まほうつかいのおしごと! (未銘)
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2000年~2014年
#001 将棋が結ぶ縁


 もしも生まれ変わったら。なんて益体もない妄想に囚われた経験が、誰しも一度や二度はあるだろう。子供の頃、もっと頑張っていれば。あの時、別の選択をしていれば。無意味と理解はしていても、そうした願望を捨てきれないのが人間だ。

 

 彼もまた、昔に戻れたら、と後ろ髪を引かれる事が度々あった。

 

 その時に思い浮かべるのは、いつだって将棋の事だ。小学六年から始めた将棋は、幸い才能があったらしく、大学卒業を前にプロ棋士の肩書きを与えられるほど。しかし、だからこそ、もっと早くに将棋と出会えたならばと、後悔の澱が胸の奥に溜まっていた。とはいえ所詮は戯言に過ぎず、己の未練がましさを鼻で笑うしかなかった。

 

 ――――――実際に生まれ変わってみるまでは。

 

 いつ死んだのか、なぜ死んだのか。そんな事は記憶の片隅にすら残っていなかったけれど、ベビーベッドから母親を見上げる赤子は、当然のように自身の前世というものを認識していた。そこに混乱がなかったと言えば嘘になるが、現状を受け入れてしまえば、彼の興味はあっさりと将棋に移ってしまった。彼は将棋バカと呼ばれる人種なのだ。

 

 今生では御影(みかげ) (みなと)と名付けられた彼の将棋人生は、少なくとも初めて将棋を指すところまでは順調だったと言えるだろう。前世で培った将棋知識はなんら欠ける事なく残っていたし、自分が指した棋譜だって細部に到るまで思い出せた。脳内将棋盤でかつての将棋人生をなぞってみれば、これが同じ人間かと驚くほどに新たな妙手が思い浮かび、何手先でも見通せそうなほど読みが冴える。未だ両親と自宅の中しか知らぬ身であっても、その目に映る未来は明るく感じられた。

 

 初めて実物の将棋に触れられたのは、三歳の誕生日でもある元旦のこと。新年の挨拶に赴いた祖父の家には、随分と立派な将棋盤が置いてあった。無邪気を装って興味を示せば、祖父は嬉しげに反応する。話の流れでルールを教わり、今生での初対局に臨んだ彼は――――――、

 

 その日の夜に、プロ棋士の道を諦めた。

 

 昼の対局は勝利を収めたし、祖父には才能があると喜ばれた。そこだけを切り取れば想定通りの結果であったが、問題は対局内容で、それを指した彼自身だ。どうにも自分の頭が可笑しくなっていると、何度か繰り返した対局の末に、彼は認めざるを得なかった。

 

 端的に言ってしまえば、異常としか言えない能力が備わっている。

 

 一つは将棋の棋譜がわかる能力。自分が望む条件に見合ったあらゆる棋譜が、瞬時に頭に浮かぶのだ。対局中なら勝利に繋がる無数の手順が思い浮かぶし、より優勢で勝ちやすい手順がどれかも把握できてしまう。およそ人間では処理しきれない情報のはずだが、何故か理解できるのだ。

 

 一つは相手の読みがわかる能力。現在の盤面に対して、相手の考えている読み筋が読めるというもの。無意識レベルすら読めてしまう上に、それらのどれを重視し、どれを軽視しているのかまで伝わってくるのだから、将棋限定の読心能力と呼んでも差し支えないだろう。

 

 およそ神の戯れとしか思えない超能力の類で、どちらか一つでも強力に過ぎるのに、合わされば無敵と言っても過言ではない。相手の構想に合わせて、最も勝ちやすい手順を選ぶだけ。自分では何も考えずとも、異能に従って棋譜を並べれば、それだけで勝利は約束される。

 

 思索も探求もないそれは、はたして将棋と呼べるのか。違うだろうと、彼は否定する。これが幼子の妄想であればよかったのだが、検証を重ねるほどに、ただ確信が深まるばかり。

 

 故にプロ棋士の道は諦めた。勝負の世界に、楽しい未来を見出せなかったから。

 

 

 ■

 

 

 御影湊として生を受け、八年。肉体的には健やかに成長し、地元の小学校にも通い始めた彼は、将棋の対局が日課となっていた。将棋道場『ことひら』。資産家の祖父が道楽で経営するそこが、放課後の彼の居場所だった。

 

 プロ棋士になるつもりはないが、だからといって将棋をやめるつもりもない。半ば意地で将棋を指し、連勝記録を伸ばす度に、己の将棋を嫌悪する。対局を意識するだけで頭の中に浮かぶ必勝の道筋は、なんとも余計なお世話だが、わざと勝ちを譲るのも違うだろう。

 

 懊悩する湊に道を示したのは、何気ない祖父の一言だった。

 

 ――――――最近強くなったと言われたが、お前と指しとるお陰かな。

 

 誇らしげな呟きに、ふと気付く。自分の将棋にばかり気を取られていたが、思い返してみれば、たしかに祖父は棋力を上げていた。もちろん昨日今日の話ではなく、対局を重ねる度に、徐々に。将棋指しとしては至って普通の事なのだが、この時の湊にとっては目から鱗の事実だった。

 

 己の将棋は退屈で、そこに価値を見出せない。だが相手の将棋は違うのだと、そんな当たり前の事を見落としていた。自分との対局を経て、相手の将棋が成長するのなら、そこには価値も意義もあるだろう。であれば、己が目指すべき道となり得るのではなかろうか。

 

 想像してみると、それはとても楽しい事のように感じられた。

 

 相手が見落とした手はわかる。読み間違えた手もわかる。勝利に必要な手も、わかってしまう。だがどうすればその人が成長できるのかは、わからない。自分が指した手に、伝える言葉に、何を見出すのかは相手次第だ。

 

 だからこそ、好奇心を掻き立てられる。普通の人には見えない世界が見えるなら、普通とは違う事を教えられるだろう。その先に相手が辿るのは、はたして如何なる道なのか。霧の彼方に潜んだ数多の可能性が、沈んでいた湊の心を湧き立たせる。

 

 それからの対局は新鮮だった。道場の常連に対局をねだっては、相手の棋力や棋風を読み解き、課題や伸びしろを考える。時に助言し、時に対局し、相手の成長を促した。けれど人間は複雑で、まるで思い通りにいってくれない。それでも手探りながらに経験を重ねれば、徐々に辿るべき道が見えてくるから面白い。

 

 若先生と呼ばれ始めたのは、いつからか。道場内で負け知らずという事もあったが、指導対局と思ってあれこれ口を出す内に、常連の間では若先生の呼び名が定着していた。やたらと強い子供の噂を聞いて訪ねてくる客も現れ始め、その日の出会いも、そういう手合いの一つだった。

 

「こんにちは。君が噂の『若先生』でいいのかな?」

「はい、こんにちは。たしかに常連の皆さんにはそう呼ばれています」

 

 将棋道場『ことひら』には、日中、誰も座らない席がある。広い空間の中で入り口の対角に位置するその席は、放課後になると訪れる湊の指定席だ。かつては彼を座敷童と呼び、ひっきりなしに対局を挑んできた常連客たちも、最近は様子を窺うようになっている。それは何か将棋の研究を始めたらしい彼への気遣いでもあったし、強過ぎる彼の相手を席主が選別し始めたためでもある。

 

 だからこそ、自分に話し掛けても横槍がない目の前の人物は、それなりに名の知られた存在だと湊は判断した。性別は男性で、学生ではないだろうが、三十を超えているとも思えない。柔和で端正な顔立ちは印象に残りそうなものだが、生憎と湊に心当たりはなかった。

 

「一局いいかな? 前に指した人から話を聞いて、ずっと気になっていたんだ」

「かまいませんよ。今日は他に約束している方も居ませんから」

 

 駒落ちなしの平手戦。持ち時間は十分。振り駒で先後を決め、どちらともなく頭を下げる。

 

「それじゃ、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 

 湊の7六歩から始まった一局は、二十手を数える頃には居飛車の相矢倉が形を成し始めていた。居飛車の矢倉は人気の戦法で、この道場でも好んで指す者は少なくない。つまり湊にとっても対局経験の多い盤面であり、故にこそ相手の際立った実力を感じ取れた。

 

 相手が盤面に向ける読みの幅、深さ、速さ。いずれも今生で対局した相手の中では飛び抜けている事を、湊の能力は正確に読み取っていた。プロか、あるいはアマのタイトル保持者か。どちらの可能性もあり得る程度には優れた指し手だ。事実として激しい叩き合いに移った局面においても、未だ目立ったミスは見られない。

 

 とはいえ結果は決まっている。いかに優れた指し手であろうと、あらゆる盤面を読み切る湊の優位は崩れない。終盤を迎えてほどなく、男は自らの金を動かした直後に唸った。

 

「……この手じゃ届かないか。負けました」

 

 悔しげに頭を下げた男だったが、再び上げられた顔は晴れやかだった。

 

「凄いな君は。正直に言うと勝つ自信はあったんだが、うまく凌がれてしまったよ。あ、自己紹介がまだだったね。僕の名前は夜叉神(やしゃじん) 天祐(たかひろ)。よろしくね」

「僕は御影湊です。夜叉神さんも見事な腕前でした。今までで一番強かったと思います」

「そう言ってもらえると助かるよ。この前のアマ名人戦では準優勝だったからね」

 

 やはり、と得心する湊の前で、天祐は時計を見て嘆息した。

 

「じっくり感想戦といきたいところだけど、これ以上は奥さんに怒られそうだ。今日はありがとう。また明日も来ていいかな? もっと君と対局したいんだ」

「こちらこそありがとうございました。もちろんいいですよ。同じ時間に待っています」

 

 天祐は嬉しそうに礼を告げ、将棋道場を去っていった。すぐに常連たちが湊の傍に寄ってきて、口々に祝福の言葉を掛けてくる。それらに応対する一方で、湊が考えるのは天祐のこと。彼ほどの実力者は初めてで、対局を通してどのような成長を見せるのか興味が尽きなかった。

 

 

 ■

 

 

 約束通り翌日にやってきて二敗目を喫した天祐だが、その後も週に一度は『ことひら』を訪れ、湊と将棋を指すようになっていた。彼は実直かつ穏やかな性格で、一回り以上も年下の少年に負け続きというのに、不貞腐れる事なく、むしろ湊の強さを称賛するほどだ。

 

 だからか、二人の対局が研究会の様相を呈するのに時間は掛からなかった。次こそはアマ名人にと意気込む天祐と、実力者がどのような成長を見せるのか興味があった湊。利害の一致もあれば性格の相性もよく、彼らは年の離れた友人関係を築いていた。

 

 出会ってから一年、もはや『ことひら』の常連として数えられている天祐は、この日も夕暮れ時にやってきた。応対した席主が小さく声を上げると、興味を引かれた客が目をやり、同じように反応する。チラチラと視線を向けられる天祐は照れ臭そうで、けれど誇らしげでもあった。

 

 やや足早に近付いてくる友人に向け、湊は笑って話し掛けた。

 

「記念対局での勝利、おめでとうございます」

「ありがとう。角落ちとはいえ名人に勝てたのは、湊くんのお陰だよ」

 

 個人で出られるアマチュア将棋大会には大小様々なものが存在しており、中でも有力な六大会の一つが、一年前、天祐が決勝で敗れた『全日本アマチュア将棋名人戦』だ。この大会の優勝者は通称『アマ名人』と呼ばれる他、プロの名人との記念対局が行われる。

 

 先月、前回大会の雪辱を果たしてアマ名人となった天祐は、数日前にあった記念対局でも勝利を収めたのだ。常連として天祐を知る『ことひら』は大いに盛り上がり、今もワクワクと二人の様子を窺っている。ただ湊と話があるからと天祐が頼めば、周囲の客は離れてくれた。そうして対面に座った天祐の畏まった様子に、湊は首を傾げる。この一年で、初めて見る顔だ。

 

「プロ棋士になるつもりはないかと、前に尋ねた事があっただろう?」

「ええ、はい。興味がないというのは、今でも変わりませんよ」

「それでいいと思うよ。君の道は、君自身で選ぶべきだ」

 

 息継ぎ。天祐の目線は、珍しく辺りを彷徨っている。

 

「ただ正直に言うと、あの時の僕は残念だった。君ほどの才能がプロの世界で磨かれれば、どこまで強くなるのかと期待していたんだ」

「すみません。どうにも真剣勝負の空気が肌に合わなくて」

「いや、責めたいわけじゃなくて――――ようやく、君の答えに納得できたんだ」

 

 戸惑いがちに告げる天祐の態度が、どうにも湊の居心地を悪くする。彼としては今更に過ぎるというか、掘り下げても楽しくない話題なのだが、天祐の様子を見ると話を遮るのも憚られた。

 

「記念対局で戦った月光(つきみつ)名人は、角落ちでも強かった。これがトッププロかと納得させられるほど強くて、勝てたのは少なからず運が味方してくれたからだ。だからこそ、わかる。湊くんは名人よりも強い。角落ちでも二枚落ちでも、運が味方しようとも、本気で勝ちにきた君には勝てない。君が勝ち負けにこだわらないのは、その必要がないからだろう?」

 

 一息に言い切った天祐に、湊は嘆息で応えた。

 

「っと、勝手に盛り上がってすまない。僕の推測に過ぎないのに」

「かまいませんよ、的外れというわけでないですし」

「……それでも、君は将棋が好きなんだね」

 

 零れた声音は穏やかだ。そこで会話の空気が変わり、互いの口元に笑みが浮かぶ。

 

 湊の将棋好きを疑わないのは、一年の付き合いがあればこそ。幾度となく重ねた対局に嘘はなく、出し合った意見も本物だ。

 

「人に教えるのが好き――――というより、どうやればその人の棋力が成長するのか、考えるのが好きなんですよ。将来の夢は最強の棋士を育てる事、なんてどうでしょう?」

「それはいいね。娘が棋士になりたいと言ったら、君に任せるのも面白そうだ」

「もうすぐ二歳でしたっけ。随分と気が早くないですか」

「将棋を学ぶのに早過ぎる事はないさ。もうすぐ駒の動かし方を覚えそうなんだ」

 

 親馬鹿という言葉がピッタリな天祐の表情に、これは長くなるなと察した湊。周りに助けを求めてみても、近くに他の客は居ない。肩を落とした彼は、留まる事のない娘自慢に耳を傾けた。

 

 

 ■

 

 

 湊と天祐の関係は途切れる事なく、気付けば出会って七年目。当初は小学三年生だった湊も、今では中学三年生だ。天祐の方は仕事や家庭で時間を取られる事柄が多くなり、近頃は月に一度だけ『ことひら』を訪れるくらいの頻度に落ち着いている。

 

 だから湊がその事実に気付いたのは、馴染み客の呟きを聞いてからだった。

 

 ――――――そういや最近、夜叉神の奴を見ねえな。

 

 思い返してみれば、最後に天祐が訪れたのは三ヶ月ほど前の事だ。とはいえ娘が小学校に入学したばかりと聞いていたし、忙しいのだろうかと大して気にしなかった。

 

 流石に無視できぬと焦燥感を覚えたのは、更に三ヶ月が過ぎた頃のこと。とはいえ困ったのは、湊と天祐の間に確実な連絡手段がない事だ。定期的に『ことひら』で会えるからと、お互い気にしていなかった事が仇となった。必要ないと、湊が携帯を持たなかったのも一因だろう。

 

 とはいえ緊急事態かどうかもわからないし、言ってしまえば将棋を指すだけの間柄だ。情報が手に入ったら教えてくれと、知り合いに頼む以上の事はできなかった。それも天祐の生活圏が離れていた所為か、なかなか進展しない状況だ。

 

 結局、湊まで情報が伝わったのは、更に半年後のこと。天祐が『交通事故で亡くなって』から、一年余りの時間が過ぎていた。



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2015年
#002 初めての対局


 夜叉神 天衣(あい)の人生は、常に将棋と共にあった。

 

 大学の将棋部で出会ったという両親は、結婚を経ても変わらず将棋を愛し、生まれた娘にもその素晴らしさを教え込んだ。人形代わりに将棋の駒を握らせるような教育は、幸か不幸か成果を結び、棋譜並べを遊びと捉えるような子供が出来上がった。

 

 天衣が覚えている最古の記憶は、将棋盤を挟んだ父の顔。まだルールも知らず、ただ父の真似で将棋を指していたころ。隣には優しく見守る母が居て、時折、天衣の手を握り駒を動かしてくれる。つまりはそれが、彼女が知る幸福の原点で。故に幸福は、将棋と家族に帰結する。

 

 幼稚園でも小学校でも友達を作らない天衣を両親は心配していたが、彼女にしてみれば、家族や将棋に触れる時間と比べたら、どうしても物足りなく感じてしまうのだ。父が居て、母が居て、一緒に将棋を指す時間は幸せだった。それだけで、夜叉神天衣は満たされていた。

 

 そんな時間は、もう二度と訪れないのだけれど。

 

 交通事故というありふれた理由で、天衣が両親を失ってから一年余り。祖父に引き取られた彼女は大切に扱われているけれど、胸の奥に空いた穴は塞がらない。むしろ日に日に両親との思い出が薄れていくようで、一層心が冷たくなるようで、悲しみだけが忘れられなかった。

 

 だから天衣は、今日も今日とて将棋を指す。両親との思い出は、常に将棋と一緒にあったから。少しでも時の流れに抗おうと、彼女は盤面と向き合っていた。

 

 手にしているのは、父が自ら編纂した棋譜集だ。天衣の小学校入学記念に贈られたそれは、父が友人と指した棋譜をまとめたものであるらしい。対局相手の友人の事は、天衣もよく知っている。アマ名人として三連覇を果たした事もある父が、ただの一度も勝てなかったという強者。彼の話をする父は楽しげで、天衣が羨むほどに仲がよさそうだった。

 

 ――――――彼は僕の先生なんだ。もし天衣が棋士を目指すなら、親子で一緒に教わろう。

 

 ありし日の約束。この棋譜集を渡された時、そう告げられた天衣は、ただ無邪気に喜んだ。父と一緒という言葉が嬉しくて、何度となく話に聞いた『彼』に教わるのが楽しみで、いつか来るかもしれない未来に想いを馳せた。

 

 けれど、今、天衣の目は過去にばかり向いている。時系列に沿って並べられた棋譜集は、成長の軌跡そのものだった。何を誤り、何を学び、どこへ繋がったのか。添えられた注釈と併せて読み解けば、父の将棋と、その歴史が現れる。だからいつまで経っても、手放せない。

 

 驚嘆すべきは、この棋譜集から『彼の将棋』が読み取れないこと。誰しも将棋には人となりが現れ、局数を重ねるほど癖や嗜好が詳らかになる。しかし『彼』にはそれがない。どれだけ棋譜を読み込もうと特徴らしきものはなく、ただ常に、何かしらの課題を仕掛けている。

 

 父の成長を試すように、また次の成長へ繋がるように、『彼』は盤面を操っていた。父の将棋に合わせるからこそ、自分の将棋が現れない。それ故に無駄がなく、残された棋譜は美しい。

 

「……っ」

 

 つんと鼻の奥が痛くなり、零れた涙が盤を濡らす。

 

 棋譜を並べると、穏やかな父の笑顔が浮かぶ。月に何度か『彼』と指し、帰ってきて楽しそうに報告する父の姿が、天衣は大好きだった。父が語る友人の事も尊敬していて、棋譜集を辿る度に、二人がよき友人であったのだと再確認させられる。

 

 けど、なら、どうして――――――――父に会いに来てくれないのか。

 

 葬儀でも一周忌でも、姿を見せなかった父の友人。手配は祖父任せなので、天衣に詳しい事情はわからないが、それでも思わずにはいられない。父の友だと言うならば、父の愛した将棋が結んだ縁ならば、どうして未だに顔も見せに来ないのかと。

 

 孫に甘い祖父に頼めば、一週間と待たずに連れてくるだろう。それをしないのは、無理やりでは意味がないという考えと、向こうは大切な縁と思っていなかったのでは、という恐れがあるからだ。あり得ないだろうが、もし忘れたなんて言われたら、自分がどうなってしまうかわからない。

 

「……はぁ。(あきら)、悪いけどお水を――――」

 

 込み上げる感情を吐き出し、涙を拭う。次いで部屋の外に立っているはずの世話係に声を掛けてから、今日は居ないのだと思い出す。普段は天衣の傍を離れる事のない世話係だが、今日は祖父が客人の応対を任せていたはずだ。天衣も、客人に会ったら失礼のないよう言い含められていた。

 

 客人に興味はないが、乾いた喉を潤したいなら、天衣が動く必要があるという事だ。追加の溜め息を零し、座布団から立ち上がる。障子を開けて廊下に出た天衣は、黙って台所を目指した。

 

 見慣れた家中で気付いた違和感は、一室の襖がわずかに開いていたこと。祖父にしろ雇っている者たちにしろ、このように中途半端な事はしない。覗き見でもしたのだろうかといった隙間だが、少なくとも廊下に人影は見えなかった。

 

 無視して素通りできなかったのは、その部屋に両親の仏壇が置かれているからだ。ひょっとして両親の知り合いが来たのかと、周りに人影がない事を確認した天衣は、こっそり中を覗き込んだ。

 

 はたしてそこには、一人の少年が居た。見える横顔は年若く、おそらく高校生に届くかどうか。綺麗に切り揃えられた黒髪。真っ直ぐ伸ばされた背筋。涼やかな印象を与える顔立ちも相まって、育ちのよいお坊ちゃんという雰囲気を漂わせている。

 

 息を呑み、目を見開く。天衣が知る限り、両親の関係者で該当する人物は一人だけだ。

 

 一瞬だけ少年の奥に座る祖父と目が合ったが、特に注意される事はなかった。一方で少年はただ静かに手を合わせ、目を瞑って仏壇に向かっている。そこに言葉はないけれど、だからこそ真摯な態度がものを言う。思わず泣きそうになって、天衣は唇をキツく結んだ。

 

 やがて黙祷を終えた少年が祖父と向き合ったところで、天衣は部屋の中へ入っていく。はしたなく襖を開けると音が響き、振り返った少年と目が合った。

 

 胸が詰まる。言いたい事はたくさんあったはずなのに、グルグルと思考が巡ってまとまらない。口を開いて、閉じて、震える奥歯を噛み締めて。

 

「――――――ねえ、将棋の相手をしてくれない?」

 

 絞り出せたのはそんな言葉で、たぶんそこには、天衣のすべてが詰まっていた。

 

 

 ■

 

 

 天祐が一年以上も前に亡くなっていた。将棋道場の常連客から始まり、何人かの将棋関係者を経由して手に入れた報せは、久しくなかったほどの衝撃を湊に与えた。生まれ変わったと認識している彼ではあるが、前世の記憶では祖父母も両親も健在だったし、死に際の出来事は覚えていない。だから身近な人間との死別は馴染みが薄く、危うく仕事を落としそうになったほどである。

 

 わざわざ高校進学ではなく翻訳家の道を選んだというのに、これでは紹介してくれた父に面目が立たない。将棋に時間を使うための在宅仕事だが、だからこそ真面目に取り組むべきだろう。

 

 とはいえ天祐の件も重要だ。急ぎ仕事を進める傍ら、せめて線香をあげるだけでもと、どうにか遺族に渡りをつけたのが一週間前のこと。幸い年が離れた将棋仲間の存在は知られていたらしく、トントン拍子に訪問の日取りが決められた。電話越しでもわかるほどの歓迎の雰囲気に、連絡先を交換していなかった自分が情けないやら悔しいやら。就職を機に買ったスマホを睨んだものだ。

 

 そして本日、教えられた夜叉神邸まで足を運んだ湊は、まず屋敷の威容に圧倒された。彼の生家も資産家で、同じ神戸市内に居を構える身だが、広大な和風建築と比べれば見劣りする。加えて出迎えたのが威圧感のある黒服集団であったから、思わず踵を返したくなったのもむべなるかな。

 

 幸い屋敷の主人であり、天祐の父でもある夜叉神 弘天(こうてん)は精悍ながらも穏やかそうで、優しく湊を迎え入れてくれた。彼ともう一人、晶と呼ばれた若い黒服の女性に連れられて、湊は一年振りに天祐と対面した。見慣れた顔が、見慣れぬ黒縁に飾られている。

 

 ようやく腑に落ちたというか、渋滞を起こしていた感情が、本来の流れに沿って動き始める。泣かなかっただけでも上出来だろう。上手い言葉も出てこず、ただ促されるままに座り、線香をあげる。黙祷の間に考えたのは、なんだったか。色々と頭をよぎったはずだが、言語化するのは難しい。ただ黙祷が終わった時には、幾分か晴れやかな気持ちになっていた。

 

 さて時間が許すなら故人の話でも、と湊が弘天と向き合ったところで、襖が開かれた大きな音。自然と彼が振り向くと、そこには少女が立っていた。

 

 未だ十歳に満たないであろう幼い彼女は、毛先が跳ねた黒髪を腰まで伸ばし、同じく黒の衣装を纏っている。湊が目を引かれたのは、可憐な容貌に浮かんだ大きな瞳。普段であれば意志の強さを表すであろうそれが、今は不安げに揺れていた。

 

「――――――ねえ、将棋の相手をしてくれない?」

 

 沈黙の後に絞り出された提案を、湊は反射的に了承する。

 

 夜叉神天衣。それが少女の名前だと気付いていたし、友人の忘れ形見である事も気付いていた。けど受けた理由はそれらじゃなくて、ただ縋るような双眸から、逃れられなかったのだ。

 

 特に弘天から注意される事もなく、速やかに対局の準備が進められた。場所は天衣の希望により仏間のまま。二人は将棋盤を挟んで向かい合い、横合いから弘天と晶が見守っている。

 

「駒落ちなしの平手戦。先手は私がもらう」

「かまわない。君の将棋を見せてくれ」

「……これ、あなたとの初めての対局だから」

 

 にわかに天衣の表情が歪む。その理由を問うより早く、小さな頭が下げられる。

 

「だから、よろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

 

 始まる対局。盤上に意識を向けた次の瞬間には、あらゆる道筋が湊の脳裏を埋め尽くす。相手がどこに指そうとしているのか、その後の手順をどう読んでいるのか。見落とされた読み筋も、幾多とある湊の勝ち筋も、余す事なく見通せてしまう。

 

 湊にとってはいつもの事だ。いつもの事なのに、奇妙な点があった。

 

 天衣の初手は7六歩。一手目に迷いがない指し手はよく居るが、彼女の場合はその先に見ている手順がおかしい。湊には相手の読み筋がわかる。幾筋とある読みの中で、どれを重視し、どれを軽視しているのかも、感覚的にわかってしまう。その感覚に従うと、天衣は初手を指した段階で、たった一つの手順しか意識していない事になる。

 

 未だ湊の初手もなく、あらゆる可能性を考慮すべき局面だというのに、天衣の読み筋は頑なに過ぎた。まるで湊がそう指す事を祈るようなそれは、単純に勝利を望むものではないだろう。

 

 たっぷり一分は悩んだ後、湊は望まれた通りに8四歩を指した。

 

 居飛車の相矢倉。それが天衣の望む戦型で、驚くべき事に、彼女は終局の手順まで考えている。いや、どちらかと言うとそれは、湊と同じく『知っている』ように感じられた。

 

「――――あぁ、そうか。()()()()()()なのか」

 

 呟きを漏らせば、次の手を指した天衣の瞳が向けられる。指し手に迷いはないのに、湊を見る目は迷子のそれだ。少しでも安心させられればと、湊は柔らかく微笑み返した。

 

 次も、次も、その次も。逆らう事なく、天衣が望む盤面を組み上げていく。もはや互いの手には淀みなく、交わす言葉もそこになく、ただ駒を指す音だけが積み重なる。

 

 激しい叩き合いの中盤を越えて終盤となり、最後に指したのは湊だった。天衣は動かない。ただジッと、潤んだ瞳に湊を映す。今の一手で終わりなのだ。今の一手で、湊は『負けた』のだ。

 

 だってこれは、初めて()()()()()指した対局で、あの時の天祐に代わり、湊が指したのだから。負けるとわかっていても、この棋譜は崩せなかった。天祐は見ていただろうか。見ていたのなら、気付いただろうか。初めて会ったあの日から、自分がどれだけ強くなったのか。

 

「この手じゃ届かないね。負けました」

 

 万感の思いを込めて頭を下げる。御影湊として生まれてから、初めて負けた対局で、初めて満足できた対局だった。自分の将棋にも意味はあったと、ようやく実感できた。

 

 夜叉神天祐。プロにも勝るとすら謳われた彼の将棋は、二人で築き上げたのだから。

 

 やがて頭を上げた湊の視界に入ってきたのは、静かに涙を流す少女の姿。そこに悲しみも怒りもなく、あるいは自分が泣いている事に、気付いてすらいないのかもしれない。

 

「――――――とう」

 

 震える声音。濡れた顔が伏せられる。

 

「――――ありがとう。お父さまを覚えていてくれて」

「こちらこそ、ありがとうと言わせてほしい」

 

 溢れる涙を袖で拭うと、天衣は目線を湊に向けた。その瞳には、強い意志が宿っている。

 

「私の名前は夜叉神天衣。元アマ名人の娘で、いつか棋士になる女よ」

「僕の名前は御影湊。元アマ名人の友達で、将棋が得意なだけの男だよ」

 

 どちらともなく笑みを零し、頷き合う。

 

「私に将棋を教えてくれる?」

「……君が望むなら、いくらでも」

 

 湊が右手を差し出せば、天衣は黙って握り返す。その手の小ささを、湊は可能性だと思った。どこにでも行ける、なんにでもなれる可能性。それを全力で芽吹かせようと、亡き友に誓った。




百合は好きだし、シンデレラと言えば魔女のイメージが定番です。
でも天衣ちゃんと組むなら年上男性だよね、という理由で女主人公はやめました。


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#003 弟子入り

 将棋を教えると、そう口にするのは簡単だ。相手が幼い子供であれば、実際に上達の助けとなるケースも多いだろう。だがその子が棋士を目指すと言うのなら、言葉の意味を吟味すべきだ。

 

 将棋の世界における『棋士』とは、すなわち将棋を生業とする者たちの事であり、一般にプロと呼ばれる存在を指す。たとえば日本将棋連盟はアマチュア大会の参加者を『選手』と呼んでおり、プロと呼称を分けている。とはいえ将棋指し全般を棋士と呼ぶケースも多く、プロである事を強調するために『プロ棋士』という単語が使われる事も少なくない。

 

 さらに話を掘り下げるならば、将棋には『女流棋士』と呼ばれる者たちも存在する。元来の棋士制度から分離して、新たに女性限定の制度として設けられたのが『女流』だ。参加可能な公式戦も棋士とは異なり、明確に別の存在として扱われている。

 

 制度上は棋士となる条件に男女の違いはない。それでも女性用の枠組みが新たに作られたのは、そうしなければ十分な女性のプロを確保できなかったからだ。

 

「将棋を教えるのはいいとして、棋士になる、という意味は理解してる?」

「当然でしょ。だったらプロになる、と言い直しましょうか」

「女流プロ棋士、という道もあるわけだけど」

「私は『棋士』になる、と言ったはずよ」

 

 芯の通った天衣の声音に、湊は腕を組んで頷いた。

 

 将棋盤の向こうに座る少女は、大きな瞳を挑戦的に光らせて、睨むように見上げてくる。熱意は見て取れるが、その熱に浮かされた様子はないし、物を知らぬわけでもないだろう。

 

 それでも、と彼は先の話に言葉を継いだ。

 

「今の将棋連盟が出来て七十年くらいになるけど、未だに『女性棋士』は一人も誕生していない。最も強い女流棋士が、最も弱い棋士にも劣るのが現状だ」

「……お父さまが言ったの。あなたが教えてくれるなら、棋士になるのも夢じゃないって」

 

 薄紅の唇を尖らせて、プイと天衣が横を向く。

 

「信じさせてよ。がんばるから」

 

 呟きが耳を打つ。その言葉が胸を打つ。熱情を、湊は呼気と共に吐き出した。

 

 かつて考えた事がある。前世で、幼い頃から将棋を学ぶべきだったと。今世で、自分なら最強の棋士を育てられるのではないかと。そんな子供染みた願望を、胸に抱いた事がある。

 

 だから()()()()()()()()()()()()()、言い聞かせるのだ。他ならぬ自分自身に。

 

「もちろん無理だとは思ってないよ。それに僕なら、他の誰よりも君が強くなる手助けをできる、という自負もある。けど、あくまで僕の役目は手助けなんだ」

 

 幼い顔はそっぽのままで、目線だけが湊に移る。

 

「君の気持ちを大事にしたい、という意味だよ。目指すのも――――――諦めるのも」

「…………あなたは将棋を教えればいいの。心配しなくても、大丈夫なんだから」

 

 拗ねた口調でそう告げて、天衣は口元をへの字に結ぶ。膨らんだ白いほっぺには、不機嫌ですと書いてあった。さすがに据わりが悪くなった湊は、苦笑いで頬を掻く。

 

「ごめん、回りくどかったね。どんな道を進んだとしても、君が望む限り将棋を教えるよ。でも、だからこそ、目的を見失わないでほしいんだ。道を選ぶのも、歩くのも、君自身なんだから」

 

 湊が噛んで含めるように伝えれば、ゆっくりと天衣の顔が向けられる。

 

 ジッと探るような視線。どこか子猫を思わせる様子の彼女は、やがて小さく「バカ」と呟くと、横合いで見守っていた弘天に話し掛けた。

 

「おじいちゃま、そういう事だから」

「うむ、天衣の好きにするといい」

 

 鷹揚に頷いた弘天は、次いで湊の方へと向き直る。

 

「御影さん。息子のためにお越しくださったばかりでなく、孫の我が侭まで聞いてくださり、本当にありがとうございました。重ねてのお願いとなり心苦しくはありますが、孫に将棋を教える家庭教師として、ぜひ貴方を雇わせていただきたい」

「将棋の世界で、弟子からお金を取る師匠なんていませんよ。まぁ僕はプロではないので、師匠を名乗れる立場ではないのですが」

 

 将棋界において、すべての棋士には師匠が居る。規則として、棋士の弟子でなければ、棋士にはなれないのだ。ここでの棋士とはプロ棋士の事を指すので、制度上、湊に師匠となる資格はない。それを理由にプロを目指そうとは思わないが、幾ばくかの寂しさを覚えるのも確かだった。

 

「書類だけの師弟関係もあるんだし、大事なのは私が師匠と認めるかどうかでしょ」

 

 呆れが声に乗っていた。振り向けば、天衣が盤上に駒を並べている。

 

「そんな事より指すわよ、()()。今度は私の将棋を見せてあげる」

 

 吊り上がる口元は攻撃的で、澄んだ大きな瞳には、子供らしい勇ましさが満ちていた。どうにも自分がちっぽけな奴に感じられて、敵わないなと湊は笑った。

 

 

 ■

 

 

「あーもう! どうして勝てないのよっ!!」

 

 苛立ちのままに叫んだところで、駒が動いてくれるはずもない。変わらず盤上で主張する詰みの道筋が、天衣にスカートの皺を作らせた。白魚の指を握り締め、アーモンドの瞳で相手を睨む。

 

 怜悧さを漂わせる切れ長の目が、穏やかに天衣を見下ろしている。そこに勝利の高揚感は欠片もなく、さりとて子供と侮る色もなく、だからこそ悔しかった。ただ純粋に、己が未熟なのだ。

 

「……わかってるわよ。私が見落としただけだって」

 

 天衣は呟き、盤上の駒へ手を伸ばす。互いの駒を何手か戻すと、銀の王手に代わり、竜を進めて歩を払う。勇み足を踏む前に、頓死の形を消すべきだった。そうすれば勝てていた。

 

 これで天衣の三連敗。改めて湊と指し始めてから、三戦全敗だ。

 

 先手を譲られた第一局は、角対抗型の片矢倉で手得を稼いだ天衣が、右辺から攻め込み主導権を握った。途中、こちらの弱みを突こうとした端攻めも受け切り、終盤までイメージ通りの駒運びができたと言えるだろう。なのに詰めで読み落とし、逆に詰められて負けてしまった。

 

 先後を入れ替えての第二局。気分を変えようと振り飛車を選ぶ。三間飛車から4二銀と上がり、角交換を経て向かい飛車の形を作るところまでは定跡通り。遊び駒のない駒組みにも成功したし、中盤では上手く湊の手を誘導できたはずだ。けれど、やはり、最後で読み違えてしまった。

 

 再びの先手となった第三局。攻めに集中した前二局とは異なり、今度は受けを意識した。通常、矢倉は先手が形を決めて後手に対応を問うものだが、飛車先や銀の活用を後に回し、後手の動きを窺う戦法を選んだ。戦法の弱点である雀刺しは受けれたが、結局は見落としからの頓死だ。

 

 いずれの対局でも、天衣はノビノビと指せていた。頭の中にあった構想を形にでき、湊の応手も受け切って、逆に敵陣の囲いを崩してみせた。両親とネット将棋しか対局経験のない天衣にとっては、ある意味で初の実戦だったわけだが、その内容は上出来だったと言えるだろう。

 

 無論、天衣とて理解している。自分の実力だけで、生み出せた棋譜ではないのだと。

 

 湊は手加減していた。というよりも、観察していたと言うべきか。あえて天衣が望む展開に持ち込み、全力を引き出そうとしているように感じられた。

 

 故に力不足。天衣の勝ち筋は用意されていたのに、それを掴み取れなかったのだから。

 

「よく定跡を学んでいるし、研究もしているね。特に二局目の指し回しは面白かった。あの序盤は天祐さんを思い出したよ。()()()()()でこれなら、将来が楽しみだ」

 

 俯く天衣に向けられた称賛。思わず緩みそうになった頬を引き締める。

 

「フン、当たり前でしょ。それより次はどうするのよ? 私はまだやれるわよ」

「そうだね…………早指しで済ませるとしても、さすがにいい時間だ。次で最後にしよう」

 

 言われてみれば、障子越しに西日が射し込んでいる。天衣が仏間に乱入してから二時間は経っていそうなのに、まるでそんな気がしないのは、楽しい時間を過ごせたからだろうか。

 

 一度だけ深呼吸し、天衣は居住まいを正した。これから師と呼ぶ相手に、頭を下げる。

 

「――――よろしくお願いします」

「うん。よろしくお願いします」

 

 そうして始まった第四局。順番通り後手となった天衣は、二十手目を指す頃には呻き声を上げていた。湊が選んだのは角換わりからの早繰り銀。天衣の認識では先手が採用するのは珍しい戦法で、故に対応が遅れてしまった。慌てて腰掛け銀で受けに行ったが、明らかな手損だ。

 

 見慣れない変化が続き、自然と手の進みが遅くなる。遊び駒も生まれて、いよいよ形勢の傾きは無視できない。苦しいと、天衣は思った。光明が見えないと。

 

「…………くっ」

 

 気付けば天衣の玉は丸裸で、長考に入らざるを得なかった。持ち時間は決めていないが、それに甘えて待たせたくはない。しかし募るのは苛立ちばかりで、握り締めた手の平に汗が浮かぶ。

 

「僕にとって、将棋は自由なものだった」

 

 盤面を睨んでいた天衣の耳を、柔らかな声音が撫でていく。顔を上げれば湊と視線がぶつかった。真っ黒な瞳は、不思議と澄んだ色に感じられ、見詰められるとくすぐったくなりそうだ。

 

「定跡を指すのが将棋なら、定跡を外すのも将棋だよ。縛られる事なく好きに指す。そうして考えてもみなかった一手から、妙手を見付ける瞬間が堪らなかった。何人もの棋士が生涯を捧げて研究しても、将棋の深淵には届かない。その果てしなさに胸が躍ったんだ」

 

 優しく語る湊の言葉を、天衣は訓戒と受け取った。

 

 この対局、馴染みの薄い戦法に浮足立たなければ、これほど追い込まれる事はなかっただろう。自分が定跡を指すからといって、相手もそうとは限らない。本にまとめられた知識だけではないのだと、この対局で教えたかったのだろう。それはありがたい事だと、素直に天衣は感謝した。

 

 だが敗北を受け入れるかどうかは、また別だ。

 

 無防備に過ぎるこの局面、相手からすればいくらでも勝ち筋が見えるに違いない。でも、まだ、相手の負け筋だって残っているはずだ。勝敗が決していないなら、蜘蛛の糸であろうとも、勝利の可能性を手繰り寄せる。それが天衣の勝負に臨む姿勢だった。

 

 今は雌伏の時。猶予を稼ぐため持ち駒を掴んだ天衣は――――――、

 

(……違う。そうじゃない)

 

 盤面に指す直前で思い留まった。

 

 先ほどの湊の言葉を思い返す。考えてもみなかった一手から、妙手を見付けると。あるいはこの局面において、その発想を活かせという意味ではなかろうか。

 

 持ち駒を駆使して、自玉に続く湊の手を阻む。それが天衣の着想だ。必至にはならない。反撃の可能性だって残っている。だがもし、まったく別の手を考えるならば――――――そこから三分。散々に悩んだ末に駒を動かした天衣は、恐る恐る対面の湊を窺った。

 

 はたしてそこにあったのは、呆気に取られた間抜け面。

 

「…………ははっ。そうか、君はそこに指せるのか」

 

 沈黙の後に湊が笑う。小さな声で、でも晴れやかで、あるいは初めて、年相応で。その胸の内はわからないが、不思議と天衣は高揚した。

 

「いい手だ。そこに指すとは()()()()()()

 

 盤面を見下ろしたまま、朗らかに湊が告げる。

 

 天衣が指したのは6二歩。自玉の守りを固める一手ではなく、敵陣に橋頭堡を築くための一手。無視すれば湊の玉が危うくなり、取りに行けば天衣が飛車を打ち込む隙が出来る。楔を打ち込んだ勝負手だと天衣は思ったし、湊の様子から思い上がりでもないだろう。

 

 以降の湊は機嫌がよかった。機嫌よく、ミスもなく、儚い抵抗を一蹴した。天衣は泣いた。



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#004 いつかの約束

 天衣が湊に弟子入りしてから、およそ二ヶ月の時が過ぎた。

 

 とにかく強くなりたいという天衣の希望に応えた湊は、彼女の世話係である晶とスケジュールを調整しながら、毎日のように夜叉神邸を訪れている。天衣が小学校から帰宅した後の三時間が指導時間で、指導の流れは二ヶ月の間におおよそ固定されていた。

 

 最初の一時間は『学習』だ。日毎に湊がテーマを決めて、将棋盤を挟んで意見を交わす。基本は天衣の見解に湊が補足や訂正を加える形だが、時折、湊の方から質問が飛ぶ場合もある。そういう時は見落としを指摘する意図があるので、ついつい天衣はビクリとしてしまう。

 

 次の一時間は『復習』を行う。以前に『学習』で扱ったテーマを元に局面を用意し、設定された目標達成を目指して湊と将棋を指すのだ。当初は一面指しだったが、現在は三面まで増え、同一のテーマで異なる局面を並行して進めるようになっている。

 

 最後の一時間は『実戦』となる。持ち時間十分のVS(ブイエス)を行い、天衣は制限なしの全力で師匠に挑む。湊は一局毎にガラリと棋風を変えてくる上に、どんな手もノータイムで応じるため、天衣は必死になって喰らい付かなければならない。

 

 いずれの時間も二十五分の指導と五分の休憩を一セットとし、前半後半の二セットに分けて構成されている。基本的には一セットで区切りを付けるように進められるが、時間が足りなければ次のセットに持ち越しだ。その場合でも休憩に入るタイミングは変わらないし、一時間で二回の休憩は散歩と瞑想を行うように決められている。

 

 天衣としては学校の授業以上にキッチリした時間管理に辟易する気持ちはあったし、指導時間をすべて将棋に使いたいと文句を溢した事もある。それでも素直に従うようになったのは、いくつかパターンを試した湊が、確信した様子でこれがいいと決めたからだ。

 

 わずか二ヶ月の付き合いではあるが、師匠は人の心が読めるのではないかと、天衣は半ば本気で疑っている。『学習』でも『復習』でも彼女が意識できていないところを的確に指摘してくるし、逆に理解が十分なところは欠片も触れない。教える時だって天衣が理解しやすいところから順番に教えているように感じられ、現在に至るまで内容の咀嚼に困った覚えはない。

 

 実際は対局内容や天衣の様子から推測しているのだろうが、湊が弟子の状態をよく理解しているのは確かだ。そんな彼が最も集中できると言うのだから、安易に否定はできなかった。

 

「――――けどやっぱり、変なものが見えてるわよね」

 

 既に日も暮れて、随分と月が高く昇った頃、天衣は自室で机と向かい合っていた。手元には紙と鉛筆。軽やかに指を滑らせる彼女の目には、呆れと関心が入り混じっている。

 

 湊が帰った後は自由時間とされている天衣だが、基本的にやる事はルーチン化していた。夕食を挟んで小学校の宿題を終えれば、残りはすべて将棋の時間だ。湊が作成した詰将棋集を解いたり、プロ棋士の対局を観戦する他に、ネット将棋を指す事もある。その日によってやる事は様々だが、就寝前だけは、湊と指した棋譜を作るように言われていた。

 

 その日に学んだ内容を振り返り、改めて自分の中で整理してから寝る。そうすれば身に付きやすいと教えられて習慣化したのだが、今となっては天衣の密かな楽しみとなっていた。一日一日、たしかに天衣は学んでいる。ちゃんと前へ進んでいると、実感できるこの時間が好きだった。

 

「さて、明日は出掛けるんだったわね」

 

 最後の棋譜を作り終え、天衣は鉛筆を置く。本日分の棋譜をファイルに綴じ、くっと伸びをして時計を見る。もう寝る時間だと彼女は頷き、次いで壁に掛けたマフラーを確認して頬を緩めた。

 

 明日は土曜日だ。いつもは朝から湊を呼んで将棋を指すのだが、どうやら一緒に行きたい場所があるらしい。詳細は聞いていないが、どうせ将棋だろうと当たりをつけて、天衣は床に就いた。

 

 

 ■

 

 

 神戸市は東灘区にある御影山手。その最寄り駅となる阪急御影駅の北改札で、湊は待ち合わせをしていた。時刻は午前十時。連絡通りなら、先ほどの電車に待ち人が乗っていたはずだ。

