疑問を抱いていた。

 

(エイダめ、メアリーとの接触を図るとは……)

ウェスカーはシャワーを浴びながらエイダの言葉を思い返していた。どうやら彼女は昼間にメアリーと会った事をしっかり報告——もとい、自慢をしたらしい。

(たまには食事を作ってやれだのプレゼントのひとつやふたつだの、なんなんだあの女は…!)

エイダとメアリーが何を話したかは詳しく聞いていないが、ウェスカーの評判が社内で芳しくない事は話しただろう。やはりあの女を過度に信用してはいけない。

だがそれ以上にメアリーとの関係に言及されたのが気に食わない。己と彼女はそういう関係ではないのだから、何をどうしようと己の勝手である。

しかし。しかしだ。

(……だが、礼を言われたのは事実だ)

反芻するように先程の言葉を噛みしめる。

エイダは3年前と変わらず家事を担当している様子の彼女を気遣ってか、それとも単に面白そうだからか、ウェスカーに食事を作るよう提案した。他にもプレゼントや服を見繕うなどメアリーが喜びそうな事をピックアップして提案してきた。その時は適当にあしらってしまったが、そのうちのひとつを実行しようとしたところ、ああなった。

『あの子は尽くす事は出来るけど、尽くされたり何かをしてもらう事に慣れてないんだと思うの』

エイダのメアリーに対する分析を思い出す。

つまりは、そうしてやればもっと喜んでくれるのだろうか。

「はぁ……」

まただ。彼女の事を考えてしまうのは何故なのだろうか。

けれどももう、言い逃れ出来ないほどに彼女に対して愛情を注いでしまっているのかもしれない。

抱くはずがないと思っていた感情が日に日に熱を孕んでいく。気付きたくもない事実は胸を焦がしていくばかりだった。



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メアリー・ワトソンの手記 - 01

 

少しだけ身の回りが落ち着いたので、日記という程大層なものじゃないけど記録をつける事にした。私自身の思考の整理と備忘録を兼ねて、記録を残しておくのは良いと思う。さすがに隊長もこんなノートまでは読まないだろうし。思い付いた事を羅列するから支離滅裂かもしれない。

 

1週間前、私はアルバート・ウェスカーに拉致された。場所はラクーンシティ跡地。あの街は1998年に未曾有の生物災害に見舞われた。私はその災害における数少ない生存者の1人だ。この、後にラクーンシティ壊滅事件と呼ばれる事件については関連書籍を読んだ方が早いと思う。図書館にも置いてある。

アルバート・ウェスカー(私は"隊長"って呼んでる)は私を知らないところへ連れて行って検査をした。その結果が自宅のパソコンに保存してあった。

私にはT-ウィルスの抗体がある。これは3年前に私は知ってたから特に驚かなかった。一緒に保存してあった"洋館事件における戦闘データ資料"には驚いたけど。でも隊長が私を騙していた事には驚きよりもショックの方が大きかった。最初はね。今はもう平気。

隊長は1度確かに死んだらしい。アークレイ山にあったと謂われる、洋館事件の洋館で"タイラント"というネメシスのベースになった生物兵器によって。暗くて冷たい水底に叩きつけられるかのようだったって言ってた。でも隊長は事前に打ち込んだらしい未知のウィルスで蘇った。そして私の前に現れた、——これは偶然だし隊長にとっても想定外だったみたいだけど。今はそのウィルスのおかげで傷の治りも早くて力も強くなったって言ってた。そりゃ、生き返るくらいだから強くなってて当然だよね。もう人間じゃないみたい。

隊長が私を捕まえたのは私を利用するためだと思う。私が勉強を頑張ってたのは、S.T.A.R.S.みたいな特殊部隊に入りたかったからなんだけど……まんまとハメられた。全部こうなるように仕向けてたのね。

 

この生活になって1番申し訳なく思っているのはカルロスだ。カルロスはお仕事でコツコツ貯めたお金を私の学費にあててくれていた。大学の入学金を払ってくれたのもカルロスで、今私が大学にいない事を思うと本当に申し訳なく思う。3年間私に兄のように接してくれて、いつも笑顔で。私にとってカルロスは本当の兄のような存在だ。絶対言わないけど。いつかちゃんと謝らなきゃならない。きっとたくさん怒られる。

 

隊長が何を考えているのか、すぐそばにいれば知れると思う。私が抵抗せずに彼と生活しているのは信頼を得るためだ。それがきっと1番真実に近付ける。

でも隊長は生活力が無さすぎて心配になる。今までどうやって生きてきたんだろう、この人。家政婦でも雇ってたのかな。

 

———

 

隊長と戦闘の訓練をしてクタクタになる日が続いてる。

ハンドガンの扱い方だけは褒められた。ミハイルの教えが良かった証拠ね。あの人が生きていてくれてたら良かったのに。私にすごく優しくしてくれて、守ってくれた。たった数十時間しか一緒にいなかったと思うんだけど、とても仲間思いで良い人だった。すごく慕われてたと思う。隊長もそうだったのかな。あの頃の話はあんまり聞かない。

 

