勇者パーティーをクビにされた村人♂、女騎士になる (主(ぬし))
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1話

自粛期間ということで、なろう小説原作の「勇者パーティーを追い出されたので~」というシリーズの漫画を読んでいたところ、「なにこれ!TSが入ってないやん!」と憤慨したので、勢いで書きました。お許しください。


「お願いだ。僕を支えてくれ、クリス」

「ああ、ハント。お前が立派な勇者になれるように、俺がどこまでも付き合ってやる」

 

 

 

 

 俺たちは、同じ村の出身だった。俺が15歳、ハントが14歳の時、偶然にも村を訪れた高位神官が、夕食のたわむれに俺たちに神託と呼ばれるクラス判定を授けた。神聖書のまっさらなページに運命の言葉が浮き上がる。その結果に、神官は酒酔いも吹き飛んで驚愕した。

 

 

───この者こそ、今代の勇者の片翼なり。汝、女の勇者を捜すべし。さすれば魔王を打倒せしめよう。

 

 

 なんと、ハントが伝説の『勇者』のクラスを運命づけられていることがわかったのだ。百年に一人現れるか現れないかという、魔族を圧倒する人類最強のクラス。おとぎ話でしか聞いたことのない伝説の存在だ。

 しかも、もうひとりの“女勇者”と力を合わせれば、1000年間も倒せていない魔王すら倒す可能性を秘めているという。山奥の小さな村は狂ったように湧き立った。14歳の少年を胴上げし、村の誇りだと褒めたたえた。

 ……そう、ハントだけ。

 

「そなたのクラスは、ただの『大工の村人』じゃ」

 

 拍子抜けだ。そんなもの、わざわざクラス判定をされなくてもわかっている。俺の家系は代々大工だったのだから。

 俺は村に一人しかいない大工職人だ。俺を残して死んだ父親も同じ大工だった。親父は大工仕事の最中に事故で死んだ。爺さんも村に一つしか無い大水車の修理中に死んだらしいし、ひい爺さんは橋を作ってる最中に川に落っこちて溺れ死んだという。村のために死んだも同然だが、ポツンと小さな墓を見ればとてもじゃないが英雄扱いとは呼べない。貧しい村だから誰かを特別扱いすることが出来なかったのだとしても、15歳の子供を修理だなんだと昼夜関わらず顎でこき使うのは理不尽に過ぎる。こんな村、機会さえあれば出ていきたいと思っていた。

 でも、選ばれたのはハント一人だった。熱狂する村人の渦から弾き出され、俺はいじけそうになった。俺と同じような境遇のハントとは幼馴染でもあり、歳が一歳下ということで弟のようにも思っていたからだ。いつも俺の後ろについて回っていたハントが持て囃されていることに嫉妬まで抱いてしまった。

 

「クリス、こんなところにいたのか!僕を一人にしないでくれ!」

「ハント……」

 

 そんな俺に手を差し伸べたのは、ハントだった。いや、今思えば、逆に手を差し伸ばして欲しかったのだろう。アイツは迷子のような表情で、俺を勇者パーティーの最初の一人に選んだ。突然、お前は勇者だと言われて一番混乱していたのは、ハント自身だったのだ。

 アイツはまだ子供だった。そして、俺は兄貴であり、家族も同然だった。導いてくれる、支えてくれる者を欲していた。俺は頼られたことが嬉しかった。兄貴分として、ハントをどこまでも支えてやろうと心に誓った。

 

 

 

「クリス、アンタもうこのパーティーに必要ないわよ」

「ああ。足手まといはおとなしく田舎に帰っちまいな。貴殿もそう思うよな、勇者ハント殿」

 

 

 

 あざ笑う二人の声が遠くに聞こえた気がした。

 二人は、まだ見ぬ女勇者を捜す旅の途中で仲間になった魔法使いと武闘家だった。二人とも己のクラスを使いこなしていて、若くて腕が立ち、戦いのセンスは王国騎士の精鋭なみだった。『勇者』であるハントと同じパーティーに入れば、より多くの魔族を倒し、勇者の片割れを見つけた末には人類の宿敵である魔王をも打倒できると考えて合流してくれたのだ。

 事実、俺たちは数あるパーティーのなかでも最強と言っても差し支えない実力を身に着けていた。魔王軍に攻められて劣勢の極みだった騎士団に加勢し、全滅寸前の様相から一気に逆転に導いたこともあった。魔王軍四天王の一人を相手にして、倒すまでにはいかないまでも撃退することもできた。そんなことが出来た人間は今までいなかった。

 村を飛び出して4年。パーティーが増えて1年。パーティーは順調に経験値とレベルを上げていった。今は別行動をしている女神官が加わってからは向かうところ敵無し、飛ぶ鳥を落とす勢いで名を挙げていった。

 ……やはり、俺を除いて。

 当然だ。クラス『村人』の俺は、本来戦いには向いていない。持って生まれた自分のクラスと違うことをしていても、レベルはなかなか上がらなかった。次第に他のパーティーメンバーとの間には歴然とした力の差が生まれていった。仲間が平気で倒せる魔族にも苦戦し、疲れを知らずに突き進む仲間たちについていくことが出来ずにパーティー全体の行動を遅延させてしまうことも多くなった。最初は歩調を合わせたり慰めてくれていた魔法使いや武闘家も、次第に俺を捨て置いて先に進むようになった。

 唯一、神官は俺のことを気づかってくれていたが、彼女はあくまで王立教会に所属する立場上、常にパーティーと一緒に行動できない。俺は足手まといになっていくばかりだった。それも、仕方がないことだと弁えた。力不足であることは自分でも痛いほど理解していた。だからこそ、他のメンバーが出来ないことを懸命にやった。薬草などの補給品の管理調達、武器防具の入手や手入れ、旅に必要な物資や移動手段の手配、関係者との協議や折衝。俺が出来ることはなんでもやった。何日徹夜することになろうと、不摂生がたたって血反吐を吐こうと、俺は支え続けた。すべては、ハントとの約束を果たすために。

 

 

「僕も……そう、思う」

 

 

 だからこそ、ハントの漏らしたその呟きを信じることが出来なかった。今までやってきたこと全てを否定されたのだ。

 目の前が真っ暗になり、気が付けば、俺は一人でフラフラと夜の森を彷徨っていた。アイテムも装備も全て置いてきた。魔法使いから「アンタには過ぎた装備よ」と言われ、放心する俺は反論する気力もなく黙ってその場を後にしたのだ。ハントが引き留めてくれることを願ったが、ついぞ望む声が俺の背中に掛けられることはなかった。降り始めた豪雨が責め苦のように肩を叩きつける。

 

(どうしてだ、ハント?)

 

 心中のハントに問いかけるが、黙するばかりで答えは返ってこない。たしかに、最近のハントは俺と話すことを避けるようになっていた。俺も、人数が増えて忙しくなっていくパーティーの活動を支えるために奔走するなかでハントとまともに会話をする余裕もなくなっていた。魔法使いも武闘家も我が強く、間を取り持つための気苦労は耐えなかった。そんな俺に対し、以前はハントも「手伝えることはないか」と声をかけてきてくれた。

 だが、魔法使いと武闘家とともに行動することが多くなるにつれて、俺たちの間には距離感のようなものが生まれてきた。それでも、それは一時的なものに過ぎないと俺は過小評価していた。俺も死に物狂いで頑張っている。そんな俺のことを、みんなも、なによりハントも認めてくれているのだと自負していた。それが勘違いだったのだと、今日初めてわかった。ハントが時おり見せる申し訳無さそうな表情も、今思えば憐れみのそれだったのか。

 地面を踏みしめる感触すら遠くに感じる。まるで地面そのものがないような───

 

「しまった!」

 

 後悔したときには遅い。パーティーメンバーとの関係も、崖から転げ落ちたときも。松明すら持たずに真夜中の森を歩き進むなど自殺行為だったのだ。雨でぬかるんだ地面に足を滑らせても、自業自得だ。

 滑り台のような崖の斜面を転がり落ちていきながら頭の片隅では冷たい後悔が募っていた。

 

「……あ、脚が……!」

 

 ふうふうと肩で息をして激痛をなんとか制御しながら自身の状況を分析する。長ズボン(ブレー)に包まれた右足の膝から出血していた。小刻みに震える指でめくりあげてみると、スネの骨が膝から飛び出している。

 

「うぐっ!?」

 

 黄色がかった肉がこびりついた骨を指先で触った途端に激痛が走る。だが、これだけで済んだことが奇跡的だ。代々、大工家系として受け継がれてきた頑健な肉体がなければ、とっくに死んでいただろう。反射的に身体を丸めて落ちたことが幸いした。それに運もよかった。裂傷や打撲や捻挫ばかりだが、骨が折れたのは片足だけだ。

 惜しむらくは、運をここで使い果たしてしまったことか。

 

「登るのは……無理そうだな」

 

 見上げてみると、流れる雲間に垣間見える星がとても遠くに見えた。かなり下に落ちたらしい。たとえ五体満足の状態でも登攀するのは不可能だ。「森のなかには“死の谷”がある。落ちたら二度と上がってこれない」と近くの村で聞いたが、失念してしまっていた。

 よく生き残れたものだと神に感謝しかけたが、どんな御意思で俺を生き残らせたのかその大意を図りかね、祈りの手を止めた。勇者パーティーをクビにされた人間に、神がなにを望むというのか。

 

「ん?洞窟、か?」

 

 暗闇に目が慣れてきたところで、目の前に洞窟が口を開けていることが分かった。高さ、横幅ともにせいぜい俺の身長二人分くらいだが、やけに綺麗にくり貫かれていることが気になった。まるで熱したバターナイフでバターを削り取るように滑らかな壁面はいかにも人工的だ。

 

(まさか、洞窟自体が人工物なのか?)

 

 しかもこんな谷の底に。そんなもの聞いたことがない。元大工という技術者としての興味が頭をもたげた。それに、負傷したままこんなところにいては、狼といった野生動物や魔族の餌になってしまう。この雨を凌がないと凍え死ぬことにもなる。洞窟のなかの様子を耳をすませて窺ってみるが、物音ひとつしなかった。ひとまず安心すると、折れた足を固定するために手早く応急処置を施す。「魔力の無駄だから」といって俺には回復魔法を施してくれようとしなかった魔法使いのせいでこういった医療の技術を身につけることができたのは、感謝するべきかしないべきか。

 複雑な気持ちと足を引きずりながら、俺は残された寿命を少しでも伸ばそうと、外敵から身を隠すために洞窟の奥へと進んでいった。

 

「……こ、これは……」

 

 なんて奇妙な巡りあわせなのだろう。目の前に突き立つものを前にして、俺は痛みも忘れて陶然とそれに魅入っていた。

 洞窟は奥に行けば行くほどより精緻にくり貫かれ、人間の手によるものとは思えないほど精確無比に整えられていた。どのような理屈によるものなのか、壁を埋め尽くす不可思議な苔はエメラルドグリーンの光を煌々と放ち、まるでオーロラが空気中に溶け込んでいるように明るい。音一つしない空間で、ひんやりとした大気は清浄極まり、肺の隅々まで浄化してくれそうだ。

 そんな神世のごとき場所にあって、それに負けじと神々しい迫力と気品を放ち台座に切っ先を突き立てている剣は、誰であっても言葉を失わずにはいられないほどの神秘的なオーラを纏っていた。

 

「古代文字、か」

 

 剣が突き立つ花崗岩の台座には、数百年も前に使われなくなった古代文字が刻まれていた。伝説の武具が眠るという遺跡に入るために懸命に勉強した甲斐が報われ、俺はそれを難なく読むことが出来た。

 

「“女騎士の剣、ここに眠らせる(・・・・)。神のお戯れと精霊の加護を受けた、不可思議にして世界最強の剣なり。次に此れを握る者よ、汝の新たなる行く末にどうか幸あらんことを”」

 

 眠らせる(・・・・)

 まるで封印するような言い回しに疑問が浮かぶが、古代文字に対する勉強不足のせいだろう。とにかく、この剣の出自を少しではあるが知ることが出来た。この世には神によって創られた武具がある。人類はその伝説の武具を喉から手が出るほど欲していたが、王家に伝わっているという伝説の鎧兜以外に見つかったという話は聞いたことがない。

 だが、ここにあったのだ。古代文字の文面から察するに、かつて女騎士の手にあったのだろう。この洞窟の見事さからして、高名な女騎士が振るっていたに違いない。次にこの剣を振るう者のために、この人知れない洞窟に安置したのだろう。さぞや高潔な魂の持ち主だったろう女騎士の姿を想像しようとする。

 

「それにしても……美しいな」

 

 神剣のあまりの美麗さに痛覚は完全に吹き飛んでいた。

 柄頭にはめ込まれた宝石の美しさはダイヤモンドを遥かに超え、まるで凝縮した天の川を内包しているかのような渦巻く輝きを秘めている。握り(グリップ)の部分に使われている革は、数百年が経過しているだろうにさっき創られたばかりのように新品同然だ。もしや絶対に劣化しないというドラゴンの革なのか。鍔には目を細めなければ見えないほど精緻な紋様が完璧な左右対称を為して刻まれている。王家御用達の職人でもここまで見事な細工は出来まい。

 だが、それらを合しても剣身(ブレード)の完成度には敵うまい。

 いったい、どれほどの精錬を行えばこの域に達するのか。考えられないほど薄いブレードは向こう側が透けそうなのに、固い花崗岩に深々と突き立つ様相は強靭そのものだ。俺の技術者としての目は、これが間違いなく神の御業の賜であると断言していた。どれほど高温の炉があろうと、どれほど高品質の石灰石があろうと、人間には創れまい。これが伝説の神の鋼(ミスリル)なのか。

 歪みも刃こぼれも一切存在しないブレードに顔を近づければ、泉の水面のように俺の顔をそこに映し出す。今までの過労の祟ったしゃれこうべのような顔貌は怪我と泥で汚れて見れたものではない。目の前の神剣の美しさと比べるべくもない酷さに、思わず鬱屈した笑みが浮かんだ。

 

「俺がハントだったら……伝説の勇者だったら、きっとお前を手にとって振るってやれたんだけどな。でも、ここにいるのは『大工の村人』なんだ。しかも、死にかけの。とてもお前に相応しいものじゃない。ごめんな」

 

 俺はこの谷底で死ぬのだろう。そしてこの剣は再びこの地で眠り続けることになる。そのことに言いようもない情けなさを覚え、剣の前に膝をついてぎゅっと目を瞑った。それをきっかけに、無念の感情が溢れてくる。

 悔しかった。あんなに尽くしたのに、あんなに努力したのに、あんなに頑張ったのに、クラス適性が無いというだけで切り捨てられるなんて、あんまりじゃないか。ポロポロと涙が溢れてくる。大の男が泣くなんて、俺はどこまで情けないんだ。

 

「ここから出よう。こんなところに俺の死体があるべきじゃない」

 

 この剣を握るべき者は他にいる。この神聖な空間は居心地がいいけれど、俺なんかが野垂れ死んで穢すべきではない。

 服の袖で涙を拭い、立ち上がろうとしてズキリとした激痛に呻く。足が折れていたことを忘れていた。支えになるものを探し、自然な帰結として眼前の剣のグリップを握る。

 

「ん?」

 

 奇妙なほど温かった。手のひらを介して心地よい“熱”が流れ込んでくるようだった。“熱”は瞬時に四肢の末端まで行き渡り、肉体が火照りだす。

 その感覚に戸惑い、ふっと視線をブレードの鏡に転じて、

 

 

女騎士がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───ハッ!?」

 

 ガバッと勢いよく半身を持ち上げる。視界いっぱいに拡がるエメラルドグリーンの世界に圧倒されること数秒、自分が置かれた状況とここに至るまでの境遇が瞬時に記憶の表層に呼び起こされる。

 勇者パーティーをクビにされ、ショックで放浪して谷底に落ちて、洞窟で神剣を見つけて……その後、どうやら気絶していたらしい。立ち上がろうとした瞬間、折れた足の激痛によろめいて剣を握ったところまでは覚えている。

 そう、この手に握っている神剣を。

 

「倒れたときに引き抜いてしまったのか。申し訳ないことをした」

 

 ぎゅっと握って、手のひらに吸い付くような革のグリップの感触を確かめる。花崗岩に埋まっていてわからなかったが、剣身は想像よりずっと長かった。しかし、剣そのものの重さは羽のようだ。左右に振るってみれば、重心は寸分の誤差もなく中心にあることがわかる。これを手に出来る武芸者は世界一の幸せ者だ。

 さあ、いつまでも俺なんかが手にしていていいものではない。不相応な者の手にあるべきじゃない。女騎士に罰をあてられる前に、早々に台座に返さなくては。俺は諦観の息を吐くと、ひょいといつもの動作で立ち上がる。

 ───二本の足で(・・・・・)

 

「あ、あれ?足が、治ってる!?な、なぜだ!?」

 

 一拍置いて、自身に起きたことに気がついてギョッとして飛び上がる。たしかに右足の脛がポッキリと折れていたはずだ。しかし、今は痛みも無ければ負傷による制限も感じられない。むしろ何故か以前よりも肉体が軽い。視界が少し低くなった気もしたが、足元に感じる涼しさの方が気になった。着古したブレーを穿いていたはずなのに、今は太ももまで剥き出しであるかのようにスースーする。

 反射的に怪我をしていた足に触れようと手を伸ばす。

 

「うぎゅっ!?む、胸が邪魔だ!なんだこれは!?」

 

 腰を曲げようとしたところで胸と太ももの間にクッションのようなものが挟まれていることに気付いた。ふにゅふにゅとした弾力のあるものが2つある。今度はそちらに触れようとして、ガツッと硬い感触が指先に走る。いつの間にか、俺は金属の鎧を身にまとっていた。胸部にある膨らみを群青色の鎧が守っている。全身ではなく急所の部分のみを覆う軽鎧のようだ。身につけていることなどわからないほどに軽いが、触ってみるとどんな金属より頑丈そうだ。

 

「う、腕にも鎧が……!?」

 

 軽すぎてわからなかったが、拳を覆う籠手(ガントレット)まで装備していた。表面に刻み込まれた紋様の意匠は神剣そっくりだ。もしや、これもミスリル製なのか。だとすれば物凄い価値になる。

 ただ、いつの間に装着したのか、オレにはまったく記憶がない。

 

「む?こ、声がおかしい。声まで軽いぞ。鳥みたいだ」

 

 あー、アー、あ~。

 音程を高くしたり低くしたりしてみる。どの音域も俺が出せるようなものじゃない。遠くまでよく通る、まるで女の声だ。小娘のように高すぎず、どこか威厳を感じさせるハスキーな女の声。気絶した拍子に喉を打って喉仏を潰してしまったのか。喉仏を確かめようと顎の下をまさぐってみる。そこには何もなく、すべすべとした細い首があるだけだ。薄くて瑞々しい皮膚の感触は自分のものとは思えない。

 混乱に拍車がかかり、目眩を覚える。肉体の重心がいつもと違う。肉付きというレベルではなく、骨格から変わってしまったかのようだ。尻が大きくなったというより、骨盤そのものが広がっているような。わけがわからない。頭を抱え込もうと、剣を握っていない方の手で髪をクシャリと掻く。

 

「わあっ!?髪が長くなってる!?」

 

 洞窟内に可憐な女の声が反響する。それが自分が発した声だということは理解できるが、到底納得できない。髪の先端を辿ってみると腰の後ろまで達していた。指先でつまんで眼前に持ち上げると、夕暮れ時の小麦畑のように眩い黄金色だった。俺は短くてボサボサの黒髪だったはずなのに、これはまるで極上の絹のような手触りだ。

 髪を翻したことで漂ったのだろう艷やかな色香は花のように甘ったるくて、自分の体臭のはずなのに心臓が高鳴ってドギマギする。女の匂いだ、とやけに鋭い嗅覚が訴える。どうして自分から女の体臭がするのか。

 

 

───女騎士の剣、ここに眠らせる(・・・・)

───神のお戯れ(・・・)

───不可思議(・・・・)にして世界最強の剣なり。

 

 

「………まさか、嘘だろう?」

 

 低くなった視界。軽くなった身体。胸部にある膨らみ。広がった骨盤。長くなった髪。細い首。柔らかく瑞々しい肌。高くなった声。

 変化した肉体の特徴を考えれば、行き着く答えは一つしか思い浮かばない。嫌な予感にゾワゾワと背筋が総毛立つ。答えを確かめるため、おそるおそる剣を持ち上げる。

 磨き抜かれたブレードを鏡代わりに目の前に掲げ、片目だけでそーっと覗き込み、

 

 

 

 

女騎士がいた。

「くっ殺~~~~!!??」という叫びが洞窟内に響いた。




TS小説初心者です。よろしくお願いします。


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2話

初心に戻って書いてるから実質初心者。


「クリスを追い出したって……貴方たち、正気なの!?」

 

 頭上に広げられた雨よけのタープがビリビリと震え、握り締めた私の両手も怒りにわなわなと震える。自分の顔が真っ赤に燃えていることを自覚しながら、私は3人に詰め寄る。武闘家と魔法使いが気まずそうに顔を逸らす様子にも苛立ったが、それよりなにより私の怒りに油を注いだのは彼らを率いるリーダーのはずの勇者の態度だった。

 

「……クリスは、限界だった。リン、君だってわかってただろ。レベルの差も開く一方だった。僕らに着いてくるだけで精一杯だったんだ。このままだとクリスは死んでしまう。そんなのは嫌だ。だから……」

「それはパーティーを自発的に出ていくように仕向けたことの言い訳になりはしないわ。自分も納得させられない答えなんかその辺の犬っころにでも食べさせなさい。クリスがどれだけこのパーティーのために頑張っていたか、貢献していたか、知らないなんて言わせない」

 

 こんな辛辣な言い草、懇意にしている王立教会の神父が聞いたら卒倒するかもしれない。とても高位神官のセリフではないだろう。でも、言わずにはいられなかった。

 事前に示し合わせていた森中の合流地点に来てみれば、一番会うのを楽しみにしていたクリスがいなかった。その理由を尋ねてみると、3人とも言いにくそうに目を泳がせるばかり。嫌な予感がして問い詰めれば、このザマだ。武闘家と魔法使いがクリスをよく思っていないことはわかっていた。この二人は自分の力を過信して増長している節がある。たしかに、二人ともまだ10代でありながらその実力はかなりのものだ。だから、自分が一人でなんでも出来て、まるで不死身であるかのように振る舞っている。自分たちと同じように戦えないクリスを厄介者としか見ていない。でも、ハントだけはそうではないと信じていた。幼馴染みであり、クリスとは兄弟のような間柄であるハントならクリスのことを理解し、クリスがいてくれるからこそこのパーティーが成り立っていることを自覚していると信頼していた。だけど、それは間違いだった。燃え盛る怒りの感情が冷たい失望へと移ろっていく。その変化を感じ取ったのだろうハントの奥歯がギリッと音を立てた。

 

「じゃ、じゃあ、どう言えばよかったんだよ!“お前は僕らについて行けないから故郷の村に帰ってくれ”って、クリスに言えばよかったのか!」

「そうよ」

 

 私の断言にハントが目を見開き、後ずさる。全然、駄目だ。ハントはたしかに強い。歴代勇者と比べても、おそらく5本の指に入るほど天賦の戦闘力を誇っている。メキメキと強くなり、どこまでも成長する潜在能力は天井知らずだ。でも、内面が成長できていない。最強の勇者だなんだと周囲から持て囃されても、どんなに肉体が強くなっても、ステータスが上がっても、スキルが増えても、彼の心は幼いままだ。それも当然かも知れない。まだ見ぬ女勇者に出会った時、ハントが力不足では格好がつかないからと、戦いだけに集中できるようにクリスが面倒なことを一手に引き受けてくれていたからだ。ハントは気づかないままクリスに依存しきっていた。それこそ、ハントにその自覚がないほどに。他人に対してそこまで献身的になれるクリスの方が、よっぽど勇者らしいと思える。そんなクリスを私は尊敬していた。

 

「そう伝えるべきだったのよ。クリスは、他でもない貴方がそう言ったならきっと理解してくれたわ。でも、貴方にはそれを告げる勇気がなかった。勇気がないことを誤魔化して、遠回しな言い方でクリスを追い出した。貴方の求めに応じて貴方を支え続けてくれた大事な人を、裏切ったのよ」

 

 この、意気地なし。言外に強く滲ませた非難を察したハントが後悔に深く俯く。おおかた、魔法使いと武闘家の口車に乗せられたのだろう。いや、自ら乗ったというべきか。自分でクリスにパーティーを抜けるよう告げる度胸がなかったから、クリスが自分で出ていくように仕向けた。たとえ無自覚にそれを行ったのだとしても、許されることじゃない。それはとてもとても卑怯なことだ。

 

「しかも、たった一人で装備もなしに森に入らせるなんて、どうかしてる。早く見つけないと。村の近くだからって魔物が出没する危険がないわけじゃないんだから」

「……悪かったと思ってるよ。だからこうして、彼女に魔法で探してもらってるんじゃないか」

 

 ハントが魔法使いをすがるような目で見る。頼られた魔法使いは、空中に浮遊しながらうっすら光を放つ水晶玉を覗き込んでいた。探したい対象の血液に溶け込んだ魔力の流れを追跡する捜索魔法だ。道端に落ちた血痕に残る微弱な魔力からでも対象を追跡できるという高難易度の魔法だが、彼女には造作もないことだ。弱冠16歳にして王国最高学府の王立魔法学院を史上最年少飛び級主席で卒業したという天才魔法使いは、私たちの会話に我関せずという態度で保身を図りながら水晶玉をいじっていた。その不誠実な態度に苛立ちが募るけど、そこは腐っても主席であって、彼女の捜索魔法は精度も範囲もピカイチだ。すぐにクリスを見つけ出してくれるという確信があった。

 

「クリスが見つかったらすぐに連れて帰りなさい。そして謝るのよ」

 

 有無を言わさない私の言葉に銘々憮然とした沈黙を返す。知ったことじゃない。3人には土下座する勢いでクリスに謝罪させてパーティーに戻ってもらうつもりだ。このパーティーには、クリス自身が考えている以上に彼が必要不可欠なのだ。我の強いメンバーをまとめながら組織だった行動を可能にできるのは、一番の年長者であるクリスの献身あってこそ。私と同い年でありながら、彼は私よりずっと成熟していた。何事にも全力で取り組む彼の姿勢と考え方に触れて、私も大きく変わることが出来た。彼は人類の救世主たるこの勇者パーティーの屋台骨なのだ。彼がいなければ、このパーティーは……ううん、私は───。

 

「うそ」

 

 魔法使いの横顔からザアッと血の気が引いた。冷淡だったそれがガラリと変転し、衝撃と後悔が顔面を埋め尽くす。常日頃に彼女が見せない蒼白な顔を見て、クリスに恐ろしいことが起きたのだとその場の全員が瞬時に察した。魔法使いのところまで歩み寄り、漂白されたように白いその顔にぐいと顔を近づける。

 

「クリスを見つけたのね。何が見えたの?」

「あ、あの、わ、私は悪くないわ。私はただ、クリスに事実を指摘してあげただけで、」

「そんな話はしていないわ。何が見えたかを聞いているのよ」

 

 頭でっかちめのガキンチョめ。頭のてっぺんを杖で小突いてやりたい衝動を抑え、努めて冷静に問い掛ける。自分の感情を表に出しても相手を混乱させるだけだ。それは、自制心に富んだクリスなら難なく出来ることで、未熟なハントには出来ないことだった。目を見開いたハントが見るからに狼狽して魔法使いの肩に掴みかかる。

 

「いいから早く教えろよ!クリスはどこに行ったんだ!」

「お、おい、ハント殿」

「お前は黙ってろ!僕はクリスを探しにいかなくちゃいけないんだ!」

 

 体格ではハントより二回りも上回る武闘家が迫力に気圧され、後ずさった。とても勇者とは呼べない醜態を晒すハントに、私も呆気にとられて思考が声にならない。ハントの目が再び魔法使いを射抜く。途端、この場で最年少の魔法使いが「ひっ」と身を竦めた。ハントの表情は今にも爆発しそうなほど切羽詰まっていて、感情のバランスを少しでも崩したら何をしでかすかわからない危なかっしさを見て取れた。これが子供なら怖くもないが、人類最強の『勇者』がこうなっては恐ろしさしかない。常の高慢さが見る影もない魔法使いの表情が恐怖に引きつっている。

 

「て、手前で、クリスの痕跡を追えなくなったの。そこから先は深すぎて、私の魔法でも、」

「どこだ!どこの手前だ!?」

 

 恐怖に涙すら浮かべる魔法使いが唇を震わせる。言うか言わまいか悩み、言わなければ何をされるかわからないと屈し、辿々しく応える。

 

「とっても深い、谷───」

 

 私の身体能力では止められない。だから、止められる人間を使う。

 

「ハントを押さえてッ!!」

「お、おうッ!」

 

 この時ばかりは武闘家の獣じみた反射神経に心から感謝した。一瞬で全ての表情が抜け落ちたハントが神速で駆け出すと同時に武闘家が飛び掛かる。強烈なタックルを腰で受けとめたハントがもんどり打って倒れ込み、雨でぬかるんだ泥が派手に跳ね散る。体格で倍する武闘家に羽交い締めにされたらさすがの勇者も身動きは取れない───なんてわけはない。

 

「……ハント、自分が何をしているかわかってる?」

 

 いつの間に鞘から抜いたのか、まったく見えなかった。人間を超えた俊敏さで抜刀された鋼の剣が、武闘家の眼前でピタリと静止していた。切っ先を映す武闘家の瞳孔が狭まり、恐怖に呼吸が止まる。武闘家の首がまだ胴体と繋がっているのは、ハントが自制心を発揮したおかげじゃない。私の杖がその身代わりになったからだ。

 カツン、と軽い金属音が空気を震わせる。神官用の杖の上半分だったものが転がり、ぺたりと尻餅をつく魔法使いのつま先にあたって止まった。ミスリルを人工的に再現した模造(デミ)ミスリル製とはいえ、高位神官の杖を鋼の剣で両断できるのは世界でもハント一人だろう。私が咄嗟に杖を差し出さなければ今頃死んでいた武闘家が、信じられないものを見る目をハントに向け、ゾッと蒼白になった。泥と闇夜にまみれた顔のなかでギラついた光を放つハントの目が強烈な殺気を放っていたからだ。

 

「邪魔を、するな。クリスを、助けに行くんだ」

「無駄よ。諦めなさい」

 

 殺意のこもった視線が私に転じる。それを受け止めた総身がざわざわと総毛立つ。なんて威圧感。味方の時はこれ以上ないほどに頼もしい勇者が、今はたまらなく恐ろしい。恐怖に怖気づきそうになるけど、気合で堪え抜く。クリスならこうしていた。どんな相手にも彼は毅然とした態度で立ち向かった。あの人は勇気のある人だったから。

 

「この森のなかにある谷は“還らずの谷”ただひとつ。どんなに明るい日でも谷底が見えない。どこまで深いか誰も知らない。落ちたら最後、誰も上がってこられない。1000年前に魔王を打倒した勇者すら上がってこられなかったという伝説があるほどの死の谷。この話、クリスからも聞いたんじゃない?行き先の下調べは必ずしてくれていたはずよ」

 

 図星だったのだろう。ハントの瞳がゆらりと感情に揺れた。クリスに頼りっきりで、この情報も聞き流していたのだろう。

 

「勇者ですら生きて帰ってこなかった谷底に落ちたのなら、クリスはきっともう死んでる。もし息があったとしても、助けることはできない。降りたら最後、貴方も上がってはこられない。それを看過するわけにはいかない。貴方は今代の勇者。人類のために魔物を倒し、魔王を滅するため、生きて戦わなくてはならない」

「……見捨てろっていうのか。そんなこと出来るわけないだろ。出来るはずがないだろ。アイツは僕のたった一人の家族なんだ。それに、君も本当はクリスを助けたいはずだ。見捨てることなんて出来ないはずだ。だって、リンはクリスのことを───」

貴方が殺したんだ(・・・・・・・・)!!!」

 

 私の豹変にハントがビクリと肩を跳ね上げる。でも、もう容赦はしてやらない。クリスはいなくなった。もう甘える相手はいない。それをわからせてやらないといけない。それがハントにとってどれだけ辛いことであっても、背負っていかなければいけないんだ。心を鬼にする覚悟を決めると、抑えることをやめた激情に従い、憤怒の眼差しで三人を睥睨する。

 

「貴方が殺したのよ。貴方たちが、彼を殺したのよ」

 

 今さら後悔に追いつかれたのだろう魔法使いと武闘家が真っ青になって地面に視線を落とす。後悔するくらいなら、どうして。そう叫んで怒りのまま死ぬまでぶん殴ってやりたい衝動を全身全霊の精神力で封じ込め、ふうふうと肩で息をしながらハントの目を射抜くように睨み付ける。

 

「見たこともない、どこにいるかもわからない女勇者にうつつを抜かす前に、貴方は身近にいる片翼こそを見るべきだった。貴方とずっと共にあった片翼を切り捨てたのは、他ならぬ貴方自身よ。その罪は絶対に消えることはない」

「ぁ……ぁぁ……」

「悲しみなさい。苦しみなさい。その何百倍もの無念を抱いたまま死んでしまったクリスの死に対して、全てをかけて償うのよ。安易な死を望む権利なんて貴方には微塵もありはしない。貴方のこれからの人生は贖罪に費やされなければならない。もう片方の女勇者とやらを見つけ、魔王を打倒するその時まで、貴方に安らぎは訪れないと知りなさい」

 

 プツン、と何かが切れる音がした。殺気が消えて、森に悲痛な叫びが響いた。ハントの絶叫が夜の森を突き抜ける。頭を爪で掻き乱し、喉を枯らせて、泥の大地に爪を立てて、最強の勇者が癇癪を起こした子どものように泣き叫ぶ。誰もそれを止めようとしない。慰めようともしない。降りしきる雨がいつもより何倍も冷たい。厚い雨衣(ローブ)を着ているのに冷気が心の内側にまで染み込んでくる。クリスとお揃いのローブ。ポッカリと空洞が空いた心がとてつもなく寒い。血の滲む叫びを聞きながら、曇天を見上げ、雨粒に顔を晒す。泣きたいのはこっちだ。

 

(……私の、初恋だったのに)

 

 世間知らずで高慢ちきだった私に、真正面から向き合ってくれた初めての人。なんにも出来ないくせになんでも出来て、なんにも知らないくせになんでも知ってる。『村人』というクラスのハンデを努力で補ってきた、一生懸命ながんばり屋。彼に負けじと私も努力して、努力することの楽しさを知った。『神官』という優秀なクラスのステータスに甘んじることを良しとしなくなり、己を磨き、世のため人のために力を尽くすことの大切さを私に教えてくれた。まったく。彼が勇者だったなら、どんなに救われたことか。神様も意地悪なことをする。

 涙なのか雨なのかもわからない雫が頬を伝い落ちる。泣き言ばかり言っていられない。クリスがいなくなった代わりを誰かがしなくちゃいけない。魔王軍は活発化していて、勇者の戦力はどこも引く手あまただ。こんなところでのんびり傷心を癒やしている暇はない。王立教会のきな臭い動きが気になっていたけれど、しばらくこのパーティーから離れられそうになくなった。直属の神父にはなんて言えばいいのだろう。ああ、クリス。貴方がいてくれたならどんなによかったか。貴方もいけないのよ。自分自身を過小評価しすぎて、その価値を誇ることをしなかった。パーティーに己の重要性を知らしめていたなら、こんなことにはならなかった。貴方ほど必要とされる村人なんて、他にいないというのに。でも、きっとクリスはそんなことはしなかったに違いない。謙虚なあの人は、自分の功績をひけらかす暇があったら誰かを助けるべきだときっぱり言い切るに違いない。そういう人なのだ。だから、私は好きになったのだ。

 

「さようなら、私の大好きだった人」

 

 私の呟きは大地を打つ雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。私の耳にも。




初心者として頑張ります(執筆歴13年)


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3話

初投稿です


「くっころぉ……」

 

 真っ二つに割れた花崗岩の台座に力なく座り込み、オレは盛大な溜息を吐いた。どうしてか、漠然とした感情の発露の際になると「クッコロ」という台詞が勝手に口から出てくるのだ。どういう意味なのかはわからない。これもまた、神剣の呪い(・・)なのだろう。

 精神的ショックに押し潰されるようにぐったりと上半身を曲げて俯く。すると、どんどんどんどん身体が曲がり、広げた足の間に半身がぺたんと入り込んだ。まるで大きな手のひらに背中を押し付けられて、肉体を二つ折りに折りたたまれたようだ。以前の男だった頃とは比べ物にならないほど柔らかくなった己の身体に何度目かもわからない驚愕を覚え、そして何度目かもわからない溜息をつく。

 

「くっころぉ……」

 

 幼少時の栄養不足やパーティーを支えるための激務が祟ったせいで衰えるばかりだった肉体は、信じられないほど俊敏かつ柔軟になった。筋張った筋肉は油を挿していない鉄歯車のようにギシギシとした動きだったが、今では十全を超えた滑らかさを有している。

 

「身体能力のステータスも軒並み上がってるみたいだし、喜ぶべきなんだろうけど……」

 

 さっき試しに神剣を振るってみたら、剣先が触れてもいないのに余波だけで硬い花崗岩の台座がスパッと斬れてしまった。以前のオレには到底できない芸当だ。真に驚くべきことだが、剣速はハントのそれに匹敵する。肉体の身軽さと帯びている剣の優秀さを考慮すれば、ハントより速いかもしれない。他にも、少し飛び跳ねただけで天井に頭をぶつけるほどの身体能力。頭を派手にぶつけてもこれっぽっちも怪我をしない頑健さ。どれもこれも、人類最強のクラス『勇者』に勝るとも劣らないステータスだ。美しいほどの断面を晒す台座を指先で撫でて、複雑な感情に唇を歪める。曲がりなりにも喉から手が出るほど欲しかった力強さを手に入れることが出来たのだ。喜ぶべきなのだろう。なのだろうが。

