ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ (真夜中のミネルヴァ)
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蠢動

■ キャラクター設定 

食蜂操祈(しょくほうみさき) 二十二歳 常磐台中学数学科教諭 元メンタルアウト(能力ほぼ消失)

密森黎太郎(みつのもりれいたろう)(レイ)十四歳 常磐台中学三年男子 レベルゼロ?

栃織紅音(とちおりあかね) 十五歳 常磐台中学三年女子 三年二組のクラス委員 オーラリーダー(レベル1)

山崎碧子(やまざきみどりこ) 十五歳 常磐台中学三年女子 生徒会長 サイコメトラー(レベル2)

その他の生徒たち


          Ⅰ

 

 

「……以上、挙手による結果を持ちまして、うちのクラスの庶務委員には密森黎太郎(みつのもりれいたろう)くんが選ばれました。なお任期は来年三月までとします」

 クラス一同、拍手。不服そうな顔をしている一人を除いて。

 一時限目の前のホームルーム、壇上に立ったクラス委員の栃織紅音(とちおりあかね)により、生徒会からの指導で各クラスに庶務委員を置くことになった旨、通知されたのだ。

 今後、体育祭、学園祭と忙しくなる学園生活において、クラス委員――とくに指導的なポジションにある三年生の委員は――ひとりだけでは対応が困難になるのではないかとの指摘に生徒会長がさっそく手を打ったということだった。要するにクラス委員の誰かが生徒会長に、今後なにかと仕事が増えるから手ゴマになる雑用係をひとりつけて欲しい、とご注進に及び、それを会長が是としたということだった。

 もちろんそこには生徒会における学園祭実行委員会への牽制といった政治的な意味あいも含まれている。

 こうした意向を受けてクラスに持ち帰った紅音が今朝のホームルームで二組の全員に諮り、自薦他薦を募ったところ、ほぼ即決と言っていい素早さで密森黎太郎に鉢がまわってきたのだった。

 雑用係なんかやりたがるものがどこに居るよぉ、オイうってつけのヤツがココに居るじゃん、そうだわ密森くんなら適任よね、私も賛成! それはいい考えだわっ!

 流れはあっという間にできてしまった。

「あの……辞退はできないのでしょうか……」

 挙手したレイが、おそるおそる尋ねると、紅音が、

「できません、決定事項ですから。ただし手続きに不満がある場合には生徒会に申し立て書を提出して下さい。審議の上、後日その結果をお知らせします」

 案の定、事実上のゼロ回答。

「あの、先生――」

 操祈にも救いを求めたが、彼女も困った顔をするだけだった。

 

 放課後――。

 民主主義という暴力によって強制的に栃織紅音の子分にされてしまった密森黎太郎は、少女の後ろ、半歩下がって付き従っていた。

 見ようによっては刑務官に刑場まで連れ出される死刑囚のようでもある。気が重く、生徒会室まで続く廊下がひときわ長く感じられるのだった。

 生徒会長の山崎碧子(やまざきみどりこ)に対して、新たに加わるメンバーとして挨拶するということなのだが、レイは彼女が苦手だった。できれば近寄りたくない手合いなのだ。

 美人でスタイルが良く、常に学年成績トップを維持する明晰な頭脳の上に人あしらいも巧み、彼女に魅了されない男子は稀だろう。

 リーダーとしての天性の資質を持った才媛である。

 それだけなら特にどうということはなかったが、碧子にはもうひとつ、天から才能が贈られていた。

 それは――。

 サイコメトリー能力、それも現在学園最強のレベル2の能力者。

 この力が厄介で、彼女が視界に入るといつでも緊張を強いられるのだった。特に大きな秘密を抱えているレイのようなものにとっては……。

 だから思念のコピーを取られるのを避けてなるべく距離を取っていたのだ。

「あなたが密森くんね、よろしく、会長の山崎よ」

 生徒会室に入ると、奥のデスクから山崎碧子が颯爽とドア近くまでやってきてレイを中へ迎え入れた。碧子の纏っている爽やかなコロンの香りが鼻腔をくすぐる。

「あの、今度、二組の庶務委員を承りました密森黎太郎です……」

「密森くんね、知ってるわ、あなたのことは紅音からよく聞かされているから」

「はぁ……あの会長、ボクは……」

「碧子でいいわ、だってお互い同じ学年なんだし、私も黎太郎くんって呼ぶから」

 レイの腕を取って室内へと導く。

「掛けて――」

 長テーブルの席のひとつに座らせると、碧子もその隣に座った。ミディアムストレートにしたナチュラルブラウンの髪、利発そうな大きな瞳の瓜実顔がすぐ近くにあって少年を見つめていた。

 これじゃあタイガイの男子はイチコロだ、とレイは思った。

 操祈で馴れているから抵抗できるが、普通だったら碧子にあっさり魅了されていたところだろう。

 たしかにとても魅力的な美少女だった。美少女と言われる他の少女たちと較べても一ランク上の高級感がある。

「祐太、黎太郎くんになにか飲み物をもってきてあげて――」

 二年のクラス委員の男子生徒が即座に動いて、やがて目の前に淹れたてのコーヒーが出されてきた。香ばしい薫りが誘っている。

 けれどもレイは用心していた。サイコメトラーにとって液体は心を写し取る際の効率のいい媒体となるからだった。

 防御手段は他愛もないことを強く念じて本意を隠すというのが定番だったが、今は碧子への親愛を演じるほうが容易いと思い、少年はそちらの手を採ることにした。髪の匂い、端正な顔だち、甘く香る体臭……すぐそばに使えるものがいくらでもあったからだ。

「ああ、これはいいコーヒーですね、ブレンドはなんですか?」

「生徒会ブレンドです。ミッドローストした粗挽きのブルーマウンテンを七にコロンビアを三の割合で、ゆっくり落とすとこんな感じになります。会長がお好みなのでいつもご用意させていただいております」

 裕太と呼ばれていた二年生は、畏まった様子で碧子の横に立ちつくしたままレイに説明した。

 レイはそれを見ていて皮肉っぽい気持ちが浮かび上がってきそうになったが、それを強く封印して意識の底へと追いやった。

 

「……まぁお話はそんなところね、何か質問はある?」

「いえ……とくには……」

 碧子との面談はとりたてて内容のあるものではなかった。

 生徒会の現状といま抱えている課題の説明があって、全般的に人手不足だから手伝って欲しい、ただそれだけのことである。二組の庶務委員として紅音のサポート役となるべく彼女の指示に従うように、と。

 要するになんのことはない、(ハナ)から想っていたとおりに新入りの子分が親分に連れられて大親分との顔繋ぎにお伺いした、ということだった。

 生徒会室の外に出たレイは、クワバラクワバラとばかりに小走りになって退散するのだった。が、途中、廊下で操祈の姿を見かけると、ぴたっと走るのを止めて徒歩になり、彼女の横を通り過ぎるときにはしっかりと黙礼をする。

 どこから見ても普通の生徒が担任教師に敬意を示しているように。

 子供らしい理由から、もっとずっと気がかりなことがあって先を急いでいる風に見えるように。

 レイは操祈から離れると振り返ることもなく、また小走りになって去って行った。

 そんな少年の後ろ姿を見送る操祈も、自然に大人の女の頬笑みが浮かんでいて教師の顔を保っていられるのだった。

 

 そのころ生徒会室では会長デスクに着座した碧子の横に立って、紅音が頭を下げて額を寄せ合うようにしてヒソヒソと話をしていた。部屋には他に二名の男子生徒と一名の女子生徒が居たが、上級生二人の会話に立ち入ろうとするものはなく、長テーブルで黙々と作業を続けている。

「どうだった、彼? 見てたんでしょ」

 碧子はレイが使っていたコーヒーカップと皿を膝の上にのせ、両手を添えて丁寧に摩りながら紅音に訊いた。

「最初は暗色系が多かったのでかなり緊張していたようです。しかし時間とともにリラックスしていったようで暖色系に変わっていくのがわかりました」

「……そうね……こっちもそんな感じだわ……でも、ちょっと気になるのよね……」

「何がですか?」

 同級生であるはずなのだが、あきらかに紅音は碧子に対して単に会長であると言う以上に(へりくだ)っていた。

「彼、何か隠し事をしているような気がするの……皮相なイメージしか見えてこないのよ……前の二人と違って、なんか作り物っぽいの……まるで心の中で愛想笑いをされているような感じ……」

「そうでしょうか……」

 紅音はつい眼鏡を外したままで碧子をまんじりと見つめてしまった。

「やめて紅音っ、いつも言ってるでしょっ、私を見るときには眼鏡をしていなさいって!」

 碧子の強い叱責の声に驚いて、テーブルで作業をしていた生徒たちは一斉に顔を上げ、一様に憧憬と畏怖のないまぜになった眼差しで会長の方を見ていた。

「もうしわけありません、会長……」

「いいのよ紅音、大きな声を出して悪かったわ」

 碧子は親しげに紅音の両肩に手を置くと、

「紅音……わたし、あなたにはとても期待しているのよ……」

「わかっています、会長……」

「計画の実現にはあなたの力が不可欠なの……いい? 今の学園都市はあきらかに間違った方向へと向かっているの。間違いは正さないといけないでしょ?」

 紅音は従順に頷いた。

「私たちの理想の実現の障害となるものは取り除かなくてはいけないわよね」

 紅音の耳許に顔を寄せて碧子は囁いた。

「そもそも学園に女王が二人も居るなんて、おかしいわ」

 




誤植を何箇所か訂正しました
読みにくいところがあったこと
お詫びいたします


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ノーウェイアウト

 

          Ⅱ

 

 午後四時過ぎ――。

 今、レイは常盤台中学からほど近くにある生徒御用達の喫茶店の、窓際の奥のテーブル席に座って紅音と向かい合っていた。もちろんいちばん奥の上座には紅音が納まっている。

 ゆったりとした店内にはレイたちの他にも女子だけのグループやら、男女のカップルやらが数組居て、それぞれ楽しげに過ごしているようだった。

 確かにうわべだけを見れば、レイと紅音もたしかに男女、仲睦まじくデートをしているように見えるのかもしれない。

 『ふわふわスフレケーキに二種類のチョコレートアイスクリームと可愛いいちごのワルツ』と『ストロベリーとラズベリーとクランベリーの三種のアイスクリームに季節のフルーツデコレーションパフェ』などというとってもメルヘンなスイーツを額を寄せ合うようにして食べているのだから、他の席にいるマジもんの連中――頭の中があま~いクリームでいっぱいのカップル――がしていることとさほど違いはなかったのだ。

 だがもしもレイが他人から、クラスメートの可愛い女の子と二人、デートは楽しいか? などとイヤミたっぷりに問われれば、楽しいってのはそりゃ言い過ぎかも、と応じたい気分でもあるのだった。

 実のところ言葉にこそしなかったがパフェぐらいで懐柔されてなるものか、と思っていたのだ。

 これまでであれば、今の時間はたいてい将棋部か釣り研究会の部室でコースケやヤっさんらと楽しくトランプなどに興じているか、部屋でサクッと宿題を片付けてからルームメイトのヒサオとゲームをしていたりするなど、有意義に過ごしていたはずなのだが、碌でもない役を仰せつかったがために、このところ放課後の自由時間はほぼ失われていた。

 今日も授業が終わった後は空き教室で独り居残って、生徒会の一大方針である歳費削減――クラブ活動費などの年次予算の大幅な見直し――のため、各クラブ、同好会が提出してきた上半期会計報告書の中味についての総点検を行っていた、もとい、行わされていた、のだ。

 レイにしてみれば、え、コレ、ボクがするのっ――!?

 と言いたくなるようなドブさらい、汚れ仕事だった。

 魔法使いや超能力者は居ても、予算を削られて歓ぶヤツなんてこの世のどこに居るっ!

 大切な予算を削った張本人がレイだと分れば、みな顔を真っ赤っかにして自分のところに押し寄せてくるのは必至なのだ。

 どこからみても憎まれ役、貧乏籤もいいところだった。

 生徒会にしてみれば、めんどうな苦情処理担当をいつでも代わりの利く――毒にも薬にもならず、悪目立ちもしないうってつけの尻尾切られ役――“男子生徒”に押しつけて生徒会の外部に置くことが出来たのだから、一石二鳥、いや、三鳥、四鳥の妙手だった。

 会長に言われて仕方なく――という言い訳が通じるほどこの世の中は甘くない。

 皺寄せは常に弱いところに集中する。これは力学の原理でもあった。もはや法則と言ってもいいほどの人間社会の必然なのだ。

 罵声の火だるまぐらいで済めばいいが、血気盛んな運動部の連中から血だるまにされるのだけはゴメンこうむる、というのが今のレイの正直な気持ちだった。

 身の安全保障を生徒会がどう担保してくれるか、それが彼にとっての喫緊の関心事項なのだった。

 だが――。

 紅音がきり出した話はレイにとって予想もしていないものだった。

「密森くんと操祈先生の話がしたかったの――」

 虚を突かれ、一瞬、言葉を奪われていた。

「先生がどうかしたの?」

 紅音は眼鏡を外すとレイの顔を見つめた。

「あなたが動揺するなんて珍しいわね」

「動揺? どうしてボクが? 栃織さんが何を言いたいのかわからないよ。今日はボクが今やらされている仕事のこと、今後の方針や見通しについて説明してくれるものだとばかり思っていたんだけど」

「ねー密森くん、いつまでそんなネコを被っているつもり?」

「ネコを被る? いったい何の話?」

「人畜無害のお人好しの優等生、おとなしくてもの静かなジェントルマンで男子からも女子からも気のおけない仲間だって思われてる……実際、誰に対しても(あた)りはやわらかいし、優しいから女子の間でも評価の高いイイ人、だから誰も密森くん、あなたのことを警戒なんかしないし、恐れたりもしない……実際、私もずっとそう思っていたぐらいだから……」

「栃織さん、きみは何が言いたいの……?」

「ほら、もう仮面が剥がれかけてる……」

 レイは相手の目をじっと見つめていた。操祈以外の相手にはしたことのないことを、紅音に対してもやってしまっていたのだった。

「でも、本性は学園最強の肉食動物……というのとはちょっと違うのかもしれないけど、見かけと中味はかなり違うわね……もっとも、ちっとも怖いとは思わないけど、でも手強いとは思ってる……」

 少女は顔を寄せると、囁くようにして言った。

「だって、あの操祈先生を口説き落としたくらいなんだから……」

「ボクが操祈先生を口説いた? 冗談を言わないでよ紅音さん、さすがに荒唐無稽すぎて話についていけないよ」

「口説いたんじゃないわ、口説き落としたのよ……みんなの憧れの、あの学園都市の女神さまをね……いったいどんな魔法を使ったのか教えて欲しいくらいのミステリー」

「栃織さんは勘違いをしてるんじゃないの? ドラマの見過ぎかなにかかな?」

「心配しなくてもいいわ、私、このことは誰にも話していないし、話すつもりもないから……まだ誰も気がついてないし……」

「話したところできみの妄想につきあう人は居ないと思うよ。ボクでも信じられないから……そりゃそうなったらステキだなとは思うけどね……」

 紅音は薄く笑って、刹那、レイは背筋がヒヤッとする。

「警戒、疑念、不安、不審……」

「……?……」

「今の密森くんの心の動きよ、今、赤黒いスパイクが出た……これは怒りの衝動ね……」

「ボクの心を読んでいるの?」

 このとき初めてレイは、自分の劣勢に気づいたのだった。

「ムダよ、ガードしてもムダ。あの元メンタルアウトの操祈先生にもできなかったことが、レベルゼロのあなたにできるワケがないでしょ」

「でもきみはテレパスといってもたかだかレベル1……高い精度で人の心を読むことなんてできないはずなんだけど。勝手にノイズをつないでおかしな物語を作っちゃったんじゃないのかな?」

「そうかもしれないわね……」

 少女はまた、レイがギョッとなるような冷たい笑顔を向けていた。勝者の頬笑み、絶対に有利なポジションを取った側の嗜虐性を含んだ愉悦の表情だった。

「じゃあ、いまから操祈先生に電話してみましょうか? 密森くんとデートの約束ができそうなんですがいつにしますか? って」

 言うなり、紅音はスマートフォンを取り出すとレイの目の前で操祈に電話を掛けはじめたのだ。

 送信音が幾つか鳴って、やがて通話が始まった。

「あの、操祈先生ですか……栃織紅音です……お忙しいところ申し訳ありません、実は例の件で今、彼と話をしているんですけれど……」

 二人の間での他愛もない会話だったが、そばで聞き耳をたてているレイの顔色は驚きの為にみるまに白茶けていった。

「いまお忙しいらしいので、一時間後に先生の方からまた電話をかけてくださるって……だって、こんな話、まわりに人が居るところではできないでしょ? じゃあ私たちも、そろそろお店を出ることにしましょうか」

 




読みにくい箇所があって微修正をしました
申し訳ありませんでした


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ペントハウス

          Ⅲ

 

 巡回バスに乗って三つ目の停留所で降りる。紅音に連れてこられたのは、レイも過去に何度か利用したことのあるスーパーマーケットの入ったビルだった。ここではコンビニよりも高級な食材を扱っていて、普段とは違う、()レの日などにとっておきのレシピを試そうか、と思ったりすると足を伸ばたりしていたのだ。

 割高ではあるがそれだけのことはあった。舶来品(はくらいひん)を含めて品揃えも充実していたからだ。

 ホワイトデーで操祈へのお返しに、この店で調達した素材から手作りしたブラウニーを贈った時には、後でこっそり「来年は私も手作りしなくちゃならなくなっちゃったじゃないのよぉ」と、お小言を頂戴したくらい評判が良かった。

 目立たないように操祈以外のクラスの女子全員に配ることになったので、結構な手間と出費につながったが、それを含めて操祈のために腕を振るったことは彼女にもしっかり伝わっていて、作戦は大成功!だった。

 そんなことを思い出しながら、紅音に続いて二つ並んだエレベーターの一つに乗る。

 少女はまわりを見て他に乗り込む者が居ないことを確認すると、扉が閉まるのを待ってからパネルのRを押した。続いて他の階のボタンを幾つも押す。怪訝に思ったレイだったが、それがすぐに暗証番号なのだと合点がいくのだった。

「屋上へ行くの?」

「うちのペントハウスがあるの」

「ペントハウス!? すごいね、栃織さんのうちってお金持ちなんだ」

「昔はソコソコだったみたいだけど、今はそれほどでもないわ……このビルももう殆どが他人手(ひとで)に渡ってるし」

 エレベーターが停まって扉が開くと、目の前には何もないがらんとした駐車場のようなスペースが広がっていて、ペントハウスはさらにその上にあるらしい。

 エレベーターを出て、フロアーの壁にある鍵のついた頑丈な鉄製の扉を開け、内階段のある非常用区画に入った。すると更に二つのドアがあるのだった。

「こっちのドアは非常階段、こちら側からは開くんだけど……」

 少女はドアを開けて階下につづく内階段を見せた。

「反対側にはドアノブが無いから開かないの。うっかり外に出て閉め出されちゃったら階段を一階まで降りることになるから気をつけてね」

 もうひとつのドアには鍵がついている。

「うちはこっち……」

 鍵を開けてドアを開くと、こちらには上り階段があって、そこを上りきると更に電子ロックつきの扉があった。

「ずいぶん厳重なんだね……」

「そうね、こっちは裏口っていうか秘密の出入り口だから……普段はこれとは別に直通のエレベーターがあるのよ。私が使うのはそっち。でも曰くのある人たちの場合にはこちらの方が安心でしょ?」

 紅音は暗証番号を入力しながら言った。

「エレベーターの外部表示に仕掛けがしてあったり、監視カメラのデータが消去されたりと、お忍びの来訪者のプライバシーを守る工夫がされているのよ……入って……」

「うわぁ――」

 ドアの向こうは別世界だった。少年からすると外国映画でしか見たことの無いような光景が広がっていたのだ。

「すごい……」

 壁一面が高い天井までのガラス張りの広大なリビングには何点もの応接セットが配置されていて、カーテン越しにテラスにはプールまであるのが目に入った。

「半年ほど前まで祖父が使っていたんだけど、今は施設に移ってしまって空き家なのよ」

「おじいさんはここに独りで住んでいたのっ!?」

「まさか……年寄りがひとりでこれを管理なんてできっこないでしょ。家政婦さんが居たの……若い女のね……その人には祖父が施設に移るとき、手切れ金を与えて出て行ってもらったそうだけど、感じの良い人で私は好きだったわ。いまはどうして居るか知らないけど……」

“爺さんとお妾さんが使っていたのか……”

 それは少年にとってなじみのある日常、庶民感覚との乖離を感じさせるものだった。さらにそのことを当然のように受けとめている紅音も、自分とは住む世界が違う人種のように思えて気後れしそうになってくる。

 紅音はフロアーを案内しながらレイに設備や備品の使用方法などを説明していた。

 驚かされることばかりだったが、まずその広さに当てられていた。

 ベッドルームはゲスト用だけで三つもあるのだ。それぞれにバス、トイレ、簡易キッチンまでが用意されていて、一部屋だけでファミリーサイズのマンションほどの広さがあった。その他に主寝室と展望のみごとな広い浴室があって、さらにシアタールームやトレーニングジムまでが用意されている。

 初めて目にする、市井の人々の暮らし向きとはまるでちがう、大金持ちという人たちの豪華な生活ぶりを間近にして、少年は呆気にとられるばかりだった。

「栃織さんって凄いお嬢様だったんだね」

「こんなの大したことないわ……もともと常盤台は良家の婦女子を集めた保護施設みたいな意味もあったんだから……操祈先生だってそうよ、たしか先生のお父様は国際的なコングロマリットのオーナー一族のお一人だった筈よ」

「え、そうだったの!?」

「知らなかったのっ!?」

 少女は生まれてはじめて阿呆を見るような顔をして少年を見ていた。

 たしかに操祈と互いの家庭環境について話したことはなかった。

 もしも知っていたら――?

 接し方が変わっていただろうか? と、考えてみる。

 たしかにそうなるかもしれなかった。

 けれども、だからといって彼女への気持ちは何も変わることはないとも思うのだった。

「どうしてきみの家族はここを使わないの? こんなに凄い部屋があるのに」

「引っ越すってこと? 無理無理、母に家を移る気力なんかないわ。父を(うしな)って、やっと独りになったあの人にとっては、変わらない日常こそが全てなのよ。年の離れた二人の兄はどちらも日本に居ないし、今、ここを管理しているのは私なの。(たま)にこうしてやって来ては空気を入れかえたりしてるだけだけど……でも、人を連れてくるのは初めてだわ……」

 そのとき少女は急に男子と二人きりになっていることに気がついたように、レイへの視線が胡乱(うろん)なものを見るような目つきになっていた。

 少女の心の動きは当然、レイにも伝わってくる。

「な、なに?」

「冗談よ、密森くんが私をどうにかしようとするなんて、ぜんぜん思ってないから」

「びっくりさせないでよ、ボクがそんなことするはず無いじゃないか……むしろ今、危ないのはボクの方かもしれないよ……」

「そういうときは少しはその気を見せるのが女の子への配慮でしょ、まぁ操祈先生が相手じゃ適いっこないのはわかるけど」

「だからそういうことは……」

「プールを使いたい時には言ってね、ただ先生が利用するとなると、とても目立つから日中は避けて……ここよりも高いビルがまわりに幾つもあるでしょ? だからテラスに出たらプライバシーの保証はできなくなるわ」

「さっきからきみは、まるでボクたちがここを使うことを前提で話をしているみたいだけど……そんなことありえないから……」

「あら、ボクたち? ボクたちって誰と誰のこと?」

「………」




書き間違いを訂正しました
お詫び致します


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ペントハウス2

          Ⅳ

 

「往生際が悪いわね、私にはあなたの心が判るって言ったでしょ、あなたと先生が熱愛中であることを私は知ってるのよ、感じているのでも判るのでもなく、知っているの」

「きみは……きみの能力はレベル1じゃなかったのか……?」

「公式評価のレベル1のテレパスっていうのは相当だと思うわ。でも私はテレパスじゃないの。私の本当の能力は人の体から放射されているオーラを読む能力、オーラリーディングよ。だからたとえ相手が心を閉ざしていても生理的な反応である感情は見えてしまうのよ。それに気づかせてくれたのは他ならぬ操祈先生だったんだけど」

 紅音は旅先での操祈とのやりとりを話して聞かせ、レイは沈黙するしかなかった。

「私の能力について知っているのは、密森くんで二人目……そうね、会長も感づいているから、三人かな……あまり他の人には知られたくないから、言わないでくれると嬉しいんだけど」

「ボクには他人の秘密を吹聴したりする趣味は無いよ」

「わかってる――」

「………」

「まだ先生からお電話をいただくまでには時間がありそうだから、どこか適当なところに座っててよ、何か飲み物を用意するわ……甘いものを食べたばかりだからコーヒーでいい?」

 レイは頼りなげに頷くしかなかった。状況が思っていた以上に困難であることがわかって索漠とした気分に陥っていた。

 これまで操祈との関係は慎重にも慎重に、注意にも注意を重ねて密やかに進めていたものが、いきなりその秘密のヴェールを剥ぎ取られてしまったのだ。

 先のことを考えると心細かった。

「お砂糖は?」

 レイは首を振って応えた。

「じゃあミルク?」

「うん……」

 紅音のコーヒーの趣味は良かった。少なくとも碧子よりは自分に近いと思う。少年はコーヒーは酸味のないものの方が好みなのだった。

「……それで……どうするつもりなの……?」

 恐る恐る尋ねた。

「あなたが心配するのはそれよね?……もしこの件が露見でもしたら大変なスキャンダルになるから。学園都市の女神とまで言われている美人教師が密かに教え子を食べまくってた、なんてことをマスコミが嗅ぎつけたら……下衆な連中が大悦びするネタでしょうからね」

「先生はそんな人じゃないよ……」

「わかってるわよ、あなたがあの人を(たぶら)かしてるってことぐらい。あの人が綺麗なのは外見だけじゃないから……密森くんと違ってね……」

「………」

「怒ったの? でも密森くんがまともな人だって事は疑っていないわよ。あの人のパートナーとしては、まぁ、これはこれでアリかもしれないぐらいには思ってるんだから」

「栃織さん、きみは……何がしたいの? ボクたちをどうしたいの?」

 自分では緻密であったつもりが、こうも易々と尻尾を掴まれるようではと、無力感に苛まれていた。

 知らないところで操祈を悩ませるような事態が進行していたとすると、能天気に生徒会の雑用のことばかりを案じていた鈍感さが口惜しい。

「いいわね、いい反応よ……愛情、尊敬、忠誠、そして決意……まさに騎士(ナイト)の心意気だわ」

 揶揄されたように感じて、レイは毅然となった顔で少女を見返した。

「やめてくれないかな? 心を読むのは」

「心じゃなくて感情よ……でもそうね……卑怯よね……裏に印のついたカードでトランプをするようなものだから……なら、お互い嘘は無しってことでいい?」

 レイが頷くと、少女はスカートのポケットから眼鏡を取り出して顔に掛けた。

「……?……」

「こうするとなぜかオーラが見えなくなるの、理由はわからないけど」

 確かめる方法がない以上、信じるしかなかった。

「私が何をしたいかってことだけど……何もしないわ、強いて言えば、応援したいってことかな?」

「応援?」

「そう、あなたたち二人の恋路を応援してあげたいの。だって大変だったでしょ? この高度に監視化された学園都市で密会するなんて……今までどうやってたのかは知らないけど」

「………」

「でもここでなら何に気兼ねをすることなく二人だけの時間を過ごすことができるわ。シャワーもベッドもお風呂も自由に使えるし、ね、魅力的でしょ?」

「そんなことして、きみになんの得があるの?……きみは慈善家ってタイプには見えないから」

「そうね、自分も慈善家だとは思わないわ。でも、こう考えてくれない? 操祈先生のハッピーが私にとってもハッピーなんだって」

「そんなこと……」

 少年は半ば呆れたように首を振った。

「おかしな新興宗教にでも入ってたりする? 変な導師(グル)からそう教えられたりでもしたのかな? そりゃボクだって利他行動、隣人愛っていう理想は認めるけど、でもとても現実的じゃないし、そんなことを宣う御仁も一皮めくればとんだスノッブだったりするのが世の常だからね。もしもそんなのがきみの周りに居るとしたら注意した方がいいよ、余計なお世話かもしれないけど」

「そういうのじゃないわ、たぶん、私の気持ちは密森くんに近いと思うの……私ね、あの人のことが大好きなの、でも勘違いしないでね。レズっ気があるわけじゃないから」

 怪訝そうな面持ちのままで相手の様子を窺っていた少年だったが、少女の口からいきなり、レズ、というようなキワドイ言葉が出てきて、どんな顔をしていいかわからなくなり、気まずさをやり過ごそうとテーブルのコーヒーカップに手を伸ばした。ひと口含んで仕切りなおした。

「操祈先生ってね、私の子供の頃からの憧れの人だったの。あんなに綺麗な女の人、他に知らないから。だから、あの人がどんな恋をしているのか、ずっと気になっていて、どうか幸せな恋をして欲しいって、そんなふうに思っていたのよ。これは本心。だから私にあの人を傷つける意思なんてこれっぽっちもないわ。密森くんなんかどうなったって構わないんだけど……でももし、そのことで操祈先生が悲しむようなことがあるのなら、私はあなたの味方になる、そういう話よ」

 少年は長く息を吐いた。それは半ば安堵の、緊張感から解放されたときのものだった。紅音の言葉を全て真に受けることはできなかったが、一方で悪意も感じられなかったからだ。とりあえず最悪の状況ではなさそうだと胸を撫で下ろしていた。

「これで安心してもらえたかしら?」

「え?……うん……」

「私が何か要求してくると思ってたんでしょ?」

 レイは認めた。

「ご覧のとおり、私、お金には不自由はしてないわ、密森くんのなけなしの奨学金を巻き上げようだなんて、そんなこと思うハズがないでしょ?」

「だから、ここに連れて来られてからよけいに気になっていたんだ……何を持ち出されるかわからなくなって……」

「ただ、先生には一つだけお願いしたことがあったの。これは要求でも条件でもないから、嫌なら嫌で構わないからって、断られたからって不利になることは絶対にないからって納得してもらってから……」

「……?……」

「そうしたら先生は、密森くんの意向に従うって言われたわ」

「そのお願いってどんなこと?」

「ねぇ、差し支えなかったら教えてくれない?」

「なに――?」

「いつからなの? 先生とは……その……セックスをするようになったのは?」

 



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ペントハウス3

 

          Ⅴ

 

「……もしかして京都でのデートがはじめてだったりするの? それとももっと以前から?」

 少女のワーディングは直裁(ちょくさい)で少年をたじろがせるものだった。

 栃織紅音についての印象は融通の利かない杓子定規なクラス委員で、地味、腐女子っぽいネクラなイメージしかもっていなかっただけに、少年の中にある紅音のプロフィールファイルはいろいろと修正を迫られていた。

「京都って? まさかっ、きみは勘違いしてるよ、ボクたちはそんなことしてないから、そもそもそういう関係じゃないっ」

「プラトニックラヴだとでもいうの? それは嘘よっ、だってあなたたちが自由時間のときに熱愛デートしてたのは先生にも確認済みなのよ。バスの中で操祈先生が真っ赤になって恥ずかしさを(こら)えているのがわかったし、密森くんは女をものにした時の男の雰囲気バリバリだったし」

「………」

「だから、てっきりあのとき先生はロスバーしたのかなって思っていたんだけど……でも一緒に温泉に入ったとき、ちょっと予想が外れたかなっていうか、先生の体のどこにもキスマークなんてついてなかったし、傷ついた体を気にするような仕草もみられなかったから……まあ、そういうのって個人差もあることだから一概には言えないんだけど……でもそんなに前から関係してたって感じでもないのよね。先生の身体、綺麗なだけじゃなくて、すごく初々しい感じがしたから……まだ男の人からの愛撫になれていないような……」

「きみは先生のことをそんな目で見てたのか……」

「見てたんじゃなくて、そう見えたってだけよ……操祈先生を可哀想な女のコの顔にさせちゃう密森くんには言われたくないわ、そんなことっ……でも、あの人がどんなセックスをするのかにはとても興味があるわ……」

 少女はちょっと頬を上気させて言った。言いながら眼鏡をズラして裸眼で少年の顔を盗み見る。レイは唇を一文字に結んで抗議の意を示した。

「今まで何回ぐらい先生としたの?」

「やめてくれないかな、差し支えあることは訊かないって言ったばかりなのに……」

「ほら、やっぱり差し支えあることしてるんじゃない……ねぇ、どんなセックスをするの? 教えてっ」

「そういう質問には答えたくない、だいたいボクたちはセックスなんかしてないっ」

「そうなの?……密森くんが私に嘘をついたってすぐわかっちゃうから無駄なんだけど……」

 少女はまた上目遣いになって眼鏡の枠の外から少年の様子を伺っていた。

「あれ? おかしいわね、嘘はついてないみたい……でも……?」

「ボクは嘘なんかついてないよ……ボクも先生も一線は越えてないし、越えたこともない……」

「先生がまだヴァージンだっていうのっ!? そんなハズないわっ、だって……ねぇ……もしかして密森くんって病気? それとも急にできなくなっちゃうとか?」

「ちがうって!」

「おかしいわよ、そんなのって……絶対に変……」

 少女は怪訝そうに長椅子から立上がると、

「コーヒーのお代わり要るでしょ?」

 そう言いながらまた背後のアイランドキッチンへと向かった。

「……うん……そうだね、いただこうかな……これマンデリン?」

「わかんない、おじいちゃんのだから……」

「美味しいと思うよ、淹れ方もいいのかも」

「そうなのかな? わたしはボタンを押しただけだから。あとはコーヒーメーカーが豆量を勝手に計って、勝手に抽出してくれるの。生豆からローストすることもできるらしいけど、わたしには興味ないし」

「すごいね、羨ましいよ。自分だとなかなかこんなふうにはならないから」

「じゃあ、ここに居る時は自由に使ってもらっていいわ」

「……うん……」

 頷くべきかどうか迷ったが、返事をしてしまっていた。

 コーヒーメーカーのミルが豆を挽く微かな音が聞こえてくる。

「密森くんってそういうのに結構、詳しいわよね、味とか香りとかに敏感っていうか……」

「べつに普通だと思うけどな……」

 それまでがとても中学生の男女のものとは思えない露骨な内容だっただけに、こういう差し障りのない会話だと身構えずに済んでホッとできた。

「お菓子焼いたり、お料理したり、わりと食べることにこだわりがある方よね……」

 コトコトコトコトと実に静かに抽出される音とともに、また心躍る香ばしい香りが漂ってくる。

「そうかな、ボクはただ数少ない楽しみを大事にしたいって思ってるだけだけど」

「………」

「栃織さんと違ってしがない奨学生だからね……」

「………」

「食費だって切り詰められるところは切り詰めないと……」

「………」

 会話の最中にリアクションが途切れ、不意に紅音が口を閉ざしたのを訝しく思ってキッチンを振り返ると、少女は凝視するでもなく黙って中空を見つめていて、思考を巡らしている様子でいた。

「……どうかしたの……?」

「……そっか……」

「え?」

「……そういうことか……」

 やがて少女は分け知り顔になって、フロアーよりも数段高い位置にあるアイランドキッチンの上から少年を見下ろしていた。

「わたし、わかっちゃったわ、恋する二人がこっそりなにをしているのか……たしかにセックスしてないって言えばそうなのかもしれないけど……」

「………」

「でもね密森くん、ふつうのセックスよりもオーラルセックスの方がずーっとエッチでアブノーマルなプレイよ。とくに経験の浅い女のコにとっては抵抗感が強いもの……私にはぜったいに無理だからっ」

「――!――」

「操祈先生みたいな身持ちのいい方にはとてもショックだったと思うわ、クンニリングスなんてあんな恥ずかしいこと……ずいぶんひどいことするわね、あなたって見かけによらずりっぱなヘンタイよ……べつにもう驚かないけど……」

 

 

 



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秘め事

         Ⅵ 

 

 紅音は眼鏡を外してレイを凝視していた。

「ビンゴっ! やっぱりそうだったのねっ」

「きみも女のコならもう少しオブラートに包んだ言い方ができないのかな……そういうことって男だって口にしにくいことなのに……」

 少年の方が顔を赤くしていた。

「いいじゃない、ここには誰も居ないし、ここだけの話なんだからっ」 

「………」

「だからあのとき、先生のオーラはきれいなピンク色をしてたのかぁ……ピンク色のオーラって言うのはね、人が強い羞恥を感じている時に現れるものなの、特に恋愛感情を伴う性的なものの場合はキラキラと瞬くように見えるんだけど、操祈先生のはとりわけ強い反応だったから、だから初体験だったのかなって勝手に思いこんじゃったのね。でもそういうことなら納得」

 少女は何故かすっかり上機嫌になってレイに自身の能力について語った。外していた眼鏡をまた掛けなおしている。

「でも意外ね、ああいうことにはいちばん縁遠そうに見える二人だから……優雅でとても美しい女性と、おとなしい男の子って……だけどよくよく考えるといちばん(うなず)けたりもするから不思議……ウフフフっ……たとえ相手が男のコでも、そっとしておいてもらえないくらい魅力溢れるお姉さまって、ますます興味がわいてくるじゃない、すっごくステキよっ」

 紅音は眼鏡の奥の黒い瞳を妖しく煌めかせた。

「それにしても、あの操祈先生が、よくあんな恥ずかしいことを許してくれたものね。わたしなら絶対にイヤっ。相手が女の人の場合ならかろうじてアリかもしれないけど、男の人を相手になんてムリ、絶対に無理よっ。まして初体験の相手が教え子だなんて考えられないわっ。だっていちばん恥ずかしいことでしょ? 自分を心から尊敬している相手に見られたくないところを見せちゃうなんて……それがもしも好きな相手だったりしたら、もう最悪っ、泣いちゃうわっ……ねぇ、まさか無理やりやっちゃったの? それなら立派なレイプよっ」

「ちがうよっ、ボクはそんなひどいことしないから……ちゃんと先生に()いて、許してもらってからしか……したことないから……」

 少女のペースに巻き込まれ、つい余計なことまで口にしてしまったが、もはや取り返しは利かなかった。

「本当? でも泣かせちゃったでしょ?」

「……うん……たぶん……ちょっと……」

「ひどーい、わたしの操祈先生になんてことしてくれるのよっ! 先生を泣かせるなんて最低ねっ」

 どうやら紅音は勘違いしているようだったが、京都でのことが初めてというのではなかった。

 初めてだったのは(くだん)の特殊な什器(じゅうき)――椅子――を使ったことだが、わざわざ訂正する必要もないので黙っていた。

 しかし操祈の心を傷つけてしまったのは本当だった。

 順を踏んでいたつもりだったが、少しばかり先を急ぎ過ぎてしまったのだった。

 たとえ()()()に八つも年上であっても、セックスに関しては保守的な操祈に対して、リードするのは男である少年の方だった。それはとてもステキな役回りだったが、とりわけ愛撫については操祈の反応を窺いながらいつでも慎重に運んでいたのだ。

 ただのキスにも手の甲へのものから、額や頬、唇を軽く触れ合わせるような軽いものに始まって、舌をからめ合って唾液を貪るようなディープキスまであるように、秘所への接吻にも難度があって、唇にするよりも遥かに広く魅惑的な世界がひろがっている。

 とりわけ操祈のようなまたとない特別な女性の場合には、どんなことでも可能だと思わせる、少年にとって探れども尽きることのない神秘の深遠なのだった。

 だからいきなりではなく、彼女の抵抗感を少しずつ取り除いていき、時間をかけてかたく締まった心と体をゆっくりと解きほぐしながら、より深く豊かな性の世界へと誘っていったのだ。

 こんなこともできるんですよと何気なさを装いながら、あの美しい飴色の毛並みに顔を埋めてみるところから始まった官能の冒険。

 そのときの操祈はとても驚いた様子だったが、それでも少年が何もしないでいると安心したのが強くは抗わず、そこに留まることを許してくれたのだ。

 初めて知った愛おしいにおい――。

 憧れの女神の香りを教えてもらえた少年は、そのとき、もう死んでもかまわないと思うほど歓びの極みに居るような気持ちになっていた。しかしそれはまだほんのとば口にすぎず、ドラマにはもっとずっと先があって、世にも美しい物語のページをめくるように甘い謎のひとつひとつを解き開いていったのだ。

 操祈から揺るぎない信頼感を勝ち得るまで、けして道を急がずデートの回を重ねながら。

 はじめてあの愛くるしい白い唇を顔前にしたときも、欲しいからこそ敢えてそれ以上は求めなかった。(はや)る気持ちを抑えて、子供がはじめてのキスをするときのように、ただ唇を軽くあてるだけに止めていた。

 だから操祈の体が男の本気の愛撫を知ってから、まだそれほど日が経っていたわけではない中でのラヴチェアーの使用は少しばかりハードルが高かったのだと思う。

「それで、その後どうしたの?」

「謝ったけど……」

「謝ったからってどうなるっていうのよっ! 先生、かわいそう」

「うん……」

「こうなったらもう責任を取ってもらわないとっ」

「責任!?」

「罰として断種よ、断種しかないわっ、いますぐ断種なさいっ!」

「断種ってあの去勢の断種?」

 レイは左手の人指し指を右手の人指し指と中指の間に挟んでみせた。

「そうよ、そのくらいの覚悟はできてるんでしょ、あの操祈先生に手を出したんだからっ」

「ずい分乱暴なことを言うなぁ……でも、仕方ないな、きみがそう言うのなら……で、どうすればいいの? いまここでするの?」

 言いながらズボンのベルトに手をかけると、紅音は突然ケラケラと笑い始めて少年は呆気にとられてしまった。

 冗談であることはわかってはいたが、少年の言動の何かが少女の笑いのツボに嵌ってしまったらしい。涙を流すほど笑い転げている。

 それは紅音に対する好感度アップにも繋がっていたようである。

 何を考えているのかわからない得体の知れない少女というのではなく、どこにでもいる普通の中学三年の女子のするような反応に見えたからだった。

 学校での無表情で無愛想な様子よりも、むしろこちらの方が素に近いのではないかとも思う。

「あーおっかしい、密森くんってホント、面白いわっ、今の顔、サイコー……いいわよ、二人がそんなにアツアツなら、わたしなんかが入り込む隙間なんてなさそうだから……だいじにしてあげてねっ、先生のこと」

 スマートフォンの着信音が鳴り、

「うわさをすれば影って操祈先生からよっ」

 紅音は明るい笑顔のまま目尻の涙を手の甲で拭ってレイに意味深な目配せすると、いそいそと電話を取った。

「あ、操祈先生、わざわざご連絡をありがとうございますっ……はい、今、だいぶ話が進んだところだったんです。最初は信じてもらえなかったんですけど漸く納得してくれたみたいで……」

 女たちの会話に割って入るつもりもなく、少年は二人のやりとりを聞くともなく聞いていた。

 ときおり紅音のスマホから漏れてくる声は操祈のものに間違いなかった。声の調子からは警戒している印象はなく、どうやら操祈も紅音を信じているらしい。

「……じゃあ、日程等の調整はあとでつけることにして、こちらで候補日をリストアップしておきますので、またご連絡いたします。ハイ、お任せ下さい。生徒会案件とは別儀にて慎重に進めさせていただきますので」

 会話の中には固有名詞も個人名も目的も一切、出てこなかったのも評価できる点だった。

 学園都市では著名人でもある操祈の電話が盗聴されている可能性はけっして低くはなかったのだ。紅音が自分たちを支援しようという本気度が窺えるのだった。

「お聞きのとおりよ、だからあとは密森くんしだい」

「ボクしだいって?」

「だから、先生とデートしたい希望日を決めて」

「ボクはいつでもいいけど……」

「それじゃダメでしょ、もっと具体的によっ。女のコにエッチしたい日を決めさせるなんて配慮が足りなすぎでしょっ」

「うん……じゃあ、今週末でもいいのかな……?」

「金曜日? それとも土曜日?」

「どちらでもかまわない、もし先生のご都合がつかないのなら、来週の週末に……」

「そうね、当面はそれがいいかもしれないわね……あなたも週末は寮に帰らなくてもいいし……わかったわ、後でそうお伝えしておくわ」

 レイはあらためて室内を見回した。

「なんか……信じられないな……ここで先生と逢えるなんて……ありがとう、栃織さん……」

「ここに来たからって、なにも必ずエッチしなければいけないってワケじゃないのよっ。二人っきりになってゆっくり積もる話をするだけだっていいじゃない?」

「うん――」

「ここだとどんな大声だしても、外には聞こえないから大丈夫」

「操祈先生はおとなしいから……」

「わたし、お喋りの話をしただけで、そんなこと言ってないんだけど」

 少女は曰くありげな、けれども悪意の感じられない顔で少年を見ていた。

 少年はベッドでの操祈の様子だと受けとられても仕方のないことを口にしてしまっていたようだった。

「今、正真正銘の彼氏の顔になってたわよ。密森くんにもそんな顔ができるんだ……」

「え?」

「そういうのって、きらいじゃないわ」

「じゃあ学校に居るときはもっと注意しないと……」

「でも操祈先生を狙ってるのは学校に居る人たちばかりじゃないから」

「そうなの?」

 常盤台に着任してから二年の間に少なくとも四回、操祈がなにものかに襲われる機会はあった。操祈本人が知ることはないが、レイはそのことをよく知っているのだ。

 メンタルアウトの能力を失った操祈は、ただの眩いばかりの非力な美女にすぎなかったのだから。

「あたりまえでしょ、あれだけの美貌よ、むしろ今まで何もなかったことの方が不思議なくらい」

「………」

 




次話投稿予定は週末になります


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放課後の鳩

          Ⅶ

 

「ねぇ黎太郎くん、そこをなんとかしてもらえないかな、だって私の代で予算を削られるなんて上にも下にも示しがつかないのよ」

 テニス部長の加瀬美利香はウェアのままで少年の座る机の前に立ち、おもねるように言った。

 レイの目の前には白いミニスコートから伸びる長い両脚が並んでいて、揃えた膝の間に魅惑的な太腿の隙間が覗いている。

「ですから、それについては直接、山崎会長に言って下さい。加瀬さんは同じクラスじゃないですか」

「そうなんだけどねぇ、どうもワタシ、あの人ニガテなの、こっちが何か言っても結局、言いくるめられちゃって……」

 そりゃそうだろう、とレイも納得する。美貌という点では美利香も見劣りしない――見た目は会長以上と評価する向きもあるほど――が、精神年齢からすると十歳ぐらいは違いそうなのだった。美利香は普通に十五歳のメンタリティをもった美少女だった。

「だからってボクに言われても、ボクはただ会長の指示に従ってるだけで……」

「それはわかるけど、でも九パーセントってほぼ一割でしょ、そんな大幅な予算カットって酷すぎない?」

「予算は一律で見直しをおこなっていて、テニス部だけが被るわけじゃないのでそこはご理解していただくしか……」

「でもウチはなにかとお金がかかるのよ、ホラ、大会参加費とか対外試合の部員の交通費とか、消耗品だってやりくりが大変なの。今までだってギリギリだったのに一割もカットされたら立ち行かなくなるのは目に見えているの、だからナントカ……」

 波うつ長い栗毛をかきあげてノースリーブの白い二の腕の内側と汗ばんだ腋をチラリと晒した。少女からすると自然な仕草だったのかもしれないが、少年の目には蠱惑的に映る。白いシャツの胸につくられたやわらかい陰影は膨らみの豊かさを印象づけていて、白の下着のラインもくっきりと透けて見えていた。

 いつもながら思うのは、女子用のテニスウェアというものが、どうしてこんなにもセックスアピールを振りまくような仕立てになっているのだろうかということだった。

「テニス部だけを特別扱いをするわけにはいかないんです……たとえばココですけど……」

 言いながら書類を廻して美利香が読めるようにする。

 少女は身を屈めると二重まぶたの大きな瞳が少年の顔をチラッと盗み見て、書類に目を移した。

 練習の合間だったのか美利香からはコロンのフローラルな香りの中にも健康的な汗の匂いが混じっているのが感じられて、つい操祈の汗の豊潤なにおいと比較して少年の体も生理的な反応を示してしまうのだった。

 そんな男の子の心の動きなど知る筈もなく、少女はレイが赤字で修正額を記載した部分をひとつひとつ確かめている。

「これネットの交換費用よ、だいぶ傷んできたからなんだけど、それでもダメなのぉ?」

「実はソフトテニス部も同じように予算に付けてきているんです。だから供用するということにして双方、半額ずつで十分ではないかと思うのですが?」

「だってネットの管理はそれぞれでやってきたから……」

「でも備品置き場は一緒ですよね? 同じものを二つも用意する必要はないのでは?」

「……傷み方もソフトとウチとじゃちがうし……」

「では、問題が生じた時にまた考えるというのでどうでしょう? いずれ今は予備審査で、実際に予算がつくのは年が明けてからのことですから。ただここからの増額は絶対にないのでそこはご諒解下さい。もし、予算の減額作業を自主的に行いたいということでしたら書類を持ち帰られてもかまいません」

 少年がそう言うと少女は不満そうに唇を結んだ。

「今の常盤台は有り余るほどの潤沢な寄付金や政府予算でやりたい放題ができた頃とは違うんです。学校自体が部分的に身売りをしながら経営を続けているのが実態で、テニス部の皆さんには現状の施設を使えるだけでもありがたいと思っていただかないと……専用のグラウンドが無くなったソフトボール部はいま公共の施設をつかって練習をしているんですよ。みんな頑張ってるんです、協力してのりきっていきましょうよ」

「でも……」

 少女はまだ何か言いたそうにしていた。

 目の前でミニのフレアーがひらひらしている、というのはどうにも男の心を落ちつかなくさせるもので、レイは教室の引き戸をノックする音がすると救いの神が現れたとばかりに「どうぞ」と、普段よりも大きな声をだして応えるのだった。目を遣ると、ドアのところで紅音がこちらを見ていた。

「入っていい?」

 美利香に気がつくと紅音は軽く会釈を送った。

 二人の少女は互いに黙礼をするだけで特に言葉を交わすでもなく、美利香は最後に「おねがい」と、もう一度、少年に頭を下げると逃げるようにして教室を出ていった。美少女の後ろ姿を送りながら、代わりに入ってきた紅音に

「今週だけで八人目なんですけど……」

 レイはこぼした。

「いいじゃない、綺麗な女の子たちから『おねがいっ』ってやってもらえるんだから」

 紅音は、わざと(しな)を作った声を真似てみせる。

「ボクをからかいに来たんですか? まだ未処理の書類がこんなに残ってるってのに」

 机の上に(うずたか)く積み上げられた書類の山を示した。

「あなたをからかいに来るほど私もそんなにヒマじゃないのよ」

「バレー部、水泳部、卓球部、吹奏楽部……今日中に見直しておかないと、来週の合同説明会に間に合わなくなって会長から叱られるのはボクなんですからね」

 レイは書類の山の上の方を片手でパラパラとやって読み上げながら言った。

「いよいよとなったら私も手伝ってあげるから心配しないで」

「そもそもボクは栃織さんの手伝いをする為に臨時に配置された非正規労働者みたいなものの筈なんですが、なんで渉外までさせられてるかサッパリわかりません。ドアのところに『生徒会関係者以外立ち入り禁止』の張り紙して良いですか?」

「どうぞ、効果があると思うのなら」

 ある筈がなかった。中に居るのがレイだと判っていて二の足を踏むような生徒はここ常盤台には一人も居ない。

「それといま先生に話してきたわよ、密森くんの都合が合うのなら今週の土曜日にということになったんだけど、どうする?」

 紅音は他愛もない会話の中にいきなり重要なことを混ぜ込んできて、レイは表情を一変させてシリアスな顔になった。

「本当に?」

「でもその前の日に、部屋の紹介を兼ねて先生をご案内することにしたの、もし時間が合えば密森くんも来られるかなと思って?」

「前の日って明日?」

「ええそうよ、明日の夕方」

「もちろん行くにきまってるじゃないですか」

「わかったわ、あなたはもう一人で来られるわよね。時間をずらした方がいいから4時ぐらいまでには部屋に入っていてもらえるかしら? エレベーターのパスコードは当日、教えるから」

 紅音によれば、自分がメッセンジャー役として操祈と少年の間を往復しても目立たないように、レイを庶務委員に“した”のだという。

「でもボクには栃織さんの希望を叶えるつもりはないんだけど、それでもいいのかな?」

 紅音の希望というのは、操祈とのデートのオブザーバーになることだったが、その決定権は操祈ではなくて少年がにぎる形になっているというのだ。紅音の理屈ではすでに操祈からの言質はとってあるという。

「別にかまわないって言った筈よ、あそこを使う条件にはしないって」

「ならいいんだけど……」

「でも、折にふれてお願いはすると思うわ」

「その都度、断るだけだけどね」

 誰かに見られながら操祈と愛しあうことなんてできるわけがない――。

 と、少年はこのときはまだ思っていられたのだったが……。

 

 



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アーカイブ

          Ⅷ

 

 

 ブロンドの美女が着衣のまま全身に縄を巻き付けられ自由を奪われた姿で、芋虫のようになって床を這っている。猿轡(さるぐつわ)をかまされていて、んんっ、と呻くことしかできなくされていた。怯える碧い瞳が、傍らで傲然と立つ男を見上げる。

『もう少し辛抱しておいで……しっかり可愛がってあげるから……』

 男はシャツを脱ぎながら女の傍らに膝をつくと、大きな手でいささか乱暴に女の胸をまさぐりはじめた。すると痛みを感じたのか女の眉間に嫌悪の縦皺が作られるのだった。

 さらにベッドに運ばれてからも女の試練はつづく――。

 長い髪を荒々しくつかまれたり、体を屈曲させられたり、と。

 レイプではないが、女が同意しているとも思えない嗜虐的なプレイが目の前で繰り広げられていた。女は常に苦痛に顔を歪めながらも男の体にしがみついている。喘ぎとも悲鳴ともつかない声をあげて。

「操祈先生にはとてもこんな乱暴なことはできないな……」

 少年は剝き出しにした股間をティッシュペーパーで包んで擦りながらひとりごちた。

 他人のセックスの観察は時に良いシミュレーションになる場合があった。

 成人向きの映像はつくりもの過ぎて使えないものが多いし、素人カップルの流出映像は淡白すぎて参考にすらならないことばかりだったが、それでも、何をしたらいいか、何をしたらいけないか、自分だったらこうするのに、というようなイメージを拡げるよすがになってくれる。

 今、観ているのはそのどちらでもなく、古い映画をホログラフに作りなおしたものだったが、さすがに女優は美しく映像自体もよく計算されていて、性描写はおとなしいものだったが、セックスの教材としておおいに触発されるものなのだった。

 修学旅行以降、恋人であり敬愛する師、食蜂操祈との関係は明らかにまた一段階、親密さを増したと思う。

 体を使って心を通い合わせることで、互いの存在をかけがえのないものとしてより強く意識するようになっていた。きっとこれからは今までできなかったこと、手控えていたことの幾つかが可能になるだろう、体によるコミュニケーションをさらに深められるに違いない、そう想うと少年の頬は自然に緩んでくる。

 あんなにも美しい女の人が自分にだけ見せてくれる艶かしくも愛らしい姿。

 教室に居る時の男子生徒からの好奇の視線をはねのける凛とした容子と、二人きりで居る時の甘くやさしい表情、そのどちらも少年は大好きだった。

 昼間の姿を知っているからこそ、夜の顔を見たくて、いろんなことをして可愛がりたい。

 烈しい羞恥に真っ赤になって自分に甘えてくる姿が愛おしくてたまらなかったのだ。

 そんなときの操祈は、年上の大人の女性というよりも自分と同年代の幼気(いたいけ)な少女のようにも思えて、さらにもっと濃厚なプレイに引きずり込んで慈しみたくなる。たとえ泣かせることになったとしても、操祈の体に新鮮な歓びを教えてやりたくなるのだった。

 女神の白い肌に散りばめられた歓びのボタン、女の秘密のスイッチを探すのは何にもまさる心躍る楽しい探索だった。

 今度は、どんなことをしようかな――?

 それを想うと、もう既に三回も放っているにもかかわらずまた股間がかたく張りつめてくる。

 きっと今の操祈は、たとえ煌々とした明るい部屋の中であっても少年が望めば自分から腹を脱いですばらしい裸身を魅せてくれるに違いなかった。だから、次はもう少し難度を上げて、京都のラブホでやったようなことを“椅子”などの道具を使わずに、彼女の意思でやらせてみるのもいいかもしれない。

 羞恥に堪えて、より大胆にふるまってもらうこと、誇り高い美女にあられもない屈服の姿を取らせること――。

 あの愛らしい美貌に畏れと当惑の表情が作られるのは、想像するだけでも期待に心が膨らんでしまうのだ。

「早く、先生、来ないかな……」

 時刻はもうじき六時になるが、約束の時間までにはまだ三十分以上もあった。

 ホロムービーはいつの間にか終わっていて、円形のシアタールーム中央の直径五メートルほどの丸い投影装置は、今は面状の発光テーブルのようなものに戻っていた。

 ペントハウスに(しつら)えられたシアタールームは大金持ちが金に糸目をつけずに造りこんだ実にすばらしいもので、二次元投影型の古典的なムービーシアター設備はもちろん、裸眼で観察するのに適した三次元のホロムービー、さらには完全没入型のVRシステムなど、一般のアミューズメントホールでのアトラクションとほぼ同等の体験ができる充実ぶりだった。

 惜しむらくはアーカイブにかなりの偏りがあることだったが――。

 少年はだらしなく下ろしたままのズボンを穿きなおし、汚れ物をビニール袋に入れて鞄にしまってから、次はホロモードではなくVRモードを試してみることにして、操作パネルを切替えて頭にヘッドギアを装着することにした。

 アーカイブから別の作品を探すことにしたが、紅音の祖父の趣味だったのだろう、いったい誰に見せるつもりだったのかわからないが、愛人との情事を記録したと思しきタイトルのホロムービーが全体の二割近くもあって、さすがにそれを開く気にはならなかった。

 紅音の祖父は往時には女性関係が相当に賑やかだったらしく、リストをざっと見ただけでも十数名の異なる女性の名前が挙がってきて思わず苦笑いになる。女性たちからすれば、とりわけ重大な個人情報であるはずが、こんな具合に誰でも見られるようになっているとしたら、さぞかし悪夢だろうと思うのだった。

 ただそれは少年の誤解で、後になって紅音に確認したところでは夫々の映像は祖父と相手の女性の二人の生体情報によって暗号化されていて、両者が揃わない限りけっして観ることができないということだった。

 要するに、もう誰にも観る手だてはないということで、アーカイブの三分の一は死蔵データということだそうである。

 また残りの三分の二も殆どがポルノか官能映画の類いで、そんなものを見る為によくもここまで莫大な資金を投下できるものだと、少年は別の意味で感心してしまった。かろうじて普通の映画が数十タイトルほどあったのだが、時代劇やら戦争映画やらで、操祈たちを待つ間の時間つぶしとしては内容が重すぎて手を出す気にならない。またウエブ上にあるデータをダウンロードして観る機能は当然のごとく備えられていたが、こちらにはプライバシー保護、セキュリティーという面から危なすぎて近づけなかった。

 結局、地上波放送や衛星放送をザッピングすることになって、アナウンサーの読み上げるローカルニュースを臨場感あるVRで“体験”するというシュールなことになってしまった。

#――学園都市東区にある区民水族館の人気者のゴマフアザラシ、ケータくんがパパになりました。今朝八時半、メスのゴマフアザラシのハナコが赤ちゃんを出産しました。生まれたのは体重は九キロ、体長は七十五センチのオスの赤ちゃんで、区民水族館によりますと母子ともに状態は非常に良いということです――#

「それは良かった、本当に良かった、かっこ棒……」

「何が良かったのっ」

「ええっ!!」

 後ろから突然、声をかけられて少年は驚きのあまり素っ頓狂な声を発してしまった。

 慌ててゴーグル付きのヘッドギアを外すと、紅音が細い眼を更に細くして少年を見下ろしていた。

「来てたんだっ、びっくりしたなぁ、おどかさないでよ」

「おどかすもなにもないでしょ、ここはあたしのウチなんだから」

「ゴメン、退屈しちゃって勝手に使わせてもらってた」

「それはいいんだけど、先生、来られてるのよっ」

 少女が顎をしゃくった方を見ると、シアタールームの入口には濃紺のスーツ姿もカッコいい操祈が立って、優雅に頬笑んでこちらを見ていた。自分の間抜けぶりをしっかり見届けられてしまったようで、少年は照れ隠しに髪をクシャクシャと掻きながら頭を下げるのだった。

 

 



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乙女の祈り

 

          Ⅸ

 

 

「あれ、もしかしてスタインウェイ?」

 操祈はすり鉢状になったシアタールームの底、壇上の隅にあったグランドピアノに目敏く注意を向けると、嬉しそうな笑顔になって紅音に訊いた。

「はい」

「触ってもいいかしら?」

「もちろんです、どうぞ」

 操祈は幅広のなだらかな階段を足取りも軽やかにトントントンと降りていき、紅音とレイはその後に従った。

「やっぱり、ボストンの曾御爺(ひいおじい)さまのお家にあったのと同じものだわ」

 ピアノカバーを捲るなり目を輝かせている。

「先生も弾かれるんですか?」

「ちょっとだけね……でも才能がないって判ってからはあんまり熱心にやらなくなっちゃったの。紅音さんも弾くの?」

「私も全然ダメだったんですけど、でも少しだけ」

「弾いてみてもいいかな?」

「ええ、ただずっと調律してないので、ちゃんと音が出るかわかりませんけど……」

「きっと大丈夫よ……この環境なら……」

 周囲をぐるりと見回しながら言う。

 少年には学校の音楽教室にあるグランドピアノと見分けがつかなかったが、ブランド名だけは耳にしたことがあった。とにかく、ものすごーく高価だということぐらいしか印象になかったが、上流階級のお嬢様方にはなじみのものらしいということだけは理解できた。

 白く優美な手が、始めは鍵盤を確かめるように弾いて幾つかの音を響かせていく。

「ステキ……」

 やがて操祈の両手がやわらかく、時に力強く動いて、少年にも聴き覚えのある曲が天井の高いシアタールームを満たしていった。

 一曲、演奏が終わって、レイと紅音は拍手で応えた。

「先生、すごくお上手じゃないですか……密森くん、今の曲名は知ってる? 聴いたことあるでしょ?」

「あるけど、曲名までは覚えてないなぁ……」

「乙女の祈り、よ、操祈先生のお気持ちに相応しい曲だと思わない?」

 少女は意味深なウインクをする。

「うん……」

 紅音が言わんとすることは、もう何となくわかったが、少年はそれには反応しない方が無難だと思って深入りを避けた。

「ごめんね、レイくん――」

 口にしてから、操祈はちょっとキマリの悪そうなようすになって“密森くん”と言いなおす。

「先生、いいんですよここでは気にされなくても、お二人がお交際(つき)あいしていることを隠す必要なんてありませんから」

「そうだったわ……でも……」

 操祈はぽっと頬を染めて、

「つい子供の頃を思い出して、懐かしくなっちゃって……ごめんなさい……」

「先生がピアノも上手いなんてこと、ぜんぜん知らなかったから、ボク、びっくりしてます」

「上手くなんかないわ、ただ譜面にあるとおりに弾いてるだけだから……紅音さんも何か弾く?」

「えーっ、今の先生の演奏の後でそれを言われると、尻込みしちゃいます」

「そんなことないわ、じゃあ、連弾しましょうよ……レイくん、もう少しだけいい?」

「いいに決まってるじゃないですか、先生の演奏を聴けるんですから――」

「紅音さん、曲は何がいいかな?」

「じゃあ、ショパンのノクターンで……」

「二番?」

「ええ、それで――」

「いいわね、楽しみっ」

 操祈の演奏レベルが相当なものであることは素人にも感じられたが、意外にも紅音もけして見劣りしない腕前であることが判って、少年はいい意味であてられたような気持ちになっていた。

 連弾をする二人が鍵盤を通して互いに心の会話をしているのが窺えるのだ。

「すごいじゃない、紅音さん」

「そんなことありません、先生についていくのが精一杯で」

「ぜんぜんそんなことなかったわよ、寧ろ私の方がたどたどしくて頼りなかったくらい、ね?」

「ね、って、こっちに振られてもわかりません、ただただ、二人の意外な才能を見せつけられた気分で。だってボクが扱える楽器なんてせいぜいカスタネットとトライアングルぐらいしか思いつかないから……もしかして、ピアノができないとここへの出入りは禁止になりますか?」

「密森くん、あんなこと言ってますけど、どうされますか、先生?」

「あらぁ、そうねぇ……うふっ……次回までの課題曲をあげましょうか?」

 悪戯っぽい目で迫られる。

「勘弁して下さいっ」

 少年が頭を下げると、女二人の愉快そうな笑い声がひろがっていった。

 

「本当にステキなお部屋ね……」

 少年は操祈と紅音が肩を並べて歩く後ろから、まるで二人の貴族の娘の下男のように付き従っていた。きっとこれが夜道なら提灯持ちをすることになるんだろうな、と思ってふきだしそうになる。が、自分に縁のある二人の女性が心を通わせているというのはなかなかいいものだとも思うのだった。

 紅音は味方につけるとなると、期待していた以上に心づよい存在だといえる。

 世事に長け、用心深く、頭の回転もいい。

 おまけに自分の力を軽々しく表にしない知恵も持ち合わせていた。

「ここが主寝室です。ベッドルームはここ以外にゲスト用のものが三部屋あって、その日の気分に合わせてみんな使っていただいて結構です」

 主寝室には広い部屋の中ほどにキングサイズのダブルベッドが置かれていて、ドレッシングルームやウォークインクローゼットもゆったりとしたスペースをとっていた。

「それから、お使いになった寝具はそのままにしていただいてかまいませんので、ホテル感覚でお使いになって下さい」

「お嬢様、洗濯はこの黎太郎にお任せ下さいませ」

「苦しゅうない――」

 少年の軽口におどけて応じた操祈だったが、すかさず紅音に窘められた。

「姫、なりません、この者の見かけに騙されてはなりませぬ。たいそうな不届きものでありますゆえ、もしも姫さまのお召しになられたものを任せられようものなら、どのような不埒をはたらくやもわかりませぬ」

 少女が何を言わんとしているのかすぐに察したようで、操祈は初々しく頬を染めると少年に困惑げな顔を向けてくる。

「え? あの、ボク、ずいぶんな言われようをしているんですけどフォローなしですか? さっきから心做しか扱われ方がザツになってるような……」

「しょうがないでしょ、だって先生を泣かせるようなひどいことをする男を、どうやって懲らしめてやろうかって思っていたんだから」

「わたし、別に泣いてなんかいないわよ……ひどいことって……」

 操祈は紅音が何をどこまで知っているのかを案じるように視線を泳がせている。教師の仮面が崩れだし、女くさい素の顔が表になりかけていた。

「お二人のことはわたしは何も知りませんし、関わりませんのでご存分になさってください……あと、先生のご案内は密森くんに任せるからお願いね、私はお茶の用意をしているわ」

「ご存分にっていわれても……」

 操祈は少年の顔をチラッと盗み見ながら不安げに呟いた。

 紅音がその場を後にして寝室に二人だけになると、にわかに互いを、褥をともにする恋人同士であると意識してしまうようになるのだった。

「明日の夜、先生はこの部屋を使われますか?」

「――?――」

「じゃあ、ボクは他のゲストルームを使うようにしますので」

「……そう……」

 操祈の表情からは安堵ではなく戸惑いが窺えた。

「……わかったわ……」

「これからは時間を気にしなくてもいいので……先生のペースでゆっくりでいいです……」

「うん……」

 少女がするようにコクン、と頷く。

 その愛くるしい仕草が少年の胸を熱くさせるのだった。

「ボクはお茶よりコーヒーの方がいいから、栃織さんに言ってこないと……」

 きびすを返しかけた少年に

「待って……レイくん……」

「はい?」

「ありがとう……」

 とても良いにおいのするいきものが少年の方に近づいてきて、長い髪を耳に掛けながら身を屈めてくる。

 まるで引き合う磁石のように二つの体がぴったりとひとつになった。

 少年の腕の中で温かくやわらかな体が息づいていた。華奢なウエストのくびれは、強く抱くと壊れてしまうのではないかと思うほどほっそりとしている。

 指に触れる肉の柔媚(じゅうび)な感触に、少年はまた股間が滾ってくるのを感じるのだった。

 

 



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恋人たち

          Ⅹ

 

 

 たとえ判っていたことでも、いざ目撃するとなるとやはりショックだった。

 よい意味でも、そしてわるい意味でも――。

 子供の頃からずっと憧れていた人、自分にとってのただひとりのアイドルがみせるキスシーン。

 映画やドラマの中での作り事などとはぜんぜん違う、本物の恋人たちの思いのこもった口づけ。二人の間にある愛情の交歓はオーラなど見なくてもはっきり判る濃密なものだった。

 だからこそエロティック――。

 静かに唇を重ねているだけなのに、発情した男女のディープキスなんか足元にも及ばない官能美がそこにはあった。

 少女は扉の隙間から、中で抱き合う二人を固唾をのんで見まもりながら、いま自分は(ねや)での恋人たちのようすを、そのほんのとば口を垣間みているのだと思うのだった。

 誰よりも美しい女性から(かも)されてくる、ただならぬ性愛の気配――。

 常の操祈から感じる知的で清潔感のある美貌は、性的なイメージとは結びつきにくいものだっただけに、こうしてセックスのにおいを放っている彼女はとても魅力的で、新鮮な驚きを少女にもたらしていた。

 だが同時にそれは、心に痛みを感じさせるものでもあった。

 少女に、許せない――と、思わせているのは、口づけのさなかにも“彼”が終始、リードしているように見えることにも関係していた。

 男の腕は女のスーツの中にまわされ、薄いブラウスの上から操祈のからだを撫でつけていて、男の人ってこんなふうにして女の身を慈しむのかと思うほどやさしい動きをしている。けれども同時にそれは、女体を(ほしいまま)にできる陵辱者のものであるようにも見えてくるのだ。

 少女は、露天風呂で目にした操祈の裸身を脳裏にくっきりと甦らせた。あの優美な肉体が既に男の愛撫を知っていることを想って胸を熱くする。

 交わりを目的とするようなありふれたセックスが、この類いまれな女性には許されるはずもなかった。

 きっと強い絆で結ばれた二人は、ベッドの上では性行為さえももどかしく感じられるほど一途に愛のありかを探し求めるのにちがいない。操祈はともかく、少なくとも若い男の方には強い意思も情熱もあって、だから女にとってはひどい辱めとなるようなことにも躊躇いなく挑み続けるだろうと思う。

 そんなことを考えてしまうと、じりじりする焦りにも似た気持ちになってしまうのだった。

 ピアノの連弾をしていたときにはすぐ(かたわら)に居ると感じた大切な人が、いまは手の届かぬほど遠くへ行ってしまったような喪失感。

 紅音は自分が傷ついていることを知っていた。嫉妬――と呼ばれる感情によって。

 だから、代償を求めたい。

 女の自分が、二人の間に分け入ることなんてできっこないことは解っているから。

 それなら、あの白くて豊満な体がいったいどのようにして男の腕の中で表情を変えていくのか、女の弱さもあらわに健気に歓びをうったえるのか是非とも目にしておきたかった。

 それこそが自分の役割であり、操祈への愛のありかたなのだと少女は信じていたのだ。

 できることなら、いま目撃している光景も記録に残しておきたかったのに、と残念に思う。

 超高精細の3D映像として――。

 それが適わない今、自分にできるのはたくさんのスケッチとして残すことだと思い、心の印画紙に細かいところまで焼きつけようと少女はさらに目を凝らした。

 少年の手が操祈の胸を包んであやすようにしている。女が自分の体を慰めるときにも似た()れた動きで。

 愛撫を畏れた操祈が口づけから逃れると、少年はそれを赦さずに、女の細い(おとがい)に指をそえてまた唇を奪った。

 今度はディープキスになって、操祈の眉間に懊悩の縦じわが()くようになる。

 呼吸が乱れて豊かな胸許が大きく起伏し、まるで嗚咽してでもいるようにスンと鼻を啼らして甘い吐息がこぼれている。

 女の命が溶け始めていた。

 すごい――。

 操祈も、そしてクラスメートの男子も、もう自分のよく知る二人ではなかった。まるで別人になってしまっている。

 教師と生徒ではなく、情を通じた男と女になっていた。

 女の耳許で男が何かを囁いている。いったい何を言われたのか、操祈は驚きに大きな目を(みは)るや、たちまち羞恥に白い顔を真っ赤に染めていった。

 哀しげに長い睫を瞬かせて、逃げ場を探し求めるように視線を泳がせる頼りなげな容子。

 こんなにも弱々しい姿を見るのが初めてだった少女には、信じられないものを目の当たりにしたように操祈の姿に釘付けになった。

 少年から何ごとかを持ちかけられて、ついには説き伏せられて操祈はそれを受け容れさせられたようなのだ。愁い顔のまま小さく頷いて同意している。

 一方、少年は満足げな勝者の笑顔で、美しい年上の女の恥じらう顔を見据えていて、その厚かましさに少女は憎しみを抱いてしまうのだった。

 わたしの操祈先生を虐めないでっ――!

 そう叫んで飛び出したいところだったが、それこそが操祈をいちばん傷つけることだとよく解っている少女には見守ることしかできなかった。

#……嬉しいな……#

 幸せそうな少年の声が聞こえてきて少女は耳をそばだてる。

#……ダメって言われるかなって思っていたから……でも今夜一晩だけですから……明日、お返ししますから……#

 少年がそう話しかけると操祈は何も言わずにまた小さく頷いている。今度は表情に諦めの心根が覗いていた。

#だってボクが他の女の人にこんなお願いをすると思いますか?#

#ずるいわ、そういう言い方って……#

#先生は特別だから……#

#そんなふうに言えば、なんでも私が言うことを聞くと思っているのね……#

 少年は大きく頷いた。

#イケナイ子ね……本当にワルい子よ、あなたは……#

#それならいちばんイケナイのは先生になりますねっ#

#……?……#

#原因をつくっているのは先生なんですから、先生さえこの世に居なければ、ボクは絶対にこんなふうにはならなかったから……#

 操祈は大きくため息をひとつ吐くと、また大人の女の頬笑みを取り戻していた。少女にもなじみのあるいつもの操祈の笑顔を。

 仲直りをするように、二人はまた唇を重ね合わせた。

 今度のキスは仲良しの姉弟のような軽やかで親しみのあるものになっていた。

 いつの間にか男と女の艶めいた雰囲気が払われていて、漸く二人に声をかける機会を得た少女は部屋の扉をノックした。

「操祈先生、お茶の用意ができましたので……密森くんはまだここに居たの? 先生の案内をしなくてもよかったの?」

「先生にはだいたいお話をしておいたから大丈夫、あとは下男のボクがわかってれば、たいていののことは間に合うから」

「下男ね……操祈先生、しっかりこき使ってやって下さいね。こんなのでも使いっ走りぐらいにはなりますから」

「ええ、ありがとう、紅音さん」

「先生と私はアールグレーのロイヤルミルクティにしたけど、密森くんはコーヒーの方が良かったんでしょ? お好みのマンデリンを淹れておいたわ」

「え、ボクだけ? ロミティも悪くないよね……」

「後は勝手にやってよね、あたしはもう少ししたら帰るから、あなただって門限あるでしょ、今日はまだ金曜なんだから」

「今何時?」

「じきに7時半になるところ」

「もうそんな時間か……先生はどうされるんですか?」

「わたしは下でお買い物をしてから帰るから大丈夫よ、心配しないで」

「ってことはイチバン時間に追われてるのはボクってこと?」

「そういうことになるわね、わたしは寮まで車で帰るつもりだけど密森くんを乗せるつもりはないから、だから早くしないと間に合わなくなるわよっ」

「あれっ、じゃあさっきの約束は?」

 少年は操祈の顔を仰ぐ。

「また今度」

 そう言うと操祈はウインクをした。

「なんですか? 約束って」

 紅音が訊くと操祈は「ナイショ」と言ってはぐらかすのだった。

 

 




誤植を訂正しました


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土曜日の夜

           Ⅺ

 

 

「先生はご自宅でもお料理されるんですか?」

「ええ、するわよぉ」

「どんなものをつくられるんですか?」

「何でも作るわ」

 操祈は自信たっぷりに胸を反らした。

「でも何でも作るっていう人に、作れる人が居たためしがないんですけど」

「まぁ言ったわねぇ、いいわっ、見てなさい、お姉さんだってやる時はやるんだからっ」

「一応、お伺いしておきますが、先生はこれから何をお作りになられるのですか?」

 少年はつとめて慇懃に訊く。

「えーと、ラザニアっ」

「えーっ! 先生にできるんですかっ? あれって結構ステップ多くて手間ですよ、火傷したり手を怪我したりしたら大変だから、ボクがやってもいいんですけど」

「あらぁ、本当に疑ってるんだな、もしも美味しくできたって食べさせてあげないんだゾ」

“そりゃ作るのは初めてかもしれないけどぉ、レシピはしっかり頭に入れてきたしぃ、食材だってちゃーんと揃ってるんだもん、きっとだいじょうぶっ!”

 そのつもりだったが、

「あの、もしもって言われてる段階で、すでに黄色ランプが点ってるんですけど」

 少年がそう言うと、一瞬、二の句が継げなくなった操祈は、わけ知り顔をしている少年と顔を見合わせてしまい、やがてどちらともなくプっとふきだして、キッチンは和やかな笑いにつつまれた。

 操祈とレイは、ペントハウスのキッチンで互いに買いものを持ち寄りながら、夕餉(ゆうげ)の支度にかかっているのだった。

「あなたは何を作るの?」

「ボクは定番の肉じゃが。普通は女の子が好きな男の子に作るものなんですけどね、でも惚れた弱みでボクが作る側です……」

 二人きりになると、少年はこういうことをぬけぬけと言ってのけるのだ。

 操祈にすれば肉じゃがは惣菜売り場で買ったり、学校の食堂で食べることはあっても、自分で作るというイメージは全くと言っていいほど持ち合わせてはいなかった。

「うーん……それって良き主婦の家庭料理って言うくらいだから、難しいんでしょ?」

「実は全然、難しくなんてないんですよ、ここにはいい圧力釜もあるし、三枚肉を厚切りにしておけばちょっとした角煮っぽくすることもできそうだし」

「そうなんだ……」

「大丈夫です、わからないことがあったら訊いて下さいね」

「うんっ」

 

 

「お料理って楽しいっ、こんなに楽しいなんてっ」

「そりゃそうですよ、先生と一緒なら、なにをしてても楽しいにきまってますから」

 レイの(ねぎら)いに操祈はやわらかい笑顔で応えた。

「ありがとう、手伝ってくれて……なんだかほとんどレイくんが作ってしまったみたいになってるけど……」

「そんなことないですよ、このラザニアは先生が作ってくれたんです……ボクのために?」

「うん……」

「すごく嬉しいな……それに先生もお料理上手ですよ、頭がいいからのみこみも早いし……さあ冷めないうちに戴きましょう」

「ええ――」

「こっちの三枚肉じゃがと鰤の照り焼きもバッチリできあがってるし、と」

 レイはそそくさと皿に盛りつけると、手慣れたようすで皿の汚れを拭って見栄えを整えている。

 そのようすを操祈は興味深げに小首を傾げて眺めていた。

 

 

 渋るレイを浴室へと追いやり、ひとり厨房に残って食器を洗いながら、いったい、いつ以来かしらと操祈は思った。

 こうして夕食を誰かと一緒にするのは――。

 友人や仕事仲間と一緒に外で食事を摂ることはあっても、誰かを自宅に招いたことはなかったし、誰かと一夜を共にするようなことも就学時代を除くと長じてからは一度もなかった。

 まして殿方と二人だけの夕食というのは――。

 すごく楽しかった……。

 他愛もないお喋りが何よりの心の栄養になって、こわばりをほぐしてくれる。

 これが、家族の団欒、というものなのかな……?

 そんなふうに感じてしまうほど、今の操祈は穏やかな幸せをかみしめている。

 レイが示してくれた思いやりが嬉しかった。

 少年がこの部屋にやってきたとき、なにかと身がまえがちになる操祈に、

「今日は何も酷いことをするつもりはありませんから、怖がらないで下さい」

 そう宣言して、その言葉通りに振る舞っていた。

 それはまるで年の離れた弟が居るような感覚で、操祈はずっと寛いだ気持ちでいられたのだ。

「“時間”はいっぱいあるから、ボクたちに道を急がなければならない理由は何もないですから――」

 言われた操祈も、そうかもしれない、と思う。

 慌ただしく確かめなければならないことは、もう何も無かったからだ。

 お互いに信頼し、愛しあっている。

 家族――と、言い換えてもいいくらいに強い絆で結ばれている。

 だから――。

 ただ、急がない――と、レイは言ったが、これまでだって急き立てられるようなことは無かったと思う。レイは、操祈が少しでもたじろぐ様子を覗かせると、必ず歩みを止めて彼女のペースに合わせようとしてくれていたからだ。

 上り坂を進む時、優れた先導者が何度も後ろを振り返って群れの安全を確かめようとするように、いつも細やかな気配りでこちらの身を案じてくれていた。

 やさしい人だな……。

 そう思うと胸に熱いものがこみあげてくる。

「そりゃ、ちょっとエッチなところはあるかもしれないけど……それだって……」

 操祈はそうひとりごちてから頬を染めた。

 それにしたって操祈への忠誠心や愛情表現であって、少し過剰なところもあるかもしれないけれど、嬉しくないかと問われれば首を横にふる。

 むしろ今夜のように何もされないと、かえってつまらない。でも、それも悪くなかった。

 レイが言うように、時間はいっぱいあるのだから――。

 幸せの時間、愛情に溢れた二人だけの時間が……。

「明日の朝は……ベーコンエッグトーストにしようかな……ベーコンエッグだったらちゃんとつくれるんだからっ」

 決意を口にすると操祈はエプロンの腰紐を、またキュッと締めなおした。

 

 

 深更――。

 広いキングサイズダブルベッドの上で、操祈は体を開いて恋人の愛撫を受け容れていた。

 レイの企みで彼女の腰の下には二人分の枕が分厚く重ねられていて、長い時間をかけてじっくりと愛しあえるように体位に工夫がされているのだった。

「……ウソつき……何もしないって言ったのに……」

 甘い刺戟に堪えながら操祈が(なじ)ると、

「先生がイヤと言われるならやめますけど……」

 そこ、から顔を上げて恋人が訊く。それは操祈がけっしてイヤとは言えない問いかけだった。

 少年は愛おしげに操祈のしっとりと汗を纏ったなめらかな内腿に頬をすり寄せていて、欲望に燃える黒い瞳が彼女を見つめていた。やさしい笑みを浮かべて。

「ボクはこれまで先生には一度だってウソをついたことはありません……女神さまに誓って本当です……」

「………」

「たしかに昨日の約束はしましたけど、今日の約束まではしていませんから……でも、ボクは先生がイヤがることはしたくないから……」

 女の体にしっかり火をはなってから、こんな無慈悲な物言いをする。操祈はがまんできずに幼い少女がイヤイヤをするように首を振るしかなかった。

「よかった……ボクの女神さまからお赦しをいただけた……」

 再び恋人の顔が寄せられる。

 触れ合う瞬間、傷つきやすい女の身は他所からの恐ろしい詮索を避けようと生理的な反射をみせることがあったが、レイはそれさえも赦してはくれないのだった。

 操祈の両手を恋人つなぎにしっかり結んで逃れられなくすると、それまでの愛情をつたえるときのものとは違い、今度は彼女を歓びへと誘うときの動きになって追いつめてくる。

 たちまち操祈の視界が潤んでピンク色のヴェールが降りてくるようになっていった。

 目の奥に火花が散って、体に痺れるような甘い感覚が(ほとばし)る。それなのに彼女が欲しいものに手を伸ばしかけると、彼はさっと引っ込めて置き去りにしてしまうのだ。

「はぁっ……ひどいっ……ひどいなっ、レイくんっ……」

 愛情深く、思いやりがあって、それなのにとても残酷なところのある彼。

 だから慈悲にすがりついてしまう。

「愛してる……愛してるわ、レイくんっ……おねがいよっ……」

 年下の恋人はそれに応える代わりに、操祈の体にじかに思いを伝えてくれるのだった。

 

 




誤字の修正をしました
反省してます


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土曜日の夜2

          Ⅻ

 

「わたし、ここからの眺めが好きなの」

 照明の消えたオフィスの廊下、パノラマ窓の張り出しに両手をついて、女はこころもち息を乱しながら言った。

 腕の間にある豊かな胸が、背後の男の動きに合わせてゆっさり前後に揺れている。

 地上七百五十メートル、THMT――多摩ハーフマイルタワー――の168階からの眺望は、晴れていれば遠く筑波山まで続く世界最大の超巨大都市圏を一望できるはずだったが、さすがに午前二時をまわった時間帯では空と地上との境界は曖昧になっている。

 代わりに眼下には宝石箱をひっくり返したような見事な夜景が拡がっていて、その照り返しだけでそこに居るものの表情がはっきり読みとれるほどの光量があるのだった。

 女は若くとても美しい。まだ幼さの残る端正な顔立ちに、すでに十分に成熟していると言っていいメリハリのある体つきをしている。

 男の方はギリギリ、若者と言ってもいい容貌で、縁のついた眼鏡の知的な顔立ち、思索を巡らすような表情をくずさぬままに日に灼けた体がゆっくりとしたリズムで女の腰を突いていた。

「ケンセーさんはいつこちらに来られるんですか?」

「月末にはここに移ってくるつもりなんだけど……まだあっちでの仕事が片付いてなくてね……」

 男は神経質そうに顎をしゃくって筑波研究学園都市のある方を女に示した。

「むこうは使えないヤツばっかりで……財団は全面的に支援を約束してくれたから資金面での不安は無いんだけど、とにかく人材がね、足りなすぎるよ……昔ここに居た優秀な人間はいまほとんどが木工職人の真似事をさせられてるんだから、この国を仕切ってる連中はどうかしてるんじゃないのかと思う。さっさと特赦で出して利用すればいいのに……」

「このビルって、以前はこの学園都市の中枢で世界の最先端を独走していたんでしょ?」

「以前はね……少なくとも十五年から二十年は先行していたと思うよ……でも今はどうかな……せっかく僕らが作った資産もここ数年で無能のド阿呆どもにすっかり使い潰されちゃったんじゃないかな……」

 かつてはその外観の異様さから“窓のないビル”と揶揄されたこともあったこの学園都市庁舎ビルは、巨大プロジェクトの終焉にともない多くの企業群が去り、今は全体の四分の一ほどが空き室になっていた。

 現状は三十一階までの行政機関はそのまま居残り、その上の六十七階までが新たにホテルとして再利用されていて、更にその上層、百三十三階までの分譲区画も入居者こそまだ殆どいなかったものの、ほぼ買い手がきまっていた。問題はその上、百八十六階まであるビル全体の三割を占めるオフィスフロアーで、長らくテナントが見つからずに放置状態だったものが、最近、また企業誘致がすすみ、少しずつかつての活況をとりもどそうとしていた。

「たしかに僕たちは間違いを犯したよ、しかし全部が間違っていたわけではないんだ、重要な発見は幾つもあったんだよ。だがそれすら、バカどもの手にかかるとゴミとの区別がつけられずに棄てられてしまう……嘆かわしいよ、バカを船頭にしているのってのは……」

「わたし、ここの眺めが好きな理由はね……この光の半分が平均以下の馬鹿だってことが面白くて仕方がないの……こんなにたくさん馬鹿がいるなんて信じられないけど、でも現実なのよね……」

「僕の目には全部がバカに見えるから、救いが無くてゾッとするんだが……」

「おバカさんの半分に、もっとおバカな半分を飼いならさせればいいのよ。僅かに居る賢明な人間が多くの愚民を直接支配するのは無理だし手間でしょ? だから馬鹿には馬鹿をあてがって管理させればいいの。その為の手ゴマだと思えば、こんなにたくさん居るんだからワクワクしちゃう」

「フフフっ、なるほどそうかもしれない……ところで、学校の方は上手くいってるのかい?」

「だいたい予定どおりね、生徒会にはそれなりに使えそうなのが集まってきているわ。それよりケンセーさんの方こそどうなのよ、いったいいつになったらあの女の顔を見なくてすむようになるの?」

「こっちもちょっと気がかりなことがあってね……」

「気がかかりって……?」

「もしかするとあの子、能力をとりもどしているのかもしれないんだよ……」

「どういうこと?」

「全てというわけじゃないんだろうけど、部分的に力が回復しているかもしれない畏れ……いや期待と言うべきか、それがあってね……不確定要素があるみたいなので、スケジュールどおりに進められなくなっているんだ」

「あんなオバさんが今さらどうしたっていうのよっ、レベルアッパーを使っているとでもいうのっ?」

「いや、あれの効果は結局はフロックだったというのが再調査で判明しているから、恐らくは何らかのエンドジナスな理由からだろうけど、よく調べないと分らない……結局、堂々巡りになってしまうんだ。あの子の能力を調べたいが、そうする為にはあの能力が障害となる……もしあの子が再覚醒しているとなると、レベルにもよるがもう僕らには手出しができないのかもしれない……少なくとも通常の手段では無理だ……というかそういう手も既に試してはいるんだが、二度とも失敗していて、ちょっと手詰まりでね……こんなことになるとわかっていたら、キミぐらいのときにこんなふうに手なずけておくんだったと後悔しているよ……」

 男は腰の動きを速め、女の吐息が乱れていく。

「なにいってるのよっ……あの女の能力が怖くて、近寄ることすらできなかった臆病者のクセにっ……」

「生意気いうなよっ、ただのダミーの分際でっ」

「それを言うなら、あんただってダミーじゃないのよっ!」

「僕は違う、オリジナルの遺伝子をより完璧に機能させた発展タイプだからね、実際、IQは十ポイント以上、上回っているしオリジナルを悩ませていた遺伝的疾患もない」

「それならあたしだってそうよっ、あたしはケンセーさん以上の改良型なのっ、あなたに使われた技術を更に洗練させた第二世代型のコーディネートによって、全遺伝子配列を徹底的に調整しなおした優良種なのよっ」

「それでレベル2か? キミと同じ頃、食蜂操祈は空前絶後のレベル5だったんだが」

「それは……能力が遺伝子支配じゃないってだけのことでしょっ、くだらないわっ」

「だが厳然たる事実だ……キミはあの子に劣っている……」

「劣ってなんかいないわっ! ケンセーさんは知ってる筈よ、なぜ私が碧子って名付けられたか」

「またその話かい……」

 男は興ざめした顔のままで腰を更に強く打ちつけて、その都度、女に喘ぎ声を上げさせていった。

 やがて男は、おうっと低く呻き、体は密着させたままで、ひき締った男の尻に小刻みな痙攣が奔った。

 二つの体が離れたとき、女の股間からは二人分の体液がだらしなく流れ出して白い内腿の間を汚していったが、それにはかまわずに女は息を乱しながらも(まなじり)を決した顔で男を振り返った。

「わたしが負けるはずが無いのよっ! あんなっ貧乏くさい、茶色い目をした女なんかにっ!」

「いや、キミは劣っている、あらゆる点であの子に劣っている……食蜂操祈はどこまでも特別なんだ。研究対象としてもあの子を起点にブレークスルーが果たされるかもしれないという希望がある……キミには何も期待していないけどね……」

 男がそう言うと、美少女の碧く美しい双眸から涙が溢れ出した。だが少女は怯まない。

「憎いわっ……あの女が憎いっ、ゲス女のくせに、今は聖女みたいな顔をしてみんなから愛されてる……そんなのっ、不公平よっ……」

「それならキミは僕に協力することだね。あの子を確保できれば僕はありがたいし、キミもそれが望みなんだろう? 僕らはあの子には近づけないが、キミには容易(たやす)い。あの子に我々の“協力”をしてもらえるように説き伏せてもらえないか? どんな手を使ってもかまわないから」 

「ええ、そのつもりよっ、あの取り澄ました仮面を剥ぎ取ってさらしものにしてやるわっ、この学園都市(まち)に居られないようにっ」

「だが手荒に扱って壊さないでくれよ、壊れてしまったら元も子もない。あの子を無傷で僕の手に届けるのがキミの役目だ、その為に必要な援助ならなんでもするし、人が要るというのなら手の者を何人か付けよう」

「レイプぐらいならいいでしょ? それもダメなの?」

「無傷でと言ったはずだが」

「でもあの女、もうヴァージンなんかじゃないわよ」

「ほう、男ができたのか? それは意外だな……なにか証拠でもあるのか?」

 それまで怜悧だった男の表情が明らかにくもって、微かに焦慮の色がちらついている。

「へー、ケンセーさんでもショックなんだ、面白いわ、ふふっ」

「キミはなにか知ってるのかい?」

「いいえ、まだなんにも……でも、うちの女子の中にそんなことをもらすのがチラホラ出てきているって話よ。要するにまだ噂レベルだけど、でもね、女ってそういうことにとっても敏感なの、愚鈍な男どもとは違ってね。だからいま探らせてる最中なのよ、もし誰か居るのなら、その相手が誰かについてもね。だってセックススキャンダルってどんな場合にも命取りになるワイルドカードでしょ? 特にあの女の場合には」

 



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水着撮影

          ⅩⅢ

 

 

 どうしてこんなことになっちゃったのよぉ――。

 手の中の白いセパレーツの水着を見ながら、操祈はまたため息をついた。

 更衣室のドアがノックされる。

「はい、どうぞ……」

「失礼いたします」

 遠慮がちに扉が開かれて少女が顔を覗かせ、操祈をみるやすぐに表情をくもらせて当惑したようすになった。

「先生、まだ着替えていらっしゃらなかったんですか?」

「あの……時間も押しているので……」

 別の少女も現れて口添えに加わった。

「ねぇ、ほんとにやらなきゃダメなのぉ? だってわたし教師なのよっ、生徒でもないのに文化祭のミスコンに出るなんて……」

「いいかげん先生も覚悟をきめられて下さい。そのお話にはとうに決着がついてるじゃないですかっ」

 さらに舘野唯香まで加わって操祈を急かすのだ。

「もうウチを除いて他校はとっくにエントリー十名分のサンプル映像を流し始めているんですよ。ウチだけなんです、先生のご都合に合わせて映像公開を控えているのは……私だってこんなことイヤだったんですけど、決まった以上は仕方がないって、ウチの学校の為にやろうって協力しているんですからっ」

「でも、これ普通のセパレーツ水着じゃないじゃない? ちょっと露出が多すぎやしない?……こういうのは、わたし無理よ……」

「なに子供みたいなことを言われてるんですか? しょうがないじゃないですか、条件を整えないと公平じゃないからって各校で協議した結果の統一規格の水着なんですから。私も着ましたし、山崎さんも着ましたよ。あとは先生だけなんですから早くして下さい、みんな待ってるんです」

 普段はおとなしい美少女から一歩も引かない構えで迫られると、諦めるしか無かった。

「わかったわ……」

 

 二週間ほど前のこと――。

「密森くん、投票用紙の回収は終わった?」

「終わりました。ボクと栃織さんの分を除いて二十三名分あります」

「わかりました、じゃあこれは私の分……密森くんも投票したの?」

「はい、いま栃織さんのと一緒に入れました」

「いいわ、これで全員ぶん揃ったわね。では、これより開票作業に入ります。私が読み上げるから密森くんは板書して下さい……」

 朝のホームルームで、例によってクラス委員の栃織紅音が壇上に立ち、自分を含めて二組の二十五名の生徒たちに当日の議題を諮っていた。

 その日のテーマは文化祭で開催されることになったミスコンテストの出場者についてで、クラスとして誰を代表者として出場させるかを決めるための投票が行われたのだ。これは学園祭実行委員会からの全校通達で、各クラスから代表二名を選定せよとの指示を受けたものであり、生徒会も承認の上の正式な“選挙”だった。

 クラス投票によって一年から三年までの計九クラスで各二名ずつを選び、十八名の候補者リスト名を学内LANで内部公開、そこから常盤台全校生徒の無記名投票によって十名を選抜、外部のサーバーに登録して学園都市内で一般公開するという段取りになっていた。

 なぜ学内イベントであるはずのミスコン候補者名を一般公開するのかであるが、これは常盤台中学学園祭実行委員会が、かつての五本指と呼ばれた名門校に合同でミスコンを行わないかと呼びかけたところ、それならばいっそのこと“甦る一端覧祭”と銘うって、学園都市全ての中高等学校に対象を拡大してはどうかという話になり、その結果、都市内にある女子校、共学校の全三百六十二校のうちの殆ど、三百四十九校からの参加の打診を受けて一気に十一月の最大の目玉といえる巨大イベントに発展したからである。

 今やエントリー数、総勢四千名近くにものぼる世界最大と言ってもいいプロムクイーンのオープンコンテストになっていた。

 各校の代表者は概ね十名程度で、文化祭当日に行われるミスコンテスト本選までの約二週間の間に、ウエブ上に公開された各候補者映像のヴュワー数と、“いいね”数を元に、上位二十名を最終コンテスト参加者として決定、ファイナリストに選ばれた二十名は水着でのランウェイのホログラム映像を各校の特設ステージにて同時公開して、最終的にクイーンが決まる、という流れになっている。

「では読み上げます……」

 紅音は最初の投票用紙を取り上げて二つ折りにされた紙片を開いた。

「田野倉美麗さん、食蜂操祈先生……」

 レイは電子黒板に田野倉美麗と書いて、その下に正の字の一画目の横棒を引き、その隣に食蜂操祈先生と書いて、同じようにした」

「次は……これは二人枠ともに先生のお名前が書いてあるから操祈先生に二票ね……」

 レイは言われるままに操祈の名の下に縦棒と横線を書き加えるが、ここで操祈からクレームがついた。

「ちょっと待って――」

「ハイ、なんですか? 先生」

 栃織紅音は怪訝そうに操祈の顔を仰いだ。

「これ、おかしいでしょ? どうして私の名前が出てくるの? 無効票になるはずでは?」

「いいえ、有効票ですけど――」

「――え!?――」

「候補者は特に生徒限定との指示を受けてないので」

「それはおかしいわ、だって学祭のミスコンに教師が参加できるわけがないでしょ?」

「いえ、既に学校単位の利権のかかる総力戦になっているので、生徒も教師も関係ありません」

 少女はキッパリと宣言した。

「へぇっ??」

「我が校としても持てる戦力は出し惜しみせずに全てを投入して必勝を期すということで、生徒会も実行委員会も意見統一がされていますから……そうよね?」

 少女はクラスの全員に確認を促して「まったく異議はありません」との賛同の声を得た。

 操祈は言葉もなく教室の脇に立ちつくしたまま、しばし口をあんぐりとさせていた。

 ここでも操祈は、まったく与り知らぬままに、自身にとっての重要な決定が勝手に為されていることに唖然とするばかりだった。

「わたし、ミスコンになんて出ないわよぉ」

「それはまだ投票結果がでていないので……密森くん、開票を続けるわよ……」

「はい……」

「えーと……食蜂操祈先生、舘野唯香さん……食蜂操祈さん、食蜂操祈さん……舘野唯香、食蜂操祈……食蜂操祈……」

 少女は票を読み上げていく。もはや操祈は敬称まで省略されて開票は進み――。

「投票総数五十、有効投票五十、白票、無効票なし……密森くん、結果を読み上げて下さい」

「ハイ、食蜂操祈先生、三十九票、舘野唯香さん九票、田野倉美麗さん二票……以上です」

「よって三年二組の候補者は、食蜂操祈先生と舘野唯香さんに決定いたしました」

 操祈の「わたし、出ないわよっ」の声は生徒たちの盛大な拍手によってかき消されていた。

「紅音さん、選出されたのは嬉しいけど、わたし辞退させていただくわ」

「まぁ、まだ候補リストにのっただけですので……ここから八名が落選しますから、お話はそれからでもいいんじゃないですか?」

 そう言われ操祈は引き下がったが、事態は彼女の予想を越えて加速していった。

 その後、一週間にわたって行われた学内での生徒全員による投票によって、操祈には票が集中し、なんと全校生徒の七割もの支持を受けて学校の代表メンバー十名の一人として選抜されてしまったからだ。これにはさすがに悪意すら感じてしまい、操祈は教務主任の森脇女史に相談したのだが、

「いいことじゃない? 学校のためにがんばってきて」

 かえって激励されることになってしまった。

「ですが先生、わたしは教師として……」

「大丈夫よ、みんなあなたのことが大好きだって言ってるわけだし、期待に応えてあげて」

「そんな……」

 

 

「わたし、ぜったいに出ませんからねっ」

 翌日のホームルームで操祈は自身の生徒たちにうったえたが、反応は予想していた以上に冷ややかなものだった。

「だって投票権を持たない教師が、どうして結果に従わなければならないの?」

 当然の疑問を口にして訴える。

「じゃあ、一票を加えればご納得していただけるんですか?」

「そういうわけじゃないけど……」

 操祈の票を加えたところで焼け石に水、大勢に影響は望むべくもない。

「だって、水着審査まであるなんて……」

 だからアリなんじゃないかっ! との男子生徒の囁きが操祈の耳にも届いていた。

「そういうのって教師としての体面にもかかわることだし……」

「それって問題発言ですよ、水着になるのが生徒ならよくて教師はダメっていうのはっ」

 女子の一人がそれを言うと、ここぞとばかりに「そうだっ!」という低い声が唱和する。

「そういうつもりで言ったんじゃないの、ただ……」

 操祈は迂闊な失言から弁解に防戦一方になってしまった。

「私だって、水着になって見せ物にされるのはちょっと抵抗がありますけど、でも名誉なことでもあるし、選ばれた以上はみんなの為にも頑張るつもりでいますから」

 舘野唯香にそう詰め寄られると、操祈は返す言葉もなくて天を仰ぐしかなかった。

「こんなオバサンを裸にして、さらし者にしようだなんて、みんなひどいわ……」

 落胆した操祈が呟くと、

「先生……先生は本当にご自身をオバサンだって思われてるんですか?」

 近くに居た一人の少女が操祈に訊いた。

「わたしにはとても信じられません、だって……先生は、誰から見たってもの凄い美人で……私たちにしても先生というよりちょっと年上の憧れのステキなお姉さんって感じだから……」

「………」

 返すべき言葉も見つからずに索漠としている操祈に、

「あの、こんなことをしてみるのはどうでしょうか?」

 紅音とともに黒板の前に居たレイが口をひらいた。

 レイが助け舟を出してくれたように思えて、操祈は表情をパッと明るくして少年の顔を期待を込めて見やるのだった。

「これから三日間、また無記名の全校生徒投票をやってはいかがかと? プラットフォームはあるのですぐにでもできると思うから、手っ取り早いんじゃないかなって……」

「どういうこと?」

 紅音がレイに先を促すと

「食蜂先生を、先生がおっしゃられるようにオバサンだと思うかどうかを生徒に問うんです。それで……どうでしょう、三票以上の同意があった場合、クラスとして再投票をやって操祈先生の代理をたてる、というのでは?」

 生徒たちからは異議の声が上がったが

「先生、いかがですか? たった三票です、生徒たちから先生をオバサンだと認める声があがれば、ミスコン参加不適格として辞退を了承する、というのでは……? もちろん操祈先生には当事者としての投票権を認めますので」

 レイから言われ、操祈は即座に票読みをした。

 わたしでしょ、レイくんでしょ、それに紅音さんに頼めば、これで最低でも三票になるわっ――!

「ええ、いいわっ」

 二つ返事で応じる。

 クラスの生徒たちからはブーイングがあがったが操祈は、希望の光が見えたように思えて破顔するのだった。

「民主的手続きを重要であると信じる我々は、常に個人の人権に対して最大限の配慮が為されるべきであると思います。操祈先生がご辞退を申し入れている以上、また操祈先生には投票権がなかったことを鑑み、クラスとしての特例として私から生徒会には追加の投票を発案してみます。結果については明日、報告します」

 紅音が事態を収拾して、その日のホームルームは無事おえた。

 翌日のホームルームでは当該追加投票についての生徒会の承認が得られたことがつたえられ、

「じゃあ、これで恨みっこなしということで、操祈先生には結果が得られたあかつきには、今度はくれぐれもご辞退されるなどとわがままを言われることなく、公益に服するというお約束をお願いいたします」

 紅音がクラスの生徒全員の前で操祈に同意を求め、彼女はそれを受け容れた。

 なんと言ってもたったの三票、うち二票はすでに確実、大丈夫、との読みだったのだが……。

 その三日後――。

 結果は二票、食蜂操祈をオバサン認定したものは、操祈本人を除いて他にはひとりしか居なかったのだった。

 意外だったのは、レイも紅音も操祈の要望に全く応えてくれなかったことだ。

 二人ともまるで口裏を併せるように「自分の心にウソはつけません」と言って操祈の期待を拒んだのだ。

 それでもたった二票、と楽観していた操祈だったのだが、その日の朝、出勤すると、同僚の教師たちからは「おめでとう」「よかったわね」と労われ、操祈も笑顔で「ありがとうございます、これでホッとします」などとニコニコ顔で応じていたのだが、結果を知って青くなり、メンタルアウトの能力を失って以降、そのことをこれほど怨めしく思ったことはなかったのだった。

 

 



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水着撮影2

 

          ⅩⅣ

 

 

 水着に着替えた操祈がおそるおそる更衣室を出ると、待ちかまえていた少女たちの視線が一斉に集まり、声にならない嘆声がそちこちでこぼれて、曰く言い難い雰囲気が場を囲繞(いにょう)するようになった。

 肌の白さと清潔感のある白い水着、それに相反するようなグラマラスな肢体が少女たちの目を惹きつけているのだった。

 骨細の伸びやかな四肢とよく締まったウエストのくびれは華奢で幼さすら感じさせるのに、胸と臀部の見事なまでの充実は成熟した大人の女のものだった。柔らかそうでありながら張りもあって、描く曲線は優雅で甘く、体の動きによって姿を変える陰影は、同性であっても正視するのを躊躇うようなひっそりとした謎をたたえているようなのだった。 

 ただ操祈にしてみれば、少女たちの好奇の視線はたとえ悪意の無いものであったとしても、やはり気になるのだ。生徒たちにこうした恥ずかしい姿を見られていることには教師として差し障りを感じてしまう。

「先生、こちらです」と言って唯香が操祈を案内して先に立った。

 だから自分の担任するクラスの教え子であり、ともにミスコンに参加をさせられることになった“犠牲者”でもある唯香の存在は、この場では心強く、救いと感じられるのだった。

 操祈は舘野唯香が演劇部だったことを思い出したが、今は撮影部のサポートに入って彼女の介添え役を買って出てくれているらしい。

 活動内容からみても近しい関係にある演劇部と撮影部は、必要に応じて互いに部員の融通をしあっていることが窺えた。

「撮影に入る前に、まずは身体計測をさせていただきますので」

 唯香はホルターネックのビキニになった操祈を体測スキャナーのある方へと連れて行く。

「下の二つのランプを両足の土踏まずのところで踏むようにされて下さい。両手は頭の後ろに組むようにして……ここには女の子しかいませんから、お気遣いなく大胆に」

 スキャナーは直径が1メートルほど、高さが十五センチほどの丸い台状をしたもので、被験者はその上にあがると幾種類もの光源によって全身をくまなく走査されて、身体の形状を精密に測定される。操祈はこの検査を成人してからも過去に一度だけ経験しているが、プライバシーデータを丸取りされるようで女にとっては気持ちのいいものではなく、好きではなかったのだが、みながやっていると言われれば止むを得なかった。

 指示されるままに台の上に乗る。

 だがいかに同性であってもひと前で無防備な姿を晒すことには抵抗があって、手を頭の後ろに組んではみたものの肩を寄せて、体を庇おうとするポーズになってしまうのだった。

 するとすぐに「それだと先生の美しいバストラインが隠れてしまうので――」と、ダメ出しをされたあげくに

「おもいっきり男の子を悩殺するつもりで、はっきり腋の下が見えるように」とまで言われてしまったので、操祈のささやかな抵抗もそれまでだった。

「そのまま五つ数えるあいだ、じっとされてて下さい」

 計測器のスイッチが押され、身の回りの空間で低い作動音が上下するのが聞こえはじめた。

“うわさには聞いてはいたけど、操祈先生って本当にスゴいわね、服を脱ぐとこんなに雰囲気が変わっちゃうなんて、もう反則よ……ぜったいに彼氏には見せたくないわ……”

“……お綺麗よね、ただただため息がでちゃう……”

“こりゃビッグフォーもうかうかしてられないわよ、ここにきてダークホースっていうか本命登場っていうか”

“たしかにウチら常盤台の秘密兵器よね……クイーンの目だってありそうな……”

“でもそうなったらなったで、またひと騒ぎになっちゃうかもしれないんだけど……”

“後から資格を云々するようなKYさんが出てこないとも限らないしね……とくにあっちの方角から……”

 スキャナーの周りにいた少女たちは身動きの取れない操祈を眺めながらお喋りをし、顔を見合わせては頷いていた。

「ハイ、もう結構です、お疲れさまでした」

 唯香に言われて操祈が台から降りると、すぐに渡されたローブに身を包んだ。少女たちの視線が痛かったので、ちょっとほっとする。長い髪をふっさりと襟の外に出して、だらしなく着崩れないようにきちんと腰紐を締めた。 

「先生、こちらへどうぞ。得られたご自身のデータをご確認下さい」

 別の少女が操祈をディスプレイのあるところへと案内した。

 そこには画像とともに身体的特徴を捉えたさまざまな数値が並んでいて、オペレーターをしていた少女が、

「こんなにシンメトリーポイントの高い方って初めてです……97.6って、人間の体の素材である蛋白質の構造体としては理論値としてほぼ限界なんです。仮に先生のお体が全身プラスチックでできていたとしても、このスコアと殆ど変わらないんじゃないでしょうか……」

「………」

「要するに、完璧、っていうことです」

「あの……」

 操祈が気にしていたのはやはりデータの管理だった。

 利発な少女はすぐにそれを察して、

「先生の個人情報は公開されませんのでご懸念には及びません、いまこの瞬間に……」

 リターンキーを押して

「これでご自身のパスワードからしかデータバンクにはアクセスできなくなりました。私たちを含めて、先生以外によるデータの閲覧はできませんので、パスワード管理にはご注意下さい」

 操祈は納得したが、

「じゃあ、撮影の前にボディスキャンをする理由はどうして?」

 ウォーキングの撮影をするだけだと思っていたので、確かめておきたかったのだった。

「それはコンテスト用の基本データを抽出するためです」

「基本データ……?」

「身長、体重、それにスリーサイズです。コンテストで開示される時には、小数点以下を四捨五入してさらに数字を丸めますが」

「それでも女にとっては十分に差し支えのあるデータよね……いまどき女の子の価値をそんなもので測ろうとするなんて……」

 操祈は不満を口にする。 

「まぁ、水着審査があるってだけで当然、女子の一部からは拒絶反応が出るくらいですから……ミスコン自体がそういう主旨のものだと思って諦めていただくしかないですね」

「でも、先生、頑張って下さいね」

「頑張れって言われても……」

「だってここにいる子たちって、唯香ちゃんを除けば選ばれなかった子ってワケで……」

「こういうことをすると、選ばれる子とそうではない子っていう学内ヒエラルヒーが自然にできちゃうんですよ」

「ヒエラルヒーって、もうそういうことから卒業したんじゃなかったの? 能力者の優遇も終わったし……そりゃ私たちの頃は酷かったと思うけど……」

 能力の上下が人としての価値をきめると看做されていた時代を思うと、今は遥かに風通しが良くなっていると思うのだった。

「操祈先生、立て前はそうなんですけど、人は集まれば自然に上下関係ができちゃうものなんですよ。だから今、ここでは私たちの中で唯香ちゃんがいちばんエライんです」

「なにいってるのよ留美ちゃん、そんな心にもないことっ」

「へへぇ……でも、やっぱり羨ましいってのもあるんだから、だって彼氏に自慢できるじゃない。わたし美人コンテストでクラス代表になったよって。唯はさすが演劇部副部長ってだけはあるなって、尊敬してますよっ」

「たいして違わないわよ、私だって間違いなくファイナリストにはなれないから……」

 半ば諦め顔で唯香もそう訴えた。

「でも先生にはファイナルに残って欲しいんです、できればクイーンになっていただきたくて……」

「これ以上無理を言わないで、ファイナルに残るのは約四千人の中の二十人でしょ、二百分の一の確率よ、0.5パーセントっていうのは偶然に起きるのを期待できるようなイベントじゃないの、だから、もうこれ以上恥ずかしい思いをしないで済むとは思うんだけど」

「………」

 少女たちは怪訝そうに眉を寄せ、無言で互いに顔を見合わせた。

「先生はミスコンの意味ってわかってらっしゃいますよね?」

「ええ、みんながたくさん居る女の子たちの中から自分の好みの女の子に投票するんでしょ? それで集まった票の多い人がコンテストの一番になる」

 操祈がそう言うと、少女たちはまたもどかしげに首を捻りつつ互いに相手の顔色を窺っていた。

「間違ってはいないわよね……」

 少女の一人が他の少女たちに訊くとはなく訊いた。

「……間違いではないと思うんだけど……でもなんか違うような……っていうか重要な点で間違っているような……」

「あの操祈先生、先生は女の子が男の子を好きになる時って、どういう時だと思われますか? たとえば先生は男性の容姿に好みとかおありですか? お好きなタレントとか……」

「うーん、よくわからないわねぇ……容姿は人それぞれに好みが違うだろうし……好きになると相手の容姿はあまり関係がなくなっちゃうと思うし……」

 少女たちは合点がいった、というように頷き合っていた。

「きっとこれまで先生はご自身の容姿についてストレスを感じられたこととか、コンプレックスとかを経験されたことがないんですね……」

「……コンプレックスならたくさんあるわ……とりかえしのつかない過ちとか、愚かな失敗なら数えきれないほどしているから……」

「私たちが言いたいのはそういうことじゃなくて……先生の時代とは違うのかもしれませんが、でも、私たちの世代にも能力者のランクがあって、はっきりとした階級があるってことなんです」

「……?……」

「たとえば今度のミスコンは、あからさまに言えば、女の子の容姿の品評会です。主催者側がどんな飾り事を唱えても、その事実は動きません」

「女の子にとって容姿っていうのはある種の能力、異性を魅惑する能力だと言い換えれば、能力至上主義っていうの今だって全く同じなんですよ」

「そんなふうに考えるのは、嫌だな……能力があって良かったと思うことなんて私には無いから……ただ自分を愚かにするだけで……」

「そうお感じになられるのは、それは先生が恵まれていらっしゃるからです……」

 少女の言葉は操祈の胸をうつものだった。本音だとわかる物言いをしていたからだった。

「舘野さんもそう思うの?」

 操祈は居合わせた中でいちばん馴染みのある少女に尋いた。

 少女はこっくりと頷き、操祈の表情が翳る。

「……わたし……やっぱり昔と何も変わってないのね……莫迦なままで……」

 操祈の消沈したようすに逆に少女たちの方が色を失った。

「ちがうんです、先生っ、ただ私たちは先生にミスコンで勝って欲しくて、それを言いたかっただけなのでっ」

「応援しますからっ、だから――」

「ありがとう、でも、あまり期待しないでちょうだい……そもそも最高齢のエントリーなんだゾっ」

 

 

 



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舘野唯香

 

          ⅩⅤ

 

 ランウェイ用のホログラムの撮影が終わって身支度を整えた時には、秋の日はつるべ落とし、外はすっかり翳っていた。

 撮影部の生徒たちと舘野唯香が器機のあと片付けやら計器の清掃、撮影に使用していた映写室の後始末をしているのを操祈も手伝って、部屋の施錠をした時には六時近くにもなってしまっていた。彼女が映写室を訪れてから、かれこれ三時間あまりにもなっている。

 こんなに時間がかかってしまったのは、ひとえに撮影を何度もやり直していたからだったが、テイクを重ねること、なんと十七回!

 ただ直線を往復して歩くだけのつもりでいたので、ほんの十分もあれば終わるものとたかをくくっていたのだが、

 甘かった――。

 映像のプロを自認する少女たちのクリエイターズマインドに火をつけてしまったようで、ホログラム撮影をして、ディスプレイ上で再生してチェックというのを延々、繰り返すハメになっていたのだった。

 その都度、操祈の歩幅、足の運び、決めポーズから、自己アピールのショートスピーチにいたるまで、ブラッシュアップを求められ、少女たちは完璧な“仕事”を目指して殺気立ってくるほどになっていったのだ。

 操祈にしてみれば、自分をよりよく撮ろうと力を尽くしてくれるのはありがたかったのだが、

「ステキです、操祈先生っ、今のは世界一です!」

 ようやくオーケーが出て終わったと思ったら

「じゃあ次は宇宙一をめざして、もう一本いきまぁーすっ、テイクっ――」

 と続くと、さすがに泣きごとを言いたくなった。

 最後に、自分自身のランウェイホログラムと体面した操祈は、本当にこんなものを(おおやけ)にしても良いのだろうかと思ってしまうのだった。

 それというのも教師である自分が、あまりにも“女”としての面を表にしすぎているのではないか? という疑いと悔いだったのだが、懸念を伝えると、

「全然問題ありません、他の人たちはもっとずっとスゴいですから大丈夫です」

「みんな自己アピールの機会をもらうとホンキ出しますからっ」

「先生が控えめすぎたので、私たちはほんのちょっと背中をお押しただけです」

 撮影にあたった少女たちは、やりとげたようすで満足げに応じるばかりだったのだ。

「そうなの……? あんまりやりすぎないでよね……私の映像なんてちっちゃくていいんだから、みんながスルーするように、なるべく目立たないようにしてちょうだい」

「先生っ、もうサイは投げられたんです、あとは神のみぞ知る、わたしたちはただ全力で先生のサポートをするだけですのでっ」

 操祈の願いは穏便に、差し障り無く、この不本意なオブリゲーションを終えることだったが、少女たちが目指しているものとは違うようなので心配になってくるのだった。

 

 

 映写室を出て職員室へ戻るまでの(みち)すがら、操祈は唯香と連れ立ってゆっくりと歩を運びながら、少女と言葉を交わしていた。

「こうして唯香さんと二人、お話をするのは、もしかして初めてかしら……?」

「そうですね、先生の周りにはいつも誰かがいるので……」

「今日はあなたがいてくれて助かったわ、ありがとう」

「べつに私は何もしたわけではないので、でも撮影部のみんなは本当に一所懸命やってくれてたみたいですけど」

「だけど、あんなに何度も撮り直しをしたりするものなの?」

「なんか、今日はみんなのスイッチが入っちゃったみたいで、他の人はそんなでもなかったみたいですよ。私なんか、テストと本番の二回だけでオーケーが出たくらいですから、あと山崎さんとかは自分で何度もテイクを重ねられたそうですけど、納得するまでしつこいくらい撮り直しを求められたって留美ちゃんがこぼしてましたから」

「そう、人それぞれなのね……」

「女の意地とプライドが、かかってる人たちにはかかってるので……」

「あら、そうなのぉ?」

 操祈は隣を歩く唯香をまんじりと見つめて

「私は関係無いですよっ、ただのお囃子(はやし)、引き立て役の一人に過ぎませんから」

「なにいってるのよぉ、こんなに若くて可愛くて綺麗なのに」

「先生がそれを言われると、イヤミに聞こえますよ……そんなおつもりじゃないってわかっていますけど……でも本選にあがってくる人たちって、私なんかとは違って、みんなある意味でプロなんです。現役のアイドルだったりする子とか、モデルをやってる人とかも居たりして……」

「あらそうなのぉ、じゃあ、あたしも関係無いじゃないっ」

 操祈は晴れ晴れとした顔になる。

「先生は本当にわかってらっしゃらないんですね……」

「わかってないってなにが?」

「いえ、いいんです……」

 少女は操祈の腕を取ると自分の胸に抱き取った。

「わたし、先生のことが好きなんです……」

「わたしも唯香さんのことが大好きよ……すなおでやさしくて……たしか弟さんがおひとりいるんだったわよね? ステキなお姉さんをしているわね」

「……先生に折り入ってご相談したいことがあるんですけど……聞いていただけますか?」

「いいわよ、わたしで良ければ、なんなりと……」

「先生じゃないと話せないことなんです……」

「あら、なにかしら……?」

「いえ、今じゃなくて、また日をあらためて……二人だけでお話ができるところで……」

「いいわ」

 

 

「随分と仲がいいのね……食蜂センセイと……」

 職員室の前で操祈と別れ、ひとり教室に向かう舘野唯香の背中に聞き覚えのある声が呼び止めた。

 唯香は振り返らずにそのまま立ち去ろうとする。少女と声の主の間には緊張した関係があるようだった。

「まだご返事を聞かせてもらってはいないのだけれど……」

「その件については、はっきりお断りした筈ですが……」

「いいえ知らないわ……だっていい返事じゃなかったでしょ? わたしの耳にはお行儀の良い返事しか聞こえないの」

 唯香は無視して歩こうとすると

「たしか島崎一成さんと言ったかしら?」

 後ろから聞こえよがしの声が絡みついてきて唯香の足止めをする。

「あのT大生、今度、法科大学院に進学することが決まったそうじゃない、良かったわねぇ」

 唯香は屹度(きっと)なった顔で振り返ると、そこにいた碧子を睨みつけた。

「わたしたちには関わらないでって言った筈ですが」

「別に関わる気なんて無いわ、凡人は凡人らしく小さなパイを巡って一生を終えるんですもの、いったいわたしに何の関係があるって言うの? 思い上がらないで欲しいものだわ」

「………」

「でも、お交際(つき)あいしているのが十五歳っていうのはさすがに不味いんじゃないのかしら? 彼のささやかな未来も閉ざされてしまうかもしれないわね」

「べつに私たち、交際あってるわけではありませんから、ただの家庭教師の先生ってだけで……」

「そう……じゃあ……これはいったいなにを教わっているところなの……?」

 碧子は唯香の近くまでやってくると、スマートフォンの画面をチラリと覗かせた。

 瞬間、唯香の顔色が変わり、血の気が引いていく。

 そこには口づけを交わしている唯香と若い男の画像が映し出されていたのだった。

「どうしてそんなものが……」

「これだけじゃないのよ……もっとスゴいことをしているのもあるわよ……見たい? なかなかの熱演ぶりよ、見応えがあってステキだったわ」

 唯香は瞋恚(しんい)と羞恥のないまぜになった顔で頬を上気させている。

「卑怯よ……」

「あら聞こえなかったわ、もう一度言って、大きな声で……わたしも大きな声で言ってあげましょうか? あなたたちのことを」

「………」

「ねぇ、ご返事を聞かせていただけるかしら?」 

「生徒会長ともあろう方が脅迫するんですか……?」

「脅迫ですって? 人聞きの悪いことを言わないでちょうだい、これは依頼よ、あなたたちのことを思っての私からの心からのお願い」

「………」

「あなたにとっても悪い取引じゃない筈よ……ほんの少しだけ協力してくれれば、あなたたちの将来は約束された明るいものになるんだから」

「………」

「大したこと無いじゃない? 誰もあなたがやったとは思わないし……あなたには何の責任もないお話なんだから……」

「どうして……あなたはどうしてそこまであの人のことを憎むんですか? あんなにステキないい方を……」

「それこそあなたにはなんの関係も無い話だわ、ただわたしは、あの人に二度とわたしの視界に入って欲しくないってだけ、それだけのことよ」

 

 



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朝の戯れ

 

          ⅩⅥ

 

 目覚めたとき、微睡む瞳に見知らぬ天井が映って操祈は刹那、

 ここはどこ――?

 と、首を傾げた。不思議そうに薄目をぱちくりさせる。気づいた所がいつもの自室ではなかったからだった。だからといって即座に身の危険を感じたわけでもない。

 頭のスイッチが入るまで、ベッドの上で白い天井のウォールライトをぼんやり眺めていた。

“そうか……あたし、紅音さんのペントハウスに来ていたんだっけ……”

 同時に自分が何も身に纏っていないことを思い出して、このうえもなく甘美な夜の記憶が甦ってきて操祈は顔を朱くする。

 心やさしい恋人に手取り足取りされて、身も心もすみずみまで深く愛されて、歓びの夢の中で遊び疲れた子供のように眠りに堕ちていたのだった。

 愛情深く無慈悲な少年は、けっして手抜かりをすることなく、手加減もなく男の愛を教えてくれたのだ。涙を流すと慰められ、歓びをうったえるとさらなる歓びへと導かれていった。

 女の体に運命(さだ)めというものを思い知らせようとするように、一途に、懸命に。

 気がついた時には、操祈はまるで恋の魔法をかけられたようになっていて、いま思い出すと、どうしてあんなことをしちゃったんだろう、と羞恥に身を揉むような大胆なことにまで挑んでしまっていたのだった。

“……わたし……どうしよう……あんなひどいこと……もう、あの子の顔がみられなくなっちゃったわ……”

 操祈はベッドにころん、とうつ伏せになって顔を埋めて羞恥に堪える。満たされた女の頬笑みをつくりながら。

 だから――。

 いま傍らに、自分に魔法をかけた悪い魔法使いが居てくれないことが不満なのだ。

「レイくん……」

 呟くように愛する人の名を呼んでみる。

“どこいっちゃったのかな……”

 化粧室かな、と思って耳を澄ますが、ドレッシングルームからは人の気配は感じられなかった。

“いま、何時だろう……?”

 見回しても、広いベッドの上には何もなかった。毛布も枕もベッドの足元の方で落っこちたままになっている。

 部屋の一隅に置かれた書き物机の上に置き時計があるのが見えたが、操祈の居るところからは文字盤までは読めなかった。

 寝室の壁面照明は時間に連動するように調整してあるらしく、部屋の明るさからみても、もうとっくに夜が開けているのはわかったが、いまの操祈は午前なのか午後なのかもわからないくらい時間の感覚が麻痺していた。

 そうなってしまうほど濃密な時を過ごしていたからだった。

 目が覚めては時を惜しんで愛しあい、歓喜のなか心地よい疲労を感じては再び眠りに落ちる、こうしたことを一夜の間に何度となく繰り返していたように思う。

 それなのに、愛を育んだ相手の少年はなかなか戻ってきてはくれなかったのだ。

“もう、どこいっちゃったのよぉ、女のコをひとりにして……”

「レイくんっ――」

 今度は声を少し大きくして恋人を呼んだ。

 するとすぐ、寝室の扉の外にタッタッタッタと駆け寄る足音がして、ドアがノックされた。

 操祈は「はい――」と返事をしてから、自分が全裸でいることを思い出して身を覆うものを探したが、手の届くところにはなにもなくてベッドの上で半身を起こすと膝を揃え、両腕をまわして胸を庇った。

「先生、お目覚めですか?」

 ドアが薄めに開いてレイが顔を覗かせる。

「うん……」

「あれ、先生、どちらに居られるんですか?」

「ここよ」

「おかしいなぁ……声はすれども姿は見えじ……操祈先生……」

 どんなに情を重ねても“彼”は律儀に今も折り目正しく敬称をつけて彼女を呼んでいた。それが他人行儀というよりも、少年らしい崇敬の示し方であり、大切にされていると感じられて操祈は嫌ではなかった。

「ベッドの上よ、見えないの?」

 寝室に入ってきた少年は既に腹を着ていて、キッチンにでも居たのか制服の長袖のワイシャツを両腕の肘のあたりまで捲り上げている。

「え……ベッドの上ですか……?」

 なおも少年は視線を彷徨わせ、あらぬ方を見ていて、操祈は自分の周りを見回して真っ白いシーツの上に居るのに気づくと、ようやくレイがふざけている理由を察したのだった。

 そっちがそうくるなら、こっちだって――と、

 操祈は、エイっ、とばかりにベッドに仰向けに横たわる。明るい部屋で全身を晒すのは恥ずかしかったが、そんな大胆な振舞ができるくらいに恋人を信頼していて、そうなれる自分が嬉しくもあった。

「おや、子猫ちゃんが居る……どこから迷いこんできたのかな……?」

 ベッドの脇に腰を下ろした少年は、操祈の股間に視線を落としてそう言った。

 飴色のヘアは睦みあった証として毛羽立ち、かき乱されていたが、少年はそこに手を伸ばすと、指先でくすぐるようにして毛並みを整えはじめる。愛情といたわりを感じる指の動きに操祈は目を細め、されるままになっていた。

「いい子だね……とっても可愛いよ……」

 操祈のデリケートな毛並みをくすぐり、あやしていたが、やがて本当に子猫を愛撫するように、やさしいキスの雨を振らしてくるのだ。しっかりにおいを嗅ぎとられて、また操祈の股間がうずきはじめた。

 愛撫を覚えている体は、ちょっとしたきっかけですぐに自然に熱を帯び始めてしまうのだった。

「レイくん……ダメよ……」

 たちまち薄桃色に上気した体がベッドの上でくっきりとなって、負けきった無防備な姿を見せつけている。

「あ、先生、こんなところに居られたんですか……」

 なんて空々しいと思いながら、操祈はすなおに「うん」と、応えた。

「よくお休みになられましたか?」

「ぐっすり……レイくんこそ、どこ行ってたのよぉ」

「先生がお休みだったので、お昼の用意をしていたんです」

「お昼――? もうそんな時間なの……」

「まだちょっと早いですけどね……」

「今、何時?」

 操祈の言葉には蜜が含まれていて、男への甘えを隠さずにいた。もうどちらが年上なのかわからなくなっている。

「もうすぐ11時になりますよ」

「ずいぶん朝寝坊しちゃったのね……」

 身を起こすと、まだ眠り足りない子供がするように両手の人指しゆびの関節で目を擦った。

「可愛いな……操祈先生は……」

 操祈は無自覚にそうしていたのだが、幼い仕草と豊満な胸のいただきを飾る乳暈の成熟ぶりがアンバランスで、新鮮なセックスアピールをふりまいているのだった。

 唇を求められて自然に口づけを交わす。

 彼の手が髪のほつれを整えながらさすっていて、大好きな人から頭を撫でられるのがこんなにも嬉しいものだなんて……と、操祈は胸を熱くしながら思うのだった。

 少年は間近で彼女の顔を見つめていて、その包み込むようなやさしい眼差しに、不意に涙腺がゆるみそうになって男の胸に顔を埋めて甘える。

「ねぇレイくん、あなたはちゃんと眠れたの?」

「眠るなんてもったいなくて……ずっと先生の寝顔を見ていたから……」

「……ダメじゃない……そんなことしてたら、体をこわしちゃう……」

「平気です……それより先生はお食事にされますか? それともその前にお風呂に入られますか?」

「そうね……お風呂にしようかな……」

「ボクがいっぱい汚しちゃったから……先生のこのきれいな体を……ごめんなさい……」

「汚されたなんてちっとも思ってないわよ……大切にされたんだってお姉さんにはちゃんとわかってるんだゾ……」

 操祈がそう言うと少年は回した腕に力を込めてきてぎゅっと抱きすくめられる。操祈の胸が熱く高鳴った。

「……大好きよ、あなたのことが……レイくん……愛してるわ……」

 恋人の手が操祈の頭から背中にかけて愛撫の範囲を拡げていた。

 ただ触れられるだけで女の肌が歓びに目覚めていくのがはっきりとわかるのだ。女にとって大好きな人から愛されるということがどんなに幸せなことなのかを操祈は全身でかみしめていた。

「先生……」

「なぁに……」

「ボクもいっしょに、お風呂に入ってもいいですか?」

 訊かれた操祈は男の胸の中で顔を上げると瞳を大きくして愛する人を見つめた。

 どうしようかなと、少しだけ迷って、

「うんっ」

 笑顔になってこっくり頷くのだった。

 



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少年団結成

 

          ⅩⅦ

 

 月曜日の朝、レイがいつもよりも早く教室に入ると、既に数名の男子がひとつの机の周りに集まって額を寄せ合うようにして何かに魅入っている様子なのだった。レイに気づくと夏上康祐が「ミツっち、オーッス」と、手を上げる。

「おはようコースケくん、どうしたの? みんな今日は随分、早いんだね」

「どうしたのって、オメ、なに呑気なこと言ってんだよぉ、今日はフルバージョンの画像が上がる日だろうがっ!?」

「画像? あ、そうかミスコンのエントリー画像が上がるのって、今日だったっけ?」

「これだから調子くるうよな、ミツの仙人ぶりはよぉ、情報が届くの遅すぎだろ、いったいどこのド僻地に居るんだよぉ」

「昨日の夜に、専用サイトに今朝の八時に動画が一斉アップされるってアナウンスがあってサぁ、みんなでそれを待ってたってワケよ」

 ヤッさんこと堀田靖明が覗き込んでいた机から長身を起こしてレイに説明した。

 女子たちも、それぞれがスマホ画面と向き合っている。

 男女に限らず、参加しているかどうかに関わらず、やはりみなミスコンの趨勢が気になっているのだった。

「なんてったって西東京プロムクイーンダービーってことで世界的にも関心が寄せられてるみたいだしな」

「そうなの? 全然知らなかった、で、今どんな感じ?」

「まぁこういうオープンサイトだと、やっぱ知名度の高いヤツが突っ走るよなぁ、大英帝国ブックメーカーの予想どおり霧ヶ丘の北條真澄かなぁ、オッズがただ一人ひと桁台の4.3、サイトオープンしてまだ十五分しか経ってないけど、下馬評どおりの強さでスタートダッシュ、このまま突っ走りそうな感じでもう一万アクセス突破してるし、いいねポイントも八千を越えてる。次いで長点上機の蔵本と藍鈴の新居坂がほぼ横並びで追ってるが、アクセス数はともに二千ぐらいだからトップとはちょっと差をつけられてる。ウチだと山崎がただひとりベストテンに入っていてもうすぐ千アクセスになるって感じだけど、他に百位以内につけてるのは一組の加瀬美利香ぐらいか」

「食蜂先生は?」

「いま七百位ぐらい」

 純平が応えた。

「あ、良かったね、それなら大丈夫そうだから」

「大丈夫ってナニがっ?」

「ファイナリストって二十名なんでしょ、とても入れそうもないじゃない」

 レイが笑顔でそう言うと、“おまえは何を言っとるんじゃ?”とばかりに全員が顔を上げて彼の方を振り返るのだった。

「おまえなぁ、仮にも二組の生徒だろ? 栄えある操祈先生の教え子だろうがっ、それが先生がファイナルに残れないのを喜ぶとはどういうことだっ、いい根性してるじゃねぇかっ」

 いつもは温厚な勇作にまで叱られてしまい、レイは平謝りになって言い訳する。

「だって先生は出たくないって、あんだけ言ってたのをボクらがむりやり引っぱりだしちゃったからさ」

 仲間内のリーダー格である夏上康祐が席から立上がると、レイの肩に腕をまわして説き伏せるように言った。

「おまえはな、確かにいい奴だ、だがな、俺はまえからずーっと思ってたんだが、ミツは頭ン中の部品の幾つかを、どっかに落っことしてきちまったんじゃねぇのかなってな……」

「コースケくん……それはないとおもうよ……」

 レイは苦笑いをするが、

「まぁちょっとこっち来て、この動画を見ろ、話はそれからだ」

「スマホならボクも持ってるけど……」

「専用ソフトを入れて登録してってなるとテマかかるだろっ、だからそんなのは後でやりゃあいい、まあ今はこれを見とけっ」

 夏上康祐のスマホ画面に操祈のランウェイ動画がまた映された。

 白いビキニの見事なプロポーションが、モデルのように颯爽と足を運んで奥からやってくるとカッコ良くポーズを決め、そこで短いスピーチを行い、くるりと踵を返すとまた奥へ去っていくという、わずか二分足らずの短い映像だった。

 画質は百万画素程度で音声データも非公開だったが、それでも操祈の魅力が良く表現されていてコースケたちが騒ぐのも無理はないと思うのだった。

 特にレイが驚いたのは、ウォークインする操祈が体の動きによってやんちゃに揺れる豊満な胸を抑えようと、一度だけ二の腕の間に挟むような仕草をいれていて、さりげなく膨らみの豊かさと柔らかさをアピールしているように見えるシーンがあることだった。

 それが実に操祈らしくないというか、恐らく誰かに言われてやらされたのだろうと思うが上手くハマっていて、とても可愛らしく魅力的だったのだ。眼福とでもいえるような初々しいお色気を感じるのだった。

「どうだ?」

「うん、綺麗だね」

「オイ、それだけかよぉ、反応、薄すぎだろっ」

「すごく綺麗で魅力的だと思いますっ」

「レイっち、おまえはこの映像を実寸のホログラムとして間近で見たいとは思わないのか?」

「スリーサイズの公表も、ファイナリストだけなんだぞっ」

 レイは今度こそ納得しました、とばかりに細かく何度も頷いた。

「だろ、だとしたら、俺たちはどうすればいい?」

「先生にファイナリストに残ってもらうようにって……でもボクらでできることは少ないと思うけど……アクセスカウントは一人一日一回だし、複アカはダメだろうし……」

「だよな、まぁせいぜいツイで口コミ増やすぐらいか、でも、そんなことはどこもみんなやるだろうしな……」

「まぁ俺らとしちゃ、二週間のキャンペーン期間中を目一杯、頑張るしかネェなって、話してたところなんだが、当然、ミツ、おまえもヤルよな」

「いいけど、ヤルってボクは何をすればいいの?」

「オフィシャル映像のコピーを拡散するんだよ、映像さえ見てもらえれば誰だって操祈ちゃんには魅了されるに決まってるンだから」

「でも映像は複製できないようにプロテクトかかってるよ、無理して破ったりしたらかえって拙いんじゃない? 最悪、不正発覚って資格停止になることも……」

「そりゃ拙いよな、だからさ……」

 六人の中でいちばんデジタルツールの知識のあるマコトが、敢えて奥の手を使う、と言い出した。

「そりゃ、こっそり破ろうとするところは出てくるだろう、当然、アカだってダミー使って稼ごうとする奴らも居るだろうし……」

「選挙に組織票はつきものだからな、主催者側との攻防はもう始まっているとみた方がいい、だがな、俺らはそんな不正には一切関与しねぇ、あくまでも操祈ちゃんを思う真心と情熱でこの闘いに勝つっ、勝ち抜くっ」

「原始的な方法だけど、根気さえあればできることだから」と、マコトが計画を説明し、話を聴いていたレイは表情を渋くする。

「でもものすごく大変だよ、それって……」

「大変だからヤルんだろっ」

「ボク、今、生徒会の方の仕事もたまっていてさ……」

「ヤルよなっ?」

 コースケに迫られてレイは不承不承、同意したその時、悪だくみの計画を練る六人組の背中に

「あら、なにをやるのっ?」

 と、涼しげな声がかけられた。

 ぎょっとして顔を上げた男子たちの前に、教材を胸に抱えた操祈が凛として見下ろしていた。その朝、教室の空気がいつもとは違うことに気づいた操祈は、後ろのドアからそっと忍び足で中に入ってきていたのだ。

「み、操祈せんせ……おはようございます……」

 六人は即座に気を付けの姿勢をとって整列する。話に熱中するあまり、始業チャイムが鳴っていることに気がつかなかったのだった。

 操祈はデスクの上に置かれたスマートフォンの画面に自身のビキニ映像があるのを目敏く見つけ、

“やっぱりこうなるのぉ……だからイヤだったのよねぇ……”

 心中、ため息をついていたが、顔には出さずにニコニコしたまま

「ホームルーム、初めてもいいかしら?」

 と訊くと、少年たちは恐懼して、無言のまま何度も頷くのだった。

 教卓を前に端然と立った操祈は件のスマホの持ち主に、

「夏上くん、授業中はスマートフォンの電源をちゃんと切っておいてね」

 と、時速百マイルの牽制球を投げつけて、震え上らせることも忘れなかったのだった。

 

 



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それぞれの夜

          ⅩⅧ

 

 やっと三十コマ目が終わったところだったが、明日までのノルマはまだ四十近くもあって、少年はデスクに身をあずけるとしばらく目を閉じた。

 主催者側が提供している動画閲覧用の専用アプリは画面コピーの作製すら楽をさせてはくれないのだ。

 結局、ワンフレームずつ静止画像を複製した後、画素数を揃える為に他の編集ソフトを使ったトリミング作業が欠かせず、集中しても一枚の処理には二、三分はかかってしまう。ひとりあたり約五百枚の分担を今週中に達成するには、一日のノルマを七十枚程度もこなさなければならないのだが、根を詰めても数時間はかかる計算だった。

 誰に憚ることなく操祈のビキニを眺めることができるのはありがたくても、そのためにデートを先送りにしなければならないとしたら間尺に合わない。

“先生、どうされてるかな……さすがにもうお休みになられてるだろうな……”

 こんなことなら、やっぱりあのとき無理にでも先生から“プレゼント”をおあずかりしておくべきだったな、と少年は思った。

 二週間、ことによったらそれ以上も逢えなくなるというのは酷だと思う。

 紅音のペントハウスを使うようになりデートの計画が立てやすくなって以来、自分の中にあった忍耐力が緩んでしまったというのか、以前にも増して操祈の肉体への渇望が強くなっているように感じていたのだ。

 デートの回を重ねるごとに彼女自身も愛くるしい姿を隠さずに見せてくれるようになっていて、それは少年にとって嬉しい発見であり、目眩(めくるめ)く驚きなのだった。

 教室に居る時の背筋のスッと伸びた時とはまるで違う女のコらしいしぐさや、自分に甘えてくる時の声音は胸が痛くなるほど可愛いらしかった。

 裸になったときの操祈は、服を身につけているときとは別人、と言ってもいいくらいの変わりようで、その落差が少年の心を悩ましくさせてしまっている。

 ずっと憧れ続けていた美しい人の生まれたままの姿、柔媚な体の感触と温もり、肌のにおいを知った今、毎日、すぐ手の届くところに居て、一皮めくれば愛おしい素顔があらわになることを知っている少年にとって、抱くどころか触れることもできずにいるというのは、もはや拷問に近い、そんなふうにも思えてくるのだ。

 すぐに逢えると思うからこそ堪えられたが、もしもそれが長く続くとなると、さすがにどこまで我慢できるか自信が持てなかった。さりとて、学内で操祈の体に触れようものなら、それこそ万事休すとなりかねない。

 なんとかやりくりしてデートの時間をつくらなくちゃ――。

 少年の股間はブリーフの中でまた痛いほどかたくなっている。

 自分はまるで御馳走を前にしておあずけを食らっている腹を空かせた犬になってしまったようだ、と自嘲気味に思うのだった。

 時刻は夜中の十二時を廻っていた。

 一度トイレで熱を冷ましてから、また作業にかかろうか、とも思う。

 後輩でルームメイトのヒサオ――那智陽佐雄――も、まだ部屋に戻ってきてはいなかった。

「そういやあいつ、遅いなぁ……なにやってんだろう……」

 椅子から立上がりかけた時、ドアがノックされてレイは「どうぞ」と、応じた。

 入ってきたのは案の定、ヒサオだった。長身痩躯、大股でレイのところまでやってくると

「すいません先輩、遅くなりましたっ」

 と頭を深々と下げる。

「イヤ、ボクもまだ寝てなかったからいいけどっていうか、まだ当分、寝られそうにないんだけど」

「あ、それ、食蜂先生の映像ですよねっ」

 ヒサオはレイが作業中の画面を覗き込み、

「やっぱり食蜂先生はオトナですよねぇ、他の子たちとは差があるっていうか……すごくいいですよね、このエントリー動画」

 レイは我が意を得たりとばかりに鷹揚に頷く。

「先輩はいま何をされてるんですか?」

「実はこれが夜なべをすることになる理由なんだけど……」

 レイは後輩に自分たちの計画――静止画を集めて動画にして拡散するという原始的な力仕事――についてと、自分に分担された役割について詳しく話をした。康祐たちからは特に口止めをされていたわけではないのでかまわないだろう、と思ったのだ。

「ヒサオくんは、いま、ヒマ?」

「先輩は僕に手伝えって言われてるんですよね?」

「そうしてくれると助かるんだけど、このままだとこの先一週間、毎日寝るのが三時を廻ってしまいそうなんで、もちろんタダでとは言わないから」

「お手伝いして差し上げたいのはヤマヤマなんですが、実は……」

 ヒサオは事情を説明してレイも深く頷いた。

「そうか、やっぱりそんなことになってるのか……」

「ここだけの話ですけどね、会長、だいぶショックだったらしいですよ」

「でも山崎さんは、学内ではぶっちぎりでトップを走ってるじゃない? それでも気になるの?」

「そりゃ、この映像見れば、誰だって危機感を覚えますよ」

 ヒサオはモニター画面に映る操祈の顔のアップに目を遣りながら言った。

「まだレースは始まったばっかりですし、二週間の選挙戦でこの先、なにが起こるかわかりませんから。先輩たちみたいな応援団が男子の中に拡がることを一番警戒しているのは会長ですよ」

「そうか……」

 こりゃ当分、事が終わるまでは何があっても生徒会室には行くまい、とレイは心に決めるのだった。

「それにしてもヒサオくんが黒田さんの実の弟ってのにはびっくりした。いいね、あんなに綺麗なお姉さんが居るって」

 二年二組のクラス委員の黒田アリスは、生徒会室で何度か顔を合わせたことがあったが、びっくりするほどの美少女だった。

 レイと同じ“純血種”で、黒い髪に黒い目の、どこか儚げな雰囲気がひと目を魅くのだ。

「姉っていっても、アリス姉は生まれてすぐに養子に出されてたから、僕には親戚のお姉さん、って感じなんですけど」

「ボクは一人っ子だったから、そういうのって凄く憧れるよ……うらやましい……あれ、黒田さんもエントリーしてるんじゃなかったっけ?」

「してますよ」

 ヒサオはこともなげに認めた。

「だよね、それなのに、君は黒田さんの支援にまわらなくていいの?」

「姉が会長の支援にまわって動いているので」

「ああ、そういうことか……」

「ええ、そういうことなんです。姉は次期会長候補の一人ですからね、会長の支援をとりつけておかないとならないんですよ」

 ヒサオは甘いマスクを分け知りにして笑んだ。

「なんだかねー、そういうのは……」

「ですよねぇ……でも姉が派閥の禅譲狙っている以上、会長の顔色を見るのは仕方ないと……だから僕も会長を支持しておかないとならないので、先輩のお手伝いはできません。でも情報を流す事ぐらいの事ならできますよ。僕だって男ですから、食蜂先生のランウェイ、見てみたいですからねっ」

 

 

「あによっ、あたしとのデートよりも優先することって……」

 操祈はベッドの上でころん、と身を返して仰向けになると、形の良い眉を翳らせて不満そうな顔で天井を見つめた。

「つまんないな……」

 このところ毎週のように週末はレイとのお泊まりデートだったので、今日の放課後、紅音からレイからだと言って、今週末のデートは先送りしたい、との話が伝えられたとき、とてもがっかりしていたのだった。紅音から慰められるほど表情にも落胆ぶりが出ていたらしく、教師の顔を取り戻すのに化粧室に入って気持ちを立て直さなければならなかったくらいに。

「週末、女のコをひとりにするなんてっ」

 つい愚痴がこぼれてしまう。

 枕に頤をのせて

「逢いたいな……レイくんに……」

 女の思いをつぶやいて顔を埋めた。

 すると――。

 

“あらあら、そんなにエッチがしたいのぉ、このアバズレさんは――?”

 眼を閉じていると、またもうひとりの自分が絡んできたのだ。

 こんなふうに悶々として眠れない夜になると、そいつは待ちかまえていたようにやってきては掻き回していくのだった。

 

 そうよ、だってレイくんは恋人なんだから……愛しあうのはあたりまえでしょ……。

 

“あはっ、とうとうひらきなおるようになったのぉ? イケナイこといっぱいして、すっかりチョロいさんになっちゃったのねぇ――”

 

 わたし、恥じるようなことなんてしてないわ……人を愛するのがイケナイことのはずがないから……。

 

“あらあ、そうなのぉ? でもあんなこと、フツーの女はしないのよぉ、男の子のあの可愛いお顔の上にしゃがむなんて、そんなはしたないことはぁ――”

 

 そんなこと……してないわ……。

 その時の事を思い出して、操祈はまたひとり真っ赤になっていた。体が恥ずかしさにカーッと熱くなる。と、ともに女の密やかな花芯がまた潤んだようになっていくのがわかるのだった。

 

“そうなのぉ、まぁいいわ、でもあんまりハメをハズして、ダイジなあの子から愛想をつかされないように注意なさい、セックスのときにナイーヴになるのは女よりも、むしろ男の方だってことをよく覚えておくンだゾ――”

 

「ハメなんて、ハズしてないもん……」

 操祈は枕を抱いたまま思いを口にして、心の声との対話を断ち切るのだった。

「みんな、レイくんが……いけないんだから……」

 

 

 



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悩ましき美女たち

 

          ⅩⅨ

 

「やっぱりスゴいですね、先生は……」

「あら、なんのこと?」

「ご存知じゃなかったんですか? 密森くんたちが頑張ってること」

 操祈はなんのことかわからず、きょとんとしたまま首を何度も横にふった。

 レイが何かしているらしいとはうすうす感づいてはいたものの、表立って問いただすわけにもいかず、そのままにしていたのだ。

「あの人たち、先生のオフィシャル映像をわざわざ一コマずつ撮りなおして、それを動画にしては次々にネットにあげて拡散してるんです。それで、その画像を見た人たちが一気にアクセスしてきてヴュワー数がうなぎ上り、あっという間に五十位以内になって来週末にはファイナル出場の二十位以内に入るのも間違いないって勢いだそうで……それにひきかえ私なんて二千位あたりをうろうろするばっかりなんですけど……」

「うーん、それって、例のミスコンのお話よね……」

「三千コマにもなる動画像を一コマずつ撮りなおしていたみたいですから、すごく根気のいる仕事だったと思うんです、きっとずっと寝ずの作業だったんじゃないかなって」

 話を聞いて操祈の心中は複雑だった。すなおに歓迎する気持ちにはなれそうもなかったからだ。出たくもないミスコンに引っぱりだされた挙げ句、さらにまだ恥の上塗りをさせられることになるかもしれないとしたら、ありがた迷惑もいいところだった。

 それにレイくんまでもが噛んでいるとしたら――。

 実際、あの映像が公開されて以来、教室運営にも差し障りを感じるようにもなっていたのだ。

 一部の男子生徒は彼女への性的な関心を露骨に示すようになっていたからだ。

 ただそれは教室内に留まらず、程度の差こそあれ職員室やその他の場所でもあって、そんな時にできることと言えば、「それ、セクハラですよっ」と、冗談めかして諌めるぐらいがせいぜいで、操祈の安息は侵害されていた。

 そんな迷惑なものをさらに拡散されているとしたら、ますます居心地が悪くなるばかりなのだ。

 困った子たち――。

 レイくんもレイくんよっ、そんなことのためにデートをすっぽかすなんてっ――!