最近は昼間の空いた時間に筋トレもしてる。おかげでやる事がいっぱい。どれかひとつをローテーションで休まないとやっていけないな。

パソコンの方はハッキングの仕方を教わってる。ハッキングなんて犯罪じゃないの?でも、おかげでたくさんの事を知れるようになった。

隊長が今働いているのはH.C.F.っていうアンブレラとはライバル関係にあった製薬会社。死を偽装したから隊長も入り込むのにさほど苦労はしなかったみたい。ここで何をするつもりなんだろう。製薬会社を選んだのは、やっぱり研究設備が揃ってるからなのかな。じゃあ、私が検査を受けたのもこの会社の施設だったのかな。

それともうひとつ、ジルとクリスがロシアの対バイオハザードテロ組織部隊に所属している事も分かった。やっぱりこの2人はちゃんと合流して、世の中のために頑張ってるんだ。私も頑張らないと。

 

でもなんでだろう。私やっぱりまだ隊長の事が好きなのかな。

私は隊長の事を調べなきゃならない。だけど、彼と生活していくうちに人間らしいところがたくさん分かるようになった。隊長は家事があんまり得意じゃないし、お仕事から帰ってきた時の顔は疲れも見える。私に対してパパみたいに振る舞う事だってある。私のパパはアランだけなのに。でもお小言を言う隊長の姿はパパそのものって感じ。

隊長といるとなんだかあったかくなる。匂いも好き。どうしてだろう。このままじゃ利用されるだけって分かってるのに。なんだか切ないな。苦しいな。

 

———

 

今日、隊長がお夕飯を作ろうとした。すぐに止めたけど。あと、何故かお土産にケーキを買ってきた。どうしちゃったんだろう。それが1番びっくりした。ケーキは美味しかった。

今日はもうひとつびっくりする事があった。エイダに会ったんだ。とっても素敵で美人なお姉さんなの。でもそのエイダがまさか隊長の部下だったんなんて。今日はびっくりする事ばっかりよ。

 

エイダから隊長の評判が悪い事を聞いた。半年間一緒に過ごしてきてお仕事の話は確かにあんまり聞かなかったけど、確かにこれは話したくなかったし知られたくなかっただろうな。隊長って結構プライド高いから。

隊長には何の強みもなくて、お土産もなかったから評判が悪かったみたい。私にはよく分からないけど、隊長って意外と向こう見ずなところもあるのかな。

 

私は隊長の評判が悪くても、大好きなんだけどな。私には何故か優しくしてくれる。もっとぞんざいでもおかしくないのに。それが狙いなのかもしれないけど、たまに本当に心から大切にしてもらってる気分になる。どうしてだろう。私もそんな隊長に何かしたくなる。

 

エイダは私に隊長のところからエイダのところに来るように誘ってきた。でもごめんなさい、私には隊長のところにいなきゃならない理由がある。別に隊長の事が好きだからって訳じゃ、……否定出来ないのが悔しいな。どんどん本来の目的を忘れてる気がする。隊長と一緒にいられるのがなんだか楽しい。どうして?

 

隊長の目的はアンブレラを潰す事。でも彼が何を思ってアンブレラを潰そうとしているのかは分からない。

という事は、ジルとクリスと目的自体は同じって事になる。隊長曰く、U.M.F.-013の所在が分かり次第そこに2人を向かわせて陽動の役割をさせ、裏側から侵入を試みる作戦らしい。なんか隊長らしいなって思う。

でも本当に何を考えているのか分からない。ああ見えて隙がなかなかないの。何か有効な手段はないのかな。

でもアンブレラを潰す事が目的なら、私も力を貸して悪い気はしない……って思う辺り、私もまだ甘いかもしれない。

 

———

 

U.M.F.-013の所在が分かった。場所はロシアにあるコーカサス研究所。

隊長と一緒に乗り込む準備をしてる。私も一緒に行ってアンブレラの機密情報を抜き出す。その前にジルとクリスの所属する組織にコーカサス研究所の情報を流さないと。

今日はやる事がたくさんある。頑張らないと。



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2003年 - アンブレラ終焉
01.飛躍


 

雪の降る夜。アンブレラのロシア支部コーカサス研究所。

17歳のメアリー・ワトソンはアルバート・ウェスカーと共にその場所に向けて歩を進めていた。

「寒くはないか」

ウェスカーは少し後ろを歩くメアリーを振り返る。ロシアの冬は寒い。防寒対策をしっかりさせたとはいえ心配になる。

「大丈夫。こう見えて強いの」

微笑みを見せる少女の姿に彼は安堵した。さすがは己が訓練を施した逸材だ。こうでなくては困る。

今頃ジルとクリスもこのコーカサス研究所に向けて出動しているだろう。派手に出向いてもらえばこちらは動きやすくなる。そのために彼らに情報を流したのだ。

このコーカサス研究所では"テイロス計画"と呼ばれる新たなB.O.W.の開発が行われている。テイロスはタイラントをベースにコンピュータと直結したチップを埋め込み、より性能を改善させたB.O.W.とされている。循環器系や装甲も強化されており、今までに投入、運用されていたタイラントシリーズの最高傑作とも言えるだろう。そんなB.O.W.が開発されているとなれば、必ず彼らは食いつく。