 

これ(・・)がなぁ」

 

 地面と上半身の間に挟まれる二つのクッションに意識をやる。ふにゅふにゅと柔らかく、けれど柔らかすぎない弾力で押し返してくる女の乳房。胸部鎧(ブレストアーマー)の下に隠れているが、重量感はかなりのものだ。身長に比べて胸部の肉付きは豊かに思える。

 

「オレは着痩せするタイプなのか」

 

 ボソリと口にして、そのセリフのアホらしさに頭を振る。男のまま強くなりたかった。世の中、上手くはいかないものだ。

 ちなみに、まだ鎧は脱いでいない。自分とは言え、これほどの美少女の肌を見るのは無粋な気がして、抵抗があった。半身をのそりと起こし、神剣の鏡のようなブレードを覗き込む。訝しそうに見つめ返してくるのは、この上ない絶世の美少女だ。年かさは10代後半といったところか。輝くばかりの黄金色の長髪、純白の肌、血色のいい唇、蒼空のようなエメラルドブルーを湛える大きな瞳。切れ長の双眸を中心にして気品のある顔立ちが整えられていて、凛と光沢輝くコバルトブルーの鎧と衣服がさらにその気品を引き立てている。膝が見える短いスカートを穿いているのに、似合いすぎていて下品さは微塵もない。子供の幼さと大人の艶やかさを併せ持つ、成長期独特の色香を纏う美少女がそこに映っている。つまり、今のオレだ。

 どういう理屈かはわからないが、間違いなくこの神剣による効果だ。神々の戯れ。言い方を変えれば、ただのイタズラ(・・・・・・・)

 この世界の神は複数で、王立教会が推す『力と戦いと繁栄の(コリエル)神』と、それ以外の4柱の神が信じられている。大昔は5柱とも同じ扱いだったらしいが、王国の権力を背景にしてここ100年で強権を手に入れた王立教会によって今では国じゅうが一神教に染まっており、4柱を信仰する地域は稀になっている。各地を旅して歴史を学ばなければオレも神は一柱だけと思い込んでいた。なぜ王立教会が一神教にそこまで拘るのかについては、所属する神官もわからないとのことだった。しかし、今なら頷ける。たしか、4柱には『快楽と鋳造と悪戯の(チャーリ)神』がいた。その神による仕業だ。間違いない。絶対そうだ。戯れというレベルを超えて呪いじゃないか。こんな神を信じてたら、国中でとんでもないことが起きるに違いない。排除されたのも頷ける。神剣に映る少女が盛大な溜息を吐きだし、ブレードが白く曇る。

 

「……雨、やんだみたいだな」

 

 優れた聴覚が洞窟の外の変化をも正確に捉える。敏感な嗅覚が雨が止んだ後の土の匂いを感じ取る。洞窟の入り口まではかなり歩かなければいけないはずなのに。武闘家は野生動物のような察知能力を自慢していたが、今のオレの感覚器官は彼に肩を並べるほど鋭敏になっている。

 

「とにかく、行こう。いつまでもこんなところにいても、何も変わらない」

 

 ウジウジと悩むのはオレらしくない。むんっと気合を入れると、曲芸師のように身体のバネだけでひょいと飛び上がる。跳躍力がありすぎて天井すれすれまで近づいたところでくるりと一回転し、すたっとバランスを崩すこともなく見事に着地。ガチャンと鎧靴(ソルレット)が金属音を立て、一拍遅れてスカートがふわりと漂う。鍛え上げた強靭な靭帯がなければ出来ない動作を何気なく出来てしまったことに唖然とするも、人間というのは馴れる動物とはよく言ったもので、さっさと立ち直って歩を進める。

 

「この神剣の呪いは解けるのだろうか……おっと、そうだ。せっかく作ったんだから使わなくちゃな」

 

 抜身の剣を持ち歩くのは危険だ。鞘もセットで安置されていればよかったのだが、前の持ち主はあいにくとそこまでのサービス精神はなかったようだ。というわけで、この姿になる前の自分が羽織っていた衣服を使って即席の鞘を作ったのだ。持ち前の裁縫技術が活きた。手先の器用さは損なわれていないということもわかり、安心した。大工として培ってきた技術は人生そのものだ。男であることは失っても、それまで失いたくはない。神剣のブレードを革と布の合成物で幾重にも巻いていく。元はハントや武闘家が使わなくなった衣服を切り貼りして作った古着だった。再利用品ではあるが、勇者パーティーが身につけていただけあってそれなりに良い素材を使っている。しばらくは使えそうだ。武闘家が文句の一つでも言ってきそうだが、オレを切り捨てたのだから、今さらこれらをどう使おうと何を言われる筋合いがあるのか。それに、突然女の子に変えられた身としては、男だった頃の物品の一つでも持っていきたいと思うのはそれほど未練がましいことではないと思う。

 

「うーん、やっぱり少し血が目立つな。洗って落ちるといいんだが」

 

 鞘のあちこちに血が滲んでいる。この谷底に落ちたときに流した自分の血が染み付いているのだ。なるべく汚れていない部分の生地を選んだとはいえ、多少はやむを得ないだろう。血は水で洗ってもなかなか落ちないので、どこかで油石鹸か湯でも調達して綺麗にしよう。

 最後に、頑丈な油布(オイルスキン)のローブを手に取る。オレが身につけていたもので一番新しくて一番上等なこれは、神官のリンが贈り物として渡してくれたものだ。見た目よりズッシリと重いのは、細かく砕いた玄武岩をまぶした糸で編まれ、サラマンドラの油を染み込ませているからだ。そのため、このローブは雨衣の役目と同時に耐刃・耐炎仕様になっている。控えめに見てもかなり高級なものだろうに、そんなことはおくびにも出さずにそっぽを向いてこれを押し付けてきたリンの顔を思い出す。

 

「怒るだろうな……」

 

 リンとはこの森で合流する予定だった。彼女は、高位神官として王立教会と勇者パーティーとの連絡役をする傍ら、パーティーメンバーとして防御や回復の役目を担ってくれていた。その腕前は確かなもので、彼女がいてくれたことで脱することの出来た窮地は数え切れない。同い年ということもあり、お互いにライバル心のような含むものもあって、何度も意見を衝突させた。だけど、信頼関係は構築できていた……と思う。とにかく、彼女はオレと違って優秀だった。なんでも知っていて、なんでも出来るリンのことを尊敬していた。自分にカケラ程度でも彼女の才能と知性があれば、こうはなっていなかったに違いない。今頃、どうしているだろうか。パーティーを追い出されたオレを「不甲斐ない奴」と怒っているのだろうか。このローブも、返す機会があれば返したほうがいいかもしれない。彼女が高級な装備をくれたのは、オレが自分の身も守れないほど力不足だったからであって、クリスという勇者パーティーのメンバーでもないただの村人に当てたものではないのだろうから。

 寂しげにふっと笑みをこぼし、オレはローブを背に羽織って洞窟の外へと足を進めた。

 

「……よく生きてたな、オレ」

 

 さんざん雨を降らせて欲求を解消した雨雲が立ち去った天空には、満点の星が広がっていた。近くに村もなく余計な光がないせいで、いつもより星々の輝きが眩しく見える。湿った大気は涼し気な風に押し流され、空気も澄んでいる。が、遠い。空がものすごく遠い。星明かりに照らされた谷の斜面を見れば、王国随一の高層建築と言われる王城がすっぽりと入ってしまいそうなほど深いことがわかる。これほど深い谷だったとは、落ちているときにはわからなかった。谷というのは、遥か太古の巨大な川の流れに侵食されて形成されると本で読んだことがある。それにしても、ここは不自然なほど深い。幅もそれほど広くない。これほどの深さの大河となれば当然川幅も広いはずだが、そうでもない。あの洞窟を隠すためだけに存在するような幽谷だ。どうやって形作られたのだろう。無事に上がることが出来たら調べてみたい。

 

「まあ、上がれたら、の話だな。いったいどこまで続いてるんだ、この谷は」

 

 狭い谷底に鎧靴(ソルレット)の音色を反響させながら登り口を探して歩く。降り注ぐ星明かりと鋭い視力のおかげで転ぶことはないし、疲れ知らずの体力のおかげで延々と歩き続けられるが、脱出できる足場が一向に見つからないというのは精神的な疲労を及ぼす。あまりに高すぎて、よじ登るイメージすら湧いてこない。再び斜面に視線を滑らせて天を仰ぐ。この上から足を滑らせたのだと実感し、今さらながら背筋が凍る。本当に、よく骨一つ折っただけで済んだものだ。

 普通なら、こんなふうに潰れる(・・・・・・・・・)───。

 

「なッ!?」

 

 突如として頭上から落ちてきたヒト型の影が、落下速度をそのままに目の前の大地に叩きつけられた。衝撃で肺から息が残らず漏れ出し、「ぐぎゃっ!」という断末魔と交じる。慌てて近づくも、すでに原型が認められないほどの損傷からして生きているとは思えなかった。だが、肉体の特徴や装備からして、これは人間だ。銀の鎧を着た人間だった。胸甲(ブレスト)に赤の三本線を刻み、死んでもなお剣を握り締めるこの兵士は、ついさっきまで呼吸をして生きていた人間だったのだ。悔しげに歪んだ唇が強い無念を物語っている。

 瞳の裏側で義憤がメラと燃えるのを知覚する。谷の上を見上げ、目を細めて意識を集中する。遥か高方だが、鷹のように驚異の視力を秘めた眼はそこでチカチカと煌めく火花をたしかに捉えた。キン、キンと鉄を弾く金属音が微かに聴こえる。見間違えるはずがない。聞き間違えるはずがない。これらは、剣と剣が鍔迫り合ったときに散逸する火花と音だ。誰かが戦っているのだ。谷底に至る懸崖を背に複数の誰かが追い詰められている。一人落とされたことからして追い詰められている方は明らかに劣勢だ。だというのに、相手に手を緩める様子はない。一切の情け容赦のない攻め様にじわりと嫌悪感が募る。なんて卑劣なんだ。助けなくては、とガントレットをギリと握り締める。

 

「でも、この高さをどうやって上まで登れば───ええい、考えてる場合か!!」

 

 とにかく、この上に登るんだ!登れないじゃない、登るんだ!出来ない理由を捜している暇があったら、砕け散る覚悟でぶち当たる!オレにはそれしか出来ないんだから!!

 

「すみません、お借りします!」

 

 すばやく胸の前で十字を切って一言断り、すでに事切れた兵士の手から剣をもぎ取る。この高さから落下しても折れないほど丈夫なら、きっとこれ(・・)にも耐えられる。咄嗟に思いついたアイデアを実行せんと、斜面の中腹に視線をピタリと合わせる。成功するかどうかなんて考えない。今は、この身体のステータスを信じるのみだ。剣を逆手に持ち、やり投げの要領で振りかぶると肉体をぐぐっと限界まで引き絞る。肉体を弓のようにギリギリと引き絞り、スカートがめくり上がることも気にせず左足を高く高く振り上げ、頂点まで到達した瞬間に一気に振り下ろした。

 

「だぁああッ!!」

 

 ズン、と大地を踏みしめると同時に剣を解き放つ。槍と化した剣は一瞬で音の速さを超えて中空に一文字を描き、目標点と定めていた場所の岩を粉砕して突き立った。谷底と谷上のちょうど中間地点に、剣の柄が星明かりを反射している。中間地点だ。だけど、それでも遥かに高い。首が痛くなるほど見上げなくてはいけないほど高い。果たして、あそこまで跳べるだろうか。ちらと頭をもたげた不安を振り払うように神剣を背に回し、肺を限界まで膨らませて全身の筋肉に活力を巡らせる。いいや、跳べる!跳べるとも!以前のオレとは違うんだ!

 

「神剣よ!くだらない呪いなら、いくらでも甘んじて受けてやる!だから───オレにもっと力を!!」

 

 オレの意志に応えるように手を通して神剣から流れ込んでくる、生命力(エネルギー)。麻布が水を吸収するように、オレの内側に急速に染み込んでくる。自分自身が改変(・・)されているという直感を覚えるも、構わないと断じる。女に変えられる以上の理不尽な呪いなどありはしないのだから。素直にエネルギーを受領すればするほど、不可能など無いと断言できる万能感がつま先まで漲ってくる。筋肉がメキメキと張り詰め、突っ張られた皮膚の表面に幾筋もの血管が浮き出る。一本も残すこと無く毛細血管の端の端まで新鮮な血液が循環し、耳の奥で血液の濁流の音がする。ドクドクと早鐘を打つ強靭な心音が遠ざかっていく。異常なまでの集中力に、あらゆる余念が弾き飛ばされていく。心中を支配する静寂のなか、はち切れんばかりに高まったエネルギーを、それでも足りぬとまだ蓄積する。身体中の汗腺から汗が吹き出る。噛み締めた奥歯がガリッと音を立てる。今だ(・・)

 

 

 

 

 

「───お待ちなさい(・・・・・・)

 

 

 

 

 次の瞬間。オレは崖の上に降り立っていた。

 自身に向けられる複数の驚愕する視線を受け止め、オレは神剣を鞘から颯爽と解き放ち、

 

 

 

 

 

……あれ?オレ、今、「お待ちなさい」って言った?




女騎士伝説、爆誕


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4話

ランキング3位!嬉しい!


 御者を責めることはできない。先ほどまでの豪雨で視界は悲劇的に悪かった。彼は最期まで制御を試みていた。ぬかるんだ地面に車輪が囚われ、気がついたら、私の馬車は逆さまになっていた。不運───いや、ここに追い込まれたのだろう。襲撃のタイミングも場所も、明らかにこの場所に誘導するようだった。

 

「……こ、ここは……」

 

 天地が反転した視界に“還らぬの谷”が見える。手を伸ばせば届いてしまいそうだ。かつて勇者すら上がっては来れなかったと言い伝えられる幽谷。この深い深い谷に落ちたことにすれば、不幸な事故として処理できる。「雨のせいで気が付かなかった」と説明を付け加えれば納得されてしまうだろう。陰謀の二文字が頭に浮かぶと同時に、私が危惧していたことは間違っていなかったと確信する。問題なのは、これをお父様にお伝えできないことだ。

 

「姫様!姫様、ご無事ですか!?」

「姫様をお救いするんだ!急げ!敵はもうすぐそこまで来ているぞ!」

「くそっ、駄目だ!扉が変形して開かない!馬車を持ち上げられないか!?」

「重すぎる、ビクともしないぞ!」

「……致し方ない、応戦だ!各騎、防御陣形を組め!雨で地面が悪い、馬も盾も役に立たん!姫様をお護りするのだ!」

 

 割れた窓硝子(ガラス)の隙間から手が差し込まれる。近衛兵の手だ。いつもは頼りがいのあるたくましい手が、そのたくましさ故に狭い隙間に入れない原因となっている。屈強な男たちが馬車を持ち上げようと唸り声をあげるが、頑健な樫の木で造られた馬車は言うことを聞いてくれない。窓から這いずり出ようにも、自重によって湾曲した馬車の構造材が邪魔をして、いかに矮躯の私でさえ通り抜けられない。

 なんてこと。襲撃を予測して防御力の高い馬車を使用したことが仇になってしまうなんて。

 

「シリル……シリル、どこ?……ああ、そんな……!」

 

 馬車が横転する直前まで隣に座っていたはずの侍従(メイド)長の肩を揺らす。ぐらっと頭が不自然に揺れた。首がゴムのように伸びてぶら下がっている。口と鼻と耳から鮮血がポタポタと落ちて、私の銀髪に赤い斑模様を描く。その瞳は生気が抜け落ちている。

 私が物心ついた頃から世話をしてくれた、私の親友。転倒する瞬間、彼女が私を抱き締めて守ってくれたのだ。姉のように接してくれたシリルとの思い出が走馬灯のように思い出され、思わず涙が零れそうになる。歯を食いしばり、悲しみの沼の手前で踏みとどまる。私が巻き込んだんだ。みんな、私のせいだ。

 豪雨によって出来た水たまりに突っ込んだせいで、馬車のなかに泥水の濁流が流れ込んでくる。白いフランネルのドレスが泥に汚れていく。でも、そんなことを気にしている場合じゃない。口に入ってくる不潔な泥水を何度も吐き出しながら、窓に顔を近づけて叫ぶ。

 

「近衛兵の皆さん、私を置いて逃げてください!敵の正体はわかっています。なれば狙いは私一人のはず!だから!」

「何を仰られるのか、姫様!我々は誉れ高き近衛兵!主君を置いて遁走するなど、先祖に顔向けできませぬ!」

「それに、奴らはかなりの手練れ。馬一頭とてこの場から逃がすつもりはないでしょう。戦うしかありますまい」

「皆さん……」

「ご心配召されるな、姫様!なあに、教会の卑怯な回し者など、鎧袖一触と片付けてみせましょうぞ!それまで、しばしお堪えくだされ!」

 

 勇猛な近衛兵たちが兜の下でニッと笑って私を力付けようとしてくれる。彼らを率いるアルバーツ近衛兵長が「陣形を組め」と張り上げた声で連呼している。近衛兵たちの心の拠り所にして、私の第二の父と呼べる人。王族としての心構えを私に説いてくれた、私の大切な家族。

 大丈夫、双子戦争の英雄にして歴戦の強者である彼がいれば怖いものはない。生まれてからの14年間、彼は片時も私から離れたことがない。彼ならどんな時だって私を守ってくれる。彼の大柄の背中が視界にあるだけで温かい安心感が湧き立ってくる。アルバーツが私の方に振り返り、力強く頷いてみせる。頬を斜めに走る傷跡が、今はこれ以上なく頼もしいと感じる。彼は私たちの柱だ。

 ……そして、それは敵にとっても同じだ。

 突然、アルバーツの胸から何かが飛び出た。星明かりを反射する金属が血に濡れている。真新しい鮮血から湯気が立つ。

 

「馬鹿、な」

 

 その場の誰も、何が起きたのかわからなかった。己の胸から顔を出す金属に目を見開くアルバーツの身体がぐんっと宙に浮く。その背後の闇からぬうっと姿を現したのは、漆黒の神父服(カソック)に身を包んだ巨漢だった。今まで見たこともないような醜い顔の僧兵だ。その豪腕に握られた長大な槍の尖端がアルバーツの背中に突き立っていた。アルバーツの口から大量の吐血が吹き出て、ようやく思考が空白から浮き上がる。

 

「か、各騎、周囲を、警戒、」

「……黙れ……」

 

 僧服の巨漢が低い声とともに軽々と腕を振るう。人の背ほどもある剛槍がしなり、赤い血の尾をひいてアルバーツの身体が宙に弧を描く。

 

「姫様を、護れ…!」

 

 それが彼の最期の言葉になった。ぶん、と風を切る音を残して、アルバーツの肉体は玩具のように舞い、私を閉じ込める馬車を飛び越えて幽谷の擁する闇に吸い込まれた。

 

「アルバーツ!うそ!イヤァーーーーッッ!!」

 

 期待を覚えたからこそ、そこから一気に絶望に突き落とされるのは心に堪える。ひしゃげた窓枠から必死に手を伸ばしても、もうアルバーツには絶対に届かない。伝えたいことがたくさんあった。語り合いたいことがたくさんあった。教えてほしいことがたくさんあった。褒めてほしいことがたくさんあった。怒ってほしいことがたくさんあった。謝りたいことがたくさんあった。お礼を言いたいことがたくさんあった。それが全部、もう叶わないなんて、信じられない。

 私のせいだ。私が彼をそそのかしてしまったせいだ。陰謀を阻止したいなんて、私なんかでは力不足もいいところなのに。私のせいだ。シリルの死も、アルバーツの死も、残された近衛兵たちの末路も、何もかも。

 

「おのれ、僧兵如きがよくも隊長を、我が父を……!」

「待ってください、副隊長!まだいます(・・・・・)!」

 

 森の木々の影から、それより暗い漆黒の僧服が染み出すように姿を表す。10……20……その数は増える一方だ。ひっくり返った馬車の中にいても近衛兵たちの息を呑む音ははっきりと聞こえた。近衛兵は10人。疾駆けのために少人数にしたことが仇になった。私の領地はすでに10里以上離れている。私たちの身に起きたことを知る由もなく、救援も来ない。

 

「貴様ら、ここにおわす方がガメニア王国第三王女ルナリア殿下と知っての狼藉か!?これは王家に対する明確な反乱行為だぞ!」

 

 若く勇敢な副隊長が声を張り上げる。でも、音もなく槍の穂先を向けてくる僧服たちにその道理が通じた様子は無かった。当然だ。彼らは王立教会の僧兵。王国の騎士に肩を並べると言われるほどの手練たちは、狂信者故に盲目で、決して命を惜しまないことで知られている。教義を護るためなら己の命にも相手の命にも無関心になれる、恐ろしい暗殺者集団。王立教会は彼らを操って非道で野蛮なことをしてきた。それを暴こうとした者にも同じことをした。そして今、その血にまみれた薄汚れた爪は、王家の末子にさえ躊躇いもなく振り下されようとしている。

 

「……これはこれはルナリア姫様……ご機嫌麗しゅう……ではないようですな……」

 

 アルバーツを殺した巨漢の僧兵が、嫌味なほどわざとらしい仕草で頭を下げる。恭しい態度の皮一枚下でこちらをあざ笑っている。豚のような鼻からぐふっぐふっと奇妙な笑いが漏れる。息を詰まらせるような笑い方に嫌悪感が募る。

 

「貴様、姫様を愚弄するか!王家への反乱に加えて不敬の罪も犯すとは、許されることではないぞ!万死に値する!」

「……近衛兵のお歴々は腕っぷしばかりで、誰も彼も視野が狭い……」

「なんだと!?」

「……此度の姫様の不運な事故(・・・・・)は、やんごとなき御位(みくらい)の方もご理解しておられること……近衛の方々共々、大人しくコリエル神の御許(おんもと)へ逝かれるがよい……」

 

 衝撃に目眩がする。お兄様(・・・)。輝く美貌と薄い笑みが脳裏に閃く。今代の勇者を手駒とし、魔族のみならず他国との戦争にも参戦させようとお父様に進言した冷徹な次期国王の長兄。王立教会と懇意にして権力を強めようとしているという噂は聞いていた。王立教会の企てる愚行も、王家に連なる誰かが力を貸さなければ実行し得ない。それ故に、王家内に背信者がいることは予想していた。でも、まさかお兄様だったなんて。しかも、まさか実の妹を殺すだなんて。子どもの頃の優しかったお兄様の声が耳元に蘇りそうになり、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。

 

「……各騎、隊長の最期の命令をしかと聞いたな」

 

 副隊長の押し殺した問いかけに全員が「応」と返す。そこに彼らの覚悟を見てしまい、私は思わず(かぶり)を振るう。

 

「全員、死にものぐるいで戦え!近衛兵の意地を見せる時ぞ!」

「「「応ッ!!」」」

「魚鱗の陣、用意!汚らしい奴らの指一本、姫様に触れさせるな!!」

 

 ああ、ダメ、逃げて。私のために死ぬなんてやめて。

 制止しようにも、そこまで迫る死の恐怖に喉が塞がって声が出てくれない。星を反射する僧兵の槍が凄まじい速さで突き出される。近衛兵は辛うじてそれを剣でさばくが、別方向から突き出させた穂先がブレストプレートを激しく打ち据える。近衛兵の鎧は最上級の金属で造られているから、粗末な剣や槍による攻撃はむしろ刃を破損させることになるはず。それなのに、亀裂が走ったのは近衛兵の鎧の方だった。普通の槍じゃない。

 自分たちの鎧が気休めにもならないと悟った近衛兵たちに驚愕が走る。

 

「で、模造(デミ)ミスリルの槍!?神々の金属を武器に用いることは王立教会の御法度では無かったか!?」

「……何事にも……例外はあるもの……平にご容赦を……」

「お、おのれ、屁理屈を……!」

 

 近衛兵たちの奮戦虚しく、彼らの背中が馬車に近付いてくる。単騎での実力は決して劣っていないのに、数で負けている。

 

「……指なんて触れませんよ……ただちょん(・・・)と押すだけ……」

「崖に追い詰められているぞ!陣形を乱さなければ大丈夫なんだ!」

 

 副隊長が声を荒げるが、彼自身の声が焦燥に切迫していて説得力がない。彼らは精鋭中の精鋭。普段の彼らなら、たとえ同じ実力かつ数を倍する敵に当たっても切り抜けられる。いわんや、狂信者相手に遅れを取ることはない。それが出来ないのは、アルバーツという精神的支柱を失ったからだ。「騎士は心で戦う」とアルバーツは教えてくれた。それ故に、心の支えのなくなった騎士は十全の力を発揮できない。私は彼らにとって庇護の対象にはなっても、彼らの士気を鼓舞する英傑にはなれない。

 

「ぐわっ!」

「ぎっ!?」

「うぐっ!」

 

 近衛兵たちの痛々しい悲鳴を追って目の前に鮮血が飛び散る。一滴が私の頬に赤い華を咲かせ、誰かが膝をつく音がする。刃と刃がぶつかる激しい音と火花が鼓膜と網膜を麻痺させる。大粒の涙が溢れ、顎が震えて歯がかち鳴る。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 私のせいだ。私のせいだ。私のせいだ。私が陰謀なんかに気付いてしまったから。ちっぽけな正義感を振り翳したから。みんなを巻き込んでしまったから。自分なら何とかできると思ってしまった。巨悪を倒せると思ってしまった。身の程知らずだった。ただの小賢しい娘に過ぎなかった。私には力が足りなかった。全部、私のせいだ。

 また誰かが倒れる音がした。押し寄せる罪の意識に心が堪えきれず、私はぐっと目を瞑って胸の前で手を握る。

 お願いします、神さま。お願いします。王立教会の神(コリエル)以外にも神はおわすのでしょう。さすればどうか。どうか私たちをお救いください。これからは貴方様をお慕い致します。貴方様に全てを捧げます。だから。だからどうか、私たちのもとに、強い力(・・・)をお授けください───!!

 

 

 

 

 

 

「───お待ちなさい」

 

 

 

 

 

 鈴音のような軽やかな金属音。

 次いでまろやかに(ひるがえ)るコバルトブルーのスカート。

 威厳と挟持を(そな)えた、鍛え抜かれた刃の如き女の声音。

 

 まるで神々の世界から遣わされたように、美貌の女性はふわりとそこに舞い降りていた。

 荘厳な星々すら己の背景と化す彼女を見て、その場にいる誰も彼もが、思わず見惚れて思考をも止めた。

 輝く鎧を身に纏い、輝く大剣を掲げる美貌の戦乙女が、怒りを顕わに眉根を寄せる。その憤怒の表情すら、最高の絵画のように美しい。

 

 彼女を見れば、きっと誰もがこう呼ぶに違いない。

 

 “女騎士”、と。




スマホで小説を書くのは初めてです。なので初心者です(強弁)。


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5話

「努力」も一つの才能。それを教えてくれたのは、炭治郎でした。主人公の性格の参考にさせてもらってます(アマゾンプライムで全話視聴)


 僧服の巨漢、王立教会の暗殺部隊を束ねるドン・マドソン特務司祭は、目の前で起きている現実を受け入れることが出来なかった。今の今まで、マドソンは神が用意してくれた幸運に感謝し、成功を確信してほくそ笑んでいた。

 「この醜い豚め」。そう言われてきた自分に、人間としての地位と権力を与えてくれた『力と戦いと繁栄の(コリエル)神』を、マドソンは心から信仰していた。というより、コリエル神を祭壇に祀ることで力を得た王立教会を利用(・・)していた。影の組織として暗躍し、王立教会と切って切り離せぬ関係となることで、自分自身が教会の権力者に上り詰めることを画策していた。それを邪魔立てする者は、たとえまだ(よわい)14になったばかりの第三王女といえど容赦はしない。社会から差別され、嫌悪され、弾き出されてきたマドソンにとって、王家など崇拝対象の末席にも入らなかった。

 「ルナリア姫が王立教会の陰謀に気付いた」。その知らせを聞いた時も、マドソンは一切迷わなかった。彼はその時点で動かせる手下を残らずかき集め、一人だけ馬に飛び乗ると、大粒の雨が降りしきる鬱蒼とした森を強行走破した。その甲斐は完璧に報われた。姫の馬車を“還らずの谷”に追い込んで転倒させ、追い詰めることに成功した。途中で部下の一人が“還らずの谷”に滑落していく様子を見て、マドソンは姫一行を馬車ごと谷に突き落とすという見事な策を思いついたのだ。ここで王立教会に恩を売り、姫を殺害した共犯に巻き込んでやれば、もうマドソンの出世は決まったようなものだ。この時、彼はたしかに神の意思を身近に感じていた。

 だが、今はどうだ。

 

「……馬鹿な……」

 

 燦然と煌めく大剣が流星の尾を引いて空間を閃く。最高の優雅と最大の強度が一つに両在する宝剣が星光を撥ね、次の瞬間には僧兵の首が毬のように地を刎ねる。豊かな金長髪が獅子の(たてがみ)の如く拡がり、戦慄すら覚える美貌の輪郭を黄金の輝きで縁取る。精霊の泉のようなエメラルドブルーの眼光に射貫かれると、精神の奥深くに畏敬じみた恐怖が走る。

 突然、どこからともなく現れた女騎士(・・・)が、マドソンの全てをぶち壊そうとしていた。

 また一人、()られた。速すぎて太刀筋すら見えなかった。そうして斬られる仲間を囮にした僧兵が女騎士に背後から忍びより、鋭い槍の刺突を放つ。文字通り彼の半生を費やして到達した目にも留まらぬ一撃は、しかし、後ろ手に回された細い手によってガッシリと掴み止められた。まるで背中に目があるかのように、振り返ることもせずに、だ。女騎士の細い手は、見た目からは考えられない万力のような握力で槍を空中の一点に固定している。

 必殺の攻撃を難なく防がれた僧兵から無表情の鉄仮面が砕け落ちる。自信を見るも無残に破壊され、愕然として動きを止める。それが僧兵の命取りとなった。

 

「仲間の仇!覚悟!」

 

 近衛兵の気迫を乗せた大上段が振り下ろされた。負傷で膝をついていたとは思えない冴えを魅せる一撃は、たとえ僧兵が油断していなかったとしても回避できたかどうか。僧兵が後悔に歯噛みした時には時すでに遅く、近衛兵の剣は断頭台の刃のように僧兵の首を跳ね飛ばした。

 それと同じことが各所で起きる様を、マドソンは一歩引いた後方で冷や汗とともに見ていた。近衛兵は、先ほどまでの狼狽模様が嘘のような士気の向上を見せていた。『騎士は心で戦う。故に心の支えを壊してやれば弱くなる』。マドソンは経験則でそれを知っていた。だから近衛兵隊長のアルバーツを先に殺したのだ。

 

「満足に戦える者は左右へ!負傷者は意地を張らず下がれ!中央は私が受け持つ!軽傷者は私の背後で討ち漏らしに対処せよ!」

「わかりました!みんな、騎士殿に従え!」

「「「応ッ!!」」」

 

 だというのに、眼前の近衛兵たちに気後れした様子は無い。むしろ最高の状態に復活し、逆攻勢を掛けてきている始末だ。その中心にいるのは、件の女騎士だ。舞い踊るようにこちらの兵を撫で斬りにしていく女騎士の存在が、近衛兵たちの士気を高らかに鼓舞している。

 まるで同じ死線をくぐり抜けてきたかのように、女騎士は近衛兵に呼吸を合わせながら剣を振るっている。明らかに、女騎士は戦い慣れている上に、集団戦闘を指揮することにも慣れていた。

 

「左の陣、敵をこちらに受け流せ!右の陣は一歩前進!敵を押し戻せ!」

「各騎、ギリギリまで見切り、槍の穂先を根本から斬り落とすのだ!棒きれにしてしまえば恐れるものはない!私が手本を見せる!」

 

 目の前の敵のみならず、左右の味方に目を配り、劣勢の面影を見つければ逐一指示を出して戦況を優位に傾ける。的確かつ合理的な指示が、澱みも迷いもなく発せられる。女騎士は、全体の趨勢を見る広い目を有していた。貴族の娘が興じるママゴトのようなお飾り騎士とは次元が違う、本物の騎士然として戦場の華を体現している。

 旧知の仲なのか、たった今出会ったばかりなのかは定かではない。だが、近衛兵は女騎士に信頼を置き、彼女を中心とした戦闘態勢を受け入れている。この瞬間、彼らは間違いなく女騎士を自分の命を預けてもいい指揮官(・・・)と見定めていた。そこには羨ましいほどの完璧な統率と連携があった。女騎士は、その高飛車で孤高然とした風貌からは想像もできないほど、味方への分別と連携への理解を備えていた。

 

 だが、マドソンがなによりも驚いたのは、そんなことではなかった。

 

 彼が呆然と見つめる視界のなかで、女騎士の大剣が己に迫る模造(デミ)ミスリルの槍先をバターのように両断し、返す刀で僧兵を袈裟斬りにする。その隙を突こうと迫る別の僧兵に対し、籠手(ガントレット)が轟と唸りをあげて大気を捩じ切る。少女とは思えぬほど荒々しい構えから放たれる男勝りの拳の一撃は、迫り来る槍の切っ先を真正面から捉えたかと思いきや、模造(デミ)ミスリルの刃を安物の硝子細工のように粉々に粉砕した。

 自分たちの武器がまったく通用しないという現実を突きつけられた僧兵たちに動揺が走る。最強の武器で相手を追い詰めていた自分たちが、今では逆の立場に追い込まれている。

 

「……ま、まさか……」

 

 マドソンは息を呑んだ。人類が造れる最高硬度の金属は、王立教会でも上層部のほんの一部のみが製法を知る模造(デミ)ミスリルである。それをこうもやすやすと破壊できる金属など、心当たりは一つしか無い。

 本物の(・・・)神の鋼(ミスリル)。破壊不可能、防御不可能。神世の玉鋼を精霊が鍛えた最強無敵の金属。遥か昔に神から人類が授かったミスリルの武具は、王家が保有する鎧兜のみとされていた。だが、違ったのだ。

 模造(デミ)ミスリルの刃を破壊してもまだ喰い足りぬとばかりの拳が僧兵の鳩尾を精確に穿つ。ボグッ!と分厚い胸筋の下で肋骨が潰れる鈍い音がして、白目を向いた僧兵が絶命して膝から崩れ落ちた。なんと恐るべき膂力なのか。『剣士』や『武闘家』といったクラスの者たちは何度も見てきたが、そんなものとは比べようもない。並大抵のクラスではあるまい。

 たった数分で戦況を一変させる強さ。たった一人で戦況を一転させる存在感。

 マドソンの脳裏に『勇者』の二文字が浮かぶ。

 

(あ、悪夢だ)

 

 貼り付けたような嫌らしい笑みがボロボロと剥がれ落ち、大量の汗が伝い落ちる頬肉がピクピクと痙攣する。ミスリルの剣と鎧を装備した勇者になど、暗殺部隊を総動員したところで勝てるわけがない。

 後頭部で自己保身の本能が喚き声を立てている。視線だけでザッと周囲を見渡し、敵味方双方の戦力差を瞬時に把握する。彼我の戦力差、実力差を客観的に受け入れられる冷静さはまだ残っていた。

 手下の僧兵は12人にまで討ち減らされた。対する近衛兵は8人。一人ひとりの練度なら負けはしないが、精神的支柱を得て士気が上がる一方の近衛兵を全滅させるには不足も不足だ。不本意極まるが、潮時だった。

 

「火矢を放て!」

 

 自らの経歴に汚点を刻むことになるが、命あっての物種だ。火矢で敵の動きを止めて、その隙に僧兵の死体を回収しながら撤退する。マドソンはきちんと引き際を心得ていた。苦々しい思いを引きずりながらも野太い声を喉から発して───ふと、女騎士のエメラルドブルーの瞳と目が合った。

 蛇に睨まれた蛙の心境を彼は生まれて初めて痛感した。と同時に、自分が近衛兵の指揮者を優先して倒したように、相手もまた同じことを考えるのではないかという疑念が過ぎった。

 マドソンの唯一の計算違いは、女騎士の俊足を度し難いほどに見誤っていたことだった。

 

 ズドン。目の前に落雷が生じたが如き激震が地面を伝って骨身を震わせる。跳ね散る幾つもの石礫(いしつぶて)がマドソンの顔面を打ち据える。眼球が映した像が視神経を伝って脳に届く。

 すでにその時、ミスリルの剣は彼の剛槍ごと左目を縦に斬り裂いていた。左眼球が最後に結んだのは、視界全てを埋める黄金の髪とエメラルドブルーの瞳だった。

 傷ついた牛のような醜い悲鳴が大木の幹を揺らした。顔の左側に一文字の縦線が走ったかと思いきや、パックリと割れて鮮血が噴き出す。あまりに速過ぎて、動体視力が微塵も追いつけなかった。

 右半分だけになった視界のなか、マドソンは反射的に手に握る槍を横薙ぎにする。技術の欠片もない力任せの攻撃は、近くに控えていた部下の側頭部を強打して頭蓋骨を陥没させる結果に終わった。だが、女騎士を後退させられたことは僧兵一人の命を差し出すだけの価値はあった。女騎士は曲芸師のような軽やかなバック転で跳躍し、マドソンへの追撃を一旦諦めた。マドソンの頭が分割されなかったのは、女騎士の踏み込みが浅かったからではなく、眼球からの情報を脳が処理する前に野生じみた脊髄が上体をわずかに反らせたからだった。彼は今度こそ神に感謝した。

 

「何をしている!火矢を放て!馬車を狙え!燃やすのだっ!」

 

 おびただしく出血する左目を掌で強く押さえ、喚くように命じる。火打ち石から転じられた火花が油紙を巻いた(やじり)を松明のように激しく燃やす。間髪入れずに何本も放たれる矢は、しかしほとんどが女騎士の人外じみた剣さばきの餌食となる。だが、女騎士とて神ではない。かろうじて剣閃の網をかいくぐった一本が横転して腹を晒す馬車に到達した。それは近衛兵にとっては運悪く、マドソンにとっては運良く、雨に濡れておらず湿っていない場所だった。

 火は(シャフト)に取り付けられた火薬筒に引火し、ボンと音を立てて球状の炎で一瞬だけ周囲を昼間のように白く染めた。背中を照らす熱波と、続いて鼓膜をつんざく甲高い少女の悲鳴に、近衛兵たちの統率が乱れる。そこには彼らの主君が閉じ込められているからだ。

 

「今だ!退()けっ!退けっ!死体と武器を忘れるな!」

 

 これ以上の追撃は来ないと判断したマドソンは、己の馬に跨ると我先に遁走を開始した。僧兵たちは狂信者故にマドソンの指示を神の代理人の言葉と認識して忠実に指令を全うしようとするも、破壊された模造(デミ)ミスリルの刃を回収し尽くすことは不可能だった。仲間の死体を担いで()()うの体で追従してくる僧兵たちを一瞥し、馬の尻に鞭を入れる。

 

「おのれ、おのれ、おのれぇ……!」

 

 マドソンは奥歯を砕かんばかりに噛み締めて呻いた。顔面に力を入れたことで脳天を突く激痛が走り、脂汗が全身に滲む。常人なら気絶しても不思議ではない痛みと流血に身悶えしながら、悪人だが傑物には違いないマドソンは冷静に今後の対策を練っていた。

 あの火矢で馬車は完全に使い物にならなくなるに違いない。あのまま厄介者のルナリア姫が焼け死んでくれれば儲けものだが、馬車に刺さった火矢は一本だけだった。そう都合よくはいかないだろう。火傷でも負ってくれれば十分だ。姫が怪我をしたとなれば、主君の身をなによりも案じる近衛兵たちのことだ。王都への旅路は必ず遅延する。

 手紙や伝令なら改竄なり買収なりでなんとでもなるが、姫自身をこのまま王都に向かわせるわけにはいかない。まだガメニア国王に陰謀を知られるわけにはいかないのだ。しかも、王立教会の暗殺者に襲撃されたという事実が姫の口から語られれば、ことは陰謀の暴露のみならず、王立教会そのものの存立も危うくする。姫の暗殺という由々しき反逆行為を帳消しにできるほどの権力は、やんごとなき(・・・・・・)御位の協力者(・・・・・・)にもまだ無い。そんなことになれば、王立教会ともどもマドソンの未来も閉じられてしまう。

 なんとしても途中で姫一行を皆殺しにしなければならない。王都まではまだ距離にして70里(280キロ)以上ある。健全な騎馬の移動距離が一日で10里(40キロ)であることを考慮すれば、王都に達するまで一週間は楽にかかるだろう。近衛兵は負傷者も抱えているし、姫が怪我をしていれば期間はもっと伸びる。それだけあれば、襲撃の機会(チャンス)は何度でも巡ってくる。

 だが、神はマドソンに多大なる試練を与えていた。

 

(化け物め!)