 

 ぼんやりと湊が改札口を眺めていると、ほどなくして見慣れた人影が視界に入った。

 

 黒のスーツで上下を包む、十代後半の若い女性だ。長い髪をうなじで一つに括った彼女は、湊に気付くと目礼した。女性の名前は池田(いけだ) (あきら)。天衣の世話係を務める人物だ。

 

 彼女が来たのなら、と視線を下にずらせば案の定。昨日も会った湊の弟子が、晶の隣を歩いている。幼い顔を左右に巡らせていた彼女も、遅れて湊の存在に気付いたようだ。

 

 今日の天衣は黒いコートを身に纏い、首元は赤チェックのマフラーで覆っている。ともすれば、雪もチラつき始める十二月。なんら可笑しな格好ではないのだが、湊にはそのマフラーに見覚えがあった。というか、つい三日前に湊が誕生日プレゼントとして贈った物だ。

 

 湊が天衣の誕生日に気付いたのは半月前。この時期は天祐さんが悩んでいたなと、当時の会話を思い出しながら慌てて準備したのだが、多少なりとも気に入ってもらえたのなら幸いだ。

 

「おはよう。そのマフラー、着けてくれているんだね」

「ええ、おはよう。贈り物だし、変な物じゃないなら使うわよ」

「いい心掛けだ。晶さんもおはようございます。いつもご苦労様です」

「おはようございます。本日もお嬢様をよろしくお願いします」

 

 朝の挨拶を終え、三人は湊の先導で歩き出す。

 

「それで、今日はどこへ行くのかしら」

「将棋道場だよ。ここから歩いて三分くらいの」

「将棋道場? そこのお客さんと指すの?」

「いや、今日は待ち合わせ。先方のご指名なんだ」

「ふうん。ま、いいけど。それって誰なのよ?」

「たぶん会えばわかるよ――――――あ、ほら。もう見えてきたよ」

 

 阪急御影駅の北側には、深田池という落ち着いた雰囲気の池がある。春には桜を、秋には紅葉を水面に映す憩いの場で、釣りを目的に訪れる人も多い。その深田池から道路を一つ挟んだ場所に、将棋道場『ことひら』は建っている。

 

 外観は、特に面白みのない建物だ。質実剛健と言えば聞こえのいい豆腐型で、白の枠組みに黒い箱を嵌め込んだ見た目をしている。高さは二階建てで、一階は内部がよく見えるように、正面のみガラス壁。そして大きく掲げられた看板には、『ことひら』の文字がある。

 

「意外と綺麗なのね」

 

 中を覗いた天衣の呟き。ガラス壁の向こうには、よく磨かれた明るい色のフローリングと、汚れ一つない純白の壁紙が見える。広い室内には将棋盤の乗ったテーブルがいくつも並んでおり、上等そうなアームチェアが備え付けられていた。

 

「祖父の道楽だから、それなりにお金は掛けてるよ」

「それ初耳なんだけど」

 

 言ってないからね、と返しながら湊が扉を開ける。入り口を潜れば受付があり、気付いた席主と目が合った。そろそろ白髪が目立ち始めた男性は、かつて奨励会で三段リーグを戦った経験もある実力者で、湊の祖父から将棋道場の代表を任されている。湊が将棋道場に入り浸り始めた頃からの付き合いで、お互いに気の置けない関係だ。

 

「おはようございます、若先生。いつもの席は空いてますよ」

「おはよう。連絡した通り、後でお客さんが来るから通してね」

「わかってますよ。ところで、その子が夜叉神くんの?」

「うん。用事があるから、その辺りは後でね」

 

 雑談しながら利用料を払う。かつては身内として無料で利用させてもらっていた湊だが、中学を卒業してからは一人の客として赤字経営に貢献している。本来なら初利用者である天衣たちの手合いカードも作るのだが、今日は用事があるので後回しだ。

 

「それじゃ、行こうか」

 

 もの問いたげな天衣に呼び掛け、晶も連れて奥へと向かう。もはや指定席となっている一番奥の席に向かい、対面に天衣を座らせる。席数に余裕があるので、晶の椅子は隣から拝借した。

 

「ねえ。さっきの受付で夜叉神くんって――――」

「天祐さんは常連でね。僕と出会ったのもここなんだ」

 

 一拍。逡巡を呑み込んで言葉を継ぐ。

 

「天衣がよければ、後で常連さんに紹介するよ。みんな天祐さんを知ってるし、対局経験もある。面白い話も聞けるだろう。もしかしたら、辛くなるかもしれないけど」

「大丈夫よ。最近は……前ほど悲しくないもの」

 

 笑みすら浮かべた天衣の言葉に、湊はチラリと晶へ目線を送る。すると彼女は、柔らかな表情で小さく首肯を返した。つまり、天衣の強がりではないのだろう。

 

「わかった。後で紹介しよう」

 

 湊が同意したところで、受付の方からざわめきが届いた。半ば叫び声のようなものまで混じり、自然と三人の注意も引き付けられる。見ればそこには、一組の男女が。

 

 一人は涼やかな風貌の男性だ。落ち着いた貫録を感じさせる一方で、端正な顔立ちは若々しく、その佇まいには流麗さが漂っている。

 

 相方の女性は更に若く、おそらくは二十歳前後。綺麗に切り揃えられたショートヘアーと眼鏡が几帳面さを感じさせ、冷涼とした美貌を引き立てている。

 

 どちらもフォーマルな格好をしており、休日の将棋道場では浮いた存在に感じられた。また男性の方は目が見えないのか、ずっと目蓋を下ろしたまま、女性に先導されるように歩いている。

 

「…………月光九段っ!?」

 

 二人の姿を認めた天衣が、わずかな間を置いて叫んだ。

 

「よく勉強しているね。その通り、日本将棋連盟会長の月光九段だよ」

「当然でしょ! ちょっと、もしかして待ち合わせの相手って――――――」

「貴方が夜叉神天衣さんですか?」

 

 静謐な声。唐突に呼び掛けられて、天衣はビクリと肩を震わせる。恐る恐る振り返った彼女は、背後に立つ二人を見て固まってしまった。

 

「すみません。サプライズが過ぎたようで。本日はご足労いただきありがとうございます」

「いえいえ。仕事のついでですし、希望したのはこちらですからね。以前から興味がありまして」

「そう言ってもらえると助かります。二階に応接室がありますが、どうしますか?」

「ここでかまいませんよ。あくまで今日は顔合わせですから」

 

 未だ混乱から立ち直れない天衣を差し置き、湊は男性と話を進めていく。

 

 男性の名は月光(つきみつ) 聖市(せいいち)。史上二人目の中学生棋士であり、五十歳も間近となった現在までに、タイトル獲得計二十七期という超一流棋士である。ただ二十代の頃に大病を患って失明しており、対局にも秘書のサポートが必要という一面も持っている。

 

 隣の女性がその秘書であり、男鹿(おが) ささり女流初段だ。

 

「では天衣と晶さんはこちらに、月光会長と男鹿さんはそちらにどうぞ。足りない椅子は近場から拝借してもらって結構です」

「了解だ。お嬢様、先生がこう言っておられるので」

「……大丈夫よ。ちょっとビックリしただけだから」

「会長はこちらの席へどうぞ。男鹿は後ろに控えておりますので」

「ありがとうございます、男鹿さん」

「むっ。なら私もお嬢様の後ろに控えましょう」

「張り合わないの」

 

 最終的に湊と天衣が壁側に並び、その対面に月光会長が座る形で落ち着いた。もちろん天衣と月光会長の後ろには、それぞれの付き人が姿勢よく待機している。また近くの席に客は居ない。気になるようだが、遠巻きに窺うだけで、奇妙に静かな空間が出来上がっていた。

 

「それで、いい加減に説明してほしいんだけど」

 

 口火を切ったのは不機嫌さを隠そうともしない天衣だ。常ならば背筋を伸ばして座る彼女だが、今は頬杖をついて眉間に皺を寄せていた。

 

「まずは姿勢を正す」

「……わかってるわよ、もう」

 

 素直に頬杖はやめたものの、白い頬はふっくらだ。

 

「よし。それで説明なんだけど、知っての通り、棋士になるには棋士の師匠が必要だ」

「月光九段が師匠ということ? それとも紹介を頼んだの?」

「名前を貸すだけなら、と月光会長が引き受けてくれたよ」

「夜叉神さんは長らく将棋界にご援助をくださっていますし、夜叉神アマ七段とは個人的な交流もありました。名義貸しくらいならお安い御用ですよ」

「実際の手続きは奨励会に入る時で、まだまだ先の話だろうけどね」

 

 ようやく話を飲み込めたらしい天衣は、改めて姿勢を正した。幼く可憐な容貌なのに、その中に浮かぶ眼差しは鋭い。負けん気の強いそれは、勝負に臨む時のものだと湊は気付いた。

 

「まずはありがとうございます。ただ一つだけ、ここでハッキリさせておきます」

 

 鈴を転がしたような声。同時に、刃鳴りのような鋭さがそこにはあった。

 

「私が師匠と呼ぶのは御影先生だけです。あなたを師と敬うつもりも、扱うつもりもありません。あくまで書類上の関係です。それでもいいですか?」

 

 どう反応すべきか、湊は迷った。

 

 天衣の言葉は間違っていないというか、月光会長も含めてそういうつもりの話ではある。それにしたって初対面だろう相手に率直過ぎるのではないかと思いつつ、一方で照れ臭さや嬉しさを感じないわけでもなく、結局、湊が選んだのは沈黙だった。

 

「良好な関係を築けているようで何よりです。もちろん構いませんよ」

「……月光会長にそう言ってもらえると助かります」

「では、この話はここまでとして、御影さんに提案があります」

「なんでしょうか。お話の内容によりますが」

「一局、私と指してみませんか?」

 

 その一言で、空気が固まった。

 

「詳しくは教えてもらえませんでしたが、夜叉神アマ七段から貴方の話は聞いていました。娘を任せたい棋士が居ると。彼ほどの棋士が見初めた腕前に、一人の棋士として興味があります」

 

 開かれる事のない目蓋の向こうから、たしかに見られていると湊は感じた。

 

 月光会長の言葉は本心だろう。十七世永世名人を襲名予定の彼は、初めて天祐がアマ名人を獲った年の名人であり、その時の記念対局の敗者でもある。角落ちとはいえ自らを破った棋士が評価する人物に、興味を惹かれたとしても可笑しくない。

 

 湊もまた、対局に興味がないと言えば嘘になる。現代将棋の基礎を、たった一人で築き上げたと謳われる天才棋士。史上最強の棋士を論ずる際に、必ず候補に挙がる傑物。それが月光聖市という棋士であり、今生で湊が戦った誰よりも強いはずだ。彼の将棋を見てみたいという欲求はあるし、隣に座る天衣も、期待と不安をない交ぜにした眼差しを向けてきている。

 

 訪れた沈黙に包まれたまま、しばし思索を巡らせた湊は、結論を出して口を開いた。

 

「お断りします」

 

 天衣が驚きの声を漏らす。それでも、湊に意見を変えるつもりはない。

 

「僕の将棋は勝負の世界にはありません。あくまで誰かを導くためのものです。だから誇る腕前があるとすれば、それは僕自身の中ではなく、これからこの子が指していく将棋の中でしょう」

 

 告げて、湊は隣の天衣を見下ろした。

 

 呆気に取られて口を開いたままの少女は、普段以上に幼く見える。まだまだ未熟で、付き合いも短い愛弟子だ。それでも湊は、彼女が秘めた可能性を理解し、信じていた。

 

「そういう事であれば、無理強いはできませんね」

「すみません。ですが僕としては、彼女の将棋こそが自慢なんです」

 

 小さな頭に手を乗せる。いつもはそれを振り払う少女は、怒りとも喜びともつかない表情を浮かべると、肩を落としてゆっくり息を吐き出した。

 

「ねえ、月光九段。一つ約束してもらえないかしら?」

「私に叶えられる範囲であれば、喜んで」

 

 チラリと、不安を滲ませた瞳が見上げてくる。天衣の考えはわからない。それでも師として味方であると頷き返せば、彼女は再び前を見た。

 

「いつか奨励会に入るその時に――――――私と対局してください。お父さまと同じ、角落ちで」

 

 返ってきた月光会長の答えは、もちろん一つに決まっていた。




★次回更新予定:5/20(水) 19:00


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#005 指導休みの一日

 天衣と月光会長を引き合わせてから一週間が経ち、いよいよ年の瀬も迫った土曜日の昼下がり。湊はすっかり通い慣れた夜叉神邸を訪れていた。

 

 ただし今日は、いつものように将棋を教えに来たわけではない。用事があるらしい天衣の代わりというわけでもなかろうが、屋敷の主である弘天に招かれての訪問だ。

 

 体格のいい黒服サングラスの男衆に迎えられた湊は、そのまま応接間へと通された。

 

「本日は急な招待にも関わらず応じていただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、お招きありがとうございます。一度ゆっくり話したいと思っていたんです」

 

 紫檀の座卓を挟み、向かい合った湊と弘天。互いに正座を崩していないが、流れる空気は緩やかだ。表情にも硬さはなく、どちらともなく卓上の湯呑みに手を伸ばす。

 

 天衣を介した関係ではあるが、それでも二ヶ月間、毎日のように顔を合わせてきた。気心が知れたとまでは言えないが、それなりに気安い間柄になった二人だ。

 

「察しはついておられるでしょうが、天衣の話を伺いたいのです」

「もちろんです。僕に答えられる話であれば、いくらでも」

「…………あの子は、天衣は、棋士になれる器ですか?」

 

 躊躇いがちに尋ねる弘天の顔には、色濃い心配が滲んでいる。

 

 祖父の顔だと、湊は思った。かつては名の知れた博徒であり、今では手広い実業家であるという話は、屋敷に通い始めて三日目には教えられていた。実際、屋敷に詰めている男衆はその筋の者と言われても違和感ないし、彼らに指示を出す弘天からは威厳が感じられた。

 

 それでも湊と対する彼は、孫が可愛くて仕方ない老爺に過ぎないのだ。

 

「将棋界との関わりは長い身です。随分と気が早い話をしている自覚はあるのですが、それでも逸ってしょうがない。愚かな年寄りを諫めると思って、率直な意見をお聞かせください」

 

 将棋は才能の世界だと言う者は多い。プロ棋士の登竜門たる奨励会に集まる者たちは、それぞれの地元で天才と呼ばれたような凄腕ばかり。その中でも限られた者だけが至れるプロ棋士は、才能と努力を兼ね備えた天才たちの上澄みと言っても過言ではない。

 

 また才能も努力も備えているのに、環境や運に恵まれず、プロになれない者もいる。最後の関門である三段リーグで何年も燻り続けて、ついには諦めざるを得ない者もいる。

 

 将棋の世界で生きていくという事は、長く苦しい戦いの世界に身を置くという事だ。

 

 故に心配なのだろう。孫の好きにさせたいと思うと同時に、将棋の世界に理解があるからこそ、この先に待ち受けるであろう苦難を憂いてしまう。

 

 ならばこそ、湊が口にすべきは偽りなき事実だ。

 

「世の人々が語る才能であれば、優れたものはありますが、天衣に勝る人も少なくないでしょう。ですが僕の弟子として見るのであれば、彼女は最高の逸材だと断言します」

 

 笑みすら浮かべて宣言すれば、にわかに弘天の頬が緩む。

 

「指導に当たり、僕は色々と制限を強いています。それを唯々諾々と従うわけでもなく、ちゃんと意義を理解した上で、天衣は自らを律して熱心に努めてくれています」

 

 年齢に反して天衣の自制心が優れていた事は、湊にとって嬉しい誤算だった。

 

 何故か対局相手の読み筋が把握できてしまう湊は、将棋道場の客や天祐との対局を重ねる事で、相手の成長やコンディションを測れるようになっていた。

 

 科学が発展した現代でも、頭の中というのは未解明の部分が多い。いわんや将棋の上達方法ともなれば、プロであっても明確な答えなど持ち合わせていない。誰もが先人に倣ったり、経験則から独自の方法を模索する業界であり、だからこそ湊の力は破格もいいところだ。

 

 本人さえ把握できない微細な変化すら見通し、それを元に指導内容を調整していく。おそらくは誰よりも効率的な指導が可能であり、反面、効率に寄り過ぎて窮屈でもある。幸いにも天衣はよく期待に応えてくれているが、場合によっては喧嘩別れもあっただろう。

 

「才能や熱意があればこそ、僕の指導方法に不満や不安を覚える子供は多いでしょう。もちろんその時は対応を変えるつもりですが、天衣ほどの成長は期待できません」

 

 言い終えた湊は、湯呑みを手に取り口を付けた。対面の弘天を窺うと、皺の刻まれた顔に、柔らかな笑みを湛えている。ただ、何故だろうか。そこには一抹の寂しさが混ざっていた。

 

「あれは貴方に懐いておりますから。甘やかす事しかできない、この老爺よりもずっと」

「…………それは僕が、天祐さんと将棋で繋がっていたからでしょう。彼女が将棋を通して両親の影を追っているのは、初めて対局した日に感じました」

 

 だから父親の将棋を知り、また将棋の師として認められた自分を信頼しているのだ。そう続ける湊の対面で、弘天は気まずそうに目線を落とした。

 

「正直に白状すると、息子夫婦が亡くなった時に、将棋と関わる遺品は処分しようとしたのです。それらを見る度に哀しそうな顔をする天衣が、どうしても見ていられなくて。将棋界ではいくらか名の知れた息子でしたが、騒ぎ立てられぬよう、月光会長にもお願いしました」

 

 湯呑みを手に取り、一口。弘天は唇を湿らせる。

 

「ただ遺品の処分については、貴方の話を思い出して取りやめたのです。処分すれば二度と戻ってきませんが、信頼できる方に預けたなら、と。連絡がつかぬ内にあの子は将棋に没頭し始め、その案も立ち消えとなってしまったわけですが」

「その、葬儀には顔も出せず、申し訳ありませんでした」

 

 湊が頭を下げると、いいえと弘天は否定した。

 

「本当は怖かったのかもしれません。何もしてやれぬ私に代わり、あの子が誰かに心を開くのが。だから貴方の事も碌に調べず、あの子に孤独を強いてしまった。そんな不出来な祖父なのです」

 

 心なしか肩を落とした様子の弘天に、今度は湊が首を振って否と示す。

 

「貴方が優しく見守ってくれるから、天衣は好きな事に打ち込めるんです。僕自身、両親や祖父に甘えて好きにやらせてもらっている身なので、そのありがたさはわかります。今はまだ足元を見る余裕はないかもしれませんが、いずれ気付いてくれますよ」

 

 本心だ。前世も十分に幸福だったと考えている湊だが、将棋に関して妙な力が働く点を除けば、今世は理想的に過ぎる。裕福な家庭も、理解のある家族も、好きなだけ将棋が指せる環境も、前世の自分が戯れに夢想したような状況だ。そのように余裕のある環境であればこそ、妙な力の事で存分に悩めたし、前を向く切っ掛けも掴めたのである。

 

 弘天と視線を交わす。凪いだ大海を思わせる彼の瞳は、刻んだ歴史の深さを感じさせる。しばし二人を包んだ静寂は、どこか力の抜けた弘天の声によって破られた。

 

「そうですね。今はただ、孫の活躍を楽しみに待ちましょう」

「ええ。年明けには初めての大会が控えていますから、応援してあげてください」

 

 その後は天衣の日常を交えた雑談に移行し、日が暮れるまで湊の滞在は続いた。

 

 

 ■

 

 

「おや、天衣くんじゃないか。いらっしゃい」

 

 目が合った席主の気安い出迎えに、天衣はどう反応すべきか迷った。

 

 場所は将棋道場『ことひら』。時間は初来訪から一週間が経った土曜日の昼下がり。ニコニコと微笑む席主は、これが二度目の対面とは思えないほど親しげだ。

 

 たしかに前回は月光会長が帰った後も滞在し、常連客に夜叉神天祐の娘として紹介された。その効果は抜群で、随分と歓迎されたわけだが、どうにも天衣には慣れない距離感だ。

 

「若先生なら来てないよ」

「知ってるわ。今日は個人的な用事よ」

 

 そもそも鉢合わせないよう、祖父に頼んで湊を家に招かせたのだ。天衣としてはここに居た方が困ってしまう。もちろん、そんな裏事情は口に出さないが。

 

「晶、代金をお願い」

「了解しました。席主、子供と大人一人ずつだ」

「毎度。手合いカードは先週作ったけど、相手の希望はあるかな?」

 

 ふむと思案し、天衣は隣の晶を指差した。

 

「こっちの晶だけど、将棋のルールも知らないの。せっかくだし覚えさせたいんだけど」

「まかせてくれ。教えるのが好きな常連が居るから頼んでみよう」

 

 席主が呼び寄せた客に連れられて、晶は一足先に奥へ進む。少々離れる事を渋ったが、見通しのいい店内だからと納得させた。着席した晶を確認し、天衣は席主の方に向き直る。

 

 次は天衣の番だし、要求も決まっている。けれど彼女は少しだけ、その目を彷徨わせた。

 

「私は…………先生をよく知ってる人で」

「わかった。それと、今日の事は秘密にしておくよ」

 

 何も聞かれないのが、逆に気恥ずかしい。別にやましい事があるわけではないが、なんとなしに居心地の悪さを覚えた天衣は、ふいと視線を逸らして黙った。

 

 ほどなく、席主の呼び掛けで一人の客がやってくる。とうに還暦を超えていそうな皺くちゃ顔の男は、この前来た時、天衣に父の話をしてくれた一人だ。

 

 席主に事情を説明された彼は快く引き受け、天衣を先導して奥へ向かう。案内されたのは、前も座った最奥の席。そこが湊の指定席と教えられ、なんとも面映ゆい気持ちにさせられた。

 

「せっかくやし、一局指しながら話そか」

 

 断る理由もない天衣は、常連の男と平手戦を開始した。

 

「初めて若先生が来たんは、小学校に上がったばかりの頃やった。えらい小さい子を大将が連れてきたもんやから、その日は大騒ぎでな。あぁ、大将っちゅうんは若先生の祖父さんの事や」

 

 後手になった男が、いくつか手を進めたところで話の口火を切る。顔を窺えば、懐かしげに目を細め、ここではないどこかを見ているようだった。

 

「で、えらい小さいのにえらい強い! 若い頃は奨励会におった席主でも歯が立たん! こりゃあ末は名人か、なんて大将もわしらも大盛り上がりよ」

「でも先生は、棋士になるつもりはないんでしょ?」

「……勝負師やなかったっちゅう事やな」

 

 天衣の応手に盤面を睨みながらも、男は寂しげに零す。

 

「将棋は好きや言うのに、勝ち負けはどうでもええっちゅう変わり者なんよ」

「なんでよ。将棋は相手に勝ってこそでしょう」

「嬢ちゃんは見込みあるなぁ」

 

 感心した風に呟いた男が銀を上げる。銀対抗の形となり、天衣は次の手を思案した。

 

 ゴキゲン中飛車を指す男に対し、天衣は超速3七銀だ。名前通り速攻で銀を上げて牽制するのが超速3七銀戦法だが、これにゴキゲン中飛車側も銀を上げて対抗してきた形である。

 

 ここまではよくある展開だ。問題となるのは、ここからどう膠着を崩すか。穴熊からの持久戦も脳裏をよぎったが、実際に指したのは7八銀。二枚銀による急戦だ。

 

「嬢ちゃんの言う通り、勝った負けたが将棋の華よ。そこにこだわれん奴が棋士になっても、ただ辛いばかりや。せやからわしらも、若先生が棋士を目指さんのは納得しとる」

 

 玉を動かしながら、何度か男は頷いた。

 

「そんかわり若先生は将棋を教えるのが大好きでな。わしらを相手に指導対局の真似事を始めて、ここがようなった、つよなったと話す時が一番楽しそうやった」

 

 穏やかな語り口調とは裏腹に、男の指し手は速く鋭い。難解な変化であっても迷いなく、明確な悪手も未だなく、知識と経験の深さを窺わせる。いつの間にやら早指しになっているが、それでも勝ち切れないのだから、天衣としては侮っていたと言うほかない。

 

「お父さまにも色々と教えていたのよね?」

「記念対局で勝てたんは、若先生のお陰やって言うとったわ」

 

 したり顔で語る男だが、盤面には油断も隙もない。攻めあぐねる現状に、天衣は唇を結ぶ。

 

「ここ何年かは目的を変えて、将棋指しの育て方ばっか、二人で研究しとったけどな」

「それって――――」

 

 男は天衣と目を合わせ、意味深に頬を吊り上げた。

 

「わしらも練習台として付き合わされてな、ヘボ指しもマシになったっちゅうわけや」

「……そうみたいね。正直、もっと楽に勝てると思ってたわ」

 

 中盤も終わろうかという頃、相手の一手で天衣は手を止めた。妙手とは感じないが、構想にない一手に、読み筋の組み立て直しを余儀なくされる。それでも長考は負けたような気がした天衣は、半ば感覚に任せて早指しを続けた。

 

 終盤に入っても形勢は複雑だ。どちらの勝勢とも言い難く、どちらが読み誤るかで決まる局面。互いに早指しでミスはあるはずだが、それでも致命に至る事なく、綱渡りが続く。

 

「――――ここまでやな。参ったわ」

「え? ……あっ」

 

 決着は唐突に。投了を受けた天衣は盤面を睨み、遅れて即詰みに気付く。

 

 十二手先。一直線ではなく、やや難解な詰み筋だ。ともすれば見落としたかもしれないそれに、勝ちを譲られたようで悔しさが湧く。唇を噛み締めて、飄々とした男を睨み付けた。

 

「次は圧勝してやるから」

「わしはここじゃ中堅や。そんくらいしてもらわな困るわ」

 

 カラカラ笑う男の返しに、天衣はむうと頬を膨らせる。

 

「嬢ちゃん、大会には出んのか? 十分強いやろ」

「次の小学生将棋名人戦に出る予定よ」

「ああ、夜叉神はアマ名人やったしな」

 

 天衣は黙って首肯した。湊から大会出場の打診があった時、小学生名人を希望したのは天衣だ。アマ名人と違う事は重々承知だが、それでも名人という呼び名は、彼女にとって特別だった。

 

 湊も反対はしなかったし、十分に勝ち抜ける見込みがあると言ってくれている。天衣としても自信はあったのだが、今日の対局を経て、慢心はするまいと気を引き締めた。

 

「今は二年生やったな? 優勝すりゃ三年生の小学生名人か。こないだ四人目の中学生棋士とかでテレビに出とった九頭竜(くずりゅう)が、同じ三年生で小学生名人になっとったはずや」

「みたいね。一年で塗り替えられたけど、元史上最年少記録らしいわ」

「そら夢が膨らむなぁ。期待しとるで、嬢ちゃん」

 

 天衣と目を合わせた男は、穏やかな色を瞳に浮かべている。

 

「若先生を、小学生名人の師匠にしたってや」

「…………史上初の女性棋士の師匠にしてあげるわよ」

 

 楽しみにしとるわ、と男が笑う。嘲りのない、ただ嬉しげな声だった。




★次回更新予定:5/22(金) 19:00


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2016年
#006 初大会


 小学生将棋名人戦は、大きく三つの段階から構成される大規模なものだ。まずは各都道府県から代表一名を選出する予選大会。次に都道府県を東西で分け、代表を二名ずつ選出する東日本大会と西日本大会。そして最後に、東西日本の代表者四名で雌雄を決する決勝大会だ。

 

 年度や都道府県によって開催時期が異なるものの、予選大会はおおよそ十二月から三月に掛けて開催される。続く東西日本大会と決勝大会は三月から五月の間に開催されて、予選大会から年度を跨ぐ。そのため小学生将棋名人戦の参加者は、新年度の学年で表されるのが慣例だ。

 

 すなわち現在二年生の天衣は、新三年生として大会に臨むわけである。

 

 冬の寒さが一層厳しさを増した二月上旬。天衣と晶に連れ添って、湊は兵庫県予選大会の会場に赴いた。広いホールには多くの将棋盤が並べられ、参加者であろう子供と、その保護者で賑わいを見せている。スタッフを合わせれば百人を超えそうだが、子供はその半分程度だろう。

 

「こいつらが私の相手ね」

 

 見慣れた赤チェックのマフラーに口元を埋めるようにしながら、天衣が零す。普段通りの態度に見えるが、その声音から、湊は若干の緊張を読み取った。

 

「そうだね。高学年の部で申し込んだから、年上がほとんどだろうけど」

「関係ないわ。戦う以上は全力で勝ちにいくだけよ」

 

 勇ましい発言は、自らを鼓舞するようでもあり。とはいえ指摘するものでもないと、湊は二人を連れて受付へ。参加費の支払いが済むと、本日の流れについて説明された。

 

 まず予選大会の中でも、予選リーグと本選トーナメントの二段階に分かれている。

 

 予選リーグは四人一組のグループ内で対局し、二勝すれば本選進出、二敗すれば敗退だ。今回は欠席を除き三十二人が高学年の部に参加しており、計八グループから二人ずつ勝ち抜け、十六人で本選トーナメントを戦う予定になっている。

 

「反則だけは注意すること。緊張してるとしょうもないミスをするからね」

「別に緊張なんてしてないけど…………まぁ、気を付けておくわ」

 

 間もなく開会時間を迎え、審判に呼ばれたプロ棋士の挨拶が終わると、会場のあちこちで対局が始まった。天衣もまた、同じグループとなった男の子と向かい合っている。

 

「――――先生、お嬢様は優勝できると思うか?」

 

 不意の問い掛け。湊が隣を窺うと、天衣から預かったコートとマフラーを抱えた晶が、神妙な顔で対局中の天衣を見詰めていた。いつにない様子に、湊は舌の上で回答を転がした。

 

「……最近の大会記録を確認しましたが、小学生名人になった子は、みんなアマ四段以上です。プロの基準なら最低の6級相当ですが、言い換えればプロを目指せるレベルになります」

「お嬢様はアマ三段だったな。予選大会とはいえ、そのレベルが混ざっていたら厳しいか」

 

 眉尻を下げた晶に対し、首を振って湊は返す。

 

「片手間で取れるのが三段だったというだけで、天衣の実力はもっと上です」

 

 湊の影響を受けた『ことひら』の席主は、二年前に将棋普及指導員の資格を取得しており、その権限で三段までの免状なら推薦できる。だから指導のついでに三段は取ったが、アマチュア段位に興味がない天衣は、それ以上は昇段していないのだ。

 

 そもそも『ことひら』の常連は、全員がアマチュア四段以上の免状取得者で、中には最高段位の六段取得者も居る。彼らを相手取った最近の戦績を考えれば、天衣の段位も五段は固く、あるいは六段にも届くかもしれない。もっとも上限となる六段はピンキリで、いわゆる弱い六段だが。

 

「ちゃんと実力を発揮できれば優勝できますよ」

「つまり調子を崩せば負けるという意味だな」

「多少の実力差なら、ひっくり返るのが将棋ですから」

 

 過去の決勝大会の棋譜と比較して、今の天衣なら劣っていない。元から年齢に見合わない実力の持ち主だったが、この四ヶ月での成長率は、指導した湊の方が目を瞠るほどだ。それでも絶対的な実力差とは言えないため、評価は優勝候補の一人に留まってしまう。

 

 もっとも決勝大会まで二ヶ月あるので、その間にも天衣は強くなるだろうが。

 

 そういう意味では、この予選大会が最も危険だ。未だ盤石な実力と評するには及ばず、初めての大会で不慣れな部分もある。だからと言って、師匠が信じなくて誰が信じると言うのか。

 

「……随分と軽い物言いだな、と思ったが」

 

 安堵混じりの呟きに、湊は思索を打ち切った。晶の様子を確認すれば、顔に浮かんだ薄い笑み。その視線を辿ってみれば、自身の手元へ伸びていき、思わずあっと声を漏らす。

 

 いつの間にか、強く拳を握っていた。ほどこうとして、できなくて、湊の頬が熱を持つ。

 

「――――貴方が、お嬢様の師匠でよかった」

 

 柔らかな声音に顔を上げれば、晶は再び天衣を見詰めていた。その口元に刻まれた笑みを、湊はただボンヤリと眺める事しかできなかった。

 

 

 ■

 

 

 負けました。そう言って頭を下げる対局相手を尻目に、天衣は忸怩たる思いで盤面を見下ろすしかなかった。もし自室に一人の時ならば、衝動的に将棋盤をひっくり返したかもしれない。

 

 酷い将棋だった。序盤に掴んだリードを放さず、そのまま押し切ったと言えば聞こえはいいが、血気に逸った隙だらけの攻めに潰されるほど、相手が未熟だったに過ぎない。

 

 これで二勝目の天衣は本選進出が決まったが、胸の奥には暗い澱が溜まっている。意気消沈した相手との感想戦もそこそこに、重い足取りで待っている湊と晶の元へ向かう。

 

「おめでとうございます、お嬢様!」

 

 無邪気に喜ぶ晶の隣には、いつもと変わらぬ様子の湊。穏やかに天衣を見詰める切れ長の瞳は、すべてを見通すようにも感じられ、自然と背筋を正してしまう。

 

「おめでとう。いつも通りに指せたかい?」

「先生ならわかるでしょ、そんなこと」

 

 つっけんどんに返してしまい、天衣は気まずくなって目を逸らす。

 

 一戦目も二戦目も、普段の実力からはほど遠い出来だった。いずれも勇み足が目立った対局で、振り返ってみれば、攻守の粗さに目を覆いたくなる。

 

 どうしてと自問するまでもなく、原因は天衣も自覚していた。

 

 結局のところ、張り切り過ぎただけだ。師匠と共に研鑽し、『ことひら』の常連にも認められた腕前を、対局相手に見せつけてやりたかった。自分はこんなに凄いのだと、買ってもらった玩具を見せびらかすような、そんな幼稚な部分が先立ってしまったのだ。

 

 ひたすら反省するしかない。将棋を指す者として、あまりに平静を欠いていた。

 

「遠目に覗かせてもらったけど、実力の半分も出せてなかったね」

 

 責める風でもない湊の声に、恥じ入る気持ちは増すばかり。知らず俯き、天衣はスカートを握り締めていた。初大会の晴れ舞台。もっと格好よく決めるはずだったのに、と。

 

「――――出会った頃の君なら、あんな調子じゃ負けてたよ」

 

 続く言葉に、釣られて天衣は顔を上げる。次いで頭に乗せられた、温かな手の平の感触。

 

「強くなったね。それが何より、僕には誇らしい。そしてこれからも、君はまだまだ強くなれる。少なくとも今日は、実力通りに指せない時もあると学べただろう?」

 

 柔らかな微笑は、今となっては見慣れたもので。そこに嘘はないと、わかってしまう。

 

 先生はズルい、と天衣は思った。自分はたくさん悩んでいるのに、不安だって感じているのに、なんでも見透かしたみたいに振る舞って、わかった風な口を利く。その余裕がズルいし、あっさり自分を安心させてしまうのが――――――――とてもズルい。

 

「……気安く触らないでよね」

 

 強がりで、天衣は湊の手を振り払う。同時に顔を背けたのは、表情を見られたくないからだ。

 

「さっきの一局、棋譜を話すから感想戦の相手をお願い。調子を確認するわ」

「もちろんいいよ。本選では相手の度肝を抜いてくるといい」

 

 まかせなさいと、そう答える天衣の胸からは、先ほどまでの鬱屈とした気持ちは消えていた。

 

 

 ■

 

 

 本選トーナメントで決勝進出を決めた時、彼は当然だと思った。昨年度だって兵庫県代表として西日本大会に進出したし、予選大会の面子は見覚えのある奴らがほとんどだ。更には師事している棋士の先生が太鼓判を押すほど調子がいいのだから、自分こそ優勝候補筆頭だと考えていた。

 

 決勝の相手が年下の女の子だと知った時、彼は幸運だと考えた。決勝まで来たなら才能も実力もあるのだろうし、調子だっていいかもしれない。けれど初めて聞く名前だから大会経験は少なそうだし、どこかに『女は弱い』という意識もあって、勝ちやすい相手だと感じたのだ。

 

 そして現在、決勝の対局も終盤を迎えて、彼は悄然と盤面を見詰めていた。

 

 自玉の囲いは崩され、持ち駒は少なく、なのに相手玉は遥か彼方だ。一手指す度に、一手詰みが近付くようで。響く駒音が、死神の足音みたいで。時間がないのに、利き手が震えて動かない。

 

 強い。そんな言葉しか絞り出せないほどに、彼は相手の女の子に圧倒されていた。作戦で負け、読みで負け、何より大局観で負けている。おそらくそれは、積み重ねてきた研鑽の差。これが年下とは信じられないほどに、分厚い壁を幻視した。だからと言って、敗北を受け入れるのか。

 

 まだ抗える。まだ足掻ける。必死に自らを鼓舞して盤上を睨んだ彼は、

 

「……っ」

 

 詰み筋に気付いた。自らの首を刈る詰み筋に。

 

 迷ったのは、投了するか否か。たとえ詰み筋があろうとも、相手がそれに気付くとは限らない。稀にではあるが、プロ棋士が一手詰を見落とす事さえある。

 

 なら詰み筋に気付いた事を悟らせないよう指し続け、逆転の一手を狙うべきではないか。そんな算段を立てながら、彼は対局相手の様子を窺った。

 

 黒い服を着た女の子は、同級生の女子と比べても明らかに小さい。年上の彼に臆した風もなく、大きな瞳で真っ直ぐ見返してくる彼女の第一印象は、ただの生意気なガキだった。

 

 けど生意気だと思った彼女は、今も真剣に盤面を見詰めている。九分九厘勝利が決まったような状況で、欠片の驕りも侮りもなく、彼の応手を待ち構えているのだ。

 

 それで諦めがついた。こいつは詰み筋を見落とさないなと、信じられた。

 

「――――――負けました!」

 

 いつになく声を張り上げて、投了を宣言する。少し周りを驚かせてしまったみたいだが、お陰で頭の中はスッキリしたし、多少は意義のある感想戦ができるだろう。

 

「なぁ、俺って何手前から詰んでた?」

「四手前の合駒ね。あそこは玉をかわすべきだった」

 

 審判をしていた棋士の方を見やると、静かに頷きを返された。

 

「なるほど。次、ぶっちゃけ序盤でどこが悪かったと思う?」

「早囲いに対して急戦を目指したのはいいけど、5二金よりも7四歩で攻勢に出た方がよかったと思う。一段金の方が作戦の幅に広がりが出たはずよ」

「だったら5三銀で中央から動くのもアリじゃないか?」

「ええ、それもいいと思うわ」

 

 打てば響く。淀みのない返答は、女の子の深い読みを感じさせる。優勝を決めても調子に乗った様子はなく、真摯に感想戦を進める彼女の態度が、彼に素直な称賛の気持ちを抱かせた。

 

 いつまでも続けられそうだったが、適当なところで感想戦を切り上げる。短くも濃密な時間は、十分意義があったと言えるだろう。純粋に実力不足だったと納得できた彼は、晴れやかな気持ちで決勝戦を終えられた。

 

 ただ膝に乗せた左手だけは、ずっと握り締めていたけれど。

 

「西日本大会がんばれよ。お前なら決勝大会まで行けるかもな」

 

 激励のつもりで言葉を掛けると、女の子は不思議そうに首を傾げる。次いで意味を理解したらしく、一転、ニヤリと口角を吊り上げた。

 

「もちろん次も優勝するわよ。私は小学生名人になるんだから」

 

 初めの印象通りに生意気そうな笑み。それでも対局を終えた今なら、素直に応援しようと思えるのだから不思議なものだ。同時にもっと努力しようと、彼は気持ちを新たにした。

 

 最後に挨拶を交わして席を立ち、待っている師匠の元へ報告に向かう。その途中で彼は、決勝の結果が反映されたトーナメント表を確認した。

 

 夜叉神天衣。それが彼を打ち破り、兵庫県代表となった女の子の名前だった。




★次回更新予定:5/23(土) 19:00

作中時間の2016年時点では、兵庫県は全国で唯一、小学生名人戦と倉敷王将戦の予選を合わせて行っていたそうです。小学生名人戦の優勝・準優勝者が、倉敷王将戦の県代表だったとか。

これに則ると天衣ちゃんは倉敷王将戦にも出場できるのですが、話の本筋に必要ない事と、大会の時期が別のイベントと被る事から無視しています。

ちなみに2019年からは、兵庫県でも別々に予選を開催するようになったみたいです。


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#007 想いが伝わる日

 小学生将棋名人戦の予選大会から、一週間の時が経った。当日は報告を受けた弘天が大層喜び、急いで祝いの席を設けたほどだが、流石に今はもう落ち着いている。

 

 一方で天衣は、優勝直後こそ浮かれた様子を見せたものの、翌日には普段通り振る舞っていた。途中からとはいえ、初めての大会で十分実力を発揮できた事といい、普段の指導での態度といい、湊の想像以上に彼女の精神は強靭だ。

 

 とはいえ天衣が強いばかりの少女ではない事も理解している。せっかく大会で優勝したのだし、いつもは将棋ばかりだからと、何かご褒美を用意しようと湊は考えた。

 

 そんな理由で、この日の指導は『ことひら』で行われた。

 

 朝から始めた将棋指導は、昼食を挟んでもしばらく続けたが、いつもより早い午後二時過ぎには切り上げた。不可解そうな天衣に出掛ける事を提案すれば、なんだかんだ言いながらも付き合ってくれるのだからいい弟子だ。

 

「まったく、こういう予定は先に言ってよね」

 

 見慣れた黒コートと赤マフラーを着込んだ天衣は、そう言って白い息を吐き出した。

 

「ごめん。ことひらで指す時は外食に行くし、その延長くらいのつもりだったんだけど」

「ぜんぜん違うでしょ。先生は将棋の事なら鋭いのに、そういうところは鈍感なのね」

 

 呆れた様子で返されて、湊は居心地悪そうに頬を掻く。助けを求めるように、天衣を挟んで歩く晶を見やるが、彼女はただ肩を竦めるだけだった。

 

「それで、結局どこに行くのよ?」

「ケーニヒスクローネだよ」

 

 神戸では名の知れた洋菓子店だ。有名百貨店を中心に全国展開している店なのだが、その発祥は神戸であり、『ことひら』から一キロほど離れた場所に本店を構えている。

 

 女の子のご褒美だからスイーツを、という安直な発想が湊にあった事は否めない。だがそれだけでこの店を選んだわけではなく、その証に天衣の表情は驚きに染まっていた。

 

「……お父さまに聞いたの?」

「お土産に勧めたのは僕だからね」

 

 昔、妻子の機嫌を取りたいと悩んでいた天祐を見た湊は、本店が近くにあった事を思い出して、ケーニヒスクローネを提案したのだ。結果は功を奏したらしく、天祐には随分と感謝された。

 

「はちみつアルテナが好きなんだっけ」

「そうよ。もう、お父さまはお喋りなんだから」

 

 ぼやく天衣の顔を窺えば、薄紅の唇に浮かぶ微笑。ただそこには、一抹の寂しさも滲んでいる。それが両親の話をする時の表情だと、今の湊は知っていた。

 

 八年二ヶ月。それが夜叉神天衣の歩んできた人生の長さで、たったそれだけの時間しか生きていないのに、彼女は愛する両親を失っている。早過ぎた死別は幼い心を傷付けて、一年以上が経った今でも、癒える事なく残っていた。

 

 天衣がどう乗り越えるべきかなんて、湊が偉そうに教える事はできない。あるいは自分が天祐の思い出を語る所為で、悲しみを長引かせているのかもしれないと、悩んだ事もある。

 

 それでも今回みたいに天祐の話題を口にするのは、天衣が棋士を目指すからだ。

 

 将棋は天衣と両親を繋ぐもの。故に棋士を目指す以上、彼女は両親を意識せずにはいられない。なら腫れ物のように扱うのではなく、楽しい思い出として語った方が、前を向けると思うのだ。

 

「愛妻家の親馬鹿だったからね。将棋以外だと、いつも天衣たちの話をしていたよ」

「家ではただの将棋馬鹿よ。誰かの話をする時も、先生みたいな将棋に関わる人ばかり」

 

 目を細めた天衣が柔らかく語る。と、不意に湊の方を見上げてきた。

 

「そうだ、先生の誕生日っていつ? 私だけ知られてるなんてズルいじゃない」

「その理屈はよくわからないけど、誕生日は元旦だよ。覚えやすいでしょ」

「えっ、もう過ぎてるじゃない。なんで黙ってたのよ!」

 

 憤る天衣に押されて気まずさが湧く。しかし湊にとっては、元旦とは誕生日よりも正月としての意識が強いのだ。前世の誕生日とも異なるので、身近な者に祝われてから思い出す事も多い。

 

「私だけプレゼントを貰うのは気分が悪いでしょ。気が利かないわね」

「いや、それじゃプレゼントを催促するみたいじゃないか」

「すればいいのよ。まったく、なにを遠慮してるんだか」

 

 ふんと鼻を鳴らした天衣がそっぽを向いた。

 

 機嫌を損ねたようではあるが、その実、歩み寄りたいという意思表示だ。普段は将棋の事ばかり話しているが、湊としても、天衣の事をもっと理解したいと思う。まだまだ手探りの師弟関係だが、少しずつでも前に進んでいければと、湊は決意を新たにした。

 

「というか、その調子だと今日がなんの日かも忘れてるんじゃないの?」

「何かあったかな? 二月のイベントと言っても――――――あぁ、そうか」

 

 考えてみれば、たしかに定番イベントがあったと湊は気付く。

 

「そうよ。二月と言えばバレンタインでしょ」

 

 心底呆れ返った眼差しに、湊は乾いた笑いを返すしかなかった。

 

 

 ■

 

 

 湊に先導されて天衣が辿り着いたのは、閑静な住宅街の中に、ポツンと佇む洋菓子店。全国展開している店の本店として見れば、些か寂しく感じるところもあるが、誰しも最初の一歩はそういうものなのかもしれない。

 

 バレンタインではあるが、立地の関係か、奥のカフェスペースには十分な空きがあった。生憎と四人席はなく、二つの二人席に分かれる。一人になったのは晶だが、それは別に遠慮のためではなく、主人の写真を撮りやすいからだと、天衣はちゃんと理解していた。