これらの情報を探り当てたメアリーには感謝しなければならないだろう。勿論、褒美も与える。彼女はこうしてやるのが1番喜ぶし成長するのだ。だが、今回のそれはアンブレラの機密情報を入手し帰還してからだ。

今まで2年間手塩にかけて戦闘訓練を施し、教養を積ませた。メアリーは元々の能力が高い。これからも伸びる。今日は試験のようなものだ。

(ここにはセルゲイも潜伏している。始末せねば)

セルゲイ・ウラジミール。アンブレラ幹部にして大佐の肩書を持つ。彼はラクーンシティが壊滅する前にU.M.F.-013とテイロスを持ち出し、ここに身を移していた。幾重ものセキュリティを掛け、ここがバレないように画策していたが長い時間を掛けてメアリーはそのセキュリティを破り、情報を得たのだ。その手腕はウェスカーの想像を遥かに超えていた。

「隊長、何処から侵入する?」

工場を模した研究所の前まで辿り着き、メアリーが辺りを見回すのを横目にウェスカーは裏手へ回るように再び歩み始める。恐らくこの行動もセルゲイは監視している。ならばそれを利用して炙り出せばいい。

「着いてこい」

手招きするとメアリーは彼の元に小走りでやって来る。

しかしそれを見て、ウェスカーは何を思ったか辿り着いた彼女の体を片腕で引き寄せて抱き締めた。そのぬくもりを享受するように背中に回した手でそこを撫で、彼女の頭に頬を寄せる。

「隊長…?」

彼の腕の中で、メアリーは戸惑ったような声を上げた。それに構わずウェスカーが目を伏せるのを見て、彼女も少し考えた後に彼の背中に両腕を回す。

「大丈夫よ」

ウェスカーは無意識にメアリーを失う可能性を考えて恐怖を感じたのだろう。少なくとも彼女はそう解釈した。

彼は死ななくても、身体的に脆い彼女は致命傷を受ければ当然死んでしまう。今から赴くのは戦場だ。何かの拍子にそうなる可能性はいつ如何なる場面でもあり得る。

「……そうか」

守ってやるのも限度がある。そのために施した戦闘訓練だ。なのに何故不安に駆られるのか。

体を離し、名残惜しげにその小さな両肩に手を置いて彼女を見つめる。まだ己から見れば幼い少女なのだ。教えに自信がないわけではないが、もし万が一の事があれば己は——あの時、己を抱いて泣いた彼女のように、己も泣くのだろうか。

「さ、行きましょう。早くしないと乗り遅れるよ」

彼の様子とは反対に、メアリーは拳を握って気合を入れている。

感傷に浸っている場合ではない。ウェスカーも思い直すと侵入出来そうなルートを探るために再び歩き始めた。

 

裏手にあった施設直通のケーブルカー乗り場に辿り着くと、そこは既に汚染区域だった。事前にH.C.F.の工作員にT-ウィルスを撒くように命じている。しっかりと役目を果たして退散したようだ。

T-ウィルスに侵されたこの場所はいるだけでも危険を伴うが、2人にはウィルス抗体がある。感染の心配はない。

「やはりその銃を使うのか」

ウェスカーはメアリーの構えるハンドガンを見る。彼女は彼が支給した武器も使うが、今構える年季の入ったハンドガンだけは頑なに譲らなかった。

「これは私の大切な人の形見なの」

"大切な人"。彼女が発した単語に思わず彼の眉がピクリと動く。

「前にも話したでしょ?ミハイルの銃なの。私を守ってくれた」

「分かっている。もういい。それが手に馴染むなら使っていろ」

ミハイル・ヴィクトール。U.B.C.S.のD小隊隊長だった男の名だ。その死は勇敢なもので、ネメシスを相手に自爆特攻を試み、見事一時的な行動不能状態にさせた兵士であり、まだ12歳だったメアリーをあらゆる恐怖から守ってくれた、そのように聞いている。たった数十時間を共にしただけなのに、彼女の記憶に英雄として名を残しているその男に嫉妬を覚えたのは事実である。

そしてそれはジル・バレンタイン——ウェスカーの宿敵でもある彼女にも言える。

「もう、こんな時に拗ねないでよ」

メアリーの言う事は尤もである。いつからだろう、このような感情を無意識に抱くようになったのは。

 

そうしていると微かに呻き声が聞こえ、2人してハンドガンを構えた。注意深く周囲を見回しながらゆっくりと前進すると、案の定T-ウィルス感染者——もとい、ゾンビが顔を覗かせ、それを皮切りにワラワラとゾンビ達が蠢き始める。