 

 今は無き左目が最後に見た女騎士の姿を思い出す。鬼神のごとき強さ、稲妻のごとき速さ、有能な戦術家としての手腕。

 あの女騎士が姫に同行するとなると、容易に手出しは出来なくなる。あまりに強すぎる。いかに多勢を連れてこようと勝てるイメージが湧かない。軍団規模でも引き連れてくれば姫は片づけられるだろうが、犠牲が大きすぎるし、王立教会がそれだけの兵力を動かせば国王に気が付かれる。もちろん、この手でこの傷の復讐をしてやりたいという思いはあるが、自分では手も足もでないことは身に染みて理解している。

 だから、アレに勝てる強者(・・)を連れてくるしかない。あの女騎士と真正面から当たって倒せる可能性を秘める者は、この世に一人しかない。マドソンはその人物を(じか)に見たことがあった。王城での御前試合にて王国最強の騎士を子どものようにあしらってみせた若者。人類最強のクラス───『勇者(ハント)』。あの若武者のパーティーをアイツにぶつけるのだ。

 馬の臀部から血が滲むのも構わず、硬い鯨髭の鞭を怒りに任せて振るう。痛みと屈辱に顔を歪めながら、マドソンは如何にして勇者と女騎士を敵対させるかを模索していた。




作品中に「砕いた玄武岩をまぶした糸で編まれた防刃ローブ」が出てきますが、これは先日、会社で支給された防刃手袋の説明欄を読んでる時に思いつきました。なにが創作のためになるか、わからないもんです。


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6話

あと一話で終わりです。中世ヨーロッパの馬車について調べようとしたら、日本には馴染みがなかったせいで意外と資料が少ないことがわかりました。おかげでちょっとだけ苦労しました。牛車とか人力車ならあったんですが。「野盗の襲撃を受けて逃げ惑う牛車から姫の悲鳴が聞こえた」なんて、緊張感ないですもんねぇ。


(浅かった!)

 

 オレは大男に向かって斬りかかった。僧兵たちに指示を飛ばしていた男をリーダーだと判断したからだ。対魔族でも、対野盗でも、集団戦闘ではリーダーを先に倒した方が勝つことは経験で学んでいた。だが、必殺を狙った一撃はわずかに上半身を反らされて急所に届かなかった。やはり手練だ。

 眼前の大男に畏怖の感情を抱いたのも束の間、間髪入れずに熊のような雄叫びとともに視界外から剛槍が襲い来る。急所を外れたとはいえ手応えはあったのに、まだこれほど動けるのか。

 肉体のバネを使ってすかさず後方に飛び退り、鋭利な突風を顎先に感じながらすんでのところで回避する。この身体じゃなければ、今頃挽き肉になっていた。背筋に冷や汗を感じながら馬車の真ん前に着地し、再び大男に斬り掛かろうと脚に力を込める。次こそは倒す。

 

「何をしている!火矢を放て!馬車を狙え!燃やすのだっ!」

 

 驚くべきことに、大男は顔面をバッサリと斬りつけられても混乱することなく指示を発する胆力を備えていた。次いで、打てば響くような反応で僧兵たちが火矢を携え、弓を引いたかと思いきや次々と放ってくる。その連射速度は本職の弓兵も裸足で逃げ出すほど速い。しかも狙いも正確だ。「教会を守護する僧兵は信仰心故に練度が高い」と神官は自慢げに話していたが、まさか敵対してそれを味わうとは思ってもいなかった。

 だが、それを聞いて怖気づくわけにはいかない。それに、今のオレには他人を護れる力がある。

 神剣を正眼に構え、短くも大きな息を吸い込み、肺を限界まで膨らませる。転瞬、まるで世界そのものがタール漬けにされたように、すべての動きがゆっくりと鈍化したように見える。脳の処理速度が極限まで高められ、飛来する矢の動きがコマ送りのように知覚される。

 呼吸を止め、下半身を岩のように大地に固定し、逆に上半身は柔軟であることを意識する。神剣を握る手に渾身の精神力を込め、重力に委ねるようにゆらりと剣を振るう。瞬間、複数の手応えを感じる。神剣の間合いに侵入してきた矢を、考えるより先に肉体が自動的に叩き落としていく。

 思考するエネルギーすらも惜しい。全身の力という力を腕に傾注し、この身を“壁”と定めておびただしい矢の群れを次から次へと斬り伏せていく。剣の風圧が鏃の火を吹き散らし、ブレードが触れたと思いきや真っ二つに散逸する。

 

(凄い───オレにこんなことが出来るなんて)

 

 気付けば、オレは数秒と経たぬ間に30本近い矢を叩き落としていた。こんなこと、ハントにも出来るかどうか。

 僧兵たちが度肝を抜かれて色を失い、兵士たちも目を丸くして動きを止めた。オレ自身も、己の進化に驚いて一瞬だけ動きを乱してしまった。神剣の流水のごとき流れが歪んでしまい、一本の矢が油断したオレの頭の横をすり抜ける。

 

(しまった!)

 

 慌てて振り返るがすでに遅く、馬車に突き立った火矢の火薬が小爆発を起こした。熱波を頬に感じたのも束の間、年端も行かない少女の悲鳴が耳朶を打つ。

 

「ひ、姫様ッ!」

「姫様が危ない!」

 

 騎士たちが大きな動揺を見せて一気に慌てふためく。その隙を突いて大男が馬に飛び乗り、僧兵たちも一人また一人とあっという間に夜の闇に溶けていく。気配を探るが、残らず遁走したようだった。追撃のことは頭に浮かばなかった。それより、彼らが“姫様”と言ったことが気になった。

 火が至るところに燃え移っていく馬車は、横転して見るも無惨な状態ではあってもその優美な作りが見て取れる。大工として経験を積んだからこそ、この馬車の特別さがわかる。馬4頭曳きの四人乗り、御者台には油引された革の天蓋があり、構造材は衝撃に強いヒッコリー、頑丈な樫の羽目板には華麗な装飾、車輪軸と客車の間にはまだ珍しい鉄の板バネ、客車の装飾には貴重な孔雀石(マラカイト)の顔料、それに窓には革や羊皮紙ではなく高価な硝子(ガラス)を嵌め込んでいる。重量(めかた)320貫(1200キロ)、中にいる人間と貨物を加算すれば360貫(1350キロ)といったところか。

 並大抵の身分ではこんな上等な馬車には乗れない。小領主程度では維持もできないだろう。炎の明かりに照らされて初めて目にする豪華な馬車の外観に感嘆すると同時に、厄介なことになったと歯噛みする。

 

「姫様を助けるんだ!火のついている箇所を剣で叩き斬れ!その間に扉を無理矢理にでも破壊して───」

「いけない!」

 

 そう言って客車の腹めがけて剣を振りかぶった騎士の腕を掴む。驚いてこちらを見た大兜(ヘルム)の隙間から、少年の面影を少し残した青年の顔が見えた。オレがここに来るまで指揮をとっていた騎士だ。隊長にしては若いが、剣の腕はかなりのものだった。胸甲(ブレスト)には赤い二本線のシンボル。おそらく副隊長だろう。20代前半のたくましい顔つきをしているが、青ざめた表情は明らかに狼狽しきっている。

 

「騎士殿、僧兵の魔の手から我らが姫を救って頂いたことには感謝の言葉もありません。ですが、どうかお離しください!このままでは姫が!」

「わかっている。だが、下手に破壊してしまえばお前の大事な御方をお前自身の手で殺してしまうことになるぞ」

 

 絶句する副隊長を「失礼」と押しのけると、自分のローブをさっと脱いで馬車の燃えている箇所に覆いかぶせる。サラマンドラの油を加脂された耐火ローブだ。これで火の回りを遅くできるだろうが、完全な消火は無理だろう。よりによって、馬車は逆さまになったことで雨に濡れていない部分を晒すことになり、そこに火矢が命中してしまった。狙ったのだとしたらよほどの腕だ。

 しかも、ただの火矢ではなく、遥か東方で開発されたという火薬を内蔵する最新式の火矢だ。燃えだしたら最後、魔法使いの氷魔法でもなかなか消えなかった。蛮族との戦いで苦しめられた経験は忘れようもない。松脂と石油と硫黄の混合物は、いったん火が付けば多少の水を掛けた程度では鎮火できないのだ。

 「火が落ち着いている今のうちに馬車に穴を開ければいいのでは」と提案してきた別の兵士に小さく首を振るう。

 

「今、馬車は上下逆さまになり、車輪と車軸が上にある。どちらも鉄を多く使用して、非常に重い。そして客車には鉄は一切使われていない。どこか一箇所を下手に壊したりすれば、全体が崩れて客車を卵のように潰してしまうだろう。いかに私でも車輪軸全てを一刀のもとに斬り飛ばすなんて奇跡は起こせない」

「そんな!」

「大丈夫だ、私に任せてくれ。馬車の修理は何度もしたことがあるのだ」

「騎士なのに、馬車の修理の経験が……?」

 

 あからさまに訝しげな反応が返ってくる。忘れそうになっていたが、今のオレの姿は女騎士そのものなのだ。普通、女性は工作のような力仕事には就かない。騎士であれば尚更だ。騎士のような戦闘を生業とする特殊な階級は、神から『剣士』のクラスを授かった者たちで構成される。クラスに恵まれた彼らは、土木建築といった土や油に塗れる裏方の技術者を格下として見下す傾向にある。オレは旅の行く先々で身を持って経験してきた。オレからすれば、自分の使う道具の手入れもろくに出来ない方が情けない話に思える。

 

「己の扱う道具の構造について知り尽くしておいて損はない」

 

 肩越しに説明しながら目と手を使って馬車の損傷具合を急ぎ足で調べていく。差し出口を恥じたのだろう副隊長が「たしかに仰る通りだ」と納得に唸る声に頷きを一つ返すと、旅の途中で馬車の修理や整備をしていた経験を必死で思い出し、蓄えてきた知識を総動員する。新しいこの身体の性能は今は役に立たない。自分の技術者としての腕を活かす時だ。

 この場合、最新の馬車であることが仇になっている。踏破性能を上げるために、最近では車輪も車軸も大型化しており、木製の枠に鉄輪をはめて車輪とする方式が主流になりつつある。この方が、車輪が強固になり、長距離の移動でも故障が少なくなるからだ。さらに走行時の振動を抑えるために客車は軽量化され、車軸と客車との間には鉄製の板バネを何枚も挟み込んでいる。乗り心地を良くし、長旅でも壊れにくくするために、馬車の構造は進化するごとに上の客車が軽く、地面と接する下の車軸と車輪が重くなっていく。

 さて、これが上下逆さまにひっくり返るとどうなるか。軽い客車の上に、客車の何倍もの重量が伸し掛かることになる。そのうえ、この馬車は見た目を重視するために車体全体の固定を鎖ではなく革紐で縛るようにしている。逆さまになることを設計段階から想定していないのだ。もちろん、こんな悲惨な状況まで想定しろというのは設計士には酷な話だが、現に少女が閉じ込められてしまっている。

 腰をかがめ、変形した窓の隙間から声をかける。子供の手が一本通るか通らないかという狭い隙間のせいで中はよく見えないが、暗闇の中に妖精の羽のような銀髪が微かに煌めいた。

 

「もし、中の少女!無事か?」

「えっ!?は、はい、騎士様!(わたくし)は無事ですわ!て、敵は?近衛兵の方々は無事ですの?」

「ご心配なく、貴方の兵たちの活躍により撃退しました。今のところは(・・・・・・)

 

 自分の身より護衛の兵士を案じるとは、声からしてまだ幼そうなのに、良い主君だ。

 感心しつつ、チラと背後の若い副隊長に目配せをする。オレの意図を察してくれた副隊長が「警戒せよ」と兵を見張りに配置させる。まだ敵が完全に諦めたという確証はない。かなりの反撃を加えたとは言え、こちらが馬車の鎮火に傾注する間に再びやぶれかぶれの襲撃をしてこないとは限らない。用心に越したことがないということは魔族との戦いで嫌というほど学んだ。ハントも武闘家も魔法使いも、誰よりも強いという事実と自負のせいで用心するということをしなかったから、俺が気をつけるしかなかったのだ。

 しかし、副隊長を始めとした兵士たちの練度と忠誠心の高さ、“姫”と呼ばれた少女が彼らを“近衛兵”と呼んだことが頭の隅に引っかかる。壮麗な馬車然り、相当に身分の高い人物なのか。その謎は少女を無事に助け出してから解決しよう。

 さて、どう解体すべきかと顎を摘んで思考錯誤していると、不意に火の粉が一つ頭上からハラリと落ちてきた。その事象が表す意味に気が付き、ゾッと背筋に寒気が走る。

 

「き、騎士殿!火がっ!」

「くっ!?」

 

 ローブと客車の隙間から炎が溢れ出す。酸素を求めて荒れ狂う火炎が再び勢いを増して本格的に馬車を飲み込もうとしていた。ヒッコリーの木は広葉樹だから火がつきにくいのだが、成形のためによく乾燥させていたことが災いした。広葉樹はいったん火がついてしまうとなかなか消えないという性質がある。悪い兆候だ。熱せられた孔雀石の顔料がバチバチと化学反応を起こして鼻をつく異臭を漂わせ始める。しかも、ヒッコリーは構造材であり、客車の強度を維持する大黒柱の役目を果たしている。構造材の強度が漸減することで客車全体がミシミシと悲鳴をあげ、空気が抜けていく風船のようにゆっくりとひしゃげていく。

 命を危険を感じた少女がヒステリックに泣き叫ぶかと不安になったが、悲鳴は上がらなかった。じっと気丈に堪えている空気が外のオレにも伝わり、その健気さに胸を打たれる。同年代の子供だったら刻一刻と迫る死の恐怖に感情を爆発させるだろうに、その胆力には瞠目せずにはいられない。近衛兵たちの忠義が厚いことも頷ける。

 そこで、ふと思いついた。これほど忠義に厚い臣下を抱えていたのだ。当然、御者もすこぶる優秀だったはずだ。優秀な御者なら、必ず準備しているものがある。

 

「……予備の部品(・・・・・)だ!」

「は?」

「御者は馬車の故障に対応するために予備の部品を用意していただろう!それはどこに!?」

「こ、ここに!最後尾の我々が牽いておりました!」

 

 二頭の馬に繋がれた貨物用の小さな馬車が引きずられてきた。やはり、御者は優秀だった。いかに馬車が頑健な造りでも、長距離の移動の際は少なくない故障に見舞われる。故障した時に近くに街や村があることを神に祈って走る無謀な御者は三流以下で、有能な御者はどんな状況にも対応できるよう必ず予備の部品や工具を持ち運んでいる。

 飛びつくように客車に縛り付けられた貨物に掴みかかると驚く兵士をよそに幌を力づくで引きちぎり、犬が鼻を突っ込むように打開策になりそうなものを捜す。

 背後でメキメキと亀裂が走る音がした。ギクリとしてそちらを見れば、こぶし大だった窓の隙間がどんどん狭まっていた。「ひっ」と少女が息を呑む声がする。少しづつ解体するなどといった慎重に事を進めるには明らかに時間がない。「間に合わないかもしれない」という悲観が心中に顔を出しそうになるのを気合でぶん殴って消し去る。これでも勇者パーティーの一人だったんだ。苦しんでいる人を見捨てたりなんか、絶対にするものか。

 

「……これだ!」

 

 車軸の部品である円盤2つとよく手入れされた頑丈な鎖2本が目に入ったところで設計図(・・・)が頭にハッと思い浮かんだ。限られた短い時間で横転した馬車に閉じ込められた人間を助け出す方法は、これしか無い。

 

「騎士殿、我々に出来ることはありませんか!?」

「あるとも!人の背丈の倍ほどの丸太を3本、探してくるのだ!馬車よりも高くなくてはならない!大の男の拳ほど太くて頑丈な木だ!見つけたら馬車を囲うように立てて馬車の上で先端を交差させよ!」

「「「はいっ!」」」

 

 疑うことなくオレの頼みに淀みなく応じてくれる近衛兵たちに心のなかで感謝し、神剣の呪いのせいで口調がやけに尊大になっていることを謝罪する。忠犬のような彼らのおかげで間に合うかもしれない。いや、間に合わせるんだ。見も知らぬオレを信じてくれている彼らの信頼に、なんとしても応えるんだ。

 紙に包まれた人の頭ほどの円盤はどちらも新品で、油もしっかりと差してあった。御者の手際の良さに感謝しつつ、鎖を円盤に迅速に巻きつける。ある程度巻いたところでズッシリと重くなった円盤を小脇に抱えると、神剣のブレードをひしゃげゆく窓の隙間に突き刺し、テコの原理で持ち上げようとする。普通の剣であれば馬車の重さに耐えきれずあっという間に折れるだろうが、さすがミスリルだけあってビクともしない。問題は、支える人間のほうだ。

 さしもの女騎士の肉体にも、270貫(1トン)を優に超える馬車を一人で持ち上げるには荷が重い。それを察した副隊長がすぐに加勢に入り、さらに「みんな手伝え!」と掠れ声で号令を発する。その指示に、警戒に当たっていた力の強そうな騎士たちが一目散に駆け寄ってくる。

 

「剣を頼む!私は直接持ち上げる!」

 

 彼らに神剣のグリップを代わりに握ってもらい、自分は窓枠をガッと勢いよく掴む。

 

「ぬぅう……ぉおおおおおおお!!」

 

 原始の咆哮を肺腑の底から絞り出す。凄まじい重量を手のひらに感じる。実に自分の26倍もの重量物を抱え上げようというのだ。すぐに背中の筋肉が張り詰め、太ももがブルブルと震えだす。だが、まだだ。もう少し隙間をつくらなくては。ぬかるんだ地面に足がめり込んでいく。悲鳴を上げる肉体の声を頭脳で無視して痛みを押し切り、奥歯を砕かんばかりに噛み締めてさらに力を込める。

 

「おお、なんと!?」

 

 近衛兵の誰かが驚きに声を上げた。目の前でチカチカと閃光が散ったかと思った瞬間、わずかながら馬車が持ち上がったのだ。窓に手を突っ込めるだけの空間が出来る。そのタイミングを逃さず、円盤に回した鎖の一端を窓に突っ込む。

 

「少女、この鎖を掴むのだ!そして反対側の窓から出せ!少し重いが、出来るな!?」

「は、はいッ!」

 

 少女が鎖を引っ張るのと同時に馬車の反対側に回り込み、やはり小さくなった窓枠の隙間から顔を出した鎖の一端を受け取る。

 

「騎士殿!丸太を持ってきました!」

 

 同時に、最高のタイミングで3本の木柱が調達されてきた。長さ4尺(4.5メートル)ほどの丸太だ。息を切らせ汗みずくになりながらも、機転を利かせて太さも長さもほとんど同じものを選んできてくれた彼らの優秀さに涙が出るほど感謝する。なんて優秀なんだ。

 近衛兵たちは事前の指示どおりに3本の木柱を馬車を囲うように均等な間隔で地面に突き立て、テントの骨組みのように馬車の上で交差させてくれる。

 

「少し馬車に乗る!全員でしかと支えてくれ!」

「お任せを!」

 

 負傷していた者も力を振り絞り、近衛兵全員が馬車を取り囲む。彼らが懸命に馬車を支えてくれるあいだ、裏返った馬車の車軸の上を綱渡りのようにバランスをとりながら一目散に駆け上がる。サラマンドラの耐火ローブが火の燃焼を抑えてくれているが、それでもかなり熱い。分厚い布の下から溶岩のような熱気が沸き立ち、全身に汗が滲む。これを贈ってくれたリンに感謝しながら交差する丸太に到達すると鎖で先端をしっかりと固定し、そこから円盤を二つぶら下げて少女から受け取った鎖を巻きつける。

 『焦るな、だが急げ』。今は亡き親父の大きな手を肩に感じながら無我夢中で作業を進める。女騎士の細い指と巨獣(ベヒモス)のごとき馬鹿力は細かい工作に向いていて、新しい肉体に複雑な心境ながらも感謝する。

 

「よし!滑車が出来たぞ(・・・・・・・)!この鎖を私とともに牽くのだ!これでお前たちの姫を助ける!勇者たちよ、力を振り絞るのだ!今こそ先祖の霊に誉れを捧げる時ぞ!」

「「「応ッ!!」」」

 

 即席の動滑車(プーリー)が完成した!

 大の男が持ち上げられる重量はその体重の6割とされている。近衛兵12人の平均体重と女騎士(オレ)の馬鹿力を合しても180貫(680キロ)が関の山だ。だが動滑車を用いれば、その力は二倍になる。倍にすれば360貫(1360キロ)。理論上はなんとかなる計算だが、現実はそう甘くない。半壊した馬車は不安定だし、木材は雨水を吸って重さを増しているし、貨物を中にどれほど積んでいたのかも正確にはわからない。鎖だって、線径(ふとさ)は幼児の指ほどしかない。本来なら大人の小指ほどなければいけないのに。

 そしてなにより……オレも近衛兵たちも命懸けの戦いの直後で疲労困憊だ。傷を負っている者もいる。体力の備蓄はとうに尽き、洪水のような疲れに今にもその場に倒れ込みそうだ。手足は麻痺したように震え、病気に冒されたように肉体が熱く、気怠い。この肉体は疲れ知らずだと思っていたが、それでも人間であることに変わりはないらしい。だけど、やるしかない。

 馬車から颯爽と飛び降り、神剣の切っ先を勝利の御旗のように天に向かって突き上げる。

 

「タイミングを合わせよ!お前たち、それでもガメニアの男か、それでも誉れある武人か!声を張れ!家の誇りを思い出せ!父祖の期待を思い出せ!己の主君を助け出せ!!」

それ牽け(オー・イス)!!それ牽け(オー・イス)!!」

 

 声を荒げて近衛兵たちを挑発せんばかりに煽り立てる。勇者パーティーの一員として騎士や兵士と関わった経験から、彼らの激情に火をくべるには家の誇りと忠誠心を刺激することが一番だと知っていたからだ。

 彼らを鼓舞する傍ら、オレ自身も鎖を握り締めて地面に踵を突き立てる。

 

(お、重すぎる……!)

 

 しかし、馬車は太古からそびえる巨岩の如くうんともすんとも言わない。引きちぎれんばかりに張り詰めた鎖がギシギシと自らを苛む負荷に異議を叫ぶ。近衛兵たちが苦しげな呻き声を歯の間から漏らす。酷使される肉体が金切り声をあげて抵抗する。ピークを超えた肉体の感覚はすでに失われた。脳が限界だ休めと発する指令を意志の力でなんとか遮断し、肉体に激しく鞭を打つ。

 ぜえ、と喘ぐ声が遠くに感じる。女騎士の身体も決して万能では無かった。無敵ではなかった。手の感覚が薄れてきた。握力が弱まっていく。肺が燃えるように熱い。眼球が血走り、視界が霞み、思考が曇る。無力感が死神の指先のように背中から忍び寄ってくる。

 誰かを救うには、まだ足りないのか。オレはやっぱり、一人では誰を救うことも出来ないのか。もっと力が欲しい。もっと、強い、力、が───。

 

 

 

『クリス、アンタもうこのパーティーに必要ないわよ』

『足手まといはおとなしく田舎に帰っちまいな』

 

 

もはや自分が何をしているのかもあやふやになるなか、聞いたことのある、二度と聞きたくない声が甦る。

 

 

『僕もそう思う』

 

 

 途端、悔しさが烈火の如く燃え上がり、手放しそうになった意識を力づくで掴んで引き寄せた。薄れつつあった視界が急激に復活し、剣を握る手に力が戻る。

 もっと力が欲しい。アイツらを見返してやれるほどの力が。目の前で苦しんでいる人たちを助けられる力が。救いを求めている人に手を差し伸べられる力が、欲しい!

 

(おい、神剣。神の悪ふざけの産物め。見た目も口調も変えられた。もはやこれ以上の不条理なんてないだろう。なら、もう怖いものなんてない。だから、オレに、もっと力をよこせ!!)

 

 次の瞬間。心身に伸し掛かっていたあらゆる負荷が、消えた(・・・)。それだけではない。あらゆる疲労も苦痛も、まるで落ち葉を払ったかのように吹き散らされた。手足の怠さといった刻苦は最初から無かったかのように失せ、限界を訴えていた筋肉の強張りはほぐれ、燃えるように熱かった肺は冷える。残ったのは、十全以上の活力と余裕を満載した、極上のコンディションの肉体と精神だった。

 先ほどまでビクともしなかった馬車の重さが、重かった鎖が、嘘のように軽い。筋力に余裕(・・)を感じる。精神にも熱が満ち溢れ、瞳から輝きが迸っているような錯覚を覚える。なんでも出来る(・・・・・・・)という万能感に心が支配される。その感覚はオーラという不定形な形を伴ってオレの全身から発奮され、オレ自身のみならず周囲の者まで覆い尽くし、染み込んでいく。

 

「おおう!不思議だ、力が漲ってくるぞ!」

「いける!騎士殿となら、行けるぞ!」

「ああ、俺たちなら出来る!出来ないことなんてない!」

「姫様をお救いするのだ!!さあ索け!!」

 

 今にも消え入りそうだった兵士たちの掛け声にたちまち張りが戻る。自分一人に集中していた馬車の重みを兵士たちが引き受けて、鎖の重みはますます軽くなる。まるで兵士たちの体力と士気が一斉に底上げされたかのようだ。

 

(な、何が起きたんだ?この神剣は何をしたんだ!?)

 

 思考に混乱と疑問が差し挟まれそうになったのもわずか1秒未満の間で、馬車がぐんっと持ち上がる手応えとともにそれは消えた。バキバキと鎖によって木材が押しひしげられる音が鼓膜を叩いたと認識した刹那、オレは神剣を片手に馬車に向かって全速力で駆け出していた。一目散に目指すのは、吊り上げられた客車の扉。

 

「少女、下がれ!」

 

 客車の内側で機敏に反応する気配。耐荷重を超えた負荷によって鎖に亀裂が生じる気配。それらを同時に察した瞬間、脳みそがパチパチと光を発し、世界が再び鈍足になる。鎖が一つ二つと歪み、ひび割れ、芋づる式に自壊の前兆を繋げていく様子がやけにゆっくりと見える。兵士たちの戦慄のどよめきまでも引き伸ばされたように間延びして聴こえる。

 されど、オレだけはその鈍重(スロー)な世界のなかで旋風のように動けた。神剣を振り乱し、扉の(かんぬき)を両断すると怪力に任せて扉を客車からむしり取り、後ろ手に振り投げる。月明かりが客車に差し込み、内部の様子をクッキリと浮かし見せる。

 銀髪輝く美貌の少女が、覚悟と矜持を秘めた生硬い瞳でオレを見返していた。上等そうなフランネルのドレスに上流然とした雰囲気を纏った、年の頃10代前半の少女。彼女は、すでに両腕をいっぱいに伸ばし、オレの手を掴もうと、オレが手を伸ばす前から準備をしていた。この勇ましく聡明な少女は、わずかな時間の間にオレが扉をぶった斬って自分を救出することを推測していた。なにより、オレが必ず助けに来ることを信じていた。

 他人から向けられる絶大な信頼に胸が熱くなったのも束の間、分厚い樫の扉を失ったことで全体のバランスが崩壊した客車が車軸の重さに耐えきれず瓦解を始める。ついに鎖がバキリと呆気ない音を頭上で立てて破断する。少女がギクリと目を瞠る。しかし、その瞳に恐怖が忍び込む隙は無い。艶めく蜂蜜色の瞳は、ただ真っ直ぐに、女騎士(オレ)だけを映していた。

 

 

 

「……無事だな、少女よ」

「……は、はい……」

 

 いつの間にか止まっていた呼吸を再開し、オレは深い息を吐き出しながら胸のうちに抱いた少女に確認した。呆然と立ち尽くす少女の背後で、雷鳴のような音を響かせながら重厚だった馬車が見るも無残に崩壊する。崩れ落ちる直前、すんでのところでオレは少女の手を握り、猛然と飛び退ったのだ。

 少女が肩越しに馬車を振り返り、「シリル」と悲しそうに呟く。先ほど、一瞬だけだが、少女とは別に床に突っ伏して動かない人影が見えた。女騎士のすこぶる優れた眼力は、その人影に生命がすでに無いことをオレに伝えてきた。きっと、少女にとって大事な人だったのだろう。救ってやれなかったことの後悔がチクリと胸を刺す。

 崩壊の風圧で馬車に被せていたローブが舞い上がった。すかさずそれを片手で掴み取ると、ザッと一振りで埃を払い落として背に羽織る。損傷はこれっぽっちも無さそうだ。サラマンドラの油が染み込んだ油布(オイルスキン)はこの程度の炎でダメージを負ったりはしない。リンの贈り物にあらためて感謝して思わず微笑みを浮かべる。

 

「女騎士様」

「……む?」

 

 そういえば自分は女騎士だったな、と一拍遅れて振り返って───片膝をついてひれ伏す兵士たちの姿にギョッとして後ずさった。見れば、オレのすぐ目の前で高貴そうな少女までもが両膝をついて(こうべ)を垂れている。この姿勢(ポーズ)については学んだことがある。目上の者に対して最大限の敬意を示す、いわば『服従のポーズ』である。

 瞠目して何も言えないオレを見上げる少女の目が、キラキラと羨望と信頼の光を放射する。

 

「女騎士様、貴方様のその超人的な業前(わざまえ)、多岐に渡る知識と技術、それらを正しく使わんとする気高い規範、勇気、仁愛に、(わたくし)めは心から感服致しました」

「姫様の仰る通りにございます!不肖、この中隊特別従士小隊副隊長グレイ・アルバーツもまた、貴方様のような御仁に出会えましたこと真に感に堪えませぬ!」

「如何にも!貴方様からは常人とは比べ物にはならない威光と貫禄を覚えずにはいられませぬ!」

 

 いや、少女だけではない。片膝と片拳をついて手本のような最敬礼を保持する近衛兵たちまでもが、敬虔な信徒が神像を見上げるような目をオレに向けてキラキラを発散させている。キラキラがあんまりにも凄すぎて目が眩みそうだ。もはや敬意を通り越して崇拝のレベルに達している。オレに後光が差していると言わんばかりの敬慕の視線に、我知らず頬がピクリと引き攣る。こんな状況を今まで経験したことがあるわけもなく、混乱にさらに拍車がかかる。クラス『村人』のオレにあからさまに高い地位の人々が(かしず)くなんて、想像もしたことがない。こんな、まるでオレがカリスマでも授かった(・・・・・・・・・・)ような───。

 

「女騎士様!どうか、私たちをお導き下さい!!」

 

……神剣───!!!