 

 古風さと高級感のある内装に反し、カフェは前金のセルフサービスとカジュアルな方式だ。一人掛けのカフェソファに腰を下ろした天衣は、テーブルに運んできたトレーを置いた。

 

 天衣が注文したのは紅茶とチョコレートクローネだ。好物のはちみつアルテナと悩んだが、このチョコレートクローネは本店限定品である。かつては父が買ってくる事もあったが、亡くなってからは一度も食べていない。そんな懐かしさに誘われてのチョイスだった。

 

「それにしても、中学生や高校生ってバレンタインを意識するものじゃないの? 私の同級生でも騒がしい女子はそれなりに居るわよ」

「中学の頃は男子が浮足立ってた気がするね。高校は、ほら、行ってないから」

 

 あっけらかんと答える湊を見て、ああ、と天衣は思い出す。

 

「そういえば翻訳家なのよね。経緯はよく知らないけど」

「将棋のために数ヶ国語を覚えたから、それで稼げれば楽だと思っただけだよ。幸い実家に伝手があったから、中学卒業後に在宅で仕事を受け始めて、ようやく軌道に乗り始めたところ」

「いや、将棋との関係がわからないんだけど。日本語で十分よね?」

 

 話しつつ紅茶に口を付けた天衣は、続いてチョコレートクローネへ手を伸ばす。スティック状のパイ生地の芯にカスタードクリームを注入し、チョコレートでコーティングした一品だ。サクサク触感が楽しく、カスタードクリームの豊かな風味にチョコレートのアクセントが利いている。

 

 懐かしさに目を細める天衣を眺めながら、湊はコーヒーを口にして話を続けた。

 

「そうでもないよ。頭脳競技だから脳科学を活かせないかとか、将棋ソフトが発展してるからAI学習について調べてみようとか、そういう時は最低限英語もできた方が便利だ。それに知識の転用は今のAIにはできない人間の特権だし、時には将棋以外にも目を向けてみるといい」

 

 そこで一拍。湊は記憶を探るように視線を巡らせる。

 

「ちょっとした小話としては、多言語を学ぶ事で脳の処理能力が発達する、という脳科学の研究もあるよ。英語なら覚えて損はないだろうし、勉強してみてもいいかもね」

「考えておくわ。その時はおすすめの勉強方法を教えてちょうだい」

 

 もちろんと頷く湊が、少し眩しい天衣だった。自身も人並み以上に将棋に打ち込んでいる自負はあるが、師の教えを実践しているだけに過ぎない、という思いもある。だから自ら色々と模索する湊の姿勢は、尊敬と共に自戒の念を湧き上がらせた。

 

「けど、そんなに勉強熱心なら高校に行けばよかったんじゃない?」

「将棋に時間を割きたかったんだよ。大学は興味あるけど、高校は高認でいいかなって」

 

 話題にしたのは天衣自身だが、小学生の彼女には、よくわからない話でもあった。棋士であれば中卒が居るのも知っているが、漠然と、みんな高校に行くというイメージを持っている。

 

 ややおざなりに頷いて合わせていた天衣は、

 

「それに親しい友達も居なかったし」

 

 何故かその一言で、妙に感情を揺さぶされた。

 

「……そうなの? ちょっと意外ね」

「放課後はことひらに入り浸ってたから」

 

 別に可笑しな話をしているわけではなく、実に湊らしい発言だ。けれど妙に喉が渇いて、紅茶へ手を伸ばした天衣は、ティーカップを傾けながら対面の湊を窺った。

 

「学校では友達と話もするし、たまには遊びにも行ったけどね」

「遊びにって、たとえばどんな?」

「多かったのはカラオケかな」

 

 誰かの話をする時、こんなに軽薄な顔をする人だったろうかと、天衣は不思議に思う。悪感情があるわけではなく、さりとて好感情もなく、ただひたすらに無感情。湊の表情は穏やかだけれど、それだけで。思い出話と呼ぶには、そこに籠められたものが軽過ぎて、空っぽ過ぎた。

 

 だからこそ、天衣も納得せずにはいられない。この人にとって、学校生活にはなんの価値もないのだと。それに気付いてしまうと、今度は急に怖くなった。

 

 共に話した相手が、共に遊んだ相手が、この人に何も残せていない事実が怖かった。

 

 自分と湊を繋げるものは、父と将棋が結んだ縁だ。だから強固で、湊も大事にしてくれていると信じているけれど、そこから離れた時、自分に居場所はあるのだろうか。夜叉神天祐の娘ではなく、将棋の弟子でもないただの天衣は、湊の世界に居るのだろうか。

 

 他愛もない被害妄想に過ぎないが、胸の奥にできたしこりは、消えてくれそうになかった。

 

「お嬢様、どうかされましたか?」

「少し顔色が悪いみたいだけど」

 

 心配する二人になんでもないと答え、天衣は誤魔化すようにチョコレートクローネを口に運ぶ。変わらず甘くて美味しかったけれど、それでもどこか味気なかった。

 

 以降も雑談は続いたが、いまいち話に身が入らない。やがて店を出て、駅を目指して歩く間も、天衣の気持ちは上の空。くだらない杞憂と自覚していたが、それでも心は囚われてしまった。

 

「帰ったらゆっくり休むこと。いいね?」

「わかったわよ。先生は心配性ね」

 

 駅での別れ際、湊は心配そうに天衣の顔を覗き込む。大会の時でもそんな顔はしなかっただろうと、天衣はなんだか可笑しくなった。いくらか気分が上向いたからか、湊も表情を和らげる。

 

「あの、お嬢様……」

 

 さあ帰ろうかと踵を返そうとした天衣に、横合いから晶が声を掛けてきた。いきなりどうしたと視線を向ければ、彼女は焦った様子でポケットを叩くような仕草を繰り返している。

 

 首を傾げた天衣は、次の瞬間、あっと気付く。

 

 天衣がコートのポケットに手を突っ込めば、指先に返るカサリとした感触。それを確かめて、目の前の湊を見上げて、結局、気まずげに足元へ視線を落とす。

 

 今日はバレンタインだ。天衣には世の女性に倣って騒ぎ立てるような趣味はないが、弟子として日頃からお世話になっているのだし、師匠に感謝を伝えるのも礼儀だろう。

 

 そんな風に考えて、湊に渡すためのチョコを準備していた。別に大した物でもない市販の品で、天衣の手の平に乗る小さな箱に、小粒のチョコが四つだけ入っている。

 

 さして深い意味があるわけでもないが、朝に会った時に渡しそびれて、『ことひら』を出た時もタイミングを逃して、今に至ってしまったのはどういう事なのか。

 

 気分的に、今の天衣としては渡し辛いのだ。

 

「どうかした?」

 

 しゃがんで目線を合わせてきた湊。気遣しげな瞳から逃れるように隣を見れば、拳を握って応援するような晶の姿。こっちの気も知らないでと、逃げ場のない状況に天衣は嘆息した。

 

「……これ。弟子として、感謝の気持ち」

 

 顔を背けたまま、手にした箱を差し出す天衣。けれどいつまで経っても受け取る気配はなくて、焦れた彼女は、恐る恐る湊の様子を窺った。するとそこには、呆気に取られた師の顔が。

 

 見詰め合い、数秒。おっかなびっくり、湊は箱を手に取った。

 

「えっと、ありがとう。なんというか…………照れるね」

 

 いつになく拙い喋りではにかむ湊は、普段よりも幼く見える。それは天衣の知らない彼の姿で、けれど取り繕ったようでもなく、純粋な感情の発露に思えた。

 

 父の友人ではなく、将棋の師でもない。等身大の御影湊に、初めて会えた気がする。それだけで天衣は、胸のつかえが取れてしまった。この人の世界に自分は居るのだと、信じられた。

 

「――――――これからもよろしくね、先生」

 

 故に偽りなき本心として、その言葉を告げたのだ。




★次回更新予定:5/25(月) 19:00


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#008 小学生名人

 天衣の弟子入りから半年余りの時が経ったが、未だ成長に陰りは見えず、驚くべき速さで棋力を上げている。それが幼さ故の伸びしろなのか、はたまた天衣個人の素養が凄まじいのかは判じかねるが、湊の知る誰よりも優れた成長を見せているのは確かだ。

 

 結果として三月にあった小学生将棋名人戦の西日本大会でも優勝し、本日、小学生名人を決める決勝大会へ臨んだわけである。会場は東京都港区のホテル。東西日本大会の代表者四名で準決勝と決勝を争うのだが、既に準決勝は終わり、決勝も佳境を迎えていた。

 

 大盤解説会に参加する形で応援に来た湊は、終盤に入った盤面を難しい顔で睨んでいる。

 

 難なく準決勝を突破した天衣の相手は、茨城県代表の男の子だ。今年で小学六年生という彼は、去年の準優勝者でもあるそうで、その実績に違わぬ実力を備えているように見える。

 

 しかし相手が悪かった。盤面は明らかな天衣の勝勢。決勝と呼ぶにはあまりに一方的で、解説の棋士も、何度か言葉選びに困っていた。よほどの悪手がなければ、勝敗は揺るぎそうにない。

 

 だがそれでも、心配なものは心配だ。将棋は最後に悪手を指した方が負ける、と言われている。たとえどれだけ押していようとも、終盤の一手で逆転されてしまう。故に終盤こそ慎重な手を選ぶ棋士は多い。詰めに逸れば、自らの首を絞めかねないと理解しているからだ。

 

 知らず息を詰め、膝の上で指を組んでいた湊は、終局と同時に大きく息を吐き出した。

 

 八二手で先手の投了。それは後手となった天衣の勝利を意味し、この瞬間、小学生名人の栄誉は彼女のものとなる。最後まで目立ったミスのない、手堅い将棋だった。

 

 ほどなくして対局していた二人が、大盤解説の会場に入ってくる。途中、湊と目が合った天衣は澄まし顔で歩き続けたが、ちょっとだけ胸を反らしたように見えた。

 

 大盤の前に並ぶ二人に、解説の棋士が対局の感想を聞いていく。卒なく答える弟子の様子に胸を撫で下ろしながらも、湊は対局相手だった男の子が気になった。

 

 六年生の彼にとって、今年が最後の小学生将棋名人戦だ。結果は二年連続の準優勝で、決勝戦の内容は惨敗と言って相違ない。悔しさも情けなさも、第三者が想像するより遥かに大きいはずだ。それでも彼は、涙を滲ませながらも毅然と立ち、対局の反省点をよく掴めていた。

 

 いい棋士だ、と湊は思う。勝負の世界に生きる以上、敗北は避けて通れない。だからこそ負けた時の対応は重要だ。心折れるのではなく、平然と流すのでもなく、次こそはと奮起する。悔しさをバネに、自らを信じて前を向く。それができない棋士は、どこかで足を止めてしまう。

 

 天衣はどうだろうか。負けん気が強く、向上心に満ちた彼女だが、未だ公式戦では負け知らず。いつか彼女が敗北を知った時も、このようにあってほしいと願う湊だった。

 

 その後は表彰式に移り、最後は決勝大会に参加した四名へのインタビュー。おおむね質問内容も回答も問題なく、和やかに終わるかと思われたが、天衣が小さな爆弾を投下した。

 

 ――――――尊敬するプロの棋士は誰ですか?

 

 定番の質問で、棋士を目指す子供なら必ず一人は居るだろう、という前提だ。他の三名が師匠やタイトル保持者といった、これまた定番の回答を返す中で、天衣だけは毛色が違った。

 

『特にいません』

 

 一刀両断。天衣に当てを外されたインタビュアーの顔は、しばらく忘れられそうにない。正直に答えただけなのだろうが、湊としては月光会長あたりを挙げてやり過ごしてほしかった。

 

 別に問題となったわけではないが、こういう実直さは時に不要な反感を買ってしまう。将棋界にさしたる伝手もなく、守る術がない湊としては、譲れるところは譲ってほしいと思うのだ。

 

「あれは質問が悪いのよ」

 

 帰りの新幹線でそうした心配を伝えると、天衣は口を尖らせてそっぽを向いた。

 

「わざわざプロなんてつけなければ、私だって答えたのに」

 

 そう言われると湊も弱い。天衣の意図を察せぬほど、彼も鈍いわけではなかった。なんと言おうかと眉尻を下げていると、チラリと顔を窺ってきた天衣が嘆息する。

 

「……まぁ心配性な誰かさんのために、今度から気を付けるわ」

「そうしてくれると気が休まるよ。必要な時は我を通すのもいいけどね」

「当然でしょ。それより予定について確認したいんだけど」

 

 見上げてくる天衣に、湊は静かに頷きを返す。

 

「前に言った通り、マイナビ女子オープンに出るわ。奨励会の試験には影響ないのよね?」

「念のため連盟にも確認を取ったけど、参加資格も日程も問題ないよ」

「なら、心置きなくタイトルを奪いにいけるわね」

 

 マイナビ女子オープンは、女流棋士のタイトル戦だ。将棋連盟主催の女流棋戦としては最大級のもので、優勝者には賞金五百万円と『女王』のタイトルが与えられる。

 

 女流棋戦ではあるが、一般アマチュア選手にも門戸を開いているのが、マイナビ女子オープンの特徴だ。予選トーナメント出場権を賭けた予備予選にはアマチュア選手も参加可能であり、天衣はこの予備予選から『女王』のタイトルを狙う腹積もりである。

 

「女王の(そら) 銀子(ぎんこ)は、私よりも早い二年生で小学生名人になった。史上最強の女性棋士と評価する声もあるし、奨励会で入品したのは女性初。プロを目指すなら一つの試金石になるでしょ」

 

 空銀子。女性初のプロ棋士に最も近いと目される、中学二年生の少女だ。女流タイトル二冠を保持しているが、タイトル防衛以外では女流棋士としての活動はなく、奨励会でプロを目指して鎬を削っている。また女流相手なら公式戦無敗という、女性として抜きん出た実力の持ち主だ。

 

 天衣にとっては同じ道を進む先達であり、どこかライバル視している節があった。

 

「先生から見て、私と女王ならどっちが強いのかしら?」

「十中八九、今なら空女王が勝つよ」

「けど一年後はわからない。そうでしょ?」

 

 得意げな天衣の問い掛け。その双眸に宿るのは、己が師への無垢な信頼だ。

 

 マイナビ女子オープンの予備予選は七月だが、順調に勝ち残ったとして、女王とのタイトル戦は来年の四月とまだまだ先だ。その間にも現役女流棋士の実力者と戦う機会はあるだろうが、棋力を鍛える時間は十分にある。どこまで行けるかはわからないが、湊も無理だとは思わなかった。

 

「期待しててよね、先生」

 

 笑った天衣は年相応に可愛くて、同時にとても頼もしかった。

 

 

 ■

 

 

 九頭竜(くずりゅう) 八一(やいち)はプロ棋士だ。昨年十月に四段へ昇段したばかりの新米ではあるが、史上四人目、二十五年振りの中学生棋士として、メディアを騒がせた人物でもある。

 

 と言ってもプロデビュー戦は目も当てられない惨敗であり、直後は将棋をやめようと考えるほどショックを受けたものだ。それでも悔しさをバネに奮起し、今は順調に勝ち星を重ねている。

 

 中学卒業後は高校に進学せず、将棋の道に専念すると決意。2DKのアパートで一人暮らしも始めて、二ヶ月が経った現在は、ようやく家事の手抜きも覚えて新生活に馴染んできたところだ。

 

 この日も八一は、平日の昼間から将棋漬けだった。次なる対局相手の得意戦法を丸裸にすべく、並べた将棋盤と睨めっこ。ああでもないこうでもないと悩んでいれば、ふと喉の渇きを思い出す。一息入れるかと冷蔵庫から飲み物を取り出して、気晴らしにタブレットでネットを漁り始めた。

 

 適当にサイトを巡回していれば、ふと目に着いたヘッドライン。

 

『【朗報】小学生名人めっちゃカワイイwww【第二の空銀子】』

 

 実に安っぽいまとめサイトの記事だったが、そういえば小学生名人の時期か、と八一は気付く。彼も小学三年生の頃に優勝を飾っており、当時の最年少記録を打ち立てたものだ。もっとも同門の姉弟子であり、記事タイトルにもある空銀子に一年で塗り替えられた記録だが。

 

「姉弟子並みに可愛い子なんて――――――マジで美少女じゃねえか! しかも小学三年生っ!? 俺と同じ、いや誕生日の差で俺より早いのか。決勝戦も短手数だし凄いな」

 

 話のネタ程度に開いた記事だったが、予想外に八一の興味を惹く内容だった。

 

 表彰式の写真が誇張抜きに可愛かった、というのはさておき。箇条書きにされた情報だけでも、優勝した少女の才能を窺わせる。まとめられたレスも可愛さを褒めるものが大半だが、対局内容に言及したレスは、いずれも少女の実力を裏付けるものだった。

 

 対局相手は前年度も準優勝しているらしいので、実力は確かだろう。それを三年生で圧倒できたというのなら、かつての八一にも並ぶかもしれない。

 

 将棋の事で気になり始めれば、止まらないのが棋士の性。小学生将棋名人戦の決勝大会は、後日テレビで放送される。既に放送日は過ぎており、動画サイトを探せばすぐに動画が見付かった。

 

「……想像以上だな」

 

 動画を見終わった八一は、知らずズボンを握り締めていた。

 

 棋譜がわかるのは準決勝、決勝の二局だけだが、小学生名人の実力は八一の想定より一段上だ。特に決勝の戦法には興味を惹かれ、さっそく将棋盤に棋譜を並べていく。

 

 と、序盤の形ができ始めた辺りで、玄関チャイムが鳴り響いた。

 

「はーい! どちらさんですかー?」

「私」

「あぁ、姉弟子ですか」

 

 玄関越しに聞こえた声は、八一にとって馴染みのもの。扉を開けると、想像通りの人物が。

 

 艶やかな銀髪を肩口で切った、妖精染みた美貌の少女。触れれば消えてしまいそうな儚さを感じさせる一方で、双眸に宿すのは強い意志。街で見掛ければ誰もが振り返りそうな美少女だが、八一にとっては見慣れたものだ。

 

 空銀子。八一と同じ清滝(きよたき)九段を師匠とする同門の棋士であり、彼よりも二歳年下ではあるが、二週間差で弟子入りが早かったため姉弟子の立場にある人物だ。

 

「連盟に用事でもあったんですか?」

「そんなところ。八一は何してたの?」

「小学生名人の決勝が興味深かったんで、その棋譜並べを」

 

 招き入れた銀子を和室へ案内すると、彼女は将棋盤を覗き込んだ。

 

「左穴熊と美濃…………相振り飛車か」

「先手が中飛車で、後手が三間飛車ですね」

「形勢は先手やや有利ね。後手は攻めあぐねてる」

「――――――っと、俺も考えてたんですけどねぇ」

 

 違うのか、と視線で問い掛ける銀子の前で、八一は最初から棋譜を並べ直していく。そうすれば銀子が対面に座り、その手順を目で追い掛ける。

 

「俺が感心したのはココです」

「4二銀。銀を戻すのは角道を開けるため?」

「はい。これで角道を塞ぐ駒は先手5五歩のみ。さらに飛車を2筋に回すと」

「先手も2八飛で備えなければならない。けど5筋は薄くなってしまう」

「そこで後手が邪魔な5五歩に4五歩で突き返せば、同歩からの角交換です」

「この形なら3九角からの飛車成りも確実。形勢は一気に傾くわね」

 

 首肯した八一は、さらに手を進めていく。一瞬前まで互角に思えた盤面は、あっという間に後手優勢だ。穴熊の囲いを崩された先手は、ここからズルズルと追い詰められていく。

 

「先手は4四銀対策も考えた、よく定跡を学んだ駒組みです。対する後手も定跡通りに見えましたが、うまく相手の駒組みに合わせましたね。4二銀のタイミングが絶妙です」

 

 八一が感心したのは、そのバランス感覚だ。盲目的に定跡をなぞるのではなく、相手を誘導するように手順を変えている。わずかに道を逸れるだけで結果が変わりそうなのに、先手の指し手はこれしかないと錯覚させる駒組みは、確かな才能を感じさせた。

 

「これ、後手は何年生?」

「小学三年生ですよ」

「八一と同じ……」

「姉弟子には負けますけどね」

 

 そう答えつつも、小学生名人の対局を見た八一には、一つの考えが浮かんでいた。

 

「この子、準決勝はガチガチの相矢倉だったんですけど、そっちも相手の子を圧倒してましたよ。もちろん俺や姉弟子と比べれば未熟ですけど、小学生名人になった当時なら――――」

「私たちの方が弱い?」

「かもしれません」

 

 もちろん小学生時分の棋力など、その後の成長で容易にひっくり返るが、十分に注目株と呼べるだろう。将棋の世界はプロになれば一生ものだ。十歳や二十歳差の対局はありふれたもので、この小学生名人も将来のライバルになり得る。女の子なので可能性は低いかもしれないが、すぐ隣に女性初のプロ棋士候補が居る身としては、多少なりとも気に掛けてしまう。

 

 ただそれとは別に、八一の中で引っ掛かるものがあった。

 

「姉弟子、夜叉神って名前に心当たりないですか?」

「いきなりどうしたのよ?」

「小学生名人の苗字なんですけど、どこかで聞いた気がして」

 

 尋ねられた銀子は、しばらく難しい顔をすると、躊躇いがちに桃色の唇を開いた。

 

「……アマ名人? 前に八一が騒いでた気がする」

「それだ! アマ名人三連覇の夜叉神アマ七段!!」

 

 思い出した。八一が奨励会に入会した年に行われた、月光名人とアマ名人の記念対局。奨励会員として記録係を務めた八一は、その対局の美しさに感動した。決着こそアマ名人の勝利だったが、まさに名人が投了するその瞬間まで、八一には勝敗が読めなかった。何より感想戦で披露された、両者の精緻な読みと深い探求に、圧倒されたと言う他ない。

 

 その対局があまりにも印象的で、八一はアマ名人大会をチェックしていた時期がある。翌年も、そのまた翌年もアマ名人となった夜叉神アマは、三度の優勝でアマ七段となった。予定が合わないとかで以降の大会には出ておらず、いくらか記憶も薄れていたが、今も尊敬の念は変わらない。

 

「月光会長に一回、()()名人に二回も記念対局で勝った凄い人ですよ」

「その二人にっ!? いくら駒落ちだからって……」

「下手なプロより強いって評判でしたからね」

 

 現代将棋の基礎を築いた月光会長。史上最強の呼び声高く、今なお伝説として将棋界に君臨する現名人。あらゆる棋士の崇敬を集める二人に、駒落ちとはいえ勝ったのだ。現代棋士ならば、その事実を軽んじるような者はいないだろう。

 

「たしか子供が居たはずだし、兵庫県出身なのも小学生名人と同じなんだよな」

 

 ひょっとすると親子かもしれない。そう思うと、俄然、八一は興味が湧いてきた。

 

 実は八一は、夜叉神アマ七段に聞いてみたい事があった。それは彼が二度目のアマ名人に輝き、現名人との記念対局で勝利した時のこと。対局を振り返った彼は、こう語っている。

 

『人間でした。僕より遥かに強い、人間の棋士でした』

 

 かつてタイトル七冠を達成し、タイトル獲得期数でも他を圧倒する現名人は、しばしば『神』と呼び称される。現名人と将棋を指した者は、勝っても負けても、その将棋の中に『自分には絶対に指せない手』を見るのだという。それに憧れ、手を伸ばし、届かぬと知って絶望するのだと。

 

 その名人と対局し、なお『人間』と呼んだ彼は、はたして何を見ていたのだろうか。




★次回更新予定:5/27(水) 19:00


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#009 女流棋士

 強くなるという事は、己の弱さを知るという事だ。

 

 湊への弟子入りから八ヶ月、毎日のように指導を受け続けた天衣の持論である。将棋は勝たねば強くなれないと言われるが、彼女が出した結論はその真逆。将棋は負けねば強くなれない。

 

 負けず嫌いな天衣にとっては、文字通り天地の逆転にも等しい価値観の変容だった。

 

 勝ちに拘らない、という意味ではない。勝たなければ学べない事もある、とも考えている。ただ自らの成長という点では、負けた時こそが重要という結論に至ったのだ。

 

 人間は間違える。どこまで行っても、どれほど強くても、間違えない人間は居ない。湊でさえも指導に当たっては試行錯誤の毎日だと気付いた時に、天衣はその事実を受け入れられた。

 

 間違えるから、それを正そうとする。正せれば、その分だけ進歩する。成長とは、そういうものだろう。足りないものを補って、補い続けて、前へ前へと歩いていくのだ。

 

 勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。その言葉が示す通り、負けた対局は理由がある。何かを間違えた、何かが足りなかった、そんな理由が必ずある。裏を返せば、それは自分の伸びしろだ。だから敗北と向き合う事は、自分の可能性と向き合う事なのだ。

 

 故に敗北は悔しくとも、怖くはない。そこから強くなれると、確信しているから。

 

 そうした持論を、この日の天衣は滔々と湊に話して聞かせていた。彼に連れられて晶と共に大阪まで出て、用事を終えた帰りの事だ。電車に揺られる彼女の顔には、不満の色が滲んでいる。

 

「たしかに将棋に無駄な負けはないとも言うけどね…………」

 

 顎に手を当てた湊は、眉尻を下げて小さく唸ると、そっと息を吐き出した。

 

「ま、ひとまず置いておくとして。いきなりどうしたの?」

「もったいないと思ったのよ、どいつもこいつも」

「……さっき道場で指した子たち?」

 

 天衣はこくりと頷いて、湊の言葉を肯定した。

 

 日本将棋連盟の関西本部となる関西将棋会館には、一般にも開放された将棋道場がある。今日の用事はこの将棋道場で対局する事で、天衣は同年代の少年少女の相手をした。

 

 いずれも棋士に弟子入りしているような本気で将棋に取り組む子供たちで、年齢を考えれば高い棋力を誇っていたが、流石に天衣の敵ではない。駒落ちを含めて全戦全勝を飾った彼女は、小学生名人という肩書きも相俟って、子供たちの間では一種のヒーロー扱いだった。

 

「騒がしいのはうざかったけど、将棋に対して真摯に取り組んでいるのはわかったわ。感想戦でも悪かったところを真面目に探そうとしてたし、強くなろうと必死だった」

 

 実力も努力も才能も、自分の方が上だという自負が天衣にはある。それでも今日の彼らを見下すような気持ちは湧かない。純粋に将棋の上達を願う彼らは、棋士として敬意を払うに値した。

 

「でも、無意識に妥協してる」

 

 だからこその不満。だからこその、もどかしさ。

 

「線引きは人それぞれだけど、ここまでやったら十分っていう、妥協のラインがあるのよ。原因が不明確でも、検討が不十分でも、これだけ頑張ったんだから、と満足してしまうラインが」

 

 口を尖らせた天衣に返ってきたのは、優しげな湊の声音。

 

「あの子たちなら、もっと伸びると信じてるんだね」

「私だって、先生に教わる前は同じだったもの」

 

 時間を掛ければ努力だと思っていた。苦労すれば努力だと思っていた。そんな努力を重ねれば、成果を得られると思っていた。だがそれは甘えに過ぎないと、天衣は考えを改めている。

 

「常に正しさを疑うべきだって、先生は教えてくれたわ。正しいと感じた手が、なぜそうなのかをよく考えろって。もちろん考えていたつもりだったんだけど、つもりなだけだった」

 

 将棋の局面数は無量大数を優に超える。あらゆる手筋を考慮するなどコンピューターでも不可能であり、知識と経験から候補を絞る必要がある。しかし、ならばこそ疑うべきだ。積み上げた知識も経験も、当然を当然と流すのではなく、その合理を解明し、己が血肉としなければならない。

 

「すべてを読み切るのは無理。みんなそれがわかってるから、甘えが出るの。ここまでやらなきゃダメだっていうゴールがないから、全力を出し切る前に足を止めてしまう」

 

 湊の指導を通して、天衣はそれを自覚した。自分が探求をやめた、ほんの少し先。そこに潜んだ落とし穴を、湊はしばしば突き付ける。あとちょっと、一手先でもいいから考えろと叱られる。

 

 だから天衣は、ちょっとだけ頑張るのだ。思考の歩みを止めそうになったところから、あと一歩だけ踏み込む。そうして少しずつ、少しずつ、彼女は歩ける距離を伸ばしてきた。

 

 やっぱりもったいないと、天衣は思う。

 

 今日の対局相手は、いくら負けても立ち上がり、もっと強くなりたいと意気込む者たちばかりだった。故に、わずかな心の甘えを自覚するだけでも、大きく成長できると感じたのだ。

 

「……なによ、子供扱いして」

「いや、僕はいい弟子を持ったなと」

 

 頭を撫で始めた湊を睨んでも、彼は静かに微笑むばかり。

 

「相手の悪いところを非難するわけじゃなく、伸びしろと捉えるのは美点だよ」

「当然でしょ。私だって、自分だけで強くなったわけじゃないもの」

 

 天衣は才能があると自負しているが、その才能を伸ばしたのは湊だと認識している。将棋は才能の世界かもしれないが、才能だけでは強くなれない。だから相手を未熟と評価はすれど、それだけで才能がないとか、努力をしていないとか、安易に決めつけるつもりにはなれなかった。

 

「これなら明日も大丈夫そうだね」

「なによ。またどこかへ出掛けるの?」

「うん。知り合いの女流棋士と会ってほしいんだ」

 

 とりあえず、湊の手は叩き落としておいた。

 

 

 ■

 

 

 翌日、珍しく湊と二人きりで大阪へ出た天衣は、梅田にある将棋道場へ案内された。どこにでもありそうな雑居ビルに入っているそこは、時間帯の所為か、他の客が見当たらない。一人だけ奥の席に座っている女性がおり、それが待ち合わせ相手の女流棋士らしかった。

 

「というわけで、こちら鹿路庭(ろくろば) 珠代(たまよ)女流二段。関東所属の人だから普段はこっちにいないけど、今回は仕事で関西に来たついでに時間を取ってもらったんだ」

「湊くんには色々とお世話になってます。今日はよろしくね」

 

 にこやかに微笑む女性を、白けた目付きで観察する天衣。マイナビ女子オープン出場にあたり、あらゆる女流棋士の情報を収集した彼女は、当然この女の存在も知っていた。

 

 鹿路庭珠代。今年で大学二年生。女流棋士に多い振り飛車党であり、棋力は肩書き相応。ただ、一年前と比べればいくらか上達は見て取れた。女流棋士の仕事である聞き手としては評価が高く、優れたルックスと抜群のプロポーションも相俟って、人気二番手の女流棋士だ。

 

 要は見栄えのいい看板だろう、と天衣は解釈している。今日も無駄に実った胸元が開いた格好をしており、どうにも客寄せパンダの類にしか見えなかった。

 

「珠代さん。この子がお伝えしていた、弟子の夜叉神天衣です」

「…………よろしくお願いします」

 

 渋々ながらも天衣が頭を下げれば、湊はよしと頷いた。

 

「天衣を弟子にした後、女流棋士について調べようと思ってね。知り合いの棋士に信頼できる人は居ないかと聞いたら、珠代さんを紹介してくれたんだ」

「私の夢は『棋士』になる事なんだけど」

「もちろん僕もそうだ。でも将棋の世界では男と女に差があって、それが常識として根付いてる。だから実際に、将棋の世界で戦っている女性の考えを知りたかったんだ」

 

 湊の話は理解できる。天衣が女流棋士の情報を集めた際も、下世話な話や心無い声は否が応でも目に入ってきた。なんともくだらないと思うのだが、将棋界にそういった風潮があるのは事実だ。ならば内情を調べて備えた方がいいし、その相手が女流棋士となるのも道理だろう。

 

 とはいえ、目の前の女に好感を持てるかどうかは、また別の話なのだが。

 

「思うところはあるかもしれない。けど僕は彼女の女流棋士としての活動を調べて、実際に会って話してみて、尊敬に値すると感じたんだ。だから君に紹介した、という事はわかってほしい」

「……わかってるわよ。将棋関係で適当な事はしないって、信じてるもの」

 

 気まずくなって目を逸らした天衣に、湊は優しく笑い掛ける。

 

「よかった。じゃ、あとは女性のお二人でどうぞ。僕は棋譜並べでもしてるよ」

「はぁっ!? なんでこの女と二人きりで話さないといけないのよ!」

「言葉遣い。理由としては、僕が居たら遠慮しそうだからだよ」

 

 また後で、と遠ざかる背中を追い掛けるように、小さな手が彷徨った。

 

 残されたのは、今日が初対面の二人だけ。仕方なく女の方を天衣が見遣れば、ニコニコと笑って佇んでいる。子供番組の司会でも務まりそうな柔和な容貌だが、天衣は隠しきれていない苛立ちを見て取った。もちろん天衣も、決して機嫌がいいわけではない。

 

 互いに相手の出方を窺う微妙な空気。それを破ったのは、女の方だった。先ほど座っていた席に座り直した彼女は、パチパチと将棋盤に駒を並べていく。

 

「指しましょうか。その方が手っ取り早いでしょ」

「乗ってあげる。でもいいのかしら? 私の方が強いけど」

「かもね。だからって、そんなの戦わない理由にはならないのよ」

 

 天衣を侮っている風ではない。おそらく本心から、自分が劣る可能性を認めている。だが腐った様子も自棄になった様子も見せず、双眸に宿すのは純粋な戦意のみ。

 

「――――ごめんなさい。振り駒は任せるわ」

 

 振り駒は上位者の役目だ。相手を侮った己の非を認め、天衣は素直に席に着く。

 

 対局は珠代の先手で始まった。ノーマル四間飛車で定跡通りにまとめようとする彼女に対して、天衣はあえて定跡を崩した力戦へと誘導していく。

 

 角道を止めるノーマル四間飛車は、古くから指されてきた戦法だ。角交換がないため安全に玉を囲いやすく、豊富な定跡によって選択肢も多い。バランスよく安定して戦いやすい戦法なのだが、後手居飛車なら定跡に変化を加え、力戦形へ誘導する事は難しくない。

 

 定跡を外れた力戦は、互いの地力が物を言う。目論み通り、天衣は実力勝負に持ち込んだ。

 

「――――――女流棋士がどういうものか、ちょっと話そうか」

 

 そろそろ大駒が飛び交いそうな盤面を睨みながら、珠代が静かに口を開く。

 

「強くなければいけないのが棋士なら、強くなくてもいいのが女流棋士だよ。見た目がいいとか、聞き上手だとか、色々と求められるものは多いけど、強さだけは求められないの」

 

 ウェーブ掛かったふわふわのロングヘアーに、垂れ目がちで優しげな顔立ち。声質は柔らかく、体付きは母性的。その見た目から来る受け身な印象とは裏腹に、珠代の指し筋は攻撃的だ。自身の構想が崩れたと見るや攻めに転じ、天衣の陣形を崩しに来た。

 

「女は弱くてもいい。ううん、弱くなくちゃいけないって考える棋士も多いわ。女流がプロに勝っても難癖つけられる事があるし、アマチュアにだって女流を舐めてる奴は少なくない」

 

 息もつかせぬ猛攻撃は、しかして天衣の脅威となり得ない。

 

「だからかな。腐っちゃうのよね、強くなれない女流って。勝てないのは仕方ない。自分に合った役割は別にあるから、そっちで頑張ろうって。で、対局の場なのに仲良くお喋りしたり、感想戦で負かした相手に遠慮したり、勝負師としての牙を腐らせていくのよ」

 

 珠代が弱いとは、天衣は感じなかった。想定よりもずっと読みが深く、定跡に頼らずとも天衣と勝負できている。だがそれでも、残酷かもしれないが、彼女の勝利はないだろう。

 

 どれだけ攻め立てようと、こちらの玉には届かない。温いとまでは言わないが、天衣にとっては余裕を持って凌げるレベルだ。攻める側もそれは自覚しているはずで、だからこそ悔しそうに唇を噛み締めているはずで――――――――なのに諦めの色はどこにもない。

 

 嫌いじゃないなと、天衣は思った。一人の棋士と、受け入れられる程度には。

 

「湊くんに会えなかったら、私も腐ってたかもね」

「……先生とは、どういう関係なのよ?」

 

 ようやく天衣が口を開くと、珠代は可笑しそうに笑った。

 

山刀伐(なたぎり)八段は知ってるわよね? A級棋士だし」

「九頭竜四段をデビュー戦でボコボコにした棋士ね。そいつの紹介ってわけ?」

「ええ、前から湊くんと交流があったみたい。私もお世話になってる人で、紹介ついでに研究会の約束も取り付けてくれたの。お陰でネット越しだけど、時間が合えば湊くんに教わってるわ」

 

 得意げに、という印象は天衣の偏見だろうか。なんとなく面白くなかった彼女は、舌打ち一つ、相手玉を詰まそうと反撃を開始した。察した珠代が防ぎに掛かるが、その動きは鈍過ぎる。

 

「女流棋士がアマチュアに教わるのね」

「その価値は、あんたが一番よく知ってるでしょ」

 

 まったくだ。瞬く間に勝勢となった盤面を見下ろし、天衣は頷いた。

 

 女の棋士は弱い。そういう認識は、天衣もまた持ち合わせている。次のマイナビ女子オープンにしたって、奨励会で実績を残す空銀子と、あと一人を除けば、女性棋士を舐めている部分があった事は否めない。そしてその認識は、これから周囲が天衣に向けるものでもあるのだろう。

 

 成すべきは、示すこと。この場で珠代がそうしたように、あるいはそれ以上に徹底的に、天衣の実力を示すこと。でなければ、己と関わる者まで軽く見られてしまう。

 

 対面の珠代を窺えば、意外にも晴れやかな表情をしている。形作りを始めた彼女に応じて何手か進めていけば、綺麗な発声で投了が告げられた。

 

「負けました」

「ありがとうございました」

 

 頭を上げた珠代は、すぐさま感想戦を持ち掛けてくる。互いの意見を交わしてみれば、大局観や読みが思いのほか噛み合った。すなわちレベルの違いはあれど、同じ方向を見て将棋を指せていたということ。同時にそれは、両者の格差を決定付けるものでもある。

 

「あんたは強いね。これからもっと、強くなっていくんだろうね」

 

 スッキリした様子で珠代が零す。その口元には、悔しさが滲んでいたけれど。

 

「湊くんと研究会を始めて気付いたのは、いつの間にか自分に見切りを付けてたってこと。努力は続けてきたし、気持ちは負けてないつもりだったのに、どこかで諦めてたみたい」

「少しでも甘えがあると、すぐに先生は見抜くものね」

「いい先生だよ。色んな棋士と研究会をしてきた私が、保証してあげる」

 

 羨望の眼差しは、勘違いではないのだろう。それに気付かない振りをして、天衣は黙って続きを促す。同情や慰めなんて、こいつは望んでいないと感じたから。

 

「もっと早く会えていたら、なんて女々しいからね。私はこれから強くなるよ。まだまだやる事はあるって教えてもらえたもの、落ち込んでる暇なんてないわ。マイナビ女子オープンには私も出るから、そこで今日の借りは返してあげる」

「ハッ! 返り討ちに決まってるでしょ」

 

 天衣が鼻を鳴らして腕を組む。それからちょっとだけ、対面の相手から目を逸らす。

 

「……ま、私と当たるまでは頑張りなさい。あんたが弱いと、先生まで舐められるもの」

 

 吹き出すような笑い声は、聞こえなかった事にした。




★次回更新予定:5/29(金) 19:00


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#010 背負うもの

 マイナビ女子オープン予備予選、あるいはチャレンジマッチとも呼ばれる大会は、七月の上旬に開催された。アマチュアから四十四人、女流棋士から十二人が参加し、八月に控える一斉予選への切符を奪い合ったこの大会で、天衣は難なく全勝通過を決めた。

 

 これを受けた周囲は史上最年少記録だと騒ぎ立てたが、当の本人は冷めたものだった。

 

 棋士を目指す者たちが鎬を削り合い、日々将棋の腕を磨く奨励会。その下部組織に相当するものとして研修会がある。奨励会に入れるレベルではないものの、将来有望な少年少女を拾い上げるための機関だが、現在はそれに加え、女流棋士の養成機関も兼ねている。

 

 この研修会は奨励会と異なり、段級ではなくアルファベットで会員の棋力を表す。

 

 一番上から『A1』『A2』『B1』『B2』と続いて、一番下が『F2』となる十二段階だ。この内、女性ならC1に昇級すれば女流棋士となる資格を得られる。また十五歳以下なら、A2に昇級するだけで奨励会6級に編入する事も可能だ。

 

 そして小学生名人の棋力は、おおよそ奨励会6級程度と言われている。すなわち研修会基準ならA2程度と見做せるわけであり、並以下の女流棋士と比べれば、格上と言っても相違ない。

 

 つまりは天衣にとって、予備予選突破は既定路線。史上最年少と騒がれようとも、彼女の心には波風一つ立たなかった。愛想が悪いと湊に叱られた時は、多少拗ねてしまったかもしれないが。

 

 そんな彼女が、今、猛烈な緊張を強いられている。

 

 目前に迫った一斉予選の件ではない。その後に控えた、年に一度の奨励会試験に関わる案件だ。小学生名人となって実力を証明した天衣は、今年の試験を受験する事を決意した。6級受験なので不安はないが、奨励会に入るという事は『あの約束』を果たすという事だ。

 

 月光会長との角落ち対局。かつて父が挑み、勝ち取った栄誉に挑戦する。

 

 場所は関西将棋会館の四階にある水無瀬の間。普段は公式戦の対局場として使われる部屋だが、空いている時は貸室として利用できるそこを、わざわざ湊が予約してくれた。

 

 将棋盤、駒台、座布団、対局時計。本格的に道具を揃え、さらには記録係を湊が務める。万全に整えられた対局室そのものであり、それだけで背筋が伸びそうなものだが、何よりも。

 

 対面に座した相手の、肌を刺すような威圧感。張り詰めた空気が、心胆を寒からしめる。

 

 名人は、棋士にとって神にも等しい。将棋界のタイトルは全部で七つあるが、中でも別格なのが名人と竜王だ。タイトル戦の序列こそ竜王に一位を譲るが、伝統や権威で名人に及ぶものはなく、名人こそ最高のタイトルと考える棋士は多い。

 

 月光聖市十七世名人。未だ現役のため襲位こそしていないが、それは名人位を通算五期以上獲得した事を示す称号だ。棋士なら誰もが憧れる偉業の達成者が、天衣と対峙する人物だった。

 

 天上人だ。小学生名人などという肩書きが、吹けば飛ぶほどの。

 

 前に『ことひら』で会った時とは異なる、棋士としての姿なのか。あるいは天衣が、場の空気に呑まれているだけなのか。対面の月光会長が、彼女にはとても大きく感じられた。

 

「時間になりましたので、上手の月光先生からお願いします」

 

 淡々と告げる湊の声が、どこか遠い。喉がひりつくのを意識して、唾を飲み込む。情けないほど緊張していると自覚しつつ、相手と呼吸を合わせて礼を交わす。

 

「「よろしくお願いします」」

 

 絞り出せたのは、かすれた声。上げた視界に映るのは、涼やかな顔。

 

「6二銀」

 

 盲目とは思えないほど滑らかな手付きで駒を指し、月光会長は指し手を口にした。応じて天衣も駒を進め、その指し手を言葉で伝える。

 

「7六歩」

 

 駒落ち戦と平手戦では、当然ながら定跡が違う。駒の差による有利は確かだが、それを踏まえた作戦を立てなければ足を掬われる。だから師匠と一緒に、入念な準備を重ねてきた。

 

「5四歩」

「6八銀」

 

 駒を持つ手が震えるなんて、初めての経験かもしれない。こんなに自分の手が不安になるのも、これまでの記憶にない。序盤も序盤なのに喉が渇き、ミネラルウォーターを手に取った。

 

 無様な将棋はしたくない。そればかりが、天衣の脳裏を巡り続ける。

 

 師匠の弟子として、この対局を申し込んだ。アマ名人の娘として、この手合い割で持ち掛けた。だから証明しなければならない。御影湊の弟子は凄いと、さすがは夜叉神天祐の娘だと、目の前の伝説に。たとえ負けようとも、夜叉神天衣は立派な棋士であったと、絶対に。

 

 貶めたくない。辱めたくない。大切な人たちが期待した、自分の将棋を。

 

「なるほど」

 

 月光会長の呟き一つで、天衣は肩を跳ねさせてしまう。

 

 作戦通りに矢倉は組めた。位負けもしていない。これから急戦を仕掛けるが、現時点でのミスはない――――――そのはずだ。なのに駒を掴む天衣の手は、鉛のように重かった。

 

 気付けばミネラルウォーターが空になり、二本目の蓋を開ける。

 

 中盤に入り、盤面全体を使った捻り合いに発展した。攻守の入れ替わり激しく、押して引いての繰り返し。優勢は手放していないと感じつつも、その判断を天衣は信じきれなかった。

 

 視界が狭い。思考が鈍い。あるいはそう思い込みたいだけで、これが実力通りなのか。ノイズが混じった感覚は、不安ばかりを天衣の心に積もらせる。いつもは見えている手筋が、霧の向こうに隠れていた。首筋が冷えるのは、はたしてただの気の所為か。

 

 迎えた終盤だが形勢判断は難しい。いや、これでさえ出来過ぎか。そう自戒しながら次の一手を指した天衣は、直後に小さく声を漏らす。

 

「あ、いえ……3四金」

「ほう」

 

 指し間違えた。というよりも、考えがまとまる前に指してしまっていた。何故と自問するも既に遅く、盤上には次の一手が指されている。切り替えなければと、天衣は胡乱な頭で盤面を見た。

 

「ッ!?」

 

 ゾワリと天衣は背筋を粟立たせ、食い入るように盤を覗く。

 

(これは、そんな……うそ――――)

 

 見れば見るほどに、読めば読むほどに、自らの勝ち筋が消えている。たった一手。それだけで、あらゆる手筋に楔を打ち込まれた。指し間違えの影響ではない。もっと前から読み切り、指し手を誘導し続けた入念なものだ。

 