「メアリー、カバーを頼む」

「了解」

その数は決して多くはないが、他にも何かが蠢く音が聞こえる。そう、T-ウィルスに侵されるのは人間だけではない。

ウェスカーは天井から降ってくる酸のようなものを視界に入れるとそこを見上げる。

「メアリー、上だ」

ゾンビの掃討を試み射撃を続ける傍ら、後ろを守る彼女に指示を出せば、彼のものではない銃声の直後に巨大な蜘蛛が目の前に降ってきた。

「うえっ…!?」

「怯むな、撃て!」

虫が得意ではない彼女からしたら気持ち悪い以外の何物でもないだろう。しかし、それくらいで銃撃を止めるのであればこの先は厳しい。無論、そのように教育した覚えはないが。ゾンビと蜘蛛のような虫や動物類では急所に高低差があり1人では対処しきれない可能性がある。それを見越して彼女を連れてきたのだ。

背後からの銃声の後にぐにゃぐにゃとひっくり返りながら8本の脚をバタつかせる蜘蛛。しっかり討ち取る事が出来たようだが、彼女の唸り声が聞こえて心の内で溜息を吐いた。歳相応なのも考えものである。

「前方からリッカー、感染者。まだまだ来るぞ、気を抜くな」

「り、了解!」

まだ何も進んでいない。ここで己の計画を頓挫させるわけにはいかないのだ。そのためには多少気持ち悪いクリーチャーが相手でも彼女には頑張ってもらうしかない。ウェスカーは目の前の敵の掃討を、メアリーはそのバックアップを行いながら前進を続ける。

「ッ!!」

刹那、何かがメアリーの左腕を掠めた。ヒュッとした鋭く空を裂く音はたちまちに彼女のコートの袖部分に赤黒い染みを広げさせる。

「こっ…のぉ!!」

すかさずウェスカーは振り返り、スタングレネードのピンを抜いて切り裂き魔の正体——ハンターに投げつける。メアリーを引き寄せ己の体で目と耳を塞げば弾けた光と音が周囲を包み込み、その隙に少女の体を抱え上げ一目散にその場を走り抜けた。

「こいつを使えば施設へ行ける」

ケーブルカーが1台止まっているのを見、その中に滑り込めばすぐにそれを発車させる。ロビーに溜まる感染者とクリーチャーは追うように手を伸ばしていたが、やがてトンネル内に差し掛かれば見える事も追われる事もなかった。

 

「ごめんなさい、隊長……」

車内の安全確認を終えてすぐにメアリーの傷の処置に取り掛かった。幸い傷は深くないが、柔らかな肌に刻まれたそれは痛々しい。

「謝るな。動かせそうか?」

包帯を結び終え、そこを軽く撫でるとピクリと震える。

「……我慢する、頑張る」

彼女は気丈に頷いて衣服を整え始めた。

己が付いていながら彼女に怪我をさせてしまった。胸の奥に燻るようにモヤが掛かるのはそんな申し訳なさからだろうか。コートを着込んでからハンドガンにマガジンを再装填するメアリーを、ウェスカーはジッと見つめる。

彼女を足手纏いだとは思わなかった。討ち漏らした敵を処理する彼女のサポートは的確で、ハンターの件がなければ強行突破せずともケーブルカーまで行けたはずだ。——いや、そもそもスタングレネードを消費しなくても良かったはずだ。何故己はそのまま彼女を戦わせなかったのか?

「! 隊長、前!」

その声にハッと意識を戻す。前方を見るとトンネルが終わるところだったが、様子がおかしい。慌てて非常ブレーキを掛ければ、ケーブルカーはけたたましいブレーキ音を響かせながら停車を試みる。

「!!」

グワッと車体が揺れた。そのままグラグラと不安定に揺れ続け、ウェスカーがメアリーを連れてケーブルカーを降りると車体の半分ほどがレールの敷かれた床を離れ宙に浮いていた。

「何ここ……最初から落とすためのものだったの?」

メアリーが下を覗くと吹き抜けのようになった空間にいくつものフロアがあるのが見え、ここはその中でも1番上のかなり高い位置だった。

「いや、違うな。床がリフトのように上がってくる仕組みだ。今は機能しないようだが」

ウェスカーも同じように下を覗く。底は奈落のように暗く、目を凝らさなければ見えないが1番下の床にケーブルカー用のレールがあるのが微かに見える。こういった設備はアンブレラでも各施設に採用されているが、メアリーは恐らく初めてだろう。動く場面を見せれば目を輝かせるのであろうが、生憎と電源が落ちているようだった。

「仕方がない。ここは自由落下で行く」

「えっ?」

彼女の好奇心を満たす他にも安全に降下するためには必要な設備だったのだが、動かないのなら自力で降りる他ない。

ウェスカーはメアリーを抱え上げると改めて下を確認する。この高さから落ちても己は死なないし怪我もほぼ心配ない。メアリーの事もこのように抱えていれば問題ない。

「まっ、待って隊長!私フリーフォールは無理!無理だってば!」

しかし彼女は事情が違うようでギュウッと首元にしがみついてきた。途端に首が締まり思わず「うぐっ」と声が漏れ出る。

「やめろ苦しい!現状それが1番速く降りられる手段だ!」

「無理ー!!無理なの!!」

「このっ…!」

単純に邪魔だ。あまり暴れられるとこちらも安全を保障できない。先程まであんなに頼りになる存在だったのに、まったくこいつは己の想像の域を軽々と越えていく女だ。

ウェスカーは必死に抵抗するメアリーを今度は暴れないように横抱きに抱え直すと、彼女の後頭部を手で押さえて己の首元に顔を埋めさせる。ほんの一瞬、大人しくなった隙をついて軽く跳躍し、奈落の底へ向けて急降下を始めた。