日本の「オーエス!オーエス!」という掛け声のルーツは、フランス語の「オー・イス(さあ、索け)」なんだそうですよ、奥さん。


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7話

 『馬車をひょいひょいと修理する女騎士』。この小説は、そんな面白いギャップのあるシーンを書きたいがために作ったようなものです。馬車の構造を調べることが出来たし、書きたかった描写を書くことができて満足です。
 なお、書き進めるうちに長くなってしまったので、いったん区切った上であともう一話を更新します。


「女騎士様、その素晴らしい剣と鎧はまさかミスリルなのでは!?なんと神々しい!」

「女騎士様、貴方様の剣術にはお見逸れしました!噂に聞く勇者にも勝るとも劣らぬ速さ、いったい師は何方なのです!?」

「女騎士様、貴女の指揮は見事でした!いったい幾つの合戦をくぐり抜ければそれほど見事な指揮が出来るのですか!?」

「女騎士様、どちらの流派(スクール)に所属しておられたのですか!?」

「女騎士様、その工学の知識はどのようにして身につけられたのですか!?」

「女騎士様!」

「女騎士様!!」

「「「女騎士様!!!」」」

 

(……くっころ)

 

 油断すれば「くっころ」と口から漏れてしまいそうだ。頭痛が痛い。どうしてこうなったのだろう。こめかみに手をやり、予期もしなかった今の状況に眉根を寄せる。

 僧兵を退け、少女を馬車から救い出してから、オレたちは馭者と客車内に残されていたメイドの遺体を埋葬した。その後、回収できなかった近衛兵の隊長───谷底でオレの目の前に落ちてきた兵士で、副隊長の父親らしい───に黙祷を捧げた。敬愛されていた隊長だったのだろう、各々の目に光るものがあった。夜空に染み入るような無言の時間だった。それが終わった途端の、これだ。

 興奮する忠犬のようにオレを囲う近衛兵たちを横目で覗き見る。彼らのキラキラとした眼に映っているのは、電光石火の如き勢いで自分たちを窮地から救った謎多き美貌の女騎士の姿だ。目元のキツさが高潔な威厳を漲らせ、全身からカリスマを発散し、見ているだけで安心できる強者の波動を充溢させている。まさに守護神という言葉がうってつけな女騎士だ。正直に言って、そこには実物(オレ)よりかなり誇張されているものが映っている。心境は複雑どころの話じゃなく、ゲンナリせずにはいられない。

 オレはそんな大した傑物じゃない。クラスは最底辺の『村人』だ。自分に出来るか出来ないかなんて判断する前に他人の危機に首を突っ込んだだけの場当たり馬鹿だ。新しい身体とミスリルの装備を手に入れたから彼らを助けることが出来ただけだ。これが真実の実力というわけじゃない。彼らが見ているのは、彼らが見たがっている偶像に過ぎない。

 

(……いや、魅せられている(・・・・・・・)のか)

 

 刀身の血をザッと振り払うと神剣に厚布を巻き付け、その奇妙に熱を帯びた刀身を撫でる。どことなく生物のような脈動を指先に覚え、言い知れぬ不安が腹を寒くする。やはり、普通の剣じゃない。剣の形をした何かだ。

 さっき神剣に念じて得られた“力”と引き換えにオレの身に何が起きたのかと考えを巡らせたが、その正体が見えてきた。己の戦闘力を底上げし、同時に“仲間”と互いに認識した者たちの潜在能力も引き上げる。事実、近衛兵たちは負傷や疲労など振り払ってケロリとしている。その代わり(・・・・・)、彼らはオレに対して過剰な期待と無二の信頼を寄せるようになった。まるで催眠術でも掛けられたように、オレを、実物のオレ以上の存在(・・・・・・・・・・)だと思い込んでいる。オレの言葉が彼らを駆り立て、オレの行動が彼らを無理やり引っ張る。

 神剣から力を与えられるたびに何かを犠牲に差し出しているのかと思ったが、どうもそうではないようだ。力を得るたびに、オレは“理想の女騎士”という偶像(・・)に段階的に変質させられている。この妙に芝居がかった高慢そうな口調だったり、後光のようなカリスマだったり。何を目的にして神剣がそう差し向けているのかはわからないが、そんな気がするのだ。

 

(やめてくれよ。オレは、そんな立派な者になれはしないんだ)

 

 自嘲の笑みが唇の端に滲む。思い返せば、オレは独善的な理想主義者だった。自分に実力が伴っていないことを知りながら、クラス『村人』の弱者であることを自覚しながら、ハントという『勇者』の金魚のフンとしてついて回って、困っている人を誰彼構わず助けようと手足をバタつかせて、一人で勝手に足掻いて、パーティーの足を引っ張っていた。オレがいなければ、もしかしたらパーティーはもっと先に進めていたのかもしれない。みんな、もっと強くなっていたのかもしれない。オレはそのチャンスを奪っていたのかもしれない。そう考えれば、ハントにまで愛想を尽かされたのも当然の報いだ。理想に追いつく力を得てからそれに気付くなんて、それこそ愚か者の証じゃないか。

 

 

 

「───皆さん、女騎士様が困っているではないですか。急な質問攻めは失礼ですよ」

 

 

 

 芯の通った女性の声。しっとりとして静かだが、どんな雑音も貫き通す鞭のような鋭さを有している。とても少女のものとは思えない威厳を具えた声に、浮足立っていた兵士たちは踵を鳴らして一斉に居を正し、本当の主君に注視を向ける。悔恨に落ち込みそうになっていたオレは、ほっと救われた思いでそちらを見やる。

 

(……可憐だな)

 

 ワンピーススタイルのシンプルなホワイトドレスは、質のいいフランネル生地と相まってさぞや清楚な印象を見る者に与えたろう。しかし、今は他人の血が至るところに滲み、端々に痛々しい焼け跡が覗く。だが、それすらも優雅に着こなしてみせるほどに可憐な少女だった。ただそこに立っているだけで、まるで厳かな大聖堂にいるかのような錯覚を感じさせる。持って生まれた(・・・・・・・)権威(・・)は隠しきれるものじゃない。

 少女は、あれほど苛烈な経験をしたのに自失する様子を微塵も見せようとしない。さすが(・・・)と心中で感嘆する。護衛の近衛兵の練度の高さ。充実し、統一された彼らの装備。高品位かつ最新鋭の馬車。“姫様”と呼ばれる少女の、つま先から頭のてっぺんまで一部の隙も無い高雅な雰囲気。ここまでなら、位の高い爵位に座る大領主の娘という推測も成り立つ。しかし、偶然目撃したアレ(・・・・・・・・)が推理の決め手となった。それが示唆する答えは一つしか思い浮かばない。

 少女の正体に確信を得たオレは、恭しく片膝をついて静かに(こうべ)を垂れ、最敬礼を示す。

 

「御身がご無事で何よりです。ルナリア王女殿下(・・・・・・・・)

 

 ザワリと近衛兵たちが驚きに仰け反る。驚くことに、正体を看破されたというのに本人だけはまったく衝撃を受けた様子を見せずに涼しい顔を保っていた。

 

「……私をルナリアだと推測した根拠をお聞きしても?念のために馬車からは王家の紋章を外していました。それに、私は一度会った方のお顔は絶対に忘れません。ましてや貴方のような淡麗な騎士様なら必ず覚えているはずです」

 

 「絶対に忘れない」という言葉には虚勢ではない真実味があった。あらためて少女らしからぬ自負心と胆力に驚きつつ、その問いかけに応える。

 

毛氈(もうせん)です」

「毛氈?」

 

 毛氈とは、羊などの毛で作った毛織の絨毯を意味する。オレの回答が予想外だったのだろう。キョトンと目を丸くしてオウム返しをする王女に年頃の女の子らしさを見て、微笑ましいと思う。こちらの不敬な感想が微かにほくそ笑んだ表情で伝わったらしく、少女の頬にぽっと恥じらいの赤みが差す。

 

「ど、どうして毛氈が出てくるのでしょう?」

「殿下を馬車からお助けする際、チラと敷物が目に入りました。絹のような滑らかな毛並みと艶のある赤銅色は、一瞬見ただけでとても質の良いものだとわかります。あれ程の色艶はガルベストン地方の希少な羊以外に考えられない。そのガルベストンが15年前に王家直轄地となって以来、市場にはガルベストン羊の羊毛は粗末な物以外に出回ることはありません。しかし、殿下の馬車に用いられていた毛氈はガルベストン羊のもので、一級品かつ真新しいものでした。つまり、」

「王家の者でないと入手できるはずがない。王家に連なる血筋に絞られ、そのなかで14歳の女に該当するのは第3王女ルナリア・コールドウェル・ウェストウッド・フォン・ガメニアのみという結論に至るわけですね」

 

 オレの台詞を引き継いで核心を正確に捉えてみせた少女───ルナリア・コールドウェル・ウェストウッド・フォン・ガメニア姫殿下───にコクリと一揖で応える。勇者パーティーとして女勇者を捜しながら各地を回っているあいだ、補給物資の確保はオレの役目だった。地方ごとの物価の差や、好まれる特産品や好まれない文化を商人を通して学んでいった結果、気付けばそれなりの見識を得ていたのだ。

 ちなみに、ガルベストンの羊毛については魔法使いが「ガルベストン羊のピーコートがないと寒い北方には行きたくない」というワガママを訴えたので四方八方に手を尽くして調べたのだ。当たり前だが手に入らなかったし、代わりにと購入したフットファウアー産羊毛のコートは気に入らないと投げ捨てられた。あれでもど田舎の村人だったオレからしたら十分に高級品だ。まったく、理不尽な話だ。

 近衛兵の「凄い」という感心の嘆息にくすぐったさを覚えていると、ルナリア姫が含むもののない自然な笑みを咲かせた。

 

「お見逸れしました。私とほとんど変わらない年齢でしょうに、とても博識でいらっしゃるのですね。剣技や格闘、部隊指揮といった武勇に優れ、馬車の構造を瞬時に見て取る知識や、あっという間に滑車を構築する工学技術を持っていて、それらのみならず商の知識もお持ちだとは。知勇兼備とはまさに貴女を指す言葉です」

「滅相もございません。私など、つい先ほど仲間から役立たずと放逐されたばかりで、行き場をなくして放浪していた身です。そのような大層な者では……」

 

 姫の過大な賛嘆が逆に心の傷に染みた。ハントたちから「必要ない」と言われた記憶が思い起こされて思わず喉が詰まり、上から抑え込まれたかのように頭が沈む。己の実力不足の結果を甘んじて受け入れたとは言え、ショックから立ち直れているとはお世辞にも言えなかった。

 

「まあ、そんな!貴女ほどの逸材をむざむざ手放す者がいるなんて……!」

 

 心底驚いたという反応を示してくれるルナリア姫や近衛兵たちに感謝しつつ、真実を伝えるべきか、伝えるにしてもどう説明すればいいかを悩んだ。「実は今さっきまで役立たずの男でしたし、この剣も鎧も、なんだったら身体も拾い物だし、話し方だって呪いのせいなんです」とバカ正直に告げても信じてもらえそうにないし、言い出せるような雰囲気でもない。なぜなら、オレを囲む近衛兵たちの興奮(ボルテージ)が再び盛り上がる気配を見せ始めたからだ。

 

「女騎士殿、では我が姫に仕官しては如何か!?」

 

 頭を垂れたまま口をもごもごさせていると、兵士の一人が弾けるように声を上げた。彼を皮切りにして次々と賛同の声が沸き立つ。

 

「神兵の如き戦いっぷりはまさに一騎当千!兵士どころか騎士にだって貴女に匹敵する者はいない!」

「貴女の指揮はとても見事だった。経験に裏打ちされ、実に理に適った采配だった。隊長を失って統率を失いかけていた我々には指揮官が必要だ」

「そうだ、貴女がいてくだされば、『赤の団(・・・)』とだって───」

「お、おい!皆、口が過ぎるぞ!」

 

 副隊長が気色ばみ、鋭く制した。口を滑らせた兵士が慌てて口を手で抑える。しかし、この肉体の優れた聴覚はしかとその確信的な台詞を掴んでいた。思考が繰り出されたばかりの独楽(コマ)のように激しく回転し、推論を導き出す。

 

「……ミネルヴァ第一王子が関係している、と?」

 

 副隊長が驚愕に肩を跳ねさせる気配。それと同時に、ルナリア姫の平静を装っていた顔貌に揺らぎが生じた。肯定を示して小さく頷いた表情が暗く陰る。

 『赤の団』。全員が『剣士』のクラスで構成された王国騎士団(ロイヤル・ナイツ)において、特に優秀な者のみが選抜して集められた総勢100人の精鋭中の精鋭たる戦闘集団。第二王子の『青の団』と合わせて王都を守る戦力を為す。

 ……とここまでは聞こえはいいが、その実情は異なる。“優秀”の定義が大いに歪んでいる。騎士とは名ばかりの、品行方正とは無縁な荒くれ者が集められ、武力の行使のみに特化した単なる暴力装置に過ぎない。

 オレ自身、『赤の団』にはいい印象はまったく無い。ハントが王城に招かれた日、平民の使用人に横暴な態度をとっていた団員を咎めたら、危うく逆上したその騎士に斬り捨てられるところだった。剣が振り下ろされる直前、オレが勇者パーティーの一員であることを理由に騎士を制した男こそ、『赤の団』を束ねる軍団長にして、この王国の王位継承者第一位に君臨する若き精悍なる王子───ミネルヴァ・コールドウェル・ウェストウッド・フォン・ガメニアだった。

 「すまなかったね」という口先だけの謝罪の裏側から滲む平民への嘲りを思い出し、オレは厳しい眼差しで顔を上げる。

 

「ミネルヴァ王子は王立教会の枢機卿らと大変懇意になされていると耳に入れております。此度の僧兵らによる襲撃の裏にいるのは王子だとお考えなのですね?」

「確証はありません。ですが、それを臭わせる発言を僧兵が漏らしました。考えたくはありませんが……」

 

 ルナリア姫の長い睫毛が震える。よくよく見れば、目鼻立ちに記憶のなかのミネルヴァ王子と似た印象が散見された。内面まで王子に似なくて本当によかった。

 血を分けた実の兄妹に命を狙われるのは、きっと辛いだろう。肩をさざ波のように震わせる姿は演技には見えなかったし、他人を騙すような悪辣な人物にも見えなかった。ルナリア姫が治める領地では善政が敷かれていたし、好人物であるという噂は耳にしていた。オレは彼女を信じようと思った。

 

「殿下。殿下が領地を出てこのような場所におられる理由と、ミネルヴァ王子からお命を狙われる理由をお聞きしてもよろしいですか?」

「……普段、彼らはこれほど口が軽くありません。近衛たちは貴方に“将の器”を認めたようです。私も貴方にはそれを感じます。貴方を召し抱えることができればどんなに素晴らしいことか」

 

 口を滑らせた兵士を咎めない度量を示してすぐ、ルナリア姫は「ですが」と声音を低める。

 

「まだ貴方は私に仕官していない。私は貴女を叙任していない。貴女の名前すら知らない。だから、まだ通りすがり(・・・・・)でいられます。いらぬ面倒に関与してしまう前に、今ならまだ去ることが出来ます。私たちも貴女のことを知らぬ存ぜぬと押し通すことができます。それほど、事は重大なのです。一刻も早く王都に着かなければなりません。どんな障害に当たろうとも。もし、これ以上のことを聞きたいというのであれば……もはや後戻りは決して出来ないと心得なさい」

 

 大の男も萎縮してしまうような威厳を伴った強い台詞だった。脅迫とも捉えられる。だからこそ、彼女の表情とのギャップに胸を打たれた。縋り付くものを求め、助けを乞う子供の双眸。涙をいっぱいに讃えて、喉元まで出かけた「誰か助けて」という藁を掴む叫びを辛うじて抑えている、か弱い女の子の表情だった。

 

(オレは───オレはどうすべきなんだ?)

 

 オレはパーティーから追い出された。実力不足で、必要とされなくなった。それは厳然とした事実だ。だが、新たな力を手に入れたからと言って、ハントたちの下にのこのこと戻ろうという気にはなれなかった。「女になって強くなったからまた仲間にしてくれ」なんて、どんな顔をして言えばいいんだ。受け入れられたとして、どんな顔で過ごせばいいんだ。それに、この力はオレが実力で手に入れたものじゃなく、偶然見つけた拾いものに過ぎない。努力や才能で己を磨いてきた勇者パーティーの一員には相応しくない。

 なにより、本音を言えば……オレは新しい仲間を欲していた。新しい自分と新しい人生、新しい役割を欲していた。独断専行を好み、連携を好まないハントたちと違い、訓練された近衛兵たちはオレの意見に耳を傾け、オレの指示を尊重し、意図を汲み取って的確に動いてくれる。オレのような『村人』という最底辺のクラスの言うことをちゃんと聞いてくれる。そしてルナリア姫は、オレを必要としてくれている。この王国のお姫様が、だ。そんなこと、誰が想像できただろう。ほんの5年前まで大工として顎で使われていたオレが、ほんの少し前まで勇者パーティーのお荷物だったオレが、お姫様に必要とされている。誰かに必要とされ、認められ、助力を求められることなどなかったオレは、そのことが堪らなく嬉しかった。

 目の前に新世界が萌す一方で、過去という洞窟の奥から流れてくるような虚ろな声が耳元に囁かれる。

 

 

『お願いだ。僕を支えてくれ、クリス』

『ああ、ハント。お前が立派な勇者になれるように、俺がどこまでも付き合ってやる』

 

 

(何をいまさら!お前が、オレをいらないと言ったんじゃないか!)

 

 最後に見たハントの顔が脳裏に浮かぶ。眉根を苦しげに寄せ、唇を悲しげに噛み、寂しそうな目でオレを見ている。どうしてそんな顔をしているのか、理由を想像しようとして、やめた。もうオレには関係のないことだ。背中に追いすがってくる後ろめたさから顔を背けて力づくで振り払うと、オレはぐっと目を瞑り、そして開ける。どうするか、決めた。

 

「なれば殿下、私めに貴女の守護騎士(ガーディアン)の位をお授けください」

 

 厳かに告げて、本で読んだ騎士叙任式の礼儀作法を思い出しながら両手で保持した神剣を捧げもののように差し出す。ミスリルの剣身が神秘的な輝きを放つ。近衛兵たちの「おおっ」という感動のため息が空気を微振させ、小さく息を呑んだルナリア姫の拳が安堵に震えるのが見えた。力が抜けそうになった膝を叱咤したルナリア姫がオレの目の前まで歩を進め、礼儀に則って神剣をそっと手に取る。

 と、耳を澄ませなければわからないほどの弱々しい声が呟かれる。

 

「もう、本当に戻れないんですよ。私たちの前に立ち塞がる相手はとても大きく、邪悪です。しかし、進むしかありません。……それでも、いいの?」

 

 オレは心底驚いた。大切な友人を失い、護衛の(かなめ)を失い、絶体絶命の状況に叩き落されたのに、ルナリア姫はオレという他人を巻き込みまいとしている。強い味方は喉から手が出るほど欲しいだろうに。その偉大な精神性と底知れぬ慈愛に、オレはこれ以上無いほど胸が熱くなった。

 こんな主君に仕えることが出来るなんて、幸せなことに違いない。『村人』には逆立ちしたって手に入れられない名誉に違いない。

 

「構いません。むしろ私としても望むところです。私に第二の人生をお与え下さい。殿下に仕え、殿下のために生きるという新しい役目をお授け下さい。これは過去を捨て去り前に進めという運命の導きに他なりません」

 

 本心だった。これはオレが生まれ変わる良いキッカケになると思った。

 「ありがとう」という心からの感謝の呟き。その台詞に重なって、神剣の平がオレの肩にそっと置かれる。

 

「その覚悟、然と受け止めました。女騎士よ、貴女の名を名乗りなさい」

「私の名はクリス───ティアーナ。クリスティアーナ、です。ティアナとお呼び下さい、殿下」

「わかりました、ティアナ。では、簡易的ですが騎士叙任の儀を執り行います」

 

 オレの本名はクリスティアンで、クリスは愛称だ。だから咄嗟に、クリスティアンの女性名であるクリスティアーナを名乗った。ティアナであれば、過去のオレを知る者が聞いてもオレのことはわからないはずだ。

 今度は神剣の呪いではなく自分から過去を斬り捨てたことにみぞおちが冷たさを覚えるも、やはりそれからも顔を反らし、騎士の誓いを唱えるルナリア姫の瞳をじっと見つめる。

 

「ティアナ。我が騎士となる者よ。謙虚であれ。誠実であれ。礼儀を守れ。裏切ることなく、欺くことなく、弱者には常に優しく、強者には常に勇ましく。己の品位を高め、堂々と振る舞い、民を守る盾となれ。主の敵を討つ矛となれ。騎士である身を忘れるな」

 

 少女らしからぬ威厳ある声が言霊となって全身をビリビリと激震させる。この世界に騎士が誕生してから今日まで継承されてきた品位と伝統が実体的な重さを伴って魂に伸し掛かる。それに負けじとオレも一言一言に熱意を込めて宣誓の言葉を紡ぐ。

 

「我が主君、ルナリア・コールドウェル・ウェストウッド・フォン・ガメニア姫殿下。我が名誉と誇りに懸けて、御身を守り抜くことをここに誓います」

 

 そして、そっと剣身に唇を落とす。主君と騎士という主従関係が成立したことの証だ。これで騎士叙任の儀式は終わった。見上げれば、ルナリア姫が頬を緩ませて微笑んでいた。その瞳は久しぶりに安らぎを覚えて涙に潤んでいた。

 

「近衛兵全員、新たな守護騎士(ガーディアン)ティアナ殿の叙任を讃えよ!!」

 

 副隊長のたくましい号令が轟くやいなや、厳かな静寂が歓呼の咆哮へと一瞬で場を譲った。剣という剣が夜空に向かって突き上げられ、雄々しい咆哮が星星を圧倒する。オレの新しい門出を祝ってくれているように思えた。今からオレはティアナだ。ルナリア姫を護る騎士になったんだ。これでいい。これでよかったんだ。過去の弱いオレのままだったならお姫様の騎士になるなんて夢のまた夢だった。オレはこうなることを望んでいたんだ。

 そうやって自分を無理やり納得させ、オレは騎士に任じられた喜びの余韻に浸りながら姫に満面の笑みを見せる。

 

(じゃあな、ハント。もう会うことはないだろう。元気でやれよ)

 

 心の鉄扉を閉める。陰ってゆく扉の向こうに垣間見えた寂しげな子供(ハント)の姿に胸に痛みが走ったのも一瞬、音を立てて扉が完全に施錠されれば、それも徐々に薄れていった。

 今日このとき、オレは生まれ変わった。弱かった『村人』クリスを捨て、強い『女騎士』ティアナとして生きていくんだ。

 

 

 決意と希望に燃えるオレの手のなかで、神剣が“熱”を脈動させたが、何故かもう気にならなかった。




 登場人物の名前や国名は全て『星を継ぐもの(著:ジェイムズ・P・ホーガン)』から引用しています。「ファンタジー小説を書くときは真逆のSF小説からアイデアを貰う」というのが僕の考えでして、今回もそうしました。
 『星を継ぐもの』とは、主人公であるヴィクター・“ハント”と、彼の良きライバルである“クリス”チャン・ダンチェッカー教授、そこに色を添える“リン”・ガーランドが地球生命のルーツを探る、SF小説の最高傑作の一つです。近未来、月基地建設中に高度な宇宙服を装着したミイラが発見されます。調べてみると、なんと5万年前の人間だということがわかります。過去の地球にそんな高度な文明があった証拠はないのに、遺伝子は間違いなく人間に違いありません。このミイラ“チャーリー”は、いったいどこから来たのか。どうして月で死ぬことになったのか。最後の数ページで大どんでん返しがあり、読者に驚きを与えること間違いなしです。お薦めです。ちなみに漫画版もありますが、ストーリーが原作と違います。僕は原作小説の方が好きです。


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8話

ご唱和ください、我の名を!


(なんて、美しい人なんだろう)

 

 火の粉を散らせ、颯爽とローブを背に羽織る女騎士の幻想的な姿に、私は殺されかけていた事実すら忘れて心の底から見惚れてしまった。

 背後の満月さえも脇役に押しのけてしまう神秘的な存在感に思わず息を呑む。月光に負けじと輝く豊潤な金長髪。思わずたじろいでしまうほど完璧な美貌。健康的に伸びた白く長い手足、くびれた華奢な腰と豊かな肉付きは、砂時計のような曲線美を大胆不敵に躍動させる。そんな、美の女神も裸足で逃げ出す見た目とはまったく対称的な硬さを秘めた、エメラルドグリーンの瞳。まるで男性のような硬質さを宿す双眸は、悲しみと慈しみ、強さと哀愁を奥に秘めて、複雑(ミステリアス)な煌めきを放っている。

 およそ男女という枠を超えた、ヒト型が到達しうる究極の美の結晶人を前にすれば、同性であろうと心を奪われずにはいられない。所作一つひとつが絵画じみていて、まるで内なる魂から煌々と光が溢れ出ているかのようだ。

 

(なんて、強い人なんだろう)

 

 ただ美しいだけではない。並外れた身体能力、卓越した剣技、無敵の装備、出会ったばかりの近衛兵を一つの群生生物のように操る神がかり的に見事な指揮。それら前衛(はながた)としてのスキルのみならず、馬車や滑車に通じた工学技術や一流の商人顔負けの知識といった後衛(サポート)にまで秀でている。強靭な意志の力で不可能を可能にしてみせる様は、まさに完璧という言葉を体現する理想の騎士だった。

 

 今もって、私は彼女の素性も知らない。どこから来て、どんな人生を経てきたのか、露とも知らない。でも、この人は信頼できると確信していた。なぜなら、この人は誰よりもまっさきにシリルの遺体を弔ってくれたから。

 王家に仕える廷臣とはいえ、メイドは平民出身の女性と決まっている。そのためにシリルに対して心無い態度をとる騎士や貴族は絶えなかった。私の近衛兵たちでさえ、最初の頃は長年の習慣からぞんざいな対応をしていた。悪気があって蔑視をしていたわけではなく、生まれ持った身分やクラスが人生を左右するこの世界では致し方の無い、骨の髄まで染み込んだ“伝統”のようなものだった。シリルという平民の友が出来なければ、私も同じことをしていたと思う。

 そんな理不尽な世界で、彼女は生前の姿が見る影もない無残なシリルの遺体を赤子のように大切に抱きかかえ、丁重に埋葬してくれた。戦友でもなんでもない、生きている内に言葉を交わしたこともないシリルが御世に旅立てるようにと本心から祈ってくれた。そこには身分の違いなど介さない思いやりが確かにあった。きっと『剣士』より高位の恵まれたクラスだろうに、彼女は理不尽な世界の因習に染まってはいなかった。そのことに、私は心から感じ入った。

 

(19歳……いえ、18歳かしら?)

 

 長く優美な手足と凛々しいアルトの声音、そして経験の積み重ねを感じさせる奥行きのある双瞳が見た目の年齢を大人びさせているけれど、よくよく見れば齢の頃は私とほとんど変わらないことがわかる。まだ大人になりきれていない顔立ちから、少なくとも20歳には達していないと思えた。けれど、その落ち着いた佇まいは如何にも地に足がついた大人そのもので、どれだけの経験を積めばその歳でその域に達せられるのかと思わず問い詰めたくなる。王国選り抜きの家庭教師に教えを請うたとはいえ、しょせん受け売りの知識しか知らない私が逆立ちしても敵わない“生の体験”が身の内に充溢し、全身から自信となって溢れている。

 表面的ではなく確固とした根拠に裏打ちされた言動にこそ人は説得力を感じるし、そういう言葉こそ人を導くに足る力を持つ。この女騎士には人の上に立つ“格”を感じた。

 

(どうして、こんな英雄のような人が仲間から追い出されてしまうのかしら?)

 

 恭しく跪いて私をこの王国(ガメニア)の姫だと見事に言い当ててみせた女騎士は、名をクリスティアーナというらしい。ティアナと呼んでほしいと願った彼女は、なぜか家名を名乗らなかった。ミスリルらしき最高級の装備と手本のような騎士叙任の作法を見ても、歴史ある名家生まれで高い教養を備えていることは明らかだ。

 他者を慮る物腰は余裕があって柔らかいけど、貴族的な大仰さや優雅さはなく、物心ついた頃からの教育で研ぎ澄まされた武人的な洗練さや突き放すような厳格さはない。むしろ、互いに助け合おうとする細かい心配りと最低限の動作で最大限の効果を得ようとする無駄のない動きには、シリルのような平民の雰囲気を感じる。そのことから、ティアナはかつて人品卑しからぬ身分ではあったが、事情があって平民に格下げされてしまった家の出なのではないかと私は予想した。おそらくは武家だろう。彼女が幼い頃に平民になっていたのなら、これほどの武人が無名であることも、私が顔を覚えていないことも頷ける。あえて家名を口にしなかったことには理由があるに違いない。

 

(きっと、なにかあったんだわ)

 

 仲間から放逐されたと語る際、俯くティアナが見せた悲哀の欠片を私は見逃さなかった。何があったのかは想像するしかない。けれど、この実力と美貌だ。実家や以前の仲間との間で、さぞや不快な出来事が起きたのだろう。ティアナの真っ直ぐな正義感や誠実さからして、彼女がトラブルを引き起こす人間とは思えなかった。むしろ真っ直ぐ過ぎる正義感や誠実さが仇となったのかもしれない。不条理なこの世界では出る杭は打たれてしまう。ティアナなら尚さらだ。ともかく、傷心の女性、しかも恩人に対して今は不躾に尋ねるべきではないと思った。

 

(これほどの武人がまだ誰にも仕えていないなんて信じられない)

 

 話を聞けば聞くほど、ティアナには運命を感じずにはいられなかった。それと同時に、これほど有能な人材を野放しにしていた王国と、これほどの類稀なる逸材をまんまと手放したという彼女の元仲間に、感謝と呆れという相反する感情が募った。元仲間に追い出されたティアナには気の毒だけど、私にとってはこの上ない幸運を寄越してくれたも同然だから。

 今夜、大事な人たちを奪われてようやく理解した。私には“力”が足りていない。救いも、願いも、理想も、悪意を持った武力で潰されてしまえばひとたまりもないということを知った。力を伴わない声は存在しないに等しい。だけど、今の私にはその“力”を体現する強い味方(ティアナ)がいる。それに、アルバーツという精神的な柱を失った近衛兵にとっても、彼女は必要不可欠な存在だ。

 

「私の馬をどうぞ、ティアナ()()。隊のなかでもっともガタイの良いやつです。姫様とご一緒に乗って頂いても問題なく快走してみせるでしょう」

「しかし、グレイ殿の愛馬であろう、本当に良いのか?」

「構いません。姫様の馬車を牽いていた馬もおれば、父の軍馬もおります。余っているくらいですよ」

「そうか。かたじけない。グレイ殿のお言葉に甘えよう」

「いえ。隊長に跨ってもらえるなんて、こいつも喜びますよ。それと“グレイ殿”はやめてください。貴女が隊長なんです。姫様がそうお命じになったし、俺もその方がいいと思います。だから、俺のことはどうか副隊長とお呼び下さい」

「ああ、わかった、グレイ副隊長。新参者が指揮権を横から簒奪する形になって許してほしい。これからよろしく頼む」

「と、とんでもない!俺こそ、貴女のようなお美しい───じゃなくて勇壮な騎士のお傍に立てるなんて最高───じゃなくて、とても名誉なことです!」

 

 わははは、とグレイがいつに無く調子の高い笑い声をあげる。違和感があると思ったら、いつの間にか愛用の無骨な(ヘルム)を脱いで素顔を晒していた。「近衛兵足るもの常在戦場。(ヘルム)はよほどのことがないかぎり外しませぬ」と堅苦しいことを言っていたのに。今はそれどころか、時おり手櫛で前髪をささっと整えている。ティアナがグレイから目を外した隙に、ああでもない、こうでもないと前髪をいじる。いじり終わったら顎周りを撫でてヒゲの濃ゆさをしきりに確かめて、ティアナの横顔を見つめてはうわの空といった表情をとろけさせる。

 隊長が戦死したのだから、順当に考えれば副隊長であったグレイが繰り上げされて隊長の役を担うはずだった。そこへ、命の恩人とは言え会ったこともない少女がやってきて隊長に任ぜられたのだ。任命したのは私だけど、そのことをグレイが面白く思わないのではないかと心配していた。けれど、ティアナはそんなグレイを気遣って角が立たないように謙虚に接してくれている。予想以上の人格者だ。私の心配が杞憂とわかってほっと安心する。でも、グレイのモジモジとした態度を見るに、もしかしたらそれ以上に厄介なことになっているような気がする。

 のぼせ上がった少年のように急に身なりを気にしだしたグレイの行動に首を傾げて、ふと彼の父親であった近衛兵隊長のアルバーツが2年前に彼を私に紹介した時のセリフを思い出した。

 『息子という贔屓目を廃しても、剣の技量は確かです。が、私に似らず生真面目で、二十歳を過ぎても交際の一つもしたことがない修練一筋の堅物です。婦女子との会話もろくにしたことがございません。決して醜男ではないのですが』

 

(………グレイ、あなた……)

 

 「もっと遊びを教えるべきでしたなあ」とアルバーツの呆れ声が耳元にこだまする。私の心中の呟きが聞こえでもしたのか、はたまた私のじとっと細めた視線を察知したのか、グレイがハッとして背筋を伸ばすとわたわたと慌てて近衛兵たちに指揮を飛ばし始める。

 

「さ、さあっ!先はまだ長い!ティアナ隊長のもと、必ずや王都ウォキンガムに辿り着くのだ!」

「「「おうっ!」」」

 

 上擦った声に、近衛兵たちがいつも通りの───心なしかいつもより気合の入った───咆哮で応える。けれど、彼らが兜の下で茶化すように頬を綻ばせているのは明らかだ。

 アルバーツの采配で、私の近衛兵には血気盛んな若武者ではなく30代から40代前半の熟練兵が峻別されている。20代は、兵学校を主席で卒業した若き武人にしてアルバーツの息子でもあるグレイのみだ。彼らにしてみれば、私は自分の娘と同年代だし、グレイもまた長年慕っていた隊長の一人息子とあって他人とは思えない存在なのだ。そして、今年22歳になるグレイの目には、ティアナは年齢の近い絶世の美少女として映っていることは世間知らずの私にもよくわかる。

 遅れてきた思春期そのものの反応を隠しきれないグレイと、彼を温かく見守る近衛兵たちを見回し、私も思わずふっと微笑みをこぼす。それは安堵から生まれたものだった。親友、父親、隊長。私たちはそれぞれにとって大切な人を失った。絶望のとば口まで追い詰められた。まさに悪夢のような辛い夜だった。けれども、私たちは自分を見失うことはしない。誰にも私たちの心を完全に打ちのめすことは出来ない。なぜなら、私たちはティアナという新しく強い希望の光を得たのだから。

 宵闇が薄れ、東の空が白み始める。光差すその方角には、まさしく私たちが目指すガメニア王国の王都ウォキンガムが待っている。

 

(天国から見ていて、アルバーツ、シリル。貴方たちの死は、絶対に無駄にはしない)

 

 山脈を照らす曙光に拳をギュッと力ませる私の肩に、そっと手が置かれた。振り返れば、優しさを帯びたエメラルドグリーンの眼差し。この瞳はどれほどの不条理に鍛えられてきたのだろう。何度も何度も悔しくて悲しい思いに打ち据えられてきたのに、それでも他人を思いやる心を手放さなかったティアナの眼差しが私をひたと見据えていた。

 形の良い朱色の唇が悠揚迫らぬ落ち着いた声音を発する。心を暖かく包むこむような響きに、意識せず“兄”という単語が想起される。

 

「姫様、まずは態勢を立て直すことが先決です。ここから東南に馬を半日走らせた穀倉地帯にメア・インブリウムという合同村があります。穀物の取り引きで栄えていて、ほぼ街といって差し付けない賑やかで活気のある村です。そこへ行きましょう」

「ですが、私たちは一刻も早く王都へ行かねばならないことがあるのです。早駆けすれば一週間もせずに辿り着けるはず。立ち寄っている暇など……」

「当初の計画とは大きく狂っているはずです。馬車を破壊され、ほぼ全ての物資が失われました。食料や衣服から馬の餌料、予備の武器もです。剣も盾も馬車の下敷きになり、燃えてしまってもはや使い物になりません。近衛兵たちの装備もかなりのダメージを負わされています。糧食もなく装備も心もとないとあっては、どんなに士気が高くとも王都まで強行軍を続けるには不安が大きすぎます。メア・インブリウムを過ぎてしまうと規模の大きな村も街も望めません。補給と整備のチャンスはここだけです。『勇者』のクラスを持つ超人ならさておき、我々のような普通の人間は士気だけでは戦えません」

 

 “()()()()()”?貴女が?

 どこの世界の普通の人間が飛来する矢の雨を叩き落とせるのだろう。全員の胸中に浮かんだ疑問を露と知らず、ティアナは説得の言を紡ぐ。

 

「幸いなことに、メア・インブリウムには腕のいい信用できる鍛冶屋もおります。一日あれば、人数分の剣を鍛え直すくらいは可能でしょう。一度仕事を頼んだことがありますが、相応の金さえ払えば良い仕事をする一端の職人です」

 

 ティアナの言うことはもっともだ。焦燥に逸って冷静でなくなっていた。僧兵の模造(デミ)ミスリルによる槍撃で近衛兵たちの剣盾や鎧はひどく破損させられているし、彼ら自身も生死をかけた戦いをなんとかくぐり抜けた直後なのだ。装備の修繕と合わせて、疲労困憊の彼らを休息させなければ、王都への道半ばで歩みが止まってしまう。そこを狙われてしまえば今度は抵抗できないかもしれない。メア・インブリウムが最後の補給のチャンスということも理にかなっている。記憶の地図を俯瞰すれば、たしかにこの村から王都への間には街らしい街はない。

 ティアナが持つ兵站の重要性への理解と地理への広範な知識について、何度目かわからない感心をして目を丸くする私に、ティアナが説得の追い打ちをかけてくる。

 

「それに、姫様のお召し物も替えていただいた方がよいかと。そのような高級な衣服は間違いなく目立ちます。このままでは如何にも“裕福なご令嬢のお忍び旅”と宣伝してまわっているようなものです。そこへ護衛の少なさと装備の貧弱さを見れば、不届きな野盗や山賊が黙ってはいないでしょう。非礼な物言いになりますが、穀倉地帯と王都の間は不毛の一帯で、王国の治世があまり行き届いておりません。賊の隠れアジトもあるほどです」

「ティアナ隊長、そういえば数年前、勇者一行が国王陛下に拝謁する際にその一帯を通って、そういった破落戸(ならずもの)らを退治したはずでは?」

「ん?ああ、たしかに去年に通りがかった際に偶然山賊のアジトに遭遇して大立ち回りをしたが、周辺の治安のために他のアジトを探して駆逐してしまおうと言ってもハントも誰も耳を貸さずにすぐに立ち去ってしまったから中途半端になってしまって、」

「え?」

「ア゛ッ!?ち、ちがう!そういう噂を耳にしたまでだ!勇者一行による山賊退治は完全なものではなかったから、連中がまた息を吹き返している恐れは十分にある!いらぬ危険まで背負うことはないと言いたいのだ!」

 

 不自然に声を荒げたティアナが目をグルグルと瞠らせ、近衛兵の一人に詰め寄って力説する。その勢いに負けたわけではないが、私は「なるほど、たしかに」と顎に手を当てて納得する。馬車と装備を失った今、あえて高貴な身分であることを喧伝しながら王都へ向かうのは余計な危険に身を晒すことになりかねない。それを防ぐために身分を隠すような変装をすべきという進言は的を得ている。ついでに近衛兵たちも装備を一新するついでに服装を変えれば、私の命を狙う追手への目くらましにもなる。目立たない格好で、穀物を運搬する人々がごった返す大街道に出てしまえば、こっちのものだ。

 だけど……一つ、気がかりなことがある。

 

「ティアナ、その、言いにくいのですが、私たちには()()()()()が……」

 

 馬車はほぼ全て燃えてしまった、とティアナは言った。であれば、金品もまた同じ灰への運命を辿ったに違いない。王族とはいえ自分の領地を経営している身なのだから、この国の隅から隅まで貨幣経済体制が敷かれていることくらいはちゃんと知っている。代金を支払わなければ対価を得ることは出来ないのは自明の理だ。メア・インブリウムで服や剣がいったい幾らで取引されているのかまでは知らないけど、人数分を購入するとなるとそれなりの金額になるだろう。その証拠に、近衛兵たちも気まずそうな表情で互いに目を合わせている。庭師の次男坊から近衛兵隊長にまで努力で上り詰めた叩き上げのアルバーツならともかく、他の者たちは己が『剣士』のクラスであると神託を得たときから剣の腕一つを極めてきた。そんな彼らにしてみても、無一文の状態で放り出された経験などあるはずもない。

 自分のせいだ、と気落ちして肩を落とす。火急の件だったため、急遽荷物をまとめて少人数で出発したし、途中にどこにも立ち寄る予定はなかったから、非常時のためのお金はシリルがわずかに持っていただけだった。今考えれば想定不足にも程がある。家宰(かさい)はもっと準備をするべきと諫言してくれたのに、それを聞き入れずに飛び出してしまった。

 私が第三王女であることを知らしめて必要なものを徴出してしまうという手も考えられるけど、それは私の矜持が許さない。民草に理不尽を強いることはしたくない。それこそ山賊と同じになってしまう。そもそも、王家の身分をひけらかすような華美な装飾を私が好まなかったこともあって、私が王家の一員であることを証明できる物品は、ティアナが目にした馬車の毛氈くらいなものだ。それらをまるまる失ってしまった以上、私が王女であることを証明するものがなくなってしまった。というわけで、王女としてはとても情けない話なのだけれど、私はまったくの無一文なのだ。

 己の未熟を突きつけられて自己嫌悪に浸りそうになる。

 

「姫様、ご安心ください。私に一計があります」

 

 わだかまる負の感情を討ち晴らす力強いセリフに顔を上げれば、ティアナが得々とした笑みを浮かべて自信満々に胸を張った。ミスリルの胸当ての内側で豊かな乳房が鞠のように弾む。

 

「私は長らくパーティーの裏方をやってきましたので、資金繰りについては多少の心得があります。錬金術師のように無から有を生み出すことは出来ませんが、1から10を生み出すくらいはやってみせましょう。なに、一夜にして姫様を金満家にしてみせますよ」

 

 なんと贅沢な裏方がいたものだ、という近衛兵たちの心の声が聞こえた気がした。宝の持ち腐れもいいところだ。ティアナが属していたというパーティーには適材適所という考えがごっそり欠如していたに違いない、と私たちは戸惑いを覚える。……若干一名はティアナが身体を反らせたことでスカートから顔を出した白い太ももに気を散らされてそれどころじゃないみたいだけれど。

 でも、信じられる。ティアナは根拠もなくうそぶいたりはしない。大言壮語を好まない人間だからこそ、今のティアナの自信に満ちた笑顔からはそれだけの説得力が滲み出ていた。

 

「他でもないティアナがそう言うのなら、私は信じましょう。皆も良いですね?」

 

 近衛兵たちが一斉に力強く頷いて応える。無一文の私をお金持ちにしてみせるなんて、いったいどんな魔法を使う気なんだろう。不敵な表情を見せつけるティアナに、あらためてこの才知豊かな女騎士を叙任できた幸運に心から感謝する。ティアナがいれば不可能なんて無いと思える。強くて、多才で、人格者でもあるティアナの方が、()()()()より何倍も勇者として相応しい。

 

()()()よりティアナの方がよっぽど適任だわ)

 

 実は一度、私は勇者をこの目で見たことがある。

 この世界で唯一『勇者』のクラスを神から授かったとされる少年、ハント。歴代勇者のなかでも最強と噂され、魔王を打倒する可能性も秘めた超一流の戦士。そんな彼が、国王であるお父様に拝謁するために城までやってきたことがあった。伝説の勇者をひと目見ようと、私は心躍らせながら上階の窓から彼を覗き見たのだ。だって、もしかしたら将来、自分の夫となるかもしれないと思ったから。

 最初、意外なほどに勇者が幼いことに驚いた。一回りは上だろうと思っていたら、私とほとんど年嵩の変わらない子どもだった。子どもでありながら、剣技を披露するために国王の近衛兵と御前試合を行った際の剣舞の冴えに大きく喉を鳴らしたことを覚えている。精鋭中の精鋭であり己より遥かに巨躯の騎士を、赤子の手をひねるようにやすやすと地に伏せさせる実力に、お父様すら言葉を失ってしまった。大人と子どもの立場が完全に逆転し、近衛兵は手も足も出ていなかった。圧倒的なパワー、圧倒的なスピード、圧倒的な動体視力、圧倒的な戦闘センス。───でも、それまで(・・・・)だった。

 ハントは、一緒にいた少し年上の男の人に頼り切っていた。傍目から見ていてもそれがよくわかった。あの人は兄だったのだろうか。それにしては一人だけ痩せていて装備が貧弱だったけど、ハントに対等に話しかけていたから少なくとも従者ではなかった。ハントは、些末なことはそちらに任せて、自分は剣を振るってチヤホヤと褒め称えられることが嬉しくて仕方ないといった様子だった。自分の『勇者』というクラスの力に溺れているのは火を見るよりも明らかだった。数ヶ月前にパーティーメンバーに加わったという武闘家と魔法使いも、男の人が何度も苦言や助言を呈しているのにまるで聞く耳を持たない。武闘家は自分より弱い人間の言うことは聞かないといった態度で男の人をあしらい、魔法使いの少女に至っては無視をしていた。取り付く島のない二人を必死に説得する男の人の涙ぐましい姿を直視していられず、私は勇者への幻滅もあって窓をピシャリと閉めてしまった。

 上から俯瞰して見れば、彼らの関係が理想的で無いことは明白だった。パーティーを率いるリーダー足るべき勇者が完全に機能していないことに、私は少なくない失望を覚えた。

 

(勇者ハント。果てしなく強いけど、中身は未熟。だからこそ、()()()()()()()

 

 己を律する心力を持たず、恵まれた力の正しい使いみちを自分で判断できないというのは、自他共にとって不幸なことだ。それが勇者であれば、もはや目も当てられない。特に、そこに付け入ろうとする者がいる場合には最悪の結末が待っている。

 待ち受ける終焉の様相を想像してしまい、背筋に戦慄が走る。

 

(それこそ、王立教会がたくらむ陰謀───“()()()()()()”!)