 月光(げっこう)流。月光会長の棋風を指して、人々はそう呼んだ。月の光のように細い攻めを繋ぎ、最短手数で詰みを見切る。光よりも速いと称され、気付かぬ内に切り捨てられた棋士は数知れず。

 

 これが月光聖市。これが永世名人。自分など及びもつかない大局観が、空恐ろしくすらあった。しかし、だからこそ天衣は諦められない。弄ばれてばかりでは、師にも父にも面目ない。

 

「夜叉神アマ。持ち時間を使い果たされましたので、一分将棋でお願いします」

 

 宣告に、天衣の心臓が早鐘を打つ。

 

 時間はない。光明も見えない。思考は空回るばかりで、どんな手も断頭台に繋がっているように思えてくる。それでも切れ負けは避けねばと、天衣は持ち駒を掴み取る。

 

 だって、嫌だ。自分の将棋は、大切な人が誇れるものじゃないといけないのに。

 

「6三歩――――――えっ?」

 

 なのに指した筋の下段に、別の歩があった。二歩。つまりは『反則負け』だ。

 

 

 ■

 

 

 室内に満ちた嫌な沈黙。最後の手を指して以降、盤面を見下ろしたまま、呆然と固まった天衣。その対面に座る月光会長は落ち着いたものだが、影となって彼の対局をサポートしていた男鹿は、気の毒そうに天衣を見詰めている。

 

 既に勝敗は決したも同然。だがそれでも、対局は終わっていない。終わらせてはいけない。その権利は将棋盤を挟んだ二人にこそ、委ねられるべきなのだから。

 

「……まけました」

「ありがとうございます」

 

 消え入るような天衣の投了に、月光会長が応じた。それを見届けた湊は、深々と頭を下げる。

 

「ありがとうございました。あとは、どうか二人で」

 

 湊がそう伝えれば、月光会長と男鹿は頷き、静かに退室していった。残されたのは、湊と天衣の二人だけ。未だ将棋盤から目を離さない弟子に歩み寄り、その隣に腰を下ろす。

 

 こうして見ると、やはりまだまだ小さな子供だ。並んで座れば胸元に届くかどうか。未だ十にも満たず、知識も経験も足りなくて、これから色々な事を学ばなければならない。

 

 負けて悔しいと天衣は言う。負けて得るものがあると天衣は言う。なるほど彼女は、敗北を糧にできる子だ。同時に、敗北の恐ろしさを知らない子でもあった。

 

 負ければ失う。それが何かを背負って戦うという意味だ。立場であり名誉であり、時には自分の夢そのものであり。勝負に賭けたものが重いほど、敗北を意識して身が竦む。

 

 これまでの天衣は身軽な立場だった。小学生将棋名人戦も、マイナビ女子オープン予備予選も、いずれも彼女は新顔の挑戦者で、負けて失うほどのものはない。その幼さを騒ぎ立てる外野が居なかったわけではないが、幸いそれに影響される性格でもなく、ちゃんと実力を発揮できた。

 

 本局に籠めた天衣の気持ちを理解できると宣うほど、湊は鈍感な人間ではない。それでも覚悟が並々ならぬと察せる程度には、彼女の師匠をやってきたという自負がある。

 

 今日の天衣は、いつになく敗北に恐れをなしていた。

 

 終始、月光会長にペースを掴まれていた。実力なんて、普段の半分も出せたかどうか。その上、最後は禁じ手だ。はたしてどれほど、彼女は心を痛めた事か。

 

 心が弱れば将棋も弱る。負けてしまえばまた弱る。勝負の世界に身を置くならば、避けて通れぬ壁だろう。それに今回、初めて天衣はぶつかった。

 

 残念ながら湊には、棋士としての背中を見せてやる事はできない。それでも傍に寄り添って、支えてやるくらいはできるだろう。いや、それができねばならぬだろう。

 

「天衣」

 

 努めて優しく呼び掛ければ、彼女は肩を震わせた。しばらく固まっていたが、やがておずおずと湊の方に体を向けた彼女は、俯いたまま何事かを口にする。

 

「――――――さい」

 

 湊が聞き取ろうと身を寄せて、同時に、勢いよく天衣の顔が上げられた。

 

「ごめんなさい! ごめんなさいっ!!」

 

 頬を流れる幾筋もの涙。ひび割れたガラスのような叫び声。

 

「わたし……こんな将棋をっ。先生の弟子、なのに、みっともな――――っ。おとうさま、ごめんなさっ。わたし、バカみた――――――ッ」

 

 堪らず湊は抱き締めていた。抵抗はなく、ただ腕の中でシクシクと泣き濡れる姿は、どこまでも幼い少女でしかなくて。どうにも己の未熟さが嫌になる。

 

「怒ってないし、落胆もしてないよ。君は変わらず、僕の誇れる大事な弟子だ」

 

 弟子の気持ちが、なんでもわかるとは言わない。それでも、何もわからないわけではない。

 

 子供は親の期待に応えようとするものだ。時にその重さで、押し潰されてしまうほどに。天衣は賢く、熱心で、なおかつ聞き分けのいい子だった。だからそれに甘えてしまって、伝えるべき事を忘れていたと、今更ながらに後悔する。

 

「君がどんな思いでこの場に臨んだのか、僕には推し量る事しかできない。どんな言葉を掛ければいいのか、僕にはわからない。ただ師匠として、天祐さんの友として、伝えたい事がある」

 

 肩に顔を埋めてきた天衣の後頭部を、ガラス細工に触れるように湊は撫ぜた。

 

「僕も天祐さんも、君に才能があるから、将棋を教えたわけじゃない。君が大切だから、大好きな将棋を一緒にやりたいんだ。君の成長は嬉しいし、君が勝ったら喜ぶよ。もしも負けたら、一緒に色々悩んでみよう。勝ちも負けも関係ない。君が将棋を指す事そのものが、僕たちの誇りなんだ」

 

 だからどうか、背負い過ぎないでほしい。それは本意ではないのだからと。

 

 湊の言葉を、天衣がどう受け取ったのかはわからない。肩を震わせ嗚咽を漏らしていた彼女は、やがて顔を離すと、泣き腫らした目で湊を見上げた。涙の跡が残る頬は哀れを誘うが、その眼差しには普段の力強さが戻っている。

 

「いつか恩返しするから」

「うん」

「会長にお礼参りして、それを先生への恩返しにするから」

「……うん?」

 

 恩返しは将棋界の文化であり、公式戦で弟子が師匠に勝つ事を指す。仮にも師匠となる月光会長であるから、彼に勝つ事を恩返しと呼んだと湊は解釈したのだが。

 

「いやいや、お礼参りって」

「お礼参りよ。私が棋士になったら、どうせ永世名人の弟子として騒がれるんだから。マイナビの時だってどいつもこいつも、先生が無名のアマチュアだからって馬鹿にしてっ」

「あれは、ほら、天衣が凄い才能の持ち主という趣旨の話だし」

「それが馬鹿にしてるのよ! 何も知らずに天才なんて言葉で片付けてっ!!」

 

 息を荒げて肩を怒らせ、それからくしゃりと、顔を歪めて。

 

「私が強くなれたのは、先生のお陰だから――――――」

 

 湊の胸元を掴んだ天衣は、そっと額を当てて顔を伏せた。

 

「だからこれからも、一緒に将棋を指してください」

「……うん、たくさん指そう。いくらでも」

 

 そう言って湊は、腕の中の宝物を抱き締めた。

 

 

 ■

 

 

 水無瀬の間を後にした月光会長と男鹿は、同じ関西将棋会館の中にある理事室へと戻っていた。対局のために空けた時間は残っていたが、二人はノンビリと執務を再開する。

 

 いつも通り盲目の月光会長に代わって書類に目を通す男鹿は、やや憂いげに呟いた。

 

「夜叉神さん、大丈夫でしょうか?」

「ここは御影さんに任せるしかありませんよ」

「たしかにそうなのですが……」

 

 歯切れの悪い男鹿に向けて、月光会長は涼やかに笑い掛ける。

 

「ともあれ、彼女は将来が楽しみな棋士ですね」

「それは同感です。会長の読みにもついていけてましたし」

「ええ。あの棋譜を作れたのは、彼女の実力があればこそです」

 

 およそ月光会長の狙い通りに推移した対局ではあったが、それは彼が天衣の読みを信頼し、また彼女に応えるだけの実力が備わっていたからこそだ。あまりに実力が離れていれば、互いの読みが噛み合わず、あのように美しい棋譜は生まれない。

 

「なにより最後は、私も読みを誤ったと気付かされましたからね」

「えっ? あれはもう……もしかして、3四金ですか?」

 

 問い掛けに、月光会長は静かに首肯する。

 

「あの一手は私も見落としていました。結果として、まだ完璧には詰んでいなかった」

 

 将棋には『指運』と呼ばれるものがある。切迫した状況で、読み切れないまま直感で指す事だ。結果としていいところに指せた時は指運がよかったなどと言うが、それは決して運がよかったわけではない。積み上げた知識と経験が勘となり、自然と手を導くのだ。

 

「本人に聞いても偶然と答えるでしょうが、私は指運が働いた一手だと感じましたよ」

 

 そう続けた月光会長の口元には、穏やかな微笑が刻まれていた。




★次回更新予定:6/7(日) 19:00

ストックが切れたため、次回以降の更新間隔は週一くらいになります。


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#011 一斉予選

 夜叉神天衣。その名前が将棋界で騒がれ始めたのは、ごく最近の事だ。

 

 始まりは四ヶ月前、史上二番目に幼い小学生名人として。画面映えする可憐な容姿に、少し前に話題となった九頭竜四段の記録超えという事もあり、それなりにメディアを騒がせた。それでも、言ってはなんだが所詮は小学生名人だ。将棋界での注目度は低かった。

 

 本格的に注目を集めたのは一ヶ月前、史上最年少でのマイナビ女子オープン予備予選突破から。女流棋士を相手に無傷の四連勝を果たし、メディアと将棋界の双方に確かな存在感を示した。対局相手の実力はさて置き、将棋を生業とする大人より強いとなれば話題性は高くなる。

 

 女性棋士の中で最も実力があり、人気が高いのは空銀子だ。未だ女流棋戦は全勝無敗で、近頃はテレビ取材を通して『浪速の白雪姫』という通称が広まった事もあり、一般での知名度も鰻登り。その後釜に座る将来のスター候補だと、夜叉神天衣は目されている。

 

 あるいはこのまま勝ち進み、早過ぎる世代交代が起こるのではないか、とも。

 

 馬鹿々々しいと、月夜見坂(つきよみざか) (りょう)は考える。将棋は才能の世界だと痛感しているし、夜叉神天衣が天才である事も認めよう。だが空銀子は言い過ぎだ。自身も辛酸を嘗めさせられた最強の女王は、易々と手が届く存在ではない。それを引き合いに出し、無責任に騒ぐ連中が気に食わなかった。

 

 将棋を軽く見られたようで、空銀子を甘く見られたようで、そんな奴らには冷や水をぶっ掛けてやりたい気分になる。女流玉将として、女流タイトル保持者として、燎はそう考えていた。

 

 だからマイナビ女子オープンの一斉予選で、夜叉神天衣と同じブロックになった時は感謝した。自分が倒すと、馬鹿どもが勘違いする前に幕を引いてやると、そう意気込んだのだ。

 

(くそっ、なんで……!)

 

 一斉予選二回戦。本選出場を決するその戦いで、燎は顔に苦悶を滲ませていた。相手は望み通り夜叉神天衣。一回戦の女流棋士を難なく沈め、当然とばかりに戦いの舞台に上がってきた敵だ。

 

 間近で見れば、余計に際立つその幼さ。生意気そうな見た目とは裏腹に、その指し回しに驕りはない。『攻める大天使』の異名を誇る燎の猛攻を、焦れる事なく受け流している。

 

 本局、自身が得意とする横歩取りから、燎は激しい急戦に持ち込んだ。攻撃的な早指しは彼女の持ち味であり、相手のペースを奪って一方的に攻め立てる。並大抵の女流棋士ならわけもわからず敗北するし、女流タイトル保持者だろうと、一部を除けば容易には凌がせない。

 

 だというのに夜叉神天衣は、涼しい顔で彼女の攻めをかわし続けている。

 

(こんなはずじゃ――――ッ)

 

 小学生名人の棋譜を調べた時、燎は夜叉神天衣に勝てると思った。たしかに強い。七年前、当時小学五年生だった燎が、小学生将棋名人戦で敗れた八一よりも、もしかしたら強いかもしれない。だがあの頃よりも力を付けた自分なら、十分に降せる相手だと判断したのだ。

 

 マイナビ女子オープン予備予選の棋譜を見て、燎は些か不安に駆られた。小学生将棋名人戦から三ヶ月、明らかに強くなった夜叉神天衣の棋力は、今の自分にさえも届き得る。それでも、まだ、負けるほどではない。勝機は我に有りと、彼女は考えていた。

 

 しかして本日、実際に対局した燎の脳裏をよぎるのは『敗北』の二文字。

 

 四ヶ月だ。たったの四ヶ月で、人はここまで強くなれるのか。自分が七年掛けて積み上げてきたものは、それだけの時間で追い抜ける程度のものだったのか。

 

「…………っ」

 

 紅を引いた唇を、燎はキツく噛み締めた。

 

 これは甘えだ。将棋は才能の世界で、追い抜かれるのは日常茶飯事。今までも経験してきたし、女流玉将まで上り詰めた燎は、追い抜いてきた側の存在でもある。

 

 重々承知した上で、研鑽に励んできたのだ。負けて堪るかと、自分はまだやれると、前へ前へと進んできた。これからだって、その歩みを止める気はない。

 

 だからこそ、己の弱さから目を逸らすべきではないだろう。

 

 攻め駒の多くを奪われ、碌に守りを固めていない自陣を見下ろし、燎は形作りを始めた。数手の後に、駒台に手を添えて投了する。

 

「負けました……」

「ありがとうございました」

 

 誇るでもなく、嘲るでもなく、これが日常風景といった様子で、夜叉神天衣は落ち着いている。感想戦に応じる態度もクソ真面目で、鼻につくと感じるのは、捻くれが過ぎるだろうか。

 

 だがこいつは本物だ。その才能も実力も、たしかに認めざるを得なかった。

 

「オメーは駒の動きが見えるタイプか?」

「はぁ? いきなりなんの話よ?」

「脳内将棋盤だよ。オメーはどんな風に考えてんだ?」

 

 女流玉将の敗北に盛り上がる観戦者を無視して、燎は夜叉神天衣に問い掛ける。

 

 一部の女流棋士、それもタイトルを獲るような実力者となら、意見が合う話題だ。脳内将棋盤で考える時、現在の駒がどう動くのかを読んでいくタイプと、考えるまでもなく動きが見えてしまうタイプに分かれ、女は前者で男は後者。つまり感覚レベルで違うのだと。

 

 だから気になった。この澄まし顔の天才が見ている世界は、自分たちと同じなのかどうなのか。あの空銀子でさえ、駒の動きは『読む』ものであって『見える』ものではないのだから。

 

 あるいはこいつなら、と密かに期待していた燎は、その回答に目を見開いた。

 

「最後は盤面に直すけど、基本的には棋譜で考えてるわ」

「棋譜ぅ!? おいおい、そりゃ8四歩とかの、あの棋譜かよ?」

「その棋譜よ。別にいいでしょ、自分がわかるならなんだって」

 

 拗ねたように夜叉神天衣は反論するが、燎にとってはそれどころではない。予想だにしなかった回答に頭が痛くなるというか、眼前の少女が宇宙人か何かに見えてきた。

 

 棋譜だ。符号だ。もちろん燎も棋譜は読めるが、断じて脳内将棋盤の代わりにはならない。

 

「いやいや、なに食えばそんな頭の可笑しいモンになるんだよ」

「寝る前にその日の棋譜を作って復習していたら、そっちで考えるのが癖になってたのよ」

 

 軽い調子で言ってくれるが、やはり燎には理解できない。だが同時に、興味も湧いた。同じ女でこうも感覚が違うなら、新たな知見が得られるのではないかと期待も生まれる。

 

「……なあ、オメーは自分が男に勝てると思うか?」

「ああ、要は男女の違いがそこにあるって考えてるのね」

 

 得心した様子の夜叉神天衣は、次いで呆れたように嘆息した。

 

「男は目的を意識する。女は過程を意識する」

「アン? いきなりナンだってんだ」

「私の師匠の見解よ」

 

 端的に言い切った夜叉神天衣の瞳は、ある種の信頼を感じさせる。おそらくは、彼女の言う師匠とやらに向けたもの。アマチュアという噂だが、この天才が信頼する存在とは如何ほどか。

 

「定跡をなぞるだけなら大した違いはない。男女で違いが出るのは、定跡から外れた道に進む時。その時に男は、まず目的を意識するそうよ。自分が求める結果を考えて、そのために必要な過程を意識する。だから繰り返す内に、指し手と結果が自然と結び付くようになるの」

 

 夜叉神天衣が人差し指をピンと立て、その指先を燎に向けた。

 

「逆に女は過程を意識する。一から順番に駒の動きを考えて、その結果がどうなるかを確認する。前を見て歩くのが男で、足元を見て歩くのが女、と言い換えた方がいいかしら。目的地を見ないで歩くから、自分の歩く道がどこに続いているのか、いつまで経ってもわからないのよ」

 

 真実、かどうかは不明だろう。男が何を考えているかなんて知らないし、どうやって強くなったかなんてわかるはずもない。それでも自身に限ってみれば、心当たりがないとは言えなかった。

 

「だったらオメーはどうなんだよ?」

「頭の中なんてよくわからないわよ、自分でもね」

 

 苦し紛れの問い掛けに、返ってきた答えは軽い調子で。あまりにアッサリ言い切るものだから、燎としても返す言葉に困ってしまう。その内に、夜叉神天衣が腰を上げた。

 

「それじゃ、もう行くわよ。気になる試合があるの」

「なんだ、他の奴らはまだ終わってねーのかよ」

「私たちが早過ぎたのよ。誰かさんが弱かったせいかしら」

「オメ潰すぞ。チッ、まぁいい。あとイッコだけ聞かせろ」

 

 立ち去ろうとした夜叉神天衣が足を止める。

 

「オメーの師匠、そいつはどんな風に見えてるんだ?」

「脳内将棋盤? 私も聞いた事はあるけど、言葉にできないそうよ」

 

 一拍。振り返った少女の眼差しは切なげで、どこか遠くに向けられていた。

 

「息をするようなものだからって」

 

 鈴を転がし、少女は背を向けて遠ざかる。燎はもう、それを止めようとはしなかった。残された言葉の意味を考えようとして、悩んで、放り投げる。息をするとは、なんだ。時に自分たちが熱を出すほど苦しむそれが、苦でもなんでもないかのように。

 

「……どんなフカシだそりゃ」

 

 燎はハンと鼻を鳴らし、疲れた顔で椅子にもたれ掛かった。

 

 

 ■

 

 

 祭神(さいのかみ) (いか)という女流棋士が居る。女流帝位のタイトル保持者であり、現役の高校一年生。名前を連想させる長い金髪をツーサイドアップにし、蛇のような目を持つ、見た目は可愛らしいと言える少女だ。あくまでも、見た目に限った話ならば。

 

 最も強い女性の棋士が誰かという問いに、多くの者は空銀子と答えるだろう。積み上げた実績が示す彼女の実力は否定しようがなく、今もなお最前線で戦う女性棋士の頂点だ。

 

 だが最も才能ある女性の棋士が誰かと問われれば、将棋関係者の多くは祭神雷を挙げるだろう。ムラッ気が強く、雑魚が相手だとやる気が出ないからと言って成績が安定しないが、女流枠のあるプロ棋戦に出た時は、プロ棋士を相手にいくつも白星を積み上げているのだ。

 

 また祭神雷と空銀子は、かつて一度だけ対局した事がある。その時の結果は祭神雷の反則負け。しかし投了図を見た将棋関係者の評価は、才能なら祭神雷が上というものだった。

 

 ともすれば女流棋界の頂点にも立ち得る逸材。そんな祭神雷に対する評価は、好悪で大きく二分される。コアな支持者が居る一方で、蛇蝎の如く嫌われる存在でもあった。

 

 他者に礼を示さぬエゴイスト。とかく祭神雷は、口も性格も悪過ぎる。

 

「どいつもこいつも女流棋士って奴はさぁ、才能ない癖にウザいんだよねぇ」

 

 天衣の眼前で対局する祭神雷は、心底相手を見下す目で吐き捨てた。厭らしく口角を吊り上げ、ギョロリと対局相手を睨み付ける様は、さながら蛇のよう。

 

 祭神雷と対峙しているのは、青い顔をした鹿路庭珠代。強く唇を引き結んだ彼女は、瞳に怯えを滲ませながらも、気丈に祭神雷を睨み返している。

 

「お前も見えてないニセモノだろ? だから恥ずかしげもなく続けてるんだろ? こんなとっくに終わってる局をさぁ。こっち、つまんねぇ雑魚に使う時間はねえんだよ!」

 

 激しく盤上に叩き付けられた一手。それを確認した珠代が瞠目し、ガックリと項垂れた。詰みに気付いたのだろう。祭神雷の言葉通り、何手も前から詰んでいた事実に。

 

 珠代が力なく玉を動かせば、祭神雷は白けた顔で手を振った。

 

「あーあー、形作りとか要んない。時間のムダ」

「ッ…………負けました」

 

 投了を聞いた祭神雷はニヤリと笑い、すぐに席を立って歩き去る。

 

 感想戦は義務ではない。無視したところでペナルティは与えられないが、やはりマナーが悪いと眉を顰められる行為ではある。勝者と敗者が互いの読み筋を披露し、全力を出し尽くす事で、より高みを目指し合う。それを将棋の美学と捉える者も多い中で、あっさりと祭神雷は蔑ろにした。

 

 後に残された珠代は、一人で盤と向き合い、どこが悪かったかと駒を動かし考えている。天衣がゆっくりと歩み寄っていけば、気配に気付いたらしい彼女が顔を上げた。

 

 少なくとも、目は死んでいない。それを確認できただけでも満足だ。

 

「本戦で当たれば蹴散らすけど、仇は自分で討ちなさい」

「当たり前でしょ。あんまり寝惚けた事を言わないでよね」

 

 いささか歪な笑み。けれどたしかに、珠代の闘志は消えていない。

 

「今年の奨励会試験を受験するわ。この大会も空銀子に興味があっただけだし、もう女流の大会に出る事はないでしょうね。あなたともこれでお別れかしら」

「……陣屋旅館で待ってなさい」

 

 珠代の言葉に、天衣は口端を吊り上げた。

 

 陣屋旅館。正式名称は元湯・陣屋。神奈川県の鶴巻温泉にあるその旅館は、古くから将棋のタイトル戦で利用されてきた。そして女王のタイトル戦第一局は、陣屋旅館で行うのが伝統だ。

 

「それができなきゃ、ビッグマウスが尻尾巻いて逃げたってネタにしてやるから」

「ハッ、上等じゃない。どちらが大口叩いたか、次の大会で確かめてあげる」

 

 鼻を鳴らしてそう告げて、天衣はその場を立ち去った。




★次回更新予定:6/14(日) 19:00

今回の話で書いた男女の違いに関しては、それっぽく理屈付けしただけなので、特にそういう研究結果があるとかではないです。


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#012 将棋に必要な数

 奨励会試験は三日に渡って行われ、最初の二日間が一次試験、三日目が二次試験だ。

 

 一次試験は筆記試験と受験者同士の対局試験だが、将棋連盟が主催する指定の全国大会優勝者は免除となる。小学生将棋名人戦もその一つで、つまり天衣は一次試験を受ける必要がない。

 

 二次試験は対局試験と面接試験を行う。対局試験の相手は受験級位を基準に現役の奨励会員から選ばれ、三局中一局でも勝てば合格となる。その後は面接試験だが、よほどの問題がなければ面接を理由に落とされる事はなく、対局に勝った時点で合格と考えていい。

 

 女流玉将を降すというジャイアントキリングを果たし、無事マイナビ女子オープンの一斉予選を通過した天衣は、その四日後に奨励会試験の二次試験を受験した。

 

 対局試験の初戦は4級の奨励会員で、手合いは香落ち。特に問題なく勝利した彼女は、その後の二局も勝って全勝通過。面接も卒なくこなして受験を終えた。

 

 まず間違いなく合格。それでも通知が届くまでは不安もあったが、昨夜、湊は電話越しに合格の報告を受けた。天衣が電話を掛けてくる事は珍しく、普段通りを装っていたが、やはり嬉しかったのだろう。そう思えば、師匠としては何かしらのお祝いを用意したくなるものだ。

 

 あれこれ考えた湊が選んだのは、とある私物。仕舞っていたそれを手に、夜叉神邸を訪れた。

 

「奨励会入会おめでとう。棋士としての一歩を踏み出した君に、これを譲りたい」

 

 あとひと月もすれば、湊が天衣と出会って一年が経つ。指導室として馴染みとなった夜叉神邸の一室で、弟子と向き合った湊は、おもむろに細長い桐箱を差し出した。

 

「ありがとう、先生――――――開けてみても?」

 

 小さな手でおずおずと受け取った天衣が、窺うように湊を見上げてくる。頷いて返せば、早速とばかりに蓋を外す。中身を確認して一度だけ瞬いた彼女は、ポツリと呟いた。

 

「扇子ね。それも二つ」

 

 桐箱の中に並べられた二つの扇子。天衣が片方を手に取って広げれば、白地に大きく『天衣』と揮毫(きごう)されている。それを目にした彼女は、怪訝そうに眉根を寄せた。

 

「私の名前? 書いたのは……ッ」

「天祐さんだよ。読みは『テンイ』だけどね」

 

 ほら、と湊がもう一つの扇子を広げて天衣に見せる。

 

「『無縫』……こっちは先生が書いたのね」

「そう。二つ合わせて『天衣無縫』だ」

 

 天衣の大きな瞳が、二つの扇子を行ったり来たり。要領を得ないと主張していた。

 

「棋士が座右の銘を揮毫した扇子は、将棋の定番グッズだろう? 誰の座右の銘が好きかっていう話題になった時、僕たちも作ろうと天祐さんが言い出してさ」

 

 提案された直後は湊も面食らったが、すぐに乗り気になって準備を進めたものだ。扇子は天祐の伝手で信頼できる店があり、資金面でも問題はなく、お互い書には覚えがあった。作ろうと思えばすぐにでも作れたが、難航したのは揮毫する文字だ。

 

 アレがいいコレがいいと好き勝手に意見を出し合って、もう別々に書けばいいじゃないかと湊が言えば、せっかくだから合わせようと天祐がゴネる。最終的に天祐の押しに湊が折れる形となり、彼が希望する形で揮毫の文字が決められた。

 

「なんで『天衣無縫』なのよ? しかも二つに分けて」

「天の衣には縫い目が無く、なんとも自然な様であり、完全無欠で美しい。天の衣を棋譜に例えた天祐さんは、あらゆる変化を自然に指しこなす事がそうだと考えた。定跡であれ、定跡から外れた手であれ、奔放に指して勝利を掴む。そんな棋士が理想だと」

 

 目指した棋風を、天祐はその言葉に籠めた。本当は娘の名前を入れたかっただけじゃないかとも思うのだが、語られた理想に、湊も共感してしまったのだ。研究者気質のある彼にとっては、ただ強いだけの将棋よりも、あらゆる可能性を模索する将棋の方が好ましい。

 

 天衣の指導でも注意している部分であり、知識として強い戦法やその対策を授けるのではなく、それらの根本にある理論を理解させる方向で育ててきた。

 

「二つに分けたのは――――――」

 

 一瞬だけ、言い淀み。苦笑を浮かべて、湊は続けた。

 

「将棋は一人じゃ指せないからだ。どんなに才能があっても、どれだけ努力を重ねても、一人じゃ将棋の道は歩けない。誰かと一緒に歩いてきた事を、決して忘れないようにってさ」

 

 いつか正式に弟子ができたら、好きな方を渡せばいい。そう言って天祐は、出来上がった扇子を二つとも湊に託したのだ。あるいは自分の娘がそうなると、期待していたのかもしれないが。

 

「なら私はそっちをもらうわね」

 

 物思いに耽る湊の手から扇子を奪い、天衣は自分が持っていた方を渡してきた。すなわち湊が『天衣』の扇子を、天衣が『無縫』の扇子を持つ形になる。

 

 呆気に取られる湊の様子を見た天衣は、逆に不思議そうに首を傾げた。

 

「そういう意味じゃないの?」

「あぁ、いや――――」

 

 違わないと、首を振って湊は答えた。

 

 迷いなく湊と分け合うものだと認識した天衣に、少々驚かされただけだ。心から、彼女の師匠と認められたようで。己の将棋に、意味があったと感じられて。どうにもこうにも、面映ゆい。

 

「かなわないなぁ」

 

 しみじみとした呟きが、和室の空気に溶けて消えた。

 

 

 ■

 

 

「珠代さんの件、改めてありがとうございました」

 

 呟いて、湊は網の上で焼き目のついた牛タンを箸で掴んだ。ちょっとだけ塩をつけて食べれば、コリコリした食感と共に、肉汁が口の中に広がっていく。

 

「ようやくお弟子さんと引き合わせたらしいね」

「はい。思った通り仲良くなれたみたいです。口では素直じゃないんですけど」

「みたいだね。珠代くんもあれこれ言ってたけど、内心ではちゃんと認めてるよ、アレは」

「一斉予選でも感じましたけど、気骨のある方ですよね。さすがは山刀伐さんの紹介というか」

 

 湊は次の牛タンを網に載せながら、対面に座る相手に視線を送る。

 

 中性的な顔立ちの成人男性だ。二十代でも通用しそうな若々しい見た目だが、そろそろ四十路が見えてくる歳だと湊は知っている。名前は山刀伐 (じん)。今期からA級に昇級したプロ棋士であり、湊とは数年来の付き合いだ。

 

 山刀伐は関東棋士だが、しばしば対局のために関西まで来ており、その際は湊と会う事が恒例になっていた。今回も対局の翌日に誘われて、お高い焼肉屋の個室で顔を突き合わせているわけだ。

 

 もっとも山刀伐との出会いは、湊が覚えている限り、およそ最悪の部類だったが。

 

「初めて会ったプロが貴方でよかったと、今でも思いますよ」

「おや、嬉しいなー。ボクもたまに、湊クンとの出会いを夢に見るんだ」

「それ悪夢ですよね? 自分で言うのもなんですけど」

 

 問い掛けるが、ニコニコと笑う山刀伐の真意は読めない。

 

 山刀伐が初めて湊の前に現れたのは、アマ名人戦で三連覇を果たした天祐が、記念対局で名人を相手に二度目の勝利を飾った直後の事だ。以前から天祐に興味があったという山刀伐は、連絡先が掴めなかった代わりに、『ことひら』の常連である事を突き止めてやってきたのである。

 

 その日は生憎と天祐が不在だったのだが、席主から湊と天祐の話を聞いた山刀伐は、興味本位で湊に対局を持ち掛けたのだ。そして湊もまた、深く考えずにそれを受けてしまった。

 

 湊にとって失敗だったのは、将棋道場の常連や天祐とばかり将棋を指していて、勝負師の感覚が薄れていたこと。本物の勝負師が対局に籠める情熱を、忘れていたこと。

 

 最初の一戦に湊が勝った時の山刀伐は、その実力に驚きつつも褒めるだけだった。早指しだった事もあり、自らのミスとして受け止められる部分もあったのだろう。

 

 しかし十局を数える頃には表情が強張り、二十局を超えたら完全に沈黙した。鬼気迫る、と表現するしかない面持ちで、山刀伐は繰り返し湊に再戦を申し込んだ。その勢いに押されてズルズルと対局を重ねてしまったのは、湊の過ちと言ってもいいだろう。

 

 一局ごとに山刀伐は顔色を失い、将棋も精細を欠いていく。続けるべきではないと感じつつも、勝負への執念を感じさせる彼の姿が、湊の口を凍らせた。敬意か、羨望か、あるいは嫉妬だったのかもしれない。閉店間際まで指し続け、なお挑もうとする山刀伐に、湊は初めて本気で指した。

 

 十七手。公式戦であれば棋史に残ったであろう超短手数で、最後の一局は幕を閉じた。

 

「正直、もう二度と会う事はないと思ったんですけどね」

「せっかく強い人に出会えたんだから、自分の糧にしないともったいないじゃないか。それにボクより才能ある棋士はたくさんいるし、いちいち落ち込んでなんていられないよ」

 

 朗らかに話す山刀伐だが、出会った日の彼は、顔面蒼白のまま『ことひら』を後にした。電車に飛び込みやしないかと席主が心配したほどで、翌日、何食わぬ顔で訪れた山刀伐には、湊も随分と驚かされたものだ。

 

「まぁ勝負すらしてもらえなかった相手は、湊クンが初めてだったけどね」

 

 山刀伐の言葉を聞いた湊は、決まりの悪さを誤魔化そうとウーロン茶に口をつける。

 

 今の湊にとって、対局が勝負という感覚は薄い。勝ちも負けも賭けない彼が気にするのは、己がどう勝つかではなく、相手がどう指すかだ。同じ将棋盤を挟んでいるのに、見ているものはまるで違う。そういう部分が山刀伐にも伝わり、湊に本気を出させようと躍起になったらしい。

 

「あの日の最終局は、今でも棋譜を見返すんだ。研究資料としては参考にならないけどね」

 

 それはそうだろうと、湊は思う。あれは優れた戦法というよりも、相手の読み筋を元に徹底してハメただけだ。あの時の山刀伐だからこそ意味がある手で、他の対局にも活かせるものではない。今生で唯一と言ってもいい、勝利のみを目的とした一局であり、湊にとっては苦い思い出だ。

 

 ただ山刀伐の中では何かしらの整理がついたらしく、以降の関係は良好と言ってもいい。

 

「前にも誘ったけど、名人との研究会に参加してみない?」

「前にも言いましたけど、お断りします。名人と一緒なんて恐れ多いですよ」

「そんな事ないさ。湊クンなら、きっと名人にとってもいい刺激になると思うんだ」

 

 注文用の端末を操作しながら、山刀伐がニヤリと笑う。

 

「それに、名人も君に興味を持ってる」

「山刀伐さん、なに吹き込んだんですか?」

「ボクの研究相手として、君の話をしただけだよ。あ、でも、あの話は受けがよかったね。ほら、名人の『マジック』は――――――」

「『魔術』ではなく『手品』である」

 

 言葉を継いだ湊に、したり顔で山刀伐は頷いた。

 

 名人が対局の中終盤で繰り出す妙手を指して、人々は『魔術(マジック)』と呼ぶ。さながら魔法のような信じられない手で大逆転を演出するその姿に、数多の将棋関係者が魅せられてきた。

 

 天才の閃きだと、多くの人は言う。山刀伐も同じく。だが湊は、その意見に異を唱える。湊から見た名人は天才である以上に研究者だ。眩いばかりの閃きも、気が遠くなるほどの研鑽を重ねればこそ。故に『魔術(マジック)』ではなく『手品(マジック)』。華やかさの裏にある努力を、湊は何より尊んだ。

 

「そうそう。懐かしいってさ」

「……懐かしい?」

 

 わずかに跳ねた心臓に、湊は気付かぬフリをする。

 

「昔、名人の研究相手だった棋士も同じ事を言ったらしいよ」

「…………名人の研究相手となると、有名な棋士ですか?」

「ボクと名人の間の世代だけど、湊クンは知らないんじゃないかな」

 

 網の上に肉を載せながら、山刀伐は軽い調子で話を進めていく。無論、ただの雑談だ。ただの雑談ではあるが、喉を鳴らして唾を飲み込んだ湊は、ウーロン茶に手を伸ばした。

 

 心臓が五月蠅い。どうにも落ち着かず、雑にコップを傾ける。

 

「ちょうど湊クンが生まれた頃に、亡くなったみたいだから」

 

 すぐには、湊は言葉が見付からなかった。黙ってウーロン茶を飲み干したところで店員が訪れ、追加の肉を置いていく。退室する店員にウーロン茶を注文した後に、湊は小さく息を吐いた。

 

「――――それだけ昔の棋士だと、たしかに知らなそうですね」

「順位戦は調子よかったみたいだけど、タイトルは獲ってないしねぇ」

 

 まるでボクみたいだ、と山刀伐が苦笑する。

 

「ま、故人の話は切り上げようか。それよりボクは名人の考えが気になるな。君は言ったよね? 結局のところ、名人はボクの上位互換に過ぎないと」

「はい。貴方よりも長く、深く、熱心に研究を重ねたのが名人です」

「それはまた、随分と高い壁に感じるなぁ」

 

 おどけた様子で零す山刀伐だが、その実力は確かなものだ。

 

 居飛車も振り飛車も問わず、攻めも受けも指しこなす。圧倒的な研究量に裏打ちされた、どんな局面にも対応できる柔軟な棋風。それこそが山刀伐の将棋であり、ついた異名が『両刀使い(オールラウンダー)』。タイトル挑戦の経験もあり、A級順位戦でも白星を重ねる彼は、間違いなくトッププロの一人だ。

 

「けど湊クンから見た名人は、ボクたちが歩く先に居る。だからタネも仕掛けもある『手品』なんだね。それさえ理解すれば、手に入ってしまうものだから」

 

 そうだ、と湊は頷きを返す。

 

 名人は間違いなく天才であるし、現状、並び立つと言えるほどの棋士は居ないだろう。ただ湊の感覚として、それは誰よりも才能があるからではなく、誰よりも才能を引き出せているからだ。

 

 将棋の世界は誰もが手探りで、何度も躓きながら進んでいく。名人は他の人よりも少しだけ歩くコツを知っていて、わずかな差が重なる内に、手の届かない場所まで行ってしまった。

 

 眠れる才能のすべてを引き出せるほど、人類は将棋を理解できていない。それは名人であっても変わらず、だからこそ湊は、才能の多寡よりも努力が重要だと考える。どこまで効率を高められるのか、どれだけ情熱を維持できるのか、それを突き詰めれば、名人にも届き得ると。

 

「ええ。()()()()から、僕はそう考えています」

「もし名人も似たような考えだとすれば、ボクたちの事をどう思ってるんだろうね」

「それはわかりませんが、僕なら寂しいでしょうね。将棋は二人で指すものですから」

「湊クン、やっぱり研究会に参加しない? 君なら名人も喜びそうなんだけど」

 

 意外と本気の誘いである事は、その声音から窺える。それでも湊は首を振った。

 

「何度でも言いますけど、()()()には恐れ多いですよ」

「残念。もしも気が変わったら、いつでも連絡していいからね」

 

 苦笑だけ返し、湊は焼けたロースを箸で掴む。タレを付けて食べ、続けてご飯も口にする。その気がないと態度で示す湊に対し、山刀伐は静かに問い掛けた。

 

「ひとつ、聞いてもいいかな?」

「なんでしょうか」

「君は寂しくないのかい?」

 

 山刀伐の顔を見るが、真意は読めない。故に深く考えず、湊は正直に答えた。

 

「弟子が居ますから」

 

 何を疑うべくもない、彼にとっての真実を。




★次回更新予定:6/21(日) 19:00

気になる方が多いようなので、今回の話で主人公が十七手で勝った件について補足します。

まず大前提として、この手数で決着した場合、どちらかが対局の続行を諦めて投了した状況です。八百長でもなければ詰みになる事はないと考えていいでしょう。

今回の話でも、早指し対局かつ山刀伐さんの精神状態が著しく悪かったため、早々に大駒を死なせる局面に誘導され、構想が崩壊して諦めた、という想定です。

その上で短手数のラインは公式記録を参考に決めました。

反則負けを除いた最短記録は昭和四十九年の棋聖戦での十手投了と思われますが、投了理由の逸話はあるものの定かではない事と、投了した挑戦者が後日処分を受けている事から例外としました。

次点の記録は十八手の後手勝ちで、昭和六十一年の順位戦B級における芹沢九段と鈴木六段の対局となります。今回の話では、この十八手を棋士の状態によっては起こり得る最短手数と考えて、そこから一手短くした十七手としています。


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#013 広がる噂

 一人暮らしを始めようと決意した時、八一は将棋会館の近くにしようと考えた。なんと言ってもプロ棋士だ。仕事で各地に赴く事も多いとはいえ、やはり最も用があるのは将棋会館だ。深夜まで対局が続く場合もあるし、歩いて通える距離が望ましい。

 

 そんな風に算盤を弾いた八一は、将棋会館の近くにある商店街で部屋を借りた。オートロックもエレベーターもない古ぼけたアパートの二階だが、広さだけは2DKと過分なほどである。もっとも最終的な決定権は、何故か部屋を借りる本人ではなく、姉弟子の銀子にあったのだが。

 

 さておき、将棋会館から徒歩十分足らずの広い部屋だ。多少年季の入った建物とはいえ、内部は手入れが行き届いており住みやすい。となれば、関西棋士としては余裕で及第点を与えられるし、親しい棋士の溜まり場となるのは当然の帰結だった。

 

 この日も八一の部屋には、奨励会時代の仲間が訪れていた。

 

「本当によかったのか? こんな時期に俺たちの相手してて」

 

 座布団に腰を下ろして喋るのは、爽やかな風貌の成人男性だ。

 

 鏡洲(かがみず) 飛馬(ひうま)。八一が奨励会に入った当時から三段リーグで戦っている大ベテランで、最年長の奨励会員でもある。既に奨励会の年齢上限となる満二十六歳を過ぎているのだが、三段リーグ勝ち越しによる延長ルールが適用されて、今もプロを目指して頑張っている。

 

 決して実力不足なわけではなく、過去には若手プロ棋士も参加する新人戦での優勝経験もあり、いつプロになっても可笑しくないほどだ。非常に面倒見もよく、多くの奨励会員から慕われている兄貴分なのだが、どうにも機会に恵まれない不運な人でもあった。

 

「ぼくは八一さんと将棋ができて嬉しいですけど、竜王戦は大丈夫ですか?」

 

 鏡洲の隣で同じく座布団に座るのは、十歳前後の幼い少年だ。

 

 端麗な顔立ちの彼は(くぬぎ) 創多(そうた)。ただいま小学四年生。八一が知る限り最も将棋の才能に恵まれた奨励会員であり、あと一年も経たずに入品するであろう実力者だ。八一と鏡洲の事を慕っており、八一がプロになった時も、我が事のように喜んでくれた覚えがある。

 

「その件ですけど、俺ってマジで竜王に挑んでるんですよね?」

 

 どこか浮ついた様子で八一が零せば、対面の二人が怪訝そうな顔をした。

 

「はぁ? 火曜の二勝目で勝ち越したばかりだろ」

「そうですよ。棋士室の盛り上がりも凄かったんですからね」

 

 竜王戦。将棋のタイトル戦で序列一位に君臨する棋戦の特徴は、あらゆる棋士に開かれた門戸の広さだ。現役棋士全員に参加資格があるだけではなく、女流棋士枠と奨励会員枠、アマチュア枠も用意されており、文字通り将棋に関わるすべての者にタイトル獲得の機会が与えられている。

 

 まさしく最強の棋士を決めるに相応しいタイトル戦であり、優勝賞金も四千万超えと最も多い。新米ながら現役棋士として参加した八一は、トントン拍子で勝ち進み、ついには最強の栄誉に手を掛ける場所まで駆け上がってしまった。

 

 現在、竜王戦七番勝負の第三局を終えて二勝一敗。十日後には第四局が控えている。

 

「なんか現実感がないっていうか、頭の中がフワフワしてるんですよね。竜王と指してる時は盤面しか見えないんですけど、終わってみると、足元が覚束ないというか」

 

 一年と一ヶ月前、八一は三段リーグを抜けてプロ棋士の仲間入りを果たした。デビュー戦でボロ負けし、傷心から立ち直り、プロとしてやっていけそうだと安堵したのは記憶に新しい。そんなオムツが取れたばかりのヒヨッコが、いつの間にやら竜王位挑戦者だ。しかも、史上最年少の。

 

 凄い事だと思う。周囲の熱狂もわかる。己が第三者の立場であれば、嫉妬と共に羨望の眼差しを注いでいただろう。それが想像できるからこそ、その中心に立つ自分に実感が湧かなかった。

 

「だからまぁ、気持ちのリセットと言いますか、馴染んだ奨励会の空気を感じようかと」

 

 あるいは勢いのままに駆け抜けた方が、意外と勝ててしまうのかもしれない。勝負にはそういう面もある。だが八一は、全力で戦いたいのだ。全力を出し切ったと、胸を張って言えるような将棋で竜王に挑戦したいのだ。だから二人に声を掛け、普段の調子を取り戻そうとした。

 

「姉弟子や師匠とも会ったんですけど、みんな意識し過ぎてギクシャクしちゃって」

 

 鏡洲と創多は顔を見合わせ、一つ頷いた。

 

「ま、そういう事ならわかったよ。ただそうなると、持ってきたネタは刺激が強いかもな」

「ぼくは大丈夫だと思いますよ。八一さんにとっていい刺激になるんじゃないですか」

「引っ掛かる物言いですね。なんかヤバいモン持ってきたんですか?」

「関西奨励会で、今一番ホットな話題だよ」

 

 悪戯小僧のように笑った鏡洲が、持ってきた荷物から紙の束を取り出した。十枚程度のそれらを渡された八一は、ペラペラと捲って確認していく。

 

「棋譜ですね。誰の――――夜叉神天衣って、小学生名人ですか?」

「そうだ。彼女が例会で指した十二局の棋譜をまとめてある」

「十二局って、今年入会なら全局分じゃないですか」

 

 奨励会では月に二回の例会があり、会員同士で対局を行う。級位者なら例会ごとに三回、段位者なら二回の対局が基本で、その戦績によって昇級や降級が決められる。八月の試験で入会した者は九月二回目の例会から参加となっており、これまでに四回の例会に参加しているはずだ。

 

 改めて棋譜を確認した八一は、ある事実に気付いて口端を引き攣らせた。

 

「全勝って…………マジすか?」

「マジだ。彼女は二ヶ月で4級になった」

 

 真面目な顔をした鏡洲の返答に、八一は思わず天を仰いだ。

 