「——ッ!!」

メアリーの声にならない絶叫としがみつく手に力が籠るのをすぐそばに感じる。それ以外は何の障害もなく無事に奈落の底に着地し、彼女を降ろして先に進もうとしたが不意に背後から抱きつかれてウェスカーも立ち止まる。

「怖かったんだけど……!」

背後からなので表情は分からないが、メアリーは恐らく声音からして拗ねたような顔をしているのだろう。その様子に彼は呆れたような溜息を吐いてから上半身を捻りその頭を撫でてやった。

こんな事で怖がるようでは困る。だが人によって得手不得手があるのは当然の事で、彼女にとってはたまたまこれが苦手だっただけだ。

(フリーフォールの訓練も積ませるか…?毎回これでは面倒だ)

しかしそれも事実である。彼女を更に優秀な人材にするには時には心を鬼にする事も必要だ。勿論、今までも甘やかしていたわけではないが。

 

そこにコツリと第三者の足音が響き、2人は互いに身を離すとそちらに顔を向け素早くハンドガンを構える。

「ようこそ、アルバート・ウェスカー同志。早々に見せつけてくれるではないか」

そこに現れたのは銀髪をオールバックにし、右眼に傷を負った黒いコートの男だった。彼は2人と同じようにハンドガンを構えながら奥のフロアからこちらに歩み、後方にいるメアリーを覗き見て口元に笑みを浮かべる。

「そこにいるのはメアリー・ワトソン、君だな?」

男の口から彼女の名が躍り出て、2人はピクリと反応を示す。

「何故?という反応だな。ニコライ・ジノビエフという名の男に心当たりはあるかね?」

再び男の口は予想外の人物の名を紡いだ。その名にメアリーはビクッと肩を震わせる。

「ど、どうして……」

ニコライ・ジノビエフ。5年前、ラクーン事件の最中にメアリーを誘拐しアンブレラに売り渡そうとした男の名だ。ニコライは彼女の恐怖心を極限まで煽り、追い詰めてからその手中に収めた、彼女の記憶の中で思い出すのも憚られる悪魔のような男であった。

「私とニコライは旧知の仲だったのだよ。君の事は事前に聞いていてね……どうやら良い逸材に恵まれたようだな、同志よ」

その男と同じ銀色の髪を持つ彼は今度はウェスカーに顔を向ける。ウェスカーの表情はサングラスに阻まれて読み取れないが、僅かに眉間にシワが見えメアリーを背に隠すように立ち回った。

「彼女の事は今はどうでもいい。まだ沈みかけの船にしがみついているとは……セルゲイ、貴様も落ちたか」

ウェスカーの物言いにセルゲイと呼ばれた男はフッと鼻を鳴らして笑う。

「アンブレラは沈まんよ。苦難も、罪も、痛みと共に新たに生まれ変わる。貴様にはその至福は理解出来ぬだろう」

セルゲイのアンブレラへの忠誠心は群を抜く。だからこそ最強のB.O.W.であるテイロスを任されている。そして彼の強みはそれだけではない。

「ふふ、私にはニコライ以外にも旧友達がいる。紹介しておかねばならないな」

セルゲイが合図を送ると同時に、彼が出てきたフロアから白いコートにゴーグルを付けた巨人が姿を現す。

「旧友"達"……」

ウェスカーが引っ掛かりを覚えた単語を呟くと同時に背後からも足音が聞こえ、彼の一歩後ろにいたメアリーがそちらに銃口を向ける。そこにはやはり今しがた登場した巨人と同じ風貌の巨人がこちらににじり寄ってくる姿が見え、彼ら2人はウェスカーとメアリーを取り囲むように周囲を回る。

「イワン。この場は頼んだよ」

イワンと呼ばれた巨人達は仏頂面を保ちながらも、この場を去るセルゲイをチラリと視界に入れるように顔を一瞬だけそちらに向けた。

「ロシアはいいところだ。眠りに就くのにもな」

セルゲイはそう言い残して元来たフロアの奥へと再び姿を消した。

「ねえ、あの人って……」

メアリーが背後にいるウェスカーに尋ねようとした。が、その直後イワンが一撃を喰らわそうと拳を振り上げながらこちらに突進を仕掛けてくる。

「わぁっ!」

それを寸でのところで少女を小脇に抱えたウェスカーが躱し、距離を取り直す。

「その話はアレらを片付けてからだ。1人はお前に任せる」

ちょうどこちらも2人。メアリーの技量には心配も残るが、戦えない相手ではないはずだ。ウェスカーは後ろ手にスタングレネードを3個ほど彼女に手渡し、イワンの1人を引きつけるように移動を始める。

