ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか (まだだ狂)
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プロフィール
ベル・クラネル(ネタバレ注意)


二章完結時点のプロフィール。随時更新。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ベル・クラネル】

所属:【ヘスティア ファミリア】

ホーム:教会の隠し部屋

種族:ヒューマン?

職業(ジョブ):冒険者

到達階層:17階層

武器:《ヘスティア・ブレイド》《劫火の神刀(ヴァルカノス)

装備:《白夜纏・壱式》 《白夜装・壱式》《緑玉ノ籠手》

所持金:800000ヴァリス

 

ベル・クラネル

 

 Lv.3

 

 力:H127

 

 耐久:G272

 

 器用:G211

 

 敏捷:H178

 

 魔力:G238

 

 宿命G

 

 耐異常I

 

《魔法》

 

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)

 

 ・詠唱不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

《スキル》

 

■■■■(──・──)

 

 ・早熟する

 

 ・■■(──)を貫き続ける限り効果持続

 

 ・■■(──)の強さにより効果向上

 

鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)

 

 ・治癒促進効果

 

 ・逆境時におけるステイタスの成長率上昇

 

 ・時間経過、または敵からダメージを受けるたびに全能力に補正。

 

 ・格上相手との戦闘中、全能力に高補正。

 

《ヘスティア・ブレイド》

 

伝説の金属(オリハルコン)を使用して鍛えられた武器。ヘファイストスの全力とヘスティアの想いが込められたこの武器は、神の意思が宿る神想武器(アヴァタール)と呼ぶべき至高にして無二なる代物である。

 

・契約書に記載された代金は、6億ヴァリス。聞けば目玉が飛び出るような巨額だが、ヘファイストス曰くこれでもかなり良心的な値段らしい。

 

・95年ローン1260回払い。

 

・「英雄の道を共に征き、共に成長し続ける至高の半身」として、刀自体に【ステイタス】が存在する。

 

・ヘスティアの髪と『神血(イコル)』、【神聖文字(ヒエログリフ)】に加えて、彼女自身の意思(神格)が刀身に編み込まれている。

 

・ベル・クラネル以外のものが使えば、刃の切れ味は青銅にも劣るガラクタとなる。

 

・ベル・クラネルが『英雄』に至ったとき、この刀もまた『英雄』が振るうに相応しい至高の武器となるだろう。

 

劫火の神刀(ヴァルカノス)

 

伝説の金属(オリハルコン)を使用して鍛えられた武器。ヘファイストスが遠い昔、神滅神器(ケラウノス)と交わした約束を果たすために、魂を燃やして鍛えあげた。

 

神想武器(アヴァタール)と呼ぶに相応しきこの武器には、ヘファイストスの燃えても尽きぬ業火のごとき神格(おもい)が宿っている。

 

・「英雄が命つきるそのときまで、振るい続けられる究極の刃」としてヘファイストスが魂をこめて鍛え上げた逸品であり、今後この刀を超える武器が鍛えられることはないだろう。

 

・ヘファイストスの魂が宿るこの刀は、刀身自体に炎属性が付与(エンチャント)されていて、ふれたものを溶かすように斬る。

 

・嘗て神滅神器(ケラウノス)が振るった刀の造形(デザイン)を踏襲した《劫火の神刀(ヴァルカノス)》は、ヘファイストスが彼に贈る最後の贈り物であり、二人をつなげる最後の縁でもある。(なかご)には「ヘファイストス」の銘が刻まれている。

 

・ベル以外のものが触れれば、怒るように炎を燃え上がらせて拒絶する。

 

《白夜纏・壱式》

ヴェルフ作、防具《白夜》シリーズ第一弾。

・白銀色のマント。

・材料にドロップアイテム《シルバーバック強化種の毛皮》を使用。雷属性に対する高耐性。

・ベル専用に作られたマントであり、動きやすさを特に重視して製作されている。《シルバーバック強化種の毛皮》は非常に頑丈で、『中層』程度のモンスターの攻撃はほとんど吸収できる。

・裏地には【ヴェルフ・クロッゾ】の刺繍と『ベル・クラネルのみが纏うことを許される』の文字が金糸で刺繍されている。

 

《白夜装・壱式》

ヴェルフ作、防具《白夜》シリーズ第二弾。

・白銀の上着、下着、ブーツ。

・材料にはドロップアイテム《シルバーバック強化種の毛皮》《シルバーバック強化種の牙》《シルバーバック強化種の爪》を使用。雷属性に対する高耐性。

・極限まで無駄が省かれており、軍服染みた見た目とは裏腹に非常に軽く、動きやすい。

 

《緑玉ノ籠手》

・価格三万五千ヴァリス。

・エイナからの贈り物。彼女の瞳と同じ緑玉色の線が掘られた純白の籠手。

・盾と用途を同じくする籠手。手の甲で防御可能。

・エイナのベルを無事を祈る想いが込められている。

 

 



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序章 英雄譚の幕は上がった
ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか


 

「オオオオオオオォォッ──!」

 

『ヴヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

 静寂に包まれていた暗がりの空間に、突如としてふたつの咆哮が雷鳴のごとくとどろいた。

 

 ここは富と名声求めし冒険者の集う都市、名をオラリオ。その中心に存在する地下迷宮(ダンジョン)の5階層だ。

 

「疾っ!」

 

『ヴォッ!』

 

 対峙しているのは白髪赤目が特徴的な少年と、本来であればこの階層には出現しないはずの牛頭人身の怪物(モンスター)『ミノタウロス』だった。

 

「ふっ!」

 

 衝突の後、ウサギのような軽い身のこなしでミノタウロスから距離を取る少年。

 

 刃の欠けた短剣を、構え直す。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」

 

『フゥー……フゥー…!』

 

 彼我の距離、わずか4M(メドル)。両者ともに、間合いの範疇。

 

 しばらくの探り合いを経て、

 

『ヴォムゥンッ!』

 

 筋肉隆々なミノタウロスから鋭い拳が放たれた。

 

「……っ!速い……!」

 

 紙一重、直観に頼って後退した少年。

 

 「ぐ……う……」

 

 ズキンと針を刺すような刺戟。

 

 表情を歪めながら右頬をぬぐった手の甲には、べっとりと血が付着している。

 

 (ミノタウロスの動きに、眼が追い付かなくなってきてる……)

 

 対峙した当初は見切っていた拳の軌道だったが、直撃すれば命を奪われかねない状況下による極度の集中と、それによる精神的疲弊によって、明確な脅威へと変貌し始めていた。

 

『ヴォオオオッ!』

 

 反撃なき少年を前に一気呵成と攻め続けるミノタウロス。

 

 「ふっ! くっ! はっ!」

 

 躱す、躱す、また躱す。反攻の糸口を見いだせない少年は回避に徹し続ける。

 

 次の瞬間、

 

「ぐ、身体が……!」

 

 少年は悲鳴をあげる肉体に『動け』と命じた意思を拒絶され、それをねじ伏せるのに僅かな時を割いてしまった。

 

 第三者の視点に立ってみれば、一秒にも満たないだろう刹那の隙。

 

 しかし、

 

 少年にとっては致命的な隙だった。

 

 「かわせっ―」

 

 ない、と言うよりもはやく。

 

 「ゴフッ…!」

 

 ごうと鋭く風を切る音が空間に響きわたり、そのままミノタウロスの拳は少年の腹部へ勢いよくめり込んだ。

 

「ガァッ!ゴホッ!ガハッ!」

 

 会心の一撃をモロに受けて(ゴミ)のように吹き飛んでいく少年は、まるで受身を取れず、肩や足などを何度も、地面に、強く、打ち付けながら水面を跳ねる石のように転がり続ける。

 

 「グァッ!ゴフゥッ!ギィッ!」

 

 その勢いが収まる気配はまるで無く、ドンと壁を粉砕し埋もれるように衝突したことで、ようやく止まることを許された。

 

「う……あ……」 

 

 埋没する壁から覗く少年はすでに満身創痍。着ていたであろう衣服は見るも無惨に破れ去り、身体のそこかしこに酷い打撲痕が刻まれている様は実に痛々しく、思わず目をそむけたくなるほどであった。

 

「………………ぅ」

 

 大切に使っていただろう短剣も刀身がボロボロに欠けて、息を引き取っている。

 

『ヴゥ……』

 

 それに比べてミノタウロスはどうだ。傷一つ負っていない。まったくの無傷である。

 

 この戦いは誰が、どう見ても、少年の劣勢だった。

 

 それもその筈。

 

 元々ミノタウロスは『中層』と呼ばれるLv.2の冒険者が踏み入れる階層に出現するモンスターであり、冒険者になってまだ日が浅いLv.1の少年(駆け出しの冒険者)が戦っていい相手(モンスター)では決してない。

 

 寧ろ遭遇(エンカウント)したにもかかわらず、いまだに足掻き続けていられる少年の方が異常であり、奇跡なのだ。

 

『ヴヴォ……』

 

 吹き飛んだ先で少年の気配が消えたのを理解し、ミノタウロスは心の内で安堵していた。

 

 右手に感じた命を奪った感触。己の前で猛威を振るったあのバケモノども(ロキ・ファミリア)とは違う、本当の人間(狩るべき獲物)を屠った確かな手ごたえ。

 

 酩酊するほどの、快感。

 

 心の中を支配していた恐怖はこの瞬間にあふれ出た昂奮に塗りつぶされ、意気揚々と次の獲物を探す為にミノタウロスは辺りを見渡した。

 

 ──そうだ、人間など己の拳一つで吹き飛ぶような脆弱な存在なのだ。

 

 ──自分の感じた恐怖を、次は人間に与えなければいけない。

 

 もうミノタウロスの頭の中には、さきほどまで戦っていた少年の記憶など一切として残されていなかった。

 

 しかし……。

 

「まだだ……」

 

 ミノタウロスの耳に少年の声が響いた。

 

 小さく呟くほどでありながら決して揺るがぬ強さを携えた、少年の声が。

 

「まだだ!!」

 

 ダンジョンの5階層に少年の声がとどろいた。

 

 喉が引き裂かれんほどの怒号と、覚悟に満ちた瞳を(ミノタウロス)へと向けて、少年が立ち上がった。

 

 「僕は……まだ……負けて……ない……っ!」

 

 と息も絶え絶えに叫ぶ少年。

 

 その額からは血がどくどくと流れ、左腕は有り得ぬ方向へとねじ曲がっている。なのにどうして立ち上がることが出来るのか、ミノタウロスには不思議でならない。

 

 ミノタウロス()はすでに次の獲物を探していた。この少年はただ死んだ振りをしていれば良かったのだ。ひっそりと息を潜めてさえいれば、自分の命は助かった筈なのに。

 

『死にたがっているのか?』とミノタウロスは考えたが、その答えは間違っているのだとおもい直した。

 

 なぜならば。

 

 瀕死の状態になって尚、少年の目は、表情は、呆れるほどに『諦めていなかった』のだから。

 

「おい、どこへ行く?逃がしはしないぞ。お前は必ずここで討つ」と魂を燃やし、気合いと根性だけで瀕死の肉体を奮い立たせているのだから。

 

「僕が……僕がここで……倒す……。もう誰も……あの日のように……失わせはしない……っ!」

 

 少年の双眸に宿るのは雷火のごとき嚇怒。

 

 祖父を失ったことで自分の弱さや不甲斐なさを感じた少年は、その日を境に強くなりたいと心の底より願うようになった。自分だけでない、他の誰にも大切な人を理不尽に奪われる悲しみを抱いてほしくない、と強くおもうようになった。

 

 悪を許せぬ(さが)を識った。

 

(今ここで僕が立ち上がらないと、ミノタウロスは他の冒険者を襲ってしまう……奴はそうする、だってそれが怪物(モンスター)だから……)

 

 今、少年が立つはダンジョンの5階層。ここでモンスターを狩っている者の多くはLv.1の冒険者であり、ミノタウロスを前に抵抗できるものは限りなくゼロに等しい。

 

 その事実が、守るべき者のいる現実が、少年の心に鋼の決意を抱かせる。

 

(奪わせはしない! 守ってみせる! 『誰かの』涙を笑顔に変えたいから、僕は大志を抱くんだ!)

 

 震える右手をぎゅうと強く握りしめて、眼前に立ちはだかるミノタウロスを睨み付ける。

 

 初めて感じた濃厚な死の気配を前に必要なのは、揺るぎなき覚悟。 

 

 ただ、それだけ。

 

 だから今も走馬灯のように脳裏をよぎる、優しいあの日の思い出(祖父と過ごした日々)を今はそっと胸に仕舞い、少年は過去を振り返らず我武者羅に前へ進み続ける。

 

 ──英雄(■の■)になる為に。

 

「神様、ごめんなさい……。使うなって忠告されたのに……。これしか、勝てる可能性が拓けそうにないです!」

 

 神様(ヘスティア)から神の恩恵(ファルナ)を刻んで貰った時、少年は一つの魔法を会得していた。

 

 魔法というモノに憧れを抱いていた少年は跳び跳ねるように喜んだが、どうやら自分自身に危険を及ぼす可能性があるとして神様にも「いいかい! この魔法は本当に危ないんだ! 絶~対に使っちゃダメだからね!」と口酸っぱく魔法の使用を禁じられていたのだ。

 

 あの時のことを思い出し申し訳なさそうに俯く少年だったが、次に前を向き見せた凛々しい表情からはすでに後ろめたさなど消え去っていた。

 

 紡ぎ出す言葉は弱き過去()との決別。英雄になると誓った少年の願い。

 

 ──もう誰も失いたくない! 守られるだけなんてゴメンだ! 

 

 ──だから僕は強くなって! 「誰か」の笑顔を守ってみせる! 

 

「うおおおおおおおおおおおお!!」

 

 ゆえに少年が振るう魔法。それは、至高。それは、最強。それは、究極。それ以外に、形容すべき言葉無し。何故ならば、この魔法こそが少年の思い描く憧憬だから。

 

 天空神(祖父)から受け継ぐ英雄への憧れが、少年に裁きの雷霆(鋼の意志)を宿らせる。

 

 さあ、今こそ邪悪なるモノに裁きの光を齎そう。

 

「ガアアアアアアアア!!」

 

 瞬間、雷光が迸る。地面を抉り、壁を粉砕する暴威となって、この空間を支配する。万象の悉くを、そして邪悪を断罪する天神の雷霆(ケラウノス)は、少年の覚悟をもって今此処に顕現した。

 

『ヴ……ヴォ……!』

 

 その光景を見て、ミノタウロスの本能が警鐘を鳴らした。「逃げろ」「逃げろ」「今すぐ逃げろ」と。命の危機を強く感じたミノタウロスは本能に従い、この場から逃げようとする。

 

 しかし、己の意志に反して身体はまるで石のように動かなかった。

 

 少年が見せる余りの気迫と強大な魔力の波動に、竦んでしまったのだ。

 

 ブルブルと怯えて震えるミノタウロスの姿は、まるで己の罪が裁かれる時を待つ咎人のようだ。

 

 恐怖に慄くミノタウロスを尻目に、肌が焼け爛れるほどの高濃度の魔力が少年の右手に収束していく。Lv.1の少年にとって膨大すぎる魔力は己の肉体に牙を剥き、凄まじい痛みが全身を襲った。

 

「が……ァ……うぉおおお……」

 

 神経が焼かれた目からは血の涙を流し、膨大な魔力を一身に受ける右腕はギシギシと軋むような音をあげる。

 

 「ぐぅううううううううううううううううううううっ……!」

 

 収束し続ける魔力が暴発せぬようにと踏ん張る足は地面に埋もれ、必至に食いしばる歯は粉々に砕ける未来を幻視してしまうほどだ。

 

 (まだだ。まだ、耐えろ。奴を確実に葬るだけの魔力を貯めるんだ……っ!)

 

 想像を絶する苦痛が肉体を襲うが、それでも少年は前を向く。意識が沸騰するほどの痛みを気合いと根性で耐え抜いて、チャージが完了する瞬間を待ち続ける。

 

 ──そして、ついにその時は訪れた。

 

 右手に収束した膨大なる魔力が一片の闇を許さぬ殲滅光(ガンマ・レイ)となって、ミノタウロスに放たれる。

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】!!」

 

『……ヴ……!』

 

 5階層に光が満ちる。少年の右手より放たれた雷光は、瞬く間にミノタウロスを飲み込み……

 

 「はぁ……はぁ……」

 

 ──天霆の轟いた地平に残されたのは、鋼の意志を抱く少年(ベル・クラネル)だけだった。

 




ベル・クラネル

Lv.1

力:H130

耐久:I84

器用:H164

敏捷:H185

魔力:I82

《魔法》

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)

・集束殲滅魔法。

・雷属性。

・チャージ可能。

・チャージ時間に応じて威力上昇。

《スキル》

英雄誓約(ヴァル・ゼライド)

・早熟する。

意志(おもい)を貫き続ける限り効果持続。

意志(おもい)の強さにより効果向上。


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少女から見た景色

 

「……凄い」

 

 白兎の少年(ベル・クラネル)Lv.2の怪物(ミノタウロス)の戦いをその目に焼き付けているのは、人形のような無垢さを感じさせる金眼金髪の女剣士。

 

 数多くいる女性冒険者の中でも最強の一角として名を上げられる、隔絶した技量を持つLv.5の実力者であり、【剣姫】の二つ名でオラリオ中に勇名を馳せる英傑。

 

 彼女の名はアイズ・ヴァレンシュタイン。【ロキ・ファミリア】に所属する第一級冒険者だ。

 

「……助けないと、いけないのに」

 

 少女が、呟く。

 

 その言葉に後悔の念が重くのしかかっているのは、眼前で紡がれる英雄譚の一節に、アイズは決して無関係ではないからだった。

 

 記憶の時計を僅かばかり巻き戻せば、アイズの脳裏に克明と浮かび上がる失態の光景。

 

 アイズ含むロキ・ファミリアは某派閥から受けたとある冒険者依頼(クエスト)の撤退時、『中層』にて偶然にもミノタウロスの集団と遭遇。本来であれば知恵無き獣に過ぎない怪物は勝ち目が無い敵であろうとも勇猛果敢(ばかしょうじき)に立ち向かってくるのだが、何故か今回に限って敵前逃亡を図ったのだ。

 

 突然の異常行動に虚を突かれたアイズたちは即座に追撃を開始して、一体。また一体と害虫を踏み潰すようにミノタウロスを屠っていったのだが、何と最後の一体は遥か遠くの『上層』にまで死を恐れてしゃにむに駆け上がっていった。

 

 所詮ミノタウロスは『中層』に生息する程度のモンスター。Lv.5であるアイズやロキ・ファミリアの仲間にとっては取るに足らない貧弱な獲物に過ぎない。

 

 しかし、『上層』で狩りをする冒険者たちにとっては悪夢(きょうい)以外の何者でもなかった。

 

 やがてアイズは最後のミノタウロスの足跡を追って上層までやってきた。いまだに悲鳴であったり血の跡を見ていないので被害は出ていないだろうと予想しているアイズだが、油断はできないと走り出す。

 

 そして、場面はアイズが呟いた最初の場面に戻る。現実離れした戦いの場へと。

 

「ふっ……! はぁ!」

 

『ヴゥムゥンッ!』 

 

 今、アイズの心を支配するのは「驚愕」の二文字。それ以外に形容できる言葉は無いと、アイズは断言できる。

 

 誰がどう見てもLv.1の駆け出し冒険者だとわかる新米の少年が、中層に待ち構えるモンスターが一つミノタウロス相手にたった1人で立ち向かっているのだから。

 

 この常軌が逸した光景を見て驚かない人間など恐らく存在しないだろう。

 

──それは超越存在(デウスデア)であっても例外ではない。

 

──寧ろ彼等(神々)は新たな英雄の到来に歓喜し、感涙し、そして喝采するに違いない。神は娯楽を求めてこの大地に降り立ったのだから、英雄譚など至上の娯楽と言える。

 

──しかし神よ、ゆめゆめ忘れるな。彼の守るべき『誰か』を傷つけたのなら、それが例え万能たる超越存在(デウスデア)であろうとベル・クラネルはその暴虐を認めず是正するのだから。

 

──ベル・クラネルは真実、紛れもない〝英雄〟だ。その胸に抱く鋼の意志をもって神すらも断罪し、その屍を乗り越え進むだろう……

 

 すぐに助けに入るべきだとアイズは常識から考えて理解しているのだが、どうしてもその一歩を踏み出せずにいる。

 

「オオオオオオオォォッ──!」

 

『ヴヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

 

 振るう武器はギルドで販売されているだろう初心者向けの安物で、ミノタウロスを前にした立ち回りも太刀筋もアイズにして見ればあまりに不格好で未熟。

 

 アイズの眼前で戦う少年は、端的に言えば弱かった。今も我武者羅に立ち向かえているのは少年の持つ精神性、気合と根性があるからこそだ。

 

 助けるべきだ。自分が一歩踏み出せばすぐに終わる。アイズにとってミノタウロスなどもはや【経験値(エクセリア)】にもなり得ない存在なのだから。

 

「……!」

 

 しかし少年の身から放たれる鋼のような揺るぎなき意思と、その瞳に宿る憤怒の業火が「この戦いに誰も踏み入るな」と雄弁に語っているから。

 

 アイズはただ立ち尽くすしかない。

 

 ここは『誰もが笑顔で生きられるように』と願うベル・クラネル(英雄)の舞台であり、『怪物は必ず殺す』と誓ったアイズ・ヴァレンシュタイン(復讐者)の出番は無いのだと言外に告げられているようで。

 

 アイズは見守ることしか出来ないのだ。

 

「疾っ……! ふっ……! はぁ……!」

 

『ヴゥォ……? ……ヴァムヴォ!!』

 

 アイズに見られていることなど知らない少年は、今この瞬間も雷の如き速さで成長し続ける。それは【ステイタス】では図ることの出来ない純粋なる〝技術〟に他ならない。

 

「……成長、してる?」

 

 一合、己の刃とミノタウロスの拳をぶつけ合うたびにその動きは鋭さを増し、死線を乗り越えるたびにアイズから見ても拙かった筈である少年の身のこなしは恐ろしい速度で洗練されていく。

 

「はぁ!」

 

 守るべき誰かの為に立つベル・クラネルに〝敗北〟の二文字は許されないから。守るべき誰かがいる限りベル・クラネルは〝勝利〟すると誓ったから。

 

 少年にとってこの程度(・・・・)の成長は当然のこと。守りたいと願った人々の力となる為にただ只管に進むだけだ。

 

「速い……!」

 

 しかし少年がどれだけ強固な意志を持ったとしても、肉体は限界だと悲鳴を鳴らす。「無理だ」「やめろ」と。「止まってくれ」と。少年の抱く鋼の意志に反して、肉体が遥か彼方へと置き去りにされていく。

 

「ぐ、身体が……!」

 

 肉体の叫びはこの瞬間に致命的な隙を生み、少年の腹部へとミノタウロスの拳が届いてしまう結果を齎した。

 

「あ……」

 

 その光景を見たアイズは夢が覚めるような気分になった。何故自分はすぐ少年を助けなかったのかと、アイズは今になって自分の行動を振り返り自責の念に駆られる。

 

 ミノタウロスの拳をモロに受けた少年はあっという間に吹き飛ばされていった。すでに少年は瀕死のような重傷を負っていたのだ、それに加えて今の一撃。

 

 恐らく即死。良くて息はしているかもしれないがその可能性はかなり低いだろうとアイズは答えを出した。

 

 ──だが、そんなアイズの考えは易々と覆されることになる。

 

「まだだ……」

 

「……え?」

 

 アイズの耳に少年の声が響いた。幻聴なのではないかと思わず声のする方向を向けば、瓦礫の山からゆっくりと立ち上がる少年の姿が見えた。

 

 さきほど以上に酷い傷を幾多もその身に負いながらも尚、少年はミノタウロスを打倒せんが為に立ち上がったのだ。

 

「まだだ!!」

 

 聞こえる声に宿るのは、諦めない執念と言うデタラメのような意志力で。揺るぎないその言葉は英雄の覚醒を促す魔法の言葉のようだとアイズは思った。

 

 何度も傷つき、血反吐を吐いて、されど決して屈する事の無いその雄姿はアイズにまるで神話に語られる英雄の姿を幻視させる。

 

「僕が……僕がここで……倒さないと……。あの日のように……もう僕は……誰も失いたくないんだ!」

 

 それほどまでにアイズの目には、少年の姿が鮮烈に映った。その太陽のような雄姿(ヒカリ)を見つめ続けたら盲目になってしまう未来が容易に想像できるほどに。

 

 ──何にどうしてこんなにも胸が痛いの……? 

 

 ──こんな痛み、私は知らない……

 

 ふと気づいた時、アイズは震える声で今も戦う少年に問いかけていた。

 

「何で、立ち上がれるの……?」

 

「何で、君はそんなに強いの……?」

 

 答えが返ってこないと分かっていても、アイズはこの胸から湧き上がる激情を吐露せずにはいられない。

 

 復讐心だけを糧に歩んできたアイズにとって、今胸に抱く感情が何なのか理解できない。ただ、叫びたくて仕方が無いことだけはアイズにも分かった。

 

 ──だから少女は叫ぶ。

 

「何で、何で……! もっと早く!」

 

 ──それが己の胸の内を明かすことになったとしても。

 

 もっと早く英雄(少年)に出会っていれば、とアイズは考えずにはいられなかった。幼き日、誰にも助けてもらえなかったあの時に少年の雄姿を、その手を差し伸べて欲しかったと。

 

 アイズは願わずにいられないのだ。

 

 たらればの話をしても仕方が無いとアイズは知っていながらも、この想いは目の前の少年には関係ない独りよがりだと分かっていながらも止められない。

 

「うおおおおおおおおおおおお!!」

 

 ──瞬間、ダンジョンの五階層に雷鳴が轟いた。普段から表情に乏しいアイズの目が驚きのあまり瞠目する。

 

 アイズの視線の先には、凄まじい魔力の波動をその身から放つ少年が、ミノタウロスに向けて右腕を突き出していた。

 

 ──此処に英雄の聖戦譚、その序章は幕を閉じる。

 

 少年の抱く願いに揺らぎはなく、どこまでもどこまでも突き抜けていく殲滅光(ガンマ・レイ)こそが少年の在り方なのだとアイズは気付く。

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】!!」

 

 5階層に光が満ちる。少年の右手より放たれた雷光は、瞬く間にミノタウロスを飲み込み……

 

 ──天霆の轟いた地平に残されたのは、鋼の意志を抱く少年(ベル・クラネル)と、復讐を誓う少女(アイズ・ヴァレンシュタイン)だけだった。



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英雄は進む

「はぁ……! はぁ……! はぁ……!」

 

 暗がりの空間(ダンジョン五階層)を支配するのは、少年の荒々しく吐き出される息遣い。そして逆立ちしても勝てないだろう筈だったミノタウロスを打ち破ったベル・クラネルという男の、英雄の威風。

 

「──僕の、勝ちだ」

 

 ベル・クラネルが勝利を前にはじめて零した言葉は、勝つことの出来た歓喜ではなく、生き残れたことへの感慨でもなく、平々凡々とした現状の確認だった。

 

 ──まるでこれは予定調和と言わんばかりに。英雄譚の始まりに過ぎないとベルは言外に告げているのだ。

 

「強かった。けど、それだけだ……」

 

 たしかに相対したミノタウロスは今まで出会った中でも一番の強敵だった、とベルは理解している。だが、それは己が負ける理由にはなり得ない。

 

 信念すら持たぬ獣風情にベル・クラネルの心は打ち砕けない。

 

 ──そうだ。立ち上がれるのであれば、まだ負けじゃない。弱いのであればこの一瞬で成長すればいい。心が屈せぬ限り勝利はこの手にある。

 

 諦めない限り必ず勝利できるという持論をただベルは証明しただけで。

 

 ──ここはまだ通過点にの一つに過ぎないと、少年は再び前を向きひたすら進む。 

 

「こんな所で、ぐっ……! 足踏みなんて、していられない……」

 

 ベル・クラネルに敗北は許されないから。ベル・クラネルは勝利し続けると誓ったから。英雄になると願ったから。

 

 だからこそ、諦めるという文字はベル・クラネルの辞書には存在しない。

 

「ガハッ! ……はぁ……はぁ。ハハッ……さすがにキツイ、かな?」

 

 左腕が無残にも捻じ曲がり、肋骨やあばら骨の多くが砕かれ、右腕にいたっては壊死寸前で、魔法の行使により精神枯渇(マインド・ゼロ)になろうともベルは気合と根性で踏ん張って立ち上がる。

 

 ミノタウロスは倒したが、ここはまだダンジョンの中なのだ。魔法の余波で壁などが抉れたり破壊されているから、すぐモンスターは出現しないだろうが、それも時間の問題だ。

 

 油断はできない、どこまでいってもダンジョンは人間の命を奪おうと魑魅魍魎が蠢く坩堝の中なのだから。休んでいる暇などベルには無い。

 

「……もう少し魔石を、集めたかったけど。今日はもう、帰ろう……」

 

 瀕死の重体を負いながらもまだ戦うつもりでいたベルだが、この傷ではさすがに無理だと悟ったのかフラフラと足を引きずりながら来た道を引き返そうとする。

 

 その時だった。

 

「ぐ……ぅ……」

 

 鈍い痛みが全身に走り、熱湯を浴びたように頭がクラクラして意識が沸騰する。肉体すべてが警報を鳴らし、ベルの意識を強制的にシャットダウンしようと働きかける。

 

 ミノタウロスとの戦いでベルは限界を二重、三重と突破してきた。無茶に無茶を重ねたベルの肉体は、奇跡的に原形を留めているに過ぎない。

 

 傍から見たらベルは何故生きているのか不思議な位の重体で、死んでいてもおかしくない。あまつさえ気合と根性の精神論だけで今も立ち上がっているというではないか。

 

 ──倒れていないベルが常軌を逸し過ぎていたのだ。

 

 だからこれは当然の帰結。本来訪れるべき少年の末路。

 

(倒れる……!)

 

 ベルが気付いた時には、すでに身体は斜めを向いていた。踏ん張る気力すら残っていないベルは、そのまま重力に従って崩れ落ちるが。

 

 地面にぶつかることは無く、温かく柔らかな感触に包まれた。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 ベルの耳に少女の声が聞こえた。精霊のような可憐な声が。

 

「え……?」

 

 朦朧とした意識の中、ベルはゆっくりと首を後ろへ向ける。

 

 牛の怪物を討伐し次にベルの前に現れたのは、女神と見紛うような、美しい少女だった。

 

 その瞬間、「大丈夫じゃない。全然大丈夫ではない」と。ベルの心に新たな業火が()べられる。

 

(【剣姫】……アイズ・ヴァレンシュタイン……!!)

 

 ベルは彼女を知っている。Lv.1の冒険者であるベルだろうと、その名声をしっかりと耳にしている。

 

【ロキ・ファミリア】に所属する第一級冒険者であり、女性の中でも最強の一角と謳われるLv.5。いずれ己が超えるべき一人であると、ベルが心に刻んだ者だ。

 

 そんなアイズが己の肩を抱き、倒れないように優しく支えている。その事実がベルには悔しくて、悔しくて悔しくて堪らなかった。

 

 強くなると、英雄になると願っておきながら、乗り越えるべき少女に支えられなければ立ち上がることさえも出来ない弱い自分にベルは反吐が出そうになる。

 

まだだ! 

 

(まだ、僕は一人で立ち上がれる!)

 

 だからこそ、ベル・クラネルは前を向く。アイズが魔法の言葉だと思ったその言葉を胸の内で叫んで。今味わっている悔しさすらも糧として。

 

──乗り越えるべき存在(アイズ・ヴァレンシュタイン)とは対等でいたい! 

 

──守られる『誰か』でありたくない! 

 

──例え今は弱くても、強くなって見せると示すんだ! 

 

(反省は済んだか? なら踏ん張れよ、ベル・クラネル! ここで立ち上がれないなら男じゃない……!)

 

 肉体が、意識が限界を迎えた筈であるベルの心に鋼の意志が迸る。機能を失っていた傷だらけの肉体が息を吹き返し、朦朧としていた汚濁のような意識はその鮮明さを取り戻す。

 

 ベルだって分かっている。相手はLv.5の冒険者であり、自分は駆け出しのLv.1。その強さは比べるまでもなく、アイズに肩を貸してもらう程度に何を悔しがっていると、思うかもしれない。

 

 それでも、ベルは一人で立ち上がりたかった。己は前へと進めるのだと、この程度では倒れないと。

 

 ──アイズ・ヴァレンシュタインに伝えたかった。

 

(そうだ! 強がりでもいいからいうんだよ……! 口を動かせ! さあ! さあ!!)

 

「……肩を貸して頂いて、ありがとうございます……。でも、でも僕は〝大丈夫〟、です!」

 

 消えていた四肢の感覚が蘇り、ふらついていた両足はしっかりとした足跡を辿りはじめる。ベルの身体を包んでいた柔らかな温もりは離れていき……

 

「あ……」

 

 静かに一度、アイズに向けて頭を下げると、ベルはゆっくりとダンジョンの道を帰って行く。その速度は緩やかなものであったが、しっかりとした歩みでもあった。

 

 ──そんなベルの後姿を、英雄の進む道を、アイズは静かに見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……名前、聞き忘れた……」



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一章 天霆に炉の祝福を
帰還


「進め、進むんだ……! ベル・クラネル……!」

 

 アイズと分かれた後ベルは、もはや本能に近い執念だけでひたすら前へと進んでいた。立ち止まっては駄目だと、前を向いて進み続けるんだと、己に言い聞かせるように。

 

 そんなベルの前に三つの影が現れた。

 

(! ……モンスター!)

 

 歪む視界では目の前に現れた影が何なのかまるで判断できず、ベルは最大限の警戒をもって意識を視界へと集中させる。

 

「な!? 大丈夫か坊主!」

 

「酷い傷……何があったの!」

 

「ほら、肩貸してやるから掴まれ!」

 

 しかし聞こえてきたのはモンスターの唸り声では無く、どこか柔らかな理性を感じさせる人の声。

 

 ベルが守ると誓った人間の声だった。 

 

(なら、答えは決まっているじゃないか!)

 

 肩に触れそうになった冒険者の手をベルは掴むと、己の覚悟を示すようにその瞳を彼らに向けて、声を轟かせる。

 

「ありがとう、ござい、ます。でも、僕は〝大丈夫〟、です! ここで、あなたたちの手を、借りるわけには、いかない、から!」

 

 ダンジョンから帰る途中で少なからず冒険者たちとすれ違い、彼らは瀕死のベルを見て肩を貸そうとしてくれたが、ベルは頑なにその首を縦には振らない。

 

「「「!!」」」

 

 自分たちの手を借りず、ボロボロに傷ついても尚として進み続けようと歩みを止めないベルの気迫に、思わず冒険者たちは後ずさりして息を呑む。

 

 ──強い。あまりにも強すぎる。その姿が、その眼差しが。その心が。

 

 気付けば冒険者たちは、自然とベルに道を譲っていた。この少年の進む道を妨げていけないと思ったから。それだけはしてはいけないと、心の底から感じてしまったから。

 

(この人たちに心配をかけて、何が英雄になるだよ! くっ! 僕はこんなにも弱い! あぁ……僕はもっと強くなりたい! もっと! もっと!)

 

 傷だらけでありながらも誰よりも雄々しいベルの後ろ姿は、瞬く間に彼らの魂を魅了する。ふと冒険者たちが己の手を見れば、恐ろしいくらいに震えていた。

 

 ──オラリオに、英雄が現れたと。

 

「ははっ……マジかよ。手が震えて仕方が無いぜ」

 

 それはこの場に立ち会えた歓喜からだった。きっとここから英雄の物語が始まるのだと。英雄譚は幕を上げたのだと、冒険者たちは信じてやまない。

 

 ──そしてこの瞬間、彼らは鋼の英雄(ベル・クラネル)が司る覚悟(ヒカリ)に魅了された。

 

「だから、ごめんなさい。僕は、一人で、歩けます!」

 

「「「…………」」」

 

 冒険者たちはベルの覚悟に否と言えるほど、強くはないし馬鹿でもない。この手を貸すということは、今も進み続けているベルに対する最大限の侮辱に他ならないと理解している。

 

 ──だからこそ、英雄に魅了された彼らはただその足跡に続くだけだった。ベルの雄姿を最後までこの目に刻みたいと願ったから。

 

 手を貸そうとしてくれた優しい冒険者たちを見て、少しばかりの罪悪感と自分の不甲斐なさに打ちひしがれるベルだが、ここで誰かに助けられるわけにはいかなかった。

 

(進もう……! まだ身体は動く、ならまだ前を向ける!)

 

 ベルはあの時、アイズを前に〝大丈夫〟だと啖呵を切ったのだから。

 

 ならばその言葉を覆すような真似だけは決してしたくないのだと、ベルはあらためて気合と根性で弱った体に活を入れる。

 

「はぁ……! はぁ……! 後、一階層だ……」

 

 鎖に縛られたような重圧に襲われる肉体を引き摺りながら、一層、また一層とよじ登るように歩いてきたベルは、ついにどこまでも広がる碧空から降り注ぐ温かな輝きを目にした。

 

 それはダンジョンの入り口であり、ベルが帰るべく進んできた出口でもあった。

 

「はぁ……! はぁ……! はぁ……! ハハッ! 帰って、来られた……」

 

 太陽から目一杯に照らされる光が、今のベルにはとても眩しすぎて視界が揺らいで仕方が無い。死に体である肉体もダンジョンから帰還できた安堵からか、糸が切れたように力が抜ける。

 

 そしてアイズに抱きしめられて時のように、倒れそうになるベルだったが……

 

(まだだ!!)

 

 この短期間に幾度となく覚醒を繰り返してきたベルだが、その心に宿っている鋼の意志が、再び雷のように轟いた。

 

 ベルはここで倒れるわけにはいかない、大切な約束を思い出したから。

 

『君はいつも無茶してばっかりなんだから、心配で仕方ないの。いい、ベル君。ダンジョンから帰ってきたら、ちゃんとギルドに顔を出すこと。お姉さんとの約束よ?』

 

『エイナさん……はい、約束です。帰ってきたら、必ずエイナさんの顔を見に来ます!』

 

 自分でも無茶をしている自覚があるベルは、こんなにも心配してくれている、自身のアドバイザーであるエイナとの約束に対して、たしかに頷いて見せたから。

 

(こんな姿見せたら、きっとエイナさんは怒るんだろうな……)

 

(でも……)

 

「約束、したんだから! ここで、倒れるわけ、には、いかないよね?」

 

 ベルは崩れ去ろうとしている両足を気合で踏ん張り、今もギルドに居るであろうエイナの下に向けてその一歩を踏み出した。

 

──さあ、民衆よ刮目せよ! 英雄(ベル・クラネル)はここに帰還を果たした。

 

──天霆たる英雄(ケラウノス)が謁見を求めるは、神々の王(ウラノス)が守護せし荘厳なる万神殿(パンテオン)

 

──凱旋の時であるぞ! 鋼の如き英雄の雄姿を今こそ、その目に焼き付けるのだ! 

 

 ──バベルの塔の一階層から、一人の少年が現れた。

 

 生きているのが不思議なくらいの痛々しい傷を全身に負い、尚もまだ立ち上がり、歩み続ける鋼の英雄(ベル・クラネル)の姿が。

 

 最初は小さな戸惑いの声から。次第に人々の声は大きさを増していき、今となってはオラリオ中に響くだろう騒音と化した。

 

「んあ? なんだぁ? こりゃぁ?」

 

 露店を開く商人が声のする方角へと視線を向ければ、海を割るかの如く一人の少年に道を譲る人々の姿が映る。

 

 そして商人は、まるで神話に語られる一幕のような光景を前に息を呑んだ。

 

「…………英雄、じゃ……儂の前に、英雄がおる……」

 

 ──彼の視線の先には、英雄が立っていた。

 

 傷だらけでありながら歩み続ける少年に何があったのか、商人にはわからない。だが、長年このオラリオで冒険者を相手に商売をしてきた彼は、その少年に英雄の影を見た。

 

 そして、天に向かってどこまでも突き抜ける白亜の搭(バベル)、その最上階から英雄の凱旋を眺めるのは『美の女神』フレイヤ。

 

 神すらも魅了する妖艶な美貌はなりを潜め、まるで初めて恋を知る少女のように頬を紅く上気させている。フレイヤの目には今、ベルの魂しか見えていない。

 

 ベルの身から閃光のように迸る魂の光が、かの天空神(ゼウス)が担う〝至高の雷霆(ケラウノス)〟のようで。

 

 その輝きはフレイヤにとってあまりに眩く、あまりにも尊く、そして何よりも綺麗だった。

 

 ──フレイヤの願いはただ一つ。

 

 黄金の閃光(ベル・クラネル)をこの手に収めること。ええ、そうよ。誰にも渡しはしない。必ず手に入れて見せるとフレイヤは不敵な笑みを浮かべる。

 

「ふふっ、うふふふふっ……! あぁ……本当に眩しいわね、あなたの魂……! 眩しすぎて失明してしまいそうよ? ……さぁ、早く迎えに来て? その光で抱きしめて? 私だけの英雄さん」

 

──神々さえも魅了して鋼の英雄(ベル・クラネル)万神殿(パンテオン)へ進む。

 

──交わした約束を果たす為に。エイナ・チュールに会う為に。 



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凱旋





──英雄が誓う約束は、果たされるが為にある。

 

──さあ、征こう。果てなく征こう。その手に勝利を掲げるのだ。 

 

 

 ダンジョンを運営、管理する『ギルド』の受付嬢、エイナ・チュールは不安げな表情を浮かべながら書類仕事をこなしていた。

 

 仕事人然としながら親しみやすいと評判のエイナが顔を曇らせている原因は、最近になって担当することになった一人の冒険者にあった。

 

 ──少年の名はベル・クラネル。【ヘスティア・ファミリア】唯一の眷属であり、駆け出しのLv.1。

 

 兎のような愛くるしい見た目とは裏腹に、エイナが見てきた冒険者の中でも強さを求めることに関しては右にでる者はいないだろう鋼の意志を、ベルは宿している。

 

(今日も無事かしら……って考えるのは彼に対しての侮辱なのかなぁ……)

 

 オラリオから少し離れた田舎育ちだとベルから聞いたエイナであるが、一度決めた事を必ず貫き通す鋼のような勇ましい姿からは、とてもじゃないが畑を耕している姿なんて想像できない。

 

『決めたからこそ、果て無く征くんだ! それ以上の理由なんて僕にとっては必要ない!』

 

 寧ろエイナには、ベルが強敵を前に覚悟を決めて獅子奮迅の働きをする姿が容易に浮かぶ。守るべき誰かの為に刃を振るい、悲しみに暮れる涙を拭うその姿が。

 

 まったくもって不思議なことにエイナには、駆け出しである筈のベルがモンスターを前にして死ぬ未来が描けない。それは多くの冒険者を見送ってきたエイナの勘により導き出されたものだ。

 

 根拠などはまったくないから説明なんてできないが、エイナには確信がある。

 

 ──ベル・クラネルは決して死なないという確信が。

 

 それこそ中層に現れるようなモンスターが上層に上がってでも来ない限り、ベル・クラネルは立ちはだかるモンスターのすべてを屍に変えて、前に前にと進み続けるに違いないとエイナは考えている。

 

 ──だからこそエイナの心は嵐のように吹きすさぶ。

 

(でも、仕方ないじゃない! 心配なものは心配なんだから! だってベル君はまだ冒険者になってまだ半月なんだよ! 心配しない方が無理ってものよ!)

 

 エイナは心の中でだけ、今日も絶賛ダンジョンで無茶をしているだろうベルに対して心配を露わにする。そして今も悶々とする原因であるその手に持つ小冊子に記載された一文へと目を移す。

 

 そこにはベルがこれまで歩んできた冒険者としての記録が記されていた。

 

【ベル・クラネル】

 

 所要期間、半月。

 

 モンスター撃破記録(スコア)、3850体。

 

 この文字を見たら多くの人間はまず自分の目を疑うだろう。「これは夢か何か?」と。そして次に記載されている文が間違っているのではと思うことだろう。

 

 何をしたら駆け出しの冒険者が半月の間にここまでのモンスターを狩ることが出来るのかと。ここに記されている数字こそが誤っているのだと。

 

 しかし、ここに記されている文は書き間違いでも何でもない。真実、駆け出しの少年(ベル・クラネル)が歩んできたダンジョンでの記録だ。

 

 ベルが換金の為に持ってきた魔石を鑑みてもこの数字は正確なものだろう。それにエイナはベルがこんなことで嘘をつくとは思っていない。

 

 それよりもエイナは、ベルがモンスター撃破記録(スコア)以上にモンスターを狩っているのでは? と心配しているのだ。

 

 証拠があるわけではない。しかし誰よりも愚直に強さを求めるベルならやりかねない、とエイナはまた一つ溜息を付く。

 

 ──『冒険者は冒険してはいけない』。

 

 とエイナは口酸っぱく言ったつもりだが、不壊属性(デュランダル)のように頑固なベルにはまったくとして効果は無かった。

 

『……心配してくれてありがとうございます、エイナさん。でも僕は〝冒険〟がしたいです。きっとその先に僕の求める強さがあると思うから……』

 

 あまつさえベルはこちらを気遣うように頭を下げてきたのだ。「そこまでされたら私は何も言えないじゃない……」とエレナは項垂れながら折れた。

 

 ──『ねぇ? ベル君はどうして冒険者になりたいと思ったの?』

 

 ──『僕ですか? そうですね……』

 

 ふと思い出すのは、エイナがベルのアドバイザーになってから三日が経った頃の会話だった。

 

 駆け出しの冒険者とは思えない凄まじい戦果を挙げ続けるベルに、エイナはどうして冒険者になったのか気になり尋ねたのだ。

 

 それに対してベルはどこまでも真っすぐな、太陽(ヒカリ)のような眩い眼差しをエイナに向けて、力強く答えた。

 

 ──『僕は守るべき誰かの為に……何よりも……! 誰よりも強くなりたいと思ったから、冒険者になりました……!』

 

 ──その姿はまるで英雄の誕生を告げる産声のようで。

 

(何でかしら? 不思議よね……まだ半月の付き合いなのに、こんなにも彼のことを想ってしまう……)

 

 エイナは己が気付く間もなくその鮮烈なる英雄(ベル・クラネル)に心を惹かれてしまった。

 

 あれほどまでの鮮烈な光を、英雄にいたる雄姿を前にしたら誰であろうと盲目になってしまうのではないかと、エイナは深く思う。

 

 ならばそんなベルをすぐそばで見守ってきた己が、心を惹かれるのは仕方が無いことだとエイナは強引に納得する。

 

 ──彼なら、ベル・クラネルなら守ってくれると。ベル・クラネルなら成し遂げてくれると。いずれ多くの人間に希望の火を灯すと信じている。

 

 何故なら自分も、そんなベルに魅了された者の一人だから。

 

 今はまだ〝未完の英雄〟であろうとも、ベルならばそう遠くない未来、必ず英雄になるとエイナは断言する。

 

「お、おい! 大丈夫か!」

 

「何て酷い傷してやがる!」

 

「マジかよ……! あの傷で歩けるってのか……!」

 

「なぁ、誰か助けてやれよ……」

 

「いや、それがよぉ……あの坊主が〝大丈夫だ〟っつうから誰も手ぇ貸せなくてよぉ……」

 

 そんな妄想に耽っていたエイナの耳に突如、ギルドの外から騒音のような声が聞こえて来る。

 

 ──嫌な予感がエイナの脳裏を過ぎった。

 

(もしかして……!)

 

 思い至った時には、エイナは扉を開けて外へと飛びだしていた。動悸が激しくなるのを抑えることが出来ず、思考がうまく回らない。

 

「すみません! どいてください!」

 

 それでもエイナは騒がしい声たちの中心へと向けて走り続ける。中心に近づけば近づくほど、騒ぎを聞いて集まってきた人々の密度が増す中、ついにエイナはその姿を捉えた。

 

「ベルく……。……!?」

 

「あ、エイナ、さん……」

 

 ──絶句。

 

 ベルの名を呼ぼうとするエイナだったが、目の前に現れたその姿があまりにも痛々しく、最後まで言葉を紡げなかった。

 

「どう、したの……? どうしたのよその傷は!」

 

 ベル・クラネルは瀕死の重体だった。引き裂かれ血に塗れた衣服はもはやその役割をはたしておらず、上半身はもはや裸同然。

 

 左腕はあらぬ方向へと曲がり、右腕は紫色に膨れ上がって壊死寸前なのは一目瞭然。

 

 身体に刻まれているのは裂傷から打撲まで多岐に渡り、傷が無いところなど存在しない。

 

(まだまだ弱いな、僕は……エイナさん、怒らせちゃった……)

 

 エイナが怒鳴った姿を見たことが無かったベルは、ここまで怒らせて、いや悲しませてしまうほどに不甲斐無い己の弱さを嘆く。

 

 もっと力があれば、もっと己が強ければ、エイナさんに涙を流させず(・・・・・・)に済んだのにと。

 

「すみ、ません……エイナさん。五層に、潜ってたら、ミノタウロスに出会ってしまって……」

 

 俯きながらも紡がれるベルの言葉を聞いたエイナは、動悸が激しくなるのを感じ思わず声を荒げてしまう。

 

「ベル君! 私言ったよね!! 冒険者は冒険しちゃいけないって!!」

 

 傷だらけのベルを前にしてエイナは叫ぶ。

 

 本当は今すぐ抱きしめて優しく頭を撫でてあげたい衝動に駆られているエイナだが、それ以上に今この胸に抱く怒り、悲しみ、安堵がごちゃ混ぜになり己を制御できない。

 

「はい……」

 

 そんなエイナの説教を前に、ベルは静かに頷くだけ。瀕死になりながらも凛々しく前を向く姿に、エイナは心中に渦巻くさまざまな感情を抑えることが出来ない。

 

「全然分かってないよ!! 分かってたらミノタウロスになんて挑まないわ!!」

 

 だからこそエイナの激情は加速する。今日だってベルが無事で帰ってくるように祈っていたのに、こんなにも傷だからで帰ってきて。

 

 教会の隠し部屋(ホーム)に向かう事だって出来たのに、ここまでの傷を負っていながら律義にギルドまで来る必要なんてないのに。

 

「はい……」

 

 すべては(エイナ)に会いに来るためだと分かっているから。エイナは感情を抑えられない。

 

「君は何をしたのか……!」

 

「分かって、います!!」

 

 どうやっても怒りを、悲しみを、苦しみを止められないエイナの瞳を、ベルの深紅(ルベライト)に煌めく視線が射抜いた。

 

 その目はエイナがいつも見てきたベルのものとまるで変わる事の無い、鋼の意志が宿っている。こんなにも傷ついていながら、ベル・クラネルの心はまったく揺らいでいなかった。

 

「本当は、すぐ逃げるべきだって、戦うべきじゃ、ないって。それ、でも……」

 

 一言、ベルが言葉を紡ぎ出す度に、エイナの心に安らぎが(もたら)される。そうだ、己が知るベル・クラネルはこういう少年だったと、エイナはようやく落ち着きを取り戻す。

 

「それでもっ! 僕は! 前へ進むって決めたから! だから……! この想いだけは譲れないんです……!」 

 

 ──そうだ。エイナの前に立つ少年は、守るべき『誰か』の為に強くなるという願いを貫く英雄だった。

 

「本当に、君は……」

 

 ならば己も伝えなければいけない。冒険者に助言するアドバイザーとしてではなく、ベルを想う一人の女として、エイナ・チュールとして。

 

 見事、死闘の果てに強敵(ミノタウロス)を打ち倒し、凱旋してきた英雄(ベル)に相応しい言葉を。

 

(お帰り……はきっと神ヘスティアが言ってくれるだろうから……)

 

「頑張ったわね……! ベル君!」

 

「……! はい……! エイナ、さん!」

 

 エイナは倒れそうなベルを抱きしめて涙を流しながら褒めるのだった。

 



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約束

「………………」

 

 強敵ミノタウロスを打ち倒し無事エイナとの約束を果たしたベルは、しなやかな肌の温もりと抱きしめられた安堵からか、眠るように意識を失った。

 

 今更かもしれないが、そもそもここまでの傷を負っていながらここまで歩けたことこそが奇跡なのだ。

 

 ベルが結んだ誓いは見事果たされ、エイナの涙は拭われた。ならばこそ、今は眠れ鮮烈なる英雄(ベル・クラネル)よ。

 

 体力、気力、気合に根性は、今一時の安らぎを得て静かに眠りへとつく。目を覚まして前を向いた時、再び雄々しく進み続ける為に。

 

「べ、ベル君!」

 

「すぅ……すぅ……」 

 

 急に静かになったベルを見てまさかと思い心臓が止まるほど焦ったエイナだが、眠っているだけだと分かれば、優しくその頬を撫でて穏やかな笑みを浮かべる。

 

「本当に、よく頑張ったわねベル君……」

 

 あれほどまでに鮮烈な雄姿を見せていたベルの眠る姿は、愛くるしさを感じさせる可愛らしい少年のもので。さきほどまでの、英雄を想わせるベルとは正反対な印象を受けたエイナは少しばかり驚く。

 

 そしてエイナは思い出す。ベルはまだ14歳であり、少年と言える歳であることを。

 

(ふふっ……本当に可愛い寝顔。神ヘスティアは毎日見れるのよね? ……少し羨ましいかも)

 

 この時ばかりはベルの主神であるヘスティアに少しばかり嫉妬するエイナだったが、おもむろに腰に付けたポシェットからエリクサーを取り出すとその口に流し込む。

 

(ベル君ったら、こんなに傷だらけになって……エリクサー、もしもの為にと買っておいて正解だったわね……)

 

 いつも無茶ばかりしているベルを見て心配になったエイナは、ベルには内緒でポーションの最上位に位置する〝エリクサー〟を購入していた。

 

 エイナが内緒にしていた理由は、直接渡したら「僕が勝手に無茶しているだけなのに、ここまで高価なもの受け取れません!」と断られそうな気がしたからだ。

 

 もしかしたら「本当に受け取ってもいいんですか? ……ありがとうございます、エイナさん!」と喜んでくれるかもしれないと考えたエイナだったが、危険な状態になってもエリクサーを使わず気合と根性で立ち上がり「まだだ」と叫ぶ未来が見えたので、やはり内緒にしようと思い直したのだ。

 

 エリクサーの効果は凄まじく、液体を流し込まれたベルの身体は瞬く間に再生していく。捻じ曲がった左腕は正しい形へと回帰し、壊死寸前だった右腕は人肌の色を取りもどす。

 

「「「「「うおおおおおおおおおおおおお!!」」」」」

 

 神話に語られる一幕を目撃した人々が次々と声をあげる。後に吟遊詩人から語り続けられるだろう英雄譚を創り上げる英雄に喝采するのだった。

 

──ここに英雄は万神殿(パンテオン)にて待ち人との謁見を果たし、その約束は守られた。

 

──英雄の誕生に喝采を! 鮮烈なる英雄に祝福を! その道に炉の女神の加護あらんことを! 

 

 ○

 

「ベル君、君はもう少し常識を知った方がいいと思うんだけど?」

 

「すみません……」

 

 現在ベルとエイナは、ギルド本部に設けられた一室でテーブルを挟み向き合っていた。エイナのこめかみには青筋が浮かび、怒っていることは一目瞭然。

 

 そんなエイナに対して、ベルは頭を下げることしか出来ない。たしかに約束は守ったが、あれだけの重傷を負い、エイナに心配をかけてしまったベルには申し訳なさしかなかった。

 

「でも僕は……」

 

「でも君は進み続けるんでしょ? ……知ってる。だからね、これは私のわがまま。君を心配している人が居るんだよって伝えたい、私のエゴなの」

 

「エイナさん……」

 

 ──エイナの言う通り、再び強敵が立ちふさがったならば、ベルは迷いなく立ち向かうだろう。どれだけ実力の差があろうとも、決して諦めることなく。

 

(本当に、僕はどうしようもないな……こんなに心配をかけてるのに、反省や後悔もしてるのに、前へと進むことしか出来ない)

 

 どうしても、過去を振り返らずにひたすら前へとしか進めないベルは、内心で自分の在り方に毒づきながらも立ち止まるつもりは毛頭なかった。

 

 これこそが己なのだと理解しているから。ならば答えは決まっている。

 

(前を向くんだ、そして未来をこの手で切り拓く! それが僕だ、ベル・クラネルだ!)

 

 ふとベルが窓の外を覗き込めばすでに日は沈みかけ、儚げな夕焼けへと姿を変えていた。

 

 ダンジョンに潜り早々にミノタウロスと遭遇したベルは、帰還した時はまだ碧空であったと記憶している。思った以上に気を失っていたと己の弱さを呪うベルだが、傍から見ればあれだけの重傷を負っておいてその日の内に目を覚ましたベルの方が異常だと突っ込むだろう。

 

「本・当・は! もっと言いたいことがあるんだけど! ……あまり遅いと神ヘスティアが心配するだろうから、とりあえず今日はここまで」

 

「あ、本当ですね……。早く帰らないと神様が心配しちゃいますよね」

 

 心の中で自身と葛藤していたベルだが、エイナの言葉を聞いてようやく現実に戻る。

 

 そして己の帰りを今か今かと待ってくれているだろうヘスティアを思い出す。日の傾きを見たベルは、いつもであればすでにホームについている時間だと悟る。

 

「ベル君……」

 

「……エイナさん? どうかしましたか?」

 

 急いで帰り支度をするベルだったが、出口まで見送りに来たエイナに引き止められた。

 

 ふと顔を見ればその頬は紅く染まり、その視線も右往左往している。

 

 そんなエイナの表現を見て不思議に思うベルを尻目に、思い切ったようにその口から言葉が紡がれた。

 

「ベル君、あのね? 口うるさくなっちゃったかもしれないけど……えっと……その……約束守ってくれてありがとう! す、凄く嬉しかったよ!」

 

 顔を真っ赤にしながら言葉を紡いだエイナはそのまま風のようにギルドへと走っていった。

 

「……それは、僕の台詞ですよ。ありがとう、エイナさん。あなたとの約束があったから僕はここまで諦めずに進んで来れました……」

 

「これからも、よろしくお願いします……!」

 

 そんなエイナの後ろ姿を見て、鮮烈なる英雄(ベル・クラネル)は柔らかな笑みを浮かべてホームへと駆けていくのだった。



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祝福

――涙を笑顔に変えんがために、大志を抱く鋼の英雄。

――その背に刻まれるは、聖火を(もたら)す炉の祝福。

――天霆の轟く地平に、闇はなく。

――英雄の誓約は、討つべき悪を前に輝く死の光。

――鋼鉄なりし雄心で我が女神に勝利を捧げろ。



 ベルが所属する【ヘスティア・ファミリア】のホームはメインストリート出た裏路地を進んだ先にある廃教会の隠し扉から続く階段の下にある。

 

「お帰りー! ベル君!」 

 

 扉を開けてまず最初に視界に広がってきたのは、英雄になりたいと願った少年(ベル・クラネル)が何よりも求めた力を授けてくれた、己が主神であるヘスティアの姿。

 

(あぁ……本当に温かいな(・・・・)、神様は)

 

 その肌で触れ合う合うよりも前に、ベルは右眼を通して感じた炉のようなヘスティアの温もりに思わず笑みを溢す。まるで恋人の逢引を思わせる構図で熱烈に抱き締め合うヘスティアとベル。

 

 だが、次の瞬間にベルの心を激しく襲うのは己が愚かさへの呆れだった。過去を振り返らずにひたすら前へと進むことしか出来ない己は、いずれこの温もりすらも離してしまうのでないかと。

 

 ベル・クラネルには、己に誓った何者でも揺るがすことの出来ない願いがある。守るべき『誰か』の為に戦い続けると、その為ならば自身の大切な人を捨ててでも実行して見せると誓った願いが。

 

 もし、もしなんの運命のイタズラか、ヘスティアが己の前に立ち塞がったその時は…… 

 

「ただいま帰りました、神様」

 

 ──その先をベルが考えることはなかった。

 

 ヘスティアが己の敵になるだなんてベルには考えられないし、考えたくもない。今この手にある幸せが尊いものであることくらい■の■であるベルにも理解できるから。

 

「おっとと……神様? そんなに強く抱きしめられたら動けないですよ……?」

 

 いつも以上に力強い飛び込み抱擁してきたヘスティアに少しばかり驚くベル。それでも今だけではこの温もりを離さないと、ベルもまた優しくヘスティアを抱きしめ返す。

 

 瀕死の重傷を負ったことを悟られたくなかったベルは、ボロボロの服では無茶したことがバレると新しい衣服を身に纏っているのだが、誰よりもベルを想うヘスティアには意味は無かった。

 

「……ベル君、君は今日も無茶してきたね? 大陸全ての人間を騙せたとしても、他でもないボクの目は誤魔化せないよ!」

 

 ──帰ってきたベルを見てヘスティアはすぐに気が付いた。ベルの身から英雄のような、猛々しい気配が放たれていることを。

 

 そしてベルがそんな気配を纏う時は、いつだって無茶をしてきた時なのだと、ヘスティアは今までの経験から答えを導き出す。

 

「それは……」

 

 正にその通りだった。ヘスティアの問いに対して、ベルは否とは答えない。神に嘘は通用しないとベルは知っているし、自分自身ヘスティアにはなるべく嘘をつきたくないと思っているから。

 

 申し訳なさそうに項垂れるベルを見て、ヘスティアはさきほどよりも抱きしめる力を強くする。

 

 ──ベル・クラネルは英雄に至ると、ヘスティアは誰よりも分かっているから。

 

 ──鋼の意志を抱く少年は多くの悲しみを払い、涙を拭い、悪を打ち倒すと分かってしまうから。

 

「……だから後少し……後少しだけでいいから……こうして温もりを感じさせておくれよベル君。お願いだから……」

 

 ──せめて刹那のようなこの一瞬だけでも、愛すべき者(ベル・クラネル)の温もりをヘスティアは感じていたかった。

 

 ──閃光のように進み続けるベルを、この手で触れることが出来るのだと、安心したかった。

 

(ボクだってベル君の力になりたいんだ。だからおいていかないでおくれよ……ボクの英雄)

 

 だからベルも己の願いを、誓いを改めて己が主神へと告げる。この言葉が違えられることなど絶対にないと雄々しく紡ぐのだ。

 

「大丈夫ですよ、神様(ヘスティア)。僕はどこにも行ったりしません……だって、僕はあなたの〝眷属(灯火)〟なんですから」

 

 ベルの言葉を聞いたヘスティアは大きく目を見開くと一度俯き、次には満面の笑みを浮かべた。

 

「……! ふ……ふふっ……! 言ったねベル君! 吐いた唾は飲み込めないぜ!」

 

「勿論ですよ、神様! だってまだ始まったばかりなんですから! 僕の願いも、【ヘスティア・ファミリア】も!」

 

 ベルはヘスティアに笑顔でいて欲しい。オラリオに来て、抱く狂気に潰れそうになっていた己に優しく手を差し伸べてくれたこの(ひと)をベルは守りたいのだ。

 

「そうだぜベル君! 僕たちの物語は始まったばかりなんだ! それじゃあ今日も無茶してきた(・・・・・・・・・)ベル君の【ステイタス】を更新しようか!」

 

「は、はい!」

 

 少しばかり睨みを利かすヘスティアの言葉に従い、ベッドにうつ伏せになるベル。その背にぴょんっと飛び乗ったヘスティアは、【ステイタス】の更新を始めた。

 

(ミノタウロスは強敵だったけど……でも僕は勝てたんだ……! 傷だらけになったとしても勝利をこの手に掴んだんだ! なら僕はもっと強くなれる!)

 

 今日の出来事を回想していたベルだったが……

 

「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 突如、ヘスティアの悲鳴が空間に響き渡る。

 

 ──彼女が記した用紙にはベル・クラネルの新たなステータスが。

 

 ベル・クラネル

 

 Lv.1

 

 力:H130→SS1060

 

 耐久:I84→SSS1389

 

 器用:H164→SSS1125

 

 敏捷:H185→SS1020

 

 魔力:I12→SSS1254

 

 

《魔法》

 

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)

 

集束殲滅魔法(■■・■■■■■■)

 

・雷属性。     

 

・チャージ可能。

 

・チャージ時間に応じて威力上昇。

 

《スキル》

 

英雄誓約(ヴァル・ゼライド)

 

・早熟する。

 

意志(おもい)を貫き続ける限り効果持続。

 

意志(おもい)の強さにより効果向上。

 

鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)

 

・精神異常無効

 

・治癒促進効果。

 

・逆境時におけるステイタスの成長率上昇。

 

・時間経過、または敵からダメージを受けるたびに全能力に補正。

 

・格上相手との戦闘中、全能力に高補正。

 

 

 

 熟練度の限界である〝999(S)〟を大きく超えた新たなステータスが描かれていた。

 

(でもベル君だしなぁ……)

 

 現実離れした光景であるはずだが不思議と納得してしまうヘスティアはこの後、ベルに今日何があったのか小一時間ほど問いただすのだった。

 



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豊穣

 ミノタウロスとの死闘に勝ったことで大幅に【ステイタス】が上がり、【ランクアップ】すら可能になったベル。

 

 常軌を逸した速度で強くなり続けるベルだったが、その事実を知り喜ぶよりも先に、更なる力を求めて闘志を燃やし始める。

 

 食事を終えて深紅(ルベライト)の瞳に満ちる覚悟(ヒカリ)を見たヘスティアは頭を抱え、深く考え込む。

 

(ぐっ! このままじゃベル君は明日の内にでもランクアップして、ダンジョンでまた無茶するに違いない!)

 

 ベルから伝え聞いただけでも、死んでいてもおかしくはない傷を負っていたと理解できるヘスティアは、彼を休ませる為の秘策を出す。

 

「なぁベル君……」

 

 予め逃げられないように抱き着くと、ヘスティアは瞳を潤ませながら上目遣いでベルを見詰める。 

 

 ──英雄であっても休息は必要だ。だってベル・クラネルは英雄である前に、一人の人間なのだから。

 

 ──誰かが助言してあげないと、きっと彼は止まることなく永遠に進み続ける。

 

 ──鋼の心に、鉄の意志。その全てを胸に抱き果てなき道を征くに違いない。

 

 だからヘスティアは万感の想いを込めて、ベルに休んで欲しいと伝える。

 

「暫く、とは言わない。せめて、せめて今日と、そして明日だけでもいいから休んでくれないかい? お願いだよベル君……」

 

 透き通るように青みがかった瞳が、ベルの心までも射抜く。

 

 本当は今すぐにでもダンジョンに戻りたいと考えていたベルだが、ヘスティアがここまで自分を心配して願ってきたのだ。

 

 慈愛に満ちたヘスティアの想いをベルが無下にできる筈も無く。

 

「う……分かりました」

 

 ベルに残された選択肢は首を縦に振ることだけだった。

 

「約束だよ?」

 

 しっかりと頷いた筈だが、何故かヘスティアに念を押されるベル。

 

 ミノタウロス相手に瀕死の傷を負い、回復したから大丈夫だと、意気揚々と再びダンジョンにとんぼ返りしようとしているのだから念を押されるのも当然のことだ。

 

「はい…………約束します」

 

 もはや逃げ場のないベルはヘスティアと〝約束〟を交わす。ベルにとって〝約束〟とは必ず守るべき印であり、決して破られることのない誓いでもある。

 

「うん。いい子だね、ベル君」

 

 だからこそヘスティアは、約束の二文字に頷いて見せたベルを見て、ようやく安心する。

 

「よし! それじゃあ一緒に寝ようかベル君!」

 

「ふふっ……そうですね、神様」

 

 何故ならベルは瀕死の重体でありながらもエイナとの約束を守る為に立ち続けたくらいなのだから。ベルと結んだ約束以上に世界で信頼できるものはないと、ヘスティアは断言できる。

 

 ベルの温もりに身を任せ、ヘスティアは眠りにつく。無垢な少女を思わせるヘスティアを見て、ベルは艶のあるその黒髪を壊れ物を扱うように優しく撫でると……

 

「あなたを一人になんて、絶対にさせない。ベル・クラネルが己に誓った約束です……」

 

 己に向けて小さく呟いてベルはヘスティアに寄り添うように眠りへとついた。

 

(ああもう! 本当にかっこいいなぁ、僕のベル君は……!)

 

 実はちゃっかり起きていたヘスティアが惚れ直したことにベルが気が付くことは無かった。

 

 静かな夜が訪れる。美しき大空には星々が満ち、人々に安らぎを与える。

 

 ──神も人間も、そして英雄さえも空の前には平等だ。

 

 ○

 

 次の日になり、バイトがあるヘスティアはベルと共に食事を取ると、元気よく扉を開ける。

 

「ベル君! く・れ・ぐ・れ・も! ランクアップのことはまだ誰にも話したら駄目だからね! ……じゃあ僕はバイトに行くから、今日はゆっくり休んでいるんだよ」

 

「分かってますよ神様。……いってらっしゃい、気を付けて」

 

 いつもとは逆の立場になっている二人だが、ベルに「いってらっしゃい」を言ってもらえたヘスティアは、これはこれで悪くないと内心で喜びをあげる。

 

 寧ろ養ってあげたいと! とダメ男製造機になりかけたヘスティアだが、あまりゆっくりしていては遅れるとその一歩を踏み出す。

 

「うん! うん! 行ってきますベル君!」

 

 元気いっぱいのヘスティアを見送り、皿や部屋の片づけを済ませたベルは、当然のことながらジッとなどしていられる筈もない。

 

 もう既にベルは強くなる為にダンジョンを求め始めていて、身を襲う欲望を少しでも発散すべく【ヘファイストス・ファミリア】のテナントへ行き武器でも見ようと思い至る。

 

 思い立ったら即行動のベル・クラネルは、ダンジョンに向かう時とは違い身軽な軽装に身を包むとメインストリートへと躍り出た。

 

 オラリオの街は陽が昇ったこともあり、多くの人間たちで賑わっている。だが一人の少年が現れたことにより、その賑わいは騒ぎへと変わっていく。

 

「おい見ろよ、あいつだぜ!」

 

「へぇ……あの少年が〝未完の英雄〟」

 

「あぁ! 噂じゃあLv.1でミノタウロスを倒したらしい」

 

「うへぇ、それマジかよ」

 

「噂はあくまで噂なのだろう? 私にはLv.1が中層のモンスターであるミノタウロスを倒せるなど到底思えないが……」

 

「お前はあの場に居なかったのか!? はー、もったいねぇなぁ。あの雄姿を見たらそんな言葉は吐けないぜ?」

 

「なんだと?」

 

「やんのかオラァ!!」

 

 メインストリートの一部が騒然とするが、今のベルに彼らは映らない。ベルの全身が警鐘を鳴らしている。人間になど真似できない肌を冒すような粘着く無遠慮な視線がベルを襲っているのだ。

 

「!? ……またか。また、誰かが僕を視ている(・・・・)

 

 この感覚はベルにとって二度目のことだった。一度目は冒険者になり初めてダンジョンへと向かった時で、今回は一度目よりもその視線の力が増している。

 

 ふとベルが視線を向けるのは摩天楼(バベル)の最上階。

 

(愛に、豊穣そして黄金。……それにこれは、死か? でもあなたはまだ(・・)敵じゃない)

 

「あの!」

 

 瞬間。ベルは懐に仕舞ってあったナイフを手に取り、背後に佇む気配へとその刃を向ける。声の主から感じた気配が、あの視線とどこか似ていたように感じたから。

 

「ッ!」

 

 命を刈り取る死の一閃はしかし、首を断罪する寸前で止まる。振り返った先に居たのは、薄鈍色の髪をしたどこにでもいる純真そうな(・・・・・・・・・・・・)少女の姿だった。

 

「……すみません。少しあなたに似た気配を感じてしまって、勘違いしてしまいました」

 

 怯えさせてはいけないとすぐさま護身用のナイフを懐へ仕舞うと、ベルは少女に向けて頭をさげる。

 

 しかしベルは警戒を解くつもりはない。己の勘が外れたベルだが、一度感じた疑念が完全に晴れることは無い。

 

「……いえ、こちらこそ驚かせてしまったみたいでごめんなさい」

 

 少女の返事を聞いて頭を上げたベルは深紅(ルベライト)の瞳を細めて少女を見詰める。

 

「それで、何か僕に用でしょうか?」

 

 完全に〝白〟だ。この右目を通して視た(・・)少女は、ベルが警戒するあの視線の主ではないと判断した。

 

「あ……はい! これ、落としましたよ。あなたの、ですよね?」

 

 少女が手に持つ紫紺(しこん)の色をした結晶を見た瞬間、ベルの瞳孔が僅かに開かれる。

 

「……! ……そうですね、ありがとうございます。どうやらこれは僕の『魔石』みたいですから」

 

「……ふふっ! ……お気になさらないでください」

 

 ベルの表情が変わったのは一瞬のことで、少女はまるで気付いていない様子だ。

 

「それで、冒険者さんは今日も(・・・)ダンジョンですか?」

 

 そして少女から投げかけられる言葉は一見すると違和感のないのものだったが、ベルは少女が語る言葉の明確な意図を悟る。

 

「いえ、今日は(・・・)【ヘファイストス・ファミリア】に武器でも見に行こうかな……と」

 

 だからこそ、ベルは隠された少女の言葉に否と返す。二人だけにしか分からないやり取りは、表向きは穏やかに進行する。

 

「そうなんですか。……あの、もし夜の予定が空いているのでしたら、冒険者さんにはぜひ! 私が働いている酒場でご飯を召しかがって欲しいなぁ……なんて」

 

 少女からの提案はベルにとっても嬉しいものだった。一度の邂逅で終わる関係ではいられないと、ベルも少女も感じ取っているから。

 

「そうですね……ここで出会ったのも何かの縁ですし、夜の予定もありませんから大丈夫ですよ」

 

「本当ですか! ありがとうございます! 私はあのカフェテラス……豊穣の女主人(・・・・・・)で働いている、シル・フローヴァです! えぇと……」

 

「……ベル。ベル・クラネルです」

 

 ──二人の出会いはつつがなく幕を下ろす。互いにその名へと想いを乗せて。

 

ベル・クラネル。……ふふっ! ……では待ってますから、〝約束〟忘れないでくださいね。ベルさん(ケラウノス)

 

「はい。〝約束〟は守りますよ、シルさん(グルヴェイグ)

 

 ○

 

 

 

 

 にこやかに笑い合い別れを告げたベルは誰にも気づかれること無く裏路地へと向かうと……

 

「『まさか豊穣の女主人(フレイヤ)から贈られたものが、ミノタウロス()魔石()だとはな』」

 

 ──その右手に持った『魔石』を握り潰した。

 

 瞬間、ベル・クラネルの気配が豹変する。まるで何かに憑依されたかのように、その表情も、纏う気配もより苛烈なものになる。

 

「『舐めて貰っては困るぞ。進むべき道程度、己が手で切り開いて見せるとも。そして知るがいい、おまえの出る幕はないと』」

 

『ええ。それでこそよ、私の英雄。もっと雄々しく羽ばたいて?』

 

 メインストリートへ進み摩天楼(バベル)の最上階へと向けられたベルの右眼は、閃光のような黄金色に煌めいていた。

 







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独眼

――鍛冶司る独眼よ、我らを統べる天空神に勝利の雷火を宿すがいい。

――全知なる神が望むは、決して砕かれぬ鋼鉄なる裁き。

――全能なる神が望むは、邪悪なる敵を滅ぼす死の光。

――さあ、汝が担う雷で不滅の英雄を鍛えるのだ。

――大地を、宇宙を、混沌を、全てを焼き尽くす雷鳴を。

――その銘は……


 白亜の塔(バベル)を囲むように造られた中央広場(セントラルパーク)を足早に進みバベルの門を潜れば、白と薄い青で彩られた大広間が現れる。

 

「え~と、四階、四階」 

 

 広間の中心にはいくつもの台座が鎮座している。その一つに乗ったベルは手慣れた様子で備え付けられた装置を操作して上の階層へと上がっていく。

 

「相変わらず、凄いなぁ……」

 

 視界いっぱいに広がる様々な武器や防具が並ぶ店全てを【ヘファイストス・ファミリア】が所有している。何度見ても圧巻としか表現できない光景に、ベルは自身の心が疼くのを感じた。

 

(本当は刀が欲しんだけど……他の武器と比べても高い、のはしょうがないか)

 

 無意識の内にベルが眼差しを向けるのは、武器の中でも斬ることに特化した武器『刀』だ。その値段は剣や槍といった他の武器と比べても、群を抜いていた。

 

 そもそも刀は『人』を斬る為に極東の鍛冶師によって作り出された武器であり、手入れもかなりの頻度が必要で、さまざまなモンスターを相手にする冒険者が持つ武器としてはあまり向いていない。

 

 だからこそ刀を買う冒険者は少なく、求める質にも拘る者が多い。結果として値段が高くなってしまうのだ。

 

(本気で刀にするなら最低でも二刀はないと、僕の戦い方に合わない)

 

 だが、ベルの考えは変わらない。己が願う理想の姿を描いた時、英雄は両手に刀を握っていたから。その時点で選ぶべき道は決まっていた。

 

──武器だ。英雄に相応しき武器がいる。

 

──英雄と共に武功を立て、命を預けるに相応しき半身が。 

 

 今ベルが心に抱くのは、現状に対する一抹の不満。ヘスティアから【神聖文字(ヒエログラフ)】を刻まれ、強くなる為に必要な【ステイタス】を授かった。

 

 そんなベルがその手に握るのは、どこにでも売っている安物のナイフ。何度か振るえば、すぐ刃こぼれしてしまうような消耗品だ。

 

 しかし今のベルは下手に高いものを買って失敗するよりも安物のナイフを使った方が効率的だと割り切っている。

 

「でも、流石にこの値段じゃ手は出せないなぁ……」

 

 この棚に陳列している短刀の値段は八百万ヴァリスであり、その奥に鎮座する紅の剣の値札を見れば……

 

「……3000万ヴァリス」

 

 とてもじゃないが今のベルでは手を出せる代物ではない。因みにさきほどの刀は6000万ヴァリスだ。

 

 ベルは一見ここに並ぶ武器たちを物欲しそうに眺めているように見えるのだが……

 

「自分の命を預けるんだ。まだ選ぶには早いかな……」

 

 それ以上にベルはここに並ぶ武器に、担い手として欲するものは存在しなかった。どの武器を取ったとしても、目指す理想を前について来れず崩れ去る未来しかベルには見えないから。

 

──英雄は求めていた。己の理想を共に歩んでくれる武器を。

 

──英雄は願っていた。己の誓いを共に果たしてくれる武器を。

 

 それでもカッコイイ様々な武器を眺めるのは楽しいと、ベルは心の内と反して明るい笑みを零す。

 

 もう少しだけ見て行こうと思っていたベルだったが、背後から声を掛けられる。

 

「あら? ……誰かと思ったら噂の英雄君じゃない」

 

「え……? あなたは……」

 

 振り向くベルの目をまず奪うのは、炎のような力強さを感じさせる美貌。次に目を引くのは、右眼を中心に顔の半分を覆いつしてしまっている眼帯。そして最後に腰まで伸びた紅色の長髪が印象的な女性だった。

 

「こんにちは。私は……そうね。ヘファイストスっていえば伝わるかしら?」

 

「は、はい! 初めましてヘファイストス様、僕はベル・クラネルって言います」

 

(火山のような炎……それに雷の光は……なるほどね。あなたは、寧ろこちら側か)

 

 不意に現れたヘファイストスを前に、ベルの深紅(ルベライト)の瞳から僅かだが閃光のような光が漏れる。意図せず漏れ出すその輝きは、まるでヘファイストスに共鳴しているようにも思える。

 

(ああ……凄まじいわ。本当にあなたは変わらないのね、〝私が鍛えし雷霆(ケラウノス)〟。その右眼も、心に抱く願いも)

 

 ヘファイストスを前にして、ベルの心は不思議と懐かしさに包まれた。この穏やかな気持ちをベルは知っている。祖父と暮らしていた時も、今のように懐かしい気持ちをベルは抱いていたから。

 

 だがいつまでも呆けてはいられないと、ベルはヘファイストスに仰々しい己の呼び方を尋ねる。

 

「えっと、その英雄と言うのは……」

 

「……あんな姿を見せておいて、相変わらず(・・・・・)自覚は無いのね」

 

「……? それは、どういう」

 

 ベルにとって〝英雄の凱旋〟は、エイナとの約束を果たす為の自己満足な行動だ。それにあの時は意識が朦朧としていて、今になってもベルは多くを思い出せないのでいまいちピンとこない。

 

 それに加えてヘファイストスの言い回しに、若干の違和感をベルは覚えた。

 

「まあいいじゃない。それよりも、英雄君は何の武器を求めてここへ?」

 

 初対面である筈なのに親しみを感じるヘファイストスに対して首を傾げるベルだが、これこそがあるべき関係なのだと魂が咆える。

 

 ならこの距離感は正しいはずだと、ベルは納得するしかない。

 

「え~と、今日は武器を眺めに来ただけなんです…… どれも素晴らしい武器だとは思うんですけど、今の僕じゃ手が届きそうになくて」

 

 ヘファイストスの問いを前に思わず本心を言い掛けそうになるベルだが、何とか堪えると話を逸らそうとする。

 

 世界中から引く手数多である【ヘファイストス・ファミリア】の主神であり、永久現役社長であるヘファイストスにに無礼を働けるほどベルは向こう見ずではない。

 

「へぇ……やっぱり(・・・・)ここに並んでる武器じゃ満足できないのね」

 

 しかしそんなことは分かっていたとばかりにヘファイストスはベルの本心を正確に言い当てる。

 

「……! そこまで、分かるんですか……。はい、確かに……ヘファイストス様の言う通りです。ここに並ぶ武器はどれも素晴らしい逸品だと断言できますが、僕の命を預けたいとはどうしても思えません」

 

「せめてあの輝き(ガンマ・レイ)に耐えられるくらいの武器じゃないと、僕は決して満足しない」

 

 ヘファイストスに向けて紡がれたベルの言葉には、この想いは絶対に譲らないという鋼の意志を感じさせる。そんな雄々しいベルの姿を見て、ヘファイストスは瞠目すると一度静かに瞳を閉じる。

 

「! …………そう。……そうだったわよね。……ごめんなさい、どうやら時間みたいだわ。本当はもっとゆっくり話したかったんだけど、私も結構忙しくてね。()()()()()()()()()()()()()()()()

。折角来たんだからゆっくりしていってね英雄君(ベル・クラネル)

 

「は、はい……」

 

 ──ベルに背を向け再び開かれたヘファイストスの左眼には、火山が噴火したような燃え上がる意志が宿っていた。

 

 

 

 

「……本当に……本当に久しぶりだわ。右目が疼いたのなんて何万年ぶりかしら? 待ってなさい、雷火の天霆(ケラウノス)。あなたに相応しい武器は必ず私が……」

 



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幸福

 陽が沈み、昼とはまた違った喧騒の姿を見せるオラリオの街。様々な楽器による演奏や、吟遊詩人の詩が自然と耳に流れ込んでくる中、ベルはメインストリートの人混みを掻き分けていく。

 

 そして見覚えのあるカフェテラスを見つけると、ベルは扉を開けて店の中へと入った。

 

「あ! ベルさん!」

 

「っ……」

 

 どこから現れたのか、まずベルを迎え出たのは昼の折に出会ったシル・フローヴァその人だ。

 

「いらっしゃいませ! 来てくれたんですね!」

 

「……はい、約束しましたからね」

 

「ふふっ……そうですよね? では、こちらにどうぞ!」

 

 ベルとシルは昼と同じように微笑みを浮かべて、店の中へと進んでいく。案内されたのはカウンター席の目の前には恰幅のいいドワーフの女性が立っていた。

 

「へえ、アンタが〝未完の英雄〟かい? ははっ、いい面構えだ。将来有望そうじゃないか」

 

「はははっ……」

 

 またか、とベルは頬を引き攣らせる。ヘファイストスから始まり今日の間でベルは何度も〝未完の英雄(その名)〟と声を掛けられているのだ。

 

「その様子じゃ、さっそく有名人としての洗礼を受けたみたいだね?」

 

「はい……僕としては初耳と言うか、自覚がないので困ってるんですけどね……」

 

 その中には若干狂気的なまでに盲信してくる人も居たことから、思わず身構えてしまうのだ。

 

「まあ安心しな、ここの奴らにはよ~く言って聞かせてる! だろう!」 

 

「「おおおおおおおおお!!」」

 

「それじゃあゆっくりしてくれよぉ!」

 

 ベルは知らないことだが、今オラリオでは〝英雄の凱旋(エイナとの約束)〟が話題騒然となっている。多くの神が住んでいるこのオラリオでは、面白いことは一瞬で広まる。

 

 誰が見ていたのか知らないが(・・・・・・・・・・・・・)、瞬く間に広まったLv.1の少年がミノタウロスを倒し約束を果たした物語に、男心を(くすぐ)られた男神などは『英雄キタァー!』と歓喜していたほどだ。

 

 そしてレベルの差を知る冒険者であればあるほど、ベルを称賛せずにはいられないのだ。

 

 ──またベルの人気が加速する理由の一つが【ヘスティア・ファミリア】唯一の眷属であるという点もあるだろう。

 

 傍から見ればただ一人の眷属であるからこそ、己が女神の為に強くなりたいと雄々しく進むベルの姿に多くの者が心奪われる。

 

 ベルからしてみれば、ヘスティアに心配をかけ自分のしたいことをしているだけなのだが。

 

(未完の、英雄か。いいや、違う。誰かの想いすら背負えない今の僕に〝英雄〟の名は相応しくない。だからもっと強くなろう。真の英雄になる為に)

 

 ──誰が言ったか〝未完の英雄〟。

 

 ベルに付けられたその異名は、今はまだ未熟な英雄という意味と、英雄の物語はこれから始まるという二つの意味が込められている。

 

 ここで終わりではないからこそ未完。民衆は求めているのだ、英雄が新たな偉業を成し遂げてくれることを。〝英雄の凱旋〟の先を。

 

 ○

 

「ふふ……楽しんでいますかベルさん」

 

「はい、とても。いいですね、ここは…… とても気に入りました」

 

「良かったです。気に入って貰えて」

 

 ベルは【ヘファイストス・ファミリア】を出ると一度ホームへ帰り、バイト終わりのヘスティアに夕食は外で取る事を伝えた。

 

『うん、うん! ちゃんと休んでくれているようでボクも安心だ! ベル君のお陰で貯金にも少しは余裕があるからパーッと羽を伸ばしてくるんだぜ!』

 

 ヘスティアもバイト先での打ち上げがあるらしく軽く会話を交わしたら元気よく飛び出していった。

 

 そして現在シルとの約束を果たす為に、ベルは豊穣の女主人で食事を取っている。

 

(そうだ、彼らの笑顔こそが何よりも尊いものなんだ。決して悪に踏みにじられていいものじゃない……)

 

 少し見渡せば笑い合う冒険者たちや、可愛らしいウエイトレスに鼻の下を伸ばす男たち。賑やかな雰囲気に包まれれた温かな子の景色はベルが守ると誓った幸福の一幕。

 

(だから僕は見定めなきゃいけない。幸せを踏みにじる悪は居るのか。居るとするならそれは誰なのか。この眼で)

 

 ベルにとって力とは、誰かを守る為にある。今もベルはこの胸に宿る願いと覚悟、そして切り拓くべき明日に対する慈しみで満ちているのだ。

 

 この身のすべては皆を幸福にするために在るとベルは信じている。誰もが笑顔で生きられるように、幸せでいて欲しいから。悲しい涙は流させないと願うからこそ、ベル・クラネルは英雄になりたいのだ。

 

 ──ただ我武者羅に強さを求め続けた。

 

 ──ベル・クラネルは『英雄』だ。決めたことは必ず成し遂げる鋼の意志と、守るべき『誰か』の為に前へ前へと進み続ける。誰よりも、何よりも未来を願う真実、紛れもない〝英雄〟なのだ。

 

『……大丈夫ですか?』

 

 シルと会話を交わしながらベルがふと思い出すのは、ミノタウロスとの死闘を終えた後に出会った【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインの姿。

 

(アイズ・ヴァレンシュタイン、か)

 

 初めて【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を発動し、無意識の内にベル・クラネル(■■■■■)の本質へと近づいてしまったベルは、その右眼を通して否が応でもアイズが心に深い闇を抱いていると理解する。

 

(あなたは……) 

 

 そんなアイズにベルは強い興味を抱いてしまう。己の心から欠落しているだろう〝過去を抱きしめる〟という想いに、惹かれてしまう。

 

 何故ならベルにはアイズが抱くその気持ちを真に理解することはできないから。前へと進み続けることしか出来ないベルが、振り返るべき過去はもはや一つとして残されていないのだから。

 

 



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雷鳴

「よっしゃあ! ダンジョン遠征みんなご苦労さんや! 今日はじゃんじゃん飲めぇ!」

 

「「「「「おおおおおおおおおお!!」」」」」

 

「……」

 

 遠征から帰還し、ロキのお気に入りである豊穣の女主人にやって来た【ロキ・ファミリア】だが、そんな中でアイズだけが心ここに在らずと言った様子だった。

 

「あー! 私も〝英雄の凱旋〟見たかったな~!」

 

「はぁ……ティオナ。あんたさっきからそればっかりね」

 

「だって、見た人に聞いたら英雄譚みたいだったなんて嬉しそうに言われたらさぁー……気になるじゃん〝未完の英雄〟君!」

 

 それからほどなくして騒ぎ出す【ロキ・ファミリア】の面々も、現在オラリオで話題沸騰の〝英雄の凱旋〟について話し合う。

 

 とくに英雄譚を好むアマゾネスの少女ティオナ・ヒリュテなどは、ダンジョンから帰還してからこの話題しか口にしていない。そんなティオナ()の様子に、慣れている筈のティオネも、少しばかりお疲れの様子だ。

 

「ああ。僕も伝え聞いただけだけど、かなりに話題になってるみたいだね」

 

「だ、団長! い、いつからそこに!」

 

「少し前からかな? 面白そうな話をしていたみたいだから、僕も気になってね」

 

「だよね! だよね!」

 

 二人の背後から現れたのは【ロキ・ファミリア】団長であり、【勇者(ブレイバー)】の二つ名でも知られるオラリオ最高峰であるLv.6の一級冒険者だ。

 

 フィンは、小人族(パルゥム)の再興を目指しその象徴となるべくここまで歩んできた。

 

(ふっ……親指が疼いてしょうがない。これは間違いないかな?)

 

 思わず親指を撫でるフィンは、ベル・クラネルが噂に違わぬ可能性を秘めていると予感する。この疼きは信じていいとフィンは断言できるから。

 

(早くこの目で見たいね、未完の英雄の姿を……)

 

 これまで目的のためにさまざまな画策によってその名声を手にしてきた『人工の英雄(フィン・ディムナ)』は、己が雄姿ただひとつで人々を魅了する『未完の英雄(ベル・クラネル)』に強い興味を抱いていた。

 

 Lv.1でありながら中層のモンスターであるミノタウロスに挑むその行動は愚行としか言いようがないもので。

 

 だがしかし英雄とは時に誰よりも愚かだからこそ、前人未到の栄光をその手に掴み、後世に英雄譚として語られる。

 

 十人に聞けば十人が不可能だと答えるLv.1によるミノタウロスの討伐。

 

 それを成し遂げたベル・クラネルは未完なれど、たしかに英雄になる器を持っていると言えるだろう。

 

 ○

 

「ったく、お前らはたかだかミノタウロス一頭に騒ぎ過ぎなんだよ」

 

「ガハハッ! 今日は一段と機嫌が悪いのうベート」

 

「チッ……! うるせえな……余計なお世話だ」

 

 遠征帰りの宴会だけあって、大いに盛り上がる【ロキ・ファミリア】の冒険者たちだが、その中でアイズ以上に様子のおかしい人物が居た。

 

 その男の名はベート・ローガ。Lv.5であり【凶狼(ヴァナルガンド)】の二つ名で呼ばれるベートは、苛立ちを隠すことなく不機嫌そうに表情を歪めている。

 

「……ふうむ。その様子じゃと、機嫌が悪いだけというわけではないとみたが?」

 

「……だったら何だってんだ?」

 

 そんなベートを気にする素振りなく話しかけるガレスの言葉は正鵠を射ていた。今ベートの心を支配するのは今までに感じたことの無い苛立ちと、それ以上の歓喜なのだから。

 

「ガハハッ! いい眼をしていると、そう思っただけじゃ……」

 

 強さを求めているがどこか冷めていたベートの瞳が、爛々と輝き始めていると感じたガレスは温かな視線を向けるのだった。

 

『【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】!!』

 

 ベルが魔法を放ったあの場には、実はアイズだけでなくベートも立ち会っていたのだ。

 

 アイズとは違いベートが見たのは魔法を放つ少し前からではあるが、ミノタウロスに立ち向かった少年はたしかに強者だった。

 

 今はまだ強者と呼ぶには相応しくないが、ベートの瞳に映ったベル・クラネルは決して弱者ではなかった。その胸に抱く大志が、鋼の意志が雄々しく燃え上がっていたのだから。

 

(くそがっ……! あいつは諦めていなかった! どうせ無理だと馬鹿にしていた俺の考えをぶち壊して、勝ちやがったんだ! そうだ……俺とは違って! あいつは、最後の最後まで『強者』だった!)

 

(ふざけるんじゃねえぞ、ベート・ローガ! お前はいつから今の強さで満足してやがった! これでいいと綺麗事のような嘘を重ねて逃げてやがった! 違うだろうが! そうじゃねえだろうが! 俺の願ったモノは!)

 

 だからこそ、ベートの尽きることの無い苛立ちは自身に向けられたものだった。

 

 Lv.1如きの冒険者がミノタウロスに勝てるわけはないと、今の強さに胡坐をかいて鼻で笑って見せた過去の自分を殴ってやりたい。

 

 ──己がもしあの立場だったとしたなら、ミノタウロスに勝てただろうか? 

 

 ──答えは否だ。そもそも己がLv.1であったならミノタウロスに挑もうなどとは思えないベートには、そもそも勝つ負ける以前の話なのだ。

 

 傷が疼いた。ベートの魂にまでも刻まれた過去の痛み(なみだ)が。

 

 ──ベートは弱者が大嫌いだった。戦場に出て死ぬのは、いつだって無茶をする強者ではなく、精一杯の勇気を振り絞った弱者だから。

 

(ベート・ローガの目指した理想は! 願った力は! こんなものじゃなかったはずだ!)

 

 どれだけ強くなったとしても、零れ落ちる命がある。救えない者たちが居る。

 

 あの日のように、すべてを奪い去ってしまうのだ。そんな救いのない世界の、戦場の非情なる真実がベート・ローガは何よりも大嫌いだった。

 

 もっとだ。もっと力を寄越せと叫んでも、守りたい者たちはその横で勝手に死んでいく。

 

 ──大切なモノすべてを守り切れなかった自分自身がベート・ローガは誰よりも大嫌いなのだ。

 

(俺も、俺も強くなれる! いや、強くなるんだよ! なぜ俺は今まで立ち止まってた! 今のままでいいと諦めていた!)

 

 そうだ。強者とは斯くあるべきだと、ベートはあの場に立ち会えた己の運命に感謝した。すべてを失ったあの日から欠けていた情熱がベートの心に不死鳥のごとく蘇る。

 

まだだ

 

 ベートが思い出すのは、ベル・クラネルがミノタウロスを前に立ち上がった時に叫んだ『強者』の叫び。

 

(そうだ、まだだろうが!)

 

 雄々しく羽ばたく英雄の在り方(輝き)に目を覚まされたベート・ローガは、飢えた狼のように獰猛な笑みを浮かべる。

 

 ──我が牙は、神すら喰らう何者にも砕かれぬ鋼の刃。

 

 ──待っているぞ、雷鳴の英雄(ベル・クラネル)。お前がこの高みへと駆け上がってくるその瞬間を。

 

 ──俺はお前の先を征く。現実(過去)理想(未来)もそのすべてを守ってみせる。

 

 すべてを失った銀狼は、英雄の雷鳴と共に新生する。それは過去の己との決別に非ず、優しきあの日の思い出は今もこの胸に在る。

 

 英雄(主人公)には成れずとも、守るべき者の為に強くなれるのだとベートは天に向かって吼えるのだ。

 

 この数日後、ベート・ローガは【ランクアップ】を果たしLv.6の冒険者となった。

 



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恋情

――怪物を屠らんがために、復讐に燃える憎悪の精霊。

――その背に刻まれるは、黄昏を告げる終焉の祝福。

――英雄に寄り添う精霊の風。

――少女の心を焦がすのは、憎悪に満ちた憤怒の業火。

――その日。孤独なりし復讐の精霊は、未来を育む光と出会った。


【ロキ・ファミリア】の宴は続く。勇者なりし小人族(フィン・ディムナ)は心躍らし、神すら喰らう狼人(ベート・ローガ)が新生している最中。

 

 自他ともに認めるオラリオ最強の魔導士【九魔姫(ナイン・ヘル)】こと、【ロキ・ファミリア】の副団長であるリヴェリア・リヨス・アールヴは、表情には出さないが少しばかり落ち込んでいた。

 

「しかし私たちの逃したミノタウロスが上層に上がり、それをLv.1の冒険者が倒すとはな。出会ったのが噂の少年でよかった、という資格など私には無いか」

 

 それは【ロキ・ファミリア】が起こしたミノタウロスに対しての不手際に関してであることは言うまでもない。

 

 今では〝英雄の凱歌〟として話題になっているが、ミノタウロスに遭遇(エンカウント)したのが件の少年でなければ死人が出ていたことだろう。

 

 そうなれば【ファミリア】同士による争いの火種になりかねない。本当に今回は運が良かっただけなのだからと、リヴェリアは宴会中であっても気を引き締める。

 

「まぁまぁええやないかリヴェリア! その子も無事やったんやから、あんま難しく考える必要はあらへんで?」

 

「ロキ……だがな……」

 

 そんなリヴェリアを見かねたのか、すでに酔っぱらっているロキが絡みはじめる。

 

「だがも、しかしも無いっちゅうねん! そ・れ・よ・り・も・や! 噂の子、【ヘスティア・ファミリア】の眷属って話やないかー! あのドチビ、いつの間に【ファミリア】なんて作ったんや!」

 

 それは珍しく落ち込んでいるリヴェリアを慰める為だけではなく、ロキ自身の愚痴を聞いてもらう目的もあった。

 

 Lv.1でありながらミノタウロスを倒したという〝未完の英雄〟に興味をそそられるロキではあるが、その少年が所属している【ファミリア】に問題があった。

 

 ──【ヘスティア・ファミリア】。それ即ち〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟はヘスティアの眷属であることを示している。

 

 ロキとヘスティアは初めて出会ってからまだ百年程度しか経っていない。だがその仲は険悪だと神々の間でも有名だ。

 

 その理由はたった一つ、されど譲ることの出来ないもので。端的に言えば、ロキには無いヘスティアのデデン! と胸に実ったその果実にあった。それをロキが目の敵にし、ヘスティアも煽り返すから収拾がつかない。

 

 それからというもの、ロキとヘスティアはことあるごとに口喧嘩する水と油な仲なのである。

 

「何だロキ、知り合いなのか?」

 

「ふんっ! ドチビのことなんか思い出したくもあらへんわ! それより胸や! 胸触らせてぇやリヴェリア!」

 

 しかしせっかくの宴会にまでヘスティアのことを持ち出されては堪らんと、ロキはリヴェリアの胸に飛び込もうとするが。

 

「はぁ……やれやれ。駄目に決まっているだろう」

 

 ──当然、許されるはずが無かった。

 

 ○

 

 一方どこか近寄りがたい雰囲気を放つアイズと食事を取っているレフィーヤは、健気に声を掛け続ける。

 

 アイズの様子が変わったのは遠征の帰り、ミノタウロスを追って行った後からだった。

 

 まるで鋭利なナイフのように研ぎ澄まされた気配と、親とはぐれて迷子になってしまった子どものような寂しげな表情からは、どこか矛盾した印象をレフィーヤは受けた。

 

 そんな自身の変化にアイズは気が付かない。己の抱いている想いの名を、少女はまだ知らないから。

 

「アイズさんこの料理美味しいですよ!」

 

「……うん」

 

 それからというものアイズは今のように上の空であり、返事にもあまり意志が籠っているようには感じられない。憧れの人であるアイズを心配し明るい雰囲気にもっていこうとするレフィーヤだが、どうにも空回りしているように見える。

 

「……?」

 

 ──その時だった。アイズの瞳が目一杯に見開かれる。

 

「あれ? どうかしましたかアイズさん」

 

「…………!」

 

「も、もしかしてアイズさん! 体調が悪いんじゃ!」

 

 急なアイズの変化にレフィーヤは体調が悪くなってしまったのでは慌てるのだが。

 

「……ううん。……何でもない。……何でも、ない」

 

 そんなレフィーヤの声は、今のアイズにはほとんど聞こえていなかった。周りの景色が瞬く間に色褪せていき、彩られている景色はただ一つ。

 

 ──視線を向けた先にはウエイトレスとにこやかな表情で話し合う少年の姿が。

 

 ──鮮烈な輝きを放つ光の英雄(ベル・クラネル)の姿があった。

 

「ふふ……楽しんでいますかベルさん」

 

「はい、とても。いいですね、ここは……。とても気に入りました」

 

「良かったです。気に入って貰えて」

 

 アイズの世界に雷鳴が轟く。頬は真っ赤に紅潮し、体温が急激に上がるのを感じる。ベルの顔を見ていると早まる胸の鼓動が、アイズには煩わしくて仕方が無い。

 

「リヴェリアのいけずぅ……せや! こうなったら必殺のアイズたんや! アイズた~ん!」

 

「……」

 

「あ、あかん! アイズたんが石像と化してしもうた……!」

 

 

 

 ──見つけた。

 

 ○

 

 アイズにとって力とは己の復讐の為にある。今もアイズはこの胸を焦がす怒りと悲しみ、そして奪われたあの日の幸せに対する憎悪で煮えたぎっているのだ。

 

(私、は……)

 

 この身は憎しみを晴らすために在るとアイズは信じている。何よりも大切な、奪われた幸せをただ返して欲しいから。悲しい涙はもう流したくないと願うからこそ、アイズ・ヴァレンシュタインは復讐者になった。

 

『私は、お前の英雄になることはできないよ』

 

 ──ただ我武者羅に強さを求め続けた。モンスターは、怪物は必ず殺すと誓ったから。この手で憎き化け物たちの一切合切そのすべてを斬り伏せると渇望したから。

 

(私は、誰……?)

 

 ──アイズ・ヴァレンシュタインは『復讐者』だ。

 

(……私は、何を求めているの?)

 

『いつか、お前だけの英雄に巡り逢えるといいな』

 

 誰よりも強い父と、誰よりも優しい母と共に過ごす幸せだったあの日に囚われた、何よりも過去を想うただの少女なのだ。

 

『僕が……僕がここで……倒さないと……。あの日のように……もう僕は……誰も失いたくないんだ!』

 

 ──瞬間。闇に沈むようなアイズの心に希望(ヒカリ)が迸る。

 

 ベルを見詰めながらアイズが思い出すのは、傷だらけになりながらもミノタウロスに挑んでいく光の如き英雄の姿。

 

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】!! 

 

 今もあの時の光を、アイズは鮮明に思い出せる。諦めないと、決めたからこそ征くその姿はどこまでも希望に満ちた未来をアイズに予感させた。

 

 決して屈しはしないと、揺るぎなき太陽のような雄姿は、万の言葉よりも雄弁に〝おまえを守る〟と告げているようで。

 

 あれだけの傷を負っていたとしても、微塵も不安を抱かせないのだ。

 

 ベルはただ我武者羅に戦っているだけだと知っていながらも、アイズには雄々しい背中に守られているように思えて仕方が無かった。

 

「どうでしたかベルさん?」

 

「とても美味しかったですよ、シルさん。また時間が空いた時に寄らせてもらいますね」

 

「はい! また来てくださいね! ……約束ですよ?」

 

「……本当にズルい人だ、あなたは」

 

「そうですか?」

 

「ええ。……約束、しっかり守らせてもらいますね」

 

 食事を終えたのか、ベルは外へ続く扉に向かって歩き出す。一歩、また一歩と進む度に。一歩、また一歩とその距離が近くなる。

 

(この感情は、何?)

 

 鼓動が刻む痛みはアイズが知らないもので。熱くなる頬の熱をアイズは抑える術を知らない。

 

 手を伸ばしたい。でも伸ばせない。触れたいのに、でも触れられない。そんなもどかしい気持ちがアイズの心を支配して、しかし視線はベルに釘付けになったままで。

 

「……待って!」

 

「ちょ! アイズたん!」

 

 店からベルの姿が消えた時、気が付けばアイズは勢い良く外へと飛びだしていた。

 

 ○

 

 アイズとベルは闇と光、過去と未来、復讐者と英雄。あらゆるすべての要素が対極に位置する存在だ。

 

 心が向いている方向も、求める結末も。そのすべてが。

 

「はあ……! はあ……! お願い、待って!」

 

「……? あなたは……」

 

 ──だからこそ、運命はここに二人の邂逅を定めた。まるでそれこそが世界の意志だと告げるように、二人は出会ってしまった。

 

 ──光は闇に惹かれ、闇は光に魅了される。

 

 ──アイズが持っていないモノをベルは胸に宿し、ベルが持っていないモノをアイズは胸に抱いているから。

 

 こんなにも大きな声で叫んだのは何時振りだろうか? とベルを呼び止めた後にアイズは驚く。自分で思っていた以上に声を張り上げてしまったアイズはとても恥ずかしくなりベルの顔を直視できない。

 

 しかしそんな戸惑いも、振り返るベルの顔を見てすべてが消し去られてしまった。

 

「僕に何か用、でしょうか?」

 

「……! …………あの。…………その」

 

 自分が呼び止めた筈のアイズだが、何故か心を整理出来ず口がもつれてうまく声を出せない。聞きたいことが沢山あった筈なのに、何一つとして言葉に紡ぐことが出来ないのだ。

 

「そうだ。あの時は、肩を貸して頂いてありがとうございました」

 

 俯くアイズを見て怪訝そうに思うベルだったが、アイズに肩を借りた時にお礼を言ったのか朦朧とした記憶では思い出せないので、あらためて感謝を伝えておくことにした。

 

「……う、……うん」

 

「……それじゃあ、僕はここで」

 

 ベルの声を聞くだけで、意識が沸騰するように熱くなってしまうアイズ。心を落ち着かせる沈黙が長すぎたのか、再び俯き続けるアイズを見てベルは少しの戸惑いの後、この場を後にしようとする。

 

 自然と遠ざかっていく二人の距離、これが二人の距離なのだと告げられたような気がしたアイズは……

 

「……名前!」

 

 その一歩を自ら踏み出した。

 

「……名前?」

 

剣姫(アイズ・ヴァレンシュタイン)】に〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟。その名を互いに知っている。

 

「……名前、教えて欲しい」

 

 だが、アイズはベルの口から直接その名を聞きたかった。そしてアイズ・ヴァレンシュタインの名を己の言葉で伝えたいのだ。

 

「…………そう、でしたね。僕としたことが、助けていただいたあなたに名乗るのを忘れていました」

 

 強くなると願ったベルは、アイズの背に並び立つその日まで名乗るつもりは無かった。

 

 だが、頬を紅く染めて不安げな眼差しを向けて来る少女の願いは叶えられるべきだと、心の底から想ったから。

 

「僕の名は、ベル。……ベル・クラネル」

 

「私の名前は、アイズ。アイズ・ヴァレンシュタイン」

 

 二人はその名を交わし合う。ベル・クラネルとアイズ・ヴァレンシュタイン。そこに二つ名のような不純物は一切として存在しない。

 

 そして……

 

「いずれ英雄になると誓った、冒険者の一人です」

 

 いずれ並び立って見せると、その誓いを果たしてみせると目の前の少女へと告げるのだ。

 

「ベルなら……なれるよ」

 

 少年から紡がれた雄々しくも雄弁なる誓いは、いつか必ず果たされると少女もまた告げる。

 

 

 

 

「……月が、綺麗……」

 

 すっかり暗くなった夜空の上で静かに佇む満月は、まるで二人の出会いを祝福している様だった。

 

 

 ○

 

 黄昏の館(ホーム)に戻りいつも通りアイズの【ステイタス】を更新したロキは、この時ばかりは声をあげなかった自分を一万年は褒め称えたかった。

 

「ほ、ほいアイズたん。ス、【ステイタス】やで」

 

「……? ロキ、どうかした?」

 

「い、いや! 何でも! 本当に何でもあらへんで!」

 

 アイズ・ヴァレンシュタイン

 

 Lv.5

 

 力:D549→D555

 

 耐久:D540→D547

 

 器用:A823→A825

 

 敏捷:A821→A822

 

 魔力:A899→S902

 

 狩人:G

 

 耐異常:G

 

 剣士:I

 

《魔法》

 

【エアリアル】

 

 ・付与魔法(エンチャント)

 

 ・風属性。

 

 ・詠唱式【目覚めよ(テンペスト)

 

《スキル》

 

復讐姫(アベンジャー)

 

・任意発動。

 

怪物種(モンスター)に対して攻撃力を高補正。

 

竜族(ドラゴン)に対し攻撃力を超補正。

 

憎悪(いかり)の丈により効果向上。

 

(……待っててベル。私、もっと強くなるから)

 

 羊皮紙に更新された【ステイタス】を見たアイズは、ベルのことを想いながらロキの部屋を後にするのだった。

 

 

 それから数刻後……

 

「ア、アイズたんはおらへんな?」

 

 ロキは扉を開けてキョロキョロと辺りを見渡しすぐさま扉を閉じると。

 

「な! なんじゃこりゃああああああああ!! ……うちの! うちのアイズたんがああああああああああ!!」

 

 アイズ・ヴァレンシュタイン

 

 Lv.5

 

 力:D549→D555

 

 耐久:D540→D547

 

 器用:A823→A825

 

 敏捷:A821→A822

 

 魔力:A899→S902

 

 狩人:G

 

 耐異常:G

 

 剣士:I

 

《魔法》

 

英雄に寄り添う精霊の風(エアリアル・ダンス)

 

付与魔法(エンチャント)

 

・霊風属性。

 

・ベル・クラネルを付与対象に選択可能。

 

・ベル・クラネルと隣接時のみ全能力を超補正。

 

・ベル・クラネルと隣接時のみ追加詠唱可能。

 

・詠唱式【目覚めよ(テンペスト)

 

・追加詠唱式【精霊の姫君(アリア)

 

《スキル》

 

復讐姫(アベンジャー)

 

・任意発動。

 

怪物種(モンスター)に対して攻撃力を高補正。

 

竜族(ドラゴン)に対し攻撃力を超補正。

 

憎悪(いかり)の丈により効果向上。

 

恋情一途(リアリス・フレーゼ)

 

・早熟する。

 

懸想(おもい)を抱き続ける限り効果持続。

 

懸想(おもい)の丈により効果向上。

 

懸想(おもい)を理解する度に全能力が永続的に向上する。

 

・ベル・クラネル以外からの魅了無効。

 

 

 ……英雄に寄り添うことを願った、精霊姫(アリア)の物語が始まった。



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宿命

──いつだって、後悔するのはすべてが終わったその後で。

 

 それは小さな村に住むどこにでも居る(・・・・・・・)老人と、英雄になると誓った無垢なる少年の、英雄譚では語られない始まりの記憶。

 

──何よりも尊いと想っていた安寧なる日々は、たった一つの暴虐によって奪われた。

 

 穏やかな風が流れる小さな村で、何度も祖父に読み聞かせて貰った英雄たちの物語。邪悪なる敵を前に、屈することの無い不屈の闘志。誰かを笑顔に変えるその力が、少年に憧れの火を灯す。

 

──祖父は優しかった。祖父は強かった。祖父は時に厳しかった。

 

 祖父との暮らしに少年は、不満など何一つとしてなかった。少年が望むのは、己の心に不思議な安らぎを与えてくれる祖父との日常。それ以外に望むものなど何もなかった。

 

──そして、誰よりも弱かった己を守って……

 

 ただ一つしかない少年の願いは奪われた。善なる者の小さな幸せは、強大なる悪を前に蹂躙されたのだ。

 

──死んだんだ。

 

 少年の慟哭は天にまで響き渡り、その魂に刻まれた鋼の意志と邪悪を滅ぼす死の光が目を覚ました。

 

──邪悪なる暴虐、黒き鱗に覆われた隻眼の龍によって。

 

 これは愛する家族を奪われた無垢なる少年が、鋼の英雄として突き進むと誓った、英雄譚では語られない終わりの記憶。

 

 ○

 

「……懐かしい夢、だったな」

 

 いまだに人々が寝静まる早朝三時。日課である鍛錬の時間になりベルは静かに目を覚ますと、どこか儚げな微笑みを浮かべる。

 

 その寂しげな表情は在りし日の幸せを想ってなのか、これからも前にしか進めない己への愚かさを嗤ってのものなのか。それはベル・クラネルにしかわからないだろう。

 

「ベル君の……馬鹿ぁ……むゅぅ」

 

 しかし今にも夜に溶けて消えてしまいそうな英雄の心をその身体と共に強く抱きしめる、ヘスティアの炉のような温もりが、ベルの抱く鋼の意志に創生の火を運ぶ。

 

「捨て去ってしまった過去なんてもう夢に見ることはないと、そう思ってたんだけどな……」

 

 ベルの願いに揺らぎはなく。果たすべき誓いは今も己の心に燃え滾っている。だからこれはすでに覚めた夢の続きに過ぎない。英雄に残された過去の、幻のような残滓に過ぎないのだ。

 

「……神様。僕は必ず英雄になってみせます。悲しみに暮れる誰かの涙を拭う為に。誰もが輝く明日を手にできるように」

 

 一度目を瞑り再び開いた深紅(ルベライト)の瞳には、閃光のような雄々しい意志が燃え盛る。そこに居たのは、誰かのためにと進み続ける英雄の姿だけだった。

 

 ○

 

 ヘスティアから「さすがに頭が可笑しいんじゃないかなベル君!」と注意されるほどに厳しい鍛錬を終わらせたベルは、滝のように流れた汗を拭うと朝食の準備に取り掛かる。

 

 そしていつものようにヘスティアと微笑ましく朝食を共にすると、ベルが待ち望んだ【ステイタス】の更新が始まりを告げた。

 

「よし、ベル君! さっそくステータスの更新と行こうじゃないか!」

 

「はい!」

 

 たった一日の休息であったが、ベルにとっては永遠にも思えるほどに長い停滞の時間だった。ミノタウロス相手に無茶をした自分が悪いと自覚していながらも、ベルはこの時を何よりも渇望していたのだ。

 

 それは【ランクアップ】出来ることへの喜びでは無い。再びダンジョンに潜り、強くなる為に前へと進めることにベルは心の底から歓喜にしているのだ。

 

 ──前しか見ることの出来ないベルにとって、立ち止まること以上に苦痛なことは無いのだから。

 

「えぇぇぇぇぇ! なんだいこのステイタスはぁぁぁぁぁ!」

 

 そして【ステイタス】更新でもはや恒例となっているヘスティアの絶叫が、教会の外にまで響き渡る。

 

 ベル・クラネル

 

 Lv.2

 

 力:E442

 

 耐久:D567

 

 器用:D514

 

 敏捷:E439

 

 魔力:B723

 

 宿命I

 

《魔法》

 

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)

 

集束殲滅魔法(■■・■■■■■■)

 

・雷属性

 

・チャージ可能

 

・チャージ時間に応じて威力上昇

 

《スキル》

 

英雄誓約(ヴァル・ゼライド)

 

・早熟する

 

意志(おもい)を貫き続ける限り効果持続

 

意志(おもい)の強さにより効果向上

 

鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)

 

・治癒促進効果

 

・逆境時におけるステイタスの成長率上昇

 

・時間経過、または敵からダメージを受けるたびに全能力に補正。

 

・格上相手との戦闘中、全能力に高補正

 

 ヘスティアが驚くのにも無理は無かった。本来【ランクアップ】した【ステイタス】の熟練度はそのすべてが初期値へと設定される。

 

 それこそが常識であり、今までに例外など存在し得なかった。にもかかわらずベル・クラネルの熟練度は【ランクアップ】した時点でかなり上昇している。

 

 その上がり幅は二日前の【ステイタス】と比較し【ランクアップ】前も含めて、合計加算(プラス)は驚異の〝7958〟

 

 この数字を見たら神々も含めてすべての者達が目を剥いて絶叫すること間違いなしだ。

 

(明らかにおかしい。ランクアップした後にそのままステイタスが上がるだなんて、ボクは一度も聞いたことが無い。もしかしてこの早熟スキル、【英雄誓約(ヴァル・ゼライド)】が影響、してる?)

 

 常識をぶち壊すような存在であるベルの行動に、最近になって慣れはじめたかと思っていたヘスティアだったが、その考えは改めなければいけないと内心で嘆息する。

 

 それと同時にまだまだ自分はベルを理解出来ていないと、ヘスティアは知らずの内に少しだけ落ち込んだ。

 

(いや……この際ステイタスのことは目をつぶってもいい。それよりも……)

 

 だがそれ以上にヘスティアが気になったのは、ベルの【ステイタス】に刻まれた『発展アビリティ』にあった。

 

 ──発展アビリティとは積み重ねてきた【経験値(エクセリア)】に反映される。どんなアビリティが発現するかは『神の恩恵(ファルナ)』を授かった者の行動によって決まるのだ。

 

「…………もしかして……この発展スキルは……ベル、君」

 

 何より特筆すべきは発展アビリティを発現させるには【経験値(エクセリア)】が必要だという点だ。【経験値(エクセリア)】がなければ【ランクアップ】しても発展アビリティは発現せず、逆に相応の【経験値(エクセリア)】があれば複数のアビリティが選択可能になる。

 

 しかし今回ベルに刻まれた発展アビリティは『宿命』と呼ばれるもの。

 

【ランクアップ】を果たし熟練度がこれだけ上がったのだから、相当の【経験値(エクセリア)】があっただろうベルの発展アビリティだが、複数のアビリティが選択可能になることは無く。

 

 これこそが己の選ぶ道だと言わんばかりに『宿命』の二文字が浮かび上がってきたのだ。

 

 避けることの出来ない運命、その文字にヘスティアは強い既視感を抱いた。己はこれが何なのか知っていると。ベルが抱いている真の想いを識っていると。

 

(これが……これが、ベル君の進むべき道だと、そう言うのかい?)

 

 この【ステイタス】を見て、初めてベルと出会ったときから感じていたヘスティアの予感は徐々に大きさを増していく。

 

(【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ 〝ケラウノス〟)】に、宿命。……ベル君、もしかして君は……)

 

「どうかしましたか、神様?」

 

「……なぁベル君。君は……君はどうして強くなりたいんだい?」

 

 だからだろうか? 気づいたらヘスティアは、ベルが強くなりたい理由を尋ねてしまっていた。遙か古の時代で■■■■■に聞いた言葉を、そのままに。

 

「何の為に、その力を振るうんだい?」

 

「…………」

 

 ヘスティアはベルが答えるだろう願いを、言葉を、その信念を知っている。きっと彼ならこう言うに違いないという予言めいた確信がこの胸にはある。

 

「…………僕は守りたいんですよ、神様。理不尽な悪に踏みにじられる尊き善なる人達を。だって世界は驚くほどに、正しい人たちが虐げられているから……」

 

「そんな誰かに、笑顔で生きて欲しいから。……輝く明日を、その手で掴んで欲しいと願ったから、僕は刃を振るうんです」

 

「………………そっか。ならボクは、そんな君を応援するだけだよ。だって、ベル君は僕の大切な大切な眷属なんだから」

 

 ベルの答えを聞いたヘスティアは、どこか悲しげな表情を浮かべる。しかしそれは一瞬のことで、次にベルへ向けた眼差しは慈愛に満ちていた。

 

「ありがとうございます。僕も……僕もあなたが神様で良かったと、心の底から想っています」

 

 ベルの真実が何であろうと、ヘスティアが愛する男に変わりは無い。だからヘスティアは心の底からベルの未来に幸あらんことをと想うのだ。

 

 炉の神である己が祈るのだから、きっと大丈夫だと願うのだ。

 

「そうだ、ベル君。一つ聞きたいことがあるんだけどいいかな?」

 

「……? 何ですか、神様?」

 

「君が守りたい人の為に振るいたいと願う武器は何だい?」

 

 だからこれはその第一歩だ。英雄の帰りを待つことしか出来ない己が、その道の助けになってみせると誓った第一歩。

 

「刀です」

 

「僕がこの手で振るいたいと願った武器は、邪悪を斬り裂く刀だけですから」

 

 ヘスティアの問いに対して、ベルはハッキリと告げる。己が振るいたい武器はただ一つ、刀に他ならないと。それ以外に選択肢などありはしないと。

 

「なるほど、なるほど。……ベルくんっ! ボクは今日の夜から数日くらい留守にするけど、あんまり無茶しちゃ駄目だぜ?」

 

「え? あ、はい……分かりました。無茶の方は……えぇーと……善処します」

 

 ベルの答えを聞いたヘスティアは、さっそく行動に出る。時間が無い、こうしている間にもベルは閃光のように駆け抜けて、また強くなるだろう。

 

 数え切れない無茶と、数え切れない傷を負うことによって。

 

「それだけ聞ければ十分さ。僕も親しい友人に会いに行くだけだから、心配しなくて大丈夫だからね!」

 

「それじゃあベル君! ボクもバイトに行ってくるよ!」

 

「あ、はい! いってらっしゃい、神様!」

 

 今日の夜こそがヘスティアの正念場だ。

 

 ○

 

「よーし……行くぞ!」

 

 陽が沈みヘスティアが向かうのは、『神の宴』。その主催地であるガネーシャ・ファミリアの本拠、『アイアム・ガネーシャ』だ。きっと彼女も来ているに違いないと、ヘスティアは神友との再会を望む。

 

(大丈夫、だよね……?) 

 

 だからベルへの予感は自分の勘違いであるに決まっていると、ヘスティアは心の底から願うのだった。

 



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輪廻





──いつだって、後悔するのはすべてが終わったその後だったわ。

 

 それは天界にて神匠(しんしょう)の名で轟く鍛冶司る独眼と、天空神の半身として邪悪なる敵を滅ぼす雷火の英雄の、悠久の果てに置き去りにされた終わりの記憶。

 

──何よりも誇らしく自慢だった雷火の天霆は、たった一つの暴虐の為に奪われたの。

 

 楽園のような陽だまりに満ちた天界で、何度も共に笑い合った輝かしき日常。英雄が心に宿すのは、邪悪を前に屈することの無い鋼の意志。神に勝利を与えんが為に振るわれるその力が、独眼にとっては何よりも尊かった。

 

──英雄は強かった。英雄は厳しかった。英雄は時に優しかった。

 

 己が雷を捧げた英雄との暮らしに、不満など何一つとしてなかった。独眼が望むのは、我が手で鍛えし雷霆が無事に帰ってきてくれることだけだ。それ以外に望むものなど何一つとしてなかった。

 

──そして、己が鍛えた雷霆は神々を守って……

 

 ただ一つだった独眼の願いは奪われた。神々に勝利を(もたら)すために、強大な悪を前に立ち向かい続けたのだ。

 

──砕かれたのよ。

 

 独眼の慟哭は天界に響き渡り、鍛冶司る神はその手で神の力を振るうことはなくなった。

 

──邪悪なる暴虐、黒き鱗に覆われた混沌の龍によって。

 

 これは我が子のように愛した雷霆を奪われた鍛冶司る独眼が、もう二度と武器に〝魂〟は込めないと決意した、悠久の果てに置き去りにした大切な記憶。

 

 ○

 

 夜の帳がおりる静寂なる時間。しかし世界で最も熱い都市と呼ばれるオラリオが、寝静まるにはまだ早い。

 

 現在【ガネーシャ・ファミリア】のホーム、『アイアム・ガネーシャ』にて多くの神々が集い賑やかなに笑い合っている。

 

「おい、お前は聞いたか〝英雄の凱旋〟!」

 

「当たり前だろうが! つぅか俺は直接この目で見てんだぜ!」

 

「ま、まじかよそれ!」

 

「「「くそが! 羨ましい!!」」」

 

「カハッ! 何でもいいじゃねえか楽しければよぉ!」

 

 神々の気紛れで行われる『神の宴』では、多くの神々が〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟について話しあっている。新たな娯楽が見つかったと騒ぐものや、すでにあの雄姿に魅了されたもの。退屈凌ぎに丁度いいと笑うもの。

 

「ふむ、未完の英雄か。言い得て妙だな。来るか……新たなる英雄の時代が」

 

「これは、僕が紡がないといけないかな? 詩の神としてさ」

 

 新たな時代の到来を確信するものや神話に残そうとするのもの。抱く思いはさまざまで、しかし神の誰もが未完の英雄に大きな興味を寄せていた。

 

 次は何を見せてくれるのか。どんな武功を立ててくれるのか。どれほどまでに輝かしい栄光をその手に掴むのか。そうだ、神の試練でも与えてやろうかと神々は高らかに謳う。かつての英雄たちに与えたように。

 

 誰もが心より願っているのだ。未完の英雄が、真の英雄へと昇華されることを。神話にすら至る英雄譚を、その雄姿で紡いでくれることを。果てなき道を征ってくれることを。

 

 英雄の覚悟(ヒカリ)は、多くの神々へ新たな時代の到来を感じさせた。その瞳に宿す輝きが、身の内から迸る魂の閃光が、この目を通して視えているのだ。

 

 これほどまでに鮮烈なる光は今まで見たことがないと。〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟は必ず数多の英霊たちを超え、その名を世界に轟かせると。

 

 ○

 

「むっ! そこの給仕君! 聞きたい事があるんだ! 今日の宴にヘファイストスは来ているかな?」

 

 ざわめきに満ちる神の宴にやってきたヘスティアは、親しい神友であるヘファイストスが神の宴に出席しているのかを通りかかった給仕へと尋ねる。

 

 ヘスティアの目的は宴への参加では無く、鍛冶を司る神である彼女に会う為なのだから。ヘファイストスがいなければヘスティアの物語は何一つとして始まらない。

 

 ここで躓く訳には絶対に行かないのだ。もうすでに時間が無い。たった一日ではあるが、目を離してしまえば圧倒的なまでに成長してしまうのが鋼の英雄だ。ベル·クラネルという少年なのだ。

 

「はい。ヘファイストスは今日の宴にご出席されています」

 

「そうかい! ありがとう給仕君! あと踏み台を持ってきてくれ!」

 

「了解いたしました。すぐ用意いたします、少々お待ちください」

 

 もしかしたら来ていないのではと少しばかり抱いたヘスティアの不安も、給仕の返答により打ち消された。ならば次は腹が減っては戦はできぬと言わんばかりに、ヘスティアは食事をとることへ集中する事にした。

 

 神の宴というだけあってテーブルに並ぶ料理はどれも贅沢なもので、零細ファミリアであるヘスティアからすれば手の届かない高級品の数々が陳列している。

 

 だから今の内に沢山味わっておこうと、ヘスティアは皿へと盛り付けた料理を口の中に流し込むのだ。

 

『な、なあ……今日のヘファイストス、様子がおかしくないか……?』

 

『お前の気持ちもわかるけど、やめろって……! 聞こえたらどうすんだよ!』

 

 そして少しばかり時間が経つと、一部の神々が騒然とした様子になる。どこか怖がっているような、こんなことはあり得ないと、何かを認めたくないような声が口々に囁き合う。

 

 一体どうしたんだとヘスティアがその顔触れをよく見れば、彼らは全員が同郷であるギリシャ神話の神々だった。

 

 他の神話体系である神々は、一体どうしたんだ? と彼らが何故慌ただしくしているのかまるで理解できず、首を傾げている。しかし触れてはいけない事だと神の直感が告げるから、彼らは遠くから眺めるだけだ。

 

『でも気になるじゃない……だってあれは』

 

『何言ってやがる、ありえねぇだろうが。そんなことはよぉ』

 

 ギリシャ神話にその名を連ねる彼らの視線の先に居るのは、紅い髪に眼帯をついた女神の姿が。鍛冶司る神であるヘファイストスの姿があった。

 

『何かあったとか、誰か聞いていないのか?』

 

『……ううむ、儂は聞いていないな。しかし彼奴の気配にあの瞳は……あの時以来なのだが、どういうことだ……?』

 

 女神らしく麗しいヘファイストスの姿はドレスによって彩られ、より煌びやかに輝いている。見惚れるならまだしも何を恐れているのかと、他の神々は口々に疑問を口にする。

 

 しかし答えを知るものは誰もおらず、ギリシャ神話の真実が明かされることは決してない。

 

 違う意味で騒がしくなる神の宴だが、ギリシャ神話の神々が向ける視線は、ヘファイストスの左眼に釘付けになっていた。炎のような紅蓮の瞳が、黄金色に迸るヘファイストスの左眼に。

 

 本来ならそれはあり得ない事なのだ。何故ならヘファイストスの瞳が黄金に光るには、ある条件が必要だから。すでに銘すら奪われた■■■■■がいなければ、その目が光輝くことはありえないのだ。

 

 そう、もはやそれは失われたものである筈なのだから。

 

「おーい! 久しぶりだね! ……ヘファイ、ストス……?」

 

「あら? ヘスティアじゃない。久しぶりね、元気そうで何よりだわ」

 

 それはゼウスの姉にして、炉の神たるヘスティアも同じであった。ヘファイストスの後ろ姿を見つけて駆けていけば、振り向いた彼女の左眼が目に入る。

 

 ヘスティアが感じたベルへの予感が確信へと変わっていく。認めたくない真実が目の前に現れたような気がして、目を背けたくなる。

 

「う、うん。それよりもヘファイストス、何かあったのかい……? だってその気配は……」

 

 だからヘスティアは何も知らない姿を装い、ヘファイストスへと戸惑いを伝える。何があったのか、どうして左眼が黄金に光っているのかを。

 

「ふふっ……そうね。久しぶりに本気で武器を打ちたい気分になったの」

 

「え! でもヘファイストス……君は……」

 

 ──本気で打ちたい。ギリシャ神話の神々がこの言葉を聞けば己の耳を疑うだろう。ヘファイストスはあの戦い(・・・・)を最後に、神の力(アルカナム)を使わなくなったのだから。

 

 ヘファイストス自身が公言したわけではないが、ギリシャ神話の神々は誰もが理解していた。彼女の大切なモノが、あの戦いの後に欠けてしまったことを。

 

「勘違いしないで、ヘスティア。私だってあの時のことを忘れたわけじゃないわ。でも……それでも私の武器を握って欲しい人を見つけたのよ」

 

 しかし、ヘファイストスは欠けていた心の情熱を取り戻した。もう二度と胸に響くことはないと思っていた失われし神性を、〝ベル・クラネル(■■■■■)〟を通して感じ取ったのだ。

 

 ──己はここに居る。あなたの選択は、あなたの願いは間違っていなかったと、その後ろ姿が雄弁に告げていた。

 

「……! ……待ってくれ、ヘファイストス。…………それは、それはもしかして、ベルくんのこと、……なのかい? まさか……! やっぱり……やっぱり、そうなのかい! だとしたらベルくんは……!」

 

 もうヘスティアは抑えきれなかった。運命は残酷なまでに真実を告げている。まるで雄々しくも進むベル・クラネルが立ち止まることは無いと、分かりきっているかのように。

 

 神とは悠久の時を生きる超越存在(デウスデア)だ。生命にとっての終わりがない神達は、時に過去と対面する。それは喜ばしい奇跡である時もあり、どこまでも残酷な運命である時もある。

 

「そうね、あの子はきっと……。でも心配しないで大丈夫よ。あの子は誰でもない、〝ベル・クラネル〟という一人の少年なんだから。……でしょう?」

 

「………………そうだね。君の言う通りだよ、ヘファイストス。あの子は誰よりも強くなりたいと願う、ベル・クラネルっていう少年で。ボクのただ一人の大切な眷属だ」

 

 しかしヘファイストスはヘスティアの言葉に否だと告げる。これは残酷なる運命に非ず、歓喜すべき奇跡なのだと。

 

 過去に囚われているのは自分達だけであり、ベル・クラネルは前へ、そして未来へ向いて進んでいると。

 

 彼女が告げた言葉の真意に気づいたヘスティアは、己の考えを改める。ヘファイストスの言う通り、本質を見失っていたのは自分であると理解したのだ。

 

 同時にベル・クラネルは己の眷属でありそれ以上でも以下でも無いと想っていながらも、目の前に現れた衝撃を前に揺らいでしまった己をヘスティアは悔いる。

 

 しかしそれほどまでに突如として目の前に現れた真実は驚きに満ちたものだったのだ。

 

 

 

 

 

「へぇ……どんなものかと思っていたが、オレの予想以上じゃないか。ここなら本当に、〝未完の英雄〟はあなたの願いに応えてくれるかもしれないぜ? 我らが天空神よ」

 

 

──神々の宴はまだ始まったばかりだ。 

 

 





感想にて第一話時点の撃破記録(スコア)3850体の割にステイタスが低いんじゃないか?というかなり大事な疑問を頂きましたので、【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】と【英雄誓約(ヴァル・ゼライド)】の違いを今の内に説明させていただきます。

今作のベル君がもつ早熟スキル【英雄誓約(ヴァル・ゼライド)】は【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】に比べて、通常の戦闘などでの早熟度はかなり低めになっています。

理由としましては、『意志(おもい)の強さにより効果向上』にあります。

効果を向上させるには精神が肉体を凌駕するほどに強い意志(おもい)を抱かなければならず、ベル君はミノタウロスに出会うまではそういった場面に直面していませんでした。その結果、ステイタスもあまり伸びないことに繋がります。

その代わりに格上の敵や、命を賭して競い合える強敵、絶望的な逆境から立ち上がったりなどの場面において、ベル君が持つ鋼の意志も相まって早熟度が爆発的に上昇します。

万能型の【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】、特化型の【英雄誓約(ヴァル・ゼライド)】と覚えていただければ嬉しいです。


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神々


――汝は英雄。愛しの子。進み続ける鋼の意志とボクが刻んだ炉の祝福で、英雄譚を紡ぐんだ。

――古の時代。在りし日の過去。共に交わした約束は今もこの眼に宿っているわ。雄々しく進みなさい、雷火の天霆。汝が武器をいざ打たん。

――美しきかな、黄金よ。私の求める閃光よ。汝が光は私の元へ。私と共に、永久に。

――精霊の羽ばたき、神々の黄昏。汝が選択はうちの幸福。汝の道に祝福あれと、閉ざした扉を開くんや。

――運命を担いし女神たちが、神々の宴に集う。


(なんてことかしら! 運が私に味方しているわ! ……今日くらいは褒めて上げるわよお兄様?)

 

 神々の宴が続く中、フレイヤは自身の幸運を喜ばずにはいられなかった。あまり褒めたことのない(フレイ)に感謝してもいいほどに。

 

 〝勝利〟はすでにこの手の中にあると言わんばかりに、フレイヤは己の求める未来を描き出す。

 

(ふふふっ……少し不用心じゃないかしら?)

 

 今日この場に来た時からヘファイストスの変化に、フレイヤは気が付いてた。そして黄金の閃光(ケラウノス)の主神であるヘスティアと二神で話し始めたのを見て予感を覚えた。

 

 ヘスティアとヘファイストスが話している会話の内容が、己の求めている情報であるという予感を。

 

 周りの神々には魅了を放つことで黙らせて、少しずつ気付かれないように近づいていく。

 

『勘違いしないで、ヘスティア。私だってあの時のことを忘れたわけじゃないわ。でも……それでも私の武器を握って欲しい人を見つけたのよ』

 

 ──ヘファイストスが武器を打ちたいと思った人間を見つけた。

 

 この言葉を聞いただけでフレイヤは心から湧き上がる歓喜を抑えることはできず、その美貌はより妖艶な笑みを浮かべる。

 

(やっぱりあの子は……!) 

 

 フレイヤはかなり前からギリシャ神話の神々が、何かを隠していると睨んでいた。いや、もはやそれは確信に近いものだった。

 

 その中心に居るであろうヘファイストスとも少なからず交流があり、フレイヤは彼らの過去に何があったのか他の神々に比べて、少なからず知っている。

 

 それに加えてさまざまな男神との繋がりによって得た情報が、ギリシャ神話の神々が隠す過去の歴史をフレイヤに垣間見せる。

 

──曰く、ヘファイストスはゼウスに勝利を(もたら)す為に究極の武器を鍛えたらしい。

 

──曰く、その武器を鍛える為にヘファイストスは己の神性すら捧げたらしい。

 

──曰く、その武器は天空神の裁き、〝雷霆〟と呼ばれたらしい。

 

 聞けば聞くほどに湧いて来る雷霆と呼ばれる〝武器(英雄)〟の話題。しかしどの話にも何かを隠している匂いがしたフレイヤは、魅了をかけてまで深く聞き出そうとしたが、驚くことに口を割る者は一人もいなかった。

 

 それほどまでにギリシャ神話の神々は〝雷霆〟について話そうとしないのだ。

 

 しかしフレイヤは見た。摩天楼(バベル)の頂きより、黄金のような輝きをもつ魂を。少年の雄々しきその姿を。

 

『……! ……待ってくれ、ヘファイストス。それは、もしかしてベルくんのこと、……なのかい? まさか……! やっぱり……やっぱりそうなのかい! だとしたらベルくんは……!』

 

 やはり己の推測は間違っていなかったと知ったフレイヤの視線は、遠く離れても強く感じる黄金の閃光(ケラウノス)が放つ魂の光へと向けられる。

 

──美に魅入られた麗しき女神は、黄金の輝きを求める。

 

──豊穣を願う美の女神は、〝黄金の閃光〟に魅了されたのだ。

 

──だから必ず手に入れる。あのブリーシンガメンを手にしたように。

 

「あら二人とも、こんばんは」

 

 知りたいことは聞けたがこのまま帰るのも味気ないと、フレイヤはごく自然に歩みよりヘスティアとヘファイストスへ挨拶する。もしかしたらまだ自分の知らない情報が聞ける可能性もあったから。

 

「……わわ! フ、フレイヤ! 急に後ろに立たないでおくれよ! びっくりしちゃったじゃないか!」

 

「ふふっ、ごめんなさいね。二人して大事そうな話をしてたみたいだから待ってたのよ」

 

 ヘファイストスとの会話に夢中になっていたヘスティアは、突如背後からかけられた声に驚き飛び跳ねた。フレイヤにこの会話を聞かれたかもしれないと。

 

 だがよく考えてみたら、そもそも■■■■■のことを知るはずが無いかとヘスティアは心の中で安堵する。

 

──この話題はギリシャ神話の中でも特級の秘密(パンドラの箱)なのだから。

 

「それで話は終わったかしら?」

 

「ええ、もう終わったから大丈夫よ。ヘスティア、あの話はまた後で」

 

「う、うん」

 

 それはヘファイストスも同じようで、三神はいつもと変わらぬ様子で話し始める。互いに抱く想いを表に出すことは無く、にこやかに、穏やかに。

 

「それにしても、数日の間で随分と変わったのねヘファイストス?」

 

「……ええ、そうね。……今の私を見て嫌いになった、かしら」

 

 いつもの雰囲気とはあまりにもかけ離れた猛々しさに、さすがのフレイヤも気になってしまったらしい。

 

 それもその筈だ。ヘファイストスの気配が黄金の閃光(ケラウノス)に酷似しているのだから、フレイヤが気にならない訳が無い。

 

 しかし昔から顔の半分を覆い隠す眼帯によって周りに恐れられていたヘファイストスは、フレイヤの問いを聞いて少しばかり寂しげに心の中で呟く。あんたもなのかと。

 

「いいえ、今の貴方もとっても素敵よ。その猛々しさは堪らないわ」

 

「……フ、フレイヤ……!?」

 

 だが黄金の閃光(ケラウノス)に懸想するフレイヤが、今のヘファイストスを見て嫌いになるなどあり得ない。寧ろ女であっても惚れてしまいそうだと、恍惚とした表情を浮かべて近づいていく。

 

「ま、ま、待つんだ、フレイヤ!! 今すぐヘファイストスから離れるんだ!!」

 

 そんなフレイヤの様子を見て、こちらの方が恥ずかしくなったと言わんばかりにヘスティアは顔を真っ赤にしながら二人を引き離す。

 

「居たー!! ドチビー!!」

 

 ヘスティアの絶叫と同時に、もう一つの叫びが空間に響き渡る。まるで敵を屠らんとする殺意をばらまきながら、物凄い速度で突っ込んでくる一つの影。

 

 ──彼女の名はロキ。オラリオ有数の探索系ファミリアであり、【フレイヤ・ファミリア】と勢力を二分する【ロキ・ファミリア】の主神でもある。

 

(見つけたでドチビ! ここに来てなかったら、どうしたろかと思ったわ! 絶~~~対に聞かんとあかん! ベル・クラネルについてなぁ!)

 

 アイズの【ステイタス】を更新したロキは、彼女に刻まれた『魔法』と『スキル』を見て絶望した。早熟スキルという聞いたこともないスキルを発現させたアイズは、間違いなく強くなる。それ自体はとても喜ばしいことだ。

 

 多くの眷属を見てきたロキには分かる。アイズ・ヴァレンシュタインは強くなると。それはスキルだけでなく、アイズの瞳を見れば一目瞭然だから。

 

(付き合っている女さえおればええんや! そうすればアイズたんだって目を覚ますはずなんや! そうやろ!? そうやっていってくれー!!)