 だからといって努力を否定することもできないのだった。余計なことをされていると思う一方で、ランキングが上がったと聞いてよろこんでいる自分が居るのも感じていたからだった。

 こんなことで自尊心がくすぐられるというのも安っぽくて嫌だったのだが、そもそも女心というものは自分でも扱いがやっかいに感じる身勝手なものなのだ。

 だからこのことで、多少なりとも唯香やその他の少女たちが傷ついているかもしれないと思うと、ますます慎重にふるまわなければいけないと、操祈は心密かに自分に言い聞かせるのだった。

「でも唯香さんがお話ししたかったのは、そのことではないんでしょ?」

「はい、ミスコンのことは始めからそんなに期待も関心もなかったので……」

 舘野唯香から折り入って相談したいことがあるから、と言われ、二人は校舎の屋上に来ていた。 

 土曜日の午後――。

 生徒たちの多くは週末のフリータイムを満喫している筈だった。

 いつもであれば操祈も帰り支度をしながら、デートのことを想って心を躍らせている時間。

 教室内には生徒の姿はなく、教職員も多くがもう帰途についたか、つきはじめている頃。

 それでも少女は二人だけになることにこだわって、職員室ではなく誰も居ない屋上にやってきたのだった。

 まだ十分に日が高いとはいえ十一月ともなると、さすがに吹きさらしの風は冷たく、外套を纏っていると丁度いいくらいの陽気だった。少し離れたところにあるグラウンドでは運動部の生徒たちが練習に精を出していて、遠く呼び子の響きが聞こえてくる。

 少女が望んだとおりの、二人だけで話のできるひと気の絶えた静かな場所。

「伺うわ、なぁに……?」

 が、あらためて訊くと少女の顔に躊躇いが泛くのだ。

 事情のあることだろうと察して、操祈は相手が話し始めるのを待つことにした。

 やがて少女は気持ちの整理がついたのか、ようやく口を開いたが余程のことなのか

「誰にも言わないで下さい……」

 と、また念をおしてくる。

「わかっているわ、約束よ……でも本当に私でいいのかしら? カウンセリングなら立派なプロの方が居られるのに……」

「先生じゃないとダメなんです……他の人には……誰にも話せないことなので……」

「いいわ……」

「前に先生にもお話ししましたけれど、わたし、交際()きあってる男の人が居るんです……」

 唯香の話は、初めは他愛もない恋愛相談のように聞こえていた。

 彼女には年上のボーイフレンドが居て、相手は家庭教師の大学生だという。

 交際――を、始めて数ヶ月になるとのことだった。

「年齢は先生と同じで、来年、法科大学院に進学することが決まっていて、将来は法律家になるつもりだって言ってました」

 けれども、うちあけ話をする少女の表情は翳ったままなのだ。

「まぁ、ステキな彼氏さんね、わたしにお惚気(のろけ)話を聞かせたかったのね」

 操祈は空気を変えようと冗談を口にしても、少女は控えめな笑みを覗かせるだけだった。

「でも、私、まだ十五なので……」

 話を聞いていて最初に抱いた懸念はその点だった。

 もしも“交際”というのが性的な意味を含んでいるのだとしたら、立場こそ違え、自分と同じ問題を抱えていることになる。

「あなたは……?」

「はい……彼とはそういう関係です……」

「そう……でも、だからといってすぐに問題になるわけじゃないでしょ? 恋愛はプライバシーで、あなたたちの中でのことだから……」

「そのことはあまり気にしていません……ただ……」

 唯香はまた口澱み、端正な顔を曇らせて俯いた。

「もし、なにかあったら……わたしは彼を追いかけることができるんでしょうか? そういうことが許されるんでしょうか……」

 相手の立場を慮って行動をしようとしている少女の賢明さが愛おしかった。

「なにか……気になることでもあるの……?」

「いいえ、わかりません……でも……」

「でも……?」 

「それを感じる時が……あるような気がして……だけど、よくわからなくて……わたし……」

 唯香の言葉が曖昧でわかりにくいのは、少女が肝心なことを言おうとして、言えずにいるからなのだと操祈にもわかった。今にいたってもなお、言うべきか言わざるベキかを迷う少女の葛藤が伝わってきて、かけるべき言葉を失ってしまうのだった。

 長い沈黙の後、少女は重い口を開いた。

「先生、本当に誰にも言わないで下さいね……わたし……」

 ともすれば泳ぎそうになる視線を上げて、操祈の顔を見つめる。顔を朱に染めて。

「こんなこと……留美ちゃんにだって話せないことなので……操祈先生にしか……」

 そういうことか――。

 常ならぬ容子から相談の内容を察した操祈は、果たして聞くべきかどうか迷ったが、突き放すわけにもいかずに寄り添う方を選んだのだった。

「それは私が聞いてもいいことなの……? 私に応えられるかどうかもわからないことよ……話してしまってから後悔するようなことにならないようにもう少し、時間をおいてからにしてはどう?」

 考え直すようにと促したが、むしろそのことで少女の心は決まったようだった。

「一成さんは私の最初の男の人なんです……だから、私、他の男の人のことを知りません……」

「あら、私って、もしかして唯香さんの目には恋多き女に映ってたりするの?」

「いいえ全然、そんなこと……むしろその逆で、一人の男の人を真剣に愛する方だって思ってます……だからお話しているんです……わたしもそうだから……」

「私にアドバイスできることなんて何もないと思うけど……」

「彼と最初に関係を持ったのは夏休みになってすぐのことです。それからは殆ど毎週、デートするようになって……」

「でも、あなたたちがデートするのって大変だったでしょ、やっぱり他人目とかがあるから……」

「それは大丈夫です、だって、女の子ってお化粧すればいくらでも誤摩化せたりするから」

「まぁ……」

 たしかに唯香は背も高く、制服を着ていなければ中学生には見えないのかもしれなかった。

 レイに付け髭をさせても、どこまでもレイのままであることを思うと、操祈は笑いの衝動に襲われて、場をわきまえずに吹きだしそうになってしまった。

「すごく幸せでした……本当に、こんなに幸せでいいのかなって思うくらい……毎週のデートが楽しみで……」

 女にとって恋が順調なときほど幸せを感じることはないだろう、操祈はそれをいま経験していてよくわかるのだった。ただ、少女が過去形を使っていることが気になる。

「今は……違うの……?」

 さぐりさぐり訊いた。

「わかりません……わからなくて……わたし……」

「………」

「先生は……大人の女の人ですよね……?」

 遠回しだったが、訊かれていることはわかっていた。答えをはぐらかすことが許されないということも。

 ただ、少女の問う意味での“大人の女”であると言えるのかわからなかったが、それでも、

「ええ――」

 頷いた。

「わかってます……先生が恋をされていることは……だからああいう時、男の人がいろんなことをするのはご存知ですよね……?」

「ごめんなさい唯香さん、そういう質問にはお答えしにくいわ……」

 

 



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悩ましき美女たち2

 

          ⅩⅩ

 

「でも大好きな人から……変なことを……された経験はお持ちのはずです……」

「変なことって……」

 すぐに何を仄めかされているかがわかって、操祈もパッと頬に朱がさしてくる。

「すごく恥ずかしくて、女がとても口にできないようなことって言えば、おわかりかと……だってそんなにお綺麗なんですから、男の人が放っておいてくれるはずがないので……」

 少女も、そして問われた操祈もすっかり顔を(あか)らめていて、もう互いに嘘も誤摩化しも利かなくなっていた。

 胸の裡をさらしての本音のガールズトークになっている。

「……おありですよね?……お口で……愛されたこと……」

 操祈は大きくため息をひとつついてから、観念したように頷いた。しまったと思ったが、もうその時には取り返しはつかなくなっていた。

「……ええ……あるわ……」

 覚悟を決めて認める。

「そうですよね……やっぱり……」

「やっぱりって……」

 それどころか単に経験する、という以上のことをしているという自覚もあるのだった。レイとのデートは、つきつめてしまえば淫らな愛撫に身を任せることだったからだ。

 ただ、そんなことは他人にはとても言えないことだった。

「きっと先生にしか、わかってもらえないことだって思っていたので……だからずっとお話ししたいなって……だって先生、お気づきですか?」

「気づくって、なんのこと……?」

「操祈先生って今、おもいっきり女のコのお顔をされてるんですよ、知り始めたばかりの恋に身を焦がしている女の顔を……」

「そんな……からかわないで、唯香さん……」

「だって仕方ないじゃないですか……先生だって女なんですから……」

「あんまり察しがいい子は嫌いなんだゾっ……」

 操祈は困り顔になって少女と顔を見合わせたが、やがてどちらからともなく表情をくずしてしまい、共感の頬笑みを交わし合って和やかな空気に包まれていく。

「でも男の人って変ですよね? どうしてあんなことするんだろうって? 一成さんも、そういう人には見えなかったので……」

 少女が愚痴をいい、レイくんもそうなのよぉ――と、操祈も胸の中では納得していた。

「わたし、ヴァージンを失うのって、痛いのをちょっと我慢すればいいだけ、ぐらいに軽く考えていたんです……好きな人とちゃんと向き合うためだからって自分に言い聞かせて……だから変なことをされたときにはすごくショックで、泣きたいくらい恥ずかしくて……」

「ええ、そうね……そうよね……」

 初めての時のことは今でもはっきりと思い出すことができるのだった。少女の当惑は、自分と同様に女であれば自然な反応だった。

「良かった、先生も同じで……」

「なにが良かったのよぉ?」

「だって、こんなきわどい話を聴いてもらえる人って、他に居ないじゃないですか」

 少女は操祈に身を寄せてきていて、いつしか二人は欄干に並んで肘をついて、外の景色をぼんやりと眺めながら、とりわけ濃い内容のやりとりをするようになっていくのだった。

 互いに同じような経験をしていて、頷けることや、分かち合えることが幾つもあったのだ。

 強い羞恥以外にも、女の身が感じる孤独や不安、そして言葉にならないくらいの心と体の感動について、裡に秘めていたものを表にするのは、それまで抱えていた罪悪感の重荷から解き放たれるような安堵があるのだった。

「ああいうこと、先生はおイヤじゃないんですか?」

 操祈は静かに首を横に振った。

 いまでもとても恥ずかしくて、できれば避けたい、逃れたいとさえ思うことなのだったが、それでも恋人の幸せそうな顔を見ると拒めなかったのだった。

「わたしもです、初めの頃はすごく抵抗があったんですけど……でも、いまはもう違うような……」

「違うような……?」

「違うっていうか……違わないっていうか……おかしいですよね、わたしも……イヤなんですけど、イヤじゃないっていうか……なんか言ってることが支離滅裂で……」

 唯香の言っていることは覚えのあることだった。

 女の気持ちはアンビバレントなものが矛盾しないで共存できる融通無碍なところがある。理屈なんかじゃなくて、もっと大切なものだと思いこめる我がままさも持ち合わせている。

「わかるわ……」

 操祈も頷いて少女に同意を示した。同志を得た心強さからか、少女も上気した顔をほころばせている。

「先生ならきっとわかってもらえるって、思ったとおりです……」

「困った子ね……唯香さんはまだ十五でしょ、それなのに……」

「いけないことですよね……でも、そうじゃないってことも先生はお分りなはずです……恥ずかしいことができるのはその人のことが大好きだからだし、その大好きな人から愛されることはもっと素敵なことなんだってこと……」

 レイからも同じようなことを何度か聞かされていたようにも思ったが、やはり同性から言われると納得感が違うのだ。

「でも、こんなこと生徒に打ち明けてしまって、良かったのかしら……」

「今は女同士ですから……わたし、このことは誰にも言いませんし、先生だってそうですよね」

「言えるはずないでしょ」

「もし先生のことが男の子たちの耳に入ったら、きっと嫉妬に狂ってここから身を投げるおバカさんたちが大量発生しますから、だから絶対にナイショにします」

「冗談でもそんなこといわないでっ」

「冗談ではないですよ、操祈先生って、本当に自己評価が低すぎるんです……男の子たちがどれだけ先生のことを崇拝しているかご存じないんですから。私だって、先生の彼氏さんにはちょっとジェラシー感じてるくらいなのに……だってその人は、先生のいちばん可愛いところを知っているんですよね……やっぱりうらやましいです……」

「そんなこと言って大人をからかわないでちょうだい」

 そう言ってから、二人は顔を見合わせてまた含み笑いになるのだった。さながら共犯者のように。

「お話しできて良かったです……」

「わたしもよ……」

「これからも、なにかあったら相談に伺ってもいいですか?」

「相談っていうか、もう、ただのガールズトークよね……いいわよ……」

 女たちはお喋りに興奮するあまり、それまで意識せずにいたのだが、不意に陽が翳ってきていて風が一段と冷たくなっていることに気がつくのだった。

 互いに身を守ろうとするようにコートの前を合わせる。

「温かいお茶を淹れるわ、職員室へ寄っていらっしゃい」

「そうですね、いただきます……でもその前に、最後にもうひとつだけお伺いしてもいいですか?」

「なぁに?」

「先生は愛されてる時に、怖くなることってないですか?」

「愛されてるときって……その……彼から愛されてるときのこと……?」

「はい、自分だけが愛されているときに……」

 これまでを振り返り、愛撫されているときに怖いと感じたことはなかったと思う。

「怖い?……唯香さんにはそう感じる時があるの……?」

 最初に思ったのは、異性に自身の生理を(つまび)らかにしてしまうことへの、女からすると当然のような畏れについてだった。しかし、少女の懸念はそのことではないようなのだ。

「なんだか自分が磨り減ってしまうんじゃないかっていうような、不安っていうか……やっぱり先生みたいな女の人にはないのかな……」

「よく、わからないけれど……」

 操祈は少女が自分の恋を過去形で語っていたことを思い出していた。気になったのだが、そのままになっていた。

「なにか思いあたることでもあるの……?」

「わたしもよくわからないんです……ただ、ちょっと訊いてみたかっただけです……すみません……」

「ねぇ唯香さん、もしも心配事があるんだったら、ひとりで抱え込んだりしないでね……せっかく“お仲間”になれたんだから」

 操祈がそう言うと、くすみかけた少女の表情が、またパッと明るさを取り戻し、少女時代に特有の愛らしい輝きを放つようになるのだった。

 

 



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号外 食蜂操祈に関する記事

 

 

日刊イブニング 202△年11月4日付

 

モリマンの『今が旬、気になるオンナたち』 第二百三十八回  文 森増☆万○助

 

 “美女(オンナ)ダービー” 俺はっ、この子の前張りに、じゃなかった、この子に全張りスルっ! その5

 

 

 

 

まいどっ! ナンチャッテ美女評論家のモリマンこと森増☆万○助でございますっ! 今宵もよろしくッス。

さてさて、いま(ちまた)で話題の、西東京プロムクイーンダービー! 正式名称を『ミス学園都市コンテスト』と言うんだそうでございますが、本紙ではそんなカタっくるしい名称にはこだわらず、ただ単に美女(オンナ)ダービーとして連日、有力馬ならぬ有力候補たちをお一人ずつピックアップしてお伝えしていることは本紙ご愛読のみなさま方には良くご承知のところ。これまでは知名度と容姿で他を圧倒するビッグフォーと称される最有力候補の方々、四名の美少女天使サマについて本紙独自の調査網を駆使したふかーい情報をご紹介して参りましたが、回を重ねること五回目となる本日は、少し角度を変えまして下馬評には上っていないものの隠れた有力候補と申しますか、突如現れた新星といいますか、本紙発掘!! モリマンイチオシのクイーン候補をご紹介! ということで、まずは彼女のご尊顔をドアップで。

 “うーん、これはふつくしいーっ” “ど真ん中、どストライクの超美人さんやっ!” 

おっ、さっそくため息とともにこぼれた読者諸兄のつぶやきが聞こえてきましたぞっ、うん、これは断じて空耳などではないっ!たしかに聞こえた、聞こえたっ!

豪華でありながら上品なロングストレートのブロンドヘア、ルージュを結んでいない清楚な口許から覗く真珠の歯並、おっきなお目々のちょっと茶目っ気を感じるやさしー笑顔のこのお方、なんと、今回の候補者の中でただおひとり、生徒ではなくて先生サマなのでございますっ!

 え、信じられないって? “こんな超絶かわええイキモノがセンセなんてありえなさすぎっ” “どーせまたいつもの未確認生物発見ってフライングネタだろっ、もー釣られネェゾっ!”

 ンなことおっしゃらずに、まぁいましばらくのお付き合いのほどを。彼女以外のダービー参加者が全員十代のJCとJKであるなか、たったひとりの二十代でのご参加、勇気あるなぁっていうか、やっぱりオンナのシュンは二十歳を越えてからでしょっ、てのをあらためて思い知らせてくれた彼女、ご芳名を食蜂操祈クンとおっしゃいます。御歳二十二歳、独身! ちょっと珍しいお名前ですからインパクトも大! でも巨っきいのはそれだけじゃないんですがそのハナシは後まわしにするとして、プロフィールがまたスゴい。飛び級二十歳で先端大の数学科をご卒業になられた才媛にして、誉れ高い名家のご出身とも言われる彼女、神さまってのはパラメーター配分、エコヒーキしてるんじゃね? って疑いたくなるほどのそりゃもう完璧な美女でございますっ! お顔立ちからすると、キャリアどおりの知的で清潔感のある雰囲気でいらっしゃるのですが、えーっ、そんなのありかよぉって思わず嬉しい悲鳴を上げたくなるのが、裏ページのバストショットと全身ショットございますぅ~。パラリ……ドヤっ! マイッタかぁっ! あんなカワイイ楚々とした美貌にこのボリューム感まん載のオッパイは予想外ですうっ! っていうかもー反則スレスレっ! 真っ白いお肌に、絵に描いたようなボンキュッボンの造形美! ほっそり長いあんよも食欲を煽らずにおかないスタイルバツグンの美ボディに、思わず、ヨダレが、ヨダレがっ……いったらっきまぁ~っすっ! と速攻ツッコミたいところでありますが……え? ナニ? “いくら学園都市でもこんなのが普通に街なかをウロついてる筈がありえねーw” “どうせフォトショ加工のツギハギコラよ、マジなら超歓喜っ! でもウソくせぇっ” “コレってもー素人のミスコンってレベルじゃないだろっ、釣り船にクルーザーが混じってる違和感っていうか、オッサン、股間のフェイクフラグが勃ってるぜっ” “モリマン、キサマまたやらかしおったなっ! 今度こそダマされねぇからなっ!”

おやおや、すぐにそんな、人を疑ってぇ~。そりゃ編集部でさえこの画にはザワザワしたんですからムリもありませんや。けどね、俺ってそんなに信用ないのかな~(泣)。そりゃね、ヤツガレも過去に何度かやらかしちまったことは認めますぜっ、でもちゃーんと謝ってきたじゃないですか、どこぞの大手さんなんかとは違って、いさぎよーくゴメンナサイ、マチガイでしたってヘーシンテートーチフクキハイ、え、カタカナで書いてるところがもうスデにココロがこもってない? おキャクさぁん、そいつぁ言いがかりってもんでさー、アッシハイッツモマッスグナオモイヲオトドケケシヨウトガンバッテマッセー! いやホントにっ、ホントにホントっ! でもってコレ、混じりっけなし、一切加工なしって正真正銘のモノホンですってば。だって公式動画を切り取ってまんまコピーしてただ貼付けただけのものなんですからっ! お疑いなら是非とも今すぐお調べ下さい、ミス学園都市コンテスト公式サイトに入って“食蜂操祈”クンで検索すれば、すぐにオリジナルの動画像にアクセスできますってば。ご自身の目でしっかとお確かめあれっ!! この豊かにみのったあまぁいお肉の果実がたゆん、たゆんっ、やわっやわに揺れ動くさまをっ! もう目の毒っ! 前立腺の毒っ! スレンダーなおカラダには痛々しいほどのお見事な美巨乳は、さぞや重たかろう、かわいそうにと全力で後ろから両手で支えてあげたくなること請け合いっ。ましてやアンダーの中味を想像したらもー大バクハツ必至っ! その覚悟をお持ちの方のみアクセスを。あぶないあぶないっ! そんなオトコゴコロの炎にホースでガソリンをぶっかける、罪深ーい彼女の気になるスリーサイズでございますが、まだ非公表だそうで、発表は本選進出の二十名に限られるとのこと。こうなったら操祈クンニ!は絶対に勝ち残っていただきたいところですが、万が一にも漏れた場合の保険として、本紙編集部の科学力を総動員して公式画像から分析した推計値を発表させていただきやしょう。ズバリ、身長170センチ、バスト93、ウエスト56、ヒップ87、股下89! やっぱ数字もハイスペックでありやしたっ! これはもう、是が非にも実寸大超高精細ホログラム映像を間近で確認したいところっ。そう思う諸兄には、ご同輩に情報を拡散、公式動画にアクセス、盛大に“いいね”をつけてもらえるように支援を願いますです、ハイ。

さて、美女(オンナ)ダービーもゴールまで余すところあと五日。いよいよ活況を呈して参りましたが、直近のデータでは操祈クンの順位はまだ六十九位!とのこと。ここはもう一踏ん張りしてもらい、なんとしてもファイナル進出を果たしていただきませんと。当日は学園都市内四百カ所以上に設けられるというホロスタジオのどこかで、読者諸賢とともに彼女の極上セクシーボディを目に焼きつけたいものですなぁ。サイゴに食蜂操祈クンのモリマン認定ビジョビジョポイントは期待値を含めて、本シリーズ最高の九十点越え、九十二点! とさせていただきやしたっ(\(^o^)/)。

 



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怪文書

本日2度目の投稿になります

ドラマを進めたかったので・・・


          ⅩⅪ

 

「どうしたの、なんかあったの?」

 室内を見たとたん、人の数の多さと沈鬱な空気にレイは目を丸くしていた。

 その理由はわかっていたのだが――。

 夏上康祐から至急の呼び出しを受けたレイは、ルームメイトのヒサオとのゲームを切り上げて康祐の部屋にやってきたのだった。室内には既にコースケの他にゆうちゃん、純平、ヤっさん、マコトのいつものメンツの他に、それぞれのルームメイトの一年生も三名ほど来て居て、男子寮の狭い室内は晩秋にもかかわらず男くさい熱気がこもっていた。

「みんなどうしたの、そんな不景気な顔して……」

 訊いてもしばらくの間、誰からも返事は戻ってはこなかった。

「あーあ、俺、もう生きていく気力、無くなったかもな……」

 床にへたっていたコースケが虚ろな顔を上げると、それをきっかけにしたように、「死にたい……」といううめき声があちこちからあがるのだった。

「みんな……なんで急にそんなこと……」

 昨日の夜はミスコンで操祈がとうとう二十位以内に入ったと判って、全員、報われた努力に快哉(かいさい)を上げていたのだが、今夜はうってかわって意気消沈、みんなこの世の終わりのような顔をしていた。

「それ、見てみろよ、そうすりゃすぐにオマエも俺らみたくなるから……」

 コースケはみんなが囲む床の真ん中に置かれた雑誌を大儀そうに顎でしゃくった。

 そこには騒動の発端、週刊センテンスプリンの最新号があった。

 問題となるその内容については、その日の午後に紅音からの報せを受けてレイも確認していて、いくばくかの衝撃を受けたのだが、それは友人たちが受けたものとは違う種類のショックだった。

 レイは初見のフリをして件の雑誌に手を伸ばすと怪訝そうにページをパラパラさせる。

「これがどうしたの……?」

 友を裏切るようで後ろめたかったが、韜晦(とうかい)に努めた。

「袋とじの記事、見てみな」

「袋とじ……?」

 袋とじの方は既に破ってあり、中味の確認がされていたが、レイはひとまず記事の方を開いた。

 そこには――。

 

『衝撃!! 学園都市屈指の名門校の超美人教師のマル秘×××ペロチュー画像流出かっ?!』

 

 という例によって低俗ゴシップ誌に特有の扇情的なタイトルが大見出しで打たれていた。大活字に掛かる吹出しには、わざわざ“ミスコンクイーン有力候補”とまで書かれて、ひと目を惹くようになっている。見開き記事の右ページには、目許に黒海苔が貼られていても彼女を知っている人であれば誰でも、食蜂操祈、と判る若い女性の網点写真が大きく掲載されていて、左側のページにも同様に目許を隠したビキニのバストショットと全身像がレイアウトされて読者の好奇を誘っていた。

 

#……世界的にも注目を集めることとなった学園都市主催の一大ビューティーページェント、ミス学園都市コンテストであるが……(以下略)……もいよいよ本選まであと二日(今週号発売日現在)と迫るなか、過日、本誌に気になる情報が寄せられていたものを本号において掲載し読者の判断を仰ぎたい……#

 

 オキマリのお為ごかしの空々しい文句が並んでいた。

 

#……学園都市屈指の名門校である常○台中学の教諭、食○△祈さん(22)は優秀な教師であるとともに、ごらんのように容姿にもめぐまれ、八面玲瓏、身持ちの良い女性として生徒たちにも人気の評判の美女で、今回のミス学園都市コンテストにもただひとりの二十代の候補者としてエントリーしている。当初は他の有力候補者と較べると知名度が低いこともあって評価は伸び悩んでいたが、エントリー動画のヴュワーの口コミによって徐々に支持を拡げていき先週末あたりから一気にブレーク、いまやコンテストの台風の目、クイーンの座を窺おうかというほどの注目を集める存在となっていた。だが、それとともに彼女の行状についての奇妙な情報も寄せられるようになって……#

 

 袋とじを開くとカラーページになっていて、いきなり目にとびこんできたのは緑色の虫のクローズアップだった。カマキリがこちらを威嚇するように上体を起こして鎌を振り上げている。物議を醸しているのはその背景に映りこんだ映像で、注視を促すように赤い破線で囲われていた。その部分を拡大した画像が次のページにあって、そこには白ニットのノースリーブで、ポニーテールの操祈と思われる被写体が壁に身を持たせかけ、白い喉元もあらわに頤を上げて何かに堪えるように虚ろな視線を彷徨わせていた。切なそうに両手でフレアースカートの前を抑えているが、何故かチェック柄の生地はこんもりと膨らんでいて、まるで中に人でも潜り込んでいるような具合なのだった。

 これがいつ、どこの場面であるかは少年にはわかっていた。修学旅行で泊まった奈良の旅館での早朝のことだと。あのとき少年は操祈との約束を少しだけ破って、彼女のカラダに女としての努めを思い出させていたのだ。普段着の操祈の愛くるしさと、それとは意外に思えるほどの豊潤なたくましい匂いとのギャップに理性の一部が蒸発して、自制することができなくなってしまったのだった。結局、操祈には女の涙をしっかり溢れさせることになって、少年は彼女と別れると誰にも会わないウチにと大急ぎで露店風呂へと直行していたので、愛おしいにおいを纏うという失態を繰り返すことはなかったが、まさかこんな写真を撮られていたとは、と、この事実を知ったときにはさすがに動揺を禁じ得なかった。

 だが冷静に振り返ると、あの場に自分たち二人の他に誰かが居たというのはありえなかったのだ。もし他人が居れば敏感な操祈は気がついたであろうし、盗撮されているとしても同様だった。そのいずれでもないとすると、偶発的な何か――しかない。そう考えて思い当たるのは、前の晩に一部の男子生徒がサイコキネシスを使って飛ばしたとされる超小型カメラ――レベル1の能力でできることなると、それは恐らく一円玉よりも軽いモスキートカメラと呼ばれる盗撮用の専用メカだろうとアタリをつけた――だった。そのことを思い出すと辻褄が合って、女子の念動力者たちによって跳ね飛ばされたカメラが、偶然、竹林の中に落ちたのだとすれば、カマキリのマクロ撮影という奇妙な構図の説明もつくのだった。

 ただ問題は二点あった。

 ひとつは誰がこの画像の持ち主かということ。そしてもう一つの懸念は他にも画像があるかどうか、だ。

 最悪なのは常盤台の生徒か関係者が持ち主で、他にレイ自身が映り込んでいるようなもっと決定的な写真がある場合だが、そのどちらも可能性は薄いのではないかと、少年は失態のダメージをやや楽観的に見積もっていたのだった。

 もしそうなら持ち主から少年に対して何らかのアプローチがある筈なのだが、今のところその気配はなかった。確信はないが、だからといって慌てる段階でもなかったのだ。もし動きがあれば対応を考えればいいだけで、今は静観で良かった。下手に動くと却ってやぶへびになりかねない。

 少年はそう冷静に現状を分析し、いたって静穏に事態の推移を見守ることに決めたのだった。ただ、紅音からの情報がなければ心の整理もつかないままに、まさに今この場でそれを知ることになって、友人たちの前で顔色を失うところだったが、幸いにしてダメコンのシナリオをつくる時間が十分にあったので、仲間たちと同じような顔をすることができたのだった。

 

 ピーピングトムの卑しさも臭う記事は更につづく――。

 

#……場所はどこかの公園か? フォーカスが手前の蟷螂(カマキリ)に合っているため肝心の背景はピントが甘く、残念ながらスカートの中に潜んでいる者が男か女かさえ定かではないが、彼女の官能的な表情からするとク○ニされているのはほぼ確実。ひと気のないとはいえ白昼、このように大胆な行為に及ぶとしたら、彼女のイメージは大きく毀損されることになり、ミスコンへの影響も……#

 

 記事に一通り目を通したレイは、しばし言葉もなく呆然とした風を装って無言でいた。が、いち早くたちなおって、

「よくできたコラだね」

 そう言って笑顔になるのだった。

 その言葉にすぐに居合わせた全員が反応を示した。みんな救いとなる言葉を待っていたようなのだった。

「コラ――?」

「どうしてそう言いきれるんだよ」

「ボクが逆に訊きたいのは、こんな記事をどうしてすぐに真に受けちゃえるのかってことの方かな? だってセンテンスプリンって低俗ゴシップの代表みたいなもんでしょ? あることないこと書き立てて、煽ったもん勝ちっていう編集方針の」

「だってな、コレ、操祈先生にしか見えないし……」

「それならどうしてこんなにピントがあまいのかな?」

「それは……」

「よく考えてよ、こんなのコラで簡単につくれるでしょ? 幾つかの写真を組み合わせれば、ボクらだってほんの数時間もあれば食蜂先生の全裸のラヴシーンをでっちあげるのだってできるし。ただそんな恥ずかしいこと、誰もしないだけで」

「コラ、なのか?」

「そりゃ断言はできないけど、でもわざわざピントをハズして虫の写真で隠すってところから言ってもかなり疑わしいよね。第一、食蜂先生がこんなことを屋外でするハズないし……屋内でだってして欲しくないけど……」

 レイの言葉に少年たちの中で少しずつ事体を前向きに捉えようとする空気が拡がっていった。

「時期を考えると、いちばんありえるのは、たぶん怪文書の類いかな?」

「怪文書?!」

「このミスコンは今や大注目となっている一方で、ちょっとした選挙戦の様相を呈しつつあるからね、伸張著しい先生の足をひっぱろうとして誰かが動いていたとしても少しも不思議じゃないでしょ。むしろ選挙に怪文書はつきものじゃない?」

「なるほど……」

「さすがはミツっちだ、やっぱアッタマイイっ!」

「うーん、そういう目もあるのか……ってことは俺らの操祈ちゃんはっ?」

「たぶん大丈夫だよ、だってあんなに清らかな人ってボクは他に知らないから。信じてあげようよ、先生のこと」

 レイの言葉に力を得て、少年たちの顔が再び明るさを取り戻していった。

「ホント、選挙っぽくなってきたね、怪文書まで飛び交うなんてさ」

「そうだなっ、よしっ、俺たちはそんな妨害工作なんかに負けずに、操祈先生をクイーンにするべく引き続き全力で支援していこうぜっ」

 夏上康祐がそう言ってみんなを鼓舞すると、

 一同、オウ! と、威勢を上げるのだった。

 

 



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学園祭初日

 

          ⅩⅫ

 

「分析はどうだ? 得票予想はでたか?」

 コースケがマコトに訊いた。

「ああ、ここ三日の得票数推移から三百万票以上は行けそうだ、順位は十八、九位ってところかな」

「ギリギリか……」

「でもないぞ、カットラインの二十位とは十二万票以上の差があるから、たぶんほぼ当確だから」

「そうか、よしっ、おいっヤッさん、そっちはどうだ? コラサイトの方は?」

「こっちも快調、昨日の深夜に開設してわずか十五時間足らずの間にアクセス数が五万に迫る勢いだぜっ、これって操祈ちゃんの人気があるからってことだよな」

「おうよっ、あんな化石のようなメディアの週刊誌なんかに負けっかよ、っていうか負ける気がしねぇっ」

 ヤッさんのとなりで同じく“コラ対策班”の純平が(いき)っている。

「おいレイっ、オマエ、なにチョコバナナクレープなんてチンタラ食ってんだよっ、このクソ忙しい時にっ」

 コースケが呆れ顔でレイを叱咤した。

「ゴメン、さっきトイレに行った帰りに二年三組の模擬店につかまっちゃってムリヤリ押しつけられちゃったから……すぐにマコトくんたちの応援に入るよ」

「オマエってホント、空気読めねぇなぁ、脱力させんなよぉ……っていうか、美味そうだな、俺にもひと口食わせろっ」

「いいよっ」

 釣り研究会の展示スペースとなった校舎二階の空き教室は、さながら食蜂操祈の選挙対策本部の様相を呈していた。そこには今、会長のコースケの他、ユーレイ会員のレイ(将棋部のユーレイ部員も兼務)、ヤッさん、将棋部のマコトと純平の他、コースケのルームメイトの後輩が一人居るだけで、客は一人も居なかった。

 みな鹿爪(しかつめ)らしい顔をしてパソコン画面やスマホに向きあっている。

 常盤台中学学園祭の初日、釣り研究会の企画は例年通りの“釣り堀”で、例年通りの閑古鳥だった。

 教室の真ん中にビニールプールを置き、そこに水を張って小魚を放流しただけの見るからにやる気の無い展示なのだから仕方がない。いっそのこと釣り竿ではなく“ポイ”を用意しておいて金魚すくいにした方が売り上げがあるんじゃないかとの声もあったが、それだと生徒会に睨まれかねないとのことで自粛したのだ。

 もっとも今年に限って言えば、みなが展示紹介そっちのけで揃ってミスコンの方に関心を向けていたので、客の相手をせずに済んで結果オーライといえる状況でもある。

 学園都市を震源として今や全世界からも注目される“西東京プロムクイーンダービー”は本日午前零時をもって投票数を非公表とし、明日の午後六時の締め切りまでの三十時間の獲得投票は全て専用AIによって機械的に管理されるために主催者側も結果を与り知らぬ、ということになっていた。またそれに先立つ本日午後零時――つい二時間余り前――には明日のファイナル進出権を残した予備候補者百名を発表していたが、そこでの各候補者の得票数も当然のことながら示されておらず、各陣営ともに自陣が応援する候補者の票読みと当落予想について無い知恵を絞り、最後の支持工作の追い込みをかけているのだった。

 公開投票締め切り時におけるトップは、下馬評通りに霧ヶ丘の北條真澄が強く、ただひとり五千万票越える得票数を誇り、それを追って藍鈴女子高の新居坂シルディアと常盤台の山崎碧子、それに長点上機の蔵本瑠樹亜が、それぞれ三千万票に迫る得票で、ビッグフォーと呼ばれる超美少女たちの強さを見せつけていた。

 しかし、操祈を応援するコースケたちはまだ彼女のクイーンを諦めてはいなかった。本選に出場さえできれば、彼女の生の魅力は必ずや観衆に届くと確信していたからだ。

 学園都市内のほぼ全ての学園、それと国内外のパブリックビューイングを含めて約七百カ所の特設スクリーンの周りに実際に集まることが予想される百万の観客は、その場で登録することでおのおの百ポイント――百票に相当する――の持ち点を与えられ、それを自由に振り分けてファイナリスト二十名に投票することができるからだった。つまりはまだ少なくとも三割もの票の行方が定まってはいないのだ。

 数字的には厳しいかもしれないが逆転可能といえる範囲にあって、彼ら操祈応援団はそこに望みを託しているのだった。

 また懸念された昨日の週刊誌記事の影響だったが、票の伸びにはさしたる変化が見られていないとの分析結果が得られていて、その点についても少年たちは勇気づけられていた。

「つまり、あのインチキ週刊誌の工作は無駄だったってことだな、要するにガセってことだ、ヤローふざけやがってっ」

「目には目を、歯に歯をってことでコラにはコラで対応したから、その効果もあったのかもな」

 外から教室に戻ってきたゆうちゃんこと黒川田勇作が、今も憤然としているコースケの肩を叩きながら言った。

 マコトが、件の週刊誌に対抗して操祈のコラ画像を多数作ってネットに流し、記事のネタにぶつけてみてはどうかと言い出し、それを受けたゆうちゃんが漫研や美術部の部員にまで声をかけて昨晩から操祈のエロコラを多数ネットに上げていたのだ。

 木を隠すなら森の中のたとえにもあるように、多数のデコイを撒くことで多少なりとも記事の影響力を削ぐことになれば良いと思って始めたものだったが、これまでのところネット界隈ではなかなかの反応があって結果はまずまず成功といえるものなのだった。

「漫研の方はどうだった?」

「おうっ、また三枚貰ってきたぜ、これで合計で十四枚。アイツらサスガにプロだわ、手早い手早い、三次元ソフト使ってディープフェイクをサクサクっとな、大したもんだぜ」

 勇作は手の中のメモリをコースケに示しながら言った。

「スゴいじゃん、みしちくれやっ」

「へっへっへ、今度のは操祈センセのオールヌードの絡みもありまっせぇ、ダンナ」

「おー、それは楽しみぃっ!」

 少年たちが湧き立った。

 レイも一応、みなに合わせていたが、当初はコラ企画については消極的なのだった。

 画像の所有者を不必要に刺戟することを懸念していたからだったが、ただ結果からすると、サイト内の掲示板にはそういったことを仄めかすような書き込みは一切無くて、逆に、キワドイ画像が“あれ”だけだったとの観測が強まって密かに胸を撫でおろしてもいたのだ。

「おー、すっげぇなぁ……なんか本物って言われたら信じちゃうかもしれねぇよ、俺……」

 居合わせた少年たちはヤッさんのパソコンのモニターに群がり、勇作が調達してきた新作コラのお披露目のお相伴にあずかっていた。

 画面には大柄な黒人男性の腰のあたりに馬乗りになった“操祈”の画像が映し出されている。

 本当の彼女はもっと肩が華奢で、胸のラインはずっと優美だし、何より乳首が本人のものとはくらべものにならないくらい大きくてふてぶてしい感じで、少女のような初々しさが魅力の操祈とはセックス経験の濃さがまるで違うとレイは思ったが、むろん口にはしなかった。

 ただ出来映えは見事で、それからすると週刊誌のピンボケが他愛も無いものにも思えてくる。あれこそ本当の操祈の美しさの片鱗を捉えたものだったが、如何せん画角も画質も悪すぎていた。

「俺、ちょっとトイレいてくるっ」

 画像に興奮した一人がそう言うと、

「部屋に戻るまでガマンしろやボケっ!」

 たちまち他の誰かに窘められて頭をかいた。

 いよいよレースのゴールまで残すところ二十七時間あまり、明日夕方六時には、二十名の中の最初の一人がランウェイを歩くことになる。レイを含めてほとんど全ての生徒は体育館の特設スタジオに集まり、美女たちの艶姿に目をみはることになるのだろう。

 ただ操祈本人は、“明日はお家で過ごす――”宣言をしていて、その場には居合わせないことが分かっていた。

 彼女が居れば、学内に密かに紛れ込んだマスコミにつけまわされることは確実だから、その方がいいと少年も思う。結果として、操祈が著名人の仲間入りをすることに手を貸してしまったことが良かったのか悪かったのかと言えば、おそらく後者だろうと思ったが、それでも恋人として彼女の美しさを多くの人に認めさせたい、という男の欲が優ってしまったようなのだった。

 きっとみんなびっくりするだろうな――。

 ホログラムは殆どリアルと同じに見える。

 明日の夜には、モニターでは伝わらない彼女のはちきれんばかりの魅力を世界が知ることになる。

 そう思うと期待と興奮とで今夜は眠れそうにもないのだった。

 




夜、もう一本書けるかどうか
三日もサボったので・・・


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学園祭二日目

 

          ⅩⅩⅢ

 

#……みんなでわたしのことをバカにしてぇ……なにがミスコンよぉっ……学園祭なんて大ッキライっ……あーあ……つまんないな……

 ガサガサ――。

 カリカリ――。

 もー学校には絶対に行かないんだからっ、ストよっ、ストライキよっ、先生だって怒る時は怒るんだゾぉっ――。

 ガサガサ――。

 ポリポリ――。

(空白――男女の話し声、時に操祈と思われる鼻歌)

 ……この身死すとも……地をさまよいし我が心、歓びに震えんって、シェリーよね、キーツじゃないわ……そうだった! クリームシェリーみたいな甘いお酒にはぁ、苦ぁーいチョコレートがいいのよねぇ……うん……シェリー、シェリーっと……

 トクトクトク、コポコポコポッ――。

(空白――テレビの音声とみられる話し声、時にカウチの軋む音)

 あらぁ、もうなくなっちゃったの……だらしないわねぇ……もうちょっとガンバリなさいよぉ……あなた七百五十ミリリットル入りなんでしょ、なんでそんな簡単になくなるのよっ……早過ぎるじゃないのよぉ……。

 ゴクゴクゴクゴク――。

 ふーっ……。

(空白――テレビの音声、時に咀嚼音)

 んん? 足の指の爪が伸びちゃったかしらぁ? たしかぁ……あれと同じやつでミニチュアのレプリカのお土産があったはずなんだけどぉ……でも正直者の操祈ちゃんに、あれは“爪切り”にはならないのよねぇ……うーんと爪切り……どこだったかしら……。

(空白――テレビの音声、パチンパチンと爪を切るらしき音、時に嚥下音と咀嚼音)

 パタパタ、カタンカタン――。

 んーん、おっかしいなぁ……たしかこの棚に、とっておきのヤツがあったはずなんだけどぉ……いったい誰が呑んじゃったわけぇ……変でしょっ……あるはずのものがないなんてぇ……棚の後ろに穴でも空いてるのかしら……うーん無いっ!……。

(空白――テレビの音声)

 ふわぁ~あ……眠たい……もーお布団で寝ちゃおうかな……。

 ガサゴソ――。

 カリポリ――。

(空白――テレビの音声)

 なーにがアメリカンニュースサービスのジョー・ブラッドレーよぉ、そんなにあたしのことが好きならさっさと(さら)って逃げちゃえばいいのにっ、ホント、男って肝心な時に意気地がないんだからっ……って思うわよね、オンナならぁ……。

(空白――エンドクレジットの賑やかな音楽)

 あったまいたーい……もう、イヤぁ……オレンジジュースが飲みたいっ……!#

 突如、烈しいノイズ――。

 音声データはここで終わっていた。

 唯一、聴取できたデータの再生が終わると、碧子は不機嫌そうに頬をひきつらせた。

「なんなの、この呑んだくれの酔っ払いが昼間からクダ巻いているのはっ」

「休日をどうすごされようと勝手じゃないですか?」

「男の声がしていたようだけど……」

「あれはたぶん、テレビかと」

「舘野さん、ちゃんと私にわかるように説明してっ、他のが何も無いってどういうことっ?」

「わたしはあなたからお与りした盗聴器と盗撮器を食蜂先生のバッグに忍ばせておきました。ご命令通りにやりましたよ」

 唯香は碧子の指示に従って一週間ほど前、操祈の目を盗んでオープントートの中に超小型の三つの盗撮器と六つの盗聴器を忍ばせていたのだ。どれも自走式のもので、ターゲットの部屋に侵入すると小虫のように勝手に室内に散らばって記録を始め、それを特定の受信機に向けて送信するようになる卑劣なスパイグッズだった。

 ただひとつ碧子に言っていなかったのは、操祈にはスパイグッズの件と、もし()だなら“アシダカ軍曹”の購入を勧めるように伝えていたことだった。“軍曹”は意識高い系女子の間で密かに拡散している強力なアンチスパイグッズのひとつである。

「あのモデルはレベル3の能力者でも探知できない最新型の筈なのに、初日に盗撮器が全滅? 盗聴器も一週間と保たないなんて……」

 碧子は憮然とすると同時に珍しく当惑げな顔もしているのだった。目論見が外れたことは彼女でも予想外だったらしい。相手の力量を測り間違えたかもしれないという疑念が胸に浮かんでいるのが伺えた。

 しばし思案中の碧子を前に、唯香は間を持たせるために会長専用室をぼんやりと見回した。

 山崎碧子の個室は他の寮生の合い部屋に較べても倍以上の広さがあった。

 いかに彼女が学内で特別扱いされているのかが窺えたが、背景を思えばそれも宜なるかな、なのだ。

 八年前の巨大スキャンダルで失脚を免れた唯一のビッグファミリーの血族――。

 ベッドもデスクも小物にいたるまで、どれも華美ではないが上品なものばかりが誂えられている。

 いかにも高級感のある整った調度、良い香り……。

 きっと男子がこの部屋に招かれれば、一瞬で彼女の虜になってしまうのだろう。

 でもどこか作り物くさくて自分の肌には合わない、と唯香は思うのだった。

「操祈先生の能力が戻っているなら不思議じゃないですよね……私がやったことにも気づいておられたのかもしれませんけど何もおっしゃられなかった……そういう方なんですよ……もういいですよね、私はこれで失礼させていただきます」

 唯香は息苦しい部屋から外へ出ようと背を向けた。

「お待ちなさいっ、話は済んでないわ」

「まだ何か――?」

「あのオンナに男が居るのはわかってるのよ、舘野さん、あなた何か気がついたことはなくて? 代表に選ばれたことで一緒に居たことも多かったハズよね」

「いいえ、なにも――」

 唯香は嘘をついたが、操祈とのこみいった打ち明け話を碧子に話してやる気など毛頭なかった。

「例の雑誌のことについてはどう? あれは事実だと思うんだけど……澄ました顔で裏ではあんなハシタナイことしてるなんてっ」

「雑誌? あの週刊誌のことですか? あれはあなたが手を回してやらせていたんですよね?」

「私が? 冗談を言わないで、私にはなんの関係もないわ。いま調べさせているんだけど情報の出所がなかなか掴めないのよ……食蜂先生はあの件で何か言ってなかった? 感じたことはない?」

「いいえ全然、記事のことさえご存知ないのではないかと思いますけど。そもそも低俗誌のレベルの低いコラに拘るひとなんて限られるんじゃないですか?」

 唯香は皮肉ったが、碧子は感情を表にはしなかった。しかし逆にそのほうが威圧感がある。

「あれはコラなんかじゃないわ……」

「どうしてそう思うんですか?」

「わかるのよ……感じるの……」

「私には能力が無いので、そういうのはさっぱりわかりません」

「ねぇ、あなたわかってるわよね……もしもこの私を裏切るようなことがあれば……」

「また脅しですか?」

「脅しているわけじゃないわ、これは取引だから。だからこちらもそれに見合うものを戴きたいと思っているだけよ」

 碧子は近くまで歩み寄ると、唯香の前に立って彼女を見上げていた。

 背は唯香の方が少し高かったが、見下ろされているのを感じる眼差しなのだった。美しく妖しく輝く碧い瞳が唯香の心の奥を探るようにひたと見据えている。

「また私に水を使うんですか?」

「いいえ、今日はもういいわ……私も忙しいし……」

 その言葉に唯香はホッとした。だが努めて顔には出さないようにする。サイコメトラーはメンタリストではない、そこが少女の心の支えとなっていたからだ。

「私も演劇部の方があるのでこれで失礼させていただきます」

 唯香はノブを引いてドアを開いた。外の廊下の空気が芳しく感じる。

「……ああそれと、ファイナル進出、ほぼ確定しているようでおめでとうございます。夕方、私たちは体育館には行きませんけど、きっと会長にはマスコミの方からの取材もあるでしょうからお忙しくなりますね――」

 



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ファイナルステージ

 

          ⅩⅩⅣ

 

 あらかじめ場所取り要員として一年生のルームメイト四人を送り込んではいたものの、予想を遥かに超える盛況ぶりで、少年たちが体育館を訪れた時には既に人が出入口から溢れるような状態になっていた。押し掛ける人々によって館内はまさに立錐の余地もなく、レイを含む六人は一歩前進二歩後退の遅々とした歩みで中央の特設ランウェイステージを目指したのだった。

 彼らが這々(ほうほう)(てい)でステージのまわりの着座スペース――五列ほど、二百名分ほど用意されていて、ここが在校生徒たちに割り振られた場所だった――に辿り着いた時には、時刻は午後五時五十五分をまわり、体育館正面壇上に設置されたスクリーンはカウントダウンを始めて居た。

「こりゃ千人なんてもんじゃないな、ウチだけでもその数倍は居そうだもんな」

 コースケが後ろを振り返りながら驚きに顔を輝かせた。数が増せば増すほどファイナルステージでの獲得票のウエイトが増し、操祈に有利になると考えているからだった。

 一階の簡易着席スペースが十列、八百席ほど用意されていたが満席、その外側には座れなかった立ち見客が鈴なりになっている。二階席を見上げても同様で、さながらNBAファイナルのような熱気なのだ。

「おい、そろそろだぞっ!」

「「「10、9、8、7……」」」

 コンテストの開始を待ちかねた観客が一斉に唱和して、建物を揺るがせるような大音声になっていく。

「「「……3、2、1、ゼロっ!!!!」」」

 耳をつんざくようなファンファーレとともに、正面の巨大スクリーンに『NEO一端覧祭特別企画 ミス学園都市コンテスト ファイナル』の文字が映し出され、次いでさまざまな言語による表記に変わっていった。

 壇上下手からホスト役の男性アナウンサーとアシスタント役の女性タレントの二人のホログラムが入場して、挨拶をする。日本語で行われていたが、海外の百六十三カ所の会場ではリアルタイムで現地の言葉に翻訳されているとのことだった。こうしたイベントの運営、規格の管理、映像の権利等を全て主催者である学園都市の学園側がにぎり、全世界に一斉に同時配信をしているのは、さすが――と、言えた。

 ホストによる一般へ向けての解説によると、公平を期すためにファイナルの二十名は得票順でも名簿順でもなく、全てAIによってランダムに選ばれて登場するということだった。投票はどのタイミングで行われても有効で、コンテスト開始の六時から終了の八時までの間であれば何度でもやり直しが行えるという。現在、会場に居る登録者数は三千八百二十七名、この会場だけでも約四十万票を巡っての美しき女たちの闘いが間もなく開始されるのだった。

「先生は出るよね?」

 レイも気持ちが(たかぶ)っていて確かめずにはいられなくなっていた。

「ああ、ぜったいまちがいないっ、あの後も何度も計算しなおしたから」

 分析責任者のマコトが請け合った。

「たぶん、今、三百二十万から三十万票ぐらいで十八位だと思う」

「でも、北條真澄はもっと伸ばしてるんだろ?」

「まあね……もう五千五百万ぐらいになってるかもしれない……」

「五千万以上の差か……きついかな……」

「ヤス、なに日和ってんだよ、この観客数を見ろよ、予想の四倍だぞっ、ってことはもしかすると全世界で三億から四億の票の取り合いになるってな話かもしれないんだぜっ。これまでの倍の票がこれからの二時間の間に動くんだから、まさに勝負はこれからってことよ」

 コースケがまともなことを言って仲間を鼓舞した。

「おまえらみんな、操祈ちゃんに全振りだよなっ」

「「「とーぜんっ!」」」

 全員がそれに応える。

「よしっ、はじまるぞっ!」

 

「エントリーナンバー一番……」

 ホストがバックヤードから廻ってきたメモを受け取り読み上げる。そのタイミングに合わせて正面巨大スクリーンに選ばれた美女の名前が大写しにされて、会場全体がどよめいた。

「桂川結衣奈、香椎坂中学所属、十五歳、身長百六十三センチ、スリーサイズは八十二、五十五、八十四……」

 同時に、アシスタントの女性が壇上正面の扉を開くと、そこにはビキニ姿にされた色白の美少女が一人、佇んでいた。不安そうな眼差しをあたりに配りながら出てくると、ランウェイをまっすぐに歩いて観衆の間を分け入っていく。

 ステージの端近くまで来たところで足を止めると軽くポーズを決め、

「桂川結衣奈です、香椎坂中学の三年生で……」

 自己紹介とアピールをした。

 この演出の全てがホログラムで、世界中で同じ映像が配信されている筈だったが、まったくリアルと見まごうばかりの高い完成度で、手を伸ばせば触れられるのではないかと思えてしまうのだから驚きの技術力だった。

 まさに学園都市の面目躍如である。

「可愛いなぁ……桂川結衣奈ちゃんか、すっげぇカワイイじゃん……」

 レイやその仲間たちも思わず見蕩れてしまう正当派の美少女だった。ストレートのサラサラヘアの黒髪に色白の体、繊細な印象だがつくべきところにはしっかり肉がついてメリハリのあるプロポーションをしている。それが幼さの残る声で自身のチャームポイントを訴えていくのだから、間近にしている男子には堪えられない見ものになっていた。

「いまの子って何位だったっけ?」

 純平がマコトに訊くと、すぐにマコトはスマホから自分のサイトに入ってデータを照会した。

「七位かな……うん、七位だ……千九十万票――」

「七位か……さすがにシングルはレベル高ぇなあ……」

「シングルに限らず、ここに上がってくるのはみんな超A級、S級ばっかりだよ。なんせ美人度が高いとされる学園都市の中にあってさらに選り抜きの四千人の中の二十人だからね、そりゃハイレベルは当然さ。これから一時間半ほどの間、じっくり目の保養をさせてもらおうや、こんな目の前で見られる機会なんてもう二度とないかもしれないんだからな」

「おいマコトっ、能書きはいいが、俺らが何のためにここに居るのかってことだけは忘れんなよっ」

 コースケがマコトをつかって一同に念押しをする。

「俺らの操祈ちゃんはもっとずっと凄いにキマッテルんだからな」

「たしかにっ、いよいよ楽しみになってきたなっ」

「食蜂先生のビキニ姿をこの距離で見られるってだけでも、楽しみだし嬉しいよね」

 レイがそう言うと、全員が大きく頷くのだった。

 

 

「……うーん……あたし、寝ちゃったのか……」

 カウチの上で目を覚ました操祈は、レースのカーテンの外がすっかり暗くなっていることに気がついて、眠そうに目をしばたたかせながら壁の掛け時計に目を遣ったのだが、暗くて何時なのかわからなかった。

 テレビはつけっ放しになっていて、見なれないスポット番組をやっているようである。

 ローテーブルの上には食べかけのスナック菓子の袋や、飲みかけの酒類がそのままになっているという荒れようだった。

「そっか……文化祭だったっけ……」

 頭がはっきりしていくとともに、今日が学園祭の最終日二日目で、妙なイベントがあるのを嫌って、一日、自室で自堕落な生活を送っていたことを思い出していた。

 酔い覚めで体が冷えてしまったのか、何度も盛大にくしゃみを繰り返してしまう。

「あによぉ、もう……風邪なんてひいてらんないんだからっ! さむっ」

 カウチから身を起こすと、乱れたままの頭を掻きながらリモコンでリビングの照明を点けた。

 パッと明るくなって眩しそうに眼を細める。

「え、もうこんな時間なのっ!」

 時刻は間もなく九時になろうとしていた。

 




今夜からアニメの方も新シリーズの再開で
新鮮な操祈が楽しみです



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ビッグフォー

 

          ⅩⅩⅤ

 

「エントリーナンバーナイン……」

 スクリーンに名前が映し出され、会場が再び沸いた。

「「「蔵本かよっ!」」」

「「ビッグフォーの連ちゃんとは豪華だなぁ」」

「……蔵本瑠樹亜(くらもとるきあ)、長点上機学園中等部所属、十四歳、身長百六十二センチ、スリーサイズは八十五、五十七、八十七……」

 大会ミスパーフェクトの呼び声も高い山崎碧子の次に登場したのはセミロンの銀髪、青白いほどの肌に神秘的な赤い瞳をした美少女だった。そのどこか人間離れした端整な容姿には、碧子の圧倒的とも言うべき完璧な美貌と圧巻のパフォーマンスに動揺醒めやらぬ会場が再び水を打ったような静寂に包まれ、そして大歓声に変わっていった。

「始めて見るけど、あれが長点上機のメトセラ、蔵本瑠樹亜か……ホントすげぇな、あんなイキモノが居るってのは……」

「なんかもう、俺、だんだんアタマがついていけなくなってきたみてぇだ……あいつらってみんな人間のオンナなんだよなっ?」

 純平が怪訝そうに眉をしかめて仲間の顔色を窺いながら言った。

「見てりゃワカルだろっ、あんないいカラダしたバケモンが居るわけねぇしっ」

 コースケにツッコマレて頭を軽くハタかれる。

「だってよー、さっきから俺のチ○コがピクリとも反応しネェんだぜっ、ビビっちまってんのかなぁ……」

「シケタ(ツラ)すんなって、こっちまで萎えてくるからよ」

 そう言うコースケも何かに気づいた様子で不意に複雑な表情を見せるようになる。

「どうしたコースケ?」

          ⅩⅩⅤ

 

「エントリーナンバーナイン……」

 スクリーンに名前が映し出され、会場が再び沸いた。

「「「蔵本かよっ!」」」

「「ビッグフォーの連ちゃんとは豪華だなぁ」」

「……蔵本瑠樹亜(くらもとるきあ)、長点上機学園中等部所属、十四歳、身長百六十二センチ、スリーサイズは八十五、五十七、八十七……」

 大会ミスパーフェクトの呼び声も高い山崎碧子の次に登場したのはセミロンの銀髪、青白いほどの肌に神秘的な赤い瞳をした美少女だった。そのどこか人間離れした端整な容姿には、碧子の圧倒的とも言うべき完璧な美貌と圧巻のパフォーマンスに動揺醒めやらぬ会場が再び水を打ったような静寂に包まれ、そして大歓声に変わっていった。

「始めて見るけど、あれが長点上機のメトセラ、蔵本瑠樹亜か……ホントすげぇな、あんなイキモノが居るってのは……」

「なんかもう、俺、だんだんアタマがついていけなくなってきたみてぇだ……あいつらってみんな人間のオンナなんだよなっ?」

 純平が怪訝そうに眉をしかめて仲間の顔色を窺いながら言った。

「見てりゃワカルだろっ、あんないいカラダしたバケモンが居るわけねぇしっ」

 コースケにツッコマレて頭を軽くハタかれる。

「だってよー、さっきから俺のチ○コがピクリとも反応しネェんだぜっ、ビビっちまってんのかなぁ……」

「シケタ(ツラ)すんなって、こっちまで萎えてくるからよ」

 そう言うコースケも何かに気づいた様子で不意に複雑な表情を見せるようになる。

「どうしたコースケ?」

「なんでもねぇ……」

「だってよ……」

「だからなんでもねぇって言ってんだろっ!」

「オマエだってそうなんじゃねぇのっ」

「だからチゲぇよっ」

「じゃあ、なんで前を隠してんだよっ」

「うっせーなぁっ! なんか本気でねぇんだよっ、こう美形ばっかりだと調子くるうっていうか……」

 胡座の股間を庇いながら言い訳をした。

「このトシでインポになんてされちゃかなわねぇよな……」

 純平が情けない声を発すると、横に居たレイが慰めた。

「大丈夫だよ、純平くん」

「知恵者レイ、おまえはどうなんだ?」

「別に、ふつうだよ……美人だからって勃たなくても少しもおかしいことじゃないから」

「そう、なのか?」

「勃つかどうかって、そのコのことが好きかどうかでキマルことだからさ、べつに不能になったってわけじゃないよ」

「そうか……なんか……そうかもしれねぇよな……」

「ボクたちの歳で不能になることなんてないから。大好きな女の子にエッチなことをしているのをイメージすれば、すぐにカッチカチになるから心配しないで」

「おう……」

「俺はもーカッチカチ、今までの子となら全員とヤレる自信があるぜっ」

 マコトが巨体を揺すり、太ましい両脚の間を見せびらかすように上体を反らせた。

「オメェは節操無さ過ぎなんだよっ」

 ヤッさんが広い背中をパチンと叩いた。

「俺はこれまでのところ、立花アリサかな……いちばん気になったのは……」

「誰だっけ、立花アリサって?」

「三番の子、枝垂桜学園の――」

 言いながらスマホで当該少女の画像を見せた。

「ああ、この子か、うん、いいよねっ、ちょっと年上ってのが美味しそうだったりするから。ゆうちゃんの趣味って、ボクと近いかもしれないな」

「レイ、おまえら浮気すんなよっ、俺らは操祈ちゃん一本でまとまってるんだからなっ」

「浮気するなんて毛頭ないよっ、それよりまだ先生、出てこないのかな、だんだん心細くなってくるよ……」

「大丈夫にきまってっだろっ」

 少年たちの顔にはまだ余裕があったが、ビッグフォーの二人を残して十五人目を過ぎても、なお操祈の名が呼ばれずにいると次第に憂慮と焦躁の色が広がり始めるのだった。

「マコトぉ、ホントに大丈夫なんだろうなっ?」

「大丈夫だと思うんだけどな……」

「思う、なのかよ……」

「エントリーナンバー、十六番――」

 ホストの声に、少年たちは両手を合わせて祈るような面持ちになってスクリーンに注目したが、すぐに落胆に変わるのだった。一方で、黄色い歓声がひときわ大きくあがっている。

新居坂(にいざか)シルディア、藍鈴女子高校所属、十七歳、身長百七十五センチ、スリーサイズは九十一-六十-九十……」

 扉の中から現れたのは、艶やかなブルネットをショートヘアにした手脚の長い精悍な印象の美女だった。見事なプロポーションをしているが、同時にユニセックスの雰囲気も放っている。

「やっぱプロのモデルは違うな。前の連中と較べると歩き方からしてもポーズの決め方にしても狎れたもんだ」

「こういう女に見合う男って、どんなんだろうな? 俺は隣を歩く自信がまるでねぇよ」

「あのなヤッさん、今まで出てきた十六名全員、オメぇとは釣り合わねぇんだよ。横に居るとマネージャーか使用人と思われるのが関の山だな」

「コーの字、テメェもなっ」

 いつもながらの鞘当てとなったが、それが盛り上がることはけしてなかった。

「そんなことよりあと四人だよ、うち一人は確実に北條真澄だよね、そうすると三枠しかないけど、あと有力候補で誰が残ってるの?」

 珍しく焦眉の色濃いレイはマコトに確認を求めた。

「あと、残ってるのは……あ、桐峰真幌が居たか……」

「桐峰真幌!?」

「予選で五位の得票だった、ビッグフォーにいちばん近いヤツ」

「じゃあ、あと枠は二つしかないってこと?」

「ああ……」

「そうなると次、先生がこないと厳しいってことか……」

 レイが口にすると、少年たちは不安げな顔を見合わせるのだった。

「エントリーナンバー、セブンティーン……」

 ホストのコールが英語と日本語がごっちゃになっていたが、もはや誰も気にしてはいなかった。

 少年たちは悲壮感さえ漂わせてスクリーンに目をむけている。

 と――。

 

「なんでもねぇ……」

「だってよ……」

「だからなんでもねぇって言ってんだろっ!」

「オマエだってそうなんじゃねぇのっ」

「だからチゲぇよっ」

「じゃあ、なんで前を隠してんだよっ」

「うっせーなぁっ! なんか本気でねぇんだよっ、こう美形ばっかりだと調子くるうっていうか……」

 胡座の股間を庇いながら言い訳をした。

「このトシでインポになんてされちゃかなわねぇよな……」

 純平が情けない声を発すると、横に居たレイが慰めた。

「大丈夫だよ、純平くん」

「知恵者レイ、おまえはどうなんだ?」

「別に、ふつうだよ……美人だからって勃たなくても少しもおかしいことじゃないから」

「そう、なのか?」

「勃つかどうかって、そのコのことが好きかどうかでキマルことだからさ、べつに不能になったってわけじゃないよ」

「そうか……なんか……そうかもしれねぇよな……」

「ボクたちの歳で不能になることなんてないから。大好きな女の子にエッチなことをしているのをイメージすれば、すぐにカッチカチになるから心配しないで」

「おう……」

「俺はもーカッチカチ、今までの子となら全員とヤレる自信があるぜっ」

 マコトが巨体を揺すり、太ましい両脚の間を見せびらかすように上体を反らせた。

「オメェは節操無さ過ぎなんだよっ」

 ヤッさんが広い背中をパチンと叩いた。

「俺はこれまでのところ、立花アリスかな……いちばん気になったのは……」

「誰だっけ、立花アリスって?」

「三番の子、枝垂桜学園の――」

 言いながらスマホで当該少女の画像を見せた。

「ああ、この子か、うん、いいよねっ、ちょっと年上ってのが美味しそうだったりするから。ゆうちゃんの趣味って、ボクと近いかもしれないな」

「レイ、おまえら浮気すんなよっ、俺らは操祈ちゃん一本でまとまってるんだからなっ」

「浮気するなんて毛頭ないよっ、それよりまだ先生、出てこないのかな、だんだん心細くなってくるよ……」

「大丈夫にきまってっだろっ」

 少年たちの顔にはまだ余裕があったが、ビッグフォーの二人を残して十五人目を過ぎても、なお操祈の名が呼ばれずにいると次第に憂慮と焦躁の色が広がり始めるのだった。

「マコトぉ、ホントに大丈夫なんだろうなっ?」

「大丈夫だと思うんだけどな……」

「思う、なのかよ……」

「エントリーナンバー、十六番――」

 ホストの声に、少年たちは両手を合わせて祈るような面持ちになってスクリーンに注目したが、すぐに落胆に変わるのだった。一方で、黄色い歓声がひときわ大きくあがっている。

新居坂(にいざか)シルディア、藍鈴女子高校所属、十七歳、身長百七十五センチ、スリーサイズは九十一-六十-九十……」

 扉の中から現れたのは、艶やかなブルネットをショートヘアにした手脚の長い精悍な印象の美女だった。見事なプロポーションをしているが、同時にユニセックスの雰囲気も放っている。

「やっぱプロのモデルは違うな。前の連中と較べると歩き方からしてもポーズの決め方にしても狎れたもんだ」

「こういう女に見合う男って、どんなんだろうな? 俺は隣を歩く自信がまるでねぇよ」

「あのなヤッさん、今まで出てきた十六名全員、オメぇとは釣り合わねぇんだよ。横に居るとマネージャーか使用人と思われるのが関の山だな」

「コーの字、テメェもなっ」

 いつもながらの鞘当てとなったが、それが盛り上がることはけしてなかった。

「そんなことよりあと四人だよ、うち一人は確実に北條真澄だよね、そうすると三枠しかないけど、あと有力候補で誰が残ってるの?」

 珍しく焦眉の色濃いレイはマコトに確認を求めた。

「あと、残ってるのは……あ、桐峰真幌が居たか……」

「桐峰真幌!?」

「予選で五位の得票だった、ビッグフォーにいちばん近いヤツ」

「じゃあ、あと枠は二つしかないってこと?」

「ああ……」

「そうなると次、先生がこないと厳しいってことか……」

 レイが口にすると、少年たちは不安げな顔を見合わせるのだった。

「エントリーナンバー、セブンティーン……」

 ホストのコールが英語と日本語がごっちゃになっていたが、もはや誰も気にしてはいなかった。

 少年たちは悲壮感さえ漂わせてスクリーンに目をむけている。

 と――。

 

 




昨夜は久しぶりに動く操祈を見られてハッピー


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ミラクル〜奇蹟の証人〜

          ⅩⅩⅥ

 

 正面巨大スクリーンに『食蜂操祈』の名前が表示された途端、

「「「「「「キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」」」」」」

 応援団の少年六人全員がその場で跳び上がって派手なガッツポーズを決めた。

「「「「座れバカっ、みえネェだろっ!!!」」」

 後ろからの罵声さえもみな楽しげで、朗らかに聞こえる。

 ホームタウン効果というべきか会場に集まっていた観客は、操祈の登場を期待し支持していたようなのだ。その歓声はクイーン有力候補の山崎碧子を凌ぐほどで、みなが心待ちにしていたのが伝わってくるのだった。ホストによる紹介に真剣に耳を傾けている。

「食蜂操祈、常盤台中学校教諭、二十二歳、身長、百七十一センチ、スリーサイズは九十二、五十八、八十九……」

「「「「待ってましたっ、操祈先生っ!!!」」」

 館内のあちこちで歓声があがった。その声が本人には届かないにもかかわらず――。

 壇上中央の扉が開かれ、そこにホワイトビキニの操祈の姿が現れると館内はドッと沸き、そしてすぐに静まり返るのだった。代わりに溜息とも呻きともつかない、声にならない声がそちこちに現れ、やがてそんなささやかな反応も圧倒的な静寂にのみこまれていった。

 おずおずと躊躇いがちに歩みを進める容子は、それまでの候補者たちのように誇らしげに大きく脚を伸ばした颯爽としたものではなかった。恥じらいに頬を上気させた表情からは、自分が場違いなところに居て、不釣り合いなことをさせられているという当惑がにじんでいて、レイはすぐに、このホログラムがエントリー映像のものとは違っていることに気がついたのだった。何らかの理由で差しかえられたということに。

 ゆっくりと足を運ぶ操祈の姿を、詰めかけた四千もの観衆が固唾をのんで追っていた。誰もが耳を澄ませ、まるで彼女の息づかいや足音さえ聴きとろうとしているように――。

 居合わせたものたちは自分が今、何かとても特別な機会に巡りわせたのだということを本能的に察していたのかもしれなかった。当のレイでさえ、目の前のステージ上を通り過ぎていく操祈を見上げながら、不思議な、厳かな気持ちになっていたからだ。それとともに、公衆の面前で彼女をこのような姿にしてしまったことに罪の意識を感じてもいたのだった。

 ホログラムでありながら、視線を浴びる女の肌の痛みが伝わってくるようだったのだ。

 そして彼女がここに身を置くことを決意した健気さとともに、このような場所へと追いやった愚かな人たちへの、赦し――すらも感じられたのだった。

 どこか非現実的で儀式のような(とき)――。

 こうしたことは、それまでのどんな候補者からも感じられなかったことだった。

「食蜂操祈です……」

 ステージの端までくると、彼女は足を止めうつむき加減の精一杯の頬笑みを作りながら、まわりを見回して語り始めた。

「……常盤台中学で教師をしています。生徒たちにこんな姿を晒してしまって、これからちゃんと授業を聞いてもらえるかとても心配しています。年齢は二十二歳、教え子のような若い女の子たちに混じって分不相応ですよね、おそらくこの映像が多くの人の目に触れることはないと思いますけれど、もしお目にとまるようなことがあれば、ごめんなさい……」

 深々と頭を下げ、

「え、まだ時間があるんですか――?」

 と、問いかけていた。誰かの指示を受けているのだとわかって、この映像が作りこむ以前のものであることが見て取れた。撮影者との間での自然なやりとりが彼女の素顔の魅力を伝えている。

「自己アピールって言われても……そうですね、お目にかかったみなさまに、今日よりも良い明日が来ることをお祈りします――それと……そうだわっ、私をここへ連れ出した男の子たちっ、あなたたちにはしっかり責任をとってもらいますからねっ、覚悟するんだゾっ」

 そう言って観衆にちょっと悪戯な、やさしげな笑顔をプレゼントすると、もういちど頭を下げ、踵を返して今度は小走りになって戻っていく。

 豊かな胸の膨らみの描く揺れが甘く肉感的で、その瞬間に“聖”が“性”へと転ずる奇蹟を世界中が目撃したのだった。

 あるものは新しい女神の登場を喝采し、あるものは彼女をつかった新しい企画を思い描いた。

 好むと好まざるとにかかわらず運命の歯車が動き始めたのだが、このときはまだ誰もその道行きと顛末を窺い知るものはいなかったのだった。

 操祈が扉の中に消えてからも会場はしばし静寂に覆われていた。

 一人一人が、今、目にしたものがどのようなものであるかを整理するために時間を欲しているようだったのだ。

 操祈応援団の少年たちも他の観客同様に言葉を奪われたまま呆然としていた。

 数瞬の間をおいて観客の心が漸く興奮と熱狂を思い出したとき、館内はその夜、最高のもりあがりを見せたのだった。

 

 




いつもお読みいただいてありがとうございます
今日はちょっと短めになります
明日の更新は難しいかも知れません

投稿ミスがありました事 お詫びいたします


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ファイナルイベント

 

          ⅩⅩⅦ

 

 二十名のファイナリストの紹介が済んで、最終投票の締め切りまで残すところあと十分余り――。

 会場に居る登録者は、最終的に四千五百三十七名にまで膨れ上っていた。11月半ばとはいえ、エアコンをフル稼働していても館内には熱気がこもって息苦しいほどの状態になっている。けれども誰一人として外へ出ようとするものは居ないのだった。みなが学園都市初代クイーンの栄冠がどの美女、美少女の頭上に輝くか歴史の目撃者、当事者たらんとしていた。

 そして常盤台中学の体育館にあっては、その事情から、自分たちの代表二人にどのような結果がもたらされるかについて熱く論じるものがそこかしこに居て、期待の(たかま)りを見せていたのだった。

 総論からするとファイナルでもやはり、ビッグフォーと呼ばれるスーパーガールたちの強さが目立ったコンテストだった。

 まさに正統派アイドルの王道を征くといった風格さえ感じさせた霧ヶ丘の北條真澄を中心に、人間離れした美貌を誇る長点上機の蔵本瑠樹亜や女性からの支持数がトップの藍鈴女子、新居坂シルディア、そして美女としての完成度の高さを印象づけた常盤台の山崎碧子らが順当に上位を占めてクイーンを争うと予想されたのだが、その一方で、ただひとり成人女性として参加した食蜂操祈は観客に強い印象を残していて、実際、彼女がどこまで支持を拡げたかにも多くの関心が寄せられていた。

「おい、みんな操祈ちゃんに全振りしたよなっ!」

 コースケが仲間に確認していた。

「もちろんよっ、チェックするか?」

「いーよ、みんなのこと信じてるからなっ。ついでにそこいらに居る連中にも手当り次第に最後の協力要請をしてこいよっ」

 レイも傍に居る生徒を皮切りに片っ端から操祈への投票を依頼してみた。すると反応は上々で十分に手応えを感じるものなのだった。ファイナル前後で彼女への支持は明らかに拡大していて、その点については読み通りだった。問題はその程度と規模である。

 マコトの見たてでは世界全体で推定登録者数、三百五十万人余、約三億五千万ほどの票が加算され、二週間に及ぶプレ投票を越える票がこの数分の間で確定するという。

 初めはほんの五校の間で試行されようとしていたミスコン企画が、あっという間にビューティページェントとして世界の新しいスタンダードになっていた。

 全世界百六十カ国以上、数百万人が参加した世界的巨大イベントに――。

 独立AIと完璧なホログラムの導入により、その日その時に会場に集まったものだけが登録でき、コンテストを目にしたものだけが公平に評価する、という素朴で単純な構造が支持されたのだ。これは運営側の方針や利権によってバイアスがかかり、とかく不透明になりがちな従来型のコンテストに対する民衆からの強烈な不満の意思表明とも言えるものだった。

 これに対して、当然のごとくフェミニストの間からは『美の基準の固定化』に繋がるとして懸念と批判の声が上がったが、その一方で、女性の容姿を“能力”のひとつと捉えて、身体的特徴としての美しさを評価される権利を主張する声もあがり、両者の間で刺々しい論争が繰り広げられたが、決着をみることはなかった。もともと妥協点のない口論のようなもので、理性的に落としどころを探る試みそのものが無謀なのだから仕方がなといえば仕方がない。

 しかし声無き大衆は明らかに後者を支持していた、というのがこのイベントの成功によって示されたようである。

 容姿は人間の価値を決める唯一の尺度ではなく、知性や体格、運動能力といった多くの価値のひとつであることを、人種や宗教、文化、民族などの垣根を越えて人類という種が長い歴史的慣習として認めていたからだ。

 あるいは悪名高き社会生物学的視点に立てば、人の美意識は社会や文化に影響を受けつつもコアな部分は遺伝的に条件づけられているからだ、と論じられるのかもしれない。いずれにしてもこうした堅牢な枠組みに挑戦するフェミニズムに対しては、表向き賛同することはあっても心情的には寄り添えない――それが民衆からの回答だった。

 かくして、さまざまな面からもbuzzったこの『ミス学園都市コンテスト』であったが、ビジネスとしても大成功裡に幕を降ろしたのだった。プレイベントからファイナルまでのわずか二週間の間に寄せられた厖大な広告収入は、運営側の当初見積もりよりも、ざっと十倍、一桁多く、爾後のビジネス展開にも弾みがつきそうだったのだ。

 学園都市スキャンダルによる煽りで支援が打ち切られ、経営難に陥っていた多くの域内教育機関は、思いがけない臨時収入に歓喜し、常日頃、簿記の帳尻合わせに悩ましい財務担当者たちの中には、ただちに第二回(ミスコン)を行うべきだとの声まで上がったが、もちろん、ただち――に、それが実行に移されることはなかった。

 

「まもなく投票締め切りとなります――」

 ホログラムのホストが参加者に投票を促していた。

 やがて――。

「午後八時、投票は締め切られました……」

 結果発表を待って会場は固唾をのんで静寂する。

 ホストはバックヤードから廻ってきた白封筒を受けとると、手に掲げて満場に向けて示した。

「ここに、ファイナル入賞者六名のお名前が記されています……」

 会場がざわめいた。

「六名? どういうこと? 一名じゃないのか?」

 という当惑の声が、会場のあちこちで囁かれ、名状しがたい気配のうねりとなっていく。

「私もみなさまと同様に、この封筒の中にどなたのお名前が記されているかを存じません。世界中で知っているのは、ただ“お一人”、学園都市の『ミス学園都市コンテスト』専用AI――SIZUE――さん、だけです……」

 AIは無慈悲だ。溜めもなく、空気も読まず、タイミングや間もおかまいなく機械的に処理をする。

 そこに人間的な味付けをするのが運営側の腕の見せ所でもあった。ページを開いた途端に犯人の判る本格推理小説など、誰が読むものか、である。

 その日の観客は、この狂熱が冷めてしまうことをあきらかに惜しんでいた。そこに気づいた賢明なチーフプロデューサー――鋭利学園の一年生である十六歳の少女――が、演出にひと手間を加えることで“一端覧祭”のオーラスを飾るに相応しいファイアーストームに仕立て上げようとしたのだ。

「……私も、なぜ六名なのか知りません。六名がクイーンということなのか、それともこの中から更にお一人が選ばれるということなのかも分りません……ただ、六名の方たちには本イベントに協賛していただいた航空会社各社から、美のアンバサダーとして、今後一年間、世界中を訪問していただけるフリーのエアチケットが提供されるとのことです。もちろん全てファーストクラスということで……」

 会場全体に、おおーっ――というどよめきが上がった。

 ホストも眉を吊り上げて驚きを示していた。

「え、どういうことだ?」

 事情が良くのみこめなかったのか、ヤッさんがレイに訊いた。

「航空会社が一年間、全航路有効のフリーのファーストクラスチケットをくれるんだって」

「だから、それってどんだけスゴいの?」

「使い方にもよるけど、円換算にして数千万から億ってとこかな?」

「億かよっ……!」

「スンゲェなぁ……」

 ホストはここで大会側からの通達があったとして、

「これより六名の入賞者のお名前を発表するに先立って、惜しくもファイナル進出を果たされなかった候補者たちへの敬意をこめてプレファイナリストの八十名全てと、また本イベントにご参加いただいた全ての候補者たちへの感謝をこめて、その中から抽選された百二十名を加えた総勢二百名のホログラム映像をダイジェスト版ではありますがお届けすることになりました」

 場内には一瞬、

 引っぱるなぁ――というような、どこか微妙な空気が漂ったのだが、

「プレイベントに参加され、投じられた有効投票、総数二億六千三百八十八万とんで百二十一票の思いに、時間の許す限りお応えしたい――」

 との説明は誰もが納得のいくものなのだった。

 ステージの手前と奥に新たにホログラムの透明なスクリーンが二つ投影され、候補者たちが片方のスクリーンからウォークインし、もう片方のスクリーンへとウォークアウトするという趣向になった。そこから二百名もの美女、美少女たちが、ファミリーネームのアルファベット順に大観衆の前を、それぞれ独自のパフォーマンスを行いながら一人一人、次々に行進して行くさまは、さながら花火大会のトリを托された大スターマインのように、まさにビッグイベントを締めくくるに相応しい豪華なものなのだった。

 ファイナリストたちのように一人一人がホストに紹介されることはなく、名前が正面のスクリーンに投影されるだけだったが、観衆は自分たちの贔屓やなじみ、お気に入りを待って、順番が迫ってくると息をのみ、ステージ上にお目当てが現れる度に熱狂する、というのを繰り返していた。

「あっ、舘野さんだっ!」

 レイが仲間たちにステージの上を促すと

「舘野ってあんなに可愛かったっけ? まぁ美人だとは思ってたけど、胸も意外なくらいあるのな」

「俺、明日からアイツを見る目がちょっと変わるかもしれねぇよ」

「向こうがオマエを見る目はちっとも変わらねぇけどなっ」

「うっせぇや! 純平っ、てめぇなんかなぁ、おととい来やがれってんだっ」

 “江戸っ子ヤッさん”が(おやゆび)の付根で荒っぽく鼻を擦るまねをしてみせると、

「オマエの出身は長野だろっ、代々、山葵つくってんじゃねぇかっ」

 と、ツッコマレ、「え、そうだったのっ?!」と、ヤッさんのことをずっと東京下町育ちだと信じていたレイを驚かせるのだった。

 二百名ものビキニの美女たちのパレードが終わると、さすがにもうお腹いっぱい、になるかと思いきや、会場をあとにするものは殆ど居なかった。

 壇上にホストとアシスタントの男女が現れると、観客の視線は二人に集中する。

「すばらしいパレード、ありがとうございました……」

 ホストの男性アナウンサーが静かに語り始めた。

「コンテストにご参加いただきました三千九百三名全ての候補者のみなさま、会場にお集まりいただきました、全世界の四百十三万七千五百九十六名の登録者のみなさま、そしてこのすばらしい大会を企画し、運営していただきました学園都市『ミス学園都市コンテスト』実行委員会のみなさま、また大会を盛り上げていただきました協賛企業百八社のみなさまに対して、僭越ではございますが、深い御礼と感謝とを述べさせていただきます。この驚くべきイベントも、いよいよ、最後のクライマックスを迎えようとしております……」

 おおーっと言う歓声が場内に沸き起こった。

 なかには「終わりにしないでくれよぉー」という悲鳴のような声も混じっている。

「……時刻は、八時五十分を廻ったところです……主催者である実行委員会さまからのご好意で、私の権限で、もういつでもこの封筒にハサミを入れてもらっても構わない、と伝えられておりますが、みなさま、いかが致しましょうか?」

 ホストは手にしていた件の白封筒を掲げる。

 ふたたび場内はゴーッというようなどよめきにつつまれた。次いで、

「開封っ、開封っ」の、大合唱となる。

「やはり結果が待ち遠しいですよね、私も同じです。では、みなさまのご承認を得られたようですので……」

 ホストは封筒にハサミを入れ開封すると、中から二つ折りにされた厚紙の台紙を取り出した。食い入るように見守る観衆を前に、台紙を開いて中を確かめ、一瞬、ギョッとした顔をしてから白い歯を覗かせた。

 今度は中を開いて観衆に見えるように示した。それがスクリーンに大写しになると、観衆に戸惑いの色が拡がるのだった。描かれていたのが白黒のパターン模様だけだったからだ。

「……みなさま、どうか早合点をなさらずに、まだ終わりではありませんので……」

 ホストはそう言うと、礼服の内ポケットの中からペンライトのようなものを取り出した。

「このペンライトは、大会本部からお与りしたもので、ある波長の電磁波が放射されるものだそうです……いまから、この台紙にプリントされたパターンにペンライトの電磁波をあてていきます……」

 ホストは舞台中央にまで進むと、足もとにプリント面を表にして拡げた台紙を置き、少し離れたところからペンライトの不可視光を台紙目がけて照射したのだ。

 すると――。

 白黒のプリントパターンが黄金色に煌めいたかと思うと、舞台正面に六名の入賞者の等身大パネル映像を投影していったのだった。

 



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号外 ワールドニューストゥナイト

 

#――多くの奇蹟の発信地となるこの学園都市(まち)で、また新たな歴史が生まれました。日本の首都である東京の、西部にある『学園都市』は、研究機関を集中させた、いわゆる研究学園都市としては異例ともいえる二百三十万人もの人口を抱える大都市です。しかしこの都市を特徴づけているのは人口の多さばかりではありません。なんと住人の八割近くにもあたる百七十万人が未就学児童を含む未成年者なのです。この若者たちの都市(まち)で、九日朝、現地時間九日夜に、若者たちによる若者たちのための盛大な祝祭が行われました。『NEO一端覧祭』です。これはティーンエージャーが主催する祭典としては世界最大のものです。学園都市内にある約四百もの中、高等学校がそれぞれの学園内部を一般に公開して、生徒たちが独自に自分たちの教育内容の紹介を行うとともに成果と技能を競い合うという大変ユニークな企画ですが、しかしその内容はじつに驚くべきものです。一面ではさながら最先端の科学技術の見本市の様相を呈しているといっても過言ではありません。それというのもこの学園都市は、ほんの十年ほど前までは脳科学を中心に世界をリードする極めて秘匿性の高い城塞都市として知られ、一説にはその研究水準は世界を二十年から三十年も先行するほど高度なものであると言われていたからです。そこでは当時、日本国内と世界から選り抜きの天才少年、少女たちが集められ、大学、大学院に匹敵する高度な教育を行われるとともに、生徒の一人一人もまた独立した研究者としての待遇を受けていました。彼らは中、高等学校の生徒でありながら、既に次代を嘱望された若きテクノクラートだったのです。彼らによって切り開かれた知のフロントラインは明らかに人類の発展に大きく貢献するものでした。しかし輝かしい成果の裏には暗い影も潜んでいました。日本という先進的な民主主義国家の中にあって、数々の特例法を以て保護された閉鎖的な環境で、極秘裏に進められていた研究の多くは人道的配慮を著しく損なうものでした。今から八年前、その不法な実態が暴露された結果、プロジェクトに携わっていた研究者の多くは責任を問われ、学園都市の特権もその殆どが剥奪されました。以来、都市(まち)の様相は一変しました。かつてはジャーナリストでさえ学園都市内に“入城”するのに申請から数々の審査を受けて承認されるまで数週間を要したのに対して、今では簡単な登録手続きをするだけで誰でも立ち入りが許されるようになっています。この“開かれた”新たな学園都市で、より開明的な若者たちは、また再び世界に対して自分たちの能力を見せつけるための野心的な企画を立ち上げました。そのひとつが『NEO一端覧祭ミス学園都市コンテスト』です。いわゆる美人コンテストですが、このコンクールには従来のものとは明らかに異なる点が二つありました。ひとつはリアルと見まごうほどの超高精細のホログラムを使って世界中で、ほぼ同時に全く同じ映像を観ることができることです。その映像をみた人は登録さえすれば投票権を得られ、お気に入りの女性に投票ができるのです。誰でも公平に、平等に。そして世界中から投じられた票は、外部からの干渉を排して完全に独立した専用の人工知能のもとに集められて公正な評価が下されます。人間によるいかなるバイアスもかからない条件で。これが二つ目のポイントです。このような試みはむろん始めてのことでしたが、世界の人々からは概ね歓迎されたようです。わずか二時間余りの間に全世界で四百万人以上がこのミスコンテストの観客となり、そして審査員となりました。

 ウィスコンシン州、ミルウォーキーの男性です。

「すばらしいコンテストだったよ、驚いたねぇ、本物かと思ったよ、あれが映像だなんて間近にしても信じられなかった。それになにより女の子たちがとってもキュートで美人ばかりだったから三時間があっという間だったし、自分の投票がそのまま公平に反映されるってのもいいよね」

 イリノイ州、シカゴの高齢の女性は「孫に連れられて見てきたわ、一緒に投票もしたのよ、わたしが気に入ったのは金髪の女のコね。すごく可愛くて気だても良さそうなの、あの子なら孫の嫁にも合格だわ」

 絶賛する声が多い中、批判の声も少なくありません。カリフォルニア州ロサンゼルスでは、女性運動家たちが州当局に対して多くの人の目にとまるパブリックヴューイングでのコンテストのホログラムの放映を差し止めるようにとの要望を行っていましたが、結果として州は彼女たちの意向を拒絶しました。関連を含めると推定で数万人規模の動員を見込める大イベントの経済的波及効果を無視できなかったためです。この措置に怒りが収まらないのがこの国に幾つもあるフェミニズム団体の女性たちです。

 北米女性地位向上委員会エリザベス・モーズリー副会長です。「今どき、女性を水着にして審査するような前近代的なミスコンテストが実施されるなんて信じられません。州当局は少なくとも規模を縮小して屋内で行うよう指導すべきでした。日曜の朝とはいえ、サンタモニカビーチにいったい何人の観客が集まったと思います? 三万六千人ですよっ! その中にはローティーン以下の子供たちも混じっていたんです。いったい彼らの目にはどのように映ったでしょう? あのイベントが子供たちにもたらす影響について大人たちはもっとよく考えるべきだったんです」

「しかしビーチで若い女性が水着になるのはべつに不自然ではないのではありませんか?」

「私が言っているのはそのことではありません、水着の女性の容姿に大人たちが順位をつける行為を子供たちがどのように受けとめるのかが問題なのです。裸の女の子たちにみんなで点数をつけるなんて! 私にはコンテストの参加者がプレイボーイやペントハウスのカバーガールとどこが違うのかさっぱり分りませんっ」

 このミスコンテストの優勝者の価値がプレイメイトと同じであるか否かはともかくとして、優勝者の容姿はあきらかに男性誌のカバーガールとは趣きを異にしています。少なくとも多くのアメリカ人がイメージしている美女、マリリン・モンローやリタ・ヘイワース、ファラ・フォーセット・メジャースやマドンナといった肉感的でグラマラスなセックスシンボルと比較すると、新しいヒロインの姿はかなり印象が違って見えます。この夜、世界中の、のべにすると数百万人の“審査員”からクイーンに選ばれた北條真澄(ほうじょうますみ)さんは、クイーンというよりもむしろ“妖精”と形容する方があたっているように感じられます。ただ若いという以上に幼く、美女というよりもまだあどけなさの残る美少女でした。実際、彼女はまだ十四歳の中学生なのです。惹きこまれそうなほどの神秘的な黒い瞳とスレンダーな体格が印象的なとても魅力的な少女です。しかし果たして彼女は新しい時代の美のスタンダードといえるのでしょうか? これについても多くの異論があるようです。ニューヨーク市立大学で比較民俗文化論を担当しているニコルソン・バールマン教授はこう言います。「女性の容姿について、われわれ男性の多くが求めるものは豊かな胸やひき締まったウエストのくびれ、長い手足といったところでしょうか。しかしこれらの要素はけして固定的なものでも普遍的なものでもありません。美意識や嗜好は人種や民族、文化によって異なり、同じ西洋文化圏であっても時代や社会背景といったものが大きな影響を及ぼします。たとえばこの有名な絵画、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』を見てください、どうですか? 私の目には、この美の女神はかなり肥った女性に見えますが……当時の人たちから見ると、現代の美人は貧相な痩せっぽちに映るのかもしれません。一般に西欧の文化圏では、男性は自立した大人の女性に魅力を感じる割合が多く、一方、アジアではより未熟なものへの関心が強い傾向にあります。今回のミスコンテストは東京発、ということもあってまさに後者の影響がはたらいたと捉えると良いのかもしれません。ただし忘れてはいけないのは、こうした嗜好の差を優劣で論じることにはまったく意味がないということです。その点では、このミスコンテストの結果は多様性の現れであり、フェミニストが主張するような美の基準の固定化にはつながりませんでした」

 当の本人、コンテストの優勝者はどのように思っているのでしょうか? 結果が出た直後、彼女に直接、伺ってみました。霧ヶ丘女子中学の二年生、北條真澄さんです。彼女は日本の芸能界でアイドルとしても活躍しています。

「ご自身がいま、世界でもっとも多くの人たちから評価された美女に選ばれたことをどのように受けとめていますか?」

「とても嬉しく、光栄に思います。応援していただいた世界中の方々には心からの感謝をしたいと思います」

「クイーンに選ばれたことで自身のこれからの生活が変ったり、気をつけようと思っていることはあるかしら?」

「うーん、選ばれたからといってなにか自分が変ってしまうとか、変らなければならないとかいうようには考えていません。今夜のことはいまの自分を受け容れてくれた結果だと思っているので、私はできるかぎりこれまでどおりの生活を続けたいと考えています。なんといっても私は中学二年生、まだ義務教育期間中なんです。自由に活動をするには自ずと限界があります」

 彼女は優勝者に与えられる賞金の二万ドル余りをただちに全額、途上国児童の食料支援活動を行っている団体に寄付しました。副賞として得られた時価にすると数十万ドル相当の国際線フリーチケットについても利用するかどうかわからないと言います。ただ、自分を応援してくれた人たちへのお礼には伺いたいとのことですが、今はまだ学業と仕事との両立が大変なので当面、その予定を立てるのは難しいようです。

 ひとつの都市でのティーンエージャーの祭典をたった二週間で世界的イベントにまで拡大させた影の立役者、技術統括責任者と制作統括責任者のお二人にもお話を伺ってみました。驚くべきことに二人は、ともに十六歳の高校生でした。技術担当の責任者、杉野巧(すぎのたくみ)さんです。彼は長点上機高校に通う二年生です。

「超高精細のホログラムは構想事体、既存技術の延長にあるだけで大きな困難はありませんでした」

 杉野さんによると、観客に驚きと深い肝銘を与えた超高精細ホログラムよりも、むしろ映像情報を世界に同時配信する方がよりチャレンジだったと言います。

「一秒間に数百エクサバイトもの厖大な情報を既存のネットワークプラットフォームに乗せて送り出そうというのです、それも他の情報の流通にいっさい影響を与えないようにというのですから大変です。喩えてみれば針の孔にゾウをくぐり抜けさせようとする試みでした。大人しくさせて、けしてパウォーンと鳴かないようにさせながらやるのです」

 いったい彼はそれをどのようにして克服したのでしょうか?

「虚数空間に仮想の糸巻きを置いて長く伸ばしたデータをきっちり巻きつけて送り出し、受信側でそれを解いてやるんです。こうすると情報量がどれほど増えても送受信が可能になります」

 彼は数式を使って説明してくれましたが私にはさっぱり理解できませんでした。

「たとえば、あなたはお裁縫をしたりしますか?」

「ええ、そうね、めったにやらないけど……でも、たまに……」

「針の孔に解れた糸を通すのは大変ですよね?」

「あら、あなたは私の目が老眼だって言いたいのかしら?」

「いいえ、とんでもない、ボクらでもああいうのってイライラする作業ですから。でももし糸を、二つ折りにした細い針金の間に挟んで、その針金を孔をくぐらせるための導針にしたらどうでしょう? 孔通しがすごく楽になるとは思いませんか?」

「え、ええ、そうね……」

「いったん糸の先さえ穴をくぐればシメたものです、後はどんなに長い糸であっても通り抜けられるようになるからです。その針金に相当するのが“虚数糸巻き”なんです」

 この“虚数糸巻き”のアイデア事体は二十世紀の末にすでにあったものなのだそうですが、技術的困難さから長らくお蔵入りしていたものだとのことです。彼らはその課題を新たに専用のチップを開発することで乗り越えました。革新的技術ですが、しかし特許申請はしていません。

「どうしてパテントを取らないの?」

「その必要がないからです」

「でも、どこかの国や企業がすぐに模倣するとは思わない?」

「暗号化してありますから。たぶんその解読には今の技術だと十年はかかるでしょう。その時にはもう過去の遺物になっていますから特許を取る意味がありません」

 卒業後の進路について、既に杉野さんたちには世界中の名だたる巨大企業からのオファーが殺到しているそうですが彼は学園都市を出るつもりはないと言います。

「ここほど刺戟的で整った環境は、世界中どこにもないので……いまのところは」

 イベント成功のもうひとりの立役者は、制作の最高責任者である榊志乃絵(さかきしのえ)さんです。彼女もまた長点上機高校の二年生です。

「このイベントを実施するにあたり、いちばん大変だったことは何かしら?」

「やはり、大人の方たちとの交渉でしょうか……常に悩ましいのは彼らにとっての最大の関心事項、利権の調整でした」

「それをあなた一人が切り盛りしたの?」

「いいえとんでもない、ただ私は希望をお伝えしただけで、実際は口を出すだけで何もしていません。学園都市には非常に優秀な専門家である大人たちも居るので、彼らの力は常に私たちの助けとなりました」

 彼女はそう言いますが、事実は自身が先頭に立って各行政機関、企業の間を目まぐるしく飛び回り、交渉と説得の最前線で辣腕を振るいました。結果、このイベントに対して総額一億ドルにも相当する支援を取り付けたのです。それも無利子無担保で。これに対して彼女の切ったカードはたった一枚です。それは彼らの将来性。学園都市の抱える有能な人材と蓄積された厖大な成果に参入の機会を窺っていた企業や団体はその甘い餌にあっさり食いつきました。今では少なくとも二十三の世界的企業が彼女たちの支援団体として名を連ね、さらに数十もの企業群が支援のために水面下で動き始めています。

「あなたはこのイベントをこれからどのように運営してくつもりなの?」

「NEO一端覧祭についていえば私の役割はこれで終わりです。来年、この企画を後輩たちがどのように引き継いでいくのかについて興味はありますが、私が表に立つことはありません」

「でもこれだけの巨大イベントよ、あなたならその気になればもっと大きく発展させることだってできるでしょ?」

「私の役目は、八年前の大きなスキャンダルによって深く傷ついたこの学園都市の汚名を返上し、世界に向けて健在をアピールすることでした。NEO一端覧祭はそのためのきっかけづくり、ここに暮らす私たちの願いと希望を伝えるための一助となればと考えてスタートしたのですが、予想以上に好意的に受けとめていただき喜んでいます。その意味ではこの企画は成功だったと思います」

 眩いほどの才能に恵まれながら、慎み深く自己抑制の能力にも秀でた魅力溢れる若者たちには、ただただ驚かされるばかりでした。

 東京――この都市(まち)に居ると、時として自分が夢でも見ているのではないかと思う時があります。時速六百キロで走るリニアモーターカーがあり、世界最高の量子脳によって効率化が高度に進められている一方で、一歩、喧噪から離れて路地裏に足を踏み入れると、そこには昔ながらの光景がひろがっているのです。軒をつらねた家々、玄関先でうずくまる猫、植木に水を撒く老人、だれでも安価で楽しめる町中華店の香ばしい香り、そして都市(まち)の中心には、二千七百年以上ものあいだつづく人類最古にして唯一の皇帝である天皇陛下がおられます。伝統文化と最先端の科学技術、高度な文明社会と地域コミュニティ、それら相反するものがここでは矛盾することなく、ぶつかることなく共存しているのです。かつてイギリスの首相チャーチルは彼の著書『世界の危機』の中で文明の発展とそれにともなう不安定化を、必然と捉えて警鐘を鳴らしました。しかし、私がこの都市(まち)で過ごしたのはほんの数日でしたが、それだけで彼の懸念は杞憂なのではないかと感じるようになります。若く賢明な次世代の登場を目の当たりにした今、さらにその思いを強くしました。世界最先端の超巨大都市、東京で起きたことは次には世界でも起きることが期待されます。人類の未来も、何かと気がかりな昨今の若者の将来も、われわれ古い世代の大人たちが思うほど暗澹としたものなのではないのかもしれません。未来は明るい、少なくとも希望はあると、そう確信できそうです――ローラ・ダンカン、奇蹟の大都市(まち)、東京からでした#

 

 



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ロンゲストデー

 

          ⅩⅩⅧ

 

 月曜の朝、ホームルーム前の数分間は多くの男子生徒にとってもっとも気が乗らない時間である。特にイケてない厨房男子の頭脳はたいがい旧式の真空管を採用していて、たとえ真夏でも温まってくるまでに時間がかかるのだ。

 まして今は十一月である――。

 コースケこと夏上康祐とその仲間四人は、みな同じ格好で机につっぷして脱力していた。

 そのうえ彼らは申し合わせたように遅発性傾眠障害の発作まで起こしているのだから余計に始末が悪かった。

「アンタら、その容子だと昨夜は一晩中、騒いでたんでしょ?」

 珍しく女子の一人が彼らを気遣って声をかけてくる。

「その声は奈央ちゃんか?」

 伏したままコースケがタルそうな声を出して応えた。

「誰が奈央ちゃんよっ、狎れ狎れしくしないで、ちゃんと鴨宮さんって呼びなさいよっ」

 鴨宮奈央は自称『操祈応援団』の六名にとっては数少ない女子の協力者の一人だった。奈央が、応援団が支援を頼った漫研の部員だったことから、ここ二週間に彼らがやってきたことを良く知っていたのだ。それなりに評価もしていて五人をちょっと見直したりもしていたのだった。

 女子として体格は標準的だが物怖じしないハッキリした性格は男性的で、腐女子やオタク揃いの漫研女子部員のなかでは異彩を放っている。

 少女の見立て通り、六人はみなミスコンの興奮冷めやらぬままに明け方近くまでコースケの部屋で“反省会”をしていて、それぞれが自室にもどった頃には窓の外はおおかた白みかけていた。眠りに落ちたと思った途端に起床のチャイムとなったものだからベッドから這い出すだけでも一苦労、夜中に盛り上がった分、朝の揺り戻しもまた大きいのだった。

「ワリぃ奈央ちゃん、もうちっとだけ寝させてくれ」

「なー奈央ちゃん、朝のニュース見たぁ?」

 マコトが訊いた。力士のような巨躯に覆われて机がすっかり見えなくなっている。

「見たわよ」

「ああ、オレも見たぜぇ……」

「世界でもトップニュース扱いだもんな、すげぇよなぁ」

「あたまにミスコンのニュースを持ってくるなんて、どこも平和だねー……」

「ああ、平和だなぁ……」

「まぁトピックスだったけどね」

 顔を伏せたまま、わざわざ相手を確かめなくても会話が成立していた。

 これを見ていた少女は諦め顔になって、

「アンタらが頑張ったことはみとめてあげてもいいけど、先生が来る前にはシャンとしなさいよっ、クラス全員でスタンディングオベーションでお迎えするつもりでいるんだから。女子からは花束贈呈もするんだけど、アンタらも咬む気があるなら混ぜてあげてもいいわよ、どうする?」

「えー、そうだな……」

 少年たちは伏していた顔をあげると眩しげに目を細くしたまま周りの様子を窺いはじめた。視界はさながら前世紀のインスタントカメラやブラウン管テレビのように鮮明になるまでに時間がかかるようだった。

 そんなところへレイはいつも通りの様子で現れた。

「おはよう……あれ、みんなどうしたの……?」

「おーう、お疲れぇ……」

「うん、おはよう」

「ミツっちは元気だなぁ……」

「ボクは三時間ぐらい寝られれば、だいたいなんとかなるから」

「ちょうど良かったわ、この人たちじゃお話にならないから――」

 奈央が改めて事情を説明すると、レイはどんよりクインテットの代わりに諒解の旨を伝えた。

「漫研と美術部の人たちには後でお礼に伺うつもりだけど、鴨宮さんからもお礼を言っておいてくれないかな? でも昨日は良かったよね。ボクはいちばんいい結果だったと思うよ」

「まぁあなたたちも少しはみんなのお役に立てるってのがわかったし、二組としてはハッピーエンドよね」

 そう言い残すと少女は六人のたむろする一画から離れていった。

「ホント、スゴかったよなぁ……」

「オレらの操祈ちゃん、惜しかったよなぁ……あともうちょっとだったのになぁ……」

 少年たちは椅子の低い背もたれに背中をあずけて反り返り、ぼんやりとした眼で天井を見上げながら昨夜の激戦をまた振り返っていた。

 

 十一時間あまり前――。

 ホストの男性アナウンサーの手にしたペンライトの照射を受けて台紙の白黒パターンから投じられた入賞者六名の等身大パネルの映像が舞台の下手側から順に鮮明化されていく。

 ひとり目は新居坂シルディアだった。次は桐峰真幌……北條真澄、山崎碧子と続き――。

 アシスタントの女性タレントによって彼女たちの名前が一人一人読み上げられていくと、その都度、満座の観客席からは拍手と喝采が贈られていった。そして五人目に食蜂操祈の等身大パネルが現れて彼女の名前が告げられると、再び体育館の中は爆発するような歓声が巻き起こったのだった。

 壇上に学園都市の頂点に立つ美女六名のパネルが揃った。みなランウェイの時にステージの端でキメのポーズを取ったときのものだったが、こうして並べてみると各人の背の高さや体型の違いを比較できて、きっと欲目もあってのことだろうがレイには操祈の魅力が際だっているように思うのだった。飾り気のない素朴な表情なのも好ましかった。

「あらためて見ると、先生だけなんだね……」

 ビキニにされた六人のパネルをひとわたりしながらレイが呟いた。

「先生だけってナニが?」

「他はみんな十代でJCとJKだもんな」

「そうじゃなくてさ、先生だけがノーメイクだったんだなって思って」

「えっ?!」

 少年たちはパネルになった六人の美女たちを見比べて、ようやく合点がいったようである。教室でのいつもの操祈に見慣れていたせいでレイに言われるまでそこに気が回わらなかったのだ。

 他の五名が綺麗にメイクアップをして張り込んだ雰囲気をたたえた臨戦モードでいるのと較べると、操祈ひとりだけがプライベートの普段着で居るような感じだった。よく言えば外連味(けれんみ)がなくていいのかもしれないが、闘いの場に現れるにしては脇があまいというか、隙があるように見えなくもない。

「あーホントだ」

「そういや操祈ちゃんて、化粧してるとこみたことないもんな」

「やっぱ理系だからかなあ、無頓着っていうか、化粧するっていえば口紅塗るぐらいにしか思ってなさそうだし」

「でも俺は操祈ちゃんがコテコテ厚化粧してるのって、違うかなって気はする。地顔がすっごくキレイなんだし」

「まーそうだな、ケバい操祈ちゃんってのもイメージしにくいもんな」

「ボクもいつも通りの素顔の先生が一番いいと思うよ、きっと観客にも伝わってると思うな」

 実は操祈がメイクを殆どしないのにはレイの意向もあったのだった。

 満座の興奮がおさまるのを待っていたように、舞台正面左の袖に下がっていたホストが再び口を開いた。

「六名の入賞者の方々への盛大な拍手を有難うございます。どの方もみな大変に魅力的で素晴らしく、この中からたった一人をお選びするのは心苦しいのですが、すでに専用AIのSIZUEさんによって投票の集計が完了しております。みなさま、各候補者のパネルの右側をご注目下さい。明滅している縦バーは投票数を示す棒グラフです。もうおわかりでしょう、この棒グラフの一番高くまで伸びた方が栄えあるクイーンとなられるのです。では、最後の集計結果をお示しいたします」

 観客に緊張を煽るドラムの音とともに、各候補者の棒グラフがぐんぐんと上に伸びていき、初めに止まったのが桐峰真幌だった。得票数四千九百三十三万六千五百二十一票と数字が示された。その次に止まったのが操祈で、その瞬間、会場は落胆のため息に包まれ、応援団のミッションも終わりを告げたのだった。

 彼女の得票数は五千三百六十七万九千九百二票で第五位だった。

 クイーンに選ばれたのはコンテストが始まって以降、常にトップを走り続けた北條真澄で、得票数はただひとり一億越えの一億十三万二千七百五十六票、七千四百万票あまりを集めて第二位になった蔵本瑠樹亜を二千五百万票以上も引き離してのダントツトップだった。三位に山崎碧子、四位が新居坂シルディアとなったが、二位と四位の差が千万票あまりだったことからみても、北條真澄が頭ひとつ抜け出ていかに強かったのかがあらためて示された形となっていた。

 

 三々五々、体育館を後にする観客たちの思いはそれぞれだった。応援していた候補が好成績を収めて満足げな者もいればその逆もあって、こうしたコンクールの常として結果に得心がいかないものも少なくないようだったが、誰の胸にも一様に去来するのは宴の終わりの寂寥感なのだった。

 予想外の盛り上がりとなったNEO一端覧祭だったが、わけてもこのミスコンテストは世界的に大成功したビッグイベントだった。そのオーラスとも言えるファイナルコンテストが終わり、祭典の炎がいま静かに落とされようとしていた。

 祭りが大きければ大きいほど、それが終わった後のもの寂しさはひと(しお)となる。

 操祈応援団の六名は興奮の熱が徐々に体から引いていくのを感じながら、ひときわ喪失感を抱えているのか日頃、騒々しい少年たちの誰もが口を閉ざしていた。コンテストが始まって以降の二週間、操祈を初代クイーンにするべく全力投入、裏方として睡眠を削って闘ってきたのだが、五位という結果をどのように受けとめていいのかまだよく呑込めてはいなかったのだった。

 校庭の中程まで進んだところでマコトが漸く口を開いた。

「腹減ったな――」

「そうだな、といってもさすがに食堂はしまってるし、もうどこの模擬店も終わってるよな……」

「後夜祭のファイアーストームも八時までだっけ?」

 校庭中央にあった焚火台も既に片付けられた後だった。

「やっぱミスコンの方に人が集まっちまったんだろうな、最後すごい人数だったもんな」

「そりゃ気になるだろ、操祈ちゃんが残ったって判ったら、みんなじっとしてられっこねぇし、ボンヤリ火なんか見ていられねぇよ」

「でも五位なんだよなぁ……」

 コースケが肩を落としてポツリと呟いた。応援団のリーダーとして奮戦していただけに燃え尽き症になりかけている。

「ちゃんとメイクしてくれてりゃあ、もうちょっと良かったかもしれないのになぁ……」

 よほど未練があるのか、既に何度目かになる同じ台詞を口にする。

「コースケくん、それは関係無いと思うけどな、五位っていうのだってボクはスゴいことだと思うんだけど……だってみんな気がついてないの?」

「なんだよレイ、また思わせぶりなことを言いやがって」

「ゴメン、ヤッさん、そんなつもりじゃなかったんだけど、ねぇマコトくん、六名の今日だけの得票数ってすぐわかる?」

「そうか、そのことか……ワカルぜっ、いま出すから」

 マコトはスマホを弄っていたが、すぐに入賞者の得票数を並べてみせるのだった。

 すると――。

 六人は額を寄せるようにしてスマホ画面に見入っている。

「操祈ちゃん、一位だったのかよ……」

「でしょ? 先生がただ一人だけ五千万票もの得票を世界中から集めていたんだよ。つまりワンデーマッチだったら先生がクイーンってことにならないかな? 今夜、世界が選んだヒロインは実は先生なんだって。これってもの凄いことでしょ? 確かに結果はビッグフォーに負けちゃったのかもしれないけど、でも舞台上での本当の勝負には勝ったんだから、ボクはコースケくんの計画は大成功したんだって思うよ」

「あと、もうひとつスゴいことが判明したぞっ」

 言いながらマコトはさらにスマホ画面を弄って、

「学校対抗だと総得票数でも、わが常盤台が一位だっ」

 マコトを囲んで、おー、という歓声が上がり、みんなそのことをすぐにでも他の生徒たちに教えてやりたい気持ちになるのだった。

 が――。

 純平は、さっそく吹聴してまわろうと近くにいた女子のグループに声をかけたが

「おい、知ってるか?」

 と訊いたとたんに

「知ってるわよっ」

 と、つっけんどんな返事が返ってきて、思惑が外れて鼻白む。

「何を知ってるんだよぉ」

「ミスコンの得票数で学校単位ではウチが一位になったってことでしょ? でもあたりまえよね、だってファイナルどころか入賞者を二名も出してるんだから、そんなのウチだけよ。おまけに一人は銅メダリストだし。それと今夜だけだと操祈先生が得票数では一位だったってこと」

 言おうとしていたことをすっかり言われてしまい、

「お、おうっ」

 と目を白黒させるばかりになる。

「計算機なんか使わなくっても、あそこで見てりゃすぐにワカルでしょ、それくらい」

「そ、そうか……」

「だから明日は低気圧が張り出してきて荒れ模様になりそうで気が重いのよ」

「え、なんで?」

「え、なんで? って、あんたらみたいな鈍感なオスどもとは違っていろいろあるの、ウチらにはっ」

 純平は完全に機先を制された形になって、すごすごと仲間の居るところに戻ってきた。

「みんな知ってるってさ」

 口を尖らせて仏頂面になっている。

「せっかくみんなで喜びを分かち合おうと思ってるのに、ノリの悪い連中だぜっ」

「今の子たちって、一組じゃないの?」

 レイが訊くと

「ああ、そうだな、今井は……たしか一組だった」

「だからだよ、会長のクラスだとすると手放しでは喜べないのかもしれないよね」

「どうしてさ、山崎は三位で良かったじゃん」

「それでも満足していないのかも……」

「なんかなー……ま、いっか、そりゃそうと、コンビニ行って今夜の食いもんでも買ってくるか」

「お、純平が珍しくマトモなことを言ったぞ」

「うっせぇっ!」

 少年たちはじゃれ合いながら餌を求めて校外へと出かけて行く。

 NEO一端覧祭は終わり、ハレの日々は徐々に日常へと移ろっていたが、少年団の長い一日は、今ようやくその半分が終わったところなのだった。

 

 



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少女の世界

 

         ⅩⅩⅨ

 

「んっ……ちょっ、ちょっと待ってくれないかなっ……」

 男はキーボードを叩く手の動きを止めて、肉悦に焦点の定まらなくなった顔でテーブルの下を覗き込んだ。剝き出しになった股間に顔を寄せている美少女の頭に手を伸ばすとやさしく撫でる。

「上手になったね……」

 少女は屹立してはちきれそうになっている男の器官の先に軽く口づけをすると顔を上げた。

 舘野唯香である。

「ちゃんと一成さんの教えを守ってるから……」

「もう少しでレポート、仕上がるんだけど……こいつが終わったら……」

「どうぞ、わたし、ここで待ってます……」

「待ってますって、少しも大人しくしていてくれないじゃないか、ワルい子だ……」

「だって……」

 少女は唇をゆっくりと舐めながら、もの欲しげに瞳を潤ませて男を見上げた。

「しょうがないなぁ、おいで……」

 男が両腕を拡げて招くと、唯香はテーブルの下から這い出してきて男の胸に抱きつくのだった。すぐに互いに舌をからめてのディープキスになる。

「レポートが仕上がるより、こっちが出ちゃうのが先になっちゃうよ」

「平気ですよ、わたし」

 唯香は男の首に両腕を巻き付けたまま、少しも悪びれた様子も見せずに言いきった。けれども、

「僕は出すなら、唯ちゃんのを見ながら出したいな」

 男からそう持ちかけられると、婉然と頬笑んでいた唯香の顔に少女らしい躊躇いが覗くようになるのだった。

 前のデートの時、一成からはじめてシックスナインを求められ、恋人の顔を跨ぐのが恥ずかしくて、以来、ちょっとしたトラウマになっていたのだ。けして無理強いされることはなかったが、唯香にすると求めに応じられなかった負い目もあってどこかで気まずくなっていた。

 それもあってか、一成とはこのところ少し疎遠になっていたのだ。

 唯香は文化祭の演劇部の出し物の準備で忙しかったし、一成も卒論の追い込みに入って時間を作りにくくなっていたこともあったのだが、電話やメールのやりとりこそあったものの結局、一ヶ月近くもデートの間隔があいてしまっていた。

「やっぱりダメかな?」

 唯香は首を振った。拒んでいるようにも見える曖昧な容子に、

「いいの?」

 と、たたみかけられて、今度は顔を朱らめながらはっきり頷くのだった。それを見て男は嬉しそうに頬を緩ませると、

「じゃあベッドに行こうよ、唯ちゃんも服を脱いで」

 と少女を誘う。

「えっ!? 一成さん、レポートはいいんですか?」

 男の豹変ぶりには唯香の方が逆に慌てていた。面白がって攻めたてていたつもりが、一瞬で立場が入れ変わってしまったからだった。

「こんなのどうでもいいんだ、カワイイ女の子を可愛がる方がもっとずっと大事なことだから」

「でも……」

「だって唯ちゃんが誘ってきたんだよ、この始末、きっちりつけてもらわないとね」

 男は股間のものを片手で軽くしごいていきり勃たせると、少女の手を導いて握らせる。

「唯ちゃんは、手もキモチがいいよ」

「もう、一成さんったら……」

 外にはまだ陽が残っていて十分に明るかったが、端正な少女の面差しには既に真夜中の翳が差しこんできているのだった。

 

 

「ねぇ一成さん……」

 ベッドの中で男の胸に白い裸身をあずけて休みながら、唯香はちょっと複雑な表情をしていた。

「どうしたの、そんな顔して……やっぱりイヤだった? ああいうのは」

 唯香が思っていたのはまるで別のことだったが、どうやら男は他のことを考えていたようである。

「違いますっ、もうヤダぁっ、男の人ってすぐにエッチなことに頭がいっちゃうんだからっ」

 顔を朱くして身を揉む。唯香も久しぶりのデートに自分がちょっと調子に乗り過ぎていたことを自覚していて、もう知り始めた頃とは違う、成熟した大人の恋人たちのように大胆に振る舞っていたのだった。

「じゃあなに? どうかしたの?」

 口にすべきか迷っていたが、恋人にギュッと抱きすくめられ、さぐりさぐりになりながら、

「一成さんって……山崎さんと会ったこと、あるんですか……?」

 と訊いた。

「山崎さん?」

 男ははじめ、なんのことかとポカンとした顔をしていたが、

「山崎碧子……うちの生徒会長の……」

 と唯香がさらに探りを入れると、

「ああ、わかるよ、こないだのミスコンで三位になったんだっけ? 凄い美人さんだよね……でも会ったことはないなぁ……」

「無いんですか?」

「無いよ」

「全然?」

「会ってたら忘れるハズがないから、あんだけの美人……でも唯ちゃんの方が僕は可愛いと思うけどね」

「もう、はぐらかさないで下さい」

 唯香は怒った顔をしてみせるが、内心は胸を踊らせている。恋人から自尊心を満たされて舞い上がるほど嬉しかった。

「じゃあ、どうして……?」

「どうしてってなにがだい?」

「山崎さんは一成さんのことを知っているみたいだったから」

「ほー、そいつは光栄だねぇ、あんな美女からチェックされてるなんてさ」

「茶化さないでください」

「茶化してなんかないさ……でも彼女、すごい美人なんだけど、なんかちょっと怖いよね」

 そう言って一成は屈託のない笑顔になった。ヒゲが薄い分まだ十代の少年の雰囲気が残っていて、表情に嘘やごまかしは感じられないのだった。

 どうやら碧子の手はまだここまでは伸びてはいなかったようで、少女は少しほっとした。

「ごめんなさい、今のことは忘れて」

「唯ちゃん、その子となんかあったの?」

 さすがに一成は察しが良くて唯香の心の機微を捉えていた。

「ううん、なんでもないわ」

 唯香の懸念は、碧子が持っている件の差し障りのある写真の出所についてだった。二人の密会現場を捉えた写真がいったいどこから漏れたのか、ということ。

 場所がここ一成のアパートであることは判っていたが、どうやって撮影されたのか今もその手口が掴めずにいた。

 いちばん可能性として高いと思っているのは部屋の外、恐らくベランダ側から盗撮用小型ドローン等で撮られていたことだ。

 今はカーテンをしっかり閉めているが、果たしてあのときは――?

 思い返すと、その時は恐らく夏の午後、まだ陽が高く、十七階ということもあって遮光カーテンどころかレースのカーテンまで開けっぱなしにしていた。近くに高いビルは無く、誰も自分たちの交際を知らないし、まして恋路を覗き見しようなどとは思うまいと油断していたのだ。

 ただ、ベランダからは寝室の全てを見渡すことはできない筈なので、もし外から撮影されたものなら、碧子が持っているという画像には決定的なシーンまでは捉えられていないのではないかと希望半分で思う。

 室内での盗撮の可能性を排除したのは、思慮深く用心深い美少女の嗜みとして、自室以外の場所で服を脱ぐような際には盗撮を避けるためのセンサーを使って身を守るのが習いとなっていたからだった。それは一成の部屋に居る時も同じで、別に恋人を疑ってというのではなく、一成本人が盗聴、盗撮の対象にされている可能性も全然ないとは言い切れないからだった。

 現に、過去にそうした事例は何件かあって、人気女優やアイドルがその都度、セックススキャンダルの中で消費されていったのは、恐ろしい教訓として少女たちの中では良く知られたことなのだ。

 そのためのアンチスパイグッズだったが、これもイタチごっこが続いているのが現状で、今どき、精神系の高位能力者でもない限りは、こうした防犯器機の更新を怠るといつ自分が被害者になるかもわからないのだった。

 つくづく女にとって生きづらいイヤな時代だ――と、思うがそれに馴れなければならないし、変化には機敏に適応していくしかなかった。

 しかし、唯香がもっとも恐れていたのはそのことではない。

 考えたくはなかったが、可能性として恋人の一成が自分を裏切っていることを棄てきれずにいたのだ。碧子ならやりかねないからだった。実際、唯香も操祈をスパイするように指示されて、そのように動かされていた。

 幸いにして、いまのところは碧子の視界には一成は入っていなかったようである。しかし、だからといってこれからもそうであるとの保証はどこにもなかった。

 一成もまた、大人の男とはいえ碧子からみれば、ただの凡夫の一人にすぎないのだ。

 怖い女だ――。

 と、唯香は碧子のことを考える度に、背中に冷たいものが走るような気がする。

 恐怖とは人を容易く誘導できるツールだった。

 そのことを碧子はよく心得ていた。

 唯香に対しても、いざとなったらきっと今よりもさらに強いカードを切ってくるだろう。そして相反するような甘い餌をぶら下げてくるのにちがいない。

 飴と鞭を使えば人は自由に動かせる――。

 それは支配する側の思考類型だった。

 善意とかお互いさまというような人とのつながりを軽視どころか蔑視している。碧子はそうしたリアリズム、力の信奉者であり、それができるだけの実力も備えているのだった。そしてもし彼女が本気になったときに自分は抗えるか、唯香には自信が持てなかったのだ。

 ひ弱な一人の人間にできることには限りがあった。

 意に反して決定的な場面で今度こそ本当に、自分にとって大切な人を裏切ることになるかもしれない――。

 それがとても恐ろしかった。

 そうならないようにするには、碧子にはこれ以上こちらの弱みを握られないように、さらに用心深く振る舞わなければならなかったが、それだけでは不十分なことも少女にはよく判っていたのだ。

「それより、食蜂先生って唯ちゃんのクラスの担任なんだって?」

「ええ、そうよ」

「知らなかったなぁ、教えてくれればいいのに……あの子、すごく可愛いよねぇ」

「あの子って、先生よ」

「僕から見れば、女のコだよ、歳も一緒みたいだし」

「それはそうだけど……」

「ねぇ、今度、紹介してくれないかな?」

「えーっ! よくそんなことが言えるものね、ほんと、信じられないっ」

 ベッドで肌を接している相手と別の女の話をするばかりか、引き合わせるようにと云うのだから呆れた物言いである。

「いや、そういうんじゃなくてさ、リアルでも見てみたくなって」

「一成さん、ミスコン、やってたの?」

 痛いところを突かれたように、男は少しまごついた顔になった。

「いや、だって……僕はちゃんと唯ちゃんに投票してたんだよ……たださ……」

「ええ、どーせ、わたしは本選に残れなかったあぶれ者ですよっ、イーだっ」

 少女は白い歯を剥き出して、むくれた顔をしてみせる。

「ホラ、唯ちゃんだって、ちゃんとファイナルで出てきたじゃないか、すごく可愛かったよ。みんなにも評判が良くてさ……ただ友人の一人からアレ、オマエの彼女に似てないかって言われて焦ったけど……」

 男がオロオロと弁解を始めるのを十分に見届けてから

「そんなフォローしてくれなくてもいいですよっ、操祈先生にかないっこないのは分ってるから、でもお生憎(あいにく)さま、先生には熱烈ラブラブの恋人がいるんですっ」

 と、おしおきのカウンターをお見舞いしてやった。案の定、男は顔を顰めた。

「えっ、そうなのっ! そりゃ残念だなぁ……」

「ああ、ホントに残念がってるっ、もうっ、許せないっ!」

 少女はキッとなって半身を起こすと、枕をつかんで男の顔に叩きつけようと持ち上げた。清潔感のあるほっそりとした二の腕と、ゆっさりとなった裸の胸が初々しい。

「ち、ちがうってば、ゴメン、唯ちゃん、僕が悪かったよ、ただキミの先生、本当に綺麗だったからさ、一度だけでも会って目の保養をさせてもらえればなって、そう思っただけだよ」

 そう言いながら、男は少女の胸の膨らみに手を伸ばして包み、

「ねぇ唯ちゃん、またそろそろ二回戦目といかないかい……?」

 男の欲望をちらつかせていた。

「えっ!?」

「僕の方はもうエネルギーゲージが充填率百パーセントになったみたいだから」

「いいですけど……」

「もし、唯ちゃんの体の準備ができていないのなら手伝うよ」

「手伝うって……」

 少女の顔がたちまち朱に染まっていった。

「手伝ってくれなくてもいいですっ」

「そんなつれないこと言わないでよ、それも男の楽しみのひとつなんだから」

 男の両手が唯香の細い腰のあたりを捕らえたかと思うと、さっと体位を入れかえて少女を下に組み敷いた。

「ちょっと一成さんっ、待って!」

 何をされるのかわかっている少女は体を丸めて身を守ろうとしたが、男の強い力には抗えずにすぐに膝の間を割られてしまうのだった。片脚を男の肩に担がれて無防備に脚を開かされていく。

「いやぁっ、こんなのぉ」 

 女の秘所をあらためられて少女は両手で顔を覆って羞恥に堪えていたが、哀切な悲鳴はたちまち甘い喘ぎとため息にかわっていくのだった。

「一成さんって……変よ……変態……」

「そうかな……そうかもしれないね……」

 恋人は愛撫の合間に顔をあげて睦み言を重ねている。

「……男って……みんな、変態よ……こういうのって……」

「唯ちゃんはキライなの?」

「うん……でも、一成さんだけは別……」

「それは良かった……とても嬉しいし光栄だよ……」

「……だから……一成さんも……私だけを見て……」

「……わかった……約束するよ……」

「本当にっ……約束よっ……ああっ……いいっ……一成さんっ……」

「ああ……約束だ……」

 恋人と交わした肉の契りに、少女の緊張が(ほど)けて女になった唯香は、白い体をいっぱいにひらいて、また愛する男の体に絡みついていくのだった。

 



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生徒会の役員たち

 

          ⅩⅩⅩ

 

#――これでようやく発信元の特定ができます#

「いいわ、けっこうよ、続けてちょうだい」 

 碧子はスマートフォンを切るとハイバックチェアの背もたれに深く身をあずけた。碧い瞳を更に碧白くして虚空を凝視している。遥か視界の先に獲物の姿を捉えた猛禽類のように瞳の鋭さを増していた。

 こうした状態になると他の生徒会員――とりわけ下級生たち――は碧子には迂闊に声をかけづらくなるのだった。だから電話が鳴ると、みなソワソワしてまず紅音の方を見る。現在入院中の副会長に代わって、現状、生徒会内で栃織紅音はナンバー2、事実上、碧子の秘書官長のような立ち位置に居たからだった。

「会長、四番に外線です」

 紅音が電話を受けて碧子に取り次いだ。

「誰から?」

「また海外メディアからの取材みたいですが、お断りしましょうか?」

「いいえ、伺うわ」

 電話を受けた碧子が話し始め、生徒会室内の張りつめていた空気がしばし和らいだ。

「取材、多いですね」

 二年生クラス委員の松原由里が紅音に話しかけてきた。

「そうね、でも思っていたほどではなかったわ」

「やっぱり霧ヶ丘の方に行っちゃうんでしょうか?」

「それもあると思うけど、ウチは操祈先生とのセットでの申し込みが多くて先生が断ってるみたいだから」

 ディスプレイを見つめたままで紅音が呟くと

「あー、そうなんですか」

 由里はどんな表情をして受ければいいのかわからないように曖昧な顔になった。生徒会に居ればその辺りの機微にはある程度通じているからだった。文化祭が終わって、正確にはミスコン以降、碧子の感情の振幅が以前よりも大きくなっているようで、生徒会の役員たちはみな碧子に対してはより一層、腫れ物に触れるような感じになっている。

「――そういったことは我が校の広報の方にお尋ねになっていただけませんか、わたくしは食蜂先生の秘書ではありませんのでこちらでは何ともいたしかねます――」

 また碧子の語気に苛立の気配を感じて、居合わせた者たちは机に向かって仕事をしている風を装いながら彼女の様子を伺っていた。慇懃で静かな言葉遣いではあるが、碧子を知る者であれば彼女が不機嫌になっているのが分るのだった。

 碧子が電話を置くと、生徒会室内はまたどこか気まずいような静けさに包まれてしまう。キーボードのパタパタ音や書類をめくる音だけが響いていた。

「紅音、車の用意をさせて」

「わかりました」

「それと私の留守中、もし谷津城先生から急ぎの連絡があったらすぐに知らせてちょうだい。出先からでも電話を入れるから」

 紅音は碧子のオーダーを聞きながら、固定電話を取ると碧子の専属ドライバーを呼び出していた。自動運転が一般的になっても山崎の実家では今もボディーガードを兼ねて運転士つきの車を使用しているのだ。

「どちらまでお出かけですか?」

「庁舎によ、後は任せるわね」

「承りました。お戻りは何時ごろに?」

「たぶん遅くなるからいいわ。なつきのところにもお見舞いに行きたいのよ、このところ色々あってずっと行ってなかったから」

 なつき、というのは副会長の京極なつきのことである。碧子の最側近で彼女の分身として学内の実務を差配していたが、体育祭の時に膝関節を負傷して現在、再生タンクに入って加療していた。完治復帰までまだ一、二週間を要するということであるが、通院治療だと全治に数ヶ月を要する上に完治率も下がるというので、碧子は、学園祭前だからと嫌がるなつきを説き伏せてタンク入りを受け容れさせていた。なつき本人はずっと眠らされているので会話もままならないが、こうした経緯もあって碧子はなにかと見舞いに訪れていたのだった。

 いざ、ご主人さまのお出かけとなると、二年生で生徒会唯一の男子役員である高梨裕太が忠犬のように碧子の手荷物を携えてドアの前に控えている。碧子をリムジンのリアシートまで送るだけのことだが、彼の中ではすでに利権化しているようで、他の誰にも――たとえ先輩女子であっても――その役目を任せるつもりはないようなのだった。

 その徹底した腰巾着ぶりが滑稽で、女子たちの間では密かに冷笑されているのだが、たとえ一時のことであっても男子という異物が生徒会室から居なくなるのは歓迎できることで、皆がまたいつものこととばかりに我関せずで黙過していた。

 二人が生徒会室から出て行くと、囲繞していた緊張感から解放されたように少女たちはミドルティーンらしい明朗さを取り戻していた。

「栃織先輩、コーヒー、お淹れしましょうか?」

 レイのルームメイト、ヒサオの姉の黒田アリスがリラックスタイムの口火を切った。能力者ではないが情報ツールの扱いに長けていて、トラブルがあるとみな彼女を頼るのだった。弟同様に長身痩躯の美形である。

「いいのよ黒田さん、私なんかに気を使わなくたって」

「でも会長って、よく庁舎に行かれますけど、いったい何の用があるんですかね?」

「さあ、私は良く知らないわ、もしかすると学校関係じゃなくて山崎本家の方の用事なのかもしれないし……でもそういうのって松原さんの方がわかるんじゃないの?」

 二年一組のクラス委員、松原由里はレベル1のリモートヴューワーだった。

「そんなっ、会長をさぐるなんてそんな大それたことっ、だいたい私のイメージなんて精度が低くてアテにもならないんですけど」

「職員かどうかしらないけど、あのビルの関係者に会長の意中の人がいるって噂なら聞いたことがあるぜ」

 三組の五輪美羽(いつわみう)も話に割り込んできた。クラス替えになる前まで二年間、ずっと紅音とクラスメートだったこともあり気安い間柄だと、少なくとも美羽の方では思っているらしい。

「五輪さん、たとえ噂話だとしてもそういうことは口にしないほうが無難よ」

 紅音に窘められて美羽は頭を掻いた。百八十センチ近い大柄な少女で、それもそのはず、バレー部の主将にしてエースアタッカーでもあるのだ。レベル1の電気系サイキックで、小物にかぎるが手に触れたものを瞬時に動作不能にする能力を持っていた。ただ本人は、こんなものが何の足しになるのかさっぱりわからないといつもこぼしていて、もちろん、そうした力を試合で使ったことは一度もないとのことである。

 性格は大雑把なところもあるが、生一本で後輩の面倒見も良いことから上にも下にも顔が利き、女にしておくのが勿体ないくらいの、いい“ヤツ”――だった。

「そうだな……わりぃ、みんな、いまのは聞かなかったことにしといてくれ……それにしてもどうして会長は食峰先生のことが苦手なのかなぁ、いい先生だと思うんだけどな、俺は」

「その話もNGね、今はいいけど」

「おっと、そっか、これもそうだったか、いやぁ俺としたことがっ」

「ここの雰囲気を悪くして得する人なんて誰もいないから、そんなつまらないことをいちいち告げ口なんてする人はいないけど」

 一組の茂榀麗(もじなうらら)が大きなマグカップに入ったコーヒーを勧めながら美羽の肩をたたいた。部屋にいた他の下級生にそれとなく注意を促しているのだった。

 麗は紅音と共に文芸部に所属していて、部長と副部長の間柄でもある。一見、お下げ髪で度の強いメガネの地味な風貌ながら、メガネを外すとくっきりとした顔立ちになってかえって目立つタイプの擬態系美少女だった。見かけ通りに懐が深く賢明で、汚れ仕事もすすんで手がける忍耐強さもあることから下級生からの信頼も厚い。レベル2の学内最強のサイコキネシストとして空気や水といった不定形のものを操作する術に長けていて、実は修学旅行の際に一部の男子生徒が念動力で飛ばした極超小型カメラを撃ち落としたのはほとんど彼女一人の力なのだった。

 一年生から三年生までの八人の少女たちは長テーブルを囲んでコーヒーを飲みながら、事務処理をしながら、和やかな雰囲気のままに雑談も織り交ぜている。

「ところでおまえの方はどうなんだ? 最近、彼氏と上手くいってるのか?」

 美羽が紅音にいきなり話を振ってきた。

「彼氏? いったい何の話?」

「おまえのクラスの、生徒会の雑用を押し付けたヤツ」 

「まさか密森くんのことを言ってるの?」

「そう、それだ、ソイツ。最近よくつるんでるって噂だからさ」

「あら、何の話? 私も知りたいわ」

 麗も混じって最上級生三人が女の無駄話――俗にいうガールズトーク――に花を咲かせ始めた。

「あれは何でもないわ」

「そうかぁ、お安くないぜぇ、一昨日、ベルジュでアイツと仲良くパフェ食ってたって後輩から報告があったぞ。紅音先輩って最近、オトコできたんじゃないスカって目をまんまるにしてな」

 いつでも無愛想オーラ全開にしている紅音は、そういう方面では目立っているらしい。

「あら、そうなの? 初耳よ。密森くんって時々ここに来ることのあるメガネをした線の細い感じのナイーブそうな男の子でしょ? 紅音ちゃんってああいうのがタイプだったなんてちょっと意外よ。もっとわかりやすい美形男子が好みだとばかり思っていたから」

「だからチガウって言ってるでしょ、来年度予算の見直し作業の進み具合をチェックしてるだけよ。もうかれこれ一ヶ月にもなるのに、まだ終わってないんだから」

「それでわざわざカップル御用達のラ・ベルジュに行ってパフェを食うのかぁ?」

「食べてたのはパフェじゃなくてパンケーキっ」

「同じようなモンじゃんよぉ」 

「どこが同じなのよっ」

 珍しく紅音が感情的になって語気を強めていた。

 そんな三人の常とは違う素のやりとりを目にして、居合わせた五人の下級生たちも興味津々で見守っていたのだが、ちょうど話の成り行きが佳境に入りかけたところにまた高梨祐太が戻ってきたものだから、間の悪いヤツ、と座はたちまち白けた空気になるのだった。当然のごとく、雑談会――はおひらきになる。

 裕太もさすがに部屋の気配の変化に気づいたのか、呆気に取られた顔をしてドアの前に立ち尽くしていた。

「あの、みなさんどうかされたんですか?」

「会長はちゃんと送ったの?」

「ハイ、無事にお送りいたしました」

「それはよかったわね――」

「コーヒー、淹れられたんですか? アレ、これいつものブレンドと違いますよね」

 鼻はよく利くようである。ただしコーヒーに関してだけだったが。

 生徒会入りした当初、高梨裕太はレベル1のサイコキネシストだという触れ込みだったが、実際はサイコロの出目の確率を僅かに変えられる程度で限りなく無能力者に近かった。成績優秀、長身でイケメンだが、全身が軽佻浮薄の膜で覆われているような感じで長所の全てを台無しにしていた。

「会長専用のブレンドには高梨くんじゃないと手をつけられないでしょ? だから生協で買ってきたオリジナルブレンドよ。あなたの口には合わないかもしれないけど、飲む?」

 まるで、なんなら? と譲歩案を提示するような調子でアリスが訊くと

「ああ、それなら僕がきちんとしたのをみなさんに淹れなおしますよ」

 彼に悪意はないのかもしれないが、少女たちの目は点になっていた。

 この日、結局、碧子は生徒会室に戻ることはなく、少女たちと少年はいつも通りに黙々とノルマを仕上げていき、下校チャイムの前にそれぞれが帰途についたのだった。

 ただ一つ、いつもと違っていたのは、彼女たちが去った後の誰も居なくなった生徒会室に、固定電話の呼び出しが長く鳴り続けていたことだった。

 




描いてても退屈なモブシーンです
お付き合いお疲れ様でした

次話は久しぶりに操祈先生とレイくんをメインに
「やだぁっ」と甘啼きする操祈先生から描き始める予定で・・・す


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バースデープレゼント

          ⅩⅩⅪ

 

「やだぁッ、またそんなところ……ねぇ、レイくんっ……」

 操祈は甘えるような鼻声で恋人の奔放な仕打ちを(なじ)った。

 このところ少年はすっかり自信を持ったのか、二人きりになるとますます自由にふるまうようになって、女の身からするとただの辱めにしかならないことにもたっぷりと時間をかけるようになっていたのだ。

「おねがい、聞いてくれないのね……」

「ええ、聞いてあげません」

 足元に(うずくま)ったままで、少年は操祈の切なる願いを無下に退ける。

「だってプレゼントをどうするかは、もらった人が決めることでしょ?」

「………」

「それにまだラッピングのリボンさえ(ほど)いてないから、中身が何かわからないし……だからにおいを嗅いで想像しているんですけど……どうやら先生からのプレゼント、とってもステキなものみたいで、ボク、すっごく嬉しいなっ、ワクワクしてます」

 操祈は椅子の肘掛けに両脚をかけて体を開いたままのあられもない姿で、諦めに目を閉じて椅子の背に頭をあずけた。長い睫に愁いの翳が濃い。スッキリ整った鼻梁の愛くるしい美貌を、いまは羞恥に朱くして年下の恋人からの淫らな仕打ちに堪えている。

 この歳若い暴君にとって、問答することさえ女を追いつめていくための段取りに過ぎないことを彼女は経験から、もう良く知っているのだった。

 閨でのレイの残酷さと、そしてやさしさを――。

 こんな姿にされた女にできるのは男の情に訴えかけることだけだったが、いまはそれさえ(はかな)かった。

 彼女が身に纏うことを許されているのは、チョーカー代わりに首に巻き付けられた黒いリボンだけなのだ。女の体の美しい部分の殆ど全てが、明るい室内灯の光を浴びて隅々まで晒されている。

「ひどいわ、わたし、あなたの先生なのよ……それなのに、こんなことをするなんて……」

「そうですね、とっても素敵な先生ですよね……でも、いまは違います。いまの先生はボクだけの女神……人の子の前に現れるとき、魔女は偽りで着飾り、美しさに誇りのある女神はなにも隠さぬ姿で降臨する……そうですよね?」

 少年は顔を上げると、操祈の全身を視線でなぞっていた。

「きれい……こんなに綺麗な女の人が……居るはずがないですから……」 

「………」

「だからボクも、崇拝するだけの、無辜(むこ)の信者になれるんです……誰よりも敬虔な信者に……」

 そう言うと少年はまた、操祈の尾骨のわきにある密やかな凹みに鼻先を寄せ、そこを丹念に嗅ぎ取り始めるのだった。

 

 

 もうすぐ七時――。

 時計を見ながら操祈は胸を躍らせていた。レイとのペントハウスでの約束の時間が迫っていたからだった。文化祭を挟んで、かれこれ三週間も逢えずに居たのだ。紅音が(あいだ)を取り持ってくれたおかげで互いの気持ちのやりとりはできては居たものの、プライベートでじかに言葉を交わせたことは一度もなかったのだった。

 それどころか文化祭のミスコンテスト以来、マスメディアの取材要請がどっと舞い込んできて、ともすれば公の部分が私を圧倒しそうになっていたのだ。操祈の気持ちからすると、全部、一切合切、まるっとお断りするつもりだったのだが「それじゃああまりにも愛想がないから」と学校長の谷津城妙子先生じきじきの指導が入り、内外幾つかのメディアのインタビューに応えることにしたのだが、どれも訊かれることは同じで、

 だったらみんな一緒にやってよぉっ――!

 と、言いたくなるのを堪える方が大変だった。

“なにが教師として差し障りを感じたりはしませんか? よ、そんなのあるにきまってるでしょっ! 今だってあなた方のお相手をするのに、教員としての貴重な時間を浪費(つか)っているっていうのにっ!”

 作り笑いをするのがこんなにも消耗することだとは思いもしなかった。

 幸い、いつも隣には犀利(さいり)な生徒会長の山崎碧子が居たおかげで、彼女が上手く捌いてくれたので座を白けさせてしまうようなことにはならなかったが、操祈としてはありがたくないエキストラワークの所為で、ホトホト手を焼いたこの一週間なのだった。

 だから久しぶりのデートに女心は甘い期待にときめいている。

 逢いたいな……。

 胸を焦がして眠れぬ夜、レイが自分にとってどんなにかけがえのない存在になっているかを、操祈は気持ちの整理をしながら改めて確かめることとなっていた。

 

“発情した牝が牡を求めているだけじゃないのよぉ――”

 

 裡なる声はそう言って(あげつら)うが、それが正鵠を射たものだとしても、もうたじろいだり怯んだりはしなかった。男と女が愛しあうというのは体の関係を含めて――否、それそのものと言いかえてもよいと彼女は得心していたからだった。人と人との繋がりでこんなにも密接なものはないのだから。親子以上に親密になって、互いの秘密を見せ合い分かち合う関係、求め合ってどこまでも許し合うこと、それが恋というものだと操祈は思う。

 そのことを、歓びを知った女の肌が認めていた。

 今、自分がこの部屋に来ているのは、愛されるため。

 愛されることによって、愛するためだ――と。

 たとえ年下の男の子との間で為される世間的には許されないことであったとしても、もうそれが心の歯止めになることはなかったのだった。

 カチャリ――。

 秘密の裏扉が開く音がして、操祈はパッと輝かせた顔を上げた。六時五十七分。ほんの少し早いけれど、予定通りの時間だった。長椅子から立上がると少年を出迎えに小走りになる。

 そこには買い物袋を二つ両手にぶら下げたレイが立っていた。

「先生……」

「レイくん……」

 教室に居る時と同じ呼びかけだったが、互いに男と女になって見つめ合う。

「なんだかとても久しぶりね……」

「買い物、いっぱいしてきちゃった」

「あらぁ、私もよ……」

「先生は何を買われたんですか? ダブってないといいけど」

「私はあなたがこのあいだ作ってくれた肉じゃがにチャレンジしようと思って」

「それなら大丈夫ですね、ボクも野菜をたくさん買ってきたけど、じゃあポトフにしようかな。ビーツがあればボルシチって手もあるけど」

「ずいぶんいっぱいレシピのストックがあるのね」

「レシピって言えるほどじゃなくて、以前に一度、作ったことがあるってぐらいですけど」

 操祈はかがみ込んでキスをしようとしたが、少年はそれを逃れて

「手も汚れているし、うがいもまだですから」

 潔癖できれい好きなレイは、そう言って申しわけ無さそうに頬笑んだ。

 そんな少年を操祈はいつも、まるでオペに臨む外科医みたいだと思ったが、レイらしい気遣いと優しさの現れだということも分っているのだった。

 

 



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バースデープレゼント2

          ⅩⅩⅫ

 

「ごめんなさい、わたし、プレゼント、何も用意していなかったわ……あなたのお誕生日だったこと、忘れるなんて……」

 と、しょんぼりする。折角のデートを自分のうっかりが台無しにしてしまったような気分だった。

「でも、もう昨日のことですから……」

 少年は恬惔(てんたん)としている。

「だからって……ねぇ、何がいい? 欲しいもの、あるでしょ?」

「ボクのバースデープレゼントですか? そんなの気にされなくてもいいんですけど」

「そうはいかないわ、だってわたし……あなたのガールフレンドとしては……」

 少し勇気が要ったが、ガールフレンド――という言葉を思いきってつかってみたのだったが、相手がニッコリしてくれたので操祈も嬉しくなった。

 そう、わたしはこの人のガールフレンドなんだ――と、自分の胸にも言い聞かせる。

 だから――。

 普通の女の子たちのするようなことを自分もしてみたいのだった。

 今はできないことがいっぱいあるけれど、でもいつかは――。

 スイーツを分け合いながら一緒に街を歩いたり、お買い物をしたり、映画を見たり……。

 そんなあたりまえのことをしたかった。

 それができないからこそ、せめてプレゼントくらいは、と思う。

 二人だけの和やかな食事をおえて、大きな長椅子の隅に体を寄せ合うようにして座って互いの温もりを感じながらの会話は、ほとんどピロートークに近い親密さを確かめ合うものになっているのだった。

「じゃあ、お花を……」

 ボソリ、と言う。

「お花? 男の子が? 珍しいわね……普通は腕時計とか万年筆とか、ネクタイとかなのかな?……それともゲームソフトとか? そう言ったものがいいのかしらと思っていたから……」

「そうなのかなぁ……でも、ボクはお花がいいなっ」

「いいわ、じゃあそういうことにしましょう。このつぎ逢う時には忘れずに用意しておくわね」

「いいえ、その必要はありませんよ、お花ならもういただいているので……」

「……?……」

「世界でひとつの、じゃなかった二輪ですね……この世でいちばん美しい花々を……」

 操祈は一瞬、自分のことを花に喩えてくれたのかと思ってはにかんだが、二輪、と言われて意味がわからなくなって小首を傾げた。

「ねぇ先生……これに着替えていただけませんか?」

 少年は制服のジャケットの内ポケットの中から小さな紙包みを取り出すと、操祈に手渡した。

「なぁに、これ?」

 操祈はつぶらな瞳をさらに大きくして恋人の顔を見やる。

「服をみんな脱いで、それを着て下さい」

 着替えというにはあまりにも小さな包みに、操祈は怪訝そうな顔になって中味をあらためた。袋の中に見えたのは黒いリボン状のものなのだった、というよりも取り出してみるとリボンそのもの。

「ただのリボンじゃない!?……これに着替えるって言っても……」

 少年のニンマリした顔を見て、やっと意味がのみこめた操祈は華奢な肩を上下させて、大きなため息をひとつ吐くのだった。

「またイケナイこと、考えているのね?」

「ハイ――」

 レイは少しも臆することなく操祈をまっすぐに見て頷く。メガネを外して甘い顔立ちを向けていた。

「もう、レイくんったら……」

「どうしても嫌だったらいいですよ……」

「イヤだなんて言ってないわよぉ、エッチなレイくんはわたしに、これを“着て”欲しいんでしょ? いいわ」

「ほんとに?」

 少年は顔を綻ばせた。

「だって、あなたのお誕生日のお祝いを兼ねているんだから……わたしにできることなら……」

 操祈はキスを求めて少年の方に身を屈めた。ところがまた、唇に人指し指を立てて制されてしまうのだった。

「……?……」

「お楽しみは後にとっておくほどステキになるものですから……」

 今度も同じ理由で拒まれてしまった。こう繰り返しが重なると、なんだか焦らされているような感じにもなっている。

「先生のビキニ姿、スゴかったから……それに着替えたらきっともっとずっと綺麗になるんじゃないかなって思って……大活躍でしたね、ミスコン、お疲れさまでした」

「大活躍って、あんなことがあった所為で今週は大変だったんだからっ」

 少年がその話題を振ってきて、操祈は待ちかまえていたように胸に抱えていた不満を訴えた。授業がやりにくくなっていること、職員室でのセクハラまがいのこと、マスコミとの対応に追われていたことなど。

「取材だと言ってつきまとわれて、あの人たちってアパートの敷地にまで入ってきちゃうのよ、ご近所さんにも迷惑がかかって」

「えーっ、やっぱりそうだったんですか? それは大変でしたね」

「やっぱりって、もう――」

 操祈はむくれた顔を作って唇を丸めて尖らせる。そうすると広い額の幼顔が子供っぽくなってさらに愛らしくなるのだった。

「連中はじきに居なくなりますから心配しないで下さい」

 一般公開されるようになったとは言っても、そこは学園都市である。外から来た者が自由に活動できる部分は限られていた。いかなマスコミといえど、許可なく留まり続けようとすれば通信器やカード等の一切が使用できなくなってしまうのだ。宿泊どころか糧さえも得られず、結局しぶしぶ外へ出て行くしかなくなるのだった。そして違反者として次の許可申請ではペナルティが課せられて入城許可が降りなくなる。

「でもボクは嬉しかったな、ボクがいちばん素敵だなって思っている先生のことを、世界中の人も同じように感じて、いちばん綺麗だって讃えてくれたんだから……」

「一番じゃなくて五番目よ」

「それって、実はちがうんですよ」

「ちがうって――?」

「やっぱりご存知じゃないんですよねぇ、先生らしいけど……」

「知らないって何のこと?」

 ミスコンについての無頓着ぶりを、さすがにこのままにしておけないと思ったのか少年は事情を諄々、説いて話したがそれでも操祈は浮かない顔をしたままなのだった。

 各マスコミのインタビュアーのウエイト配分がミスコン三位の碧子よりも、明らかに操祈の方に割り振られているのが不思議で、教師という立場への関心からそうなっているものとばかり思っていたのだが、レイの言うような背景があるとしたら分らないわけではなかった。

 ただ納得したわけではなく、断固異議あり、迷惑この上ないという気持ちには変わりがない。

「もっと喜んでくれると思ったのにな……」

 少年は少し不満げな顔をしている。

「だって、その影響だと思うけどぉ、ここに来るだけでも大変だったのよぉ」

「そうだったんですか?」

「一人でエレベーターに乗ろうとしても、はっと気がつくと後ろからくっついてくる人が居たりして……」

「それって、もうストーカーじゃないですか」

「たぶんそういう人とは違うとは思うの、でもここのエレベーターにはなんども乗りそびれてしまったわ」 

 一夜にして学園都市の外でも著名人となった操祈には、これまで以上に周囲から関心が寄せられているのだった。

「それでどうされたんですか?」

「紅音さんに相談したら、もうひとつの奥の手を教えてくれて」

「もうひとつの奥の手っ?!」

「でもそれはレイくんにも言っちゃダメだって言われてるから、ナイショ」

 ビル三階の女性用トイレの奥に、家族専用の二人乗りの非常用直通エレベーターがあるのだった。

「それって危ないことではないんですよね?」

「それは大丈夫よ、かえって楽なくらいよ」

「ならかまわないですけど……」

「でも、念のため多用するのは避けた方がいいって紅音さんが言っていたから、なるべく使わないようにはするつもりだけど……」

「秘密の裏口の他にもさらに奥の手を用意しているとは……やっぱり栃織さんは侮れないなぁ……」

「ええ、そうよ、とっても賢い人なの」

「ついこの前ですけど、ボクも彼女には助けられたことがあったから……ボクたち、栃織さんには借りをつくってばかりですよね……いいのかなあ、これで……」

 当惑気味なレイの様子に、操祈も紅音から持ちかけられていたことを思い出すのだった。

 セックスしているところを見たい、と言われていたのを――。

 とても受け容れられないと感じていたことだったが、レイとのデートを重ねるようになって、こんなにも彼女に頼り切りになるとは思ってもいなかったのだった。

「大丈夫よ……紅音さんはとてもいい子だから、無茶を言うような人ではないわ」

「そうですね……でも彼女ひとりに過度に依存するのもどうなのかなって……」

「ええ……」

「だからって、今のボクたちに何ができるってわけでもないんですけど……」

 少年は不意に何事かを思い出したのか、気がかりでもあるような顔をする。

「どうかしたの?」

「え――?」

「なにか心配事?」

「いえ、べつに大したことじゃないです」

 少年は笑顔を向けたが、無理につくっているようにも見えるのだ。

「大したことないって、そんな顔して言われたら、心配しないわけにはいかないでしょ?」

「あれ、ボク、そんなにおかしな顔してたのかな?」

 レイは茶化そうとしていたが

「何か、あるのね――?」

 操祈が踏み込むと、少年は観念した様子で真顔になるのだった。

「実は今、ちょっとしたトラブルを抱えていて……」

「トラブル?」

「それでまた栃織さんの力を借りる事になりそうだから……」

「どんなこと?」

「それはまだお話できないんです……でも、けっして大事(おおごと)にはしませんからご心配なく」

「私にも関係がある事……?」

「それも今は言えません……」

「そう、なのね……」

 どうやら操祈も絡む話のようだったが。少年が言えないという以上は、追求することもできなかった。

「私じゃ力になれないのかな? 紅音さんには頼っても……」

「そういうんじゃないんです、ただボクと先生との線がつながるとマズいので」

「そう……そういうことなの……でも何かあったら、私にもちゃんと相談してね」

「ええ、わかってます……それより先生、ナマ着替えはどうされたんですか?」

 真面目な話になって重くなった空気を払おうとするように、少年は話をむりやり切り替えるのだった。

「もう、急かさないでっ! しょうがないわねぇ、じゃあ、わたし着替えてくるわ……このおリボンに……本当にイケナイ子なんだからっ」

 操祈は戯れに少年をキっとひと睨みすると、やわらかい笑顔になって長椅子から立上がった。

 




今夜はもう1話、書ければ・・・


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バースデープレゼント3

 

          ⅩⅩⅩⅢ

 

「まさか私が服を脱ぐところを見ていたいの?」

「ダメですか?」

 操祈は驚いたが、レイは当然のことのようにしれっとした顔をしている。

 恋人にはもう体の隅々まで知られていても、それでも着替えをじっと見られるているのには女として障りを感じるのだった。

「ボクも脱ぎますから、それならおあいこでしょ?」

 少年は自分から先にワイシャツのボタンを外し始めて、仕方なく操祈もカーディガンのボタンの一つ一つに手をかけていく。その次はベストを脱いで、清楚な白長袖のブラウスの襟のリボンタイを(ほど)いていった。

 互いの視線をチラチラ意識しながら、着ているものを脱いでいくと、先に全裸になったのはアイテムのずっと少ない少年の方なのだった。股間のものを高々とそそり勃たせたまま肘掛け椅子にどっかり腰掛けると、身を乗り出すようにしてまだ肌着でいる操祈を興味深げに見つめている。

「あんまり見ないで……男の人が女の着替えを覗くのはエチケット違反よ……」

「ボク、見てるだけで、覗いてなんていませんから」

「へりくつ言わないのっ」

 ブラを取ると、はちきれんばかりだった両の乳房がゆっさり重たげに解き放たれて、華奢なデコルテラインとの対比が優美に、どこか痛ましげになった。たわわな実りに見合う大きめの乳暈(ちちかさ)は目にも(あで)やかで官能的なのだった。それに反して乳先の大きさは控えめで、大豆ほどの尖りが桜色の飾りの真ん中で恥ずかしげに頭を覗かせている。

 最後に残ったショーツに手をかけたときには、既に自分が肌着を湿らせていることに気がついて、操祈はつくづく情けなくなってしまうのだった。

「ほんとにこっち見ないでっ」

 と、つい余計なことを口走ってしまったために、かえって少年の好気を焚き付けてしまうことになる。

「見ないでって言ってるのにぃっ!」

 ほとんど悲鳴に近い抗議の声も無視されて、結局、間近で全裸になるのをバッチリ見届けられたばかりか脱いだものまで奪われそうになって、さすがにそれだけはダメ、と必死に抗って後ろ手に隠した。すると今度は無防備になった股間に無遠慮な視線を注がれることになってしまうのだった。

「もう、イヤな子ねぇ、そんなにじろじろ見ないでよぉ」

「だって先生にとっては日常なのかもしれないけど、ボクはいま信じられないくらい美しいもの目にしている真っ最中なんですから、仕方ないじゃないですか」

 少年は股間の物を軽くしごいて、自身がいかに感動しているかを操祈に見せつけてくるのだ。猛々しい牡の情熱の昂りは、十五歳だがすでに完成した男であることを示しているのだった。

 それに対して操祈の下腹部は、小麦色のヘアが素のままにふんわりふわふわの容子が見るからに素朴でやさしく、彼女らしい愛らしさを感じさせている。レイがトリミングを嫌うので長めの毛足がまぁるく繁って秘裂を健気に隠していた。

「ご満足、いただけましたか? ご主人さま――」

 全裸になった操祈は、値踏みされる奴隷女にされたような気分になって椅子に座るレイの前に立った。

「うんっ、凄く綺麗です。やっぱり先生は何も身につけていない時がいちばん自然で美しいんだってことがよくわかります」

 骨細なつくりの全身から立ちのぼる、そこはかとなく漂う無垢の香りが男の庇護欲をかきたて、同時に強い征服欲も刺戟していた。体に流れるどの曲線も甘い謎を描いて、女の弱さと哀しさをうったえかけているようなのだ。

「もっと近くに来て下さい……」

 少年は股間の物をニョッキリさせたままで招くと、操祈の体に手を伸ばしてなめらかな肌触りを楽しむように(さす)ってくる。

「きれいな肌……もっちりすべすべ……」

「よして、くすぐったいから……」

「キモチのいいことって、くすぐったいことのほんのちょっと先にあるんですよね」

 そう言いながら目の前にあった亜麻色のヘア――それはわずかに蜜を含んで毛先がしんなりしていたが――を指先でサッと撫でて操祈の顔に(つや)めいた驚きの表情をつくらせるのだった。

「ねっ――?」

 女体の勝手を知った顔が得意げに見上げていた。

「もう、レイくんったら、ホントにエッチなんだからぁ」

 操祈の言葉にも(おもね)りの蜜がのって声音を甘くしている。

 じゃれあいながら互いの距離を詰めていく、男と女の恋の駆け引きにも終わりが近づいていた。

「じゃあ次はリボンですね、どこに付けたら可愛いかな? 二の腕……太腿……胴まわり……」

 レイはリボンを取ると色合わせをするように、操祈の体のあちこちにあてがっていたが、

「やっぱり首に巻くのがセクシーかな……どう思われますか?」

 操祈の背後にまわりこむと、両手で左右に拡げたリボンを首筋のなかほどにあてて訊く。

「そんなことわからないわ……」

「じゃあ、まずは首に巻いて飾ってみましょう、きっと良くお似合いだと思いますから」

 少年は女の細っこい首に黒いリボンを巻き付け蝶結びにすると、芸術家がするように一歩下がって出来映えを確かめていた。

 白い肌に黒いリボンのコントラストが、首の線の繊細さをいっそう印象的にしていて、可愛らしさと美しさ、瑞々しさと(なまめ)かしさとが見事に融けあっている。

 さらに少年は、鞄の中から小さなひな菊ほどのコサージュを三つ取り出してくると、

「どの色がお似合いだと思われますか?」

 操祈に訊くのだった。

 掌の上には、白、桃色、赤の三色の薔薇をかたどった、花径が二センチほどの造花が並んでいた。

「どうするんですか? これを……」

「リボンの結び目の真ん中に貼ってアクセントをつけたら可愛らしいんじゃないかと思って」

 身をかたくしていた操祈が選べずにいると、少年はひとつひとつを首もとに照らして、

「白だと肌の色に隠れてしまうし、ピンクだと……少し弱いかな……バストトップの色とも重なってしまいそうだし……」

「………」

「やっぱり赤かなあ……いまの先生にいちばん映えるのは……」

 操祈は終始、不安げに大きな目をパチクリさせるばかりだった。

「じゃあ、赤にしましょう――」

 女体へのボディラッピング――と言っても首にリボンを巻きつけただけだったが――が終わると、

「せっかくですから記念に写真を撮っておきましょう」

 と、彼女にしてみればさらにとんでもないことを言い出すのだ。

「ちょっと待って、こんなの撮らないでっ」

「スタンドアロンの普通のカメラですから心配しないで下さい。先生とボクの生理データで暗号化しておけば、ボクたち二人が一緒に居る時にしか画像は開けませんから」

 用意がいいことにカメラまで持ってきている。

「もう、初めっからそのつもりだったのね、ひっどぉーいっ!」

 操祈自身をバースデープレゼントにするつもりで、アレやコレやのアイテムを準備していたのが分って、プレゼントを用意し忘れてシュンとしていたのがお人好しのおバカさんみたいに思えてくる。

「ボクだって、先生とのデートとなれば考えますからっ、この後だって“いろんなこと”しますよっ」

「いろんなことって……?」

「それはもう、いろんなことですっ」

 少年からそう宣告された操祈の瞳には、わずかに怯えの色がうかんだが、それもすぐに薄れて消えていき、入れ替わるようにして官能の焰がチロチロと見え隠れするようになっていくのだった。

 どうせいつもどおりに彼のペースでやりたいようにされるのだから。

 それがわかっていて自分も嬉々としてやってきているのだから――と。

「でもまずは写真を撮っちゃいましょう」

「えーっ、ほんとに撮るのぉ?」

「だってもったいないじゃないですか、こんなにカワイイ先生を放っておくなんてっ!」

 その後の小半時あまりの時間、操祈はレンズの前でさまざまなポーズを取らされて、フレームの中に永遠に捕らえられて行ったのだった。

 



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バースデープレゼント4

 

          ⅩⅩⅩⅣ

 

 肘掛けに脚をかけて体を開いたままの、そのあられもない姿で恥ずかしい検分をされて、せつなげに視線を泳がせていた操祈だったが、サイドボードの上の何も活けられていない陶製の花瓶が目に留まると、

 あそこには何を飾ったらいいかしら?――と、ひとり想いを巡らせていくのだった。

“お花よりも枝ものの方がこのお部屋の雰囲気には合いそうね……でも椿は華やかでステキだし、しっとりとしたコスモスもいいわ……これからならシクラメンっていうのもありよね、それにハーブも……”

 自身の部屋は実用的なだけで花を活けたりしたことはなかったが、恋人と過ごす広くて明るいリビングにはあった方がいいと思う。

 大好きな人と過ごす大切な場所だから――。

 次のデートの時にはきっと何かお花を持ってくることにしようと、しばしの甘い夢に遊んでいた。だが、また少年が鼻をクンクン鳴らしているのに気づくとたちまち現実に引き戻されて、清潔な美貌に愁いの翳が落ちて悩ましげな風情を濃くしていくのだった。

「いいにおい、先生のひな菊(デイジー)の香り……かわいいっ……」

「………」

 おかしいとは思ったけど……そういうことだったのね――。

 プレゼントのリクエストはいかにも色好みな少年らしいものなのだった。

 誰にも知られたくないことを、自分すら知らないことを知り尽くされるという辱め、女の誇りを奪うだけの陵辱。

 なにが無辜(むこ)の信者よ……言っていることと、していることがぜんぜん違うじゃないのよ――。

 言葉に出して(ただ)したかったが、自分の足元で身を丸めて一途に求めてくる少年の頭と背中を見ていると、(かしず)かれているようにも思えて、胸の中にあった諦めの気持ちが徐々に赦しへと姿を変えていってしまう。

 レイは思いやりがあって情の深いとてもいい子なのに、どうしてこんなにイケナイことができるの――?