「えっ、そんな…!」

渡されたスタングレネードを手におろおろとメアリーは彼を見たが、重厚な足音が聞こえそちらに視線を恐る恐る向けると案の定もう1人のイワンがこちらを見下ろし——、

「うわっ!!」

指を組んだ両手を振りかぶった、その一瞬の隙をついてメアリーは身を屈めながら左に転がって避けた。ハンマーのような一撃のそれは床に穴が空くほどの威力であり、5年前に遭遇したネメシスのような怪力を思い出してサッと血の気が引く心地になる。

「ヤバいけど……や、やるしかない…!」

しかしウェスカーにいつまでも頼るわけにもいかない。メアリーは覚悟を決めてハンドガンを構えた。



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02.二人

 

衝撃を吸収する白いコートはいくら銃弾を撃ち込んでも当然ながらびくともしない。メアリーは考えた末に巨人——イワンの頭部への射撃を試みるが、図体の割に動きが素早くなかなか弾が当たらない。

「うっ!」

加えて攻撃もパワフルなもので、たった一撃喰らっただけでも致命傷になりかねない威力であった。今振りかざされた拳もブンッと重々しく空を裂く音が耳を掠めて戦慄する。

(スタングレネードを使うにしても、あのゴーグルのせいで目眩しにはならなそう……)

先程ウェスカーから受け取ったスタングレネードは腰のホルダーに装備しているが、使うタイミングを誤れば無駄に消費するだけだ。イワンの目元を覆うゴーグルは個体を識別するかのような青色をしており、彼の瞳を視認する事は出来ない。あれではスタングレネードの光はその双眸を眩ます事は出来ないだろう。

(考えろ、考えろ…!戦いながらでも考えろ!)

イワンは武器を持っておらず、接近されなければ攻撃はされない。まずは距離を置く事だ。隙を見せないよう後退しながら距離を置こうと試みるが、背後から伸びる影が見えて思わず息を呑む。

「メアリー!!」

ウェスカーの声が聞こえると同時に素早く右に避けると、再びあの重々しい拳を振りかざす音が聞こえゾクッと背筋が凍えた。

「……!!」

その音の正体は赤いゴーグルを装着した、ウェスカーが相手をしていた方のイワンの拳だった。彼らは咄嗟の回避にバランスを崩して床に腰を落としたメアリーを静かに見下ろし、彼女に迫ろうと一歩を踏み出す。しかしそれを阻止するかのように銃声が2つ響き、彼らはそちらを向いた。

「…………」

ウェスカーは無言で彼らを引きつけるかのように駆け出す。跳躍して壁を蹴り、それを繰り返して高い位置に体を浮かせれば、逃走に見せかけた誘導にまんまと乗ったイワン達もまた同じように壁を蹴って一目散にウェスカーに突っ込むように空へと身を投じる。

「撃ち落とせ!」

声と共に再び銃声が響く。それは2つの頭を直撃し、見守っていたメアリーもその言葉にハンドガンを構えた。落下していくイワン達は先程よりかは狙いがつけやすい。

(これで…!)

今度は己の持つハンドガンが火を吹いた。発射された銃弾はイワンの頭に的中し、その巨体が2つ、床に打ち付けられた。

「やったの…!?」

倒れ伏したイワンに思わずそう言葉が漏れた。

イワンより一拍遅れて床に着地するウェスカーは訝しげにその巨体を一瞥したが、やはりズルリと立ち上がるそれらに溜息を吐く。

このイワンと呼ばれる者達もまた、"タイラント"をベースにして作られた生物兵器だ。これくらいで倒れるようでは商品にもボディーガードにもならない。それはメアリーも理解しているようで再びハンドガンの銃口を彼らに向けていた。

タイラントはアンブレラ製の生物兵器の中でも最高傑作と云われる程の高い性能を持っている。ラクーン事件の最中、ジルやメアリーを追い回したであろう"ネメシス"のベースでもあり、彼女も既視感を覚えただろう。

そしてそのタイラントにもまた、ベースとなった人物が存在する。

(ここで時間を潰すわけにはいかない。こいつらはまとめて相手にする方が効率がいいかもしれん)

その人物を追うためにも彼らをどうにかしなければ。ここで片付けないと後々厄介な事になりそうだ。

ウェスカーはメアリーの元に駆け寄るとそこに並ぶ。

「作戦変更だ。なるべく俺から離れるな」

己が相手をしていた赤いイワンは後ろが無防備だったメアリーを排除しようと動いた。更に言えばその直後、赤と青は同時に彼女に近付いた。つまり、少なくとも弱者を見分け能動的に始末するだけの知能が搭載されている。先程のように気を逸らせばこちらに攻撃を向けさせる事も出来るが、毎回そうするのは骨が折れる。

恐らくイワン達はメアリーの方が弱いと学習した。彼女を1人で戦わせるのは危険だ。しかし彼女は一歩前に出てイワン達を見据える。

「ううん。私が囮になれば、隊長は攻撃しやすくなるはずだよ。あいつらネメシスより頭良さそうだし、私の事をもっと攻撃するはずでしょ?」

「しかし…!」

ウェスカーは彼女の提案に躊躇した。確かにターゲットにされている彼女を使って誘導すれば、その隙に己が攻撃を仕掛けてダウンを狙える。隠れられる遮蔽物はないが、吹き抜けになっているこのフロアには本来リフトを使って行く事が出来る空間がある。リフトが動かない今、普通はそこまで移動は出来ないが己の脚力なら可能であり、そこから狙撃すれば彼らの目を欺く事も出来る。2人付きっきりで移動して戦うよりは有効だ。そう理解しているにも関わらず、ウェスカーはそれを躊躇していた。