 

 偶然、親しい貴族を通じて手元に転がってきたその情報に、私は度肝を抜かれた。王立教会が勇者を独自の戦力として組み込もうとしているというのだ。すでに僧兵団という信仰厚く精強な独自の兵力を有していながら、王立教会は密かに勇者とその仲間たちを己の子飼いにしようとしている。そして、行く行くは勇者たちを尖兵としてクーデターを起こし、国王の心胆を寒からしめるのみならず、不遜にも王国そのものを乗っ取ろうとしているという。最初はくだらない陰謀論だと片付けようとした。たしかに勇者パーティーには女性の神官が派遣されているが、それは根拠にはならない。魔族の出現に対応して各地を転戦する勇者パーティーを支援するには、王国の出先機関より各地の王立教会支部の方がまだ役に立つ。神官はその連絡役としてパーティーに加わっていると聞いていたし、なにより信じるに足る証拠が無かった。怯えた様子で陰謀を打ち明けてくれた貴族の女性をやんわりと諌め、その日は護衛をつけて家路へ着かせた。翌日、もっと詳しく聞こうと思ったのだ。

 しかし、翌朝にその女性が殺されたという話を耳にして、私は胃の腑に氷を詰め込まれたかのような恐ろしい不安に襲われた。彼女は暗殺されたのだ。迎えに行かせた使用人によると、家族もことごとく殺され、当人は酷い拷問を受けた末に絶命していたという。拷問をした下手人は、彼女が情報を誰に話したのかを問い詰めたに違いない。その報せを聞いて、私は情報が正確だったことを確信した。そして、自領地を出発してからわずか2日で僧兵に襲撃を受け、揺るぎない証拠を得た。さらに、その背後にはミネルヴァお兄様がいることも知ってしまった。

 

(お兄様……どうしてなのですか?)

 

 ミネルヴァお兄様。3人兄妹のなかでもっともお父様の信任厚く、弟と妹を大事にしてくれた長兄。他人に対しては冷たくて取っつきにくい性格だけど、度を超えた理不尽を押し付けることはしない理性を具えていた。平民を斬ろうとした配下の騎士を制止して、後にその騎士を処罰したという話も聞いたことがある。荒くれ者が多い『赤の団』を自らの支配下に置いたのも、彼らの手綱を締めるためだと語っていた。その言葉に偽りがあるとはどうしても思えない。

 ミネルヴァお兄様は、いつも身体の弱いジェヴェレン兄様と青臭い理想家の私を気遣って、顔を合わせたときには滅多に他人に見せない自然な微笑みを向けてくれた。そんなお兄様が私たちを裏切ろうとしているなんて、にわかに信じられなかった。

 長兄であり、文武(まつりごと)の才幹に長けたミネルヴァお兄様なら、次期国王の座は間違いない。わざわざ危険を犯してまで王位を簒奪する必要もなく、待っていればいずれお父様から譲られる。『赤の団』を擁するお兄様がわざわざ勇者を取り込もうとする意図も理解できない。次男は病弱でほとんど床に臥せっているし、女である私は国王にはなれない。王の座を狙うつもりもない。私を担ぎ上げる人たちもいないし、そんな人たちがいたとしても聞く耳を持つ気はさらさらなかった。逆立ちしたって、私がミネルヴァお兄様に勝てるものなんてない。

 なのに、どうしてこのタイミングで王立教会と結託してクーデターを目論むのか、どうして私の命を狙うのか、まるで理解できなかった。どう考えても平仄が合わない。

 

(でも……こうなってしまった以上、もうどうしようもない。事実として王立教会の手先に貴族が殺され、私の身も害された。もはやただの噂話では片付けられない。なんとしてでもお父様に知らせるしかない)

 

 そう、私は立ち止まることは出来ない。立ち止まってしまうことは、アルバーツやシリルの死を無駄にしてしまうことになる。それは許されない。

 

(大丈夫、私にはティアナがいる!)

 

 覚悟を新たに、私は目の前の()()()()()を見上げる。勇者よりも勇者らしい女騎士を味方に、私はこの陰謀をお父様に伝えて必ず阻止してみせる。可能ならばお兄様に思い留まらせ、王立教会との関係を切ってもらうようにお願いするんだ。

 ついに昇った朝日が闇を急速に後退させ、瞬く間に世界を光の領地へ染め上げていく。くっきりと軽快な朝の陽光に照らされた黄金の長髪が煌めき渡り、神獅子の(たてがみ)と化して誇らしげに輝く。

 

(もしも、ミネルヴァお兄様が勇者ハントを差し向けてきたとしても、ティアナなら勝てる)

 

 勇者ハントと女騎士ティアナが戦う様子を想像する。でも、彼女が負けるイメージがまったく湧かない。凛々しい横顔で朝日を目に焼き付けるこの美貌の女騎士は、きっと勇者ハントに対抗する切り札となってくれる。

 

「では、行きましょう!メア・インブリウムへ!!」

 

 曙光から伸びる清浄の光に向けて私たちは颯爽と歩みだす。

 その一歩が世界全体のバランスを揺るがす激動の始まりに過ぎないことなど、誰も気づかないままに。




書きたい描写を入れれば入れるほど長くなっていきます。あと一話です。
「勇者パーティー追放モノ」は良くも悪くもなろう小説っぽいので、果たして読んでくれる人がいるのか、楽しんでくれる人がいるのかと心配でしたが、予想していたよりずっと楽しんでもらえてよかったです。今回の小説では、覚えたばかりの言葉だったり言い回しだったりを実験として使っています。騎士には騎士らしい言い回しを、王族には王族らしい喋り方をさせるように気を使ってみました。それよりなにより、自分が楽しむことをなによりも優先して書いたつもりです。僕も楽しんで、読む人も楽しんでくれれば、ウルトラハッピー!


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9話

あともう少し!


 輝く力を失った太陽が峨々とした山谷の幽世(かくりょ)へゆっくりと落ち込んでいく。雄大な景観を見せる山脈は、しかし私の目には書割(かきわり)のように空々しく、空虚に映る。すかすかの心には何も響いてくれない。

 血のように赤い夕日を浴びて、大きな巻き角の山羊(アイベックス)が一頭、遥か向こうの草原からこちらを睥睨している。この世そのものを貫くような無関心そのものの眼差し。あれはクリスの亡霊なのだろうか、と疲労した頭に神官らしくない思考が浮かぶ。だとしたら、死の谷底に置き去りにされた彼は、置き去りにした私たちに何を思うのだろうか。

 

 クリスを失ってから二日目の夕刻。固く締まった砂の小道を踏みしめる音が四人分、微妙に湿り気を帯びた山の大気に吸い込まれては消えていく。山脈の谷間に吸い込まれていく死に体の太陽を背にして、目的地の手前で歩を止めた私はローブを翻して隣のハントに向き合った。

 

「───ハント。今から、ある司祭に会ってもらうわ」

 

 地方ではもっとも大きな教会の鉄門から私の固い声が跳ね返ってくる。

 “教会は質素であるべき”という不文律が守られていたのは私が生まれる前の話で、もはや往時茫々としてしまっている。首都の一等地に建立された豪華絢爛な大聖堂を見れば一目瞭然だ。どんな組織も権力を持った瞬間から腐敗していくという潮流は昔から変わらない。

 

(だけど、地方でここまであけすけに暗黙の取り決めを無視している教会は珍しいわね。なんていうか、これじゃまるで……)

 

 広大なぶどう畑の中心。すり鉢をひっくり返したような小高い丘にその教会は大柄な態度で居座っていた。物見(やぐら)も兼ねた三階建ての尖塔、敷地の隅には10頭以上の馬を世話できる厩舎(きゅうしゃ)、かすかに緑がかった石の壁は大層分厚く、大人が顔を覗かせられる程度の小さな窓には格子が嵌められさらに遮蔽板で塞がれ、弓矢用の銃眼まで備える。大人二人分の上背がある高塀は競走馬でも飛び越えられないくらい高い。これでは到底、迷える者を導く教会とは言えない様相だ。屋敷と例えるには物々し過ぎるし、城と例えるには無骨すぎる。おまけに、正門に通じる杣道(そまみち)まで九十九(つづら)折りの蛇道に改造されていた。大勢の敵の攻撃に耐えられるように一から設計・建造された全容は、正直に例えるなら、

 

(まさに“要塞”、ね)

 

 この近くは第3王女ルナリア姫殿下が治められる盤石で豊かな領地があり、魔族が出没するような地域ではない。姫殿下の治世が行き届いているから野盗や山賊が多いわけでもない。その病的なまでの堅固さに、ここの主に対して驚きと呆れが同時に訪れる。とはいえ、彼の役目の性質上、その本拠地が神経質になるということも納得できない話じゃない。コリエル神の教えが行き届いていない辺境の地へ信仰を広めに行くというお役目を担っている司祭は、何度も身の危険を経験したという。だからこそ、彼は身の回りに屈強な僧兵を15人も従えている。枢機卿でもない一人の司祭に10人以上の僧兵が護衛につくなんて、例外中の例外だ。彼の顔は広く、地方の教会はもちろん、古参の枢機卿たちや果ては貴族にも顔が利くという。なんとなく胡散臭くてお近づきになることを避けていたけれど、クリスを失ってしまった私たちには背に腹は変えられない。この司祭に会って厚い協力を得ることが、これからの私たちの活動に大きく影響する。

 

(図ったようなタイミングでの支援の申し出。疑う理由はないけど、裏があるのかしら)

 

 クリスの欠落は、その字面(じづら)以上に大きな問題の発生を意味する。彼はパーティーのサポートすべてを担っていた。言ってみれば、軍隊における輜重(しちょう)部隊をごっそり失ってしまったようなものだ。当然、そんな軍隊は役に立たない。パーティーが烏合の衆に成り下がらないためには新たなサポート役が必要となるけれど、この場にいる誰も、彼がやっていたことを再現する能力はない。クリスが残した、信用できる商人といった補給の伝手(つて)や腕のいい鍛冶屋、各地方の物価や文化、果ては有力者の名前や趣味といったメモを見返してみて、彼が文字通り縁の下の力持ちだったのだとあらためて思い知る。このメモにも高い価値があるけれど、このメモを使いこなす人間のほうが何百倍も価値がある。この世の中に彼と同じことが出来る人間がいるとは思えないほどだ。

 そうして、彼の残した補給品を食いつぶしながら途方にくれている私たちに使者(・・)が接触してきたのは、ちょうど一日前のことだった。

 

“教会からの潤沢かつ広範な支援を約束する代わりに頼みたい役目がある。”

 

 きな臭くないといえば嘘になる。けれど、選択の余地はなかった。なにより、何かしらのキッカケがなければ、私たちは動き出すことが出来なかった。思えば、パーティーの次の目的地を見定めていたのもクリスだったのだ。私たちはコンパスすら失ってしまった。

 

「ハント、聞いてるの?」

「……ああ、聞いてる」

 

 ハントは濁った白目に虚ろな瞳孔を漂わせたまま力なく頷く。耳に入っているけど頭には入っていない。彼の意識はいまだ“死の谷”の底に無残に横たわっているであろう一人の男のそばで立ち尽くしている。“心ここにあらず”といった様子のハントに、それでも説明をしないのは不義理になるからとやけっぱちにならずに根気よく話を続ける。

 

「貴方たち───いいえ、私たち(・・・)勇者パーティーがこの世界で不自由なく行動できるのは、世界最大の国家であるガメニア王国の国王陛下の温情を得ているから。陛下から賜った特別な『黒印状』のおかげで交渉や折衝を円滑に行うことができてきた。そこまではいいわね?」

 

 その交渉や折衝を、私がいない時は“誰”がやってくれていたのか。そこについては敢えて言及しなかった。私の当てつけるような物言いが刺さったのか、表情を後悔で暗くする魔法使いと武闘家にチラリと目線を流し、再びハントの濁った双眼を真正面からじっと見据える。

 

「でも、それと同時に王立教会もパーティーの援助をしていることはわかっているわね。王国の出先機関はせいぜい規模が大きな街にしか無いけれど、教会なら地方の村にだってある。だからこそ、私たちは見知らぬ土地でも問題なく活動できていた。これからはそのサポートをより手厚く行ってもらわないといけない。情報提供や物資の補給といった後方支援をしてもらわないと、私たちは活動できない」

 

 その役目を一手に担っていた人を追い出して、殺してしまったのだから。言外に込めた私の糾弾に顎をさらに下げて重苦しげに俯くハントの胸板を杖で軽く小突く。

 

「しっかりしなさい。貴方は『勇者』よ。我らがコリエル神がこの世に遣わし給うた希望の光。爪持たぬ弱き人々の盾となり、魔の闇に切り込む剣となる者。己の役目を自覚しなさい」

「……僕には……僕だけじゃ、そんな大役……アイツ(・・・)がいないと……」

 

 今さら必要としても、いなくなってしまった人は帰ってこない。喉から迸りそうになる叫びを全精力を傾けて飲み込む。

 

「狼狽える自分がいるのなら、そんな自分はいますぐ殺してしまいなさい。神託通りに“もうひとりの女勇者”とやらを見つけるまでは、貴方は自分自身のみという片翼で飛び続けなければならない」

 

 そうして、ハントの腕を迷い子にするようにそっと優しく擦ってやる。

 

「でも、私たちが支えてあげる。そのために私たち仲間がいる。そうよね、二人とも?」

「ああ、俺は腹をくくったぜ。もう取り返しはつかない。だから、自分に出来ることはなんでもやる。面目躍如の機会を与えられたと考えてる。ハント殿、俺はアンタについていくよ」

「わ、私は……私は、あの人(・・・)に酷いことを言った。そのせいでこんなことになった。償いを、したいの。会って謝ることはもう出来ないから、あの人がやろうとしていたことの手助けをしたい」

 

 武闘家と魔法使いの絞り出すような決意に、淀んでいたハントの目に僅かながら生気が差し、色味が戻る。

 

「……リン、君も僕を支えてくれるのか?」

 

 その縋り付くような目線にこめかみが疼く。声によそよそしさが滲まないように全身全霊の気力を込めて、私は応える。

 

「支えるわ。全力で支えてあげる。貴方が勇者であるかぎり(・・・・・・・・・・・)

 

 これまでより少しだけ生気を取り戻したハントが「わかった」と小さく頷く。茫洋とした眼差しは沼のように感情が沈殿していて、奥の真意までは見通せない。彫刻のような表情は暗く強張ったままだ。今、ハントは何を考えているのだろう。気にはなったが、心配する気には到底なれなかった。

 私はハントを許さない。私から初恋の人(クリス)を奪ったハントを決して許しはしない。けれど、クリスはハントを信じていた。ハントなら魔王を打倒できると信じて、ハントを支え続けた。彼がやろうとしていた目的(こと)、彼が救おうとしていた世界(もの)は、守らなくてはいけない。彼の役目を私が引き継ぎ、私がハントを支える。彼はきっとそれを望むはずだ。

 

 不意に、今となっては懐かしい彼の匂い(・・・・)がした。

 

 

「ねえ、貴女、それって、」

 

 冷たい風に矮躯を縮こませる魔法使いが、上等なコートに身を包んでいた。丈の短いピーコートは暖かそうな羊毛(ウール)斜文織(ギャバジン)柄に編んだもので、しっかりと魔法使いの身体を冷気から守っていた。彼の匂いは、風にのってそのコートから漂ってきたものだった。私は見たことがないコートだ。そこらへんのダスターコートとは違って縫い目の作りがしっかりしている。いつの間に手に入れたのだろう。高圧的で高飛車な性格から貴族出身に違いないはずの魔法使いの少女が、ついに自分の財布を開いて裕福な実家の力を見せびらかしたのだろうか。

 ついキツくなった眼差しに魔法使いがビクリと肩を震わせ、気後れした顔を曇らせる。いつもの高飛車な魔法使いらしくない殊勝な態度に疑問が募る。

 

「……去年、“ガルベストンのコートがないと寒い北方になんか行きたくない”って、私がクリスにワガママを言ったの。その時にクリスが買ってきてくれたコートよ。“ガルベストンのじゃないなら着ない”って、私はヘソを曲げて受け取らなかった。でも、彼はそのあとも大切に持っていてくれたみたい。私の名前が刺繍された麻袋に新品のまま入っていたの。いつか私が寒さに凍えるようになったときのために、売らずに彼が持っていてくれたみたい」

 

 コートの襟に縁取られる頬が感情に赤くなる。襟の毛皮でくぐもる声で、魔法使いが続ける。

 

「私、今になって、あの人がどれだけ私たちを思ってくれてたのかわかったの。……ねえ、リン」

「なに?」

「あの人、とっても優しかったんだね。私、あの人のこと、全然わかってなかった。ううん、わかろうとしてなかった」

 

 私は思わず顔を反らせた。目尻に熱が灯り、抑えていた嘆きが溢れそうになる。言葉を発して返そうにも、震える唇では何も紡ぐことが出来ない。もっと早くそのことに理解が及んでいればこうはなっていなかったのに。やるせなさに唇をきつく噛む私の背中を告解室に見立てて、魔法使いは悔恨を浴びせ続ける。

 

「……あのね。私の家、あんまり裕福じゃなかったの。平民よ。貴族なんかじゃない。その日を過ごすだけで精一杯。兄姉が五人もいるのよ」

 

 唐突な告白に、驚愕のあまり魔法使いを振り返ることしか出来なかった。武闘家も太い眉をこれでもかと持ち上げて驚いている。この魔法使いの少女はいつも生意気で、お高くとまっていて、身につける装飾品を自慢して、そういうところから貴族出身なんだろうと私たちは思いこんでいた。

 

「貴族のフリをしてたの。貴族の出だって思われたかったから。私の家系は大したことないクラスしか輩出してこなかったのに、私だけ運良く『魔法使い』として生まれることができた。お父様とお母様───ううん、お父ちゃん(・・・・・)お母ちゃん(・・・・・)は、アタイ(・・・)のために必死にお金を稼いでくれて、私を魔法学園に通わせてくれた。アタイ、一生懸命に頑張った。周りはみんな代々魔法使いのクラスを受け継ぐ裕福な家柄出身で、そいつらを見返してやろうってとにかく勉強した。そうしたら、いつの間にか学園でトップになってたの。お父ちゃんもお母ちゃんも喜んでくれた。もっと喜んでもらうにはどうすればいいか考えて、勇者といっしょのパーティーに入ったら家の格も上がるんじゃないかって思った。本当に貴族になれるんじゃないかって」

 

 “全てのクラスは御神(みかみ)の采配によって運命づけられ、人間はその御意思に介入することはできない”。

 これがこの世界の宗教の建前だ。御神と王立教会に仕える神官たる私が「建前」などと切って捨ててしまうのは不敬な話だけれども、“クラスは遺伝する”という現実を否定することはできない。“蛙の子は蛙”という諺のとおりだ。貴族たちはその特権を守るために妻や婿を厳選し、『剣士』や『魔法使い』といった優秀なクラスを血筋に固着させることに躍起になっている。かくいう私の両親も『僧侶』と『魔道士』のクラスの持ち主だった。

 しかし、稀に突飛なクラスを持って生まれる人間がいることもまた事実で、これもまた“(とんび)が鷹を生む”という諺のとおりだ。ハントのような『勇者』がまさにそれに当たる。それはきっと本当に御神の御意志によるものなのだろう。魔法使いもまた、鳶から生まれた鷹だったのだ。

 魔法使いの一人称や三人称がじわじわと変化し、言葉遣いの端々に南部地方独特の間延びした訛りが混じりだす。きっと生まれは遠い南部なのだろう。本当の自分をさらけ出していく魔法使いの声がだんだんと湿り気を帯びていく。その幼児のようにつたない声音に、私も武闘家も黙したまま耳を傾ける。

 

「アタイ、頑張ったの。いっぱい本を読んだわ。それこそ片言隻句すべて暗記するくらい。先生の言うことを全部学んで、先生から吸収できることは全部吸収した。知らないものなんか何にもないと思ってた。私に出来ないことなんてないって。……なのに、あの人には、クリスには敵わなかった。同じ平民出身なのに、アタイが知らないことをたくさん知ってた。アタイの魔法じゃ出来ないことをなんでも出来た。いろんな言葉を知ってて、いろんな文化を知ってて、いろんなコツを知ってて、いろんな方法を知ってて……。炎魔法を顕現させるよりも早く焚き火を起こせるなんて、アタイ信じられなかった。アタイね、悔しかったの。クリスを前にしてると、あんなに頑張った努力が意味のないものだったみたいに思えて、それで鼻を高くしてた自分が恥ずかしくなったの」

 

 魔法使いがクリスににべもない態度で接していたのは、見下していたからではなく、嫉妬によるものだったのだ。『村人』という、生まれ持ったクラスに運命を決定的に左右されるこの世界では片足をもがれたような重いハンデを背負っているのに、諦観して投げ出したりせず、ひたすら努力して高みを目指そうとするクリスの背中に引け目を感じていたのだ。その気持ちに私は共感のカケラを見いだした。私も、負わされたハンデを物ともせずに己の在り方を真っ直ぐに持ち続けるクリスを見て不必要な劣等感を刺激され、反発してしまったことがあったからだ。彼と出会った当初は本気で彼を気に食わないと思ってしまったし、それが尾を引いてずっと素直になれなかった。

 

「───俺の兄貴は、騎士団にいるんだ」

 

 その弱々しい吐露が武闘家の口から漏れたものと気が付くのに数秒を要した。隣を見れば、肩をそびやかして粗野に歩いていたはずの武闘家が、まるで萎んだように肩を落とし込んで地面を見つめていた。彼もまた、明かしたことのない本音を見せてくれようとしていることが直感でわかった。

 

「騎士団って……」

「そうさ、あの騎士団だ。しかも近衛騎士大隊第二近衛騎士中隊さ。お前たちだって知ってるだろ?第二王子ジェヴェレン殿下の『青の団』ってやつさ。この国で一番のエリートがいくところだよ」

 

 ミネルヴァ王子率いる第一近衛騎士中隊『赤の団』が武力に長けているとすれば、第二王子傘下の『青の団』は(たばか)り事に長けているとされる。病弱なれど知性に関しては非凡の才を有する第二王子の指示のもと、頭脳明晰な者が選ばれ、その任務は諜報活動や作戦立案が主だ。他国のみならず国内の情報保全も担当する都合上、信用のある家柄の者しか選ばれないと言われる。腕っぷしの実力だけで認めて下さるミネルヴァ王子と違い、『青の団』に入団するには信用のある貴族の親族からの信任が無ければならない。そこに実の兄が属しているということは、武闘家の実家は相当に格式高いということだ。

 いつに無く声の細い、こちらの胸をも締め付けるような苦しげな声での告白があとを引き継ぐ。

 

「俺の親父も高名な剣士だった。その親父も、そのまた親父も。俺の家は代々『剣士』の家系なんだ。嫁だって『剣士』のクラスじゃないと認めない。優秀な『剣士』同士の血を掛け合わせて、代を重ねて剣の道を究めることを一族の存在意義だと信じて疑わないのさ。それはそれは立派な家系図を見せられたよ。先祖は素晴らしい剣士だったって。かつて勇者とともに魔王を倒した剣士の後裔(こうえい)だって。そんでもって、親父は…………父上(・・)は俺にこう仰られる(・・・・)んだ。“どうしてお前は剣士じゃないんだ”と。いつも、いつも、落魄(らくはく)した者を見る目つきで」

 

 常のいかにも武闘家然とした無頼な話し方が一変して古風で堅苦しい言い回しになる。彼らしくない───いいえ、そちらが本来の彼なのだろう。筋骨隆々な肉体が小さくなったように見える。胸襟を開いた魔法使いの言葉が呼び水となり、感化された武闘家も不要な鎧の内側に隠していた胸のうちを曝け出す。

 

「俺は悔しかった。たまたま生まれ持ったクラスが『剣士』じゃないというだけで、どんな努力も認めてもらえない。素手で魔物を打倒しても、親族からはうらなり(・・・・)だって歯牙にも掛けてもらえない。剣がないと戦えないくせに、剣無しで戦える俺を価値のない者だと見下してくる。そんなのおかしいじゃないか。だから見返してやりたかった。父上を、兄上を、周囲の見下してくる者たちを、見返してやりたかったんだ」

「アンタも、同じだったんだ……」

 

 魔法使いの染み入るような寄り添う声に武闘家はしおらしい頷きを一つ返す。思えば、私たちは己の来歴を仲間に明かすことはなかった。特にこの二人は、仲間のことを競争相手とでも思っているかのように心を許すことをしてこなかった。お互いの生い立ちを語り合ったり、慰め合ったりするような、そんな空気が私たちの間に漂ったことは一度もなかった。いつも張り詰めていて気まずい雰囲気で、合流することが乗り気になれなかった。

 

「……俺は、クリスが嫌いだった」

 

 武闘家が虚しげな声でポツリと漏らす。そんな強情だった二人が初めて心の内を明かしている。決壊した堰は水流の勢いを抑えることができなくなり、内に溜まっていた鬱々とした感情が次々にこぼれ出していく。

 

「ああ、そうだとも。俺はアイツが嫌いだった。大嫌いだった。アイツは『村人』のクラスであることに腐ったりしなかった。『村人』なんて『武闘家』よりずっと下のクラスなのに。アイツはクラスのハンデなんて歯牙にもかけていないようだった。無辜の人々のために懸命に頑張っていた。アイツを見てると、勇者パーティーで手柄を立てて父上や兄上に認めてもらいたいと足掻く俺が、血気に逸るだけの子供にしか思えなくなってきた。貴族幼年学校(ロイヤル・スクール)時代から少しも進歩してしないように思えてきた。“大人の覚悟”を見せつけられてる気がした。“理想の背中”が目の前に晒されて、無性に苦しかった」

 

 ひと息に吐き出したせいで喉を掠らせてしわがれ声になった武闘家が、深く呼吸をして、ひときわ神妙に声を落とす。そして、誰にも見せることのなかった、自分自身ですら直視することを避けていた真実の本音を打ち明ける。

 

「そうさ、俺は───俺は、アイツの心の持ちようが、強さが───どうしようもなく、羨ましかった(・・・・・・)んだよ」

 

 ついに悄気りかえってぐったりと肩を落とす。溜め込んでいた何もかもを吐き出し終えたその背中は、長角牛(ロングホーン)のように雄々しい武闘家ではなく、迷子の子供のようだった。その見上げる巨躯でつい忘れがちだが、彼はまだ18歳なのだ。18に見えないのは、それだけの気概が顔に現れているからだろう。同じ年の頃の自分は、まだ神学校を卒業したての右も左もわからない初心(うぶ)な子どもだった。彼のような苦労を背負って、果たして自分なら何が出来ただろう。

 武闘家の寂しそうな横顔に、図らずも私は心を動かされて目尻を熱くした。それは魔法使いの少女も同じだった。武闘家の背中にそっと慰める手を添えようとして、直前でその手が翻ってたくましく盛り上がった背中の僧帽筋をペシリと(はた)く。

 

「ふん、悩んで落ち込む姿なんかアンタには似合わないのよ。元気しか取り柄のない筋肉ゴリラのくせに」

 

 慰めは、むしろ今の武闘家に対しては侮辱にしかならないと思い当たったのだろう。彼は自分を見つめなおし、成長したのだ。その証左として、魔法使いの「元気を出せ」と暗に励ます心遣いを悟って、敢えてそれを指摘せず、気付いた様子をおくびにも出さなかった。

 

「ケッ。お前こそ、しおらしくしたって似合わないぜ。いつもみたいに強気な態度をしてろよな」

 

 いつもの武闘家らしい、無骨で不器用な返礼に、魔法使いは心からの微笑を浮かべた。

 口汚く挑発し合うも、お互いの表情に悪意の陰りはない。むしろ、本音の部分で語り合えるさっぱりとした間柄になったように見える。互いに表情は優れないけど、吐き出したおかげで感情を整理できたのか、顔色はどこか清々しい。

 ああ、なんのことはない───彼らは、クリスという真っ直ぐな人間の輝きによって浮き彫りにされる己の欠点を前に、苦悩していたのだ。なんにも出来ないくせになんでも出来て、なんにも知らないくせになんでも知ってる。そんなクリスの努力の姿勢に、自分はまだまだ未熟なんじゃないかと焦燥感を煽られる。その感情は、かつて私も経験したものだった。

 

 神学校を卒業したばかりの私は、ある日唐突に学長に呼び出され、勇者パーティーへの合流を命じられた。私が選ばれた理由は、聖職者としてのスキルの高さと、なによりも信仰心の高さ故だった。思えば、それは同年代の私を通じて勇者を王立教会の信仰に染めようという思惑だったのだろう。実際、コリエル神を盲信していた私も田舎者の勇者とその()れの信仰心を叩き直してやろうと熱意に燃えていた。しかし、それは勇者を守るように立ち塞がるクリスによってまんまと防がれてしまう。

 かたや、神学校に閉じこもって偏った知識を詰め込んだ頭でしか世界万物を見ることのできない世間知らずの神官。かたや、『村人』というハンデを背負い、そのうえで勇者を支えながら魔族と戦う過酷な旅を経て広範な知識と経験を蓄えてきた苦労人。当然の帰結として、私は同じ土俵に上がることすら出来なかった。全能なるコリオリ神に懐疑的なクリスに食って掛かるたびに、さらりと核心を突かれて二の句を継げられなくなった。

 最初の頃は、彼にやりこめられることが悔しくて仕方がなかった。勇者ハントの信仰心を叩き直したいのに、クリスという壁を突破できない自分が情けなかった。パーティーの支援から舞い戻っては図書感に籠もったり、学園の師に教えを乞うたり、周りの先達に相談をしてクリスに負けない見識をつけようと躍起になった。でも、私がそうしている間にもクリスは旅のなかで生きた知識を肌で学び取っていて、彼に追いつける気がしなかった。立ち止まることを知らない彼のひたむきな姿に、私は焦燥感を覚えて涙すら浮かべることもあった。

 そして、いつからか……神学校以外から知識と経験を得るようになって、私の世界はどんどん広がって、世界を見る目は大きく変わっていった。私が勇者パーティーに赴く目的は、ハントの信仰を変えるためではなく、クリスと会うために変わっていった。

 

 壁が取り払われたように互いの素顔を晒し始めた魔法使いと武闘家の姿に、私は二人に対して共感を覚え始めていた。彼らへの憎しみが消えていくのを感じる。それに反比例して、一切共感を覚えることのできないハントへの怒りが火に薪をくべるように燃え上がる。

 ハントが率先して魔法使いと武闘家のクリスに対する思い込みや誤解を解いていれば。もちろん、クリスが『村人』というクラス故に戦闘では足手まといだったという事実はそのままだろう。それでも、パーティー内でクリスを孤立させ、挙げ句の果てに追放して死に追いやってしまうようなことは防げたはずだ。それは幼馴染みであり、クリスを旅に誘った張本人であるハントの役目だったことは否定しようがない事実だ。

 

「……クリスはね、皆の足を引っ張らないように、寝る間を惜しんで剣を振るっていたわ。裏方として私たちを支えるだけでなく、一緒に肩を並べて戦おうと努力していた。ハントの太刀筋を真似ようと手のひらが擦り切れるまで素振りをしてた。いつか、村長に“ハントの剣筋に似ている”と言われたとき、すごく喜んでた。彼は決して努力することを諦めない人だった」

 

 事実、もしもクリスがハントと同じ身体能力を獲得していれば、その剣技の冴えはきっと双子のように通じ合うものになっていただろう。もしもクリスがハントと同じ実力を手にしていたなら、それこそ魔王を打倒することも夢じゃなかっただろう。“もうひとりの女勇者”なんて探す必要もなかったのに。

 

「どうか、彼の死を、無駄にしないで」

 

 最後にそう言い添えた私に、魔法使いと武闘家は強い瞳で頷いてくれた。勇者パーティーに相応しいと誰もが思うような、決意に満ちた瞳だった。人類を救う英雄の兆しを見せる二人に、私は頼もしさすら覚えた。

 武闘家と魔法使いは、クリスの死を糧に成長をしてくれた。純朴な嫉妬に振り回されるだけの子供だった己を自覚し、それを脱ぎ捨てることを選んだ。それだけでも、彼の喪失に何かしらの意味を見いだせる。彼らがこうして覚醒し、女勇者を見つけ、その果てに魔王の打倒が為された時、クリスの生と死には価値があったのだと世界に知らしめることができる。英雄たちを導いた者として、後世に彼の名を残すことができる。私が彼を失ったことにも、一抹の意味と救いを当てることが出来る。

 

 不意に、私の第六感が私に疑問を投げかけた。この二人がこれほどの変化を見せているというのに、果たしてハントが何も変わっていないということがあり得るのだろうか。

 血のように赤い夕日がハントの横顔を鮮血色に染める。自戒に満ちた(まなこ)の奥に危うげな光が渦巻いているのを見て、言語化できない強烈な憂慮が一斉に棹立つ。いまだ魂だけがクリスの遺体を見下ろし続けるハントは、その死をどのように消化しようとしているのだろう。その勇者の変化は、私たちが望む変化なのだろうか。それとも……。感情の振り幅が摩滅した無の表情からは何も読み取ることが出来ない。

 

「……みんな、行きましょう」

 