 (ねや)での奔放なふるまいと、普段の思慮深くて控えめな少年とのギャップの大きさにはいつも驚かされて、たじろぐばかりでいる。女の身からすると男の欲望というものが、どのような成り立ちなのか分からなくなるのだった。

 程度の違いこそあれ、レイひとりだけが変わっているのではないことを操祈は唯香との打ち明け話を通じて知ってはいる。

 それがとても深い愛情表現だということを――。

 興味のない相手には絶対にしないことでも、強い敬慕や憧れを感じている女に対しては、容易に禁忌を乗り越えてしまうものが男の中には居るということも。

 少女とは同じ種類の悩みを抱えるもの同士の気安さから

「だからって迷惑な話よね――」

 そう言って互いに顔を赤らめながら頬笑みを交わしたのだった。

 それでも――。

 事が事だけに、やっぱり非道(ひど)い間違いを冒しているのでは?――という罪の意識がちらついて、このままでいいのかしらと思わずにはいられなくなる。

 いつもこの子が口にするように……わたしが悪いのかしら――?

 ダメなことはダメ、と初めにちゃんと拒んだ方が良かったのかもしれなかった。ただ、今となってはなにもかもが後知恵に思えてしまうのだった。

 女にとっては秘中の秘ともいえるプライバシーの詮索に身をゆだねて、操祈の思いはひとり漂流している。

 男と女のいとなみの不思議について、二人の愛のかたちについて。

 と――。

 いきなりそこをペロッと(ねぶ)られ、ひっ、と喉を鳴らして椅子の上のお尻が小さく跳ね上がった。少年は、もう香りを楽しむだけでは飽き足らなくなったのか、なま温かくて粘つく執拗な感じのものがそこを捉え、ぺとり、と貼りつかせたまま長く留まっている。女の本能が、これ以上自分の体に深刻な影響がもたらされる前にあいせつな愛撫から逃れようと、閉じられない脚を閉じようとして身をもがかせた。

「いけないっ、レイくぅんっ」

 聞き届けられることがないと判っていても、咎めずにはいられない。

 それはとても背徳的な行為、まして子供が大人の女にしてはいけないこと……そのはず……。

 にもかかわらず――。

 彼女の体はその淫靡(いんび)な味わいを、もうよく知っているのだ。

 旅先の京都で初めて経験させられて以来、このペントハウスで逢瀬を重ねるようになってからは、レイはあたりまえのように愛撫のメニューに加えていたからだ。

 その妖しくも奇妙なくすぐったさに、操祈は潤んだ瞳を虚空に彷徨(さまよ)わせた。我を失うような強い快感ではない分、心はいっそう敏感になっていて愛撫が進むたびに、じわっと寄せてくる焦慮に千々に乱れてしまう。やさしい形の眉を翳らせて、伏し目がちの瞼に嫌悪と悔いとのないまぜになった繊細な小じわを浮かせて。けれども、豊かな膨らみのいただきを飾る乳先を、発情の(しるし)もあらわに哀しく尖らせているのだった。

 弱い女の身が男の情にすなおに反応し始めていた。

 どんなに固く締まった心と体も時間をかけて丹念に愛されれば、やがてはグズグズになってしまうのだ。こうしたことになるとレイは、とても十五歳になったばかりの男の子とは思えない、まるで淫魔のような狡知(こうち)をはたらかせて、それはそれは(ねんごろ)ろに彼女の逃げ道をひとつひとつ塞いで追いつめてくる。むしろそれを愉しんでいるかのように手数をかけるのを惜しまない。

 いかに歳が離れていようといったん裸に剥かれてしまった後は、女体を恐れずに挑んでくる男の欲情を前にして、抗いようもないのだった。

 初めに体の一部分が裏切り、意思に反して性愛の目覚めに引きずられた女の思いは、やがては肉体の都合さえも追い越して逸楽の淵へとのめり込んでいってしまう。

 いま少年は貼り付けた舌をじっくり探るように何度もなぞらせていて、また彼女の心を(ひし)ぎにかかっていた。味をみられていることが判るような、(よこしま)な意志を感じる動きには女の矜持(きょうじ)蹂躙(じゅうりん)されるようなやりきれなさがあって、だから長く続いた吟味の果てに少年が漸くそこから顔をあげた頃には、操祈はすっかり負け切った状態にされていて、この上どんなことを求められても拒めないような気持ちになっているのだった。

「先生、プレゼントを開けてもいいですか?」

 レイが両脚の向こうから空々しい問いを投げかけてくる。

 女の体を思い通りに泣かせて、満足そうな顔をしている少年が憎らしかった。あんなにもひどいことをしながら、幸せそうな顔をしている恋人が愛しくてたまらなかった。

「レイくん――」

 操祈は両腕を伸ばして恋人を招いた。いつものように傍に来て慰めて欲しい、と。彼女が哀しみや不安、畏れを感じたときには、少年は寄り添って励ましてくれるのが常だったからだ。そんな絆を支えに、二人だけの密やかな取り組みとして、どんなことでも乗り越えてこられたのだった。ところが、今日はいつもとは違って少年は愛撫の効果とそれが自分の女に与えた変化を見届けると、

「キス、したいな……ココに……」

 と、また新たな要求を突きつけてくる。ココ、という場所を指の腹をあてて念押しするように撫でて教えて、身を固くひき締めて指を拒んでいる操祈に譲歩と同意を迫ってくるのだ。

 ただそこは、キスどころか今まで彼が舌を貼りつかせていたところで、だから「キスしてもいいですか?」と、重ねて訊かれると、どういうことなのかわからなくなって答えに窮してしまうのだった。

 操祈の当惑をよそに、少年はまた顔を寄せると今度は窄めた唇をあててきて、望むままにキスをされてしまう。

 いちばん遠い部分への接吻を――。

「ミスコンでいちばんになった先生のお祝いと、ボクの誕生祝いを兼ねていたから、今日は最初のキスは“しあわせのキス”にしたかったんです……きっと先生のココも、もう感じやすくなっている筈だから……」

 幸せのキス――?

 再びそこに唇を寄せられて全身を緊張させて身構えた。

 道を踏み外すことへの恐れもあったが、思いがけず声が出てしまいそうなほど甘美な刺戟がショックなのだった。

 振り返れば、たしかにそれは彼女がその夜に受けた最初の口づけだった。キスを頑なに拒んでいた理由とはそういうことだったのかと、ようやく得心がいく。チェスのマスターのように愛撫にも責め筋や手順を重んじる少年は、今日のデートで最初に口づける場所をあらかじめ決めていたらしい。猥褻で、不道徳で、背徳的なことを、それをバースデーデートの際に企むところが、いかにもレイらしいところだった。

 けれども、

 これが幸せのキスなの――?

 操祈の顔色を読んだのか、少年はその疑問に答えて言った。

「合わせるのは手と手だけじゃないですから」

「……?……」

 レイは窄めた唇をつくって仄めかしていた。それを見ているうちに、唐突に納得した操祈は、教え子の呆れたおふざけぶりに

「バカっ――!」

 と声に出して叱る。

「本当に、イケナイことばっかり――」

「だってちょうど一年前だったから」

「一年前……?」

「忘れちゃったんですか? 先生がボクに初めてキスをしてくれた時のこと……ボクの誕生祝いにって言われて……」

 もちろん忘れる筈もなかった。操祈にしても異性と交わした最初のキスだったからだ。

 ただそのときは子供同士がするような戯れのキスのつもりだった。親愛を伝えるための挨拶に近い軽いキス。

 じゃれあいのような、そんなささやかなところから始まった彼女の恋は、今では女の秘密をどこまでも探られる禁忌の領域にまで足を踏み入れている。

「ああっ……レイくんっ……ソコはぁっ……」

 賛美するような軽いキスの五月雨(さみだれ)が、たちまち舌も加わるディープキスになっても、もう驚かなかった。吐息を乱しながらも望まれるまま肉の(にえ)に堕ちた身をさしだしている。

 もはや少年は、自分が欲しいと思うものであれば、躊躇わずに奪っていくことができるのだ。

「レイくんはひどいな……くやしいな……」

 キスというよりも、食べられている、というような貪欲なものになって、操祈は声を喘がせて詰ったが、運命に身をやつして(はかなく)くも花弁を散らしていくそのかたわらで、まだいちども愛されずにいた大輪の“薔薇”は、やがて訪れる開花の時を待ちかねているように、みごとに花弁を色づかせているのだった。

「ねぇ、開いて……先生……」

「………」

 何を求められているのかはわかっていた。ためらいを感じながら、それでも命じられるままに従順に両手で左右に(ひら)いてくつろげる。

 それを間近にしている少年の、劣情に朱らんだ顔が驚きに輝いた。

「スゴい……きっと造化の神さまは、目につかないところにまで手を抜かなかったんですね。すごく綺麗……」

「………」

「それに、とてもいい香りがする……心のやさしいお姉さんのにおいが……」

 操祈はすぐに男の愛撫が始まるのかと思って固唾をのんで待ったが、少年は、つ、と立ち上がると彼女を置き去りにしてしまうのだ。

「レイくん……」

 心細くなって恋人の背中に呼びかけた。

「そのままでじっとしていて下さいね」

 振り返った少年はまたカメラを手にしていた。有無を言わせぬ調子で遠慮なくレンズを向けてくる。

「こんなに美しいものは、記念に残しておかないと」

「イヤっ! こんなところを撮らないでっ――!」

「ダメですよ先生、ちゃんと展いていてくれないと、奥まで見えるように」

「だって――」

「今日はボクたち二人の記念日なんだから」

「だからって……」

 結局、操祈は再びフラッシュライトを何度も浴びることになって目を閉じた。

 とうとうこんな姿まで撮られて、自分にいったい何が残っているのだろうかと不安が寄せてくる。

 もしも求められるものがあって、与えることができるのなら分かち合うつもりでいたのに、ここまで背徳の行為が度重なると、そうした道ならぬ所業がいつまで続けられるのかわからなくなってくるのだ。以前に舘野唯香が口にしていた恐れの意味が、自分にもわかるような気がしてくるのだった。

「先生、心配しないで下さい、この写真はボクたちだけのものですから」

「………」

「後で一緒に見てみませんか? そうすれば、先生はご自身がどんなに美しい姿をされているか、きっと納得していただけると思うんですけど……そうすればボクの気持ちも少しは判ってもらえるかもしれません……ボクがどんなに幸せなのかってことも……」

「いいわ……わたしは……あなたが幸せなら……」

「先生は幸せじゃないんですか?」

「ええ、幸せよ……とっても……」

 不意に操祈の両目から涙が溢れて頬を伝って流れ落ちていく。それを見て色を失ったのは少年の方だった。

「泣かないで、先生っ」

「泣いてなんかいないわ……」

「でも……」

「レイくんのこと、あたし……信じてるから……だから……」

 操祈は両脚を肘掛けから下ろすと身をかがめ、足元にいる少年の唇を求めた。若い恋人の(まと)っている他ならぬ自身の匂いと味に驚きながら、口づけは互いに舌をからめあう濃厚なディープキスになっていくのだった。

 




三日サボった上に
また二重投稿してしまい申し訳ありませんでした



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調査報告

          ⅩⅩⅩⅤ

 

「……ソースは上海在住らしい子供のSNSサイトにあったものだったそうで――」

「どういうことかしら?」

 碧子は眉をキリっとさせて対面に座る冴えない太り肉(ふとりじし)の中年男を見据えた。片肘をソファの肘掛けに置いて頬づえをつき、男の風体を値踏みするような鋭い視線になっている。高々と組んだハイヒールの脚は長く白い。

「ネットでダウンロードしていた写真をアレコレ眺めていたら、たまたま映り込んでいたのに気がついたとのことで、それで話題になっていたミスコンのお気に入りの一人に似てるんじゃないかと思って匿名で出版社に送ったそうです……二十代半ばをいくついか過ぎたあたりのパッとしない奴でしたが」

 中年男は自分が十分な働きをしていないことを自覚しているのか、くたびれた上着のポケットから丸まったハンカチを出すと、せわしなく顔の汗を拭いながら言った。そのくせ碧子が脚を組みかえるときには、女主人の美脚を盗み見ようとするヤッコのような――実際、それそのものだったが――あさましい抜け目なさも備えている。

「ソースがソースなだけにアレがホントに食蜂操祈だと思ってやったわけではなかったらしくて、話題に便乗してちょっとした小銭稼ぎにでもなればということだったみたいで……私が話を訊きに行くと自分のしたことが意外な拡がりを見せていることに戸惑っているような感じでした。なんでもそいつはフリーのデザイナーだとかで、ただ作品の参考にするためにノンジャンルの写真を集めていただけのようでして……」

「それだけ――?」

「はぁ……」

「その男の言うことを信じていいのね?」

「ハイ、そいつが言っていたSNSサイトの裏取りもできましたし、間違いありません。サイトは見たところ四つか五つぐらいの――」

 男は、ガキの――と言いかけて言葉を呑込むと

「――男の子のインスタグラムでした」

 と、つけ加えて、その点については自信ありげに保証していた。

 ノンジャンルにSNSにインスタ――こんなモヤッとした情報にどれほどの価値があるというのか? ただ週刊誌に掲載されていた写真がコラージュなどではないということはまず確実になった。わかりきっていたことだから大した前進ではないが、これで食蜂操祈の男関係を洗う動機と妥当性は固まったことになる。

「それでまるまる五日もかけて、判ったのはたったそれだけ?」

 男はもはや意味もなく顔をハンカチでごしごしとやっていて、下品な動きに碧子は頬をピリピリさせている。

「高岡からはあなたは優秀だと聞いていたけど、どうやら見込み違いだったのかしら?」

「情報ソースを明かしたがらない出版社を説き伏せたときにはイケると思ったんですが、まさか撮影者にまで辿りつけないとは、こちらとしても予想外で……せっかく大阪まで出向いたのに収穫がこれだけですから面目ありません」

 どんな手を使って相手を“説き伏せた”のかは与り知らないことだった。

 所詮、チンピラ上がりの探偵だ。だからこそ、仮に非合法な手段をとっていたとしても、すぐに用済みにできる使い捨ての手ゴマとしては丁度いいのだった。

「子供のSNSねぇ……」

「上海に飛んで確かめて参りましょうか……?」

 碧子は問いかけた男を置き去りにして、ひとり思索を巡らしている。

 なぜ上海の子供が――?

 その答えは単純だ。恐らく旅行者として家族とともに日本に来ていたのだろう。そうなると食蜂操祈とはいつ、どこで接点があったのかが次のポイントとなる。映り込んでいたあの女の服装からすると冬ではない。家族の来日目的が仮に観光だとすると――既に帰国しているとすれば、それはほぼ確実だろう――場所は定番の観光地の可能性が高い。首都圏近郊であれば日光、富士山だが枠を拡げれば京都、奈良か――。

 京都も奈良も、つい一ヶ月前に自分たちが訪れていたところだったが、果たしてこれがただの偶然だと言えるのだろうか――?

 ただ仮にそうであったとしても、そこまでだ。これ以上のコアな情報入手に繋がる線はむしろ薄くなったと見ざるをえまい……。

「子供のサイトをプリントしてきたものがございますが、ご覧になられますか?」

「見せて――」

 男はA4の紙封筒の中から粗末なコピー用紙のカラー印刷物を数枚取り出すと、センターテーブルの上に並べていった。碧子は毛深い指に冷たい視線を送りながら、粗いカラープリントにも眉をひそめる。

 そこにあった写真のプリントコピーは殆ど全てが虫を撮影したものだったからだ。件の児童はよほど虫が好きだとみえて、私的な昆虫図鑑でも作るつもりなのか、さまざまな種類の虫が名前つきで紹介されている。

 問題の写真もその中に見つかった。だが大好きな虫に気持ちが向かっている男児にとって、その近くで行われている男女の交歓などに興味があるはずもなく、当該児童が他にあの女の映りこんだ画像を持っている可能性はかなり低いだろう。

「……カマキリのメス、撮影場所、時期は……不明……?……どうしてこの写真にだけ場所と時期が書かれていないのかしら……他の写真にはみな日時と撮影場所が書いてあるのに……」

 プリントを見ながら碧子はひとりごちたが、訊かれたと勘違いした男は、答えの用意がなくてしどろもどろになっていた。

 それに、すぐ近くに居たはずの保護者は、いったい何をしていたのだろうか? 大人であれば、あの女がハレンチな行為に及んでいることはすぐに判る筈だ。それどころか食蜂操祈が気がつかない筈がない。いかにオーラルセックスに夢中の卑しいゲスだろうと、高位の精神系能力者であったあの女は、今も妙に鋭いところがある。だからこちらも手を焼いているのだ。

 なぜ、誰ひとりとして互いの存在に気がつかなかったのか――?

 これには何か重要な意味が含まれている気がするが、それが何であるのかはわからなかった。

「黒田――」

「ハイっ」

「もうひとつ調べて欲しいことがあるわ」

「なんなりと」

「この子供と家族の身許と来日時期、それと国内での移動先を知りたいの」

「ハっ、それなら既に調べがついておりますっ」

 終始、冷ややかだった碧子の顔が、この瞬間だけ、あら、とばかりに緩んだ。

「この児童の名前はヤン・カイフェン、父親はカイホンと言って上海市内で開業する歯科医です。それに姉がひとり居て、シーリンといいます。経済的にはかなり裕福のようですが、この夏に母親を亡くして、その傷心を癒すために家族で旅行をして廻っているようです。そんな中で日本にも足をのばしたらしく、来日は父親に限ると三回目。一家は先月六日に東京に降り立って翌七日から札幌へ、十日まで北海道を周遊して廻ってます。小樽、十勝、網走、根室、そして函館。翌十一日に青森から国内便で東京へ戻り、十二日からはリニアで京都へ、そこで一泊して十三日は大阪へ行き、そこから船で瀬戸内海クルーズをして広島、別府、その後、桜島をまわり十八日に長崎から海路で上海へ向けての帰国の途についています」

「間違いないのね――?」

 調査結果が期待していたものと微妙に食い違っていて碧子はまた顔を険しくしている。

「ハイ、詳しい報告書はこちらにございます」

 碧子から黒田、と呼ばれた中年の探偵は紙封筒の中に残っていた書類を摘んで封筒の口から覗かせると、そのまま碧子に手渡した。

「ありがとう、ご苦労様……もう下がってもらってもかまわないわ」

「はぁ……あの、上海に行かなくてもいいんですか?」

「あなたを上海に? 行ってどうするというの? 北京語も広東語もダメなばかりか英語もカタコトのあなたに? ボイストランスレーターを使ってだと、こっちとはいろいろと勝手が違うんじゃなくて?」

「……それはそうですが……」

「あとはこちらでやるからいいわ――」

 碧子は男の反応を待たずにセンターテーブルに置かれたハンドベルに手をかけた。チリリンと古風な音を響かせる。するとほどなく正装をした初老の男性執事が現れて碧子に恭しく一礼するのだった。

「お客さまがお帰りよ、玄関まで送って差し上げて。必要なら車の手配を――」

「畏まりました、お嬢様」

 体良く用済みになった男を追い払うと、自身の執務室でひとりになった碧子は黒田の報告書を持ってデスクのハイバックチェアに腰を下ろした。

 固定電話に手を伸ばして内線ボタンを押す。電話に出た相手に、

「私よ、すぐじゃなくてもいいから、高岡先生に今夜中に私のオフィスに来るように伝えてちょうだい」

 そう、言いおくと碧子は電話を切った。

 

 




送り仮名のミス等の微修正をしました


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エモノと狩るモノ

          ⅩⅩⅩⅥ

 

 碧子は黒田のレポートに目を通していたが、表情は冴えなかった。何度、読み返しても話がまとまる方へと一向に展開しないのだ。獲物が網に掛かったかと思えば、スルリと逃げられてしまう、そんなことを繰り返しているうちに、生来の(かん)の強い性格もあってフラストレーション濃度を爆発臨界ギリギリまで上昇させていくのだった。

 報告にミスがあるのかと粗を探したが、添付された公式文書等のコピーは、記載内容に誤りがないことを明白に物語っている。

 どういうこと――?

 これだと結局、食蜂操祈との接点が殆どないことになるじゃない?

 ファミリーが来日したのは六日夜、しかしその翌日には自分たちは修学旅行に発っている。その後は終始すれ違いだ。

 あの尻軽女は旅行前日の夜、あさましくも男恋しさに逢い引きに走り、それと一家の挙動とが偶然に重なった――?

 ありえない。仮にあったとしても非常に可能性が低い。そもそも写真が撮られたのは夜ではない。

 しかしホテルの中庭なら夜でも十分に明るいのではないか――?

 彼らの宿泊したホテルは……オークラ……学園都市の外、そうなると、食蜂操祈は市外に出なければならないが学園都市(まち)を出れば履歴が残る。一応、その件の確認を取らせるが、おそらくその線もないだろう。あの女が修学旅行前夜に市外へ出るというのはありそうにもない……。

 だいたい密会場としては比較的利用しやすい筈の高級ホテルに来ていながら、ひと目につきやすい中庭を使うというのも不自然だ。

 次に接点のある可能性は十二日の京都。こちらの方が見込みがあるのかもしれなかった。常盤台のバスが京都駅に着いたのは十四時ごろ。一方、カイフェン一家が京都に到着したのが十時少し前だ。そして京都オークラにチェックインしたのは十八時過ぎ……その間は恐らく市内観光をしていたのだろう。

 しかし仮にそうであったとしても両者が接点をもつのはまず無理だ。最終日も強行軍でスケジュールがびっしり詰まっていて、とても男と密会できるような時間などなかった。

 要するに仮にニアミスはあったとしても、明瞭な接点といえるようなものを想定するのは難しいのだ。

 だが言い換えると微妙なニアミスは確かにあった。京都、というのにもひっかかりを感じる。両者を繫ぐ糸がまだ見つからないだけで、何か見落としていることがあるのではないか――?

 碧子は当該児童のSNSサイトに直接、あたってみることにした。中国語を学んだことはないが同じ漢字文化圏ということもあり、AIに翻訳させなくてもうっすらとだが把握できそうだったのだ。

 サイトでは“僕の虫日記”というようなものが半年ほど前から一昨日の最新更新日に至るまで継続していて、内容は子供らしい他愛もないものだった。殆ど虫だけで百枚以上の写真がきちんと日付順に並んでいる。虫が嫌いな碧子にとっては黒田が持ってきた粗いプリント物以上に疎ましく、仔細を正視するのには少なからず意志の力を必要としたのだが、疑問は自分の目でも確かめておかなければならないので仕方がなかった。

 依然としてわからないのは、なぜ件の画像についてだけ撮影場所と日時が不明となっているのかについて。場所と日時が判明すれば、調査は遥かに容易(たやす)くなるのに肝心の情報だけが記されていないのだ。それも記載忘れではなく、わざわざ、不明――としているのが気になる。

 家族の誰かが人の映りこみに気がついて手を加えたのだろうか? しかしそれなら画像自体をトリミングすればいいだけのことだ。

 だいたい映りこみ自体が小さなもので画像の質も不鮮明なのだ。例のフリーデザイナーが気づかなければ、誰にも見咎められることなくそのままにされていたことだろう。

 その面からすると、他人のそら似――という線も消えたわけではなかった。

 ただ、碧子が映りこんだ女を食蜂操祈だと確信しているのは、着衣に見覚えがあったからだった。写真の中の女が身につけている白ニットのノースリーブタートルにチェック柄のスカートというのは、以前に一度だけ、彼女のアパートを訪問した際の普段着の姿がまさにそうだったのだ。

 一昨年の冬休み前に行われた会長選挙初当選後の教員への挨拶廻りで、自分となつきの二人で、当時、着任してまだ数ヶ月の新任だった操祈の部屋を訪ねたことがあったのだが、そのときの彼女は相手が女子ということもあったのだろう肌の露出の多いラフな格好のままでいて、教室に居る時とはすっかり別の顔をしていたのだった。

 きっと恋人の前では無防備な素の自分を見せるのだろう、まさに垣間みたプライベートの操祈のイメージと件の画像の女の纏っている雰囲気とがぴったり重なっている。

 だから、あの女が食蜂操祈であることは間違いない。

 では何故、場所、日時が不明とされているのか?

 理由として(もっと)もらしいのは、児童が撮影したものではない、ということだ。

 ただそうなると、考えたくはないが、さらに別の介在者がいることを考慮しなければならなくなる。調査はまた振り出しに逆戻りし、撮影者不明というデッドロックに乗り上げてしまうのだ。

 いったい、あの写真は本当は誰がいつ、どこで撮ったのか――?

 考えても最後にはループになって堂々巡りをするばかりだった。

 はっきりさせるには中国に居る代理人を使って上海の件を洗わせる以外になかった。

 碧子は方針を決めると、モニターに向かい、キーボードを叩いて不明点、課題などのリストを作っていく。この後、やってくることになっている山崎家の顧問弁護士のひとり、高岡に指示するためだ。

 ひとつの課題にケリをつけると、碧子はもうひとつの気がかりについても策を巡らしていく。

 食蜂操祈の能力が、実際、いまどの程度のレベルにあるか、ということも確認しておかなければならない喫緊の課題だった。

 ケンセー――藤城多顕正(ふじきたあきまさ)――が口にしていた“精神系能力者の方が回復する可能性が高い”という話がどの程度の確度があるものか判らないが、用心するに越したことはなかった。仮にあの女がレベル3以上であればこちらの手の裡は筒抜けで、もはや何をしたところで意味がないが、メディアとのインタビューで何度か同席した印象ではとてもそうした水準にあるとは思えなかった。

 碧子はそのときのことを思い出し、また怒りがこみ上げてくる。

「赦せない……この私をさしおいて……あんな出来損ないのゲスオンナの分際でっ……」

 今まで、あそこまで屈辱的な気分にされたことはなかったのだった。

「なぜ私があの女の添え物にならなければいけないのっ?! 冗談じゃないわっ!」

 内外メディアの全てが、なべて操祈を主に碧子を従とするような扱いをしていたのだ。

 三位である自分よりも五位の操祈の方が扱いが大きいなんてっ!

 理由は判ってはいるが、それも含めて大恥をかかされたと感じている。

 傍らで親しげにお姉さんぶったふるまいをされたことにも、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚えていたのだ。

 あのゲスおんなっ――!

 常にこちらを見おろすような聖女面が憎かった。

 そんななか、デスクの上の内線電話が鳴り、碧子は不機嫌な声で応じていた。

「なぁにっ!」

#あの、高岡弁護士がお見えなのですが……後に致しましょうか……?#

「いいえ、いいわっ、すぐにお通ししてちょうだい――」

 碧子はそっけなく応じると受話器を置いた。

 デスクから立って執務室の扉の方へと急ぐ。ドアがノックされると自ら扉を開いて、晴れやかな顔をして高齢の紳士を迎え入れるのだった。

「高岡先生、わざわざお呼び立てして恐縮です。満智子さん、先生に……先生はアルコールの方が宜しいですか?」

 客人に確認すると、

「お任せするわね、満智子さん、それと私にはコーヒーをお願いするわ」

 碧子は足の弱った来客の腕を取って、応接椅子の方へとエスコートして行った。

「私も門限までには寮にもどらないといけないので、長話をして先生のお時間をお取りすることは無いとおもうのですが……どうぞよろしくお願いいたします」

 もうその時には陰惨な気配は微塵もなく、どこから見ても淑女然とした山崎碧子になっていた。

 

 



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ハッカー

          ⅩⅩⅩⅦ

 

「バカなことをしてくれたものね、よりにもよって修学旅行中に一度ならずも二度までも操祈先生のことを犯していただなんて」

「犯すだなんて、そんな……ボクはただ……」

「ただナニ? あなたが先生のスカートの中にもぐりこむのがお得意なのはワカルけど、あの人がそれを歓んでると思ってるのなら勘違いも甚だしいわっ」

「………」

 盗み聞きされないように声音を落としてこそいたが紅音の叱責は辛辣だった。レイの痛いところをズバリ突いてくる。

 身持ちのいい操祈にとって、あのような行為には積極的になれないのはわかっていた。それでもいったん愛撫に持ち込みさえすれば、しっかり歓んでもらえたし、気持ちだって満たしてきたと思うのだ。

 ただ、自分の方がはるかに多くの“幸せ”をもらっていたのは確かだったが――。

 少年は愛おしい操祈のにおいを思い出して、またズボンの中のモノを固くしている。

 男にとって彼女は甘美な謎と神秘そのものなのだった。

 清潔感のある愛くるしい顔立ちの美貌、それなのに彼女の体臭はけして薄い方ではなかった。むしろやや強い性質(タチ)だと思う。他の女性の匂いを知らないから比較はできないが、操祈と愛しあっていると彼女の汗や分泌物のにおいがどんどん豊かに香るようになっていくのがわかるのだ。生々しくも馥郁(ふくいく)たるたくましい匂い、男の情熱に火をつけずにはおかない好ましいオンナのニオイだ。それが操祈らしいとも、らしくないともいえる絶妙さで、そんな嬉しい驚きを経験したくて、いつも二人だけになると彼女の愛の森に深く分け入ってどこまでも探索の手を伸ばしたくなってしまうのだった。

 神聖な雰囲気を漂わせて女神のように見えるときと、愛撫がすすんで恥じらう姿の少女のような初々しさとのギャップ、時折みせるおきゃんな一面もふるいつきたくなるくらい可愛いらしい。

 こんなにも美しい女性を裸にして、体に触れても、彼女は怒ったり抗ったりはしないのだ。

 ボクだけの食蜂操祈……ボクだけの憧れの女のひと――。

 少年は記憶の中でも食蜂操祈を掌中の珠を慈しむように愛でている。

「だって先生が可愛いから……ずっと年上で、ボクらを庇護する立場の担任の先生なんだけど、でもスゴくカワイクて……」

 レイがそう言い訳すると、それまで堅苦しい表情をしていた少女が、呆れたように口をあんぐりさせるのだった。

「誰がノロけ話を聞かせなさいって言ったのよっ……まったく……バカなんだから……」

 晩秋の午後、壁の掛け時計の針が三時を廻ると日の傾きは急ぎ足となってあっという間に宵が迫ってくる。二人の居る空き教室内は既に窓枠の影が床の上を長く伸びて茜色に染まり始めていた。

 レイと紅音は居残って、生徒会肝いりの案件である次期予算削減案作成のための基礎資料作りの追加作業を行っていたが、それはあくまでも表向きの理由で、実際は例のミスコン直前に週刊誌がスッパ抜いた操祈とレイの熱愛写真について、碧子が核心に迫りつつあることへの対応策を協議していたのだった。

「手は打つつもりだけど、それでどれだけ時間が稼げるかはわからないわよ」

 紅音が言うには、画像の所有者である中国人児童のサイトをハッキングして、ログの一部をこっそり上書きするつもりだという。上手くいけば痕跡を消すことができるが、執念深く抜け目のない碧子が、それで諦めて手を引いてくれると思うのは楽観的すぎるというのだ。もしも当該児童のスマートフォンを入念に調べられればデータ改竄(かいざん)に気がつくに違いないし、そうなれば外堀は埋められたも同然だ――と。

「でも小型カメラの電池なんてとっくに放電しているだろうから、GPSを辿られる可能性はもう無いと思うんだけど……」

「わたしが心配しているのは位置情報なんかじゃないの」

「じゃあ――?」

 あの時――奈良の旅館での操祈との早朝デート――は、周囲に誰も居なかったのが確実であることから、盗撮なんて絶対にされていないという確信があった。週刊誌の第一報の後、操祈がミスコンで躍進して世間的にも注目されるようになって以降にも続報などが一切なかったことからしても、単発のアドバルーンで、あの件はそれで終了したものだと思っていたのだ。レイ自身もすっかり忘れていたくらいに。

 それだけに山崎碧子が、件の写真の調査に本格的に乗り出してきていると知った時には不気味だと思う以上に意外に感じていた。碧子が何を狙っているのか気になっていた。

 紅音が(つか)んでいるところでは、碧子の手の者たちによって週刊誌にネタを流した者の特定はできたらしい。先週、それを知らされたときには肝を冷やしたが、だが幸いにして、その後の動きが緩慢なことから、おそらくオリジナルの写真の所有者ではなかったのではないかとの結論に至ったのだった。

 これはレイたちにとっては大変ありがたく、命拾いしたような歓迎できる状況だったが、一方、碧子は追求を断念したわけではなくさらに調査を続行させているようで、その流れを受けて紅音も自身でネット上を精密画像検索をした結果、昨夜ようやく、上海の児童のブログサイトに辿り着いたのだという。

 児童とその家族が、常盤台中学の修学旅行期間の界隈に京都を訪れている可能性が高いことも判って、これこそが今回の流出写真事件の発信元であるとの疑いを濃くしたというのだ。ただし子供はただ虫の写真をアップしているだけで、映り込みには気がついていないのだろうということだった。

 紅音の説明を聴いた上での少年の考えでは、確かめようがないのであくまでも想像の域を出ないが、恐らく事態の真相は概ねこう――だったのだと思う。

 つまり修学旅行の奈良で、前夜に男子たちが露天風呂の女湯を盗撮しようとして打上げた超小型カメラが、女子の念動力者によって撃ち落とされて、そのうちのひとつが(くだん)の竹林の中に墜落した。それをあの朝、近くに居て補食に動き出したカマキリが餌か何かだと思ったのだろう、襲ったことで落っこちていた超小型カメラが息を吹き返すか、スイッチが偶然ONになるかしたのだ。その後、無線LANも作動を始め、撮影した映像を電源が尽きるまで手当り次第に周辺に向けてランダムに自動送信をしていたのだろう。それを、たまたま付近を通りかかった児童のスマートフォンが受信可能な状態であったために画像が着信してしまった、というものだ。当該児童のスマホのセキュリティーガードが甘かったか、あるいは一時的にガードを下げていたかしていたために受信してしまったのだろうが、もしかすると他にも受信者がいたかもしれない。ただ普通はそんな怪しげなものはウイルスと看做してすぐに廃棄してしまうから誰も問題にしなかったが、当該児童が虫好きだったために写真はそのまま保存されてブログサイトにもアップされた。

 二人にとって不幸中の幸いだったのは、送信されていたものが動画にはならなかったことだ。恐らくカメラ本体は墜落させられた段階で既に半壊状態だったのだろう、動画としてではなく、ワンショットのパルス動画、要するに静止画にしかならなかったために、あのような画像になったのだと思う。

 それなら、もう大して問題にはならないのではないか? というのがレイの見立てだった。紅音は――いったいそんなハッキング作業を誰に依頼するのかは知らないが――着信画像の発信場所を都内の代々木公園内に偽装する操作を企んでいるらしいが、それさえ済めば、仮に碧子側が何らかの手だてでログの書き換えに気がついたところで、

「もう既に発信元のカメラは沈黙しているんだから、データの照合だってできない筈でしょ? それならその先に追求の手が及びようがないと思うんだけど……」

「私が心配しているのはそっちじゃないわ、写真データに書き込まれている撮影装置のデータの方よ。器機のシリアル番号が判れば機種が分るし、販売履歴から持ち主まで辿ることができるでしょ? 通信ログなんかと違って写真という“モノ”がある以上、仮にデータを書き換えても復旧させることはわりと簡単にできるのよ」

 レイは少女の抱いていた懸念に気がつくと事態の深刻さをあらためて理解した。持ち主が常盤台の生徒だと判れば、すぐに奈良での一件に結びついてしまうからだ。

 そうなれば――。

「彼女のエージェントがあっさりした人で、子供のスマホデータを単純にコピーするだけで済ませてくれれば問題ないんだけど、もし私が会長なら子供からスマートフォンそのものを回収するように指示するわ」

「………」

「徹底した解析をすれば、スマホのログが外部からの操作で上書きされたことに気がつくし、気がつけば写真の元データだってマイニングされる」

「………」

「どう、少しはわかった? 事態の深刻さが? 密森くんの軽はずみな行動の所為で、火の手はもうあなたの足元まで及んでいるってことを」

「ボクは……どうすればいい……?」

「会長とその周辺がこのあたりの事情に疎いことを願うことね……でも、むこうだってプロを抱えているだろうから見こみは薄そうだけど……」

「願うって……できることって、もう神頼みするしかないのか……」

 もうひとつできることは、操祈を連れて逃げること――。

 それぐらいしか少年には思いつかなかった。

「実はね、ハッキング作業は済んでるの……」

「――!?――」

「昨夜のうちにやっておいたから」

「やっておいたって……まさか、きみがやったのかい?」

 レイは驚いて、目の前に立つ地味な黒縁メガネの少女の顔を見上げた。

「だって、会長の方はもうとっくに動いているに決まってるから、猶予が無いと思ったから勝手にやらせてもらったのよ」

「栃織さんって……そんなことまでできるんだ……」

 レイは、ある種、畏敬の念を交えながら少女の顔をまんじりと見つめる。

「他の人には言わないでね、秘密にしているんだから……会長だって知らないことなの……」

「うん――約束する」

 秘密が増えるというのは、それだけ心理的負荷が増すことになるが、少年は大きな秘密をどっさり抱えているので、それが今さら少し増えたところでどうということもなかった。

「心理系の能力者ってだけでも警戒されやすいのに、この上ハッカーだなんて噂が拡がったりしたらますます居心地がわるくなるばかりでしょ」

「で、天才少女、栃織紅音氏としては、事態打開の切り札として、なにか奥の手があるんでしょ?」

 少女が秘密を打ち明けた以上、さらに二の矢を(たずさ)えているのは間違いないと読んでのことだった。

「そんなこと言って持ち上げてもムダよ」

 少女はまんざらでもなさそうにニヤッと笑う。肯定の意味と受けとれた。

「やっぱりあるんだね、奥の手が――」

「さぁ、どうかしら……」

「ねぇ……」

「なに?」

 少年は言うべきがしばらく迷っていたが、やがて意を決して

「もし、この件を上手く片付けることができたら……その時は……栃織さんが以前に言っていたこと……ボクから先生に相談してみてもいいよ……」

 と、口にしてから、また複雑な表情になる。

「それはとても魅力的な提案だとは思うわ……でも、最初に言った通り、私は操祈先生を守るためにやってるだけだから、この件を取引に使うつもりはないわ」

「………」

「あなたがどうなろうと全然かまわないけど、それで先生が悲しむというのなら、私はあなたの味方をする――そう言っておいた筈よね?」

「きみは……手ごわいなぁ……」

「あなたほどじゃないけど――」

「じゃあ、ボクの提案として聞いて……きみの願いが叶えられるように、ボクもできることはするつもりだから……でも先生がイヤがることはしないし、できないってことは含んでおいてね……」

「それで十分よ……でも以前の密森くんは断るだけって言ってたんだから、ずいぶん変れば変るものよね……どうした心境の変化かしら?」

「心境の変化も何も、それだけピンチだから、助けてって悲鳴を上げてるだけなんだと思うよ」

「そうかしら?……私にはあなたも奥の手を隠しているように見えるんだけど……」

 少女は上目遣いで眼鏡枠の外から裸眼で少年の様子を伺っている。

「よしてよ、それずるいから……」

 言いながらもレイは少女のオーラリーダーとしての眼差しを受けとめていた。

「ホント、食えない男よね、密森くんって」

「それって十五歳の女の子の台詞じゃないよね」

 互いの胸の裡を探り合うような沈黙は

 トントン――。

 教室の扉がノックされて、おあずけとなった。二人は一瞬、ぎょっとなった顔をすると、とっさに目配せして紅音が

「どうぞ――」と、声を上げた。レイは俯いてテーブルの上の書類と格闘している風を装う。

 教室に入ってきたのは舘野唯香だった。

「なにか用? 舘野さん」

「来期の予算のことで密森くんに話があって来たんだけど……」

「いいわ、ちょうどいま、話が終わったところだから……じゃあ密森くん、後はよろしくね。明日までの期限を守ってね」

「無茶言わないで下さいよっ、そんなの無理ですってば、食蜂先生の数学の課題だってまだ終わってないっていうのにっ」

 背を向けて立ち去ろうとする少女に、レイは中腰になって呼び止めようとしていた。

「じゃあガンバってね――」

 紅音はそう言い残すと教室を出て行ってしまうのだった。そこに唯香とレイの二人を残して。

 少年は肩で大きくため息をついた。

 

 

 



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二人目の――

 

          ⅩⅩⅩⅧ

 

 紅音が教室から出て行くのを見届けると唯香は、

「栃織さん、楽しそうね、なんだか最近ずいぶん雰囲気が変わってきたように思うんだけど……」

「そうですか、ボクはそんな風に感じたことないですけど……」

「それってもしかして、密森くんの影響かしら?」

「まさか、そんなことあるわけ無いじゃないですか。ボクは栃織さんからは、いつもこっぴどく影響を与えられている側なので」

「それもそうね……」

 唯香は少年の座るデスクの前に立つと、表情を変えずにそのまましばらくただじっと見おろしている。

「女子校で、何かと肩身のせまい男子である上にスクールカーストの下位グループですから……」

 レイは書類を繰り、ラインペンでチェックするという作業を続けながら、顔をあげると目尻を下げて邪気のない笑顔を向けた。

「ああ、そうだ学園祭での演劇部のお芝居、観られなくてごめんなさい、でもミスコンの舘野さん、すごく綺麗でしたよ」

 少年がそう言うと、美少女は少しはにかんだ様子になった。レイがハッとするくらい魅力的な表情に。

「ありがと、お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞だなんて、そんな……まわりにいた男子からの評判もスゴく良かったし……」

「それはあまり嬉しくないわね、だって密森くんのまわりに居るひとって、どうせあの人たちのことでしょっ?」

「わーひどいなぁ……」

「ごめんなさい、密森くんにとっては大事なお友達だったわね」

「それで、なんのご用ですか?」

「そうね――」

 少女は廊下側へ目を遣って、教室の扉がどちらも閉まっていることを確かめると、少年の方へ身を屈めて顔を寄せてくる。仕方なくレイは開いていた書類を伏せた。

「一応、コンフィデンシャルで、部外の方にお見せするワケにはいかないので……」

「……やっぱり……密森くんだったんでしょ?……あなただったのよね……」

「は――?」

「奈良でのこと――」

 唯香の囁きに、少年は刹那、表情を凍りつかせたが、すぐに人畜無害、無抵抗の追従笑いになる。

「え、なんですか!?」

「いいの、別に――あなたから正直な返事を聞きたいと思っていたワケじゃないから……」

「誤解しないで下さい、ボクには権限なんてナンにもないんです……あくまで予算を()めるのは生徒会……山崎会長ですから……」

 レイがそう言うと少女はまた仕方無さそうに頬笑むのだった。唯香からは悪意は感じられないが、意図がわからずに不安になってくる。

「わたしがそんな話をしているんじゃないってこと、分ってるくせに……」

「舘野さんが何を言ってるのか……ボクには……」

「最初はすごくびっくりしたけど……でも、いまはそれほどでもないわ……」

 少女のつぶらな瞳はレイの顔にぴたりと据えられている。

「あの――」

「でも注意した方がいいわ……私が気がついたってことは……いずれあの人も気がつくだろうから……」

「いったいなんの……」

「山崎さんって怖い人よ」

「はぁ、ボクもそう思いますけど……だからこんなことやらされてるんじゃないですか……用事があるならもったいつけてないでさっさとお願いしますね、こっちは時給いくらでやってるワケじゃないんで」

 少年が軽いジョークを交えてこぼすと、少女はようやく白い歯並を覗かせた。十五歳の美少女らしい明るい笑顔を向けている。

「予算については密森くんに言っても仕方ないってことぐらい、わたしだって判ってるわ」

「だったらなんで、みんなそれを分ってて、ボクのところに来るんですかねぇ」

「会長に言えない分、あなたになら言いたいことが言えるからでしょ?」

「やめてくださいね、ボクを憂さ晴らしのサンドバッグ代わりにするのは、とっても迷惑です」

「そうよね、わかったわ……もう用事は済んだから帰るわね……私はただ確かめたかっただけなの」

「……確かめるって……?」

「それにしても、人は見かけによらないっていうか……」

 美少女はいま一度、少年の方に顔を近づけると、顔や体のあちこちを値踏みするかのように視線で嬲っていく。時に整った鼻をひくつかせて。レイは、まるで幼気(いたいけ)な少女のように、どぎまぎしながらじっとして、されるままになっていた。見ようによっては女子から迫られているようでもあるのだった。

 操祈とは別のタイプの清潔な甘い香りが少年の鼻腔をくすぐっている。

「あの、舘野さん……?」

「……こういう男の子に趣味があったなんて、ちょっと意外な気もするけれど……いいえ、そうじゃないわね……密森くん、あなたがワルい人なのよね? そうなんでしょ?」

「………」

「でも、そういうことなら、それも良いのかもしれないわ……だって女ってね、とっても欲張りなの……女のコがカワイイものが好きなのは、カワイイものが好きな私がカワイイっていうアピールだから……」

「……?……」

「結局、可愛がられたいっていうのが本音よ、男の人からかまってもらえるのが嬉しいの……」

「どうして……ボクにそんな話をするんですか……?」

「それは操祈先生だって私と同じ“オンナ”だからよ……」

 美少女は、ドキっとする物言いを平然としていた。

「でも心配しないで、けっして他人に言ったりはしないわ……」

「……ボクにはなんのことか、さっぱり……」

 少年はそう応じながら、唯香であれば気づかれていたとしても仕方がないとも思っていた。

 週刊誌に載った件の写真から、あの記事と奈良でのことを結びつける畏れがある者が居るとしたら、それはただ一人、舘野唯香だったからだ。あの朝、操祈と二人で居るところを目撃していたのは彼女だけだった。その上、部屋着姿でいた操祈には異変も感じていたらしい……。

 やっぱり女の嗅覚は侮れない、と、あらためて男との違いを痛感させられている。

 栃織紅音に続いて舘野唯香。

 クラスメートの女子、十七名のうち、既に二人が知っている――。

 少しずつ綻びが拡がっているのが気がかりだった。幸い紅音は今は支援する側にまわってくれているし、唯香にも悪意は無いようだ。しかし事態は破綻へむけて徐々に坂道を転げ落ちようとしていた。

「でも注意してね、山崎さんは本気よ……本気で操祈先生のことを狩ろうとしているわ……あの人、先生のスキャンダルを探して今、鵜の目鷹の目だから……あのミスコンで恥をかかされたって、とても恨んでいるみたいだし……私にはただの独り相撲、逆恨みにしか思えないんだけど……」

「………」

「だから、あなたが恋のお相手だと知ったら、きっと狂喜乱舞するでしょうね。だって教職にあるものとしてあってはいけないことだし、未成年の男子生徒との性交渉は法的にも許されないことだから……」

 唯香はそう言いのこすと踵を返した。

 長い髪のスラリとした後ろ姿が教室を後にして、残されたレイは西日の差す窓外に目を転じた。

 校庭の芝生はすっかり黄色くなっていて、秋の初めの頃とは違って、もう寝転んでゲーム機に興じている男子生徒の姿もなく、学外へと出かけて行く生徒たちは背中に長い影を引きずっている。

「言われなくても分ってますよ……先生がめんどくさい人に目を付けられてるってことは……」

 呟く少年の顔は、すっかり大人びた表情になっていた。

 

 



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藤城多顕正(ふじきたあきまさ)

 

          ⅩⅩⅩⅨ

 

「およその時間と場所まで判っているんだから、あとは周辺の監視カメラデータを集めて解析するだけでしょ? なぜ特定にこんなに時間がかかるの?」

 平静さを装いながら、熱をおびた息づかいで碧子は()いた。

「学園都市内とちがって外はカメラの配置密度も画像精度も高くないし、一元管理されてるわけでもないから其々(それぞれ)の管轄との交渉に手間がかかるのは理解できるんだが……壁の外は、こっちよりは二十年は遅れた世界だからね……しかしそれにしても妙だな……本当に場所と時間に間違いないのかな? 網を拡げていけば透明人間にでもならない限りどこかで必ずひっかかってくるはずなんだが……」

「データは正しい筈だけど……」

「本当にそうなのか? 元のデータそのものに手が加えられたりしている可能性はないのか?」

「むこうにいる代理人は指示通りにスマートフォンを回収して送ってきているから、そこは信じてもらってもいいわ」

「どうかな……それが本当かどうかが気になるな……こっちでももう一度、探らせてみてもいいが……」

「どうかな?って、データが細工されてるのを疑ってるの? でも外から手が加えられていれば痕跡が残るはずでしょ、そんなの無かったって聞いてるわよ」

「もっと単純な方法があるだろ? データそのものがオリジナルじゃなくてコピーだったっていう可能性が」

「子供のスマホそのものがすり替えられていた――? まさか……あの女の手がそこまで伸びるはずが……」

「その疑いを棄てていいのかな? ミドリ、いつでも敗れるときというのは相手を過小評価している場合だってことを忘れないようにしないと」

 碧子も自分たちの動きだしが国内にとらわれていて遅く、後手に回っている可能性を考え始めていた。これまでは一介の教師風情が、と侮っていたが、もしそうではないとしたら――?

 食蜂操祈の背後については知らないわけではなかったが、トラブルの際に彼女が、いまや疎遠となっている実家に救いを求めるというのも考えにくいとして、これまでは敢えて考慮の対象から外していたのだが、今後はそれを含めて戦略の見直しが不可避となったことを受け容れざるを得なかった。

「それに、仮に操祈クンがやらなくても、お相手の男の方がはしっこく働いて火消しに回っているってのはありえるだろ? こっちは未だにソイツが何者なのか判ってないんだからね」

「そうだけど……でも……あっ……それっ、イヤっ……!」

 身構える間もなく指先に弱みをつつかれて、碧子は男の首にしがみついた。

「その格好でイヤって言われてもねぇ……それに、言われてすなおに引き下がるような男じゃつまんないだろ?」

「で、でもっ……イヤなものはイヤよっ!」

 小康していた事態がにわかに動いて急を告げていた。

「そんなかわいい顔されたら、もっとやってって煽られてるようにしか思えないよ……」

「いやぁ、ンンっ……ケンセーさんっ……」

 と、甘い声で抗うと、男は碧子の唇を奪って言葉を封じ、逃れようもないままに男の指に犯された少女の腰にさざ波が奔った。端整な白い瓜実顔は愁いに沈み、伏せた長い睫が揮えている。

「そうやって素直になれば、キミはとびっきりカワイイのに……」

「……くやしい……こういうの、イヤなのに……」

「そうかい?……でも体はそうは言ってないみたいだよ……締めつけが強くなっていい感じだ……」

「バカ……男なんて……だいっきらい……」

「みんなキミにひれ伏せばいいのにね……僕のように……」

 多摩ハーフマイルタワー百六十八階にある『次世代基幹技術開発プロジェクト』本部――。

 その研究部門の第七班チームリーダーで、藤城多ライフサイエンスのCEOでもある藤城多顕正(ふじきたあきまさ)の実用的でコンパクトな個室の、窓近くにおかれた事務用デスクの後ろ、ビジネスチェアの上で碧子は制服姿のままで彼の膝の上に跨がっていた。背後から廻された男の手が少女のスカートの中深くに忍び入っている。

 前と後ろのどちらも奪われて、ピンで留められた標本のようにされた碧子は男の体にしっかりと身を寄せたままでじっとしていた。性の熱に潤む瞳に、強化ガラス壁に隔てられて遠く地平線まで続く巨大首都圏の街の拡がりが映っている。

「そうだ……いい子だ……」

 男の手が背中を撫でている。

「ミドリは、すぐ毛を逆立てるより、もっと抱かれ馴れした方がいい……いいかげん判ってくれてもいいんだけどなぁ……所詮、女はペニスを持たない側なんだから愛された方が得じゃないかってことを……」

「………」

 もしも女という性が、常に奪われる側であることに堪えて、男という強い性の前に恭順することを求められるのなら、

 そんなこと、絶対に受け容れられない――。

 少女は思う。

 誰が、心まで支配されるものか、と。

 それでも、女の扱いに馴れた年上の男の愛撫は巧みで心地よいのだ。逃れようと思えば逃れられるが、しかしそうまでする必要もまた感じないのだった。

「勘違いしないで……私があなたを選んだってことだから……いつでも斬り捨てられる覚悟をしておくことね……」

 少女が(うそぶ)くと、男はやさしく笑んだ。

「ああ、それでかまわないよ……僕はミドリから最初の男に選ばれたことを、とても名誉なことだと思っているからね……」

「………」

 ヒトのセックスは不思議な営みだと思う。ただの繁殖行動に過ぎないのに、なぜここまで魅了されてしまうのだろう――?

 確かに一度でも知れば忘れようも無い歓びの経験は、何度も繰り返して味わいたいと思わずにはいられない甘美なものだ。

 ただ、それが愛なのか?

 と、自問すると碧子には、とてもそんなふうには思えないのだった。

 たしかに顕正とは何度も関係を持っているが、セックスを重ねることが男を愛することとどのように結びつくのか今も胸に落ちない。

 自分は果たして、彼を愛しているのだろうか?

 この、二十歳近くも歳の離れた男を――。

 碧子にはやはりわからなかった。

 藤城多顕正(ふじきたあきまさ)と初めて逢ったのは、まだ小学校に上がる前の事だ。顕正が学園都市に来たばかり、将来有望な若手の研究者のひとりとして、数名の同僚らとともに山崎家の葉山にある別荘に祖父に会うためによくやってきていたのだ。

 はじめは自分と遊んでくれる、ちょっと鈍いお兄さんに過ぎなかったが、我が儘をしても許してくれる優しい性格が気に入って、いつしか彼が家にやって来るのを心待ちにするようになっていた。

 その後、互いに境遇が似ていることが判ってからは、友、あるいは同志とも呼べるような間柄になり、以降、男と女の関係になるまでにそれほど時を要することはなかった。

 碧子が顕正に処女を与えたのは去年の夏、中二の夏休みでのことだ。しかしそれは恋愛感情を抱いたからではなく、単なる性への好奇心と、たまたまそれを試すにはちょうどいい相手が身近に居た、それだけのことだった。

 ただ一度でも体の関係を持つと、秘密を共有した者同士の独特の親密さというものが生まれるのが男と女の奇妙なところだ。今では心と体の紐帯(ちゅうたい)を結んだ、もっとも信頼できる“配下”になっている。手加減せずに互いに言いたいことを言ってやりあえる、ただ一人の身内になっていた。

 碧子の腰の動きに次第に余裕を失っていった男が、やがて情を放ち、体の中にあってまるで征服者のように我が物顔に振る舞っていた固いこわばりが頼りなくなっていくのを感じると、少女はまだ自分が歓びの尾根に達してはいなかったものの勝利感を覚えて、肉欲に酔った男の熱が醒めるのを待つ余裕さえも生まれている。

「ねぇケンセーさん……」

「ん――?」

「あの女が能力を取り戻している可能性って、どのくらいあるの?」

「まぁ、それはレベルによるね……レベル4以上は無理にしても、レベル2ぐらいまでなら十分に起こりえる範囲だとは思うよ」

「レベル2……」

「そう、いまのキミと同程度の能力は、もう取り戻しているのかもしれないね」

「………」

「精神系の能力も、とどのつまりは念動力だからね。影響を与える対象が分子レベル以下の極めて微細なものになるだけで、意思を向けたものに働きかけるという意味では原則は同じなんだ。あっという間に能力を失っていった他のレベル5の子たちと違って、あの子が能力喪失までに二年近くもの猶予があったのはそのためさ。微細な現象への影響力は維持されやすいから。低位の能力者ほど能力喪失までの時間が長かったことと同じ理由だよ」

「じゃあ、低位能力者ほど出現頻度が高いのと同様に、能力喪失者も低レベルなら回復する可能性は高くなるってこと?」

「うん、実際、アメリカとインドで複数例の回復事例の報告があるんだけど、いずれも低レベルに留まっているから、そう言えるかもしれないね。興味深いことに高位の精神系能力者ほど限定的回復の可能性は高いようなんだ」

「高いってどのくらい?」

「1パーセント程度かな……日本以外にはレベル4以上の症例は無いから、実際、あの子がどのくらいのポテンシャルを持っているかはわからないけど。ただ、確率はもっと高いと思って用心しておいた方が無難だよ」

「能力があるかどうかを客観的に知る方法ってあるの?」

「そりゃ、ここにある設備を使って対象者に協力してもらえればできるけど、簡易な方法で、相手に気づかれずにっていうことなら無いな」

「………」

「食蜂操祈に対しては、僕らもアプローチの仕方をさらに見直さないとならないかもしれない……」

「アプローチねぇ、私には実力行使が手っ取り早いように思うんだけど、仮に能力者だとしても精神系の女ひとりに何を手こずっているのよ?」

「以前にも言っただろう? それも上手くいかなかったって」

「何をしたかは訊かないけど、でもなぜダメだったの? 理由は?」

「そこがはっきりしなくてね……理由が判れば対策も立てられるんだが……どうもあの子の周辺は、今度の件を含めて不可解な事象の発生頻度が高いような気がして……」

「どういうこと?」

 それに答えようとする前にデスクの上のスマートフォンが鳴って、顕正はテーブルの上に手を伸ばした。

「ごめんね――」と碧子に断ってから通話にする。

「何か――?」

#ようやく反応が出たようなのですが、ご覧になられますか――?#

「出たのか? それでピークはシングルか?」

#はい、間違いないです#

「そいつは凄いな、わかった、もう少ししたら行く――」

 その言葉を耳にして、碧子の顔に不満がよぎった。

「秋山くんからだ、どうやら実験が上手くいったみたいだ」

 満足げな顕正の顔が、少し前までの男の顔から科学者の顔になっていた。

「実験って、例の能力者同士の交雑細胞を使った実験?」

「うん、レベル5同士のね……採取してあった皮膚細胞から配偶子を誘導して、片っ端から掛け合わせたものを神経細胞にまでしてから、そいつをマウスの脳内で育てているんだけど、やっとひとつ有望そうなのが見つかってね……以前だったらそのままクローンを使えば良かったんだけど、もう人体実験はできないからさ。時間も手間もかかってまどろっこしいけど仕方がない」

「vitroで再現できたってこと?」

「いや、そうじゃない――」

「でも、それって能力の発動は意識が介在しなくても起きるってことなんでしょ?」

「そう言えると楽なんだけどねぇ……ことはそう単純じゃないんだ……多分、楽はさせてもらえそうにないね……勘だけど……」

「ケンセーさんって、やっぱり科学者だったのね」

「やっぱりってナンだい? これでもこの分野ではトップランナーのつもりなんだけどな」

「私、ただの女好きのロリコンオジサンだとばかり思っていたから」

「女好きってところまでは認めるが、ロリコンの趣味はないな。それにオジサンってのは酷い、まだ三十四になったばかりの“若者”をつかまえてさ」

「どうかしら……私からすると十九も歳が違うのに……」

「僕はミドリを子供だと思ったことはないな……だいたい子供がこんなにけしからんカラダをしてるはずがないだろ?」

 男の手が豊かに盛り上がったブラウスの上から胸を包んで軽くあやしはじめ、碧子は目の前の顕正がまた男の顔に戻って行くのを見届けると、自然に口の端に笑みが浮いてくる。彼女の体内にあった男の体は、再び硬度を増して存在感を主張していた。

「名残惜しいが、続きは今夜にしよう……ミドリがイヤじゃなければだけど……」

 時間に追われ、まるで物のように扱われて、性急に事を済まそうとしないところは評価できるところだった。

「さあ、どうかしら……こちらも時間が取れるかわからないわよ」

 碧子は強がりを言ったが、体は明らかに男との別れを惜しんでいた。虚ろな部分を埋めていたこわばりが、果実を振る舞う前に立ち去ろうとしているのが判ると、強く結んで引き留めようとしている。

「キミに合わせるよ……」

 男は碧子の両わきに手を入れて、大昔にしていた子供を抱き上げる時のようにして(うやうや)しく椅子から退かせると、屹立したままのものをティシューで拭いはじめた。人間の男の見せるもっとも無様な仕草のひとつを少女の前で演じている。

「さっきの件は、こっちでも調べさせてみるよ」

 碧子もチェックのミニスカートの中にティシューをもちこんで桜紙の代わりにしながら

「あなたのエージェントが無能じゃなければいいけど……」

 思いを遂げられずにおあずけをくらった体が、不満をぶちまけるのを宥めて落ちつかせながら言った。

「どこも手ゴマ不足は深刻で、慢性化しているからね……その点については確約できないのが辛いところだよ」

 



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シュトーレン

 

          ⅩL

 

 また今週もデートがお流れになった。

 それにもかかわらず操祈は未練がましく『デリカ・ナショナル』に来てしまっている。バースデーデート以降、もうこれで三週連続でレイとは逢えずにいて、冬の訪れとともに孤閨(こけい)の寂しさも身に沁みるようになっていた。

 デートの時なら買い物をしたらエレベーターに乗り、そのままペントハウスへ――と、胸を躍らせているところだが、今日は特に目的も無く、ただワゴンを押して店内をうろうろするばかり。

 あーあ――。

 つい、ため息がこぼれてしまう。

 心ならずもミスコンなどに引っぱりだされてしまったがために変に目立つようになって、結果、以前よりもデートがしにくくなっているとしたら、あんまりだった。

 なによぉ、いまは他人目(ひとめ)があるからデートを控えようだなんて、そんなことっ、よく言えたものよねっ――。

 昨夜は、

 

“あらぁ、それって心変わりをした男が言いそうな台詞じゃないのよぉ――”

 

 と、裡なる自分からさんざん煽られて、すっかり悄気(しょげ)ていたが、今日になって一通の封書が届いてからは、斜めだったご機嫌もいくぶん元に戻っている。

 その郵便物はいかにもありがちなDMを装ったもので、中味も不動産広告が入っているだけの他愛も無いものだったが、操祈であれば、それがレイからの私信だと気づく仕掛けがしてあるものだった。例によってチラシの裏の余白に手書きの数字が並んでいて、字謎だと判るようになっていたからだ。

 本当に別れ話をもちかけられたのかと思って、不安に胸を騒がせながら読み解いたのだが、そうではないとわかると、ホッと安堵するとともに目頭を熱くするくらい嬉しかった。

 

 くりすますは

 ずっといっしょに

 かくごして

 いっぱい

 かわいがる

 

 いっぱい可愛がるって、なによぉ……もう……それにクリスマスなんて、まだ二週間以上も先じゃない、その間、ずーっとわたしを放っておくつもりなのぉ――?

 喜び半分、不満半分で操祈は泣き笑いになっていた。

 なんといってもイヴをいちばん大切な人と一緒に過ごすのは乙女の憧れでもある。今年は、生まれて初めてそれが叶うのかもしれないと思うと期待に胸がときめいてしまうのだった。

 早くお休みにならないかな――。

 同時に、まだこれから期末試験の準備やら採点やらのイベントが控えていることを考えると、もどかしくなって、恋人の匂いが恋しくてたまらなくなってくる。

 逢いたいなぁ――。

 どうして逢ってはいけないのぉ?

 彼が未成年だから?

 でも、ちゃんと本気で愛しあってるのなら罪には問われない筈でしょ?

 

“でも世間はそうは思わないわよねぇ、なんていったってぇ、教え子に手を出しちゃったんだもん、それはマズいわよぉ、胸囲力で子供を誑かした淫乱女教師ってことでぇ、一発アウトのチェックメイトになるのは明白よねぇ”

 

 部屋で独り悶々としていると心の隙間を衝いて、またもう一人の自分が気持ちをかき乱そうと忍び寄ってくる。それもあって気分転換をはかろうと外へ出てきたものの、行くアテがあるわけでもなく、気がつくと紅音のペントハウスのあるスーパーの下りエスカレーターに乗っていた。

 買い物カゴを乗せたワゴンを押して店内を散策する。しかし、何故か常に無く人の視線が向けられているような気がして居心地が悪いのだ。通路をすれ違う時、多くの客が自分を振り返るのを感じる。

 やっぱり、あたしだってバレてるのかしら――?

 ミスコン以降、明らかに以前よりも他人目を意識させられることが多くなっていて、どこへ出かけても、日に一度や二度は全然知らない人から「食蜂操祈先生ですよね」と声をかけられるようになっているのだった。

 あげく、握手にサイン、写メまで求めようとするものが現れて、

「あたし、タレントやアイドルじゃなくて、ただのガッコのセンセーなのよっ」

 と窘めなければならなくなっていて、メンタル負荷が増しているのだ。

 そんな憂き目に遇うのはゴメンだったので、今日は誰にも判らないようにとバッチリ変装をして出てきたつもりだったのだが、どうやら不十分だったらしい。

 頭にはダークグレーの中折れ帽をかぶり、顔には暗い色のゴーグル、そしてスラックスにトレンチコート――。

 大胆にイメージチェンジを図ったので、よもや誰もあたしが食蜂操祈サマとは気がつくまい、と思っていたが、そんなに世間の目は甘くはないようだった。

「先生……ですよね……?」

 とうとう声をかけられてしまった。

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこに居たのは舘野唯香である。

「やっぱり先生だぁ」

「あらぁ、唯香さん」

「どうされたんですか、その格好? さっきからものすごーく目立っていて、きっと先生なんじゃないかなって思いながら、なかなか声をかけられずに居たんです」

「目立つって――?」

「だってバリバリに格好良すぎるじゃないですか、長い金髪にコートが似合い過ぎてて、うわーなんだろ、あの綺麗な女の人って、誰だって思いますよ」

「うーん……」

 別の意味で悪目立ちをしていたと判って、思惑外れに絶句する。

 操祈は手短にイメチェンの理由を説明したが

「無理ですね、美人の宿命だと思って諦めて下さい」

 と、あっさり片付けられてしまった。

「お買い物ですか?」

「うん……晩ご飯のお惣菜でもと思って出てきたんだけど……唯香さんも?」

「わたしは、もうすぐクリスマスだから、彼に手作りのプレゼントをしようと思って」

「まぁステキっ、手作りって何を作るつもりなの?」

「シュトーレンとかならちょうどいい時期かなって、それで材料を買いに」

 操祈も、その手があったか――! と、曇りがちだった表情を明るくする。

「それならわたしもやってみようかな……」

「ステキじゃないですか、きっと彼氏さん大喜びしますよ、操祈先生の手作りのシュトーレンをもらったりなんかしたらっ」

「そうかしら……うん、そうよねっ……作り方、知ってるの?」

「ええ、だいたいなら分ってます」

「じゃあ、これからウチへ来ない? 教えて、一緒に作りましょっ」

「え、いいんですか?」

「ええ――」

 美女二人がニコやかに立ち話に興じるまわりには、いつしか何ごとかと遠巻きにする他の利用者の人垣ができ始めていた。

 

 



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冒険者たち

          XLⅠ

 

「シュトーレンって、こんなに手がかかるものだったなんて知らなかったわ」

「これでも簡易版のレシピなんですよ」

「えーっそうなのぉ?」

「普通、ドライフルーツはブランデーかラム酒に浸けて一晩おいたり、ナッツをオーブンでカリカリにしたりってするみたいなんですけど、そういう手間のかかる作業を既製品をつかって省略してるので」

「そうだったんだ」

「あとはオーブンで焼くんだけです、お疲れさまでした」

 操祈のアパートのキッチンで午後二時前頃から始めた作業だったが、外はもう日が翳って夕方になっている。

「焼き上がったら溶かしバターを表面に塗って、ひと晩かけて冷まして、明日、シナモンパウダーやパウダーシュガーをふりかければ完成です。それはお一人でもできますよね?」

「ええ、任せてっ。じゃあ焼きあがるまでの間、お茶にしましょう。買い置きのクッキーがあるの」

 成形を終えた二つのシュトーレン生地をオーブンに入れ、百八十度、三十分の設定にする。

 操祈と唯香の二人はリビングの長椅子に並んで座って、ミルクティーとクッキーを囲んでの遅めのティータイムとなった。

「唯香さん、ずいぶんお料理に馴れているのね」

「うちは共働きで、弟が居るので時々、私が親代わりをしないといけなかったから仕方なくです。今は私も弟も寮生活ですから、そういうこともあまりなくなりましたけれど」

「えらいわ……じゃあ彼氏さんにも手作りのお料理を振る舞ったりするの?」

「そうですね、これも時々ですけど」

「あら、どんなものを作るのかしら?」

「定番ですよ、肉じゃがとか、カレーとか……先生はいかがですか?」

「肉じゃがなら私もあるわよ……でも、彼に教わって作ったの……彼の方がお料理、得意みたいで……肩身が狭いわ……」

「先生の彼氏って随分、マメな方なんですね……」

「うん……」

 唯香は操祈の恋人が密森黎太郎であることを知っていたが、操祈の方はまだそのことに気がついていないようすなので、そのまま調子を合わせることにしていた。

 密森黎太郎がマメ男なのはよく分っていた。調理実習での手際の良さを見ていれば将来、料理人にだってなれるかもしれない。おそらく当人にはそこまでの気持ちはないにしても。

 女子たちが模擬店で手作りクッキーを出すと決まると真っ先にかりだされてくる助っ人だったし、ホワイトデーにはプロ並みのブラウニーをみんなに配ったりと、もしも彼が女の子だったらライバル視していたかもしれなかった。

「やっぱり女にとっては、いつもブスッとしていて何を考えているか分らない人より、マメな男の方がありがたいですよね……」

「ええそうね……そうかもしれないわね……」

 唯香は、傍らに居る年上の美しい女性が、少しはにかむ容子にまた目を奪われていた。教室に居る時とは違う、女らしい弱さを感じる表情としぐさは同性から見ても可愛らしいと思う。実際、食蜂操祈はまだ二十二歳、大人のレディーというよりも未だ少女の香りがそこはかとなく漂う。

 彼女の恋人が密森黎太郎であるとわかった時は信じられなかったが、こうして素の顔に触れると頷けなくもないのだった。

 こんなにも美しい女性が教え子の男の子とセックスをしている――?

 女教師と男子生徒との道ならぬ恋、でも操祈がリードしているとはとても思えなかった。二人だけのナイショ話で窺い知る限りでは密森黎太郎は女の扱いに関してもとてもマメのようだったからだ。

「先生……また立ち入ったことをお伺いしてもいいですか……?」

「え?……うん、なにかしら? こわいわね」

「こわいなんて別に、いつもご相談しているようなことですけど」

「唯香さんは彼氏さんとは上手くいっているの?」

「ええ、なんとか」

「そう、それはよかったわ……一時(いっとき)、気がかりなことを言っていたことがあったから……」

 唯香は、一成との間にささいな誤解があって、それを操祈に話したことを思い出していた。多くは自分の疑心暗鬼に端を発していたもので、判ってしまえば他愛もないことでもあったのだが。

「どんなに好きな人でも、やっぱり他人ですから、それに異性だから気持ちの行き違いや思い違いをすることって普通にあるんだって判って、だから私も努力しよう……そう気持ちの整理をしてからは勝手に心の垣根をつくっていたのは自分の方じゃないかと思えるようになって……」

「すごいわ、唯香さんは……」

「すごいなんて……ただ女の子の方からも歩み寄れる部分があればって思っただけです」

「歩み寄る……?」

「好きな人のことを信じるって言うか……信じることに決めようって……一成さんのことを好きって決めたのも自分だから……」

「そうね……好きになるのを決めたのは自分よね……自分自身……」

 何か思うところがあるのか操祈は少し屈折した表情を覗かせている。こみ入ったことは話しづらい感じでもあったが、それでも少女は思いきって()いてみることにした。

「ただ、お伺いしようと思っていたこととは直接関係はないんですけど……っていうか、少しはあるかもなんですが……」

「ええ、なぁに? いいわよ」

「先生は、その……男の人を愛されたことはありますか?」

「……?……」

「おつきあいされている男の人の……体を……という意味です……愛されたお返しに……」

 不躾な質問に驚いて返事に詰まったのか、それとも意味を取れずにいるのか、操祈はしばらく沈黙していた。

「あの……」

「わかっているわ……唯香さんから何を訊かれているか……」

「すみません……ちょっと立ち入りすぎました……」

「いいのよ……でも、私にはそういうことはないわ……」

「ですよね……」

「ちがうの……彼が……その……嫌がって……」

「えっ、そうなんですか? でも……あれを嫌がる男の人っているのかな……?」

「そうなの?」

「うーん、私も男じゃないのでわかりませんけど……でも、きっとそういうものだと思います」

「……唯香さんは……?」

「ええ、ありますよ」

 操祈に訊かれて、唯香は言葉を濁さずに即答した。

「そう……」

「だって、愛されれば愛されるほど、私もお返しがしたいなって……愛する人への自然な気持ちだと思います……」

「そうよね……」

 それは唯香にとって偽りの無い本音だった。数ヶ月前にはあり得なかったことが、今では当然になっている。変れば変るものだと思うが、恋をすることで変えられていくのだとしたら、それは良いことなのだと思いたかった。

「……彼……私の体には触れたがるのに……自分が触れられるのは嫌がるの……やっぱり変なのかしら……?」

「変っていうか……どうしてそうなるのか……」

「……うん……」

「痛いことをされるとでも思ってるんでしょうか? 先生が彼から信じられていない? そんなこと、あるはずがないですよね……」

「……わたし……やっぱりそうなのかな……」

「そんな……だって、そんなに難しいことじゃないですよ、彼がしてくれたように自分もするだけですから……優しく愛情を込めれば……ただ初めての時は、ちょっとだけビックリしますけど……いきなりだったりするので……」

 独特のニオイなどその他は、愛情があれば受けとめられるものだった。肉の身を持つもの同志、お互いさまという部分もある。

「いいわね……なんだか唯香さんの方が、いろいろ先輩みたい……」

「イヤですよ先生、まるで私が淫乱ダイスキのダラシないっ()みたいじゃないですか」

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの……ただ、ちょっと羨ましいなって……」

 羨ましい、というのは追従などではなく操祈の本心だろうと感じる。それにしても不可解なのは密森黎太郎の態度だった。彼女から求められれば普通は嬉しい筈なのに――と、訝しむ。

「彼、何か理由を言ってましたか?」

 うっかり馴れ馴れしく“彼”と、まるで既知の人物であるかのような物言いになっていて、唯香は言い直した。

「その方にわけを訊かれたことはありますか?」

「うん……」

「そうしたら何て……」

 操祈が困ったような顔をしていて、少女は口をつぐんだ。

 傍の女教師は裡なる葛藤をうかがわせた後、美しくも素朴な唇――とても男のモノをふくむようには思えない、事実、まだ一度もふくんだことのない無垢そのものの器官――が、おもむろに言葉を選ぶようにしながら理由を言い、それを聞いて少女はとても驚いたのだった。

「じゃあ、先生って……」

 操祈がまだ処女だというのは予想外だった。何も知らないという意味ではないにしても。

“うわーっ、密森くんって想像していた以上にタダ者じゃなかったんだっ”

 この年の差カップルは、ある意味では愛の冒険者なのかもしれない、と少女は思う。いくばくかのジェラシーさえ感じながら。

 二人が演じているセックスはアブノーマルというのではないのかもしれないが、普通――でもないのだった。操祈たちがいるのは愛情という心のザイルで強く結ばれているからこそ辿ることの許されるルートだった。いったい彼らの目指す頂上からの視界とはどのようなものなのだろうかと、すごく好奇心がそそられている。

 ただそれが可能のは、食峰操祈が類い稀な美しい女性であるからだけでなく、パートナーもそれに劣らず特別だからだ。

「そんな目で見ないで……」

 操祈は真っ赤になっている。

「でも……それって凄いことだと思いますよ……だって……とても愛されてなければ、そんなこと……」

 密森黎太郎、恐るべし――。

 操祈が骨抜きにされるのも宜なるかな。そこまで覚悟を決めて愛されれば、女には――特に操祈のように身持ちのいいウブなレディには――逃げ道なんてどこにもないように思えてしまうに違いない。

「……うれしいな……わたし……」

 唯香は操祈の体に抱きつきながら言った。やさしげな体臭が香る。クラスメートの密森黎太郎は、この美しい女性の匂いの全てを知悉しているのかと思うと、別の意味で胸騒ぎを覚えてしまうのだった。

「……どうして……?」

「とても操祈先生らしいから……先生みたいな素敵な女の人には……そういう方がお似合いみたいで……」

「………」

「とってもイケナイ男の人につかまっちゃったみたいですね」

 操祈は、コクン、と頷いた。

「ああ良かった……先生がとっても幸せだってわかって」

「からかってるのぉ?」

「いいえ、だってどんなセックスをするかで女って変わるから……だから安心したんです、操祈先生はやっぱり操祈先生なんだって……あ、焼き上がったみたいですよっ」

 少女は、動揺をひきずる操祈を残してソファから、つ、と立上がった。

 

 




送り仮名の間違い等を微修正しました
申し訳ありませんでした


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番外 ICCPで

          XLⅡ

 

「どう思う?」

 広田矗之(のぶゆき)は紙のロングカップに半分ほど残るビールを片手に、どこか浮かない顔でホールの壁にもたれながら傍にいた同窓の吉崎慎吾に話しかけた。

「久しぶりに会っていきなりオープンクエスチョンか……いいだろう、本音を言わせてもらおう、いつもながら思うが、こういう立食は実に我々向きのひどい料理ばかりだ、ホテルってのは僕らを完全にカモにしてるんだろうな」

 広田は旧友の昔ながらの軽口にハッハッハと愉快そうに笑った。

「違いない、ボクらの参加費のあらかたがいったいどこに消えているのか、そっちの方が謎だ……保存則を無視しているとしか思えんよ……まぁそれはそれとしてだ……」

「わかってるよ、キミが訊いたのは午後のヴィーダーマン“先生”の話についての僕の意見だろ? 正直、眉唾だ、彼女は間違っていると思う。あんなに簡単に“能力”の定量化ができるとはとても思えない」

「ああ僕もだ。しかしアイツは大物だからな、あの女が喋ると、それなりにここでの議論に流れができてしまう。少なからずの連中には受けてたみたいだからね、まぁ面白いモデルだとは思うけど重要な部分をネグってるよ。だが指摘は鋭い」

「オッカムの剃刀か……なびきたくなる気持ちもわからなくはないけど……『さぁ坊やたち、金鉱脈が見つかったからココを掘るのよ』ここ掘れワンワンってな具合だな」

 吉崎慎吾も苦笑いをする。

「おい、噂をすれば影だぞ、ご本人さまの登場だ」

 吉崎が促した先には、四十がらみのスラリと背の高いブロンドの女性が居た。向こうも壁の花になった二人に気がついたのか歩み寄ってくる。するとモーゼの奇跡のように居合わせた人並みが左右に割れて道をつくるのだった。

「おい、彼女こっち見て睨んでるぞ、広田、なんでだよ? なんかやらかしたのか?」

「逃げるか……というか逃げたいんだが……」

 しかし二人とも、猛禽類にロックオンされてフリーズした小動物がその場でうずくまるように固まって身動きが取れなくなっていた。背を向けて動き出すより先に美女の方から声をかけてきたからだ。

「広田先生、意外なところでお目にかかるわね、まさかいらっしゃるとは思いませんでしたわ」

 ネイティブではなくても、語感に皮肉がてんこもりになっていることはよーくわかる。

 萎縮した様子でうつむきながら広田は、

「お目にかかれて光栄です。シンポジウムには大変に感銘を受けました」

 と、あたりさわりのない挨拶をした。

 すると、まるで気の利いたパンチラインに反応するようにブロンド美女は大きな口を開けて笑うのだ。実に挑発的な嘲笑だった。

「あら、ノブも面白いことが言えるようになったのね」

 高名なドンナ・ヴィーダーマンが友人を愛称で呼んでいることが意外で、

「広田、知り合いなのか?」と吉崎は確かめた。

 相手はドネツ連合医科大の教授にして北大西洋連邦科学アカデミー会員という大物なのだ。一介の田舎大学の准教授風情と比べると格どころか、立っている土俵さえもが甚だしく違う。

「ポスドクでハーバードのダラス教授のところに行っていた時に、当時はまだ学生だった彼女が同じラボに居たんだよ。そのころからいろんな面でものすごく目立っていたけど」

 広田は友人に説明した。

「久しぶりね、ノブ、こちらは?」

「理科学院の吉崎先生です、僕とは大学の同級で」

「吉崎先生、初めまして」

 手を差し出され、吉崎もこわごわ相手の手を握った。

「あら、あなたもアンチサーキット派だったりするのかしら?」

「あ、あ、いえ、そういうわけでは……」

「駄目よ、物事を難しく考えちゃ。人間の頭はそんなに賢くないんだから、私みたいにちょっと鈍感なぐらいが丁度いいのよ」

 正確に翻訳すると『どうせあんたらはおバカさんなんだから、なーんにも考えなくていいのよ』と罵倒されているのだった。

「はぁ……ただスライマン&ボースモデルにはやや懸念を……」

 吉崎慎吾は口にしてから、しまった、と思った。ドンナ・ヴィーダーマンと握った手をまだ離してはいなかったのだ。ドンナは握手したままぐいっと自分の方へと引き寄せながら言った。

「あなた、まだそんなことを言ってるの?」

 スライマン&ボースモデルは、従来型の意識モデルに限界を感じた凡庸な研究者たちが安易に曖昧模糊とした量子モデルへの探求へと転び始めた中、再び堅牢な古典力学のモデルへと引き戻した二人の天才、バージェス・スライマンとジェフリー・ボースの提唱した意識モデルで、今日の意識学の基本理論となっているものだった。両氏はノーベル医学生理学賞と物理学賞をダブルで受賞していて、齢八十近くになった今もプリンストン大の永世教授であるとともに、スライマンはこの国際意識物理学会(ICCP)のボスとして君臨している。

 さらにはドンナ・ヴィーダーマンは二人の秘蔵っ子だった。

「あ、いえ、そうではなくて……まだモデルには研ぎ澄ます余地があるかもしれないのではなかというような印象をもっているような気がしているだけなのかもしれない、ということで……」

 しどろもどろになる貧相なアジア人の中年男を見下ろして、ブロンド美女は哀れむようなため息をついた。

「まぁいいわ……ところでノブ、あなたの昨日のセッションは聴いたけど、能力と知能の発達についての逆相関の説明には私のモデルが適用できると思うんだけど、どうかしら?」

 圧倒的な主流派であってもアンチサイドへのチェックは怠りがない。ドンナ・ヴィーダーマンは異教徒の息の根を止めるまでけっして容赦する気はないようだった。

 

 

「お疲れ――」

 吉崎は広田の肩を労うように軽く叩いた。

「ああ、ツカレタ……」

「おまえ、よく沈められなかったな、あんだけあらゆる方向から打ちすえられて、浮かんでいられただけでもたいしたもんだと俺は感心してるよ」

「ありがとよ、だから逃げたかったんだが……ちっくしょー一歩、足が動くのが遅かった……」

 人称が、ボク、キミ、といったタメの学者同士のものから、学生時代の気の置けない関係、俺、おまえ、に戻っている。

 ホテルの前でタクシーに乗るのも気がのらず、逗留している安ホテルまで歩き出した二人だったが、途中、バーガーチェーンの前に来るとにわかに空腹を意識して、

「なぁ吉崎、バーガーでも食っていかねぇか?」

 広田は友人を誘うのだった。

「おう、そうするか……五百ドル近くも払った上に徹底的にやっつけられて、それでビール一杯だけじゃ合わないよなあ」

 夜の十時をまわって、アジア人の中年男二人がファーストフード店に入ると、店内は体格のいいタクシードライバーやらホームレスに限りなく近い者やらが満遍なく燻っていて、客は肌の色だけではなく髪の色まで含めて身なりもバラエティに富んでいる。見なれたチェーン店だがやはり日本とは違うのだった。

 曰く言い難い臭気に顔をしかめた広田が

「さっさと買って歩きながら食うことにするか」

 と、予定変更を提案すると、相棒の吉崎も同意するのだった。

 街は吐く息が白くなるほど冷え込んできていたが、歩きながらハンバーガーにかじりつく。

「久しぶりに食ったが、美味いな……五ドルあればこんだけ食えるんだからな、五つ星ホテルなんかクソくらえだ」

「まぁ学生連中はそれなりにガッツいてたみたいだから、元はとってたんじゃないか……俺たちみたいな中間層が一番、割り食うのは社会構造からして仕方ないんだろうな」

「俺が若い頃、この国に来たときはすごいなぁと目を丸くすることが多かったが、今は別の意味ですごいことになっちまったんだなぁと思うよ……」

「ああ……しょうがないよ、諸行無常さ……盛者必衰……」

「お、吉崎先生、やっぱり日本人だなぁ……俺もつくづく日本人になっちまったなぁと思うぜ、歳をとると……」

 黙々と食べ終わると、温かいコーヒーをちびちびと含みながら互いの学術的位置を確認しあう。幾つかの点で意見の異なる部分もあったが、おしなべて理解しあえることが判って今後の協力を約束するのだった。

「なぁ広田……おまえ、学園都市に居たんだってな……知らなかったよ。ずっとこっちにいるとばかり思ってたからさ……」

「うん……十年前に木原先生に誘われてね……」

「木原先生って木原幻生?」

「ああ、ちょうど任期がきれて次をどうしようかと思ってたところだったんで、おっかなびっくり覗いてみてもいいかなと」

「じゃあ大変だったろう?」

「まぁね……同僚で実刑を食らっているのが何人もいるから……僕は運が良かった。責任を問われること無く地方私大とはいえ職にありつけたんだから」

「その辺のことは訊かないことにするよ」

「ああ、俺も守秘義務にサインさせられてるから、迂闊なことは言えないんだ、悪いな」

「それより、さっきのドンナ・ヴィーダーマンとの論争を聴いていて、外野でちょっと気になっていたんだが、いいか?」

「なに? ドクター吉崎のご意見を承ろうじゃないか」

「イヤイヤそんなんじゃない、単なる好奇心だよ。で、ホントなのか? 元レベル5の被験者でまともに残っているのがたった一人しか居ないっていうのは?」

「事実だよ。一人、行方不明者が居るが、残る五人のうち四人までが反社会的不適合者――要するに犯罪者に堕ちて当局に収監後、いまもどこかの施設に収容されている。残る一人は二十歳になる前に自死した」

「そいつは悲惨だなぁ……能力者ってのは哀れなもんなんだ……」

「彼らは高い特殊能力の代償のように脳の発達が歪というか未熟だったんだよ。その理由についてはドンナはああ言っていたが、僕は彼女の説を支持していない。寧ろ、胚期由来のものだと考えている。まぁ原因はともかく、いずれにしても彼らは特に前頭前野の発達が遅滞していて知性は大半が健全下位層に属し、情動のバランスも不安定だった」

「しかしそういうのが、レベル5というと、とてつもない能力をもっていたわけだろう? キチガイに刃物というか爆発物のボタンを委ねていたわけだから、いったい、どうやって管理していたんだい? 危なくなかったのか?」

「学園都市では管理は……実はしていなかったんだ……というか我々の手に負えるしろものじゃない。だから能力者に能力者を自主管理させていたんだよ。レベル3ぐらいのもので、いわば普通のメンタリティーを持ったものがある程度の数、居たのでね。要は量をもって質に対峙させていた、というわけさ」

「なるほど……バカとハサミはなんとやら、か……」

「あまり大きな声じゃ言えない話だけれどね」

「で、今は一人だけ普通の生活を送っているのがいるんだよね? そいつは、どうして居るの? 興味深いな」

「そうなんだ、われわれ少数派にとっては希望の星とも言える非常に興味深い被験者なんだよ。今は学園都市で母校の教師をしているらしいが、プライバシーに関わるからここだけにしておいてくれよ」

「おう、わかった。しかし、それは良かったじゃないか、きっちり更生したってわけだ」

「彼女ともう一人は知能の発達も標準以上というか、平均よりも遥かに高く極めて優秀の部類に入る特異例なんだ」

「待ってくれ、そいつは女の子なのか?」

「ああ不思議なことにね、高知能のレベル5はふたりとも女子だ。残念ながらひとりは行方不明者になってしまったが」

「するとやっぱり性差があるっていうことか……」

「ある、それも著しくね。ドンナはこの件については少数の例外として無視している。確かに標本数が少なすぎるから結論を急ぐのは危険だけれど、しかし事実だけを言えばレベル5のIQの平均は八十九だが、女子だけに限ると百十を越える。これは彼女のモデルでは絶対に説明できない。特に一人は百四十以上の天才といっていい水準だ。それが今、教師をしている子なんだよ……食蜂操祈……この名前に聞き覚えは無いかい?」

「ショクホウ……」

「食蜂操祈だ」

「ショクホウミサキ? はて、なんかどっかで耳にしたような……うーん……いや、よくわからん、覚えてないな」

「先月、ネットでミスコンがあったろ? 知らないか? けっこう話題になったはずだが」

「ネットのミスコン……ああ、あったあった……え? あの子がそうなのかっ!?」

「うむ……」

「食蜂操祈って、あのものすごくカワイイ子じゃないかっ!」

 吉崎慎吾はまるで学生のように目を輝かせている。

「ああ、僕も何年かぶりに彼女を見てびっくりしたよ。ずいぶん変るもんだなと、何があったのか知らないが、すっかり毒気が抜けて可愛い子になっていたから」

「彼女のことを知っていたのか、そいつは羨ましいな」

「冗談はよしてくれ、あの子ほど現場の我々を泣かせた被験者は居なかったんだからね。とても頭がいい上に強力な精神操作系能力者、少しでも油断するとこっちの首が刈られてしまいそうだった」

「ふーん……なるほどねぇ……」

 吉崎はコーヒーを飲み干すと、紙コップをぐしゃりと握りつぶした。

「あっちの機嫌を損ねると、こっちがこんな風にされちゃうわけね」

「そういうことっ」

「とてもそんな風には見えなかったけどなぁ、気立ての良い子っぽかったぞ……まぁ女の子だからいろいろあるんだろうけど……しかし、僕らとしては是非とも研究発展のために彼女から協力を得たいところだねぇ、サーキットの連中に一泡吹かせてやりたいじゃないか」

「そうなんだ……だが残念ながら、彼女から協力をとりつけるのは無理だろう、あの時代を知っているわけだから……」

「そうとも言えないんじゃないか? 誠心誠意、土下座して頼めば応じてくれるんじゃないか?」

「女のコを口説くのとはワケがちがうんだぞっ」

「同じようなもんだろ」

「まぁ、帰ったらまた協力依頼の連絡をするつもりではいるんだが……また門前払いだろうな……」

 ホテルの前まで来たところで広田は足を止めた。

「キミのホテルは、たしかここだろ?」

「あ、そうか、ありがと、うっかり通り過ぎるところだったよ」

「僕のホテルはあの角の星なしだよ、貧乏大だから出張費もキャップがかかっててさ」

 広田は通りの先のくすんだビルを指差しながら言った。

「さっきの話だけど……食蜂操祈の件は僕もいっちょかみさせてもらってもいいか? 学園都市にひとり友人が居るんだ。彼女に話せば力になってくれるかもしれん」

「学園都市に? ほう、誰だい? そいつは」

「たぶんキミも知ってる筈さ、木原さんのお孫さんだから」

「ああ、彼女か……」

 友人からの提案に広田は中途半端な笑顔で応えるのだった。

 



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光と陰と

          XLⅢ

 

 終業チャイムが鳴って教室内は、安堵とも諦めともつかないため息に包まれた。

「オワッター、いろんな意味で終わったわぁー」

 コースケが口火を切ると、そちこちに散らばっていた仲間の男子たちにも同じような反応が拡散していく。

「ハイ、終わりっ、グズグズしないで答案用紙を回収っ、それが済んだら各自、進路希望のアンケート用紙に記入してこっちに持ってくるようにっ」

 操祈の代わりに試験官となっていた男性教諭に一喝されて、生徒たちは伏せた答案用紙を後ろから前の生徒に送り出した。

「もう長点上機はむりだなあ、オレ……どこにすっかな……」

 卒業まで三ヶ月、事実上、この冬の期末試験までの結果によって各人の進路が決まるのだった。旧五本指にあたる高校は人気が高いが、一方で狭き門でもある。同じ五本指の指定校である常盤台とはいえども推薦枠には限りがあった。

 少年少女たちは志望校調査アンケートに記入すると、ぞろぞろと教室の外に出て行く。

「ミツっち、オマエ、アンケどこにした?」

 傍にいたヤッさんに訊かれ、

「ボクはどこでもいいから空欄にしておいたよ」

「なんで? オマエなら長点上機だろうと、どこだろうと選び放題なのに?」

「純平くんはどうしたの?」

「俺は一応、ダメもとで長点上機って、第二志望は静菜にしといたけど……」

「ボクはみんなの行くところならどこでもいいな」

「レイはホント、いいヤツだよなぁ……俺、泣けてきた」

 コースケが大げさに腕で涙を拭う真似をする。

「別にそんなんじゃないからっ、ただどこに行ってもやることは同じだって思うだけで……本当ならみんな持ち上がりで同じ高校に進学できればいいんだけど……」

「だよなぁ……」

 ゆうちゃんとマコトも加わって廊下を歩きながら

「飯、どうする? 試験も終わったことだし久しぶりに外に出るか?」

「ごめん、ボク、今月結構ピンチで、外食はきついかも」

 レイが異議を唱えると

「しょうがねぇなあ、じゃあ学食いくか」 

 六人は学生食堂へと向かうのだった。

 

 

 一番最後にコースケが、常盤台ランチと、かき揚げうどんにネギを山盛りにしたものを両手に、五人のいるテーブル席に戻ってきた。ゆうちゃんこと黒川田勇作とレイ以外は、みな定食の他に一品、麺類やらカレーライスやらのオプションをつけていて、テーブルの上は人数分以上に賑やかになっている。

 常盤台では昼食の食券は、ひとり一食につき一枚ずつ配給されているが、オプションについては自費となっていて、健啖な男子は大抵、もう一人前を追加するのが普通なのだった。中には三人前を平らげるものも居る。

 

#……常盤台中学生徒の皆さま、こちらは放送部です。期末試験、お疲れ様でした……#

 

 館内放送に先立つチャイムが鳴って、女子生徒の声で、放送部による校内一斉のアナウンスが食堂ホール内にも響き始めた。

 

#……本日、第十三期、常盤台中学生徒会会長選挙の公示がなされました……#

 

「試験が終われば選挙かよ……まぁ、俺らには関係ないけどな……」

 コースケが麺を啜りながらむすっとした顔で呟く。

 

#……候補者名は届け出順に、二年三組、高梨祐太くん、二年二組、黒田アリスさん、一年三組、新坂上五郎くん、二年三組、志茂條ブライアンくん、二年一組、中本智人くん、二年三組、持田学くん、一年一組、宇品大作くんの以上、七名です。各候補者の選挙活動期間は本日より五日間、二十三日午後には、本校講堂で合同立会演説会が行われます。投票は二十四日午前九時より正午まで、本館玄関前の特設投票所にて行われ、締め切り後はすぐに開票となり集計しだい結果が玄関前に掲示されます。学内自治を決める大切な選挙です。生徒の皆さんには必ず投票権を行使するようにお願い致します……#

 

 再びチャイムが鳴ってアナウンスは終了した。

「乱立、ですな――」

 ノンポリのゆうちゃんまで呆れて言った。

「まぁ、山崎会長が引退となれば、そりゃ会長の椅子に色気を出すヤツも居るだろうとは思ったけどよ、なんで男が六人も出てくんだよ、ただでさえ基礎票が少ねぇってのにっ、割ってどうすんだって」

「しかし、こりゃ次期会長は黒田アリスでキマリかな」

「二年三組はバカか? 男が三人も出てくるなんで、クラスでも一本化できなかったのが、纏め役なんてムリにきまってんじゃんっ」

「ボクは今回は黒田アリスに投票しようかな……生徒会での様子を見る限りは、今の二年ではしっかりしてる子だと思うよ……」

 レイがそう言うと、

「コースケ、コイツ裏切って、女子に投票するって言ってまっせ」

 ヤッさんがご注進に及んだ。

「もういい、どーでも、どうせ俺ら、あと三ヶ月だし……なぁ、それよりこの後、どうする? レイが金欠みてぇだから、また部室行くか?」

「コースケくんごめん、ボク、今日はこれから実家に帰って、仕送りの無心しないとならないから……」

「そっか、まぁ、そういうんじゃ仕方ねぇよな、レイは週末は実家と、他、この後、なにか用事のあるヤツは居る? まぁあるワケねぇか」

「イヤ、俺はクリスマスイブはデートのアポが入ってるから」

 チャーシュー麺のスープをゴクゴク飲み干したマコトが巨軀を揺すって主張して、他の四名は「はいはい」と、毎度のこととばかりに軽くあしらった。

 マコトは「ホントだかんな」と語気を強めるが

「ああ、判ってる、けどな、俺らが言ってるのはリアルでの話な。それにクリスマスイブは来週の水曜日っ」

 と言ってコースケがあっさり片付けた。

 マコトがネトゲ界ではイケメンアバターを使ってモテ男を演じていることを、みんなよく知っているのだ。

「クリスマスって操祈ちゃんはどうすんのかな……?」 

「そういや操祈ちゃん、今日は校長先生に呼ばれてたっていうけど、なんかあったのか? レイ、オマエなにか知らない?」

「うーん、たしか栃織さんの話だと、校長室でどっかの大学の先生と面談しているってことらしいけど、よくわからないなあ」

「大学の先生? なんだろ、ナンパしに来たんだったらただじゃおかないが」

「まさかぁ――」

 レイは、操祈に対してはこれまでも何度も、内外の研究機関から特殊能力研究についての協力要請が持ちかけられていることを知っていたが、それに応じるつもりがないことも本人から直接、聞かされて判っていた。

 かつて学園都市で行われていた非人道的とも言える研究実態を経験している操祈からすると、彼女の拒絶反応はよくわかるのだった。ただ、今日は校長である谷津城妙子先生からの直々の要請ということらしく、無下にはできなかったのだろうと思う。

 研究協力以外にも、ミスコン以来、操祈の身辺は何かと慌ただしいのだ。インタビューやら取材やらにかこつけて、面会を取り付けようとする輩がひきもきらない。ウソかホントか、ハリウッドが大作4D映画のヒロイン候補に挙げているとかという話まで聞こえてきている。

 冗談じゃない――!

 操祈の魅力を商業ベースにのせて消費するなんて、とんでもないことだと思うが、そもそも彼女をそうした場へと追いやってしまった責任の一端が自分にもあることを少年は認めていた。

 幸い、山崎碧子による身辺調査の件は、紅音の工作によって火がつく前に消し止められていたが、それでも操祈がこうまで注目される存在になると、いつどこでまたスキャンダルの芽が吹き出すかもわからなかった。

 行動は慎重にも慎重を期していなければならないと、少年は自戒している。

 そのせいで、もうずっと操祈とは逢えずに居るのだ。

 来週こそはデートをしたいと思うが、時期が時期だけに果たしてそれが可能かどうか、少しあやしくなってきているのだった。

 

 

 コースケたちと別れたレイは、ひとり学園都市の外へ出て一時帰省の途についた。

 学園都市とは真反対に位置する東京の下町界隈へ、川向こうは千葉県になる首都東京の東端へと。在来線を使って片道二時間以上もかかる道行で、友人たちからは「すっげぇ田舎だ」「俺んちより田舎だ」としきりに囃し立てられたが、実際そうなのだ。レイの感覚からすると、かつては逆に学園都市のある多摩地区は地の果てのように遠い僻地だった。中学に入学するまで、一度も訪れたことは無かった。

 子供の頃から馴染んだ駅を降り、駅前のスーパーで食料を買いこむと勝手の知れた住宅地区へと足を向ける。実家は、戦後すぐに開けた古くからある住宅街の中にある、こじんまりとした四階建のビルだった。

 表には『三島内科/小児科医院』の看板が掲げられているが、開院していたのは祖父の代まででクリニックはいまはもう閉じている。一階が診察エリアで、二階から上が居住スペースだったが、通りに面した外来患者用の表玄関のガラス扉は閉ざされたまま、廃院してから二十年以上もの間、一度も開かれたことは無いのだった。

 “いつものように”裏口にまわってビルの中に入る。

 ひと気の絶えて静かな建物内部は冷たく、長く主を失って薄暗くもの寂しい。少年は家族用の階段を四階まで一気にかけあがると、洗面所の水道で手を洗い自室のドアを開いた。

 中は十畳ほどの広さの洋間にベッドがひとつ、窓際には祖父の代から使われていた古い木製デスクが据えられている。壁の一面は書棚になっていて医学系やその他の分野の専門書の背表紙がズラリと並んでいた。

 長く放置していたので部屋の空気は淀んでいたが、匂いは懐かしい。が、ホッとすると同時に、胸の中にもやもやしたものが兆してもくるのだった。

 それを紛らわせようと、すぐにデスクの椅子に座るとパソコンの電源を入れ、当初の目的である銀行口座にアクセスをする。出入金の履歴をざっとチェックすると、当座必要な少額を普段利用しているネットバンクへと送金した。

 これだけあれば年末年始の物入りも、なんとかやりくりできるだろうと思う。

「先生へのプレゼントも用意したいし……」

 ひとりごちる。

 たったそれだけの作業をするために往復四時間もかけるのは非効率だったが、それも致し方なかった。

 まだ当分の間は、“家族の不在”については伏せておきたかったからだ。

 出金操作を終えるとPCをシャットダウンして、買い物袋から三角サンドのパックを取り出した。ハムとチーズのサンドイッチをひと齧りする。誰も居ない静かな室内で、咀嚼音ばかりが大きく響いている。

 外はすっかり日が暮れて、窓からの街灯りにぼうっと照らされた室内に浮かぶシルエットは孤独だった。闇が迫るとともに、少年はまた気分が滅入ってくるのを意識せずには居られなくなってくるのだった。

 シャワーを浴びて部屋着に着替えようかと思ったが、浴室の狭い空間に身を置くのが躊躇われて、先延ばしになっている。

 それは、いつもの良くない兆候なのだ。

 自室とはいえ、ここで独り夜を過ごすのがちょっとイヤな感じなのだった。

 気分を換えて、どこか駅近くのホテルに仮の宿を求めようかとも考えたが、その思い切りもつかないままに時間だけが過ぎていく。

「……どうして……ボクだけ……」

 デスクの隅に伏せられたままの写真たてに向けて、また問いかけた。

 けして答えの得られない問いであることを分かっていながら、それでも問わずにはいられないのだった。

 その頃を思い返すと、鳥肌が立つほどに冷えきった室内に居ながら、じわっと寄せてくる不安に体には脂汗が滲んでくる。いきなりオーバーシュートしそうになって、少年は慌ててデスクの抽出しからピルケースを取り出すと、白い錠剤を一錠、口に放り込んで缶コーヒーで流し込んだ。目を閉じて操祈のことだけを考えるようにする。そうしていると、感情の不穏なうねりがまた落ちつきを取り戻していくのだった。

「……先生に逢いたい……操祈先生に……」

 密森黎太郎にとって、食蜂操祈はどこまでも続くかに思われた闇の中に現れた、ひとすじの灯火――だった。

 だからあのとき、気がついたのだ。

 そして存在を知った瞬間に心を奪われていた。

 パッと花が咲いたような笑顔の眩しさに、くるくるとかわる愛らしい表情に。

 たとえ瞋恚(しんい)に燃える時でさえ、彼女は周りを明るく照らし出しているようなのだった。

 当時の操祈には、まだ自分の生まれ持った本当の力への自覚は無かったようだったが、彼女がその希有な力の宿主であることは見た途端にすぐに感じられたのだ。

 自分などが足元にも及ばない遠い存在であることを――。

 少年は、ショルダーバッグの貴重品用チャックを開けて、中からジップロックに入れていたものを取り出した。中身は操祈から誕生祝いに貰った――正確には“奪った”というべきだろうか――彼女の肌着を取り出すと、裏返しにして股ぐりの部分を表にする。灯火を点けないままの暗い部屋にあって、夜目にも白い布地にうっすら黄ばんだ沁みが見えるようなのだ。それを鼻先にもってきて、美しい女性の命の証ともいえる分泌物のにおいを嗅ぐ。薄れてはいても操祈のものと判る愛おしい性の香りが、傷ついた少年の気持ちを慰めて、勇気を奮い立たせてくれるのだった。

「……これが……操祈先生の……におい……」

 よく知っているつもりでも、いつでも新鮮な気づきを与えて、それが嬉しい驚きにつながっている。年上の恋人の美貌を想いながら、股間は固く膨れ上がった。

 少年はズボンを脱いでベッドにうつ伏せになると、操祈の肌着を枕に顔を埋めて悩ましげに腰を蠢かし始めた。

 

 




誤字の修正をしました

チェックが足りず申し訳ありませんでした


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ナイトカマー

          XLⅣ

 

 冷凍食品のパスタをレンジで加熱したものと、既製品のサラダボールという雑なミールを肴にグラスに満たしたブランデーを傾ける。テレビは点いてはいるものの見ていたわけではなかった。ただ音が無いともの寂しいのでかけ流しにしているだけだった。

 もぐもぐ口を動かしながらも、ときおり出てくる言葉は文句と愚痴ばかりになっている。

「もー、週末の夜にぃ、かわいい女の子をぉ、ひとりにするなんてぇ、しんじられないっ、なによぉっ、もうっ」

 食蜂操祈は、また長椅子で独り遅めの夕食をつついていた。膝に抱えたクッションに顎を乗せただらしない格好で、少しふて腐れたようにしてフォークを手にした長い腕をローテーブルに伸ばしている。

 料理はとても美味しいと言えるものではなかった。本物なのはブランデーだけで、あとはみんなつくりモノなのだから仕方がないが、それ以上に“独りでご飯”というのが退屈なのだった。

 以前はあたりまえだったことが、恋人と過ごす楽しさを知った今は余計に味気なく感じるようになってしまっている。

 それでもクリスマスイブまであと六日、そう思うと、また胸がはずんでくるのだった。

 ずっと一緒に、って言ってたから、お休み期間中はずっと……?

 でも、レイくん、何日もお部屋を空けることなんてできるのかしら?

 お家に帰ったことにするのかなぁ?

 それならお正月も一緒に居られるの――?

 じゃあ、おせち料理の用意もしないとぉ……あはっ、あたし、お正月料理なんて作れないわよぉ……どうしよう……でもここは主婦力の見せ所でもあるしぃ……。

 あー早く、お休みにならないかなぁ……。

 晴れたり曇ったり、恋する女心は忙しい。

 と、突然ドアホンが鳴って、ビクッとする。壁に目をやって時計が七時半を回ったところなのを確かめると、

「なんだろ、こんな時間に……宅配便さんなら、出なくてもボックスに入れておいてくれるわよね……」

 ひとりごちながらソファから立上がってインタホンのモニターを確かめると、そこに映っていたのは密森黎太郎なのだった。

 え――!?

 こんな時間に、どうして彼がっ!? と、ドギマギする。

 相手には姿が映っていないにもかかわらず、モニターの前で髪の(ほつ)れを整えると通話ボタンを入れた。

「ハイ――」

「あの……食蜂先生、密森です……突然、夜分遅くにお伺いして申しわけありません……」

 この言葉遣いは“教え子”のときの“彼”だった。同じ言葉を選んでいても、ONとOFFの違いが分かるくらいには気脈は通じている。

「あら、なぁに? いいわよ」

 操祈はオートロックを解除した。

「あの、ボク……」

 少年は何か口にしかけていたが、自動ドアが開いたのでマンション内へと入ってきたようである。そうなってから慌てたのは操祈だった。部屋の中を見回して、隙だらけの散らかり放題だったからだ。

 レイがエレベーターを上がってくるまでの僅かの間に、酒瓶とジャンクミールをキッチンに運び、寝室のドアを閉めてなんとか体裁を取り繕った。

 ピンポン――。

 再びドアホンが鳴って、今度は部屋の玄関前に立っているレイの姿がモニターに映し出されている。

 操祈は玄関に小走りになってドアの鍵を解いて扉を開くと、少年は心許なげな顔をしてそこに居た。

「あら、どうしたの? 珍しいわね――」

 操祈はドアを大きく開いて

「いらっしゃい」と、中へ招いた。

 が、レイはそこから動かない。

「いえ、ここで結構です。今日、ちょっと実家まで往復して、先生にお土産をお持ちしただけですので、すぐに帰りますから」

 少年は手に提げた紙袋の中から折り詰めの包みをひとつ取り出すと、操祈に差し出した。

「あら、なぁに? これ」

「帰りに柴又に寄ったので、寅さん名物の草だんごです。先生のお口に合うかどうか分かりませんけど」

「まぁ、ありがとう、わたしも好きよ、草だんご」

「さすがに“お歳暮”にはなりませんね」

 少年は冗談を言って頬笑み、

「それだと受けとれないわねぇ、収賄になるから」

 操祈もイタズラな笑顔で応酬する。

「これは、このあいだ教室で戴いたシュトーレンの御礼です。ありがとうございました」

「だって、たったひと欠片だったのに……」

 結局、焼き上げたシュトーレンはホームルームでクラス全員に配ることになっていた。紅音にレイへの(ことづ)けを頼んだところ、寮生には目立ちすぎるからとダメ出しをされ、たとえひと切れでもレイには気持ちはしっかり伝わるからと諭されて、そのような次第になっていたのだった。

「先生の手作り、とても美味しく出来ていましたよ。舘野さんと一緒に作られたとか」

「ええそうなの、ウチのキッチンで彼女に教えてもらいながら……」

「ボクのは手作りのお返しじゃなくて申し訳ないのですが……」

「あら、草だんごまで手作りできるの?」

「いえ、それはさすがに……先生はボクをいったいなんだと思われてるんですか? 一介の中学生が職人さんに適うわけないじゃないですか」

「そうよねぇ……でも中学生にしては、とっても――」

 ワルい人だから――と、口にしかけて操祈は言葉をのみこんだ。部屋の外では、誰かに聞き耳をたてられているかもわからないからだった。

「折角だからお入りなさい、そこは寒いでしょ?」

 内廊下だが、それでも室内に較べると冷え込んでいる。

「いいえ、いくら先生でも、一人暮らしの女の人の部屋に入るのは……ボクも男ですから」

「まぁ、生意気言って……」

 視線を重ねた瞳に、一瞬、教え子のときとは違う色――危険な男の光――が閃いたが、レイはそれをすぐに封じて無害な少年の顔に戻って言った。

「それに門限も迫っているので。これ、残りはみんなの分なんです。全部で十箱も買ってきちゃって、今夜中に配らないと……女子寮の方にも廻ろうかなと思って……」

 ぶら下げていた紙袋を重たげに持ち上げて見せる。

「相変わらずマメねぇ……そう、わかったわ……」

「では、ボクはこれで――」

 頭を下げる。顔を上げた時、少年は恋人の顔になっていて操祈の胸をキュンとさせるのだった。

 踵を返し立ち去ろうとする男の背中を未練がましく追おうとして、少年からやんわりと制された。

「寒いですから、もうこちらで――」

「うん……気をつけて……」

「ありがとうございます、先生……」

 情を通じた男の顔が、振り返って小さく頷き返していた。見つめる操祈も瞳を大きくして、せつない女の顔になっている。

 少年が廊下の角を曲がって見えなくなるまで名残惜しげに見送り続けると、フーッと長いため息をひとつついた。それは安堵とも落胆ともつかないものなのだった。自分でも本当はどうしたかったのか分らなくなっていたのだ。

 手にした折詰めに添え状があるのに気がついて、そそくさと部屋に持ちかえると封筒を開き、中にあった書をあらためる。

 それは思い人からの自筆の手紙なのだった。綴られていたのは、操祈へ向けての労いと感謝。思いやりと愛情に溢れた文面に胸を熱くする。

「……こんなことされたら……気持ちだけを遺して行っちゃうなんて……ずるいんだゾっ……どうしたらいいか分からなくなっちゃうじゃないのよぉ……」

 読み終えた操祈は便箋二枚の“恋文”を抱いて瞳を潤ませていた。

 



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Dec. 24th, 1:00pm

 

          XLⅤ

 

「山崎碧子会長、京極なつき副会長、長らくお疲れさまでした、そして黒田アリス新会長、着任おめでとうございます」

 生徒会室では一年三組クラス委員である杉村聡美の司会で、生徒会室を去る前会長の山崎碧子と副会長の京極なつき、そして新会長に選出された黒田アリスの歓送迎会が行われていた。

 長テーブルの上にはソフトドリンクの他に軽食、スナック菓子類の紙皿が並び、質素ではあったが中学生らしい立食会となっている。

 初めに上座に立った碧子が退任の辞を述べて、着任した二年間を総括する。

「……後ろ髪を引かれないかと問われれば、もちろん立ち去りがたいわ。ここではとても思い出深い経験をさせてもらったから。でも後任がアリスちゃんで良かった……祐太は残念だったけど……来年からは黒田アリス新会長のもと、生徒会のいっそうの活躍を期待しています。わたしもOBとして応援するつもりよ、お役に立てることがあればなんでも言ってね。ほんとうにみんな、ありがとう」

 碧子は盛大な拍手に一礼して応えると下座に居た黒田アリスに場所を譲り、自らは末席に下った。それを受けて上座に立った黒田アリスは新会長就任の挨拶と抱負を語り、さらに後任の副会長を自身の会長選挙の推薦人であった蒲田奈央を指名して諒解を求め、全員が拍手でそれを承認する。

 会は()め事に則った儀礼的なものであったが、人心を一新するためには欠かせないセレモニーなのだ。

 わけても四期二年もの長きにわたり学内自治の先頭に立ってきた山崎碧子が、生徒会室の末席にある、というのは視覚的にも象徴的で、役員の生徒たちは年明けからは黒田アリス新会長のもと新たな体制で臨むことになるというのを否が応にも意識せざるを得なくなるのだった。

「おつかれ、会長」

 五輪美羽が部屋の隅に居る碧子に話しかけた。遠慮や畏怖があるのだろう、今日が碧子の生徒会での最終日というのにもかかわらず、側近の京極なつきの他は、下級生の多くは挨拶に寄るものはあってもいつもと同じように遠巻きにしていたからだ。ただ高梨祐太だけは会長からのお声掛かりを待って、少し離れたところに控えていて、碧子が視線を向ける度に盛大に尻尾を振ってアピールをするが、その都度スルーされてシュンとしている。

「美羽、あなたもお疲れさま。クラス委員の任期はまだ続くから、この後も宜しくね」

「なつき、おまえも大変だったな、怪我が治ってなによりだ」

「何をいまさら、これからだって毎日イヤでも同じクラスで顔を合わせるでしょうに」

「それでも、なんかひとつの時代が終わるような一抹の寂しさがあってなあ……会長と言えば山崎碧子、副会長と言えばおまえだったからさ。バレー部再建の時には随分、助けてもらったしな」

「そうね、会長の意向だと言えば、だいたい話が通ったのは楽だったわ」

 文芸部長でもある茂榀麗(もじなうらら)も加わり

「だって教職員でさえ会長には一目置いていたから……」

 最後に紅音も輪に入って、自然に三年生だけのグループができあがる。

「もう会長はよして、碧子でいいわよ紅音……それより今日はあの子は来てないの?」

「あの子って? もしかして密森黎太郎のことですか?」

「そうよ、呼ばなかったの?」

「だってアレは部外者だし、ただの臨時雇いだったからここに来る資格はないので」

「おまえらはどうせこの後、二人っきりでしっぽりスンだろ、コラぁっ! なんつっても今夜はクリスマスイブだからなぁ」

 紅音は絡んでくる美羽に迷惑そうな顔をしたが、はっきり否定もしなかった。

「へー、いつの間にかそんなことになっていたとは、知らなかったわ」

 碧子も興味深そうに紅音を見遣る。

「いえ、会長……碧子さん、そうじゃないんです……ただ、この後、ちょっとお茶をすることになっているだけで」

「オイオイオイオイっ、それってマジもんじゃないかよっ、クリスマスイブに彼氏とお茶だぁ……ったく、かなわねぇなぁ、会長はともかくとして、おまえにまで先を越されるとはなぁ」

「だから違うって言ってるでしょっ」

「そうね、今夜、女子寮に独りって、女の沽券に関わる重大問題よね、お気持ちだけは察してあげるわ」

 麗は美羽の背中をいかにも形式的なやり方で撫でて慰めながら言った。

「ウララぁ、そういうおまえはどうすんだよ」

「もちろんデートの予約が入っているわよ、今夜はお泊まりっ」

 ただし、ただ実家に帰るだけである。デートの相手も祖父だ。

 去年、イブの夜を独りで寮で過ごして、その苦さを経験していたので今年は絶対に居残り組にはなるまいと早めに手を打っていたのだった。

 同室の後輩の一年生がおマセで、彼氏とのデートだと嘯いて、ルンルンで出かけて行く後ろ姿を見送った敗北感は忘れられなかった。さすがに外泊にこそならなかったが、夜遅くに幸せオーラを撒き散らしながら帰ってきた時には、眠りを妨げられて軽く殺意を覚えたほど。

 そんな事情とは知らない美羽は

「クククククク――っ」

 大きな体を丸めて悔しがる。

「私も、今日は寮には帰らない……どうやらこの中で長い夜を持て余すのはあなただけのようね」

「なつき、おまえまでもがそうなのかよぉ、裏切りやがってぇ……」

 美羽は、はっきり黄昏れた顔になった。

 少女たちの他愛も無い鞘当てを間近に、碧子が楽しげに笑い出して四人は虚を突かれたが、下級生たちも何ごとかと上級生たちのグループに顔を向けるのだった。

 そんなふうに碧子が明朗な表情になるところを見たことがなかったからだ。碧子は自分に厳しいだけでなく、部下である役員生徒たちに対しても要求が高く、畏敬という以上に畏れの感情を抱くものが多かったのだ。

「会長っ、今日は山崎会長の送別会でもあるんです、もっと真ん中の方へとおいで下さい」

 気働きを利かせた黒田アリスが下級生グループの中から進み出て、碧子の腕を取ると生徒会室の真ん中へと導いた。

「もう会長はあなたよ、アリスちゃん」

「でも会長は会長ですっ、私にとって会長とお呼び出来る方は山崎会長しか居られませんから、これからもどうかご指導、よろしくお願いいたします」

 アリスが頭を深々と下げると、下級生たちも同様に頭を垂れた。

「ありがとう、私も立派な後輩をたくさん持てて、とても幸せだったわ……いたらない会長で申し訳なかったけど……でも、ありがとう、みんな……」

 碧子も深く頭を下げた。そんな前会長の様子を少女たちは一様に驚きをもって見つめていた。オフィシャルな場面以外で彼女が部下である自分たちに、そのようにするのは極めて珍しく、最後の一日だけではあったが、碧子と下級生役員との間にあった隔たりが埋まったようで、その日の歓送会は予定を一時間以上も過ぎて、三時を廻っても誰も散会を口にしようとはしなかった。

 結局、閉会の仕切りは碧子がすることになり、彼女を含めた上級生たちが後輩たちに後を任せて生徒会室を去ったのは、午後四時近くになっていた。

「紅音、これから密森くんと会うの?」

 二人になって廊下を並んで歩きながら碧子が口を開いた。

「ハイ、今から連絡をするつもりですけれど……だいぶ遅くなってしまったから、きっとヤキモキしているでしょうね。それならそれで全然、構わないんですけど」

「知らなかったわ、いつの間にそんなことになっていただなんて……」

「本当になんでもないんですよ、会長……碧子さん……」

「碧子でいいって言ったでしょ、もう上下関係はなくなるんだから」

「それでも……」

「紅音には、いつも無理を聞いてもらって助かったわ……密森くんにも会長として一言、お礼を言ってあげたかったんだけど、もう会長ではないからそれも適わずじまいになってしまったわね……」

「会長のお気持ちは、私からお伝えしておきます」

「だから会長じゃないでしょ」

 碧子は表情を崩したが、すぐに真顔になって

「ただ……あの子について、一つ気になる事があって……」

「気になる事ですか? 密森くんに?」

「あなたに言おうかどうか、迷っていたんだけど……」

 碧子は気を持たせるような言い方をしていた。

「………」

「デートの前に悪いけど、少しだけ私の部屋に寄っていかない? あなたに見せたいものがあるのよ」

「それは……いいですけど……」

 紅音は碧子に誘われるままに彼女の個室へと足を向けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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尻尾

 

          XLⅥ

 

「まったく呆れるわ――」

 冷ややかな顔の碧子の横で、紅音の細い目も眼鏡の中で更に細く、点目になっている。

 碧子の専用個室で見せられたのは、クラスメートのおバカ男子六人衆の、これまたおマヌケな行状を捉えた映像だった。

 ひと目で店内の監視カメラと分かるものだったが、問題なのは店舗の方だ。

「このお店、うちのグループ企業の傘下にあるもののひとつなんだけど……別に言い訳をするつもりは無いわ、アミューズメント事業を行っている業者の中には利益を上げるために、こういうものにまで手を拡げようとする輩もいるから」

 モニターに映されていた場所は、いわゆるアダルトグッズの類を販売するコーナー、未成年立ち入り禁止エリア内のものだった。

「ええ、わかってます。ウチも昔はラブホテルを経営していましたし……」

「つくづく馬鹿よね、中坊男子って……度胸試しのつもりなのかもしれないけど、愚劣の極み」

 いま画面の真ん中で松之崎純平が(おど)けた顔をして振り回しているのは、放送素材としてならモザイクをかけなければならないような代物である。他にも堀田靖明、夏上康祐、黒川田勇作、志茂妻真らの“問題児”たちが勢揃いで中をうろついているのが分かったが、彼らに混じって密森黎太郎の姿もあったのだ。ただ彼は他の五人とは少し様子が違っていて、画面の奥の方の棚の前に屈んで、ためつすがめつ神妙な顔で、フサフサの動物の尻尾を(かたど)ったものを品定めしていた。

「これ、いつの映像ですか?」

「二十日、四日前の土曜の午後――」

 よく見ると、画面の隅に日付と時刻が表示されている。

「期末試験開けの最初の週末ですか、ハメを外したくなるのも分かりますけれど、だからって――」

 結局、六人の男子たちは店員ドローンに追い出されるまで、禁止エリア内を跋扈(ばっこ)していた。

「わざわざウチの制服を着たままでやらかすなんて、とんだ恥じッ晒し、学園の面汚しもいいところですね。それで連中にはどんな処分を下されるおつもりですか?」

「処分――? それはどうでもいいの。第一、もう私は会長でもないし、校則違反での処罰を考えるとしたらアリスちゃんの役目になるけど、新会長としての初仕事にそんなことをさせたくないわ。だからこの件をあの子にわざわざ教えるつもりもないのよ」

「はぁ……」

「それに私が気になったのはこのことじゃないの」

「は――?」

「問題はこの後――」

 碧子はそう言いながら録画を早送りさせると、翌日の午後三時ごろの同店内画像を映し出した。

 シャトルサーチを減速させ、

「……もう少しだから待って……」

 モニター上では店内をめまぐるしく出入りする人の流れが視認できるようになっている。

「ここよっ」

「はい?」

「いま入ってきた、この客なんだけど……」

 通常再生に戻した碧子は、画面を指し示しながら紅音に確認を促している。

 映っていたのは、頭には暗色系のつば広のキャップを(かぶ)り、ダークグレーのレインコートに身を包んだ小柄で細身の男性と思われる独り客の姿だった。その上、顔をマスクと濃いサングラスで隠している。

 いかにも怪しげな風体ではあったが、こうした如何わしい場所に来る際に、素性を隠したいと思うのは分からないでもない。

「わたしね、これ、密森くんじゃないかと思っているの――」

「――え?――」

 意表を()かれ、碧子の意図を計りかねて紅音は怪訝な表情のままで固まった。

「驚かせてしまったかしら? それはそうよね――」

「……どうして、そう思われるのですか……?」

「だって、とても不自然じゃない?」

「不自然、まぁそうですけど、でもそれだけで……?」

「成人男性にしては小柄すぎるし……それに、こういう場所で顔を隠そうとするのは、大人よりも寧ろ未成年者の方が多いのよ……他の客は、みんな顔を隠してなんかいないでしょ?」

「………」

「まぁ見ていて……この客が何をするかを」

 顔を隠した胡乱な客は、あきらかに目的がある者の迷いのない動きで店内奥の棚に進むと、そこにあった商品の箱のひとつを取り上げたのだった。

 見ていた紅音の胸は俄に心拍数がハネ上がってドッドッドっと早鐘を拍つようになる。碧子の言っていたことの意味が分かったからだった。

 それは、つい今しがた目にしたばかりの男六人衆の映像の中で、密森黎太郎が映っていたのが丁度そのあたりだったのだ。棚の上には動物の尻尾を模したものが大小幾つも並んで陳列されている。

 小柄な客は、店員ドローンに商品をスキャンさせるとプリカを使って購入手続きを済ませ、品物をリュックに入れて店を出て行く。それまでに掛かった時間はほんの二、三分。まさに昨日の下見で目星を付けていた商品を買いに来た、という具合の段取りの良さだった。

「ね――? 怪しいでしょ?」

「でも未成年には十八禁の商品は販売できないのでは? 店員ドローンが販売を認めたってことは……」

 紅音は異議を唱えたが、そうしたルールが形骸化していることを知っている者としては、碧子の疑念を是認したのも同じだった。

「あら、紅音はあれがザル法だって知らなかったの? 店側からすれば、あんなのはただの努力目標で、それ用の商品陳列エリアを一般商品とは別に設定して、入口に立ち入り制限のサインを出しておけばいいだけの話よ。ちゃんとやってますアピールさえしておけば、お上は何も言わないわ。だいたい商品購入に際して身分証提示も義務づけられなければ生体認証も出来ないのだから、店員ドローンは購入希望者から照会を拒否されればそれ以上は踏み込めないでしょ? だから仕方がないの。それに、そもそも相手が誰であっても商品が売れることは店側としては歓迎なんだから、いきおいチェックは甘くなるわね。アノニマスプリカも有効にしているくらいだから」

 碧子はいつになく上機嫌で、逆に紅音は警戒する。

「それでね、彼が何を買ったか興味がわかない?」

「わざわざそれを調べられたんですか?」

「ええ、だって電話一本で済む簡単なことだから」

「………」

「いま、ここに彼が買った物と同じ商品があるんだけど、見てみる?」

 紅音が答えるよりも先に、碧子は部屋の奥から問題の商品の入っていると思しき紙袋を持って戻ってきた。ダイニングテーブルの上で袋の中身の黒い紙箱を取り出す。

 箱の表面には

 

 FOX TAIL

 

 と、大きくロゴが打ってあった。

「開けてみて――」

 碧子に促される。

 箱は既に開封されていて、碧子のチェック済みであることが窺えた。

 中にあったのは案の定、ふっさふさの毛足の長い立派な尻尾、まさに商品名にあるとおりの狐の尻尾を模した物だった。他に獣の耳をあしらったカチューシャや、丸っこい形をしたリモコンらしきものも同梱されている。

 碧子は、テーブルの上にひろげられた優に五十センチはあろうかという長い尻尾を撫でつけながら

「素敵な手触りよね、毛皮のマフラーみたい。でもね、見かけと違ってとっても悪いオモチャなのよ。あなたにはこれが、どのようにするモノか分るかしら?」

「だいたいわかりますよ――」

 紅音はわざと不機嫌な顔を作って言った。尻尾の根元についた中指の先ほどの樹脂製の部分こそがこの猥褻(わいせつ)な商品のキモであることぐらいすぐに見当がつく。

 あの変態がいったい何をするつもりなのか考えたくもなかったが、興味深くもあった。

 愈々(いよいよ)こんなことまでも――という驚きと、生来の好気が刺戟されてもいる。

「会長こそ、よくこんなものを取り寄せたりできますね」

 皮肉を込めたつもりだったが、相手は意にも介していないようだった。

「先方に事情を話したら、すぐに納得してもらえたわ。ウチの生徒が誤ってそちらでオカシナ物を買ってしまった疑いがあるので、そのための調査が終わったらすぐに返却するからと言えば、無下にはされないでしょ?」 

「………」

「不思議なのはね……」

 碧子は紅音の顔をじっと見つめながら言った。

「あの子がこれをどうするつもりなのか? ってこと。そう思わなくて? 紅音――」

「本当に密森くんだって断定してしまっていいのですか?」

「それはもう確かなことなのよ。既に画像解析も終わっていて、関節の動きなどからみて、ほぼ確実に彼だってことが明らかになっているから」

 要するに、その件はもう争点ではないということだった。

 そうだとしたら碧子の狙いはいったいどこにあるのだろう?

 紅音は思考を巡らせる。

 密森黎太郎と分かった上で自分をここへ招いた理由とは――?

 紅音が黎太郎のガールフレンドだと知って、碧子なりの友情の証としての注意喚起がしたかった?

 まさか――。

 碧子が理由も無く他人を気遣うことなどないことを知っている紅音は、そうした甘い考えをすぐに排した。

 なにが、言おうかどうか迷っていた、よっ――。

 わざわざ取り寄せたモノまで見せつけてっ!

 嗜虐的な性向の碧子は、紅音の混乱ぶりを期待して楽しんでいる?

 それならそれで結構だった。

「……だって、彼がアレをクリスマスの前に用意するなんて、当然、ガールフレンドと過ごす夜を考えてのことでしょ? もしも自分用ならもっと適当なものが他にあるから」

 碧子に迫られて、紅音はショックを隠しきれない風を装って口をつぐんだ。

「それでね、私、あの子が他にも何か買い物をしていないか調べてみたのよ。ウチと関係のある周辺のお店、全六十五軒の二十一日午後の防犯カメラ映像を解析させて。そうしたら、一件だけ、まだ他にも見つかって……ねぇ、何だったと思う?」

「さあ……」

「コスプレ用の女もののサンタの衣裳――」

 碧子はまた別の紙袋を持ってくると、愉しげにテーブルの上に赤い衣裳をひろげてみせた。

 肌の露出が多いエロティックなワンピースに可愛らしい白いポンポンのついたケープ、それに帽子とアームウォーマー、レッグウォーマーのセットだった。

「どう――?」

「どうって言われても……」

「そうよね――だって、これ、貴方が着るわけじゃないものね――でしょ?」

「――!――」

「サイズがLだったから、すぐに分かったわ。これは紅音、貴方に用意されたものなんかじゃないってね」

「どういうこと……ですか……?」

「もういいのよ、そういうのは……貴方が密森黎太郎と交際()きあってるわけじゃないことはよく判ったから」

「………」

「紅音、あなたがここに来て密森くんのウラの顔の話をした時、いかにも不安そうな顔をしてみせたけど、でも、それって違うの、当事者の反応じゃないのよ。貴方にはセックスの経験がないから、どう反応したらいいのかわからなかったのね」

 碧子の指摘は的を突いていて、紅音は立て直す間もなく自分が追いつめられているのを悟った。

 やはり碧子は容易ならざる手合いであることを思い知らされている。背中に冷たい汗をかいていた。

「私、最初はあの子が貴方を隠れ蓑に使っていたと思っていたの。でもいま分かったわ……貴方も協力していたってことを。ねぇ紅音、貴方たちがそうまでして隠そうとしている、あの子がつきあってる女って、いったいどんな人なの?」

 



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ビッグゲーム

          XLⅦ

 

 よく頑張ったわね、紅音――。

 栃織紅音を部屋から送り出した碧子は、口角をVの字にあげて独りほくそ笑んだ。

 なかなか見事な取り繕いぶりだったわ、褒めてあげてよ。でもね紅音、貴方がどんなに巧みに言い逃れをしたところで、もう時間の問題なの。

 あの女の尻尾は掴んだから――。

 あなたがあちら側に寝返っていたのは意外だったけれど、それも“狩り”にはつきものの綾のひとつ、べつに裏切りのペナルティを課そうだなんて思ってはいないから安心なさい。

 むしろ……。

 貴方には感謝したいくらいよ。

 おかげでとても面白い猟になったわ――。

 だって腕のいいハンターにとって“ビッグゲーム”の存在ほど血を沸き立たせるものはないの。狡猾で手強い獲物だからこそ、こちらもやりがいがあるというもの。

 読み違いや見誤りがあって、機に応じて対応する駆け引きこそ狩りの醍醐味。簡単に済んでしまったらつまらないでしょ?

 でも……残念だけど、それももうおしまい。

 網にかかった獲物をどうするかは、こちらの胸ひとつだから――。

 飼いならすために生け捕りにするもよし、すぐに生皮を剥いで剥製にするもよし。

 そうね、簡単に息の根を止めてしまうのは、ちょっともったいないわね……もっと肥らせてからにしてもいいかもしれないわ。

 ゆっくりと網を絞っていって、突如、自分が逃げ場を失ったことに気づいた絶望の中、見苦しくジタバタと足掻(あが)くサマを見届けてからでも遅くはないから。好敵手だったものであればあるほど、その断末魔の時間を長引かせて(もが)き苦しむところを眺めるのは、いつでも楽しい見もの。

 あの女に喜びと幸せを存分に味あわせてから、それから奈落の底にたたき落す方がドラマチックになってステキよね、とても悲劇的だわ。

 食蜂操祈――。

 よもや貴方のお相手が教え子だったなんて、最高にクールよ。

 随分、手間を取らせてくれたけど、結果はとても素晴らしいものだったわ。

 碧子はデスクの上のモニター画面を見ながら残酷に頬笑んだ。

 そこに映し出されていたのは操祈の愛欲場面の画像なのだった。

 以前に週刊誌が報じたものと良く似た構図だったが、決定的に違っていたのは、画面を大きく塞いでいた虫が消えて、操祈の足元までの全身が捉えられていたことだ。

 子供の携帯に残されていた写真の撮影履歴――代々木公園内となっていた――がデコイと判断した後の碧子の対応は実に水際立っていた。各方面に手を回して矢継ぎ早にプライオリティをつけて調査の網を拡げていったのだ。

 “敵”がわざわざ囮を用意したということは、裏を返せば急所に迫っていたことを意味している――。

 その見立てに自信があった碧子は、件の中国人ファミリーが滞在していた期間の中で、操祈との接点が可能な場所を中心に検索対象を操祈の行動範囲から精査させることにしたのだった。

 その中で、修学旅行中の奈良での盗撮騒ぎに気づくまでにはさして時間はかからなかった。

 あとは人を遣って件の宿の周辺を調べさせたところ、四つの小型カメラの回収に成功したのだ。三つはハズレだったが、そのうちのひとつには、週刊誌にあったものと同じものが残されていた。そればかりか、もう一枚のサルベージにも成功していた。

 今、この件を知っているのは碧子と、データのサルベージにあたらせた執事の新垣だけだ。

 人手と時間、それに資金も投下したが、それ以上の成果に碧子は満足していた。

 モニターに映し出された映像は、既出の週刊誌のものよりも被写界深度が深くなってピントはより鮮明になり、スカートのチェック柄もはっきり判る上に、スカートの中にもぐり込んでいる者の灰色のズボンとスニーカーも見て取れた。それが誰なのかは画像からは判らなかったが、時と場所からいっても常盤台の男子生徒であるのは間違いがない。

  それが今は相手の名前まで、はっきりと判っている。

「修学旅行の最中に、とってもステキな課外授業だこと。でも先生がひとりの生徒だけにそんな依怙贔屓をしてもいいのかしら?」

 密森黎太郎――。

 たしかにあの子は、生徒会室で話をした時から、それまでの他の男子たちとは違っていたので気にはなっていた。しかし食蜂操祈のお手つきだったということであれば、今になっていろいろと頷けることも多いのだった。

「たいした熱演ぶりねぇ、食蜂操祈センセイ、ウフフっ――」

 週刊誌の画像では窺い知れなかったが、この画像では女教師が両足を肩幅よりも拡げて立っていて、淫らな愛撫を容易にするためにスカートの中では股間を無防備にひろげているのがはっきり窺えるのだ。

「そういえば……」

 顕正からは最近、こうしたことを求められていないことを思い出して、今夜は自分からおねだりしてみようかとも考えてみる。

「クリスマ・イヴ、恋人たちの夜か……あの人は別に恋人ってわけじゃないけど……」

 それでも女にとって、それが特別な行為であることは違いなかった。未だに顕正以外の相手とは試みたことはない。

 操を守っているつもりはないが、結果的にはそんな感じにもなっている。

「変よね……でもだから面白いのかもしれないわね……男と女って……」

 碧子は、より仔細をあらためようと画像を拡大していった。

 他人のセックスはいつでも滑稽でグロテスクなはずが、操祈の画像にはそれを感じないのが不思議なのだった。

 また新たなことに気がついて映像を凝視する。

 膨らんだスカートの上に置かれた操祈の手からは、恋人の顔をそこに閉じ込めようとしているのではなく、むしろ押し止めようとしているような必死さが伝わってくるのだ。

「……ふーん、あの子の方が積極的なのね……」

 それは表情からも窺えるのだった。愛撫を愉しんでいるというよりも畏れや悔い、羞恥や悲哀というものが色濃くあって、操祈が相手のことをどれほど懸命に愛しているのかが感じられる。

「そんな教え子相手に本気汁を出したりするのね? ますます面白くなってきたわ……」

 恋人同士ということは、互いにとって相手の存在こそが弱点になるということを意味していた。攻めスジが一気に増えてバラエティが拡がるのだ。

 食蜂操祈にとっていちばん辛いことは、果たしてなにか?

 単純に追いつめれば、かえって二人の結びつきを深めることにも繋がりかねない。

 それじゃあちっとも面白くないじゃない――。

 さあ、どうしてやろうかしら……。

 策略を巡らす碧子はかつてないほどご機嫌だった。

 



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クリスマス・イヴ

 

          XLⅧ

 

「あなた、完全に会長からロックオンされてるわよ――」

「………」

「……私も調子を合わせるのに精一杯、もうあの人の目先を変えようとするのは諦めたわ……あんなヘンテコなモノを買ったばかりに……」

 紅音の指摘は耳が痛かった。

「さすがに、まさかあんな店にまで会長一家の影響が及んでるなんて思わなかったから……」

「山崎家はとても大きなファミリーなの、ウチなんかとは較べものにならないくらいに……」

「ボクは新参だから、この学園都市(まち)のことには明るくないし……反省してる……やり方も……ちょっと雑だった……」

 二階のファーストフード店の窓際隅のカウンターに並んで掛けて、窓の外の通りの賑わいに見るとはなしに目を遣りながら、レイと紅音はヒソヒソと話し込んでいる。

 店内はジングルベルやホワイトクリスマスなどのBGMが繰り返し流されていてお祭りムードを煽っていたが、クリスマス・イヴを迎えて浮かれる他の客たちとは違って二人に笑顔はなかった。

 紅音が、今しがたの碧子の部屋でのあらましをレイに伝えていたのだ。

 週刊誌の件での揉み消し工作が目論見通りに済んで、その後も波風なくほっとしていたところだったので、クリスマスを前にしてさすがにショックは大きかった。

「でもまだ貴男だという確証までは得られていない感じだったわ……あくまでも感触に過ぎないけど……」

「そういうのって、栃織さんならオーラを見ればわかるんじゃないの? ボクにするみたいに」

「あの人にそんなことができるわけないでしょっ」

「やっぱりそうか……」

「感情を読むなって、厳命されているのよ」

 レイは空になったコーラの紙コップに刺さったストローを銜えて、溶けた氷水をジュルッと吸った。

「それで、栃織さんのご意見は――?」

「当分っていうか、もう先生とは会ってはダメ。もちろん、この上を使うのを含めてね――」

 紅音は視線で天井を仰いで示し、暗にペントハウスの使用を認めない旨を通達した。

「やっぱりそうなるよね……」

「あたりまえでしょ、私があなたの手引きをしていることまで疑われているんだから、これ以上の協力は無理よ」

「ごめんね、栃織さんの立場まで悪くしてしまって……」

 レイは神妙な顔つきで紅音に頭を下げた。

「いいわよ、そんなこと、別に謝ってくれなくても……そもそも私が持ちかけた話だったから……でも、ホントに今夜はダメよ、絶対にっ、だって、先生とあなたの動きはマークされてるにきまってるんだから」

「うん……」

「クリスマスだからって、電話もメールもいっさいしないでっ、約束したわよっ」 

「うん……でも残念だな……せっかくのプレゼントも無駄になっちゃった……」

 少年がそう言うと、少女は細い目を大きくして唖然とした顔をする。

「あんなののナニがプレゼントになるのよっ、普通、女のコに贈るプレゼントって、指輪とかネックレスとかのアクセサリーが定番でしょ? 卑猥な大人のオモチャなんか見せられたらびっくりするだけじゃないっ、きっととても落胆もされる筈よっ、あなたの非常識な変態ぶりにはっ」

「そうかもしれないけど……でもクリスマス休暇には、先生のことをいっぱい可愛がるって約束していたから……」

「呆れた、よくもそんなことをヌケヌケと……」

「操祈先生は本当にすごく可愛い人なんだ……年上だけど、でも一緒のときには少しもそんな感じがしなくて……だからいろんなことをしてかわいがってあげたくなる……もちろん痛いことや傷つくようなことはけっしてしないけど……」

 少年の打ち明け話を耳にして紅音はため息を吐いた。

「先生が可哀想……」

「そうか……そう思うよね……」

「違うわ、そういう意味じゃなくてよ……」

「………」

「先生が密森くんのことをとても愛しているのは、もう良く判っているから……だから……」

「ボクもだよ……先生のためならボクはどうなったってかまわないから……」

「私、いざとなったら真っ先にあなたを斬り捨てるわよ」

「わかってる。むしろそうして欲しい……栃織さんに先生を守ることを第一にしてもらえると、とても心強いし、嬉しいよ。そのときボクに捨て駒としての使い道があればいいんだけど……」

 少女は肩で大きく息を吐くと、

「ったく、クリスマスイブに他人からアテられるこっちの身にもなってよね」

「ゴメン――」

「今夜のキャンセルの件は、先生にはお伝えしておくから……何か伝えておきたいことがあるのなら、今のうちに言っておいて」

「じゃあ、ボクからも先生に、約束が守れなくてゴメンナサイってお伝えして……それから……先生に逢いたいってことも……」

「わかったわ……ホント、世話のやける人たちよね」

 少女は苦笑を滲ませながら、ヤレヤレといった様子で椅子から立上がった。

 




拙文をいつも閲覧、ありがとうございます
読み手があって書こうと思うもので・・・


今日は少し短めです

このあとしばらくはクリスマス休暇のエピソードが続きます

普通、障害なんてものは煽られてるのも一緒だったりするのかもしれません


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クリスマス・イヴ 2

          XLⅨ

 

「ミツぅ、なんだ結局オマエも居残り組かよぉ、紅音ちゃんとのデートはどうしたんだよ?」

 夜の八時を廻って、コースケが廊下から部屋の中を覗きこみながら言った。

「ボクは先週、ウチに帰ったばっかりだし、年末まではこっちだよ。それに栃織さんとは生徒会の件でちょっとお茶しただけだってば」

「えー、そうなのかぁ、フラレて早々に帰って来ちまったんじゃねぇのかぁ?」

「うーん、まぁちょっとはそんな感じなのかもしれないけど」

 コースケから煽られてレイも調子を合わせた。

「そうかそうか、わかった、俺にまかしとけっ、慰めてやるからっ」

「ありがとう、ねぇ、他のみんなはどうしたの?」

「ヤスの奴は夕飯食った後、さっき長野に帰っていったけど、マコトは例によってバーチャルデートの真っ最中、あとはみんな実家が東京か神奈川だしな、オマエと一緒で年末までこっちにいるよ。市ノ関と杉浦は女子たちとの合コンで今夜は居ねぇみてぇだけどな、ま、あいつらはどうでもいいんだが……それとな、(ゆう)のヤツはデートなんだと、ゆっるせねぇよなぁ、アイツがリア充なんてよぉっ」

「えーっ、ゆうちゃん誰とデートしてるのっ?!」

「美術部の奈津天(なつぞら)とだよっ、夕飯前に二人して、いそいそとお出かけあそばされたぜ」

「ああ、そう言えば、漫研や美術部の人たちには学祭の時に、ボクらもずいぶんお世話になってたよね……ソコつながりかな? そうかぁ、それは良かった……奈津天さんて二年生? どんな子だったっけ?」

「髪を短く刈った元気なヤツ、二年三組の」

「ああ、あの子か……さっぱりした感じのいい子だよね、そうだったんだ……卒業が近づいてきて、ここでの最後のクリスマスだから、やっぱり動きのある人にはあるんだね」

「オマエ、他人事みたいに言って……おい、あのひょろっとした後輩はどうした?」

 コースケはレイの部屋を見回して、誰も居ないと判ると苦々しげな顔をして訊く。

「ヒサオくんならデートに出かけていったよ」

 恬淡(てんたん)とレイは言った。

 ルームメイトの那智陽佐雄(なちひさお)は、男子寮まで迎えにきたクラスメートの女子数名を引き連れて、午後も早々に出かけていたのだ。

「あのなー、オマエぇ……まぁいいか……」

 コースケは何か言いたそうにしていたが、拘らない友人の様子にそのまま言葉を飲み込んだ。

「ヒサオくんはお姉さんが新会長だから女子からも一目置かれてるし、バスケ部だし背も高いからモテるのはわかるよ。でも泊まりじゃないって言ってたから今夜遅くには帰ってくるんじゃないかな?」

「あったりめぇだろっ! 部屋っ子に朝帰りなんてされてたまっかよっ! ったく、ウチのもなんだよなー、十二時前には帰りますからって、言いやがって……クリスマスだからってどいつもこいつも(さか)ってんじゃねえよっ」

 男女を問わず、こういう問題で後輩に先を越されるのは、同級生にされたときよりもダメージが大きいのだった。まして部屋長としては後輩の部屋っ子に対して示しがつかないように感じてしまう。

 コースケが不機嫌になるのも解らないわけではなかった。

「純平くんは?」

「アイツんとこには今から行くところだ、アレも間違いなくアブレ組だから」

「じゃあ、ボクも行ってもいい?」

「いーにきまってんだろうがよぉっ、オマエってヤツはぁっ!」

 コースケに抱きつかれてレイはタジタジとなりながら、

「ボク、フライドチキンの残りがあるから持っていくよ」

 デスクの上に置いてあった紙バーレルを指差すと、不景気な顔をしていたコースケも相好をくずした。

 それは紅音が去った後、操祈とのデートが流れて――実のところ少年にはそんなつもりは全くなかった――仕方なく夕食用にとオーダーしたものだったが、二ピース食べただけでお腹が膨れてしまい、大量に余っていたのだ。

「おい、スゴいじゃん、豪勢だなぁ、よしっ、俺もとっときのを持ってくるから、オマエ、先に行っててくれっ」

 その後、常盤台中学三年のイケてない男子三人と、松之崎純平のルームメイトの後輩を加えた四名は、夜が更けるまでコーラにフライドチキン、黒蜜羊羹とカップ麺というとっちらかったフードのラインナップで、ゲームとマンガ、テレビを掛け持ちするという有意義な時を過ごしたのだった。

 その間、ただの一度も女子からの誘いはなく、あたかも無線封鎖されているかのようにメールも電話もウンともスンともいわずに沈黙を守っていたのだが、実際にはその時間、一階の学生食堂では居残り女子の有志が(つど)ってクリスマスパーティーが開かれていて、少なからぬ数の男子も招待されていたのだが、そのような重要な情報が彼らにもたらされることはついに無かった。

 コースケたちのスマホが鳴いたのは、帰省中の新幹線の中からヤっさんこと堀田靖明が発信したメールが三人同時に届いた時だけなのだった。

「12時か……ボク、そろそろ部屋に帰るね。ヒサオくんも、もう帰って来ていると思うから……」

 壁の時計を見上げてレイが言った。

「まだ早いじゃないか」

 スチール製の粗末な二段ベッドの上段でマンガを読みながら純平がひきとめる。

「うん、でもちょっとこのところ寝不足で、眠くなってきちゃった」

「そうか――」

「じゃ、また明日な……なんか明日の朝食は寂しそうだなあ……食堂には八時ごろ集合でいいか?」

「うん、いいよそれで……純平くん、部屋を荒らしたままでゴメンね」

 純平は気にすんなというように、大きく手を振って応えた。

「フラチキ、悪かったな、散財させたみたいで。美味かったぜ」

「残り物でゴメンね。コースケくんの高級羊羹も美味しかったよ、ごちそうさま」

「おう、じゃあな」

 レイが純平の部屋を出た時には十二時を少し廻っていた。

 操祈のアパートまでは歩いて五分あまり――。

 “一時に行くと伝えておいた”のでまだ時間に余裕はあったが、その前にしっかりとシャワーを浴びておきたかったのだった。

 




次話のタイトルは
サンタクロースを待つ少女 の予定です


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サンタクロースを待つ乙女

          L

 

 操祈は壁の掛け時計を見上げて胸を高鳴らせた。時計の針は十二時をまわって、約束の時刻まであと一時間。

 またソファから立上がると化粧台――といっても洗面所に備えつきの質素な三面鏡だったが――に向かうと身だしなみを確かめた。長い髪にヘアブラシをかけてほつれを整えて、薄いピンク色をしたニットセーターに毛クズや髪の毛がついていないか、体を廻して入念にチェックする。

 操祈は、もうこれで何度目になるかというくらいそんなことを繰り返していたのだった。

 それから今一度、バスルームやトイレにイヤな臭いや汚れが残っていないかを点検してまわる。

 寝室――ベッドメークは問題無し、書斎――デスクの上はきちんと片付けたから問題無し、リビング――お酒の瓶は棚の奥に隠したしぃ、お洗濯も片付けたわ……テーブルもソファも綺麗、テレビの上の埃もちゃんと拭っておいたから……ここも問題無し……キッチンも洗いものはしてあるわよねぇ……ゴミも捨てたし……。

 大丈夫っ――!

 それでも少し時が経つと、また見回り点検をはじめてしまう。見落としが無いか、おかしなものが出しっ放しになっては居ないか、気になってしまうのだ。

 もうすぐレイくんが来るっ!

 そう思うと、心配になってきてソワソワ、ウロウロしてくるのだった。

 操祈にとって、今日はジェットコースターのように感情の浮き沈みのあるクリスマス・イヴとなっていた。

 朝から今夜のデートにワクワクしていたところ、さあ準備万端、お出かけよっ、とウキウキ部屋を出ようとしたその寸前、夕方遅くになって紅音から今夜のデートがキャンセルとなった旨の報せが届いて、今度は奈落の底に突き落とされたようにガックリ落ち込んでいたのだ。

 その後、半ば捨て鉢になって外にお散歩に出たところ、やっぱりイヴの街を独り歩きするには場違いな気分で、いつものデリカ・ナショナルのリカーコーナーでお気に入りのシャンパンを二本買っただけで戻ってきていた。

 もう今夜、コレ独りで全部、空けゆっ!

 おぼえてなさいよぉっ! クリスマス・イヴにぃ、女のコを部屋に独りに放っといたらどうなるかぁっ!

