拾った女 (紫 李鳥)
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一話

 

 

 新宿・歌舞伎町。見知らぬ同士が肩を並べ、語らい、酒を酌み交わす。それぞれが人生ドラマを演出し、それを酒の肴にしながら泣いては笑う。そして、暗黙の了解のように離れ、散って行く。

 

 冬に向かうその時期、コマ劇場の前の広場には目的のない人間が屯していた。麻雀を終えた「匡生会」の幹部、篠塚誠は、縄張り内の見回りの最中だった。

 

 その時、いかにもと言った田舎娘が目に留まった。

 

「寒いだろ?」

 

 そう声を掛けて横に座ったが、少女は俯いたまま微動だにしなかった。

 

「震えてるじゃないか」

 

 歯音を立てながら小刻みに震えていた。

 

「どうだ、ラーメンでも食うか?」

 

 その言葉に反応した少女は、誠を見た。やけに黒目が大きかった。じーっと見つめるその目から逃れるように、

 

「さあ、食べに行こ」

 

 と、コートの肩に手を置いた。少女は、抱えていたしわくちゃの紙袋を手に提げると、誠についてきた。

 

 

 馴染みのラーメン屋に入ると、店主らしき男が笑顔で頭を下げた。

 

「何でも好きなもんを食べな」

 

 少女はニコッとすると頷いて、薄汚れたマフラーを取った。肩まである黒髪は絡まっていたが、着るもの一つで上玉になると見抜いた誠は、

 

「ギョーザも食うか?」

 

 と、付け加えた。少女はまたニコッとすると、熱い目で誠を見つめた。誠は咳払いをして注文すると、煙草を一本抜いた。

 

「名前は?」

 

「……」

 

「大丈夫だよ、心配しなくて。お巡りじゃないから。名前知らないと、なんて呼べばいいか分かんないだろ?」

 

「……みゆき」

 

「みゆきちゃんか、かわいい名だ」

 

 みゆきと名乗るこの少女は家出でもしてきたのか、と誠は推測した。

 

 

 ラーメンにチャーハン、ギョーザを食い終えたみゆきの胃袋はまだ、〈空席あり〉と言った気色だった。

 

 

 ラブホテルの入り口で待っていると、みゆきは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、腰巾着のようについてきた。

 

 

 ――バスタオルを頭に巻いたみゆきは、シャワーを浴びてこざっぱりしたせいか五つ六つ大人に見えた。

 

「お茶、飲みな」

 

 淹れた茶を座卓に置くと、みゆきはビールを飲んでいる誠の前に正座した。

 

「……暖げえ。温げえラーメン食って、こごもこんたに暖げえ」

 

 東北訛りがあるみゆきは、“暖かい”と言うことに感激していた。

 

「ゆっくり(やす)むといい」

 

「うん」

 

 みゆきは小さく頷いた。

 

「金はあるのか?」

 

 首を横に振った。

 

「仕事の(つて)は?」

 

 また首を振った。

 

「じゃ、俺が紹介するよ。いいか?」

 

 頷いた。

 

「なぁに、難しい仕事じゃない。お客さんとデートするだけだ。おいしいもん食べて、おしゃれもできる。金貯めて自立しなきゃな」

 

「うん」

 

「今夜はゆっくりしな。明日は面接だ。お前に似合いそうな服を(そろ)えるから」

 

 誠のその言葉に上目遣いで微笑んだ。――

 

 

 みゆきの肉体は、幼顔に反して既に女になっていた。その意外性が逆に上物になる可能性を確信させた。

 

 直ぐに帰るつもりでいた誠は迂闊(うかつ)にも眠ってしまった。――背中を擦る感触で目を覚ました。それは、刺青(いれずみ)般若(はんにゃ)をなぞるみゆきの指先だった。窓からは淡い陽が差し込んでいた。

 

「……さて、行くか」

 

 誠は布団から出ると、

 

「着替えろ。行くぞ」

 

 そう言って、みゆきを見た。寝起きのせいか、みゆきは虚ろな目で見つめていた。

 

 

 北新宿の自分のマンションにみゆきを置くと、時間を見計らって職安通りにある、梢のマンションに向かった。



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二話

 