 

 だが自分の与り知らぬ所で大好きなアイズが男に恋心を抱いたことに、ロキは耐えられないのだ。あんなにも可愛く、まだまだ恋を知るには早いと思っていた無垢なアイズが、少し目を離した隙に女として恐ろしいまでに成長していた。

 

 いまだに心に燻る憎悪はあるだろうが、その表情は恋する乙女のそれだと誰にでも分かる。だからロキにとって、これが最初にして最後の希望なのだ。

 

「何しに来たんだい、君は……? 随分と大きな声でボクを呼んでたみたいだけど……?」

 

「どうでもええやろ、そんなことは!! そ・れ・よ・り・も! ドチビの眷属! ベル・クラネルのことや!」

 

 もはやなりふり構わってなど、ロキにはいられないのだ。ロキにとってここが最後の戦い(ラグナロク)。アイズを本当に愛しているから、ベル・クラネルに添い遂げる伴侶が居ないのなら、彼女の恋路をどこまでも応援するとロキは決めている。

 

 こう見えてロキは数多くいる神々の中で比べても、眷属を深く愛しているのだ。本心としては応援しがたいし、ファミリアも違うという高い壁もある。何よりヘスティアの眷属である点が、ロキには許容しがたいのだが。

 

 それでも……。それでも、アイズが選んだ道をロキは尊重したいのだ。その道にこそアイズの幸福があると、神の直感が告げているのだ。

 

──己は閉ざす者、終わらせる者。

 

──しかしその名は、遥か悠久の彼方へと投げ捨てた。

 

──今の己はただのロキ。眷属を愛する神の一柱に過ぎないのだから。

 

「……? ベル君がどうかしたっていうのかい?」

 

「どうしたもこうしたもあらへんわ! うちの……! うちのアイズたんがぁぁぁぁ!」

 

 抱く想いが変わることはないが、ロキの口から漏れ出るのは未練がましい言葉ばかり。これが最後なのだから想いの丈をすべてぶちまけると、鬼気迫るような表情が言外に告げていた。

 

「えーと……ロキ? あんた一体何があったの?」

 

「答えは分かり切っとる! そのうえで聞くでドチビ! 噂のベル・クラネルは、付き合っとる女とかおるんか!」

 

 しかしロキは運命の解答(ラグナロク)の結末が分かっている。だからこれは、己の心をハッキリとさせる為のケジメなのだ。

 

 そうでなければ己はいつまで経っても未練がましく僅かな幻想に縋って、アイズの道を妨げる気がしたから。それだけは絶対にしたくないから。

 

「はぁ? 居るわけ無いじゃないか! ベル君はボクの眷属だぞ! そんなのボクが絶~対に許さないぞ!」

 

「がぁぁぁぁぁ! 終わった! 終わってしもうたぁぁぁ! こうなったらラグナロクや! アルマゲド──ンやで! それしかあらへん!」

 

 予想通りの答えがヘスティアの口から無慈悲にも告げられる。〝英雄の凱旋〟から始まりここまで話題になったベル・クラネルが、ヘスティアのことまで広まっているのに女の影が無い時点でロキは分かり切っていた。

 

 後に語られる英雄の物語には愛するお姫様(ヒロイン)が付き物だ。しかしそんな話は欠片も出ていない、なら残る答えはただ一つしかない。

 

──英雄に相応しき伴侶(ヒロイン)は、まだ現れていないのだ。

 

「本当に何があったの?」

 

「さあ、私にも分からないわ」

 

「おい、ロキ。君はついに頭まで胸のように残念になってしまったのかい?」

 

 最初の時点でも驚きを隠せないのに、突如として神々の黄昏(ラグナロク)最後の聖戦(アルマゲドン)などと、神にとって不穏な言葉(ワード)をロキから聞かされた三神は、ますます不思議そうに頭を捻る。

 

「うっさいわアホォ──ッ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

 

 しかしそんなことは知らんとばかりにロキは声をあげて風のように去っていった。

 

 ヘスティアの言葉を聞き、ロキの答えも定まった。復讐に身を賭していたアイズが、初めて抱いただろう恋心。己は応援する事しか出来ないが、アイズの征くその道に祝福あれと、悪戯好きの神は心の底より願うのだった。

 

「何だったのかしら?」

 

「ロキにだって色々とあるんじゃないかしら? ……色々と」

 

 ある意味ヘファイストスよりも凄まじかったロキを見たフレイヤは、意味深な言葉を紡ぐ。

 

「それじゃあ私も失礼させてもらうわね」

 

「え? なんだいフレイヤ、もう行くのかい?」 

 

「ええ、もういいの。知りたいことは分かったし……それに用事も出来てしまったの」

 

「フレイヤ……君、ここに来てから誰かに聞くようなことしてたかい?」

 

 自身たちの会話を振り返り、フレイヤの行動に違和感を覚えたヘスティアは怪訝そうに尋ねるが。

 

「……どうかしら? でも大事な用事なの、と~っても大事な」

 

「貴方、何をしようとしてるの?」

 

「ふふふっ……」

 

 フレイヤは妖艶な笑みを浮かべると、ヘファイストスの問いに答えることなく神の宴から去っていった。ヘスティアとヘファイストスの間には、まるで嵐が過ぎ去ったような静寂に包まれる。

 

「……ねえ、ヘスティア? せっかくだからこの後、飲みにでもいかない? さっきの話もあるし」

 

「え! う、うん……そのー……」 

 

 まだ話したいことが残っているヘファイストスの問いに、急に俯き始めたヘスティア。緊張を前に震える手を必死に抑えてヘファイストスの左眼を見詰めると、覚悟を決めたように言葉を紡ぎ始めた。

 

「それで、なんだけど……その、ヘファイストスに頼みたい事があるんだ!」

 

「……ふーん。……丁度良かったわ。本当ならこの期に及んでと言いたいところだけど、私もあんたに頼みたいことがあったのよ。だから一応聞いてあげるわ、言ってみなさい」

 

 何度も助けてもらって、また頼みを聞いてもらおうなんて虫が良いと失望されるだろうと考えていたが、思った以上に好感触なヘファイストスの姿勢にヘスティアは驚きを隠せない。

 

 だが考えている暇はない。理由は分からずとも門前払いではないのだと藁にも縋る思いで、ヘスティアは己の願いを覚悟と共に告げた。

 

「ベル君にっ……英雄になりたいと願うボクの【ファミリア】の子に、武器を作って欲しんだ!」 

 

「へえ……これも、運命のイタズラなのかしらね」

 

 ヘスティアの想いを聞いたヘファイストスは形容しがたいほどに複雑な顔をして、誰にも聞こえないように小さく一言、英雄の未来を想い呟くのだった。

 

 








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二刀

 ここは【ヘファイストス・ファミリア】が保有する、北西のメインストリート支店。

 

 その三階にあたる執務室の本棚には隠し扉が存在し、階段を下りた先に造られた鍛冶場にて、ヘスティアとヘファイストスは只ならぬ気配を放ちながら話し合っていた。

 

(ヘスティアも同じ結論に至ったのは、僥倖だったわね。二刀が揃ってこそ、あの子は始まりに立てる……)

 

 雷火の雷霆(ケラウノス)と再会したヘファイストス。今の彼女を突き動かす激情は、止まる事を知らない。左眼から迸る雷光は鋭く、眼帯で覆われた右眼からは業火が煮え滾っているのだ。

 

(その手に持つのが壊れる為の武器だなんて、私は認めないわよ?)

 

 どれだけ雄々しく進んだとしても、その道を共に征く武器が無いなどあまりにも悲しすぎる。英雄には相応しい武器が必要なのだ。

 

──栄光とは……英雄と、英雄が振るう武器によって成し遂げられるものだ。

 

──武器が無くては戦場を征くことは出来ず、英雄がいなくては物語は紡がれない。

 

──その胸に大志を、その手に相応しき武器を。それこそが英雄になる為の条件だ。

 

(あの子には、必要なのよ……心から信頼できる半身が……)

   

 神の宴にて土下座してまでヘスティアが望んだことは、ベルへ武器を打って欲しいというもので。それはもはや〝宿命〟ともいえる再会を果たしたヘファイストスにとっても、願ってもいない頼みだったのだ。

 

「それで、あの子が使う得物は何かしら?」

 

「……それは。……今のヘファイストスなら、解ってるんじゃないのかい?」

 

 武器を打つための準備を終えたヘファイストスは、ベルが握る武器は何なのかヘスティアに尋ねる。彼女自身も分かっている答えではあるが、今のベルはヘスティアの眷属なのだ。

 

 彼女の口から直接聞かなければいけないことだと、ヘファイストスは思った。

 

──『僕がこの手で振るいたいと思った武器は、邪悪を斬り裂く刀だけですから』

 

 ヘファイストスの問いは、ヘスティアにとって残酷なものだった。己も彼女も、ベルが振るう武器を理解している。その事実が何よりも雄弁にベルの真実を告げているから。

 

 だからヘスティアは聞き返す。君なら知っているのではないかい? と。この口で語る必要はないんじゃないのかい? と。

 

「そりゃあね。あの子の本質を誰よりも理解してるのは私だもの。その自負だってある。それでも、よ。あの子は、あんたの眷属であり……ただ一人の〝ベル・クラネル〟なんですもの。もしかしたら好みの武器くらい変わっていたっておかしくはないでしょう?」

 

「うん、そうだね。……ありがとうヘファイストス。……でも安心していいよ。ベル君が求めているのは〝刀〟だからね」

 

 思った以上にヘスティアが動揺していることに気づいたヘファイストスは、今一度ベル・クラネルが誰であるかを示す。ヘファイストスも伊達に親友をやっている訳では無いのだ、ヘスティアが考えている事くらいは思い至れる。

 

 そして親友からの励ましを受けたヘスティアは少し寂しげに笑って見せると、ヘファイストスの問いに、ベルの真実に応えた。

 

──英雄が振るうは邪悪を斬り裂く破邪の刃。

 

──極東にて刀の銘で語られる万物を断ち切る刃。

 

──善を喰らう悪も、明日を奪う悪党も、そのすべてを一太刀を以て斬り伏せるのだ。

 

「ふふっ……やっぱりね。でも……そうね、たしかに安心したわ。あの子が持つならやっぱり刀じゃないと、しっくりこないもの」

 

 在りし日の姿とまるで変わる事の無いベルの在り方に、ヘファイストスは安心したように微笑みを浮かべる。その横顔は過去を懐かしむようであり、未来に想いを馳せているようにも見えた。

 

「僕は正直、かなり驚いてるよ。だって■■■■■は……」

 

「…………そうね。悠久の時を生きてる私たちは、運命から逃げられないのかもしれないわね」

 

 ヘスティアも過去を見詰めているのか懐かしむように言葉を紡ぐが、その先を口に出すつもりは無かった。それはベル・クラネルに対する最大限の侮辱に他ならないから。

 

 同じ悲劇を繰り返すなど、考えてはいけないのだ。■■■■■には■■■■■の物語があり、ベルにはベルの物語がある。

 

 それが同じものであるなど、決してあってはいけないことなのだ。

 

「……でもヘスティア。動揺してるのは分かるけど、工房に私情は持ち込まないで。あの子に相応しい武器を与えたいなら、覚悟を決めなさい。下手な武器ではあの子の足手まといになるだけよ」

 

「……! ……うん、そうだね。しっかりするんだボク! ベル君の為に武器を打つんだから、余計なことは考えるな!」

 

 共に静かに笑い合い、次にヘファイストスが見せた表情はまるで鬼のようだった。己が抱く過去も、覚悟も、宿命も、すべての想いを(ハンマー)に込めるのだと雷霆が如く吼えるのだ。

 

 鍛冶司る独眼の意志に、炉の女神も己が願いで応えて見せる。我が眷属に祝福の火を運ぶのだと、宿命なんてベルと共に砕いて見せると天に向かって宣誓した。

 

 そしてヘファイストスは複雑な鍵穴の数々によって封印が施された箱を取り出し……

 

「もう二度と、これを打つつもりはなかったんだけど」

 

 ──箱の中で厳かに佇む漆黒に輝く精製金属(インゴット)を手に取った。

 

「へ、ヘファイストス! それってもしかして〝オリハルコン〟かい!?」

 

 ヘスティアが目を剥いて叫ぶ金属の名を『神星鉄(オリハルコン)』。遥か天より飛来した未知の物質で構成され、膨大な魔力に共鳴しその鋭さが増す特殊性をもつ金属だ。

 

 それに加えて決して歪むことや、砕かれることの無い不壊属性(デュランダル)の側面も持つ、大陸で限られた数しか存在が確認されていない〝伝説〟にして〝究極〟の金属だ。

 

 ──人の手では届く事の無い()より与えられた贈り物だと言い伝えられるのが、このオリハルコンなのだ。

 

 あまりにも希少価値が高すぎるこの金属には、もはや値段など付けられない。かつてとある国の王に武器を作ることの対価として、ヘファイストスが望みようやく手に入れたものなのだ。

 

──叶わないと分かっていても、願わずにはいられなかった宿命は我が眼の先にある。

 

──さあ鎚を振るおう。あの時の約束を今再び果たすのだ。神の力など使わなくても、この身に猛る雷火と想いの全てを乗せるのだ。

 

「当たり前じゃない、あの子の武器を打つんだもの。なら、これしかないわよ」

 

「! ……君はそこまでの覚悟を決めているんだね?」

 

 トラウマだと思っていたオリハルコンを前にしても、ヘファイストスの心に揺らぎはなかった。武器を作るのだ。英雄に相応しい武器を。

 

──英雄の求めた、己の理想を共に歩める至高の武器を。

 

──英雄の願った、己の誓いを共に果たしてくれる究極の武器を。

 

──今こそこの手で創るのだ!  

 

「もちろんよ、ヘスティア。それにあんたの方にも、オリハルコンを使わせてもらうわ」

 

「えぇぇぇ! い、いいのかいヘファイストス!」

 

「何言ってるのよ、あの子が持つ武器に妥協なんかしたくないわ。だからこれはサービスだと思って喜びなさい」

 

──妥協なんて許さない。英雄と共に成長する武器を今こそ生み出さん。

 

──失敗なんて許されない。英雄の誓いを果たす武器を今こそ汝の手に。

 

 鍛冶司る独眼が振るうその鎚には、炎が宿っている。宿命という名の炎が。

 

 すべては〝己が鍛えし雷霆(ケラウノス)〟に、勝利を(もたら)さんが為に。

 

「…………ヘスティア、あんたはあの子の主神なんだから、約束はしっかり守りなさいよ」

 

 振りかぶった鎚が振り降ろされるその刹那、ヘスティアの瞳をヘファイストスの黄金に迸る左眼が射抜く。

 

──共に英雄の武器を創ろうと。

 

「……うん。本当にありがとう、ヘファイストス」

 

 ヘファイストスの言葉に強く頷いたヘスティアの瞳にはもはや陰りなど何一つとして存在しなかった。

 

──共に英雄へ武器を捧げようと。

 

「いいのよ、私も願ったことなんだから」

 

 ……英雄譚には語られることのない、神々の宿命を超える闘いが今ここに始まりを告げた。



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神想

「ふう……」

 

 まるで火山の中にでも迷い混んだかと錯覚するほどの熱気が渦巻く、ヘファイストスの工房。響き渡るのは火花が散る炸裂音と、オリハルコンに向けて落とされるヘファイストスの鎚が奏でる金属の残響だけ。

 

(イメージするのよ……! あの子が立つ戦場を……! その手で振るう英雄の半身を!)

 

 一度振り下ろす度に、ヘファイストスの想いが空間へと轟き吼え。一度振り下ろす度にヘファイストスの想いが、魂が、オリハルコンへと込められる。

 

「…………はあっ!」

 

 今ヘファイストスは己の魂を捧げて新たな命を生み出している。英雄が担うに相応しい武器を創り上げているのだ。

 

(強く……! 強く……! ただ強く! 雄々しく猛るあの子の雄姿を……! 私の願いを! ……想いを込めるのよ!)

 

 一瞬たりとも集中を途切れさせるわけにはいかなかった。一瞬たりともこの手を休めることは許されなかった。

 

(あの子に必要なのは究極の一! どれだけの無茶を重ねようと、寡黙に付き従う勇ましい刃……!)

 

 すべては宿命を超えるが為に。今度こそ最後まで(・・・・・・・・)、英雄の道を共に征く武器をこの手で創り出すのだと、ヘファイストスは覚悟を迸らせる。

 

「っ…………!」

 

 ヘファストスが打つオリハルコンはどの金属よりも重く固く、あまりにも鍛えにくい金属であることから、今まで誰一人として武器へと昇華させることのできた鍛冶師は存在しない。

 

──故に伝説。

 

──故に究極。

 

──神の鉄たる我が身を鍛えることが出来たのならば、例え神々を相手にしようと砕けることはありはしない。汝の意志と、我が刃で、立ちはだかる一切合切を斬り伏せよう。

 

 そう、鍛冶司る神であるヘファイストス以外は。誰一人として。

 

(あなたに求めるのは、決して砕かれる事の無い鋼の意志! あの子と同じ、揺るぎなき意志よ!)

 

 英雄の道を征くベル・クラネルには、多くの艱難辛苦が待ち受けているだろう。強大なる悪を前に傷つき、膝を付きそうになり、救いきれない多くの命と向き合わなければいけない時も、いつか必ず訪れるだろう。

 

 鋼の意志に英雄の如き雄々しさは時に人を魅了して、〝我らの英雄(ベル・クラネル)〟という希望(ヒカリ)の象徴として見られるだろう。

 

 しかしそれは英雄と呼ばれる〝一人の少年(ベル・クラネル)〟を孤独の淵へと追い込むことになる。誰もが憧れる英雄の心を、誰もが知ろうとしなくなるのだ。

 

 何故ならベル・クラネルは英雄だから。我らを守る英雄だからと。

 

 それでもベルが手に握る武器は、己が打った武器だけは、どこまでも共に征くのだと知って欲しいから。

 

「ふうっ……ふうっ……ふうっ。…………っ!!」

 

「英雄となった時、あんたを孤独になどさせはしない」と、ヘファイストスは魂で叫びながら、力強く鎚を振り下ろす。己が創る武器にはこの胸に抱くすべての想いを込めるのだと、オリハルコンを手にした時から決めているのだから。

 

(お願い、動きなさい私の体! まだ、まだここで倒れる訳にはいかないのよ!)

 

 ──瞬間。ヘファイストスの左眼がその想いに呼応するように閃光を迸らせて、彼女の覚悟を、鋼の意志へと鍛えあげるのだ。振るえ、己が鎚を。誓え、己が覚悟に。

 

 己が創ると誓った理想を前に決して立ち止まるなと、雷鳴の如く轟いた。

 

「う、ぐっ……! えぇ……! ……まだよ! まだ終わりはしない!」

 

 しかし忘れてはいけない。今のヘファイストスは神の力(アルカナム)を使うことも許されない、ただの女鍛冶師(・・・・・・・)だ。

 

 この細い腕で鎚を振るうには、全力である必要がある。集中力を極限まで高めなければ、刹那の躊躇いがオリハルコンを路傍の石へと変えてしまうのだ。

 

 それがどれだけ無茶なことなのか、誰であっても分かる。無理だ、止めろ、諦めろと肉体が叫びをあげて訴える。

 

 それでも……

 

「あの子の武器は私が創るって約束したんだから!」 

 

 それでも、ヘファイストスは鎚を振るうことを決して止めない。やれる、止まらない、諦めるわけにはいかないと、魂が叫びをあげて訴えるだから。

 

 ヘファイストスから滴る汗は滝のようだなんてものではなく、神話に語られる大洪水のようだ。彼女の横顔を見て息を呑むヘスティアであるが、ヘファイストスにはその視線は届かない。

 

 ──彼女の視線はオリハルコンにだけ注がれているのだ。

 

「ヘファイストス……」

 

 そして補佐に付くヘスティアもヘファイストスと比較できないほどに汗を流している。理由はただ一つ、目の前に鎮座する息を呑むほど美しい漆黒の刀にあった。

 

(なあベル君? 未来へと進み続ける君に、見守るだけのボクが贈ってあげられるものなんて、きっと少ないんだと思う……君は一人でどんどん先へと征ってしまうから……)

 

 ヘスティアが望み、ヘファイストスが鍛えたこの黒刀の銘は《ヘスティア・ブレイド》。天界でも神匠(しんしょう)(うた)われるヘファイストスが、己が創り出した武器の中でも二番目(……)の力作だと断言した至高の刀だ。

 

(それでもボクは、君の神様だから! 何もしてやれないのは、絶対に嫌なんだよ!)

 

 しかしこれはまだ完成ではない。ここにヘスティアが己の【神血(イコル)】を以て【神聖文字(ヒエログリフ)】を刻印することにより、《ヘスティア・ブレイド》は完成する。

 

 失敗は絶対に許されない。《ヘスティア・ブレイド》は【神聖文字(ヒエログリフ)】を刻むことにより初めて本領を発揮するように、ヘファイストスが鍛えたのだから。

 

 ヘファイストスの想いに応える為にも、自身の誓いを成就させる為にも、ベルが征く道の助けになる為にも、ヘスティアは極限の集中力を以て《ヘスティア・ブレイド》と向き合う。

 

(だから待ってておくれ、ボクに出来るのはこれくらいしかないけど……ベル君の為になら僕はなんだってできるから!)

 

 武器でありながら【ステイタス】を宿す《ヘスティア・ブレイド》は、英雄の道を共に征き、共に成長する至高の半身となる。

 

(ベル君! 君を独りぼっちになんてさせないんだからね!)

 

 己の手で至高を生み出さんとする鍛冶師(ヘファイストスたち)からすれば〝邪道〟であるが、英雄の振るう武器としてこれほどまでに〝王道〟である武器は他にないだろう。

 

「さあ、始めよう。これが、ボクが〝英雄(眷属)〟に捧ぐ覚悟と想いだ!」

 

──英雄の求めし、己が理想を共に歩む武器はここに目を覚ました。

 

──汝、鋼の英雄よ。我が魂は汝と共に。果てなき生涯(たびじ)を征くために。栄光なりし炉の祝福は、この手にある。

 

 ○

 

「…………っ!!」

 

 ヘファイストスが二本目の武器を打ち始めてから、二日ほどが経過しようとしていた。その間ヘファイストスは一度たりとも眠ることなく、ただひたすらに鎚を振るい続けた。

 

(あの日の約束を、あんたは覚えていないのでしょうね……いえ、当たり前の話よね。あの子はもう■■■■■じゃなんだから……)

 

《ヘスティア・ブレイド》を鍛錬した時間も含めれば約三日間にも及ぶヘファイストスの闘いは、ついに終わりへと向かい進み始めていた。

 

「はあ……はあ……」 

 

「大丈夫かい、ヘファイストス?」

 

「ええ、大丈夫、よっ! …………ふっ!!」

 

 振り下ろされた鎚の力は三日振るい続けてきたにもかかわらず、まるでその威力を変えることはない。ヘファイストスの覚悟に揺らぎはなく、強く雄々しいその意志はベルを想起させる。

 

 ──『ねえ、■■■■■? 何か、何か私にできることはないかしら?』

 

 ──『そうだな……一つだけある。俺の武器を、またお前に打って欲しい。お前の作った武器は、俺の手によく馴染むからな』

 

 ──『ふふっ! ええ……〝約束〟よ。私の想いを込めて、またあんたの武器を打ってあげるわ!』

 

 ──『ああ……〝約束〟だ。俺は必ず………………』

 

(それでも私は! あの日の〝約束〟を覚えてる! だから!)

 

 そして…… 

 

「待っていなさい! これが、私が〝雷霆(ケラウノス)〟に捧げる覚悟と想いよ!」

 

 そして遂に鍛冶司る独眼は、英雄が担うに相応しき究極の武器を創り上げた。

 

──英雄の願いし、己の誓いを共に果たす武器はここに目を覚ました。

 

──汝、雷火の天霆よ。我が魂は汝と共に。果てなき未来(たびじ)をいざ征かん。鋼鉄なりし独眼の咆哮は、この手にある。

 

 完成した刀の見た目は装飾も無く、ただひたすらに武骨。我には刃以外は何もいらないと雄弁に告げながらも静かに佇むその刀からは、鋼のような意志と、火山のような業火を感じる。

 

 この刀こそが天界でも神匠(しんしょう)(うた)われるヘファイストスが、己が創り出した武器の中で最高傑作(・・・・)だと謳う究極の刀だ。 

 

 漆黒に輝く刀身はまるで炎が宿っているかのように、朱い煌めきを放ちながら呼応し、英雄の到来を待ちわびる。

 

 英雄が望み、ヘファイストスが鍛えた黒刀の銘を……

 

──劫火の神刀(ヴァルカノス)と云った。



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〝恋〟

――深い闇の中で眠りについた精霊の姫は、英雄の〝希望(ヒカリ)〟に触れて目を覚ます。

――神々の黄昏はもういらない。この胸に宿った温かな想いと、この背中に刻まれた恋情で、英雄の雄姿を詠いあげよう。

――眷属を愛する主神の願いと、高貴なりし妖精の加護が、汝の刻印に〝祝福〟を(もたら)す。

――無垢な少女の征く道に、幸福の花が咲き誇らんことを。


 

 どこまでも広がる蒼空に、無垢な魂のように純白な雲が浮かぶオラリオの朝方。bの中庭に設置された長椅子で、アイズは一人でぼんやりと空を眺めていた。 

 

 しかし眺めている筈の金色の瞳には、空の蒼さは映らない。今アイズの視界を埋め尽くすのは、光のように雄々しい少年の姿だけ。在りし日に見た父の、英雄のようなその後ろ姿が、アイズの心を奪って離さない。

 

 己の求めた英雄が、手を伸ばせば届く場所に立っている。それだけでアイズの心には嵐のような波乱が巻き起こるのだ。暴虐なるミノタウロスを前に屈することなく、勇ましく立ち向かった少年の横顔が焼き付いて離れてくれない。

 

(この気持ちは……なに?)

 

 アイズは己の変化に困惑する。こんなことは生まれて初めての【経験】だった。この身を創り出すのは燃え尽きることの無い憎悪であり、それ以外の想いなどあの日から抱いたことは一度もないのだから。

 

『怪物は必ず殺す』

 

 それこそが今のアイズを形作る誓いであり、そして願いでもあった。冒険者になった理由も、強さを渇望した理由も、そのすべてが己の抱く復讐心から生み出されたのだ。

 

 己の心にへばり付くのはいつもどす黒い闇だけで、追いかけて来るのは灼熱のような憎悪だけ。アイズの世界は、常に暗闇で覆われていた。暗い閑寂(かんじゃく)とした世界で孤独に囚われているアイズは、凍てつく寒さで心の震えが止まらない。

 

『僕の名は、ベル。……ベル・クラネル』 

 

──瞬間、世界が反転した。

 

 寂しさに泣き、悲しみに暮れる幼い少女を、陽だまりのような少年が優しく抱きしめたのだ。

 

 少年の温もりから感じるのは、優しく包み込むような陽の光だけで。少女の心に満ちるのは、眩いばかりの幸福だけで。闇に覆われたアイズの世界に、希望という名の光が灯る。

 

 いずれ英雄になると、月夜に輝く綺羅星の下でアイズに誓った少年の名はベル・クラネル。雄々しく立ち上がり、光のように進み続けるアイズの〝光の英雄(想い人)〟だ。

 

(胸がドキドキする……)

 

 今も鮮明に思い出すのは、数日前に開いた遠征の祝宴にて名前を交わし合った時に己へ見せたベルの笑顔だ。

 

 ミノタウロスと戦う時はあれほどまでに勇ましかったベルの表情は、一瞬のことではあったが年相応の可愛さを感じさせた。

 

 こんな表情も出来るんだと考えた時、胸の鼓動が早まるのをアイズは感じ取った。

 

 もっと沢山の表情を知りたいと願った時、頬が熱くなるのだとアイズは気付いた。

 

 アイズ・ヴァレンシュタインはこの想いの名を知らない。こんなにも温かくて、手放したくないと願う感情の名を、無垢な少女はまだ知らないのだ。

 

(私、おかしくなっちゃったのかな……?)

 

 ベルの手に触れてみたい。ベルの温もりを感じてみたい。ベルの笑顔が見たい。無限に溢れ出る想いが一体何なのか、アイズには分からない。復讐のために進んできたアイズには、まだ理解できないのだ。

 

 それでもこの想いが尊いものであることだけは解るから、アイズは大切に、大切に抱きしめる。決して離しはしないと、もっと安らぎを与えて欲しいと強く抱きしめるのだ。

 

 光のように進み続ける英雄へと、アイズ・ヴァレンシュタインは手を伸ばすのだ。

 

「ベル……」

 

 少年の名を呼ぶだけで、心に歓喜が渦巻く。名前を呼ぶ、ただそれだけなのに頬の熱が際限なく上がり続けるように、アイズは錯覚する。

 

「ベルに会いたい……」

 

 己の願いを紡ぐだけで、心が業火のように燃え上がる。ベルに会いたい。ベルに会って話したい。ベルに己の名を呼んで欲しい。アイズの欲望は押し留められることなく、湧き水の如く溢れ出る。

 

 無垢なる少女は、己の心に灯った温かな陽の光へと手を伸ばし続けた。この想いの名が何なのか、アイズは知りたい。

 

 想いの名を知ればもっと陽の光が近づいてくれると、アイズは信じているから。闇を抱く少女にとって、この光は手放すことが出来ないのだ。

 

(ベルを思い出すと……胸が熱くなる)

 

 何故ならアイズ・ヴァレンシュタインはただの少女だから。真に心が求めるものは憎悪による復讐では無く、英雄のような少年と手を握り合う温かな日常なのだから。

 

(ベル……今なにしてるんだろう?)

 

 アイズは無垢なる瞳で蒼空を見詰め続ける。今ベルは何をしているのか知りたいと、心の底から願いながら。

 

 ○

 

「応援したるとは言っても、うちじゃなんもアドバイスできへんし……」

 

 恋する少女を黄昏の館(ホーム)空中回廊から眺めているのは、アイズの主神であるロキ。眷属を深く愛するロキは、恋に落ちたアイズの後ろ姿を見ながら小さく言葉を吐いた。

 

恋情一途(リアリス・フレーゼ)】を発現させるほどに強くベルへ懸想するアイズを何とか応援してあげたいロキではあるのだが、正直何を言ってあげればいいのか分からないのだ。

 

 己は悪戯好きな神であるし、天界でも色恋沙汰とは無縁だったロキからすれば、「頑張るんやで!」などといった語彙力の欠片も無い助言になってしまう。

 

(もしかして……うちって、役立たず? 嫌や! そんなの絶対に嫌や!)

 

 そうなれば自身が抱いているだろう想いの名を知らないアイズは、今以上に困惑するだけだ。応援すると決意したはいいが、ステイタスの更新についての助言くらいしか出来ない己に、ロキは少しばかり落ち込む。

 

 最初は絶対に諦めさせたいと思い、今は絶対に応援したいと想う。そんな極端な考えになっている節があるのは、ロキ自身が理解している。

 

 だとしても幼い時から人一倍愛を注いできたアイズの征く道に何も手を貸すことが出来ないなど、ロキは嫌だった。ロキはアイズの求める幸せの一助となりたいのだ。

 

 それが眷属を愛する事だと、ロキは想っているから。例え好きな人が出来たとしても、アイズはロキの大切な眷属に変わりはないのだから。

 

「せや! こうなったらティオネに! …………アカン、それは色々とアカンわ……」

 

 唸り声をあげながら考え続けたロキは、フィン大好きのアマゾネスであるティオネを思い浮かべるがすぐにその考えを改めた。

 

『恋愛っていうのは戦争なの! 押して! 押して! とにかく押しまくるのよ!』

 

 ティオネに相談してしまえば色々不味いことになると、神の直感が強く訴えかけたのだ。いや、訴えかけるまでもなく不味い事になるのは目に見えている。

 

 もしかしたら功を奏する可能性もあるにはあるかもしれないが、そんな未知へと特攻する勇気はロキには無かった。

 

「やっぱあの時に会ってたんかなぁ……アイズたん。会ってたんやろうなぁ……」

 

 そしてロキが思い出すのは、遠征の祝宴を開いた折にアイズが飛び出していった時のことだ。飛び出す前からすでに様子はおかしかったが、帰ってきた後に比べればマシな方だったと断言できる。

 

 帰ってきた時に見せたアイズの表情はあまりにも可憐で、レフィーヤなど鼻血を出しながら倒れてしまったほどだ。己とて酔いが醒めてしまうほどに可愛かったと断言出来る。

 

 ならばこそ、あの時アイズがベル・クラネルに会っていたのは一目瞭然である。

 

「おや、たしかに珍しいな。いやこの場合は不可思議だと言った方がいいのだろうか? アイズが無為に時間を過ごすのは」

 

「そうやなぁ……うん? そうや! おったやんけ、今のアイズたんにピッタシの母親(ママ)が!」

 

 悩み続けていよいよ頭から煙が出て来るかと思いはじめていたロキの前に、救いの女神が現れた。その者の名をリヴェリア・リヨス・アールヴ。【ロキ・ファミリア】の副団長であり、母親的な存在である。

 

 アイズを幼い頃から面倒を見てきた母親的存在であるリヴェリアなら、今のアイズに必要な助言を与えてくれるとロキは確信した。

 

 寧ろ何故今までリヴェリアが浮かばなかったのか、ロキは不思議でならない。それほどまでに視野が狭くなっていた己の頭を、ロキは殴ってやりたい気分だった。

 

「誰が母親(ママ)だ。誰が」

 

 黙り込んでいたと思えば急にはしゃぎだしたロキを見て、リヴェリアは小さく溜息をつく。長年共に居てさすがに慣れたリヴェリアではあるが、ロキにはもう少しだけ落ち着きをもって欲しいと願う。

 

「冗談はここまでにするとして、ロキ。アイズは一体どうしたんだ?」

 

 ロキは中庭に居るアイズを見て何かを悩んでいる様子だった。そもそもこの時間にアイズが稽古をしていないことに疑問を覚えたリヴェリアは、何があったのか単刀直入に聞く。

 

 リヴェリアにとってアイズは、もはや娘といっても過言ではない。復讐に身を賭すアイズを母親のように心配しているリヴェリアにとって、今の変化が良い事なのか判断するには知らないことが多すぎる。

 

 しかし祝宴の時に見せた表情を見る限り、悪い方向に向かってはいないだろうとリヴェリアは考えている。寧ろティオネに通ずるような可愛らしいあの笑顔からは、明るい未来を感じ取った。

 

「恋や」

 

「………………恋? …………ううん? …………ちょっと待ってくれ……」

 

 だからだろうか? リヴェリアはロキから告げられたその一文字を、瞬時に理解することは出来なかった。恋、恋? 恋……! と何度も己の心で反芻するがリヴェリアの動揺は収まることを知らない。

 

 現在空中回廊では常に冷静沈着なリヴェリアの慌てふためく、珍しい光景が繰り広げられていた。そんなリヴェリアの姿を見てロキは、珍しいものが見れたと心の内でにやついて見せる。

 

「……まさか、それはアイズが、という意味か……?」

 

「せや、アイズたんが、恋……してもうたんや。………………恋、してもうたんやぁぁぁぁぁぁ!」

 

 しばらくの時が経ちようやくリヴェリアの口から漏れ出た呟きは、ロキが叫ぶ言葉への確認だった。お前の言っていることは本当なのか? 冗談じゃないんだな? と鋭い視線でロキを射抜く。

 

 それはもう愛娘に好きな人が出来たと知ってしまった父親のように。ふざけていったのなら容赦はしないぞ? と、凄まじい重圧感を放ちながらリヴェリアはロキへと詰め寄る。

 

 だがロキから告げられたのは、やはり〝恋〟の一文字。何とも言えない複雑そうな顔で叫ぶロキの姿を見て、アイズが恋をしてしまったのが紛れもない事実であると、リヴェリアは悟る。

 

 悔しそうに涙を流すロキの言っていることは嘘でも何でもなく、絶対的な真実であると理解したのだ。

 

「すまない、ロキ。今は少し静かにしてくれ」

 

(あのアイズが、恋だと……? では夜の時に飛びだした一件も、無関係ではないかもしれないな。………………それにしてもアイズが恋、か……)

 

 自分の知らない内に凄まじい変化を遂げているらしいアイズの真実を前にして、リヴェリアは遠征の祝宴を思い出す。

 

 あの時アイズが見せた可愛らしい表情は、恋をしたからなのだとすれば強く納得できる。

 

 ティオネの影がちらついたのも、お互いに恋する乙女だったからなのだろうと。しかし今のリヴェリアには、アイズが恋をした事実よりも大事なことがある。

 

 それはリヴェリアにとって何よりも譲れないもので、アイズを何よりも大切に想うから湧き出る願いだ。

 

「それで、相手は誰なんだ?」

 

 アイズが好きになった男が誰であるのかということ。

 

 もしアイズの伴侶となるのなら、最低限の品性はもってもらわなければいけない。だらしのない男であるのなら、アイズの保護者としてはっきりと言うのだ。お前はアイズに相応しくないと。

 

 それに加えて、大人びた見た目に反し幼い心の持ち主であるアイズを導いていけるほどの人格は備えてもらわなければ、等々。

 

 表情には出さないが延々と心の中で、アイズの伴侶に求めるものをリヴェリアは独りで勝手に語り始める。

 

「……ベルや。【ヘスティア・ファミリア】所属のベル・クラネル。〝未完の英雄〟て言えばリヴェリアでも分かるんちゃうか?」

 

「……ベル・クラネル。ああ……ミノタウロスの少年か」

 

 リヴェリアの思考を断ち切るようにロキが、アイズの想い人である男の名を出す。それは突如として階位打破(オーバーターン)を成し遂げ、オラリオに名を轟かした〝未完の英雄〟の名だった。

 

 ベル・クラネルの名を聞き、少なくとも人格の面では問題ないと分かったリヴェリアは少しばかり安堵する。ダンジョンの上層に上がったミノタウロスを相手に、生き残るどころか打倒まで成し遂げたのだ。

 

 伝え聞いただけであるが、瀕死の重体であったにもかかわらずベル・クラネルは立ち上がり続けたらしいとも。ならば一つの信念を貫き通す気概は持っているのだろう、でなければ階位打破(オーバーターン)を成し遂げられる筈が無いのだから。

 

 ベル・クラネルの抱く信念という面では、アイズに相応しいかもしれんとリヴェリアは何とか思考を落ち着かせた。

 

「どうするんだ? あのまま放っておくわけにもいかないだろう?」

 

 アイズの想い人は分かった。だがあの様子では、アイズ自身が己の想いを理解出来ていないように見える。

 

 今まで復讐のために命を賭してきたアイズには、己の抱く感情が何なのか分からないのだろう。

 

 それでもアイズの表情は、驚くほどに輝いている。ふとした時に見せる笑顔も、どこか苦しそうに胸を押さえる戸惑いも、頬を赤らめながら想い耽る表情も、そのすべてが眩い宝石のようで。

 

 今のアイズを見て人形姫などとは、口が裂けても言えないだろう。それほどまでに今のアイズは生き生きとしていた。恋を知るだけでここまで人は変わるのかと、さすがのリヴェリアも瞠目せざるを得ない。

 

 恋を知り恐ろしいほどに激変するのはさすがにティオネだけだとリヴェリアは思っていたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。

 

 たった数日しか経っていないのに、アイズは生まれ変わっていた。無垢なる少女から、恋を知る可憐な少女へと。

 

「せや! だから頼んだでリヴェリア! 母親(ママ)としてアイズたんに助言したってぇや」

 

「はぁ……そういうことか。……私とて恋などしたことはないのだが、相談相手くらいにはなれるか」

 

 なるほどな、とリヴェリアはさきほど見たロキの姿を思い出す。ロキもまたロキなりに、アイズの力になってあげたかったのだろうと。

 

 明確な言葉にはしていないが、恐らくロキは【ヘスティア・ファミリア】の主神であるヘスティアとは仲が悪いはずだ。祝宴の一件だけでリヴェリアは十二分に理解している。

 

 ファミリアが違うというだけでも困難であるアイズの征く道をここまで応援しようとしているのだから、ロキはとても悩んでいたことだろう。

 

 もっと抱きしめていたかったはずだ。もっと可愛がってあげたかったはずだ。もっと甘えて欲しかったはずだ。

 

──ロキとて、幼い頃からアイズを我が子として深い愛情を注いで可愛がってきたのだから。

 

「……頼んだで、リヴェリア」

 

 アイズの元へと歩いていくリヴェリアの後ろ姿を儚げな表情で見つめると、ロキは再びアイズへと視線を戻す。

 

──でもその役目は一人の少年へと託されるのだ。

 

 ベル・クラネルとアイズ・ヴァレンシュタインが結ばれるのか、それは神であるロキとて分からない。

 

 しかしそうであって欲しいと願うことは出来るのだ。アイズの恋情が実って欲しいと、想うことは出来るのだ。

 

 何故ならロキは、アイズの〝神様〟だから。我が子の征く道には幸福の花が咲いて欲しいのだ。満開に咲き誇って欲しいのだ。

 

 ○

 

「アイズ」

 

 未だに雄大なる蒼空を眺め続けるアイズが座る長椅子へと、リヴェリアは静かに腰を下ろした。声をかけた筈だが反応のないアイズは、数分の時を得てようやくリヴェリアへと視線を向けた。

 

 だが金色の瞳にリヴェリアが映ることはなく、今もアイズの瞳には想い人であるベルの姿だけが鮮明に光を放って輝いている。それでも優し気なリヴェリアの声はアイズの心へしっかりと届いていた。

 

 慈愛に満ちたリヴェリアの微笑みを見ると、アイズは己の心で暴れる感情が穏やかな風に包まれた気がしたのだ。何故ならアイズにとってリヴェリアは、かけがえのないもう一人の母親なのだから。

 

「あ……リヴェリア…………」

 

「今日はどうしたんだ? いつものように剣を振っていないようだが」

 

 伸び伸びと育った木の根元には、アイズの愛剣とは違ったレイピアがたてかけられてる。恐らく日課の素振りをしていたが、気分が乗らなかったのだろうとリヴェリアは当たりをつける。

 

 たしかにこの様子では、アイズも鍛錬に身が入らないことだろう。それでも鍛錬をしようと中庭に出てきたのは、胸に燻る復讐心からだとリヴェリアは悟る。

 

「話ぐらいは聞いてやれる」

 

 今もアイズの心の中には二つの願いがある。温かく優しさに満ちた光と、己の心を蝕むどこまでも深い闇。どちらもアイズにとって大切なもので、簡単に切って捨てることの出来ないものだ。

 

──どちらを己は求めているのか、アイズには答えを出すことが出来ない。考えていればいつか答えが導き出されるほど、単純な想いでは無いのだ。

 

「……」

 

「……」

 

──それでも、アイズには分かっていることがある。

 

──それでも、アイズには言葉にできる想いがある。

 

「あのね、リヴェリア……?」

 

「ああ」

 

「あの時、逃がしたミノタウロスを追っていって……私、見ちゃったの。傷だらけになってるのに、諦めずに立ち上がって、戦い続ける男の子を……」

 

「それからあの子の……ベルのことが忘れられなくて……ベルのことを考えると胸の鼓動がうるさくて……いつもベルのことを考えちゃって……」

 

 気付いた時には、口が勝手に言葉を紡ぎ始めていた。光のように輝いていた少年との出会いを。傷ついても立ち上がる英雄の雄姿を。今でも鮮明に思い出せる、ベル・クラネルの笑顔を。

 

「私、どうしちゃったのかな?」

 

「アイズ……」

 

 この気持ちが何なのか、アイズは知りたい。だってこの想いはとても大切なものだから。抱きしめて、抱きしめて、優しく抱きしめ返してくれるこの想いの名を、アイズは魂に刻み込みたいのだ。

 

「……それはな、アイズ。〝恋〟というんだ」

 

──そして少女は胸に抱く想いの名を知る。手を伸ばしても届かなかった己の願いを知る。

 

「……恋?」

 

──〝恋〟その一文字を、アイズは切望し続けていた。〝恋〟その一言を、アイズは夢想し続けていた。

 

「そうだ。誰かを想い、誰かを求める。誰かと一緒にいたいと願う想い……それが恋だ」

 

「これが、恋……」

 

 今アイズは不思議な気分だった。胸のうちから無限に湧き出る情熱は何一つとして欠けていないのに、さきほどとは比べものにならない幸福感に全身が包まれているのだ。

 

 魂から溢れんばかりの活力が湧き出て、身体が羽のように軽くなっていくのだ。

 

「でも、どうしたら、いいの……?」

 

「アイズの好きにすればいいんだ」

 

「え……?」

 

 だからこそ、アイズは分からなくなってしまう。ベル・クラネルに恋した己はどうすれば良いのか。迷子になった子どものように立ち止まってしまうのだ。まだ少女は、想いの名を知っただけなのだから。

 

──だが迷える少女に、導きの風が吹く。麗しき妖精は恋する少女に、祝福の託宣を授ける。

 

「好きなんだろう? ベル・クラネルのことが」

 

「なら、アイズが抱く想いのままに進めばいいさ」

 

「…………!」

 

 少女の征く道はここに定められた。そうだ。己は、アイズ・ヴァレンシュタインは英雄に寄り添いたいのだ。傷つき倒れて、それでも誰かの為にと立ち上がる光の英雄と共に征きたいのだ。

 

「その先にアイズの幸せがあることを、私は誰よりも願っている」

 

──想いの名を知った少女に、祝福の風が吹く。この日、少女は己の未来を描き出す。眩い光に手を伸ばすのではなく、共にその未来を征きたいのだと高らかに詠う。

 

「ふふっ……朝食だ。行こう」

 

「リヴェリア……」

 

──可憐なる精霊の姫よ、英雄に寄り添う精霊の風よ。今こそ華麗なる羽を広げ、雄大なる大空へと羽ばたくのだ。

 

「ありがとう!」

 

 リヴェリアへと向けられたアイズの笑顔は、この世の何よりも花々しく神すら羨むほどに美しかった。

 

「……本当に、子が育つのは早いな。………………アイズの征く道に、精霊の加護があらんことを……」

 

──そして少女は、アイズ・ヴァレンシュタインは、ベル・クラネルに〝恋〟をする。

 

 

 アイズ・ヴァレンシュタイン

 

 Lv.6

 

 力:I50

 

 耐久:I50

 

 器用:I50

 

 敏捷:I50

 

 魔力:I50

 

 狩人:G

 

 耐異常:G

 

 剣士:H

 

祝福I

 

《魔法》

 

英雄に寄り添う精霊の風(エアリエル・ダンス)

 

付与魔法(エンチャント)

 

・霊風属性。

 

・ベル・クラネルを付与対象に選択可能。

 

・ベル・クラネルと隣接時のみ全能力を超補正。

 

・ベル・クラネルと隣接時のみ追加詠唱可能。

 

・詠唱式【目覚めよ(テンペスト)

 

・追加詠唱式【精霊の姫君(アリア)

 

《スキル》

 

復讐姫(アベンジャー)

 

・任意発動。

 

怪物種(モンスター)に対して攻撃力を高補正。

 

竜族(ドラゴン)に対し攻撃力を超補正。 

 

憎悪(いかり)の丈により効果向上。

 

恋情一途(リアリス・フレーゼ)

 

・早熟する。

 

懸想(おもい)を抱き続ける限り効果持続。

 

懸想(おもい)の丈により効果向上。

 

懸想(おもい)を理解する度に全能力が永続的に向上する。

 

・ベル・クラネル以外からの魅了無効。

 

 



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咆哮

――暴虐に立ち向かいし英雄が轟かせるは、雷鳴の咆哮。

――新生する銀狼の牙が響かせるは、勝利の咆哮。

――さあ造りだされし英雄よ、勇気を以て汝の殻を打ち破り、覚醒の咆哮をあげよ。



 天へと陽が昇り始め、未だに朝霧が薄く立ち込める早朝。黄昏の館(ホーム)の通路で向かう影が二つ。その一人は小人族(パルゥム)の再興を掲げる【ロキ・ファミリア】の団長、フィン・ディムナ。

 

 フィンが何故こんな早朝に通路へと赴いているのか、その理由はもう一つの影にあった。フィンの前に立つのは三日前の夜に【ランクアップ】を果たし、己と同じ高みへ上がってきた狼人(ウェアウルフ)のベート・ローガ。

 

 ベートは遠征より帰還した後から、人が変わったかのように強さに対してひたむきな姿勢を見せ始めた。口の悪さは相変わらずであるが、纏う雰囲気や言葉の節々から『お前たちを守る』と叫ぶ想いが雄弁に伝わってくる。

 

 その変化は一皮剥けたなんて言葉では表すことが出来ない。それはもはや新生だ。この言葉以上に相応しい言葉は他にはないだろう。ベート・ローガという男はたった一夜にして己の宿業を超え、新たな理想を手にしたのだ。

 

「おい、フィン。ちょっと付き合え」

 

「しかし、珍しいねベート。君が僕を指名してくれるなんて、珍しいこともあるじゃないか」

 

 ベートが紡ぐ言葉は非常に簡潔であり、その身から溢れ出る闘気と、飢えた狼のような眼差しがフィンに向けて唸り声を上げる。

 

 ──早くしろと。お前に求めるものはそれだけだと。長ったらしい会話など、強くなる為の時間が無駄に浪費されるだけなのだからと。

 

 ただ愚直に強さを求め続けるベートの鍛錬は、あまりにも常軌を逸していた。復讐に燃えていた昔のアイズと比較しても、天と地ほどの差があるほどに。

 

 何をどうしたらそこまで強さを求めて前へと前へと進む続けられるのか、全くとして理解出来ない。ロキやリヴェリアが必死で止めようとしたが、全くとして効果が無く。他の団員達も今回ばかりは危ないと説得しようとしたが、無意味の三文字が浮かぶだけだった。

 

 しかしフィンだけは理解していた。今のベートは、己の弱さに焦りを感じて肉体を追い詰めているのではないと。ベートの双眸に宿るのは、理想をこの手に掴もうと渇望する求道者のものだ。

 

「無駄話をするつもりはねぇ。俺と闘うのか、闘わないのか。それだけを聞かせろ」 

 

「……変わったね、ベート」

 

 ベートの変化に感慨深く頷いて見せるフィン。何があったのか、なんて無粋なことを聞くつもりはない。

 

(ベート、君が変わったのは、あの時ミノタウロスを追って行った後だ。ははっ……! ベル・クラネルの雄姿は、それほどまでに鮮烈なものなんだね……!)

 

 ──〝未完の英雄〟だ。ベートに新たな理想を宿したのは、他でもベル・クラネルなのだとフィンは分かっている。〝英雄の凱旋〟で多くの人々や神々を魅了したように、ベートもまた、その心を奪われたのだろう。

 

「ああ? そうか? あんま自覚はねぇんだがな……」

 

「いいや君は変わったよ。その表情、うん。いい面構えだ」

 

 それ以上に驚くべきことは、ベートの他者に対する言葉遣いだ。あれほど棘しかなかった言葉の中に、確かな優しさが灯っている。ベートが執拗に弱者を罵ってしまう理由を知るフィンからすれば、これ以上に驚くことは無い。

 

 何かが変わった。でもその変化は、きっとベートに多くの光を与えたのだ。ベートは仲間たちを守る為に強くなろうとしている。ならばフィンから言うべきことは、何もない。今はただベートの征く道を見守るだけだ。

 

「分かった、分かった。……で、どうなんだ?」

 

「勿論、構わないさ。いや、寧ろ僕の方からお願いしたいくらいだよ」

 

 ──そう。今の己に出来ることは、ベートの求める強さの為に、この手で槍を振るう事くらいしかないのだ。

 

「さあ、Lv.6になったベートの力を僕に見せてくれ……!」

 

「ああ……! 見せてやるよ、俺の……いや、英雄に鍛えられた銀狼(俺たち)の牙を!」

 

 同時に、フィンは自身の胸に業火が滾るような錯覚を覚えた。何だこれは? と。どうして己はここまで昂っているのか、フィンには不思議でならなかった。

 

──何故ならこの熱は、立ち向かう者が宿す想いである筈なのだから。

 

 ○

 

 早朝ということもあり、誰一人として訓練所を訪れている者はいない。此処に居るのは、【凶狼(ヴァナルガンド)】と【勇者(ブレイバー)】だけだ。

 

「それで、武器はどうしようか?」

 

「はっ……! そんなの決まってんだろ?」

 

 フィンはベートへ尋ねる。どこまで本気でやるのかと。その言葉にベートは獰猛な笑みを浮かべると、己の身に纏うミスリルブーツ《フロスヴィルト》を構えた。

 

 本当であれば椿へ新たに注文したガントレットも使いたいと考えていたベートだが、今回頼んだ武器は《フロスヴィルト》を上回る際物であり、製作までに時間がかかると言われた。

 

 故にベートは万全とは言えないが、己の持てる全てを以て『本気』でフィン・ディムナと相対する。強くなる為の可能性をベートは何一つとして無駄にするわけにはいかないのだ。

 

──雷鳴の英雄(ベル・クラネル)は雷の如く駆け抜け、己の高みへと昇ってくるだろう。

 

──故に銀狼は天に向かって吼える。お前の征く戦場を、俺もまた共に駆けたいのだと。

 

──だからこそ願うのだ、誰よりも強さを渇望するのだ。己も雷鳴の英雄が如く理想へ向けて駆け抜けると誓ったから。

 

──奪われ続けたこの手に、確かな勝利を掴みたいから。

 

「ベート、本気かい?」

 

「なんだ、フィン。ビビったのかよ?」

 

 ベートから模擬戦がしたいと呼び出された時点でフィンはこうなるような予感はしていた。どこまでも愚直に強さを渇望するベートが、模擬戦用の武器で納得する訳が無いと。

 

 だからこれはあくまでも予定調和に過ぎなかった。己がこの槍を、《ファルティア・スピア》を振るうのであれば手加減をするつもりはない。

 

 ──それでもいいのかい? 

 

 ──当たり前だろうが! 本気だから意味があるんだよ! 

 

 交差する視線。互いに己が勝つと信じて疑わないフィンとベートは、不敵な笑みを浮かべ合う。負けるなどありえない。負ける事など許されない。

 

 誇りと理想が激しく衝突する。己の野望を叶える力を求める勇者と、英雄の雷鳴と共に新生した銀狼は、勝利(栄光)しか求めていないのだ。

 

「はははっ! いや、参ったな……! 本当に変わったねベート! ……いいよ、君の本気に僕も全力で応えよう!」

 

 強者の風格を迸らせるベートを前に、フィンは歓喜の声をあげる。そうだ、そうでなくてはつまらないと。強者の闘いとは命を賭すからこそ意味がある。

 

──君の勇気に、喝采を! 

 

──俺の牙で、お前を噛み砕く! 

 

「準備はいいかい?」

 

「当たりめぇだ! いつでも征けるぜ!」

 

 フィンとベートから放たれる灼熱の如き闘気が、まるで空間を歪ませているように錯覚させる。それはまるで吹き荒ぶ乱雲のようで、迸る命の業火が地面を震わせるまでに至る。

 

「……」

 

「……」

 

 ──瞬間。暴れ回っていた力の波動が、神隠しにあったかのようになりを潜めた。そして訪れる刹那の静寂。それは嵐の前の静けさを想起させる。

 

「「うおおおおおおおおおお!!」」

 

 ──爆発。

 

 フィンとベートが叫び声を轟かせると同時に爆発した闘気によって、空間が崩れ去るのではと不安にさせるほどに振動する。

 

 一陣の風となったフィンは、雷鳴の如く駆けて来るベートへと《ファルティア・スピア》を振るう。その一突きは神速、故に必殺。同じ【ロキ・ファミリア】の眷属であるベートの心臓へ向けて、手加減無しの一撃が放たれたのだ。

 

 ああ。だが勇気の一槍がベートの心臓を穿つことは無い。天高く蹴り上げられた《フロスヴィルト》が、【勇者(ブレイバー)】の勇気を打ち砕かんと吼える。英雄によって鍛えられた我が牙が折れることはないと、高らかに宣言するのだ。

 

 衝突する力と力は旋風を巻き起こし、フィンとベートを遮る訓練所を破壊せんと荒れ狂う。

 

「ふっ……!」

 

「おらぁっ!」

 

 互いに放つのは魂を込めた必殺の一撃。強者同士による闘いを前に、仲間であるという優しさは必要ない。仲間であるからこそ手加減をする必要はないのだと、フィンとベートは高みへと昇り続ける。

 

「はあっ……!」

 

「だらぁっ……!」

 

 瞬きをする余裕など互いにない。油断を抱けばその槍が命を散らし、慢心を抱けばその牙が命を砕く。そしてフィンとベートは「まだだ」「まだだ」「まだまだまだ」と胸の内で叫び、限界など己には存在しないと吐き捨てて、闘いは苛烈さを増していくのだ。

 

「しっ……! ははっ! あはははっ! ここまでとは、流石に思っていなかったよベート! 想像以上だ!」

 

「まだ、まだァ! この程度でへばるんじゃねえぞ、フィン!」

 

 両者は心に湧き出る歓喜を押さえることなく、どこまでも無邪気に笑い合う。そんな主人の願いに応えるべく《ファルティア・スピア》と《フロスヴィルト》は鋭さを増していく。

 

「ああ! ここで終わりだなんて、そんな勿体ない真似はしないよ!」

 

「だよなァ! そうだよなァ! こんなところで終わらねぇよァ!」

 

 一合ぶつかり合う度に強くなっていると肌で感じ、ベートは喜びが止まらない。

 

──どうだ、見てくれ! 〝雷鳴の英雄(ベル・クラネル)〟! 俺もお前のように理想へ向かって、前へ前へと駆けているぞ! 

 

 昂る感情のままにベートは己が理想を、新生した牙を紡ぎ出そうとする。

 

(チッ……! 完全詠唱を許してくれるほど、フィンは腑抜けちゃいねェか!!)

 

 しかし新生した銀狼の誓いが戦場に轟くことはない。これを使えば訓練所どころか黄昏の館(ホーム)そのものが消滅する危険性があるから。

 

 何よりも相対する【勇者(ブレイバー)】が、それを許してくれるわけがないのだ。この【魔法】が発現した時から時間の許す限り並行詠唱の鍛錬を積んでいるベートだが、今のフィンを前に紡ぐことができるのは省略詠唱式だけだ。

 

「【──吼えろ、黄昏の神狼よ。英雄が鍛えし我が雷牙(きば)をもって──噛み砕け】!!」

 

 ベートの詠唱と共に、雷鳴が狼の咆哮となって響き渡る。白銀を思わせる純白の稲妻が空間に満ちると、その衝撃と共にフィンは凄まじい勢いで吹き飛ばされて訓練所の壁にめり込んだ。

 

(馬鹿な! 僕が見切れなかっただと!)

 

「ぐっ……! これは……!」

 

 極限まで集中していた筈のフィンは、白雷が瞬いた瞬間に迅雷となったベートの鋭い蹴りを無防備となった腹部に受けたのだ。

 

(これは、付与魔法(エンチャント)なのか……!)

 

 攻撃を貰ったとフィン自身が理解したのは壁へと衝突した後で、親指の疼きを感じる暇すら許されはしなかった。数多の修羅場を潜り抜けてきたフィンを以てしても、ベートの雷牙(きば)を捉えることが出来ない。

 

 今になって凄まじいまでに親指の疼きを感じ取ったフィンではあるが、銀狼の牙はすぐそこまで迫っていた。

 

「刮目しやがれ! 〝雷鳴の英雄(ベル・クラネル)〟に鍛えられた勝利の神狼(ベート・ローガ)雷牙(りそう)は、誰にも砕けねェ!」

 

「速い! ……ぐぅっ! がはっ……!」

 

 銀狼の疾走は止められない。纏う白雷がベートを追うように迸るその光景は、閃光が瞬いているかのように鮮烈だ。理想を吼える白雷の銀狼は、己が敵に止めを刺すべく牙を剥く。

 

 ──しかしフィンは動けない。

 

 一度しかベートの蹴りを受けていないにもかかわらず、フィンは既に瀕死のような傷を負っていたのだ。その事実に僅かな違和感を覚えたフィンは、親指の疼きからベートの纏う白雷こそが原因だと推測した。

 

「喰らいやがれェ!!」

 

「がぁああああああああああああああ!!」

 

 だが真実が分かったとしても、今のフィンにはベートの一撃を躱す力は残されていなかった。立ち上がるだけで肉体が引き裂かれるような激痛に苛まれ、身体は己の命令に全く従ってくれない。

 

「ごほっ……はあ……はあ……」

 

 故に訪れる結末は順当なものだ。強者であるベートが立ち、弱者だった己が地に伏せる。弱肉強食の真理が、フィンの前へと姿を現した。

 

「おい……その程度なのかよ……【ロキ・ファミリア】の団長っていうのはよ? 【勇者(ブレイバー)】の誇りはその程度のもんなのか?」

 

(そんな訳、ないじゃないか……でも……これは、不味いな……意識が、朦朧として……)

 

 朦朧とした意識の中、聞こえてくるのは強者(ベート)の声だ。その声音は不甲斐無い己に呆れているようであるが、お前なら立ち上がってくれると激励しているようにも思えた。

 

 弱者となったフィンが闇に沈みながら想ったのは、知らずの内に忘れてしまっていた(フィン・ディムナ)の叫びだった。

 

 己は何のために【勇者(ブレイバー)】の名を背負いここまで歩んできたのか、フィンは自身の過去を振り返る。

 

(これが、立ち向かう者の気持ち、なのか? 何時から、僕は……忘れて、しまったんだ……?)

 

──今フィンは、己に『勇気』を問いていた。

 

 この手で願ったものは何だ? この手で掴み取るのは何だ? この手で掲げるのは何だ? 

 

「立てよ、フィン……こんなもんじゃねぇだろうが、お前は……!」

 

 ──己が立ち上がるべきは何のためだ? 

 

(そうだ……! 僕は、【勇者(ブレイバー)】だ! 元から、諦めるなんて、選択肢は……)

 

 ──答えは既に我が名に刻まれている! 

 

(──存在しない!!)

 

 ──この手で願ったのは勝利だ! この手で掴み取るのは勝利だ! この手で掲げるべきは勝利だけだ! 

 

「ぐぅ……はあ……はあ……随分と、言ってくれたじゃないか、ベート……!」

 

 ──【勇者(ブレイバー)】は屈しない。

 

 ──フィン・ディムナは諦めない。

 

「僕はまだ、立ってるぞ!!」

 

 ──その双眼に宿るのは、〝勇気(ほこり)〟だ。その両手に握るのは〝勇気(ファルティア・スピア)〟だ。

 

「僕には……成し遂げたい、願いがあるんだ……! その誓いを……その道を……僕は諦めない!」

 

 ──この日『人工の英雄(フィン・ディムナ)』は『本物の英雄(フィオナを超える者)』になる。

 

「【魔槍よ、血を捧げし額を穿て──〝五槍を迎えし究竟を以て、我が眠りは誇りと共に目覚めん〟】!!」

 

 己の殻を破らんとするフィンの〝咆哮(詠唱)〟が、真紅の輝きとなってその身を包む。瞳を閉じて外界から遮断されたフィンが視た未来は……

 

「【ヘル・フィネガス 〝モンガーン〟】!!」

 

 ──勝利をその手に掲げる己の姿だけだった。

 

「さあ戦いを続けよう!」

 

「ああ!!」

 

 〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟が魅せた雄姿は〝勝利の神狼(ベート・ローガ)〟の牙を鍛え、〝本物の英雄(フィン・ディムナ)〟を覚醒へと導く。

 

 ──彼等の英雄譚は、まだ始まったばかりだ。

 



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進歩

 ダンジョンの三階層を疾走する影が一つ。

 

 少年の名はベル・クラネル。たった半月で【ランクアップ】を果たし、Lv.2の高みへと駆け上った〝未完の英雄〟だ。

 

「フッ!」

 

『グギャッ!』

 

 一陣の風となったベルは、すれ違いざまにゴブリンの群れに閃光のような刃を振るう。

 

 一閃、ゴブリンの首が飛ぶ。二閃、ゴブリンの胴体が別たれる。三閃、ゴブリンの鮮血が虚空を舞う。

 

 刹那の時を以て、戦いの場は静かに終わりを告げる。戦場に勝者はただ一人、鋼の意志を抱く〝未完の英雄〟ベル・クラネルだけだ。

 

 しかし既にベルの姿はここにはなく、新たな戦場へと向かっていた。

 

 ──強く、強く。前へ、前へと。誰かの涙を拭うと誓った鋼の意志を持つ少年は、刹那の時も無駄にはしない。

 

 己に誇るべき力などないと、ベルは知っているから。生まれた時より与えられた天賦の才など持っていないのだから、努力するしか他にない。

 

 ベル・クラネルは知っている。諦めなければ願いは必ず叶うのだと。進み続ければ得られる未来が必ずあるのだと。

 

 ──ならば進もう。救いたいと願ったから、守りたいと想ったから、誰もが笑顔で生きて欲しいと、ベル・クラネルがこの胸に誓ったから。

 

 ──慢心などしない。驕りなど抱かない。進み続ける限り限界なんてありはしないのだ。

 

「来たね……」

 

『ゲゲエッ!!』

 

 壁に張り付いたヤモリのようなモンスターダンジョン・リザードの群れが、英雄を屠らんと進攻してくる。壁すら這いずる我らに刃は届かない、振るう武器に意味は無しとあざ笑うかのように。

 

 ああ……しかしあまりに愚かだ、怪物たちよ。戦場に立つは凡百な少年に非ず、覚悟(ヒカリ)を抱く鋼の英雄だ。

 

 刃が届かぬのなら、届く距離まで征くだけだ。振るうべき武器はこの手の中に、そして刃を突き立てよう。

 

 ダンジョン・リザードの気配を感じたベルは、走る速度を落とすことなく恐れなど捨てて力強く右足を踏み出す。

 

 ──この瞬間、ベル・クラネルは弾丸となった。

 

 疾風となった少年の影は壁すらも地面であるかのように駆け上り、ダンジョン・リザードの群れと電光石火の間に交差する。

 

 そしてベルはモンスターの姿を覗き見ることなく、風のように戦いの場から過ぎ去っていった。傍から見ればただ通り過ぎただけに見える光景は、しかし幻想の如く砕け散ることになる。

 

「ハッ!」

 

『……? ……グゲエッ!?』

 

 空間に響き渡るのはダンジョン・リザードたちの断末魔。その身に纏う鱗は彼らの気付かぬ内にベルによって無数に切り刻まれ、おびただしい血を大地へと注ぐ。

 

 血の海に沈んだダンジョン・リザードは自らに死が訪れたと理解することなくその命を散らし、己が核である魔石だけを残して灰へと還った。

 

 ──雌雄は既に決した、英雄の振るう閃光が立ちはだかる敵を断罪したのだ。勝利は既にこの手の中に、脆弱なる意志を前に、鋼の英雄が敗れる道理などありはしない。

 

 ○

 

「しっ! ……遅い、遅すぎる!」

 

『ィィアッ!?』

 

 ダンジョンに潜ったベルは【ランクアップ】を成し遂げてどれほど強くなったのか、事細かに確かめながら上層を進む。

 

 己の感覚と急激に強くなった肉体の齟齬を、モンスターを狩りながら少しずつ埋めていく。身体を動かせば動かすほど感覚は鋭くなり、刃を振るえば振るうほどにその斬撃は速度を増す。

 

 少し前までは群れで現れたら鬱陶しかった蛙のようなモンスター、フロッグ・シューターもすれ違いざまに切り刻むだけで、刹那の間に戦いは終わりを告げる。

 

 Lv.2に到達したベルにとって、もはや上層のモンスターは動かぬ的に他ならなかった。まるで相手にならない、【経験値(エクセリア)】にすらなり得ないと、ベルはモンスターの死骸たちを無感動にみつめる。

 

「進もう。もうここは僕の戦場じゃない……」

 

 魔石を回収し使い物にならなくなったナイフを懐へと仕舞ったベルは、予備の一つである新たなナイフを懐から取り出す。

 

「……武器、か」

 

 ダンジョンに潜り始めた時から感じていた武器への不満は、【ランクアップ】を果たしたことでより強くなった。洗練されたベルの太刀筋は正確無比であり、驚くほどに力強い。

 

 ベルの在り方を体現するそれに、安物のナイフではとてもじゃないがついていけない。何度か戦闘を行うだけで刀身が歪み、力を加えすぎるとガラスのように簡単に砕けてしまう。

 

(ダンジョンで考えることじゃないな)

 

 しかしここはまだダンジョンだ。気の緩みは死に直結すると、ベルは武器について考えるのは後にすることにした。ここで不満を漏らしたとしても、己についてこれる武器が湧いて来る訳でもないのだからと。

 

「……ダンジョンの六階層。ここからは僕にとって未知の冒険だ」

 

 ダンジョンに潜ってから十分もかからずに六階層へと下ってきたベルは、いつも以上に気を引き締める。半月の間ひたすらに力を求めた己が最後に探索したのが五階層だ。

 

 ここからはエイナから伝え聞いただけの情報しか持ち合わせていないベルだが、【ランクアップ】したからと慢心を抱くことはなかった。

 

 なにが起こるか分からないからダンジョンなのだ。

 

 ベルは既にミノタウロスとの例外(イレギュラー)遭遇(エンカウント)によって、ダンジョンの恐ろしさを深く理解している。

 

(これは……!)

 

 いざ前へ進もうとベルが歩み始めた直後だった。

 

 静寂なる空間に、ガラスが砕けるような、得体も知れない不快な音が鳴り響く。何度も、何度も、途絶えることなく不気味な破裂音が空間に木霊して、ベルの心を不安で揺さぶろうとしてくる。

 

「────」

 

 モンスターを次々と屠り光の速度で成長し続ける英雄の威光を前に、ダンジョンは恐れから逃れるようにその本性を露わにする。

 

──殺せ。殺せ。殺せ。この英雄(バケモノ)を殺せ。

 

──消えろ。消えろ。消えろ。我らが大地より消えろ。 

 

 ダンジョンの願いへと呼応するように、光を滅するべく影が六階層へと生み出される。

 

『『『『……。…………』』』』

 

 人のような体躯を持つ漆黒のモンスター『ウォーシャドウ』が、二十を超える群れとなり英雄の進軍を止めるべく闇より姿を現した。

 

「僕の誓いを〝影〟程度で止められると、本気でそう思っているのなら……」

 

──殺すんだ。殺すんだ。殺すんだ。この英雄(ヒカリ)を殺すんだ。

 

──消えてくれ。消えてくれ。消えてくれ。我らが前から消えてくれ。

 

──英雄(バケモノ)に勝てるわけがない。

 

 しかしどうしたことか。ベルと言う獲物を前に、ウォーシャドウは凍ってしまったように動かない。影のようなその体を小刻みに震わせながら立ち尽くすのみ。

 

 英雄の雄姿(ヒカリ)を前に、影の軍勢(ウォーシャドウ)は己の運命を悟る。天霆の前に陰りはなく、闇であろうと一刀のもとに斬り裂くのみ。

 

「この一閃を以て引導を渡すだけだ!」

 

 ──故に影が光に勝てる道理など最初から存在していなかったのだ。

 

 ○

 

 鋼の英雄は疾走する。

 

 駆け出した両足は立ち止まることを知らない。一歩踏み出す度に、世界が置き去りにされていく。

 

 速く、速く。誰よりも速く。過ぎ去っていく閃光に、すれ違う冒険者たちは何が起きたのか理解出来ず首を傾げるだけ。

 

「ああ……? 何だぁ?」

 

「これって……魔石、よね……?」

 

 気がついた時には何故か向かって来ていたモンスターの姿は消え去り、彼らの核である魔石だけが無造作に地面へ転がっているだけだった。

 

 ──英雄は止まらない。

 

 七階層、戦いの幕は上がらない。

 

 八階層、恐るるに足りず。

 

 九階層、その姿が捉えられることはない。

 

 十階層、怪物の宴(モンスターパーティー)、何するものぞ。

 

 十一階層、過ぎ去る風の音だけが鳴る。

 

 十二階層、竜が居ようと屠るのみ。

 

(やっぱり、強くなっている……いや、これは……ステイタスが底上げし続けているのか?)

 

 ベルがダンジョンに潜ってから感じ始めたのは、尽きることなく燃え上がる無限の活力だった。一刻、また一刻と時が刻まれる度に肉体の強靱さが増していき、五感の全てが鋭くなっていくのだ。

 

(これが【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】の力、その一端なのか……!)

 

 ヘスティアから渡された羊皮紙に記された【ステイタス】を見た時、このスキルはミノタウロスと戦った時のように局所的な場面で最も活きるとベルは考えていた。

 

 だがベルの予想以上に【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】は有能なスキルだった。

 

【ステイタス】が補正される感覚というものが明確には分からないが、ダンジョンに踏み入ったその時から『〝時間経過〟、または敵からダメージを受けるたびに全能力に補正』の発動条件は満たされていたように感じる。

 

 ベルにとってダンジョンは、踏み入った時点でどれだけ強くなろうと、命を奪い合う戦場であるのだ。故にダンジョンで行動している時間の全てが戦闘扱いになっているのでは? とベルは考えた。

 

 だがスキルは神であっても完全に把握できていないのだから、己が深く考える必要は無いとベルはすぐさま思考を切り替える。

 

「……征こう。僕の〝冒険〟は、ここにはないんだから」

 

 何であろうと強くなれた。その事実があれば己はもっと前へと進むことが出来るのだから。

 

 ○

 

 陽が傾きオラリオの街は橙色に染まり始め、ダンジョンから帰ってきた冒険者たちで明るく賑わい始める。今日はどうだった? と話し合う者達に、どこに飲みに行く? と笑い合う者達。

 

 皆が思い思いの夜を過ごそうと動き始める時間帯だ。

 

「お、お帰り! ベル君!」

 

「はい、ただいま帰りました。エイナさん」

 

 そしてベルもまたエイナとの約束を果たすべくギルドへと赴き、無事である姿をしっかりと見せた。己は死なないと、この約束を違えることは無いと、ベルの雄々しい姿が雄弁に物語る。

 

「え、えっと……もう大丈夫なの?」

 

「はい、神様にも言われて一日ちゃんと休みましたから。……ですので今日もずっとダンジョンに潜ってました」

 

 ミノタウロスとの死闘から二日が経ちエイナの前に再び現れたベルは、鮮烈なる雄々しさを纏った英雄のような姿で。

 

 たった二日会っていなかっただけなのに、何時にも増して凛々しい表情だとエイナは知らずの内に頬を紅く染めてしまう。

 

 その所為か若干たどたどしい喋りになってしまったエイナなのだが……

 

『ベル君、あのね? 口うるさくなっちゃったかもしれないけど……えっと……その……約束守ってくれてありがとう! す、凄く嬉しかったよ!』

 

 更に別れ際に己が伝えた言葉を思い出してしまい、今になって抑えきれない恥ずかしさが蘇ってきてしまった。

 

「そ、そっか……。でもあんまり、無茶したら駄目だからね?」

 

「……エイナさん、それは……」

 

 しかし恥ずかしさ以上にエイナはベルを心配していたのだ。ミノタウロスの一件もあり、嫌と言うほど身に染みている筈だったダンジョンの恐ろしさをエイナは改めて思い知った。

 

 エイナの想いを理解したベルは、複雑そうな顔を浮かべる。あまり心配をかけたくない思いと、それでも前に進み続けるのだという想いがベルの心でぶつかり合って烈風のように吹き荒れるのだ。

 

「もう、そんな顔しないで。ちゃんとダンジョンから帰ってきてくれれば、それだけでお姉さんはいいの」

 

「ありがとう、ございます」

 

 そんなベルを見て、エイナは優しく頭を撫でると慈しむように優しい微笑みを浮かべる。エイナ自身、己がベルの征く道の枷になる事なんて望んでいない。

 

 ただ覚えていて欲しいだけなのだ。英雄の帰る場所があることを、進み続けても失わないものがあることを。

 

「あーもうやめやめ! この話はおしまい! ベル君は今日も無事だったんだから、それで良しよ私!」

 

 しんみりとした空気になったのを肌で感じたエイナは大袈裟に声をあげると、話題を強引に変える。折角ベルと話しているのに、悲し気な雰囲気になどエイナはなって欲しくない。

 

 ベルと話すのであれば、明るく楽しい雰囲気に包まれていたいのだ。

 

「それじゃあベル君、換金所まで一緒に行こう!」

 

 それにまだベルは魔石を換金していないのだから、あまり長話をしていてはこの時間帯だと混んできてしまう。

 

【ヘスティア・ファミリア】の眷属はベルしかいないのだ、収入は忘れずしっかりと手にしてもらわなければいけないだろう。

 

「はい! ……と、そうだ忘れるところでした、エイナさん。僕、Lv.2になりました!」

 

 換金所に向かうエイナに付いていこうとしたベルだが、今朝ヘスティアから言われたことを思い出した。自身のアドバイザーであるエイナに【ランクアップ】の報告をするようにと。

 

『はぁ……ボクとしてはもう暫く内緒にしておきたいんだけど……ベル君、今日ダンジョンから帰ってきた時に噂のアドバイザー(・・・・・・・・)君へ【ランクアップ】の報告をしてくるんだ。いいね?』

 

 ヘスティアとしては常軌を逸した速度での【ランクアップ】を本当は隠したいと思っていたのだが。隠したい対象である神々には〝未完の英雄〟として既に大々的に知られてしまった。

 

 ならば隠す方がより面倒な事になると、ヘスティアはベルの【ランクアップ】をギルドに伝える決断をしたのだ。

 

「へぇーそうなんだ、ベル君がLv.2にねー。……え?」

 

 ベルから返ってきた言葉は、エイナの斜め上を行くものだった。ベルがあまりに軽く言うものだから、エイナは危なく流してしまいそうになる。

 

「……? ……どうかしましたか?」

 

 言葉を失ってしまったエイナの姿を見て、ベルは可愛く首を傾げる。

 

 何故あんなにも雄々しいこの少年はこんな時に可愛い表情をするのかと、エイナはもう一つの意味で言葉を失うが次の瞬間には……

 

「えぇぇぇぇぇぇぇ!! Lv.2~~~~~~~っ!?」

 

 雷鳴のような叫び声がギルド中に響き渡っていた。

 

「もしかしたらとは思ってたけど……ベル君、本当に【ランクアップ】しちゃったんだね」

 

「はい! これでもっと僕は強くなれます!」

 

 場所は変わり本部に設置された面談用のボックスにて、ベルとエイナは話し合っていた。

 

 今やオラリオ中で語られる〝英雄の凱旋〟を誰よりも詳しく知るエイナからすれば、この事実は正直に言えば予想の範疇ではあった。

 

「はぁ……色々と言いたいことはあるけど、撃破記録(スコア)見た時からこうなるような予感はしてたんだよね」

 

 それでも改めてベル本人から現実として聞かされたエイナは驚かずにはいられなかったのだ。

 

「ふぅ……」

 

 やはりベルが発現させた早熟スキル『英雄誓約(ヴァル・ゼライド)』の影響なのだろうかと、エイナは疲れたように息を吐く。

 

 あまりにもベルに似合い過ぎているそのスキルは、エイナも聞いたことが無い【ステイタス】の成長速度に影響を及ぼすレアスキルだ。

 

 神々などに知られたら必ず面倒な事になると、エイナには分かる。それに【ステイタス】のことは隠すとベルに背中を見せてもらった時に約束したのだから、それを破るわけにはいかない。

 

 しっかりと(・・・・・)約束を果たしてくれたベルに、エイナは不義理を働くわけにいかないのだ。

 

 例えギルドの主神であるウラノスにベルの【ステイタス】を聞かれたとしても、答えるつもりは毛頭ない。

 

「でも、ベル君らしいね。ミノタウロスを倒して【ランクアップ】したのに、もう先を見てる。今の自分に全然満足してない」

 

「……はい。僕はもっと、もっと強くなりたいですから。これで満足なんてできないですよ」

 

【ランクアップ】を果たしたというのにまるで満足する様子を見せず、更なる力を欲しているベルの意気揚々とした表情を見て、彼らしいと微笑むエイナ。

 

 前を向くからこそ、諦めないからこそ、ベルはベルたりえるのだとその姿を見て強く思う。

 

「……でもこれだけは言わせて欲しいの」

 

 まるで揺るがないベルの鋼が如き信念は、エイナの心に鮮烈なる光を想起させる。己が心を惹かれてしまう少年はまた一歩、英雄になるという願いに近づいた。

 

 ならば己が言う言葉はただ一つだ。余計な言葉で着飾る必要なんてない。

 

 この胸に抱く喜びのありったけを、目の前の英雄(少年)に伝えるのだ。

 

「……ベル君、Lv.2到達おめでとう! 本当に、よく頑張ったね!」

 

 ベルに見せたエイナの笑顔は、どんな花よりも可憐で、精霊のように美しかった。 

 

 

 

『ベル・クラネル』

 

Lv.1→Lv.2への【ランクアップ】

 

所要期間、約半月。

 

モンスター撃破記録(スコア)、4001体。

 

 

 Lv.2到達の歴代記録は〝未完の英雄〟によって大きく塗り替えられることとなる。

 

 

 ──民衆たちよ歓喜せよ。お前たちを魅了した〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟は、必ずや前人未到の英雄譚を紡いでくれるだろう。



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只人

 ああ……英雄の器を担いし〝只人の少年〟よ……

 私は舞台に上がること無き端役に過ぎないが……

 汝の道に癒しと幸福があらんことを、そう願うことは出来るのだ……

 英雄では無く一人の少年として、私は汝を見守ろう……


 エイナとの約束を果たし隠し教会(ホーム)へと向かい始めたベルは、緩やかな速度でメインストリートを歩いていた。

 

(やっぱり夕暮れは、良いな。沢山の笑顔が花を咲かしている。……僕の望む光がここにあるんだ。だって皆の幸せは、僕の幸せなんだから)

 

 ベルの視界に入るのは母の手を引きながら笑顔を浮かべる少年の姿や、ダンジョン帰りに酒を交わし合う冒険者の姿、そして己の横を過ぎ去っていく賑やかな人々の姿があった。

 

 この景色こそが英雄になると誓ったベル・クラネルが求めたかけがえのない日常であり、何よりも大切な幸福だ。

 

 彼らの笑顔こそが己の守るべき未来なのだと分かるから、ベルは穏やかな微笑みを浮かべて歩みを進めていく。

 

(……だから。……だから、僕が守らないといけない! 悪党如きに彼らの尊き未来を奪わせはしない!)

 

 しかしそれと同時に燃え滾る憤怒の激情が、ベルの心に大時化(おおしけ)のように渦巻いている。ベルの心には相反する二つの願いが、複雑に混ざり合っているのだ。

 

(今はまだその力が無くても、僕は誰かの涙を拭って、誰かの笑顔を守るって誓ったんだから!)

 

 彼等の輝かしき幸福も悪という理不尽を前にした時、いとも簡単に奪われてしまうとベルは知っているから。

 

 守るべき『誰か』の不幸を考えてしまったベルは、気が付けば拳から血が滴り出る程に強く両手を握りしめていた。

 

(この程度の痛みは、奪われる未来に比べればなんてことはないんだ……僕の傷は治るけど、失ってしまった幸せは二度と帰って来ないんだから……)

 

 その瞬間。ベルのスキル【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】が発動して両手の傷を治癒すると共に、英雄が抱く怒りを過去のものとする。

 

 己の激情に支配されたのは刹那の間であり、誰もベルの変化には気が付かない。

 

 ふとすれ違う誰かがベルへと視線を向ければ、そこにはオラリオ中を魅了した〝未完の英雄〟の姿だけがあるのだった。

 

「おや? おお、ベルではないか」 

 

「……こんばんは、ミアハ様。その荷物はお買い物ですか?」

 

 そんな時だった。背後から耳慣れた声を聞いたベルはゆっくりと振り返る。

 

(ははっ……相変わらず、優しい方だ……貴方は……)

 

 そこに居たのはヘスティアと同じ超越存在(デウスデア)である、美麗な青年の姿をした神ミアハが立っていた。

 

 神を前に刹那の間ベルは右眼から閃光を迸らせると、にこやかにミアハと挨拶を交わす。

 

「うむ、夕餉の買い出しにな。……それにしても聞いたぞ、ベル。お前はまた、無茶をしたのだな?」

 

「ご心配をおかけしたみたいで、すみません」

 

 ベルにとってミアハは主神であるヘスティアを除いて数えるほどしか居ない、しっかりと言葉を交わし合って(・・・・・・・・・・・・・・)親交を深めた神様なのだ。

 

 だからこそベルはミアハに心配をかけたことへの申し訳なさと、心配されるほどに軟弱な己に不甲斐なさを感じて仕方が無い。

 

 もっと己が強ければ、傷つきさえしなければ、ミアハ様にも心配をかけることはなかったのにとベルは自身に強い憤りを覚える。

 

「……なに、男は度胸とよく言ったものだ。心配している者がいることを忘れていないのなら、私からは言うべきことなど何も無いさ」

 

 しかしそんなベルの心を見透かしているかのように、ミアハは優し気に笑って見せる。お前が怒りを抱く必要はないと、お前は良く頑張っていると優しい瞳が物語っている。

 

 ──元より己は英雄譚の舞台にすら上がれない、脇役以下の端役に過ぎないとミアハは理解している。己が紡いだ想いは、きっと他の誰かが伝えてくれているだろうことも。

 

「それに……」

 

「……それはヘスティアの役目であるのだからな」

 

 そして何よりも、己の紡ぎ出した想いは既にヘスティアが伝えてくれていると、ミアハは分かってるのだ。

 

 己と同じく眷属を深く愛する事の出来るヘスティアであるのならば、子供の征く道をしっかりと見守っているだろうと信じているのだ。

 

「そうだベルよ、これを渡しておこう。出来たてのポーションなのだが、ぜひ受け取って欲しい」

 

「そんな! この間も頂いたばかりなのに受け取れませんよ、ミアハ様!」

 

 だから己に出来るのはこの位しかないのだと、ミアハは懐から作り立てのポーションを取り出してベルへと渡す。

 

 もう既にポーションすら必要ない(・・・・・・・・・・・・・・・)のかもしれないが、己が渡せるのは肉体を癒す優しき祝福しかありはしない。

 

 ──それ以外に険しい道を進む少年へ手を貸せることが、何も存在しないのだ。

 

 ──だから受け取って欲しい。私に英雄にならんとする少年の手助けをさせてはくれないか? 

 

「なに、良き隣人への胡麻すりだと、そう思ってくれればいいのだ」

 

「……それに、お前を見ていると私も心配でな? せめてこれぐらいはさせて欲しいものなのだよ」

 

 ベルが断ろうとするのは目に見えていたミアハは、今のベルが最も心に留めている言葉を紡ぎ出す。

 

 それがズルい事だと分かっていても、ミアハは傷だらけでも進み続ける少年の力になりたいのだ。

 

 ──何故ならベル・クラネルは〝英雄〟である前に、〝一人の人間〟なのだから。

 

 ──戦えば傷つき、嬉しいことがあれば笑い、悲しいことがあれば涙を流す只人の少年なのだから。

 

「……そう言われたら受け取らない訳にはいかないじゃないですか……ありがたく頂きます、ミアハ様」

 

 心配をかけてしまったのは己なのだからとミアハの想いを真摯に受け止めるベルは、その手でしっかりとポーションを受け取る。これはまだ誰かの想いを背負うことすら出来ない、弱い己への激励にしようと。

 

(まだまだ僕は弱いな……〝未完の英雄〟だなんて、僕には過ぎた二つ名だよ。本当に……)

 

 前へと進むことしか出来ないベルは、その後ろから見守ってくれる者が居ることを知っている。彼等は己の身を案じ、心から心配してくれているのだと、解っている。

 

(【ランクアップ】したからって驕ったりなんかしない。もっと……! もっと……! 僕の願った英雄の高みは遙か先にある……! 

 

 だからこそ、その想いも糧として英雄は前へと進み続ける。

 

(いつかミアハ様の想いも背負えるようになってみせる……!)

 

 慮ってくれる彼らに誇れる強さを手に入れられるように。己が願った英雄になれるように。ベル・クラネルは信じた未来を必ず掴み取ってみせると、何度だって己の魂に誓うのだ。

 

「ああ、そうしてくれ。……だが、ベルよ。無茶もほどほどにしておくのだぞ? 人の命とは儚いものだ、いつその首に死神の鎌が振り下ろされるのか、神であっても分からぬのだからな」

 

「……それでも、ですよ。ミアハ様。例えそれが僕が進む道の未来(末路)だとしても、立ち止まるつもりはありませんから」

 

 ミアハは知っている。英雄と呼ばれる者であっても、いとも簡単に尊き命を散らしてしまうということを。悪意ある刃に心臓を貫かれることも、信じた仲間に裏切られてしまうことも星の数ほどあるのだ。

 

 どれほど強い意志を持っていようと己の〝宿命〟を前にした時、英雄であってたとしても死の鎌が振り下ろされることを、神であるミアハは嫌と言うほど理解しているのだ。

 

 だがしかし神からの忠告を受けても尚、ベルは前を向き進み続ける。己の征く道の最後が理不尽な死なのだとしても、悲惨な末路なのだとしても一向に構わないと覚悟(ヒカリ)に満ちる瞳が語っている。

 

 進み続けた先に救われた命が、守られた笑顔が確かにあったのならば、それだけでベル・クラネルは十分なのだ。誰かの希望になれたのならば、ベル・クラネルは最後まで英雄として立ち続けて己の命を散らすだろう。

 

 ──なぜならベル・クラネルは、未完なれど英雄の器を持っているのだから。

 

 ──いずれ多くの民が抱く想いを背負い、誰もが笑顔で生きられる未来を切り拓いてみせると誓ったのだから。

 

「……そうか。いや、ベルならばそう言うであろうことは、私とて分かってはいたさ。……ならば私は精一杯祈ろうでないか、お前の無事をな」

 

 だからこそミアハもベルの想いに応えるのだ。彼の物語が閉じるその時までベルを英雄としてでは無く、一人の人間として見守るとミアハはこの胸に改めて誓うのだ。

 

 確かにベル・クラネルは英雄になるのだろう。どんな形であれ近い将来必ずその手に栄光を掴んで、人々の心を魅了し歴史に名を残すのだろう。

 

 いずれベルの生涯は英雄譚として語り継がれ、吟遊詩人たちが口々に謳い、無垢な子供に憧憬を与える未来が今にも目に浮かぶのだ。

 

 ──ならば一神くらいはベルをただの人の子として見ても構わないだろう? とミアハは天に向かって微笑んで見せる。何故なら己は英雄譚の舞台に上がることのない、ただの端役なのだから。

 

 ベル・クラネルの英雄譚(人生)を見守ることしか出来ない、名も無き民衆に過ぎないのだから。

 

「…………ありがとうございます、ミアハ様。貴方の言葉(想い)はしっかりと胸に刻ませてもらいました」

 

 ミアハが紡ぎだした万感の思いは、紡がれる言葉と共にベルの心へ痛いほどに伝わった。

 

 ──彼が見守ってくれるのなら、きっと己は最後まで人の子でいられると。

 

 全てを鏖殺する化け物ではなく、誰かを守れる英雄になれるのだとベルは心の底から思うのだ。

 

「……ふむ、これ以上私の為にベルを引き止めるのは野暮というものか。英雄色を好むとは、よく言ったものだ。女神(ヘスティア)だけでなく【剣姫(アイズ・ヴァレンシュタイン)】までだとはな。ふははっ、それではなベルよ」

 

「はぁ……? ミアハ様、それはどういう……」

 

 話が一段落した時、ミアハはベルの後方に視線を向けると、どこか嬉し気な笑みを浮かべる。

 

 その表情は安堵と慈愛に満ちていて、ベルは改めてミアハ様は超越存在(デウスデア)なのだと理解した。身体から漏れ出る隠しきれない神聖さは、とてもじゃないが人間では放つことが出来ない清廉なものだから。

 

 しかしミアハの妙な言い回しに疑問しか浮かばないベルは、首を傾げながらも言葉を投げかけようとしたが、彼が歩みを止めることは無い。

 

 そしてミアハは最後までベルの疑問にこたえることはなく、メインストリートの人混みに消えていった。

 

 大地に恵みを与える絢爛な太陽が落ちて、遍く心を鎮める美しくも厳粛な夜が訪れる。

 

 英雄が望む温かな幸福はそのままに、オラリオは賑やかな狂騒へと姿を変えていくのだ。麗しき青年は輝き始めた星を眺めながら人混みを掻き分けていく。

 

 そして、一度だけその歩みを止めると少年が居ただろう道へと振り返り……

 

「……ベルよ。いつかお前が抱くもう一つの願い(・・・・・・・)に向き合ってくれる者が現れることを、私は祈っているぞ」

 

 ──我が願うは癒しと幸福。傷ついたのならば癒し、幸福を願うのならばその未来へと手を貸す。

 

 ──汝、〝只人の少年〟よ。走り続ける人の子よ。汝が道に寄り添いし永遠の伴侶が現れんことを、我は願う。

 

 ──英雄が抱く光も闇も、その全てを包み込む柔らかな風が寄り添ってくれるを、我は祈る。 

 

 ──少年の歩む人生に幸あらんことを。

 

 小さく呟かれたミアハの言葉を聞いた者は誰もいない。その資格を持つ者も今はまだ誰もいない。ミアハの言葉を理解できる者がいるとするならば、それはベル・クラネルの全て(・・)と向き合った者だけだろう。   

 



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笑顔

「ミアハ様の言葉……どういう意味だったんだろう」 

 

 ミアハの後ろ姿を眺めることしか出来ないベルは、最後に告げられた言葉の真意を測れず頭の上に疑問符を浮かべるのみ。

 

(この気配は……)

 

 だが次の瞬間。ベルはミアハの言葉の意味を理解した。何故ならベルの背後から、不思議と心を惹かれてしまうあの少女の気配がしたからだ。

 

 まるでいつか知ってしまう人の穢れにすら染まらない純心な幼子のようでありながら、この世界の負を凝縮したような底の見えない闇を抱える怨念のようにも感じさせる矛盾した気配が。

 

「あれは、アイズさん?」

 

──あの日、共に交わした名をベルは胸に刻んでいる。

 

──あの日、少女に誓った約束をベルは心に刻んでいる。

 

──ベル・クラネルは英雄になると少女に誓ったのだ。ならばこそ雄々しく進もう。前を向いて強くなろう。この背に抱く想いの数こそが英雄になると誓ったベルの力なのだから。

 

「あ……ベル!」

 

 しかしベルは己に向かって走ってくるアイズを視界に収めると、少しだけ首を捻った。数日前に感じた深い闇は未だに感じ取れるのだが、それ以上に強い輝きに目を惹かれたから。

 

──それはまるで業火のような情熱を放ち、可憐な花々のように華やかで。温かな安らぎを与えてくれる春風のようでもあった。

 

 あまりにも美しいその煌めきに、ベルはしばし心を奪われる。見たことが無かったのだ、感じたことがなかったのだ。アイズの身から流れ出る眩い輝きを、ベルは知らなかったのだ。

 

「こんばんわ、アイズさん。偶然ですね」

 

「……う、うん。……こんばんわ、ベル」 

 

 だからといって数多の人間を魅了するだろう鮮やかな光を前に言葉を失うほど、柔な精神をベルは持っていない。精霊のように美しいアイズを前にしても、ベルの心は鋼鉄のように揺らがない。

 

 ただ一つの信念を抱き、己の誓いを、己の願いを叶える為に進み続ける英雄は狼狽えたりなどしないのだ。

 

 ベルとしてはアイズとの出会いが偶然だと考えているが、真実は違う。リヴェリアと言葉を交わし、己が抱く想いの名を知ったアイズの行動が実を結んだものなのだ。

 

『ベル、どこに居るんだろう……』

 

 己の好きなようにすればいいという助言を受けたアイズは、ベルの声が聞きたいという願いを叶えるべくメインストリートへと繰り出していた。

 

 だがよくよく考えてみればベルはダンジョンに潜っているだろうと、暫く経って気が付いたアイズは大好物であるじゃが丸くんをやけ食いする結果となる。

 

『え……あれって……! ベル……!』

 

 だが日が沈み始めてそろそろ黄昏の館(ホーム)に帰ろうとしていたアイズは、まるで天に〝祝福〟されているかのように帰り道でベルを見つけることが出来た。

 

 ならば後は声をかけるだけだと、アイズは生き生きとしながら駆け出したのだ。

 

「きょ……今日もいい、天気、だね……」 

 

「そうですね、夜になったら綺麗な星が沢山見れそうです」

 

 ベルと出会う前までは喋りたいことが沢山あった筈なのに、いざ現実に直面してみるとアイズはあの夜のようにうまく言葉が紡げなくなってしまう。

 

 それに加えて今の己がベルに恋をしていると理解してしまったアイズは、前回以上に乙女の思考が熱暴走を起こして制御不能になる。

 

(どうしよう……ベルと何を喋ったら良いのか……分からない……)

 

 胸が破裂しそうな鼓動を感じながらもアイズが何とか振り絞った言葉はあまりにありきたり過ぎて、いっそのこと不自然にも思えるような話題だ。

 

 昼間であるのならまだ会話としても違和感がないのだが、生憎と今は陽が沈み夜が始まろうとしている夕暮れである。

 

 明らかに違和感しか無かった。

 

(ベルに変な子って思われてないかな……?)

 

 しかしそれでもアイズが精一杯の勇気を振り絞って紡いだ言葉は、ベルへしっかりと伝わっている。

 

 潤んでいる金色の瞳と頬を紅く染める姿を見たベルは、優し気な微笑を浮かべながら己も言葉を紡ぎ出した。

 

(今日も綺麗な星が見れそうだね……村から見る夜空も好きだったけど、オラリオから見る夜空はどこか神秘的というか……凄く輝いて見える(・・・・・・・・)

 

 空を見上げれば、陽は沈み出し空は藍色へ移り変わろうとしている。夜の空に輝くのは、眩き星々たち。

 

 ──ベルは昔から星を見るのが好きだった。

 

 数多に輝く星々は、まるでベルの守るべき誰かのように煌いているから。届かないと分かっていても、いつかこの手で尊い光に触れてみたいとベルは想うのだ。

 

「……」

 

 空を見詰めるベルの横顔は純情無垢な少年を思わせる。しかしその瞳に宿る意志は鮮烈なまでに力強い光で。星を眺めるベルの横顔を、アイズはじっくりと眺めてしまうのだ。

 

 会話が途切れてまるで空に浮かぶ夜空のように静かな雰囲気が、ベルとアイズの間に醸し出される。

 

「……あ。……ベ、ベルは、今日もダンジョンに潜ってたの?」

 

「はい、そうですね。僕はもっと……もっと強くなりたいですから」

 

 ふと、アイズは今日ベルが何をしていたのか気になった。きっとベルは今日も一日中ダンジョンに潜っていたのだろう。ダンジョンでモンスターと戦うことが、強くなる為に最も効率的であるのだから。

 

「それに……」

 

 強さを求めて進み続ける英雄が、怠惰な日々を過ごしている訳が無いのだ。その程度のことは未だにベルと数えるほどしか話したことが無いアイズであっても分かる。

 

 復讐に燃えて強さを渇望したアイズには、向かっていた方向がまるで逆であろうともベルが抱く気持ちを痛いほど共感できた。

 

 弱いままでいることを自分自身が許せないのだから。

 

「僕も早くアイズさん達に並び立ちたいですから」

 

「…………!!」

 

 だがベルは一度言葉を区切るように口を閉じると、金に染るアイズの瞳を深紅(ルベライト)の瞳で貫くように見詰めて強く噛み締めるように言葉を発する。

 

 その時に見せたベルの精悍な風貌に、アイズはしばし心を奪われる。これだ。これがズルいのだ。ダンジョンでは雄々しい後ろ姿を己に見せて、でもふとした時に年相応の可愛げな笑顔を見せて。

 

(ズルいよ、ベル……)

 

 己が心の準備を済ませる前に、今みたいに幾多の戦場を駆けた英雄のような勇壮さを見せる。

 

 ただでさえベルの姿を見ているだけで胸が高鳴るのに、これ以上己の心をときめかせてどうしたいのだと、アイズは叫びたい気持ちになる。……かといってアイズがベルの前で叫ぶことなど、到底出来る訳が無いのだが。

 

「……え、と……その……」

 

「……? ……アイズさん?」

 

 ようやくベルと会話する時の緊張感に対応できるようになってきたというのに、また振り出しに戻されてしまった。いや、先程以上にアイズは口がもつれて仕方がない。

 

 でも伝えたい想いがあるから、ここで俯く訳にはいかない。己が抱く想いの名をアイズは知っているから。英雄の道に寄り添いたいと願っているから。

 

(私は知ってる……ベルは誰かを助ける為に進み続ける英雄だって……)

 

 アイズはベルへと近づくべく震える足を激励して、その一歩を踏み出す。ベルの心へとその一歩を踏み出したのだ。

 

(きっとこの想いを抱いているのは……私だけじゃ無いんだよね……)

 

 きっとベルは多くの女性の心を奪ってしまう。傷つき悲しむ誰かを守りたいと願う英雄は、助けを求める者のために何度だって立ち上がり、雄々しい後ろ姿で魅了してしまうのだ。

 

 己がベルに恋心を抱いたように。

 

 でも、恋を知った少女は……アイズ・ヴァレンシュタインは、そんな英雄の道に寄り添うのは他でもなく己でありたいと願うのだ。

 

 他の誰かがそこに立っている未来なんて、想像するだけで胸が引き裂かれそうになる。

 

(でも……)

 

 英雄の進む道は艱難辛苦に満ちていて、逆境なんて当たり前な地獄のような道なのだろう。

 

 それでも英雄は怯むこと無く進み続ける。誰かの涙を拭う為に。誰かの笑顔を守る為に。

 

 何度だって傷ついて、それで救われる命があるのだと歩みを止めることなく前を向く。

 

(私はベルが好き……だから後悔はしたくない……)

 

 ならばこそアイズは傷だらけになろうとも立ち上がるベルを、優しく抱きしめてあげたいと想うのだ。

 

 己が身一つで前に前にと進み続けて、あらゆる全てを置き去りにした果てで孤独になんて絶対にさせない。

 

 数多の英雄が刻んできた悲劇的な結末になどさせはしない。

 

「……私も! 私も、ベルのこと応援してるから! ……ベルのことずっと待ってるから!」

 

「…………!」

 

 だからこれは英雄になると己に誓ってくれたベルに捧げる、アイズの覚悟(ちかい)だ。己はここで待っているから、早く私の元へ来てと。

 

 君がこの背に追いついたその時こそ共に征こうと、共に英雄譚を紡ごうと、アイズは精霊が祝福を詠うように溢れんばかりの想いを乗せて言葉を紡ぎ出す。

 

 精霊が羽ばたいたかのように美しい笑みを浮かべるアイズを前に、思わずベルは瞠目する。無垢であった少女が、まるで光も闇も優しく抱いた英雄を導く〝精霊の姫〟のように見えてしまったから。

 

──光の英雄に祝福の風が吹いた。

 

──仄かに灯る小さな想いが、英雄の胸に確かに芽吹く。

 

──英雄譚では語られぬ瞬きのような日常で、定められた宿命に亀裂が走った。

 

「ふふっ……ありがとうございます、アイズさん。とても……とても嬉しいですよ」

 

「でも、ずっと待つ必要は無いですよ?」

 

 ──ベルは守るべき『誰か』の為に進み続けると、暴虐なる黒龍を前に最後まで立ち向かい続けた祖父の亡骸に誓った。優しかった祖父は、強かった祖父は、時に厳しかった祖父は、弱かった己に鋼の意志を残してくれた。

 

 ──もう悲しい涙は流させないと、祖父と読んだ物語に語られる英雄のように雄々しく進むと幼き少年は決めたのだ。

 

 ──偉大だった祖父の後ろ姿こそベルが望む英雄の雄姿であり、始まりの憧憬なのだから。

 

 ──ならば(アイズ)だけを先へと進ませるわけにはいかない。己は何だ? 英雄になると誓った者だ。誰かの涙を笑顔に変えたいと、願った者だ。

 

「……え?」

 

「すぐ、すぐ追いつきますから。だから、アイズさんを待たせたりなんてしませんよ」

 

 ──だから、待たせたりなど絶対にさせない。

 

 ──彼女の笑顔も、守るべき『誰か』の笑顔だ。悲しませたりなどさせないし、美しい金色の瞳から涙を流させたりなんかしない。麗しき少女には、花のように可憐な笑顔が最も似合うのだから。

 

 前へと進む理由がまた一つ増えたベルは陽の光よりも強く、極晃(ヒカリ)のように眩く、アイズへ向けてはにかんで見せた。

 

「…………………………」

 

 ベルの覚悟に満ちた眩い笑顔を真正面から見てしまったアイズは、時が止まったように硬直する。金色の瞳は限界まで見開かれ、頬が上気したように紅く染まっていく。

 

 胸の鼓動は破裂寸前まで加速し始めたアイズの耳に聞こえるのは、己の心臓が刻む騒音だけ。そしてアイズの視界を支配するのはベルの笑顔だけだ。

 

 愛おしいベルのはにかむ姿を見たアイズは、己の背中に刻まれた【神聖文字(ヒエログリフ)】が熱を帯び始めたような気がした。まるで己の恋情に呼応するかのように。

 

「ベル……それは、ズルいよ……」

 

「すみません! ……怒らせちゃいましたか?」

 

 二人の間に流れた静寂の時間。しかし、アイズの心はベルに対する恋心で暴れ回っていた。クラクラする意識の中でアイズはベルへ視線を向けると、優しげな表情を浮かべている。

 

 舞い上がっていたのが己だけだと思うと急激に照れが込み上げてきたアイズは、拗ねるように言葉を漏らす。そんなアイズの潤んだ上目遣いを見て、何か不機嫌にさせてしまったと勘違いしたベルは頭を下げる。

 

 幼少期から祖父に女性についての心得を教授されていたベルは、「女は絶対に怒らせたらいけない」と死んだ目をしながら口酸っぱく言われていた。

 

 しかし祖父を失ってからは強くなる為だけに注力してきたベルは、女性の扱いに対して知識はあるが実戦経験はないという中途半端なものになってしまった。

 

「違う、違うよ……嬉しいの……」

 

 しかしベルの不安は次の瞬間に吹き飛ばされることになる。ベルへ向けて一言、一言、己の想いを噛み締めるように。一言、一言、決して離さないと抱きしめるようにアイズは言葉を紡いでいく。

 

「だから、早く私に追いついて……?」

 

「……!」

 

 精霊の姫が魅せた宝石よりも美しく、花々よりも愛らしい笑顔は、英雄になると誓った少年の胸に深く刻まれる。守るべき笑顔は、己のすぐ目の前にある。

 

 そして精霊の姫の願いに応えるように、英雄もまた雄姿(ヒカリ)を魅せる。

 

「はい! 必ずアイズさんに追いついて、僕は……」

 

「あなたも守れるくらい強くなってみせます!」

 

 光の英雄が魅せた鋼よりも確固であり、光よりも鮮烈な威風は、英雄に寄り添うと誓った少女の胸に深く刻まれる。精霊の姫が共に並び立ちたい雄姿は、己のすぐ目の前に居る。

 

「あ……う……あうあう……」

 

「危ない! ア、アイズさん! 大丈夫ですか!」

 

 しかしあまりにも眩しすぎたベルの姿を前に、アイズの心は熱暴走(オーバーヒート)を起こしてしまい次第に意識が薄れていく。大地が回転するような感覚に陥るアイズが最後に見たのは、眼前にまで迫ったベルの凜々しさ溢れる顔で。

 

 アイズは陽の光のような温もりに抱きしめられながら、幸福に包まれて意識を手放すのだった。

 



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鼓動

 ──少女がいた。笑顔が可愛い、精霊のような少女だ。笑顔も、驚きも、悲しみも、苦しみも、全てを抱いた無垢なる少女。

 

 目の前で開かれた本と、母の優しい声から紡がれる物語。己の幸福が詰まった日常の中で、少女は何度もこの物語を読んでもらった。

 

 ゆっくりと捲られていく物語の景色。移り変わっていく物語の星霜(せいそう)。ふと少女が顔を上げれば、煌びやかな金髪を(なび)かせて微笑みを浮かべる女性の姿。

 

 金色の瞳に宿るのは赤子のように無垢な光で、その顔立ちも女性の膝に座る少女と瓜二つだ。

 

 女性の微笑みに釣られるように笑顔を浮かべる少女を見れば、まるで二人は仲の良い姉妹に見える。

 

──物語には始まりがあるように、終わりもまた訪れる。

 

 深く生い茂る森の奥で静かに横たわる永久(とこしえ)の眠り姫。彼女の眠りは一人の青年の手によって呼び起こされる。

 

 己を見つけ出してくれた青年は氷のような心を溶かし、眠り姫は青年の征く道に寄り添って、幸福に暮らした。

 

 少女はこの物語が大好きだった。そして女性もまたこの物語を好んでいたのだろう。

 

 私も、あの人のおかげで幸せだから! と眩い笑顔を女性は見せていたのだから。

 

 運命の人に出会えた女性を見て、少女は己もいつか眠り姫の目を覚ましてくれた青年のような人に出会いたいと強く想う。

 

『あなたも素敵な相手(ひと)に出会えるといいね』 

 

 無邪気に微笑む女性は、無垢な少女の未来を想う。

 

『出会えたよ、私も……太陽のように温かい、私の英雄に……』

 

 泡沫のような夢の中。女性に向けて笑顔を咲かせ、幸せそうに想いを紡ぐ幼い少女の姿がそこにはあった。

 

 ○

 

 豊穣を与える太陽は沈み、人々に癒しを与える星々が天へと浮かび上がる。

 

 少年が眺める星はどれもが美しく輝き、見る者の心に安らぎを与えてくれる。子供の笑顔が溢れる昼の街も、人々が賑わいを見せる夜の街もベルは大好きだ。

 

 守るべき確かな幸福が、この瞳に映っているのだから。

 

 突然意識を失ってしまったアイズを、中央広場(セントラルパーク)の長椅子で介抱していたベル。

 

 ベルとしてはすぐに目を覚ますと思っていたのだが、己の身体を強く抱きしめて離さないお姫様(アイズ)は安らかな表情を浮かべながら深い眠りについていた。

 

 そんな無垢な少女の眠りを妨げるわけにいかず、ベルはアイズの頭を膝に乗せると美しい光沢を放つ金の前髪を優しく梳くように流す。

 

 人々の笑顔こそが己の幸福だと断言できるベルは、安らかに眠る少女を微笑ましく見守る。

 

 今も右眼(・・)からは少女の抱く憎悪の闇を強く感じている。己は少女と出会ったとき、この闇に強く心を揺さぶられたのだから。

 

 だが不思議なことに闇に染まっていた筈の無垢な心には、新緑が芽吹たような光の輝きを感じられる。相反する二つの彩りを視たベルの心は先程から驚きに満ちていた。

 

──闇も光も抱いた少女は、今までベルが視てきた人々の誰よりも綺麗だった。

 

「う……んぅ……」

 

「起きましたか?」

 

「ベル……ベルぅ……」

 

 ベルが膝枕を始めてから二時間ほど経過した時、眠り姫(アイズ)はようやく目を覚ます。未だに焦点の合わない金色の瞳は、揺蕩うように視線を揺らめかせる。

 

 そして陽の光を想起させる白銀の少年を見つけると、アイズは子供が親に甘えるように力強く抱き着いた。身体が温かくなると、心が満たされると幸せそうに。

 

 ──離したくないと、心の底から少女は願っていた。この幸福にいつまでも包まれていたいと。

 

「寝起きのアイズさんは、甘えん坊さんなんですね」 

 

「え……? ……!?!?」

 

 目を覚まし少しずつ意識が覚醒を始めたアイズ。肌で感じるのはベルの鍛え上げられた鋼の肉体。そして視界いっぱいに広がるのは、紛れもない現実だ。

 

 己がベルを強く抱きしめているという幻覚のような事実だった。

 

 ○

 

「……ねぇ、ベルは怪物祭(モンスターフィリア)、知ってる?」

 

「はい、どういう催し物なのか程度ですけど」

 

 己の犯した失態の恥ずかしさから暫く物言わぬ彫像と化していたアイズだが、心配そうに顔を覗いて来るベルを見て、高鳴る胸の鼓動を聞き何とか再起する。

 

 機能停止と化していた時、アイズはある催しを思い出した。その名は『怪物祭(モンスターフィリア)』。ギルドの要請を受け、【ガネーシャ・ファミリア】が主催する一般市民に向けた祭典だ。

 

 表向き(・・・)は【ガネーシャ・ファミリア】の調教師(テイマー)たちがダンジョンのモンスターを調教(テイム)し、民衆を喜ばせることを目的にしているものである。

 

 様々な思惑を感じさせる怪物祭(モンスターフィリア)が今年もまた、始まろうとしているのだ。

 

 しかしアイズにとっては、ベルをデートに誘うことの出来る千載一遇の機会(チャンス)でしかない。

 

「……もし……もし、用事がないなら……わ、わた、私と……」

 

 ──今こそ勇気を振り絞るのだと、アイズは己の心を奮起させてベルを見詰める。

 

 誰よりも貪欲に強さを求めるベルは、己の誘いを断るかもしれない。ダンジョンに潜りたいからと、誰かを守る為に強くなりたいからと、申し訳なさそうに。

 

 でもアイズは己の想いに従って進みたいと願ったから。英雄に寄り添う風となりたいから、光を前に俯いたりなどしない。

 

──前を向け、アイズ・ヴァレンシュタイン。英雄と並び立ちたいのならば、己が手を伸ばし続けるのではなく、共にその道を征くことが出来るのだと意志(おもい)で示すのだ。

 

怪物祭(モンスターフィリア)、私と一緒に回りませんか!」

 

 恥ずかしさと緊張で視界が揺らぐ中、アイズはベルへ向けて想いの丈をぶつける。前回のように俯いたりはしない、だって己は胸に灯る想いの名を知っているから。

 

──アイズ・ヴァレンシュタインはベル・クラネルに恋をしているから。

 

──一歩ずつ、一歩ずつ、少しずつでも確かな道を進んでいこうと前を向くのだ。

 

「……アイズさん。はい、僕なんかでよければ、貴女と一緒に回らせてください」

 

──アイズ・ヴァレンシュタインの想いに、ベル・クラネルは強く頷き応えてみせる。

 

──少女の想い一つに……アイズの願い一つにも応えられなくて何が英雄だと、ベルは深紅(ルベライト)の瞳を覚悟(ヒカリ)で迸らせる。

 

 守ると誓った誰かの笑顔も、拭うと誓った誰かの涙も、尊いと思った誰かの笑顔も、その全てをこの背に抱くと決めたのだから。

 

──アイズ・ヴァレンシュタインもベル・クラネルが守るべき『誰か』の一人なのだから。

 

「え! ……ベル、いいの?」

 

「ふふっ……勿論ですよ。その日は用事もないですし、せっかくアイズさんが誘ってくれたんですから……」

 

 正直ベルは己の申し出を断ると思っていた。強くなる為に進み続けるベルであれば、祭りなどに興じることなくダンジョンに潜り続けると。

 

(祭りなら、きっと沢山の人が笑顔を浮かべているよね……僕の求める幸せが、きっとそこにはある)

 

──しかし誤ることなかれ、光の英雄が求めるのは力に非ず。守るべき人々の笑顔と、彼らの幸福な未来である。その為にベルは強くなろうとしているのだ。

 

──力がなければ守れない人達がいるから。

 

──強くならないと守れない未来があると知っているから。

 

──尊き光を奪わんと跋扈(ばっこ)する邪悪は、己が斬り伏せると誓ったから。

 

──ベルは誰よりも強さを求めて前を進むのだ。

 

(僕は目に焼きつけたい。守るべき人達の笑顔が、どれだけ尊いものなのか。何度だってこの心に刻みたい。彼等の幸せが、僕を前へと進ませてくれるんだから!)

 

 だからこそ、ベル・クラネルは己の本質を見誤らない。力とはあくまでも彼らの未来を守る為に必要な〝武器〟なのであり、己の求める〝未来〟そのものでは決してないのだから。

 

「待ち合わせは……正午でも構いませんか?」

 

「……う、うん! 大丈夫! 全然、大丈夫!」

 

 ふとアイズがベルに視線を向けると、彼は慈愛に満ちた表情で、中央広場(セントラルパーク)へ訪れる人々を見詰めていた。彼等は皆笑い合っていて、とても幸せそうである。

 

(そっか……ベルは……)

 

 ベルは己の見知らぬ人々であっても幸せに生きて欲しいと、心の底から願っているのだろう。彼らに笑顔でいて欲しいと心の底から想っているのだろう。

 

(ベルは……あの人たちの……〝かけがえのない日常を守れる〟英雄に、なりたいんだね)

 

 ベルのことをまた一つ知ることが出来たアイズは、嬉しそうにはにかむ。それと同時にアイズは心の底から、ベルの道を共に征きたいと改めて己の胸に誓う。

 

 己の求めた英雄は神話に名を連ねる英霊にも劣ることのない輝かしき願いを胸に、前へ進もうとしているのだから。

 

 ベルが紡ぐ英雄譚の果てで、アイズは共に幸福な未来を紡ぎたい。あなたの願いを叶える手助けを私にもさせて欲しいと、あなたが征く戦場に私も並び立ちたいと、アイズは心の底から想った。

 

「では、アイズさん。正午に、黄昏の館(ホーム)まで迎えに行かせていただきますね」

 

「……え? 黄昏の館(ホーム)に?」

 

 ここまで穏やかな空気が流れていたが、一転してアイズは頬の火照りを抑えきれなくなる。

 

 ベルは今なんて言った? 私を迎えに行くと言ったの? 驚きと喜びが混じり合いアイズの頭の中が混沌と化す。

 

 ベルの提案はそれほどまでにアイズにとって魅力的すぎた。何故ならアイズは、怪物祭(モンスターフィリア)当日はどこかで待ち合わせをすると思っていたから。

 

 所属する【ファミリア】の違うベルがわざわざ黄昏の館(ホーム)まで迎えに来てくれる。

 

 それはまるで幼い頃に読んだ眠り姫のようだと、アイズは胸のときめきを確かに感じ取った。

 

 それと同時にベルはこれを素でやっているのだから恐ろしいものだと、アイズは内心で戦慄する。

 

 英雄を目指す少年はこれから一体何人の女性を魅了してしまうのかと。いや、もうすでにベルに心を奪われている人がいるかもしれないと、アイズは予感した。

 

「はい。女性と待ち合わせをした時は男が迎えに行くものだと、祖父に教わりましたから」

 

 ──これも全てベルが幼い頃から、祖父に教育(せんのう)されてきた賜物といえるだろう。

 

 ──祖父はベルへ女性の扱いについて、耳にタコが出来るほど口にしていたから。

 

「では、アイズさん。さようなら。怪物祭、楽しみにしてますね」

 

「……バイバイ、ベル……」

 

 思考が沸騰しているアイスにはベルの言葉が曖昧にしか聞こえない。アイズの心を支配しているのは、『ベルが迎えに来てくれる』という未来だけ。心ここにあらずとなっているアイズは、フラフラとおぼつかない足取りで黄昏の館に帰るべく歩みを進める。

 

「ベルが……迎えに、来てくれる……」

 

「ベルが……」

 

 アイズはすでに妄想の世界に旅立ち、周りの景色を完全に見失っていた。

 

 それでも黄昏の館(ホーム)に向けて歩いて行けるのは、幼い頃から通い続けたことによる帰巣本能があるからだろう。

 

「どわっ! 危ねぇな! どこ見て歩いてんだ! ……ってお前は【剣姫】! わ、悪かった! 今のは忘れてくれ! せめて命だけは!」

 

「迎えに……」

 

 メインストリートを縦横無尽に歩いている【剣姫】の姿に慄く者がいることに気が付かぬまま、アイズは夜の街を進んでいくのだった。

 

 ○

 

 アイズと別れたベルは一度隠し教会(ホーム)に戻ると、ヘスティアが帰って来ていないことを確認する。

 

 数日は戻らないと言っていたが、もしものことを考えての行動だった。そして一人寂しく食事をするのも落ち着かないと感じたベルは、豊穣の女主人へと足を運ぶ。

 

「ああ! ベルニャ! 〝未完の英雄〟ニャ! シルの(つがい)がまたやって来たニャー!」

 

「ふふっ……こんばんは、アーニャさん。今日も元気ですね」

 

「当たり前ニャ! ミャーはベルが来るのを待ってニャンだからニャァー!! にゃあにゃあ、シルとはどこで出会ったんだニャ? ミャーは気になって仕方がないんだニャー! ほれ~ほれ~! さっさと教えるニャー!」

 

 最初にベルを迎え出たのは猫人(キャットピープル)のウェイトレス、アーニャ・フローメルだ。

 

 明るく元気なアーニャはベルが初めて訪れた時から、こうしてシルとの関係を探ろうと絡んでくるのだ。

 

 しかしそれをベルが面倒だと思うことはない。何故なら元気一杯でお転婆なアーニャもまた、ベルが守りたいと願った笑顔を咲かせているのだから。

 

 アーニャを見ていると、ベルの心に確かな安らぎが灯るのだ。

 

 ──ベルの落ち着いた雰囲気はアーニャにとって心がはずむものだった。

 

 どれだけ騒がしくしてもベルは優しく微笑んで、己の言葉に応えてくれる。その事実がアーニャの天真爛漫な行動を加速させて行く。

 

 ベルならば嫌だなんて思わないと、呆れたりなどしないのだと纏う雰囲気が伝えてくれる。

 

「はあ……貴方は少しその口を閉じていなさい」

 

「ぶニャ!?」

 

「クラネルさん、いらっしゃいませ」

 

「あ、お邪魔します。あの、シルさんは……」

 

 アーニャがいつも以上に騒いでしまい、流石に他の客に迷惑になると判断したのだろう。もう一人のウェイトレスがアーニャの背後から現れた。

 

 ベルの前に立っているのは眉目秀麗という言葉がよく似合うエルフの女性だ。確か名前はリュー・リオンで合っていた筈だと、ベルは己の記憶から彼女の名前を呼び起こす。

 

(……その足運び、やっぱり彼女たちは……)

 

 一度目は僅かな違和感から。しかし二度目の時点でベルは確信した。豊穣の女主人で働いているウェイトレスたちは、かなり出来ると。今の己では太刀打ちできないほどに強いと。

 

 ここまでの力を持っていながら何故ウェイトレスをしているのか疑問に思ったベルではあるが、深く考えるつもりはなかった。

 

 これが彼女たちの選択であるのだろうと、ベルにも分かるから。いま彼女たちが幸せであるのなら、それ以上の理由などベル・クラネルには必要ない。

 

 守るべき笑顔が彼女たちには浮かんでいるのだから。約一名からは背筋が凍ってしまうような恐ろしい視線を感じるのだが、主にお尻に対して。

 

 ──それでもここにベルが求める幸福の一幕があるのだ。

 

「すみません。シルは少し出ていまして」

 

「あ、そうだったんですか」

 

「クラネルさんが来たと聞いたら悔しがると思いますよ?」

 

「はははっ……」

 

 リューとはシルやアーニャと比べて言葉を交わしたことがなかったベルは、少しぎこちない表情を浮かべながらも向かい合う。

 

 ベルの視界にはリューのエルフらしさを感じさせる美しい容姿が映る。エイナを見て分かっていたが、エルフの麗しい容姿にはベルも息を飲まざるを得なかった。

 

 それ以上にリューから溢れ出る意志が、ベルの心を揺さぶる。彼女はどこか己に似ていると。

 

「…………あの、あなたのことは何とお呼びすれば……?」

 

 これからも豊穣の女主人を贔屓にするつもりのベルは、改めてリューに名前を尋ねる。シルから伝え聞いた言葉ではなく、彼女自身の口からその名を聞きたいのだ。

 

 その時こそベルは彼女と、リュー・リオンと友好を築ける気がした。

 

「リュー。リュー・リオンです。リューと、そう呼んでいただいて構いません」

 

「リューさん、ですね。改めて、僕はベル・クラネルと言います。これからもよろしくお願いしますね!」

 

 ──リューにとってベルとは、まだ理解の及ばない人物だった。

 

 ある日急にシルが連れてきた少年であり、言葉を交わした回数もシルやアーニャに比べたら圧倒的に少ない。

 

 しかし興味を引かれているのもまた事実だった。観察眼が鋭いシルが言うには、ベル・クラネルは勧善懲悪を体現した〝正義〟のような信念を持っているらしい。

 

 ……正義。シルが放った忌々しくも懐かしい三文字に、リューは在りし日の過去を思い出した。己が間違っていたなどとは今になっても思わない。

 

 討つべき悪は奴らであり、正義は我らにあったのだから。だがリューはふと思うことがあった。自分達の選択は最善だったのだろうかと、もっと幸福に満ちた未来(せんたく)があったのでは無いかと、今となっては詮無きことだと分かっていても時折不安に駆られることがあるのだ。

 

 ベルならば。〝未完の英雄〟と呼ばれるベル・クラネルならば、己の求める願いに答えくれるのではないかと。

 

 ──鮮烈な覚悟(ヒカリ)を両眼に宿した英雄であれば正義とは何か、己が抱える想いに応えてくれるような気がしたのだ。

 

 だが今はその時では無い。リューとベルの関係は店員とお客であるのだから。ベルはまだ己の真実を知らないのだから。

 

──光と闇は表裏一体。英雄(■の■)の器は、満たされることのない未完の器。

 

混ざり合う想い(英雄)願い(■の■)は、矛盾を孕みながらも前へと進み続ける。

 

──絶望の『予言』は始まらない。その時はまだ訪れることはないのだから。

 

「勿論です。あなたはシルの伴侶となる方なのですから」

 

「……………………え?」

 

 オラリオの夜は更けていく。神の試練を前に、英雄が覚醒する時は近い。今はまだ小さな鼓動ではあるが、確かに刻まれている誓いが少年の胸には煌めいているのだから。

 



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逢瀬

 怪物祭(モンスターフィリア)、当日。 

 

 黄昏の館(ホーム)の一室では、人形のように愛らしい金色の少女アイズ・ヴァレンシュタインと、神すら嫉妬するだろう麗しい容姿を持つリヴェリア・リヨス・アールヴが向き合っていた。

 

「……ね、ねぇ……リヴェリア。……この服で、……大丈夫……かな?」

 

「ああ、安心しろ。よく似合っているぞ、アイズ」

 

 現在アイズはベルとのデートに向けて、身に纏う衣服をリヴェリアと共に選別していた。

 

 ベルと約束を交わした時は、迎えに来てくれる事実にだけアイズは囚われていたのだが……

 

 しかし一夜が経ち、気が付く。デートの約束をした時点で、勢いしかなかったことに。デート当日の計画など、まるで考えていなかったことに。

 

 衝撃の事実に気が付いたアイズは、すぐさま【ロキ・ファミリア】の母親(ママ)ことリヴェリアの部屋に駆け込んで相談することになる。

 

「……うん、……ありがとう。……ベル……喜んで、……くれるよね」

 

「ふっ……当然だろう? 今のアイズは、オラリオの誰よりも可憐なのだからな。これで文句を言うようなら【レア・ラーヴァテイン】を喰らわしてやるさ」

 

「……リ、……リヴェリア!」

 

「冗談だ。ふふっ……だからそんなに怒るな」

 

「……もぅ」

 

 現在はリヴェリアと冗談交じりの会話が出来るほど落ち着いているアイズ。

 

 だが駆け込んできた時に見せたアイズの慌てようは、それはもう凄まじいものだった。

 

『……リヴェリアっ!』

 

『どうしたアイズ、お前がそこまで慌てるとは珍しいではないか』

 

『……大変っ! ……大変なの、……リヴェリアっ!』

 

『分かった、分かった! だから少し落ち着け』

 

 ベルとのデートなど考えただけで意識が燃え上がってしまうアイズは、一体何から手を付けて良いのかまるで分からなかった。

 

 強くなることに必死であったアイズは、そもそも男性とデートなんてしたことがないのだから。

 

『……ね、……ねえ……リヴェリア! ……べ、……ベルと……ベルとデートするんだけど……どうしたらいいの?』

 

 顔を真っ赤にしながら迫ってくるアイズを前に、リヴェリアは聖母のような慈愛の笑みを浮かべた。

 

 本当に変わったと。己の想いを、恋を知ったアイズはどこまでも魅力的だった。

 

 今のアイズはオラリオ一可愛い! いや元からだったな! と、リヴェリアが親バカを発揮するくらいには。

 

「……う、……うん。……じゃあ……行ってきます……!」

 

「ああ、存分に楽しんでくるといい」

 

 ベルが迎えに来る時間が近づいてきたアイズは、明るい笑顔を浮かべながら黄昏の館(ホーム)から走り出していく。

 

 アイズの無邪気な笑顔と、今にも踊り出しそうな両足を見たリヴェリアは手を振って見送る。

 

「やれやれ。今のアイズを見れないとは、さすがの私もロキの不運を嘆くぞ」

 

 それと同時に、この場に居合わすことの出来なかった己の主神(ロキ)に対して哀れみを抱く。この日に限って外せない用事など、不運以外の何ものでもないだろう。

 

 今日のことをロキに伝えて良いものか、リヴェリアは数十分は頭を抱えて悩むことになる。

 

 今のアイズを見れなかったと知れば、血の涙を流しながら悔しがる光景が目に浮かぶのだから。

 

「それにしても、どうしても外せない用事とは一体……」

 

 しかしそれ以上にリヴェリアは、用事があると黄昏の館(ホーム)を後にする時に見せたロキの横顔が忘れられない。

 

 鷹のように鋭い目付きと、重々しい重圧感を思わせるあの気配(神威)

 

 まるで己の知るロキではないかのような錯覚を、リヴェリアは覚えたのだ。

 

 オラリオで何かが起きようとしている。

 

 それは冒険者として何度も修羅場を潜ってきた、リヴェリアの勘によるものか。エルフとして長い時を生きてきた、経験によるものかは分からない。

 

 ただ……〝何かが起こる〟。これだけは間違いないと、リヴェリアは断言できるのだ。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)が始まろうとしている、オラリオの空は青い。澄んだ空気に純白な雲が漂い、まるで今日という日を祝福しているようだった。

 

──まるで何かが起きることを、心待ちにしているようだった。

 

 ○

 

 待ち合わせの時刻丁度に、ベルは黄昏の館にその姿を現した。

 

 アイズとのデートではあるがベルの身に纏う衣服は、ダンジョンに赴くものと同じ機能重視のものだった。

 

 女性との逢い引き(デート)であっても、決して油断はしないとベルのその姿が暗に語っていた。

 

 ──悪とは理不尽なまでに自由だ。今日という日が人々の笑顔で満ちていようと、彼らにとってはまるで関係ないのだから。

 

 ──寧ろ悪辣なる者達は、このような希望に満ちた日に悪意を振りまく。

 

 だからこそベルは、ダンジョンに潜る時と変わらない完全装備なのだ。武器を持っていなかったから救えなかったなどと、情けない言葉を英雄が吐くことは許されない。

 

 慢心していたから負けたなど、英雄譚には存在してはいけない。

 

──英雄の立つ戦場に、敗北の二文字は無いのだから。

 

「こんにちは、アイズさん。……お待たせしてしまいましたか?」

 

「……ベル! ……こ、こんにちは! ……ううん……私も出たばっかりだから、……全然待ってないよ?」

 

「そうですか、それなら良かったです」

 

 ベルが駆け足気味に近づくと、そこには無垢な純情を思わせる精霊の姫君が佇んでいた。

 

 まるでこの場だけ切り取られ絵本の中に迷い込んでしまったかのような、不思議な気分にベルは陥る。

 

 それほどまでに、今日のアイズは可愛らしかった。神にすら引きを取らない美貌に、純情無垢な金色の瞳。そして太陽の輝きによって煌めく金色の長髪。

 

(まるで、精霊みたいだ……)

 

 ベルの姿を視界に収めたアイズは、鳥が空に羽ばたくように軽い足取りで駆けてくる。

 

──闇に囚われた精霊の姫君は、英雄の覚悟(ヒカリ)を抱きしめる。

 

──希望を背に抱く光の英雄は、精霊の姫が抱く闇を優しくその手で払う。

 

──互いが互いへ手を伸ばし、英雄神話は始まりを告げた。

 

──ここに英雄譚の第一章が幕を上げる。

 

「……ベル……えっと……どう、かな……?」

 

「……アイズさん」

 

 ベルの前で立ち止まると、アイズは少し照れながらも精霊が舞うように一度、ふわりと回って見せる。リヴェリアと共に選んだ服を、ベルの目に焼き付けたかった。

 

 ──可愛いと褒めて欲しかった。

 

「純白のドレスにあなたの金髪が映えて、……凄く可愛いですよ。とても……とても似合っています」

 

 何者にも染まらない純白に彩られたワンピースは、アイズの愛くるしい顔立ちと煌然(こうぜん)とした金色の瞳、そしてそよ風になびく長髪によく映える。

 

 人形のように愛らしいアイズであれば何であっても着こなすと思うベルだが、今の彼女が纏うワンピースは心の底から誰よりも似合っていると断言できた。

 

 きっとアイズは、悩みに悩み抜いて選んだのだろう。己とのデートの為に、どの服が似合うのか何度も考えたのだろう。

 

 それほどまでに今日を楽しみにしてくれたことが、ベルにとっては何よりも嬉しかった。

 

「……べ……ベル……! ……凄く嬉しいん……だけど……そ、そこまで言われたら……恥ずかしい……」 

 

「すみません。でも、僕は本当に似合っていると思いましたから。この気持ちを隠すことなんてできないですよ」

 

 ベル・クラネルは己の心を偽らない。

 

 正しいことは正しいと言葉で紡ぐし、間違っていると思ったら間違っていると相手に伝える。

 

「あ……う……」

 

 前に進む事しか出来ないベルは、心を偽る術など持っていない。己はただ前を向き、走り続けるのみ。

 

 その道が間違っているのならば己の主神が、親交を深める神が、己が守るべき誰かが間違っていると咎めてくれると信じているから。

 

──未完の英雄は、決して立ち止まらない。立ち止まることが出来ないのだ(・・・・・・・・・・・・・・)

 

 だからこそ可愛らしく着飾ったアイズを褒めたい想いも、ベルは隠さない。ミアハにも告げられたように、いつ己の首を死神の鎌が薙ぐのか分かりはしないのだ。

 

 当たり前のように過ぎ去るこの刹那を大切にしたいと、伝えられることは言葉にしたいとベルは強く思う。

 

 それだけが前へと向くことしか出来ないベルの、唯一見守ってくれている者達に贈れる感謝だから。

 

「……うぅ~……」

 

 ベルから向けられた真っ直ぐな賛辞と爽やかな笑顔を前に、アイズは恥ずかしさを我慢できず俯いてしまう。

 

 きっと己の顔は今、真っ赤に紅潮させているに違いないから。

 

 このままベルの顔を見ていたら、また前のように意識が飛んでしまう気がしてしまうのだ。

 

 折角のデートを台無しにだけはしたくないアイズは、恥ずかしさで煮えたぎってしまったほとぼりが冷めていくのを待ち続ける。

 

「あ……」

 

 その時だった。

 

 アイズはロキが呟いていた言葉をふと思い出した。それはベルと怪物祭を共に回る約束をした夜の話だった。

 

 ロキが珍しく何かの書類に向かって小難しそうな表情を浮かべながら、ぶつぶつと呟いていたのだ。

 

『ふむふむ………………はぁ?』

 

『ベル・クラネルが約半月で、【ランクアップ】、やって……!? ありえへん……まだ冒険者になったばっかなんやろ……こんなもん信じられるわけっ……!』

 

『…………』

 

『せやけど……間違い……なわけあらへんか……ギルドがこんなヘマするわけないもんな……なら考えられるんは……まさかあのドチビ……』

 

 アイズが聞き取れたのは、ベルが【ランクアップ】を果たしたこと。

 

 長々と何かを呟いていたロキから拾えたのはベルの【ランクアップ】についてだけ(・・・・・)だったが、その言葉こそアイズの求める情報だった。

 

 アイズと初めて出会った時のベルは、間違いなくLv1の冒険者だった。

 

 ベルがLv2であるのならばある程度の装備を身に纏っているだろうし、ミノタウロス相手にあれほどの重傷を負う可能性も低い。

 

 ならばロキが言ったようにベルは、〝半月〟と言う僅かな期間で【ランクアップ】したことになる。その事実はアイズにとっても、驚愕に値するものだった。

 

 常人にはとてもではないが、成し遂げることの出来ない正しく英雄の偉業だ。

 

 そもそも冒険者の大多数はLv1であり、Lv2以上は上級冒険者と呼ばれるほど器を昇華させることは難しい。

 

 それを思えば、ベルの【ランクアップ】が如何に前代未聞なものか分かるだろう。

 

 ベル・クラネルという少年は、たった半月で上級冒険者の仲間入りを果たしてしまったのだから。

 

「ベル……【ランクアップ】おめでとう……Lv2になったん……だよね……?」

 

「あ、はい。ありがとうございます、アイズさん。そうなんですよ、やっと(・・・)僕もLv2に【ランクアップ】出来たんですよ」

 

 何故アイズがギルドの発表を待たずして、己が【ランクアップ】したことを知っているのか少しばかり不思議に思ったベルだが、その瞳からは悪意を一切として感じない。

 

 ならば己の情報を持っているのは彼女ではなく、【ロキ・ファミリア】に所属する他の誰かなのだろうとベルは静かに思考を巡らす。

 

 しかし今はアイズと向き合っているのだ。血生臭いことより、今も己の前で微笑むアイズのことを想おうと、ベルは思考の海から浮上し、己の想いを吐露する。

 

 長かった(・・・・)とても長かった(・・・・・・・)。Lv1からlv2への【ランクアップ】に、半月も(・・・)費やしてしまったのだから。

 

「これでまた一歩、アイズさんの背中に追いつきましたね」

 

 ベル・クラネルは己の現状に、まるで満足していなかった。

 

 Lv2になった程度では、誰も守れない。もっと強くならなければ、闇に蠢く悪を討つこそすら出来ないのだ。

 

 故にベルの心に喜びが満ちることなど、あり得ない。守りたいと願ったアイズにすら、ベル・クラネルは追いついていないのだから。

 

 ならばもっと速く、もっと多くの戦場を駆けて、これまで以上に強くなるしか無い。

 

──英雄になると、アイズに誓ったのだから。

 

「うん……! やっぱりベルは……」

 

──英雄、なんだね……

 

 ベルの凜々しい横顔を眺めるアイズは、喜びに満ちた己の心を優しく抱きしめる。

 

 ベルは強くなっている。誰かの笑顔を守れる英雄になる為に。己との誓いを守る為に。

 

 父の背中と重なるベルの後ろ姿は、誰よりも雄々しい。

 

「?」

 

 急に微笑みを浮かべたアイズを不思議そうに眺めるベルだが、深く気に留めることはなかった。その幸せそうな横顔には、不安を抱かせる要素がただの一つもないのだから。

 

 笑顔を浮かべる理由にたどり着けないベルではあるが、アイズの嬉しそうにしている表情を見ていると心が安らぐのを仄かに感じた。

 

……この想いの名が何なのか、英雄はまだ知らない。

 

「ふふっ……それじゃあ、行きましょうかアイズさん」

 

「……う、……うん」

 

 挨拶も早々に怪物祭(モンスターフィリア)に繰り出そうとするベルとアイズだったが……

 

「……? アイズさん、どうかしましたか?」

 

 アイズはすぐその歩みを止めた。

 

 動きを止めたアイズを不思議に思ったベルもまた両足を大地に繋ぎ止めると、後ろへと振り向く。

 

「……ねぇ、……ベル……お願いがあるの……」

 

「お願い、ですか?」

 

 ──ベルの目の前には、可愛らしい無垢な少女が立っていた。

 

 恥ずかしそうに視線を泳がせ、両手を握って震えを抑えるアイズ。恋する少女は想いを押し留めることなく、少年に願いを伝える。

 

 もっと己とベルの繋がりを、確かなものにしたかったから。我慢してしまったら、進み続ける英雄の手を取ることは無理だと想ったから。

 

「……うん……その……えっと……手、繋いでも良い……?」

 

 ……言ってしまった。

 

 震える唇でようやく紡ぎ出した言葉を前に、漠然とした不安を抱くアイズ。言わない方が良かっただろうか。しっかりと言葉を紡げただろうか。

 

 言い知れない不安に襲われるアイズだったが……

 

「手、ですか? ……僕ので良いなら、全然構いませんけど」

 

「……本当に!」

 

 ベルは少しキョトンとした表情で、アイズの願いに応えて見せた。アイズにとって一世一代といえる願いは、ベルから差し伸べられたその手を以て叶えられる。

 

「おっとと……! ……はい、本当ですよ。男性は女性をエスコートするものだと祖父にも教わりましたから、アイズさんが手を繋ぎたいと想ってくれるなら、喜んで」

 

「……ありがとう、ベル…………!」

 

 思わず前のめり気味になってしまったアイズだが、そんなことは知ったことではないと嬉しそうに差し出されたベルの手を優しく握り締める。

 

 初めて感じる、ベルの温もり。それはあまりにも優しく、心が満たされるものだった。

 

 ベルの手から流れてくる情熱は、英雄だった父のような安堵を(もたら)してくれて、精霊のように美しかった母のような癒やしを与えてくれるようで。

 

 ベルと手を繋いだアイズの心は、幸福に満たされていた。

 

「ふふっ……それじゃあ改めて、行きましょうアイズさん!」

 

「うん!」

 

 英雄と精霊の姫は共に笑顔を浮かべて、王道なりし英雄譚の舞台へと進んでいく。

 

 誰かの涙を拭わんとする光の英雄よ。今一時は、温かな日常(平和な日々)を過ごすと良い。 

 

──運命の時は近い。

 

 燦々(さんさん)と大地を照らす太陽と彼方まで澄み渡る青い空が、英雄の到来を待ち望んでいる。

 



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神威

『ふふっ……それじゃあ改めて、行きましょうアイズさん!』

 

『うん!』

 

 決して離れぬようにと手を繋いで黄昏の館を後にするベルとアイズを、コソコソと物陰から覗き込む影が三つ。

 

 先程の一幕を背後から見守っていた影達は息を潜めて、絶賛逢い引き(デート)中の二人に悟られぬよう必死になって気配を殺す。

 

 和やかに笑い合い緩やかな足取りで怪物祭(モンスターフィリア)へと歩いて行くベルとアイズは、誰から見ても相思相愛の恋人に見えることだろう。

 

「「「…………」」」

 

 少しずつ離れていく距離。

 

 二人の背が目を凝らせば何とか目視出来る程まで遠ざかった時、影達の間には僅かな緊張が走った。

 

 誰かの息を呑む音が、鮮明に空間へと響き渡りどこか重々しい雰囲気を醸し出すが……

 

 次の瞬間。

 

「ア、ア、ア、アイズさんが男の人と手をぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

「ちょっ! レフィーヤ! 声が大きいってば!」

 

「むぐぅ! むぐぐぅ!」

 

 影の正体は、アイズと同じ【ロキ・ファミリア】の眷属であるレフィーヤ、ティオナ、ティオネだった。

 

 そして【ロキ・ファミリア】の団員でありアイズに強い憧れを抱くレフィーヤ・ウィリディスの、悲鳴に近い叫び声が辺り一帯に響き渡る。

 

 レフィーヤによる突然の奇行に、ティオナは思わず彼女の口を塞ぐ。幾ら距離が離れたとは言え、ここまで大きな声を上げてしまえば二人に怪しまれてしまうかもしれない。

 

 ましてやアイズは、レフィーヤと同じ【ロキ・ファミリア】の眷属なのだ。何があったのか気になり、戻ってくる可能性だってある。

 

 そうなってしまえばアイズとベルの関係を探るべく、コッソリ尾行しようとしている己たちの作戦が無駄になってしまう。

 

「ちょっ! うわっ! レフィーヤ、力強すぎだって! ねぇティオネ~、見てないで手伝ってよ~!」

 

 エルフの中でも起伏が激しいレフィーヤは口を塞がれても尚、ティオナに激しく抵抗して暴れ回る。レフィーヤの目には、仲睦まじく笑い合うアイズとベルの姿しか入っていないらしい。

 

「むぐぅ!! むぐううう!! むぐぅううううううう!!」

 

 憧れのアイズが己の知らぬ男と手を繋いでいる現実に、レフィーヤは完全に暴走状態だ。

 

 Lv5であるティオナを以てしても、火事場の馬鹿力を発揮しているレフィーヤを抑えることが出来ない。

 

 思わずティオナは、姉であるティオネに助けを求める。Lv3とは思えないレフィーヤの馬鹿力を前に、己だけでは抑えるのがやっとなのだ。

 

「はぁ……ティオナ、あんたLv5でしょうが……って本当に凄い力じゃないっ!」

 

「さっきからそう言ってるじゃん!」

 

「むぐぅううううううっ!!」

 

 そんな妹の様子を見てジト目気味な双子の姉(ティオネ)は、小さく溜息を付き手を貸す。

 

 幾らレフィーヤが正気を失っているとしても、ティオナが大袈裟に言っているだけだと考えていたティオネはしかし、予想以上の抵抗に目を見開いて驚く。

 

「レフィーヤ、落ち着いて~!」

 

「あんた一体どこから、こんな力出してんのよっ!」

 

「むぐぅ!! むぐぅうううっ!!」

 

 ──それから少しばかりの時が経ち。

 

「「「はぁ……はぁ……はぁ……」」」

 

 ティオナとティオネが必死でレフィーヤの暴走を押し留めたことにより、何とか窮地を脱した三人。

 

 まるで『迷宮の孤王(モンスターレックス)』と戦った後のような疲労感に包まれる三者は、荒い息を吐きながら壁に寄りかかる。

 

 アイズとベルがどんな関係なのか気になる三人の「アイズの心を奪ったのは誰だ! 尾行大作戦!」は、既にかなり雲行きが怪しいものになる。

 

「ぜぇ……ぜぇ……やっと落ち着いた……」

 

「はぁ……はぁ……すみません……アイズさんが男の人と手を繋いでいるのを見たら……つい我を忘れてしまいました……」

 

 いざ二人を追おうと意気揚々としていた三人だが、開始直後にボロボロな状態だ。主にレフィーヤの暴走によるものなのだが。

 

 しかしレフィーヤにとって憧れの人物であるアイズが、見知らぬ男と逢い引き(デート)するなど到底看過できないものなのだ。

 

 白兎は己の与り知らぬところで、森の妖精に標準を定められることになるのだった。

 

「そ・れ・よ・り・も・! あの男の子、絶対に〝未完の英雄〟だよっ! いいな~アイズ、いつの間に仲良くなったんだろ~」

 

 アイズと手を繋ぐベルの容姿を見て、ティオナはすぐに〝未完の英雄〟であると気づいた。白髪赤目というどこか兎を彷彿とさせる顔立ち。

 

 そして何よりもベルが放つ雄々しい気配が、英雄と呼ばれるだろう証となってティオナの前で一番星のように輝く。

 

 何度も耳にした、〝英雄の凱旋〟。この目でみたいと何度だって願った、〝未完の英雄〟とミノタウロスによる死闘。 

 

 ──手を繋ぎ笑い合いながら歩く二人の後ろ姿を見たティオナは、何故か己の胸にチクッと走った(・・・・・・・・・・・・・・)小さな痛みを隠すように視線を切った。

 

「ふぅ……最近になってアイズの様子が変だと思ってたけど、やっぱりこういうことだったのね」

 

 遙か遠くに見える二人にも恐らく気づかれていないだろうと、ティオネは安堵の吐息を吐く。

 

 もしやと思ったが、やはりアイズも己のように恋をしていたのだと、合点がいったティオネは満足げに頷いて見せる。

 

 元よりアイズの変化が良い方向に向かっているのは、【ロキ・ファミリア】の誰もが分かっていた。表情に乏しかったアイズはよく笑うようになり、恥ずかしがるようになり。

 

 とても感情豊かな可愛らしい少女へと、変貌を遂げていたのだから。

 

 だからティオネが気にしていたのは、アイズが誰と出会って恋するお姫様になったのかだった。

 

 そしてティオネの求めた答えも、既に示された。アイズは、オラリオ中で噂になっている〝未完の英雄〟ベル・クラネルに恋心を抱いたのだと。

 

「え! ティオネさんは分かってたんですか!」

 

「そりゃあ団長に想い焦がれる私からしてみれば、一発よ?」

 

「誰がどう見ても恋する女の顔って感じだったもんね! 多分、気付いてなかったのレフィーヤだけだって」

 

【ロキ・ファミリア】の誰もがアイズの変化に薄らと感づいていたのだが、レフィーヤだけは例外だった。まさかアイズが己の知らぬうちに恋をしていたなどとは、全く考えつかなかったのだ。

 

 フィンに恋するティオネは元より妹のティオナですら気づいていたのだから、レフィーヤのアイズに対する憧れの仕切り(フィルター)は相当なものだったと言える。

 

「えぇぇぇぇぇぇぇ!! わ、私だけだったんですか! 私だけが状況を分かっていなかったと、お二人はそうおっしゃるんですか!」

 

「うん」

 

「ええ」

 

「そんなぁ……」

 

 まさか自分以外の団員たちがアイズの変化について予想できていたと知ったレフィーヤは、驚きの余り再び叫び声をオラリオに響かせてしまう。

 

 ティオナとティオネに告げられた残酷な現実に、レフィーヤの鋭く尖ったエルフの耳が心なしか垂れ下がっているようにも見える。

 

「って話してる場合じゃないって! 今日は怪物祭(モンスターフィリア)で人通りが多いんだから、早く行かないと見失っちゃうよ!」

 

「それは不味いですね……とても不味いです……ティオナさん! ティオネさん! 早く追いかけましょう!」

 

「おおー!」

 

 ベルとアイズは少しでも共に過ごしたいと想う恋人のように、緩やかな歩みでオラリオの街を進む。

 

 既に三人の視界には、豆粒のように小さくなったベルとアイズの影が映る。

 

 これ以上会話を続けていたら見失ってしまうと感じたティオナの号令により、三人も怪物祭(モンスターフィリア)へと……英雄譚の舞台へと躍り出る。

 

「ちょ! あんたたち……! ……はあ、面倒なことにならないと良いんだけど……」

 

──英雄譚の第一章は、既に幕を上げている……

 

 ○

 

 大通りに並ぶ出店は、いつも以上の活気を見せていた。

 

 売りに出されている品は千差万別で、訪れる人々もオラリオに住む市民や冒険者と多種多様だ。

 

 商店が立ち並ぶ建物には怪物祭(モンスターフィリア)を表す獅子のシルエットに加えて、【ガネーシャ・ファミリア】のエンブレムである象頭の旗が、風に煽られ棚引いていた。

 

(凄いなぁ……こんなに沢山の人が、街を埋め尽くしている。僕が守りたいと願った笑顔で溢れかえってるんだ……)

 

 ベルの世界を埋め尽くすのは、多くの笑顔。かけがえのない日常。守るべき確かな幸福が、オラリオの街に咲き誇っている。

 

 賑やかな雑踏へと誘われていくベルとアイズは、小物やアクセサリーなどの出店を冷やかしたりして怪物祭(モンスターフィリア)を存分に楽しむ。

 

「あ……」

 

「……」

 

 ゆったりと屋台を回っていた二人だったが、アイズがとある屋台を目にしたことによりその歩みが止まる。

 

 アイズの視線の先には潰した芋を油で揚げた食品、じゃが丸くんが販売されていた。己の大好物を前にアイズは目の色を変えて、ジーと視線を屋台へと向けていた。

 

 そんなアイズの様子を見たベルは、じゃが丸くんを売っている屋台へと近づき店主へと声をかけた。

 

 ベルの目に映るアイズがじゃが丸くんを求めているのは明白で、その一歩を踏み出さないのは己と繋いだ手を離したくないからだと、揺らぐ金色の瞳を見れば分かるから。

 

 ならば己が共に歩み出せば、何も問題はない筈だ。

 

「すみません。普通のじゃが丸くんと、じゃが丸くん小豆クリーム味を一つ」

 

「あいよ! ……って何だい、何だい! アイズちゃんじゃないか! 今日は彼氏君とデートかい?」

 

「え、えっと……その……ベルとは……」

 

「真っ赤に照れちゃって可愛いねぇ! 彼氏君、こんな別嬪な娘は他にはいないんだから、大事にしなきゃ駄目だよ!」

 

「あはは……」

 

 どうやらここの店主とアイズは、顔見知りらしい。店主は一度ベルに視線を向けると、次にアイズと繋ぎ合う手を見て快活に笑った。

 

 異性との色恋に疎いと思っていたアイズが、こうして己の前に想い人を連れてきたのだ。店主はとても嬉しそうに、ベルとアイズへ喋りかける。

 

 店主に恋人だと勘違いされたアイズは、恥ずかしさから顔を赤らめて俯き。ベルはどう言葉を返したら良いのか分からず、誤魔化すように乾いた笑いを浮かべる。

 

「あの子、中々やるわね」

 

「グギギギ……アイズさんと手を繋げるだなんて、羨ましい過ぎます! あのヒューマン……!」

 

 ベルとアイズを少し後ろから見守っているティオネは、少年の見せた些細な気遣いに少しばかり感心し。

 

 レフィーヤは二人が繋ぎ合う手を見て、怨霊のような恨めしい声を上げる。

 

「あたしお腹減ってきちゃった……おじちゃん! 串カツ一つ!」

 

 幼子のように無垢で天然気味なアイズが恋をしたと聞き、最初は悪い男に誑かされてはいないかとティオナは少しばかりの不安を抱いていた。

 

 だがベルとアイズの様子を見れば、そんな不安はあっという間に吹き飛んだ。

 

 二人の逢い引き(デート)に対する不安が無くなったティオナは、食欲そそられる香ばしい匂いに誘われるように屋台へと駆け出す。

 

──英雄が望むかけがえのない日常が、オラリオに広がっていた。

 

 ○

 

 場所はギルドの本部に作られた、第二事務室。

 

 異様な緊張感に包まれるこの空間にはベルのアドバイザーでもあるエイナと、彼女の上司である獣人の男性が向かい合っていた。

 

 お互いに言葉を発することは無く、重々しい空気だけが二人の間にのしかかる。

 

「おい、チュール……ここに記載されていることは、本当に、本当に……間違いないんだな」

 

「はい……」

 

 第二事務室が静寂に包まれる理由は、ただ一つ。ベル・クラネルの【ランクアップ】、もとい冒険者としての活動記録にあった。

 

 上司の視線が一度エイナに向くと、再び書類に記された文字の羅列へと戻っていく。

 

 上司の手にある書類に書かれていることは、最初から最後まで『理解不能(いみふめい)』なものだ。

 

「はぁ……〝未完の英雄〟については、私も嫌というほど耳にしている。〝英雄の凱旋〟やLv.1の新米でありながらミノタウロスを撃破した話などは、特にな……」

 

 既に上司にも、ベル・クラネルについて多くの噂が流れ込んできた。

 

 聞いた当初は何を馬鹿なと呆れていたが、噂の全てが真実であったと己が手に持つ活動記録(英雄の物語)が告げている。

 

「ベル・クラネル……【ランクアップ】に要した期間は約半月……これまでのモンスター撃破記録(スコア)は、報告されている中でも4001体……」

 

 口にするだけでも、可笑しな笑いがこみ上げてくる。

 

 たった半月前に冒険者になったばかりの少年の活動記録とは、とてもじゃないが考えられない。

 

 現在のLv.1からLv.2への【ランクアップ】最速記録(レコード)は一年。そう……一年だ。この記録こそがLv.2へ到達の最高速度であり、誰も超えることの出来なかった偉業(かべ)だ。

 

 なのにこれは何だ? 半月? 新米の冒険者が、僅か半月で【ランクアップ】したというのか? 