 奨励会の昇級点は六連勝、九勝三敗、十一勝四敗、十三勝五敗、十五勝六敗であり、いずれかを満たせば昇級となる。最短の六連勝なら二度の例会で昇級だが、一つ負けるだけでも九勝一敗が条件となるので、必要な例会は四度と倍になってしまう。

 

 理論上は6級入会でも半年余りで入品可能だが、現実はそれより遥かに長い。奨励会員の実力もさる事ながら、何よりも空気が違うのだ。お互いに相手を蹴落とすべき敵と認識しており、いずれ訪れる二十六歳という『死期』から逃れようと、死に物狂いで殺しに来る。その中で勝ち続ける、というのは後のタイトル獲得者でも難しく、八一とて散々に苦労させられたものだ。

 

「そんなわけで大注目株なんだが、棋譜を見て気付く事はないか?」

「ちょっと待ってください。すぐに目を通します」

 

 改めて棋譜を確認した八一は、詳細な検討はさておき、思い付いた感想を口にしていく。

 

「序盤の構想が多彩ですね、面白そうな新手もありますし。ただ、どうも形勢判断が独特じゃないですか? 見ない形の駒損で攻め込んでるのに、結果として上手く作用してるというか」

 

 形勢判断は『玉の堅さ』『駒の損得』『駒の働き』『手番』の四つが判断材料となるが、中でも『駒の損得』を意識する場面は多い。評価基準として定量化しやすく、パッと判断できるからだ。もっとも損得の価値観に引き摺られて、逆に悪手を指す場合もあるわけだが。

 

 駒の交換が発生する状況で、相手が失う駒よりも、自分が失う駒の方が高価値であれば駒損だ。時には駒損でも攻めるべき局面はあるし、終盤は駒の損得よりも速度を重視しろという金言もあるが、それでも天衣の形勢判断は違和感を覚えるものだった。

 

「たとえば第二局は、中盤に入ってすぐに銀桂交換した上で、二枚目の銀も捨てています。囲いを崩して角で睨みを利かせる狙いはわかりますが、随分と思い切りがいい手ですよね」

 

 時には駒損してでも攻めを繋いで勝てばいい、というのは現代将棋の考え方ではある。けれど、それにしたって綱渡りが過ぎるだろうと八一は思う。たしかに効率的な攻めかもしれないが、裏を返せば余裕がない。少し読み間違えるだけで、手痛い反撃を喰らう恐れがある。

 

 ただ同時に、八一はその攻め方に既視感を覚えていた。

 

「――――――あぁ、コンピューターっぽいのか」

「さすが八一さん! ぼくも同じ意見です!」

 

 思い付きを呟けば、嬉しそうに創多が同意する。

 

「先入観に囚われない発想や、囲いを最小限に留めた大胆な攻めはAI将棋の特徴です。そうしたAIの考え方を取り入れようとしている、とぼくは考えています」

「小学生名人やマイナビとは棋風が違うから、たぶんそっちが本来のものだろうな」

「……奨励会で試している、という事ですか?」

 

 だとしたら、入会したばかりで随分と度胸がある。未知の戦場に飛び込んだというのに、普段の棋風を捨てて戦えるというのは並大抵ではない。それで連勝しているのだから尚更だ。

 

「推測だけどな。関西将棋会館のルールとかは俺が面倒見てるが、肝の据わった子だよ」

「鏡洲さんらしいですね。もしかして将棋も教えてるんですか?」

 

 関西奨励会員には鏡洲の世話になった者が多く、かつての八一も奨励会のいろはを教わったし、将棋を教えてもらった事もある。そうした経験から出た質問だった。

 

「そっちは間に合ってると断られたよ」

「なるほど、噂の『先生』ですか」

 

 年齢に実力、何より見た目がいい夜叉神天衣は話題性が高く、既にいくつかインタビュー記事が出ている。夏に放送された空銀子のテレビ特集が反響を呼んだのもあってか、短いながらテレビの方でも特集があったはずだ。

 

 方々からの注目を集める夜叉神天衣だが、そんな彼女の話に度々出てくるのが『先生』だった。将棋を教わっている事と、アマチュアである事以外の情報は一切不明。ただ言葉の端々から敬意が感じられる事や、月光会長も存在を認めている事から、一体何者なのかと噂されていた。

 

「その『先生』、彼女の父親だったりしませんか? 夜叉神アマ名人って居ましたよね?」

「あー、いや……それはない。たしかに父親はアマ名人だが、もう亡くなってるからな」

 

 歯切れの悪い鏡洲の答えに、八一は目を丸くする。

 

「会長が動いてるみたいで、まだ一般には広まってないけどな」

「えっと、じゃあ鏡洲さんは会長から?」

「いや。奨励会員はアマチュア棋戦の運営に駆り出されるだろ? 若い頃にそこで知り合ってさ、随分と将棋を鍛えてもらったよ。その縁で知る機会があってな」

 

 寂しげに語る鏡洲に、いよいよ八一は言葉を失くした。どう声を掛けるべきかと迷っていたら、そんな八一を見かねたのか、当の本人がニカリと笑う。

 

「ま、辛気臭い話は置いとこうぜ。とにかく俺が『先生』とやらを知らないのはマジだ。あの人がアマ名人になった頃には、顔を合わせる機会も少なくなってたしな」

 

 一息入れて、鏡洲はしたり顔を八一に向ける。

 

「とはいえ、心当たりがないわけでもない。つい零した感じで詳しく話しちゃくれねえし、聞いた当時はそんな馬鹿なと笑ったが、世の中にはコイツみたいなのも居ると知ったしな」

 

 創多の頭に手を置いて、どこか物憂げに鏡洲は続けた。

 

「一度も勝てない『子供』が居る。名人との記念対局で勝った後、あの人はそう言ったんだ」

 

 

 ■

 

 

『集中力が落ちてますから、そろそろ一息入れましょうか』

 

 スピーカー越しに聞こえた言葉に、珠代は安堵の息を吐き出した。

 

「ありがとー。ほんと、湊くんはよく気が付くね」

 

 愛用のノートパソコンに話し掛けながら、珠代はクッと伸びをする。慣れ親しんだ自室の椅子に背中を預け、強張っていた体から力を抜いていく。

 

 今日は月に何度かある湊との研究会で、既に開始から二時間ほど経っていた。絶えず鋭い指摘が飛んできて大変なのだが、不思議と疲れを覚える頃に休憩を挟むので苦にならない。指摘や質問の内容も理解できるものばかりで、自身の力不足を実感すると共に、次へ活かそうと考えられる。

 

 これまで珠代は、色々な男性棋士と研究会を行ってきた。男性相手なのは少しでも強くなるためなのだが、女流棋士の間では『婚活』と揶揄される事も多く、その所為でギクシャクして研究会を解消された事も少なくない。

 

 そうした経験を鑑みれば、湊との研究会は快適だ。余計な横槍はないし、男性棋士相手の時にあった、レベルが違い過ぎて理解できないという事もない。だからこそ湊との出会いには感謝しているが、同時に思い浮かぶのは、彼を通して知り合った少女の存在だ。

 

「あの子、奨励会でも快進撃みたいだね」

『ええ。スタートで躓かなくて安心しました』

「最初にケチがつくと引き摺りやすいもんね」

『ですね。まぁ、そろそろ黒がつくと思いますが』

 

 上出来過ぎるので、と付け加える湊の声は、慎重を装いながらも嬉しそうだ。親馬鹿と言うか、弟子には随分と甘いと、付き合いの短い珠代でもわかる。

 

「早めに負けといた方が気楽かもね。気にするタマじゃないかもだけど」

 

 最年少で竜王位に挑戦する九頭竜八一と並び、将棋界で話題の天才少女。まだまだ侮る声は多いが、着実に実績を重ねていく姿に、期待を寄せる者も増えてきている。

 

 人気二番手の女流棋士として仕事の多い珠代は、そうした業界の空気を肌で感じていた。

 

「十二月にマイナビ本戦の二回戦があるよね?」

『はい。祭神女流帝位が相手になりました』

「そうそう。どっちも話題性が高いから運営も力が入っててね。マイナビの方でもニコ生で中継を予定してるんだけど、私が聞き手に選ばれたんだ。解説はジンジンでさ」

『あー、珠代さんは聞き手として人気がありますからね』

 

 歯切れが悪い湊の声に苦笑する。祭神雷の対局で聞き手を務めるというのは、あまり楽しい仕事ではない。それでも仕事を受けた以上は、プロとして役目を果たすのだが。

 

「私の話は置いといて、それだけ注目されてるってこと。特にマイナビは一般人も知る空銀子への挑戦権を賭けてるからね。勝った分だけ周囲の期待は重くなっていくよ」

『天衣の心配ですか? ありがとうございます』

「別にそういうわけじゃないけど……」

 

 思わず言い淀み、目を泳がせながら、珠代は言葉を継いだ。

 

「聞き手だし、こっちが話に困るような将棋は指さないよう言っておいてよ」

 

 スピーカーから響く笑い声は、聞こえなかった事にした。




★次回更新予定:6/28(日) 19:00


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#014 ネット中継

 ゴキゲンの湯。大阪は京橋にある銭湯で、古い二階建ての木造建築。一見すれば地味で、時代に取り残された遺物のようだが、一部の将棋指しにとっては重要な意味を持つ場所である。

 

 親の後を継いで経営している生石(おいし) (みつる)は、現役棋士にして玉将。つまりタイトル保持者だ。常に複数冠を持つ名人が関東棋士という事もあり、タイトルを持つ関西棋士は生石のみ。それだけでも勇名を馳せる理由となるが、何よりも彼を象徴するのが棋風だ。

 

 プロ棋士では珍しい純粋振り飛車党。A級・タイトル保持者に限れば生石以外には居ないため、振り飛車党の将棋ファンから圧倒的な支持を得ているのだ。そうして世間から『捌きの巨匠(マエストロ)』や『振り飛車党総裁』と讃えられる彼の経営する将棋道場が、ゴキゲンの湯の二階にある。

 

 将棋道場としてのゴキゲンの湯は、将棋とも銭湯とも縁遠いジャズバーのように洒落た内装だ。道場の隅にはピアノが置かれ、時に生石自らジャズを演奏するという変わった場所である。当然、客層は生石を信奉する振り飛車党の将棋ファンであり、彼らにとっては聖地も同然だ。

 

 そんなゴキゲンの湯の一室で、二人の男女がノートパソコンの前に座っている。

 

 男性の方は生石だ。四十を前に渋みの増した顔立ちに、やや気だるげな眼差しを浮かべる彼は、ソファに背中を預けたまま手にしたタバコをふかしている。

 

 隣に座る女性は、真剣な面持ちの空銀子。これから対局に赴くような空気を漂わせ、真っ直ぐに背筋を伸ばしてノートパソコンの画面を睨んでいる。

 

 以前から研究会を行ってきた間柄の二人であり、こうしてゴキゲンの湯で会う事は度々あった。ただし今日は普段の研究会ではなく、銀子の提案でネット中継の観戦となっている。

 

 観戦するのは、マイナビ女子オープン本戦二回戦。夜叉神天衣と祭神雷の対局だ。

 

「小学生名人と女流帝位、どっちを気にしてるんだ?」

「……女流帝位です。小学生名人に、アレを破る力はない」

 

 先の例会で、夜叉神は初の黒星から二連敗を喫している。斬新な序盤の構想や苛烈な攻め、黒星なしの連勝で浮足立っていた奨励会員も、ようやく落ち着いてきたという事だろう。

 

 祭神の気分次第で勝ち上がるかもしれないが、未だ夜叉神の脅威度は低い。それが銀子の下した結論だ。同時に祭神が防衛戦の相手となれば、厳しい戦いになると感じていた。

 

「たしか『捌きのイカズチ』だったか。ま、お手並み拝見といこう」

 

 生石が呟くと同時に、ノートパソコンの画面が切り替わる。大盤の前に並んだ二人の男女が映し出され、画面を横切るコメントがにわかに活気づいた。

 

『みなさんおはようございます。聞き手の鹿路庭珠代です』

『やっほー。解説のジンジンだよー。みんな今日はよろしくね』

『ジンジン先生! 紹介の前に話し始めないでくださいっ』

『いいじゃない。テンポよくいこうよ』

『はぁ。というわけで、解説の先生は山刀伐尽八段です』

 

 軽妙なやり取りで中継を始めた二人は、続けて対局する二人について説明していく。これまでの経歴や棋風、解説の山刀伐が注目する部分などを語り、その内に開始時間がやってきた。

 

 画面が対局室に切り替わり、将棋盤を挟んで向かい合う少女たちが映し出される。真剣な表情で盤上を睨む女子小学生と、その姿をニヤけた笑みで見下ろす女子高生。かつて祭神と対局した時の記憶が思い起こされ、銀子は眉根を寄せた。

 

『振り駒の結果、夜叉神4級の先手となりました。注目の初手は――――――7六歩です。後手の祭神女流帝位はノータイムの3四歩、共に角道を開けるスタートです』

 

 続く一手で飛車先を突いた夜叉神に対し、祭神が指したのは5四歩だ。

 

「ゴキ中の出だしに見えるな」

 

 5五歩で角道を止め、5筋に飛車を振ればゴキゲン中飛車の形になる。となれば祭神は、続けて5筋を突く。だが銀子たちの予想を裏切り、彼女が動かしたのは別の駒だった。

 

「これはゴキ中じゃない……?」

「いきなり角交換か。力戦でねじ伏せるつもりかね」

 

 8八角成。祭神は角道を止めず、先手の角を奪う。当然、夜叉神の応手は同銀。角交換となり、互いの駒台に角が置かれた。

 

『角交換型の振り飛車は攻撃力が高く、早指しで意表を突く戦い方ができる。実に女流帝位らしい選択だね。そろそろ飛車を振ると思うけど、今日の振り飛車占いはどうなるかな』

『これは――――――2筋に振りました!』

『角交換向かい飛車か。ガチガチの力戦型だね』

 

 聞こえてくる山刀伐の言葉に、銀子は同意するように頷いた。

 

 角を握り合ったこの状況、多様な攻め筋が考えられる一方で、明確な攻め筋がないとも言える。すなわち互いの読みが物を言う力戦が予想され、それは祭神お得意の展開だ。夜叉神は定跡研究が強みと見ている銀子は、この時点で勝敗予想の天秤を大きく傾けた。

 

 夜叉神は角交換で動いた銀から銀冠を組み、祭神は基本に忠実な美濃囲いを組む。

 

 共に開戦準備を終わらせて、銀や桂を出陣させていく。2筋の仕掛けを警戒しながら、主戦場は中央へ。進撃してきた後手の銀を、先手が食い止めたところで昼休憩となった。

 

 観戦していた銀子たちも部屋を出て、生石の娘が作った食事で手早く昼を済ませる。戻ってきた二人は再びソファに腰掛け、対局の再開を待ちながら午前の検討を進めた。

 

「まだまだ前哨戦だが、どっちも女流としちゃ破格だな」

 

 紫煙と共に吐き出された感想を、銀子は否定しない。荒れるのはここからだろうが、ここまでの攻防でも対局者の読みの鋭さは窺い知れた。どちらかが並の女流棋士であったなら、既に勝勢となっていたかもしれない。

 

 やがて画面の向こうでも昼休憩が終わり、対局が再開される。

 

 両者ともに強気の攻めに出て、激しい駒の取り合いが始まった。桂が跳ね、角が切り込み、金が受ける。目まぐるしく攻守が入れ替わり、なおも優劣は決しない。

 

「……速いな。銀子ちゃんが警戒するのも頷ける」

 

 中でも驚嘆すべきは祭神の速さだ。中盤も終わりに近付いているが、三時間の持ち時間を半分も消費していない。その上で悪手らしい悪手もなく、高度な読み合いを見せている。

 

 時たま切り替わる対局室の映像を見れば、祭神の興奮度合いは明白だ。

 

 ――――――イイねぇイイねぇ白髪ちゃん! こっち、女相手に初めてイケそうだよぉ!

 

 かつて銀子が祭神と当たったのも、マイナビ女子オープン本戦の二回戦だった。当時中学一年のアマチュアだった祭神の早指しについていけず、自分だけ持ち時間を減らしていった苦い記憶。

 

 ――――――チッ! もーちょっとでイケそうだってのに……イライラさせんなよぉ!

 

 祭神の時間攻めかと思えば、そうではなく。シンプルに思考スピードが違っていただけ。銀子はそれに気付かず、持ち時間を使い切って考えた最後の手は、快心の一手だと思っていた。

 

 ――――――あーあ、ついにやっちゃった。お手つきだぁ。

 

 ノータイムで応じてきた祭神の手は、たしかに銀子の読み通り。だが直後に彼女は、取った駒を相手の駒台に置くという、前代未聞の反則をしてみせた。そしてつまらなそうに投了したのだ。

 

 最初、銀子はそれを追い詰められたゆえのミスだと考えた。得てして反則とは、追い詰められた側がするものだ。しかし改めて読んでいく内に、気付いてしまう。優勢だと思っていた局面には、見事な返し技が潜んでいた。数手先に訪れるその局面を、祭神は先走って出現させたのだと。

 

 祭神はまるで時間を使う事なく、銀子よりも深く読んだのだ。故に勝ったのは銀子でも、才能は祭神が上だった。その評価を、他の誰でもない銀子が認めてしまっている。

 

 ――――――ノロいんだよ、ニセモノ。

 

 あの時の祭神が、調子がいい時の怪物が、画面の中に居た。だというのに夜叉神は、持ち時間を削られながらも追い縋っている。かつての己と重なる姿に、銀子の心がざわついた。

 

「ここで捌いた――――ッ」

「こいつは『痺れた』か……」

 

 思わぬ好手を指されて対応に困る状況を、将棋では『痺れる』と表現する事がある。思い付きで振ったとしか思えない飛車から、痺れる手を繰り出す祭神の大捌き。それが『捌きのイカズチ』の本領であり、夜叉神の玉将も銀冠の小部屋へと逃げ込んでいく。

 

「だが、所詮は小娘だな」

「えっ? それはどういう……」

 

 新しいタバコに火を着けて、生石はゆったりとソファにもたれかかる。

 

「勝負手なんかは顕著だが、相手が対応に迷う手と最善手は、必ずしも同じわけじゃない。複雑に見える代わりに隠れた急所があるって具合にな。こいつもそうさ。俺から見りゃ上げ膳に据え膳、どうぞ召し上がってくださいってシロモンだ」

 

 確信をもって告げられた言葉を、すぐには信じられなかった。それは銀子には見えていない世界だからだ。しかし相手は玉将にして『捌きの巨匠』、読み違いではないだろう。

 

 そうして改めて盤面に目を向けた銀子だが、生石が言う急所は見えない。どう読んでも夜叉神のジリ貧に思え、己の才能の無さが嫌になりそうだ。

 

 仕方なく生石に尋ねようとしたところで、画面の中で駒が動いた。攻め寄せる祭神に、夜叉神の選択は金打ち。銀子も考慮したが、その手では受け切れない――――――はずだった。

 

 崩れない。怒涛の攻勢に惜しみなく持ち駒を投資して、終わってみれば、むしろ優位を得たのは夜叉神だった。崩されぬまま駒得をせしめた道筋は、銀子が見付けられなかったものだ。

 

「気ぃ付けな、銀子ちゃん。このチッコイのは、なかなか厄介そうだぜ」

 

 生石の言葉に返事もできぬまま、銀子の細い喉を、冷たい汗が流れ落ちた。

 

 

 ■

 

 

 東京・将棋会館には、関西のそれとは異なり、明確に棋士室と呼ばれる部屋はない。ではどこで棋士たちが検討や食事を行うのかと言えば、四階にある『桂の間』だ。モニターが常設されたこの部屋が事実上の控室になっており、重要な棋戦の時などは人で溢れ返っている。

 

 マイナビ女子オープン本戦二回戦、夜叉神天衣と祭神雷の対局が決着し、ニコ生の仕事を終えた山刀伐は、五階のスタジオから桂の間へ移動していた。幸い親しい相手はおらず、声を掛けられる事もなく部屋の隅に陣取った彼は、将棋盤を引っ張ってきて今日の棋譜を並べていく。

 

 そうして対局内容を検討しながら暇を潰していると、向かいに小さな影が現れた。

 

「待たせたかしら? これから兵庫まで移動だし、早めに終わらせてよね」

 

 夜叉神天衣。疲労を滲ませた少女は、それでも澄まし顔で対面に座る。

 

「早かったね。もう少し時間が掛かるかと思ったよ」

「記者のあしらい方も慣れてきたし、所詮は二回戦に勝っただけよ」

「相手は女流タイトル保持者なんだけどね」

「終盤がお粗末過ぎよ。長考を挟んでからボロボロじゃない」

 

 たしかに、と山刀伐も同意する。

 

 中盤の終わり、仕留めに掛かった捌きを凌がれた祭神は、今回の対局で初めての長考に入った。直後の手は悪くなかったが、しばしば長考を挟むようになり、それまでのキレが失われていたのは明白だ。所詮は女と侮っていたのか、予想外の反撃で集中力が途切れたのだろう。

 

 女性で最も才能があると言われながらも、未だ一冠に甘んじている祭神らしい幕切れだった。

 

「で、なんの用なのよ? 先生の知り合いだから話くらいは聞くけど」

 

 どうにも素っ気ない態度に、山刀伐は苦笑を禁じ得ない。

 

 今回、天衣の対局で大盤解説を務める事が決まった山刀伐は、彼女と話したい事があるからと、事前に湊を通してアポを取っていた。さすがは師匠の威光と言うべきか、将棋会館内ならと簡単に承諾はもらえたわけだが、中々に扱いの難しそうな少女である。

 

「じゃあ本題に入ろうか。今から並べる棋譜について意見が欲しいんだ」

 

 並べるのは、山刀伐が湊と出会った日の最終局。思い出深いそれを、盤上に再現していく。

 

「――――――ここで先手が投了。わずか十七手で終局だ」

「……酔っ払いが指したの? 正直、検討する価値があるとは思えないわね」

 

 なんとも辛辣な感想だが否定はしない。

 

「戦型の良し悪しを語るまでもなく、ただの指し間違えでしょ。ド素人でもわかる飛車のただ捨てじゃない。駒の働きがよくなるわけでもないし、凡ミス以外には考えられないわ」

「そうだね。最後の手はあまりにお粗末で、酷い間違いだ」

 

 この時の戦型は相横歩取り。お互い定跡通りに進め、もうすぐ基本形が出来上がろうという段階で、山刀伐は相手の飛車と同じ8筋に飛車を回してしまった。明らかな丸損。そしてプロレベルの相手に序盤から大駒のただ取りを許せば、よほどの悪手がない限り逆転は困難だ。

 

 詰んだわけではない。だからと言って、続ける価値があるのか。ここまで散々に負け続けた湊がミスする可能性に縋って、無闇に手数を重ねる意味があるのか。それで勝ったと言えるのか。

 

 当時の自分としては長く悩んでいた気がしたが、実際には十秒にも満たない時間だったらしい。湊が次の手を指す前に山刀伐は投了し、この日の対局は最後となった。

 

 己の指し間違え、それは事実であり間違いない。ただ同時に、不可解な部分も残る。

 

「後手の3三金も引っ掛かるけど、先手ほどのやらかしではないわね」

 

 呆れた様子で付け加えられた意見に、山刀伐は頷きを返す。

 

 急戦になりやすく変化に富んだ横歩取りは、一手のミスが形勢を左右するため、指しこなすには深い研究が必要だ。今では覆された部分があるものの、当時の山刀伐も存分に研究しており、どの変化にも対応できる自信があった。

 

 故に意識を向けていたのは湊の手だ。なんの捻りもなく基本的な共通手順が終わりそうで、ここからどう変化させてくるのか、あるいはどう仕掛けていくかと思索を巡らせていた。

 

 明確なビジョンがあったのだ。この手にはこう応じるという研究成果が。極論、3三金に対して8四飛と回るのも間違いではない。それが()()()()()()()()()()()であった点を無視すれば。

 

 何故か湊はあるべき数手を飛ばし、結果、山刀伐は脳内将棋盤を現実のそれと錯覚した。

 

 あの日の最終局、たしかに山刀伐は疲れ切っていた。公式対局の翌日で調子が万全ではなかったという理由もあれば、単純に何十局と負け続けた後で心身ともに参っていた部分もある。その上で湊の手にばかり集中していたから、盤面に向ける意識が疎かになっていたのは事実だ。

 

 そう、山刀伐が間違える道理はある。だが、はたして湊はどうだったのか。

 

「夜叉神くんから見ても、その3三金はミスに見えるのかな?」

「それはどういう――――――あぁ、先手があなたで後手が先生なのね」

 

 投了した山刀伐に湊が掛けた言葉は、互いの疲労を理由にした解散宣言だった。

 

 しかし将棋盤を挟んだ山刀伐にはわかる。湊はそれほど疲労していたわけでもなければ、最後の手を指し間違えたわけでもないと。ある種の確信を持って、3三金を指したのだと。

 

 あまりに不可解で、だからこそ冷静にさせられたと言うべきか。勝負の熱に冷や水を掛けられ、以降は研究相手として友好を深めながら、湊の将棋を観察してきた。

 

 彼の将棋は幅広く、読みは深く正確で――――――――時に理外の勝利を掴む。

 

 あるいはそれが、彼が言うところの『魔術』なのかもしれない。どれほど棋譜を読み込もうと因果が読み解けぬ勝利は、将棋の道理から外れているとしか思えない。また初めて出会った日を除けば、そうした勝利の後は機嫌よく対局相手を褒めている事にも気付いた。

 

 自分の勝利なんて、まるで価値がないとでも言うかのように。

 

「後手が先生なら、それこそ考えるまでもないわ。だって()()()()()()()()()んだから」

 

 アッサリそんな事を言い放った少女は、次いで不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「どう? お望みの回答なんじゃないかしら?」

「……そうだね。たぶんボクたちの認識は近いと思うよ」

 

 将棋における盤上真理から離れた部分で、湊には何かしらの強みがある。将棋盤を挟めば、時に場の空気を通して駒の動き以上の情報が相手から伝わってくる事さえあるが、湊はそうした感覚が優れているのかもしれない。それが山刀伐の推測だった。

 

 そこらのアマチュアならともかく、彼の弟子ならば同じように感じても可笑しくない。そうして勝手に感心している山刀伐を他所に、天衣は眦を吊り上げていた。

 

「先生は私の師匠だけど棋士じゃない。少なくとも、勝負の世界に交じる人じゃない。私はそれでいいと思ってるし、現状に満足してる。そっちは何か文句でも――――――」

「ないよ。ボクは夜叉神くんの考えを聞きたかっただけだからね」

 

 割り込むように答えれば、対面の少女は目を丸くする。だが事実だ。山刀伐の中では既に対応を決めた問題であり、興味深くはあれども、無闇に掘り返すつもりはない。

 

 ただ『湊と天祐の友人』として、この少女の意志を確認したかっただけだ。

 

「よかった。天祐クンも同じ事を言ってたよ」

「――――――そう。じゃ、もう行くわね」

 

 わずかに口元を緩めた天衣が去り、その背を見送る山刀伐もまた、満足そうに微笑んでいた。




★次回更新予定:7/5(日) 19:00


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#015 降誕祭

 十二月二十五日。いわゆるクリスマス。宗教的な意義はさておき、日本全国が祝い事と浮かれるこの日に、夜叉神邸でもささやかな食事会が開かれていた。

 

 参加者は屋敷の主である弘天に、孫娘の天衣、そしてどういうわけか呼ばれた湊だ。事の発端は弘天の思い付きで、天衣の誕生日があった二週間前になって、いきなり湊と食事会がしたいと言い出した。試しに湊を誘えばあっさり了承され、弘天が張り切って開催と相成ったわけだ。

 

 もっとも号令を掛けた張本人は食事を終えて早々に席を外し、今は天衣と湊の二人だけだが。

 

 用意されたケーキと紅茶を楽しみながら、対面の湊に目線を送る天衣。指導のため休日の朝から湊を呼ぶ事も多く、その度に昼食を共にしてきた。もちろん、時には夕食も。だから普段と大して変わらないはずなのに、クリスマスという名札を付けただけで、いささか気後れしてしまう。

 

「今日はおじいちゃまに付き合ってくれてありがとう」

「こちらこそ、ひさしぶりに弘天さんとゆっくり話せて楽しかったよ」

「ならいいけど、本当に予定はなかったの? その……家族とか」

「こっちを優先しろと怒られたよ。人付き合いが少ないんだから、縁を大事にしろってさ」

「そう。先生がいいなら、まぁ――――」

 

 なんだか言葉がまとまらなくて、歯切れ悪く空気に溶けた。

 

「でも、本当にプレゼントはなくてよかったのかな?」

「いいのよ。誕生日にもらったし、こっちも誕生日用に準備したし」

 

 およそ二週間前にあった天衣の誕生日に、去年と同じく湊はプレゼントを贈ってくれた。中身はベロアとシフォンのシュシュが三種ずつ。いつもの髪型でも右側頭部でひと房だけ括っているが、たまには変えるかと、いくつか試していたりする。ちなみに今日はポニーテールだ。

 

 別に深い意味はなく、なんとはなしに髪を弄って話題を探す。

 

「それより将棋の話なんだけど」

 

 選んだのは、結局いつも通り。切り出してから、失敗したかなと後悔した。

 

「気に入ったの? 九頭竜竜王のこと」

 

 史上最年少で竜王挑戦権を得た九頭竜八一は、世間の期待に違わぬ熱戦を繰り広げ、三勝三敗で最終局へと持ち込んだ。そして最終局の対局日は、奇しくも十二月二十四日と二十五日。つまりは今日が最終局二日目で、つい先ほど、史上最年少の竜王が誕生した。

 

 さすがに食事会中は控えたが、天衣と湊も昼間から棋譜中継を確認し、あれこれ意見を交わしていた。それ自体は可笑しな事ではないのだが、違和感があったのは、湊の様子。

 

 よく言えば平等。悪く言えば無関心。知り合いでもなければ大して興味を見せない湊が、今回は随分と九頭竜に寄った話し方をしていたように思う。無論、史上最年少竜王の誕生となれば棋史に残る一大イベントだ。将棋ファンなら応援したくなるものだろうが、どうにも違う気がした。

 

 そうした疑念を乗せて見詰めていると、湊は困ったとばかりに苦笑する。

 

「気に入ったというか、僕の勝手な期待かな」

「期待って……なんの期待よ?」

「強くなりそうだなって」

「対局してみたいの?」

「僕自身は別にいいかな」

 

 気まずそうに頬を掻き、視線を彷徨わせた湊は、

 

「――――――名人を倒せるほどの棋士になってほしいんだ」

 

 よくわからない事をのたまった。

 

「……嫌いだったの? 名人のこと」

「僕が憧れた棋士はあの人くらいだよ」

 

 それもまた初耳で、天衣の混乱は深まるばかり。そもそも湊が名人の話をしているところなど、ほとんど彼女の記憶にない。いつだってプロの世界と距離を置いて接しているように見えた天衣の師匠が、特定の棋士に入れ込むというのも、いまいち想像できなかった。

 

 話の繋がりもよくわからず、困惑を露わにする天衣に、湊も言葉を探しているようだ。

 

「今でこそ複数人で研究会を開くのが一般的になったけど、昔は一人で研究するのが主流だった、という話は知ってるかな? まぁ、それなりには研究会もあったみたいだけど」

「ええ。研究会と言えば初代竜王の話が有名だけど、当時は珍しかったそうね」

 

 後に初代竜王となった棋士が、二人の奨励会員に声を掛けて発足した研究会は、将棋界における伝説として語り継がれている。途中から現名人も参加したこの研究会は、参加した四人全員が後の竜王位獲得者であり、初代竜王を除く三人は名人位まで獲得したという凄まじいものだ。

 

「うん。まさにその研究会が有名になったのもあって、将棋界の新たな常識として定着したんだ。一人で延々と頭を悩ませるよりも、他の棋士から刺激を受けた方がいいってね」

 

 話を区切った湊は、手元の紅茶を口に運ぶ。

 

「翻って僕が感じているのは、『もったいない』ということ」

 

 静かな口調に、籠もる熱。その声音こそが何よりも、湊の本気を物語る。

 

「かつての名人には切磋琢磨するライバルが居て、追い越すべき先人が居た。けど凄まじい速度で成長する彼は瞬く間に将棋界の頂へ辿り着き、ついには七冠を制覇して『神』となった」

 

 将棋ファンなら誰もが知っている名人の伝説。現在の七タイトル制になって以降、同一年度での全冠制覇を達成できたのは名人のみ。その名人でさえ、一度しか成し遂げられなかった偉業だ。

 

 天衣が、そして湊もまた生まれる前の出来事で、そんなに昔から、名人は『神』だった。

 

「名実ともに、彼は揺るぎない棋士の頂点だ。それがもったいないと、僕は思う」

「どうして? 名人に憧れてるなら、それはいい事じゃない」

 

 問い掛ければ、眉尻を下げた湊が首を振る。

 

「今でも研究会や公式対局を通して、彼は成長し続けている。もちろん素晴らしい事なんだけど、あの人ならもっと強くなれるはずだと考えてしまうんだ」

「……ああ、そういう意味ね。強敵の不在が惜しい、と」

 

 つまり名人に対してではなく、名人以外の棋士に対する不満。好敵手と競い合う機会を、十分に得られなかった名人への嘆き。理想の押し付け染みたそれは、たしかに憧れなのかもしれない。

 

 らしくない、と思う心も憧れだろうか。自分が知らない一面に、一抹の寂しさを感じてしまう。

 

「どうして会長は光を失ってしまったのか、どうして後の世代は不甲斐ないのか、どうしてもっと早く――――――――まぁ、独り善がりが過ぎるけどね」

 

 なら先生自身はどうなのか。口を衝いて出そうになった言葉を、なんとか天衣は押し込めた。

 

 天衣から見た湊は強い。それこそ、どれだけ強いのかも判然としないほどに。だが一方で、湊が自身の実力を不純なものと見ている事も知っている。結局のところ勝負にこだわらないから棋士を目指さないのではなく、勝負を神聖視しているからこそ距離を置いている事も。

 

 一年以上、毎日のように将棋を指してきたのだ。少なからず湊を理解できたと自負している。

 

 純粋に湊の棋力が優れているのは間違いないが、彼の将棋で最も凄まじいのは、頭の中を覗いたように相手の手筋を読み切る鋭さだ。普段の様子からして、さすがに読心術といった超常の力とは思わないが、天衣や他の棋士とは異なる感覚を備えている、と感じずにはいられない。

 

 おそらくそれが、湊にとっての不純物。それを将棋の実力と、彼自身は認めていない。

 

 将棋には二つの考え方がある。一つは盤上真理を追求し、正解を導く事で勝とうとする考え方。もう一つは真理などどうでもよく、相手を間違わせてでも勝てばよいとする考え方だ。

 

 これに従えば湊は前者であり、盤上真理の追求こそ至上とするタイプなのは間違いない。そして真理を追い求めるからこそ、そこから外れた視点を持つ自分が許せないのではないか、というのが天衣の推測だった。潔癖症が過ぎる気もするのだが。

 

 それを思えば、名人に惹かれるのも納得できる。名人もまた盤上真理を追い求める棋士であり、相手が間違った手を指すと、自分が有利になったのに苛立ちを見せる、という逸話は有名だ。

 

 あるいは、だからこそ、名人を遠い存在と感じているのかもしれない。

 

 自らの将棋を盤上真理から離れたものと定義するが故に、その極致に立つ名人に憧れる。そして自らを卑下するが故に、自分ではなく他者に期待する。

 

 そう。湊の考えは推測できるし、理解もできる。だが同時に、天衣の胸に浮かぶのは疑念。否、それよりもずっと熱を帯びた感情だ。

 

「九頭竜竜王は、そんな先生が期待するほどの逸材なのね」

「そうだね。優れた棋士は多いけど、中でも彼には期待してしまうかな」

「だったら私は――――――」

 

 考えなしに、今度は言葉が口を衝いて出た。

 

「私はどうなの? 先生は期待してないの?」

 

 つまらない嫉妬だとは自覚している。奨励会に入ったばかりの分際で思い上がりも甚だしい、と言われたら反論できない。けれど、やはり、弟子として。師匠には誰よりも期待してほしい。

 

 知らず湊を睨むと、呆気に取られた様子で口を開いた彼は、すぐに優しく目を細めた。

 

「初めて会った日に言った通りだよ。道を選ぶのも、歩くのも、天衣自身だ。僕にとってはそれが何より大切で、だからこれは『勝手な期待』だし、君に名人の話はしてこなかった」

 

 キュッと心臓が収縮し、感情の高ぶりが小さな肩を震わせる。

 

 天衣とて、言葉の意図を汲めないわけではない。大切に思ってくれているからこそ、湊のエゴを押し付けたくないのだろう。それは理解できる。できるが、口元に不満が表れてしまう。

 

「……前言撤回するわ。やっぱりプレゼントをちょうだい」

「えっ? まぁ、僕にできる範囲ならかまわないけど」

 

 戸惑う湊を前にして、天衣は密かに深呼吸。ずっと前から考えていて、何度も何度も口にしようとしては、その度に思い留まってきたこと。それを初めて、湊に告げよう。

 

「先生が好きな戦法って『相掛かり』よね?」

 

 沈黙。後に、躊躇いがちな湊の反問。

 

「……どうしてそう思ったのかな?」

「だって、自分から指そうとしないじゃない」

 

 当然といった調子で答えれば、湊は目を丸くした。

 

「相掛かりは古くからあって、今でもプロが使う戦法よ。でも先生は指さない。私に指させるし、知識も教えてくれるけど、自分から戦法に選ぶ事はない。それってこだわりがあるからでしょ」

 

 一年余りの付き合いでしかないが、既に天衣と湊の対局回数は膨大だ。加えて指導を目的とする湊は一局ごとに棋風を変え、時にはB級戦法だって指しこなす。

 

 だからこその違和感。相掛かりほどメジャーな戦法を指さないというのは、意図していなければあり得ない。ではどうしてと考えた時、腑に落ちる理由は一つだけだった。

 

「先生は指導で自分の色を出そうとしないから、得意な戦法は避けてるのかなって」

「――――――まいった。たしかに相掛かりは()()得意戦法だよ」

 

 両手を挙げて息を漏らす湊に、天衣もまた胸を撫で下ろす。

 

「けど、それとプレゼントになんの関係が?」

 

 問い掛けに、口元を引き結ぶ。にわかに騒ぐ鼓動を意識から外し、震えそうな手を握って背筋を伸ばす。正面に座る師匠を真っ直ぐ見詰め、天衣は自らの想いを吐き出した。

 

「相掛かりを教えてほしいの。いつもみたいに私の能力を伸ばす教え方じゃなくて、知識を蓄えるやり方じゃなくて、()()()()がどう指すのかを知りたいの」

 

 硬い表情で押し黙った湊に向かって、ただ一心に頭を下げる。

 

「あなたの将棋を、私にください」

 

 よい弟子であろうと、これまで我慢してきた。でも本当は、ずっと言い出したいと思っていた。ずっとそうなればいいと望んでいた。それこそプレゼントをねだる幼子のように。

 

 師匠として『夜叉神天衣の将棋』を育てているのは理解している。けど、弟子なのだ。御影湊の弟子なのだ。なら『御影湊の将棋』だって教えてほしい。

 

 独り善がりかもしれないけれど、師匠の将棋を、棋士の世界へ背負っていきたい。

 

 一分は経っただろうか。あるいはもっと長いのか、それとも短いのか。どこか時間の感覚が麻痺した天衣は、微動だにせず、無心で頭を下げ続けた。

 

「……将棋盤を準備しようか」

 

 響いた声は柔らかく、告げる顔は穏やかで。顔を上げた天衣は、安堵と喜びを噛み締めた。




★次回更新予定:7/12(日) 19:00


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2017年
#016 指し初め式


 将棋界の一年は『指し初め式』で始まる。一年間の幸福や健闘を祈念し、棋士や関係者を招いて行われる伝統行事だ。とはいえ堅苦しいものではなく、和気藹々とした和やかな式である。

 

 関東と関西で様々な違いが見られる将棋界だが、この指し初め式でも同様だ。

 

 名前通り参加者で将棋を指すのが指し初め式であるが、もちろん普通の対局ではなく、指し手が手を指し継いでいくリレー将棋となっている。そして、将棋盤を一面だけ用意して一手で交代する関東に対し、関西は六面も用意する上に数手指してからの交代だ。

 

 一説によると、さっさと終わらせて新年会に移るために関西は六面でやっていると言われているが、真偽のほどは定かではない。少なくとも関東以上に緩い空気なのは間違いないが。

 

 また指し初め式は、決着まで指さずに『指し掛け』とするのが恒例だ。これもまた明確な由来は不明だが、年始から『負けました』と口にするのは縁起が悪いから、といった話がある。とはいえ誤って玉が詰んでしまう事もあるし、白熱して最後まで指してしまう事もあるのが関西だ。中にはちゃっかり何回も指す人も居たりして、実にアットホーム。

 

 さて、ほんの十日ほど前に史上最年少竜王となり、現在の将棋界で最も注目を浴びている九頭竜八一もまた、関西の指し初め式に参加していた。師匠の清滝に連れられて、幼少期から将棋会館に入り浸っていた彼にとっては慣れたもの。とはいえ注目度に関しては、中学生棋士になった昨年度さえも上回る。タイトルの重みもあり、流石に緊張を禁じ得ない。

 

 関西将棋会館五階。江戸城本丸御黒書院を模したそこで、最も格の高い部屋となる御上段の間。他の間よりも一段高く作られたその部屋には、例年通り六面の盤が並べられている。隣の御下段の間には指し初め式の参加者が並んで座り、通路にも人が溢れていた。

 

 入れ替わり立ち代わり、テンポよく指し初め式が進められていく。好き勝手に相手を決めるのも関西流で、みんな思い思いの場所に座っては、いくらか手を進めて立ち上がる。

 

 参加者の顔ぶれは様々だ。棋士や女流棋士はもちろんとして、奨励会や研修会の会員も居れば、関西将棋会館の道場に通う子供も居る。他にも記者といった何かしらの形で将棋と関わる人たちが呼ばれており、本当に将棋関係者と呼ぶしかない面子が集まっていた。

 

 やがて順番が回ってきた八一は、上座の中央に置かれた将棋盤の前に座る。竜王なんだしトリを頼む、なんて口車に乗せられた所為で、随分と待たされてしまった。

 

 すぐに相手がやってくるのは、さすがは竜王と言うべきか。新年の挨拶を交わして、数手指して相手が去る。自分はどうするかと考えた八一だが、竜王と指したい人も居るだろうと次を待つ。

 

 そのままさらに三人の相手をして、とうとう五人目。状況を見るに、これが最後になるだろう。現在の局面は八一側のやや有利か。相手によってはうっかり詰まさないように注意が必要だ。

 

「新年あけましておめでとうございます、竜王」

「あけましておめでとうございます」

 

 八一の対面に座ったのは、同年代の少年だった。場慣れした様子から奨励会員かとも思ったが、それにしては見覚えのない顔だ。ひょっとすると関東から移ってきたのかもしれない。

 

「「よろしくお願いします」」

 

 さておき将棋だ。相手の指す手によっては、うまく引き伸ばす必要が出てくるのだが。

 

 どうなるかと八一が見守っていると、少年は迷いなく駒を動かした。悪くない、というよりも、普通に好手だ。やはり奨励会員かと思いつつ、気を遣わなくてよさそうだと安堵する。

 

 八一も一手進めれば、すぐさま応手が返ってくる。

 

 速いし、上手い。八一が指すとしても、これ以上の手はすぐには思い付かない。勝敗を気にする必要がないとはいえ、自分は竜王だ。恥ずかしい手は指せないなと、少々気合いを入れ直す。

 

 数秒だけ悩んで次の手を指せば、少年が意味深な視線を送ってきた。何か問題でもあったのかと盤面を見直すが、特に可笑しなところはない。一体なんなのか。八一が内心で首を傾げていると、素知らぬ様子で少年は駒を動かした。

 

「――――――えっ?」

 

 世界から音が遠ざかる。キュッと視界が狭まって、将棋盤だけが浮かび上がった。首筋が冷えて仕方ない。心臓を鷲掴みにされたような感覚に、知らず唾を飲み込んだ。

 

 問題のある局面には見えない。何より今日は指し初め式だ。適当に指して適当に終わる。それが許されるし当たり前。変に悩まずに指すのが、この場での正しい対応だろう。

 

 だけど、何故だろうか。駒を持とうとする右手が、鉛のように重かった。

 

「さすがは竜王ですね」

 

 朗らかな声音が鼓膜を打ち、意識を引き戻された。見れば対面の少年が楽しそうに笑っている。ついつい考え込んでしまったが、何か変なやらかしでもあっただろうか。

 

 八一が不思議に思っていると、おもむろに少年が頭を下げた。

 

「今後のご活躍を応援しています。ありがとうございました」

 

 つられて八一も礼を返す。正確に何手と決まっているわけでもなく、これで終わりという事だ。どうにも消化不良のまま立ち上がる少年を見送り、八一もまた将棋盤を離れる。

 

 ほどなくして指し初め式は終わったが、タイトル保持者という事で生石玉将と一緒に軽い取材を受けさせられた。無難に今年の抱負を語りながらも、頭に浮かぶのは先ほどの局面。何も可笑しなところなどなかったはずなのに、どうしてか、最後の一手が気になってしょうがなかった。

 

 

 ■

 

 

 懐かしい。素直にそう思えた自分に、湊は密かに安堵した。

 

 関西将棋会館の四階で開かれた新年会の会場で、壁にもたれながらウーロン茶を口にする。瞳に映る人々は、随分と知らない顔ぶれが増えていたが、かつて親しんだ関西棋界だと感じられた。

 

 今となっては合わせる顔もないが、御影湊になる前の『彼』が師匠と呼んだ人も居る。少し前に引退した時は寂しく思ったものだが、今でも将棋連盟の役員として将棋界に貢献しているらしい。弟子煩悩な人で、四段昇段後に『彼』が関東へ移ってからも、随分と気に掛けてくれていた。

 

 近くには記者の取材から逃れてきた兄弟子の姿も見える。かつてはこちらの方が年上だったが、今となっては向こうの方が年上だ。なんとも奇妙で、懐かしさと寂しさがない交ぜになる。