 

 合鍵を使って入ると、梢はまだ寝ていた。誠は慣れた手つきでコーヒーを淹れると、煙草を()んだ。

 

「……来てたの?」

 

 寝室から出てきた梢は眠そうに目を擦った。

 

「ああ。来たばっか」

 

昨夜(ゆうべ)、大井さん、ずっと待ってたわよ。来られないなら電話一本してよ」

 

 マイカップにサーバーを傾けながら、誠を(にら)んだ。

 

「悪かった」

 

「何、麻雀?」

 

「……ああ」

 

「あの人、呑むとしつこくて。閉店時間までいたわよ。誰も相手にしなくてもいるんだもの、嫌い」

 

 シルクのガウンの紐を締めながら愚痴った。

 

「仕方ないさ、我慢しろ。警察署のお偉いさんだ。あの人らのおかげで安心して営業できてるんだから。ただ酒も大目に見ろ」

 

「……はーい。承知いたしました」

 

「何か着ない服ないか?」

 

「何、またスカウト」

 

「ああ」

 

「おばちゃんに任せればいいじゃない」

 

「駄目だよ、センスないから」

 

「もう……。サイズは?」

 

「少し大きめがいいな」

 

「……何があったかしら」

 

 梢は重そうに腰を上げると、衣装部屋を開けた。

 

 

 使い飽きたというハンドバッグと、クリーニングの袋を被ったスーツ二着、パンストを紙袋に入れると、誠はタクシーを拾った。

 

 

 出掛ける前に取った出前のカツ丼を平らげていたみゆきは、大人しくテレビを観ていた。

 

「これに着替えて」

 

 濃紺のツーピースを手渡した。みゆきは姿見の前で着替えを始めた。

 

「靴のサイズは?」

 

 誠は電話のダイヤルを回した。

 

「……二十三」

 

「あ、俺。二十三センチの黒のハイヒールを買ってきてくれ。――ばーか、俺が履くわけないだろが。――店員にパンプスって言えば分かるよ。――ばーか、パンストとじゃないよ。……俺が黒のパンスト穿いてどうすんだよ、タコ。ちゃんとメモしろ。二十三センチの黒のパ・ン・プ・スだ。俺の部屋に持ってこい。大至急だ」

 

 着替えを終えたみゆきは何度も鏡に映していた。

 

「あ、篠塚です。――どうも、久しぶり。紺色のスーツを着た十代の子が行くから、流行りの髪型にしてやってくれ。――ああ。ついでに化粧も頼む。――よろしく」

 

 電話を切ると、みゆきがこっちを見た。

 

「今、靴が来るから。そしたら、出て右に行くと、〈かつみ〉というパーマ屋があるから綺麗にしてもらえ。『篠塚さんの紹介です』と言ってな」

 

 みゆきは頷いた。

 

 

 舎弟が持ってきたパンプスを履いたみゆきは、ぎこちない足取りで美容院に行った。

 

 ――戻ってきたみゆきは、洒落(しゃれ)たヘアースタイルにメイクを施され、肉体と比例した年格好になっていた。

 

「歳はいくつだ?」

 

「……十六」

 

「十六か……これから行くとこにおばちゃんがいるから、歳を聞かれたら、十八って言え。分かったな」

 

「うん」

 

 頷いたみゆきの目は、「あなたにすべてを任せます」と言っていた。

 

 

 一緒に歩いていても恥ずかしくないみゆきの身形(みなり)に、誠は株を上げた心持ちだった。

 

 歌舞伎町にある雑居ビルの一室のチャイムを押した。

 

「はーいっ!」

 

 ドアスコープで誠を認めたのか、矢継ぎ早にチェーンを外す音がしてドアが開いた。

 

「これはこれは、若頭(わかがし)、お久しぶりです」

 

 おばちゃんは深く頭を下げた。

 

「元気だったか」

 

「はい、おかげさまで」

 

「また、頼む」

 

 誠の後ろに隠れているみゆきを顎で指した。誠の背後を覗き込むと、

 

「あら、ま。掘り出し物ですね」

 

 おばちゃんはそう言って喜んだ。

 

「挨拶しな」

 

 みゆきの背中を押した。

 