 決して振り払えない不安を胸中に押し隠し、私は一歩、石造りの正面玄関(ファサード)へと歩み出した。




今は『屍者の帝国』を読んでます。めっちゃ面白い。なんでもっと早く読まなかったんだろ。


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10話

「残された勇者パーティーの話より主人公の話が読みたい」と感想で言ってくださった方がおりまして、僕も「それ書きたいな」と思いましたので、10話として書き上げました。ご査収ください。
ちなみに、メア・インブレアム合同村は大阪の街をイメージしてます。行ったことはないんですけどね。


「何から何まで揃えてもらったな。おかげで良い買い物ができた。礼を言うぞ、店主」

「お、お、お、おうっ。役に立てたなら、よかったぜ」

 

 ティアナに見惚れた仕立て屋の店主が声をしゃっくりのように裏返らせる。年齢が60を超えているだろう無骨な顔立ちの店主が、娘どころか孫でも通じるティアナの美貌に鼻の下をだらしなく伸ばしているのはなんとも情けない。すかさず彼の後ろから伸びてきた白髪の奥方の手がその耳たぶを思いっきり引っ張っても、店主はティアナの歩き去る姿すら網膜に刻むかのように目を見開いて鼻孔をふんすと大きくしていた。

 

「まさかこれほど安くしてもらえるとは思いませんでした。かなり懐の広い店主でしたね。これもルナリアお嬢様(・・・)の可憐さのおかげですよ」

「え、ええ。ありがとう、ティアナ」

 

 十中八九、ティアナの魅力にやられたに違いないのだけど、本人は自らが男性の目線を惹きつけることにまったくの無頓着なので伝えても理解できないだろう。私の可憐さ云々は皮肉ではなく本心なのだ。まだ一日しか一緒に行動していないけれど、彼女の性格がだんだんとわかってきた。

 ティアナと出会ってから一日、私たちは順調に目的地に辿り着いていた。『メア・インブレアム合同村』。王都直轄領の一つであり、王国最大規模の穀物の取引所が置かれた合同村は、かつては6つの村に別れていたらしい。村々のあいだは、もともと目を窄めれば見える程度しか離れていなかった。やがてそれぞれの村の人口が増えて面積が大きくなるに連れて6つの村は隣り合うほどに近づき、やがて集合し、今に至る。知識としては知っていたけれど、いざ一人の人間として足を踏み入れると、体感する衝撃は次元が違う。露天商や客引きが発する活気にあふれた喧騒、各地から集まった多種の食事と人間から立ち昇るむせ返るような臭気、明日への希望と挑戦の意思に満ちて上向きになった人々の強い目線。私の領地の城下町はどこにも負けない経済力を持っていると自負していたけれど、この村の臣民たちの勢いを見るとその自信も削れてしまいそうだ。

 

「ここはまだ街ではなく村の集合体なので、王都から町長が派遣されてきていないのです。村民の自治に任せられている分、彼らは独自の文化と気概を持って商売に励んでおります。振る舞いは粗野ですが、人情味溢れた良い村ですよ」

 

 喧騒に負けないように少し声を張り上げて説明してくれるティアナに、私も近衛兵たちも呆気にとられるばかりだ。世俗事に疎そうな深窓の麗人そのものの容貌でありながら、雑多な人垣に臆せずズンズンと突き進んでいく慣れた身のこなしに、私たちのティアナへの評価は跳ね上がる。彼女の人生はどこでどうやって揉まれ、たくましく育まれてきたのだろう。頼もしい背中を見上げ、王都への道すがらに聞いてみようと頭のなかに付箋を貼る。

 ところで、私たち姫とその近衛兵たちがこうして往来のなかを誰にも見咎められずに堂々と歩けているのには理由がある。

 

「“馬子にも衣装”ってよく言うが、商人の格好なんざ似合わないなぁ、グレイ商人様(・・・)

 

 歳嵩の兵士からからかわれ、グレイが「放っといてくれ」と半ば本気でむすりとつむじを曲げる。その子供っぽさに思わず私も頬を緩めてしまった。でも、私は案外似合っていると思っている。根っからの近衛兵である彼からしてみれば、リネン生地の陣羽織(チュニック)長脚衣(ブレー)、つま先のとがった鴨嘴(ダックビル)の革靴という商人そのものの格好が似合うと言われて嬉しくはないだろうけど。

 彼を始め、全身鎧(フルプレート)に身を固めていた近衛兵たちは全員が服装を頭からつま先まで全て換えていた。傷ついて使い物にならなくなっていた彼らの鎧や盾は分解した後にティアナが凄まじい剣さばきでさらに細かく身元がわからないほどに寸断し、鉄片に変えて古鉄屋に持ち込んで資金に変えてくれたのだ。ちなみに、兵士たちは先ほどの仕立て屋で購入した、身動きのしやすい革製の鎧(レザーアーマー)に変わっている。

 

「姫さ───いいえ、お嬢(・・)はよくお似合い、いや、似合っている、ぜ」

「ええ、そのお召し物───あ、いや、その洋服の方が、なんだかお嬢(・・)らしい気がしま、するぜ?」

 

 慣れない言葉遣いに戸惑いながらも本心から褒めてくれる近衛兵たちに「みんな、ありがとう」と心から礼を言う。実のところ、私もそう思っていた。(シルク)の青いブラウス、同色のスッキリとしたスカート、丈の短いレモン色の(リネン)の上着。銀の長髪は後ろでまとめて一本の長い三編みを結い、首の後でオレンジのリボンでとめている。周囲の様相に溶け込みながらも、素材が上質なので頭一つ抜けて清楚で高品位な印象を醸し出す服装は、私の雰囲気にピッタリとマッチしていた。変装のためならどんなみすぼらしい格好であっても許容すると覚悟していたのだけれど、姿見を前にするとむしろ普段の高価なドレスよりも気に入ってしまった。権威優先の飾りで埋め尽くされた過美なドレスより、シンプルで動きやすいこの服の方が闊達な自分の在り方(・・・)に合っていると自然に思えた。

 

「ええ、よくお似合いですよ。まさに“冒険者の一団に護られる商人の娘”といった感じです」

 

 そう見えるようにお膳立てをしてくれたティアナがウインクを一つ投げてくる。冷徹そうな切れ長の瞳でチャーミングな仕草をされると、その魅惑のギャップで心臓が勝手に跳ね上がる。グレイは本当に身体ごと跳ね上がった。そうして顔を真っ赤にして「うぐぐカワイスギル」と低く唸るグレイに、心配そうな表情をしたティアナがそっと近寄って耳元で囁きかける。

 

「グレイ副隊長、大丈夫か?商人などという不本意な役どころを演じさせることになってしまい、(あい)すまない。姫様の兄を演じるなど心苦しかろう。そのうえ、私のような半端者などを秘書(・・)として連れ従いさせてしまって、さぞや複雑な心境に違いない。まだ今なら他の者と代われるが……」

「いやっいやいやいやいやいやいやいやいや!この役で!この役でやらせて頂きたい!隊長には、いやティアナ(・・・・)には秘書でいてほしい!俺の傍にいてほしい!このままずっと!」

 

 「それはよかった」と安堵に微笑むティアナも、「はい!はい!それはもう!」と壊れたメトロノームのようにガックンガックンと顎を上下させるグレイも、先ほどの会話の危うさには気がついていないようで、周囲の私たちはハーっと重いため息の合唱を奏でた。一方は自分が100人とすれ違えば100人に振り向かれるという自覚が皆無の美少女騎士で、一方は経験皆無の石頭青年。なんだかシリルから借りて読んだ恋愛小説のようだけれど、いざ現実にそんな男女を前にしてみると、なんだか少し、なんていうか、イライラしてしまう。グレイ、そういうところよ。

 なぜグレイが商人の格好をしているのか。なぜ私が“お嬢”と呼ばれているのか。なぜ近衛兵たちが革の軽鎧に身を包んでいるのか。なぜグレイがティアナを呼び捨てにしているのか。答えは簡単。私とグレイは若き遍歴商人とその妹であり、ティアナと近衛兵たちは冒険者(・・・)へと変装をしたのだ。

 『冒険者』。その日暮らしの放浪する無法者たちにして、何にも縛られない流浪の自由人たち。シリルが貸してくれた娯楽小説の登場人物の職業としてよく描かれていた。私のような王家の人間とは対局に位置する彼らのことを羨ましいと思ったこともあった。しかし、一生出会うことはないだろうとも諦めていた。まさか、近衛兵たちを冒険者に偽装させて、商人兄妹を護衛するキャラバンに見せ掛けるなんて。

 グレイはとある裕福な商人の息子であり、独り立ちする武者修行として各地を旅している。私は知見を広げるためにその旅に同行する妹。ティアナと近衛兵たちは、可愛い息子と娘の身を案じた商人が護衛として雇った凄腕の冒険者たち。ティアナはグレイの秘書も請け負っていて、まだまだ半人前の商人見習いを助けている、という設定だ。なるほど、これなら私たちの顔ぶれにも説得力が生まれる。

 

「革の鎧とはこんなに動きやすいものだったか?もっとゴワゴワしていたような気がするな。軽いわりに丈夫そうだし、質がいいのか?」

「そうだな。お前と同じことを考えていた。俺の革鎧はお前のと少し違っているが、フルプレートメイルよりこっちの方が戦いやすそうだ」

「それは、各々(おのおの)の体格と戦い方に合わせたからだ。先の僧兵たちとの戦いを見ていて、お前たちにはもっと軽い鎧の方が合っていることに気が付いた。鎧の寸法も仕立て屋に注文して、なるべくそれぞれの背格好に適するようにしている。身体に合わないと感じる者がいたら私に言ってくれ。調整しよう」

「鎧の調整も出来るのですか」

「私にはそれくらいしか出来ないからな」

 

 さらりと言ってのけるティアナ。謙遜なのか本心なのか分かりかね、兵士たちは「なんと」と感心するしかなかった。彼女は身の回りのことは全て自己完結できるように躾けられていて、よほど厳しい教育を受けたのだろうと思ったのだ。

 そんな、私が見知っている近衛兵たちは、一人ひとりに適した盾や鎧を割り当てられて、いかにも歴戦の冒険者といった風情だ。すべてティアナによる見立てで、近衛兵たちは「これなら僧兵にも負けない」と拳を握りしめてリベンジに燃えるほどだ。

 冒険者パーティーはその場限りの寄り合い所帯であることも多いため、軍隊のように画一的に揃えた装備をしていることは滅多になく、それぞれが身軽かつ違った装備をしているものだそうだ。見回してみると、たしかに冒険者らしい頑健な体つきの男女は誰一人として同じ格好をしていない。共通点は身軽で修理しやすい革の鎧と持ち物をコンパクトにまとめた背嚢(バッグ)を背負っていることくらい。ほとんど定住をしない冒険者はとにかく身軽なことが最優先なのだという。これらの知識はすべてティアナからの受け売りだ。どうしてそんなに詳しいのか聞いてみたら、「以前属していたパーティーが冒険者の真似事みたいなことをしていたからです」と彼女には珍しく目を逸らして言葉を濁した。私は以前のパーティーについて不用意に触れるべきではないと反省した。でも、そのパーティーがいったい何をしていたのかはわからないけど、ティアナの無駄遣いだと思う。勇者パーティーの一員にでも加えれば、さぞや大きな活躍を魅せただろう。

 

「さあ、商人様と妹君。こちらへどうぞ。くれぐれも迷わないでくださいね」

 

 ティアナが白く長い手を差し伸べ、私の手に重ねて優しく(いざな)う。自然に歩幅と歩速を私に合わせてくれている。その細やかな気遣いが嬉しく、胸がキュンと締め付けられる。

 メア・インブレアムの活性化は留まるところを知らない。建築熱に浮かれるように次々と2階建て、3階建ての家や商店が建設途中で、複数の村の集合体は大規模な街へと脱皮するかの如き変容を遂げようとしている。賑わいに比例して往来の人々の波は激しく、私たちの集団も平気で馴染み、むしろその雑踏の勢いに圧倒されて呑み込まれかけていた。収穫時期になるとこの人混みがさらに密度を増すというのだから想像もできない。

 整然と区画が整理され、人並みにもどこか規律めいたものを感じられる王都や城下町とはまったく違う雑多な雰囲気に目を回しそうになる私たちの前で、ティアナは慣れたものであるかのようにひょいひょいと往来をすり抜けて私たちを案内する。事実、馴れているのだろう。肩や腰をくねらせてタックル顔負けに迫る対向者を避けつつ、私たちに落伍者が出ないように目を光らせる余裕を見せる。私を始め、城下町出身の近衛兵たちも人酔いしてフラフラしているのに、彼女はそんな気配すら見せなかった。

 

「見えましたよ。あれが目的の木賃宿(きちんやど)、『スウ・パーカーの幸せ宿』です」

「おお、あれが……」

「想像していたよりずっと立派ですな」

 

 私たちの目的地である宿泊施設が視界に入って、それぞれがようやく休めると思い思いの心情を吐露する。周囲のような木造ではなく、赤レンガを積み重ねた2階建ての建物は、年季が入っているけどきちんと手入れされていて趣きがある。村の一角を占めるように横に長い宿の前にゴミはなく清潔だ。全体的に簡素だけれど重厚な店構えをしていて、ずんぐりとした巨体を横に倒しているような格好は高級感があるといえばある。近づくに連れて、扉の横に一本の太い柱が突き立っているのが見えた。さらに近付いて、それが筋肉の塊のような強面の男性であることに気が付く。禿頭の四十男で、宿泊を希望したらしい二人組みの若い男女を一喝して追い返している。「あれは用心棒です。宿泊に値しない客を追い返します」とティアナが教えてくれて「なるほど」と納得する。城下町では兵士が巡回してトラブルを未然に防いでいるけれど、それがいないここでは自分たちで治安を維持しているらしい。

 

「この人数で泊まれる宿としてはこの村で一番上等です。穀物の収穫時期ではないので空いているでしょうし、空いておらずとも無理やり開ける(・・・・・・・)でしょう。旅籠屋(はたごや)ではないので食事は出ませんが、自由に使っていい厨房があります。調理器具は貸してもらえますし、井戸も併設されているから調理しやすい。そうそう、向こう角には良い風呂屋もあるんですよ」

 

 湯浴みが出来る!?

 私は思わず目を輝かせてそちらを見た。木と粘土でこしらえた幾本もの煙突から黒い煙と白い靄を(くゆ)らせる建物の前には、楽しみそうに戸をくぐる人々と、リラックスした表情で戸から出てくる人々で溢れている。

 

「あの、ティアナ……」

「ご安心を。男女別です。金を払えば蒸し風呂ではなく木桶の温浴槽にも入れます。この浴槽、なかなか大きいそうですよ。女性には気になるところですよね」

 

 囁くような声で付け加えられた台詞に「ほーっ」と安堵の息を全身から吐き出す。私の心配を先んじてわかっていてくれるなんて、やっぱり同じ女性なだけはある。自分の美貌が与える影響には鈍くてもティアナも女の子であることが再確認できたという意味でも安心した。

 ティアナによると、この村は穀物を取り扱うためにパン屋が多く、彼らはパン焼き釜の熱気を利用して蒸し風呂屋を副業にしているという。商魂たくましい彼らのおかげでこの合同村は綺麗好きが多くなり、朝だけではなく夜にも風呂に入る習慣があるそうだ。たしかに、道行く大勢の衆人からはほとんど体臭を感じない。最近ではああした湯浴み専門の店も繁盛しているというのだから、羨ましさすら覚える。平民にとって蒸し風呂で身体を清めるのは一ヶ月に一度きりというのが常識で、それも川や井戸という豊かな水源に恵まれた土地に限られる。不衛生な環境は流行り(やまい)の温床になりやすい。私の城下町でも平民たちにどうやって湯浴みをさせるか頭を悩ませたものだったけど、ここではその必要もなく、臣民発祥の文化として根深く定着しているという。私はまた一つ見識が広まったという充実感と高揚を覚える。ミネルヴァお兄様の企みをお止めするための旅は、私に予想外の成長のキッカケを与えてくれるものにもなりそうだ。

 

「そういえば、勇者一行は一年前にこの合同村に寄っていましたな。ひょっとしたら彼らもここを使ったのかもしれません。縁起がいいですな」

「あ、ああ。そうかもしれないな。縁起がいいかはわからないが」

 

 兵士の一人とティアナが会話しているあいだにも私はうずうずと湯浴みをしたい気持ちを抑えることに必死だ。蒸し風呂はあまり好きじゃない。お城にもシリルたちメイドが使っている蒸し風呂があったし、浴槽が使えないときはそこを使わせてもらったこともあったけれど、熱い蒸気が肺まで入ってきて息苦しかった。その点、湯浴みは最高だ。基本的に湯浴みは身支度として朝に入るものだけれど、私は四六時中入っていたいくらいだ。王都へ駆けつけるための一週間の旅程でも、シリルから「お風呂に入れないんですよ。堪えられるんですか」と念を押されたほどだ。正直に言えば……とてつもなく苦痛だった。でも、愛する王国とお父様のためなら、そんなことを気にする余裕などなかった。

 

「食事を済ませたら荷物の見張りと交代しながら風呂屋に行きましょう。泥がついたままだと皮膚病になるやもしれませんからね」

 

 今度は近衛兵たちが目を輝かせる。この合同村に到着してからようやくのまともな食事にありつけるとあって、栄養を人より多く必要とする肉体の彼らには無常の喜びに違いない。道すがら、ティアナが食べられる木の実や山菜を教えてくれたからなんとかここまで辿り着くことが出来たけれど、彼女がいなければ空腹で動けなくなっていたに違いない。……苦い木の実や味のしない山菜を美味しそうに頬張るティアナにはさすがに目が点になっていたけれど。訓練で敢えて粗末な食事を口にしたことがある近衛兵たちでさえ顔を顰めるものを平気で飲み込む彼女の胆力と経験にはあらためて度肝を抜かされた。

 

「ええと、ちなみに料理は誰が……」

 

 恐る恐る質問する近衛兵の一人に、「私がやろう」とティアナが満面の笑みで手を挙げる。引き攣る一同。ティアナの味覚に不安を覚えたのだ。それを悟ってか、ティアナが「失敬な」と腰に手を当てて怒った表情を形作る。

 

「木の実も山菜も慣れれば美味しい。それに、まともな料理だって作れるのだ。パーティーでの食事係はずっと私だったのだぞ。今日はそのために奮発して新鮮な食材を買い集めた。まあ、騙されたと思って待っているがいい」

 

 むん、と自信ありげに胸を張る。本当に自信満々なところを見ると、虚勢ではないに違いない。案の定、私の横で若干一名が突き出されてブルンと揺れる双球に目をギラつかせる。グレイ、そういうところよ。

 

「しかし、副隊ちょ、じゃなかった、グレイよ。仔牛肉やバター、はては香辛料に林檎酒(シードル)やらポートワインまでしこたま買ってしまって、資金は大丈夫なのか?あんな宿にこの大人数で泊まるだけの金はまだ残ってるのか?」

 

 グレイの醜態に釘を差す意味もこめて、年長の近衛兵が彼の脇腹を肘で突っつく。商人の偽装をしているため、財布を持つのはグレイの役目だ。

 近衛兵の疑問も頷ける。穀倉地帯ということもあって農耕用の牛が多く飼育されているメア・インブレアムでは牛や乳製品の価格はそれほど高くはないだろうが、わざわざ希少価値の高いだろう仔牛肉にしたのはどうしてだろう。仔牛肉の胸腺(スイートブレッド)は貴族が口にするような高級部位だ。それに、香辛料やポートワインがどこの街でも高価ということは私にでもわかる。香辛料は産地からの輸送費が上乗せされるせいだし、ワインに果実蒸留酒(ブランデー)を混ぜたポートワインだって一般に流通している蜂蜜酒(ミード)よりずっと高いに違いない。それが近衛兵二人が背負う背嚢(バッグ)に縫い目が千切れるかと思うほど詰め込まれているのを見ると、王族の私でも財布の中身がちょっと不安になるほどだ。

 我に帰ったグレイが「それが……」と胸の懐から財布を取り出す。ズッシリと重そうな革の巾着袋(オーモニエール)はジャラリと大量の金貨が擦れる音を立てた。銀貨でも大銅貨でもなく、金貨だ。

 

「嘘だろ!あ、あれだけ買ったのに、まだまだ御銭(おあし)にそれだけ余裕があるとは」

「それが、まだこれだけの金貨があれば、この村でなら三日三晩豪遊できるらしい。一人だけじゃない、この人数でだ」

「まこと、デミミスリル(・・・・・・)の価値とは計り知れないものだな」

 

 近衛兵の視線が山のような食料とこんもりと膨れた財布を行ったり来たりする。そんな彼の背中にもまた膨れた背嚢がおぶわれていたりする。というか私とグレイを除く全員が何らかの背嚢を担っている。旅の途中に必要な保存用の食料やら物資やらをティアナとグレイが常設市場を回ってどっさりと買い込んだのだ。と言っても何を買うか指示をしたのはティアナだけれど。質の悪いものを掴ませようとするあくどい商人や、実際の価値より高い金額を要求してくるずる賢い商人は、ティアナの鋭い指摘と視線に打ち倒されて次々に苦笑いを浮かべて降参していった。

 これだけの資金をどうして無一文だった私たちが手にしているのか。余っていた馬や鎧などを打ち砕いた金属の売却だけでは到底足りない。その謎は、先ほどの近衛兵の台詞が答えている。模造(デミ)ミスリル。僧兵たちの槍の穂先に使われていた神の金属(ミスリル)の模造品。王立教会でもごく一部の者にしか製法が開示されていないこの金属は、この世界において人類が造ることのできる最強の金属と言われている。私たち王族や貴族にも秘匿されていて、彼らはそれを独占している。

 僧兵たちが去ったあと、ティアナは自らが叩き切ったそれらを目ざとく全て拾い集めた。そしてメア・インブレアムに到着して早々、若い鍛冶屋店主の肩を借りるようにして抱き寄せると耳元で囁くように巧みな話術で売りつけ、その対価として多額の資金を得たわけである。

 まず、店主はハンマーで叩いたりナイフで削ったりしてそれが間違いなくデミミスリルであることを確かめると、かれこれ一分ほど呼吸を止めた。復帰すると、店の奥の隠し戸棚から金貨が詰まった木箱を持ち出してティアナに「持ってけ!」と箱ごと突き出した。ティアナはそこから半分だけ金貨を抜き取ると再び店主の腕に返し、「半分でけっこうだ。その代わり、入手先が私たちであることは絶対に明かさないと誓ってほしい」と願った。気を良くした店主は「もちろんだ」と快諾し、近衛兵たちの剣を最優先で打ち直してくれることまで約束してくれた。彼女が“信用できる鍛冶屋がいる”と言った意味はそこにあったのだ。

 世間の事情に疎い私にだって、デミミスリルをただの村の鍛冶屋が扱うことの危険性に思い当たるものだけど、ティアナに言わせると「どの鍛冶屋もデミミスリルの製法を知りたがっている」のだそうだ。技術研究に熱心な鍛冶屋ほど喉から手が出るほど欲しており、その製法を知るために神官に賄賂を渡す者もいるらしい。ティアナも、神官が街を歩いていた際にデミミスリル製の杖を高値で買い取ろうと不届きな鍛冶屋が近づいて来て思いっ切り横顔をはつられたのを目撃したこともあるという。よほど負けん気の強い神官だったのだろう。そう言うと、ティアナは遠い目を窄めて「そうですね」とだけ答えた。

 

 ついに私たちは立派な飾り彫の施された正面玄関(ファサード)と用心棒の前に到達する。唇や目元に痛々しい傷跡の残る彼に何か言われるのかと思ったけれど、不思議なことに私に対して彼は礼儀正しく目礼をしてきた。目尻に優しげな皺が宿っている。むしろビクビクしていた私に対しての親切心すら感じて親近感が湧いた。一瞬、私が王女であることがバレたのかと背筋を寒くしたものの、ティアナの次の言がそれを否定してくれた。

 

「久しいな、フェリックス。スウ殿は変わらず壮健か?」

「……すんません、冒険者さん。こんなめんこい美人さんと会ってたら忘れるはずぁねぇんですが、思い出せねえですわ。でも、俺もバアさまも変わらず元気でさぁ」

「いや、気にするな。前に会ったのは……そう、遥か昔だ。その頃の私と今の私はまったく異なるから仕方がない。ところで、入ってもいいかな?」

「もちろんでさぁ。お待ちしてましたよ(・・・・・・・・・)。ごゆっくり、商人一行様(・・・・・)

 

 北方訛りの強い用心棒は、それ以上何も言わずにソーセージみたいな指のついた手で扉を開けてくれる。ティアナは微笑み一つを礼として用心棒に与えると揚々とした身振りで扉をくぐり抜けた。さっき見ていた時は厳しい仕草で客を追い返していたのに、私たちのことは呆気なく受け入れてくれたことにポカンと立ち尽くす。振り返ったティアナに目線で追随を促され、ようやく私たちもそそくさと後を追った。全員が戸をくぐり抜けたあと、一拍をおいて扉がそっと丁寧に閉められる。

 宿の内装は、外見よりもずっと高級感があった。エントランスとロビーは段差もなく地続きになっていた。そこには大量生産品ではない、いっぱしの家具職人の手による調度品がシンプルに並び、磨かれた真鍮がロウソクの光を控えめに反射している。小規模の舞踏会でも開けそうなロビーの奥には大階段があり、それを塞ぐように受付のための幅広のデスクが鎮座している。そこを通らなければ宿泊者用の2階には上がれないということだろう。ロビーは調理部屋と食堂も兼ねているらしく広いけれど、収穫時期を過ぎているからか人の姿はまばらだ。隅にある共用厨房からはステーキと卵を焼く香ばしい匂いが漂い、調理に勤しんでいた冒険者らしい屈強そうな男が顎髭を撫でながら興味深そうに私たちを眺めている。

 

「想像よりも遥かに整った宿ですね。このような高そうな宿は、普通は得意客でもない限り入れないのでは?」

「その通りです、グレイ殿。この宿は俗に言う“一見さんお断り”です」

「えっ?で、ですが、俺たちは利用したことがありません。隊ちょ───じゃなくて、ティアナが顔見知りの得意客なんですか?」

「いいえ。さっきの会話の通り、私は忘れられていました。私ではなく、グレイ殿、貴方が得意客(・・・・・・)になった(・・・・)のです」

「お、俺が?」

 

 グレイを始め、近衛兵たちの頭の上に“?”が浮かんでいるのが見える。それをイタズラが成功した少年のような笑みで見つめるティアナに、私は自分の予想を述べてみる。

 

「敢えて高級なものを金に糸目をつけずに買い込んだのは、このためだった。そうでしょう?」

「さすがお嬢様。大変聡明でいらっしゃいます」

 

 凛とした表情が人懐っこい笑みに緩む。出来の良い生徒を褒めるような優しい声色に、私は自分が舞い上がっていることを自覚する。家庭教師に勉学の成果を褒められた時にもこんな高揚感は感じたことはない。実地経験を実際的な知識として確実に変換できているという実感がそうさせるのかもしれない。もっと褒めてほしくて、私はさらに続ける。

 

「良い品物をたくさん買ったことで、私たちは“金払いの良い客がいる”という噂になる。ティアナのおかげで“目利きの優秀な商人”という評価付きで。噂は村を駆け回る。裕福な上客、しかも自炊を念頭に置いて新鮮な食料を買い込んだこの人数が求めるだろう宿は、この木賃宿だけ。だから、あの用心棒は私たちを商人一行と知っていて、“待っていた”と告げたのね」

 

 私の解答は上出来だったらしい。「ご慧眼、流石の一言です」と深く頷くティアナに、私は心のなかで親に褒められた子どものように飛び跳ねる。

 

「な、なるほど。そういうものですか。どんな相手にも真正面から全力で当たることが最良だと思っていましたが、回り回って信頼を得るという方法もあるのですね」

「如何にも。グレイ殿、貴方はもう少し器用になった方がいいでしょう。己の力のみでぶち当たることも良いですが、他力を頼ったり(から)め手を責めることは決して卑怯ではありません」

 

 恋愛にも器用になっていいのよ。

 

「商売人とは、目先の利益よりもコネ(・・)を作りたがるものです。商売相手は多ければ多いほど良い。しかも有望な商売相手が増えて、その相手と有利な立ち位置で商売が出来るとあれば、彼らは絶対に出し惜しみをしません。この場合、子どもの武者修行にこれだけの冒険者を護衛にできるだけの豪商の息子にして、将来が約束された若き商人、つまりグレイ殿にどうにかして借りを作ろうとこの村の全員が必死なのです。ほら、ご覧なさい」

 

 ティアナが顔を向けた先、受付のデスクのさらに奥から老婆が顔を出した。腰を曲げ、頭の後ろで白髪のお団子を束ねた矮躯の老婆は、しかし老婆らしくない颯爽とした足さばきでロビーを横切ると、グレイの前で急ブレーキを掛けるように立ち止まった。

 

「お待ちしておりましたよ、商人様とその御一行様。きっと(わたくし)めの『スウ・パーカーの幸せ宿』をご利用頂けると思っていました。私が女将のスウ・パーカーです。商人様には一番豪華なお部屋を、ご令妹(れいまい)様とお付きの女冒険者様には二人用のお部屋を、冒険者様方には5人用の部屋を2つ、ご準備してございます。それで、先にお食事になさいますか?それともお部屋でお休みになられますか?」

 

 老婆らしからぬ流暢な声で滝のような台詞を浴びせられたグレイが目を点にして呆然としている。でも、便宜上、彼は私たちの代表者なのだから、彼が答えなければ私たちは何も言えない。「あーっとだな」と目を泳がせるグレイの目と私の目がはたと交わる。グレイ、ティアナのさっきの助言を思い出しなさい。私の眼差しの意図を察したらしいグレイが表情を落ち着かせて女将にあらためて向き直る。

 

「細やかな采配に感謝する、女将殿。しかし、商い以外の些事は秘書であるこのティアナに一任しているゆえ、部屋割りなどについてはすべてまず彼女を通すよう願いたい」

「ああ、そうでしたか。これは失礼しました。これだけの屈強な冒険者に、秘書兼護衛の冒険者、しかもこんなに美人とは、ずいぶんとお高い費用を払われたのでしょうなあ」

 

 女将の視線が探るようにジロリと鋭くなるも、グレイは動揺を面の皮一枚下に押し隠して飄々と手をふってみせる。

 

「なに、必要経費だ。安いものさ。それではティアナ、あとは頼んだぞ。俺は長旅で疲れた」

「畏まりました。それでは女将、打ち合わせを願いたい。お二人は手近なテーブルで休憩を。皆も近くに座って楽にせよ」

「ええ、ええ。こっちにいらっしゃいな」

 

 女将とティアナが受付のデスクに向かうのを見送る。途中、ティアナが頭だけで振り返り、肩越しにグレイに称賛の頷きを見せる。それを見たグレイがほっと安堵の息を吐いて椅子にドスンと腰を下ろした。“時には他力に頼ることも大事”。グレイもまた、ティアナから処世術を学び取ったようだ。

 遠巻きに女将を観察すると、顔色はますます明るくなっていた。それも当然だろうと思う。控え目に見ても、近衛兵たちは歴戦の冒険者の風格を十分に醸し出している。アルバーツが経験豊かな兵士を選別してくれたおかげだ。若い兵士ばかりだったらこうはいかなかっただろう。彼らのような強者の冒険者を長期の旅のために10人も雇い、豪華な食事と豪勢な宿を気後れすることなく消費し、さらにティアナほどの万能かつ美貌の冒険者を秘書として傍に置いているのだ。女将から見れば、グレイはまさに裕福を極めた金満家の子息に見えているに違いない。5分ほどした後、上機嫌そのままの女将と握手を交わしたティアナが私たちに手をふる。

 

「グレイ殿、部屋割りは女将の提案に沿いましょう。料金の交渉については問題ありません。先に私が部屋を確認しますので、お嬢様と付いてきてください。皆、部屋に荷物を置いて簡単な身支度を済ませたらロビーで集合だ。飯にしよう。私の腕を疑ったことを後悔させてやる」

 

 料理の腕を疑問視されたことをまだ根に持っていたらしい。不敵に頬を歪めてみせるティアナに「へいへい」と苦笑しながらも機敏な動作で席を立つ近衛兵たちは、なんだか本当に粗野な冒険者に見えてきた。案外、違う自分になれた気がして、みんなノリノリなのかもしれない。私はと言うと、実はさっきからお腹がきゅうきゅうと空腹を訴えていたし、湯浴みもしたくて仕方がなかった。実際はたった3日なのに、体感ではもう何週間も身を清めていない気がする。ちゃんとしたベッドで眠るのだって何日ぶりだろう。大階段を一つ飛ばしで駆け上がりたい衝動に頬が緩む。

 鍛冶屋の店主によると、全員分の剣を打ち直すには明日の昼過ぎまで時が掛かるという。それまでに王都への旅路の準備をしつつ疲労を癒やして英気を養うというのがティアナの計画だ。「敢えて休むことを己に強いなければならない時もある」。ティアナの教えを胸に刻んで、私は逸る自身を抑制し、心身の回復に努めるのだ。

 

「───なあ、冒険者さん。アンタ、クリスって(・・・・・)知ってるかい(・・・・・・)?」

 

 女将の、本当に何気ない問いかけ。だけど、目の前のティアナの背中は雷でも落ちたようにビクリと反応した。重厚なローブをひるがえし、彼女が女将を振り返る。その苦しそうな、悲しそうな、未練と苦悩に歪んだ表情に、私は思わず息を呑むことしか出来なかった。

 

「一年前にさ、5人組のパーティーがうちに来たんだ。どいつもこいつも態度はでかいし横着者でね。でも一人だけ、要領が良くて、アタシたち商売人のことをよくわかってる若い男がいたのさ。器量もいいし、頭の回転も早い。あんなパーティーで才能を無駄にするくらいならうちの跡取りにでもしようかと本気で考えたんだがね。そいつが、なんだかアンタに似ている気がするんだよ。女の神官がアンタのに似たローブを羽織ってたしね」

 

 「知らないかね?」と女将は世間話の口調で重ねて問う。問うて、ティアナの瞳から光が消えていくのを察してギョッと驚いた。

 

「ど、どうしたんだい?何か悪いことでも言っちまったかね」

「死んだ」

「え?」

「クリスは、死んだ」

 

 それ以上、彼女が口にすることはなかった。さっと踵を返すとティアナは踵を鳴らしながら2階へと上がっていく。とても声をかけられる雰囲気じゃなく、私たちは顔を見合わせると誰ともなくおずおずと彼女の後をついていった。背後では女将が呆然と立ち尽くす気配がする。

 

「そうかい、死んだのかい、あの若造。惜しいねえ……ホントに惜しい」

 

 サバサバとした性格だろう女将が、しんみりと湿った声を引き連れて受付の奥へと帰っていく。“クリス”。ティアナの名前───クリスティアーナと同じ名前の、男の人。ティアナに似ているという、今はもういない人。ティアナにとって、彼はどんな存在だったのだろう?兄だろうか、弟だろうか。師匠だろうか、弟子だろうか。それとも───恋人、だったのだろうか。私はまだ、彼女の深い部分を知らない。もっと彼女のことを知りたいと思った。私たちに寄り添ってくれるように、彼女にも寄り添ってあげたいと思った。今は取り付く島のない背中でも……いつか、力いっぱい抱きしめてあげられるようになりたい。そう思った。




中世ヨーロッパ風異世界を描く時、中世ヨーロッパのことを勉強していない人間にはつらいものがありますね。ちゃんと歴史の授業を受けていればよかった。
ちなみに、宿の内装などはクライブ・カッスラー著作の『アイザック・ベル』シリーズによく登場する19世紀アメリカの呑み屋を参考にしました。全然中世じゃないんですが、見逃してください。お願いします、なんでもしますから!