 

 詮無い事に囚われているなと、湊は心中で自嘲した。

 

 九頭竜竜王に興味があり、月光会長の厚意に甘えて参加してみたものの、どうにも手持ち無沙汰で困ってしまう。気を遣ったらしい弟子は離れているし、かといって誰かと絡む気にもなれない。

 

 適当なところで抜けるかと湊が考えていると、爽やかな声が耳を揺らした。

 

「君が噂の『先生』かな?」

 

 声を掛けてきたのは、二十代と思われる年上の男性だ。記憶から検索した該当人物の名は、鏡洲飛馬。天衣が奨励会でお世話になっている相手である。

 

 壁から背中を離した湊は、姿勢を正して会釈した。

 

「はい、夜叉神に将棋を教えている御影湊です。鏡洲三段ですよね?」

「合ってるよ。せっかくだし、少し話でもしないか?」

「喜んで。けど、よく僕が『先生』だってわかりましたね」

 

 天衣だろうかと考えたが、みだりに教えるような性格でもない。月光会長にしても、その辺りの一線は守る人だし、今日は関東の指し初め式に出席しているはずだ。

 

「夜叉神ちゃんがチラチラ気にしてたからな――――――ほら、今も俺を睨んでる」

 

 可笑しそうに鏡洲が指差す方に目を向ければ、愛弟子がフイと顔を背けるところが見えた。今は空銀子と一緒にインタビュー中みたいだが、どちらも不機嫌そうなのは気の所為だろうか。

 

「にしても若いな。いくつか聞いても?」

「数日前に十七歳になりました」

「竜王の一つ上だな。となると高校二年か」

「ですね。ただ高校生じゃなくて、翻訳家なんですよ」

 

 答えれば、鏡洲は驚きで目を瞬いた後、納得した様子で頷いた。

 

「そういや夜叉神ちゃんが英語を勉強してるって言ってたな。君の影響か」

「ええ。覚えて損はないと思って、将棋のついでに教えています」

「いいんじゃないか。俺みたいな将棋馬鹿より、よっぽど健全だ」

 

 探り探りの会話が、にわかに途切れる。どちともなく、手にしたコップを口に運んだ。

 

「……夜叉神ちゃんの父親について、君は知ってるか?」

「友人です。随分と歳は離れてましたけど」

「そうか。実は俺も縁があって、将棋を鍛えてもらったんだ。あの人は家庭の事情で棋士を目指せなかったし、夢を託してもらったように感じてる」

 

 それは湊の知らない情報だった。棋界に関わろうとしない湊を慮ってか、将棋に関わる交友関係について、天祐はあまり話そうとしなかったからだ。あくまで『ことひら』に限った関係で、それでも二人は、誰に憚る事もない友人だった。

 

 自然と物思いに耽りそうになったところで、おずおずと鏡洲が問い掛けてきた。

 

「気を悪くしたらすまないが、棋士になろうと思った事はないのか?」

「ないと言えば嘘になりますね。でも結局は、自分の性に合わないと思いまして」

「そうなのか。たしかに楽な道じゃないからな」

「もしかして三段リーグ絡みでお悩みでも?」

「あぁ、いや……そうだな、君はあの子を託されたんだよな」

 

 鏡洲はビールで満たされたコップに視線を落とし、口元を真一文字に結んだ。優しげな面立ちに浮かぶ表情は硬い。そのまま、しばし。急に顔を上げた彼は、グッとビールを飲み干した。

 

「――――――酔っ払いの戯言と思って聞き流してくれ」

 

 アルコール混じりに吐き出された言葉は、どこか弱々しい響きを伴っていた。

 

「今でもプロを目指してる。それは胸を張って言えるし、本気で三段リーグを戦ってる。けどな、意識しないわけじゃないんだ。ここらが俺の限界なんじゃないかって」

 

 おそらくそれは、奨励会員の多くが感じる苦悩だ。首にロープを掛けられた状態で将棋を指す、と奨励会を表現する者も居る。どれほど実力があって、どれほど白星を重ねようと、三段リーグを抜けるその瞬間まで、本当の意味で安心できる事はない。

 

 だからこそ、考えずにはいられない。自分が歩いている道は、本当に目指した場所に続いているのかと。ひょっとして、どこかで途切れているんじゃないのかと。

 

 自分を超える才能に出会った時に、昇段を逃した時に、そんな疑心が顔を出す。

 

「若い天才なんて見飽きたくらいだし、そいつらも素直に応援してる。ただ俺も聖人君子じゃないから、魔が差す事もあってな。つい自分の器を疑っちまう。あいつらには言えないけどな」

 

 鏡洲について、湊は詳しく知らない。天衣が奨励会員として仕事や礼節を学ぶに当たり、頼れる人物は居ないかと月光会長に尋ねたところ、第一候補に挙げられたのが彼なのだ。

 

 ただそれでも、いつ四段になっても可笑しくないほどの実力を備えている事と、その上で何年も三段リーグで足踏みしている事は伝え聞いている。将棋界における不条理の一つだ。十分な実力があろうとも、必ず棋士になれるわけではない。

 

「……諦めようとは思わなかったんですか?」

「夢があるからな。ギリギリまで足掻くさ」

「よければ夢について伺っても?」

「んっ、そうだな……」

 

 しばらく目を彷徨わせた鏡洲は、やがて諦めたように嘆息した。

 

「四段昇段の記ってあるだろ?」

「将棋世界のやつですね。いつも読んでますよ」

「あれを書きたいんだ。最後の一文だけは決めてあって、それが夢だな」

 

 照れ臭そうな鏡洲は、同時にどこか誇らしそうで、子供のような純粋さを感じさせた。その姿に応援したいと思わされるのは、彼の人徳が為せる業だろうか。

 

「なるほど。最後の一文にはなんと?」

「あー、他の奴には内緒な? 夜叉神ちゃんの先生だから特別だ」

 

 鏡洲は辺りをキョロキョロ見回して、その一文を湊に告げた。

 

 ――――――いつまでも将棋を好きでいたい。

 

 心臓が跳ねたのは、無理からぬこと。思わず息を詰めて鏡洲を見詰めれば、そこにはどこまでも澄んだ目をした青年が居た。それだけで、この人が慕われる理由がわかった気がした。

 

「どんなに辛い事があっても、いつまでも、誰よりも、将棋を好きでいたい。それが俺の夢だから諦めずに頑張れるんだ。他の夢を掲げてたら、今頃は退会してただろうな」

「…………いい夢だと思います。とても、とてもいい夢だと」

 

 本心からの称賛だった。ともすれば、それだけで鏡洲の成功を祈りたくなるほどに。だからか、つい口を挟んでしまいたくなった。無責任な助言というものを。

 

「限界を感じたのなら、壊すのもアリだと思います」

「壊す? 何を壊すって言うんだ?」

「積み上げてきた自分の将棋を」

 

 疑問符を浮かべる鏡洲に、構わず湊は話を続けた。

 

「将棋の強さに関わる大きな要因として『読み』と『大局観』があります。そして大げさに言えば若い頃は『読み』が優れ、年を取ると『大局観』が優れるようになります」

 

 人間の脳は年齢によって得意とする能力が変わっていくが、総合的な情報処理能力は十代後半にピークを迎えるとされている。つまり単純な読みの速さや深さでは若い棋士の方が有利と言えるのだが、だからと言って年長の棋士の方が弱いとは限らない。

 

「年長の棋士でも若手と張り合える一因として、長年培ってきた大局観があります。若手が時間を掛けて読む手であっても、大局観に基づいて短時間で読める。それは間違いなく強みなのですが、一方で大局観に頼る事に慣れ、読みが疎かになる場合もあります。そして若手は若手で、大局観が未熟であるがゆえに、自分で読んだ手でなければ決断できない場合があります」

 

 いずれも経験から来る判断ミスだ。過去の成功体験が邪魔をして、入手した情報を十分に客観視できなくなってしまう。

 

「つまり将棋においては、必ずしも経験が利するとは限りません」

「だから壊すっていうのか? これまでの将棋を」

「はい。凝り固まった価値観を破棄して、再構築するんです」

 

 将棋の世界は発展目覚ましく、過去の常識がひっくり返る事など日常茶飯事だ。だが一方では、過去の常識に囚われた世界でもある。だからこそ時には積み上げてきたものを崩し、必要なものを取捨選択して、積み上げ直す。そうする事で、新たに見えてくるものもある。

 

「もちろん調子を落とすだけになる危険性は否めません。ですが自分に限界を感じているのなら、殻を破りたいと思うのなら、これまで通りの努力では怠惰が過ぎると言えませんか?」

「……耳が痛いな。けどまぁ、一理あるか」

 

 何度か頷く鏡洲の表情は、真剣に今の話を検討しているようだった。

 

「ちょうどいい知り合いも居るし考えてみるよ。ありがとう」

「いえ。自分でも余計なお世話だった気がします」

「んなこたないさ。おっと、呼ばれたみたいだから、もう行くよ」

 

 離れていく背中を見て、湊は一つ忘れていたと慌てた。

 

「――――鏡洲さんっ」

「ん? まだ何かあったか?」

「鏡洲さんは九頭竜竜王とお知り合いですか?」

「ああ。昔は面倒を見てたし、今もちょくちょく会ってるよ」

「では伝言をお願いします。指し初め式で指したのですが、その件で」

 

 九頭竜八一を直接見てみたい。そんな興味本位から、湊は指し初め式に参加した。すると運よく指し初め式の相手を務められた上に、引き継いだ盤面が面白い事になっていた。だから魔が差したと言うべきか、指し掛けで終わるからと、悪戯心が顔を出したのだ。

 

 立ち止まった鏡洲に向けて、湊はその言葉を伝えた。竜王が感付いた、その仕掛けを。

 

 ――――――最後の局面、何手詰だと思いますか?




★次回更新予定:7/19(日) 19:00

六巻を読む限り原作世界の指し初め式はもっと好き勝手に指しているようですが、本作では作劇の都合によって現実に寄せた形式にしました。


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#017 求める強さ

 例会の日の朝は早く、一日は長い。

 

 毎月二回、週末に開かれる奨励会の例会は、午前九時から最初の対局が始まる。当然集合時間はそれよりも早く、八時五十分頃から始まる朝会に出席する必要があるし、将棋盤の準備や駒磨きをする当番になればもっと早い。

 

 朝会で行われるのは、主に出席者の点呼と手合いつけだ。なんらかの事情で例会に出席できない者も出るため、いきなり不戦とならないよう、その日に対局の組み合わせを決めるのである。

 

 新年一回目の例会。4級になって以降、ここまで六勝三敗の天衣は、三連勝しなければ昇級点に届かない。正念場と言えるかもしれないが、彼女自身は落ち着いたものだ。

 

 強くなる。奨励会に入会した時、湊と話し合って決めた目標はそれだけだった。

 

 言ってはなんだが、小学生将棋名人戦やマイナビ女子オープンにおいて、明確に敗北を意識した相手は祭神女流帝位のみ。月夜見坂女流玉将であっても、天衣は余裕を持って勝利を収められた。負けない事に重点を置き、手堅く指した面もあるが、実力差があったのは間違いない。

 

 では奨励会はどうなのかと言えば、やはりアマチュアや女流棋士とは全体の実力が違う。かつて奨励会に入会した月夜見坂女流玉将が、一度は5級へ昇級したものの、最終的に6級で退会したと言えば、その差もわかろうというものだ。

 

 天衣とて級位者の内は勝ち切れる自信はあるが、段位者となったら話は変わるし、三段リーグは言わずもがな。故に棋士を目指すなら、目先の白星よりも棋力の向上が重要だと考えた。その一歩として取り組んだのが、夜叉神天衣の将棋を見直すこと。

 

 受けが上手いとは湊の評だ。もっと鋭い攻めができる、とも。

 

 相手の攻め筋を見切れているのなら、自身の攻めも受けも効率化できるという話だ。また研究を重ねて既存の定跡に独自の工夫を加えられる天衣だが、一方で従来の発想から大きく外れた戦法にならないという面もあり、悪く言えば小さく纏まっていた。

 

 だからこそ多少の黒星なら許容できる奨励会で、殻を破ろうと決意したのだ。結果的に落とした白星もあるかもしれないが、将来に繋がると信じている。

 

 強くなれば結果もついてくると思えばこそ、目先の勝敗に囚われるべきではない。

 

 そうして迎えた本日一局目。相手は3級の男子中学生で、今回が初対局となるはずだ。奨励会の一級差は平香交じり。最初だけは振り駒で平手か香落ちかを決めて、以降は平手と香落ちを交互に繰り返す。今回は平手に決まり、下手である天衣の先手となった。

 

 対局相手の表情は硬い。ピリピリと緊張感が漂い、対局場の空気が引き締まっていく。

 

「「よろしくお願いします」」

 

 定刻。互いに礼をして対局を開始する。初手で飛車先を突いた天衣に対し、相手は角道を開ける開幕となった。一息。湊に貰った扇子を握り締め、さらに飛車先の歩を進める。そうして3三角を強要したところで、天衣もまた角道を開けていく。

 

 例会での対局において、天衣は自玉の囲いを薄くして攻める事を意識してきた。どれだけ攻めを凌げるのか、逆にどれだけ攻め入れるのか。綱渡りの状況で、自身の読みの限界を探ってきた。

 

 そんな対局を続けている所為か、最近の相手は囲いの堅さを重視しているように感じる。構わず攻め潰せれば天衣の勝ち、途中で読み誤れば天衣の負け、といった具合だ。

 

 今回の相手も同じかどうかは知らないが、天衣は新戦法を携えてきた。

 

 初手から飛車先を伸ばし、早繰り銀で早々に攻め掛かる奇襲戦法。角道を開けた相手に最初から2五歩と形を決めるのは損という考えが一般的だが、主導権を握れるのなら、その限りではない。横歩取りやゴキゲン中飛車など後手の有力戦法を、2五歩で制限してペースを掴むのが狙いだ。

 

 相掛かりの研究中に浮かんだ思い付きだったが、これが意外と悪くない。素人じみた愚直な攻めであろうとも、自玉の囲いすら捨てた圧倒的な速攻は強力だ。考えた天衣自身ですら成立するのか疑わしかったが、研究を進めた結果、十分に通用すると判断した。

 

「なんだこれ……」

 

 一心に右辺を攻め上がる天衣に、相手は戸惑いの声を上げる。さもありなん。暴走機関車じみた攻めは、知らなければ素人のようにも見えるだろう。

 

 見慣れぬ局面に疑心暗鬼となっているのか、序盤から相手の持ち時間消費が激しい。それでも、事前研究を外れた手はない。ノータイムで指し続ける天衣に、相手の焦りが増していく。

 

 四十手を超える頃には勝勢となり、相手は一分将棋となっていた。目立って悪い手があったとは思わないが、さしたる好手もなかった。初見の戦法に相手が翻弄された形だ。

 

「…………負けました」

「ありがとうございました」

 

 結局、一度も主導権を放さないまま天衣は勝利した。級位者の対局は持ち時間六十分。おおよそ三時間程度の対局時間が多いが、今回は二時間も経っていない。

 

「感想戦を頼む。納得したい」

「ええ、もちろんよ」

 

 歯を食い縛って絞り出された言葉を、天衣は頷いて了承した。

 

 級位者の対局は一日三局。正午には次の相手との対局が始まる。だからこそ敗戦後の切り替えは重要で、その方法は人によって様々だが、今回の相手は感想戦で整理をつけるタイプらしい。

 

 そうして長めの感想戦を終えた天衣は、勝者として対局結果の記録に向かう。これで七勝三敗。残る二局も勝てば、九勝三敗で昇級点に届く。

 

「ま、気にしてもしょうがないわね」

 

 もっと強くなる。今はただ、それだけを考えればいい。

 

 最終的に、この日の天衣は三連勝。入会から四ヶ月での3級昇級と相成った。

 

 

 ■

 

 

 将棋を教えるのは難しい。そんな当然の事実を改めて実感させられたのは、クリスマスに弟子のお願いを聞いたから。嬉しい申し出ではあったが、湊の頭を悩ませる難題でもあった。

 

 御影湊の将棋を教える。より正確には、前世で培った将棋を。得意戦法に限ったとしても、ただ知識を伝えるだけでは上手くいかない。棋風というのは、それほど単純なものではない。

 

 では見込みがないかと言えば、それも違う。死地にあってなお活路を見出せる受けのセンスは、かつての『彼』も備えていたものだ。活かせれば、望む形に近付けるだろう。

 

 最大の問題点は、湊自身が『彼』の将棋を説明し切れないこと。

 

 棋譜はわかる。理念もわかる。だが当時の自分が、どんな感覚で指していたのかはわからない。あまりに見ている世界が違い過ぎて、繊細な部分を再現し切れないのだ。

 

 かといってそうした細部に目を瞑ってしまうと、天衣の願いから離れてしまう。何より湊自身の欲として、伝えられるなら伝えたい。

 

 散々に悩んだ湊が出した結論は、ある人物に頼ること。『彼』の将棋をよく知る棋士に、天衣の練習相手を務めてもらう。それが可能な存在に、一人だけ心当たりがあった。思い立ったが吉日。これまで避けてきた癖に、弟子のためならあっさり方針転換するのだから、湊もいい加減だ。

 

「――――――変わらないもんだね」

 

 呟く湊が見上げるのは、古ぼけた二階建ての木造建築。石垣塀の門は開かれ、青い暖簾に白字で『ゴキゲンの湯』と書かれている。懐かしさに目を細めた彼は、慣れた様子で暖簾を潜った。

 

 生まれ変わる前の『彼』には、随分と世話になった兄弟子が居た。一匹狼で、あまり慣れ合いを好まない人だったが、その実、面倒見のいい優しい人だ。

 

 だから悪いと思いつつも、つい甘えて頼る事が多かった。研究会もその一つだ。上京して関東に籍を移し、やがて現名人の研究会に参加するようになった後も、得意の相掛かりだけは兄弟子との研究会でしか本当の成果を披露しなかった。

 

 理由はいくつかある。兄弟子は独特のセンスの持ち主で、いい刺激になったこと。振り飛車党の兄弟子なら、相居飛車戦法である相掛かりを見せても、自分では使わないこと。何より打倒名人を目標としていたから、名人に知られるわけにはいかなかったこと。

 

 俺に居飛車を指させるなと、いつも兄弟子は愚痴を零していたが、なんだかんだと付き合ってくれる人だった。そしてだからこそ、誰よりも『彼』の相掛かりを理解しているはずだ。

 

「大人一人でお願いします」

 

 番台に立っていた大人しそうな少女に料金を払い、二階の将棋道場に足を向ける。漏れ聞こえるピアノのジャズ演奏に、自然と湊の頬は緩んでいた。

 

 将棋道場に踏み入れば、懐かしさを覚える光景。ところどころ内装は変わっているが、それでも記憶と変わらないこの場所は、色々と胸に込み上げるものがある。

 

 チラホラと好奇心を乗せた視線が向けられるが、すべて無視して奥へと向かう。不在なら常連と指して顔を繋ごうかと考えていたが、幸い目当ての人物は定位置でピアノを弾いていた。数日前に玉将戦の第一局を終えたばかりのはずだが、昔と変わらずマイペースだ。

 

 生石充。タイトル保持者となったかつての兄弟子は、湊が近付いても気にした風はない。

 

「玉将、僕と一局どうですか?」

 

 若造の不遜な申し出に、道場の客がざわついた。一方で対局を持ち掛けられた当人は、チラリと視線を寄越しただけで、そのまま演奏を続けている。つれない態度だが、タイトル保持者なのだ。相手にされなくて当然だろう。だが湊とて、無策で訪ねてきたわけではない。

 

 口を開く。用意してきた言葉は、思いのほかスルリと舌の上を滑っていった。

 

「風呂掃除、手伝いますよ。手間賃は弾んでくださいね」

 

 その言葉に、周りは疑問符を浮かべるばかり。しかし生石だけは片眉を跳ね上げ、湊を睨んだ。沈黙。やがて痺れを切らしたのか、演奏を止めた生石が面倒そうに立ち上がる。

 

「どこで聞いたか知らねえが、いいぜ、相手してやる。半端な将棋を指したら承知しねえぞ」

 

 苛立ちを滲ませた声音に、むしろ喜びが胸を満たし、湊は笑顔で頷いた。

 

 

 ■

 

 

 指し初め式の二日後には会場入りというスケジュールに辟易としながらも、無事玉将戦第一局で勝利を収めたのは、新年の滑り出しとして上々だろう。三週間後の第二局に向けて研究をしつつ、時折、気晴らしがてら将棋道場に顔を出す。

 

 そんな日常に割り込んできた異物に応じたのは、もちろん理由がある。

 

 生石充には、かつて手の掛かる弟弟子が居た。生石よりも年上で、生石よりも後に弟子入りした癖に、生石よりも先にプロ入りした生意気な弟だ。

 

 才能という名のこん棒で殴りつけてくるような、荒っぽい将棋を指す棋士だった。手厚く勝つ、という発想がなく、激しい駒の奪い合いを好む粗削りの棋風。なのに強い。特に終盤はズバ抜けたものがあり、信じられない勝負手を繰り出す事が多かった。

 

 だからだろうか、名人に憧れたのは。削り出したままの原石みたいな弟弟子の目には、あらゆる面で磨き抜かれた名人の将棋が、眩しく映ったのかもしれない。兄弟子としては複雑な感情もあるのだが、名人ほどの傑物でなければ憧れ足り得ないと言われれば、納得してしまうのも確かだ。

 

 天才だった。将棋を始めたのが遅かった所為かチグハグで、調子の波が激しいタイプだったが、その才能を疑った事はない。四段に昇段した年齢なら生石の方が若かったが、奨励会の在籍期間は弟弟子の方が短かったほどだ。

 

 現名人と同年代であったから、将棋を始める時期が早ければ、名人世代の一人として名が売れていたかもしれない。そのくらいには、生石は弟弟子の事を評価していた。

 

 もっとも、今となっては詮無い話だ。もうずっと前に、交通事故などというつまらない理由で、弟弟子はこの世を去ってしまったのだから。

 

 さておき生石が覚えている弟弟子との思い出として、プロ入り後も続けた研究会がある。さほどキッチリしたものではなく、ひょっこり顔を出した弟弟子が、突発的に申し出てくるものだ。

 

 その時の弟弟子は、いつも同じ誘い文句を使っていた。

 

 ――――――風呂掃除、手伝いますよ。手間賃は弾んでくださいね。

 

 風呂場のタイルを磨くモップの捌き方が、振り飛車の捌きに通じる。いつだかに聞かせた持論がツボにハマったらしい。それ以来、弟弟子は、生石と相振り飛車で指す事を風呂掃除と呼ぶようになった。つまり振り飛車に付き合ってやるから、後で居飛車に付き合えという図々しい要求だ。

 

 そんな弟弟子の定番口上を、見も知らない小僧が引っ提げてきた。さして吹聴した覚えはなく、身内繋がりで知ったのだろうが、得意げに使われれば腹も立つ。

 

 ニヤけた面に一発叩き込むつもりで対局を引き受けた生石だが――――――、

 

「チッ、可愛くねえガキだ」

「誉め言葉として受け取っておきます」

 

 得意のゴキゲン中飛車を繰り出した先手の生石に対して、後手の少年は三間飛車。相振り飛車の選択としては可笑しなものではないが、生石は喧嘩を売られたと判断した。

 

 昔と比べて相振り飛車の定跡化が進んでいるのは確かだが、力勝負になりやすいのは否めない。いかにして相手の囲いを崩すか。その構想力が物を言う世界で、生石が得意とする領域である。

 

 中盤、生石は自身の優勢を疑っていなかった。駒損を厭わない軽快な捌き。自身の囲いを犠牲にしてでも、相手の囲いを喰い破って玉を寄せる。それこそが捌きの神髄で、この対局でもイメージ通りに進められていた。そのはずだ。

 

 だが終盤に入り、現在、未だ相手玉に届く気配がない。すぐ傍にあるはずなのに、手を伸ばせば届く距離に見えるのに、最後の一歩が詰められない。むしろ気付けば、喉元に刃を突き付けられているのは生石の方だった。

 

 一瞬、弟弟子が頭をよぎったが、すぐに鼻で笑う。弟弟子の将棋は、こんなスマートなものではない。派手な勝負手を繰り出して、叩き切るようにねじ伏せてくる将棋だった。

 

 何より情熱が足りない。淡々と指す少年の将棋には、なんの気持ちも乗っていなかった。なのに生石が指す手を見詰める目だけは熱心で、感情的で、どうにも調子を狂わされる。

 

「……ダメだな」

 

 さらに何手か進めたところで、生石は結論を下す。

 

「俺の負けだ」

 

 生石が投了を宣言すれば、観戦していた道場の常連たちがどよめいた。けれど盤上に嘘はない。早指しとはいえ、たしかに生石は少年に負けたのだ。

 

 不思議と悪い気分がしないのは、年を取り丸くなったからか。弟弟子が同じように強襲してきた時は、延々と愚痴を零したものだが。それでも付き合った自分は、いい兄弟子だったに違いない。

 

「で、用件はこれだけか? 俺に勝ったんだ、話くらいは聞いてやるよ」

 

 半ばヤケになって問い掛ければ、少年は懐かしむように目を細めた。

 

「僕の弟子と対局してほしいんです。もちろん相掛かりで」

「はっ、こいつはまた――――――」

 

 最も重要な玉将戦の第二局まで二週間。ついそんな思考がよぎった自分が嫌になる。随分面倒な相手に絡まれたもんだと、生石は眉間を押さえて嘆息した。




★次回更新予定:7/26(日) 19:00


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#018 将棋は一人にて成らず

 ひょっとして自分は聖人じゃなかろうか。そんな戯言が生石の頭をよぎった。

 

 いきなり襲来した無礼なガキの相手をしてやったばかりか、その後の頼みまで聞いてやるのだ。関西に二人だけのタイトル保持者である事を思えば、大盤振る舞いもいいところだろう。

 

 正直に白状するなら、後悔している。凄くしている。どうして面倒な約束をしたんだと、過去の自分をぶん殴ってやりたい気分の生石だった。とはいえ二言はダサいから、約束は守るのだが。

 

「よろしくな、お嬢ちゃん」

「……よろしくお願いします」

 

 目の前には、小さな少女。反抗的な眼差しだが、生石としては嫌いではない。少なくとも少女の師匠を名乗る誰かさんよりは、よほど対局し甲斐がありそうだ。名前は夜叉神天衣。幸か不幸か、生石が知っている奨励会員だった。それがまた、複雑な気持ちにさせてくる。

 

 生石と少女の間には将棋盤。これから平手で、この少女と対局する。

 

 無法者がやって来て、トチ狂った生石が対局の約束をしたのが昨日のこと。面倒な用件を早々に片付けられるのは助かるが、落ち着く間もない展開に頭が痛くなってくる。

 

 周囲には道場の客が集まっているが、昨日の件もあってか、やや剣呑な空気を醸し出していた。少女の付き添いらしい若い女とガンを飛ばし合っている奴も居るが、無視でいいだろう。

 

「確認だが、相掛かりで指せばいいんだな?」

「はい。それ以外は自由でかまいません」

 

 時計係を務める元凶は笑顔だ。それがまた気に食わないのに、いまいち怒る気がしない。どうも相性が悪いというか、ペースを掴めない相手だった。不思議と甘い対応を取ってしまう。

 

 嘆息。とりあえず将棋だと、生石は気持ちを切り替える。

 

「先手は譲るぜ。好きに指しな」

「……お言葉に甘えましょう」

 

 不服そうに口を尖らせて、それでも反論はせず、少女は駒を掴む。初手2六歩。二手目8四歩。そこから互いに飛車先を伸ばし、左金で角頭を守る。オーソドックスな相掛かりの出だしだ。

 

 続く少女の一手は3八銀。その手に生石は目を眇めた。

 

「飛車先交換は保留か」

「最近はこっちが流行りでしょ?」

「……ああ、そういう時代だったな」

 

 相掛かりの棋譜など流し読みで済ます生石だから、時流の変化には鈍感だ。それでも思い返してみれば、流行りの変化に感慨深さを抱いた覚えがあった。

 

 飛車先の歩交換に三つの得あり。昔からある将棋の格言の一つで、相掛かりや横歩取りではまず飛車先交換を目指すのが当然と考えられてきた。かつて弟弟子に相掛かりの相手をさせられていた頃も、プロ棋士の誰もが飛車先交換の定跡を指していた。

 

 ただ一人、生石の弟弟子を除いては。

 

 飛車先交換を保留し、相手の出方を見てから得な形を目指す。現代将棋の考え方にも通ずるその戦法を、弟弟子は奨励会の頃から得意としていた。

 

 こっちの方が戦術の幅が広がるし面白い。そんな理由で弟弟子が定跡を崩した時、師匠は生石の方を見て笑っていた。あっさり負けて顔を青くする師匠を、今度は生石が笑い返した。

 

 いずれ安易に飛車先を突く事はなくなり、そのタイミングが重要な戦術になる。それが弟弟子の持論だったか。たしか一冊だけ棋書も出版していたはずだが、当時は流行らなかった。月光会長がタイトル戦で採用してからは、チラホラとプロでも見掛けるようになったが、それも少数。主流を変えるほどの影響力は残せなかった。

 

 事故で亡くなって十何年と経ち、ようやく弟弟子の言っていた時代が来たわけだ。早かったのか遅かったのか、本人に意見を聞いてみたいところである。

 

「振り飛車党の玉将には難しかったかしら?」

「――――――いや、むしろ慣れてる」

 

 生意気な小娘に言い返し、生石が指したのは7二銀。先手に追随する形だ。次に少女は5八玉と指し、それを見た生石は、またも名状しがたい感情に襲われた。

 

「ったく、どうしてお前らは……」

 

 大きく息を吐き出して、気持ちを落ち着ける。

 

 5八玉は『中住まい』と呼ばれる囲いで、弟弟子が好んだ戦型だ。自玉を囲いの一部として見るこれは、堅さに欠ける代わりに左右のバランスがよく、上手く指されると実に攻めづらい。

 

 ――――――生石さんが中飛車なら、僕は中住まいを頑張りますか。ほら、中繋がりで。

 

 切っ掛けは、そんなくだらない会話だったはずだ。思い付きみたいな気軽さで使い始めた癖に、見事に使いこなしてしまうのは才能か。玉の利きがある所為でまとめづらい将棋にさせられ、気を抜けば一気呵成に斬り捨てられた。お陰で自身の感覚も磨かれたが、複雑な思いはある。

 

「年なんて取るもんじゃねえな」

 

 昔を懐かしむなんて、年寄り臭くてしょうがない。嫌だ嫌だと内心ぼやきつつ、かつての記憶を頼りに指していく。これがまた上手く指せるのだから、リアクションに困ってしまう。

 

 対峙する少女は、正直に言えば強い。年々奨励会のレベルは上がっているという話だが、これで級位者と言うのだから納得だ。才能だけなら、下手すれば空銀子より――――――。

 

 相掛かりの指し回しは、認めたくないが弟弟子を思い起こさせる。玉の使い方や大胆な攻めに、幻影がチラついて仕方がない。生石に対局を依頼したのは、それもあるのだろうか。

 

 しかし、だからこその違和感と言うべきか、物足りないと感じてしまう。実力ではなく、棋風の話だ。似ているが、所詮それだけで、悪く言えば物真似の域を出ない。指しこなすための感性が、少女の中で十分に育まれていない。

 

 センスなしと切り捨てるには、光る物があり。脳裏をよぎるのは、かつての会話。

 

 ――――――僕の将棋の一部は『生石将棋』です。これ、将来自慢してもいいですよ。

 

 知らず口元に刻んだ苦笑。本当に手間の掛かる、可愛くない弟弟子だった。

 

 

 ■

 

 

 時折、師匠の考えがわからなくなる。それが天衣の正直な気持ちだ。

 

 玉将が練習将棋をしてくれるって、などという爆弾発言を聞かされたのが昨日である。どうしてそんな話になったのか、どんな目的があるのか、碌な説明もないまま連れてこられた。

 

 教えた相掛かりを全力で指してほしいと言われたから、その関係だと推測できる。湊には珍しく教え方に悩んでいたし、両者の繋がりは不明だが、玉将に助力を請うたのかもしれない。それでも振り飛車党の玉将に相掛かりの相手を頼むのは、天衣からすれば不可解である。

 

 師匠の言い付けに素直過ぎるのも考え物だろうか。そんな考えが浮かぶも、結局は無茶な頼みをされない限りは、あっさり聞いてしまう気がする。信頼、という事にしておく。

 

 さておき生石玉将との貴重な対局経験だが、正直に言えば舐めていた。タイトル保持者とはいえ純粋振り飛車党だから、ほとんど相掛かりを指した経験はないはず。特に相掛かりは最近になって飛車先の常識が変化したため、力将棋になりやすいとはいえ勝機はあると見ていたのだ。

 

 甘かった。想像の何倍も玉将は上手で、どれだけ攻めても綺麗に往なされる。結局、最後まで主導権を握れないまま進んでしまい、既に盤上から勝ち筋は消え失せた。

 

 悔しい。敗北そのものよりも、それを湊が予想したであろう事が。弱く見られた事よりも、それを超えて強くあれなかった自分が。ひたすらに悔しかった。

 

「……負けました」

 

 顔を上げ、次は負けないと相手を睨む。玉将は何も言わず、小さく頷きを返すだけ。周囲の客が沸いているが、中心の二人は正反対だ。その空気を破ったのは、朗らかな湊の声音だった。

 

「強いでしょう、僕の弟子は」

 

 湊にしては珍しい自慢するような物言い。表情も、どこか普段より子供っぽい。呆気に取られるというか、予想外な師匠の様子に、天衣の肩から力が抜ける。というより、少し恥ずかしい。

 

「今日は負けましたけど、この子はまだまだ強くなれます」

「……筋はいい。年を考えりゃ破格だろう」

「けど物足りない、という顔ですね」

 

 指摘された玉将は、あからさまに嫌そうな顔をした。

 

「この子の師匠はお前だろうが。俺に何を期待してやがる」

「もちろんです。けど感覚を言葉にしようと思うと、難しい部分がありまして」

 

 一転、気まずそうに頬を掻く湊に、そうだろうなと天衣も同意する。

 

 相掛かりを教えてほしいと頼んだ天衣に、湊は様々な棋譜を並べて解説してくれた。第一印象は『真逆』。相手の将棋に合わせる繊細な指し方ではなく、自分のやりたいように押し通す荒い指し方。意外に思う気持ちもあったが、正反対だからこそ棋風を出しているのだと納得もした。

 

 困ったのは、棋風を教えるのも教わるのも難しいということ。積み上げた経験の上に表れる棋風は、ただ知識を得たところで身につくわけではない。天衣が自分の経験から棋風を作り上げていく事はできても、真似してものにするのは困難だ。

 

 幸い奨励会で指している将棋に近い面もあり、不可能とまでは感じなかったが、指しこなすには天衣の感性が追い付いていない。湊が斬り込む場面で、今の天衣は躊躇してしまう。その遅れが、隙となって相手に利する。だから経験を積んで感覚を磨く必要があるのだが、天衣が相手だと湊も加減してしまうのか、ぎこちなさの残る指し方になっていた。

 

 だからと言って生石玉将が出てくるのは、まるで理解できないけれど。

 

「将棋を教えてほしいとは言いません。ただ雑多な感想でも、何かヒントになるかと」

 

 真摯に湊が続ければ、玉将はガシガシと頭を掻いた。それから、天衣の方に視線を寄越す。

 

「嬢ちゃん、振り飛車党か?」

「えっ? そうね……どちらも指すけど、居飛車党かしら」

「なら振り飛車を指してみな。俺に言えるとすりゃそれくらいだ」

 

 思わず胡乱な目を返した天衣に、玉将は決まり悪そうに目を逸らした。

 

「適当に言ってるわけじゃないからな。似たような指し方の棋士を知ってんだよ」

 

 誰だと視線で問うても、すぐには答えが返ってこない。なんとも言いがたい表情で口元を結んだ玉将は、やがて寂寥感と共に言葉を零した。

 

「俺の弟弟子だ」

 

 ふむ、と天衣は首を傾げた。

 

 天衣の記憶が正しければ、玉将は大槌(おおつち) 大二郎(だいじろう)九段の門下だ。引退した大槌九段は後進育成に力を入れていると聞くが、弟子の話はパッとしない。棋士になれたのも玉将くらいのはずだ。

 

 いや、と思い直す。たしか他にも一人だけ、棋士が居たという話だったか。随分昔に亡くなったとかで、天衣もインタビュー記事か何かで見掛けた覚えがあるだけだが。

 

 ともあれ、すぐに思い当たる人物が出てこないのは確かだった。

 

「お師匠も俺も振り飛車党だからな、当然、最初に叩き込んでやったのは振り飛車だった。なのにどこかの誰かさんに感化されちまって、居飛車に鞍替えしやがった馬鹿野郎だ」

 

 悪態をつく割に、玉将の顔は穏やかだ。

 

「けどな、それでもあいつの将棋には振り飛車があった。俺が教えた捌きの感覚を、自分の将棋に活かしてた。俺から見て、嬢ちゃんに足りねえのはそれだ。敵の攻めを受け流し、一気に攻め込む捌きの感覚を身につけりゃ、少しはぎこちなさも減るだろうさ」

 

 それらしく聞こえるような、そうでもないような。天衣としてはそれなりに振り飛車も指せると自負しているが、『捌きの巨匠(マエストロ)』に言われれば反論も難しい。

 

 湊の意見はどうかと目を向ければ、何故か肩を震わせて含み笑いをしていた。

 

「なんだよ、文句でもあるのか?」

「いえ、自分の馬鹿さに呆れてまして」

 

 笑いを収めた湊は、晴れやかな顔で玉将と向き合う。

 

「初心を忘れるのは未熟の証ですね」

 

 真意はわからない。おそらくは玉将も。そんな聞き手二人の困惑を気にした風もなく、当の湊は上機嫌だ。それこそ天衣でも滅多に見ないほどに。

 

「生石さん、僕とも一局どうですか? 今なら『らしい』将棋が指せそうだ」

「……はあ。やるなら振り飛車で、持ち時間六十分だ。玉将の偉大さを教えてやるよ」

 

 あっという間に話が進み、天衣は湊と席を代わる。素直な気持ちとして、興味はあった。現役のタイトル保持者と師匠が、どんな棋譜を作り上げるのか。

 

 けれど実際に対局を見て抱いた感情は、称賛や驚嘆ではなく――――――嫉妬。

 

 楽しそうだった、湊が。たぶん天衣と指したどの対局よりも、あるいは初めて、自分が指す事を楽しんでいるように見えた。それが悔しい。どうして相手が自分ではないのかと、ただ悔しい。

 

 いったい何が湊の琴線に触れたのかはわからない。わからないが、欲しいと思った。湊はそれを教えてくれるだろうか。振り飛車を学べば得られるのだろうか。

 

 グルグルと疑念が巡る間も、二人の対局は進んでいく。前へ前へ駒を進めていく湊の指し方は、相掛かりの棋譜で見た通り。対する玉将もさるもので、苛烈な攻めを受け流し、時には切り返す。緻密な読みの表れか、はたまた感覚任せの野蛮さか。盤上は混沌とし、天衣でも判断が難しい。

 

 確かなのは、これが『御影湊の将棋』ということ。華々しい応酬を繰り広げるこの将棋を、彼は好んでいるということ。だからやっぱり、欲しいと思った。

 

「……俺、お前のこと嫌いだわ」

 

 最終的に、対局は湊の勝利で幕を閉じた。不貞腐れる玉将や気落ちする道場の客とは対照的に、天衣の胸には熱情が宿っている。焦燥にも似たそれが、体の内側から急かしてくる。

 

 将棋を指したかった。少しでも早く、少しでも多く、学び取りたいと渇望していた。




★次回更新予定:8/2(日) 19:00


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#019 挑戦者決定戦

 勝負の世界は残酷だ。あるいは、残酷だからこそ勝負なのか。

 

 供御飯(くぐい) 万智(まち)。大学進学が決まっている高校三年生で、現役の女流棋士。『山城桜花(やましろおうか)』という女流タイトルの保持者であり、つまりは女流棋界においてトップクラスの実力者でもある。

 

 しかし彼女は、己が才能の不足を自認していた。どれほど研鑽を積もうと、よくて女流止まり。棋士になるほどの器ではないと、小学生の時分に見切りをつけている。だから友人の月夜見坂とは異なり奨励会にも入らず、女流棋士として将棋界に貢献しようと努力してきた。

 

 後悔はない――――――とは言わない。

 

 結局は怖くて逃げただけ。自信がなくて、確かめる事すらできなくて、挑戦する前に逃げ出した臆病者だ。わざわざ口には出さないが、そんな自分を卑しく感じる気持ちが万智にはあった。

 

 見た目だなんだと、将棋以外の部分であれこれ言われる女流棋士だが、それでも求められるのは強さだ。強さを示した後に、初めて付加価値に目を向けられる。誰もが女流棋士は弱いと見るが、その中の序列には拘るのだから面倒だ。

 

 さりとて実力の証である女流タイトルに、如何ほどの価値があるのだろうか。空銀子がその気になれば、あっさり奪われてしまうだろう代物に、どれほどの。

 

 自問してしまうのは、やはり自信のなさの表れで。だが女流タイトルを背負う者として、自負もある。強くならねばならない。強くあらねばならない。勝負師としての矜持は、たしかにある。

 

 だから勝負の世界は残酷だ。たとえ届かぬ光でも、目を逸らすわけにはいかぬから。

 

「今日はよろしゅうな、『神戸のシンデレラ』サン」

「……あのくだらない記事を書いた記者は(くぐい)だったわね」

 

 二月二十八日。マイナビ女子オープン本戦、挑戦者決定戦。東京・将棋会館『飛燕の間』にて、万智は女王への挑戦権を争う相手と対峙していた。

 

 夜叉神天衣。もうすぐ小学四年生に上がる少女は、不愉快そうに万智を睨み返している。年齢に見合った可愛らしい見た目だが、その将棋はまるで可愛いくない事を、万智は承知していた。

 

「こなたは『浪速の白雪姫』も名付けましたからなぁ。夜叉神3級も将来有望そうやし、どちらも名付けたとなったら、記者冥利に尽きますやろ?」

 

 女流棋士の傍らで観戦記者のバイトをしている万智は、少し前に夜叉神天衣の記事を書く機会があった。空銀子を含めた過去の事例と比較し、どれほど抜きん出た存在なのかを示す提灯記事だ。あまり楽しい仕事ではなかったから、ちょっとした遊びのつもりで異名を添えたのだ。

 

 神戸のシンデレラ。まったく無名の状態から、瞬く間に女流棋界の大舞台まで躍り出た経歴と、浪速の白雪姫との対比から考え付いた名だ。これが思いのほか受けたらしく、あっという間に定着してしまった。名付けられた本人は、どうやら不服みたいだが。

 

「どうでもいいわね。所詮は雑音に過ぎないのだし」

「つれませんなぁ。ちゃんと『先生』サンの事も考えた命名やのに」

 

 ギロリと睨んでくる少女に、ニマリと笑顔を返す万智。

 

「シンデレラが舞踏会に出れたんは、魔法使いのお陰でおざりましょ? 夜叉神3級は先生サンのお陰とよう言いはるし、ピッタリのモデルどす」

 

 胸の前で手を合わせた万智がにこやかに話すが、少女は警戒心も露わに黙したままだ。

 

 夜叉神天衣について語る時、必ず俎上に載るのが『先生』なる謎の人物である。インタビューをすれば必ずと言っていいほど夜叉神の方から挙げる癖に、詳しい質問には答えてくれないという、なんとも記者泣かせの存在だった。

 

 一時期は実在すら疑われていたが、正式な師匠に当たる月光会長が存在を認めてからは、どこの誰なのかという議論が将棋ファンの間で盛んになっている。

 

 ただ万智個人としては、その正体よりも師弟の実態の方が興味深い。

 

 強い棋士を育てた師は居ても、強い棋士を育てられる師は居ない。結局のところ、本人の才覚に頼るしかない世界だ。万智も師匠から教わった事は多いが、今の地位は自身の研鑽あればこそ、と自負している。どの将棋指しもそうだろう。世話になった人は居ても、将棋の実力は自分のもの。才能も、努力も、何より自身に依って立つと考えるのが当然だ。

 

 翻って夜叉神天衣の奇妙な点は、評価の軸を『先生』とやらに置いていそうなこと。彼女ほどの才能があれば、普通はもっと我を出すものだ。形式張った謙遜にも見えず、おそらく本心。それは幼さゆえの盲信か、あるいは本当に話ほどの指導力があるのか。

 

「せや、将棋は海に似てると思わん?」

「はぁ? いきなり何を言い出すのよ」

 

 怪訝そうな少女に構わず、万智は話を続けていく。

 

「どこまでも広ぅて深ぅて、導を見失ぅたら迷い果つる。ほら、海みたいや。遭難しぃひんよう、海の神さんに祈った方がええかな? 航海の安全祈願なら――――――こんぴらさんやろか」

「それって……」

 

 どうやら無事に意図が伝わったらしい。途端に苛立ちを滲ませた少女は、警戒から敵意に顔色を切り替えている。かつての空銀子を思い出す姿に、少しだけ胸がざわついた。

 

「だったらあなたは人魚姫ね」

 

 吐き捨てられた言葉に、万智が浮かべたのは苦笑か自嘲か。

 

 何事か返そうとして、言葉を見付ける前に時間が来る。対局を前にすると、一転して少女の心は凪いだように見えた。空銀子とは対照的だ。対局相手ではなく将棋そのものに意識を向けている。どちらが勝負師向きかは知らないが、この場では眼前の少女の方が怖いと感じた。

 

 やはり勝負の世界は残酷だ。怪物を前にしようとも、挑まぬわけにはいかぬから。

 

 

 ■

 

 

 下手の考え休むに似たり。字義通り、ヘボ指しが長考しても無駄に時間を浪費するばかりという将棋の格言だ。戒めではなく、からかいの意図が強い言葉でもある。ただ正論なのは間違いなく、時には見切りをつけるのも将棋では重要だ。

 