 エドシックのエクストラブリュ、二本ともぜーんぶ飲み干してやるんだからぁっ!

 アパートの建物玄関前に着いた時には、そんな剣呑な気分でいたのだったが、留守の間に郵便受けにレイからの手紙が届けられていたのに気がつくと、すぐにまた胸がときめいて女のコの顔になってしまう。

 部屋に戻って、取る物もとりあえず封書を開いた。

 すると便箋には見慣れたレイの筆跡で

 “今夜の一時に、先生のお宅を訪問したいのですが……”

 と、あったのだ。

 そして“もしご迷惑なら、部屋の鍵を閉めておいて下さい、ドアが開かなければ黙って帰ります”とも。

 操祈にすれば、是も非もなかった。

 逢えると思っただけで嬉しくて足がふわふわしてきて踊りだしたくなる。さっきまでの低気圧はどこへやら、燦々と降り注ぐ幸せオーラに包まれていた。

 だが、部屋の惨状に気が向いた途端、今度は時間との闘いが始まったのだ。

 日頃のハウスキーピングに手を抜いていたツケが廻って、その後は、夕食もそっちのけで慌てて掃除を始め、お洗濯をしながら、換気をしながら部屋の整理整頓をして、最後にシャワーを浴びて体をきれいにして、歯磨きをして――。

 世の恋人たちが白いクロスのかかったテーブルで、シャンパングラスを傾けながら優雅な食事を楽しんでいる頃、操祈はまるで正月前の大掃除のような怒濤の数時間を過ごしていた。

 大切な来客の受け入れ態勢が何とか整って、ほっとひとごこちがついた時には十一時を廻っていた。

 それからもソファに立ったり座ったりと落ち着かず、時計を見ては化粧台で身だしなみを確かめる、というのを繰り返して。

 だって、とっても目敏い人だから――。

 どうしよう……もし変なところをみられちゃったりしたら……大丈夫かなぁ……。

 きっと大丈夫っ――!

 がんばれ、わたしっ!

 いっぱいのワクワクに、ちょっぴりの不安のマーブル模様が混じった心持ち――。

 今の操祈は、クリスマス・イヴに、ベッドの足元に大きな靴下をぶら下げて、サンタクロースの到来をいまかいまかと待ちながら、いつも睡魔に負けて眠りに堕ちてしまった、あの幸せ一杯だった幼い頃にも似ていた。

 結局、一度も遭遇することは無かったが、朝になって靴下の中にはリクエストどおりのプレゼントを見つけて、サンタの存在を確信していた無垢そのものだった自分に――。

「お酒、呑まなくて良かった……」

 時計を見ながらひとりごちた。

 もう酔っぱらって寝過ごすことはないしぃ、お酒臭いところを見られなくてもすむしぃ……。

 あと十分――。

 少し早いけど、玄関の鍵を開けておこう。

 そう思った操祈は玄関へと足を向けるのだった。

 

 




助詞の間違いを正しました

すみませんでした



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クリスマスケーキ

          LⅠ

 午前一時――。

 玄関の外に人の気配がしたかと思うと、カチャっと小さな音がして扉が静かに押し開かれた。

 待ちわびた来客の登場に操祈の胸が歓びに揮え、大事なプレゼントを貰った幼女のように瞳を大きくする。出迎えの声を掛けようとして、少年が唇に人指し指を当てているのが窺えて口を閉ざした。

 レイは玄関の中に入るとドアを閉めて施錠する。

「あの、入ってもいいですか――?」

「いらっしゃい――」

 恋人の顔になって見つめあう。立場を超え、こうしてたがいに男と女として向き合うのは、少年の誕生祝いをした時以来のことだった。

「こんなに夜遅くにすみませんでした……お休みを妨げてしまって……」

「そんなこと……」

 ひと月以上も離れていると、逢いたくてたまらなかったにもかかわらず、いざ対峙した時、どこか勝手が違うのだ。距離感を計りかねて、次にどうしたらいいかわからなくなってしまうのだった。少年は玄関で心許なげなままでいる。操祈もその前で廊下を塞ぐように立ちつくしていた。それに気がついて、

「おあがりなさい……寒かったでしょ……」

 漸く少年を部屋に招き入れた。

「先生のお部屋に来るの、初めてですね……」

 リビングのソファに掛けた少年は興味深げに部屋を見やりながら言った。

「そうね……男の人を部屋に入れるのは初めてよ……」

「そうなんですか?」

「あたりまえでしょっ!」

「そういうんじゃなくて、あの、ご家族とか、オフィシャルでとか……」

「それも無いわ……そうね、ここへ移って二年の間に、うちの生徒の女の子たちが来たことは何度かあったけど……ついこの前は舘野さんが来てくれたし……」

「舘野さん、ステキな部屋だったって言ってましたよ。ボクもそう思います。素敵なお部屋ですね……それにとても綺麗に整っているし……」

 その言葉に、操祈は胸の中で密かに両手の握りこぶしをつくると、ギュッと握っていた。

 やったぁ――!

 と、声に出したいところだったが、なに食わぬ顔をして

「そう――」

 と受け流す。

「よく入ってこられたわね、オートロックはどうしたの?」

「非常階段をあがってきたので」

「まぁ――」

 非常階段には施錠されていた筈だし、それに学園都市に網羅されている監視カメラはどうしたのかしらと、他にも気になることは幾つもあったが、賢い子だからそういうことも上手に対処していたのだろうと思うのだった。

「これ、先生に――」

 少年は手にしていた紙袋を差し出す。

「あら、なあに?」

「こんな時間になってしまったけど、クリスマスケーキです……大きいのだと目立っちゃいそうだったので、お独りさま用の小さいのですが……」

 中を覗くと紙箱があって、それを開けると真ん中に赤いイチゴがひとつのった丸いショートケーキが目に入る。独りで食べるには少し大きめのようだった。

「じゃあ、半分こにしましょ、いまお茶を煎れるわね」

「その前にボクは手を洗いたいのですが……」

「ええ、わかっているわ。いらっしゃい、あなたのタオルを用意するから」

 操祈は先に立って洗面所へと案内する。神経質なところのある少年は、手を清める前には、けっして自分には触れようとはしないことを心得ていた。逆に言えば、その後はいつでも触れられる、いつ触れられてもおかしくはなくなるのだ。

 そう思うと背中がゾクッとなった。とても優しくて愛情深いのに、無慈悲でもある彼の手の感触が甦って、女の体が身構えるのがわかるのだった。

 レイが洗面所で身繕いをしている間に、操祈はキッチンで貰ったケーキをきれいに半分に切り分けている。苺も丁寧に包丁を入れて二つにした。

「ねぇ、お茶にはお砂糖とミルクは?」

「ボクはストレートで――」

「じゃあ私もそうしようかな……」

 少年はタオルで顔をぬぐいながらやってきて、

「先生はブランデーをたっぷり入れられてもいいんですよ、ボクにはおかまいなく」

「まぁ、わたしを呑んだくれみたいに言って、ナマイキだぞっ」

「え、違うんですかっ?」

「なによ、それぇっ」

「だってこの前、伺った時、お酒のにおいがプンプンしてましたから、ああ、先生はお一人のときはグイグイやられてるんだなって判って」

「えー、そうだったのぉ……うーん、そりゃちょっとだけ呑んではいたけどぉ……」

 操祈はその時のことを思い出して頬を赤らめる。

「わたし、アル中なんかじゃないからねっ」

「わかってます」

「だって、あの時は……」

 操祈は訥々(とつとつ)と言い訳をした。デートがずっと延ばし延ばしになっていたことの不満も。

「だから今日もね、夕方になって紅音さんからメールを貰ってからはガッカリしちゃって……それでシャンパン二本も買ってきちゃった……」

「まだ開封されてないんですか?」

「うん――」

「じゃあ、せっかくのクリスマス・イヴだからお呑みになってはいかがですか? ボクのことは気になさらずに」

「ううん、いいの、あれはレイくんが大人になった時までとっておくことにしたから」

「いいんですか? 白ワインって何年も保たないって聞いたことがあったんですけど」

「あら、良く知ってるわね……でも大丈夫っ……あなたが大人になった最初のクリスマス・イヴに一緒に栓を抜きましょ」

「それは楽しみですね……」

「ええ……そうね……」

 ローテーブルの上にケーキののった皿やティーカップをレイアウトしながら、操祈は身を屈めてソファに居る少年と唇を重ねた。久しぶりの感触にふわっとしてきて意識が遠のきそうになる。少年の腕に抱き寄せられて、そのままゴロンとソファの上で身を寄せあった。

 上になった操祈が組み伏せた少年にまた口づけを求める。

「ほんとに寂しかったんだぞっ」

「ボクだって……」

「いろんなこと考えちゃった……独りで居ると悪いことばっかり……」

「悪いことって――?」

「いろんなことよ……」

 今の関係についてとか、二人のこれからの事とか……。

 年上の女としての屈折が噴き出しそうになるのだ。だがそれを言葉にしたくはなかった。

「ボクもです……いろんなこと、考えてましたよ……ワルイことも……」

 少年は悪だくみをしている顔で頬笑みかけている。性的な仄めかしに気がついた操祈はすぐに顔を朱くするのだった。

「わたし……」

 体に男の腕がまわされてきて、上になって組み敷いて居たはずの自分が、いつの間にか逆に抱かれているのを意識させられるようになっていた。いきなり肌に触れられるかと身をかたくしたが、少年はそれ以上を望まずに背中を撫でるだけ。

 彼女の長い髪を潜った手はゆっくりした動きで肩口のあたりから腰にかけて上下している。それがとても心地が良かった。ただそれだけで操祈の胸は温かな気持ちで満たされていくように思う。

 この人のことが好き――。

 というのを心だけではなく体でも確かめている。

 女であることの歓びと幸せ――。

 いったいこれ以上、何が必要だというのだろう?

 だから、怖くなってもくるのだった。

 満たされているから判る、それが失われることへの不安。

 考えまいとして操祈は目を閉じた。

「先生――」

「なぁに?」

「お茶が冷めてしまう前に、ケーキを食べませんか? じゃないと先生の胸のショートケーキを先に食べることになっちゃいますよ」

「もう、イヤぁね……すぐそういうことを言うんだからぁ……でもお願い……もう少しだけ……」

 操祈が甘えて恋人の胸に顔を伏せると、また穏やかな優しい手の感触が背中を行き来するようになるのだった。

 

 




誤字の訂正をしました
申し訳ありません


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フォアプレイ・フォーラヴ

          LⅡ

 

 互いの指を交互に絡めてしっかりと手を握り、ソファの上で身を寄せあって体の温もりを感じていると、言葉を交わさなくても思いは伝わるのだった。この豊かさ、精妙さに較べると、かつての自分が拠り所としていた能力が、なんと痩せた取るに足らないものだったのだろうと思わずにはいられない。

 人はそもそも、すなおに心を開けば自然に相手の心と自分の心とを重ねあわせることができるのに、それをわざわざ()じ開けようとしていただなんて……。

 こうしていると、傍らに居る彼の愛情と思いやりが自分の体の中にじんわりと流れ込んでくるようなのだった。 

 だから操祈も心と体をひとつにして思いを届けようと胸を熱くする。

 やさしい人、大好きな人、いちばん大切な人……。

 恋人の手が頭を撫でている。安心を伝えるゆったりとした動きで、丹念に。

 愛し信頼する人から頭を撫でられるのがこんなにも嬉しいものだったのか、ということをあらためて思い出して操祈は目を閉じた。

 みんな“彼”が教えてくれたのだ。

 口づけの歓びと、それをとば口にして拡がる眩いばかりの性の世界のすばらしさも。

 言葉にできないような恥ずかしいことも、愛している――という理由さえあれば女には乗り越えていけるものなのだった。それを操祈は男と肌を接する経験を重ねることで、変わりゆく自分自身への驚きとともに学んでいたのだ。

 舘野唯香が言っていたように、セックスは愛を形にするための女にとってもっとも大切なコミュニケーション方法。

 誰と巡り逢い、どのように結ばれるか――。

 どんな恋をして、そして愛を育むか――。

 新しい命を宿す運命(さだめ)として、女の生とは性愛との関わり方そのものといえる。

 操祈はまだその一部しか知らされていなかったが、年若いパートナーの(こま)やかな手に導かれて無垢だった自分が女にされていくという経験は、どこまでも歓びに満ちたものだった。

 その甘美さには畏れを覚えるほど――。

 不意に髪を慈しむように撫でていた手の動きが止まり、操祈は瞼を薄く開いた。彼が何を考えているのか判って、また顔を胸にすりつけて甘える。

 行かないでっ――!

 と、言うかわりに。

 でもそんな切ない思いが届かないことも彼女には良く解っていた。

 レイは操祈を抱いたまま、ソファで身を起こした。操祈も居ずまいを正すとほつれ毛を整える。ニットセーターの作る優しい体のラインとやわらかな仕草に、別れを惜しむ女の哀しみが映っている。

「ボク、そろそろ帰らないと……」

「うん――」

 操祈はこっくりと頷いたが、心の中は

 え、もう帰っちゃうのっ――!?

 ずるいっ! 女の心に火をつけただけで、何にもしないで往ってしまうなんてっ――!

 という悲鳴と落胆が渦巻いている。

 時刻はじきに二時半になるところ。クリスマス・イヴだというのに、たった一時間余りのデートだった。

 でも、仕方がなかった。互いの事情は心得ている。

「また、明日の夜も……お伺いしていいですか?」

 訊かれて、操祈は今度は強く頷いた。

「すっかり遅くなっちゃった……先生もお休みにならないと、体に障りますから……」

「うん……」

 別れの口づけは、思いのこめられた長いキスになった。少年はそのまま操祈の脆そうな(おとがい)の下に顔を寄せてきて白い首筋もキスで覆う。それはこの夜、彼から初めて為される性的なアプローチなのだった。

「いいにおい……」

 少年はセーターの上から操祈の豊かな胸許に顔埋めて言った。

「石鹸とシャンプーのやさしいにおい……ボク、先生の体のにおい、大好き……」

 体臭を慕われるのは、自分の全てを受け容れて貰えているという証でもあった。少し恥ずかしくても、また嬉しくもある。恋人から言われると、女にとってはどんな褒め言葉よりも安堵できるものなのかもしれなかった。

「でもボクは……先生の自然な汗のにおいの方がもっと好きです……だから……お願いですから明日はシャワーを浴びずに居て下さい……そのままの先生が欲しいから……」

「……そんな……だって……」

「先生だって、もう分ってくれている筈なのに……ボクがいちばんやりたくて、大好きなことが何かってこと……」

 少年から真顔で言われて、たちまち操祈は頬を朱らめた。

「今だってそうです……ずっとガマンしているのに……」

「……我慢していたって……そんなこと……今になって急に言われても……」

 身構えていた操祈からすると拍子抜けするくらい穏やかだった愛情の交換が、別れのキスをきっかけに、いきなりエスカレートして濃密な性を暗示するものに変っていた。

「キス、したいな……先生のいちばん素敵な香りのするところに……」

 少年は唇の間から舌先をチラリと覗かせて操祈を誘っている。

「それとも、この続きは明日の夜までおあずけですか?」

「レイくん……」

「先生のにおいをわけてください……」

 冗談を言っているのではないことが伝わってくる。真摯なプロポーズだった。

 確かに提案で、イエスかノーかは操祈しだいなのかもしれない。けれども実際にそれを拒むという選択肢は残されては居ないのだ。

「いいわ……」

 諦め顔になって目を伏せると同意した。その瞬間に少年は幸せそうな笑顔になる。

「良かったっ、じゃあ脱いで下さい、身につけているものをみんなっ」

 好奇心いっぱいの黒い瞳が見つめる中、操祈はセーターの裾をスカートの中から引き出すと、求められるままに脱いでいく。

 セーターの次はスカートを、その次は白い部屋用のソックスを……。

 少年は肌着だけになった操祈を眩しげに仰ぎながら、

「肌着も脱いで裸になったらベッドの上に仰向けになって、両膝を抱えるようにして下さいね」

「――!――」

 あられもない姿になることを求められているのがわかって、グッと息を呑みこんだ。けれどももう退路は断たれた後で、逃げ道などないのだった。

「できますか?」

「ええ、いいわよ、レイくんが私にそうして欲しいって言うのなら」

 覚悟を決めて言い放つ。

 たとえ、嫌――と、言ったところで、最後には彼の方が思いを遂げることになるのを何度も経験させられていて、すっかり心得ていたからだ。

 いま少年は、彼女が脱いだばかりのニットセーターを手に取ると、そこに顔を埋めてクンクン嗅ぎまわり、陶然とした顔をしていた。仕方ない――と、そのままにしていた操祈だったが、二の腕の付け根と接していたあたりにまで顔を寄せてきて、しつこく嗅ぎ取っているのがわかると、さすがに女の身としては抵抗感が芽生えていたたまれなくなってくる。

「先生は、こんなにやさしいにおいがするのに……」

 でも――。

 と、女のきわどい機微に触れる仄めかしをされて操祈は、また激しく赤面するのだった。

「いわないでっ……そういうことは……」

「カワイイな、恥ずかしがる女のコって本当に可愛くて……先生みたいに綺麗な女の人は特に」

「もうイヤぁっ、本当にイジワルばっかりするんだからぁっ」

 胸を庇い、股間を庇っての羞恥に身を揉む姿は少女のように初々しい。

「だって約束したじゃないですか、クリスマス休暇には先生のことをいっぱい可愛がるって」

「またそんなこと言って……ずるいわ、いっつも私ばっかり虐めて……」

「そうですね……じゃあベッドでその埋め合わせをしましょう、ボクはそのためにここに居るんですから」

 そういうと少年は下着姿の操祈の手を引いて寝室へと先に立つのだった。

 

 

 




睡魔に襲われつつで
誤字脱字が多いかもしれません

ソックスと書くつもりがストッキングになっていたので修正しました
申し訳ありません


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初めての聖夜に

          LⅢ

 

 ちゅぷっ……ちゅくり……ちゅぱ……。

 照明を落とした静かな、とても静かな寝室に、ミルクを与えられた子猫でも居るのか、ときおり小さく湿った音が立っている。

 聖夜に相応しい平穏な、深夜――。

 けれども操祈にとっては、もうかれこれ小半時にもなろうかという間、一瞬たりとも安息のない、女の命を燃やす情熱のドラマが続いているのだった。

「おねがいっ、ねぇ、レイくぅんっ」

 ますますせわしなくなっていく体の反応に戸惑いながら、言葉を切なくして必死に訴えた。

 もうイジワルしないで――と。

 女の体の中でもっとも敏感に愛を感じる部分に、年若い恋人はけっして()むことなどなく男の思いを囁き続けてくれている。その濃やかさにはやりきれなくなるほど。

 じっくり、執拗に、そして残酷なまでに遠回しなのだ。

 繊細なしわを伸ばすように濃厚な口づけされても、長く伸ばした舌先に乙女の証にまでしっかりと探りをいれられても、それでもいちばんの急所の真珠には軽くつついて挨拶をしただけで、すぐに後退していってしまう。

 なまじその先の世界を知っているだけに、こんなふうにして蛇の生殺しにされるような状態が続くと、ほんとうにどうにかなってしまいそうなのだ。

 そのくせキスの息継ぎの僅かの隙間に、操祈が乱れた気持ちを整えようとすると、すかさず哀切なプライベートに憎らしい指を送りつけて、裸に剥かれた女の立場を思い知らせてくる。

 閨での操祈は、波間に漂う木の葉のようにただ翻弄されるだけの儚い存在になっていた。

「あたしっ、もうダメっ、おかしくなるっ」

 両腕を頭の上に投げ出して、負けきった無防備な姿になって慈悲を願った。

「大丈夫ですよ、先生はいつもそう言われますけれど、おかしくなられたことなんて一度もありませんから」

 飴色の巣に伏せていた面を上げた少年は、口のまわりを蜜に光らせたまま頬笑みかけている。およそノーマルではない背徳の行為に耽っているとは思えないような長閑(のどか)な容子で、食事の合間の他愛もないお喋りにお付き合いしているような普段着の男の子の顔をして。

「だって……だって……もうっ……ねぇ、レイくんってばぁっ……」

 我慢できなくなって自ら両脚をパックリと開いて、悩ましげにお尻を揺すって切ない気持ちを(おもて)にしても、スッと肩すかしを食わすようにしてポイントを外し、絶妙な位置に留まってさらに()れさせるのだ。

 恋人の仕掛けた巧妙な罠から逃れられなくなった操祈は前にも進めず、さりとてもう後戻りも出来ずに追いつめられて、とうとう自分から恥ずかしい言葉を口にしてしまうほど心と体をかき乱されていた。

 教室に居る時の怜悧でありながら愛くるしい美貌の女教師が、こんなにも大胆に乱れる姿を目撃したら生徒たちはきっと目を疑うに違いない。

 けれども、そんなふうに常とは違う姿を見せるようになると、少年はいっそう熱をこめて彼女をさらに翻弄しようとしてくるのだった。

 可愛がる――ということに関して、手抜きも容赦もしてはくれないのだ。

 男の子がこんなことをするのか、と驚くほど、少年の愛撫はいつでも粘っこく、そして大胆だった。ひとたび閨を共にすると、思いもかけない部分にまで顔を寄せてきて、ついには操祈の体のどこにもキスの洗礼を受けたことのない部分は無くなってしまうほど、舌と唇とでしっかりと柔肌のにおいと味とをたしかめられてしまう。

 結局その夜、彼女は明け方近くまで少年の愛撫を全身で受けとめることとなっていた。

 そして二度涙して、それからようやく三度(みたび)、もうこれ以上ないと思えるほどの高見へと導かれたのだ。舞い上がった心と体は歓びにとろけながら、官能の淵へと深く深く沈んでいったのだった。

 体の中から温かいものが(おびただ)しく流れ出していく感覚とともに。

 この上なく甘美な肉欲の果実を頬張った操祈は、豊かな胸をけなげに上下させて乱れた息を整えながら傍らに添い寝をする恋人の胸に顔を寄せて、形のいい小鼻をすり寄せている。

 白い肌の上に幾つも残るキスマークの生々しさが、彼女が聖夜に演じた肉欲の交歓の濃厚さを物語っていた。

「ひどいな……レイくんは……あたしをこんなにして……」

「いっぱい可愛がるって、約束したじゃないですか……でも、白状すると先生よりも楽しんだのはボクの方なんです……あんあんと綺麗な声で()く先生がとってもカワイクて……それに先生のカラダ、スゴくいいにおいがしたから……」

「イヤぁね……もう……」

 操祈の腕や脚に絡みついて、強い力で女の体を残酷に拡げようとしていた少年の腕は、今はやさしく慰めるように背中や肩を撫でている。むりやり剥き開いた花びらを元の姿に収めようと丁寧に愛情をこめるように。

 つ、と恋人がサイドテーブルの腕時計に目を遣ったのに気がついて、操祈はひしっとしがみついた。

「行かないでっ――」

「でも、もうすぐ六時になるから、寮に戻らないと……」

「まだ行かないでください……わたしを一人にしないで……」

 操祈は自分が無理を言っていることは分かっていたが、それでも今は恋人の胸の中での慰撫が欲しいのだった。

「いいですよ、それなら先生が眠りにつくまで……」

「じゃあ私、寝ないもん……」

 わがままを言って甘える。

「ボクだってずっとこうしていたいんです……先生のにおいのするベッドの上で、先生を抱いて……」

 ほつれ毛をかき分けて広い額にキスを落とす。操祈は長い睫の目を伏せて、されるままになっていた。

「いっそのことボクたちのこと、もう秘密にするのをやめませんか?」

「……!?……」

「そうすれば、もう誰に気兼ねすることなく、ふつうに街を歩けるようになるはずですし」

 それはとても魅力的な提案に思えた。

 お散歩も一緒、お買い物も一緒、デートもできる。

 幸せだろうな……素敵だな……。

 でも、そんなことをしたらレイの将来はどうなってしまうだろうとも考えてしまうのだ。

 もしも自分の我が儘の所為で約束された未来を失うことになったら――?

「そんなこと……」

「やっぱりイヤですか? 今の生活を失うのは……?」

「そうじゃないわ……あなたのことが心配なの……」

「ボクは大丈夫です……先生さえ傍に居てくれれば、それだけで幸せですから」 

「レイくん……」

 これってもしかするとプロポーズっ――?!

 操祈の胸に熱いものが膨らんでくる。

「この学園都市の中だけが世界じゃないので」

「うん……」

 髪を撫でる手の動きのやさしさ、背中を摩る掌の温もり――。

 深く愛されて歓びに満たされた後には、男の情がいっそう女の肌に沁みるのだった。

 大好き――。

「もし騒ぎになっても、いざとなったら、どこか遠くへ逃げればいいんです」

「逃げるって、どこへ?」

「うーんと遠くへ」

「うーんと遠くへ……?」

 少年の言葉をおうむ返しにする声音は、まるで幼女のような稚気を帯びている。

「ボク、これでも結構、(つよ)いんですよ、先生お一人ぐらいなら、ちゃんと守りますから」

 きっとそうなんだろうと操祈も思い始めていた。

 今も少年の腕に抱かれて、守られているように感じている。

 実際、レイには時々、セックスに限らず大人の男を感じることがあったのだ。

 この人となら――。

「ねぇ、レイくん……」

「なんですか?」

「あなたはどこから来たの――?」

「男子寮からですよ」

「そうじゃなくて……そうじゃ……なくて……」

「じゃあなんです……?」

「……わからないわ……」

 少年の手の動きはますますソフトになって、声にも大人の男の慈しみがのっているように感じていた。

 歓びに満たされた心地よい疲労感の中、安心した操祈はやがて安らかな寝息を立て始めるのだった。

 



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置き手紙

          LⅣ

 

 目が覚めた時にはすでに傍らにはレイの姿は無かったが、それでも操祈は

「レイくん……」

 と、声に出して呼びかけた。

 毛布に顔を埋めて、知らぬ間に体にきちんと毛布が掛けられているのに気がついて胸がキュンとなる。愛しあっていた時には互いの肌の温もりがあるだけで良く、いろいろな体位を求められる中で枕も毛布もベッドの下へと追いやられていたからだ。

 シーツに移った彼の匂い、どこか土っぽい穏やかな残り香に独り寝の寂しさが甦ってくる。

 朝、恋人の胸の中で目覚めた時の幸福感は、女にとって何にも代え難い素敵なものだったのに……。

 紅音のペントハウスでは何度か経験していて、レイからはそのまま夜の続きを求められることもしばしばだったが、そうした特別な朝の甘さを知っている操祈にすれば今朝はやはりもの足りなくて、事情を判っているつもりでも置いてきぼりにされたように感じてしまう。

 遮光カーテンの隙間から差し込んでくる薄明かりの中、身を返して仰向けになって天井をぼんやり見つめた。逸楽のさなかには、またたく星辰の中に浮かぶ見知らぬ巨大惑星のようにも思えたものが、いまはありふれた白い樹脂製の丸い照明カバーに戻っていた。

 ステキだった――。

 思い返すと、また欲深い肉うろがしどけなく疼いてきて目を閉じる。

「わかってるわ……男の人が女を可愛がるって、そういうことだって……」

 ひとりごちた。

 自分で触れるのと、愛する人から触れられるのとではまるで違うのだ。

 まして少年はあの年齢にして女の扱いにも長けていて、操祈の体に散りばめられたあちこちの泣きどころに惜しみなく愛情を注いでくれたのだった。

 わたしの体――。

 それが自分ひとりのものではないことを、少年と愛し合うたびに思い知らされている。

 大切な人から“可愛い”といわれて嬉しくない筈がなかった。それをこの上なく甘美な愛撫の合間々々に言葉にされて、女の体が弱わみをさらしている時に説き伏せられたのだから堪らない。

 もう心だってすっかり彼のものにされてしまっている――。

 口許からせつない吐息がこぼれた。

「ずるいな、レイくんは……ひどいな……こんなわたしを独りにするなんて……」 

 睦んだ後、ベッドの上で少年と交わした言葉を反芻して瞳を潤ませる。

 恋人の口からはじめて覚悟を聞かされて操祈も心を決めることにした。

 もうどんな事があっても彼のことを信じよう、小さなことで胸を騒がせることは止めにしよう――と。

「愛してるわ……あなたのこと……レイくん……」

 時計の針はとっくに十時を廻っていて、休日の朝とはいえ、ずいぶん寝坊してしまったことになるが、眠りに堕ちたのが明け方だったのでそれも仕方がなかった。

 寝不足が心配なのはむしろ彼の方だ、と思う。

「大丈夫かな……私の所為で無理させちゃったから……」

 クリネックスを取ろうとサイドテーブルに裸の腕を伸ばし、そこに置き手紙らしきメモ書きしたものが残されているのがわかると、すぐにそれを手に取った。ベッドサイドランプを点けて文面に目を走らせる。

 几帳面な性格の少年らしいしっかりとした文字で

 

“お休みになられていたので寮に戻ります。玄関はちゃんと施錠しておきますので安心してお休み下さい。鍵はドアの新聞受けに入れておきます。ですからお目覚めになってからもベッドでゆっくりなさっていて大丈夫です。お許しを得られれば今夜、また一時頃にお邪魔をするつもりですが、でも無理なさらずに就寝されてください。どうかボクのことはおかまいなく。それから先生からは『素敵なクリスマスプレゼント』をたくさんいただきました。ありがとうございます。

 

                            メリークリスマス 操祈先生へ

 

 追伸

 余計なお世話かもしれませんが朝食? の用意をしておきましたので、オーブンレンジをご覧になって下さい。三分ほど加熱するとお召し上がりになれると思います(冷蔵庫を勝手に開けてすみませんでした)。

 追々伸

 もしかすると今夜はこの世でいちばん美しいきつねさんをお目にかけられるかもしれません”

 

 

 宛名の“先生”というところだけ小文字の吹出しにしてあって、後で書き加えられたような体裁になっていることに操祈は頬笑んだ。

 恋人として対等に、ファーストネームで呼ぶことにしようという決意が途中で挫けてしまったのか、それとも初めからそのように書くつもりだったのか判らない。

 それでもレイが自分との間合いをさらに詰めようとしている意思を感じて嬉しくなるのだった。確かに教室では教師と生徒なのかもしれない。けれどもプライベートでは男と女、恋人同士なのだ。

 美しいきつねさん? あら、レイくんがお気に入りのペットのお披露目でもしてくれるのかしら?

 楽しみね――。

 操祈はランプを消すとまた毛布に包まって目を閉じた。

 私も何か用意しておかなくちゃ――。

 考えをまとめる。

 昨夜は急だったこともあって部屋の整理をするのに手一杯で、何のもてなしの用意もできなかったのだが、幸い、今日は一日フリータイムだった。

 あとでお買い物に出かけよう、そう決めると操祈はおもむろにベッドからおきあがり、全裸のまま浴室に向かうのだった。

 

 




タイトルを忘れてしまいましたので慌てて


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聖夜が開けて

          LⅤ

 

 レイがやってきた時には、広い学生食堂のそこかしこに昨夜のクリスマスパーティの名残があって、既に幾つかの男女混成のグループができあがっていて、みな楽しげにテーブルを囲んでいた。ただ、普段であれば当然そこに居る筈のクラスメートの多くの姿が見られず、長期休暇入りのもの寂しさも漂っているのだった。

 コースケと純平、それに純平のルームメイトの尾内正実は、そういった和気藹々(わきあいあい)としたグループとは少し離れた窓際に陣取っていた。三年生の二人は不景気な顔をして椅子に浅く腰掛け、背もたれにだらしなく体をあずけて天井を仰いでいて、一年生の正実は、そんな先輩二人を前に居心地が悪そうにしている。

「おはよう」

「ウィーッスっ」

「レイっち、おまえはいつも元気だよなぁ」

 トレーナー姿でいるレイに、コースケは眠たげに目をしょぼつかせて言った。

「うん、昨日、早く寝たからその分、朝早くに目が覚めちゃって」

 レイは校庭を軽くランニングをしてからシャワーを入念に浴び、髪も洗ってさっぱりとした顔をしている。京都でしでかしたように、万が一にも操祈のにおいを纏うという失敗を繰り返さないためだった。

「あれ、今日は二人だけ? ゆうちゃんとマコトくんは?」

「マコトはまだ別世界でデート中、勇のヤツは……あいつは……帰ってこなかった」

 その隣で純平が、ブブブっとオナラのように唇を鳴らして不満を表明している。

「えーっ、お泊まり? まさかぁ、最初のデートでいきなりそれはないよ」

「俺に訊くなって、そんなことわかってたまっかよ、あの裏切り者があー」

「でも交際が上手く行ってるのなら、それは良かったじゃない」

「まーそうなんだけどな……おまえ、朝飯、ナニにする?」

 言いながらコースケたちは椅子からのっそりと立ち上がった。レイが現れて頭数が揃ったので、四人はカフェテリアのレーンへと足を向けた。

「あ、クリスマスケーキが残ってるっ、ボクはショートケーキとアイスカフェオレにしよっ」

 レイはガラスケースの中からショートケーキの皿を一つ取り出すとトレーの上にのせた。

「そんなアイツらの食い残しみたいなモンでいいのかよ? 知ってるかレイ、なんかよー、昨夜、ここでクリスマスパーティやってたんだとよ、俺らにナイショで」

 純平は他所のテーブル席に居た連中に向けて顎をしゃくった。ハブられたと言わんばかりに苦々しげな顔をしている。

「そうらしいね、ボクもヒサオくんから聞いて知ったんだけど、でも別に内緒にしてたわけじゃないでしょ、ボクたちが気がつかなかっただけで」

「どうみたってそのケーキ、そん時のあまりモンだろ」

「別に食べかけってわけじゃないし、大丈夫」

「しかしなー、パーティやるならやるで、館内アナウンスぐらいあっても良かったよな……」

「ヒサオくんの話だと居残りの有志たちが集って自然発生的に始まったってことみたいだから、ボクら以外にも気がつかなかった人も少なくないんじゃないかな……みんなイヴで忙しかったし」

「ああ、那智って言ったっけ、オマエんとこのあの一年坊主、ちゃんと帰ってきたか?」

「うん、もうあの時間にちゃんと帰ってたよ――」

 昨夜、レイが部屋に戻った時には既にルームメイトのヒサオは帰室していて、下段ベッドでぐったりしていた。女子たちにショッピングだ、ファミレスだ、カラオケだ、とあちこち連れ回された挙げ句、黄色い声を浴びせ続けられた所為ですっかり消耗しましたと言って、十三歳らしからぬ疲れた笑顔で迎えてくれたのだ。当然、食堂でのパーティなんて御免こうむるとばかりに、見つからないようにとホールを避けて奥の階段を上って来たのだと言っていた。

 レイにとってルームメイトの動向は、その夜の計画の唯一の不確定要素だったのだが、時間どおりに戻ってきてくれたばかりか、体育会系らしくさっさと寝落ちしてくれたので大いに助けられていた。

 その上、ヒサオは今夜から実家に帰る予定だとのことで、夜間外出をするにはさらに好都合だった。

 深夜一時と言わず、もっと前に操祈の部屋を(おと)なうこともできるかもしれない。それを思うと、また頬が弛みそうになって、少年は顔を引き締めた。

 今日、この後は、“普通”のプレゼントを用意しておこうと買い物に行くことにしていたのだ。紅音に言われるまで気がつかなかったとは流石にどうかしていたと思うが、少女の指摘に従って障りの無い、女の子が素直に喜びそうなものを探しに出かけるつもりでいた。

 確かに、クリスマスプレゼントが“狐の尻尾”だけでは酷すぎる――。

 ただ、アダルトショップでの監視カメラの件もあって、もう学園都市内では何も買う気にはならず、街の外へと出かける予定だったのだ。

「えーっ!? じゃあみんな全然、寝てないのっ!?」

 テーブルでは、めいめい、一皿盛りの朝食を口に運びながら、しょっぱいクリスマスイブ自慢となっている。

 コースケたちの話によると、彼ら三人はネトゲに耽り、とうとう徹夜してしまったというのだ。

 参加していたゲームは戦場もので、パーティの都合もあって抜けるに抜けられなかったらしいが、それにしても聖夜に一晩中大砲でドンパチやりあっていたというのだから、らしいといえばらしかった。

「それなら朝食のアポ、流してくれても良かったのに」

「そうはいかねぇだろ、約束は約束だからよ、なっ」

「オウっ、俺らはきっちりスジだけは通すからな」

「ゴメンね、コースケくんも純平くんも、それに尾内くんも……じゃあ、みんなはこれから寝るの?」

「ああ、飯食ったら、とりあえず昼頃までは寝させてもらう」

 純平も右に同じ――とばかりに、サイドの月見うどんを啜りながら片手をあげて応じ、一年生のルームメイトにいたっては是非もなかった。

「そうなんだ、そういうことなら、ボクはこれから外出するからお昼はスキップするね。夜は……一緒に食事、できるかな?」

「それはいいけど、外出って、オマエ、また紅音ちゃんとデートか?」

「ちがうよ、ホントはコースケくんたちを誘って、みんなで一緒に行きたかったんだけど、今日は銀座まで足を伸ばしてみようかなって」

「銀座って、あの銀座か? 旧六区の銀座じゃなくて?」

「戸越じゃなくて?」

「うん――」

「ひとりでかよ?」

「そうだよ」

「「どうしてっ!?」」

 驚いた顔をしてコースケと純平が唱和していた。 

「ただ、クリスマスの銀座ってのを見てみたくなって」

「それだけっ!?」

「おかしいかな?」

「だってよーアソコはよぉ、いまこの時期に男が一人で歩いてちゃいけねぇエリアだぜ」

 コースケも純平もいつになく真剣な顔をしている。

「えっ、そうなの!?」

「おうよっ、いま行くのはキケンだ、悪いこたぁは言わねぇ、止めといた方がいい、オマエは東京の下町育ちだから知らなくても無理はねぇが、俺らのような生粋の江戸っ子はな、この時期、独りじゃあの界隈にはけっして近づこうとはしないもんだ、ウチなんか家訓で止められてるくらいなんだぜ、なっコースケっ?」

「うむ、ウチも曾祖父(ひいじい)さんの頃から言われてる、クリスマスの銀座には行っちゃなんねぇってな」

 コースケも我が意を得たりとばかりに深く頷いた。

「へー、そうなんだ……二人がそこまで言うんなら、じゃあ新橋で降りて八丁目あたりから恐る恐る覗くことにしようかな……トイパークあたりまでなら行っても大丈夫かな?」

「トイパーク――?」

 担ぐ気満々だったコースケと純平が顔を見合わせている。

「あ、ああそうだな、あの辺りまでなら多分大丈夫だろ、なっ純平っ」

「あ、そうだそうだ、さすがにあそこは問題なかろう」

「そうなんだ……わかった、じゃあ、ちょっとひとりで冒険してくるね、何かお土産に買ってきて欲しいものがあったら探してみるけど、リクエストあるかな?」

「そうだな……銀座にはコージーコーナーっていう老舗の洋菓子の名店があってな、そこにはジャンボプリンっていう幻の逸品があるそうなんだが、もし手に入りそうなら買ってきてくれるか、あいつは絶品なんだ、だがな、だからってくれぐれも無理はしないでくれよ、まずは命が大事だ、オマエが無事に帰ってきてくれること、それが俺らの第一の望みだ」

「わかった、ありがとうみんな」

 レイはメモ用紙にコージーコーナーでジャンボプリン、と書くと、

「一人三つぐらいでいいかな? あれはあんまり日持ちしないから」

 と訊き返してウインクする。

 レイが担がれていたフリをしていたのが悪友二人にも判って

「なんだオマエ、気づいてたのかよ、チックショー」

「銀座はウチから近いから、子供の頃からよく行ってたんだ。こっちに来てからはあまり行けなくなっちゃったけど、だって遠いもんね、ホント、ここって地の果てだよ」

「ちげぇねぇっ――」

 少年たちの間で枯れた笑いがこぼれた。

 世界最先端の学園都市も、生まれながらの江戸っ子たちにとっては、東京に非ず、弩のつく僻地、なのだった。

 




次話のタイトルは

愛しの美きつねさん

の予定です


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姉と弟

予定を変えたことをお詫びいたします


 

          LⅥ

 

 クリスマスに華やぐ銀座の中心街を行く、ひときわ目立つ絵に描いたような美形の年若いカップルの姿があった。すれ違う人々は、あるものは羨望の、あるものは微笑ましげな眼差しを二人に送っている。

「やっぱり銀座は人が多いね」

 男の方が人波にやや辟易した顔をして傍らの女に囁いた。痩身長駆、顔立ちは幼いが整った甘いマスクは美形タレントの中に混じっても、けして埋もれることはないだろう。

「あの人、今度はどこに向かっているのかしら?」

 和光ビルから出てきた、いかにも場違いな見なれた制服の後ろ姿に視線を送りながら女が問いかけた。

 パートナーとは同系の美貌だが目と眉は女性らしい柔らかさがあって、白皙の端正な瓜実顔、シックな黒いロングコートの背中に踊る漆黒のストレートヘアがとても美しい。まだ少女の雰囲気が濃いが、ハスキーな声音は既に落ちついた大人の女の雰囲気を放っている。

「この流れからすると、次はティファニーかな? でもスパイしているようで、僕はあんまり気乗りしないんだけど」

「わたしもよ……でも仕方ないでしょ、目に入ってしまった以上は……」

「別にいいんじゃないの? 放っておけば……他人のプライバシーに立ち入ろうとするのは感心しないな」

「前会長に言われてるのよ、気がついたことがあれば密森さんのことはチェックするようにって」

「どうして?」

「さあ……あの方のお考えには分らないことが多いから……」

「だからって――」

「ヒサオちゃん、あなただって判ってる筈よ、私があの人にはウソがつけないってことを」

「姉さんだってテレパスなのに、そんなのガードすればいいだけじゃない」

「それができれば苦労はしないわ……」

 寂しげに頬笑むアリスの顔を見て、ヒサオは口をつぐむしかなかった。

「ホント、やっかいな人なんだね……」

 二人の前、三十メートルほど離れて、密森黎太郎はメインストリートを京橋方面に歩いて行く。人の多い繁華街にあっても常盤台の制服は目立つので見失うおそれは無さそうだった。一方、黒田アリスと那智陽佐雄の姉弟は、整った容姿をさらに引き立てるセンスの良い着こなしをしているためもあって、都内一級の街の賑わいにも見事に溶け込んでいた。

「ねぇ、密森さんってどんな人?」

「うーん、()い人だと思うよ、先輩風吹かせることもないし、優しいし、それに頭も明晰、体があまり大きくないから押し出しは強くないかもしれないけど、でも芯のある感じっていうか……信頼できる先輩だよ」

「そう、そうよね……わたしもそう思うわ……生徒会では何度か話をしたことがあるけど、もの柔らかな、感じのいい人」

「なんで会長は――って、今は会長は姉さんだったね……山崎前会長は先輩のことが気になるんだろう。もしかして気があるのかな?」

「まさか――会長の彼氏って人はもっとずっと年上の大人の男性よ」

「そうなの?」

「いけない、うっかりしてたわ、でも今のことは他言無用にして」

「いいけど、べつに僕もあの人には関心ないし……僕はやっぱり姉さんが好きだから」

 ヒサオは気負いもなくシレッと大胆な言葉を口にする。

「あのねヒサオちゃん、子供の頃ならそれでも良かったかもしれないけど、いいかげんにシスコンは治しておかないと、ゆくゆく辛くなるわよ、はやく好きな女の子でも作りなさい」

 こうした会話には狎れているのか、アリスもあっさりやり過ごした。

「人を好きになるのって、簡単じゃないんだけどな」

 ヒサオもアリスも、互いにどこまでが本気で、どこまでが冗談か、そのギリギリを見切っているようで、それ以上の重たい空気に包まれることはけしてなかったのだった。

 これまでのところは――。

「あ、やっぱりそうだ、ティファニーだ」

 ヒサオの予想どおり、日本有数の宝飾店を後にして次に密森黎太郎が向かったのは世界的なジュエリーショップだった。中学生の制服で出入りするには場違いの空間の筈だが、少年は気おくれするようすなど微塵も窺わせずに店内に入っていく。

 二人は少し離れた通りの反対側から内部の様子に目を遣りながら

「やっぱりプレゼントかな?」

「そうね、それも、とても大切な人へのね――」

「ガールフレンド?」

「それ以外に考えられる?」

「先輩にガールフレンドなんて居たかな……? 全然、そんな気配を感じたことないけど」

「それはあなたが意識していなかったからでしょ、そんなことありっこないってタカをくくっていたから」

「その言い方だと、まるで僕が先輩のことを見下しているようで感じが悪いな。実際はそんなことないのに……ねぇ、姉さんから見て、僕ってそんなにイヤなヤツ?」

「ごめんなさい、気に障ったら謝るわ、ただ人って見かけによらないものだからよ。いくら一緒に寝起きしているからって、隠し事がないとでも思う? まさかそこまでウブじゃないわよね」

「まぁそうだけど……でも、クリスマスのプレゼントなら、なぜ今日なのかな? 普通ならプレゼントを渡すタイミングって昨日じゃない? 僕はちゃんと姉さんにプレゼントしたよね」

 アリスもヒサオから貰ったばかりのプレゼントのネックレスをさっそく身につけていた。そのお返しに贈ったのはカフスボタンだったが、ヒサオもしっかりシャツの袖口に付けている。

「姉さん、僕の他に誰かからプレゼントを貰ったりした?」

「ええ、貰ったわよ」

「誰から?」

「それは内緒――」

 アリスはヒサオが心配そうな顔をするのを見届けてから

「ウソよ、誰からも貰ったりなんかしてないわ。ただ生徒会の人たちとプレゼント交換をしただけよ」

 と、言って口角を上げて上目遣いになった。それは大人びた美少女の身内だけにみせる少女らしい無防備な表情なのだった。

「びっくりさせないでよ……」

「あなたこそどうなの? 昨日、女の子たちとルンルンで出かけて行ったじゃない?」

「姉さんにはあれがルンルンに見えるんだ――」

「ええ、見えるわよ、鼻の下を長ーく伸ばしていたから」

 姉弟の鞘当ては、傍目には恋人同士の睦言に近い親密なものとなっている。

「あ、出てきたわ……あの容子だと収穫はなかったみたいね」

 アリスの視線の先に、入ったときの状態のまま店から出てくる密森黎太郎の姿があった。

「どっちも超がつく高級店だから中学生の小遣い程度で買えるものは無さそうだよね」

「次はどうすると思う?」

「さあ……もっと庶民的な店を探すとか? でも適当なものでお茶を濁すのは、安っぽくなりそうでイヤかも……」

「そうよね……」

 大事な相手であればこそ、特別な日には特別なものをプレゼントしたくなるものだ。

「でも、どうして昨日じゃないのかな?」

「昨日、渡せなかったからかしら?」

「たしかに先輩は、ずっと寮に居たみたいだし……じゃあ、今日、これから約束があるってことかな?」

「うーん、そういうこと……?」

「だとしたら余計、これ以上の詮索はしたくないな……僕はまだこれからも先輩と一緒に生活するんだから、変なものを見ちゃって、胸に何か重たいのを背負(しょ)い込むのはやだよ」

 ヒサオの気持ちはアリスにも理解できるものだった。素直さ、誠実さを含めて身内ながら良く出来た弟だと思う。

「ねぇ、この辺にしない? ずっと尾行()いていくわけにもいかないし、大概にしておこうよ。元会長には密森さんが銀座でアクセサリーを探していたみたいですって言えれば十分なんじゃないの?」

「まぁ出来ることはしたわよね……日も陰ってきたし……お父様も待ってるし……」

 アリスは傍らの弟をしばし仰ぐと、やがてスッキリ晴れた顔になった。

「わたしたちも、お買い物して帰ろっか?」

 コートのポケットに突っ込んでいた手を引き出して、男の腕に絡める。

 ヒサオはちょっと驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になると

「きっと僕たち、周りには恋人同士に見えてるよね」

 と、逆に挑発をしかえした。

「かもしれないわね」

「姉さん、美人だからな……」

 真顔で言う。

「コラ、姉を本気で口説こうとする弟がどこに居るのよ」

「え? 僕はそんなに特別なことだとは思わないけど……ただ、美人の姉限定だけど」

「まー、駄目な弟よりはイケメンの弟の方が姉としては、なにかと助かるけど」

「それなら――」

 ヒサオは長身を屈め、姉の耳元でひそひそと囁いた。

「僕の童貞と姉さんのバージンをバーターにするっていうのはどうかな?」

 たちまち白い頬を朱に染めたアリスは

「調子に乗るんじゃないのっ」

 と、弟の頭を軽くはたいた。

「ねぇ、夕ご飯、何が食べたい?」

 妙な雰囲気になりかけて、すぐに話題を切り替えた。 

「姉さんが作るの?」

「たまにはいいでしょ? せっかくお(うち)に帰るんだから……」

「じゃあ、僕、オムライス」

「オムライスかぁ……ヒサオちゃん、昔から好きだったわよね、いいわ。でもお父様にはちょっと甘すぎるから、何か別のお惣菜を買っていかないと」

 アリスがそう言うと二人は踵を返し、四丁目の交差点の方へと引き返して行くのだった。

 



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ペアリング

          LⅦ

 

 ラッピングを解くと包みの中からは黒い指輪ケースが現れて目を(みは)る。

「これって……」

 操祈は傍らに座る少年の顔をまんじりと見つめた。驚き半分、期待半分に気持ちが揺れている。

「あの、そんな大したものではないので……」

 少年は珍しく不安げな表情を覗かせていて逆に興味が惹かれるのだった。

 ケースを開けると、シンプルなデザインのリングが二つ目に入る。

「あらペアリングね」

「高級品にはとても手が届かなくて、それで銀製品を扱っている工房で作ってみたんですけど……」

「レイくんが作ったのぉ――?」

「ボクがやったのは素材の加工だけです……同じものを二つ作って、ひとつはボク用に、もうひとつを先生にって……受けとって戴ければ嬉しいのですが……」

 操祈は、こくん、と頷いて提案に同意する。彼の気持がわかって胸が歓びにときめくのだ。思いのこめられたリングは、何にも代え難い貴重な贈り物なのだった。

 少年に自分の左手を委ねようと差し出して、

「じゃあ、つけてくれる?」

 と、()く。

 するとレイは操祈のほっそりした手を取ると、その白い薬指にリングを嵌める。ピタリと合って好ましい位置におさまった。

「ありがとう……うれしいわ、とってもステキよ」

 操祈は顔の前で何度も掌を返しては、()めつ(すが)めつしながら楽しげにしている。けれども少年の表情はどこか冴えない。

「でも、やっぱり先生には、似合いませんね……」

 自分の意に反して沈んだ声音で言う少年に操祈は逆に驚いた。

「あら、どうして!?」

「なんだかボクと先生の関係みたい……」

「……?……」

「先生みたいに綺麗な女の人の手には、銀の鈍い光沢は無粋で……やっぱり不釣り合いだなって……」

「そんなことないわ、わたし好きよ……なによりレイくんが私に作ってくれたってことが嬉しいの……ねぇ、あなたの左手を貸して、もうひとつのリングは私に付けさせてちょうだい」

 言いながら半ば強引に少年の手を自分の膝の上に引き寄せると、ペアリングのもう一方を迷わずに薬指に嵌めさせた。

「あはっ、ぴったりだわっ、これでお揃いよっ……ねっ」

 望外の操祈のご満悦ぶりには少年も相好を崩し、軽く唇を重ねて互いに感謝の気持ちを伝えあう。

「でも外では外して下さい……一緒に居るときだけに……」

「うん……」

 仮にエンゲージリングをしている、などと噂になれば、それはそれで厄介なことになることは判っていた。

「ねぇ、わたしの指輪のサイズ、どうして知ってたの?」

「それは……昨夜、先生がお休みになっていた時に、そっと計っておいたんです……破いたメモ用紙を指に巻き付けて……」

「全然、気がつかなかった……」

「ぐっすりお休みでしたから……きっとお疲れだったんですね」

 少年はクッと、口角をあげて言外にエロティックなニュアンスを含めて笑い、操祈はポッと頬を染めながら肘で少年を軽く突ついた。

「もう、すぐそっちの方に話を持っていこうとするんだからぁっ」

 昨夜の操祈は、恋人からの濃密な愛撫に充実した白い肉をわななかせて、体の中に溜め込んでいた温かい愛の涙をなんども溢れさせながら歓びのなかに沈んでいた。そのあげく遊び疲れた子供のように、くたっとなって無邪気に恋人の腕の中で眠りに堕ちていたのだ。

「でも先生はご存知ないんですよね……」

「知らないって、何のこと――?」

「ご自身の寝顔……どんなに綺麗で可愛いかってこと……」

 直裁に言われると、さすがに反応に戸惑う。

「そんなこと……」

「でも、ボクは知ってます――」

「わたしは知らないわよ、レイくんの寝顔……これって不公平じゃない?」

 操祈は恋人の寝顔を見たことがないことを思い出して、不満げに唇を尖らせた。こんなふうに拗ねた顔をすると少年との年齢差が一気に解消されて、同い年くらいのような感じにもなる。教師としても女としても、部屋の外では絶対に見せることがないものだった。

 心のガードを取り払って、安心しきっているからこその素顔の愛らしさである。

 そんな操祈の様子に少年は一瞬、驚いた顔をしたが、幸せそうに頬笑むと片手を伸ばしてきて、操祈の胸の肉の実りのひとつにやわやわと触れながら続けるのだった。

「寝顔だけじゃなくて、どんなにカワイクて、ステキかも……先生が知らないことまで、いっぱい知ってますよ……」

「ずるいな……わたしのことばっかり……」

 ペッティングが始まって、後戻りの利かない坂道を操祈は、またゆっくりと下り始めた。胸を庇おうとする間もなく、男の手が白いモケットセーターの中にまで忍んできて、手慣れたようすでブラのホックを外すと解き放たれた乳房をじかに包むようにする。

 乾いた指先が乳先にも触れ始めて、くすぐったくも心地のいいタッチに操祈の瞳が潤み始めた。

「こっちの情報ばっかり持っていって、自分の情報はひた隠しにしてるなんて、ずるいんだぞっ」

「ボク、べつに隠してるつもりなんてないですけど……でも、どうあっても不公平感は解消されることはないと思いますよ。だって先生とボクとじゃ人としての価値に差があり過ぎますから」

「そんな言い方しないで……」

 自虐的な物言いにをするレイに、操祈は声を切なくしてうったえた。

「だって先生はいま“世界の恋人”っていうのももの足りない素敵な女の人で……ボクはただの中学生だから……」

「ねぇレイくん……私にとって、あなたはかけがえのない人だってこと、わかって欲しいし、信じて欲しいのっ……あっ」

 乳房と腋の下の間の敏感なラインを指でなぞられると、思わず声が漏れてしまった。

「くすぐったい……」

「先生のことは信じてます……自分自身よりも――」

「うん……でもあなたのことは、もっとずっと大切よ……」

 蠱惑的(こわくてき)な性の森へとおずおずと足を踏み入れていく操祈には、いまや体の反応の方が眩しくて少年のレトリックに対する応答は湿りがちになっていた。同時に身を守ろうとする女の本能も薄れていく。

 たちまちセーターの裾をまくられて脱がされると、ブラも奪われて上半身を裸に剥かれてしまっていた。

 まっ白な肌に豊かな肉の果実がふたつ、あらわになっている。ゆっさりとした量感に見合って存在感のある乳暈(ちちかさ)の真ん中で、愛らしい肉芽がさいぜんからの愛撫に目覚めて緊張し健気に身構えているのが窺える。

 少年は操祈の両腕に腕を絡めて背中にまわし、たわわな胸許を無防備にさせると顔を寄せ、しくしくと嗅ぎまわりはじめた。

「……やさしいにおい……ボクにとって、先生は女神そのものだから……」

「わたしをそんなに買いかぶらないでちょうだい……お酒飲んで恨みごとを言う女神が、どこにいるのよっ」

「ここに居ますよ――」

「ん――」

 乳飲み子がするよりもやさしく乳先を含まれて、整った形の鼻腔から、スンっと甘い呼気がこぼれた。

「レイくんっ――」

「こんなにきれいな女の人……」

 胸のあちこちにボディキスの雨をおとしながら、そのとりしきる範囲が次第に下方へと降りていった。

 長椅子の上に身を横たえた操祈は、スカートも奪われて、ついには肌着にまで恋人の指がかかっている。

「男にとって、大好きで尊敬する女の人の下着を脱がせる時にまさる歓びって、無いと思いますけど……でも、きっとこの気持ちは女の人にはわからないでしょうね」

 不安と期待とがないまぜになった瞳が、足元に座る若い恋人の顔を見つめていた。両腕を伸ばして迎え入れようとしても、少年は意のままになってはくれないのだ。さらに濃厚な刺戟を求めて、みごとな女体の上を新鮮なにおいを嗅ぎとろうとして這い回っている。

「それ、ダメぇっ――」

 お臍にまでキスをされて、舌で中をさぐられて身をよじって逃れようとした。と、腰を浮かせた瞬間に、肌着がいっきにズリ下ろされて、とうとう全裸にされてしまうのだった。

「いやああんっ!」

 嬌声とも悲鳴ともつかない声で啼いた操祈の体は、リビングの照明を浴びて、まあるい二つの桜色と小麦色のしげみが白い肌の上で映えている。

「きれい……」

 少年は女の内腿(うちもも)に掌をあててじっくりとなぞりながら、望みの姿になるように促していた。

「服を着ているときよりも、生まれたままの姿がいちばん美しいのは……やっぱり先生が女神だからですよ……」

 長い脚を分け、左右の肩に担ぐように体位を取った。

 それから、またいつもの恥ずかしい愛撫がはじまって、操祈はきつく目を閉じるのだった。

 




きつねさんまで書けませんでした


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美肉の運命(さだめ)

 

          LⅧ

 

「……すごくきれい……先生のは、とても清潔だから……だから、恥ずかしがらないで下さい……」 

 後ろから聞こえる少年の嘆声に反応して、竦めた肩の間に伏せていた顔を上げた操祈は、頼りなげな視線を泳がせるしかないのだった。

「はぁっ――」

 彼の唇が寄せられて、操祈は眉根を寄せて切ないため息をついた。乱れた前髪が顔にかかって、いつもは愛くるしい朗らかな美貌に今は濃い影を落としている。細かにふるえる長い睫に深い懊悩を宿していた。

 午前三時――。

 真夜中のリビングで食蜂操祈は年の離れた若い恋人から、またひとつ新しい自分と向き合うことを求められていた。

 頭にキツネ耳のカチューシャをつけ、獣のように絨毯に両肘をついて、四つん這いになって――。

 くっきりとした腰のくびれと、美しい弓を描く背中から高々と差し上げたお尻の二つの小山へと続くラインの優雅さ。ロングストレートの髪は金色の滝となって肩口から流れ落ちている。細くしなやかな二の腕の間で、ふたつの乳房がもっちりした肉の量感もみごとに垂れて、乳先も発情の徴をあらわに色づいて可憐な肉芽を尖らせている。

 綾なす色と曲線の全てが甘くやわらかで、白い体は神秘を湛えて穢れも澱みもないのだった。

 視線を誘い、惹きつけずにはおかないこのうえなく官能的な造形美。

 男の側に立てば、こうした女体に対してはどのような愛撫もみな正統で、その探求に歓びを抱かずにはいられないものだった。それゆえに操祈は普通であれば経験しえないようなことさえも、恋人からは当然のように求められている。

 たとえ相手が教え子で、ミドルティーンの男の子であったとしても――。

 今もそうだった。

 少年の両手は、それぞれ女の左右の脹ら脛の上に置かれていて、時に舌びらをもの言えぬお口にぺたりと貼りつかせては彼女をやりきれなくさせている。いずれでもない場所に長く留まっては、そこもまた急所であることを教えているのだ。

「それっ、だめぇ……」

 他ならぬ自分の体の思いがけない反応に、操祈は甘啼きしてうったえた。声がうわずり長姉的な余裕のすべてを失っている。

「レイくんっ、あたしっ……ダメになっちゃうからっ……おねがいっ」

 そのツボを指圧されると、体のどちら側もキュンと窄まって、心と体の奥の秘めやかな堰にまで届いて、意思を離れてどうしようもなく綻んでしまいそうになるのだ。さながら彼女の体に仕込まれていた禁断の種がとうとう芽吹いて、女体の運命を翻弄する隠しボタンに化けたような具合なのだった。

「ああっ、やだっ……あたしっ――!」

 しどけない何かが流れ出して行くのを留められずに、哀しい声をあげて操祈は乱れた。

「スゴいっ……先生の体……」

 けれども彼女がどんな粗相をしても、けっして絨毯を汚してしまうようなことにはならないものらしい。背後から届く水っぽい淫靡な音が、自分がどんなにみっともない状態になっているかを伝えていても、少年はあたかも自らをスポンジにして、温まったものの全てを拭い取っているようなのだ。

 そんな情けない姿を他人目にさらして、操祈はまたひとつ、女の誇りを奪われてしまったように感じているのだった。

 なにより非道いと思うのは、自分ひとりが裸にされていて、彼の方は今もトレーナーを着たままで居ること。

 あまりにも一方的――と、思う。

 もう愛しあうのではなくて、ただ愛玩されるだけの存在に成り果て、ペットとしての調教をされているのではないかとさえ思ってしまう。

 それでも励ますように背中を丁寧に撫でられたり、乳房をやさしくあやされたりすると、心はすぐに挫けて愛撫にすなおに靡いてしまうのだ。

 女の体の脆さが口惜しかった。

「じゃあ、とりつけますね、だいぶいい感じになってきたので……」

 前に回り込んできた少年から、舌を絡めるようなディープキスをされて、操祈は目を閉じた。

 たとえ自分の臭いは疎ましくても、そんなニオイを嬉々として纏おうとする恋人が愛おしくてならなかった。それとともに静かな諦めが心を占めていく。

 もう拒んでも仕方がない――。

 こんな自分を見せてしまっているのだから……。

 操祈は若い主人に買い取られた奴隷女のように恭順の意思を示して頭を垂れると、高々とした優雅な肉の小山を恋人の手に委ねるのだった。

 

 



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麗しの()きつねさん

 

          LⅨ

 

 少年からもうひとつのプレゼントの件を持ちかけられたのは、いま少し前のことだった。

 思いがけずソファの上で愛しあうことになり、今夜の彼は操祈が欲しがるものを焦らさずに与えてくれたのだ。いつもなら手を伸ばすと、さらに遠ざけたり、あるいは別のことに熱中したりするふりをするなどしてさんざん意地悪をされていたものが、クリスマスだからとでもいうのか滞ることなく歓びを振る舞われて満たされていた。

 恋人の好む愛撫は、いまでもとても恥ずかしいが、もう、嫌――という気持ちからは遠いのだ。

 男と女は人には言えない秘め事、淫らな経験を重ねることで絆を深めあっていくもの――と、胸に落ちている。

 なにより自分のためにこんなにも一途にふるまってくれる少年が愛しくて、そのうえエンゲージリング――? まで貰った操祈は幸福感に包まれて事後の気怠さに身を任せていた。

 長椅子にうつぶせになって、肘掛けの上に両腕を重ねて、その上に頬をのせて。

 起伏のある寝姿はそれだけで絵になる艶やかさがあった。白い裸身の下で豊満な胸の膨らみがはちきれんばかりになって輝いている。肩甲骨のか細い陰影と背中に沿って流れる凹みの曲線美、お尻の二つの小山は今は谷あいの秘密の湿原を隠して目にも綾なふっくら丸く張りのある稜線を描いている。

 少年はソファの下、真ん中あたりに座ると、手を伸ばして操祈の背中から腰、臀部にかけていたわるように撫でていた。

 手の温もりがじんわりと伝わってきて、

「レイくん、だぁーいすきっ、うふっ」

 操祈は肘掛けに顔をのせたまま、微睡みながら声を甘くして言った。

「ボクもです……ひとりの女の人をこんなに尊敬できて、好きになれるなんて……どんなに嬉しくて幸せなことか……」

 男の子の手が解れた髪を優しく整えて、長い前髪に隠れていた顔を表にしている。幸せそうに頬笑む少年と目が合って、操祈もはにかみながら笑みを返した。

「可愛いな……先生は……」

「可愛いって……わたし、これでもレイくんの先生なんだゾっ……」

「わかってますよ……でも、いまはボクのいちばん大切な、だれよりも可愛い人……」

 頭を撫でられる。

 肩口のあたりにぽつぽつとキスの雨を落としながら、

「先生のお名前って、そういう意味だったんですねっ」

「え――?」

「ボク、先生の操にお祈りするの大好きだから」

 少年は唇の間から舌をチラリと覗かせて言った。

「バカっ――」

 またイヤらしい軽口を利く少年に、操祈は頬の下に敷いていた手を伸ばして、そばにあった男子生徒の頭を軽く打擲(ちょうちゃく)する。

 レイはやさしいくせに、すぐにデリカシーのないことを口にしてからかおうとするのだ。

 けれども、そんなちょっとエロティックなじゃれあいも恋人同士ならではのこと。普段は口にしにくいキワドイ内容も、愛しあった後の余韻を彩るピロートークにはほどよいアクセントになっている。

「もう、ホンっとにイケナイ子なんだからあっ」

「イケナイ子はお嫌いですか?」

「大ッキライよ――」

 ワザと拗ねた顔をしてそっぽを向いた。

「それはこまったなぁ……ボク、もう先生をイイコイイコできなくなっちゃう」

「いい子いい子ぉ? いい子いい子って――?」

 予期していない言葉に、つい訊き返してしまったが、

「それは――」

 と言った少年のニンマリとしてやったりの顔を目にしたとたん、またうっかり誘いにのってまんまと言葉の罠に嵌められていたことに気がついたのだった。

 少年は案の定、女体についてのとても散文的なことを口にして操祈の顔がたちまち真っ赤に染まっていく。

 レイは解剖学にかけても博識で女性自身よりも事情に通じていたばかりか実際を経験しているのだから、未だ乙女を卒業しきれていない操祈にはとうてい太刀打ちなどできるはずがなかった。

「もう、だからキライなのよぉっ、大人の女をバカにしてぇっ」

「そんな、先生をバカにするなんて、ボク、褒めているつもりだったのに……そういうことってとってもステキなことなんですよ。とりわけ先生みたいなとても美しい女の人がそうなるっていうのは男にとってはこの上なくうれしいことで、恥ずかしがることなんかじゃないから」

 少しも慰めにならないことを口にして、さらに追いつめてくる。そのくせ体にキスの雨を落としてきて懐柔することも忘れない。

 結局、しまいには操祈の方が折れて諦めの笑顔を返すことになっていた。

「だって、ああいうこと……先生にしかしたいと思ったことがないってボク、何度も言ってるのに……」

 ああいうこと――が、何のことか判っている操祈は肩で大きく疲れたため息を一つ吐いた。

「初めて逢ったときからずっと、ボクは先生にしか興味がないから」

「初めて会った時って……!?」

 意外な告白に、伏せていた顔を上げて少年のようすをうかがう。

「先生がボクたちの居る教室に来たその日から――」

「それって……そのときのレイくんって十二歳でしょ? ちっちゃな男の子だった筈なのに……」

「ええ、そうなりますね」

「それなのに、そんな目で私のことを見ていたのぉ……?」

「ハイ――」

「あきれたわねぇ……」

 今更だったが、操祈が驚くのも無理はなかった。

 彼女が常盤台に着任したのは一昨年の夏休みを開けての秋学期からだった。産休を取って長期離職をすることになった教員の穴埋めに、非常勤の数学講師として一年から三年の生徒の講義を受け持つようになったのだ。その後、産休していた当該教員が夫の海外転勤に合わせて正式に退任することとなってからは正規採用となり、更にこの春からは三年二組の担任となってレイたちの居るクラス二十五名の生徒たちをあずかっている。が、着任早々の二年あまり前となると、レイはまだ小学校を出て半年も経っていない頃のことだった。もちろんまだ彼のことは大勢いる生徒の中の一人として意識にも上っていなかったし、こと恋愛という面では保守的な操祈が、そもそも中学生の男子生徒を異性として見る筈もなかった。

 それなのに――。

「大人しくて真面目な、気弱そうな男の子だと思っていたのに……騙していたのねぇ、私のことぉ……」

「騙すだなんて……ただボクは……」

「ただなぁに?」

「それだけ先生が眩しかったから……こんなに綺麗な女の人がいるなんて信じられないって思って……だから……」

「だからって……」

 自尊心をくすぐられて悪い気はしないが、男の子が裡に秘めた情熱の強さには改めて驚かされるばかりでいる。

「自分の気持ちに素直になろうって思っただけですから……」

「素直になるって、ずいぶん都合のいい言い訳ね……」

 また感じやすいわき腹に唇が寄せられて、白い体がピクリと反応していた。挨拶のようだった軽いキスが、再び性感をたきつけるときの粘ついた愛撫のトーンを帯てきて、身を任せるかどうか迷った操祈は肩を(すぼ)めて少し頑になった。

「ねぇ、男の子って、みんなあなたみたいなのぉ……?」

 男性から性的な視線を寄せられる疎ましさは、潔癖だった少女の頃には堪え難いものに思われた――それに対しての報復も相手の男たちにすれば受け容れがたいものだったのかもしれないが――が、それが幼い教え子たちからとなると、教師として自分の落ち度も考えに入れなければならないのかもしれないと思う。

「ボクみたいって――?」

「もう、わかってるくせに……」

 口にするのが(はばか)られて言葉を濁したが、

「オーラルセックスが好きかってことですか? クンニリングスやアニリングスを――」

 と、少年からはストレートな返事がやってきて、やはりたじろいでしまった。露骨な言葉は、さすがに受け止めきれずに閉口する。

「彼女持ちなら普通にしてるんじゃないかな? そこまで踏み込んだ話をしたことがないので、やってるかどうかまではわかりませんけど……でも、先生みたいな綺麗な女の人にするのなら誰でも興味があると思いますよ……」

「………」

 少年の手が剝き出しになったままのお尻をまるく撫でまわしはじめて、操祈はその動きを気にしながら話を聴いていた。遠巻きにしながらも掌の描く円が少しずつ小さくなってきていて、谷間を窺うようなそぶりになっていたからだ。

「だって学校に居る時も、いつでも先生の周りはすごくいいにおいがするから……仕方ないですよ、綺麗な女の人がやさしい匂いを纏っていたら誰だってすぐにドキドキちゃうし、好きになればその人のいろんなにおいを知りたくなるのは自然なことだし……ボクらのしていることって、たぶん普通のことだと思いますけど……」

 と、言うが、さすがにレイが普通――というところは同意できなかった。

 少年との肉体関係が異常とまではいわないにしても、およそノーマルなものではないことを舘野唯香からは教えられていたからだ。男と女の間柄になって何ヶ月もの間に幾度もその機会がありながら、それでもずっと処女のままで過ごすことなど普通はありえない、と。

「だってオーラルって大好きな女の人の体のなりたちを学ぶのに、五感を使ってアプローチできるいちばん合理的な方法だし……」

 身もふたもないことを平然と口にして、(たしな)めなくてはと思った操祈の言葉は、ひっ――と、いう小さな悲鳴に代わっていた。

 不意に男の子の指がスルリと谷間をすべりおりてきたのだ。操祈はお尻を緊張させて拒もうとしたが、陵辱者の指先はやすやすと分け入ってきて、尾骨の下の凹み、女にとってはいちばん触れられたく無い場所をぴとっと捉えて悩ませている。すぐに指でまるくなぞるようにして女の心と体をかき乱しはじめた。

「レイくんっ――!」

 そこは少年が操祈に何か要求を突きつける時に、指を送り込んでくる場所なのだった。

「そこっ……そこはイヤなのっ……ねぇ……」

「そこって、どこですか?」

「だからっ――」

「言ってくれないとわかりませんよ」

 楽しげに言う少年の邪な意図に気づいて唇を噛む。

「そんなことっ……言わせたいのねっ、わたしに……」

「ええ――」

 少年は愁いを深めた操祈の顔を覗き込みながら、指先の動きを更に不穏なものにして、奥を侵そうという残酷な意思まで滲ませているのだ。

「いいわ……」

 長い睫の瞳をしばたたかせて切なげに視線を泳がせていた操祈は、観念して仕方なくそれを口にするのだった。

 グロスをのせていない楚々とした美しい唇が紡ぐには、およそ相応しくないその言葉を。

「そうですね、正解です。ではご褒美に、今日は先生にもう一つプレゼントがあるんですけど……受け容れてくれますよね」

「プレゼント?」

「すごく綺麗で可愛いキツネさんをお目にかけますって、言ったでしょ?」

「………」

 たとえ最愛の恋人からの物であったとしても、このような状態で贈られるプレゼントには危ない香りしかしなかった。が、サンタクロースのクリスマスプレゼントは、たとえどんなものでも有り難くいただくしか無いように、操祈には少年からの贈り物を拒むことはできないのだった。

 



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麗しの()きつねさん2

 

          LⅩ

 

 体に装着されてから「痛くないですよね?」と、訊かれて、操祈は気怠げに頷いた。

「思っていた通りって言うか、それ以上にすっごく可愛くて、キレイな先生にはとっても良く似合ってますよ」

 全裸で四つん這いになった操祈の頭と背中を、よしよし、と撫でつけながら少年は満足げにしている。と、

「うわぁーっ、尻尾フリフリしてるっ、カワイイっ! 愛らしすぎて心が壊れちゃいそうっ!」

 少年は首に腕をまわしてきて、ひしっと身を寄せてくるのだ。頭にご褒美のキスの雨を浴びせられて、操祈の心も感動に揮えてしまうのだった。身につけられたキツネの尻尾が後ろでフサフサと強くうち振られているのを感じている。

 悔しいことに頭に(かぶ)ったキツネ耳のカチューシャは、装着者の感情を読みとってそれを尻尾に送り、感情表現をするような仕掛けになっていて、とりわけ歓びや興奮を素直に表にしてしまうものらしいのだ。

 体をやさしく撫でられただけで、すぐに愛想を振りまいてしまうなんて、まるでケダモノのよう。これで首にチョーカーをつけられたりしたら、ホントに若いご主人さまのペットよね――。

 哀れな姿にされて、そんなふうに投げやりにもなるが、女の肌のなりたちを良く心得ている恋人の愛撫はやっぱり心地よくて、

 もっとしてぇっ――!

 とばかりに仰向けになって、恭順(きょうじゅん)した姿で甘えたい、愛撫をおねだりしたい、という気持ちにもなってしまう。

 長椅子に移ったレイから「おいで、こっちに……」と、狎れた物言いをされて膝の上に招かれると、操祈は背中を丸め加減に少年の膝の上でうつ伏せになるのだった。

 顔にかかる解れ毛を整えられて、長い金髪に沿って体を撫でられる。ときに裸の胸を(うやうや)しく探られながら。

「先生は可愛いな……」

 何も言わなくても、毛足の長い大きな尻尾は勝手にパタパタして、ソファを叩いていた。うなじのあたりに顔を寄せられて「先生のカラダはいつでもとってもいいにおいがする」と、耳許で囁きかけられると、また尻尾を

 ふりふりふり――。

 心を偽れないのだ。

「この尻尾と耳のアイテム、とってもスグレ物で、感情を表現するだけじゃなくて、身につけた人をとても良いキモチにしてくれる機能もついているんですよ」

 操祈の尻尾は、ちょっと迷っていたようすでいたが、ゆっさりと振って歓迎の意思を示しているのだった。

「内蔵されたAIによって中でフィットするように変形して、さらに微妙な刺戟を加えることで使えば使うほどカラダと良く馴染んでくるんだそうです。このカワイイお耳も、ただ尻尾を振らせるだけじゃなくて、脳の快楽中枢のセンサーとしても機能させることができて、端末に気持ちのいいところを探すように形を変えさせたり、刺戟方法に指示を与えるなどして、独りでも十分に楽しむことができるものなんです。今夜は持ってきませんでしたけど、リモコンを使ったりして二人で楽しむ方法もありますし、他に“開発”を目的にする場合には端末を徐々に大きく膨らませていったり、あるいは別の器具と組み合わせて更に豊かな歓びを味わうための補助にしたりと、それこそいろんな使い方ができるそうで、だから中にはヤミツキになっちゃう人も居るみたいなんですけど……でも、もちろん先生にはそんなことはしません。お約束した通りに今夜だけです」

 少年の説明を聴かなくても、とても淫靡な大人用の玩具であることは良く判るのだった。常に微妙な振動と変形を感じていて心と体とを(いわ)く言い難い状態へと誘おうとしているからだ。

 だから、

 今夜だけ――。

 と、時限を設定されてしまうと、ちょっぴり物足りなくも思えてきて、それまでフリフリしていた尻尾もお尻の上でうなだれていた。

「それに尻尾の毛足にも根元にセンサーが付いているらしくて……」

 少年は手を伸ばしてきて尻尾を指先でくすぐり、えもいわれぬ刺戟に操祈は目を丸くするのだった。まるで敏感な肌が尻尾全体、体の外側へと拡大したような感覚。

 恋人の手の中で、また一つ、新たな歓びの世界を教えられたようなのだ。

 さらなるタブーへと続く道を、恐れながら、けれどもどこかで期待も抱きながらトボトボと歩んでいる。イケナイことをいっぱい知っている、とてもイケナイ男の子の手に導かれて。

 思えばここ数ヶ月の間に、多くのことを経験して、自分でも知らなかった新しい自分と出逢っていた。

 心も、体も、男の色に染められて、変えられていったのだ。

 半年前の食蜂操祈は、今とは違っていた。恋を知って性の扉をくぐったばかりの頃と、デートをする度に官能の深淵を漂うようになった自分とは。

 何も知らなかった二十二歳の大人であるべき女に、いろんなことを手取り足取りして教えてくれた、十四歳の彼。

 本当に童貞なのかしら――?

 と、疑ったこともあるほど、女の扱いには手慣れている。そのことを問うと、レイは()まって

「それは先生を知ってしまったから――」

 と、言うのだった。

「もし先生と逢わなければ、ボクは今も十四、五歳の普通の中学生のままで、女の人の体についていっぱい勉強しようとは思わなかったから」

 

 じゃあ、私が彼の成熟を速めているってこと――?

 

 それが良いことなのか悪いことなのか判らなかった。

 もしかすると自分の存在がレイの貴重な思春期を奪ってしまっている?

 事実なら罪なことをしているようにも思えてくる。けれども愛しあうことで互いを成長させているとしたら、きっとそれは良いことだと信じたかった。

 たとえ年が離れていても密森黎太郎はもっとも大切な最愛の人。セックスをしたいから、快楽を貪りたいから彼とのデートを重ねているわけじゃない。

 

 彼を愛しているから――。

 それだけは確かなこと、そして彼も……私を愛してくれている……。

 

 体に触れられて、敏感な尻尾を撫でられて、操祈は静かに、されるままになっていた。少年と共に過ごしたたくさんの出来事に思いを馳せながら、恋人の手の動きと体の温もりにだけに心を寄せて。

 真夜中というよりも、もう少しすると東の空が白み始めてくる夜明け前のリビング――。

 二夜(ふたよ)続けて、肉欲の探求に費やしたクリスマスが終わろうとしていた。

「キモチいいですか――?」

 問われて、応えるより先に、代わりに尻尾が反応している。

「良かった。ボクは使ったことがないからどんなものか判らないけど、でも、気に入ってもらえたようで嬉しいな」

「………」

「だけど、あんまり具合が良くて、ボクがお(ひま)を取らされちゃったらかなわないですよ」

「そんなこと……あるはずがないでしょ……」

 またいつもの軽口だとは判っていたが、返す言葉の語気がいくぶん強かったのか、敏感な少年はすぐに反応してしおらしくなった。

「そうですよね、ごめんなさい、先生」

 真顔になって操祈の顔をのぞきこみながら

「先生、ごめんなさい」

 と繰り返す。

 思いを同じくしているのが窺えて、操祈はこっくり頷くのだった。

「いいのよ……」

 抱き寄せられて男の首に腕を廻してしがみついた。感じやすい肌が少年の纏ったトレーナーに擦れて、圧し潰された両の膨らみが爆ぜそうなくらいに盛り上がる。

 操祈はいまだ着衣のままでいる少年に、いくばくかの不満を覚えていた。結局、今夜は一度も肌と肌を接して愛し合うことはなかったからだ。

 唇を重ねる。

 軽く舌を触れ合わせるだけの、ディープキスになる前の思いのこもった長い接吻に。

「ありがとうございます、先生」

「あら、それは何のお礼かしら?」

「今、ボクの腕の中に居てくれることへの感謝の気持ちです。先生はボクに、いつでもたくさんのステキと幸せをくれますから。今夜だって一生をかけてもお返しができないほどのプレゼントを戴いているので」

「うーん、それじゃあ、わたしもお礼を言わなくちゃ……」

 ただそれを具体的に言おうとすると、恥ずかしさが甦ってすぐに顔が火照ってしまうのだった。

「言われなくても判りますよ、背中で尻尾がフリフリしてますから」

「あーずるい、もうやだぁ、いつまでこんな格好させているのよぉ」

 心の乱れをごまかそうとして拗ねて甘える。

「あと、もうちょっとだけ……ダメですか?」

「いいけどぉ……」

「ねぇ先生……」

「なぁに」

「尻尾とお耳を外す前にまた先生の写真を撮りたいんですけど……」

「でも、こんな姿の私なんか、どうして撮りたいのぉ?」

「すっごくカワイイからにきまってるじゃないですか。先生がボクだけのために、こんなにステキな姿を見せてくれているんですから……でも、それを独り占めするのはもったいないので先生にも是非ご覧になって戴きたいんです。ボクの目に映っているものの愛らしさを」

 髪に触れ、尻尾を手に取りながら少年は訴えた。

「………」

「ダメですか……?」

「……だめじゃないけど……だって、イヤって言っても、どうせ聞いてくれないんだもん、しかたないわよね」

「それはそうですけど」

「あ、やっぱり否定しないんだぁ」

「バレちゃってますね」

「もうっ――」

 じゃれ合いながら、こうして始まった撮影は、さほど時間はかからなかったものの、操祈は数十回もフラッシュを浴びてはさまざまなポーズの要求に応えることになっていた。

「ステキな写真集が作れそうです」

「待って、お願いよっ、変なものをつくらないでちょうだいっ」

「大丈夫です、これはボクたちだけのものですから」

「でもっ――」

「きっと驚かれますよ、あんまり可愛くてご自分に恋しちゃうかもしれませんから、写真集を閲覧する際にはご注意下さいね」

 操祈は何か言いかけたが、恋人の微笑む顔を前にして言葉をのみ込むしかないのだった。

 




送り仮名のミスなど数カ所の訂正をいたしました

申し訳ありませんでした


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師走、年の瀬

          LⅪ

 

 歩道橋の上で不意に何かに気づいた風に足を止めた小田切芳迺(おだぎりよしの)が、

「ねぇ、あれって操祈先生じゃない?」

 と他の二人に促すと

「え、どこどこっ!?」

 一緒に居た篠原華琳(しのはらかりん)安西遥果(あんざいはるか)も芳迺が指差す方に顔を向けるのだった。

「ホラ、あそこっ、横断歩道のパーキングメーターの傍に立っている長い金髪の女のコ」

 一つ先の交差点の向こうに、遠目にもわかるスラリとした立ち姿の女性が見えた。

「あ、ソダネ、操祈先生みたいっ」

「でも女の子ってあんたぁ、ウチらの先生でしょうにっ」

「だけど、あのカッコみたら先生っていうより女のコっしょ、やっぱ」

「うん、なんか今日の先生、いちだんと可愛いかもっ」

 カラオケ帰りの少女たちの目に映った操祈は、ライトブラウンのダッフルコート、頭にはモスグリーンのベレー帽、それにスニーカーというカジュアルな装いでいた。教室に居る時はスーツとパンプスでいることが多くて隙のないキッチリした印象だったが、今日はずっと柔らかく女らしく見える。

「買い物袋をぶら下げてるから年越しのお買い物かな? ねぇ行ってみよっ」

 華琳が言って、三人は足を速めたが、また芳迺が足を止めた。

「ちょっと待ったっ、先生、一人じゃないみたいっ、ホラ横に居る男の人と喋ってるみたいだし」

 少女たちが再び目を凝らすと、操祈の斜め後ろに金髪の男がひとり居て、ときおり操祈と親しげに言葉を交わしているようだったのだ。

「あ、ホントだ、連れが居るっ」

「うわーっ、まさかデートっ!? ウチら凄いモン見ちゃったりするの?」

 少女たちは操祈たちを見失わなわないように目を遣りながら、好奇心の塊になって小走りになって歩道橋の階段を降りていくのだった。年の瀬で賑わう歩道の人波をかいくぐるようにして操祈の背後に迫る。が、いざとなると声を掛けそびれて、それぞれが出方を窺うようなそぶりになっていた。

 纏っているオーラが教師であるときとは違っているように思えて、街で偶然アイドルを間近にしたときにも似た緊張を強いられていたのだ。

 実際、今の食蜂操祈は、あのミスコンテスト以来アイドルタレントと言ってもいいほど世俗的に注目される存在でもあった。取材規制のある学園都市に居る時はともかく、都市(まち)を一歩離れればあちこちでマスコミからカメラの砲列で迎えられかねない。

 三人の少女たちは日頃見なれた女教師とは違う操祈を前に、ちょっと呑まれた様子になって互いに顔を見合わせて、

「あのぉ……先生ですか……?」と、おそるおそる声を掛けるのだった。

 呼び止められて足を止めた操祈が振り返る。

「あら、あなたたち――」

 長い金髪がそよいで、白い美貌がわずかに驚きを示して少女たちを見ている。

「やっぱり先生だぁ」

 操祈のいつもと変らない反応に、三人一様にホッとしていた。

「どうしたの、みんな、そんな顔して?」

「なんか、あんまり綺麗な人だったんで、もしかして人違いしちゃったらマズいかなって」

「雰囲気が全然違って、先生っぽくないから……」

 判ってはいても、オフの操祈の美貌は少女たちにもひときわ眩しく映っている。

「あらぁ、それって新手のディスりかしらぁ?」

 操祈の普段どおりの悪戯っぽい笑顔に少女たちも平素の調子を取り戻していた。

「だって先生、可愛すぎるじゃないですかっ、なんですかその格好、まるで女子中学生か高校生みたいですよ」

「そうですよゼッタイ、ズルイですよ、反則です。美人に可愛い格好されたら、あたしら居場所なくなっちゃうしっ」

「うーん、あたし、そんなに若作りに見えたりするのぉ?」

 当惑したようすで操祈は自身を見回していた。身なりをチェックするしぐさも、どこかぎこちなく不慣れで少女っぽい。

「若作りって……もうそういうレベルなんかじゃなくって……」

「気温が下がってきたから、前に着ていた冬物を引っぱりだしてきたんだけどぉ、似合わなかったかしらぁ……」

「すごくお似合いだと思いますけど、でも、ゼッタイ彼氏には会わせたくないですっ」

 遥果がきっぱりと断言して、他の二人もしかつめらしい顔で深く頷いて追従した。

「操祈先生のことは大好きですけどっ」

 言いながら操祈に身を寄せる。

「ねぇ先生っ、さっきの男の人はどうされたんですか?」

「男の人? ああ、彼は――」

「彼はっ!?」

 三人の少女は興味津々で操祈の表情を窺っている。

「な、なにっ、どうしたのみんなっ?」

「もしかしてデートだったんですか? あの金髪の背の高い男の人が先生の彼氏だったりするんですかっ?」

「え、え、えっ!?」

 操祈は包囲網を狭めてくる三人にタジタジとなりながら

「あなたたち、見てたのぉ?」

「ええ、ハッキリ」

「で、どなたなんですか?」

 と、少女たちは追及の手を緩めずにさらに詰め寄った。

 操祈はしばし「うーん……」と、唸り、困り顔で絶句していたが、やがて表情を一変させると

「そうよっ、デートだったの、わたしの彼よっ、あはっ」

 その答えに、少女たちは明らかにアテが外れたような、興が削がれた顔に変るのだった。 

「なーんだ、違ったんですか」

「ちょっとびっくりしたけど、でも良かったぁ、安心安心」

「わたしはハナっから、んなワケないとは思ってましたけど」

「あらあ、なによぉみんな、あたしがせっかくホントのことを打ち明けたのにぃ」

 操祈はいつもどおりの飾らない口調になって抵抗するが、察しの良い少女たちは取り合わず、それをさらりと受け流している。

「先生、もしも誰かから本命の彼氏か? って図星をさされたら、女の子はそんなあっけらからんとした顔なんてできないんものなんですよっ。否定しても肯定してもどっちも表情に出ちゃうものだから。で、ほんとはどなたなんです? お知り合いのように見えましたけど」

 少女たちは尋問によって、ついには操祈の口からノックレーベン氏の名前を聞き出すことに成功するのだった。

 操祈がかつて、“仕事”でお世話になった人で、何年も前に帰国していた筈が今は出張でまた学園都市を訪れていて、ついさっき道で偶然見かけて自分から話しかけたということ、向こうは操祈のことをすっかり忘れていて自分から名乗るまで思い出すのに時間がかかって呆れたことなどを。

 好奇心が満たされると、少女たちの興味はすぐに移ろい別のことへと関心が向く。

「お買い物ですか?」

 操祈の下げていた買い物袋を見ながら訊く。

「ええ、もう明後日は大晦日でしょ? そろそろお正月の用意をしておかないといけないかなって思って」

「ご自身で用意されるんですか?」

「そうよ、おせち料理の大半は既製品で済ませるつもりだけど、せめてお雑煮ぐらいは自分で作ろうと」

「先生って、なんかあんまりお料理とかしなさそうですけど、大丈夫ですか?」

「まぁ、言ってくれるわねぇ、お料理だって最近、レパートリーを増やしているんだゾっ」

「やっぱり――」

 少女たちは申し合わせたように、含み笑いをした。

「やっぱりってなによぉ」

「なんでもありません――じゃあ、ご実家には帰られないんですか?」

「帰るといっても私の場合は遠いから、今年はこっちで年越しするつもり……あら、あなたたちはお正月、お家に帰らなくてもいいの?」

「華ちゃんは明日、帰ります。ね? あと、私と芳っちゃんは家が近いから明後日に」

「先生はお一人で年越しされるんですか?」

「ええ――」

「じゃあ、お寂しいですね、うふふっ」

 少女たちはまたワケ知りな顔をして、操祈の手から買い物袋を取ろうとする。

「私、お持ちしますから――」

「いいのよっ、そんなこと」

「いいんです、いいんです、どうせみんな寮に戻るところですから、途中までお持ちいたします」

 少女たちはそのまま操祈のアパートの近くまでエスコートしていくのだった。

 

            ◇            ◇

 

「やっぱり先生には彼氏が居るわね」

「まーわかってたことだけど……だって、なんか最近、ますます綺麗になって幸せオーラが洩れてることもあったし……」

「どうやら年越しも彼氏と一緒に過ごされるみたい」

「遥果も気づいた?」

「だってあのお買い物の量、一人分にしては多かったから」

「誰なのかな? 先生の彼氏って……さっきのノックアウトさんとか? 案外、お似合いにも見えなくもないけど、背が高くって渋いイケメンで、金髪で……」

「華ちゃんのそれって、先生が言ってたノックレーベン氏のこと? いやあ、それはないわ、あの様子だと違うわねぇ」

「わたしもそれはないと思うわ」

「じゃあ、どんな人なんだろ、あの先生を口説き落とした男って……どうせスッゴイイケメンなんだろうけど」

「試しに、お正月に先生のアパートを訪問してみるとか?」

「あ、それいいかもっ」

「でも、さすがに急だと失礼よね」

「ですよねー」

「ムリかー、なんとか先生の彼氏の正体を暴く手はないもんかなぁ」

「まぁ先生と言っても女だし、他人のプライバシーの詮索はいただけないわね」

「だよなぁ」

 少女たちは帰寮するまでの道すがら、とりとめもない憶測話に花を咲かせるのだった。

 




例によって誤字脱字などのミスが見つかり修正しました

申し訳ありませんでした


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仮免新妻♡操祈

          LⅫ

 

 鼻歌を混じりのご機嫌で、操祈はキッチンに立って、その日の午後に買ってきた既製品のおせち料理の類を開封しては、ひとつひとつ丁寧に重箱に詰めていた。

「手作りじゃないけど、これは仕方がないわよねぇ……でも、わたしの美意識力を発揮する余地はあるんだからっ」

 練物類に包丁を入れながらひとりごちる。

 紅白の蒲鉾は彩りを考えて互い違いにして、黄色い伊達巻きの隣には茶色い田作りを置いて。ときに切れ端などをつまみ食いしながら。

「黒豆、栗きんとん、数の子……それと……えーと……」

 指南書代わりにキッチンテーブルの隅に置いたパッドのウエブページを見ながら、それをお手本にして、独自のアレンジを加えて操祈スペシャルなおせち料理にするつもりなのだった。綺麗に折り詰めができるとにわかに“主婦力”があがったように思えて嬉しくなる。

「お正月までレイくんには内緒にしてぇ、元日の朝にびっくりさせるつもりだけどぉ……でも、うまく隠しきれるかなぁ、あの子、ホントに目敏いから……うふっ」

 クリスマス休みに入ってからというもの、レイは毎晩、彼女の部屋を訪れてくれていたのだ。

 イヴとクリスマス当日は明け方まで一緒だったが、それ以降はきっかり深夜一時から二時まで、と時間を限ってのデートになっている。

「夜更かしが続くと先生の体に障るから」

 そう言って少年は時間になると寮に戻っていってしまうのだ。一緒に居られるのはたった一時間。それでも「また明日――」と言えるのは嬉しかった。

 たっぷりと思いを込めた口づけを交わして別れた後、独りになっても彼のことばかり考えてしまう。けれども寂しさも、またすぐに逢えると思うと逆の意味で歓びのためのスパイスになっているようなのだった。

 夜になるとレイくんと逢えるっ――。

 そう思うだけで、ベッドの中でいつまでもじっとしては居られないくらい心が踊ってしまうのだ。たとえ寝つきが良くない夜も、寝覚めはいつも期待に溢れていた。一日のはじまりが希望でいっぱいの、幸せな日々が続いている。

 それにレイは、年末年始はずっと一緒にと約束してくれたのだ。今年は二人っきりで年越しを迎えることになっているのだった。

「年越し蕎麦も用意しなければいけないしぃ、お雑煮だって作らないとぉ……ああ、日本のお正月ってめんどくさいわよねぇ」

 と、口ではボヤくが頬には満ち足りた笑みが浮かんでいる。

 自分独りだと面倒でおざなりにしてしまうものが、どれもみな楽しみなイベントになっているのだ。恋人のために手間ひまかけることがかえって嬉しかった。自分ができることをしっかりやって、レイには喜んで欲しい。

 いつでも自分を大切に思ってくれる心やさしい恋人のために――。

 実際、ここ五日間というもの、若い恋人からは心と体の両方を丹念に、それはそれは丹念に愛されて、約束どおりにいっぱい可愛がってもらっていて、一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、ますます彼のことが大好きになっている。

 もっとも、可愛がる――と、言っても、毎夜、女の肉を剝き出しにされるような濃厚な愛撫を求められているわけではなく、寧ろクリスマス開け以降はレイにしては淡白なデートが続いているのだったが、それもまた嬉しいのだ。

 長椅子に身を寄せ合って、互いの体の温もりを感じながら他愛もないお喋りをする。相談事を聴かされたり、逆に相談したり。その日にあったあれこれを飾らない言葉でやりとりする。男と女というよりも仲の良い姉弟のような親密なひととき。

 そのくせ時折、自分に向けてくる仰ぎ見るような視線がとてもくすぐったいのだった。単なる尊敬を超えて崇拝に近く、まるで本当に女神にでも向けるような憧れの眼差しが。

 

 あんな目で見られたら、とても粗相なんて見せられないじゃないよぉ――。

 

 それなのに一方で、セックスの時になるとけっして妥協をしてはくれないのだ。無慈悲に思えるほど執拗で、容赦なく女の身から誇りを奪いとっていく。

 こうした相反する接し方のギャップが、かみ合わないようで居てレイらしいと思えるのだった。自分へ向ける一途な愛情と忠誠心が、少年の中では結晶のように硬く確かなものとなっているのが窺えて。

 こんな愛し方をされたら、きっとどんなに心の冷たい女でも情熱にとろけてしまうだろう。

 今も、ふと恋人のふるまいを頭に想い描いただけだけで操祈の心と体は潤み始めていた。

 スカートの前をおさえて、しばし目を閉じる。

「幸せよ……レイくん……あなたに巡り逢えて……」

 はぁーっと熱い吐息を一つ。

 操祈はキッチンの脇に置かれた時計に瞼を薄く開いて視線を送るのだった。長い睫毛に夜の翳りが忍び寄ってきていた。

 間もなく午後九時になるところ――。

 レイが来るまで、まだあと四時間ほどあった。

 その前にはシャワーを浴びておかないと、と思う。彼からは止められてはいても、やはりエチケットとしてデートの前には体をきれいにしておきたかったのだ。

 何もされないと思って油断していると、スカートの中にもぐり込んできて慰めてくれるときもあるからだった。

 

 わたしのにおいが好きだなんてぇ……ほんとに変な子なんだからぁ――。

 

 でも、恋人から自分の体臭を好まれて嬉しくない女は居ないと思う。もしそれが逆なら、泣きたくなるほど辛くて悲しい。大好きな人から疎まれたりしたら……。

 以前に唯香――少女はいまや操祈にとってはただ一人の“女の悩み”相談相手となっていた――とも申し合わせたことがあったが、自分のなにもかもを受け容れられていると信じられるのは、女にとっていちばんの心の拠り処となることだった。

「唯香さんも幸せな休日を送られているかしら……みんな幸せな時を過ごしているといいなぁ……」

 愛くるしい美貌には自然に穏やかな微笑が生まれていた。恋を知る前の操祈には見られなかった、ゆとりのある表情が。

 一通り、既製品を他のお重にも詰め終えて、次は野菜や鶏肉などの生鮮素材の加工にとりかかる。

「煮物は今夜中に作っておいた方が、お味が染みて美味しくなるわよね……でも、お部屋に籠った匂いで気がつかれちゃうかなぁ……ま、いっかぁ……」

 いよいよ今夜のいちばんの課題、お煮染めの調理に挑むことにする。

 切りにくい生鮮素材を加工するときは、まずその前に包丁を良く研いでから――。

 これもレイから教えられたことだった。

 ただ、教えを守っていたからと言って、日頃、あまりキッチンに立つことのない操祈には、やることなすことが初体験で新発見の連続になってしまっている。実際にはテキストのレシピには書かれていないことが山ほどあるのだ。

 里芋の皮を剥いていると手が痒くなってきて

「なんでよぉ――!」

 と、抗議の声を発して里芋と喧嘩をしそうになる。

 飾り包丁を入れてみたが綺麗な花の形にならなくて

「うーん、いいわよぉ、そんなに抵抗するのなら、こっちにだって考えがあるンだからっ」

 人参との関係も緊張していた。結果、桜にならずに大半が粗切りになってしまっている。

「あらぁ、コンニャクって、こんなにおかしなニオイがするのぉ、お魚みたいだけど、大丈夫なのぉ?」

 無味無臭の弾力だけの食感しか知らなかった操祈には、加工前の生臭みのあるコンニャクは予想外で、もしかしたら腐敗していたのかしらと袋の消費期限をいちいち確かめる、といった具合だった。

 三の重用のお煮染めひとつ作るのも、今の操祈には難事業なのだ。

 それでも素材と格闘すること一時間余り、ようやくお煮染めの形になってきて、キッチンに甘辛の香ばしい匂いが立ちこめるようになると、

「わたしだってやればできるじゃないっ、さっすが操祈ちゃん、やっぱり天才っ!」

 人参一切れを味見をした操祈は大きな目をぱちくりさせて

「うん、大丈夫っ――」

 自らを鼓舞するように力強い言葉にする。が、味覚も嗅覚も鋭敏な恋人のことを想うとだんだんトーンダウンしてきて

「きっと大丈夫よ……味が染みてくればもっと美味しくなる筈だしぃ、レイくんのお口に合うといいなぁ……」

 ちょっぴり不安気な顔をしているエプロン姿の操祈は、夫の帰りを待ち焦がれる新妻のように初々しさと愛くるしさに溢れているのだった。

 

 



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大晦(おおつごもり)の人々

 

          LⅩⅢ

 

「おう、じゃあなっ」

 夏上康祐がロングシートから立上がると拳固を突き出し、レイ、純平の差し上げた拳にそれぞれコツンと重ねていく。

「良い年をね、コースケくん」

「オメーらもなっ」

「オシゴト頑張れよっ」

「うっせぇやっ純の字っ!」

 純平の挑発に中指を立てて応えた夏上康祐が明大前で下車すると、とうとう二人だけになった。

「なんか寂しくなるね、たった数日のことなんだけど」

 浜っ子の黒川田勇作は反対方面だったので駅で別れ、志茂妻真は千歳烏山で既に下車していた。

 松之崎純平とは新宿まで一緒で、そこで純平は山手線に、レイは中央線乗り継ぎとなって別れることになる。

「オマエも戻りは四日だっけ?」

「うん、三が日が過ぎて四日午後には寮に帰ろうと思ってるんだけど、コースケくんは松の内いっぱい戻ってこられないって言ってたよね」

「まぁ、アイツんちは年明け早々から忙しいみてぇだから人手が要るんだろ……俺はホントは明日にでも戻ってきてぇんだけど、誰も居ねぇンじゃつまんねぇしなぁ……」

 コースケの実家はスーパーマーケットを経営していて年末も年始もなく忙しいそうで、日頃、店の手伝いを免除してもらっている手前、正月休みはしっかり勤労奉仕させられると言ってこぼしていた。

 その他はレイを含めて三日までは実家で過ごし、四日の日曜日には学園都市に戻る予定となっている。

「おめぇらみてぇな一人っ子が羨ましいよ、俺んとこには兄貴がいっからよぉ、ナニかと絡んでくるからもーウザくウザくてっ」

「やっぱりヒサオくんのところみたいに綺麗で優しいお姉さんだったら良かった?」

「そこまで贅沢はいわねぇけどな、次男ってのは割り食ってばっかりでなぁ……兄弟の居ないオマエには分らないだろうな、まー言っても仕方ないことだけど」

「でも常盤台だし、ご両親は満足されてるんじゃないのかな?」

「まぁな、でも兄貴も広高だしなぁ……来年の進学先次第じゃアドバンテージを失いかねんというか……」

 いつもは(おど)けた雰囲気でグループのムードメーカーでもある純平が、終点が近づくにつれて次第に疲れた優等生の顔になっていった。友人の、今まで気がつかずに居た別の一面に触れて、レイは改めて人にはいろいろな顔があることを窺い知るのだった。

 もちろんそこには自分も含まれていた――。

 

 

          ◇            ◇

 

 

「……それとちくわぶも追加デ……」

 依頼人の関係者と名乗る相手との接触を終え、カイツ・ノックレーベンは独り、日本橋にある老舗のおでん屋のカウンターで遅めの昼食――早めの夕食――をとっていた。

 今回の来日目的は、そもそもあまり気乗りのしない“仕事”だったが依頼内容が何であれ、要求に応えるのがプロだ――と、割り切っている。

 ただ、そういう不本意な仕事を重ねていると、自分が消耗していくのも分るのだ。(おり)のように体の奥底に沈潜して溜まってくるものがあるのだった。

 それもあってか、ここのところ酒量が目に見えて増えていた。

 もう若くはないのだ――と、自嘲気味に思う。

 引退、という文字も頭の隅にちらつき始めている。

 この仕事を終えたら足を洗って、故郷で渓流釣りをしながらのんびりと暮らすのも悪くないのではあるまいか、と、つい柄にも無い夢を見てしまうのだった。

「珍しいねぇ、旦那みたいなのでちくわぶのオーダーをされるのは初めてですよ。外人さんがめずらしくもないここいらでも、ラーメンは良くてもおでんは苦手ってぇお客さんが多い中、とくにちくわぶなんてのは、ただぐちゃっとしてるだけ、みたいに酷いことを言われちまいましてねぇ、ウチのは違うんだけどねぇ、なかなかわかってもらえませんや……」

 黙々と箸でおでんを口に運ぶ“ガイジン”が珍しかったのか、カウンターの向こう側から五十がらみの大将が話しかけてきた。

「旦那は相当な日本(つう)と見ましたが、長いんですかい?」

「先週、また東京にやってきまシタ。八年ほど前までは学園都市に長くいまシテ」

「おや、学園都市の先生でしたか」

「いや私は警備担当デス」

「そうでしたか、あそこはいろいろありましたからねぇ……おひとつ、おつけしましょうか? さすがにもう今日は仕事納めなんでしょ」

「そうデスネ……」

 カイツはお品書きにあった日本酒のリストに目を走らせながら

「熱燗だとどれがおすすめデスカ?」

 と訊く。

「まだ日のあるうちから、あっつ熱のおでんを肴に熱燗でキュウってのは、日本人だけのもんだと思ってましたが、いけませんやぁ、旦那みたいのが、そういうのをやっちまったら、こちとらの立つ瀬がなくなっちまうってもんでさぁ」

 太り(じし)の大将は、誘いをかけておいて混ぜっ返すが、カイツがホッとするような(えびす)顔を向けている。

「賀茂泉なんかが燗にしてもスキッと辛くてあたしは好きなんですが」

「じゃあ、それをおねがいしマス」

「へいっ――」

 出てきた賀茂泉の熱燗は、仄かな酸味があってシャブリにも比肩する豊かな香りと風味があった。だが白ワインは燗などにしたらたいてい台無しになってしまうが、日本酒は舌が灼けるほど熱々にしても尚、冴える。カイツは日本暮らしが長くなるにつれて醸造酒としてこれほど優れたものは他にはないのではないかと思うようになっていた。

「美味しいデス――」

 おでんも日本に来たばかりの頃は苦手と言ってもよかったのだが、今は逆にヤミツキになっている。ただ茶色くて醤油で味をつけた塩っぱいだけの魚のミンチのシチューなど、食べられたものじゃないと思っていた筈が、狎れてくると塩味の先にある素材の複雑な旨味が(こた)えられなくなってくるのだ。それがまた熱い酒と実によく合った。寒さがこたえる真冬、凍えた体に熱々のおでんと熱燗のコンビは(すこぶ)る美味かった。

 とりわけちくわぶは、小麦粉を固めただけの単純なものだったが、その分、出汁を吸うと酒の味を引き立てる格好の肴になる。

 美味い――!

 いったんそう思うと酒の方も止まらなくなって、あっという間に三合を空けていい気分になっていた。

 さて銘柄をかえてもう一本つけようかと思った時、背後に気配を感じていきなり酔いが醒めた。しかし身を(ひるがえ)そうと思う前に先手を取られて、どうしたことか椅子に座ったままの状態で身動きを封じられてしまったのだ。ことによれば命を奪われかねないプロにあるまじき失態だったが、相手に害意が無いのが幸いしていた。何ごともなかったようにカイツの隣の席に座ると、出されたおしぼりで手を拭い始めたのだ。寛いだ様子で大将に幾つかのオーダーをしている。

 逆にカイツの方は驚愕に碧い目を見開いていた。

「あ……あなたはっ――!」

 たとえ見かけがどんなに変っていても、職業柄、一度聞いた声はけして忘れないからだった。

 

 

          ◇            ◇

 

 

「……これで間違いはないのね――?」

 山崎碧子は電話の先に念押ししてから受話器を戻した。送られてきたデータを表示するモニター画面を見ながら、デスクの上を中指でトントンと神経質そうに叩いている。

 一般には伏せられているが、学園都市中央管理区画にある人工知能には都市(まち)に暮らす二百三十万人と、出入りする全ての人間の移動情報が記録され、そして保存されていた。プライバシーへの配慮から家屋、住居等の内部についてはその限りではないが、学園都市に居る以上、何人たりとも公共の場において匿名で活動することはできないのだった。

 それは碧子とて例外ではない。

 常盤台の敷地の外に一歩足を踏み出せば、その瞬間から監視センターに逐一モニターされて行動記録を残していくことになる。何時、何所へ行き、誰と会い、そして何をしたか等、公の場であれば全て履歴として残るのだ。

 碧子がコネを介して、このおぞましい人間監視機構から入手した情報は、冬期休暇に入ってから以降の常盤台生徒、及び関係者、約二百五十名の活動記録だった。

 目的はむろん食蜂操祈と密森黎太郎の行動解析にあったが、当然のことながら調査にあたらせた者にはその件について伏せてある。今はまだその時ではないとの判断からだった。

 この非公開情報の内容確認を終えて、碧子は浮かび上がってきた幾つかの懸念から提供元に情報の健全性についての確認を取っていたのだ。

 結局、二十四日から本日までの八日間、(くだん)の二人の間には何らの接点も見つからなかった。

 これを予想どおりというべきか、予想外というべきか迷うところだ。

 たとえ操祈たちが用心していたとしても、時期が時期だけにそれらしい行動が見られるのではないかと期待していたのだが、かくも何もないとは。

 休暇中、食蜂操祈はほぼ毎日、外出をしていたが、たいていがカフェでお茶を飲みながら読書をしたりスーパーで買い物をするなど、気になる動きは一切無かった。そしてその間、密森黎太郎は学園から外へは出ていない。一方、密森某が学外へ出向く時は、一度を除いてはいつも仲間と一緒で、操祈との接点など作りようも無いのだった。また、ただ一度の例外も学園都市外へと出かけていて、その時、女教師は自室に留まったままだった。

 要するに疑わしい行動は全く見られ無かったのだ。

 そして今日、男の方は女を独り残して、仲間とともに帰省のために都市(まち)の外へと出かけてしまっている。

「用心した、ということか――」

 うっすらと落胆を覚えてひとりごちた。

 確かに、監視を疑えば行動は抑制されるだろう。紅音に仄めかすのが少しばかり早過ぎたかと自身の軽はずみを今になって悔いたが、そもそも碧子が動けば、紅音が二人に諫言(かんげん)するだろうことは判りきっていたことだった。

 まぁいい――。

 と、割り切る。

 いずれ尻尾を出すだろうから。

 ひとたびセックスの甘い蜜の味を知って、いつまでも我慢ができるものではないことを同性として見通していたからだ。早晩、体が夜泣きをはじめて、男の物が恋しくてたまらなくなる。恋愛感情とは別に、女の体とはそうしたものだと碧子は現実的に捉えていた。

 恋をしているのなら尚更だ。

 だから二人の行動をモニターしていれば、遠からず不自然な接触が確認できるに違いない。

 ただ、本当にそうなのだろうかとの疑いが、どうしても晴れないのだった。

 期間中、二人の間に接点があまりにも綺麗さっぱり無かったことが逆に妙に如何わしく、猜疑心の強い碧子の疑念を呼び起こしていた。

 例えば、監視カメラのデータがハッキング等で改竄されることがないとどうして言えよう? あるいは古典的な手口だが監視カメラそのものに細工をするというのもありえるのではないのか?

 仮にもしそうなら、行動をモニターすること自体に意味がなくなってしまう。別の手を探らなければならなかった。

 こうした懸念に対して提供者側の説明は、監視カメラは単体で存在するものは一つも無く、全て周辺のカメラ映像とリンクされていて、もし外部から何らかの操作が加えられれば必ずデータに齟齬(そご)瑕疵(かし)が現れるので、それをかいくぐっての改竄も介入も一切不可能だとのことだった。

 碧子は諒解したが、内心では

 だといいけど――。

 と、冷ややかに受けとめていた。

 敵はけして侮れないのだ。かつてエクステリアを駆使して人心を操った、あの食蜂操祈だ。それを忘れてはならなかった。

 どんな奥の手を隠しているかもわからない。

「どうやら保険を掛けておく必要がありそうね……」

 碧子はつぶやくと、デスクに置かれた電話機の受話器を取って、記憶していた番号を押すのだった。

 

 

          ◇            ◇

 

 

「高桑さん、電話が掛かってきてるんですが、どうしましょうか?」

 控えめなノックの後、ドア越しに声がして高桑竜二は女の尻に彫り物も鮮やかな自分の腰を烈しく打ちつけながら、

「誰からだっ!?」

 と怒鳴り返した。

 犯していた女には既に意識がなく、ベッドのシーツは(おびただ)しい量の血で真っ赤に染まっている。

「それが、わかりません……」

「わからねぇだぁ、てめぇ何年俺の下に居るよぉっ! 名も言わねぇヤツなんかイチイチ取継ぐんじゃねぇっ」

「ただ、松川さんの紹介だって言ってたので、一応、お耳に入れておいた方がいいかと思いまして」

 その言葉に高桑の削げたような頬がピクリとなった。子供が飽きた玩具を放り投げるように、ぐったりとなった女の体を払いのけると、全裸のまま近くにあった椅子にドッカと腰掛ける。イライラしく煙草を銜えると

「入ってこいっ」

 と、ドアに向けて再び吠えた。

 現れたのは高桑とは対照的に、スーツ姿の細身で眼鏡の色白の若い男だった。

「松川の紹介だぁ? 何モンだ、そいつは?」

「よろしければ、二番をお取り下さい」

 スーツ姿の男はコードを長く引きずったまま、手にした固定電話を厳つい大男の前に差し出した。

 高桑は若い男をギロりと()め付けると、ボタンを押して受話器を取った。

「誰だてめぇっ、何の用だっ」

 威嚇する。

#高桑竜二さんですね――#

 聞こえてきたのはボイスチェンジャーによって電子音声風に変えられた声だった。高桑の怒りが爆発する。

「誰だって言ってんだよっ、てめぇっ、ふざけてるとタダじゃすまさねぇぞっ!」

 普通の相手なら震え上る恫喝だったが、逆に相手は愉快そうに笑い出した。

#まぁそういきりなさんなって――#

 と、さらに挑発してくる。

「おい白石っ、コイツの番号調べろっ」

 白石と呼ばれたスーツの青年は

「それなんですが……さっきからいろいろやって調べているんですが、わからなくて……」

「なんでだっ! こういうときのためにオメーが居るんだろっ」

「ウチにある器機を総動員してますが、どうも向こうの方が強力なシステムを使っているらしくて……」

 青年は言外に組織の規模の違いを臭わせていた。

#無駄話は済みましたか――?#

「おまえ、何モンだ?」

 高桑は、はじめて相手を警戒して声のトーンを抑えた。

#そんなことより、ベッドで血まみれになってる女、なんとかしないと死んじゃいますよ、踏み込まれたらなんて言い訳するつもりですか? フフフっ#

 ギョッとした高桑は椅子から立上がると部屋を見回した。部屋のカーテンはみな閉じている。

#ムダですよ、そんなことをしても、こっちからは丸見えですから#

「てめぇ……俺になんの用だ……」

#なぁに大したハナシじゃありませんよ、あなたが大好きなことをさせてやろうってだけで#

「俺の好きなことだぁ?」

#好きでしょ、女をさらってオモチャにするのは#

「………」

#どうせやるなら、街で娼婦を拾ったりするより、もっといい女、極め付きのいい女の方が面白いんじゃないかと思ってね#

「いったい、何の話だ……」

#興味があるなら、いますぐ下のメールボックスを見てくるといい。そこにある封筒の中に詳細が記載されているから。関心がなければ話はこれで終わりだ#

 そう言うと相手は返事を待たずに一方的に電話を切ってしまった。

「てめっ!」

 怒号は、誰にも届かないまま宙に放たれた。

「クソがっ! 畜生、ふざけやがって……おい白石っ、ここのセキュリティは万全なんだよなっ」

「ハイ、電子的多重防御がされてますから――」

「じゃあ、どうしてむこうにこっちのことが筒抜けになってるんだ?」

「わかりません……ただ……」

「ただ何だ?」

「相手が能力者だとすると、いかなる防御手段も意味がなくなるので」

「能力者だと!?」

 酷薄そうな三白眼の厳つい頬がそそけだつ。

「白石、ウチのメールボックスに何か届いてるらしいんだが、見にいかせろっ、爆発物かもわからねぇから、誰かに中身を確かめさせてからここに持ってこいっ」

 高桑は生来の動物的本能から不吉なものを感じていたが、一方で話の先が気になってもいたのだった。

「ふざけやがって……おいっ、あの女、どっかに棄ててこいっ」

 ベッドで息も絶え絶えになっている女に顎をしゃくると、汚れたままのグラスにレミーマルタンをなみなみと注ぎ、安酒のようにグイッと一口にあおるのだった。

 



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番外篇 雨宿り〜サラリーマン川島栄策(二十六歳)の場合〜

「ゔぇーっ、センパイ、もー帰っちゃうんですかぁ、今日はみんなで一緒に年越しすると思ってたのにぃ」

 新入社員の近藤絵里が行かせまいとして俺の袖を引っぱっている。酔いが廻ってきたのか焦点の怪しくなりかけた目つきは、夜の街のネオンにも照らされてオフィスに居る時とは違って妙に艶かしい。

「エリちゃん、もう勘弁してよ、二次会どころか三次会まで付き合ったんだからさぁ」

 課の打ち上げのランチ会の筈が、二次会のカラオケ、三次会の居酒屋と、ダラダラとケジメ無く若い連中たちの空気に流されてしまっていた。

 もちろん部課長含めて妻子持ちのシニアはランチ会を終えるとさっさと帰ってしまっている。残ったメンバーで最年長なのが俺だ。俺は今日は実家にまで帰るつもりで居たので、これ以上、遅くなるのはさすがに拙かったのだ。

「だってまだ八時前じゃないッスか、川島さんっ、帰るの早すぎっスよ、もう一軒だけっ行きましょっ、俺、いい店、知ってるんですっ」

 入社二年目の後輩、菅野康雄も絡んでくる。コイツは普段は大人しくて真面目、仕事ぶりも堅実なのだが、酒が入るとしつこくなるというめんどくさい処があった。

「菅野、もう、いいだろ、おまえも今までずーっと呑んでいい気分でいるんだから、頃合いを見て帰るんだぞ、今日は大晦日だから大目に見るが、真っ昼間っから酒呑んで、クダまいたあげく元日から朝帰りってのは感心しないからな」

「そんなつまんないこと言わないで下さいってば、日頃、溜まった鬱憤を晴らしてるんですからっ」

「ダメだダメだ、おい松岡っ、後は任せたぞっ」

 俺は後輩の中ではいちばんの古株の松岡恵一に丸投げすると

「えー、ホントに帰っちゃうんですかぁ、信じらんなぁーい」

 グズる後輩たちを尻目に

「俺ンちの実家は遠いから許してくれっ、ホラ、雨も落ちてきたし」

 キッパリ断ると駅に向かって小走りになった。

 ただ、私鉄とJRの駅が離れていることを忘れていたので途中、本降りとなって、道半ば、とある民家の軒先で雨宿りを余儀なくされてしまったのだ。

 大晦日、いかな東京とはいえ外縁部の住宅街の路地は閑散としていて、店のシャッターはみな閉じている。傘を買おうとコンビニでもあればと思ったが、目につく範囲でそれも無かった。

 結局、小降りになったら駅まで一気に走ろうと思ったが、いっかなその気配もなく、五分、十分……と、ただ徒に時だけが過ぎていき、途方に暮れた。

「ちっくしょー、ついてねぇ……ずぶ濡れになっても行くしかないか――」

 そう自分に檄を飛ばしたとき、

「あの、駅まで行かれるんですか?」

 そう言って道を歩いていた少女が話しかけてきたのだ。

「あ? え、ええ――」

「じゃあ、私も駅まで行きますので、ご一緒しませんか?」

 そう言って、手にしていた大振りの傘を差し掛けてきた。

「あの、いいのかな? 二人だと濡れちゃうよ」

「この雨、当分、止みませんから」

「そうですか……すいません、じゃあ、お言葉に甘えて――」

 こうして時ならぬ幸運と言うべきか、少女と相合い傘をする機会を得た。

 一緒に歩き出すと彼女は上背もあってスラッとしていた。足元はスニーカーなのに目線は自分とそれほど大きくは違わない。茶髪のカーリーヘアにややサイズが大きめの赤いキャップを目深に冠り、丸眼鏡の濃いサングラスの下の頬は白くて新鮮だった。控えめな色あいのリップグロスも初々しい。

 きっとまだ碌にキスの味も知らないのだろうな、と俺は勝手に思っていた。

 スタジャンの下はつなぎらしく、絵描きのたまご、とでも言った感じで、灰色のズボンのところどころに絵の具の染みが残っている。俺の食欲を焚きつける柑橘系のコロンの体臭の他に、仄かに油絵の具の香りがしていた。

「キミは高校生?」

「いえ、まだ中学生です」

「中学生か……絵を描いてるんだ?」

「ほんのちょっとだけです。描くってほどではありません」

「いいよねぇ、自分が描きたい絵がかけるのって、うらやましいな」

「そんな大したことじゃないので……」

 あまり大人の男との会話に狎れていないのか、朴訥(ぼくとつ)な受け答えにも好感が持てるのだった。

「バッグ、濡れないかな?」

 傘からしたたる雨粒が、肩にかけたトートバッグに落ちているのに気がついて注意を促した。

「あ、そうですね、ありがとうございます」

 少女は背にしたバッグを前に抱き寄せると中身をチェックしはじめた。まだ未熟だが膨らみかけた胸の曲線が悩ましい。少女を間近にしてあらためて思うが、やっぱり十代の肌は格別なのだ。肉の固さが二十代の熟れた体とはかなり違う。無垢な青い果実を前にして奮い立たない男は居ないだろう。

 俺にとって、こういう年頃の娘にセックスの手ほどきをするのは、いつでも最高のお楽しみだった。自分の体の仕組みすら満足に知らない生娘が、たった一晩で蛹から蝶に生まれ変わるように変貌を遂げていくのをいちばん近くで見守ること、その手伝いをすること、この世にそれ以上の歓びはないだろう。

 年が明けたら、また例のところに予約をいれるとするか――。

 たった一晩に一万ドルは大金だが、逆を考えれば安いとも言える……。

 いま傍らに居る、このレベルクラスの美少女のバージンを確実に食えるのだから。

 まったくいい時代になったものだ。

「大丈夫だった?」

「ハイ、もともと大したもの、入ってないので」

 開いたバッグの口からは、ティーンエイジャー向きの大判のファッション誌が覗いている。バッグの表面にはワッペンやらステッカーなどがたくさん貼付けてあって、ポップでファンキーなファッションへの憧れか、ちょっと背伸びをしているようなところのある素朴な少女の雰囲気とよくマッチしていた。

「こんな時間にこれからどこへ行くの?」

 大晦日に、それも夜になってから中学生の少女が一人で出かけるというのも不思議な気がして訊いてみる。

「それは……」

「いいにくい? 彼氏とデートとか?」

「………」

 どうやらそうらしかった。ただ、それ以上踏みこみのも可哀想だと思い、話題を変えることにする。

「僕はこれから館山まで帰るんだ。お盆以来の帰省でね」

「館山? ずいぶん遠くまでですね」

「徒歩も入れると、今からなら十一時までに帰れればいい方かな。キミはどこまで行くの?」

「学園都市までです……」

「じゃあ、僕とは反対だ」

「そうですね――」

 そうこうするうちに駅に着いて、

「何かお礼をしたいんだが……」

「お礼なんて、そんな……」

「まぁ、そう言わないで……チップというのも失礼かもしれないが……」

 俺は五百円玉にネームカードを添えて差し出した。

 少女は固辞していたが、このままでは解放されないと思ったのかやがてどちらも受けとった。ピンク色の手袋をはめた手が名刺を目の前で読み上げる。

「ありがとうございます……グローバル證券の川島栄策……課長補佐さん……偉い方なんですね」

「大したことないよ」

 それほどでもある。同期では出世頭だ。

「大きな会社ですよね、私でも社名を聞いたことがありますから……」

「何かあったら連絡して」

 中学生の少女に投資話もないものだが……。

「ハイ……」

 少女は頷いた。

「できれば名前を教えてくれないかな?」

「それは……」

 相手が躊躇ったので深追いは避ける。

「いいよいいよ」

 すぐ引き下がると、逆に相手は負い目を感じてガードを下げてくるものなのだ。

「あの、私からもお返しをさせて下さい……」

 案の定、少女の方から切り出してきた。袋の中から未開封のポッキーの箱を見つけると俺に差し出してくる。

「こんなものしかなくて……」

 申しわけ無さそうに言った。確かに大人の男には少しばかり扱いに困るものかもしれなかった。

「じゃあ、こうしないか? たしか中には二つパックが入っている筈だから、一つずつ、半分こにしよう」

 少女は頷いて、パックの一つを俺に差し出してくる。俺はそれを受けとると、

「そこの名刺のアドレスにメールを送ってくれたら、その時はこのパックを開けることにするよ」

「えっ、そんなっ……」

「連絡、待ってるよ、差し出しに“ポッキーの美少女”って書いてくれれば分かるから、それなら名乗らなくても済むよね」

 俺はそう言い残すと、とっておきの笑顔をつくって少女に背を向け、改札口の方へ歩き出した。これで落とせなければ縁がなかったというだけのことだ。勝算は半々というところか。

 だが期待半分で後ろを振り返った時には、もうそこに件の少女の姿はなかったのだ。

「ハズレかぁ……まぁ、待てば海路の日和あり、だな」

 ホームからの発車ベルが聞こえて、俺はエスカレーターを駆け上がっていった。

 

 

 




ホットパートっぽいエピソードの前の脇道です

一応、伏線、になってたりする・・・かもです


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蜜の想い・和みの香り

          LⅩⅣ

 

 一緒に年越しができるなんて――!

 レイからは訪問するのは十時頃になると言われていて、操祈は今か今かとしきりにリビングの掛け時計に目を遣っては胸を躍らせていた。

「もうすぐ……ああ、レイくん早く来ないかなぁ、もう、いつまで私を待たせるつもりなのよぉっ、大晦日なんだからぁ、寄り道なんかしてないでさっさと“帰って”くればいいのにぃっ――」

 遠足前の子供のように心が浮ついた感じになっていて、幸せそうな笑顔のままクッションを胸に抱くと長椅子の上にコテっと転がる。

 やがて――。

「本当に久しぶりね……時間を気にしないで一緒に居られるのは……」

 ひとりごちた操祈は真顔になっていた。

 レイとは四日の朝までずっと一緒に過ごすことになっていたからだ。関係を結んでからも、こんなにも長く二人だけになれるのは初めてのことだった。

 

 まるで新婚旅行みたい――。

 

 ふとそう思ってから、急に“初夜――”という言葉が胸に居座って、体の方が勝手に騒ぎはじめてくる。クリスマス以降、夜毎のデートはいつもあっさりとしたもので終わっていたからだった。それだって愉しいひとときには違いなかったが、操祈の女の部分は密かに熱を溜め込むかたちになっていたのだ。

 今夜はきっと彼から体を求められる――。

 女の弱み知り尽くした手と口に、指と舌とで泣き処を丹念に探られることに……。

 あんなことや、こんなことまでされて。

 肉体の感動に引きずられて心までもが動かされていた。

 そして、あっ――と、思った時には女性特有の器官が潤んで、肌着を汚してしまったような感覚になっていたのだ。慌てて長椅子から立上がると、振り返ってフレアースカートを摘み上げ、みっともない染みが付いていないかを確かめずにはいられなくなるくらいに。幸い、そこまで拡っては居なかったが、

「なにやってるんだろう、あたし……」

 操祈は慌てて化粧室に駆け込むと、穢れが移らないように注意して、まずスカートだけを先に下げ、重たくなった肌着をずらして便座に腰を下ろすのだった。噴水シャワーをかけてしどけなくなった部分を洗い清める。つい小一時間前にシャワーを浴びた際、清潔な肌着に着替えたばかりだったにもかかわらず、ぐっしょり濡らしてしまったクロッチの部分を怨めしげに見遣りながら。

 以前にレイからは、

“先生はきっと多いタチだと思うから――”

 と、言われていたことを思い出して、情けなさに自己嫌悪に陥るのだった。

 

 

『……なによぉ、多いタチって、あたしのことをまるでしまりのない女みたいに言ってぇ、憎らしいっ……』

『でもそれって、とってもステキなことなんですよ、男にとってはスゴく嬉しいこと。だって大好きな女の人が愛情深くて、感じやすい体をしているってことだから……“イイコイイコする”とそれに応えて惜しげもなく、ボクにご褒美をふるまってくれる……それを他ならぬ先生みたいな人がしてくれるなんて……もったいなくて、ありがたくて……』

『……もう……レイくんの……バカ……』

 

 

 男からすると、どうということもないベッドの中での睦み言の一つなのかもしれないが、女にとってはやはり“刺さる”物言いなのだった。

「やっぱりわたし……だらしない女なのかなぁ……」

 トイレの中で消沈したままひとりごちた。

「……こんなになっちゃったの、みんなレイくんのせいなんだゾっ……あたしをこんなふうにしてぇ、どうしてくれるのよぉ……責任とってよねっ……」

 ぶつぶつぶつ、恨み言をひとくさり。

 ようやく心と体の整理をつけた操祈は、レイの目に触れるのを意識して使うのを避けていたライナーを、今度は覚悟をきめて装着することに決めるのだった。

 汚れ物を手に化粧室から出る、と、ちょうどその時である。廊下の先の玄関のドアが押し開かれて、見知らぬ少女が入ってきたのだ。

 ギョッとした操祈はそのまま凝固(かた)まってしまった。刹那、さまざまな思考が頭の中を駆け巡る。レイが来ると思って、うっかり鍵を開けっ放しにしていたかもしれないと、自身の不用心を諌めて

“でも鍵はかけていた筈よね、だってレイくんには合鍵を渡していたんだから……それとも別の部屋の鍵と同じ仕様になっていたのかしら……そんなことってある……?……まさかピッキング? じゃあ、この()、空き巣さんなの……!?……こういう時って……”

 恐る恐る、

「あの……お部屋、お間違いではありませんか……?」

 少女はそれには応えずにドアを締めると静かに鍵を掛けた。

 カチャリ――。

 その一連の動作には見覚えがあって、操祈はやっと不意の闖入者(ちんにゅうしゃ)がレイであることに気づいたのだった。

「レイくんなのぉっ――!?」

「遅くなりました」

 馴染んだ声が応える。

「なぁにぃ、その格好っ!」

 ぷーっ、クスクスっ――。

 噴き出してしまった。

「だから笑わないで下さいって言ったのに」

 確かにレイからは、昨夜の別れしなに、けして笑わないでと釘をさされていたのだが、なんのことやらわからずにそのまま諒解していたのだった。

 他人目のある時間にアパートに出入りするとなれば、何か工夫が必要なのだとは思うが、

 まさか女装してやってくるとは――!

 予想の斜め上どころじゃなく、想定外、埒外の行動だった。

「だって、だってぇ、しょうがないじゃないのよぉ、レイくんがレイコちゃんになってやってきたんだもん……ああ、おかしいっ」

 コロコロと笑い声をあげてしまう。ひとしきりの発作が治まって、操祈は手に握っていた肌着に気がつくと、さりげなくそれをスカートのポケットに押し込んだ。とっさに代えに穿き換える理由を探して、

「ちょっと待ってて、写真を撮るからっ」

「え――!?」

「いいでしょっ、だっていつもレイくん、あたしの写真、撮ってるんだからぁっ、今度は私にも撮らせてちょうだいっ」

 キッパリ厳命する。

 ほどなく旧式のデジタルカメラを持って戻ってきた操祈は、しおらしく玄関で待つ“ポップでファンキーな茶髪の美少女”にレンズを向けるのだった。

 

 

          ◇            ◇

 

 

 シャワーを浴びてリビングに現れたときには、いつものレイに戻っていた。ボサボサの髪にトレーナーの上下というラフな格好である。

「いい香り――」

 少年は部屋に入ってくるなり鼻孔を膨らませて言った。

「そうお、いますぐできるから待っていてね」

 リビングは温めた蕎麦ダレの食欲をそそる甘辛い香りに包まれている。

「夕ご飯はどうしたのぉ?」

「新宿駅でハンバーガーを一つ食べただけです。スケジュールがけっこう押していて」

 少年はダイニングテーブルの椅子に腰掛けながら言った。

「そうよねぇ、男の人があのメイクをするんだから時間がかかるわよね……大変だったでしょ?」

「ええ、まぁ、それもありますけど……そもそも同じ都内と言っても端から端までを往復するのにはかなり掛かりますから。行って戻ってくるだけでもちょっとした旅行になっちゃうくらい」

「あら、じゃあお家では何も食べなかったのね? ご両親はまだ戻ってきてらっしゃらないの?」

「はい……なんだか忙しいみたいで……」

「さすがにあの格好は、ご家族の方たちにはみせられないわよねぇ、本当にびっくりだったわ……じゃあ、お蕎麦、多めにするわね」

「ありがとうございます……それにしても女装すると、いろんなことがわかりますね、女の人の大変さとかが……」

「そうよぉ、大変なのよ、女って」

「弱い性の側にいるってことが、どんな感じなのか体験できましたから……ちょっと頼りないっていうか、馴れているはずの街並も、夜一人で歩くのが心細かったりして……」

「そうかぁ、そういうことって、ふだん男の人は感じないものなのね……」

「とても新鮮でした……それに、いつでも男の視線を感じるのってのも、なんか嫌ですよね。見られていることを意識していないといけないって言うのも煩わしいし……」

「合格よ、女の気持ちがわかって貰えて嬉しいわ……はい、お待ちどおさま」

 操祈は年越し蕎麦を二つ、盆にのせてダイニングにやってきた。

「わー、すごい、すごく手が込んでるじゃないですか」

 出されたそば(どんぶり)を見て少年は目を丸くする。

 蕎麦の上には、薄切りにした紅白の蒲鉾と鶏肉がきれいに盛りつけられていて、春菊なども添えられて彩りも良く美しい。香りだけでなく見た目も美味しそうに出来上がっていた。

「うん、ちょっと頑張ってみたの、食べてみて、お味はどうかしら?」

 操祈もテーブルに向き合って、年越し蕎麦を啜り始めた。

「すごく美味しいです。香りづけの柚子の皮もいい感じで」

「おせち料理の余り物を使っただけなんだけど、良かった、気に入ってもらえて」

「キッチンの立ち姿もだいぶ板に付いてきましたね」

「こらぁ、生意気なんだゾっ」

「若妻らしくて、とても魅力的ですよ」

 恋人の言葉に、操祈の箸がピクッと止まった。それは彼女のと胸を衝くものなのだった。

「うん――」

 どこか幼気(いたいけ)に頷いて視線を上げると、真剣な眼差しを寄せている少年の黒い瞳と目が合った。

「ぜったいに誰にも渡しませんからね……先生のこと」

「うん……」

 少年はテーブルから乗り出して顔を寄せてきていて、唇を求められているのだとわかった。

 操祈も応えて顔を寄せる。

 愛する人との口づけは、女にとって、いつでも心を甘く蕩けさせるものなのだった。

「愛してる……キミのこと……」

 初めて“キミ”と、親称で呼ばれて、目頭が熱くなる。

「愛してるわ、あなたのこと……誰よりも……」

 テーブル越しのキスは長く、互いに離れ離れになることを惜しむように繰り返し、何度も交わされることになっていた。

「お蕎麦、すっかり伸びちゃったわね……いま、新しいのを作りなおすわ……」

「いいんですこれで、幸せが伸びるなんて、とても縁起がいいことじゃないですか」

「でも……」

「おいしい出汁を吸ったお蕎麦もいいものですよ」

「レイくんがそれでいいのなら……」

「先生の手作りしたものなら、なんだってとても美味しいにきまっていますから」

「……ありがとう……レイくん……レイ……」

 操祈も勇気を出して初めて恋人をファーストネームで呼んでみた。

 少年はニッコリするが、

「ボクはやっぱり、レイくんって呼ばれる方が好きかな……だって、お姉さんっぽいから」 

「レイくんって、もしかしてシスコン?」

「かも知れません、姉属性はあっても妹属性って全然ないみたいなので。年上の綺麗なお姉さんって普通に憧れの対象だし……男女を見ていても、ついそういうカップルの方に興味がいったりしますから……でも、ときどき先生のこと、年下に感じることもあるから……よくわからないです……」

「年下に……!?」

「こんなに美人で綺麗なのに、すごく可愛いから……ねぇ先生、後で写真を一緒に見ませんか?」

「写真って……」

「撮り溜めたものをご披露します。ボクの撮った先生の写真のコレクション」

 既にいろんな写真を撮られてしまっていることは判っていた。どれもみな恥ずかしいものばかりだったと思う。

「いいけど……」

「ご自身がどんなに綺麗で可愛いか、鏡に映る自分とは違って、きっとびっくりするような発見があると思いますから」

 そう言うと少年は、丼にあった蕎麦をまた美味しそうに啜り始めるのだった。

 




いつも閲覧、ありがとうございます

昨日は、更新するつもりでいたのですが、サボってしまいました



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西伊豆の夏

          LⅩⅤ

 

「ハーイ、ミサキチ――」

 ビーチベッドで怪訝そうな顔で片肘をついて身を起こしていた食蜂操祈に、町村淳子がドライマティーニのグラスを差し出した。

「呑んべのミサキチ好みに、ジン多めにしといてあげたわ」

「あ、ありがとう、淳ちゃん、でも呑んべはないわよぉ、ひどいわねぇ」

 苦笑しながらグラスを手にしても、なお操祈はあたりを窺うかのように見回していて淳子は

「どうしたの?」

 と、訊いた。

「うん……今、そこに誰かが居たような気がして……」

「え? 誰もいないじゃない、っていうか居るワケないでしょ」

 淳子は取り合わなかったが、操祈はまだしっくりしない様子なのだった。

「夢でも見ていたんじゃないの?」

「気のせいかしら……」

 それもそのはず、この西伊豆にある高級リゾートホテルに併設されたヴィラは、一つ一つがプライバシーを保たれるように天然の地形を利用して海岸の絶壁に沿ってレイアウトされていて、それぞれのプライベートビーチにはそれぞれのヴィラからしか立ち入れないからだった。そして各ヴィラへの出入りは専用エレベーターに限られている。たしかに非常用の階段が絶壁を這って崖の上にまで伸びてはいるが、点検以外にそれが使われたことはホテルがオープンして以来一度もなかったとのことだった。

「そうね、そうよね……うん……」

 目に見える範囲、まわりの白い砂浜には不審な足跡もなく、海も遠く沖までつづく白い波頭の連なりが見えるばかりで人の気配はどこにもなかった。

 打ち寄せる波音と蝉の鳴き声があたりを囲繞(いにょう)している。

 淳子は手にしていたビールの大ジョッキをゴクっとやると、操祈の隣のビーチベッドに身を横たえた。

「いい気持ちぃ……ここは静かでいいわぁ……」

「あら、潤子さんは?」

 音が同じ“じゅんこ”で紛らわしいが、操祈は同い年の町村淳子は「淳ちゃん」、一つ年上の潤子・エーデルマン(旧姓:帆風潤子)に対しては「潤子さん」と敬称をつけることで二人を呼び分けていた。

「うーん、帆風さんならきっとフロントに行ったんじゃないかな? エレベーターが上がったままになってるから」

「フロントに――?」

「さっき、今夜のディナーのバーベキュー素材の一部をチェンジしてもらうとか言ってたから……わたしも今までバーに居たから気がつかなかったけど……」

 帆風潤子は学生結婚した後、姓が夫のエーデルマンに変ったが、みんなは今も旧姓で呼んでいた。

「それって私がしなくちゃいけないことなのに……」

 操祈は先輩を気遣うが

「ミサキチはお料理苦手でしょっ、まぁここは“主婦”に任せときなさいって」

 淳子の方はあっさりしたものだった。

 三人はともに先端大の理学部数学科のクラスメートで、ともに最終学年だったが、操祈が先に論文審査が通って秋からは社会人となることが決まったため、卒業旅行と銘打って仲良し三人組でショートバカンスを過ごすことにしたのだ。

「あーあ、ミサキチが九月から居なくなっちゃうなんて、寂しくなるなぁ……」 

「淳ちゃんだって、もうすぐ論文、仕上がるんでしょ? 来年は大学院への進学も決まっているし……」

「うーん、そうなんだけどねぇ……」

 淳子は寝返りをうって操祈の居る方に顔を向けて横臥になると、肩肘をついて頭を支えた。

「ねぇ、ミサキチはどうして進学しないの? あんたデキるのにさぁ」

「私には才能が無いから……」

「ナニ言ってるのよっ、円香(まどか)先生も、もったいないって言われてたわよ、論文も良く書けていて、学科内でも評価が高かったからって」

「………」

「わたしもそう思うのに……」

「あまりわたしを買いかぶらないで……なんでもそうなの、ある程度までは出来るようになるんだけど、そこから先が凡人の悲しさでピタッと伸びが止まっちゃうのよ。ピアノもそうだったし、数学もそう……努力はしても、どれもみんな中途半端……だから、子供たちを教える方がいいのかなって思って……才能のある子が伸び伸び育つように、そのお手伝いをする方が私には似合ってるような気がして……」

「ダレがみんな中途半端の凡人ですってぇっ! この体をしているオンナがそれを言いますか、それをっ!」

「きゃぁっ!」

 淳子が手を伸ばしてきて操祈のワンピースの水着の胸を掴んでゆさゆさ弄ぶ。おとなし目のデザインではあったが、操祈の胸許ははちきれんばかりになっていて、真っ白い肉が盛り上がって谷間は深い陰影をつくっていた。

「あら、仲がいいわね」

 戻ってきた潤子が、さっそくその様子を目撃して顔を綻ばせた。

「帆風さん、まさかその格好でフロントに行ったんですか?」

 潤子は肌の露出の多い大胆なピンクのビキニ姿だったのだ。経産婦ではあっても、肌の白さとみごとなボディラインはいっそう充実することはあっても、少しもくずれては居ないのだった。

「まさか、ご心配なく、ちゃんと水着の上にワンピースを着て行ったわよ」

「えーっ、でもエロエロじゃないですかぁ、あのワンピ、スケスケで、胸許が大きく開いてるから首筋にくっきり残るキスマークの痕も隠せないしぃ」

「あら、そうかしら、でもそのくらい平気よっ、うふふっ」

 潤子は恬淡とした笑顔を向けている。

「さすが母は強し、だわ」

「“女王”のご希望に沿って夕食のメインのステーキを一部、ロブスターに代えてもらってきました」

「潤子さん、もうその呼び方、勘弁して下さい。本当に後生ですからぁ……お料理の変更だって自分でやるつもりだったのに……」

 操祈の言葉には哀訴の色が濃かった。黒歴史を掘じくり返されてはくすぐられているのだ。

「ごめんなさい、ついクセが出ちゃって♥……でもいいじゃありませんか、だって、この旅行は操祈さんの卒業を記念してのお祝いなんですから」

 潤子は、かつては操祈の派閥のナンバー2だったが、今はいろいろな意味で先輩だった。大学進学早々に結婚をして出産、今は一歳半になる息子の母親である。

 結婚が公にされた当時、周囲はあのオクテの見本のようだった、帆風潤子――が、とみな驚いたものだったが、逆に今は超美人のママとして学内では尊敬と憧憬の視線を集めている。

 結婚、妊娠、出産などの所為で単位の取得が遅れ、漸く研究テーマが決まったばかりで卒業は早くても来年の春以降になるが、“親友”である操祈の卒業企画というので、一も二もなくこの旅行に参加していた。

「じゃあ、わたし、帆風さんの飲み物を作ってくるわ、何がいいですか?」

「女王……操祈さんは何を召し上がってらっしゃるの?」

「ミサキチにはドライマティーニです。彼女用にスペシャルにアレンジした、ジン、どっばぁーの」

「じゃあ、わたしもそれで――お願いしていいの?」

「ええ、もちろんです」

 潤子に対しては、物怖じしないはっきりした性格の淳子も一目置いていて、その分、操祈との間と較べると距離があったが、むろん気の置けない友人同士であることには変わりがなかった。

 淳子がその場を離れると、帆風潤子は操祈の一つとなりのビーチベッド――淳子が使っていたベッドを一つ間に挿んで――に身を横たえるのだった。

「こんなふうに、プライベートでのんびりするの、久しぶりですね、いつ以来でしょうか?」

 潤子は、今も操祈に対して丁寧語以上の言葉遣いをすることが多かった。あるいは仮に言葉の選択は妥当でも、ニュアンスで敬意を滲ませてくる。それが今の操祈には本当に心苦しいのだった。

「ずいぶん、いろんなことが変ってしまいましたね……」

「あの潤子さんが、今では立派なお母さんですから……」

「わたしは操祈さんが常盤台の先生になるってことにもびっくりしましたよ」

「じゃあ、お互いさまですね……」

 特殊能力者が能力を失っていくにつれて、軽度の人格変容が見られることは珍しいことではなかった。能力によって覆われていた心のコアな部分が、消失とともに表に現れて、その人物がもともと持っていたより本質的な精神性、人格、といったものが以前よりも大きな比重を占めるようになるからだろう、と解釈されていた。また、むしろ逆に変容が見られない場合ほど、適応障害を呈するリスクが上がるとも言われていて、それは女性よりも男性にその傾向が強いという。

 帆風潤子は、力学系の能力者の常として能力消失に至るまでの猶予は短く、性格の変化もそれなりに速かった筈だが、周囲がそれに気がつくのにかなりの時間を要したのは、実生活における彼女の能力への依存度が小さかったことも関連していたのだろう。つまりは特殊能力などに(すが)らずとも、帆風潤子はそもそも周囲からの承認を必要十分に得られていたのだ。

 やがて恋愛に疎い控えめだった美少女は、開花の時を待ちかねていたかのように、長じるや絢爛たる大輪の花を咲かせて周囲を驚かせたのだった。

 一方、食蜂操祈の場合は少し様子が異なっていた。能力消失までの猶予期間は長かったにもかかわらず、自身の変化とその受容に至る道のりは、ある種“闘い”の面があったからだ。変化へのなだらかな順応ではなく、過去の自分の清算と克服という色合いが強かったのだ。ただ操祈はそれを、今では遅れてきた思春期の嵐のように捉えて懐かしむゆとりを取り戻している。

 異性に対しては積極的――と、いってもあくまでも児童のレベルでの話だが――で、周りからは“肉食系”の女子とも看做されていた美少女は、情熱を抑えて控えめになり、生真面目な、どこか脆さも感じさせる大人の女になっていた。

 ついでに食べ物の好みまでもが変っていたのだった。肉よりも魚介類をより好むように。

「お待たせぇー」

 淳子がマティーニのグラスを三つ載せた盆を持ってビーチに戻ってきた。

「はい、帆風さん――」

「ありがとう」

「ミサキチにもお代わり、置いとくわね」

 淳子は自分のグラスを持って二人のビーチベッドの間にある開いたベッドに横になろうとして、既に居る二人を見比べると急に黄昏(たそが)れた顔になって、大きなため息を一つ吐くのだった。

「どうしたの? 淳ちゃん、ため息なんか吐いて、らしくないわね」

「なんだかなあーって思って」

「なんだかなあーって?」

「あたしさー、二人の間に入ると、なんだか捕まったエイリアンになりそう」

「なんですか? 捕まったエイリアンって?」

 潤子は不思議そうな顔をして半身を起こした。ピンクのビキニの胸がゆっさりとした量感を見せつけている。

「いいの、聞かなかったことにして、口にするとかえって口惜しくなるから」

 淳子は間のビーチベッドにドンと横になると、ちょっと不貞腐れたような顔をして、マティーニを口に含んだ。

「あーあ、人生って不公平よねっ」

「あら、淳ちゃん、哲学科へ転科でもするつもり?」

「だめよ、町村さんには数学の才能があるんだから、変な浮気心を起こしちゃ」

「ヘンっだっ、持てる者に持たざる者の苦しみが、わかってたまるかってんだっ! 夕焼けのバカヤローっ」

「夕焼けですか?……岩影に居るからわからないけれど、まだお日様は高いはずですよ、もう少し日が翳ってきたら、せっかくだから軽くひと泳ぎしましょうか?」

「わたし、泳ぐのはあまり得意じゃないけど……」

「やったー、ミサキチにも不得手なこと、あるんだ」

「やったーってなによぉ」

「じゃあ、わたし、ミサキチに泳ぎ、教えてあげるわ、これでも元水泳部だったんだから」

「うーん……そうね、じゃあ、せっかくの機会だから教えてもらうことにするわ」

 操祈はちょっと迷ったが、淳子の提案に応じることにする。

「わたしにも教えて下さい、いままでずっと我流でやってきたから正式な泳ぎ方って習ったことがないんです」

「いいだろう、みんなわたし習うが良い、フォッフォッフォ」

 満足げに淳子は胸を反らした。が、すぐにつるんと未発達な自身の胸許と両隣のけしからんボディとを比較して、また唇をグッときつく結ぶことになるのだった。

 




遅くなってしまいました


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操祈のアルバム

          LⅩⅥ

 

「……どれもステキですよね……」

「……レイくんが……そう言うのなら……」

 撮影者であるレイの解説や寸評を聞かされながら、操祈は大画面に次々と映されていく自分自身の写真と向き合わされていた。常盤台に着任してから以降ずっと、二年余りの間に撮られていた写真の一枚々々を。

 中には、いったいぜんたい、いつの間に、どうやって撮ったのかしら? と思うものもあって、自分の無防備な姿を撮られるというのは、なかなかこそばゆいものなのだった。

「ねぇ、レイくんはテレビを見なくてもいいの? 男の子の好きな格闘技とか、みんなが観る歌番組とかやってるんじゃない?」

「ボクには先生を見ること以上に心おどることはありませんから」

 操祈本人を前にして、こうぬけぬけと言われてしまうと、二の句が継げなくなってしまう。

「こうして先生と年を越せるなんて、夢みたいで、すっごく幸せ」

「そう……それならいいんだけど……」

「先生は、何かご覧になりたい番組でもありますか? いつでも変えますけど……」

「ううん、別になにもないわ……」

 去年も一昨年も、この部屋で独りで過ごす大晦日は、録り溜めしていた映画を見ながらグラスを傾けている内にそのまま寝過ごしてしまい、いつの間にか年越ししていた、などというようなことを繰り返していたので、年末年始にとりたてて思い入れがあるわけでもなかった。

「じゃあ、続けますね……これは……」

 画面には操祈の笑顔が大写しになっていた。髪留めに、長い金髪を頭の後ろで結っているリボンのシュシュが可愛らしい。

「去年の体育祭の時のものですね……テニスウエアを着ておられるので今年のじゃないです……エキジビジョンで当時のテニス部長の進藤ルナ先輩と打ち合った後、握手をされている時のシーンみたいです」

「ああ、そんなこともあったわね……全然、歯が立たなくて……」

 ワンセットマッチで、スコアは6-1の完敗。だが急ごしらえながらも、たった1ゲームだけだったがサービスゲームをキープできたことが嬉しかったことを思い出した。

「そんなことないですよ、試合は進藤さんが勝ちましたけど、あのときも観客の心を掴んだのは先生の方でしたから……この笑顔もステキですよね……心根のやさしさが上手く切り取られていて、我ながら良く撮れてるなって思います……まぁ撮る側のボクとしては、先生のテニスウエア姿、期待していたのにノースリーブじゃなかったのがちょっとだけガッカリでしたけど。先生のきれいな腋の下を撮ろうと思って、ワクワクして待っていたので……」

「もう、なに言ってるのよぉ――」

 操祈はキッとなってかたわらの少年の顔を睨んだが、視線が重なると、相手が面白がっていることに気がついて目を伏せてしまうのだった。

「やっぱり怒った顔もすごく綺麗……でも怒らないで下さい……」

「怒ってなんかいないもん――」

 唇を尖らせて訴える。

「ただ、レイくんがエッチだから……先生としては叱らないわけにはいかないでしょっ」

「エッチなのはボクだけじゃなくて、みんなが期待してたんですけどね」

「もう、なんてイヤな子たちなのぉ……わたしのことをそんな目で見ているなんて……」

「先生だけど女だし、ボクは生徒だけど男だから……とびっきり可愛い女の人には、ボクも男として振るまうしかなくなくて……」

 唇を重ねられ、あっさり懐柔されてしまっていた。

「いいですか? 続けても――」

 しぶしぶながら頷くしかなかった。

「次は……」

 映し出された写真もまた操祈の笑顔を捉えたものだった。

 その次も、そして、その次の次も――。

「先生の写真って、笑顔が多いですよね」

「……わたし、そんなに笑ってばかりいたかしら……?」

「ええ、だんだん増えてますよ。着任したての頃は、きっとまだ馴れていなかったせいでしょう、硬い表情の時もあったんですけど、でも最近は、いつでもニコニコされているような……」

「また、わたしのことを緩んだ軽い女みたいに言ってぇ」

「そんなことありませんよ……だってステキな笑顔って、それだけで周りを明るく灯してくれるものじゃないですか。笑顔は大きな感情表現なので、わりと人格や人柄が現れやすいものなんです。写真に切り取るとそれが良く判ります。先生の笑顔って、いつでも自然で、偽りのない心が素直に現れているようで、だからどの写真も魅力的に映るんだと思いますよ」

「………」

「どんなに綺麗な顔をしていても、笑顔になると心の貧しさや卑しさ、品の悪さが現れてしまう人って、よく居ますから……でも、先生はそうじゃない……」

「わたし、レイくんが思っているような、そんな完全な女なんかじゃないから……あまり、かいかぶられてしまうと……」

 憧れを訴えられるのは嬉しくても、いつでも細かいところまで見られているのかと思うと重たくて、気持ちが休まる時がないような息苦しさも感じてしまうのだ。

「ボク、別に買いかぶってなんか居ませんよ。だって、先生が酔っぱらってお酒臭い息を吐いている時も知ってますし……それに……生理の時のにおいだって知ってますから……」

「だからっ、分かっていてもそういうことは、言わないのぉっ、もうっ」

 少年は、時にわざとデリカシーに欠ける物言いをして、操祈の心をかき乱そうとしてくることがあるのだ。

「みんな大好きです……だから先生は、いつでもそのままで、普通でいいんです……ボク、いつも言ってるじゃないですか、デートの前にシャワーなんて浴びなくてもいいのにって……でも先生は言うことを聞いてくれないですけど……」

 真摯な眼差しが向けられていた。憧れと優しさの綯い交ぜになった瞳の色の。

「ボクと一緒に居るときには、寛いだ先生を見せて下さい……これから四日間、ずっと他所行きのままだと肩が凝ってしまいますから……ね?」

 男と女が一緒に暮らすということがどういうことか、年下の彼の方に、既にその気構えがあるということなのだった。

「……かなわないな……レイくんには……」

「虜にされてるのはボクの方なんですけど……他の女の人には、こんな気持ちになったこと、ないから……」

「……私だって……私だってそうなのよ……」

「ええ、知ってます――」

「知ってますって……もう、憎らしいんだからぁ……」

 拗ねた操祈が甘えて、悪戯半分にキスを求めると、今度は少年に、いきなり舌を入れてこられて男の本気を教えられてしまうのだった。やさしいカーブを描いていた眉が寄せられて、愁いの表情に変っていく。口の中を探り回る舌の動きが、この後、自分の身にどのようなことが起きるのかを思い知らされているようなのだった。

 長いディープキスから、ようやく解き放たれた時、操祈はすっかり息を乱して、ふっくら豊かな毛糸のセーターの胸許をせわしなく上下させている。

 美しい年上の女性が乱れる容子を興味深げに見つめていた少年は、やがてやわらかい笑みになると、

「年が明けたら、初詣をしましょう」

 と、持ちかけてきた。

 初詣――!? 