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キャラクター紹介①

お茶濁しです。作者がキャラを再確認する用なので、読まなくても大丈夫です。
本編の続きもちゃんと書いてます。本当は3話で終わる予定だったのに、どうしてこうなった。


・ティアナ(クリス)

 

年齢:見た目は18歳前後(女騎士になる前は20歳)

身長169センチ(女騎士になる前は175センチ)

体重58キロ(女騎士になる前は62キロ)

B96/W62/H88

 

 本作の主人公。勇者パーティーのサポート全般を担っていたが、一方的にクビにされた末に崖に落ちて重症を負い、そこで『女騎士の剣』を手に入れたことで女騎士になってしまった不幸な青年。

 『村人』という、全てのクラスのなかで最底辺のクラスだったために、人類の救世主として戦い続ける勇者パーティーでは力不足が目立っていた。しかし、パーティーを組織として運営するための知識と経験を死にもの狂いで学び、自分で思っているより遥かに勇者パーティーにとって重要な役割を担うようになっていたが、それを理解していたのは神官のリンのみだった。女騎士となってからは、偶然助けることとなった王女ルナリアとその護衛である近衛兵たちと行動を共にすることとなる。言うことをまったく聞き入れようとしない勇者パーティーよりも居心地が良いらしい。

 なお、本人は自分が美少女であるという自覚がいまひとつ欠けているため、男だった頃の感覚でスキンシップを行ってしまい、相手や周囲を混乱させることが多々ある。グレイ、そういうところよ。

 神の鋼(ミスリル)製の剣と鎧を装備しており、身体能力も人間の粋を超えている。無敵の武器と無敵の鎧を装備した無敵の人間である。さらに大工としてのスキルや旅の途中で得てきた知識や経験も有しており、まさに完全無欠の女騎士を体現している。女騎士の剣になにか助力を頼むごとに自らの有り様が改変されるようで、そのたびに口調が変化したり、奇妙なカリスマが備わったりしている。

 名前の由来は『星を継ぐもの』に登場するクリスチャン・ダンチェッカー博士。外見のイメージは『この素晴らしき世界に祝福を!』のダクネスだったりします。ボン・キュッ・ボンの砂時計体型は至高。わがままボディっていいよね。でも一番好きなのはアクア様のケツ。

 

 

 

・ハント

 

年齢19歳

身長180センチ

体重75キロ

 

 クリスと同郷出身の『勇者』。幼少期はクリスの背中を追いかける小さくて弱い少年だったが、たまたま村を訪れた神官によって、そのクラスが伝説の『勇者』であることが発覚。神託に従い、“もうひとりの女の勇者”を求めて魔王を倒す旅にクリスを誘った。それからメキメキと腕を上げ、ついには歴代勇者でも5本の指に入ると言われるほどの実力者となった。我流ながらも剣の腕は極めて強く、王国最精鋭の騎士ですら赤子の手をひねるように負かしてしまうほどである。スピード、パワーともに人類最強といって過言ではない。

 が、外見(そとみ)だけは強くなっても内面は成長しておらず、自らの力への驕りと増長が顕著になっていた。自分の強さを基準として、それについてこれないクリスに寂しさや疎ましさが混在する感情を持ち始め、つい勢いに任せて「パーティーに必要ない」と突きつけてしまう。その結果、クリスは崖下に落ちることになり、状況から彼が死んだと思い込んだハントは、この世界で唯一の家族を自分の手で殺してしまったことに絶望し、その人格を大いに狂わせることになる。彼は果たしてこれからどうなっていくのだろうか。

 名前の由来は『星を継ぐもの』に登場するヴィクター・ハント博士。書き始めた当初は、こういう“勇者パーティー追放もの”によく登場する性格の悪い勇者にするつもりだった。でも書いているうちにいつの間にかこの性格に変わってしまった。どうして変わったのかは覚えていない。今となっては自分でもハントはこの性格でよかったと思ってる。

 

 

 

・リン

 

年齢20歳

身長158センチ

体重52キロ

B81/W59/H83

 

 王立教会に属する高位の女神官。サバサバとして世渡りがうまそうに見えるが、根本的なところでまだまだ頭は固く、生真面目な性格はそのまま。というのも、物心ついたときに信仰厚い両親から修道院に預けられ、それ以来、教会以外の世界を知らずに生きてきたせいである。クラスは当然、『神官』。優秀な成績と実力、なにより高い信仰心故に勇者パーティーへの出向を命じられる。それは「田舎者の勇者に同年代の美少女をあてがってやれば自然に王立教会になびくだろう」という見え透いた魂胆によるものだったが、当時の純粋過ぎるリンには予想もしていないことだった。

 しかし、地に足をつけて世界のことを学んできたクリスが立ちはだかったことで、リンの運命は一変する。「ハントに信仰心を芽生えさせる」という目的は、「クリスを論破する」へと変化し、いつしか「世界のことをもっと広く知りたい」という知的欲求へと繋がり、いつの間にか「クリスに会いたい」という恋心に発展することとなった。

 神官として王立教会と勇者パーティーの仲介をするという役目のために定期的にパーティーを離れなければならない。その不在の際にハントがクリスを拒絶し、クリスは底の見えない崖下へと姿を消してしまった。初恋の相手をあっけなく失ってしまった喪失感から必死に目を逸らしながら、せめてクリスの死に崇高な意味を見出そうと、ともすれば殺したいほどに憎いハントを懸命にサポートしながら旅を続ける決意をする。

 名前の由来は『星を継ぐもの』に登場するリン・ガーランド。実は登場する予定なんかまったくなかったキャラクター。2話を更新しようとする直前にふと思いついて書き足し、そして初登場となった。今では登場させてよかったと思ってる。物語に冷静な視点を入れてくれるのでありがたい。

 

 

 

・魔法使い

 

年齢16歳

身長134センチ

体重35キロ

B62/W52/H64

 

 本当は南部のど田舎出身の貧乏な平民だが、隔世遺伝によって『魔法使い』のクラスを授かった少女。その才能を潰してしまわないようにと両親が苦労してエリート校である王立魔法学院に送り出した。出自ゆえに周囲から見くびられることを恐れた彼女は敢えて高飛車な貴族を演じ続け、それが身に染み付いてしまった。王立魔法学院きっての天才魔法使いとして名高いが、実際は誰よりも努力した秀才であり、本当は小心者でもある。「誰よりも努力した」ことが自分の誇りだったが、クラス『村人』というハンデを抱えながらそれ以上に努力しているクリスの姿を見て劣等感を刺激され、彼に対して辛辣な態度をとってしまっていた。クリスを死に追いやってしまった責任と罪悪感を経て、ようやく成長した。

 名前は決まっていないし、決めもしない。そもそも、この小説は長く続いても3話で終わる予定だったため、名前を決める必要もなかったからである。書いている時の外見のイメージは『この素晴らしい世界に祝福を!』のめぐみん。めぐみん可愛いよめぐみん。

 

 

 

・武闘家

 

年齢19歳

身長195センチ

体重130キロ

 

 由緒正しい武家の出身だが、クラス『剣士』ばかりの親兄弟と違って『武闘家』というクラスを持って生まれてしまったばかりに常に過小評価されてきた。『武闘家』として名を挙げれば自分を見下していた者たちを見返してやることができると考え、その一心で勇者パーティーへの参加を希望する。自分が『剣士』でないことがコンプレックスだったため、パーティーの誰にも自分の家が武家であることを伝えなかった。活躍したいという願望が強すぎるために猪突猛進な行動が目立ち、パーティーとしての連携を意識したことはなかった。実は貴族学校(ロイヤルスクール)に通っていたことがあり、このパーティーのなかでは魔法使いに続いて2番目に高学歴だったりする。

 クリスに対して、自分よりも遥かに弱いくせに、自分よりも遥かに高い志しと理念を持っていることに嫉妬し、実の兄への負い目も重なって、きつい態度をとってしまっていた。クリスを死に追いやってしまったことをきっかけに、彼は愚かで弱い自分を見つめ直し、心を入れ替え、贖罪のために拳を振るうことを決意する。

 なお、彼の先祖は歴代勇者の誰かとともに魔王討伐の旅に出た勇者パーティーの『剣士』だった。彼の家はそのことを誇りにしており、一族の男子は全員が『剣士』のクラスとして王国の近衛兵に属している。ちなみに、彼の兄は第二王子の『青の団』に所属しており、優秀な剣士でありながら、国内の情報統制も担当する頭脳派として活躍している。

 名前は決まっていない。理由は魔法使いと同じ。外見はロシアの英雄レスリング選手、アレクサンドル・カレリンをイメージ。身長体重も参考にしてます。120キロの冷蔵庫を1階から15階まで一人で持って上がったってどういうことなのカレリン。




最近はジャック・キャンベル著作の『彷徨える艦隊』を読んでます。以下紹介をば。
大規模な宇宙戦争のさなか、自艦から発射された脱出ポッドで冷凍冬眠していた主人公ジョン・ギアリー中佐が目を覚ますと、そこは100年後の世界だった。そこで自分は“ブラックジャック・ギアリー”というあだ名で伝説の存在となっていることを知る。しかも、100年という長い期間の戦争をするうちに自軍の軍人は戦術の“せ”の字も知らないほどに退化してしまっており、強大な宇宙戦艦を持っていながら「敵と正面から打ち合って勝てば良し、負ければそれまで」というとんでも意識が定着していた。眠っている間に大佐に昇進していたジョン・ギアリーは、責任を放棄する司令官から敗走する百隻以上の艦隊の全指揮権を放り渡され、さらには戦争を終らせる秘密兵器を本国まで移送するという重要任務まで託されてしまう。100年前にみっちり教わった知識と経験を総動員しながら、ジョン・ギアリーは鎌倉武士もかくやという蛮勇部下の手綱をほうほうの体で引き締めながら本国への旅路を進む……というお話です。100年前の戦術は、技術が途絶えた100年後の世界の軍人には驚きの連続です。「またオレなんかやっちゃいました?」のハードSF版といったものかもしれません。面白いですよ。オススメです。


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11話

今回は短い更新です。ごめんちゃい。もう少ししたら後編を更新するので許してくだしあ。あと2話くらいで終わる、のかなあ。


「リン・ガーランド高位神官殿、司祭様がいらっしゃいました。謁見の間へどうぞ」

「ええ、ありがとう───」

 

 控えの間に座る私たちに、影のような僧兵が声をかけてきた。歯の間から空気が抜けるような奇妙な声だった。彼に対し、神経が張り詰めている私は瞬時に違和感を覚える。その間の抜けた声にではなく、彼から発奮される刺々しい気配に、だ。

 重要な司祭の傍に護衛として僧兵が控えているのは不思議なことじゃない。けれど、彼の両肩から発する気配が見るからにピリピリと殺気立っていた。勇者パーティー付きの神官として命の奪い合いに関わってきた経験から、その殺気が、戦う前の武者震いではなく()()()()()()であることを肌で感じとる。彼は明らかに何かと戦った後だった。

 

(……()()()

 

 思い返してみれば、小領主の城なみに大きな教会なのに、僧兵の数は聞いていたよりずっと少ない。15人はいるはずなのに、今は片手で数える程度しか見かけない。しかも、一見すると健全に見えるこの僧兵も、無表情の裏で負傷の痛みを歯噛みして堪えている。誰も彼も、無理して立っているかのような疲労が隠せていない。

 訝しる私の視線を、僧兵はまるで一流の暗殺者のように鋭敏に察してさっと顔を背けた。だけど、そのことで逆にひどい裂傷を負った首筋を私にさらけ出すことになった。それは近接戦闘で負う刀傷に違いなかった。クリスが似たような負傷をよく負っていたからすぐにわかった。薄い紅を引いて隠そうとしているけど、唇の酷い切り傷をむしろ目立たせている。男なら誤魔化せても女の目には下手な化粧は通じない。チラリと見えた唇の隙間からはすきっ歯が垣間見える。空気が抜けるような声の原因はこれだ。

 

(僧兵が、誰かと戦った?まさか、そんな……)

 

 ()()()()()。そうやって無理にせせら笑う神官の自分と、目撃した傷跡を冷静に分析する勇者パーティーの一員としての自分がぶつかり合う。

 王立教会の僧兵の役割は、あくまで自衛のための最低限の武力でしかない。扱える武器は刃のついていない棍棒か、鏃を丸めて殺傷能力を抑えた弓矢か、私のようなデミミスリル製の杖のみと決められている。積極的に戦うなんてご法度もいいところだ。少なくとも私はそう教えられてきたし、そう信じていた。けれど、鉢植えの椰子の影に姿を隠すように控えている僧兵の傷はとても深く、そして致命的に()()()()()。足元を見れば、靴底に鋲釘を打った戦闘用ブーツを履いていて、落としそこねた泥がこびりついている。昨晩の雨のあとについたに違いない。

 

(野生動物か野盗かにでも襲撃されたのかしら?でも、そのことを隠そうとする意図がわからないし、教会の周辺でなにかに襲われたという形跡もなかった)

 

 それに、司祭の執務室に近づくにつれて僧兵の警備は物々しくなり、緊迫感がヒリヒリと感じられる。号令一下で今にも武器を手にとって臨戦態勢を取りそうな雰囲気だ。

 そういえば、ここに来る途中で複数の足跡が散見された。一頭の馬と、たくさんの人間の足跡。足跡の持ち主たちはだいぶ焦っていたらしく、爪先の部分が深く食い込んでいたことを思い出す。もしかして、彼らは()()()()()()()()のか?

 

「リン、どうしたの?」

「リン殿、行かないのか?どこか調子が悪いのか?」

 

 じっと考え込んでいた私の様子を不審に思った魔法使いと武闘家が、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。二人からこんな風に親身に思いやられたことがなかった私は思わず動揺してしまう。チラと視界に入ったハントは、相変わらず心ここにあらずといった風に羅紗(らしゃ)を張った机を呆けたように見下ろしている。ハントはまだ駄目だ。彼を覚醒させるにはまだ何かが足りていない。彼がパーティーを率いる勇者らしくなるまで、私がしっかりしないといけない。

 

「え、ええ。大丈夫。なんでもないの。行きましょう」

 

 居住まいを正して扉を開けてくれる僧兵に感謝の一揖を返して、私は交渉相手である司祭が待つ執務室へ歩を流した。

 私が僧兵に抱いた違和感は、次の瞬間に目撃した司祭の顔面によって吹き散らされることになる。

 

「やあ、よく来てくれたね、リン神官」

()()()()()()()!ご尊顔をどうされたのですか!?」




この小説がとても好評を頂いていて、驚いています。勇者パーティー追放モノって、みんなもうお腹いっぱいだと思っていました。嬉しいです。


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12話

活動報告でもお伝えしましたが、先月、子どもが生まれました。更新速度が遅くなると思います。この『女騎士になる』についてはほぼ出来ているので、あと2話ほどで切りをつけて終わる予定です。


()()()()()()()()()()()()!?まさか、そんなことが……」

「しかし、私の傷が何よりの証だ。見給え、リン神官」

 

 顔面のほとんどを覆っている血の滲んだ包帯を肉厚の手で無造作にめくる。「うっ」という呻きを漏らしたのは、私だったのか、魔法使いの少女だったのか。おそらく両方だろう。まるでカマイタチのように鋭く迷いのない傷跡は、司祭の顔の左側を縦一直線に切り裂いていた。導水渠のように深い切傷によって左目は完全に潰れ、べこりと凹んだ瞼の隙間から眼球を構成していた辛子色の液体が粘っこく糸を引いてドロリと流れ出ている。顔面のいたるところに細かい石つぶてが食い込んでいて、まるで船底のフジツボのようだ。大急ぎで処置したらしい荒い縫合痕は古岩に走るひび割れのようで、見ているだけで怖気が走る。

 光量乏しいロウソクの明かりの下で、お世辞にも美形とは言えない彼の顔貌にあってこのおぞましい傷跡が加算されては、常人には直視できるものじゃない。

 

「な、なんて酷い……!」

 

 逆流してくる胃酸を喉輪を締め付けてなんとか呑み下し、私はマドソン司祭から青白い顔を逸らした。逸らした先ではハントの無表情と顔面蒼白な魔法使いが並んでいる。一方、剣士の家系に生まれた武闘家は剣による裂傷を見慣れているらしく、その傷をまじまじと凝視する胆力が備わっていた。

 

「その傷、手練だな。しかもかなりの手練だ。太刀筋が一ミリだってぶれてねえ。こんなこと、『赤の団』の連中にも出来る奴は少ないぜ。並大抵の腕じゃなかったろ、司祭さん」

「ああ。その通りだ。凄まじい剣の使い手だった。コリエル神の御心によるお救いがなければ、私の頭はとっくに二つと分けられていただろう」

 

 司祭が汚れた包帯を背後の僧兵に渡す。僧兵は優秀な召使い(ポーター)のように清潔な包帯を懐から取り出し、司祭の傷跡を丁寧な手付きで再び覆い隠す。刃傷の手当てがやけに手慣れているけれど、野生のモンスターや野盗が多い地方の僧兵にとっては慣れたものなのだろうか。

 無残な顔の左半分を器用に隠したところで、私と魔法使いはホッと安堵の息を吐いた。

 たしかに言われてみれば、その縦一文字の太刀筋からはまったく迷いというものを感じられなかった。斧で薪を割るように真っ直ぐに振り下ろされた剣筋は、ハントの得意とする大上段斬りを連想させる。

 

(姫様の近衛騎士に、そんなに腕の立つ者がいたなんて)

 

 大上段斬りは、クリスとハントが一緒に考えて身に付けた必殺技だ。大抵の魔族の魔力障壁では防ぐことの出来ない、勇者の膂力を最大限に活かした一撃。その強烈無比な攻撃と同じくらいの冴えを一介の騎士が持っているなんて。それに、マドソン司祭はよくそれを回避できたものだ。常人が避けられるような甘い攻撃ではないのに。本当に神のご意思が働いたのか。

 

「で、でも、ルナリア姫殿下は心優しいお人だって、父ちゃ───お父様から聞いたことあるわ。そんな人が、よりにもよって王立教会の司祭を害するなんて」

「ええ、にわかに信じがたいことです。何があったのですか?」

「うむ。神の啓示と言えばいいだろうか、何やら胸騒ぎがしてな。昨夜、森の奥に足を運んでみたのだ。すると姫様一向に偶然遭遇した。どうされたのかと話しかけたのだが、姫様は狂乱状態で、会話にもならなかった。様子がおかしいと思ってさらに説得を重ねようとしたら、これだ」

 

 芋虫のように太い指が己の顔面の前でひらひらと振られる。新品の包帯にじんわりと赤が滲んでいくマドソン司祭の痛々しい顔を見て、またもや気分が悪くなる。凄まじい激痛だろうに、どうして平然と会話ができるのだろう。その常人離れした胆力に寒気すら覚えながら私は質問する。

 

「殿下はどうしてそのような蛮行に及んだのでしょう?司祭様を疑うわけではありませんが、殿下はまだ幼いながらも賢明であられ、とても慈悲深い方だと聞き及んでいます。なんの理由もなしにそのようなことを……」

 

 そこまで言って、私はマドソン司祭の顔に苦々しい表情が過ぎるのをたしかに見た。簡単に納得しない私に苛立ちを覚えたのか。それにしては、その表情には利己的な憎悪が滲み過ぎていて、瞬間的にとても聖職者とは言えない歪んだ人格が垣間見えた。

 

「口の()に乗せることも憚ることだが、どうやら殿下は邪教徒に(たぶらか)されているようなのだ」

()()()?」

「そうだ。この傷は、そやつによってやられたものだ」

 

 聞き慣れない言葉に思わずオウム返しをした私に、「うむ」と重々しく頷いたマドソン司祭が、皮膚が突っ張ったことで痛覚を刺激した傷口を抑えて顔を顰める。その際に漏れた陰にこもった舌打ちは意識外にしてしまったのだろう。聖職者らしからぬ粗暴な癖に我知らず私は眉をひそめる。

 

「その()()()()()は突如として“還らずの谷”から現れた。まるで幽鬼のように谷底から姿を現したのだ。この傷はそやつにやられたものだ」

「まさか、あの谷から!?」

 

 かつて魔王を打倒せしめた勇者ですら帰還できなかった“還らずの谷”から脱してきたなんて、信じられない。しかし、顔を青ざめさせる司祭の面体は迫真で、嘘をついているとは思えなかった。

 なんて皮肉だろうか。同じ日に崖に落ちた善の者と上がってきた悪の者がいるなんて。

 

「そ、そんなの、魔術学院の一流教師にだって無理よ。浮遊魔術を使ったって、きっと昇り切る前に魔力が尽きてしまうわ。どうやってそんなことが……」

「わからん。まるでひとっ飛びに跳躍してきたかのように見えた。邪教の秘術でも使ったとしか思えん」

 

 魔法使いに「お手上げだ」というふうに首を振って、マドソン司祭は自らの語を継ぐ。

 

「あの邪教徒は、甘言を弄し、さらに邪まな催眠魔法を使って、ルナリア姫殿下や一部の近衛兵たちを操り、王都へ謀反の種を運ぼうとしている。殿下は私の忠告など聴許しようともしなかった。姫様も近衛兵たちも、自分が操られているとは露とも疑っておらん。嘆かわしいことだ」

「そういえば、“コリエル神の他にも神様はいる”って前にクリスが言ってたわ。でも、信じてる人は少ないとも」

 

 魔法使いの言葉に私はコクリと小さく頷いて同意を返す。たしかに、世界ではかつて複数の神が信じられていたという。けれど、現在では力と戦いと繁栄の神(コリエル神)がほぼ唯一神の扱いをされている。今では、王立教会神官にだって他の神の存在を知る者は少ない。もっとも、他の神への信仰が淘汰されていったのは自然な流れではなく人為的な工作も否定できないという。……これらの知識は、クリスからの受け売りだ。彼がいてくれれば、もっと違う角度や深い見地から女邪教徒についての考察も出来たのに。

 つい物思いに沈みそうになった私に、マドソン司祭は内緒話をするように声を低め、さも言いにくそうな様子を装って顔を近づける。

 

「だが侮ってはいかんぞ。邪教徒は神通力を使うと同時に剣士でもある。この傷跡を見ればわかるだろうが、その腕は恐ろしいほどに立つ。あれほどの冴え技は見たことがない。もしかすると……」

 

 チラリと視線が転じる。その先には黙したまま机の一点を見つめるハント。含むものを感じる視線から私の背筋を驚愕という名の衝撃が貫く。瞠目するばかりの私の代わりに驚きを言語化したのは武闘家だった。

 

「ま、まさか、司祭さんよ!そいつはハント殿に匹敵する剣士だったって言うんじゃないだろうな!?」

「……うむ」

 

 「冗談だろ」と驚愕を隠せない武闘家が目をギョロつかせて大げさに仰け反る。魔法使いも言葉が出ないようだ。当然だと思う。この世でハントを超える実力者は、魔王本人と配下の四天王くらいだと思われていた。それが同じ人間にもいるというのだ。味方であればどんなによかったか。

 でも、私は聞き逃さなかった。マドソン司祭は、武闘家の「ハントに匹敵するのか」という問いかけに「そうだ」とはっきり肯定しなかった。つまり、考えたくもないけれど───その異教徒の女剣士は、単騎では()()()()()()()

 

「マドソン司祭様、私たち勇者パーティーに何をお望みでしょう?」

「君たちには大変な任務を与えることになるが、大事ないかね?」

「……図らずとも、今の私たちには辛い任務こそ救いとなりましょう」

 

 その言葉に、武闘家と魔法使いが顔を俯ける。ただ思い悩むより、目的をもって突き進んだ方が心への負担が軽くなる。今の私たちは、ただ立ち止まって後悔に押し潰されるより、とにかく前に進んで後悔に追いつかれない方がいい気がした。

 司祭は、一斉に表情を暗くした私たちに、(おの)ずから説明し(がた)い後ろめたい事情があることを察したらしい。「君たちが近くにいてくれたのは僥倖だった。まさしくコリオリ神の思し召しに相違あるまい」。心得顔でそう語ると、胸の前で円字を切り、神への祈りを体裁的に捧げる。

 

「君たちには、邪教徒の女剣士の討伐を依頼したい。あの女を倒せ。君たちにしか出来ないことだ」




『あやかしトライアングル』をすこれ


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13話

 書いているとどんどん長くなるので、またまた区切りをつけて投稿です。他の方の作品を読んでいると、絶妙に「ちょうどいい」文量というのがなんとなくわかってきました。スマホで読んで下さってる方もけっこう多いみたいなので、長すぎると読む気が失せちゃいますもんね。


「君たちには、邪教徒の女剣士の討伐を依頼したい。あの女を倒せ。君たちにしか出来ないことだ」

 

 そう来るとはわかっていたけれど、正直、胡散臭いという印象は拭えない。

 姫様を(かどわ)かしたという邪教徒について、私たちは疑う材料を持たない。真実であるという証拠もないが、わざわざ架空の話のために私たちを呼び寄せる理由が見当たらない。それに、司祭の傷跡は、その者が手練であるという事実のみを証明している。武闘家もそれを認めた。それほどの強敵を打倒できて、かつもっとも早急に追撃が可能な遊撃パーティーは私たちだけという事実も納得できる。なにより、各所に顔が利くこの司祭に恩を売ることは、クリスという補佐役を失った私たちへの支援の約束となる。本当に善良を行うことになるのなら、まるでお膳立てされたように理にかなった流れだ。

 けれど……言いようのない違和感が私の胸の内で渦を巻いている。今、目の前で薄ら笑いを浮かべているマドソン司祭の依頼は、本当に善行なのだろうか?

 

「えっと、それじゃあ……今回、私たちが戦うのって、魔族じゃなくて……」

「人間、しかもこの国のお姫様ってことになるのかよ」

 

 魔法使いと武闘家があからさまに困惑した表情を交わす。そう、この依頼を受けるということは、私たちは同じ人間(・・・・)と戦うことになるということだ。そのことが心理的な抵抗を生み出していた。

 

(今までとは違う。成算はある。でも、覚悟(・・)がない)

 

 過去にも山賊や盗賊を退治することはあった。その際も、ハントを中心とした圧倒的な彼我の実力差に物を言わせて、殺さずに捕らえるか痛い目に遭わせて反省させるだけだった。クリスが、人殺しを避けるようにと耳にタコが出来るほど厳命していたからだ。「勇者がすることじゃない」と。

 でも、今度はハントに匹敵する難敵が相手なのだ。話通りに姫様や近衛兵まで操られているというのなら、戦いはより深刻なものになる。特に訓練を積んだ兵隊となると、たとえ一人ひとりの実力は私たちより劣っていても、集団戦闘を前提として鍛えられた彼らは果てしなく脅威だ。協力して戦うことが不慣れな私たちにはきっと荷が重いだろう。手加減なんて出来ないし、苦戦だって考えられる。

 

(クリスは指揮もとってくれていた。みんな、鬱陶しげに渋々聞いていたけれど、的確だった)

 

 盗賊たちも馬鹿ではなく、集団戦法で反撃を挑んできた。それを難なく制圧出来たのは、ハントたちの強さもあるけれど、クリスの万全な作戦準備と柔軟な指示によるところが大きい。3人は自分の実力だと過信していたけれど、クリスの貢献無しには考えられない成果だった。

 私たちパーティーは、しょせん1+1+1+1の足し算でしかない。クリスを欠いた今は特にそれが顕著だ。けれど、兵隊は綿密に協力することで単純な足し算ではない戦力へと昇華する。訓練を受けた兵隊は、双子のようにお互いの考えを読み取って連携行動が取れる。特に優秀な指揮官に率いられた統率力のある兵士集団は強い。筋力や魔力で劣る人間が魔族に拮抗できている理由でもある。『決して兵隊を侮ってはだめだ。彼らは個ではなく集団で戦うときに真価を発揮する』。これもクリスからの受け売りの知識だ。苦闘を強いられれば、殺すか殺されるかという事態は避けられない。

 

 (そうなったら───私たちは、ただ操られているだけの無実の人間を殺すことになる)

 

 勇者パーティーが、人類の守護者が、同じ人間を殺すことになる。力に物を言わせて騎士たちを殺害した虐殺者になる。それは本末転倒なことだ。クリスはそれこそを避けようとしていたのに。

 武闘家と魔法使いの不安げな視線が私の横顔に注がれていることは理解していた。彼らは決断を下すことに慣れていない。後から文句を言うことはあっても、“これからどうするか”について判断をしたことはなかった。それは全てクリスが細かく考えてくれていたし、それを追認する形でパーティーの指針を決定していたのはハントだった。いつも、クリスが情報を収集し、選択肢を用意し、方針を確認し、ハントが「じゃあそれで行こうよ」と軽々しく頷く。それでなんとかなってきた。今、一人は崖の下で、一人は私の真横で死人同然のように消沈して役に立たない。ここは最年長の私が決めなければならない。

 

(クリス、貴方なら、こんな時にどうするの?)

 

 紅茶がなみなみと注がれたカップに同心円状の波紋が立つ。静かに揺れる紅茶の水面に映り込む私が私を見つめ返す。そこに映っているのがクリスだったらどんなに良かったか。彼を失った弊害に打ち据えられて腹の底が石を飲み込んだかのように重く感じられる。

 今、ここにいるのが私ではなくクリスだったら、どう考えるのだろう。何を優先しようとするだろう。胸のうちにわだかまるこの違和感の靄を、どう言語化するのだろう。私は彼のように人生経験豊富じゃない。私の積み重ねた知識も経験も、彼の血の滲むような努力に比べたら足元にも及ばない。“勘”だけがヒリヒリと危険信号を発するだけで、その根拠に当たりをつける術がない。

 助言の一つでも出てこないものかとハントを横目で睨むも、遠くを見ているような茫洋とした眼差しはこちらを見ようともしない。その呆けた横顔に苛立ちが募り、知らずに臍を噛む。

 一番、クリスの傍にいた時間が長いくせに、彼から何も吸収していないのだろうか。こんな時こそハントに勇者としてのリーダーシップを発揮して欲しいのに。

 

「深く考える必要はない。何も難しいことはないのだ」

 

 答えあぐね、言いよどむ私の様子を見て、マドソン司祭は困惑するでもなく、“お前の考えなどお見通しだ”と言わんばかりの薄い刃のような鋭い笑みを浮かべた。

 

「コリエル神の寵愛厚き勇者パーティーを瞞着(まんちゃく)するわけもない。そんな罰当たりはことはしない。ただ、今から姫様たちを追いかけて、早々にその身を邪教徒から保護してくれればいいだけなのだ。王都に着く前に邪教徒一人を打倒するなど、無敵の勇者を有する君たちパーティーには容易いだろう?安心したまえ、私もこの傷を処置したらすぐに後を追う所存だ。姫様を保護しさえすれば、あとは私に任せてもらえばいい。聖なる法力で催眠を解除してみせよう」

 

 優しい父親めいた声音で喉を震わす。司祭は私たちパーティーがクリスという核を欠いたことを知らない。私たちが“頭”を失ったことを知らない。知ったとしても、「たかが村人如きいなくても」と言いそうな傲慢な雰囲気が滲み出ていた。

 

「無論、この任務を快諾してくれれば、君たちパーティーへの王立教会からの力添えはより一層手厚いものになるだろう。情報も、人員も、なにより金銭も、もう苦労することはない。教会に行くたびに、君たちは潤沢な活動資金を手に入れることができる。信仰心は無限なのだ。その口添えは任せたまえ。金打(かねうち)が必要とあらば、今すぐ金子(きんす)を渡そうではないか」

 

 歌うようにそう言うと、懐から巾着袋(オモニエール)を取り出してテーブルに置く。ジャラッとしたたくさんの金属同士が擦れる重い音に驚く。こんなにたくさんのお金、見たことがない。

 目の前に用意された大金にも、言い添えられた言葉にも、さらに不安を煽られる。必要以上に語調を和らげる目の前の顔の一枚下には、飴を振るって幼児に誘いをかける下卑た年配者の笑みが透けて見えた。思想的、生理的な嫌悪感に寒気すら覚える。

 

「なあ、リン殿。この申し出はありがたいんじゃないか?パーティーとしての行動が自由になるんだぜ」

「わかってる。少し黙ってて」

 

 語気鋭く言った私に武闘家がたじろいだ。武闘家の言う通り、たしかにありがたい申し出だ。このパーティーは活動資金を得るために各地のギルドでクエストをこなして日銭を稼いでいた。それはクリスの考えだった。武闘家や魔法使いはこれを「面倒くさい」と嫌っていたし、私も「こんな非効率なことをせずに王国なり各地の貴族なりに支援を請えばいいのに」と首を傾げていた。でも、今になってその理由がわかった。

 私は膝の上においた拳をぎゅっと握り締めた。緊張で額が汗ばみ、呼吸が浅くなる。私たちは、何かよからぬ企みに手を貸そうとしているのではないか。もしここで司祭の手を取ってしまえば、私たちは二度と外せない足かせを引きずることになるのではないか。

 

(クリス、貴方は、こうなることを心配していたのね)

 

 今になって、クリスが特定の組織に過剰な支援を求めずにパーティーの運営を自立させようと苦心していた理由が身に沁みて理解できた。人類を救うという崇高な目的をもったパーティーに、政治や宗教といった界隈からの不必要な横やりを入れられることを恐れていたからだ。神官の私が言えた義理ではないけれど、王立教会にも王立教会の思惑がある。魔族に追い詰められようとしている時ですら、私たち人類は彼我のテリトリーのことしか頭にない。椅子取りゲームなんてしてる場合じゃないのに、協力することが出来ない。勇者パーティーを自陣営に取り込み、利用しようと画策する者たちは引く手数多だ。

 

(でも、私にはこれ以外に手が考えられないのよ!)

 

 もしもクリスが今の私を見ていれば、きっと軽蔑するだろう。けれど、私たちはもう自力でパーティーを維持できない。ギルドとの折衝もクリスの領分だった。クリスが各地のギルドに必ず顔を出して、現地の人々では難しいクエストを請け負うことで、このパーティーは多種多様な人たちから好感をもたれ、横の繋がりを得ていたのだ。同時に、クリスを通じて各地で独立していたギルドが情報の行き来をするようになり、ギルド同士の繋がりも生じかけていた。魔族に対抗するために人間同士が連携を取るための地盤作り。もしかしたらクリスはそこまで考えていたのかもしれない。でも、もう彼はいない。私たちは彼自身と一緒に、彼が育んでいた人類団結の芽をも刈り取ってしまった。

 私の苦悩などお見通しだと言うように、マドソン司祭がぐっと身を乗り出して机越しに私の手を握る。贅沢な象牙のボタンがロウソクの照明にまろやかに輝く。司祭の手のひらの皮はまるで牛革のように分厚く、やけに冷たかった。飢えた獣のような笑みがぐいと近づいてきて、痛み止めで呑んだらしい強い酒の臭いがするキツい口臭が漂ってくる。思わず生理的な嫌悪感に仰け反りそうになった肉体を気合で抑えこむ。

 

「もちろん、断ってもよいのだ。かの有名な勇者パーティーに強制しようなどとはつゆとも思っていない。だが、“勇者パーティーに王女救出の要請を断られた”ことは王立教会に報告せざるを得ない。わかるね?」

「それは……!」

 

 そんなことをされれば、教会からの支援そのものが打ち切られてしまうかもしれない。最悪、私はこのパーティーから外れて帰還するように指示されるかもしれない。正直に言って、私がいなくなってしまえば、残されたハントたちがパーティーとしてやっていけるとは到底思えない。パーティーが消滅してしまえば、クリスのやってきたことが無駄になってしまう。それはなんとしても避けたかった。

 私たちがこれから活動していけるかどうかは、マドソン司祭の胸三寸だ。悔しいけれど、私のような場数を踏んでいない小娘では、この司祭には太刀打ちできない。ビクビクとした雌兎のような情けない姿を晒す自分自身に苛立ちが募る。その憤懣(ふんまん)すらも見透かしていると言わんばかりに、マドソン司祭は下卑た笑いを浮かべた。

 

「……そのご依頼、お受けする以外に道はないようですね」

「そのようだ……ん?」

 

 私が折れかけていることを鋭い本能で察したらしいマドソン司祭が満足気に大きく頷く。そしてにんまりと余裕の笑みを浮かべたかと思いきや、その視線が私の羽織るローブに何気なく流された。

 次の瞬間、何が気に障ったのか、彼が両眉をカッと引き上げて驚愕に仰け反った。僧服に包まれていてもわかる大柄で筋肉質な肉体が重そうなソファをガタンと跳ね揺らす。

 

「そ、そのローブは!?」

「え?」

 

 司祭の指が私のサラマンドラのローブを指差して上下にぶるぶると震える。見れば、彼の背後の僧兵も無表情を崩して滝のような脂汗を顎に伝わせていた。ふたりとも、なぜか私のローブに肝を潰した様子だった。彼らの急変っぷりに、私たちはポカンと戸惑うことしか出来ない。クリスとお揃いで買ったこのローブがどうかしたのだろうか?

 

「あ、あの、マドソン司祭さま?これが何か……?」

「そのローブはあのクソ女騎士(・・・・・)の!なぜお前が!?」

「く、くそ(・・)?」

 

 聖職者にあるまじき無作法な暴言に今度は私がギョッとする。聖職者は、特に言葉遣いを神学校で徹底的に矯正される。どんなに育ちが悪くても、とても厳しい教務教師が精魂を込めて性根から叩き直すし、たまにやってくる巡回教師のくどくどとしたお小言もそれを後押しする。学校から送り出された頃には、どんなに未熟な神官見習いでも物腰柔らかで敬虔な人間になっているはずだ。それなのに、口汚い痛罵を漏らした目の前の司祭にはその教義がまったく染み付いていなかった。

 

「あ、い、いや、」

 

 不意に己の本性(ボロ)が出てしまったことに気づいたのか、司祭が慌てて居住まいを正そうと表情を取り繕うも、私たちに根付いた彼への疑念は打ち消せなかった。明らかに挙動がおかしい。彼の言葉は、いや、マドソン司祭その人は、果たして信用できるのだろうか。信用していいのだろうか。

 呆気に取られて二の句を告げない私たちのなかで、ことの本質(・・)を見逃さなかったのは、驚くべきことに今まで死んだように沈黙を保っていた()だった。

 

「その女は、たしかに彼女と同じローブを着ていたんだな?」

 

 何の前触れもなく生気を取り戻したハントが、司祭に向かって勢いよく身を乗り出したのだ。その横顔は今まで見たこともないような鬼気迫る凄みを帯びていて、私たちは黙って見ていることしか出来なかった。




『最強無双の異世界機兵-アルカンシェル-』をすこれ。異世界転生×エルフ×ロボットは最高だぞ。


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14話

あと一話かな?