「……そねみゆきです」

 

「みゆきちゃんか。いい名だね」

 

 おばちゃんの言葉に、みゆきは恥ずかしそうに俯いた。

 

「今日から、このおばちゃんが世話してくれるから、ちゃんと言うことに聞くんだぞ」

 

 みゆきは哀しそうな目を誠に向けると、ゆっくりと俯いた。

 

「さあさあ、入って」

 

 おばちゃんがみゆきの腕を引っ張った。

 

「じゃあ、頑張れよ」

 

 瞬きをすれば(こぼ)れそうな涙を目にいっぱい溜めたみゆきは、誠を見つめていた。誠はそれを遮るかのようにドアを閉めた。――

 

 

 その、みゆきの顔が瞼にこびりついて、誠の視界から離れなかった。パチンコをしていても、麻雀をしていても、みゆきのその顔が、残像のようにちらついていた。



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三話

 

 

 誠は大学卒業後にサラリーマンの経験もあったが、性に合わなかったのか二年ほどで辞めた。ギャンブル好きも要素としてあったのか、何の躊躇(ちゅうちょ)もなくその世界に足を踏み入れた。冷酷な一面も持ち合わせていた誠は、組長の命令には逆らわず、殺し以外は何でもやった。それを会長の光枝源二郎に買われ、とんとん拍子に若頭まで(のぼ)り詰めた。

 

 新宿のクラブで出会った梢とは四年になる。(こび)を売らない接客に惚れ込んで、毎日のように店に通って手に入れた。だが、その気性が(あだ)となって、あまり客受けは良くなかった。雇われているから本来の力が発揮されないのではないかと思い、小さな店を()らせてみたら、案の定、店は流行った。

 

 〈ラウンジ・梢〉は、ニューハーフとバイトの女子大生、カウンターには付き合いの古いバーテンを置いていた。

 

「社長、いらっしゃいませ」

 

 静かに入ってきた誠に、バーテンの清原がおしぼりを手渡した。梢は、誠のことを社長と呼ばせていた。

 

「忙しいな」

 

 入り口際のカウンターからボックス席に目をやった。

 

「おかげさまで。ママが商売上手だから」

 

「フン」

 

 自分の女を褒められて、誠は照れ隠しのように鼻で笑った。

 

「いつものでいいですか」

 

「ああ。どうだ、ゴルフはやってるのか」

 

「はい。今週の土曜も予定してます」

 

 嬉しそうに、グラスにブランデーを注いだ。

 

「もうそろそろシングルだろ?」

 

「とんでもないです。百を切れない時もあるんですから。下手の横好きです」

 

 誠の前にグラスを置いた。

 

「そんなことないさ、好きこそ物の上手なれと言うじゃないか」

 

「今度また教えてください」

 

「ああ。正月休みにでも行くか」

 

「ほんとですか? 楽しみにしてます」

 

「何か飲みな」

 

「はい、いただきます」

 

 清原はキッチンに入った。

 

「来てたの?」

 

 鴬色の京友禅に黄土色の袋帯をした梢が横に腰掛けた。

 

「酔ってるのか」

 

「少し。大井さん、また来てるわよ。見付かったら席に呼ばれるわよ」

 

「来てるのか。気付かなかった」

 

「六卓で背中向けて喋りまくってるじゃない。亜美ちゃんを気に入っちゃって大変」

 

「なーに、気付かれたら同席してやるさ」

 

「ねぇ、終わったら部屋に来て」

 

 梢が耳打ちした。

 

「……ああ」

 

 清原がチーズとナッツを置いた。

 

「ママっ!」

 

「では、ごゆっくり」

 

 ニューハーフの鶴姫に呼ばれた梢が腰を上げた。

 

「鶴姫、酔っ払ってんじゃないか」

 

 大声で喋っている鶴姫を見た。

 

「最近、深酒なんですよ。何かあったんですかね。あ、いただきます」

 

 清原がグラスを持った。

 

「あんら、社長、会いたかったわ。嬉しいっ」

 

 傍らにやって来た厚化粧の鶴姫は、七輪で秋刀魚を焼く時の団扇のように、付け睫をパタパタさせながら真っ赤な唇をピーチクパーチクさせていた。

 