 

 上司は手に持つ書類を何度見直しても、夢を見ているような現実感の無さを痛感するのみ。

 

「……その全てが単独迷宮探索(ソロ・プレイ)である、か」

 

 加えてベル・クラネルは、ダンジョンを一人で探索していた。

 

 新米の冒険者がたった一人で、ゴブリンの群れを相手にし。ダンジョン・リザードを切り刻み。フロッグ・シューターを鏖殺したなど、正気の沙汰とは思えない。

 

──それは正しく、英雄の所業だろう。

 

「提出させたチュールには悪いが、ベル・クラネルについての成長模範(モデル)はお蔵入りにするしかあるまい」

 

「はい……」

 

 ベル・クラネルの【ランクアップ】までの道程(かてい)を簡単に表すならば、「立ち塞がる敵全てを撃破する」。この一言に収まる。収まってしまう。

 

「これではLv.1の冒険者に向かって『死ね』と断ずるようなものだからな……」

 

「う……それは……」

 

 これこそが効率的に【ランクアップ】出来る方法などと他の冒険者に発表などした暁には、ダンジョンでの死亡者が急増し、大きな問題に発展することは明白だ。

 

 上司の呟きに、エイナは言葉を詰まらせる。

 

 エイナ自身も、正にその通りだと思っているから。この書類を作成していて、己は何度ベルに驚異したことか。

 

「既にベル・クラネルは、多くの冒険者から憧れの目で見られている。そんな中でこんなものを公開などして見ろ……自殺志願者が急増する未来しか見えん……」

 

 〝英雄の凱旋〟から始まり、Lv.1でありながらミノタウロスを〝階位打破(オーバーターン)〟して見せたベル・クラネルは、Lv.1の冒険者を中心に憧憬の的になっている。一部の冒険者が盲信してしまうほどには。

 

「この件は私が誤魔化しておく。上への説得も私がしておこう」

 

「申し訳ありません……」

 

 上司はこの件をどう扱うべきかと、思わず目尻を押さえ顔を顰める。半月という常軌を逸した【ランクアップ】だが、今はまだ誤魔化すことは可能だ。

 

 しかしもし……もしこれからも今と同じような速度で、【ランクアップ】を繰り返していくのだとしたら……

 

 ベルが歩むだろう未来を予想してしまった上司は、現実から逃避するように己の考えを振り払う。

 

 ──それこそあり得ない話だ。〝未完の英雄〟であろうとも、人間であることには変わりない。人知を越えることなど、不可能だろう。

 

 ──だが、だからこそ、人々は想ってしまうのかもしれない。心より期待してしまうのかもしれない。鋼の意志を持ち無限の可能性を背負う英雄ならば、あらゆる者の予想を超えて雄々しく進むのではないかと。

 

「それと……あまり軽率な真似は慎むように」

 

「……はい、今後は注意します」

 

 話の最後にベルの情報を大声で叫んでしまったことについて上司から注意され、エイナは深く頭を下げる。冒険者の情報漏洩は、ギルドだけでなく【ファミリア】同士のもめ事にも発展しかねない。

 

 それを注意一つで済んだのだから、優しいものだろう。

 

 心の中で部下思いな上司に感謝し、エイナは第二事務室を後にした。

 

「ふぅ……ベル・クラネル、か……」

 

 己一人となった空間で上司は、再びベル・クラネルの活動記録を眺める。

 

「……誰にも出来ぬことを成し遂げた者が、英雄だと言うのならば……」

 

 ──英雄とは何か。己にとって英雄とは、前人未到の道を往く者だ。

 

「ベル・クラネルは、もう既に英雄なのかもしれないな……」

 

 どこか寂しげに呟くその声音は、英雄の征く道を憂えているようでもあった。

 

 ○

 

 大通り沿いに建つ、とある喫茶店。ドアを開き店の中へと入るロキは店員と少しばかり言葉を交わし、二階に続く階段を登っていく。

 

 ロキの視線の先には、紺色のローブを纏った麗しき神物(じんぶつ)。美の女神フレイヤが、窓際の席で静かに佇んでいた。

 

 フレイヤの姿を捉えたロキの瞳は、まるでナイフのような鋭利さを放ち始める。

 

 浮かべる笑みからはおちゃらけた印象を受けるにもかかわらず、鷹を思わせる朱色の瞳からは油断の欠片が一切感じられない。

 

 ちぐはぐな雰囲気を纏う今のロキは、どこか道化師(ピエロ)のようだ。

 

「よぉー、待たせたか?」

 

「いえ、私も少し前に来たばかりよ」

 

 表面上は仲の良い神友同士である二人だが、浮かべる笑みは互いを威圧しているようにも見えた。

 

「「…………」」

 

 何故ロキがこの場に己を呼んだのか、フレイヤは分かっている。ロキもまたフレイヤが己の呼び出した要件について理解してして、この場に来たと勘づいている。

 

 探索系ファミリアの頂天に位置する【ロキ・ファミリア】と【フレイヤ・ファミリア】。

 

 現在のオラリオを二分するほどの実力を持つ両派閥の間では、日頃から勢力争いが絶えることは無い。

 

 ──隙あらば蹴落とす。

 

 お互いが様々な意味で意識しあい牽制しあっているが故に、ロキはフレイヤに面倒なことを起こされるわけにいかない。

 

 己達は既に、一方が動けばもう一方も動かなければならない、伯仲たりうる関係にあるのだから。

 

 ──沈黙が空間を征服する。

 

 両者ともに言葉を発することなく、己の視線を以て対話に望んでいる。

 

「……それにしても【剣姫】は随分と〝あの子〟に入れ込んでいるのね?」

 

「…………」

 

 どれほどの時間が経っただろうか。先に静寂を破ったのは、妖艶な笑みを浮かべるフレイヤだった。

 

 紡がれた言葉は今のオラリオに置いて、話題の中心にいる人物についてのことで。

 

 アイズがベルに懸想している。この事実を知られること自体は、ロキにとっては大きな痛手ではない。

 

 問題なのはロキとリヴェリア以外に断定出来る筈のない情報を、フレイヤが既に掴んでいることにあるだから。

 

「かぁー……お前はどっからそういうこと聞きつけてくるんや」

 

 思わず大きな溜息を付くロキ。

 

【フレイヤ・ファミリア】にとって大した利益にもならない情報すらも易々と盗み取られた事実に、悩みの種が一つ増えてしまった。

 

「神の宴での貴方を見れば、当然ではないかしら」

 

「チッ……あん時はうちも冷静やなかったからなぁ……」

 

 ロキは未だに理解していない。

 

 フレイヤは既に、ベルを独占したいほど心を奪われていることを。ベルの情報に関してでいえば、ギルドすら凌いでいることを。

 

 些細なことであろうとも、ベルに関係があるのならフレイヤは徹底的に調べ上げているのだ。

 

「……まぁいいわ」

 

剣姫(アイズ・ヴァレンシュタイン)】が〝黄金の閃光(ケラウノス)〟に近づいているのは既にフレイヤの知るところであるが、今はまだ『警告』する時では無い。

 

 英雄に寄り添わんとする精霊の姫は、己の求める英雄の躍進へ大いに役立ってくれるだろうと分かるから。

 

──好きなだけ泳がせておけば良い。最後にベル・クラネルを抱きしめるのは、己なのだから。

 

「それじゃあロキ、こんなところに私を呼び出した理由。そろそろ教えてくれないかしら?」

 

「今日は私、とても大事な用事があって忙しいのよ」

 

 美の女神が望むのは、道化の神との対話では無い。心から渇望するのは、これより幕を上げる輝かしき英雄譚。黄昏に沈むとき、絶望を踏み越えてみせる〝黄金の閃光(ケラウノス)〟なのだ。

 

──邪魔はさせない。我が英雄の紡ぐ英雄神話には、誰も手出しはさせない。

 

「それ、それやで……」

 

──騙らせなどしない。黄昏を告げる狡知の神(トリックスター)の目を欺くことは許されない。

 

「まどろっこしいのは無しや、率直に聞くで? フレイヤ、お前は何をやらかす気や」

 

「何を言っているのか、さっぱり分からないわ?」

 

 ──平行線。

 

 お互いの思惑を置き去りにして、無情にも時が過ぎ去っていくのみ。ロキが如何に問いただそうと、フレイヤが問いに答えることは無い。

 

 既に英雄譚の第一幕は、始まっているのだから。己の計画は淀みなく進行しているのだ。

 

 故に道化の神(ロキ)がこの場に居ては、少しばかり鬱陶しい。

 

 ここは英雄の雄姿を一望出来る特等席(グラズヘイム)。新たな神話を目撃する、神の玉座(フリズスキャルヴ)なのだから。

 

「あんなぁ……誤魔化せると思ってんのか」

 

「最近動きが露骨すぎやで、自分。いっそ隠すつもりがないんかと、呆れるほどにな。──フレイヤ、お前は何を企んどる」

 

 ロキは鋭い視線でフレイヤを射貫き、真実を問い詰めようとする。神の直感が囁くのだ。フレイヤは今までとは比べものにならないほどに、物騒なことを始めようとしているのだと。

 

──この女神(おんな)を止めなければいけないと。

 

「ふふっ……! ふふふっ……!」

 

 漏れ出る歓喜の笑み。抑えられない感情の昂り。

 

──遂に始まる。英雄譚の幕が上がる。誰かの笑顔を守らんと、〝黄金の閃光(ケラウノス)〟が立ち上がる。

 

「なんや、笑ってうやむやにできると思ってんのか? もう一度聞くで……フレイヤ、お前は……!?」

 

 もはや誰にも止められない。英雄の前に、絶望が姿を現す。避けることの出来ない敗北が、英雄の身に刻まれようとしているのだ。

 

「ふふふっ……! あははははっ!」

 

「この音は……モンスターの声やないかっ! ……フレイヤ、一体お前は何をしようと……!?」

 

 希望(ヒカリ)で満ちるオラリオに、モンスターの喚声が木霊する。奪われる誰かの笑顔と幸福。その頬を伝う悲しみの雨たち。

 

──未完の英雄よ、今こそ汝の願いを果たすのだ。誰かの笑顔を守るのだ。あの日抱いた苦しみを、あの日抱いた哀しみを、もう誰にも背負わせるな。

 

「悪戯好きの子猫ちゃんには、少し黙っていてもらいましょうか!」

 

「ぐぅ……! フレイヤ……! お前っ……!」

 

 フレイヤの身から放たれる波濤のような神威が、オラリオへと流れ出した。

 

 これより目を覚ますは暴虐なりし怪物(モンスター)達。

 

 彼等は己の心を魅了する美の女神(フレイヤ)の命を果たさんと、英雄が待つ戦場へと駆け出した。

 

「ようやく、ようやく始まるわ! 早く見せて〝黄金の閃光(ケラウノス)〟!! 貴方の眩い魂の輝きを!! 私だけの英雄が紡ぐ、神話の物語を!」

 

 ここに神の試練は始まりを告げる。美の女神は妖艶な笑みを浮かべ、英雄が絶望を乗り越えんことを願う。

 

──誰も為し得たことの無い英雄譚を、その手で掲げて見せろ。

 

 



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開幕

 現在オラリオの大通りにはいつも以上に出店などが立ち並び、冒険者や市民といった様々な人々が弾むような声をあげて楽しんでいる。

 

 年に一度というだけあって大きく賑わう怪物祭(モンスターフィリア)を、ベルとアイズは手を繋いでこぼれるような笑みを浮かべながら露店を回っていく。

 

「この先が怪物祭(モンスターフィリア)の会場なんですね」

 

「……見ていく?」

 

「そうですね……気にはなるんですけど、僕は彼らの笑顔を見てる方が、きっと楽しい……」

 

 オラリオの東部に存在する円形闘技場(アンフィテアトルム)では、本日のメインイベントであるモンスターの調教(テイム)が行われている。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)と呼ばれるだけあって、目玉である【ガネーシャ・ファミリア】による調教(テイム)に少しだけ興味を抱いたベル。

 

 小さく呟かれたベルの言葉だが、アイズの耳には一字一句しっかりと拾われていた。

 

 神に〝祝福〟されているとしか思えないベルとのデートを掴み取ったアイズは、全力で楽しむために変な方向に集中力を使う。

 

 アイズの提案を受け少しだけ考える仕草を見せたベルであったが、その視線は大通りを歩く人々に向けられている。笑顔で母親の手を引く子供や、初々しいを感じさせる男女のカップルなど。

 

 大通りにはベルが望むかけがえのない日常が、視界一杯に広がっていた。英雄になると誓ったベルの望む未来(ねがい)が、確かに存在していたのだ。

 

「……ふふっ……なら、もっと回ろう?」

 

「ありがとうございます、アイズさん」 

 

 心の底から幸せだと高らかに宣言するように、ベルは精悍な面立ちを破顔させる。アイズが覗くベルの横顔は、年相応の幼さを感じさせる少年らしい可愛らしさがあった。

 

 右手から伝わるベルの熱と、穏やかに流れる幸福な時間にアイズは喜びを隠せない。温かい、幸せだ。私の光はここにあると、詩にしたいほど有頂天な気分に包まれる。

 

「………………?」

 

「「きゃああああああああああ!!」」

 

「モ、モンスターだぁあああああああああああっ!!」

 

 しかし闇から抜け出した精霊の姫が掴んだ筈の晴れ渡る幸福は、英雄を求める民達の声によって終わりを告げる。

 

 刹那のように感じさせた休息。英雄が過ごした日常は、既に遙か過去へと過ぎ去っていく。

 

「声が、聞こえる……」

 

──ここに英雄譚の第一章は、幕を開ける。街へと現れ出でた悪逆なる怪物は、笑顔に花を咲かせる人々の幸福を奪わんと蛮声をあげるのだ。

 

──立ち上がる刻が訪れた、英雄の立ち上がる時が。その手に担うべき英雄の武器が無くとも、涙を流し助けを求める声が聞こえているならば、鋼の意志を以て前へと進め。

 

──振り向くな。ただ進み続けろ。汝の輝かしき雄姿で、民に希望を与えるのだ。神話に綴られる英雄譚を紡ぐのだ。

 

──振り向くな。前だけを見据えろ。英雄が振り向いた先にあるのは、民の嘆きと涙だけなのだから。

 

「この気配は……!」

 

 もはやそれは条件反射だった。悲鳴が聞こえただけでベルの心が、ベルの肉体が助けに征けと奮い立つ。早く、速くと、ベルが抱く鋼の意志が雷鳴の如く轟くのだ。

 

 アイズとのデートはとても楽しかった。ここまで純粋に心が躍ったのは祖父を失って以来だと、ベルは断言できる。

 

 それでも、しかしそれでも、ベル・クラネルはどこまでも英雄だった。

 

 悲しみに濡れる民を助け、己の前に立ちはだかる悪を滅ぼす英雄だった。

 

「……あ、待って! ベル……!」

 

「ごめんなさい、アイズさん……! デートの途中に……! でも、でも! 声が聞こえたんです! 守るべき誰かの悲鳴が!」

 

「なら……征かないと……僕が征かないといけないんです! 守ると誓ったんですから! 彼らの笑顔を奪わせたりなんか、絶対にしないって! 僕自身の魂に刻んだんですから!」

 

 気が付いた時には両足は馬車馬のように駆け出し、深紅(ルベライト)の瞳は悲鳴がする方向へと固定され、ベル・クラネルは迅雷となっていたのだ。

 

 何故ならば、アイズもまたベルのとって守るべき大切な人だから。彼女の笑顔を奪うだろう悪を、ベルは討たねばならぬと覚悟(ヒカリ)を迸らせる。

 

 ベル・クラネルの誓いは揺らがない。幸福な日常に身を浸そうとも、己が抱く覚悟の光が陰ることなど決してないのだ。

 

 あるとするならば、その時は……もはやベル・クラネルは、己の命を散らしているだろう。

 

「ベル……」

 

「なんで、君は……一人で……征っちゃうの?」

 

 だからこそ精霊の姫は、アイズ・ヴァレンシュタインは、金色の瞳を悲し気に揺らす。

 

 何故一人で征ってしまうのかと。何故ベルは誰かの手を借りようとしないのかと。

 

 己は英雄の道を共に征くには相応しくないのかと、寂しさに嘆く。

 

 何故ならばベル・クラネルは紛れもない英雄だから。己もまた守るべき『誰か』であるのだと痛感したから、アイズは胸の苦しみを抑えられない。

 

 想いのままにこの嘆きを詠い、湖の底に身を沈めてしまいたいとアイズは胸の痛みを必死に抑える。

 

「ベル……私は……私は君と……! 君と一緒に……!」

 

 この日初めて、アイズは雄々しく進む〝光の英雄(ベル・クラネル)〟の背を追うことが出来なかった。

 

 英雄に寄り添うと誓ったアイズは、ベルの抱く想いの強さを前に佇むことしか出来なかった。

 

 精霊の姫は自問自答し続ける。英雄への誓いは未だにこの胸に燃え盛っている。だがしかし、心に刺さる闇という名の棘が、彼女の足に絡んで離さない。

 

 光の英雄に寄り添い一心だけでは、その道を共に征く者として相応しくないと戦場は重々しく告げていた。

 

 ベルへの恋情と怪物への復讐心だけでは、英雄の征く道にその一歩を踏み出す資格は無いと雄々しく背中が叫んでいたのだ。

 

 英雄の雄姿を前にアイズは、運命の鎖に囚われる。茨の如き呪縛を前に、眠り姫の目が覚めることはない。

 

 眠り姫の求める英雄は、誰かの明日を守らんが為にと戦場を駆ける(だれか)希望(ヒカリ)なのだから。

 

──【眷属の物語(ファミリア・ミィス)】に、〝精霊の姫君(アイズ・ヴァレンシュタイン)〟の姿はなかった。

 

 ○

 

(どうしてモンスターが檻の外に! 一体何がおきてるんだ!)

 

 ベルは一分も経つことなく悲鳴の聞こえた現場へと赴くと、視界には20階層に現れる雄鹿のようなモンスター、ソードスタッグの群れが暴れ回っていた。

 

「う、うわあああ!!」

 

(いや、そんなことは後回しだ! 余計はことを考えてる暇なんてない!)

 

 幸福が奪われる光景を目の当たりにしたベルは、火山が噴火するかのような怒りを燃え上がらせる。

 

 許せない、奪わせない。貴様ら邪悪を斬り伏せると、ベルは右眼から雷光を迸らせながら服に仕込んだ隠し収納からナイフを取り出す。

 

 己が無駄な思考をしている間にも、守るべき人々の笑顔が涙へと転覆させられているのだ。今すべきことは彼らを助けること。

 

 それ即ち、ソードスタッグの群れを壊滅させることにある。

 

(あの人たちを守るんだ!)

 

 ソードスタッグが二十階層より下で出現することなど、ベルの頭には無かった。もう涙を流す必要は無い、僕が必ず助ける。

 

 覚悟を漲らせ、気合と根性さえあれば悪に屈することなどありはしないのだ。人とは心一つで神話に至る英雄になれるのだと、ベルは信じて疑わない。例え誓いの果てに己が邪悪を滅ぼす■の■になってしまったのだとしても、後悔など決して抱くことはないのだから。

 

 それで守られる命があったのならば、紡がれる未来があるのであれば、ベル・クラネルは己の道を振り向ことなく進み続けるだろう。

 

「しっ……!」

 

『グギャッ!?』

 

 破邪の一閃が瞬いた。

 

 英雄の刃はソードスタッグの首を刹那の時も許さず断罪する。これがお前の罪であると、怒りに震える刃が何よりも証明していた。

 

「はあっ……!」

 

『グガァァァッ!?』

 

 神速の一閃が煌めいた。

 

 英雄の威光を前にソードスタッグはただ触れ伏すのみ。彼等の笑顔は奪わせないと、覚悟を抱く英雄は進み続けるのだ。

 

「す、すげえ……」

 

「あ、あんたはっ!?」

 

 一太刀振るえばモンスターの鮮血が舞い、英雄がその一歩を前へと進めば悪は一閃の元に滅ぼされる。

 

 物語に語られる英雄譚の一幕が、彼らの前に威風堂々と現れた。

 

「早く逃げて下さい! 僕がモンスターを惹き付けている内に、早くっ!!」 

 

「は、早く行こう!」

 

「あ、ああっ!! ありがとう〝未完の英雄〟!」

 

 モンスターを前に雄々しく立ち向かうベルの後ろ姿は、英雄そのものだ。ベル自身は認めずとも、誰かの笑顔をその手で確かに守ったのだから。

 

「お前達は必ず守る」と雄弁に謳い上げる英雄の雄々しい姿は、民に希望という名の光を灯す。

 

 彼なら……〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟なら、俺達を守ってくれると確信できるのだ。不安など微塵も抱けはしないのだ。

 

 〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟こそ我らが真の英雄だと、彼らは吟遊詩人も目を剥くほどに高らかな声で謳い上げるだろう。

 

 鋼の意志を体現した英雄の雄姿に人々は魅了される。心を奪われるのだ。

 

 なんだこの気持ちは。想いが滾って仕方が無い。あの人みたいになりたいと、遠くから見ていた少年の憧憬となる。

 

 ベル・クラネルは、彼らに栄光ある未来を示すのだ。

 

『『『『グギィィィィィ……』』』』

 

「来いっ! お前たちの敵はここに居るぞ!」

 

 そしてベルもまた、己の意志が覚悟(ヒカリ)で満たされるのを感じていた。背後には守るべき民の姿があり、眼前には幸福を悲劇に変える邪悪が立っているのだから。

 

 ベルの身体に漲る誓いと覚悟は、もはや天井知らずの無際限。

 

 背中に刻まれた炉の祝福が英雄を喝采している。前へと進め。栄光を示せ。勝利をその手に掴んでみせろと、号令を下すのだ。

 

『『『『グギャァァァァァッ!!』』』』

 

「僕が立っている限り……! モンスター如きに、彼らの幸せを奪わせたりなんかしない!」

 

 怪物の軍団(ソードスタッグの群れ)女神(・・)の命を受け、英雄を討たんと行進を続ける。倒せ、殺せ。英雄から全てを奪い去れと、盲信する狂信者のように戦列を組む。

 

 だが悲しきかな。女神に心奪われた狂信者程度では、鋼の意志を抱き進撃し続ける英雄の【経験値(エクセリア)】にすらなりえない。

 

 ベルにとって敵となり得るのは、強き心を持つものだけだ。どれだけ強大な力を持っていようと、心が眩い輝きを放っていないのならば、気合と根性で乗り越えられるから。

 

──敗北するなどあり得ない。

 

「ふっ……!」

 

『グギャッ!?』

 

 ソードスタッグの群れを前に、ベルクラネルは不安を抱かない。己は勝てる、負けるわけがないと疾風怒濤に大地をひた走る。

 

「はっ……!」

 

『グ……ギ……』

 

 すれ違いざまに撫で斬りにされたソードスタッグは、女神に心を奪われたまま冷たくなった躯を晒す。

 

「しっ……!」

 

『ギャッ……!?』

 

「はぁぁっ!」

 

『……? ……グ……』

 

 痛みなど感じる暇もない。己の罪を悔いる時すらない。ソードスタッグは英雄の無双劇を前に、断末魔を上げることしか許されないのだ。

 

「マジ、かよ……」

 

「ソードスタッグ四匹を、一瞬で……」

 

「あり得ねえだろうが……! あいつは、本当にLv1だっていうのかよ……だとしたら俺達は、一体……!」

 

「これが〝階位打破(オーバーターン)〟を成し遂げた〝未完の英雄〟の力なのか……」

 

──威風堂々。

 

 ソードスタッグの躯の上に立つ英雄は、その瞳に覚悟を迸らせて佇むのみ。ベル・クラネルの心には勝利への喜びも、栄光への昂りも存在しない。

 

 鋼の英雄が心に抱くのは、ただ一つ。助けを求める誰かを守り通せたことへの安堵のみ。

 

 勝利など当然のことだ。守るべき誰かのために、ベル・クラネルは負けるわけにはいかないのだから。たった一つの敗北も許されないのだから。

 

 



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未完の英雄(ベル・クラネル)

──訪れる絶望。約束された敗北。

──英雄の前に立ちはだかるは、女神の加護を受けし神の使徒。

──されど英雄は立ち上がる。誰かの笑顔を守る為。誰かの涙を拭う為。誰かに幸福を(もたら)す為に。

──故に……

──それは、至高。

──それは、最強。

──それは、究極。

──それ以外に、形容すべき言葉無し。

──今こそ示せ、汝の意志(おもい)を。始まりの勝利をその手で掴み取れ。



──英雄と成れ。


 

「マジ、かよ……!」

 

「ソードスタッグ四匹を、一瞬で……!」

 

「あり得ねえだろうが……! あいつは、本当にLv1だっていうのかよ……だとしたら俺達は、一体……!」

 

「これが〝階位打破(オーバーターン)〟を成し遂げた〝未完の英雄〟の力なのか……」

 

──威風堂々。

 

 ソードスタッグの躯の上に立つ雄々しき英雄は、深紅(ルベライト)の瞳に覚悟(ヒカリ)を迸らせて粛然と佇むのみ。

 

 ベル・クラネルの胸底には勝利への喜びも、栄光への昂りすら欠片も存在しない。

 

 鋼の英雄が己の心に抱くのは、ただ一つ。

 

 助けを求める誰かを守り通せたことへの安堵のみ。戦場に立ち、勝利するなど当然のことなのだ。

 

 守るべき誰かのために、ベル・クラネルは負けるわけにはいかないのだから。

 

 たった一つの敗北も許されはしないのだから。

 

 ○

 

──しかし英雄の戦いは、未だに終わることはない。

 

 これより鋼の英雄の前に立ちはだかるのは、有象無象の群れに非ず。汝が打ち倒すべき真の悪が、舞台の上に姿を現す。

 

──女神(おうごん)の加護を得し神の使徒(モンスター)が戦場へと舞い降りたのだ。

 

『グルゥゥゥ……!!』

 

 怪物の名をシルバーバック。その双眸から黄金の輝きを荒れ狂わせながら、英雄の深紅(ルベライト)に輝く瞳を射貫く。

 

──我が愛おしき女神の名の下に、英雄を騙る只人の魂を冥府の底に送り届けよう。

 

「なっ! いつの間にっ! くぅっ……!」

 

 ──鋼の英雄に油断は無い。戦場であるのならば常に警戒を怠らず、集中力を途切らせることも決してない。

 

 ──鋼の英雄に隙は無かった。極限まで張り詰めた精神は絶対不可侵の結界となり、手に持つ悪滅の刃が鎧袖一触の閃きとなって敵を屠り去るのだから。

 

「重いっ……! 受け、流せないっ……だってっ!?」

 

 しかしベルの眼前へと忽然と現れたシルバーバックは、英雄の洗練されし堅牢なる領域を土足で踏み荒らしてきた。

 

 気が付いた瞬間には、ベルは息をする間もなく迫る巨岩のような拳をその身に受けて吹き飛ばされていたのだ。

 

「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 疾風と錯覚してしまうような速度で吹き飛んでいくベルは、地面に接触すると石が水面で跳ねるかの如き勢いでオラリオの街を突き抜けていく。家を破壊し、道路を抉り、遂にはギルドの万神殿(パンテオン)へと突き刺さるにまでに至ってしまう。

 

「がっ……ごほっ! ごほっ!」

 

──たった一撃(ファースト・ブロー)

 

「ぅ……あ……ぁ……」

 

 シルバーバックの振りかぶった拳をその身で一度受けただけで、五臓六腑の悉くを破壊し尽くされたベル。

 

「右腕の……骨が、砕け、てる……」

 

 シルバーバックの一撃を受け止めた右腕は、振るわれた重圧に耐えきれなかったのか、手首や肘といった関節部分が軋みを上げて砕かれていた。

 

「左……足も……ぐぅ……動か、ない……」

 

 そしてベルが視線を向ける左足も受け身を取る際の犠牲となり、目を逸らしたくなるようなほどに惨い打撲傷が幾つも刻まれている。

 

「ごほっ……! ごほっ……!」

 

 裂傷などオラリオを飛行している時に数え切れないほどに負い、無事で済んでいる箇所は最早ない。

 

「でも……!」

 

 しかし本来であれば死んでいてもおかしくない傷を前にしても、鋼の意志を持つ英雄は気合と根性で意識を強引に繋ぎ止める。

 

「……身体は……動くっ……!」

 

 このまま倒れる選択肢など、鋼の英雄には存在しないのだ。

 

 己はまだ死んでいない、ならば戦いもまた終わってなどいないのだ。

 

「僕、は……まだ……!」

 

 これほどの暴虐を野放しにするなど、鋼の英雄には許されない。己はまだ立ち上がることが出来る。

 

 ならば涙を流す誰かを守ることが出来るのだから。

 

──諦める道理など存在しない(チャージ開始)

 

「……死んで、ない……なら、まだ……立ち、上が……れるっ!」

 

 朦朧とする意識の(もや)は気合で吹き飛ばし、言うことを聞かない身体は根性を燃え上がらせて再起させた。

 

──迸る魔力は、まだ幽か。天神の雷霆は、絶望を前にしても目を覚まさない。

 

 万神殿(パンテオン)に磔にされている躯の如き肉体を自然落下させて、何とか地上に降り立ったベルの前には……

 

『ルググゥゥ……』

 

──既にシルバーバックが立っていた。

 

──待ちくたびれたと、欠伸をするように。

 

──己の勝利は揺らがないと、あざ笑うかのように。

 

(もう予備のナイフが、無い……さっきの一撃で……全部……)

 

 鋼の英雄の前に現れた邪悪は、あまりにも強大過ぎた。

 

 まるで英雄譚の序章(プロローグ)に、物語の最後に立ちはだかる強大な敵(ラスボス)が忽然と姿を現したかのような矛盾をベルは覚える。

 

(それに……)

 

「こいつ……ただの、シルバー……バックじゃ……ない……」

 

『グゴォオオオオオオン!!』

 

「ぐぅ……!」

 

 痛みに震える身体を何とか動かし己の腕で必死に攻撃を捌いていくベルではあるが、武器すら失った英雄の体には痛々しい傷だけが増えていく。

 

(ありえない……シルバーバックがここまで強い訳が無い……)

 

 ベルは既にダンジョンで、シルバーバックと相対している。だからこそ目の前で猛威を振るうシルバーバックに驚きを隠せない。

 

 十一階層に現れたシルバーバックなど、真の怪物(こいつ)に比べたら赤子のようなものだったのだから。

 

(ダンジョンで出会った奴とは……全てが違う……)

 

 己が未だに未熟だと誰よりも理解しているベルには、この化け物に勝てる未来が一切として見えてこない。強さの次元がまるで違う。いや、存在の階位(…………)がかけ離れていたのだ。

 

 ミノタウロスと戦った時とは、立っている舞台が大きく異なっている。英雄の前に迫りくるのは、只々圧倒的な絶望だけだった。

 

(走る速度も……)

 

 ──英雄が一歩を踏み出す時、シルバーバックは五歩も先を征く。

 

(殴ってくる拳の威力も……)

 

 ──英雄が必死に捌くシルバーバックの拳は、まるで威力を殺しきれない。

 

(それにこいつ……僕の動きを見切っている……)

 

 ──英雄が刹那の隙を掻い潜って振りかぶった殴打は、先読みをされたかのように軽々と回避される。

 

(まるで……まるで何かの加護(ドーピング)を受けているみたいだ……)

 

 シルバーバックが備えているあらゆる能力が、英雄の遥か上を行っていた。

 

『ギギィッ!!』

 

 まるで誰であっても超えられない壁であるかのように、英雄の前に豪然と立ちはだかるのだ。

 

『うふふっ……ほら立って? ……あなたならこの子だって倒して見せるのでしょう? だってあなたは私の英雄だもの……! この程度(・・・・)の試練で屈したりなんてしないわよね?』

 

 あまりにも無慈悲な神の試練を与えるのは、愛を司る女神にして黄金を生み出す女神であるフレイヤだ。

 

 そう……フレイヤこそが今日という日の為にシルバーバックへ神の加護(多くの魔石)を与え、英雄が討つに相応しい強敵へと昇華させた神物(じんぶつ)なのだ。

 

「しぃっ……!」

 

『グガァッ!!』

 

 眼前にて繰り広げられているのは、英雄と怪物による魂を賭けた死闘。フレイヤの待ち望んだ光景が、視界いっぱいに広がっていた。

 

『ふふっ……うふふふふっ……!! さあ早く魅せて、〝黄金の閃光(ケラウノス)〟!! あなたの雄姿(ヒカリ)をっ!! 閃光(たましい)をっ!!』

 

 妖艶に笑い溢れんばかりの神威を振りまくフレイヤは、前人未到の英雄譚が紡がれることを心の底より願っている。

 

『誰にも成し得ない栄光を掲げた時、あなたはもっと輝くわ!! 美の女神である私に相応しい黄金の首飾り(ブリーシンガメン)になるの!!』

 

 ベル・クラネルの魂は、既に閃光のような煌めきを放っている。今の時点でフレイヤはベルを天界へと連れだしても良いと考えるくらいには、心を奪われ魅了されているのだ。

 

 しかしベル・クラネルは……黄金の閃光(ケラウノス)は、もっと輝きを増すことが出来るとフレイヤは確信していた。英雄の器を持つ少年は守るべき誰かを前にした時、限界など知らんと高みへと昇り続けるのだから。

 

 ──もっと輝くことが出来るのに今抱きしめてしまうだなんて、そんなの勿体ないじゃない……

 

『私自身、あなたがこの子(シルバーバック)に勝てるだなんて全く思っていないわ? …………そう! そうよ! ……そんな私の愚かな考えを、悪を斬り裂くように打ち砕いて!! 神ですら予期できない英雄譚(かがやき)を紡いで見せて!!』

 

 ──だからフレイヤは用意した。

 

 試練を授けた己であっても、到底勝てるとは考えられないほどの絶対的な強敵(ぜつぼう)を、〝黄金の閃光(ケラウノス)〟の前へと用意したのだ。

 

──故にこそ超えて見せろベル・クラネル。過去の歴史を遡り古今東西どんな英雄であろうとも成し遂げることの出来ない、前人未到の勝利をその手に掴んで見せろ。

 

 そして神話に名を連ねる真の英雄となった時、愛の女神が汝の心を抱きしめるだろう。

 

『グゴォオオオオオオン!!』

 

「しっ……!」

 

 時間が経つごとに開いていくベルとシルバーバックの戦力差。【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】によって上乗せにされる効果を以てしても、埋めることの出来ない純粋なる器の出力差。

 

『グゴォオオオオオオ!!』

 

「ぎぃ……!」

 

 嵐のような暴虐を振りまく怪物を前に、ベル・クラネルは抵抗することが出来ず痛みが増していくばかり。だが瀕死の傷を負い足元が覚束ないにもかかわらず、無数に飛び掛かってくる死線をベルは紙一重で超えていく。

 

 洗練された戦闘能力と気合と根性を携えた鋼の英雄は、絶対的な不利に陥っていようが貪欲なまでに勝利を目指している。

 

『グガァッ!』

 

「ぐぅ……あああああ……!!」

 

 一合、二合と刹那の時を掻い潜っていたベルだったが、次に繰り出された拳を前にして時が止まるような悪寒を感じ取った。

 

「不味い」「危険だ」と直感的に上半身を捻り、歪な構えを取る。上半身を反らさなければ、死ぬ予感がベルの脳裏に過ぎったのだ。

 

 ふとシルバーバックの拳を逸らす為に構えていると思っていた右腕へ視界を寄越すと、己の意志に反して既に力尽きたようにだらんと垂れ下がっていた。

 

 瞬間。ベルの肉体に最初の一撃を受けた時のような激痛が巡り始める。ベルが受け流せると思っていたシルバーバックの暴撃は、無防備な肉体を軽々と打ち抜いていたのだ。

 

「………………ぁ……」

 

 もはやベルの抱く鋼の意志を前に、身体は置き去りにされていた。限界など二重も三重も易々とぶち破る英雄の光に、只人の肉体は付いていくことが出来ず悲鳴をあげて崩れ去ってしまう。

 

 凄まじい衝突音と共に地面へと埋め込まれたベル。神の使徒を前に、人間如きでは話にならないと戦場が告げる。

 

 ──勝利など掴み取らせはしない。汝はもはや只人なのだと、暴雨の如き力を纏う怪物が語っていた。

 

「…………ぎぃ……!」

 

 だがしかし只人の少年はこれほどまでの絶望を前にしても、全くとして敗北を受け入れていなかった。まだだ。ここで倒れるわけにはいかないと、気合と根性を滾らせている。

 

「ま……だ……だ……戦い……は……終わっ……て……ない……!」

 

 例え肉体が終わりを迎えようとしていても、己には英雄になるという誓いが、揺らぐことのない願いが宿っているのだと戦場へと何度だって吼えるのだ。

 

 勝利は必ず掴み取る。己が只人の少年であろうとも負けていい理由になどなりはしないと、深紅(ルベライト)の瞳に燃える光の如き意志が雄弁に語っていた。

 

 ──誰かの笑顔を守りたいと願った想いに、英雄か只人なのかなど全く関係ないのだから。

 

「動、けぇ……!」

 

 戦場に鋼の意志が轟いた。燃え尽きた筈の肉体に、英雄が抱く意思(おもい)の奔流が流れ込んでいく。

 

「動、けぇ……よぉ……!」

 

 オラリオに少年の願いが響き渡る。背中に刻まれた炉の祝福が、仄かな光を放ち始めている。

 

「動けよぉぉぉぉ!!」

 

 天に向かって英雄の雷鳴が瞬こうとしていた。再び眼前へと現れた〝限界(はいぼく)〟を超えるべく、英雄の覚悟が迸ろうとしているのだ。

 

『グゴォオオ!!』

 

「……がぁああああああ!!」

 

 ──しかし神の使徒たるシルバーバックは、英雄の覚醒を許さない。己の使命は〝黄金の閃光(ケラウノス)を討ち滅ぼすこと。

 

 ならば〝精神論(まだだ)〟などという馬鹿げた力一つで、無限に覚醒していくことなどシルバーバックが許容するはずもないのだ。

 

「が……ぁ………………」

 

 三度目の直撃(クリティカルヒット)。ベルの肉体は圧倒的な暴虐を前に、完全に機能を停止させた。

 

(強い……強すぎる……全てが、僕の力を……圧倒的なまでに上回っている……)

 

隔絶……隔絶……隔絶……隔絶……隔絶……隔絶……隔絶……隔絶……隔絶……隔絶……天と地ほどの隔絶……

 

(僕じゃ……こいつに……勝てないっていうのか……)

 

敗北……敗北……敗北……敗北……敗北……敗北……敗北……敗北……敗北……敗北……英雄の敗北……

 

(神は……世界は……現実は……)

 

不可能……不可能……不可能……不可能……不可能……不可能……不可能……不可能……不可能……不可能……勝利は不可能……

 

(僕に〝負けろ(諦めろ)〟って……そう言うのか?)

 

絶望……絶望……絶望……絶望……絶望……絶望……絶望……絶望……絶望……絶望……揺るぎない絶望……

 

「うわあああああああん! お母さぁぁぁぁぁん!!」

 

「……っ!!」

 

 ベルの意識が闇に沈もうとしたその時だった。暗がりの世界に声が響き渡った。守るべき誰かの嘆きが。涙を流しながら叫ぶ少女の声が。

 

『うわあああああん! おじいちゃぁぁぁぁぁん!!』

 

 冷たい海に漂っているベルの視界に、走馬灯が波紋となりて滴り落ちる。それは在りし日の過去、己がまだ無垢なる少年だった時の叫びだった。

 

(おじい、ちゃん……!)

 

──少年の追憶。

 

──英雄の起源。

 

 恐ろしいまでの邪悪を前に立ち向かい続ける祖父を、勇敢な祖父の後ろ姿を眺め恐怖と悲しみで涙を流し続ける少年の嘆きを、〝未完の英雄〟ベル・クラネルは思い出した。

 

(なにを、してるんだ……僕は!! 負けるわけには、いかないんだろうがっ! 泣いてるんだぞっ! 僕が守ると誓った誰かが!! 悲しんでるんだぞっ! 温かな幸福を奪われて!!)

 

 ──瞬間。闇に包まれる世界がガラスのように簡単に砕かれる。

 

 もう誰も悲しませない。己のようにやるせない怒りと苦しみなど抱かせはしない。涙を笑顔に、不幸を幸福に。慟哭(どうこく)哄笑(こうしょう)に。

 

(そんなのっ……許せるわけないじゃないかっ!!)

 

──民の幸福こそが僕の願い。僕はあなた達の為に生き、あなた達の為に死のう。

 

──それが英雄になることなのだと、ベル・クラネルは想ったから……

 

 次に現れたのは光輝く未来のような美しき世界。英雄の求める希望が灯った幸福な世界だった。

 

「立ってくれ!」

 

「勝って! 負けないで〝未完の英雄〟!」

 

(まだ……聞こえてるっ……!! 僕の耳に……届いてるっ!! 守ると、誓った……誰かの声が!!)

 

 天と地ほどの隔絶……? 英雄の敗北……? 勝利は不可能……? 揺るぎなき絶望……? 

 

否! 否! 否! 否! 否! 否! 否! 否! 否! 否! 否! いいや否だ! 

 

(ならっ! 目を開けろ! 拳を握って、自分の足で立ち上がれ!! そうだろ、ベル・クラネル!! 英雄になるって誓ったんだから!! 無様な姿を晒すなよっ!!)

 

 少年の背に刻まれた炉の女神より賜りし祝福が、聖火となって燃え上がり英雄の勝利を約束する。全知全能たる天空神の半身、裁きの雷霆がまた一つ封印(しゅくめい)の鎖を噛み砕く。

 

「お前は!」

 

「あなたは!」

 

「ベル・クラネルは!」

 

()たちの英雄(きぼう)なんだっ!」

 

「……っ!!」

 

 民の声に呼応するように、閉じていた瞼が見開かれる。

 

 〝未完の英雄〟の双眸より悪逆なる神の使徒を討たんと、滅尽の雷火が迸った。

 

「まだだぁああああああああああああああああ!!」

 

──覚醒の時は来たり(チャージ完了)

 

 汝、鋼の英雄よ。その身に〝天神の雷霆〟を纏いて、民の幸福を掴み取れ。

 

 ベル・クラネルの咆哮と共に膨大なる魔力の渦が雷となってオラリオに轟き狂う。あまりの凄まじさに大地は震え、天に浮かぶ雲海は怯えるように姿を消す。

 

(魔力を集めるのは……!! 左腕でも……右足でもない!! ……僕の肉体、その全てだ!!)

 

──起死回生(レゾルーション)

 

 暴れ回る滅雷を集束させるは、この身の全てにあり。天に坐す天空神へと捧げるは、ベル・クラネルが抱く想いの全て。

 

 ミノタウロスの死闘とは比べ物にならない激痛と魔力の波動が、世界に向けて雄叫びをあげた。

 

──雌伏の時は終わり、格上殺しの英雄譚が幕を上げる。

 

──鋼の意志を持つ英雄に、不可能は無い。襲いかかってくる艱難辛苦、その悉くを乗り越えるだけだ。

 

「な、なんだあれ……? 体が、光っている、のか……?」

 

「……金色の、稲妻……!?」

 

「なんつう魔力を放ってやがる! 踏ん張るので精一杯だ!」

 

 圧倒的な絶望に覆われた戦場に、約束された勝利の雷霆がその姿を現した。

 

「雷が、落ちて……きてるの……?」

 

「違うわい……雷霆が……天に昇っていっとるのじゃ……」

 

 大地を焼き、宇宙を滅ぼし、混沌を消し去る天神の雷霆(ケラウノス)が、神の使徒を騙る怪物を鏖殺せんと立ち上がる。

 

(こいつの動きが視えないならっ!! 視えるようになればいい! っ!)

 

 雷を纏い強制的に意識を覚醒させたベルの視界からは無駄な色彩が消え去り、黒白の世界がどこまでも広がっていく。

 

(シルバーバックの動きについていけないなら! ついていけるようになればいい!!)

 

 もはや物言わぬ躯と変わらない筈の肉体が、雷霆の衝撃を受けて冥府の底より帰還する。

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】──────!!」

 

 英雄より紡がれる詠唱は、己の誓い。全能の証明。臨界まで達した雷の魔力が〝殲滅光(ガンマ・レイ)〟へと再構築する。

 

(そうだ……簡単な話だったんだ!!)

 

 ベルの肉体はギシギシと不快な旋律を響かせながらも英雄の覚悟(ヒカリ)に応えんと、英雄譚の六重奏(カルテット)を奏で始めた。

 

(武器がないっていうなら!! 僕自身が!! 全てを賭して邪悪を滅ぼす刃になればいいだけだ!!)

 

 神の使徒が何だという。隔絶した(スペック)が何だという。己にはまだ意志(おもい)がある。立ち上がる為の(まほう)もある。

 

 ならば後は、己の誓いを信じ限界を超えるだけだ。

 

──それが英雄というものだから。

 

 幼い頃に祖父と共に語り合った英雄たちの物語を、今こそ己も紡ぐのだ。

 

動けぇえええええええええ(フル・エンチャントォオオオオオオオオオオ)!!」

 

──限界突破(リミットオーバー)

 

 諦めなければ願いは必ず叶う。只人の少年だって進み続ければ英雄になれるのだと、ベルは心の底から信じているから。

 

 だからベル・クラネルは、何度だって立ち上がれる。誰かの笑顔を守って見せると、勇ましく謳えるのだ。鋼の英雄は諦めない。決して挫けることはない。

 

 前へ、希望へ、未来へと愚直に進み続けるだけだ。

 

『 

           【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)

 

           集束殲滅魔法(フル・エンチャント)

 

           ・雷属性

 

           ・チャージ可能

 

           ・チャージ時間に応じて威力上昇

                                   』

『ガァァァァァァァァァァァァァ!』

 

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 英雄の覚醒に神の使徒(シルバーバック)は怒り狂う。「ふざけるな!」「いい加減にしろ!」「気合などに負けはしない!」「根性一つに超えられはしない!」

 

 ──己には愛に魅入られし神の加護があるのだぞ! 

 

『……グ、グガァ!!』

 

「らぁあああああああああああああああああああああああ!!」

 

『グギャ──!!』

 

 だがしかし、鋼の英雄は雷光と共に勝利の道へと駆けのぼる。己の背に刻まれた炉の加護が灼熱の如く燃え滾り、鋼の意志と共に英雄へと無限の力を(もたら)す。

 

 色の消えたベルの世界は、全てが緩やかな動きへと移り変わり停止する。シルバーバックの振りかぶった拳は、閃光の瞬きの前には遅すぎた。

 

 英雄が握りしめる雷霆の拳は、金剛石(ダイアモンド)が如き神の使徒(シルバーバック)(剛毛)を突き破る。

 

『ギャギャッ……!!』

 

 人間という種の限界を超えたとしか思えない異常な動きに、シルバーバックは慄き怯えてしまった。「こいつは一体何なんだ!?」「本当にこいつは人間なのか!?」

 

──ベル・クラネルこそが正真正銘の化け物なのではないか……!? 

 

 太陽のような輝きを放つ英雄の雄姿を前に、シルバーバックは神の加護(ドーピング)による全能感も高揚も風に吹き飛ばされたように消え去ってしまった。

 

「……っ! ……遅いっ!! 踏み砕けぇえええええええええええええええ!」

 

 戦場に置いて一時の迷いは死に繋がる。

 

 英雄の威風を前にして、只の怪物は己の矮小さを知った。神の加護を得ようと、己は弱者であるのだと鋼の意志を前に理解してしまったのだ。

 

『ゴォオオオオオオオオオオオオ!?!?』

 

 ならば訪れる終幕はただ一つ。神の使徒を騙る哀れな怪物は、民を守らんとする英雄の一撃を以て討ち取られる。

 

 シルバーバックの腕を伝い天空へと瞬き翔けるベルは、暴れ狂う雷を右足に集束させる。視線の向く先は黄金に迸るシルバーバックの双眸。

 

──汝、天空神に仇なす咎人よ。裁きの刻は訪れた。

 

──汝の罪は、〝天神の雷霆(ケラウノス)〟を以て断罪されるだろう。

 

間を置く暇もなく、落雷する。

 

 オラリオに雷鳴が轟いた。飛来する落雷(ベル・クラネルの脚撃)は、シルバーバックの脳天から、その存在全てを消滅させるが如く五臓六腑を焼き尽くす。

 

『──────』

 

 人々の視界を埋め尽くす〝黄金の閃光〟が英雄の手によって晴らされる。

 

 戦場にはベル・クラネルが……〝未完の英雄〟が立っていた。

 

 雷霆の裁きを前にシルバーバックは己の心臓たる魔石まで粉々に砕かれ、灰へと帰ることで敗北を刻み込まれた。

 

「……はぁ……はぁ……僕の……勝ち、だ…………!!」

 

 勝利の女神は、ベル・クラネルに微笑んだ。圧倒的な戦力差を前にしても挫けることを知らず、諦める事の無かった鋼の英雄がその栄光を勝ちとったのだ。

 

「「「「「………………」」」」

 

 ──訪れる静寂。

 

「「「「うおおおおおおおおおおっ!!」」」」

 

 ──しかし次の瞬間には、民の歓声がオラリオの街に爆発したかのように響き渡る。

 

 ──英雄の雄姿に敗北はなく。手にする勝利は必定となった。

 

 ボロボロになり膝をつきながらも、ベル・クラネルは戦場に立っていたのだ。誰かの笑顔を守らんと戦い続けた英雄は、民の幸福を掴み取る。

 

『あはっ……! あははははははっ!! そうよっ! そうよっそうよっそうよっ!! それでこそよ私の英雄!! 今あなたは神話に名を残す英雄の資格を手にしたのよっ!!』

 

 (フレイヤ)の試練は、未完の英雄(ベル・クラネル)によって乗り越えられた。神ですら勝利は不可能だと断じた絶望を、希望に変えて見せたのだ。

 

 己の待ち望んだ展開が、目の前に広がっている。それだけでフレイヤは己の心に燃え滾る情熱が暴走するのを感じた。

 

 ──本当に勝利してしまった。圧倒的な理不尽を打ち砕いた。

 

 ──神の試練を乗り越えて見せたのだ。

 

『やはりあなたは最高よ〝黄金の閃光(ケラウノス)〟! 私ですら無理だと思っていた試練を乗り超えてみせたのっ!!』

 

 振りまく神威を抑えようともせず、フレイヤはいずれ訪れる約束された勝利を夢想する。ベル・クラネルは英雄になる。もはやそれは定められし宿命だと、美の神は宣言する。

 

──〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟は、あらゆる『迷宮神聖譚(ダンジョン・オラトリア)』の先を征くのだ。

 

『もっと輝いて私の英雄! あらゆる英雄を超えたその時、私にあなたを抱きしめさせて!!』

 

 英雄譚の第一章は、終幕に向けて動き出す……

 

──汝、未完の英雄よ。黄昏なる眷属の叫びを聞け。

 

──炉の神による試練を前にして立ち上がったのならば、汝はその手に二刀神想を担い、己の物語を超えるだろう。

 

 

 

 

 ○

 

「あぁそうだっ! それでこそだぜっ〝雷鳴の英雄(ベル・クラネル)〟! 俺の目指した英雄は、あんな雑魚如きで立ち止まったりしねぇよなァ!」

 

 英雄が勝利を掲げた戦場を、黄昏の館(ホーム)の屋根から見下ろす餓狼が一人。

 

 再び目にした英雄の雄姿は、あの日に見せた輝きが不変であると示していた。その手に掲げるのは勝利だけ。敗北など訪れない。

 

 故に〝勝利の神狼(ベート・ローガ)〟は、心の底より歓喜する。やはりお前は英雄だ。光を(もたら)す雷鳴だ。

 

「さあ速く駆け上がって来いっ! 俺は……〝英雄の雷牙(ベート・ローガ)〟はここにいるぞっ!」

 

 待っているぞ、我が理想の牙を鍛えし英雄よ。お前がこの高みへ昇ってくる瞬間を! 

 

 俺とお前が並び立ったその時こそ、共に戦場を駆けようぞ。勝利の雷鳴を、共に天へと轟かせるのだ。

 

 

 

 

 ○

 

「うんうん! 実に順調じゃないかっ! ……て言いたいところだけど、やっぱり(・・・・)混じっちゃってるかぁ」

 

「でもまぁ……今はまだ様子見ってところかな?」

 

 英雄の雄姿をこの目に納めんとする人々でごった返す狂騒の中、羽が付いた鍔広の帽子を深く被り目元を隠す男が一人。唯一覗かせる口元は、夜空に浮かぶ三日月の様にひどく歪んでいた。

 

 

 

 

 ○

 

『……グルル……コノ気配ハ……ヤハリ……』

 

 英雄の雷霆を感じ、大陸の最果てで黒き暴虐が目を覚ます。宿命の出会いは、まだ訪れることは無い。

 



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〝炉の祝福〟

──その身を形作るのは、星々の瞬き、オリハルコンの鼓動。

──至高なる光は、他の誰もが手にしたところで、その輝きを曇らせる。

──心せよ。刃を振るうことが出来るのは、汝が認め、汝と血を分けた使い手ただ一人。

──雷霆の創造主にして鍛冶司る神ヘファイストスが、オリュンポスの盟友ヘスティアの武具を鍛える。

──誓いが刻まれた汝もまた我らが愛する神の眷属、神の刃。

──女神ヘスティアの名のもとに命ずる。

──同じ血を分けた眷属の意志に応え、勝利を献げよ。汝の半身の名、それはベル・クラネル。

──約束された栄光の道で、共に笑顔を守り、共に涙を拭い、共に邪悪を討ち、共に未来を願い、共に幸福を(もたら)し、共に未来を掴み、共に宿命を乗り越えろ。経験を糧とし、刃を研ぎ澄ませ。

──半身と共に英雄を目指せ。

──汝は女神ヘスティアの灯火なり。闇を斬り裂く炉の聖火を宿し、光に満ちた未来を切り拓け。神話に綴られる神器となって、主人を守れ。



 遥か古の時代より数多くの英雄が、輝かしき栄光を大陸へと響かせてきた。

 

 時に理不尽な神の試練を超え、破滅に満ちた己の運命を打ち砕き、嘆きに満ちた悲劇を笑顔の溢れる幸福へと変えて。

 

 吟遊詩人が詠う英雄譚は、民に憧れを与えてきたのだ。彼等は希望だった。彼等は伝説だった。

 

──彼等は英雄だった。

 

 そしてこの日、新たな英雄が迷宮都市オラリオに誕生した。

 

 英雄の名を、ベル・クラネル。

 

 超常存在(デウスデア)の加護を受けた〝神の使徒(シルバーバック)〟を、〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟は見事に討滅したのだ。

 

 勝つことは不可能だと神が断じた〝宿命〟を、鋼の意志一つで凌駕して見せた。勇敢でありながら蛮勇でもあるベルの気質は正に英雄。

 

 未完なりしその器を誓いで満たした少年は、英雄と成った。

 

──〝未完の英雄〟に相応しき男と成ったのだ。

 

 無理だから。強いから。武器が無いから。負ける理由(いいわけ)は星の数ほどあった。それでもベルは、一度たりとも諦めなかった。

 

 無理だから。強いから。武器が無いから。そんなものは、負ける理由(りくつ)にすらなり得ない。英雄になると誓ったベルは、己の生き方を最後まで曲げなかった。裏切らなかった。

 

「……はぁ……はぁ……僕の……勝ち、だ…………!!」

 

 前人未踏なる神の試練を乗り越えて、勝利を天へと掲げて見せたベルの雄姿は、正しく希望(ヒカリ)に満ちている。

 

──新たな神話の到来。

 

 鋼の意志を抱く英雄は涙を流す誰かを守り、笑顔へと変えて見せた。迫りくる邪悪を斬り伏せ、民に覚悟(ヒカリ)を魅せたのだ。

 

「ぐぅ……がはっ……」

 

──器を満たせ。意志(おもい)で満たせ。汝は未だに未完なれど、至高に至る器なのだから。

 

 しかし全身全霊で放った【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】の代償は、あまりにも大きかった。

 

 ベルの全身は酷く焼き爛れ、あらゆる筋肉が引き千切られたように断裂し、ありったけの魔力を消費したことにより精神枯渇(マインド・ゼロ)にすら陥っている。

 

 ミノタウロス戦後も瀕死と言える重傷であったが、今のベルとは比べることも(はばか)られるほどの差だ。

 

 ──ベル・クラネルは、もはやいつ死んでもおかしくないほど危機的な状況にあった。寧ろその傷で生きている方がおかしいと言えるだろう。

 

「Lv2になった、位じゃ……流石に、耐えられ……ないか……」

 

 常に意識が沸騰するほどの激痛が全身に走り続け、視界に広がる世界は地震が起きたように暴れ回っている。何故意識を保っていられるのか不思議でならないほどに、現在進行形でベル・クラネルの肉体は死に向かって急降下しているのだ。

 

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 それでも。だがそれでも、ベル・クラネルは眼前に迫る死を前にして歯を食いしばり生へとしがみつく。まだだ、死ねない。死ぬわけにはいかないと、鋼の意志を燃料に死人の(からだ)を蘇生させる。

 

「……?」

 

 膝をつき血の涙を流しながらも、英雄と呼ばれた少年は立ち上がろうと必死に足掻く。まだモンスターが街で暴れ回っているかもしれない。シルバーバックを倒したからといって、英雄譚の一幕が物語のように勝手に下りることは決してない。

 

 今も誰かが涙を流しているかもしれない。ならばこそ己は何度だって立ち上がる。英雄とは民の希望でなければいけないのだから。雄々しき姿で戦場を駆けるからこそ、誰かの幸福は守られるのだとベルは信じている。

 

 己が嘗て祖父の後ろ姿に希望(ヒカリ)を見たように、ベル・クラネルも己の後ろ姿で誰かに希望(えがお)を与えたいのだ。

 

「……地、震……?」

 

 鋼の意志を燃やして何とか立ち上がり新たな一歩を踏み出そうとするベルだったが、突如として地面が揺れ始めた事により体勢を崩し、力尽きるように地面へ転倒してしまう。

 

「うぐっ! ……いや、これ、は……地面が、揺れてる……?」

 

 最初は地震かと予想したベルだが、次第に嫌な予感が脳裏を過ぎる。気配がするのだ。殺意を以て蠢く怪物の気配が。迷宮にて生み出されるモンスターの気配が。

 

(あの……モンスターは、一体……)

 

 そして遥か先に現れたモンスターは、ベルが一度も見た事の無い黄緑色に包まれた植物のような姿をしていた。今までベル見たモンスターとは比べ物にならないほどに不気味な気配を放つモンスターが、オラリオの地面より現れ出でたのだ。

 

──英雄は立ち上がれない。少年は怪物を前にして傍観者になることしか出来ない。

 

「あれ、は……【ロキ・ファミリア】の……」

 

 二重三重にブレる視界の中でベルが目にしたのは【ロキ・ファミリア】の第一級冒険者であるアマゾネス、【怒蛇(ヨルムガンド)】ティオネ・ヒリュテと【大切断(アマゾン)】ティオナ・ヒリュテ。

 

 そしてLv3の冒険者でありながら【千の妖精(サウザンド・エルフ)】の二つ名を持つエルフ、レフィーヤ・ウィリディスが謎のモンスターと戦う景色だった。

 

 ベルがオラリオへとやって来た時に、いつか必ず追いつくと誓った冒険者の姿がそこにはあった。

 

──英雄譚の第一章、その終幕は未だに上がらない。

 

──戦場に舞うのは、黄昏の祝福を受けた道化の眷属だけだ。

 

──【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】に、〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟の姿はなかった。

 

「もう……身体が……動か、ない……」

 

 英雄は立ち上がれない。どれだけ鋼の意志を燃料に天へ向かって羽ばたこうとしても、岩より重い重圧に縛られて海の底に沈むのみ。

 

 ──ベル・クラネルは地面に這いずることしか許されない。己の運命を前に(ひざま)つくことを受け入れるしかないのだ。

 

「僕、は……」

 

 地に伏せる只人の少年に、舞台に上がる資格はない。戦乙女が舞い踊る戦場に立つには、英雄でなければいけない。雄々しい姿で民に希望を(もたら)す鋼の英雄でなければ……

 

「ベル君────!」

 

 その時だった。

 

 ベルの耳に温かな安堵を灯してくれる女性の声が聞こえてきた。その声を聞くだけで、ベルの身体に不思議と力が湧いてくる。

 

 立ち上がらなければいけないと、背中に刻まれた【神聖文字(ヒエログリフ)】が雄叫びをあげている気がしたのだ。

 

「この、声は……神、様……?」

 

 死の海に沈んでいる肉体が、急激に浮上を始める。天に輝く太陽のような炉の温もりに情けない姿は見せられないと、ベルは男の意地を張って見せるのだ。

 

「やっと見つけた──! はぁっ……! はぁっ……! はぁ……っ! 帰りが遅れて……ごめんよ、ベル……君……」

 

「いえ、神様が……元気、なら……それだけで……それだけ、で……僕は、安心できますから……」

 

 膝をつきながらも気合と根性で何とか起き上がったベルは、三日の間留守にしていた己の主神であるヘスティアの姿をその右眼(・・・・)で捉えた。

 

 ○

 

『ヘファイストスは来ないのかい……?』

 

『言ったでしょう? 私は今のあの子(・・・・・)とは何も関係ないの。……そう。……あの子の主神はあんたなのよ、ヘスティア』

 

 ベルに武器を渡す為に外へと足を向けたヘスティアは、当然の如くヘファイストスもついて来ると思っていた。オリハルコンを打っている時の表情を見れば、どれだけの想いをこの武器に込めたのか誰にだって分かるから。

 

 直接その手で渡したいに決まっていると考えるのも当然だった。

 

 しかしヘスティアの予想はへファイストスの言葉を以て覆されることになる。

 

『私とあの子の物語はもうとっくに終わっているの。あの時の戦いで、ね。だからこれは、あの子に贈る最初で最後のわがままよ……あの日交わした約束をどうしても果たしたい、私のね……』

 

『でもっ……! でも……そんなのあんまりじゃないか……ヘファイストスはずっと……ずっとっ!! …………この日を待ち望んでいたんじゃないのかい……?』

 

 だがヘファイストスは頑なに首を縦には振らなかった。己がこの眼で見ているのは、ベル・クラネルではなく■■■■■だから。会ってしまえばベルを只々困惑させるだけだと、未来を知る予言者の如く理解しているのだ。

 

 喋り方は違えども、ベルの見た目も纏う気配も■■■■■をそのまま写したようで。我慢できないと分かるから、ヘファイストスはヘスティアと共には征かない。

 

 あの日交わした約束はもはや遥か悠久の果てへと消え去り、結んだ形など欠片も残っていない。あるのは己の想い一つだけ。

 

『ふふっ……ありがとうヘスティア。でも、いいのよ。私の想いは全て〝劫火の神刀(ヴァルカノス)〟に込めたんだから。私はあの子が戦場に立つ時、この子を握ってくれていれば……それだけで満足なの』

 

『……行きなさい、ヘスティア。あの子をあんまり待たせちゃ駄目よ。目を離したらすぐ無茶をするんだから』

 

 だからこそヘファイストスは想いの全てを、劫火の神刀(ヴァルカノス)に込めたのだ。かけがえのない思い出も、流れ星のようなあの日々も、最後に交わした約束も、その全てを注ぎ込んだのだから。

 

『ねぇ■■■■■……私は約束を……しっかり守ったわよ? だからあなたは……あなたは……』

 

 ヘファイストスは、ベル・クラネルに己の創った武器を握ってくれればそれだけで幸せなのだ。

 

『前へ進んで? ……あなたが振り返る必要なんて…………ないのよ……』

 

 それ以上を望むなど神であっても傲慢であると、気が付けばヘファイストスは寂しげに笑っていた。

 

 英雄は進み続ける。英雄は振り返らない。ヘファイストスは〝ベル・クラネル(■■■■■)〟の本質を誰よりも理解しているから、光へ手を伸ばせないのだ。

 

 今のベルにとっては、ヘファイストスも守るべき『誰か』に過ぎないのだから。もはやあの日の続きを描く事など出来るはずが無いのだから。

 

 ○

 

 ヘファイストスと共に英雄が担うに相応しい武器を完成させたヘスティアは、今も強くなる為に走り続けているベルへ半身を授けるべくメインストリートを走っていた。

 

 神星鉄《オリハルコン》によって創られた《ヘスティア・ブレイド》と《劫火の神刀(ヴァルカノス)》は一般人と変わりがないヘスティアでは、重すぎてとてもじゃないが持つことなど出来ない。

 

 故にヘスティアは【ヘファイストス・ファミリア】の団長を務める椿・コルブランドをお供に、オラリオの街を駆けていく。

 

「どういうことだいっ……どうしてモンスターが街中で……!?」

 

「う~む……何やら臭いな……モンスターが暴れ回っているのは見れば分かるが……何故街の者を襲わんのだ……?」

 

【ヘファイストス・ファミリア】メインストリート支店から飛びだした二人の前に広がっていた景色は、逃げ惑う市民たちと暴れ回るモンスター。そしてモンスターを討たんと駆ける冒険者の姿だった。

 

 オラリオの異常な姿に驚きを隠せないヘスティアは、目を剥いて叫びをあげる。しかし【ヘファイストス・ファミリア】の団長にしてLv5の冒険者である椿は、冷静に状況を判断していく。

 

 今日は怪物祭(モンスターフィリア)が開かれ、ダンジョンのモンスターが数多く地上に来ているのは知っている。主催は【ガネーシャ・ファミリア】であり、ギルドも運営に携わっているのだからここまでの不備が起こるとは考えにくい。

 

 にも拘らず何故モンスターが檻から脱走しているのかと、事態の不可解さに椿は眉をひそめる。そしてそれ以上にモンスターが人間を襲わないことに椿は疑問を感じてしまった。

 

(なにやら思惑を感じて仕方が無いが……手前のするべきことは主神様より預かった《ヘスティア・ブレイド》と劫火の神刀(ヴァルカノス)を、〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟に届けることだ)

 

 ○

 

 そして天に轟く雷霆を見たヘスティアと椿はベルが居るだろう場所を把握し、現在に至る。

 

「ベル君、その傷はっ!」

 

 ヘスティアの視界に映るベルは、目を背けたくなるほどに酷い傷を負っていた。

 

 あの雷鳴を見たことでベルは、己が使用を禁じていた【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を行使したことは明白だった。

 

(まだ……戦いは、終わってない……でも……神様……僕は……もう……)

 

 ヘスティアとは三日会っていなかっただけなのに、遥か昔から別れていたような気がしてしまい感傷に浸ってしまうベル。ようやく起き上がった身体も、慈愛に満ちたヘスティアを前にして再び崩れ去ろうとしていた。

 

 しかし……

 

「「レフィーヤ!?」」

 

 響き渡る悲鳴。

 

 安らかな眠りに付こうとしていた只人の少年に、英雄としての意志(おもい)が灯った。未だに揺らぐこと無き鋼の意志は、ベルを只人の少年になどさせてはくれない。

 

 ──己は何だ? 

 

──英雄になると誓った者だ。

 

 ──聞こえる声は何だ? 

 

──守ると誓った誰かの悲鳴だ。

 

 ──ならば……

 

──なら……

 

(僕はまだ立ち上がらないと、いけない!! 彼女たちを守る為にも!! 何より、自分の願いを曲げない為に!!)

 

 艶やかな黒髪も、透き通るような瑠璃色の瞳も、何も変わる事の無い麗しきヘスティアの姿はベルを優しく迎え出ようとしている。

 

 でもベルは優しく温かな選択を、迷いを振り払うように捨て去った。

 

 誰かを守れる英雄になる為に、血反吐を吐きながらも進み続ける道を征かんと立ち上がろうとしているのだ。

 

「ぐぅ……あぁ!」

 

 しかし運命は非情なまでに英雄が舞台に上がる事を許さない。

 

剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】に〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟の出番はないと、鋼の意志を締め上げて傷つく肉体を運命の鎖が巻き付き縛りつけてくるのだ。

 

「どう……してっ……!」

 

 ベル・クラネルが紡ぐ英雄譚の第一章は、ここで終わりなのだと世界が無慈悲に告げている。立ち上がるな。地を這いずれ。炉の神が与える抱擁を受け入れろ。

 

「どうしてっ……!!」

 

──諦めろ。

 

「……! ……ベル君、君は……!」

 

 今にも死んでしまいそうな悍ましい傷を負っているのもかかわらず、ベル・クラネルはまだ立ち上がろうとしていた。新たな戦場へ進もうとしていた。

 

 運命に抗うベルの姿は、雄々しくも気高い獅子のようだ。英雄としてのベルを初めて見たヘスティアは、彼が背負う覚悟(ヒカリ)の眩しさに言葉を失う。

 

(こんなに傷ついて……血を流して……それでも、それでも君は、立ち上がるんだね……)

 

 本当はヘスティアも、今すぐベルを抱きしめてあげたい。よく頑張ったねと、流石はボクのベル君だ! と褒めてあげたい。でもベルは、〝鋼の英雄〟は優しい言葉なんて何一つとして求めていなかった。

 

 英雄が求めるのは女神の抱擁では無く、己が主神たる炉の女神が授ける宣託なのだ。

 

 今もこの身を縛る運命の鎖を噛み砕く意志(おもい)こそが、ベル・クラネルの求める聖火(ねがい)なのだ。

 

(やっと……やっとボクも、神様らしいことをしてあげられるんだね……ベル君……)

 

 全身が焼き爛れ、右腕は痙攣しながらぶら下がり、左脚はあらぬ方向に捻じ曲がっているのに。それでもベルは、立ち上がろうとしている。まだ守るべき者の声が聞こえるから。まだ戦いの号砲が鳴り響いているから。

 

──ヘスティアもまたベルの意志(おもい)に応えるべく、仄かに神威を放ちながら只人の少年を見詰める。

 

「──君はどうして、俯いているんだい?」

 

「ぐ……がっ……神、様……?」

 

 誰かの涙を笑顔に変えるがために〝鋼の英雄〟は、ベル・クラネルは立ち上がろうとしているのだ。己が未完であることなどベルは誰よりも分かっている。己が未熟であることなどベルは何よりも痛感している。

 

「──君にはまだ、助けたい人が居るんじゃないのかい?」

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 ベル・クラネルはまだ弱い。しかしそれが何だというのだ? 誰かの明日を守ると誓ったのだろう? 悲しみに暮れる涙を、笑顔に変えると願ったんだろう? 

 

「下を向くだなんて、ベル君らしくないじゃないか……君は、いつだって最後まで諦めなかった」

 

 俯くなど英雄がすべきことではない。諦めるなど、英雄が持つべき想いではない。汝が抱く鋼の意志は、何時から錆びた鉄にまで成り下がったのだ? 

 

「この街に来た時も──」

 

──少年は諦めなかった。

 

神の恩恵(ファルナ)を得るために【ファミリア】の門を叩いた時も──」

 

──英雄は挫けなかった。

 

「ミノタウロスに挑んだ時も──」

 

──ベル・クラネルは屈しなかった。

 

「立つんだ、〝ベル・クラネル〟」

 

 ならばこそ俯くな、我が愛しの眷属よ! 前を向け、我が炉の祝福を刻みし鋼の英雄よ! 

 

「……っ!」

 

「──英雄になるって誓ったんだろう?」

 

──今ここにヘスティアは、〝ベル・クラネル(己が眷属)〟に〝神の試練(炉の祝福)〟を与える。

 

 意志(おもい)を抱き立ち上がるのであれば、炉の神たる我の誓いと、鍛冶司る独眼の想いを汝に与えよう。

 

「ボクは君が英雄になれるって信じてる。だってボクの知るベル君は、こんなところで膝をついて諦めるような男じゃないからね。〝未完の英雄〟ベル・クラネルは、前へ進み続ける──」

 

「……」

 

 運命(しれん)を前に情けなくも倒れるのであれば、汝に英雄を目指す資格はない。己の願いを諦める者に、輝かしき栄光を掲げる資格がどこにあろうか。

 

──三大処女神にして炉の女神たるヘスティアが問う。汝、英雄たりえるか? 

 

「だから立つんだベル・クラネル! その時こそボクが、……いやボクとヘファイストスが君の誓いに応えてやる! 応えてみせる!」

 

──英雄であるのならば……

 

「……!」

 

──聖火の誓いと雷火の想いを担う〝二刀神想(英雄に相応しき武器)〟が、汝の英雄譚(たびじ)の助けとならん。

 

「椿君。あれを……」

 

「おう! ……ふむふむ。お主が主神様の言っていた〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟か! 手前は【ヘファイストス・ファミリア】の団長をしている椿・コンブランドだ。今日は主神様の命を果たす為に参った」

 

 ベルの前に現れたのは、黒髪に褐色の肌。そしてヘファイストスを彷彿とさせる眼帯に島国特有の真っ赤な袴を身に着けた女性だった。

 

(何で……【ヘファイストス・ファミリア】の団長が……)

 

 椿・コンブランド……彼女の名をベルは知っている。英雄になると誓った己の遥か先を征く【単眼の巨師(キュクロプス)】の二つ名を持つLv5の上級鍛冶師(ハイ・スミス)だと。

 

 しかしベルが抱いた小さな疑問も、椿が背負っていた二つの武器を前にして吹き飛んでしまった。

 

(どうしてだろう……僕はこの武器を知っている……? ……違う。この武器から感じる想いを……僕は……)

 

「さあ受け取るんだ、〝鋼の英雄(ベル・クラネル)〟! 君の道を共に征ってくれる半身を! ボクとヘファイストスの想いを!」

 

──武器だ。英雄に相応しき武器がいる。

 

──英雄と共に武功を立て、命を預けるに相応しき半身が。

 

「これ、は……」

 

──武器だ。これこそが英雄に相応しき武器である。

 

──英雄と共に武功を立て、理想を共に歩み、誓いを共に果たす、命を預けるに相応しい半身だ。

 

「この刀の銘は《ヘスティア・ブレイド》。ヘファイストスが鍛えて、ボクの神血(イコル)で【神聖文字(ヒエログリフ)】を刻んだベル君だけの武器だ」

 

 美しい黒刀だった。澄み渡る刀身の輝きには、【神聖文字(ヒエログリフ)】が刻まれている。無垢でありながら荘厳な気配を放つ《ヘスティア・ブレイド》は、英雄の到来を願う。

 

──汝、〝鋼の英雄〟よ。果てなき生涯(たびじ)を汝と共に。今こそ、炉の祝福を担うのだ。

 

「そしてこの刀は、主神様が文字通り心血を注いで鍛えた究極の武器だ。──主神様の魂が籠もった武器の銘を〝劫火の神刀(ヴァルカノス)〟と云う。ベルよ、お主にこの想いを背負う覚悟はあるか?」

 

 無骨な黒刀だった。己に必要なのは邪悪を滅ぼす刃だけだと、朱く呼応する輝きが雄弁に告げている。火山のようでありながら、裁きを下す雷のような意志が猛る《劫火の神刀(ヴァルカノス)》は、英雄の覚醒を願う。

 

────汝、〝雷火の天霆〟よ。果てなき未来(たびじ)を汝と征かん。さあ目覚めよ、独眼の咆哮を以て。 

 

「あるというのなら、握れ」

 

「握った時、君は英雄になれる──」

 

 聖火を齎す炉の女神が示した託宣は、英雄に前へ進む力を与えんと姿を現す。立ち上がれ。俯くな。前を向け。そして雄々しく進むのだ。

 

 汝が胸に宿した鋼の意志と、神の想いが宿った二刀で、運命の呪縛を斬り裂くのだ。

 

──英雄であるのならば〝物語(うんめい)〟を乗り越えて見せろ。

 

──守るべき誰かの叫ぶを聞いたのならば、立ち上がって見せろ。

 

「…………」

 

 ヘスティアが与えた神の試練を前に、ベルは静かに俯き地面を見詰める。それはまるで炉の祝福を前に目を逸らすように思えた。

 

 ──諦めるのか? 誓いを捨てるのか? と世界が告げた。

 

 しかしそれは誤りだと知れ。英雄が俯くときは何時だって覚悟を決める為の儀式なのだと、世界(うんめい)よ覚えておくのだ。

 

 ──この両眼を見るがいい。英雄が抱く鋼の意志が錆びる事などありえない。運命程度(・・・・)を前にして諦めるなどありえないと、猛々しい深紅(ルベライト)の瞳が物語っている。

 

「……僕が……立たなく、たって……」

 

 ベルは理解している。遙か先で繰り広げられる戦場は英雄が立つべき舞台ではないのだと。

 

「彼女……たちならっ……勝てるって……わかってるっ……!!」

 

 彼女たちは現オラリオ最強の一角である【ロキ・ファミリア】の眷属なのだ。己よりも遙かに強い力と、技を持つ第一級冒険者なのだ。

 

 あの程度のモンスターに敗北するなど有り得ない。

 

「でもっ……!!」

 

 それでも英雄は、ベル・クラネルは定められた物語を前に眺めていようなどとは考えない。前へと進むことしか出来ないベルにとって、彼女たちもまた守るべき『誰か』だから。

 

【ロキ・ファミリア】だとか。Lv5の冒険者だとか。英雄にとっては何も関係ないのだ。

 

「僕はっ……! ……守りたいんだっ!! 守るって……誓ったんだっ!!」

 

 ベルは誓った。英雄になると。守るべき誰かに笑顔で生きて欲しいと。前を向き幸せになって欲しいと。心の底から願ったのだ。

 

「ならっ……ならっ……!!」

 

 運命の一つや二つを打ち砕けなくては、英雄になる資格は無い。誰かが倒してくれるから。誰かが守ってくれるから。己がやる必要は無いなどとはベル・クラネルは想ってはいけない。

 

 茨の道を進むからこそ、己は〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟たりえる。

 

「僕はまだっ…………立ち上がらなきゃいけないっ!!」

 

 俯くな。前を向け。戦場はすぐそこだ。

 

 討つべき悪が立ち塞がり、守るべき誰かが舞台に上がっている。

 

 ならばこそ未完の英雄よ。英雄譚の第一章。その終幕を汝の手で紡いで見せるんだ。

 

……今こそ己の物語を超えて見せろ! 鋼の英雄! 

 

(英雄になると誓った……その程度の想いじゃ駄目なんだ!! その程度の誓いじゃ、神様の想いに……ヘファイストスの約束(・・・・・・・・・・)に応えられない!!)

 

 ベルの肉体に絡みつく運命の呪縛が軋む音を鳴り響かせる。

 

 荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)荒唐無稽(エラー)

 

 ベルの肉体に繋がれた運命という名の鎖が悲鳴を上げる。山より重い重圧にのしかかられたとしても、ベル・クラネルは前へと一歩ずつ進んでいく。

 

──祖父に救われた己の命。

 

──幼き日より抱いた英雄への憧れ。

 

──誰かを守ると誓った想い。

 

 不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)不撓不屈(ブレイク)

 

 英雄が宿す想いの業火が、鋼の意志を神星鉄(オリハルコン)が如き硬度へと昇華させていく。

 

(僕の誓いは……もう僕だけのものじゃないんだっ!)

 

 英雄の誓いに闇は無く。この身に猛るのは誓いと願いの雷火なり。

 

──運命の断末魔。

 

──想起する少女との誓い。

 

──揺らぐ事なき英雄の咆哮。

 

『僕の名は、ベル。……ベル・クラネル』

 

『いずれ英雄になると誓った、冒険者の一人です』

 

『必ずアイズさんに追いついて、僕は……』

 

『あなたも守れるくらい強くなってみせます!』

 

 運命の鎖が砕かれる。物語の障壁は破られる。英雄譚の終幕が上がる。

 

『ベルなら……なれるよ』

 

『だから……早く私に追いついて……?』

 

(アイズさん……僕は……!!)

 

 終わりの無い暗闇に、祝福の風が吹いた。精霊の姫に誓いし英雄の想いは、この日〝運命(物語)〟を超える。

 

(そうだ……!! 僕は……!!)

 

 英雄が願いを求めて手を伸ばす。輝かしき栄光を手にする為に、己の半身の想いに応えるのだ。

 

 二刀神想(英雄に相応しき武器)は歓喜する。英雄が宿す太陽のような魂の輝きが、その手を通して流れ込んでくる。

 

──英雄の想いに陰りは無い。

 

 ベル・クラネルは歓喜する。二刀から感じるヘスティアの誓いとヘファイストスの想いが、英雄に欠けていた半身となり無窮(むきゅう)の力をもたらす。

 

──我が半身はここにあり。

 

「僕は、英雄になるんだっ!!」

 

 〝神の試練(炉の祝福)〟はここに果たされた。今この時を以てベル・クラネルは英雄になる資格を得たのだ。 

 

 死すべき躯であった肉体は不死鳥の如く復活し、深紅(ルベライト)の瞳は黄金の閃光が迸り始める。

 

──英雄の名はベル・クラネル。

 

 炉の女神による祝福と、鍛冶司る独眼の想いを両の手で担い。

 

 精霊の姫との誓いを果たすが為に【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】の舞台に〝未完の英雄〟が降り立つ。

 

──この日、オラリオの街に英雄の産声が鳴り響いた。




──鍛冶司る独眼が、悠久の果てで契りし約定を果たすが為に、己が想いで鎚を打つ。

──迸る業火。振り下ろされる魂の流星。黙して佇む劫火の神鉄。

──担い手は、己が手で創り出せし〝雷火の天霆〟ただ一人。

──努々忘れるな。我が主の命なくして、この身に触れることは許されない。

──この身は武器だ。神の想いを担いし神器なり。

──故に我はただ待つのみ。己が半身の目覚めを。果てなき未来(たびじ)へ征く時を。

──英雄がこの身を担う時を……


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英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)

 ──時は英雄の産声より、少しばかり遡る。

 

 ベルとアイズの逢い引きをこの目に納めるべく、暗殺者のように背後を付けていたレフィーヤ、ティオナ、ティオネ。

 

 しかし突如として地面より這い出てきた新種のモンスターを撃破すべく、【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】の戦場(ぶたい)を駆けていた。

 

「こいつ……」

 

「まさかあの時の……」

 

 隆起(りゅうき)するオラリオの大地。幸福な人々の笑顔が、恐怖に震える悲鳴へと反転する。

 

『────!!』

 

 勢いよく顔を出したのは、全身が黄緑色に染まる顔のない蛇と表現するのが的確だろう、気味の悪さが目立つモンスター。

 

 不気味に蠢動(しゅんどう)する怪物を前に、ティオナ達は強い既視感を覚える。

 

 焼き増しするように脳裏へ浮かび上がるのは、遠征時に強襲(きょうしゅう)してきた悪辣(あくらつ)なる化物の群れ。

 

「征くわよティオナっ!!」 

 

「うんっ!!」

 

 だから油断は出来ない。今己達の前で暴れているのは、容易く蹂躙(じゅうりん)できる雑魚ではないのだから。

 

 余裕で勝てると高をくくったが最後、己達は雑草が踏み荒らされるが如く簡単に、この命を散らすだろう。

 

──英雄譚の第一章。その終幕は、英雄が舞台に現れることなく始まろうとしていた。

 

──【眷属の物語(ファミリア・ミィス)】と【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】が交わることは許されない。運命を超えることなど、不可能である。

 

──紡がれる英雄譚に、主演は一人。これこそが物語の大原則(ルール)であるのだから。二人(英雄と剣姫)が共に舞台に立つなど、起こり得ない。いや、起こってはいけない。

 

──未だ英雄は、己の抱く意思(おもい)の本質へと至るには足りず。真の願い(ヒカリ)を知るにはあまりにも未熟すぎる。

 

──未だ剣姫は、己の抱く誓い(ぞうお)で身を焦がし続け、復讐を願い。英雄の抱く闇を知るには、己が恋情だけではあまりにも未熟すぎる。

 

──故に運命の呪縛(じゅばく)より逃れる術は無い。どれほどの意志(おもい)を抱こうと、どれだけの恋情(おもい)を抱きしめようと、その身に絡まる鎖を砕くことなど出来るわけがないのだ。

 

──それが運命(ルール)と云うものだろう? 

 

 世界の嘲笑(あざ)う声が、オラリオに重々しく響いた。

 

「おりゃあっ!」

 

「喰らいなさいっ!」

 

 ティオナとティオネによる先制攻撃により火蓋(ひぶた)が切って落とされる。

 

 二人は強く拳を握り締め大地を蹴って天空へと躍り出ると、モンスターに向けて墜落した。

 

 振り下ろされた拳の威力は凄まじく、モンスターと衝突した瞬間に突風が巻き起こるほどだ。

 

「かったぁ──!? なんなのよこいつ!?」

 

「これでも私たちLv5なんだけど!」

 

『──────!!』

 

 しかし地の底へと沈めるように殴りつけたティオナとティオネの拳固(げんこ)は、モンスターの〝魔石()〟を守る堅固(けんご)な皮膚に阻まれる。

 

──無傷(ノーダメージ)

 

 驚きのあまり目を見開く二人。

 

 武器を持たないティオナとティオネではあるが、ダンジョン探索の第一線に名を連ねるLv.5の一撃には変わりないのだから。

 

 だが目の前に広がる現実は……

 

 不気味に佇むモンスターに、掠り傷一つすら負わすことが出来なかった事実のみ。

 

 Lv.5による渾身の一撃を防ぐほどに強固な皮膚を持つモンスターが、彼女たちの前に堂々と立ちはだかる。

 

 ティオナ達の攻撃(ブロー)では撃破は不可能。振るった拳によって証明された、怪物が身に纏う堅牢(けんろう)な鎧。

 

 だからこそ勝利の一手を担うのは、己達に(あら)ず。

 

「も~、これなら武器持ってくれば良かったー!」

 

「文句言ってないで、モンスターの気を逸らしなさいよ!」

 

「分かってるってば!」

 

 真に勝利を掲げるのは、【千の妖精(レフィーヤ)】による魔法の狙撃にある。

 

 故にアマゾネス(ティオナとティオネ)は大地を駆け、壁を伝って怪物を攪乱(かくらん)し、まるで舞踏会で可憐に舞う踊り子のようにモンスターの注意を引くのだ。

 

──こちらを見ろ。目を逸らすな。お前の倒すべき敵は我らにあるぞ。

 

 喰らえば重傷は免れないだろう敵の一撃を前にしても、ティオナ達は軽々と飛び回って避け続ける。

 

 停滞(ていたい)する状況。動き出さない戦場。勝者はまだ現れず、敗者もまた定まらない。

 

 戦場の天秤は水平線を指し示すのみ。

 

「ほらほらっ! こっちだよっ!」

 

「目を逸らすんじゃ無いわよ、この糞蛇っ!」

 

 生命を奪う強撃は、アマゾネス(ティオナ)には当たらない。絶望へと誘う暴撃は、アマゾネス(ティオネ)には掠りもしない。

 

 戦場を支配するのは、黄昏の祝福を受けし道化の眷属たち。勝利への道が着実に切り拓かれていく。

 

『────!!』

 

 攻撃が当たらない苛立ちからか、モンスターの動きにも粗が見え始める。動きはより単調な流動へと変わり、ティオナ達に向けられる触手の一撃も、先程から精彩を欠き始めていた。

 

「【解き放つ一条の光、聖木の弓幹。汝、弓の名手なり】」

 

 ──天秤が静かに傾き始める。

 

 戦場の外でティオナ達が稼いでくれた時間を使い、レフィーヤは詠唱を開始していた。

 

 紡ぎ出すは、速度を重視した短文詠唱。

 

 妖精の祈りに応えるように山吹色の魔法円(マジックサークル)が展開され、レフィーヤの魔法が素早く構築されていく。

 

──千の魔を持つ妖精が、戦場に勝利を(もたら)さんと必滅の矢を放つのだ。

 

「【狙撃せよ、妖精の射手。穿て、必中の矢】!」

 

『──────!!』

 

「危ないレフィーヤ!」

 

「避けて!」

 

 ──地底より這出る悪意の牙。

 

 最後の(いん)を紡ぎ終え、魔法を放つべく魔力が収束していくその刹那。今まで無関心だったレフィーヤが立つ方向へとモンスターが勢いよく振り向いた。

 

──勝者と敗者の境界線が覆る。

 

 あまりにも異常なモンスターの危機察知能力に、レフィーヤは心臓が握り締められるような悪寒に身を震わせてしまう。

 

 そしてレフィーヤは直感する。このモンスターは、己が放つ『魔力』に反応したのだと。

 

 ティオナ達の叫びも虚しく、レフィーヤの腹部に強い衝撃が走る。

 

「──ぇ」

 

 突如として地面より現れたのは、黄緑色の触手。今の今まで地の底で息を潜めていた死の一撃が、レフィーヤの肉体を勢いよく貫いた。

 

「──ぇ……ぅ……ぁ……」

 

 激しい痛みと共に勢いよく吹き飛ばされるレフィーヤ。

 

 既に人の気配がなくなった出店の一角に身を投げ出されるレフィーヤ。勝利の栄光を目前として、黄昏の眷属達は絶望へと落とされた。

 

「「レフィーヤ!!」」

 

 響き渡るティオナ達の悲鳴。致命傷を負い、立ち上がることの出来ないレフィーヤ。一転して戦場に暗雲が立ちこめる。

 

 ──誰かの叫びを前にしても、光の英雄が舞台に上がることは決して無い。

 

 ──【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】に光の英雄が現れることを、世界(うんめい)は許容しない。

 

 ──故に戦場は、絶望に包まれる。運命の鎖は未だに英雄を縛り付け、只人の少年へと堕とすだけだ。

 

 絶望はまだ終わらない。地面より現れた不気味な触手に鼓動(こどう)するように蛇型のモンスターに変化が訪れる。

 

 己の首を天に掲げたかと思うと、顔の部分に亀裂が走り始めた。

 

 そして次の瞬間、──花が咲いた。

 

『オオオオオオオオオオオッ!!』

 

「なにあれっ! 蛇じゃなくて花っ!?」

 

 開花する魑魅魍魎(ちみもうりょう)の本性。悪意に染まる怪物の咆哮がオラリオへと轟いた。

 

 ──英雄は立ち上がらない。

 

 ──英雄譚は紡がれない。

 

 妖精を喰らわんと動き出す怪物を前に、アマゾネスは触手の群れに囚われる。

 

──絶望はすぐそこまで迫っていた。

 

「レフィーヤ!! 起きてっ!!」

 

「ああもうっ!! 邪魔なのよっ!!」

 

 故に戦場へと現れるのは、【剣姫】の二つ名をオラリオ中に響かせる黄昏の祝福を受けし道化の眷属。

 

 ──少女の名を『アイズ・ヴァレンシュタイン』。英雄に寄り添わんと願う、祝福の風を纏いし至高の剣士だ。

 

「【──目覚めよ(テンペスト)】」

 

 精霊の姫が詠う想いへ共鳴するように、『魔法』が発動する。

 

 蒼き空に舞う美しき風が、怪物を討たんとするアイズの元へと集い。身に纏う風は幽かな金色を煌めかしながら、精霊の姫が舞う戦場に付き従う。

 

「【エアリアル】」

 

剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】の舞台に、麗しき精霊の風が舞い踊る。

 

 アイズが持つ唯一にして絶対なる『風』の付与魔法(エンチャント)が、仲間を傷つけし怪物を討たんと吹き荒ぶのだ。

 

「アイズ!」

 

「はぁっ……!」

 

 ──間一髪だった。

 

 英雄が戦場へと駆ける後ろ姿を唯々眺める事しか出来なかったアイズは、生きている事すら忘却するように呆然と立ち尽くしていた。

 

 だが突如として嫌な胸騒ぎを感じ、アイズは店が崩れ去り無造作に地面へ散らばっていた武器の中からレイピアを手にすると、風に導かれるように(・・・・・・・・・)この戦場へ向けて疾風怒濤(しっぷうどとう)と駆けてきたのだ。

 

 その直後、レフィーヤが謎のモンスターによる攻撃で倒れているのをアイズは目の当たりにする。

 

 己の駆けつける時間がもう少し遅ければ、レフィーヤの命が危なかったかもしれない。

 

 あり得たかも知れない未来を想像したアイズは、胸の内に広がる不安を掻き消すようにレフィーヤの元へと歩み寄ろうとする。

 

「レフィーヤ……起きて……!」

 

「アイズ、さん……」

 

 心配そうな表情を浮かべて、憧れであるアイズが己を守ろうとしてくれている。

 

 憧れの人を前にしても立ち上がることすら出来ない惰弱(だじゃく)な己に、レフィーヤは激しい嫌悪感を抱いた。

 

 胸が締め付けられる思いだった。肉体が伝える激しい焦熱(しょうねつ)よりも、心が叫ぶ嘆きの方がレフィーヤには何倍も鈍い痛みとなって襲いかかってくる。

 

(お願いっ! ……動いてっ! アイズさんが! ティオナさんが! ティオネさんが戦ってるの!)

 

 何故己は立ち上がれないのだろうと、悔しさのあまりその頬に涙が伝う。

 

 この胸に宿る憧憬は色褪せることなく、今も業火のように燃えたぎっている。

 

 だが、体が動かない。言うことをまるで聞いてくれない。

 

 戦場の景色が、遙か彼方に遠ざかっていく。嫌だ、嫌だ、とレフィーヤは沈みゆく意識の中で何度目かの苦悶を口に出す。

 

 動け。動いてくれ。お願いだから、動いてと。どれほど強く願っても、体は痛みに震えるだけで己の意志(おもい)に応えてくれない。

 

(でも、あのヒューマンは……〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟なら、きっと諦めない……絶対に立ち上がる……)

 

 色彩を失っていく世界の中でレフィーヤが描き出したのは、憧憬の少女(アイズ・ヴァレンシュタイン)ではなく何故か憎きヒューマン(ベル・クラネル)の雄姿だった。

 

 理由は只一つ。ベル・クラネルへの対抗心だ。

 

 アイズの笑顔を独り占めにしているのが、ベルであって悔しかった。アイズと手を繋ぎ共に歩むのが、ベルであって悲しかった。

 

 でも己には、アイズに手を伸ばす資格すら無かった。

 

 だって〝未完の英雄(ベル・クラネル)〟はLv.1でありながらミノタウロス相手に何度だって立ち向かい、剰え勝利して見せたのだ。

 

 直接目にしていなくても、レフィーヤには絵を描くように死闘の光景を思い浮かべられる。

 

 ベル・クラネルはきっと血反吐を吐いて、涙を流したくなる程の痛みをその身に刻まれようとも、勝利へ向かって進み続けた。

 

 だから何よりも肉体を凌駕することすら出来ない、弱い意志(おもい)しか抱けない己こそが大嫌いだ。

 

──妖精が抱く意志(おもい)は、雷霆の覚悟を知った時にこそ目を覚ますだろう。

 

──嫌悪を憧憬に。悔しさを覚悟に。英雄になど負けはしないと、精霊の姫へと誓うだろう。

 

 傷つき倒れるレフィーヤへと距離を詰めていくアイズだが、まるで親の敵と言わんばかりにモンスターが触手の雨を降り注がせることにより、往く道が深く閉ざされる。

 

『アアアアアアアアアアアッ!!』

 

「ふっ……」

 

 変幻自在にうねりながら迫り来るモンスターの触手を、冷静な判断の下に潜り抜けるアイズ。

 

 (エアリアル)を纏い戦場を踊るように疾走するアイズは、レフィーヤが再び己の足で立ってくれることを信じて白刃の一閃を振るい続ける。

 

「ティオネ! 時間稼ぐわよ!」

 

「そんなこと言ったって! あーもうっ邪魔ぁー!」

 

 そしてアイズが戦場へと現れたのならばこの絶望を覆せると、ティオナとティオネも再びモンスターへと突貫し始めた。

 

 戦場に舞う戦乙女(ヴァルキュリア)達が、平和を脅かす魑魅魍魎(モンスター)に沈み征く黄昏を宣告するだろう。

 

──勝者と敗者の境界線が覆る。

 

 精霊の姫が舞う戦場に祝福の風が吹き、約束された勝利が訪れようとしていた。

 

 しかし……

 

「……! ……また、揺れている!」

 

「ちょっと、ちょっとっ……嘘でしょ!」

 

「っ……! っ来る!」

 

 希望の光が、絶望の闇へ忽然(こつぜん)と姿を変える。

 

 再び揺れ始める大地の蠢動(しゅんどう)細微(さいび)な震動が奏でる破滅の調べ。

 

──勝者と敗者の境界線が覆ることはない。

 

 アイズ達が警戒する中、黄色色の肉体が大地から暴れ狂うように激動する。

 

『『『『『『アアアアアアアアアアアアッ!!』』』』』』

 

「──!」

 

 新たに現れた十匹(・・)のモンスターは、(エアリアル)に包まれたアイズを決して逃がさぬようにと、封じ込めるように地面から突き出る。

 

 閉ざされていた蕾みは等しく花開き、運命に抗おうと己達に挑む道化の眷属を見下ろすのだ。

 

「あっ──!」

 

「えっ──!」

 

「っ! 狙われてる……!」

 

 毒々しい花々が狙いを定めるのは、鮮やかに咲く金木犀(きんもくせい)が如き一人の少女。アイズ以外は眼中に無いと言わんばかりに、絶え間なく触手の烈風(れっぷう)が咆え狂う。

 

「なんで、なんで! 今度はアイズばっか狙ってるんだけど!」

 

「もしかしてこのモンスター、魔法に反応してるのっ!?」

 

「アイズ! 魔法を解きなさい! 狙われるわよ!」

 

 モンスターの異常な行動は『魔力』に反応しているからだと気づいたティオナ達は、【エアリアル】を発動しているアイズに魔法を解除するように呼びかける。

 

 幾らLv.6へと至ったアイズだとしても、《デスペラート》を持たずに深層級のモンスター十匹を同時に相手取るのは至難の業だ。

 

「でもっ……!」

 

 ──英雄(ベル)ならば諦めない。必ず前を向いて突き進む。

 

 己の心に恋情(ヒカリ)を灯してくれたベル・クラネルならば、この程度(・・・・)逆境(ぎゃっきょう)になど怯みはしないと、戦場に向かって走り出した後ろ姿が語っていたから。

 

 英雄の往く道に寄り添いたいと願いながら、呆然とすることしか出来なかったアイズの心を支配していたのは、哀しみの涙と嘆きの慟哭(どうこく)

 

 踏み出せなかった一歩は、まるで己が運命に屈したような気がしたから。己の抱く恋情(おもい)はその程度なのだと、世界に嘲笑(あざわら)われた気がしたから。

 

 ここで逃げてしまったら、〝光の英雄(ベル・クラネル)〟の征く戦場を共にすることが出来ないのだと漠然と理解してしまったから。

 

「アイズッ!」

 

「でもっ……ベルだったら!」

 

 レイピアを握る手に自然と力が入る。身に纏う風がアイズの覚悟(ヒカリ)に呼応するように、金色の煌めきに彩られていく。

 

 ──【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】の舞台に、光の英雄は現れない。

 

 ──精霊の姫が舞う戦場に、雷霆が轟くことは無い。

 

 ──それが原則。それが運命。

 

 ──偉大なる冒険譚に、英雄(主人公)が共に並ぶことは許されない。

 

 その時だった。

 

 神々が見守るオラリオに、運命の鎖を砕かんとする裁きの雷鳴が轟いた。

 

「……」

 

 (ほとばし)覚悟(ヒカリ)。胸に宿る意志(おもい)。鳴り響く迅雷(ちかい)の号砲は、まるで英雄譚の始まりを告げる前奏(プレリュード)のようだった。

 

「……そこまでだ」

 

 〝炉の祝福(神の試練)〟を超えし時。鋼の誓いを背負いし〝光の英雄〟が、【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】の戦場へと舞い降りる。

 

 精霊の姫が抗わんとする絶望の交響楽(シンフォニア)に、勝利の旋律が奏でられるのだ。

 

 物語の主演は、一人であることこそが大原則だ。

 

 ──それがどうした? 誰かの涙を拭う為なら、ベル・クラネルは何度だって世界が定めし原則(ルール)を壊す。

 

 英雄と剣姫の物語は、交わることのない運命だ。

 

 ──いいや、否だ。誰かの笑顔を守る為なら、ベル・クラネルは何度だって世界が定めし運命(ストーリー)を超える。

 

 ──偉大なりし英雄譚にて光の英雄が閃撃を振るい、精霊の姫が祝福の風を詠う時は近い。

 

「ベ、ル……?」

 

 ここに絶望は幕を閉じた。──(あなた)の出番は二度とない。

 

 両の手に携えるは、神の想いが込められし〝神想武装(アヴァタール)〟。

 

 無数に刻まれた裂傷(れっしょう)は、勝利を掴んだ英雄の誉れ。

 

 精霊の風に(なび)く、汚れなき純白の髪。

 

 迸る瞳の色彩は義憤(ぎふん)に燃える深紅(ルベライト)と、覚悟(ヒカリ)を抱く雄黄(アンバー)

 

「……」

 

 光の剣を握る英雄が、運命の壁を乗り越える。全ては守るべき誰かの幸福が為。精霊の姫と交わした誓いの為に。

 

 これより幕を上げるは英雄譚、第一章の終幕。いずれ神話に語られる、英雄の物語。

 

 誰かの涙を笑顔に変えんとする、英雄の戦いが始まろうとしていた。

 

「……べ、ベル! ……来ちゃダメ!」

 

 だからこそ英雄を否定するのは、運命(せかい)ではない。少年の往く道を閉ざさんとする(・・・・・・・)のは、黄昏の祝福を受けし戦乙女(けんぞく)たちだ。

 

 アイズ達は英雄の威風を前にしても怯むことはない。己達こそがこのオラリオでも頂天に位置する【ロキ・ファミリア】の冒険者だから。

 

 半月前に冒険者になったばかりの新米(ベル)に、立ち塞がる絶望(モンスター)の全てを背負わせる訳にはいかない。見殺しにすることなんて、決して出来はしないのだ。

 

(来ないでベル……こんなにも弱い私を見ないで……!)

 

 べルの雄々しい姿を両眼に焼き付けるアイズは、心の水底で己の弱さに打ちひしがれる。

 

 きっとベルは、今の今まで己の想像を絶するような戦いに身を賭してきたはずなのだ。

 

(こんなに傷ついてるのに……ベルは前へ進んでる……)

 

 にもかかわらずベルは……〝光の英雄〟は、己達(だれか)の笑顔を守る為に再びその手に武器を取った。

 

 あまりにも眩しい、英雄を体現したその姿。復讐に身を焦がしてきた己には、余りも鮮烈(せんれつ)すぎるその覚悟。

 

(また、私は見てるだけなの? あの時みたいに……ベルが立ち向かう所を、眺めているだけなの?)

 

 物語に主演は一人。

 

 英雄が征かんとする戦場を前に、精霊の姫は再び運命に縛られる。

 

 なればこそ、精霊の姫君よ。英雄に寄り添わんと願うならば、汝の鎖を打ち砕け。

 

 その時こそ……

 

 ○

 

「アイズさん達は、下がっていて……ください」

 

 ──〝未完の英雄〟は精霊の姫を助ける為に、光の剣を携えて戦場へとやって来た。

 

 ──月光の下で結ばれた誓約が、昏き闇に覆われた運命を斬り裂いたのだ。

 

 故に忘れるな、黄昏の戦乙女(ヴァルキュリア)よ。ベル・クラネルは只人の少年に(あら)ず。英雄に相応しき器であることを。

 

 ──ベル・クラネルは、絶望の全てを二刀を以て斬り裂くのみだ。

 

 ──負けるだなんて、あり得ない。

 

 ──既にこの戦場は、英雄の舞台。怪物へと立ち向かう、光の英雄が紡ぎ出す英雄神話。

 

 さあ刮目せよ。いざ(たた)えん。二刀を振るう英雄の雄姿に、民よ希望を抱くが良い。

 

 これより紡がれるは、〝未完の英雄〟による王道なりし英雄譚。

 

 その雄姿を見せるだけで、物語(ぶたい)を支配する主演(えいゆう)が立つ。

 

 少年は運命を超えるもの──白銀の兜を担う器。

 

 そう彼こそが……

 

「ベル……クラネル……」

 

 傷つき倒れる妖精の前に現れたのは、揺らぐことのない鋼の意志を持つ英雄の姿だった。

 

 ──強い。

 

 レフィーヤは、ベルの瞳を見ただけで全てを悟った。ベル・クラネルが何者であるのかを。ベルが抱く純粋な意志と、雄々しくも清らかな雄姿は正しく英雄だった。

 

(悔しい……なんでこんなに悔しいのか分からないくらいに……凄く悔しい……)

 

 数多の人々に羨望されるだろう、英雄の気風。遍く人間達に尊敬の念を向けられるだろう、鋼の意志。どうしようもなく英雄であるベルの輝きを前にして、レフィーヤは歯を食いしばる。

 

 何故、己は倒れている。英雄に守られて、安堵している。

 

 違う。違う。英雄に守られたいという想い(あまえ)は、己が抱く意志(おもい)じゃない。

 

 目覚めろ。目覚めろ。憧憬の少女(アイズ)に守られるだけの足手纏いでいる程に、レフィーヤ・ウィリディスは弱くない。

 

 ──精霊の姫に誇りし妖精の羽ばたきは、雷霆と並び立ったときにこそ果たされる。

 

 覚醒の時は、未だ遙か彼方にある……

 

 ○

 

『アアアアアアアアアッ!!』

 

 英雄の前にて暴威を振るうは、極彩(きょくさい)に染まる花々の怪物たち。幸福に満ちた街の景観は、哀しみに濡れる凄惨(せいさん)な戦場へと堕とされていた。

 

 だがしかし、どうしたことか。先程まで聞こえていた民達の悲鳴に怒号はピタリとやみ、彼らの視線は等しく白銀に輝く髪を(なび)かせた英雄へと注がれるのみ。

 

「下がってって…………何言ってるの!? 君、Lv1なんでしょ! ここはあたしたちに任せて、君の方こそ下がってなって! ……こいつ、中々強いから!」

 

「ティオナの言う通りよ! あんた自分の言ってること分かってんの!? Lv.1のあんたじゃ、死にに征くようなもんなのよ!」

 

 己達の下に歩みを進めてくるベルを前に、ティオナとティオネは思わず声を荒げる。

 

 幾ら〝階位打破(オーバーターン)〟を成し遂げた〝未完の英雄〟であろうとも、Lv.の差は覆せない。

 

 暴虐の限りを尽くす花々の前では、ベル・クラネルは無力なのだ。

 

 止めろ。来るな。死んでしまうぞ、とアマゾネス達は英雄が戦場に上がってくることを否定する。

 

「ぁ…………」

 

「……? ……ティオナ?」

 

 だが、どうしたことか。一歩、英雄が近づいてくる度に、ティオナは早まる鼓動に身を震わせる。物語の人物ではない、正真正銘今を生きる〝未完の英雄〟が己の前に立っているのだ。

 

 テルスキュラで過ごしたときから、今に至るまで何度だって読んできた英雄譚。囚われの王女を救わんとする騎士や、平和を脅かす邪竜を打倒した竜殺し。

 

 お伽噺でしか語られなかった英雄の姿が、ティオナの前に煌々と輝いている。

 

「…………」

 

 ベルの覚悟(ヒカリ)に満ちた瞳を見詰めた瞬間、ティオナの全身に衝撃が走った。意識が茹で上がるように沸騰する。

 

 何だ? 何だ、何だ、何だ? この胸で猛り、抑えることを忘れてしまった昂揚感は。

 

 ティオナは己の身を襲う原因不明の熱情に、言葉を失う。

 

「……確かに……僕は未熟です。皆さんとは……比べものにならない位に……弱い力しか持っていません」

 

 Lv.5である冒険者でも苦戦を強いられる戦場を前にしても、不安の一つも抱かない深紅(ルベライト)の瞳が、ティオナの心を射貫く。

 

「この街に来たのだって……最近のことで」

 

 己を弱者だと認めているにもかかわらず、格上の敵をこの手で討たんとする愚者の行進。

 

「冒険者としての知識も、まるで足りません……」

 

 己は前にしか進むことが出来ないと、抱く信念を曲げることは出来ないと、覚悟(ヒカリ)が咆哮を上げる雄黄(アンバー)の瞳が、ティオナの熱情を加速させるのだ。

 

「でも、傷ついている人が居るのに……」

 

 己は弱い。未だに誰かの未来(ねがい)すら背負えない未熟な男だと、ベルは自覚している。

 

「泣いている人が居るのに……」

 

 幸福に溢れた平穏な日常が眼前で壊されているのに、己は怪物を屠ることしか(・・・・・・)出来なかったのだから。

 

「立ち向かっている人が居るのに……」

 

 ──誰かの笑顔を守れなかった。

 

 ──そんな弱い己が、ベルは何よりも許せない。

 

 ──だからこそ……

 

 両の手に握られた英雄の武器が、担い手の叫びに応えるべく紫紺と真朱の光沢を世界へと映し出す。

 

「誰かを守ると誓った僕が! ただ眺めている訳にはいかないんだ!」

 

 ──英雄の咆哮。願う未来は、誰かの幸福。

 

「英雄になると誓った僕が! 弱さを理由に逃げる訳にはいかないんだ!」

 

 ──英雄の宣誓。斬り裂き振り払うは、笑顔を奪う邪悪なる悪意。

 

 希望を掲げる光の英雄が、怪物を討滅(とうめつ)すべく二刀神想を構える。

 

──勝者と敗者の境界線が覆る。

 

 全能なりし神の半身が、剣姫舞う絶望の大地に勝利と栄光を(もたら)すだろう。

 

 ○

 

『これが、僕の武器……なんですね』

 

『そうだよ、ベル君。これが……これから君が挑む『冒険』の道を共に歩んでくれる〝英雄の武器(ベル・クラネルの半身)〟さ』

 

 ヘスティアより《ヘスティア・ブレイド》と《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を受け取ったベルは、遥か先で行われている戦いに参戦すべく瀕死(ひんし)の体で立ち上がる。

 

『……ベル君。今ここで、君の【ステイタス】を更新する。今から刻むボクの神血(イコル)が、君の想いに応えて見せる。だから、征くんだベル君。そして守るんだ、君が誓ったその未来(ねがい)を!』

 

『…………やっぱり。……やっぱり、あなたが神様でよかった。あなたが見守ってくれるから、僕は前だけを(・・・・)向いていられる。だから、ありがとうございます、神様(ヘスティア)

 

『ふふんっ! 当然だろう! なんてったってベル君は、ボクの大切な眷属(ともしび)なんだからねっ!』

 

 その背を預けるのは、必ず守ると誓った己の主神。かけがえのない家族である、神様(ヘスティア)だ。

 

 今から行われるのは、英雄が新たな伝説を刻む為の神聖なる儀式。

 

 ──【ステイタス】の更新。

 

(……くっ!? ……なんて膨大な【経験値(エクセリア)】なんだっ! でも……!)

 

 淀みなく更新を行っていたヘスティアの動きが一度だけ、静止した。【ステイタス】を更新すべく汲み上げられた【経験値(エクセリア)】が、あまりにも膨大だったから。

 

 だが、それがどうした。

 

(……! ベル君が男を見せようとしてるんだ! 絶対にやりきって見せるさ! ボクだって君の力になりたいんだからっ!)

 

 汗を滴らせながらも、ヘスティアはその小さな指を忙しなく動かしていく。英雄が討たんとする悪意は、圧倒的な猛威を振るう怪物たち。

 

 ──だからこそ、雄々しく羽ばたけ。更なる境地へと至れ。昇華せよ。

 

 そして書き換えられていく、数字の羅列(られつ)。満たされていく、英雄の器。

 

『さあ、ベル君! 君の格好いい姿をボクに見せてくれ!』

 

『……! ……はいっ! 神様っ!』

 

 ヘスティアはベルの【経験値(エクセリア)】を完全に掌握し、いつだって己がその背を見守っていると伝えるように【ステイタス】の編纂(へんさん)を終える。

 

 英雄が成した偉業は、炉の女神が新たに刻む【神聖文字(ヒエログリフ)】によって証明される。

 

 

 

 ベル・クラネル

 

 〝Lv.3

 

 力:H106

 

 耐久:H183

 

 器用:H151

 

 敏捷:H120

 

 魔力:G237

 

 宿命H

 

 耐異常I

 

《魔法》

 

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)

 

集束殲滅魔法(フル・エンチャント)

 

・雷属性

 

・チャージ可能

 

・チャージ時間に応じて威力上昇

 

《スキル》

 

英雄誓約(ヴァル・ゼライド)

 

・早熟する

 

意志(おもい)を貫き続ける限り効果持続

 

意志(おもい)の強さにより効果向上

 

鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)

 

・治癒促進効果

 

・逆境時におけるステイタスの成長率上昇

 

・時間経過、または敵からダメージを受けるたびに全能力に補正。

 

・格上相手との戦闘中、全能力に高補正。

 

 

 前代未聞の【ランクアップ】が、〝未完の英雄〟ベル・クラネルによって今此処に果たされた。

 

 ──英雄は止まらない。

 

 ──英雄は進み続ける。

 

 己が成した偉業さえ、誰かを守らんと願う己が器の昇華にくべるのみ。

 

 英雄の背中にて仄かに燃える不滅(ヘスティア)聖火(おもい)が、英雄の征く道を祝福しているのだ。

 

『さあ征こう。僕がアイズさん達を守るんだ……』

 

 ○

 

『アアアアアアアアアッ!!』

 

 己達が支配する舞台へと土足で上がってきた愚者(英雄)を目にした怪物(モンスター)たちは、腹を抱えて嗤笑(ししょう)する。

 

 馬鹿だ。愚かだ。ここは【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】、英雄が立つ戦場では無いのだと。何を勘違いしているのだと。

 

 ──分を弁えろ愚者が。

 

「口を閉じろよ、食人花(モンスター)……」

 

 いいや、否だ。愚かであるは〝光の英雄(ベル・クラネル)〟だと、勘違いも(はなは)だしいぞ怪物風情が。

 

 これより紡がれる物語は、古今東西で語られる王道なる英雄譚。英雄が掲げる、希望の輝き。

 

 鋼のように揺るがぬ瞳と、英雄の意志に共鳴する光の剣を携えし、希望(ヒカリ)の雄姿が目に入らぬか? 

 

 邪悪なるものを冥府に沈める裁きの雷霆が、汝らの前に現れた意味をまだ理解出来ぬか? 

 

「奪われる悲しみすら分からない怪物如きに、もう誰も傷つけさせはしない!!」

 

 ベルの脳裏に描かれるのは、勇敢なる祖父の姿。傷つき血を流し、それでも暴虐なる龍に立ち向かい続けた英雄の威光。

 

 しかしその雄姿を、もう二度と見ることは無かった。物言わぬ(むくろ)となった祖父は、少年を守る為にその命を捧げたのだ。

 

 だからこそ、英雄は誓う。己は決して負けないと。己は決して倒れないと。誰かを失う悲しみも、誰かを奪われる苦しみも、全ては己が抱くから。

 

 ──民よ。笑顔を浮かべて欲しい。悲しき涙を零さないで欲しい。

 

 ──誰もが幸せで生きられる未来を、この手で必ず切り拓いてみせるから。

 

 ──今一度、我が祖父(天空神)に誓う。ベル・クラネルは英雄になると。

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】!!」

 

 英雄が紡ぎ出すは誓いの証。誰かを守ると願った道標。天空神より受け継がれし、民を守護する裁きの雷霆。

 

 詠いあげる詠唱(ランゲージ)。オラリオに迸る凄まじい雷の魔力。その全ては、守るべき誰かに捧げる想い。

 

 民に希望を届けよう。絶望に嘆くことはないのだと、示して見せよう。

 

 天へと向かって轟いていく、黄金の雷鳴。高まっていく魔力の奔流。

 

集束せよ、殲滅せよ(フル・エンチャント)!!」

 

 殲滅光(ガンマレイ)の加護を受けるは、英雄が担う二刀神想。闇の一切を晴らさんとする光の波濤(はとう)が、神星鉄(オリハルコン)へと流れ出す。

 

「来いっ! お前達を殺すのは、この僕だ!」

 

 天より落ちた神の鉄が、天霆の号令に付き従わんと激越(げきえつ)的な狂喜(きょうき)を上げる。

 

 残像が生まれる程に強く震撼する武器の刀身から奏でられるのは、まるで不死鳥が再臨(さいりん)を果たした時に響き渡らせる聞きなしのようだ。

 

『────―!?』

 

──雷迅。

 

 大地を駆けるは、雷電の残光。英雄が立っていた大地に、その影は既になく。約束された勝利を手にするが為、モンスターへと進軍を開始した。

 

「しっ……!」

 

『アアアアアッ!!』

 

──閃光。

 

 振るわれる悪滅の閃刃。殲滅光(ガンマ・レイ)を纏った英雄の一閃が、モンスターの首を刎ねんと迫り来る。

 

「ぎぃ……!!」

 

『────!!』

 

 しかし定められた雷霆の裁きは、大地より躍り出た触手という名の生け贄によって妨げられてしまう。

 

 格上相手であることに加えて十対一。圧倒的に不利な状況。

 

 先制攻撃が決まらなかったことに、悔しさを滲ませるベル。開戦を告げる一刀にて、モンスターの一体を仕留めきれなかったのだ。

 

『────!!』

 

「ぐぅ……!!」

 

 しかしその一刀から見え隠れする〝未完〟の影こそ、英雄がまだ前へと進み、更なる高みへと昇華出来ることの証左となる。

 

「うぉおおおおっ!!」

 

 三度目である【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】の発動。依然として暴れ狂う雷霆の意志を掌握(しょうあく)すべく、ベルは極限まで意識を研ぎ澄ます。

 

 少しでも気を抜けば、オラリオ一帯を巻き込んだ魔力暴発(イグニス・ファトゥス)が起こってしまうのだから。

 

 未だに不完全である魔法の行使が、少しずつベルの肉体を蝕んでいく。

 

「はあっ……!」

 

 衝突する雷霆の一閃と鋼鉄の壁が、激しい火花を戦場に散らす。天に輝く恒星(たいよう)に迫るほどの魔力を纏った二刀の切れ味は凄まじく、モンスターの触手を強引に断ち切った。

 

『アアアアアアアアア!!』

 

 モンスターは本能から悟る。この愚者(英雄)は危険だ。己の命を脅かす存在だと。

 

 ──排除する。

 

 鋭利な槍と化した無数の触手が、ベルに向けて一斉に突き付けられる。その速度は疾風。放たれる威力は大剛。

 

 数え切れない死の雨が、ベルを処刑台へと誘おうとしていた。

 

「ふっ……!」

 

 しかし。

 

「はぁっ……!」

 

 ああ、しかし。

 

「らぁぁぁっ!」

 

 どれだけの苦境を前にしても、英雄は屈しない。降り注ぐ死線を前にしても、英雄は二刀を以て斬り裂くのみ。

 

(来る……! ……上だっ!)

 

 眼前へと迫り来る触手を《ヘスティア・ブレイド》で斬り裂くと、すぐさま後退(バックステップ)

 

「せぁああああっ……!」

 

 間を置くことなく地面へと突き刺さる触手を伝い虚空(こくう)へ舞うと、追随してきた二つの触手を《劫火の神刀(ヴァルカノス)》による剛撃で断つ。

 

(右と左から二つ……ならっ……!!)

 

 更に迫り来る四つの触手を視界に納めたベルは、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を振り切った勢いのまま竜巻のように回転することで、紙一重に回避する。

 

 英雄に避けられ隙を晒した触手は、回転を生かしたベルから振るわれるかまいたちが如き剣閃の下に細切れにされた。

 

「……」

 

 大地へと舞い戻る英雄。ベルの足下には、さきほど天を翔る為の土台となった触手が未だに地面に埋もれている。

 

「はぁあああっ……!」

 

『アアアアアアアアア!!』

 

 一切の呵責なく、二刀を突き刺し触手を葬り去るベル。

 

 刹那の攻防は、英雄が完全に制していた。

 

「ベル……」

 

「凄い……!」

 

「誰が新米の冒険者よ……冗談は止めなさいって……」

 

 多勢に無勢な状況。覆すことの出来ない劣勢。

 

 だがそれがどうしたと。気合と根性を漲らせ、戦場を駆ける英雄の希望(ヒカリ)に満ちた鮮烈な後ろ姿。

 

「「「ごくっ……」」」

 

 ──誰もが思わず、息を呑む。

 

 アイズの金眼に映るのは、出会った時から不変である〝光の英雄(ベル・クラネル)〟が、理不尽な強敵に立ち向かう王道なる英雄譚。格上殺しの快進撃。

 

 己から見ても拙さを感じる、未完の剣技。未だに御することの出来ていない、魔の技法。

 

 蹂躙(じゅうりん)される獲物でしかない筈の少年はしかし、足りない経験を気合いと根性で補い。

 

 ──英雄として、民に希望を(もたら)さんとしている。

 

(未完の……英雄……)

 

 誰が名付けたのかはアイズの知るところではないが、今のベルは正しく〝未完の英雄〟だった。

 

 己が弱いことは、百も承知。討たんとする敵が格上相手であることなど、端から理解している。

 

 未完であると、痛感している。

 

 それでも少年は……ベル・クラネルという英雄は、誰かの笑顔を守る為に立ち向かい続けているのだ。

 

 愚かだと、笑うなら笑え。己の信念を曲げること以上に、愚かなことはありはしないと。

 

 アイズが求める〝光の英雄(ベル・クラネル)〟は、己が雄姿を以て雄弁に語っていた。

 

「はぁあああっ!!」

 

 受けに回らざるを得ない状況にあっても尚、ベルは勝利を掴む為に虎視眈々とモンスターの動きを伺い続ける。

 

 度重なる死線。必殺の五月雨(さみだれ)。常に心身へとへばり付く、灼熱のような緊張感。

 

 ベルはそれら全てを、鋼の意志を以て跳ね返す。時間が過ぎ去るごとに増えていく疲労も、気合と根性で乗り越えて。

 

 永久に続く不利な状況も、【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】によって凌駕(りょうが)する。

 

「うぉおおおおおおおっ!!」

 

『────!?』

 

 強靱な精神。冷静な判断能力。貪欲に勝利を欲す気炎。

 

 ──敗北に傾いていた英雄譚の天秤が、勝利へと傾き始めた。

 

 開戦直後は(つばめ)のように素早い触手に目が追いついていなかったベルだったが、何合、何十合と斬り結んだことで、如何に変則的な動きで襲いかかって来ようとも、余裕を持って対応し始めたのだ。

 

 神であろうと目を見開く、驚異的な成長力。飽くなき勝利への闘争心が生み出す、人としての可能性。

 

 未完だからこそ、ベル・クラネルはどこまでも強くなれる。英雄になると誓ったからこそ、ベル・クラネルはどこまでも進み続ける。

 

『────!?』

 

 一合。ぶつかり合うだけだった触手が、無残にも切り捨てられる。

 

「しっ……!」

 

 二合。英雄の想いに応えんと、炉の女神の誓いが閃いた。

 

「はぁあああっ!!」

 

 三合。雷霆の裁きを下すべく、鍛冶司る独眼の想いが燃え盛る。

 

「もっとだ! もっと応えて見せろ! 僕の半身!」

 

 四合。悪逆なる怪物を屠る時。

 

 触手によって形成された茨の障壁(しょうへき)が、英雄の閃光によって砕かれる。

 

「まだ……まだぁああああ!!」

 

『アアアアアアアアア!?』

 

 比類なき英雄の一閃。毒々しく花開く怪物の一柱が、死滅の輝きを纏う光の剣によって断罪される。

 

「「「!!」」」

 

 英雄の前に敗北は無し。圧倒的な不利など、覆す為だけにあるのだ。

 

 英雄の進軍は止められない。勇猛なる一歩を踏み出せば、無数の触手を灰へと帰すのみ。

 

「逃がしはしないっ! お前達が奪った幸福と与えた絶望を、その身に刻んで朽ち果てろっ!」

 

『────!!』

 

 怪物によって造り出された絶望の牢獄は、英雄が握る希望の刃によって崩壊の一途を辿るのみ。

 

 ──運命を乗り越えて、【剣姫神聖譚(ソード・オラトリア)】の舞台で英雄譚が紡がれる。

 

 ──戦場にて刃を振るうは、神の想いを背負いし〝光の英雄〟。

 

 ──雄々しき後ろ姿が、民に希望を与える。

 

 しかし……

 

 

 ──英雄の舞台には、寄り添うべき精霊の姫の姿が無かった。

 

『うぉおおおおおおおっ!!』

 

(また……あの時と一緒だ……)

 

 まるで絵本を読んでいるかのような錯覚に、アイズは陥っていた。

 

 目の前で繰り広げられている英雄神話には、もはや誰も踏み入ることが出来ないのだと、言外に宣告されているようで。

 

(また私は……見てるだけなの……?)

 

 己もまた英雄譚を眺める事しか許されない、読み手(傍観者)の一人にすぎないのだと、何より自分が理解してしまったから。

 

(あの時みたいに……手も伸ばせずに……)

 

 アイズの恋情は冥府の底で、運命の鎖に縛られる。英雄に寄り添いと願った想いを、世界によって否定されるのだ。

 

 絶望と嘆き。苦悩と悲哀。運命という名の悪魔が、あらゆる負の感情となって無垢な少女を(そそのか)す。

 

 諦めてしまえ。怪物なんて、英雄が倒してくれる。

 

 お前はただ見ていれば良い。

 

(守られるだけの誰かで居るだけなの……?)

 

 ──お姫様のように、守られていればいいのだ。

 

 闇の底へと、引きずり込まれようとしているアイズ。暗闇に(おぼ)れ、想いから目を逸らし、再び英雄に守られる。

 

 ──そうだ。定めを受け入れろ。

 

 世界が(わら)う。運命が(わら)う。人間など、所詮はその程度だと。

 

 ──例外なのは、英雄(ベル・クラネル)だけだ。

 

『まだ……まだぁああああ!!』

 

 無垢な少女の眼前では、未だに英雄譚が語り継がれていた。

 

 恐怖に震える民を守らんと、怪物へと立ち向かう英雄。虚空に舞う閃光の斬撃。

 

 精霊の姫が、英雄の舞台に立つことは許されない。その資格を、アイズは持っていないのだ。

 

 何故ならば、アイズが己が身に抱くのは憎悪の業火と、ベル・クラネルへの向けられた恋情だけだから。

 

『誰か』を守る覚悟がなければ、英雄に寄り添えないのだ。

 

 紡がれる英雄譚に、主演は一人。この大原則(ルール)に変わりはない。

 

 英雄が剣姫の舞台に上がってこようと、傍観者(縛られる者)の立場が逆転するだけ。英雄が二人、並び立つことは叶わないだろう。

 

 その傲慢こそが、運命の過ち。もはや巻き戻すことは許されない慢心(まんしん)

 

 アイズの背に刻まれるは、黄昏を誘う道化師(トリックスター)のエンブレム。

 

 運命(ストーリー)原則(ルール)を破り、物語を己が手で紡ぐ賢者にして愚者なる者の祝福。

 

 ──閉ざされし門を開け。運命を打ち砕く時だ。

 

 ──今この瞬間、大原則(運命)は瓦解する。

 

(ベルに……ベルに守られるだけなんて……そんなの……嫌だ……!)

 

 だからこれは、当然の帰結だ。

 

 祝福の風が吹き、冥府に堕ちる少女は運命の鎖より解き放たれた。

 

 今の己では、誰かを守らんとする英雄に寄り添う資格が無い? 

 

 この身に抱く恋情では、英雄の征く戦場に相応しくない? 

 

 ──そんな運命なんて、私には関係ない。

 

『アイズの好きにすればいいんだ』

 

『好きなんだろう? ベル・クラネルのことが』

 

『なら、アイズが抱く想いのままに進めばいいさ』

 

 覚悟は既に済んでいる。決意が我が身に(たぎ)っている。麗しき妖精より、導きは示されている。

 

 ──アイズ・ヴァレンシュタインの往く道は、既にこの手の中に。運命も宿命も、全ては己の手で切り拓くのだ。

 

(私は、ベルの横に立ちたい……!)

 

 ──故に世界(うんめい)よ、勘違いしてはならない。これより紡がれるのは、光の英雄が征く王道なりし英雄譚(サーガ)ではない。

 

未来()へ進み続ける英雄に……寄り添いたい……!)

 

 今より幕を上げるのは、未完の英雄が歩み、精霊の姫が寄り添う、新たな英雄譚。光と闇の全てを抱きし神聖譚(オラトリア)だ。

 

 戦場に立つ英雄(主演)は〝二人〟。希望を掲げる光の英雄と、祝福を詠う精霊の姫。

 

 大原則(ルール)など知ったことか。運命(ストーリー)など求めていない。 

 

 我らが並び立つは、〝必然〟なり。

 

 ──精霊の姫が目覚める。英雄に寄り添わんと、羽を広げる。己の抱く恋情(おもい)の業火が、諦めるなと叫ぶ。

 

 ──運命の鎖に縛られた囚われの王女が、英雄の意志(おもい)に共鳴するのだ。

 

 ──砕かれる運命。新たに綴られる物語。

 

「……ベル!」

 

「アイズさん! ……下がっていてください!」

 

 英雄の戦場に、精霊の姫が並び立つ。踏みしめる一歩は、無垢な少女の勇気の証。

 

「……ううん」

 

 ──さあ、進もう。(恋情)(憎悪)も共に抱いて、英雄(ベル)の道に寄り添おう。

 

「……私も、……戦う」

 

 世界へ向けて詠おう。私の背に刻まれた〝祝福〟を。

 

「……私も、……ベルと一緒に……戦える!」

 

 今こそ、英雄(ベル)に捧げよう。私の抱く〝恋情〟を。

 

「【──目覚めよ(テンペスト)】」

 

 祝福を詠う、詠唱(ランゲージ)

 

「【──精霊の姫君(アリア)】」

 

 戦場を踊る精霊の風が『金』の色に染め上がり、少女を優しく抱きしめる。

 

「【──英雄に寄り添う精霊の風(エアリアル・ダンス)】!!」

 

 祝福の鐘楼(ベル)が、オラリオに響き渡った。

 

「……この、風は……」

 

 これより幕を上げるは、光の英雄と精霊の姫が紡ぎ出す、英雄神話の序章(プロローグ)

 

「私もベルと共に征く!!」

 

 ──故にこそ……邪悪なる者一切よ、ただ安らかに息絶えろ。

 

「君の道に寄り添える!!」

 

 ──涙の出番は、ここに幕引きだ。

 

「……アイズさん」

 

 ベルは刮目する。アイズの抱く覚悟に。(ほとばし)らせる尊き想いに。

 

 ──強い。剣を構える佇まいも。その身に纏う金色の(エアリアル)も。

 

 だが何よりも、心が強い。ベルが人々に求める想いの(あけぼの)を、アイズは抱いていたのだ。

 

「……………………」

 

 誰かの笑顔を守りたい。誰かの涙を笑顔に変えたい。アイズもまたベルにとっての守るべき『誰か』である筈だった。

 

 しかしそれは間違いだったと、英雄は己の認識を改める。

 

 無垢な少女は……アイズ・ヴァレンシュタインは、己が守ると誓った『誰か』ではないのだと。

 

「背中は任せます。僕は目の前のこいつらを……」

 

「……任せてっ!」

 

 己の背中を預けるに相応しい英雄であるのだと、ベル・クラネルは認めた(・・・)

 

 誰かの願い、その全てを背負わんとする英雄が、精霊の姫の想いに確かに応えて見せたのだ。

 

「征きましょう、アイズさん! ここからは、僕達の戦場ですっ!」

 

「……うん! ……一緒に征こう! ……私がベルに寄り添うからっ!」

 

 天に掲げる光の剣。戦場を馳せる、英雄の雷光。

 

 天に詠う祝福の歌。戦場を舞う、精霊の春風。

 

 英雄譚に綴られる第一章、その終幕。

 

 否、神話に綴られる神聖譚の序章(プロローグ)が始まりを告げた。

 

「しっ……!」

 

 アイズに背を任せ、ベルは正面にて対峙する四匹のモンスターに向けて疾走する。

 

 地面を走る雷鳴の迸出(へいしゅつ)。迫り来る怪物の一突きが、光の刃に断罪される。

 

『────!!』

 

 英雄の進撃を前に、背後より迫り来る魔の手。死角より狙い澄まされた怪物の一撃。

 

「……ふっ!」

 

 英雄へ寄り添うように、金色の風が舞う。背後より放たれた触手の軍隊は、精霊の姫より振るわれる白刃の軌跡によって敗走する。

 

「「はぁっ……!」」

 

『アアアアアアアアア!?』

 

 ──疾風迅雷。

 

 触手によって形作られた外壁は、ベルとアイズによって切り刻まれる。

 

(速い……! 動きに無駄がない……! これがアイズ・ヴァレンシュタインの剣技!)

 

(……凄い! 私について来れてる……! これがベルの抱く意志(おもい)の強さなんだねっ……!)

 

 モンスターへと振り下ろされる光の剣。白銀の瞬き。金に煌めく二つの刃によって、新たに生まれる断末魔。

 

 八対二。既に不利の二文字は消え去った。

 

 ──精霊の姫が寄り添いし、光の英雄に勝利の喝采を! 