 じゃあ今の俺はどうなんだ、と自らを省みた八一は呆れ返った。

 

 とっくに結論の出た局面を並べ直し、未練がましく脳に汗をかかせている。自宅で人を待つ空き時間に少しだけと始めたはずが、すっかりドツボに嵌まっていた。よくない兆候だと自覚しつつも抜け出せず、まだ時間はあるだろうと盤面に目を落として、

 

「~~~~っ」

 

 小気味よい音と共に八一の頭がはたかれた。言葉にならない声が漏れ、頭を抱えてうずくまる。涙の滲む目で下手人を探せば、すぐに見知った影が見付かった。

 

「なにすんですか姉弟子!」

「無視するからよ。声、掛けたのに」

「だいたい勝手に入ってこないでくださいよ」

「チャイムは鳴らしたわ。出なかった八一が悪い」

 

 腕を組んで仁王立ち。煌めく銀髪の持ち主が、冷めた目で八一を見下ろしている。一目で機嫌が悪いと見抜いた彼は、即座に反抗を諦めた。棋士には見切りをつけねばならない時がある。

 

「スンマセン。VSですよね? まぁ座ってください」

 

 痛む頭をさすりながら、八一は対面の座布団を銀子に勧めた。

 

 元から銀子には鍵を渡しているし、訪問は予定通りだ。そこまで腹が立っているわけではない。できれば頭をはたく以外の方法を取ってほしかった、というのも本心だが。

 

「これ、なんの局面?」

「……指し初め式ですよ」

 

 歯切れ悪く八一が答えると、銀子は怪訝そうに眉根を寄せた。

 

 当然だろう。指し初め式の局面なんて、普通はわざわざ並べない。複数人の指し継ぎかつ気楽に指すものだから、意義のある内容になる事は珍しいのだ。それこそ八一が並べている局面だって、研究資料としての価値は低い。

 

 なのにこうして睨めっこしているのは、気に掛かるものがあるからだ。

 

「俺の手番なんですけど、相手が間違えなければ詰まされるんですよね」

「見落とした? 天下の竜王が間抜けなものね」

 

 からかうような銀子の反応。一度も詰みを見落とさない棋士なんて居ない。加えて指し初め式は気が緩んでいるのだから、そんな事もあるだろう。八一だって他人事なら笑い話と考える。実際、悩みの種を運んできた鏡洲も、やっちまったなと笑っていた。

 

 しかし詳細を理解している八一としては、安易に笑い飛ばせるものではない。

 

「三十四手先なんです」

 

 面白いように、銀子の表情が固まった。

 

「指し継いだ瞬間から読み始めたとしても、せいぜい一分程度。たったそれだけの時間で、相手は三十五手詰を読み切った事になります。この雑多な盤面から」

「……偶然でしょ?」

 

 銀子の気持ちはわかる。八一とてそう思いたい。

 

 三十五手詰は、決して長過ぎる手数ではない。詰将棋ならその何倍も長い問題があるし、たとえ実戦であろうとも、手が限られる終盤なら五十手先すら読めるのが棋士という生き物だ。

 

 ただ詰将棋には出題者の作意があるし、終盤の読みだってそれまでの流れを把握した上で時間を掛ければこそ。他人から引き継いだ将棋で、時間も一分足らずとなると、普通は無理だ。鏡洲から話を聞いた八一も、詰みを見付けるのにいくらか時間を要した。

 

 たまたま気付いて、ろくに検討もせずに結論付けただけ。それで調子に乗って言付けを頼んだと思いたいのだが、数手とはいえ対局した時の感覚が否定する。

 

 つい自分の世界に浸りそうになった八一に、銀子が呆れた様子で嘆息した。

 

「気にし過ぎ。そんなんだから負けが続くのよ」

「うぐっ。痛いところを突きますね」

 

 言葉の刃に、八一の口端が引き攣った。

 

 竜王位獲得以降の八一は、公式戦での負けが込んでいる。このままだと二桁連敗もあり得そうな状況で、最強のタイトル保持者としては情けない限りだ。同じ関西タイトル保持者の生石は玉将の座をストレートで防衛したため、最近は比べられる事も少なくない。

 

 もちろん、不調の要因は竜王の肩書きだろう。八一はタイトルの重みを背負うし、相手は格上と思って本腰を入れる。一介の四段だった頃と比べ、すっかり対局の空気は変わってしまった。

 

 ただ言い訳がましいが、指し初め式の件を気にしなかったと言えば嘘になるだろう。

 

「まぁ俺もプロですし、とっくに見切りはつけてますよ。研究資料としても役立ちませんし。今日は姉弟子が来るってんで、ちょっと見直してただけです」

「なんで私が出てくるのよ?」

「この相手、夜叉神3級の『先生』らしいんですよ」

 

 瞠目する銀子に気まずくなった八一は、誤魔化すように頬を掻く。

 

「負けちゃいましたね、供御飯さん」

「……少し予定が早まっただけでしょ」

 

 辛辣な物言いに苦笑しつつも、八一に反論する気はない。

 

 供御飯山城桜花が、夜叉神3級に負けた。つい先日の出来事だ。とうとう女流タイトル保持者の三人抜きだと世間は沸いているが、小学生の頃から万智を知る八一としては残念な気持ちがある。とはいえ結局は銀子に勝てないと八一も考えているので、銀子の言葉を否定しづらい。

 

 ともあれ挑戦者が夜叉神3級に決まったため、ふと『先生』の存在が思い起こされたのだ。そこで銀子が来るまでの暇つぶしにと棋譜を並べ、ついついのめり込んでしまった。

 

「挑決の内容、どう見ました?」

「山城桜花じゃ力不足ね」

 

 フンと鼻を鳴らして、銀子は不機嫌そうにそっぽを向く。

 

「小童の棋風が変わってた……実力も」

「やっぱり姉弟子もそう感じました? 俺は姿焼きの予想だったんですけど」

「そうね。おそらく小童の適性は受け。確実に勝つなら姿焼き狙いでいい」

 

 穴熊の姿焼き。将棋の囲いの中でもひと際堅い穴熊囲いにおいて、攻める手立てを失った状態を指す。堅牢な守りを頼みに攻め掛かる穴熊だが、代償として自玉には逃げ場が存在しない。自身の攻めが途切れれば、あとは囲いを剥がされて詰まされてしまう。

 

 そして万智は穴熊囲いを得意としており、公式戦での採用率が非常に高い。山城桜花を攻略する場合、この穴熊をどうするかというのが争点になるが、八一の予想は受け将棋。雷の捌きすら受けきった夜叉神なら、無理に攻めずとも受けに回れば勝てると睨んでいた。

 

「攻めるにしても、組ませない方向になると思ってた」

「ですよね。早繰り銀も対策の一つだと読んでたんですが」

 

 穴熊対策の一つは、そもそも相手に穴熊を組ませない事だ。そのためには速攻が有効で、例会で夜叉神が見せたという早繰り銀も、その一つとして考案したのだと推測していた。

 

 しかし実際に夜叉神が選んだ戦法は違う。受けに回るのではなく、速攻を仕掛けるのでもなく、穴熊を組ませた上で崩しに掛かった。真っ向勝負と言ってもいい。

 

「……正直、彼女を天才だと感じたのは初めてかもしれません」

 

 何言ってんだコイツ、という銀子の視線が痛い。

 

「いや、年齢と実力を考えたら天才なのは当然ですよ。でもほら、彼女の将棋って秀才タイプじゃないですか。あくまで道理に沿ってるというか、棋譜を見たら指し手の意図はわかりやすい」

 

 真っ当に強い。それが八一の抱く、夜叉神天衣に対するイメージだ。解説するのが楽そうだ、と感じるくらいには理論的で、奨励会で見せる苛烈さや新手も、根底にある考えは理解できた。

 

「でも昨日の対局は、いまいち説明が難しいんですよね。率直な印象は感覚派。大駒で叩き切りに行った時はタイミングを間違えたと思いました」

 

 振り飛車穴熊の万智に対し、四間飛車の美濃囲いを選択した夜叉神は、飛車角で穴熊を崩そうと試みた。それ自体はオーソドックスな攻略方法の一つで、上手くやれば素早く囲いを崩す事も可能だ。しかし相手に大駒を渡すのでリスクがあり、機を見誤れば自らの劣勢を招く。

 

 これまでの夜叉神なら、少なくともマイナビ女子オープンでは避けていた攻め方だろう。八一も棋譜を見た時は逸り過ぎだと考え、形勢を損ねると予測した。

 

「攻め駒が上手く捌けてるんですけど、改めて見ても不思議というか、感覚的な判断に思えます。終局図を見れば供御飯さんが一歩及ばなかったようにも見えますが――――――」

 

 その一歩の間には、きっと深い溝がある。

 

 万智が追い縋ったのではなく、自玉には届かないと夜叉神が見切った。八一はそれをセンスだと考える。年齢と実績から測る才能ではなく、指し回しから漂う独自の感性。以前の夜叉神には感じなかったそれが、万智との一局には宿っていた。

 

 本気を出したのか、あるいは磨いたのか。磨いたとすれば、自力か他力か。

 

 八一の脳裏をよぎったのは、指し初め式で対面した少年の姿。インタビューから察するに随分と弟子から慕われているし、指導者としても優れているのかもしれない。関東に所属するライバルもそうだが、上手くやっている同年代と比べて、どうしても己の停滞感が拭えない。

 

 竜王は最高位のタイトルだ。けど今の自分は、それに見合った棋士なのだろうか。

 

「――――八一ッ」

「あ、はい! すみません!!」

 

 叱責するような銀子の声に、反射的に背筋が伸びた。いつの間にやら盤上の駒が並べ直されて、対局の準備ができている。鋭い眼差しが、正面から八一を貫いた。

 

「指すわよ。私たちは将棋指しなんだから」

 

 灰の瞳に宿るは闘志。何年も見続けてきた勝負師の顔。それを前にすると、自然と気持ちが奮い立つ。負けていられないと、八一は腹の底に力を入れた。

 

「そうですね。せっかく姉弟子が来ているんですし」

「よし。あと今日は相掛かりに付き合って。得意でしょ?」

「かまいませんけど、なにかあったんですか?」

 

 一瞬だけ、沈黙。次いで紡がれた声音は、なんとも忌々しげな響きを伴っていた。

 

「……五番勝負の第一局は、相掛かりになるわ」

「えっ? もしかして夜叉神3級に会ったんですか?」

 

 重ねて問えば、不愉快そうに銀子の眉間に皺が寄る。

 

「絶対に頓死させてやる」

 

 あ、これアカンやつだ。将来の荒れ模様を予見し、己に被害が及ばぬよう祈る八一だった。




★次回更新予定:8/9(日) 19:00


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#020 なんてことない日

 なんてことない日だ。本当に、なんてことのない。

 

 春休みを目前とした日曜日に、湊と出掛ける。天衣にとってはそれだけだ。これまでだって湊に誘われる事はあったし、決して珍しい出来事ではない。一年の終わりに労いたいとか、マイナビで挑戦者に決まった事のお祝いだとか、たぶんその程度の意味合いだろう。

 

 だというのに天衣の世話係は、随分と張り切っていた。ウザいくらいに。

 

「お嬢様、お召し物はいかがなさいますか?」

 

 凛々しい顔付きで両手を突き出す晶は、それぞれの手に天衣の服を持っている。いずれもフリルスカートのワンピースだが、基調とする色が黒と白で対照的だ。普段の天衣が着る服装と比べて、フォーマルさよりも可愛らしさを強調した選択になっている。

 

「なにをそんなに意気込んでるのよ。別にいつもの事じゃない」

 

 呆れを乗せて言い含めれば、晶は得意げに胸を張った。ウザい。

 

「いいえ、初めてです。将棋が関わりませんから」

「そんな事は――――――」

 

 あるかもしれない。湊と関わる事柄は、なにかしら将棋を介するのが常だった。対して今日は、朝から晩まで将棋は無関係。本当にただ遊びに行くだけのお誘いだ。初めてと言うなら、たしかにその通り。だからどうしたのか、と天衣としては思うのだけれど。

 

「納得しましたね? では選んでください」

 

 調子のいい世話係に嘆息し、天衣は黒の衣装を指差した。選ぶまでもない。

 

「……黒ですね。かしこまりました」

「自分で着替えるから、外に出ていなさい」

 

 哀しげな晶の顔に気付かなかった振りをして、手を振って部屋から追い出した。

 

「まったく、気を回しすぎなのよ」

 

 着替えながらぼやく天衣だが、その実、気分を害したわけではない。

 

 二年半前に両親を亡くして以降、天衣は黒い服ばかり着るようになった。喪服のつもりであり、両親を忘れないという誓いでもある。当然身近な者は気付いているし、中でも晶は、その事を気にしている節があった。

 

 天衣を思っての事だとは理解している。それを煩わしいと、以前は感じていた。両親を偲ぶ事の何が悪いのかと、そんな風に反発していた。

 

 今は、少し違う。何故だろうか。自分の心以外にも、両親は居ると知ったからだろうか。

 

「――――――入っていいわよ。髪の方はお願い」

 

 喜び勇んで突入してきた世話係を窘めつつ、鏡台の前に座る天衣。湊に貰ったシュシュと愛用の櫛を携えて、背後に晶が立つ。

 

「今日はツーサイドアップで、お嬢様の愛らしさを強調しましょう」

「まかせるわ。好きにしなさい」

 

 面倒臭くなって投げやりに告げれば、機嫌よく晶が髪を弄りだす。そこに先ほどの哀愁はなく、至っていつも通り。鮮やかな手際を鏡越しに眺めながら、不意に天衣は口を開いた。

 

「……ねえ、晶」

「お呼びでしょうか?」

 

 鏡の中の晶は、括った髪のボリュームに不満があるのか、真剣な顔で調整している。

 

「女王を獲ったら、お父さまたちに報告しようと思うの」

「よろしいかと。きっとお喜びになられますよ」

 

 報告を兼ねた墓参りはいつものこと。小学生名人やマイナビ女子オープンに関しては、勝つ度に報告している。将棋は家族の幸せの象徴だから、そこで得た喜びを共有したかった。

 

 ただ今回の申し出は、少しばかり意味合いが異なる。

 

「タイトルの獲得報告だし、普段と違ってもかまわないわ」

「……お嬢様? それはつまり――――――」

「あなたの好きになさい。色もね」

 

 晶が黙り込み、作業が止まる。それに天衣は気付いたけれど、特に指摘するつもりはない。ただ鏡に映った指先は、かすかに震えているように見えた。

 

 

 ■

 

 

 パーソナルスペース、というものがある。要は他者を不快と感じる距離の事だ。これが広ければ近くに居る他者を不快に感じやすく、逆に狭ければ近くに居ても気にならない。

 

 湊は狭い方なのか、前世から他者との距離を不快に感じた事は少ない。逆につい近付きすぎて、相手の不興を買ってしまう事があるくらいだ。一方で弟子の天衣は、パーソナルスペースが広い。ツンツンと警戒心の強いハリネズミと言うべきか、すぐに他者を威嚇しようとする。

 

 では自分と天衣はどうだろうか。右隣に目を落とせば、すぐ傍に艶やかな黒髪。今ではすっかり見慣れた距離感だが、出会った頃はもっと離れていたはずだ。なんとはなしに見ていると、小さな頭が上を向き、大きな瞳が湊を捉えた。

 

 首を傾げる天衣に向けて、湊は誤魔化すように口を開く。

 

「晶さんには悪い事したかな、まさか仕事があるなんて」

「気にしなくていいわよ。好きでやってるんだから」

「ならいいんだけど」

 

 たまには遊びに行こう。そんな誘い文句を口にしたのが、一週間ほど前のこと。湊としては付き添いで晶も参加すると考えていたのだが、なんでも仕事が入ったらしい。待ち合わせ場所に天衣を連れてきた彼女は、そのまま湊に天衣を預けると、慌ただしく立ち去ってしまった。

 

「あらためて、おはよう。今日はいつも以上にお洒落だね」

 

 普段は右側頭部で小さな房を結ぶ髪型だが、今日は両側頭部から大きめの房を垂らした髪型だ。髪を結んでいる淡いブルーのシュシュは、嬉しい事に湊が贈った物だった。

 

 幼い体躯を包むのは、スカート部分にフリルをあしらった黒いワンピース。その上から、ライトブラウンのカーディガンを羽織っている。

 

 実際のところファッションの良し悪しには疎い湊だが、普段よりちょっとだけ胸を反らして立つ仕草から、装いを見てほしいのだと解釈した。最近になって気付いた天衣の癖だ。

 

「晶が張り切ったのよ。先生は――――いつも通りね」

「残念ながら、そういうのは苦手なんだ」

 

 見咎められなければいいかと、適当に済ませがちなのは前世から。兄弟子の生石には呆れられ、何度か小言を言われた覚えもあるが、生まれ変わっても直らなかった性分だ。

 

「それじゃ行こうか。少し歩くよ」

「平気よ、鍛えてるもの」

「そうだったね」

 

 将棋は体力勝負だからと、自分から体力作りを始めた弟子のストイックさには感心するばかり。師匠として負けていられないと、密かに夜叉神監修のメニューを回してもらっている湊である。

 

 待ち合わせの駅から五分ほど歩けば、本日の目的地が見えてきた。言わずと知れた世界最大級の水族館。将棋から離れた休暇として、ここで天衣と過ごす予定だ。

 

「私はあそこの水族館は初めてだけど、先生は?」

「何度か。うちは海運業で成功したから、家族で出掛ける時は海に関わる場所が多いんだ」

「ああ、それで道場が『ことひら』なのね」

「そうだね。金刀比羅宮(ことひらぐう)、いわゆる『こんぴらさん』にあやかったらしい」

 

 雑談を交わす内に、水族館前の広場に到着した。グルリと辺りを見回した天衣は、感心と呆れを半々に乗せた顔で口を開いた。

 

「さすがに混んでるわね。いくつか人だかりがあるけど、なにかしら?」

「ここの広場ではストリートパフォーマンスをやってるから、それじゃないかな」

 

 一番近い人だかりに歩み寄り、パフォーマーが見えやすい位置を確保する。円周状にスペースを空けた空間の中央で、タキシードの男性が銀色のリングを掲げていた。

 

「あの人はマジックをやってるみたいだね」

「マジックね。ただの子供騙しじゃない」

 

 鼻を鳴らした天衣を見やる。その瞳に宿る好奇に、湊はそっと苦笑した。

 

「興味があるから、少し見ていってもいいかな?」

「……先生が見たいなら付き合うわ」

 

 マジック、ジャグリング、パントマイム。いずれもテレビで見掛ける機会はあるが、生で見るとなれば一味違う。気付けば天衣も、息を詰めて見入っていた。

 

 そのまま三十分ほど広場で過ごし、いい時間だからと本命の前に腹ごしらえ。水族館の隣にあるフードテーマパークに入り、話し合ってオムライスの店に決める。そうして昼を済ませた二人は、午後になってとうとう水族館に足を踏み入れた。

 

 最初に出迎えてくれたのはアクアゲート、トンネル型の水槽だ。床以外の全面を水槽で囲まれた通路で、すぐ傍を様々な魚が泳いでいる。フラリと歩き出した天衣の隣に並び、湊もまた色鮮やかな魚たちを目で追い掛けた。

 

 環太平洋火山帯(リング・オブ・ファイア)環太平洋生命帯(リング・オブ・ライフ)をコンセプトにしたこの水族館は、太平洋を中心とした生命の繋がりを表現している。環太平洋地域をテーマにした水槽があり、それらを通して各地を巡る。

 

「……………………」

「ほら、そろそろ行こうか」

 

 日本の森。カワウソの前から動かない天衣を急かしたり。

 

「あれがハリセンボンなの?」

「今は膨らんでないみたいだね」

 

 パナマ湾。ちょっと期待を裏切られたり。

 

「オジサンって、変な名前ね」

「あのヒゲが名前の由来みたいだよ」

 

 グレート・バリア・リーフ。多種多様な魚に目を奪われたり。

 

「温厚らしいけど、先生でも一口で食べられそうな大きさね」

「まったくだ。尾びれだけでも、僕より大きいんじゃないかな」

 

 太平洋。ジンベエザメの巨大さに圧倒されたり。

 

 普段は将棋の話ばかりしている二人だが、今日はなんてことない雑談に花を咲かせた。悩みなど忘れて、ただ隣に居る人と、目の前の光景に胸を躍らせる。

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。二人が一通り見て回った頃には、太陽の位置もだいぶ下がってきていた。帰途につくにはまだ早く、近場のカフェへ足を運ぶ。

 

 頼んだ紅茶とパンケーキが運ばれて、少し雑談でもというところで、天衣が口を開いた。

 

「――――――ねえ、今日はどうしたの?」

「なんのこと? ひょっとして退屈だったかな?」

「楽しかったけど…………将棋の話をしなかったじゃない」

 

 やっぱり気になるのかと、ついつい湊は苦笑い。たしかに意識して将棋の話題は避けていたし、いつもならどこかで将棋の話に逸れるのが常だった。

 

「息抜きだよ。ここ二ヶ月くらい、ずっとピリピリしてるから」

 

 正確には生石と対局してからだろうか。それまで以上に湊の将棋をモノにしたいと気合を入れ、プライベートの時間もほとんどそちらに費やすほど。湊自身も教え方のイメージを掴めたからと、ついつい熱を入れてしまった面もある。

 

 お陰で五番勝負を前にして、感覚的な面さえも予想以上の仕上がりとなったが、気になったのは精神面。気を張っているというか、余裕がないというか。これでは十分に実力も発揮できまいと、今回のガス抜きを企画した。心身のコンディション管理も、棋士に必要な技能の一つだ。

 

「先生はずっと機嫌がいいわね。私と指す時も前より楽しそう…………玉将と指してから」

 

 あー、と気まずげに湊が声を漏らす。天衣はそっぽを向いて口を尖らせていた。

 

「もしかして、女王とやり合ったのもその関係?」

「あれはどっちもどっちでしょ」

 

 挑戦者決定戦の後、玉将防衛成功の祝辞と天衣の仕上がり確認を兼ね、二人は改めてゴキゲンの湯を訪れた。その際に、生石の研究相手という空銀子と鉢合わせになったのだ。

 

 どうも生石なりの誠意らしく、これからタイトルを巡って戦う相手と繋がりがある、という事をちゃんと伝えておきたかったのだろう。

 

 湊としては面白い縁もあったものだと感心するくらいなのだが、さすがに対局予定の当人たちはそうもいかない。己のテリトリーに入られたと感じたのか、空銀子は刺々しかったし、天衣もまた売り言葉に買い言葉と挑発的だった。

 

 最終的に天衣の挑戦を空銀子が受ける形で終わり、その日は将棋も指さずに解散したが、あれは生石の代理として見ていた面もあったのかもしれない。

 

「ま、五番勝負で白黒つけるわ。それよりも先生と玉将の対局が気になるんだけど」

「うーん、あの日の対局は――――――そうだね、大いに意義があるものだった」

 

 自分の将棋を見失っていたというのは、はてさて笑い話なのか。かつての己が積み上げたものを忘れ、ただ理屈ばかりに目を向けていたのは失態だ。気付いてみれば、なるほど、前世で見ていた景色に近付いた。試しに生石と指してみた対局も、及第点を超えたと言えるだろう。

 

 そうしてようやく納得できた。結局これは、()()()()()の将棋に過ぎないと。

 

 将棋は常に進歩するもの。棋士とは歩みを止めぬもの。しかして湊の将棋は、既に歩みを止めたもの。前世と同じような将棋は指せたし、より洗練された指し方もわかるが、それは進歩でも発展でもない。己の足で開拓した成果ではなく、完成された地図をなぞっているに過ぎないのだ。

 

 所詮は過去に取り残された遺物。その先を見出す権利を、既に湊は失っている。

 

「お陰で今は、天衣に教えるのが一番の幸せだって思えるよ」

 

 口を衝いて出た本心に、パチクリと天衣の瞳が瞬いた。

 

「君と出会って、もうすぐ一年半だ」

「……もうそんなに経ったのね」

 

 戸惑いと、驚きと。対面の天衣が見せる変化は微細だが、湊に伝わるには十分すぎる。一年半。長いようで短い期間を共に過ごし、確かな絆を紡いできたと信じている。

 

 細めた湊の目に映るのは、未だ幼い、成長途上の弟子の姿だ。

 

「少し背が高くなった。柔らかく笑う事が増えた。学校の話をするようになった。自分では細かく気にする性質じゃないと思ってるんだけど、不思議と天衣の成長は目に入る」

 

 他人にとっては、あるいは本人にとっても、些細な変化かもしれない。

 

「ちょっとした事でも嬉しく思うのは、それだけ君を近しく感じているからだ」

 

 それこそ家族のような距離感だろうか。師弟関係は将棋の家族と言うけれど、湊にとっての天衣は、そう呼ぶに相応しい価値がある。とても大切で、掛け替えのない存在だ。

 

「だから改めて、今度は僕から伝えよう」

 

 正面から愛弟子を見詰めれば、なにかを察して背筋を伸ばす。愛らしい顔を引き締めて、薄紅の唇を引き結び、ただ静かに待つ彼女に想いを告げる。

 

「僕の将棋を託したい。他の誰でもない君に」

 

 瞠目、後に口元をわななかせ、そのまま言葉もなく天衣は俯いた。

 

 湊の将棋を教えてほしいと天衣が言い出した時、嬉しかったのは間違いない。込み上げる情動を押さえるのが大変で、気を抜いたら泣きそうで、だからこそ本気で応えようと思った。なのにこれまで、天衣の願いに明確な言葉を返していなかった。たぶん、どこかに未練があったのだろう。

 

「――――――棋士になるから。絶対になるから」

 

 決意を秘めた少女の声音に、あぁこれが責任かと、託したものの重みを自覚する。別に手抜きのつもりはなかったが、この子を強くしようと覚悟を改め、湊はようやく師匠になれた気がした。




★次回更新予定:8/16(日) 19:00

第一部完。次回から原作時間軸の話が始まります。


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#021 二人目のアイ

 カッコイイ。将棋を始める切っ掛けなんて、それだけで十分だった。

 

 雛鶴(ひなつる) あい。もうすぐ小学四年生。生まれは石川県で、和倉温泉にある老舗旅館『ひな鶴』の一人娘。跡取りとして幼い頃から女将修行を課せられており、家事全般はお手の物。

 

 そしてこの度、九頭竜八一竜王の内弟子(仮)となった少女である。

 

 遡ること三ヶ月前、昨年十二月に彼女は将棋と出会った。それまで存在を知っている程度だった将棋に触れたのは、竜王戦七番勝負の最終局。実家の旅館が、その舞台となったからだ。

 

 女将である母親は将棋が嫌いなようで、最後まで不満を零していたが、地元の温泉組合の頼みを断りきれなかったらしい。とはいえ子供のあいには関係ない話で、対局を目的に集まった関係者や将棋ファンの熱量に圧倒されるばかりだった。

 

 転機は、実際に対局する棋士を見た、その瞬間。勝って竜王となった男性の、戦う姿。

 

 カッコよかった。駒を動かす様が、扇子を鳴らす仕草が、手を悩んで苦しむ表情でさえ、なにもかもがカッコイイと感じた。女将の母と、板前の父と、働く大人の背中はよく知っている。彼らが責任を持って務めを果たしている事も。でも死に物狂いで戦う姿を、あいは知らなかった。

 

 たかが将棋と母は言うけれど、全霊を賭ける棋士の生き様が、あいには輝いて見えたのだ。

 

 クリスマスの夜に宿った熱量は冷める事なく、今まで触れてこなかった将棋というものにあいを惹き付けた。幸い亡くなった祖父が将棋好きだったらしく、古いながらも道具や本は揃っていた。そうして家の手伝いの合間に詰将棋本を解き、将棋を学び始めたのだ。

 

 かくして将棋歴三ヶ月、待ち望んだ春休みを迎えた彼女は、憧れの九頭竜竜王に弟子入りした。少々難色を示されたし、まだ問題も残っているが、最初のハードルはクリアである。内弟子として数日前から師匠の部屋に住み込み、優しく指導してもらっていた。

 

 ちなみに家出である。生憎と両親から将棋連盟へ連絡がいっており、速攻で家出だとバレたが、どうにか春休み中の住み込み許可は勝ち取れた。目指すは新学期からの転校と住み込み継続だ。

 

 そんな行動力溢れる彼女だが、現在は関西将棋会館の将棋道場に通っていた。竜王である八一は忙しく、いつもあいの面倒を見るわけにはいかないため、ここで修行しているのだ。もちろん一人ではなく、八一にとって年上の妹弟子に当たる清滝 桂香(けいか)が付き添ってくれている。

 

 戦績は連戦連勝。師匠である八一や桂香にも褒められ、アマチュア段位も既に二段だ。同世代の友達もでき、まさしく順風満帆の滑り出しと言えるだろう。

 

 この日も道場で白星を積み上げていたあいだったが、不意に聞こえてきた声に振り返った。

 

「みんなー、天ちゃん連れてきたよー」

「おっ、シンデレラじゃん。今日はどしたん?」

「シンデレラはやめなさいって言ってるでしょっ」

 

 最初に目に付いたのは、入り口付近に立つ二人の少女。一人はあいの友達である水越(みずこし) (みお)だ。ショートヘアが似合う快活な子で、あいとは最初に仲良くなった。もう一人の少女は初めて見る。長い黒髪から一瞬だけ友達の貞任(さだとう) 綾乃(あやの)かと思ったが、どうにも違う。

 

 おっとりした風貌の綾乃と異なり、ツンツンした猫のよう。眼鏡も掛けていない。シンデレラと周りのみんなが口にしているが、どういう意味だろうか。あいから見ても可愛いのは確かだが。

 

 ちょうど対局していた向かいの桂香を窺えば、困惑も露わに少女を見詰めていた。

 

「……桂香さん、あの子のこと知ってますか?」

「えっ? あ、そっか。あいちゃんは将棋界の事情に詳しくないのよね」

 

 得心した様子の桂香に首肯を返す。将棋に触れ始めて三ヶ月かつ、ほとんどの時間を詰将棋本の攻略に費やしてきたあいは、碌に将棋界の知識を持っていないのだ。

 

 なにか言葉を探しているらしい桂香を眺めていると、笑顔の澪が近付いてきた。

 

「いたいた。あいちゃん、この子が天ちゃんだよ」

「……よくわかってないみたいよ。なにも話してないの?」

 

 いつも通り明るい澪と、その後ろについてきた黒髪の少女。当然のように話を進めている二人に置いていかれ、あいの頭上には疑問符ばかり。見かねた様子で、黒髪の少女が口を開く。

 

「はじめまして、夜叉神天衣よ。この子とは――――――たまに将棋の相手をする程度の仲ね」

「友達だよ! えっとね、あいちゃんと同じで『アイ』って名前なんだけど、漢字だと天の衣って書くの。だからみんな『天ちゃん』って呼んでるんだ」

「あなたが勝手に呼び始めたんじゃない」

 

 二人のやり取りを聞き、ようやくあいも状況を理解する。要は友達を紹介したいらしい。少女の素性はよくわからないままだったが、それだけわかれば十分だ。

 

「わたしは雛鶴あいだよ、よろしくね。天ちゃんって呼んでもいい?」

「ええ、よろしく。呼び方は好きにしなさい」

「ありがとう! 天ちゃんも道場にはよく来るの?」

「私は別に。連れは待たせている時に利用しているみたいだけど」

 

 天衣の視線を追えば、スーツを着た二十歳くらいの女性が近付いてきている。凛々しい顔付きのその人は、天衣の隣まで来て立ち止まると、背筋を伸ばして直立した。

 

「お嬢様、取材の方はお済みになられましたか?」

「終わったわ。厄介なのに捕まったから、適当に時間を潰していなさい」

「かしこまりました。御用の際はいつでもお呼びください」

 

 一礼して女性が去っていく。その背を見送ったあいは、すぐに疑問を口にした。

 

「天ちゃん、取材ってなに?」

「マイナビの件で少しね」

「マイナビ?」

 

 逆に不思議そうな顔を返された。どうやら将棋界では知っていて当然の情報らしい。といっても知らないものは知らないし、思わず桂香の方に顔を向ければ、優しい笑顔で応えてくれた。

 

「マイナビ女子オープンっていう女流棋戦があるの。銀子ちゃんが持ってる女王のタイトル戦で、彼女はその挑戦者。つまり大会を勝ち抜いた、とても強くて有名な将棋指しなのよ」

「なるほどー。天ちゃんって凄い子なんですね」

 

 感心して何度も頷くあいは、すぐにアレっと首を傾げた。

 

 銀子。空銀子。あいにとっては師匠の姉弟子に当たり、伯母弟子とでも呼ぶべき存在だ。大阪に来た翌日に遭遇して以来、未だにあいの弟子入りに反対している意地悪な人である。最初に八一が銀子を女王と言っていたのは覚えているし、それがタイトルという事も後で教えてもらった。

 

「清滝桂香ね。なるほど、清滝一門繋がりか」

「あら、私の事も知っているの?」

「マイナビの参加者は全員調べたわ」

「研究熱心なのね。私も見習わなくちゃ」

 

 竜王戦について調べたので、タイトル戦や挑戦者の意味は、あいも多少は理解できる。つまりはタイトルを持っている人は偉い。その偉い人からタイトルを奪うためにタイトル戦があり、たった一人の挑戦者を決めて、最後はタイトル保持者と一騎討ち。あいが出会った時の八一は挑戦者で、並み居るライバルを打ち倒し、ついにはタイトル保持者も倒した凄い人なのだ。

 

「それにしても、澪ちゃんの友達だったなんて驚きだわ」

「去年、この道場で指す機会があったのよ」

「あの時の天ちゃん凄かったなー。絶対リベンジしようと思ったのに、それっきりだし」

「だからって例会の日に待ち伏せしなくてもいいでしょうに」

 

 マイナビは女王のタイトル戦で、銀子が女王のタイトル保持者で、天衣はその挑戦者。なるほど理解できた。つまりどういう事かと言えば、

 

「――――えぇ!? 天ちゃん、おばさんと戦うのっ!?」

「……うるさいわね。まったく、なにを考えてるのかと思えば」

 

 腰に手を当てた天衣が、呆れた様子で息を零した。

 

「おばさんが空銀子の事なら、たしかに戦うわ。春休みが終われば、すぐに第一局ね」

 

 当然のように言い切った天衣の顔を、ついまじまじと見詰めてしまう。

 

 あいと同じくらいの子供だ。どう見ても小学生で、そんな子が、タイトルを賭けて銀子と戦う。中学生の銀子はあいからすれば大人だし、八一とも年が近いから、そういうものかと納得できた。けれど天衣は自分と年が近すぎて、なんだか不思議な気持ちにさせられる。

 

 あくまで家の手伝いとして旅館の仕事をしてきたあいとは異なり、天衣は公式な場で真剣勝負を行うのだ。それが将棋界。あいが飛び込んだ、新しい世界。

 

「せっかくだし、二人で対局してみたらどうかな? あいちゃんもすっごく強いんだよ。はじめて天ちゃんが来た時みたいに、みんな倒しちゃったんだから」

「竜王の弟子とは聞いたけど、さすがと言うべきかしら。私はかまわないわよ」

 

 澪と天衣に視線で問われ、思わずあいはたじろいだ。

 

「えっと……天ちゃんがいいなら、わたしもいいよ」

 

 戸惑いながらの返答。ただ本心を言えば、あいには自信があった。

 

 最強の竜王に認められて弟子入りし、道場でも白星を重ねている。ずっと年上の桂香にだって、未だに負けていない。それらの経験が自負となり、どんな相手でもやれる気になっていた。

 

 始めたばかりだった桂香との対局を切り上げ、向かいに天衣が座った時も。興味深そうに周りに人が集まってきた時も。それこそ、第一手を盤上に指した瞬間も。

 

 不安はなかった。これまで積み上げてきたものが、あいから恐れを奪っていた。

 

「――――――負け、ました……」

 

 結果は、惨敗。序盤から突き放され、得意の終盤を迎える頃には、逆転できないほどの一方的な差をつけられていた。早めの投了に周囲は驚いているけれど、あいから見れば既に詰んでいるし、天衣が読み間違える気配もない。妥当な判断だと思う。

 

 悔しいというよりも、只々衝撃だった。自分と同じ年頃の子が、こんなに強いのが驚きだった。傲慢なのかもしれないが、ここまで順調だったあいにとっては、それだけの出来事だったのだ。

 

「さすがにあいちゃんでも無理かぁ。平手だもんねー」

 

 澪の言葉を皮切りに、集まっていた観衆が口々に感想を話し出す。中でも多いのは天衣へ向けた称賛で、やっぱりシンデレラは強いとか、そんな言葉が聞こえてくる。あいが負けた事への驚きはないようで、それだけ天衣の実力が認められているのだろう。

 

 ほへー、と落ち着かない気持ちであいがボンヤリしていると、対面から問い掛けが飛んできた。

 

「そんな気はしてたけど、将棋を始めたのは最近ね?」

「えっ? 去年の竜王戦後だから、三ヶ月くらいかな」

「三ヶ月ッ!? そう、竜王が弟子に取るだけはあるわね」

 

 納得した様子で呟いた天衣は、次に盤上の一点を指差した。今は駒が置かれていない場所だが、あいが中盤で失着と感じたところだ。歩を進める前に桂を跳ねた方が、囲いを崩すのによかった。それを同じく指で示してみれば、満足そうに天衣が頷く。

 

 不思議とお互いの意図は伝わるもので、無言のまま感想戦が進められた。首を捻っている周りの人たちには申し訳ないが、なんだか楽しい。わかり合えている、そんな気がした。

 

 終わる時にも言葉はなく、どちらともなく目を合わせる。それだけだった。

 

「あまり定跡を知らないみたいだけど、特に変な手はなかったわ。よく読めてたと思う。これから勉強して経験を積めば、すぐに棋力は上達しそうね」

 

 この道場に通い始めてから、あいに掛けられた称賛の言葉は数知れず。いい人ばかりで、みんなあいに才能があると褒めてくれた。それはもちろん嬉しかったのだが、今しがた天衣に掛けられた言葉は、なんだか違う。尊敬する師匠に褒められた時のようなむず痒さと、ちょっぴりの対抗心。たぶん天衣が強いからだ。自分よりも強いと、認めてしまったからだ。

 

 脳裏に浮かんだのは銀髪の女性。大阪に来て、あいが最も対抗心を抱いた相手。

 

「ねえ、おばさんも天ちゃんみたいに強いの?」

 

 思わず疑問が口を衝く。天衣の瞳が瞬いて、観戦していた桂香へと向けられた。つられてあいも桂香を見れば、彼女は柔和な顔立ちに苦笑を刻んでいる。

 

 変な事を言ったかなと黙っていると、嘆息した天衣が口を開いた。

 

「質問で返して悪いけど、なぜ竜王に弟子入りしようと思ったの?」

「えっと、カッコよかったから。その、竜王戦で戦う師匠が」

 

 八一の師匠である清滝にも同じ質問をされて、その時も同じように答えた。あいにとっては真実だし、八一や清滝も認めてくれている。銀子には難色を示されたが。

 

 天衣はどうだろうかと様子を窺ってみるも、特に表情の変化は見られない。

 

「どうして棋士が稼げるか、わかるかしら?」

「…………カッコイイから?」

 

 澪や桂香が微妙な顔を浮かべた。でもしょうがない、あいは将棋界に詳しくないのだから。呆れられるだろうかと不安だったが、予想に反して天衣は頷いている。

 

「その通りよ。多くの人が棋士を格好いい、凄いと思うから、お金を出す人たちが居るの。だから棋士は凄い人たちの集まりなのよ…………変人集団とも言われるけど」

 

 最後の方は声が小さくて聞き取れなかった。あいが首を傾げると、咳払いが返ってくる。

 

「とにかく、あなたが竜王を格好いいと感じたように、他の棋士を格好いいと感じる人もたくさん居るわ。細かく言えば空銀子は棋士じゃないけど、既存の枠組みを打ち破った女性として、多くの尊敬を集める存在よ。将棋界に身を置くのなら、ちゃんと棋士の凄さにも目を向けなさい」

 

 一息。腕を組んだ天衣が、整った眉尻を吊り上げた。

 

「なにより私は、空銀子が女王だからマイナビに参加したのよ。空銀子が防衛する女王には、挑む価値があると思ったから。その相手が軽んじられるのは、少し不愉快だわ」

 

 天衣の叱責。声を荒げているわけではないが、あいは身を竦めてしまう。

 

 たしかにあいだって、八一を悪く言われるのは嫌だ。他の棋士にもあいのように応援する誰かが居ると思えば、もっと勉強しようという気にもなる。八一には追々学べばいいと言われているが、それに甘えてなにもしないのは違うだろう。

 

 まずは天衣の事を知ろうと思った。頼れる先達だと、素直に認められたから。

 

「その、ごめんなさい……」

 

 謝罪は本心から。自戒を込めて、あいは頭を下げる。

 

「天ちゃん、おばさんのファンだったんだね」

 

 なぜかとっても怒られた。




★次回更新予定:8/23(日) 19:00


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#022 時代の潮流

 将棋界とメディア、あるいは棋士と記者の関係は、それほど悪いものではない。なんといっても狭い世界だ。必然的に関わる人間は少なくなるし、関われば長く深いものになりやすい。

 

 将棋担当の記者というのは、元から将棋好きで希望通り配属された者も居れば、大してルールも知らないのに希望を外れて配属された者も居る。将棋に関する興味は千差万別。棋士と関わる上で必要ないからと、将棋史や将棋文化を学ばない記者も少なくない。

 

 それでも棋士と同じく、記者も将棋というコンテンツで食べていく身だ。将棋界ひいては棋士の顰蹙を買えば、おまんまの食い上げとなりかねない。またプライベートで棋士と付き合いを持ち、親しくなる場合もある。ゆえに記者側の配慮というやつを、意外と望めるものなのだ。

 

 とはいえ持ちつ持たれつ、ギブアンドテイクを忘れるべきではない。記者に配慮を求めるなら、棋士もまた配慮を返すべきだ。特に棋戦の主要スポンサーは新聞社であるから、棋士個人の立場はさておき、将棋連盟としては決して無視し得ない場合もある。

 

 結局なにが言いたいのかと言えば、春休みに入った天衣がせっせと将棋会館に通っているのは、記者の相手をして身辺の煩わしさを軽減するためだった。

 

 昨今の将棋界は、それほど景気のいい業界ではない。伝統があると言えば聞こえはいいが、言い換えれば古臭く、新しいものに取って代わられる立場にある。平成初期に比べて将棋連盟の減収は明白で、将棋に興味がない層への普及、すなわちコンテンツ力の向上は至上命題の一つだ。

 

 つまり一般人に持て囃される広告塔が必要とされている。そこそこ成功した例が九頭竜八一で、大成功した例が空銀子だ。そして誰も想定していなかった第二の空銀子、二匹目のドジョウとでも言うべき存在が、夜叉神天衣である。

 

 空銀子が生み出した火種を煽り、派手に燃え上がらせる役割。将棋連盟にとってもスポンサーにとっても、もちろん記者にとっても、天衣は魅力的な存在だ。あまり騒ぎ立てぬように月光会長が抑えに回ってくれているが、不興を買って楽しい手合いではない。

 

 ゆえにガス抜きとして、天衣は取材などに応えるようにしていた。それに彼女としても、周囲の耳目を集める自らの立場に、まったく利点を感じていないわけではないのだ。

 

「――――――今日はありがとうございました」

 

 折り目正しく頭を下げる女性に、天衣もまた礼を返す。春休みに入って三度目の取材が、これで終わった。場所は関西将棋会館三階の棋士室。順位戦も終わり対局の少ないこの時期は、棋士室を訪れる棋士や奨励会員も少ない。今日も天衣と記者の二人だけだ。

 

 記者のペンネームは鵠。本名は供御飯万智。ひと月ほど前に、天衣と対局した相手だ。フリーの将棋ライターとしてアルバイトをしているようで、今回は将棋雑誌の依頼で取材に来たらしい。

 

 対局した時とは、随分と異なる装いだ。下ろしていた髪は頭の上でお団子にしているし、顔にはハーフフレームの眼鏡を掛けている。口調も標準語に変えており、最初は天衣も驚かされた。

 

 さておき直近の対局相手ではあったものの、既に終わった以上は恨みっこなし。そこはお互いに弁えており、実に穏当な取材内容だったと言えるだろう。

 

「ここからは単なる雑談なのですが」

 

 ボイスレコーダーを止めて切り出した鵠に、思わず天衣は身構えた。苦手意識とまではいかないが、対局前に交わした舌戦の所為か、どうにも警戒心が拭えない。

 

「得意戦法と先生のお話は初めて伺いましたが、なにか心境の変化でも?」

「なにもないし、変な話をした覚えもないわ。ちゃんと記事にするんでしょ?」

「それはもちろん。読者受けもよさそうですし」

 

 ただ、と鵠はやや垂れた目に好奇の色を宿らせた。

 

「貴女の考えがわかれば、誤解なく伝わる記事が書けるかと」

 

 わずかに思案したのが運の尽き。あっという間に聞く態勢を整えた鵠は、にこやかに笑ったまま天衣の話を待っている。ジト目を向けても微動だにせず、天衣はこれ見よがしに嘆息した。

 

 頭の中で話す内容を吟味して、まぁ問題ないかと、諦めと共に口を開く。

 

「……空女王との第一局は、広く世間の注目を集めているわ。もし私が勝てば、長く私を代表する一局になるでしょう。そうなれば記録の一つではなく、棋史の一部として棋譜が残る」

 

 女流棋戦において、黒一つなく積み上げた数多の白星。それこそが白雪姫の象徴だ。史上最強の女性と謳われ、事実、初めて奨励会で段位を得た女性となった。現在では中学生で二段に昇段し、最後の関門となる三段リーグまであと一歩。もしかしたら初の女性棋士が生まれるのではないか、かつては戯言とされたその期待も、今ではだいぶ現実味を帯びている。

 

 一方で天衣もまた、多方面から期待を寄せられる立場だ。三月一回目の例会で昇級し、とうとう2級。女性どころか男性を含めてさえ、異例と言える昇級速度を見せている。それでも昇段の壁を越えていないため、未だに評価を保留する者は少なくない。