「いつ見てもいい男ね。しびれちゃうっ。ね、社長、今度、デートしてぇっ」

 

「プッ」

 

 誠は思わずブランデーを噴き出した。

 

「はぁ? 冗談だろ?」

 

「冗談でこんなこと言わないわ。私の顔は冗談だけど、言ってることは冗談じゃないわ」

 

 ムキになっていた。

 

「……何かあったのか?」

 

 誠が真顔で聞いた。

 

「プッ。もうヤだ。社長ったら冗談通じないんだからっ」

 

 鶴姫はそう言って笑っていたが、涙目に見えた。

 

「失礼。おしっこタイム」

 

 鶴姫は剽軽(ひょうきん)な仕草をするとトイレに行った。

 

「……鶴姫さん、社長のこと好きなんですよ」

 

「えっ、嘘だろ? 勘弁してくれよ」

 

 誠は迷惑そうな顔をして、

 

「お前が付き合ってやれよ」

 

 と、清原に押し付けた。

 

「でもなんか、好みがあるみたいで、俺のことはタイプじゃないみたいです」

 

 清原にはその気があるようだった。



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四話

 

 

 梢のマンションでテレビを観ながら待っていると、程なく酔っ払った梢が帰ってきた。

 

「きつい。ね、脱がして」

 

 梢は帯揚げをほどきながら寝室に直行した。

 

「はいはい」

 

 誠は着物を脱がせると、衣紋掛けに掛けた。ベッドに横たわった梢は、結った髪からUピンを外していた。

 

「誠っ。B型のあなたにはね、A型の私しか合わないの。分かってるの?」

 

 眠そうな目をした梢は、口だけは元気が良かった。

 

「分かってるよ」

 

「よく言うわよ。ちょこちょこ浮気してるくせに。私が知らないとでも思ってるの?」

 

「……してないよ。惚れてるのは分かってるだろ」

 

「……嘘つき……ぺてん師……詐欺師……眠い」

 

 梢は鼻息を荒くしながら眠りに就いた。誠は布団を掛けてやると、静かにドアを閉めた。

 

 

 数日後、みゆきの様子を見に行ったが、不在だった。

 

「――もう、大変な売れっ子で、今も昼間っから指名客とデートです。……あの子、がんばり屋さんですね。来てすぐの時にナナが、『篠塚さんのスカウトだからって偉そうにすんじゃないわよ。私だって篠塚さんにスカウトされたんだから』って、例の調子で。そしたらあの子、『一緒にけっぱるべ』だって。そしたら、『プッ、訛ってんじゃん』って言ってケラケラ笑ったあと、ナナは反論せずおとなしくなりました。あの子、大したもんです。ナナを追い越す勢いですよ」

 

 おばちゃんは自慢気にみゆきの話をした。

 

「ほう、そうか」

 

 誠はみゆきに感心した。

 

「……それと、あの子が、いつ篠塚さんに会えるかって聞くから、近いうちに会えるよって返事しちゃったんですよ。たまには会ってもらえませんか」

 

 おばちゃんが手を()わせた。

 

「それは構わないが、何時頃なら会えるんだ?」

 

「そうですね、昼前には皆を起こすようにしてますので、一時以後ならいつでも大丈夫です。今日みたいに昼前からデートなんて滅多にありませんから」

 

「分かった。じゃ、電話するよ」

 

「ありがとうございます。……あの子、かわいいもんだから」

 

「分かってるよ。じゃあな」

 

 誠は何だかくすぐったかったが、若い子に思われて悪い気はしなかった。

 

 

 翌日、待ち合わせ場所をおばちゃんに伝えると、少し遅れてその喫茶店に行った。

 

 数名の女性客の中から直ぐにみゆきを見付け出すことができなかった。その中で一番、目を引いた女がみゆきだったのは意想外だった。

 

 みゆきは窓辺にやっていた顔を誠に向けると、ニコッとした。このニコッがなければ、ずっと気付かないままだっただろう。

 

 上手にメーキャップして、流行りのファッションに身を包んでいた。たった数日で垢抜けして、見違えるほどになっていた。

 

「……みゆきちゃんか?」

 