 二人で外出するのは大丈夫なのかしら? いったい何所に行くつもりなのかな? と訝しみながら、操祈は「うん」と、すなおに頷く。

「でもその前に、先生のアルバム、もう少しご覧になりませんか? 年越しするまでには、まだ暫く間があるみたいですから」

 

 

          ◇            ◇

 

 

 長椅子の上で身を寄せ合い、レイの腕に抱かれて、操祈は慰められながら励まされながら、身を小さくして、顔を真っ赤にして画面に流し目を送っていた。とても正視には堪えられなかったのだ。それほど刺戟の強い画像の連続なのだった。時が下るごとに、レイとの関係が深まるにつれて、撮られていた写真は肌の露出が多いものになり、やがては裸身ばかりになっていたからだ。

 そしてついに修学旅行中のスナップ写真のシークエンスとなって、京都のあの如何わしいホテルでのものが大画面に映し出されたのだった。それは女がけっして他人に見られてはいけない姿を捉えたもので、単にキワドイとか、卑猥とかいうレベルを遥かに超えて、女の生理が無慈悲なまでに詳らかにされてしまっている。

 操祈自身ですら目にしたことの無いものを――。

「レイくんっ、もう勘弁してっ」

「もう少しで終わりますから」

「だって……」

「大丈夫ですよ……すごく綺麗で可愛いでしょ?」

「………」 

「こんなに美しい姿をしているのって、ボク、見たことがないです……きっと、他にどこにもないから……」

「………」

「これはキスをする前のものですね……」

 大きく拡大されたものを見せつけられて、あまりの恥ずかしさに操祈は呻いた。目を閉じて男の胸に顔を埋めて逃れる。

「ダメですよ、ちゃんと見てくれないと……」

「……レイくん、ひどいっ……ひどいわ、こんなのぉ……」

「大丈夫、これはボクがいつも間近にしていることですから」

 体を撫でられて、やさしい刺戟に抗議の言葉は封じられてしまう。

 その後も、少年は操祈の痴態を次々に画面に大写しにしていったのだ。全身だけでなく各パーツのアップも含めて。

 恋人の目線で捉えられた自分の体は、撮られた本人からすると、どこまでも無粋で救いのないリアルの連続に思えて泣きたくなる。

「……どうして……こんなひどいことをするの……?」

「非道いだなんて、どれも美の極みと言っていいくらいなのに……」

「………」

「ボクはそれを分かっていただきたいと思っただけで……きっと先生はご自身のことを良くご存知ではないと思うから……」

 男の手がゆったりしたセーターの中に忍び入ってきて、操祈は仕方なく求められるままに胸を開いた。ブラのフロントホックが外されて、たわわな肉の実りの一つが解き放たれて男の掌の中に堕ちる。

 若い恋人は指の腹でのの字を描くように乳暈の周りから繊細なタッチでなぞりはじめ、尖りにたどりつくと、また麓へ向かって下っていった。ところが操祈の体はそんな僅かなことでも、たちまちのうちに乳先が固く目覚めてしまうのだ。男の掌をさらに敏感に感じるようになるので、それが分るのだった。

 包まれて触れられて、慈しむように撫でられて、けれども決して強く掴まれたり、握られたりすることはなかった。女の肌の脆さと敏感さを知り尽くして、自分自身で触れる時よりも更にやさしく、そして大切にされていると感じずにはいられない恭しさで心と体の両方に問いかけてくる。

「あはぁっ――♡」

 堪えきれずに、操祈の口から甘い吐息がこぼれた。身を返すと、愛撫をねだって男の膝の上で仰向けになっていた。たっぷりしたセーターの裾が捲られて、裸のわき腹に唇が落ちてくると、くすぐったさに声を上げてしまう。

 さらに男の手がブラを奪おうとしていて、操祈は自ら肩ひもから腕を抜いて、それを手助けするのだった。やがてセーターの中から白い肌着が取り出されてくると、少年は両手で大事そうに捧げ持ちながら

「においを嗅いでもいいですか?」

 と言うのだ。

 レイがこうして(わざ)とらしく訊いてくるのは、こちらの反応を窺ってのことだと心得ていて、操祈は睫を伏せて目の動きで同意を伝えるのだった。

「いいにおい……やさしいにおい……」

「……そう……」

 愛撫と、言葉の愛撫によって、ささくれかけた気持ちが、あっという間に靡いてしまっている。 

「ねぇ先生――」

 呼びかけられて視線をあげて少年を見遣った。

「先生の写真は、ボクたちふたりの宝物にしませんか?」

 操祈は、せつないため息を一つして同意に代えるのだった。

「オリジナルとバックアップのコピーを二つ、都合、三つのチップをボクたち二人の生体認証で暗号化して……それを先生が保管する……それならいいでしょ? 見たくなったら二人で、またこうして一緒に楽しむっていう……」

 もはや是も非もなかった。

「ズルいな、ズルいんだゾ、レイくんは……」

「ずるい? どうしてですか?」

「だって私の写真ばっかりで、レイくんの写真なんか一枚も入ってないじゃないのよぉ、わたしだけ恥ずかしい思いをさせられて、そんなの不公平じゃない? 二人の宝物にするっていうのなら、あなたの写真も無ければおかしいわよねぇ」

「うーん……やっぱりそう思われますよね……」

 そう言うなり、少年はしばし無言になる。迷いがあるのか、どうしたものかと考えを巡らせる様子になっていたが、やがて

「わかりました……実は、もしそう言われたときのことを考えて、一応、ボクの分も用意してきたんですけど……」

 少年はバッグの中から別のチップを取り出すと、

「自宅でさっき撮ってきたばかりの写真ですけど……ご覧になりますか?」

「何の写真?」

「将来、先生のカウンターパートとなるものです」

「見たいわっ、是非、見せてちょうだいっ」

 何を仄めかされているのかは、すぐにわかった。もちろん目にするのは初めてではなく、今までに何度もあったのだが、しげしげと観察するまではしたことがなかったのだ。

 興味はあっても、ずっと彼が許してはくれなかったからだった。

 だが、期待に胸がときめかせて居たものの、画面に映し出されたのは、予想とはまるで違うものだった。

「あれ――?」

 白い砂浜が映し出されていて、少年も意外そうな顔をしている。

「どうかしたの?」

「まちがって別のチップを持ってきてしまったかな?」

「あら、レイくんでもそういうケアレスミスをすることがあるのね」

 少年は再びバッグの中を探ってチェックしていたが、見つからずに途方に暮れた顔をする。

 その間、大画面に映し出されていた写真は、スライドヴューで五秒ほどの間隔をおいて更新されていた。

 その写真に見るとはなく目をやっていた操祈は、既視感を覚えていつしか釘付けになっていた。

 白い砂浜、切り立った崖……やがてはっきりと見覚えのある風景に変わっていったのだ。

「ねぇ、この写真、どうしたの?」

 少年はちらりと画面に目を遣ってから、あまり関心がない様子でまたバッグを漁り始めた。

「ああ……それは以前、夏休みに家族で海に行ったときの写真だと思いますよ」

「海に? どこの?」

「えーっと、どこだったかな……たしか西伊豆じゃなかったかな?」

「西伊豆――?」

「一昨年だったと思いますけど……」

 そう言ってから、少年は不意に何かに気づいたようになって、画面に顔を向けた。

 画面には砂浜でビーチベットに横たわる紺のワンピースの水着女性の姿が映し出されていた。髪はブロンド、体のメリハリも見事な美女である。

「「この写真……」」

 奇しくも同じ言葉を同時に発していて、操祈はレイと互いにびっくりしたまま顔を見合わせていた。

「あ、その写真、先生にいつかお伺いしようと思って、すっかり忘れていて……こんなところに紛れていたのかぁ……」

「………」

「あの、ここに映っている女の人って、もしかして先生じゃないですか? サングラスで顔が分からなくて……でも良く似ているなって思っていたんですけど……それっきりになっていて……」

 少年は、長らく抱えていた疑問の答えが得られる好機とばかりに顔を輝かせていた。

 




深夜の更新になってしまいました

眠いです

多分、誤字ありまくりと思いますが

ご勘弁ください




誤字、書き間違いに気づいたのでなおしましたが・・・


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初詣と契りと

          LⅩⅦ

 

「……あっ……やっ……ああっ……あたしぃっ……」

 白いシーツのベッドの上で操祈は息を乱して、身をもがかせてた。うす桃色に上気した肌にはうっすらと汗の皮膜が浮いて、弱い半間接照明の(もと)でも窺えるほどテラテラと淡く光っている。

 時に強く否定するように顔を左右に打ち振って何かから逃れようとするが、豊満な胸を揺らしてわななく体は発情のサインもあらわに、官能の歓びにすなおになった女体の美しさと愛らしさとを見せつけているようなのだった。

 操祈は体を大きく開いて恋人の愛撫に身を任せている。

 普段は慎ましく心やさしい乙女が、ただ一人の男のためにだけ見せる、あられもない姿になって。

 時に何かに驚いたように目を盱り、時に悲しげに眉を翳らせる。けれども薄目を開けてはいても、しばらく前から、もう彼女の目にはなにも映っては居ないのだった。全ての意識が体の一ヶ所に集まっていて、そこで営まれている男と女の(せめ)ぎあい、情熱のドラマに懸命になって女の炎を燃やして堪えていた。

 それほど少年の愛撫は巧みで、そして無慈悲なのだ。やさしく、この上なくデリケートなやり方で、女の体から誇りと慎みを奪い取っていく。惜しみない愛情をそそいで操祈に屈服を求めていた。

「ねぇ、レイくぅんっ、それ……それはイヤなのぉっ……」

 かよわく愛らしい声で啼いて訴える。

 けれどもたとえ、イヤ――と言ってみても、もう自分が何を拒んでいるのかさえ、操祈にはわからなくなっているのだった。

 やがて――。

「愛してるわ……」

 と、心からの思いを口にしながら、体が上の方へとぐーっと吸い込まれていくような感覚になって息を呑む。視界一杯に星々が煌めき、光のシャワーとなって降り注いでいた。体の中心から生まれた逸楽の実がはじけて、津波となって体の隅々にまで拡がっていき、揺り戻してはまた新たな波と重なって幾度も女体を鳴動させている。

 淫らな肉が痙攣して、その都度なにか――それはとてもイケナイものような気がしていたが――を絞り出しているような不穏な感覚には気がついていても、操祈には、ただうねりの中に漂っていることしか出来なかったのだった。

「……愛してる……レイくん……」

 譫言(うわごと)のように訴える。頬を伝う涙は誇りを傷つけられた哀しみによるものなのか、それとも歓びによる感動のためなのか曖昧になっていた。

 はぁ、はぁ、はぁ……。

 最初に生み落とした熱の塊がピークを乗り越えて徐々に醒めていく。操祈は胸を大きく上下させて乱れた呼吸を落ちつかせていた。それとともに、忘れていた羞恥の感情がまた甦ってきて「ああ――」と、切ない声をあげて長い睫を(しばたた)かせるのだった。

 恋人の口づけが、彼女を欲望へと追いたてる時とは違って、そこを整えるような動きにかわっていたのだ。操祈は少年に自身の情けない姿を知られてしまったことに悔いを覚えながら、それでも自分がもう、彼の愛撫を拒む勇気など持ち合わせてはいないこともよく判っていた。

 通り過ぎていった肉欲の余韻にひたりながら、孤独に過去を振り返っている。

 去年の今頃はまだ、ほとんど何も知らなかったことを――。

 たとえ(ねや)をともにしても、やっぱり紳士的で大人しい男の子だったレイが、突如豹変して彼女にいろいろなことを求めてくるようになったのは、ほんの数ヶ月前、昨夏のことだった。

 以来、自分には無縁だとばかり思い込んでいた、その特別な名前で呼ばれる愛撫を、今の彼は夢中になって取り組むようになっている。

 こんなにも恥ずかしいことができるはずがない、そんな恐ろしいことが自分の身に起きるはずがないと、理由も無く信じていたことが、少年によってあっさりと(のり)を超えられてしまったのだ。

 操祈は手を伸ばして愛する人の髪に触れた。感謝を込めて、そしていつものように傍らに来て、慰めて欲しいという思いをのせて撫でつける。

 レイはすぐに彼女の気持ちに気がついたようすで、ベッドの上を這い上がってくると、操祈と添い寝になるのだった。満たされて頬笑む彼の顔が間近にあった。けれども視線が重なると、やっぱり恥ずかしくて男の胸に逃げ込んで甘えてしまう。愛された後は、そこがいちばんやすらげる場所だったのだ。慰撫を求めて頬をすり寄せた。

 少年は操祈の顔を大事そうに包むと、うなじから長い髪の中に深く指を差し入れてきて、励ますようにしっかりと抱き寄せてくれるのだ。頭に落ちてくるキスの五月雨が嬉しかった。

 圧し当てた耳に胸の鼓動がトットットットと聞こえている。

 やすらぎの響きが――。

 頭を撫でられて、背中を摩られて、時にギュッと抱きすくめられて、肌に染みる温もりに意識が遠のきそうになるほど幸せを感じる。

 体を深く愛された後、レイはいつも操祈の心に寄り添って、女がそのときに欲しているもの与えようとしてくれるのだ。愛撫の後の不安や負い目を感じている女にとって何が必要かを良く心得ていて、慈しむように大切にしてくれる。

 少年は自分自身の肉体の感動には、まったくおかまい無しに、常に操祈のことを第一にしようとする。

 だから女心はかき乱されるばかりになるのだった。

 こんなにやさしい人が居るなんて――。

 感動で胸が高鳴り目頭が熱くなる。また涙が溢れそうになって、しくしく鼻を啜ると、

「大丈夫ですか……?」

 と、心配した声音が訊いてきた。思いやりのある言葉が心に響くのだ。

 操祈は男の胸の中でこっくり頷いた。

「……やさしいね……レイくんは……」

「ボクは普通だと思いますよ……優しい人に優しくするくらい容易(たやす)いことはないですから……」

 少年はそう耳許で囁くが、レイが特別なのは判っていた。

「……先生が腕の中に居ることが、いまだって信じられないのに……ボクのためにあんなにも尊いものをたくさんふるまってくれる……」

 なにを言われているのか判って、操祈は恥ずかしさに男の胸にしがみついた。

「すごくいいにおいがして……愛しくて胸が痛くなるくらい……」

「……いわないで……そういうことは……」

 レイが纏っているニオイは、操祈をたじろがせずにはおかないものだった。けれども恋人が自分の体臭を愛してくれているのを疑うことも、もうできなかったのだった。 

「ホラね――」

「……?……」

「恥ずかしいのを我慢して、身を犠牲にしてボクに秘密を分け与えてくれているじゃないですか」

「………」

「だから、やっぱり先生は女神さまなんだなって……」

「……わたし、女神なんかじゃないもん……」

 精一杯の気持ちを込めて訴えた。

「じゃあどうしてこんなに綺麗でお優しいのか説明ができますか?」

「……あんな酷いことしておいて、よくそんなことが言えるものね……」

 無茶な言いがかりへのお返しに困って、つい憎まれ口を利いてしまうが、これもレイに甘えてのことなのだった。

「せっかく地上に降りてきて戴いたんですから、娑婆(シャバ)を這いずりまわる人間の男としては『下界も悪くないわね、また来たいな』って思ってもらえるように、精一杯のおもてなしをしようと思って……だって女神降臨って滅多にないことですから……でも気がついたら、おもてなしをしているつもりが“ご利益”をいっぱい貰っていて」

 レイが口にした、ご利益――という言葉には拘ってはいけないと操祈は自らに言い聞かせていた。

 あぶない、あぶない、もうその手にはのらないんだからねっ――。

 代わりに

「あんなことが……レイくんの初詣だなんて……」と、呟く。

「操祈先生の観音様に今年初めてのお参りですから――」

「もう、そんなおかしなことを言ってぇ……じゃあ、わたしはどこに初詣すればいいのよぉ……」

「そんなことする必要ないんじゃありませんか、だって先生は参拝される側だから」

「ずるいっ、結局、いつも私ばっかりじゃないのぉ」

 頬を膨らませ、おもいっきり拗ねてみせた。

「ご不満ですか?」

「ええ、不満よ」

「じゃあ、今夜だけは特別に……触ってもいいですよ……」

 少年の(たかぶ)りは、お腹の上のあたりに触れている。まるで熱っぽい硬い棒のようなものがあたっていて不思議に思っていたのだが、いつも触れてはいけないと諭されていたのだ。

「本当に……?」

 少年は首を縦にふった。

「でも、もう爆発寸前なので、あまり刺戟しないようにして下さいね」

 操祈はおずおずと少年のものに手を伸ばした。どのようにすればいいのかは分かっているつもりだった。とてもデリケートな場所だから、自分にしてくれたように優しくすればいいということを。

 両手で大事に包む。

「これが……レイくんの……」

 まさに男の子の情熱の塊だった。

「……すごい……こんなに固いなんて……それに熱い……」

 触れていると、このステキなものを体の中に収めてみたいという女の本能が目覚めてくるのを感じてしまう。

「キス、してはダメ……?」

「それはダメですね」

「どうして……?」

「前にも言ったはずですよ、ソイツが最初に経験するのは、先生のなか(膣内)でって決めているからって」

「だってレイくんは私にはするのに……」

「あれは……結婚するまでの長い長い前戯だって、思って下さい」

「……!……」

 結婚――。

 それは恋人の口から発せられた、初めての言葉なのだった。

「ボクの提案(プロポーズ)を、先生が受け容れてくれるならば、ですけど……」

 今まで何度となく仄めかされていて、彼にそのつもりがあることには気がついていたけれど、実際に耳にするとやはり胸に迫るのだ。不意を衝かれた分、心は激しく揺さぶられていた。

「それに、もし先生に他に好きな男の人ができて、その人と結婚するとなったら不都合になるかもしれないですから……」

「そんなこと……あるはずがないじゃないのよぉっ……」

 両手で顔を覆ってこみあげてくる感情に堪える。

「レイくんこそ……あたしでいいの?……あたしなんかで……女はすぐに年をとっちゃうんだゾ、あっという間におばさんになっちゃうんだゾっ、それでもいいのっ?」

「先生は、この世でたった一人の、ボクの大切な人です。これまでも、そしてこれからもずっと……それに先生はおばさんになんか絶対になりませんよ、これは請け合います。だって女性の方が男性より長生きするし、七、八歳くらいの年の差って、いちばん合ってるのかもしれません」

「本当に……いいの……?」

「先生と一緒に、年を重ねていけるのなら……」

 操祈は恋人の胸の中で、こっくりと頷いた。

「よかった……じゃあ今から……先生はボクの……」

「うん……」

「お姉さんですねっ」

「え――!?」

 予想していた言葉ではなくて意表を突かれていた。

「女房になる前の姉さん女房だから」

「うーん……そうなのかな……」

「操祈お姉ちゃんって呼んでもいいですか?」

「それはいいけど……じゃあ、レイくんは弟くん?」

「そうですね……それも悪くない感じですね。姉弟でイケナイことをしている背徳感がなんとも……」

「もー、レイくんは結局、そっちになっちゃうんだからぁ」

「じゃあ、お姉ちゃん、さっきの続きをしませんか?」

「続きって……」

「もちろん“初詣”の続きを……何回、お参りしてもいいんですから――」

「あんなことをまた……」

「じゃあ、もう少ししてからにしますか?……お姉ちゃんになった操祈先生の“ご利益”をたっぷり分けてもらうのは」

「もう、なに言ってるのよぉっ」

 操祈は姉の顔になって“悪い弟”を叱ったが、自分がまたその悪い弟の言いなりになってしまうのを覚悟してもいるのだった。

 




次話は前作から通算で100回目になります
おつきあいをありがとうございます


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徹マン〜オレンジ色の恋人たち〜

          LⅩⅧ

 

「ロンっ!」

 銜え煙草の北沢修一が、ニヤっと笑って手牌を倒した。

「リーチイッパツチートイドラドラ、ハネマンっ」

「あったー、たたたたっ、ゆるしてくれよぉっ」

 対面の下条直弥が悲鳴を上げて悶絶する。

「チックショー、ド痛ぇっ、一万二千かよぉ、おいおいおいっ」

 渋い顔で舌うちし、点棒を向かいに放ると、直弥はゲンなおしに卓から立上がった。フラフラと隣のキッチンに行くと部屋の主の渡辺敬太に冷蔵庫を開けていいかと訊く。

「ビールもらうぞっ」

「おうっ」

 いつもはシミッタレの主の方も、今夜ばかりは鷹揚なものだった。それというのも昨日の夕方に、なんと大枚十万円もの予期せぬ臨時収入を手にしていたからだ。そればかりか明日――正確には日付が変わっているので今日――の夕方にもまた十万円の現金が渡されることになっていた。まさにホクホク状態である。

「それにしても何なんだろうな、この機械……たった一晩、置いとくだけで二十万も貰えるなんてよぉ、ボロ儲けジャンよ、俺んちにも来ればいいのにな」

 直弥は缶ビールを片手にモジャモジャの頭をかきながら怪訝そうな顔をして、見なれない形をした巨大な黒い物体を眺めている。

 ソイツはキッチンの真ん中にデンと据え置かれていて、ただでさえ狭い1Kの安アパートをいっそう狭苦しくしているのだ。

「おい下条ちゃんっ、オマエ、“モノリス”を見つけた猿みたいだぞっ、ウッキッキーってな」

 コタツから磯田翔平が煽った。痩せっぽちの彼はひと一倍、寒さに敏感なのか、寒そうに炬燵布団を胸のあたりにまで引っぱり上げている。

 実際、部屋の中はエアコンだけで暖をとるには不十分なのだ。この学生アパートは高台にあるため、冬になると吹きっさらしで、きちんとサッシを締めてもすきま風が差し込んできて冷え込む。オマケに両隣は年末年始の帰省で住人が居らず、いつも以上にエアコンの効きが悪かった。

「オマエだって、コレがなんだかわかんねぇだろっ」

「まぁ、あまり詮索しない方がいいってことぐらいはわかるけどな、ナベの話を聞く限りじゃ、どう考えても曰くつきだろ、深入りすると火傷するかもしれねぇし」

「ワタナベェ、オマエもそう思う?」

「まぁなぁ、いきなりやってきて、十万出すから置かせてくれって普通じゃないし、ま、俺は金さえちゃんと貰えりゃ文句はねぇよ」

 その日の夕方、渡辺敬太のアパートの呼び出しブザーを押す者があり、少し早いが友人だろうかとドアを開けたところ、そこに居たのはスーツ姿の男が二人だった。不意の訪問者に警戒する彼に、男たちは“確かな筋”の身分証を提示しながら胡乱な輩ではないことを伝え、協力要請と報酬について提案してきたのだ。

 なにはともあれ、たった一晩で二十万円というのは、常に金に不自由をしている学生には魅力だった。

 敬太が同意するや、手付金として十万円の入った封筒を手渡されたのだ。キョービ、学生にとってキャッシュはありがたい。税金等で上前をハネられることのない真水の金だからだ。

 その後、男二人は部屋に入ってくるや手際よく装置を搬入して組み立て、セットを終えると、また明日の今頃来ると言って去っていった。その間、わずかに十五分ほど。手慣れたものだった。

「要するに、金をヤルから何も訊くな、詮索するなって話だろ」

 北沢修一はまた百円ライターで煙草の先に火を点けると、深く吸い、苦そうな顔で白い煙を鼻と口から吐き出しながら言った。

「やっぱそうだよな……」

 大晦日の夜、卓を囲む四人は、ともに聖徳工芸大の工部専門課程の四年生であり、卒業研究の追い込みもあって帰省しない在京組だった。

 それぞれ分野は違っても、みなそれなりに専門知識を持ち合わせている筈なのだが、その“物体”については何らかの発信器、あるいは受信装置だろうと想像するだけで、それがここに置かれた意味や目的を含めて全く見当がつかなかった。

 誰ひとりとしてそれに類するものを目にした者が居なかったからだ。

 似ているものを強いて喩えるとするなら巨大な懐中電灯だが、いかにも精巧そうな制震台の上に鎮座されたそいつは、見るからに重量感のある精密機械然としていて、凡そそんなありきたりなものではないことは素人でも分る。上面には何やら入力装置のようなパネル状のものがあり、懐中電灯の電球の付いている部分には、中央に直径が二十センチほどのすり鉢状の構造があって、その周りを大小多数の電球のようなガラス球――それらは恐らく一つ一つが異なる機能があるのだろう、みなサイズや形状が異なっていた――が二重に取り囲んでいる。“電灯”は、キッチンの粗末な電気コンロの先、窓の外へと向けられているようなのだが、窓のサッシは閉じられたままだった。

「なぁワタナベェ、コイツ、危ないものじゃないんだろ?」

「ああ、別に危険なものじゃないからって言ってたな、ただガラス球のある側にはなるべく立つなって言われてるから、止めといた方がいいんじゃね、知らんけど……さすがに放射線とかレーザーとか出ているようには見えないけどな……しかし、なんっつってもここは学園都市だからさ、俺らが知らねぇところで誰がどんな研究してるかなんて、わかったもんじゃないから」

「周りのヤツはPMT(光電子増倍管)っぽいんだけどな……なに拾ってるんだろうな……」

「さあな、ナオ、ソイツに触るなよ、弄るなって言われてるんだからな、金がちゃんともらえなくなるかもしれねぇだろ」

「ああ……わかってるって……」

 下条直弥はなおも気になるのか「ホント、なんなんだろうな、コレ……」と、呟きながらその周りをウロウロしている。

 と――。

「オイッ、ちょっとコレ、何だよコレっ!」

 “装置”の裏側――和室側からは死角になっていた――に回り込むや、驚きに目を丸くして声を上げたのだ。

「おいナオ、もういいだろ、戻ってこいよっ」

「いいからちょっと来てみろっ、コイツを見てみろって!」

 直弥は、一点を見つめる視線を外さずに、大きく手を振ってみんなを招いた。

「なんだよー、うっせぇなぁ……」

 三人は「さみーさみー」と、ぶつぶつ言いながら炬燵から立上がると、負けが込んだ友人に呼ばれるままに、彼のいる側に回り込むのだった。やってくるなり同じものを目撃して、そして一様に凝固した。

「な、なんだよ、コレ……」

「コレって……あれだよな……」

「ああ、それっきゃねぇだろ……」

 彼らが目にしていたのは“装置”のモニターと思われる部分に映し出されていた奇妙な映像なのだった。

 画面には黄色とオレンジのグラデーションによって描かれた、のっぺらぼうの人型が二つ、描かれている。

 それも、どう見ても、男女の濃厚な性愛場面を演じているとしか思えないものを。

 期を同じくして皆、ゴクリ――と、生唾を呑んだ。

 オレンジ色のものは人体模型のようで、さらに体の輪郭線も滲んでいて曖昧だったが、動きが実に人間臭くて、逆に妙にエロティックで扇情的なのだ。

「これ、どこかの透視画像じゃないのか? こいつってもしかして赤外線カメラかなんかなのか?」

「いや、違うと思うが……赤外線が抜けるのはせいぜ薄い布とかに限られるから」

「おお、さすが画像工学の渡辺先生」

「でもこれ、ライブっぽいんだけど……隅のカウンターは、現在時刻を示しているみたいですぜ」

「うん、どうも、そうみたいなんだよな……」

「じゃあこの装置って、つまりそういうことだったのか……」

「盗撮装置だろうな、おそらく最新式の……」

「けどさ、コイツが盗撮用の撮影装置だとして、どこを撮ってるんだろ?」

 一人がキッチンのサッシを開けて外を窺うが、近くにそれらしい建物は見あたらないのだ。眼下には雑木林が拡っていて、アパートの正面よりもやや左側、その遥か先に学園都市のビル群の灯りが見えているばかりである。

「あの辺って、どこ?」

 ビルのある方を指差しながら下条直弥が訊いた。

「緑区幸町あたりだろ、あの一番高いヤツがHMT(多摩ハーフマイルタワー)だから、あれを目印にすると、たぶん旧第七学区と八区の境目あたりだ」

「まさか、あんな遠くを狙ってるのかよ?」

「なわけねぇだろ、あそこまでは優に三キロ近くはあるんだぞ……」

 しかし件の装置の前面は、明らかにそちらへと向けられていた。

「信じられねぇな……いったいどうやってるんだろう?」

「わからん……」

 真面目な会話をしているすぐ横では猥談に花が咲いていて、すぐに全員がその話題にのみ込まれていった。

「やっぱ、ケツを突き出してる方が女だよな……」

「ああ、胸が垂れてるのが分るからな。逆に股にペニスっぽい出っ張りがあるのが見えるから、女のケツに顔を突っ込んでる方のこっちは男だな」

「年明け早々に後背クンニかよぉ」

「クンニじゃないかもだが――」

 磯田翔平が言って、

「え、どういうことっ?」

 と訊き返される。

「穴は一個だけじゃないだろ」

 翔平は平然と言い放ち、一同、卑猥な笑いに包まれた。

「ゲーッ、キモチわりぃー」

「それは相手に依る。いい女ならアリだが、ブサイクなのは勘弁」

「さすが俺たちの翔平サマだ、言うことが違う、“魔法使いの見習い”だけのことはあるぜ」

「ナニ言ってるんだよ、オマエらだって全員見習いだろっ」

「見習い同士で徹マンかよぉ……こっちの二人はモノホンの真っ最中だっていうのによぉ……年明け早々、しまらねぇなぁ」

「どうでもいいけど、ナオ、おまえ、何か触ったんじゃないだろうな」

 敬太が直弥を問いつめた。

「どこも触ってなんか居ないって、ただ、いま見たらこうなってたんだよ」

「ならいいけど、明日、文句言われて金が出ないなんてことになったら、責任とってもらうからな」

「だから俺はなんもしてねぇよ、俺もそいつ等が来る時までここに居て、ちゃんと見届けてやっから」

「あ、なんか動きがありそうですぜ――」

 それまで女の尻に顔を埋めていた男が、ベッドらしきものの上にごろんと仰向けになったのだ。オレンジ色の突起を股間でニョッキリさせているのが見て取れた。

「あれ、男の方、なんかちっちゃくね? 女の方は胸が大きくてスタイルも良さげだけど」

「おねショタかもしれねぇな」

「あるいはショタおねか――」

「男が横になったから、いよいよホンバンかな?」

 けれども女が跨がったのは男の腰のあたりではなく胸の上だったのだ。躊躇いがちなようすで長い脚を大きく割り開くと、両手を後ろに突いて上体を仰け反らせた。角度の所為で、密着部分がどのようになっているかは見えなかったが、女が腰をヒクヒクさせていて、再び、淫らな愛撫に身を投じたのが窺えたのだった。

「磯田センセ、これはもしかして、岩清水という体位でしょうか?」

「左様、もしかしなくてもそうじゃ、この二人、なかなかのスキモノと見えるわい」

「凄いな……」

「やらせてるのかな? それともやらされてるのかな?」

「それってどっち目線で?」

「どっちでもいいんだけど、男目線だとすると、やってる感? 女目線なら、やられてる感って……俺にはそう見えるんだが、違うか?」

 そのまま女も身を横たえて、二人の対格差がいっそうはっきりと窺えるようになっていた。女は身をもがかせて男の愛撫から逃れようとしているようにも見えるが、男の腕が両脚にしっかり巻き付いていてそれが許されないようなのだ。体を閉じることもできずに淫らな詮索に堪えている、といった感じなのだった。

「もしかしたら小柄なオッサンなのかもな、若い娘の体にしゃぶりつくエロオヤジ」

「でもこの体型はさすがにオッサンのものじゃないよなぁ……」

「なんか色々とワケありっぽいね」

「ここまで特殊な盗撮までされてるんだもんな……いったい誰が何のために……」

「そもそも誰なんだろうな? こんなことまでされてる二人って……」

「よほどの著名人とか――?」

「よほどの著名人か……」

「まさかな……」

「まさかって――?」

「以前、週刊誌にスッパ抜かれた記事を思い出してな……まさかとは思うけど……」

「ああ、あれか……でもあれって、結局、コラだって話で終わったんじゃなかったっけ?」

「ソレって食蜂操祈のハナシっ!? あのミスコン隠れ一位のっ! ウソだろっ!」

「あれがコラじゃなかったとしたら? 食蜂操祈は中学教師だぜ、もしも相手が生徒なら、体格差の説明もつく……」

「この“カメラ”が向けられてるのも、ちょうど常盤台のあるあたりだしな……」 

「………」

 睦み合うオレンジ色の人型を前に、いつしか四人とも口数が少なくなって、索漠とした空気に包まれていくのだった。

 結局、大晦日の深夜、元日の朝まで一夜を通して、途中、添い寝を挟んで何度か休みを入れながらも、モニターの中の二人は密やかな愛の探求に勤しんでいたのだ。

 盗撮をされているとも知らず、四人が“見て”いることにも気づかずに、無慈悲な盗撮装置の前で――。

 画像は午前六時丁度に突然、切れて、それっきり二度と表示されることはなかった。この特殊撮影装置の作動が終わったのだ。恐らく、二人を盗撮しようと思っていた者たちは、深夜から朝の間をカバーしておけば十分だと思っていたのだろう。しかし恋人たちは、まだ精一杯の情熱を見せつけていた。

 四人が目にした最後の場面では、女は、親鳥が大切なたまごを温めるように男の顔の上にしゃがんでいて、逸楽に身を揮わせている真っ最中だった。

 夢とも現ともつかぬようなショーが終わり、悶々とした気分で夜明かしをした四人は、すっかりやつれた顔をして点けっ放しになっていた炬燵に戻るのだった。

「スゴかったな……あんな“かわいい子”があんなことまでするなんてな……羨ましい野郎だぜ、あのクソガキめっ」

「もう、俺、別に驚かなくなってきた。どんな女でも相手次第で、ヤルことヤルんだってことをさ……」

 胸の大きなスタイルのいいお姉さんと、男の子のショタおねカップルということで、四人の意見は一致していたのだ。というのも、終始“男の子”と思われる方が女をリードしていたからだ。

 両足を使って女の腕の自由を奪ったり、足を巻き付かせてあられもない体位を取らせたりと、実に女の扱いに馴れていて巧妙なのだ。女の方は常に体を開かされて、身を守る術を失って責めさいなまれていた。それでも健気に男の求めに従う姿が愛らしく、のっぺらぼうでありながら魅力を感じてしまうのだった。

 リアルで会ったらどれほど可愛らしいかと想像が膨らんでいる。

「いちどもヤラずに口だけでってのが、もう……なんていうか……キツい……俺までヤラレタ感がある……」

「あいつ、インポでもないのにな……」

「よっぽど好きなんだろう、女のことが」

「それにしてもよー、なんかムカつくぜ……あのガキには……誰だか知らんけど……」

 名前も顔も分らない相手に敵愾心を抱くのは無理スジにもほどがあるが、四人の大人(魔法使い見習い)たちは美女の肉体をほしいままにできる自分たちとは異なる存在に、純粋に嫉妬を感じていたのだった。

「実際、スゲーいい女っぽいよな……もしかして、本当に食蜂操祈かもしれないよな……」

 そのつぶやきに、再び空気がどんよりと重たくなったアパートの中に、新しい年の始まりを告げる初日の出の光がカーテンの隙間から差し込んでくるのだった。

 




通算100話
遅くなってしまいました


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蜜約

          LⅩⅨ

 

「レイくん……」

 と、呼ぶと、ベッドの下で寝ていた恋人が身を起こして操祈のベッドの縁に顎をのせた。

「お呼びですか……先生……?」

「うん……来て……」

 掛け布団を捲って裸身を見せて恋人を誘った。少年はやわらかに笑むと、操祈の布団の中にもぐり込んできて彼女の体に身を寄せるのだった。互いに肌と肌とを接して温もりを確かめ合った。

 あと数時間もすると彼は自分の(かいな)から去って行ってしまう――。

 それを思うと操祈は寂しさに胸がキュンとしてくる。こんなにも愛しあっているのに一緒に居られないことの不条理を怨めしく思うのだった。

「もうあなたとお別れしないといけないなんて……やだな……」

「明日もまた、学校で会えるじゃないですか」

「そうね……でも……」

 男と女としてではなく、教師と一生徒としてだ。愛していても思いを伝えることは許されない。

 少年も気持ちは同じなのか、今朝は体を求めてきた。時を惜しむように深く睦んで愛しあった後に迎えた朝だったのにもかかわらず、女の体の隅々に唇を圧し当てて、二人だけで描いた夜の名残をひとつひとつ辿っている。

 また男と女の間で交わされる最も親密で愛情深い口づけになると、操祈は自分から体を大きくひらいて甘い息を吐くのだった。

 たった四日間の、この上なく甘美な“新婚生活――”を振り返りながら。

 異性としての少年に巡り合ってから一年あまり。心の中にあったもどかしい気持ち、好き――が、やがて愛になっていた。性愛が情愛へと育まれていき、強くたくましい根を張って互いを結びつけていく。その美しい経験を刻々、追体験しているような毎日だった。

 以前から気がついてはいたものの、レイの自分へ向ける配慮、思いやりには胸を熱くさせられっぱなしだったのだ。

 セックスの時には奔放になって大胆に振る舞う少年が、普段はけして節度を失わないこと、プライバシーへの察しと気配りを忘れない。それがとてもありがたくて嬉しかった。

 常に彼女のことを思い、第一にしようという意思は、信念といってもいいほど強靭で、なにもそこまでしなくても、と思うことさえ彼にとっては欠かせないことらしいのだ。

 例えば、ベッドで休む時――。

 愛しあった後、操祈は男の胸に顔を寄せて、腕の中に包まれて、大切な人の鼓動を数えながら眠るのが好きだったが、朝、目が覚めてみるとレイはベッドには居ないのだ。驚いて身を起こすと、彼はすぐ隣の床で赤子のように丸まって眠っていたりする。訝しんで理由を質すと、操祈の安息の妨げになることを案じたからだと言う。きっとこちらが眠りに落ちたのを見届けると、サッと身を引いて絶妙な距離を取ろうとするのだろう、体を求めてくるときと同じように、一途な忠誠心には強く胸を打たれるのだった。

 そうしたことは寝室だけに限らなかった。

 一緒に暮らしていて改めて分るのは、恋人のけじめのある所作の鮮やかさ。それが良質な大人の男を感じさせて、精神的にも対等なパートナーであることを思い知らされている。

 

 どんなに親しくても、女性には一人になる時間は必要だから――。

 

 確かにその通りで、操祈も体の手入れをしている姿は見られたくなかったし、彼の前でいつも綺麗で居るためには、女にも心のドレッシングルームが必要なのだった。

 そんなあたりまえのことを、少年は言葉だけではなく態度でも教えてくれたのだ。

「ここに居ますので、何かご用があればお呼びつけ下さい――」

 まるで下男のような言葉遣いをして(おど)けるが、

「じゃあ……かわいがって……」と、おねだりすると

「先生からそう言われることが男にとってどんなに嬉しくて誇らしいことか……」

 やさしくも情熱的な恋人になって、操祈の魂に女であることの歓びを、それも、けして忘れることのできない刻印を押しつけて行くのだった。

「やっぱり気になりますか――?」

「え、なんのこと?」

「先生がいま握っているボクの指のこと」

「あら、いえ別に……どうして……?」

 何を訊かれているのか計りかねて怪訝そうにする。

 操祈は無意識のうちにレイの右手に指を絡めていて、中指を握っていたのだ。 

「その指なんですよ、先生の後ろのお口を犯していたのは」

 意味が分かって、たちまち操祈の顔がバラ色に染まっていった。

「やだっ――あたしっ……」

 熱物に触れていたかのように、手を引っ込めてから……またおずおずと繋がりを求めると、今度は男の手の強さをみせて操祈の手をしっかりと握り返してくれるのだ。

「でもいつかはきっと他の指も全部、お尻でも見分けられるくらいに仲良しになれるといいですね」

「もう、レイくんったら、イケナイんだからぁっ」

 淫らな提案をされ、恥ずかしさに身を揉んで男の胸に甘える。

「……いいわよ……レイくんがそうしたいのなら……」

「ええ、ゼッタイにしたいですっ――」

 少年は語気を強めて言い、是非もなかった。

 事後――の睦み言とはいえ、操祈は自分の体にまた目には見えない“ご契約済み”の看板が立てられてしまったように思うのだった。

“あーあ、私の体に、私だけの場所ってあるのかしら……うふふっ……”

 どんなに恥ずかしい愛撫にも、すすんで身を任せるようになった今の自分にそんなものはもう無いのかもしれないと思う。けれどもそれが悔しいと思う半面、嬉しくもあったのは、日常の(くびき)から解き放たれたような開放感を覚えていたからでもあった。

 最愛の恋人の前では、なにも隠すこと無く素の自分をさらけ出せるというのは、女であることの醍醐味のひとつのように思う。

 それが許される相手に巡り合えたという奇蹟――。

「でも、いまボクがいちばん欲しいのは、先生の肌着です……」

「どうしてあんなものが欲しいのぉ……?」

 この提案には、いつも声に哀調がのってしまう。

「お与りさせていただけませんか?」

「……いいけどぉ……」

「ボク、先生のにおいに包まれていないと、おかしくなってしまうから……」

「もー、変な子ねぇ……」

「先生にとってはただの汚れ物なのかもしれないけど、ボクにとっては、この世でいちばん美しい女のひとの美しいにおいだから……とってもやさしいにおいがして……闇の中から救いだしてくれる……」

「……そんなこと言ってぇ、お姉さんを困らせるんだからぁ……」

 最初、レイから肌着を求められた時には、じっくり検分されるかと思うと泣きたくなるほど恥ずかしかった。口づけされる以上に抵抗感があったのは、自分にとってそれが明らかに“穢れ”という意識があったからなのだろう。けれども今は、たとえ恥ずかしくても嫌だとまでは思わなかったのだった。うとましいばかりの恥臭を嬉々として纏おうとする少年が愛おしくてたまらなくなってしまっている。それは、もしかすると母性のひとつの現れなのかもしれないとも思えるようになっていた。

 とても恥ずかしいが、その恥ずかしさを分かち合えるほどの親密さとは、断ち切れない強い絆に他ならない。まるで母子間の切っても切れない紐帯のように。

「じゃあ、わたしもレイくんにお願いしてもいいかしら?」

「お願い……? なんですか?」

「わたしにも、あなたのにおいのするものを残していってちょうだい」

「うーん……!?」

「男の子の証を――」

「それって……!」

 レイは明らかに当惑していた。よもや操祈がそんな注文をするとは思っても居なかったらしい。

「ええそうよ、男の子の蜜よ」

 少年が困った顔をするのを間近にして、操祈は胸の中で快哉を叫んでいた。ずっと負け続けていた相手から初めて一本取り返したような気分。

「蜜って言われても……男に蜜なんかありませんよ。どこをどう絞ったって、そんなもの……」

「あら、それを言うのなら女の体からだって蜜なんか出ないわよぉ」

「それは……比喩的に言っているだけで……凄く綺麗な女の人を花に喩えるように……でも男は、そういうものじゃないから……」

「それは立場の違いね――」

 ピシャリと言って、相手の逃げ口上を封じる。

「わー、なんか先生、人が変ったみたいだ……」

「だってレイくん、私には何もさせてくれないんだもん、それってズルイでしょっ」

 少年は再び絶句した。相手が困り果てるのをしっかり見届けてから漸く助け舟を出すことにした。

「ねぇ、どんな気持ち?」

「え――?」

「レイくんがいつも私にしてくれることを、ちょっと真似をしてみたんだけど……」

「だって、先生とボクじゃ全然ちがうから……」

「ええ、違うわね……私は女で、あなたは男……でもね、セックスに興味があるのは男だけじゃないのよ……好きな人のことをもっと良く知りたいっていう気持ちは女にもあるんだから……」

「………」

「わたしだって、レイくんの匂い、大好きなんだゾ……」

 操祈は少年の胸から首にかけてキスのお返しをする。

「先生――」

「操祈って呼んで……ベッドの中に居る時だけでも……わたしたち、もう特別な関係なんだから」

「でも先生を呼び捨てにするなんて……」

「甘えないで、いつまで私一人に責任を押しつけるつもりなの……パートナーなんでしょ? 対等の」

「そうだけど……じゃあ……操祈お姉ちゃん……」

「ダメよ、それじゃイコールパートナーにならないじゃない」

「うーん、今日の先生、じゃなかった、操祈さんはキツいなぁ……」

「いいわ、それで……」

「こんなふうに先生から叱られるのも悪くないけど」

「コラコラっ、舌の根も乾かないうちにっ」

「じゃあ、湿らせてください……女神さまの蜜で……」

 少年は舌をぺろっと伸ばして操祈を嘲弄する。

「えーっ、またなのぉ」

「うん、股にっ」

 少年は響きを変えて語感の違いをわざと意識させるように言って操祈は呆れた。

「もう、おバカさんなんだからぁっ」

「乾いた喉を潤している間に、ボクは自家発電してますから」

「自家発電? なんのこと?」

「ひどいニオイのするものだってわかれば、先生、じゃなかった、操祈さんにも無茶なことを言ってたって気づいてもらえると思うし……でも男の場合はニオイに個人差ってあんまりないと思うんだけどな……女の人と違って構造が単純だし、そもそも無菌だから……」

「ちょ、ちょっとレイくんっ――!」

 慌てる操祈をよそに少年はサイドテーブルからティッシュを何枚もつかみ取ると、また布団の下の方へと潜って行ってしまうのだった。

 



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とあるひとりの中年調査員(エージェント)の憂鬱

 

          LⅩⅩ

 

 いったいどうなってるんだ……。

 いまここで何が起こっている――?

 カイツ・ノックレーベンは学園都市中心街区にあるシティホテルの一室で日本在住の連絡員でかつ、アシスタントでもある響子――オリヴィア・響子・グレーブス――からの電話を待ちながら、これまで発生した全てのイベントを一貫して説明できる方法を探しあぐねて、前髪が後退し始めた広い額を抱えていた。

 やはり事態は予想を超えている?

 そうなると、もはや自分の手にあまるのではあるまいか?

 食蜂操祈がかつてのような強大な能力者ではなく、ただの一人の女なのだとしたらクライアントの意向に適う働きも出来よう。

 しかし当初から懸念していたようにその前提が誤っていたとしたら――?

 

 二十日前――。

「……報酬は着手金として十五万ドルご用意して居ります……」

 男はアタッシュケースを開いて中にあった帯留めされた百ドル紙幣の束を示した。

「これは仮にお引き受け頂かなくとも、お返しいただかなくて結構です。成功報酬としてはその二倍、さらにボーナスとして五万ドル、しめて五十万ドル……いかがでしょう、お引き受けいただけないでしょうか?」

 カイツは眉間の縦じわを愁いのために更に深くして、無垢材の分厚い丸太テーブルの対面に座る白髪の紳士を見遣った。

 カルガリー郊外、山間(やまあい)にある彼のロッジは表向きは冬場にスキーを楽しむためのものだったが、実のところは隠れ家兼武器庫でもあるのだ。仕事を終えるとここを(おと)ない、次の仕事までの間のコンディション調整などにあてている。

 そこへいきなり見知らぬ紳士がやってきたのだから尋常ではなかった。もちろん初老の男が一時の暖を取りに茶飲み友達を求めてやってきたのではない。相手は彼の“素性”を知っていた。

 つまりは仕事の話だ――。

 しかもロッジの外には少なくとも三名の元軍人、あるいは訓練を受けたと思われる男たちが居て、周りをとりかこんでいる。とても、単なる依頼というようなシチュエーションではなかった。

「我々はあなたのキャリアと能力をとても高く評価しています。仕事を無事に終えられたあかつきには、我が社としてはあなたを経営側に招く用意もあります。警備部門のトップとして辣腕をふるっていただくことも……もちろん役員としての待遇もお約束いたします。あくまでもあなたにご希望があればのことですが……どうでしょう?」

「ミスターランベール……」

 それがはたして本名かどうかも怪しかった。肩書きも大企業の役員とのことだったが、それは表向きのことだろう。身なりもよく、一見、物静かな紳士然としてはいるが、拭いようのない同業者の臭いがしているのだ。恐らく現場から離れて久しいが、それでもいつでも実戦に復帰できるほどの力量をまだ備えている――と、カイツは相手を値踏みしていた。

 要するに必要とあれば何でもするし、それをする意思も能力もある手合い。

 そのうえ一対四ではさらに分が悪かった。

「なぜわたしを――?」

「あなたは彼女と面識をお持ちだし、信頼も勝ち得ておられていたようだ。また学園都市内部のことにも通じていらっしゃる、これ以上の適任は無いかと……二十歳そこそこの娘さんを一人、“お連れ”いただくだけのことにしては悪くない提案だと思いますが……」

「言われるように、彼女がただの二十歳そこそこの女だというのなら、好条件を携えてわざわざこんなところにまでやってくる必要もないでしょう。他の誰にやらせてもいい……しかし、そうじゃないからあなたはここに居る……いつでも切り捨てられる、わたしのようなフリーランスの前に……」

「手厳しいですな……たしかにその点はおっしゃる通りです……」

 相手は率直に、食蜂操祈の能力が現状、どの程度のものであるか見極めがついていないことを認めた。その上で、どのような手段にうったえても彼女を確保したいということをカイツに訴えたのだった。

「なぜそこまでして彼女に拘るのですか?」

「わたしにその回答をご用意できないことは、ご存知の筈ですが……」

 結局、食蜂操祈の身辺調査を行った上で、接触が可能と判断できない場合には手を引くことを条件に、カイツは仕事を引き受けることになったのだった。

 ただもし自ら任を離れるようなことになった場合、彼はこの世界から事実上引退を余儀なくされるだろう。

 ネズミを捕まえられない猫に餌をやる心やさしい飼い主など、彼の生きてきた“世界”には居ないからだ。

 十五万ドル――。

 退職金にしては安すぎた。

 

 想定内だったのは、食蜂操祈を“獲得”に動いている企業、組織、あるいは国家は雇い主を含めて複数あること。そして彼らのうちの幾つかが既に何らかの仕掛けを企てて動き始めていたことだ。その中には非合法の裏社会の実行部隊、チャイニーズマフィアやロシアンマフィアなども含まれていて、学園都市の暗部では、さながら表裏が入り混じっての食蜂操祈争奪戦の様相を呈していたのだが、こうした流れを受けて、カイツの当面の任務は先行しているグループの妨害及び撹乱となっていた。しかしそのうちの一つは彼の工作によらずに既に“排除――”されていたのだ。

 年明け直後の一日未明、その荒っぽい手口で知られるチャイニーズマフィアの系列組織、藩元皇(ファン・ユンフアン)を首魁とする『赤蛇(レッドスネーク)』の数名が食蜂操祈のマンションに急襲を試みたものの、あっさり撤退に追いこまれたことは、すぐに競合者(コンペティター)たちの知るところとなっていた。

 そこでいったい何が起きたというのか、以降、赤蛇(レッドスネーク)はすっかりなりを潜め、他の競合者たちも怯えるように巣に引き蘢って、今は動きが沈静化している。

 カイツもその時の監視カメラの映像を手に入れて確認したのだが、何が起きたのか判然としなかった。

 映っていたのは、ワゴン車から飛び出してきた男たちが、なぜか一瞬の間に昏倒し、その後、運転士役のひとりが倒れた仲間たちを車内に回収して慌てて逃げ去って行くシーンだけだったのだ。

 画像を見る限り、男たちには外傷はみられないようである。

 となると、何らかの理由で意識をとばされたと考えざるを得ない。それは強大な精神系の能力者にとっては不可能なことではなかった。

 つまり、食蜂操祈はやはり能力を回復している、すくなくとも全盛期の能力の回復途上にあるのではないか――?

 結論を急げばそうなった。

 

 だが――。

 

 その時、食蜂操祈は確実に自室に居た筈なのだ。精神系能力者唯一のレベル5、人類史上最強のテレパスである彼女をもってしても視界に入らない相手に影響力を行使はできない。

 ならば、外部増幅装置でも使ったというのだろうか?

 その可能性を完全に否定できないのが、ここ学園都市の恐るべきところだった。

 仮にそうであれば自分にできることは何もなかった。任を解いてもらうよりないだろう。結果、その行きつく先がビジネスからの強制的引退になるのだとしても、それは仕方がなかった。

 あの事件から十年近くたった今も食蜂操祈は依然として彼にとっては畏怖の対象なのだ。彼女の愛くるしい容姿と冷厳な性格は、思い出すと今も背中に冷たいものがはしるのだった。

 数日前、意図せず偶然に学園都市の街中(まちなか)で彼女と会った時、彼はあらためて自分が食蜂操祈の前では蛇に睨まれた蛙であることを思い知らされていた。

 大人のレディへと成長した操祈は、容姿こそかつての鋭利な刃物のような剣呑な雰囲気を放っては居なかったものの、強大な心理掌握の能力者と間近で接したことのある者としては、こちらの胸の裡など何もかも見通されているのではないか、との不安と疑いが常に晴れなかったのだ。

 自分の行動は果たして自由意志を反映しているものかどうか――?

 それは自己の存在の足元が揺らぐことへの恐れに他ならない。

 そしてもしも彼女から敵だと認定されたら、あの、氷の女王(ICY QUEEN)――は、いったい自分にどのような罰を下すだろう?

 再覚醒した彼女をこちらの意に添わせるなどということはありえなかった。

 もし常人がそれを望むのだとしたら、ある限りの能力者をかき集めた実行部隊を組織する他はないだろう。それでも間に合うかどうか……。

 胸の内ポケットが振動して、カイツはジャケットからスマートフォンを取り出した。

「わたしだ――」

「ボス、いま例の少女の家の近くまで来て居ますが……」

 電話の相手は響子だった。日本国内では何かと目立つカイツの代わりに実動任務を任せていた。今、彼女は操祈のアパートに逗留していた人物の尾行をしていた。

「場所はどこだ?」

「こちらのGPSの座標をお送りします、ご確認下さい……映像、ご覧になられますか?」

「そうしてくれ――」

 響子が装着したモニターカメラからの映像には、件の“少女”の家と思われる古びた一軒家が映っていた。

「ここが、そうなのか?」

「ハイ、つい先ほど家のなかに入って行くのを見届けました」

 カイツにはこの家の娘と操祈との繋がりが全く想像できなかった。年末年始の四日間を共に過ごすほど親密な間柄だとすれば、まずは親族相当なのかもしれないと思っていたのだが、どうもそうではないようだ。

 片や世界的なコングロマリットの一族の血を引く娘と、この下町の、どちらかと言えば暮らし向きが良いとは思えない住人の間には何の接点も感じられない。

 イヤな予感がしていた。

「接触を試みますか?」

 カイツは少し考えてから、画面に映った響子に頷いて同意を示した。

「画像はそのままにしておいてくれ、状況による臨機対応を許可する」

「諒解です」

 画面が当該家屋に近づいて行き、女らしい白い手が丸い呼び鈴のブザーボタンに指をのせた。

 ブーっと安っぽい音がして、家のなかからノシノシと近づいてくる人の足音が近づいてくるのがわかった。

#なんだい――#

 閉じたままのドア越しに女のダミ声が聞こえた。声からすると中年女のもので、想定していたものとはかなり違っていたがあの“娘”の母親だろうか、と思う。

「あの――」

#新聞なら間にあってるよっ#

「いえ、わたし、ちょっとお嬢様とお話がしたくて……」

#オジョーサマだぁ……#

「けしてお手間をおかけいたしませんので……」

#押し売りの類いなら容赦しないよっ#

「ほんの五分ほどで結構です、お取り次ぎ願えませんか? お礼はいたしますので」

#お礼……だって……?」

 ノソッとドアが開いて、五十代半ばといったところの肥った女が顔を覗かせ、油断ならない目つきで周りの様子を窺っている。

「あんた一人かい?」

「はい――」

「トシコとはどういう関係なんだい?」

「あの……」

「ダチには見えないね、ダレだい、あんた?」

 中年女はこちら――響子――の顔をねめつけている。

「わたし、東都通信社会部のグレーブスと言います」

 響子は身分証を提示したようだ。それは彼女の表の顔だった。

「おや、記者さんかい、そんなおエラいお方がうちの娘にいったい何の用があるっていうんだい?」

「ちょっとお尋ねしたいことがあって……不躾で大変恐縮なのですが……」

 そう言いながら響子は菓子折りよりも有効なものを相手に差し出した。

「おや、こんなことまでしてもらわなくてもいんだけど……まぁ、せっかくだからいただいとくよ」

 中年女は手にした札びらを縒れたズボンのポケットに捩じ込んだ。

「いいよ、入ンナ」

「いえ、こちらで結構です」

「そうかい、お茶も出さないで失礼するけど……」

 中年女はドアをあけたまま背を向けると、玄関わきにある階段の上の方へと声をかけるのだった。

「トシコ、トシコっ、おまえにお客さんだよっ」

 ちょっと間があってから、鈍い声が返ってきた。

#ダレぇ――?#

「新聞社の人だって、おまえと話がしたいんだそうだ」

#新聞社の人ぉ……なんだろぉ……わかったぁ、いま行くぅ……#

 ややあってから襖の開く音がして、階段をドスドスと響かせて降りてくる。

 娘を見たとたん、カイツは愕然としていた。もちろん響子も同様だろう。

 現れたのは体重が百キロはあろうかという、母親よりもさらに大きな女だったからだ。髪が茶髪であること以外、件の少女と一致したところは何もなかった。

「あの、お嬢様は……こちらの方ですか?」

 響子の声にも動揺が窺えた。

「痩せ型の……ツナギを着た高校生ぐらいの方は……? こちらのお嬢様じゃなかったんですか?」

「あんたナニ言ってんだい、うちは二人暮らしで、あたしの娘はコレひとりだよっ」

「なぁにあんた、わざわざケンカ売りにきたのぉ」

 体型を揶揄されたと思ったのか娘の方が気色ばんだ。

「じゃあ、さっきの方は……?」

 響子はなおも懸命に食い下がろうとしていたが、

「響子くん、もういい、丁寧にお礼を言って戻ってきたまえ……我々はやられたんだよ、完全に……」

 カイツはスマートフォンを一方的に切るとベッドの縁にドスンと腰を下ろした。

「心理掌握か……幻想を追っかけさせられていたとは……」

 ひとりごちた。

 胸のポケットから煙草を一本取り出して口に銜え、火をつけると長く吸い込む。

 しばらく肺の中に蓄えて、たっぷりニコチンを吸収させてから白い息をゆっくり吐き出した。

「この年でレジ打ちのバイト探しをしなきゃならなくなるとはなぁ……」

 そう愚痴る顔には、どこか安堵の頬笑みも泛かんでいるのだった。

 




ちょっとサボってしまいました
どうかよろしくお付き合いください


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年が明けて ~往くものは往き、留まるものは留まり続ける~

          LⅩⅪ

 

 密森黎太郎が自宅から寮の自室に戻ってきたときには、もう午後も八時近くになっていた。当然、ルームメイトの那智陽佐雄は既に部屋に居た。

「新年、あけましておめでとう。今年もよろしくね」

「先輩こそ、今年もよろしくお願いいたします」

「年賀状、ありがとう、ちゃんと受け取ったよ。でも返事は実家宛だと間に合わないと思って、直接、手渡しになるけどいいかな……? ちょっと風情がないけど……」

 レイは申し訳なさそうに言った。

「もちろんです、ありがとうございます」

「ごめんね……」

 詫びを言いながらショルダーバッグの中から陽佐雄宛の年賀状を探すと、後輩の少年に手渡した。

 年賀状の交換は親しさの度合いを反映していた。生徒同士であってもメール交換だけで済ませる相手と、互いのアドレスまで交換していてハガキを送りあえる仲とでは、やはり違っている。

 今日の昼過ぎ、操祈のアパートを出てから自宅に戻った時、郵便受けには自分が出していない相手からの賀状が幾つかあるのに気がついて、その返事を書いたりしていたために結構、時間を取られてしまったのだ。

 もともと学園都市内に実家のあるものには、それぞれのアドレスに返信を投函しておいたが、陽佐雄に対しては表書きの宛先こそ実家にしておいたものの、投函しても主なきデスクの上などに何ヶ月もさらされるだけだろうと、手渡しすることにしたのだった。

 裏は干支には拘らずに、体育祭のときの写真を貼りつけたものにコメントなどをつけて体裁を整えていた。お得意のバスケットで陽佐雄が綺麗なシュートを決めた時のものである。

「ありがとうございます……あ、これ……」

「カッコイイよね、撮影部の人が撮ったものなんだけど、とてもいい写真だったから譲って貰っていたんだ」

 写真を見て屈託のない様子で相好を崩している後輩に微笑みながら、レイは窓際にある自分のデスクに腰を下ろした。

「お休みはどうだった?」

「ハイ、とても有意義でした」

「それは良かった」

 後輩がニコニコと幸せそうな笑顔をしていて、何か言いたげであるのに気がついて

「あ、なんかいいことでもあったのかな?」

 水を向けてみる。

「え、わかりますか?」

「まぁねぇ、そんな顔をされてればね……じゃあ聞こうか、キミの物語を」

「えーと……」

 いつもは外連味のない陽佐雄が、珍しく勿体つけた風に躊躇っていて

「別にボクは無理強いするつもりはないんだよ……」

「いえ、そうじゃないです……どうしようかな……密森先輩、このこと、他の人には言わないでくださいね……誰にも……」

 どうやら他人には知られたくない、けれども自分ひとりの胸に収めておくには大きすぎて溢れ出してしまいそうな類の内緒話のようだった。

 それでおよその察しがついたのだが、

「わかった、約束するよ」

 レイは頷いた。

「それで……?」

 後輩に話を促す。

「うーんと……僕……実は、ずっと好きで憧れていた女の人がいて……」

「うん」

「それで……その人に……ようやく気持ちが届いて……」

 陽佐雄は少し顔を朱らめて、言葉を選びながらそれを口にした。

「そうか……それは良かった……」

 思った通りで、レイも安堵に似たため息をついた。

「それってもしかして……そういうこともふくめてのこと? プライバシーに立ち入るようで悪いけど……」

 レイは祝意のこもった暖かい眼差しを送りながら確かめた。

「え? ええ……先輩が訊かれているのがその話なら……そうです」

「……じゃあ、去年までのキミと今のキミは、もう違うんだね……」

「別に……自分は何も変わってないと思いますけど……でも、そうかもしれません……」

「よかったね……」

「ありがとうございます……」

「隣、いいかな?」

 レイは陽佐雄の座るベッドの横に並んで腰を掛けた。

「とても素敵なことだよね……先輩としては、二つも年下の後輩に先を越されて悔しいところなんだけど」

 レイは頬笑んだ。

「でも全然、悔しそうには見えませんよ」

「だって、キミがとても幸せそうだからさ」

「僕、先輩なら、きっとそう言ってくれると思ってました」

「相手は誰? とか、どうだった? なんて野暮なことを訊くつもりはないけど……その人のことをだいじにできる覚悟はできたかい?」

「はい――」

 陽佐雄は大きく頷いた。

「それを聞かせてもらえただけで十分だよ……縁があって、キミのいちばん近くに居てくれる人なんだから、誰よりも大切にしてあげないとね……セックスはそうなるための二人だけの特別な入り口にすぎなくて、その先にはもっとずっと素敵なことが待ってるんだから……」

「密森先輩……」

「交際を深めていくと、きっと相手の欠点に気がついたりするようにもなるだろうけど、でも、それを正そうとするのではなくて受け容れるようにすること、そうするとその人のことがさらに好きになって、自分のことよりも大事に思えるようになる……」

「……先輩は……やっぱりそっちの方も経験豊富だったんですね……」

 後輩の尊敬の眼差しに驚いて、

「あ、いや、いけないな、ちょっと言い過ぎてしまったみたい。今のはみんな誰かの受け売りだよ、忘れていいから」

 慌てて釈明した。

「ごめんね、説教臭くなって。後輩の変化についていけなくてテンパってた……ハハハ」

「そうなんですかぁ? なんだか思いっきり怪しいですよ、隅に置けないなぁ、先輩こそ冬休み中にイロイロあったんじゃないんですか?」

「無いよ、なんにも、ありふれた普通の年末年始だったよ、観音様に初詣に行って、クリきんとんとか、好物の蜜たっぷりの甘いおせち料理を食べて、一日中ゴロゴロして、夜更かしして……」

 嘘ではなかったがレトリックもかなり交えていた。

「だって、プレゼントはどうされたんですか?」

「プレゼントって、何の話?」

 予想外のツッコミを受けてつい真顔になる。

「僕、見ちゃったんです、先輩がクリスマスに銀座の宝石店をハシゴしていたのを……きっと女の人に渡すプレゼントを探しているんだろうなって……」

「えーっ! 見られてたのかぁ、参ったなぁ……それなら声をかけてくれれば良かったのに……」

「ボクもちょうどデート中だったので……」

「そうか……でも、そのことはみんなには内緒にしてくれるとありがたいんだけどな……」

 レイは照れ臭そうに頭を掻いた。

「もちろんです……お互いに……」

「そうだね……」

「それで、先輩は探しものは見つかったんですか?」

「え、いや、困ったなぁ……」

「今度は僕が先輩の物語を聞かせてもらう番です」

 後輩にきっぱりと言われて、レイもヤレヤレといった按配で口を開くのだった。

「残念だったけど、とても高くて中学生の小遣いでは手が届かなくてね……」

「そりゃ、和光もティファニーも高級店ですからね……」

「だよねー、一万円以下で買える小物でもあればと思ったんだけど、一桁違っていて退散するしかなかったよ、それで仕方なくブラブラしていたら、偶然、手作りのアクセサリーができる銀細工の工房が見つかって」

「銀座にそんなお店があるんですか、知らなかったなぁ……」

「うん、地名にもあるように歴史的なものなのかもしれないけど、ボクが入ったお店の他にも何軒かあるみたいだから後で調べてごらん」

「それで、何を作られたんですか?」

「ちょっとしたリングをね……三千円くらいでオリジナルのが作れるっていうから」

「銀座って名前だけで敷居が高いんですけど、それなら僕たちでも十分に手が届くから……今度、試してみようかな……」

 陽佐雄が“僕”ではなくて“僕たち”と言っていて、またレイは頬を緩めた。

「カップル御用達みたいだったから、その人と一緒に行くのも楽しいかもしれないね、お揃いの指輪を作ったりして」

「先輩は、その作ったリングを……僕が気になるのは顛末なんですが……」

「まぁ一応、渡したけど……でも、ボクはキミと違って片思いだから……」

 肩をすくめてみせる。

「受け取ってもらえなかったんですか?」

「いや――」

「なら、それってまんまオーケーのサインじゃないですかっ! だって好きな人にクリスマスに指輪をあげて受け取ってもらえたんでしょ、アブないアブない、またはぐらかされるところだった」

「告白はしたよ、でも片思いっていうのも嘘じゃない……ボクはその人と将来、結婚したいと思っているけど、それはボクが勝手に見ている夢だから……」

 結婚――と、いう言葉に刹那、陽佐雄の表情が陰った。

「先輩が好きな人って、どんな人なんですか? やっぱりウチの生徒、クラスの人とかですか? 栃織先輩とか……?」

 レイは首を横に振った。

「ですよね……僕も栃織先輩は、みんなが勝手に言ってるだけで、先輩のタイプじゃないとは思ってましたから……」

「……子供の頃から好きだった人で……キミと同じように年上の女の人だよ」

「どうして僕の彼女が年上だって……?」

「そりゃ判るよ、だって、ずっと前から憧れていたって言われたら、それしかないじゃない?」

「………」

「男の子が夢中になる女の人って、けっこう身近な年上の人だったりするからね……近所の幼馴染のお姉さんとか、優しくしてくれた学校の先輩とか……」

 先生――という言葉は、意識して避けていた。

「……そう……ですよね……わかります……先輩も、そうだったんですか……?」

 陽佐雄はちょっと複雑な顔をしていて、同意を求めるかのように頷いている。

「うん、ボクもそんな感じかな……でも大切なのは誰を好きになるかではなくて、その人とどう向き合うかってことだと思うんだ……相手の年齢とか立場とかには関係無く、自分が大切にすると決めた人を信じて、その気持ちを大事にすることなんだって……」

「………」

「キミだってその人のことを思っていると心が温かくなるでしょ? 自然にその人が幸せになってほしいって願っている……その気持ちがあれば、どんな時も間違うことはないと思うよ……たとえ片思いに終わったとしても……」

「……そう……ですよね……」

「思いを遂げたヒサオくんには、関係ないことかもしれないけど」 

「いえ、わかります……やっぱり先輩はスゴいな、僕なんか、とても敵わない……」

「なに言ってるの、ヒサオくんはそんなにカッコイイのに、ボクはいつもジェラシー感じてるんだぞぉっ」

「また、そんな心にもないこと言ってるし」

「それはひどいなぁ」

「でも僕も先輩には女っ気はないないって、勝手にずっと思いこんでましたから、お互いさまですね」

「ほうら、やっぱりボクのことを軽く見てた」

「いえ、違うんですっ」

「違わないよ、イケメン男子は常に無意識の上から目線だから」

「そんなことないですってばっ、僕、先輩のこと、ずっと尊敬してましたから」

 雑にドアを叩く音に二人して「「はい」」と応じながら、

「いいよいいよ、そんな取って付けたように言ってくれなくても。まぁ冗談はともかく、お互い頑張ろう」

 少年たちは、互いに似たような境遇であることを知って、微笑みのエールを交換するのだった。

 ドアを開けて部屋を覗き込んだ夏上康祐はベッドに並んで掛けたまま、仲良く見つめ合っている二人の少年を目にするや

「え、オマエらって、いつからそういう関係だったの?」

 目を輝かせた。

「そんな無理やり勘違いしないでよ、ちょっと後輩の進路相談をしていただけなんだから、あけましておめでとう、コースケくん」

「おうっ、今年もよろしくなっ、ヤスの奴が戻ってきてな、なんか“おやき”をどっさり持ってきたとかで、みんなに配るって言ってるから、オマエらにも声を掛けてやろうと思ってな」

「夏上先輩、おやきってなんですか?」

「俺もよくわからん、なんかパッと見、饅頭みたいだったが、菓子じゃないんだと。田舎の奴らの考えることって、俺ら都会人の想像を超えてるからなぁ、ちゃんと麺にまですりゃいいのにって思う山梨の“ほーとー”とか、なんで餅にする前で止めちまうんだよっていう秋田の“きりナントカ”とかな、ワケわかんないところでオリジナリティに突っ走ろうとするから」

 チャキチャキの江戸っ子である康祐は、地方の伝統に対しては常に辛辣だった。

「たぶん、惣菜の入った饅頭で、中華まんに近いものじゃなかったかな……」

 レイがとりなすように話に割って入る。

「中華まんですか?」

「わかんないけどね」

「おい、俺は伝えたからな、早くしないとマコトの奴にみんな食われてしまうかもしれないから、オマエらも早く来いよっ、あ、そうだ純平ンとこに伝えてくれるか? 俺は勇の字ンとこをまわるからっ」

 そういうと康祐はドアをあけたまま、慌ただしく廊下を走り去っていった。

「――だってサ、じゃあ、ボクは純平くんのところをまわるから、ヒサオくんは先にヤっさんのところへ行っててよ」

「了解です、ちゃんと先輩の分、確保しておきますっ」

 陽佐雄も戯けて掌を面にした英国陸軍式の敬礼をした。

「任せたよ」

 また賑やかな毎日が始まりそうで、レイは楽しげな顔になっていた。

 

            ◇            ◇

 

 食峰操祈の担任教師としての新年の挨拶と訓示が終わり、クラス委員として教卓を前に立った栃織紅音は、自分を除く女子十六名、男子八名の総勢二十四名の三年二組生徒たち一人一人の顔を、ズラした眼鏡の奥の瞳で確かめながら、冬学期の行事予定に関する生徒会からの通達を行っていた。

 もっとも、卒業年次である三年生にとっての最大の関心事は、月末にも発表される進路振分けで、その後、不満があるものは第二次申請と特考――特別考査――が控えている。実のところ、希望通りの推薦枠に収まるのはせいぜい三割、例年七~八名ほどと言ったところで、残りの殆どがこの最後のチャンスに賭けることになっていた。そのため多くはスケジュールがタイトとなるのだ。課題レポート提出と筆記試験というタフな山を乗り越えない限り、各自、希望の進路には進めない。

 正月呆けをしている余裕などないはずなのだが、顔を見る限り、まだお祭り騒ぎから醒めては居ないようで臨戦モードにはほど遠いといった空気なのだった。

 分けても、篠原華琳、安西遥果、小田切芳迺……それに舘野唯香の放っている幸せオーラ全開の様子には、なまじ彼女たちの身に何があったのか想像がつくだけに苦笑を禁じえなかった。きっと今の彼女たちの頭のなかにはあま~い蜜がたっぷり詰まっていることだろう、大方、年末年始の長い休み期間中、彼氏とのデートをたっぷり楽しんだといったところか。

 お幸せなことで――。

 だが、同じ教室内にはもっと重症の恋患いが居て、紅音はやれやれといった気分で食峰操祈の容子をチラ見していた。

 今の彼女は全身から、赤と白の混じった賑やかなピンクのオーラが溢れだすようになって煌めいていて、まさに恋に身をやつし、恋に恋する夢見がちの少女といった按配だったのだ。

 もちろんプラトニックな意味などではなく、濃密なセックスの気配。とても教壇に立って生徒を指導する教師が纏うべきオーラではなかった。

 レンズを通してみれば、いつも通りのシックな装いの中にも、肌の艶、潤み加減の瞳はいちだんと美しく、まさに輝くばかりの美貌である。

 男子生徒たちからの劣情のオーラが、彼女に集まるのも無理はなかった。

 だが、操祈のオーラは部屋の隅に居る密森黎太郎に向けられていて、彼もまた幸せなオーラを放って操祈のオーラを慰めるように包んでいるのだった。なにくわぬ顔をしていても、少年もまた操祈を強く想って、愛情を注ごうとしているようなのだ。

 熱愛中の恋人同士とはこんなふうになるのか、と紅音は、ちょっと感心しながら二人によって描かれた見事なオーラの架け橋を眺めたりもしている。

 どうやらこの二人は禁を冒して、休みの間にいっそうの関係強化に励んでいたようだった。

 しょうがないか――。

 あれだけ愛し合っているところを見せつけられていては、二人を分け隔てるというのも酷な気がした。ただ、それが危うい途であることには変わりがなかった。

「……先生、私からは以上です」

「ありがとう、紅音さん」

 紅音は教卓を操祈に返すと自分の席に戻った。

「じゃあみんな、あと三ヶ月だけど、最後までしっかり気を引き締めて行きましょうね」

 そう言って操祈がホームルームの最後を纏めたが、その三ヶ月が平穏に済むとは、紅音には思えないのだった。

 

            ◇            ◇

 

「密森くん、明日、みんなに配布する書類があるから生徒会室まで取りに来てくれる?」

 放課後、帰り支度をしていたレイの背に紅音が呼びかけた。

「いいけど、たくさんあるの?」

「そんなにないから心配しないで」

「わかった――」

 

 生徒会室に続く長い廊下を、例によって紅音の半歩後ろから、従者のようにしてレイはついていった。山崎碧子の居なくなった生徒会室は、以前ほど敷居が高くなく、紅音から仕事を言いつけられても気が重くなるまでのことはなかった。

「約束、破ったでしょ……」

「うん――」

 紅音がなんの話をしているかは分かっていた。彼女ならば気がつかないはずがなかったからだ。

「ごめん……」

「別に謝られても、私には関係ないことだから……あなたたちがどこで、どんなことをしてたか、なんてことは訊かないけど……」

「なにか……トラブルになってたりする……?」

「それは判らないわ……でも、危ない橋を渡ってしまったことは間違いないわね……」

「迷惑をかけるつもりはないから」

「そんなの、あたりまえでしょっ、本当に困った人たち……」

「ねぇ――」

 レイは周りに誰もいないことを確かめてから

「以前に栃織さんがボクたちに言っていたこと……覚えてる?」

「ええ、覚えてるわ……」

「その件なんだけど、先生にも相談して、一応、了承してもらったから……そのことはキミに伝えておかないといけないかなと思って……」

 それを聞いて紅音は足を止めた。細い目を大きくして少年を見上げる。

「本当――?」

 レイは頷いた。

「でも……本当にいいの? 密森くん、また先生に無理強いしたんじゃないの?」

「そういうわけじゃないけど……そりゃ男と違って女の人にとっては辛いし、ものすごく恥ずかしいことだと思うし、とても勇気がいることだから……だからよろこんでってワケじゃないと思うよ……でも、納得はしてもらってる……それだけ栃織さんには骨を折ってもらったからって……」

「……私は別に……そこまでのことをしたとは思ってないわ……」

「時間と場所の設定はキミに任せるから……」

「でも、どうして急に――?」

「ただ、ひとつだけ、条件があるんだ……」

「条件、なぁに? 私でできること?」

「たぶん栃織さんにならできると思う」

「いいわ、聞かせて」

「ミスコンの時に使った高精細のホログラフ撮影装置って、キミにも扱える?」

「ええ、あれは使う分には大したものじゃないけど……って、まさか、それであなたたちを撮れって言うの?」

「うん……」

「呆れた……さすがに驚いたわ、斜め上の提案よね」

 少女は大仰に肩で息をした。

「どうしてそんなことを……」

「ペントハウスにあった栃織さんのお爺さんのライブラリーと、ミスコンの映像を見て思いついたんだけど……」

「ライブラリーって、あの変態ジジイの? あなた、あれ見たの?」

「いや、アクセス権がなかったから見られなかった、ただ、タイトルで何が撮られているのかは想像がついたよ。お妾さんとの色々だろうって……」

「………」

「変かもしれないけど、考えようによってはすごく良いことのように思えて……だって、ボクもいつかは年をとってお爺さんになるし、先生だってそう……それに、若いときの記憶は褪せやすいものだそうだから……」

「それで、記録に残しておこうって思ったの……?」

「うん――」

「よくもまぁ……先生があなたに夢中なのをいいことに、そんなひどいことを思いついたものね……」

「ひどいことかな?」

「それはそうでしょ、女にとっていちばん恥ずかしい姿を、よりにもよって産毛までくっきり再現するような高精細ホログラムにするのよ、私なら堪えられないわ」

「でも……何十年もたってから、今の自分を振り返られるとしたら……?」

「わからないわよ、そんなこと、考えたこともないから」

「先生にはそれで納得してもらえたよ、二人にとっての大切な宝物になるからって……もちろん、画像のデータはボクと先生の生理情報で暗号化してもらうし、キミは一度しか見られないけど、ボクたちは何度でも繰り返して振り返ることができるように……」

「………」

「条件はそれだけ……それで良ければ、あとはキミのスケジュールに合わせるようにするから」

「どうやら本気みたいね……いいわ……後でやっぱり止めたってのは無しにしてよね……こっちも色々あるんだから……」

「うん、わかった……」

「後悔しないわね……?」

「それはわからないな……ボクは平気でも、先生はそうじゃないだろうから……」

「わかったわ……その点についても、可能な限りこちらでも配慮するから……」

「ありがとう……」

「なにがありがとうよ……わたしの操祈先生にそんなことまでさせるなんてっ! 可哀想じゃない」

「栃織さんは本当に先生のことが大好きなんだね……」

「ええそうよ、私にとって、いちばんの憧れなんだから……だから、密森くん、あたし、あなたのことが憎らしくて、大っ嫌いよ」

 レイは肩をすくめるしかなかった。

「おーいオマエら、また痴話喧嘩かぁー? 仲イイなぁっ」

 廊下の先に、ちょうど生徒会室から出てきたところの志茂妻真が居て、百キロ超えの巨体を揺すりながら近づいてきた。

「あたし、先に行ってるからっ」

 紅音は、顎をツンと反らしてその場から立ち去る。

「機嫌悪いな、カノジョー、生理かぁ?」

 すれ違いざまにマコトから下品な言葉を投げつけられて、紅音は振り返るとマコトに中指を突き立てて、最大限の侮蔑の視線を投げ返していた。

「オマエも大変だな、ヒステリーの相手をしなくちゃなんなくて……リアルはこれだからやんなっちゃう」

「まあね……それにしても珍しいね、マコトくんが生徒会室に用事があるなんて」

「ああ、ちょっと新会長に話があってね」

「黒田さんに?」

「来年度の予算の件でさ、ちょっとだけイロをつけてもらおうと思って、先手必勝っ」

 前会長の山崎碧子と比べて、黒田アリスは組し易し、と思う手あいは少なくはなかった。

「でもボクら、卒業じゃない? 関係ないっ……とは言えないのか、やっぱり……」

「休み中、うちの近くの骨董屋に行ったら、ちょうどいい盤があってさぁ、俺の名前を刻んで、後輩たちに遺してやりたいわけよ。その金を今、使っちまったら、来年、後輩たちが可哀想だろ、だからさ」

 真は、将棋部員としてロクに活動しているとも思えないが、それなりに部の後輩たちのことを考えてもいるようだった。

「ところでオマエ、黒田アリスとは面識あるの?」

「うん、一応、栃織さんの使いっ走りとして出入りしてるからね」

「なかなかいいオンナだよな、山崎碧子とはタイプは違うが、しっとりとしていて妙な色気がある」

「そうだね、綺麗な人だよね」

「ニオイもなかなかのもんだったぜ」

 真はにきび面のだんごっ鼻を、態とらしくヒクつかせてみせるのだった。

「はいはい、いい男は鼻が利くんだよねっ」

「そそそっ、そういうことっ」

「やっぱりリアルの方がバーチャルよりもいいでしょ?」

「それはまた別腹、マコトの漢にはいろんな楽しみ方があるもんよ」

「それはごもっともで――」

「オマエ、今夜、暇?」

「うん、まぁ特に予定は入ってないけど」

「じゃあ、俺の部屋に来いよ、ヴァーチャルの凄さを教えてやっから」

「えー、どうしようかな……」

「まぁ、試してみろって、食わず嫌いは良くないぜ」

「考えとくよ――」

「約束したからな、ちゃんと来いよっ」

 そう言い残すとマコトは巨漢でありながら、軽い足取りで去っていくのだった。

 

            ◇            ◇

 

 この子も休み中に一皮向けたクチか――。

 まったく……。

 メガネの縁の上から生徒会長用のデスクに目をやりながら、栃織紅音は、フッとやや寂しげな息を吐くのだった。

 書類に目を通しているようでも、時折、赤や白のオーラが溢れ出してきていて、彼女の心が揺れているのがわかるのだ。黒田アリスが恋を知ったのは明らかだった。その他にも嬉しさ、歓び、羞恥や後悔、痛みや不安、驚き、そして好奇心、といったものを意味するオーラの色合いが賑やかで、それは処女を失ったばかりの女に特徴的に現れるサインなのだった。

 間違いなく、新会長の黒田アリスはこの冬に男と深い関係を結んでいた。

 でも、恐れ、罪、というのは何故かしら……?

 オーラにネガティブな意味合いのある暗い色が混じっているのが珍しくて、見入ってしまった。

 相手が妻子持ちの不倫関係とか?

 十四、五の女の子がいきなり、そんな相手と関係を持ったりするもの?

 でも人は見かけによらないから……。 

「会長……お茶が入りました……ここに置きますね」

 栃織紅音はコーヒーカップを執務デスクの隅に置いた。

「あ、紅音先輩、そんなことは私がっ」

 アリスが恐縮する。

「いいえ、アリスちゃん……アリスさんは新会長なんですから、今までとは違うんです。雑用は私たちの仕事で、会長には執務に専心していただかないと生徒会の運営が成り立ちません」

「あの……すみません……いただきます……」

 アリスはコーヒーカップに口をつけた。

「幸せそうですね」

「え、そんな……わたし……」

 白皙の美貌に朱がさして、蕾が開いたような初々しい魅力が輝いた。

「ああ……そうか……そうでしたね、紅音先輩も精神系の能力者でしたね……あまり心を読まないでください」

「読むだなんて、わたしの能力は限りなくゼロに近いレベル1ですから、黒田会長の心の声なんて何も聞こえたりなんかしませんよ」

「そうなんですか?」

 美少女はちょっと不安そうな顔をして、紅音の視線を避けるように俯いた。

「ただ、心の整理がしっかりつくまでは、山崎前会長の近くには行かないほうがいいかもしれませんね……だってあの方は……」

 紅音はアリスの方へ身を屈めて、耳元で囁きかけた。

「……そういうことにすごく敏感で、とても関心を持たれる方ですから……」

「そういうことって……」

 アリスも小声になって方をすくめる。まるで疚しいことでもあるように、逸らしたままの大きな目を(しばた)かせていた。 

「でも大丈夫ですよ、山崎さんは当分、ここに来ることは無いようですから……いまはとてもお忙しいみたいで」

 その言葉に、アリスがホッと緊張を緩めるのが伺えた。

「わたし……」

「大丈夫です、ちゃんとサポートしますから……たった三ヶ月ですけど、でも、会長の部下として勤めを果たさせていただきますので」

「頼りにしています……紅音先輩……」

 ようやくアリスは明るい笑顔になるのだった。

 チャイムが鳴った。ピーンポーンパーンポーン……。

 馴染みは無くても、どこか不穏で聞き覚えのある四連音が二度繰り返されて、生徒会室に居合わせた全員が怪訝そうに天井近くのスピーカーに目を遣った。

#臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます――#

 これはあきらかに“聞き覚えのある声”で、紅音は頬をピリリとさせる。

#帝国海軍はっ、本八日未明っ、西太平洋はわっ……えっ、ちがうのっ……なに? コレ、コレを読むのっ?……失礼いたしましたっ、こちらは名誉ある常盤台中学三年二組、堀田靖明でありますっ。本日、午後四時、たった今より、本館校舎一階大食堂にて、長野県名産、おやきを無料配布いたしますっ。生徒諸君はもとより、教職員の皆様方にも漏れなく、配布できるように量は十分に確保してございますっ。どなたさまも慌てることなく、配給にお並びいただけますようお願い申しあげますっ、繰り返します――#

「放送部はなにをやってるのよっ、あのバカに放送室を占拠させるなんてっ」

 紅音は低く呪詛のような罵声を発してから、

「うちのクラスなので、あいつには後でペナルティを科しておきます、お騒がせして申しわけありません」

 頭を下げた。堀田靖明を切り裂いた返す刀で、

「高梨くん、あなた、食堂に行ってここにいる全員、十名分のおやきを貰ってきてくれる?」

 黒田アリスの代わりに命じる。

「え、僕ですか?」

 高梨祐太はあきらかに不満そうな顔をしていた。腰巾着をしていた山崎碧子が生徒会室を去ってから、生徒会での彼の立ち位置はますます痩せ細っていた。

「そうよ、だってここには貴男しか男は居ないじゃない……まさか女の子に並ばせるつもりなの?」

「わかりました……」

 しぶしぶ、不承不承といった態度もあらわに、高梨祐太は席から立ち上がる。それを見て、また紅音はまた叱責を加えた。

「そういうところが、あなたに人望が集まらない理由の一つよ。他にもいっぱいあるけど、嫌なことでも進んで楽しそうにやれるようになれば、人は自然にあなたのまわりに集まるようになるものよ」

「でも紅音先輩、それって、ただの便利な人ってだけじゃないんですか?」

「たとえそう思っても、そういうことを口にしないの、笑顔笑顔っ、ホラ行ってっ」

 手をうち振ってむくれ顔の高梨祐太を送り出す。

 山崎碧子の居なくなった生徒会室で、初めて紅音は羽を伸ばして自分を押し出すことができるようになっていた。

 




サボっていた上に
無駄に長くなってしまいました

誤字を修正しました


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春の残照

          LⅩⅦ

 

 コンコン、と軽いノックの音がして、木山春生は、

 来たか――と、思いながらもディスプレイからは目を離さずに

「どうぞ、鍵は開いてるから――」

 と、声を上げた。

 カチャッと音がして訪問者が研究室内に入ってきたのが判ったが、「失礼いたします――」の声は案の定の人物のものなのだった。

「すまない、もう少しで片が付くので、今しばらくの間、そこらへんの椅子にでも掛けて待っていてくれないか……」

「ハイ、わかりました――」

 キーボードを叩いては画面を確かめる、といった作業が繰り返されること数度、春生は

「こんなものか……」

 と、つぶやきながら椅子を回して来訪者へと顔を向けるのだった。

 山崎碧子――。

 これまでの接触は声だけで面識はなく、直接、会うのはこれが初めてだったが、少女についての噂は耳にしていた。

 なるほど、大した美少女っぷりだ、と感心する。一見したところ十五歳という年齢とは思えない老成ぶり。

 生徒会長を二年もの長きにわたって務めた常盤台の女帝にして、八年前の学園都市の巨大スキャンダルにも責任を問われることのなかった謎の不倒翁、あの山崎清十郎の孫娘だ。そして、メンタルアウト食峰操祈の再来――とまで呼ばれる精神系能力者の美少女。

 そこへ食峰操祈が教師として赴任してきたというのだから、いったいなんの因果だろうかと思わずにはいられない。

 とはいえ少女の能力は“オリジナル”の食峰操祈には遠く及ばない。レベル2では能力値はメンタルアウトの十万分の一、百万分の一にもなるまい。測定誤差、端数にもならないほどのささやかなものだ。

 その劣等感こそが少女を今の“行動”へと駆り立てる動機となっているのは間違い無いだろうが、それをけして認めようとはしないだろうことも彼女には解っていた。

「木山先生、初めまして、常盤台の山崎碧子です」

 少女は椅子から立ち上がると恭しく頭を下げた。

「堅苦しい挨拶は抜きにして、本題に入ることにしよう」

「解析が済んだとお伺いしたので、お邪魔させていただいているのですが」

「ああ……それであの映像、キミはどうするつもりなのだね?」

「それは……先生には関係は無いことかと……」

 顔を上げた少女は視線を強くしていて、譲る気はないという意思を示していた。やはり気の強い子だと思う。

「まぁいい、ただしキミがこれからここで見聞きすることは一切、口外無用だ、画像についても同様の扱いになるが、いいかね?」

 碧子が頷いた。

「では、ついてきたまえ」

 木山春生はデスクから立ち上がると、そのまま研究室の奥へと足を運んだ。IDカードを使って入退室する管理区域へと入っていく。

 そこは教室ほどの広さがあり、部屋の真ん中に黒い物体が静置されていた。そいつは巨大な懐中電灯のような形をしていて、装置からはおびただしい数のケーブルが伸びて周囲に配された機器に接続されている。

「これがHDDワイディマ(高指向性拡散波干渉測距計)だよ……この部屋の眼となるものだ」

「眼ですか……」

 碧子は興味深げに装置に近づくと

「触れてもかまいませんか?」

「パネルに触れないなら、他はかまわんよ」

 少女の白い手が装置に触れ、黒光りするそれのなめらかな手触りを確かめるようになぞっていた。

「HDDワイディマ……透視能力者の眼が再現されたもの……」

「再現、となると言い過ぎかもしれんがね……」

「でも、遠隔透視が可能になる……」

「ああ……理論的にはね……」

「理論的?」

「知っての通り、我々は目には見えないし、直接観測することもできない暗黒物質(ダークマター)の充満する空間をかき分けて生きている……」

 春生は手を動かしてみせた。

「といっても正確にはダークマターは物質に干渉せずに通り抜けてしまうから、相互に何の影響もあたえることはないが……だが近年になって量子重力場に微弱なさざ波の痕跡を残していくことが知られるようになった。そのわずかな揺らぎによって生じた波と種類の異なる複数の素粒子が作り出す二次的な干渉波の痕跡を追うことで空間を占める物体の距離、位置情報を捉えようとするのがこの装置の機能だ。私も専門外なので詳しく知りたければ、後で資料を紹介しよう。要するに物理的な距離にはほとんど関係なく、厚さが数十センチのコンクリートも透過して、その物質の固有値に応じた距離を計測することができることから、ビルの倒壊現場や土砂災害などで生き埋めになった人間の救助や、地質調査などで使われることを目的として開発されたものだそうだ。しかし、ここでは別の用途での応用を探っている……」

 木山春生は部屋全体を見回しながら、

「そのワイディマが眼だとすると、この部屋全体が能力者の脳を模したものだと思ってくれていい。レベル3の透視能力者の脳細胞を培養して得られた生体脳パネルがこの部屋の壁全体に全部で二千四十三個、配置されている。厖大な数に思えるが、これは映像を再現するために必要な最小限度と思ってくれたまえ、我々の研究はまだ途についたばかりなのだ。だが、このワイディマとエイミー……エイミーというのはこの脳細胞を提供してくれた能力者の少女の名前なんだよ、彼女の名前をとって、この人工知能システムをエイミーと呼んでいるんだが……これらを使うことで遠隔透視の可能性を探り、基礎理論となるものを組み上げるのが目下のわたしの中心的課題というわけだね……」

 木山春生はワイディマの操作パネルに数値を入力して作動させた。すると、装置の側面にあるディスプレイにオレンジ色の人型をしたものが幾つも映しだされたのだ。

「この映像は、ワイディマが今、“見て”いるものだよ……ここから七キロほど離れたところにある、ある企業ビルの内部らしいが……見たところ椅子に座って仕事をしている事務員さんたちだろうか……」

「本当の映像はもっと鮮明になるんですよね?」

 少女は少し表情を曇らせて言った。

「単体ではこんなものだね……通常、ワイディマの精度は数センチ程度とされているが、少なくとも相互に補完しあえる最適な角度で三方向から測定することによって、それをミリ単位にまで上げることができる。さらには三次元情報に作り直しているから、この映像のイメージとはだいぶ違うと思うが」

「ミリ単位……ですか?」

「不満かね? もしキミが映画のような、我々が普段、肉眼で目にしているような鮮明な画像を期待しているのなら、それはさすがに困難だ。理論的には数百台のワイディマで対象となるものを囲い込んで緻密に“見る”必要があるだろう。しかし、これ一台で二十億円以上もするものだから、それにはあまり実現性が無い」

「………」

「まずは映像を見てから判断してもらおうか」

「わかりました、お願いします」

「一般のパソコンでも表示できるようにしてあるから――」

 木山春生は部屋の隅に置かれたPCデスクの鍵のかかる抽き出しの中から一枚のチップを取り出すと、上に置かれたありふれたPCの端子に差し込んだ。タブレットを操作して、チップの中に保存された動画像ファイルを開く。

 すると――。

 ディスプレイにはいきなりカップルの熱愛場面が映し出されたのだった。女は明るい色の髪をしていて、一糸纏わぬ見事なまでのプロポーションの肉体をあられもない姿になってさらけ出している。男の方は暗い髪色の、やや小柄で華奢な体つきをしていた。

 映像を見つめる少女の目が妖しく輝く。

 女の開いた脚の付け根を飾るヘアはぼやけてはいるが、広がり具合はしっかりと見て取れるのだった。濃厚な愛撫に身をまかせている最中で、そこに顔を寄せている男の目鼻だちまではよくはわからないが、幼い印象の造作であることはかろうじて窺える。

 だが、個人の特定となると難しい。

「画像をもっと鮮明にはできないのですか?」

「無理を言わんでくれ、元のデータがさっき見てもらったようなオレンジ色をした人形なんだから、これでもかなりよく再現されている方だと思うんだが」

「でも動画であれば、補完ソフトを使ってもっと鮮明にできると思うんですが?」

「それをやった結果がこれだよ。入手可能な三十以上のソフトをつかって最適化を試みてある」

「………」

「どうやらキミの期待には添えなかったようだね」

「いいえ、そんなことはありません。ありがとうございます、木山先生」

「では、そのチップは進呈しよう、持って行きたまえ。ただし、さっきも言ったように、あくまでもそのデータはキミだけのものとして留めておいてもらいたい。けっして外部には洩れることのないように確実な管理をすることを約束して欲しい。特にプロテクトを掛けていないのはキミを信頼しているからだからね」

「わかりました――」

 少女はチップを取り出すとケースに戻し、制服のジャケットの内ポケットにしまい込むのだった。

「しかしキミは、なにゆえ食蜂くんの男関係なんかに興味を抱くのかね? 生徒が教師のセックスを覗こうとするのは、とうてい尋常なことではないのだが」

 さきほど訊いたことと同じ意味のことを、別の角度から斬り込んでみた。

「それは……」

「キミのように魅力のある子は、他人を気にする必要もないほどプライベートも充実しているだろうに」

「先生には関係のないことです……」

 少女も同じ答えを繰り返したが、今度は視線を伏せていた。

「もしキミが、何か彼女に対して思うところがあるのだとしたら、悪いことは言わない、あまり深入りせんことだな」

 あえて少女の心の琴線に触れる物言いをして容子を窺ってみた。予想どおりに碧子が顔を上げて意志的な瞳を返してきたので、木山春生は少女が食蜂操祈をひどく恐れているのが良く判ったのだった。

 恐れはしばしば人を恐慌に、そして攻撃的な行動へと誘う。

 もしも少女が操祈に対して、何らかの優位なポジションを得るためのカードを血眼になって探し求めていたのだとしたら、それを手にした今、望みの多くは達成されたことになる。

 しかし、反応を見るに、どうやらそれだけではないようなのだ。

「これ以上、無体なことはしないほうがいい」

「御詮索は無用に願います……お約束は守りますので、ご懸念なく」

「そうかね――」

「わたくし、この後もございますので、これで失礼させていただきます」 

「……ただ、一言だけ伝えておかねばなるまい……」

 木山春生が踵を返しかけた碧子の背に呼びかけるように言うと、少女は足を止め

「まだ何か――?」

 と、言って振り返る。

「もしかすると、もうキミの耳にも届いているのかもしれないが、未確認情報だが、つい先日、元旦の未明、食蜂くんを拉致しようとしていたマフィアのグループが一瞬で気絶させられて、這々の体で逃げ帰ったそうだ……」

「………」

「驚かないのか、やはりキミも知っていたようだね」

「私はべつに……」

「もしかすると彼女は、もう能力をある程度まで回復させているのかもしれない……人類史上最強の精神系能力者、メンタルアウトの食蜂操祈は、ある意味でもっとも厄介な超能力者だ。他の物理系のレベル5は、単に火力が大きいだけの爆発物に過ぎんが、彼女の能力は我々が全く気がつかないうちに我々を自在に操ることができるのだからね」

「………」

「彼女は、自分の能力を隠している可能性がある。そうだとしたら、キミには万に一つも勝ち目はないよ。だから興味本位で彼女のプライバシーに立ち入ろうとするのはとても危険だ。大火傷をする前に止めたまえ」

「わかっています……」

 少女は背を向けたまま応えた。

「それと……先生のラボへの支援の件は、そのうち具体的になると思いますので……」

「ああ、諒解だ――」

 少女が研究室を出て行き、またひとりになった木山春生は

「少しばかり老婆心が過ぎたかな……」

 ひとりごちた。

「三十路も半ばを過ぎて、正真正銘のおばあちゃんだからね……」

 自分のデスクにつくと、碧子に渡したものと同じチップをPCに差し込んだ。

 ファイルをクリックして映像を映し出す。

「どちらのチップを渡すべきか迷っていたんだが……こちらにしなくて正解だったようだ……」

 ディスプレイに映し出された映像は、まるですり切れてノイズ混じりとなった古い録画像のようではあったが、食蜂操祈の股間に顔を埋める少年の顔がはっきり識別できるまでになって映し出されていた。

 既得していた操祈の生理的なデータを使って画像を補正をすると、恋人である少年の顔もくっきりと浮き上がってきたのだ。

 木山春生は、元日未明の二人の容子を捉えた遠隔透視画像を、ホットパートを中心にすでに何度も見直していた。

 そしてその都度、感銘を受けていたのだった。

 食蜂操祈が不届きにも教師でありながら教え子を慰みものにしていたのではなく、少年からの情熱を必死に受けとめていたことが良く判ったからだ。

 男の子の一途な想いや憧れが行為に形を変えるとどのようなことになるのか、というのを目の当たりにして、うっすら抱く焦燥感は、恋を知らぬままに老いて行く自分への憐憫もあったことだろう。

 互いの体を熟知したレズビアンでも滅多にしないような、細やかな愛情に溢れる行為の全てに、女冥利に尽きるような貴重な経験を重ねる若い女が素直に羨ましく思えるのだった。

 男の胸に安らぎ、委ねきった女の表情が二人の関係性を物語っていた。

 いま画面では、女がためらいながらも膝を大きく割って踞蹲(そんきょ)の姿勢になると、少年の顔の上にしゃがみこもうとしていた。せつなげに眉を翳らせた諦めの顔をして、性の冒険へと身を投げ出そうとしている。

 その美しくも淫らな姿に目を奪われながら、自分も――と、春生の思いは過去へと遡っていた。

 教え子のひとり、男子生徒から告白された時のことを。

 もしもあの時、その子の気持ちを受け容れていたら――と、考えてから、ありえない、と首を振る。たとえどうであろうと小学生の男子児童と関係を結ぶことなど、許されることではなかったからだ。

 アルカイックな笑みを浮かべた木山春生は、ディスプレイのスイッチを落とすと立ち上がり、すっかり冷えたコーヒーを淹れ直そうとマグカップを持って喫茶コーナーへと向かうのだった。

 




随分間を開けてしまいました

年内にはなんとかと思っていましたが

いつの間にやら大晦日に


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ゴブリンたちの狂宴

 都内某所――。

 とあるビルの地下に設けられた会場に、その日は八名の男性“会員”が集い、すぐ目の前にある円形のベッドの周りを取り囲むようにして席についていた。

 “観客席”とベッドの間は円筒形の特殊な偏光ガラスによって隔てられていて、ベッドの置かれた内側からは観客の姿が見えないようになっている。だが実際、客席側からすると手を伸ばせば届きそうなほど“美術品”は間近に居るのだ。もちろん“落札者”には及ばないものの、それに準じる眼福を味わうことができるように工夫されている。

 ベッドの上からは煌々と照明が注がれてまぶしいほどになっていて、これからそこで演じられる“ショー”が、細大漏らさず白日のもとに晒されて、客たちの目を愉しませることができるように配慮されているのだった。逆にその夜の“ヒロイン”とされるものに対してはどこまでも無慈悲な、一切の妥協を許さない容赦のない舞台設計だった。

 “艶技”の終了と同時にガラスの偏光が解かれて、哀れな“美術品”は自分の周りには観客が居て、演じた一部始終がしっかり鑑賞され消費されていたことが明かされるという残酷な仕掛けになっている。

 ここはさながら、人の皮を被った醜鬼(ゴブリン)たちのための、美しい女の命を食い散らかすためだけに誂えられた魔界の劇場だった。

「――新年最初のオークションで、また安本のオジ貴の“糞芸”を見せられることになるとは、いささか興ざめですなぁ……」

 左隣の席に居た、蠍の形をあしらった黒い眼帯を付けた男が、おもむろに桐野永二に話しかけてきた。

「“蠍座氏”、ここで実名を口にするのはご法度ですよ」

「おっとこれは失礼、“牡牛座”どの」

 倶楽部の中核を担う十二名の会員たちは、それぞれが十二宮の星座を源氏名として呼び合うことが定まりとなっていて、桐野永二も牡牛をイメージさせる眼帯を付けてはいた。だが、仮面は顔を隠すというよりも会員であることを互いに確認しあう程度の意味しかなく、事実、“蠍座”が野党のさる大物議員のドラ息子であることは会員の誰もが知っていた。

 たしか、もう五十近いはずだが、父親の地盤を受け継ぐほどの才覚もなく素行も不良で、中央政界入りを果たす遥か以前に地方選で連敗を続け、宙ぶらりんとなった状態のまま燻っている。表向きは父代議士の公設第一秘書を名乗っているが、じっさいは親の威光を嵩に威鳴り散らすだけの、絵に描いたようなつまらない男だった。

 この倶楽部の会員に名をつらねるためには年会費が二千万円、このオークション参加フィーも一回につき百万円もかかるのだが、いったい、そんな金がどこから出ているのだろうかと思うと、自然、侮蔑を含んだ苦い笑みが浮いてくる。

「どうも最近、出品される“美術品”のレベルが落ちているようでいけません……」

「………」

「毎度、がっかりさせられることが多くて、先月は元アイドルで落ち目のグラビアモデル。落札額はたったの八百万、その前は美人女優、っていってもとうに盛りの過ぎたアラフォーで、落札価格は僅か六百万、そして今回は十代のアイドルってことでしたが、ありゃ、そもそもモノになる見込みのないお囃子止まりが見えてるようなタマで、どうみてもせいぜいが千万ってのが相場でしょうなぁ、処女ならともかく、たった一晩に千五百万なんて大金、とうてい出す気にはなれませんや。ごらんなさい、今夜は会員が三名も欠席というお寂しい状況で……」

 言いながら“蠍座”は飲み物ののった盆を持って会員たちの座席の周りを泳いでいたバニーガールの一人のお尻をつかんで、きゃっ、と小さな悲鳴を上げさせた。

「どう、この会が終わったらオタノシミとシャレこまないか?」

 と、スタイルのいい若い女を口説き始める。

 

 お愉しみとシャレこまないか――だって?

 

 いったいいつの時代のセリフだよ、とふきだしそうになりながら桐野永二は女が持ってきたグラスの一つを取って口に含んだ。軽く頷いて、満足している旨を伝える。女の方も馴れたもので“蠍座”の無作法を咎めることもなく、何事もなかったように立ち去っていった。

「なかなかいいカラダをしている、後でまた誘ってみるかな、今夜の“美術品”なんかよりよっぽど美味そうだ」

 “蠍座”は女の尻をつかんだ手をいやらしく蠢かせて、背中の大きく開いたバニーガールの後ろ姿を、好色な視線で追っていたが

「“牡牛座”どのは聞き及んでおられるかどうか、ココのような秘密の会員制オークションは他に幾つもあるって噂……」

 声を潜めて、また話を振ってきた。

「さあ、どうなんでしょう、私は不案内なもので……」

「いや、ナニね、安本のオジ……じゃなかった“乙女座氏”が、しょっちゅう芸を披露するのはその為じゃないかって話で」

「ほう……」

「……ここだけの話なんですがね……ウチなんかよりももっとずっといい“品”がかかる倶楽部があるそうで、そこでは現役バリバリのアイドルやらモデルやらが毎週、“出品”されているってことらしくて……たしか“土曜会”っていうらしんですが……」

 “蠍座”はその秘密倶楽部の噂を披露した。過去にオークションにかけられたビッグネームの名を具体的に挙げて。ただし出品リストの質が高い分、会費も桁違いで、入会資格も一段と厳しいのだと宣う。

 彼が言うには“乙女座氏”が頻繁に落札して会員たちの前で“芸”を披露するのも、運営側に自分をさらに上の倶楽部への入会を認めさせる為のアピールをしているからだろうというのだ。

 殆どが事実だった――。

 “乙女座氏”こと藤倉組の大幹部、安本閏貴は倶楽部側に対して再三のクラスアップを求めてきていたが“運営側”は未だその回答をしていなかった。

 また俱楽部のランクには“土曜会”どころか上には上があって、もっと世界的な規模でこの類のオークションは密かに、そして日常的に行われている。

 桐野永二が特別にオブザーバーとして参加を許された、準最高級ランク、“S級”のオークションで競りにかけられていたのは、なんとケイト・ハートリーだったのだ。さすがに驚きに我が目を疑ったが、もっと驚いたのは、そこで動いていた金額の大きさにだった。

 著名なハリウッド女優で世界的なアイコンでもある若き美女の落札額は、桁違いどころの話ではなかった。あのサザビーズがプアメンズオークションに思えるほどだ。

 世界的美人女優が、いったい、どのようないきさつで“美術品”に身を堕とすことを受け容れたのかは知る由もないが、その夜、彼女を待ち受けていたのは、思っていた以上に過酷な運命だったのに違いあるまい。会員たちの前だけで演じられる一夜限りの“舞台”が、誇り高い美女の自尊心を踏みにじる残酷なものだったであろうことは想像に難くなかった。

 想像――というのは、彼が見ることを許されたのはオークションの途中経過までで、その後、彼女が実際に落札者と演じたハードコアは、残りの十一名の会員限定の“スペシャルショー”だったからだ。

 おそらく程度の違いこそあれ、これまで自分が目にしてきたものと大差のないことが彼女の身にも起きたのだ。

 それというのも“美術品”の落札額は、このBランクの倶楽部でも高級コールガールの数倍から数十倍にもなるからで、大枚をつぎ込んだ落札者が、元を取ろうと卑しい心根を全開に、倒錯的な行為に突っ走るのは実にありふれたことだった。

 そこには出身階層や社会的地位は関係なかった。

 ましてやケイト・ハートリーの場合、入札額は桐野永二が最後に見た時に、既に一億五千万ドルを超えていて、最終的にどこまで金額が跳ね上がったかは想像もつかない。

 判っているのはその後、彼女は、ヒロインとして撮影も順調に進んでいた大作映画を、突然降板することになったということだ。健康上の理由と報じられているが、もちろんそれは表向きのことだろう。

 心に傷を負って、果たして以前のような姿で彼女が表のショービジネスの世界に復帰できるかは大いに疑問だと、その記事を目にした時、桐野は思ったものだった。

 今、目の前の円形ベッドの上では、“乙女座”を象った黒い眼帯をつけた七十近い太り肉の男が、美少女の白い体に(ねぶ)りついていた。落札できなかった残りの会員たちは、その周りをゆっくりと回転する観覧席で、一部始終を固唾を呑んで見つめている。

 初めは気丈にも堪えていた少女だったが、ヘンタイ狒々ジジイの太い指に前後の穴を冒されるようになってからは見るも哀れに泣き崩れ、男の腕から逃れようと儚い抵抗を見せるようになっていった。

 この後、少女にはもっと過酷なことが待ち構えているのだ。生き地獄は明け方まで、まだあと数時間も続く。そして最後には、少女の心を破壊するカーテンコールが待っている。

 またひとり、アイドルを夢見る少女の運命が、無残にも打ち砕かれる場面に立ち会うことになっていた。

 仕事とはいえ、馴れない――。

 というより、馴れてはいけなかった。そこがここに居る“客”との違いだと彼は自分に言い聞かせている。

 桐野永二はスーツの内ポケットからアップマンのコロナを一本取り出すと、ヘッドを軽く噛んで吐き出してくわえ、ジッポーで火を点けた。熱い吸気を舌の上で軽く転がしてから吐き出す。

 またいつもの“乙女座氏”の得意技、“排泄強要”になって桐野永二は、小さく侮蔑のため息をつくと手にしたファイルに目を落とした。それは会場に入る際に配られ、署名を求められた宣誓書だった。会員の心得や決まり事が幾つも箇条書きにされていたが、その中で落札者が“美術品”を扱う際に守らなければならないルールは三つしかない。

 

 1 けして傷つけないこと。但し処女を奪う行為は禁止規定に該当しない。

 

 2 心身に看過できない影響を与える薬物の使用は認めない。

 

 3 撮影等、一切の記録を残す試みは、これを認めない。

 

 第一項と二項は“美術品”を守るためではなく、“美術品”が再オークションにかけられる場合に備えて価値を落とさないためのものだった。

 逆に言えば、たったそれだけを守れば、後はどんなことをしても良いのだ。小道具を使おうと、大道具を利用しようと構わない。倶楽部は常に新しいアイデアに対して協力的で助力を惜しまなかった。

 そして第三項について言えば、運営側までが禁止されているとは書かれていないのだ。

「やるなぁ、あの爺さん、いつもながら感心するよ――」

「まったく元気だよなぁ――」

「爺さん、ありゃまた女の子を壊しちまうつもりだぜ、ハハハっ」

 居合わせた他の会員の声が聞こえてくるようになった。

 桐野永二は席を立つと、何か問題が――? とでも言うように寄ろうとするバニーに、

「トイレだ」と、指でサインを送って追い返し、その場を後にした。

 実際、トイレで用を足しながら

「SSSランクの最高級、“支配者”御用達のコールガールか……」

 ひとりごちた。

 最高ランクとされる“美術品”が、いま世界には六名ほどいて、密かに渡されたリストに載っていた。

 どれもワンナイトラヴのオークションに開始価格から一億ドル以上の値がつくだろうと見込まれている、超がいくつもつくような“極上品”だった。中には王族に所縁があり、順位こそ十四位と低いものの、れっきとした王位継承権をもつ十二歳になったばかりの王女も含まれている。他、十代のアイドル歌手、うら若き天才フィギュアスケーター、美貌の海軍士官など、プロフィールに添えられた写真を見ただけでも、男であればどれもため息を禁じえないほどの美女、美少女たちだった。

 そして、ここ日本にも該当者が一人居て、彼はその身辺調査を任されていたのだ。ヴァージンであれば最高ランクのまま、そうでなければ格落ちとなってリストから外される。二十二歳という年齢からすると、とっくに大人の女になっていてもいいはずだが、それでもリストに残っているのは、彼女の類稀な美貌に他ならない。

「教師か……しかし、能力者っていうのは、いったい、なんなんだろうな……」

 咥えたままの葉巻に烟られて、眼帯の下の眉を苦そうに顰めて呟いた。

「まぁ力押しが無理なら、絡め手はいくらでもあるんだろうが……」

 屹立して出にくくなった排尿をようやく終えると、桐野永二はスッパスッパと不機嫌そうに白い吐息を燻らせて、また醜鬼たちの居る会場へと戻って行くのだった。

 



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インキュバスの戯れ

          LⅩⅨ

 

 

「いったい、なんなのよこの子は……」

 山崎碧子はモニターに映し出された映像を前に魅入られたようになって、もう何度目かにもなる嘆声を漏らすのだった。

 いま“謎の少年――”は逆向きに抱いた女の背後から長い脚に腕をかけてグイッと開かせると、あられもない形にむき出しにされた股間に顔を寄せ、またそこを丹念に(ねぶ)りとり始めたのだ。一方で両足を巧みに操って女の両腕に絡めて自由を奪い、“食峰操祈”は身を守る術をいっさい奪われて、自身のもっともか弱く切ない部分を相手の手と口によって自由に弄ばれている。

 音声情報がないために映像は無音だったが、彼女が官能的に腰を細かくうち慄わせながら容赦のない愛撫に甘い声で啼いているのが窺えるのだった。

「凄いわ……」

 好奇に駆られるままに局所をクローズアップしてみる。するとピントの甘いボヤけた映像であるにもかかわらず、明らかに色づきを増した粘膜が菱に開かれて、そこを長い舌が何度も往復してくまなくなぞっていくのが見て取れるのだ。

 同性として思わず息を呑んだのは、とりわけ繊細な器官のあたりにも舌と唇の包囲網が迫る中、退路を断たれて孤立無縁のままに、やがてしっかりと男の口の中に捉えられてしまう、そのスリリングな場面を目の当たりにした時だった。と同時に女の体がクッと海老反りになる。苦しげな息遣いに豊かな胸がせわしなく上下するようになって、頭の上に投げ出されたままの両腕に負けきった諦めの心根が現れているようなのだった。

「……これが……あの女なの!?……食峰操祈が、こんなふうになるなんて……」

 教室での知的で玲瓏な女教師が、少女の想像を超えてしどけなく、あられもない姿になっていた。

 もちろんこうした愛撫を碧子も未経験ではない。ただ彼女の場合、少しばかり屈折しているのだ。相手からの愛情を量るとても心地よい愛撫だと思う反面、女の弱さを思い知らされるやり方だとも感じてしまうからだった。体が大きくて力の強い牡に身をまかせるだけでも自身の威儀を脅かされるようで抵抗があるのに、その上もっとも機微に触れる部分の全てを相手に委ねるなんて、やっぱりどうかしていると思ってしまう。

 まして、いまの操祈がされているような大胆な体位で許したことは一度もなかった。

 しかしそういったありきたりの印象以上に、画面の二人が演じているのは今やある意味で全く別の行為のようにも思えているのだ。

 それは、予め想定していた“女教師と生徒の間での禁断の恋”というような、わりとどこにでもある平凡な良俗違反と違って見えたからなのかもしれないが、二人の行為が始まってかれこれ数時間、ホットパートをつぶさに観察を続けた結果、もう単純にこれを“セックス――”と言うべきかどうかさえもわからなくなってきているのだった。

 はっきりしているのは自分が経験している性行為とはかなり違うこと。

 もっと遥かに親密で、そして淫靡な男女関係だ。

 それを身近にいる人物が演じているというのは軽い衝撃でもあった。

「あなたは……誰……?」

 この少年――が密森黎太郎ではないのだとしたら、いったい何者なのだろう?

 当日、所在不明の本校男子生徒は居なかった。ということは他校の生徒、あるいは暗部組織の生き残りということもあるのかもしれない。

 そうなると奈良での事案とのすり合わせをしなければならなくなるが、それ自体は大した瑕疵ではなかった。

 やはり何よりも重要なのは、この少年――体型や体格からいっておそらくミドルティーン以下であるのにちがいない――の素性だ。

 謎の少年は今、手と指、舌と唇を駆使してもっともデリケートな部分、女にとってとりわけ障りのある“三つの場所”を同時に責め苛んでいた。それはたしかに、愛撫――なのかもしれない。けれども少女の目にはむしろ拷問のようにも映る。性的な支配を目的とした、このうえなくやさしく、そして冷徹な仕置に。

 女体の弱みを知り尽くして、性技によって心と体を縛りつけて従わせようという、身持ちの堅い女を籠絡するための官能の秘戯だ。

 性病が蔓延する以前の牧歌的な時代の話だが、その昔、ニューヨークのジゴロたちは自分の手中にあった女たちに対して、手や口を使って慰めることはあっても、けして自身の一物を使うようなことは無かったという。

 そうすることで女たちの忠誠心を煽っていた。 

 はたしてそういう意図があるのかどうかわからないが、件の少年も、まだ一度も男の武器を使って女を冒してはいなかったのだった。画面では明らかに局部を怒張させているのが窺えるのだが、それが女教師の体に突き立てられることはなかったのだ。

 少女がこれまで見てきたのは、食峰操祈の体がただ弄ばれて歓びの波にのみこまれていくばかりの一方的な展開である。

 前戯のための前戯、ボディキスにはじまって……。

 もっとも、それすら碧子が未だ経験したことのない淫らで嫌らしいものだった。腋の下をねっとり舐めまわされたり、臍穴のニオイをしつこく嗅ぎとられたあげくに中にまで舌を入れられるなんて!

 それだけでも我が身に置き換えると自然に肌が粟立ってくる。

 そういった執拗さがそっくりそのままウイークポイントへと向けられるのだから女にとってはたまらない。見ている側も、操祈の方に感情移入してしまうほど、あっと思うような場面の連続なのだった。

 そして彼女がようやく望んだ歓びに辿り着いて休息を挟むたびに、次はより難度の高い体位、行為へと導かれていく。

 女教師は少年の手に促されるままに大胆に体を開いていた。求められるままに恥ずかしい体位を取らされていた。

 そう――。

 彼女を性的倒錯へと誘っているのは明らかに少年の方だったのだ。それが映像を見てはっきりわかったのだった。

 当初、碧子は、普段は涼しげな顔をしていながらその実、本性は欲深なアバズレの食峰操祈が、しおらしさを装いつつ何等かの精神的能力によって教え子を禁断の性の世界へと誘っているものとばかり思っていたが、現実は正反対だった。

 

 支配されているのは食峰操祈の方だ――!

 

 それは、よくよく考えればあたりまえの帰結だったのかもしれない。

 とどのつまり、相手に対して精神系の能力を使ったセックスは程度のいいマスターベーションと変わらない。貪欲に快楽を求めるのであれば自慰などでは飽き足らないだろう。第一、たとえレベル5であろうとオルガスムスの際の強い肉体的歓喜の最中に、意識を清明に保って他者を支配するような器用なことなど到底できるはずもなかった。

 だとしたら食峰操祈を、この年上の女教師の体をここまで自由にできる少年とはいったい何者なのか?

 相手は密森黎太郎だとばかり思っていたのだが、その可能性はあっさり排除されていた。体つきや雰囲気こそ似てはいるのだが、確かに彼は年末年始、学園都市内には居なかったのだ。それは碧子自身の目でも確認済みだった。生体認証を追った結果、大晦日の午後、友人等と学園都市を後にして、戻ってきたのは四日の夜だ。監視カメラの映像にも矛盾はない。

 いかに操祈が高レベルの精神系能力者といえども、人の目を欺くことはできても撮影された映像に干渉はできはしまい。

 だから、この少年は密森黎太郎ではありえないのだ。

 そうだとすると――。

 モニターの中では謎の少年が、なんの迷いも感じられない動きで、今また女のもう一つの泣き所にも舌を送って口をつけ、執拗なまでの熱の入れようで舐めくじりはじめた。少年の放つ歓喜の波動が画面からも伝わってくるようになる。

 大人の女のもっとも遠い場所にさえタブーなく踏み込むばかりか、明らかにそれを楽しんでいるのが窺えるのだ。

「やっぱりこの子……普通じゃないわ……」

 たしかに舌の動きには強い愛情を感じる。口づけの(うやうや)しさはどこまでも優しげだ。だがこうした振る舞いに熱中している姿には、甘美な樹液を求めて長く留まる淫猥な蟲を想わせて、どこか異形の存在にも見えてくる。

 淫物嗜好者――?

 男たちの中には女体に対して歪んだ関心を持つものが一定数いることは知っていた。けれども、まだミドルティーンと思われる男の子がするにしては、あまりにもハードルが高すぎるのではないか。

 子供が大人の女のいちばん醜い部分を好むなんて――!

 少年が何かを言ったらしく、女教師が気怠げな動作でベッドの上でうつ伏せになった。そのまま膝を立ててお尻を高々と差し出す格好になる。奴隷商に陰部を品定めをされる時の売り物にされた女たちのようなポーズに。ベッドの間に圧しつけられて豊満な乳房が、今にもはちきれそうになるほどひしゃげていた。

 ようやく二人の交わりの場面にたどり着いたのだと思った碧子だったが、少年の方には、やはりそのつもりはないらしく、また指の腹でそこを円くさするようにしてしつこく弄り始めたのだった。淫靡な詮索を受けて女の肩に緊張が覗く。

 やがて十分に解れているのを確認したのか、少年はそこにプスリっと指をくぐらせた。恐れていたことが現実になって操祈の体が一瞬、ピンとこわばり、そして力なく崩れていくのだった。

 いま彼女は、たった一本の指で支配されていた。

 ゆっくりと出し入れが始まって、女の腰が鳴動するようにひきつっている。それを少年は空いている方の手で撫でつけて宥めている。

 枕に埋めた操祈の顔には教師としての威厳も、年上の女のゆとりも微塵も感じられなかった。ただ弱く、脆く儚く、そして痛々しいばかり。

 いったい、今の操祈がどのような思いで、このような変質的な行為を受け容れているのだろうか?

 しかしそれが彼女にとって初めてのものではないことは、拒むのではなく堪えることを選んだようすからも窺い知ることができるのだった。

 きっと今度は口を使わずに指だけでということなのだろう、少年の空いていた方の手が股間を潜り、前後から責め立てるようになって女はいよいよせわしなく、苦しげに身をもがかせるようになっていく。

 操祈を疎ましく思う少女ですら、女の肌と肉とがこんなにも執拗に、くまなく探り究められることがあっても良いのだろうかとさえ思う残酷な愛撫だった。

 そして、その時が突然、訪れた――。

 操祈のまるく豊麗なお尻がぶるんっと大きくひきつると、その刹那、ぎゅっと搾った体からしどけないものがほとばしったのだ。ボヤけた画像ではあっても、それがなんなのかは女であれば分かるものだ。少年はその全てを手で受け止めると、とても貴重なものであるかのように口へと運び押し戴いている。差し入れていた指を舐める仕草にも全くと言っていいほどに躊躇いがなかった。そして従順に歓びを迎え入れた女の肉への、ねぎらうようなやさしい口づけ。

 碧子にとっても、ショックとも驚きともつかぬ感動に、映像に目が釘付けになっていた。

 愛し合い始めてから、彼女が歓びの淵へと突き落とされるのを見るのはこれで三度目のこと。食峰操祈という甘い蜜を吸い尽くさんとして、ほしいままに振る舞う淫魔のような少年に、嗅ぎとられ舐り取られ指で探られた挙句に、哀しく果てていくしかない美しい女体。

 精を搾り取られた操祈はベッドの上で、肩で荒い息づかいをしてぐったりとなっていた。

「面白いわ……これはこれで、アリよね――」

 操祈のぶざまに寝乱れた姿を見届けて、少女の口の端が嘲笑するようにつり上がる。

 学園都市の女神さまが、夜な夜なインキュバスの慰みものにされて、性奴に堕とされているなんて面白いじゃないっ――!

 今しがた体を激しくわななかせて歓びを迎え入れたばかりの女が、男の胸に甘えて乱れた呼吸を整えていた。デリケートな肉を(ひし)いで、女体の弱さと脆さを思い知らせていた指と手が、今は髪を撫で、背中をさすっている。

 睦言をかわして見つめ合う瞳が絆を深めあっていた。

「なるほどね……こうやって操祈先生に悪い魔法をかけているわけね……大したものだわ、名無しの誰かさん……」

 そう口にしてみたものの、同時に自分も彼女が経験しているような歓びを体験したいとも思っているのだった。インキュバスと褥を共にするというのが、どういうことなのか試してみたいような……。

 スカートの裾から肌着の中に忍ばせていた指が、いつしか自分を慰めていた。

 

 もしも彼なら……ここを、こんなふうに……。

 

 少年の仕草に倣って、触れてはいけない場所にも指を伸ばしてみる。

「ああ……」

 片手だけではもの足りなくて、両手で自分の体の仕組みを確かめてみた。

 はじめは躊躇いながら、やがて大胆に……。

「……いい、気持ち……きっと彼なら……もっと上手に……するのよね……うらやましい……」

 甘い吐息をついて、画面を見遣った。操祈は今、仰向けになった少年の胸のあたりに腰を下ろして脚を大きく割り開いていた。

「……おやおや、この女は……まだ、やり足りないとでもいうのかしら……アバズレさん……」

 指がぬかるんだ体内を探っていたが、その動きが不意に止まった。

 少女の目が画面の中にあったものを凝視していた。今まで二人の行為にばかり目が向いていたために気がつかなかったが、

「そうか――」

 納得したかのように少女はひとりごちた。

「きっと、そういうことだわ……」

 碧子はスカートから手を引き抜くと、そのままスマートフォンへと手を伸ばした。

 ボタンを押して呼び出し音を聴く、それが途切れて

#どうしたんだい?#

 眠りを妨げられたのだろう、わずかに不満げな声音が訊き返している。

「ちょっと確かめたいことがあるんだけど――」

 電話の相手は藤城多顕正だった。

#いいけど、なにかな?#

「能力検査で見つからない能力者って、居ると思う?」

#やぶからぼうにいったい何の話だい?#

「そのままよ、入学試験の時に能力検査ってあるでしょ? あれで引っ掛からない能力者っているのかしら?」

#ひっかからないって……能力は自己申告で、あると言えば検査にまわされるから#

「そうじゃなくて、能力はあるのに申告しない場合のことよ」

#そんなことをする理由もわからないけど……能力がある方が、今でもさまざまな便宜をはかってもらえるからね#

「じゃあ申告しなければ把握できないのね?」

#いや、そもそも能力者が能力を秘匿するのは難しいことなんだよ。検知器も精度があがっているしね、学校なら身体検査をすればすぐにわかるから#

「でも、隠そうとすれば隠せたりするもの?」

#どうだろう……そういう事例を知らないから……多分、不可能ではないだろうけど……#

「不可能じゃないのね?」

#どうしたんだい? 何か気になることでもあるのかい?#

「ええ、ちょっとね……また連絡するわ……」

 碧子は深夜に一方的に電話をして、一方的に電話を切った。

 画面を止めて、一部を拡大していく。

「やっぱりあなた……密森くんなんでしょ……あなたがどうやって学園都市のセキュリティをくぐっているのかはわからないけど……でも、何らかの能力をつかっているのだとしたら……」

 画面にはベッドの下に脱ぎ捨てられたトレーナーが映し出されていた。

 ピントが甘い上に丸められていて気づきにくいが、特徴的な袖口のデザインが見て取れた。

 それは明らかに常盤台の男子生徒用のものなのだった。

 




また更新をサボってました



誤記に気がついあので微修正をしました
申し訳ありません


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束の間の憩い

          LⅩⅩ

 

「なぁミツぅ、オマエ、進路志望を空欄にしたっていうけど、それでいいのかよ? やりたいこととか無いのか?」

 銀を突き出してレイの角筋を塞ぎながらコースケは言った。

 放課後の将棋部の部室にいるのは、なぜか正規部員は松之崎純平の一人で、他には釣り研究会の夏上康祐とユーレイ部員のレイがいるだけだった。二人は今、盤を挟んで向かい合っている。

「そりゃボクだってあるけどサ……」

 レイは歩を突いて応戦し、コースケの銀を脅かす。

「たとえば――?」

「うーん、飛行機のパイロットとか哲学者とか……」

 返事に詰まったレイが適当なことを言うと、

「ソレ、誰の受け売りだよぉ」と、それまで傍でコーラの入った紙コップを片手にストローでチューチューやりながら、ゆるみきった顔でマンガを読んでいた純平がレイとコースケの会話にわりこんできた。

「ごめん、ホントはあんまり考えてないんだ……今が楽しいから、それがずっと続けばいいな、ぐらいにしか思ってなくて」

 レイは心からそう思うのだった。

 最愛の恋人でもある師、食峰操祈との関係が順調であることは勿論、クラスメートとも、生徒会関係もみな、夢のように楽しいことばかりが続いている。小さなさざ波が立つこともあったが、それも含めて毎日が充実していた。

「まーそうだけどさぁ……それで操祈ちゃん、なんも言ってこなかったの?」

「別に何も、ただ、『はっきり()まったら教えてちょうだい』って言われただけで」

 操祈の口調を真似て言う。

「まぁ、あの人のことだから、オマエの成績ならいざとなったらどこにでも放りこめるくらいに思ってるんだろうなぁ」

「期末のスコア、いくつだったっけ?」

「コアコアで、たしか化、数、二外で861点、だったかな……? 数学は食峰先生の手前、手を抜かずに頑張ったけど、武識先生のフラ語が結構ヤバくて」

「オー、コアコアでそれかよぉ、やっぱレイっちはあったまいいなぁ、長点上機でも数物を除けばみんな大丈夫そうじゃん。生物医学とか情報工学とか……俺なんか選択でも750を超えるのがやっとだったから材料物性あたりでも長点上機は厳しいかな……コースケ、オマエは?」

「739っ、チックショー、純平に負けるとは、クックックック……」

「なんだかんだ言って、みんな700は超えてるんだよなぁ、ゆうのヤツも選択だと800超えしてるっていうし」

 コアコアというのは、中学三年間を通して成績の良い科目を上から二つといちばん成績のよく無い一科目について、昨年末に実施された最終期末試験の成績の合計から算出した得点で、生徒の学習能力の高さと適性とを同時に測る簡便な指標となっていた。1000点満点に換算されて800点を越えると概ね優等生としての評価を受ける。今の常盤台では生徒評価の指標が他にもいろいろあって、“選択評価”ではあらかじめ生徒が選んで申請していた得意三科目での結果を同様に1000点満点に換算する。この場合だと山崎碧子などは990点を超えるし、栃織紅音やレイ、それに舘野唯香なども900点を優に超えてくるのだった。このほか選択評価とよく似ているものに“優良三科目評価”というものもあって、これは最終試験結果での好成績だった三科目だけの結果を言う。選択評価と優良三科目評価の二つを合わせて生徒の嗜好と適性を判定する材料となっていた。また“重点評価”は進学希望先が指定する教科での得点、そして総合評価は単純に全科目の成績を合計して換算したものである。それぞれの指標に特徴があり、これらに知能検査、性格検査、心理検査などを合わせて、分野ごとの適性や伸びしろを細かく判定されて進路が振り分けられるのだ。

 それゆえ、最終試験での得点数の多寡と志望校の合否は必ずしも一致するわけでは無く、また現時点での入学の難易度が分野のヒエラルキーを意味するわけでもなかった。

 数学や理論物理などのように早期教育の必要性の高いスプリント的な分野と、生物学や材料科学のような複合競技的な分野とでは、生徒選抜の趣旨にも育成方法にも自ずと違いがあるというだけのことである。

 こうして各自、志望の高校へと進学することになるのだが、学制で名目上“高校”と銘打ってはいても、教育カリキュラムと内容は、大学、大学院に相当する高度なものだった。

 学園都市の生徒たちは、かつてのように特殊能力を持つものこそわずかではあったが、生まれながらに知能も学習能力も非常に高い世俗的には“ギフテッドチャイルド”で、一歩、学園都市の外へ出ればスクールカースト最下位層の生徒たちでさえ進学校のトップクラスの生徒たちと比較しても、勝るとも劣らない実力を備えている。

「ボクは、みんなと一緒に居られて、毎日が楽しければそれでいいんだけどな……離れ離れになるのはやだなあ……」

 レイがこぼすと、

「いっそのこと、みんなでトリタマにでも行くか?」

 冗談めかしてコースケが応じた。

 トリタマ――都立多摩高校、外の世界、学園都市の一番近くにある普通の進学校である。

「俺も、それも悪く無いかなって思うときがあるよ、なんかフツーが一番なんじゃねぇのかって」

「それ、いいかもっ」

 レイは目を輝かせて続けた。

「あそこならいつでも学園都市に来られるしね」

「俺らなら高校のカリキュラムはほぼ終わってるから、ラクできそうだしな、女子を口説く時間もたっぷりとれそうだし」

「コースケくん、それはさすがにキモいよ、男子たちからはフルボッコ、女子たちからは総スカンのお約束が待ってそうで……ボクは大人しく優等生していた方が無難だと思うな、ハイ、王手っ」

「えっ!? ちょ、ちょった待った! えー、なんだよ、その桂馬、どっから湧いてきたっ?」

「コースケ、代わるか? 俺ならこの絶体絶命な局面をひっくり返せるぜ」

 横で見ていた正規の将棋部員である純平が煽る。

「スットコドッコイの岡目八目はあっちいってエロマンガでも読んでろってぇのっ、えーっと……」

 夏上康祐はスポーツ刈りにした頭をガリガリ搔きむしりながら、いきなり劣勢に転じた盤面を見遣り、しかめっ面をして首をかしげるのだった。

 




いつも閲覧をありがとうございます
今夜はちょっと短めで、ついでにもやーっとした内容ですが・・・予約投稿します

もう一本、更新するつもりだったのですが間に合いそうもなくて明日に持ち越します

次話のタイトルは

『恋バナ、女の子、男の子』

の予定です


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恋バナ 女の子、男の子 ~女の子編〜

恋バナ 女の子、男の子 ~女の子編~

 

          LⅩⅪ

 

「唯香さんとここでお話をするのは久しぶりね……」

「すみません、お忙しいときに……」

 放課後の本館屋上で、舘野唯香は担任の食峰操祈と欄干に並んで眼下に広がる街並みを眺めながら、二人だけの時間を作ってもらっていた。

 冬になり、めっきり気温が下がってからというもの、屋上であまり長い時間“密談――”するのにも無理があって自然、足が遠のいていたのだが、職員会議の後、会議室から出てきた操祈を見つけた唯香はこの機会を逃してはならないと勇気をもって声をかけたのだ。

 他の教員たちにも普通に進路相談にやってきた生徒に見えるように装って。

 最終学年の冬学期が始まって、はや一週間あまり、多くの生徒が授業よりも進学についての関心の方が先に立ち、誰もが程度の差こそあれ神経質になりがちな季節となっていたが、舘野唯香についていえば志望はほぼ確定しているといってよかった。

 だから少女が話したかったのはそのことではない。

「相談って、なあに? 進路のことかしら……?」

 敬愛する美しい女教師は、いくぶん探り探りといった顔できりだしてきた。

 食峰操祈がそうなるのも宜なるかな、舘野唯香とこうして二人きりになる場合、持ちかけられる相談内容の多くが男女関係についてのものだったからだ。

 女子の密やかな話、恋バナだ。

 立場や年齢こそ違え、互いに同じような問題を抱えた戦友、気心の知れた“大人の女”同士なのだった。

 それゆえにかなり立ち入った話題、セックス――に関する内容に及ぶこともしばしば。

 二人の足がこの屋上に向かったのも、自然、話がそうした流れになるのをわかっていてのこと。阿吽の呼吸でひと気のない場所を求めていたからだった。

 それをわきまえた上で、操祈は同じことを少女に尋ねていた。

「……もしも気持ちが変わって変更したいのならまだ間に合うわよ……」

 冬の午後、雲の切れ間から時折こぼれる鈍い日差しに、風になぶられた長い金髪が、どこか寂しげに煌めくのを少女は憧れを持って見つめた。端正な顔の上に落ちる前髪の陰りが同性の目から見ても神秘的で、胸をキュンとさせるほど魅力があるのだ。

 本当に綺麗な女の人だ――。

 少女は女教師を間近にするたびに感心せずにはいられない。心根のやさしさを含めて、女神さま――と、敬慕するのがとても自然なことのように感じている。

 それが自分と同じように人間の男を愛して、女ならではの途惑いや哀しみを抱いているのだから、素直に力になりたくなる、応援したくなったとしても無理からぬこと、と、そんな風に少女は心に期しているのだった。

「いいえ、私は希望を変えるつもりはありません」

「でも唯香さんなら、たいていの所なら十分に合格圏にあるのに……長点上機じゃなくても藍鈴とか霧ヶ丘でもいいし、医学系や生物科学系で定評のある静菜高校なんかも唯香さんには高い適性があると思うんだけど……」

「私、あまり理系の方の才能がないので……それに、やっぱりやりたいのはお芝居とか、物語を作ったりする方で……医学や生物学は、覚悟を決めたら後で学ぶ機会をつくれると思うんですけど、でも美術系のトレーニングは早いうちにやらないと一生、身に付ける機会を失ってしまって後悔することになりそうだったので……だから桜ヶ丘美工院を第一志望にする気持ちに変わりはありません。仮に実技試験で不合格になったら、そのときは、トリタマでもどこでも受け容れてもらえるところに進学するつもりです……」

「そう……そういうことなら……」

 少女の意思が固いと察したのか女教師はそれ以上、繰り言を唱えることはなかった。

「唯香さんが実技で篩いにかけられることは、まずないと思うけど……」

「旧五本指じゃないから、ウチと較べると設備や環境等で見劣りを感じることがあるかもしれませんけれど……でも、絵を描いたり、文章を描いたりするのに必要なのは心と――」

 美少女は両手を大きく広げて見せた。夢をつかもうと長く美しい指がまっすぐに伸びている。

「手、ですから……」

「そうね……そうよね……」

「今からこの手がどれだけ動かせるようになるか分からないし、才能なんてぜんぜん無いと思うんですけれど……でも、鍛えておけば自分が将来、何をするにしてもきっと役に立つ時が来ると思うんです……舞台演出をするのにだって絵心は必要ですし……」

「唯香さんは将来、舞台に関わるお仕事がしたいの? 演劇部だから女優さんの方が向いているのじゃなくて?」

「女優? そんなっ、私が女優だなんてっ、操祈先生だったらともかく私は……そんなに容姿に恵まれているわけでもないですし、自分は人に見られる側じゃなくて、人を見せる側の方だっていう自覚はあるんです」

「あら、唯香さんはずいぶん自分に厳しいのね、とっても綺麗だし可愛いから、女優さんになっても人気が出ると思うわよぉ……凡人の私はただ見る側ね、唯香さんの作品を見るのが楽しみだわ」

 教師の言葉に少女は大袈裟にため息を吐いて見せた。

「先生ご自身の呆れるほどの自己評価の低さについては今更なので、もう驚きませんけど……でも、さすがに今のコメントは全部、間違っていると思います」

 少女からキッパリと否定されて

「こらぁっ、先生に向かって全否定するなんて、生意気なんだゾ」

 操祈も美少女が拗ねるように頤をツンと上げて抗議する。

 やがて二人の美女は互いに、ぷっ、と吹き出すようにして相好を崩して、仲の良い姉妹のように身を寄せ合うのだった。

 笑いの発作が去って、真顔に戻った少女は、

「わたしが相談したかったのは、先生ご自身のことです……」

 ようやく本題を切り出した。

「あたしの……? あら、どうして……? どうしてかしら?」

「ちょっと気になることがあって……わたしの勘違いだといいんですけど……」

「うーん、なぁに……?……わたし、何かしたぁ?」

「だって最近の先生、とても切なげなお顔をされることがあるので、だから、心配になって……」

「えっ、わたし、そんな顔してたのっ?! いやだっ、みんなにとって大事な時なのに、生徒に心配かけてしまうなんて、それじゃあ担任教師失格ねっ」

 操祈を白い歯並みを覗かせたが、晴れやかな表情はすぐにくすんで、また寂しげな微笑みに置き換わってしまうのだった。

 常の操祈は、いつも明るくて楽しげな笑顔のイメージだっただけに、このところの翳り様はやはり目立つのだ。年明け以降にそれが加速しているように思う。

 

 まさか卒業を機会に別れ話を持ちかけられたとか――?

 

 唯香の懸念していたこととはそれだった。

 春は出会いの季節であるとともに別れの季節でもあるからだ。

 卒業、上京や帰郷、転勤転属、そうした機縁によって恋人たちが離れ離れとなり、そのまま関係が途切れてしまうというのは珍しいことではない。

 もしもそんなことになっていたら……。

 操祈先生にこんな顔をさせるなんて、許すまじっ、密森黎太郎っ――!

 ことと次第によっては、二度と不埒を働けないように責任を厳しく追及してやらないとっ!

 さんざん女の体を弄んでおいて、飽きたら捨てるなんてっ――!

「あの……立ち入ったことをお伺いするようで、不躾だとは思うのですが……その……彼氏の方と上手くいってなかったりするんですか……?」

「え――!?」

 操祈はと胸を衝かれた顔をしたが、すぐに少女の懸念を察したように、ゆったりとした笑顔に変わっていくのだった。

「もし、そうなら私……」

 操祈はゆっくり頭を振った。

「いいえ、ちがうわ……心配してくれてありがとう……でも、ちがうの……」

 風に乗って自分と同じシャンプーの香り――操祈に倣って、同じ銘柄のものを使うようになっていた――が運ばれてきて、少女は大きな目をぱちくりさせる。

 操祈が纏うと全く違って新鮮に感じられるのが不思議なのだった。

 ささいな秘密だったが、それを自分以外の、それも男――密森黎太郎――も知っているということが少しだけ悔しい。

「唯香さんはどう? その後、彼氏さんとは上手くいっているの?」

「ハイ、わたしたちは……一応、順調みたいです……」

「じゃあ、クリスマスやお正月は一緒に過ごせたのね?」

「さすがにお泊まりデートとなると、父や弟の目があるので無理でしたけど、ハイ、彼のアパートには毎日おしかけて行って、通い妻してました……お正月は一緒に初詣に出かけたりして……先生はどうされてたんですか?」

「わたしもよ……ずっと一緒に居られたわ……お雑煮や、おせち料理を一緒に食べたりして、とっても楽しかった……」

「じゃあ、良かったじゃ無いですか」

「ええ――」

 それじゃあどうして――?!