 

 ~~~

 

 レフィーヤは朦朧とした意識の中、剣姫舞う英雄の舞台を眺めていた。

 

「嘘……」

 

 どこか夢心地の中、目の前で煌めく英雄の閃光。精霊の姫による演舞。

 

 しかしレフィーヤが心中で抱いていたのは英雄譚への畏敬でも、守られることへの安堵でもなかった。

 

 地に伏せる妖精が見詰め続けるのは、英雄がその右眼(……)に宿す黄金の雷火。

 

 無限に魔力を生成し続ける全能(……)なる輝きだった。

 

(……この気配は……『精霊』……?)

 

 今も肌で感じる、天にて王座に()す神の如き雷霆の気配。それは正しく神の半身。神の寵愛(ちょうあい)を受けし『奇跡』の血脈。

 

(違う……ベル・クラネルは……ヒューマンなんです(・・・・・・・・・)……)

 

 ベル・クラネルはヒューマンだ。この真実こそが唯一無二。

 

 だからこれは、己が抱いた愚かな妄想だ。『精霊』と『人間(ヒューマン)』が融け合っているなんてあり得ない。

 

(……待っていなさい、ベル・クラネルっ! あなたにだけは絶対に……! 絶対に負けませんっ!!)

 

 レフィーヤ・ウィリディスが超えんと願うのは、他でもないベル・クラネルなのだ。いずれ英雄に至る器を持つ少年なのだ。

 

 悔しい。悔しい。ただ眺めている事しか出来ない己の弱さ。

 

 負けない。負けない。あなたは私の憧憬じゃない。

 

 ──ベル・クラネルは、私の超えるべき者(ライバル)です! 

 

 ○

 

「『アルゴノゥト』……」

 

 際限なく高まり続ける胸の鼓動を感じながら、ティオナが噛みしめるように一人の英雄の名を呟いた。

 

 それは多くの者に受け継がれし、英雄神話。

 

神の恩恵(ファルナ)』なき暗黒の時代を切り拓いた、英雄の船が紡ぐ英雄譚。

 

 英雄にならんと謳う力なき青年が、怪牛(ミノタウロス)に攫われた囚われの王女を救い出す物語。

 

「どうしてかな? 君と全然似てない筈なのに……重なって見えちゃうのは……」

 

 それは時に〝喜劇〟として語られ、ある者は『アルゴノゥト』を道化と呼ぶ。

 

 あまりにもかけ離れている、二人の英雄。

 

 だがティオナには、強大なる敵との死闘で傷つきながら何度でも立ち上がるベルと、運命に翻弄されながらも己の信念を貫き続けた『アルゴノゥト』の〝雄姿〟が重なって見えた。

 

「あたし……君のこと……」

 

 ──好きになっちゃったかも……

 

 ○

 

「遅いっ!」

 

「……そこっ!」

 

 重なり合う二つの旋律。戦場を舞う光と風によって奏でられる、壮麗(そうれい)二重奏(デュエット)

 

『『『『アアアアアアアアア!!』』』』

 

 刹那の時を以て刻まれる、敗北と言う名の絶命。英雄の手によって渡される戦場の引導。精霊の姫が詠う、英雄に捧げし絶唱。

 

 崩された均衡(きんこう)のままに、四匹のモンスターが魔石を残して灰へと帰る。

 

 もはや、戦場に絶望の姿は無かった。あるのは勝利の希望(ヒカリ)だけ。

 

「これで終わりだっ……!!」

 

「……これで終わりっ!!」

 

 ──電光石火。

 

『『『『アアアアアアアアア!?!?』』』』

 

 未完の英雄が悪逆なる怪物を討たんと鋼の意志を滾らせ、精霊の姫が英雄の願いに寄り添わんと恋情を燃え上がらせる。

 

 共鳴し合うように高みへと昇り続けるベルとアイズの斬光が、空に輝く星々のように瞬きモンスターの魔石()を斬り裂いた。

 

「「……」」

 

 オラリオに響き渡る、モンスターの断末魔。それは、英雄の勝利を告げる終戦の凱歌だ。

 

 戦場に残る影は二つ。

 

 光の剣を天に掲げる〝【未完の英雄(ベル・クラネル)】〟。

 

 そして、英雄へ寄り添うように佇む【精霊の姫(アイズ・ヴァレンシュタイン)】。

 

 戦いは終わりを告げた。誰かの笑顔を奪う怪物は、居なくなった。

 

「ぐっ⁉︎」

 

「! ……ベルっ!」

 

 次の瞬間にベルを襲ったのは、強烈な虚脱感。限界を迎えた肉体がベルの意志を介さず、深い眠りへと誘われる。

 

 そんなベルを、アイズが優しく抱き留めた。

 

 抱きしめられたベルの身体に、温かな熱が伝わる。少しでも気を緩めれば夢の世界へと誘われる心地良さに、身も心も委ねたくなってしまう。

 

「……アイズさん……。僕は……、少しでも、あなたに……追いつけましたか?」

 

 だからベルは、閉ざされていく意識の中でアイズへと問いかける。

 

 己はアイズ・ヴァレンシュタインの願いに、応えられたのかどうかを。

 

「英雄に……近づけましたか?」

 

 月夜の下で誓った英雄への道を、歩むことが出来ているのかどうかを。

 

 どうか応えて欲しい、可憐なる精霊の姫よ。あなたの歌を聴かせて欲しい。

 

「……うん。……うん!」

 

 アイズに向けられたベルの眼差しには、真っ直ぐな意志が宿っていた。

 

 こんなにも傷ついているのに、ベルはアイズを想い言葉を紡ぎ出した。

 

 あの日の誓いを果たせているかと。

 

「……ベルは私に追いつけてる……。……誰かを守れる英雄になれてるよ……」

 

 だから己の紡ぎ出す応えなんて一つに決まっている。

 

 英雄に届け、我が想い。私が詠う祝福よ。

 

「あぁ……良かった……アイズさんとの誓いを……僕は……守れたんです……ね……」

 

 精霊の姫による抱擁が、英雄に安らぎの夢を与える。

 

「……すぅ……」

 

「……頑張ったね、……私の英雄(ベル)

 

 白い髪から覗かせるあどけない横顔は、兎のように可愛らしい少年のものだった。

 

 英雄ではない、ベル・クラネルという少年の偽りなき姿だった。

 

 精霊の姫が天を見上げる。

 

 ──オラリオの空は、今日も蒼かった。

 

 

 この日、世界(うんめい)は知る。

 

 己が誓いを果たさんとする、英雄の産声を。

 

 己が恋情を叶えんとその一歩を踏み出した、精霊の歌を。 

 

 

 

それは神時代に集いし英雄達の織りなす物語。

 

未来永劫、大陸で語り継がれるだろう冒険譚。

 

己の宿命を超え、誰かの笑顔を守る英雄神話。

 

これは英雄が歩み、精霊の姫が寄り添う、

 

英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)

 



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終幕

【未完の英雄】が産声を上げる時、停滞していた時代の流れは加速度的に動き出す。

 

 精霊の姫が、光の英雄の道に寄り添いたいと願ったように。

 

 美の女神が、黄金の閃光を永遠の伴侶(オーズ)に選んだように。

 

 炉の女神が、鋼の英雄に課せられた末路を見守ると誓うように。

 

 鍛冶司る独眼が、己が鍛えし雷霆との約束を果たさんと魂を燃やしたように。

 

 己が眷属を深く愛する道化の神は、神の試練(定められた敗北)を超えた英雄の轟きを前にして胸に何を秘めるのだろうか? 

 

 これは、英雄の物語(イロアス・オラトリア)ではない。

 

 これは神の試練を見届けた道化の神が、英雄に抱いた想いを綴る誰にも語られない物語(ささやかな幕間)だ。

 

 ○

 

 

 怪物祭(モンスターフィリア)の見世物としてダンジョンより厳重な体制の元に輸送されてきたモンスター達の脱走によって、オラリオ一帯は瞬く間に恐慌状態へと陥っていた。

 

 冒険者達は突然巻き起こった混乱の中でも臨機応変に立ち回りモンスターの撃退に乗り出した。

 

 しかし、【神の恩恵(ファルナ)】を持たない無力な市民達は、突如として訪れた命の危機に対して我武者羅に逃げ回ることしか許されない。

 

「だ、誰か助けてくれ!」

 

「こっちに来るな、モンスター!!」

 

 蔓延していく負の感情。止まり方を忘れた負の連鎖。

 

 絶叫、慟哭、流れる涙。崩れ去っていく、平和な時間。踏みにじられた、幸福な日常。

 

 笑顔で満ち溢れていた人々の表情は一転して、恐怖の色に染まりきっていた。

 

「来いっ! お前たちの敵はここに居るぞ!」

 

 先程までは、と言う前置きが付くが。

 

 今、周囲を見渡して見れば、視界に入るのは安堵した表情を浮かべる者ばかり。

 

 それどころか、目を眩く輝かせ興奮している者まで居た。

 

 恐怖に押し潰され、絶望を享受するしかない弱者の叫びなどただの一つも存在しない。

 

 何故ならば──

 

 彼等が抱く恐怖の総てをその背に担い、一遍の救いも無い絶望を振り払わんとする英雄(キボウ)が現れたからだ。

 

 オラリオ全土に【未完の英雄】として勇名を馳せる、次代を担う英雄の器。希望の体現者。

 

 ──少年の名を、ベル・クラネル。

 

 自分達では抵抗することすら許されない悪を討ち滅ぼす絶対なる断罪者が、化け物(モンスター)が支配する闘争に満ちた戦場へ、毅然として立ち上がる。

 

「貴方達は必ず守る」、「傷の一つとて負わせはしない」と、白兎を彷彿とさせる幼くも雄々しい少年の背中が語り、民達の心に歓喜と安堵を齎すのだ。

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】──────!!」

 

 故に。

 

 どれほどの傷を受けようとも、英雄は膝を折らず。どれほどの戦力差を突き付けられようとも、少年は屈服しない。

 

「必ずお前を討つ」と、胸に宿る意志を燃やし進み続ける【未完の英雄】だけが、戦場で閃光の如き刃を振るう。

 

「……っ! ……遅いっ!! 踏み砕けぇえええええええええええええええ!」

 

 ならば、訪れた勝利は必然だ。モンスターの敗北は、当然でしかないのだろう。

 

 彼は、ベル・クラネルは、ただの一度も諦めてはいないのだから。傷つくことなど、百も承知。力量差など、考えるまでもなく。

 

 だが、ベルには信念があった。揺らぐことを知らない鋼の意思が、その胸に宿っていた。

 

 そして何より、少年は知っていた。諦めなければ、負ける筈がないと。

 

「……はぁ……はぁ……僕の……勝ち、だ…………!!」

 

 憧憬は己が過去、祖父の背中で。未来を切り拓くは今、己が勝利で。

 

 ──刮目せよ、英雄譚は此処にあり。

 

「ああ……」

 

「あれだけボロボロなのに、まだ立てるのか……」

 

「英雄だ、彼こそが……英雄なんだ……」

 

 眼前にて繰り広げられる華々しい英雄譚を前に、人々は歓喜する。

 

 私達はいずれ吟遊詩人に謳われる万夫不当の英雄が戦う姿を、この目で直接見ているのだと。

 

 これこそが、英雄譚。幼き日、母が読み聞かせてくれた絵物語の具現者。

 

 人々の希望(ヒカリ)一色に染まった眼差しは、覚めることを忘れていた。

 

 ○

 

 そんな子供(人間)達を眼下で眺めるのは、美の女神フレイヤと道化の神ロキ。

 

 先程の騒ぎで賑わっていたテラスからは人の気配は消え去り、この場を支配するのは二柱の女神のみ。

 

『『……』』

 

 この場はもはや、異界と化した。人間如き矮小な存在では立ち入ることの許されない、神の領域である。

 

 咲き狂う歓喜。【フレイヤ・ファミリア】が主神は、胸の内に広がる歓びを惜しげもなく振り撒き続ける。英雄が上げる産声を誰よりも祝福する様に。

 

 大時化(おおしけ)る激情。【ロキ・ファミリア】が主神は、今回の騒動を引き起こした黒幕に対して鋭い視線を向ける。その身に駆け巡る苛立ちを、深く吐き出すように。

 

 一つの空間にて競合する、二つの神威。抱く感情は、歓喜と憤怒。故に対極。相容れる未来は訪れない。

 

 モンスターが暴れ出すまでは心が満たされ、安らぐような穏和な空気が漂っていた筈のテラスは、一転して混沌に覆われる。

 

 神が吐き出す感情の(捌け口)として。彼女達がぶつかり合う為の生贄として。

 

『おい、フレイヤ……! オラリオにあんなイカれたモンスターを放つやなんて、何のつもりや? 下手したら街の半分は消し飛んでたで?』

 

 小さく呟くように紡がれたロキの言葉には、どんな怒声よりも重く伸し掛かるような静かな怒りが孕まれていた。

 

『……あかんなぁ。とうとう色ボケし過ぎて、絞りカスほど残っとった正気まで全部、失ったんとちゃうか?』

 

 さながら、噴火する前の火山である。

 

 この場に人間が立ち会っていたら、その魂魄にまで恐怖が刻み込まれて自我を失い、瘴気を取り戻せなくなる程に。

 

 ロキの抱く想いは純然なる怒り。嚇怒の雷火。

 

 そして、一抹の疑問だ。

 

 何故? どうして? 一体何がフレイヤをここまで駆り立てる? 

 

 これまでも自身の欲に従って動くフレイヤに何度も手を焼かせられていたロキであったが、それでも最低限の分別は付けられていると思っていた。

 

 そう、思っていた。

 

 今日という日を迎えるまでは。

 

『うふふ……』

 

 彼女(ロキ)の眼前にて佇むのは、愛情を司り、豊穣を齎し、死者を迎え、そして……黄金(英雄)を生み出す美の女神フレイヤ。

 

 オラリオにモンスターを放つという許されざる暴挙に出たにもかかわらず、浮かべる笑みは依然として不敵。

 

 いや……己が感情を隠そうともせず剥き出しにして笑うフレイヤは、どこか狂気じみているような印象を受けた。

 

 狂信者と言う言葉がお似合いだと、ロキは内心で毒づく。

 

(まぁ、原因なんてどう考えても一つしかないやろ)

 

 フレイヤが変わり始めた原因は一つしかない。ロキの脳裏に浮かぶ人物は、ただ一人。

 

 フレイヤの視線の先に在るのも、ただ一人。

 

 美の女神に魅入られし憐れな子供の名は、ベル・クラネル。

 

 己が蛇蝎の如く嫌うヘスティアの眷属であり、己が娘のように溺愛するアイズの想い人でもある男。

 

 あの少年(英雄)が、フレイヤの愛情を射止めてしまったのだ。

 

 魅入ってしまったのだろう、少年の魂に。

 

 願ってしまったのだろう、英雄の覚醒を。

 

 求めてしまうのだろう、ベル・クラネルの総てを。

 

 故にこそ、今の彼女がここに在る。

 

 己が欲望に忠実な、神としての在るべき姿をしたフレイヤが。

 

『ふふ……怖いわ。ロキったらそんな鋭い目付きで睨んできて。たかが(・・・)モンスターが暴れた程度で、何をそんなに怒っているのかしら?』

 

 ロキが放つ憤怒の嵐を前にしても、フレイヤの表情は不変。何一つとして変わらない。優雅に妖艶に、天の袂で微笑を浮かべて佇むだけ。

 

『たかが……やと? これだけの事を仕出かしといて……どの口が言うてんねん……!』

 

 在り得ない。

 

 いくら神が娯楽と言う欲求に突き動かされる存在だからと言っても、限度がある。

 

 愛すべき子供の、それも他の神(ヘスティア)の眷属に強化の限りを尽くした正真正銘の化け物(シルバーバック)(けしかけ)けるなど、流石の神でも「面白いから」の一言では済まされない。

 

 ベルがもし「敗北」していたら、甚大な被害がオラリオに齎されるのは必至だっただろう。

 

『あら? 何か問題があるのかしら? 死人は出ないように気を遣ったし、怪我をした子だって、きっとほんの少しよ? その程度の損害、あの子(ベル)が覚醒する為の対価としては安すぎるぐらいだと思うのだけれど』

 

 しかし、糺弾されるだろう己の行動の総てをフレイヤは「何も問題はない」と、ロキに対して本気(・・)で口にした。

 

 危険もあった。被害もあった。しかし、どれも致命的ではない。英雄の覚醒(ベルの勝利)に比べたら、今回オラリオが被害に遭った損失など余りにも安い。黄金を路傍の石と交換したと言っても過言ではないほどに。

 

 なによりフレイヤは、信じている。ベル・クラネルならば如何なる絶望が襲い掛かってきたとしても、胸に宿した鋼の意思で必ずや凌駕してくれると。

 

 敗北など、ベル・クラネルには存在しない。

 

『……っ!』

 

 絶句するロキ。隔絶した価値観。英雄狂いの思考。己へ向けるフレイヤの双眸が黄金に染まっているように見えるのは、気のせいだろうか? 

 

 光の亡者を目の当たりにしたロキは、気圧されるように後ずさりしてしまう。

 

『ふふっ……怖がる必要は無いわ、ロキ。だって貴女も見たでしょう? 黄金の閃光(あの子)の太陽神ですら霞んで見える、魂の輝きを。鋼の如き不屈の雄姿を。その眼でしっかりと』

 

 委縮するロキを見たフレイヤは、慈愛の笑みを浮かべる。

 

 ゆっくりと、優しく、貴女にも英雄の輝きを知って欲しいと、理解して欲しいと。何処までも盲目に、恋に恋する少女のように、フレイヤは己が想いを噛み締めるように吐露する。

 

『何が言いたい……』

 

 突如として語られるフレイヤの独白を前に、困惑した表情を浮かべるロキ。

 

『神であるというのなら、導いてみたいと思わない? 私達が見てきたどんな英雄をも超える、黄金の如き英雄の輝きを。至高の光へと』

 

 ロキの顔を染めるのは、驚愕の二文字。

 

 フレイヤは希う。己が用意した()を討ち倒し、英雄としての道を雷鳴の如く駆ける未来を。

 

 己が求める理想の英雄になって欲しいと、神が人に与えられる最大限の愛情をフレイヤは捧げているのだ。

 

 今は未完な、一人の英雄に。

 

 今回の騒動を起こしたのも、全てはベル・クラネルの為。延いてはベル・クラネルの進歩(成長)の為。

 

 今のままでは満足できない。

 

 もっと強くなってほしい。もっと誰かを守ってほしい。

 

 もっと強大な悪を打ち滅ぼしてほしい。もっと覆しようのない絶望を乗り越えて欲しい。

 

 もっとベル・クラネルの意思を輝かせてほしい。

 

 ──英雄になって欲しい。

 

 ただそれだけ(・・・・・・)の為に、今回の騒動をフレイヤは画策した。

 

──だって、美しいじゃない! 

 

 暴れ回るモンスターを前に、逃げ惑う民衆達。そして立ち上がる、希望の英雄。彼の誓いを妨げるは、絶対無比なる白猿の化け物。【未完なる英雄】には荷が重すぎる、理不尽の権化。

 

 民衆を守る為に立ち向かう英雄は、化け物の圧倒的な強さを前に傷つき、大地へ屈しそうになる。

 

 ──しかし! しかし! 英雄は諦めない。

 

 誰かを守る為に魂を燃焼させて再び立ち上がり、覚醒を果たした暁に勝利をその手で掴み取るのだ! 

 

『あぁ、思い出しただけでも身体が火照っちゃう。私の予想を超えて勝利を叫ぶあの子は、誰よりも「英雄」だったもの!』

 

 あぁ……なんと華々しきかな、英雄譚。王道なるかな、【未完の英雄】。

 

『……っ!』

 

 ──巫山戯ている。全く以って、巫山戯ている。

 

 そんな絵物語のような展開は、正しく創作物の中でしか存在しえない。「気合」と「努力」と「根性」だけで絶望的な劣勢を覆すなど、子供に読み聞かせる絵本のようではないか。

 

 そんな妄想(ヒカリ)を、冒険者としての道を歩き出したばかりの14歳の少年に課すなど拷問にも等しき所業だ。

 

 ロキだって、理解している。己の眷族達が今の高みへ至るまでに何度も修羅場をくぐって(冒険してきた)きたことを。

 

 修羅場を乗り越えたならば、その経験は大きな力となって器の昇華(ランクアップ)にすら手を届かせるだろうことを。

 

 だが、フレイヤが与えた神の試練は違う。

 

(これは……これは! そんなもんやないっ! 認めてたまるかっ! こいつ(フレイヤ)がやった事は間違いなく、あの子を殺すようなもんやった!)

 

 あれは絶望()。ただただ、ベルという存在を殺すためだけに立ちはだかる、絶対的な敗北だった。

 

 勝利を掴む未来など、欠片も存在を許されない。

 

 僅かな可能性からの逆転すら、嘲るように否定される。数多くの英雄たる冒険者を見てきたロキだからこそ、ベル・クラネルの陥った状況が如何に詰んでいる(・・・・・)のか、正確に理解できた。

 

 無理、無茶、不可能。過ぎる考えは諦観、ベル・クラネルの敗北。

 

 しかし、フレイヤの考えを肯定するようで癪だが、ロキが描いた物語の結末は決して訪れることは無かったのだ。それは、ベル・クラネルが神の予想すら凌駕する逸脱者であることの、何よりの証。

 

 決定していた筈の敗北を、「諦めない」と言う意思一つで粉々に粉砕してしまった。

 

 二つの眼に焼き付けた光景は、正しく英雄の戦いだった。あれほど鮮烈で、胸が滾る戦いはそう何度も拝めるものではない。

 

 肯定して良いのだろうか? フレイヤの求める鋼の英雄を。ベル・クラネルが『誰かの為に』、『未来の為に』と、どこまでも雄々しく邪魔する者を轢殺しながら突き進む事を。

 

 光の奴隷であることを、認めても良いのだろうか? 

 

 駄目だ。ロキの想いが否定する。もしベル・クラネルを光の奴隷だと断じてしまえば、それはアイズの恋路を否定することになる。

 

 だってそうだろう? 光の奴隷であると認めてしまえば、ベル・クラネルの捧げる愛は、名も知らぬ『誰か』のモノであると証明してしまう。

 

 少年の抱く鋼の誓いも、英雄が掴む不変の勝利も、ベル・クラネルが切り拓く耀き未来も。

 

 その総てが『誰か』に報いる為だから。

 

(せやけど……なんや、この違和感は。大事な部分で噛み合ってないような引っ掛かりは……)

 

 しかし雷を纏う少年の瞳に宿る鮮烈な意思は、天すら衝かんと轟いた雄叫びに込められた感情は、清廉潔白な白き輝きなどでは無く。

 

 もっとドス黒い闇のような……執念にも似た……

 

 ベル・クラネルの本質へ微か触れそうになったその時、神の直感が囁く。

 

 ──まだ触れるな、と。その先を知る時は今ではない、と。

 

『……っ!』

 

 鳥肌が立つような身体の震えに、ロキは思わず息を呑む。ベル・クラネルには何かがある。【超越存在(デウスデア)】である己ですら恐怖してしまうような、ナニカ(・・・)が。

 

 アイズの恋路を止めるべきなのかもしれない。ロキの脳裏に微かに過ぎる悪魔の言葉。ベル・クラネルには近づかない方が良い。あの少年は遠くから見ているだけで済ませるべき存在だ。

 

 危険。あまりにも危険。止めることの出来ない不安の暴走列車。

 

「ベル・クラネルから離れろ」と警報を鳴らす神の直感にロキは……

 

 ──……私も、……ベルと一緒に……戦える! 

 

『……アイズたん?』

 

 その時、風が吹いた(声が聞こえた)優しく英雄を包み込む、黄金の風が(ロキが愛する、アイズの声が)

 

 瞬間。壊れた玩具のように警報を鳴らし続けていた神の直感が、ピタリと鎮まった。今までロキの頭に響き渡っていた危機感とも呼べる予感の総てが、風に流されるが如く消え去ったのだ。

 

──物語が、書き換わった。

 

 祝福の風がオラリオに満ちる。鋼の未来が、白銀へと昇華する。

 

──ベル・クラネルの、新たな道が拓かれる。

 

 ──……心配しないで、ロキ。ベルは、きっと大丈夫。私が寄り添って見せるから。……だから、信じて? 

 

(アイズたん……)

 

 運命と言う名の鎖が引きちぎられる音を、ロキは確かに聴いた。

 

(……はぁー。ほんっとうにバカやな、うちは。大馬鹿や。あの時、決めたやんけ! アイズたんの恋路を全力で応援するって! その為に出来るだの手助けをするって! なのに、何アホなこと考えてんねん! ……こんなんフレイヤのこと、馬鹿にできんで)

 

 ロキの心を満たしていた筈の怒りと恐怖は、優しく吹いた風と共に遠い彼方へ旅立った。

 

(あかんあかん。自虐すんのも、ここまでや。アイズたんが必死で頑張ってんのに、うちだけかっこ悪いとこ見せる訳にはいかへんやろ。英雄狂いの色情魔に、吠えづら掻かせたるわ)

 

 この身に猛るのは、神威以上の何か。今まで抱いた事の無い歓喜の嵐が、ロキの胸内で打ち震える。

 

 アイズはきっと成し遂げたのだろう。「英雄」と呼べる者達に纏わりつくクソッタレな運命を打ち砕き、新たな未来()を示したのだ。

 

 ──ベル・クラネルに、寄り添えたのだ。

 

 視える。迸る雷鳴(【未完の英雄】)を包み込むように寄り添う黄金の風(精霊の姫)が。共鳴しあう二人の姿が。新たに紡がれる、二人の物語(イロアス・オラトリア)が。

 

『ふふっ……これで貴方も理解した筈よ。あの子(ベル)の胸に秘められた強さを! 抱く意志の輝きを! 英雄としての可能性を!』

 

 フレイヤには、ロキの感じた風の音が聞こえていないのだろう。だからこそ、フレイヤにとって手遅れになっている現在の状況に未だ気付かない。

 

『アホか、理解すんのはお前や。フレイヤには聞こえへんのか? うちの可愛い可愛いアイズたんの(決意)が。ほら、はっきり視えるやろ? ベル・クラネルの隣に立つ、アイズ・ヴァレンシュタインの雄姿が』

 

『……なんですって?』

 

 光に狂っているフレイヤの瞳に、僅かだが困惑の色が宿る。先程まで怒りに震え俯いていた筈のロキが、悪巧みをする時のようなあくどい笑みを浮かべながら、突如としてアイズ・ヴァレンシュタインの名を出したのだから、当然とも言える。

 

 ──【──目覚めよ(テンペスト)

 

 静かに響く、誓いの詠唱(ランゲージ)

 

『……そんなもの』

 

 されど、まだ聞こえない。

 

 ──【──精霊の姫君(アリア)

 

 燃え上がる、少女の恋情。

 

『……何も』

 

 されど、まだ感じない。

 

 ──【──英雄に寄り添う精霊の風(エアリエル・ダンス)】!! 

 

『……!? ……何が!?』

 

 フレイヤの疑問に答えたのは、ロキではなかった。彼女の疑問に答えたのは、オラリオ一帯を麗しき精霊が踊っているかのように軽やかに吹く、黄金の風。アイズのベルへの恋慕が開花させた、魔法の力だった。

 

『うちさえ抑えれば計画に支障をきたさんと思うてたみたいやけどな、フレイヤ。その考えは間違いだったみたいやで』

 

 ──神造の英雄譚は幕を閉じ、神聖(新生)なりし英雄譚が幕を開ける。

 

人の子(ベル・クラネル)の未来に寄り添うのは、人の子(アイズ・ヴァレンシュタイン)や。神様(お前)やない』

 

 ──もはや、誰にも止められない。たとえそれが、神であろうとも。

 

『あり得ないわ!! そんなこと!!』

 

 油断。否、これは己の油断などではない。

 

 何人たりとも比肩を許さないベル・クラネルの征く道に、寄り添える者など誰もいない。何故ならば、総てを背負い、己こそが希望の御旗にならんと愚直に突き進むのがベル・クラネルという英雄の在り方であった筈だから。

 

 戦場に立つのは、己一人。他の総ては、「守るべき誰か」と「討つべき敵」かのどちらかでしかない。

 

 孤高なりし、鋼の英雄。

 

 ──その筈だった。

 

『あの子の横に立てる人間なんて、居る訳が!!』

 

 だが、フレイヤの眼にも残酷なほど鮮明に映った。ベル・クラネルの横に、寄り添うように立つアイズ・ヴァレンシュタインの雄姿が。

 

 黄金の瞳に宿すのは、決意。英雄に寄り添うという覚悟。凛として咲くアイズの雄姿が黙して語る、「私は守られるだけの誰かじゃない」と。「貴方の道に寄り添える一人の女」だと。

 

 フレイヤはここに来て、久しく感じていなかった焦燥に身を焦がす。それと同時に湧き上がってくる感情の名は、嫉妬。

 

 ──好きなだけ泳がせておけば良い。最後にベル・クラネルを抱きしめるのは、己なのだから。

 

 自分自身の考えをここまで愚かだと断じる時が来るとは、フレイヤは思ってもいなかった。

 

 今のアイズ・ヴァレンシュタインでは、絶対にベルの隣に立てないと甘い見立てを立てていた己を、フレイヤは呪ってしまいたいと心の底から思う。

 

 憤怒、嫉妬、焦燥。ベル・クラネルが他の女に奪われるかもしれないと言う可能性に至っただけで、フレイヤの胸内は嵐の如く吹き荒ぶ。暴走する感情の波濤。止める必要のない激情。

 

 許せない。アイズ・ヴァレンシュタインが。彼女の意思に屈した、運命が。何よりも。これより紡がれるだろう【英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)】が。

 

『アイズ・ヴァレンシュタイン!!』

 

 このような現実は、決して認めない。これから紡がれるだろう未来も、断じて認めない。英雄の隣に誰かが立つことも、絶対に認めない。

 

 今ある総てを、フレイヤは認めない。

 

 あの魂の輝きは、【未完の英雄】たる少年は、黄金の閃光は、ベル・クラネルは。

 

 ──私だけのモノ。

 

 迸る神威。荒れ狂う愛欲。揺ぎ無い恋慕が、慟哭する。

 

 美の女神たるフレイヤが告げる。アイズ・ヴァレンシュタイン(凡庸なりし人の子)よ、運命を前にひれ伏し……

 

『フレイヤ……見とるで、うちが』

 

『くっ……ロキィ!!』

 

 なりふり構わず行使しようとした【神の力(アルカナム)】は、ロキの一言を以て霧散した。今この場に居るのは、フレイヤだけでは無い。自分自身が呼び寄せた道化の神が居る。

 

 自暴自棄にも程がある。ここで、終わるわけにはいかない。ベル・クラネルを、この胸に抱きしめるまでは。

 

『さっき自分が言うてたんやで、「私ですら無理だと思っていた試練を乗り超えてみせた」って。ベル・クラネルはフレイヤの予想を上回ったんや。お前のお望み道理な』

 

『………………』 

 

 ──好きなだけ泳がせておけば良い。最後にベル・クラネルを抱きしめるのは、己なのだから。

 

 憔悴するフレイヤの脳裏を過るのは、先程まで愚かと切り捨てた自身の発言。そうだ何を取り乱しているのか、英雄は未だ未完。器が満たされる事はなく、完成は遥か彼方にある。

 

 詰みであるなど、早計にも程がある。王手すら、かかっていない。

 

 取り乱す必要など、欠片も存在しないではないか。

 

『なんや? だんまりか?』

 

 先程までと打って変わり、沈黙を続けるフレイヤを不審に思うロキ。

 

 静寂に包まれる空間。

 

『ふふっうふふ……アハハハハハハハハハッ!』

 

 そうだ。まだ慌てふためく時間ではない。ベル・クラネルの物語は、まだ始まったばかり。綴られた【神聖英雄譚】は、未だ第一章でしかない。

 

『あぁ、可笑しいわ。あの子の物語(英雄譚)は、始まったばかり。何を焦る必要があるというのかしら? ロキもあの泥棒猫(アイズ・ヴァレンシュタイン)も、黄金の閃光(ケラウノス)のこと何一つとして理解していないじゃない。付け入る隙は、これから幾らでも生まれるわ』

 

 今はアイズ・ヴァレンシュタインが、ベル・クラネルの横に立っているかもしれない。しかし、それは「現在」でしかない。

 

「未来」は幾らでも変えられる。運命の鎖は、総て砕けた訳でない。未だ多くの呪縛(宿命)に、ベル・クラネルは囚われている。

 

 ならば。

 

 これより多くの艱難辛苦を退け数多の絶望を希望に変えた時、真の英雄となった時、ベル・クラネルの横に立っているのが(フレイヤ)であればいいだけの話だ。

 

 終わり良ければ総て良し。それまでの過程など、英雄の物語をより美しく彩るささやかな刺激(スパイス)でしかない。

 

『なんや、負け惜しみか?』

 

『違うわ、確信よ。あの子の道に寄り添える者は、誰一人としていない。黄金の閃光(ケラウノス)の英雄譚は、黄金の閃光(ケラウノス)だけのモノ。そして最後にあの子を抱きしめてあげられるのは、私しかいない』

 

『でも……えぇ、そうね。今日は面白いモノを見せてもらったわ。私の思っていた以上のものを、ね』

 

『さよか、それはよかった。うちもアイズたんの可愛い姿見れて、めっちゃ満足しとるもん』

 

『ふふっ……それは良かったわ。わざわざお茶会に誘った甲斐があったというものね』

 

 笑い合う両者。互いの双眸に映る表情は、恐怖すら感じるほどの清々しい笑顔。形作られたその表情は、まるでマネキンのような不気味さを醸し出す。

 

『また誘わせてもらうわ、ロキ。なんだか今度は、もっと楽しめそうな気がするもの』

 

 困難を乗り越えたのならば、より大きな困難を。絶望を覆したのならば、より深い絶望を。

 

 勝利をその手に掲げたのならば、より輝かしき勝利を。

 

 勝利からは逃げられない。否、私が絶対に逃がさない。

 

 ベル・クラネルは、鋼の英雄になるのだから。

 

『ハッ! そんなんお断りに決まっとるやろ?』

 

 図ったかのような、言葉が返ってくる。

 

 フレイヤの内心を、ロキは見透かしているのだろうか? 

 

 ベル・クラネルは、光の奴隷になりはしない。少年は選んだ。立ち塞がる敵に一人で立ち向かうのではなく、己の背中を預けるに足る英雄と共に進み征く道を。

 

 小さな選択は、大きな変革を少年に齎す。

 

 テラスから去るようにゆったりと歩みを続けるフレイヤへ別れ際に一度、ロキが視線を向け。

 

『お前とのティータイムなんか、今回だけで十分や』

 

 道化のように、嗤った。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一章 天霆に炉の祝福を 終幕

 

 

 

 








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二章 十二時に鳴り響く、白銀の鐘音
弱者の独白(プロローグ)







十二時に鳴る鐘の意味を、誰も知ることはない。

しかし、未完の英雄と灰かぶりの少女は、きっとその意味を知るだろう。





 ──前人未踏の栄光。

 

 人々は騒然、神々は驚嘆。

 

 突如ギルドが発表したのは、現在のオラリオを席巻する【未完の英雄】がLv.3への【ランクアップ】を達成した経緯についての詳細だった。

 

「Lv.3……? ……マジかよ……何かの冗談じゃないのか……?」

 

「ハハッ! やっぱり凄いな、【未完の英雄】は! あの少年は、いつだって俺達の予想を超えるんだ!」

 

 ここに綴るは【未完の英雄】、その功績に他ならず。光に狂いし亡者達よ、今一度その瞳に希望を宿せ。光に狂え。

 

 ──総べての始まり、Lv.1時点でのミノタウロス、単独撃破。

 

 ──塗り替えし歴史、僅か半月によるLv.2への【ランクアップ】。

 

 ──英雄の証明、怪物祭(モンスターフィリア)でのシルバーバック強化種、単独撃破。

 

 そして…… 

 

 ──新たな伝説の到来、『僅か一月にしてLv.3へ【ランクアップ】』。

 

 現在のオラリオを席巻する【未完の英雄】と呼ばれた白兎の少年は、讃えられし二つ名に恥じぬ驚天動地の偉業を瞬く間に打ち立てた。

 

 何より恐ろしいのは、打ち立てた偉業の総てが他者であれば「不可能」と断ずる一番星であること。暗く霞むような栄光が、欠片も存在しないのだ。

 

 ──Lv.1のミノタウロスの単独撃破。人はこの偉業を無理だと首を横に振る。

 

 ──僅か半月でLV.2へ【ランクアップ】。人はこの偉業を異次元の速度だと断ずる。

 

 ──シルバーバック強化種の単独撃破。人はこの偉業を自殺志願者のすることだと慄く。

 

 ──僅か一月でLv.3へ【ランクアップ】。人はこの偉業を不可能であると思わず目を疑った。

 

 他者では為せぬことをする。それこそが【未完の英雄】が紡ぐ英雄譚。

 

 故に民達は、惜しげもなく英雄を喝采するのだ。

 

 曰く、希望の体現者と。曰く、英雄の中の英雄と。曰く、化け物の討滅者と。曰く、曰く、etc……。

 

 数え始めれば(きり)がない。

 

 囁かれる噂の中には、あの【剣姫】と共に謎のモンスターを討伐したらしいという、嘘か真実か判断の付かないものまで存在した。

 

 多くの者達が【未完の英雄】を讃え、新たな英雄の誕生に祝福を送る。

 

「これから多くの英雄譚を生み出して欲しい」と、人々は叫ぶ。「我等が心を歓喜で満たして見せろ」と、神々は願う。

 

 ──しかし、総ての人間と神々が英雄を喝采している訳ではなかった。

 

 ほら、よく目を凝らしてみるんだ。ここにも一人、英雄の威光に目が焼かれていない、灰かぶりの少女が居るだろう? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

「おいっ! なにチンタラしてやがる、さっさしろ!」

 

 ──何が、次代の英雄だ。

 

 ──何が、悪を討つ裁定者だ。

 

 ──何が、希望を背負う者だ。

 

【未完の英雄】が真の英雄足りえる存在ならば、早く私の目の前にいる屑にも劣った畜生(かたがた)を断罪してはくれないだろうか。私の雁字搦めな絶望的状況を、真一文字に斬り伏せてはくれないだろうか。

 

 ──お願いだから、助けて下さい。

 

 だが現実は、私の願いを否定する。英雄が駆けつけてくる事はない。

 

「こっちは時間がねぇだよ、時間がよぉ? 分かってんのか、この能無しがっ!」

 

 誰にも手を差し伸べてはもらえず、愚鈍な冒険者達に寄生するように縋り続けれなければいけない私はきっと、英雄に救われるヒロインにはなれない。

 

「ったく。鈍間な足で後ろを付いてくることしか出来ねぇ奴に、くれてやる報酬なんてなぁ……1ヴァリスもねぇんだよ! 分かってんのか? あぁ!?」

 

 何時までも薄暗い闇の中で、灰をかぶって生きていくしかないのだ。

 

「いやー……それにしても【未完の英雄】君の戦い、凄かったよなぁ」

 

 オラリオに轟いた天神の雷霆でさえも、照らせない人々が居る。英雄譚の端役にすらなれない、どうしようもなく終わっている人間が、オラリオには存在するのだ。

 

「ああ、あれな。シルバーバックとの戦いだろ?」

 

 夢を望んではいけない。希望を抱いてはいけない。私のような人間は誰かを騙し、誰かから奪い、今日という日を必死で食い繋いでいくしかないのだから。

 

 手段を選んでなどいられない。選ぶ余裕など端から存在しない。

 

「そうそう。正直あの戦い見るまで俺は、Lv1でミノタウロスを倒したなんて噂は、欠片も信じてなかったんだぜ。なーにホラ吹いてやがるんだってさぁ」

 

 惨めだった。只管に無様だった。

 

『【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】──────!!』

 

 純真無垢な希望の祈りは、時に人の心に根深い罪を植え付ける。

 

 ──だってそうじゃないですか? 

 

 あの光さえ見なければ、胸が引き裂かれるような、心の痛みを抱かずに済んだのに。

 

「まあ、あんな傷だらけで立ち続けるなんて、俺からすりゃ気が知れねぇけどよ」

 

 私達を守る為に魂魄を燃焼させる英雄の雄姿さえ目の当たりにしなければ、まだ今の暗がりが丁度良かったのに。

 

「腕とか完全に逝ってたもんな!」

 

 ──前を見ようと思わずに済んだのに。

 

 ──「頑張ってみよう」等と、考えずに済んだのに。

 

 今の自分を認めているのに、今の自分を認めたくない。あの輝きを見て以降、相反する思考が同居しているのだ。

 

「俺らも今から英雄、狙って見るか? あの白兎みたいにさぁ」

 

 痛い。胸が痛い。私を馬鹿にして見下す冒険者を嘲笑するだけでは、己の存在価値を維持出来なくなった。

 

 今、私に襲い掛かるのは、己が『弱者』である厳然なる事実。

 

 そして、「誰かの為に」と前へ突き進む英雄に、偶々その場に居たから助けられただけの顔も名前も無い「一般市民」であると、突き付けられた事への恐怖だ。

 

 あぁ、恐い。私は恐怖を抱いている。何に? 【未完の英雄】に? ……違う。行き止まりのような、灰をかぶったような、無価値な自分の人生に。

 

「ぎゃははっ! 冗談言うんじゃねえよ! 誰があんな英雄(バケモノ)なんて目指すかってんだ! 命がいくつあっても足らねえだろうが!」

 

「言えてるぜ!」

 

 白髪の英雄は、もし私をモンスターから助けられなかったとしても「ごめん、君を助けられなかった不甲斐ない僕を許してくれ。……でも。あぁ……だからこそ、僕は前へと進むよ。君の無念もこの背に抱いて。決して立ち止まらないと誓う。必ず報いてみせる」と、助けられなかった「誰か」の一人として、私の命を勝手に背負って征くのだろう。

 

 それが、「私」の命には価値がないと侮辱されているようで。灰色の人生を歩む私が、悲しい存在のようで。

 

 弱者で居続ける自分が、何故か許せないのだ。

 

「「ギャハハハハハッ!」」

 

 私の前に立っていた白髪の英雄は、強者だった。誰かさん()とは違って、たった一つしかない世界で何よりも大事な筈の自分の命を、赤の他人の為に躊躇いなく費やせる人間だった。

 

 ──英雄だった。

 

 ──じゃあ、なんで私を助けてくれないのですか? 

 

 また、胸がジクリと痛む。余りにも自分勝手で、我が儘な心の慟哭。

 

 醜い、私。大嫌いな、私。

 

 そんな私を、彼が救ってくれる訳がない。前しか見ていない英雄に、後ろばかり振り向いて過去に囚われている私は映らないに決まってる。

 

「おい、遅れてんじゃねぇぞ!」

 

 思考の最中、私を怒鳴る声が耳元で震えるように響く。嫌な雑音(ノイズ)だ。一言、耳にしただけで気分が下がる、最低な音。

 

 彼等を見てみろ、白髪の英雄。

 

『冒険者』とは本来、彼等のような横暴な人間を指す言葉だ。

 

 彼等は弱者に手加減も、慈悲も与えない、残酷な人間。非情な人種。

 

 だって昏き闇の底で蠢動するダンジョンには、残念ながら人間の論理は何一つとして通用しないから。

 

 深き底に通じる迷宮を支配するのは、「弱肉強食」を掲げる獣の法しかないのだから。

 

 故に、彼等こそが真の冒険者なのだ。そうであるに違いない。

 

 彼等は自身の抱える欲望を満たす為ならば幾らでも残忍になれるのを、貴方は知っていますか。英雄様? 

 

『誰か』の笑顔を守り、『誰か』の心に希望を灯し、『誰か』の幸福を願える貴方にはきっと──

 

「たく、英雄様みたいな一騎当千の活躍を求めてる訳じゃねんだ。せめてモンスターが集まった時くらいは、ちゃ~んと仕事をしてくれよ? ──なぁ、役立たず(サポーター)君?」

 

 ──『弱者』の気持ちは分からない。絶対的な『強者』である英雄様では、運命に抗う力も持たない無力な非戦闘員()の気持ちなど、絶対に。

 

「……ん? ……おい、あそこでモンスターと戦ってる餓鬼、もしかして【未完の英雄(ベル・クラネル)】じゃねえか?」

 

「……あん? おー確かにありゃ、英雄様だな。あんな目立つ容姿してりゃあ、間違えっこねえぜ」

 

 冒険者達(ノイズ)が何かを喋った。聞きたくもない者の名(ワード)を発した。

 

 瞬間。

 

 ──英雄の覇気(ヒカリ)が、空間に満ちる。

 

 ──喝采せよ、【未完の英雄】の登場だ。

 

 身体が、無意識の内にガタガタと震える。自然と頭が俯き始め、汗が零れて地面に滴り落ちた。

 

 まただ。また、白髪の英雄が戦っている。私と同じ道を。私と同じ世界で。オラリオの大地で、戦っている。

 

「にしても……なんだよ、あの動き……速すぎて、よく見えねえぞ……」

 

「気が付いたら……モンスターが死んでやがる……」

 

 生きる世界が違う筈なのに。綴られる物語の題目が、違う筈なのに。

 

 灰をかぶった私の直ぐ目の間で、【未完の英雄(主人公)】が戦っている。

 

「……本当にLv.3に【ランクアップ】したって言うのかよ? たった一月で? ……冗談キツイぜ……」

 

「ハハハッ……正しく英雄だな、生きる世界が違う…………違い、すぎるぜ……」

 

 彼等の会話を聞いて、鬱屈とした想いが湧き上がって止まらない。

 

 軋む身体、震える心。五臓六腑に染み渡る、英雄への八つ当たりじみた怒り。

 

 彼等の言う通りだ、生きる世界が違う。

 

 思わず、視線を向けてしまう。見たくないと思いながらも、目を逸らしたいと考えながらも、身体が言う事を全く聞いてくれない。

 

 僅かも存在しない希望(かのうせい)を夢想したい、愚か者の行動だ。

 

 ──眼前に広がるのは、化け物殺しの英雄譚。

 

 ──灰かぶりの少女の求めていない希望の光が、燦燦と煌いていた。

 

 モンスターに対峙する白髪の英雄は、両手に握る二刀へ雷霆を纏わせて、迅雷の如く疾走する。

 

「疾っ!」

 

『グギャッ!?』

 

 英雄が奔る。雷の落ちる音がする。断末魔が響く。モンスターが一刀両断されている。

 

 瞬きする間も許されない、刹那の攻防。しかし、両者の間に駆け引きなど存在しない。

 

 英雄が踊り、血飛沫が舞う。轟く雷鳴は、戦場に響く旋律だ。

 

 化け物共の怒号は、戦場に閃く雷の残影に斬り伏せられ。

 

 化け物共の殺意は、英雄の意志を前に霧散する。

 

「はぁっ!!」

 

『ガッ!? ……ァ……』

 

 英雄が魅せる後ろ姿に、不安も恐怖もありはしない。その背に担うのは「勝利」と「希望」。

 

「ふっ……!」

 

「せぃっ……!」

 

「せぁっ……!」

 

『『『ギャァ…………』』』

 

 振るう刃は至高であり。進軍する姿は最強で。纏う雷霆は究極だった。

 

 ──それ以外に形容すべき言葉が無かった。

 

「これで終わりだ!」

 

『グ……』

 

 人間を喰らい尽くさんと獰猛な表情を浮かべていたモンスターの群れを一騎当千、蹂躙する。

 

 正に、彼は白髪の英雄(主人公)

 

 余りにも一方的すぎる、戦闘の展開。モンスター達は、たった一人の英雄に傷の一つ与えることすら許されない。

 

 悪は正義に敗れるのが運命であると、世界が突き付けているようだ。

 

 そう言わしめる程に、【未完の英雄】は圧倒的だった。否、圧倒的すぎた。思わず対峙していたモンスターを憐れんでしまう位に。

 

 もはや嫉妬の感情すら抱けないくらい、生きる世界が隔絶している。

 

 そして私は人間の屑だから、彼等のような冒険者の下で非戦闘員(サポーター)をしているしかないのだ。

 

「そろそろ戻ろう。あまり無茶はするなって、エイナさんに怒られたばっかりだし……。それに、神様の悲しそうな目はもう見たくない」

 

 英雄の姿が、徐々に近づいてくる。私達の向かう先は、下の階層。英雄の向かう先は、進む足取りからして恐らく上の階層。

 

 ならば英雄が接近してくるのに、なんら可笑しな事はない。

 

 寧ろ、当然の帰結だ。

 

 なのに、胸に溢れる凍えるような虚しさはなんだ? 英雄がダンジョンに潜れば、新たな偉業を打ち立てる舞台と化し。彼等のような冒険者がダンジョンに潜れば、弱者を甚振る舞台に堕ちる。

 

 現実は、余りにも理不尽だった。

 

 私の前方からやって来る、白髪の英雄。凛々しい顔立ちに、英雄と呼ぶに相応しい雄々しき覇気。前髪から覗かせる深紅(ルビー)の瞳に、鋼の如く揺るがない強い意思が宿っている。

 

 ──私を、助けてよ。英雄様……

 

 声にもならない慟哭も虚しく、私の横を過ぎ去っていこうとする白髪の英雄。

 

 結局、弱者は眩い希望を前にしたら、無意識に縋ってしまうのだろう。そんな自分が大嫌いだ。

 

 ──私と白髪の英雄が交差する、その刹那。

 

『…………!』

 

「…………え?」

 

 世界から取り残されるような不思議な感覚の中で、彼の視線が、確かに私と交わった。

 

 

 

 

 

 そんな気がしたのだ。

 

 

 

 灰かぶり姫の物語が、幕を開ける。

 

 彼女に手の伸ばすのは、白馬に乗った王子でも、世界に選ばれた勇者でもない。

 

 強大な竜に挑むことも、世界を滅ぼさんとする魔王に立ち向かうこともない。吟遊詩人に詠われることも、いずれ来る聖戦の為に突き進むこともない。

 

 しかし、俯くことなかれ。嘆くことなかれ。

 

未完の英雄(ベル・クラネル)】は、きっと灰かぶり姫(リリルカ・アーデ)の英雄になる。

 

 

 だから二章は、貴女の為の英雄譚。

 

 

 

 

 ──二章 十二時に鳴り響く、白銀の鐘音

 



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最初の死線(ファーストライン)

 ダンジョンは生きている。故に英雄は拒まれる。

 

 ダンジョンには意思がある。故に英雄は恐れられる。

 

 稲妻の如き瞬きでダンジョンの根源(さいかそう)へ辿り着こうと、【未完の英雄】は進軍する。

 

【未完の英雄】を世界から消滅させる為に、ダンジョンは今日も妖しく脈打ち、鼓動する。

 

 神に背く奈落の獣は、雷霆に灼かれて滅されよ。全能神の裁きをもって、魔石(あるべき姿)へ帰るのだ。

 

 迷宮と英雄の因縁は、悠久の昔から。宿命の日は、未だ遙か遠い未来に。

 

 しかし、たしかに、宿命の日は刻々と近づいていた。

 

 ○

 

 太陽未だ昇らず、鳥の囀りも聞こえない静寂とした未明、午前三時。ベルは狙いすましたかのように瞼を開いて、目を覚ました。

 

「時間通り」

 

 壁にかけられた時計を一瞥すれば、時間に狂いのないことが証明される。

 

 その後は「ベル君の、あんぽんたんぅ」と寝言を零しながら抱きついて離れないヘスティアが、目を覚まさないように優しく引き剥がして、ベルは身だしなみを整え、物音立てずに、そっと教会の外へ出た。

 

「すぅ」

 

 空気が冷たく澄んでいる。ベルは何度か深呼吸をして、頭に纏わりついていた鉛のように重く、泥のように粘ついた眠気を振り払う。

 

「よし、始めよう」

 

 怪物祭での死闘から数日。満身創痍の肉体は完全に回復し、「お願いです神様! そろそろダンジョンに行かせてください!」と懇願したことで、ヘスティアから渋々ながらもダンジョン探索再開の許可を貰ったベルは、鈍った感覚を取り戻すように、いつにも増して苛烈な鍛錬に勤しむ。

 

「ふっ! 疾っ!」

 

 両手に握る武器は、半月の間ダンジョンを共にしたギルド支給品の短刀から、神ヘファイストスが鍛え上げた黒の二刀へと姿を変えている。

 

 ずっしりとして重いのは、材料だけではなく、ヘスティアとヘファイストスの想いが乗せられているからだろう。

 

「凄い! 二回目なのに、手に馴染む!」

 

 二度、三度と二刀を虚空で振るい、ベルは歓喜に打ち震える。まるで握り締める両手と融合したように、自由自在、思い通りに動くのだ。

 

 四度、五度。袈裟斬り、振り上げ、横一文字と刃を振るえば振るうほどに、二刀はベルの意思を汲み取り、さらに馴染んでいく。

 

 気が付けば、太陽が僅かに城壁の先から顔を出して、オラリオを眩しく照らし始めていた。

 

 ○

 

「ちょっと夢中になりすぎたかな」

 

 ふぅと軽く熱の籠もった息を吐いて、ベルは額に滲んだ汗を拭い、ふと、上空を仰ぎ見た。星々きらめいた夜空の姿は消えて、薄い白雲と水色と陽射しの橙色の混ざりあった、美しい(あけぼの)が訪れている。

 

「急がないと」

 

 言葉とは裏腹に、行動に焦りはない。二刀を鞘へ丁重にしまい、ベルは一度、教会の隠し部屋に戻って、ダンジョンへ向かうための準備に取りかかった。

 

 鍛錬に夢中で予定の時間を大幅に過ぎたこともあり、朝食はヘスティアが山のように買って来たジャガ丸くんの残りを、幾つか頬張ることで手早く済ませる。

 

 二刀を腰に帯びて、魔石を収納する袋を落とさないよう腰の後ろに固く縛り、分厚い皮の手袋をはめて、準備完了。

 

「すぅすぅ」と可愛らしい寝息を立てながら、安らかに夢の世界を揺蕩うヘスティアの、艶やかな黒髪を梳くように優しく撫でて、「行ってきます、神様」と囁くように言うと、ベルはダンジョンへ向かうため、足音一つ響かせず静かに部屋を後にした。

 

 ○

 

 廃墟のごとく人の気配が感じられない、閑散としたメインストリートを疾走していると、ベルは改めて自分がLv.3に【ランクアップ】したのだと実感する。大地を踏みしめる脚の力。繰り返す呼吸の軽さ。緩慢に流れていく街の景色。肌で感じる風の感触。

 

 今までの自分とは違う、超人にでも生まれ変わったような感覚に幽かな昂揚を覚えたが、それ以上に、早く今の肉体に慣れなければとベルは気を引き締める。

 

【未完の英雄】。

 

 自分に与えられた二つ名を、ベルは戒めのように受け止めている。まだだ、もっと先へ行ける。ベル・クラネルの限界は、こんなところではない。驕るな。弛むな。足を止めるな。誰かを守れる英雄になるために走り続けろ。

 

【未完の英雄】にはそういう意味が込められているのだと、ベルは勝手に思っていた。思うことで、ベルの決意はより強固となる。

 

 走るベルの視線の先には、魔物の巣窟を封印する摩天楼(バベル)が、英雄の来訪を待ち望んでいるかのように鎮座していた。頂上は遥か、雲の上。僅かに高層を見上げたベルの表情からは、能面のようにすぅと感情が抜け落ちていく。鋭く睨むベルの瞳の中には、僅かな憐憫と強い敵意が混ざりあって揺れていた。

 

「……」

 

 誰かと睨み合っているようにも見えたが、ベルの射抜くような視線は数秒も経たずに、進むべき道へと戻される。

 

 しかし、表情だけは、ダンジョンに潜るその瞬間まで、無のままに固定され続けていた。

 

 ○

 

 ダンジョンの『上層』は、もはやベルの立つべき舞台ではなくなっていた。

 

 二刀で振るう黒刃は紙を破くかのように、皮や硬殻を貫いて、ザンっという響きのあとに、容易くモンスターどもを両断する。

 

 鎧袖一触。一撃必殺。Lv.3へと【ランクアップ】し、僅か半月で上級冒険者の地位に駆け上ったベルにとって、上層に住まうモンスターは命脅かす敵ではなく、鏖殺されるために突撃してくる、哀れな獣に過ぎなかった。

 

「はぁっ!」

 

『グギャっ!?』

 

 命乞いをする暇すら与えられず、モンスターの断末魔が虚しく哀しくダンジョンに響く。英雄の征く道に残るのは、灰と小さな魔石のみ。

 

「ぜぃっ!」

 

『────』

 

『上層』に跋扈するモンスターのことごとくが、英雄の一閃によって、刹那に大地へ骸を晒す。抵抗など許されない。首を断たれて死んだ事実にすら、モンスターは気が付いていないだろう。

 

 分針が三十回も刻まぬうちに、ベルは12階層まで到達した。

 

「もう〝上層(ここ)〟に──僕の求める冒険は無い」

 

 自ずと、刀を握る両の手に力が籠る。英雄の見据える未来の戦場に、『上層』は微塵も入っていなかった。誰かを守る英雄へ至る為、更なる力を渇望する英雄は、次の舞台を望む。

 

 ダンジョンの『中層』と呼ばれる新たな舞台を。

 

 13階層を。

 

 ミノタウロスとの激闘や、シルバーバックとの死闘。駆け出し冒険者が経験するには常軌を逸している死線をくぐり抜けながら、【未完の英雄】の渇望はまるで満たされることはない。

 

 もっとだ。もっと強く。幼い頃に読んだ英雄のように雄々しく、強くならねば。誰にも不安を抱かせない、誰かの希望となれるような英雄に。ベルの瞳の奥で、眩い光がほとばしる。

 

 ──さぁ、次は『中層』だ。

 

 英雄の歩みが、加速する。

 

『『──!!』』

 

 両の手に持つ神刀が、英雄の誓いに呼応するかのごとく、淡い光を鼓動する。駆け上がれ。のし上がれ。神話を超える英雄に成れと、英雄へ激励を送るかのように、刃を震わせ吼えるのだ。

 

 炉の女神は願った、英雄の安寧を。炉の女神は誓った、己が眷属が歩む果てなき旅路に寄り添い続けると。

 

 鍛冶司る独眼は果たした、雷霆との約束を。鍛冶司る独眼は捧げた、英雄が進む果て無き旅路を共に征く武器を。

 

「わかってるよ。僕にできることは前に進むことだけだから。次の戦場に征こう」

 

 震撼せよ、迷宮(タルタロス)。【未完の英雄】が進軍する。

 

 立ちはだかる敵の総てを薙ぎ払い、雷鳴の如く突き進む。

 

 深紅の両眼に宿すのは覚悟の雷火。強大なる敵を打ち破り、神聖英雄譚の一章を紡ぎだした英雄は、さらなる成長を希求するのみ。

 

 故に、英雄は『中層』へと踏み入る。神様たちから贈られた武器(想い)に報いる為にも。英雄になると誓った少女の想いに応える為にも。

 

 ──ベル・クラネルは、決して立ち止まらない。立ち止まることを許せない。

 

 ○

 

「……雰囲気が変わった。ここが、中層」

 

 鋭い視線を絶え間なく動かして警戒を続けるベルは、一度、立ち止まって周囲を見渡しながら、独りごちた。

 

 灰色の岩石に囲まれた、薄暗く湿気の満ちた広い空間。どこか、山に穿たれた洞窟を連想させられる、荘厳な景観が、辺り一帯に広がるのは、魑魅魍魎が跋扈するダンジョンの13階層。

 

 冒険者たちの間で最初の死線(ファーストライン)と恐れられている、『中層』に区分されている最初の階層だ。

 

 天井から水滴が垂れて、地面の岩を打つ音と、じゃりと大地を踏みしめるベルの足音だけが、がらんどうな洞窟に響き渡る。

 

 四方八方に道が続く、入り組んだ迷宮のような構造をしていた『上層』の様相とは打って変わり、13階層は逃げ道のない『ルーム』へ続くだろう一本道だけが、暗がりの先まで延々と伸びている。

 

 モンスターとの接敵を前にして逃亡など許さないと、ダンジョンが言外に告げているようだった。

 

「油断はしない。もうあの日みたいな、情けない姿を見せるわけにはいかないんだから」

 

 ベルの脳裏に過ぎるのは、苦渋を味わった先日の戦い。

 

 瀕死の重体を負ったシルバーバックとの死闘は、無様なまでに防戦一方だった。殴り、蹴られて、潰されて、自壊覚悟で【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を暴走させていなければ、ベルは間違いなく敗北を喫していただろう。

 

「くっ」

 

 思わず、ベルは唇を血が滴るまで噛み締める。

 

 涙を見た。恐怖に染まる子供の姿を見た。誰もがシルバーバックを目にして、絶望していた。

 

 己が立ち上がっていながら、不安を胸に抱かせてしまった事実が、ベルは何よりも許せなかった。

 

 不甲斐ないと、ベル・クラネル(自分自身)に激怒した。英雄になると誓っておきながらその程度なのかと、大喝した。

 

「だからこそ、前へ向かって進むんだ。後悔している暇なんてないだろう、ベル・クラネル。もっと強くなる為に。誰かを守れる英雄になる為に、僕は走り続ける」

 

 しかし、ベルが後ろを振り向くことは決して無い。振り向けないというべきか。

 

 己に感じた不甲斐なさもまた、ベルを成長させる為の糧となるだけなのだ。前だけを見る。前だけしか見れない。走り続ける以外の道を、ベルは知らない。

 

 一歩、ベルが右足を前へと運ぶ。瞬間、

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】・集束せよ殲滅せよ(フル・エンチャント)

 

 ベルの唇から紡がれる詠唱(ランゲージ)

 

 暗く陰鬱な一本道に、閃光がはしった。穢れと邪悪を憎悪する純白に染まった雷霆のまたたきが、一本の光線となって、ダンジョンを自由自在に疾走する。

 

 地面を壁を天井を、反射するようにして跳ねて、一本道の薄暗い13階層を、眩い光で喰らい尽くしていく。

 

「来た」

 

 モンスターは忽然と、岩の影から飛び出すようにして現れた。

 

『『『……グルルルッ……』』』

 

放火魔(バスカヴィル)』の異名を持つヘルハウンドの群れが、英雄の進軍を阻止するように立ちはだかる。これより先には進ませないという気概が、ヘルハウンドの双眸に業火のごとく燃えたぎっていた。

 

 ──【未完の英雄】を殺す。

 

 ──【未完の英雄】の息の根を止める。

 

 ──【未完の英雄】をこれ以上、成長させてはならない。

 

【未完の英雄】が纏う他の生命を跪かせんとする覇気を前に、ダンジョンは愚かにも蠢動し続けていた。英雄を屠る為のモンスターを生み出し続けんと、殺意と憎悪をマグマのごとく、ぐつぐつと煮えたぎらせているのだ。

 

 神を屠らんと願い続けるのと同等の憎悪と嫌悪を、たった一人の英雄(人の子)へ向ける。

 

 ヘルハウンドもまた、ダンジョンの切望に呼応するかのように、殺意と嫌悪を両眼へ宿す。【未完の英雄】はあまりにも危険だ。【未完の英雄】の歩みは、ここで止めなくてはならない。

 

 これ以上【未完の英雄】が成長すれば、誰にも手がつけられなくなる。化け物殺しの英雄譚を、ここで幕引きとしなければいけない。止めろ、止めろ、英雄を止めろ。奴を生かしてダンジョン(ここ)から帰すな。

 

未完の英雄(■■■■■)】を殺せ!! 

 

 何故か震え続ける心に、英雄を殺すのだとヘルハウンドの群れは必死になって言い聞かせる。英雄を打倒するのは不可能ではないのだと、何度も何度も自身を鼓舞して、逃げ出したい意思を抑え込む。

 

『グルゥ……』

 

 呻き声を漏らす口の中は、火炎が燃えさかっている。ヘルハウンドの準備は、心構え以外、万全だった。ダンジョンを蹂躙せんとする英雄を骨一本すら残さず灰燼に帰す為、一斉放火で迎え撃とうと、口は既に半開きになっている。

 

 しかし、ヘルハウンドが火炎を放射する瞬間は、ついぞ訪れることはなかった。

 

「遅い」

 

 暗がりの一本道に眩い迅雷がばちりとほとばしり、雷霆とは違う、黒の剣閃が弧を描いたと認識したとき、ヘルハウンドの群れが迎える運命は決していた。

 

「ぜぃ!」

 

 英雄の纏う雷霆は、天地万物を焼き払う、裁きの光。

 

 英雄の振るう剣撃は、森羅万象を斬り裂く、裁きの刃。

 

 一閃、二閃、三閃と無慈悲な刃が音もなく振り下ろされた。

 

『『『ギャッ……』』』

 

 ヘルハウンドのか細い断末魔が、最初の死線(ファーストライン)に木魂する。その幽かな慟哭には、英雄への底しれぬ恐怖が孕んでいた。

 

 ──最初の死線(ファーストライン)、何するものぞ。英雄の前に敗北はなし。

 

 地面に転がる魔石を回収することもなく、ベルは下層へ向かうべく突き進む。

 

 中層という新たな舞台を前にしても、英雄は恐れも怯えも抱いていない。

 

 速く。誰よりも速く疾走して駆け抜けて、視界に入ったモンスターを一刀両断していく。一秒すらも惜しいといわんばかりに、無駄な動作を極力省き、余分な思考を削ぎ落し、ベルは自分自身を一陣の矢の如く研ぎ澄ましていく。

 

 ヘルハウンドを屠り、ベルによく似たアルミラージを屠り、ライガーファングを屠り、激闘を繰り広げたミノタウロスすら屠って、ベルはひたすらに中層のモンスターを屠り続ける。時間の許す限りモンスターを討伐し続けるベルの姿は、英雄としての威光を遺憾なく発揮していた。

 

 ○

 

 30分後、【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を集束(フル・エンチャント)し続けたベルは、モンスターによる攻撃を受けたわけでもないのに、全身に火傷を負っていた。効率を求めて、二刀ではなく、全身を対象とした結果である。

 

「はぁ……はぁ……ぐぅ……やっぱり、まだ、上手く扱えない、か……」

 

 息遣いも荒く、滝のように発汗し、手足は僅かに震えている。

 

 ベルの肉体に【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】をまとえば、どういった効果がもたらせるのか、ベルはシルバーバックの戦いで学んでいた。

 

 身体能力全般が大きく上昇し、ベル・クラネル肉体自体に雷属性が集束(フル・エンチャント)される。特に敏捷性の向上が著しい集束《フル・エンチャント》は、ベルの実力を二段も三段も上昇させる強力無比な武器となった。

 

 欠点は、ベル自身が感電し、傷を負い続けることだろう。

 

「 【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】で相殺できると思ったんだけど、そう上手くはいかないね」

 

 痺れる右手を見つめながら、ベルは苦笑した。足もぴくぴくと、ベルの意思に反逆するように痙攣を繰り返している。

 

「これ以上、使い続けると、身体が、動かなくなる、か」

 

 一か月前のベルの状態では【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】は発動するだけで肉体を激しく損傷させて、魔力も数秒で枯渇させるという燃費の悪さから、モンスターを倒す以前の問題だった。

 

 それからLv.2、Lv.3と【ランクアップ】を重ねた結果、魔法を集束できるだけの武器を手にし、更に強引ではあるが全身に纏う術を身に着けた。

 

 しかし、

 

「僕自身への集束(フル・エンチャント)は、しばらく、使用禁止かな」

 

 今の自分の有様を見て、ベルは自身への集束殲滅魔法《フル・エンチャント》を封印する判断を下した。【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を受け止める依代として、ベルの器はあまりにも未熟だった。

 

「魔石はこれ以上、入らないか。もう少し大きな袋、買ったほうがいいかな?」

 

 痺れが引いていくのを感じたベルは、地面に転がった魔石を限界まで膨らんだ腰巾着の中に押し込むと、再び鞘の中にて眠る二刀を抜いて、新たなモンスターを探すために走り出した。

 

 雷霆をまとわずとも、ベルが走り去った道には、びゅうと風の吹き荒れる音が駆け巡った。

 

 ○

 

 英雄の闘技場と化した14階層。魔力に共鳴し振動する二刀の音と、風を切る斬撃の音と、モンスターの断末魔だけが聞こえる、歪な空間。

 

 魔石の採集が終わったベルは、【ランクアップ】の影響で違和感が残る肉体の感覚を取り戻すために、縦横無尽、モンスターを鏖殺し続けていた。

 

「疾っ!」

 

『グギャッ!?』

 

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】が集束(エンチャント)された《ヘスティア・ブレイド》と《劫火の神刀(ヴァルカノス)》がきぃと甲高い音を響かせながら、モンスターの首を虚空に飛ばす。血と、体液とが、首を失った胴体から噴水のように噴き出した。

 

「次っ!」

 

 雄黄(アンバー)に煌めく右眼が、次なる(モンスター)を求めて、人魂のように揺らめいている。

 

 逃さぬように包囲するヘルハウンドやアルミラージは、ベルの勇姿を前にしていながら、理性なき獣であることを証明するように吠えて、立ち向かって来た。

 

 結末は語るべくもない。英雄が勝利を掴み、モンスターが魔石に還った。ただ、それだけの話である。

 

 ○

 

 肉体の違和感もなくなり、【ランクアップ】以前の感覚を取り戻したベルは、14階層のモンスターを一掃すると、ようやく立ち止まって息をついた。

 

「そろそろ、戻ろう。あまり無茶はするなって、エイナさんに怒られたばっかりだし…… 神様の悲しそうな顔は、もう見たくない」

 

 脳裏に浮かぶのは、つぶらな瞳に涙を浮かべたヘスティアと、不安で曇るエイナの表情だった。

 

 何よりも、

 

 ──私もベルと共に征く!! 君の道に寄り添える!! 

 

 アイズ・ヴァレンシュタインが、初めてベルの横に立った黄金の髪なびかせる少女が、ベルの心にベル自身にも自覚できないほどの、小さな変化をもたらしていた。

 

 一週間前のベルであれば、ヘスティアの涙やエレナの憂慮を解った上で無視して、無理、無茶、無謀を押し通していただろう。

 

 今のベルは、支えてくれるものたち、寄り添ってくれる人の想いに僅かながら応えたいと思っているのだ。心の奥底で眠ったベル・クラネルの本質が、ようやく眠りから覚めようとしていた。

 

 周囲に注意深く視線を巡らせて、モンスターの気配が完全に途絶えたことを確信したベルは、来た道へと振り返り、帰路に着くべく走り出す。

 

「ん?」

 

 前方には三人組の冒険者の姿があった。前に立つ二人はヒューマンの男で、後ろには深々とフードを被って顔を隠すように俯き縮こまっているパルゥムの少女(・・・・・・・)が一人。

 

 すれ違うときに、ベルが彼らをちらりと一瞥すれば、男二人は愕然とした表情でベルを見つめて、

 

「…………!」

 

「…………え?」

 

 後ろの少女と視線を交わした時間は、一瞬。

 

 だが、ベルは少女の瞳を忘れられなかった。ベルを憎んでいるようで、ベルを蔑んでいるようで、ベルを嘲笑っているようで、

 

 ──私を、助けてよ。英雄様……

 

 ベルに助けを求める少女の視線()を、ベルは忘れられなかった。

 

 英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)の第二章は未だ幕を開けず。

 

 これより幕を開けるのは、灰かぶり姫と未完の英雄の物語。いずれ神話に語られる英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)には記されない、二人だけの物語。 

 



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優しい笑顔(ユア・スマイル)

 エイナとベルの出会いは一カ月前。『ギルド』の窓口に彼は、ベル・クラネルは現れた。

 

「初めまして、【ヘスティア・ファミリア】所属のベル・クラネルです! よろしくお願いします!」

 

 真白な乱髪に、円ら深紅の瞳。庇護(ひご)欲をかき立てる愛嬌のある相貌に華奢な体躯をした容姿からは、とても冒険者を目指しているようには見えない。

 

 それに加えて、【ヘスティア・ファミリア】という初耳のファミリアに所属しているという点が、エイナの不安を増幅させた。

 

(本当に大丈夫かしら)

 

 それが、あくまでもエイナの印象に過ぎないことを思い知るまでにそう時間はかからなかった。

 

 講習などを終え冒険者としての道を歩き出した探索初日。ベルは服としての役割を果たさないほど上着をボロボロにして、腕や足、頬や額から血を流しながら帰って来たのだ。

 

 何事か、と一部の職員が騒然とするほどにベルは血塗れになっていた。幸い骨折などの重傷は負っていかったものの、目を覆いたくなるような痛ましい裂傷が、ベルの身体のそこかしこに刻まれていた。

 

 ダンジョン探索初日に、十四歳の少年が、負っていい傷ではない。

 

「ベル君! 私、口酸っぱく言ったよね! 冒険者は冒険しちゃいけないって! 危険だと感じたら、迷わず逃げて帰って来なさいって! それに君は今日、初めてダンジョンに潜ったんだよ! どうしてそんな無茶するの! 君は死にたいの!?」

 

 しかし、エイナの悲痛な叫びを受け止めるベルの表情はぴくりとも揺るがない。正体のつかめない覚悟(ヒカリ)に染まる凜々しい表情を崩さないまま、ベルははっきりと言うのだ。

 

「僕は強くなるって、そう決めたんです。だから、まだ死にませんよ。こんなとこでは、絶対に」

 

 きっぱりと断言するほどの自信が、どこから湧いてくるのか、エイナにはさっぱりわからなかった。今日初めてダンジョンに潜ったものの台詞ではない。

 

 なのに、どうしてか説得されそうになってしまう。信じてしまいたくなってしまう、不思議な魅力さえあった。

 

 ベルの双眸に虚偽の色は光らない。円らな深紅の双眸に光るのは誠実な輝きだ。

 

 だからこそ、エイナは困惑する。今まで『ギルド』の受付嬢としてたくさんの冒険者を見てきたエイナはベルの行動は常軌を逸していると理解しているのに、なぜか心はベルの言葉を肯定してしまいそうになっている。

 

「それに無茶はしてないですよ、エイナさん。一応モンスターの危なそうな攻撃はよけてますし。ほら、見てください。これ、ぜんぶ軽い切り傷ですから」 

 

「そういうことじゃなくて、ああ、もう! 君って子は、考え方が危なすぎる! そんな紙一重な戦い方したら、命が幾つあっても足りないわ!」

 

 たまらずエイナは叫んだ。理性と感情が噛み合わず、ベルを説得しようとしても上手く言葉が組み立てられなくなっている。

 

 それだけ強い意志を、ベルはその小さな身体に宿していた。

 

 とてもじゃないけど、私の手には負えない。いや、ベル・クラネルという少年は誰の手にも負うことができない。そんな不安にも似た思いが去来する。

 

(でも、私がアドバイザーを止めたらベル君はきっと悲しむよね)

 

 ベルの実直な性格は初対面の時によく伝わってきた。今もそうだ。ベルはただ真っ直ぐに、自分の意見を述べているだけだ。それが第三者から見て、どれだけ異常なことであっても。

 

「ベル君はどうやってもその考えを改めるつもりはないのね」

 

「はい」

 

 申し訳なさそうに目を伏せて、ベルは頷く。

 

 ベルは意思を曲げるつもりはない。またエイナも自ら死線へ飛び込むようなベルの戦い方をこのまま見過ごしたくはない。

 

 まだ十四歳の少年が、孤独にモンスターが跋扈するダンジョンで傷つき斃れる未来だけは見たくないから。

 

(どうすればいいの。説得は無理だろうし、かといってこのままにしておくなんて私にはできない)

 

 その時、エイナは胸の奥に突如として湧いた情動のままに自然と一つの提案を口にしていた。自分でも驚くぐらい自然に唇が言葉を紡いでいく。

 

「・・・・・・いい、ベル君。お姉さんと約束して。ダンジョンから帰ってきたら、絶対に私のところへ顔をみせるって」

 

 きっと、これがベル・クラネルへの楔となる唯一の方法なのではないかとエイナは直感した。

 

「え?」

 

 ベルはそんなことを言われると思ってもいなかったのか、きょとんとした顔を浮かべた。それは先ほどまで英雄のように凜々しい顔をしていたとは思えないほど、年相応の少年らしい愛嬌のある表情だった。

 

 それを見て、エイナは強く思う。「ああ、やはりこの子はまだ十四歳の少年なのだ」と。「揺るがない意思と覚悟を持っただけの少年なのだ」と。

 

「お願い、約束して」

 

 もう一度、念押しするようにエイナは告げた。緑玉色の瞳と深紅色の瞳が、じいとお互いを見つめあう。それは、どこか互いの想いをぶつけあっているようでもある。

 

 暫く見つめ合う、両者。息詰まるほどの沈黙が場を支配する。

 

「わかり、ました」

 

 想いの鍔迫り合いの果て、先に折れたのはベルだった。

 

 ベルは自らの計画に狂いが生じたかのように、重々しい表情をして俯きながらそう言った。そしてベルは暫く俯いたままだったが、次に顔を上げた時には曇天のように重い表情は霧消して、エイナの前に英雄が現れた。

 

「・・・・・・約束します。僕は必ず(・・)、エイナさんのもとへ帰ってきます」

 

 それはダンジョンから帰ってきた後、「僕は強くなるって、そう決めたんです。だから、死にません。こんなとこでは、絶対に」と言葉にした時と同じ覚悟の光に染まった顔だった。少年ではない、英雄の顔。

 

 この約束は絶対に違えない。ベルの表情からそんな声なき声が聞こえてくるような気さえする。

 

 次の日。ベルは約束通り帰ってきた。次の日も、また次の日も。その次の日も。無茶をしたと一目でわかる傷を負いながらも、ミノタウロスとの死闘で瀕死の重傷を負った時でさえ、ベルは必ずエイナの前に姿を現した。交わした約束を守るために。

 

 そして、優しい笑顔を浮かべながら言うのだ。

 

「エイナさん、今日も無事に帰ってきました」と。

 

「ベル君、私はね。君のことをずっと心配し続けるよ。これから先どれだけ強くなっても、英雄だって呼ばれるようになっても。私は君のアドバイザーだから」

 

 エイナは想う。この約束がいつかベルが過去を振り返らず前へ進み続け征く道さえわからなくなってしまった時、「僕には帰る場所があるんだ」と、そう思える道標になってくれることを。

 

 そして、ベルはダンジョン『中層』へ初めて潜った今日もまた、エイナとの約束を守ってくれた。

 

 生きて、帰ってきてくれた。

 

 ▲

 

「はぁ・・・・・・多分、ベル君なら迷わず『中層』へ行くだろうなって思ってたから驚かないけど・・・・・・一応聞くけど、無理とか無茶とかはしてないんだよね?」

 

「はい、勿論です」

 

 眉間に皺を寄せて心配そうに尋ねるエイナに対して、ベルはむんと胸を張り落ち着き払った様子で堂々と首肯してみせた。

 

 不安を微塵も感じさせない凛々しい表情に、エイナの瞳を見つめる真っ直ぐな深紅の双眸。 

 

 自信に満ちてきらきらと輝いてすら見えるベルの姿を前にしては、エイナは何も言えない。いや、言う言葉を持たない。

 

 エイナとしては冒険者になって僅か一ヶ月のベルが『中層』に潜ること自体を心配しての問いかけだったのだが、ベルは『中層』のモンスターと戦うだけの技量を持っているのか問われているのだろうと解釈していた。悲しき価値観の相違、「アドバイザーの心、冒険者知らず」だ。

 

「まぁ、そうだよね。Lv.3になったんだもん。私の知るベル君なら、うん、『中層』へ行くに決まってるよね。もし『上層』に留まってたら熱でもあるかと疑ってたかも」

 

 エイナはどこか自分へ言い聞かせるように言葉を紡ぐと、はかなげな微笑をたたえた。

 

 今、視線を交わしているのはあどけなさの抜けない十四歳の少年。独り立ちするにはまだ早い、子供のはずだ。

 

 しかし、ベル・クラネルという少年がLv.3に【ランクアップ】した程度で満足しないことをエイナは十二分に理解している。ただの子供ではないことも、一ヶ月という刹那のごとき時間で築き上げた数々の功績が如実に示している。

 

 ベルは十四歳の少年である前に『英雄』である。それをエイナは認めるしかなかった。

 

 だから今は本心から目を逸らして、

 

「寧ろ十五階層って聞いてホッとしてるくらいだよ。ベル君は無茶ばっかりするから、もしかしたら一気に『下層』まで行くんじゃないかって心配してたんだよ」とエイナは偽りの仮面を被り苦笑しながら言う。

 

 事あるごとに度肝を抜かされてきたエイナにすれば、ベルがダンジョンから帰ってきたとき、「エイナさん、今日は『中層』を通り越して、『下層』まで行ってきました!」と報告してきても不思議ではないと思っていたくらいだ。

 

 おかげで昨夜はまるで眠れず、職務では常に精彩を欠いて失敗ばかりを繰り返し、上司に何度も頭を下げる始末、と散々な有様であった。

 

「い、いや、流石に『下層』まで行ったりなんかしませんよ。はい」

 

 エイナの半分冗談の言葉に、ベルは頬をヒクつかせて露骨に視線を逸らす。先程まで真っ直ぐだった視線が、空中をぐるぐると当てもなく彷徨い始める。

 

「あれ?」

 

 瞬間、動揺するベルを見て、エイナの表情が凍りついた。

 

 目を細めて微笑をたたえているにもかかわらず、エイナの顔には怪物祭(モンスターフィリア)で対峙したシルバーバックに比肩するほどの威圧感がほとばしっている。

 

 しまった。エイナさんを怒らせてしまった、と確信するベルだが、時既に遅し。

 

「ベル君、なんで、目を逸して言うのかな? ちゃんと、お姉さんの目を見て、正直に言いなさい」

 

 眉毛をひくひくと痙攣させて、鋭い視線をベルに向けながら、エイナは受付カウンターから抜け出して、じりじりとにじり寄ってきていた。

 

 格上のモンスターであるミノタウロスやシルバーバックへ果敢に立ち向かった英雄の姿はそこにはなく。ベル少年は蛇に睨まれた蛙のように、その場で硬直していた。

 

「で、本当のところは? どうなのかなぁ?」とベルの両肩に優しく手を添えながら、エイナは笑顔(・・)で尋ねた。

 

「あー、いやー。ほんの少しだけ、行ってみようかなー、とは考えてみたりは、しました」

 

 ははは・・・・・・と空笑いしながらも、誤魔化せないと悟ったベルは、悪戯がバレた子供のように頭をがしがしと掻きながら本音を語り始める。

 

『中層』のモンスターとも落ち着いて戦えたこと、『下層』のモンスターとも戦えるのではと思ったこと、もっと先へ進みたいと思ったことを全部、包み隠さずエイナへ伝えた。

 

「はぁー……全く、君って子はぁ……」

 

 すべてを聞き終えたエイナは頬に手を当て困ったように、体中の空気を外へ出すような深い、とても深い溜息をついた。

 

「考えただけで踏みとどまって偉かったわねぇ、ベル君」言葉とは裏腹に、笑顔を浮かべるエイナの頬はぴくぴくと引き攣って、瞳の奥は全く笑っていない。 

 

「す、すみません」

 

「反省してないのに謝らないの。「それでも僕は冒険し続けます」って顔にくっきりと書いてあるんだからね」

 

 怒気を滲ませながらエイナが言う。

 

 図星だったベルはうっ、と呻き声を一つ漏らすだけで、決して反論しようとはしない。正にエイナの指摘通りだったからだ。

 

 無理、無茶、無謀を押し通してきたこれまでの人生で、ベルを「心配」する声は数多くあった。危険だ、命が惜しくないのか、もっと自分を大切にしろ。それはどれもベルを慮っての言葉であり、悪意など欠片も無かった。

 

(みんなに心配されてしまった・・・・・・僕は、まだこんなにも弱い)

 

 だからこそ、尚更ベルは自分を許せなくなった。皆に心配されてしまうほど弱い自分を。

 

 彼らの声は、彼らの想いに反してベルにより堅い決意を抱かせてしまった。

 

 過去を想起し覚悟の深度が増すベルの双眸を見て、エイナはますます頭を悩ませる。

 

「でも、思っただけで、実際に行動しなかった分、今回はマシなのかな。一週間ちょっと前にミノタウロスと死闘を演じたばかりなのに。今じゃ『中層』のモンスターと戦えるんだもんね。本当に成長したね、ベル君」

 

「成長、したんでしょうか?」エイナの賛辞にベルは露骨に表情を曇らせる。

 

 Lv.1だった時、ベルは無謀でしかないミノタウロスとの一騎打ちに挑み、勝利し、【ランクアップ】することができた。怪物祭(モンスターフィリア)の時も同じだ。尋常ならざる気配を放つシルバーバックに立ち向かい、打ち倒したからこそ、LV.3の高みへ辿りつけた。

 

 成長のために賭けたのは、己の命。一手でも誤れば、無惨な死体へと成り下がる、そんな死闘に身を投じたからこそ、【ランクアップ】できたはずだ。

 

 死地を踏破せんとする覚悟を持たず、危険に満ちた『下層』へと挑戦せず、平静を保てば対処できる『中層』の探索に甘んじている今の自分は果たして、過去の自分を超えられているのだろうか? 

 

 Lv.3に【ランクアップ】したことに胡座をかいているのではないだろうか? 

 

 あれこれと思考を巡らすベルの表情は、より一層険しくなっていく。

 

 今まで目にしたことのない「迷う」ベルを見たエイナは思わず目を見開いた。

 

 彼の成長した姿が目の前にある。一ヶ月前、初対面のベルは少年だった。十日を経て、ベルは鮮烈な光を放つ英雄になった。

 

 そして今、ベルは迷いながらも前へ進もうとしている。これを成長と呼ばず、なんと呼ぶのか。エイナは他に相応しい言葉を知らない。

 

(やっとアドバイザーとして、力になって上げられる)

 

 エイナはベルの心に巣くう不安を払わんと胸の内にある想いを吐露する。今度は嘘偽りのない、エイナ・チュールの本心を。

 

「ベル君は成長してる。一歩ずつ、確かにその足跡は前へ向かって進んでる。ずっと側で見てきた私が保証するよ。ふふっ・・・・・・まだ私、君のアドバイザーになって半月くらいだけどね?」とエイナは、ベルの白髪を撫でながら優しい声で答えた。

 

「もっと、君は強くなる。沢山の人の心に希望を与える英雄になれるって、お姉さんはそう信じてる」

 

「・・・・・・ありがとうございます、エイナさん」

 

 エイナの言葉で「迷い」の闇が振り払われたのかベルは、自然と頬を綻ばせた。

 

(変わったね、ベル君)

 

 エイナはベルの変化をまざまざと実感した。

 

 一ヶ月前のベルのままであったら、きっと逡巡することなく『中層』を超えて『下層』まで降りていたに違いない。

 

 エイナにはその確信がある。これまでの過去を振り返れば、「迷い」が生まれた今のベルの方がおかしいくらいだ。

 

 エイナが見てきたベルは迷うことを知らず、まるで定められた道を雷鳴のごとく疾走するように前だけを見続けてきたから。

 

 しかし、よく考えてみれば当然の話だ。ベルはまだ十四歳の少年、【未完(・・)の英雄】。ベル・クラネルという英雄の器はまだ完成していない。歩む先、選択の果てにベル・クラネルという英雄は完成する。

 

(ベル君が変わり始めたのは、アイズ・ヴァレンシュタイン氏に出会ったからなんだよね、きっと。私じゃない。はぁ・・・・・・お姉さん、ちょっと嫉妬しちゃうなぁ)

 

 ベルの心に変化を生じさせるほどの大きな影響を与えたのが、自分ではなく【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインであるだろうことに、エイナは密かに嫉妬を燃やす。

 

 数日前オラリオ全域に駆け巡ったアイズ・ヴァレンシュタインとベル・クラネルの共闘の噂は勿論、エイナの耳にも届いている。

 

 その噂を聞いたからこそ、エイナはベルの心に変化をもたらしたのがアイズだと確信できた。

 

 ベルは決して誰かと並び立って戦うようなことはしない。誰も彼もを救わんと一人で敵に立ち向かい、傷つきながらも打ち倒すのがベル・クラネルである、とエイナ・チュールは誰よりも知っている。彼の主神であるヘスティアにだって負けないほどに。

 

 そんなベルとアイズが共闘した。つまり、それは、アイズが、ベルの隣へ並び立ったということ。あの雄々しく鮮烈な光を放つベルの後ろ姿をただ見つめるのではなく、手を伸ばしたいと恋い焦がれるのでもなく、隣に並び立ちたいと本気で想ったということ。

 

 

 手の届かない。否、伸ばしてはいけないと思っていたベルの隣に寄り添ってみせたアイズに、エイナは尊敬と嫉妬が混合した複雑な感情を向ける。

 

 アイズはベルの雄々しい姿に焼かれることなく、一人の人間として向き合ったのだ。それがどれだけ困難なことかは、言葉にする必要もなかった。その難しさをエイナは嫌というほど知っている。

 

 しかし、いつまでもアイズへ嫉妬を向けてばかりはいられない。数日前までと同じままでは、胸に猛る想いの種を花咲かせることはできない。

 

 エイナは頭を軽く振って思考を切り替えた。

 

「それにしても、ベル君」

 

 エイナはベルの頭長から爪先まで舐めるように見つめてから言う。

 

「なにか汚れでもついてますか?」

 

「いや、そういうわけじゃなくて。中層に潜るのに、今の防具じゃ流石に貧弱すぎると思ってね」

 

 エイナの瞳に映るベルの姿は、『中層』を潜る冒険者の装いにはとても見えない。

 

 薄いシャツに布生地のズボンと薄い胸当て。腕や足を守る籠手も具足もなく、駆け出し冒険者だと一目で分かる貧弱な初心者装備。腰に佩いた二本の刀が立派なだけに、より装備の貧弱さが際立つ。これが現在オラリオを席巻する【未完の英雄】の姿だった。

 

「うん、駄目。全然、駄目。それじゃ、もしモンスターの攻撃を受けたとき、間違いなく大怪我を負うわ。流石のベルくんでも危険すぎるよ」

 

「いや、実は神様にも同じこと言われてて。流石にこの装備じゃもう無理なんですね・・・・・・」

 

 今朝、怪物祭(モンスターフィリア)で負った傷が快復しダンジョンの『中層』に向かうことを、意気揚々とヘスティアに伝えたベル。しかし、返ってきたのは教会が崩落するのではないかというほどの怒号だった。

 

『ベル君! そんな装備で『中層』に潜ることがどれだけ危険なことか分かっているのかい! 控え目に言って馬鹿だね、いや阿呆だよ! ベル君、そこに正座するんだ! 今度という今度こそ、君に常識というものを叩き込んでやる! いいな!』、と怒りで顔を真っ赤に染めたヘスティアにしばらく説教されたのだ。

 

 ベルがヘスティアにここまで怒られたのは、ミノタウロスとの死闘以来だった。

 ヘスティアは初心者装備で『中層』を探索しようとするベルに対して猛烈に反対したのだが、怪物祭(モンスターフィリア)以来ずっと休養していたベルはこれ以上休むと体が鈍ってしまうから大丈夫だと主張した。

 

 結局、話し合いの末に今週中に防具を新調することが決まったのだ。

 

「神様にもしっかりとした装備を買うようにってお金を貰ったので、早めに新調しようと思います」

 

「うん、そうしなさい」

 

 エイナは微笑みながら言った。

 

 普段、傷だらけになりながら帰って来るベルを見てきたエイナとしては、少しでも良い防具を纏って身を守ってほしい。

 

 あのとき防具を買っていれば、と後悔してからでは遅いのだから。

 

 これでベルが「必要ない」と首を横に振ったならば、エイナはあらゆる言葉を尽くして考えを改めさせるつもりであっただけに、素直に首肯してくれて心の底から安心する。

 

 ベル君にも、欠片程度ではあるが常識が残っていた、と。

 

「それで、さ」

 

 ここからが、エイナにとっての本題だった。これまでの会話はエイナにとっても、ベルにとっても雑談の範疇に過ぎない。普段であれば、「装備をしっかり整えるのよ」と話を締め括って別れを告げていただろう。

 

 だが、今日は違う。一歩前へ踏み出すと決意した。

 

「どうかしましたか?」

 

「いや、ええと」

 

 しかし、いざ言葉にするとなってエイナは緊張や不安から誰かに救いを求めようように、視線を右往左往させて口籠もってしまう。

 

 だが、誰もエイナを救いの手を差し伸べることはできない。最初の一歩は誰かに背を押してもらうのではなく、自ら踏み出すしかないのだから。

 

「なんていうか、その」

 

 伝えたい言葉ははっきりしているのに、伝えたい人は目の前にいるのに、唇だけが上手く動いてくれない。

 

 このままではダメなだと分かっていても、どうしようもなく言葉は声になってベルへ届けてくれない。

 

 やっぱり、何でもない。不安の波に心が飲み込まれて、思わずそう答えそうになった時、ベルが柔和な笑みを浮かべて言った。

 

「焦らなくても大丈夫ですよ、エイナさん。僕はエイナさんが話してくれるまでずっと待ってますから」

 

 そうだ、その笑みだ。いつもは凜々しい顔をしているのに、時折見せる優しい笑顔が私の心を捕らえて離さない。

 

 先ほどからエイナの心をかき乱していた不安の嵐はぴたと止んで、気づけば想いは言葉となってあふれだしていた。

 

「……ベル君、明日の予定って空いてる、かな?」

 

 耳の先まで真っ赤に染まっているだろうことを自覚しながらも、エイナはベルの瞳を見つめて言った。どくん、どくん、と心臓が痛いほどに脈打ち、喉はカラカラに渇いて、断られた時の妄想が脳裏を過ぎる。

 

 数秒の沈黙が何倍にも引き延ばされるような感覚に陥りながら、エイナはじっとベルの答えを待った。

 

 わずかな逡巡のあと、ベルの唇が動き出す。

 

 ゆっくりと紡がれていく言葉が風に乗って、エイナの耳から心へと運ばれてきた。胸に歓喜が、押し寄せる。見える景色が、生まれ変わる。

 

「はい、空いていますよ。エイナさん」

 

 ベルは、エイナが恋をした優しい笑顔でそう答えたのだった。



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幕間 道化師の乙女たち(トリックスターヒロインズ) 前編

 

 ベルとエイナがデートの約束を結んだ時刻から遡ること半日。【ロキ・ファミリア】の本拠(ホーム)黄昏の館に、黄金の髪をなびかせる少女の姿はあった。

 

 まだ太陽が地平線に隠れて、薄闇が世を空を地を暗く染めあげている早朝。アイズはしんとした静寂に包まれる中庭で一人、日課である剣の素振りを黙々と行っていた。

 

 縦、横、斜めとアイズが振るうサーベルから放たれた冷たい銀の斬撃が、夜空を瞬く流星のように美しい軌跡を虚空に描き出す。そのあとを追うようにぶおん、と風を斬る音が鋭く鳴く。

 

「ふっ!」

 

 唇から小さく息を吐きながら、アイズはサーベルを振るい続ける。何度も何度も繰り返し放ち、自身が求める理想の剣技へ少しでも近づくために誤差を修正していく。

 

 一日でも怠ければ身体は錆びて、技量は衰えてしまうという不安の暗雲をふり払うために繰り返してきた呪いじみた日課。

 

 しかし、ここ一ヶ月のアイズは不安に操られるのではなく、身体の奥底から湧き上がる炎に似た恋情に背中を押されるようにして日課に励んでいた。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)を終えてから数日の時が流れた現在、溢れてとまらない恋情に突き動かされたアイズは、少しでも長く素振りをしようと普段より二時間も早く中庭へ足を運んでいた。

 

「しっ! ふっ! はぁっ!」

 

 サーベルを振るえば振るうほどに、剣閃の奏でが激しさを増していく。

 

 止まることを知らない剣姫の刃はやがて銀の五月雨となって、庭木の梢と離れ離れとなった落ち葉を穿つ。

 

 穿たれてバラバラに分かれた落ち葉は風に攫われて別々の方向へ流されていくが、アイズはその事実に気づかない。 

 

 今、彼女の瞳に映るのは長閑な中庭の風景ではなかった。

 

 ベル・クラネルの幻影だ。

 

 太陽よりも鮮烈な光を放つ雄々しい少年の戦う姿が、アイズの瞳に焼きついて離れない。

 

「・・・・・・ベル」

 

 その名前を口ずさむだけで、アイズの胸はぎゅっと締めつけられて頬が火照ってしまう。しかし、それは風邪を引いたときのような頭と心を刺戟する不愉快な熱とは真逆の、心地よい熱。

 

 これが恋なのだと思うと、アイズは不思議な心持ちになる。

 

 これまで育ててきた憎悪が消えたわけではない。怪物(モンスター)への憎悪は今でも心の奥底で、溶岩のようにぐらぐらと煮えたぎっている。

 

 しかしベルとの出会いが、憎悪だけを胸に抱いて生きてきたアイズに別の感情を生み出した。恋という温かな燈で冥府の如く昏い憎悪の闇に沈んでいたアイズの心を照らしてくれた。

 

 だから、怪物祭(モンスターフィリア)の日。アイズの前に雄々しき光の英雄が現れた時、胸が張り裂けそうなほど苦しくなった。

 

 英雄の気風をほとばしらせて、都市(オラリオ)を守るためにモンスターを討伐しようと歩み寄ってくるベルの瞳に、アイズは映っていない。分かってしまったのだ、自分はベルに守られる『誰か』でしかなかったことが。

 

 アイズ・ヴァレンシュタインではない、守るべき『誰か』。英雄譚に語られる英雄に守られる民衆の一人。

 

 ベル・クラネルは残酷なまでに英雄だった。守る誰かに優劣なんて存在せず、ただ平等に英雄と守るべきものたちの間に線を引く。

 

 英雄と英雄以外の境界線を。そして英雄は、ベル・クラネルしかいない。他のすべては守るべき誰か。

 

 その事実が、心が凍てつき砕けてしまうほど怖かった。ベルの堂々たる姿が、手を伸ばそうと届かない大空を羽ばたく鷲のようにとても遠い存在に思えた。

 

 何よりも、ベルが守ってくれるから大丈夫だと安堵する気持ちが僅かながら生まれてしまったことがどうしようもなく嫌だった。

 

 アイズは守られる誰かになりたいんじゃない。アイズ・ヴァレンシュタインという一人の人間としてベルの横に並び立ち、背を預けあって戦いたかったのだ。

 

 そう心で強く願っても、身体は鎖で縛られたようにぴくりとも動いてくれなかった。

 

 やがて幕を開ける英雄譚。

 

 極色彩のモンスターの群れと戦うベルを見て、アイズは確信してしまった。

 

 彼がこのままモンスターの群れを圧倒し、勝利の栄光をその手に掴むだろうことが。彼が紡ぐ英雄譚に新たな一頁を刻むだろうことが。

 

 そして、もしあそこで立ち上がっていなければ、ベルの横に立つ権利を永久に剥奪されるような気がしてならなかった。

 

 それは、絶望の色に似ている。暗くて冷たくて重い黒が心を覆い尽くすかのようだった。

 

 リヴェリアがこの胸に抱く想いの形が何であるのか教えてくれなければ、アイズはきっと立ち上がれなかった。

 

 ベルとアイズの間にそびえ立つ見えない壁を乗り越えることはできなかったはずだ。

 

「アイズの好きにすればいいんだ」

 

 リヴェリアがそう言ってくれたから、祝福を贈ってくれたから、アイズはベル・クラネルの英雄譚に乱入することができた。

 

 あの時、英雄の舞台は既に完成されていた。

 

 二刀を持った英雄が混沌と化した戦場に現れて、モンスターの群れへ果敢に立ち向かい、傷つきながらも勝利する。

 

 そんな雄々しくも美しい物語の、誰もが求めて止まない、最高の終幕(フィナーレ)

 

 それをアイズは破壊した。自らの想いを貫くために、自らの意志で、完成された英雄の舞台をぶち壊したのだ。

 

 しかし、アイズに後悔はない。

 

 英雄の舞台の一つでも破壊しなければ、この恋情(おもい)を実らせるなど夢もまた夢だと英雄の後ろ姿を見て痛感したから。

 

(ありがとう、リヴェリア)

 

 胸中で感謝をしながらも、アイズは素振りを継続する。アイズが研鑽に励むように、ベルもまた更なる高みを目指して勇往邁進しているはずだと信じているから。

 

 ベルを想いながら振るうサーベルの冴えは時間が経過するほどにその鋭利さを増していき、風切り音がごうと突風のように鳴って、庭の草を微かに揺らす。

 

「・・・・・・ベルはもっと強くなる」

 

 あの日のベルを想起しながら、アイズは呟く。

 

 誰が冒険者になってから半月でLv.2に【ランクアップ】すると思った? 誰がわずか一カ月でLv.3の領域(ステージ)に至ると思った? 

 

 そんな誰も予期できなかった、予想すらしていなかった偉業を成し遂げたのがベル・クラネルだ。

 

(ベルが、Lv.6になったら?)

 

 これから数多の試練を乗り越えて、数多の死線を潜り抜け、数多の修羅場を生き抜いた先にLv.6へ至ったベルの姿を浮かべようとするが、アイズにはまったく想像できなかった。いや、きっと神でさえベルがどれほどの成長を遂げるか想像できないだろう。

 

「私は、ベルの隣にずっと立ち続けていたい」

 

 心から浮上した感情を言葉に変えて呟きながら、アイズはサーベルを勢いよく振り抜いた。

 

 たった一度で満足できるほど、胸に猛る恋の炎は弱くない。彼の手に触れ、握り合い、決して離したくはない。

 

「・・・・・・だって、私はベルが好きだから」

 

 ▲

 

 ベルへの想いを燃やして鍛錬に没頭していたアイズはこつこつと石畳を叩く足音を聞いて、思わずその手を止めた。

 

「急がないと、始まってしまいます」

 

 そう言って黄昏の館から出てきた足音の正体は、山吹色の髪が特徴的なエルフの少女、レフィーヤだった。

 

「……レフィーヤ?」

 

 陽も昇らない早朝に予期せぬ人物を発見したアイズは、不思議そうに首を傾げる。

 

(・・・・・・何してるんだろう)

 

 霧のような薄闇で視界が閉ざされているからなのかアイズには全く気づいていない様子のレフィーヤは、そそそと忍び足をしながら入り口に近づくと門番と何言か話し始めた。

 

 よほど小さな声で話しているのか、レフィーヤの声は聞き取れず門番たちの「はい」とか「わかりました」とかの事務的な返事だけがアイズの耳へ運ばれてくる。

 

 暫くすると門は重々しい音を周囲一帯に響かせながら開き、レフィーヤが本拠(ホーム)を抜け出して街路を駆けていった。

 

「あ、行っちゃった・・・・・・」

 

 今まで見たこともないレフィーヤの姿を目の当たりにしたアイズは、呆然と彼女を見送る。

 

「こんな朝早くにどこへ行くんだろう・・・・・・」

 

 ここまで強い好奇心が胸に生じたのは久しぶりのことで、アイズ自身でさえ理解できない第六感のようなナニカが「レフィーヤを追うべき」と囁いている。

 

「・・・・・・どうしよう」

 

 鍛錬を継続せよと告げる理性とレフィーヤを追えと訴える第六感が鬩ぎ合っていた時、柔らかな風が吹いてアイズの頬を優しく撫でた。

 

 刹那、心の迷いが風と共に去っていく。

 

「追ってみよう」

 

 そう決断を下したアイズはサーベルを鞘に仕舞って、門に向かってその一歩を踏み出した。

 

 二人の少女が本拠(ホーム)を抜けて、人気の絶えた都市(オラリオ)に出る。その行き先はレフィーヤだけが知っている。

 

 ▲

 

 薄っすらと白い朝霧が立ち込める迷宮都市オラリオは、日中の喧騒が幻想世界(ゆめ)の風景であるかのように静寂の帳がおりている。

 

 アイズに後をつけられているとは思ってもいないレフィーヤは、どこかおどろおどろしさの漂よう都市(オラリオ)を軽い足取りで駆け抜けていく。

 

「ふーん、ふふーん」

 

 早朝に出歩くようになった当初は、朝っぱらから門番たちに行き先も告げず門を開いてもらうことに後ろめたさと申し訳なさを感じていたレフィーヤ。

 

 しかし回数を重ねた今ではすっかり慣れてしまい、鼻歌を歌いながら走れるくらい心に余裕が生まれていた。

 

 それでも仲の良い人たち、特にアイズ(・・・)には決して露見したくないので、レフィーヤは警戒心を緩めず私室から門まで移動するように心がけていた。

 

(まさか、こんな朝早くから中庭に人がいるわけもないですから、今日も上手く出てこれましたね!)

 

 レフィーヤは私室から門までの記憶を想起して胸中で安堵する。

 

 本音を言えば門番たちにもバレたくはないのだが、彼らの役目は不審な人物が黄昏の館に侵入しないように警戒することなので、こればかりはしょうがないと諦める。

 

 こうして現在進行系で憧れの人に追跡されているという残酷な真実に気づかないレフィーヤは、誰とすれ違うこともなく、思わぬ事故(アクシデント)に巻き込まれることもなく、目的地である北西の外縁部へあっと言う間にたどり着く。……着いてしまった。

 

「やっぱり、今日もちゃんといました!」

 

 彼女があのアイズにすら隠している秘密。それは、

 

「ふっ! しっ! はっ!」

 

 日も昇らぬ早朝、オラリオを囲む市壁の上で鍛錬に励む白髪の少年(ベル・クラネル)をじっくりと観察することだった。

 

 それはストーカーではないのですか? という脳内に住まう良心からの鋭利な問いかけに対して、レフィーヤは堂々と胸を張って、一切の罪悪感を抱くことなくきっぱりと答える。

 

「これは敵情視察です!」と。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)の一件以降、ベルを好敵手(ライバル)と一方的に認定しているレフィーヤは、数日間に渡って彼の本拠(ホーム)を早朝から日が落ちるまで粘り強く張り込み続けた。

 

 その結果、遂にとある現場を目撃するに至る。

 

 それが、レフィーヤの眼前で行われている早朝の鍛錬だった。

 

「まずはベル・クラネルの実力を見極めないといけません。敵の能力分析は戦いの基本ですからね、ええ、そうです。ですので私は当然のことをしているだけです」

 

 なぜか自らの良心へ言い訳するように独り言を呟いて、レフィーヤはきらきらと宝石のように美しい汗を流しながら鍛錬に励むベルの動きをじいと見つめる。それが随分と熱い視線であることに、本人はまるで気づかない。

 

「むぅ、あの動き。やっぱりLv.3にランクアップしたのは本当らしいですね」

 

『ギルド』から正式に発表されているとはいえ、冒険者になってから一カ月でLv.3に【ランクアップ】したと言われてもにわかには信じがたいレフィーヤだったが、眼前に広がる光景を見れば納得せざるを得なかった。

 

 目を凝らしても全く捉えられぬ、天よりおちる落雷の瞬きを想起させる二刀の剣閃。呼吸を乱すこともなく淡々と刀を振るい続ける体力。一閃、また一閃と、漆黒の刃を瞬かせるごとに研磨されていく技量は、見ているものから時計の針が進むのを忘却させる。

 

「何だか、昨日より動きが洗練されているような気が・・・・・・」

 

 オラリオの城壁で鍛錬をしていることを目撃して三日間、目と記憶と魂魄へ焼き付けるように観察してきたレフィーヤだからこそわかる些細な変化。刃の軌跡を目で追うことは出来ずとも感じるベルの確かな成長。

 

「あれで冒険者になって一カ月なんですから、恐ろしいですよ、本当に」

 

 一目見ただけでは、ベルがオラリオに来てから一か月も満たない新参者の冒険者だとは誰も思いはしないだろう。

 

 それほどまでに、ベルが薄闇を斬り裂くように放つ二刀の閃きは洗練されていた。無駄を徹底的に削ぎ落し、ひたすらに効率を追求する太刀筋はいつまでも眺め続けても飽きないほどに美しい。

 

「強い。技量だけ見れば、ベル・クラネルは間違いなく第一級冒険者に届いている」

 

 唯一不足している経験も、誰もが目を剥いて驚愕するような怒濤の速度で積んでいくだろう未来がありありと見える。

 

 なるほど冒険者が、民衆が、神々が、都市(オラリオ)中がベル・クラネルを次代の英雄として期待するわけだ、とレフィーヤは得心する。

 

 神の怒りの象徴と考えられてきた雷をその身に纏い、黒き刃の二刀を振るって化物と対峙する猛々しく眩しい英雄の勇壮に心奪われないものなど、数々の英雄がその名を轟かせる都市(オラリオ)にはきっといない。

 

 レフィーヤもまた、【未完の英雄(ベル・クラネル)】の英雄譚を最前列で目撃して心に落雷が落ちたような衝撃を受けてしまったものの一人だから。

 

 それだけではない。あの日の英雄譚はベルだけのものではなかった。【未完の英雄(ベル・クラネル)】の隣に並び立つ【精霊の姫(アイズ・ヴァレンシュタイン)】もまた、英雄譚の主役として怪物との戦いを演じていた。

 

 一つの舞台に、二人の英雄(しゅやく)。ベルとアイズの背を預け合って戦う姿は忘れようにも忘れられない。

 

「悔しいです」

 

 唇を噛みながらレフィーヤは呟く。

 

【未完の英雄】と【精霊の姫】が共に敵へ立ち向かう神聖な景色を見て、不覚にもお似合いだとレフィーヤは思ってしまった。アイズの隣に相応しいのは、ベル・クラネルだと思ってしまった。 彼だけがアイズに真の笑顔を咲かせられるのだと思ってしまった。 

 

 何よりもベルのアイズを全幅に信頼するあの笑みが、自分に向けられていないことがなぜかどうしようもなく悔しかった。

 

「ねぇ」

 

 背後から発せられた憧れの少女の声に、自分の世界に没入しているレフィーヤは残念ながら気づかない。二刀を振るい続けるベルに五感の全てが虜にされている。

 

「でも、私だって負けません」

 

 噛み締めるように呟く言葉が、レフィーヤの闘志を膨れ上がらせた。ベル・クラネルの背に追いつき、追い抜いて、アイズの隣に立ってみせるという誓いが心の硬度をあげていく。

 

「ねぇ」

 

 再び、背後から声が投げ掛けられる。

 

「もう、誰ですか。今、私は忙しいんです」

 

 思考を遮られたレフィーヤは眉を顰めながら、しっしっと手で振り払うような動作をする。

 

「レフィーヤ、ここで何してるの?」

 

「ですから私は、忙しいん・・・・・・で・・・・・・す・・・・・・」

 

 三度も声をかけられて我慢の限界に達したレフィーヤは、ようやく後ろへ振り向く。

 

「・・・・・・はえ?」

 

 彼女の視界に映ったのは、気絶してしまいそうなほどに美しくしなやかな肢体。腰まで真っ直ぐに伸びた金色の髪。宝石を埋め込んだかのごとく煌めいている金色の瞳。あどけなさを残した愛らしい相貌。

 

 それは憧れの少女、アイズ・ヴァレンシュタインだった。

 

 瞬間、レフィーヤの思考が凍てつく。

 

「・・・・・・これは、幻覚、です」

 

 目の前の現実を受け入れたくないレフィーヤはぐぎぎ、と音を立てるように一度ベルの方を向いて、また振り返る。忽然と現れた(と本人は思っている)アイズの姿が幻であることを願って。

 

 しかし、残念ながら彼女の目の前にいるアイズはレフィーヤの妄想が生み出した幻ではなかった。

 

「・・・・・・大丈夫?」

 

 レフィーヤの紺碧の瞳には彼女を心配するアイズがしっかり、くっきりと映し出されている。

 

 アイズさんが、私の目の前にいる。

 

 その事実を受け入れた瞬間、

 

「ア、ア、ア、アイズさん! どうしてここに!? って、わわわ!?」

 

 あまりの衝撃に混乱したレフィーヤは、足をもつれさせて姿勢を崩し尻もちをついてしまう。

 

「いつつ……」

 

 まさかオラリオの最果てにある市壁で早朝からアイズに遭遇するなど、レフィーヤは微塵も想定していなかった。

 

「大丈夫、レフィーヤ? その、ホームから出ていくのが、見えたから」

 

 尻餅をついたレフィーヤを見て、少し申し訳なさそうにしながらアイズが言う。

 

「えーと、こ、これはですね! 何と言いますか! その!」

 

 アイズの声などまるで聞こえず、レフィーヤは言い訳を考えようことに意識の総てを集中させる。しかし、何一つとして名案がひらめかず言葉は途切れて進まない。

 

「これには極めて重大で深刻なわけがありまして・・・・・・」

 

 なんとかしてこの場を乗り切ろうと苦心するレフィーヤをよそに、アイズの視線が市壁の一角へと向けられる。純白の髪を揺らしながら、刀を振るう少年の姿がそこにはあった。

 

「ベル、見てた?」

 

 金色の瞳が、再びレフィーヤを見つめる。

 

「うぐっ!」

 

 確信を突くアイズの言葉に、レフィーヤは胸を押さえながらうずくまった。

 

 元よりごまかせないと諦めかけていたが、アイズから決定的な一言を突きつけられたレフィーヤは、最後の最後まで悪足掻きをしていた不甲斐ない自分への羞恥心に悶えることしかできない。

 

「はいぃ、アイズさんの言うとおり、ベル・クラネルを見てましたぁ」

 

 事ここに至り、嘘をつき続けるのは不可能だと悟ったレフィーヤは、地面にへたり込みながらあっさりと白状する。

 

「アイズさん、どうかこのことはみんなには内緒にしてください! お願いします!」

 

「うん、誰にも言わない。……約束」

 

 ざざぁと音を立てながら土下座をするレフィーヤを見て、アイズが頷いて言う。

 

「ありがとうございます!」

 

 レフィーヤはがばっと顔を上げると手のひらを合わせてアイズを女神のごとく崇んだ。

 

 彼女の性格からして周囲へ吹聴するとは微塵も思っていないが、明確に意思表示をしてくれると安堵の質が違う。

 

 一番隠し通したかった人に露見してしまうという緊急事態が起こったことは悲劇だが、犯罪者でも見るような軽蔑の眼差しを受けるという最悪の未来は回避できた。

 

 心身を堅く拘束していた緊張の糸が緩みに緩んだレフィーヤはふう、と肺に入った空気のすべてを吐き出す勢いで深呼吸をして精神の沈静を試みる。 

 

 何度か深呼吸してなんとか冷静を取り戻したレフィーヤが、さてこの場をどう収めるべきかと考え始めようとしたその時だった。

 

「私も、見ていい?」

 

 唐突な提案がレフィーヤの耳を打つ。

 

「・・・・・・・・・・・・え?」

 

「駄目?」

 

「いや、いえ、あの、はい。えっと、どうぞ」

 

 アイズにお願いをされたレフィーヤに断る選択肢など、あるはずがない。

 

「でも、ベル・クラネルが鍛錬しているだけですよ?」

 

「・・・・・・それが、良いの。ベルが頑張ってるところを、見ていたい」

 

 アイズは小さく笑みを作って言った。その笑みがあまりにも可憐で、レフィーヤはアイズの周囲に花びらでも舞ったかのような錯覚を覚えた。

 

 アイズの視線はベルへ。レフィーヤの視線はアイズの横顔へ。互いの瞳には別々の人物が映っている。

 

「ベル、頑張ってるんだね」

 

 ぽつりと、そう呟くアイズの瞳に恋慕の炎が揺らめいた。その炎は瞳を潤ませて頬を紅潮させて、可憐な笑みは恋情で化粧されてより魅力的に輝いていく。

 

「ぐぎぎぃ、ベル・クラネルゥ・・・・・・」

 

 恋する乙女と化したアイズの横顔を間近で見てしまったレフィーヤは、嫉妬のあまり目を血走らせて、歯軋りする。

 

「何て羨ましいっ・・・・・・」

 

 アイズの心を奪い去った憎き少年に、レフィーヤはカッと殺意ほとばしる視線をぶつける。

 

 恋慕と殺意、対極の感情が宿る視線がベルの背にぶすぶすと突き刺さる。

 

(この、ままでは、私の心が、持ちません。どうにかして、この場から、去らなければっ!)

 

 心が憎悪の軍勢に襲撃されて悲鳴を上げる中、微かに残った理性で決断を下したレフィーヤはアイズに向き直り、口を開く。

 

「いつもどおりなら、ベル・クラネルはそろそろ鍛錬を終えるはずです。帰りましょう、アイズさん」

 

 返答の猶予を与えないよう直ぐさまアイズの手を取って歩き出そうとするレフィーヤ。

 

「もう少し」

 

 しかし、手を引かれながらもアイズの金の双眸はベルに釘付けのままだ。

 

「バレたら、きっと場所を変えてしまいますよ。ああいう人は、努力しているところを見られたくないはずですから」

 

「見れなくなるのは、嫌」

 

「でしょう! ほら、アイズさん。今のうちに撤収しましょう」

 

 レフィーヤの必至の説得にアイズはややあってこくりと首肯し、二人揃ってその場を去る。

 

 市壁には、ベル一人だけがいる。

 

「レフィーヤさん、帰ったみたいだね。今日はアイズさんも一緒だったみたいだけど・・・・・・」

 

 ベルがちらと視線を向けた先は、レフィーヤとアイズが隠れていた市壁へ上るための搭だ。先程までアイズと共に影から顔を覗かせていたレフィーヤの姿はもう消えている。

 

「今度、声をかけて見ようかなぁ。でも、隠れてるみたいだし・・・・・・それに睨んでた気が・・・・・・」とベルは一人、二人が去った市壁の上で今後の対応に頭を悩ませるのだった。



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幕間 道化師の乙女たち(トリックスターヒロインズ) 中編

 

 精悍な面構えをした獣人やドワーフの男たちが汗を流しながら鎚を振るい、小人族(パルゥム)の少女が薪やら道具やらを腕一杯に抱えてあっちへこっちへ忙しなく走り回っているのは【ゴブニュ・ファミリア】の本拠(ホーム)『三鎚の鍛冶場』だ。 

 

 依頼された武器を鍛えるために、朝早くから鍛冶師(スミス)たちが忙しなく動き続けている工房。その壁際には、ごうごうと炎を滾らせる大型の炉が四つ設けられていて、室内は猛暑日に似た熱気に支配されていた。

 

 そんな迷宮に挑む冒険者の半身を生み出す場所に足を踏み入れたのは、愛剣(デスペレート)の整備を依頼していたアイズと、気紛れから彼女と同伴することになったティオナだ。

 

 そこで二人を待ち構えていたのは、

 

大切断(アマゾン)、てめぇ、ふざけんじゃねえぞぉおおおおおお!!』

 

 オラリオ全域にまで轟くのではないかというほどの大絶叫だった。

 

 突如響き渡った絶叫に目を丸くするアイズ。しかし隣に立つ少女には心当たりがあったらしい。

 

「しまった! 今ちょうど大双刀(ウルガ)作って貰ってるんだったぁ!」

 

 その事実を思い出したティオナが「ウ、大双刀(ウルガ)はどんな感じですかぁ」と声が聞こえてきた鍛冶場の一角を恐る恐るといった様子で覗きに行く。 

 

 そこでは怒り心頭に発している五人の鍛冶師が特大の超硬金属(アダマンタイト)を必至の形相で鍛えている最中だった。

 

『お前、大切断(アマゾン)なにしにきやがった、ごらぁああああ!! 見世物じゃねえんだぞぉおおおお!!』 

 

「ひいい・・・・・・ごめんなさーい!!」

 

 親の敵でも見るような目で睨まれたティオナは慌てて顔を引っ込めると、アイズの背に隠れてぶるぶると身体を震わせながら怯えてしまう。

 

 ティオナが【ゴブニュ・ファミリア】に注文した大双刀(ウルガ)という両刃の大剣は材料に超硬金属(アダマンタイト)を大量に使うため、鍛冶師たちは蒸し暑い鍛冶場で夜通し槌を振るい続けなければならず、彼らの精神的疲労(ストレス)は限界に達していた。

 

 そこへ全ての元凶であるティオナが現れたのだ。怒りを抑えられるわけが無かった。

 

「あいつらのことは気にするな」

 

 殺伐とした雰囲気が洩れ出る鍛冶場を横目に見ながら奥の部屋から姿を現れたのは、どこかドワーフを想起させる小柄ながら筋骨隆々とした体躯をした初老の男神、ゴブニュだ。

 

「これが注文の品だ。確認してくれ」

 

 ゴブニュの手から《デスペレート》を受け取ったアイズは、柄を握って鞘から抜くと、虚空へ向けて何度か軽く試し切りをする。

 

 違和感が、まるでない。

 

「・・・・・・うん、完璧」

 

 手の延長線上のように馴染んでいるのを確認し終えたアイズは《デスペレート》を鞘に仕舞い、心が沈んでいくのを感じながらも問題のブツ(レイピア)を取り出した。

 

「はぁ・・・・・・まさか五日で使い潰すとは・・・・・・いったいどんな使い方をすればこうなるのか・・・・・・」

 

 ゴブニュが呆れたように呟く。

 

 彼が視線を向けた先。机の上には、見るも無惨な姿へと変わり果てた細剣(レイピア)の姿が横たわっている。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)で多くのモンスターを屠るという大活躍を見せた細剣(レイピア)は、与えられた役目を終えたと宣言するように剣身がばらばらに砕け散っていた。

 

 柄だけ綺麗に残っているのが、より一層哀愁を漂わせている。

 

「ごめんなさい・・・・・・」

 

 アイズが消え入るような声で謝罪する。

 

 そもそも、この細剣(レイピア)は《デスペレート》を預けている間に借りていた代剣であり、アイズの所有物ではなかった。それを壊してしまった事実がアイズの心を締め付ける。

 

「いや、責めているわけではないただ、驚いただけだ」

 

 庇護欲をかき立てるしょんぼりとしたアイズの表情に罪悪感を抱いたゴブニュは、ごほんと咳を一つ立てた後にそう言った。

 

「そうだよ、アイズ! 鍛冶屋は武器を鍛えるのが仕事なんだからさ! このくらい気にしない、気にしない」

 

 反対にティオナはまるで反省の色を見せることなく、武器なんて壊れてなんぼといった様子である。

 

 先ほど殺意のこもった視線をぶつけられた人間とは思えないほどの楽天家ぶりは、正に鍛冶師たちから『壊し屋』の異名をつけられるに相応しいものだった。

 

『覚えてろよ、大切断(アマゾン)──────!!』

 

「はあ。全く……お前はもう少し反省したらどうだ」

 

 鍛冶場から恨みの声が響いてくるのを聞いて、ゴブニュは眉間に皺を寄せながら盛大に溜息を吐く。

 

 心なしか周囲の鍛冶師からも呆れた視線を浴びせられているような気がしたアイズは、おずおずといった様子で言う。

 

「それで、お代は・・・・・・?」

 

「ざっと、四千万ヴァリスといったところだな」

 

 ゴニュフの口から発せられた言葉が鋭い矢となって、アイズの心にグサッと音を立てて深く突き刺さる。第一線を駆ける冒険者だとしても、四千万ヴァリスは決して安い値段ではない。

 

「・・・・・・四千万」

 

 暫くダンジョンに潜る日々が続くことになると、決定した瞬間だった。

 

 ▲

 

「弁償代、稼がないと・・・・・・」

 

「ひぃ・・・・・・大変な目に遭った・・・・・・」

 

《デスペレート》を受け取ると同時に細剣(レイピア)の返済をしなければならなくなったアイズと、大双刀《ウルガ》を鍛える鍛冶師たちから殺意を向けられ疲労困憊となったティオナは現在、活気に満ちたメインストリートをとぼとぼとした足取りで歩いていた。

 

 太陽が青空の頂点に立つ正午、食事処を求める冒険者の一団や夜を待たず酒に酔う神々の姿もちらほら見受けられる。

 

 彼らは昼間に相応しい明るい表情をしているが、アイズとティオナ(主にアイズ)は真夜中を想起させる暗い表情に沈んでいる。

 

「四千万ヴァリス・・・・・・」

 

 想像の遙か上を行く代金を支払わなければならなくなったアイズは、今も四千万ヴァリスとうわ言のように繰り返して、足取りは覚束ない。

 

「まあまあ、そんなに落ち込まないの。あたしなんて二代目の大双刀(ウルガ)を作るのに一億二千万したんだから。それに比べれば安いもんだよ!」

 

「・・・・・・でも、四千万が減るわけじゃない」

 

「うぐっ」

 

 負の思考に囚われているにもかかわらず、物事の本質を突くアイズの発言に心を殴打されたティオナは呻き声を洩らすことしかできない。

 

 一億二千万を基準にすれば多少は低く思える四千万ヴァリスだが、四千万という数字は不変。四千万はどう誤魔化そうとしても四千万だ。

 

「そ、そうだ。暫くダンジョン漬けになるだろうし、今日はパーと美味しいものでも食べて気分をあげようよ! ね!」

 

 この話題を続けるごとに美しい金色の双眸をどんどんと曇らせていくアイズを見て、ティオナは鉛のように重くなった空気を変えるべく元気よく叫んだ。

 

「でも、ティオナ。ダンジョンにもぐって稼がないと」

 

 そう言うアイズの背にのし掛かる四千万ヴァリスの重みが、更に澱んだ空気を煙のように放出する。

 

 天に座わる日輪に照らされたメインストリートはきらきらと輝いて明るいはずなのに、彼女の周囲だけ洞窟のように薄暗い雰囲気に支配されているような気さえしてくるのはなぜだろうか。

 

 通り過ぎる人たちも、一体どうしたんだ? と怪訝そうな視線をアイズへ注いでいる。

 

「むぅ・・・・・・」

 

 このままでは、四千万ヴァリスを返済するためにアイズは本拠と迷宮を往復し続けて無理をするに違いない。

 

 そんな未来予想図がありありと浮かび上がってきたティオナは「今日だけだから! 明日から頑張るためにも、ね? お願い、アイズ! 付き合って!」と手のひらを合わせて懇願する。

 

 ここまで強くお願いすれば、アイズはきっと了承してくれるという確信があった。

 

「・・・・・・今日だけ、なら」

 

 アイズは暫く視線を彷徨わせながら逡巡していたが、やがてこくりと首を縦に振った。

 

「やった、ありがとう! アイズ、大好き!」

 

 それを聞いたティオナは喜びを表現するようにアイズをぎゅっと抱き締めると、そのまま彼女の手を握って一緒に走り出す。

 

「朝は大変な目に遭ったんだもん、これから良いこと起こるよね!」

 

 ふとティオナが見上げた真昼の空は、どこまでも蒼く澄み渡っていた。

 

 ▲

 

 ぶらぶらと都市(オラリオ)を歩き回っていたティオナとアイズは昼食を終えたあと、多種多様な装飾品(アクセサリー)や小物などが飾られている雑貨店を訪れていた。

 

「へえー、色んなものがあるんだね」

 

 そう言うティオナの瞳には、陳列棚に並ぶ品々が映っている。これらを眺めていると、心の中にある人影が浮かび上がってくる。

 

 ベル・クラネルだ。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)に突如として闖入してきた不気味なモンスターの群れへ果敢に挑む雄姿を目の当たりにしてから、心が、身体が、アマゾネスとしての本能が、ベル・クラネルという雄々しい男を求めて止まずにいる。

 

 この想いの意味を、ティオナは理解している。胸に猛る炎の名前を、ティオナは知っている。

 

 恋だ。恋をしたのだ。

 

 ティオナ・ヒリュテは、ベル・クラネルに恋をしたのだ。

 

英雄(ベル)君に似合いそうな奴、発見! あ、これも良いじゃん! こっちも! あ、こっちも!」

 

 陳列棚に並ぶ色々な装飾品(アクセサリー)を手に取って眺めながら、もしこれを贈ってベルが身につけてくれたらと想像する。

 

 ただそれだけで、ティオナの心は幸福感で満ちてしまう。

 

「でも、英雄(ベル)君を好きなのはあたしだけじゃない」

 

 アイズもまた、ベルに想いを寄せている。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)で尾行した時に見た、ベルに恋する彼女の可憐な横顔を今でも克明に思い出せる。女であるティオナさえ赤面してしまうほどの、美しい恋の顔。

 

「あれで恋してないなんてこと、絶対にない」

 

 恋を知らないものですら一目見て分かるほど、アイズはベルに恋をしている。彼の名前を口にする時の声音と表情は優しく柔らかく光輝いていて、まるで陽光を浴びる春の木漏れ日のようだった。

 

 それでも、ティオナはこの胸に咲いた一輪の花のように大切な恋情を捨てようとは思わない。アイズのためにと、自分の想いに蓋をして枯らせるつもりはない。

 

 友人の恋路を邪魔したくない、という理由で自分の恋を諦めるのは自分自身にもアイズにも誠実だとは思えないから。

 

「・・・・・・これ、ベルに似合いそう」

 

 ティオナは店の反対側の陳列棚で綺麗な装飾品(アクセサリー)を手に取っているアイズの横顔を覗き見た。

 

 その白く嫋やかな手で触れている鈴を象った腕輪(バングル)を通して、つぶらな金の瞳にはきっと想い人(ベル)の姿が映し出されているのだろう。

 

(あたしと、同じだ。ううん、あたしより先に、アイズはベルのことを……)

 

 思い返せば五十一階層の『遠征』から帰還して以来、アイズの様子は変わっていたような気がする。

 

 それ以上に、狼男(ベート)が別人並みに様子がおかしくなっていたのでティオナはあまり気に留めていなかったが、きっとあの時からアイズはベルに恋をしていたのだろう。

 

「運命みたいな偶然って、本当にあるんだよね」

 

『中層』のモンスターが『上層』へ逃げだすだけでも異常事態(イレギュラー)なのに、運悪く遭遇(エンカウント)した駆け出し冒険者(ベル・クラネル)は逃走せず立ち向かう道を選び、なんと器の差を凌駕してミノタウロスを討伐してしまう。

 

 その場に偶然居合わせたのは【剣姫】の異名を持ち、【ロキ・ファミリア】の第一級冒険者として勇名を誇るアイズ・ヴァレンシュタイン。

 

 それは何とも神が好みそうな物語的で、運命的な『出会い』方だ。

 

(でも、譲れないよアイズ。この想いだけは)

 

 例え神々がベルとアイズこそ結ばれるべき男女であると拍手喝采して祝福しようが、関係ない。

 

 ティオナはベルに恋をしたのだ。好きだと、ベルの手を握りしめたいと想うこの気持ちだけは、神にだって止められない。

 

(負けないからね、アイズ)

 

 ティオナは胸中で装飾品(アクセサリー)を眺めて微笑んでいるアイズに向けて宣戦布告した。

 

 ▲

 

 久し振りの休日を満喫していればやがて太陽は地平線へと傾いて、青空は橙色に滲みだし、都市(オラリオ)は綺麗な黄昏時を迎えていた。

 

「うーん、遊んだ、遊んだ! 美味しいものも食べたし、色んなものも見れたし!」

 

「・・・・・・そうだね」

 

 食事に娯楽にと、日々の疲れを癒やし鬱憤を晴らすために一日を満喫したティオナとアイズ。

 

 ふとティオナがアイズの横顔を覗けば、【ゴブニュ・ファミリア】から出たあとの、四千万ヴァリスを背負ってどんよりとしていた雰囲気も薄れているようにみえる。

 

「ティオナ、今日はありがとう」

 

「気にしないでいいって。あたしも楽しかったから!」

 

 柔和な笑みを浮かべて感謝するアイズに、ティオナもまた笑顔で応える。

 

 それにティオナは内心、アイズに感謝しているのだ。

 

 ベルの雄姿を見てから、寝ても覚めてもベルのことばかりが頭に浮かび上がって止まってくれず困っていた今日この頃。

 

 朝起きてもベル。昼になってもベル。夜寝るまでベル。また目覚めてベル。ベル、ベル、ベル。

 

 ティオナの脳内はベル一色。

 

 今日も起床してからずっと、脳内がベルへの想いで埋め尽くされて他のことが考えられなかったので、もしアイズと会わなければ一日中部屋でぼーと天井でも眺めていたに違いない。

 

 実際のところ、アイズといろいろな店を回っている間も「ベルと会えたりしないかな」とか。「今、ベルは何をしてるかな」とか。「ベルとならどんな店を回るかな」という妄想ばかりが浮かんでは消え、また浮かんでを繰り返していた。

 

 それでも一人でいるよりは、幾分か気が紛れるというものだ。

 

(よくよく考えたら、きっと英雄(ベル)君はダンジョンに潜ってるよね・・・・・・)

 

 そんな当然のことにも今の今まで気づかないほど、ティオナの思考は恋情の熱に浮かされていたのだ。

 

 それでも、今も往来する人々の中にベルがいないか、と探す瞳を止められずにいる。

 

 しかし、楽しい時間はいつか終わる。今日という日はあっと言う間に明日へ流れていく。

 

「日も落ちてきたし、そろそろ帰ろっか」

 

「うん」

 

 二人は微笑みあい、帰路への一歩を踏み出そうとしたその時、突如メインストリートが色めき立った。

 

 先ほどまでダンジョン帰りの冒険者や、泥酔する神々や、客寄せする店員などがばらばらに騒いでいるだけだったのに、今では誰もが同じ方向を見てどよめいている。

 

「なんだろう?」

 

 釣られるようにティオナとアイズも彼らが見つめる方へ視線を向けてみると、そこにいたのは、

 

「あれって」

 

「・・・・・・ベル?」

 

 二人の想い人であるベル・クラネルだった。

 

 ベルは迷宮(ダンジョン)帰りであることを示すように上着やズボンに埃を付着させて、頬などに軽い怪我を負っていていた。

 

 なにより、腰に吊している幾つかの袋が破れんばかりに膨らんでいることが、多くのモンスターを討伐したのが見てとれる。

 

 それは紛れもなく迷宮(ダンジョン)を潜ったものの証左だ。

 

「あ・・・・・・」

 

 ベルの顔を見た瞬間、ティオナの心臓は破裂しそうなほど脈打つ速度が加速して、お腹の下あたりがじわりと熱くなる。ティオナ・ヒリュテという存在のすべてが、ベル・クラネルという男を求めているという感覚。

 

 今にも身体が勝手に動き出して、ベルに抱きついてしまいそうだった。

 

「・・・・・・英雄(ベル)君」

 

 その名前を呟くだけで恋情という名の炉に薪を際限なくくべられて体温がどんどん上昇していき、ベルの姿を瞳に映しているだけでとめどない幸福感が心と体を包みこむ。

 

 彼が、欲しい。

 

「ティオナ、大丈夫?」

 

「ふえ? あ、う、うん! 何でもないよアイズ!」

 

 アイズの一声で現実世界に引き戻されたティオナは、慌てて取り繕うように言った。

 

 そして、走り抜けていくベルの横顔を見つめながらティオナは自らの想いにはっきりと気づく。

 

 あたし、やっぱり英雄(ベル)君のことが好きなんだ。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)で見た雄姿だけでなく、日常を生きている時のベルを見ても胸のときめきは収まらない。

 

 この恋は一瞬にして燃え上がり、一瞬にして消えるものではないとティオナは確信した。

 

「どこ行くんだろう? ダンジョン帰りっぽいし、やっぱり『ギルド』かな?」

 

「うん、多分そうだと思う」

 

 迷宮(ダンジョン)から帰還した冒険者が向かう場所として真っ先に思い浮かぶのは、魔石の換金所が設けられている『ギルド』だろう。

 

 迷いなく駆けていくベルの様子からも、行き先は『ギルド』で間違いないように思える。

 

 手を伸ばす場所に、ベルがいる。その事実がティオナの心に息づく恋の業火を燃え上がらせた。

 

「・・・・・・ベル、怪我治ったんだね」

 

 ティオナの横では、アイズは安堵するように微笑んでいる。

 

 それを見て、ティオナは改めてアイズとベルが友人であることを思い知った。

 

 それだけではない。アイズは怪物祭(モンスターフィリア)の時にベルと共闘だってしている。二人の距離はあまりにも近い。

 

 対して、ティオナはどうだ。

 

 あの日、ティオナは守られる側の存在だった。英雄が守る誰かの一人でしかなかった。

 

 ベルはティオナを知らない。よしんば【ロキ・ファミリア】としてのティオナを知っていても、ティオナ・ヒリュテという少女をベルはまだ何も知らない。

 

 あたしだけが、英雄(ベル)君を知っている。そんなの、嫌だ。

 

「ねえ、アイズ。ついていってみようよ」

 

 一方的な関係でいたくない、という胸を締めつける痛みに突き動かされるように、ティオナは声を絞りだす。

 

 眺めているだけでは、恋は成就しない。想いを大事に抱えているだけでは、恋人になんてなれない。

 

 人と人の縁を結ぶのは、出会いだ。出会いすらない想いは遠くから憧れの人物を眺めているのと同じように、決して近づけず触れられず、実ることも叶わない。

 

「え、でも」と、恋慕しているベルを追うことに躊躇らいを見せるアイズにティオナは言う。

 

「もしかしたら、喋れるかもしれないじゃん! あたし、まだ英雄(ベル)君とちゃんと喋れてないんだ! ね、行こう!」

 

 これは絶好の機会だと、ティオナは胸を高鳴らせる。

 

 今日という日にベルと出会えば、ティオナとベルの間には知り合いとしての縁ができる。今の他人という空と大地のように遠い関係性から、摩天楼(バベル)の頂上と地上ぐらいの距離には近づけるはずだ。

 

「どう、かな?」

 

「……」

 

 アイズの沈黙は一瞬だった。彼女もまたベルと喋れる機会を見過ごしたくないと考えたのか、どこか真剣味を帯びた表情で頷き言った。

 

「うん、行く」

 

「やった、決まり!」

 

 アイズの了承を得たティオナは拳を上げて歓喜を露わにする。

 

 しかし、こうしている間にも、ベルは民衆の波を縫うようにしてかいくぐり、二人との距離を広げている。

 

 行き先は分かっているが、あまり出遅れると『ギルド』での用事を済ませて見失ってしまうかもしれない。

 

 そんなもしも(IF)を脳裏に過ぎらせたティオナは僅かに焦燥を抱きながら、アイズと共に人混みを避けるようにメインストリートの端を走り始める。

 

 すると数(メドル)先に、ティオナもよく知る人物が見えた。

 

「え、あの影でこそこそしてるのって、レフィーヤ?」

 

 思わず、語尾に疑問形をつけてしまうほどにレフィーヤは挙動不審だった。

 

 彼女は路地から顔を半分だけ覗かせて周囲をちらちらとうかがい、また次の路地へ身を隠してを繰り返しながら進むという、実に怪しげな動きをして誰かをつけているように見えた。

 

「もしかして」

 

 既視感のある光景にアイズは心当たりがあった。レフィーヤ、挙動不審、尾行。アイズの脳内で一瞬にしてそれらの物事が結びついて、一つの結論が出た。

 

 ベルを追ってるんだ。

 

 そんなアイズを余所に何をしているのかさっぱりわからないティオナは、「ねえ、レフィーヤ! 何してるのー!」と躊躇することなく大声で彼女の名前を叫んだ。

 

「わわっ!」

 

 突然自分の名前が呼ばれたレフィーヤはびくっと背中を震わせて、慌てて声が発せられた方角へ振り向く。

 

「な、何もしてません! 私は何もしてませんよ! ベル・クラネルをつけたりなんてしてませんから!」

 

 レフィーヤは両手を残像が残るほどぶんぶんと左右に振りながら、弁解の皮を被った自白を捲し立てる。

 

 自ら行動の目的を喋っていることに気づいていないのを見るに、余程焦っている様子だった。

 

「全部、言っちゃってるじゃん・・・・・・」

 

「・・・・・・レフィーヤ」

 

 混乱状態に陥ってあたふたとしている間にレフィーヤの傍まで歩み寄っていたティオナとアイズは、憐憫の視線を向ける。

 

「うえ!? ティ、ティオナさんに、アイズさん。いつの間に!? もしかして私を呼んだのって、ティオナさんだったんですか!?」

 

 突然、二人が目の前に現れたようにしか見えないレフィーヤは目を見開いて驚愕の声をあげた。自らの行動がバレるとは微塵も思っていなかったので、驚きはひとしおのようだった。

 

 しかし、周囲から見ればレフィーヤの行動は明らかに不審者のそれであり、彼女を知っている【ロキ・ファミリア】の面々であれば彼女の存在に即座に気づいてしまうだろう。

 

「それで、あのー・・・・・・お二人は何を?」

 

 ベルを尾行していることも露見してしまい旗色が悪いと感じたのか、レフィーヤが話題を逸らすために訊ねてきた。

 

「ベルを追ってた」と事もなげに言うアイズに、レフィーヤは顔を間近まで近づけて叫ぶ。

 

「それって私と一緒じゃないですか!」

 

 同罪の人間を見つけて安心したのか、先ほどまでの焦燥の滲む表情が一瞬にして笑顔に変わるレフィーヤ。

 

 そうして三人が話している間にも、ベルは『ギルド』へとその距離を詰めて、三人との距離を離していき、その後ろ姿は豆粒ほどまで小さくなってしまっている。

 

「ねえねえ。早く追いかけないと英雄(ベル)君、行っちゃうよ!」

 

 なるべくベルの姿を見失いたくないティオナは急く気持ちに背中を押されるように路地裏を飛び出して、我に続けと軍勢を率いる将軍のように駆け出した。

 

「あ、ちょ、ティオナさん!」

 

 あくまでこっそりとベルの後を尾行する予定だったレフィーヤは、メインストリートの雑踏を堂々と駆け抜けていくティオナを見て動転してしまう。

 

「レフィーヤ、行こう」

 

「いやでも」

 

「・・・・・・ベル、追ってるんでしょ?」

 

「そうです、けど・・・・・・」

 

 雑踏の中を堂々と進むティオナに続くことにレフィーヤは抵抗感を抱く。しかし、彼女自身ベルに会って伝えたいことがあった。そのためにレフィーヤは今の今までも尾行を続けていた。

 

 ティオナとアイズについていくか。日を改めるか。

 

「うぅ・・・・・・」

 

 数秒の葛藤の末にレフィーヤは、

 

「ああ、もう! 行きます! ついて行かせてください!」

 

 とやけくそ気味に叫んでティオナの背を追うように走り出す。

 

 最後、二人の背を追うようにアイズが大地を蹴って、裏路地からメインストリートの雑踏に飛びこんでいった。

 

「・・・・・・ベルとまた喋りたい。・・・・・・喋れるよね」



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幕間 道化師の乙女たち(トリックスターヒロインズ) 後編

 

 

 ベルの背中を追って『ギルド』の入り口をくぐった三人は、受付の窓口でベルとベルのアドバイザーであるエイナが話しているところを遠目から観察していた。

 

「なんだか、仲よさげですね」

 

 眉間に皺を寄せながら睨むレフィーヤ。

 

「あれは、惚れてるね。間違いない。そうアマゾネス(あたし)の勘が言ってる」

 

 まだ恋敵がいたか、と頬を膨らませるティオナ。

 

「ベル……」

 

 そして、ベルの姿しか視界に映っていないアイズ。

 

 三者三様の反応を示しながら観察しているとベルは会話が終わったのか、エイナを連れ立って魔石の換金所へ向かっていく。

 

「へえ。結構、稼いでるんだね」

 

 魔石の換金に随分な時間を要しているのを見て、ティオナは感心する。

 

「……もしかしたら、『中層』を潜り始めたのかも」

 

「たしか英雄(ベル)君って、Lv.3になってたよね?」

 

 ティオナが訊ねる。

 

「はい、ギルドが正式に公表してましたから間違いないと思います」

 

「なら、アイズの言う通りかも」

 

 そう言ったあと、ティオナはメインストリートを駆け抜けていくベルの腰に吊るされた袋の膨らみを思い出す。あの、袋を突き破らんとしていた大きくごつごつとした魔石は『上層』に棲息するモンスターのものにしては大きかった。

 

(一カ月で『中層』って、しかも一人で・・・・・・色々な噂を聞いてたから感覚が麻痺してたけど、改めて考えるまでもなく、尋常じゃない成長速度だよね)

 

 常識では推し量れないベルの冒険者としての歩みに、ティオナは内心舌を巻く。

 

 そもそもベルはLv.1でありながら、ミノタウロスへ立ち向かうような性格の持ち主なのだ。Lv.3へ【ランクアップ】した今、『中層』へ潜ったとしても違和感はない。もしあるとすれば、それはベルを常識で推し量ろうとする行為そのものだろう。

 

 数分後、魔石の換金を終えたベルはエイナと雑談しながら『ギルド』の入り口へ向かって歩き始める。どうやらここでの用事はすべて済んだらしい。

 

 それを見たティオナは咄嗟に受付窓口の角へ身を潜める。

 

「ほら、アイズも隠れて隠れて」

 

「・・・・・・どうして?」

 

 隠れる必要性を全く感じていないアイズがこてん、と可愛らしく首を傾げる。

 

「アイズは知り合いだから大丈夫かもしれないけど。ダンジョンに潜るような装備じゃない私たちが『ギルド(ここ)』にいるの、めちゃくちゃ怪しいじゃん。あたしね、英雄(ベル)君とはもっとしっかりとした出会い方がしたいの!」

 

 だからお願い、とティオナは胸の前で手を合わせて頭を下げる。

 

「?」

 

 まさかティオナがベルに恋心を抱いているとは予想だにしないアイズは、乙女な彼女の繊細かつ複雑な感情を察せらない。

 

「わかった」

 

 しかし、ティオナにとっては大事なことなのだと真剣な眼差しから感じ取ったアイズは、Lv.6の【ステイタス】を遺憾なく発揮して疾風のごとく面談用に設けられたソファの背へ身を隠した。

 

「レフィーヤは・・・・・・って、もう隠れてる!?」

 

 数日間の尾行によって隠伏術を鍛えてきたレフィーヤは、ティオナに言われるまでもなく、誰よりも先に窓際の凹んだ壁と同化するように隠れていた。

 

「それでは、エイナさん。明日、楽しみにしてますね」

 

「うん、ベル君。また明日」

 

 ティオナ、アイズ、レフィーヤともに別々の場所で身を隠し、ベルが『ギルド』を出て行くのをこっそり見送る。

 

 幸い、最後までベルにもエイナにも三人は気づかれなかったようだ。ほっと安堵する声がティオナとレフィーヤの口から洩れる。

 

 その代償として他の職員や冒険者たちから怪訝そうな視線を注がれているのだが、ベルに意識が奪われているティオナたちはまるで気づかず、

 

「よし、追いかけよう!」とティオナが受付所の角から顔を出して意気軒昂と走り出す。

 

「うん」

 

「すぅ・・・・・・はぁ・・・・・・ここまできたら、行くしかありません」

 

 ティオナに続くようにアイズとレフィーヤもソファと壁の凹みから抜け出して、『ギルド』を出ていく。

 

「なんだったんだ?」

 

「さあ・・・・・・」

 

 小声で話したり、急に身を潜めたり、意気揚々と走り出したりする【剣姫】、【大切断(アマゾン)】、【千の妖精(サウザンド・エルフ)】を見て、『ギルド』の職員たちは不思議そうに首を傾げるのだった。

 

 ▲

 

 ティオナたちが『ギルド』を出た頃には世界は薄暮を迎えており、周囲もすっかり暗くなって夜は間近に迫っていた。

 

 店の窓から洩れる温かな橙色の灯り。どこからか響いてくる酔っ払いたちの叫び声に、客引きをする店員たちの呼び込み。

 

 それらが合わさって、夜の喧騒が生まれる。

 

 ベルが『ギルド』を去ってからすぐその後を追いかけていたティオナたちは、メインストリートを歩くベルの後ろ姿をみつけた。処女雪のような白髪はあらゆる種族が生活を営んでいる都市(オラリオ)の中でも、よく目立つ。

 