 取り敢えず確認すると、みゆきは笑顔で頷いた。

 

「……へぇー、きれいになったね」

 

 誠はまじまじと眺めた。

 

「篠塚さんに会えるがら、念入りにオシャレしたの」

 

 訛りは相変わらずだった。イメージダウンの嫌いはあるが、このギャップが逆に客に受けるのかもしれないと誠は思った。

 

「あ、コーヒー」

 

 注文すると、ウエイトレスが置いたコップに口をつけた。

 

「頑張ってるそうじゃないか」

 

「篠塚さんに会わせでぐれるっておばぢゃんが言ったがら、けっぱれるの」

 

「ああ。たまにならこうやって会うことぐらいはいいさ」

 

 誠の言葉に、みゆきは嬉しそうな顔をした。

 

「おいは篠塚さんのだめならどんたごどでもでぎる」

 

 真剣な目で見た。

 

「それは嬉しいが、俺のためじゃなく、自分のためにしなきゃ。アパートを借りて、自分の城を持たなきゃな。そのために頑張って、早く自立することだ。な?」

 

 みゆきはゆっくりと頷いた。



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五話

 

 

 ――それから二年が過ぎた。みゆきはあれから数ヵ月でアパートを借りて自活していた。だが、その仕事を辞めようとはしなかった。自分の稼いだ金が誠の役に立っていることが、みゆきは嬉しかったのだ。

 

「もうそろそろ足を洗って、違う仕事をしたらどうだ。体がぼろぼろになるぞ」

 

 実年齢より遥かに老けて見えるみゆきを、誠は心配した。

 

「それでも会ってくれる? 金にならない女でも、こうやって遊びに来てくれる?」

 

 訛りが取れてきたのとは対照的に、その重ねてきた月日は、誠に対する執着心を強くしていた。みゆきの“執念”に何かしら奇異なものを感じ、気色が悪くなった誠は到頭、足が遠退いた。――

 

 それからまた、二年の月日が流れた。誠が会いに行かなくなっても、みゆきは意地のようにその仕事を続けていた。変な咳が出るようになり、指名客は激減した。部屋に引きこもるようになり、妙な独り言を言うようになっていた。

 

 そんなある日、みゆきのアパートの管理人から誠に電話があった。『部屋から悪臭がして、発狂する女の声が聞こえる』と言うものだった。連帯保証人になっている誠は、仕方なくみゆきのアパートに行った。

 

 ドアの前まで行くと、異臭が鼻を突いた。チャイムを押しても応答がなかった。合鍵でドアを開けると、玄関から部屋に至るまで生ゴミが散乱していた。

 

「うわっ、なんだこりゃ……」

 

 鼻を押さえると、土足のままで換気扇を回し、窓を開けた。

 

「みゆきっ!」

 

 名前を呼んだが、返事がなかった。ユニットバスに押入れ、タンスにベランダも覗いたがみゆきの姿はなかった。仕方なく生ゴミを片付けようとした時だった。

 

「ゴホッ、ゴホッ」

 

 ベッドの下から聞こえた。覗くと、みゆきがうつ伏せになって、ぜーぜーと荒い息をしていた。

 

「みゆき!」

 

 引きずり出すと、汗だくの真っ赤な顔に触れてみた。熱かった。誠は急いで救急車を呼んだ。風邪の症状も伴ったみゆきは統合失調症(とうごうしっちょうしょう)と診断され、入院した。――

 

 

 

「……心配かけてごめんなさい」

 

 花束を持ってきた誠に、みゆきはやつれた顔を向けた。

 

「早く元気になって、今の仕事を辞めることだ。分かったな?」

 

 みゆきは哀しい目をして、静かに頷いた。――

 

 

 退院後、みゆきは消息を絶った。

 

 

 それから一年が過ぎた。三十を過ぎた梢と入籍していた誠は、既に子供を(もう)けていた。店を閉めて家庭に入った梢は、妻と母親を上手に(こな)し、店を()っていた時以上に本領を発揮していた。

 

 誠のほうも、組長が病気で倒れてからは組の首領(ドン)として、三十半ばの若さでその本領を発揮していた。

 

 

 安穏としていると、青天の霹靂(せいてんのへきれき)のように一通の手紙が届いた。

 