もしメアリーに何かあったら。ここで大怪我を負えば退却か捨て置くかの2択しかなく、後者を彼は最初から除外していた。だからと言って退却も有り得ない。

 

「隊長、私を信じて!」

 

突如響いたその声がウェスカーを連れ戻した。正面からはイワン達が迫ってくる。隣を見るとメアリーが決意を込めた目でウェスカーを見つめていた。

「……やるなら上手くやれ」

決断までの猶予がなかった、などと己はまた言い訳をするのだろうか。跳躍し、壁を蹴ると壁に空いた空間に着地する。下に見えるメアリーは2人のイワンの攻撃を回避し、距離を保つように駆け出していた。

(あのゴーグルさえ外せれば、スタングレネードが通る!)

メアリーが引き受けたのは囮だけではない。手っ取り早くダウンを取るには先程預かったスタングレネードが1番有効だ。しかしイワン達の身体能力は高くなかなかゴーグルを外す隙が見つからず、加えてゴーグルは銃弾を通さないようで当てても破壊する事は出来なかった。

(必ずチャンスはある!)

それでもメアリーは諦めなかった。

ちょうど向かいにいるイワン達は二手に分かれるとメアリーを取り囲み、威圧するように周囲をぐるりと回る。ハンドガンを握る手にじっとりと汗が滲むのをグローブ越しに感じる。じりじりと片方に背を向けないよう立ち回り、攻撃を仕掛けてくるタイミングを見極める。

それは程なくして訪れた。イワン達は彼女までほんの数メートルというところまで旋回しながら距離を縮めると一気にその差を埋めようと床を蹴る。振りかぶるのはあの致命打になりかねない拳、それはメアリーの左右でまさに繰り出されようとしていた。

「!!」

しかし、そこで彼女の姿が消えた。いや、消えたのではなく身を屈めて拳を回避し、更にその状態から転がってイワンの板挟みから逃れたのだ。

直後、ガツン!と背後から硬い物同士がぶつかる音がして振り返ってみると、イワン達が互いの頭を打ち付けて膝をついていた。

「はッ!!」

その低くなった頭を掠めるように蹴りを繰り出すと青いイワンのゴーグルが巨体の頭から離れる。

「んッ!!」

そのまま蹴り上げた脚を踵を落とすようにもう片方の頭にも振り下ろすと赤いイワンのゴーグルも外れ、次いで顔面から床に突っ込まれる。

「ほう……」

その様子を静観していたウェスカーは思わず感嘆の息を吐く。ぐしゃぐしゃと落ちたイワンのゴーグルを容赦なく踏み砕くメアリーの姿は怯えきった少女の姿ではなくなっていた。

わざわざ己が手を下すまでもないだろう。ウェスカーはそう判断すると手近にあった鉄パイプを引き抜いて彼女の足元目掛けて放ってやる。それはすぐに金属音を響かせて床に落ち、彼女はそれをお誂え向きの武器だとでも言わんばかりに拾い上げた。

「隊長!ちゃんとやってね!」

「…………」

メアリーがこちらを向いて鉄パイプを振り上げている。このままリミッターを解除したかのような彼女に任せてしまおうと思ったが、ちゃんと読まれていたらしい。

その背後からむくりと起き上がったイワン達が再び彼女に拳を振りかざしたが、それを前に駆け出す事で避ける。彼女を捉えるゴーグルが外れた厳つい双眸は一目散にその姿を追い始める。

「わっ!!」

次の瞬間、少女の体が宙に浮いて高く昇った。突然の事に目を瞬かせると、囁くような声が聞こえてハッと息を呑む。

「スタングレネードだ」

その指示に従うようにスタングレネードのピンを抜き、まだ床の上にいるイワン達に投げつけるとたちまちに溢れんばかり光が下に見え、それに近付くように体は落下を始める。

「うわわわ…ッ!!」

ここに来た時のような浮遊感がメアリーを支配したが、ぐっと力を込めて押さえられた体はぬくもりを感じて幾分安心感があった。

「お手柄だな、メアリー」

そうして床の上に戻ってくるとすぐに体を下ろされる。メアリーを上空に攫った張本人であるウェスカーは閃光で目を潰され身悶えるイワン達を見てフッと鼻で笑った。

「所詮はお人形だ。俺が育てた者に勝てるわけがない」

確かにタイラントには知能も備わっている。だがそれも不完全で人間のように柔軟に対応する事は出来ない。

メアリーは確かに不慣れな事に対して最初は弱いが、彼女の強みは順応力の高さだ。あのラクーンシティ壊滅事件を生き残った彼女は、もっと壮絶なシーンを数日間身をもって体験している。彼女にとってあれ以上の悲惨な光景はないだろう。