 それに加えて、ベルの周囲だけ明らかに毛色の違うどよめきが巻き起こっているので、見失う方が難しいくらいだった。

 

 今もティオナの眼前でベルは声をかけてくる人々へ手を振っている。

 

 しかし、人々は英雄とそうでないものを分かつ線が見ているかのように、声をかけることはあっても、近づこうとはしない。

 

「凄い人気だね」

 

「・・・・・・うん」

 

「べ、別にこのくらい、た、大したことありませんよ!」

 

 僅か一カ月でLv.3に【ランクアップ】するという異次元すぎる偉業を打ち立てたベルは、【未完の英雄】としてすっかりオラリオの有名人になっていた。

 

 幸い、誰かと合流する気配はなく、ティオナたちが声をかけるには好機であるように思える。

 

「よし、突撃!」

 

「・・・・・・おー」

 

 ティオナの号令に、アイズは小声でありながらもしっかりと応える。

 

「ほら、レフィーヤも一緒に」

 

「え、私もですか!?」

 

 ベルとの距離がどんどんと近づいていくにつれて緊張が増して、周囲の音が遠ざかっていくような錯覚を覚えていたレフィーヤは、突如鼓膜に響いてきたティオナの一声に慌てふためく。

 

「そうだよ! ほら、突撃ー!」

 

「・・・・・・お、おー!」

 

 結局、ティオナの勢いに押される形でレフィーヤも小さな拳を振り上げた。

 

 こうして一致団結の契りを交わした三人は、ベルへの突撃を敢行する。

 

 用事が済んだからなのか、緩やかな足取りで歩くベルに追いつくのは容易だった。

 

「おーい! 英雄(ベル)君ー!」

 

 メインストリート一体に響くほどの大音声でティオナが叫ぶと、名前を呼ばれたベルは立ち止まり、ゆっくりとこちらへと振り返った。

 

「あれ、アイズさんに、【ロキ・ファミリア】の・・・・・・」

 

 ベルはアイズたちと遭逢するとは思っていなかったらしく、目をわずかに見開いて驚きを露わにしている。

 

「ベル、久しぶり」

 

「はい。久しぶりですね、アイズさん」

 

 ベルへ真っ先に話しかけたのは、やはりアイズだった。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)以来、数日ぶりの再会にアイズとベルは温容あふれる面持ちで見つめあう。

 

 アイズにとってベルは恋慕の情を抱く男性であり、ベルにとってアイズは生まれて初めて肩を並べた戦友だ。

 

 それら二つの心緒が混ざり合い一種の独特な雰囲気を醸し出して、傍からに立つティオナとレフィーヤに割り込む隙を与えない。

 

 まるで恋慕と親愛の障壁が、ベルとアイズを現実世界から隔離しているようだった。

 

「・・・・・・怪我はもう治ったの?」

 

 武装するベルの姿を見て、アイズは心配そうに訊ねた。

 

 数日前、最後に見たベルは全身の皮膚を紫色に変色させて、打撲に裂傷、骨折と、生きているのが不思議なほどの重傷を負っていたのだ。アイズが怪我の具合を確かめたがるのも無理はない。

 

「はい。神様にしっかり休まないと許さないって言われてしまったので。今日までダンジョンに潜るのは禁止されてたんです」

 

 ベルはそう言うが、怪物祭(モンスターフィリア)からまだ数日しか経過していない。普通であれば、寝具(ベッド)で安静にしていなければいけないはずだ。

 

 しかし、アイズの瞳に映るベルからは、今日の迷宮(ダンジョン)探索で負ったであろう掠り傷しか見受けられない。

 

 まさか、万能薬(エリクサー)を使ったのか? という考えが過ぎったが、眷属がベルしかいない【ヘスティア・ファミリア】には手の届く代物ではない。

 

 もしかしたら、自然治癒力が上昇するスキルを持っているのかも知れない、という予想を立てながらもアイズはまず第一にベルの快復を喜んだ。

 

「良かった、後遺症が残らなくて」

 

「ありがとうございます。僕もそれだけが怖かったんですけど、何ともないみたいで安心してます」

 

 何度か手を握っては開いてを繰り返したあと、ベルは噛み締めるように言った。

 

「それで」

 

 後ろの彼女たちは、とベルは視線をアイズの背後に立つティオナとレフィーヤに向けた。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)では、ベルはモンスターを討伐し終えたあと肉体と精神の限界からアイズに優しく抱き締められたあと、すぐに気絶してしまった。

 

 ゆえに面と向かって言葉を交わすのは今回が初めてということになる。

 

 ベルから視線を向けられたティオナの胸が、どくん、どくん、と早鐘を打つ。鼓動の速度(テンポ)がベルを見つめるほど加速していく。

 

 視界からベル以外のすべてが遠のいていく。

 

英雄(ベル)君と、こんな距離で・・・・・・」

 

 歓喜と緊張と不安とが入り混じる複雑な感情の波濤を抑えきれなくなったティオナが、小声で呟く。

 

 感情を言葉にしなければ、心の器が決壊してしまいそうな気がしたから。

 

(遂に出会えた)

 

 面と面で視線を交わすティオナは、内心で狂喜乱舞する。もし今日アイズについていかなければ、ティオナはまだベルと出会えなかったはずだ。妄想の中で語り合うことしかできなかったはずだ。

 

 一方通行な恋模様も今日で幕引き。

 

 雷を纏い、揺るがぬ意志の光を瞳に宿した【未完の英雄】は、目の前にいる。ティオナの心を捕らえて離さない愛おしい少年は、手の届く距離にいる。

 

 冒険者としての先輩から、知り合いになれる。

 

「最初の印象は超大事なんだから、噛むわけにはいかない」とティオナは胸中で戒めてから、小さく息を吸い、口を開いた。

 

「あたしはティオナ・ヒリュテっいうんだ! よろしくね、【未完の英雄(ベル・クラネル)】君!」

 

 言った。言ってしまった。ティオナの緊張を余所に、

 

「はい。よろしくお願いします、ティオナさん」とベルは柔和な笑みを浮かべて応えた。

 

 眉を顰める様子もなく、頬を引き攣らせることもない。ベル・クラネルという少年が浮かべるだろう自然な笑みがそこにある。

 

「あ、勝手に英雄(ベル)君って呼んじゃってたけど、馴れ馴れしかったかな?」

 

「いえ、気にしないでください。僕のことは好きに呼んでもらって全然構いませんから」

 

 ベルがそう言うと、ティオナはほっと安堵する。

 

 失敗しなかった。その事実がティオナの心にへばり付いていた不安を剥がしていく。

 

 ティオナの自己紹介が終われば当然次はレフィーヤの番なのだが、彼女は険しい表情をしたまま石像のようにぴくりとも動かない。

 

「えーと・・・・・・」

 

 視線を合わせるだけでキィッと威嚇されるベルは、救いを求めるようにアイズへ視線を送った。

 

「・・・・・・レフィーヤ」

 

 挨拶はちゃんとしないと、とアイズの双眸から送られてくる声なき声(アイコンタクト)にレフィーヤはむむむと呻いて暫く俯いたあと、ようやく口を開いた。

 

「・・・・・・レ、レフィーヤ・ウィリディスです。よろしくするつもりはありませんが、一応、名乗ってあげます」

 

 これがレフィーヤにできる精一杯だった。伝えたいことは心の奥に閉じこめられたまま、言葉にできず終わりを告げた。

 

「あはは・・・・・・僕はベル・クラネルです。これからよろしくお願いします、レフィーヤさん」

 

 ベルは反抗期の妹と応対するような苦笑いを浮かべながらも、特に怒っている様子はない。

 

「挨拶はしっかりしないと、だめ・・・・・・」

 

「で、ですが、アイズさぁん」

 

 アイズに叱られて捨てられた犬のようにしょんぼりするレフィーヤを見て、「僕は気にしてないですから、大丈夫ですよ」とベルは庇うように言った。

 

 その声音や表情からも、場を宥めるためでなく本心で言っていることがうかがえる。

 

「それで、皆さんはこのあと予定があったりしますか?」

 

 少しばかり硬化した空気を和らげようと、ベルが三人に訊ねた。

 

「うーん、特に予定はないんだよねー。あとは家に帰るだけかなー」

 

「・・・・・・私も」

 

「私も、です」

 

 元々、ベルと話すことが目的だったのでティオナはその後のことを全く考えていなかった。

 

 それは一言でも言いからベルと語らいたかったアイズや偶然ついていくことになったレフィーヤも同じだったらしく、首を振る。

 

「なら」

 

 三人の答えを聞いたベルは僅かに逡巡したあとに言った。

 

「一緒に食事しませんか?」

 

「「「え?」」」

 

 まさかベルから誘いを受けるとは思っていなかった三人の言葉が重なる。

 

「実は神様・・・・・・僕の主神が今日の夜、用事があるらしくて。僕一人で食事をするのは寂しいなって思ってたところなんです。だからもし良ければなんですけど、どうですか?」

 

「い、良いの!?」

 

 食い気味にティオナが問う。恋する人から食事に誘われるという予想外の展開(ハプニング)に、彼女は気持ち(テンション)を急上昇させる。

 

 まさかベルと知り合えただけでなく、一緒に食事ができるだなんて。ティオナの歓喜で膨らんだ感情は破裂寸前だ。

 

「はい、勿論です」とベルが頷いた瞬間、ティオナは「行く!」と食い気味に了承した。

 

「アイズさんとレフィーヤさんはどうですか?」

 

「・・・・・・行く」

 

 ベルの問いかけにこくこくと嬉しそうに何度も頷くアイズ。彼女もまた断る理由を持っていなかった。一秒でもいいからベルの傍にいたい。それが、アイズの願いなのだから。

 

 恋慕の情を金色の瞳に灯した憧れの人の横顔を見たレフィーヤは胸中で嫉妬を燃やしながらも、「アイズさんが行くなら」と消極的ながらついていく意思を表明する。

 

「ね、ね! それで、どこに行くの? 誘ってくれるってことは英雄(ベル)君のおすすめのお店あるんでしょ? でしょでしょ?」と太陽のように眩しい満面の笑みをたたえながらティオナが訊ねる。

 

「はい。豊穣の女主人というお店なんですけど」

 

「そこ知ってるよ! ご飯、美味しいよね!」

 

 ベルが口にした店の名前にティオナは心覚えがあった。それは、半月ほど前に『深層』から帰還したあと【ロキ・ファミリア】の面々で宴会を開いた店だった。

 

 そして、アイズとベルが名前を交わしあった店でもある。

 

「忘れるわけ、ない」

 

 今でもアイズは克明に思い出せる。夜空に浮かぶ満月に照らされたベルの姿と、ベルが紡いだ会話の一言一句を。月下の出会いがあったからこそ、アイズはベルへの恋心を自覚するようになったのだから。

 

「では、豊穣の女主人でいいですか?」

 

「うん」

 

「私は、どこでも」

 

「あたしも良いよー!」

 

 ベルの問いに三人は頷く。

 

「それじゃあ、豊穣の女主人に出発!」とティオナが先頭に立って歩きだそうとした、その時だった。

 

「あの、ベル・クラネル!」

 

 レフィーヤが歩き出すベルの足を引き留めるように叫んだ。

 

「なんですか、レフィーヤさん?」

 

 振り返るベルの円らな瞳が、レフィーヤを見つめる。あまりに真っ直ぐなベルの瞳と目を合わせることに耐えられず、レフィーヤは咄嗟に俯いてしまう。

 

(言わないと。今しかないんです。今を逃したら、きっと私はずっと先送りにしてしまう)

 

 ベルにある言葉を伝えると決断しても尚、レフィーヤの喉を堰き止める不必要な自尊心。それこそが前へ進もうとするレフィーヤの口を縛る鎖だった。

 

「・・・・・・」

 

 じい、と下を向いたままレフィーヤは沈黙する。しかし、ベルは先を急かすこともなくレフィーヤを見つめ続けている。

 

 そうだ、ベル・クラネルはこういう人間だ。私がこうして不自然に黙っていても、何も言わずにじっと待ってくれる。

 

 他人を慮るベルの優しさが、今だけは辛かった。

 

 ベルの心が鋼で出来ているなら、私の心はきっと硝子だ。

 

 懸絶した心の硬度に、涙を流したくなる気持ちがふっと湧いてきて心を揺さぶる。

 

 それでも好敵手(ライバル)を目指すと決めたのは、誰でもない自分。

 

 忘れてはいけない。怪物祭(モンスターフィリア)で謎の植物モンスターに襲撃された時、ベルが助けに来てくれたからレフィーヤは二本の足で今も立っていられる。

 

 第一級冒険者の攻撃が通じないほど凶悪なモンスターの群れだ、もしあのまま倒れていたら死んでいた未来だってあったかもしれなかった。

 

 どれだけ悔しくても、『ベル・クラネルに助けられた』という事実から目を逸らしてはいけない。それは好敵手(ライバル)にならんとするものが絶対にしてはいけない行為だ。

 

 だから、レフィーヤは大きく息を吸って、

 

「ベル・クラネル! 怪物祭(モンスターフィリア)のとき、助けていただいてありがとうございました!」

 

 深々と頭をさげながら、ベルに感謝の気持ちを伝えた。

 

「・・・・・・」

 

 返事がない。一秒、二秒、三秒、と待っても沈黙が場を支配している。

 

 奇妙な沈黙に耐えかねてレフィーヤが顔を上げると、視界に現れたベルはきょとんとした表情のまま固まっていた。

 

 予想外の事態である。まさか一世一代の告白に対して、間抜けな顔をされるとはレフィーヤは思ってもいなかった。

 

「な、なんですかその顔は!」

 

 思わずレフィーヤは怒りを発する。まるで悩みに悩んだ果てになけなしの勇気を絞り出した私が馬鹿みたいじゃないですか! と抗議したいくらいだった。

 

 感謝を受けた張本人であるベルは顔を真っ赤にしたレフィーヤの怒声を聞いて、ようやく我を取り戻した。

 

「いえ、ただちょっと驚いてしまって」

 

 ベルは困ったように頬をかきながら言う。その様からは、感謝されるとは微塵も思っていなかったように見える。

 

「その、僕として当然のことをしただけですから」

 

 そう言った瞬間、レフィーヤは「私の感謝を突っぱねるつもりですか!」とベルの襟袖を掴もうとする。

 

「でも、そうですね」

 

 だが、寸前のところでレフィーヤの手が止まる。

 

 その直後、

 

「どういたしまして」

 

 ベルは柔らかな微笑みをレフィーヤに贈った。

 

「っ!?」

 

 完全に不意打ちだった。

 

 好敵手(ライバル)であるはずなのに、ベルの笑顔を見ているだけでレフィーヤの体温は上限を忘れたようにぐんぐんと上昇していく。

 

(なんですか、これは。胸が熱く・・・・・・知りません、こんな気持ち。これは、何なんですか!)

 

 胸に突如として産み落とされた感情に、レフィーヤは混乱する。好敵手(ライバル)の笑顔を見て胸が高鳴る理由がわからない。

 

(そ、そうです。これは、ようやく好敵手(ライバル)だと名乗れることへの高揚です。そうに違いありません)

 

 自らの感情をそう解釈したレフィーヤは、守られる側の境界線を踏み越えるように好敵手(ベル)へ一歩近づいて、宣言する。

 

「あのときは不覚を取りましたが、もう二度とあなたに助けられるような失態は犯しません! むしろ、次は私があなたを助けてみせます!」

 

「レフィーヤさんが、僕を」

 

「そうです! だってあなたは私の好敵手(ライバル)ですから!」

 

 この日、レフィーヤはベルの好敵手(ライバル)としての一歩を踏み出した。

 

 ▲

 

 豊穣の女主人でベルたちを迎えたのは、空色の瞳に薄緑色の髪が特徴的なエルフ族のウエイトレス。リュー・リオンだった。

 

「いらっしゃいませ、クラネルさん。・・・・・・それと、お連れの方々」

 

 先頭に立つベルを視界に捉えたリューは僅かに目尻を下げる。だが、少し遅れて現れた三人を見た刹那、リューは双眸を鋭く尖らせた。

 

 表情は変わっていないのに、ぐつぐつと煮えたぎるような怒気が放たれているのを感じたベルは「シルという人がいながら、なぜ女性を囲っているんですか?」と視線で威圧してくるリューを見て、頬を引き攣らせる。

 

「・・・・・・どうかした?」

 

「いえ。こちらへどうぞ」

 

 怪訝そうな表情で訊ねてくるアイズを見て、リューは表情を接客用のものに戻し、四人を先導するように歩き始める。

 

【ロキ・ファミリア】の第一級冒険者と【未完の英雄】の組み合わせはあまりに目立ちすぎるという理由から、ベルたちが案内されたのは店内の隅にあるテーブル席だった。

 

「料理が決まったら、またお呼びください」

 

 淡々とそれだけ告げると、リューは足早にベルたちのテーベルを去って行く。彼女の背からはどこか刺々しい雰囲気が放たれているようにベルは感じた。

 

「・・・・・・ベル、あの人と何かあった?」

 

「いえ、何にもありませんよ。はい」

 

 とアイズからの質問に苦笑いしながら答えるベル。

 

 脳裏に過ぎるのは『あなたはシルの伴侶となる方なのですから』と真剣な面持ちで告げるリューの姿だ。

 

 なぜ、僕とシルさんが? という疑問をベルは抱いているが、あの様子から見て口を割ってくれそうにない。

 

彼女(・・)と僕が伴侶になる、か・・・・・・)

 

 胸中で呟くベルに共鳴するように、右眼から僅かに稲妻がほとばしる。しかし、それは一瞬の出来事で誰も気づくことはなかった。

 

 席についた四人は机の上に並べられたメニューを手に取ると各々が好きな料理を注文する。

 

 アイズはナポリタンを。

 

 ティオナはステーキを。

 

 レフィーヤは魚のフライを。

 

 そしてベルは鶏の香草焼きを頼んだ。

 

「あとはあたし、麦酒(ビール)!」

 

「私は果実酒で」

 

「僕も果実酒を頼もうかな」

 

「・・・・・・私は蜜柑汁(オレンジジュース)

 

 料理を選び終えて、最後に飲み物を頼み始めるベルたち。

 

「あれ、アイズさんはお酒飲まないんですか?」

 

「・・・・・・ロキに駄目って言われてる」

 

 まさかの解答にベルは意外そうな目でアイズを見る。

 

「あー、アイズは酒癖がちょっとねえ」

 

 アイズの酒癖の悪さを目の当たりにしているティオナは、明後日の方向を見ながら言葉を濁す。

 

「そうなんですね」

 

 アイズの意外な一面を知ったベルは、嬉しそうに微笑む。深紅色の双眸が見つめる先には、恥ずかしそうに頬を紅潮させるアイズがいた。

 

 注文から十数分後、リューが芳ばしそうな香りを漂わせる料理たちをお盆に乗せて次々と机の上に運んでくる。

 

「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」

 

 リューは手早く料理を配膳すると、一礼して去っていった。

 

 注文の品がすべて届けられたのを確認したベルは「それでは皆さん料理もきたことですし、いただきましょうか」と言って果実酒がなみなみと注がれたジョッキを高々と掲げる。

 

「乾杯!」

 

「「「乾杯!」」」

 

 こうして、四人の酒宴が始まった。

 

 ▲

 

英雄(ベル)君と一緒にご飯食べられるなんて、最高!」

 

「アイズさん、あたしのフライもどうぞ!」

 

「ありがとう、レフィーヤ」

 

「うん、美味しい」

 

 冒険者らしくわいわい騒ぎ合いながら食事を楽しむ三人を眺めながら、ベルは不思議な感覚に陥っていた。誰かと笑い合いながら卓を囲めるなど、都市(オラリオ)に訪れる以前の自分では到底想像できないことだ。

 

 ベルは人間を襲う絶対悪であるモンスターを、あの忌まわしき存在(黒龍)を鏖殺する力を得るために迷宮都市オラリオへやってきた。

 

 力が欲しかった。善なる人間の幸福を不当に奪い、不幸に陥れる卑劣な悪を滅ぼせるだけの絶対なる力が。

 

 どれほど高潔な正義を掲げようと、どれほど輝かしい理想を掲げようとも、実行できるだけの力が無ければ弱者の妄言でしかない。

 

 他者を弱者を嬉々としていたぶる塵屑にも劣る悪を打倒するには、この世に跋扈する悪党を絶滅させるには神より授かる『神の恩恵(ファルナ)』と、効率よく『経験値(エクセリア)』が獲得できる迷宮(ダンジョン)という環境が必要不可欠だった。

 

 最高の環境で最速の成長を成し遂げなければ、ベルの目的は叶わない。

 

 ベルの肉体、血液、五臓六腑、心。何よりも()に刻みつけられている悪という理不尽に対する憎悪が「もっと強くなれ、もっと早く成長しろ、もっと前へ進め」と今もベルを突き動かすのだ。

 

 なのにベルは今、アイズたちとの食事を楽しんでいる。久しく忘れていた楽しいという気持ちが心地よくもあり、気持ち悪くもあった。

 

 エイナは成長していると言ってくれたが、ベルの心のどこかで「食事を楽しんでいる場合ではない」とナニカが怒るのだ。

 

「お前が幸福を享受している間にも、善なるものの幸福が邪悪なるものたちに穢されているのだぞ」とナニカが告げるのだ。

 

 ならばどうして、ベルは三人を食事に誘ったのか。

 

 それは、きっと・・・・・・

 

「ベル、大丈夫?」

 

 思考の海で溺死しそうになったベルを見て、アイズが心配そうに見つめてくる。

 

 少女。夕焼けに照らされて輝く稲穂の海のように美しい金色の髪と瞳を持った少女。心の奥に闇を抱える、孤独な少女。

 

 そして、ベルと共に戦った初めての少女。

 

 アイズ・ヴァレンシュタインが、ベルを見ている。

 

 そうだ僕は。

 

 彼女のことが知りたいんだ。あの日、怪物祭(モンスターフィリア)で僕が背を預けるに足ると信じた少女のことを。

 

 だからアイズたちを食事に誘ったのだと、ベルは今になって自分の本心に気づいた。

 

「ベル?」

 

「あ、はい。大丈夫です、ちょっとぼーとしてたみたいで」

 

 誤魔化すように、ベルはジョッキを煽る。

 

「・・・・・・ベル、パスタ食べる?」

 

「えっ」

 

 アイズからの突然の申し出にベルは言葉を詰まらせる。

 

(そうか、アイズさんは僕を気遣って)

 

 表情に出したつもりはないが、アイズはベルが鬱屈とした感情を抱いていたことに気づいたのだろう。金色の瞳にはベルを慮るような優しさが滲んでいる。

 

「ありがとうございます、アイズさん。それじゃあ、いただいてもいいですか?」

 

「う、うん」

 

 アイズはぎこちない手つきでフォークにパスタを巻き付けると、緊張で震える手を必死に抑えて何とかベルの口元まで持って行く。

 

「・・・・・・あ、あーん」

 

 あむ、と頬張るベルを見てアイズは固まってしまう。

 

(ど、どうしよう・・・・・・あ、あーんしちゃった)

 

 アイズの顔が徐々に紅潮していく。恥ずかしさからか、顔の赤みが耳にまで広がっていく。

 

 それを目敏く目撃していたレフィーヤが叫ぶ。

 

「ベル・クラネルゥ! なぜアイズさんにあーんして貰ってるんですかぁ、羨ましいです! 許せません!」

 

 彼女はすっかり酔いが回っていて、顔を真っ赤にさせてどこか目も据わっている。今日、四人の中で一番酒を飲んでいるのは間違いなくレフィーヤだった。

 

「レフィーヤも、する?」

 

「いいんですか!?」

 

「うん」

 

 アイズは先ほどよりも手慣れた様子でフォークにパスタを巻き付けると、レフィーヤの口元へ持って行こうとする。

 

「じゃ、あたしが代わりに英雄(ベル)君にあーんしてあげる!」

 

「ティオナさんもですか?」

 

 それを聞いた瞬間、レフィーヤの口元まであと少しというところまで近づけていたスプーンがぴたと止まる。

 

「はい、あーん!」

 

「あの、一口にしては大きくないですか?」

 

「育ち盛りなんだから、がっつり食べないと! ほら!」

 

「は、はい」

 

 ティオナがベルに『あーん』をしているところを見たアイズは、胸に針が突き刺さるような痛みを感じた。

 

(なに、この痛み。ティオナとベルが仲良くしてるだけなのに、どうしてこんなに胸が痛いの?)

 

 アイズは胸を傷つける感情の正体を探すように周囲を見渡すが、恋を教えてくれた母親(リヴェリア)はここにはいない。

 

「アイズさぁーん・・・・・・」

 

「・・・・・・ご、ごめん。レフィーヤ」

 

 涙目を浮かべるレフィーヤからの悲哀漂う声を聞いて、我を取り戻したアイズは慌てて謝るのだった。

 

 ▲

 

 食事も残り僅かとなり四人の酒宴が終わりへ近づいたころ、ティオナが酔った勢いに任せるように言った。

 

「ねえ、ねえ。英雄(ベル)はどんな子が好みなのぉ?」

 

「急ですね」

 

 前の会話とは全く脈絡のない質問に、ベルは苦笑いする。

 

「いいじゃん、いいじゃん。減るもんじゃないんだし。ね、教えてよぉ」

 

「私も、気になる」

 

「アイズさんもですか?」

 

 まさかな人物の加勢に、ベルは思わず聞き返す。

 

「すごく、気になる」

 

 アイズは深々と頷いた。

 

 声音は淡々としているが引き締まった表情からは興味津々であることが伝わってくる。

 

 ちなみにレフィーヤは酔い潰れて、「ベル・クラネルゥ・・・・・・」とぶつぶつ呟きながら卓の上に突っ伏している。

 

「ほら、アイズもこう言ってるし。ね?」

 

 ティオナの熱意に折れたベルは、ジョッキに注がれた果実酒の水面を見つめながら少しばかり思索する。

 

(そんなこと、考えてもみなかった)

 

 祖父を失った日から今日に至るまで、ベルは『強くなる』ために前だけを向いて生きてきた。過去など振り返らない。振り返る必要を感じない。目的を果たすために正しい努力を続けることがベルにとっての当たり前だったから。

 

 ゆえに好みの女性は誰なのか、自己に問うという発想自体が無かった。

 

「そう、ですね」

 

 ベルは言葉を口の中で転がしながら、改めて考えてみる。

 

 ベルにとって好ましい女性とは、誰か。まぶたを閉じて自己の内側へ意識を向ける。最初は何も浮かばず、心象風景は真っ暗な闇に包まれていた。

 

 しかし、じいっと心の奥に目を凝らしてみると朧げながらその輪郭が浮かび上がってくる。

 

 そうだ僕は。

 

 深い深い闇の中に、ベルは一人の女性を見た。

 

 答えを得たベルはゆっくりとまぶたを開く。

 

 そして、陶磁器を扱うように丁寧にその言葉を紡ぎだした。

 

「ずっと一緒にいたい。そう思える女性ですね」



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神会(デナトゥス)

 
 これより始まるは神々の集会。前人未到の偉業を打ち立てし英雄に相応しき称号を授けようと、誰も彼もが思量する言葉の戦争。

 英雄の大器を持つがゆえに、神々は白兎の少年に自らの理想を押し付けようとするだろう。

 だが忘れてはならない、この舞台の主役が誰であるかを。

 我欲に囚われし汝らは既に端役。迎える結末はとうに決まっている。

 炉の女神は知っている、眷属へ授けるに相応しい二つ名を。

 そして告げるだろう。 

「今は小さき英雄よ、汝の進む道は未だ無限の可能性に満ちている」

 これは炉の女神からの二つ目の贈り物。


 

 

 ○

 

 神会(デナトゥス)、それは娯楽を第一に求める快楽至上主義(大体の神がこれに当てはまるのだが)の一部の神々が有り余る暇を潰すために企画した集会のような催し物だ。

 

 優秀な眷属に、圧倒的な権力。時を経るごとに増え続ける財力を持つある一定の成功を収めた派閥(ファミリア)の神は、胸に湧いた欲望を貪ることに不足なく、次第に欲望を満たす行為そのものに飽き、堕落していく。

 

 結果、欲するもののすべてを手に入れられるようになった神々は暇を持て余すようになり、次第に同じような境遇にある神々同士で集まり始めるようになった。

 

 それが神会の起源である。

 

 当初は雑談などに興じて売っても余るほどの時間を無駄に浪費するだけの生産性の欠片もない無価値な集会であったが、時間が流れ、時代が移ろい、参加する神が増え、いつしかその目的は雑談の域を超えて、都市にとっても極めて重大な会議の場へと昇華した。

 

 今回開かれる神会の目的はただ一つ。Lv.3へ【ランクアップ】を果たしたとある(・・・)冒険者の二つ名を決定すること。そう、たった一人の英雄のためだけに数多の神はこの場に集った。

 

「遂にやってきたか、この時が!」

 

「今回ばかりは待ち遠しくて仕方なかったわ」

 

「なんてったって、今日の神会は()のためだけに用意されたものだからな」

 

 都市中央で屹立する玉座に座る君主のごとき威厳を放つ摩天楼の三十階には、多くの神々の姿がある。

 

 三十階は神会などの集まりのために改装が施された特殊な階層で、無駄な家財は一切排除され、大広間を支える列柱と広間の中心に置かれた円卓だけが唯一、空間に立体感を与える無生物だった。

 

 それ以外は、すべて神。完成された美貌と、完成された肉体に、不滅が宿る超常存在だけが、三十階の有生物として生を鼓動させている。

 

 普段であれば三十ほどの参加で収まる神会はしかし、今回だけは例外だった。

 

 一定の距離をあけて円卓につく上位派閥の神たち、それを遠巻きに眺める神、壁に背を預ける神、立ちながら雑談に興じる神、泥酔しているのか床に寝そべっている神まで、数えれば切りがない。

 

 およそオラリオに根を下ろす神のほとんどが今回の神会に参加しているという異常。または異例。

 

 ──彼らは皆、ただ一柱の神の来訪を心の底から待ちわびている。

 

 これまで迷宮都市オラリオでは様々な物語が紡がれていた。その中には喜劇があり、それ以上の悲劇があり、何よりも何千年先まで語り継がれるだろう輝かしい英雄譚があった。それら眷属たちが織りなす唯一無二の刺戟(ストーリー)こそ、神々の欲望を満たす極上の美酒。至高の悦楽。

 

 そして現在、神々の前に突如として新たな英雄の卵が現れた。それもただの卵ではない。金の卵だ。

 

 彼のもの、英雄の大器を持ち。あらゆる艱難辛苦を踏み越える、鋼の意思を抱き。神々の瞳さえ魅了する、光の雄壮を放つ。

 

 打ち立てし、偉業は既に二つ。Lv.1でのミノタウロス討伐、Lv.2でのシルバーバッグ強化種の討伐。これら二つは、英雄の資質なき凡人では決して成し遂げることは不可能。

 

 故に、偉業。為し遂げしものは、英雄の資格あり。

 

 神々は待ち焦がれていた。次代を担う英雄を。永遠に人々に語り継がれる英雄の中の英雄を。未知の物語を切り拓いてくれる英雄を。

 

 彼は千年に一度の逸材。否。過去、現在、未来において比肩するものが現れることはないだろう絶対的存在。……主人公。

 

 ──さあ、早く現れろ。彼の英雄を導く女神よ。我らともに語りあいて、二つの偉業に相応しき称号と祝福を授けようじゃないか。

 

 騒く三十階につながる唯一の扉が、きいと音を立てて開き始める。

 

 瞬間、あらゆる音は静止し、神々はすべからく閉ざされた扉に視線を注いだ。

 

 彼女が、来る。

 

 胸に抱く予感が外れることはない。神の直感は絶対。未来予知と同義。

 

 静寂の中で唯一音を鳴らす扉がゆっくりと開かれた先、彼の英雄の髪のごとき純白のドレスを纏った炉の女神が現れた。

 

「遅いで、ドチビ。周り見てみ。皆、うずうずしながら待っとるで」

 

「悪かったね、ロキ。でも、主役は最後に登場するものさ」

 

 女神ヘスティア。

 

【ヘスティア・ファミリア】の主神にして、今回開かれた神会の主役の登場である。

 

 さあ、神会を始めよう。

 

 ○

 

 摩天楼の三十階、長い廊下を渡った先にある扉の前に立ったヘスティアは、深呼吸を執拗なくらいに繰り返す。

 

(遂にこの時が来てしまったよ、ベル君。いつかは来ると覚悟していたけど、こんなに早く来るなんてね。出会った頃のボクは思ってもいなかったよ)

 

 今のヘスティアの心境は、正に凶悪な怪物に挑む冒険者と同じだった。

 

 普段であれば、冒険者の二つ名はその場のノリと勢いで命名される、神にとっては非常に軽く、二つ名を授かる冒険者にとっては非常に重い催し物。

 

 命名式。

 

 だが、今回は違う。

 

 都市に住まう人々と神々を魅了するベル・クラネルに与えられる二つ名、その重みは計り知れない。

 

 扉の先に待つ神々は、間違いなく真剣に意見するだろう。俺のが良い、いやいや私の方が良い、いやいやと。

 

「予感がするんだ。ここで決まった二つ名がベル君の征く末さえも決めてしまうような、そんな予感が」

 

 ヘスティアは己がうちに渦巻く緊張と不安に立ち向かうように呟いた。心臓が早鐘を打っている。指先が僅かに震える。口の中は乾いて喉が水を注げと潤いを欲して訴えている。

 

(ボクがベル君にしてあげられることは少ない。だってベル君はいつだって独りで先へ進んで行くから。ボクは君の無事を祈ってあげることくらいしかできないんだ……)

 

 ヘスティアはベルが歩んできたこれまでの足跡を振り返り、強く思う。ベル・クラネルは、誰が彼の神様であっても、きっと偉業を成し遂げていたに違いないと。都市中から注目される存在になっていたに違いないと。

 

 自分である必要など、どこにもない。彼は生まれる前から、選ばれていた。英雄になるという宿命に、選ばれていたのだ。その胸に宿る魂が。

 

(だけど、ボクはベル君の神様だ。進み続ける君の背中を少し押してあげることぐらい、したって良いだろ?)

 

 ヘスティアの願いはただ一つ、ベル・クラネルが幸せであれることだ。今に幸福を感じ、笑顔を輝かせていて欲しいと誰よりも強く願っている。

 

 この想いだけは誰にも負けない。負けられない。

 

「よしっ!」

 

 気合一発。両頬を叩き気を引き締めると、ヘスティアは意を決して扉をぐっと押す。ぎい、という音とともに開かれた扉の先、視界に飛びこんで来たのは大広間のきらびやかな景色とヘスティアを見つめる神々の視線だった。

 

 歓喜! 彼らの目には歓喜がほとばしっている。ヘスティアの予感は的中していた。神々はベル・クラネルの二つ名の選定に本気で臨もうとしている。

 

 三十階は、音という概念が消滅したかのごとき圧倒的静寂に支配されていた。神の瞳に宿る熱意は猛々しく燃え上がっているのに、誰もが口を開かず、衣擦れ一つ起こさない。

 

 無音の重圧に空間が支配される中、最初に言葉という破壊の一撃をもたらしたのは円卓で不敵な笑みを浮かべている道化の神であった。

 

「遅いで、ドチビ。周り見てみ。皆、うずうずしながら待っとるで」

 

 試している、とヘスティアはロキの表情と声音と言動で察した。

 

 この場にいるのは、自らの欲望と悦楽を祝福などと美辞麗句で化粧してお前の眷属(こども)に押し付けようとするロクデナシな奴らばかりだぞと。

 

 普段の敵視と罵詈雑言を向けてくるロキはおらず、ヘスティアの前には【ロキ・ファミリア】という一代派閥の主がいた。子どもを愛する一柱の神がいた。

 

 だが、心配など無用だ。ヘスティアは覚悟を胸に抱き、神会開かれる摩天楼の三十階へ足を踏みいれたのだから。

 

「悪かったね、ロキ。でも、主役は最後に登場するものさ」

 

 ヘスティアは堂々と胸を張り、わざとらしい不遜な態度で、ロキの言葉に答える。

 

 零細派閥であることなど、関係無い。関係あったとしても、無視する。

 

 愛する子ども(ベル)の為であれば、ヘスティアは修羅の道さえ踏破してみせると家族になったその時から覚悟を決めている。

 

「言うやないか、ドチビ」

 

 ロキが笑みを深めながら言う。

 

「主役も登場したことやし、第ン千回神会特別編を開かせてもらうで。今回の進行役はうちことロキや、文句はあらへんよな?」

 

 同意を示すように神々は頷く。

 

 静寂が破壊されても尚、大広間は静かだ。喝采と拍手が巻き起こることもなく、誰もが早く議題に入ることを心の底から望んでいる。

 

「何しとんや、ドチビ。さっさと空いとる席に座りや」

 

「……分かったよ」

 

 ヘスティアはロキの勧めに従って円卓の最後の空席に座る。

 

 他の席に座る面々は、誰もが都市で生活していれば一度は耳にしたことのある有名派閥の神たちだった。

 

 その中の一柱に、ヘファイストスの姿もある。右眼を眼帯で覆い隠す女神は、どこか複雑な表情を浮かべていた。

 

 眼帯なき紅の左眼に揺らめくのは、不安、憂慮、焦燥といった負の感情。同郷の神でなければ、今の彼女の心境は理解できないだろう。

 

(ヘファイストス、やっぱり君はまだ……)

 

 ヘスティアの視線に気づいたヘファイストスが、ぎこちない笑みを返してくる。きっと彼女の瞳にも、同じ笑みが映っていることだろう。

 

 割り切ろうにも割り切れない想いがヘファイストスの心に息づいているのを、ヘスティアは知っている。絶てぬ因果、逃れられない宿命、解けぬ縁。ヘファイストスとベルを繋ぐモノは言葉で形容できぬほどに重く、強い。例えどのような神器を持ち出そうとも、ヘファイストスとベルの繋がりを断つことはできないだろう。

 

 彼女は不安に思っているのだ、ベルが〝彼〟と同じ道を進み、同じ末路を迎えないか。

 

 それと同時に、今はもう〝彼〟ではないベルに干渉すべきではないという思いも抱いているに違いない。

 

 相反する感情の板挟み。その苦悩がヘファイストスの表情に映し出されていた。

 

 ヘスティアとヘファイストスの沈鬱な内情など露ほども知らないロキは、席から立ち上がり大広間をぐるりと見回してから言った。

 

「うっし、それじゃ始めるで」

 

 瞬間、緊張が迅雷のごとく駆け巡る。

 

「ベル・クラネルの命名式をな」

 

 ○

 

「これは……」

 

「想像してたよりも狂ってるな、流石はベル・クラネルと言ったところか」

 

「かー、凄えな。噂以上じゃねえかよ。これで冒険者になって約一カ月だって? 冗談みたいな記録だな」

 

「俺がガネーシャだ!」

 

「あなただけは普段と変わらないわね……」

 

 神会を開催するにあたって、提携するギルドが用意したベル・クラネルに関する資料を覧た神々(ガネーシャを除く)は目を見開いて驚嘆する。

 

 誰もが都市に流れるベルの英雄的功績を噂で耳にしていたがいざ資料という仔細な情報が記された媒体で目にすると、その衝撃は何倍にも増して神々の心に殴りかかってきた。

 

 一年。

 

 この数字が表すのは、過去のLv.2到達最高速度である。成し遂げたのはロキ・ファミリア所属、【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタイン。当時わずか八歳に過ぎない少女が、我が身を顧みない無茶の果てにようやく登りつめた伝説的記録。

 

 半月。

 

 この数字が表すのは、ベル・クラネルがLv.1からLv.2への(きざはし)を登るまでにかかった期間である。

 

 誰もが更新できないだろうと心の底で思っていた記録を、ベル・クラネルは大幅に更新してしまった。

 

 しかし、『偉業』はここで終わらない。

 

 六日。

 

 この数字が示すのは、新たに樹立された【ランクアップ】の最高記録(レコード)である。前人未到とは、彼のためにある言葉だと誰もが思った。

 

 Lv.1からLv.2へ【ランクアップ】するだけでも相当の時間を費やさなければならないというのに、ベルはより困難なLv.2からLv.3への【ランクアップ】を約一週間という期間で達成してみせたのだ。

 

 その偉烈は既に『神話』の気配を帯び始めている。

 

「全く、ベル君って奴は本当に」

 

 無茶ばかりする、とヘスティアは溜息交じりに呟いた。

 

 迷宮の探索に関してはベルに一任していたこともあり、ヘスティアはその全貌を手元にある資料を見て初めて知った。

 

 いままで交わした会話から無茶ばかりしてきただろうことは容易に予想できたが、改めて数字で見ると新鮮な驚きが心を支配した。

 

 冒険者について熟知しているとは決して言えないヘスティアであったとしても、ベルの約一カ月の歩みが破天荒であることは十二分に理解できる。

 

 本来であれば、誰かしらの神から不正──神の力を使用した──を行ったのではないかという疑問をぶつけられたことだろう。

 

神の恩恵(ファルナ)』とは、器だ。そして【ランクアップ】とは器が進歩するということ。

 

 それは決して一カ月であったり六日だったりという短い期間で為し得えられるものではない。

 

 にもかかわらず、誰からも疑問の声が上がらないのは【ランクアップ】の要因、乗り越えた試練が尋常ならざるものだからだろう。

 

「Lv.1でミノタウロスに挑むって発想がまず無いよね、普通は」

 

「英雄に普通だったり常識的な奴はいないだろ」

 

「そりゃ、そうなんだけどさ」

 

 それは、他の誰がベルの代役を務めようとも為し遂げられない偉業。ゆえに、Lv.1でのミノタウロス討伐はベルの【ランクアップ】の要因として十分に納得できるものだった。

 

「このシルバーバッグは、情報が少ないな」

 

「ギルドの調査によると、強化種って話らしい。それも、かなり魔石を喰ってたらしいぜ」

 

「おい、ガネーシャ! お前んとこはどうしてこんな危険な魔物を地上へ持って来たんだ!」

 

「俺がガネーシャだ! 反論させてもらうが、そんなモンスターは運んできた覚えはない!」

 

 ベルが地上で死闘を演じたシルバーバッグ強化種については未だ情報が少なく、また【ガネーシャ・ファミリア】側も地上へ輸送してきたのはただのシルバーバッグであったと証言していることからどれほどの危険性を持っていたかは不明。

 

 しかし目撃者の発言や街の損害、ベル・クラネルの負傷具合を鑑みても『下層』のモンスターと同等であるという結論が下された。

 

 本来であれば、Lv.4の冒険者が複数人で相手をするほどの脅威である。

 

 それをLv.2のベルが単独で討伐した。もはや理解不能だった。討伐までの経緯が記された文章もまったく頭に入ってこない。わかるのは、ベルがシルバーバッグ強化種を討伐したという事実だけだ。

 

 神々の想像力が欠如しているのではない。ベル・クラネルが神々の想像を凌駕しているのだ。

 

「……頭痛くなってきたわ。なぁ資料はこれくらいにして、そろそろベル・クラネルの二つ名、言ってこうやないの」

 

 手に持っていた資料を円卓に放り投げて、ロキが言う。

 

「ついにこの時が来たか、俺の本気を見せてやる」

 

「ふん、少し本気出した程度じゃ勝てんぜ、お前らは」

 

「今回ばかりは、かなり悩んだな」

 

「そりゃ、ベル・クラネルの二つ名だもんなぁ……」

 

「徹夜して考えた私に死角はないわ」

 

 ロキの一声からベルの二つ名について真剣な議論を始めた神会の雰囲気は、正に都市の一大事について論じ合っているような熱が渦巻いている。

 

「ミノタウロスの討伐から始まったわけだし、やっぱここは【怪滅(テセウス)】とか良いんじゃないか?」

 

「うーん、もっとベル・クラネルの可能性に視点を向けた称号の方が似合いそうな気も……」

 

「ねー、ガネーシャ様はなにか意見とかあったりしない?」

 

「俺がガネーシャだ!」

 

「はいはい、ガネーシャガネーシャ」

 

「でも、真剣に考えようとすればするほど沼るというか、なんというか」

 

 神々、特にベルに熱を上げる神々が中心となって議論は過熱していく。

 

(ボクはベル君に相応しい二つ名をもう知っている。まだだ。まだ、時じゃない。焦るな、ボク。ここでわざわざ口に出すべきじゃない。判断を間違えるな)

 

 それをヘスティアは一歩引いて眺めるに留めていた。

 

 数分、議論は平行線のまま。数十分、議論は過熱の一途を辿るのみ。数時間、議論は踊るが進む気配なし。

 

 誰もが自らが考案した称号をベルに授けるため夢中になっている。誰もがベルが進む英雄の道を己が求める方向へ導こうとしている。

 

 人間とは比べ物にならないほどの欲望を持つ神たちが、一人の少年を奪い合う様は小さな神々の戦争であった。

 

「俺の考えた二つ名の方が良いに決まってる!」

 

「はあ!? てめえのは絶望的にネーミングセンスがねえんだよ!」

 

 議論が過熱しすぎた結果、一部男神が殴り合いを始めそうになったのでロキが「喧嘩するなら、よそへ行けや!」と注意するにまで至った。

 

 それでも燃え上がった業火のごとき熱狂を止めることはできず、神会が混沌と化そうとした時、

 

「このままじゃ、話し合いどころではないわね」

 

 性別問わずあらゆるものを魅了する美しき声が響き渡った。

 

「「「「「「「「「「「「「「……」」」」」」」」」」」」」」

 

 瞬く間に神々の心に燃える業火が鎮火する。それだけの魔力が、その声にはあった。

 

「フレイヤ」

 

 ヘスティアを含めたすべての神の視線がフレイヤのもとに集まる。悠然と椅子に腰掛けているフレイヤは、視線の雨注にさらされてもまるで動じる様子はない。

 

 これまで不気味なまでに議論の輪に入らず、ヘスティアと同じく遠くから眺めるに留めていた美の神がついに神々の戦争に参戦した。

 

「あなたたちがベル・クラネルに夢中になる気持ちはとてもよく分かるわ。でも、二つ名を決めるこの場で殴り合うのは建設的とは言えないわね」

 

「そう言えば、意外(・・)にもずっと黙りこくっとったな。何か良い二つ名でも考えついたんか、フレイヤ」

 

 一変した場の空気を継続させるように、ロキが訊ねる。その双眸は鋭く見開かれていて、言葉以上の意味が含まれているようにヘスティアは感じた。

 

「ええ、とても素晴らしい二つ名を考えたわ。でも、ここで口にしていいのかしら。 ベル・クラネルの二つ名が決まってしまうことになるかも知れないわよ?」

 

「凄い自信やないか、言うてみいや」

 

 嫌な予感がする。

 

 ヘスティアは心の奥底に不安の種が撒かれたような気分に陥った。彼女に、フレイヤに口を開かせてはならない。

 

「フレ──」

 

 そんな予感が身体を駆け巡ったヘスティアは会話を遮るために口を開こうとした刹那。

 

 雷霆(ケラウノス)

 

 フレイヤは、禁忌の箱を開いた。

 

「「「「「「「「なっ!?」」」」」」」」

 

 落雷が直撃したような衝撃が、ヘスティア含む一部の神々に走る。

 

 今、彼女の口から何かオカシナ単語(ワード)が発せられなかったか? 

 

 一部の神々が「聞き間違いじゃないよな?」と恐怖を湛えた視線を交わしあう。

 

雷霆(ケラウノス)?」

 

 聞き覚えがないのか、ロキが首を傾げる。他にも多くの神々が、フレイヤの口から紡がれた聞き覚えのない単語(ワード)に「なんだ、なんだ」と囁きあう。

 

「なんや、その雷霆(ケラウノス)って?」

 

 遂にロキがその言葉を発してしまう。フレイヤへの警戒心を超える好奇心に、彼女は抗えない。

 

「くっ……」

 

 ヘスティアに打てる手はなかった。ここで立ち上がって「この話題は止めよう!」と口にしたところで、他の神々の好奇心を余計に刺戟するだけであることは明白だからだ。

 

「私も詳しくは知らないのだけど、天空神(ゼウス)がかつて天界で担った万物すべてを焼き尽くす力を持つとされる究極の武器らしいわ。与えられた意味は(いかづち)。ふふっ、どう? 雷属性の魔法を使う彼に相応しい二つ名だと思わない?」

 

 頬に手を当てまるで恋人の美点を語るような口振りで話すフレイヤ。

 

 雷霆、その意味を知った神々は想起する。怪物祭(モンスターフィリア)にて、ベルがシルバーバッグとの戦いで魅せた雷光を。

 

 更に【ベル・クラネル】の資料を見れば、ミノタウロスの撃破にもフレイヤが述べた雷の魔法を用いていると記されてある。

 

 何より神々が雷霆の二つ名に惹かれるのは、あの天空神に所縁があるという点だった。

 

 ゼウス。

 

 それはかつての都市にて最強の派閥の一角として勇名を馳せていた【ゼウス・ファミリア】の主神。人類史上最強の強さを誇った神の眷属の到達点を従えるかの神が担った武器の名を二つ名に授ける。それはまるでベルが英雄の到達点に至ることを予感させるようでもあり、否が応でも心が惹かれる。

 

 目を、心を、魂を焦がすほどの輝きを放つ雷霆の二つ名を前に、周囲の神たちが同意を示そうとしたその時だった。

 

「「「「「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」」」」」

 

 空間を震撼させるほどの神威が噴出する。

 

 その出所は、鍛冶司る独眼の神ヘファイストスだった。眼帯で封じられた右眼から漏れ出る雷光。その身から放たれる神威は稲妻のごとき激しさを伴って三十階の大広間を瞬く間に支配する。

 

「フレイヤ」

 

 ヘファイストスの唇から紡がれた声は、万物を断つ金剛(アダマス)の鎌を錯覚させるほど鋭い。

 

「その二つ名だけは、止めてちょうだい」

 

 それは紛れもなく命令だった。ベルに雷霆の二つ名を授けることだけは絶対に許さないと、紅玉の左眼が告げている。

 

「あら、あなたはお気に召さなかったかしら。でも、悪く思わないでちょうだい。私は話が一向に進まないのを憂いて、彼に一番相応しい二つ名を教えて上げただけよ」

 

「相応しい、ですって?」

 

「そうよ。あの、神人すべてを魅了する黄金のような輝きを放つ彼には【雷霆】の二つ名を授けるべきじゃないかしら。……あなたの意見は違うみたいね、ヘファイストス」

 

 魂が恐怖で震えるほどの神威に晒されながらも、フレイヤは妖艶な笑みを崩さない。

 

「雷霆、それは呪いの名よ。あの子に、背負わせていいものじゃない」

 

 ヘファイストスがフレイヤを射殺すかのような視線を向けて言う。

 

「呪い、ね……ふふ、ここまで強情なあなたを見るのは久し振りだわ。それも、余所のファミリアの子に対してそこまで意見するなんて」

 

「……悪いかしら」

 

 そう言ったあと、ヘファイストスはくしゃりと顔を歪める。

 

「いえ、何も悪くないわ。意外だとは思ったけれどね。ただ、せっかく私が出した意見をここまで強く否定するんだもの、もちろん代替案は用意してあるのよね? 【雷霆】を超えるぐらい素晴らしいものを」

 

「それは……」

 

「無いというのなら、あなたに口を権利はないんじゃないかしら?」

 

 神会の玉座が奪われる。鍛冶司る独眼から、美の女神へ。一部の神々を除いた誰もがフレイヤが紡ぎ出した雷霆の二つ名に同調しようとしていた。

 

 ただ、一言。彼女が「どの二つ名にするべきかしら?」と神会に問うだけで、会議は幕を引く。

 

 定まろうとしている、ベル・クラネルの運命が。今はまだ小さな英雄の進む道が、神々の意思によって舗装されようとしている。

 

 もう誰にも止められない。都市の二大派閥の一角にしてその美貌で多くの男神を魅了している美の女神の思惑を阻止できる神は存在しない。

 

「これはもう決まりね」

 

 勝利を確信したフレイヤが席を立とうとした瞬間、

 

「いや、ベル君に相応しい二つ名ならあるよ」

 

 神会の王となった美の女神に刃を向ける主役が立ち上がった。

 

「あら、このまま黙り続けると思っていたのだけど。舞台へ上がるには遅すぎるのではないかしら、主役さん?」

 

 向ける視線、フレイヤの瞳の奥にわずかな苛立ちが宿る。

 

「ボクは話し合いが煮詰まるのを待ってただけだ、最後まで黙っているつもりなんてない」

 

 フレイヤと真っ向から対峙するヘスティアの表情に臆する気配は微塵もない。その覚悟で固められた凜々しき表情に、周囲の神は息を飲むことしかできない。

 

 そして、自覚する。自分たちが端役でしかないことを。

 

 これはヘスティアとフレイヤの戦争だ。

 

「ヘスティア……」

 

「大丈夫だよ、ヘファイストス」

 

 悲哀で顔を濡らすヘファイストスに、ヘスティアは炉で燃える火のように温かな微笑を浮かべる。

 

「あら、よほど自信があるのね」

 

 もう場の流れを掌握したと思っているのか優艶な仕草でヘスティアを見つめるフレイヤ。

 

「自信があるというか、もうベル君の二つ名は決まっているようなものだからね。だからこれは、自信じゃなくて確信さ」

 

「? それは、どういう意味かしら?」

 

 怪訝そうな顔でフレイヤが訊ねる。ベルの雄姿に目が焦がされている美の女神には、言葉の意図が察せられない。

 

「フレイヤ、君は忘れているみたいだね。ベル君が何者なのか。そして、何て呼ばれてるのか」

 

 ──美の女神が神会の玉座より引きずり落とされる。

 

 ヘスティアはすぅ、はぁと息を吸い、神会に集うすべての神々へ問いかけるような視線を向けて、胸に抱く想いを解き放つ。

 

「今のベル君は、未完の器だ」

 

 二つの偉大な功業を為した少年は、しかし冒険者となってから未だ一カ月。

 

「進む道、歩む未来は無数にある」

 

 ゆえに聞け、神々よ。汝らの沸き立ち止まらぬ期待という名の欲望をぶつけることは、英雄にとって枷でしかないことを。邪魔でしかないことを。

 

「ボクたちがその可能性を勝手に奪うべきじゃない」

 

 神らの器を見定めるように、ヘスティアは言葉を紡ぎ続ける。

 

「ベル君はきっと〝英雄〟になる」

 

 愛情と哀切が交ざり合うヘスティアの声に、神々は言葉を失う。

 

「『神話』に記される英雄に」

 

 忘れていたのだ、神々は。常識外れの英雄の誕生を前にして、天界で抱いてたような利己心を抑えきれなくなっていた。誰もが自らの理想とする英雄にベル・クラネルを仕立て上げようとしてしまった。

 

「でも、どんな英雄になるか。それを決めるのは、ボクたちじゃなく、ベル君だ」

 

 ヘスティアの口から語られる言葉の裏に隠された真意を神々は読み取る。下手な二つ名は、ベル・クラネルの可能性を狭めるだけだと。

 

「ここまで言えば分かるだろう? ベル君なら、きっと皆の想像を超える英雄になってくれるはずだ。わざわざ進むべき道を示してあげる必要なんてない。それは余計なお節介ってもんさ」

 

 そんな今はまだ小さな英雄のベル君に相応しい二つ名は──

 

「【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】」

 

 鈴の音に似たヘスティアの声が大広間に響く。

 

「それが未だ幼く無限の可能性を秘めたベル君へ授けるに相応しい二つ名だ」

 

 覚悟を胸にヘスティアがベルへ授ける祝福を紡ぎ出した瞬間、

 

『『『『『『『『『『『『『『それだぁー!!』』』』』』』』』』』』』』

 

 神々が一斉に同意の声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どうやら、運命は私を嫌っているみたいね。いつも肝心な時に狙い澄ましたかのように邪魔が入るんだもの。でも、まだよ。まだ、彼を正しい道へ引き戻すことはできる。彼の魂の輝きに最初に気づいたのはこの私よ。ヘスティアでも、アイズ・ヴァレンシュタインでもない。この、私。誰にも、誰にもベル・クラネルは渡さない。彼は私だけのものよ」

 

 



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受付嬢ではなく(ブレイブ・ステップ)

勇気をもって、踏み出して。


 

 ○

 

「おーい、ベルくーん!」

 

 時針が十を刻んだとき、往来する群衆を掻き分けるようにしてエイナがベルのもとへとたとたと駆け寄ってくる。

 

 麗しき相貌の頬を火照られ、鋭く尖る耳を緊張で微かに揺らすエイナの姿をみとめた瞬間、ベルは意識を切り替えた。

 

 雑念の一切を払い、強きを望む冒険者としての己を封じ、今はただ自らの瞳に映る女性(ひと)と過ごす時間が少しでも楽しいものになることだけを考える。

 

『女性とのデート中に余計なことは考えるな』

 

 これもまた、今は亡き祖父の教えの一つだった。

 

「……お、おはよう、ベル君」

 

「おはようございます、エイナさん」

 

 向かいあった二人が挨拶を交わす。片方は照れくさそうに、もう片方は柔和な笑みを浮かべて。

 

「その、待った、かな?」

 

 潤む緑玉色の瞳、紡ぐ言葉はたどたどしく。普段のお姉さん然とした鷹揚な態度は彼方へ消えて、今のエイナはベルを想う一人の女性となっていた。 

 

「いえ、僕も少し前に来たばかりですよ。だからそんなに気にしないでください」

 

「そ、そっか……」

 

 よかったぁ、と呟きエイナは胸に手を当てながら安堵の息を吐く。

 

「それで、さ。その、ベル君……」

 

 ちらちら、とエイナがベルに何かを求めるような視線を向ける。

 

 仕事場(ギルド)では決して見せないだろう愛らしいその仕草だけで、エイナが何を求めているのかベルは瞬時に察した。

 

 レースをあしらった白のブラウスに丈の短いスカート。何よりも普段かけている眼鏡を外しているその姿は、ぴっしりとしたギルドの制服姿とはまるで違った、華やかな印象を受けた。

 

 見るだけで伝わる。今日の彼女はアドバイザーではなく、一人の女の子。ただのエイナ・チュールだと。

 

 だからベルは思ったままの言葉を彼女へ贈ると決めた。エイナのような美人には、お世辞も優しい嘘も必要ない。

 

 エイナがベルに求めているのは、真実の想いなのだから。

 

「エイナさんの私服姿、とても似合ってますよ。普段の大人びた雰囲気も素敵ですけど、今日のエイナさんは、うん。とても可愛らしいです」

 

 言い終えたあと、ベルの瞳に映ったのは、時が静止しているかのように動きを止めたエイナの姿だった。

 

「……」

 

「エイナさん?」

 

 何の反応も示さなくなったエイナを現実へ引き戻すために、ベルは顔を近づけて名前を呼ぶ。

 

 するとエイナの瞳にゆっくりと意思の光が戻ってきて、

 

「ふえ!?」

 

 と可愛らしい声が洩れた。

 

 気づけばベルと見つめあっている状況に、エイナの顔は熟れた林檎のように紅潮していく。湧き上がる羞恥と歓喜に思考は混乱状態。

 

 しかし、今日という日のために何時間もあーでもない、こーでもない、と服装を悩んだエイナにとって、ベルから贈られた褒め言葉はこれ以上ないくらいに嬉しいものだった。

 

「あ、ありがとうベル! ……凄く、凄く嬉しいわ!」

 

 ぱぁ、と咲き誇るエイナの笑顔。それを間近で見て、ベルの頬も自然と緩んでいく。

 

「喜んで貰えて、僕も嬉しいです」

 

「ふふっ。ベル君も嬉しいんだ」

 

「はい。エイナさんの喜んでいる顔、凄く可愛いですから」

 

 ベルがさらりとそう告げると、羞恥心が限界に達したのかエイナが顔が真っ赤に染まる。

 

「も、もう! ベル君! あんまりお姉さんをからかうんじゃありません!」

 

「僕は本心を言っただけですよ?」

 

 ベルはにやっとからかうような笑みを浮かべながらそう言った。

 

「べールーくーーん!」

 

 抗議するようにベルの名前を呼ぶエイナ。本人は怒っているつもりなのかもしれないが、ベルの瞳に映るのは可愛らしく拗ねる女の子だ。

 

「あはは、ごめんなさい」

 

「ねぇベル君、キミ全然反省してないでしょ?」

 

 じとりとした視線が槍を突くようにベルの頬に刺さる。

 

「はい。さっきも言ったとおり、エイナさんが可愛いと思ったのは本心ですから」

 

 何の躊躇いもなくベルは本心を言葉で綴った。表情に照れはなく、自然な笑みを浮かべている。だからこそ、伝わる。ベルは、ただ、本当にそう思っただけなのだと。

 

「……まったくもう。ずるいなぁ、キミは」

 

 嬉し恥ずかしで情緒が乱れに乱されたエイナは、どこか困ったような笑顔を浮かべながらぽつりとそう呟いた。誰にも聞こえないような小さな声で。

 

「なにか言いましたか?」

 

「ううん、なんでもない」

 

 ゆっくりと首を横に振ってから、エイナは何事もなかったようにふわりと微笑んだ。

 

「それよりも、そろそろ行こっか。あんまりゆっくりしてたらあっという間に日が暮れちゃうわ」

 

「そうですね、それじゃ……」

 

 ごく自然とベルはエイナへ手を差し伸べる。

 

「い、いいの?」

 

 どこか躊躇うように問うエイナに、ベルは朗らかな笑みを浮かべて言った。

 

「今日はエイナさんとのデートですから」

 

 不安に負けずに一歩を踏み出して本当に良かった、と握るベルの掌の温もりを感じながら、エイナは心の底からそう思うのだった。

 

 ○

 

 仰ぐ大空に曇はなく。爽やかな蒼の天蓋がどこまでも広がっている晴天の中、ベルとエイナはゆったりとした足取りで北のメインストリートを南下していた。

 

 これから二人が向かう先は、迷宮都市(オラリオ)の中心。地下迷宮(ダンジョン)に蓋をするようにそびえ立つ超高層の白亜の搭、摩天楼(バベル)に店を構える【ヘファイストス・ファミリア】だ。

 

 昼前のメインストリートは人の往来が激しく、道ゆく人を店に呼び込む商店の店員の大声や、迷宮へ向かう冒険者たちの足音や喋り声が絶え間なく、賑やかに響き渡っている。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)での獅子奮迅の活躍によってその勇名が絶対的なものとなったベルは、ときおり投げかけられる声援に軽く手を振って応えながら、隣を歩くエイナと共に目的地へ向けて歩を進めていた。

 

「そういえばベル君は【ヘファイストス・ファミリア】のテナントって覗いたことはあるの?」とエイナが言った。

 

「はい、一度だけ」

 

「へぇ、そうなんだ。ベル君のことだからてっきり迷宮に潜ってばっかりだと思ってた」

 

 エイナから見たベルは日常生活のほとんどを迷宮探索や鍛錬に費やしている印象が強かったので、今の返答は意外だった。

 

「【ヘファイストス・ファミリア】の武具はとても有名なので、参考までに一度見ておこうと思って……」

 

 そう言いながら、ベルの脳裏に浮かんだのは洗練された武具の数々ではなく、店を回る中で偶然出会った真っ赤に燃える髪と眼帯が印象的な鍛冶司る独眼(ヘファイストス)の姿だった。

 

 どこか他人とは思えない、隻眼の神様。彼女との会話は不思議と心地よく、まるで一度どこかで出会い、絆を育んだような、温かな感情をベルは抱いた。

 

「あ、ベル君。今、他の女性のこと考えてたでしょ」

 

「いや、あはは……」

 

 図星。

 

 見事に心のうちを言い当てられたベルは、冷や汗を流しながら苦笑いすることしかできない。女の勘の鋭さについては昔、祖父から口酸っぱく言い含められていたのだが、実際に体験するとその恐ろしさがよくわかった。

 

「もう、ベル君ったら。お姉さんとのデート中に他の女性のことを考えるのは関心しないなー」

 

 ぷくりと頬を膨らませていじけるエイナ。確かにデート中に他の女性のことを考えるのは失礼な行いだと、ベルは胸中で己を叱咤した。

 

 そして、

 

「ごめんなさい」

 

 と素直に頭を下げて謝罪した。

 

「別に怒ってるわけじゃないから、そんなにしょんぼりしなくていいよ。ちょっといじわるしたくなっただけだから」

 

 そういって、エイナは柔和な笑みを浮かべた。

 

「こほん。それで、ベル君は【ヘファイストス・ファミリア】の武具を見てみてどう思った?」

 

 話題の軌道を修正するようにエイナが改めて訊ねる。

 

「……月並みな言葉かも知れませんけど、どれも凄く優れていると思いました。多くの冒険者が買い求めるのも納得だとも。流石は第一線級の冒険者たちが求める武器を鍛える派閥だと僕には感心することしかできません」

 

 記憶に刻まれた陳列窓(ショーケース)に飾られている剣、槍、刀、鎧、盾といった武具の数々を思いだしながら、ベルはそう答える。と同時に浮かび上がるのは、武具に付けられた値段だ。

 

 そして、思い出す。自分たちが向かっているのも【ヘファイストス・ファミリア】だと。

 

 ベルが不安そうな表情を浮かべて、「あの、エイナさん。僕、【ヘファイストス・ファミリア】の防具を買うほどのお金はまだ持ってないんですけど……」と言った。

 

 昨日、迷宮の『中層』に進出し、一日の稼ぎが増えたからといってとても手を伸ばせるような代物ではないことをベルはよく知っていた。記憶が正しければ【ヘファイストス・ファミリア】の武具を購入するには最低でも数百万ヴァリスは必要なはずだ。

 

「大丈夫だよ。ベル君」

 

「……どういう意味ですか?」

 

「ふっふっふ、それは着いてからのお楽しみ!」

 

「わ、わかりました」

 

 そういって悪戯っぽい笑みを浮かべるエイナに、ベルは困惑しながらも同意を示す。エイナのことだから、発言どおり着けばすべてわかるのだろう。

 

「んー、今の話を聞いて少し気になってたんだけど、ベル君は鍛冶師(スミス)についてはどれくらい知ってるの?」

 

「あー……その、実はあまり詳しくなくて」

 

 気恥ずかしそうにベルは言った。

 

【ヘファイストス・ファミリア】のテナントを見て回ったのはあくまで興味本位からであって、その他の時間の多くをエイナの想像どおり迷宮探索と自己鍛錬ばかりに費やしていたベルは、鍛冶師と呼ばれる存在についての知識は全くといっていいほどもっていなかった。

 

「まあ、まだオラリオに来て、一カ月くらいだもんね。当然といえば当然か……」

 

 そう口にして、改めてベルの異常なまでの成長をエイナは実感する。一ヶ月前のベルは、迷宮(ダンジョン)に関する知識が皆無の、無茶ばかりを繰り返す危なっかしい少年だった。

 

 しかし、今では(といってもまだ一ヶ月しか経っていないが)神人問わず、都市の誰もを魅了する期待の冒険者だ。

 

 早い、という言葉では到底片付けられない驚異的な成長に、エイナはベルと出会ってからもう何年も月日が流れたような錯覚に陥った。

 

「でも、ベル君。キミはかなり例外的な存在とはいえ、括り的には上級。それも第二級冒険者なの。鍛冶師だけじゃなくて色々なことを知っておかないと、これから大変だよ」

 

「……ですね」

 

 正論だった。

 

 これから更に成長し、【ランクアップ】を果たし、『中層』を突破して、『下層』へと足を踏み入れ、『深層』を切り拓くというのであれば、エイナの言うとおり様々な知識を蓄える必要があるだろう。

 

 今のベルは冒険者としては、あまりにも未熟だった。

 

「ということで、テナントに着くまでお姉さんが鍛冶師について教えてあげましょう」とエイナが言った。

 

「いいんですか?」

 

「勿論」

 

「それじゃ、よろしくお願いします! エイナさん!」

 

 貪欲に知識を求めるベルの快活な声が、メインストリートに木霊した。

 

 ○

 

 鍛冶師についての勉強会を開きながら歩くこと十数分後、ベルとエイナは空へ向かって真っ直ぐ聳える摩天楼(バベル)の門の前にたどり着いた。

 

 この門は全方位に存在し、どの方角からでも摩天楼の中に入れるように設計されていて、今も四方八方から様々な人間が出入りしているのが見える。

 

「さ、私たちも行こっか」

 

「ですね」

 

 そう言って門をくぐり大広間に足を踏み入れると、二人は周囲を見渡して、空いている魔石昇降機(エレベーター)に乗った。午前中ではあったが、流石は摩天楼(バベル)というべきか。入り口の時点で多くの人間で賑わっていた。

 

「それで、何階へ行くんですか?」

 

 ベルが魔石昇降機に備え付けられた装置を操作しながら訊ねる。

 

「お目当ては八階なんだけど、せっかく摩天楼に来たんだし、四階にも寄っていかない?」

 

「良いですね。僕ももう一度見てみたいと思ってたんです」

 

 エイナの提案に同意して、ベルは行き先を四階に設定すると、魔石昇降機が地面を離れて上昇していく。

 

 ぐんぐん、と上へ昇り続ける魔石昇降機はほどなくして停止。四階へ到着したことをベルとエイナに伝えた。

 

 がらりと閉まる扉を開いて一歩足を踏み出せば、ベルの視界には多種多様な武具が並べられている清潔な店内の様子が映し出される。

 

「この四階から八階までが全部【ヘファイストス・ファミリア】のテナントなんですよね……」

 

 そう口にして、ベルは改めて目の前に広がる光景に圧倒される。

 

「流石は都市が誇る鍛冶師系ファミリアだよねぇ」

 

「はい……」

 

 エイナの言うとおりだった。

 

 フロアを丸ごと、それも五階層も借りるなど並大抵のことではない。テナント料だけで、どれほどの金額を支払っているいるのか日々の生活費を稼ぐので手一杯のベルには想像もつかない。加えて、ベルの本拠(ホーム)の近くに支店を構えているというのだから驚きだ。

 

 近づき覗く陳列窓(ショーウィンドウ)に飾られた武具の値段はどれも桁違いであり、つけられた値段に相応しい堂々たる存在感を放っている。

 

 だからこそ、ベルは思う。腰に佩いた二刀がいかに優れた武器であるのかを。使用された素材、洗練された造形、込められた鍛冶師の想い。そのどれもが陳列窓に飾られている武具を圧倒している。否、比べることすら烏滸がましいと感じてしまうほど隔絶している。

 

「いらっしゃいませ、お客様! 今日は何の御用、で、しょう……か……」

 

 ベルが腰に佩いた二刀と陳列窓の向こう側にある刀をじぃと真剣に見比べていると、背後から聞き覚えのある声が響いてきた。

 

「ん?」

 

 まさかと思い、がばっと勢いよく振り向けば、そこにはあどけなさを残す可愛らしい相貌にたわわな双丘に、墨を溶かしたように艶やかな黒髪を左右に束ねてふりふりと揺らす、紅色のエプロンタイプの制服をした少女の姿が。

 

「………………何をしてるんですか、神様?」

 

 否、ヘスティアの姿があった。

 

 気まずい沈黙に支配される(おや)眷属(こども)。この空間だけ氷獄(コキュートス)と化したかのように冷え切っている。

 

「……」

 

「……」

 

 両者ともに何とも言えない表情で凍り付いたまま動かない。何を言えば良いのか、わからない。

 

 気まずい沈黙が継続するほど数秒後、先に動いたの(おや)であった。

 

「あー…………な、何かございましたら、お呼び下さい! それでは!」

 

 そう言って、そのまま脱兎のごとく逃走を図ろうとするヘスティアの腕を咄嗟に掴むベル。

 

「それで誤魔化せると思ったんですか」

 

 目を半眼にしたベルの視線が、真っ黒な後頭部にグサグサと突き刺さる。

 

「うぐっ!?」

 

 もはや逃げ切れないと悟ったヘスティアは、おずおずといった様子でベルの方へ向き直った。しょんぼりとした表情。心なしかツインテールも萎れているように見える。

 

「……神様。僕は余裕はないですけど二人で生活できるくらいのお金は稼げるようになったと思っていました。なのに、どうしてここでもバイトしてるんですか? やっぱりまだ生活が苦しいんですか?」

 

 そう問うベルの声音はヘスティアを慮る想いに溢れている。優しい。しかし、今はその優しさがヘスティアにとってはたまらなく辛かった。

 

「ベル君、いいかい。君はなにも見なかった。ここには来てないし、君の大好きで大好きな愛おしい神様にも出会わなかった。そういうことにするんだ、わかったね!」と叫びながら必死に腕を振り解こうともがくヘスティア。

 

「いや、そんな横暴な!」

 

 全く納得できないベルは掴んだ手を離して、ヘスティアの両肩を抱いてその目をしっかりと見詰めた。

 

「何か理由があるなら教えて下さい。お金が足りないなら僕がもっと……」

 

 頑張りますから、と言いかけて、やめる。ベルの脳内でこの瞬間、複数の要素が繋がって、一つの結論を導き出した。

 

「まさか、神様……」

 

 ぽつりと言葉をこぼして、ベルは視線を二刀に落とした。

 

 さきほど自分で思ったじゃないか。陳列窓に飾られた武器とは比較できないほど、腰に履く二つの刀は優れていると。ならばそれを神様はどうやって手に入れた? 一体誰に鍛えてもらった? 

 

 たどり着いた真実をベルが震える唇で紡ごうとした瞬間、ヘスティアが言葉を覆いかぶせた。

 

「何も言うんじゃない。言っちゃ駄目だ、ベル君。これは僕が選んだ道の結果なんだ」

 

 女神の真摯な眼差しがベルを貫いた。

 

「でもっ」

 

「……ベル君」

 

 声は厳しく、また優しかった。親の声、子を第一に想う母の慈愛に満ちた声だ。

 

「……わかり、ました」

 

 その声を聞いてしまえば、ベルはこれ以上なにも追求することはできなかった。これはヘスティアの選択だから。ベルを想い選んだヘスティアの道だから。

 

 追求するということは、ヘスティアの献身を無碍にすることになる。そんな、恩を仇で返すような選択をベルが取れるわけがなかった。

 

「良い子だね、ベル君。キミは賢くて、強くて、そして優しい子だ」

 

 ヘスティアがベルの頭を優しく撫でる。その優しさがベルの心に吹き荒ぶ後悔の嵐をはらった。

 

「おーい、新入り! 遊んでねえで、とっとと次の仕事しろー!」

 

 遠くから、ヘスティアを呼ぶ野太い声が響いてくる。

 

「は、はーい! それじゃ、僕は行くから。ベル君は早く帰るんだぜ」

 

 こくり、とベルは頷く。それを見て安堵したヘスティアはもう一度だけベルの髪を撫でると、慌てて駆けだしていった。

 

「神様、ありがとうございます。あなたと出会えて、あなたの眷属になれて、本当によかった」

 

 ベルは去って行くヘスティアの背に最大限の感謝の言葉(きもち)を贈った。

 

「ベル君、話は終わった?」と会話が終わったのを見計らって、エイナがベルの隣へ歩み寄ってきた。どうやらヘスティアとのただならぬ雰囲気を察して、遠くから様子を窺っていてくれたらしい。

 

「はい、待たせてしまってすいません」

 

「いいの、いいの。大事な話だったんでしょ?」

 

「……はい。でも、もう終わりました」

 

「それじゃあ、お姉さんとのデート再開ね。そろそろ上へ行きましょう」

 

 ベルは頷き、エイナとともに今回の目的地である摩天楼の八階へ向かいはじめた。

 



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だから私は力になりたい(プレゼント・フォー・ユー)

無事を祈ることぐらいしかできない。

だから……


 ○

 

 八階を見て回ること数十分。様々な防具を手にとっては吟味し、手にとっては吟味しをじっくり繰り返していたベルは背後から声をかけられた。

 

「なぁ。あんた、ベル・クラネルだろ?」

 

「はい、そうですけど」

 

 振り向いた先、ベルの前に立っていたのは冒険者ではなく、テナントの店員だろう立派な髭が特徴的なドワーフの男だった。

 

 男は腕を組みながら、「オレはここの受付やってるもんだが、ちょいと話があってな」と言った。

 

「話、ですか?」

 

 まるで心当たりがないベルは首をかしげる。

 

「ああ、そうだ。急ぎの用事がないなら、ちょっとついてきてくれねえか。見せたいもんがあるんだが……」

 

 男の口振りから嘘の気配を一切感じなかったベルは、しっくり来る防具に出会えていなかった停滞感を払拭するためにその提案に乗ることにした。 

 

「いいですよ」とベルは言った。

 

「僕も中々これだっていう防具を見つけられずにいたので」

 

「お。なら、ちょうどよかった。あんたの困りごとはきっと解決するぜ」

 

「え……?」

 

 戸惑いが口から洩れるが、店員は「つけばわかる」とニヤニヤした顔をして言うだけで答えを教えてはくれない。

 

「こっちだ」

 

 そういってあるき出す店員の背中をおって人混みをぬっていくこと数分後、目的の場所に到着したのか店員が足を止めた。

 

「ついたぜ、これを見てみな」

 

 店員が指さしたさき、埃をかぶった古びた陳列窓(ショーケース)の中に、汚い陳列窓とは対極の、穢れを一切感じさせない神秘的な雰囲気を放つ純白のマントと上着、下着、ブーツの防具一式がひっそりと飾ってあった。

 

「これは……」

 

 あまりの感動に言葉を失うベル。

 

 圧巻、その二文字が心に深く刻み込まれる。これまで八階に展示されている様々な防具を見てきたが、それらとは比較にならないほど品質が高いのが一目見てわかる。

 

 まるでひとつの生命を創造するかのように丁寧に作られた防具は神話や英雄譚に登場する英雄らが纏っていてもおかしくないと思うほどだ。

 

 何よりも、純白のマントたちがベル・クラネルが求めていた理想の防具そのものであることに、驚きを禁じ得なかった。勝手な思い込みかもしれないがベルのためだけに作られたような、そんな気がするのだ。

 

「どうだ、そいつが気になるか?」

 

「はい、凄く」

 

 本音が、自然と溢れた。

 

「がはははっ! そりゃそうだろうな。オレから見たって、そのマントと防具一式は良い出来してると思うぜ、ホント。少なくともここに並べるには勿体ない作品だってことは間違いねえ」

 

 同意見だった。

 

 ベルから見ても純白のマントとそれに合うように作られた純白の防具一式は素晴らしい出来をしているように思えた。視界に捉えた瞬間、心を奪われるくらいには。

 

 店員がニヤニヤしながら「欲しいか?」と言った。

 

「はい」

 

 ですが、とベルは売買成立済みの札に悔しそうな視線を向ける。この札がなければ、例え神様の怒りの雷が落ちるとしても借金をして買ったに違いない。それほどまでに、ベルは目の前の防具一式を欲していた。

 

「実はな、それはお前が他の冒険者が手をつけないように貼ったもんなんだよ。だから、売買成立済みっていうのは嘘だ」

 

「え?」

 

 予想外の発言に思わず店員へ顔を向けるベル。何の因果が絡まって、眼前の防具一式をベル以外の手に渡らないようにしたのか。混乱は深まるばかりだった。

 

「オレもあまり深い事情は知らねえんだが。なんでも、このマントの素材は元々あんたのもんだったらしくてな。そいつの話が本当なら怪物祭(モンスターフィリア)偶然(・・)拾ったらしいんだとよ」

 

「……そんな、まさか」

 

 言われて、ベルはマントをじぃと凝視する。そして気づく。マントから忘れもしないあのモンスターの気配が発せられていることを。

 

 それは、怪物祭(モンスターフィリア)にて死闘を演じたシルバーバッグ強化種のものだった。あの時は半ば意識朦朧としていたのに加えて、討伐後すぐにアイズたちの元へ駆けて行ったから、落ちた素材や魔石などについて今の今まですっぽり忘れていた。

 

 それが巡り巡って、眼前のマントと防具となってベルの前に現れると、誰が予想できるだろうか。

 

「あ」

 

 上から下へ。雪原のように美しいマントをねめ回すように眺めていると、ベルは僅かに見える裏地に製作者の名前を見つけた。

 

「【ヴェルフ・クロッゾ】」

 

 名前からして男なのだろう。どのような人物であるかはわからないが、これほどの防具を作れるのだ。鍛冶師として優れた能力を持っているのは間違いない。

 

「ん?」

 

【ヴェルフ・クロッゾ】の名を瞳に焼き付けるように見詰めていると、その横に小さく何かの文章が金糸で縫われているのにベルは気付いた。

 

「ベル・クラネルのみが、纏うことを許される」

 

 なるほど、とベル思った。

 

 先ほどの自分のために作られたようだという感想は、決して思い込みではなかったらしい。それはマントの裏地に刺繍されたこの文字が証明している。

 

「本人曰く『本当はそのまま返すつもりだったんだが、鍛冶師としてどうしてもあんたに相応しい防具を作りたかった』とのことらしいぜ。んで、あとはまぁ、見てのとおりだな」

 

 呆れ半分、共感半分といった様子の店員。

 

「もし気に入らないってんなら直接謝罪して、素材の費用も全額返済するって言ってたぞ。偶然拾ったとはいえ、届けもせず勝手に使ったんだ。怒ってもいいんだぜ? なんなら今から呼び出そうか?」と訊ねる店員にベルは首をふった。

 

「いえ、構いません。僕は全然、怒っていませんから。それに、今の今まで素材のことを忘れてましたし」

 

 もし、店員に声を掛けられなければベルは一生、シルバーバック強化種の素材のことを思い出すことはなかっただろう。それを自覚しているからこそ、ベルの感情は荒ぶらない。凪のままだ。

 

「へぇ、そうか。で、どうする?」

 

 暗に買うのか買わないのかを問う店員だが、ベルの玩具を前にした子どものようなキラキラとした表情を見れば返ってくるだろう答えは分かりきっていた。

 

「値段は?」

 

 店員へ向き直り、ベルが訊ねる。

 

「人の素材を使って勝手に製作したといっても、こっちも商売だ。流石に無料(タダ)ではやれねえ。 そうだなぁ」

 

 思案は一瞬。

 

 店員は悪戯そうな笑みを浮かべて、「二万ヴァリスでどうだ?」と言った。

 

 二万ヴァリス。

 

 店員の口から出た数字は、このマントと防具一式にしては破格の値段であることは一目瞭然だった。

 

「買います」

 

 ベルは即断した。

 

 同じ立場にあって、否と答える人間などいるはずがないとベルは思った。

 

 腰に佩く二刀ほどではないにせよ、眼前の防具は一級品の域に達している。これを二万ヴァリスで買える機会は後にも先にも、今回だけだとベルはそう確信した。

 

 ○

 

 二万ヴァリスを支払い終えて陳列窓から防具一式を取り出してもらっていたところに、慌てた様子でエイナが駆け寄ってきた。

 

「ベル君! やっと見つけた。こんな端っこにいたんだね。キミに似合う防具を見つけたんだけど……」と手に持つ防具を見せようとしたエイナだが、ベルの後ろに佇む純白のマントを見て総てを察した。

 

「そっか。それに決めたんだね、ベル君」

 

「はい、僕はこれにしようと思います」

 

 店員が持つ防具一式へ向ける視線は熱く、ベルが興奮しているのがエイナの緑玉色の瞳に映る。

 

「良い装備だね」

 

 月並みな感想だが、本当に良い装備だった。下手に意匠を凝らしているわけでもなく、徹底的に機能美を追求し、極限まで無駄を省いたマントと防具一式は芸術品に美しい。

 

「でも、どうしてこんなに凄い作品がここに?」

 

「あはは……色々ありまして」

 

 当然の問いに言葉を濁すベル。

 

「ま、深くは聞かないでおくわね。でも、そっか。決まっちゃったかぁ」

 

 エイナとしては、自分が選んだ防具を贈りたかったのが、ベルが自ら選んだのならば、仕方がない。それに、眼前の防具を超える作品は八階のテナントにはないだろうことは明白だった。

 

 だから――

 

「……ベル君」

 

 壊れ物を扱うように大切に、その名を呼ぶ。

 

「なんですか?」

 

 振り向くベルの顔を見て、エイナは頬がぼおぅと燃え上がるのを感じた。どくん、どくん、と心臓が張り裂けそうな音を鳴らす。一瞬でも気を緩めれば意識を失ってしまいそうなほどの緊張に襲われる中、

 

「その、えと、これ!」

 

 エイナは、手に持つ防具に隠していたもう一つの贈り物をベルの前に差し出した。

 

「籠手、ですか?」

 

 ベルの視線の先、エイナの両手にはエイナの双眸を想起させる緑玉色の線が掘られた純白の籠手が乗せられていた。

 

「うん、私からのプレゼント」

 

「良いんですか?」

 

 躊躇いがちな視線がエイナを見つめた。それは誰かが力になってくれるのを拒む、誰かを助けることを望む英雄の視線だった。

 

 だからこそ引けない、とエイナは迷いなき眼差しでベルを見つめ返す。

 

「……私はさ、ダンジョンを潜るベル君を直接助けて上げられないし、キミの帰りをただ待ち続けることしかできない。でもね、そんな私でもなにか力になりたいの……これが私の我儘だってことはわかってる。それでも、受け取ってほしいの」

 

「……」

 

 返答はない。ベルの瞳は戸惑いで揺れて、エイナと贈り物を往来させている。

 

「お願い、ベル君」

 

 ベルを想う純然たる言葉が、紡ぎ出される。

 

(神様と、一緒だ)

 

 自分ではない誰かを自分以上に大切に想う言葉の温かさに、心の中にわだかまる自噴と迷いがすぅと晴れていくのを、ベルは感じた。

 

 本当は、誰の力も借りたくなかった。誰かの想いを背負いたくなかった。

 

 ベルは自分がどれほど屑であるのかを、自覚しているから。贈り物を貰えるような人間でないことを、理解しているから。

 

 それでも、ベルは目の前の女性の想いを振り払いたくなかった。前へ進むのに不要であるとわかっていても、撥ね除けたくなかった。

 

 エイナ・チュールの願いを、拒絶したくなかった。

 

 だから――

 

「ありがとうございます、エイナさん。この籠手、大事に使いますね」

 

 言い終えて、深紅(ルベライト)の双眸に描き出されたのは、瞳に涙を滲ませながらも目映い笑顔を浮かべる、エイナの姿だった。




《白夜纏・壱式》
ヴェルフ作、防具《白夜》シリーズ第一弾。
・白銀色のマント。
・材料にドロップアイテム《シルバーバック強化種の毛皮》を使用。雷属性に対する高耐性。
・ベル専用に作られたマントであり、動きやすさを特に重視して製作されている。《シルバーバック強化種の毛皮》は非常に頑丈で、『中層』程度のモンスターの攻撃はほとんど吸収できる。
・裏地には【ヴェルフ・クロッゾ】の刺繍と『ベル・クラネルのみが纏うことを許される』の文字が金糸で刺繍されている。

《白夜装・壱式》
ヴェルフ作、防具《白夜》シリーズ第二弾。
・白銀の上着、下着、ブーツ。
・材料にはドロップアイテム《シルバーバック強化種の毛皮》《シルバーバック強化種の牙》《シルバーバック強化種の爪》を使用。雷属性に対する高耐性。
・極限まで無駄が省かれており、軍服染みた見た目とは裏腹に非常に軽く、動きやすい。

《緑玉ノ籠手》
・価格三万五千ヴァリス。
・エイナからの贈り物。彼女の瞳と同じ緑玉色の線が掘られた純白の籠手。
・盾と用途を同じくする籠手。手の甲で防御可能。
・エイナのベルを無事を祈る想いが込められている。



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開演前夜(ネクストページ)

灰被りの少女にとって、その英雄はあまりに眩しすぎた。


 ○

 

 デートの帰り。エイナを家へ送りとどけたあと、ベルは帰路へ着くために西のメインストリートを少し外れた路地裏を歩いていた。

 

 纏うのは純白のマントと上着と下着とブーツ。そして、エイナにプレゼントされた緑玉色の線が掘られた純白の籠手。

 

 ベルは新たな装備に少しでも早く慣れるため、摩天楼(バベル)の中で着替えてから外へ出ていた。

 

 その出で立ち、正に英雄と呼ぶに相応しく。メインストリートから吹き込んでくる風になびくマントは吹雪く雪のように美しく。純白の髪と相まってベル・クラネルという存在がより神々しく見えた。

 

 ベルは歩きながら何度か関節を動かして、「丈もあってて、初めて着たとは思えない動きやすさだ。何よりも、硬いのに軽い……」と言った。

 

 勿論素材も優秀なのだろうが、素材を活かす鍛冶師はそれ以上に優秀だった。

 

 今日のところはエイナとのデートなので会うのは止めたが、機会があれば製作者であるヴェルフ・クロッゾに会って話しをしてみたい。エイナが言う専属の鍛冶師の件を彼に提案してみたい。そんな思いを抱くほどに、ベルはヴェルフの腕と防具に注いだ想いを買っていた。

 

「でも、しばらくは迷宮に潜って探索を続けたいな」

 

 武器と防具が揃った今、ベルの意欲はこれ以上ないほどに燃え上がっている。もし、神様の許しが出るのならば今からでも迷宮に潜りたいぐらいだった。

 

 その時、

 

「……足音、それも複数?」 

 

 遠くから、足音が聞こえた。

 

 業火に似た興奮は一瞬のうちに去り、平静を取り戻したベルは鋭い視線を路地裏の先へ向ける。

 

 荒々しく地面を蹴る音は二つ。一つは軽く、もう一つは重い。

 

 ベルの脳内に子どもを追う大人の姿が鮮明に描き出された。

 

 足音は時を経るごとにベルへ接近し、やがて人の姿が闇を裂くようにして、ばっと現れた。

 

 背後ばかり気にかけていたいたからだろう。ベルの存在に気付かず走り続けていた人影は速度を落とさず真っ直ぐに突っ込んでくる。

 

「あっ!」

 

 距離わずか1メドルになってようやくベルの存在を視界にいれた人影は、驚きのあまり姿勢を崩し勢いよくつんのめった。

 

 一瞬、宙に身を投げ出す人影。

 

「危ない!」

 

 咄嗟にベルは駆け出し、地面と衝突する寸前の人影を滑るようにして抱き留める。

 

 軽い。抱きしめたからこそ分かる、異常なまでに軽い体重。腕の中に収まる人影の肢体は細く、強く抱き締めれば砕けてしまいそうだった。

 

(この軽さ。子どもでないなら、パルゥム?)

 

 そんな予感が過ぎる中、ベルに抱かれた人影が顔を上げた。

 

「す、すみません。お怪我はありませんか!?」

 

「うん、僕は大丈夫。それより君は」と視線を向けたベルの瞳に映ったのは幼い容姿をした少女だった。

 

 うなじを隠す癖のある栗色の髪に、大きく円らな双眸が薄暗い裏路地の中で爛々と輝きを放っている。恐らく、パルゥムだろうとベルは予想した。体型だけでみればヒューマンの子どもにも見えるが、ベルを見詰める少女の瞳には知性の光が輝いている。

 

 何よりも、ベルは胸に抱く少女に心当たりがあった。

 

(たしか『中層』で……)

 

 ベルが昨日の出来事を振り返ろうとした瞬間、ドスの利いた男の怒声が嫌な静寂に包まれていた路地裏に響き渡った。

 

「やっと追い付いたぞ、この糞パルゥムがっ!!」

 

 声の発生源に視線を向ければ、憤怒を瞳に宿した男が荒く呼吸しながら立っていた。表情はさながら悪鬼。殺意の気配を全身からほとばしらせる様は、迷宮の怪物(モンスター)を想起させた。

 

「ぜぇ、ぜぇ。もう、絶対ににがさねえぞっ!」

 

 男は背中に背負う剣を鞘から引き抜いて、剣先をベルが腕に抱く少女へ向けた。

 

「待って、落ち着いてください。この子が怖がっています。……それに剣は人に向けるためのものじゃありません」

 

 ベルが窘めるように言う。抱く腕からは、殺意を向けられて怯える少女の震えと怯えが痛いほど伝わってくる。

 

「ああ、誰だテメエ」

 

 怒りで視野が狭まっていたあまり、今の今までベルの存在に気付いていなかったのか、男はようやく少女から視線を外した。

 

「なんだ、こいつを抱き締めやがって。おい、まさかそいつを庇うつもりじゃねえだろうなぁ。なぁ!」

 

 威圧するように声を荒げる男。しかし、ベルは臆することなく深紅の瞳で男を射貫く。

 

「庇うといったら、どうするつもりですか?」

 

「あ? ふざけてんじゃねえぞ、糞ガキ。こっちの事情も知らねえで正義面しやがって」

 

 そこまで言葉にして男は口を閉じた。そして、ベルをしげしげと見詰めると、やがて額に青筋を浮かべ顔を真っ赤にして激憤した。

 

「テメエ、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】だな! 一ヶ月半でLv.3になったなんて何かズルでもしたんだろうが。この、糞インチキ野郎が! そんなテメエが一丁前に英雄気取りか? あぁ!? 嘗めやがって!!」

 

「英雄気取り? いいや、違う。恐怖に震える人がいて、助けるのは(えいゆう)として当然のことだ」

 

 腕に抱く少女を地面におろし、ベルは鋭い視線で男を睨みつけた。

 

「僕から見て、今のあなたはとても冷静には見えない。剣をしまってください、でないとあなたは大きな過ちを犯してしまいます」

 

「ば、ば、ば、馬鹿にしやがって! 餓鬼ごときが俺に講釈垂れてんじゃねえぞ!」

 

 憤死するのではないかと思うほど激昂する男。握る剣はぷるぷると震え、剣先が定める敵は少女からベルに移っている。

 

「ならまずはテメエからだ、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】。インチキ野郎はここで無様に死んどけ」

 

「……本当に殺るつもりですか?」

 

 問う声は先ほどまでと打って変わり、氷のように冷たく、表情は鋼のごとく硬かった。

 

「っ! どこまで虚仮にすれば気が済むんだ! 殺す! 絶対に殺す! ここでテメエを殺して、その首をメインストリートに晒してやる!」

 

 理性を怒りの炎で蒸発させた男は犬歯を剝き出して、目を殺意で充血させる。

 

 もう何を言っても止められない。そう悟ったベルが腰に佩く二刀の柄に手を添えると同時に、右眼から雷光がほとばしった。

 

 ――殺す。

 

 衝突する殺意と敵意。路地裏に光る鈍い銀の刃と右眼の雷光。

 

 因縁なき二人による死と血の旋風が吹き荒ぼうとした刹那、

 

「止めなさい」

 

 芯のある鋭い声が、割り込んできた。

 

 ベルがちらと声の方へ振り向けば、そこには大きな紙袋を抱えたリューが立っていた。

 

「何なんだよ、次から次へとよぉ! 俺の邪魔をするんじゃねえ!」

 

「止めておきなさい。彼我の力量差さえ計れないあなたではその人に勝つことは不可能です。命惜しければ、今すぐここから去りなさい」

 

 リューが男に向ける視線は恐ろしいほどに冷たかった。それに気付かない男は、相次ぐ乱入者の登場に苛立ちが許容範囲を超えたのか唾を飛ばしながら喚き散らす。

 

「どいつもこいつも、俺を馬鹿にするようなことばかりいいやがって! ぶっ殺すされてえのか、アマ!!」

 

「吠えるな」

 

「っ」

 

 一声。抑揚のない無機質な声が途端に空間を支配した。さきほどまで怒りで我を忘れていた男も、言葉を失い呆然と立ち尽くしている。

 

 リューの全身から迸る威圧感は凄まじく、まるで荒れ狂う嵐が突如として目の前に現れたかのようだった。

 

「手荒な真似はしたくありません。私はいつもやり過ぎてしまう」

 

 冷たいな美貌を持つ妖精が奏でる不気味な音色に、男は顔を青ざめてさせて、「覚えていやがれっ!」と三下じみた捨て台詞を吐きながら逃げ出した。死の予感を前にして、引き下がるだけの知性はあったようだ。

 

「……ありがとうございました、リューさん」

 

 殺し合いを止めてくれたリューへ、ベルは頭を下げて感謝する。

 

「いえ、例には及びません。それよりも……」

 

 なにがあったんですか、とリューはベルの背後で立ち尽くす少女を見て状況を訊ねた。

 

「それは」

 

 どう説明したものかとベルが言い淀んでると、突然、少女が甲高い声で叫んだ。

 

「どうして、英雄であるあなたが助けるんですか!」

 

 驚いたベルが背後へ振り向くと、少女は目深く被ったフードの下で大粒の涙を瞳からぽろぽろと溢していた。

 

「どうして……どうしてなんですか……【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】なんて呼ばれてるあなたが、こんな……嘘です……止めてください……」

 

 要領を得ない言葉が悲痛な感情とともに吐き出されるのを見て、リューは顔を顰めた。

 

「状況から見て、あなたはクラネルさんに助けられたのでしょう。それを……」

 

「待ってください。良いんです、僕が勝手にあの男の人と喧嘩しただけですから」

 

 怒りを滲ませるリューの言葉を遮るようにベルは言った。

 

「そう、ですか……」

 

 少女を助けた張本人であるベルがそれで良いのなら、とリューは渋々引き下がった。

 

 改めて、ベルは少女へ向き直る。

 

(やっぱりあの時と同じだ……)

 

 迷宮の『中層』ですれ違ったときに見た誰かに助けを求める弱々しい輝き。それが眼前の少女の瞳にも宿っている。

 

 君の名前は。

 

 そう言葉を紡ごうとしてベルが一歩を踏み出そうとした瞬間。

 

 少女が「来ないで!」と叫んだ。

 

「お願いです……来ないでください……」

 

 叫びは懇願に変わった。

 

「っ」

 

 ベルは思わず息を呑んだ。自分を見詰める少女の瞳は絶望の闇に染まっていて、その奥に微かに灯る希望の光を無理矢理にでも消そうとしていた。

 

 それはベルに一歩でも近づいて欲しくないという拒絶の意思の表れだった。

 

 ベルが踏み出そうとした足は行き場を失い、やがて元の位置に戻る。

 

「それで、良いんです。これ以上、希望を抱かせないでください……惨めな思いをさせないでください……あなた様は、あなた様は眩しすぎるんです……」

 

 少女は嘆くようにも安堵するようにも聞こえる声音でぽつりぽつりとそう呟くと、ベルに背を向け逃げ出すように路地裏を駆けていった。

 

「……僕は、君を……」

 

 ベルは何かを言葉にしようとするが、色々な感情が絡まって、ついに口から出ることはなかった。

 

 ただ、闇に逃げる少女を見つめることしかできなかった。

 

 ○

 

 執念深い男の追走から逃れるために路地裏を駆けていたリリは、背後に気を取られすぎていて、前から歩いてくる人のことがまるで意識に入っていませんでした。

 

 あ、ぶつかる。

 

 そう思ったときにはもう身体は前に傾いて、地面が間近に迫っていました。

 

 リリはぎゅうと瞼を閉じて、顔を腕で庇いました。それぐらいしか、今のリリに出来ることはありませんでした。

 

 瞬間、「危ない!」と幼さを残した少年の声が響いたと同時に、リリは優しく抱かれていました。

 

(すごく、温かい)

 

 もし男に追われているような危機的状況でなければ、そのまま眠ってしまいたいほど、リリを抱きとめてくれた人の温もりは穏やかな安らぎを与えてくれました。

 

 でも何時までも、温もりに浸ってはいられません。すぐ逃げなければ、追いつかれてしまうから。

 

「す、すみません。お怪我はありませんか!?」

 

 ぎゅうと閉じていた瞼を開き、転びそうになったリリを助けてくれた人へ謝罪の言葉を叫びました。

 

 腕から伝わってくる温もりからして、きっと優しい人なのでしょう。

 

 どんなお顔をしているのか気になったリリは抱く人の顔を見て、世界がひっくり返るような衝撃に襲われました。

 

(え……)

 

 純白の髪。深紅(ルベライト)の瞳。どこか兎を彷彿とさせる愛嬌のある相貌。全身から放たれる鮮烈な覇気。それは、いまリリが最も出会いたくなかった人。記憶から消し去ってしまいたかった人。

 

 リリの視界に移るのは、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】ベル・クラネルでした。

 

(嘘、ですよ。こんなの質の悪い冗談に決まってます)

 

 しつこく追い回す男から逃げるため走り続けた果てに辿り着いた路地裏で、正面衝突しそうになって転びかけたリリを助けたのが、あの英雄様。

 

 まるで御伽噺のような展開。寂寥(せきりょう)とした裏路地で英雄と出会った名も無き少女(ヒロイン)は、新しい人生を歩む。灰色を被った過去とは違う、キラキラとガラスのように輝く幸せな未来を。

 

(ありえません、そんなの……あって良いはずがありません。光みたいに眩しい英雄様(ぼうけんしゃ)が、リリみたいな役立たず(サポーター)を助けてくれるわけがないんです……)

 

 だからこれは、きっと悪夢。すぐに砕ける、脆い幻想。現実では、ない。

 

 そう思わないと、リリの心が決壊してしまいそうだから。

 

 ぎしり、ぎしり、と心が軋む。

 

 ぶるぶる、がたがた、と身体が勝手に震えて止まらない。

 

 英雄様が男と何か言い争っているが、まるで内容が入ってきません。

 

 怖い、ひたすらに怖い。喉が裂けるまで叫びたい。涙枯れるまで泣き叫びたい。今すぐここから逃げ出したい。

 

未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の輝かしい英雄譚に紛れ込んでしまったという事実が、堪えがたい苦痛となってリリを襲います。そんな資格、あるはずがないのに。

 

 ああ、どうか早く解放してください。一刻も早く、リリを端役へ戻してください。

 

 リリは心のうちで、何度も何度もそう願い、祈り、望みました。

 

 するとリリの必死の懇願を何モノかが聞き入れてくれたのか、しばらくすると英雄様はリリを優しく地面へおろしました。途端、リリの心は猛烈な安堵に支配されました。偉大なる英雄様から離れられた、その事実がたまらなく嬉しかったのです。

 

 勘違いを、していました。

 

 助けて欲しい、救って欲しい、地獄(ここから)連れ出して欲しい、リリはずっとそう思っていました。昨日、すれ違ったときも、リリは同じ想いを英雄様へ向けて、でも結局は手を差し伸べてくれない無情な現実に絶望しました。

 

 でも、いざ助けられたとき、リリは気付いてしまったのです。リリルカ・アーデという人間は英雄様に救ってもらう価値なんて無かったことに。

 

 だからでしょう。

 

 男が去っていくのを見て、リリは胸に渦巻く想い(うそ)を叫ばずにはいられませんでした。それが最悪の選択だと理解していたのに。

 

「どうして、英雄であるあなたが助けるんですか!」

 

 違う。そんなことが言いたいんじゃない。本当は助けてくれたことを感謝したい。ですが、リリの口は主の言うことをまるで聞いてはくれません。

 

「どうして……どうしてなんですか……【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】なんて呼ばれてるあなたが、こんな……嘘です……止めてください……」

 

 リリはなんて惨めなんでしょう。助けてくれて嬉しいのに、感謝の一つさえ言えず。あまつさえ、恩を仇で返すような酷い発言をして。

 

 嫌いです、全部。今の生活も、サポーターの仕事も、サポーターを下に見る冒険者も、リリなんかにも優しくしてくれる英雄様も。

 

 でも、何よりも嫌いなのは、リリ自身……。

 

「来ないで!」

 

 ほら、今も言いたくもない言葉を英雄様にぶつけてしまった。

 

「お願いです……来ないでください……」

 

 どうして、リリはこうなんでしょう。せっかく、英雄様が助けてくれたのに。路地裏で運命的な出会いを果たせたのに。ここで手を伸ばせば、もしかしたらリリルカ・アーデの物語(じんせい)は変わるかもしれないのに。

 

 どうして、リリは自分から嫌われるようなことをしているのでしょう。

 

「それで、良いんです。これ以上、希望を抱かせないでください……惨めな思いをさせないでください……あなた様は、あなた様は眩しすぎるんです……」

 

 どうして、リリはお姫様(ヒロイン)になれないんでしょう。

 

 英雄様の、リリを見詰める瞳は悲哀で濡れていました。

 

 あれほど酷い言葉をぶつけたのに、怒りもせず、苛立ちもせず、英雄様は自分のことのように、涙を流すリリのことを悲しんでくれている。

 

 ああ、本当に、リリは……

 

 もう一秒でも英雄様の視界に収まっていたくなくて、清らかな深紅の瞳を穢したくなくて、リリは「ありがとうございました」の一つも言えずにその場から逃げだしてしまいました。

 

「う……ぅ……」

 

 なぜか、逃げるリリの背を英雄様の悲哀に濡れた瞳がずっと見つめ続けている。そんな気がしました。






見た目はシルヴァリオ・トリニティに登場したケラウノスの服装を白色にして、装飾を緑玉色にした感じをイメージしてます。ケラウノスを知らないという方は、「シルヴァリオトリニティ ケラウノス」で検索すれば画像が出ると思いますのでぜひ。


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開演(オーバーチュア)

この選択が正しいのかは、わからない。この想いが必要なのかも、わからない。でも僕は、助けを求めるあの子から目を背けたくない、手を差し伸べたいと、そう思ったんだ。


 

 暗澹たる思いが、リリルカの心を曇天のように覆い尽くしていた。

 

 昨日、路地裏で偶然ベルに助けられたリリルカは、感謝を伝えたい本心とは裏腹に、自らの憫然さゆえに理不尽かつ不誠実な言葉で口撃してしまったことを激しく後悔していた。

 

 摩天楼へ向かう道中で数え切れないほどの、もしも(IF)の未来を夢想するリリルカ。

 

 きちんと感謝を伝え、大丈夫だったかと頭を壊れ物を扱うように撫でられる未来。

 

 男と何があったのかを訊ねられて、心配だから暫く拠点(ホーム)での同居を提案される未来。

 

 ちょうど専門職(サポーター)を探していたので雇われないかと提案してくる未来。

 

 心に描かれるのは、煌然な絵画だった。妄想という美酒で甘美な興奮に酔い痴れるリリルカだったが刹那、正気に戻って現実に打ちのめされる。

 

 無様な自分。今後二度と現れないだろう幸運な出会いを前にしておきながら、集る蠅をはらうように撥ね除ける愚考をおかしてしまった。

 

「どうすれば、良かったんでしょうか……」

 

 感謝を告げるのが、正道であることは言うまでもない。怖かったと泣き叫ぶのも選択肢の一つに入るかもしれない。お礼をしたいと食事に誘う手だってあったはずだ。

 

 しかし、リリルカが実際に選んだのは、考え得る中でも最悪の選択肢。感謝も告げず、お礼もせず、泣き叫びはしたが、言葉の内容は最低。助けてもらった立場の人間がとってはいけない、失礼極まりない態度をリリルカはとってしまった。

 

 後悔しても、しきれない。もしも、時の針を戻せるのならば、絶対に同じ轍は踏まない。そう信じたいが、今でも思い出すのは、ベル・クラネルへの嫉妬と惨めさと怯えと恐怖だった。

 

 救ってもらいたかったのは事実。八方塞がりな現在を変えたいのも事実。自分に誇れる自分になりたいのも、事実。 

 

 それでも、千載一遇の機会(チャンス)に恵まれたときにリリルカの胸中を襲ったのは、どうしようもないほどの絶望だった。

 

 英雄の物語に登場することの重みを、今まで理解していなかったのだ。ベル・クラネルに助けられることの意味を、想像していなかったのだ。

 

 リリルカは現在を嫌っていながら、現在に染まっていたことに間抜けながらようやく気づいた。真っ当に、真っ直ぐに、全力で、清く、正しく、強く生きるものでなければ、英雄の影を踏むことは許されないことを。しかし、リリルカはとてもそんな風になれるとは思えなかった。努力できる気がしなかった。

 

 これからもきっと、英雄に助けられたこの命で道徳に反する行いの数々に手を染めるだろう。冒険者に蔑まれながら、自らもまた内心で冒険者を見下す性根も直らないだろう。

 

 そう、悟ってしまったからこそ出たのが、昨日の聞くに堪えない愚者の絶叫だった。

 

 助けて欲しいと思った。でも、助けて貰う価値なんてなかった。相克する想いは嵐となって胸中に吹き荒び、制御不能に陥って、叫びへ転じて世へ生まれおちてしまった。

 

 もう、二度と会うことはないだろう。予感ではなく、確信。人間、非道な行いをされたものに、わざわざもう一度関わろうなどと思うわけがない。少なくともリリルカであれば、絶対に関わりたくないと思う。

 

「英雄、様……」

 

 呟く声は、なぜか震えていた。

 

 わかっている。頭ではわかっているのだ。最低な行いをふるった自分とベル・クラネルの人生が交わることはないのを。そんな御都合主義な展開が起こるはずがないことを。

 

 それでも、どうしても、捨てられない想い(希望)がリリルカの心の奥で燻っていた。まるで消える運命に抗う火種のように、ちりちりと。

 

「リリは……」

 

 どうしたら、と懊悩しながら歩いていたときだった。

 

「お嬢さん、お嬢さん。フードを被ったお嬢さん」

 

 自分を呼ぶ(恐らく)声を聞いて、リリルカは黄昏れた思考を捨てさり、警戒心をもって振り向いた。

 

 瞬間。

 

「え?」

 

 意識が、停止した。理解不能、理解不能、と理性が叫び、あり得ない、あり得ないと感情が戸惑った。

 

 リリルカの瞳に映るのは一人の少年。

 

 身長165C(セルチ)。鎧うマントは白く、内側に纏う上着と下着もまた白く、上を向けば兎を彷彿とさせる深紅色の双眸に服装と全く同じ白髪が乱雑に伸びている。腰には、極東伝来の刀が二つ。放つ気配は雄烈。まるで空にて轟く雷が人間を象っているよう。

 

 圧倒的、既視感。一度、見れば来世であっても忘れられないだろう存在感に、リリルカはごくりと息を呑む。

 

「あ、あなた様はっ……」

 

初めまして(・・・・・)、お嬢さん。突然なんだけど、僕のサポーターになってくれませんか?」

 

 リリルカの前に立っているのは、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】ベル・クラネルだった。

 

 驚きで、声も出ない。もう一度、顔を合わせているのも、言葉を交わしているのも、まるで夢のようで現実味がない。何よりも、サポーターにならないかと提案されていることが、信じられなかった。

 

 騙しているのか、と邪推したくなるが、怖ず怖ずと見つめるベルの瞳に嘘の色は見えない。本当に、ベルはリリルカをサポーターとして雇おうとしている。

 

 だが、一つ気掛かりなのはベルが「初めまして」と言ったことだ。リリルカは今、【シンダー・エラ】を使っていない。昨日と同じ、小人族(ありのまま)のリリルカ・アーデだ。

 

 ベルが気づいていないとは考えがたい。リリルカにはわかる、覚悟(ひかり)に染まる深紅色の瞳の奥に、昨日見せた悲哀が微かに宿っているから。

 

 なぜ、ベルが敢えて初対面を装ったのかは判然としない。思考を看破することもできない。

 

 でも、昨日がなかった風に装ってくれているからだろう。リリルカの心は比較的落ち着いていた。少なくとも、想いが溢れて暴走してしまうような事態に陥る気配はない。

 

「え、あ、の……」

 

「大丈夫、落ち着いて。ゆっくりと深呼吸をして」とベルは言った。

 

 自分が思っていた以上に動転していたリリは、ベルの言葉に従って何度か深呼吸をして逸る動悸を鎮静させる。

 

「それで、何が訊きたいのかな?」とベルは言った。

 

「…………どうして、リリに、声を掛けたんですか?」

 

 リリルカが微かに震える声で訊ねると、ベルはリリルカの背中を指した。示す先には、巨大なバックパックが。

 

「一目見てわかったからね、君がサポーターだって」

 

「でも、都市(オラリオ)にはリリ以外にも優秀なサポーターは沢山います。敢えてリリを選ぶ理由なんて……どこにも……」

 

 理由が、必要だった。否、違う。理由が、欲しかった。ベルが自分を選ぶ確かな理由が。そこまで思考を巡らせて、気づく。まるで、確固たる理由があればベルの申し出を受け入れるみたいではないかと。

 

(違います、聞くだけです。リリなんかが英雄様のサポーターになるなんて烏滸がましすぎます。それに昨日の件だって解決したわけじゃないんです。だから……でも……理由を聞く位は、許されるはずです。理由を聞いたら、ちゃんと断ります……だから……)

 

 【英雄冒険譚(イロアス・オラトリア)】に端役はいらない。足を引っ張るだけの存在が登場してはいけない。リリルカは自らの心に生じつつある、前向きな想いがこれ以上育たないために、「断る、断る」と胸中で何度も戒めるように呟いた。

 

 問われたベルが「それは……」と言って思案すること数瞬。

 

 ベルは一切の曇りない真っ直ぐな視線でリリルカを見つめて、言った。

 

「直感です」

 

「はえ?」

 

 思わず、変な声が洩れた。何か最もらしい理由がベルの口から紡がれると決めてかかっていただけに、不意を突かれた形だった。

 

「今、なんて……?」と訊ね返すリリルカに、ベルは「直感です」と先ほどと全く同じ口調でそう言った。

 

 今のやり取りで、リリルカの抱いていたベルへの印象(イメージ)が変革する。鋼のごとき覚悟を背に負った、怪物(モンスター)より怪物(モンスター)染みた完全無欠な英雄ではなく、少年らしい一面も有している一人の人間であるのだと。英雄ではあっても、人間を捨ててはいないのだと。

 

 【未完の英雄(ベル・クラネル)】は兎のように可愛い顔をした少年(ベル・クラネル)なのだと。

 

 リリルカはようやく、ベル・クラネルという人間を自分の眼でしっかりと見た気がした。

 

「それで、どうかな。サポーターの件、僕としたら引き受けてくれると嬉しいんだけど」

 

 頬を掻いて、照れくさそうに笑う英雄(ベル)地下迷宮(ダンジョン)で縦横無尽に怪物(モンスター)の群れを殲滅していた時とはまるで違う、少年らしい柔和な笑みが、リリルカの心を惑わせる。天秤が傾きかける。

 

「えーと、その、うーん……ですが……」と悩んでいるのを見て、ベルは何かを思いだしたのか「あっ!」と高い声を挙げた。

 

「すみません、そういえばまだ自己紹介をしてませんでした」

 

 ベルは腰に佩く刀に添えていた手をリリルカに差し伸べながら、言った。

 

「僕の名前はベル・クラネル。よろしければお嬢さん、君の名前を教えてくれませんか?」

 

「あ……」

 

 本が開く、音がする。物語の始まる、予感がする。

 

(逃げたく、ない。昨日は何度謝っても、許されない酷いことをしてしまいましたけど、それでも……この手からは逃げたく、ないです……リリは、ここで、変わりたい……!)

 

 だから。

 

 リリルカは、心を占領する絶望に抗うようにして、ベルの手をゆっくりと握って、言った。

 

「リリの、名前は、リリルカ・アーデです……こんなリリでもよろしければ、英雄(ベル)様のサポーターにしてください」

 

 手を通して、伝わるベルの体温は熱く、リリルカの絶望に凍える心を溶かすかのようだった。

 




 序曲(プレリュード)は終わった。これより【英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)】の第二章が開演する。主演の二人はもう、舞台の上へあがっている。


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語り合い(トーク・ダンス)

変わるために。進むために。灰被りの少女は英雄譚の舞台で踊る。


 正午前。大半の冒険者が怪物(モンスター)を屠るために意気揚々と迷宮探索へ繰り出している時間帯、ベルとリリルカは摩天楼(バベル)の二階へ赴いていた。

 

 閑散とした簡易食堂。

 

 使用者が片手の指で数えられるほどしかいない空間は静寂としていて、喧騒が舞踏する一階とは対照的な、しっとりと落ち着いた雰囲気が漂っている。

 

「この時間はけっこう空いてるから、ゆっくり話ができそうだね」

 

「そう、ですね……」

 

 リリルカとしては、あのまま寄り道をせず真っ直ぐ地下迷宮(ダンジョン)へ向かうだろうと予想していただけに、簡易食堂で一度話をしないかとベルから提案されたのは慮外であった。

 

 彼の言葉を疑心の濾過器(フィルター)を通さずそのまま信じるのなら、目的はお互いを知ることらしい。

 

 本音を言えば、ベルと世間話をすることには多少の抵抗があった。リリルカは自らの境遇に鬱屈とした思いを抱えているのと同時に、恥る思いも抱えていたので、できることなら神々のもとに還るそのときまで秘匿していたかったのだ。

 

 それでも、リリルカがこの提案を受け入れる選択をとったのは、いつまでも過去に囚われているわけにはいかない、と強く感じたからに他ならない。

 

 数刻前まで、リリルカ・アーデという少女は端役だった。誰に知られることもなく、誰の記憶に残ることもなく、流れる歴史の中で消えていくだけの生きていながら死んでいるような存在だった。

 

 今は、もう違う。端役の立場で腐る自らを拒み、英雄譚の出演者になったのだ。

 

 あの時ベルが差し伸べてくれた手を握ったからには、悲しみに満ちた過去から、苛立ちに狂う現在から、そして、これから歩むだろう不透明な未来から逃げることは許されない。

 

 否、逃げ出したくなかった。

 

 向き合わなければいけないのだ、自分自身と。受け入れなければいけないのだ、自分自身を。自分で自分を呪うのを辞める機会(チャンス)はきっと今しかない、とリリルカはそう思うから。

 

 いざ、語り合おう(おどろう)英雄と。灰を被り汚れた衣服(ドレス)で。無様でも、ぎこちなくても、恥知らずでも、変わりたいと願うから。

 

 前を向きたいと想うから。

 

 ○

 

 ぐるりと周囲を見渡したあと、ベルとリリルカは会話をするのに最適だろう最奥の席に歩を移すと、向かい合う形で腰掛けた。

 

 英雄の清澄な瞳が、リリルカを真っ直ぐ見つめる。

 

「まず訊きたいことがあるんだけど良いかな、リリルカ」

 

 リリルカは何度か首を縦に振ったあと「は、はい」と言った。

 

「あと、その……よろしければ、リリのことはリリとお呼び下さい英雄(ベル)様」

 

「うん、わかった」

 

 そう言ってベルは頷く。

 

「そうだ! せっかくだから、リリも僕のことはベルって呼んでよ。そうすればお互いの距離も、もっと縮まると思うんだ」とベルは言った。

 

「そ、そんな! 【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】と呼ばれ、今もっとも都市(オラリオ)で注目される御方を呼び捨てだなんて、恐れ多くてできません! 今だって英雄(ベル)様とお呼びするだけで心臓が破裂しそうなほど緊張しているんですよ!」

 

 椅子から転がり落ちそうになるほど動転するリリルカを見て、ベルは苦笑しながらも「無理強いはしないから、そんなに驚かなくても大丈夫だよリリ」と落ち着かせるようにそう言った。

 

 このままでは話が進まない。そう察したベルは周囲を漂う気まずい空気を変えるように、「ごほん」と一つ咳払いをする。

 

「えっと。それじゃあ改めて、リリ。契約をするにあたって、まずは君が無所属(フリー)なのかか、それともどこかの【ファミリア】に所属してるのかを教えて欲しいんだけど」

 

 ベルが訊ねた。

 

「はい。えっと、リリ、は……無所属(フリー)ではありません。とある【ファミリア】に、入ってます」

 

 まだ緊張しているのか、たどたどしい口調でリリルカは返事をした。

 

「どこの【ファミリア】に?」

 

「それは……」

 

 所属を問われたリリは、わなわなと震えながら顔を俯かせた。その視線は膝に置かれた小さな手にのみ注がれていて、目深く被ったフードからは不安に揺れる円ら瞳が薄らと見えた。

 

「……言いたくないなら、無理はしなくていいよ。答えなかったからといってサポーター契約を止めるつもりはないよ。それに、僕は君を傷つけたいわけじゃないんだ」

 

 本心だった。

 

 ベルにとって、所属の有無は決して重要ではない。派閥(ファミリア)がどこかも関係無い。ただ、少しでもリリルカ・アーデという少女のことが知りたい、不信の城壁で覆われた心に近づきたいだけで、苦悩の種を植えつけるのは本意ではなかった。

 

 そんなベルの真摯な思いが少しは通じたのか、リリルカは怯えた表情を浮かべながらも、ゆっくりと面を上げて言った。

 

「【ソーマ・ファミリア】、です……」

 

 か細い声だった。耳を澄ましていなければ、聞き取ることさえできなかっただろう微かな呟きからは、言いたくはなかったという思いがひしひしと伝わってくる。

 

 それほどまでにリリルカが言葉にするのを躊躇った理由(わけ)について、ベルは薄々ながら察していた。

 

【ソーマ・ファミリア】。

 

 神ソーマを主神として崇める探索系の派閥(ファミリア)。実力は中堅、所属する冒険者の能力値は平均より僅かに上程度、と特筆すべき点は見当たらない。敢えて特徴をあげるなら、構成員の数が多いことだろうか。

 

 しかし、他の探索系派閥(ファミリア)と決定的に違う点が一つだけあった。それは、酒の販売だ。

 

【ソーマ・ファミリア】製の酒は絶品だと神人問わず評判で、市場に流す量が少ないことから希少性も付与されており、都市(オラリオ)での需要は想像以上に高い。

 

 つまり、【ソーマ・ファミリア】は地下迷宮(ダンジョン)の探索で得た収益と販売した酒の収益の二つが派閥(ファミリア)を運営する資金源の柱となる。

 

 これだけであれば、特に問題がない、ごくごく一般的な派閥(ファミリア)に思えるだろう。それどころか資金を獲得する手段が二つあるのだから、他の探索系派閥(ファミリア)よりも恵まれた立場にあるとも言える。

 

 問題は、ここからだ。

 

 噂によれば【ソーマ・ファミリア】の構成員たちは仲間内で稼ぎなどを巡り激しく競い争っているらしく、魔石の換金所では査定された金額に毎度のごとく文句(ケチ)をつけたり、鑑定職員へ罵詈雑言を浴びせるなど、金への執着を剝き出しているというのだ。

 

 その異常な態度、言動、行動が次々と冒険者の目に、民衆の耳に入った結果、【ソーマ・ファミリア】の構成員は金の亡者ばかり。そんな悪印象が都市(オラリオ)で蔓延するようになった。

 

 当然、ベルもこれらの黒い噂を耳にしていたので、リリルカが所属の派閥(ファミリア)を口にするのを躊った気持ちは十分に理解できた。口にすれば、サポーターの件を撤回されるかもしれないと危惧したのだろう。

 

 だから、ベルはリリルカの不安を払うためにも早々にこの話題を切り上げることにした。

 

「【ソーマ・ファミリア】だね、わかった。それじゃあ、次の質問なんだけど」

 

「え?」

 

【ソーマ・ファミリア】の件について一切触れられなかったリリルカが、戸惑いの声を洩らす。

 

「どうかした?」

 

「い、いえ……」

 

 追求されることを望んでいるわけではないリリルカは、首を振って誤魔化した。

 

「そっか、じゃあ次の質問。リリは探索する階層が『中層』だけだとしても同行できる?」とベルが問う。

 

 暗に、冒険者が僕一人でも大丈夫か。万が一の場合自分で身を守る手段はあるのか訊ねているのだと察したリリルカは、こくりと頷いて肯定の意を示す。

 

「はい、大丈夫です。これまでも何度か他の冒険者様たちと『中層』は探索したことがあるので、出現するモンスターについての知識は持っていますし、対策などもしっかり身に付けていますから」

 

 ならよかった、とベルは安堵の息を吐く。

 

 二人だけで『中層』を潜るといえばその危険性から断わられてもおかしくないと考えていただけに、彼女の自信に満ちた返答は素直に嬉しかった。

 

 最初にして最後の難関を無事に越えたことで、強張っていた理性が弛んだベルは、「ごめん、喉が渇いちゃって。水飲んでもいいかな?」と訊ねた。

 

「どうぞ、気にしないでください」

 

 リリルカの了承を得たベルは、渇いた喉を潤すために腰のポシェットから革水筒を取り出して、ごくりと一口、喉の奥に水を滑らせた。

 

 冷たい水が旱魃(かんばつ)した喉の渇きを癒やすように染み渡っていくのを感じて、ほうっと思わず溜め息をこぼしてしまう。

 

「リリも飲む?」

 

「い、いえ。喉は渇いていないので大丈夫です」

 

「そう?」

 

「は、はい。気を遣っていただいてありがとうございます」とリリルカは言った。

 

 嘘だった。

 

 リリルカの口内は極度の緊張で、草木の生えない砂漠のようにカラカラに渇いていた。月のような好意と太陽のような畏敬を抱くベルでなければ、いいえと答える余地はあったかも知れない。

 

 だが、相手は英雄だ。英雄と間接的ではあるが接吻(キス)をしてしまえば、感情が熱烈して意識を失う自信があった。

 

 それゆえの虚偽、それゆえの遠慮。

 

 しかし、彼女の嘘をしっかりと見抜いていたベルは手早く革水筒をしまう。喉の渇きを必死に我慢している人の前で、図太く水を飲み続けるつもりはなかった。

 

「じゃあ、次は僕の番だね。色々と知って欲しいことがあるんだ」

 

「え、いや……そんな。……リリなんかが、英雄(ベル)様のことを教えていただくわけには……」

 

「『リリなんか』だなんて、自分を卑下しないで。僕がリリに知って欲しいんだ、ベル・クラネルがどんな人物なのか。それに、リリばかりに話してもらうのは平等(フェア)じゃない。……僕もリリも同じ人なんだ。どちらかが一方的に知るだけの関係なんて、とても寂しいと、僕は思うよ」

 

 ベルはふわりと微笑んで、諭すように優しく語りかける。

 

「あっ……」

 

 洩れる声に込められた感情は、歓喜か敬慕か。

 

 平等、という言葉にリリルカの傷だらけの心が癒やされていく。これまでの人生で、不当かつ不平等な扱いばかりされてきた彼女にとって、平等の二文字は黄金よりも遙かに価値のあるものだった。

 

 それを、今、目の前にいる少年が与えてくれたのだ。

 

(眩しい……)

 

 こんなにも真っ直ぐで清らかな心を持ち合わせているベルだからこそ、皆は惹かれるのだろう、とリリルカは直接その人柄に触れたことで強くそう思った。

 

 都市(オラリオ)の人々が語るとおり、ベル・クラネルは正しく英雄。

 

 恩を仇で返した愚かな少女に、もう一度手を伸ばす器の広さ。冒険者でありながら荷物持ち(サポーター)を平等に見る謙虚さ。低俗下劣な輩では決して持ち得ない鮮烈な輝きを、ベルはその心に宿している。

 

 これまでの裏切られるだけの人生で、すっかり人間不信になっていたリリルカだったが、ベルだけは信じてもよいのではないか、ベルだけは信じられる人なのではないか、と僅かながら思い始めていた。

 

 それほどまでに、眼前で微笑を浮かべる英雄は、人の心を魅了する光のような雄々しい気配(オーラ)を放っていたのだ。

 

「はっ……」

 

 リリルカが感動の飛翔を終えて意識が現実に戻ってきたのは、「まずは所属からだね」とちょうどベルが喋り始めた時だった。

 

「僕の所属は【ヘスティア・ファミリア】。主神は神様……えっとヘスティア様で、眷属はまだ僕一人。今は神様と二人、誰も使ってない教会の地下で生活してるんだ」

 

「教会の地下、ですか?」

 

 衝撃の告白に、思わずリリルカは聞き返した。

 

「そうだよ。ふふ、びっくりした?」

 

「は、はい……」

 

未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の勇名轟くベルが、【ヘスティア・ファミリア】なる知名度の少ない(この表現はリリなりのベルへの配慮であり、実際の知名度は皆無)派閥(ファミリア)に所属していることは噂で耳にしていたが、まさか廃墟の地下で生活しているとは思ってもいなかった。

 

 リリルカの想像では、決して広くはないけれど優れた間取りの賃貸で、神ヘスティアと二人仲睦まじく暮らしている景色を、勝手に想像して、勝手に羨んでいたので、驚きもひとしおだった。

 

 誰も、あのベル・クラネルがそんな寂れた場所を生活拠点にしているとは思っていないだろう。

 

 もしやとんでもない情報を知ってしまったのでは、とリリは胸中で戸惑った。

 

 そんな絶賛困惑状態なリリを余所に、ベルは話を続ける。

 

「次は地下迷宮(ダンジョン)の方についてだね」

 

「は、はい。おねがいします」と言ってリリルカは耳を傾ける。

 

「僕が冒険者を始めたのはだいたい一カ月半くらい前で、Lvは3。今は『中層』を探索してて、慣れたら『下層』へ挑戦するつもりだ」

 

「…………はぁ」

 

 無意識のうちに、気の抜けた声がリリルカの口から洩れた。度を超した驚愕は、思考を停止させるらしい。

 

 ギルドの発表でベルが僅か一カ月半でLv.3へ到達したのは、都市に住む人の多くにとって周知の事実だろう。リリルカもそのうちの一人だ。加えてベルが『中層』を探索していることも、二日前に偶然すれ違ったリリルカは知っている。

 

 だが、既に『下層』の探索を視野に入れているのは、予想の範疇の遙か外側だった。

 

「あの、失礼な質問かもしれませんが、英雄(ベル)様は『中層』を潜ってどれほど経つんですか?」

 

 おずおずとリリルカは訊ねた。

 

「まだ一日だね」

 

「はい?」

 

 逡巡なく放たれた驚愕の発言に、リリルカは自分の耳を疑った。

 

(今、英雄(ベル)様がとんでもないことをおっしゃったような……いえいえ、流石にリリの聞き間違いですよね。まさか、一日だなんてそんなわけ……)

 

 胸中でそう呟いて、リリルカは動揺する心を必死に落ち着かせようとする。打ち寄せる驚きの津波、に動悸が乱れているような錯覚さえ覚えた。

 

 だが、ベルの次の発言で自らの耳が極めて正常であり、動悸が一切乱れていないことをリリルカは思い知ることになる。

 

「二日前に初めて『中層』に潜ってモンスターと戦ったんだけど、どうにも手応えが感じられなくて。多分、短期間でLv.2からLv.3へ【ランクアップ】したのが原因だと思うんだけど……」

 

 でもこれじゃあ僕は強くなれない、と呟いたあとベルは悔しそうに下唇を噛んだ。

 

「命の危険を感じる死線に身を投じるのが強くなる最も効率的な手段なのに、僕は冒険せず、勝てる可能性が高い戦場(ぬるまゆ)の中にいるんだ。その事実が、情けなくてしかたがないよ……」

 

 そう言って、ぎゅうと音が鳴るほど強く両の拳を握るベル。

 

 ああ、やっぱり彼は英雄だ。

 

 サポーターにならないかと誘われたとき、リリルカはベルに少年を見た。けれど今、眼前で苦渋に満ちた表情を浮かべるベルは、神話や伝説に語られる英雄そのものだ。

 

 雷のごとき鋭さと激しさを持った、英雄。

 

 常識に鑑みれば、理解不能な発言。死を恐れる以上に、自らの願いが果たされないことを恐れる精神性は、正に鋼鉄。死が心臓をわし掴もうとも、常識が剣となって刃を向けてこようとも、決して砕けず傷つかない鋼鉄の精神を宿す英雄。

 

 当たり前に囚われないから、異常を業と受け容れるから、彼ら(ベルを含めた)は英雄なのだとリリルカは思い知る。

 

 だって、そうだろう? 

 

 冒険者になって二カ月も経ていないのに、『下層』の探索を視野に入れる人間など、古今東西、大陸全土を見渡してもきっとベルしか存在しない。他の誰が口にしても馬鹿だ、無理だと詰られるだけだろう。

 

 けれど、ベルは、ベル・クラネルは本気で『下層』へ挑むつもりだ。そして、生きて帰ってくるつもりだ。至極当然に、無謀を偉業と成し遂げるつもりでいる。

 

(【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】なんですね、本当に。英雄(ベル)様は今の自分に全然満足してない。なら……)

 

 ここで一つの疑問が生まれた。決して無視できない、大きな疑問が。

 

英雄(ベル)様、一つどうしてもお訊ねしてしたいことがあります」

 

「うん、言ってみて。僕に答えられることならなんでも答えるよ」

 

 リリルカが初めて能動的に動き、自らの意思で質問を投げかけてきたことに歓喜を噛み締めなが、らベルは首肯した。

 

「でしたら、どうか教えてください。誰よりも強さを求めると言った貴方様が、どうして足でまといにしかならないサポーターを雇おうと思ったんですか。これはリリだけではありません、サポーターという存在そのものに対してです」

 

 ベルの本質を捉えた鋭利な言葉を、リリルカは放つ。

 

「それ、は……」

 

 ここで、初めてベルは言葉を詰まらせた。

 

 口を僅かに開きながら言葉に繋がる単語たちを探すが、それらは文章にはならず、バラバラになって泡が弾けるように消えていくばかり。

 

「……」

 

 一度の探索で得られる稼ぎを増やしたいから。魔石を回収する手間を煩わしいと思ったから。戦闘に集中したいから。常識に則った考えが幾つも思い浮かんだが、それはどれもが虚偽の星。本音でない言葉を、真実として騙ることなど、ベルにはできなかった。

 

「ごめんなさい、英雄(ベル)様。でも、どうしても知りたいんです。これさえ知ることができれば、リリは英雄(ベル)様のサポーターとして全力を尽くすと約束しまう。だから」

 

 願いします、答えてください。

 

 リリルカはがばり、と頭をさげて頼み込んだ。

 

 暫しの沈黙。

 

 簡易食堂の使用者が少ないことも相まって、鉛のように重く水中のように息苦しい静寂が二人を覆い尽くす。

 

 リリルカの瞳に映るベルは、眉を顰め、手を口に当てて、じいと視線を机に注いで熟考の海に沈んでいる。しかし、嘘を考えているようには見えない。

 

 ただ、何と言葉にすればよいのか深く深く迷っているようだった。

 

「……」

 

「……」

 

 ちく、たく。静かな空間に時計の針の廻る音が響く。微かに香る料理の匂いが、やけに嗅覚をくすぐった。

 

 もどかしい、そう思いながらもリリルカは辛抱強く待ち続ける。急かしたところで、真実は語られない。むしろ遠ざかるだけだと、経験から学んでいたからだ。

 

 秒針が六十を刻むこと数回、ようやくベルは思考の海から浮上して、口を開いた。

 

「リリ、ごめん。それは僕にもわからないんだ。……誤解しないで欲しいっていうのは理不尽かも知れない。でも、本当に、本当に僕自身、わからないんだ……」

 

 ベルは申し訳なさそうにそう言った。

 

「リリの言う通り、強さを求めるのなら単独(ソロ)地下迷宮(ダンジョン)に潜るべきなんだ。僕もそれが最適解(せいかい)だと頭では理解してる。でも……ごめん、なんて言ったらいいのか。僕自身、直感に身を委ねて動く経験は初めてなんだ……間違っているとわかっている選択を取るのは、初めてなんだ……」

 

 沈痛な面持ちを浮かべて謝るベル。 

 

「でも、これだけは断言できる。僕は君を騙したいわけじゃない。何かを隠しているわけでもない。悪意を持って近づいたわけでもない。本当に僕は、君を、リリをサポーターとして雇いたいんだ」

 

 リリルカに真剣な眼差しを向けるベルの顔に、虚偽の色は見えなかった。深紅(ルベライト)の双眸に宿るのは真実。他には何も映らず。純粋で、清廉で、透き通るような想いだけが、そこにある。

 

(嘘は、ついてない。本当に、英雄(ベル)様はどう言葉にすればいいのかわからないんですね……)

 

 望んだ答えではなかったが、リリルカの中に生じた疑問は解消された。そも、不信や不安を抱いたわけではない。返答次第でこの場を去るつもりもない。

 

 ただ、ベル・クラネルという英雄が何よりも強さを求めているのならば、どうして遠回りするような道を自らの意思で歩もうとするのか、引っかかっただけだ。

 

 答えは既に、決まっている。差し伸べてくれた手を握った時点で決まっている。

 

「貴方様がリリを騙そうとしていないこと、しっかり伝わりました」

 

 ──信じます。

 

 もう二度と使うと思っていなかった言葉を紡いで、リリルカはベルに微笑みかけた。

 

 ベルはぱちりと瞬いたあと、安堵したような表情を浮かべる。

 

「それではこれからよろしくお願いします、英雄(ベル)様」

 

「…………うん、よろしくね、リリ!」

 

 微笑と笑顔の花が咲き、語り合い(トーク・ダンス)の幕が閉じる。

 

 こうしてベルとリリは正式に契約を締結して簡易食堂をあとにすると、地下迷宮(ダンジョン)の『中層』へ向かい始めるのだった。

 




英雄は思い知る、悩むことの辛さを。理性に抗うことの難しさを。それでも、助けたいと思ったから。手を差し伸べたいと思ったから。今はただ、選んだ道を進むのみ。例え道の先が闇に覆われていたとしても


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英雄の背中(スリアンクシヴォス)

 

「ぜぁっ!!」

 

 薄暗い洞窟に、猛き迅雷が迸る。

 

 疾走する英雄、万物を絶つ神の想刀。幽幽(ゆうゆう)たる空間に響くのは、怪物(モンスター)の穢れた断末魔だけ。

 

 血が吹き荒び、死が積み重なり、魔石が墓標と大地に転がる。

 

「まだだ、まだ、足りない」

 

 無双にして圧倒。

 

 至高にして究極。

 

 光源乏しい地下迷宮(ダンジョン)の『中層』にあって、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】は絶対的強者だった。英雄の冠を戴く王者だった。 

 

 敗北の予感さえ与えない、無慈悲な鏖殺。《ヘスティア・ブレイド》を袈裟斬るたびに命が潰え、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を唐竹ば魔石が生まれる。   

   

 戦場とさえ呼べない、一方的な殺戮。否、虐殺。

 

「ぜぇああああああっ!!」

 

『ギャァッ……!?』

 

 縦横無尽とは正にこのことだ、とリリルカ・アーデは眼前で繰り広げられる凄絶な光景を見ながら呆然と思った。

 

(ああ、本当にこの方は……凄いなんて言葉が陳腐に思えるくらい……強い……)

 

 纏う装備を新調したからだろうか。二日前に見た戦闘とは比較にならないほど、動きが洗練されている。

 

 嘗てが疾風ならば、今は暴風。振るう二刀は雷纏う死の嵐。

 

 憐れにも本能のままに英雄へ群がる怪物(モンスター)の愚衆が、一矢も報えず無慙に散っていく。

 

 弱い、余りにも弱い。

 

(違う……)

 

 強い、余りにも強い。

 

(これが【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】、ベル・クラネル……)

 

 (わか)っているつもりだった、英雄の力を。理解(わか)っているつもりだった、英雄の強さを。

 

 でも、所詮は分かっているつもりなだけだった。

 

「疾っ!」

 

 一歩踏み込み《ヘスティア・ブレイド》を振るえば、軽々とシルバーバックの首が飛ぶ。

 

 くるくる。

 

 ごろり。

 

「あ……」

 

 泥のような鮮血を地面に飛び散らせながら、敗者の首がリリルカの足もとに転がってきた。厳つい双眸はかっと開かれたまま。自分が死んだことすら悟れず、愚かな怪物(モンスター)は塵へと帰る。

 

「せぁっ!」

 

 壁を蹴って宙を飛ぶようにして飛びこんで、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》をヘルハウンドの首筋に突き刺す。

 

『ウォオオオオオオオォオォン!!』

 

 頸動脈を裂かれた痛みを批難するような遠吠えを上げて、不幸な犬が大地に斃れて憐れな末路を辿る。

 

『ヴヴォオオオオオオオオオ!!』

 

 嘗て英雄が死闘を繰り広げた因縁の相手(ミノタウロス)さえ、ただの雑魚(ノー・ネーム)。もはや眼中になく。

 

「死ね」

 

 雷纏う二刀の交差の一閃を喰らい、刹那に魔石へと還る。

 

 斬る、走る。斬る、奔る。斬る、趨る。一撃一殺の無双劇。屍山血河(しざんけつが)の殺戮劇。冠前絶後(かんぜんぜつご)の蹂躙劇。

 

「ふっ!」

 

 死。

 

「ぜぃ!」

 

 死。

 

「はぁ!」

 

 死。

 

 牙剥く敵のことごとくを両断し、英雄は勝利の栄光を山のごとく積み重ね続ける。

 

「なんですか、これ……」

 

 リリルカは夢を見ているかのようだった。人々の間で永遠(とわ)に語り継がれる神話に登場する、主人公の戦う場面(シーン)に迷い込んでしまったのではないかと。

 

 右頬を、ぎゅうと抓って引っ張る。

 

「痛い、れす……」

 

 痛覚正常。夢幻(ゆめまぼろし)ではないことが証明された。

 

 リリルカだって、わかっている。眼前に広がる神話染みた光景が、現実であることぐらい。

 

 それでも、夢だと思い込みたくなるほど、ベル・クラネルの戦闘能力は懸絶していた。

 

 とてもLv.3とは思えない。Lv.5と言われてもリリルカはきっと信じるだろう。それほどまでに、圧倒。冒険者としてでなく、戦うモノとして完成されていた。

 

「そっか……」

 

 ──二日前に初めて『中層』に潜ってモンスターと戦ったんだけど、どうにも手応えが感じられなくて。多分、短期間でLv.2からLv.3へ【ランクアップ】したのが原因だと思うんだけど……。

 

 一時間ほど前の言葉が蘇る。

 

英雄(ベル)様が言ってたことは本当だったんですね……」

 

 信じていなかったわけじゃない。疑っていたわけじゃない。

 

 ただ、どうしても理性と常識が邪魔して、ベルの発言を完全に受け入れられなかったのだ。

 

 冒険者になって一カ月半程度で、『中層』の魔物が相手にならないほどの力を手に入れるなど、ありえるわけがない。

 

 都市(オラリオ)で暮らす冒険者の平均Lv.は一だ。つまり半数の冒険者が【ランクアップ】を経験していないことになる。

 

 原則としてLv.の差が一つ生じれば戦いにならないとされているので、Lv.2にカテゴライズされる怪物(モンスター)が跋扈する『中層』に、Lv.1の冒険者が足を踏み入れることは絶対に不可能。それはそのまま、冒険者の半数が『中層』へ足を運べないことを意味する。

 

『下層』ともなれば、「新世界」と呼ばれるほどの危険地帯と化す。それを、冒険者になってから一カ月半、しかもLv.3かつ単独(ソロ)で挑戦しようとするのだから、もはや意味がわからない。

 

 それでも、ベルならできるに違いないと思ってしまうのが何より恐ろしかった。

 

「遅いっ! 数で攻めるだけで勝てるほど、僕は甘くないぞ!」

 

 リリルカが唖然と立ち尽くしている間に、ベルは次々と怪物(モンスター)を屠っていく。

 

「あっ……早く魔石を回収しないと」

 

 荷物持ち(サポーター)の存在意義を思い出したリリルカは、ベルの邪魔にならないように、地面に転がる魔石を手早く回収していくのだった。

 

 ○

 

 地下迷宮(ダンジョン)の探索を初めてからまだ一時間半程度しか経過していないにもかかわらず、バックパックの中は魔石で埋め尽くされていた。

 

(これ、一体幾らになるんでしょうか……)

 

 背負うバックパックの重量に歓喜を通り越して恐怖を覚えながらも、リリルカは駆けるベルの背中を必死に追っていく。

 

 ベルと出会うまでは、憎たらしくて堪らなかった誰かの背中。いつも胸中で、無防備に晒すその背中を蹴り飛ばしてやりたいと思っていた。

 

 だが、英雄の背中は青空に輝く太陽のように眩しかった。いつかの神話で語られた勝利の剣のように輝いていた。

 

 彼についていけば、心配ないという安堵が心を支配するのだ。

 

「ぜぃ、これで終わりだ!」

 

 絶えず怪物(モンスター)を殺し続けたからだろう。

 

 リリルカたちがいる階層からは、既に二人の気配以外が死んでいた。

 

 見渡す周囲は淋しく、洞窟らしい鬱屈とした雰囲気が漂っているだけ。怪物(モンスター)の呻き声も鳴き声も、断末魔も、何も聞こえない。

 

 完全なる沈黙。人間襲う化物を産む地下迷宮(ダンジョン)は英雄の武力に屈服した。

 

「よいしょ」

 

 リリルカはベルの足もとに転がる魔石を回収すると、「お疲れ様です、英雄(ベル)様」と労いの言葉を送った。

 

「もっ……を……ま……ない……」

 

 だが、返答はなく。何事かを呟く声が途切れ途切れに聞こえるだけだ。

 

 不審に思い、リリルカが顔を上げる。

 

「ぅ……!?」

 

 眼前で雷が轟いていた。

 