 と、訊こうとした先に

「……プロポーズ……されたの……」

「――!?――」

 操祈からの驚きの告白だった。

「でも早とちりしないでね、ずっと先のことなんだから、それに本当に結婚できるかどうかも、まだわからないし……」

 確かにそうだろうと思う。

 法的に婚姻が認められるのは男子は十八歳からだ。だとすると三年も先の話だった。

「わからないだなんて……大丈夫ですよ、そうにきまってるじゃないですか。それとも、先生の方で何かお相手の方に気になることでも?」

 操祈は首を振る。

「ただ……」

 と、そう言ったきり操祈の口が、また重たくなった。

 少女は操祈の心中を想って思考を巡らせる。

 密森黎太郎は自分と同じで十五歳。もしも操祈が年上の女として、若い恋人の多感な時期の生活環境の一変を危ぶんで、畏れているのだとしたら、日を追うに従って曇りがちになる表情のわけが頷けなくもなかった。

 ミドルティーンの三年と二十二歳になる年上の女の三年は意味も重みも違う。

 結婚の約束も、女の側からすると遥か彼方、未来の絵空事のように思えるのかもしれない。

 これまで毎日、顔を合わせていたところから、自分の手の届かない遠くへと去ってしまうように感じられたとしても不思議ではなかった。

「だんだん、みんなとお別れする日が近づいてくるのが寂しいの。たった二年間だったけど、一緒に同じ時間を生きて、家族のようだったから……」

「そうですね……」

 唯香は言うべきかどうか、しばし迷っていたが

「でも“彼”が高校に入れば、今よりも制約が減ってもっとずっとデートがしやすくなると思いますよ……」

 思い切って口にした。

 すぐに操祈の表情が驚きに一変する。

「高校って――?!」

「わたし……知っていたんです……先生の恋人が密森くんだってこと……」

「――っ!――」

「でも、心配されないで下さい。誰にも話してはいませんし、誰の噂にもなってなんていませんから」

 操祈の顔がたちまち上気していった。

「いつから……なの……?」

「最初に疑いを持ったのは修学旅行の時ですけど……でもそれが確信に変わったのは学園祭の前後だったと思います……密森くんと話をしていてはっきり判りました……彼はもちろん、トボけていましたけど……」

「じゃあ、いままであなたとしていた話、みんな……彼とのことだって……」

「気づいてました……ごめんなさい、嘘をついていたみたいで……」

 風に煽られて長い髪が乱れ、操祈が耳まで朱く染めているのが伺えた。

「知っていたなんて……恥ずかしい……」

 少女は美しい女教師の体に身を寄せると体に腕をまわした。

「恥ずかしいことなんてありませんよ、とっても素敵なことですから……彼にはちょっとジェラシー感じたりするくらい、女の私から見ても先生には魅力を感じますから……」

「おかしなことを言わないでちょうだい……」

「先生は愛しておられるんですよね、密森くんのこと……」

 詰め寄られて女教師は一瞬、たじろいだが、覚悟を決めたように頷いた。

「ええ、そうよ……愛しているわ、彼のことを女として……でも、教師としての本分は犯してはいないから……」

「わかっています、先生がけじめをおろそかにされない方だってことは。それにわたし、悪いのは全部、密森くんだってことも知ってますからっ、彼って相当な狸だからっ」

「タヌキさんなの――?」

「ええっ、猫を被ったワルい狸ですよっ、彼」

「まぁ――」

「だから、ここを出て心配で心配でたまらないのは、むしろ密森くんの方なんです、先生が誰かに取られちゃうんじゃないかって……請けあってもいいですけど、卒業したら、彼、毎日の様に先生にアプローチしてくるはずですよ」

「そうかしら……」

 自己評価の低い人はこれだから――と、少女は嘆息する。

「そうにきまってるじゃないですかっ、だって、先生のお話を伺えば、密森くんがどれだけ先生に一途に憧れているかよくわかりますから」

「言わないでっ……本当に恥ずかしいの……ああ、あたしっ……どうしよう……」

「私だって先生に負けないくらい、一成さんとはいっぱいイケナイことしてますから、だから先生の気持ち、よくわかります。お互い様じゃないですか」

「でも……わたしは……」

「年齢も立場の違いも、裸になってしまえば男と女です、違いなんてありません」

「………」

「男と女って不思議ですよね、恋人が、いつの間にか誰よりも大切な人になっているんですから。その人のことを好きになって、言葉にならない気持ちを体で思いを伝え合うようになって、どんどん好きになって、いつしか大切な人、かけがえのない人になっている……血の繋がった家族のような絆が生まれて、互いに離れられなくなっていく……信じていいと思うんです、そういうことを……」

「それは、唯香さんがとても大切にされているから、そう感じるようになったのよ」

「先生だってそうじゃないですか? 気がつかないはずないんですけど……女の体ってそういうのが判るように作られているので……」

「………」

「そのご容子ですと、先生はまだ処女のままなんですよね?」

「え?……うん……」

 操祈は仕方なさそうに肩を頼りなげにして、しぶしぶ認めた。

「それなら私の方がその点では先輩ですから、先輩の言うことを信じて下さい。男が先生の処女も奪わずに別れることなんて、ぜーったいにないですっ、お日様が西から上るよりもありえませんので」

 

            ◇            ◇

 

「卒業してからも、こうしてまた時々会っていただけますか?」

「あたりまえでしょ、大切な“お友達”なんだから」

「先生……」

「卒業したら、操祈でいいわよぉ」

 唯香と話すことで気持ちが晴れたのか、すっかりいつもの操祈に戻っていた。

「そんなことできるはずないです、先生は私にとって、ずっと憧れの先生なんですから」

「そんな……でもうれしいわ、私のことを気にかけてくれて……教師冥利につきるんだゾ」

「春になれば、もう隠れたりしなくても良くなって、密森くんとも普通に一緒に外を出歩くことだってできるようになりますよ、だって、卒業したら先生と生徒から、お友達になるんでしょ?」

「え、うん……そうだけど……でも……」

「相手が高校生なら、もうデートしても大丈夫です。結婚を前提にしているのなら、誰も文句なんて言えませんから」

「ありがとう唯香さん」

「卒業したら、私のことは唯香って呼んでください」

「わかったわ、そうするから、唯香さんも私を操祈って呼んでね」

「それはちょっと時間がかかるかもしれませんけど……努力目標ということで手打にできませんか? 学園都市と言っても、やっぱりここは日本なのでファーストネームで呼び合う習慣はなかなか定着しませんね」

「そうね……彼も、いつまでも先生って呼ぶばかりで……」

「それだけ操祈先生のことを大切にしているんですよ。ヴァージンを奪おうとしないのも、先生への愛情と忠誠の証ですから」

「もう、そのことは言わないでちょうだい……恥ずかしいんだからぁ……」

 年上で、教師であるにもかかわらず、少女のようにはにかんで身を揉む仕草が愛らしかった。少女の目にもとても鮮やかに映る。

「いっぱい可愛がられるのは、可愛い女の子の特権みたいなものなんですから、先生も思いっきり我がまま言って、密森くんを困らせるくらい甘えてもいいんですよっ。そうすれば密森くん、先生のことがますます可愛くなって、何でも言うことを聞いてくれるようになりますから」

「ほんと――?」

 操祈は瞳を大きくして、興味津々、という様子で少女の言葉に耳を傾けていた。

「あのレイくんをちょろいさんにできるのぉ?」

「ええ、間違いありません、わたしもその手を使って一成さんをメロメロにしてやってるので」

「まぁ……じゃあその秘密の女子力を私にも教えてちょうだい」

 美女たちの間に共犯者にも通じるような含み笑いが交叉する。

 日が翳ってきても、

 

 #うっそー!#

 …………

 #ホントですよ#

 #まあ……#

 …………

 #そうよねぇ――#

 …………

 #ああ、そうなんだぁ#

 #ええ、そういうことなんですっ#

 …………

 #なるほどねぇ#

 …………

 #すごいわ、すごいすごいっ――!#

 

 寒風に煽られる中も、恋バナのネタに尽きることは無かったのだった。

 




例によって無駄に長くなってしまい
男の子編は繰り延べです



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資料 登場人物紹介

覚書を含めてあらためて登場人物の紹介を
この辺りで整理をしておかないと書いている方がこんがらがってきて・・・


■ 常盤台関係

 

密森黎太郎(みつのもりれいたろう)

愛称はレイ。本作の主人公。昨秋十一月に、十五歳になったばかり。常盤台中学三年二組、男子出席番号8番。やや小柄で細身、繊細な印象のある少年。成績は常に上位の優等生だが、スクールカーストでは最下位層になるイケてない男子グループに紛れている。男女、学年を問わず、誰に対しても協調的で面倒見が良く、気の置けない便利な人、としての扱いをされることが多いが、女子からの評価は低くはない。ひょんなことをきっかけに担任教師の食峰操祈と関係を深め、フェティシスト? フェイス(ジョブ)アーティスト――としての非凡な能力を開花させている。三年二組の庶務委員にして、釣り研究会ユーレイ会員、将棋部ユーレイ部員。料理が得意でお菓子作りもプロ級の腕前。実家は東京下町にある。ややくせのある黒髪、瞳は黒に近い濃いブラウン。

 

食蜂操祈(しょくほうみさき)

本作のメインヒロイン。二十二歳。常盤台中学三年二組の担任教諭。

かつてはレベル5の精神系能力者、心理掌握(メンタルアウト)――として畏怖されていたが、その能力を失い、今は数学教師として母校の教壇に立ちミドルティーンの生徒たちの指導に当たっている。心優しい性格である上に、ミス学園都市コンテストでは十代の美少女たちに混じって上位入賞を果たすほどの美貌にも恵まれ、男性女性を問わずシンパが多く、学園都市(まち)の人々からの憧憬と敬愛の念を一身に集めている。その中の一人、教え子の密森黎太郎とは思いがけず一年ほど前から交際が始まり、今では熱愛関係にまでになっているが、形式的にはまだ処女。年若い恋人の一途で情熱的な要求に途惑いながらも美しい体を開いて受け容れている。お酒が“得意”で、自室で独りでいるときは、昼間から酔い潰れることができるほどの“人間のクズ”(笑)。ミスコンテストエントリーの際の記録では、身長、171センチ、スリーサイズは92~58~89。髪はロングストレートのブロンド、目はブラウン。

 

栃織紅音(とちおりあかね)

三年二組クラス委員。十五歳。文芸部副部長。中背痩身、トレードマークの黒ぶち眼鏡に細い目をした表情の変化に乏しい陰気な雰囲気の少女で、クラスの女子の中では孤立しがちだが成績は学年でもトップクラス。またハッカーとしての能力は一級品で、裏の顔は機略に富んだ策士。入学時の検査ではレベル1程度、軽度の精神系能力者とされているが、本当の能力はオーラリーダーで、裸眼の場合に限られるが他人の感情を読み取る実力はレベル2クラスの精神系能力者を凌ぐほど。その能力を生かし、副業で浮気調査の探偵業をしている。幼い頃からの操祈のファンで、彼女とレイの関係にいち早く気がついて以降、密かに二人を支援をしている。学校近くに祖父の代から所有しているビルがあり、そのペントハウスを二人の密会場所として提供しているが、セックスをしている操祈を見たいという歪んだ希望を持っていて二人に提案している。

 

山崎碧子(やまざきみどりこ)

三年一組の女子生徒。十五歳。二年もの長きにわたり生徒会長を務めた学園の女王。抜群のプロポーションと容姿に恵まれたすばらしい美少女で、サイコメトラー、現在学園最強のレベル2の精神系能力者である。こうしたことから食峰操祈の再来とも言われている。学年成績は常にトップで、学内最大派閥のリーダーでもある。一見、人当たりが良いが、実際はプライドが高く勝ち気なエリート主義者。高名な生物学者であり学園都市の有力者の一人でもある山崎清十郎の孫娘として学内でも特別待遇を受けている。ただ、なぜか食峰操祈に対しては屈折した感情を秘めていて、水面下でスキャンダル工作活動を行っている。ミス学園都市コンテスト三位入賞。エントリーの際の記録では、身長165センチ、スリーサイズは85-56-85。髪はミディアムストレートのナチュラルブラウン、瞳はライトグリーンで彼女のファーストネームの由来ともなっている。

幼少期からの顔なじみ、藤城多顕正とは現在セフレの関係にある。

 

舘野唯香(たてのゆいか)

三年二組の女子生徒。十五歳。演劇部副部長。クラスで一番の美少女。落ち着きのある真面目な性格で成績も優秀、二組女子の中ではまとめ役的な立ち位置にいる。大学生の家庭教師、島崎一成とは恋愛関係にあり、そのことで学園の実力者、山崎碧子から食峰操祈の身辺調査の協力を要求されるが、ぎりぎりのところで踏みとどまる勇気を備えている。操祈とレイの関係を察して以降、操祈とは恋バナをするほど親密な間柄になっていて、互いによき相談相手となっている。ミスコンテストエントリーの際の記録では、身長167センチ、スリーサイズは84-55-84。黒髪ロング、瞳は濃いブラウン。両親は共稼ぎ、二つ年下、中学生の弟が居る。

 

夏上康祐(なつがみこうすけ)

三年二組の男子生徒。十五歳。愛称はコースケ。男子出席番号5番。レイの親友の一人で釣り研究会会長。イケてない男子グループのリーダー格。性格は江戸っ子気質で一本気、熱くなりやすい。実家は高井戸でスーパーマーケットを経営していて妹が一人居る。身長、175センチ、髪は黒、髪型はスポーツ刈り。

 

黒川田勇作(くろかわだゆうさく)

三年二組の男子生徒。十五歳。愛称はゆうちゃん。男子出席番号2番。卓球部所属。アウトローぞろいのグループの中では穏健派の常識人。またグループの中で唯一の彼女(奈津天周(なつぞらあまね))持ち。一人っ子で、浜っ子。実家は中小企業経営をしている。身長170センチ、髪は黒、髪型もノーマル。

 

松之崎純平(まつのざきじゅんぺい)

三年二組の男子生徒。十五歳。愛称は純平。男子出席番号7番。将棋部員。グループの中では賑やかしのお調子者でムードメーカー。鮫洲生まれ。父は都庁職員。都内有数のエリート校に通う一つ年上の兄が居る。身長168センチ、茶髪のロン毛。

 

堀田靖明(ほったやすあき)

三年二組の男子生徒。十五歳。愛称はヤっさん、ヤス。男子出席番号6番。釣り研究会副会長。長野県出身で実家は有数の山葵農家。グループの中では一番体格が良く、身長180センチ、点目、濃い眉、髪は黒く角刈りにしている。

 

志茂妻真(しもづままこと)

三年二組の男子生徒。十五歳。愛称はマコト。男子出席番号3番。将棋部員だが部室でも寮でも、大抵はヴァーチャル世界に入り浸っている。デジタルツールに明るい。

身長173センチ、100キロ超えの巨体で黒い髪を総髪にしている。ニキビ面。

千歳烏山生まれの一人っ子、父は銀行マン、母は看護士。実家は代々、日蓮宗徒。

 

那智陽佐雄(なちひさお)

一年一組の男子生徒。十三歳。愛称はヒサオ。レイのルームメイトでバスケ部所属。長身、甘いマスクの少年。身長は175センチ。実姉? である現生徒会長、黒田アリスとは禁断の恋愛関係にある。

 

黒田アリス

二年二組の前クラス委員、現生徒会長。十四歳。ヒサオの実の姉とされる。両親が若かったために、男女の子供を二人、同時に育てるのが大変であるとの祖父母の配慮から、ヒサオが生まれるとすぐに母の実家の黒田家の養子になった。レベル1の能力者で接触テレパス。黒髪ロング、黒い瞳の純血種。やや淋しい翳のある美貌の少女。身長166センチ。

 

茂榀麗(もじなうらら)

三年一組のクラス委員。文芸部長。レベル2のサイコキネシストで空気や水といった不定形のものを操作できる。お下げ髪でメガネの地味な風貌ながら、メガネを外すと目の大きな美少女になるという逆擬態系のメガネっ娘。風貌通りに思慮深いたちで、汚れ仕事もすすんで手がける忍耐強さもあって下級生からの信頼も厚い。

 

五輪美羽(いつわみう)

三年三組のクラス委員。バレー部のエースで主将。レベル1の電気系サイキック。クラス替えになる前まで紅音とクラスメートだった。180センチ近い大柄な少女。小物にかぎるが手に触れた電気製品を動作不能にする能力を持つ。性格は大雑把なところもあるが、生一本で後輩の面倒見も良いことから上にも下にも友人が多い。

 

京極なつき

三年三組の女子生徒。副会長として常に山崎碧子を支えてきた側近。レベル1の力学系サイキック。

 

松原由里

二年一組のクラス委員。レベル1のリモートヴューワー。

 

高梨祐太

二年三組のクラス委員。自称レベル1のサイコキネシスト。碧子の腰巾着。

 

杉村聡美

一年三組のクラス委員。レベル1の予知能力者。

 

蒲田奈央

二年二組の女子生徒。新副会長。未登場。

 

松ヶ谷留美

三年三組の女子生徒。撮影部部長。舘野唯香の友人。

 

河内俊英(こうちしゅんえい)

三年三組の男子生徒。学園祭実行委員。

 

市ノ関克己

三年二組の男子生徒。十五歳。出席番号1番。 未登場。

 

杉浦悟

三年二組の男子生徒。十四歳。出席番号4番。 未登場。

 

田野倉美麗(たのくらみれい)

三年二組の女子生徒。十四歳。新体操部副部長。胸の未発達な幼児体型の少女。

 

篠原華琳(しのはらかりん)

三年二組の女子生徒。愛称は華ちゃん

 

安西遥果(あんざいはるか)

三年二組の女子生徒。愛称は遥果ちゃん

 

小田切芳迺(おだぎりよしの)

三年二組の女子生徒。愛称は芳迺ちゃん

 

鴨宮奈央(かものみやなお)

三年二組の女子生徒。マンガ研究会会員。

 

佐々木明日奈

二年一組の女子生徒。マンガ研究会会員。

 

奈津天周(なつぞらあまね)

二年三組の女子生徒。美術部員。ショートカットヘアの元気な少女。黒川田勇作と交際を始めている。

 

天森智恵理(あめもりちえり)

二年二組の女子生徒。マンガ研究会会員。

 

加瀬美利香(かせみりか) 

三年一組の女子生徒。テニス部長。ルックス抜群の美少女。

 

勝俣善悟

三年一組の男子生徒。レベル1のサイコキネシスト。

 

東風真希絵(こちまきえ)

三年一組の女子生徒。

 

那珂川瞳

一年一組の女子生徒。学年を代表する美少女。 未登場

 

久保俊秀

一年二組の男子生徒。コースケのルームメイト。

 

尾内正実(おのうちただみ)

一年三組の男子生徒。純平のルームメイト。

 

会長選挙候補者

二年三組 志茂條ブライアン

二年一組 中本智人

一年三組 新坂上五郎(しんさかうえごろう)

二年三組 持田学

一年一組、宇品大作(うじなだいさく)

 

村脇静繪(むらわきしずえ)

40代後半の国語教諭、寮監のキャリアもあるベテランの女性教諭。

 

海藤健吾(かいどうけんご)

40代前半の体育教師。

 

谷津城妙子(やつしろたえこ)

常盤台中学校長 六十二歳

 

武識美奈世(たけしきみなよ)

常盤台中学教頭 専門はフランス語 五十七歳

 

田辺

音楽教師

 

進藤ルナ

卒業生 元テニス部長

 

野々村凛子(ののむらりんこ)

操祈の同僚の新任講師。二十六歳。

専門は英文学、言語学だが常盤台中学では現代国語を担当している。趣味は小説を書くことで小説家を志望してもいるが、現在は教鞭をとる傍ら博士論文の作成に追われている。

母校の指導教授、十河武巳とは学生時代から関係を持っていて、今も不倫の関係を続けている。

 

 

■ 学園都市関係

 

山崎清十郎

碧子の祖父。高名な生物学者。未登場。

 

新垣五十二(あらがきいそじ)

山崎家の初老の執事

 

高岡

山崎家の顧問弁護士。高齢のため少し足が悪い。

 

黒田

肥満気味の中年の探偵。頭はパーマにしているが頭頂部が薄い。指が毛深い。

 

藤城多顕正(ふじきたあきまさ)

三十四歳。愛称はケンセー。脳科学者。藤城多ライフサイエンスのCEO、青梅財団支援企業・次世代基幹技術開発プロジェクト・第七班チームリーダー。山崎碧子の祖父、山崎清十郎の弟子の一人で碧子とは幼い頃からの顔なじみ。今は碧子と深い関係を持っている。178センチ75キロ、理学博士。CV:子安武人

 

北條真澄(ほうじょうますみ)

霧ヶ丘女学院中等部二年生、十四歳。現役アイドル。ミス学園都市コンテスト優勝者。

身長158センチ、スリーサイズは80-55-83。

 

蔵本瑠樹亜(くらもとるきあ)

長点上機学園中等部二年。生徒会中等部副会長。十四歳。ミス学園都市コンテスト準優勝者。銀髪赤眼の美少女。身長162センチ、スリーサイズは85-57-87。

 

新居坂(にいざか)シルディア

藍鈴女子高校二年、生徒会長。十七歳。ミス学園都市コンテスト四位入賞。プロのモデル。長身、ブルネットショートヘアでユニセックスの雰囲気があり、女性からの支持が厚い。身長175センチ、スリーサイズは91-60-90。

 

桐峰真幌(きりみねまほろ)

静菜高校二年、生徒会長、チアリーディング部部長。十七歳。ミス学園都市コンテスト六位入賞。身長168センチ、スリーサイズは88-58-87。

 

立花アリサ

枝垂桜学園生、ミス学園都市コンテストセミファイナリスト

 

桂川結衣奈(かつらがわゆいな)

十五歳、香椎坂中学生、ミス学園都市コンテストセミファイナリスト

 

杉野巧(すぎのたくみ)

長点上機高校二年生。ミス学園都市コンテスト、技術担当責任者。

 

榊志乃絵(さかきしのえ)

長点上機高校二年生。ミス学園都市コンテスト、制作担当責任者。

 

渡辺敬太、磯田翔平、下条直弥、北沢修一

アパートの学生。聖徳工芸大3年生。

 

町村淳子

食蜂操祈の大学のクラスメート。

 

 

■ 学園都市外

 

島崎一成(しまざきいっせい)

二十二歳、東都大法学部四年生。唯香のボーイフレンド。

 

広田矗之(ひろたのぶゆき)

意識学者、四十代半ば、国際意識物理学会会員。

 

ドンナ・ヴィーダーマン

ドネツ連合医科大学教授、北大西洋連邦科学アカデミー会員、国際意識物理学会の有力メンバー。

 

吉崎慎吾

脳生理学者、広田矗之の学生時代のクラスメートで友人。

 

バージェス・スライマン

八十歳ちかい高齢の世界的意識学者・脳生理学者、プリンストン大学教授、国際意識物理学会長。

 

ジェフリー・ボース

バージェス・スライマンの共同研究者、七十代半ばの理論物理学者、プリンストン大学教授。

 

ローラ・ダンカン

四十代後半。CNA特派員。

 

オリヴィア・響子・グレーブス

二十五歳。東都通信社会部記者、カイツ・ノックレーベンの日本国内での部下。

 

藩元皇(ファン・ユンフアン)

チャイニーズマフィア、赤蛇(レッドスネーク)の首魁

 

高桑竜二(たかくわりょうじ)

三十二歳。半グレ集団、高桑グループリーダー。194センチ、120キロ、全身入れ墨、アフロヘア。

 

白石秀敏(しらいしひでとし)

二十代後半、竜二の片腕。173センチ、58キロ。

 

川島栄策(かわしまえいさく)

二十六歳、172センチ60キロ。グローバル證券、総合金融企画課長補佐。

 

近藤絵里、菅野康雄、松岡恵一

川島栄策の部下

 

桐野永二

三十八歳。日系アメリカ人。闇オークションエージェント。

 

蠍座氏

野党の大物議員の息子、公設第一秘書。

 

乙女座氏

藤倉組大幹部、安本閏貴。

 

ケイト・ハートリー

闇オークションにかけられたハリウッドの美人女優

 

ミスターランベール

高齢の紳士、大企業役員

 

肥満体型の親娘

住宅街の一軒家に暮らす、やや生活に疲れた感のある二人

 

 

■ SPECIAL GUEST

 

カイツ・ノックレーベン

フリーランスの中年諜報工作員。食蜂操祈とは浅からぬ因縁がある。

 

潤子・エーデルマン(旧姓:帆風潤子)

食蜂操祈の大学のクラスメート。一児の母。

 

木山春生

三十代半ばの脳生理学者。超感覚研究機構主任研究員。

 

 

■ 未分類

 

日本橋のおでん店でカイツ・ノックレーベンが会った人物

 




恋バナ、男子編 は次回になります


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男の子の目に映る景色

 

          LⅩⅫ

 

 その夜は、床についてからも操祈のことばかりが頭に浮かんできて、なかなか寝つけなかった。ブリーフの中はカチカチで、股間から棍棒でも生えているようなことになってしまっている。

 さっさとトイレに行って抜いてしまおうかとも思ったのだが、少年はそうするかわりにまた寝返りをうってうつ伏せになると、布団に圧しつけてはしばしの慰めを得る方を選んだのだった。

 冷たいトイレの便座に腰掛けて殺風景なドアを見ながらするよりも、枕に顔を埋めて操祈のにおいを思い出している方が魅力的に思えたからだ。

 そうやって、ぐずぐずと踏ん切りがつかないままに時だけが過ぎていく。

 

 深夜二時すぎ――。

 

 つい一週間あまり前までは、すぐ手を伸ばせば届くところに、誰よりも可愛い(ひと)が居て、彼女の“初毛(うぶげ)”をいつでも好きなだけ“もふもふ”することができたのに、今はたとえ近くにいても、妙な雰囲気が立ちのぼらないようにと気を配らなければならなかった。そっけない態度でもなく、さりとて馴れ馴れしくもなく、中庸、努めて自然に振る舞うというのは今の少年には逆に神経を使うものだった。

 “ごちそう”を前に、ずっとおあずけを食らっているような気分でいるところに、“食欲”をそそる良い香りが漂ってくれば、お腹も鳴るし涎も溢れてくる。生理的な反応を意思の力でねじ伏せ続けるのは、やはり消耗するのだ。

 操祈らしい清潔な体臭が香ると、どうしても彼女のもっと魅力的なにおいを思い出さずにはいられなくなってしまう。

 だから自然、彼女とは距離を置き、授業中でもコンタクトを努めて避けるようになっていったのだが、そのあげくが今の揺り戻しとなっているとしたら、もっと“小まめ”に欲望を処理するなど別の策を講じなければならないのかもしれなかった。

 いったん盛った若い体は、きっと一度や二度の放出では収まらないのだろう、弾倉がカラカラになるまでありったけを打ち尽くさないことにはスッキリ眠れそうにもない。

 操祈とのベッドでは、そうしていたように――。

 なによりも、におい――が、恋しかった。操祈のにおいの沁みついたものがあれば、それを“オカズ”に自家発電の永久機関にだってなれそうなくらい。だが生憎、彼女から“あずかった――”生肌着の上下は、今回は、万が一の手荷物検査をされる場合を危惧して実家に置いてきてしまったので、手許にはなかったのだった。それが今となっては心残りとなっている。

 脱いだばかりの新鮮な肌着のにおい――。

 カップサイズのみごとに大きなブラの、ほっこら暖かく、汗がほのかに甘く香る操祈らしい和やかなにおいも大好きだったが、やっぱりいま欲しいのはショーツの方だ。ずっと鋭角的で濃厚、豊かで複雑な胸ときめくにおいが何より恋しかった。

 あんなに美しくて愛くるしい姿をしている生きものの、もうひとつの真実(リアル)、心やさしい女神が地上に降りたことで纏うとても人間くさい、命そのものを感じさせるにおい。

 操祈にしかつくりえないにおい……。

 

 先生のカラダが欲しい――。

 

 ギシギシ音を立てないように、布団の中で静かに自分を慰める。だからといってゴムを装着していないので暴発させないようにしなければならない綱渡りだった。ただ、我慢すること自体は操祈を愛撫する際にはいつものことなので、もう慣れっこになってはいたのだが。

 レイの場合は、可愛いっ――! という気持ちを優先させれば良かったからだ。

 愛おしい生きものを可愛がることのできる歓びに較べると、男の体の刹那の衝動などとてもつまらないものに思える。

 それでもぬるみを感じるのは仕方がないので、ティッシュペーパーを何枚か取ると、厚めに畳んでブリーフの中に忍ばせておいた。

 目を閉じて、操祈の肉体を思い描いた。

 背後から包むと、両手の中でゆっさりと柔らかくも弾むように息づく豊かな乳房があった。指先でやさしくくすぐると、感度の良い体はたちまち目覚めてくる。大きめの乳暈の真ん中で小さく固くなって自己主張を始める乳先の愛おしさは、賛美のキスをせずにはいられないほど。そして、うっすら汗ばんだ腋の下の瑞々しい果実のように甘酸っぱい芳醇な香り。

「先生……かわいい……」

 下段ベッドのヒサオに聞こえないように、声をひそめてつぶやいた。

 ディープキスの際には、怯えて縮こまっている彼女の舌を潜って、舌が届く範囲を舐め回すようにして、美味しい唾液のジュースをたっぷりとごちそうになるのだ。お口に起きたことは次には体にも起きること。唇へのディープキスは、その前のささやかなプレリュードに過ぎない。女体にはもっと時間をかけて、充実したやり方でしっかりと思いを届けるべき場所がいくつもあって、それこそが少年がこの数ヶ月の間に女教師の充実した肉体から勝ち得た特権なのだった。

 初めての頃は、内腿の間に手を入れて脚を開かせることだけでも一苦労だったものが、今では望めばどんな姿にでもなってくれるほど従順になっている。どんなに淫らなことをしても、けっして怒ったりしないし、嫌われたりもしない。

 愛撫のあと、強い羞恥のためなのだろう、瞳に涙を滲ませて無言で抗議していた操祈が、今はアイコンタクトからも逃れなくなっていた。恥じらいながらも心を寄せて、信頼を示そうとしてくれる健気さがいじらしかった。

 だからいつでも全力で愛したい。

 美しい魂が、それにふさわしい姿を得てこの世に降りてきてくれたのだから。

 

 逢いたい……先生に……。

 

 今度はいつ逢えるだろう? できることなら今すぐにでも彼女のアパートに行って、またたっぷり時間をかけて、彼女の体のいろいろな場所を探っては、唇を押し当てて肌のにおいと味を確かめたかった、溢れる蜜に包まれていたかった。密やかな湿原の鹹い味を思いだすと、また口中に豊かに唾液が溢れてくる。それはどんなに甘い蜜よりも甘美な秘密のご褒美だ。

 普段はとても優雅で端然としている操祈が、びっくりするくらい量が多いというのも素敵な奇跡なのだった。可愛い声で赦しを請い、甘え啼きをしながら体をトロトロにして崩れていくのを目の当たりにしていると、愛おしさに胸が張り裂けそうになる、心が壊れておかしくなってしまいそうになってくる。

 だから、彼女の体が産み出してくれたものは、何もかもが尊く思えて、全てを自分の中に取り込んでしまいたくなるのだった。

 それはきっと、とても変態じみた衝動なのだろう、実際、もう則を越えてしまっているのかもしれない。

 

 けれども――。

 

 操祈以外の女の子にそんなことを、したい――と思ったことは一度もなかった。そうだとすれば、やっぱり責があるのは彼女の方であるのに違いない。自分にとってそれだけ特別な存在、ということだからだ。

 

 食べちゃいたいくらいカワイイ先生がいけないんだ――。

 

 と、少年は思う。

 だからボクは、これからも先生をいっぱい食べるし、いろんなことをしていっぱい可愛がる――。

 体位にしても、試したこのないものがまだまだたくさんあるのだった。それにまた“らぶらぶクン”だって使ってみたい。

 京都では時間に限りがあって、ほんのちょっとの間しか楽しめなかったけれど、あれを時間の縛りなく使えたらどんなに素敵だろう……。

 その時のことを思い出すと、また腰がせわしなくなってくる。

 美しい部分の全てをくまなく晒した操祈の肉体の見事さと、彼女の全ての場所に自在にアプローチできる什器の巧妙な仕掛けに。

 もしもまたその機会があったら、今度はもっと徹底的に使いこもう。ペッティングのバリエーションも増えて、以前ならできなかったことも今ならできるのだから。

 それに筆を使ってくすぐったり、生クリームを塗りたくってヌルヌルにしたものをほおばったりもして……。

 そんな小技を混えるのもきっと楽しいに違いなかった。

「……先生のカラダは……」

 低く呻きながら腰を悩ましげに蠢かせた。

「……みんなボクのものだ……誰にも渡したり……するもんか……」

 そしていよいよ堪えきれずに引き金を絞ろうか、という寸前に、動きを止めてやり過ごした。ちょっとでも油断するものなら一気に堰を切って放出してしまうところだったが、そのあたりの加減は慣れたものだった。

 滾った情熱を冷まそうと熱っぽい息を長く吐く。

 乱れた吐息を整えながら、

 

 本当に参ったな――。

 

 少年にしては、めずらしく当惑のため息をついた。

 冗談を抜きにして、このままではもう朝まで眠れそうになかったのだ。覚悟を決めて、しばらくトイレに籠ろうかと身を起こしかけた時、ベッドの下から声がした。

「密森先輩……起きてますか……?」

 後輩がまだ寝ていないことが判ってギョッとなるが、心と体の乱れを相手に気取られないように気をつけて

「うん……今日はちょっと寝つきが悪いみたい……」

 様子を伺いながら慎重に応じるのだった。

 




予定では
恋バナ、男の子編
のつもりだったのですが
前フリが例によって無駄に長くなってしまって・・・


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恋バナ 女の子、男の子 ~男の子編~

          LⅩⅩⅢ

 

 

「……ボクは強盗なんかじゃない、贈り物を届けに来たんだってことを判ってもらえるまで彼女の体をやさしくノックし続けたら、ある時ついに扉が開かれて、中に入れて貰えたんだ。そのときはもう死んでも構わないっていうくらい嬉しかった……彼女の凄いニオイにびっくりしたのはほんの一瞬で、すぐにこれがこの可愛い女の人の秘密の匂いなのかと思うと、胸がキュンとなるくらい愛おしくなって、いちばん好きなにおいになっていたから……だから、いくら時間をかけても飽きるなんてことはなかったよ。それは今もそう……」

 レイはごくりと喉を鳴らした。

「いけない、また興奮してきちゃった……大好きな女の人のダイジなところのにおいは、男にとっていちばんの元気の素になるから……やっぱり抜いておかないと眠れそうにないね……ボクは時間がかかると思うから、ヒサオくん、先にトイレに行っておいでよ……」

 

 

            ◇            ◇

 

 

「ヒサオくんも眠れないのかな?」

「はい……なんだか今日は頭がもやついて……」

「そういう時ってあるよね、誰にでも……」

「先輩も……ですか……?」

 暗に問われているのは、そのこと――だと察する。下段ベッドがきしんで、少年が身を起こしたのが判った。

「トイレ――?」

「あ、いえ……」

「マスターベーションは別に恥ずかしいことじゃないから」

「そう、かもしれないですけど……」

「放精も排尿と同じただの生理だからって、頭ではわかってるつもりでも、やっぱりセックスに絡むと、とたんに隠しごとになっちゃうよね……」

「ですね……」

「まぁそれだからセックスは面白いんだけど……」

 照明の消えた寮の一室、二段ベッドの上下で深夜らしい言葉が行き交っている。

「先輩は、こういうとき、いつもどうしてるんですか……?」

「みんなと同じだよ、夜中にそっとベッドを抜け出して、トイレに行って……さすがにここじゃできないから」

「え、そうなんですか? 僕、全然、気がつきませんでした。それでずっと不思議で……」

「キミが寝てるところを見計らって、こっそりとだよ」

 半分は真実だった。

「やっぱりそうだったんですか」

「いったいキミはボクをなんだと思ってるんだい? これでも普通の男子だよ、食欲も性欲も旺盛な中学三年の」

「それは判るんですけど、先輩がフツーっていうのはどうなんですか? 時々、得体の知れないオーラを感じたりもしますから」

「得体の知れないオーラ?……あれ、ヒサオくんはなにか能力をもっていたんだっけ?」

「ないですけど、でも感じます……だからって別に悪い意味じゃないですよっ、スゴい人だなって思うだけで」

「ボクはなにも凄くなんかないよ、成績がまぁまぁである以外は凡庸な、まさに絵に描いたような凡夫だから」

「密森先輩っ、あまり僕をバカにしないでくださいね、先輩が凡夫なんかじゃないってことぐらい、もう僕にだってわかりますからっ」

「莫迦にするだなんて、そんなつもりはないけど……だってボクは入学時の検査ではレベル0の無能力者だし、背は高くないし、容姿はせいぜい人並み程度、それに運動部でもない帰宅部だし、スクールカーストは下位だし……ヒサオくんは特殊能力はないのかもしれないけど、でもカッコイイっていうのも立派な能力だからね」

「そんなこと言って、先輩だって結構、女子ウケ良いみたいじゃないですか。こないだなんか同じクラスの那珂川(なかがわ)さんから先輩のことを訊かれてびっくりしましたよ。栃織さんとはどうなのかとか……誰かからボクが先輩のルームメートだってことを耳にしたらしくて」

「ナカガワさんって、秋になって外から特例で転校してきた、あの那珂川さん?」

「ええ、今では学年一の美人と言われている那珂川瞳です。彼女、僕が栃織先輩とはそういうんじゃないと思うよって言ったら、明らかにホッとした顔してましたよ」

「それは光栄だな……あの子はじきに凄い美人になりそうだよね、でもその話、なんかオチがありそうでね……どうせ、いつでも便利に使えそうな先輩をキープっとか、試験の過去問とかの調達先に最適っ! とかの話なんでしょ?」

「そんなんじゃないですよ、オチなんてないですっ、彼女、普通に先輩のこと、気にしてる感じでしたから」

「本当かなぁ? ボクは……あの子とは別に接点は無かったと思うんだけどな……」

「先輩のことを密かに見てる女子は、思っている以上に居るってことですよ」

 ヒサオは那珂川瞳の他にも、自身が直接耳にしたこと以外、伝え聞いたことも含めて、他にも何名かの実名を挙げてレイが一年生の少女たちの間では、それなりに関心を寄せられていることを話したのだった。

「それなら、できれば密かにではなくて、もっとわかりやすく行動で示してくれるといいんだけどね」

 軽くさばいたつもりだったが、後輩の話を聞きながら別の意味で注意をしなければならないとも感じていた。

 万事大雑把で能天気な男子どもとは違い、良い意味でも悪い意味でも女子のネットワークは侮れないのだ。上下左右に拡がって、手強いヒューミントにもなりかねないからだった。その中には数こそ少ないとはいえ能力者も含まれているに違いない。

 碧子のような精神系の能力者も――。

「それと先輩の年上の彼女のことは、誰にも言ってませんのでご安心下さい」

「それも大げさだよ、ボクが勝手に片思いしてるだなんだから」

「ハイハイ、クリスマスに婚約指輪を受け取ってもらえて、どこが片思いなんだか僕にはさっぱりですけど」

「その話も、そんな大したことじゃなくて……」

「まぁ、そういうことにしておきますよ。先輩の片思いの定義は普通とはかなり違うみたいですから。しっかりセックスしてても片思いって言い張るのなら、それも片思いなんでしょうね」

「そりゃないよ、ヒサオくん……」

「先輩が、そっち方面でも僕より経験者だってことも、もうわかってますから」

 このあたりのやりとりはレイに分が悪いのだ。もちろん相手が操祈であるとは言っていない。しかしガールフレンドと既に親密な間柄であることは、ヒサオには悟られてしまっていた。

「そんなこと、どうしてわかるの……?」

「勘です――」

「勘って、いわれてもね……」

「だって猥談になったりすると、他の先輩と比べて密森先輩の反応だけが違ってたりしますから」

「違う……?」

「なんていうか……他の人たちは、どこか先輩風吹かせなくちゃっていうのか、気負った雰囲気になるんですけど、でも先輩は全然そうじゃなくて……それがもうずっと前からそうだったことに気がついて……」

「そんなことを言われたって、よくわからないよ……」

「僕もよくわかりません、でもわかるんですっ」

「………」

「それに僕が童貞ロストした話の時も、なんだか過去の自分を振り返るような目をしていたし……」

「それは……ヒサオくんが後輩だから……」

「どうしてそんなに隠そうとするんですか? 普通ならむしろ仲間や後輩に吹聴したくなる話じゃないかと思うんですけど……恋人が居るんだからセックスしてたって別にいいじゃないですか……僕だって話したんですから、正直に打ち明けて話してくれても……」

 後輩からはまた強烈なリターンが返ってきていた。さっきから言葉のラリーで振り回されている。こちらの足が止まるのは時間の問題のようである。

「あの時は……キミが話したそうにしていたし、ボクも幸せのおすそ分けにあずかろうかなって思っただけだよ」

「そんな、先輩は僕のことを知っているのに、僕は先輩のことを何も知らないなんて、バランスが悪いですよ」

「だから話した通りだよ、ヒサオくん同様にボクにも年上の彼女が居るって、ただそれだけの……」

「でもまだ一線は越えていないだなんて言われると、さすがにエーって思います。それとも肉食系男子だってことを隠しておきたいからそうしてるんですか?」

「別に装ってるつもりはないんだけど……」

 今夜のヒサオはいつにない調子で絡んできていて、何かあったのだろうかとも思うのだった。

「自分は口が固いと思ってますし、先輩のこともそう思ってるから打ち明けたので……先輩も僕のことを信じて欲しいんです……」

 後輩の少年はベッドを軋ませて立ち上がった。薄暗い部屋の中でスラリと背の高いシルエットが上段ベッドに居るレイの方を伺っている。

「(トイレに)行くの?」

「いいえ、なんだかもうすっかり冷めてしまいました」

「………」

「もっと話せる先輩だと思ってたのに……ちょっと残念です……」

 気まずい沈黙になってきて、音を上げざるをえなくなったのはレイの方だった。

「わかった、降参だ……認めるよ、認めるからもう勘弁してくれないか?」

「本当に――?」

「どうしたんだい、今日のヒサオくんはちょっと変だよ」

「だって……」

「何かあったの……?」

「別に……そういうわけじゃ……」

 言葉では否定しても、容子からはありありとそれが伺えた。

「じゃあ、伺います、先輩が童貞を捨てたのはいつですか? 誰にも話したりはしませんので」

「捨てるって言い方は良くないね、相手に失礼になるから、キミだって捨てたわけじゃないでしょ?」

「そう、ですね。言い直します……先輩が童貞を卒業したのはいつごろだったんですか?」

 ここで迂闊に否定すると話がドツボにハマるのを紅音で経験済みだったので、そこは避けざるをえなかった。

「ファーストキスをしたのは一昨年の冬休みごろ……それで察してくれないか?」

 実際に操祈と本気のキスをしたのは休み明け、図書館でのことだったが、それを言うと学校と結びつけられる懸念があったので暈すことにした。

 そのころの図書館は物や人の出入りは厳密にチェックされる一方で、館内の監視カメラの数は校舎内よりもむしろ少なくて死角も多く、わりとデートのしやすい恋人たちにとっては隠れた人気スポットだったのだ。

 それに気づいたのか学校側が、今では各フロアーに何台もカメラを設置するようになったばかりか、個人識別IDのトレースまで行うようになっているので、自分を含め以前のようにキャレル(閲覧用個室)を無料のラブホ代わりにする不届き者は居なくなっていた。

「じゃあ、もう交際()きあい始めて一年にもなるんですね」

「そういうことに、なるね……」

「だとすると、いろんなことを経験してますよね……」

 実のところ、操祈と夜を共に過ごせるようになったのは、紅音のペントハウスを使えるようになって以降のことで、それ以前はほんの一時のデートのためにも、他人目をかいくぐるために知恵を巡らさなければならないという、とても不便なものなのだった。

 ただ、その不自由さの所為もあって互いの気持ちを育むことに繋がったのだとしたら、今はそれも良かったのかもしれないとも思う。

「さあ……どうかなぁ……」

 その後もヒサオの尋問が続いた。デートの頻度やお気に入りのデートスポットなどについて、情報交換という名目の情報開示請求だった。

 レイは答えられる範囲で応じていたが、話の内容が次第にコアに近づくにつれ、はぐらかさざるをえなくなる。なるべく操祈とは違うプロフィールを頭に描いての架空の“彼女”についての問答を続けるのは、虚言を重ねている罪障感もあってそれなりに神経を使うものなのだ。

 そして、また沈黙となった。ただ今度の沈黙は、さいぜんのような気まずいものではなく、寧ろヒサオからは迷いの気配を感じる。

 暗い部屋で相手の表情はわからなかったが、何か言いだそうとして逡巡している様子であるのが伺えた。

「なにかな――?」

「いえ……なんでもないです……」

 レイは枕元のスマホの時刻を確かめた。

「おっと、もう三時じゃないか、さすがにもう寝ないといけないね。じゃあ、ボクはそろそろトイレに行くとするかな、おかげですっかり冷めちゃったよ、これでようやく眠れそうだ」

 棍棒のように猛々しかった股間は、縁側で長閑に日向ぼっこをしている子猫のように大人しくなっていた。

 レイは身を起こすと二段ベッドの梯子に足をかけた。その背中に、

「先輩――」

 心を決めたのか、声音に覚悟を響かせている。

「なに――?」

「……べつにおかしなことじゃないですよね、誰でもすることだから……」

 床に立つと顔半分ほども背の高い少年が、レイの目の前で自分を鼓舞するように独り言を呟いて言い聞かせている。

「どうかしたの?」

「あの……実はお伺いしたいことがあって……」

「いいけど、まだ訊きたいことがあるのかい?」

「先輩のプライバシーに立ち入るつもりはないんです」

「でもセックスの話はおもいっきりプライバシーだよ」

「そうですよね……」

「まぁ、もういいけど……」

「先輩はその……」

 よほど障りを感じていることなのか、スマートな少年がまた口淀んでいた。

「言いにくいこと?」

「ええまぁ……でも言いますっ……先輩は、その……ク◯ニとかってしたことあるますよね……?」

「えっ――!?」

 レイは、と胸を衝かれて、一瞬、絶句した。

「参ったなぁ……ヒサオくんとそんな話をする日がくるなんて……」

 ため息をつくが、相手の気を悪くさせないように呼吸を整えている風に体裁を整えた。

「うん……あるよ……あるけど……それがどうかしたの……?」

 正直に認める。話がややこしい方向へと向かいそうだったので

「座ってもいいかな……?」

「ええ、どうぞ……」

 差し障りのある会話をする時の常で、向き合うよりも並んでする方がお互いに楽になるのだ。下段ベッドの縁に座ると、ヒサオにも隣に座るように促した。

「ボクに訊きたかったのはそのこと……?」

 傍のシルエットが頼りなげに頷いている。

「はじめに言っておくけど、ボクはク◯ニって言葉、あまり好きじゃないんだ。とても大事な行為を陳腐化させているみたいで……」

「じゃあ、先輩は……」

「ク◯ニリ◯グスって言うこともあるけど、ボクたちはふつうにキスって呼んでるよ。でもシチュエーションで彼女にはそれが伝わるから……」

 大柄な後輩の少年は、心もとなげな容子で首を縦に振った。

「彼女となにかあったの? 彼女のニオイが気になってできなかったとか?」

「そうじゃないんですっ」

「じゃあニオイは嫌じゃないんだね?」

「もちろんですっ」

 心外だとばかりにヒサオが語気を強めたので、レイは後輩の背中に手を添えた。

「全然、嫌なものなんかじゃありませんでした。ネットとかでいろいろ言われていたので、初めはこわごわだったんですけど……でも、大丈夫です」

「それなら何の心配もいらないと思うよ、キミが彼女のセックスの匂いを気に入ってるのなら、二人の体の相性はとてもいいってことだから」

「そうなんですか?……でも彼女が嫌みたいで……僕はしたいのに……」

「彼女が、させてくれない……?」

「最初はできたんです……でもこの前、二度目のデートの時には強く拒まれて……それでちょっと気まずくなっちゃったりして……」

「相手の子も初めてだったんでしょ? 最初のデートでいきなりするなんて、それはちょっとひどいと思うな」

「そうなんですか!?」

「いや、他の人がどうかなんて知らないけど、ボクはそうしなかったから……」

「だって、手や指を使ったりするよりも丁寧かなって……」

「考えてごらんよ、下着を見られただけでも大騒ぎになるんだよ、女の子にとっていちばん自信のない部分を、それを異性の顔の前に全部見せなくちゃならないんだから、排泄器官だって丸見えになるし……その上、臭いを知られたり味を見られたりもする、その心理的負担を考えると……とりわけ初めての女の子にはとてもショックなことだよね……」

「だから、気持ちよくしてあげたくて……」

「いきなりベロベロしちゃったりしたのかっ? そりゃますます可哀そうだよ、だってク◯ト◯スは人体では眼球に次いでデリケートなところなんだから、そういう愛撫に慣れてる子ならともかく、経験の無い子にとっては刺激が強すぎて痛みを与えているのかもしれないよ」

「………」

「アダルトサイトの情報を真に受けるのはどうしたものかな……そんなふうにセックスを一般化してマニュアル化するのはもったいないと思わないかい? だってキミの腕の中に居るのは、キミにとっていちばん大切な人なんだよ、この世で唯ひとりの人に、そんなインスタントなクッキングマニュアルを使うなんて、それでいいのかな?」

「――!――」

「ボクたちのセックスは、ボクたちだけのセックスなんだ……ボクたちだけの体を使った秘密の会話、コミュニケーション……だから言葉と同じで、語られる内容は人によってみんな違うし、ボクが彼女とする“会話”だっていつも違う。共通しているのは、彼女のことが可愛くて、大事にしたくて、その気持ちを伝えたいって思っていることだけなんだ……そうしていると、やがて彼女も他人には見せない顔をボクには見せてくれるようになる……それって、とても素敵なことだとは思わないかい?」

 レイは、傍でまるで魔法に触れて凝固してでもいるような後輩の少年の背中を、ポンポンと軽く叩くと術を解いてやった。 

「ただ、体の基本的な仕組みは同じだから、それについては知っておいたほうが良いことはあるかもしれないけど……」

 女性特有の器官の特徴について知るところを、後輩にはなるべく簡潔に具体的に伝えることにした。女体の取り扱いについての自身の心得のエッセンスのようなものを含めて。

「今のは、ボクが彼女を通して学んだことのほんの一端だけど……だって彼女と逢うたびにいつでも素敵な学びがあって……女の子の体はあまりにも豊かで深遠な甘美な謎そのもの……体の表情も肌の色も、味もにおいも常に微妙に変化して、男の五感と心を慰めてくれる永遠の万華鏡なんだ……その神秘に間近で触れることを許されているんだから、与えられた幸運に感謝しないといけないよね……実際、女の子の魅力は、汲めども尽きることのない果てのない夢のようなものなんだよ……」

「スゴい……やっぱり密森先輩はスゴい人です……」

「全然凄くないよ。凄いのは、そういう人と巡り会えたことの方。ただ、これはボクの学びだから、あくまでも参考にとどめて、ヒサオくんはヒサオくんなりの言葉を持たないといけないんだ。大好きなひとにかける特別な言葉を……いま、もしその言葉が見つからないのなら、時間をかけて探せばいい……もう彼女はキミに心を開いてくれているんだから、焦ったり慌てたりしないでできるはずでしょ。ゆっくり彼女のペースに合わせて……試してごらんよ、とっても楽しいから。だから、いきなり逝かせてやろうだなんて気負い込んじゃダメだよ、まして苛立って性急にならないこと、それじゃ彼女が可哀そう」

「先輩は……そうやってきたんですか……?」

「ボクの彼女も年上だけどヴァージンだったから……振り返ると随分、手がかかったかもしれないね……ク◯ニリ◯グスもね、最初は脚を開こうとすると力を入れて拒まれたり、寝返りをうたれて逃げられたりして、なかなか許してはもらえなかったんだ……むりやりはしたくなかったから我慢していたけど、でもそれもとても楽しかったし、嬉しかった……だって恥じらってる女の子って凄く可愛いじゃない?」

「そうですっ、そうですよねっ、わかりますっ」

「年上で、憧れていた人が、すっかり女の子になってるのを目の当たりにすると、どんなことがあってもこの人のことを大切にしたい、って思うようになるから。キミもその気持ちを大切にすると、彼女には必ず伝わるし、キミたちだけの言葉が見つかると思うよ」

「僕たちの言葉……ですか……」

「そう……時間を惜しまずに探してごらんよ……」

「僕、ひどいことしてたんですね……独りよがりで、自分のことしか考えてなくて……」

「ヒサオくんたちは、いま始まったばかりなんだから、これからだよ。楽しいこと、素敵なことがいっぱいあるから。ボクから言えるのは、彼女をいちばんに考えること。簡単だよね、大好きな人なんだから」

「わかります……僕も……」

「それとね、ボクがまだ童貞なのは、嘘なんかじゃなくて本当のことだよ」

「――えっ――!」

「だって、射精なんてマスターベーションで済むことのために、大事な人に痛い思いをさせるのが可哀想で……それに、彼女を可愛がる時間が減っちゃうのももったいないじゃないか……だから結婚するまで、おあずけにしてるんだ」

「先輩の彼女はそれで不満は言われないんですか……?」

「そこはわからないな……でも、不満を持たれないように、いつもたっぷり愛してるつもりだよ。まぁそれはボクが愉しくてやってるだけなのかもしれないけど……ク◯ニリ◯グスはね、男と女の間で交わされるもっとも愛情深い親密ないとなみだと思うんだ……ボクたちにとってはとても神聖な誓いの儀式でもある……だってボクは彼女にしかそれをしたいと思わないし、彼女のにおいにしか興味がないから……そしてそのことを今は彼女もわかってくれている……だからボクが望めば、みんな見せてくれるし、恥ずかしいのを堪えてボクの言うことを聞いてくれるようになってる……数ヶ月前にはとても受け容れては貰えそうもないことでも、してくれるようになっているんだ……ヒサオくんも急げばまわれだよ、まずは彼女の信頼を勝ち得るための思いやりを示すことだと思うな、優しくしてもしすぎることはないんだから」

 

 




二人とも厨房ですが、天才たちです
許してあげてください


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春の黄昏

          LⅩⅩⅣ

 

「久しぶりですね、木山先生」

 招待講演の後、木山春生は懐かしい人物と再会を遂げていた。広田(のぶ)之である。

「ああ、これは広田先生……ずいぶんご無沙汰をしています……」

「十七年ぶり、になるかな……」

「そうですね……」

「あの頃のキミは、まだ十代の可愛らしい女の子だった……」

 広田は美しい女性研究者を目の前にして、年甲斐もなくややはにかんだ顔をして言う。

「先生も少壮の研究者でした……失礼、今も気鋭の意識学者でいらっしゃいますね」

 木山春生がこの大学に通ったのはたったの一年足らずの間でしかなかった。

 知りたいこと、やりたいことが山ほどあって、一刻の猶予も惜しんだこの才気あふれる美少女は、ひなびた座学にはただただ辟易するばかりで当時、授業はそっちのけで動物学教室の向坂研究室に入り浸っていたのだ。そこで若い助教として自身の研究の傍ら、学生たちの指導にもあたっていたのが、この広田だった。広田はすぐに春生の卓越した才能に気がつき、上司で自身の指導教官でもある向坂享一(むこうざかきょういち)教授に彼女を紹介、向坂のつてで学園都市にある先端大の棡原晋(ゆずりはらすすむ)教授の動物生理ラボに招かれた春生は、当時最年少、十代で助教のポストを与えられたのだった。

 その後の彼女の活躍ぶりはめざましいものだった。水を得た魚のように、わずか二年の間に立て続けに合計七本もの論文をNATUREをはじめとする有力誌に掲載し、二年続けて獲得IF(インパクトファクター)が百を超えるという冗談みたいな離れ業を演じてみせて生理学研究者として一躍、世界の第一線に躍り出ることとなったからだ。

「いや、もうボクは若くはないから……髪もこんな具合にすっかり薄くなってしまって、ハハハ」

「そんな……先生の去年、EJNS(欧州神経科学雑誌)の論文は興味深く拝読させていただきました」

「そうかい、名刺代わりに別刷りを持ってきたんだが、それなら要らないかな」

「いえ、いただきます、是非っ」

 春生がそう言って恐縮するのを見て、広田は穏やかに笑んだ。擦り切れた茶色い皮カバンから取り出した別刷りの論文の余白に、ボールペンを走らせてサインをしながら、

「キミも随分、雰囲気が変わったね……以前なら、読んだ論文なんてジャマになるから要らない、と突き返されると思ってビクビクしていたんだが……」

「そんな失礼なことを……けれど、私も歳をとりましたし……いろいろありましたから……人は変わるものです……」

「うん……本当に、いろいろなことがあったね……」

 春生は差し出された論文プリントを両手で丁寧に受け取って頭を下げた。

「先生が学園都市に居られたのを知ったのも、あの事件の後のことだったので……」

「僕はキミのように目立たないからね、あそこでは能力者でもないのに僕は一貫して透明人間だったから、まぁそのおかげで今、ここにこうして居られるワケだから、人生、何が幸いするか判らない、塞翁が馬だよ」

 木原幻生が学園都市で権勢をふるっていた当時、末端の研究者がどこで何をしているかなど、それぞれ知りようがなかったのだった。一人一人の研究者たちはパズルのピースを与えられて、研究の全体像を統括していたのは木原を含む一握りの上層部だけだった。

「キミの経緯については大体のことを知っているつもりではいるんだが……お疲れさま……ただ、今はまた学園都市に戻ってバリバリ仕事を続けているようで、とても嬉しいよ」

「青梅財団の支援が受けられたのは運が良かったです……」

「キミの才能は折り紙付きだからね……まだ三十代半ば、研究者としてはこれからいよいよアブラがのっていい仕事ができる最高のタイミングじゃないか、進展を楽しみにしているよ……量子重力と遠隔透視か、実験デザインが実に巧みだね、キミらしい、豊富な資金も含めて羨ましい限りだ……」

「ありがとうございます、しかし先生も、まだまだ老けこむようなお年じゃないじゃありませんか」

「だといいんだがね……都落ちしたあげく、ながれながれて最果ての、だからさ、あったかい東京はいいよ……あっちだと、今の時分は外を出歩く時はセーターを何枚も重ね着をした上に外套を羽織るから丸っこくなってね、蓑虫の気持ちがよくわかるようになった」

「でも、スキーができるんじゃないですか?」

「まぁ、そうなんだが、年をとると、すぐ足にきてね……ハハハっ」

 自嘲した広田は古めかしいアナログ式の腕時計に目をやると

「おっと、もうこんな時間か……いや、吉崎くんとランチを一緒にする約束をしていたのでね、木山先生、キミも一緒にどうかな?」

「吉崎先生……吉崎慎吾先生ですか?」

 春生も驚いて興味が惹かれたように片方の眉を吊り上げた。

 広田と吉崎は同じ向坂研に居たのだ。同い年で同じ学年、そして研究室も同じという、リタメイト(同腹仔)のような間柄だった。春生がラボに出入りしていた頃、広田が助手で吉崎は博士課程の二年、立場は微妙に異なるが、親友で良きライバルでもあった。大学からの給与がある一方で学生の指導を課せられていた広田に比べ、学位取得は吉崎慎吾の方が先になったが、学園都市のスキャンダルが発覚するまでは互いに順調にキャリアを重ねていたのだ。

「ああ、去年、ボストンのICCPで会ってね、いま彼は理科学院の主任研究官をしているんだ。お役所仕事だから事務やら会議やらの雑用ばっかり押し付けられて、落ち着いて仕事ができないとこぼしていたよ。今日も班会議とやらの名目で、おエラいさんたちのグルーミングをしないとならんから、肝心の講演が聴けないと憤慨していた」

「お目にかかりたいですが……でも先生方のせっかくのデートのお邪魔をしてはいけないので……それに、ひさしぶりに懐かしいキャンパスに来て、学内を散策をしてみようとも思いますので……」

「そうか……それもいいかもしれない……じゃあ、また午後に……」

「はい……」

 互いに頭を下げて別れる。くたびれた上着の後ろ姿を見送っていた春生だったが、広田の足が、つ、と止まり、春生の方を振り返る。

「あ、そうだっ……忘れていた……」

 トコトコトコと小走りに駆け戻ってきて、

「実は先生にお願いしようと思っていたことがあってね」

「なんでしょうか?」

「いや……いま学園都市におられると言うから……」

 広田からは迷いを伺わせる様子で、視線を泳がせながら言いにくそうになっていた。

「ちょっとムシのいい話だから、ダメならダメとはっきり断ってくれていいんだが、一応、ダメ元で尋ねてみようかと……」

「あの、どういったお話ですか?」

「うん……キミは食峰操祈くんのことは覚えているかな? 精神系能力者としての唯一のレベル5だった少女の……」

「はあ……」

 いまや食峰操祈と言われて脳裏に蘇るのは、あのメンタルアウトとしての少女時代の彼女ではなく、教え子の少年からの熱烈な愛撫に身も心も蕩けていくひとりの女となっている彼女の方だった。

「……彼女が……どうかしましたか……?」

「もう何度か研究の協力を要請するようにお願いをしているんだけど、今もって、返事を貰えないのでね……彼女の脳は、おそらく現在の意識の標準モデルではカバーできない有力な反証例になると思うんだよ、いまボクが考えている仮説の強力なサポートになるのではないかと期待していて……」

「それで、実験に協力するように私に間を取り持ってほしい、と――?」

「いや、無理ならいいんだ……」

「いえ、伝えることならできると思います。ただ、それで応じてもらえるかどうかまでは……」

「だよなぁ……あの頃の我々を知っているんだもんなぁ……やっぱり難しいよなぁ……」

「昔のことはともかく、もう彼女もいい年の女の子ですから、さすがに体に何かをされるのは嫌がると思うので……」

「別に裸にしたり、血を取ったり組織を取ったりするわけじゃないんだ……理研にあるオクタゴン(重力場マルチ干渉解析機)を使ったいくつか非侵襲の実験におつきあいしてもらえると、とてもありがたいんだが……多分、半日もあれば済むはずなので……もちろん、少ないながら御礼はするつもりでいる……」

「彼女もいまは歴とした教師ですから、年度末はなにかと忙しいと思うので、春休みになったら、こちらから一度、面会のアポを入れてみます。話を聴いてもらえるかどうかはお約束出来ませんけど」

「そうしてくれるかい、ありがとう、助かるよっ」

 それまで疲れた中年男然としていた広田は、パッ破顔して、春生も、と胸を突かれていた。

 四十半ばの、毛髪が薄くなってすっかりオジサン顔になっていた広田だったが、初めて会った時のように自身の研究のことなるとキラキラと目を輝かせていたからだ。

「でも、あまり期待しないでください」

「いや、大いに期待するともっ、やっぱり女の子を相手にするのは、オジサンにはしんどいんだよ。だからそこは若い女の子同士、腹蔵なく話し合えるんじゃないかと思ってね」

 春生に言うべきことを伝えて安心したのか、

「おっとイカンっ、吉崎との待ち合わせにホントに遅れそうだっ、食堂までここからだと十分はかかるからなぁっ、奴から叱られてしまうよっ」

 親からお気に入りのおもちゃを買うと約束をしてもらった子供のように、広田はすっかりえびす顔になると小走りになって去っていった。

 その背に向かって

「わたし、もう若い女の子なんかじゃありませんからっ」

 春生は声を上げたが、果たして届いたものかどうかわからなかった。

 

 

 いつものことながら一人になった木山春生は、自身にとって最初のキャンパスライフを過ごした母校の敷地内を散策しながら、少女だったころを思い出していた。池のほとりの木製ベンチに腰を下ろして購買で買ったサンドイッチの袋を破った。

 さすがにこの時期、東京でも吹きっさらしの屋外で食事をするのは酔狂で、近くには誰もいなかったのは好都合、三角サンドに噛り付きながら熱い缶コーヒーで飲み下す。

 そうしながら、胸におこる漣を池の水面に立つ波紋と重ねてしばし黙考するのだった。

 思いがけない場所で、思いがけない人物から、思いがけない人物の名前が出たことが少なからずショックとなっている。

「また、食峰操祈か……」

 十代半ばの彼女と、いまひとりの大人の女として再び現れた彼女は、まるで異なっているにもかかわらずどちらも同じ人物なのだった。それが、春生の眠っていた女の部分を揺さぶっているのだ。

 忘れようと思っても、一度、目にしてしまったことは消し去りようもなかった。

 なまじメンタルアウトと呼ばれていた頃の角張った少女時代の印象が際立っていただけに、女の歓びにすなおになった彼女の艶やかな姿とのコントラストが、あまりにも鮮明で目に焼き付いて頭から放れないのだ。それは夜になるといっそう彼女の心と体を悩ましくさせて弄んでいるのだった。

 こうしたもどかしい感覚は、春生にとっては事実上、初めて――と、呼べるものでもあり、どう取りあつかったらよいものかも整理がつかないままに悶々とした日々を重ねている。

 食事を摂りながら何度か切ないため息をついた。

 研究者である自分と人としての自分、科学者としての誠実さと人間の尊厳を守ること。時として背反することもある大きな命題については常に思いを巡らせていたつもりだったが、だが、もう一つ、女としての自分への視点がまったくといっていいほど欠けていたことを、彼女はいま思い知らされていた。

 セックス――。

 愛を知らない女を、はたして女といってもいいのだろうか?

 子を宿す性でありながら、その試みからは常に距離をおき続けていたこと、それが年を重ねるたびにのしかかってくるような気がするのだ。

 だからと言って、今更この歳で色恋沙汰もあるまいと、理性は女の情念の手綱を握ろうとする。

 もう若くない……三十五にもなる女を、誰が相手になんかするものか……。

 そう言い聞かせても、自分が若さと引き換えにしたものと、帳尻があっているのかもわからなくなってくる。

 きっと、それこそが広田のような男性研究者と自分のような女性研究者との大きな違いなのだろう。男の場合、自身の生理と科学の信徒であることとが矛盾させずに済むことが、女の場合はそうはいかないようなのだ。

 自分にはもう選択肢はない、という現実を突き付けられて初めて身にしみて気がつくことになる。

「まったく、この期に及んで、こんな気持ちにさせられるとはなぁ……厄介ごとをもちこんでくれたものだ……私も、何をやっているのか……」

 ひとりごちてしばし瞑目する。

 食峰操祈……とても美しかった……。

 恋をすると、女はあんなにも魅力的になるものなのか……。

 いったい、女の歓びとは、どういうものなのだろう……?

 木々の間を渡る風音に混じって、石段を降りてくる足音が聞こえた。

 どうやら、ここをひとりで占拠していられるのもこれまでのようだ……。

 そう思って散らかしたゴミを拾い、纏めはじめると

「あの……」

 と、言って足音の主と思しきから声をかけられた。

「春生先生ですよね……?」

 顔を上げると、数メートルほど離れたところに頭身のある一人の青年が立ってこちらを見ていた。相手のなんとも名状しがたい表情と目があって、春生も首を傾げる。

「木山春生先生……」

「そうだが……君は?」

 瞬間、青年は端正な表情を綻ばせた。

「やっぱりそうだった、春生先生だっ、僕、ゆうですっ」

「ゆう……くん……?」

「先生に救われた置き去りの……」

「――っ!?――」

 突如、八年前の記憶が鮮やかに蘇った。

「まさか……ゆうくん……君はあの井之上優樹くんなのか?」

「ええ、そうですっ! やっと思い出していただけたみたいですねっ、春生先生、しばらくですっ」

 




よもやの木山春生ターン・・・?!


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悪夢の教室

 

          LⅩⅩⅤ

 

 食峰操祈には、自分がなぜこうしたことになっているのか解らなかった。

 教室の壁、床から一メートルほどの高さのあたりに丸い穴が空いていて、上半身だけを外の廊下側に出しているのだ。何より悩ましいのは、豊かに拡がった腰骨が引っかかって穴から出られないのだった。さりとて体を引き抜こうにも今度は肋骨が邪魔になる。

 要するに進むことも退くこともままならず、不自然な体勢のまま、もうかれこれ十五分以上――? 悪戦苦闘していた。もうじき始業ベルが鳴るだろうというのに、いつまでもこうしてはいられないと焦れるのだが事態はいっこうに改善する気配を見せないのだった。

 

 いったい誰よっ、教室の壁に穴を開けるなんておかしなことをしたのはっ――!

 

 苛立ちまぎれに胸の中で呪詛を唱えるが、問題の本質はそこではなかった。

 何かが恐ろしく間違っていた――。

 だいたい、操祈には壁の穴をくぐるなどという愚かしいことをした記憶はないし、第一、穴の大きさも彼女の引き締まった腰のくびれに丁度合うサイズで、そもそも到底、くぐり抜けられるような代物ではないのだ。

 おかしいのはそれだけではない。

 教師がこんな状態であるのにもかかわらず、誰一人として不審に思うものがいないのだ。

 廊下を行き交う女子生徒たちは、いつもどおりにニコニコと笑顔で挨拶をして通り過ぎていくばかりで、女教師を苦境から救おうと手を差し伸べるものはいなかった。

 困り果てた操祈が「あの――」と、声をかけると、

「操祈先生、おはようございま~すっ」

 と、普通に元気な声が返ってくるのだが、それだけ。みな何事もないかのようにすぐに彼らの日常へと戻っていってしまう。

 

 どうしたのみんなっ、なんで誰も私を助けようとはしてくれないのぉ? 酷いじゃないのよぉっ――!

 

 非難しようと口を開くのだが、操祈の方からも出てくる言葉は「おはよう――」と、普段通りの挨拶になっているのだった。

 

 どういうことっ――!?

 

 理不尽な奇異なことばかりが続いていたが、隣の教室に担任の村脇静繪が現れた時は、ついに救いの神が現れた! と、期待に胸を高鳴らせて手をさし上げて合図を送ろうとした。が、次の瞬間、いきなり視界に入ってきた自身の剥き出しの白い腕に驚いて、ぎょっとして言葉を失ってしまう。

 季節はまだ1月中旬の真冬、それなのに彼女は、まるで真夏のような白ニットの大胆なノースリーブでいた。

 薄着でいるのもおかしいが、それ以上に操祈は校内にいる時には常にスーツなど上に羽織るものを身につけていて、努めて女の部分を他人目にさらすことのないように気を配っていたのだ。

 それなのに――。

 まるで恋人といるときのように無防備に体の線をくっきりとさせて、女であることをアピールするような教師らしからぬ格好をしていた。

 だから、てっきり村脇女史からは注意を受けると思ったのだが、

「おはようございます、食峰先生、今日もしっかりおねがいしますよ」

 そう言っただけで、彼女もまた何事もなく自分の教室に入っていってしまってそれっきりなのだった。

 女史ならすぐに施設課などに連絡をして適切な指示をしてくれるに違いないと思っていたのだが、操祈の願いはまたしてもあっけなくスルーされてしまっている。

 

 わたし……いったいどうしたら……。

 

 そんな途方にくれる彼女に、さらに追い打ちをかけるように、壁の向こう側では一層、不穏な事態が始まろうとしていたのだ。スカートがいきなりめくり返されて、お尻がすっかり外気にされされてしまった。そればかりか肌着の両側に何者かの指がかかっていて、あろうことか脱がそうという意思を感じる。

 

 ちょっと! やめてっ――!

 

 声にならない悲鳴をあげて背後を振り返るが、そこには白い漆喰の壁があるばかりで、無情にも身を守りたくても両手は届かない。

 認めたくはなかったが、体の自由を奪われた教師に対して悪戯心を抱く不心得な生徒が現れることは、この常盤台においても否定しきれないことなのだった。

 

 ヤダっ、誰か止めてっ、おねがいっ、誰かっ――!

 

 諫止の声も虚しく、そのまま為すすべもなく穿いていた純白のショーツは一気に下までおろされて、下半身をすっかり露出されてしまうのだった。きっと教室には、ホームルームを前に、もう生徒達が揃っているに違いないのだが、いったい教え子たちの目に今の自分の姿がどのように映っていることか、考えるだけでも恐ろしかった。

 だが、悪ふざけはこれだけでは終わらない。

 裸に剥かれたお尻を、誰かがゆっくりと手触りを愉しむように撫でまわし始めたからだ。操祈はお尻の肉を堅くして拒むが、揃えた指が谷あいをさっとかすめると、ひっ、と思わず官能的な悲鳴を発して乱れてしまうのだった。そればかりか、そこを無理やり左右に広げようとしていて、相手がふざけているのではなく本気なのだと分かると、にわかに恐慌が来してくる。

 

 ああ、おねがいっ! 誰か、助けてっ! ねぇっ――!

 

 レイの名を呼ぼうと思ってから、言葉をのみこんだ。それだけは口にしてはいけないと思うからだった。彼との関係を公にするわけにはいかないのだ。代わりに悔しさに視界が涙で滲んでくる。

 愛する人以外にはけっして許してはいけないこと、見せてはならない場所を晒してしまっている。

 理由はともあれ、これは恋人への背信に違いなかった。

 レイくん……たすけて……。

 操祈は心の中で必死に最愛の人の名を呼び続けた。きっと最後には彼が何とかしてくれる、そんな思いが、少年への揺るぎない信頼があるからだった。

 けれども現実は彼女にとって、さらに過酷なものとなっていく。

 そもそも女の体は前面以上に背後を突かれるととても脆いもの。操祈の張りのある美しいお尻はキュートな逆ハート型を描いていて、その谷間にあたる部分には差し障りのある女の弱みが集められている。それはどんなにきつく脚を閉じ合わせても、陵辱者の手指からは逃れられないものなのだった。

 今やむっちりとやわらかな肉は無慈悲に左右に分けられて、冷たい外気と冷酷な視線を感じるようになっている。他人にはいちばん触れられたくない場所に指先がペトリと貼りついてきて、操祈はありえないことに当惑しながらも身に降りかかった辱めに堪えるしかなかったのだった。その上、酷い指は明らかにそこを侵そうというおぞましい意図を示して、きつく結んだ操祈とのせめぎあいとなっている。だが、それは初めから勝ち目のない儚い抵抗にすぎない。実際、八の字を描く内緒の筋肉の交点――操祈本人は存在を知らない自身の体の急所――を、腰にある情欲のツボとともに押されると、下半身にある女性特有の器官、組織が鳴動をはじめて、たちまち女の体は綻んでしまうのだ。

 あっ――と、思った時には既に指先が潜ってきていて、絶望に唇を噛む。こんなにも易々と体を犯されてしまったことが恋人への裏切りに思えて情けなかった。

 もっとひどいことをされる前に、自ら命を断たねばと、そう思ったとき、不意に身に覚えのある感覚がして驚きに目を大きく見開いた。

 それは、懐かしくも愛しいもの――。

 そして憎らしいもの……だ。

 

 あなた……レイくん――なのっ!?

 

 恋人と褥をともにするようになって身に受けた様々な愛撫の中、操祈を悩ませたものの一つが、少年の指にあった、ペン胼胝(ダコ)――だった。

 勉強家で、お絵描きも得意な少年は、きっと幼い頃から鉛筆などの筆記具を握る機会が多かったのだろう、中指の左側に、その年頃の少年の指にしてはやや大きめの胼胝ができていて、それが折に触れて操祈の体に、えも言われぬ微妙な刺激を与えてくれるのだった。ある時はさりげなく、ある時ははっきりと意思をのせて女の体に思い知らせてくる。

 とりわけデリケートな部分を指の背を渡らせるようにして擦られると、カサっと乾いた突起を乗り越えるたびにのたうちまわるほどの快感に痺れてしまうのだ。

 その小癪にも恋しい小さな突起物の存在を感じて、操祈は安堵交じりのせつないため息を吐いた。いま自分のお尻を触っているのが恋人であるのなら、それならば仕方がないと諦めもつく。

 それとともに、

 

 どうして――?

 

 と、思う。

 二人の関係は秘密にしていた筈なのに、みんなの目があるところで、どうしてこんなことをするのかしら、と。

 方や指で無慈悲に犯しながら、他方、やさしい温もりの手のひらがお尻を励ますように撫でている。レイだとわかると、抵抗感は一気に薄らいで操祈は従順に愛撫を受け容れていた。

 男の手に促されるままに体を開いた。そこ――に、吐息がかかっても、もう逃れようとはしないのだった。

 (つい)ばむような軽いキスの洗礼はすぐに待ちかねていた愛撫になって、大好きな舌と唇の訪問受けた体は大歓びで身肉をひるがえしてご褒美をねだっていた。

 彼にしかできないやさしさで操祈の体を慰めていく。

 どんなに大切にされているか、愛されているかを教えてくれる、心のこもった口づけ。

 それは最前までの操祈の懸念など、一瞬でなぎ払ってしまうほど眩いものなのだった。

 壁の向こう側の教室で、自分の体がいまどのような状態にされているのか、今しがたまで心を乱していたものが、もはやそんなことはどうでもいい些細なことになっていた。

 彼がそばに居てくれるのなら、もう何も心配することはないと無条件で思えるからだった。

 大好きな人、最愛の人、心からの友――。

 愛してるわ……レイくん……。

 操祈も体で思いをうったえていた。誰よりも愛する男への女の愛し方とは、恋人から望まれるままに体をひらいて、求められるものを全て捧げることだ。

 そして恥ずかしさの先にある甘露な果実を、彼が与えてくれるままに頬張ること、それが女であることの幸せであり、恋の歓びだった。

 みんな、大好きな彼が教えてくれたことなのだ。

 女にとって愛する人から体を触れられるのがどんなに嬉しいことか、可愛がられるとはどういうことなのかをひとつひとつ、ためらう彼女のペースに合わせて倦むこともなく、少しも逸ることもなく、丁寧に丹念に、手取り足取り導いてくれた心やさしい男の人。

 それが、どんなにありがたかったか……。

 舘野唯香が言っていたように、年の差や立場の違いの前に、恋をすると人は自然に男と女になるのだ。

 肌と肌を接して、温もりを感じて、愛しているからこそできることをして、他人にはけして見せない姿を見せ合い、秘密と罪とを分かち合って強い絆を結んでいく。

 操祈のからだの成り立ちを心得た舌と唇が、詰将棋のように王手を連発して退路を断っていった。女は必死に逃げ惑いながら屈服される時を待っている。

 愛してる……愛してる……愛してる……。

 胸の中で恋人への愛情が膨らむとともに、体の中にあった情熱の塊もどんどん膨張していき、解き放たれる時を目指して舞い上がっていった。

 はぁっ、はぁっ、はぁっ――。

 熱い吐息が溢れて、肩を(せわ)しく揺すっての荒い息遣い。

 操祈の視界にはもうひと気の絶えた無機質な廊下などではなく、輝くばかりに眩い星辰の瞬きが目の前にまで迫ってきていた。

 彼の舌と唇も、そして指と手も、操祈のか弱い部分をいたわりながら、容赦のない責めとなって女の肉から歓びを吸い上げようとしているのだ。そのままクライマックスを目指して一気に駆け上ろうとしていた操祈だったが――。

「どうなさったんですか、先生」

 突然、彼女の目の前に人影が立って、冷ややかな声音を浴びせかけられた。

「ひぇっ――!?」

 驚きと狼狽と当惑に、喉の奥から奇妙な声を発して顔を上げる。

「食峰先生、とてもお顔が赤いですよ」

 美少女の顔が間近にあって、不思議そうに見下ろしていた。

「せ、生徒会長――っ」

「いいえ、もう生徒会長ではありません、去年、退任したので、お忘れですか?」

「……や……山崎……さん……」

「はい、どうされたんですか? 壁に挟まったりして」

「みっ、見えるのっ!? あなたにこれがっ」

「ええ、壁から体を出して、何をされてるのかと不思議でした。なんだかとても余裕のないご容子だったので声をかけるべきかどうか迷っていたのですが、でも、だんだんが変な感じになってきて、それで心配になって……」

 操祈の苦境を誰ひとりとして気づいたものがいなかったことから、もしかするとこれは人の目には映らないのかしらと思っていたのだが、この美少女だけは気がついていたらしい。

「いったい、どうされたんですか?」

 背後ではレイが愛撫にさらに情熱をこめてきて意識を刈ろうとしていて、操祈は気をヤリそうになりながら犀利な美少女と対峙することになっている。

「なんだかまるで、セックスの最中にお邪魔してしまったみたいで」

「いっ、いいえっ、そんなはずっ、ないでしょっ……だって、ここっ、学校なんだからあっ……ああっ」

 恋人の愛撫はあまりにも甘美なのだ。疎ましい会話にさえ妨げられなければと思い、少女の勿体つけた態度が憎らしくなってくる。

「そうですよね、先生が学校でそんなイケナイことをなさるはず、ないですものね……でも、それじゃあどうして、そんなに息遣いが乱れているのですか? お顔だって真っ赤になってますし……あら、壁の向こう側はどうなっているのかしら?」

 壁の向こう側――と、言われて操祈は焦った。

 もしも碧子に今の自分の姿が見えるのなら、もしかしたら恋人と演じていることも見えてしまうのかもしれないと、理由なくそう思ったからだ。

「ち、違うのっ、なんでもないのよっ、ちょ、ちょっと風邪気味でっ……それでよっ……そのせいっ……だからあっ、ああっ、あなたもぉっ、うっ感染ってはいけないからっ、お部屋にっ、お戻りなさいっ……もうすぐ授業が始まるわよぉっ」

「授業? 先生、何をおっしゃられているんです? 今日はお休みですよ、日曜日じゃないですか」

「えっ――?」

「寝ぼけていらっしゃるみたいですね。それとも、恋は盲目ということなのでしょうか? ますます壁の向こう側が気になってきました……きっと誰か居るんですよね、いったどなたなんです? お美しい食峰先生にこんなに可愛い顔をさせるワルい人って」

 碧子はワケ知りの意地悪な笑みを向けている。

「先生はいま、いったいどんなことをされているんですか?」

「なにもっ、されてなんかいないわよぉっ」

「とてもそうは見えませんよ、とってもイケナイことをされてる真っ最中にしか」

「そんなことっ……ああっ……イヤぁっ!……」

 いよいよ愛撫のラストスパートになって、デリケートな場所の全ておさえられて、こらえきれずに声をあげて乱れてしまった。

「あら、ナニがおイヤなんです?」

「ちがうのぉっ」

「ちがいませんよ、女がそんな声を出すときっていうのは、きまってるんです。いったい今、彼から何をされてるんですか?……たしか密森黎太郎さん、ですよね、壁の向こうに居るのは」

「――!――」

 その瞬間、少女の冷ややかな目が見つめる中、情熱のはけ口を奪われていた操祈の体は、生殺しにされたようにただ虚しく崩れていったのだった。

「……ああっ……はぁっ……ああ……」

 燃え切らないオルガスムスの後、繰り返し幾度も波が寄せてきて体はその都度、小刻みにわななくが、心は恐れに寒々としたままなのだった。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

 乱れた吐息を整える。

「あらあら、どうやらイっちゃったみたいですね……食峰せんせいっ、イケナイんだっ……あははっ」

「………」

 中途半端な終わりかたをして、欲求が満たされなかった体は不満を別の形で噴き出していて、すっかりしどけないことになっているようである。

「碧子さん……あなた……なにを言いたいの……」

「わたし、知ってるんですよ、密森くんがあなたのダイジなところが大好きだってこと、彼、凄いヘンタイさんみたいですから」

「………」

「お綺麗な先生ですから仕方がないと思いますけど、でもあんなハシタナイことを先生がしていると知ったら、みんなはどう思うでしょう……後ろまでしっかり開発されてるなんてねぇ、イヤらしいっ、それにク◯ニもいろいろな体位でお楽しみのようですけど……マンぐり返しとか顔面騎乗なんて、私だってやったことないのに、やっぱり大人の女の人はサスガですね」

 美少女は、まるで自分たちのセックスライフを見てきたように言うのだ。刹那、舘野唯香が告げ口でもしたのかとも疑ったが、さすがに体位のような立ち入ったことまで話したことはなかったのだった。

「さあ、今度は密森くんに話を聞かなくては――」

 女教師が達したのを見届けた美少女の関心は、今度は教室内に向かっていて操祈はうろたえた。

 そこでは下半身をむき出しにされて、とても情けないことになっている。そんな姿を彼女にだけは知られてはいけない、そのことははっきりと感じるのだった。

「ダメっ! 行かないでっ!」

「いいえ、そうはいきません」

 操祈の言葉を無視して、教室の引き戸のある方へと足を向けた。

 ガラガラガラ――。

 美少女は無造作に扉を開けると操祈に勝ち誇った笑みを向けながら、教室内に入っていくのだった。

「見ないでっ!」

 操祈は声を上げて制止した――。

 その瞬間、ハッと目が醒めた。

 ――?!――。

 全身に気味の悪い脂汗が浮いていて、ハアハアと息を乱している。胎児のように身を丸くして。

 夢――!?

 それが判ってほっと安堵する。

 胸はまだドキドキと亢鳴(たかな)ってはいるが、意識が鮮明になってくるにつれて、あらためて自身の哀れな状態に気がつくのだった。

 温かかった股間が時が経つにつれて冷え冷えとしていった。それはお尻の方にまで達しているようでうんざりする。

 操祈は汗と分泌物とで()えた匂いのするベッドで、体に貼りついた肌着を疎ましく思いながら身を起こした。そうしながら、まだ余韻の残る頭をうちふって、どうしてあんな夢を見たのかしらと不思議に思うのだった。

 イヤな夢だった――。

 夢の中に出てくる碧子は意地悪な少女だった。だが操祈の知る彼女はとても愛らしい生徒なのだ。優秀で性格も良く、人を思いやることのできる気立ての良い美少女だ。

「不条理なのは、夢だからよね……」

 ひとりごちながら、サイドテーブルに手を伸ばしてスタンドを点けた。掛け布団を恐る恐るめくって、パジャマの下をすっかり汚してしまっているのを確認すると、レイからは「量が多い」と言われたことを思い出してシュンとなる。

 操祈の若い情熱のほとばしりは、薄いライナーなどではとても受け止めきれずに、パジャマだけでなくシーツにまでオトナのオンナのおねしょのしみを作っていたのだ。

「……なにやってるんだろう……ホントに……こんなの……」

 レイに見られたら、死にたくなるほどのみっともない粗相。

「でも……もうレイくんは知っているのよね……わたしのからだのこと……」

 それが恥ずかしくもあり、嬉しくもあるのだった。

 だらしないオンナだと知っていても、レイの愛と忠誠には少しも変わりがないばかりか、かえって愛情深くなったように感じているからだった。

 操祈は気怠げにベッドから起き上がると、濡らしてしまったシーツを手繰り寄せて丸めていった。

 幸いベッドにまで沁みが移っていないのを確かめて少しだけホッとすると、汚れ物を抱えてそのまま寝室を出ていくのだった。

 




ミスの校正をしました
申し訳ありません


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夢の正夢 1

 

 狭いキャレル(閲覧用個室)の机の上で両肘をついて四つん這いになった操祈は、うっかり声を発してしまいそうになって慌てて片手で口を押さえた。それでも「はうっ」と、くぐもった呻きが溢れてしまったのだが、とてもささやかなものになっていて仮に隣で誰かが聞き耳をてていたとしても、きっとクシャミを我慢したのだろうぐらいにしか思われなかったに違いない。

 ましてそれが女の感情発声だと気がつく者は居なかっただろう。

 いま彼女は追い詰められていて必死の綱渡りをしているような状態にあるのだった。恋人の性戯は二人だけの閨でいとなまれる時と同じように心のこもったもので、やさしく執拗に彼女の急所を次々に捉えては懇ろに可愛がってくれていたからだ。

 時刻は、午後の三時二十五分を少し過ぎたところ――。

 水曜日は図書の整理日で、閉館時間まであと十分あまりになっていた。

 目の前にある嵌め込み式の張り出し窓からは内庭を行き交うくつろいだ様子の放課後の生徒たちの姿が見えている。遮光ガラス越しになる向こう側からは見えにくいのだろう、操祈が不自然に身を乗り出すようにして外の容子を窺っていることにはまだ誰も気がつかずにいるようである。

 生徒を指導すべき立場である自分が誰よりも大胆にルールを破って禁忌を犯していた。

 おかしな声を上げてしまったら、すぐにも誰かがやってくるにちがいない。そうでなくても不審の目が向けられれば、たちまち背徳の関係が発覚してしまうような状況。

 見つかったら即、身の破滅につながってしまうだろう。

 とりわけ吹き抜けになった二階回廊の正面側、窓際に沿って配されたキャレルは、地下書庫にあるものとは違っていたって簡易な仕様になっているのだ。

 隣で本のページをめくる音さえ聞こえてきそうなほど、薄い壁に仕切られただけの狭いコンパートメント。あまつさえ、背にした鍵もかからない布製のアコーディオンドアの向こう側では、普通に廻り廊下を歩く生徒たちの足音が聞こえるのだ。

 そんな公共の只中に、刹那のエアポケットのように生まれた非日常の空間で、操祈は二人だけの寝室でいるときのようなあられもない姿になっている。真っ白く豊麗なお尻を剥き出しにされて、言葉にはいっさい頼らずに互いの気持ちを伝え合っていた。

 声も吐息もそして衣擦れの音さえも立てられない中、彼も吸ったり(すす)ったりして淫らな異音を立てないように口を大きく開けてくわえ、舌を長く伸ばして深く広く密着させてしっかり寄り添っている。それがシチュエーションもあってか、いつも以上の一体感をもたらしているようなのだった。

 一途な思いと必死な思いとが行き交い、刻々、愛に結晶していた。

 レイくんっ……あたしっ、あなたのことをっ……。

 操祈はいまにも(くずお)れそうになるのを懸命に(こら)えながら、口にする代わりに体でせつない女の思いを訴えているのだった。

 




間を空けてしまいました
その上ショートです
節がちょっと長くなりそうなので、この続きは明日に


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夢の正夢 2

 

 こうしたことになるほんの一時間半ほど前には、操祈はまだ教師として教壇に立って教え子たちと向き合っていた。この後、自分が成人指定ドラマのヒロインになる運命にあるとも知らずに、いつも通りの平穏でちょっと退屈な午後を送っていたのだった。

「ゔぇーっ、今からテストするんですかぁ?」

 男子生徒側からすぐに不満そうな声があがったが

「テストじゃなくてただの小テストよ、いいでしょぉ、別に成績に反映させるつもりはないんだしぃ、ただあなたたちの理解度をこちらが確認したいだけなんだからぁ」

 と、軽くやり過ごす。

 たしかに生徒たちの不満はわからないわけではない。

 水曜日、五限の代数の授業の終了間際、あと十分ほどで教室から解放されると思っていた矢先、気分はもう放課後のあれやこれやに向かっているだろうスローダウンの状況で、最後の最後にまた緊張を強いられるのだ。

「微分方程式を解くだけの計算問題がたった二問よ、簡単でしょ? 五分と言いたいところだけど、まぁ残り時間があればみんな解けるわよねぇっ」

 それを聞いた生徒たちはみな一様に凝固して、教室内を気まずそうな沈黙が支配した。

「あらぁ、なぁに、そのしょっぱい反応はぁ? だって、たったいまやったばかりのことでしょ? 忘れたくたって忘れようがないじゃないのよぉ」

「そりゃ、やれって言われれば、こっちはやるっきゃないから付き合いますけど、でも先生もこっちに付き合ってもらわないと報われないッスよ」

 夏上康祐は食いさがり、「そうだ、そうだ」と、仲間からの賛同の声があがった。

「だったら満点とったら今度こそデートしてくださいっ」

 授業中、クラス全員を前にしての大胆な告白に、一部から「オーっ」というどよめきがたつ。

「いいわよぉ、約束するわぁ」

 操祈は悪戯っぽい笑顔を向けて、男子生徒たちのハートをくすぐっている。ちょっとお(きゃん)になると、教師というよりも少し年上のお姉さんといった雰囲気を纏って、いっそう親しみがわくのだ。

 賢明な女子たちは、彼女がこうして無自覚に愛嬌をふりまくと男どもはすぐに陥落させられてしまうのを知っていたので、案の定、魅了されるままに見事に術に堕ちていくカースト下層の男子たちを、自ら奈落の底に飛び込んでいくレミングの群れを見るように冷ややかに眺めていた。

 女子たちの情報は早く、既に操祈が午前に三組で小テストを実施していて、まるで売れない芸人のコントの台本でもあったかのように、似たような男子たちによるよく似た寸劇が、いかなる顛末を迎えることになったのかを知っていたからだ。

 それに――。

 操祈に、恋人がいる――というのは、“二人”の事情を知っている栃織紅音や舘野唯香はともかく、他の女子たちの間でもとっくに共通認識となっていた。

 二年あまりの時を共に過ごしてきた少女たちは、自らの変化と共に、この若く美しい女教師の変貌ぶりを敏感に肌で感じ取っていた。初めの頃、肩のラインにどこか頑なさを残して無垢な処女性を感じさせていた食峰操祈が、ふと気がつくといつの間にか言葉や振る舞いもやわらかく、優雅なまろみを帯びていた。

 そのとき少女たちは、目の前の教壇に立って指導していた敬慕すべき自分たちの長姉が、あるとき男の愛を受け容れていたことを悟ったのだった。

 操祈からツノ――ヴァージナルチェックマーク――が取れた! というのは、多感な少女たちにとっては少なからずショックではあったものの、一方でこんなにも美しい女性が自分たちと同様に恋をし、そしてセックスをしている――ということには密かな感動すらも覚え、多くは好感を持って受けとめていた。

 だから少女たちの目に愚かな男子生徒の跳ねっ返りぶりは、ただ単に愚かという以上に哀れなピエロに映るのだった。

「えっ! ホントっすかっ?」

 案の定、計算問題だからチョロいかも、と思ったのかコースケは俄かにやる気を見せている。だが、

「ただし、全員が満点とったらね――」

「え――?」

 狙い澄ましたようなパッシングショットが決まって、少年は呆然と立ち尽くしていた。

 ノータッチエース、フィフティーンラブ――!

「全員が満点だったら、クラスのみんなを今週末カラオケパーティーに招待するわよぉ、もちろん私のおごりでぇ」

 ざわざわざわざわ――。

 男子生徒からのデートの申し出を、クラス全員へのご褒美にすり替えるというクセ球のリターンに、またもノータッチエース。

 サーティラブ――。

 さらに、たとえ簡単な計算問題であったとしても、二十五名全員が満点をとるというのが、それがどれほど遠いことか、一瞬で全員参加の逃げ場の無いプレッシャーゲームに変貌していた。

 かくして操祈の希望通りに小テストの問題プリントが配布される。

 それを目にした途端、クラスのあちこちから苦しげなうめき声があがるのだった。

 フォーティラブ、マッチポイント――!

「さあみんなぁっ、自慢の数学力を発揮してぇ、わたしに学習の成果をみせてちょうだい」

「鬼っ、操祈先生は鬼だぁっ」

「やさしそうな顔をしていて、これだもんなっ」

 男子たちの大仰な不満の声に、にこやかに応えて、

「ハイハイ、じゃあ、チャイムが鳴るまでねっ、それとあらかじめ断っておくけどぉ、問題の組み合わせはみんな同じじゃないわよぉ、五種類、全部で十パターンあるから、もしかすると当たり外れはあるかのもしれないわねぇっ」

「当たり外れってなんだよ、モー」

「なら俺の、どっちもハズレかも、ぜんぜんわかんねぇやっ」

「あーあ、操祈ちゃんって、やっぱ女神の仮面をつけた鬼だったのかぁ」

「ちっくしょー、やられたなぁ」

 口ではそう言いながらも、少年たちもまた淀みない動きで鉛筆を走らせている。生徒たちが問題に取り組むのを満足げに見守りながら、操祈は机の間をゆっくりと歩いて各人の進捗を窺っていった。時に足を止めて、さりげなく間違いを指摘して修正を促したりする。

 誤りに気がついた生徒は、感謝と尊敬、憧れの眼差しになって自分の傍に立つ教師の美しい顔を仰いでいた。

「微分方程式はとっても便利な道具よぉ、仮に将来理系に進まないつもりでもぉ、役にたつから覚えておいても損はないわぁ、だって導関数の方程式を立てると未知の関数がわかっちゃうなんてステキでしょ」

「じゃあ微分値がわかれば先生のボディラインの関数も計算できるんですか?」

「コースケ、それにはまず各ポイントでの変化量を計測しないとなんないだろっ」

「やっぱそうか、ならまずは詳細な観察が必要だよな、九十二、五十八、八十九っていうスリーサイズだけじゃ情報が足りねぇや」

 男子生徒たちが調子にのる。

 以前の操祈であれば、こうした挑発には顔をうっすら朱くして言葉に詰まっていたところだが、

「あらぁ、無駄口きいてる余裕なんてあるのかしらぁ、一人だけ満点にならなかった時の責任は重たいわよぉ」

 今ではこんなふうに軽くいなす余裕も生まれていた。

「それにね康祐くん、むしろ解ける微分方程式の方が例外で、世の中、解けないものの方がずっと多いのよぉ」

 その意味するところが、判る人にはワカル、時速二百キロのビッグサーブが炸裂する。

 男子生徒たちは一歩も動けず、ただ呆然自失となって見送るばかり。

 ゲームセット! アンドマッチウォンバイ、ミサキ・ショクホウ――!

 教職について二年あまり。

 常盤台中学校教諭、食峰操祈、二十二歳はその日もいつもどおりのミス・パーフェクトなのだった。

 




続きの
夢の正夢 3
は明日になります


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夢の正夢 3

 

“これは簡単、単純な常微分で二次式の一般解は……”

 舘野唯香は問題を見てすぐに安堵していた。授業で習ったばかりのもので、ただ係数が違っているだけだったからだ。

“……二問目も……これも授業でやったものとほとんど同じ、変数分離で左右を積分すればいいだけ……”

 スラスラと鉛筆を走らせる。

 案外簡単な問題に当たってラッキーだったと思う。自分の所為で敬慕する先生との貴重な親睦会の機会を失ってしまうのはイヤなのだった。

 まさか操祈からカラオケの提案がされるとは意外だったが、美しい女教師が歌うところを是非、見てみたいとも思う。

 どうか、全員が満点でありますように――。

 答案を何度か見直して間違いがないことを確かめると、まずはほっと安堵する。

 見るとはなく二列離れた斜め向こうの密森黎太郎の背中が目に入り、少年の容子を伺った。彼には難しい問題が当たってしまったのか、意外にもカリカリとまだ鉛筆を走らせている。

 これまでずっと件の少年のことを自分のタイプではないと思っていたが、よく見るとけっこうかわいい顔をしているとも思うのだった。横から見ると案外、長い睫毛をしているのが窺える。知性的なすっと整った鼻梁の横顔、広い額の童顔、ちょっと女の子みたいにつつましく見える口元。

 銀縁メガネの奥の黒い瞳はいつも穏やかで優しいが、稀にとても冷たそうな輝きを宿すときがあって、ただの便利な男の子ではないことは判っていたつもりだった。

 だが――。

“まさか、あなたが……先生の恋人だったなんてね……”

 女子たちの間では食峰操祈は既にロスヴァーしているものと見做されていたが、唯香は彼女がまだ処女であることを知っていた。だがプラトニックな意味でのヴァージンというのではなく、実際には単にセックスをする以上のことを操祈は経験“させられて”いる。

 それもあろうことか教え子の男子生徒から――。

 少女は、クラスメートの少年の顔が操祈の股間と接しているのを想像して、あらためて胸を高鳴らせるのだった。

 ありえないようでいて、それが今ではいちばん収まりがいいように思えてくるから不思議だった。

 きっと彼らしい抑制された情熱で真摯に向き合っているんだろうと想う、女にとっていちばんやっかいな手合いだ。自分もそうだったが、時間をかけて取り組まれると本当に参ってしまう。

 体は嘘をつけないのだ。それを相手には間近ですぐに知られて……。

 だから絶対にいちばん好きな男だけにしか許せないこと――だった。若い生徒との道ならぬ恋に身を灼く操祈の気持ちが良くわかるのだ。

 きっと先生には凄くショックだったはず……。

 たぶん、今も――。

 でもそれが恋にのめり込むエネルギーになるのも確か。

 女神が羽を()がれたのではなく、丁寧な羽繕いをされていたのだとわかったら……女はもう……。

 奈良のお風呂で見た操祈の体は、どこにも欠点なんて無いように思えた完璧なプロポーションをしていた。女の子が憧れるものを全て備えていた白く充実した肉体、やさしげに繁った飴色のくさむら。

 あんなものを目の前にしたら大抵の男の子は冷静ではいられなくなってしまうハズ、きっと恐れ多くてどうしていいかわからなくなったりするんじゃないかしら? あるいは、どこまでも禁忌の背徳の行為にのめり込むかのどちらか……。

 はたして、密森黎太郎は後者だった――。

 操祈との話で窺えたのは、少年が自身の肉体的欲求に対しては信じられないほどストイックであり続けていること。もう一年以上も交際を続けている筈なのに、体を求められないどころか愛撫のお返しも拒まれているというのは、さすがに驚きだった。

 それは、彼がそれだけ女教師に魅了されていて彼女の体に強い執着があるということ以外には考えられない。そして事実、そうなのだ。

 きっと先生は自分に話してくれたこと以上に、いろんなエッチなこと、密森くんからされちゃってるんだろうな――。

 少女の妄想は漂流を続ける。

 操祈の美貌にときに屈折した陰りがよぎることがあるのは、彼女にとってエロティックな記憶のフラッシュバックがあるからなのかもしれない……。

 かわいそうな先生……本当はずっと密森くんと一緒に居たい筈なのに……でも、それが許されないなんて……。

 それだけでなく彼女はほぼ毎日、最愛の恋人と顔を合わせているのにもかかわらず、お互いにそしらぬ風を装っている。

 それが恋する女にとって、どんなに悩ましくてせつないことか。

 先生にそんな哀しい思いをさせるなんて、密森くんって、なんてワルいオトコなのっ!

 しっかり責任とって先生を幸せにしてあげてよねっ、この上もし、あの人のことを傷つけるようなことがあれば、わたしは貴男を絶対に許さないからっ! 

 授業終了を告げるチャイムが鳴った。

「はい、じゃあそこまでにして、答案用紙を後ろから前の人に送ってちょうだい」

 操祈が試験の終了を伝えた。

 後ろから伏せて送られてきた答案用紙に、密森黎太郎は自分の答案をただ重ねるだけではなく、中に紛れ込ませるように差し込んだのに気づいた唯香はちょっと小首を傾げたが、自分にも背後から答案用紙が回ってくると、そんな不審な振る舞いへの疑念もすぐに日常の中にかき消されていくのだった。

「答案は明日のホームルームで返すからぁ、みんな楽しみに待ってるんだゾっ」

 操祈はそう言い残すと答案用紙を抱えて教室を後にする。シックなグレーのスーツの背中に揺れる長い金髪にはセックスの翳など微塵も感じられないのだった。その優美な後ろ姿を憧れの眼差しで追っていた唯香に、

「テストできた――?」

 と、横から声をかけられた。篠原華琳だった。

「うん、わたしのは簡単だったから。華ちゃんは?」

「わたしもっ、授業どおりだったから楽勝っ」

 女子たちの間ですぐに自主的にテストの答え合わせが始まった。同じ問題に当たった者もいて、声の届く限りでは女子たちの中に失点は見られないようで安堵の輪が拡がる。

「先生、ああ言ってたけど、全員が満点とれるようなサービス問題だったりするんじゃないのかな?」

「それ、あるかもー、卒業するとみんなバラバラになっちゃうから、もしかすると操祈先生も口実を設けて、なるべくウチらとの親睦の機会をつくりたいのかもね」

「あーあ、もうあと七十日かぁ……」

 誰かがそう言うと、少女たちの周りにちょっとセンチメンタルな空気が兆してくるのだった。

 




夢の正夢 4
は明日以降になります


誤表記に気づき修正しました
申し訳ありませんでした


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夢の正夢 4

 教職員室に戻った操祈は、自身のデスクの上に生徒たちから回収した答案用紙を置くと、デスクワークの時にだけ使っている眼鏡を抽出しから取り出した。目許に細いシルバーフレームのレンズがかかると面差しはいっそう理知的な数学教師のものになるのだった。

 その容子を見て、

「食峰先生、またテストをなさったんですか?」

 ドアの近く、左隣の席にいた野々村凛子が興味深げにデスクの上を覗いていた。

 彼女は昨秋に国語科の講師として着任したばかりのいちばん新しいメンバーで、年齢は操祈よりも四つ年上の二十六歳だが形式上は唯一の後輩だった。中高年の教員ばかりで占められる中、同年代の同僚の存在は何かとありがたく、今ではシルバー・シニア連合国の中に生まれた少数民族互助会のようなものとなって、古株の教員には言いにくいことでも互いに融通して支え合うようになっている。

「なんだかとても難しいことをしてるんですね……それ、何のテストだったんですか?」

 凛子は畏敬の念を隠さずに、驚きに目を丸くしている。黒い髪をセミロングにした細面の楚々とした美人である。

「これは常微分方程式の計算問題なんです」

「常微分方程式ですかっ!? あの子たち、もうそんなに難しいことを……それ、塀の外(学園都市の外という意味)では高校のカリキュラムですよね?」

「そうらしいですね、一般には高等学校の二、三年次のカリキュラムだとか」

「わたしなんか微分って聞いただけで、もう怖くなってしまうのに……数学は高校に入って早々に脱落してしまったので、常微分方程式なんて、多分、習ったこともない筈ですよ、それなのに……」

「もしかすると文系では扱わないのかもしれません。でもこっちでは普通に中学の教育過程に入れてあるくらいで、実はそんなに大したことをしているわけじゃないんですよ」

 大人の女どうしになると、たとえ親しくしていても操祈も普段、生徒や友人相手にする時のようにくだけた言葉遣いではなく、やや堅苦しい物言いをするようになるのだった。

「大したことがないって……それは食峰先生が優秀だからで……」

「私、少しも優秀なんかじゃありませんから……」

「またそんなことを……」

「でも慣れていないと難解そう見えるのかもしれませんね……」

「わたし、全然、慣れていませんので」

 凛子は黒い目をクリクリさせて微笑み、操祈も笑みを返した。おっとりとした性格の凛子には、いつも癒されている。

「高等学校までで扱う数学は、子供たちが大好きなゲームなんかと同じでルールにさえ従えば誰でもできるものなんです。ただゲームと同じで上手くなるかどうかは、トレーニングの量や質もあって個人差はありますけど」

「必死で勉強していたつもりだったんですけど、それでも()いていけなかった私はどうしたら良かったんでしょう?」

「それは……たぶん、どこかで積み残しがあったのかもしれません……(つまず)きを放置すると先へ進めなくなるのが数学っていう科目の特徴なので。ちょっとしたところなんですけど……実は数学が暗記科目だってこと、知らない人って多いんですよ」

「数学が暗記科目なんですかっ!?」

「ええ、細かい約束事をしっかり覚えているかどうかが問われているんです。たとえば今日のテストなんですけど……ほとんど同じ内容の試験をしている筈なのですが、午前の三組での正答率と、今やったばかりのこの二組の成績は、パッと見ただけでもかなり違うんです。採点前ですが、たぶん後者は正答率が百パーセントに近いと思いますが、午前の組は八割にも届きませんでした」

 操祈はデスクの答案をパラパラと捲って目を落としながら言った。

「え、どうしてそんなに違いがでるんですか?」

「それは……ただ私の伝え方に問題があったんです。これは教師の責任ですね。午後のクラスでは、午前の試験結果を受けて生徒たちがどこで躓いているのかをこちらが知った上で、彼らが以前に学んだことを確認しながら進めたので……もともととてもスジの良い子供達ですから、ちょっと記憶の呼び水をさしてあげれば理解度は跳ね上がるんです」

「ああ、なるほど……」

「数学も人のやることですからミスによる失点は仕方がありません。でも積み残しによるものは、その都度、補っておかないと前には進めないんです。だいたい解った――では不十分で、百パーセント、完全に理解することを目指して一歩後退、二歩全進、積み木をするように慎重に学習を重ねていけば誰でも相当高い山にまで登れる筈なんですよ。ただ、ときには完全に理解できなくても、先に行くと解るようになるという場合もあるので、どうしても納得できないものが出てきたら、それは一時棚上げにしてそのことを忘れずに前に進む、というような態度で臨むのがいいんじゃないかと思います……凛子先生の場合も、おそらく躓きの回収が不十分で、どこで迷ったのかわからないままに進んだことで数学の山の中で遭難してしまったのかもしれませんね」

「そうですね……私みたいな凡人は、試験は結果が良ければ満足して悪ければ蓋をする、みたいなところがありましたから……そのうち数学が出来ないのは頭の悪さのせいにして嫌いになってしまったみたいです」

「それはもったいない。数学って楽しいですよ。ただ、先へ行くほど抽象性が増してくるので適性がはっきり現れる分野には違いないのですが……私も自分の力ではもう届かないなっていうのが分かったから、それで……」

 操祈は赤いペンを取って答案の採点に掛かりながら、自身の挫折と教師になった経緯のあらましを同僚の女教師に語るのだった。問題を抱えて悩ましい日々を過ごしていたハイスクール時代のことも含めて。

「お話を聞いてびっくりしました、とてもそんな風には見えなかったので……いつも判断が早くて的確で、やっぱり理系の方は違うんだなぁって、ただただ感心して見ていたので……」

「そんな……私の場合は、どこまでも自業自得でしたので……村脇先生には随分ご迷惑をおかけしていて……今もきっとそうなんですけど……」

「先生がそんなだったなんて、どなたか別の方のお話を伺っているみたいです……」

「ウソ偽りなく私のことですよ、本当にしょうがないバカ娘でしたから……でした、じゃなくて進行形にしないと国語の先生からは叱られてしまいますね」

「勘弁してください、先生にそんなことを言われたら、ますます立つ瀬がなくなってしまいます……」

 凛子も教材に使っている資料の整理をしながら、採点をしている操祈の答案にチラチラと視線を送っていた。

「でも、やっぱり数学は怖いです……それ積分記号って言うんでしたっけ? そのト音記号のようなマークが出てきただけで、アレルギー反応が起きてしまいそうで……そんな大人でも大変なことを、まだ中学生なのに易々とこなせるなんて本当に賢い子たちです……」

「そうですね、教えたことがすぐに定着するのは教師としてはやりがいがあります……ただそれは……あの子たちが“デザイナーズ”だからというのもあるのかもしれません……」

「デザイナーズ?!」

「ご存知ないですか? 遺伝的に大なり小なりの操作を加えられて生まれてきた子供たちのことを……」

「そのお話って……やっぱり本当だったんですか……」

 凛子はちょっと不安そうな顔をしていた。それは未知なるものに対する時の人の自然な反応ともいえるものだった。

「ええ……かつて、この学園都市では特区であることをいいことに様々な非合法的人体実験を行っていましたから……ヒトの配偶子や受精卵の遺伝子操作もその一つです。名目は病因となる遺伝子の修正でしたけれど実際は……最適化でした……」

「最適化――?!」

「私も知らないことがたくさんあるので、詳しいことはお話できないのですが……知性の他、各人の持てる身体能力をいっぱいに引き出せるように人為的に遺伝子のチューニングを行うことです」

 “能力”開発などの機微に触れる部分の他に、操祈にも守秘義務が課せられていて話せないことがたくさんあるのだった。成功例の背後にはそれよりも遥かに多くの失敗例があり、それらはみな“廃棄”されていた。人が人の命をまるで工業製品を扱うように軽々しく弄んでいた、というのが事件発覚以前の学園都市の裏の顔、おぞましい実態だった。

「じゃあ、あの子たちは……」

「そうです……本来備わっていた遺伝的能力を人為的に“最適化”された子供たちです。そして、そういう子供たちだけを集めて教育しているのが、この学園都市なんです……」

「それでなんですか……頭の発達度合いも発育状態も、外の中学生たちに較べると格段に違うので……背も高いし体つきも大人びていて、はじめは高校生かと思ったぐらいだったから……」

「でも精神年齢は、まだまだミドルティーン、ローティーンですよ」

「そうですね……みんな純朴というか、いい子たちですから……」

「だからあの子たちには健やかに育って欲しいんです。知育だけじゃなく豊かな情操の発育も大事で、その意味で先生のような方の指導を受けるのは、とても大切なことだと思います……凛子先生は小説を描かれているとか……素敵ですよね……人の心の世界に深く分け入って、新しい世界を生み出すなんて……」

「そんな大したことをしているのじゃなくて、私のはただの手遊(てすさ)びですから……」

「わたし、芸術家が世界を描くとき、その瞬間、本当に世界もまた生み出されているんじゃないかって、そんな気がするんですよ……」

「……?……」

「あるいは、もともとそうした世界があって、作家や芸術家の方たちはその世界の存在に誰よりも先に気がついてスケッチをして、私たちのような凡庸な人間にそのことを教えてくれているのかもしれないって……」

「……?!……」

「永遠――というのもまた、人智の及ばない神の領域なんです」

 多世界解釈に倣えば、世界は無限、これに対して人類がこれまで描いてきた物語の数は有限。故に空想された世界を含めて全てが対応する世界を持ち、包含されると看做しうる。

 あまりにも現実離れしているが、数学の語る世界はそもそも現実離れをしていた。

「なんだか、難しいお話ですね……」

「芸術は人間がなしうる永遠との真摯な対話……私は、子供たちには神秘への厳かな意識を常に持っていて欲しいと思っています。かつてここで行われていた大きな過ちは、神聖なものへの憧れや畏敬の念を失った人の奢りが招いたものなので……」

「……食峰先生は……この常盤台の生徒さんだったんでしたね……」

「ええ……」

「じゃあ……先生も……その……デザイ……」

 凛子は、はたして立ち入って良いものかと案じるように操祈の顔色を窺っていた。

 操祈はすぐに首肯した。

「……学園都市では、もうかれこれ二十年以上も前からそうしたことをしていたので……私もです……」

「だからなんですか……」

 凛子は合点がいったというように大きく頷いた。

「きっとその所為なんです……こんな姿にされてしまったのは……」

 操祈は白い両手を拡げてため息をひとつ。

「こんな姿って……先生は超が幾つもつくくらいの凄い美人さんなのに……私なんか、いいな、素敵だな、うらやましいなって思うばかりでいるので……もしできるのなら遺伝子の全取っ換えだってしたいくらいに」

 凛子が笑んで、操祈も白い歯を覗かせる。

「……人の容姿の美醜は主観的、個人的なものですから……美って数学が一番扱いづらい概念の一つでもあるんですよ……人間が美について知っていることといえばシンメトリーに関することぐらいで、これもまた一般化のできない深遠な神の領域にあるんです。もしそういうものが女にとって大切なのだとすると、私はひとりの人から必要とされるので必要十分だと思うのですが……」

 操祈がそう言うと、凛子はと胸を衝かれたように、それまで笑顔だった表情が屈折した。

「一人……ですか……」

「多くの人から認められることよりも、たった一人から求められることの方が重要なように思うんです……わたし、子供の頃は学園都市(まち)の外で暮らしていて、近所の子供たちとは見かけが違ったので、仲間外れにされたりしてずいぶん居心地の悪い思いをしていたんです……でも一人だけ、仲のいいお友達ができてからはすごく愉しくなりましたから……」

「………」

「こっちに移ってきてからは、そういう面ではだいぶ楽にはなりましたけれど……」

「でもそれは……」

 凛子は口にすべきかどうか迷っていた容子だったが、

「……たしか……食蜂先生は、お父さまがアメリカの方だと……」

「……あの人のことを……父と呼んでいいものかどうか……」

 操祈の表情が明らかに翳り、

「……すみません……立ち入ったことを聞いてしまって……」

「いえ、いいんです……もう済んだこと、昔の話なので……」

 凛子との雑談はそこで終わり、操祈は赤ペンで生徒ひとりゝゝゝの答案に丁寧に書き込みをしながら採点を進めていった。これまでのところ全員正答で、狙い通りの成果が得られていることに安堵していた。

 が、その手がふと止まる。

 デスクの置き時計に目を遣り、そして振り返って壁の掛け時計の針も確かめた。

 時刻は午後三時を廻ったところだった。刹那、迷ってから、

「いけない、図書館に行かないと……」

「今からですか?」

 凛子が怪訝そうに訊く。

「ちょっと調べたいことができたので……」

「それなら急がないと、今日は整理日なので三時四十分に閉館のはずですから」

「そうですね――」

 操祈は少し慌てて、二つ折りにした答案用紙を小脇にすると、そそくさと教職員室をを後にするのだった。

 




つまらない誤記に気がついたので修正しました

申し訳ありませんでした


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夢の正夢 5

 

“もしよければ、今日の午後三時に図書館二階、いちばん右奥のキャレルでデートをしませんか?”

 

 答案の隅に、小さな字で書かれたメモを読んだ途端、操祈の心は揺れていた。刹那、

 レイくんに逢えるっ――!

 と、希望に胸が膨らむと同時に、

 学校でデートをするなんて……。

 との不安な気持ちとが交錯する。けれども結局、図書館へ足を向ける方を選んでしまった。

 あの子、いったいどういうつもりなのよぉ……。

 もちろんテストは満点、二問ともそつなく正答が記されている。

 でも、答案にデートの誘いを忍ばせてくるなんて……。

 だんだん行動が大胆になってきていた。

 交際を始めたばかりのころは、月に一度、学園都市の外でこっそりとひと目を忍んで逢うのがせいぜいだったのに……。

 それさえ、誰にも怪しまれることのないように(学園都市)の外に出る“チェックアウト”の時から偶然を装えるように綿密にスケジュールの調整をし、たとえ街の外であっても、至るところに配置されている監視カメラをかいくぐり、けっして二人の線が繋がらないように、少年は幾つもの巧妙なトリックを駆使していたのだった。意思の疎通も、ネットの掲示板を使ったレイからの一方通行のアナグラム連絡に限られていた。

 たった小半刻足らずの時間を捻出するために知恵を絞り、虎の尾を踏むような冒険を重ねていたのだ。

 デートの中身にしても、そう――。

 そのころのいとなみは、いま自分たちがしていることを思えば、子供同士のするような控えめでたどたどしい拙いセックスだった……。

 操祈自身にしても、少年の前で服を脱いで裸になること自体が冒険だったのだ。

 それが今は――。

 図書館の正面出入り口のカードリーダーに自身のIDカードを差し込んでドアを開き、館内に入る。カウンター前のなだらかなスロープを上がっていると、貸出受付に居た女子生徒から

「先生、本日は図書整理日なので、閉館時間まであと三十分です」と、注意を促され、笑顔で応じた。

「ええわかってるわ、ちょっと調べ物をするだけよ」

 その言葉通りに(はや)る気持ちを抑えて、まずは一階の開架書棚から度々使っている数学要覧を手にして、それからホールの吹き抜けの階段を上っていった。

 期待半分、不安も半分で。

 閉館時間が近いこともあって、閲覧室に居る利用者の数は普段よりもかなり少なく、館内全体がいつもとくらべると閑散としている。二階のキャレルも、使用中でアコーディオンドアが閉じられているのは半分ほどで、残りの幾つかはドアが開けっぱなしになっていてガラス窓に面して置かれたデスクが見えている。

 レイのメモ書きにあった右手奥のキャレルのドアも開け放たれたままの空室のようで、操祈は長い回り廊下を進みながら約束の場所に近づくにつれて、

 やっぱり、もう帰っちゃったのかなぁ――と、安堵とも落胆ともつかない気持ちになってくるのだった。

 時間を十分以上も過ぎてしまってはデートをすっぽかされたと思われても仕方がなかった。

 ただそれでも、せっかく足を運んだ以上はテストの採点の続きでもしようと、空室だった件のキャレルに入ると木製デスクの上に要覧と答案用紙の束を置き、クリーム色の厚手の布で出来たアコーディオンドアを閉める。

 と――。

 不意に背後に人の気配を感じたのだ。振り返ると、机の下の影になっていた部分から、レイが今にも這い出そうとしていた。

 驚きに思わず声を上げそうになるのを、少年は床で唇に人差し指を当てて、首を振って制している。

 レイくん、やっぱり来ていたんだっ――!

 今度は嬉しさ半分、気がかりが半分。

 立ち上がった少年はニッコリすると“ちょっと待って下さいね”とでも言うように無言で人差し指を立てている。操祈の見ている前でポケットから大きめの衛生ナプキンの入ったパックを取り出すとブレザーを脱いで、長袖のワイシャツの両腕の袖まくりをして、ナプキンのビニールを破った。そして中にあった厚手の不織布で顔と手を丁寧に拭いはじめたのだ。

 それがどんなことを意味しているかを解っている操祈はたちまち頬を朱に染めて、つぶらな瞳を伏せて視線を床に落とすのだった。長い睫毛に憂いの翳が差してくる。

 一畳ほどの狭いキャレルの中をアルコールの香りがほのかに漂うようになっていった。

 両手を清めて用意が整うと、少年は励ますような柔らかい笑みで、ゆったり腕をひろげて操祈を招いた。彼女も半歩前に進み出て静かに身をゆだねる。逢いたかった――という思いをのせて少年の背中に腕を回していった。言葉にできない分、互いにひしと体を寄せ合って温もりを伝えあう。

 男の子の日向っぽいにおいが懐かしくて、胸にきゅんと迫るのだ。

 感情のこもったアイコンタクトからの口づけ。音をさせないように唇を重ねるだけの静かな接吻。少年が彼女の背中を撫でる手の動きも、衣擦れの音を立てないように指先でくすぐるようにしている。

 少し前までは自分の方から身を屈めていたのが、今は操祈が少し顔を前に傾けるだけでキスができるように変わっていた。

 この一年でずいぶん背が伸びたと思う。それが頼もしくもあり、ちょっぴり寂しくもあった。この姿のレイに逢えるのは今しかない――そう思うと、ずっと傍にいて片時も目を離さずに見続けていたくなった。そして自分が通り過ぎていく青春の傍観者になっているようで切なくなってくる。

 急に目頭が熱くなってきて鼻をスンっと鳴らせた。そんな操祈を間近で不思議そうにして見守るレイのやさしげな眼差しは、大丈夫ですよ、と言っているよう。顔を寄せてきて、ニットの胸のふくよかな谷間に顔を埋めると、目を閉じてうっとりとした容子になってにおいを嗅ぎはじめるのだった。セーターの上から乳先を探られて、賛美のボディキスが贈られて、くすぐったくも甘い刺激に操祈も目を閉じた。

 それはあきらかに性的なトーンを帯びた振る舞いには違いない、けれども、

 これぐらいなら許されるわよね――。

 と、されるままになっていたのだが……やっぱりそれだけでは済ませてはもらえないようなのだった。

 少年はズボンのポケットの中から折りたたまれた白い紙を取り出すと、それを操祈に手渡したのだ。怪訝そうにしていると、手振りで紙片を開くようにと言っている。

 促されるままに拡げる、と、途端、驚きに目を瞠った。

 そこにはレイの手によるものらしい鉛筆画が描かれていたのだ。それも、思わずギョッとするようなエロティックな図柄の男女の交歓図が。

 すぐに自分がモデルだとわかる、明るい髪色をした女が辱めに頬を染めて、服を着たままデスクの上で四つん這いにされていた。一方、目元だけを省略されてのっぺらぼうのように描かれた男の子は、女のスカートを背中まで捲り返し、肌着もずり下ろして剥き出しになった裸のお尻を前に、そこを拡げて覗き込むようにしながら嬉しそうに微笑んでいる。少年も頬を赤らめていて興奮が伝わってくるのだった。

 どうやらそれをしよう、ということらしい、ベッドの上では度々求められたその体位を。

 女にとっては屈辱的で、抵抗感のもっとも強いもののひとつ。そんな閨での秘め事を、よもや求められようとは……。

 本気なの――?

 と、目で問いかけると、

 応える代わりにイラストに、今の操祈がしているように眼鏡を描き加えて微笑む。

 少年は期待を隠さない潤んだ瞳で操祈を見上げながら、デスクを指先で小さくトントンと叩いて誘惑しているのだ。

 それが、ココに乗れ、でも、乗ってください、でもなく、乗ってくれたら嬉しいな――の、サインなのだと感じると、操祈はせつない女の算段を始めてしまうのだった。

 今の自分が、すでにぬめりを感じるほどしどけなくなっていて、きっとイヤなニオイを放っているのではないかと怯む気持ちと、甘美な蜜の思いとの間で揺れる。ここに来る前にトイレに寄ってシャワーを浴びてくれば良かったと後悔するが、今となってはもうどうすることもできなかった。

 そんな女の葛藤を見透かしたように少年は目の前でしゃがむと、いきなりスカートの中に頭を潜り込ませてきたのだ。操祈が身を守ろうとするよりも先に、少年は胸の谷間に顔を埋めた時と同じように太腿の間にも顔を埋めて、侵入を拒もうとスカートの前を抑えた操祈の両手は、逆にかえってそこに恋人を閉じ込めるかたちになってしまうのだった。

 声をあげて詰ることもできずに、そのまま肌着の上から恥臭を嗅ぎとられて、あきらめに目を閉じる。閉じ合わせていた膝がわずかに緩むと、少年はますます深く顔を寄せてくるようになるのだ。

 大胆な辱めを受けて、この子はどうしてこんなことをしたがるんだろう、と思う。

 少年からは何度も理由を聞かされていて、男の気持ちを教えられて、その都度、説き伏せられてしまうのだが、でもやっぱり恥ずかしい。

 とても親密な愛のかたちであるとわかっていても、女の本能は男の不埒な所業にいつも抗議の声をあげてしまう。だが今は言葉を封じられていてそれさえも許されなかった。何をされても赦しを与えるしかなく、そして女の受容はすぐ隣り合う感情でもある愛情へと飛躍してしまうものなのだ。

 肌着の上からも分かる恭しい接吻が落ちてきて、覚悟を決める。

 そもそも、彼女の心は図書館に足を向けた段階で既に定まっていた。ただ女には自分のための言い訳が必要なのだ。肉欲に屈したのではないという、だらしのない女なのではないという、他ならぬ自分自身を納得させる理由が。

 それをわかりやすい形で与えられれば、むしろ前のめりになる本音が現れてくる。

 スカートの中から少年が現れて、その幸せそうな笑顔を見ると、操祈もはにかみながらも、もう頷くしかないのだった。そして自らデスクの上に乗ると、四つん這いになって頭を垂れて恋人に対して恭順の姿勢をとって応えてしまった。

 するとイラストにあったように、すぐにスカートが大きく捲りあげられて、潤みに貼り付いていた肌着もやすやすとずりおろされて、むき出しにされたお尻の谷間に吐息を感じるようになる。指でそこがひらかれるのが分かると、操祈はかたく目を閉ざして身にふりかかる甘い衝撃に備えるのだった。

 ここで逢ってから、ほんのわずかの間に教師と教え子の関係からもっとも親密な男と女の姿になっていた。

 頼りない蛇腹の布の向こう側では廊下を歩く女子生徒たちの話し声が聞こえ、うっかり誰かがドアに手をかけようものなら、目に映るのはお尻を丸出しにした女教師の痴態になるに違いない。

 それでも、ひとたび恋の魔法にかかった操祈にはもうどうでもよくなっていた。たとえ身を滅ぼすことになろうとも、今は、今だけは、すぐ目の前にある歓びに手を伸ばしたかった。ごちそう――を、ただ見せびらかされるだけだなんて、あんまりだった。

 ずっと欲しくて欲しくて、夢にまで見てしまうほど恋焦がれていた、その愛撫。

 恥ずかしくて、淫らで、禁忌のいとなみだと嫌悪しながらも

 可愛がられたい――!

 と、体は夜泣きを始める。

 自分を慰めるのでは到底とどかない、恋人にしかできないご褒美。

 自ら肌に触れて判る、男のやさしさと思いやり――。

 休暇中をずっと共に過ごしたことで、操祈の体には今も恋の炎が消え残り、ずっと内に秘めた燠火のようになっているのだった。少年が言っていたように、たっぷりと時間をかけて愛されて、自分自身でさえ知らなかった特有の器官の仕組みが、肌に散りばめられていた愛のための仕掛けが、ひとつひとつ解き放たれて、女の肉の罪深さとすばらしさとを思い知らされている。

 それはわずかなきっかけで彼女の体に火を灯し、隙あらば支配しようと機会を窺っていて、そしていったん勢いがつくと油を撒くように、一気に全身が欲望に赤く燃えあがってしまうのだ。

 そうなったとき、操祈はアルコールに逃げるか、満たされることはないと知りつつも湯船に浸かって自らを慰めるしかなくなってしまう。

 目に映る恋人の姿、しぐさ、声、におい……。

 そうしたものが鮮やかな性愛の記憶を呼び覚まし、操祈をしどけなくさせている。

 

 レイくんがいけないんだぞっ、レイくんがっ――。

 あたしをこんなにしてぇっ、

 どうしてくれるのよぉっ……。

 

 お布団の中で、そう言って駄々をこねて甘えると、

「それは光栄です、先生の体がボクのことを大好きだって言ってくれてるんだから」

 嬉しそうに諭して、もっと大切に可愛がってくれるのだ。

 敵うはずがなかった。

 どんなに辱められても、けっして女に恥をかかせるようなことはしないし、操祈の自尊心を傷つけることもない。だからいつでも安心して身をゆだねることができるのだった。

 今も、しっかり観察されて、そしてニオイをじっくりと嗅ぎとられる。いちばん差し障りのある場所にはとくに念入りに。

 デスクの上で贄となった操祈は恥ずかしさに堪えながら愛撫の時を待ちかねている。

 ああ、レイくん、早くっ……あたしっ、もうがまんできないっ――。

 いよいよせわしなくなっていく女心をよそに、少年は履いていたスニーカーを脱がしはじめた。ずり下ろされていた肌着が膝をくぐり、脛をとおって足先から奪われていく。

 椅子が引かれる音がして、少年が今は座って彼の獲物と対峙しているのだと判った。操祈の太腿がハの字を描くようにさらに大きく開かれてしまう。恋人の両手が左右の脹脛(ふくらはぎ)の上に置かれている。

 そして――。

 いきなり、柔らかくおっつける感触のものが密やかな谷間を切り分けるようになぞって、操祈はそれだけで電気に撃たれたように身震いをして達してしまいそうになった。彼女のことをどんなに大切に思っているかを教える動きで、きめ細やかな、身も心もとろけてしまうような愛情たっぷりの口づけ。探られるだけでお尻がヒクヒクと歓喜に震えてしまうのだ。

 もっとも敏感な花芯が彼の唇に捉えられた時、けっしてひどくなんてされないことを知っているそれは、くつろいでお口の中で蕾を膨らませていくのだった。舌の上で転がされて、だいじそうにいじめられる。

 いいきもち……なんて、やさしい……。

 言葉などに頼らなくても、わずかな触れ合いだけで互いの心はひとつになっていた。一瞬一瞬に、どんなに深く愛しているか、大切に思っているかを感じあえる歓び。

 そうよ……これがわたしよ……レイくんにだけは……みんなっ……。

 四つん這いになった姿のままで、操祈は全身の感覚を体の一点に集中させて、光の世界を目指して駆け上がっていく。

 固く閉じた目の奥に目指す尾根が見えてきて心の手を伸ばすのだった。

 あと、もうすこし……。

 そう思った時、体がふわりと舞い上がったかと思うと、いきなり重みを感じてクルクルと回りながら堕ちていく。

 その刹那、かろうじて残っていた意識が両手で口をきつくおさえていて

「愛してるわっ――」と、叫ぶのを押しとどめていた。

 何かが堰をきって溢れる感覚とともに宿っていた狂おしい熱が体から離れていく。

 幾度も大きなうねりに翻弄され、やがて小さな波間に漂うようになっていった。

 操祈は口を大きく開けて、荒れた息音をたてるのを避けている。潮の囁きが少しずつ遠のいていくに従って、意識のかたちが次第に元の姿に戻っていくのだった。

 お尻をしっかり抱かれていて、そこをいたわるように後始末をされているのがわかると、申し訳なさとうれしさで胸がいっぱいになる。

 ちっちゃい男の子だったのに――。

 それなのに、いつも自分を包み込むように愛情を注いでくれている。

 情の深さが身にしみて薄く開いた瞼に視界が滲んだ。瞬きをなんどか繰り返して、ピンボケしていた世界が再びゆっくりと焦点を結んでいった。

 冬枯れた木々、タイル張りの中庭の遊歩道、そこを歩く女子生徒たち……。

 中の一人が、気がついたのかこちらを見上げていた。視線が重なり、何事か、と怪訝そうな面持ちの美少女と距離を置いて向き合う。

 あの子は……。

 誰だったかしら――?

 と、ぼんやりと思ってから、それが不意に山崎碧子だと判って、一気に頭の中を覆っていた霧が晴れて清明になった。同時に、相手の顔にも俄かに理解の色が泛かんだのが見てとれた。美少女は図書館へと足の向きを変えたようである。それが窺えて、操祈は恐慌に襲われて伏せていた身を起こすのだった。

 




いつも閲覧をありがとうございます
一週間ぶりの更新です

次回 夢の正夢 6
でこの節は最後になります

次の節のタイトルは
リア充たちの夜
の予定ですが・・・
間に何かエピソードを挟むかもしれません


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夢の正夢 6

 

 逸楽の余韻も醒めやらぬうちに、背後を振り返って目だけで恋人に事態の急を告げる。

 誰か来るっ――と。

 操祈の不安をよそに、少年は心配しないでというように深く頷くのだった。その冷静な容子をみて彼女もコクンと頷いて落ち着きを取り戻した。万事について周到な少年には、きっと何か考えがあることだろうと信じることができるからだった。

 どうするつもりなのぉ――?

 大丈夫ですよ、心配いりません――。

 目と目を合わせるだけで気持ちが通い合う。

 操祈は後ずさってデスクから這い降りながら、少年が手際よくナプキンで顔を拭っているのがわかると、彼女もスーツのポケットの中からティッシュを何枚か取り出して、恋人が見ている前で大胆にプリーツスカートの前を持ち上げて開いた股間にあてるのだった。いつもならそのような、みっともないことはとてもできなかったが、今だけは気にしてはいられなかった。

 気働きのある少年は、そんな彼女の胸の裡を察したように腰のくびれからお尻にかけてやさしく撫でてねぎらいながら、感謝の思いを伝えてくる。ベッドでは愛し合った後は身を寄せ合って、睦言をささやきかけて操祈の心に寄り添おうとしてくれるのだったが、むろんそうした時間もないのだった。代わりに、しどけない姿をさらして頼りない心持ちでいる女を、憧れのこもった見上げるような視線で迎えて励ましてくれている。

 こんな眼差しを向けられたら普通でも気恥ずかしくなるのに、痴態を晒してしまった後でされると尚のこと申し訳なくなってくるはずが、どうした心の働きか、もう仕方のないこと――とも思えるようになってくるのだった。

 操祈の方でも少年のそうした思いやりを、いまでは素直に信じて受け容れられるようになっていて、どちらにしても、心の負担はずっと軽くなっていた。

 強い羞恥をいったん棚上げにして、どこか割り切ったサバサバした気分で、

 どうしたらいい――?

 と、操祈も前を向いていた。

 同じ危機に取り組もうとする意識が、二人の紐帯をさらに強くしているようである。

 口づけを交わす。

 恋人の纏う、他ならぬ自分自身の臭いのする口許に瞬間たじろぐが、少年が舌を伸ばしてきてディープキスになると、それもすぐに些細なことに思えてかまわなくなっていた。

 見つめ合って、

 でも、二人だけで居るところを見つかったら、どう言い訳するつもりなのぉ――?

 いたいけな少女のするように、また小首を傾げる。

 誰にも見咎められずに、監視カメラにも映らずにこの場を切り抜けることなんて、とても出来るとは思えなかったのだ。仮に今すぐに彼女が先にキャレルを脱したとして、その後、レイはどうするのか?

 愛されてクライマックスへ向けて駆け上っている最中だったのではっきりしないが、たしか閉館時間を告げるアナウンスは、もう既にあったような気がする――。

 だとすると、間もなく各階への見回りも始まるのだ。

 心もとなげな顔でいる操祈の前で、少年は

 ボクを信じて――と、言うように微笑みを返すと、またデスクの下に身を潜ませていった。

 そんなところに隠れてもすぐに見つかってしまうのに……。

 相手が山崎碧子であれば、目を逃れることなんかできるはずがないと思う。

 が――。

 恋人は、デスクの奥に身を隠したと思ったと同時に、フッと、かき消えるようにその姿が見えなくなったのだ。

 ――っ???

 驚く操祈の前で、少年は顔の上半分だけを覗かせていた。デスクの影に目を凝らすと、薄い膜のようなものが間にあって少年の体をすっかり隠していた。

 レイはそのシート状のものを上下に動かして、悪戯っぽい顔を出したり隠したりして操祈を唖然とさせる。

 透明化フィルム――?

 噂には耳にしたことがあったが、成功したという話までは伝わってはいなかった。知る限りでは乗り越えるべき課題がいくつもあって、開発を目指していた各企業、研究機関はなべて難航していた筈だったのだ。

 そんな最先端のアイテムを、レイはいったいどこから手に入れてきたのかしら……?

 質したいことは幾つもあったが、今はその時ではなかった。

 アコーディオンドアの向こう、外の廊下に、こちらに向かってくる足音に気づいたからだ。それははっきりとした意思を持ってまっすぐに、刻々、迫ってきていた。

 操祈も椅子に座ると体裁を整える。何事もない顔をして採点をしているふりをした。ただデスクの下では恋人の体を避けるためにだらしなく足を広げている。

 だからって、もうへんなこと、しないでよね――。

 太腿の間に少年の体を感じると、また腰のあたりがむずむずしてくるが、幸い相手も大人しく気配を殺していてくれて、操祈のほうもおかしな気持ちにはならずに済んでいた。

 足音が二人の居るキャレルの前で止まった。

「失礼しまぁす」

 ドア越しに声が響く。

「はい――」

 応じると、アコーディオンが二十センチほど開かれて少女が顔を覗かせた。二年生の図書委員だった。

「あの、先生、閉館時間ですので、ご退室をお願いいたします、申し訳ありません」

「いいえいいのよ、わかりました、遅くなってごめんなさいね、あと少しだったのでと思ったんだけど、ここで切り上げるわ」

 相手が山崎碧子ではなかったので警戒を一段階、緩めていた。きっとさっきのは自分の見間違いだったのかもしれない、夢で見たのと似たようなシチュエーションであることと、その時の印象とが重なって錯覚したのだろうと思い直していた。

 女子生徒が立ち去ると、操祈も椅子から立ち上がった。ドアが開いたままになっていたので、気にはなるがデスクの下に隠れている少年のことは努めて意識しないようにして帰り支度を整える。

 すっかりひと気のなくなった図書館の一階カウンターを通り過ぎる際に、

「あらぁ、もしかしたら、私がいちばん最後になっちゃったのぉ?」

 受付に居た女子生徒に声を掛けた。

「いえ、まだ何名か居るみたいなので大丈夫ですよ」

 少女は管理画面を確かめながら言った。

 何名か――の、中にはレイも含まれているのだろうと思って案じるが、彼のことだから大丈夫だろうと胸の中で自分に言い聞かせていた。

 透明化するアイテムもあるみたいだし……。

「そう、良かったわ――」

 操祈はわずかに後ろ髪を引かれる思いを引きずったまま、図書館を後にした。

 が、正面口を出たところで、ちょうど館内に入ろうとしていた碧子とすれ違って一瞬、ドキッとさせられる。

「あ、食蜂先生っ、こんにちわ」

 美少女は如才ない笑顔で頭を下げた。

「あら、生徒会長さん、これから?」

「先生、わたし、もう生徒会長じゃありませんよ、今は一介の女子生徒ですから」

 碧子は朗らかなあきれ顔になって言った。

「年末に選挙があったことをお忘れですか? 今の生徒会長は黒田アリスさんですので」

 操祈は夢の中でも似たような会話をしていたことを思い出していた。

「そうだったわね、ついいつものクセで……私がここに来てからはほぼずっと、あなたが生徒会長だったから……あら、図書館はもう閉館よ」

「わたし、ちょっと忘れものをしてしまったみたいで」

「珍しいわね、あなたのような何でも完璧な子がミスをするなんて」

「わたし、先生のようなパーフェクトな女の子じゃありませんから――」

 美少女は笑顔で言うが、その言葉の響きの中にかすかな棘を感じて操祈の心がチクっとする。

「それより先生こそ、さっきはどうされていたんですか?」

「え……?!」

「机の上に乗ったりして――」

「――!――」

 やっぱり、気がついていたんだ――と、察して、頭をフル回転させるが、とっさに理由が思い当たらず、

「ちょっとペンを落としてしまって……」

 口にしてから、こんな言い訳が通じる相手ではないと思いつつ、もうそれで押し通すしか無いと覚悟を決めた。問いつめられたらすぐにボロが出てしまうが、だからといって、それがなんだというのだ――とも。

 操祈は夢の中だけではなくて現実でも、この犀利な美少女と対峙するかたちになっていた。

 そして初めて、相手に畏れ――を感じてもいたのだ。

 学園都市の有力者の独り娘にして、卓越した美貌と明晰な頭脳を誇る、学内最強のレベル2の精神系能力者に対して。

 それにひきかえ自分は何の力も持たない一介の教師で凡婦。そのうえ年甲斐もなく、オトナかわいいチェックのプリーツスカートなんかを着るような身の程知らずの痛い女教師だった。

 そればかりか、今の操祈は肌着を奪われていて、スカートの中はノーパン、股間にティッシュを当てているだけというなんとも情けない状態だったのだ。

 早くこの場を逃れたい、と思う。それを精神力でねじ伏せて、努めて平静を装いながら

「立ち話していても大丈夫? 忘れものを取りにきたんでしょ?」

「あ、そうでしたっ、すみません、それじゃあ私はこれで――」

 美少女は図書館の中へ消え、ホッとした操祈は肩の力を抜いて、あらためて自分が碧子の前で肩肘を張っていたことに気がつくのだった。

 悩ましげに広い額に手をやる。レイのことを案じて図書館を振り返った。碧子と鉢合わせをするようなことになったら……と、それを思うとまた胸が騒ぐのだ。

 イヤな夢の記憶が鮮やかに甦っていた。

 夢は夢で済んだが、現実はそうはいかない。

 レイくん――。

 胸の中で恋人の名を呼んだ。それは、不安な時に呪文のように唱える魔法の言葉なのだった。

 ほんの少し前まで必死に睦み合っていた最愛の人。

 操祈にとって自分の命よりも大切な存在になっている。

 だから――。

 その時、悪戯なつむじ風がたって、長い金髪とヒラヒラのスカートが捲られそうになって、慌てて前と後ろを抑えて庇うのだった。学内だからと外套を羽織ってこなかったことが悔やまれた。

 さりとて状況が状況なだけに小走りになるわけにもいかず、操祈は不自然にならないように気をつけながら、スカートの中からおかしな落とし物などをしないように、慎重に歩を運んで職員室のある本部校舎の方へと戻っていくのだった。

 風が吹く度に、スカートを庇いながらの女らしい仕草を目撃した男子生徒たちの心臓を、恋の機銃掃射で蜂の巣にしていることにも気がつかずに――。

 職員室に戻る前に、職員専用の化粧室に立ち寄る。

 そこで情けないことになっている部分の応急処置を済ませると、ぐっしょり濡れた花紙をトイレットペーパーを幾重にも巻いた中に包み込み、スーツのポケットに忍ばせる。

 と、指先がポケットの中にあった紙に触れて、覚えのないものだったので怪訝そうに取り出した。

 それはメモ用紙の切れ端で、そこには――。

 

“今週の土曜日の夜、先生の部屋にお邪魔してもよろしいですか? 今日の続きをしたいので……今度はしっかり可愛がりたいからっ♡♡♡”

 

 レイの筆跡のデートの申し出が記されていた。

「もう……レイくんったら……」

 声にならない声音で呟く。

 もちろん、是も非もない提案なのだった。

 




ちょっとだけ修正しました


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サイコメトラー

「飯島さん、ちょっといいかしら? わたし、中に忘れ物をしてしまったみたいなの――」

 操祈と別れた碧子は、館内に入ると図書受付カウンターにいた後輩の女子生徒に閲覧室への立ち入りの同意を取った。

 相手は碧子の姿が目に入るや掛けていた椅子から立ち上がり、恐縮した面持ちで彼女を出迎えながら言った。

「ええ、もちろんです構いません、どうぞお入り下さい、山崎かいちょ、前会長っ」

「ありがとう、すぐに済むと思うから――」

 碧子は閲覧エリアに入るとすぐに階段を上って、目指す右端の簡易キャレルに向かってまっすぐに進んでいくのだった。

 

 あの女が居たのはここ――。

 

 半開きになったアコーディオンドアをそのままに、しなやかに身を滑りこませて中へと入る。と、すぐに異臭に気がついて整った鼻梁に嫌悪のしわを作った。

 狭いキャレルの中は仄かに残るアルコールの香りに混じって、澱んだ空気の中に微かに発情した牝の臭気が潜んでいるのを感じたからだ。

 自分にも馴染みのある、そして自分とは違うニオイを。

 やっぱりあのアバズレ、こんなところで――。

 幅一メートル余り、奥行き二メートルほどの手狭な空間。正面の張り出し窓に面して横幅ぴったりのデスクが置かれ、肘掛のない座椅子があるだけの簡易なキャレル。

 美少女は椅子の背に触れて、そこに何者かの残留思念――それは操祈へと向けられた思い、すなわち操祈以外の人間が居たことを示すものだった――を感じて目を閉じた。

 さらに両手で椅子に触れ、物に残った記憶の痕跡が空間に拡散して、完全に消えてしまう前に出来る限り捉えようと意識を集中させる。

 碧子の場合、サイコメトラーとしての能力は、水系――に写し取られた思念に対しては有効に働くが、固体物に対してはあまり得意とは言えないのだった。

 今の彼女に読み取れるのは、このキャレルには操祈の他に確かに誰かがいたこと、そしてそれが男だと確信できることだった。

 というのは、感情も強ければ強いほど痕跡を残していて感じ取りやすくなるからだ。

 果たして、そこに残っていたのは、まっすぐな欲望、愛情というにはあまりにも強烈な眩いほどの情熱だった。

 つまり、

 恋――だ。

 この場に操祈に恋い焦がれた者が居たことを示していた。そして、こうした激しい感情は常に男性に特有なものなのだった。

 かわいい、大好き、大切、尊敬……。

 記憶の鋳型に残っていた思いが流れ込んでくる。その興奮と歓喜に触れ、碧子の口中にも豊かに唾液があふれてきた。そして、かすかな苦味と塩味を感じると吐きそうになって空えずきをする。ゲホゲホと咳き込みながら、ハンカチで口元を押さえて嘔吐の発作が鎮まるのを待つのだった。

 

 大した忠誠心だこと……密森黎太郎くん――。

 

 少年は、これまで碧子の手にしたあらゆる傍証から推して、操祈の恋人であることを示していた。

 彼はここに座って……。

 碧子も同じようにして椅子に座り、その時、物体にこびりついていたイメージもフラッシュバックして、ここで二人が何をしていたのかもはっきり判ったのだ。

 脳裏に描かれたのは、目の前に迫る裸の白い尻――。

 あの時、操祈はただ身を乗り出していたのではなく、やはりデスクの上に乗っていた。その状態で椅子に掛けた相手とできることは限られている。

 腰の位置が高いことからセックスをすることは不可能。だがオーラルセックスを愉しむにはほどよい加減だっただろう。それも、お尻を剥き出しにしてするような淫らな体位でのものを。

 よくもそんな恥知らずなことを――と、思う。

 食峰操祈はここで、よりにもよって、こんなカーテンのような布製のアコーディオンドアで仕切られただけの、およそ個室とも呼べない場所で教え子である男子生徒と淫らな行為に耽っていたことになる。

 その大胆さにはあらためて驚かされるのだった。

 あのセックスジャンキーのアバズレがっ――!

 碧子はデスクにも両手の掌を押し当てて、さらに思念を吸い上げようとして、 

 

 えっ!……なにっ!!!

 

 その瞬間、ここで操祈が受けていた肉体の感動の残滓が、少女の体にもどっと押し寄せてきて、火傷したかのように慌てて手を引っ込めるのだった。

 ほんの刹那のことだったが、女体の歓喜と同調してしまったようである。胸がドキドキと亢鳴っていて股間が疼き、まるで男の愛撫を待ち受けている時のようにほぐれかけている。

 

 なんなのよっ、これぇっ――!

 

 生唾をごくりと呑みくだしながら、胸の中で声を張り上げて罵る。

 よくも、よくもっ、学内でっ、アバズレ女がっ、いまいましいっ――!

 深い呼吸を何度か繰り返して、突如襲った衝動の炎をようやく抑え込むことができたのだが、それが急場凌ぎの一時的なものでしかないことも彼女には判っているのだった。

 肌着の中がじっとりとぬかるみ始めている。あえて確かめてみるまでもなく、股間がしどけなくなっていて、どうやら今夜は顕正を呼び出さないとならなくなりそうだった。

 わずかの間に女の器官が激しく揺さぶられて、そして鳴動していた。今は宥めたが、ひとたび目を覚ました欲望は、時をおくほどに嵩を増して重みを加えていき、熱を放つまではけして自由にはしてくれないものなのだ。

 そうした女体の生理を碧子は、これまでハンディキャップのように感じていて、“月のもの”を含めて、男の身体と較べると何かと負荷の多い仕様を疎ましく思う。

 だからといって性的にはマイノリティではなく、女であることの利点を抜け目なく利用もしていたが、それはあくまでも自身の肉体というものが管理しなければならないもっとも身近な資産という意味でのことであり、また他者への優越を示す上での判りやすい価値であるからなのだった。

 ゆえに、セックスを含むそれ以外の付属性質は、彼女にとってはある意味でお荷物であり、女であることの呪いでしかなかった。

 それなのに――。

 不機嫌な顔をしたままキャレルから出る。穢らわしいものから距離を置こうとするように速足になっていた。

 あの女っ……あの女はいつも、あんなことを……。

 なにより我慢できなかったのは、食峰操祈が経験したことをさらに追体験してみたい、と思っていたことだった。一瞬ではあったが、デスクに残留思念となっていた彼女のオルガスムスの鮮烈な記憶をもっと味わいたいと感じてしまっていた自分が許せなかったのだ。

 

 この私がっ、あんな女の持っているものを欲しがるなんてっ――!

 

 それは自己否定にも繋がるようなショックであり、屈辱だった。ある意味でミスコンで敗れた――順位で上回ったことが、それがただのうわべだけだったというのは、さらに彼女に屈服感を与えていた――時以上に劣等感を刺激されている。

 肩を怒らせて足速に受付前のスロープを通り過ぎようとする。

 入館した時と同じ図書委員の女子生徒から、碧子のただならぬ気配に臆したように

「会長……」

 と、声をかけられて

「ごめんなさい、見つからなかったの、他をあたってみることにするわ」

 そっけなくならないように言葉を返すのが精一杯だった。が、そのまま立ち去ろうとして、ふと足を止めた。

「館内に残っているのは私で最後?」

「はい、そうですが……」

「私がここに来てから出入りした生徒は居る?」

「会長がですか……いえ、全員のIDが退出したのを確認したのち、私以外の図書委員が館内の見回りに出たところだったので、その後は誰も出入りはしていないですが」

「間違いない? まだ、誰かトイレに居残っているとかは――?」

「いいえ、入退館はID管理をしているので、それはありえません……あの、なにか……」

「そうよね……いえ、いいの、大したことじゃないから」

 碧子は図書館の正面口を出てから、あらためて記憶を辿った。

 ここで食峰操祈と話をしている間に図書館から出てきた生徒は四名居た。いずれも女子生徒だった。中に入ってから一人、さらに受付前のスロープを上がる時にも一人の男子生徒とすれ違っている。

 だが、その男子生徒は密森黎太郎ではなかった。

 ではいったい、彼はどこに消えたのか――?

 食峰操祈が図書館から出てくる前に、既に退館していた?

 それもありえなかった。

 窓の中の操祈の姿に気づいて、あの女の不自然な容子を疑って以降、視線は常に密森黎太郎の姿を探していた筈だった。意識していようと無意識下であろうと、少年が居れば気がつかない筈はなかったのだ。

 あの場に彼が居たことは間違いない。碧子は出口を抑えて袋の鼠だった筈なのに、蓋をあけると罠の中は空っぽだった。

 なんだか狐につままれたような気分だった。

 いったい、どうやってこちらの目をかい潜ったのか……?

 

 密森くん……やっぱりあなたって、なかなか面白いわね、一度、じっくりとお話がしてみたくなったわ――。

 

 これまでは相手にこちらの動きを読まれたくなかったこともあって、密森黎太郎との接触は先送りしていたのだが、そろそろ頃合いなのかも知れなかった。

 ひとつには、先に会った操祈がなぜかこちらを恐れていて、それをおし隠そうとしていたことも気になっていた。もしも操祈が能力を取り戻しているとしたら、なぜ女子生徒の一人に過ぎない自分を意識しないとならないのか?

 

 はたして食峰操祈は、裏社会で囁かれているように本当に能力を回復しているのだろうか――?

 

 その前提こそが間違っていたとしたら……。

 ただ、正月の事例もあって軽々に判断を下すのはリスクがあった。

 安直な結論に飛びつかずに、まずは絡め手から……。

「そろそろ池に小石を投げてみるのも面白いかも知れないわね――」

 少女は独りごちると、口角を上げてほくそ笑むのだった。

 

 

 




リア充話の予定でしたが・・・


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碧子とレイ 1

「ごめんなさい、急に呼び出したりなんかして」

 部屋の主は、広々とした部屋の正面中央奥、壁際に置かれたデスクに座ったまま椅子をこちらに回して二人を迎えた。

 レイが連れてこられた理由を尋ねる前に、

「すぐに片付くからそこに掛けて待っていてくれる? なつき、悪いけど密森くんに何か飲み物をお出ししてあげて」

「あのボクは別に……」

「コーヒーでいいわね――」

 京極なつきが事務的に訊いた。少女の態度は常によそよそしくて、ニコリともせず親しみのかけらもない。

 レイは仕方なく頷くと、言われた通りに応接セットの長椅子の隅っこに浅く腰掛けるのだった。

 前副会長の京極なつきに連れられたのは女子寮の最上階の角部屋、碧子の専用個室だった。状況からいって緊張を強いられるシチュエーションには違いない。

 というのも昨日の放課後、操祈と図書館での束の間のデートを愉しんだあと、廊下ですれ違った際に碧子から

「密森くん、あなた、食峰先生のニオイがするわね――」

 と、意味深な笑顔で囁きかけられたからだった。その時は適当にやり過ごしたのだが、碧子のことだから、こうしたことになるのは覚悟をしていた。ただ、それが昨日の今日というのは些か展開が早いようにも感じる。

 いずれにしても早晩、決着をつけないとならない相手というのであれば、結局、今がその時なのかもしれないとも思って少年は肚を括っていた。

 それに碧子がどんな“持ち札――”を抑えているのかも気になっている。

 そんな混みいった裏の事情はともかく、レイは美少女の部屋について感じる男子の単純な好奇心、物珍しさもあって、あちこちにそれとなく視線を配りながら舌を巻いてもいたのだった。

 三年近くも生活を共にしながら、殆どの男子生徒にとっては女子寮エリアは敷居が高く、レイも寮内に立ち入るのは数えるほどしかなかった。侵入した途端に異物――として認識されて目に見えない排除圧がかかるような、ある種独特の空気感があって、常に緊張を強いられるのが苦手で遠巻きにしていたからだ。

 意に介さずに出入りできるのはきっと、那智陽佐雄のような女子側からすると“お客さま”に限られるのだろうと思う。少なくとも自分はそうではない。京極なつきの態度からして、その資格がないことが良く判るのだった。

 それにしても、何たる違いだろう――!

 男女同権というのが、ただのお題目に過ぎないという判りやすい現実が突きつけられている。それは常盤台が女子校だった頃の名残を今も止めているからなのだろう、かつてのお嬢様校としての伝統は女子には受け継がれていて、同じ二人部屋と言っても、男子寮は利用しなくなった教室を潰してでっちあげた急ごしらえで、それぞれが女子用の半分ほどの広さしかない上に、粗末なスチールパイプ製の二段ベッドがあるだけの雑な仕様であるのに対して、女子寮の方はただ広いだけではなく、こちらのベッドは木製の上質なもの二つが十分にスペースをとってゆったりと配置してある。おまけに床はリノリウムではなくて絨毯が敷き詰められていた。

 これだけでも待遇格差に驚くが、碧子の部屋はさらに立派なもので、リビングとベッドルームが続き部屋になっているという高級ホテルのセミスイート――少年は実物を見たことはなかったが――のような誂えなのだった。さらにはキッチンやトイレ、バスユニットまで専用のものが備えられているのだ!