そう。あの事件を凌駕するような体験でもない限りは彼女は臆する事はない。

「殺るぞ」

ウェスカーはマグナムをホルスターから抜きイワンに近付く。それを見たメアリーも鉄パイプを構えながらもう一方のイワンと距離を詰める。

銃声と殴り潰す音が吹き抜けのフロア内に響く。動かなくなった人形を見下ろす双眸は、彼の思う通りに成長した証でもあった。

 

———

戦闘訓練をこなしていくうち、己にも戦闘技術はあった方がいいと思った。その方がもっと彼の近くにいられるし、将来的にジル達を助ける事も出来るからだ。メアリーはそう考えていた。

彼から逃れる道はない。あるとすれば、己が役立たず、あるいは用無しだと判断された時である。しかしそれでは目的を果たせない。

(いや、目的が口実になっていたりして……)

ふとそんな思考が過った。己はウェスカーの目的と動向を暴くために彼の隣にいる。しかし、時々それを忘れている時がある。

たとえ仮初であろうとも、彼の与えてくれる愛情が嬉しかったからだ。己が受けていた愛情は、ほぼ全て失ってから気付いたものだった。その虚しさを埋めるような愛情が、嬉しかったからだ。

(カルロスと暮らし始めた時もそうだった。ガサツだったけど嬉しかったな。でも……)

カルロスは次第にメアリーの学費や大学への資金集めに奔走するようになった。勿論、それも愛情のうちのひとつである事は理解している。だが結果的に彼は日夜仕事に明け暮れ、メアリーと接する機会は同居していながら減っていった。まるで、父親と同じように。

ウェスカーは違う。時間をわざわざ作り、メアリーを育てるために教養を自らの手で積ませている。忙しさにもよるが、夜は一緒にいる事が多い。

歪んでいたとしても、それは彼女にとって嬉しい事だったのだ。

 

そんな己を、どこかで蔑んでもいたが。

———

 

(隊長、私を心配して一緒についてくれようとしたのかな)

イワン達に標的にされた際、己が弱いから先に始末しようと彼らは判断したのだと思った。メアリーからすればそれは格好のチャンスであり、ウェスカーからしてもこれほど都合のいい事はなかったと思う。だが実際に彼が取った行動は、メアリーを庇いながら戦うというものだった。

やるなら上手くやれと託された時に張り切った己がいた。それは彼に認められた証拠でもあったからだ。

前を悠々と歩くウェスカーの背は己が守ろう。しかし敵は既に倒れているものばかりで、それが誰の仕業なのかは予想がついていた。

「クリス達はしっかりと陽動してくれているようだな」

おかげで手間が省ける、とウェスカーは笑っていた。いつの時も、クリス達は彼の期待を裏切らない。それはきっと洋館事件の時も同じだったのだろう。だが、クリス達は時に障害でもあった。

「この場においては感謝しなければならない。そうだろう?メアリー」

彼は後ろを歩くメアリーを振り返る。彼女は神妙だった顔を上げて頷いた。

「ジルが心配か?」

そんな様子を察してか、ウェスカーは小首を傾げてみせる。彼女にとってジルは幾度となく危機から守ってくれたヒーローだ。恐らく大人しく戦闘訓練を受けていたのもゆくゆくはジルの力になりたかったからだろう。確かに、彼女の戦闘技術はあの2人にこそ劣るものの補佐としては十分だと評価している。

「クリーチャーの死体はおびただしい数だった。見て、ここにもこんなに大量のハンターが」

メアリーが指差すのは山のように積もったハンターの死体だった。これを2人だけでやるのだから素晴らしい。

「ああ。お前の"英雄"はご立派だな」

それは皮肉なのか称賛なのか。それとも嫉妬か。

ウェスカーは一旦メアリーにここに留まるようにと言い置いて歩を進める。行き止まりのこの空間をぐるりと見回していると、突然床がガコン!と音と振動を響かせる。次いで天井が徐々に遠くなっていくを見て、この床がリフトなのだと気付いた。

「どうやらこの研究所は相当地下まで潜るらしい。念入りな事だ」

リフトに降りてきたウェスカーはメアリーの隣でハンドガンのマガジンを再装填し、マグナムにも弾を込めていた。

「何重ものセキュリティが掛けられていたのも、この場所自体が切り札だったのかもね」

U.M.F.-013は勿論だが、この施設の情報自体も普通にしていては得られないものだった。アンブレラのサーバーの中でも最も深層部分にあり、更にそこには一筋縄では解けないセキュリティが掛けられ、何かが常に監視しているかのようでもあった。

「よくやれたな」

「結構神経使ったよ」

恐らく監視していたのは"レッドクイーン"と呼ばれるコンピュータであり、"彼女"は洋館事件のあの日、ウェスカーからあらゆる情報のアクセス権を剥奪した。その"レッドクイーン"も恐らくこの研究所にある。セルゲイと一緒に。

どの道セルゲイの存在は無視出来ない。彼とはまた対面する事になるだろう。

地下へと深く誘うリフトは、彼らを真実に導きつつあった。



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