 深紅色(ルベライト)の双眸から、天さえ焼き焦がすのではないかと思わせる凄絶な雷光を迸らせて。雄々しい相貌を険しさ歪め。噛み締める歯を剝き出しにしている。

 

 天さえ焦がす(いかずち)が、そこにあった。

 

英雄(ベル)……様?」

 

 リリルカは咄嗟に、ベルの下着(ズボン)にしがみついてその名を呼んだ。そうしなければいけないと、本能が叫んだから。

 

「え……」

 

 すると、先ほどまで浮かべていた凶悪な表情(かお)が嘘のように、ベルは普段の、リリルカのよく知る雄気を放つ凜々しい顔つきに戻った。

 

「リリ……」

 

「大丈夫、ですか?」

 

「う、うん。ちょっと呆としちゃって。駄目だな、ここは地下迷宮(ダンジョン)の中なのに……しっかりしないと」

 

 ベルは自覚がなかったのか、揺らいだ精神(マインド)を凪へと戻すために、すぅはぁ、と何度か深呼吸をした。

 

 だが、リリルカは思う。

 

 今に至るまで一度だって警戒心を緩めなかったベルが、急に呆とすることなどありえるのだろうかと。

 

 しかし、自覚症状のないベルに意見できるほどの勇気を持たないリリルカは、ぎゅっと口を噤むことしかできなかった。

 

(あくまでリリはサポーター。無理をしないでくださいなんて、言えるはずがありません……)

 

 それが言い訳であることは理解していた。

 

 だが、探索を続行するつもりでいるベルの意に背く発言を口にするのは、リリルカにとって【迷宮の孤王(モンスターレックス)】に単独(ソロ)で挑むよりも難しいことだった。

 

「この階層は暫くモンスターが湧かないだろうし、下の階層へ行こうか」

 

「はい」

 

 今もそう。唯々諾々と頷くことしかできない。情けない、とリリルカは自分の不甲斐なさに失望した。

 

 変わりたいと願っているはずなのに、心の何処かでもっとベルに怪物(モンスター)を屠って魔石に還して、稼いで欲しいと思っている。

 

(ああ、やっぱりリリも……)

 

【ソーマ・ファミリア】の眷属なんだ、とリリルカは痛感し、絶望した。

 

 ○

 

 数時間後。

 

 二人は日が暮れる前に地上へ帰還した。

 

 ベル一人であればもう数時間は探索していただろう比較的早い時間帯に帰ってきた理由は、リリルカの背負うバックパックの中身が、魔石とドロップアイテムでぱんぱんに埋め尽くされたからだった。

 

 ベルの今の目的は、リリルカを知ること。

 

 強くなること、【経験値(エクセリア)】を得ることに主眼を置いていない以上、魔石やドロップアイテムを取れなくなってまで戦い続ける必要性は皆無だった。

 

「それにしても、大量だね」

 

「は、はい……」

 

 ギルドの換金所へ向かう前に、バックパックの中を覗いた二人は、ごくりと唾を飲み込む。

 

「い、幾らになるんだろう……」

 

「かなりの金額になっていそうですよね……」

 

 正確な数値は出せないが、ドロップアイテムを含めれば少なく見積もっても四十万ヴァリスは稼げていそうである。

 

 これまでベルは地下迷宮(ダンジョン)を探索するとき、腰に巻いたポーチしか持って行っていなかったので、稼げる金額はおおよそ決まっていた。ゆえに入りきらない分の魔石は地面にそのまま放置する他なかった。

 

 しかし、リリルカと契約したことで上限は撤廃。彼女が背負う大きなバックパックに、魔石とドロップアイテムを回収できるようになった。

 

 それは、正に革命。ベル(ヘスティアも)の生活が一変するほどの変革だった。

 

「早く、ギルドへ向かおっか」

 

「はいっ!」

 

 出会って以来、一番明るい返事がリリルカの口から飛び出す。

 

 今まで誰とも組まず単独(ソロ)で探索し続けていたベルが突然サポーターを雇った事実に周囲の人々は騒然としていたが、ベルとリリはそれどころではなかった。

 

 頭の中はヴァリス一色である。

 

「ギルドへ行くぞー!」

 

「おー、です!」

 

 意気揚々とメインストリートを駆けて、ギルドの換金所から受け取った金額は五十五万ヴァリス。

 

 これをベルはリリルカへ契約通り三割の十六万五千ヴァリスと、契約金として追加で五万ヴァリス支払った。

 

 契約金に関しては必要ないと言ってリリルカは辞退しようとしたのだが、ベルは一人で稼ぐ金額の少なさを知っていたので、決して譲るつもりはなかった。

 

 何度も辞退の旨を訴えるが決して折れるつもりのないベルを見たリリルカは、少し困った顔をしながらも、契約金の入った袋を受け取った。

 

「ありがとう、ございます。本当に……本当に……」

 

 そう言って頭を下げるリリルカが面を上げたとき、瞳に涙が光っているような気がした。

 

「え……」

 

 しかし、その涙が喜びによるものなのか、悲しみによるものなのか、フードの影から覗く言語化できない複雑な表情からは察せられず。

 

「それではまた明日……」と別れの挨拶を告げてどこか逃げるような雰囲気で足早に去って行くリリルカを、ベルは黙って見送るしかなかった。

 

「くそっ。これじゃ、路地裏の時と変わらないじゃないか。……何をやってるんだ、僕は……」



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導きを求めて(アリア・ライト)

主人公が苦しんでいるときに、ヒロインは現れる。


 残陽が夜の来訪を告げるように道行く群衆の影を伸ばす中、ベルは懊悩(ノイズ)で瞳を曇らせながら、重い足取りで帰路に着いていた。

 

 道中、何度か声援を投げかけられるが、平時のように意気盛んな返事はできず。覇気の欠けた笑顔を、淡く浮かべるのが精一杯だった。

 

 らしくない、とベルは胸中で独白する。

 

 あの日、純黒の殺意を放つ邪なる龍に祖父を奪われてから現在まで、ベルは英雄(■の■)になることだけを目指してきた。

 

 もう二度と、正しく生きる命が悪に踏み躙られないように。もう二度と、幸福に過ごす人間が賊心に虐げられないように。

 

 悪なる存在のことごとくを滅する力を手に入れることだけに、時間を費やしてきたのだ。

 

 その想いは、村を出て、旅をして、都市(オラリオ)へ辿り着いたあとも不変。折れず、曲がらず、傷つかず、鋼の誓いとなって心に刻印されていたはずだ。

 

 なのに、怪物祭(モンスターフィリア)でアイズと肩を並べて戦った時から、何かがおかしかった。変わってしまった。

 

 言語化できない、違和感。誓いの光で透き通っていたはずの思考に、濁った雫が滴り落ちたような不快感。噛み合っていたはずの歯車に致命的なズレが生じたような感覚に陥るようになった。

 

 きっと本来のベルであったなら、リリルカに手を差し伸べようとは考えなかったはずだ。少なくとも、サポーターとして雇うという積極性は見せなかっただろう。

 

 なぜなら、涙を流す「誰か(ノーネーム)」を守ることがベル・クラネルの英雄性であって、『個人(ネームド)』にその性質は適応されないからだ。

 

 ベルが助けるのはいつだって、名前も知らない「誰か」。名前を知る「人間」ではない。

 

(じゃあどうして、僕はリリを助けたいと思ったんだ……何が僕にそうさせる……)

 

 昼間、簡易食堂でリリルカにどうして足手まといでしかないサポーターを雇おうと思ったのか訊ねられて、ベルははっきりとした答えを示せなかった。

 

 常に行動方針を明確にしてきたベルにとって、ここまで言葉が詰まったのは、想いが形にならなかったのは、初めての経験だったのだ。

 

 だからこそ、心を襲った衝撃は大きい。懊悩に狂いすぎて、激しい頭痛に襲われるぐらいには。

 

 なんという、体たらく。祖父が見れば、呆れられてしまうだろう醜態。 

 

 英雄の宣誓が鍍金であってはならない。

 

(僕に、なにが起きている……?)

 

 過去を振り返らずにひたすら前に進むことが、ベルの(さが)だったはずだ。

 

 ベル・クラネルとして生を享けてから十四年間、自らの(さが)に従って生きてきた。変わろうとしたことなど一度もない。変わりたいと思ったことも、一度としてない。変わるべきか考えたことさえ、一度としてなかった。

 

 なのに。

 

(僕は今、迷っている。悩んでしまっている。自らの選択を、強く、深く。……何よりも、リリを助けたいと、そう思っている……)

 

 己が尾を噛み環となった(ウロボロス)のように、今の悩みが新たな悩みを生んで、廻り廻って終わらない。

 

「痛っ」

 

「あっ……」

 

 肩に生じる微かな衝撃。解けて散り散りになる環蛇の思考。

 

 どうやら意識を内側に向けすぎていた所為で、地下迷宮(ダンジョン)の探索帰りだろう同業の男(冒険者)とぶつかってしまったらしい。

 

「おいテメエ、どこ見て歩いてやがる! 気をつけろ!」

 

「すみません、少し呆っとしていたみたいで」

 

「あのなぁ、謝って済むと思ってんのか……って【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】!? す、済まなかった、悪気はなかったんだ! 今度からはしっかり前を見て歩くから許してくれ!」

 

 喧嘩を売った相手がベルだと気がついた瞬間、男は顔面蒼白になりながら慌てて走っていった。

 

 はぁ。

 

「しっかりしないと。……悩むというのなら、本拠(ホーム)へ帰ってからだ。僕の不注意でぶつかったのに、相手に謝罪させるなんて愚をこれ以上おかす訳にはいかない」

 

 そう言って、ベルは自らを戒めるように両頬を強く叩いた。

 

 ヒリヒリ、と針を刺すような痛みが頬全体を包み、悩みの呪いに囚われた鈍い意識がわずかながら晴れる。

 

「よし、早く帰ろう」

 

 小さくそう呟いて、駆け出そうと大地を踏み締めた瞬間。

 

「ベル?」

 

 背後から祝福を告げる清らか風を連れて、精霊の姫(アイズ)の声が聞こえてきた。

 

「あ……」

 

 振り向けば、女神と見紛うような麗しき少女。双つの金を天に煌めく星のように輝かせる、アイズ・ヴァレンシュタインが立っていた。

 

 黄昏れ時の都市(オラリオ)に佇む彼女は、どの絵画に描かれる美少女よりも可憐で、どの神話に描かれる女の星(ヒロイン)よりも魅力的だった。

 

 だからこそ、今、貴女は最も出会いたくなかった人。

 

「アイズさん……」

 

 紡ぐ言葉に乗せた感情はベル自身が想像していた以上に重く、まるで冥府に実る石榴のようだった。

 

「……ベル、何かあった?」

 

 アイズの瞳に映るベルからは、普段の鮮烈な気配は感じず。表情が曇っているのも相まって、十四歳の少年になっていた。

 

 只人の、少年に。

 

「いえ、何もないですよ。少し調子が悪いだけですから。アイズさんが心配するようなことは、何も……」

 

「嘘」

 

 一刀両断。

 

 ベルを心の底から想う少女に、下手な嘘など通用しない。

 

 アイズはベルの喜怒哀楽のすべてを受け止めたかった。常に前だけを向いて、過去に囚われず、迷いを抱かず、後悔を知らず、光が一直線に進むように人生を歩む、英雄の心を支えられる存在になりたいのだ。

 

『誰か』じゃない、一人の『人間』に。

 

 だから、踏み込む。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)で、踏み出した一歩を無駄にしないためにも。

 

 光の英雄に寄り添えると証明するためにも。

 

 胸に猛る恋情(おもい)が本物であると知ってもらうためにも。

 

「……教えて、ベル」

 

 何を迷っているの? 

 

「っ!?」

 

 核心を突く一言が、ベルの胸を貫いた。動揺を、抑えられない。動悸が、激しくなる。真っ直ぐ彼女を見られない。

 

(……本当に、不思議だ。なぜかアイズさんを前にすると、頼ってしまいたくなる。寄りかかってしまいたくなる……)

 

 初めは興味からだった。少女が抱える闇に惹かれて、その心に触れてみたいと思っただけだった。

 

 いずれ追い越すと決めた冒険者の一人、強者の一人に過ぎなかった。

 

 守るべき、『誰か』の一人でしかなかった。

 

 しかし、何度かの交流を経て次第に興味は少女が抱える闇ではなく、少女自身に向けられるようになった。交わす言葉の一つ一つが心地よく、ベルの心に涼やかな安穏をもたらした。それはもう、何年も感じたことのない錆びて腐ったはずの古い感情で。

 

 ベルはもう、アイズ・ヴァレンシュタインという少女を守るべき『誰か』として見れなくなっていた。

 

(……駄目だ。何を考えてる。アイズさんに寄りかかるだなんて、英雄(■の■)を目指すものとして恥を知れ。そんなこと、この僕に許されるわけがないだろうが)

 

 悩みを打ち明けたい衝動をぐっと抑えるように、ベルは歯を食いしばった。

 

 だが、恋する少女には英雄だって叶わない。それは神話でも同じことだ。

 

 ──迷える英雄よ、とくと知れ。恋慕を抱く精霊の決意を。想いの風を。

 

「……大丈夫だよ、ベル。……私は君の味方だから。……君の迷いを振り払ってあげたい。ただ、それだけだから」

 

「あ……」

 

 不意に、ベルを包みこむ温もり。それは、アイズの抱擁だった。

 

 密着する彼女の温かな肢体から流れ込んで来るのは、春風に似た穏やかで優しい想い。それは自分ではない者を自分以上に大事に想う、尊い心の子守唄だった。

 

「……アイズさん」

 

 ──黄金の魂に白金が生じる。

 

「私じゃ、駄目かな?」

 

「それは……」

 

 肯定か否定か。答えようとするが、口が上手く動かなかった。せめぎ合っているのだ、相談を願う少年と拒絶を望む英雄の相反する感情が。総てを貫く矛と総てを防ぐ盾となって。

 

(ここのところ、こんなことばかりだ。何か答えようとして、何か伝えようとして、でも上手く言葉にできないこと、ばかり……)

 

「あ……」

 

 ベルはアイズの抱擁を弱々しく解いて、片手で顔を覆いながら俯いた。苦悩がベルの表情を覆い尽くす。

 

(僕は……僕は……どうすれば、いい……)

 

 だが、いつまでも悩んではいられない。優柔不断はベルが描く英雄像とはかけ離れているから。唾棄すべき愚行だから。

 

 ならば。

 

 信じよう、彼女を。信じよう、肩を並べるに相応しいと決断を下した過去の己を。

 

 踏み出そう、過去から現在、現在から未来へ繋がる道の一歩を。

 

「アイズさん」

 

 顔を覆う手を解いて、顔を上げるベル。瞳に映るアイズは、真剣な眼差しをしている。

 

「……何?」

 

「相談に、乗って貰ってもいいですか?」

 

 英雄は精霊に導きを求める。迷いが晴れることを心より願って。

 

 ○

 

 宵闇が迫る都市(オラリオ)を歩くこと数分、ベルとアイズは人も疎らな中央広場(セントラルパーク)に辿り着いた。

 

 相談場所に噴水近くの長椅子(ベンチ)を選んだ二人は、隣り合わせに腰を掛けると、時を移さず話を始めた。

 

「……それで、相談したいことって何?」

 

 アイズが訊ねる。

 

「例えば、ですよ。助けを求める少女がいて。でも、それを直接言葉にしたわけじゃなくて。そう願っているように見えたとき、どうすればいいのか。助けるべきなのか、無視するべきなのか。そんなことを最近ずっと考えてしまうんです。柄ではないのは自覚しているんですけどね……」

 

 そう言うベルの視線は苦しげに、5M先を歩く子供連れの家族に注がれている。

 

「……ベルは、どうしたいの?」

 

「え」

 

 きょとん、とした表情を浮かべながらベルがアイズの方を向く。

 

「今、ベルは助ける『べき』なのか。無視する『べき』なのかって言ったけど。ベルは『どう』したいの? 君自身の願いはどこにあるの? 心は何を望んでいるの?」

 

「僕は……」

 

 一拍置いて。

 

「助けたいです」

 

 今まで迷っていたのが嘘のように、するりと言葉は世に生み出された。

 

「なら、それが答えだと私は思う」

 

「でも、もしかしたら余計なお節介なのかもしれないと。今日、思ってしまったんです」

 

 ギルドでの別れ際、リリルカが涙を流した理由を、ベルは理解してあげられなかった。助けたいと思って、心が流している涙を拭ってあげたくて、手を伸ばしたはずなのに。

 

 手を伸ばした自分が泣かせてしまった。その事実がベルの心を揺るがした。

 

「その子は、余計なお節介だって、ベルに言ったの?」

 

「いえ」

 

 言っていません。

 

「なら、きっとベルがそうだって信じたいんだと思う」

 

「そんなことは……」

 

 無い、とは言い切れなかった。

 

 悩むことの痛み、苦しみを知って、ベルは心のどこかで今の自分を嫌っていた。悩まず、迷わず、前に進めない自分でいたくないと思っていた。

 

 ──無意識のうちに、苦しみから逃げる理由を探していたのだろうか。

 

「ベルは今、ベル自身のことを考えてる。その子じゃなくて、自分のことを……」

 

「あぁ……」

 

 見つめる金の(かがみ)には真実が映っていた。

 

(アイズさんの言うとおりだ。僕はリリじゃなくて、自分の在り方について考えているだけだった。……わかっていたはずだ。僕は他人を想えるような立派な人間じゃないって。自分のためにしか生きられない、自己中心的な屑野郎だって……)

 

 それが偶然、民衆や神々が求める理想の英雄像と一致しているだけだということを、ベルは今まで忘れていた。

 

「それに、自分を救えるのは、自分だけ。助けを求める女の子を助けられるのも、女の子だけ……」

 

 その声音は確信に満ちていた。

 

「……だから、ベルは自分が行きたいと思った道を進んだ方が良い。……迷ったり、悩んだりするのは、いけないことじゃないけど、とても大事なことだけど、ベルは真っ直ぐ進む方が向いているって……私はそう思う」

 

 まるで、アイズ・ヴァレンシュタインという少女そのものを表したかのような、純粋無垢な声だった。

 

「そうか、僕は……」

 

 迷いの濃霧が晴れて、ベルはようやく進むべき道を見つけた。リリルカを助けたいという想い(エゴ)を貫き通す道を。

 

「ありがとうございます、アイズさんに相談に乗ってもらって良かったです!」

 

 ベルは長椅子(ベンチ)から立ち上がって、アイズへお礼の言葉を贈る。

 

 浮かべる表情は笑顔。目映いばかりの光。アイズが恋をした英雄の輝き。

 

 それを見て、アイズは急に緊張が増してしまう。頬は熱を帯びて、心臓は恋情で燃えて、心が歓喜で踊っている。

 

 理性の、溶ける音がする。

 

「……ベ、ベルの役に立てたなら……良かった」

 

 アイズは照れを隠すように俯きながらそう言った。

 

「はい。本当に助かりました」

 

「うぅ……」

 

 純粋な感謝を伝えられて、アイズは言葉にならない返事をしてしまう。

 

 先ほどまでと立場が逆転した二人の間に、どこか甘酸っぱい空気が流れる。

 

 あ。

 

「そうだ、相談に乗って貰ったお礼にこのあと食事でもどうですか?」

 

「! ……行く」

 

 こくこく、と何度も激しく首肯するアイズ。断るはずがないと、潤んだ瞳が叫んでいた。

 

 そんな、欣然(きんぜん)とするアイズを見て、ベルは心に優しい風が吹き込むのを感じた。

 

「それじゃあ、さっそく行きましょうか」

 

「うん!」

 

 差し伸べられたベルの手を握って、アイズが立ち上がる。

 

「実は、美味しいパスタが食べられるお店を見つけたんですよ。今日はそこへ行ってみませんか」

 

「……うん。すごく、楽しみ」

 

 絡み合うように手をつなぎ、和やかな雰囲気のまま歩いていくベルとアイズ。

 

 郷愁感じる黄昏は玉座を降りて、夜が次代の王として世界に君臨する中、薄らと輝く夜の騎士たる月光が、二人の影法師を地に描いた──。

 

 

 

 

 

 

「ぐぎぎぃ……」

 

「むぅ……」

 

 夜に賑わう道を行く二人の10メドル後方に、鬼の形相をした山吹色のエルフと両の頬を風船のように膨らませたアマゾネスがいたとか、いなかったとか。

 



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嫉妬の女神(ヘラ・レムナント)

 パリン。

 

 耳朶を打つ硝子の砕ける鋭い音が、室内に鳴り響いた。

 

 キラキラと宙を舞い地面に転がる無色の破片は、ワイングラスの残骸。びしゃりと零れて広がる葡萄酒(ワイン)が芳醇な香りを漂わしながら、紫赤の池を床に作る。

 

 暫くの静寂。それは嵐の前の静けさだった。

 

「やってくれたわね、あの泥棒猫!」

 

 轟くのは、怒号。神の雷。

 

「ゆるさないわ、絶対に! たった今、貴女は一線を超えたのよ! 決して、踏み越えてはいけない、一線を! 私のモノ(オーズ)に傷をつけたのよ!」

 

 ぜぇ、ぜぇと荒い息を竜の息吹(ドラゴンブレス)のように吐きだしながら、雪華を溶かした銀の髪を振り乱して憤激するのは、摩天楼(バベル)最上階の統治者。

 

 黄金と豊穣を司る女神、フレイヤだった。

 

「所詮は闇に囚われた幼子と、これまで大目に見てきたのが失敗だったわ! 怪物祭(モンスターフィリア)であの子の邪魔をした時、すぐに潰しておくべきだった!」

 

 一個ウン百万ヴァリスは下らない大陸屈指のワイングラスと、【ディオニュソス・ファミリア】から取り寄せた最高級葡萄酒(ワイン)を無価値に堕としたことなど気にも留めず。

 

 壁一面を独占する長方形の窓硝子から、遙か下方の街路(メインストリート)を仲睦まじく歩く純白の影と黄金の影を睨みつける様は、まるで阿修羅のごとく。

 

神の力(アルカナム)さえ使えれば……!」

 

 ぎゅう、と力強く噛み締める下唇から葡萄酒(ワイン)に似た赤黒い血を滴らせ、白皙(はくせき)の肌を汚し。皺一つない額には憤怒の証明たる青筋を浮かび上がらせ。紫水晶(アメシスト)の瞳を嫉妬の業火で焼き焦がし。神人魅了する蠱惑的な肢体からは激情のあまり、太刀風がごとき神威をほとばしらせている。

 

「あの子の横に立つのは、この私よ! アイズ・ヴァレンシュタイン、あなたじゃない! あなたであってはいけないの!」 

 

 表情に浮かぶのは焦燥。放たれるのは罵詈雑言。暴れる様は雷神(トール)のごとく。

 

 普段、妖艶な笑みをたたえて悠然としている彼女からは、想像もできない荒れ具合だった。

 

 理由は明白。ベルに関する事柄だからだ。それ以外で、フレイヤがここまで感情を狂わせることはない。美の女神(フレイヤ)としての仮面を外すこともない。

 

「たった一日。それも何も起きていない平穏な日に、どうして……」

 

 呟く声は、衰弱していた。

 

 今日、彼女は地下迷宮(ダンジョン)の探索から帰還したベルをいつものように観察しようとした。

 

 観察するのは、魂。生命が持つ、唯一無二の概念。

 

 フレイヤは『観察眼』と称する、下界に生きるものの『魂』を色として認識する能力を持っていた。これを用いて、摩天楼(バベル)の頂上からベルをじっくりと観察するのだ。

 

 識別は実に容易い。

 

 猛きものは赤。冷徹なるものは紺など。世界に一人として同じ人間がいないように、同じ色の魂もまた存在しない。加えて、魂が放つ輝きには強弱がある。優れた者は太陽のごとき鮮烈なる輝きを、愚かな者は風前の灯火がごとき輝きを発するのだ。

 

 後は、説明するまでもないだろう。約一カ月半の間にLv.3の境地へ至ってみせた【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の魂の放つ輝きが弱いわけがない。ベルが都市(オラリオ)に足を踏み入れた瞬間から、フレイヤは魅了されていたのだ。黄金に輝くその魂に。

 

 欲しい、と一目で欲望の炎が猛った。

 

 絶対に魂の持ち主を【フレイヤ・ファミリア】に入団させると決めていた。決定事項の四文字だけが心を、思考を、理性を、感情を、細胞のすべてを支配した。

 

 伴侶(オーズ)にしたいと、そう思った。

 

 しかし、運命はフレイヤを嘲笑う。わざわざ団長であるオッタルを向かわせて、ベルに入団を提案したのだが、断られてしまったのだ。

 

 なぜ、どうして。

 

 困惑が心のうちに吹き荒れた。【フレイヤ・ファミリア】は都市(オラリオ)でも、【ロキ・ファミリア】と並ぶ一大派閥(ファミリア)だ。現団長であるオッタルはオラリオ最強と呼ばれるほどの強者であり。都市最速の称号を有する副団長のアレン・フローメルを筆頭に、優れた能力を持った冒険者が数多く所属している。

 

 そんな派閥(ファミリア)の眷属になれば、得られる恩恵が計り知れないのは明らか。英雄になりたいと望むベルにとって、最高の環境であるはずだった。

 

 しかし、現実はフレイヤの予想と矛盾した。

 

 オッタルの報告によれば、ベルは一顧だにせず拒否したという。逡巡さえなく一瞬で、首を横に振ったのだと。

 

 オッタルは嘘をつかないし、神相手に嘘をつく意味もない。ゆえに真実。覆しようのない、現実。

 

 ベル・クラネルは、【フレイヤ・ファミリア】に入らない。

 

『あぁ……そんな……』

 

 結果、感情が粉砕するほどの悔しさに襲われたフレイヤは三日三晩寝込んだ。

 

 だが、自らの眷属にはできないという残酷な現実を受け入れてからは、毎日ベルの魂を眺めてその成長を見守ってきた。誰よりも長く、誰よりも近くで。

 

 誰よりも、愛おしく。

 

『やっぱり、欲しいわ』

 

 自らのモノにならなくても尚、諦められないほどの魅力。ベルの『魂』の本質(いろ)は黄金。直視できないほどの目映い閃光。

 

 これまで幾人もの魂を見てきたフレイヤの中でも、他の追随を許さない圧倒的な輝きを放っていたのが、現在都市(オラリオ)で【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】として勇名を馳せているベル・クラネルなのだ。

 

『誰にも、渡さない』

 

 そうだ。諦めるなど、ありえない。選択肢の余地にすら入らない。ベルを手に入れる、これはフレイヤにとって決定事項なのだから。

 

 しかし、今、前提条件が崩れ去ろうとしている。バラバラと、ボロボロと、音を立てて。

 

 フレイヤが心の底より欲するのは、黄金の魂を輝かせるベルなのだ。そうでなくてはならないのだ。

 

「なのにっ!」

 

 ──どうして!! 

 

 声の限りに叫んだ瞬間、壁の窓が女神の怒りを畏れるようにがたがたと揺れた。

 

「っ……」

 

 ガリッと歯を噛み締める音が響く。

 

 今、フレイヤの瞳に映るベルの『魂』には不純物が混ざっている。黄金の中に生じた僅かなそれは、白金(プラチナ)

 

 黄金の、鮮烈で雄々しく他者を狂わせる光とは違う、清廉で優しい他者を慈しむ光。

 

 それは、黄金を愛するフレイヤにとって不純物以外のナニモノでも無かった。

 

「なぜ、あれほどの輝きを放っていた貴方の魂が、道化女の小娘(アイズ・ヴァレンシュタイン)と関わった程度で変化しようとしているのよ!」

 

 巫山戯るな、そんなこと絶対に許さない、と呪詛を吐くフレイヤの姿が嫉妬の神(ヘラ)と重なる。

 

白金(プラチナ)ですって? そんなのあなたにはまるで似合わないわ。光のように真っ直ぐ、雷のように激しく、己が道を阻むものの一切を斬り捨てて、前へ前へと雄々しく進むのがベル・クラネルでしょう?」

 

 これまでフレイヤは何度も見てきた。ベルの本質(いろ)を。

 

 ミノタウロスの死闘、黄金。

 

 シルバーバック強化種との死闘、黄金。

 

 常識ではかれば決して勝利を掴み取れないだろう格上を相手に、命を、魂を、燃やして闘う英雄は、思わず絶頂してしまいそうになるほどの黄金の輝きを放っていた。

 

 すべて、計画通りだったはずだ。黄金の閃光(ベル・クラネル)は、自らの導きによって英雄の道を駆け上がっていくはずだった。失敗なんてない。蹉跌(さてつ)なんてない。

 

 成功だけが、あるはずだった。

 

 なのに、一手。たった一手を誤っただけで、フレイヤの計画は破綻してしまった。

 

 アイズとの共闘こそが、運命の岐路(ラグナロク)

 

 戦場にて孤高、肩を並べる戦友などいないことこそが、ベル・クラネルの『魂』を黄金たらしめていた。

 

「なのにっ!」

 

 英雄の舞台に闖入した謎の怪物(モンスター)へ立ち向かうベルに、なぜかアイズは並び立ってしまった。並びたつことをベルが許してしまった。

 

「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……」

 

 絹のように滑らかな髪をぐしゃぐしゃと掻き毟りながら、フレイヤは目を血走らせて狂乱する。

 

「おかしいでしょう? ベル・クラネル。あなたは誰かと肩を並べて闘ったりしないし、自らの選択を悩んだりしないし、為すべきことの総てが常識外れなはずでしょう?」

 

 なのにどうして取るに足らないパルゥムごときに頭を悩ますの。どうして憎悪に焦げる少女なんかに心のうちを明かすの。

 

 窓硝子に掌を押し付けながら、フレイヤはベルの『魂』をじぃと睨み続ける。

 

「あぁ、本当に」

 

 いつ見ても美しい。眩しく、尊く、綺麗な輝き。微かに存在を主張する不純物さえ無視すれば、何時間だって観察できる。

 

 それほどまでに、フレイヤはベルの『魂』の虜になっていた。

 

 誰かを魅了する側であるはずの美の女神が、未だ十四歳に過ぎない少年に心を奪われてしまったのだ。

 

「ベル・クラネル……」

 

 この胸に猛る想いは、恋ではなく愛。それも絶頂が際限なく更新されていく、究極の愛だ。

 

 嗤いたければ、嗤え。嘲りたければ、嘲るといい。世界に生きる総ての負の念を集めようとも私の愛に傷一つとしてつけられない、とフレイヤは断言できる。

 

 それほどの、愛。

 

 だからこそ、ベルの変質をフレイヤは看過できない。既に完璧で完全だった色が、濁っていく様を、呆然と眺め続ける被虐的趣味(マゾヒズム)など持ち合わせてはいないのだ。

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

 数十分間、激情のままに暴れていたフレイヤはベルの魂(不純物を除く)だけをじっくりと見つめることで、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。

 

「あぁ」

 

 喉が渇いた。そう思ったときには、静かに背後で侍っていたオッタルが、水の入ったグラスを差し出していた。

 

 ごくり。ごくり。ごくり。

 

 奪い取るように掴んだグラスを傾け、喉を鳴らして潤いを満たしていくフレイヤ。髪が乱れ、服が乱れ、息が乱れているのもまるで気にせず、急くように己が眷属へ二杯目を要求する。

 

 オッタルは無言で主の要求に応じ、そっと空になったグラスを受け取って、新たな水を注いだ。

 

「良い子よ」

 

 そう言って、フレイヤはグラスを受け取ると即座に傾ける。今度は、一気に半分ほど飲み干し、そこでやっと心に冷静の涼風が吹き込むのを感じた。

 

「…………もう、起こってしまったことを悔やんでも仕方がないわ。ええ、そうよ。大事なのはこれからよ。まだ白金(プラチナ)は欠片ほどしか浸蝕していないのだから。不純物が生まれたなら、それを消し去って再び黄金一色に戻せばいいのよ。それだけの話しじゃない」

 

 どこか自分へ言い聞かせるように呟くフレイヤ。

 

「であれば……」

 

 彼女がぎろりと鋭い視線を向けた先には、立派な本棚が鎮座していた。幅は広く、また高く、まるで聳え立つ山のようである。

 

「あれを使いましょう」

 

 そう言ってフレイヤはふらふらとどこか覚束ない足取りで本棚まで歩くと、震えた細指で下段に収まる一冊の本を引き抜いた。

 

 ふわり、と本の独特な香りが鼻腔をくすぐった。

 

「ふふふ。何事も、備えておくものね」

 

 それはフレイヤが万が一に備えて、特注で製造された特殊な魔導書(グリモア)だった。

 

 もはや、傍観者ではいられない。本当は直接干渉するつもりはなかったが、悠長に構えていられる状況ではなくなったのだ。

 

 フレイヤは手に持つ本を開き、ぺらぺらと頁を捲って万が一にも中身の内容が間違っていないかを確認する。

 

「本当は貴方が英雄として窮まるまで、観客でいるつもりだったのだけれど……」

 

 ぱたん、と本を閉じて獰猛な笑みを浮かべる美の女神。

 

「もう大人しくするのは止めたわ。淑女らしくしても、意味がないとわかったもの。……待っていなさい。すぐに思い出させて上げるわ、あなたが何者なのかを」

 

 あなたが誰のモノなのかを。

 

 真贋見極める右眼を持つベルに本を渡す方法は、既に思案してある。

 

 楔は既に打った。

 

 あそこ(・・・)へ置いておけばよいのだ。

 

 彼を愛し、彼を想う人が待つあの店(・・・)に。

 

 そうすれば、運命に導かれるがごとく、かの英雄は自然と本を手にすることになるだろう。

 

「さぁ、早く正気に戻って。私だけの英雄。……あなたが抱いていいのは、この私だけなんだから」

 

 葡萄酒(ワイン)の芳醇な匂いが立ちこめる部屋の中、フレイヤは本をぎゅぅと胸に抱きながら、ベルを手に入れた未来を夢想し頬を恍惚と赤らめるのだった。



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狂い哭く怪物(モンスター・クライ)

地下迷宮が産み出すは、英雄殺しの凶星。


 

 翌日。迷いの霧を振り払い進むべき道が定まったベルは、未だ震悚(しんしょう)の抜けないリリを伴って、朝早くから地下迷宮(ダンジョン)の探索へ繰り出していた。

 

『上層』。

 

 もはや相手にならない有象無象に費やす時間は刹那も無いと宣するように、ベルはリリルカを担いで燐光を灯す迷路を、迅雷がごとく駆けていく。

  

「な、なんだ!?」

 

「今、なにか横切ったぞ!?」

 

 時折すれ違う冒険者が常識外れの速度で走り続けるベルを見て、すわ怪物(モンスター)が現れたのかと警戒して武器を構えること多数。

 

 しかし、迫る影の正体がベルだと発覚すれば冒険者たちは一様に感嘆の息を洩らし、憧憬の光を瞳に湛えて去る英雄を見送る。

 

 約一カ月半でLv.3へ到達したベルは、今やLv.1とLv.2の冒険者にとって憧れの的。神話の世界から現れた英雄がごとき理想の存在なのだ。

 

 それを最も間近な距離である背中から見ていたリリルカは、ベルの偉大さと異常さを改めて理解する。

 

「危ないっ!」

 

『中層』へ向かう中で、怪物に命を奪われそうになる冒険者を逡巡なく救い。感謝の言葉を貰うより先に再び走り出し、また救う。人を助けるのに理由はいらない。この身のすべては誰かを守るために在ると告げるように、ベルは悪なる敵の悉くを誅滅していく。

 

未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の二つ名を与えられるに相応しい勇敢な行動と高潔な精神性に、リリルカはベルが自分と同じ人間なのかと一瞬だけだが思ってしまった。英雄という別な生命体と思ってしまったのだ。

 

 彼の少年としての一面を、確かに知っているはずなのに。

 

 それほどまでに、ベルの地下迷宮(ダンジョン)怪物(モンスター)を鏖殺する様は、雄々しく眩しく勇ましかった。 

 

 見る眼が焼かれて、英雄の威光以外が見えなくなってしまいそうになるほどに。

 

 ○

 

『上層』で幾人かの冒険者の窮地を救いつつ、走り続けること数十分後。ベルとリリルカは不戦場へ堕ちた十二階層を抜けて、最初の死線(ファーストライン)へ到達する。

 

 これより先、Lv.1の冒険者は存在できない。

 

「よいしょっと。リリ、ここへ来るまでに怪我とかなかった?」

 

「はい、大丈夫です」

 

 リリは言った。

 

「……それよりわざわざ背負っていただいて、申し訳ありません」

 

「いいんだ。僕がしたくてそうしたんだから。それに、こういう時はありがとうって言われた方が僕として嬉しいかな」と和やかな笑顔を浮かべながらベルは言った。

 

「あ……」

 

 気を遣うわけでもなく、純粋に思った言葉を紡ぐベルに、リリルカは心の中で蠢く畏怖の念が薄れていくような気がした。

 

「ありがとうございます、英雄(ベル)様」

 

 感謝の言葉は驚くほど簡単に出た。嘘の濁りが混じらない純粋な『ありがとう』を口にしたのは何時振りだろうか。

 

「どういたしまして」

 

 嬉しそうにそう言うベルを見て、リリルカは頬が熱くなるのを感じた。

 

「あぅ……」

 

 瞳に映るのは、柔和な微笑を咲かせる英雄の姿。軽蔑と不信に曇る瞳を晴らす、暖色の太陽だった。

 

(なんでしょう、これ。胸がドキドキするような?)

 

 どくんどくんと高鳴る未経験の鼓動にリリルカは首を傾げるが、

 

「リリ、さっそくお出迎えが来たみたいだ。集中して」

 

「あ。……はい、英雄(ベル)様」

 

 群れて現れた放火魔(ヘルハウンド)を見て即座に意識を切り替える。

 

 リリルカの役目はベルが戦闘だけに集中できるよう補助(サポート)すること。

 

 既に『中層』の怪物を相手に無双劇を演じられるベルが最も必要としているのは、魔石とドロップアイテムの回収。

 

 それだけが唯一、隔絶した武勇を誇るベル個人では実現不可能で、リリルカがいれば可能になることなのだ。

 

 物思いに耽る暇など、ない。

 

「ふっ!」

 

 ベルが準備運動でもするかのように距離を縮めて横薙ぎ一閃、ヘルハウンドの首を五つ宙へ飛ばし、次の獲物へ向けて駆けだすのを見て、リリルカは直ぐさま地面に転がる魔石を回収しバックパックの中へ入れる。

 

 リリルカの動作に淀みはない。決して足手まといになるわけにはいかないと、昨日の探索中、実践を通して必死に特訓していたのだ。

 

「もう、次に」

 

 魔石をすべて回収し終えたリリルカが前方を見ると、既にベルは新たな怪物(モンスター)と矛を交えていた。

 

「来い」

 

 敵はベルの相貌に瓜二つの怪物(モンスター)、アルミラージが計四匹。同族にも思えるベルを喰らわんと牙を剥きだし、二足歩行でぴょんぴょんと跳ねながら迫って来るのが見えた。

 

『『『『ギィィシャァアアァア!』』』』

 

 アルミラージの白と黄色の美しい毛並みにm額から一本角を伸ばした姿は実に愛らしく、命を奪うのを躊躇うほどの魅力を持っているが、英雄には無価値にして無意味。

 

 敵か否かの判断基準しか持たないベルに、容姿の魅力など一片も関係なかった。

 

「疾っ!」

 

 鋭い声を発すると同時、大地を滑るように一歩を踏み出して接近し、アルミラージが投擲してきた斧を紙一重で回避。

 

 刹那に生じた間隙を見逃さず、左手に握る《劫火の神刀(ヴァルカノス)》で問答無用に袈裟斬れば、薄暗い洞窟に鼓膜をざわつかせる断末魔が延々と響き渡る。

 

『ギィウ!』

 

 仲間の死を前に、右隣のアルミラージが愛嬌のある相貌を醜く歪めて、英雄の命を散らさんと、勢いよく飛び掛かってきた。

 

「っ」

 

 第六感が鳴らす警鐘。双眸が捉える殺意の軌道。

 

「ふっ!」

 

 仲間の敵を討たんとする怨恨の一撃を前に、ベルは地面を蹴って重力など存在しないかのように軽やかに宙へ跳び、ぐるぐると何度か回転する。

 

「上だ」

 

 眼前にいたはずの(ベル)を見失い、致命的な隙を晒したアルミラージの背中を、ベルは落下の勢いを利用して無慈悲に二刀で斬り裂いた。

 

「ぜぃっ!」

 

 斬、決別する胴と首。残、地面に転がる墓標(魔石)

 

『『ギュ、ギュイ……!?』』

 

 動揺する残された二匹の白兎(アルミラージ)。しかし、英雄相手には僅かな隙を作ることさえ命取りだ。

 

 アルミラージにとっての刹那は、ベルにとって一分も同義なのだから。

 

 ゆえに、詰み。

 

「ふっ!」

 

 背を低く。地面に接触するのではないかというほどの低姿勢を維持したまま、ベルは目前のアルミラージの懐にするりと潜り込み、強烈な回し蹴りを振るう。

 

 ぐちゃり。

 

 潰れる内臓。

 

 ぼきり。

 

 砕ける肋骨。

 

 ぱん。

 

 白い獣毛に覆われた腹部にめり込む純白のブーツから伝わるのは、命の花が弾ける感触。

 

『ギュァッ!?』

 

 アルミラージは苦悶の声を挙げながら木の葉のように宙へ吹き飛ぶと、世の理に従い落下した先で《ヘスティア・ブレイド》の裁きを受けて永遠の眠りについた。

 

「あと──」

 

 一匹。

 

 仲間が無惨に死んでいく様を目の当たりにした最後の一匹(アルミラージ)は、人間を襲う本能を凌駕する絶望的な恐怖に支配され、ベルとの戦闘を放棄して逃げ出した。無防備な背を晒して、ひたすらに、我武者羅に。一秒でも長く生きること以外の思考を放棄して。

 

 しかし、英雄との戦いで逃亡など許されない。ましてや背中を見せての逃亡など、ありえない。

 

 知恵なき選択は自殺と同義だと、数秒後にアルミラージは思い知ることになる。

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】」

 

 紡がれる詠唱(ランゲージ)は勝利の証。薄暗い空間にほとばしる雷光が龍のような唸り声を挙げたあと、ベルの視界に敵の姿は映らない。

 

 戦場に、英雄が一人、孤高と立っていた。

 

 ○

 

英雄(ベル)様! 避けてっ!」

 

「っ!」

 

 リリの悲鳴が十五階層に木魂した。

 

 想定外の辞退(ハプニング)は突然に、何の前兆もなくベルへ牙を剥く。

 

『ガアァァァァ!!』

 

 獣の咆哮。発生源は背後。決して警戒を緩めず、油断も驕りも抱かず、五感を刀のごとく研ぎ澄ましていたにもかかわらず、一切察知できなかった異質な気配が迫る。

 

「くっ!」

 

 咄嗟に振り向き二刀を交差させて、防御態勢を取るベル。

 

「がぁああああ!」

 

《ヘスティア・ブレイド》と《劫火の神刀(ヴァルカノス)》から伝わる衝撃は、受けとめた刀身を貫通し、凄絶な威力(ダメージ)を腕に与えた。

 

(何だ、これは!? 腕が内側から破壊されるみたいだっ!)

 

 不可思議な現象が原因で威力を全く殺せなかったベルは、強弓から放たれた矢のように勢いよく吹き飛んで、容赦なく壁に叩きつけられた。

 

「ぐぁっ!」

 

 洩れる苦痛の叫びと吐血。

 

 背中から全身に駆け巡る尋常ならざる痛苦と熱に顔をぐしゃりと歪めながら、ベルは地面へ倒れた。

 

「う……」

 

 頭を強打したのか朦朧とする意識。壁に叩きつけられた時に切った額から垂れる血で視界が赤に染まる中、ベルの前に現れたのは。

 

『グルルル……』

 

 右眼から凶星を想起させる不吉な赤い光を放つ、ライガーファングだった。

 

 違いは、それだけではない。肉体を覆う毛並みは白銀(シルバー)に輝き、(たてがみ)柘榴色(ガーネット)に煌めいて。牙と爪は通常のライガーファングの二倍ほども伸びて断罪の刃を思わせた。

 

 眼前の怪物(モンスター)は、何もかもが異質。常識から外れた存在。まるで英雄を殺すために、地下迷宮(ダンジョン)が造りだした特別な怪物(ユニーク・モンスター)のようだった。

 

「こいつは、一体……」

 

 そう呟いて、ベルはよろよろとふらつきながら立ち上がる。

 

「ぐっ」

 

 苦悶、洩れる。

 

 どうやら今の不意打ちで両腕の筋繊維が幾つか千切れたらしく、肌が黒に変色し鈍く熱い痛みを発して、肉体の主に異常を訴えていた。

 

英雄(ベル)様!」

 

「来ちゃ駄目だっ!」

 

 重傷を負ったベルを心配してリリルカが近づいて来ようとするのを、叫んで制止する。

 

「このライガーファングは危険だ。リリはこれ以上、近づいたら行けない……」

 

「そんなっ……」

 

 悲痛に満ちた表情を浮かべるリリルカ。しかし、ベルの言葉は正しかった。

 

 不意打ちとはいえ、優秀な防具を装備したLv.3の冒険者を一撃で重傷に追いこむほどの脅威を相手に、リリルカができることなどない。

 

 そう頭ではわかっていても、感情はまるで納得していなかった。

 

英雄(ベル)様が傷ついているのに、窮地に立っているのに、リリはただ黙って見ているしかないんですか……)

 

 自らの無力さに、リリルカは絶望した。

 

 サポーターの基本的な役目は戦利品の回収だ。戦闘に参加できないのは当然で、傍観者でいるのも当然。だが、リリルカは自分を役立たず(サポーター)ではなく一人の人間(リリルカ・アーデ)として見てくれたベルの前にして、案山子の真似事をしていたくなかった。

 

 しかし、リリルカは動かない。否、動けない。

 

 眼前で繰り広げられるベルとライガーファングの熾烈な闘いに踏み入るだけの能力も、決意も持ってはいなかったから。

 

「うおおおおおおおお!」

 

 腕を貪り喰らう痛みなど無視するように【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】が付与された《ヘスティア・ブレイド》と《劫火の神刀(ヴァルカノス)》で袈裟斬り、逆袈裟斬り、左薙ぎ、右薙ぎ、唐竹を、疾風怒濤と振るうベル。

 

『グラァアアアアアア!』

 

 対するライガーファングは、巨体に似合わぬ軽やかな動きで二刀の嵐を器用に回避して、僅かに生じる刃の嵐の間隙を狙いベルへ爪撃を振るう。

 

 ガキンッ! 

 

 十五階層に鋭い金属音が鳴り響く。確かに二刀で受け流しているはずなのに、筋肉や骨を直接破壊してくる奇妙な攻撃を、必死に耐え凌ぐベル。

 

(防御を無視する攻撃のカラクリを解き明かさないと、ジリ貧だな……)

 

 そう判断したベルは回避に徹しながら、ライガーファングの動きを注意深く観察することに決めた。

 

 ベルを襲う銀色の殺意。英雄を殺すと神へ宣言するかのごとく、猛烈に荒れ狂うライガーファングの連爪連牙。

 

 それを紙一重で避け続けながら、ベルはある違和感を抱いた。

 

 音だ。

 

 ベルに爪や牙が迫るたびに、空気の振動がキィンと鼓膜を揺らすのだ。

 

 それは、ライガーファングの攻撃が生み出す風切り音でも、呼吸音でもない。

 

 もっと無機質な、鋼のように冷たい音。

 

 ベルは、この音を知っていた。

 

(そうか……牙と爪が振動しているんだ、《ヘスティア・ブレイド》と《劫火の神刀(ヴァルカノス)》みたいに。だから受け流そうとしても、衝撃が刀身を伝って腕の内側まで届いてくるのか……!)

 

 確信を得るためにライガーファングの爪撃と牙撃を何度か捌いて、ようやくベルはライガーファングの防御を無視する攻撃の正体に辿り着いた。

 

 牙と爪が振動しているという、答え(カラクリ)に。

 

「だとしても、厄介な敵であることに変わりはない」

 

 ぺっと口内に溜まった血を吐いて、二刀を構え直すベル。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)で死闘を演じたシルバーバック強化種を凌駕する怪物(モンスター)を前に、ベルは五感を極限まで研ぎ澄ます。

 

「ふぅぅぅ……」

 

 なぜ『中層』にこんな化物がいるんだ、だとか。魔力が通い鋭利さを増した二刀の刃に触れながらなぜ牙や爪は切断されないんだ、だとか。不意打ちをされたときどこから現れたんだ、だとか。なぜ牙と爪が振動しているんだ、だとか。

 

 尽きない疑問は総て頭の片隅に追いやって、ベルは勝利を掴むことだけを考える。

 

(繰り出す牙と爪は防御を貫通。威力もライガーファングの方が上。……ならっ!)

 

 決断は刹那。

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】・集束せよ殲滅せよ(フル・エンチャント)!」

 

 詠唱(ランゲージ)を紡いだと同時に、全身を襲う激しい痛苦。纏う防具の雷耐性を貫通するほどの凄まじい雷の奔流が、ベルの身体を駆け巡る。

 

「がぁああああああああああああ!!」

 

 色褪せる視界。停滞する時間。自由を得る肉体。制限(リミッター)を解除した英雄が雷と鳴る。

 

(長期戦になれば、他の怪物(モンスター)も集まってきてリリが危険に晒されてしまう。それだけは絶対に避けてみせるっ!)

 

 右眼から覚悟の雷光をほとばしらせながら、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】が戦場を征く。

 

 立ちはだかる敵は一。ベルの命にさえ届きうる銀の爪と牙を持っている。

 

「そんなことは関係ないっ!」

 

 叫んで、稲妻のように地面を走って、壁を駆けて、ライガーファングの背中に雷竜となって喰らいつこうとする。

 

『グラゥッ!』

 

 読めている。言葉が通じるのならば、そう口にしていそうなほど落ち着いた様子で振り返るライガーファング。

 

「なに!?」

 

 凶星宿る瞳に映るのは刀振り下ろすベルの姿。

 

『ガルァアアアアアア!』

 

「まさか!」

 

 動きを完璧に先読みされた、と言葉にする余裕もなくライガーファングの一爪が間近に迫る。

 

「不味い!?」

 

 咄嗟に、エイナから贈られた籠手で爪を受けるベル。右腕を爆発するような痛みが襲った。

 

「がぁっ……!」

 

 致命傷を避けることには成功したが、空中で大きく体勢を崩したベルは、受け身も取れずに容赦なく地面へ叩きつけられる。

 

「かはっ!」

 

 肺に溜まった酸素が抜けて、呼吸ができなくなる。

 

「──」

 

 一瞬、意識が飛びかけるも、脳へ過剰に伝達される激痛がそれを許さない。

 

「はぁ! はぁ! はぁ!」

 

 ベルは痛苦が増幅するのを無視して強引に呼吸を整え、気合い一つで悲鳴をあげる身体を起き上がらせた。ライガーファングの追撃を避けるために。

 

 だが。

 

「ぐぅ……」

 

 さきほどの一撃で右腕が脱臼してしまったらしく。

 

 ぼとり。

 

 英雄の意思に反旗を翻した右手から、《ヘスティア・ブレイド》がこぼれ落ちた。

 

「く、そ……」

 

 右腕が、動かない。筋肉は弛緩し、腕全体が不快な痺れに支配されている。

 

(外れたのは肩だ、数秒でも隙が生まれれば戻せる……だけど、その数秒をコイツが与えてくれるわけがない……)

 

 尋常ならざる速度で思考するベルの耳が獣の声を拾った。

 

『グルゥ』

 

 聞こえるのは嘲笑。洩らすのは怪物。

 

 窮地に陥るベルを見下ろすライガーファングは、英雄の屈服を望んでいる。地下迷宮(ダンジョン)を脅かす諸悪の根源はここで逝ね、と右眼の赤い凶星が告げている。

 

 死ぬ。

 

 油断なく、驕りも抱かず、飛び掛かってくる虎牙を前に、ベルは勝利の道筋を探して思考を竜巻のように回転させた。

 

(賭けるしかないか)

 

 覚悟を決めるベル。

 

 そこへ。

 

英雄(ベル)様ぁあああああああああああああああ!」

 

 英雄譚(ストーリー)がここで幕引くことは許さないと、運命(結末)を拒否するように、リリルカが炎の塊とともに横から飛びこんで来た。

 

 闖入者が現れることをまるで予想していなかったのか、無防備だったライガーファングの横腹に炎の塊は直撃し、勢い激しく数M先まで吹き飛んでいく。

 

「大丈夫ですか、ベル様!」

 

「……う、うん」

 

 まさかリリルカが助けてくれるとは想定していなかったベルは、一瞬だが呆けてしまう。

 

 だが一秒とかからず思考は沈静化し、状況を正確に把握する。

 

 逆転の一手は、今ここにある。

 

「はは……まさか、助ける側であるはずの僕がリリに助けられるなんて……」

 

 情けない。ひたすらに、情けない。自分の未熟さと軟弱さに怒り心頭に発すベル。噛み締める奥歯にびきっと罅が入り、自噴のあまり目の血管が破裂し朱色の涙を流す。

 

「……ありがとう、リリ。君のお陰で僕は生きている」

 

 あぁ、だからこそ。

 

「──まだだ」

 

 このままの自分であって良いはずがない。

 

 英雄に敗北は許されない。英雄が膝を付くことは許されない。

 

 英雄に、『弱さ』は許されない。

 

「ぐっ」

 

 ベルは脱臼した右肩の関節をごきりとはめて、地面にて英雄が立ち上がるのを今か今かと待ちわびていた《ヘスティア・ブレイド》を拾いあげると、闘志を爆発させた。

 

「さあ、再開しようか。ライガーファング」

 

『グラゥっ!?』

 

 リリルカの不意の一撃から復帰したライガーファングは、突如として轟いた雷がごとき闘志を受けて、思わず後退る。気圧されたのだ、英雄から発せられた気迫に。

 

「この闘い、勝つのは僕だ!」

 

 そう宣した瞬間、雷がほとばしると同時にベルがライガーファングの目の前から音もなく消える。

 

「こっちだ!」

 

『!?』

 

 声が発せられたのは背後。ライガーファングが咄嗟に振り向いたときには、既に英雄の姿はなく。

 

 次にライガーファングが英雄のいただろう場所を感知したのは、前右脚を切断されたときだった。

 

 いつの間に。

 

 そう思う暇さえ許されず、後ろ左脚、前左脚、後ろ右脚が肉体と切り離されて、気づけば達磨にされて地面に転がされているライガーファング。

 

『グラァアアアア!』

 

 四肢から発せられる激痛に絶叫するが、ベルは手を休めない。

 

 斬。斬。斬。斬。斬。斬。斬。

 

 肉体は容易く両断され、死と敗北だけが近づいてくる。

 

 何が起こった。なぜ索敵振(ソナー)で捉えられない。どうしてこちらが負けている。さきほどと何が違う。

 

 混乱するライガーファングの右眼には、もはや凶星は宿らず。

 

『ガ……ゥ……』

 

 肉体を流れる血のほとんどを失い死体同然と貸したライガーファングの眼前に現れたのは、両眼から雷光をほとばしらせる正真正銘の化物(えいゆう)だった。

 

「これで、終わりだ」

 

 雷纏う二刀を握る英雄は、一切の呵責なく断罪の刃を振り下ろす。

 

 ザシュ。

 

 肉を断つ音が闘いの幕引きを告げると同時に、ライガーファングは灰へと帰った。遺言の一つも残せずに。

 

「凄い……」

 

 ベルの蹂躙劇を遠目から眺めていたリリルカには、なぜライガーファングが翻弄されていたのか、その理由がはっきりとわかっていた。

 

 脚だ。

 

 ベルは脚だけに【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を纏うことで、ライガーファングが追いつけないほどの驚異的な速度(スピード)を手に入れていたのだ。それゆえの、圧倒。鮮やかな、逆転。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 リリルカの想像通り、脚のみに【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を付与(エンチャント)していたベルは、全身に付与(エンチャント)するのとは桁違いな制御の困難さに、疲労困憊していた。時間にして数十秒。しかしベルの体感では何十分も経過していた。

 

「お疲れ様です、英雄(ベル)様」

 

 見事にライガーファングを討伐してみせたベルを労うリリルカ。

 

「……お疲れ、リリ。……君があの時、助けに入ってくれなければ危なかったよ……」

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、ベルは感謝を告げる。

 

「いえ、そんなこと。きっと英雄(ベル)様なら、リリがいなくても勝てていたと思います。……それよりも回復薬(ポーション)を」

 

 そう言ってバックパックから取り出した回復薬(ポーション)をリリルカはベルへ手渡す。

 

「ありがとう」

 

 震える手で何とか受け取った回復薬(ポーション)を瞬く間に飲み干す、ベル。

 

 僅かだが、腕の痛みが和らぐのを感じた。ここ数日地下迷宮(ダンジョン)で大きな怪我を負っていなかったベルは、改めて回復薬(ポーション)の偉大さを感じた。

 

「そう言えば、リリ。さっき使ってた魔法って、もしかして……」

 

 ベルの記憶が正しければ、リリルカはライガーファングへ向けて紅の短刀(ナイフ)を振るっていたように見えた。

 

「はい、英雄(ベル)様の想像通り、さきほど炎を放ったのは『魔剣』です」

 

 そう言うと、リリルカは手に握っている刀身に罅の生じた紅の短刀(ナイフ)をベルへ見せた。

 

「リリって『魔剣』を持ってたんだね、ちょっと意外かも」

 

「あー、はい。色々あって、手に入れることができたんです」

 

 僅かに嘘の気配を感じ取ったベルだが今は言及せず、「もしかしてだけど、罅が入ったのはさっきので?」と訊ねた。それが事実なら、弁償するつもりだった。

 

 魔剣は、詠唱なしで即座に魔法を放てる利点(メリット)を持つけれど、何度か使えば壊れてしまう消耗品であるのをベルは知っていたのだ。

 

「い、いえ! この『魔剣』は既に何度か使っているので、いつ罅が入ってもおかしくなかっただけです! あはははは……」

 

 嘘であることは、右眼を通さずともわかった。

 

 けれど、リリルカが自分を慮って敢えて事実を語らなかっただろうことは明白だったので、深く追求するような無粋な真似はできなかった。

 

「それにしても、さっきのライガーファングは一体……」とベルがライガーファングが灰と化しただろう場所へ視線を向ける。

 

 しかし。

 

「あれ、魔石がない?」

 

 地面には討伐した証である魔石の姿が見当たらなかった。

 

「ねぇリリ。さっきのライガーファングの魔石ってもう拾った?」

 

「いえ、拾ってません」

 

「じゃあ、魔石はどこに……」

 

 ライガーファングとの戦闘後、他の冒険者は一人として現れていないので盗まれた可能性もない。

 

「おかしいですね……」

 

 本来であれば、あり得ない現象を前にして二人は首を傾げる。

 

 思えば、色々と不可解な点が多かった。右眼から赤い光を放っていたのもそうだし、毛の色や牙の大きさも明らかに通常のものとは違っていた。

 

 ならば異常種かと言われれば、もはやライガーファングという種族の枠組みを超えた強さをしていたので、これが正解ともベルにはなぜか思えなかった。

 

「まぁ、ここで考えてても仕方がないか。リリ、探索を再開しよう」

 

「はい……はい?」

 

 思わず、目を丸くするリリルカ。

 

「ええと、探索を再開しようって言ったんだけど……」

 

 ベルが発した言葉の意味を理解したリリルカは、顔を真っ赤にして噴火した。

 

「何を言っているんですか、英雄(ベル)様! さきほどの戦闘で重傷を負ったのを忘れたんですか!」

 

「でも、まだ身体は動くし、腕も回復薬(ポーション)を飲んでだいぶ楽になったから、『中層』の怪物(モンスター)程度を倒すのに支障はないよ」

 

「ではお訊ねしますが。もし、あのライガーファングがまた現れたらどうするおつもりですか?」

 

「うっ」と呻くベル。

 

英雄(ベル)様だってわかっていますよね、もう一度あのライガーファングが現れたら勝てないことが」

 

「……」

 

「それに、あれほど危険な怪物が『中層』に出現したんですから、一刻も早くギルドへ報告しなければいけません。今回狙われたのが英雄(ベル)様だからよかったものを、他の冒険者なら一切抵抗できずに死んでましたよ」

 

 怒濤のごとく畳みかけるリリルカの正論に返す言葉もないベルは、不承不承、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、本当に極僅かだが首を縦にこくりと振った。

 

「わかれば良いんです。それじゃぁ、帰還しましょう」

 

「……」

 

「返事はどうされたんですか?」

 

「………………はい」

 

 情けない声が、英雄の口から洩れた。

 

 ○

 

 帰り道、ベルは後ろを歩くリリルカへ振り向き言った。

 

「そうだリリ、一つ訊いてもいいかな?」

 

「どうぞ、やっぱり『中層』に戻るという提案以外でしたらお答えします」

 

「あはは。今さら戻ろうだなんて言わないよ」

 

 信用ないなぁ、とベルは頭を掻いた。

 

知人(エイナさん)から聞いた話なんだけど、【ソーマ・ファミリア】は毎月決められたノルマを稼がないといけないっていうのは本当なの?」

 

 一瞬の沈黙。フードを深く被ったリリルカの表情を、ベルは読み取れない。

 

「はい……本当です……」

 

「そうか、やっぱり……」

 

 ぎゅう、と拳を強く握る音が鳴った。

 

 毎月課されるノルマをサポーターや芽のない冒険者が稼ぐことが難しいだろうことは、部外者であるベルでも容易に想像がつく。

 

 数日前、路地裏でリリルカが男に追われていたのもこの事情が絡んでいるのではないか、とベルは推測していた。それ以外に、思い当たるものといえば両親の借金を背負っているかぐらいだが、そうなれば【ソーマ・ファミリア】が課すノルマの二重苦でもっと必死になっているはずだ。

 

 それこそベルを罠に嵌めて怪物(モンスター)を使って殺害し、防具などを剥ぎ取るくらいはしてもおかしくない。

 

 でも、リリルカには人間であることを止めるほどの悲壮な覚悟はなかった。

 

 寧ろ、逆。彼女は救いを求めた。今を変えたいと願った。それは人間であることの証。

 

 だからこそ、ベルはリリルカに手を差し伸べたいと思ったのだ。

 

「ノルマに関しては、僕は部外者だから何も言えない。いや言っちゃいけないんだと思う、それはとても無責任なことだから。でも一つ疑問があるんだ」

 

「疑問ですか?」

 

「うん」

 

 ベルは頷く。

 

「【ソーマ・ファミリア】はお酒も販売してたよね? それも結構価値があって、人気もある。派閥(ファミリア)の財政が逼迫しているとは考えづらい。それなのに、神ソーマが冒険者、非冒険者かかわらず全ての眷属にノルマを課しているのはどうしてなのかなって……」

 

「それは……」

 

 歩くリリルカの足が止まる。

 

「リリ?」

 

 振り向いた先、ベルの瞳に映るリリルカは地面をじっと見つめるように俯いていた。

 

「大丈夫、リリ?」とベルが訊ねれば、リリルカは顔をあげた。

 

「はい、大丈夫です。ちょっと、疲れてしまって」

 

 嘘だ。

 

「えと、それでどうしてお酒の販売で成功しているのに眷属全員にノルマが課されているのか、ですよね……一言で纏めるとソーマ様の絶対唯一のご趣味であるお酒造りの資金を集めるためです。リリたちは【ソーマ・ファミリア】の団員ですから、ソーマ様の事業に協力するのは当然の義務なんですよ」

 

 一滴の真実を嘘の湖に落としている。

 

「……」

 

 しかし、ベルは言及しない。これ以上は踏み込んではならない気がしたから。踏み込んでしまえば、彼女は自分の前から姿を消してしまう、そんな予感がしたから。

 

 今は、まだ、その時じゃない。

 

 だから。

 

「そうなんだ。それは……大変だね……」とベルは言葉を濁すことしかできない。

 

「はい……大変です……」

 

「それに市場に流しているお酒は失敗作ですから……」とリリルカは悲哀に満ちた声音で呟いた。

 

「それって、どういう?」

 

「皆さんが飲んでいるのは、本来作るモノの製造過程で漏れた絞りかすのようなものなんですよ……だから、失敗作。これは私達【ソーマ・ファミリア】しか知らない事実です」

 

 初耳だった。絶品だと言われている【ソーマ・ファミリア】の酒がまさか失敗作だとはベルを含め誰も思わないだろう。

 

 で、あるのならば神ソーマが造る本来の酒は一体どれほどの旨さを誇るものになるのだろうか。失敗作すら飲んだことのないベルには想像すらつかない。

 

(あれ? ……リリの話が本当なら……)

 

 ベルの胸中に、ある疑問が生まれた。

 

「……ねえ、リリ。市場に流れているお酒は失敗作だって言ったけど、裏を返せば『完成品』があるってことだよね」

 

 ──リリは『完成品』を飲んだことはあるの? 

 

「……」

 

 その問いにリリルカが答えることはなかった。



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黄金へ誘う(セイズ)

必然の偶然。

幸運の不幸。


 地上へ帰還後、ベルとリリルカはギルドにライガーファングの件を報告した。

 

 右眼から赤い光を放っていたこと。通常種と毛並みなどが異なっていたこと。『中層』の怪物(モンスター)とは思えないほどの驚異的な戦闘能力を持っていたこと。討伐後、魔石を落とさなかったこと。

 

 それら記憶している総てを伝えた二人は換金所で魔石とドロップアイテムを貨幣へ変えて、契約通りに分配すると、すぐに別れた。

 

 ベルとしては友好を深めるためにリリルカを夕食へ誘おうと計画していたのだが、二人の間に流れる鉛のように重い雰囲気がその選択を許さなかった。

 

「それじゃあ、また明日」

 

「はい、英雄(ベル)様。また、明日……」

 

 そう言って、ぺこりと頭を下げると、リリルカはベルが瞬きをする間に雑踏の中へ消えていった。

 

「また明日、か」

 

 噛み締めるように、ベルは呟いた。

 

 二人を繋ぐ縁の糸が切れなかったことを今は喜ぶべきなのだろうか。ベルは人々が行き交う黄昏れた街を見つめながら思う。

 

(……ねぇリリ。君が助けを求める原因は【ソーマ・ファミリア】にあるんだね)

 

 地上へ戻る間の問答で、ベルは確信した。リリルカが瞳に絶望の闇を宿すに至った理由を。怯えで心を震わせるようになってしまった不幸の根を。 

 

 ベルはリリルカと関わるようになってから、彼女が所属する【ソーマ・ファミリア】についての情報を集めていた。

 

 すると出るわ出るわ、黒い噂。仲間内での暴行、恐喝、窃盗を始め。他の派閥(ファミリア)の冒険者やギルド職員にも犯罪一歩手前な行為を働いているという話もあった。

 

 彼らに共通するのは、これら総ての噂に金銭が絡んでいるという点だ。

 

 金。金。金。金。ひたすらに、金。

 

 貪欲さえ生易しく、強欲さえ慎ましく思えるほどの胴欲(どうよく)

 

 都市(オラリオ)にて蔓延する悪評すら歯牙にもかけず、名声を欲さず、成長を望まず、金だけを求める飢えた獣。金の亡者。

 

 それが【ソーマ・ファミリア】の冒険者だった。

 

(……何かある。エイナさんも【ソーマ・ファミリア】の内情を憂いていたみたいだし……酒……失敗作……完成品……ソーマ……ソーマ……?)

 

 ふと、思い出したのは聞き込みをしていたときに白髭を蓄えたノームの男から聞いた話だった。

 

 ──【ソーマ・ファミリア】の奴らが、どうしてあんなに金を集めるのに必死なのかだって? そりゃ、あれだ、ソーマに心酔してるからさ。カカカッ! 

 

 あの時は神ソーマを指している言葉(ワード)だと思っていた。

 

(いや、ノームのお爺さんはソーマとは言ったけれど、それが神であるかどうかは一言も口にしてない……)

 

神酒(ソーマ)』? 

 

 市場に流れている酒が失敗作だとすれば、『完成品』はどれほどの酔いを与えるだろうか。

 

 ──ソーマに心酔してるからさ。

 

 再び、ノームの男の嗄れた声が頭に響く。

 

「もう少し調べてみる必要がありそうだ」

 

 そう呟くベルの右眼からは、激しい雷光がほとばしっていた。

 

 ○

 

 本拠(ホーム)への帰宅途中、ベルの歩みを止める涼しげな声が背後から響いた。

 

「クラネルさん」

 

 振り向いた先で立っていたのは、エルフらしい気品に溢れた美貌を輝かせるリュー・リオンだった。

 

「リューさん、こんばんは」

 

 そう言って会釈するベルへ、リューもまたこんばんは、と丁寧な所作で頭を下げる。

 

「クラネルさんは今お帰りですか?」

 

「はい、ちょうど本拠(ホーム)へ向かっているところですね」

 

「ふむ、そうですか……」

 

 ベルの返答を聞いて、リューは顎に手を添えて思案顔になる。

 

「どうかしたんですか?」

 

「はい。一言、言わせていただいてもよろしいでしょうか」

 

 いつになく真剣な表情を浮かべるリューに、内心で何を言われるのか戦々恐々としながら、どうぞ、とベルは先を促す。

 

「シルが寂しがっています」

 

「え……」

 

 不意打ちに近い発言に、呆けた顔を晒してしまうベル。

 

「ですから、シルが寂しがっています」

 

「あー……」

 

 そういえば最近、色々とあって豊穣の女主人に足を運べていなかったことを思い出すベル。

 

「貴方はシルの伴侶となるお方なのですから、足繁く通っていただかなければ困ります」

 

「いやー、あはは……」

 

 本人は至って真面目に言っているだろうことを理解しているベルは、苦笑いを浮かべてお茶を濁すことしかできない。

 

 このまま言質を取れるまで粘られては堪らないベルは「今日、ちょうどお店に寄ろうと思ってたところなんですよ」と言って話を逸らすことにした。

 

「でしたら一緒に向かいましょう。私も買い出しを終えて帰る途中だったので」と荷物を微かに揺らしながら提案するリュー。

 

「あー……」

 

 恐らく誤魔化しているのが看破されたのだろう。

 

 絶対に逃がさないという強い意思を感じる空色の瞳に見つめられたベルは「……そうですね、せっかくですし一緒に行きましょうか」とその提案を受け入れて、豊穣の女主人へ向けて歩き出すのだった。

 

 残念だが、他に取れる選択肢はなかった。

 

 ○

 

 月浮かび星瞬く、夜が間近に迫った時間帯。

 

 リューと共に豊穣の女主人へ入店したベルの目に映るのは、女将(ミア)が作った料理に舌鼓を打つ冒険者たちの姿だった。

 

 賑やかな店内。酒に酔う冒険者に、料理を持って慌ただしく動くウェイトレス。時折聞こえるミアの大声を聞いて、ベルは豊穣の女主人に来たことを強く感じた。

 

「クラネルさん、こちらです」とリューに促されたのは一番奥のカウンター席だった。

 

 出入り口から見て、一番遠いその席はベルの来訪を心待ちしていたかのように空いていた。

 

(僕が来るのを予期していたような? ……いや、まさかね)

 

 一瞬過ぎった考えをベルは即座に否定する。そんな偶然があるはずがない、と

 

「クラネルさん、どうかしましたか?」

 

「いえ、何でもないです」

 

 無為な疑念は排除して、ベルは慣れた様子で椅子へ腰掛けた。

 

「それでは私は厨房へ向かいますので、ごゆっくり」

 

 そう言ってリューはベルへ一礼すると、厨房へ繋がる扉の向こうへと消えていった。

 

 同時。

 

「ベルさん! 来てくださったんですね!」

 

 入れ違うように現れたのは、可憐な笑みを浮かべる薄鈍色の髪が特徴的なヒューマンの少女、シル・フローヴァだった。

 

「お久しぶりです、シルさん」

 

「はい、本当にお久しぶりです。私、ベルさんが来てくださるのをずっと待っていたんですからね」

 

 ぷくり、と僅かに頬を膨らませて拗ねる仕草をするシルに、ベルは申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

「今、色々と立て込んでいて……」

 

色々(・・)、ですか……」

 

 そう呟くシルの表情が氷のように冷たくなる。しかし、それは一瞬の出来事で、時が一秒過ぎれば普段の温和な笑顔に戻っていた。

 

「でも、来てくれて嬉しいです。私、ベルさんとお話(・・)するの大好きですから」

 

 それに、とシルは言葉を続ける。

 

「今日は最近来られなかった分、沢山注文してくれるんですよね?」

 

 にこり。

 

 可憐な笑みを咲かせているはずなのに、どこか威圧感を感じるシルの問いかけにコクコクと頷くベル。

 

「そ、そうですね。地下迷宮(ダンジョン)の探索帰りなので、もうお腹ペコペコですよ」

 

「嬉しいです!」

 

「注文する料理は……せっかくですし、シルさんにお任せしても良いですか?」

 

「はい、任せてください! 私が責任を持ってベルさんが満足できる料理を選んでみせます!」と自信満々に胸を張るシル。

 

「それじゃあ、お願いします」

 

「はい、お願いされました!」

 

 そう言って、忙しそうに食材を刻むミアのもとへ駆けていくシルの背中に複雑そうな視線を注ぐベル。

 

「……あなたは僕に何を望むんですか、シルさん(グルヴェイグ)

 

 呟く声は喧騒に消えて。ベルはシルから視線を切り、店内を見渡すことにした。

 

 ○

 

 夜だからだろう。店で寛いでいるのは冒険者がほとんどで、『神の恩恵(ファルナ)』を授かっていない一般市民の姿は少ない。耳に届く話題は「今日、何階層まで潜った」やら、「キラーアントの群れに囲まれて死ぬところだった」やら、「新しい武器を買った」やら、地下迷宮(ダンジョン)に関するものばかり。

 

 誰もが今日も生き残ったことを噛み締めている。地下迷宮(ダンジョン)に絶対はないからこそ、今という刹那を冒険者はなにより愛しているのだ。

 

(彼らの笑顔を守るためにも)

 

 もっと強くならなければいけない、と決意と誓いを硬くするベル。今日の探索で窮地に陥ったことで、己の非力(・・)さを改めて痛感させられたのだ。

 

 しかし今は食事の時間。

 

 戦いの思考から離れて頭を休ませるように、ベルがぐるりと店内を眺めていたときだった。

 

「……あれ、前から飾ってあったかな?」

 

 花瓶などが置かれている棚に飾られた、黄金の装飾が印象的な一冊の本が目に入った。

 

「あぁ、あの本は……」

 

 隣の席の客に食事を届け終えたリューが、ベルの疑問に答えるように言った。

 

「お客様のどなたかが、机に置き忘れてしまったものです。あれだけ派手な装飾をしているので、取りに戻ってきた時にすぐ気づけるよう、棚に置いているんです」

 

「へぇ、そうなんですね」

 

 あれほど豪奢な表紙をしているのに、置き忘れてしまうものなのだろうかと不思議に思うベル。

 

 そんなベルの心情を読み取ったのか、「よほど急いでいたのかも知れませんね」とリューは言った。

 

 そこへ。

 

「なんニャ、なんニャ。あの本が気になるのかニャ?」

 

 一度聞けば忘れないだろう、独特な喋り声が背後から聞こえてきた。

 

 ベルが振り向くとそこには、黒い髪と尻尾が美しい猫人(キャットピープル)のクロエ・ロロの姿があった。

 

 彼女は厨房へ戻る最中なのか、両手に持つお盆に空皿を積み上げている。

 

「どうなのニャ、少年」

 

「気にならないと言ったら、嘘になりますね……」

 

 答えるベルの声には興味の色が乗っていた。

 

「そんニャら、読んでみればいいニャ。こういうのは、自分の目で確かめるのが一番ニャ」

 

「いや、でも落とし物なんですよね。勝手に読むだなんて……そんな……」

 

「本は読むためにあるニャ。別に一度読めば駄目になるわけでもないんニャし、少年なら無闇に傷つけたりはしニャいはずニャ。だから、大丈夫ニャー!」

 

「えぇと、そういう問題では……」

 

 助けを求めるように、リューへ視線を送るベル。

 

「ふむ。そうですね、シルの伴侶となるのでしたら、最低限の教養を身に付けておく必要がありますね。……貸しましょう」

 

 リューがクロエの提案に賛同すると思っていなかったベルは、慌てて断ろうとする。

 

「いや、でも、リューさん……」

 

「ではお試しということで、今日一日だけ持ち帰ってみるというのはどうでしょう? もし後ろめたい気持ちが拭えないのでしたら、次の日に返却してくださればそれで結構ですので」

 

「名案ニャ、リュー! そうすればニャ、明日も少年は店に来て、ご飯を注文して、ニャーたちも儲かるからウィンウィンウィンニャ!」

 

「ウィンウィンの意味はわかりますけど、最後のウィンは一体なんです?」

 

「ミャーが少年のお尻を触れるニャ」

 

 そう言って、卑猥な視線をベルの尻へ注ぐクロエ。

 

「いや、それは、ちょっと困る、というか……」

 

「冗談ニャ」

 

 いや、全く冗談に聞こえなかったんですけど、とぼやくベル。

 

「クロエのことは置いておいて、どうしますか?」

 

「うーん……」

 

 尚も渋るベルだったが、次にリューが発した言葉で考えが変わった。

 

「そういえば、拾ったシルが言っていました。本の持ち主は恐らく冒険者だろうと。彼女の言が正しいのなら、読めばクラネルさんの力になるのではないでしょうか」

 

 力になる、と言われれば抗えないのがベルだ。

 

「僕の、力に……」

 

 誰よりも強さを渇望する今は未完な英雄には、目の前に差し出された絶好の機会(チャンス)を手放すような選択はできなかった。

 

「……それじゃあ、一日だけ貸してもらってもいいですか?」

 

「はい」

 

 そう言うと、リューは棚から本を持って来てベルに手渡した。

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます」と感謝を告げて受け取ったベル。

 

 どっしりとした重みを腕に伝える黄金の本。間近で見ればより豪華に見える装飾と、古びた紙特有の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「善は急げだ」

 

 どんなことが書かれているのだろうと胸を躍らせながら、ベルが表紙を捲ろうとした瞬間。

 

「あ、リュー! クロエ! ミア母さんが怒ってましたよ、しっかり働けって」

 

 お盆一杯に料理を乗せたシルが現れて、そう言った。

 

「ウニャニャ! お喋りし過ぎたニャ! 早く戻らないとガニャーンって雷が落ちるニャ!」

 

「では、クラネルさん。私たちはこれで……」

 

 怒るミアはよほど恐ろしいのだろう。慌てた様子で去って行く二人を見ながら「全くもう」と呆れるシル。

 

「すみません、お二人を引き留めてしまって」

 

「いいんですよ。二人もベルさんと久しぶりに会えて、舞い上がってしまったんだと思いますし」

 

「そうですか?」と首を捻るベルに「そうなんですよ」と言ってシルはクスリと笑った。

 

「話はこれぐらいにしておきましょうか。せっかく来てくださったんですから、まずは料理を味わっていただかないと。さぁ、沢山食べて傷ついた腕(・・・・・)をしっかり癒やしてくださいね」

 

 そう言ってベルの目の前に次々と料理を並べていくシルの表情は、普段とは違う妖艶な色を帯びていた。



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対面するは(ユーアー)……

英雄は天霆を識る。彼は己かそれとも否か。


 食事を終えて本拠(ホーム)へ帰宅後、ベルは部屋着に着替えもせずソファに着席。さっそく読書に勤しむことにした。

 

「何が書いてあるんだろう」

 

 胸に期待を膨らませながら、ベルはぺらりと表紙を捲った。

 

『自伝・鏡よ鏡、世界で一番美しい魔法少女は私ッ ~一章・フォールクヴァングにさよならバイバイ編~』 

 

「……」

 

 見るからに怪しい(というよりもふざけた)題名(タイトル)を見て、ベルは胸に膨らませていた期待が一瞬で萎むのを感じた。

 

 ベルは頭を抱えながら「どうしようか」と呟いた。

 

 正直この時点で読む気が完全に失せていたのだが、借りてしまった手前、一頁も目を通さずに返すのは流石に憚られた。

 

 それに読んで見れば役立つ知識が一つぐらいは乗っているかもしれない、とベルは萎えた心を必死に説得して、本へと視線を戻した。

 

「ええと、なになに……」

 

 視界に映る文字を理解した瞬間ベルは「はぁ」と、それはそれは深い溜息をついた。

 

『ゴブリンにもわかる、魔法の本質。その一』

 

 どう見ても、ふざけて執筆したとしか思えない読者を小馬鹿にするような章題。

 

 美しい黄金の装飾に重厚感溢れる厳めしい見た目をしていたので、きっと驚嘆に値する叡智が溢れんばかりに刻まれているだろうと思っていたのだが、どうやら予想は外れたらしい。

 

(これ、作者はどんな気持ちで執筆したんだろう)

 

 本の内容を通り越して、本の執筆者に対する落胆的な感想を胸中に抱きながら、ベルはパラパラと頁を捲って流し読みしていく。

 

 無駄。

 

 無為。

 

 無益。

 

 本に書かれている内容の悉くが魔法についての基礎知識で、ベルでも知っているような類いばかり。

 

 それが面白おかしく描かれているので、娯楽的な書籍としては見る価値があるのかもしれないが、純粋な知識だけを望むベルには邪魔な要素でしかない。

 

「うーん……」

 

 もう読むのを止めようか、そんな考えが脳裏を過ぎりながらも惰性で頁を捲っていると、

 

「あれ?」

 

 今までとは打って変わって興味をそそられる文言が、不意打ちのごとくベルの視界に飛びこんで来た。

 

 ──魔法とは、自らの本質を現す鏡である。何を想い、何を望み、何を願い、何を誓い、何を嫌い、何を拒み、何を畏れるのか。『神の恩恵(ファルナ)』は己の魂の在り方を正しく反映する。

 

「くっ!」

 

 意味深な文章を読み終えた瞬間、本が部屋全体を覆うかのごとき目映い光を放った。

 

 予想だにしない状況に陥ったベルは、咄嗟に本を手放して距離を置こうと跳躍するが時既に遅く。

 

 視界は白一色に染まり、音は彼方へ逃げて、匂いは途絶え、触覚が肉体から剥がされてしまう。

 

 色彩豊かな世界が、漂白されていく。

 

『思い出せ、想いを。思い出せ、望みを。思い出せ、願いを。思い出せ、誓いを。思い出すのだ、何を嫌い、拒み、畏れるのかを。今一度、鏡を前に見つめ直せ』

 

 不意に荘厳なる声が、脳裏に響いた。

 

「なんだっ!?」

 

 すると閃光に覆われた視界が晴れて、ベルの目の前にもう一人の自分が現れた。否、自分に似たナニカ(・・・)が立っていた。

 

 それは、ベルと瓜二つの容姿をしているのにもかかわらず、全く違う存在感を放っていた。

 

 生命のことごとくが平伏する神威さえも凌駕した壮烈な覇気を纏い、ベルを見つめる深紅(ルベライト)の瞳には万物を見透かしているかのような知性が宿っている。

 

 神のようで神ではなく、人のようで人でない、化物。それがベルに似たナニカを見て感じた第一印象だった。

 

「誰だ、お前は……」

 

()はおまえだ』

 

 声は答える、自分はベル・クラネルであると。

 

「違う、お前は、僕じゃない……」

 

 否定しなければいけない。ベルは直感的にそう思った。

 

『……なぜ、拒む。おまえは誰よりも強さを求めているのだろう?』

 

「理由は、わからない。でも、お前を受け入れてしまったら、僕は僕でなくなる気がするん……」

 

 ぐぅっ!? 

 

 ベルは突如、心臓が締めつけられるのを感じて、掻き毟るように胸を押さえながら顔を歪ませる。

 

 それを見たベルの姿をしたナニカは、哀れむように言った。

 

『その痛みは歪みだ。おまえ自身が本質から離れていくことを拒絶する魂の叫びだ』

 

「歪み? 魂? お前は何を、言って……」と呻くベル。

 

『……はぁ。まだ分からないか。いや、分からない振りをしているのか?』

 

「だから、何をっ……」

 

『一つ、問おう』

 

 ベルの言葉を無視して、深紅(ルベライト)の双眼が静かに問う。

 

『おまえはなぜ、英雄たらんとする?』

 

「それは、誰かの笑顔を守るために……」とベルは反射的に答えた。

 

『否、おまえは嘘をついている。目を背けている。本心を封じている』

 

「そんなこと……」

 

『ないとは言わせん。おまえはわかっていたはずだ、自分の本質を。自分が何者であるのかを。……だが、怪物祭(モンスターフィリア)の日、すべてが変わった。変わってしまった』

 

 ナニカが嘆くように言葉を紡ぐと、狂気的なまでに白一色だった潔癖な空間に巨大な絵が現れる。

 

 どういった原理かわからないが、その絵は動いていた。現実と同じように、動いていた。

 

「これは、怪物祭(モンスターフィリア)の……」

 

 絵に描かれているのは、ベルがアイズと肩を並べて花を咲かせる怪物(モンスター)と戦っている場面。生まれて初めて、誰かと戦った記憶だった。

 

『なぜ、おまえはアイズ・ヴァレンシュタインと共に戦った』

 

「彼女が肩を並べるに相応しい力を持っていたからだ」

 

『相応しい力さえあれば、守るべきものを戦場に立たせてよいのか?』

 

 いや、この表現は適当ではないな、と苦笑交じりに呟きながらナニカは首を振った。

 

『獲物が取られてよかったのか?』

 

「っ!」

 

 目を見開いて、ベルは自らの影を見た。

 

『おまえは誓ったはずだ×××になるのだと』

 

 ナニカの口から発せられた単語を、ベルは理解するわけにはいかなかった。

 

 理解してしまえば、大切だと思っている何かが消えてしまう気がしたから。

 

『恐れることなど、何もない。今一度思い出せ、ベル・クラネル(■■■■■)。己が何者であるのかを』

 

 ──【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】が何であるのかを。

 

 瞬間。

 

 がしゃん、と雷鳴が轟いた。疾風より速く、地震より激しい雷霆が悪を犯した咎人を裁くようにベルを打った。

 

「がぁああああああああああ!」

 

 肉体を蹂躙する人間が耐え得る限度を優に超えた激痛に、ベルは声帯がはじけ飛ぶほどの絶叫を上げた。

 

 混濁する意識。パチパチと明滅する視界の中に泡のように浮かんだのは、両の眼から血涙を流すヘファイストスの姿だった。

 

 ごめんなさい。泡の中、ヘファイストスが泣いていた。ごめんなさい、と哭いていた。

 

「これ、は……」

 

 記憶にないはずの記憶が次々と浮かび上がってくる。まるでベル・クラネルの魂を上書きするかのように。

 

『そうだ、思い出せ。自らの進むべき道を。おまえに並び立つものなど必要ないことを。アイズ・ヴァレンシュタインが足枷でしかないことを』

 

 ──いずれ英雄になると誓った、冒険者の一人です。

 

 ──ベルなら……なれるよ。

 

「っ!」

 

 瞬間、ベルの脳裏に浮かび上がったのはいつかの情景。アイズと結んだ月下の誓いだった。

 

「違う!」

 

 ほとばしる絶叫が、ベルを包む雷を弾き飛ばす。思考はもう澄み渡っていた。未知なる記憶の泡は弾け飛び、火の鳥のごとく月下の誓いが蘇る。

 

「アイズさんは、足枷なんかじゃない」

 

 一歩、ベルは足を踏み出して偽りの自分へと近づく。

 

「彼女との出会いは、間違いなんかじゃない」

 

 更に一歩、彼我の距離が縮んでいく。

 

「僕の誓いは僕だけのものだ。お前は、ベル・クラネル(ぼく)なんかじゃない」

 

 最後の一歩、ベルと偽物の距離が零になる。交錯する視線。衝突する意志。それはどちらも覚悟の光。

 

「本質から遠ざかっている? 胸の痛みは魂の拒絶? 馬鹿にするなよ。本質ごときが、魂程度が、僕を、ベル・クラネルを縛れるとお前は本気で思っているのか?」

 

『……愚かな。拒絶するか、己自身を。……だが【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】は抗うぞ、おまえを正しき道へ戻すために。■の■へと導くために。それが俺たちの宿命なのだから』

 

 そう告げる偽物の声は徐々に掠れて、ベルを威圧する英姿がグニャグニャと奇妙な形に歪み始める。

 

『いずれ、気づく。俺とおまえは同じであることを。絶対に…………』

 

 そして、声が消えると同時。純白の世界はバラバラと硝子が砕けるように崩壊して、ベルの視界は再び光に包まれる。

 

 意識はそこで、ハサミが糸を切るように途絶えた。

 

 ○

 

「……ル……ん……」

 

 遠くから、声が歩み寄ってくる。それは懐かしく、柔らかで、聞く人の心を安らがせる竈火(かまどび)のように温かく優しい声だった。

 

「お…………る……べ……ん」

 

 再び、声が聞こえると、ベルの途切れた意識が瞬く間に結合し一本の糸となった。

 

「う……」

 

 目を開くベルは腹部に餅のように柔らかな重みを感じ、僅かに呻いた。

 

「あ、起きたかいベル君!」

 

 ちらと腹部へ視線を向ければ、馬乗りになっているヘスティアの姿があった。

 

「……神、様……」

 

 呟く声は、酷く衰弱している。

 

 珍しく弱っているベルを見て、ヘスティアは心配そうな面持ちを浮かべながら「大丈夫かい、魘されていたようだけど」と言った。

 

「うぅ、はい……大丈夫、です……」

 

 どこか朦朧とする意識の中でそう応えるベル。

 

「珍しいね、ベル君が本を読むなんて」

 

 そう言ってヘスティアは机に置かれた本の方へ顔を向けた。

 

「あー……はい。あれは豊穣の女主人で借りたんです。お客さんの忘れ物らしくて、あまり気乗りはしなかったんですけど」

 

「ふむふむ、そうなんだ。せっかく借りたものだし頑張って読むか、と本に挑んだ結果、睡魔に抗えず夢の世界へ旅立ったってところかな?」

 

「そう、みたいですね……」

 

 何か、大切なことを忘れてしまった感覚にベルは襲われる。しかし、思い出そうと記憶の本棚を探しても、それらしいものは見つからなかった。

 

「それより、神様。いつまで乗っているつもりですか?」

 

「ぶーぶー。最近、お互い忙しくてスキンシップ取れてなかったから、ちょっとぐらい良いじゃないか」

 

 駄目かい? と潤んだ瞳で見つめられては否とはいえない。

 

「しょうがないですね、少しだけですよ」

 

 ベルはそう言って、しなだれかかってきたヘスティアを優しく抱き締める。

 

 抱擁すること数十分。

 

 ベル君成分を摂取(チャージ)し終えたヘスティアは肌を艶やかにして、満足そうに地面へ降りた。

 

「よし、仕事の疲れが吹っ飛んだよ!」

 

「それなら、よかったです」と微笑みかけるベルの前で、くるりと華麗に一回転を決めてからヘスティアは言った。

 

「それじゃあ、この勢いのまま数日ぶりの【ステイタス】更新と行こうぜ、ベル君!」

 

 はい、とベルもヘスティアの明るさに応えるように元気に頷いた。

 

 ○

 

「じゃあ、始めるよ」

 

「お願いします」

 

 ベッドの上で上半身を晒すベルにヘスティアはしなやかに跨がって、針を刺した指先から神血(イコル)の雫を背中に垂らす。

 

 ぽちょん。

 

 神血(イコル)が背中に染みつくと波紋が生じて、刻印(ステイタス)全体へゆっくりと広がっていく。

 

 書き換えられていく【神聖文字(ヒエログリフ)】が、ベルの成長をしかとその背に刻みこむ。ヘスティアの眼前に整列する文字の軍隊こそが、英雄の歩みを支える新たな礎となるのだ。

 

(ふむふむ。【ステイタス】の方はあまり変わっていないかな……?)

 

 抽出した【経験値(エクセリア)】が少なかったのか、【ステイタス】の更新作業は怪物祭(モンスターフィリア)の時とは打って変わり順調(スムーズ)に進んでいた。

 

(あとは魔法とスキルだけだ)

 

 内心でそう呟いて、ヘスティアがまず魔法の【神聖文字(ヒエログリフ)】が刻まれた部分へ視線を向けた瞬間。

 

「え……」

 

 自然と、言葉にもならない声が洩れた。

 

「神様?」

 

 怪訝に思ったベルの問いに、ヘスティアは反応せず。大きく見開かれた双眸はじっと、背中の一点へ注がれている。

 

(まさか、そんな……どうして?)

 

 刻まれた【神聖文字(ヒエログリフ)】に誤りがないか、何度も何度も執拗なまでに確認し直すが、結果は変わらない。

 

 ヘスティアの目に映るものが、逆転なき絶対の事実だと証明されるだけだった。

 

 衝撃は終わらない。

 

 動揺する心を落ち着かせようと、スキルに関する【神聖文字(ヒエログリフ)】へ視線を向けたヘスティアは、思惑とは裏腹。二度目の絶句を味わうことになった。

 

(ベル君の身に、一体何が起こってるんだ……)

 

 思考は混沌とし、感情は制御を失い、理性は凍結する。

 

(これも、魂が影響してる所為だというのかい、ゼウス?)

 

 黒き聖火が描かれたベルの背には、こう刻まれていた。

 

【ステイタス】

 

 ベル・クラネル

 

 Lv.3

 

 力:H106→127

 

 耐久:H183→G272

 

 器用:H151→G211

 

 敏捷:H120→178

 

 魔力:G237→238

 

 宿命H→G

 

 耐異常I

 

《魔法》

 

天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)

 

 ・詠唱不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

 ・解読不可

 

《スキル》

 

■■■■(──・──)

 

 ・早熟する

 

 ・■■(──)を貫き続ける限り効果持続

 

 ・■■(──)の強さにより効果向上

 

鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)

 

 ・治癒促進効果

 

 ・逆境時におけるステイタスの成長率上昇

 

 ・時間経過、または敵からダメージを受けるたびに全能力に補正。

 

 ・格上相手との戦闘中、全能力に高補正。

 

 ○

 

「ベル君、覚悟して見るんだ」

 

【ステイタス】更新後、ヘスティアは真剣な表情で相貌を固めながらそう言った。

 

「……分かりました」

 

 ごくり、と唾を飲み込みながらベルは神妙な面持ちで返事をした。

 

「これを」

 

 そう言ってヘスティアが差し出してきた更新後の【ステイタス】が書かれている羊皮紙を見て、ベルは言葉を失った。

 

「え……これは、どういう……」

 

 ベルの瞳に映る文字が現実のものであるのならば、魔法は詠唱不可状態に陥っており、スキルにいたっては文字化けして読めなくなっている。

 

「ごめんよ、ベル君。ボクにも、どうしてそうなっているのかまったく分からないんだ……」

 

「あぁ……」

 

 言語では表現できない複雑怪奇な感情が零れる。

 

(なにが、どうなって……)

 

 混乱が思考を支配する。

 

 不安定な動悸。止まらない冷や汗。遠ざかる音。色褪せる景色。

 

 ──ベルなら……なれるよ。

 

 誓いが、遠ざかっていく。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 身体に力が入らなくなったベルは倒れ込む形で勢いよく机に手をついた。

 

 ぐにゃりと歪む視界の中、ふとベルは手をついたのが机に置かれた本の上であることに気づく。

 

「──あ」

 

 瞬間、脳内を駆け巡ったのは忘却の記憶。ベルを騙る偽物との問答だった。

 

「そうか、そう言うことか……」

 

 ──【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】は抗うぞ、おまえを正しき道へ戻すために。■の■へと導くために。

 

 純白の空間で偽物が語っていた言葉の意味を正確に理解したベルは、恐慌が斃れて全身に活力が蘇るのを感じた。

 

「大丈夫かい、ベル君!?」

 

 倒れ込んだベルの背を撫でながら、ヘスティアが叫ぶ。

 

「はい、もう大丈夫です」

 

 そう言って立ち上がるベルの顔に憂いなく。また、嘆きも恐れもなかった。

 

 深紅(ルベライト)の瞳に宿るのは、強い意思の光のみ。

 

 魔法を失い、スキルも正常に機能するのか定かではない中で、ベルは真っ直ぐ、自らの進むべき未来を見据えていた。

 

「本当に、大丈夫、みたいだね……」

 

 ベルのことであれば何でもお見通しなヘスティアは、決して強がりから出た言葉ではないことを悟る。

 

「ぐちぐちと悩んでいてもしょうがないですから。それに、ある人が教えてくれたんです。僕は悩むより前へ進む方が向いてるって」とベルは言った。

 

「それよりも、夕御飯にしましょう。豊穣の女主人で食事は済ませたはずなんですけど、お腹ペコペコで」

 

「ふっふっふ! それなら、ベル君! 今日はジャガ丸くんパーティだ!」

 

 ベルが前向きに捉えているのに自分だけ気を落としていてはいられないと、ヘスティアは元気に声を張り上げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(大丈夫だよね、きっと。だってベル君はベル君なんだから……)



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孤独、駆ける(メテオライト)

少年は止まらない。止まることは、許されない。


 

 神も人も皆、寝静まる安らかな深夜。ヘスティアが穏やかな寝息を立てて熟睡しているのを確認したベルは、ゆっくりと慎重に、衣擦れ一つ立てずに寝具(ベッド)から抜け出した。

 

「神様は、起きてないよね……」

 

 寝間着から、純白の戦装束(バトル・クロス)へ素早く更衣したベルは、ヘスティアが目覚めていないか様子を探った。

 

「すぅ……すぅ……ベル君、ボクを食べても美味しくないぞぉ……うへへぇ……」

 

「一体、どんな夢を見てるんだ。神様は」

 

 不穏極まりない寝言を洩らす己が主神(ヘスティア)を目の辺りにして、思い切り頬を引き攣らせるベル。後で夢について訊ねたいと感情が吼えて。いいや聞かなかったことにした方が良いと理性が窘める。

 

 裁判の結果、理性が勝訴。ヘスティアの寝言を記憶の隅に追いやったベルは「とりあえず起きなかっただけ良しとしよう」と小声で呟いて、ある目的を果たすための準備を始める。

 

 まずは。

 

「武器」

 

 神が鍛えた黒の二刀(アヴァタール)を腰に佩く。 

 

 次に。

 

「籠手」

 

 英雄の未来を憂う受付嬢から贈られた籠手を嵌める。 

 

 最後。

 

準備完了(オールセット)

 

 何度か拳を握り、両腕の状態を確認するベル。未だ完治には至っていないのか、僅かに針刺すような痛苦を訴えてくるが、戦闘に支障をきたすほどではなかった。

 

 しかし、リリの影響を受けて少しばかり用心深くなったベルは、万全を期すために(テーブル)に置いていた回復薬(ポーション)をごくりと一つ飲み干した。

 

 回復薬(ポーション)を飲んだのは、久しぶりのことだった。

 

「ふぅ……」

 

 深呼吸が、一。

 

「はぁ……」

 

 深呼吸が、二。

 

「こぉ……」

 

 深呼吸が、三

 

 風吹く音と、神の寝息(ゴッド・ブレス)だけしか聞こえない静寂な空間で、ベルは入念かつ丁寧に精神統一を行う。

 

(……乱れているのが、わかる)

 

 幾度かの深呼吸を通して、ベルは自分の身体が鉄が錆びるかのごとき不調に陥っているのに気づいた。

 

 頭、重く。腕、重く。足も、重く。五感は鈍い。

 

 まるで我楽多(ガラクタ)みたいだな、とベルは思った。

 

(やっぱり、魔法とスキルが使えなくなったことが影響しているのか……それとも)

 

 魂が抵抗しているのか。

 

 ──その痛みは歪みだ。おまえ自身が本質から離れていくことを拒絶する魂の叫びだ。

 

 ベルは、偽物の自分が言っていた意味深な発言を思い出す。彼という存在がベル本人ではないのだとしても、紡ぐ言葉は真実なのだと、五体が不調に陥る形で改めて実感させられた。

 

「僕を騙すための虚言であってくれたら、助かったんだけど」

 

 嘆息して、ベルは机に置かれた金色の本を睨んだ。

 

「解ってしまうのも、考えものだね……」

 

 神や人を含めた肉体に知性を宿す存在であれば例外なく、ベルは発言の真偽を見極められる。

 

 そして、残念なことにこれまで一度だって外さなかった嘘を看破する眼が、ベルを模した偽物の言葉は真実だと告げていた。

 

 なればこそ、魂が今のベルを拒絶しているという予想が、確信の域にまで達することになったのだ。

 

「確かめなきゃいけない。魔法とスキルを失った今の僕がどこまで戦えるのか、正確に。でないと、彼女を……リリをまた危険に晒してしまう。そんなことは絶対に赦されない。もう二度と、絶対に……」

 

 ぎゅうと握る拳の握力凄まじく、そのまま皮膚が破れ、肉が裂け、骨が砕けてしまいそうだった。

 

 狂気的な自噴。

 

 自らの行いをこれほどまでに悔いることのできる人間は、そういないだろう。

 

「強くなると誓った。誰よりも、強く。足踏みなんて、していられないんだ。例え本質が、魂が、僕の歩みを阻害するのだとしても、知ったことじゃない」

 

 諦めるという選択肢は、最初から存在しないのだから。

 

「行ってきます、神様」

 

 最後にベルはそう言って、安らかな眠りについているヘスティアへ悲哀に濡れた視線を向けると、階段を駆け上がり闇夜の世界に身を投じた。

 

「ベル君……」

 

 戦場を征く英雄の背に、先ほど彼が向けたのと同じ視線を向ける存在には気づかないまま。

 

 不気味なまでに音の死んでいる夜の都市(オラリオ)は、ひんやりと肌を撫でる冷気に包まれていた。

 

 淋しさを払う月明かりだけが、路地を照らす外灯となっている。

 

「さぁ、行こうか」と誰にともなく呟いて、少年は静かに歩き出す。

 

 目指すは、宵闇の中にあっても一切として薄れない荘厳な気配を放つ白亜の巨塔。

 

 大地の深淵に怪物(モンスター)を獄する、摩天楼(バベル)だ。

 

 黒の闇を裂く、白の影が、音も無く疾走した。

 

 ○

 

 殺意の坩堝(るつぼ)を孤独に駆けるのは、一人の少年だった。今はまだ若い、野蛮な戦いに向いているとは到底思えない、愛嬌のある相貌をしたヒューマンが、迫り来る脅威をいとも容易くねじ伏せる。

 

「ぜぁッ!」

 

『イィッ!?』

 

 敵意を迸らせる《劫火の神刀(ヴァルカノス)》が唸り声を挙げながら、蛙を演じる怪物(モンスター)を融かすように一刀両断する。

 

「らぁッ!」

 

『──!!』

 

 憤怒を乗せた《ヘスティア・ブレイド》が鈴の音を鳴らしながら、闇と同化する影の異形を霧散させるように細切れにする。

 

 一矢報いることさえ許しはしない、完全なる勝利。牙を剥く敵の悉くを一撃で屠る絶対的な強者。

 

 ベル・クラネルは魔法とスキルを失っても尚、最強の名をほしいままにしていた。

 

 しかし、それはあくまでも相対的な評価でしかない。『上層』の怪物(ザコ)を叩きのめしているだけに過ぎない。

 

 ベル自身は、まるで納得していなかった。

 

「クソッ……」

 

 惰弱、軟弱、薄弱、脆弱、微弱、虚弱、羸弱(るいじゃく)

 

 半日前とは天と地ほどの差がある戦闘能力に、ベルは震怒した。

 

「うああああああああああああああああああ!!」

 

 轟く絶叫は、悔しさの発露。感情を蹂躙する失望の嵐が、ベルの殺意を無制限に増幅させる。

 

 今や右眼から雷光ほとばしることは無く。神が鍛えし二刀が雷を纏い刃の冴えを高めることも無く。

 

 ただ二刀を振るうだけの少年が、そこにはいた。

 

「ぜぃ!」

 

『グギャ!?』

 

 本来なら、0.5コンマ早く討伐できた。

 

「疾っ!」

 

『ガァ!?』

 

 腕を振る速度が僅かだが落ちている。

 

「しぃっ!」

 

『──!!』

 

 判断力さえも、鈍っている。

 

「全然、駄目だ……」と言って、失意の嘆息を吐くベル。

 

『中層』へ至る過程で『上層』を徘徊する動く肉塊を相手に圧倒しても、心はまるで慰められなかった。寧ろ、怪物(モンスター)を屠れば屠るほどに自らの力量が明瞭になっていき、怒の感情が膨れ上がっているくらいだ。

 

「弱い、弱い、弱い弱い弱い弱い。──僕は、弱い!!」と叫ぶベル。

 

 断末魔の合唱を指揮するように、二刀(タクト)を振るう少年は、嘆き悲しみ苦しみ狂う。心に空いた穴を必死に埋めるように。

 

「もっとだ、もっと強い敵と戦わないと。この程度で満足してたら、アイズさんと交わした誓いを守れない」

 

 ──英雄になれない。

 

「まだ、足りない。戦い、足りない。もっと強い敵を! 命を燃やす死闘を!」

 

 遙かなる高みを目指すベルは、自らの後退を許容しない。魔法を、スキルを、使えなくなろうとも、使用していた過去の自分と同等の戦闘能力を保持しなければならないのだ。

 

 でないと、ベルは自分を許せなくなってしまうから。

 

 ○

 

経験値(エクセリア)】にすらならない有象無象が蔓延る『上層』を駆け抜けること数十分。雑魚(ゴブリン)雑魚(コボルト)雑魚(ダンジョン・リザード)雑魚(フロッグ・シューター)雑魚(ウォーシャドウ)雑魚(キラーアント)雑魚(ニードルラビット)雑魚(パーピル・モス)雑魚(オーク)雑魚(インプ)雑魚(バッドバット)雑魚(ハードアーマード)雑魚(シルバーバック)を数え切れないほど討滅し。

 

「どけよ……」

 

 希少種(レア・モンスター)にして『上層』の支配者であるインファントドラゴンの生きた首を一太刀で首級に変えて。

 

「やっと、ここか……」

 

 ベルは『中層』へと足を踏み入れた。

 

 感慨はなく。感情は(さざなみ)ず。自噴で歪む(なまじり)は釣り上がって、襲い来るだろう敵の到来を待ち望んでいるのみ。

 

「来いよ、化物ども。僕が纏めて相手をしてやる」

 

 放つ声は、鋭く。二刀を構える様は雄々しく。肉体からほとばしらせる気配は激しかった。

 

 それは魂に拒絶される以前と相違なく、英雄。神人の誰もを魅了する鮮烈な光を放っていた。

 

 彼だけが、それを自覚していない。

 

 彼だけが、今の己に満足していない。

 

 それゆえに、英雄は駆ける。人間の気配が絶えた、怪物(モンスター)の王国を。

 

 独りで。

 

 脆弱惰弱の烙印を押したまま。

 

 その身に怒りを宿したまま。

 

 夜が明けるまで、ずっと。過去を超えるまで、ずっと。



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双雄狼槍(ベルセルク)

 

 朗らかな陽光が宝石のように煌めき、巨大な入道雲が空に城を築いている、晴天の早朝。

 

 普段の日課を終えてシャワーで汗を流したアイズが、くぅと可愛く空腹を訴える胃に操られて大食堂へ足を踏み入れた瞬間。

 

「あの、クソ狼ー! よくも団長を攫ってくれたわねぇええええええええええええええええええええ!!」

 

 夜の喧騒と錯覚するような、ティオネの大音声が黄昏の館全体に轟いた。

 

「こうなったら、ヤケ食いよ! 食って、食って、食いまくるのよ!」と叫びながら、ティオネは机に並べられた料理の皿を次から次へと空にしていく。

 

 髪を逆立て、怒髪天を衝いているティオネを怖れているのだろう。配膳係以外の、食事目的で大食堂を訪れた団員らは、最低でも四つ隣の席に座って恋に狂う女戦士(アマゾネス)の様子をちらちらと窺いながら食事を取っていた。

 

「……どうしたの?」

 

 ティオネがなぜ憤慨しているのかを、彼女の向かいの席に座っている双子の妹(ティオナ)に訊ねるアイズ。

 

「あ、アイズ。おはよう」

 

「おはよう。それで……」とアイズはティオネへ視線を向けた。

 

「いやー、実はね……」

 

 ティオナの話によると、今日ティオナはフィンを逢瀬(デート)に誘おうと密かに画策していたらしいのだが、陽も昇らない時間からベートと共に地下迷宮(ダンジョン)へ向かってしまったのだと言う。

 

「フィンを連れてったのが、ベートって言うのも、怒りが増してる原因だと思うよ」と若干、呆れ気味に言うティオナ。  

 

「ベートは最近、人が変わったように強さを求めるようになったからな」

 

「急な変わりように些か面食らっておるがなぁ」

 

 二人の会話に新たに加わったのは【ロキ・ファミリア】の良心(ママ)、リヴェリアと『三首脳』の一人であるガレスだった。

 

「フィンもアイツの影響を受けたっぽいよね。何だか貪欲になった気がするし」

 

「私も、そう思う」

 

 アイズが頷く。

 

「些か力を求め過ぎているきらいがあるがな。団長と幹部が意気軒昂なのは、他の団員にも良い影響を与える。今のところは問題ないだろう」

 

 無茶をするものには慣れておるしな、とガレスが付け加える。

 

「うっ……」

 

 否定できる材料が一つとしてないアイズは、恥ずかしそうに頬を赤らめさせた。

 

 アイズ自身、最近の二人は異常だと思っていただけに、自分もまた同族だと言うことに少なくない衝撃(ショック)を受けていたのだ。

 

「ま、流石にあの二人ほどではないけどね。アイズは」とティオナが慰めるように言う。

 

「ありがとう、ティオナ。あと、その……昔は心配かけてごめんなさい、リヴェリア、ガレス……」

 

 そう言って、アイズは頭を下げた。

 

「な」

 

「ほう」

 

「へぇ」

 

 一人は驚きの声を、一人は感心そうな呟きを、一人は嬉しそうな音吐を洩らした。

 

 これまでのアイズであれば、決して謝罪まで行き着かなかっただろうことを知っているリヴェリアとガレスは、少しずつではあるけれど無垢な少女が成長していることを実感した。

 

(これも、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】に恋をした影響か……)

 

(アイズの成長は嬉しいことだが……何だか寂しいのぉ……)

 

(やっぱり恋の力は偉大なんだね。むむむぅ……あたしも、負けていられない!)

 

 三人が胸中でどんな思いを抱いているのかわからないアイズは、くぅくぅと可愛くなかったお腹の音を聞いて、大食堂に赴いた本来の目的を思い出す。

 

 空腹に襲われ捨てられた子犬のようにしょんぼりとした表情を浮かべたアイズが「ご飯」と言って席から立ち上がったその瞬間。

 

「覚えてなさいよ、ベートォオオオオオオオオオ!」

 

 フィンと仲良く地下迷宮(ダンジョン)を探索しているだろう駄犬(ベート)へ向けたティオネの憎悪の絶叫がほとばしった。

 

英雄(ベル)君のことは大好きだけど、あぁはなりたくないかなあたしは……」

 

 姉の醜態を目の当たりにして、自分は恋慕に狂わないよう自戒の言葉を吐く(ティオナ)

 

「「え……?」」と驚愕の眼差しを向けるリヴェリアとガレス。

 

「どうしたの、二人とも」

 

「いや、なんでもない。気にするな」

 

「う、うむ。リヴェリアの言う通りだ」

 

 姉同様、既に手遅れであることをまるで自覚していないのが実にアマゾネスらしい、と思う二人。

 

「……?」

 

 未だ恋愛方面は成長途中(推定十歳)のアイズだけは、二人の言わんとすることが理解できず、不思議そうに首を傾げるのだった。

 

 ○

 

「あん?」

 

「どうかしたかい、ベート」

 

「いや、俺を呼ぶ声がしたと思ったんだが……気のせいだな」

 

「ここには今、僕たちしかいないんだ。助けを呼ぶ声だという可能性も、なくはないだろうけど、零に等しい。気のせいで間違いないさ」

 

 そう言うフィンに、だなとベートは頷く。

 

 太陽が地平線の底で眠っている未明、更なる高みを目指すべく、ベートとフィンは地下迷宮(ダンジョン)に足を踏み入れていた。

 

 二人が朝早くから探索を開始した理由は、更なる成長を望んでのことだった。現状に満足して胡坐をかいていれば、ベル・クラネルに追い抜かれるのは必然。二ヶ月も経たずにLv.3の高みへ昇って見せた英雄と肩を並べて戦いたいのならば、研鑽を積むしかない。

 

 血反吐を吐くような、研鑽を。

 

『流石だ、雷鳴の英雄(ベル・クラネル)! てめえなら、この程度のことはやって見せると俺は分かっていたぜ!』

 

『君が僕たちと並び立つ時が、待ち遠しいよ。早く、早く完成してくれ【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】。君の光を見せてくれ』

 

 ベートは直接、フィンは間接的にベルの英雄としての生き様に魅了された。それは、例えるのならば光の亡者。

 

凶狼(ヴァナルガンド)】と【勇者(ブレイバー)】は、ベルという強烈な光に目を焼かれて、それ以外が見えなくなっていたのだ。

 

 ゆえに彼らもまた、更なる高みを望む。彼の英雄が歩みを止めないように。彼の英雄に恥じぬ者となるために。

 

 Lv.6ごときで足踏みなどしていられないのだと証明するように、ベートとフィンは『上層』と『中層』に蔓延る有象無象を灰燼と帰して、怪物(モンスター)が跳梁跋扈する『下層』へと下っていった。

 

 そして現在、二人は『白宮殿(ホワイト・パレス)』の異名を持つ37階層へ足を踏み入れた。

 

「相変わらず、目に優しくねえ場所だぜ……」

 

 視界一面、白濁色に染まる外観を見渡して、唾を吐くように言うベート。

 

「そういう場所だからね、37階層(ここ)は」

 

「んなことは、わかってる」

 

 37階層はこれまでの階層とは一線を画す規模であり、通路や広間(ルーム)、壁に道に天井と、ありとあらゆる要素(スケール)が巨大だった。

 

 複雑怪奇な構造。中心部に位置する下層と接続された階段。用意された正解の道順はったったの一つ。もしも迷ってしまえば、二度と出てはこられないだろう悪辣なる仕組みは正に迷宮。

 

 そんな、厄介極まりない白濁色の迷路(ホワイト・パレス)を淀みなく駆けていく道化師の子が二人。

 

新しい武器(コイツ)がどこまでやれるか、実験と行くかァ!」と叫びながら敵へ驀進していくベートが、両腕に嵌めている銀の籠手の名を《ヴァンレーシング》。

 

 最上級鍛冶師(マスター・スミス)椿・コルブランドが、ミスリルを鍛えて造り上げた第二等級特殊武器(スペリオルズ)に分類されるこの武器には、魔法効果を吸収する《フロスヴィルト》とは違った細工(ギミック)が施されている(今はまだ披露する必要はなさそうだが)。

 

「ちっ、弱ぇ。この程度の雑魚を相手にしても、コイツ(ヴァンレーシング)の実力は測れねえな」

 

 失望が、吐息とともに洩れる。彼の足もとには、怪物(モンスター)死骸(ませき)が散乱していた。

 

「しょうがないさ。今のベートの相手をするには、37階層の怪物(モンスター)じゃ役不足だよ」

 

「はぁ……フィン、帰ったら模擬戦するぞ。37階層の奴らがこのザマじゃ《ヴァンレーシング》がどこまで無茶できるのか把握できねえからよ」

 

「あはは、そう言うと思ったよ」

 

 欲求不満だと、相好にありありと浮かんでいるベートを見て、苦笑しながらも了承するフィン。

 

「んじゃ、ここから暫く流れ作業だな」

 

「折角だし、どっちが怪物(モンスター)を多く倒せるか、競争でもしてみるかい?」

 

「抜かせ」

 

 はっ、と鼻で笑ったあとベートは至極真面目な表情を作って平野駆ける狼のごとく大地を蹴った。傍からに勇者を連れて。

 

 ○

 

 道中、ミノタウロスを彷彿とさせる厳めしい巨躯をした怪物(モンスター)の『バーバリアン』や、19階層を跋扈するリザードマンの上位種である『リザードマン・エリート』などを、赤子の手をひねるかのごとく魔石へ変えていくベートとフィン。

 

「おらよっ!」

 

 振るわれる雷滅の拳撃(ヴァンレーシング)

 

『グァ……』

 

 散華する、命。

 

「ぜぁあっ!」

 

 放たれる勇気の一槍(フォルティア・スピア)

 

『ギャ……』

 

 粉砕する、命。

 

 狼と勇者が戦意を言葉で放つたびに、命が血飛沫、骸が踊った。

 

 断じて、37階層の怪物(モンスター)が惰弱であるわけではない。寧ろ彼らは地下迷宮(ダンジョン)の中でも上位に位置する脅威。判断一つ誤れば、L.6とて命を落としかねない危険性が生まれるほどの力を持っているのだ。

 

 ゆえに、異常なのは二人の側だ。ここに到達するまで数え切れないほど戦闘を行ってきたにもかかわらず、息切れ一つ起こさず。武器を振るう姿からは疲労をまるで感じ取れない。

 

 常識の埒外を堂々と闊歩する存在が、ベートとフィンだった。

 

「雑魚が、俺の道を妨げるな」

 

 邪魔だ。

 

『!?』

 

 喜怒哀楽が漂白された無機質な言葉は、鏖殺の予告。彼の英雄(ベル)に勝るとも劣らない速度で地面を駆ける銀狼は、肉体が黒曜石で構築された生きる鎧とも呼べる『オブシディアン・ソルジャー』を拳一つで粉砕する。

 

「僕も負けていられないね」

 

 縦横無尽な戦い振りを披露するベートを横目に、道化師の頭領たる小人の勇者は群れて襲いかかってくる骸骨の容貌を模した『スパルトイ』を次々と斬り伏せて、骨の山を築き上げた。

 

「らぁ!!」

 

「はぁっ!!」

 

 光の亡者を止める手段は無く、逃亡する権利さえ与えられない怪物(モンスター)たちは、訪れる無慈悲な運命(さだめ)を唯々諾々と受け入れることしか許されない。

 

「弱い」と狼が呟いた。

 

「ああ、弱い」と勇者もまた呟く。

 

「てめえらじゃ、Lv.3()雷鳴の英雄(ベル・クラネル)だって倒せやしねえよ」

 

 灰燼と帰した有象を見て、ベートは落胆する。

 

「君たちじゃ、【経験値(エクセリア)】にすらならないよ」

 

 地面に転がる無象を見て、フィンが失望する。

 

 もっとだ、もっと。遙かな高みへ。胸を焦がす憧憬が、光の亡者に無限の力を与える。

 

 しかし、時間の流れは平等だ。英雄も、悪人も、冒険者も、市民も、神でさえ、時の理には抗えない。

 

 光の亡者もまた、時間の理から脱却することだけはできなかった。

 

「ベート、そろそろ帰還しないと、地上を出た頃には夜になってしまうよ」

 

「んじゃあ──」

 

 ベートは獰猛な笑みを浮かべて言った。

 

「最後にアレやってくか」

 

「そうだね」

 

 闘志ほとばしらせる光の亡者たちは、37階層の支配者(おう)が坐す謁見の間(ルーム)へ向けて歩を進めるのだった。

 

 ○

 

 広大な『ルーム』に侵入者が二人。

 

 謁見の申し出なく、土足で踏み入った犬と子供に憤激するように地面が揺れて、震えて、戦いて。

 

 やがて。

 

 ビキ、ビキ、と泣く地面の岩が砕けると、漆黒の巨人が墓から蘇るがごとく姿を現した。

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

 先ほどまでの雑魚とは比較にならない、生命の危機を直感させる圧倒的な威圧感。

 

 対峙すれば自然と恐怖で四肢が震悚(しんしょう)してしまうほどの凄絶な気配を放つこの怪物(モンスター)こそ、37階層に君臨する絶対的存在。暴虐の秩序を敷く、化生。

 

迷宮の孤王(モンスターレックス)』、Lv.6。

 

 名を、『ウダイオス』。

 

 頭部に鬼がごとき二本の角を生やし、朱色の魂火を眼窩に飼う、漆黒の餓者髑髏(がしゃどくろ)が二人の前に鬼気森然と立ちはだかる。

 

「はっ! この日をずっと待ってたんだぜ、骸骨野郎。誰にも殺られてねえみたいで安心したぜ!」

 

「君には随分と待たされた。少しばかり復活するのが遅すぎると思ってしまうのは、人として落第かな?」

 

 他の怪物(モンスター)と隔絶した存在である『迷宮の孤王(モンスターレックス)』は、一度撃破されてしまうと、一定期間が経過するまで姿を現さない。

 

 前回、期間にして約三ヶ月前。【ロキ・ファミリア】総出で相手をして何とか斃した存在を前にしても、ベートとフィンの表情は翳らない。

 

 寧ろようやくマトモに闘える敵を前にして、戦意に満ち満ちた凶悪な笑顔を浮かべているぐらいだ。

 

「んじゃ」

 

()ろうか」

 

 少しは本気を出させてくれよ、と煽るように嗤う二人の表情に、ウダイオスは憤激の咆哮をほとばしらせた。

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

 怒、怒、怒。大気さえも畏怖させる咆哮から感じ取れるのは、天地を焦がすほどの嚇怒。

 

 絶対に殺す。眼窩で揺らめく魂火がそう叫んでいるのだ。

 

 ──法螺貝の音は鳴った。戦いは、今。

 

「上等だ!」

 

 恐怖の概念を知らないとでも言うかのように、突貫するベート。永久凍土さえ燃え上がらせるほどの殺意の業火を真正面に受けてなお、獰猛。

 

 逃げる兎を追う狼のように、ウダイオスへ臆せず接近していく。

 

「【──吼えろ、黄昏の神狼よ。英雄が鍛えし我が雷牙(きば)をもって──噛み砕け】」

 

 唱えるは、省略詠唱式。ヴァンレーシングとフロスヴィルトが纏う(エンチャントする)は英雄の雷光。

 

「俺を捉えられるか?」

 

 そう言った瞬間、ベートの姿がウダイオスの視界から消える。忽然(こつぜん)と、須臾(しゅゆ)にして。

 

『!?』

 

 目標を見失ったウダイオスは、咄嗟に周囲を見渡して敵の姿を再度捉えようとするが、そうは問屋が卸さない、と邪魔が入った。

 

「君の敵はベートだけじゃないってことを、忘れたのかい? だとすれば、愚かとしか言いようがないね」

 

『ヴォ!?』

 

 人間の言葉に訳せば、いつの間に!? といったところだろう驚愕の声を挙げるウダイオスは、足もとで槍を振るおうとしているフィンを叩き潰さんと、右手を振り下ろした。

 

「遅い」

 

 巨体であるがゆえの緩慢な動作(モーション)は、フィンからすれば止まっているのも同義。中指と人差し指の間に滑り込んで回避すると、

 

「上半身だけでも転ぶのか、試してみようか」

 

 ティル・ナ・ノーグ。

 

 小柄な体躯から放たれる願いの投擲が、夜空を流れる流星のようにウダイオスの顔面に突き刺さった。

 

 ビキ、ビキ。

 

 漆黒の髑髏に生じる亀裂。

 

 一秒後、粉砕。

 

『ウオオオオオオオオオ!?』

 

 悲痛な叫びを挙げる孤独な王は、腕を振り乱して暴れ回る。その行動に意味はなく、また捕食者たちにとって価値は無かった。

 

「恐慌状態、か……」

 

 既に、ウダイオスの命運は決まっている。二人が『ルーム』に足を踏み入れた瞬間から。否、地下迷宮(ダンジョン)に潜ったそのときから。

 

 ウダイオスでこの程度なのか。

 

 ぼそりとそう呟くフィンの表情は失望に濡れていた。

 

「ベート、もう終わらせよう。ウダイオスからは、何も得られない。長引かせるだけ時間の無駄だ」

 

 声を掛けられた狼は空中。

 

 仰向けに転倒した、顔無し、下半身無しの骸骨を詰まらなそうに見下ろしながら、一言。王を処刑する断頭の言葉を告げる。

 

「死ね」

 

 雷が大地に落ちるように、雷狼の顎門(ヴァンレーシング)の鉄拳がウダイオスの(ほね)を貫き(ませき)を砕き、勝敗は決した。

 

『────』

 

 謁見の間に、王の姿はなく。

 

 王だったモノの証である巨大な魔石の欠片(ぎょくざ)の上で胡坐を掻きながら、銀狼は深い溜息をついた。

 

「時間の無駄だったな」

 

 同意するように、勇者が肩を竦めた。

 

「だね」

 

 両者の心に勝利の昂揚はなく。ただ、虚しさだけが渦巻いている。

 

 これならば、二人で模擬戦(ころしあい)をしていた方がずっと有意義だったかもしれない。そんなことを考えてしまうほど、37階層の『迷宮の孤王(モンスターレックス)』は弱かった。

 

「もっと下じゃねえと駄目か」

 

 更に『下層』へ潜りたい欲求が心のうちで暴れ狂う。しかし、団長と幹部が誰にも告げず一日を空けてしまえば、大問題に発展するのは明らか。

 

 責任ある立場に就く人間は、自由気ままとはいかないのである。

 

「はぁ……帰るぞ、フィン。腹が減っちまった」

 

「それじゃあ早く帰って、ご飯にしよう…………でも、どうしてだろう。夕食のことを考えると、親指が疼いて仕方がない……」

 

「なに? お前の親指が疼くのなんて、久しぶりじゃねえか」

 

「あ、ああ。今日は一段と疼きが強い……一体、何が待っているというんだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 帰還後、親指が疼いた原因を嫌というほど思い知ることになるのを、二人はまだ知らない。

 

 



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変わるために(スパークル)

 (すす)塗れな、人生でした。

 

 頭頂から爪先まで灰をかぶって、心は燃え殻のように空虚。

 

 双眸を疑心と暗鬼で覆い隠して、魂は現世を拒んで来世を望みました。

 

 でないと、狂ってしまいそうだったから。精神が崩壊してしまいそうだったから。

 

 あぁ、なんて最低な人生。あぁ、なんて最悪な運命。

 

 世界はリリを愛してはくれなかった。神様たちはリリを救ってはくれなかった。

 

 誰も、リリを見つけてくれなかった。

 

 リリだって、望んで【ソーマ・ファミリア】の眷属になったわけでは無いんです。両親が【ソーマ・ファミリア】の構成員だったから。父親が、母親が、神ソーマの眷属だから、子であるリリもまた親と同じ派閥(ファミリア)の眷属になった。理由はそれだけ、一つだけ。

 

 子供の意思なんて、関係ない。理性を蒸発させる『神酒(ソーマ)』に溺れるような両親が、我が子の未来を想って地獄から逃がしてくれるわけがありませんでした。

 

 金を稼げ! 

 

 役に立て! 

 

 両親が発した最古の言葉は、愚劣極まりないものでした。少なくとも、年端もいかない幼子に向けるべきものではないでしょう。

 

 ですが、リリにとってはこれが両親から贈られた最初の言葉でした。物心がついたリリにとって、最初の……。

 

 今にして思えば実に馬鹿馬鹿しいことですが、昔のリリは両親に褒めて貰いたくて、様々な手段(殆どが非合法)で金銭を稼いでいました。 

 

 頑張ったな。

 

 偉いわね。

 

 その一言が欲しくて、リリは辛い現実と戦い続けたのです。

 

 ですが、全部、無駄でした。

 

 幾らお金を稼いでも、父も母もリリを褒めてくれることはありませんでした。いつだって浴びせられるのは、罵詈雑言と不満と暴力。

 

 リリが望んだたった一つの(のぞみ)を、二人は最後の最期まで与えてくれませんでした。

 

 いつ頃だったでしょうか、両親は気付けば死んでいました。団員の話によれば、『神酒(ソーマ)』を飲むために、身の丈にあわない冒険に挑み、呆気なく怪物(モンスター)に喰い殺されたらしいです。

 

 無様だな、と団員は嗤っていた。

 

 そうですね、とリリも嗤っていた。

 

 本心でした。親らしいことなんて何一つしてくれなかった癖に無責任にもリリを産んで、育児の放棄に留まらず金稼ぎを強要した挙げ句、勝手に死んで。

 

(何がしたかったんですか……)

 

 その時、リリは思いました。どうして、リリは生まれてきたんだろうと。なぜ、リリはこんな地獄にいるんだろうと。

 

 過去は泥、現在は沼、未来は闇。

 

 人には過ぎたる『神酒(ソーマ)』を身内で奪い合う殺伐とした【ソーマ・ファミリア】に、本当の意味での仲間なんていません。

 

 誰もが敵。誰もが孤独。誰もが邪魔者。【ソーマ・ファミリア】は派閥(ファミリア)としてとっくに終わっていたのです。団長から末端の団員までも(リリを含めて)、皆ゴミ。

 

 ここから逃げたい。次第にそんな思いがリリの心のうちを支配しました。ですが不幸にも、派閥(ファミリア)を拡張する際にあの悪魔のような飲み物(ソーマ)を飲んでしまったのです。

 

 神が造りだした酒は、孤独に苛まれていたリリの魂を魅了しました。もっと、欲しい。もっと、飲みたい。孤独の痛みを忘れたい。いつしか、頭の中は『神酒(ソーマ)』で一杯になっていました。

 

 リリが歩む人生の道程が後戻りできないくらいに狂い始めたのは、この時からでしょう。

 

 一滴でも多くの『神酒(ソーマ)』を得るために、リリは独力で金を稼ごうとしました。誰かと組むなんて恐ろしい真似はできませんでした。裏切りという不安の種が心に植えられるだけですから。

 

 しかし、待っていたのは理不尽な現実。暗黒がごとき絶望だけ。

 

 リリには、冒険者としての才能や素養が致命的なまでにありませんでした。何度か武器を変えて、戦い方を変えて藻掻いて足掻いてみましたが、徒労という結果が訪れるだけ。

 

 結局、リリはサポーターに転向するほかありませんでした。それは、言い換えれば、搾取される側になるということです。

 

 あくまで冒険者の補助であるサポーターが冒険者に金銭面で勝てるわけがなく。冒険者とパーティーを組んだとき、何かしら難癖をつけて不当に報酬を減らす輩が多く、まるでお金が稼げないのです。つまりは、奴隷。魔石を運搬してくれる道具。冒険者の方々は、サポーターを人間扱いしてくださらなかった。

 

 ある時、『神酒(ソーマ)』の魅了から脱したリリは、現状に堪えかねて【ソーマ・ファミリア】から逃走したことがありました。

 

 逃げる、逃げる、逃げる。あてもなく、無我夢中で。

 

 全てが嫌になったのです。【ソーマ・ファミリア】の眷属であること、『神酒(ソーマ)』を巡って争うこと、サポーターというだけで罵詈雑言を吐かれること、死ぬまで続く暗黒の現実、それら全てに耐えられなくなったのです。

 

 雲隠れに成功し何者でもなくなったリリは、何とか経歴を誤魔化して仕事に就くことができました。あの時は幸せでした。勤め先である花屋の老夫婦は温和で優しく、リリを自分の娘のように可愛がってくれました。

 

 ああ、これが親が子に注ぐ愛なのか、と思いました。ずっとこのまま、リリルカ・アーデじゃない自分でいたい、と願いました。

 

 しかし、ささやか幸福は期限付きだったのです。

 

 どうやって嗅ぎつけたのか、奴らが、【ソーマ・ファミリア】の団員たちがリリの前に姿を現しました。

 

 彼らは暴れました、獣のように醜く、本能のままに。バリン、バリン、と花瓶が砕ける音はリリの幸せが消える音と同じでした。

 

 リリは、理不尽な暴力を前に抵抗の意思さえ見せられず、頬を伝って滴り落ちた涙で滲んだ地面を、じっと見つめていることしかできません。

 

 やがて、リリの金を奪い満足そうに彼らは帰って。対価としてリリは老夫婦から追い出されました。

 

 もう二度と、その顔を見せるな。

 

 この疫病神。

 

 彼等の瞳には憎悪と侮蔑が宿っていました。

 

 半ば強制的に【ソーマ・ファミリア】へ、地獄へ戻ることになったリリは、思いました。

 

 冒険者は屑だと。サポーターを人として見ない、金を生み出す都合の良い存在としか考えていない、畜生だと。

 

 だからリリも、彼らと同じ屑に、畜生に、堕ちることにしました。

 

 それからリリは、姿を変えられる【シンダー・エラ】という魔法を使って、パーティーを組んだ冒険者たちの武器や道具(アイテム)装身具(アミュレット)に魔石などを盗むようになりました。

 

 サポーターを財布程度としか見ていない冒険者たちを出し抜くのは、快感でした。痛快でした。

 

 蔑み、見下すサポーターに一矢報いられる気持ちはどうだ、と言ってやりたい気持ちでした。

 

 それと同時に、心はどうしようもなく苦しくて、痛くて、泣いていました。

 

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 

 心はそう叫んでいるように思えました。

 

 そんな時です。

 

 運命の出会いを果たしたのは。

 

 光よりも眩しく、希望よりも輝いている英雄(ベル)様と出会ったのは。

 

 ──初めまして、お嬢さん。突然なんだけど、僕のサポーターになってくれませんか? 

 

 あの日、あの時、差し伸べられた手は太陽よりも温かく、煌めいて見えました。

 

 変わるのなら、今だ。彼の手を掴め、と心が訴えかけてきました。

 

 不安、恐怖、疑心は当然、ありました。

 

 コイツもお前を騙そうとする冒険者に過ぎない、と囁く声が聞こえました。

 

 でも、それ以上に信じてみたいという気持ちを、英雄(ベル)様は抱かせてくれたんです。

 

 そして、掴みました。差し伸べてくれた、英雄の手を、しっかりと。

 

 今のリリでいたくないと思ったから。

 

 だから、変わるために、一歩を踏み出さないといけません。

 

 リリが誇れるリリになるために。

 

 英雄(ベル)様を貶めないサポーターになるために。

 

 罪を、贖うために。

 

 ○

 

 昼下がりの午後、メインストリートを大きく外れた裏路地で男の荒げた声が響いた。

 

「サポーター風情が、ふざけた真似してくれやがって!」

 

 吐く声は激しく、紡ぐ言葉は暴れて、地面に這いずる少女を何度も何度も殴打した。

 

「こちとら、テメエが盗んだってことぐらいとっくに気づいてんだよ。あぁ!? それが今さら『返します、ごめんなさい』だぁ!? 返品と謝罪程度で済むと思ってんのか!?」

 

 罵倒は更に激しさを増して、まるで溶岩吐き出す火山のようだ。

 

「冒険者様に逆らうなんざ、百年早いんだよ! このクソサポーターがっ!」

 

 吐く言葉より早く、少女の頬を殴る男。

 

「さぞ楽しかっただろうなぁ、人のモンを横取りするのは! どうせ心の中でバカにしてたんだろう!」

 

 顔面、殴打(パンチ)

 

「サポーターごときに盗まれるなんて間抜けな奴だって嘲笑ってたんだろ!?」

 

 横腹、足蹴(キック)

 

 殴打、足蹴を憤怒のままに幾度も、執拗に少女へ浴びせ続ける男。

 

「ホントにイラつかせてくれるぜっ!」

 

 数分後、暴力の嵐が収まると男はボロ雑巾のように地面に転がる少女の胸倉を掴んで、「俺以外の奴らからも沢山くすねてんだろ、どうせ!」と罵声をぶつける。

 

「ごめん、なさい……」

 

 微かに聞こえる、少女の声。

 

「それしか、喋れねえのかよ……」

 

 唸り声に似た呟きを洩らす男は、目を覆いたくなるほどの痛ましい怪我を負った少女を見ても気が収まらないらしく、

 

「その態度が、気に食わねえって言ってんだよテメエ!」

 

 という怒声の後に少女の腹を容赦なく蹴った。

 

「うぐ!?」

 

 小石のように宙へ浮いて地面に再び転がる少女は、腹を押さえながら頭を下げた。

 

「本当に、申し訳、ありませんでした……」

 

 既に数え切れない罵倒と暴力を浴びせられているにもかかわらず、少女はひたすら謝罪を続けた。

 

 はぁ、はぁ。

 

 激情のままに少女へ暴行を加え続けて疲弊したのか、男は荒い呼吸を繰り返す。

 

「ちっ、クソがよぉ……どうしたってんだ、気持ち悪い。今まで散々、盗みを働いてきたくせに。今さら盗んだモンを返しに来た挙げ句、謝罪までしやがって。……頭でも打って、イカレちまったのか……?」

 

 幾らいたぶっても、泣かず、叫ばず、黙々と謝り続ける少女に、男は怒り以上に気味の悪さを感じた。

 

「もし、返品だけで満足していただけないのでしたら、慰謝料をお支払いします。ですから、どうか……」と極東伝来の土下座をしながら少女は言った。その口元からは血が滴っているのが見える。

 

「なんなんだよ、本当に……」

 

 そう言いながら後退る男の表情は引き攣って、双眸には恐怖を灯している。

 

「クソがっ! しらけちまったぜ、全くよぉ! いいか、もう二度と俺様から盗もうだなんて馬鹿な真似はするんじゃねえぞ、このクソパルゥムが!」

 

 それだけ言い残して、男は一刻も早くその場を離れようと足早に立ち去った。

 

 ○

 

 男が去って行くのを見届けた少女──リリルカ──は、ズキズキと痛む腹部をおさえながらふらふらと立ち上がった。

 

「う……」

 

 呻く声は、止められず。全身が、精神を狂わせるほどの激痛を訴えている。

 

 ただでさえ金にがめつい【ソーマ・ファミリア】の構成員に、直接盗品を返したのだから当然の結果だった。

 

「あと、四件……ですね……」

 

 リリルカは現在、これまで盗んだ物(既に売ってしまった物に関してはヴァリスで弁償)を持ち主に返すために都市(オラリオ)中を駆けずり回っていた。

 

 罵詈雑言を浴びせられること十数回。顔面を殴打されること、数百回。腹を蹴られること、数十回。盗品を返すたびに、傷と痛みを増やして、もはや心身ともに限界に達している。

 

 それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない、とリリルカは奮起する。

 

(変わりたいんです、リリは……胸を張って、英雄(ベル)様のサポーターと名乗れるように……)

 

 闇でない、光の未来を掴みたいという想いが、リリルカを前へ前へと突き動かしていた。

 

 痛みはとっくに許容範囲を超えている。心は亀裂が生じて壊れる寸前だ。

 

 だが、リリルカは止まらない。

 

「変わって、見せるん、です……リリは……」

 

 一歩、一歩、足を引きずりながら、前へ進み続ける。

 

「あの日、あの時、英雄(ベル)様の手を掴んだ瞬間から、リリの止まっていた物語(じんせい)はまた動き出したんです……だから、こんなところで、諦められません……」

 

 目深く被ったフードから覗く双眸に宿るのは、強い決意の光。

 

 過去の罪を贖うことが、リリルカ・アーデという少女の新たな出発点だ。

 

「待っていて、ください。英雄(ベル)様……すべてが終わったとき、リリは必ず……」

 

 絶望に抗う小さな背中は、リリルカが地下迷宮(ダンジョン)で見た英雄の背中に似ていた。



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憂いは怒りへ(ラス・オブ・ゴッド)

 太陽が大地から顔を覗かせた頃に本拠(ホーム)へ帰宅した不良少年のベルを出迎えたのは、眉根を顰めてむつかしい顔をしているヘスティアだった。

 

「むむぅ……」

 

 呻く声が一つ。

 

「どうしたんですか、神様。そんなに頬を膨らませて」

 

 部屋へと続く石段を降りながら、ベルが訊ねた。

 

「やぁ、お帰りベル君。夜の家出は楽しかったかい?」

 

「うぐっ、バレてたんですね……」

 

「当然さ、ボクを誰だと思っているんだい。君の神様だぞ。ベル君の考えていることなんて、全部お見通しなのさ!」

 

 むん、と胸を張って豊満な双丘をぷるんと揺らしながら誇らしげに言うヘスティア。左右で結んだ黒髪もクルクルと回って、自慢気な態度を強調している。

 

「出て行くとき、何も言われなかったので起きてないと思ってました……」

 

 そう言って、俯くベル。

 

「ごめんなさい、神様。昨日、大丈夫だって言ったのに」

 

「……良いんだよ、気にすることはないさ。突然、魔法とスキルが使えなくなったんだ。今の力量がどれくらいのものなのか試しておきたかったんだろう?」 

 

 はい、と首肯するベルの表情は暗い。

 

 危険な行為だとわかっていても止めようとは微塵も思えない自らの精神性が、ヘスティアの心を傷つけていることを強く感じていたからだ。

 

 そんな、少年の胸中を察していた慈悲深き炉の女神(ヘスティア)は言った。

 

「ボクは君が無事に帰って来てくれるだけで充分さ。ほら、何時もの元気はどうしたんだい。悩むより前へ進む方が向いてるんだろ? なら、ベル君は自分の望んだ道を迷わずに進み続ければいい。ボクは、そんな君が大、大、大好きなんだ」

 

 照れるでもなく、恥ずかしがるでもなく、ごくごく自然に、それこそ息をするかのように紡ぐその言葉には、一片の偽りもない。

 

 あるのは、ベルへの慈愛だけ。眷属へ注ぐ、純真な想いだけ。

 

「ありがとうございます、神様。僕も、神様のことが、大、大、大好きです」

 

 だからだろうか。ベルの口からは自然と、想いの宿る言葉がこぼれた。ゆえに、本心。紡ぐ言葉には一滴の嘘すら混じっていない。

 

 違うのは、愛の質。ベルがヘスティアへ向けるのは家族の愛で、ヘスティアがベルに向けるのは異性の愛であることだろう。

 

 その致命的な違い(ズレ)を理解しているヘスティアは、「うん、知ってるよ」と少し淋しそうな笑みを浮かべながら言った。

 

 今はまだ明かせない、心の熱。何時か伝えられる日が来ることを、ヘスティアは心の底から願っている。例えベルが想いを向ける相手が、自分でないとわかっていても。

 

 簡単に諦められる愛ではなかった。

 

 ○

 

「あ、そうだ。話が逸れちゃいましたけど、何かあったんですか? 帰ってきた時、険しい顔してましたけど」と訊ねるベル。

 

 本題から大きく逸れてしまったことに、ようやく気がついたのだ。

 

「いやね、ベル君。君がナントカというお店で借りたこの本が、ちょっとね」

 

 視線を向ける先にあったのは、ベルから魔法とスキルを奪った因縁浅からぬ一冊。黄金の装飾が施された古めかしい書籍だった。

 

「これが、どうかしたんですか?」

 

「ベル君がいない間に気になって読んで見たんだけど、どうやらこれは普通の本じゃないみたいでね」

 

「普通じゃ、ない……」

 

 思い当たる節しかなかった。

 

「最初は魔導書(グリモア)かと思ったんだけど」

 

魔導書(グリモア)、ですか」

 

 ベルの持つ知識が正しいのであれば、魔法を強制的に発現させる貴重書だったはずだ。

 

 値段で価値を計るのなら、数千万ヴァリスはくだらないだろうと記憶している。

 

「でも、ナニカが違う。具体的に何がとは言えないけど、これはただの魔導書(グリモア)じゃない」

 

 もっとそれ以上の、と微言するヘスティア。彼女が何を思っているのか、人間であるベルには窺い知れない。

 

「そういえば、ベル君の魔法とスキルが使えなくなったのって、この本を読んだあとだよね」

 

「それは……」

 

 嘘のつけないベルは、言葉を詰まらせる。

 

「やっぱり」とヘスティアは言った。

 

「読んだことで、どんなことが起こるのか、その効果はわからない。だけど、ベル君が魔法とスキルを使えなくなったのは、間違い無くこの本が原因だ」

 

 キミも心当たりがあるんだろう? と何処か不機嫌に言うヘスティア。

 

「神様、怒ってます……?」

 

「いいや、怒ってない。ただ、悲しんでるんだ。どうして【ステイタス】を更新したとき、すぐに言ってくれなかったんだろうってね」

 

 ごめんなさい、と素直に謝るベル。

 

「言っただろう、ボクは別に怒ってるわけじゃない。それより聞かせてくれ。この本を読んで、君の身に何が起こったのか」

 