 

 だからこそ空銀子との第一局は、一つの試金石となるだろう。夜叉神天衣の真贋や如何に。熱い世間の期待も後押しし、方々で棋譜の検討が行われるはずだ。

 

「棋士は死して棋譜を残す。棋譜が残れば、それは棋士が生きた証になる」

 

 両親を亡くした後、天衣が一層将棋にのめり込んだ理由の一つ。遺された棋譜を、穴が空くほど読み込んだ。日が暮れてなお、将棋盤に並べた。そこに両親が居ると思ったから。

 

 棋士の魂は棋譜に宿る。棋譜を読み解けば、指し手の想いが伝わってくる。

 

「だから私は、第一局を特別なものにしたい。これが夜叉神天衣だと、誰もがわかる棋譜に」

 

 その棋譜を通して、人々は棋士を知ろうとするだろう。夜叉神天衣という、湊の将棋を受け継ぐ棋士を。すなわちそれは、湊の将棋が棋史に残るということ。

 

「……なるほど。だから()()()()()得意戦法の話をしたと」

 

 ニマニマと擬音が聞こえてきそうな、いやらしさの滲んだ笑み。頬に朱が差したのを自覚して、それでも天衣は、素知らぬ振りを突き通す。

 

「防衛戦の空二冠は横綱将棋、相手の挑戦を受けて立つ将棋を指します。第一局が楽しみですね。あぁ、でも、これは記事を書くのが大変かもしれません」

 

 頬に手を添えた鵠。眼鏡の向こうから、意味ありげな流し目が送られる。

 

「ラブレターの代筆など、なにぶん初めてなもので」

 

 将棋盤のある場所でよかったと、天衣は安堵した。殴り合うのに、拳が要らないのだから。

 

 

 ■

 

 

「さっきの対局は凄かったですねっ。さすがは師匠です!」

「これでも竜王だからな。そう簡単には負けないさ」

 

 ピョンピョン跳ねて喜ぶ弟子に調子のいい言葉を返しながら、八一は密かに胸を撫で下ろした。意外と危なかったんだけどなー、なんて考えつつ。笑顔で見守ってくれる桂香には感謝だ。

 

 今日も今日とて弟子のあいを連れて関西将棋会館に来た八一だったが、そこで知り合いの棋士に出くわした。ここの将棋道場は時おりプロ棋士も利用するのだが、今日はそんな日だったらしい。話の流れで練習将棋はどうかと誘われ、弟子の勉強にいいかと引き受けたわけである。

 

 結果は辛くも八一の勝利。お互い実験的な手を試したとはいえ、なんとか師匠の面子は保てたと言えるだろう。そうして思いのほか白熱した対局が終わってみれば、ちょうどいい具合のお昼時。食事にするかと、あいと桂香を連れて一階にあるレストランを訪れた。

 

「こりゃ三人はダメそうだな……」

 

 棋士が勝負メシを頼む事も多い老舗レストランは、いつも通り盛況だ。唯一の四人席は埋まっているし、二人席も空いているのは一つだけ。カウンター席も三人は座れない。これは分かれて座るしかないかと二人に提案しようとした八一だったが、反射的にカウンター席を二度見した。

 

 一秒、二秒、ジッとカウンター席の人影を凝視する。

 

「――――――はぁ!?」

 

 思わず漏れた叫び声。慌てて口を塞ぐが、時すでに遅し。向こうも八一に気付いたらしく、手を振って存在をアピールしている。しばし悩んだ八一だったが、結局はグズるあいを説得して二人と分かれ、カウンター席に座る事にした。

 

「さすがは竜王、みんなの視線を独り占めだったな」

 

 気さくに話しかけてくるのは鏡洲だ。カウンター席に座っていた人物の一人だが、こちらは問題ない。ここに奨励会員が居るのは普通だし、プライベートでも仲の良い相手だ。

 

「お久し振りです、竜王。指し初め式ではお世話になりました」

 

 問題はこちら。いかにもな好青年といった感じの彼は、夜叉神天衣の『先生』である。彼自身は悪くないはずだが、どうにも苦手意識が根付いているのだ。突然の登場は勘弁してほしい。

 

「あらためまして、夜叉神に将棋を教えている御影湊です」

「これはどうも。竜王の九頭竜八一です」

 

 挨拶を交わした後に顔を見れば、湊は人のよさそうな笑みを浮かべている。指し初め式の一件を尋ねたい気持ちもあったが、さすがにこの場では躊躇われた。

 

「……なんというか、意外な組み合わせですね。夜叉神2級の繋がりだとは思いますが」

「夜叉神ちゃんに拝み倒したら取り次いでくれてな、最近はたまに会ってるんだ」

「今日は彼女が取材なので、付き添いついでに鏡洲さんと話をしようかと」

 

 なるほど、と八一は納得する。奨励会の話など、色々と聞きたい事もあるのだろう。

 

「本当は夜叉神も一緒に食べる予定だったのですが、長引きそうだから先に食べていい、と連絡がありまして。あぁ、竜王はどうしますか? 僕は珍豚美人(チントンシャン)を頼みましたけど」

「俺はバターライスセットだ。八一はダイナマイトなんてどうだ?」

「名前が怖いんでまたの機会に……俺も珍豚美人にしますかね」

 

 珍豚美人はこのレストランの創作料理で、豚の天ぷらにセサミソースをたっぷり掛けた一品だ。付け合わせのマッシュポテトやナポリタンとの相性が抜群で、珍妙な名前ではあるが、勝負メシに注文する棋士も多い人気メニューだ。

 

 注文を伝えた八一は、出された水で喉を潤すと、不意に思い出した事を口にした。

 

「小耳に挟んだんですけど、鏡洲さん、あまり連盟に顔を出してないみたいですね」

「あぁ、ちと鍛え直そうと思ってな。みんなには悪いが、最近は家に籠もりっ放しだ」

「いいんじゃないですか。鏡洲さんは面倒見がよすぎなんですよ」

 

 将棋連盟の手伝いや後輩のフォローなど、人がよくて気が利く鏡洲は、将棋以外の事にも時間を使ってしまう。実力があるのにプロになれないのは、そういう理由もあると八一は考えていた。

 

「けど家に籠もるって、いったいなにしてるんですか?」

「ソフト研究。前から使っちゃいたが、創多に教わって本格的にな」

 

 なんとも興味を惹かれる話だ。ここ数年で将棋AIは目覚ましい進化を遂げており、既にトップ棋士でも敵わないレベルにあると見られている。最近ではソフト発の新手も多く、ソフトを使った研究の重要性は加速度的に増していた。

 

「感触はどうですか? プロでも浸透してますけど、まだまだ嫌う人も多いですね」

「ソフトは強いかもしれんが、俺を強くしてくれるわけじゃないな。教師としては三流以下だ」

 

 あっけらかんと言い放ち、可笑しそうに鏡洲が笑う。

 

「ヤツら自分の言いたい事を言うばっかりで、こっちの事なんざひとつも考えちゃいねえ。評価値だって鵜呑みにはできないし、好手も悪手も理由についてはダンマリだ」

 

 八一は頷いて同意を示す。鏡洲の向こうでは、湊も同じく首肯していた。

 

 将棋ソフトを使えば指した手の良し悪しを評価できるし、モノによっては次の一手を提案させる事もできる。しかしソフトが提示するのは結論だけで、それを導くまでのプロセスは不透明だ。

 

 人間とソフトでは感覚が違う以上、ソフトにとっての好手が人間にとっても好手とは限らない。その後の手をソフトと同じようには指せないのだから。

 

「結局は俺が考えて、俺が強くなるしかない。なぜソフトがそう答えるのかを読み解いて、自分の将棋を見直すんだ。その点では便利だな、すぐに意見を返してくれるのがいい」

「意見の正しさよりも、意見をもらって刺激を受けるのが重要って感じですか」

「そうだ。ソフトが強いのは確かだし、俺とはまるで視点が違う。色々と考えさせられるよ」

 

 一理ある。棋士が研究会に参加するのも、他者の意見に触れ、刺激を受ける事が目的の一つだ。棋士と違って意見交換などは望めないが、予定を合わせる必要がない手軽さは利点だろう。

 

「便利なトレーニング器具だが、トレーナーじゃない。それが理解できるならいいと思うぞ。逆に初心者だと危ういかもな。下手すれば自分で考えなくなって弱くなりそうだ」

「プロでも『勝てる棋士』は以前と変わりませんからね。結局は地力をどう鍛えるか、ですか」

 

 現在の将棋界は、まだまだ将棋AIとの付き合い方を模索している段階だ。しかし避けられない課題である以上、上手く自分の将棋に取り込んでいくべきだろう。

 

「で、AIに不平を垂れながら研究してるんだが、頭が固くなってるのを痛感したぜ。固定観念が酷いな。言われてみれば、と思い直す手も多い。お陰でちょいとスランプ気味だ」

「いやいや軽く言ってますけど、もし三段リーグで勝ち越せなかったら――――――」

 

 年齢制限で奨励会を退会しなければならない。最後まで口に出すのは憚られたが、八一としては心配だ。鏡洲の実力は信頼しているが、スランプが長引くようなら致命傷になりかねない。

 

 なのに心配されている当人は、至って平気そうに笑っている。

 

「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいいって言うだろ。それに手応えはあるんだよ」

「もちろん放置はできないので、竜王が来る前は二人で意見交換をしていました」

「ひょっとして、夜叉神2級の指導にもソフトを使ってるんですか?」

「一人の時は使う場合もあるようですが、基本的には直接指導していますよ」

 

 涼やかな湊の眼差しに捉えられ、八一は思わず姿勢を正す。

 

「あの子の良いところも悪いところも、僕の方がよくわかるので」

 

 軽々と言い切った言葉は、だからこそ八一に重く響いた。自然体で気負いのない様子は、師弟の信頼関係を窺わせる。気付けば、あいが座る席に目が向いていた。

 

「竜王も弟子を取ったと聞きましたけど、彼女がそうですか?」

「あ、はい。そうです。先日は夜叉神2級のお世話になったとか」

 

 あいから話を聞いた時は、正直に言って意味がわからなかった。いったいどんな縁だと混乱したが、楽しそうに報告するあいを見れば、うるさく言うのは野暮に思えた。自分より強い同年代というのはいい目標になり得るし、事実として、あいは以前よりも将棋界への関心を高めている。

 

 この調子なら予定している研修会試験も大丈夫だろう。そんな風に八一が暢気に構えていると、湊と鏡洲が真面目な顔で見詰めてくる。戸惑う八一に、まず湊が切り出した。

 

「お忙しいとは思いますが、彼女の事、よく見てあげてくださいね」

「そうだぞ、八一。かなり注目を集めてるみたいだからな」

「へっ? いやまぁ、竜王の弟子ですからね」

 

 最高峰の棋士に弟子ができたのだから、誰しも気にするものだろう。しかも十代での弟子取りとなれば前代未聞。狭い関西将棋界なら、すぐに噂が広まっても可笑しくない。

 

 なにを心配しているのかと首を捻る八一に、噛んで含めるように鏡洲が語る。

 

「最初に銀子ちゃんが出てきて、次に夜叉神ちゃんが出てきただろ? そこに来て、十代の竜王が女の子の弟子を取ったんだ。才能もあるみたいだし、みんなどこかで期待してるんだよ」

「三人目の出現を、ですか? 気持ちはわからなくもないですが」

 

 なんだかんだ言って将棋は人気商売だ。世間の話題になる存在は多い方がいい。銀子だけなら神様の気まぐれだが、二人目が出てきたとなれば、次も期待してしまうのは人の性だろう。

 

「所詮は期待でしかないんだが、その重み、お前なら理解できるよな?」

 

 問い掛けに、八一はただ静かに頷きを返す。

 

 竜王は最強の棋士を示すタイトルであり、保持者には相応の将棋が求められる。八一自身がそうあるべきだと自負し、世間も同じく期待した。史上最年少であったから、なおさらに。その重圧が圧し掛かり、先日まで続いていた公式戦十一連敗の原因になったのだ。

 

 タイトル獲得までほぼ応援一色だったネットの声も、負けが込むほどに批判が増えて、現在では失冠を祈る声が大勢を占めるほど。ひとえに期待を裏切ったからだろう。

 

「……気を付けます。俺はあの子の師匠ですから」

 

 自分の弟子になるため、たった一人で石川県からやってきた少女。ひたむきで、純粋で、一途に慕ってくれる彼女のお陰で、連敗で腐っていた心を叩き直せたのだ。

 

 将棋界の事も棋士の事もろくに知らなくて、ただ将棋が大好きだと彼女は言った。その気持ちを陰らせたくない。それが自分に憧れてくれた少女への、果たすべき責任だと思うから。

 

 手を振ってくるあいに片手で応えながら、八一は師匠として決意を新たにするのだった。




★次回更新予定:8/30(日) 19:00


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#023 研修会試験

 あいに研修会試験を受けさせると決めたのは、弟子入りを認めてすぐの事だ。奨励会の下部組織と言える研修会は、アマチュア二段以上が入会の目安と言われている。普通なら将棋歴三ヶ月では厳しい壁だが、あいにはそれを越えられるだけの才能があった。

 

 奨励会とは異なり、研修会の入会試験は例会ごとに実施される。幸い春休み終盤に四月一回目の例会があったため、そこをターゲットとして八一はあいに指導してきた。

 

 試験内容は三度の対局。基本は研修会員が相手だが、場合によっては幹事のプロ棋士が出てくる可能性もある。とはいえ必ずしも勝つ必要はなく、対局内容から実力を認められれば合格だ。あいなら合格は確実で、入会時のクラスがどこになるかが焦点だと八一は考えていた。

 

 しかし世の中、そう簡単にはいかない。現在、二人の前には問題が立ちはだかっていた。

 

 事の起こりは、急にあいの両親がやってきたこと。娘が家出したのだから心配するのは当然だと思うが、将棋に関する意見対立が厄介だった。要はあいが将棋を続ける事に反対なのだ。

 

 八一とあいが目標としている女流棋士は、たとえプロになれたとしても安定した職業ではない。棋士と比べて対局数が少なく、勝ち上がれなければ暇になる。対局料も低めだし、聞き手といった『普及』の仕事でも棋士ほどは稼げない。確かな実力や人気がなければ厳しい世界である。

 

 親として子供を不安定な道に進ませたくない、という彼らの意見はもっともだ。けれど八一も、考えなしにあいを弟子に取ったわけではない。彼女ほどの才能ならば、必ずタイトルを争うほどの女流棋士になれる、と信じたからだ。

 

 話し合いの末になんとか引き出せた条件は、研修会試験の全勝合格。実力差があっても、時には負けてしまう将棋という競技では、なんとも厳しい条件である。父親の方はいくらか理解も示してくれたのだが、母親の方が頑として譲ってくれず、あいも意固地になって約束してしまった。

 

 そうして迎えた試験当日、試験の滑り出しは順調だった。

 

 初戦の相手はあいの友達であり、研修会員でもある貞任綾乃。あいをよく知る彼女は過剰に警戒してしまい、一気呵成に攻め込んだあいが早々に勝利をもぎ取った。

 

 二人目は研修会の幹事を務める久留野(くるの)七段。実力十分のプロ棋士だ。あいの才能を認めたらしい彼は本気の勝負将棋を挑んできたが、駒落ちの有利を手放さなかったあいが勝利した。

 

 この時点で試験は合格確実だが、必要なのは全勝。最後の相手は――――――、

 

「マジかよ……」

 

 久留野に呼ばれて入室してきた人物に、八一は呻かずにはいられなかった。

 

 長い黒髪、小さな体躯。真っ直ぐにあいを捉える瞳は、意志の強さを感じさせる。夜叉神天衣。近頃の将棋界を賑わせている少女が、三人目の対局相手だった。

 

 三段未満の奨励会員は、研修会で指導対局を行う時がある。だからあり得ないわけではないが、いくらなんでも予想外だ。あいも驚きで固まって、ちゃんと反応できていない。

 

「久留野先生、なぜ彼女が? タイトル戦も間近なのに」

「もう耳にされたかもしれませんが、雛鶴さんには注目が集まっています」

「……ええ、知人に教えてもらいました。それと関係が?」

 

 久留野は静かに頷き、将棋盤を挟んだ二人の少女に目を向ける。

 

「どうせ実力を測るなら、世代を代表する夜叉神さんとの差を知りたい、という声がありまして。将来雛鶴さんが大成した時に、ちょっとした話のネタにもなりそうですしね。夜叉神さんの予定を気にする声もありましたが、意外にも本人が乗り気だったので決まりました」

 

 八一が唸る。まさかこんなところにまで影響が出るとは思わなかった。

 

 手合割さえ問題なければ、たしかに試験の公平性は保たれる。しかし負けられない身としては、やはり研修会員の方が望ましい。知識が少なく、まだまだ定跡も覚束ないあいだが、読みの深さは八一も目を瞠るほど。特に終盤力は凄まじく、奨励会でも通用するレベルだ。

 

 序盤で差をつけられても、あいなら終盤で引っ繰り返せる。それを八一は知っている。とはいえ読みで勝ればこそであり、相手が奨励会員となればいささか厳しい。

 

「夜叉神さんの話が決まっていたので断りましたが、実は空二冠から試験官の申し出があったんですよ。彼女も雛鶴さんを気に掛けているみたいですね。さすがは竜王の弟子だ」

 

 なにやってんですか姉弟子。久留野は感心しているが、八一は乾いた笑いしか出てこなかった。子供の頃からずっと一緒に居る相手だが、たまに本気で考えが読めない時がある。

 

「……九頭竜先生、よろしいですか」

「あ、はい。なんでしょうか」

 

 話し掛けてきたのは、落ち着いた雰囲気の男性だ。名前は雛鶴 (たかし)といい、あいの父親だ。娘の試験の見学に来ており、隣には母親の雛鶴 亜希奈(あきな)も居る。

 

「彼女は『神戸のシンデレラ』ですよね? たしか奨励会員というもので、女流棋士でも研修会員でもないと聞いた覚えがあるのですが」

 

 女流棋士について調べてきたという話であるから、夜叉神の情報も目にしたのだろう。研修会と奨励会、女流棋士と棋士の違いはややこしいので、混乱するのもやむなしか。

 

 八一が将棋界の組織事情や実力差を説明している間に、二人のアイによる対局が始まった。

 

 手合割は飛車落ち。できれば香車も落としてほしかったが、久留野に勝った点を踏まえての評価だろう。ここまでの成績から、あいは研修会Dクラス以上と考えていい。ただ夜叉神に飛車落ちで勝つなら、Cクラス相当の実力は欲しいところだ。

 

 前向きな要素としては、通常の奨励会では飛車落ち手合いがない事だろうか。いつも湊と二人で指してばかりだと聞いたから、夜叉神は飛車落ちの上手で指した経験が少ないはずだ。

 

「とはいえ、これはマズいか……」

「先生、状況はどうなのでしょうか?」

 

 隣の隆が不安そうに尋ねてくる。あいが女流棋士を目指す事に反対している両親だが、やはり父親と言うべきか、彼の方は娘に甘い。娘が褒められれば喜ぶし、こうして心配もするのだから。一方の亜希奈はずっと厳しい表情で、今も対局する娘に鋭い眼差しを向けている。

 

「攻め切れていませんね。下手の利点を活かせていません」

「やはりタイトルに挑戦する方となると厳しいですか」

 

 いや、と八一は胸中で否定する。久留野と対局していた時のあいなら、もっと果敢に攻めていたはずだ。今の彼女は飛車落ちの下手らしく攻めに出ているものの、どこか臆している風に見える。その所為で上手に余裕を与え、このままでは位を取られそうだ。

 

 おそらくは以前の対局が不利に働いている。将棋道場で夜叉神に負けた話を、あいは楽しそうに聞かせてくれた。その実力に随分と感心した様子で、自分よりも強いと認めていた。

 

 つまりあいにとっては、よく知らないプロの棋士よりも、夜叉神の方がリアリティのある強者となるのだろう。直近で負けた記憶も鮮明なはずで、だからこそ警戒で手が鈍っている。

 

 あいは強い。それこそ十全に実力を発揮できれば、大いに勝ち目もあったほどに。しかし現実はそうならず、着実に形勢は傾いている。無論、夜叉神の有利へと。

 

「弟子の方もワルないんやけどなー」

「夜叉神は崩れんからイヤになるわ」

 

 竜王の弟子を見に来たらしい職員や奨励会員がコソコソ話しているが、共通しているのはあいが不利というところ。その判断は八一も否定できず、盤上の流れは止まらない。

 

「おっ、夜叉神が長考に入ったな」

「そんな難しい局面か?」

 

 若干の戸惑いを見せる観衆とは裏腹に、八一は苦虫を噛み潰した気分だった。

 

 詰みだ。長手数だが、たぶん夜叉神も読んでいる。そしてあいの表情から察するに、彼女もまた気付いているだろう。口にこそ出さないが、観衆の何人かも理解したようだ。

 

 周囲が固唾を呑んで見守る中、夜叉神が指した一手は――――――、

 

「…………っ」

 

 そんな表情もできるのか、と弟子の顔を見て思う。あるいはこちらこそが夜叉と呼べるような、怒りを押し殺した荒々しいそれ。彼女の両親も、娘の様子に驚きを隠せていない。

 

 夜叉神の一手は、最短の詰みを目指すものではない。それを舐められたと感じたのだろう。

 

 だが違うのだ。ずっと詰将棋を解いてきたあいにはわからない感覚かもしれないが、詰みがあるからといって、すぐに詰ませに掛かる必要はない。長い詰みより短い必至。寄せを間違えて詰ませ損ね、そこから逆転を許すというのはよくある話だ。

 

 夜叉神はあいを評価した。隙を見せれば引っ繰り返されると考えた。ゆえに確実な手順を選んだのだ。決して侮ったわけではなく、嬲り殺しにしたいわけでもない。

 

「あぁ、くそっ」

 

 一手ずつ一手ずつ、油断も隙もなく追い詰められながら、なおもあいの闘争心は消えていない。淡い桃色の唇を引き結び、闘志の炎を瞳に宿し、負けて堪るかと全身で訴えている。

 

 こんなにも、才能に溢れているのに。勝負師として大成できると、太鼓判を押せるのに。それを後押ししてやれない自分が、八一は心底恨めしかった。

 

 綺麗に指さなくてもいいと伝えてやりたい。どこまでも生き汚く勝利を求める、奨励会の粘りを教えたかった。その知識も時間もあったというのに、お行儀よく指導した事が悔やまれる。

 

 既に形勢は絶望的。どこで投げるかという段階だ。誰よりも読みに優れるあいは、誰よりも逆転の目がない事実を承知のはずで、それでも諦めるには、賭けたものが重すぎる。

 

 大粒の涙が零れ落ち、あいの膝を濡らした。直後に夜叉神が、八一たちの方へ目を向けた。

 

 なにか意図があったのか、それとも白熱する観衆が気になっただけなのか。すぐに盤上へ目線を戻した彼女は、駒台へと手を伸ばす。さながら機械の如く、淡々と盤上へ歩を打った。

 

「…………えっ?」

 

 その声を漏らしたのは、はたして誰だったのか。八一か久留野か、あるいは他の誰かだったかもしれない。この場に集った将棋を知る誰もが、呆気に取られてしまっていた。

 

 あいもまた、その一手に大きく目を見開いている。そして周囲の反応に気付いた夜叉神も、そう駒を指した本人さえも、信じられないとばかりに盤面を凝視した。

 

 悪手だ。おそらく想定より一段低い位置への打ち損じ。たった一つ隣にズレただけだが、たったそれだけの違いで、駒の役割は死にかねない。現に燻っていたあいの角が、一気に躍動し始めた。

 

 万に一つもなかったはずの勝ち筋が、今はたしかに見えている。思わぬミスから焦りを覗かせる夜叉神へ、あいは必死に喰らいつく。最後まで諦めようとしないその姿は、連敗を脱した一局で、八一が見せたものに似ていた。

 

 腹の底から熱が生まれ、自然と八一は拳を握る。隣では、隆が真剣に娘を応援していた。

 

「――――――参りました」

 

 ついには百五十四手という長手数に及んだ対局は、夜叉神の投了によって幕を閉じた。終局後、感想戦もせずに立ち上がり、夜叉神は部屋を後にする。九分九厘の勝利を、己のつまらないミスで逃したのだ。心中は察するに余りあり、呼び止める声はない。

 

 周囲の微妙な空気を察してか、不安そうに隆が問い掛けてきた。

 

「九頭竜先生。その、あいが勝ったんですよね?」

「はい、あいさんの勝ちです。ただ――――」

 

 わずかに言い淀んだのは、提示された条件が頭をよぎったから。試験に全勝して実力を示せと、亜希奈は言った。たしかに全勝したが、最後は綺麗な勝利とは言い難い。

 

「相手が終盤でミスしなければ、とっくに負けている対局でした」

「つまり実力で掴み取った勝利ではない、という事ですか」

 

 鋭い声の横槍は、厳しい表情の亜希奈のもの。キツい眼差しに、八一は正面から睨み返す。

 

「将棋は最後に悪手を指した方が負ける、と言われています。現役最強の棋士であっても、かつて一手詰――――――プロなら数秒で読める手を見落として、勝ちを逃した事さえあるんです」

 

 最後まで勝ち切る事の難しさ。最後まで勝ちを諦めない事の難しさ。不意に射し込んだ光明を、自らの勝利へと繋げたのは、紛れもなくあいの実力だ。それは絶対に否定させない。

 

「……まぁ、約束は約束です。あの子が条件を満たした事は認めましょう」

 

 しばらく睨み合った後、渋々と亜希奈はそう告げた。空気が弛緩して、八一は胸を撫で下ろす。隣で同じようにしていた隆と顔を合わせ、どちらともなく笑い合う。

 

 教えて安心させてやろうと、あいの方を振り返った八一だったが、

 

「あれっ?」

 

 愛弟子の姿は、部屋のどこにも見当たらなかった。

 

 

 ■

 

 

 馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。繰り返す罵倒は、情けない己に向けたもの。誰も来ない階段室に逃げ込んだ天衣は、ただひたすらに自分を責めていた。

 

 あいに負けた、それはいい。ミスをした、それもいい。将棋を指していれば、そんな事もある。許せないのは、そこに至るまでの過程。対局に集中し切れなかった、自身の未熟さ。

 

 対局場に入ってすぐに、あいの両親らしき存在には気付いていた。母親の顔立ちはあいに通じるものがあったし、父親の方は視線と態度で一目瞭然だ。傍には竜王も居たし、研修会の試験なら、そういう事もあるのだろう。だから最初は気にしなかった。

 

 けれど将棋盤を介せば、伝わるものもあるわけで。単純な試験の合否以上に重いものを背負っていると、察せずにはいられなかった。将棋道場の時とは、一手に籠められた想いが違う。

 

 だからといって手は抜かず、天衣は本気であいを迎え撃った。そのつもりだった。

 

 涙を零すほどに追い詰められた娘を、懸命に応援する父と。冷めた目を向けながらも、わずかに心配も滲んだ母と。娘を見守る両親の姿に、天衣の胸を騒がせたのはなんだったか。それは明確な形を持つ前に霧散したけれど、明らかな悪手となって盤上に現れた。

 

 なんと情けない。あいは全身全霊で立ち向かってきたというのに、それに応えるべき自分の心は浮ついていた。これでは勝負に負けて当然だろう。

 

 合わせる顔がない。あいにも、湊にも。だけどできるなら、今すぐ湊の顔が見たかった。なにも言わなくていいから、なにもしなくていいから、ただ傍に居てほしかった。

 

「あぁ、もう――――」

 

 階段に腰掛けたまま、天衣はボンヤリと天井を仰ぎ見る。大一番を前にした息抜き程度のつもりだったのに、とんだ読み違えだ。どう整理をつけたものかと悩むが、思考がまとまらない。

 

 嘆息。もはや数えきれなくなった自責の言葉が頭を埋め尽くしたところで、階段室の扉が開く。誰かが来たらしい。邪魔にならないように立ち上がり、天衣は入口へと目を向けた。

 

「あなた……」

 

 そこに居たのは、先ほどまで対局していた同い年の少女。天衣の存在を認めた彼女は、涙の跡が残る顔を引き締めて、立ち竦む天衣と正対する。

 

 なにか話でもあるのか。黙って出方を窺う天衣に向けて、少女は勢いよく頭を下げた。

 

「負けましたっ!」

 

 思考が飛んだ。言葉の意味が、理解できなかったから。呆然とする天衣を置いてきぼりにして、向こうは勝手に自らの思いを吐き出していく。

 

「天ちゃん、すごく強くて! 勝てないって、わかってて! ずっと、ずっと…………負けたって思ってた。でも負けたくなくてっ。そしたら――――ッ」

 

 ボロボロと涙を流し、細い肩を震わせて、あいは全身から感情を溢れさせていた。

 

「勝ったけど、そうじゃなくて。だって、こんなの――――――」

「私の負けに決まってるでしょ!」

 

 遮ったのは、最後まで聞いたら手が出ると思ったから。この甘っちょろい素人を、許せなくなりそうだったから。さっきまでの憂鬱なんて吹き飛んで、代わりに怒りが湧き上がる。

 

「あなたが勝って、私が負けた。勝手に人の負けを取っていこうとするんじゃないわよ! どんな気持ちで投了したと思ってるの! どんなに重い言葉かわからないの!」

 

 まくし立てれば目を丸くして、あいは涙を引っ込める。その反応で、天衣も少しは落ち着いた。大きく息を吐き出して、感情の波を制御する。

 

「勝った負けたを、将棋盤の外に持ち出すのはやめなさい。限られた時間で最善の一手を目指す。指した手は覆らない。だからこそ私たちは、一つ一つの手に想いを籠めるのよ」

 

 真っ赤になった目を、真っ直ぐ見据えて天衣が説く。

 

「さっきの一局に不満があるのなら、将棋盤の前で聞いてあげる。それと――――」

 

 聞き入るあいに、人差し指を突き付ける。紡ぐ言葉に、気持ちを乗せる。

 

「次は私が勝つ。首を洗って待ってなさい」

 

 まず驚きが顔を出し、次いで理解が広がって、最後に喜びが芽吹いた。こくこく何度も頷いて、あいは朗らかに口を開き、弾む声音で答えを返す。

 

「うんっ。絶対にまた指そうね!」

 

 能天気に笑う少女は、本当に理解しているのかどうか。ただ晴れやかな彼女の顔を見ていると、天衣も悩むのが馬鹿らしくなるというものだ。

 

 駄目な一局だった。でも、悪くない一日だった。それが天衣の結論だった。




★次回更新予定:9/6(日) 19:00

本作の研修会試験は原作と同じく計三局の対局としていますが、現実の試験では二度の例会に参加して計八局を指す事になります。おそらく春休み中という日程の問題と話の盛り上がりから、原作では一度の例会で三局という試験にしたのだと思われます。


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#024 タイトル戦

 元湯・陣屋。神奈川県鶴巻温泉にある老舗旅館であり、大正の頃から将棋や囲碁のタイトル戦で利用されてきた場所でもある。そして第四期以降のマイナビ女子オープン五番勝負は、この陣屋で開幕局を行う事が通例となっていた。

 

 女王戦第一局、その当日。騒がしい前夜祭から一夜明けた朝、一人、天衣は控室で対局の開始を待つ。黒紅色の振袖と、深紅の袴を身に纏い、瞑目した彼女は静寂に包まれていた。

 

 慣れぬ場所、慣れぬタイトル戦。大勝負に名局なしと言われるが、タイトル戦で実力を発揮するのは、それほどまでに難しい。天衣とて、どこまでやれるかは未知数だ。

 

 さりとて臆すはずもなく、ただひたすらに、精神を研ぎ澄ます。

 

「入ってもよろしいでしょうか?」

「――――――どうぞ」

 

 襖を開けて入ってきたのは、月光会長と秘書の男鹿だ。天衣の対面に男鹿が座布団を用意して、月光会長が正座する。彼が纏う静謐な雰囲気は、かつて対局した時と変わらない。変わったのは、天衣の方だ。今なら無様は晒さないと、己の成長を信じられた。

 

「突然の訪問で失礼いたしました」

「いえ、お気になさらないでください」

 

 儀礼的な言葉を交わした後、続く会話もなく見詰め合う。光を失った月光会長の目は閉じられたままだが、たしかに見られていると、天衣は感じた。

 

「……老婆心ながら助言でもと思ったのですが、心配なさそうですね」

 

 月光会長がなにを見たのか、天衣にはわからない。それでも幾度となくタイトル戦の場に立った棋士の眼鏡に適ったというのは、少なからず自信となった。

 

「ところで御影さんは? 昨夜もお見掛けしませんでしたが」

「こちらには来ていません。今頃は神戸の自宅かと」

「それは……なんと言いますか、意外ですね」

 

 驚かれるのもむべなるかな。常日頃から仲の良さを公言して憚らない師が、この大一番で駆けつけていないのだから。だがそれは湊が薄情なのではなく、天衣がそう頼んだのだ。

 

「この一局は、一人で戦いたいんです」

 

 湊には随分と心配されてしまったが、だからこそ。託された将棋を、ちゃんと背負っていけるのだと示したい。独り善がりかもしれないが、天衣はその決意と共にこの場に臨んだ。

 

 あらためて姿勢を正し、天衣は月光会長の顔を見上げた。

 

「月光()()。日頃は多方面でお気遣いくださり、本当にありがとうございます」

 

 将棋の指導を受けているわけではない。日常的に顔を合わせる事もない。けれど永世名人の弟子という肩書きが庇護の傘である事も、月光会長が方々に手を回している事も知っている。

 

 天衣と湊が大過なく過ごせているのも、それらの尽力あればこそ。だから感謝はしているのだ。普段は口に出さないが、こんな時くらいは、ちゃんと伝えようと思える程度には。

 

「覚えておられるでしょうか? かつて御影は、私の将棋を誇りと答えました」

「もちろんです。貴女の棋譜は、いつも楽しみにしていますよ」

 

 その言葉に、きっと嘘はない。そう信じればこそ、天衣は紡ぐ声音に想いを乗せた。

 

「本日の対局を楽しみにしていてください。御影湊の弟子の将棋を、ご覧に入れます」

「……ええ、楽しみにさせていただきましょう」

 

 満足したのか、それからすぐに、月光会長は男鹿を伴って退出した。二人を見送ってしばらく、あらためて気持ちを落ち着けた天衣は、一人で対局場へ向かう。

 

 一歩一歩、板張りの通路を進むたびに、昂揚が抑えられなくなる。凪いだはずの心に、生まれるさざ波。あぁこれがタイトル戦かと、どこか他人事のように天衣は思う。

 

 対局場に入室すれば、遅れて報道陣のカメラが瞬いた。興奮冷めやらぬ様子の彼らが、かえって天衣を冷静にしてくれる。努めて表情を崩さず、彼女は盤の前に座る。

 

 空銀子はまだ来ていないが、持ち込んだ巾着から、天衣は小道具を出していく。目薬やウェットティッシュなどの細々とした物を定位置に置いていき、最後に愛用の扇子を取り出した。

 

 奨励会に入会した折に、湊から贈られた物だ。父の理想を、湊が揮毫した一品。幼い天衣の手に余るサイズだが、その大きさが安心感を与えてくれる。

 

 間もなく、空銀子も対局場に姿を現した。天衣を一瞥して対面に座った彼女は、素知らぬ態度で巾着から小道具を取り出し、自らの対局環境を整えていく。そのまま駒を並べ始めた彼女に倣い、天衣も駒を並べていく。

 

 さすがに女王は場慣れしている。自然体を貫く姿は、タイトル戦の経験があればこそ。

 

 記録係の奨励会員が振り駒を行い、先手は天衣に決まった。やがて立会人が対局の開始を告げ、対局者の二人は無言で礼を交わす。無数のフラッシュが瞬く中で、天衣は駒に手を伸ばした。

 

 

 ■

 

 

 足りない。いつも銀子を苛むのは、満たされる事のない飢餓感。もっと強く、もっと上へ。鳴りやまない前進指令が、内から銀子を衝き動かす。

 

 誰にも負けないと思っていた。誰よりも強くなれると信じていた。

 

 もう、随分と昔の事だ。自分が選ばれた存在ではないと、今の銀子は知っている。白雪姫だとか史上最強だとか、すっかり大仰な肩書きが馴染んでしまったが、所詮は女性に限った話だ。将棋界全体に尺度を広げれば、単なる奨励会員の一人に過ぎない。

 

 幼い頃から共に切磋琢磨してきた八一は史上四人目の中学生棋士となり、最年少竜王となった。昔は自分の後ろをついてきていた弟弟子は、今となっては遥か先。手を伸ばしても届かず、むしろ距離は広がるばかり。それがどうしようもなく哀しく、寂しかった。

 

 だからこそ、前へ。一歩でも、前へ。胸の裡に渦巻くのは、尽きる事のない強さへの渇望。

 

 そして正直に白状するなら、嫉妬していた。夜叉神天衣に。自分よりも遥かに才能の輝きを放つ存在に、自分を追い抜いていくかもしれない存在に、羨望と焦燥を禁じ得なかった。

 

 昨年九月に奨励会に入会したばかりの夜叉神は、先の例会で『1級』へ昇級した。最短で2級を駆け抜け、とうとう入品に手が掛かる位置までやってきた少女に、今の奨励会は揺れている。

 

 直後に竜王の弟子に負けたとはいえ、相手は久留野七段すら破った新星だ。相手の雛鶴あいに興味を向けこそすれ、夜叉神の評価に揺るぎはない。

 

 最初だけだと、いずれ止まると嘯いていた者たちでさえ、息を潜めて動向を窺うような状況だ。そして夜叉神が存在感を増す一方で、銀子を甘く見る手合いも増えている。中学生で二段になった彼女もまた、奨励会全体で飛び抜けた存在なのは間違いない。だが夜叉神ほどじゃない。その魔法の言葉と、女という色眼鏡が相手に余裕を与え、銀子は例会で苦戦を強いられている。

 

 ゆえに勝たねばならない。前へ進むために、少しでも八一に近付くために、夜叉神よりも強いのだと、世間に示さねばならない。その気概を背負って、銀子はこの場にやってきた。

 

 対面に座した年下の少女。銀子が女王に挑戦した時よりも幼い彼女は、初めてのタイトル戦とは思えないほど冷静だ。八一から研修会試験の話も聞いたが、特に引き摺っている様子もない。

 

 化生の類ではなかろうか。どこまでも子供らしくない相手に、銀子は内心辟易していた。

 

 盤上はまだまだ序盤だ。夜叉神の打診を銀子が承諾し、戦型は相掛かりに決まった。予定調和と言えばその通りだが、銀子の立場上、弱気を見せたくないという面もある。

 

 なんの変哲もない穏やかな立ち上がりの中で、まず夜叉神が5八玉に構えた。直後の手で銀子が5二玉と続けば、探るような視線が飛んでくる。

 

 生石との一局については聞いていたから、5八玉型は研究済みだ。その上で後手番となった時に採用しようと決めていたのが、この先後同型だった。研究で出た結論は、先後の優劣なし。最近の傾向から動き出しの早い夜叉神に先手を譲った以上、序盤は局面の均衡を優先したい。

 

 さらに手を進め、まず銀子の方から飛車先を交換する。夜叉神の対応は如何に。自身も歩交換を選ぶか、あるいは歩を打って銀子の飛車を引かせるか。

 

 銀子が出方を窺う中で、白魚の指が迷いなく駒へと伸びる。

 

「――――――ッ!?」

 

 3七桂。その一手は、たしかに銀子の間隙を突いた。飛車先を保留し、8筋に歩を打たず、足の速い桂を優先する。それは絶対に先攻するという、熱いほどの意思表示だ。

 

 迷う。桂頭の歩を取ってもいい。飛車の頭に歩を打つのもいい。どちらも銀子に有利な手だが、夜叉神の致命傷にはなり得ない。瞬間的には気分がいいが、後に続くかは疑問だ。

 

「…………」

 

 長考の末に銀子が選んだのは、攻めるのではなく、自陣を整えること。桂の中央突破を許せば、一気に形勢を損ないかねない。直後に夜叉神が飛車先を交換したが、想定内。まだ悪くはない。

 

 夜叉神の様子を窺うも、やはり落ち着き払ったもの。いや、そもそも――――銀子の存在など、眼中にないのかもしれない。そう疑ってしまうほど、盤面だけに集中している。

 

 コップに水を注ぎ、銀子は喉を潤した。意識し過ぎだと、揺れる心を抑え込む。

 

 夜叉神に構想があるのは明らか。だからこそ冷静に狙いを読み、流れをこちらに引き込みたい。そうして序盤の小競り合いを繰り広げ、いよいよ中盤のぶつかり合いが本格化した、その最中。

 

「休憩時間になりました」

 

 自らの手番で、銀子は昼休憩を迎えた。すぐさま控室に戻り、注文していたカレーを食べながらも、頭にあるのは対局のこと。お陰でカレーの味がよくわからない。

 

 このままでは玉頭を叩かれる。それは認める必要があるだろう。桂跳ねを警戒するあまり、かえって中途半端な対応になってしまった。歯痒いが、切り替えるべきだ。

 

 休憩中は持ち時間の消費はない。その猶予を使い、銀子は今後の方針を整理した。

 

 やがて休憩が明け、対局が再開する。直後の展開は読み通り。中央へ進出してきた桂は仕留めたが、出血を強いられた。囲いは崩れ、玉を引きずり出されている。

 

 ――――――玉を逃がす。できなければ、勝負が決まる。

 

 綱渡りの状態が続く。午前の展開が速かった反面、持ち時間に余裕はあった。それを惜しみなく投資して、銀子は全力で立て直しを図る。

 

 最強の女性でありたいとは思わない。名声に興味があるわけでもない。けれど、ここで夜叉神に負けたくない。負けてしまえば、己はプロになる器ではないのだと、挫けてしまいそうだから。

 

 かつて棋士になれた女性は居ない。将棋の世界で、女は男に劣る。これまでの歴史によって積み上げられた常識を打ち破るには、これまでにない存在が必要だ。

 

 もしも夜叉神天衣が、その立場にあるとするのなら。空銀子は、どうなのか。奨励会に挑み、夢破れて散っていった先人と、同じなのか。背後に迫る足音が、銀子はただただ怖かった。

 

 ――――――どうだっ!

 

 左辺に玉を逃がし、山場は乗り切った。燻る不安を振り切るように夜叉神を睨めば、相手もまた銀子を見ていた。あるいは礼を交わして以来、初めて互いに目を合わせる。

 

 感情が読み取れないのは、自制か素か。銀子の敵愾心と裏腹に、夜叉神はあっさり視線を外す。

 

 直後に夜叉神は、手にした扇子を広げた。奨励会入会当時から持っていたという扇子は、けれど誰も開いたところを見た事がないと聞く。いったいなにが書いてあるのかと話のネタにされていたそれに、ついつい銀子も目を引かれた。

 

 『無縫』。大きく扇子に書かれた、その二文字。一瞬どんな意味かと考え、すぐに『天衣無縫』だと気付く。自意識過剰なのか、由来があるのか。雑念に囚われかけた思考を、慌てて銀子は引き戻す。見計らったように夜叉神も扇子を閉じ、盤上へ手を伸ばした。

 

 ――――――飛車を引いた?

 

 消極的な手に疑問を抱いたのは、わずかな間。その意図に、銀子は気付かざるを得なかった。

 

「あっ……」

 

 攻め手がない。今の一手で、反撃の糸口を封じられた。一時の安全を確保できようと、相手玉を落とせなければジリ貧だ。すっかり見落としていた己の不明に、銀子は内心で臍を噛む。

 

 さりとて、諦められるはずもなく。光明を求めて、攻めに出る。

 

 続く夜叉神の手は角打ちで、銀子の玉に睨みを利かす。仕留めに来たと理解はできても、それで対応できれば苦労はない。苦し紛れの反撃をいなしつつ、夜叉神は着実に寄せてくる。

 

 綺麗な手を選ぶと、思わず唸らされた。勝ち筋は色々とありそうだが、きっちり銀子の手を制限している。ひょっとせずとも、既に最後まで読み切られたか。

 

 ギュッと右手を握り締め、銀子は溢れかけた激情を抑え込む。

 

 自分は特別ではない。呪いのように銀子を苛む、その思い。八一に見える世界が、祭神に見える景色が、銀子には見えない。彼らと自分では、読みの深さも速さも違う。それが才能の壁であり、一つの境界線であり、生物として違うのだと、銀子は理解していた。

 

 だからこそ越えたい。勝ちたい。向こう側に居る夜叉神に、負けたくない。特別ではなくても、素質に差があっても、プロになれるのだと信じたい。八一の傍に、行けるのだと。

 

 強くなりたい。もし『女王』を差し出して強くなれるなら――――――、

 

「…………あぁ」

 

 思わず天井を仰ぎ、目をつむる。銀子の全身から、力が抜けていく。

 

 夜叉神に勝ちたかった。負けたくなかった。でも『女王』を守りたいわけではなかった。それはどうしようもない一つの事実で、そんな人間が、この席に座っていた。

 

 女王。女流タイトル序列一位。多くの女流棋士が手を伸ばし、届かず終わる栄誉の座。

 

 タイトルを獲って銀子が得たものもあるが、失ったものも多い。女王になるんじゃなかったと、後悔しなかったと言えば嘘になる。それでも今は、銀子が女王なのだ。なら背負わねばならない。女王として、タイトル保持者として、挑戦者を迎え撃つべきだった。

 

 タイトルは将棋界の顔だ。それは決して、蔑ろにしていいものではない。

 

 気付いてしまえば笑ってしまいそうで、泣きたくなりそうで、それらを堪えて盤面を見る。あぁこれは綺麗に負かされたなと、今になって銀子は気付く。攻めれば届きそうで、届かなく。相手の刃は、過たず銀子の喉元へ。そんなつもりはなかったが、形作りの途中のようだ。

 

 あえて逆らわずに形作りを進め、銀子は敗北を受け入れた。

 

「――――――参りました」

 

 ここに女王は居なかった。ゆえに勝利は、挑戦者の手に。




★次回更新予定:未定

大変申し訳ないのですが、十分に執筆時間を確保できそうにないため、当面更新停止とさせていただきます。


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