 同じ三年生でありながら自分たちとの扱いの違いに驚かされるばかりだが、これも大人の事情なのだろうな、と納得するしかないのだった。

 なんと云っても、ここ学園都市では山崎の名はブランドで、碧子は特別なのだ。教師たちでさえ碧子には一目を置いて接する。

 レイに背を向けてキッチンでコーヒーをドリップしていた京極なつきは、碧子に淹れたてのコーヒーを運んでいった。

「ありがとう、なつき。それと洗面器に水を張ったものを置いておいてくれるかしら? それが済んだら後はいいわ、密森くんと二人にして」

「あ――あの、それでは……」

 なつきの懸念は少年にも理解できた。だが、実際のところ怖いのはこっちの方だ、とも思う。

「私が男子と二人だけになるのが心配?」

「いいえ、ただ……他の生徒たちの目もありますので……」

「大丈夫よ、彼が私に何かするとでも? それを私が許すとでも思うの?」

「いいえ、そのようなことは断じて」

「それならいいでしょ、彼に話を訊くだけ、少しの間のことだから……内々にあの件を確かめておきたいのよ。結果は後であなたにもちゃんとお話しするつもりだから」

 碧子は傍で(かしこま)る同級生の少女を見上げながら、一瞬、流し目になって鋭い視線をレイに送り、またなつきの方に戻っていった。

「はぁ、そういうことでしたら……」

 なつきもレイの方を振り返り、冷たい眼光で一瞥する。

 やはり自分のことが問題にされているらしかった。少年は身の置き所を失った心持ちになって長椅子の上で縮こまるしかない。

 まな板の上の鯉の気分で――。

「それより、あなたには別にお願いしたいことがあるのよ、いいかしら?」

「なんなりとお申し付けください」

 同級生というよりも、まるで主人と執事のようなやりとりだった。なつきの碧子への心酔ぶりが窺える。

「この資料を……」

 碧子はデスクの引き出しからB4サイズの大封筒を取り出すと、なつきに渡した。

「とても重要なものなんだけど、これをあなたに与っていてもらいたいの。必要なときまで……」

「そのようなことでしたら、容易いことです」

「ご覧のとおり封じてはいないわ……でも、今は中を見ないで……私があなたを信頼している証よ」

 その言葉に驚懼(きょうく)したのか、なつきの肩が細かく慄えているのが窺えた。

 碧子流の人身掌握術の一端を垣間見たように思って少年も、上手いものだ――と、感心する。

 崇拝している相手から信頼を示されて嬉しくない者などいない。ますますの忠誠を誓うようになる。下の者にあえて弱みを晒すという、こうした胆力は、上に立つものに必要な資質の一つだった。

 碧子はやはり生まれながらにリーダーの素養を備えていた。だてに一年の時から会長をしていたわけではなかった。

 託された封筒を大事そうに胸に抱えて戻ってきた京極なつきは、少年の座る応接セットのテーブルにもコーヒーのカップを置くと、隣に水を七分目ほど注いだ洗面器も配置している。

 その間、一切無言。

 わかりやすい嫌悪の感情が伝わってきて、レイはさらに肩をすくめるしかない。

「ではわたくしはこれで――」

「たのんだわよ、なつき」

 京極なつきは恭しく一礼をすると部屋から出て行き、レイは女子生徒の部屋で二人だけになるという絶対に不利なシチュエーションに追い込まれた形になっていた。

 何があろうとなかろうと、碧子がその気になれば卒業を控えたこの重大なタイミングでこちらを(ほふ)ることもできるのだ。

 もっとも、相手に“その気”があるのなら――の、話ではあるが。

 ただ、そのつもりが無くても、こうしたお膳立てに相手を引き込むのも碧子の長けたところだった。

「もうちょっとで済むからお茶でも飲んで、のんびりしていて」

 碧子は背を向けたまま、キーボードをカタカタと打ち込みながら言った。

「あの、ボクがここに招かれた理由がわからないのですが……」

「それは……きまってるでしょ……」

 気のないふりを装った声が返ってくる。

「きまってると言われても……ボクには……」

 レイもあくまでも韜晦(とうかい)で応じていた。相手が切ってくるカード次第で自分も対応を考えるつもりでいる。ここに来た以上、もうフロックで乗り切れるとは思ってはいなかった。あとは駆け引きと手の内の探り合いになる。

 そして碧子は手強い上に、精神系の能力者。さらに相手の土俵で戦うなんて分が悪すぎた。

 ただ――。

 こちらの勝利条件の設定次第では十分に渡り合えるとも思っていたのだった。

 むこうの狙いは判っていた。一方、こちらの防御ラインを彼女は知らない。これは協議を行うにあたっての重要なアドバンテージだ。

 それに、碧子がまだ操祈との関係を示す確証までは掴んではいないとの読みもあった。さもなければ昨日のようなカマをかけてくる必要もない筈だった。

 幸い、京都での失敗以降は常に事後の処理はしっかりしていて、男子トイレで何度も石鹸をつけて前髪のあたりまで良く洗っていたので、部屋に戻ってからもヒサオに何か言われるようなことにはならなかったし、操祈から奪ったナマ肌着も、予め用意しておいたビニール袋を幾重にもして包んでおいたので、よほど顔を近づけられることでもない限り誰もズボンのポケットの中にそのような宝物を秘めているとは思わないに違いなかった。

 いまそれは自身の洗濯物の中に紛れ込ませていて、部屋のロッカーの中に隠してあって、ヒサオが外泊するなど、夜、独りになれる時にはそれを取り出して、あの女神のように美しい女性のとても人間くさい一面に触れる感動に浸るつもりでいたのだ。

 秘密にじかに顔を埋めるのもすばらしいが、移り香には移り香にしかつくりえない、醸し出されて複雑に折りたたまれた重層感のある(かぐわ)しさがあって、また(こた)えられない魅力があるのだった。それがあの完璧と言ってもいい美貌にはそぐわないようでいて、実に彼女らしくも思えて愛おしくなる。

 やさしさと心根のいじらしさを感じて、男の欲望を焚きつけてやまない美しい魂の匂い、尊い命そのものともいえる芳香。

 たぶんこれからも、蜂が蜜を求めるように機会があれば操祈という(こうき)なる花の奥に身を潜り込ませて、香り高いドリップ(樹液)を求めてしまうだろうと思う。

 別れた後、すぐに(かつ)えを感じてしまうほど、少年は美しい女教師の肉体に憑かれているのだった。

 ただ、そうやって操祈との関係が密になればなるほど、必然的に周りにそれを気取られるリスクも増していく。それを踏まえた上での冒険ではあったが、たしかにこのところ少しイイ気になっていて、ガードが下がり気味であることも自覚していた。

 卒業式まであと二ヶ月半ほど――。

 常盤台を卒業し、学園都市を出てしまえば操祈との間にある障害はぐっと低くなるだろう。それまでは何とか穏便にすませたかった。

 互いの生理と向き合いながらの綱渡りを続けながら……。

 あんなにも愛くるしい女性を毎日、目の前にしていながら、触れることも可愛がることもできないというのは、思春期真っ盛りにある身にはやはり辛すぎるのだ。

 それどころか普段は視線を絡めることはおろか、言葉に思いをのせることさえ努めて避けている。

 それなのに操祈には無自覚に魅力を振りまく時があって、そんなときは体に脂汗が滲むほどの感情の奔騰に悶絶することになるのだった。

 グロスをしていない美味しい唇から紡ぎ出される心地よく胸に響く声音、サラサラと流れるような美しい金髪の清潔な香り、スーツの前から垣間見える胸の膨らみの目にも悩ましい魅力的な曲線、キュッと締まった腰のラインには牡の庇護欲をかきたてずにはおかないか弱さがあるのだった。そしてスカートの裾から覗く伸びやかな脚、かぐわしい体臭、ほのかに香る好ましい汗の匂い……。

 少年はひっそり舌なめずりをして、口の中にあふれてくる唾液をゴクリと呑みくだした。次のデートの時、明後日の夜にはきっと思い知らせてやろうと心にきめる。

 操祈にしかつくれない肌の匂いと肉の味とを求めて、時間をかけてくまなく隅々にまで探求の手を拡げていく。長い睫毛の瞳が驚きに大きく見開かれて羞らいに伏せられる時、ふだんは耳にすることのない愛らしい声で啼くのだ。汗ばんだ肌はいっそう(なまめ)いて、健気に発情のサインを示して素晴らしい肉の蜜をふるまってくれるようになる。

 それがどんなにかわいらしいか……。

 欲しい……先生のカラダが……恋しい……抱きしめたい……。

 椅子が軋む音がして、少年はふと我に返った。

 一瞬のことだったが美しい恋人のことを想って股間を滾らせてしまっている。

 作業を終えたのか碧子がデスクから立ち上がると、少年のいる応接セットの方へとやってきた。

 少年は、この時ほど相手の能力がオーラリーダーではなくて良かったと思ったことはなかった。紅音であればたちどころにこちらの劣情に気づいたであろうが、碧子はそれには気がつかない……ハズ。

「ごめんなさい、呼びつけておいて待たせるなんて」

 碧子はレイの前の肘掛け椅子に座ると、背筋をピンと伸ばして見据えてくる。碧い瞳が神秘的なまでに美しい。

 実際に、こうして対峙すると改めて山崎碧子という美少女がいかに非凡で卓越した女性であるかを意識しないわけにはいかなくなるのだった。

「どうして呼ばれたのか理由がわからないから……ボク、女子寮って苦手で……」

 畏まって応えると美少女は婉然と微笑んだ。

「まったく……」

「………」

「大したものね、そんなふうにしていると、この私でさえ密森くん、あなたが大人しくて無害な小動物のように思えてくるから……うふふっ」

「……?……」

「まぁ有害か無害かはともかく、あなたが猫っかぶりしていることは判るわ、中身が狡猾な肉食動物であることを隠しているのを」

「あの山崎さん……いったい何の話?」

 美少女は、フン、と鼻で笑うと

「その洗面器の中に手を入れてくれる?」

「たしか山崎さんはサイコメトラーだったと思うけど……」

「ええそうよ、水には人の心が良く溶け込むものなの。私の能力はそれを読むこと」

「ボクの心を覘くつもり? それってプライバシーへの介入でしょ?」

「否定はしないわ――」

「能力を軽々しく使うことはどうなのかな? 理由も明かされずに尋問をされるのは不当だし乱暴だよ。とても名会長と呼ばれた人のすることとも思えない」

「だから無理強いをするつもりはないの、あなたは今すぐ、ここから出て行くこともできるわ」

 レイは、

 それなら――と、

 言いつつも立ち上がろうとはしなかった。互いに間合いを量っている状態では、常に先に動く方が不利になるからだ。

 それに相手が次にどんなカードを開いてくるのかにも興味があった。

「やっぱり思っていた以上に食えない男ね、密森くんって」 

 珍しく苦笑いを見せた碧子は、肘掛け椅子から立ち上がるとパソコンが置かれたデスクに戻っていった。そして引き出しを開けて封筒を取り出すと、またレイの前に戻ってくる。

「これを見て――」

 少年に封筒を差し出した。

 古めかしい綴じ紐のついたA4サイズの紙封筒である。

「話はそれからよ――」

 レイは紐を解いて封筒を開くと、中にあったものを引き出した。そして驚きに目を瞠る。驚愕の表情を貼り付けたままで碧子の顔を見上げた。

「これっ……こんなの……ウソだよ……」

 激しい動揺にプリントされた写真を持つ手が戦慄えている。

 そこに写されていたのは淫らな愛撫に堪える操祈の姿なのだった。

 



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番外篇 エレクトラ

 物憂げなノックの音に応えると、部屋のドアがしずしずと押し開かれて五十絡みのメイドが視線を伏せたまま恭しく頭を下げた。

「お嬢さま……旦那さまが、お呼びでございます……」

 時刻はじきに夜の十二時になるところ。雷雲が近づいているのか、ときに窓の外が稲光りに明滅する。

「わかっているわ……」

 若い女は読みかけの本を閉じると椅子から立ち上がった。スラリとした立ち姿、長い金髪に白皙の顔が美しい。

「あの……」

 初老のメイドはまだ何か言いたげにドアの前に立ちつくしている。

「ありがとうヨハンナさん、あなたもお家にお帰りになってください。折角の長いお休みよ、旦那さまとのんびり夫婦水入らずの旅行に出かけるのもいいんじゃないかしら」

「ありがとうございます……ですが……」

 容子から、今夜これからこの屋敷で何が行われるのかを彼女も薄々感づいているのが窺えた。この家に長く仕えていれば、一族の抱える呪わしい秘密に気がついていたとしても不思議ではなかった。

「心配してくれてありがとう。でもわたしは大丈夫よ……」

 他の使用人はみな前日から休暇を取らせていて、いま広大な屋敷に居るのは自分と、このメイド長のヨハンナ、そして“父”の三人だけになっている。

 その、父――も、

 明日の朝までには居なくなる……。

「お嬢さまのせっかくのお誕生日だというのに、本当にお世話をする者が一人も居なくなってしまっても宜しいのでございますか?」

「ええ、お祝いは自分でするからいいわ。お父さまからシャンパンのボトルを与っているの。十八歳になったら栓を開けても良いってお許しがあったのよ、だからあと少ししたら開けるつもり……ひと口だけ、自分へのご褒美に乾杯っ、ねっ、とってもステキでしょっ」

 明るい声をつくって笑顔を向けた。

「はぁ、さようでございますか……」

「でもみんなが居ない一週間は、自分でお料理やお洗濯もしないといけないから、ボンヤリ浸っているわけにはいかないわよね……きっとヨハンナさんたちのご苦労がよくわかると思うわ、どんなに助けられていたかを」

「そんな、もったいないお言葉……わたくしは自宅に控えておりますので、何かございましたらいつでもお申し付け下さいませ、すぐにとんで参りますので」

「ありがとう、頼りにしているわ」

 ヨハンナを送り出し、彼女を迎えに来ていた娘の運転する車が遠く一本道の先、林の中に消えていくのを窓から見届けると、時計に目を遣って長針が十二時を回っているのを確かめた。

 十八歳――。

 それは一族に生れた女にとって特別な意味を持つ日なのだった。

 棚の中ほどに置かれた黒いボトルを手にとって、父の部屋に持って行こうかと考え、ため息をひとつ、小さくかぶりを振る。愁いをたたえた美しい貌にはいつしか諦観の微笑が生まれているのだった。

 

 

「よく来たね……」

 女が書斎のドアを開いたとき、父――アンソニー・ヴィルダーベント Jr.――は、豪奢なデスクの縁に腰をあずけてブランデーグラスを傾けていた。歳はまだ四十前、娘と同じ金色の髪を綺麗に整え、体格も見事な美丈夫である。

 日頃、子供の前では飲酒をしている姿など見せたことのなかった男が酒に手を伸ばすところを見ると、やはりいくばくかの屈折が窺えて、女は興を惹かれるのだった。

「来ないかもしれないと思っていたよ……」

「もしそうしたら、どうなさったんですか……?」

「さぁ……どうしただろうね……」

 父は娘を一瞥し、眩しさに怯んだように視線を床に這わせながら言った。

「おまえも呑むか? もう十二時を回ったから、今夜だけはいいことにしよう……」

「いいえ、結構です、お酒に逃げたくはないので……」

 最愛の父親を見つめる娘の瞳は瞋恚に燃えている。

「そうか……」

 男は、自分に言い聞かせているかのように深く首肯した。娘の言葉が刺さったのか、また視線を床に落としている。

「それで、どうすればいいのですか? お父さま……いえ、アンソニー……」

 美しい娘から詰め寄られて、男は顔にかかる前髪を物憂げにかきあげた。端正な顔には懊悩の色が、碧い瞳には逡巡が宿っているのだった。

「これは仕方のないことなのだよ……ファミリーの尊い血をまもるためには……おまえの母さんも、お祖母さまも、そしてこのわたしも通ってきた道なのだ……弟のエーダムも、去年生れたノーマンも、男の子が十六を迎えた夜には……そのときは、おまえが“導く者――”となるのかもしれない……」

「もう、そのお話はわかっています――」

「おまえは賢い子だ、そしてとても美しい……わたしの自慢の娘だよ……」

「わたしも父であるあなたを愛していました。あなたの娘であることを誇りに思っていました」

 美しい娘からの過去形での宣言は、親娘の決別を意味していた。

「………」

「明日、たとえそれが形を変えることになったとしても、その気持ちが偽りであったとは思いたくありません。さあ、命じてください、それに従うためにここに居るのですから、わたしは何をすればいいのですか?」

「ミサキ……」

 アンソニーは躊躇いを覘かせながら手を伸ばして娘を招いた。

「こっちへおいで……」

「……抱いてください……あなたの女にされる前に……もう一度、最後に娘として……」

「わかった……」

 ミサキはおずおずと近寄ると、実の父親の腕の中に倒れ込むようにして抱きつくのだった。

 




この話はもう少し先に載せるつもりだったのですが



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碧子とレイ 2

 

 取り乱した容子をみせるレイを、碧子は静かな拍手を贈って応えた。

「密森くんって役者にもなれそうね、なかなか真に迫る演技だわ。憧れていた先生に男が居ると判って、現実を受け容れられないかわいそうな男の子の顔、うふふっ」

「こんなこと……ありえない……だってあれはコラだったし……だからこれだってそうに決まってる……」

 写真の中で、操祈は大きく膨らんだスカートの前を抑えて切なげに視線を泳がせていた。修学旅行先の奈良の旅館での早朝デートを写されたものに違いなかった。

 以前に週刊誌に掲載されたものと似ていたが、画面の大半を覆っていた虫のマクロ画像が無く、操祈のほぼ全身と彼女のスカートの中に潜り込んでいる自分――スカートに隠れて灰色のズボンとスニーカーしか見えていない――が捉えられている。

「あら、先生のスカートの中でとってもイケナイことをしているのは貴男なのよ、密森くん。わたし、そのことを知っているの――」

「……そんな……ありえない……先生が、こんなことするはずがない……」

「あなたって顔に似合わず大した変態さんだったのね、ああ可笑しいっ、それがあの人の恋人だったなんて、まったくお似合いのカップルよ、うふふっ」

「……これは……きっとキミがまた何かしたんでしょ……ボクたちをからかうために……」

「あらわたし、なにもしてないわよ、だって、これはただの事実をとらえた写真だから――」

 少年が知りたかったのは、他にも画像データがあるかどうかだった。動画のようなもっと決定的なものがあれば、それこそ一巻の終わりだからだ。

 だが、訊くわけにはいかない。

「それ、どこかの低俗雑誌が扱っていたものなんかじゃないのよ――」

「……キミがどうしてこんなイタズラをするのか……ボクにはワケがわからないよ……」

「あれ以外にもマスコミの知らない写真があったというわけ」

「だから、もうあの話はとっくにカタがついているから、いまさら蒸し返しても……」

 動揺するフリをしてかみ合わない会話で応じながら、突きつけられた事実をいかに糊塗するか、少年はこの窮状を脱する道を探して知略を巡らせている。

「それは私が回収させたものなの、修学旅行で泊まったあの奈良の旅館の敷地内に落ちていた、超小型カメラに残っていたデータから吸い上げたのよ……わかるでしょ、その写真にある灰色のズボンがうちの男子の制服だってことが……写真に記録されていたログによると、去年の十月十一日、時刻は午前六時ごろのことよ……竹林の中にある朽木の残り株の前で……」

 やっぱりそうだったか――と、少年は自身の手ぬかりについて密かにほぞを噛んでいた。

 よもやとは案じてはいたものの、それこそが(かね)てからのいちばんの懸念のはずだった。

 時を経て警戒感は薄れかけていたが、もしも一組の勝俣たちの放った盗撮用カメラ――雑誌に掲載された件の写真はそれ由来に違いなかった――に“物証”が残っていて、それが誰かの手に渡って公にされれば、操祈の関わる大スキャンダルになりかねないことは以前から危惧されていたのだ。

 だからといって手を打つわけでもなく、誰も旅館周辺の徹底した捜索などやらないし、できないだろうという勝手な甘い見通しをたてて蓋をしていたのだった。

 そんな致命的とも言える証拠が、もっとも不味い相手の手に握られていた。自分たちが年末年始に浮かれている最中も、碧子は追及の手を緩めてはいなかったのだ。

 万事休すか――。

 美少女が言うように写真のログから場所と日時が判明しているのだから、それだけでも操祈に弁明の余地は殆ど残されてはいないだろう。その日の朝、彼女が男子生徒の一人と淫行に耽っていたという事実を覆すのは難しい。状況から言えば限りなくチェックメイトに近い。

 また相手をしていた男子生徒の特定も事実上なされているも同然だった。自分が早朝に部屋を抜け出したことはコースケたちを含めて既に多くの者が知っているし、そもそもわずか二十名あまりの男子の中で、毎夜のどんちゃん騒ぎの後、ようやく眠りに落ちた明け方に、わざわざ散歩に出かけようなどという奇特な振る舞いに及ぶものなど限られている。実際には恐らく自分一人だけだった。

 碧子が、“知っている”と宣告するのも当然なのだ。

 形勢はどこまでも非――。

 ただ、わからないのは、これを公にする前にわざわざ自分に示した理由だった。

 男子生徒と淫らな関係を結んでいた――という事実だけで操祈を糾弾するには十分な筈なのに、その上どうして自分などを呼びつける必要があるのか?

 無駄に手数をかけるのは碧子らしくないように思う。

 さっさと公表に踏み切らないのは何故か――?

 当然、脅迫するためだ。カードはいつでも切れるのだから、その前に得られるものは得ておこうという算段からに違いない。

 だが、それこそがこちらにとっては好都合、事態打開の付け目になるものと冷静になった。

 つまりはまだ交渉の余地があるということだ。あるいは碧子の方にもカードを切りたくても切れない何らかの事情があるのかもしれない。

 脅迫する側がそぐわない行動をとる場合にはだいたい、欲と、そして畏れ――と、その両方が絡み合っているものだからだ。

 いずれにしても取引となれば、まだ付け入る隙はあると状況を値踏みしていた。

 危機管理の際に必要なのは、常に場面に応じて温存する手と損切りの適切な見極めをすること。相手の持ち札と自分の手持ちのカードを較べて、こちらがいちばん不利な展開にならないための手立てを探る。

 時間を稼ぐことで当初のダメージから立て直した少年は、手強い相手を目の前にして、落ち着いて戦略を練られるところまで態勢を整えていた。

「きっとそうだ……そうに違いないよ……こんなのディープフェイクを使えば簡単にでっちあげられるし……」

「そう言うのなら、そこに手を入れて――」

 不毛な会話が何度か繰り返されて、痺れを切らせたのか碧子は洗面器をレイの前へと押しやった。

「写っているのがあくまでも自分じゃないって言い張るのなら、水の中に手を入れなさい」

 裏返すと碧子がまだ確証を掴むまでには至っていないということでもあった。昨日、廊下ですれ違った際にカマをかけられたこととも合わせると、画像はこれしかないという線の方が濃くなる。

 しかし、この碧子がそんなに簡単に手の内を晒すようなことを言うだろうか……?

 彼女がまだ切札を残している可能性も捨てられずにいる。

「私の能力は知っているでしょ? そしてあなたには拒めない」

「どうして……?」

「だってあなたが拒めば、私はこの写真を公表することになるからよ」

 それは嘘だ――と、即座に判断する。碧子はこの写真というカードを使って取引をしたいのだ。彼女が欲しい何かを手に入れるために。

 いったい何を――?

「その写真がボクとなんの関係があるかわからないけど、公表したければすればいいじゃない、どうせまたフェイクだってオチがつくだけだと思うし……」

「あら、そこで争うの、案外たいしたこと無いのね。わたし、密森くんのことちょっと買いかぶりすぎていたのかしら?」

 大人の女のゆとりの笑みを向けながら、少年の目の前で長い脚を組んで、スカートの中から見事な脚線美をあらわにしてみせた。

「考えてもごらんなさい、この写真がマスコミの手に渡ったときのことを……教え子を自身の欲望のために凌辱し、搾取しているとんだ破廉恥女だってことが世間に知れわたることになるのよ、そうなったらあの人はどうなると思う?」

 もちろんタダではすまないだろう。卑しい好奇をあらわに殺到するマスコミと、そのあげくには刑事罰が待っているのかもしれない。

 学園都市の女神は一夜にして、淫行に溺れる色情教師へと堕落させられる。

「きっとあの人は教師どころか人としても終わっちゃうわ、あなたはだいじな恋人が、そんなひどい目にあってもいいわけ? 女にとってセックススキャンダルほど恐ろしいものはないのよ。だって他のネタと違って、たった一発で人生が終わってしまうんだから……でしょ?」

 しかし相手が話の中でさりげなく言葉のトラップをいくつも混ぜ込んできていることで、逆に少年は確信していた。

「でもわたしなら、あなたたちを守ってあげられるのよ。好きあう同士、仲を引き裂くなんて野暮なことをしたいわけじゃないし……ねぇ密森くん、あなたは先生のことが心配じゃないの? それにこれはあなたの為でもあるのよ……この写真の男があなただとバレたら、あなただってこれまで通りの生活ができるとは思わないでしょ? なんといっても相手は学園都市の女神とまで言われている人なんだから、男の嫉妬って、女のソレなんかよりもずっと意地汚いものだし、もしかしたら身の危険だってあるかもしれない……でもわたしなら、そういうことからも一切、あなたたちを守ることができるわ」

 ここを先途とみたのか碧子は飴と鞭の両方をチラつかせてたたみかけてくる。少年は誘いに自分の心が傾くのが判ったが、それを振り払って言った。

「……本当に……先生の恋人はうちの男子で間違いないの? こんな写真ひとつでどうしてそう言い切れるのかわからないよ……そんなの信じられないから……ぜったいにありえない……」

 ここに至ってもなお抵抗するレイの反応は、美少女には思いがけないものに映ったようだった。

「あの朝、たしかにボクは先生とは旅館の庭の遊歩道ですれ違ったけど……だから余計にその写真がフェイクだって思うよ。先生はただ朝の散歩を楽しまれていただけだったから……」

 碧子の瞳が鋭さを増して少年を見据えていた。

「そう……あくまでも自分じゃないって言い張るわけね――」

 ゼロ回答をすることには、報復として碧子が写真の公表に踏み切るリスクもあったが、それをしない方に賭けてみる。どのみち証拠写真という弱みを握られている以上、通り一遍の対応をしていては無傷では済まされないことは覚悟の上だった。一方、取引を始めるにあたって指値をつり上げておくのは当然のことでもある。

「話はそれだけ――?」

 と、席から立ちあがる。あるとすれば、ここからが本当の交渉の始まりだった。

「密森くんは、それでいいの?」

 目論見が外れたのか碧子の顔にはあきらかに当惑が窺えて、少年はまずは前哨戦、賭けには勝ったようで安堵していた。

「ボクは別に隠し事なんてしてないからキミに心を読まれても平気だよ、でもやり方が気に入らないんだ。脅迫されているみたいで……そういうのって一度、屈すると際限がなくなるものだから」

「そう、わかったわ……出て行くのは勝手だけど……」

 碧子も肘掛け椅子から立ち上がると、再びパソコンのあるデスクへと足を向けながら言った。

「……でも……その前にこれを見てからにした方がいいと思うわ……」

「まだ何か……?」

 読み通り、相手が伏せていたカードの一枚を開こうとしていた。やはり切札は今の写真だけではなかった。はたして何が出てくるかと、レイの心中は不安と興味とが綯い交ぜになっている。

「こっちへ来て、密森くん……」

 少年は招かれるままに美少女の後に従った。

「ここに掛けて」

 椅子を回してレイに勧め、少年は「いいの?」と目で尋ねていた。碧子は肩を軽く竦めて配慮に応えた。

 白く美しい手が少年の目の前で優雅に動いてキーボードを叩く。動きに合わせるように纏っている体臭が匂って、少年は少しばかり罪障感を覚えながらも鼻腔を膨らませていた。上質なコロンの香りが爽やかに甘い。

「今からお見せするものは絶対に口外無用よ、と言ってもあなたが吹聴するとも思わないけど……もちろん、なつきにも見せていないわ。それどころかこんな物があることさえ、あの子には教えていないから……このまち(学園都市)で、私ともう一人の二人だけしか知らないこと……」

 指先がリターンキーを押す。

 と――。

 モニターにいきなり衝撃的なシーンが映し出されて息を呑んだ。

 開かれた長い脚を大事そうに両肩に抱いて、女の股間に顔を埋めている男の子の顔がアップになっていたのだ。曇りガラス越しの映像のように画面の全てがボヤけていたが、少年にはひとめ見てそれが自分だと判るのだった。

 女のふんわりとした飴色の草むら、わななく白い下腹部の肉。どんな深刻な事になっているのか、惨い仕置きに堪えかねた女が腕を伸ばして、少年の顔をそこから追い出そうとすると、男の手はそれを払いのけて無慈悲にも両手の自由を奪う。指と指とを交互に絡めてしっかりと握りあい、女の体を淫らな性戯から逃れられないようにしていた。

 両脚を閉じ合わせようとして果たせずに、せつなげに開かれた長い脚が描いた扇の要に、陵辱者の顔がぴったりと密着して白い肉と一体となっている。

 ここで碧子の指が画面に触れて映像を拡げた。そうすると女の全身も見えるようになるのだった。

 寝乱れたままの長い金髪、淡い桜色の乳暈のひろがりも官能的な、みごとなまでに豊かな乳房が、体が反応して波打つたびに表情を変えて、官能の淵に呑み込まれていく女の身のはかなさと哀しみとをうったえているようだった。悲嘆の声を発するように大きく開かれる口もと。

 セックスの場面で泣かされるのは、いつも弱い性である女の方なのだ。

 男の手を握る女の手にしっかりと力が込められているのが窺える。身に受ける辱めを恨み続けながら、流されまいとするように必死にしがみついている。

 愛しながらも憎み、畏れながらものめりこんで行くしかない女の運命がそこに凝縮されていた。

 食峰操祈という類い稀な女性であるからこそ、彼女の示す性愛の姿は、その一瞬一瞬が心を奪われるほどに美しかった。

 曖昧な映像には違いなかったが、他ならぬ自分たちが演じる交歓場面を初めて目の当たりにして、少年の股間は勃起している。

「なかなか感動的なシーンよね……二人がとても愛し合っているのがよくわかるわ……」

 耳元に乾いた声が囁いて、レイはごくり、と喉を鳴らしていた。

「こんなことが、まだあと何時間も続くのよ……もちろん休み休みだけど……でも彼女はどんどん凄いことをするようになるの。わたしも初めて見たときにはびっくりしたわ。だって、あのお美しくておやさしい食峰操祈先生が、あんなに恥ずかしいことをしているなんて、普段の容子からは想像もできなかったから……でも密森くん、あなたはよく知ってるわよね、だって当事者なんだから」

 




誤字等、いくつかの誤りの修正をしました

申し訳ありませんでした


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セキ

「やっぱりここに居たのかよ」

「あ、コースケくん」

「おまえんトコに行ったら部屋っ子が、キッチンに行ってるって言ってたからさ」

「どうしたの? なにかあった?」

「なにかあったもないだろ」

「これ焼き立てだけど食べる?」

 窓のない狭いキッチンスペースの中は、ファンを回していても甘く香ばしい匂いがたちこめていて、レイは既に七~八枚ほど綺麗に積み盛られたパンケーキの皿を友人に勧めた。

「お、いいのか?」

「うん、ホットケーキミックスの賞味期限が迫ってきていたので焼いちゃおうと思って。焼きあがったら部室に持って行ってみんなで食べるつもりだったから、ちょうどいいよ」

 教室棟の二階奥、男子寮エリアにある粗末な共用キッチンで、レイはフライパンを器用に操ってパンケーキを焼いていた。油をひいた黒いスチールパンの真ん中には、十五センチほどの大きさの丸いケーキ生地がいい色に焼けた面を上にして出来上がりを待っている。

「おまえ、山崎の部屋に行ったんだって?」

 パンケーキの一枚に嚙りつきながらコースケが訊いた。

「うん、いやぁ参ったよ、いろんな意味で凄い部屋だったから」

「そうか、噂には聞いていたけど、やっぱすごいのか……男子であそこに入ったことがあるのは何人もいないからなぁ」

「彼女の個室はボクらの部屋のざっと十倍ぐらいの広さはありそうだったな、教室二つ分はあるんじゃないかってくらい。キッチン、トイレばかりかバスもあるみたいだったし、なんかもう、すっごい特別室だったよ」

「まぁ、あいつはお嬢サマだからなぁ……で、どうだった?」

「どうだったって?」

「あそこに呼ばれたってことは、あいつからよほど気に入られたってことだろっ、まさか山崎からコクられたとかってことはさすがにねぇよな?」

「そんなのあるワケないじゃない」

「だが、いま女子らの間でもちょっと噂になってるみたいだからよぉ。一時間も美少女の部屋で二人っきりってなると、さすがにちょっと穏やかじゃねぇからな」

「ボク、そんなに長居してたかなぁ……?」

 レイは壁掛け時計を見あげて、時刻がじきに五時になろうとしているのを確かめて、廊下の外にも視線を転じた。外はもうすっかり日が落ちているようである。

「学園一の美少女からコクられて、ゴキゲンでパンケーキ焼いてるってんじゃねぇのかぁっ、コイツっ、スミにおけねぇヤロウだなっ」

 コースケは握りこぶしを振りあげて、殴ろうとする真似をしてみせた。

「まぁ、そんなんじゃねぇのは分かってるがよっ……オマエ、いったいナニやらかしたんだよ」

「うん……まぁ疑いは晴れたみたいだからいいんだけど……」

「疑い――?」

「収賄だって」

「なんじゃそりゃっ!?」

「ボクが生徒会の雑用をしていたのは知ってるでしょ? そのことで各部の活動費に便宜をはかって、キックバックがあったんじゃないかって疑惑が一部から持ち上がっているとかで……」

「そんなバカなことがあってたまるかよっ、だってアレはオマエが生徒会から押しつけられてやらされてたんだろ」

「メープルシロップ使う――?」

「お、あんのか、そんな小洒落たモンが」

「冷蔵庫に入れっぱなしになってるから、ちょっと出して室温に戻してからにした方が美味しいと思うけど……」

「そうだな」

 コースケは共用の冷蔵庫を開いて中を覗く。

「たしか、袖の上段の棚にあったと思うけど……」

「あったあった」

 クルーカットの精悍な少年は手にしたメープルシロップの瓶を傾けて、食べかけのパンケーキの上にひとたらしする。

「おお、うめぇっ! やっぱホットケーキには蜂蜜じゃなくてメープルシロップだよなぁ……」

「だよね……それでね、最終的に決済は生徒会がしているんだから、問題があればそこで判るはずだって言ったんだけど、どうもその時のチェックが甘かったんじゃないかって言われて……」

「ったく、とんだ言いがかりだなっ」

「そうなんだよね、ボクもそんなこと今更言われてもって思ったよ。でも確かに、来年度予算の合理化作業のはずが、かえって増額になってる部や同好会もあって、その中には将棋部もあったりしたから……」

「だって純平ンところは、あのオンボロ部室の天井の雨漏りの修繕費が盛り込まれてたんだろっ! 前から決まってた話で関係ねぇじゃんよぉ」

「別会計に全然手をつけなかったのが意図的だとか、お仲間がいるから見逃したんじゃないかって、もう、ナニがナンだか……それで元会長から直々に尋問を受けて……あの人、サイコメトラーだそうだからさ……っていうわけ」

「そいつは災難だったな、こき使われた挙句に、あらぬ嫌疑までかけられてよぉ」

「まぁ、彼女の豪華な部屋を見られたのは良かったし、憧れの美少女さまと間近で接する機会を得たので良しとするかなってことで、だからいまは機嫌をなおしてケーキを焼いてるところ」

 最終的にレイが焼き上げたパンケーキは二十枚近くにまでなっていた。

 大きめの皿の上をはみ出して二つのケーキの塔ができあがっている。

「しかし、サイコメトラーってのはヤバイぜっ、あいつの手にかかると、昨夜のズリネタまでバレちまうって話だからな」

「えっ、そうなのっ!? そいつは大変っ」

「おまえ、誰をオカズにしてんだよ、やっぱ栃織かぁ?」

「それはいくらコースケくんでもナイショっ、ねぇコースケくん、パンケーキ持って先に部室に行っててくれるかな? 釣り研でも将棋部でもどっちでもいいけど、ボク、ここの後片付けをしないとならないから、ついでにみんなにも声をかけておいてくれると助かるな」

 レイはケーキの載った皿にふわっと何枚かラップをかけながら言った。

「おう、わかった、今日はみんなウチでグダってるからっ、オマエが来るまで手をつけずに待ってるっ、だからはやく来いよっ」

「ありがとう、でもあったかいうちに食べた方が美味しいから、先に始めてもらっていても構わないよっ、あっそうだっ、シロップとバターも忘れずに持って行ってよ」

「まかしとけって、きっちり落とさずに運ぶからよっ」

 コースケはメープルシロップの瓶とバターホイップのチューブをズボンのポケットにねじ込みながら言った。

 笑顔で送り出しながらレイは友の背中に向ける表情を曇らせていく。数々の嘘が心の重荷となっているのだった。

 

 

 一時間あまり遡って、午後三時半過ぎ――。

 

 碧子は水の張った洗面器に入れていた手を抜くと、不満げな気だるい仕草になってタオルで水気を拭っていた。少女はレイの目の前で軽いトランス状態になって、水を鋳型にして写し取られた少年の心のコピーを読み取っていたのだった。

 美少女は少年と目が合うと瞼を伏せて視線をテーブルの上に落とした。

「これで納得してもらえたかな?」

「………」

「だからもう、ボクらにはこれ以上、立ち入ってもらいたくないんだ……残り二ヶ月余りを穏便に済ませたいから……」

「言いたいのはそれだけ――?」

「まぁね、他にもいろいろあるんだけど、今はそれだけで必要十分かな。キミがどんなに先生のことが目障りだと思っていたとしても、その短い間ぐらい賢く棲み分けることはできると思うんだけど……これまでのように……どうかな?」

 美少女は渋々といった容子を隠そうとはせずに小さく首肯した。

「それと、今日のこの査問の趣旨については、キミのシナリオ通りに公式にはボクの来年度予算に関する不正疑惑、ということでいいんだよね? 疑いは払拭されたわけだから、ボクはこれで――」

 レイは長椅子から立ち上がった。

「ねぇ教えてくれる、密森くん……いつからなの? あの人が力を取り戻していたのは……」

「さあ、それはボクにも判らないな……でもここ半年、一年ってことじゃないのかも……もしかすると常盤台に赴任する前から既に再覚醒されていたのかもしれないし……」

「………」

「でもこのことは絶対に口外無用の秘密だったから……だけど、今日は仕方がないか……レベル2の優秀なサイコメトラーを相手にしては隠しきれないし……だからボクは今まで、キミにはなるべく近寄らないようにしていたんだけど……」

「………」

「ボクも先生にはこのことは話さないから、山崎さんも心配しないくてもいいですよ」

「あなたは怖くないの? そんなモンスターの近くにいることが……」

「どうして? 先生はふだんは普通にすごく可愛い女の子だよ。力をふるうことについてはとても抑制的な方だし、まして他人を傷つけるようなことは決してしない人だから。ただ、危害を加えられるとなったら身を守るために必要最小限の力の行使はやむをえないと考えられるかもしれないけど……」

「………」

「そもそも先生にはキミと事を構えようという意思はないから、普通に教師として優秀な教え子の成長を期待して見守られているだけで……だから、この件はこれっきりにして、もうおしまいにして欲しい」

「あなたは自分があの人に操られていると感じたりすることはないの?」

「無いけど……でも、仮にあったとしても、それはそれで構わないんだ。ボクが先生のことをとても愛しているのは、キミにも、もう判ってもらえたと思うから……ボクは……あの人が傍にいてくれるだけでいいから……それで十分……」

「大した忠誠心ね」

 美少女は苦々しげに口の端を歪めて言った。そうすると、十代というよりもすっかり(とう)が立った風にも見えてしまうのだった。

「あんなこと、あの人の心理掌握(メンタルアウト)の能力で、させられてるのかもしれないのに……」

「あんなことって、キミがさっき見せてくれた映像でボクが先生にしていたこと? それはないな。だって自覚しているし、今もはっきり覚えていることだから……ただボクがしたいからしているだけで……オーラルプレイは男なら大好きな女の子には普通にする事だと思うよ……それにいくら強い力をもっていても、セックスの時に相手の心を支配することなんて、さすがにできないと思うんだけど……」

「………」

「本音を言えば今この瞬間も、ボクは先生の体が恋しい……あんなものを見せられたんだからすっかり興奮しちゃって……」

 唇の周りを舐めながら少年がそう言い放つと、美少女は疲れたため息を吐くのだった。

「もうわかったわよ……せいぜいエッチなプレイを楽しめばいいわっ……お似合いよっ、あの人のパートナーとしてあなたは……」

 少女が精一杯の虚勢と皮肉を込めていることが窺える。

「それはどうも……わかってもらえて嬉しいよ。それからもう一つ、さっきの映像のことを知っているというもう一人に対しても勧告、ボクらには関わらないで欲しいって、キミから伝えておいてくれないかな?」

「それは問題無いわ、そもそもあの映像も、その人からは他の誰にも見せるなと釘を刺されて提供されていたものだから……」

「それは良かった……お互いに……」

「………」

「じゃあこれで……」

 レイは美少女に背を向けると歩み去り、ドアノブに手をかけた。

「あとひとつだけ教えて、密森くん」

「なんですか――?」

 肩越しに振り返って、ひじかけ椅子の上で身を(よじ)って自分を見上げている美少女を見据える。

「昨日、あなたはどうやって図書館から抜け出したの?」

 少年の顔に理解の色が拡がっていった。

「抜け出すも何も、ボクはキミとすれ違っているんだけどね……ただキミが気がつかなかっただけで」

 記憶を辿っていた碧子の碧い瞳が驚愕に見開かれるのを見届けるとドアを引き、外の廊下へと出て行くのだった。

 ドアの外では京極なつきが待ち構えていて、瞬間、よもや盗み聴きをされていたかと身構えたが、彼女の碧子への忠誠心からみてそうした無作法をするとも思えず、

「どうやら疑いは晴れたみたいでほっとしました」

 と、何事もなかったように声をかけた。

 当然のように相手からの反応は無い。やはり彼女の関心は碧子の事だけのようである。

 なつきは許しがない限り、自分から部屋の中へ入ろうとはしなかった。それをちょっと不憫に感じて、レイは扉が閉まりきる前に部屋の中の碧子へ

「副会長が来てますよ」

 と伝える。

「あら、なつき、来てたの? ごめんなさい、入って」

 ご主人さまからのお呼びがかかると、少女は表情を一変させて部屋の中へと消え、少年の前でドアをピシャリと閉ざすのだった。

「男ひとりを女子寮の中に放置するって、いったいどんな罰ゲームなんだろうな」

 少年は肩をすくめて小さくひとりごちると、エレベーターホールへと足を向けた。

 途中、すれ違う女子生徒たちからの胡乱な輩に対するような視線が痛かったが、とりあえず碧子とのゲームでは自分が望む方向に相手をコントロールできたことで満足していた。

 何よりも心理戦序盤の干戈(かんか)で、相手のいちばん恐れていることが何であるかを掴めたことが大きかったと思う。

 操祈との関係を認めるという大きな対価は支払ったが、逆に彼女が能力者として再覚醒したことへの恐れを相手に植え付けることに成功していた。

 ただ実際のところは操祈がメンタルアウトとしての力を消失している以上、そのハッタリでどのくらい時間が稼げるかはわからなかった。

 碧子が油断のならない相手であることにはかわりがないのだ。それが今日の件ではっきり判ったのだった。

 あんな映像まで撮られていたなんて……。

 いったい誰が、どんな方法で……?

 もう先生の部屋さえもセーフティーゾーンじゃないということなのか……。

 そう考えると背中に冷たいものが走る。

「まぁ今は“セキ”に持ち込めただけでも良しとしないと……」

 エレベーターの中で少年は、両手で顔をパンパンと軽く(はた)いて、ともすれば滅入りそうになる気持ちを奮い立たせるのだった。

 



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特別エピソード  初恋と失恋と 〜初恋篇〜

 初めはほんの些細な悪ノリ、イタズラ心からだった……。

 翔馬(しょうま)がその部屋のクローゼットに身をひそめることにしたのは――。

 

 チェックインまで少し時間があったので、二つの家族はホテルのフロントで荷物をあずけると一階にあるラウンジでひと休みすることにしたのだが、子供たちはそこで与えられたジュースを飲んでしまうと母親たちに混じってのおしゃべりなどには早々に飽きてしまい、それぞれの親に対してけしてホテル敷地外には出ないという約束で宿泊施設内の散策へと出かけることにしたのだった。

 翔馬は、できればすぐにでもプールに浸かって気持ち悪く汗ばむ体を冷やしたいところだったが、啓一と明菜の双子は近くにある遊園地で遊びたいと主張し、上階からならば園内にあるアトラクションが一望できるからということで、途中からそれぞれ別れて下見をすることになったのだ。

「どうせ明後日はTDLに行くことになるのに、これだから田舎のガキどもは……」

 と、翔馬は従弟妹の嗜好をくさして一人になると、持ち前の要領の良さを発揮してフロントで宿泊者用のカードキーを拝借すると、展望テラスへと足を伸ばすことにしたのだった。

 夏期講習が終わり、夏休みも残すところあと一週間あまり。長期休暇中の宿題は早々に片付けてあるので焦ることはないが、なんといっても受験生の身、ライバルたちとの鎬を削るような日々の合間を縫っての貴重なフリータイムぐらいは勉強のことを忘れてのんびりしたかった。

 一つ年下の呑気な従弟妹(いとこ)のお守りなど、願い下げ。

 ネトゲだって我慢しているのに――。

 ディズニーランド行きにしても、千葉都民である翔馬はなにを今更と全く気乗りしなかったのだが、従弟妹のたっての希望というので応じることにしたのだ。

 森下翔馬、十二歳――。

 都内有数の進学実績を誇る名門私立小学校に通う六年生である。来春には全国一、二を争うエリート養成校への進学も確実視される学園でもトップクラスの優等生だった。

 通常の学内試験はほぼ全て満点。数万人規模の全国模試でも順位が三桁台に落ちることなどまず無く、十位以内の最優秀ランカーの常連というみごとな成績で、親族間でも一目を置かれる存在でいる。

 しかし彼は今日のこの後、またとない幸運と不幸とを同時に経験し、結果として人生に大きな軌道修正を求められることになるのだが、それもこれもたった今、従弟妹と袂を分かったことが端緒となっていた。

 人はコンピュータなどとは違って一度でも心に焼き付けてしまったものを容易に忘れ去ることなどできはしないからだ。

 ましてやそれが思春期前期ともいえる多感な時期に起きれば尚更だった。

 そんな運命の糸に自分が手繰り寄せられているなどとは夢にも思うはずもなく、翔馬は久しぶりの開放感を満喫するような軽やかな気分で昇りのエレベーターに乗ったのだった。

 屋外プールのある空中テラスは、夏休み期間中の週末ということもあって賑わいを見せていた。降り注ぐ午後の強い日差しの下、青々と湛えられた透明感のある水質が目に入ると、すぐにでも飛び込みたいという衝動に掻き立てられる。

 ジェットコースターなんかよりも、やっぱりこっちだよな――。

 適度な日焼けは冬場の風邪予防にも繋がるというし、本番に備えて今の内に健康ポイントを稼いでおくのも受験生には必要な心得だと思う。

 第一、ナマっ白い顔をしたままで新学期を迎えるというのも、いかにもただ勉強していました風で格好が悪かった。

 クラスのみんなに対しては、ゆったりと長期休暇をエンジョイしていた感を示す為にも、せめて今日ぐらいはしっかり日光浴をして肌を灼いておきたかったのだ。

 常に自分にノルマを課すことを忘れずにいる優等生にとっては、少ない好機は生かしてこそだった。

 直射日光を避けて庇の陰でビーチベッドに横たわり、肢体をさらす若い水着姿の女性たちも交じるプールサイドをひとまわりする。

 それはまだ半ズボンを穿いている子供にのみ許された特権と言ってよかった。しかしだからといって、翔馬が女たちの裸身に興味がないわけではない。むしろ親たちが想うよりも遥かに濃密なことを考えたりもしている。

 たとえば……早川奈美に対してするように――。

 彼女は翔馬のいちばんのお気に入りの若い音楽教師だった。

 まだ二十五歳――。

 清楚な雰囲気をした大人の女性で、残念なことに既婚者。それを知ったときにはどんなに心をかき乱されたことか。

 彼女が夜毎、夫となった男とセックスをしているのかと思うと、いったいどのようなことをされているのかと想像して、雄として目覚め始めた欲望がいきり勃つのだ。

 それは恋と呼べるものではなかったかもしれないが、もしいつか自分が性の手ほどきを受けることがあるならば、

 相手は早川先生であってほしい――。

 翔馬は心密かにそう願っている。

 そのときには思う存分、彼女の肉体の神秘を解き明かすのだ。

 いろいろなことをして――。

 プールサイドに居る女たちの採点をしながら、つい良からぬ想像に及んでいて、うっかり股間が固くしこってきた翔馬は、さりげなく前を庇いながらそそくさとプールを後にするのだった。

 燦々と白く眩いガーデンテラスから屋内に入ると、このままラウンジに戻るのもどうかと思い、さりとて上層に昇ってまた従弟妹と鉢合わせするのもきまりが悪く、考えたあげくに一足先に客室フロアの方へと立ち寄ってみることにした。

 エレベーターを使う代わりに非常階段を九階へと駆けあがる。

 もっとも、寄るとは云っても各客室の扉は閉められていて、ただ廊下をうろうろと歩いただけだったのだが――。

 スマートフォンで時刻を確かめて、まだ一時半前。チェックインまではあと三十分ほど。

 エレベーター脇に置かれた小さな丸テーブルに施設案内のチラシがあるのに気がついて、蛇腹に折りたたまれたパンフレットを拡げる。

 宴会場、フィットネス、式場、ショッピング、クリニック……。

 関係ない、興味ない、関係ない、行くほどのこともない、関係ない……。

 やっぱりプールが良かった。

 早く、チェックインができればいいのに――。

 諦めて一階ロビーに戻ろうかと思い始めた時、廊下の奥の方から

 ガチャっ――。

 紺の絨毯の張られた静かな床を這って音が響いたのだ。

 エレベーターホールから顔を出して、音源の方へと目を凝らす。

 すると、支度中だったのか部屋の一つから客室清掃員と思しき女性が二人、一人がワゴンを押しながら出てくると、ドアを開きっぱなしにしたままで持ち場を離れたのだった。

 おそらく宿泊者がレイトチェックアウトした後だったのだろう、次の利用者を迎える為の準備をしていたものらしい。

 翔馬は、折り良く中の容子が窺えると思って部屋の前まで来て、おやおや、とばかりに相好をくずした。

 扉のプレートが912、とあって、それはフロントで耳にした啓一たちの家族が泊まることになっていた部屋番号だったからだ。

 それならいちばん乗りして、後からやってきた双子を驚かしてやるのも面白いのではないか――?

 ちょっとした悪ふざけのつもりで、清掃員の女性たちの気配が途切れたわずかの隙に室内に忍び込むや、すぐに目に留まったクローゼットの中に身を隠した。

 どうせあと三十分もすれば二時になる。彼らがチェックインするまで幾らも待つことはあるまい……。

 夏休み中の小学生の他愛もない思いつき。

 ほどなく戻ってきた客室係の一人が、部屋の最終点検を終えて出て行くとドアがカチャリとロックされる。

 どうやら見つからずに済んだようで、翔馬はクローゼットから出てくるとざっと内部を見回すのだった。

 きちんと清掃の行き届いた室内は、全体的に明るく清潔感のある意匠で統一されていた。

 開放感のある大きな窓に対して、さほど広いとは言えない客室内にはベッドが一つ、シングルサイズのものが据えられているだけである。

 ここで不審に思うべきだったのだが、啓一たちには別に補助ベッドでも用意するつもりなのだろうと、そのときは特に気にも留めなかったのだった。

 窓際に置かれた簡易デスクに椅子がひとつ、小型の冷蔵庫、ベッドの足元の壁には大画面テレビが掛けられている。

 その椅子に座ってテレビでも見ながら時間を潰そうかとも思ったが、廊下に音が漏れてしまっては興醒めとなるので、ただぼんやりと窓外に目を転じる。

 最寄駅のホームと、大通りを熱い排気を撒き散らしながら行き交う車の流れが見えている。

 ネクタイを緩めて歩くヨレたワイシャツ姿の疲れたサラリーマンの群れ……。

 見るからに暑苦しい。

 ああはなりたくないな――と、思う。

 その予備軍ともいうべき学生らしき若い男たちが、何をするでもなくガードレールに腰を乗せるなどして、道端でたむろしているのも目に入った。

 たしか、この先には書店街があるんだったっけ……。

 足を伸ばしたいとも思うが、さすがに陽が落ちてからではないと熱中症になりそうだった。

 実際、この夏は本当に暑かったのだ。

 八月も下旬になるというのに、太平洋と大陸と、それから南から張り出してきた高気圧によって幾重にも覆われた列島は、とりわけ東日本以西は熱帯の湿った暖気団がもう十日以上も居座り続けていて、連日、この時分の最高気温の記録を更新し続けていた。

 だから冷たい水が恋しい。

 今はよく冷えた麦茶を飲みながら、プールで泳ぎたい……。

 早川先生が居たらよかったのに――。

 先生だったら、いったいどんな水着姿になるんだろう……。

 休み期間中、海に出かけたりしたんだろうか……そして……そこで結婚相手の男の人と……。

 翔馬はまた、密かなアイドルの姿を想い描いて気持ちがもやもやとしてくるのだった。 

 喉が乾いた――。

 リネンのカーテン越しとはいえ白く薄い生地を透かして日差しは強く、気がつくと肌がジリジリと灼けつくような感じになっている。

 腕だけを焼くわけにはいかないよな――。

 さすがにもう四十度まで上がることはないだろうが、炎天下の外気はおそらく三十八度を超えているだろう、窓際に長く居ると、たとえエアコンの効いた屋内ではあってもアスファルトと鉄筋コンクリート、ビル群のガラス窓からの照り返しを受けて、うっかりすると頭がボーッとしてしまいそうになってくる。

 時刻を確かめると二時二十分。

 遅いな、いったい何やってるんだろ……あいつら……。

 スマホをチェックして特に連絡が無いことを確認すると、念のためにサイレントモードにしておくことにした。

 今更、コンビニにペットボトルのお茶を買いに行くわけにもいかず、仕方なく備え付けの冷蔵庫から飲み物を拝借しようかと思った時、不意にカチャリ、とドアのロックが解錠される音がして、翔馬は慌ててまたクローゼットの中に隠れるのだった。

 ルーバードアの羽根板の隙間から外の容子を窺いつつ、息を殺して飛び出すタイミングを待つ。

 ドアが開いて、スッスッスッと、軽やかな足取りが近づいてきた……。

 啓一たちであれば、もっと愚かしく賑やかに飛び込んでくるとばかり思っていたのに、その浮かれる背後を突けば更に効果甚大だと目論んでいたのに、ちょっと拍子抜けするような雰囲気。

 双子たちが哀れっぽく悲鳴をあげて腰を抜かすところを頭の中で何度もシミュレーションして楽しみにしていたのだ。

 が――。

 視界に入ってきたのはそんな予想に反して若い女なのだった。それも目を疑うくらいの美しい女性。

 長い金髪がサラサラと滝のようにアイボリーのサマースーツの背中に流れている。とても華やかな美貌、にもかかわらず濃いサングラスを外すと瞳と眉とが喩えようもないくらい優しげで、その一瞬で彼は恋に堕ちてしまっていた。

 こんなにも美しい女の人がこの世に居ることが信じられなかった。それも自分の眼の前に。

 もしかすると既に熱中症になった頭が作り出した幻想なのかもしれない――。

 そう想わずにはいられないほど、女の周りにはどこか非現実な空気、厳かともいえるような調和があるのだった。

 細っそり伸びやかな肢体に白色系のコーデは初々しい清潔感があって良く似合っていた。ニットの色にも負けないくらいミルクのように白い頬が、きっと暑さを感じていたのだろう仄かに桜色に染まっている。

 年齢は十代後半……高校生? それとももう女子大生になっているのだろうか?

 ロングバケーションで日本国内を旅している外国人かもしれないとも思ったが、彼女が呟いた独り言は紛れもない日本語だった。

「あっついわねぇ……東京の夏ってホント、この惑星でいちばん暑苦しいところなんじゃないかと思うわっ……暖気って普通はおとなしく上に逃げていくものなのに、この街では下の方にどんより溜まるんだからっ」

 美しい女の唇から意外にも辛辣な言葉が紡ぎ出されて逆に安心する。自分が異世界に紛れ込んでしまったわけではないと判って。

 でも、いったいどういうことなんだろう――?

 ここは啓一たちの部屋の筈なのに……。

 もしかして、部屋番号を聞き間違えてしまったのだろうか?

 だとすると、今ここに隠れているというのは、とても拙い事になるのではないか……?

 やっと現実に立ち戻って、この不安定な状況から脱する方法を考え始めるのだった。

 けれども――。

 女が無造作にスーツを脱いで椅子の背に掛けると、その仕草を目の当たりにして、たちまちギョッとして凝固してしまうのだった。

 ただ胸だけをドキドキと高鳴らせている。

 本来ならクローゼットを開けられて、そこに居るのを見つかることを第一に案じるべきだったが、翔馬はそれよりも露わになった美女の無防備な姿の方に目と心を奪われていて、自分の置かれている場所も危うい立ち位置のことも、その刹那、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 それほど衝撃的な光景だった。

 女の身に着けていた純白ニットのノースリーブは胸のラインをくっきりと浮き上がらせていて、スーツを纏っていた時の細身の印象からの振れ幅が余りにも突然なのだった。

 ジューシーなメロンほどもあろうかという二つの胸の膨らみの豊かさと、骨細な感じの二の腕とのコントラストが悩ましく、ひき締まったくびれの脆さが少女の名残をとどめている分、官能的なボディラインの魅力をいっそう際立たせているようだった。

 何より、露わにされた白い腕が眩しい、眩しすぎた。

 翔馬は、目にしてはいけないものを見てしまっている気分に陥りながら、もう視線を逸らせずにいる。

 少し腕を上げてくれたら、腋の下だって見えるのに……。

 その願いが届いたのか、彼女が髪をかきあげて半月型をした秘密のくぼみがチラリと見えると、思わずゴクリと生唾を呑み込んでいた。

 凄い……。

 突如、目の前に現れた、女神さま――に比べれば、今しがたプールサイドに身を長らえて居た女たちは、さながら現代アート、独りよがりなアブストラクトに過ぎなかった。

 あの早川先生だって……。

 早川奈美は彼にとって人生最初のオナペットと言えるほど特別な存在だった筈なのだが、それすらもあっさりと上書きされてしまった瞬間だった。

 新たな神話のヒロインとなった彼女が、目の前にあるベッドの縁に浅く腰をおろして物憂げな視線を床に落としながら

「どうしようかな……」

 涼しげな愛らしい声音でひとりごちて、自然、翔馬は耳をそばだてる。

「シャワーを浴びる時間があればいいんだけど……でも……あの子、鍵を持っていないから……」

 あの子――!?

 家族か友達でも待っているのだろうか?

「困ったなぁ……汗、いっぱいかいちゃったのに……」

 幼い雄性を目覚めさせずにはおかないようなことを小さな声で呟いていた。

 長い睫毛が伏し目になると悩ましげな翳が差してきて、愛らしい美貌にぐっとオトナの女の艶が濃くなってくるのだった。

 もしも同性であれば、敏感に性の匂いを感じとるかもしれない表情。

 けれども翔馬には、その微妙な変化を感じて胸を騒がせることはあっても、意味まで察することなど到底できるはずもない。

 ただ片時も目を離せず、食い入るように見つめている。

 スーツとお揃いのアイボリーのスカートの中から伸びる長い足、パステルピンクのストライプの入ったスニーカーの足元と折り返した白い靴下が、初心な魅力を醸し出しているよう。

 なんてきれいな女の人なんだろう……それにすごく可愛い……それなのに、あんなにおっぱいが大きいなんて!

 彼女はなおしばらく迷っている容子でいたが、腕時計に目をやり、やがて心を決めたのか翔馬の見ている目の前でいきなりタートルネックを脱ぎ始めるのだった。見事な肌着姿になって彼を狂喜させる。

 カップサイズは日本人には滅多にみられない大きさ、それにも関わらず少しも逞しさ、猛々しさを感じさせないのだ。むしろ馴染みのあるクラスメートの少女たちにも通じるような甘やかなはかなさ、繊細さ純粋さを宿しているようで、それがいっそう好ましいのだった。

 翔馬は、自分の体がいま、どれほど感動しているのかさえも忘れて、彼女の一挙一動に眼を離せずに居る。

 きっとシャワーを浴びるつもりなんだっ。それなら、みんな脱いで裸になるところだって見られるかもしれないっ!

 思いがけない幸運への期待に幼い欲情は萌えあがっている。

 だがブラを外そうと背中に手を回した時、トントン、と軽いノックの音が響いて、彼女はハッと顔を上げるとニットシャツで胸を庇いながらドアの方へと行ってしまうのだった。

 肝心のところで妨げられて、おあずけを食らったような気分でいた翔馬の耳にも、

 

 トントン、トントントン、トントントントン……トン。

 

 リズミカルなノックの音が聞こえている。

 やがて扉が開かれて、別の足音が室内に入ってくるのがわかって

 いったい誰だよ、邪魔っけだな――と、思う間もなく、視界に自分とさして歳の違わないような男の子が一人やってきたので

 ???!!――と、

 ワケが分からなくなった。

 一瞬、姉弟なのかとも思ったが、少年の方は純系種で美貌の女性と似ているとは思えない。また友人というには少し歳が離れすぎているようだ。

 ただ女の方が依然としてニットで前を庇うという無防備な状態で居続けることからも、近しい間柄であることは分かるのだった。

 どういう関係なんだろう、とかすかな嫉妬を覚えながら二人の容子を窺っている。

「シャワーを浴びられるところだったんですか?」

「う、うん……でも入る前で良かったわ」

「シャワーなんていいのに――」

「そういうこと言わないでちょうだい、デリカシーのない男の子は嫌われちゃうんだゾっ」

「ボク、デリカシー無いのかな?」

「ええ――」

 くだけた会話を続けながらも女ははにかんだように頬を染めていて、何かがおかしい、変だ、と翔馬は感じ始めていた。

「先生は何時ごろチェックインされたんですか?」

 先生――?!

 そうか、この女の人はどこかの学校の先生なんだ……ということは、コイツは生徒……でもそれにしては慣れすぎているような……。

 翔馬にはますますワケが分からなくなってくる。

「二時をまわってすぐよ、さっき来たばかり……あなたは?」

「ボクはラーニングユースだから十時にチェックインできたんですけど、実際に入ったのはお昼を摂ったあとだったから、一時を過ぎていたたかな……チェックアウトが五時なので、四時過ぎ、遅くても四時半前にはここを出ないと――」

「そう……」

「大丈夫ですよ、まだ二時間近くもありますから」

「何が大丈夫なのよぉ」

「それはもういろいろと」

 少年はニンマリして、女は一瞬、息を呑んだ顔つきになったが、拗ねたようにツンと頤を反らした。

「憎らしい……」

 囁くように呟く。

「だって、そんな格好で言われても……」

 少年に指摘されて、あらためて自分が半裸で居ることに気づいたように、先生――と、呼ばれた女は顔をパッと赤くして、さらに強くニットを抱きしめるようにする。そんな恥じらう仕草がいじらしかった。

「もう……エッチなんだからぁ……」

「そうですね……」

「……本当にいけない子よ……レイくんは……」

 奇妙な沈黙の中、二人は見つめ合っていた。まるで恋人同士のような距離になって……。

 クローゼットの中で独り戸惑う中、やがて二つの顔が自然に近づいていき、唇を重ねて、翔馬は激しく動揺するのだった。

 

 



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特別エピソード 熱中SHOW

 どこをどのようにして此処まで来たのか翔馬にはわからなかった。

 ふと顔を上げた時には低層階のビルが立ち並ぶ見知らぬ裏通りに居て、自分が母親との約束を破ってホテルを抜け出し、炎天下をふらふらとさまよっていたことに気がついたのだった。

 いったいどれくらい歩いていたのだろうか――?

 素肌に直に着ていた半袖のワイシャツが汗でぐっしょり濡れて身体に貼りついている。

 喉がカラカラになっていてちょっと頭が重たかった。

 記憶にあるのは、あの憎い少年が女神の肉体から欲しいものをすべて奪い去った後、部屋にひとり残された彼女がとぼとぼと寂しげに浴室へと入り、やがてシャワーの音が聞こえてきたこと。それを機にクローゼットから出て、音を立てないようにドアをそっと開けて廊下へと抜け出したところまでだった。

 そこから先の記憶は曖昧になっている。

 代わりに頭の中で何度も蘇るのは、奇蹟のように甘く起伏に富んだすばらしい裸身と、白くて柔らかな肉に対して少年がしていたこと。

 初めて見た女の人の密やかな部分――。

 あんなにも美しい女性の……。

 それはネットで垣間見たことのある映像なんかとはまるで違う、とても可憐なやさしい姿をしていた。清楚でつつましい薄桜色をした花のように……。

 けれども濃厚な検分を繰り返し受ける中、やがて粘液にまみれて蒙昧な軟体動物のような(なま)めいた蠢きを示すようになっていったのだった。

 翔馬は乾いた喉をゴクリと鳴らした。唾液なんか全然でてこなくなっていた筈が、少年がしていたことを思い出し、それと同じ行為をしている自分を想像するとまた口中豊かに溢れるように湧き出してくる。

 同時に激しい嫉妬の感情に襲われて頭がおかしくなりそうになった。

 場面の一つ一つがフラッシュバックするたびに

「いやだっ――!」

 と、悲嘆の声を張り上げて耳を塞ぎ、道端に(うずくま)りたい衝動に襲われてしまう。

 そうしないために早足になって歩き回っていた。

「……あんなヤツに……」

 二人が演じたセックスシーンの一部始終を見ていて、居たたまれなくなったのは少年が見せたキスのバリエーションの豊かさ。

 そしてなにより彼女にとっての、初めて――だったらしいこと。

 それが翔馬の心を掻き乱し、(くら)く悩ませている。

 よもやずっと年下の教え子から求められるとは夢にも思わなかったのにちがいない――。

 それが彼女の驚きと恐れの表情から読み取れたのだ。

 つつましく脚を閉じ、健気に胸をかばって身をかたくして逃れようとしていたものが、ついには何もかもあらわにされて少年の舌と唇によって丹念に(ねぶ)りとられていくという、この上なくエロティックな場面の連続を一時間以上もの間ずっと見せつけられていた。

 そして二人の別れ際、最後の接吻も舌と舌とを深く絡めあった後にもっと長く、別離を惜しむように思いのこもった口づけを交わしていたのも常ならぬやり方でなのだった。

 それを翔馬は、彼女のかぐわしい吐息が顔にかかるほどごく間近で見ていたのだ。

 女は立ち上がるとクローゼットのドアの取っ手に手をかけて体を支え、少年がしやすいように(はずか)しげに片脚を持ち上げてキラキラとした美しい毛並みを差し出していた。

 薄い羽根板のすぐ向こうにつぶらな瞳をした顔があって、長い睫毛をふるわせて、瞼に繊細な皺をつくりながら哀しげに伏せられていくのがはっきりと目に焼き付いている。

 大胆な愛撫を少年に許して、信じられないくらい美しい女性がみせる愛くるしい表情。

「愛してるわ、レイくん……」

 心からの思いをうったえて彼女も別れを惜しんでいた。敏感な体が反応して腰を落としそうになるのをこらえて、時に刺戟に反応して甘いため息を吐いて。

 許せなかった――。

 自分と同じ黒い髪をした少年、多分、歳だっていくつも違わないはず。それなのにあんなにも美しい女の人の体のすみずみまでを知り尽くせるという幸せの絶頂にいる。

 彼女の愛情と信頼をひとり勝ち得ていた。

 どうしてあんなヤツだけがそんな幸運を――?

 嫉妬はやり場のない感情の奔騰となって、やがてどす黒い憎悪を目覚めさせていく。たとえそれがどんなに理不尽なことだと判っていたとしても。

 それほどまでにあの少年の振る舞いは羨ましく、(ねた)ましく、我慢がならないものだった。

 翔馬も口づけとは、ただ単に唇にするだけのものではないということは知っている。けれども、彼女のような非の打ち所がないほどの完璧な体に対してはどんなに奔放な行為も可能で、いかなる制約もないことを思い知らされていた。

 普通なら許されないようなアブノーマルな試みも、相手次第ではごく自然な、男と女の当然のいとなみとなる。

 それを翔馬は見知らぬ少年から教えられたのだ。

 女体をあらためることに一切の妥協をするつもりのない淫らな意思と情熱、それによって無垢な彼女が少しずつ変わっていったこと、少年の色に染められていったことも辛いのだった。

 白く輝く肌の上にひとつ唇が落ちて、キスの烙印が押されるたびに瞳から年上の女としての光が失われていき、愛撫に熱を込められるほどに体から頑なさがなくなって、より柔らかく優雅にしなるようになっていったのだ。その上さらに指による刺戟までが加えられたのだから女にとってはたまらない。

 誇り高い美女が最後には他人には見せられないような姿になってトロけ堕ちていった。

 うっとりと幸せそうな顔をして彼女の匂いを嗅いでいた少年から淫らな賞賛の言葉をかけられて、顔を耳まで赤くして恥じらいながら甘える姿も初々しくて愛おしい。だがいまいましいことに彼女が思いを寄せているのは自分自身をどこまでも辱めたあの憎い少年なのだった。

 あんなこと……ぜったいに許せない……。

 でも、だからといって、どうしたらいいのかわからなかった。

 そもそも、あの人の名前さえも分からないのに……。

 悶々と気持ちが定まらぬままに道を彷徨(さまよ)い歩いて、堂々巡りのとりとめもないことを考えているうちに、急にクラッとして視界がボヤけて耳がブーンとうなるようになった。

 自身の急変ににわかに不安になって、近くにあった街路樹の影に身をあずける。ハァハァと熱い息を吐いて立ち直るのを待っていた。

 熱中症、という言葉が脳裏をよぎり、どこかで水を補給しなければと思う。ラウンジでオレンジジュースを飲んでからというもの、あれから何時間経ったのかわからなかったが、その間に一滴の水も飲んでいなかったことを思い出していた。

 冷たい麦茶が欲しかった。

 だが、コンビニに立寄ろうにも、薄く瞼を開くとまだ世界がふわふわしているようで、これはまずいことになったと再び目を閉じる。

「きみ、大丈夫かい?」

 容子を見かねたのか大人が声をかけてきた。

「大丈夫です……」

 声の主に背をむけたまま翔馬は答えた。

「でも顔が赤いよ、具合が悪そうだから、ちょっとどこかで涼ませてもらった方がいい」

 虚ろな瞳に、中年のサラリーマンと思しき男が顔を覗き込んでいるのが映った。

「大丈夫ですから……」

「ひとりなの? お父さんとかお母さんとかと、はぐれちゃったのかな?」

「……僕……大丈夫ですので……本当に大丈……」

 その時、急に世界がスーッと光を失っていったかと思うと、翔馬は足元に開いた穴に吸い込まれるような感じになるのだった。

 坊やっ――!

 慌てる男の声がして、それを最後に翔馬の意識はプツンと途切れていた。

 

 

 目を覚ました時には見慣れない天井が見えていた。

 (ひたい)に限らず体のあちこちに氷嚢が載せられていて、冷たいが火照った体には気持ちが良かった。無色透明な点滴バッグがぶら下がっているのが目に止まり、そこから伸びたチューブが左腕と繋がっていて、それでどこかの病院のベッドに横たわっているのだと分かったのだった。

「あ、気がついたのね? ちょっと待っててね、すぐにお母さん、戻ってくると思うから」

 中年の女性看護師が気がついて話しかけてくる。

「母が? あの……ここは……僕、どうしてここに……」

「道で倒れているところを親切な男の人が救急車を呼んでくれて、ここに運ばれてきたのよ」

「……ここは……?」

 看護師は宿泊するホテルからはさほど離れていない大学病院の名を言った。

「軽い熱中症だったけど、大丈夫、すぐに元気になるわ、あ、お母さんが戻ってきたみたいよ」

 看護師は振り返ると挨拶をした。

「翔馬くん、今、目を覚まして――」

 看護師と入れ替わりに、母親の森下美由紀が不安そうな顔をしたまま翔馬が横たわるベッドへと駆け寄ってくる。

 美由紀はまだ三十代の半ばを少し過ぎたばかり。出版社に勤めるキャリアウーマンで、小学校のママ友たちの間では評判の美人である。

 翔馬にとっても自慢の母だった。

「翔ちゃん、何やってるのよ、お母さんびっくりするじゃないっ」

「あ、ママ……ごめんなさい……」

「ごめんなさいじゃないわよっ……電話にも出ないし、ホテルのアナウンスにも全然反応がなくて……外には出ないって、あれほど約束したのにっ」

「電話? そうか……スマホ、サイレントモードにしてあったから気がつかなかったんだ……」

「それで事故か事件にでも巻き込まれたかもって警察に連絡しようと思っていたら、いきなりホテルの人に、いま病院から連絡がありましたって言われたものだから……もう、どんだけ心配したと思ってるのよっ!」

「ごめんなさい……」

「……でも良かったわ、お医者様のお話では軽い熱中症だから少しここで休んでいれば帰っても良いって言われて……一時はどうなるかと思ったけど……本当に良かった……」

「啓くんたちは?」

「ホテルにいるわよ。翔ちゃんがこんなことになって、遊んでるわけにはいかないでしょっ、みんなに迷惑をかけて……」

「ごめんなさい、ママ……」

 母親に心労をかけていたかと思うと胸が痛んだ。

 結局、翔馬たちがホテルに戻ってきたのは夜も更けて、普段の就寝時間を過ぎた頃になっていたのだった。

 翌日――。

 すっかり元気を取り戻した翔馬は、朝食を摂るとチェックアウトを少し遅らせることにして、それまでの時間を有効に使って双子たちとともにプールで水遊びを楽しみ、昼はスカイビュッフェでごきげんなランチをとりながら、いつものようにイニシアチブを発揮してみんなに午後からの観光の計画を披瀝(ひれき)していた。

 昨日のことは、なんだか曖昧な夢の中の出来事のようで、実際に“全てが熱中症になりかけた脳が作り出した幻覚だった”と判ってからはなにもかもが元通りだった。

 能力にも才能にも恵まれた自信に溢れた、将来を嘱望された男の子になっている。

 それというのも、

 やはり912号室は啓一たちの家族の部屋だったのだ――。

 彼らはシングルルームに簡易ベッドを持ち込んで親子三人で泊まっていた。繁忙期のホテルはほぼ満室で、スイートルームのような大きな部屋以外にはそこしか空室がなかったのだという。

 昨日、自分が隠れていたクローゼットの前には、通路を塞ぐようにして折りたたみ式のベッドが置かれていて、二時過ぎに三人がチェックインしたときから既にそのようになっていたとのことだった。

 それならば部屋番号を見間違えたのかもしれないとも思って九階のフロアーを歩いてみたのだが、両隣の部屋はツイン、その隣も、そのまた隣も広いサイズの客室で、結局シングルは九階には四つしかなく、そのうち三つは北側にあって、ホテルの南側に配置された912号室とは眺望が違っていて間違いようもなかったのだ。

 つまり、自分が部屋を間違えたわけでもなければ、誰かが部屋を間違えて使っていたというのでもなかった……。

 なんだか狐につままれたような感じではあったが、要するにそういうことだった。

 幻覚――。

 廊下をうろうろする最中も、翔馬はあの美しい人がいまにもどこかの部屋から現れるのではないかとドキドキしたのだが、幸か不幸かそうしたことにはならなかった。

 ただ自分がどうして部屋のレイアウトを事前に詳細にわたって知っていたのかは解らなかったが、おおかたホテルのパンフレットで目にした写真などから脳が勝手に幻影を作り出したのだろうと結論づけていた。

 そうだど判ればむしろ美味しい夢だったと思う。

 (なまめ)かしい淫夢、それも極上の夢だ。

 あんなに美しい女の人が滅多に居るはずないし、それが少年を相手にすごいセックスシーンを演じるなんてあまりにも不自然だし、あり得ないことだった。

 まさに夢ならではのことだと胸に落ちる。

 熱中症になったのは事実だし――。

 アイスレモンティーのグラスを傾けながら、あれがもし自分の未来だったら良いのにと思ってから、もしかすると正夢になるのかもしれないと考えて頬を緩めた。

 あんなにきれいな女の人……やさしそうで、とっても素敵だった……。

「あ、翔ちゃん、嬉しそうだぁ、なんかいいことあったんだぁ?」

 向かいの席で皿盛りにしたミニケーキを片っぱしから詰め込んでいた明菜が訊いた。

「うん、この後が楽しみだからさ、僕もスカイツリーに上るのは初めてなんだ」

「えー、そうなんだぁ、東京の子なのに変っ」

「住んでる幕張は東京じゃなくて千葉だけどね」

 この後の予定では、三時頃までにツリーに入り、それから浅草へ、可能なら徒歩で移動、浅草寺を見てから名店のすき焼きを堪能し、遅くても夜九時頃までには舞浜のホテルにチェックインする予定で居る。

「母さん、いま何時? まだ時間ある?」

 隣に居た啓一が母親の真彩に聞いた。言いながらも既に椅子から立ち上がっている。

「もうじき一時半よ、チェックアウトは済ませてあるからいいけど、あんたまだ食べる気なの?」

 谷口真彩(まあや)は美由紀の二つ歳下の妹だが、こちらは二人の子供ともども最近はすっかり肉付きが良くなっていた。二十代の初めの頃までは姉にも劣らないほどの美貌で鳴らしたらしいが、岡崎にある旧家の料亭に嫁いで以降、仕事柄、また慣れない世界に適応するためのストレスとかで、二十五キロも増量したとこぼしていた。

 だが翔馬の目には実際はもっと増しているように見える。細身の母親と較べると倍もありそうなのだった。

「だってあっちにアイスクリームがあったから」

 啓一はフロアーの隅の方を指をさして言った。肥満気味、というよりもはっきり肥満した顔で食い意地を張り、母親の了承を待っている。

「わたしもアイスクリーム食べたぁい」

 スイーツのこととなると双子の妹も主張する。

「姉さんところはまだチェックアウト済ませてないんでしょ?」

「ええ、二時というから、時間がたっぷりあると思って部屋に荷物を置いてきてしまったから」

「じゃあ、そっちを先に済ませてきたら? うちのはまだ食べるって聞かないみたいだから、ブッフェの時間制限いっぱいまでまだ暫くここに居ることにするわ。わたしもコーヒーを飲みたいし」

「そう、じゃあそうさせてもらおうかしら……」

 美由紀と翔馬が席を立つと、

「え、翔ちゃん、アイスクリーム食べないの?」

 啓一が翔馬の顔を不思議そうに窺っていた。

「うん、お腹いっぱい食べたから、もう入らないよ」

「だってデザートは別腹でしょ」

 明菜も誘うが、

「ごめんね明ちゃん、でも午後はこれからスカイツリーに上った後で浅草にも行くから、あんまりお腹をいっぱいにしちゃうと、夜のご馳走が食べられなくなっちゃうよ」

「それはダイジョブ――」

 体格のいい少女はこぶしをギュッと握って見せるのだった。

「で、何時にどこで待ち合わせする?」

 真彩が美由紀に訊いた。

「一階のラウンジ前で二時過ぎに、というのではどう?」

「いいわ――」

 母親たちが細かな段取りを確認すると、翔馬は母親の後に従って広いダイニングを後にするのだった。

 

 

 森下翔馬と美由紀の親子はホテル一階のロビー、チェックアウトカウンターで支払いを終えると、美由紀は折良く居合わせた男性のベテラン接客係に

「昨日は息子の件でお騒がせいたしました」

 深々とお辞儀をして礼を述べた、翔馬も

「勝手にカードを外に持ち出して済みませんでした」

 と言って頭をさげるのだった。

「でも何事もなくて良かったです。ホッとしました。それと翔馬くん、カードのことは全然心配しなくても大丈夫ですよ。うちのカードキーはここの敷地を出ると自動的に無効になるようになってるので外で落としても大丈夫なんです」

 カードキーのお陰で病院で身元がすぐに分かったのだから、怪我の功名と言えなくもなかった。

「やっぱりそうなんですか……それにしても僕も自分がまさか熱中症になるとは思わなくて……ちょっと本屋街を散策しようと思っただけだったんですけど……ダメですね、鍛え方が足りなくて」

「翔馬くんは、あんまり勉強ばっかりしてるからじゃないですか?」

「そんなことないんですけど、そう見えますか?」

「見えますよ、長いことこういう仕事をしていると、人を見る目は磨かれるんです。メガネのキリッとした随分と賢そうな坊ちゃんだなって」

「イヤだなあ、当たってるのはメガネをかけてることだけなのに」

 翔馬はそう嘆くと頭を掻いて笑った。

「そうですよね、お母さん?」

「え、ええ……そうだといいんですけど……」

「きれいなお母さんのお子さんって、頭の良い子が多いんだそうですよ」

「じゃあ残念、ウチは違うわね」

「またそんなご謙遜を」

 多分に職業的なものなのかもしれないが、大人たちの間で和やかな笑顔が交錯していた。

 他人から母親の美貌を褒められるのは、息子としてちょっとくすぐったいがイヤではなかった。

 その照れ笑いになった翔馬の視界の隅を白く明るい気配が動いて、ふと横を見るとどこかで見覚えのあるアイボリーのスカートが目に入ってギョッとなる。

 キャリーを引いてやってきたその人物は、少し離れたチェックインカウンターの前に立つと応対する若い女性の接客係に予約のある旨を告げているようだった。

 話していたのは正確な日本語、それも耳に心地よく響く涼しげな声で――。

 スラッとした立ち姿も麗しいブロンドの長い髪の女性。

 濃いサングラスの。

 翔馬は呆然として彼女を見つめる。

「……さまでいらっしゃいますね……お一人さまで……はい、承っております」

 接客係は女の名前を言っていたようだけれど、小さな声だったので耳を澄ましていたがよく聞き取れなかった。

 裂きイタ弁当――!? とでも言っているようにも聞こえたが、もしかするとファーストネームはニキータとかの聞き間違いで、もしもサキならミドルネームにヒルダとかリタとかの洗礼名? などが入っているのかもしれないとも思う。姓はベニトだろうか? 父親がラテン系? 彼女自身はそうは見えないが、でもどれもはっきりしなかった。

 女は手続きをしながら何か聞きたいことでもあったのか、幾つか尋ねていたようである。接客係の女性が案内図を展げて示しながら丁寧に説明していて、それに耳を傾けながら素直そうに大きく頷いていた。

 話し声も記憶にある彼女のものと同じ。柔らかくてやさしげなトーン。それを耳にしているだけでもパンツの中のものが、そわそわしく身じろぎをはじめるくらい。

「チェックインは二時ですね? じゃあ、まだ少し時間があるわね、閉まる前に先にこっちを済ませてしまおうかしら」

 金髪女性はそう言うと受付係が手で指し示した方へとキャリーを引いて向かい、翔馬のいる方へと近づいてくるのだった。

 どうしよう、とドギマギする。

 きっと他人の空似だ……そうにきまってる……。

 サングラスをした外人はみんな同じようにみえるから……。

 そう言い聞かせてはみたものの好奇心は抑えられない。

 それに彼女の周りだけ、あたかも光の屈折率が変わってでもいるかのように輪郭がくっきりとしていて背景から一人、際立っているように見えるのだ。

 そんなの、絶対に普通じゃなかった。

 そして昨日、夢の中で部屋に入ってきた時の彼女がまさにそんな冒しがたいような神聖なオーラを身に纏っていたのだ。

「どうしたの翔ちゃん?」

 母親は接客係から都内観光のパンフレットをもらって、オススメなどを教えてもらっていたようだったが、息子の尋常ではない容子を訝しんで心配そうな顔をして見つめていた。

「なんでもない――」

「急に呆っとなったから、またどこか具合が悪くなったのかしらって」

 そうこうするうちに、件の美女は二人の居るすぐ傍を通り過ぎていき、翔馬はその背を息をのんで見送っていた。

 それを見た母親がちょっと拗ねたようなワケ知り顔になって頷き、一人息子に(たず)ねた。

「あら、翔ちゃんはああいう女の人が好みのタイプなの?」

「そんなこと……わかんないよ……」

「そうよね、翔ちゃんにはそういうのってまだ早いわよね」

「………」

 母親というものは息子の生理を、きっと潜在的願望もあって実際よりも幼く思いがちなものなのかもしれなかった。

「でもすごく綺麗な人ね、もしかしたらお忍びで来日した外国の女優さんかもしれないわね」

「どうでもいいよ、そんなの……」

 美由紀はエレベーターの中から妹たちが出てくるのに気がついて、長い腕を伸ばしてサインを送っている。

「ほら、啓ちゃんたちが来たわよ」

 言いながらキャリーケースを()いて彼女たちがいる方へと歩き始め、その後に翔馬も従ったが、少し歩いたところで足を止める。

「ねぇママ――」

「なぁに?」

「僕、ちょっとトイレに行きたい」

「あらそうぉ、しょうがないわね、行ってらっしゃい、みんなとあそこで待ってるから」

 母親の諒解をとりつけると翔馬は向きを変えて小走りになった。

 件の美女の後を追うことにする。どうしても確かめておきたかったのだ。

 彼女が本当に昨日の熱中症の間にみた、あの明晰夢に現れたのと同じ人物であるかどうかを。

 別人であればそれで良かった。

 でも、もしも同じだったら――?

 それがどういうことなのかは分らない。だからといってどうなるわけでもなかった。

 でも……。

 気持ちを抑えることができなかったのだった。

 彼女が向かった先は漏れ聞こえてきた接客係との会話でおおよその察しがついている。

 たぶん、このフロアーの奥にある郵便局。

 彼女はエアメールを出したいとか言っていたようだったからだ。

 小走りになる。

 予想した通り、ほどなく長い通路の先に彼女を見つけることが叶ったのだった。アイボリーの上下に豪華なブロンドの眩しいほどの後ろ姿が遠目にもはっきり分かる。

 すれ違う人々が一様に驚いた顔をして振り返っていて、さもありなん、だった。翔馬もすぐ近くまで追いついて、いざ後ろから声を掛けようとして(ひる)んでしまう。どうしたらいいのか判らなくなってしまった。

 美しい女性に特有の何かに位負けして、それ以上は近寄りがたいのだ。

 どうする……どうする……どうする……。

 郵便局が見えてきて前を歩く彼女は少し足を速めたようだ。長い脚を伸ばして、普通に歩いているとすぐに間合いが開いてしまうのだった。

 局まではあと二十メートルほど。そこで閃いた。

 でも、できるかな……そんなことが僕に……。

 弱気になる。

 十メートル……五メートル……三メートル……。

 十二年間分の蓄えていたありったけの勇気を掻き集めて自動扉の直前で“女神さま”を追い越すと、ドアを開いて恭しく頭を下げて彼女に先を譲った。

「あら、ありがとう」

 頭の上から干天の慈雨のごときあたたかな声音が注がれる。その調べに奮い立って勢いのままに

「あ、あのっ――」

 声をかけた。だがその後が続かない、何を言ったらいいのか……。

 道を尋ねようと思っていたんだっけ……ちがうっ、訊くとしたら普通は彼女の方だっ、ハンカチ落としましたよ? ナニいってるんだよっ、そんなベタなっ、じゃあ、お姉さんとはどこかで会ったような気がして……冗談じゃないっ……ああ、僕のバカバカバカっ、どうしてこんな無謀なことをしようと思ったんだよっ……どうしたら、どうしたら……。

「なぁに、ボク?」

 あろうことか彼女はこちらが何か言うのを待ってくれているのだった。小鳥のように愛らしく首を傾げて。サングラスをずり下げてフレームの縁から茶色の瞳が僅かにイタズラな色になって見おろしている。

 やわらかな眼差し、広い額に小麦色の眉の絶妙なカーブがやさしげで、オトナの女の人なのにすっごくカワイイ!

 やっぱりあの人だっ!

 本当にこんなにもステキな女の人が居るなんてっ――!

「い、いえっ、なんでもありませんっ」

 とても視線を合わせることができずに、翔馬は真っ赤になってうつむくことしか出来なかった。こちらの邪心なんか一瞬で見通されてしまいそうな(けが)れの無い美しい瞳に。

 自分なんかが適う筈が無かった。

「あらそう、じゃあねっ」

 彼女は、翔馬が見たことの無いほど魅力に溢れた笑顔をプレゼントしてくれて、そのまま郵便局内へと入っていってしまった。

 清潔感のある甘やかな香りを仄かに残して。

 茫然自失、でもこれ以上は無理だった。

 かたちはどうあれ目的を遂げた翔馬はもと来た道を引き返すことにする。

 やっぱり……彼女は夢でみたのと同じ人だった……。

 リアルでも憧れの女神との邂逅を得て、甘酸っぱい恋情が胸の中で膨らんでいく。

 心がほわっとなる。

 けれど嬉しさにときめく半面、胸がなぜか不穏な感じに騒いでもいた。

 それが何なのかわからず、もやもやしたまま、今頃になって本当は学園都市のことを尋こうと思っていたのを思い出したのだった。

 カウンターで彼女がC-YEN(クレジット) キャッシュ()への両替の仕方を尋ねていたのが聞こえていたからだった。

 “クレジット――”による完全キャッシュレスを実現しているのは、首都近郊では学園都市だけだった。だから彼女がそこの住人か関係者である可能性はかなり高いと思ったのだ。

 話しかける動機としては弱いけれど、優秀な受験生であれば学園都市内への進学を一度は考えるものでもあった。

 学園都市の人であれば、日本人離れした容姿にも言葉が堪能であるのにも頷ける。

 あそこは日本国内にあっても何から何まで別格だからだ。

 いわゆる凡百のエリートを養成するのではなく、初めから世界のトップランナーになることを望む人たちのための場所。

 もちろんハイリスク――。

 以前は特殊な能力をもった子供たちばかりを世界中から集めて、彼らの才能強化を図っていたという。今は別の意味で生まれつき秀でた高い能力をもった子供たちを独自のカリキュラムで育てているらしい。

 科学、芸術、運動。

 天才たちの揺りかご。

 ただ――。

 普通の枠に留まらない人たちは、さまざまな意味で普通のままでは居られず、能力と心のバランスを失って、時に自ら命を断ってしまったり、あるいは精神障害者施設に送られるものも少なくないとも言われている。

 翔馬も友人たちの殆どが

 何が天才なものかよっ! 実験動物にされるのなんか御免だぜっ!

 と(そし)って、学園都市のことはあえて目を瞑っていた。

 安定と未来を約束された者たちにとっては、わざわざリスクを取ることもあるまいと遠巻きにされているのだった。

 そこに忸怩(じくじ)がないかと言えば嘘になるが、目の前にはっきり見えている道があるのだからそっちに向かうのは当然じゃないか、というのは納得しやすい言い訳だった。

 そんなことを思いながらボチボチと歩いて、翔馬がみんなの待っているのが見えてくるところへやってくると、啓一と明菜から

「翔ちゃん、おそいーっ!」

 と、非難の声が上がった。

 母親も、またしても心配そうな顔をして迎える。

「お腹でも悪かったの?」

「いや、そうじゃなくて、ちょっと道に迷って寄り道しちゃったりしてたから」

「しょうがない子ねぇ、用意はいい?」

「うん――」

「さあ、これからどうするの? 翔ちゃん、あなたがツアーコンダクターなんだからしっかりしてよ、頼りにしているんだから」

 叔母からも圧力がかけられていた。真彩からの場合はプレッシャーの方もリアルに二人分の重さがありそうだった。

「じゃあ、これから駅に移動します。錦糸町で半蔵門線に乗り換えて、徒歩の時間を含めても、まあ三十分ほどですから……」

 話をしながらも視界に郵便局での手続きを終えた“彼女”が戻ってくるのが映って、翔馬はやっぱり魅入ってしまうのだった。

 長い腕の優美な動作でフロントでカードキーを受けとるとエレベーターへと向かう。アイボリーのスーツの前をきっちり閉じていると、陰影が曖昧になってパッと見た印象通りのスレンダーで細身であるように見えるのだった。

 けれども本当はすばらしいバストラインを秘めていることを翔馬は知っている。

 知っている……。

 知っている――!?

 胸がまたイヤな感じにドキドキと騒いでいた。悪い予感にリムレス眼鏡の中の細い眼を見開いて立ち尽している。

「どうしたの翔ちゃん、行こうよ、もう二時半だよ」

 明菜に腰の辺りを突っつかれてビクッとした。

 二時半――!

 と聞いて愕然とする。

 たしか昨日も二時半ごろ――だった。彼女が部屋に現れたのは。

 それまでバラバラだったパズルのピースが突如揃って意味のある絵になったときのように、胸の中がもやもやしていた理由がくっきりとした像を結んでいた。

 けれどもそれは翔馬にとっては悪夢のような気づきなのだった。

 祈るような思いで彼女がひとり乗ったエレベーターの上方にあるデジタル表示を見つめる。体が緊張のためにブルブルと揮えだしていた。

 しかし願いに反して、エレベーターが最初に止まったのは九階で、翔馬はひどく落胆するとともに背筋にゾッと冷たいものが走るのだった。

 まさか……まさか、そんなっ――。

「ホラ、いくよっ翔っ」

 ショックに悄然と立ちつくす翔馬の背中に、また真彩叔母からハッパをかけられた。

「う、うん……」

 気もそぞろ、後ろ髪を引かれる思いで歩き出す。

 ただの偶然、思い過ごし、そんなのありっこないし……。

 自分を励まして良い方に考えることにした。

 気のせい、気のせい、気のせい……ただの偶然の一致……。

 それにきっと彼女とはすぐに再会できると確信できるのだった。幻影を見るほど心と心が繋がっているのなら、もっとずっと親密になることだってできるかもしれなかった。

 そんな風に考えるのは満更でもなかった。

 運命の恋人――なのかもしれないし。

 さらには、彼女が学園都市の教育機関に勤めるどこかの先生――たぶん中学だろう――だというのであれば、早晩、身元の洗い出しもできるだろうと思う。

 外国人教員で、名前も……ニキータとかサキとか、そんな感じで検索をかければ……。

「翔、本当に大丈夫なの? 具合が悪いのならお家に帰ってもいいのよ、無理しなくても」

 建物の外に出た途端、照りつける陽光に(たま)らず、母親たちは日傘をさしている。

 前を歩く三人の子供たちを見ながら美由紀がひとり息子の背に声をかけた。

「うん、でも平気だよママ、僕は元気だから」

「そう、ならいいんだけど……ちゃんとお水飲んでる? もうイヤよ、昨日みたいなことになるのは」

「それは大丈夫っ!」

 翔馬は背にしたリュックに手をまわして軽く叩くと、

「ここにちゃんと入ってるし」

「過保護ねぇ、姉さんのところは。昨日みたいなことなら、うちの啓一なんて何度もやらかしてるけど、いつも麦茶のんでお昼寝したらケロッとしてるわよ。あっちはここ(東京)よりも暑いから」

「そうかもしれないけど……でもうちはあの子ひとりだから……」

「翔悟さんが亡くなって、二年だっけ……」

「ええ、この秋に三回忌……」

「ご免なさい、辛気くさい話になって」

「いいのよ、それにあの子は受験生だから」

「できる子を持つ親の悩みね……うちはあの通り、店を継げばいいって感じで放任してるから」

「でも、それも良いのかもしれないって思うわよ……翔馬は線が細くて、小さい頃から冷や冷やさせられることばっかりだったから……放ったらかしにしていたら昨日みたいなことでは済まないかもしれないし……」

 翔馬は双子の相手をしながら親たちの話を聞くともなく聞いていたが、たしかにタフさでは啓一にも明菜にも敵わないかもしれないという自覚は持っていた。

 体だけではなくメンタルの方も丈夫とはいえないだろう。

 父親の病気がことのほか重大だと知らされた時には母親よりも苦しんで、実際に父親を(うしな)った時よりもそっちの方がむしろ辛かったのかもしれなかった。以降、週一回の心療内科の通院が半年以上も続くことになって、投薬治療は今も続いて、月に一度は主治医の後藤先生の診察を受けることになっているくらい。

 ただ、その所為で打撃を緩和する術を覚えたというか、自分自身との付き合い方は多少、以前よりも上手くなったとも思っている。

 錦糸町駅を下車、乗り継ぎをしてツリー駅に着いたときには三時をまわっていた。

 双子たちは車内に居る間はスマホゲームに熱中してくれているため、とりたてて相手をする必要もなく、翔馬は寧ろ親たちの会話に耳を傾けていて、叔母から母親へ再婚話が持ちかけられていることが分ると、聞き耳をたてて当惑していた。

「……だって相手は銀行の副頭取よ、そりゃちょっと歳がいってるかもしれないけど」

「その話は勘弁してよ、彩ちゃん――」

「いいと思うんだけどなぁ……姉さんの写真を見せたら、すっかり向こうも乗り気になって……」

「私も仕事があるから……」

「だから橘さんもね、姉さんには仕事はそのまま続けてもらって構わないからって言ってるの……前の奥さんとの間にできた子供も、二人とも成人してもう社会に出てるから……ご両親はとっくに亡くなられているし……だから広いタワマンの部屋に一人暮らしで、舅も姑さんも小姑も居ないのよ、お買い得物件だと思うんだけど……だって姉さん、いまだって全然イケテル美人だし、女としての賞味期限が来る前に収まるところに収まっておいた方が将来、楽できるわよ」

 幸い、母親の方にその気がないようなのでホッとする。ただ、油断はできないのだ。

 叔母の真彩は強引なところがある上に狡知にも長けていて、学校では姉の方がずっと出来たかもしれないが駆け引きとなると妹の方に分があった。 

 翔馬に言わせれば、六十近い爺さんと母親が再婚するなんて、ぞっとしない話以外のなにものでもなかった。もちろん相手が若ければ良いというのでもない。

 母親が女としての扱いを受けるというのは、息子としては受け容れがたいものなのだ。好きになった女が誰かに抱かれるのとは別の意味の寝取られ感があって落ちつかない。

 好きな女……?

 もしも自分なら――。

 いま真っ先に脳裏を過るのは、三組の藤本絵美梨でもなく、早川先生でもなく……。

 彼女だ――。

 名前も知らないし、年齢も判らないけど……。

 ただ綺麗なだけじゃなくて、裸になるとびっくりするくらいのメリハリのある体をしていた。

 ふんわりとした股間の茂みは髪の毛よりもちょっと暗い感じの金色。

 やわらかそうで、あそこに顔を埋めたらきっととてもいい匂いがするにちがいなかった。

 でも、どうしてそんなことまで分るんだろう?

 ホームに降りて時計の針が三時八分を差しているのが目にとまった途端――。

 鮮やかな記憶のフラッシュバックとともに、

「言わないでっ、レイくんっ――!」

 と、うったえる彼女の切ない声が聞こえたように思うのだった。

 そのとき、昨日、潜んでいたクローゼットから見て正面、裸の二人が抱き合うベッドの横、奥の壁に掛けてあった丸い時計も三時八分だったのを思い出していた。

 彼女の体がきっと初めてとなる深刻な愛撫を経験して、そして歓びを迎えさせられた後のこと。

 強い恥じらいに甘えるように少年の胸に顔を埋めて添い寝をしていた。

 レイという名であるらしい少年の方は股間のものを猛々しく屹立させたまま、興奮に乾いた声で、でも満たされた顔をして女の耳許で淫らな感想を伝えていたのだ。

 弱みを晒して羞恥に身を小さくしている女の背中を撫でて慰めながらの、残酷な言葉、彼女の体の特長を褒めたたえた言葉を。

 たとえ賞讃であっても女にとっては無慈悲な辱めとなるもの、そして翔馬の心を激しくかき乱した物言いだった。

 その時の彼女の哀しい反応が、幻聴――となって再び耳に届いたようだった。

 それをきっかけにして翔馬の耳にはまるでラジオのように睦合う二人の会話が聞こえてくるようになっていた。同時に昨日、間近にしていた光景がまた甦ってくる。

 

#だから、今日はもっといっぱいペロペロしますね、先生には……#

#……あんな……いけないことして……#

#イケナイことなのかな? クンニリングスは男と女にとってのいちばん大切なコミュニケーション方だと思うんだけどな……だってボクは先生の体のことをよく知ることができるし、先生がもっとステキな気持ちになれるように大切にかわいがってあげられるから……#

#……嘘つきっ、猫かぶってたのね……レイくんがこんなに悪い子だったなんて……#

#かわいいな、すっごくかわいいっ! 恥ずかしがる先生って可愛すぎて、もう反則ですっ……#

 

 まさかこれって……今、起きてることっ……!?

 疑念は、デジャビュのような二人のやりとりが重なっていくごとに確信へと育っていくのだった。

 

#一服したところで、またつづきをしましょう、今度は四つん這いになって下さい#

#……なにを……#

#だから、四つん這いになるんです……ワンちゃんみたいに……じゃないとシーツを濡らしてしまいそうで……さっきはちょっとアブなかった#

#……イヤよ……そういうのはもう……#

#じゃあ、もっとイケナイことしますか?#

#いけないこと? いけないことって……?#

#……それは……#

 

 昨日、少年は彼女の耳許で何かを囁いて、それは翔馬の耳にまでは聞こえなかったけれど、彼女が真っ赤になって狼狽(うろた)える容子から、とても酷い提案だったことが判ったのだった。

 

#いやぁっ、それだけはぜったいにいやよっ、そんなことしたらレイくんのこと、あたしキライになるからっ#

#じゃあ、いうことを聞いて下さい、ボクが嫌われずに済むように#

#レイくん……#

 女は渋り、何とか逃れる方法を探っているよう。でも最後には彼女の方が折れることになるのだった。体を慰められながら口説かれては選択肢なんて無いのと同じだった。

 案の定、彼女が「いいわ」と応じるのが聞こえる。

 クローゼットの中で目にした時と全く同じ会話、やりとり。

 やっぱり……昨日、僕が見たのは……今日の……あの部屋で起きる未来を見ていたんだ……。

 消沈する。

 いまあの人はアイツからイヤラシイことをされてる……これからまだ一時間も――。

 想うと胸の中に狂おしい焦燥感が寄せてくる。

 あんなことや、こんなことをされて……。

 彼女の体からプライバシーが奪われていったのだ。

 やめてくれっ――!

 願うとともに、悩ましいラジオ放送は始まったのと同様に、不意に終わっていた。

 最後に聞こえたのは、女の切なげな息づかいと、ちゅくちゅくというキスの音だった。彼女が長い脚を拡げて少年の顔を跨いでいた時のものだったのに違いない。

 いまあの少年は自身を慰めながら、白く張り切った見事なお尻を抱き寄せているのだろう。

 畜生っ――。

 ただ、昨日ほど激しく混乱することが無かったのは、間近で目撃していたのとは違うことと、二度目、というのもあるのかもしれない。周囲の喧噪も救いになっていた。

 なんとか気持ちのダッチロールをコントロールすることができそうで、じわっとくるイヤな気分をやりすごしていた。

 どんなに嫉妬してみたところで、彼女が愛しているのはアイツなんだ。自分が彼女を知ったのは昨日、名前さえも知らないのに。それよりもずっと前から知り合っていたのなら、今さら分け入る隙間なんてあるはずがなかった。

 理性を働かせて感情に手綱をかける。

 でも、やっぱり……僕はあの人が好きだ……。

 似たようなことを早川奈美で経験していたことも助けになっていた。早川先生に憧れて、既婚だと知ったときもとてもショックだったけど、でも彼女のことは大好きだった。

 パンツの中は正直で既にぬかるみ始めていて、そのとき不意に、昨日はどうしたんだろう? と気がついた翔馬は記憶を辿ってみる。もっとずっと酷いことになっていた筈なのだが、それを気にする余裕さえ失って街をさまよっていた。

 僕、パンツをいつ穿き替えたんだっけ――?

 病院で? でも……あのときは……。

「どうしたの、翔ちゃん、また気分が悪いの?」

 母親が心配そうに自分を見ていた。

「大丈夫、ただ真彩叔母さんとの、ママが再婚するかもって話がちょっとショックだっただけで」

「あら、聞いてたの? でも、そんなことママがするはずないでしょ」

「だったらいいんだけど」

 翔馬は笑顔を作って見せた。ややぎこちなかったかもしれないが、母親にはそれで納得してもらえたようだった。

「なにしてんだよ、翔ちゃん、早くいこうよっ」

 スカイツリーをすぐ目の前にして、啓一は、待て、を命じられた犬のように逸っていた。大好きなオモチャを見せつけられては我慢するのにも限度があるだろう。

「今いくからっ」

 翔馬はそう言い返すと、まだ愁いの残る顔をしている母親を置き去りにして駆け出していくのだった。

 

            ◇            ◇

 

 

 あの後、調べても学園都市にはニキータという名の教師は居なかったし、サキという名前も見つからなかった。ベニトでも引っ掛からず、その他、サキイタベントウ――から思いつくかぎりの様々な名前を入力しては試してみたが、いくら探してもヒットすることは無かったのだ。

 学園都市の人じゃなかったのかな――?

 だとしたらもう調べようがなかった。著名人でもない限りは、個人では身元を探る手だてが無い。

 ホテルに問い合わせるのが唯一の方法だったが、むろん教えてもらえる筈も無く、諦めて、もう謎の美女のことを考えるのは止めようと、記憶も薄れかけたある日のこと、翔馬はついに恋い焦がれた“憧れの女神”の名前を知ることとなったのだった。

 あの夏休みの衝撃的な午後から二ヶ月余りも経った頃、秋の盛りに、彼女の名前はマスコミを通じて大々的に報じられるようになったからだった。

 ミス学園都市コンテスト、ファイナリストとして。

 食蜂操祈――。

 それがその人の名前だった。

 




ただ無駄に長い特別エピソードの3になります

特別エピソード2になる 失恋篇は さすがにR15では無理そうなので


それからテコ入れに ママキャラ投入? 


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午後のホームルームで・・・

「ねぇ、どうしてそうなっちゃうのよぉ」

 窓際で成り行きを見守っていた操祈は、また事態が自分の意思を離れてひとり歩きをしている状況に不満を漏らすのだった。

 午後のホームルーム、その日の議題は昨日に引き続き卒業式の後に行われる送別会の出し物について。

 昨日は生徒会起案の企画の幾つかについての質疑と賛否が問われ、生徒たちからは“プロム案”に賛意が集まっていたものの、その付帯事項に

『ただしミスコン参加者はペアとなる相手をあらかじめ抽選により選出しておくこと』

 との一文が添えられていることに目敏く気がついた操祈が意味を尋ねたところ、

「もちろん先生もミスコンに参加されていたので該当します。少なくとも事前に選ばれた生徒……これは男子に限らず女子になる可能性もありますが、その方と当日、ダンスをしていただくことになります」

 との回答を紅音から得て、これにひとり強く異議を唱えたのだった。

 教師である自分が生徒に混じってダンスを披露するのは如何なものか?

 という、当然の懸念を伝えたつもりだったのだが、生徒たちからの反応は実に冷ややかなものだった。

「えー、なんで先生だけ特別扱いされるんスか?」

「教え子と踊るのがそんなに嫌だったなんて……あたしショックですぅっ」

 ざわざわざわざわ――。

 たじたじとなる操祈に、クラスを代表して委員の紅音が

「では生徒会に持ち帰って操祈先生のご意見も踏まえて検討しなおした上、あらためて明日午後のホームルームで決をとり、二組の総意としたいと思います」

 と、とりなして一旦は棚上げということになったのだ。

 そして今、生徒会から再提案されたのは、生徒たちから二番目に支持を集めていた全員参加のバンド演奏によるクラス対抗戦で、こちらは紅音が諮ったとたんに賛意を得、つづく採決によって全会一致で可決されて、これには操祈も異を唱えることはなかったのだった。

 企画案にもこれといって特に問題となるような付記もなく、これなら――と、いうわけで……。

 その筈だった――。

 内容は、クラスごとに五名程度のバンドを五組編成し、演奏後の喝采の大きさから支持の多寡(たか)を定量化して判定、最も評価の集めたクラスから一組のバンドチームを選び、最後に勝者としてオーラスの演奏を行うというものである。

 楽器の扱いが苦手な人に対しては、制限つきながらもデジタル機器の使用も認められていて誰もが参加できるように工夫されていた。

 そつがない――。

 つまりクラス単位の総力戦であると同時に、クラス内でもコンペティションがあるという仕掛けで、生徒たちに共闘心と競争心を喚起していた。

 目標を達成するために個々の能力をひきだし、いかに組織としての出力を最大化させるかが問われる一方で、チーム戦、個人戦も並走させていて、そのバランス配分に知恵が問われるという、なかなか“味のある課題”なのだ。

 統率力のあるリーダーがグランドデザインを描き、そのプランに従って効率的にゴールを目指すか、それとも個々人の自由な能力の発露に重きを置くか、クラスごとの特色も現れそうだった。また一人一人にとっては、いわば社会の中で各自の個性に合わせて実力を発揮し、生き抜いていくための所作をシミュレートするという面もあり、賢明な常盤台の生徒たちが好みそうな企画である。

 実利を排し純粋に名誉をめぐって競うというのも気が利いていて、いかにも彼女たちらしい、と操祈も感心していたのだ。

 ところが――。

「あの……楽器の扱いについてはチームを編成する際に上手く分担させる必要があると思うのですが、リードヴォーカルはどうしたらいいのでしょう?」

 女子の一人が挙手して紅音に訊いた。上田由香奈だった。大人しくて普段はあまり目立たない少女で、質問に立つだけでも心許なげな容子でいる。

「どうしたらというのは――?」

「リードヴォーカルというのはバンドの華なので……歌唱力だけでなくルックスとかもコンペティションで勝敗を分けるカギとなるものだと思うのですが……そこでいきなり差がついてしまうと、たとえばそうじゃない人がやったら、出落ち感というか……バンド以前に入り口のところで公平性に欠けてしまうのではないかという……」

 たどたどしい物言いだったが少女の懸念は、バンドの出来がヴォーカリストの見栄えで決まってしまうのだとしたら、コンペの趣旨に反して不公平になるのでは――?

 ということだった。

「はあ、確かにそうなるかもしれません……」

「その不公平感を解消するために、あらかじめヴォーカリストを統一して決めてしまうというのはどうでしょうか?……例えば誰か一人に全部のヴォーカルを任せるというのはいけないのですか?」

「ああ、そういうことですか……ルール上それは問題ないと思いますが――」

「じゃあ、一人が五つのバンドのリードヴォーカルを掛け持ちしてもいいんですね?」

 念押しする。

「全員参加なのでバンド構成員の入れ替えは認められませんが、ヴォーカリストについては特に規定はなかったと思います」

 普通に考えればクラスでいちばん歌唱力のある生徒を前面に押し立て、そつなくポイントを稼ぐのが良さそうに思える。しかし評価はあくまでも喝采の量である。

 観客は必ずしも歌の巧拙だけで支持するわけではないだろう、いかに心を掴むかにかかっていた。手持ちのエンターテイナーを上手く使いこなして聴衆にアピールするという、まさにプロデュース力が問われているとも言えるのだ。

 このクラスで一番、歌の上手な子は……。

 操祈は生徒達ひとりひとりの顔を見回していたが特には思い当たらず、二年以上も近くに接していながら自分が教え子たちのことをよく知らないでいることに、うっすら忸怩(じくじ)を覚えていた。

「いま、ここでリードヴォーカルを選んでしまうというのはどうでしょうか?」

 由香奈がおずおずと切り出し

「どなたか立候補される方はいますか――?」

 紅音が一同に問う。

 しーん。

「他薦でもかまいませんが」

 操祈も興味を覚えながら生徒達の容子を窺っていた。しかし、話は彼女にとって予想外の方へ転がる。

「じゃあわたし、ヴォーカルは操祈先生にお願いしたいと思います」

 誰かがそう提案したのだ。

 へ――?!

 操祈が当惑する間もなく、生徒たちは、

 あ、その手があったか――!

 と、ばかりに一斉に賛意が示され盛大な拍手となって、一同、期待の眼差しで操祈に注目していた。

 それを受けた反応が、先の抗議の言葉である。

「どうしてあたしが歌うことになるのよぉ、あなたたちの送別会なのにぃ、私はただ見送る方でしょっ」

「え、なんで先生はそんな余所事目線で居られるんですか? 可愛い教え子が巣立っていこうっていうのにっ」

 コースケが痛いところを突いてきて操祈は、ぐっと言葉に詰まる。

 それでも――。

「だって、わたしは教師でぇ、あなたたちの企画に立ち入るなんてできないわよぉ、そうでしょ? 紅音さん」

 救いを求めた。

「教職員がバンドに参加するのは、生徒たちによる――と、記載されているので推奨されませんが、ヴォーカル参加の可否については特に規定はありません」

「推奨されないって……」

 紅音は例によって、争点をずらしてそっけないのだ。

「だってヴォーカルだってバンドの構成員になるでしょ」

「ここでいうバンド、とはあくまでも楽器を演奏する奏者、と規定されています。企画書の第四項にそのような記載がありますので、そちらをごらんになって下さい」

 操祈が手にしている書面を見ると確かにそう記されていた。

「そんな――」

 操祈が渋ると

「先生! お願いしますっ!」

 の懇請の声が上がった。

 それをきっかけに、

 お願いですっ――!

 お願いですっ――!

 の、声が教室内に一斉に飛び交うようになるのだった。

 操祈にとっては、一瞬でまさに四面楚歌の展開になっている。

 騒然とする中、小柄な女子の一人が立ち上がって意見を述べた。田野倉美麗だった。

「だって操祈先生だったら、どんな拙い伴奏でも、何を歌っても絶対に拍手喝采を得られるし――」

 当初はメインであったはずのバンド演奏が、伴奏――になってしまっている。

「先生は私たちにとっての切り札なんですっ、それを使わないなんてこと、絶対にありえないです」

 美麗はきっぱりと言い切ってやんやの喝采を浴び、みんなの支持を得てまんざらでもない顔をしていた。さすがに新体操部、周りの目を惹きつける術は心得ていた。

「先生を使わないってのは、まぁ将棋で言えば車角落ちでやるようなもんだから、そんなハンデ戦をやれるほどウチらに余裕はねぇよなあ」

 純平も将棋部らしい言い回しで美麗の後押しをする。

「一組にはあの山崎さんが居るし、実行委員の河内くんが居る三組もあなどれません。正面からだとウチらにはまず勝ち目はないでしょう、先生が自分の受け持ったクラスが、最後の最後でまた負けてもいいって言われるなら仕方ないので諦めますけど……でも、あたし、やっぱり悔しい……」

 篠原華琳が女子一同の声を代弁するように言って、また拍手が澎湃(ほうはい)としてまき起こり、大きな賛同を得るのだった。

「そんなことないわよぉ、あなたたちはみんな賢いし、とても素敵よぉ、私の自慢の教え子たちだわ」

「先生の身びいきバイアスのかかった主観評価はこの際、横に置くとしても、大切なのは操祈先生を含めて私たちクラス全員の力の集中です。それとやはり難しいのは役割分担でしょうか? 客観性を伴った適切な自己評価は先生を含めて誰もが苦手とするものなので」

 こういう時には舘野唯香も、あっさりと生徒側に行ってしまって“ちっとも――”アテにならないのだ。

「役割分担というなら、具体的には能力の劣ったグループに被害担当艦を任せるとかは必要かもしれませんね、また今後は情報管制も徹底しておかないと」

 二組男子筆頭、市ノ関克己がメガネを煌めかせて言うと、

「おいっ市ノ関っ、能力の劣ったグループっていうのは俺らのことかよっ」

 さっそくコースケがかみついた。

「自覚があるんだったら助かります」

「てめぇっ、喧嘩売ってんのかっ」

 男子の言い合いになりかけたところで、

「では、あらためて決を取ります――」

 栃織紅音が宣言した。

「二組の出し物は、先生をリードヴォーカルに統一した、食峰操祈先生リサイタル、ということで宜しいでしょうか?」

 リサイタル――っ!?

 いつのまにか操祈の意向をよそに既成事実化していた。

 まるであらかじめシナリオでも用意されていたかのように、トントンと話が前に進んでいる。

「えっ! ちょっと待ってよ、あなたたちっ、また勝手にっ!」

 と、抗議を口にしてから、やられた――と、思う。

 実際、操祈のあずかり知らぬところで、生徒会が送別会の企画を検討した段階から二組では栃織紅音、舘野唯香などのクラス女子の顔役を中心に、いかに操祈を引っ張り込むかを巡って密かに謀議が重ねられていたのだった。

 いまや実質的な生徒会のドンとなった紅音によって企画書の文言は見かけ上穏便なものに整えられ、これに首尾よく操祈が同意した段階で外堀は埋まっていた。

 後は大阪夏の陣――。

 上田由香奈がまずは口火を切り、それに田野倉美麗、篠原華琳など、唯香の仲良したちを矢継ぎ早に押し出してクラスの空気を盛り上げれば、さしもの美教師といえども抗えまい、という算段だった。

「あたし歌なんて歌わないわよっ!」

 の、はかない抵抗は、唱和する

 異議無し――!

 の、声とともに大きな拍手によってかき消されていた。

「わたし、最後に先生とバンドがしたいです……」 

 いちばん前の席、操祈のすぐ側に座っていた女子がそう言って瞳を潤ませながら、彼女を見上げていた。

「芳迺さん……」

 操祈は諦めてため息を吐くことしかできなかった。

 かくして、『操祈リサイタル案』は採決されて無事通過――。

 それでも、まだ納得できなくて不平をこぼす。

「だって、だっておかしいじゃないっ、どうして私がみんなの前で歌わなきゃならないのよぉっ」

「そもそもカラオケパーティをするって言い出されたのは先生じゃないですか」

「でもそれと講堂でみんなの前で歌うのって、全然、違うじゃないっ」

「質的には違いませんよ」

「違うわよぉっ!」

 訴えながらもカラオケの件は認めるしかなかった。

 小テストの結果は一組と二組は全員満点で、また条件が悪かった三組も追試で満点となって、結局、操祈主催の全組合同のカラオケパーティということになったのだが、学園都市内に八十名もの大人数を受け容れ可能な会場が見つからずにペンディングとなっていた。

 その負い目を突かれ、生徒たちから逆手に取られた形になっている。

「民主主義って、少数派の意見にも耳を傾けて、それを汲み上げようとしないと弾圧になるでしょっ」

「ですから先生にも、今こうして貴重なご意見をお伺いして反映させようとしていたわけで」

 紅音がとりなす。

「だから私はイヤだって言ってるのに――」

「なんでもかんでも嫌だって、子供みたいにダダをこねられても困るんです。いやしくも生徒たちを教導すべき聖職者たる操祈先生には、常に私たちの範となるという気概をお持ちになって、決まった以上は小異には目をつぶり大同に従っていただかないことには世の中は上手く立ち行きません。誰もが多少の忍耐を分かち合うことでこの民主社会は成り立っているのですから」

 こういう時には唯香は容赦がなかった。

 理論武装に長けた生徒たち――。

「それとこれとどういう関係があるのよぉ」

「昨日、ダンスパーティはどうしてもお嫌だって言われたので、仕方なくこうしたことになっているんです」

 唯香からきっぱり引導を渡されてしまった。

 共謀していた少女達の間では、プロム案も実は釣り餌で、操祈が異議を唱えるところまでは予定通り、本丸はこちらの『操祈リサイタル案』の方なのだった。

 全てはクラスのワル――たちの描いたとおりの展開になっていた。

「あーあ、本当はプロム、したかったんだよなぁ、オレ」

「女子とダンスするなんて、これを逃したら一生、無いかもしれないしなぁ……」

「先生の所為ですから、責任、取ってください」

 あげく男子の悪ガキどもからも嵩にかかって責められる始末。

「罰としてオレとデートしてくださいよっ」

「どさくさに、ずるいんだゾ、それってぇ――」

 コースケがおどけて頭を掻いて、二人の毎度のやり取りを見ていた生徒たちの間に笑顔の輪が拡がっていった。

 かくして操祈は三月末、卒業式後の送別会で、リサイタル――を開くことになったのだった。

 

 

 金曜日の放課後――。

 まんまと生徒達の計略にはめられて、また要らぬことを押し付けられたかたちの操祈はがっくり肩を落として教員室に戻ってきた。

 ひと前で歌を歌うなんてことは子供時分を除けは、ついぞ記憶になかった。それがいきなり講堂で聴衆を前に歌わせられるなんて、いったいなんの罰ゲームなんだろうと思う。

「どうかされたんですか?」

 隣の野々村凛子は怪訝そうな顔をしていて、いきさつを話すと

「やっぱり食峰先生は生徒さんたちから愛されているんですね」

 と、感心される。

「ただあたしをオモチャにしたいだけなんです、ホントにあの子たちったら……」

「そうでしょうか……きっとみんな、先生との別れが近づいていることが寂しいんだと思いますよ。だから思い出作りのために一緒に何かしたいんじゃないかと……」

 たしかに操祈もそれを感じてはいる。

 ただ、大勢の人の前で歌う、というのは自信がないのだ。

「きっと先生だったら大丈夫ですよ」

「凛子先生は他人事だから、そんなふうにおっしゃれるんです、わたし歌なんて……」

「だって先生、時折、ひとりで歌を歌われていること、あるじゃないですか」

「そんなことあったかしら……?」

「外国語の歌詞だったのでよく聴き取れなかったですけど……とっても優しげなきれいな旋律だったので、いつか機会があったら曲名とかを伺おうかなって思っていたんです」

 言われてから思い出した。

 自分がリラックスしている時などに、つい自然に口をついて出てくるメロディーを。

「聴かれてたんですか……あれは……タイトルもわからないような変な歌ですから……恥ずかしいです……」

「そうなんですか?」

「ええ……」

「歌詞は英語ではないですよね……ドイツ語……?……でもちょっと違っていたような……わたし、語学は英語がなんとか使える程度で、二外以降は全然ですので……」

 凛子は謙遜するが英語はほぼネイティブ、その他、独語と仏語もこなし、ラテン語の文献まで読みこなせることを操祈は知っていた。

「どんな意味の歌なんですか?」

 と、問われ、どう答えたものか迷ってしまう。

「あの、伺ってはいけなかったのでしょうか……?」

「いえ、そうじゃないんです……実は私も……意味を全然知らなくて……幼い頃に大祖父(ひいおじい)さまから教わった歌なんですけれど……でもその曽祖父にも意味はもう誰にもわからないと……」

「そうだったんですか……」

 凛子は目を丸くして頷いた。興味深げに操祈の顔を見つめている。

「ずっと昔に滅びてしまった言葉だそうで、口伝えにして一族の間では受け継がれていたらしいのですが……もう誰も使わなくなって、意味さえも分からなくなって……ただ子供が生まれると一族の長がその子に教えてきたとか……誕生を祝福する歌だとか、健やかな成長を願う歌だとかみたいですけど、よくわかりません……」

「なんだかとても神秘的なお話ですね……」

「……そんな大した意味があるわけじゃないと思うんですけれど……」

「でもとても素敵な歌だと思いますよ……もしよろしければ、今度、私にも教えていただけませんか……?」

 躊躇いがちに言う。

 操祈が「いいですよ」と軽く請け合うと、逆に凛子はちょっと驚いたような顔をする。

「本当にいいんですか?」

「どうしてですか?」

「だって、一族の皆さまだけの特別な祝詞(のりと)のようなもので、大切にされているものかと思ったので、断られるかもしれないなと……」

「……むしろ誰にも歌われることがなくなって、消えてしまう方が寂しいです……きっと私の代で途切れてしまいますから……」

「そんなことありませんよ、先生も赤ちゃんを産んでお母さんになったら、子守唄にして伝えられるじゃないですか……」

「そうですね……」

 操祈はレイのことを想って、ほんのりと頬を赤くする。

 だが、彼の子供を作るということにはリアリティーを感じなかった。

「さすがにまだお早いですか?」

「え――!?」

 恋人の若さを指摘されたように感じてびっくりしたが、そうではないようだった。

「二十代初めに第一子を産むというのは、母子ともにいちばん良いとか言われているらしくて……」

「そうですね……でも私はその前に相手を見つけないと……」

「え!? お交際(つき)あいされてる方、いらっしゃらないんですか?」

「ええ……」

 嘘を吐くのは後ろめたいが、相手が相手だけに仕方がない。

「そうですか……」

 凛子はそれ以上、立ち入ろうとはしなかった。

「わたしもです……だから両親は心配していて……」

 その言葉に操祈は驚いたが、彼女が嘘を吐いているのは窺えた。それで、互いに人には言えない恋愛事情を抱えていることを感じ合ったのだと判ったのだった。

 コンコン――。

 教員室のドアが控えめに叩かれた。

 凛子が衝立から半身を覗かせて「はい――」と応じる。

 空気が重くなりかけていたところに折良く水を差された形になって、凛子との話はそれまでになった。

「なにかしら?」

「あの、操祈先生は……」

 声は舘野唯香のものらしい。

「いらっしゃるわよ」

 操祈も椅子を動かして、衝立の陰から顔を出す。細く開いた扉の隙間に教員室内を恐る恐る窺う少女たちの顔が見えていた。唯香と上田由香奈、それに篠原華琳の三名である。

「なぁに? 入ってらっしゃい」

「いえ、ちょっと……」

 どうやら教員室内では話しにくいことらしく、操祈は自分から席を立つと廊下に出ることにした。外には三名のほかに田野倉美麗、小田切芳迺、安西遥果の姿もあって

 彼女が現れると、六人の少女たちは深々と頭を下げるのだった。

「先生、ごめんなさい」

 と、声を揃える。

「あら、どうしたの?」

 操祈は訊いたが、少女たちが何を謝っているのかはすぐに察しがついた。

「やっぱり、あなたたちだったのね……」

 先のホームルームで操祈をヴォーカリストに嵌め込むという画策をしたのは、他ならぬこの少女たちなのだった。

 それに……。

「紅音さんも、そうよね? 一枚かんでるんじゃなくて彼女が黒幕?」

「やっぱり判っちゃいますか……」

 唯香がすまなそうな顔をしている。

「だって生徒会がらみとなれば、まずクラス委員を疑うでしょ? 企画書に罠をしかけるなんて悪知恵を働かせるのは……」

 操祈は苦笑した。

「それで私たち、どうしても先生がお嫌なら、ヴォーカルの件は辞退されても構わないってお伝えしようと思って……」

「もういいのよ、そのことは……わたしも覚悟を決めたから……」

 操祈がそう言うと、六人の少女たちは喜びを素直に表して、小躍りをして手を叩いていた。

 自分が最初に送り出すことになる生徒たちとの思い出作りとなれば、やむをえないとも思うのだ。少女たちが破顔するのを間近にすると、ますますその決心を強くせざるをえなくなる。

「それで先生っ、お詫びついでに、もうひとつお願いがあるんですけど……」

 いちばん小柄な美麗が言った。

 言葉の選択が微妙にあやしかったが、それも含めて少女らしい愛嬌がある。

「あら、なぁに?」

「リードヴォーカルをするとなると選曲も大事ですよね、歌いやすい曲とか、好きな曲とか……」

「そうねぇ……」

「それで私たちこの後、カラオケに行って下調べしようと思っているんですけど、もし宜しければ先生にもご参加いただけないかなと思って……」

 何かと思えばカラオケのお誘いだった。

「うーん……」

「お忙しければけっこうなんですが……」

 そう言いつつも、少女たちの眼差しには期待の色がありありと窺えるのだ。

「今日は金曜日だしぃ、明日はお休みよねぇ……」

 レイとのデートは明日の夜だった。部屋のお片付けとか、お洗濯とかをしたいところだったが明日一日の猶予はあった。

 操祈は、ちょっと間をおいてからため息をひとつ。それを見た少女たちは顔を綻ばせる。

「いいわよ」

「やったぁ!」

 少女たちがまた小躍りするのを見届けると

「どうすればいいの?」

 と、訊く。

「みんなにバレるとひと悶着になるので、こっそりということで……」

「特に男子にバレたら、ぜぇったいに混ざろうとしてくるはずなので、絶対ナイショですっ」

「他の女子たちにも、私たちだけ抜け駆けするようでワルいんですけど……」

 六人の中ではリーダー格らしい唯香が気働きを見せていた。

「あなたたちとは約束もあるから、送別会とは別に、いつか埋め合わせはしないといけないとは思っているんだけど……だんだん時間が迫ってくると、なんとなく切なくなってくるわよねぇ……でも卒業したからって、それで一生会えなくなるってワケじゃないから」

 操祈の言葉は少女たちを感動させたようである。

「先生……」

「わたし、先生のこと、本当に大好きなんですっ」

 美麗が真っ先に抱きついてきて、それをきっかけに残りの少女たちからも迫られてしまった。

 小柄な田野倉美麗を除くと、みな体つきはすっかり大人びていて、とても“二十四の瞳”というような絵にはならずに人垣に埋もれそうな感じになっている。

「ありがとう……わたしもあなたたちのことが大好きよ……」

 抱擁がしばし、

「じゃあ、六時に先生のアパートまでお迎えにあがりますので」

 唯香がそう言うと、少女たちは跳ねるような足取りで廊下を去っていくのだった。

 




回り道をしましたが次回から
リア充たちの夜――
になります


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サタデーナイトフィーバー 〜リア充たちの夜〜 1

 

 21:30 p.m.――。

 

「あらぁ、レイくん果物きらいなのぉ? ぜんぜん食べないのねぇ」

 キッチンからリビングに戻ってきた操祈は、皿盛りの、きれいにカットされたリンゴとデコポンの剝き身に全然手がついていないのを不思議がった。

「え? これ、ボクにだったんですか? てっきり先生の分だと思ったから……」

 少年は意外そうな顔をしている。

「あら、なにいってるのよぉ、あなたのために用意したのにきまってるでしょぉ」

「……じゃあ、先生のは……?」

「あたしのはここにあるわよぉ」

 自分用に皿盛りされたフルーツをローテーブルに置くと、レイの隣に腰を下ろした。

 少年はカウチの背もたれには身をあずけずに、背筋をピンと伸ばして端然と座り、穏やかな笑みを浮かべたまま操祈の挙措動作を追っている。

 やさしい目……眼差し……。

 それに気がついて胸がトキンとなった。

 教室にいるときとは違って、生徒から情を通じた男の顔に変わっているのだ。だが、それを(さわり)と感じないほど操祈も寛いだ気持ちになれるのだった。

 レイが彼女の部屋に現れたのは九時ちょうど。約束していた通り、今夜はいつもよりもだいぶ早くに来てくれていた。

 どうやってオートロックを解除したか、監視カメラをかい潜ったのかはわからない。だが操祈も、もう敢えて質そうともしなかった。

 賢くて周到な少年のやることには滅多なことで手ぬかりなどないと信じられるからだった。

 いざとなれば透明化フィルムのような奥の手まで用意して、図書館のキャレルさえプライベートな空間にすることができると知らされた今、大抵のことには驚かなくなってしまっている。

 あのときは本当にびっくりだった。後の山崎碧子とのことも含めて……。

 まさか陽のある内に学校で愛し合うことになるなんて――。

 その後、フィルムの件を訊ねても、レイは

「“とある企業”が開発中の試作品をちょっと借りることができただけで……返却しましたけど――」

 と、言っただけではぐらかされてしまった。

 肝心な点は、中学生の男の子がどうして知っているのか、何故そうしたものへのアクセスが可能なのか、だったのだが、そこに触れようと思うとどういうわけか差し障りを覚えて踏み込めずにいる。

 結局、レイについては訊きたいことが他にも幾つもあったのだが、自分から問うよりも、いつか彼の方から話してくれるのを待つことにしていた。

 時が来れば、必要なことはきっと打ち明けてくれるに違いない――。

 それは肌を許した女の覚悟とも言えるものなのかもしれなかった。

 彼――のためなら、どんなことでもできるし、もう命を失うことさえも怖くはなかった。

 操祈がなにより辛いのはレイと逢えなくなること、最愛の恋人を失うこと。もしそんなことになれば、きっと心も体も壊れてしまうに違いない。

 否、むしろそうならなければならない、と思う。

 いちばん大切なものを失うのだから、滅びるのは当然だった。

 ただ、現実の彼女はそんな胸の裡を(おくび)にも出さないようにしている。

 それは年上の女がミドルティーンの男の子に対して、教師が教え子に対して求めることではないとわきまえていたからなのかもしれない。

 考え出すと、ともすれば屈折しそうになるのを切り替えて、操祈は笑顔をパッと咲かせる。

「食べて――」

「う、うん……」

 少年を促すつもりで、自分からフルーツフォークをカットしたリンゴの一つに刺すと口へと運んだ。

 操祈がリンゴを頬張るのを見て、少年もデザートプレートへ手を伸ばす。

「これ、柑橘はデコポンですか? リンゴは、ふじ?」

「ええそうよ……きらい?」

「いいえ、どちらも好きですよ」

「ならよかったぁ」

 少年は揃えた膝の上に皿をのせると、リンゴを口に運ぶ前に

「いい香り……」

 と、操祈に微笑みかけてくる。

「そうね……」 

「……でも、先生のだいじなところの香りにくらべたら、遠く及ばないですけど……」

 少年が自分をまんじりと見つめながらそう言って、たちまち操祈は頬を朱くする。

「もう、なにいってるのよぉ……すぐ変な方に話をもっていこうとするんだからぁっ……」

「だってすぐそばに、もっと大きくて立派な果実があるんだもん、早く剥いて食べたいなって思ってるのに、ずっとおあずけをさせられてて」

 少年の不躾な視線が胸と顔との間を行き来していて、

「こらぁっ、どこ見て言ってるのよぉっ」

 操祈は薄いピンク色のセーターの前を腕で庇いながら、優しげな形の眉をキリッとさせる。美しい姉が不出来な弟をたしなめる時のように。

 だが操祈の瞋恚(しんい)は、かりそめのものと見透かされていて、

「それが愉しみで来てるのになぁ」

 少年はぬけぬけと言うのだ。

「もう、ホントにしょうのない子なんだからぁ……」

「だって、先生がちょっと体を動かすだけで、空気が動いて、すごくいいにおいがするんだもん……柑橘系の香りなんかよりもずっと素敵なにおいが……」

 あからさまに鼻をひくつかせて操祈の纏う雰囲気を嗅ぐそぶりを見せるのだ。

 少年の本気を感じると、操祈は睫毛を伏せるしかなかった。

 望まれれば今すぐにでも着ているものをみんな脱いで一糸まとわぬ姿にならなければならなかったし、求められれば体をひらいて全てを差し出さなければならなかった。

 それが閨での女のさだめ――。

 自分の隣にいるのは教え子の一人などではなく、女の体に愛されるとはどういうことかを教えてくれた最愛の男なのだ。

 そしていま二人がカウチに並んでいるのも、この後、ベッドで愛し合うためだった。

 互いの気持ちを確かめ合うために、恥ずかしくて、とても口にはできないようなことをして。

「先生……顔をよく見せてください……」

 少年の両手が伸びてきて左右の頬を挟まれてしまう。

 額にかかった前髪を丁寧に撫でつけていき、操祈の顔を面にする。

 広い額、大きな瞳、整った鼻梁、顎の繊細なライン……。

「……なぁに?……どうしたの? レイくん……」

「きれい……こんなにきれいな女のひと、どこにもいないから……」

 指の先で眉を柔らかくなぞられる。顔の形を確かめるように、耳の後ろ、顎、口、そして鼻へと……。

 少年の指が触れて、さすり、撫でていく。

 そうされる間も、操祈は瞳をぱっちり大きくして恋人の顔を見つめていた。

「……心のやさしいお姉さんで、とってもかわいい女の子で……今も、なんにも知らない顔をしているけど……でもボクは先生の体をこれまでいっぱい穢してきた……いろんなことをして……」

「……ええ……あなたの所為なのよ……あたしをこんなにしたのは……」

「……だって、ボクにとって先生のおっぱいよりも美味しい果物なんてあるはずがないし……温かくて蜜がたっぷりの果実を舌で切り分けるときの歓びに較べたら、他のどんなことも些細なつまらないことにしか思えなくなるから……」

「……言わないで……」

 淫らなことを仄めかされて、操祈は耳朶まで紅くしていた。それでも恋人の瞳の色を見つめ続けていた。

 交わりを目的としない性は、どこまでも続く迷宮のようなものなのだった。終わりがなくて豊穣で、そしてとても背徳的。それゆえに女にとって一度でも陥ってしまったら、けして一人では這い上がることのできないアリ地獄のようなもの。

 操祈は自身の密やかな粘膜が、やがて降りかかる試練に備えるように、ぞくり、と(あや)しく(うごめ)くのを意識せずにはいられなかった。

「今夜は、もっといけないことを教えてあげるつもりですから……」

「……なにを……するの……?」

 操祈は長い睫毛を(しばたた)かせて不安げな顔になる。

「まだ内緒です……でも、痛いこと、傷つけるようなことはしませんから心配しないでください。ただベッドだと後が大変になるかもしれないので、お風呂場でした方がいいかもしれませんけど……」

「――っ!?」

「そんな顔しないでください。先生がいつだってカワイイからしたくなることなんですから……大丈夫ですよ……ボクを信じて……」

 少年は自分のデザートプレートからリンゴを一つ摘みとると、操祈の口もとへともってくる。

「さあ、食べて……先生……」

 命じられるままに口を開いて、カリっとひと齧りする。噛むとまた甘酸っぱい果汁が口中にひろがり、爽やかな香りが鼻腔に流れ込んでくる。

 少年はその容子をじっと見つめていたが、突然、唇を寄せてくるといきなりのディープキスになるのだった。

 イヤっ――!

 と、身構えるよりも先に、彼女が口に含んでいたリンゴの咀嚼物を元気な舌が動き回ってかきとるようにして貪りはじめた。

 糸を引くような長い口づけから解放された時、操祈の口の中にはもう何も残ってはいないのだった。

「やだっ、レイくんっ!」

 抗議する目の前で、少年は口をもぐもぐさせていて嚥下している。

「こっちの方がずっと美味しいし、ステキだから」

 少年は嬉しそうにしていたが、操祈は突如こみ上げてきた感情に、急に目頭が熱くなってきて大きな瞳からは涙が溢れていた。

「え、先生っ、どうして泣くのっ――?」

 少年は驚いた容子で戸惑っていた。

 あれっ、あたし、どうしたんだろう……?

 操祈も指先で目を拭いながら、涙で濡れているのにびっくりしていた。その間にも涙が途絶えることなく頬を伝って流れ落ちていく。

「ごめんなさい……そんなにイヤだったなんて……ボク……」

「ちがうのっ……」

「また先生のこと泣かせちゃった……」

「泣いてなんかいないわ……ただ、いきなりだったから、ちょっとびっくりしちゃっただけよ」

「ホントに……?」

「うん……大丈夫……」

 自分でもどうしてそんなことになったのか判らなかった。舌と舌を絡め合うキスなんて、いまでは普通なことになっているのに……。

「でも、あんないけないこと、もうしないで……」

「いけないことなのかな……」

「いけないことよ……ほんとに、変なことばっかりしたがって……わるい子なんだから……」

「他の女の子には思いもしないことでも、先生にはゼッタイにしたいなって思うことって、いっぱいあるから……」

 少年は唇の間に舌を覗かせて挑発していた。

「もう、イヤぁね……エッチ……」

「エッチな男の子は嫌いですか? 何にもしない子の方が好き?」

「……すぐそんなイジワル言って……にくらしい……」

 今度は操祈の方から唇を求めた。慎ましい口づけを。

「わたし……あなたのことを、本当に……大好きなんだゾ……だから……だから……」

 思いを口にするうちにまた気持ちが揺れて、つぶらな瞳が潤んでくる。

「そんなにカワイイ顔して挑発されたら、ボク、もう手加減なんてできっこないじゃないですか……」

「その時は、泣くわ……泣くもの……わたし……レイくんのこと、恨んで……」

「ええ、いっぱい泣いてもらいますよ……今夜は……明日の朝まで……たっぷり……」

「……だいっきらいよ、そうやって先生を蔑ろにする子なんて……」

「いま大好きって言ってくれたばかりなのに、もう言葉を(ひるがえ)すんですか? 先生なのに……」

「ええ、そうよ、だってもう、あたし、先生じゃないもの……ただのおんなだから……レイくんの……」

「じゃあボクも、しっかりオトコの務めを果たさせてもらいますね……先生がどんなに泣いても、拒んでも……」

 少年の腕が背中に回されてきた。小柄だけれどやはり男の力は思いがけないほど強くて、抱きすくめられると操祈はすっと意識が遠のきそうになる。

「愛してるわ……レイくん……だから……」

 口づけになる。今度はディープキスと普通のキスとの間ぐらいものに。

「だから……なんですか……?」

「あら、なんだったかしら……忘れちゃった……」

 だから――の、先の言葉を、やはり操祈は口にすることができずにいるのだった。

 




この節では時刻を追って

操祈を筆頭に六人の美女、美少女の一夜を描くつもりです

明日? は鶯谷のホテルで・・・


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サタデーナイトフィーバー ~リア充たちの夜~ 2

 JR鶯谷(うぐいすだに)駅北口裏手にひろがる怪しげなホテル群、そのうちの一つ、最も奥まった一角にある和モダンを演出しているらしい宿の浴室で、胸の巨きな美しいプロポーションをした女がシャワーを浴びていた。

 この夏には三十六歳の誕生日を迎えることになりアラフォーも間近だったが、未だ男を知らない体は二十代の若さと瑞々しさをとどめていて、ほの白い肌の上にはまるで散りばめられた宝石のように撥ねた水しぶきが珠をなしている。

 

 まさか……こんなことになろうとはな――。

 

 女はひっそりと囁くように、またひとりごちた。

 長い栗毛も豊かな、いまだ衰えを知らぬ美貌。

 木山春生――だった。

 そして浴室の外には、かつての教え子で今は大学三年生になった井之上優樹を待たせている。

 時刻は、午後の九時半を少し過ぎたところ――。

 本来ならとっくに家路についている筈だった。

 にもかかわらず彼女は生まれて初めて――こうした場所での夜を迎えようとしていた。

 多分このまま居続ければ彼と一線を越えることになる。それは春生にも判っていたが、それが今も現実感を伴わずにいたのだ。

 本当にそんなことが自分の身に起きることが信じられなかった。しかも相手は、あの、ゆうくん――なのだ。

 もちろん、当時と今とでは互いに立場も容子も全然異なってはいる。

 しかし、春生にとってはやはり幼い頃のイメージが焼きついていて、にわかには拭い去れずにいるのだった。

 自分の胸にしがみついてよく泣いていた八歳の男の子、彼女が教室を去ると知って泣いて引きとめようとした男の子。

 そして――。

「大きくなったら先生と結婚するっ」

 そう言って、真っ赤になって必死で思いのうちを訴えた幼い子供の頃の彼の姿が、いまも微笑ましくも鮮やかに蘇ってくる。

 優樹は教え子たちの中でもとりわけ親近感を覚える子で、肌あいとしては親子のような感覚に近かったのかもしれない。

 実際、出生率の高い途上国では、並んで歩けば今もきっと親子としてしか見られないだろう。

 ただ――。

 そこから先、春生の心はなぜか落ち着かなくなる。

 はたしてそれは本心なのか、と。

 自分を偽るための、まやかしの母性なのではないかとの疑念がちらついていた。

 その実、彼女はアパートを出る前に既に一度、入念な入浴を済ませてきてもいたのだ。まるでこうした事態になるのを予見してでもいたかのように。

 優樹とこの日の夕食の約束をしてからというもの、ここ数日は鏡の前に立つことも増えて、その都度、自身の容姿のチェックをしては溜め息をついていた。怠っていたムダ毛の手入れや、付け焼刃のダイエットコントロールをして、普段はさして頓着などしていなかった身につけるものにも気を配り、その上、今日はうっすら化粧までもしている。

 そんなことは記憶にある限りは、戯れに母親のルージュを塗って叱られた子供時代以来のことなのだった。

 どうかしているのではないかと思わずにはいられないほど、おんな――としての自分を取り戻そうとしていた。価値を高めようと躍起になっていた。

 教え子の一人と会う、というにしては構えが過ぎるのではないかと思うのだが、それを彼女は、

 たとえ幼い思い込みに過ぎなくても、自分に悩める胸の裡を告白してくれた男の子の夢を損なわないように努めるのは当然のことで、むしろ義務なのではないかと言い聞かせて正当化していた。

 けれども、それが体のいい言い訳であるのを、この日、彼女は戸惑いながらも認めるしかなかったのだ。待ち合わせの場所で優樹の姿が視界に入ると、とたんに別の感情が兆してくるのを意識せずには居られなかった。

 それまでは、ただの気の迷いの所為にして済ませていたものが、おぼろげながら次第に形を成そうとしていた。そしてひとたび自分が相手を異性として見ていることに気がつくと、心とは(まつろ)わぬものでバックギアどころかブレーキさえも装備がされていないのを知るところとなる。

 もし神が居るのなら、ヒトの心の仕様書には問題点ばかりだと、ユーザーからのクレームをてんこ盛りに書きなぐって送り返してやりたいところ。

 これでは当初から事故を起こすことを企図されているようなものではないか。 

 そんなこともあって、夕食を不忍池近くの老舗の鰻店――彼は去年こっちに移って来てから初めてだと大喜びしてくれた――でご馳走し、送りがてら公園を横切って最寄り駅から帰途につくつもりが、なんとなく名残を惜しんで、未練がましくもそのまま駅を越えて彼の下宿のあるという方へと散歩を続けてしまったのだ。

 意外だったのは駅向こうの街並み。線路を越えると、街の様子は一変して急にアダルトな雰囲気になっていて、いきおい色々なことを意識をしないわけにはいかなくなってくる。

 本当にこんなところに学生寮があるのかと訝しんだが、本人によると大学まで近いことと、何はともあれ安さで選んだのだという。この時分に賄い付きというのも重宝しているそうで、寮費を聞けば確かに頷ける好条件だった。

 これだとアルバイトをせずに奨学金だけでギリギリやりくりできるからと言って、大きな体で子供のように屈託なく笑うのだ。昔の面影の残るドキッとするほど魅力的な顔になって。

 一緒に歩くと分かる、なにげない気遣いと心配り。寄せられる素直な敬意もくすぐったいが悪いものではなかった。

 半分ほどの歳でしかない若い男性に守られている、というのが女にとってはとても特別な経験なのだと感じずにはいられない。

 その上で――。

 気持ちはあの頃と少しも変わっていない、と告げられた。

 彼から何を言われているのか分った途端、春生は依って立つ足元を失ってしまうほどの衝撃を受けていた。

 その後、どこをどのように歩いて、ここまで来てしまったのかよく覚えていない。

 酔っているわけでもないのに、ふわふわとした夢の中を彷徨っているような心地のままに、気がついたときには彼にエスコートされて宿の軒を潜っていた。

 部屋に入り、畳敷きの寝室に置かれたダブルサイズのベッドが目に飛び込んできてから漸く、自分たちがこれから何をしようとしているのかが判って、にわかにたじろいで浴室へと逃れたのだ。だがそこでも結局、こんなのは自分じゃないと思いつつも、彼女はまるで何者かに操られてでもいるかのように服を脱いで裸になるとシャワーを浴びはじめていた。

 はたしてこれで良いものか、大きな過ちを犯しているのではないかと、同じことを繰り返し問い続けながら。

 温かい湯を体に掛けつつ、誰かの作った夢でも見せられているのではあるまいか……とも思う。

 まっさきに疑うのは、やはり食峰操祈だ。

 全盛期ではなくとも、彼女であればその程度の精神操作は容易(たやす)いことだろう。自分が図らずも彼女のプライバシーの侵害に関わってしまったことへの意趣返しだろうか?

 だが、そんな筈はなかった。

 彼女が能力を回復などしていないことは、ワイディマでの盗撮に無防備であったことからも判っていた。高度な精神系の能力者であれば、自身が駆使する量子場の揺らぎに気がつかないワケがないからだ。

 盗撮されているのを承知の上で、あんなにも一途な姿を晒すなどとは考えられない。

 だから――。

「……わたしは……どうしたらいいのだ……」

 両手で顔を覆う。優柔不断さが情けなかった。

 いざこのような状況と向き合うと、女としての引き出しの貧しさを嘆くばかりになる。

 もし自分が今よりも十歳若ければ……そして、あの食峰操祈のように自身の魅力に自信と誇りを持てるのなら……。

 これを天の配剤、巡り合わせと都合よく捉えてすぐにも前のめりになれたのかもしれなかった。

 けれども(よわい)を重ねて疑り深くなった女の性として、怯んでしまう。

 運命が仕掛けた破滅への罠なのかもしれないと、たじろいでしまうのだ。

 きっと彼女なら、こんな時、もっとスマートに処理できるのだろうに……。

 年下の恋人の愛撫に、寝乱れていく姿の美しかったこと。

 めくるめく陶酔の最中に刻々と表情を変えていく女体の魅力は、同性であっても官能の極みを感じずには居られなかった。

 あの映像は、何度繰り返し見ても新しい発見のある、人のいとなみとしての性の奥深さ、豊かさを教える素晴らしい資料だった。

 もしもあんな風に愛し合えるのなら、世界は光り輝いて見えるに違いない。

 でも、それは自分には到底なしえないことだというのが解っている……。

 彼女とは違うのだ……何もかも――。

 シャワーの蛇口に手を伸ばしかけた時、浴室の扉が控えめにノックされている事に気がついて、

「なにか――?」

 ドア越しに応えた。

「あの、先生、ヘアキャップ、お使いですか?」

「ヘアキャップ――?!」

「髪は濡らさない方がいいのかもしれません……」

「ああ、そうか……そういうものなのか……」

 備え付きのアメニティーセットの中に使い捨てのものがあることに気がついた。

「これかね?……使ってみることにしよう、ありがとう、ちょっと濡らしてしまったのだが……まあ大丈夫だろう……」

 きっと、彼はこういう事情には通じてるのだろうと思う。

 それも宜なるかな。

 並んで歩いていると、時にすれ違う若い女たちがハッとした面持ちになって、隣を歩く彼を振り返る場面に何度も出会(でくわ)していた。自分へと向けられた羨望とも嘲りともつかない眼差しと合わせて。

 彼なら大学でも女子の人気を集めているのに違いない。

 甘いマスク、落ち着いた響きで安心感を抱かせる声音、聡明さと誠実さを感じさせる振る舞い。きっと将来は、多くの患者からも信頼される優秀な医師になるだろう。

 歳月は人を変えるという。確かに彼の場合はそうだった。

 しかし、大人はそんなに器用に変われるものではないのだ。

 たしかに彼女にも、十年という歳月の間にはさまざまなことがあった。

 巨大スキャンダルの大波は、直撃こそ免れたものの、それまで歩んできた生理学研究者として順風満帆のキャリアに大きな軌道修正を迫られ、一旦は非常勤の講師として教壇に立つことで糊口をしのいだり、あるいは一般製薬企業の研究部門で陳腐なドラッグデザインに携わるようなこともあったりして、その都度、自分の人生を振り返るきっかけを得たように思うこともあったのだった。

 しかし気がつくと、春生はやはりまた学園都市に舞い戻っていて、十年前と同様、まるでリメイク映画のように灰色の研究者としての日常を繰り返していた。

 静かで、そして退屈な――。

 表面的にはなにもかも昔通り。

 ただ実際はゆっくりと坂道を転げ落ちていくばかりなのだった。

 初めは変化に気がつかないほど僅かだが、やがては日々、そして刻々、それを感じざるをえなくなる。

 殊に女の場合は――。

 それを思い出して、まるで悪意のある高利貸しとの契約のようだ、と苦笑いをする。

 人生のバランスシートに赤字だけが複利で累積していくのだとしたら、いっそのこと冒険してみるのも面白いのではないか?

 どうせいつかは破産すると決まっているのなら、それが多少早まろうと大した違いでもあるまい。

 開き直ってここに留まる理由を探し、すぐにそれこそが本音だったことに気がついたのだ。

 女である自分を経験してみたい――。

 それは悲鳴のように心の奥底から発せられる希いだった。

 あらためて鏡に映った自分の体と向き合う。

 本当は愛されることを望みながら、与えられることのなかった我が身が不憫に思えた。

「これも、自分の体を使った実験だと割り切ればいい――」

 虚勢とも自己憐憫ともつかない言葉が口をついて紡ぎ出された。

 どんな結果になろうとも、学びはある。

 前後の心と体の変化を観察する為の人体実験のひとつだと思えば、いくぶん気持ちが楽になった。

 そう覚悟を決めた木山春生は、脱いだ服を身につける代わりに、備え付きの白いバスローブにみごとな裸身を包んで浴室のドアを開いたのだった。

 




1000字余りですぐやっつけるつもりが・・・

例によって無駄に長くなり・・・

次は舞台を赤坂に移します


そうだ、ついに100回、到達です
お読みいただいている方たちに感謝いたします


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サタデーナイトフィーバー ~リア充たちの夜~ 3

「どうされたんですか? 美由紀先輩、さっきから少しも食べてないじゃないですか」

「………」

「もしかして、イタリアンはお嫌いだったりしますか?」

「………」

 赤坂、一ツ木通りにあるトラットリア、“グロッタ”で、森下美由紀は社の後輩の斎藤俊介と少し遅いディナーを共にしていた。

 二人の座る三階の窓際のテーブル席からは賑わう夜の街並と、そこを寛いだ容子で行き交う人々の顔が見えている。

 時刻は午後九時半を回っていたが、土曜の夜ということもあって百平米足らずのさほど広いとは言えない店内はほぼ客で埋まっていた。

 場所柄もあって出勤前の夜の蝶と思しきケバケバしい化粧をした女とパトロン、あるは学生同士といったカップルも居合わせる中、彼女の品のある大人の美貌はやはり他人目を惹いていた。

 客たちの中には美由紀のことを、すぐ近くにあるテレビ局の女子アナかなにかだろうかと囁きを交わすものも居たが、実際、当たらずといえども遠からずだったかもしれない。

 牧原(まきのはら)美由紀が大学を卒業後、最初に就職をしたのは地元テレビ局のアナウンサーとしてだったからだ。本人の希望は高い語学力を活かして在京局の国際部、外信部などでキャリアを積むことだったが、それよりも評価されたのは大学で準ミスに選出されるほどの美貌の方だった。

 しかし入社早々に学生時代から交際していた一つ年上の、当時はまだ工業大の大学院生だった森下翔悟と結婚、その翌年、妊娠が判ってからは産休という形をとり、その後は業界の気風と水が合わなかったことや、夫の海外転勤への随伴、育児に専念するなどの理由で退社、ようやく子育てに一段落がついてから今の職場に再就職をして今年で七年目になっていた。

 俊介とは十歳近くも歳が離れていたが、入社年次では三年しか違わず、また出身大学だけでなく学部までもが同じだったこともあって、社内ではいちばん近い後輩として、また気のおけない部下として打ち解けていた。

 その関係に変化の兆しが現れたのは一昨年、夫と死別してからだった。

 寡婦(かふ)と子供だけの二人暮らしの世帯にとっては男手はなにかと頼りになって、亡夫がリースしていたC350の契約変更の際には、俊介の乘っていた軽自動車が同じリース会社だったこともあって有益なアドバイスをしてもらったり、また美由紀の帰りが遅くなる時など、夫の代わりに塾帰りの翔馬を迎えに行ってもらうことが何度かあって、彼女たちのマンションを訪れることもあったからだった。

 もちろんその頃の美由紀はプライベートでは翔馬のことで頭がいっぱいで、俊介を異性として意識するようなことはまるでなかった。

 ただ、好意には気がついていて、はてどうしたものかとも思ってはいたのだった。気づいていてそれを利用していたとなると、やはり落ち着かない。

 もっとも、幸いというべきか彼は他の若い女子社員からの人気もあって、とうてい自分などが立ち入る隙間などあるはずがない高を括っていられたのだった。

 十歳も歳の離れた若い部下と関係を持つ、ということが絵空事のように思えてまるで実感が伴わなかったのだ。

 振り返ると、油断していたのかといわれれば、きっとそうだったのだろうと思う。

 彼から告白された時、初めはからかわれていると軽く受け流すつもりでいたのだが、本気だと踏み込まれてからは毎朝の出勤の足取りは重く悩ましいものになってしまった。職場でもなんとなく気まずく、つい意図に反して俊介を疎んじるような振る舞いになったこともあったのかもしれない。

 それでも彼の真摯に仕事に取り組む姿勢には上司として好感が持てたし、それまで通りの関係を続けていれば、いずれ時が解決するだろうと思っていたのだ。

 その上辺だけ落ち着きを取り戻していた関係に、決定的な変化をもたらしたのは昨秋のことだった。

 その頃の美由紀は、夏休みを終えて以降の息子の思いがけない変わりように胸を痛めていたのだが、秋になってそれがいよいよ容易ならざる状況に陥っていた。翔馬が、それまで成績急降下しつつもなんとか合格圏内にとどまっていた都内トップの進学校の受験を止めて、いきなり学園都市への進学をすると宣言して塾も止めると言い出したのだ。

 利発で聞き分けも良く、夫亡き後は美由紀にとって心の支えであり、生きていく意味、生き甲斐そのものとも言えた愛息の反乱は、彼女の心に大きな打撃となっていた。

 さらに追い討ちをかけたのは、自分の与り知らないところで再婚話がトントン拍子に進んでいて、気がついた時にはすっかり身動きが取れなくなっていたのを実感させられたことだった。

 妹の真彩の嫁ぎ先となった料亭グループが追加融資の必要に迫られ、美由紀の再婚相手候補と目される人物が経営陣に居る銀行から多額の支援を受けていることが明らかになったのだ。

 この一件では実家も妹側にまわって泣きついてきて、彼女はすっかり途方に暮れてしまった。

 そんな心の隙を突かれて――というとまるで相手に非があるようだが――美由紀は、ついに俊介の求めに応えてしまったのだった。

 翔馬が学園都市での能力者育成ウインターキャンプなどという妙な合宿に参加すると言って家を出てしまい、冬休みの間中不在となったために十数年ぶりに独りで過ごすことになったクリスマスの夜、とうとう俊介を部屋に招き入れていた。

 ただし、一度だけのつもりだった。

 しかし――。

 俊介は、亡き夫の翔悟と較べるとあらゆる意味でタイプの異なる男だった。それを(しとね)で思い知らされてから、仕事ぶりでは頼りないとばかり思っていた後輩を、彼女は初めて大人の男として見るようになり、そして怖い――とさえ感じるようになっていた。

 堅実なエンジニアで、今になって思うと恐らくセックスも淡白だったのだろう翔悟とは違い、俊介は女の扱いが実に巧みだったのだ。

 結局、年を開けてからもあたり前のように週に一度、もしくはそれ以上の頻度で枕を交わす間柄となっていた。

 情熱的で女体の機微に通じ、サービス精神に溢れたテクニシャンの若い男を相手に、美由紀は二度目の恋をしていた。

 三十路の半ばを過ぎて再び――ある意味では初めて――女の歓びに目覚めた彼女は、また一段と輝きを増して二十代の初めの頃とは違う意味での匂いたつような色香を放つようになっていた。

「この店、値段も手頃で学校から歩いて来られることもあって学生時代から、部の連中ともけっこう利用していたんですけど、先輩のお口には合いませんでしたか?」

「………」

 目の前には、アンティパストの生ハムとチーズがあったが、ほんの少し手をつけただけでそのままになっている。

 味は悪くなかった。ワインもおきまりのブランドだったが不満はない。

 ただ美由紀は、そのいずれにも始めにほんのお追従程度にお付き合いしただけで、あとは手を伸ばす気にはなれなかったのだ。

 それというのも今の彼女は、とても呑気に食事を楽しめるような状態にはなかったからだった。

 店内の喧騒に紛れて判らなかったが、もしも静かな場所であれば、きっとブーンというモーターの振動音のようなものが漏れているのが聞こえていたであろう。それはスマートフォンのマナーモードよりもかすかに、そして時に音程を上下させながらも執拗に長く続いているのだった。

 美由紀は人知れずその音の発信源と必死で戦っている。

 少しでも気を緩めれば、ああっ――と、甘い悲鳴が溢れてしまいそうになるのを堪えていた。

 傍目には、太ももをしっかりとじ合わせて身をすくめてうつむく容子は、男から別れ話を切り出されて泣いているようにも見えたかもしれない。

 だが、豊かに涙を溢れさせているのは彼女のもっとも密やかな部分なのだった。茂みの奥に巣くった卑しい玉子が時に振動し、時に戒めるように膨らんできて女の命の泉を無慈悲に絞り出そうとしていたからだ。

「……おねがいっ……斎藤くんっ……ここではっ……もう堪忍っ……」

 声がうわずらないように、低い声で囁くように哀訴する。

「堪忍って、どうされたんですか?」

「………」

 男は彼女をとことん追いつめるつもりでいるようだった。

 薄切りにされたチーズの一つを口に含み、舌の上でキャンティで転がしながら、興味深げにこちらの容子を窺っている。

 片手で長めの髪をかき分けながら、文学青年臭い生真面目そうな顔をして。

 背は特別高いわけではないが胸板が厚く、ぴったりとしたタートルネックのセーターになるとそれが際だって、学生時代は演劇部で体型を整えるべく鍛えていたというのも頷けた。

 本気になれば力づくで、ベッドの上の美由紀にどんな大胆なポーズを強いることもできるのだろうが、けれども彼はそれをけしてしないのだった。

 その代わりに時間を味方にして彼女の方が音を上げるまで奉仕する。

「じゃあ、僕の言うこと、なんでも聞いてくれますね?」

 彼女が応えずに居ると、テーブルの上に置いてあったスマートフォンの画面をそっと指でなぞった。

 途端、美由紀は

 ひぃぃっ――!

 声にならない悲鳴を上げて身を竦めた。

 彼女の熱くぬかるんだ肉うろの中に居ついたそれが、ビュンと身じろぎをして、女の最も感じやすい部分を裏側から突き上げるようにして(こす)り始めたのだ。その深刻な快美感はもはや拷問といっても良いほど。

 タイトスカートの中で腰はブルブルとわなないている。もう一瞬でも気を抜けば、そのとたんに公衆のただ中で果ててしまいそう。いったん堰をきってしまったら、頼りないおりものシートぐらいでは粗相を隠すことはできないかもしれなかった。

 もしもそんなことになれば……。

 俊介は苦悶に喘ぐ女の艶めいた表情をひとしきり堪能して満足したのか、またスマホの表面を軽くタップした。すると美由紀が温めていた玉子も動きをピタリと止める。

 責め苦から解き放たれて、ハァッと切ないため息をついた美由紀は、恨みがましい目をチラリとやって向かいに座る男の顔を盗み見た。

「すごく綺麗ですよ、美由紀先輩は……もう僕のコックはさっきからビンビンになって、Tボーンステーキなんてどうでもいいから早く先輩のあったかい肉の中に入りたいっ、ワインよりも先輩のラヴジュースを飲ませろって大騒ぎしてます」

 卑猥なことを囁くのだ。

「それでご返事は? まだ伺ってなかったませんが」

「……返事……?」

「先輩のもう一つの処女を、僕にくれるっていう約束のことです。旦那さんだったひとは、手をつけたこともなかったみたいですから」

「………」

「もちろん今夜とは言いませんが、そのためには少しずつステップアップする必要もありますしね、でも必ずいつかは……」

 それはぞっとするほど酷い提案なのだ。アブノーマルな要求。

「……どうして……そんなことを……」

「それは……罰ですね――」

「罰……?!」

 意外な物言いに、美由紀は眉を翳らせて男の顔をまんじりと見据える。

「わたしがあなたに何か酷いことをした? それなら謝るわ……でも……わたしが何をしたっていうの?」

「しましたよ……というよりしてくれなかった罪です……」

「……?……」

「先輩は、本当は僕のところに最初に来てくれるべきだったんですよ……それなのに他の男のところへ行って、子供まで作るなんて、どんだけひどい裏切りだったか……」

「何を……わけのわからないこと言ってるの……」

「おかしいですか?」

「だって、私が結婚したのは二十三の時よ、その頃あなたは、まだ十二、三歳のほんの子供だったじゃない……」

 とんでもない言いがかりだと思う。もちろん冗談だとは解ってはいた。

「でもあなたを愛することはできましたよ、今みたいに」

 きっぱりと宣言して美由紀を驚かせる。

「今みたいにって……そんな……」

 俊介のベッドでの振る舞いはとても濃いもので、およそノーマルな行為からは外れていると思う。あんな大胆なことを子供にできるはずがなかった。

 だが――。

「そんなこと普通ですよ。憧れの人を抱けるとなったら」

「………」

「もしも僕が十三で、先輩がそばに居てセックスできるチャンスを貰えたら、いま僕らがしているようなことをそっくりやってる自信があります……だってこんなにすごい美人の体なら、どこまでも知り尽くしたいと思うのが男の(さが)だから」

 若い恋人からの思いがけない胸中の吐露に触れて、美由紀はと胸を衝かれていた。

 はたして翔馬も、そういうことだったのではないかと思い当たるものがあったからだった。

 ひとり息子の成績降下の理由が、どうやら学園都市のある中学教諭に思いを寄せているらしいことに気がついた時には、母親として少し寂しさを覚えるとともに、成長を微笑ましくも思ったものだった。

 男の子が母親の代わりに年上の女に興味を抱くことがあったとしても、珍しいことでもおかしなことでもなかった。

 だが、それが今や彼女の胸を悩ませる大きな懸念になってしまっている。

 あの女教師……何という名前だったか……たしか変わった苗字だったことは記憶していたが……。

 確かに写真を見るととても美しい女性だった。やさしげな顔立ちからして、きっと性格も温和なのだろうと思う。男の子が憧れる女性の特性をいくつも備えているように見えた。

 でもだからといって、十歳も歳の離れた大人の女に子供が本気に恋をするなどというのは、やはり普通ではないと思う。

 そう思いたかった――。

「ねぇ斎藤くん、男の子っていくつぐらいから異性を意識するようになるものなの?」

「それって、セックスしたくなるかってことですか?」

 (ねんご)ろになった男のものらしい直裁な言葉が返ってきた。面食らいながら、

「え、ええ……まあ……そういうことだけど……」

「どうかな……個人差はあるかもしれないけど、でもマセたガキなら十歳かそこらあたりからじゃないかな?」

「そんなにっ? でも、さすがにいきなり大人の女に恋したりはしないでしょ? クラスメートの女の子とかで」

「いや、そんな線引きなんてないと思いますよ。好きになれば、それこそ歳の差なんて全然、関係なくなるから。だって、その年代からすればアイドルだってみんな年上になるし」

「そう……」

「どうかしたんですか? もしかして翔馬くんも最近、色気づいてきたとか?」

「え、うん、そうかもしれないって思うことがあって……」

「女親からするとヤキモキすることかもしれないけど、好きになったら周りが何か言ってどうなるもんじゃないから……そういうのって女性も同じじゃないのかな? わからないけど」

「………」

「まぁ相手次第ですね……もし僕が翔馬くんぐらいの時に先輩を知ってたら、そりゃあもう絶対に夢中になるに決まってるから……子供だからって一生に一度の相手との出逢いがないって考えるのは大人の勝手な思い込みかもしれませんよ」

「そうなのかしら……」

「むしろそういう場合は、思いが届かなくて受けるショックの方がリスクが高いかも……僕は大人だから何とかできましたけど」

「それってどういうこと?」

「美由紀さんに旦那が居るって知ったときは、結構、しばらくの間、食事が喉を通らなかったりしてましたから」

 と、苦笑いする。

 美由紀には初耳だった。男の目線と女の自意識との間には、いつでも大きな溝があるように思う。

「そうじゃなくて、リスクの話よ」

「だから、なまじ相手への思いが大きかったりすると、失恋の喪失感に圧しつぶされちゃいかねないってことです。子供は経験値が低いから、やり過ごし方も知らないだろうし。その点で男の方がナイーブだったりするから」

「じゃあ……」

「例えば、最悪のケースとして失恋を苦にして自殺しちゃうとか、心を病んじゃうとかというのも否定はできないです」

「やっぱりそうよね……」

「まぁ子供の初恋は麻疹(はしか)みたいにパッとかかってスッと治っちゃうのが大半だから、そんなに心配することもないでしょうけど」

「相手次第……」

 美由紀のいちばんの懸念はまさにそれだった。

 歳なりに等身大の相手に懸想するのならばともかく、あまりにも眩い相手だと、近づけば近づくほど燃え尽きてしまう恐れもまた大きくなる。翔馬が接近を図ろうとしている相手は、まさにそういう特別の中の特別。

 聞けば、世界的なミスコンのファイナリストだったとか。

 どうしてそんな傑出した女性が、一介の中学校の教諭職などに留まっているのだろうかと恨めしくなる。

 さっさとスターダムを駆け上がって、子供の手の届かない所へと去ってくれれば、こんな思いをせずに済んだものを。

 とんでもない言いがかりだと解っていても、現実に息子を奪われた親はそう呪わずには居られない。

 何とかしなくては――。

 でも親としていったい何ができるか……?