「わかりました」

 

 真摯な視線で見つめるヘスティアに、ベルは姿勢を正してしっかりと頷いた。

 

 ○

 

「なんてことだ……」

 

 ベルの話を聞き終えたあと、ヘスティアは頭を抱えてソファに座り込んだ。

 

(まさか、そんなことが起きるなんて……可能性としてはあり得ないわけじゃない。前世の魂が今世の人格にいくらか影響を与えるのは、よくあることだ。決して珍しいことじゃない)

 

 だが、しかし。

 

(ベル君は例外だ。その身体に宿す魂は、普通(・・)じゃない。■■■■■は今世の魂を、ベル・クラネルという人間を喰らい潰すだけの力がある……)

 

 ヘスティアは知っている、()の驚異的な精神力を。ヘスティアは見ている、()の最上無二な意志力を。

 

 ヘスティアは覚えている()の魂に刻印された宿命を。

 

(もう、終わったはずだろう■■■■■。君の使命は、宿命は、あの戦いで。なのに、まだ立ち上がるというのかい? 今世の自分さえも排除して、地上で最高神(ゼウス)の怒りを代弁する天霆になろうとでもいうのかい?)

 

 蘇る、怪物の父と繰り広げた激闘の記憶。雷鳴轟き、大地鳴動し、野山燃え盛り、蒼空は焦げて、大海が煮え滾る、究極の殺し合いで■■■■■は最高神とともに戦い、怪物の父を斃し、その命を散らせた。本来であれば、■■■■■の物語はここで終幕となるはずだった。どこまでいっても■■■■■は、鍛冶司る独眼(ヘファイストス)神性(みぎめ)を素にして鍛えられた武器に過ぎないのだから。

 

 しかし、他の武器と違い、■■■■■には確かな意思が、自我が、魂が宿っていた。

 

 神の姿を模した、魂を持つ武器。果たしてそれは、生命でないと言えるだろうか。所詮は武器に過ぎないと言えるのだろうか。

 

 答えは否。

 

 目の前に生きるベル・クラネルが、■■■■■は生命であると証明していた。

 

(……このまま大人しくしていてくれたらと思ったけど、ボクの見通しが甘かったみたいだ……まさか、こんな物を使って強引に■■■■■の魂を引きだそうとするなんて)

 

 間違い無く、故意だ。幾ら善良なヘスティアでも、今回の件が偶然だとはとても思えなかった。

 

 黄金の装飾を施されたこの本は、恐らく特注品(オーダーメイド)。効果について確信はできないが、魂に干渉する何かが施されていたのだろうとヘスティアは踏んでいる。

 

 何者かが、ベルという存在を■■■■■に上書きしようとしているのだ。それも、主神であるヘスティアに勘づかれるほど強引な手段を用いて。

 

(誰だ。一体誰が、こんなことを……)

 

 犯人を見つけようにも、判断材料が少なすぎる。今、犯人と確かに繋がっているのは机に置かれた本しかない。

 

 なら。

 

(手ぐすね引いてはいられないね。手掛かりがあるうちに動かないと……手遅れになってからじゃ遅い……)

 

 熟考の最果てで決意を固めたヘスティアは顔をあげて、ベルの方へ向き直る。

 

「ベル君」

 

「……なんですか」

 

 真剣な面持ちで見つめてくるヘスティアに、ベルは緊張を隠せない。彼女が何を言おうとしているのか、薄々感づいているからだ。

 

 ヘスティアが紡ぐ、言葉を。

 

「この本を借りたっていう、豊穣の女主人とやらへ行ってみようじゃないか」

 

 当然、ベル君も一緒にね。

 

 そう付け加えたヘスティアにベルは顔を強張らせながら、こくりと小さく首肯する。

 

 普段は明朗快活で慈愛に満ちているヘスティアが、神威をほとばしらせるほど怒っているのを見たのは、これが初めての経験だった。



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疑心、抱く(ブラック・シード)

who the hell is she(彼女は一体、誰でしょう)


 不安そうな顔をするベルの手を引っ張りながら、ヘスティアは活気に溢れるメインストリートをズシズシと歩く。

 

「ひぃ!?」

 

「うわぁ!?」

 

「ごめんなさい、許してぇ!?」

 

 憤然と神威をほとばしらせるヘスティアを間近で見た人々は、一様に顔面蒼白。まるで怪物(モンスター)遭遇(エンカウント)したかのように、慌てて道を譲る。

 

 その光景は、異様。一刻前まで明るい喧騒が奏でられていた平穏無事な西の街道は、一転して不気味な静寂に包まれていた。

 

 一部、憤怒する女神を見て仰天した憫然たる者たちの叫び声が虚しく響くものの、それ以外の音の一切が息絶えてしまっている。

 

 圧倒されているのだ、ヘスティアに。震恐(しんきょう)しているのだ、幼子がごとき短躯からほとばしる神威に。

 

 例外は、彼女と同一の存在である神々だけ。しかし、普段は呑気な彼等も目を見開いて驚愕を露わにしている。 

 

「何があったってんだ……」

 

 現実を逃避するように視線を逸らす者。

 

「妾は何も聞いておらんぞ……なーんにも、聞いておらーん……」

 

 思考を放棄するように耳を塞ぐ者。

 

「今日のことは誰にも言わないから、俺だけでも助けてくれぇ…………」

 

 恐怖に耐えるように口を噤む者。

 

 見ざる、聞かざる、言わざるとヘスティアを拒絶する様は千差万別、十神十色。されど、根幹は恐怖で統一されている。

 

((((誰が、彼女を怒らせたんだ!!))))

 

 内心で、叫ぶ言葉が一致した。

 

 故郷において十二神の地位にさえ選ばれたことのある(地上での堕落した生活ぶりからはとても考えられないだろうが)あの(・・)慈悲深き女神が、神威を露出させるほど激怒するのは、天変地異の前触れかと思ってしまうほど稀有な事態だった。

 

 それゆえに、これからどんな大事件が起こるのかと神々は戦々恐々としているのだ。

 

 チラチラ、ジロジロ。ガヤガヤ、コソコソ。

 

 雨注のごとく注がれる奇異と畏怖の視線。

 

 満ちては引く潮のごとく囁かれる様々な憶測と根拠の虚ろな噂など気にも留めず、人の海を割って進むヘスティア(と手を引かれるベル)。

 

「か、神様! 落ち着いてください!」

 

「これが落ち着いていられるかい! ボクのベル君が酷い目にあったんだ、黙っているなんてことできるわけがないだろう!」

 

「でも、本を借りると決めたのは僕自身の意思です。本を読むと決めたのも、僕自身の意思です。……豊穣の女主人の皆は、悪くありません」

 

 そう言って、ベルは足を止めた。

 

「もし怒るというのなら、神様に相談もせず勝手に他人の本を読んだ僕を怒ってください」と真っ直ぐな瞳でヘスティアを見るベル。

 

「う……」

 

 冷静かつ真摯な態度のベルを前にして、ヘスティアは神威を萎ませた。

 

 激情を抑えて見つめた深紅(ルベライト)の瞳は、決して諍いを望んでいなかった。それどころか、血のように赤い怒の感情に振り回される自分を心配していることに、ヘスティアは気づく。

 

 すぅ。はぁ。深呼吸を一つ。

 

 胸の奥で暴れる感情の荒波を落ち着かせてから、ヘスティアは口を開いた。

 

「ごめんよ、ベル君。ボクは君の神様なのに、君の思いを無視してしまった。こんなボクを許しておくれ」

 

 目尻に涙を謝罪するヘスティアに、ベルは優しく微笑む。

 

「許すだなんて……そんな悲しいこと、言わないでください。神様は僕のことを想って怒ってくれただけなんですから。ただ、その怒りが激しかっただけで、その想い自体は凄く嬉しいです」

 

「ありがとう、ベル君……」

 

 ぐすっと鼻を鳴らして、ヘスティアは感謝の気持ちを言葉で綴る。

 

 ベルは、知っている。ヘスティアがどれだけ自分を大切にしてくれているのかを。それと同時にどれだけ心配してくれているかも、知っている。

 

 だから、自分の為に怒ってくれるヘスティアの行動は決して間違いではなくて。責めるようなことでもなくて。

 

 ただ少しだけ、感情に振り回されてしまっただけで。想い自体は決して否定すべきものではない。

 

「……君は自分のことを自分勝手な屑野郎だって思ってるみたいだけど。そんなことはない、やっぱりベル君は優しい子だよ。僕の自慢の眷属だ」

 

 そう言って、愛おしそうにベルの白髪を撫でるヘスティア。

 

「神様……」

 

「ごめんよ、ベル君。さっきは情けない姿を見せてしまって」

 

 でも、とヘスティアは言葉を続ける。

 

「この本については、しっかり聞かないといけない。これだけは譲れないよ」

 

 右手に持つ本を握りしめながら、ヘスティアは言った。

 

「分かってます。僕も、この本が一体何なのか、落とし主が誰なのか気になりますから」

 

「そうだね、この本の所有者には聞きたいことがたっぷりあるんだ。何か手掛かりになる話が一つぐらいあるはずだ」と呟いたヘスティアは、ベルと二人豊穣の女主人を目指して歩みを再開した。

 

 ○

 

「ここです」

 

 ベルが案内する形で辿り着いた豊穣の女主人は、歩いて数分の距離にあった。外観は他の建物と特に大差は無いように、ヘスティアには思えた。

 

「ここが、豊穣の女主人……」

 

 名付けられた店名が頭の片隅で引っかかるのを感じたヘスティアだが、違和感はすぐに霧散した。

 

運が良い(・・・・)ですね、今日はまだお店が開いていないみたいです」

 

 食事のメニューが書かれた看板が出ていないのを見て、ベルはそう言った。

 

 営業している最中では邪魔が入る可能性があるし、集中して話ができないかも知れなかったので、ヘスティアたちからすれば都合が良かった。

 

「それじゃあ、入りましょう」

 

「うん」

 

 二人揃って店に入る。

 

 営業前の店内は、沢山の客で賑わう夜とは打って変わって、閑散とした雰囲気に包まれていた。一瞬、ベルは入る店を間違えてしまったかと思ったほどだ。

 

 人の気配が無い。女将であるミアの姿や姦しいウェイトレスたちの姿もない。

 

 静寂だけが、ベルとヘスティアを出迎えている。

 

 そこへ。

 

「あれ、ベルさん。どうされたんですか、 今は営業時間外ですよ」

 

 クス、と笑いを洩らしたあと、いつもとはどこか違う妖艶な笑みをたたえたシルが、厨房から現れた。

 

 その表情は、普段の彼女を知る者ならば目を疑ってしまうほど、大人びていて、作り物のように佳麗(かれい)だった。

 

(あれ? この子、どこかで……?)

 

 薄鈍色の髪をした少女を見て、ヘスティアは強烈な既視感に襲われた。

 

(ボクは、彼女を、知っている?)

 

 既視感は少女を見つめ続けるごとに強くなっていくが、どこで見たのかまでは思い出せない。喉元まで出掛かっているのに、あと一歩のところで届かない。

 

 そんな歯痒い思いに頭を悩ましている間に、ベルとシルは挨拶を終わらせてしまったらしく、二人の視線がヘスティアに向いた。

 

「あの、ベルさん。この方は……もしかして……?」

 

 おずおずと訊ねるシルに「はい」と頷くベル。

 

「僕の神様です」

 

 紹介されたヘスティアが一歩前へ出る。

 

「どうも初めましてだね。ボクの名前はヘスティア。ベル君の主神だ。ボクの子がいつもお世話になってるね」

 

「私はシル・フローヴァと言います。ベルさんの主神である神ヘスティアに会うことができて、とても嬉しいです」

 

 それにお世話になっているのはこちらの方ですよ、と口元を手で隠して笑うシルからはどこか澱んだ気配が洩れている。加えて、ヘスティアへ向ける笑顔はどこか貼り付いているように見えた。

 

 圧倒的、違和感。

 

 まるで、シルがシルでないような感覚にベルは陥った。

 

「シル、さん?」

 

 思わず、彼女の名前を呼ぶベル。

 

「どうかしましたか?」

 

 振り向くシルは、ベルが抱いた違和感を否定するような涼やかな声音と柔らかい微笑みを携えていた。

 

「い、いえ……なんでもありません……」

 

 慌てて首を横に振るベル。

 

(気のせい……なのか……?)

 

 ベルは一度深呼吸をして、心を落ち着かせる。

 

 魔法とスキルを使えなくなった影響なのか、他者の嘘を見極める眼力さえも失ってしまったベルには、違和感を氷解させる手段はなかった。今のベルは、ただ英雄になると誓った少年でしかない。

 

 そんなベルの様子を見たヘスティアは、改めて目の前の少女を観察する。

 

(…………むぅ)

 

 外見から判断するに、年齢はベルより数歳は年上だろう。背丈はベルと同じくらい。顔は素朴ながらも整っていて美少女と呼んでも差し支えない可愛さを輝かせている。

 

 しかしどれだけじっくりと観察しても、先ほど感じた違和感が嘘であったかのようにただの少女(・・・・・)にしか見えなかった。

 

「それで、お二人はどうしてここへ?」

 

 シルの一声を聞いて、ヘスティアは思索の海底から浮上。その意識を現実へと向ける。

 

「神様」と促すベルに首肯して、ヘスティアは一冊の本を差し出した。

 

「実は、この本について聞きたいんだ」

 

 黄金の装飾が施されたそれを受け取ったシルは、困ったような表情を浮かべる。

 

「すみません、これはお客様の落とし物なので……どういった内容の本なのか、私を含めて誰も知らないんです……」

 

「他の誰も、分からないのかい?」

 

「はい……」

 

 申し訳なさそうにシルは言った。

 

(嘘は、ついていないみたいだね……)

 

 人間(・・)は神を騙せない。嘘を見抜く能力を持つヘスティアは、シルの言葉が真実であると判断した。

 

「それなら、この本の持ち主に心当たりはないかい?」

 

「どうして、そんなことをお聞きになるんですか?」とシルが質問を返した。

 

「そう言えば、事の経緯を説明していなかったね。すまない、ボクとしたことがうっかりしてた」

 

 ヘスティアはそう言って、ベルが魔法やスキルが使えなくなったことや、借りた本を読んで不思議な体験をしたこと、体調不良に陥ってしまったことなどを、外部に流失させては危険な話などは省きつつ、簡潔に伝えた。

 

「体調不良、ですか……」

 

 ぼそり、と呟くシルの表情に翳りが浮かぶ。

 

「あの、大丈夫ですか、シルさん。急に暗い顔をして……」

 

「いえ、ベルさんのことが心配で。今はもう、大丈夫なんですか?」

 

「まぁ、はい。なんとか……」

 

 シルの問いかけに、曖昧な返事をするベル。

 

「それで話を戻すけど、本の持ち主に心当たりはあるかい?」

 

「ごめんなさい。この本を拾った日はちょうど大混雑していて、お客様の顔を覚える余裕なんてありませんでしたから……」

 

「他の子も?」

 

「はい」

 

 そっか、と呟くヘスティアの表情は深い嘆きに濡れていた。

 

 豊穣の女主人で働く彼女たちが知らないのであれば、持ち主を特定するのは困難だと言わざるを得ない。

 

「……」

 

 会話が、途切れる。

 

「……」

 

 場が、闇のように暗い沈黙に包まれた。

 

 ヘスティアは両の拳を握りしめながら俯き、シルは困ったように視線を右往左往させている。

 

 そんな堪えがたい空気の中で、突然ベルが頭を下げた。

 

「あの、シルさん。もしこれが魔導書(グリモア)なら、僕が勝手に使ってしまったことになります。なので、弁償させてください!」

 

 数秒の沈黙を己が罪と受け入れるベル。

 

 確かに借りた本を読んだことで、魔法とスキルを使用できないという最悪な状況に陥ってしまったが、それはあくまでもベル側の勝手な都合だ。

 

 魔導書(グリモア)(暫定)の持ち主にはそんな事情など関係無い。置き忘れた貴重な一冊を、勝手に使われて奇天烈書(ガラクタ)にされてしまったという悲惨な事実しかない。弁償するのは当然の話だろう。

 

 しかし、ベルの予想を裏切る一声がシルの口から飛び出した。

 

「ベルさん。それには及びませんよ」

 

「え?」

 

 思わず顔を上げたベルの視界に映るのは、本をペラペラと捲るシルの姿だった。

 

「確かにこれは魔導書(グリモア)に似ています。もしも、製作過程が一緒なら一度読んでしまえば既にこれは無価値でしょう」

 

「はい、ですから」

 

 弁償を、と続けようとするベルの唇にシルは人差し指を当てて塞いだ。

 

「ななっ!?」

 

 真横から、驚愕の声が聞こえる。

 

 しかし、幼い容姿の女神様など眼中にないかのように、シルはそのままの体勢で言葉を続けた。

 

「こんな貴重品を置き忘れるなんて、どうぞ読んでくださいと言っているようなものです。それに、リューやクロエから聞いた話によれば、彼女たちが本を読むように薦めたらしいじゃないですか」

 

 なのでベルさんは気にしないでください、とシルは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

 

「ですけど……」

 

「はい、この話はこれで終わりです! これ以上続けるなら、ベルさんは入店禁止とします!」

 

「そ、そんな!」

 

「入店禁止になっても良いんでしたら、止めませんけど」

 

 どうします? 

 

 視線でそう問われたベルは、折れるしか無かった。

 

「分かり、ました……この件についてはもう触れません」

 

「はい!」と言ってはにかむシル。

 

 上手く丸め込まれたような気がしないでも無いベルだが、お気に入りのお店である豊穣の女主人に通えなくなるのはかなりの痛手なので黙っておくしかなかった。

 

「お話はこれだけですか?」

 

「はい。もうありませんよね、神様」

 

 ベルは横で不機嫌そうに二房の黒髪を尖らせているヘスティアに訊ねた。

 

「いや、あと一つだけ」

 

「……なんでしょう、神ヘスティア」

 

「その本を借りたい」

 

「神様?」

 

「ボクの知り合いに、魔導書(グリモア)とかに詳しい奴がいるんだ。もしかしたら、これがどんな物なのか分かるかも知れない。もしかしたら、持ち主も……」

 

「ほ、本当ですか、神様!」

 

 自然、期待の眼差しがシルへ注がれる。

 

 ベルとしては、魔法とスキルが使えないのは自らの問題だと考えているので持ち主に会えても、本の効果が判明しても、きっと解決しないだろうと考えている。

 

 しかし、本の持ち主がどういった人物で、本の製造者が一体誰なのか、純粋な好奇心から知りたかった。

 

「うーん……」

 

 二人の視線を受けて、シルは少し困ったような表情を浮かべた。

 

「私としては協力して差し上げたいんですけど……」

 

「やっぱり、難しいですか?」

 

「はい……」

 

 シルは言った。

 

「読書目的でしたら、本拠(ホーム)の住所を把握してますし、ベルさんなら必ず返してくださると信じているのでお貸しできるんですけど……」

 

 ちらり、と薄鈍色の瞳がヘスティアを捉えた。

 

「初対面のボクじゃ、信用できないかい?」

 

「すみません」

 

 その言葉がすべてだった。

 

「…………シルさん、神様は絶対にこの本を無くしたり傷つけたりなんてしません。僕が保障します。ですから…………ですから……」

 

 言葉は、そこで止まった。

 

「いや、良いんだベル君。当然の話さ。ボクとシル君は初対面。ボクがどんな神でどんな性格をしていて、どんな考え方をするのか、何も知らない。それに、君はこのお店の店長というわけではないんだろう?」

 

 沈黙は雄弁に、真実をヘスティアへ伝えた。

 

「なら、もしも何かあれば責任を取るのは彼女じゃない。この店の主だ。一店員が、責任者の許可も無しに客の落とし物を出会ったばかりの第三者に預けるなんて真似はできないし、しちゃいけない。シル君の判断は正しいよ」

 

「……そう、ですね」

 

「ベル君だってそれをわかってたから言葉を詰まらせた。違うかい?」

 

「…………はい、神様の、言う通りです」

 

 そう言うベルの表情は、苦い薬草を口に含んだときのように渋かった。

 

「あのっ私っ!」

 

「大丈夫。君が気にする必要はないよ。ここからはボクたちだけ(・・・・・・)で何とかしてみせるから、君も仕事を頑張るんだぜ!」

 

「え、ちょ、神様! そんなに強く引っ張らないでくださいよぉ!」

 

「いいから、さっさと行くぞ! 時間は待ってくれないんだから!」

 

 そう言って、両手で掴んだベルの片腕を引っ張りながら二足を動かす小さな神様。

 

「わ、わかりましたから! 自分で歩かせてくださいー!」

 

 愛らしい眷属の悲痛な叫びは憐れ、無視された。

 

 出口は、すぐそこに。

 

「迷惑を掛けたね。今度ベル君と一緒に足を運ぶよ!」

 

「シルさん、絶対また来ますから! その時は料理を沢山注文するので、よろしくおねがいします!」と背中越しに言い残して、ヘスティアとベルは豊穣の女主人を出た。

 

「はい、待ってますよ。いつまでも、ずっと……」

 

 炉の女神と少年の後ろ姿が見えなくなるまでじっと出入り口の扉を見つめる少女の薄鈍色の瞳には、なぜか黄金の狂気が宿っているように見えた。

 

 

 

 

「ふふっ……お馬鹿さんですね。この本をあなたに預けるわけないじゃないですか、ヘスティア」




Is it the girl who is laughing?(嗤っているのは少女?) Or……(それとも)


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魔法なきゆえに(アイアン・ラスト)

肉体錆びれど、想いは錆びず。


 

 本拠(ホーム)へ到着するまで、二人が何かを言葉にすることはなかった。

 

 沈黙よりも重く、静寂よりも静かに、少年と女神は歩き続ける。

 

 本の持ち主に関する手掛かりは得られず、本がどのような効果を引き出すのか知る術も途絶えた現実に、忸怩(じくじ)たる思いを抱えるヘスティア。

 

 地面を踏み締める両脚は石化したかのように重く、歩けと命ずる意思の伝達速度は錆びて鈍かった。

 

(ボクはなんて役立たずなんだ……こういう時ぐらいしか、ベル君の力になってあげられないっていうのに、何もできないだなんて……) 

 

「はぁ……」

 

 北風に似た溜息が、薄紅色の唇から洩れる。

 

 魔法とスキルが使用不可能になる重大さは、眷属がベルしかいないヘスティアであっても十全に理解している。

 

 大前提として魔法のスロットは最大三個までであり、習得できる魔法の上限も同じく三つだ。【九魔姫(ナイン・ヘル)】などの一部例外も存在するが、原則としては三つ。その内の一つが使えなくなってしまったのは痛手以外の何事でもない(そもそもベルは使用不可能になった魔法しか習得していない)。

 

 次にスキルだ。ベルが発現させた【英雄誓約(ヴァル・ゼライド)】は、【ステイタス】が早熟しやすいという単純かつ明快な(レア)スキルである。幾度も死闘に身を投じてきたとはいえ、約一カ月半でLv.3へと器を昇華させられたのはスキルの効果あってこそだろう。

 

 文字化けを起こし正常に機能しているか定かではないスキルが、もし魔法と同じような機能不全状態に陥ってしまっていた場合、ベルは今までのように成長できない可能性が極めて高い。

 

 それは、つまり。英雄になると誓ったベルの歩みが、遅れてしまうということだ。

 

 ヘスティアは目の当たりにしている。

 

 ベルが血反吐をはきながら、過酷な鍛錬を行う姿を。

 

 ヘスティアは知っている。

 

 ベルが英雄になると誓うに至った、過去の悲劇を。

 

 ヘスティアは理解している。

 

 ベルが魔法とスキルが使えなくなった程度で、歩みを止めないことを。死地へ赴く覚悟を、捨てないことを。

 

 理解しているからこそ、辛いのだ。苦しいのだ。悲しいのだ。

 

 なによりも、愛するベルに何もしてあげられない自分の不甲斐なさが、恨めしいのだ。

 

 だからだろう。

 

 胸に渦巻く負の念は血脈を通じて無意識にヘスティアの手を動かして、拳を握り締めさせた。

 

 一方、当事者であるベルの気持ちは凪ぐ海のごとく平静だった。

 

 深夜、一睡もせずに地下迷宮(ダンジョン)で身体を動かし続けて、今の状態をある程度把握できたことが大きな理由だろう。

 

 確かに、魔法とスキルが使えない状況は好ましくない。二刀を鍛えるのに使われた『神星鉄(オリハルコン)』の特性を活かせなくなったのは、戦闘能力が明確に弱体化した証左であるし、スキルがもし機能不全に陥っているとなれば今までのような驚異的な成長は望めない。

 

「だが、それがどうした?」というのが、魔法とスキルを失ってから一日が経過して言笑自若の精神を取り戻したベルの率直な思いだった。

 

 そもそも、都市(オラリオ)へ来る前までは魔法やスキルが使えないどころか、『神の恩恵(ファルナ)』を授かってさえいない一般人だったのだ。

 

 無力な、少年だったのだ。

 

 今は違う。ヘスティアという、眷属を本当の家族のように慮る慈愛に満ちた女神を主神に戴き、【ステイタス】を手に入れた。肉体を鍛えることでしか成長できない、昔の自分ではない。

 

 それだけで、ベルにとっては充分だった。

 

 成長の機会さえ得られたならば、後は進むだけだから。昨日はぐらりと精神が揺らいでしまったがそれも既に収まっているし、魔法を使わずとも『中層』の怪物(モンスター)を相手に圧倒できる現状も変わっていない。

 

 だから神様、あなたが心配することはないんです。僕は前へ進めますから。

 

「あ……ベル君……」

 

 胸中に湧く想いを伝えるように、ベルは横を歩くヘスティアの滑らかな手を握った。

 

 ○

 

 本拠(ホーム)へ帰宅後、ベルは装備を身に纏い地下迷宮(ダンジョン)の探索へ向かう準備を始めた。

 

「神様は仕事に行かなくて大丈夫なんですか?」

 

「あぁ、それなら気にしなくていいよ。今日はジャガ丸君の営業もヘファイストスの所の接客も休みだから」とヘスティアは言った。

 

「だからボクのことは心配せず、行ってくるといい。君が無事に帰ってくることを祈っているよ」

 

「神様……」

 

 ヘスティアの優しい言葉に触れて、ベルはじんわりと心が温かくなるのを感じた。

 

「絶対に、帰ってきます。神様をひとりぼっちになんてさせませんから」

 

「うん、ボクをひとりにしないでおくれよ。ベル君はボクの大事な家族なんだから」

 

 ヘスティアの真心で火照る温かく柔らかな手が、ベルの頬に触れた。

 

「今の君は魔法が使えないんだ。そのことをしっかり頭に入れて置くんだぞ。【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】と呼ばれる君が、魔法が使えなくなったぐらいで敗北なんてしちゃいけない。そうだろ?」

 

 忠告と激励が織り重なる言葉に、ベルはゆっくりと頷いた。

 

「それじゃあ、行ってらっしゃい。ベル君」

 

 その一声にヘスティアは、愛情を、悲哀を、不安を込めた。

 

「行ってきます、神様」

 

 返す一声にベルは、恩愛を、決意を、感謝を込めた。

 

 一瞬、交わる青と赤の双眸。

 

 やがてどちらともなく視線を外し。

 

 ベルは自分を想ってくれる女神に背を向けて、元気よく階段を駆け上がっていった。

 

「……行ってらっしゃい」

 

 扉を開けて出て行くベルへもう一度、見送りの言葉を贈るヘスティア。

 

 その一声に込められた想いの形は、彼女しか知らない。

 

 ○

 

 リリルカとの待ち合わせ場所である中央広場(セントラルパーク)へ向かう途中、ベルはとある場所へと足を運んだ。

 

 目的の店は、裏路地にひっそりと佇んでいた。

 

 一戸建ての木造建築でこれといった特徴はなく、五体満足の人体が描かれたエンブレムだけが他の家屋との違いを主張している。

 

 知る人ぞ知る名店じみた雰囲気を醸し出しているその店こそが、目的地だった。

 

「すみませーん」とベルが挨拶しながら木扉を引くと、店内の光景が視界に映り込む。

 

 薄暗い一室には幾つかの戸棚が並んで、棚の上には不気味な色の液体が入った試験管などが並べられていた。一見すれば普通の薬屋に見えるが、立地が悪い所為だろう。窓から射し込む陽は僅かで、どこか陰気な雰囲気が漂っている。

 

 その影響かどうやらベルの他に客はいないらしく、受付のカウンターで暇そうにしている犬人(シアンスロープ)の女性だけが息をするもののすべてだった。

 

「んぅ……」

 

 扉の開いた音を耳が拾ったのだろう、うつらうつらとしていた女性の瞼が重くのし掛かった双眸がベルへ向けられる。

 

「おはよう……ベル。……それとも【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】って呼んだ方がいい?」

 

 抑揚の感じられない淡々とした声が、ベルの鼓膜を揺さぶった。

 

「今まで通りベルって呼んでください。僕はその方が嬉しいです」

 

「わかった。ならこれからもベルって呼ぶ」

 

 そう言って立ち上がる女性の名を、ナァーザ・エリスイス。垂れた耳にスカートから覗かせる尻尾。左腕は半袖で右腕は長袖という独特な服装(ファッション)と、右手を常に手袋(グローブ)で覆い隠している姿が、ベルの記憶に強く刻みこまれている。

 

 そんなナァーザは【ミアハ・ファミリア】唯一の眷属であり、薬剤師として回復薬(ポーション)を扱う「青の薬舗」を支えているのだ。

 

 ベルが「青の薬舗」を贔屓にしているのは、両者の主神であるヘスティアとミアハの親交が深いからだった。

 

「随分と、久しぶりだね。……もう忘れられたのかと思った」

 

「忘れただなんて、そんなこと。ただ、最近、回復薬(ポーション)を使用する機会に恵まれなくて」

 

「そう」と呟くナァーザの感情は読めない。しかし、不機嫌な訳ではない。彼女は眠たげな状態が常で、喜怒哀楽が表情に出づらいのだ。

 

「でも、今日は来てくれた。つまり、何かを買いに来たってことだよね」

 

「勿論です。冷やかしで来店なんかしませんよ」とベルは言った。

 

「……あれ? そういえば、ミアハ様はいらっしゃらないんですね」

 

「うん。ミアハ様は、用事で夜まで帰ってこない……」

 

 そうなんですね、とベルは頷いた。普段、この時間は店にいることが殆どだったと記憶していたので、少しばかり気になったのだ。

 

「……それで、今日は何を買ってくれるの?」と訊ねながら、ナァーザはカウンターから立ち上がり、後ろの戸棚の方を向く。そして僅かに視線を巡らせたあと、様々な商品が詰め込まれた箱をよいしょと呟きながら取り出して、机の上に置いた。

 

「そう、ですね……」

 

 箱の中を彩る、色彩豊かな試験官の畑を眺めるベル。

 

 逡巡は一瞬だった。

 

高級回復薬(ハイ・ポーション)を五個ください」

 

「え」

 

 眠たげな瞼をぱちぱちと開閉させて、ナァーザはベルを見つめた。

 

「……良いの?」と呟く声音には珍しく感情が宿っていた。

 

「勿論ですよ」

 

「……本当に? からかってるとかじゃなくて……?」

 

「本気ですよ」

 

 今まで回復薬(ポーション)一つ買うのでさえ慎重になっていたベルが、いきなり一個数万ヴァリスもする高等回復薬(ハイ・ポーション)を纏めて購入しようとするのだから、ナァーザが驚くのも無理はなかった。

 

「でも、そっか……もうベルはLv.3だもんね……」

 

 最近、交流を持てていなかったナァーザにとって、ベルは駆け出し冒険者という認識のままで停止していた。しかし、既にベルはLv.2を飛び越えてLv.3の領域へ足を踏み入れている、区分だけでいえば上級冒険者。Lv.2で立ち止まっている自分より先へと進んでいるのを、ナァーザは今になって思い出した。

 

高等回復薬(ハイ・ポーション)が必要になるのは、当然の流れだよね……」

 

 これからベルが挑む階層には『上層』とは比較にならない、強力かつ凶悪な怪物(モンスター)が跋扈してる。何度も傷を負うのは必至だ。

 

 加えてベルの探索方法(スタイル)単独(ソロ)。であるのならば、高級回復薬(ハイ・ポーション)を買うことは何らおかしなことではなかった。むしろ、必須とさえ言える。

 

「そうだ、ベル……」

 

「なんですか?」

 

「次いでに精神力(マインド)を回復するポーションも買わない? 一緒に買ってくれたら割引するよ」とナァーザは言った。

 

 一瞬、ベルの表情が曇る。

 

「ベルは雷の魔法を使うって聞いた。もし、探索中に精神疲弊(マインド・ダウン)したら、幾らベルでも危ない。その予防になる。ベルが来てくれない間に作った私の最新作、おすすめだよ」

 

「それ、は……」

 

 口籠もってしまうベル。魔法が使えない今の状態をナァーザに説明するべきか、否か。懊悩が曇天のように思考を覆った。

 

「どうかした?」

 

「いえ。……すみません、今日のところは高等回復薬(ハイ・ポーション)だけにしておきます」

 

「わかった」

 

 普段は商魂逞しいナァーザであるが、精神力(マインド)を回復するポーションの話題になってから露骨に表情を暗くさせたベルを見て、これ以上は押さない方が良いと判断した。

 

「すぐに用意する。待ってて」と言って、ナァーザは戸棚を漁る。箱の中の分では足りなかったようだ。

 

 がさがさ、とお宝を発掘するように漁り続けること一分。

 

 頭頂に埃を被りながら、カウンターへ戻ってきたナァーザは箱から取り出した分も合わせた計六個の高等回復薬(ハイ・ポーション)を卓上に並べた。 

 

「お得意様だから、一本おまけしてあげる」

 

「いいんですか?」

 

「うん」

 

「ありがとうございます、ナァーザさん!」

 

 ベルは有難く厚意を受け取ることにした。

 

「お会計、二十万……」

 

「はい、これで丁度だと思います」

 

 そう言って、金袋から提示された額のヴァリスを支払い品物を受け取るベル。五本の高等回復薬(ハイ・ポーション)は左ズボンのポケットに。入りきらなかったおまけの一本は右ズボンのポケットに収納した。

 

「……毎度あり、ベル。大好きだよ」

 

「そういうのは、ミアハ様に言ってあげてください」

 

 それでは、と告げてベルは忙しなさそうに店を後にした。

 

「………………ベル、中々の強者(つわもの)。……侮れない」

 

 少年を見送るナァーザの頬は羞恥で赤く染まっていた。




総ての物事に、意味がある。


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起は過ぎて、承は幕引き、(クロト・ラケシス・)やがて転が訪れる(アトロポス)

少年は悪を識る。


「青の薬舗」を退店したベルは、今日限定で何度も往来している西の大通りを駆け抜けて、リリルカと待ち合わせている中央広場(セントラルパーク)へと辿り着いた。

 

 穏やかに白雲が流れる蒼天のもと、広場に集うのは魑魅魍魎(モンスター)を屠らんとする闘志満々な冒険者たちだ。

 

「あれ、リリはまだ来てないのか……」

 

 これまで、集合時間に遅れたことのなかったリリルカの姿が見えないことを怪訝に思うベル。

 

 過去に一度、わざと三十分前に中央広場(セントラルパーク)へ向かったのだが、既に彼女は待っていた。それほどまでに遅刻を嫌うリリルカの存在を捉えられない現実に違和感を覚えないほど、ベルは能天気では無かった。

 

 もしかして何かあったのだろうか。

 

 ベルは周囲を見渡した。

 

 しかし、右へ左へ巡らせる瞳の中に彼女の姿は映らない。今、広場にいるのは完全武装の男衆ばかりだ。

 

「ん……」

 

 普段であればさほど気にしないのだが、【ソーマ・ファミリア】の実態に迫りつつあるベルは数日前に遭遇した裏路地の件も相まって、不安を抱かずにはいられなかった。 

 

(嫌な予感がする)

 

 腐食しつつある直感が、力を振り絞るように警鐘を鳴らす。

 

 このまま呆然と立ち尽くして時間を無為に浪費していてはいけない、とベルは摩天楼(バベル)の方角へ向かって走り出した。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 駆ける中、視界に捉える、人、人、人。それら全員が、ベルが再会を願う少女とかけ離れている。

 

(どこにいるんだ、リリ……!)

 

 直感が鳴らす警鐘の拍子(テンポ)が速度を増し、それに伴って胸のざわめきも大きくなっていく。

 

 しかし、未だリリルカと友好的な関係を築けているとは言い難いベルは、彼女がいるであろう場所について心当たりが全くなかった。

 

(通りがかる人に片っ端から訊ねるか……? いや、それじゃきっと間に合わない)

 

 胸中でそう独白しながら、とりあえず都市(オラリオ)の中心部である摩天楼(バベル)を暫定の目的地に定めて走っていた時だった。

 

「あれは……」

 

 それは、偶然。まるで、運命に呼び止められたように、ベルは一つの光景を目の辺りにした。

 

 広場に敷かれている石畳の道を外れた、木洩れ日が射す広葉樹の蔭から、リリルカと思しき人物のバックパックが僅かにはみ出ているのが見えた。

 

「どうしてあんなところに……」

 

 一歩、二歩、三歩、と近づいて見れば、緑が繁る木陰の中にはベルが探していた少女──リリルカ──と、身なりからして冒険者だろう三人の男の姿があった。

 

 両者の間にどんな因縁があるのかベルにはわからないが、齢二十を優に超えているだろう大人が小さなリリルカを取り囲み、悪鬼羅刹の凶相で怒声や罵声を放っている。

 

 対するリリルカは、ひたすらに頭を下げるだけで言い争う意思は皆無であるように見えた。

 

 自然満ちる広葉樹の爽やかな空間に、似つかわしくない剣呑な雰囲気が吹き荒れてる。

 

 止めないと。

 

 そう思ったときにはもう、両の足は動き出していた。

 

「おい」

 

 だが、ベルの征く道を妨げるように背後から尖った声が投擲された。

 

 振り向いた先、警戒心を剥き出す深紅(ルベライト)の瞳に投影されたのは、いつぞやリリルカとベルへ殺意をばらまいていた冒険者の男。武骨な長剣(ロングソード)を背中に装備した、黒髪を後ろで縛っているのが特徴的なヒューマンだった。

 

「お前は……」

 

 ベルは威嚇するように呟いた。

 

「よぉ、久しぶりだな、英雄擬き(エセ・ヒーロー)。見たところ、あのガキと連んでるみたいだな。理想の英雄様らしく、弱者救済でもやってんのか? 殊勝な心がけに、俺は涙が出ちまいそうだ」

 

 瞳に宿る侮蔑の色は甚だしく、振動させる声音は嘲弄に満ちているが、心の最奥で燃え狂っているだろう憤怒の業火は隠せない。

 

 男は、ベルに、リリルカに、激憤している。裏路地の時と、何も変わらず。

 

「……それで、僕に何の用ですか。あなたと世間話をするつもりはありませんよ」

 

「そんなもん、俺だってねえよ」と男は吐き捨てるように言った。

 

「テメエはあのガキが俺やアイツらみたいな冒険者につけ狙われてる、可哀相な奴だと思ってるのかもしれねえが、そんなのはな、全の勘違いだ。被害者は俺たちで、加害者はガキの方」

 

 騙されているんだよお前は、と男は悪魔のような笑みを浮かべて言った。

 

「あのクソガキはな、パーティを組んだ冒険者から色々な品物を盗んでる悪人なんだ。どうだ、悪人だ。英雄って呼ばれてるテメエなら、わかるだろ? アイツは、善人を、正しさを、踏みにじってる糞野郎だ。そんな奴の存在を、テメエは見過ごすって言うのか? 庇うって言うのか? なぁ、どうなんだよ」

 

「っ」

 

 がりっと心の内側が抉られる音を、ベルは聞いた。返す言葉が、出てこない。言い返すことが、できない。

 

 ベルも、薄々と気づいていた。

 

 リリルカが、窃盗行為を犯しているのではないかと。その疑惑は【ソーマ・ファミリア】の調査を進めれば進むほどに深まっていき、今日を迎えた時点で確信に至っていた。

 

「まさか見逃すわけないよな。それじゃあ本当に偽物(エセ)になっちまうぜ? 英雄っつうのは、正しく生きるものの味方じゃないのかよ」

 

「それ、はっ……」

 

 分かっていた、解っていた、判っていた、識《わか》っていた。自分の思想と行動が矛盾していることは。

 

 なのに、どうしても、魂さえも凌駕するナニカがあの子を、リリルカを助けろと叫ぶのだ。

 

 手を差し伸べろ、闇から引っ張り出せ、彼女の身体に降り積もる灰を払ってみせろ、と心の臓を打ち鳴らしてくるのだ。

 

(……僕、はっ……)

 

 そんなベルの沈黙を諒解と都合良く解釈した男は、ニヤリと卑しい笑みを頬に過ぎらせて言った。

 

「悪人を弱者と誤認していた憐れな英雄様に、提案があるんだ。是非、聞いて欲しい」

 

「……提案、だって?」

 

「そう、とても素敵な提案だ」

 

 男は言った。

 

「俺のとこにも来たんだがな。どういうわけか、今になって盗品を被害者に返して回ってるらしいだよ。でもよ、よーく考えてみろ。窃盗の常習犯が急に心入れ替えるなんてことありえるか。いいや、ありえねえ。どうせ何か企んでるに違いねえさ。だってアレは【ソーマ・ファミリア】の眷属なんだからな。自分が損するようなことをするわけがない」

 

 だからよ、と男は言葉を続ける。

 

「あのチビを罠に嵌めてやろうぜ。あそこの団員の話が正しけりゃ、これまで盗んだモンをどこかに纏めて隠してるらしい。上手く奪えりゃ、いい金稼ぎになる」

 

「な、に?」

 

 男の口が羅列させる言葉の意味が、理解できず、言葉を失うベル。

 

「安心しろ。当然、テメエにも分け前はやる。正義を為すにも、銭は必要だからなぁ」

 

 ベル・クラネルを前にして、男は一切の嘘を混ぜずに本心を語っていた。男は心の底から自らが善人、正義の徒であり、リリルカを悪人、不義の徒だと思っているのだ。

 

「お前は普段どおり、アレと地下迷宮(ダンジョン)へ潜ればいい。噂じゃ、『中層』で狩りをしてるんだろ。なら、アイツを窮地に追いこむのは簡単なはずだ。所詮はサポーターだからな。お前が適当な所で姿を消せば、後は俺が調理する。その間は、怪物(モンスター)どもが近づかないように警護してるだけでいいからよ」

 

 どうだ、悪くない提案だろ? と男は言った。

 

 嫌な、笑みだった。今まで見てきた中でも、とびきりに醜悪で、卑しさと悪意を鍋で煮詰めたような最低な笑み。

 

「っ……!」

 

 嚇怒が心を焼き尽くし、嫌悪が思考を塗り潰し、天霆が魂を支配する。

 

 両眼から、ほとばしる邪悪を滅ぼす殲滅光(ガンマ・レイ)

 

 眼前には、地獄の底へ堕ちるべき悪が、一つ。

 

「……なぁ、教えてくれ。今まで語ったこと、それは本心か? おまえは、本当にそんなことを企んでいるのか?」

 

 問いは、遠雷に似ていた。

 

「はははっ! 何を当然なことを……! アイツはただの荷物持ち(サポーター)だぜ。それに加えて盗人ときた。アレが死のうが消えようが、誰も気にしねえよ。それどころか、犯罪者が一人消えるんだ。俺たちのやろうとしてることは、善行みたいなもんさ」

 

 嗚呼、雑音が、五月蠅い。

 

「一緒に新しい英雄の偉業を打ち立てようぜ。な?」

 

 そう言って、ベルの肩を抱こうとする男の手が、空を切った。

 

「ぐぅ!?」

 

 突然、洩れる呻き声は男から。

 

「それ以上、喋るな……」

 

 刹那よりも速く、ベルは男の胸倉を掴んで宙へ持ち上げていた。

 

「なに、しや、がるっ!?」

 

 見上げた先に、ベルは怪物(モンスター)を見た。

 

(そうだ、こいつは人間の姿をした怪物(モンスター)だっ……!)

 

 際限なく、膨張する殺意。悪を誅滅しろと魂が叫ぶ。

 

 夢も、理想も、正義も、幸福も、希望も、平和も、愛情も、笑顔も、善も、それら尊い光を愚弄し嘲笑う悪の化身がそこにある。

 

「いいか、一度しか言わないから、よく聞けっ……!」

 

 轟く雷鳴、ほとばしる激情。

 

「もう二度と、リリの前に姿を見せるな。もし、違えれば、その時は──」

 

 ()がおまえを殺す。

 

 瞬間、広葉樹たちが怯えるように一斉にざわめいた。

 

「うっ、くっ」

 

 神威にも似た威圧感に、男は表情を歪める。額に滲む脂汗は、今にも顎を滴り落ちそうだ。

 

「は、ははははは……!」

 

 しかし、何が彼をここまで駆り立てるのか。男は瞳に恐怖を宿しながらも、邪悪な笑みを顔面に貼り付けながら、言った。

 

「殺す? 今、俺を殺すと言ったな? はんっ……それがテメエの本性ってわけだ! ……いいか、俺も一度しか言わないから耳をかっぽじって、よーく聞け!」

 

 俺は絶対にあのガキを殺す。

 

 衝突する殺意と殺意の双眸。数秒と続いた睨み合いは、少女の一声で幕引きを迎える。

 

「…………英雄(ベル)、様?」

 

「っ!」

 

 咄嗟に声の方へ顔を向ければ、呆然と佇むリリルカの姿があった。

 

「おいっ! いい加減、離しやがれっ!」

 

 そう言って男は胸倉を掴むベルの手を無理やり解くと、大きな舌打ちを場に残して去って行った。

 

「………………リリ」

 

 呟く声は、悲哀。湖面に映る銀の月。冷たく、淋しい、水の月。

 

「…………いつから、そこに?」

 

「ちょう、ど……今、来た…………ところ、です……」

 

 嘘だ。

 

「あの、何か……あの冒険者様と……お話でも…………され……ぐすっ……されていたん、ですか?」

 

 嘘だ。嘘だ。嘘だ。

 

 何も聞いていないなんて、嘘だ。

 

 だって君はフードの下で、涙を流しているじゃないか。

 

 何時もの辛く悲しく苦しい思いを押し隠す、灰色の笑顔を浮かべられていないじゃないか。

 

 ねぇ、リリ。

 

 今の君に僕は、何と言ってあげれば良いのだろうか。

 

 どんな言葉を贈れば、その涙を笑顔に変えてあげられるだろうか。

 

 ○

 

 わかっていた、ことでした。

 

 ──あのクソガキはな、パーティを組んだ冒険者から色々な品物を盗んでる悪人なんだ。どうだ、悪人だ。英雄って呼ばれてるテメエなら、わかるだろ? アイツは、善人を、正しさを、踏みにじってる糞野郎だ。そんな奴の存在を、テメエは見過ごすって言うのか? 庇うって言うのか? なぁ、どうなんだよ

 

 英雄(ベル)様と出会えた、それが奇跡であったことくらい。絶望の闇に咲いた一輪の花であったことくらい。

 

 ──俺のとこにも来たんだがな。どういうわけか、今になって盗品を被害者に返して回ってるらしいだよ。でもよ、よーく考えてみろ。窃盗の常習犯が急に心入れ替えるなんてことありえるか。いいや、ありえねえ。どうせ何か企んでるに違いねえさ。だってアレは【ソーマ・ファミリア】の眷属なんだからな。自分が損するようなことをするわけがない。

 

 今からでも、変われるとそう思いたかったんです。これまでの罪と向き合い罰を受け入れれば、リリでも未来(まえ)を向いて歩いていけるって、そう思いたかったんです。

 

 ──はははっ! 何を当然なことを……! アイツはただの荷物持ち(サポーター)だぜ。それに加えて盗人ときた。アレが死のうが消えようが、誰も気にしねえよ。それどころか、犯罪者が一人消えるんだ。俺たちのやろうとしてることは、善行みたいなもんさ。

 

 目を逸らしていたんです、リリは窃盗を繰り返す悪人(・・)だってことを。その心根が腐りきっているってことを。

 

 でも、それでも、リリは変わりたいって思ったんです。いえ、この言葉は適当ではありませんね。今も、そう思っているんです。決意の光は、絶えていません。動き出した物語(じんせい)を止めるつもりもありません。

 

 ああ、でも……英雄(ベル)様。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。

 

 リリが、貴方様の心を歪めてしまっていたんですね。苦しめてしまっていたんですね。

 

 だって英雄(ベル)様は、■の■になりたいんですよね? 

 

 罪には、罰を。

 

 悪には、裁きを。

 

 奪われた希望には、相応しい悪と嘆きと絶望を、与えたいんですよね? 

 

 なのに、貴方様はリリなんかに手を差し伸べてくれた。救ってくれようとしてくれた。

 

 でも、これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいきません。あぁ……この思いもまた、自分勝手で自分本位で自己中心的なもの。

 

 結局リリは、リリ自身のことしか考えていない屑なんです。

 

 ですから、あの男──ゲド・ライッシュ──の言葉は間違いなんかじゃありません。

 

 リリルカ・アーデは、どうしようもない悪人です。英雄(ベル)様が唾棄すべき存在と嫌悪する、悪人なんです。

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 手を差し伸べてくれたのに。

 

 助けてようとしてくれたのに。

 

 闇から連れだそうとしてくれたのに。

 

 本当に、ごめんなさい。

 

 リリはやっぱり……

 

 貴方様に相応しいサポーターにはなれないみたいです。

 

 主演(ヒロイン)にはなれないみたいです。




少女は罪を識る。


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幕間・弐 神語り合い(トーク・トリニティ)

 ベルを見送った数十分後、教会の隠し部屋へ続く石扉をコンコン、と叩く冷たい音が響いた。

 

「……来たみたいだね」

 

 そう言って、ヘスティアは幾つもの綿が生地から脱走を図っているおんぼろなソファから立ち上がると、石段を上がっていく。

 

「ヘスティア、私よ」

 

「私もいるぞ」

 

 石扉の向こう側から聞こえてくるのは、都市(オラリオ)の中でも特に気心の知れた間柄である同郷の神ヘファイストスと、零細派閥(ファミリア)という共通点から絆を深めたミアハの声だった。

 

「今、開けるからちょっと待ってて」と返事をして、ヘスティアは重量感のある石扉を自身の持ち得る筋力のすべてを注いで押し開いた。

 

「ぜぇ、ぜぇ。よく来てくれたね! 歓迎するよ!」

 

 若干、過呼吸になりかけているヘスティアを見て、ヘファイストスは呆れた表情を作って言った。 

 

「ヘスティア、あなた大丈夫なの?」

 

「だ、大丈夫さ。このくらい。なんてこと、ないって」

 

「とてもそんな風には見えないのだけど……」

 

「あはは……こんなのはいつものことさ。気にする必要はないって」

 

「はぁ……全くもう」

 

 自然と、ヘファイストスの口から溜息が洩れる。

 

「まぁまぁ。立ち話はこれぐらいにして、せっかく招待されたのだ。お邪魔しようじゃないか、【ヘスティア・ファミリア】に」とミアハは言った。

 

 女三人寄れば姦しいという諺があるが、女神は二柱で条件が成立するらしい。ここで自分が口を挟まなければ、ヘスティアとヘファイストスはもう暫く雑談に興じていたに違いない、とミアハは思った。

 

「ミアハの言う通りだ、早く降りようぜ」

 

「そうね」

 

 同意を示す首肯。ヘスティアとヘファイストスは雑談を止めて、石段を降りていく。

 

「ようやく進みそうだ」

 

 僅かな愚痴程度は許して欲しい、そう内心で思いながらミアハは呟いた。

 

 隠し部屋へ足を踏み入れた三柱の神はそれぞれ、ソファにヘスティアとヘファイストス。ミアハが石段に腰を下ろして会話を始める姿勢に入った。

 

「ふむ、今日は大事な話があるからと頼まれ訪れたのだが……ベルも今や【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の二つ名を戴くLv.3の冒険者なのだ。もう少ししっかりとした住居を持った方がよいのではないか?」

 

 ヘスティアとベルの生活を心配するミアハが、そんな意見を口にする。

 

「ありがとう、ミアハ。心配してくれるのは、凄く嬉しいよ。聞けば、ベル君も喜ぶだろうね」と柔和な微笑を浮かべるヘスティア。

 

「でも、すまない。今日は真剣な話がしたいんだ」

 

 一転して、真剣な面持ちを浮かべるヘスティアを瞳に映すミアハ。

 

 普段の明朗快活な彼女と同一神物とは思えない、大人びた雰囲気と表情を前にして自分が予想していた以上に重大な相談が控えているのだ、とミアハは直感した。

 

 ふと、ヘスティアの隣で腕と足を組んでいるヘファイストスへ視線を向ければ、表面には露呈していないが、噴火直前の活火山を幻視させるほどの瞋恚の炎を心のうちで煮え狂わせていた。

 

(ふむ、さきほどの雑談は少しでも気を落ち着かせるためでもあったのか)

 

 胸中で冷静に分析するミアハ。

 

「真剣な話、とは。もしや、君たちギリシャの神々に関係することなのかな?」とミアハは訊ねた。

 

 片や眷属一人の探索(ダンジョン)系零細派閥の主神。片や鍛冶大派閥の主神。この二柱の女神が同時に抱えるだろう憂慮の種の共通点といえば、思い当たるのは同郷であることぐらいだった。

 

「そうだよ」

 

 ミアハの問いに同意するヘスティア。

 

「ねぇ、ヘスティア。本当に、彼へ話すつもりなの?」と訊ねるヘファイストスの表情は疑心を滲ませていた。

 

 ミアハと充分な友好を築いてきたヘスティアと違い、ヘファイストスはミアハとさほど面識があるわけではなく。必然、寄せる信頼も薄く、また脆かった。

 

 そんな、抱いて当然の疑心を言葉に起こす神友を前にしても、ヘスティアの態度は鋼。歪まず、曲がらず、真っ直ぐだった。

 

「君が不安なのはわかる。この話を故郷以外の神にするのは禁止(タブー)扱いされてるからね。でも……」

 

 不安の灯火が揺れるヘファイストスの左眼を見つめながら、ヘスティアは言葉を続ける。

 

「僕たちの事情を知らない神々の中で信頼できるのは、ミアハくらいだ」

 

 じぃ、と視線と深意を絡め合う紅と碧の瞳。

 

「……露見したら、幾ら貴女でも、批難は免れないわよ」

 

 これまで天界で築いてきた功績、実績、立場の一切を失うことになっても構わないのか、と問うヘファイストスの意思が視線から伝わってくる。

 

「いいさ、構わない」

 

「数多に宿る神性を捨てることになっても?」

 

「炉も、暖炉も、竃も、家庭も、家族も、秩序も捨てる未来が待ち受けていたとしても、今のボクを止めるだけの恐怖にも、障害にも、ならないよ。ヘファイストス」

 

 それほどの、覚悟。いずれ命を終えるたった一人の眷属のために、神生すべてを捧げるつもりでいる眼前の女神を見て、ヘファイストスはこれ以上、何も言わなかった。

 

 かつて、遙か古のとき、同じ思いを抱いた身だからこそ、止めても無駄だということを知っているのだ。誰よりも、痛いほど。

 

 思わず、悲痛な気持ちが表情に出てしまったのだろう。ヘスティアが触れれば壊れてしまいそうな儚いを浮かべながら、言った。

 

「……ボクはね、既に起こってしまった過去よりも、これから向かう未来の方を大事にしたいんだ。それに、ヘファイストス。君だって僕と一緒で、できることは禁止(タブー)だろうと何だろうとしてやるって、そう思ってるんじゃないのかい?」

 

 ふふっ、と洩れたのは諦観の嘆息だった。

 

 心の奥底に大切に厳重にしまってあった想いを完璧に見抜かれたヘファイストスは、瞳に映る女神と重なる笑みを浮かべて言った。

 

「お手上げよ。そうね、私だって知恵は多い方が良いと思っているわ」

 

 同郷でなければ理解できないだろう意味深な会話を続けるヘスティアとヘファイストスをみて、ミアハは「なるほど」と呟く。

 

「ヘスティアよ、その話とやら……時折、我らの間で噂になる特級の秘密(パンドラの箱)のことではないか?」

 

 問いのあと、訪れたのは不気味なまでの沈黙だった。まるで、ミアハの一声には神さえ凍結させるほどの神秘的な力があるのではないかとさえ思わせた。

 

「「……」」

 

 数秒後、凍結状態から解放されたらしいヘスティアとヘファイストスは目配らせをしたあと、同時に頷いた。

 

「聞いてくれるかい、ミアハ。ギリシャの神々がこれまでひた隠しにしてきた特級の秘密(パンドラ)について。神滅神器・天霆《ケラウノス》について……」

 

 ○

 

 これは遠い、昔の話。まだ地上に生命なく、天界が統合されず、神は各々別の世界で異なる理の中で生きていた。

 

 ギリシャの神々とて例外では無い。

 

 ヘスティアやヘファイストスが誕生した『ギリシャ神話』は、怪物との間で永遠に戦乱が繰り広げられる荒涼とした世界だった。

 

 絶えず行われる戦争。終わらぬ、殺し合い。

 

 神は永遠の命を持つ超常存在(デウスデア)であるのに対して、怪物は死の制約に拘束されているという明確な弱点があった。

 

 戦えば死ぬのは怪物だけであり、神たちが戦死することは一度としてなかった。

 

 されど、戦いは終わらない。怪物は有限の命である代わりに、無限のごとく産まれ、その数を増やしていたのだ。

 

 質の神、数の怪物。この均衡は何者かに操作されているのではないかと考えてしまうほどに拮抗していた。

 

 ある時、予言を司る男神アポロンが最悪の未来を視た。

 

 それは、怪物の王であった。

 

 それは、怪物の父であった。

 

 容姿、正に究極。その巨体は星々を凌駕し、頭頂から爪先に至るまであらゆる攻撃を弾く黒の鱗に覆われており、口から吐く炎はことごとくを破壊する力を秘めているという。

 

 アポロンは、ソレを漆黒龍と呼んだ。

 

 彼曰く、このまま予言が現実のものになれば神々は来たる怪物との戦いに敗北するという。

 

 予言は、抗わなければ絶対に訪れる、確定された未来だ。

 

 これを受け、ギリシャの神々を統括する最高神の座に就くゼウスは仲間を集めて、漆黒龍討伐に関する会議を開いた。

 

 神々の命運を決める重要な会議は何年と続いた。その間、戦神たるアレスや兄妹たる軍神マルスなどが怪物の軍勢を必至で抑え込む。

 

 やがて、ゼウスは決断した。

 

 ──神さえ滅する力を持った、至高にして究極の武器を創り、これをもって漆黒龍を討伐すると。

 

 武器の創造を命じられたのは、鍛冶司る独眼。つまり、ヘファイストスだった。彼女以外に、神さえも滅する世の理を超越した武器を創れる腕前を持った鍛冶師はいなかったのだ。

 

 ヘファイストスは謹んで、ゼウスの命を請けた。

 

 と言っても、即座に神さえ滅する武器を創れたわけではない。

 

 今回に限っては、完成させなければならない武器の次元(レベル)が違う。今まで彼女は様々な武器を()ってきたが、神を滅するほどの武器を()るのは初めての経験だった。

 

 ゆえに、作業は難航した。現在の地上で売ればウン兆ヴァリスはくだらないだろう隔絶した|品質(クオリティ)の武器を幾つも造っては失敗作として投げ捨てた。

 

 何度も、何度も、造り。何度も、何度も、捨てた。

 

 予言までの猶予は刻一刻と迫り、ヘファイストスに限らず他の神々も心を焦燥に支配されていたときだった。

 

 ヘファイストスは一つの考えに辿り着いた。

 

 神を殺せるほどの武器を創るには、神性を捧げるしかないと。

 

 神性とは、神を形作る概念であり、人間で例えるのならば魂に近かった。

 

 当初、ヘファイストスの案はヘスティアを始め多くの神々から止められた。

 

 理由は当然、「危険だから」だ。

 

 もしも失敗すれば、最悪ヘファイストスが消えて無くなる恐れがあった。

 

 それでも、彼女は神性を素に神を滅する武器──神滅神器──を創造することを決断した。

 

 当時のヘファイストスは二つの神性を持っていた。雷と火山だ。この二つは両眼に宿っており、そのどちらかを素にするということは、片方の眼を失うのと同義だった。

 

 彼女は悩んだ、どちらを素にするべきかを。二つある神性、その両方を失えばヘファイストスは消滅してしまう。死ではない、完全なる消滅。

 

 つまり、挑戦できるのは一度だけ。もしも失敗すれば、ヘファイストスだけでなく、他の神々すべてがアポロンの予言する漆黒龍によって滅ぼされてしまう。

 

 懊悩の末、ヘファイストスは右眼に宿る雷を素とすることにした。決め手は、担い手になるだろうゼウスの神性にあった。

 

 すべての神々の頂点に立つゼウスの神性は、守護、支配、天空、雷霆だ。

 

 であるのならば、炎よりも雷の武器の方が親和性が高いだろうと踏んだのだ。

 

 そして、ヘファイストスは自らの神性(みぎめ)を捧げて……。

 

「完成したのが、その神滅神器・天霆(ケラウノス)だったというわけか……」

 

 天井を見つめながら、言葉を咀嚼するように呟くミアハ。

 

「……武器とはいっても、剣や槍のように誰かが振るうような形をしているわけじゃなくてね。姿は神を模してる。今となっては人に近いけどね。……それに意思だってあったんだ」

 

「なんと意思まで!」

 

 ヘスティアの説明に驚愕するミアハ。

 

「ふむ、してどのような姿をしていたのだ? やはり、素となった神性がヘファイストスのものであるから、彼女と瓜二つなのか?」

 

「いや……」

 

 急に、歯切れが悪くなるヘスティア。なぜ容姿に対する質問で答えに窮しているのかわからないミアハは、首を傾げるしかない。

 

「ベル、なのよ」と言ったのは、ヘファイストスだった。

 

「なんだと?」

 

 言葉の意味が理解できなかったのか、ミアハは反射的に聞き返した。

 

「そのままの意味よ、ミアハ。神滅神器・天霆(ケラウノス)の容姿は、ベルそのものなのよ……髪の色も、眼の色も、声も、ね……」

 

 まさか、とヘスティアへ視線を向けれた先には沈鬱な表情を浮かべる彼女の姿があった。

 

「ということは、つまり、そういうこと(・・・・・・)なのか……しかし、あり得ることなのか? 武器が、輪廻の環に入るなど……」

 

「彼は、神滅神器・天霆《ケラウノス》は本当に人間そっくりだったんだ……」とヘスティアは懐かしそうに呟いた。

 

「当然だよね、ヘファイストスの神性から創ったんだから。神性はボクらにとっての魂だ……」

 

「であるのならば、魂を宿した武器が人の身に転生することも、可能……か」

 

 秘匿していた理由は、と訊ねるミアハに答えたのはヘスティアではなく神滅神器・天霆の母(ヘファイストス)だった。

 

「…………神を滅する力を持っていたからよ。私たち超常存在(デウスデア)は死を超越した存在。何をしようと死なず、老いない。けれど、もし例外があるとすれば? それを他の神々が知ればどうなるかしら……?」

 

 答えるまでもなかった。

 

 脅威なき神々に、脅威という例外が生まれてしまえば、当然のことながら原因を作ったギリシャの神々は批難を免れない。

 

 天界でも、地上でも、他の神からの信頼を失うのは明白だった。特に危険なのが地上だ。神の力(アルカナム)を封じられている彼ら彼女らは、不老かつ命を落とせば天界へ送還されるだけの、少し不思議な力をもった人間程度でしかない。

 

 もしも、神滅神器・天霆(ガンマ・レイ ケラウノス)の転生体が牙を剥くような事態になれば、一切の抵抗を許されずに消滅するという悲惨な末路を辿るだろう。

 

 そうなれば必然的に、消滅させられる前に天界へ還る神が現れるだろうし、地上へ降臨するのを止める神も現れるだろう。

 

 それは、これまで長い年月を掛けて築いてきた「神時代」が崩壊することを意味している。

 

「ヘスティアらが口を硬く閉ざしてきた理由がよくわかった。これは、広めてはいけない類いのものだ」

 

「勝手に語っておいて横暴かも知れないけど、この話は……」

 

「うむ、わかっているとも。誰にも、語るつもりはない。それこそ墓まで……私たちの場合は天界に送還されたあとであっても、未来永劫、決して口外しないと約束しよう」とミアハは言った。

 

「ありがとう、ミアハ」

 

「助かるわ」

 

 二柱の女神が感謝を紡ぐ。

 

「頭を下げる必要は無い。話があると言われ、来ると決めたのは私自身だ。で、あるのならばここで語られる話を聞く責任も聞いたあとの責任も当然、私自身にある」

 

 それに、本題はここからなのだろう? と片目を閉じて言うミアハ。

 

 場を和ませてくれようとする気遣いに内心で感謝しつつ、ヘスティアは口を開いた。

 

「ここからは、ヘファイストスも知らないことだ」

 

 ヘスティアは、ヘファイストスとミアハに、ベルがとある借り物の本を読んだことで恐らく前世の自分──神滅神器・天霆《ケラウノス》──と対面してしまったこと。その結果、魔法と一部のスキルが封印されてしまったことを告げた。

 

「なん、ですって……っ!」

 

 腹の底で煮えたぎらせていた瞋恚を神威に変えて、眼帯で閉ざされた右眼から雷光をほとばしらせるヘファイストス。

 

「落ち着くのだ、ヘファイストスっ!」

 

 激情に支配される女神の心を鎮めようと試みるミアハ。

 

 だが。

 

「これが落ち着いていられるわけがないでしょう!」

 

 激情は鎮まるばかりか、更に燃え上がる。

 

「あの子はもう、死んだのよ。それをっ! ……こんな形で、あの子を蘇らせようとするなんてっ! それはあの子を冒涜しているのも同義なのよ! 許せない! 許せるわけがないわっ!」

 

 ごぉ、とまるで火が吹くのに似た音を響かせながら、ヘファイストスは神威を周囲に撒き散らす。

 

 部屋は神の怒りを前にガタガタと揺れて、その勢いの凄まじさにミアハは吹き飛んで地面に転がってしまう。

 

「大丈夫かい、ミアハ!?」

 

「私のことなど、気にするな! それよりも今は、ヘファイストスを!」

 

「うん、わかった!」と言って頷いて、ヘスティアは暴風に似た神威に立ち向かいながら一歩、また一歩と、怒れるヘファイストスのもとへ歩み寄っていく。

 

「そんなことをするぐらいなら、あの時っ! 私がっ!」

 

 神威から感じるのは、嘆き、悲しみ、怒り、苦しみ。

 

(君は、今もずっと苦しんでいるんだね……彼と別れた、その時から……)

 

 ヘファイストスが本心では神滅神器・天霆(ケラウノス)と再び会いたいと思っていることに、ヘスティアは気づいている。

 

 同時に会ってはいけないと思っていることにも、気づいている。

 

 神とて全知全能ではない。心に矛盾を抱えるときもある。

 

 会いたいは本心。会ってはいけないは理性。

 

 ベルが都市(オラリオ)に訪れてからずっと、ヘファイストスは矛盾に抗ってきた。抗わなければ、取り返しのつかないになると直感したから。

 

 しかし今、ヘスティアからベルの現状を聞いて、決壊寸前だった矛盾の想いが心の器を破って溢れ出しそうになっていたのだ。

 

「私はっ……! 私はっ……!」と繰り返す声は、親を見失い涙を零す幼子に似ていた。

 

 そこへ、

 

「大丈夫だ、ヘファイストス。これ以上、自分を殺さなくていいんだ」

 

 暖炉のように温かい抱擁が、迷い子(ヘファイストス)を優しく包みこんだ。

 

「君が何百年も何千年も、……もっと長い間ずっと、神滅神器・天霆(ケラウノス)に会える日を夢見てきたこと、そして……再会を望んできたことをボクは知っている。近くでずっと見てきたから……」

 

 そっと髪を撫でてやりながら、まるで母親のように語り掛けるヘスティア。

 

「ヘスティア、私はっ……!」

 

「いいんだ、今は素直になって。ここにはボクとミアハしかいない。こどもたちは、いないんだ」

 

 だから、泣いていいんだよ。

 

 そう言葉を添えると、ヘファイストスの眼帯に隠された右眼から一筋の涙が流れ落ちた。

 

「ベルはあの子じゃ無いってわかっているのに……それでも、それでも、あの子と重ねてしまうのっ! 一度でも言いからあの子とまた喋りたいって思ってしまうのっ!」

 

 二粒、三粒、やがて堰を切ったように両眼から涙を流しながら泣く迷子だった幼子を、母親は優しく抱き続けるのだった。

 

 ○

 

 ヘファイストスが落ち着いたのは、それから数十分後のことだった。

 

「見苦しいところを見せてしまったわね。ごめんなさい、ミアハ」

 

 顔を羞恥で赤くしながら謝罪するヘファイストスに、「神とて悲しいことがあれば泣く。苦しいことがあれば、温もりを求める。何もおかしなことではない。自然なことさ、だから気にするな」と気さくに答えるミアハ。

 

「ヘスティアも、ありがとう」

 

「ふふん、久しぶりにボクの凄さを思い出したかい!」

 

 胸を張って威張るヘスティアを見て、苦笑するヘファイストス。場の空気を明るくするため敢えて戯けているのを察して、ミアハも一緒に笑った。

 

 悲哀の水に浸っていた空気が流れていき、暖かさが戻って来る。

 

「では、話の続きをしようか」

 

 ミアハの一声で緊張が場に舞い戻ってくる。

 

「えーと、どこまで話したっけ?」

 

「ベルが何かの本を読んであの子と会って、魔法とスキルが使えなくなったところまでよ」とヘファイストスが言った。

 

「そもそもの話なのだが、前世の魂と対面したからといって魔法やスキルが使えなくなるものなのか?」

 

 前例のない事態ゆえに、ミアハは疑問を口にすることしかできない。

 

「……具体的なことは言えないけど、使えなくなったのはどれも前世に関係あるものなんだ」

 

「魔法が雷なのも?」

 

「うん、【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】という魔法が発現したのは、前世と無関係だとボクには到底思えない」

 

 そうね、とヘファイストスも同意する。

 

「ふむ。魔法とスキルが使えなくなった原因が前世の魂と対面した結果にあると仮定してだ。一つ訊きたいことができた」

 

「なんだい、ミアハ」

 

「もしもの話だ。このまま前世の魂──つまり、神滅神器・天霆(ケラウノス)の干渉が続けば、ベルはどうなる?」

 

「それ、はっ……」

 

 苦虫を噛み潰したような顔をして、言葉を詰まらせるヘスティア。

 

「私が代わりに答えるわ。ヘスティアが自分の口から告げるのは、辛いでしょうから」

 

「……うん、お願いできるかい」

 

 任せなさい、と言ってヘファイストスは怜悧な男神へ視線を向ける。

 

「もしも……もしもよ。このまま干渉が続けば、ベル・クラネルという魂そのものが完全に消滅して、神滅神器・天霆(ケラウノス)の人格に上書きされるわ」

 

「なんと……」

 

 口を手で覆って、絶句するミアハ。

 

 魂の消滅は、死と同義ではない。人間は死後、魂は天界に迎えられ、綺麗に漂白されてから新たな命へ転生する。これを円環のごとく繰り返すのが、世の理だ。付け加えると、魂を転生させる儀の役目を担っているのは神々である。

 

 だが、もしもベルの魂が神滅神器・天霆(ケラウノス)に上書きされてしまえば、もう二度とベル・クラネルとして生きた魂は世に生まれ直さない。輪廻転生という機構(システム)から、ベル・クラネルという存在が削除されてしまうのだ。

 

 つまり、それは、真なる死。

 

「しかし、そんなことがあり得るというのか」

 

 いや……あっていいのか、と呟くミアハは震撼している。

 

「さっき説明した通り、神滅神器・天霆(ケラウノス)は私の雷の神性を捧げて創りだした、武器……いえ人工生命体なのよ。魂の性質だけでみれば人間より、神に近い」

 

 寧ろ、とヘファイストスは言葉を続ける。

 

「ただのヒューマンであるベルが、未だ神滅神器・天霆(ケラウノス)に呑み込まれていないことが奇跡なのよ」

 

「奇跡、か……」

 

 そう言って、ミアハは深い溜息をつく。ベルにそのような危機が迫っているとは、思ってもいなかったからだ。

 

「それで、ヘスティアよ。君は私に何を願うのだ?」

 

 思考を切り替えて、自らが特級の秘密(パンドラの箱)を聞かされた理由を訊ねるミアハ。

 

「それなんだけど……ベル君の魂を強引に神滅神器・天霆(ケラウノス)へ上書きしようと画策している不届き者がいるみたいなんだ」

 

「ベルが借りたという、本の持ち主だな」

 

「正解だよ」と言ってヘスティアは頷いた。

 

「それにね、これは朗報なのか悲報なのか、判断に困るところだけど。恐らくボクらの同族が黒幕だと思う」

 

 同族、つまりは神。超常存在(デウスデア)だ。

 

「だろうな」

 

 今までの話を聞いて、ミアハも同じ結論に達していた。

 

「それで、だ。ミアハには、周囲に勘づかれないように本の持ち主を探って欲しいんだ」

 

 本の特徴と内容は後で教えるよ、と付け加えるヘスティア。

 

「ほう……これは、また何とも難しい願いをされたものだな」

 

 ミアハが呟いた。

 

「ヘファイストスには、ベル君の様子見……いや、監視をお願いしたいんだ。ボク一人だと地下迷宮には入れないし、たとえ入れたところで身体能力の差が大きいから見失ってしまうのは目に見えてる」

 

 勿論報酬は支払うよ、と言うヘスティアに首を振る二柱の神。

 

「いや、いらんよ。これはあくまでも、友の頼みだ。金など受け取る必要も、理由もない」

 

「私も、同意見ね。今回に限ってはお金を貰うつもりはないわよ。神滅神器・天霆(ケラウノス)の問題は私の問題でもあるんだから」

 

「うぅ……ボクは、ボクは本当に良い神友に恵まれたよ……」

 

 思わず、さめざめと涙ぐむヘスティア。

 

「泣くほどのことではなかろう」

 

「そうよ、ヘスティア。それに、泣くのは早いんじゃないかしら。まだ本の持ち主を見つけたわけではないんだし」

 

 そうだね、と言ったあとヘスティアはズズズ、と鼻水を啜る。

 

「……よろしく頼んだぜ、ミアハ、ヘファイストス」

 

 改めて一切の曇りない真剣な想いを瞳に宿しながら、ヘスティアはそう言った。

 

「うむ、任せてくれ給え。これでも、交流関係は広い方なのだ」と自信ありげな返事をするミアハ。

 

「迷宮の中で彼を完璧に追尾するのは難しいでしょうけど、全力を尽くすわ」と現実主義者らしい返事をするヘファイストス。

 

 三神による秘密の会談はこれで終了と告げるように、場の空気が和んだときだった。

 

「最後に一つだけ訊ねたいことがあるのだが……」

 

「なんだい?」

 

「どうしたの?」

 

「君たちが現時点で本の持ち主だと思っている神物を教えて欲しいのだ。神の勘は存外、侮れんだろう?」とミアハは言った。

 

 逡巡の余白、無いに等しかった。

 

 二柱の女神は事前に口合わせていたかのように全く同時に口を開いて言った。

 

 フレイヤ、と。

 



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幕間・参 裏 語り合い(トーク・バック)

 ヘスティア、ヘファイストス、ミアハが教会の隠し部屋でベルについて語り合った数時間後の昼下がり。

 

 都市(オラリオ)の最北端に屹立する黄昏の館の応接間で、苦渋に満ちた表情を浮かべているのは、ロキ。剣山彷彿とさせる長邸の主だった。

 

「ふぅ……」

 

 溜息が一つ、こぼれる。

 

 感情うかがえぬ糸目が向けている長机(テーブル)には、無数の羊皮紙が散乱していた。

 

 これら全ては、一人の人物に関する情報のみが記されている。

 

 対象、ベル・クラネル。

 

 冒険者になってから僅か一ヶ月半で、Lv.3へ至ってみせた神時代に生まれた化物。神々さえも魅了する輝かしい闘いを繰り広げてみせた現代の英雄。

 

 彼の者の精神性、正に鋼鉄。怪物を狩る姿、正に光輝。滅私奉公を信条とする在り方、正に黄金。

 

 神も人も等しく到来を願う、隻眼の黒龍の討伐者【最後の英雄】に最も近きモノ。

 

 そして、ロキが愛する我が子の一人、アイズ・ヴァレンシュタインの想い人でもある。

 

 正直ロキからして見れば、現代の英雄だとか、鋼鉄の精神性だとか、【最後の英雄】に最も近いといった要素は、さほど重要ではなかった。

 

 些か停滞気味であった、都市(オラリオ)に住まう冒険者たちの成長を促進させているという点に鑑みれば、寧ろ歓迎したいくらいである(ヘスティアの眷属であるのはひじょーに気に食わないが)。

 

 実際、ベートやフィンはベルの獅子奮迅の活躍に触発されて、これまでの鈍化していた成長速度が嘘であったかのように、グングンと【ステイタス】を伸ばしている。

 

 このまま行けば、フィンは遠くないうちに現都市(オラリオ)二人目のLv.7冒険者に、最強の領域に、足を踏み入れるだろう。それは、勢力争いを続ける【フレイヤ・ファミリア】と、真の意味で実力が拮抗するということでもある。

 

 ここまでは、ロキにとっても非常に好ましい展開だった。

 

 しかし、問題はここからだ。

 

 ベル・クラネルなる輩に懸想しているのはアイズだけかと思っていたのだが、どうやらティオナやレフィーヤまで彼に恋心を抱いてしまったようなのである。それも、アイズに勝るとも劣らないほど傾慕しているのは、ロキから見ても明らかだった。

 

 ティオナは、まだ理解できる。彼女はアマゾネスであり、種族の性質上、強い雄に対して激しい情欲を抱き易いからだ(姉のティオネを見ればよくわかるだろう)。

 

 予想外であったのは、レフィーヤだ。彼女はアイズに対して憧憬以上の感情を胸に輝かせていたし、アイズの恋心を奪った当初、ベルを親の敵のように憎悪していたのは【ロキ・ファミリア】内では周知の事実だった。

 

 それが瞬きもしないうちに好敵手(ライバル)という立場の裏側に恋慕を猛らせているのだから、堪ったものではない。

 

 アイズ一人でも失神寸前の衝撃(ショック)を受けたのに、あろうことか幹部の一人でもあるティオナと将来有望なレフィーヤまでベル──つまりは他派閥の眷属(よその子)──に想いを寄せるなど、さしもの道化神(ロキ)でも予想できなかった。否、したくなかった。

 

 何よりロキが忌々しいと思うのは、ベルの主神があの(・・)ヘスティアであることだ。

 

 よりにもよって、なぜあの無駄に乳がデカいだけの幼女神の子どもに、愛する我が子らの恋心を奪われなければいけないのか。

 

 しかし、都市(オラリオ)の中でも眷属への愛情が深いことで知られるロキに、彼女らの想いを強引に引き裂くような無粋な真似ができるはずもなく。

 

 我が子を想うロキは細やかな抵抗として、わざわざ調査部隊を結成。ベルがボロを出さないか、監視するという奇行に走るのだった。といっても人員はある理由から二人しか存在しないのだが、今は詳しく語る必要性は全く無い。無いったら、無いのである。

 

 それはともかくとして当初調査部隊から報告されてきたのは、都市にて語られる噂通りの、いやそれ以上に英雄らしい行動を取るベルの様子だった。

 

 あかん、ボロ出すどころか好感度が鰻登りやないか。なんや、地下迷宮(ダンジョン)怪物(モンスター)に襲われてる冒険者を片っ端から助けるって。ほんまに英雄みたいなことするやないか! 

 

 ロキは頭を抱えた。

 

 アイズ一人であれば純粋に応援しようと渋々、本当に渋々であるが、渋々考えていたのだ。

 

 だが、ティオナとレフィーヤまでもがベルに恋心を抱いてしまったとなれば、話は別だ。我が子を愛するロキにとって、一人(アイズ)だけを贔屓するわけにはいかない。

 

 とはいえ、平等に三人を応援するのも、ロキとしては気持ち複雑で意欲(モチベーション)がまるで上がらない。むしろ、底へ底へと沈んでいく一方だ。

 

 うちはどうすれば、良いんや! 何をすれば、アイズたんたちの幸福に繋がるんや! 

 

 神々の中でも色々な理由で(主に胸の貧しさ)恋愛事情に疎いロキは、懊悩した。それこそ、ラグナロク(いたずら)を考えているときよりも頭を高速(フル)回転させた。

 

 しかし、無情かな。

 

 恋愛方面に対する知識の稚拙なロキは名案を練ることができず。リヴェリアから当人たちの自由にさせればよいというありがたい諫言をされるも、聞き入れようとはしなかった。

 

 そんな時である。

 

 調査隊から一つの報告が上がってきた。

 

 ベル・クラネルが最近、【ソーマ・ファミリア】の内情について聞き込みを行っているらしいと言うのだ。

 

 一体なぜ、【ソーマ・ファミリア】を? とロキは訝しんだ。両者に接点があるとは思えなかったのだ。

 

 しかし答えは、意外なところに隠れていた。

 

 どうやらベル・クラネルは、数日前に【ソーマ・ファミリア】所属のサポーター、リリルカ・アーデと契約を結んだらしいと調査報告書に記載されていたのだ。

 

 加えて、サポーターとして雇ったリリルカ・アーデという小人族(パルゥム)の少女は構成員らと何やら因縁があるらしく、ベルが【ソーマ・ファミリア】について聞き込みを始めたのは時期的に、それが理由だろうとも記されてあった。

 

 あかん、なんか臭いわ、これ。嫌な予感がビンビンするで……。

 

 ベル・クラネル、【ソーマ・ファミリア】。平時であれば一切の接点なき二つの要素が偶然か必然かは判然としないが、確かに交わったことに対して、神の直感が頭痛という形で警鐘を鳴らした。

 

 好ましくない事態が起こってしまうと。

 

 そして現在、ロキは向かいのソファに座るリヴェリアと、彼女の客人であるエイナ・チュールを加えた三人で、直近のベルについて意見を述べあっていた。

 

「……つまりや、エイナちゃんの言うことが正しいんやったら、ベル・クラネルは『神酒(・・)』について色々と嗅ぎ回っとるちゅうわけやな」

 

「はい」と頷くエイナ。

 

 なんや面倒なところと絡んでもうたなぁベル・クラネルは、と疲弊を孕んだ声音でロキは言葉を紡いだ。

 

「神ロキは【ソーマ・ファミリア】の内情について、何か知っていますか? なぜ彼らがあれほど必死にお金を集めているのか。仲間内で過度に争い合っているのか。もしかして、ベル君が私に尋ねた『神酒(ソーマ)』が関係しているんですか?」

 

 エイナは矢継ぎ早に質問した。

 

「ソーマ、なぁ……」

 

 数秒ほど思案するロキ。管理機関(ギルド)に所属するエイナに対して、どう説明するのが適切なのか、慎重に言葉を選ぶ必要があった。少なくとも雑に扱っていい話題ではない。

 

「まず、ソーマっちゅうんはホンマに酒作りにしか興味がない神やってことを頭に入れといて欲しいんやけど……」

 

「はい、わかりました」

 

「どれくらい前やったかなぁ。いまいち覚えとらへんのやけど、アイツの作った酒を飲んでな、一目惚れしてもうたことがあったんや。これより上手い酒はないってな!」

 

「はぁ」

 

 急に話が逸れて困惑するエイナだが、ロキは構わず喋り続ける。

 

「それからは毎日、毎日、暇さえあったらソーマの酒ばっか飲んでたんよ。でもな、ある日こんな噂を耳にしたんや」

 

 うちさえ魅了するこの酒は失敗作らしいってな、と語るロキの糸目が鋭く開かれる。

 

「そうなれば、や。『完成品』は一体全体、どれだけ上手いモンなのか気になるんは自然な流れやろ? そんでうちは、ソーマの本拠(ホーム)に突撃したんや! 『完成品の酒飲ませてくれーっ!』てな」

 

「ロキ、お前という奴は……」

 

 一大探索(ダンジョン)派閥(ファミリア)の主神としてあるまじき行動を取るロキを、不幸にも知ってしまったリヴェリアは頭を抱えた。

 

「まぁ、まぁ。結構前のことやから、気にせんでええって」

 

「お前が気にしなくても、私が気にするのだ」と反論するリヴェリアの語威から説教の気配を感じ取ったロキは、慌ててエイナの方へ視線を向け直して会話を再開した。

 

「は、話を戻すで。いざ本拠(ホーム)へ突撃してみればや、中にはだーれもおらへんかったんや。誰一人も、やで? そんなんありえるかって話やろ。本拠(ホーム)に誰もおらんなんて、異常やで。自分の子どもらに興味ないって言ってるもんやし。でもな、そん時はなんか幽霊屋敷にでも入ったみたいでめっちゃドキドキしてきてもうて、酒のことは後回しにして探検することにしたんや」

 

「ロキ……」

 

 もはや叱る気力も無いのか、リヴェリアは己が主神の名前を弱々しく呟くだけだ。

 

「でや、色んな部屋回ったんやけどホンマに人はおらへんし、酒も見つからへんしで、すっかり興奮も冷め切ってしもうてな。『もう帰るかぁ』思うて歩いてたら──」

 

 いたんやソーマが、と言葉を紡ぐロキはなぜか苦虫を噛み潰したような表情をしていた。

 

「一応、うちは許可(アポ)なく勝手に入ったわけやし? 『よぉ』って挨拶したんよ。そしたらソーマの奴、なんて返してきたと思う?」

 

「なんて返してきたんですか?」

 

「あのアホ、『やあ、いらっしゃい』ってほざきよったんよ。信じられへんやろ? うちとソーマは初対面やし、そもそも事前に連絡もせず勝手に本拠(ホーム)に入ったんやで? 空き巣みたいなもんやん」

 

「ロキ、お前という奴は……」

 

 リヴェリアの嘆きは、無情。ロキの耳には届かない。

 

「なのに、ソーマは何も気にせず|鍬『くわ』を振って畑を耕してたんや。なんでも酒の原料を栽培してるみたいでな。それだけなら、酒造りっちゅう趣味にしか興味ないだけの、探せばゴロゴロいるようなちょいと変わった神でしかない」

 

 でもな、とロキは言葉を続ける。

 

「あのアホ、うちが話しかけても『ああ』とか『うん』とか『そうだな』とかしか言わへんのよ。勿論、鍬は振ったままでやで。それ見て、うちの堪忍袋の緒がブチィーッて切れてな、思い切って【ファミリア】について聞いてみたんよ。そしたらヤバい話やって認識してないのか、内部のド腐れ事情を吐くわ吐くわ。正直、あの場でぶん殴らんかったうちのこと褒めてほしいくらいやで」と語るロキは、嘗ての怒りが再燃したのか身体から僅かに神威が洩れだしていた。

 

 ごくりと喉を鳴らしたあと、

 

「神ソーマは何を喋ったんですか?」

 

 とエイナは訊ねた。

 

「……ソーマはな、『完成品』の『酒』。ベル・クラネルが言ってたちゅう『神酒(ソーマ)』を賞品にして、稼ぎの良い上位の団員たちだけに振る舞うっちゅうイカレタ制度(ルール)を導入しとったんや!」

 

 しかも『神酒(ソーマ)』を賞品とした競争制度を導入した理由は、趣味である酒の製造費を一ヴァリスでも多く徴収するためという、実に神らしい利己的なものだった。

 

 ロキがソーマから聞いた話によると、競争制度導入以前の団員たちは稼ぎをあまりソーマに渡さなかったらしく、趣味に投じる資金の不足に年中悩まされていたのだという。

 

「でや。ない頭で必死に考えた結果。あのアホは心の底から『酔う』酒を造って、団員たちの方から自主的に金を渡したくなるイカレタ仕組みを作ったってわけや」

 

 馬鹿らしいでほんま、と悪態をつくロキ。

 

「ちょいと訊きたいんやけど、エイナちゃんはソーマの酒、飲んだことあるん?」

 

 唐突に、ロキが訊ねる。

 

「え、はい。一度、付き合いで……」

 

 不意打ちのような質問に若干動揺しながらも、エイナは答えた。

 

「どうやった?」

 

「……凄く美味しかったですよ。私が飲んだお酒の中では、今のところ一番だと思います」

 

「『神酒(ソーマ)』はな、それとは比較にならんぐらい美味いで?」

 

「え?」

 

 ロキの言葉に表情が凍り付くエイナ。

 

 昔【ソーマ・ファミリア】製の酒を飲んだとき、エイナは天に昇るような高揚感と、不安や恐怖といった負の感情の一切が溶けていく酩酊感を味わった。

 

 そんな依存の懸念を抱くほど魅力的な酒が、失敗作だとロキは言う。

 

(なら、もし私が『神酒(ソーマ)』を飲んだら?)

 

 想像した瞬間、頭頂から爪先までぞぞぞ、と悪寒が駆け巡った。

 

「ここまで言えば、あとは予想がつくやろ? 『神酒(ソーマ)』を一滴でも舐めてしもうたら、絶対にもう一度舐めたくなる。いや、がぶがぶと浴びるように飲みたいって思うようになってまう。となれば、や」

 

「【ソーマ・ファミリア】の団員たちは死に物狂いでヴァリスを稼いで、賞品(ソーマ)を手に入れようとする……派閥(ファミリア)内でいつも激しく争っているのは、他の団員との競争に勝って賞品(ソーマ)を手に入れるため……」

 

 ロキの言葉を引き継いで、エイナは言った。

 

「ちゅうても、禁断症状はないし、依存症状もそこまで酷いわけやない。神の酒言うても、いつか必ず夢から醒めるときが来る。……でもや、ソーマんところの子は次に飲むまでの間隔(インターバル)が極端に短いんやろうな。可哀相に、あの子らは醒めない夢をずっと見続けてるってわけや」

 

「それは、飲む頻度を抑えればあまり問題は無い、ということですか?」

 

「せや。どんなに頑張っても『神酒(ソーマ)』飲めへんかった子らは、とっくに正気に戻ってると思うで。多分」とロキは言った。

 

「それに飲み続ければ耐性つくらしいしな。うちはあんま詳しくないんやけど、恐らくずっと上位にいる子らはあんま『酔って』ないんちゃうかなぁ」

 

「そういえば……」

 

 ロキの呟きを聞いて、エイナは思い出す。

 

【ソーマ・ファミリア】の中でもLv.2に至っている一部の団員は、『神酒(ソーマ)』の狂信者と化しているLv.1の団員より落ち着いているように見えた。

 

 あくまで、【ソーマ・ファミリア】内で比較した場合の話だが。

 

「ここまでは、解決するのにそこまでの労力は必要あらへん。しょうもない内輪揉めみたいなもんやから、中立な立場にある管理機関(ギルド)が『おたくの団員が他んところの子に暴力振るっとるで!』とか言うて監査入れれば、恐らく収束できると思うで。是正勧告を無視するほど、あそこの団長も狂っとらんやろ」

 

「本題はここからか」とリヴェリアが疲れた声で言った。

 

「そうやで、ここからや」

 

 そう言って、ロキはソファに沈み込んだ。

 

「「「……」」」

 

 応接間に沈鬱な空気が漂う。

 

 三者の視線は自ずと、机の上に置かれたベルの似顔絵に向けられていた。

 

「うちとリヴェリアは直接会ったことがないから、ベル・クラネルについては情報でしか知らんけど、エイナちゃんはあの子のアドバイザーなんやろ。何しでかそうとしてるか予想できひんの?」とロキが訊ねた。

 

「申し訳ありません、神ロキ。私もベル君が地下迷宮(ダンジョン)以外の事柄でここまで積極的に動くのは見たことがないので……」

 

「そか」

 

 微かではあるが表情に落胆を滲ませながら、ロキはこくりと頷いた。

 

「ですが、恐らくサポーターの子が大きく関係してると思います。いえ、寧ろそれ以外には考えられません」

 

「このリリルカ・アーデっちゅう子やな」

 

「はい」

 

 エイナは言った。

 

「彼女と一緒に探索するようになってから、明らかにベル君は難しい顔をする回数が増えたので。それにリリルカさんも【ソーマ・ファミリア】、なんですよね?」

 

 熟考するロキに変わって、リヴェリアが「そうだ」と答える。

 

「だとしたら、ベル君はリリルカさんを助けようとしているのかもしれません。私の勝手な予想ですけど……」

 

「調査報告書によれば、二人は出会ってから数日程度しか経っていないが?」

 

「関係ないんですよ、ベル君には。助けたいと思ったときには身体が先に動いてしまっている、そんな子なんです」

 

 なるほどな、と頷くリヴェリアだが、内心では何かが引っかかっていた。

 

 調査報告書やエイナの意見からでは見えてこない、極めて重大な要素を見落としている気がしてならないのだ。

 

 ロキもまた、ベルがリリルカ・アーデという少女を【ソーマ・ファミリア】の呪縛から解き放つだけでは終わらない。そんな予感を胸中に抱いていた。

 

 うんうんと何度も唸るロキだったが「この際、手段は選んでられへんな。リヴェリア、あの子ら呼んで来てもらってええか?」と言った。

 

「…………わかった」

 

 長い沈黙のあと、絞り出すような声が応接間に響いた。

 

「エイナ、少し待っていてくれ」

 

「は、はい……」

 

 客人であるエイナに断りをいれたあと、リヴェリアはソファから立ち上がり応接間を足早に出て行った。

 

「あの、リヴェリア様は誰を呼びにいったんですか?」

 

「あー……それはなぁー……」

 

 言葉を濁らせるロキを不思議そうに見つめるエイナ。

 

「まぁ、あれや。来れば分かるっちゅうことで」

 

 説明するのが面倒になったロキは、投げやりにそう言ってソファに背中を預けた。

 

 ○

 

 数分後、応接間へ続く扉をコンコン、と叩く音が鳴った。

 

「入りぃ」

 

 ロキがそう言えば、リヴェリアに続くように二人の少女が入室した。

 

「失礼します」

 

 礼儀正しく一礼したのは、レフィーヤ・ウィリディス。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)で助けられたのを切っ掛けに、ベルの好敵手(ライバル)を自称するようになったベル調査部隊(ストーカー)の一人だ。

 

「呼んだーロキー!」

 

 向日葵のように眩しい笑顔を浮かべながらロキの隣へどさりと腰を下ろしたのは、ティオナ・ヒリュテ。

 

 怪物祭(モンスターフィリア)で【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインに勝るとも劣らないベルの勇猛果敢な闘い振りを目の辺りにして、一目惚れしたベル調査隊(れんあいバーサーカー)の一人だ。

 

 二人がベルへ向ける情念は凄まじく、アイズのように純真無垢で見ているこちらが胸をときめかせてしまうような、愛らしい恋情とは次元(ワケ)が違う。

 

 レフィーヤの場合、ベルに関する場合のみ理性や常識が蒸発してしまっているのか、暇な時間のほとんどをベルの観察(ストーキング)に費やし、彼の行動を分単位で仔細かつ丁寧に記録するという、狂気に両足をどっぷり浸からせた執着心を見せている。

 

 因みに、ロキやリヴェリアが読んでいるベルの調査報告書の製作者は、全てレフィーヤだったりする。

 

 ベルに懸想を抱く前は、アイズへの憧憬を若干抱きすぎているきらいがあった程度で、非常に優秀かつ優しい性格をしていた普通の少女(エルフ)

 

 それが今では、ベルの行動を完全に把握している尾行妖精(ストーカー)になってしまった。

 

 最近のリヴェリアにとって、悩みの種のほとんどがレフィーヤ一色に支配されてしまうほどの豹変ぶりである。しかし、魔法の訓練などは以前よりも熱心に取り組むようになったので、師としては非常に複雑な気分だった。

 

 対するティオナは……特に語る必要はないだろう。フィンに大恋慕中(ぞっこん)(フィオネ)と同様に、ベルを見つければ抱きついて頬ずりをしたり、食事に誘ったり、趣味趣向を聞いたりなど、猪突猛進。押しに押しまくっているという、実にアマゾネスらしい距離の詰め方(アプローチ)を行っている。

 

 押しの強さが尋常ではないという点さえ除外すれば、彼女はまだ、ギリギリ恋する乙女の枠組みに入ったままだっただろう。

 

 総ては儚い幻想に過ぎないが。

 

 応接間に招集されたティオナとレフィーヤ、そして彼女たちを連れてきたリヴェリアの全員がソファへ座った。

 

「こちらは、エイナ・チュール。私の客人だ」

 

「ギルドで受け付けの仕事をしている、エイナ・チュールといいます。よろしくおねがいします、ティオナ氏。レフィーヤ氏」

 

「よろしく、エイナ! あたしはティオナ・ヒリュテって言うの! 氏なんてつけなくていいから、あたしのことはティオナって呼んでよ!」

 

「は、はい。わかりました、ティオナ…………さん」

 

 最後に「さん」をつけられてしまったことにぶーぶーと不満そうに頬を膨らませるティオナだったが、ギロリとリヴェリアに睨まれると、慌てて口を閉ざした。

 

「私はレフィーヤ・ウィリディスと言います。レフィーヤと、ぜひそう呼んでください、先輩」と挨拶をするレフィーヤ。

 

「先輩って……そっか、あなたも『学区』出身なのね?」

 

「はい」

 

 レフィーヤは頷いた。

 

「嬉しいなぁ、まさかここで後輩に出会えるとは思ってなかったわ。よろしくね、レフィーヤさん」

 

 先輩後輩の間柄であっても、「さん」が抜けることはなかった。

 

(ティオナさんとレフィーヤさんを連れてくるとき、神ロキとリヴェリア様の様子が少しおかしかった気がしたんだけど……私には二人とも、特に変なところはなさそうに見えるのよね……)

 

 変わり者が多い神の中でも、特に奇特な性格をしているロキが説明するのを放棄するぐらいなのだから、一体全体どれほど癖の強い人物が来るのかとエイナは内心身構えていた。

 

 しかし、いざ蓋を開けてみれば拍子抜けもいいところである。明朗快活なアマゾネスの少女と、礼儀正しいエルフの少女が、エイナの瞳に映るだけだ。

 

「それで、私とティオナさんが呼ばれた理由はなんでしょう?」

 

「そうそう! あたしたち二人の組み合わせで呼ぶのって珍しくない?」

 

 自己紹介を終えた二人がロキとリヴェリアへ訊ねた。

 

「あー……それはやなー……」

 

「そう、だな……」

 

 言い淀むロキとリヴェリア。

 

 それを見てエイナは不思議そうに首を傾げた。

 

 なぜ、ベル君のことを話さないのだろうか、と。

 

「お二人が言い辛いのでしたら、私から説明しますけど……」

 

 エイナの提案にロキは眼を輝かせ、リヴェリアは安堵の息を洩らした。

 

「ホンマもんの女神はここにおった!」

 

「済まないが、頼む」

 

【ロキ・ファミリア】の主神と、幹部の中では古株のリヴェリアがここまで躊躇する理由が思いつかないエイナは、心のうちを疑問符で埋め尽くしながらも、口を開いた。

 

「実は二人をここに呼んだのは、最近のベル君の様子を聞きたかったからなの」

 

 そして、エイナは思い知る。ロキとリヴェリアがどうしてベルの話題を頑なに二人へ振ろうとしなかったのかを。

 

 ──二人の目が爛々と輝き出した。

 

「ベル・クラネルについて知りたいんですね! 何でも聞いてください、朝から夜までベル・クラネルが過ごした時間のほとんどを把握してますから! 例えば三日前は──」

 

「あたしも英雄(ベル)君のことなら色々教えてあげられるよ! 英雄《ベル》君はねー、料理は味濃いめの肉系が好きなんだ。あとはね──」

 

 突如として応接間に吹き荒ぶ言葉の嵐が二つ。その中心地にいるエイナは、二人の口から間隙なく放たれる恋情の口撃を浴びせられるのだった。

 

「尊い犠牲やった……」

 

「すまん、エイナ……」

 

 二人は表面上、申し訳なさそうにしていたが、内心ではティオナとレフィーヤの口撃対象がエイナに向いてくれたことに、ほっとしていた。

 

 ○

 

 嵐がエイナを襲撃してから数十分後。ようやく恋慕に支配されていた理性が蘇り、正気を取り戻したレフィーヤは、羞恥で顔を真っ赤に染めながら勢いよく頭をさげた。

 

「ご、ごめんなさい! ベル・クラネルのことになるとつい頭が真っ白になってしまうんです……!」

 

 しゅん、と目に見えて落ち込むレフィーヤに「だ、大丈夫よ。私は気にしていないから」と慰めの言葉をかけるエイナだったが、実は全く別の心配をしていた。

 

 それはティオナとレフィーヤがベルに好意を寄せていることについてだった。

 

(まさかこの二人もベル君を想ってるだなんて……もしかして私が知らないだけで、もっと恋敵はいるのかしら……)

 

 と胸中で独白するエイナ。

 

 既にヘスティア、アイズ、噂によればとある料理店のウェイトレスが恋敵として存在しているらしいというのに、ここにきて新たに二人が登場したのだ。

 

 しかも、どちらも見目麗しく、ティオナはLv.5、レフィーヤもLv.3と両者ともに将来有望な冒険者とくれば、ギルドの受付嬢でしかないエイナが焦るのも無理はなかった。

 

「えー、もう終わりなのー! もっと英雄(ベル)君について教えてあげたかったのにぃ……」

 

 ティオナはまだ満足していないのか、抗議の声をあげる。

 

「いい加減にしろ、ティオナ。客人の前だぞ、これ以上恥を晒すんじゃない」

 

「はーい」

 

 リヴェリアママの背後に鬼が出現したのを見たティオナは、やや不満を残しながらもロキの隣へどさっと座り直す。

 

「レフィーヤも、エルフとして、淑女として、【ロキ・ファミリア】の眷属として、相応しい振る舞いを心がけるように」

 

「は、はぃ……」

 

 楽観的な性格のティオナとは対極。真面目な性格をしているレフィーヤは、リヴェリアの叱責に若干涙目になりながら、しゅん、と肩を落とす。

 

「まぁまぁ、そんな怒らんでもええやんかリヴェリア。今はベル・クラネルについて聞くのが先やろ?」

 

「むぅ、確かにロキの言うとだな……」

 

 リヴェリアは思考を切り替えるように何度か首を振った。

 

 場が整った機会(タイミング)を見計らいロキは「よっしゃ、それじゃあ話を進めよか」と三者の瞳をぐるりと見つめながら言った。

 

「それで、何を知りたいんですか?」

 

「まずはベル・クラネルの最近の動向やな」

 

 どうしてベル・クラネルが【ソーマ・ファミリア】を、『神酒(ソーマ)』を探っているのか教えて欲しいんや、とロキ。普段からベルの日常を追っているティオナとレフィーヤは語るべきことが何であるのか察しがついた。

 

 一度、視線を交わす二人。

 

「恐らく──」と口を開いたのは、レフィーヤだった。

 

「ベル・クラネルが雇ったサポーターを助けるためだと、思います……」

 

「ほんまに?」

 

「は、はい……」

 

 でも、と言葉を零すレフィーヤは助けを求めるようにティオナを見た。どうやら二人しか知り得ない、ベルについての情報があるらしい。

 

「レフィーヤ、教えてくれ。閉ざした言葉のその先を」

 

「私からも、お願いします」

 

 エイナは極めて真剣な表情で頭を下げた。

 

 どちらが説明する? 

 

 交錯する二つの視線は、そんな会話をしていたようにも思える。

 

 やがてティオナがゆっくりと口を開き、今朝中央広場(セントラルパーク)でベルと黒髪のヒューマンが殺し合いに発展する寸前の口喧嘩を繰り広げていたことを語った。

 

「ベル君が、そんなことを……」

 

 正義感が強いとは思っていたけれど、それらが向けられるのは怪物(モンスター)限定なのではないかという願望に近い考えを、勝手にエイナは抱いていた。

 

 だが、願望はやはり願望でしかなかった。幻想が、幻想でしかないように。

 

 ベルは悪だと断定したものは、人であろうとも裁くのだろう。

 

 彼にとって怪物(モンスター)も、人も、悪であれば同じ存在でしかないことが、ティオナの発言によって証明されてしまった。

 

「口喧嘩してたのが【ソーマ・ファミリア】の奴なのかは知らないけど……あたしの眼に映る英雄(ベル)君は、殺意を瞳に宿してた。もしも刀を抜いてたら、きっと……ううん、絶対に躊躇いなく殺してた」

 

 そう語るティオナの表情からは普段の天真爛漫な色は消えて、人の気配が絶えた夜の森を連想させる、冷たいものに変貌していた。

 

 これ以降、会話は絶えた。不気味なほどに、誰も喋らない。

 

 理由は一つ。ロキが調査報告書を眺めながら思索に耽っているからだった。

 

(あかん、ティオナとレフィーヤの話を聞いて、余計に頭痛が激しくなってもうた……)

 

 つまり、間違い無くベルは現在のロキが予想する安穏とした未来から離れた行いに走るということだ。

 

(……レフィーヤの報告書を信じるんならや、どうにも腑に落ちない部分があるんよなぁ)

 

 一日という狭い視点から少し離れて、一週間という俯瞰視点からベル・クラネルの行動を観察したとき、幾つか不自然な点が浮かび上がってきた。

 

 まず聞き込みについてだ。ベルはリリルカ・アーデとサポーター契約した翌日から【ソーマ・ファミリア】の内情を探るために行動を始めたのだが、なぜか最初から『神酒(ソーマ)』に関する情報を中心に集めているのだ。リリルカ・アーデについてや、【ソーマ・ファミリア】内のサポーターに対する扱いなどには一切触れていない。

 

 もしもリリルカを助け出したいのならば、【ソーマ・ファミリア】から退団するにはどうすればよいのかを真っ先に調べるべきだ。他にも【ソーマ・ファミリア】の団員たちからリリルカがどう思われているのか。普段はどこで生活しているのかなど、訊ねるべきことの例を挙げればキリがない。

 

 しかし、ベルは一貫して『神酒(ソーマ)』についての情報のみを集めている。

 

 まるで、リリルカ・アーデ個人について興味など持っていないかのように。

 

「二面性、か……」

 

 ロキは、ぽつりとそう呟いた。

 

「ロキ?」

 

 思考の旅から帰ってきたロキは、自分を心配そうに見つめる子どもたちと客人に「大丈夫や。ちょっと本気で頭使っただけやから」と言った。

 

「……神ロキ。何かわかりましたか?」

 

「んー、一応な。多分こうしたいんやろうなーってことは掴んだと思うで」

 

「本当ですか!」

 

 顔に明るさが戻るエイナ。

 

「それで、英雄(ベル)君は何をするつもりなの?」

 

 そう問いかけるティオナに、まぁ待て、とロキが制止する。

 

「まずはベル・クラネルの二面性について語るとこから始めんと、うちの推論聞いても納得できへんと思うから、さきにこっちから話させてや」

 

「うん、わかった」とティオナは言った。

 

「三人もええか?」

 

「ええ」

 

「ああ」

 

「はい」

 

 と頷くエイナ、リヴェリア、レフィーヤの三者。

 

「んじゃ、説明するで。まずうちが不思議に思ったんは、ベル・クラネルの発言と行動が矛盾しとるって点や。成長重視どころか成長することしか考えてない次代を担う英雄候補が見ず知らずのサポーターを雇うっちゅうんもそうやし、『中層』の中程までしか探索してないのも、なんちゅうんやろうなぁ……らしくない」

 

 調査報告書が正確なら、ベルは既に『下層』を単独(ソロ)で探索できるだけの力量を持っている。にもかかわらず、安全な『中層』に留まり続けているのは、都市(オラリオ)の人々がベルに抱く英雄象と大きく乖離している。

 

 ロキからすれば、良い変化だった。それは何故か。フレイヤが今のベルを見て怒り狂っている光景が目に浮かぶからだ。

 

 半月程前。いや、怪物祭(モンスターフィリア)までは、英雄という概念が擬人化したような得体の知れなさを感じさせていたベル・クラネルが、ようやく一人の人間になったように、ロキには思えた。

 

 と同時に、【ソーマ・ファミリア】の内情を探る際はリリルカ・アーデ個人ではなく、『神酒(ソーマ)』という人の心を狂わせる毒の情報ばかりを求めているのは、以前のベルの行動原理──つまりは『誰か』のために──を基準として動いているように思えてならないのだ。

 

 このベルの行動は、廻り廻ってリリルカを救うかもしれない。だが、それは結果論に過ぎない。ベルが『神酒(ソーマ)』の危険性を突いて、【ソーマ・ファミリア】の運営体制を破壊しようと画策しているのならば、その意志の根底にあるのは『個』ではなく『公』だ。

 

「つまり、や──」

 

 ロキが出した結論は、嘗ての英雄の擬人化だったベルと今の個人を想う英雄としてのベルの人格があまりにも乖離しすぎていて、分裂してしまったのではないかというものだった。

 

「二重人格になってしまっているということですか?」

 

「いや、そこまではいってへん。今は多分、自分の行動の違和感や矛盾点に気づきにくくなっとるぐらいやと思う」とロキは言った。

 

「ベル君はどうしてそんなことに……?」

 

「そこまでは、うちかて流石にわからへんよ。人格が分裂するほど、相容れない想いを一人の人間が抱えること自体、滅多に起きひんことやからなぁ」

 

 ロキはぼやいた。

 

「ふむ、ロキの話を整理するとだ。今のベルはサポーターとして雇っているリリルカを助けるために動いている。しかし当の本人は自覚なしに、彼女が助けを求める原因を作った【ソーマ・ファミリア】に巣くう悪そのものを絶とうとしているわけだな」

 

 そうや、とロキはリヴェリアの説明が適当であることを認めた。

 

「あの……それって、悪いことなんでしょうか? 」

 

 おずおずといった様子でレフィーヤが訊ねた。

 

「道徳や倫理という観点でみれば、悪ではないだろう。ただ、他の派閥(ファミリア)の構成員が今回のような件に過度に干渉するのは、いらぬ問題を起こしたり、不必要な遺恨を残す可能性がある。……好ましい行いとは言い難いな」

 

「それに、や。もしうちの推論が遠からず当たってたら、ベル・クラネルはめっちゃ過激な手段を取る可能性が高いで」

 

「そんな、ことはっ! 幾らベル君でもっ!」

 

 思わず声を荒げてしまうエイナ。

 

「ないって断言できるんか、エイナちゃん。ベル・クラネルが、裁きの刃を人間やうちら神々に向けたらどうするんか、一度でも見たことがあるんかいな」

 

「それ、は……」

 

 なかった。エイナが知るベルは、罪のない人間を襲う怪物(モンスター)を憎む英雄としての姿だけだから。ベルが人や神を悪だと断じた場合、どんな行動に出るのか欠片も想像できなかった。

 

「ねぇ、ロキ」

 

「なんや」

 

「ロキが考えてる英雄(ベル)君が取る過激な手段ってなに?」

 

 ティオナは神妙な面持ちで訊ねた。

 

「それは、やな……」

 

 ロキは天井を見上げながら、最悪の未来を言葉という形で紡ぎ出した。

 

 

 

 

 ソーマを殺す。

 



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悪意は蠢く(メフィスト)

端役が出会ったのは、悪魔だった。


 生まれたときから、俺──ゲド・ライッシュは端役だった。

 

 両親は平凡、血筋は平民、天から授かる才能もなく、ただ名も無き群衆の一人として誰からも覚えられず、また語り継がれず、死ぬ運命を課せられた、生まれながらの敗北者。

 

 何か努力しても、先には必ず誰かがいて。俺が藻掻き苦しみながら磨いた技術を、涼やかな顔して軽々と習得していく。

 

 奴らが平原を駆ける豹だとすれば、俺は芋虫だ。地面を這いずる、鈍重な虫。

 

 俺が百の努力を重ねるうちに、仙才鬼才な化物どもは万の成長を遂げている。

 

 走っても、走っても、追いつけない。それどころか、距離は離れていくばかり。

 

 幼心に気づいた。世の中は選ばれし者と、そうでない者で分けられているのだと。

 

 だから、昔から嫌いだった。才能を持っている奴が。生まれながらに成功を約束されている奴が。傑物の血が身体に流れている奴が。幸運の女神に愛されている奴が。主人公が。英雄譚が。

 

 俺以外の総てが。

 

 しかし、どれだけ主人公を憎んでも、どれだけ英雄譚を侮蔑しても、俺が選ばれし者の側でないことは、覆しようのない事実だった。

 

 凡庸な種族の平凡な家庭に生まれた俺が何も為せないことは、明白だった。

 

 大人しく畑仕事に精を出す方が有意義なのは、一目瞭然だった。

 

 黙って強者に媚びへつらう方が人生を豊かにできるだろうことは、火を見るよりも明らかだった。

 

 だが、俺は拒絶した。安易に手に入る細やかな幸福に背を向けて、成功も栄光も掴み取れないだろう、暗闇の世界に足を踏み入れた。

 

神の恩恵(ファルナ)』さえ手に入れば、【ステイタス】さえ刻まれれば、最初から詰んでいた俺の運命も少しは変わるかもしれないと期待して。

 

 結果は、お察しの通りだ。

 

神の恩恵(ファルナ)』を得ようが、経済の中心地である都市(オラリオ)に来ようが、冒険者になろうが、俺は端役のままだった。

 

 いや、寧ろ英雄と呼ぶに不足ない傑物たちが何人も集まっている都市(ココ)は、才能を憎む俺にとって地獄そのものだった。

 

 美の女神に付き従う【猛者(おうじゃ)】、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】、【黒妖の魔剣(ダインスレイヴ)】、【白妖の魔杖(ヒルド・スレイヴ)】、【炎金の四戦士(ブリンガル)】や、道化の神の寵愛を受ける【勇者(ブレイバー)】、【九魔姫(ナイン・ヘル)】、【重傑(エルガルム)】、【剣姫(けんき)】、【凶狼(ヴァナルガンド)】、【怒蛇(ヨルムンガンド)】、【大切断(アマゾン)】を筆頭に、英雄的資質を持った化物どもがゴロゴロと存在しやがるのだ。

 

 心が、折れた。

 

 怪物(モンスター)よりも怪物な奴らを目の辺りにして、俺は真の意味で選ばれし者の側でないことを痛感させられた。

 

 それからは、最悪を更新し続ける灰色の日々を送り続けるだけだった。

 

 端役で敗北者で無能で踏み台な俺を、嘲笑する声が聞こえた。俺の目に映る周囲の全てが、敵であるかのように見えた。神々が俺を呪っているように思えた。

 

 そんなときだ、俺よりも明確に下な存在がいることを知ったのは。

 

 サポーター。命を賭けて怪物(モンスター)を屠る冒険者からおこぼれを貰おうとする寄生虫ども。

 

 俺は確かに端役だった。神や人を魅了する英雄になれる資格など無かった、有象無象の一人だった。

 

 だが、どうだ。サポーターは、それ以下だ。迷宮都市と銘打たれたオラリオで、【ステイタス】を手にしておきながら戦うことを放棄した、敗北者にも劣る役立たずだ。

 

 奴らにできるのは、冒険者が斃した怪物(モンスター)の魔石を回収することぐらいで、戦闘面では紙クズ同然のお荷物だった。

 

 冒険者とサポーターの間に生じている明確な格差を理解したとき、俺は暗い感情に支配された。

 

 上を見る必要はない。下だけを見ればいいのだと。

 

 自分よりも弱い立場にいる人間を蔑み、嘲り、馬鹿にすればいいのだと。

 

 それからの俺は探索へ赴くとき、必ずサポーターを雇うようにした。奴らは実力主義の都市(オラリオ)で生活するのに必死で、俺からの罵倒や暴力、不当な報酬の配分にも何ら抵抗を示さなかった。首肯のみが、奴らに許された行動(アクション)だった。

 

 正に、奴隷同然の存在。

 

 心地よかった、自分よりも下の立場の人間をいたぶるのは。奴らの呻き声や痛みに耐える憐れな姿を見ているときだけは、俺の心を焦がす嫉妬や憎悪の炎が弱まっている気がしたから。

 

 しかし、あの日。

 

 俺は突如、下だと思っていたサポーターに牙を剥かれた。

 

 探索中は、何も問題は起きなかった。普段通り、サポーターを罵倒しながら何度も矛を交えて動きに慣れきった『上層』の怪物(モンスター)を屠る作業を繰り返し、日暮れ前に地上へ帰還。

 

 報酬は俺が九割、サポーターが一割。ドロップアイテムは勿論、すべて俺が頂戴する。それが事前に交わした契約内容だった。といっても、契約書を書いたわけでも、口約束したわけでもない。

 

 立場が上である俺が勝手に決めたことだ。抵抗したければすればいい。返り討ちにして、報酬を全部、懐に収めればいいだけの話なのだから。

 

 だが、目深いフードを被ったパルゥムは違った。一見、礼儀正しいように見えたが、それは俺たち冒険者を騙すための仮面(ぎたい)だった。

 

 自宅へ帰宅したあと、俺は愛用の剣に加えて魔石と幾つかの装飾品(アミュレット)を盗まれたことに気づく。

 

 許せなかった、虐げられる側であるはずのサポーターが、虐げる側の冒険者に反逆したことが。

 

 何よりも、下と見ていたサポーターまでもが俺を馬鹿にしていることが屈辱だった。

 

 殺す。

 

 俺は、俺に堪えがたい屈辱を与えた反逆者(パルゥム)を処刑すると決めた。

 

 それからの日々は、サポーターを探すことに費やした。早朝から深夜まで、最北端から最南端、最東端から最西端まで。街中を駆けずり回った俺は、遂に反逆者(パルゥム)の尻尾を掴み、追いかけて、人気の絶えた裏路地に追いつめることに成功した。

 

 確実に殺せるという確信があった。両脚の、大地を踏み締める回数(カウント)が増えれば増えるほどに、彼我の距離は縮まっていく。もはや、時間の問題。

 

 そう思ったときだった。

 

 世界は、運命は、俺を主人公の敵役に抜擢させた。

 

 転倒しかけたサポーターを、庇う人影が一つ。

 

 雪を溶かした純白(スノーホワイト)の髪に、鋼の意思を感じさせる鮮烈な光を放つ深紅(ルベライト)。纏う装備は、世の穢れ(あく)を祓うかのごとく神々しく。その身からほとばしらせるは、抜山蓋世の意気。

 

 なんだよ、それ……。

 

 俺の前に、英雄が立ちはだかった。サポーターを、反逆者(パルゥム)を庇うように、主人公が道を塞いだ。

 

 奴の名を、ベル・クラネル。一カ月半でLv.3へ至るという冠前絶後の偉業を打ち立て、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の二つ名を与えられた異常者(じんがい)だ。

 

 なんで、お前が端役でしかない俺の人生に割り込んでくるんだよ! 

 

 理性の糸が一本残らず千切れる音がした。

 

 ベル・クラネルを視界に収めているだけで、頭が嚇怒の赤一色に染まっていく。

 

 殺せ、殺せ、奴を殺せ、と英雄を嫌う俺の心が叫んでいた。

 

 だが、所詮は端役。

 

 主人公と敵対して敵うわけがなく、手の届く場所にいた反逆者(パルゥム)へ一太刀を浴びせることも叶わず、無様を晒して逃げるので精一杯だった。その様は端役そのもの。

 

 次の日、どうせ【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】様は偶然あの場に通りがかっただけで、反逆者(パルゥム)を守るつもりはないだろうと思っていた俺は、摩天楼(バベル)前で処刑の機会を窺っていた。

 

 しかし、天はよほど俺のことが嫌いらしい。

 

 たった一度の幸運に恵まれただけだと思っていた反逆者(パルゥム)は、ベル・クラネルを伴いながらこちらへ歩いてきたのだ。それも自分を守る王子様みたいに、真横に侍らせて。

 

 ちっ! 

 

 計画を、修正する必要があった。裏路地に追いこむという絶好の機会を棒に振ったことの代償の大きさを、今になって思い知った。

 

 不幸は連鎖するらしい。

 

 数日後。気でも違ってしまったのか、反逆者(パルゥム)の方から俺の前に姿を現して「ごめんなさい、許して下さい。盗んだ品はすべてお返しします」と土下座しながら謝罪してきたのだ。

 

 ──どこまで俺を侮辱すれば気が済むんだ。

 

 そう思ったときにはもう怒りで頭が真っ白になっていて、そのあと何をしたのか今でもさっぱり思い出せない。

 

 恐らく暴力を振るったのだろう。手や靴に血痕がべっとりとこべりついていたが、どうやら殺害までは至らなかったらしく。地面には、俺から奪った長剣(ロングソード)装飾品(アミュレット)。そして誠意のつもりだろう、十万ヴァリスが入った小袋が置かれていた。

 

 ──おいおい。その程度で、俺が許すと本当に思っているのか? 

 

 ──盗品を返して、慰謝料を払っただけで、胸中で燃えたぎる憤怒が収まると本気で思っているのか? 

 

 ──そりゃ、ちょいと都合が良すぎるだろ。

 

 計画に変更は無い。反逆者(パルゥム)は絶対にこの手で処刑する。

 

 しかし、王子様を気取る英雄様(ベル・クラネル)が守っている限り、手を出せば返り討ちに遭うのは想像に難くない。

 

 俺は考えた。どうすれば、ベル・クラネルをあのサポーターから引き剥がせるだろうかと。思案して思案して、街中でベル・クラネルについて様々な噂を聞いて、一つの結論に辿り着いた。

 

 どうやらベル・クラネルは、滅私奉公の信条を胸に抱く悪を許さぬ正義の徒らしい。

 

 なら、話は簡単だ。あのサポーターがこれまで犯してきた罪を暴露し、英雄様が救おうとしている奴がどれほど悪い人間なのか教えてやればいいのだ。

 

 恐らく、ベル・クラネルは知らなかったのだろう。あのサポーターが窃盗の常習犯であることを。

 

 そして今日、俺はすべてを伝えた。あのサポーターが救われるべき善でないこと。むしろ英雄が裁くべき悪であること。

 

 一緒に罰をあたえてやろうと、提案をした。【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の助力を得られれば、間違いなく俺の計画は成功する。失敗の二文字は消えて、俺の手に勝利と栄光がもたらされるのだ。

 

 しかし、英雄様──否、英雄擬き(エセ・ヒーロー)──は、主人公は、俺の提案を聞き入れなかった。それどころか何の脈絡もなく激憤し、なぜか胸倉を掴んできたのだ。

 

 は? は? は? は? は? 

 

 理解できなかった。あのサポーターは何度も窃盗を繰り返した罪人で、ベル・クラネルが憎む悪であるはずだ。裁きが下されるべき人間のはずだ。

 

 なのにどうして、俺をそんな目で見る。

 

 まるでお前こそが裁かれる悪だと言うかのような、塵屑でも見るかのような目を向ける? 

 

 本来、それを向けるべきなのはあのサポーターだろう? 正義は俺の側にあって、被害者であるはずなのに。

 

 何が起これば、俺が悪の側になるというのか。

 

 おかしい。何もかもが、おかしい。俺は間違っていないはずなのに。虐げられるべきサポーターが冒険者様に牙を剥くのは、世の理に反しているはずなのに。

 

 どうして主人公は俺を敵役に抜擢したんだ? 俺はただ、俺よりも下の人間を蔑み、虐げ、苦しませながら生きていきたいだけなのに。

 

 主人公の物語を邪魔したいわけじゃないのに。

 

 ○

 

「畜生っ!」

 

 ベルとの口論の末に、またも逃げ出してきたゲドは腸が煮えくりかえるのを隠すつもりもなく、周囲に暴威を振りまいていた。

 

「あの、ガキっ! どうやってベル・クラネルを丸め込みやがった! ふざけんなよ、俺はただの被害者だろうがっ!」

 

 ずかずか、と喧騒に包まれた午前の大通りを歩いて行くゲド。彼の頭の中は今、ベルとリリルカに対する殺意で満ち満ちていた。

 

「くそ、くそ、くそ、くそっ! どうすれば、あの二人をぶっ殺せる!」

 

 無限に増幅し続ける激昂に思考が支配されても、Lv.1の冒険者がLv.3の冒険者と真っ向から対峙したところで勝ち目がないことを理解する程度の知性は残っている。

 

「ちっ! 何か良い方法はないのか……」

 

 当てもなく歩きながら、英雄殺しを実現する方法を考えるゲド。しかし、幾ら頭を捻っても出る答えは同じ。不可能の三文字だけだった。

 

「誰か、力を貸してくれる奴はいねえのか……」

 

 一人では無理だと結論を出したゲドが、ぼそりと呟きを洩らしたときだった。

 

『ゲド・ライッシュ』

 

 どこからか、ゲドを呼ぶ声がした。

 

「なんだ?」

 

 周囲を見渡すが、声の主らしき人物は見つからない。

 

『こちらを向け、ゲド・ライッシュ』

 

 その声に導かれるように、ゲドは裏路地へ続く暗闇の幕へ視線を向けた。

 

『そうだ、こちらへ来い……』

 

 暗闇の中、声の主らしき者が手招きしている。

 

「はん、誰が行くってんだ。馬鹿か、テメエは。そんな分かりやすい罠、ガキだって嵌まらねえぜ」と嘲笑するゲド。

 

「俺は今、人生で一番に苛立ってるだよ。ぶっ殺されたくなけりゃ、これ以上話しかけるんじゃねえ。わかったか! 糞野郎!」

 

 裏路地へ向かって罵倒を浴びせ、ゲドは歩きだそうとする。

 

 しかし、ゲドの怒りなどまるで気にする様子なく、声が再び響いた。

 

『ベル・クラネルとリリルカ・アーデを、殺したいんじゃないのかな?』

 

 一歩、前へ向けて踏み出していた足が地面に戻る。

 

「どうして、それを……」

 

『さぁ、どうしてだろうか。実に不思議だな』

 

「馬鹿にしてんのか、テメエッ!」

 

『まさか、そんなわけあるはずがない。私は君の味方だ』

 

「……味方、だと?」

 

 意表を突く発言に、怪訝そうな表情を浮かべるゲド。

 

『そうだ、味方だ。こっちへ来たまえ、ゲド・ライッシュ。君が本当にあの二人を殺したいのなら、私が力を貸してあげよう。英雄殺しを為す、力を……』

 

 ごくり、とゲドの喉が鳴る。

 

 英雄殺し。裏路地の暗闇と同化する何者かが紡ぎ出した言葉は、葡萄酒(ワイン)のように甘美だった。

 

「俺が、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】を殺せるのか? Lv.1に過ぎない、この俺が……?」

 

『ああ、私の手を取れば、必ず殺せる』

 

「俺が、殺す……ベル・クラネルを……」

 

 呟く声は、陶酔の吐息。心は、英雄殺しの魅力に囚われていた。

 

『もう一度、問おう。もしベル・クラネルを殺したいという気持ちがあるのなら、こちらへ来て私の手を取れ』

 

 爪先が、声の主に引っ張られるように裏路地の方角を向く。

 

『さぁ、来なさい』

 

「あぁ……」

 

 こくり、とゲドは頷いて裏路地へ入った。

 

『よく、決断してくれた。君はとても勇気がある、素晴らしい冒険者だ』

 

 パチパチと拍手する音を響かせるソレは、暗闇に覆われた埃臭い裏路地に溶け込むようにして佇んでいた。

 

 紫紺のローブは毒にて怪しく、その上から羽織る漆黒のケープには幾つもの気色悪い仮面が貼り付いて、顔はケープに貼り付くのに似た仮面で覆い隠されている。

 

 まるで妖術師みたいだ、とゲドは思った。

 

『では、私も君の勇気に応えよう』

 

 そう言って、妖術師はケープの内側からとあるモノを取り出した。

 

『これを使えば、君はベル・クラネルを凌駕する力を手に入れられる』

 

 胡散臭いとは思いつつも、他に道はないゲドは妖術師からソレを受け取った。

 

『使い方は簡単だ。これを使うときに──俺はベル・クラネルを殺すものだ──と強く念じるんだ』

 

 わかった、と頷くゲド。

 

「でも、なぜ俺に……」

 

『ははっ……簡単な話さ。私にとっても、あの英雄は邪魔なんだ。昔、色々あってね。()を野放しにすれば、私の計画が破綻してしまうのは目に見えてるんだ』

 

 そう言って妖術師は、もう一つ、禍々しい造形をした長剣(ロング・ソード)をゲドに手渡した。

 

『英雄殺しを為すには、それに相応しい武器を使うべきだ。そうだろう?』

 

「あ、あぁ。テメエの言う通りだ」

 

『この剣は特別製でね。無いだろうが……もしも窮地に陥った時、君に大いなる力を授けてくれるだろう』

 

「ははっ……マジかよ。こんな良い武器を俺にくれるのかよ……」

 

 あまりの手厚さに、罠かと勘繰ってしまうゲド。

 

『心配する必要は無い、私に騙す意思は微塵もないのだから』

 

 内心を見透かされたゲドは咄嗟に後退りするが、妖術師は佇んだままだ。その様子を見て、本当に騙すつもりがないのだと理解したゲドはほっ、と溜息をついた。

 

「あんたが俺を騙すつもりがないのはわかった」

 

『分かってくれて嬉しいよ。あとは君の好きにするといい。ここからは君の物語なのだから』と言って裏路地の奥へ消えようとする妖術師の背に、ゲドが「ちょっと待ってくれ!」と声を投げかけた。

 

「な、なぁ……あんたの名前、なんて言うんだ?」

 

『私かい。私は……』

 

 不気味な仮面が振り向き、言った。

 

 ──エニュオ、と。

 

 ゲドの瞳に映る仮面はなぜか哄笑しているように見えた。




契約はここに結ばれた。



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魔法は解けて(パラダイス・ロスト)

 今日を最後にしよう。

 

 昨日、ベルとゲドの口論を思わぬ形で目撃してしまったリリルカは、英雄譚の舞台から退く悲壮な覚悟を胸に抱きながら、朝霧が漂う中央広場(セントラルパーク)へ赴いていた。

 

 暗澹(あんたん)たる思いが、心を支配していたからだろう。砂嵐に囚われたように荒む精神を落ち着かせる時間が、リリルカには必要だった。

 

 ベルが集合場所に訪れるまで、あと一時間半。猶予は潤沢にある。洞察力に鋭れたベルに心のうちを悟られぬよう、今のうちに感情を理性という名の拘束具で縛っておかなければいけなかった。

 

 素直に決別を申し出れば、ベルは必ず察する。昨日の件が原因であることを。

 

(それだけは、回避しなくてはいけません……)

 

 邪悪を憎む英雄を怒らせた者の末路など、想像するまでもない。

 

 死だ。逃れようのない、死。凄絶としか形容できない、死。

 

 純然たる死が、ゲドの肩を叩くに違いない。

 

 自分の命を狙う危険人物を排除してくれるのだから、喜びはすれど嫌がる必要はないのかもしれない。

 

 だが、リリルカは嫌だった。自らの軽率かつ無思慮な愚行から生まれた悪意の因果を、他人に断ち切ってもらうなど。

 

 ゲド・ライッシュという過去(つみ)の象徴を、因果を、断ち切るのは、リリルカ・アーデでなければいけないのだ。

 

 英雄の手を汚すなど、あり得ない。ベルが紡ぐ物語は英雄譚だ。永遠に語り継がれる英雄の足跡に、私怨塗れの復讐譚という瑕疵(かし)などいらない。否、あってはならない。

 

 だから、別れるのだ。今日の探索を最後に。

 

 心の片隅に芽吹いた、『過去』を精算できるかもという希望的観測は所詮、希望的観測に過ぎなかったことをゲドの発言で痛感したから。

 

 償う意思だけでは、罪は消えないのだと思い知らされたから。

 

 これ以上、都市(オラリオ)を席巻する英雄の歩みを邪魔したくなかった。サポーターとして雇われる時点で、足を引っ張っているのは明白なのに。ベルには何ら関係のない過去の因縁に巻き込むことを、リリルカは許容できない。

 

 英雄の歩みを止める拘束衣と化すくらいなら、いっそ──

 

 と不穏な思考へ辿り着きそうになった時だった。

 

「よぉ、クソガキ。ちょっと面貸せよ」

 

 過去(つみ)の象徴が、リリルカ・アーデの前に立ちはだかった。

 

 生存本能が一瞬にして燃え盛り、咄嗟に距離を取るリリルカ。野生動物染みた素早い行動に、ゲドは肩を竦めて苦笑する。

 

「おいおい、そこまで警戒心剝き出しにすることはねえだろ。流石の俺も傷ついたぜ」と軽口を叩くゲドの態度は、違和感の塊だった。

 

 これまで執拗なまでに追いかけ回されてきたリリルカの記憶に保存されたゲドは、常に悪鬼羅刹の表情を浮かべ、黒く澱んだ殺意を身体から噴出させていた。

 

 昨日も同様だ。リリルカの関係者というだけで、ベルへ激情を剥き出していた。

 

 執念深く、短気。弱者を見下し、強者に媚びる。ゲド・ライッシュは典型的な小物だった。

 

 しかし、眼前に立つ彼はどうだろう。

 

 リリルカを見下ろす双眸には傲慢と自信が混合した獅子の輝きが宿って。身体から洩れ出すのは禍々しくも鮮烈な闇の戦意だった。

 

 ベルと対極な存在を神が創造したらこのような姿になるのではないか、となぜかリリルカは思ってしまった。

 

 五感を極限まで尖らせて、逃走を図る道を幾つか選定し、最悪バックパックを捨てる覚悟を胸に抱いて、リリルカは口に縫っていた沈黙の糸をほどいて言葉を発した。

 

「リリに……何か御用ですか?」

 

「はははっ! 親の敵みたいに憎悪滾らせた目で睨むなって。俺はテメエに危害を加えるつもりなんて、欠片もねえんだ。この間の謝罪でかなり溜飲が下がったからよ」

 

 ただ話がしたいんだ、とゲドは言葉を重ねた。

 

「嘘です……」

 

「嘘なもんかよ。よく俺を見ろ、クソガキ。目の前にいる男は怒っているように見えるか? 報復しようとしてるように見えるか? テメエを殺したがってるように見えるか?」とゲドは言った。

 

 確かに、表面上は友好的な態度を示しているように思える。だからこそ、リリルカは警戒心を際限なく高めるのだ。

 

 何が起これば、たった一日で殺意や憤怒や憎悪という人間が抱く感情の中でも頂点に位置する情動を、消し去ることができるというのだろうか。

 

 あり得ない。ゲドのような執念深い性格をしている人間は特に。謝罪したときに命の危機を感じるほどの暴力を振るわれたのも、リリルカの警戒心を高める要因となっていた。

 

「ま、テメエが警戒する気持ちもよーく分かる。謝罪してもらったのに、許そうともせず。昨日まで、散々追いかけ回してきたんだからな」

 

 でもよ、とゲドは続ける。

 

「俺もいつまでもテメエ一人に固執してられねぇって気付いたんだ。生活費を稼がなきゃいけねえし、そろそろLv.2へ【ランクアップ】するために冒険する必要もあるしな。……もしテメエが俺のモン盗んだ罪を本当に悔やんでるなら、一度だけでいい。今から地下迷宮(ダンジョン)の探索に付き合え。英雄様との約束を破ってな。勿論、テメエの贖罪が目的なんだから、報酬は全部俺が貰う。ドロップアイテムも含めて、全部だ。その代わり、これで全て水に流してやる。あのときの謝罪も受け入れてやる。今後一切テメエやあの英雄様に干渉したりもしねえと約束する」

 

 どうだ、悪くない提案だろ? と言って、虚偽など微塵も抱いていないかのような清い笑顔を浮かべるゲド。

 

(これは、明らかに罠です……リリを陥れるための……いえ、リリを殺すための……謀)

 

 これまで幾人もの人間を騙してきたことで培った観察眼が、ゲドの発する言葉のことごとくが嘘であると告げている。

 

 嘘、嘘、嘘、嘘、嘘。真っ赤な嘘。

 

 笑顔の裏に隠れる本音は、殺意と憤怒と憎悪の業火だ。

 

 了承は、自殺行為に近い。もしゲドに同伴すれば、これまで経験したことのない危険に見舞われるだろう。何よりも、ベルとの約束を破るという最低最悪の行為に手を染めなければいけない。

 

(でも……)

 

 リリルカの中では既に答えが出ていた。

 

「わかり、ました……」

 

 にやり、とゲドが嗤う。

 

「これでリリが犯した愚かな罪が償えるのでしたら、貴方様の提案を受けさせていただきます」

 

「そうか、そうか。お前が贖罪して未来(まえ)へ進みたいって思ってる気持ちが、本心で良かったぜ。せっかくベル・クラネルに守ってもらってるのに、懲りずに嘘ついてたらよ、流石に救えないからなぁ」

 

 解呪できない呪詛(カース)を吐き出すゲド。

 

「それじゃあ行こうか、リリルカ・アーデ。楽しい、楽しい、『冒険』の始まりだぁ」

 

 悪魔が浮かべる笑みというのは、きっとこんな形だろう。そう思わざるを得ない邪悪さを孕んだ笑顔を浮かべながら摩天楼(バベル)へ向かい始めるゲドの背を追って、リリルカは歩き出した。

 

(こんな形で別れることになってしまって本当にごめんなさい、英雄(ベル)様……)

 

 さようなら。

 

 最後の想いを中央広場(セントラルパーク)に残して、リリルカは冥府(ダンジョン)を下っていくのだった。



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灰に埋もれたお姫様(シンデレラ)

 騙されたつもりはなかった。命潰える危険性が生じれば、隠し持つ(・・・・)『魔剣』などを躊躇いなく使用して逃げるつもりだった。

 

 あくまでも、目的は贖罪。未来(まえ)への一歩を踏み出すため藻掻く現在(いま)を縛っている、過去(つみ)の精算だ。

 

 死んでしまえば、何の意味もない。かつて救済の光だった死は、今や忌避すべき闇へと変わったのだから。

 

 英雄が差し伸べてくれた手を握った者として、リリルカは進まなければいけないのだ。前へ、明日へ、未来へと。それが、暗闇の中で膝を抱えて縮こまっている過去(じぶん)を救う方法だと、リリルカは思うから。

 

 思っていた、から。

 

(あぁ……そんな……)

 

 胸中で呟く言葉は絶望の類語だった。地下迷宮(ダンジョン)へ足を踏み入れるまで考えていたすべての逃亡作戦が、完膚なきまでに砕け散っていく。

 

 その原因は、眼前の光景にあった。

 

「おらおらどうした! その程度かよ、雑魚共が!」

 

『『『『グギャッ!?』』』』

 

「もっと俺を楽しませてくれよ!」

 

『『『『キシャシャッ!?』』』』

 

「遅せえよ、脆れえよ、弱えよ! これじゃあ準備運動にもならねえぞ!」

 

『『『『────』』』』

 

 薄青色の壁面から生み出される怪物(モンスター)を、料理でもするかのように軽々と討伐している冒険者が一人。

 

 身のこなしは軽やかに。振るう長剣(ロングソード)の冴えは第一級冒険者と比較しても遜色なく。疲れ知らずとでも言うかのように、立ちはだかる敵のことごとくを魔石へ還す様は、暴風に似ている。

 

「嘘、です……」

 

 その一撃一殺の無双劇をリリルカは知っていた。その屍山血河(しざんけつが)の殺戮劇をリリルカは()っていた。その冠前絶後(かんぜんぜつご)の蹂躙劇をリリルカは()っていた。

 

(ありえません……こんなこと……)

 

未完の英雄(リトル・ヒーロー)】を彷彿とさせる雄姿を見せつけている傑物の名を──

 

 ゲド・ラッシュと言った。

 

 リリルカの脳内に、混乱が巻き起こる。目の前で起きている光景は、非現実的。夢でなければおかしかった。

 

 夢か否かを確かめるため頬を、抓ろうとして止める。

 

 確認したくなかったのだ。もし、現実だと頬の痛みが証明してしまったら、リリルカは正気を保っていられる自信がなかった。

 

 あり得ないことなのだ。ゲドが、怪物(モンスター)相手に単独(ソロ)で無双することなど。

 

 リリルカはサポーターとして、何度かゲドを含むパーティに同伴したから知っている。

 

 彼はLv.1の冒険者で、特に秀でたスキルを持っているわけでも、魔法を覚えているわけでもない。都市(オラリオ)に溢れる有象無象な冒険者の一人だった。

 

 今のはたった三週間ほど前の話だ。それに、路地裏でベルに助けられたときは、明らかにLv.1だった。Lv.4相当に思える今の動きが前からできたとするのなら、リリルカはベルのもとへ辿り着けずに捕まっていたはずだから。謝罪の時に振るわれた容赦なき殴打と足蹴で息を引き取っていたはずだから。

 

 つまり、数日という人間の成長という観点で見た場合、刹那に近い時の中で、ゲドはベルを超える三度の【ランクアップ】を実現したことになる。

 

 もしも、本当にLv.4へ至っているのであれば、都市(オラリオ)全体で大騒ぎになっていなければおかしい。

 

 ベルが一カ月半でLv.3へ【ランクアップ】したのが偉業と讃えられ、神と人の心を鷲掴みにしているのだ。ゲドも同等か、それ以上の関心を持たれるのが自然な流れだろう。

 

 しかし、リリルカはそんな噂を耳にしたことは一度としてない。面白い話題は、娯楽を求める神によって瞬く間に拡散されるはずなのに。ゲドが【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】を凌駕する驚異的な速度(スピード)で【ランクアップ】していることが噂にならないなど、考えられない。

 

(あの長剣(ロング・ソード)も、随分と高価な品物に見えますし……)

 

 疑心に満ちた双眸を向ける先、次々と怪物(モンスター)を屠っていくゲドが振るう長剣《ロング・ソード》は、血色の禍々しい装飾が実に悪趣味極まりないが、濃紫色に光る刀身の美しさや全体的に洗練されている点からして、業物であることがわかる。

 

 売れば最低でも数千万ヴァリスの値がつくのは間違い無い、とこれまで様々な物品を盗んできたリリルカは判断した。

 

(とてもLv.1の冒険者が購入できる物とは思えないのですが……)

 

 観察すればするほど、新たな疑念が生まれていく。

 

 生きて無事に地上へ帰還するために、思考をビュンビュンと高速(フル)回転されるリリルカ。

 

「おい、なにボーと突っ立ってやがる! さっさと魔石を回収しやがれっ! それがサポーターの仕事だろうが、あぁっ!? テメエ本当に贖罪するつもりあんのか!」

 

 突如、思考を妨害する怒声が轟く。

 

 どうやら意識を内側へ向けすぎて、現実の肉体をまるで動かしていなかったらしい。地面を見れば、ごろごろと沢山の魔石が転がっている。

 

「早くしろっ! こっちはとっくに怪物(モンスター)殺し終わってんだよっ!」

 

「は、はいっ! ただいま!」

 

 そう言ってリリルカは大慌てで魔石を回収すべく駆けだした。逆らえば、命が無いのは明らかだった。

 

 ○

 

 探索を開始してから一時間後、『上層を統べる王様(インファントドラゴン)』を傷一つ負わずに討伐したゲドは、欠伸をしながら迷宮内を闊歩していた。

 

 真横には、リリルカ。背を追う形で歩かせないのは、ゲドがリリルカの逃走、あるいは不意打ちを警戒してのことだった。

 

(まさか、このまま……)

 

 最悪な推測が、リリルカの脳裏を過ぎった。否、これは推測の域を超えて、もはや事実と同義。

 

 ゲドは明らかに『中層』へ向かおうとしていた。

 

「どうも『上層』の雑魚じゃ、俺の相手にならないみてえだからな。暇潰しに世間話でもしようぜ?」

 

 はい、いいえの選択肢など用意されているわけがなく。

 

 リリルカが「わかりました」と口にするよりも先に、ゲドは勝手に喋り出した。

 

「実はなぁ、テメエに一つでも多く贖罪の機会を与えてやりたくてな。テメエんところの家族(だんいん)を何人か誘ったんだけどな、けんもほろろ。あっけなく断られちまったんだよ。俺一人で勝手にやってろってな」

 

 言葉の内容自体はリリルカを慮っているように思えるが、語調は嘲弄に満ちていた。

 

「あの時は悲しかったぜ。せっかくテメエが罪を償おうと決意したのに、アイツらは『どうせ、何かの罠だ。あんな冒険者に逆らう役立たずのゴミはさっさと殺した方が良い』とか言いやがるんだぜ? 酷いよなぁ、流石の俺も同情するぜ」

 

 思ってもないことを、と内心でゲドを罵倒するリリルカ。彼女が心でほとばしらせる悪感情に気づいていないのか、それとも興味がないのか。

 

 気味が悪いほど饒舌なゲドは、言葉を重ねていく。

 

「だから言ってやったんだよ、どうしても俺の提案に乗らないのかってな。一度断られたのにめげない俺って奴は、なんて他人思いなんだろうなぁ。ま、答えは案の定だったが」

 

 そう言ってわざとらしく溜息をつくゲド。

 

「なぁ、愚かにも俺の提案を蹴った馬鹿どもがどうなっちまったか、聞きてぇか?」

 

 リリルカは嵐が去るのを待つ栗鼠のように俯いたまま、沈黙を貫き通す。

 

 会話をする意思がないと言外に主張されたゲドは、にっこりと太陽のような笑みを浮かべたまま。

 

「おい、クソガキ。いいこと教えてやる。俺の言葉にはな、大人しく『はい』って言うんだよ!」

 

 放たれる罵声と同時に、リリルカの腹部を手加減皆無の足蹴(キック)が襲った。

 

「がっ……」

 

 苦悶の声と肺の空気を吐き出しながら、まるで綿か何かのように軽々と宙に舞い、リリルカは地面に叩きつけられた。

 

「ぁ……ぅ……が……ぁ……」

 

 暴れ狂う激痛を少しでも和らげるために両手で腹部を押さえながら、蹲るリリルカ。

 