「あ、ああ。間違いない。たしかにそのローブだ。女騎士は───いや、邪教徒は、たしかにそのローブを装備していた。私は目の前で見たのだ」

「そうか。馬車はどうした(・・・・・・・)?」

「な、なに?」

「ルナリア姫が馬車に乗っていたのか、乗っていなかったのかを聞いてるんだ」

 

 ハントが矢継ぎ早に唐突な質問をマドソン司祭に突きつける。そんな質問が来るなど予想していなかった司祭が残された片方の目を剥いてしばし黙考する。質問の意図がわからず、私たちもポカンとした間抜け顔でハントを見ることしか出来なかった。クリスの死に呆けていたはずの横顔は知らずの内に生気が戻り、鋭い眼力には根源の判然としない気勢が漲っていた。思いつきを捲し立てているのかと不安になったけど、その目はまがいようもない理性を湛えていて、私たちにまだ見えていない何かをしかと見ていた。

 

「馬車を持っていたかどうかでルナリア姫たちの目指すルートを絞ることができる。質問の意図は他にない。忘れたのならすぐに思い出せ。刻一刻と敵は離れていっているぞ」

 

 今のセリフが何らかの核心をついたのだろう。マドソン司祭は一瞬だけ目をギョロつかせる。馬車のことを聞かれるとなにか都合の悪いことでもあるのだろうか。口端をひくつかせて何事か考えたあと、ハントに本当に他意がないと悟ると口元を綻ばし、視線を彼から見て右上に向ける。

 

「いや……姫様は、馬車には乗っていなかったように思うな。よく見ていないが」

「やんごとなきお立場の方なのに、馬車に乗っていなかったというのか?王都まで早駆けでも一週間は掛かるのに?」

「あ、ああ。それは、そうだな。その疑問はまったくその通りだが、見ていないものは見ていない。乗っていたのかもしれないが、私が見たときには馬車はなかった」

「荷馬もなかったか?」

「な、なかったように思うが」

「そうか。わかった。もう十分だ」

 

 まるで尋問のような会話はハントによって一方的に断ち切られた。しかし、高貴な身分のお人が馬車にも乗らずに移動するものなのだろうか?モゴモゴと言葉をつまらせて返答に窮している司祭の様子は何かを隠している様子だったが、急に饒舌になったハントはそのことを気にもしていないようだった。彼が嘘をついていようといまいと、“姫様一行が馬車に乗っていない”という結果さえわかればいいというかのようだ。その情報だけで、彼の頭のなかでは姫様一行を追いかける算段が整いつつあるようだった。

 ハントは自分の2倍は年上だろう強面の司祭相手に尻込みする気配もなくさらに要求を突きつけていく。

 

「その邪教徒───女騎士の似顔絵がほしい。直接顔を見た者に素描で描かせろ。すぐにだ」

「お、おお。勇者ハント殿、私の依頼を引き受けてくれるのだな?」

「引き受ける。だから、急いで似顔絵と馬と必要な物資を用意してくれ。寒さに強く体格の大きな頑健馬(リピッツァ)を2頭と人数分の分厚いコート、厚手のフェルトで出来たワッチキャップ、温ぶどう酒(グリューワイン)。それと、そこの暖炉で特に熱せられた石を幾つか厚布にくるんで、それも人数分、寄越してくれ。それがなくては追いつけない」

「もちろん、もちろんだとも。全てここに揃っている。すぐに準備させよう」

 

 傷だらけの醜い顔を満足そうに綻ばせたマドソン司祭が背後の僧兵に顔も向けずにさっと手をふる。僧兵が踵を返して指示された物品の手配に向かうのと同時にハントが立ち上がり、彼もまた踵を返して出口へ足を向ける。暇乞(いとまご)いをする礼儀すら払わない態度に目を白黒させる私たちのことなど気にもしていないようだった。

 

「私も準備でき次第、すぐに追いつく。それまできっちり捕囚しておくのだぞ」

 

 ハントは背中に鼻息荒く投げかけられた司祭の台詞に反応を示さなかった。その鬼気迫る鋭い眼力は、何かを───誰か(・・)をしかと捉えていた。

 

「……行くわよ」

 

 「どうする?」と問いたげな表情の武闘家と魔法使いを言葉一つで促す。どうもこうも、こうなってしまっては今さら断ることなど出来ない。なぜ司祭が都合よく姫様の動きに気が付いたのか、寛恕(かんじょ)で知られる姫様がどうして邪教徒と関わりを持つことになったのか、納得がいかないことばかりだけれど、パーティーの顔である勇者が頷いてしまった以上は引き下がることはできなくなった。阿呆みたいに呆けていたくせに途中から突然分け入ってきて勝手に決定を下されたことは癪だけど、どの道、司祭の申し出を断ることなど私には出来なかっただろうから。

 ハントを追って席を立ち、マドソン司祭に丁寧に一礼して謁見室を辞する。司祭はすでに心ここにあらずといった態度でぞんざいに頷くと、そのまま怪しい笑みを浮かべて物思いに意識を傾けた。それを見て、「なぜ教会に戒律で禁止された酒があるのか」を追求する気力は削がれた。

 それよりも、ハントが口にしたことが気になっていた。馬車のあるなしが姫様の行き先を予測することにどう有益なのか。それに、準備を依頼した品物は、明らかに極寒地に向けてのものだった。2頭しかない頑健馬(リピッツァ)もそうだ。季節はまだ秋の中頃なのに、どうしてそんなものが必要なのか。私たちをどこに導こうとしているのか。

 慌てて後を追いかけて応接間を辞すると、ハントは教会裏手に通じる柱廊をズンズンと進んでいた。柱はまるで貴族の邸宅のような透かし彫りが施されていて、なるべく質素に見せかけた表側の様相とは打って変わってやけに装飾過多だ。そのまま歩を進めると、馬蹄形に作られて石畳が敷き詰められた馬回しが見えてきた。馬小屋の方からは夜更け前に叩き起こされた馬たちの非難の(いなな)きが曇天を突き上げている。きっと、先ほどハントが要請した物資を荷鞍(パックサドル)に乗せられている最中なのだろう。

 仲間のことなど慮ることなく早足で進むハントになんとか追いついた私は、彼の背中にがなるようにして疑問をぶつける。

 

「ちょっと、ハント!どういうことなの!?説明くらい───」

「姫たちは合同村に行く」

「え?」

 

 返し刀で跳ね返ってきた返答に唖然とする。

 

「メア・インブレアム合同村。去年に行ったことがあるだろう。ここから馬で一日半の距離にある」

 

 瞬間、弾かれた意識が時をさかのぼってにぎやかな村の喧騒に片足を突っ込む。照りつける陽光の下、雑多な喧騒に難なく馴染んで人混みをかき分けるクリスの背中が目に浮かぶ。こちらの財布の足元を見ようとするあこぎな露天商と腹の探り合いをして、しかし最終的にはにこやかに握手を交わす大人の対応をしていた。木賃宿で彼が披露してくれた素朴な手料理の意外な味わい深さに感動した私に「上手いもんだろ?」と歯を見せて顔いっぱいに笑顔を広げるクリスが蘇る。今となっては儚い思い出に、思わず目尻に溜まった一粒の雫を気付かれないように指先で拭って、私は意識を無理やり思惟の一番前に引き寄せる。

 

「え、ええ。覚えてるわ。趣味のいい木賃宿がある大きな村でしょう。けれど、ルナリア姫様は王都を目指していると司祭様から教えて頂いたでしょう?合同村は王都への直通コースから外れて迂回してしまうわ」

「奴らは馬車を持っていないと言っていた。何故かは知ったことじゃないが、つまり食料といった補給品の持ち合わせがほとんど無いということだ。騎兵が馬に乗せられる食料なんてたかが知れている。高貴な身分の人間が、大食漢と相場が決まっている兵士たちを抱えて移動しているのだから、当然早い段階で補給が尽きて行動できなくなる。そこらの寒村を継ぎながらでは十分な補給は受けられないし、それでは多くの足取りを残すことになる」

 

 「あとは言わなくてもわかるだろう」とでも言うように素っ気なく断ち切られた台詞の後を、私は必死に頭を回転させて補う。

 

「……貴方の言わんとすることはわかったわ。補給品が尽きる前に、残りの旅程に必要な補給品全てを一挙に手に入れられる場所は、メア・インブレアム合同村しか無い。だから、彼らは寄り道してでも必ずそこに向かうはずということね。でも、今から追いかけたんじゃ間に合わないわよ。“還らずの谷”から合同村に向けて出発したのが昨晩だとしたら、もう彼らは到着してる。仮に姫様たちが一日滞在したとしても、私たちが到着する頃にはとっくに出発しているわ。なにせ、あの山を迂回しないといけない(・・・・・・・・・・・・・・)のだから───……嘘でしょう、無茶だわ」

「え?リン、どういうこと?なにが無茶なの?」

 

 ポカンとして問うてくる魔法使いに、仰天から立ち直れない私はただ見つめ返すしかできなかった。南方出身で、身体も一番小さく体力の低い彼女こそが一番苦痛を味わうとわかっていたからだ。やはり何も言わないハントの背中をしばし胡乱げに見つめていた武闘家が、不意に視線を遠くに投げてハッと顔を青ざめさせる。寒冷な北方出身の彼には、ハントの作戦の無謀さが身に沁みて理解できたからだ。

 

「ハント殿、山越え(・・・)をするのか」

「そうだ。ここと合同村の間には山がある。あれを普通に迂回すれば1日と半かかるが、まっすぐに縦断すれば一日も掛からない。追いつける」

 

 ハントを除く全員が前方遥か彼方に聳える峻険な山を呆然と見据える。広い裾野から上に行くにつれて鋭利に切り立った険しい山はまるで剣山のようだ。一枚の壁のように広く分厚いどんよりとした雲を突き上げる頂上の先端はほとんどその姿を人の目に晒すことはない。山の上部は塗りつぶしたような雪化粧で覆われていて、そこから吹き下ろしてくる風が起伏の激しい丘陵の上空を津波のように流れ、骨冷えする冷気をここまで押し寄せてくる。荒涼とした山肌は風を遮る樹木もなく、休める河川もない。人間を寄せ付けない寂寞とした雰囲気に、登山など経験したこともないだろう魔法使いの喉が「ヒュッ」とか細い戦慄の悲鳴を呑み込んだ。

 寒さに強い頑健馬(リピッツァ)、分厚いコート、厚手のフェルトで出来たワッチキャップ、温ぶどう酒(グリューワイン)、厚布にくるんだ熱い石。考えてみれば、すべて雪中の山を突き進むために必要な装備だ。類まれなる強靭さを神から授かったハントや、北方出身で頑健な肉体の武闘家はまだ大丈夫だろう。私も人並み以上には丈夫な自信はあるし、低い山なら馬で踏破した経験もある。神聖魔法による自己回復魔法(セルフキュア)を施せば大抵の場所には順応できると思う。でも、魔法使いは違う。彼女は温暖な南方出身だし、まだ子どもだ。魔法による強化(バフ)を自分に付加することで戦闘をこなしてきたけれど、魔力消費が激しいために短時間で効力が切れてしまう。とてもじゃないけど、雪中行軍のあいだずっとバフを発動できるとは思えない。それは身の丈ほどの愛用の杖を両手でギュッと握りしめて怯える魔法使いの姿を見れば一目瞭然だ。それを見かねた武闘家が容喙(ようかい)の声を上げる。

 

「ハント殿、あの山を超えるのは考え直したほうがいい。コイツには荷が重すぎる」

「彼女はお前の背中に座ればいい。座って、熱した石を抱きしめて、じっと堪えているだけでいいんだ。死ぬことはない。クリスのようには」

 

 傍目に聞いてもそれは卑怯な物言いだと思った。語気鋭くクリスの死を突きつけられて抗弁の余地を奪われた武闘家と魔法使いが顎をぐっと喉にくっつけて押し黙る。

 私はと言えば、ハントが突然リーダーシップを取り始めたことに呆気に取られるばかりだった。微に入り細を穿つ作戦構築はまるでクリスのようだ。なのに、彼ならば必ず念頭に置いていた仲間への思いやりがごっそりと欠如している。勇者として自覚を持ってパーティーを導いてくれることを望んでいたけれど、私の期待とは相容れないものに変質しているという漠然とした不安が背筋をゾワゾワと這い登ってくる。

 

「ハント、貴方いったい、」

「リン、君とクリスのローブはどこでも手に入るものか?」

「は?い、いえ、違うわ。希少品よ。とても珍しいわ。それがどうかした?」

 

 振り向きもせずに突きつけられた質問に、私はムッとしつつも馬鹿正直に応える。サラマンドラはそもそも数が少ないし、討伐も難しい。火竜であるサラマンドラの爪や牙、ウロコは耐火素材として重宝されて、貴族や名うての冒険者向けの高級装備に使用される。肉や脂までも貴重で、油引きされたこのローブだって奇跡的に手に入ったようなものだった。

 唐突に歩みを止めたハントの背中に虚を突かれ、そこに鼻っ柱をぶつける寸前で私もなんとか立ち止まる。まだハントがなにを見据えているのかわからない。けれど、己の見たいものしか見ていないような未熟で硬質な態度は、私の意識に不安の根を張らせるには十分だった。

 

「クリスが“還らずの谷”に落ちた同じ日に、そこから同じローブを着た女が現れた。偶然とは思えない」

「え、ええ。そうね」

 

 それには同意できる。偶然というには確率が低すぎるかもしれない。でも、クリスは無意識のうちに推理の方向を恣意的に狭めているような気がした。あまりに危なっかしい考え方だ。事実、その直感は的中した。

 

「その女騎士は、崖の下でクリスに会って、ローブを奪った(・・・・・・・)

「ま、待って。それは───」

 

 「それは短慮にすぎる」と牽制しようとした私を無視して、今度は魔法使いに矛先を向ける。

 

「もう一度、魔法でクリスの血痕を追跡してくれ」

「えっ、今?」

「やるんだ。今すぐ」

 

 戸惑う魔法使いにピシャリと高圧的な口調で命じる。有無を言わせない態度に押し負けた魔法使いが私に伺う視線を投げる。渋々と私が頷いたのを確認した魔法使いは、懐からおずおずと水晶玉を取り出して得意の高度圧縮呪文(プッシュスペル)を吹き入れる。透明だった水晶の内側が暗くなったと思うが早いか、冬の星空のような輝きがチラついて、魔術を修めている者にしか見分けのつかない幾何学的な紋様を映し出す。そこに映り込む彼女の表情が、次の瞬間、ギョッと泡を食ったものとなった。思わず尻もちをつきそうになった細い身体を武闘家が慌てて支える。

 

「い、移動してる(・・・・・)!クリスの血の反応が動いてる!崖の外に出てる!」

 

 私の目の裏で衝撃がピカピカと瞬いた。思考するより先に、私は魔法使いの肩に爪を立てて掴んでいた。

 

「動いてるって───クリスは生きてるってこと!?」

 

 結論を先走った私に、魔法使いが「ごめんなさい」と罪の意識に目を伏せる。

 

「ううん。そうじゃないの。反応は微弱だから、本人が動いているわけじゃないと思う。クリスの血が付着した“何か”が動いてるんだと思う。微弱すぎて詳しい場所まではわからないけれど、まだそれほど遠くには行ってない」

 

 私と同じように一時的に期待を抱いたらしい武闘家も申し訳無さそうに拳を握った。都合のいい淡い希望にちょっとでも心を傾けた自分にため息を吐きつつ、「ではどういうことなのか」と現象の理由に思考を巡らせる。だけど、考えをまとめるよりも先に断定の言葉が振り下ろされた。

 

「それはクリスのローブだ。女騎士がクリスから奪った。そうに違いない(・・・・・・・)

 

 抑揚を欠いた台詞に得も言われぬ怖気を感じて、全員の視線がハントの背中に注がれる。

 

「クリスはまだ生きていたのに、女騎士はクリスを助けることもせず、アイツを殺してローブを奪ったんだ。血はその時に付いたんだ」

 

 引き摺るような声でそう言って、ハントが首だけで振り返り、(いか)らせた肩越しに私を見た。途端、私の総身に強烈な緊張が走り、うなじの毛が残らず逆立った。乱雑に伸びた前髪のヴェールの向こうに覗く双眼が、羅刹の如きどす黒い殺意に燃えていたからだ。鋭い視線に晒されて、肌が炙られたようにひりつき、胃が胆汁で爛れるような苦い感覚を味わう。こんなの、『人類の守護者』なんかじゃない。クリスが導こうとした『勇者』なんかじゃない。自他を滅ぼすほどの怒りの捌け口を探す、ただの狂戦士(バーサーカー)だ。

 

「そうに違いないんだ。そいつが殺したんだ」

 

 犬歯を剥いて喉を唸らせるように低い声を轟かせる。罅割れのように顔面を走る皺、血走った眼球、口端に滲む涎。まるで獣──いや、魔物だ。私たちが倒してきた人類の宿敵そのものの暴力性がハントの全身から湯気のごとく立ち昇り、大気を陽炎のように揺らめかせている。風もないのに照明の蝋燭の炎が消えんばかりに左右に揺らめくのは、ハントの険悪な気迫に自然界の精霊が恐怖したからなのか。私自身も、膝下の骨が凍りついたかのようにその場から動けなくなる。

 王都の女たちを騒がせた爽やかな美男子の影はもう微塵も残っていない。剥き出しの槍の穂先のように剣呑な殺気に、中庭(パティオ)の馬回しに控える大型馬たちが怯えの嘶きをあげて黒目をわなわなと震わせる。彼は覚醒(・・)してしまったのだ。よりによって、最悪の形で。

 

「は、ハント───貴方、まさか……」

「女騎士のせいだ。全部、全部そいつのせいなんだ。僕が家族を失ったのはその女のせいなんだ。僕たちはクリスの仇を討たなくちゃいけないんだ。そうしないと───そうしないと前に進めない(・・・・・・・・・・・・)んだ!そうだろう、リン!!」

 

 食いしばった歯の間から無理やり押し出すように言い放つ。それは断定だった。ハントにとってはそれが事実なのだ。クリスが崖に落ちた後もまだ生きていたと決めつけ、女騎士が彼を殺してローブを奪ったと頭から信じ切っていた。それを推し量る根拠はローブと血痕に過ぎないというのに。

 かつて人類の希望の光だった(・・・)青年の、光すら呑み込むような真っ黒な双眼に見据えられ、私は耳鳴りを伴う頭痛に襲われた。彼はただ、不甲斐ない己への恨みを真正面から受け止めきれず、他者にぶつけ晴らそうとしているだけだ。考えうる限りでもっとも邪悪な解決方法だ。事実を受け止めれば心が壊れるからといって、誰かを生贄にして解消していいわけはない。人類最強の青年がこうなってしまっては手を付けられない。制御できる唯一の人間がいないからだ。ハントの狂気が明らかになったことで、空気が今にも千切れそうなほどに緊張でピンと張り詰める。伸し掛かってくるような殺気が見えない手となって喉を締めつけ、異様な胸苦しさに襲われる。

 

「あ、あの、ゆ、勇者様、それは……」

 

 以前はハントの言うがままにただ唯々諾々と従っていた魔法使いと武闘家も、この錯乱ぶりにはさすがにたじろいだ。二人が顔を引き攣らせて、ハントの浅慮をなんとか窘めようと、恐る恐るといった感じで慣れない弁舌を振るおうとする。

 

「ハント殿、それには俺も同意しかね───リン殿?」

 

 真っ二つになった杖の先端で武闘家の分厚い胸を小突いて二の句を制止する。そしておもむろに一歩ハントに向かって踏み出て、意思(こころ)に反することに抵抗して強張る顎を無理やり動かす。

 

そうね(・・・)その通りよ(・・・・・)

 

 背後で、魔法使いと武闘家が度肝を抜かれて言葉を失っているのが目に見えるようだった。私も、自分自身がいったい何をしているのか、冷静に理解できているとは思えなかった。

 

(でも───他にどうしようもないじゃない)

 

 「貴方は自分の失敗から目を逸らそうとしている」。そう言おうとして、言えなかった。せっかく燃え上がってくれたハントの火に水を掛けることを躊躇った。たとえ、それがおぞましい憎悪の炎だったとしても。復讐心によって促された覚醒であったとしても。クリスが希求していた姿ではなかったとしても。それでも、“勇者の覚醒”であることに変わりはない。

 

「ハント、倒すべき相手が出来たわ。貴方でないと勝てない強敵よ。みんなで協力して女騎士を討って、勇者らしくお姫様を救って、前に進みましょう」

 

 自分の言葉が口に苦かった。思ってもいないことを口にするたびに罪悪感で目眩がした。私は、彼の歪みから目を逸らし、見ないふりをすることを選んだのだ。胃が雑巾のように握りつぶされているような鈍痛に脂汗が滲みそうになる。それを意思の力で強制的に抑え込むために、デミミスリルの杖を手が白ばむほど強く握りしめる。ハントによって真っ二つに切断された杖。デミミスリルの杖すら折れるのに、私のような弱い女の心が折れないはずない。私には杖が───頼る者が必要だった。勇者パーティーを存続させなければならないという責任の嵐に錐揉みされ、私は寄る辺を求めて手を伸ばし、呪詛を吐き出す勇者モドキ(・・・・・)を掴むことを選択したのだ。

 

「リン殿、それでいいのか」

「後悔、することになると思う。ねえ、リン。本当にそれでいいの?私たちに言えた義理じゃないけれど……クリスは、これでいいって言ってくれるの?」

「……行くわよ。無駄口を叩いてる暇があったら支度しなさい。神聖回復魔法(ホーリーキュア)を定期的にかけてあげるから、凍えても死にはしないわ。死なせたりなんかするもんですか」

 

 二人からの失望の気配が後頭に刺さる。そんなこと意に介さない。失望されたくなかった人は、もうこの世にいない。

 

「僕の───敵───!!」

 

 目の前で凄みを帯びた笑みを浮かべるハントを力の籠もらない目で見上げながら、私は自らもこの狂戦士の片棒を担ぐ悪人になったのだと自覚して失意のどん底を覗いていた。自分から失ってはいけない大切な何かが流れ落ちて、空虚な抜け殻のようになっていく喪失感が足元から這い上がってくる。地面がなくなったかのような絶望感を覚えながら、それでも私は歩みを再開した。

そうしないと前に進めない(・・・・・・・・・・・・)”。ハントの言うとおりだ。彼には目的が必要だ。それが復讐であろうと、そのために勇者として振る舞えるというのなら、それでいい。私の心がどれだけ鈍磨しようと構わない。クリスの残した遺産を護るためならどんなものでも生贄に捧げよう。

 

ハントのために───

 

パーティーのために───

 

クリスのために───

 

女騎士には、犠牲になってもらう。




『進撃の巨人 RTA Titan Slayer』、いいゾ~これ。ホライゾン・モラリス兄貴、強すぎィ!!


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15話

しばらく小説を書くということから離れていました。待ってくださっていた方がもしもいらっしゃれば、申し訳なかったです。なによりも自分に申し訳なかったと思います。実はここ数年で、転職すべきかどうかという問題に直面したため、家族親族や同僚や上司といった人たちとの話し合いを重ねておりました。それが一応は解決したので、こうして再び趣味にたち戻れることとなりました。そのことを僕自身とても喜びイサミィ───!!!!そろそろだよな!!!???イサミィ────!!!!!


 雪がハラハラと舞う夜空が、焚き火によってぼんやりと照らし上げられていた。

 それは、寒空の盆地での出来事だった。

 とても些細で、とても大切な、思い出だった。

 

『どうして、雪が降っているのに肌が乾燥するのかしら?だって、こうして実際に降ってくるのは水なのに。砂漠にいるわけじゃないのよ?』

 

 自らの真珠細工のような指先に軟膏を塗りさすりつつ、魔法使いが興味なさげに呟いた。まだ子供らしい華奢さを残す人差し指の先端で、摘まれた雪の結晶が彼女の人肌で溶けて雫と溶けていた。“昨晩の食事はなんだったか”程度の他愛もない疑問。私はその疑問に、この世界に生きる者として当然の回答をしようと、脳みそを使うこともせずほぼ反射的に口を開いた。

 

『もちろん、それは御神によって───』

雪が水で(・・・・)出来ているからこそ(・・・・・・・・・)じゃないかな』

 

 “御神によって決められた摂理”と続けようとした私の台詞は、クリスの妙に説得力のある回答に塗り潰された。御神の存在を否定されたと穿った私は不快感を前面に出してクリスを薄い目で睨んだが、内心では彼の自説に興味が湧いて、その穏やかで理知的な声に自然と耳を傾けていた。

 

『俺も疑問に思ったことがあるんだ。雪山に行くと手や唇から水気が少なくなってカサカサになってしまうのは何故か、と。周りは雪で囲まれているのに。雪は水なんだから、水に囲まれているのなら、逆に潤って然るべきだ。そうだろう?そして考えたんだ。おそらく、雪というのは“水が水という形をとれなくなった状態”なんじゃないか、と』

 

 私は驚いて目を丸くした。そんな風に自然現象を理論立てて観察したことはなかった。神職者たちの狭い界隈に引き籠もっていては触れることの出来ない現実的知識の一端に触れた実感がして、ゾクリと神経が静かに昂った。

 

『寒くなると水は氷になるだろう?その様子は、まるで見えない力によってギュッと押し固められていくかのように見える。それが小粒ほどの水であれば、どうだ?』

 

 空気を握るようなジェスチャー混じりの説明に、魔法使いも私もいつの間にか前のめりになっていた。武闘家も、興味無さそうにしていながら横耳でそれとなく聞き耳を立てていることがわかった。

 

『つまり、気温が寒くなればなるほど水の粒は小さく小さく圧縮され、極小に凝縮して固まったものが雪なんじゃないだろうか。気温によって、水が水でいられなくなる条件が変わるんじゃないか。だから、砂漠のような熱帯地では暑さによって水は霧散して、こういった寒冷地では逆に固まってしまって、どちらでも同じように世界から水気が失われて乾燥してしまう……と俺は考えてみたんだ』

 

 魔法使いはキョトンとして、持ち前の回転の早い頭脳と捻くれた意地の悪さでクリスの自説の穴をひと通り探したあと、矛盾点が無さそうだと諦めて『あっそ』と淡白な物言いでそっぽを向いた。その失礼な態度は、素直ではない魔法使いの精いっぱいの白旗に等しかった。武闘家も、肩をすくめて理解が及ばないふうを装ってはいるけれど、粗野な見掛けと違って意外に利口な彼も感心しているに違いなかった。

 クリスはそんな二人の素っ気ない態度を咎めるようなことはせず、熱弁を一蹴される形になったことを気にした様子もなく、苦笑い一つ浮かべて焚き火に向かい合うと、それまで続けていた手元の作業に戻った。その背中は、まるで探求に明け暮れる壮年の哲学者のように智の充溢を現していた。

 彼は、人々のあいだに横たわる盲目的な宗教観を当たり前とせず、世界を巡って得た知識と経験を昇華して、彼自身の切り口で世界の(ことわり)を探っていた。私は、この時初めて、クリスに尊敬の念を覚えた。焚き火に照らされた彼の横顔に───灯火が揺れる男の瞳に惹きつけられ、私は熱っぽい視線を外せなくなった。体内で色鮮やかな蝶々の群れがわっと一斉に舞うような、生まれて始めて味わう感覚に、私は戸惑うばかりだった。

 それがきっと、私の初恋の瞬間だった。

 

 

 

 

 

 私たちが、殺した人。

 

 

 

 

 

「───ッ゛───」

 

 「寒い」。思わず零れそうになった呟きを、唇に歯を立てることで無理やり押し留める。そんな贅沢な不満を言える権利は私には無いのだから。

 乾いて強張った唇を犬歯が食い破るブチリとした気持ちの悪い感触がして、舌の上に生ぬるく苦い血の味が滲む。それを嚥下して、思う。そう、贅沢な不満だ。遥か谷底の暗闇へと無念に消えたクリスには許されもしなかった、生きていることを実感できる贅沢な感覚だ。

 

(これは当然の神罰よ、リン)

 

 自らに辛抱強く言い聞かせ、私は虚ろな目を無理やり前に向ける。“宵闇通視(ナイトアイ)”のバフが掛かっていても見通せない闇夜の帳が目の前に立ちはだかっている。

 今、私たちはメア・インブレアム合同村に向けて過酷を極める山越えを敢行していた。暴走する姫様一行に追いつくための近道として止むを得ず踏み入れた山の頂は、まるで私たちの行く末そのものを暗示するかのように、想像を超えて険しい道のりを突きつけてきた。

 

(これはもう使い物にならないわね)

 

 分厚いフェルト生地に包んでいた暖炉石を手のひらから滑り落とす。頼もしく赤熱していた石はもはやなんの役にも立たない重石と化してしまった。ボスッと雪に深く食い込む音を後方に置き去りにして、私たちは進む。

 自分が拳を握っているという実感が指先から失われて久しい。まるで関節から外れて落ちてしまったかのように四肢の感覚がない。あまりの寒さに頬の肉が薄紙のようにビリビリに裂けてしまいそうだ。鼻孔から侵入してくる凍てつく空気は剣山のように刺々しく、肺までも痛覚を訴えて、自然と呼吸が浅くなる。ビュウビュウと金切り声をあげる雪風が鼓膜を一秒も休むことなく烈しく叩き、聴こえるのは乗っている馬が雪を踏みしめるザクザクとした単調な音だけだ。

 

(……ぁ、まただ)

 

 ふとした拍子にそれらの音が急激に遠ざかってきた。それを知覚して、タイミング(・・・・・)が来たと悟り、無謀な登山を始めて10回目の回復魔法(ヒール)の呪文を口腔内にボソボソと唱え始める。周囲の音が不自然に静寂へと転がってきたら自分が気絶しそうになっている合図だと、身体で学んだ。振り返って目を窄めれば、伸ばした手の先端すら霞みそうな横殴りの風雪のベールの向こうで、武闘家の無骨な輪郭が馬に揺られている様子がかろうじて見える。きっと彼の背後に、今の私と同じように縮こまっている魔法使いがいるのだろう。北方育ちの武闘家はともかく、南方育ちの魔法使いがこの悪天候に酷く堪えていることは容易に想像できた。

 

「神よ、罪深い我らを癒やし給え。“複数回復魔法(トライヒール)”」

 

 回復魔法(ヒール)特有の淡い乳白色の光が網膜にチラつく。すかさず白いベールの向こうで武闘家が手を振り、感謝の意を伝えてくる。あの分なら、彼の背後にいる魔法使いも回復しただろう。

 ヒールが問題なく効果を発揮したことを確認して、私は返礼をすることなく姿勢を正面に戻す。回復魔法を何度も使える私のような人間がいなければ、この厳しい行程を乗り越えることは不可能に違いない。世界を救済する勇者パーティーの回復役を担う私を持ってしても、果たして成し遂げられるのか……自信はない。

 

(こんな無謀な山越え、クリスなら絶対に反対していた)

 

 疲労感から詮無い思考が漏れてしまう。クリスはもういないのに。

 魔力の消耗に軽いフラつきを覚えながら、薄れてしまいそうになる意識を手放さないように眼前の背中に焦点を集中する。ハント。人跡を許さない険山の荒れ狂う暴風に晒されてもビクともせず、それらを剣の如く斬り分けて私たちを先導する若き英俊。傍から見れば、自然の脅威もなんのそのと若武者が果敢に仲間を率いる雄々しく気高い光景だろうに、その胴体に必死の思いでしがみつく私にとっては、ハントは私たちを死地へと誘う梟雄としか思えなかった。

 

「……ハント、貴方もヒールを」

「必要ない」

 

 言い終わる前にピシャリとにべもなく断られる。このやり取りも一度や二度ではなく、叩き付けるような無愛想な態度にももう馴れた。

 彼は一度も私の回復魔法を必要としなかった。それどころか熱い湯気を弛たせる沸かし(グリュー)ワインを口にすることも一切ない。自らの体内で渦巻く黒い衝動を激しく燃焼させ、それによって意思と肉体を突き動かしている。その黯然とした衝動は収まる気配はなく、むしろとぐろを巻く回転を重ねるごとに熱量とおどろおどろしさを増しているように感じられた。

 ハント。数多の戦士たちをおさえて一等地を抜く我らの勇者。魔王を打倒する可能性を秘めた全人類の救世主。見た目は美男子といって差し支えない優男なのに、『勇者』の加護は見た目の何十倍もの力を彼に与えた。与えてしまった(・・・・・・・)

 

(ああ、神よ。何故なのですか?)

 

 私は問う。問わずにはいられない。大気を滲ませるほどに頑なな憤怒を隠そうともしない背中を見つめ、私は魂の深部で繋がる天上に御わす姿なき神に詰め寄る。

 なぜ、この若く未熟な勇者に、力より大事な“心”をお授けにならなかったのか?類まれなる膂力を得ても、それを律する真心がなければ、それは果たして“勇気ある者”と呼べるのか?そんな資質の伴わない危うい人間を、私たち人類は“救世主”と崇めて良いのか?

 

(それでも───それでも、もう私たちは立ち止まれない。私は立ち止まれない)

 

 内なる神が答えを下すまでもない。諦観して冷たく嗤う私自身が、理性に潤む私の両目をそっと覆う。「疑念を持つな。進め」と潜めた声で囁く。引き返すにも、立ち止まるにも、もう遅いのだ。

 

(ハントにとっての“心”は、きっとクリスだったのね)

 

 私たちが不作為にも殺してしまったクリスは、この歪つな勇者パーティーにとって、魔王に脅かされるこの世界にとって、なによりも勇者(ハント)にとって、失ってはいけない存在だった。失うにはあまりに大き過ぎる代償だった。皮肉な話だ。この世界でもっとも軽んじられるといってよい『大工の村人』というクラスを背負って生まれたクリスこそが、この世界を救うためにもっとも重要な役回りを担っていたのだから。

 彼は勇者パーティーの活動を支える屋台骨そのものであり、各地に点在する冒険者ギルドの結節点も担っていた。未発達な文明における疎らな人類の団結は、世界を股に掛けて活動する勇者一行───実際はクリス───によって繋がりの兆しを見せていた。本人が自覚していようといまいと、それはクリスによる功績だった。実現していれば、世界規模の人類による一斉反攻という作戦にも手が届いたかもしれない。それが道半ばでたち消えてしまった。

 彼の穴を埋めることは、容易ではない。言葉に出来ないほど難しい。だからこそ、立ち止まることは許されない。彼が為そうとしていたことを、人類の救済を、絶対に為さなくてはならない。そのためなら、私はなんでも(・・・・)する。

 

(ごめんなさい、クリス。私はきっと間違っている)

 

 自分が視野狭窄に陥っているという自覚はある。間違った道を進んでいるかもしれないという冷たい悪寒は常に頭蓋の片隅で氷柱の針を煌めかせている。

 

(でも───でも、仕方がないじゃない。私は、想い人を失ったのよ?)

 

 傷心を言い訳にして、私は思考を閉じることに努力する。クリスが認めてくれた聡明な私を敢えて捨てる。そうしなければ耐えられないからだ。クリスの親友であり、クリスが身骨を砕いて支え続けたハント。彼は親友を死へと追い込んだ罪に向き合うことを拒絶し、他者に責任を転嫁して、その歪んだ復讐心を糧として遂に覚醒した。そして私は、クリスの死を利用し、ハントの報仇雪恨の念を利用し、身も知らぬ、悪人かどうかも定かではない人間にその怨念を傾け、私が属する教会の頼み事に手を貸すように仕向けた。人類最強の勇者をぶつけることがどんな結果を生むか理解していながら。

 そのような状況にやむなく追い込まれたのだとしても、私が選択したという事実に変わりはない。私が卑怯者だという事実に変わりはない。同罪だ。卑怯だ。卑劣だ。いつかクリスが夢枕に立ったとき、再会に喜ぶ私を見下ろして、彼は冷たく唾棄するに違いない。「見損なった」と。必ず私に失望し、軽蔑するに違いない。

 

(許して……許して、クリス。きっと高潔な貴方は私を許さない。でも、お願い、許して)

 

 神職者として失格だ。真っ先に許しを請わなくてはならない御神よりも、私は死者の許しを求めている。

 どん詰まりの壁に向き合っている切迫感が常に胸の内を埋めている。でも、私にはもうこの道しか思い付かなかった。思い付けなかった。クリスより劣る私にはこれが限界だった。たとえ自らの正義の観念を自らの足によって踏み躙ろうと、私は悪鬼羅刹と化していくハントの手綱を死にものぐるいで握り続けるしかない。最期の最期まで。クリスが目指した目標に───“両翼の対を成すもう一人の女勇者”と出会い、魔王を打倒するその日まで。

 

(もう一人の、女勇者)

 

 ……本当に、いるのだろうか。

 神のお告げすら疑い出した自分への戸惑いにももう馴れた。

 魔者を討伐する旅と並行して大都市から寒村まで方方を渡り歩き、およそあらゆる伝手を頼って、私たちは女勇者なる者を探った。王国の伝手、教会の伝手、冒険者ギルドの伝手、商業ギルドの伝手……。1000年に1人という『勇者』のクラスを持って生まれた女性がいるのなら、損得や利害に敏感なこの手の組織にすぐに情報が届くはずだ。ましてやハントに与えられた神託に“もう一人の女勇者”という文言があったのだから、各組織ともどもその存在を確実視し、喉から手が出るほど欲して探し回っているに違いない。だけど、噂話一つとして見つからなかった。まるで、必要とされた(・・・・・・)その時にならなければ(・・・・・・・・・・)現れない(・・・・)かのように。

 

(…………まさか)

 

 幾重にも着込んだ外套の奥深くに意識を向ける。そこには、僧兵によって素描(すびょう)された“女騎士”の白黒の似顔絵が折り畳まれて収められている。大急ぎで作成されたものの、偶然にも描いた者に絵心があったらしくとても写実的だ。対象によほど衝撃を与えられたのだろう、生々しい畏怖感すら透けて見えるほどにリアルだった。ひと目見たらわかる凛とした美しい目鼻立ち。10人中10人が振り返り、目を奪われて離せなくなるような美貌の女性。咲いたばかりの花のように可憐な顔貌の内にあって、その切れ長の双眸は極めて鋭く、噛みつかんばかりの弾劾の気迫に燃えてこちらを睨みつけている。

 

(ハントに匹敵する剣技を有する女剣士)

 

 明文化してしまえば、そこに潜む可能性は明らかだ。これ以上ないほどの悪夢と呼ぶべき想像に足首を掴まれ、駆け上ってきた悪寒が心のなかまで侵入してくる。取り返しのつかない隘路に向かって馬を走らせてしまっているような絶望感に喉輪をキツく締め付けられる。もしも人類最強の勇者同士がぶつかることとなれば、果たしてその顛末はどれほど悲惨なこととなるのか。

 最悪なのは、今さらその馬からは降りられないという事実だ。降りる権利などないという事実だ。隘路を超えた先に突如現れたどん詰まりにぶち当たって骨身もろとも砕け散るその瞬間まで、私は憤激の雄叫びを上げて突き進む勇者(うま)の背中に情けなく張り付き続けるしかないのだ。

 

(ああ、でも)

 

 ふと、なんの意味もない懐かしさが私の心を一瞬だけ安楽へと手繰り寄せた。

 でも、知的な光の宿る瞳は、あの日に焚き火を見つめていた()に似ているような───




次回。女騎士、脱ぐ。


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