 ……鳥居一朗。知らない名前だった。

 

〈――突然の手紙をお許しください

 私は秋田で母と二人で農業を営んでいる者です

 去年の今ごろ 雪の中に女が倒れていました

 私は家に連れて帰って看病しました

 そして その無口な女と結婚しました

 間もなくして 女は妊娠しました

 ところが 子供を産めるような体ではないと医者から言われました

 二十歳を過ぎたばかりの女の体は老婆の年齢に等しいと言われました

 しかし 女は産むと言って聞きませんでした

 そして 子供を産みました

 女は死にました〉

 

 ……この女と言うのはみゆきのことか。……あのみゆきが、……死んだのか?

 

 誠は、几帳面に書かれた文字を呆然と見つめていた。すると突然、あの哀しげなみゆきの顔が現れた。

 

〈曽根深雪という女をご存じでしょうか?

 手紙と預かっている物がありますのでお知らせしました

 一度会ってください

 東京に行ったら電話をします〉

 

 

 誠は、自分が殺したような気がして、罪悪感に(さいな)まれた。するとまた、みゆきの哀しげな顔が現れた。――



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六話

 

 

 みゆきのアドレス帳で番号を知ったという鳥居から電話があったのは、それから間もなくだった。待ち合わせた喫茶店に行くと、着なれてない背広姿の鳥居らしき男は容易に見付けられた。

 

「……鳥居さんですか」

 

「あ、はい。篠塚さんだが」

 

 三十前後だろうか、文字通りの真面目な印象だった。

 

「ええ。――あ、コーヒーを」

 

 水を持ってきたウエイトレスに注文すると、煙草を出した。

 

「……で、ご用件は?」

 

 煙草に火をつけながら上目で見た。

 

「曽根深雪ご存じだよね」

 

「……ええ」

 

「……東京で何やってだがは、大体察しがづぎます。深雪はどんた女でしたが?」

 

「うむ……一途で頑固なとこがあったけど、笑顔が愛らしい子でしたよ」

 

 置かれたコーヒーカップの取っ手をつまんだ。

 

「……んだが。おいは深雪の笑顔見だごどがねぁ。暗え女でした。初めで見だ時は三十は過ぎでらで思った。……子供さえ産まねば、まだ生ぎながらえだのに。……自殺したも同然だ――」

 

「! ……」

 

 誠の動きが止まった。

 

「あ、これ」

 

 鳥居は思い出したように、背広の内ポケットから誠宛の分厚い封書を出した。

 

「それと」

 

 また、内ポケットに手を入れた。出てきたのは、誠名義の預金通帳と、“篠塚”と彫られた印鑑だった。

 

「どうぞ」

 

 それらを誠の前に置いた。誠が通帳を捲ると、百万近い預金があった。誠にとっては大した金額ではなかった。

 

「鳥居さんは農家でしたね」

 

「ええ」

 

「どうですか? 景気のほうは」

 

「いやぁ、長雨続いで凶作だ」

 

「……これ、良かったら使ってください」

 

 印鑑を載せた通帳を鳥居の前に押した。

 

「とんでもねぁ。あだのものだんて」

 

 鳥居は慌てて手を横に振った。

 

「僕の物だから、あんたにやるのも自由だろ? わざわざ届けてくれたんだ、正直な人だと思うよ。その礼だ。もらってくれ」

 

 誠は手紙を内ポケットに入れると、腰を上げた。

 

「……どうも」

 

 鳥居は深々と頭を下げた。

 

「じゃ、元気でな」

 

 誠は伝票を手にすると、そそくさとそこを後にした。不愉快だった。みゆきのやることなすことが堪らなく腹立たしかった。

 

 ……死んで復讐してるのか? 恩着せがましく、死んだ後も俺に貢ぐつもりか? ……勘弁してくれよ。誠は道端に唾を吐いた。

 

 

 読まずに()てるつもりでいたみゆきからの手紙に気付いたのは、帰宅してジャケットを脱いだ時だった。

 

 