「ごほっ! ごほっ!」

 

 内蔵が傷ついたのか、骨が折れでもしたのか、はたまたその両方なのか。口から吐き出された生温かい血液が、地面を穢した。

 

「全く、テメエは罪人だって意識が低いんだよ」

 

 ゲドはそう呟きながら、ボロ雑巾と化したリリルカ・アーデの髪を掴んで強引に持ち上げる。

 

「いいか、もう一度だけ言う。……テメエのところの家族(だんいん)がどうなっちまったか、聞きてえか?」

 

「……は、い……」

 

 何とか、二音を絞り出して頷くリリルカ。

 

「そうか、聞きたいかぁ。そうだよな、聞きたいに決まってるよなぁ」と嬉しそうにゲドは言う。

 

「最初はな、軽くいたぶって立場をわからせてやるつもりだったんだよ。指の一本や二本折ってやれば、感涙しながら協力しますって奴らの方から頭さげてきてなぁ。あの時は愉快のなんのって」

 

 歓喜の語りは止まらない。

 

「でも不思議だろ? どうして、今、俺と、テメエ以外、誰も、いない、のか」

 

 キョロキョロ、と周囲を見渡すような動作をするゲド。

 

「実はな、アイツら結託して俺から先に殺すなんていう舐めた作戦考えてたんだよ。ビビりな奴が一人、密告してくれてな。全部、筒抜けだったぜ」

 

 本当に馬鹿だよな、と見下すように言ってゲドは腹を抱えながら嗤う。

 

「ま、今頃奴らは地獄で俺を騙そうとしたことを後悔しているんだろぜ。安心しろ、俺は優しいんだ。密告した奴もちゃんと殺して、仲間の所に送ってやったさ。一人だけ生き残ったら、寂しいだろうからよ。せめてもの慈悲ってやつだ」

 

 何が、目の前の男をここまで醜悪で悍ましい悪意を擬人化したような怪物(モンスター)に変えてしまったのだろうか。

 

 痛みで(もや)がかかったように上手く思考が纏まらない中で、リリルカはそう思った。

 

「お、やっと『中層』か。『上層』の雑魚と違って、少しは楽しませてくれると嬉しんだが」

 

 そう言って、十三階層へ下っていくゲドの横を激痛に耐えながら歩くリリは、心の中で後悔の雫を一滴こぼす。

 

 

 ああ、リリはまた間違えてしまったんですね。

 



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十一時(クライマックス)

物語は終演へと向かい始める。


 

 ぱちり。

 

「はっ!?」

 

 睡魔のしかかる(まなじり)を開けたベルが時計を瞳のうちに捉えれば、時刻は五時。夜に支配された世界を陽光の軍勢が侵略する時間帯。

 

(まさか……二時間も寝過ごすなんて……)

 

 平時であれば起こり得ない事態に、ベルは軽くない衝撃(ショック)を受けた。体内時間は今も正確に動いている。身体に違和感もない。頭痛も目眩も動悸も、ない。

 

 肉体は、至って正常だ。二日前、凶星を瞳に宿すライガーファングとの戦闘で負傷した両腕も、既に完治している。

 

(なら、どうして三時に目を覚まさない? これまで一度だって、こんな失態は犯したことないのに……いや、これは……う……胸が、気持ち悪い……)

 

 異常を訴えかけているのは、心の側だった。

 

(なん、だ……?)

 

 嫌な胸騒ぎがした。

 

 風の吹かない森の木々が勝手にさざめき出すような、凪いでいたはず海が突如として大時化るような、抜けるような青さの空が忽然と鈍色の雲に覆われるような、不吉な予兆が胸中を支配する。

 

 やがて不吉な予兆は不安へ姿を変えて心から溢れ出し、ベルの肉体を包み込んだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 乱れる、呼吸。逸る、動悸。噴き出す、冷汗。歪む、視界。痛む、頭部。

 

 覚醒直後の健常な肉体は瞬く間に腐食して、ベル・クラネルという生命が鉄屑へ成り果てようとしている。

 

「リリ……」

 

 無意識に口からこぼれおちたのは、悪意の化身(ゲド・ライッシュ)に狙いを定められた灰被りの少女(リリルカ・アーデ)の名前だった。

 

 理由は、分からない。ただ、直感が「早くリリルカ・アーデのところへ迎え」とベルに囁くのだ。

 

 直感はいつも、理由も事情も根拠も何一つとして語ってはくれない。あらゆる過程を省き、結論だけを簡潔に伝えてくるのだ。

 

 しかし、たかが直感と侮ることはできない。これまでベルは何度も野性的な直感に助けられてきた。

 

 命落ちる死線も、勝利困難な窮地も、絶望のしかかる状況も、直感を武器の一つとして携えて、ここまで生き抜いてきたのだ。

 

「急がないとっ……!」

 

 絶不調(バッド・コンディション)に陥っている肉体の、休養を望む悲鳴など丸っきり無視して、ベルは慌てて寝具(ベッド)から抜け出すと、食事もとらずに服を着替えた。

 

 純白の装衣と、翡翠の籠手、純黒の二刀がベル・クラネルに纏い付き従う。

 

「んにゅ……?」

 

 あまりに慌ただしかったからだろう。睡魔に微睡む双眸を手の甲でごしごし、と擦りながら、ヘスティアが目を覚ましてしまった。

 

「ベル、君?」

 

「あ、神様。済みません、起こしてしまって」

 

「いや、良いんだよ。……それよりも」

 

 起床後、僅か数秒にしてヘスティアは万物の真意を見通すような神妙な眼差しをベルに向けた。

 

「──リリルカ・アーデのところへ行くのかい?」

 

「はい」

 

 ベルは頷いた。

 

 昨日の夜、ベルはヘスティアにサポーターとして【ソーマ・ファミリア】所属のリリルカ・アーデという小人族(パルゥム)の少女を雇っていることを伝えていた。同時に彼女を取り巻く複雑な人間関係と、犯してしまっただろう罪も。

 

 そして、どんな理由があろうともリリルカ・アーデを救いたいという想いも包み隠さず伝えていた。

 

 全てを聞き終えたあと、ヘスティアは言った。

 

 ──……君が彼女を、リリルカ・アーデを救いたいというのなら、その道を迷わず進むべきだ。ボクは知ってる、ベル君は『したいことをしている』時、誰よりも強くなれるってことを。そして、必ずやり遂げるってことを。何よりも、君は進む道を間違えたりしない。だからボクは君の神様として、背中を押すだけだ。

 

 炉を想起させる愛情に満ちた言葉は、精霊の導きと合わさってベルの決意を新生させた。

 

 ──もう、怖れない。迷わない。リリの心に触れることを、躊躇わない。

 

 時は戻って、午前五時(げんざい)

 

「リリルカ・アーデの身に、何かあったんだね?」と訊ねる主神の言葉に少年は小さく頷いた。

 

「そっか」

 

 瞼を閉じて、噛み締めるようにヘスティアは言った。

 

 次に瞼を開けたとき、ヘスティアの表情から神らしい厳かな雰囲気は消えて、老若男女を慈しむ優しい笑みをたたえていた。

 

「行ってらっしゃい、ベル君。……リリルカ・アーデを救っておいで」

 

「行ってきます、神様。……リリを必ず救って見せます」

 

 交わす言葉は、【英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)】の第二章が十一時を迎えたことを告げていた。

 

 物語の幕引きは、近い。

 

 ○

 

「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」

 

 早朝の冷たく鋭い空気を吸って肺を痛めつけながら、ベルは侘しい大通りを駆け抜ける。

 

 筋肉の躍動。ベルは骨の上に纏う肉の撥条(バネ)を弾ませて、今出せる最大限の速度(スピード)中央広場(セントラルパーク)に向かってひた走る。

 

 心に宿る意思が、鋼を取り戻したからだろう。

 

 鉛のように重かった五感は活力を取り戻し、溶けた氷のような脳髄は冷静に還って、鉄屑同然の肉体は金剛石のごとき輝きを放ち始めた。

 

 走れ、走れ、走れ。

 

 意思の伝達淀みなく。ベルは僅か数分で目的地へと辿り着く。

 

「やっぱりっ!」

 

 視線の先、待ち合わせ場所に指定している噴水の前にリリルカの姿は見えない。時刻は五時十五分。

 

 集合時間の一時間以上前からベルの来訪を待ち続ける真面目を極めたリリルカが、「おはようございます」と挨拶して来ない時点で直感が確信へと昇華された。

 

「僕はなんて馬鹿なんだっ!」

 

 昨日、最も近い距離で見たはずだ。リリルカの殺害を宣言した(ゲド)の瞳に潜む悪意を。憤怒を。憎悪を。

 

 もしも。

 

 もしも、リリルカに危険が迫っているのならば、あの男が関与している可能性が高かい。

 

 思えば、あの男が起点だった。

 

 誰よりも執拗にリリルカを追い掛ける存在がいなければ、ベルの人間関係に変化は生じなかっただろう。

 

 リリルカ・アーデという少女と出会う道は、生まれなかっただろう。

 

 だからこそ、ベルに不吉な予兆を抱かせた原因はあの男にあると考えている。根拠などない。全部の要素が推測の域を出ていない。

 

 もしかすれば、今日に限ってたまたま風邪を引いてしまって集合場所に来られないだけかもしれないし、準備に時間が掛かっているだけでもうすぐベルの前に姿を現せるかもしれない。

 

 他にも様々な可能性が考えられる。寧ろ第三者からすればリリルカの身に命の危機が迫っているなど、御伽噺(おとぎばなし)にも劣る与太話にしか聞こえないだろう。

 

 しかし、ベルは常識の尺度で測れば極めて高い可能性の一切合切を無視して、リリルカが命の危機に見舞われているという、確率にして一割にも満たない推測を現実と定めた。

 

「待ってて、リリ……! 必ず、見つけてみせるっ……!」

 

 無駄な思考は、要らない。

 

 肉体を破裂させるほどの想いをほとばしらせて、ベルは朝陽に照らされキラキラと煌めく摩天楼(バベル)へ向けて走り出した。

 

 ○

 

「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」

 

 地下迷宮(ダンジョン)へ繋がる唯一の道である摩天楼(バベル)へ辿り着いたベルは、息切れを起こしている肉体の状態を整えもせず、周囲の冒険者に「ここへ大きなバックパックを背負ったフードを目深く被った少女は来ませんでしたか!?」と訊ねた。

 

 推測の答え合わせは、御都合主義とも思えるほど早く提示された。

 

「あぁ、それなら長剣(ロングソード)を背負った黒髪のヒューマンと一緒に、地下迷宮(ダンジョン)へ向かっていったのを見たぞ。早朝から探索に行く奴は少ないから、よく覚えてるよ」

 

「それはどれくらい前のことですか?」

 

「うーん、一時間ぐらい前だったんじゃないかと思うけど……」

 

「ありがとうございます!」

 

 頭を下げて感謝の意を示したあと、ベルは突風と化して地下迷宮(ダンジョン)へ突入する。

 

 その数秒後。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい。本当にごめんなさい。でも、こうしないと俺が殺されちまうんです……弱い俺を、許してください……」

 

 駆ける純白の背に向けて土下座して、嗚咽しながら謝罪の言葉を繰り返す冒険者に、ベルが気づくことはない。気づけるほどの余裕もない。この時点で悪意に絡み取られているとは思いもしていなかった。

 

(不味いっ! 不味いっ! 不味いっ!)

 

 最悪の展開が、的中してしまった。

 

「頼む、間に合ってくれよっ!」

 

 ベルは願望を叫びながら、薄紫に光る迷路を騎馬で駆るかのごとく走り抜けていく。

 

 道を阻むように立ちはだかる怪物(モンスター)は、壁を地面と見做して駆けて、強行突破。一切の戦闘を行わない。

 

 刹那すら、今は万金。借入ができるのなら、利子がどれほど高くても迷うことなく借りるだろう。

 

「リリはもう、僕の大事な人の一人なんだからっ……!」

 

 少年の声は、囚われの少女には届かない。闇がただ、眼前にあるだけだ。

 

 ○

 

『中層』に木魂する音は一つ。怪物(モンスター)の醜い断末魔。

 

 人間襲う純粋な悪を本能に宿した滅ぼすべき敵を駆逐するのは、人々に希望の光を与える【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】ではなく、その対極。蔑み嘲笑い、生命を冒涜するように剣を振るう悪意の化身(ゲド・ライッシュ)だ。

 

 ゲドは、楽しんでいた。本来であれば一矢報いることさえできない格上の怪物(モンスター)を一方的に蹂躙できる快楽に『酔って』いた。

 

 強い。強い。俺は強い。

 

 俺はベル・クラネルを殺せるくらい強くなった。

 

 昨日まで、心を支配していた負の感情の螺旋は解けて。歓楽の蜜に心はどっぷり浸っている。

 

(見ろよ! 悪名高い放火魔(バスカビル)の群れどもが、紙を破るみたいに簡単に斬り裂けちまうぜ! はははははははっ! 最高の気分だ!)

 

 妖術師(エニュオ)から渡されたモノを使う程度で、本当にベル・クラネルを凌駕するほどの驚異的な戦闘能力が手に入るのか、使用直前まで疑っていたゲド。

 

 しかし、蓋を開けてみれば妖術師(エニュオ)の言葉は真実だった。

 

 これまで何をしても成長できなかったゲドは、アレを使うだけで一瞬にして、英雄殺しの力を開花させることに成功した。

 

「おいおい、『中層』の怪物(モンスター)もこの程度かよ! 拍子抜けも良いところだぜ! ノロノロと牛みたいに動きやがってよ、俺は戦いに来てるんだぜ! もっと殺る気だしてくれよ!」

 

 言葉とは裏腹に、ゲドの表情は満面の笑みを浮かべていた。怪物(モンスター)を蹂躙することに快感を得ている様は、サポーターをいたぶっている姿と重なって見える。

 

 無双劇ではあるけれど、見るに堪えない邪悪極まる光景を、リリルカは無感情な眼差しで見つめる。

 

英雄(ベル)様の戦う姿は舞いを踊るかのように美しいのに……どうしてあの男だと、あんなにも醜く悍ましく感じるのでしょうか……)

 

 強い。その一点のみがベルとゲドの共通点。それ以外は全部、真逆。振るう剣技は力任せで洗練から最も遠く。判断能力など持っていないかのように本能で動く様はただの獣。顔に貼り付かせる笑みは、我欲を満たすことしか考えない傲慢な仮面。

 

 悪雄。自然とそんな単語がリリルカの心の中で創造された。

 

 信念の塊のようなベルの反対にあるのが、我欲に塗れたゲドなのだ。

 

「これで終わりっと。ほら、さっさと魔石を回収しろ。テメエのバックパックが隙間なく埋まるまで探索を続けるんだ。ちんたらしてたら陽が沈むぜ」

 

「は、はい」

 

 怯えで震える喉を必死に動かし、何とか一言を絞り出して、リリルカは地面に転がる魔石をバックパックに放り込んでいく。

 

「おわりました」

 

「んじゃ、行くぜ。遅れず、付いてこいよ」

 

「はい……」

 

「おーおー、しっかり返事できるようになったじゃねえか。はははっ! 嬉しいぜ、やっと罪の意識を抱くようになったみたいだな。いい心がけだ」とゲドは言った。

 

 罪の意識も糞もない。返事をしなければ、手加減のない暴力を振るわれるのだから、死を拒絶するリリルカは「はい」と言うしかないだけだ。

 

「あの……」

 

「あん、なんだ?」

 

 若干不機嫌そうにしながら、リリルカを見るゲド。

 

「次は、十七階層ですよね」

 

「そうだな」

 

「大丈夫、なんでしょうか……」

 

「何がだ」

 

 言っている意味がわからないとでも訴えるように、ゲドは眉間にしわを寄せる。

 

(本当にわかっていない……?)

 

 ゲドの態度に違和感を抱くリリルカだが、言葉として本音を吐き出すような危険な真似はできない。

 

「何も心配することはねえよ。今の俺は英雄擬き(エセ・ヒーロー)を超えてるんだからな!」

 

 そうだろう? 

 

 鋭く尖った双眸がリリルカを捉えた。

 

「それ、は……」

 

 命じられた二文字を言葉にしようとするが、本能が、心が、魂が、リリルカ・アーデという存在が、生存本能すら凌駕して抵抗する。

 

「おい、返事はどうした」

 

「っ……!」

 

 ビクリ、と身体が跳ねるが、リリルカは視線を逸らしてゲドが求める一言を口にしない意思を示す。それだけは、絶対に言葉にするわけにはいかなかった。

 

 天地がひっくり返ろうと。明日、世界が滅亡しようとも。拒絶の先に、死が待っているのだとしても。

 

 嘘で塗れた自分がようやく得た本当(おもい)を、捨てることなどできない。絶対に。

 

 ──殺すなら、殺せ。

 

「ちっ」

 

 舌打ちが、一つ。

 

「がはっ──!?」

 

 次にリリルカを襲ったのは意識が一瞬途絶えるほど強烈な殴打だった。狙われたのは頬。手心が加えられているわけなどなく。歯が何本か折れる音を鼓膜が拾うと同時にリリは壁に叩きつけられ、地面に崩れ落ちた。

 

「俺は残念でならねえよ。テメエの罪を綺麗さっぱり浄化してやりたいのに、テメエ自身がそれを拒絶してるんだからな。救えねえ、全くもって救えねえ」

 

 はぁ、とゲドは嘆息する。

 

「もう少し遊んでいたかったんだが、ここらが潮時らしいな」

 

 意味深な言葉を呟いて、ゲドは意識朦朧とするリリルカを担ぎ上げた。

 

「な、にを……」

 

「なにって、一つしかねえだろ。役立たずで塵屑で犯罪者のテメエにできることなんざ英雄擬き(エセ・ヒーロー)を誘き出す餌になるくらいしかねえだろ。そんなこともわからねえのかよ」

 

 哂う。嗤う。

 

「本当に馬鹿な奴だな、リリルカ・アーデ! どうせ俺に騙されたところで逃げ出せばいいとでも思ってたんだろ? 生き残りさえすればいいってよぉ! でも、残念! 俺は英雄殺しの力を手に入れたんだ! 鈍間(のろま)なテメエじゃ、俺から逃げ切るなんざ不可能なんだよ!」

 

 そして、哄笑(わら)う。

 

 リリルカの霞む視界に映るゲドは、悪魔の姿をしていた。コウモリに似た翼に、釣り上がった双眸。口元から牙が剝き出して、耳は縦に尖っている。

 

「テメエが付いてきてくれたお陰で、英雄擬き(エセ・ヒーロー)は死ぬんだ。よかったなぁ、わざわざ変わる努力をしなくて済むぜ。俺に感謝しろよ」

 

「ここに……来る……とは……限らない……ですよ……?」

 

「いや、来るさ。摩天楼(バベル)の前には俺が脅した冒険者がいる。もしベル・クラネルが姿を見せたら、俺らが地下迷宮(ダンジョン)へ向かったと伝える手筈になってるんだよ。待ち合わせ場所(セントラルパーク)も同じだ。もし、摩天楼(バベル)に向かわないようなら自分から話しかけて伝えるように命令してある。どうだ、完璧だろ」

 

「そん……な……」

 

 リリルカの細やかな反抗は、ゲドに叩き潰された。

 

「英雄気取りのあのガキは、随分とお前にお熱らしいからな。ここにいるってわかれば、絶対に追いかけてくるだろうよ」

 

 悔しいが、事実だった。リリルカの知るベルであるのならば、間違いなく追って来る。それが、ベル・クラネルという存在(えいゆう)の気質だから。

 

(もう二度と……迷惑をかけないつもりだったのに……英雄(ベル)様を誘き出す餌にされるなんて……どこまで最低なんですか、リリは……)

 

 これまでとは比較できない深度の絶望が、リリルカの心を貪り喰らう。

 

 死んでいく、心が。褪せていく、感情が。

 

 底知れぬ嘆きの海に沈んだリリルカは、一滴の涙すら流せず、人の形を模しただけの抜け殻になろうとしていた。

 

 ○

 

 怪物(モンスター)の気配が絶えている奥行き二百メドル、幅百メドルの直方体をした空間に足を踏み入れる命知らずが二つ。

 

「到着だ、リリルカ・アーデ」

 

 十七階層の中心部で足を止めたゲドは、虚ろな眼差しをしたリリルカを塵でも捨てるかのように乱雑に地面へ放り投げた。

 

「……」

 

 もはや、呻き声をあげる気力さえリリルカには残っていない。

 

「おいおい、少しは泣いてみせたらどうだ? 怒鳴るのでも構わないぜ、『リリを利用して英雄(ベル)様を誘い出すだなんて絶対に許しません! この外道!』くらい言ってみせたらどうだ?」

 

「……」

 

 尚も、沈黙。

 

 はぁ。

 

「つまらねえ奴だなぁ、リリルカ・アーデ。ここは嘆きの大壁、英雄が命を散らす悲劇の地となる場所だぜ! もっと感情を昂ぶらせろよ!」

 

 両手を挙げて高らかに叫ぶゲドに、リリルカは(から)の瞳を向けて言った。

 

「死ね……」

 

 露出する殺意を耳にしたゲドが顔を歓喜で染めあげる。

 

「そうだよ、俺が見たかったのはソレだ! 【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の足を引っ張ってるのはテメエの癖に、八つ当たりでもするみてえに俺を睨むその顔が見たかったんだよ!」

 

 歪み狂った男は、呪詛(カース)をまき散らすように抑え込んでいた鬱憤を吐き出し続ける。

 

「あー愉快愉快。満足したぜ」

 

 ふぅ、と吐息するゲドの顔は充足していた。

 

「さて役目を終えたテメエは、偶然リスポーンしたゴライアスにあっけなく殺されることになるわけだ。はぁ、運命ってやつは本当に悲しいもんだよなぁ」

 

「く……」

 

 悪逆非道を告知するゲドを前にして、未だ意識朦朧とするリリルカは睨みつけることしかできない。

 

「そして、そしてだ。俺は運悪くゴライアスに殺されたテメエのバックパックを頂戴するって寸法さ。そのまま放置するのは勿体ないからなぁ。弔いの意味もこめて、有効活用してやらないと」

 

 そう言うゲドの表情は、醜く歪んでいた。

 

「俺は荒稼ぎできて、罪を犯したテメエには相応しい罰が下る」

 

 悪くない提案だろ? リリルカ・アーデ

 

 その名を紡ぐと同時にパチンとゲドは指を鳴らした。

 

 瞬間。

 

 十七階層全体が怒りを露わにするかのように震動し始めた。

 

「さて、お姫様がペチャンコになるのが先か。王子様が助けに来るのが先か。どっちだろうなぁ?」

 

 ピキリ。

 

 揺れる十七階層に、不穏な亀裂音が響く。

 

 ピキリ、ピキリ、ピキリピキリピキリ。響く亀裂音の発生源は凹凸のある壁や天井とは違い、まるで石工の手によって造り出されたように研磨された、十六階層から見て左の壁。『嘆きの大壁』と呼ばれる、十七階層の王を産み出す胎からだった。

 

「うーん、いい音色じゃねえか」

 

 亀裂はまるで稲妻が走ったようであった。

 

「こ……れは……」

 

 バキッ。

 

 響く音は激しさを増して、震動は暴れるように大きくなり、遂には壁面がボロボロと涙を流すように崩れ落ちていく。

 

『嘆きの大壁』と呼ぶに相応しい悲しい音色が、英雄の訪れを願うように奏でられる。

 

「さあ、舞台の開演(ショータイム)だ!」

 

 ゲドの叫びに応えるように壁を突き破って産まれ落ちたのは、人間を何十倍も大きくしたような容姿(フォルム)をした、灰褐色の怪物(モンスター)だった。

 

「あ……あぁ……」

 

 リリルカの口から洩れる声は、戦慄で震えていた。

 

 放たれる気配、隔絶。歯向かう意思すら折る、邪気。今まで『中層』に蔓延っていた雑兵とは次元が違う、絶望的な脅威。

 

迷宮の孤王(モンスターレックス)』の名を戴くに相応しい威容をほとばしらせる巨人の名を──

 

 人は『ゴライアス』と呼んだ。

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 十七階層が崩落するのではないかと不安になるほどの轟音が、ゴライアスの口から放たれた。

 

 死。死。死。死。死。

 

 リリルカの脳内が死、一色に染め上げられる。

 

「……あなたも、無事では……済みませんよ……」

 

「まさか。今の俺はあの英雄擬き(エセ・ヒーロー)より強いんだ。図体がデカいだけの化物をぶっ殺すなんざ、俺一人だけで充分なんだよ」

 

「本気……で、言ってるんですか……?」

 

 ゲドは肩を竦めるだけだ。

 

「はは……」

 

 事ここに至り、リリルカが洩らしたのは嘲笑だった。

 

 ゲドは『酔って』いる、ベルを殺せる自分に。必然、ベルを殺せる自分がゴライアス程度に負けるわけがないと、本気で思い込んでいるらしい。

 

「はは……あはははは……馬鹿ですね、貴方様は……」

 

 ピキリ。

 

 嘆きの大壁に亀裂が生じたときを再現するように、ゲドの笑みに亀裂が走った。

 

「今、何て言った?」

 

 声は不気味なほど平坦だった。

 

 どう足掻こうと死の運命から逃れられないと悟ったリリルカは、取り繕うのを止めた。

 

「馬鹿だって言ったんですよ。自分に『酔って』いる貴方様ごときが、ゴライアスに勝てると思ってるんですか? ……それだけでも噴飯ものなのに……」

 

 道に捨てられた塵でも見るような目付きでゲドを見上げながら、リリは言った。

 

「|英雄『ベル』様に勝てると思うだなんて、本当に救いようがない御方ですね。あまりに救いがなさ過ぎて、いっそ憐れに思えてきましたよ」

 

 可哀相に、と言ってリリルカはくすくすと嗤った。

 

「は、はは……ははははは……あははははははははははっ!」

 

 手で目を覆い、仰け反りながら大笑するゲド。リリルカの猛毒を塗り込んだ罵倒を聞いても、まるで気にしていない風に見えた。

 

 次の瞬間。

 

「死ね」

 

 能面のように表情を凍らせたゲドが、リリルカの胸倉を掴んでゴライアスの足もとへ勢いよく投げ飛ばした。

 

 ゴロ、ゴロ、と地面を転がるリリルカ。視界が廻り続け、天井と床が何度も立場を逆転させて。

 

 やがて、止まる。

 

(ふふ、馬鹿ですねリリは。大人しくていれば、もう少し長生きできたかも知れないのに……)

 

 それでも、最後の最後でゲドの真顔を見られたからいいか、と迫り来る死の恐怖の中でリリルカは満足する。

 

「…………あ」

 

 ふと顔を上げた先には、死が待っていた。

 

『オオ……』

 

 ギョロリ。

 

 真っ赤な眼球が、見下ろしている。塵を見るような目で、見下している。

 

(あの男の、言う通りなのかも知れませんね……因果応報、リリがこれまでしてきた罪への罰が目の前のコレ……)

 

 生きるために必死だった。【ソーマ・ファミリア】から退団するための唯一の手段だった。言い訳は幾らでも重ねられる。

 

 でも、少なくとも、盗みを働かなければ、こんな無慙な死に方はしなかったはずだ。

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 判決は死刑、と告げるようにゴライアスは(ガベル)を振り上げた。

 

(あぁ……悔しいなぁ……やっと変われると、思ったのに……)

 

 逃れられない死を前にして、リリルカはぎゅうと瞼を閉じた。

 

 途端、瞼の暗幕に今までの人生が映し出される。

 

 人はそれを、走馬燈と呼ぶ。

 

 幼き日、愛の代わりに暴力を与えてくれた両親との記憶を見て、リリルカは失笑する。

 

 ──馬鹿ですよね本当に。あの人たちはリリのことを小金稼ぎの道具としか思ってなかったのに。愛してくれるかもなんて、叶いもしない希望を抱いて……

 

 齢を重ねること数回、『神酒(ソーマ)』の魅力に溺れて愚行を重ねる記憶を見て、リリルカは自嘲する。

 

 ──愚かですよね、本当に。Lv.2の構成員が『賞品(ソーマ)』を独占しているとわかっているのに、金を稼ごうと躍起になるなんて。そんなことをしても、飲めるわけがないのに……

 

 その数ヶ月後、『神酒(ソーマ)』の呪縛から解き放たれたあと【ソーマ・ファミリア】を抜け出した先で手に入れた細やかな幸せが崩れる記憶を見て、リリルカは溜息をついた。

 

 ──馬鹿ですよね、本当に。金に狂う彼らがリリという都合の良い奴隷を手放すわけがないのに、一般人に成りすませばどうにかなると思っていたんですから……

 

 更に時間は加速し数年後、派閥(ファミリア)の脱退と冒険者へ意趣返しするために窃盗を繰り返す記憶を見てリリルカは嘆いた。

 

 ──救いようがないですよね、本当に。八方塞がりな人生に絶望して、未来(まえ)のことなんて一切考えずに犯罪を繰り返したんですから……

 

 過去を振り返ってみて、改めてリリルカは自分が本当の意味で役立たずであったことを思い知る。

 

 ──ずっと、ずっと、嫌いでした。リリを産んだ両親も、『神酒(ソーマ)』に狂う団員も、彼らを放置するソーマ様も、サポーターを蔑む冒険者も。

 

 ──けど、何よりも、誰よりも、リリは、一人では何もできないリリ自身が嫌いでした。ですから、本当は嬉しいはずなんです。やっと、苦しみしかない現実から解き放たれる時が来たんですから……なのに、どうして……

 

 最後──

 

 ベルが差し伸べてくる灰色ではない唯一の記憶が、リリルカの前に現れた。

 

 そして、声が響いた。

 

『僕の名前はベル・クラネル。よろしければお嬢さん、君の名前を教えてくれませんか?』

 

 ベルの声は鐘の音に変じて凜となり、リリルカに一つの記憶を思い出させた。それは出会いの日。裏路地で犯した後悔の記憶だった。

 

 ──そう、です……リリはまだ、あの時のことを謝れていないんです。リリに手を差し伸べてくれた恩返しも、何も、できていないんです。全部、ここからなんです。

 

 瞬間、瞳から死にたくないと想いが涙となって溢れ出した。

 

 ポロポロ、と灰被り姫の頬を伝う涙。

 

 走馬燈が引き伸ばした魔法のような時間は解けて、ゴライアスの叫び声が再び、リリルカの鼓膜を震わせた。

 

 怖い、このまま蹲ってじっとしていたい。

 

 だけれどそれは、死の運命を黙って受け入れるということ。

 

 決意は今、変わるのも今だ。

 

 ──開けろ。

 

「っ」

 

 恐怖に抗いかっと開く双眸、迫る死を前に、リリルカは初めてベルへの本音をほとばしらせた。

 

「助けて、ベル様ぁああああああああああああああああああああああああ!」

 

『十七階層』に轟く絶叫。

 

「おいおい。今さら、助けを呼ぶのかよ。かー、みっともねえなぁ……」と悪意の化身は嘲るが。

 

 その叫びは、確かにベルのもとへ、届いていた。

 

 ──ああ、助けてみせるよリリ。今の僕は、君だけの英雄なんだから。




少年は少女の叫びによって、英雄と成る。


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私の英雄(ディアマイヒーロー)

 想いが、触れた。

 助けを求める、彼女の想いが。

 それは十二時に鳴る鐘となって、ベルをリリルカ・アーデの英雄へ変えるのだ。


 

 

 

 

「この不吉な気配…………もしかしてそこ(・・)にいるのか、リリ……」

 

 十階層を駆けるベルは不意に足を止めると、地面を透かしてリリルカがいるであろう場所を捉えた。

 

 瞳の内側に描かれたわけではない。彼女の姿が見えたわけでもない。深紅(ルベライト)の双眸に映る景色は、土色の地面でしかない。

 

 けれど、感じるのだ。リリルカが助け求める階層がどこであるのか。直感を超える、神の予言に近い力が、ベルの意識に十七の数字を刻印する。

 

「クソッ! 今から走ったって、絶対に間に合わないっ!」

 

 立ちはだかる七階層の距離は、全身全霊を尽くして走ったところで埋められる差ではない。

 

 ──王手(チェック)

 

「……だから諦めるのか? いいや、ありえないだろベル・クラネル!! 誓ったはずだ、リリを助けるって!!」

 

 少年が、吼える。

 

「限界を超えろ! 不可能を壊せ! 常識を砕け! 僕にできないことはないと、証明して見せろ!」

 

 そして、ベルは紡ぎ出す。

 

【ステイタス】に記された詠唱不可の文言を無視して、覚悟を胸に抱いて、魔法を。

 

「【天霆の轟く地平に(ガンマ・レイ)──】……ぐぅっ!?」

 

 ──魂の拒絶(ソウル・リジェクション)

 

 瞬間、ベルの身体を、想像を絶する激痛が蹂躙した。五臓六腑が破裂し、血管は細切れになって、骨は木っ端微塵に粉砕し、筋肉が溶けてしまうような、地獄の苦しみ。

 

「がぁああああああああああああああああああああああ!!」

 

 拒絶していた、魂が。叛逆していた、本質が。

 

 止めろ、使うな。個を想うような錆びた英雄に、神さえ滅する裁きの雷を振るう資格はないと。

 

「まだ、だっ……!」

 

 ミシミシ、と内側から肉体が崩壊を始めても尚、ベルは魔法を発動しようとする意思を曲げようとしなかった。

 

「僕は……絶対にっ……」

 

 視界にパチパチと幾つもの閃光が走り、腕や足や胸や背中から血が噴き出して自壊への道を驀進しようとも、曲がらない誓いが停止寸前の心ノ臓を無理やり鼓動させる。

 

「諦め……ない……」

 

 ブルブルと震える制御困難な右手を必死に動かして、ベルは左のズボンのポケットから高等回復薬(ハイ・ポーション)を五つ取り出し蓋を開けると、それらをすべて飲み干した。

 

 ごくり。ごくり。ごくり。ごくり。ごくり。

 

 途端、壊れ逝く肉体が押し留まる。

 

 自壊と回復が竜虎相搏つかのごとく衝突し、僅かな時間ではあるけれど拮抗状態を生み出したのだ。

 

 そして。

 

「僕がリリを助けるんだぁああああああああああああ!」

 

 願いを叫ぶ英雄は右手を勢いよく振り上げて、己が誓いを妨げる魂と本質を打ち砕くように、その言葉を詠いあげた。

 

 ──限界超越(スーパーノヴァ)

 

「【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】ぅうううううううううううううううううううう!!」

 

 右腕に集束する殲滅光(ガンマ・レイ)天空神(ゼウス)が担いし裁きの雷が、大地を穿ち、邪悪を討たんと咆哮する。

 

打ち砕け(フル・エンチャント)ぇえええええええええええええええ!」

 

 腕の輪郭を失い、雷霆そのものと化した右腕が地面に触れる。

 

「ぐううううううううううううううううううう!!」

 

 されど、床は壊れない。まるで英雄がお姫様のもとへ向かうのを地下迷宮(ダンジョン)が阻止するかのように。

 

「砕けろよぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 そのときだった。

 

 ──助けて、ベル様ぁああああああああああああああああああああああああ! 

 

「ぁ……」

 

 リリルカの叫び声を確かにきいたベルの意識の糸はぷっつりと切れて、精神力(マインド)の使用量を無意識のうちに縛っていた制御装置(リミッター)が欠片一つ残さず粉々に砕け散った。

 

 ──そうだ、なにをだしおしみしてるんだ。

 

 ──イまハ、リりをたすケルため二……いノちをッ! 

 

 ──BoクにデKill事no全テヲっ! 

 

 ベルは乱れに乱れた思考の果てに、右腕に集束させていた【天霆の轟く地平に、闇はなく(ガンマ・レイ ケラウノス)】を地面へ向けて──

 

 解き放った。

 

 瞬間。

 

「僕が壊れるのが先か、迷宮(おまえ)が壊れるのが先か……我慢比べの時間だ……」

 

 ──【魔力爆発(イグニス・ファトゥス)】。

 

 他の音の一切を死滅させる凄まじい轟音が鳴るのと同時に、世界を白い闇(ホワイトアウト)が覆い尽くした。

 

 そして迷宮は思い知る、灰被り姫の英雄(ベル・クラネル)が抱く意志の強さを。

 

 ──床が、崩れる。迷宮が、負ける。

 

 英雄が、進軍する。

 

「……壊れろ」

 

 十階層、粉砕。

 

 下へ。

 

 十一階層、貫通。

 

 下へ。

 

 十二階層、穿孔。

 

 下へ。

 

 十三階層、爆散。

 

 下へ。

 

 十四階層、崩落。

 

 下へ。

 

 十五階層、敗北。

 

 下へ。

 

 十六階層、平伏。

 

 そして。

 

 計七階層もの『階層無視(ショートカット)』を成し遂げた果てに、ベル・クラネルは第二章、最後の舞台に辿り着く。

 

 ○

 

 ガラガラと天井から岩石を雨のごとく落としながら、リリルカの前に降り立つ人影が一つ。

 

「あ、あぁ……ベル、様……」

 

 立ち込める土煙の奥で朧気に浮かぶ後ろ姿をリリルカは知っていた。

 

『ウォオオオオオオオオオ!!』

 

 直後、ゴライアスの総てを粉砕する巨腕の一撃がリリルカを庇うベルに容赦なく振り下ろされた。

 

「この、程度……っ!」

 

 鳴り響く爆砕音。吹き荒れる衝撃波。宙を舞う土煙。これまで体験したことのないほど大規模で破壊的な暴力を、ベルは二刀を胸の前で交差(クロス)させて真っ向から受けとめる。

 

「おいおい、マジかよ! 本当に来やがったぜ! 最高じゃねえか、ベル・クラネル! 床を突き破って現れるなんざ、どこまでテメエは英雄(バカ)なんだよ! あははははははっ!」

 

 ベルの派手を極めた登場に、ゲドは腹を抱えて呵々大笑する。

 

 よほど無茶をしたのだろう。ゲドの目に映るベルは既に手負いも手負い。ゴライアスをぶつけるまでもなく、疲労困憊としていた。これを笑わずにいられる、ゲドではなかった。

 

あいつ(ゲド)のことなんて、今はどうでもいい)

 

 しかし、当事者たるベルにとっては悪意の化身の思惑など、路傍に転がる石ころよりも価値がない。

 

「むう……」

 

 唸り声は反撃の狼煙。

 

 ミシミシ、と悍ましい音を鳴らし『もう限界だ、休ませてくれ』と嘆願する腕を気合いと根性で動かして、鎬を削るゴライアスの拳を弾き返す。

 

「らあああああああ!」

 

『っ!?』

 

 振り下ろしていた筈の拳がグンと天井を向き、仰け反らせる形で体勢を崩したゴライアスは、血を固めて作ったような眼球に驚愕の色を浮かばせた。

 

 ──なんだ、コイツは!? 

 

 睥睨の先、無力無価値な小人を庇う子どもは疲労困憊な様子を見せているというのに、諦念など抱かず。得体も知れない激しい気配を放っている。

 

 それは、白銀。穢れなき意思の奔流。

 

『……』

 

 じり、と後退るゴライアス。

 

『グゥウウウ……』

 

 十七階層を統べる王は、ベルと距離を置こうとしている自らの行動に気づかない。英雄に気圧されている事実を認めようとはしない。

 

 呆然と立ち尽くすゴライアスを前に、ベルは隙を生まないようにゆっくりとリリルカのもとへ駆け寄った。

 

 巨人と英雄の距離、およそ五十メドル。間合いからは抜けている。

 

「リリ、大丈夫?」

 

 視線はゴライアスに向けたまま、ベルは背中越しにリリルカへ問いかけた。

 

「本当に、来てくれたんですね……」

 

「遅れてごめん、怖かったよね」

 

「そんなこと、ありません……だって、ベル様が来てくれましたから……」と紡ぐ言葉の合間に、ごしごしと涙を拭う音が聞こえた。

 

「ごめん、また君を泣かせてしまった……」

 

 謝罪するベルにリリルカは何度も首を振る。

 

「これは……違うんです……悲しいから、辛いから……流れているんじゃなくて……」

 

 嬉しいから流れているんです、とリリルカはぎこちない笑みを浮かべながら言った。

 

 助けに来てくれることを願った。ベルの後ろ姿が、リリルカに迫る死を斬り裂いてくれることを願った。生きたいという想いの炎がここで消えないことを願った。

 

 それと同時に、間に合わないかもしれない、と理性は冷徹かつ残酷な答えを出していた。ベルを信じる心と感情を裏切って。

 

 ゴライアスの拳は間近に迫っていたのだ。幾らベルが常識の枠組みに囚われない英雄だとしても、人間という生命そのものを凌駕するのは不可能だ。そう断じるのは理性の役目として当然のことだった。

 

 しかし、リリルカの陳腐な想像力が、思考能力が、英雄の行動を推し量れるわけがなかったのだ。

 

 巨人の一撃がリリルカを命宿らぬ肉塊に変えようとした刹那、ベルは上階層の床を突き破って十七階層へ舞い降りた。

 

 思いつけるだろうか。『深層』を根城とする怪物(モンスター)ならいざ知らず、人間が地下迷宮(ダンジョン)の硬質な床を突き破って、『階層無視(ショートカット)』するなどと。

 

 少なくとも、リリルカが思いつける可能性は零だった。

 

 だからこそ、安堵と歓喜が心の中で暴れ回るのを抑えられない。瞳に映る雄姿が涙で歪むのを止められない。

 

「リリは……リリは、また……ベル様に……」

 

「いいんだ、リリ。これは君の所為じゃない。幾ら罪を犯したとしても、あの男の蛮行が肯定されていいわけがないんだから」

 

 一瞬、ベルが睨みつけたゲドは粘着質な笑みを浮かべている。そう、今回の非は悪意の化身。人の形をした怪物(モンスター)の側にある。

 

 罪を償おうと精一杯の努力をしているリリルカに下す罰としては過剰という言葉ですら生温い。

 

「でも、これは、リリの……」

 

「待って」

 

「え?」

 

 リリルカの言葉を遮って、ベルはゴライアスに無防備な背中を晒した。

 

「ベル、様……?」

 

「ねぇ、リリ。僕はずっと君を助ける振りをしてきた。本気で君を助けたいなら、君を救いたいなら、怖がるその心に迷わず踏み込むべきだったのに。でも、僕は怖れた。リリに拒絶されるのを、リリが僕の前から姿を消してしまうのを……」

 

 本音を語るベルの背後で、今を好機と捉えたゴライアスがこちらへ迫って来ているのに、リリルカは澄み渡る深紅(ルベライト)の双眸から目を離せずにいる。

 

「でも、もう迷わない」

 

 リリルカが映る紅き二つの鏡に、決意の炎がほとばしるのが見えた。

 

「自分勝手だと言われようが、押し付けでしかないと罵倒されようが、構わない。嫌われても、拒絶されても、これを最後に僕の前から姿を消すのだとしても、怖れたりしない」

 

 ──僕が君を救う。

 

「あぁ……」

 

 ベルが告げた言葉は光となって、リリルカの心に渦巻く闇のことごとくを打ち払った。

 

 笑う、両親から愛されなかった自分が。笑う、『神酒(ソーマ)』に溺れていた自分が。笑う、『神酒(ソーマ)』を飲むために金を稼ごうとしていた自分が。笑う、細やかな幸せが壊されて絶望していた自分が。笑う、窃盗を繰り返し心を不信で満たしていた自分が。

 

 嘆き、悲しみ、傷ついた、灰色の過去が現在(いま)に繋がる確かな足跡として色づいていく。

 

(……そっか……リリはずっと誰かを信じたかったんですね……)

 

 独白のあと、リリルカはぎゅっと胸の前で手を握りしめた。

 

 愛情無く、友情無く、信頼無く、不信だけを過剰に与えられてきたリリルカは自らの願いにようやく辿り着く。

 

 さあ鳴らすのだ、英雄の姫君よ。十二時の鐘の音を。

 

 これこそは願望。私慾の錆びなき白銀の願いだ。

 

「お願いです、ベル様。リリを、救ってください」

 

 ゴーン、ゴーンと鳴り響く大鐘楼(グラウンド・ベル)が、魔法を解かすことはない。

 

 ベルは、貴女の英雄だから。

 

「ああ、約束するよ。僕がリリを……リリルカ・アーデを救ってみせる」

 

 膝を付き、リリルカの視線に合わせて決して違えぬ誓いを立てるベル。

 

「手早く終わらせようか、彼我の力量差すら理解できない裸の王様(ゴライアス)。魔法を使えなくとも……」

 

 ──勝つのは僕だ。

 

 振り返った先、地面を震動させながら駆けてくる猪武者(きょじん)に、ベルは冷たい眼差しを向けて二刀を構えた。

 

《ヘスティア・ブレイド》が共鳴するように仄かな紫の光を放ち、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》が昂ぶるように炎を猛らせる。

 

「征くぞ!」

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 英雄と巨人の戦いが今、幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここで負ける(ゲームオーバー)なんて詰まらない結末を迎えるのだけは勘弁してくれよ」

 

 なぁ、リリルカ・アーデの王子様(エセ・ヒーロー)



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迷宮の孤王(モンスターレックス)

 迫り来る神に背きし灰褐色の巨人(タイタン)を見据えるは、雪白の戦闘衣(バトル・クロス)を自らの血で染める満身創痍の英雄。

 

 はぁ……はぁ……はぁ……。

 

 呼吸は荒く乱れて、発汗は収まることを知らず、四肢は既に休息を求めて弛緩を始めている。

 

 ベルが負っている傷は、決して浅くない。

 

 十階層から十七階層までの床を貫くほどの威力を引き出すために、わざと【魔力爆発(イグニス・ファトゥス)】を起こした結果、最も損傷(ダメージ)を受けたのは他ならぬベル自身なのだ。

 

 唯一の救いは、精神疲弊(マインドダウン)に陥っていないことだろう。

 

 常識という生命の限界を縛る理で考えれば、とても戦闘に身を投じられる状態ではない。ましてや地下迷宮(ダンジョン)を跋扈する無数の雑兵ではなく、熟練の冒険者が束になって挑まなければ討伐困難な『迷宮の孤王《モンスターレックス》』に、単独(ソロ)で立ち向かうなど正気の沙汰ではない。

 

 自殺志願者であったとしても願い下げだろう、狂気の所業。勝利という名の太陽が昇らぬ暗夜を前に、誰が立ち向かう意思を胸に抱けるというのか。

 

 しかし、ベルは違う。命と勝利の奪い合いという点において、恐怖、諦念、怯臆(きょうおく)が生まれない英雄は寧ろ、逃げ出すという意思を胸に抱くことができない。

 

 常人から見れば、理解不能な英雄(ばけもの)

 

 それが、ベル・クラネルなのだ。

 

最初の一撃(ファーストブロー)はお前に譲ったんだ。次は僕に譲って貰うぞ!」

 

 対峙する敵が『迷宮の孤王(モンスターレックス)』であることなど些事であるかのように、ベルは躊躇いも無く地を蹴って一陣の風となる。

 

 魔法を使えずとも、【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】の効果によって【ステイタス】に大幅な補正が掛かっているベルは、Lv.3の領域を突破するかのごとき速度(スピード)でゴライアスの足もとへ接近した。

 

『……!?』

 

 巨躯ゆえに、豆粒ほどの規模しか持たないベルを一度でも見失えば、再度捉えるのは非常に困難。

 

「まずは、邪魔な足を絶つ」

 

 狙うは無防備晒す、右足の下腿三頭筋(ふくらはぎ)

 

「しぃっ!」

 

 ベルの闘志に呼応して刀身から炎を噴き出す《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を、流れるような美しい所作で横薙げば、『不壊属性(デュランダル)』が付与されているのではないかとさえ思わせる硬質な皮膚を容易く引き裂き、天然の鎧と化している頑丈な筋肉を焼き切った。

 

『ガァアアアアアアアア!?』

 

 十七階層に鳴動する大音声(ひめい)

 

『中層』を統治する怪物(モンスター)の王様は、突如として右足を襲った激痛に癇癪を起こすように、両腕を地面に何度も、執拗なまでに振り下ろした。

 

 ドン、ドン、ドン。

 

 一連の動作に、意味はない。ただ、右足から伝わる激痛が膨張させる憤怒を吐き出すための、短絡的かつ幼稚な振る舞いに過ぎない。

 

 これが、パーティを組んだ冒険者に対する行動であるのならば、脅威でしかなかっただろう。回避しようにも、頭上から降り注ぐ拳の豪雨を掻い潜れる人数には限りがある。必ず、誰かを犠牲にしなければならない、悪夢のような攻撃と化すのだから。

 

 しかし、今回ゴライアスが対峙しているのは、『迷宮の孤王(モンスターレックス)』に単独(ソロ)で立ち向かってくる常識外れの英雄だ。

 

 大地駆ける様は疾風。両腕が振るう二刀は迅雷。

 

 勝利組み立てる思考は冷静。血液の廻りを管理する心臓は沈着。

 

 一切の無駄なく、最高率の勝利を求める英雄を前にして、生半可な攻撃は自らを窮地に立たせる愚行でしかなかった。

 

 王には、それがわからない。強者の側、搾取する側として産み出されたゴライアスは、彼我の力量差を全く考慮しようとしない。否、できないのだ。

 

「こんな攻撃で、僕は捉えられない」

 

 十七階層の床が抜けるのではないかと思うほどの地震を発生させるゴライアスに憐憫の眼差しを向けながら、ベルは拳の豪雨を踊るように軽々と避けていく。

 

 当たらない。当たらない。何度も拳を振り下ろしているのに、当たらない。

 

迷宮の孤王(モンスターレックス)』の特権ともいえる無尽蔵の体力を存分に活用しているにもかかわらず、たった一人の人間を仕留められない事実にゴライアスは苛立ちを覚える。

 

 それは、思考の乱れ。そして、思考の乱れは明確な隙。

 

 既に拳の軌道を読み切っていたベルは装靴(グリーブ)で地を蹴り砕いて跳躍し、振り下ろされた右拳に華麗に着地すると、滑るようにして腕を駆け上った。

 

「戦いに驕りを持ちこむなよ、ゴライアス」

 

 失望と忠告を込めた言葉を洩らしながら、血に塗れた英雄は腕を蹴って再び宙に身を躍らせる。

 

 狙うは、呆然とした表情を浮かべている顔面。

 

「その首を断つ!」

 

 勝利を叫ぶ英雄が矢となって巨人の首に迫る。

 

 死ぬ。

 

 背筋が凍える濃密な死の気配を叩きつけられたゴライアスは、咄嗟に右腕で庇った。

 

 ぐちゅ。

 

 一秒後、ゴライアスの耳に届くのは本能に嫌悪をもたらす、ナニカを切断する音。

 

 それ即ち、首断ち切られる運命を回避するための贄とした右腕が、生命潰す殺戮兵器から物言わぬ肉塊へ変じた証左。

 

『…………っ!?』

 

 ゴライアスの目に映るのは二つ。宙を舞う己が右腕と、王を名乗るには分相応な暗君を無感動に見つめる深紅(ルベライト)の双眸だった。

 

『ウオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 当然の絶叫。ゴライアスは左手で喪った右腕の切断面を抑えながら、二歩、三歩と後退して、ベルと距離を取る。

 

 なんだ!? コイツは何なんだ!? 

 

 ゴライアスの脳内は、混乱と恐怖で満ちていた。矮小にして脆弱な人間一人に、圧倒されている現実は悪夢そのもの。勝機をまるで見出せないゴライアスは、目の前の人間を殺せと叫ぶ本能と、敵うわけがないと喚く理性に挟まれて何も考えられなくなった。

 

 殺せ、逃げろ。殺せ、逃げろ。殺せ、逃げろ。ころ、にげ、こ、に……

 

『ゴゥ……ァァ……』

 

 思考停止(ソートゼロ)

 

『ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアウウウウウウウ!!』

 

 英雄から与えられた無際限の恐怖によって自我が完全に消滅し、発狂状態(パニック)に陥ったゴライアスは、奇怪な叫び声を放ちながらベル──ではなく、なぜかリリルカへ向かって走り出した。

 

「なっ!?」

 

「ひっ……」

 

 予想外の行動に、ベルは目を剥き、リリルカは恐怖で顔を青ざめさせた。

 

『ウガァアアアアアアウゥウウウウウウウウウウオオオオオオオオオ!!』

 

 正気を失ったゴライアスは、自分が何をしようとしているのか、何一つとして理解していない。ただ、適当に身体の赴くがまま走っているだけで、リリルカを狙う意図はまるでなく。ただ、進行方向に偶然、彼女が横たわっているに過ぎなかった。

 

 しかし、ベルにとっては先ほどまでと比べ物にならないほど悪辣な行動。

 

「ひゅぅ……ゴライアスもやるじゃねえか。お姫様の方から狙うなんて、怪物(モンスター)とは思えねぇずる賢さだ」

 

 そう言って拍手するゲドを横目に、ベルは全速力で地面を駆けてリリルカのもとへ向かう。

 

 ぎゅるり。

 

「なにっ!?」

 

 理由なき奇行。

 

『ウガァアアアアアアウウウウウウウウァァアアアアア!!』

 

 ゴライアスは何の脈絡もなくベルへ首を向けると、下腿三頭筋(ふくらはぎ)に負う刀傷が悪化するのを気にする素振りも見せずに右足で蹴りを放った。

 

「なんて、強引なっ!」

 

 姿勢は滅茶苦茶。ベルに迫る脚撃のあと転倒するだろうことをまるで考慮していない、理性も、知性も、本能も、何もかもを置き去りにした狂気的な行動はしかし、狂気であるがゆえに英雄へ届きうる一撃となった。

 

「くっ!?」

 

 もはや無意識の領域。ベルが意思を伝達するよりも早く両腕が勝手に動いて、二刀を盾に防御の構えに入っていた。

 

「ご……ぁ……っ」

 

 ズシン。

 

 次の瞬間、ベルを襲う大質量の一撃。もしも落下する隕石を受けとめる機会があれば、今の一撃が脳裏を過ぎるだろう。そう思わせるほど、ゴライアスの全体重が乗せられた脚撃は力強く、重かった。

 

「ぐぅ……」

 

 両足の装靴(グリーブ)を地面に埋没させながら、ゴライアスの右脚を受けとめるベル。

 

「ベル様っ!」

 

「大、丈夫だ! この程度、なんて、こと、ないから!」と返事をするベルだが、肉体は正直だった。

 

 転倒する運命が確実なゴライアスの肉体を支えるベルに乗せられた重量は計り知れず。

 

 一瞬でも、気が緩めば大地と融合する末路を辿るに違いなかった。

 

「ぐぅうううううううう……」

 

 秒針が一進むごとに、一つ、また一つと筋肉が千切れて、骨がミシミシと不快な音を鳴らす。

 

「く、がぁあああああ……」

 

 何とか抜けだそうと藻掻こうにも、足は膝まで地面に埋没。二刀は運悪く骨と筋肉に絡まって切断力を失ってしまっている。

 

 しかも起死回生の一手となり得る魔法さえ使えない今の状況を打破する唯一の策──否。それは策などと呼べるものでは到底ない──は、即ち「気合いで押し返す」だ。

 

 青筋浮かぶ額。

 

 血道走る腕。

 

 筋肉膨らむ脚。

 

 肉体の準備は整った。

 

 あとは──。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 全霊を絶叫に込めて、ベルは重力と質量に叛逆する。

 

 重い。言葉では形容できないほど、重い。それでも、持ち上がらない次元(レベル)ではない。加えて、【鋼鉄雄心(アダマス・オリハルコン)】によって損傷(ダメージ)を受ける毎に能力値に補正がかかっているのだ。

 

 時を経る毎に不可能を離れ、可能へと近づいていく状況でむざむざと敗北を受け入れるほど、ベル・クラネルは弱くない。

 

「こんなことでぇ、僕をぉ、倒せるとぉ──」

 

 深呼吸。

 

 肉体の端から端まで新鮮な空気が循環するのを感じたベルは口を閉ざして呼吸を止めて、《ヘスティア・ブレイド》と《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を一気に押し込んだ。

 

「思うなぁああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 裂帛を動力源としてベルは限界以上の力を引き出し、ウダイオスの右脚を持ち上げると、勢いそのままに二刀を振り抜いた。

 

 ぐらり。

 

 元から崩れていた姿勢が後方へ傾倒して耐えきれるわけもなく、『ゴァアアアアアアアアア!!』という叫び声と共にゴライアスは地面に崩れて、背中を強かに打ちつけた。

 

「おっと、危ねえ。危ねえ。俺が先にペチャンコになるところだったぜ」

 

 偶然(・・)にも、ゴライアスが転倒したのはゲドが観戦していた場所だった。

 

「ちっ……」

 

 運悪く(・・・)巻き添えで絶命してくれるのを願っていたベルは、ゲドが五体満足であるのを見て思わず舌打ちする。

 

「おいおい、ベル・クラネル! こんな図体がデカいだけの雑魚相手に、何を手間取ってやがる! あんまり、俺を失望させないでくれよ! あのガキも不安そうに見てるぜ! 『ベル様、本当に勝てるのかしら?』ってな」

 

 ギャハハハ、と人を舐め腐っているとしか思えない下品な笑い声をあげるゲド。

 

「言われなくてもっ!!」

 

 転倒という致命的な隙を見逃すなど、愚者のすることだと宣するような叫び。

 

 ベルは寿命を対価に死体同然の肉体を駆動させて、僅か数秒でゴライアスの足もとへ辿り着くと、先ほどのお返しとばかりに跳躍。

 

「ぜぁああああ!!」

 

 ぐるぐると独楽(こま)のように回転して、右脚を太腿から断ち切った。

 

『グァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』

 

 右腕と右脚を喪失したゴライアスに、もはや立ち上がる術なく。

 

 激痛によって蘇生した微かな本能に従い、残された左側の腕と脚で天敵たる人間の皮を被った英雄(かいぶつ)を潰そうと必死に藻掻くが、

 

 ──遅すぎる。

 

 ベルは既に重力(はいぼく)から解放されていた。

 

「どこを見ている、死に逝く巨人(ゴライアス)

 

 声に誘われるようにゴライアスが天井へ顔を向ければ、ソコには、死が、人間を象って、間近まで、迫っていた。

 

 ──い、嫌だ……! 

 

 風を斬り裂く猛火の一閃が死を免れようと足掻く左腕を焼斬し、遂に討伐(おわり)の時が訪れる。

 

 決着(ジ・エンド)

 

「疾っ──」

 

 炉の女神の灯火宿る英雄の半身(ヘスティア・ブレイド)が、肉断つ音さえ鳴らさず、静かに命を絶つ。

 

 ──負けた、のか? 

 

 最後、首と胴が永遠の決別を迎えたゴライアスが瞳に映したのは怪物(えいゆう)

 

 それは、断じて、人間などでは、無かった。

 

「ふっ!」と息を吐いて、綺麗に地面に着地するベル。

 

 一度は窮地に陥ったが、全体を通して『迷宮の孤王(モンスターレックス)』を圧倒した上、単独(ソロ)での討伐に成功するという大偉業を成し遂げた。

 

英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)】の新たな一頁を紡いだのだ。

 

 しかし、ベルの表情に達成感の色はない。

 

 寧ろ、苦しげな表情をして……。

 

「ベル様! 危ない!」

 

「隙だらけだぜ、英雄擬き(エセ・ヒーロー)!」

 

「っ!」

 

 背後から猛然と襲いかかってきた命喰らう凶刃を、《ヘスティア・ブレイド》で何とか受けとめた。

 

「ぐっ!? なんて、力だ……!?」

 

 昨日、中央広場(セントラルパーク)で対峙したときとはまるで別次元な膂力を有していることに、驚きを隠せないベル。

 

「気をつけて下さい! ゲドは、何らかの方法でLv.4に比肩する力を手に入れていますっ!」

 

 十七階層へ来るまで嫌というほど見せつけられたゲドの不正(チート)な能力を、リリルカが警告する。

 

「Lv.4だって……?」

 

「そういうことだよ、ベル・クラネル。俺はテメエを殺す力を手に入れたんだ!」

 

 ギラギラと双眸に殺意と憤怒と憎悪を宿しながら、ゲドは続ける。

 

「確かテメエはLv.3だったよなぁ! それにゴライアスとイチャついて、ボロボロときた! 白い装備も血に染まって、台無しだ! あらら、こりゃ万に一つも勝ち目がねえんじゃねえか? そこんところ、どう思うよ!」と叫ぶゲド。

 

「それ、で、も……僕……は……っ!」

 

「無駄だよ、バーカ!」

 

 ゲドが軽く長剣(ロングソード)に力を込めるだけで、ベルは抗えもせずに、仰け反るような形で姿勢を崩してしまう。まるで、先ほど自分が斃したゴライアスのように。

 

「しまっ──」

 

「死ねぇええええええ!」

 

 それは、余りにも、致命的な隙。斬ってくださいとばかりに晒された無防備な胴体を、ゲドが袈裟斬った。躊躇いはなく、情けもなく。

 

「あ」

 

 リリルカの瞳に映るのは、鮮血を噴き出しながら宙を舞う英雄の姿。

 

「ベル様ぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

「あはははははははははははははははははははははははははははははははは!!」

 

 灰被り姫の叫喚と、悪意の化身の哄笑が、十七階層に延々と木魂した。



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過去の罪を象るモノ(ゲド・ライッシュ)

 

「っ──」

 

 悪意の化身が振るう一閃は英雄の纏う雪白の戦闘衣(バトル・クロス)を貫き、柔い皮膚を引き裂いて、朱い肉を抉った。

 

 半歩。咄嗟に退いていなければ、ベルの命は儚く散華していただろう。

 

魔力爆発(イグニス・ファトゥス)】を利用した『階層無視(ショートカット)』。

 

迷宮の孤王(モンスターレックス)』Lv.4、ゴライアスの単独(ソロ)撃破。

 

 無茶に次ぐ無茶によって肉体が原型を留めているだけでも奇跡な状態のベルが、不正な方法(チート)によってLv.4相当の【ステイタス】を手に入れたゲドの一振りを防ぐのは不可能。

 

 今のベルが取れる唯一の行動は、致命傷を避けることだけだった。

 

(何とか、命は繋いだ……)

 

 宙に投げ出されている最中、ベルは未だ心臓が鼓動している事実を噛み締める。

 

 だが、それだけだ。生きている、だけだ。

 

 受け身など取れるはずもないベルは、容赦なく地面に叩きつけられた。その拍子に、握力を失った左手から零れ落ちた《劫火の神刀(ヴァルカノス)》がリリルカの近くに転がっていく。

 

「ぁ……ぐ……」

 

 洩れる声は苦悶。生命の息吹たる血液が肉体からドクドクと流出する悍ましい感覚を味わいながらも、深紅(ルベライト)の双眸に宿る戦意だけは衰えず、ゲドを睨みつけている。

 

「はははっ! 死亡間近の癖に、まだそんな反抗的な眼付きができるのかよ。……ここまで来ると、苛立ちを超えて感心しちまうぜ」

 

 ゲドは呆れたように言った。

 

「リ……リ……」

 

「あ、なんだって?」

 

 耳に手を当てて、わざとらしく、嫌らしく、聞こえていない演技をするゲド。

 

「リリ……を、傷つけ……させは……し……ないっ!」

 

 意識を繋ぎ止めているのでさえ苦痛甚だしいのに、言葉を紡ごうとするベルの意思は止まらない。その目に、声に、表情に、明確な敵意を込めて、ゲドを射殺すように睨み続ける。

 

「はぁ、本当にイカれた根性してやがる英雄様だぜ。喋れば、喋るだけ。動けば、動くだけ、寿命をゴリゴリ削ってるって理解してんのか?」

 

「ベル様! 止めてください! これ以上、喋ったら……これ以上、喋ったら……」

 

「あぁ、間違いなく死ぬな」

 

 躊躇うリリルカに変わって、ゲドが英雄の辿る末路を宣告する。

 

「ゴライアスには、良い感じにベル・クラネルの体力を削って貰おうと思ってたんだが……」

 

 そう言って英雄の血がこべりつく紫色の刀身をペロリと舐めたあと、ゲドはニタリと嗤った。

 

「ちょいとばかし、やり過ぎちまったみたいだな。立つことさえできねえ英雄様を殺しても、何にも面白くねえからなぁ。ちょいと脚本を変更しようか」

 

「な、に……」

 

 掠れる声で問うベルを無視して、ゲドはリリルカへ視線を向けた。

 

「なぁ、リリルカ・アーデ。英雄の定義は何だと思う?」

 

「何、を……言っているんですか……?」

 

「質問に質問で返すなよ。ったく本当につまらねえ奴だな」

 

 やれやれ、と言うかのように大袈裟に肩をすくめたあと、ゲドが勝手に高説を始める。

 

「俺はこう思う。英雄ってのは勝利し続けるから英雄なんだってな。常人じゃできねえことを成し遂げる。それは即ち、華々しい勝利と同義。コイツもLv.1でミノタウロスを討伐するなんて常識破りな真似をしてみせたから、脚光を浴びるようになったんだ」

 

 独自の英雄論を語る、ゲドの無駄話は続く。

 

「で、あるならば、だ。俺に敗北したベル・クラネルはもう英雄としては無価値ってわけだ。命尽きるその時まで勝ち続けるのが英雄なんだからなぁ」

 

 そこでだ、と言ってゲドは人差し指をリリルカへ向ける。

 

「おい、ガキ。コイツをそこに転がってる刀使って殺せ。そうすれば、テメエのことは見逃してやるよ。今後一切、干渉もしない。晴れて、自由の身になれるってわけだ」

 

「……は?」

 

「どうだ、悪くない提案だろ?」

 

「……は?」

 

 この時、リリルカは生まれて初めて一滴の濁りもない、純粋な殺意を抱いた。眼前の人間を真似る怪物(ゲド)だけは絶対に許せない。もしも生かしておけば、これから先幾度となくベルに牙を剥くのは確実。

 

 殺すしかない。殺さなければならない。

 

 けれど、リリルカがゲドに勝てる確率は皆無(ゼロ)。不意打ちを狙ったとしても、掠り傷一つ負わせられずに返り討ちに遭うのは目に見えている。

 

 相打ちという細やか希望(きせき)さえ抱けない、隔絶した力量が二人の間には広がっている。

 

(……これが、リリへの罰だと言うんですか……神様……)

 

 目の前の存在は過去そのものだと、リリルカは思った。自分が犯してきた罪の総てが集まり束ねられて、ゲド・ライッシュという男を象って現れたのだと。

 

「ま……だ、だ……」

 

 満身創痍という言葉すら生易しい重傷を負っているのに、尚も立ち上がろうとするベル。両手で握る《ヘスティア・ブレイド》を杖にして、亀より鈍重な動作で戦場の舞台に戻ろうと足掻く様子は、悲痛すぎて直視できない。

 

「ほら、さっさと決めろ。殺すのか、殺さねえのか。このまま石像の物真似してるっていうんなら、俺がさっさと殺っちまうぞ?」

 

 侮蔑、嘲弄、軽蔑、愚弄に蔑視。塵でも見るような眼差しでリリルカを見つめながら、ゲドは言った。

 

「早くしろ、役立たず(サポーター)

 

「っ……!」

 

 ゲドの一言にビクリ、と身体を震わせたリリルカは、ゆらりと風に揺れる柳のように立ち上がり背負うバックパックを地面において、地面で沈黙している《劫火の神刀(ヴァルカノス)》へと近づいていく。

 

「駄目、だ……リリっ……! それは…………っ!」と何度か吐血しながらもリリルカの行動を止めようとするベル。

 

 神の想い宿る《劫火の神刀(ヴァルカノス)》にベル以外の人間が触れてしまえば、たちまち業火が燃え盛り、良くて火傷。最悪の場合、腕ごと炭化させてしまうのを、リリルカは知らない。知らないから、近づける。

 

「テメエは黙って見てろよ」

 

 しかし、ベルの必死な叫びは悪意の化身によって掻き消される。

 

「さぁ、英雄譚の幕引き(フィナーレ)だ!」

 

 喜悦の声を上げるゲド。その瞳に映るのは、一歩、また一歩と、英雄殺める黒刀へ近づいていくリリルカ・アーデの姿だ。

 

(やっぱりテメエは【ソーマ・ファミリア】の眷属だよ。自分の命が何より大事で、生きるためなら受けた恩を仇で返す選択を取っちまう……あははははっ! クズ過ぎて、救いようがねえぜ、全くよぉ!)

 

 リリルカがベルを殺すつもりだと、根拠なき確信を抱くゲド。彼の中では既に結末(エンディング)は決まっていた。ベル・クラネルの英雄譚は、救いたいと願った少女の裏切りにって閉演すると。

 

(悲劇的な末路っつうのは、まぁ、英雄らしいか。はははっ! ざまぁ見やがれ! 俺を散々、虚仮にしてくれた罰だ!)

 

 ゲドが胸中で狂喜乱舞する中、リリルカはゆっくりと、ゆっくりと、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》へ向かって行く。

 

(ベル様……こんなことになってしまって、本当にごめんなさい……)

 

 一歩、大地を踏み締めるごとに、心に澱む死への恐怖が嵩を増していく。

 

(リリが愚かなばっかりに……沢山傷つけてしまいました……)

 

 一歩、純黒を煌めかせる英雄の刀との距離が縮まるごとに、心に怯えの雪が積もっていく。

 

(きっとベル様は……怒ると思います……何を馬鹿なことをしてるんだって……それでも……)

 

 一歩、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》の御前に立ったリリルカはふぅ、と小さく息を吸って手を伸ばし、柄に触れようとする。

 

「リリィイイイイイイイ!!」

 

 自分の名前を叫んでくれたベルへ一瞬、リリルカは顔を向けてはにかむと、恐怖の澱みと怯えの吹雪を消し飛ばす、覚悟の光を双眸に宿した。

 

(これは、きっと賭け。もしも失敗すれば、リリはきっと惨たらしく殺されるでしょう……それでも……僅かでも可能性があるなら──)

 

 ──可能性が零でないなら。

 

 一度、瞼を閉じて精神を研ぎ澄ますように深呼吸をする。

 

「──っ!」

 

 そして、ゆっくりと瞼をあげて《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を視界に映し出した瞬間、リリルカはこれまでベルの前では頑なに使って来なかった魔法を詠唱した。

 

「【貴方の刻印(きず)は私のもの。私の刻印(きず)は私のもの】」

 

 紡ぐ言ノ葉は光の粒となって、灰を被った少女の身体を包み込む。

 

 変身魔法、【シンダー・エラ】。

 

 リリルカ・アーデが象るは、憧れの君。絶望の中にあった端役の少女に手を差し伸べてくれた、光のように目映い少年。少女を囲う悪意を斬り裂く英雄の姿だ。

 

「なんだ、こりゃ……」

 

「リリ……」

 

 変わる、少女の瞳が深紅(ルベライト)へと。変わる、少女の髪が純白(スノーホワイト)へと。変わる、リリルカ・アーデが英雄と踊るに相応しい英雄(ヒロイン)へと。

 

「リリはもう、逃げたりなんかしません」

 

 リリルカを中心に渦巻く旋風がマントを捲り、その顔貌が露わになる。

 

「前へ、未来へ、リリは進むと決めたんです」

 

 千年前の英雄(せいじょ)とも重なる、紅口白牙(こうこうはくが)。先ほどまでとは別人とさえ思える、気高い眼差し。十七階層に漂う陰気な気配を呑み込まんとする、威圧感。それは、まるで、絵本から抜け出してきた神話の英雄のようだった。

 

「…………おいおい、こんな話……俺は聞いてねえぞ……」

 

 唖然と呟くゲドに一瞥もくれず、リリルカは手を伸ばし──。

 

「リリ、離れるんだ!」

 

劫火の神刀(ヴァルカノス)》を、握り締めた。

 

 ──汝、我が英雄の未来(たびじ)を伴するに相応しき存在か試させて貰おう。値せぬのなら、汝の右腕は灰へ帰すと覚悟しろ。

 

機会(チャンス)を与えてくださり、感謝します。《劫火の神刀(ヴァルカノス)》様」と感謝を告げるリリルカ。

 

「《劫火の神刀(ヴァルカノス)》が、リリを認めた…………」

 

 驚きのあまり、ベルはそれ以上の言葉を発せられなかった。

 

「あぁ、面倒臭せえなぁ。ここで終わりだと思ったのに、使い終わったはずのテメエが今さら俺に牙を剥くのかよ」

 

 余裕綽々としていたゲドが、苛立ちを吐いた。

 

「ここで、因縁を終わらましょう。ゲド・ライッシュ」

 

 (きっさき)をゲドに向けて、宣戦布告するリリルカを包み込むように、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》が劫火をほとばしらせる。

 

「貴方は、ここで死になさい」

 

 螺旋する劫火を従える英雄の登場に、ゲドは満足して眠っていたはずの殺意、憤怒、憎悪が目覚めたのを感じた。

 

 グニャリ。

 

 視界が屈辱のあまり歪んで、思考は殺の一文字に支配される。

 

「俺に、死ねだと? 悪の側であるテメエではなく、この俺が? 何を馬鹿なこと言ってやがる、事の発端はテメエだろ? 俺のモノを盗んだ悪人は、裁かれて当然だろうが……殺されて当然だろうが……」

 

 正義は俺の側にあるんだ! と獣の雄叫び染みた絶叫を響かせるゲドの様子は、どこか異常だった。

 

「俺は英雄を殺すモノなんだ。サポーターごときに負けるわけがねぇ。そうだ、俺は名無しじゃねえ。英雄殺しのゲド・ライッシュになるんだよ!」

 

「……『酔う』のも大概にしてください。罪であれば償います。リリを痛めつけたいのでしたら、幾らでも殴ってください。蹴ってください。ですが、他者を巻き込み、人の心を弄ぶその愚行を、リリは認めるわけにはいきません」

 

 声は静謐。双眸は鋭く敵を見据え。刀構える様は摩天楼(バベル)のごとく直立。まるで一本の刀がそこにあるかのようだ。

 

 サポーターの境界線を越えて、冒険者の領域に踏み入ったリリルカを目の辺りにしたゲドは、我慢の限界を迎える。

 

「もう止めだ! あまり脚本を変更したくはねえんだが、まずはお前から殺す! 徹底的にいたぶって、舌引き千切って喋れなくしてから、腕と脚を順番に切り落して、英雄の目の前でその首を断ってやる!!」

 

 激昂するゲドが、長剣(ロングソード)の剣先をリリルカに向けた。

 

 ──戦いの場は整った。

 

「ふぅ──」

 

 いざ、英雄殺し(ゲド・ライッシュ)へ挑むべく、灰を払った英雄(リリルカ・アーデ)は深く、深く、呼吸して──。

 

 大地を蹴った。

 



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劫火よりも熱く(バトルドレス)

「征きます!」

 

 劫火逆巻かせながら、一瞬のうちにゲドとの間合いを詰めたリリルカが《劫火の神刀(ヴァルカノス)》で刺突(つき)を放つ。

 

「せぇいっ!」

 

 空気さえも穿つ神速の一撃を前に、ゲドは瞳に驚愕の色を揺らめかせながらも間一髪──。

 

「俺を舐めるなぁっ!」

 

 長剣(ロングソード)を下から掬い上げるように薙ぎはらって、弾き返した。

 

「くっ!」

 

「ちぃっ!」

 

 睨み合う両者の間に火花が散る。それは、開戦を告げる号砲のようでもあった。

 

「劫火よ!」

 

 先制攻撃(ファーストアタック)を防がれたリリルカは一歩、ゲドと距離を置いて《劫火の神刀(ヴァルカノス)》の刀身から、うねる炎の斬撃を放つ。

 

 ゴウ、と吼える紅蓮の刃は天翔る翼となってゲドへと羽ばたいた。

 

「そんな小細工が、俺に通用すると思ってるのかよっ!」

 

 殺意を叫ぶゲドは迫り来る英雄の想炎を怖れず怯えず、真っ向から対峙して、一刀両断してみせた。

 

 割れる、紅蓮の刃。

 

 その隙間を進むべき道として駆けてきたゲドがリリルカの懐に入ると、邪念の宿る重く鋭い剣閃を放った。

 

「くっ」

 

 彼我の体格差を最大限に利用したゲドの剛剣を受け流し、捌き、刹那さえ無窮に思える僅かな隙を狙って反撃の一刀を振るうリリルカ。

 

「おら、おら! どうした、どうした! 変身してもその程度かよ!」

 

 何合かの打ち合いで膂力において自らが圧倒的に優位であると悟ったゲドは、一気呵成に攻め立てる。

 

「所詮は口だけってことだよなぁ!」

 

 意趣返しだろう、暴威に満ちた連続突き。リリルカと違い、洗練の「せ」の字もない【ステイタス】に任せた攻撃はしかし、それだけで十二分に脅威だった。

 

「さっさと、降参しやがれ! そんで、土下座して許しを請え! サポーターごときが冒険者様に逆らって申し訳ありませんでしたってな! 誠意を見せりゃ、もしかしたら俺の気も変わるかもしれないぜぇ!」

 

「その醜い言葉しか発せられない、穢れた口を開かないでください」

 

「ほざけっ!」

 

 怒号と同時にゲドは両腕に血道を走らせながら長剣(ロングソード)を天に掲げて、勢いよく振り下ろした。

 

(受けたら、死ぬ……っ!)

 

 敗北が訪れるだろう可能性の一つを直感したリリルカは、自分を中心に劫火をほとばしらせてゲドの視認性を下げると、前方めがけて滑った。

 

「なに!?」

 

 股抜け。それはパルゥムだからこそ出来る芸当。リリルカは奇策を用いて破壊の一撃を回避すると同時、ゲドの右足を薙いだ。

 

 焼け爛れる、皮膚。噴き出す、血。

 

「ぐぅっ!? クソがっ!?」

 

 想定外の攻撃を受けたゲドは、苦悶で表情を曇らせた。右足が訴えかけるジンジンとした痛み。それは、リリルカに傷を付けられた証明。

 

 叛逆の刻印(きず)

 

「俺よりも、先に、テメエが、一撃入れるだと……?」

 

 呟く空洞な声は、現実を受け入れられないかのようであった。

 

 事実、ゲドは拒絶していた。右足を斬られた現実を。リリルカから痛苦を与えられた現実を。力量差が拮抗している現実を。

 

 一方的に蹂躙できない現実を。

 

「なんなんだよ…………どうして……」

 

 裂傷と火傷を同時に負った右足をズルズルと引き摺りながら、リリルカの間合いから離れるゲドは、今にも憤死してしまいそうなほど顔を真っ赤に染めている。

 

「痛ぇ……痛ぇじゃねえかよ……ふざけんな……こんなこと、許されていいわけがねえ……俺は、選ばれたんだ……英雄を殺すモノに……」

 

 平凡な人生からの脱却。灰色な日常からの脱出。上を見ず、下を見下す思考からの脱獄。

 

(昨日、俺は運命に出会ったんだ! 俺と同じ、英雄を憎む同志に! そして、手に入れたはずだ! 英雄を殺す力を!)

 

 凡庸な人間に価値を与えない今の世界を憎むゲドは、施しを受けてようやく【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】を超える力を手に入れた。

 

 だのに、格下だと、搾取される側だと、心の底から侮蔑していたリリルカ・アーデが、何の施しも受けず自らに比肩しているという理不尽。

 

(なんだよ、ちくしょう! 英雄に守られる奴も、結局は天に愛された側なのかよっ! 才能を持ってる側なのかよっ!)

 

 許せない、許せない、許せない、許せない、と右足の痛みが呪詛(カース)を吐いている。

 

(そうだ、許せるわけがねえっ! 英雄に守られ、天に愛され、運にまで味方されたコイツだけは──リリルカ・アーデだけは、ここで絶対に殺さなきゃいけねえんだ!)

 

 英雄が覚悟を抱けば無尽蔵の力を得るのというのなら。英雄殺しが憎悪を抱けば、限界の(タガ)が外れる。

 

 憎め、憎め、憎め、憎め、と腹の底から沸き起こる感情のまま、ゲドは憎悪(おもい)を叫ぶ。

 

「俺はお前をここで殺すぞぉおおおおおおおおお! リリルカ・アーデぇえええええええ!!」

 

 ゲドの気配が、変わった。

 

 先ほどまで肉体に纏っていた驕傲(きょうごう)慢侮(まんぶ)が霧散し、純黒の殺意が目を覚ます。

 

 英雄のごとき、覚醒。

 

「不味い、ですね……」

 

 苦々しい表情を浮かべながら、独白するリリルカ。

 

 一見すれば致命的な隙を晒しているように見えるゲドだが、不用意に接近すれば胴を真っ二つにされて無慙な死を遂げる、と英雄の直感が警鐘を鳴らしている。

 

 ここからが本番。今までは歌曲でいうところの前奏のようなものだ。

 

「ふぅ……」

 

 精神を鎮静させる深呼吸を一つ。

 

 先ほどまでも、決して油断していたわけではない。

 

 しかし、今からは全神経を極限まで研ぎ澄まし無駄な思考の一切を排除しなければ、ゲドと渡り合うことは出来ないだろう、とリリルカは予感した。

 

(ベル様の為にも、リリ自身の為にも、ここで臆するわけにはいきません!)

 

 不退転の意思、瞳にほとばしらせて。リリルカは正眼の構えを取った。

 

 決して退かぬと自らの主と同質の覚悟を感じた《劫火の神刀(ヴァルカノス)》は、刀身より劫火を噴いてリリルカと共に最後まで戦うと告げる。

 

 ──征け。

 

「征きます!」

 

 ──殺せ。

 

「殺す!」

 

 弾けるように二人は大地を蹴って、衝突。刹那のうちに無数の火花を散らしながら、一合、十合、五十合。切り結ぶ毎に加速していく、黒と紫の剣閃。

 

 覚悟と憎悪の双眸が刃と同じく衝突しながら、両者ともに「勝利」を掴み取らんと肉体を躍動させる。

 

「はぁああああああああ!」

 

「うおおおおおおおおお!」

 

 嵐のような刃の応酬。

 

 矮躯ゆえの膂力不足を補うように、剣の軌道を先読みし、柳のように殺意の線を逸らしては劫火を放ち、致命的な間隙が生じるのを待つリリルカの柔剣。

 

 体格差を理解しているからこそ、重く速く鋭い剣撃を間断なく放ち、決河之勢(けっかのいきおい)で強引に致命の一撃を与えようとするゲドの剛剣。

 

 異なる二つの攻意(けんぎ)(せめ)ぎ合い、ぶつかり合い、優勢と劣勢を乗せた天秤が釣り合うかのごとく拮抗する。

 

「サポーターのくせに、抗ってんじゃねえよ!」

 

「足掻きますよ、どこまでも! みっともなくても、惨めでも、最後まで絶対に!」

 

 両者ともに最適解の一手を打ち続けるがゆえに、相手の失態(ミス)を待つしかないという、剣の打ち合いにおける究極の状況が、死闘を延々と長引かせていく。

 

「く、うぅ……」

 

「はははっ、息があがってきてるぞ!」

 

 しかし、拮抗は対等と等号(イコール)であるわけではない。

 

 体力と精神力の勝負となってしまえば、不利なのは小柄なリリルカの側だ。ゲドの喰らえば一撃で命を落とす剛剣を正確に捌くだけでも至難の業なのに、そもそも【ステイタス】換算でLv.1もの開きがあるのだ。

 

 戦闘する時点で、既に不利。それも微々たる程度ではなく、圧倒的に。となれば危険を承知で、勝利を手繰り寄せる賭けに出なければいけないのがどちらであるのかは、言うまでもないだろう。

 

(ここで、やるしかありません……!)

 

 リリルカが胸中で呟く。

 

 賭けが成功すれば勝利は目の前まで近づくだろう。失敗すれば、リリルカ・アーデという人間が地上から居なくなる。

 

 ──背水之陣。

 

(……賭けるには十分すぎますね)

 

 逡巡は一瞬も無かった。

 

「死ねや!」

 

「せいっ!」

 

 リリルカは懐に隠してあった逆転の一手をここで使うと定めて、ゲドが振り下ろしてきた一撃を決死の覚悟で受け流す。

 

「ふっ!」

 

 と同時に全力で飛び退いた。

 

 距離にして五メドル。

 

「どうした、遂に降参か!」

 

 後退を逃げと判断したゲドが、憤怒で充血した目を尖らせながら叫んだ。

 

「そんなわけ……ないでしょう!」

 

 言葉を紡ぐのに呼応した《劫火の神刀(ヴァルカノス)》が、リリルカの全容を覆い隠すほどの劫火を一気に燃え上がらせた。

 

「ちっ、何を……!」

 

 吹く風は熱く、ゲドは手で顔を庇わなければ眼を開いていられないほどだった。

 

 ──劫火の海が、産まれる。

 

「火を盾にして籠城かぁ!」とゲドが叫んだ、その瞬間。

 

「はぁっ!」

 

 少女の裂帛が17階層に木魂すると同時に、劫火の斬撃が三つ、悪意の化身(ゲド・ライッシュ)へ飛翔した。

 

「馬鹿がっ! それはもう体験済みなんだよっ!」

 

 迫り来る一つ目の斬撃を右に横薙ぎ、流れるように二つ目の斬撃を逆袈裟斬って、返す刀で三つ目の斬撃を袈裟斬るゲド。

 

 対策は万全だった。

 

「ちっ、ちょこざいなマネしやがって……」

 

 一撃も喰らいようのない無意味な攻撃を捌き終えたゲドは、僅かな苛立ちを覚える。けれど、注意散漫になっているわけではない。右足が訴える疼痛(とうつう)が警戒心を緩める愚行を許さないからだ。

 

 そこへ。

 

「なっ!?」

 

 劫火の海を割るように《劫火の神刀(ヴァルカノス)》だけが、ゲドの眉間めがけて飛来した。

 

「何のつもりだっ!」

 

 唯一の得物を手放すという自殺行為を目の辺りにしてゲドは動揺を抑えられない。

 

 刹那に過ぎない精神の漣も、この状況では醜態の極地。

 

「クソッ、このヤロウ!!」

 

 既に最善手は過ぎ去ったと悟ったゲドは、悪手とわかっていながら大きく姿勢を崩して《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を弾き飛ばす選択を強いられた。

 

「おらぁっ!」

 

 ギンッと硬質な物体が衝突した甲高い音が響いたあと、空中へ放り出される《劫火の神刀(ヴァルカノス)》。

 

 ……これは、誘導された? 

 

「──!」

 

 まさかと思い、空中を舞う《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を見上げるゲドだったが予想は妄想。視線の先にリリルカの姿はない。

 

「引っかかりましたね……」

 

 声は、背後から。背筋を蹂躙する悪寒を連れて、ゲドの耳に響いた。

 

「どう、いう?」

 

 咄嗟に振り向いたゲドの瞳に映し出されたのは、炎を猛らせる紅の短刀(ナイフ)。それは詠唱を必要とせず、瞬時に魔法を発動させる異質なる武器。

 

『魔剣』。

 

「吹き飛んでください」

 

 リリルカがそう言うや否や、紅の短刀(ナイフ)から炎の塊が放たれて、ゲドの背中を殴った。

 

 直撃(クリティカルヒット)

 

「馬鹿なぁああああああああああああああああああああああ!!」

 

 魔剣の炎に焼かれる背中の痛みに絶叫しながらゲドは吹き飛び、二度、三度、と地面に殴られるように叩きつけられて、十メドル以上も転がり続けた先で、ようやく停止を許された。

 

「ま、けん……だと?」

 

 朦朧とする意識の中でゲドが目を向けた先には、粉々に砕け散る紅の短刀(ナイフ)を捨てて、宙から舞い戻った《劫火の神刀(ヴァルカノス)》をその手に収めるリリルカ・アーデの姿があった。

 

王手(チェック)、ですね」

 

 灼熱の殺意を揺らめかせる眼光(まなざし)が、地面に伏すゲドへ突き刺さる。

 

(なんだよ、その目は……それは、俺たち冒険者だけに許されたモンだろうが。なんで弱者であるはずのテメエが、俺をそんな目で見やがる……っ!)

 

 蔑まれるべき存在から蔑まれている事実に、ゲドは気が狂いそうになった。

 

(クソクソクソクソクソクソクソクソッ!! 話が違うじゃねえか、エニュオ!! アレを使えば、英雄を殺せるんじゃなかったのかよ!!)

 

 ジクジク、と痛む背中と屈辱に泣く心を落ち着かせるために、英雄殺しの力を授けたエニュオへ罵詈雑言を浴びせるゲド。

 

 一歩、一歩。また一歩、と地を滑走するかのごとく凄まじい速度(スピード)で迫り来るリリルカ・アーデから逃れる(・・・)ために、何とか立ち上がろうとするが、身体はゲドの命令を拒否して動かない。

 

(嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。コイツにだけは、殺されたくない!! サポーターに殺されるなんて、無様どころの話じゃねえだろ!)

 

 胸中で駄々を捏ねるように喚くゲドを、救う者はいない。

 

 しかし、救う物はあった。

 

 ──この剣は特別製でね。無いだろうが……もしも窮地に陥った時、君に大いなる力を授けてくれるだろう。

 

 妖術師(エニュオ)の声が、敗北()を前にしたゲドの脳裏に響いた。

 

(あぁ……そうだ。俺にはまだ取って置きが残ってたじゃねえか……)

 

 ギラリ。

 

 悪意の化身の双眸に、憎悪の輝きが帰還する。

 

「俺に英雄を殺しの偉業を成し遂げさせてくれ、《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》……!!」

 

 ゲドが声の限り叫ぶと、右手に握る《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》が血色の液体を噴き出し始めた。まるで、ゲドの願いを叶えるように。

 

「いけ、ないっ!」

 

 直感が叫ぶ死の気配をリリルカに伝えようとするベル。

 

「させません!」

 

 同じく、異様な気配から危険を感じ取ったリリルカが、トドメを刺さんと懸命に距離を詰める。

 

 だが。

 

 一秒、遅かった。

 

「【纏え狂乱(オルギア)、英雄殺す血飛沫よ】」

 

 頭の中に直接語りかけてくる《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》の言葉をそのまま詠唱すれば、剣身から溢れる血色の液体がゲドを包み込む。

 

 蠢動する血液。増幅する狂気。

 

 ──まるで蛹から蝶が羽化するかのように、ソレは舞台に乱入する。

 

「あはははははははは!! なんだ、この感覚! 何でもぶっ壊せるような全能感は! 最高だ! 最強だ! 今、俺は人間の頂きに立っている!! 誰にも俺を止められないぃいいいいいいいいいいいいい!!」

 

 歓喜の絶叫によって霧散した液体の中から現れたのは、白目を剥いて口から涎を垂らすゲドの姿だった。

 

「ゲド・ライッシュ……貴方は……」

 

 呆然の呟き。執念の成れの果てを前に、リリルカは何と言えばよいのかわからなかった。

 

 ──今の彼を表す言葉を、知らなかった。

 

「オカシイなー! 馬鹿馬鹿しいなぁー! なーんで、今までこうしなかったんだろーなー! 全くもって不思議だぜぇええええええええええ!」と愉快そうに叫ぶゲド。

 

「どうだ、これが《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》だ!! 英雄殺す偉大な武器だ!!」

 

 見せびらかすように天へ掲げる長剣(ロングソード)も、使い手と同じく異様な変貌を遂げていた。

 

 蛇のようにグニャグニャと奇怪な形をした剣身。ドクンドクンと赤黒い光を鼓動させる(フラー)。柄の中心部分には崩れ落ちる搭が装飾されている。

 

「ぅ……なんて悍ましい……」

 

 禍々しいを通り越して吐き気さえ催すその長剣(ロングソード)は、見ているだけで気が狂いそうになるほどであった。

 

「さぁ、狂おうぜ! リリルカ・アーデ! お前の悲鳴を聞かせてくれぇ!!」

 

 豹変したゲドがケタケタと嗤いながら、迫り来る。その速度(スピード)、尋常ではなく。先ほどまでがLv.4相当の戦闘能力だとすれば、今はLv.5の領域に達していた。

 

「眼で、追い切れない!?」

 

「これでテメエの人生幕引き! お疲れさんだぜ、死に晒せ! 泣いて喚いての、命乞い! 涙、鼻水、撒き散らせぇええええ!!」

 

 レベルの差が二つ開いたことで、両者の力量差は明確に開いてしまった。

 

「オラオラオラ!!」

 

「ぐ、ぅう……!?」

 

「まだまだまだ!!」

 

「あ……ぐぅ……」

 

 ゲドが振るう一撃を受け止めるごとに、リリルカは枯葉のように軽々と吹き飛び。即座に迫ったゲドの一撃を受けとめて、また吹き飛ばされる。

 

 防戦一方(ディスペアー)

 

 これまでの激闘が茶番に見えるほど、隔絶。

 

「戦いってのは、死にかけてからが本番だよなぁ! そうだよなぁあああああああ!!」

 

「喧しい……ですっ……!」

 

 今のリリルカに出来るのは、ゲドの猛襲を凌ぐことぐらいだった。

 

 ○

 

「リリ……」

 

 一秒を経るごとに掠り傷を増やし血を失っていくリリルカを、見ていることしかできないベル。

 

「無様が、過ぎる、だろ……っ!!」

 

 自噴は頂点に達し、慚愧(ざんき)は暴れ回り、惨苦が心を軋ませる。

 

「倒れてる場合じゃないのに……っ!!」

 

 動け、動け、と意思を燃焼させるが、壊れかけの身体は緩慢な動作しか許してはくれない。

 

(どうすれば、リリを助けられる?)

 

 必死に可能性を模索するベルだが、動くのは頭だけで肉体はガラクタ同然。

 

「リリを……守るん……だろうがっ!!」

 

 藻掻き、足掻いて、立ち上がろうとして、地面に倒れて。また立ち上がろうとしたその時だった。

 

 ころん。

 

 ベルの目の前に亀裂の入った試験管が転がってきた。

 

「こ、れは……」

 

 高等回復薬(ハイ・ポーション)

 

(右のポケットを探ってもなかったから、割れてしまったと思ってたのに……)

 

 ゴライアスの戦闘時に飲もうとしたときには既に行方不明だった、ナァーザがおまけしてくれた六本目の高等回復薬(ハイ・ポーション)が、今になってベルの前に現れた。

 

(あり得るのか、こんなこと……)

 

 奇跡を目の辺りにして言葉を失うベル。

 

 紛失した高等回復薬(ハイ・ポーション)が目の前に現れるのもそうだが、ゴライアスとの戦闘を始め、リリルカとゲドの激闘を無事に生き残ったのもまた奇跡。

 

 まるで高等回復薬(ハイ・ポーション)が何者かの祝福(・・)に守られていたかのようだと、ベルは思った。

 

(いや、祝福だろうが、奇跡だろうが、なんだって構わない。大事なのは、高等回復薬(逆転の一手)がここにあるということだ……!)

 

 糸よりも細く、砂粒よりも小さい、けれど確かな勝利への活路を見出したベルは、爪の間に土が侵入するのを気にも留めず、命令に背く右手を必死に動かして──。

 

「よ、し……掴んだぞ……」

 

 英雄の手に、高等回復薬(ハイ・ポーション)が握られた。

 

 復活の時は来た。

 

 王子と王女が揃って始めて、舞踏会は幕を上げるのだ。

 

 ガラスの靴はもういらない。

 

 必要なのは、二人が並び立つ勇気だけ。

 

 ○

 

「あははははははははははははは!!」

 

 狂乱するゲドの暴威が、リリルカを着実に冥府へ近づけていた。

 

「くぅっ!」

 

「惰弱、軟弱、薄弱、脆弱、微弱、虚弱、羸弱(るいじゃく)! よってテメエは敗北!」

 

 技も何もあったものではない、本能だけで振るわれる連撃から伝わってくるのは悪意ではなく、狂気だった。リリルカを憎む気持ちも、ベルを憎む気持ちも、無くなってしまってがらんどう。

 

(駄目です、完全に剣に支配されてしまっている!)

 

 許されざる悪であろうとも確かに心に宿していたはずの想いが消失した剣舞は、もはや台風や雷雨といった災害そのもの。想いと想いが鎬を削る、人の戦いはもうここにはなかった。

 

「なんて、デタラメな腕力っ!?」

 

「俺の腕に宿る力は、ゴライアスすら凌駕する!!」

 

「随分と饒舌になったじゃありませんかっ!!」

 

 捌いて、弾いて、避けて、劫火で視界を遮って、あらゆる手段を講じて延命を図るリリルカ。しかし、所詮は延命。

 

 今のリリルカ・アーデでは、逆立ちしても狂ったゲドには敵わない。

 

 敗北と死の運命からは逃れられない。

 

(何か、何か、逆転の一手をっ!)

 

 英雄の意思を変身(シンダー・エラ)という形で宿しているリリルカに、諦めるという選択肢は存在しない。何よりもベルの力を借りておきながら、膝を付くなど許されない。

 

(何か、何か、何か、何か!)

 

 猛攻を凌ぎながら視線を巡らし思考を回していたその時だった。

 

「ぁっ」

 

 剣を捌くために一歩、退いた先にあった小石に躓いたリリルカは、僅かに姿勢を崩してしまった。それは、見る人によってはとても隙が生まれているようには思えないだろう。

 

 しかし、リリルカとゲドによる極限の戦いにおいては、死を決定づける致命的な隙だった。

 

「なんて不幸な末路かなぁああああ!! 小石に躓き隙晒すなんざ、全くもってツいてねえ!! そうだな、そうだろ!! リリルカ・アーデ!!」

 

 舌を出しながら襲い掛かるゲドという名の狂った獣。

 

「俺の勝ちで、テメエの負けだぁあああああ!!」

 

 禍々しい長剣(ロングソード)の剣先がリリルカの額に触れようとした。

 

 ──瞬間。

 

「まだだぁああああああああああああああああああああああ!!」

 

 英雄が十二時告げる鐘音(ぜっきょう)を十七階層に響き渡らせながら、ゲドの振り下ろした《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》の一撃を《ヘスティア・ブレイド》で弾き返した。

 

「なんじゃこりゃあああああああああああああああああああ!!」

 

 その威力凄まじく、ゲドは十二メドルも先へ吹き飛ばされていく。

 

「遅れてごめん、リリ!」

 

 そう言って、ベルがリリルカを庇うように前へ立つ。

 

「ベル様……」

 

 窮地から救ってくれて嬉しい。今も自分を守ろうとしてくれて嬉しい。

 

 でも……その優しさは、今だけは、欲しくない。

 

「あとは僕に任せて。君を傷つける悪意を払ってみせるから」

 

 英雄の背中は、変わらず頼もしい。全部を、託してしまいたくなる。

 

 この人なら、ベル様なら、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】なら、狂気の傀儡(ゲド・ライッシュ)に勝利してくれると本気で思う。

 

 ──しかし、それは英雄譚。ベル・クラネルが紡ぐ【英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)】の一幕。

 

 ──思い出せ、リリルカ・アーデ。二章は貴女の為にあるということを。

 

「ベル様っ!」

 

「は、はい!」

 

 突然の一声に、ベルは思わず姿勢を正してリリルカの方へ向き直った。

 

 なに? 

 

 そう紡がれるはずだった言葉は、世に生まれ出でることはなく。

 

「そうか……君は……」

 

 英雄の視線に映るのは、王子に守られるお姫様ではなかった。自らの因縁に決着をつけようとする英雄が、そこにはいた。

 

 ──主役は誰かを、告げていた。

 

「あの人は……ゲド・ライッシュは……リリが過ちを犯してしまった結果、悪の道へ堕ちてしまいました。もしも、リリと関わらなければこれほどの悪意を抱くことはなかったでしょう」

 

 ベルは黙って、リリルカの言葉に耳を傾ける。

 

「アレは、リリの罪の象徴です。歩んできた過去そのものです」

 

 額に汗を浮かべ、頬の裂傷から血を流しながらも、リリルカの眼差しは真っ直ぐなままだ。勝利を渇望したままだ。

 

「これはリリの『冒険』です。リリが断たなければいけない、因縁です。リリが向き合わなければならない、罪です」

 

 ですから! とリリルカ・アーデが叫ぶ。

 

「ここまで言っておいて情けないかもしれませんが、リリと一緒に戦ってください! 前へ未来へ進むために! ベル様の力を、お貸しください!」

 

 ベルと同じ深紅(ルベライト)の瞳が、英雄の双眸が、燦然と輝く。

 

 知っている、その瞳に宿る輝きの意味を。知っている、この輝きを失わせる言葉がこの世に存在しないことを。

 

 ──だって、そっくりだから。自分自身(ベル・クラネル)に。

 

 ならば、答えは一つ。

 

「リリ、君の『冒険』を僕に支えさせてくれ!」

 

「感謝致します、ベル様!」

 

 炉の女神の刀を担う英雄(ベル・クラネル)と、劫火を猛らせる刀を担う英雄(リリルカ・アーデ)が並び立ち。

 

「乱入上等! 俺が最高! テメエら両方、晒し首ぃいいいいいいいいいいい!!」

 

 狂気に堕ちた憐れな男(ゲド・ライッシュ)との最後の戦いが、幕を開けた。



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十二時を超えて(グランドフィナーレ)

これは誰にも語られない御伽噺。


 

「リリ! 君は奴を倒すことだけ考えるんだ! 守りは僕に任せろ!」

 

「了解です、ベル様!」

 

 交わす言葉は一瞬。交える視線も一瞬。それで総てが伝わる様は以心伝心。

 

 二人はまるで一つの生命体であるかのように、理性を失い狂気の傀儡に堕ちたゲドへ向けて大地を蹴った。

 

 一秒満たず、射程圏内。

 

「斬らせろ、英雄! テメエの首をぉおおおおおお!!」

 

 鼓膜を蹂躙する不快な金切り声を発しながら、ゲドが振り下ろした《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》をベルが完璧な拍子(タイミング)で弾く。

 

「なんて空っぽな剣なんだ」

 

 理性も意思も想いも宿らない、獣の一撃は英雄(ベル)にとって脅威とならない。

 

「今だ、リリ!」

 

「はい!」

 

 仰け反るように姿勢を崩して無防備な胴を晒すゲドへ、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を振るうリリルカ。腰をひねり両肩と軸足に溜めた力を一気に解き放ち、薙いだ一刀は神速。

 

 僅か一合で勝敗が決すると思われた、次の瞬間。

 

「終わりは死ねえよ、まだまだなぁ!! 俺は勝つため最善尽くす!! それが当然、常識だよなぁあああああ!!」

 

 ゲドは姿勢を整える択を取らず、仰け反る勢いのままに片手を地面につけてバク転することで、致死の閃撃を回避した。

 

「おらよっと」

 

 バク転は五度、両者の距離が再び離れる。

 

「厄介だな……理性を失って、奴の行動から(パターン)が抜け落ちてしまっている……」

 

「気を引き締めましょう」

 

「うん」

 

 仕切り直すように、得物を構え直すベルとリリルカ。両雄、正眼の構え。

 

 対するゲドは、命を失う危機に見舞われたにもかかわらず、ケタケタと壊れたように笑っている。死をも怖れぬ狂気が、彼を支配しているようだった。

 

「次は俺の番だよなぁ! どっちを殺るかは気分次第! 楽しみにして待ってろよ!」

 

 四足歩行の肉食獣を彷彿とさせる低い姿勢のまま、右へ左へ蛇行しながらベルとリリルカへ向けて疾走する。

 

 ──距離、6メドル。

 

「右か左か! 表か裏か! イチかバチか! 天に身を委ねようぜぇ!!」

 

「二択なんて、存在しない。お前の攻撃はすべて、僕が受けると決まっている!」と叫んだベルは、ゲドの動作を模倣(トレース)するように地面を蹴って駆けだした。

 

「王子を気取るか、英雄が! やっぱりテメエは英雄擬き(エセ・ヒーロー)!」

 

 鏡映しの稲妻が、戦意を吼えながら激突する。

 

「ぐぅうううう……」

 

乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》の剣身が《ヘスティア・ブレイド》の刀身と重なった瞬間、ベルの全身を凄絶な衝撃が襲った。

 

(リリは、これを何度も捌いていたのかっ!?)

 

 種族的体格差が甚だしいリリルカからすれば、ゲドが繰り出す攻撃の悉くが致命傷だったに違いない。一度でも選択を誤れば首と胴が永遠に決別する、薄氷を踏むかのごとき攻防を自分が参戦するまで続けていたことに、ベルは驚嘆を隠しきれない。

 

(これは、僕も負けていられないな……!)

 

 一合打ち合うごとに腕の感覚が麻痺していくのに、ベルの闘志は寧ろ燃え上がる一方だ。

 

「うぉおおおおおおお!!」

 

「らぁあああああああ!!」

 

 闘志と狂気が鎬を削り、巻き起こる斬撃の嵐(テンペスト)

 

 無軌道、乱雑、稚拙、人間の技として最低極める連撃を膂力と狂気だけで絶技の領域まで押し上げるゲド。

 

 合理、鋭利、老練、人間の技としてある種の理想を体現している剣の窮みに立つベル。

 

 対極にある二人の、異質な鍔迫り合いが十合ほど続いた時、リリルカが叫んだ。

 

「ベル様!」

 

 名前を呼ばれただけで、取るべき行動を理解したベルは咄嗟に首をくいと捻った。

 

 ボン! 

 

 直後、殺意が込められた劫火の塊がベルの頬を撫でるように過ぎ去って、ゲドの顔面に直撃(クリティカルヒット)した。

 

「熱いじゃねえか、クソガキがぁああああ!!」

 

 しかし、狂気に操られているゲドは火傷程度で動きを止めず。憤怒の薪を()べて、狂気を炎炎と燃え盛らせる。

 

英雄擬き(エセ・ヒーロー)の前に、ガキを殺そう! そう決めた、この俺が! 誰の許可も求めはしない!」

 

 火傷を負わされた復讐をするために、目の前に立ちはだかるベルを無視してリリルカの元へ向かおうとするゲド。

 

「行かせるかぁああああ!!」

 

 リリルカの盾になると心に定めているベルは、過ぎ去ろうとするゲドへ足払いを繰り出した。

 

「あぁ!?」とゲドは一驚の声を発しながら、顔面を先頭に地面と激突する。狂気で理性が蒸発していなければ、間違い無く避けていただろう一撃。

 

 狂気の傀儡となった欠点が、ここで露呈した。

 

「今だ、リリ!」

 

 ベルが叫ぶ。

 

「これで、終わらせますっ!」

 

 阿吽の呼吸。ベルが足払いをすると先読みしていたリリは、既にゲドが晒す無防備な背中に向けて劫火滾らせる《劫火の神刀(ヴァルカノス)》の一刀を放っていた。

 

 ──悪意の化身はここで討たれ、二人の英雄に勝利の栄光が訪れる。

 

「そんなの認められるわけねえだろぉおおおおおがぁあああああああああああああ!!」

 

 ゲドが放つ大音声。

 

 敗北の運命を拒絶する悪意の化身(ゲド・ライッシュ)の意思を汲み取った《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》は、その剣身から狂気(トゥレーラ)を花粉のように振り撒いた。

 

「これ、は……!?」

 

「身体が……!?」

 

 洩れる声は困惑。

 

 勝利を目前とするベルとリリルカは、突如として肉体の制御(コントロール)を失い硬直してしまった。

 

 ──囚われたな、狂気に。

 

 何処からか、嘲る声が聞こえたような、気がした。

 

「あと、少し、なのにっ!」

 

 ゲドの背中を斬り裂く寸前だったリリルカは、必死に《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を振り下ろそうと腕に命令を下すが、まるで言うことを聞いてくれない。

 

「動け、よっ!」

 

 ベルも然り。二の矢として構えていた《ヘスティア・ブレイド》を握る腕は石のように固まって動かない。

 

「くくくっ……かかかっ……ぎゃはははははははっ! 本っ当に便利だぜこの剣は! ……愉快だなぁ……悲劇だなぁ……勝利を確信してた奴らが、たった一手で形成逆転させられちまうだなんてよぉ……現実ってのはなんて非情なんだ」

 

 そう言いながら、わざとゆっくり立ち上がって、狂気に肉体が縛られたベルとリリルカを芸術品でも眺めるかのようにしげしげと見つめるゲド。

 

「テメエらの精神が(コイツ)みたいに脆弱なら、肉体が強化されるだけだっただろうに。鋼みたいに硬い意思を宿してるばかりに、狂気に抵抗しちまって。その結果、指一本も動けなくなっちまうんだもんなぁ……可哀相になぁ……憐れだなぁ……」

 

「なぜ、すぐに、殺さない……っ!」

 

 貪欲に勝利を希求するベルにとって明確な隙を晒した敵を前にしながら、即座に殺さず、心を陵辱するのを目的として談笑に興じるゲドの思考が理解できなかった。

 

「やっぱ分からねえよな、才能も幸運も何もかも持ってる世界に選ばれた英雄様にはよぉ!! 持たざる者の惨めさなんざ、一セルチだって理解できるわけがねえよなぁ!!」

 

「がはっ……」

 

 激情に突き動かされるように、ゲドがベルの顔面を殴った。

 

「ベル、様……」

 

「安心しろ。コイツを嬲り殺したあとで、たっぷり痛めつけてやるからよぉ……クソガキィ……」

 

 愉悦に濡れた双眸をリリルカに向けたあと、ゲドは再びベルを見た。

 

「格上相手をブチ殺す、常識破りの英雄様も、動けなくなっちまえば、ただの雑魚っ! 凡夫と変わりゃしねぇ雑魚っ!」

 

 二度目の殴打が、ベルの顔面を襲う。

 

「雑魚、雑魚、雑魚、雑魚! ベル・クラネル、テメエは雑魚!」

 

 これまでの恨みを晴らすように、顔面、腹、胸、腕、足、とあらゆる部位を痛めつけるゲド。英雄を虐げる超弩級の快感は『神酒(ソーマ)』でさえ得られないに違いない。

 

「動けないかぁ!! 動けないねぇ!! テメエが散々見下してた奴に痛めつけられる気分はどうだ!! 今まで感じたこともないくらいに、最高(さいあく)だろ!!」

 

 殺意さえも忘却しベルを嬲り続けるゲドは、勝利を確信しているのか。右手に持っていた《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》を地面に突き刺して、両手を使いベルを殴る作業に没頭し始める。

 

 殴打。殴打。殴打。殴打。

 

「うっ……くっ……ぐっ……がっ」

 

 重傷を負う身体に、更なる痛苦が絶え間なく噛みついてくる。しかし、ベルは決して意識を手放そうとせず、狂気を超克せんと胸に宿る意思を加熱させていく。

 

「おいおい、どうしたよぉ! 狂気程度、軽々と乗り越えてこその英雄じゃねえのかぁ! 情けねえぞ、詰まらねえぞ、もっと抗ってくれよ!」と歓喜を叫びながら、ベルの鳩尾(みぞおち)に拳をめり込ませるゲド。

 

「かはっ!」

 

 堪えきれず、口を開いたベルの口から血の泡が噴き出た。

 

「……う……ご……い……てぇ……」

 

 ベルの命が削られていく様子を見続けるリリルカは、狂気を粉砕して肉体の自由を取り戻そうと意思を燃やす。しかし、意思を燃やせば燃やすほど、肉体の自由は奪われていくばかりだった。

 

(このままじゃ、ベル様が……)

 

 英雄は不死ではない。鋼の意思で死に半分浸っている肉体を生の側に引っ張っているが、いずれ限界が訪れてしまう。

 

(なんとか……しないと……!)

 

 今の絶望的な状況を変えられるのは、自分しかいないことをリリルカは理解している。だからこそ、肉体を縛る狂気を振り解こうと必死に、懸命に、奮闘する。

 

 だが、肉体は意思の力を否定するようにピクリとも動かない。

 

 こうしてリリルカが藻掻いている間にも、ベルはゲドに嬲られて命の灯火を弱めている。急がなければならない。ゲドが溜飲を下げてしまえば、直ぐにベルを殺してしまうのは明白。

 

(何か、狂気から逃れる手段が……)

 

 逃れる? 

 

 リリルカは、違和感を抱いた。何か、致命的な間違いを犯しているような気がしてならないのだ。

 

(あと、少しのところまで来てるのに……)

 

 違和感の正体を突き止めるために、思案を巡らせるリリルカ。意識を内側に向けて、記憶の本棚から数分間前の過去が記された本を取り出す。

 

 ──テメエらの精神が(コイツ)みたいに脆弱なら、肉体が強化されただけだっただろうに。鋼みたいに硬い意思を宿してるばかりに、狂気に抵抗しちまって。その結果、指一本も動けなくなっちまうんだもんなぁ……

 

「あ……」

 

 そうか。

 

 リリルカは、勝利に辿り着く道標を見つけ出した。

 

 何度目かの賭け。しかも、今回は失敗する可能性の方が高い。不確定要素は多数、賭けの対価として支払うモノは、最低で両腕。最高で命。

 

 しかし、ベルを助けられるのならば、ゲドに勝利できるのならば、余りにも安い対価だった。

 

 リリルカは詠う、英雄から灰被りの少女に戻る魔法の言葉を。

 

「【響く十二時のお告げ】」

 

 瞬間。

 

 灰がリリルカを包みこみ、英雄の証たる純白(スノーホワイト)の髪と深紅(ルベライト)の瞳は溶けて消え、ただの少女が現れた。

 

 英雄でない、灰被りの少女が。

 

「っ……!」

 

 途端、リリルカの意識を浸蝕する狂気。思考はバラバラに分解されて、ゲドへの殺意で心が満たされていく。

 

(殺す……殺す……殺す……ゲド・ライッシュを殺す……!)

 

 ベルを助けるという最優先事項さえ忘却して、殺意の波動に溺れるリリルカ・アーデ。

 

 堕落する少女の身体が、狂気に支配されそうになったそのときだった。

 

 ──汝、我を担うに足りず。我が英雄の未来(たびじ)を共に歩む資格なし。

 

 両手で握る《劫火の神刀(ヴァルカノス)》が、リリルカを拒絶するように劫火をほとばしらせた。

 

 ゴウ。

 

「熱っ……!?」

 

 腕を燃やし尽くすほどの劫火の熱に、狂気に貪られていたリリルカの意識が正気の側へ強引に戻された。

 

「ぐぅぅぅぅぅ……」

 

 次に襲い掛かるのは、意識が灰燼に帰すほどの激痛だった。

 

 ──離すがよい、灰を被った少女よ。汝が我に触れることは許されない。

 

劫火の神刀(ヴァルカノス)》の警告が、脳裏に厳然と響く。

 

(……警告、感謝いたします。ですが、この一瞬だけ、弱き者であるリリが貴方様を振るう無礼をお許し下さい)

 

 胸中の謝罪も《劫火の神刀(ヴァルカノス)》には無意味。

 

 今すぐその手を離せと言わんばかりに、劫火は激しさを増していく。

 

「く、ぅ……」

 

 それでも、リリルカは歯を食いしばり激痛に抗って、ベルを助けるべく動き出した。

 

(まるで玩具を与えられた幼児ですね……)

 

 ベルを嬲るのに夢中で視野狭窄に陥っていたゲドは、ゴウゴウと猛る劫火の音にさえ気付かず、自尊心を満たす自慰行為に等しい暴行を続けている。

 

(やはり……貴方様は、何処まで行ってもゲド・ライッシュでしか無いんですよ……今まで何度もリリを、ベル様を殺す機会(チャンス)はあったのに、結局は欲望を優先してしまうんですから……)

 

 ──だから、負けるんです。

 

 憐憫すら覚えるゲドの背中を視界に捉えたリリルカは、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を振り上げて──。

 

「まだ反抗の意思があるとは、吃驚仰天!!」

 

 ぐるり、と首だけをリリルカに向けるゲド。【シンダー・エラ】を解除してLv.1のサポーターに戻ったリリルカの不意打ちに勘づくのは、実に容易いことだった。時間にして一秒も要さない。

 

 それほどサポーターのリリルカと実力が隔絶していることを、ゲドは理解していたのだ。

 

 故に慢心はなく、驕傲もなく。あるのは、自信と余裕だけ。

 

「コッチはまだお楽しみなんだ! テメエはコイツが嬲られるところをじっくりゆっくり眺めてりゃいいんだよ!」と叫んで、リリルカに向けて拳を振り翳すゲド。

 

 ニヤリ。

 

「今回の賭けもリリの勝ちですね」

 

 嘲るような笑みを浮かべるリリルカ。

 

「強がりは止せよ、馬鹿野郎!」

 

「お馬鹿さんは、貴方様の方ですよ!」

 

 全身全霊をかけて、ゲドの拳を回避すると、その勢いのまま、リリルカは地面に突き刺さっている《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》へ《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を叩きつけた。

 

 ──神星鉄(オリハルコン)で鍛えられた重量凄まじき黒刀をサポーターに戻ったリリルカが持ち上げられたのは、【縁下力持(アーテル・アシスト)】というスキルを発現させていたからだということを、ゲド・ライッシュは知らない。

 

 ──それが、唯一の隙。

 

 ガキン!! 

 

 耳朶を打つ甲高い音。宙を飛んでいく長剣。逆転する形成。

 

「な、何してくれてんだぁああああああああああああああああああ!!」

 

 狂気の傀儡から強制的に脱せられたゲドが、喉引き裂けんばかりの絶叫を十七階層に轟かせた。

 

 しかし、それは、愚行以外の何ものでもなく。

 

「余所見とは、良い度胸だな」

 

「はっ!?」

 

 咄嗟に振り向いた先、ゲドの瞳に映ったのは《ヘスティア・ブレイド》を構えるベルの姿だった。

 

「ちょっと、待てっ──!?」

 

「否、待たない!!」

 

 英雄の裂帛。

 

 斬。

 

「ぐぁあああああああああああああああ!!」

 

 胴を袈裟斬られたゲドは鮮血を噴き出しながら横転を繰り返し、ボロ雑巾のように地面に叩き付けられた。

 

「が、ご、ほっ!?」

 

 吐血に次ぐ吐血。勝利を確信していた滑稽な贋物(ゲド・ライッシュ)は、内臓を蹂躙する刀傷に身悶えながらも、必死に《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》を探して、地面を這いずる。

 

「あ、あれ、さえ、あれば……」

 

 未だ自分を英雄殺しだと勘違いしているゲドは、逆転の余地があると信じて疑わない。

 

「あ、ああ、あ、あった……」

 

 幸運(ふこう)にも、二メドル先に《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》を見つけたゲドは、傷が広がるのも厭わず、芋虫のようにズルズルと地面を這って進んでいく。

 

「俺は、負けない……負けてない……悪いのは……アイツらだ……」

 

 事ここに至っても尚、ベルとリリルカに総ての責任を押し付けようとするゲド。

 

 一メドル。

 

乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》、すぐそこに。

 

「俺は……英雄殺し……だぞ……こんなところで……終わるような……人間じゃ、ない……」

 

 常人離れした執念が、冥府へ案内される寸前のゲドの身体を動かして、遂に一は零となる。

 

「やったぜ……」

 

 右手に掴む《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》。きっと更なる秘策を披露してくれるに違いないと思っているゲドは、青ざめた顔貌に笑みを湛える。

 

 そこへ。

 

「ゲド・ライッシュ……」

 

劫火の神刀(ヴァルカノス)》を担い、冷酷な瞳を以てゲドを見据える灰を払った英雄(リリルカ・アーデ)が現れた。

 

「あぁ…………」

 

 穢れなき純白(スノーホワイト)の髪に、覚悟が宿る深紅(ルベライト)の瞳を見上げたゲドは、『酔い』が醒めたような感覚に陥った。

 

(あ、れ? 今まで、俺は、何をしてたんだ? どうして、こんな化物どもに、挑もうなんて馬鹿なことを……)

 

 恐怖は即座に全身へ伝播した。カチカチと音を鳴らし始める歯。不安定になる動悸。悪寒に凍える背筋。

 

 この瞬間、英雄殺しを願う悪意の化身は、群衆の一人(ゲド・ライッシュ)へ戻った。

 

「ま、ま、待ってくれ! 一旦、落ち着こう! 何かお互いの認識に重大な食い違いがあると思うんだ! えーと、あーと。じ、実は俺は、テメエらの英雄としての資質を試そうと思ってな! これは、そう、試練だったんだよ! テメエんところの神様に頼まれただけなんだよ! 本気で殺すつもりなんて、なかった! 全然、これっぽっちも! だって、そうだろ! Lv.1の雑魚が、今をときめく【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】様と戦える力を急に手に入れられるわけないだろうが! 常識的に考えてさ! それに殺す機会(チャンス)は何度もあったのに、なぜか見過ごしてただろ? アレもわざとだ。そうしろって命令されたんだよ! さっきまでのだってそうだ! あれもその前も、ゴライアスをベル・クラネルと戦わせるのも全部、お前んところの神様が企てたことだ! 俺はただ、従っただけ! 依頼通りに動いただけ! 今喋ってることは最初から最後までぜーんぶ、本当のことだ! 嘘なんて欠片もない! 信じてくれよ! な! 頼むぅよぉ!! 命だけは勘弁してくれぇええええええ!!」

 

 ゲドは我が子のように《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》を抱いて、滂沱の涙を流し、鼻水をだらだらと垂らしながら、命乞いを始める。

 

「ここまで来て、嘘を吐くだなんて、呆れた人ですね、貴方様は」

 

 はぁ、と溜息をつくリリルカ。

 

「嘘じゃない! 本当だ! じゃなきゃおかしいだろ! 俺があのベル・クラネルを相手に五分五分で戦えるなんてよぉ!」

 

「そこじゃありません」

 

「あ、え?」

 

 ゲドの表情筋が硬直する。

 

「リリのところの神様は、純粋な趣味神(こども)なんです。お酒造りにしか興味がない方なんですよ、困ったことに。だから、貴方様が言ったような依頼なんて出すわけがありません」

 

「あ……あ……あ……」

 

 致命的な失態(ミス)を犯したことをようやく理解したゲドは、言語能力を消失させた。

 

「もう、これ以上、無駄話をするのは止めましょう」

 

「ぅっ!」

 

劫火の神刀(ヴァルカノス)》の(きっさき)をゲドの喉に突きつけて、リリルカは言った。

 

「ゲド・ライッシュ。貴方様の懇願に対してリリが提示できる唯一の救済手段は、自害だけです」

 

「じ、がい?」

 

 リリルカの発した言葉の意味がワカラナイのか、ゲドが幼い子供のように呟いた。

 

「そうです、自害です。あなたは道中、楽しそうにリリへ語って聞かせましたね。リリの家族──つまり【ソーマ・ファミリア】の団員を殺したと」

 

「嘘、嘘! 殺してない! あれはテメエを動揺させるための作り話だ! 皆、無事! 今ごろ楽しく酒でも飲んでるさ!」

 

「いいえ、嘘ではありません。リリはこれまで沢山の冒険者様の顔色を窺って生きてきました。だから分かるんですよ、貴方様が言ったことが本当だと」

 

「しょ、証拠は、ねえだろ……」

 

 ええ、とリリルカは頷いた。

 

「確かに証拠はありません。もしかしたら、本当は生きているのかもしれません……」

 

「だったら、殺すのは違うだろ! それじゃ、俺とやってること同じじゃねえか! 私刑だぜ! 私刑! テメエはそれで良いのかよ! 英雄様から軽蔑されるんじゃねえか……? な……? な……?」

 

 暗に二人を殺すつもりだったと自白したことにさえ気付かず、説得を試みようとするゲド。

 

「軽蔑されようと構いません。貴方様は、とても……とても大きな罪を犯しました。リリだけでなく、無関係な人たちを……ベル様を、巻き込んだんです……」

 

 リリルカの双眸に雷光がほとばしる。

 

「そん、な……」

 

 殺す理由は十分でしょう? と冷酷に告げるリリルカは、ゲドにとっては怪物(モンスター)と変わりなかった。

 

「その剣で、自分の意思で、首を掻っ切ってください。そして来世で今世犯した悪行を償うんです」

 

 ──どうです、悪くない提案でしょう? 

 

「っ!!」

 

 最低最悪の機会(タイミング)で自らの発言を使われたゲドは激昂。ここにきて、腕に抱く《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》を握り締めて、リリルカの喉を貫かんとする愚挙に出る。

 

 刹那、

 

「うぎゃっ! 手、手がぁ!!」

 

 投槍の如く飛来した黒刀が、《乱戦剣(プセマ・ゲリョス)》を木っ端微塵に破壊した。

 

 投擲(ピルム・エスパーダ)

 

「言ったはずだ、僕がリリを守るって」

 

 瀕死の状態で地面に倒れていたはずベルが、ゲドの最後の足掻きを打ち砕いた。

 

「マジ、カ、ヨ……?」

 

 詰み。

 

「あ……あ……あぁ……」

 

 最早、逆転の芽がないことを悟ったゲドは、目を剥いて怒鳴り始める行動を選んだ。

 

「ふ、ふ、ふ、ふざけんじゃねえよ! どうして俺が殺されなきゃいけねえんだよ! 最初に盗んだのは、テメエの方だろうが! ただの被害者だぞ俺は! それが、改心したいですって盗んだ品を返しに来たところでな、遅いんだよ! なにもかも! それによ、テメエは俺に感謝するべきだぜ! テメエんところのクソ野郎どももな、俺と同じでテメエを殺そうとしてたんだよ! そんなどうしようもないクズどもを俺が殺してやったんだ! 手を汚してやったんだぞ! 殺人鬼になるのも躊躇わずに! なのに、恩を仇で返しやがって! ベル・クラネルに守られてるだけのお姫様が、偉そうに自害なんて命じてんじゃねえよ! それは、冒険者である俺様の台詞だろうが! その眼差しは、俺様がサポーターに向けるモンだろうが! なんだよ、こりゃ。おかしいだろ、何もかも! どうして、こんなことになってんだ!? あぁ!? 死ね!! テメエら両方、惨ったらしく死ね! 女を助ける俺様カッコイイなんてイキがってるガキがな、【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】なんて大層な二つ名もらってんじゃ──」

 

 言葉が、絶える。

 

「リリへの罵倒は許します。それが犯した罪への罰ですから」

 

 ですが。

 

「ベル様への謂われなき侮辱は、絶対に許しません」

 

 くるくる、と宙を廻る首は何も答えない。ただ生命の光を失った虚ろな瞳が、二人の英雄を捉えるだけだ。

 

(なんだってんだよ。話が違うじゃねえか、エニュオ。俺は英雄殺しになるんじゃなかったのかよ、あのホラ吹きが……ったく、どいつもこいつもクソばっかだぜ……)

 

 共犯者への文句が、ゲド・ライッシュの最後の思考だった。

 

 ──悪意の化身は、ここに散る。

 

 ○

 

「……良かったの?」

 

 激痛に堪えながらリリルカの前まで歩いてきたベルが訊ねる。

 

「はい、良かったんです。これで。……もし、今際の時に出た言葉が反省であったなら、片目を奪うだけで終わりにしようと思っていました」

 

 ですが、とリリルカは続ける。

 

「彼は……ゲド・ライッシュは、最後の最後までその性根を変えることはありませんでした。だから、後悔はしていません」

 

「リリ……」

 

「未来へ進むためにも、過去を受け入れるためにも、悪意の化身(ゲド・ライッシュ)との因縁はここで断たなければいけませんでした。これは、必要なことだったんです」

 

「そっか」

 

 見詰める少女の顔貌に曇りないことを認めたベルは、小さくそう呟いた。

 

「はい、そうなんです」

 

 リリルカはそう言うと、ベルへ《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を差し出した。

 

「勝手に使ってしまって、申し訳ありませんでした。叱責は如何様にでもなさってください」

 

「いや、叱責なんてするつもりはないよ。一時とは言え、《劫火の神刀(ヴァルカノス)》が君を担い手として認めたんだ。僕が怒るのは筋違いだよ」

 

「ですが……」

 

「いいから、いいから」と言って、ベルは《劫火の神刀(ヴァルカノス)》を受け取った。

 

「ベル様が、そう仰るなら」

 

 怒られずに済んだリリルカはほっとしたように息を吐いたあと、魔法の解呪式を詠った。

 

「【響く十二時のお告げ】」

 

 灰まぶされた光の群れがリリルカを包みこみ、やがて溶けて消えて無くなる。

 

 中から現れたのは、少女。栗色の髪と瞳をした、リリルカ・アーデだった。

 

「えっと、それは魔法、でいいんだよね?」

 

 ベルが訊ねた。

 

「はい、これは変身魔法(シンダー・エラ)といって、リリの想像した姿になれるんです」

 

「凄いよ、リリ! そんな魔法を持ってたなんて!」

 

 え。

 

「凄い、ですか?」

 

 予想外の発言に、リリルカは目を丸くする。

 

「そうだよ! だってその魔法を使ってからのリリの動き、僕と同じくらい速くて、剣の扱い方だって巧くなってたもん!」

 

「それは、ベル様を一部……その、模倣しましたから」

 

 突然の褒め殺しに、顔を羞恥で紅潮させて俯くリリルカ。対するベルは、【シンダー・エラ】の可能性に自分が負った傷の重さも忘れて興奮している。

 

「あの、ベル様……」

 

「どうしたの、リリ」

 

「怒らないんですか?」

 

「え、何を?」

 

 リリルカの発言の意味が理解できないベルは。首を傾げる。

 

「だって、リリはベル様の能力を模倣しました……それは貴方様の努力や経験を盗むのと同義です……とても、卑劣で、卑怯な行為です……」

 

「それは違うよ」

 

 ベルは言った。

 

「変身魔法はリリの武器なんだ。そして、リリは自分が持つ武器を使ったに過ぎない。模倣するのだって立派な力だ。だから僕はリリの選択を不快に思ったりしないし、咎めようとも思わない」

 

「ベル、様……」

 

 頬を上気させながら、リリルカはベルを見つめる。何処までも真っ直ぐで、眩しくて、雄々しい、憧れの君。

 

 自分の為に命さえ賭けてくれるベルに、リリルカは心奪われていた。

 

 だからこそ、ここで、伝えなくてはいけない。

 

 リリルカ・アーデの物語を、本当の意味で始めるために。

 

「ベル様、聞いて欲しいことがあるんです」

 

 明るい雰囲気を霧散させて、真剣な表情を浮かべるリリルカを見て、ベルも姿勢を正す。

 

「聞かせて、リリ。君が僕に伝えたいことを、全部……」

 

 そして、リリルカは灰色に染まった過去を洗いざらいベルへ喋った。一滴の嘘も落とさず、真実をすべて、語った。

 

「──こんなリリを軽蔑しますか?」

 

 ベルを見つめるリリルカの瞳は不安で揺れていた。

 

「まさか」と言ってベルはにこりと笑った。

 

 そして、純粋無垢な想いを紡ぎ出す。

 

「僕は善人だから、助けたんじゃない。僕は罪を償ってほしくて、手を伸ばしたんじゃない」

 

 リリだから。

 

「ぁ……」

 

 ずっと沈んでいた太陽が昇って、リリルカ・アーデを光で満たす。

 

「君がリリルカ・アーデだから、助けたいと思ったんだ。他に、理由なんてないよ」

 

 十二時を超えて、リリルカは真実の救いを得る。

 

「でも、敢えて言うなら……」

 

 そう言って、リリルカと視線を合わせるためにベルはしゃがんで。

 

「直感かな」

 

 出会った日の言葉を再び紡いで、笑って見せた。

 

「ベル……様……」

 

 涙が、ぽろぽろと零れ落ちるのを止める手段は存在しない。歓喜の落涙は、止めてはならない。

 

「また、泣かせちゃったね」

 

 よしよし、とリリルカを抱擁しながらベルは言った。

 

 暫くの抱擁で、心が落ち着いたリリルカは名残惜しいと思いながらも、ベルの温もりから抜け出した。

 

 そして。

 

 ──最後に、伝えさせてください。

 

 ──あの日、裏路地でリリを助けてくれたとき、酷いことを言って申し訳ありませんでした。本当は助けてくれて、凄く嬉しかったんです。

 

 ──だから、あの日、言えなかった言葉を今、贈らせてください。

 

『ありがとうございました、ベル様!』

 

 感謝の言葉のあとリリルカが見せた笑みを、ベルは生涯忘れることはないだろう。

 

 どんな笑みを浮かべたか、それを知るのはただ一人。

 

 リリルカ・アーデの英雄だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ヤハリマケマシタカ。シカシ、マダ利用価値ハアル。

 




正しいから守るのか、悪いから見捨てるのか。

英雄は迷いを振り払い、遂に真実(こたえ)を得た。


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閉演(エピローグ)

×××が目を覚ます。


 三日月が道化のような笑みを浮かべている丑三つ時。

 

 人も神も皆が等しく夢の世界に旅立っている静かで寂しい都市(オラリオ)に、鳴る音は一つ。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 地面を叩く装靴(グリーブ)の呼吸。

 

 誰も居らず、誰も歩かぬ、孤独な街路を進む人影は、時を刻む時計のように正確な足取りで、目的地へ向かって歩いていく。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 死の気配を感じさせる不気味な音が、夜の冷気を配下のごとく率いて、とある(・・・)場所へ近づいていく。

 

 誰も、闇夜を進軍する者の姿に気付かない。彼らは皆、夢の民。現実の意味を忘れてしまっているから。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 星々の瞬きでさえ捉えられない、空白の時を往く者。姿形を暗い黒と同化させて、地面に貼り付く影のように気配を希薄し進む様は、暗殺者に似ている。

 

 歩く、進む。

 

 歩く、進む。

 

 歩く、進む。

 

 やがて。

 

 音が消える、辿り着く。

 

「……」

 

 夜に生きる人影が足を止めた先に佇んでいるのは、三階建ての屋敷だった。

 

 第二章の幕を下ろす最後の舞台は、【ソーマ・ファミリア】の本拠(ホーム)

 

 そして、影が拝謁を願うは灰被りの少女を縛る盲目なる神、ソーマだ。

 

「ぐほっ!?」

 

「ぐあっ!?」

 

 屋敷の扉を守る門番を一切の抵抗を許さず気絶させ、扉を開き、侵入した先で待っていたのは……。

 

「どうしたんや、こんな夜更けに。ドチビが心配しとるんで、きっと」

 

 朱色の双眸で人影を──両眼から雷光を迸らせるベル・クラネル──を捉えながら、薄ら笑いを浮かべる神物。

 

「初めましてや、ベル・クラネル。うちのアイズたんがようお世話になっとるみたいやな」

 

「『狡猾なる女神(ロプトル)か……』」

 

 ロキだった。

 

「ソッチの名前で呼ばれるのは何万年振りやろ? 久しぶりすぎて、今の今まで忘れてたで」

 

 語る言葉の声音は軽快。顔に浮かべる表情も柔らかい。だが、それらすべては嘘、偽り。開かれた鋭いまなこには猜疑の光だけが冷たく宿っている。

 

「なぁ、ちょいとお姉さんとお話しようや」

 

「『断れば、おまえの番犬が牙を剥くか?』」

 

 ちらり、とロキの背後に視線を送れば、獰猛な笑みを浮かべる【凶狼(ヴァナルガンド)】が立っている。

 

「それは、あんた次第やなぁ」

 

「『……良いだろう。()の目的を妨げぬというのならば、語らうのを拒絶する必要もあるまい』」

 

「賢い子でうちも助かるわぁ。人様の家で、乱暴なことしたないからな」

 

「『ほざけ』」

 

 そう言って、ベルは二刀を鞘に収めて腕を組んだ。早く話せ、と雷光ほとばしる双眸がきびしく訴えかける。

 

「そう急かさんでもええやん。まだまだ夜は長いんやから、軽く世間話でも……」とロキが茶化せば、ベルは殺意を膨れ上がらせた。

 

「わかった、わかった。世間話はせぇへん。さっさと本題に入ろか」

 

「『最初から、そうしろ』」

 

 ベルが眉を顰めながら言った。

 

「……おたく、ここに何しに来たんや。自分の本拠(ホーム)と間違えて入ってきたわけやないやろ?」

 

「『神ソーマに会うためだ』」

 

「……会うためっちゅう割には、刀握り締めたりして随分と物騒ちゃうか?」

 

「『なにが言いたい』」

 

 ベルが問う。

 

「そんなもん、一つしかない。…………ソーマのアホを殺すつもりやろ?」

 

 四秒の沈黙。

 

 後に口を開いたベルは、本心を語る。

 

「『殺すか、殺さないかは奴の発言次第だ。俺はただ問うだけだ、自らの愚かな行いを理解しているのか。理解していないのか。その是非をな』」

 

「そんなん、殺しますって言うてるもんやん。ソーマの返答なんて分かりきっとるもん」

 

 趣味にしか興味を抱かぬ仙人のごときソーマのことだ。殺意を込めた問いかけを前にしても、馬鹿正直に思っていることをペラペラと喋るに決まっている。

 

ロキの脳内に、首と胴が別れを告げるソーマの姿が浮かび上がった。

 

「なぁ、教えてくれん? どうして、殺そうとするんか。その理由を。ソーマは確かに派閥(ファミリア)の主神としては最低最悪な奴や。でも、悪意があるわけやない。自覚がないだけなんや。改心の余地はある。……それに、討つべき輩は他にもおるやろ?」

 

「『闇派閥(イヴィルス)か』」

 

 そや、とロキは頷く。

 

「あいつらの方がよっぽど害や。そっちを先に潰すのが道理ってもんやないか」

 

「道理、か……」と呟くベルの表情が僅かにゆがむ。

 

「『確かにおまえの考えは正しい。……だが、今はまだ不可能だ。この身体を動かせる時間は限られている。今の俺にできるのは、家に引き籠もっている愚かな神を裁くことぐらいだ』」

 

「やっぱ、そういうことかいなぁ。はぁ……面倒くさっ!」

 

 そう言って、ロキは頭を掻き毟る。

 

「なぁ、お前は一体何者なんや。なんでベル・クラネルに寄生みたいなことしとるん」

 

 問いは詭弁を得意とするロキのものとは思えないほど切実だった。

 

 ベル・クラネルに、我が子の内の三人が懸想してしまっているのだ。彼女たちの恋路が不幸で舗装されていないのか、確かめる必要があった。

 

 あくまでも、ソーマを助けるのはついで。美味しい酒が飲めなくなるのは困るから、という理由が比重の殆どを占めている。もしも、酒がかかわっていなければ、ロキがベルの前に姿を現すことはなかっただろう。

 

 自ら動いて助けようと思うほど、ソーマと厚い繋がりがあるわけではないのだから。

 

「答えろ、お前は何者や!」

 

 沈黙するベルに、神威を叩き付けるロキ。

 

 その様子を見て、何かしら返答しなければ先に進まないと感じ取ったベルは溜息を一つ洩らしたあと、口を開いた。

 

「『俺が何者であるか、おまえが知ったところで意味は無い』」

 

「意味があるとか無いとかどうでもええから、さっさと答えろ……」

 

 唸る、神言。増幅する、神威。

 

「『…………俺が何者であるかは、ギリシャの神々が知っている』」

 

「なんやと?」

 

 それ以上は語れないと告げるように、ベルは首を振った。

 

(……ドチビらが、知っとるやって……そんなん、思い当たるのは一つしかないやろ……)

 

 特級の秘密(パンドラの箱)

 

 神々の間でまことしやかに囁かれる噂につけられた名称である。語られる内容は様々だが、どの噂でも共通している点が一つあった。それは、天界が統合する以前に、ギリシャの神々の間に何かが起こったということだ。他の神々には決して教えられない、何かが。

 

(……ホンマは今すぐにでも正体吐かせたいんやけど。……この様子じゃ、無理そうやな。あんま強引に聞きだそうとしたら、うちの首が胴とおさらばしてまう)

 

 眼前の少年が何者ではあるかは依然として不明なままだが、少なくともベルが二重人格である疑いは晴れた。

 

 これだけでも大きな前進だ。

 

「『話はこれだけか? 満足したというのなら、道を空けて貰おうか』」

 

「あー……すまんけど、それは出来ひんのや」

 

「『なに?』」

 

 収まっていた殺意が、再びその身から溢れ出す。

 

 無意味な問答に時間を費やされた挙げ句、当初の約束を反故にされたのだから、ベルが怒るのも無理はなかった。

 

「『話が終われば、通してくれるという話ではなかったか?』」

 

「それは勘違いや。うちはお話しようって言うただけで、通すなんて言った覚えはないで」

 

 記憶を遡る限り、確かにロキは「通す」と口にしてはいなかった。

 

「『……立ち塞がるというのならば、おまえは俺の敵ということになるが』」

 

 そう言って鞘に収めていた二刀を再び握ろうとするベルを見たロキは、両手を挙げて「降参! 降参! うちらに戦う意思は一セルチも無い!」と叫んだ。それも涙ぐみ、情けない表情を浮かべて。

 

「『どういうつもりだ……』」

 

「んなら話、聞いてくれる? うちを殺さないって約束してくれる? でないと、赤ちゃんもドン引きするぐらい、みっともなく泣き喚くで」

 

「『……わかった、話を聞こう。だからそのわざとらしい演技を止めろ』」

 

 面倒臭そうな表情を浮かべながら、ベルは言った。

 

 途端、言質を取ったと言わんばかりにロキは態度を一変させて、大人しくなった。

 

「まず、うちらが通せんぼうしとるのにはちゃんとした訳がある。何も意地悪したいわけないんよ」

 

「『……聞こう』」

 

「ソーマの奴を思いっきし説教しまくって、自分が何やらかしとるのかを理解させた。口約束なんて軽いモンやないで、しっかり誓約書を書かせた。『神血(イコル)』の拇印も押してある。ほれ、見てみ」

 

 ベルに近づきロキが差し出してきたのは、一枚の誓約書だった。

 

「『……』」

 

 そこには、『神酒(ソーマ)』の製造を永久的に禁止する旨。団員内に不和を生じさせていた原因である目標(ノルマ)の撤廃に関する旨。主神として団員との積極的な交流を行う旨などが記載されていた。

 

「それだけやない。数日後にはギルドの厳しい厳しい監査が入る予定や。違反行為したわけやないけど、元々【ソーマ・ファミリア】の素行は問題視されててな。遂にギルドも重い腰を上げたってわけや」

 

 あとはうちが言わなくても分かるやろ? とロキが耳元で囁く。

 

「『俺の行動に益はない、か……』」

 

「それどころか、害を及ぼすだけや。そんなん本意や無いやろ、自分も」

 

「『……ふん、上手く立ち回ったものだな。流石は狡猾なる女神(ロプトル)といったところか』」

 

「やめてぇや。そんなに褒められたら照れてまうやろ」

 

 口が減らない女神が、とベルは吐き捨てるように言って身を翻した。

 

「『今回はおまえの奔走に免じて、ソーマは見逃してやろう』」

 

 だが。

 

 ベルは顔だけ振り向かせて、言った。

 

「『もしも奴が改心していないと分かれば、今度こそ俺は俺の役目を実行する』」

 

 刀のように鋭利な視線が、ロキの瞳を射貫いた。

 

「『では、俺はこれで失礼する』」

 

 今度こそ、交わす言葉は無いとベルはロキから視線を切り外へ向かって歩き出す。

 

 コツ、コツ、コツ、と地面を叩く靴の冷たい音色が響くたびに彼我の距離が離れていく中で。

 

「…………なぁ。どっちが、本当のベル・クラネルなんや?」

 

そう訊ねずにはいられなかったロキに、ベルは去り際、こう答えた。

 

「『それを見定めるのが(おまえ)の役目だ、道化の神(トリックスター)』」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ、もう! 何やねん! 一つ問題解決したら、また新しい問題が湧いてきおるやんか! どうないせいっちゅうねん! アイズたんと一緒に征くなら、そうせいや! なんで、変なモンに操られとんねん! 何がどうなっとるっちゅうんや!」

 

「ったく、あいつが去ったら直ぐこれかよ。ぎゃーぎゃー喚くのは本拠(うち)に帰ってからにしろよロキ。ここじゃ近所迷惑だ」

 

「うっさいわ、ボケ! バカ! アホ! うちが何したっていうねん! 毎日慎ましく生き取る善神をこんなに酷使するなんて、おかしいやろぉおおおおおお! うわぁああああああああん!」

 

 我が子の背に泣きながら飛び乗ったロキ。

 

「はぁ……しょうがねえ、神様だぜ全く。……ほら、とっと帰るぞ」

 

「最近のベート、優しくて好きや……」

 

「………………気のせいだろ」

 

 満天の星のもと、道化の神と凶い狼がゆっくりと黄昏の館へ帰っていくのを、三日月が愉快そうに見守っていた。

 

 

 

 

 二章 十二時に鳴り響く、白銀の鐘音 閉演



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