〈篠塚誠様へ

 あなたに初めて会ったとき、私はまだ15才でした。

 両親を早くに亡くした私は、親類をたらい回しにされ、小学5年から中学を卒業するまでは、伯母の嫁ぎ先の農家に引き取られました。

 伯母が病弱なのをいいことに伯母の亭主は、夜な夜な私にわいせつなことをしました。

 でも、我慢しました。

 温かいごはんが食べられて、暖かい布団で寝られたら幸せだったから。

 父が生きてたころ、各地を転々としながら冷たい風が入るお堂の中で寝たこともあります。

 寒くて眠れなかった。

 ひもじくて、お墓の供物を盗んで食べたこともありました。

 だから、温かいことがどんなに幸せかを知っています。



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七話

 

 

 そして、中学を卒業すると、伯母の家から逃げました。

 繁華街で、歩きながら仕事を探していると、そば屋で求人募集の貼り紙がありました。

 住み込みで働くと、そこの亭主もまた、女房の目を盗んでは私にわいせつなことをしました。

 私はつくづく、男のおもちゃにされる自分の運命を呪いました。

 女房にバレると、亭主は私が誘ったとウソをつきました。

 女房からひどいことを言われ、結局、そこからも逃げました。

 そして、汽車に乗って、気づいたらあそこにいたんです。

 声をかけてくれる人は誰もいませんでした。

 篠塚さんが初めてでした。

 王子さまがやって来たと思いました。

 でも、あなたは一度しか私の体に触れなかった。

 一緒にお茶を飲んだり、部屋に遊びに来てくれたけど、二度と私の体に触れることはなかった。

 汚れてしまった私の体なんか、イヤだろうな。

 そう思いながらも、いつかきっと抱いてくれると信じてた。

 でも、そんな淡い望みは叶えられなかった。

 虚しかった。悲しかった。自分が哀れだった。

 でも、あなたの役に立っていることがうれしかった。

 お金でしかあなたをつなぎ止める方法はなかった。

 だから、あの仕事を辞めなかった。

 でも、疲れました。

 どんなに頑張っても報われないことを知って、死にたくなりました。

 だけど、上手に自殺することもできません。

 何をやっても上手にできない情けない女です。

 窓の外は雪です。

 温かいのが好きだけど、死んだら寒くても感じないよね。

 この雪に一晩降られたら死ねるでしょうか。

 誠さん、さようなら

   曽根深雪より〉

 

 

 誠は涙を溢していた。

 

 ……俺のせいか? な、みゆき。俺が殺したのか? 何か言ってくれよっ!

 

 誠は心の中で叫んだ。――

 

 

 

 みゆきのことがあってからは、誠は女を拾っていなかった。

 

 それは、雪がちらつく午後だった。見回りをしていると、久しぶりにおばちゃんと()った。

 

「まぁ、若頭。ご無沙汰してます」

 

 百貨店の紙袋を提げていた。

 

「おう、元気そうだな。買い物か?」

 

「ええ。孫の服を」

 

「今は何を? 働いているのか」

 

「いえ、この歳ですから。家で孫の面倒を見てます」

 

「そりゃあ、何よりだ。幸せにな」

 

「はい、ありがとうございます。――あっ、みゆきちゃんの行方は分かりました?」

 

 思い出したように顔を上げた。

 

「……いや」

 

 みゆきのことには触れたくなかった。

 

「どうしてるかしらね。いい子だったのに。なかなかの勉強家で、時間があるといつも辞書を開いていました。勉強家だねって言うと、高校行ってないから勉強しないとって。篠塚さんに嫌われたくないからって。……あの子、若頭のことが本当に好きだったんですね」

 

 おばちゃんのその言葉に、誠は照れ隠しのように鼻で笑うと、コートのポケットに手を突っ込んだ格好で横を向いた。

 

 

 事務所に戻る途中、ミニスカートにブーツの高校生風の二人連れとすれ違った誠は、

 

「おっ! かわいいね」

 

 と声をかけて通り過ぎた。ケラケラと笑い合う二人の声が背後でしていた。

 

 

 

 

 

 降る雪を見上げると、そこには、みゆきの微笑む顔があった。

 

 ……今度は俺の見張りか? それとも見守ってくれてるのか? あ? どっちだ? みゆきーっ!

 

 

 

 

 

 

 完



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