 例えば、相手に直接会って、こちらの事情を訴えて最善の道を取るように配慮してもらう?

 でも配慮って――?

 息子があなたに夢中です。思いを遂げさせてやってください――とでも?

 いくら親バカでもそんなことが言える筈もなかった。

「どうしたんですか? ボーっとして」

「ううん、なんでもないわ……」

「たぶん、翔馬くんにとっては大事なママが取られちゃうことの方がいちばんショックのハズですよ」

「わかってるわ……だからあなたとの事は、あの子には絶対に内緒――」

「それが分かってるのなら、さっきの話はあまり心配しなくてもいいと思います」

「どういうこと――?」

「自分のいちばん身近に特別な女性が居るってことに、賢い彼が気がついてない筈がありませんからね。それがただ母親だったっていうだけで――」

「………」

「仮に失恋しても、そばに先輩のような立派な女性が居てちゃんと寄り添えるのなら、男は立ち直れるものです」

「そうだと……いいんだけど……」

「僕は翔馬くんの初恋が上手くいくことを祈ってますよ」

「あら、どうして――?」

「男の子にとって最初のセックスは親離れする上での重要なマイルストーンになるから……彼に僕らの交際を受け容れてもらいやすくなる」

「セックスって、あの子、まだ十二よっ」

「話しましたよね、それはもう十二分に可能な年齢だってことを」

「………」

「それより今は息子さんよりも僕のことを考えてくれませんか? じゃないと、また“とびっこくんスーパー”のスイッチ入れちゃいますよ」

「待って!……わかったわ……お願いだから……もう堪忍っ……」

「じゃあ、続きは後にしましょうか……」

 美由紀は安堵した。また責められたら今度こそ本当にどうなるかわからなかったのだった。

「ねぇ斎藤くん……あなた、わたしをどうしたいの……?」

「それは決まってるでしょ、先輩が僕にしか見せない可愛い顔を見ていたいんです」

「そんなこと言って……」

「じゃあ、先ずはキスしてください」

 俊介がテーブルの上に身を乗り出してきた。

「ここで……?!」

「ええ――」

 美由紀は当惑げな顔で、客で賑わう店内にぐるりと目を遣った。

 デートらしいカップルは多いが、それ以外はグループが何組か入っているらしい。しかしさすがに子連れのファミリー客は居ないようだった。

「先輩が僕の恋人で、このあとめちゃくちゃセックスをするんだってのを、ここにいる奴らに見せつけてやりたいんです」

「そんな……」

「でも後一時間もすれば現実になる()まった未来ですから――」

「………」

 切ないため息をひとつ。この後のことを想うと、たとえ淫らなたまごのスイッチが切られていても股間が妖しく疼くのだ。長い睫の大きな瞳の奥に情欲の焰を匿して清楚な美貌が花開いている。

 美由紀は豊かな黒髪を耳にかきあげながら、唇を差し出してキスを受け容れるのだった。

 それに気がついたのか、一瞬、店内の喧噪が鎮まった。視線が集まってくるのを感じる。 

 やがて客の誰かが拍手を始めると、それに呼応するように絵になるキスシーンを演じる二人に向けて店内は喝采に包まれるのだった。

 



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サタデーナイトフィーバー ~リア充たちの夜~ 4

 国道16号線を横浜方面へ向けて疾走するウルスが速度を九十キロに減速しはじめて、コクピットでフロントディスプレイを眺めていた藤城多顕正は

「……ちっ……」

 と、舌打ちした。

 ナビシートを倒し、優美な体を伸ばして手にしたフィルムPadでペーパーに目を通していた山崎碧子も肩肘をついて半身を起こし、百メートルほど先を走っている灰色のセダンに視線を送りながら、

「どうしたの? また渋滞?」

 と訊く。

「ああ、この分だと着くのが遅れそうだ……」

「遅れるってどのくらいよ?」

「ナビゲーターによる到着予定時刻は十三分ほど遅れて三十七分後、十時十分過ぎだ」

 二人がいま向かっているのは葉山にある顕正の別荘だった。そこで一晩、過ごして、明日の夜には学園都市に戻る予定でいる。

「そんなにっ? まったく、愚民が増えるとロクなことにならないわね――」

 美少女は忌々しげに吐き捨てた。

「まぁメーカーは車が売れさえすればいいから、枯れ木も山の賑わいさ、どんな蒙昧な連中にも使い道はあるんだ。その使い方を決めるのは我々だがね」

「でも環境負荷が増すと、こっちにもとばっちりが来るでしょ? D計画の方はどうなってるの? さっさと人口削減しなさいよ」

「ミドリの心配には及ばないよ、先進国での人口は計画通り減少している――」

「でも途上国での人口爆発は? あれだけ劣悪な条件でも増加するんだから、人類って種はしぶといわよね、ゴキブリを嘲られないわ」

「この先、仮に数十年、第三世界でいくら人口が増えたところで彼らのもたらすエネルギー負荷は大したことはないよ」

「それはわかるけど……」

「問題なのは彼らが豊かになろうとすることだ。もちろんそんなことはさせないがね。われわれが途上国の独裁政権に対して寛容なのはそのせいさ。それよりもいま上が優先して考えているのは、先進国の中間層を今の三分の一以下にまで絞ることだ。そのためには今後、数回のショックドクトリンが必要なんだが、これも二十年以内には達成できるだろう、まぁ全てはシナリオ通り」

「たとえそうだとしても二十年なんて時間のかけすぎよ、私なら三年でできるのに。このまま繁殖力だけ旺盛な劣等種が増えつづけるなんて我慢できないわ。この国にも流れ込んでくるし……ちょうどいまロングデールの論文を読んでいたんだけど、彼女は今世紀中に人口減少に転換するのは無理だって言ってるのよ」

「ロングデール? キャルテックのアナベラ・ロングデールか? あいつもこっち側の人間だよ。そこに描かれているのはあくまでも表向きの想定だ。彼女自身、そんなことをこれっぽっちも信じてなんかいやしない」

「あら、そうなの? じゃあこんな論文には用はないわね――」

 碧子はPadを些かぞんざいに脇に置いた。

「なぁミドリ、実は人口を減らすのは簡単なんだ。増やすよりも遥かにね。一見、野放途のように見える第三世界の人口増加にも意味があるのさ。あれは物を言うばかりで飼うのに金のかかる中間層を削るための(かんな)なんだ。結果はどうだい? 今やどの国も流入する移民で溢れかえって、挙げ句、貧者救済だと(うそぶ)いてUBI(ユニバーサルベーシックインカム)を道入することになったじゃないか。愚民どもを、最低――のベースラインに閉じ込めることに成功したってわけだ。新自由主義、グローバリズムの目的は大多数の民を“平等”に貧しくすることだったのさ。我々が飼いやすくするためにね。だからそれが済んだら、その後は第三世界の連中は単なる人口の調整弁になる」

「またおきまりの大規模な感染症を演出するの? いままで何度やっても大して減らせなかったのに」

「否定はしないよ。それも一つの手立てではある。だが、人口を減らすためのカードなんていくらでもあるんだ。われわれが返り血を浴びない確信が得られたら、より大胆な手を打てるようになる。それまでもう少しの辛抱だな」

「ねぇ……顕正さん、中間層ってなぁに? いったいどこにラインがあるの? ことによっては貴方だって用済みにされる側になるのじゃなくて? 一介の企業経営者で一介の研究者に過ぎないあなたなんか、上から見れば芥子粒のようなものでしょ?」

「たしかに経済的な線引きにはあまり意味がないかもしれないね。資産が数百億あろうが数千億あろうが大した保証にはならないだろう。ほんの僅かな金でどうにでもなる政治家や役人なんて言わずもがなだ。一方、我々は切り札を握っている、いや、まだ握りつつある……途上にあるというべきだろうか……」

「切り札――?」

 碧子は片方の眉を吊り上げて促していた。

「これからの覇権に必要なのは経済力でも軍事力でもないのさ……知力なんだ――」

「知力? つづけて……」

「例えばミドリ、君が、一杯の水から等量の金を簡単に生み出せる方法を見つけたとする。そのとき君はどうする?」

「もちろん徹底的に秘匿するでしょうね、誰にも教えたりなんかしないわ。そして密かに経済覇権を握るように動く……無尽蔵の富を支配しているのだから……」

「知のもたらす力とはそういうことさ――」

「ふーん……」

「更に教えたところで人類には実現できないし、理解もできないものであればもっと好都合だろ? 隠す必要すら無いんだからね」

「それが顕正さんの考えるラインなのね」

「知らず、解らず、出来ず……そうした古い人類と我々との間には、やがて壁が作られることになる、遠からず……我々が学園都市で能力者の研究に血道をあげていたのもそのためだった」

「でも上手くいかなかったじゃない――」

「いや、理解は進んだ。あと一歩というところまできている」

「そうなの――? まあいいわ、今はそういうことにしておいてあげる」

 碧子はシートを起こすと、コクピットに居る顕正のジーンズのチャックに手を伸ばした。

「おい、ミドリ――」

 思いがけない行動をする美少女に、男はちょっとびっくりした顔をしていたが、そのままやりたいようにさせていた。

 華奢な白い手がブリーフの中にあったものを取り出すと、両手に包んで愛しげに上下させる。たちまち硬度を増してそそり勃つのを見て、女は妖しく微笑みながら言った。

「だって、顕正さんは未来の王様になるんでしょ? それなら私は王妃? 王妃としての務めを果たさないと」

 ごちそうを前にしたときのように唇を丸めると、当惑げな男を一瞥するやそこに顔を伏せるのだった。

「あ……ああ……ミドリっ……」

「こんなに固くなって……おもしろいっ……」

「おい……そいつはオモチャじゃないんだぞ……」

 顕正は目を細めながら股間でゆっくり上下をはじめた栗毛の頭をやさしく撫でた。

「で……その後、どうするつもりなの?」

「どうするって――?」

「思いどおりになった未来の話よ」

「……僕はべつに……王なんかになりたいわけじゃないから……誤解しないでくれ……」

「わかってるわ……そんなことぐらい……」

「そうか……やっぱりミドリは賢いな……」

「顕正さんこそ、いつまでもわたしを子供あつかいしないでくれるかしら……」

「ああ……すまない……葉山に向かっていると、つい昔のことを思い出してしまって……いいのかい? 本当に先生のところに行かなくても……?」

「べつにいいわ……行くって言ってないし……」

「そうか……」

 二人はともに山崎清十郎の屋敷を訪うつもりはなく、あくまでもお忍びのデートなのだった。

「君が思うように、僕は……人を支配したいわけじゃない……自分が得たものの正当な対価を得たいだけなんだ……年寄り連中の使いっ走りをさせられた挙句に、使い捨てになんてされてたまるか……ただ、気になるのは……」

「なぁに? まだ何か気になることでもあるの?」

「いや……操祈くんのようなのが、あとどのくらい居るのかと思ってね……君の話によると、あの子は能力を再覚醒させているらしいから……」

「それはまだ確定してるわけではないわ、そういう情報が入ってきたというだけで……」

 食峰操祈の話になると、おイタの途中でも碧子の表情は不快げに陰った。

「いずれにしても計画にとっての不確定要素だ……変数が増えるのは不味い……仮にあの子が我々に協力してくれるとしても……」

「こんな時に、あの女の話はよして……」

「そうだな……レディに対して失礼だった……うっ、ううっ……そろそろ勘弁してもらえないか……我慢が利かなくなる前に……」

「出してもいいのよ、わたしはかまわないから……」

「そうはいかないよ……車内に臭いがつくのはまずい……」

「心配しないで、わたしがちゃんと受け止めてあげるわ……」

 美少女はさらに熱心に舌と唇を使って、お仕置きのように翻弄をはじめるが、彼はかろうじて持ちこたえていた。

「み、ミドリっ……それっ……そんなやりかたっ……誰から教わったっ……!?」

「失礼ね、べつに誰からも教わってなんかいないわよ、顕正さんにはわたしがそんな安っぽい女に見えるの?」

「いや……それじゃあっ……?!」

「教材なら、世の中にいくらでもあるでしょっ――」

「あんなものを君が見るなんて……」

「勘違いしないで、私がチェックしたのは解剖学の教科書よっ、神経の配置を見れば、どこをどうすればいいか判るでしょ?」

「そうか……君なら、そうなのかもしれないな……」

 男の弱みを心得て、そこをしっかり責めたてられるとうっかり気をやりそうになるが、顕正は先の方に警告灯が回っているのが見え、警察車両が停まっているのがわかるとにわかに正気をとりもどすのだった。

「……ミドリっ……やっぱりダメだよっ……」

 男の手が美しい貌を邪険にしないように気遣いながら、そこから追い立てようとしている。

「どうして――?」

 楽しいお遊びを中断されて、端正な顔がちょっと不満そうになって見上げていた。

「検問みたいだ。前が減速していたのはその所為らしい……だからお行儀をよくしていないとまずいだろ?」

「そう、じゃあ仕方ないわね、勘弁してあげるわ――」

 女が最後に軽くキスを一つして漸く解き放たれた男は、乱れた息を整えながらジーンズから飛び出していたものを中に押し込めた。居住まいを正して傍を見やる。淫らな振る舞いの直後であるにもかかわらず、端然と誇らしげな美少女の容子に心を打たれていた。

「ミドリもわるい子になったな」

「それはお交際(つき)あいしている殿方がワルい人だからでしょ」

 深い碧色の瞳をきらめかせて視線をはね返してくる。

「向こうに着いたら、今度はお返しに僕の番からだよ」

 前戯を持ちかけた。

 普段なら大抵、イヤ――と、即座に拒まれるのをダメもとで。だが、意外なことに

「いいわ――」

 と、二つ返事で同意されて、顕正は目をまるくした。

「いいのかい? いつもは嫌がるのに……」

「そんなにしたいのなら、させてあげるわ」

「したいにきまってるじゃないか、男にとっての最高のご褒美さ」

「あら、顕正さんって変態さんだったのね……」

「君からそう詰られるのは光栄だよ」

 見つめ合うまま美少女はジバンシーのシックなバイカラージャケットの胸ポケットから濃い色のサングラスを取り出すと、それをかけて目許を隠し悠然とナビシートにおさまった。

 一瞬で大人の女の、それも女主人のオーラを纏った碧子に、顕正は自分が彼女の運転手になったような気分にさせられるのだったが、それも悪くはないとも思っていた。

 誘導灯を持った警察官の指示に従って徐行し車を停めると、サイドウインドーを下ろして臨検に立った若い警官の顔を見上げた。

「ご苦労さま、何かあったんですか?」

 と、訊いたが相手はそれには応えず、車内を一瞥しただけで「どうぞ進んでください」と、言ったきり後続する車両の方へと行ってしまった。

「事件でもあったみたいだ」

 顕正は問われることもないままに、独り碧子に話しかけていた。

 クリムゾンレッドのランボルギーニ・ウルスEをゆっくりと滑らせて検問を抜けると、すぐに一気に百二十キロにまで加速させてロスタイムを取り戻そうとする。

 天候が崩れ始めたのか、フロントウインドーにポツリポツリと雨粒が落ちてきて、やがて本格的に降り始めた。視界が潤んで

 ワイプ――!

 と、命じようかと思ったが、あえてそのままにすると男はナビシートの女のスカートに手を伸ばして捲り上げ、白い肌着を露わにする。

 相手が拒まないのを見て取ると、さっきのお返しとばかりに、その魅惑的な扇状地を指先でなぞり始めるのだった。

「むこうに着いたらって言ってたのに……」

「ああ……でも、我慢できなくなって……君のせいだよ、さっきあんなことをして僕をけしかけるから……」

「いいわ……好きになさい……」

 男の思いが届きやすいように、少女は片足を持ち上げて脚を開き加減にして応えている。

「どうしたんだい、ミドリ……なにかあったのかい?」

「なにかって、なんのこと……?」

「いや、なんだかいちだんと可愛くなったからさ……」

「さぁ、べつに何も無いと思うけど……」

「そうか……」

 了解を得たことで、男はさらに少女の肌着に指をかけて脱がそうとしていた。

「ちょっと……ホントに今するの……?」

「ああ――」

「じゃあ、待ってよ……脱ぐから……いま穿いてるのお気に入りのなの、破かれたりしたらイヤ」

 碧子は自らスカートを手繰ると、長い脚に装着したガーターベルトにそって肌着を下ろしていった。その蠱惑的なしぐさの一部始終を、間近でつぶさに鑑賞して男は満足げに笑んだ。

「やっぱり君は変わったね……前なら、そんなこと絶対にしてくれなかった……」

「そうかしら……」

 さっきまで肌着で覆われていたデルタに、髪の色と同じ栗毛のヘアが淡く繁って、愛らしい秘唇が覗いている。

「とても綺麗だよ……」

 男は美少女の股間から一瞬も目を離さずに感嘆の賛辞を呟くのだった。

 



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サタデーナイトフィーバー ~リア充たちの夜~ 5

 

 大通りを一つ入った日枝神社の裏手、付近に大使館や公邸などが並ぶ閑静な小高い一画にある山王会館は、議員宿舎にほど近い地の利もあって議会関係者や地方から訪れる陳情者たちなどの御用達ともなっている宿泊施設だった。

 そのツインルームの一室――。

 黒田アリスは肌を接した弟のヒサオ――那智陽佐雄――の腕の中で微睡(まどろ)んでいた。入れ子のように背中から抱かれて。

 耳元に、遊び疲れたのか安らかな寝息を立てて休む弟の息遣いを感じている。けれども眠ってはいても、彼の両手は大切な獲物を逃すまいというように彼女のふたつの膨らみを包んでいるのだった。

 美少女の敏感な肉の蕾の先端が男の(たなごころ)に軽く触れるたびに甘い感覚を生んでいて、彼女が眠りに落ちそうになるとそれを阻んで許してはくれないのだ。

 愛されて、何度も逸楽の波にもみくちゃにされて、ようやく辿り着いた波打ち際。

 静かな……二人だけの秘密のベッド……。

 行為の妨げとなって疎ましかったのか、暖房のよく効いた部屋で毛布は床に落とされていて、若い汗のにおいのする真っ白なシーツの上で上気した色白の女体が(つや)めく事後の余韻を留めていた。

 窓の外はすっかり暗く、ベッドサイドに備え付けられたデジタルクロックは21:36を示している。

 姉弟で一緒にチェックインをしたのが午後の四時少し前。

 議員の親族だからということなのか、思っていた通りにホテル側からは特に身分の確認をされることもなく、何事もなく無事に部屋へと入ることができたのだった。

 扉が閉じて二人だけになってから、戯れにするような軽い挨拶のキスからはじまって、気がついたときには裸に剥かれてベッドの上に身を横たえていた。

 それから――。

 うたた寝を何度か挟みながら、もうかれこれ五時間もの間、一心に睦み合っていたようである。

 夕食さえも忘れて……。

 弟に抱かれるのはこの日で三度目のことだったが、以前とは違ってまるで別人のように大胆にふるまったヒサオにアリスは途惑いながらも応えてしまっていた。弟が示した情熱の一途さと、流されるままに自らが演じてしまった痴態を思い出すと、恥ずかしさが蘇ってたちまち身も心もまた妖しく熱くなってくる。

 これで良かったんだという思いと、いけないことをしてしまったという罪の意識とが少女の胸を往き来していた。

 それは以前のようなお互いさまのセックスではなくて、自分の体が男の色に染め上げられていくという背徳感のある経験だったからなのかもしれない。

 けれども肌を許したのがヒサオであったことを後悔はしていなかった。互いに初体験の相手として、もっとも身近な、そして親密な姉弟として、ほんのささやかな冒険にチャレンジしてみることがそんなに悪いことのようには思えなかったのだ。

 それに弟が自分を姉としてではなく異性として見ていることには、実際に彼がそれを冗談めかして口にするようになるずっと以前から気がついていた。

 そして自分自身も心密かにヒサオに対して男を感じていたのだ。

 その思いは彼が齢を重ねていよいよ雄性を放つようになって、ますます強くなっていったのだった。

 ただ……。

 こんなにも燃えてしまうと、もう後戻りができなくなってしまうのではないか、もしそうなったら一体どうなってしまうのだろう……?

 それを思うと心にまたさざ波が立つ。

 仲の良い姉弟という(のり)を越えた禁断のいとなみ、近親相姦。

 他人にはけして知られてはいけないこと――。

 それなのに……。

 背中で、うーん――と、いううめき声がして、ヒサオが目を覚ましたのが判った。

 すぐに彼女の胸を包んでいた手が動いて、感じやすい部分を中心に撫でるようにして、アリスはその動きを止めさせようと弟の手に両手を添えるのだった。

「姉さん、ごめん、僕、また寝ちゃったみたい……」

 女の体を這う手の動きには自分のものにしたという自信からか、もうためらいも恐れもなく、腹から脇腹、そして胸へとくすぐったくも心地のいい刺戟を与えてくる。

 アリスの胸はまだ未完成で膨らみきってはいなかったが、色白の体に薄紅色の乳輪が大きく拡がった姿はとても官能的で、服を着ている時の楚々とした容子からは窺い知れないほどの肉感があるのだった。

 股間を飾る漆黒の草むらも匂い立つようにふんわりとしていて、秘密の唇を隠すほどになっている。

 乳先を男の指がなぞるように円を描いて、また目覚めを促していた。

 彼女の長い黒髪をかき分けて、うなじの辺りのにおいを嗅ぎながら唇を寄せられて、

「姉さん、愛してる……」

 囁きかけてきた。

 初めての時、あんなにもぎこちなかった弟が、いまはしっかり彼女をリードして歓びへと導いていた。 

「……ヒサオちゃん……わたしは……あなたの恋人にはなれないのよ……」

 吐息が熱を帯びてくるのがわかって、アリスは弟を諫めた。ただもはやその言葉にどれほどの意味があるのだろうかとも思っているのだった。

 とっくに一線を越えてしまったばかりか、情熱のおもむくままに人には見せてはならない姿になって禁忌の上にも禁忌を重ねてしまった罪深い自分たちには、どんなお行儀の良い言葉も空々しく響くばかり。

「どうして……?」

「だってわたしたちは……」

「姉と弟だから――?」

「そうよ……」

「セックスをすれば、たとえ姉弟でももう恋人同士だよ。僕は姉さんのことが好きで、ずっと姉さんとしたかったんだから……姉さんは違うの?」

「………」

「それに……僕たち、本当に姉弟なのかな……?」

「……きまってるでしょ……なにをいってるの、いまさら……」

「だって僕、姉さんの体の匂い、好きだから……」

「変なこと、言わないでよ……」

 (たしな)めたものの本音では安堵してもいるのだった。睦んだ相手から体臭を好まれて、女心がくすぐられている。

「でも、匂いってとても大事なことなんだって」

「大事なこと?……またそれも、“その人”から教えてもらったの……?」

「うん……」

 愛撫の最中、以前とはまるで違うやり方になって、前戯に惜しみなく時間をとるようになった弟の変貌ぶりに驚いたアリスがその理由を尋ねると、友人からいろいろとセックスに関する秘訣を教えてもらったのだという。

 その友人にも同様に年上の恋人、それも未だヴァージンのままにされている子が居るそうで、いやらしいことにオーラルセックスの豊富な経験から女体の仕組みや、なりたちをよく心得ていて、どこをどのようにするといいのか、逆にどうしたらいけないのかといったことをいろいろ吹き込まれてきたらしい。

「もし僕らが遺伝的に近くてインセストタブーが働くのなら、相手の体臭を疎ましく感じるはずでしょ? でも姉さんには全然そんなことにならなかったよ……」

 たしかにアリスも弟の体臭を愛おしく感じることはあっても、けして嫌だとは思わない。

「……それは……ただ昔から親しんでいて、慣れていただけなのかもしれないから……」

「僕が姉さんのだいじなところの匂いを知ったのは、つい最近だけど」

「ヒサオちゃんっ――」

「彼女のセックスの匂いが好きっていうのは、二人の体の相性がとてもいいっていうことなんだって」

 露骨な言葉をぶつけられて、アリスの白皙の美貌がたちまち朱に染まっていく。羞恥に身を竦める姉の肩を、弟の手がいたわるようにして撫でつけていた。

「大丈夫だから聞いてよ、姉さん……」

「………」

「僕、嬉しかったんだ……姉さんの匂いを嗅ぎながら、やっぱり、そうだったんだって胸に落ちて……」

 デリカシーの欠けた物言いに、後ろを振り返って姉として打擲(ちょうちゃく)したいところだったが、真っ赤になったアリスにはそれができずに、

「……やっぱり?……やっぱりって……?」

 と、恥ずかしさに堪えながら探るように問いを返すのが精一杯だった。

「僕たち、姉と弟っていうのとは違うのかもしれないから……」

「……どういうこと……?」

 ヒサオは思いがけないことを口にしてびっくりする。

「ヒサオちゃんは、私たちのどちらかかが……それとも二人ともなのかしら、パパたちの養子だったのかもしれないって思ってるの?……それを疑ってるの?」

「養子というのとは違うかもしれないけど……二人とも同じ両親の間から産まれたのは間違いないから……」

「それなら……」

「でも、僕たちってデザイナーズでしょ……修正パッチを重ねるうちにオリジナルからかけ離れてしまって、もはや親族とは言えないくらいの遺伝的距離ができているとしたら?」

「それは……可能性は否定しないけど……でもそんなのは詭弁よ……それでわたしたちが姉弟ではないことにはならないから……」

「だって、そもそも近親相姦がタブーなのは子供を作った際の遺伝的障害の発生確率が上がるからで、倫理観にも裏付けがあったけれど、今はそれも科学の力で抑えられて意味がなくなっているから、むしろ旧弊と化したのは社会通念の方かもしれないじゃない?」

 そのことはアリスも以前に何度も考えていたことだった。ただ、それで済ませることができるのならどんなに気が楽だろうと思う。

「仮にヒサオちゃんの言う通りだったとしても……私たちが人には言えない関係であることには変わりはないわ……」

「それなら構わないよ、セックスはそもそも人には言えないことだから」

 弟の手がまたアリスの肌の上をじっくりと探るように撫で始めた。

「ちょっと……ヒサオちゃん……」

「こうすると……気持ちがいいでしょ……こっちよりも……ね――?」

「え?……うん……」

 確かに、こうされる――方が、こっち――よりも、ぞくっとするくらい感じるのだった。

 アリスは驚きに大きな黒瞳をパチクリさせる。

「女の子の体は、つるんとしていて滑らかに見えるけど……でも、細かい産毛が生えていて、それは四つ足の動物だったころの名残を留めているんだって……だから産毛の流れも、体についた雨水などを体幹から抹消へ、内側から外へと効率よく流せるようになっていて、その毛足の向きに逆らって撫でると刺戟が強くなるんだ……こうするよりも……こうすると……より気持ちが良くなる筈なんだよ」

 ヒサオの目には、まるで見えない産毛の流れが映っているように、巧みにお触わりしてくる。

「あっ……♡」

 微妙な部分をたどって這い上がってきた手に胸を包まれて、その危ないくすぐったさにアリスは目を閉じて堪えた。

「んっ……だめっ……」

「だめ――? いまのが姉さんのミルクラインだと思うよ……やさしく触れられると気持ちいいよね」

「ミルクライン……!?」

「乳首がたくさんある動物みたいに副乳ができるところなんだって。ヒトでは退化しているけど、でも乳首がなくても感じやすいんだ」

「いやだわ、なんだか女のことに妙に詳しくなって……いやらしい……」

「わからないままに痛いことや辛いことをされるよりいいでしょ?」

「それはそうだけど……」

「ここも感じるよね……姉さんの体、敏感だから……」

 弟の指先が乳首の他にも的確に周りの感じやすいところを捉えていた。それはただくすぐったいだけではなく、体の奥からじわんっと熱っぽくなってくるような妖しいこそばゆさなのだ。

 女の身からすると自分たちの体の秘密が、こんなにも相手方に漏れていることに呆れてため息が出る。実際、ある種の男たちは、女性自身よりも女の生理に通じていたりするから本当に油断がならなかった。

 密森先輩は、わたしの大切な弟にとんだ悪知恵を授けてくれたものだ――と、詰りたくなる。

「……変態じゃないのっ……その人って……」

「そうかなあ? じゃあ僕も変態になっちゃおうかな」

「イヤよ、ヒサオちゃんがおかしくなるのは……」

 ヒサオの言っていた友人が、彼のルームメイトの三年生、密森黎太郎だというのは、わざわざ心を読もうとしなくてもすぐに判ったのだった。肌と肌とを接していれば、たとえ低位のテレパシスト――アリスの能力は他人には伏せていたが、実はレベル1程度の接触テレパスなのだった――であっても自分が閉ざそうとしない限り、相手の心が自然に流れ込んでくることがあるからだ。

 驚いたのは――ヒサオはそのことにはまだ気がついていないようだったが――彼、密森黎太郎の年上の恋人というのが、どうやらあの操祈先生らしいということ。

 俄かには信じられなかったが状況証拠がそれが事実であることを告げていた。

 これまでバラバラだったパズルのピースが一つに合わさったことで描かれた絵は、あまりにも意外なものだった。

 年が明けて、新年の挨拶を兼ねて新生徒会長として教員室を訪れた時、食峰操祈と握手を交わした際に、何故か彼のイメージが流れ込んできたのをアリスはずっと奇妙に感じていて、以来、胸の中にわだかまりとして残っていたのだが、二人が恋人同士だというのならそれも頷けた。

 前生徒会長の山崎碧子が密森黎太郎に関心を向けていたわけも、それで合点がいったのだった。

 碧子が美しい女教師に対して屈折した感情を抱いていることは、彼女の近くに居るものであれば誰もが気がついていただろう、理由は今も謎のままだったが、力の信奉者である碧子にとって、かつて同じ学園で自分以上の能力をもって女王として君臨していた食峰操祈を、どこかで煙たく感じていたとしても分からぬではなかった。

 密森黎太郎が彼女の目に留まったのは、おそらく食蜂操祈にまつわるスキャンダルの臭いを嗅ぎつけてのことだ。

 ここまでの推測はたぶん当たらずといえども遠からず。

 あの学園都市を代表する美女にして、コンテストを経て今や世界にも名を知られることとなった美人教師が、あろうことか未成年の男子生徒と濃密な関係を結んでいる――。

 発覚すれば間違いなく世間を揺るがす大きな問題になるだろう、山崎碧子にとっては自身のコンプレックス解消のための恰好のネタになるのに違いない。

 そういえば――。

 一昨日の午後、密森黎太郎は碧子の自室に招かれていて、女子たちの間でひとしきり噂になっていた。それも前副会長を排して、一対一で一時間もの間、碧子は男子生徒と二人だけになっていた。

 理由は、たしか前会長時代に進められていた年度予算合理化案作成の際の不明朗な会計処理についてとか、だった筈。

 しかし今となってはそれが表向きの理由で、碧子の本当の目的とは、彼と女教師との間の禁断の関係の確認であったに違いないと思う。

 きっと碧子の訊問に対して、能力者でもない密森黎太郎は秘密を守り通すことなどできなかったに違いない。

 ということは……。

 碧子は食峰操祈のセックススキャンダルの確証を握ったことになる……。

 それがいったいどういうことになるのかアリスには判らなかった。

 だが碧子には、願わくば二人をそっとしておいて欲しいと思うのだ。タブーを知りつつ愛を育むことのせつなさと不安は、アリスにとっても身につまされることだったからだ。

 中学生の男子と女教師の恋というのは自分たち同様か、あるいは法的に言えばそれ以上に禁忌、タブーの間柄。

 ただでさえ能力者率の高い学園に居て、今日まで関係を秘匿するのは大変なことだっただろうと思う。

 そしてそれが露見するというのは、おそらく破綻することと同義。ひっそりと愛を育む二人の仲を引き裂くのはあまりにも無慈悲というものだった。

 そもそも恋愛に年齢制限を設けること自体がおかしいと思う。

「どうしたの、姉さん……」

 刹那、考え事をしていて、弟の問いかけに反応するのが遅れていたようだった。その隙を突かれて、弟の手が股間に伸びてきたのがわかると、アリスはそれを拒んで膝を曲げて逃れた。

「ヒサオちゃんっ、もうだめっ――」 

「ひらいてよ姉さん……続きをしようよ……」

「もういいでしょ? だって夕ご飯もまだだし、レストラン、終わっちゃうわ」

「お腹空いたの?」

「わたしは平気だけど……でもあなたはお昼も食べてないって言ってたから、ちゃんと食べないと……」

「それなら僕は大丈夫、あとで下のコンビニに行って何か買ってくるから……今は姉さんの体をもっと食べたいな」

 お尻のあたりに弟の情熱の塊が熱っぽく固く触れている。

「そんなこと言って……」

「だって、女の子の体って凄いんだもん……いろんな秘密の場所があって……姉さんの体にもそれがあるなんて、すごく興味がわくから……」

 ヒサオの指が、また腰骨のあたりから乳房の脇にかけて体の上をスーッとなぞり、それだけでゾクッとするほどの甘い感覚が生まれていた。

「くすぐったいわっ……」

 引きずられるようにアリスも声色を甘くしていた。

「くすぐったいところは、女のコの体の美味しいところなんだって」

 二の腕をさっと掴まれて腋の下を露わにされてしまう。すぐに顔を寄せられて、きわどい匂いを嗅ぎ取られながら、口づけが落ちてきた。

「ねぇっ、おかしなことしないで……」

 けれども美姉の言葉はもう弟の耳には届かない。

 ヒサオの唇がソフトなタッチでくすぐったい部分を上へ下へとなぞっていきながら、おもむろに乳先に戻ってくると今度は尖りを舌の上で転がされる。

 けれども上半身ばかりを責められて油断していると、あっと思った時には下半身を無防備な姿にされていて結局、全身をくまなく愛されてしまうかたちになっているのだった。

 アリスは腕を伸ばし、せつない手の動きで、ダメよ――と、言わせて、弟の顔をそこから追い払おうとした。

 でもやっぱり拒みきれなくて愛撫に身を任せてしまう。

 巧みな、それはそれは巧みな口づけ。やさしくて、ちょっとものたりないとさえ感じるマイルドな刺戟。でも、それこそが女を虜にする危険な罠なのだった。

 体の芯にまで熱を通そうというように、とろ火でじっくりと嬲られると本当にどうにかなってしまいそう。

 初めての時には痛みを感じて、ただ嵐が過ぎるのを待つような気持ちでいたものが、いまは安心してゆだねることができるのだった。

 これも、あの――密森先輩――の入れ知恵なの?

 セックスについてたどたどしかった弟を、ちょっとしたアドバイスで女(たら)しに仕立てあげてしまうような悪い人。

 そんないやらしい男の相手をするとなったら、さぞや先生も大変だろうと思う。

 でも、こんなふうにされたら……。

 弟の両手は乳房にも伸びて、三つの場所が一度に爪弾かれる三重奏になっていた。それは体の中心から手足の先に至るまで、目も眩むような快感を産み出しているのだ。

 胎内に官能の炎を宿した少女の体は、全身の肌の感度が増しているようで、どの部分もちょっと触れられただけでビリっと電気が奔るような感じになっているのだった。

「……ヒサオちゃんっ……」

 ほっそりとした長い脚を大胆に開いて、めくるめく歓びに身を(よじ)って堪えながら、アリスを包むピンク色の光はどんどん大きく膨らんでいった。

「ああっ! いっちゃうっ!」

 最初に訪れた歓びの波に呑まれた瞬間、彼女の中でタブーも倫理もなにもかもが蒸発してしまっていた。

 ただ純粋に弟を愛おしいと思っていた。

 自分をこんなにも大切に愛してくれる人、それなのに自分が彼を愛していけないことなどあるはずがないと思う。

「気持ちよかった?」

 事後の余韻に、まだヒクヒクと小刻みにふるえる下腹部から顔を上げてヒサオがこちらの機嫌を窺っていて、アリスは言葉にする代わりに瞳を大きくしてこっくり頷いた。

「嬉しいな、姉さんに悦んでもらえて……ねぇ、今度は僕が入ってもいいかな……?」

 それはもう拒むことのできないプロポーズなのだった。

 思いどおりの姿にされて、思いどおりに愛されて……。

 あげく最後は、思いどおりにまた結ばれてしまう。

 姉なのに弟を諌めることもままならない。けれども姉と弟ではなくて男と女というのならそれも仕方がないとも思えてくる。

「いいわ……いらっしゃい……」

 恥ずかしい姿のままで裸の胸を開いて招いたのは、姉として弟へ向けて示すせめてもの矜持だったのかもしれなかった。

「姉さん……愛してる……」

 姉に脚を大きく開かせたまま、ヒサオが体の上を這い上がってきた。

「わたしもよ……愛してるわ……」

 唇を重ねる。ソフトなキス。アリスは弟の纏っていた自分のニオイにたじろいだが、でもそれは、ほんの一瞬のこと。ヒサオがぐっと腰を沈めてくると、すぐに感覚が麻痺して気にならなくなっていた。弟の背中に腕をまわし腰に脚を巻きつける。

 やがて二つの体は磁石同士が吸いつくように、どこにも隙間がないほどぴったりと一つになるのだった。

 



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サタデーナイトフィーバー ~リア充たちの夜~ 6

「やっぱり怒ってるのかい?」

「怒ってなんかいないわ――」

 先を行く舘野唯香は歩みをさらに速めた。

「ごめんよ唯ちゃん、もう勘弁してくれないか、僕が悪かった……」

 年下の美女の機嫌を損ねて、島崎一成は平謝りで後を追っている。

 ヒールのある分、二人の背丈はほとんど違わない上にモデル体型の唯香の歩幅は広く、男の方はピッチを上げて歩数を稼ぐかたちになっていて、ヒョコヒョコとした動きはさらに見栄えが悪かった。

「悪趣味だわっ、一成さんがあんなことするなんて、わたし、がっかりっ」

 唯香が怒っているのは、二人でコンビニの会計をしているときに買い物カゴの中から“ゴム”の小箱が出てきたことだった。一成が悪戯心を起こして内緒でこっそりカゴの中に忍ばせていたのだ。

 若い男性店員が商品を一つ一つ取り出してバーコードを読み取っていた中に見覚えのない小箱が出てきて、なんだったかしら? と目を凝らし、そこに『厚さ7ミクロンの超極薄!』のロゴが見えた瞬間、唯香は無言のまま一成を置き去りに店をひとり飛び出していた。

 大慌てで会計を済ませて後を追いかけてくる男を無視して、駅前の商店街を抜けて一成のタワーマンションのある方へと歩みを進めていく。

 男からすればちょっとした洒落のつもりだったのかもしれないが、唯香には少女らしい潔癖さから、大切な秘め事である性を軽んじられたようで許せなかったのだ。

 アルバイトの店員の他にも客が並んで居たし、そもそもそんなに必要だったのなら無人のコンビニを使えばいいのに、それをわざわざ好奇の目を集めるような真似をするなんて、

 信じられない――!

 セックスって冗談扱いできるようなことなのっ?

 女の子にとってはいつでも命をかけた大切ないとなみなのに……。

 唯香は怒っているというよりも哀しかった。

 愛されることで愛する、愛することで愛される、セックスは男と女のもっとも親密な愛情表現のはず。互いにその気持ちを届けようと必死になるから、だからあんなにも素敵で深い歓びの経験となるのに……。

 共に過ごした時間は心と心を結び合わせる絆となって、ますます相手を思いやれるようになる。

 女が肌を許すというのは、それほどのこと……。

 またそういう相手に巡り逢えて初めて、女は本当の意味で自由になれるのだった。

 親にも見せられないようなありのままの姿を、恋人の前でだけは何もかも(さら)けることになるのだから。

 それを唯香は信頼できる“親友”の操祈との語らいを重ねることで強く思うようになっていた。

 だから蔑ろにされると、一成に対して価値観を共有できる相手なのかどうかという疑念がわいてしまう。

 大好きな恋人であるだけに落胆していた。

「本当にごめん、ちょっとした出来心で、ねぇ唯ちゃん、機嫌なおしてよ、もうあんなこと絶対しないから……」

「あたりまえでしょっ――」

「ホント、反省してるっ、だから待ってよ、そんなツンケンするなんて君らしくないよ」

「ツンケンなんてしてないわ」

「なら、もっとゆっくり歩こう」

「急いでるのはせっかく買った中華まんが冷めちゃう前におうちに帰りたいからよ――」

 だが、買い物袋をぶら下げているのは一成だった。

「それならそこの公園のベンチでひと休みしていかないかい? まだそんなに遅い時間じゃないから」

 街路樹の間から公園の時計塔が目に入って、唯香は歩みを緩めた。時刻は九時半を回ったところ。空を見上げて、

「お天気は大丈夫かしら……」

「うんっ、今夜遅くには雪になるらしいけどっ」

 取り付く島もなかった唯香から、ようやく手応えのある反応が返ってきたと感じたらしく、一成は少し声を明るくしていて、唯香は振り返ると厳かな顔つきのままで男の目を見据えた。

 美女ならではのオーラを放つようになったうら若き恋人を前に、月並みな青年は神妙になって頭を垂れるしかなかった。

「ごめん、僕が悪かった……君に恥をかかせて……」

「そんなことはいいの……でも、一成さんには解ってほしいわ、女の子にとって性はとても大事なことなんだっていうのを……けして戯れ言、笑いごとになんてして欲しくないわ……」

「本当にごめん……」

「わかってくれればいいのよ……」

 すれ違いになって、どうしていいかわからずに少し頑なになっていたが、唯香も仲直りのきっかけをさがしていたのだった。

 青年が顔を上げて、(おもね)るようなおそるおそるの笑顔を向けてくる。唯香は控えめな微笑みで応えた。

 歓迎の笑みを十とすると、その半分の半分、そのまた半分ぐらいの笑顔で。しょうがないわねぇ――というような、長上の者がオイタをした目下の者を許す時のような表情。

 ロングストレートの黒髪にパッチリとした瞳、ふさふさの長い睫毛が愛らしい。生来の美貌にはメイクアップなどする必要は全くなかったが、事情もあって薄く整えている。

 ベレー帽にトレンチコート、ロングブーツの組み合わせは、敬愛する女教師のプライベートを真似てのこと。ぐっと大人びて、とても中学三年生には見えない。

「うん、わかった、これからはもっとちゃんとするから」

「どうだか、本当にわかってるのかしら――?」

「わかってるよ、もっと真面目になるから……ただ僕は……」

「ただなぁに?」

「自慢したかったんだ……」

「自慢――?」

「君が僕の彼女だってことを……男にはそんな見栄を張りたい愚かなところがあるんだよ……」

「………」

「唯ちゃん、すごく可愛いし美人だから、ゼミのみんなにも見せびらかしたいくらいなんだけど……でも、今はまだ大っぴらにできないからさ……」

「よくわからないわ……男の人にとってそれってそんなに大切なことなの……?」

「だからバカだって……」

「将来、この国のルールを考えようかって人が、そんなお莫迦さんじゃ困るわね」

「ごもっともです、返す言葉もございません……」

「もう、またいい加減なことを言ってるし……」

「ねぇホラ、あそこのベンチが空いてるっ、あっついコーヒーもあるからさ」

 青年はレジ袋の一つを持ち上げながらご機嫌をとっていた。

「いいわ……」

「そうこなくちゃっ」

 一転、跳ねるような足取りになって美女の先に立つと、目指すベンチの上にハンカチを広げて唯香に掛けるようにと促している。

「姫、ここへお掛け下さい」

「そのハンカチ、きれいなんでしょうね?」

 唯香も意地悪を言ってから白い歯並みを覗かせる。

「ホントにごめんね」

「わたしもちょっとムキになっていたから……」

 仲良くベンチに腰掛けた二人は、買ったばかりのレジ袋の中を覗き込んだ。

「中華まん、どっちにする?」

「肉まんとトンポーローだったかしら? わたしはどっちでも」

「じゃあ、半分ずつにしよう、コーヒーはブラック? カフェオレ? それともこっちもまわし飲みにする?」

「ええ、それでいいわ――」

 唯香は一成から手渡された肉まんの半分をひとくち含んだ。

「まだあったかいっ、良かった」 

「うん、美味しい。コンビニのだけど、ずいぶん味が良くなって本格的だよね。値段もそこそこするけど」

 缶コーヒーもドリップしたてのものに劣らないほど味が良かった。

 落ち着いてからあらためて辺りを見回すと、テニスコート二面分ほどの公園内のそちこちにまばらな人影があるのに気がつく。

 夜とは言っても週末の十時前は都内ではまだ宵の口、これから夜の街へと繰り出そうという学生風のグループやら、土曜出勤の帰りなのか駅へと向かうサラリーマンなど、人の気配が途絶えることはないのだった。

 既にすっかりできあがっているのだろうか酔い覚ましにベンチで横になっているものも居る。

 さすがにこの寒空の下だと凍死してしまわないかと心配になるが、よくしたものでアルコールが抜けてくると人は俄かに寒気を意識するようになって自然に目が醒めるものなのだ。

 唯香は近くに他人の気配のないのを確かめてから

「ねぇ一成さん、さっきあんなこと言ったけど……」

 声を低くして訊いた。

「私って重たい……?」

「そんなことないよ、唯ちゃんみたいな子の言うことは、なんでも正義だから」

「茶化さないで、真面目に言ってるんだから」

 言われて青年も真顔になると

「唯ちゃんらしいっていうか、君がそう考えてくれてるのが判って僕もうれしかった……」

「女の子がみんながそうなのかは知らないけど、でもわたしのお友達のひとりも同じように思っているの……その人も素敵な恋をしていて、本当に一途に相手のことを愛しているのよ。互いに身も心も捧げるように必死に……見ているとこっちまで切なくなってくるくらい懸命に……きっとその所為で傷ついたり哀しかったりすることもあるのかもしれないけれど、でもその分、二人の絆はますます強くなって……だから二人を見ていると、私もそうありたいなって……」

 食峰操祈の恋は教え子を相手にする危ういものだった。法的に問題がある上に倫理的にもギリギリかもしれない。それでも彼女がいとなむ恋はとても美しいと思う。それは二人の心が本物だからだ。

 常に自分よりも相手のことを第一に考えて、大切にしようとしていて……。

 それに……男の子の方にジェラシーを感じるなんて初めての感覚だった。

 先生がいまもヴァージンのままにされてるなんて――。

 自分たちが一夜で通り過ぎてしまったことを、二人は長い時間をかけて濃密な経験を積み重ねている。

 自然数しか知らない人と実数を知るものとでは、数の世界で見るものも見える景色も違うように、きっと二人は、二人にしか分からない豊かな性を、愛を育んでいるに違いない。

 しかし、たとえ辿る道は違っても、自分も二人のように強く深く結ばれたいと思う。

 恋人と向き合うときは、どこまでもひたむきに心を尽くしたい。

「……一成さんは大切な人だから……」

「僕にとっても君は特別だよ……誰よりもだいじな……」

 青年から仲直りのキスを求められて、唯香は相手の唇に立てた人差し指を圧し当てた。

「ダメ……」

「まだ姫のお許しを得られないのですか?」

「さりげなく周りを見てみて……さりげなくよ……」

 美少女に促されて、不自然にならないようにぐるりと頭を巡らせた青年は、なるほど、とばかりに頷いた。

「気がつかなかったけど、こんなに人が居たなんて……目が暗さに慣れてきたからかな……」

 広場を挟んで対面のベンチに居る男は、遠くからこちらにセルのレンズを向けているようにも見えなくもなかった。電話をしているでもなくゲームに興じているようでもなく、さっきから赤いLEDランプが点灯したままじっと動かない。

「だからお行儀よくしていないと」

「そうだね……」

「これを食べたら行きましょう」

 唯香は食べかけの中華まんを食べながら、カフェオレ缶を傾けている。

「うん――」

「このメーカーのカフェオレ、わたし初めて……おいしいわ……」

むこう(学園都市)では売ってないのかな?」

「そうかもしれないわ。あっちにしかないものもあるけど、やっぱりこっちに来るといろんなことがもの珍しくて……」

「そんなもんかなぁ……」

 さすがに都内の方がコンビニチェーンにも色々バリエーションがあって、いまだに有人店舗がかなりの頻度で残っているのも逆に新鮮なのだった。また扱っている品物の種類も豊富で、学園都市内ではお目にかからない商品などもあって、唯香にとってはお買い物はコンビニに限らずいつでもどこでも楽しかった。

「やっぱり東京はいいなぁ、わたし、春からこっちに来ようかな……」

「学園都市だって東京の一部じゃないか……といってもそもそも彼処は日本の中にあって日本じゃないみたいな所だからなぁ……唯ちゃんにはなにか不満でもあるのかい?」

「いいえ満足しているわよ。何をするにしても学ぶにしても、世界で最高の環境だと思うから。友達も先生たちも優秀で立派な人たちばかりだし……それに真夜中に子供が一人で歩いていても心配が要らないくらい治安も良いし……」

「それならどうして?」

「素敵なこともたくさんあるんだけど、ときどき管理が行き届き過ぎていて、こっちでの自由な生活を知るようになると息苦しく感じることもあるから……」

「君たちからすると東京は自由な所なのか……僕らも十分に飼育されている感があるんだけどな……」

 一成は、二種類の中華まんをブラックコーヒーで流し込むと、ゴミをまとめながら応じた。

「だってあっちだと、例えば今こうして私がトンポーローまんを食べていると、それも記録に残るのよ。都市(まち)の電脳には私がいつどこで誰と何をしたかまで記録されているわ、このトンポーローまん半分から摂取したカロリーまで含めて……プライバシーがあるのは自室の中に居るときだけ。でもそこにもルームメイトが居るし、たとえ個室であったとしてもスマートフォンやパソコン、スパイグッズ、それに対抗するためのアンチスパイグッズなど、いろんなものから発信される情報が都市のどこかに蓄積されているの。たとえ人にはアクセスできなくても、機械は全てを把握しているのってなんだかとても不自然なような気がしない?」

「ふーん、なるほど……自由か秩序か、人類の永遠の課題のひとつだね」

「すごく安全で清潔で、申し分のない環境だと思うの……でも人間にはやっぱり秘密が必要なんだと思うわ……」

「秘密っていうのはセックスのこと?」

「それも含めてよ……」

「まさか学園都市ではセックスも機械が監視しているの?」

「さすがにそれはないと思うわ……そう思いたいけど……でも、たとえば一成さんのアパートが学園都市(まち)にあれば、私が部屋に入ってから出て行くまでの時間、その間に使われた電気やガス、水道の使用量とその変化量ぐらいは確実に記録されているわね。そこから平均的な男女が一夜を明かした時のデータと比較すれば、どのような時間の使い方がなされたか類推することはできるのかもしれない」

「ちょっとそれは嫌かもしれないな、女の子にとっては特に……」

「その上もしもスパイグッズの被害者なら丸裸にされているも同然――」

 唯香はいつぞやの碧子との件を思い出して眉を翳らせた。

「それならやっぱりいちばん怖いのはスパイグッズだね、僕も君に言われてから“アシダカ軍曹”を各部屋に一つずつ放っているよ。幸い、これまでのところ異常はないみたいだけど……まぁ男のプライバシーなんてたかがしれてると思うんだけど、なんだか世知辛い嫌な世の中だね」

「守られていると思えば楽園なのかもしれないけれど……」

「蛇に(そそのか)されて知恵の実を食べたアダムとイヴは羞恥を知り、そしてエデンの園を追われた……いったい人間はどっちが幸せだったのかな? 何も知らずに楽園で永遠を生きるのと、勤労と産みの苦しみの中に儚い生涯を送るのと……」

「でも……人は愛を知ってしまったから楽園を出たのよ……」

「それで君は楽園を出たくなったのかな?」

 唯香は風になぶられた髪を片手でおさえて、傍らに視線を送った。

 特に美男というわけではなく、容姿は凡庸なのかもしれない二十二歳の男。けれども努力家で誠実だと思う。

 女が好みの異性を選ぶ時、相手の容姿などは所詮アクセサリーのようなものでさほど重要な要素ではなかった。一方、努力家であることは我慢強いことでもあり、それは人間にとって最も重要な美徳のひとつだ。

 才能の上に胡座をかくような俗っぽさには、ただただ辟易するばかりだった。

 そして何より重要なのは誠実であること――。

 そのためには自分も誠実でなければならない。

 男と女の間を埋める約束事は、実はとても素朴で単純なものだと思う。ただその簡素な道から外れてしまうと、とたんに道は険しく錯綜する。

 結局、何を望むか――というのが人を()めるのだろう。

 例えば羽振りの良さこそが人の価値だと信じるものは、そういう平べったい人生を生きることになる。

 でも少女が心惹かれ憧れた人々は、食峰操祈を含めてみな虚飾とは無縁だった。

 学園都市で不自由なく生きることを許された者が、それを言うのはおこがましいのかもしれないが、本当に良いものは背伸びなんかしなくても、きっといつでも手の届くすぐそばにあるのだ。

 メーテルリンクの青い鳥のように……。

「寒くなってきたわ……お家に帰りましょう……」

 唯香はベンチから立ち上がった。

「ああ、そうだね……帰る前にちゃんとゴミの始末をしないと」

「うん……」

 一成は飲み終えた缶や紙クズなどを仕分けはじめる。

「コレも要らなかったな――」

 “ゴム”の小箱も廃棄する方へと放り込むのを見て唯香は目を丸くした。

「どうして?!」

「だって、今夜は必要ないからさ」

「……わたし、まだ赤ちゃんをつくるわけにはいかないわ……」

 驚いて訴える。

「使わなくても君を可愛がる方法なんていくらでもあるから」

「なにいってるのよ……」

 唯香は恋人から淫らなことを仄めかされて唇を引き結んだ。

「だって君に、楽園よりもこっちの方を気に入ってもらえるようにさ」

「でも……棄てないで……」

「それは僕のセリフだよ。僕が唯ちゃんを棄てるなんて、ありえない」

「違うわ、私が言ってるのはそれのこと」

 唯香はゴミ袋を指差した。

「物を粗末にしないで……使われずに廃棄されるなんて可哀想、ちゃんとお勤めをはたさせてあげないと……」

「わかった――」

 一成はゴミ袋の中から小箱を取り出すと、買い物袋の方へ移した。

「じゃあ、お許しが出たので、今夜は使い切るつもりで頑張るよ」

「そういう意味で言ったんじゃないのにっ」

「うん、わかってる――」

「もー莫迦なんだから……」

 すっかり仲直りをした若い恋人たちは、エロティックなニュアンスを含んだ言葉のキャッチボールをしながら、公園の遊歩道を明るい街路の方へと歩いていくのだった。

 

 

 



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サタデーナイトフィーバー ~リア充たちの夜~ Half a Dozen & 1

 

「せ、先生っ――」

「うん、よく書けてる。前回、僕が指摘した部分について丁寧に修正してあるね。これなら文句なく学位論文として纏まりそうだ」

「………」

「ただ一点だけ、この第二節でバーナード・ショーとケルト神話について論じた部分なんだが、もう少し引用文献を足して議論を補強しておいたほうがいいと思うが……どうかな?」

「………」

「アンナ・レッジオの著作にはあたってみたかね?」

 野々村凛子(ののみやりんこ)武巳(たけみ)の執務用デスクに両手をついてうなだれたまま、物憂げに首を横に振った。

 常盤台で教職に就いて以降、教員としての務めに追われて文献の調査は少しおざなりになっていた。

 控えめな性格を映すようにセミロングにした黒髪がサラサラと揺れて、その奥に隠れていた切なげな表情が垣間見える。

「そうか、たしかこの部屋の書架にも幾つかあったはずだから、あとで探して持っていくといい。彼女はジョイスの研究者として知られているが、ショーについてもなかなか良い議論をしているよ」

「………」

「それと僕が著したものにも、アイルランドの民族伝承について幾つか言及していた部分があった筈だが……それも文献リストに載せられるんじゃないかな?……君も持ってるよね? 十年ぐらい前にうちの出版部から出したヤツを……あれを入れた方が議論が更に深まるんじゃないかと思うんだが……」

「……はい……」

 倦み疲れたように頷いた凛子だったが、

 コツコツ――。

 不意にドアをノックする音がして彼女はビクッとして肩をすくめた。もしも誰かにこんなところを見られたらと思うと縮みあがってパニックを起こしそうになる。

 しかし部屋の主の十河武巳(そごうたけみ)は平然としていた。

「大丈夫だよ、ただの警備ドローンの巡回だから……」

 と、言ってから

「どうぞっ――」

 声を上げてドアの向こう側に応えた。すると、

「シツレイイタシマス」

 男声とも女声ともつかない人工的な声がして、教授室の扉が開かれた。

 現れたのは武巳が言った通り、高さが1メートルほどのドラム缶型の警備ドローンだった。

 ひと気の絶えた夜間は、十数機あるドローンが学内を巡回していて、四十八分毎に一度、各教室、研究室等の前の廊下を通ることになっているが、それに先立って午後九時半になると、まだチェックアウトをしていないIDの記録から居残っている教員、研究者や学生たちの所を廻って帰宅を促したり帰宅時間を確認したりしているのだった。

「ソゴウタケミキョウジュ ノノムラリンコサマ オシゴトチュウモウシワケアリマセン モウアト サンジュップンホドデ ジュウジニナリマス ホンガクノヘイモンジカンガセマッテオリマスガ イカガナサイマスカ」

「僕らも、もう少ししたらひきあげるよ、ありがとう」

「ワカリマシタ オカエリノサイハ ヒノモト トジマリノゴカクニンヲオネガイイタシマス」

「うん、わかってる、君も毎晩ご苦労だね」

「ドウイタシマシテ センセイモオツカレサマデス ドウゾオキヲツケテオカエリクダサイ」

 ドローンがドアを閉めて去ると、凛子は緊張を緩めると同時に傍の武巳に対して非難の流し目を送るのだった。

 初老の痩せた男のやや癖のあるごま塩の頭を見やりながら、ずいぶん白髪が増えたと思う。

 五年あまり前、初めて逢った頃は今よりもずっと髪色が濃くて、まだ少壮気鋭の青年研究者の雰囲気も残していたが、さすがに五十の坂を越えると老いは隠せなくなってきていた。

 ただその分、性格は生来の粘着的な気質がよりいっそう顕著に、執拗になった気がする。

 彼女は今、指導教授である武巳から、自分が手がけている学位論文の草稿のチェックを受けていた。しかし確かめられていたのは原稿だけではなかったのだ。

 むしろそちらの方が凛子にとっては、はるかに気がかりで切実な試練になっている。

 武巳はデスクの上に広げた凛子の論文原稿のページを繰りながら、片手を彼女のスカートの奥深く肌着の中にまで差し入れてきていて、さらに先を探ろうとする指とそれを拒む哀切な締まりとの間で必死のせめぎ合いとなっているのだ。

 花冠周りの繊細な飾り毛の感触を探るように円くなぞられて、さらにそれを指で摘もうとする辱めに堪えきれず、凛子は小さく悲鳴をあげて訴えた。

「……もう……勘弁っ、してくださいっ……」

「どうしてだね? 小道具は受け容れてくれるのに僕の指はもうダメなのかい?」

 詰め寄られて凛子は口をつぐんだ。

 たしかに武巳の言ったようなことは過去にもあった。しかし彼女にはけっして受け容れたつもりなどなかったのだ。結局、否応もなく受け容れさせられたのだと思っている。

 褥を共にした男に、ひとたびそこを侵すという決意をされたら最後、女の身には逃れられる術など残されれはいなかった。

「以前は悦んでくれたじゃないか……ここを……こうされるのを……」

「いやっ、いやですっ……それ……先生っ……ああっ――!」

 ついには有無を言わせぬように無慈悲な男の指が潜り込んできて、凛子は唇を咬んだ。ほっそりとした色白の面差しに前髪がかかって恨みの表情を匿している。それを男の指が払うと女の顔を覗き込むようにして言った。

「いい表情だ……とてもきれいだよ、凛子くん……」

「………」

「こういうところを愛されるのは、君が特別な女の子である証だよ、女の誰もが興味をもってもらえるわけじゃない……愛らしく生まれた者は愛され方も深く豊かになる……人よりも多くの歓びを経験するようになるんだ……」

 指をゆっくりと抜き差しさせながら、誘うように囁きかけてくる。

「……先生っ……やめてっ……くださいっ……」

 凛子は悩ましげにお尻を蠢かして甘い責め苦に堪えていた。

「僕は君が好きだ……教え子の中でも、いまでもピカイチだと思っている……」

「はあっ……イヤぁっ……」

 長い指が肉を隔てて女に特有の部分を探ろうとしていて、凛子の背中がクッと仰け反って女らしい優美なアーチを描いた。

 十河武巳――。

 文久大文学部教授。

 凛子の学部時代のゼミの指導教官であり、自身の少女時代を名実ともに終えさせた憎い男でもあった。

 以降、妻子のある教授との肉体関係は、彼女が卒業するまでの間、数ヶ月にわたって続き、もともと陰影のある凛子の性格にさらに影を落とすことになっていた。

 そして今では武巳の歴とした愛人になっている。

 認めたくはなかったが現実はそうだった。

 不倫を続け、彼の家庭を崩壊させようとする性悪女の役回りを演じさせられていた……否、演じている……。

 親娘ほども年の離れた男女関係――。

 実際、武巳には良家の出身らしい上品そうな妻との間に、自分と三つしか年の違わない娘と、来年には大学四年生になるその妹がいて、平穏な家庭と社会的にもステータスのある何不自由のない生活があるのに、彼はリスクを犯してまで娘のような年頃の教え子の体を弄ぶことを選んだのだ。

 それが今も凛子には不思議だった。

 自分にそれほどの価値があるとはとても思えなかったからだ。

 例えば、これが食峰操祈のような非の打ち所のない美女であるのなら、大人の男が分別を失ってのめり込んだとしても頷ける。

 その彼女も、容子から察するに曰くのある恋をしているようだった。

 無理もない――と、思う。

 あれほどの美貌なら、男ならきっと誰でも、ひと目見てすぐに虜になってしまうだろう。彼女が自分のようなタブーを犯しているとは思えなかったが、いろいろな性経験を重ねているだろうことは疑いなかった。

 武巳の言葉を借りると、人並み外れた美貌には豊穣な性を経験する権利と義務とが生まれるのだそうだ。美しい容姿をもって生まれた女には男に歓喜をもたらす責任があり、その引き換えに常人には得難い快楽を知るのだ、とも。

 席を隣にしていて時に感じることのある操祈から漂う官能のオーラは、彼女の充実したセックスライフを窺わせるものなのだった。

 しかし、翻って我が身を省みると、特別容姿に恵まれているとも思えない。

 実に平凡だと思う。

 目だってそんなに大きくはないし、胸だって日本人女性の標準サイズだ。

 どうしてこんな自分に男は興味をもつのだろう――?

 たしかに野々村凛子はいわゆる正統派の美女、わかりやすいタイプの美貌というのではなかったのかもしれない。しかし彼女自身には自覚が乏しかったが、(うぶ)そうな中にも時に垣間見せる蠱惑的なしぐさや表情が男心をくすぐるのか、十代のころから男子生徒たちからは懸想されて、勝手に妄想を膨らませた挙句に言い寄られることが少なくなかったのだった。

 凛子にとってははなはだ迷惑な話だったが、その所為もあってクラスの女子たちからはひどく憎まれ、結果、友人付き合いが苦手な孤独を好む文学少女になっていた。

 彼女が長じるまで異性を寄せ付けようとはせず、孤閨をまもり続けていたのにはそんな事情もあったのだった。

 だが、大学に進んで知り合うことになった十河武巳はさすがに大人の男だった。しかも文学者として女の心理にも通じていて、ゼミの中に居ても何かと孤立しがちだった凛子の心の機微に巧みに寄り添いつつ、やがては自らの褥へと招いたのだ。

 初めて知った性の世界。

 敬うべき男が、このような振る舞いをするのが意外で、それによってもたらされる逸楽の世界は想像を超えて甘く眩いものだった。

 ゼミの中では何食わぬ顔をしていて、その陰では甘美な果実を盗み食いしていた。

 ただ、こうした関係を続けていると、やがては愛人関係へと堕落してしまうことになる。武巳には守るべき家庭と社会的信用があった。自分のような碌に取り柄も無い一女子学生が、それらを台無しにしてしまうのは許されざることだ。

 師弟から男女の仲になってしまった時点で既に不倫をしていたことになるのだが、それでも自分が恋をしているのだと信じていたかった凛子は、いつかは終わらせなければならない関係であることも良く分かっていて、卒業はまさにその契機となる筈だった。

 凛子は勇気を持って、師であり恋人であった武巳に別れを告げると、イギリスへの留学に踏み出したのだ。内定していた通信社への就職も辞退して。

 東京に居れば卒業後もなし崩し的に、また武巳との関係を続けてしまうことになるのが判っていたからだった。

 ところが――。

 そうすることで一度は清算したつもりだったのだが、帰国をするとやはり彼の元に舞い戻ってきてしまっている。

 以前と同じように体の関係を重ねてしまっている。

 自分の人生を取り戻そうと留学までして武巳と距離を置き、渡航先のイギリスでは結婚まで考えた恋人もできたのだが、結局は元の黙阿弥だった。

 ひとつには学位論文の指導教官として、彼を頼るしかなかったから――という事情もあった。

 だが、それが体のいい口実にすぎないことを凛子自身も気がついていた。

 武巳は教育者としてだけでなく、女の体に歓びを教えるという意味でも才能を発揮する導師だったのだ。

 女にとって最初の相手が武巳のような男だった、というのは、ある意味で不運だったのかもしれない。

 とりわけ凛子のような女にとっては。

 成人するまで異性との接触を務めて避けていた彼女が、あろうことか二十五歳も年上の男の手によって、めくるめく性の扉を開かれたのだ。

 女体の細々とした部分にまで躊躇うことなく分け入れられて、ひと度、ろうたけた男の手によって火をつけられた体は、たとえ別れてからも普通の男との通り一遍の淡白なセックスでは満足できないものにさせられてしまっていた。

 もっと愛されたい、武巳先生ならきっとこうしてくれるのに……。

 好きな男とのセックスの最中にも、別の男のことを想ってしまう。

 結婚まで考えていた恋人と別れるきっかけとなったのも、相手の男が凛子の側にのめり込めない何かがあることに気がついたからだろうと思う。

「あはぁっ……先生っ……」

 二つの指に前と後ろを犯されて、境の肉の壁をもみほぐすように擦り合わされて、その拷問のような快感に屈した凛子がついに自ら歓びの海に身を投げ出そうとした時、不意に武巳は指を引き抜いて彼女をそこに置き去りにしてしまった。

「――!?っ――」

「今はここまでにしよう――」

 無下に告げられる。

「えっ――!?」

「もう十時になるから――」

「………」

 生殺しにされた凛子は乱れた息を整えるしかなかった。

 デスクに両手を突いたままの、歓びを迎え入れようと決意した時の姿のままで。

 余韻にお尻を震わせ、肩を大きく上下させて、体の奥に溜まった熱をやり過ごそうとする。

 武巳は濡れた指と手をティッシュで拭いながら、凛子のスカートの中にも両手を入れて彼女の潤いを拭っていた。

「こんなに蜜を溢れさせて……君は温順(おとな)しくていい子だね……今夜はウチに来るといい、この続きをしよう……今の埋め合わせはちゃんとするから……」

 凛子は薄い肩をすくめてしおらしく頷いた。

「あの、先生……あとはもう自分でできます……」

「いや、可愛い女の子の(しも)の世話をするのも、男には楽しみの一つなんだよ、それを取り上げないでくれないか?」

 淡いヘアを悪戯な指先になぞられて凛子は、その甘いくすぐったさに目を細めた。

「君はとても素敵な子だよ、自分で思っている以上にいい女だ……カラダもすばらしいし……僕の自慢の教え子だよ……」

 股間をすっかり拭い終わっても、武巳の両手は凛子の下腹部をさするように撫でつけていて愛着を伝えていた。お尻とお腹、体の両側から挟まれるようにして広く手のぬくもりを感じていると、子宮にまで男の優しさが伝わってくるようで大切に守られていると思うのだった。

 中途半端にされた愛撫のことにも、今は恨みよりも期待の方へと気持ちが置き換わっている。

「論文のことも心配しなくていいよ、さっき言ったちょっとした修正を加えれば僕の審査はオーケーだから。あとはウチの流儀だと教授会に諮って学科に審査委員会発足の申請をしてもらい、君には主査の僕を含めて副査の先生方への正式な論文の提出をしてもらう。副査をお願いする先生はもう定めてあるから、これも問題無しだ。その上で学位審査会の日取りを決めて、君の口頭発表と質疑、そのあと形ばかりの審査会議があって……順調に進めばあと二、三ヶ月といったところかな……この春には文学博士、野々村凛子先生の誕生だね」

「先生……」

「とても嬉しいよ……僕にとっても君は最初の博士の学位を取得する教え子になるわけだから……それにもし君にその気があるのなら、文科女子大の助教のポストを紹介してあげてもいい、僕のところに今、再来年度に新設予定の比較言語文化学講座に配置する教員の紹介依頼が届いているんだ……もっとも助教のギャラは安いから、もしかすると給料は今よりも少し下がるかもしれないけどね……」

 凛子はため息をついた。安堵と希望、そして不安……幾ばくかの罪の意識がないまぜになった長い息を。

 武巳に将来を委ねてしまうということは、今の関係が今後もずっと続くことを意味していた。

 それは女として決して花を咲かせることのない日陰者の人生を選ぶ、ということでもあった。

 仮に結んだとしても他人目を憚る徒花の実でしかないのだろう。

 あるいは子を成した際にはシングルマザーとして生きる、という道もあるのだろうか……?

「前祝いというには、まだ少し気が早いとも思うが、この後、寿司でもつまんで行かないかい? 十時過ぎに、また“やまぎり”の予約を入れてあるんだが……」

 やまぎり、というのは大学近くにある寿司の名店だった。以前に一度、武巳に連れられて入ったことがあったが、自分が普段利用しているようなロボット寿司チェーン店などと比べると、支払いが一桁どころか二桁も違うような高級店である。

「体のメンテナンスを気遣う若い女の子をこんな時間に食事に誘うというのも申し訳ないが、付き合ってくれると嬉しい」

 凛子の同意を取り付けると、武巳は洗面台に行って丁寧に手を洗い始めた。凛子は自分でも股間を拭い、ちょっと迷ってからもう数枚ティッシュをつまみ取ると丸め、それをライナー代わりに押し当ててから、ずり下ろされていた肌着を引っ張り上げて穿きなおすのだった。

「準備ができたら帰ろうか……」

「はい……」

 痩身に明るいパステル調のダウンジャケットを身に纏った武巳は、若い頃からの体型を維持していることもあって、少し前までの初老の教授から、また少壮の研究者然としたものに雰囲気を変えていた。

 凛子も脱いでいたオーバーコートに身を包む。

「真冬の今は赤貝の旬だからね……久しぶりの今夜は楽しみだ……」

 寿司ネタについて特に詳しいわけでもない凛子はそういうものなのかと思ったが、武巳の容子から、どうやらそれだけでは無いことに気がついて、当惑したように唇を引き結んだ。

「そんな顔しないでくれよ……まぁ、そういう表情をする君もまた可愛く見えるんだけどね……触ってごらん……」

 武巳の手に導かれて男のジーンズの股間に触れる。そこは厚手の生地を押し上げて盛りあがり、とても固くなっていた。

「これが僕の本当の思いさ」

 そこに触れていると、いったんは宥めた筈の凛子の股間もまた不穏な感じになってくる。

「でも、先生……奥様は……?」

「美紗子は実家に帰ってる――」

「何か……あったのですか……?」

「いや、あいつの家は兵庫の旧家だからね、家内行事があると兄妹たちの手前外せないのさ……面倒な話だよ。だが、僕たちにとっては好都合でもある……今夜は本宅に帰らなくても済むから」

「でも、お家に帰らないとお嬢様が心配されるのでは……?」

「なぁに、美香は今頃、男の家に転がり込んで楽しくやってるだろうから、アレは口座の残高が六桁を維持してさえいれば父親なんて別に居ても居なくてもどうでもいいんだよ。上の美由はとっくに家をでて一人暮らしをしているし……」

「………」

「君みたいな子が娘なら良かったのにな」

 凛子には武巳の眼鏡のむこうの奥二重の眼差しが、少し寂しげであるように映る。

「もっとも、実の娘を抱くわけにはいかないから、これでいいんだと思うが……」

 教授室の扉を開ける前に、武巳に抱き寄せられて唇を重ねられる。

 肌に馴染んだ男の匂い、背の高い男の腕の中に包まれると、

 やはり自分の居場所はここにしかないのかもしれない……。

 凛子はそんな風にも考えてしまうのだった。

 どんな人間にも表の顔があれば裏の顔もある。正しい行いをするときもあれば間違いを犯すこともあった。

 確かに自分はいま間違いを犯しているのかもしれない。

 それでも、人を愛する事が間違っていると、どうして言えるのだろう?

「先生、十時をすぎてしまいましたよ……」

「ああ、そうだね……」

 凛子は教授室を出ると一人の若手研究者の顔に戻って、師から半歩遅れて従うように長い廊下を歩き出すのだった。

 



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週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る 1

1週間、スキップしてしまい
また無駄に長めのものを



 年上の男の巧みな導きで全身をくまなく愛されて、自分が相手から必要とされていることを体の芯に届くまで教えこまれる、そんなふうに思えるほど女にとって満たされる経験は他にはないのかもしれない……。

 独り寝のベッドで微睡みながら凛子(りんこ)は、昨日の朝は自分の裸の胸の上で眠りこけている武巳(たけみ)が居たことを思い出して満足げに薄く笑んだ。

 神経質で滅多に隙を見せない男が、普段とは別人のようにだらしない顔になって無防備な姿を晒していた。

 体を求めてくる時には逞しさを思い知らせてきたのに、すっかり弱々しく拙い感じになって縋りついてきていた。

 その時に感じた優越感は、きっと母性というもののひとつの現れなのだろう、林あまりの詩が頭に(うか)んでくるのだった。

 たぶん武巳は、あんな顔を妻や娘にだって見せないに違いない。深く睦みあった男女だからこそ分かち合うことのできた特別な時間(とき)……。

 その幸福感を思い出しながら寝返りをうってうつ伏せになった。

 時刻は、まだ五時を過ぎたばかり――。

 いつもよりも一時間ほど早かったが、寝足りない時の気だるさもなく、凛子はベッドを抜け出すとパジャマ姿のまま朝のルーティンをこなすのだった。

 コーンフレークとホットミルクの軽い朝食を摂って身支度を整え、今朝は早々に出勤することにする。

 外はまだ薄暗い真冬の払暁、気温は都心に比べ丘陵地域にあるこちらの方が低い筈なのだが、城域内の効果なのかそれほど違いは感じなかった。高輪にいた時と同様に厚手のセーターにロングコートで凌げるくらい。

 アパートを出て歩き始めてすぐ、折よく――恐らく、歩行者の凛子のデータを読みとって向こうから近づいてきたのだろう――無人巡航カートがやってきたので乗車の合図を送り停止させて乗り込む。凛子の暮らすターミナル駅近くのアパートから職場である常盤台中学まで徒歩で十五分あまり、カートだとものの五分ほどで校門前に寄せてくれるのだ。

 乗合タクシーの要領で、しかも無料。

 この便利さは、都内では業界の既得権もあってなかなか実現が難しい、まさに学園都市ならではのサービスの一つだった。

 そのうえカートはただ人を運ぶだけではなく、治安維持のための街の巡視という別の役目も持たされているらしい。

 そもそも警備は様々な種類の専用のドローンが担っているが、ここではそれ以外の自動機械類にも専業以外の機能を帯びさせていて無駄というものが無かった。

 さながら街全体が巨大な生命体のように恒常性を維持している。

 ここで暮らすようになって、まだ三ヶ月。

 目を瞠ることばかりの連続だった。

 世界最先端の電脳都市――。

 可能な限りの自動化が進み、都市(まち)の生業は教育研究を主としつつも一人あたりの生産性は抜きん出て高く、最高水準にあるとされる東京のそれを遥かに凌ぐ。機械、電子頭脳という欲望とは無縁の現代の神の庇護のもと、誰もが最大の能力を発揮しうるように調整されている。

 なにしろ企画段階から実際に現物になるまでの期間の短さが驚異的なのだ。外では月単位、年単位にもなることが、物にもよるが時間単位にまで短縮されることも珍しくないらしい。

 例えば、大学などの研究室で朝必要を感じて部品などを設計し、午前中に業者に発注すると夕方には試作品という形になって届くといった具合に。研究が加速するのも宜なるかな。

 また人々がもっとも気にする富の分配についても、偏りが生じないように常に修正されて合理化されていた。

 子供たちにとっては機会が、大人にとっては安定が保障された、まさに理想的な環境だった。

 既得権益のしがらみを排すると人はどれほどのスピードで進歩しうるかという壮大な実験の答えがここにあった。

 いま人類は、神の玉座の前に立って、チェック――!

 と、高らかに宣言していると言っても良いのかもしれない。

 しかし――。

 快適である一方で凛子は、この環境に危うさを感じてもいる。管理が行き届きすぎていて、まるで自分が街を構成する部品の一つにでもされたように思うことがあるからだった。

 それも、凡人であるが故のことなのだろうか……?

 生徒たちも、そして同僚の食峰操祈も、この街の暮らしに良く適応しているように映るからだ。

 それにそもそも、この快適な環境での生活を謳歌するためには資格が必要で、そのハードルはけして低くは無いのだ。それを手にできている今は幸運だった。

 新規の転入者は学園都市内の教育機関に通う生徒、教職員にほぼ限定されると言ってよく、域内企業の採用需要もずっと自足状態にあった。

 こと、人――という面に限っては事実上、学園都市の門は閉ざされているといっていい。

 そして新たに“入城”してくる生徒たちも特別で、知能はなべて非常に高く、中には特殊な能力を有する者まで居るというのだ。

 要するにここは意図的に“人以上の者”ばかりを集めている異界――ということだった。 

 とても想像ができないが、あの愛らしい食峰操祈でさえ、かつては強大な能力者として人々から畏怖されていたというのだから驚きだ。

 たしか、デザイナーズと言ったっけ……。

 遺伝子を整えることで欠陥を補い長所を伸ばす、産まれながらに多くのものを与えられた人々。

 それに羨望を感じないかと言われれば嘘になる。

 ただ、高い能力にあの素晴らしい容姿、心優しい性格と接していると、自分とはあまりにも違いすぎていて、ジェラシーさえもどこかへ行ってしまうのだった。

 彼女――。

 男性との交際はどうしているんだろう?

 ふと考えてから、なんとなくではあるが、自分と同様に曰くのある恋をしているように感じていたことを思い出した。

 それなら……。

 恋とセックスは若い女にとっていちばん大切なプライベートであるはず。しかし、この街でデートをするときには常にプライバシーの問題が立ち上がってくるのだ。

 もしも誰かが電脳に蓄積されたデータを開示しようとしたら、たちまち何もかもが露見してしまうことになるのではないか?

 いくらシステムとして、そんなことはありえないと教えられても、文系頭にはなお懸念は残るのだった。

 嘘が暴かれては平静では居られない。

 悪徳なのかもしれないが、嘘は人を形作る上での重要な要素だった。嘘なくして人は人としてありえない。

 自分と武巳の関係も多くの嘘の上に成り立っている。というより恋そのものが虚構――それが言い過ぎであるなら互いの誤解の産物――なのかもしれない。

 恋をするのに秘密と嘘は欠かせないもの。

 とりわけ男性側には女の()く嘘を許容できるような寛容さがないと、関係はギスギスしたものになりがちだ。

 もちろん嘘にも色々あって、他人を傷つけ破壊するような嘘は醜く許されないだろう、魂を穢す愚かな行為に違いない。しかし、自分を守る為のものはギリギリ許されても良いのではないか?

 重要なのは動機、だと思う。

 嫉妬や憎悪、自身の欲望を満たす為の嘘には救いはないが、相手を守るための無償の嘘は許されてしかるべきだと思う。

 しかし、機械にそんな分別があるとも思えない。

 なんといっても人工知能は恋をしないから……。

 そういえば芸人の誰かがそんなことをテーマにしていたっけ……。

 

「――昨日テレビ見とったらな、芸能レポーターのオバハンがな“アップルコンピューターの最新モデルが、ウインドウズの最新モデルと製造元の制止を振り切って駆け落ちしましたっ! これはシリコン版のロミオとジュリエットですぅっ!”てな、大騒ぎになっとったで、おどろいたでホンマに、とうとう機械も運命的な恋をするようになったんやなぁて……なんやその顔、不景気な顔しくさって」

「ウチもやがなぁ……実はなウチのパソコンもな、隣んチのパソコンと不倫しておったのがわかってな、もうワシ、ウチに帰るンもおっくうになってもうて、アレの画面見るのも、ヤでヤでたまらんわ」

「そりゃお互いさまやろ、そういうオマエかて、この間まで会社のゼロックスと社内××(ピー音)××しまくりやったやろっ、この浮気もんがっ」

「アレは浮気やないで真剣やで、ワシらはガンバってコピーを作ろうとしとったんや」

「ならんて、ゼロックスはアメリカ製や、そやからでけんのはコピーやのうて混血や」

「ほんでか、カラートーンが微妙に黄色に寄っとったんは、おかしな、思うとったんや」

「黄色? キミ、見栄はったらあかん、キミのような地黒混ぜたら、ビーキリキリキリキリッ、フワーンって排紙口から出てくんのは貧乏くさーい黄土色の奴しかならへんやろ、古新聞みたいな」

 

 きわどいネタが蘇ってきて思わず(あだ)な笑みがこぼれた。

 機械は意識を持ちえない――。

 だから恋の悩みもセックスの歓びも、そして生きる不安も死の恐れも知らない……。

 喜怒哀楽を伴う豊かな感情世界は人ならではのもの。

 ただ、そんな素人考えさえ、この街に暮らす天才たちは、いつの日か軽々と乗り越えていってしまうのかもしれなかった……。

 正門をくぐるよりも先に、隣接するグラウンドから朝練に励む運動部の生徒たちの声が聞こえてくる。

 凛子も中学生になったばかりの頃は陸上部に所属していて朝のランニングを日課としていたこともあったが、その後いろいろあって部活動自体から距離を置くようになってしまい、そのまま今にまで至っている。地味な外見からインドア派に思われがちだったが、もとより凛子は体を動かすことは嫌いではなかった。

 そのうち、また何か始めたいとも思う。

 独りでできることとなると、すぐにはジョギングぐらいしか思いつかないが、スポーツクライミングは機会があればトライしてみたいもののひとつだった。

 施設があってクラブの顧問にでもなれればお誂え向きなのだが、残念ながら常盤台にはそういったものはまだない。

 カードキーで下駄箱を開けると内履き用のローヒールに履き替えて校舎内に入る。

 生徒たちの多くは学寮で過ごしているのだろう、構内はひっそりとして静まりかえっている。食堂が開く頃になると朝の活気が蘇ってくるはずなのだが、そうなるまでにはまだ暫く時間があった。

 中央棟を挟んで正面左側が共同大食堂や男子用浴室、男子寮のある教室棟で、右側が女子寮棟だったが、教員室は少女たちの警護も兼ねているのか寮監室とともにその一階にあった。

 元は女子校ということもあって女子生徒比率が高いというのは判るが、男子と女子の待遇の違いがここまではっきりしているのも新鮮で、その環境に諾々としている男子たちの物分かりの良さも面白かった。

 高い知能を有しながらも純朴で、順法精神は大人さえも見習わなければならないと思うほど、規律正しくそして健全。

 以前にもいろいろな場所で教壇に立つことはあったが、授業をしていてこんなにも楽だと思ったのは初めてだった。

 エリート意識の高い子供たちにありがちな、大人を大人とも思わない不遜さや、ピリピリするような刺々しい空気もなく、授業中は常に熱心な態度でこちらの話に耳を傾けようとする。注意力の散漫や私語などで講義の妨げになるような経験はほとんどと言っていいほどなかった。

 そして授業が終わると、今度は自分のようなどこまでも平凡な人間に対しても胸を開いてうち解けようとする。

 優れた知識や技術を手にすると、ともすれば人は他人を出し抜いたり蹴落としたりすることに使おうとする誘惑に抗えず、結果としてそれが多くの災厄の苗床となるが、自分の知る生徒たちには公益への意識が常に上位にあって自己抑制的なのだ。

 善なるものへの希求が強いように感じる。

 それに比べると母校の大学生たちの方が、理解度もモラルもずっと見劣りするように感じてしまうのは、これも遺伝子の差、ということなのだろうか……?

 彼らを買いかぶっているのかもしれないが、こんなにも教えがいがあると、教師にとってはここは天国だ。

 この地へと赴任してきたのは、学位取得をしたのち大学などの教育現場に安定した職を得るまでの腰掛けのつもりだったが、もし仮に来年、去らねばならないとしたら……。

 もとより作家になるのであれば、大学という偏狭な村社会に引きこもってしまうよりも、許される限りここに居て若く賢明かつ懸命な生徒たちと共にある方が刺激があって良いのかもしれない。

 ただ、そこで立ち上がってくるのは、やはり武巳との関係だった。

 そして、女である自分――。

 本当はどうしたいのか、わからなくなってくる。

 留学までして五年も考え続けて、結論が出せないままにうやむやに続けてしまっている関係を、自分から断ち切るなんてことは多分もうできないだろう……。

 結局、棚上げにする、今は考えないことにする……。

 目覚めた時の高揚感は、冷たい外気にふれて体が冷えてくるとともに、いつしかすっかり霧消してしまっていた。

 時間外ということでカードキーを使おうとして、教員室のドアが既に解錠されていることが判って、自分よりも先に誰が来ているのかしらと、恐る恐るドア開いた。

 と――。

「あら、凛子先生、今日はずいぶんお早いですね」

 すぐに中から明るい声がかけられた。一番乗りかと思いきや、まだ先入りがいたのだ。

 食峰操祈だった。衝立の陰から晴れやかな笑顔が覗いている。

「食峰先生、もうご出勤だったんですか?」

「私もいまさっき来たところなんですけど」

 彼女はそう言うが、デスクの上には書類が拡げられていて、既に執務中であるのが窺えた。が、操祈は、

「お茶、淹れますね」

 すぐに気働きを見せて椅子から立ち上がろうとする。

「いえ、私がやりますので先生はお仕事を続けて下さい」

「うちの給湯器、ちょっとクセがあって、朝一はいつもご機嫌ナナメなんですよ、喝を入れないといい加減なものが出てくるので、慣れてる私がやった方がいいんです」

 今朝の操祈は、また一段と楽しげな容子だった。幸せいっぱい、という雰囲気。

 そうか――。

 きっと彼女も週末を恋人と過ごしていたのかしら、と察する。

 目が覚めた途端にじっとしているのももどかしくなるくらい、心も体もフル回転、ナチュラルハイの状態。

 さっきまでの自分もそうだったが、きっと彼女もそんな感じなのかもしれない、と。

「じゃあ、その喝の入れ方を教えていただけますか」

「ええ、もちろんっ」

 モデルのような体型が軽やかに動いて先に立つ。

 その後ろ姿に、凛子はなんて綺麗な髪だろうと目を奪われていた。甘いバニラの香りが感じられて、パフュームを変えたのかしらと少し不思議に思うのだった。

 たしかに、教員室の隅に据え置かれた万能――給湯器はここが電脳都市とは思えないほど旧式で、電源を入れてから立ち上がるまでに少し時間がかかる上に、前日に溜まったドレーンの排水をして、新鮮な水で給水路系のクリーニングをしておかないとコーヒーやお茶を淹れるときに抽出ムラが出やすいのだという。

 調子が良いときはカフェのものと比較しても負けないくらいに抜群に美味しいのだが、そうじゃないときもしばしばで、外れ籤を引いた時などには、とっととお払い箱にして新式に交換してしまえばいいのにっ、と、教員たちの誰もがこのマシンを憎み、毎年、福利厚生費の中からそれ用の更新費が計上されるというのだが、なぜか実行に移されることなく年を重ねている。

 なにより学校創立以来ずっとこの場所にあって、今や教職員の誰よりも古株だそうなのだ。

 あまりにも骨董品過ぎて、少々くたびれていても時に磨かれた愛着から棄てるに棄てられないということらしかった。

 この気難しいロートルの扱いを操祈はよく心得ているらしく、

「いかがですか?」

 マイマグカップに落としてもらったエスプレッソのダブルは、ふだん自分が淹れた時よりも数段、美味しかった。

「全然、味が違いますっ、香りも立ってコクもあるし、渋みはあまりないし……どうしたらこんなふうになるんですか?」

 目を丸くした凛子の顔を見て、操祈はニンマリ得意げな笑顔になった。

 まるで、ちょっとおきゃんな女子高校生みたいな顔つきに。

 理知的な美貌に隠れて、こういう愛くるしい顔をされたら、きっと彼氏ならメロメロになってしまうだろうな、と凛子は思わずにはいられなかった。

「コツがあるんですよ」

「コツ、ですか?」

「おまじないと言ったらいいのかしら」

「そう言われても……」

 操祈の話によると、なんのことはなく、ただきちんと水の入れ替えをしてタンクを基準通りの水量にして、あとは正しい手順でボタンを押すだけだった。

「それから、美味しくしてくださいねってお願いするんです」

「あの、それも先生の何かの能力……だったりするんですか……?」

「え、能力? わたしもう能力なんてなにもありませんよ、とっくに失って、今はただの普通の女ですから」

 屈託無く言う。

 普通――と。

 操祈のような女性にはもっとも似つかわしくない言葉かもしれない。

 だが彼女が言うと少しも嫌味に感じられないのだ。自身がそれを心から信じている容子だからだった。

「わたしは何にしようかな……」

 白く長い指先がマシンのパネルの上を優美に動いて、それに応えて機械がシューっと音を立てる。今度はほうじ茶の香ばしい薫りが立ち込めてくるようになった。

 操祈もマグカップのお茶をひと啜りして微笑む。

「うん、美味しいわ、いつもありがとう」

 給湯器の四角いフロントグリルに労いの言葉をかけている。美しい王女が年老いた臣下の者に対してするように。これがおまじないなのかもしれないが、凛子はきっと自分がやったら全然サマにならないと思うのだった。

 早暁の静かな教員室で、それぞれマイマグを持って躊躇いがちの微笑みを交えながら、ちょっと互いの胸の内を探り合う感じになっていた。

 考えると操祈と二人だけになるのはこれが初めてかもしれなかった。

 背も高く、傍に並ぶと見上げる感じになるのだが、ただ、威圧感を覚えずに済むのは円やかな性格の所為だろう。

 本当に素敵な子だ――。

「先生は週末、どうされていたんですか?」

「うーん……いつもどおりですよ……怠け者なので夜更かしして、朝寝坊して……あとは……溜まっている家事を嫌々やっつけたりして……」

 操祈は白い歯を覗かせて言った。言葉の選択はくだけたものだったが、蔭のない表情も、考え事をする時に指を唇にそえる仕草もとても自然で優雅。

「あの、シャンプーかコロン、変えられたんですか?」

「え? いえ別に……どうしてですか?」

「今朝は先生から、なんだか甘い香りがするので……バニラみたいなとてもいい匂いが……」

 凛子がそう言うと、なぜか操祈は白い頬を朱に染める。

「いやだ、週末はお家でケーキを作ったりしていたので……染みついちゃったのかしら……」

 なぜか言い訳をしているように聞こえるのが不思議だったが……。

「お手製のケーキ? ご自分で作ったりされるのですか?」

「ええ……最近、お友達に教わったりして……ダメダメなんですけれど……」

「すごいですね、ケーキを焼いたりするなんて……」

 凛子は、彼氏さんにかしら? と、訊こうとして止めた。尋いた以上は自分も言わないといけなくなると思ったからだった。

 つまらない嘘をついてごまかすのも嫌だった。

 操祈はカーディガンの袖の匂いを嗅いで、

「授業が始まるまでになんとかしておかないと、また生徒たちからからかわれちゃう……でも、どうしよう……」

 困り顔も可愛らしい。

「コロンかなにか、お持ちではないのですか?」

「……私、普段はあまり使わないので不如意で……無精なものですから……干物女ですね、恥ずかしいです……」

 若い女の子で香りに拘らないのも珍しいと思う。リケジョだからかしらと思いながら、

「なに言ってらっしゃるんですか、いつも眩しいくらいにお綺麗なのに……私のでよければお使いになりますか? デスクの引き出しにあるので」

「えっ、いいんですかっ!? ああ、よかったぁ、助かりますっ、じゃあ後で……ちょっぴり甘えさせてください」

「私のなんて安物ですから、気になさらず」

 年が近いこともあって、会話を続けていると教員同士というよりも女同士の気安さが場を占めていくようになっていく。

 それは帰国して以来、凛子が久しく経験していなかったものだった。

 話題は差し障りのない教室運営についてのものから、操祈が週末に生徒に付き合うこととなったカラオケのことになり、彼女が生徒たちの前で何曲か歌わされたことを聞くと、是非、拝見したいからもし次の機会があったら自分も参加したいと申し出た。

 凛子がこんな風に思うのは、疎外感を抱かずにはいられなかった中学高校時代はもとより、大学時代も数えるほどしかなかったかもしれなかった。

 そして話はお気に入りのお酒の銘柄のことから、やがては好みの男性ついてのことにもおよんでしまった。

 この手の話題は努めて避けるつもりでいたのだが、異性の話題になって交際に触れないのも不自然な気がしてきて、つい踏み込んでしまったのだ。

 ひとつには操祈がとても幸せそうでいることも力になっていた。からかうつもりなど毛頭なかったのだが、うっかり

 お幸せそうですね――と、やってしまった。

 女であればその言葉の意味はわかるもの。操祈はまたポッと頬を染めて初々しいはにかみの表情を覘かせて、彼女の恋が順調に進展していることが窺えたのだった。

 ボーイフレンドと体の関係になって、まだそんなに日が経っていない雰囲気。

 凛子自身も互いの体の探求に興奮していたころの自分を思い出していた。

「わたしは、そんな……凛子先生こそ、とってもお幸せそうじゃないですか……あ、そうだっ、学位論文が上手くいってるんですねっ?」

 巧みに話題をすり替えられて、はぐらかされてしまう。だが逆に凛子もホッとする。

「え、ええまあ……」

「文学博士号だなんてすごいですっ」

「そんな、からかわないでください、大したことではないので……それにまだドラフトのチェックをしてもらっている段階で、正式に決まったわけじゃ……指導教授の先生からはあと幾つか文献を足したほうがいいと言われていて……」

「わたし、文学の方もさっぱりで……英文学って言われても、有名な作家の名前ひとつ出てこないくらい……寂しい限りですね……」

「またそんなこと言われて……」

「そうだっ、どなたかお勧めの作家を教えていただけませんか?」

「いいですけど……でも、人それぞれ、好みもあるので……先生はどんなジャンルがお好みですか?」

「好み、ですか?……うーん……それさえすぐに思いつかないくらいで……文学に親しむ経験があまりなかったので……」

「例えばシェイクスピアはご存知ですよね」

「え、ええ、それはもうっ」

「……でも古典すぎるかしら……ストーリーは広く知られているのでページを(めく)る楽しさを感じにくいかもしれないし……近現代だと、やっぱり入りやすいのはモームかな……サマセット・モーム……」

「ああ、月と六ペンス、の作者ですよね、読んだことはないですけど……」

「雨、とか短編集から入られると楽しさが伝わりやすいかもしれません……」

「雨……ですか、あとで図書館で探してみようかな……」

「中学生のころ初めて読んで、それが私が文学に関心をもつようになるきっかけとなった作品なので……先生にも楽しんでいただけると良いんですけど……」

 (おもむろ)にドアが開いて村脇静繪が現れて、二人だけの雑談はそれまでになった。

「あら、若先生二人、今日はずいぶん早いのね」

「「おはようございます」」

 二人が唱和して頭を下げた。村脇はその前をそそくさと通りすぎて自身のデスクに腰を下ろした。

「何かお急ぎのご用事でもあるのですか?」

 操祈が尋ねた。

「今日は朝からリモートで会議があるのよ。始まる前にその準備をしておきたくて……そうだわ、食峰先生、あなたにも関係があることなので……」

「わたしに、ですか?」

「あの、わたしはこれで……」

 二人の間でこみ入った会話が始まりそうな気配に、凛子がその場を離れようとすると、

「ちょうどいいわ、野々村先生も居て下さい、あなたも聞いておいたほうがいいことだから――」

 凛子もひきとめられた。

「今朝の会議は来年度の新学期が始まる前の、各校への新入生の振り分けと受け入れ枠についてのものなんだけど……」

「……?……」

「ちょっと問題になりそうな子がうちへの進学を希望しているの、ほら、前に話したでしょ? 冬のキャンプに外からマルチスキルの男の子が来ているってことを」

 教務主任に促されて、傍らで操祈は記憶をたどっていた容子だったが、

「……テレパシストでリモートビューイングとプレコグニション能力もあるかもしれないとかっていう男の子ですよね……たしか森下くん……森下翔馬くんでしたか? 珍しいマルチの孤発事例で、そのうえナチュラルというとても貴重なケースだと」

「ええ、その子よ――」

「その子がどうかしたんですか?」

「たった二週間あまりで能力値がレベル2、一部は3ぐらいまで上がっているらしいの……まだそんなに安定しているわけではないらしいけど……」

「すごいじゃないですかっ」

 操祈は朗らかな反応を示していたが、逆に村脇の表情は冴えなかった。

「うちは女子校みたいなものだからご遠慮したいと言ってるんだけど、他校はこっちに押し付けたいらしくて……」

「はあ……」

「高度能力者たちへの教育経験がある上に、当事者だった人も居るからって……あなたのことよ、食峰先生」

「はい……でも、もう……」

「わかってるわ、あなたが能力を失っていることは……ただこうなってくると今はあなたが力を持っていてくれたら良かったのにとさえ思うのよ」

「そんなに扱いが難しい生徒さんなのですか……その子は……?」

「能力によってはそうなるわね……特にレベル3の直接透視能力となると……」

 それを聞いた操祈がようやく村脇の懸念を察したように

「そういうことですか……」

 納得して頷いた。

 凛子は二人のやりとりの意味がわからずに目を(しばたた)かせるばかりだったが、操祈が村脇に代わって説明を始め、彼女にもそのわけが理解できたのだった。

 その男子児童の前ではどんなに厚着をしていても裸でいるのと同じになるかもしれない――というのは女にとっては看過しがたい大問題である。

「レベル1、2ぐらいまでは、こちらもそれほど意識せずに済むものでも、これが3となるとそうもいかなくなるんです。レベル3というのはそれほど高い異能力で……発現頻度も極めて稀な……でも過度に恐れないで下さい……この子の場合も条件が揃うとそのようなことが起こりうるかもしれないというだけなので……」

「食峰先生はそれよりもはるかに高いレベル5だったんですよね?」

 凛子がそう言うと、操祈はきまりの悪そうな顔をした。

「今は違いますから……凛子先生と同じです、だから正直、私もその子の前に立つときには、きっと身構えてしまうと思うんです、女ですから……教師が生徒に対して口にすべきではないことかもしれないですが……」

「学園都市では豊富な経験から、そういう生徒の扱いには慣れているのではないのですか?」

「それは……村脇先生にお尋ねになって下さい……私の口からは……」

「まぁ確かに外の人たちよりも多少の経験はあるけれど、でも高度能力者の生徒の対応はいつでもとても大変よ……ただ昔を知っている者からすると、いまレベル3ぐらいでオロオロするのはバカみたいに思えるわ……だってあの頃は、この学園では三、四人に一人の割合でレベル3以上の子が居たんだから……この子みたいにレベル5の子だって二人も居たし……」

 村脇は操祈を見やりながら凛子に言った。

「でも二人ともとても賢明だったから、むしろこちらが助けられていたんだって、今はわかるけど……」

 美しい同僚が隣で肩を(すく)めて恐縮しているのを見ると、凛子にもどうやらそれだけではなかったらしいことは判ったのだった。

 しかしベテラン教師の操祈を見つめる眼差しは優しく、信頼を寄せているのが窺える。

「先生には、ご迷惑ばかりをおかけしていて……申し訳ありません……」

 操祈は深く頭を垂れた。

「昔のことよ、もう忘れたわ……それでね、キャンプ側は、とりあえず期間中は彼にブレスレット型のジャマーの端末を装着させることで、他の女子たちに納得してもらったみたいなんだけど」

「ジャマーですか……やっぱりそうなりますよね……」

「ウチで引き受けるとなると、こちらもジャマーを設置するとかして対応しなければならなくなるから、今から予算の工面もしないといけなくなるし……それにジャマーにはアレルギーを示す人も少なからず居るから……」

「あの、ジャマーっていうのは何ですか?」

 耳慣れないキーワードに凛子は操祈に尋ねた。

「脳の量子重力場に干渉することで能力の発動を抑えるんです……私もあまり詳しくないのですが……」

 知識が及ばないせいで説明の半分ぐらいしか理解できなかったが、電磁波の一種を使って思考を制御するもの、ということまではなんとか捉えることができた。

 操祈によると、建前上は装置は人体に対して非侵襲、無害ということらしいが、発育途上にある学齢期の児童生徒への適応は配慮するように、という但し書きがあるらしいことから推すと、やはり影響があるものなのかもしれないとのことだった。

「いくら扱いにくい子でも、そうしたものを生徒に使わないとならないというのは……」

 子供の思考や能力を機械の力を使って矯正する、ということには深刻な人権侵害の臭いを感じてしまうだけでなく、凛子は単純に電磁波イコール放射能のイメージからも拒否感を抱いてしまうのだった。

「たぶん、小型の端末を体に装着するだけなら害にはならないとは思うんですけれど……私たちの頃はもっと雑だったので、安全性なんて無視してずっと非道いことも普通に行われていましたから……いまのお話のジャマーも、何世代か前のプロトタイプというか、大掛かりで荒削りな装置が使われたりもしていたので……」

 操祈はキャンプ側に立って擁護していた。

「じゃあ、先生ご自身も以前にそういったことのご経験がおありなのですか?」

「ええ――」

 操祈が当時のことをあまり話したがらない雰囲気であるのを察して、凛子はそれ以上たち入るのを控えることにした。

 はからずも学園都市の影の部分に触れてしまったようで、三人の中にあって一人だけ部外者感を意識せざるをえなくなる。

「野々村先生にはいろいろショックなことかもしれないけれど、食峰先生が言うように、これでも以前に比べるとずいぶん改善されているのよ」

 凛子の表面的な認識とは異なって、学園都市は今も単純に、楽園、というわけではないということだった。

「能力――は、使い方によっては核以上に破壊的な影響を周囲に及ぼしうるものなの。だから制御についても人の知恵が試されるのよ。亡き者にできない以上、付き合っていくしかないから」

 村脇が何気なく使った、制御――という言葉に、事態の重さが自分の想像を超えたものであるのを思い知らされていた。事情を知らない者が底の浅いヒューマニズムの立場から軽々に嘴を突っ込むべきではないということも。

「それ以上に気になるのは、その男子児童の能力の伸張度合いが著しいことの方よ……昨年末にキャンプに参加した時にはレベル1程度だったのに、わずか二、三週間で部分的にせよレベル3になるというのは普通じゃないから……もしも今後も覚醒が続いて、これがもしもレベル4とか、場合によってはそれ以上になることもあるのだとしたら……その可能性も含めて原因等の分析も必要になるでしょ? だから仮にウチで引き受けたとしても研究機関と連携でもしない限り、こちらだけではとても手に負えそうもないと思うんだけど……どうかしら、食峰先生は、あなたはどうしたらいいと思う?」

「……初めから研究者の手に委ねてしまうのはどうでしょうか……能力のインフレーションも思春期での一過性の現象の可能性もありますし……力の正しい使い方を教えるのも教師の役目だと思うので……」

「そうよね……あなたならそう言うと思っていたわ――」

「………」

「理事会もね……その子の担任というので、ご指名なのよ……当面はあなたを充てるべきじゃないかって……アルマもそう判定したって言って」

「アルマがわたしを!?……そうですか……」

 アルマの判定――?!

 誰――?

「“彼女”がそう言ったのなら……きっとそれがいちばん良いのですね……」

 二人の容子から察するに、とても大きな影響力をもっている女性らしい。

 凛子は傍にいる操祈の端正な横顔――ちょっと当惑げな容子で、その憂いがまた一段と美しいと感じる――を見上げた。

「ちょっと待って、操祈さん、そう結論を急がないで。これはあなた一人の問題ではないの。だって、うちは三学年あわせて百五十名からの女子生徒をおあずかりしているのよ。彼のような生徒をわざわざ女子校になんて、そもそもおかしな話でしょ? もっと相応しい場所なら他にいくらでもあるじゃない?」

「そうかもしれないですけれど……でもアルマはそれを含めて判断しているはずなので……」

「ごめんなさいね、野々村先生はまだ知らないのね、アルマはこの街の最高顧問なのよ、以前にあった統括理事会に代わって、人――が判断に迷った時には意見を求めるの」

 凛子が話についてこられていないのを感じたのか、村脇は補足した。

「それは、もしかしてコンピューターなんですか? AIかなにかの……」

「もしかしなくてもそうよ、この街を支える量子コンピューターにして、刻々と成長をし続ける世界最高の宇宙シミュレーター」

 二人の会話の内容からなんとなく違和感を覚えていたが、やはりそうなのだった。

「人と馴染みやすいように擬似人格を与えられて、さながら人類が生み出した女神ね……だからって彼女の言うことに従う義務はないわ、あくまでも最終的な判断と決定は人間が下すのだけれど」

「この街の全てを監視しているという電脳……」

「監視ではなくて見守ってくれているのだけれど、まあそう感じる人もいるわね」

 凛子は目を丸くしていた。

「操祈さん、私はね、あなた一人に無理をさせるつもりなんてないの。この後の会議ではこちらの立場をしっかり主張するつもりでいるから。私、そもそもこの件ではアルマの判定が間違っていると思うのよ。だって普通に考えて、その子を担当させるには貴女みたいな人がいちばん相応しくないハズでしょ、ねぇ、野々村先生もそう思わない?」

「そうですね、わたしもそう思います――」

 村脇女史の意を機敏に汲み取って凛子も従った。

「私は思春期の男の子の心理に明るいわけじゃないけれど、でも自分のすぐ近くにすごく魅力的な女の人がいたら……? そしてその能力があったら……力を使いたいという誘惑にきっと逆らい難いと思うの。だから貴女のような子は、かえって彼の教育の妨げになりかねない」

「………」

「性っていうのは厄介なものよね……たとえ教師であってもその前には女であるわけだし、生徒であっても男であることには変わらないし――」

 村脇は書類を操祈に手渡した。

「私も一応、目を通したんだけど……理事会から送られてきた報告書よ。おかしなことが書いてあるから読んでごらんなさい……いちばん最後の行を」

 操祈は受け取ったA4サイズのブリーフを捲って視線を走らせている。

「読み上げてみて――」

「……なお事由についての詳細を確認したい場合には、希望すれば直接本人に伝えるものとする――」

 操祈は怪訝そうな面持ちのまま書面から顔を上げた。

「主語は理事会じゃなくてアルマよ」

「理事会はそれでいいのですか? 私が上の人たちの頭越しにアルマと直談判をしても……」

「アルマがそう言ってるのだから是非もないでしょ? 彼女がそのつもりなら、あなたに直接アクセスしてくることだってできるのだから」

 村脇は操祈に目配せをしてみせ、凛子は日頃いかつい印象の強かった教務主任の常とは違う仕草を、ひどく意外に感じるのだった。それを操祈が引き継いで言った。

「別に隠すほどのことではないので……」

「私には“彼女”の方があなたに会いたがっているように思えるのよ」

「“あの人”にはもう何年も会っていませんから……」

 二人がまるで人格を持った相手であるかのように、人工知能について語るのを見ていると、凛子は自分が暮らしていた旧い世界との隔たりを感じざるを得なくなるのだった。

「アルマはね、エクステリアの姉妹機なの、と言っても野々村先生には何のことかわからないかもしれないけど」

 二人から聞かされた話はさらに凛子を驚かせていた。

 この街の頭脳ともいえるAIがなんと操祈の脳から採取された細胞を増やして造られたデバイスで構成されているというのだ。

「いろいろあって、エクステリアの方は廃棄されてしまったけれど……だからアルマにとっては食峰先生はある意味では身内で、たった一人の“肉親”のように感じているのかもしれないのよ」

「あまり大げさに言わないで下さい。ここには、多くの人から採取した細胞のプールがあって、たまたま私のものが使われたというだけで、特に意味があるとも思えない話ですから……」

「アルマの心は私たちには窺い知れないわ、操祈さん」

「………」

「森下くんについての貴女の反応は予想どうりだったけど、まずはこの件は私に任せてちょうだい。会議の結果については後でお話しするわ。野々村先生にもね。長話におつき合いさせてしまってごめんなさい。でも、この学園都市(まち)が外とはだいぶ違うところだってことは、少しは解ってもらえたかしら? けして良いことばかりではないかもしれないけど、でも悪いことばかりでもないわ」

「私のような新参者をお話に混ぜていただいてありがとうございました」

 凛子は教務主任に丁寧にお辞儀をすると、操祈とともに自身のデスクに戻るのだった。

 ドアの外からは生徒達の声や足音が聞こえてくるようになっている。

 時刻は七時を回っていて、食堂が朝食を供し始めたようだった。

 

 




操祈先生がどうしてバニラの香りを纏っているのかは・・・
そのお話はのちほど


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週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る 2

 凛子先生、女子力高いな――。

 ふだん持ち歩くバッグの他に、学校のデスクの引き出しにも予備の化粧品のポシェットを置いてあるなんて……。

 相も変わらず学生気分を引きずったままのような我が身を振り返って、大人の女性との違いを感じてしまう。

 結局、操祈は凛子からコロンを貰ってしまった。

 後でお返しをしなければと思いながら、教員用の化粧室でひとりになると未使用のボトルを開封して、手首やうなじなどに軽く噴きかけてフローラルの香りを纏う。

 ラベンダーのにおいは控えめで、こうしたものも悪くないと思うのだった。

 アクセサリーや化粧にお熱を上げていた子供時代を、能力を失うにつれて、幼さゆえ――と感じるようになって、いつしか距離を置くようになってしまったが、本来、身だしなみを整えるのは女の子のエチケットだった。

 ただ……。

 彼――がそれを好まないことから、操祈が香水の類を使う場面は限られている。

 とりわけデートの時などは何もつけたりしないようにと繰り返し言い含められていて、恋人から自分の素肌のにおいを好まれるのは嬉しくても、レイのこだわりは、なおハードルが高いのだった。

 それに……。

 いつでも予想もしないような思いがけないことを求めてくるのだ。

 凛子先生にも気がつかれてしまった……バニラの香り……。

 今朝早く、レイと別れた後でしっかりシャワーを浴びてきたつもりだったのだが、生クリームの香りが肌に染みこんでいて除ききれていなかったらしい。

 操祈の胸に、また蜜の思いが寄せてきた。

 レイくんがいくらお料理が上手だからって、まさか、あんなことまでするなんて……。

 ちょっとエッチな睦言を交わしながら、いつものように愛された後、お風呂に誘われて、本当の夜はそこから始まったのだった。 

 生クリーム……。

 操祈はもう、それを知る以前の自分には戻れないと思う。

 スーパーなどで見かけるたびにレイとの行為の数々が蘇ってきて、きっと胸がざわつくことになってしまうのに違いない、現に今も既にそうなりかけていた。

 あの子、あんないけないこと、いったいどこで覚えてくるんだろう……?

「恋人どうしなら、言わないだけで誰でも使われているものだとおもいますよ――」

 彼はしれっとしてそう言ったが、とても信じられなかった。

「だってローションなんかと違って生クリームは食べ物だから普通に口にできるし」

 その通りのことを彼は操祈に対して“した”のだ。

 初めは女の体を飾るために、次いで肌をなめらかにしていっそう敏感にするために。

 そして、最後には食べるために――。

 淫らで、背徳的でアブノーマルな、けっして他人には知られてはいけないこと。

 ぬるぬるした感触がどんなに女の肌には毒となるものか、今の操祈は思い知らされている。

 あんな非道いことを凛子や唯香が彼氏としているなんて、そんなこと絶対にないと思う。だって身持ちのいい女の子はけっしてしないし、してはいけないことだから……。

 わたしだけ……わたしが愚かで悪い女だから……すぐ誘惑に負けて、イヤだって言えないから……。

 鏡に映った顔は教師のものではなくなっていた。

 股間がしどけなく熱を持ち始めているのがわかって、操祈は他の人がやってくる前に個室に逃げ込むと肌着を下ろして便座に腰をかけるのだった。

 案の定、朝に着けたばかりのライナーは潤いを含んで重たくなっていて、すぐにも換えが必要な具合になってしまっている。生理はまだ先の筈なのに、このところまた一段とおりものが増えているようで、だらしない自分が情けなかった。

 本来、生理は順調な方で苦労したという経験はそれほどなかったはずなのだが、年下の恋人から細やかな感心を寄せられて以来、すっかり気にするようになってしまった。

 みんなレイくんがいけないのよ……わたしの体……こんなにして……。

 温かいシャワーをかけてその部分を濯ぎながら操祈は瞼を閉じた。長い睫毛に憂いが差して、さながら悩める女神のような表情になる。

 いとけない人間の男の子に情をかけたつもりが、逆に肉を持つ身のさだめを知って女であることの頼りなさ、弱さに戸惑っているような。

 ただ――。

 彼は本当にやさしい人なのだ、神さまみたいに……。

 愛されて、慈しまれて、いつでも彼の思いが女の肌を通して流れ込んでくる。

 乳飲み子が無心にお乳を求めるように、一途に顔を寄せてくるのだから拒めるはずもなかった。

 どんなに恥ずかしいことでも、自分から体を開いて彼の望むままにあられもない姿になっている。

 いけないことだとわかっていてものめり込んでしまう。

 逢いたいな……レイくんに……。

 ほんの数時間前に別れたばかりなのに、小一時間もすればまた教室で顔を合わせることになっているのに、それでも操祈はもう恋に(かつ)えを感じていた。

 二人だけの世界で裸になって、誰の目を意識することもなくいつまでも睦みあえるのなら、どんなにステキだろう……。

「クリームの甘さやバニラの香りが先生のと混ざっちゃうから、はじめは無味無香料なら良かったのになって思ったけど……でも混じり合ったにおいも味も先生にしかつくれないものだから……だからやっぱりとってもステキ……かわいい……かわいいな、先生の妖精さんは……ボクにフードの下のきれいな素顔を見せてください……」

 レイの指によってすっかり剥き出しにされて、そこにクリームが盛られていく。ふわふわの感触に包まれてもやもやしていると、突然、舌先で薙ぎ払われてしまうのだ。そのときのショックはとても言葉では言い表せないほど常ならぬものなのだった。

 一瞬で意識が跳びそうになるくらいの鮮烈な快感。

 それが一度で済まずに、何度も繰り返し襲ってくるのだから身も心もおかしくなってしまう。

 ああ……あんなこと……。

 操祈は股間に手を伸ばして切ないため息を漏らした。罪深い体はすぐに目覚めて甘い旋律を奏で始める。でも……恋人の愛撫には遠く及ばない。

 

 

 ……レイくんっ……あいたい……あいたいなぁ……レイくんにっ……。

 

 

 すっかり言うことをきかなくなってしまった体を持て余して、やるせない思いに涙がにじんでくる。

 

 

 あらぁ、とうとう学校でもイケナイことをするようになっちゃったのぉ、ホント、困ったおねーさんだことぉ――。

 

 

 しばらく鳴りを潜めていたインナーセルフから嘲りの言葉を浴びせかけられた。いつもそれは自分が少女の頃の姿になって現れるのだった。

 切り棄てたはずのもう一人の自分……自分自身。

 

 

 だって……だって……あたしっ……。

 

 

 操祈は弁解しようと思ったが、それができずに唇を噛んだ。レイと逢ってどうしたいのかと詰め寄られれば、愛されたい――! というのが本心だったからだ。

 可愛い――と、言われて、彼の気持ちを体に教えられて……。

 それがどんなに甘美で幸せなことか。

 命と引き換えにしても構わない、身も心もとろけてしまうほどの歓び……。

 

 

 言ったハズよぉ、欲の深い年増女は嫌われちゃうんだゾって――。

 

 

 ……イヤっ! それはイヤっ……ぜったいにイヤ……。

 

 

 しょうがないかぁ、あんなに楽しいことをいっぱい経験しっちゃったらぁ、もう知らなかった頃には戻れないわよねぇ――。

 

 

 ………。

 

 

 愚かな女ねぇ、肉欲に溺れて自分のことしか考えられなくなっているなんて、みっともなぁい――。

 

 

 そんなことないわっ! そんなこと……ないから……。

 

 

 さぁどうかしらぁ、あなたがイケナイことをするのはぁ、ただ気持ちがいいからでしょう? それって、あの子のことをイヤラシイ小道具にしているだけじゃないのぉ――?

 

 

 ちがうっ、ちがうわっ……わたしは彼を……愛してるから……だから……。

 

 

 愛? そんな曖昧なことを言いわけにするつもり――?

 だって、あなたは彼のことを何も知らないじゃない? それどころか知ろうともしない。教え子の一人っていうだけでぇ、体を自由にさせているなんて、それって、ただあの子を使って気持ちよくなりたいだけじゃないのぉ、恋をしてるっていう甘い幻想に浸ってぇ――。

 

 

 幻想なんかじゃないわ……目には見えないけれど……でも心と同じで確かにあるから……人を愛したことのないあなたには解らないかもしれないけど……。

 

 

 操祈は自分の胸をおさえて、思いを吐露するように訴えた。するとインナーセルフの顔からそれまであった冷笑的な余裕が失われて気色ばんだ容子に変わっていったのだ。

 

 

 わたしは愛なんて信じないわ、そんな不確実なもの――。

 

 

 かわいそう……あなたが哀れでならないわ……愛する歓びも、愛される歓びも知らないなんて……。

 

 

 恥ずかしいところからヨダレをタラして、男の子の顔に跨ったりするような、ふしだらな女に、よくもそんなことが言えたものねっ――!

 

 

 愛は……覚悟なのよ……その人のためなら、どんなことでもできるし、どんなことでもしようっていう……そうすることで絆を深めていくの……。

 

 

 あの子の舌がいろいろなところにあたるように、自分から貪欲に腰を動かしていたことも覚悟だとでもいうつもり? ああ可笑しい、お笑いよっ――!

 

 

 ええそうよ……彼が望んでいることがわかったから……だから、わたしも応えたの……気持ちが繋がっているから……。

 

 

 口だけは達者になったのねぇ! 朝っぱらからアソコを火照らせて、そんなみっともないことをしてるようなブザマなオンナの分際でっ――。

 

 

 でも後悔なんてしてないわ、みんな彼が教えてくれたんだもの……今の自分に導いてくれたのは彼なの……この気持ちを大切にして……生きていくわ……わたしは……。

 

 

 操祈が胸の中で宣言すると、インナーセルフの気配は消えた。現れた時と同様に唐突に。

 同時に自身の胸にあったもやもやとした気持ちの整理もついて、体の方も一時の熱から解き放たれていた。

 愛してる……だから……大丈夫……。

 そう言い聞かせたとき、表情からも悩ましげな翳が払われて、いつしか微笑みも泛んでいるのだった。わずらわしい女の生理反応についても、これでいいと思えるようになっている。

 大好きな人に逢いたいと思うのは自然なこと。体が目覚めてしまうのもいけないことなんかじゃない、愛しているが故なのだから、と。

 ただ、自分との対話でひとつだけ心に残ったことがあった。

 それは、恋人のレイについて何も知らずにいたこと――。

 担任の教師として知り得る最低限のことの他は、彼の気持ち、これからどうしたいのか、など深く考えたこともなかったのだった。

 これまではそれでも構わなったが、彼のことをもっと知りたい、知ろうとしてもいいのかもしれない……そんな風に気持ちの向きが変わり始めていた。

 教師としてだけでなく最愛のパートナーとして、レイの将来についてともに考えてみたい。

 きっと彼にも幼い頃からの夢だってあったはず。

 レイくん、どんな子ども時代を過ごしていたのかな?

 そうだ――。

 来年の進路のこともまだ決まっていなかったし……保護者の方にお会いする口実には十分よね……。

 明後日の午後は、リモートで一つ会議を入れてあった以外に時間がポッカリ空いていることを思い出した。スケジュールではその後は図書館で調べ物をするつもりでいたが、もしも会議が早く終われば……。

 往復すると四時間ぐらいかかるそうだけど……ここを三時に出れば、面会時間を入れても八時には戻ってこられるわ……。

 急な思いつきだったが、それはとてもいい考えのような気がした。

 どんなご両親なんだろうな……?

 突然、お邪魔するのはいけないから後で連絡を入れておかないと……でも、もしも会議が長引いたりしたら……?

 その時は、用事を伝えて退室させてもらえばいいわ――。

 大人の会議はとかく長くなりがちで対面だと中座するのにも勇気がいるが、リモートだとその点は気が楽だった。

 水曜日はレイくんのお家に行こう!

 操祈はそう決心すると身繕いを整えて、気分も新たにして化粧室のコンパートメントを後にするのだった。

 

 

 



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週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る 3

 

「ん……んん……やっ……めて……」

 美由紀は細い手に精一杯の拒絶の意思をのせて俊介の胸を押し返そうとしていたが、力が入らないままに唇を吸われ続けていた。男の舌が深く差し入れられて舌の裏がわにまで潜りこまれ、唾液とともに貪られている。

 それは挨拶程度のキスではなく、真夜中にベッドの中で交わされる欲情をかきたてるときの接吻なのだった。

 椅子越しに背後から抱かれて、セーターの中に忍び込んできた手はフロントホックのブラを外して美由紀の乳房をじかに包み、大人の男のしっかりした指先の間に挟まれた乳首はすぐに固くなって愛撫に応えてしまっている。

「……俊介くん……やめて……もう……こんなところを誰かに見られたら……」

「それなら大丈夫、エレベーターが着いたら音でわかるから……」

 旧本社ビルの近く、麹町の新社屋に移ってからは月刊春秋の編集フロアは十二階になり、ここまで非常階段を駆け上がってくるような酔狂な社員がいるとはさすがに考えられなかった。七時を廻ったばかりの職場には、美由紀と俊介の他にはまだ誰も出社してきてはいない。

「僕の言うこと聞いてくれてますよね?」

 柔らかくウエーブする豊かな髪をかき分けて、細いうなじに唇を這わせながら俊介が訊き、美由紀は物憂げにうなずいた。

 彼女の体には、サイズにピタリと(はま)る性具が留まっていて、邪な目的に勤しんで滲み出してくる女の樹液を蓄えている。

 昨夜、俊介のアパートを出るときに装着されて、命じられた通りにそのままにしているのだった。

「おねがいよ、会社ではなにもしないで……約束……」

「わかってます、今夜、また家に来たらその“ぺいこのいんぽクン”を外してあげますよ、どれぐらい溜まってるか楽しみだな」

「………」

 美由紀は土曜日の夜に、はじめて俊介のアパートを訪れて、それから丸一日、日曜日も夜が更けるまで彼と共に過ごしていた。その間中、いつでも迎え入れられるように、ほとんど裸に近い状態のままにされて。

 やさしいが凌辱者でもある若い恋人は、妖しい小道具まで持ち出してきて、地団駄を踏むほど乱れて、女の誇りを搾り取られていた。

 前ばかりか後ろまでも――。

 今まで知らなかった歓びの極みへと幾度となく導かれ、寝返りさえも疎ましくなるほど体は熱と精とを放ちきって全身がくたくたになってしまっている。

 無慈悲な男の手によってそんなふうにされてから、ほんの十時間余りしか経っていなかった。

 まだ体中のあちこちに、愛撫のあとの残り火が燻っている。

「翔馬くん、週末に戻ってくるんでしょ? 先輩が自由に外泊できるのは今週いっぱいだから、それまでは思いっきり楽しみましょう」

 仕方なく美由紀は黙って首を縦に振った。

 俊介と男と女の関係になってまだひと月――。

 それまでは息子のことしか頭になかった美由紀だったが、いまは二人を天秤にかけるような感じになってしまっている。

 母親である自分と女である自分との間で揺れ動いている。

 待ち焦がれていたはずの最愛の息子の帰還を、ようやく――ではなく、もう――と、感じている気持ちの変化に彼女自身が驚いていた。

 それは母親として、罪の意識を抱かずにはいられない心の移ろいだったが、こと性愛という場面になると罪障感はむしろ女の動機になってしまうのだ。

 性の誘惑は刹那的であるがゆえに、なにものにも代えがたいほど強いものなのだった。

 もちろん、翔馬のことは誰よりも愛している。しかし別の意味で俊介のことを美由紀は愛してしまった。自分の体をどこまでも愛そうとして一途に振る舞う男に心が動かされない筈がなかったのだ。

「濡れてますか……?」

 なにを訊かれているのかは判っている。

「ええ……今朝、あなたの顔を見た瞬間に……」

「それは光栄だな……」

「仕方ないでしょ、あんなものを挿れられてるんだから……」

「見せてくれませんか?」

「ダメ……」

 わけ知りに笑んで椅子の前で跪いた男の前で、美由紀はスカートの前をおさえて拒んだ。気を許すとスカートの中に潜り込んできそうな気配だったからだった。

 幸い、男はそれ以上を求めてくることはなくてホッとしたが、それもつかの間、股間に秘めていたものが、ビュンと一度、身じろぎをして美由紀は艶っぽい声を上げていた。

「ここではしないでっていったのにっ」

 男をなじる。大切なものを守ろうと股間に両手を押し当てながら、目元をバラ色に染めて恨みがましい眼差しで見上げる表情は、清潔感のある色気があって美しい。

「もうしませんから安心してください……でも先輩のその顔がたまらないんです……とても可愛いいから……」

「バカ言ってないで、席について仕事、始めなさいっ、なんのために早朝出勤したかわからないでしょっ」

「ハイ、副編集長っ――」

 俊介は気をつけの姿勢をとった。が、またすぐに男の顔になって、

「でも、もうひと言だけ……」

 かがみ込んで顔を近づけ、美由紀をまっすぐに見てささやきかけてくる。

「先輩は、僕が想像していた通りの人だったから……本当に嬉しかった……」

「……?!……」

「どんなに抱いても抱き足りない……こんなにひとりの女の人を好きになるのは初めてです……」

 女心をかき乱さずにはおかない物言い。

「……そのセリフ、付き合った人みんなに言ってるんでしょ……?」

「そう思いますか? 昨日、僕が美由紀先輩にしたようなことを誰とでもやってると?」

「………」

「先輩も、僕の気持ちをもう判ってくれてると思ってたんだけど……」

 恋人から真顔で詰め寄られて美由紀は長いまつげの瞳を伏せた。

「美由紀先輩はオトコを本気にさせる本物のオンナなんですよ……幸運な男が一生に一度、巡り逢えるかどうかっていうくらいの……普段はスッキリカッコいいのに、あんな女の子みたいな可愛い声を出して……」

「女の子? こんなおばあちゃんをからかって……」

「僕をババ専みたいに言わないでくれますか」

 頤を持ち上げられてまた唇を奪われる。

「それにもし先輩が自分自身のことを、マジでそんなふうに思ってるのなら、あんなセックスなんてできないハズですよ……僕が先輩を抱いていていつも感じるのは、人からの賞賛の視線に馴れた、美女に特有のプライドだから……」

「私に……そんなプライドなんてないわ……」

「意識していないだけですよ」

「………」

「そして男にとってそうした一流の美女を抱くのに優る歓びはないんです……美由紀先輩は僕のただ一人の女――」

「……そんなこと言って……俊介くんは、私をどこに連れて行こうとしているの……?」

「……僕にもわかりません……行く先がわからない旅は不安かもしれませんけど……でも……」

 俊介が珍しく口よどんでいた。

 しかし彼が本音を言っているのだと察して、美由紀は優雅に口角を上げて白い歯を覗かせる。それはまさに誇り高い美女の微笑みなのだった。

「それでいいわ……十分よ……」

 大人の恋は、そもそも行く先を訊く方が無粋というものだった。

「先輩……」

「さあ、席に戻りなさい。今日は十時に梶原先生のところにお伺いする予定だったはずよ、用意は出来ているの?」

「大丈夫です、間に合わせますので……」

 俊介の回答は管理職にあるものとして十分に満足のいくものではなかったが、

「頼むわね、あなたもウチに来て、もう丸三年になるんだから、そろそろ下を引っ張る側になってくれないと困るの」

「わかってます――」

 廊下の先に、ピーン――と、エレベーターの到着音が鳴って、見つめあう二人はハッと顔を上げた。

 美由紀はセーターの中に手を入れて外されたブラを整え、身だしなみに隙がないか素早く全身を見回して確かめた。

「俊介くん、口紅、ついてるから――」

「あ、そうですねっ」

 ティッシュで口の周りを拭いながら自分の席に戻っていく後輩の背中を見やりながら、美由紀は彼がすっかり満足するまでお付き合いするのも、女の務めなのかもしれないと思うのだった。

 




いつもより短めです

美由紀ママは操祈先生の次にお気に入りのキャラかもしれません

脳内再生されるのは・・・だったりします


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週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る 4

 ペーパーフィルターを敷き、挽いたコーヒー豆を計量スプーンでたっぷり三杯、そこにポットで沸かした熱湯を軽く注いでしばらく蒸らしてから、湯をゆっくりとまわし掛けていく……。

 ラボでドリップコーヒーを淹れるなんて、いつ以来のことだろうかと思う。

 給湯室にあるコーヒーメーカーを使えばボタンひとつでそこそこの味のものが出てくるのに、わざわざ手間をかけて上手くできるかどうかも分からないものを自分で作る、というのは非合理的で時間の無駄だ――。

 などと意識してそう思っていたわけではなかったが、いつもはラボに来るとすぐに実験室へと駆け込み、前夜からO/N――で仕掛けておいた結果のチェックにかかる、というのが身についた行動パターンだった。それが済んで一段落してから、やおらマグカップを持って給湯室に飲み物を貰いに行くのが七時五十分ごろ。

 まだ多くの職員たちの出勤前で、混み合うこともなくゆっくりとその日の朝の気分に合わせてチョイスする。大抵はコーヒーになるが。

 そして部屋に戻ってそれを飲みながらデスクで新着の論文等のテキストファイルにざっと目を走らせ、支援AIと議論をしながら今後の方針に修正を加えていく。

 実際に手を動かして確かめたい実験屋の常として、事務処理はさっさと片付けて実技の時間を多くとりたいことから自然にこうしたルーティンになっていた。

 日進月歩どころか秒進分歩、加速度がついて発展する研究現場において、数年のブランクは常人であればとっくに取り残されて後進に道を譲っているところ。

 ただ、かつての天才少女、木山春生はやはり特別だった。

 学園都市に戻ってきて以来、以前と同様、あるいはそれ以上の密度で仕事をこなして失地を回復、瞬く間にフロントランナーとして返り咲いてしまっている。

 ラボに寝泊まりするのも彼女にとっては日常で、同僚たちからは、あの残念美人はいったいいつ寝ているんだろうと揶揄されるほど。

 その春生が、今朝はのんびりとコーヒーなどを淹れているものだから、出勤してきた研究員の杉山明日香は目を丸くした。

「おはようございます、主任……また……徹夜明け……じゃないです……ね……」

 上司の容子を窺って軌道修正をしながら言葉を紡ぐ。

「おはよう、明日香くん。きみも飲むかね?」

 春生はコーヒーの入ったマグを持ち上げて誘った。

「あ、はいっ、いただきますっ……先生のコーヒーなんて、こんなこと二度と飲めないかもしれないので、一生の記念にっ」

 明日香は白衣に着替えながら、冗談とも本気ともつかない言葉を口にして、マグカップを手にいそいそとやってきた。

「主任、今朝はどうされたんですか? 先輩が手ずから(コーヒーを)淹れるなんて天変地異の先触れになるんじゃ? お天気大丈夫かな?」

 わざとらしく窓の外を窺って言う。

 真冬の朝だが、七階の窓からは丹沢山系が望め、空気が澄んでいて空は青々と高い。

「かもしれんな……でも、たまにはいいではないか……」

「困りますっ、だってベランダに洗濯物を干しっぱなしにしてきてるんです」

 若い助手の明日香は、木山春生のラボに来てまだ一年あまり。明朗で物怖じしない性格とざっくばらんなもの云いで、ともすればくすみがちになるラボの雰囲気をライブリーなものへと変えていた。

 研究者としては並外れた天才でも、それ以外のことについては子供のように危なっかしいところのある春生を、雑事を含めて良く支えている。

 専門は神経細胞工学で、今は春生の指導のもと細胞機能のミニマライズ化に勤しんでいて、自身のPCで論文を書いたり、データを処理するとき以外は地下にあるP3施設内に置かれた分子マニュピレーターを使って直接細胞に手を加えるという緻密で職人技的な実験に取り組んでいた。

 学位取得未満の二十五歳。飛び級もなくキャリア自体は平凡で、才能も出色というほどではないのかもしれないが、原著、共著論文多数にして、将来を期待される若手研究者の一人だった。

「うん、合格です、ちゃんとコーヒーになってますねっ」

「いったい、君は何が出てくるかと思ったのかね?」

「もしかしたら硫酸かなって――」

 しれっとした顔でジョークを飛ばしてきて、春生はしてやられたとばかりに軽く肩をすくめてみせた。

 が、明日香は得意げに鼻孔を膨らませ、マグを傾けてコーヒーを啜っていたが、春生の顔を間近にするや改めて気がついたように怪訝そうな面持ちに変わるのだった。

「あの、なんかあったんですか?」

「ん、何かね――?」

「先生、いつもと違いますよね」

「いや、別に……何も変わらんと思うが……」

「いえ、絶対おかしいですよっ……だって、お化粧もバッチリキマってるし……」

 今朝の春生はファンデーションを薄く塗り、目立たない色合いのものだが唇にはリップグロスものせていた。

 地顔が端麗であるだけに、ちょっと化粧をしただけで一段と際立ち、輝いている。

 春生は、週末に井之上優樹と会うときにしていたことをただ続けていただけだったが、事情を知らない者が目にしたら驚くのも無理はなかった。

 残念美人の、残念――のところが蒸発して、その下からいきなり、超――の文字が現れたようなものだったからだ。

「なんかすっごくキレイなんですけどっ……そりゃ、先生が美人だってのは判ってましたけど、でも急にそんな本気だされたりなんかしたら、私みたいな中の上っくらいの女子は、差がついちゃって辛いじゃないですかっ……って、待ってくださいよっ!」

 明日香は間合いをぐっと詰めると、巻き毛のショートカットの、クリッとした利発そうな大きな瞳をさらに大きくして、春生の顔を間近に見上げてまんじりとする。

「女の人がキレイになるときっていうのは、たいていオトコ関係ですよねぇ?」

 部下からいきなり核心を突かれて春生は動揺した。

 日頃、感情表現が地味である分、わずかな変化も目立ちやすい上に、たちまち頬を上気させて分かりやすい反応を示したものだから誤魔化しようもなかった。

 否定するよりも先に、

「え!? えーっ!!! 先輩っ、まさかっ、そんなっ、ウソですよっ! ちょっと勘弁してくださいってばぁっ!」

「その先輩っていうのは許してくれたまえ、重すぎるんだ。わたしは教養を一年も保たずに中退してしまったのでな、しかも生理研に入り浸っていて、あっちでの授業にはろくに顔も出していなかったんだから、同級生ですらわたしのことを知ってるものは殆どいないんだ……」

「でも野口準教授は広田先生の教え子のお一人ですから、先輩は野口先生の姉弟子にあたる方になるので……って、そんなことじゃなくってっ、今は先生のカレシの話をしているんですっ、聞かせてくださいっ、週末、何があったんですかっ」

「いや、別になにもないが……」

 春生は韜晦したが、そもそもそうした腹芸の類は得手ではなかった。

「なんにもって、そんなあからさまな反応されて否定されてもですね――」

「本当に何もなかったんだよ……」

 嘘をついているわけではなかった。結局、井之上優樹とは一線を越えるまでには至らなかったからだ。

 ただ――。

「何もなかったって……じゃあデートしてたのは認めるんですね?」

「いや、その、デートというのではなくてだな……」

 詰め寄られて早速、口ごもったが、さらに馬脚を晒すことになるのだった。

 優樹との一夜が蘇って、また羞恥のフラッシュバックに襲われて見事なまでに真っ赤になってしまったのだ。

 異性に肌を許す、というのが女にとってどんなに衝撃的なことかを身をもって学んだばかり。

 ただ彼女が未だヴァージンであることに気がついた優樹は交わりまでを望まなかったのだ。

 春生はそのつもりでいたのに……。

「どうしてだね……? やはり年が離れているとまずいのかね? もしも子供ができることを気にしているのなら――」

 およそ見当外れのことを言った春生に

「そんな大切なものを、こんな場末の安宿でいただくわけにはいかないので……」

 肌を接していた優樹はそう言ったが、その顔はとても嬉しそうだった。

「わたしは構わんのだが……」

「先生が構わなくても僕は困ります……貴重なシーツを残していくなんてこと……」

 理由を聞かされてもピンとこず、自分には特に拘りなどなかったのだが、

「きみがそう思うのなら好きにしてくれたまえ……」

「そうさせていただきます……ただその代わりに……」

 と、言って求められたのが、あのワイディマ映像にあった食峰操祈が少年からされていたこと――だった。

「きみもっ、そういうことをするのかねっ?!」

 脚を大きく開かされて、慌てて両手で股間を庇いながら訊いた。

「きみもって……経験、おありなんですか?」

 優樹の声音には、かすかな落胆が覘いていて

「いや、わたしは……初めてだ……さっきも言ったように、わたしは男にはさっぱり縁がなくてね……体に触れられるのも、きみが初めてだよ……ただ知り合いの恋人たちが、とても熱心に取り組んでいたのを目にしたことがあったものだから……」

「そうなんですか、ああびっくりした……でも良かったです、すごく嬉しいっ……だって、先生の初めてを……みんな僕のものにできるなんて……信じられないくらい幸せなことですから……」

 優樹の手が優しく、けれども意思を示して彼女の手をそこから引き剥がしてしまう。相手の面前に股間を晒すことになって春生は、あらためて身を竦ませるのだった。

 想像していた以上に遥かに恥ずかしい行為であることを思い知らされて、たとえ覚悟を決めていたつもりでも、なんとか逃れるすべはないものかと考えてしまう。

「……あまり、見ないでくれないか……」

 春生の懇願を無視して、指で粘膜を左右に分けられてしまった。

「綺麗です……すごく綺麗……ずっと想っていたとおりです……」

「あ……ああ……」

 優樹の唇が落ちてきて、それから後のことは何が何だか判らなくなった。

 記憶にあるのは、とても長い時間、丹念に愛されたということ。そして、どこまで行くのかわからないほどの高みに、なんども誘われたということ。

 初めての試練を終えて、あのときの食峰操祈がそうであったように、自分もまた正体をなくして逸楽の海に漂うようになったのを春生は、何もかも全て肯定的に捉えていた。

 これが……女として愛されるということ……なのか……。

 このまま死んでしまっても構わないと思えるほどの素晴らしい経験だった。彼がどうしてこんなにも良くしてくれるのだろうと感謝の念に胸を熱くする。

 しかし、体から情熱の余韻がゆっくりと引いていくに従って、再び理性が目覚めてしまう。

 傍で満足げにしている優樹の顔が目に入ると、とたんに激しい羞恥がよみがえってきて、とても相手を正視できずに枕に顔を埋めて身を丸くした。

 これは自分の体を使った実験なのだ――と、念仏のように胸の内で何度も唱えて言い聞かせたが、そんなものは何の頼りにもならなかったのだった。代わりに背中を愛おしげに撫でる男の手の温もりだけが心の支えとなっていた。

 身も心も、魂までも慄える歓喜と感動。

 恋をするというのは、こんなにも幸福に満たされることなのか……。

 思い出すとまた少女のように胸がドキドキとときめいてしまう。

 男の大きな手に包まれて安息と怯えとの間で揺れていた体……。

 あの幼な子だった、ゆうくんが、あんなにも大胆な振る舞いをしようとは……。

 食峰操祈が演じていた体位の幾つかを、自分もそっくりなぞってしまっていた。あの少年が操祈の体に対して為していて、とても驚いたことを彼女もまた経験することになっていた。

 大きな手で、長い腕が体に巻き付いてきて導かれては、他にどうすることもできなかったのだ。

 えっ? と思った時には、自分でも信じられないくらいの恥ずかしい姿になって、彼の愛撫を従順に受け入れる格好をさせられていた。

 外部生殖器ばかりではなく、陰部にあるすべての器官が舌と唇によってなぞられて、そして確かめられてしまう。

 この、確かめる――という言葉を厳密に考えると、とても強い羞恥にいたたまれなくなった。

 それは女の本能だ――。

 だが、好ましい異性に対して抱く羞じらいの気持ちは、愛情と表裏の関係にあるものでもあった。

 女の恋の成立プロセスは、体の方、生理的な刺激が先立って発展するものなのかもしれない……。

 相手の放つ様々なシグナルを受けて、それを肌を含めた多種多様な受容器で感じ取って……肉体が生み出すプラスの評価が、記憶に照覧されてさらに連鎖しどこまでも膨らんでいく……。

 だが、性の歓びの圧倒的な輝きの前には、そんな言葉のどれもが一瞬のうちに消し飛んでいた。

 知識もそれによる予測も、現実の前にはじつに些細なものでしかなかったのだ。

 愛してる……わたしは彼を愛している……。

 これが……恋というものなのか……。

 こうして知った初めての夜はとても長く、あっという間に過ぎ去って、そして次の週末は春生のアパートでデートをすることにして、今度こそ男と女の契りを結ぶことを約束して別れたのだった。

「なんだかとってもいーことがあったみたいですねっ」

 明日香がわけ知り顔で見上げているのに気がついて、一瞬、言葉を失った。

「今、すごぉく幸せそうな顔をされてましたよっ」

「え――!?」

「ねぇ、週末に何があったんですか? センセイ――」

「いや、わたしは別にいつもと変わらないはずなんだが……」

「ウソですっ! ウチのジロも、ときどきそんな顔する時があるからわかるんですっ」

「ジロ――!?」

「ジローラっていう名前の牝の柴犬なんですけど、アパートに帰ると、ときどきあの子がお気に入りのクッキーを食い散らかしてることがあって、いっぱい美味しく食べてハッピーですって風でいながら、あたしが叱ると、わたし、なにも知らないですって顔しますから。床がクッキーの破片で汚れていて、ウチにはあの子の他に誰も居ないのにですよっ」

「いったいなんの話をしているのだね?」

「だから先生のことですよ、そんなにくっきりと恋する女の顔をされたら、いくら鈍感なあたしだって気がつきますってばっ! オトコっ気の微塵もなかった先輩が、いつの間にかちゃっかり、カレシ作っていて、週末らぶらぶデートなんて、あたしとしてはぜったい許せないですよっ、リア充反対っ!」

「だから、おかしな勘違いをしないでくれたまえ、わたしのはただの実験なんだから……」

「え、先生によるとデートまでも実験になるんですか? じゃあお尋ねします、いったいどんなあぶない実験をされたんですかっ?」

「いや、うむ……何と言ったらいいか……」

「ものは言いようですよねっ。わたしだってそういう実験ならいつだって準備完了してるのにっ、なのに材料に手が届かないんですよっ、材料にっ! 捕まえようと思って罠を仕掛けてるんですけど、いつでもスルッと逃げられてて……ねぇ先生っ、こんなあたし、どうしたらいいんでしょう? いったいどこに行くと捕獲できるんですか? “体長”百八十五センチぐらいで、顔は俳優のサミュエル・ロバートソン、年収は二千万以上って、ワリとどこにでも居そうなありふれた“マテリアル”だと思うんですけどっ」

「明日香くん、あまりわたしを困らせないでくれないか……」

 春生はほとほと弱って表情を曇らせた。

「すみません、ちょっと悪ノリしすぎました」

「いいんだ、ただ、今の話は所内で妙な噂になると困るので、この部屋の外での言動には十分に注意をしてくれないか?」

「わかりました……」

 素直に首肯する。

「そうしてもらえると助かる……」

「あの、それで……」

「なにかね……?」

 明日香は再び好奇心に爛々と瞳を輝かせて春生を見上げていた。

「で、先生のカレシって、どんな人なんですかっ?! あたし、誰にも言いませんからっ」

 誰にも言わないから――。

 世界中でこれほど安易に切られる空手形はないだろう。辞書の該当項目には用例の一つに上がっていてもおかしくないと思うほどだ。

「明日香くんっ、もう八時もだいぶ過ぎたようだよ、仕事にとりかからなくても良いのかね? たしか学会も近いはずだが――」

「あ、逃げたっ……まぁ仕方ないですね、じゃあ、この続きはランチの時にでもっ、と」

 杉山明日香は自分のデスクに引き返すと実験用のファイルとパッドを小脇に抱えた。

「あーあ、木山先生まであっちの世界に行っちゃったんだ……あたしショックなんですよっ、だって、先生みたいな美人でもリケジョは男に縁がないんだから、自分が彼氏いない歴イコール年齢なのも仕方ないと思っていられたのにっ……」

 ドアに向かいながら、聞こえよがしにボヤきが続く。

「わたしを置き去りにして自分だけ幸せになるなんて、ズルいですよ、やっぱり男って所詮、面食いなんだから……そりゃ、先輩にはスタイルだって負けてますけど……」

 しかしその声は、どこか楽しげにも聞こえるのだった。

「明日香くんっ、さっきの約束、くれぐれも忘れんでくれたまえよ」

 念押しすると、

「わかってますっ、だから先輩も、あとでしっかり恋バナ、聞かせてくださいねっ」

 春生が、否――と、返す前にドアの外へと出て行ってしまった。

「まったく……近頃の若いもんは……」

 ひとりごちて、そして絶句する。

 井之上優樹は明日香よりもさらに七つも年下なのだった。

「彼はああ言ってくれるが……」

 別れしなに優樹がうったえたのは、彼が十年前に告白したことは今も、一字一句、違えるつもりはないということだった。

 しかし――。

 さすがにそれは難しいと思うのだ。

 三十六歳にもなる女が十八歳の将来のある青年と結婚を前提に交際するというのは……。

 きっと優樹のことだから言葉通りに有言実行、誠実にそれを果たそうとするだろう。

 とても嬉しかった。

 これ以上ない形で自分の女としての価値を認められて、その上……。

 けれども先々を考えて、彼の幸福を第一に考えるのが年上の、大人の女の恋の仕方であり務めだと思う。

 幕引きを考えながらの恋愛というのもせつないが、たとえ一夜限りであったとしても彼からはすばらしい贈り物をされたのだ。何があったとしてもその事実は揺るがない。

 何ものにも代えがたい歓びと至福の経験。

「わたしは……幸せだ……」

 言い聞かせるようにつぶやいた。

 口元には以前の春生にはなかった婉然とした笑みが作られていた。

 

 



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週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る 5

 

 結局、週末は実家に寄りもしなかった。

 昨日の夕方、ひとりで女子寮に戻ってきたアリスは誰とも顔を合わせたくない気分で、相部屋の一年生にも、仕事――と、称して生徒会室に籠るようにしていたのだが、今朝も目がさめると、まだ惰眠を貪っている少女を気遣って起こさぬようにそっと部屋を抜け出すと生徒会室にやってきていた。

 だからといって特に急ぎの事由があるわけでもない。

 生徒会役員たちが作成した報告書に目を通し、会長裁可が必要なものの場合には承認のサインをするというだけのこと。

 脳の僅かの部分を使うだけで粛々と処理は進んだ。

 一方で、彼女の胸と心の大半を占めているのは、

 彼――のこと……。

 もう陽佐雄は弟ではなかった。彼とは男と女、恋人としての本気の契りを結んでしまっている。

 そこには仲の良い姉弟が身近であることを言い訳に興味本位で体を重ねてみた、というような曖昧さなど一切なく、成熟したカップルそのものの濃密さで互いの体を求めて一心に愛し合ったのだった。

 いったい幾度、愛情を注がれてから交わるという狂おしいいとなみを繰り返してしまったことだろう……。

 体をいっぱいに開いて、親にも見せたことのない姿を彼には見せてしまった。

 自分でもびっくりするくらい積極的になって。

 とても恥ずかしいことには違いなかったが、その相手が幼い頃から心を許していた陽佐雄で良かったと思う。

「――もしも女の子の体に、十、の刺激を与えようと思ったら、それを十分の一にして十倍時間をかけるようにする、イカせるんじゃなくてイクのを待つ、男はその手助けをしてあげるくらいの気持ちでいると丁度いいんだって――」

 陽佐雄は淫らな口づけのさなかにも、焦らすようにときどき顔を上げては得意げに言っていたが、そうなのかもしれないと思う。

 それ以前の、交わりを急いだ二度の関係とは違って、土曜の夜は初めて女の歓びというものを感じていたのだ。

 痺れるような鋭い刺激と、体が膨らんでいくような陶酔感、そして溜め込んだ熱を破裂させて真っ逆さまに堕ちていくときの失楽感。

 どれも一度でも味わってしまったら、けして忘れることのできないこの上なく甘美なものだった。

 そしてそれこそが自分が恋をしているとはっきり自覚した瞬間でもあったのだ。アリスは自分にとっての初夜とは、まさにあの経験だったのだと思う。

 だから、お返しをせずにはいられなかった。

 恋人のものを口に含んで自分の気持ちを伝えて、目の前で陽佐雄の体が歓びにひきつるのをどんなに愛おしいと感じていたことか……。

 互いの秘所に顔を埋めて慰め合うという禁忌の行為も、言葉にならない一体感と密着感があって時を忘れるほどのめり込んでしまっていた。

 二重にタブーを超えて、二人で描いた情熱の風景……。

 アリスは、股間がまた潤んだように感じて悩ましげなため息をついた。

 色白の小顔、鼻筋の通った清楚な美貌。大きな瞳に長い睫毛の愛らしい十四歳の美少女は、官能の逸楽を知ってさらにどこか謎めいた雰囲気を纏って一段と女らしくなっていた。

 スカートの中に手を入れて、昨夜から肌着の中に忍ばせたままにしていたティッシュの塊が既にじっとりと湿っているのが判ると、もう生理のときと同様の扱いをしないといけないと思う。

 デスクの引き出しの奥にしまっておいたナプキンを一つ取り出した。

「……恨みます……密森先輩……彼にあんなことを教えて……」

 ひっそりと呟く頬には、泣き笑いの表情が作られている。

 セックスが交わりを目的とする子供らしい素朴で単純なものから、愛を紡ぐための心と体の果てしのないいとなみになって、昨日、陽佐雄と別れるときの辛かったこと。

 愛撫に馴染んでしまった肌は、男の手の温もりが自分の届かぬところへ去ってしまうことを惜しんでいた。

 すぐにまた学校で会えると思っても、恋人として逢えるわけではないと判っていたからだった。

 少し遅れて別々に帰ることにしたのも、一人になってからベッドに粗相を残していないかちゃんと後始末をしたかったこともあったが、濃厚な性愛の気配を漂わせたまま他人前に出ることが憚られたからでもあった。

 外ではあくまでも姉と弟でいつづけなければならない。恋人に戻れるのは二人だけになった時だけ……。

 寧ろ、これまで以上に努めて距離を置くようにしないとならなかった。さもないと目ざとい誰か――例えば山崎碧子のような――に気取られたりすれば、それこそ大変なことになる。

 操祈先生はどうされているんだろう……?

 学校では毎日、恋人と顔を合わせている筈なのに……。

 でも、いつでも端然としているように思う。

 お辛くはないのかしら――?

 やっぱり大人の女の人だから、そういうことへの経験値が高いのかな……?

 けれど陽佐雄の話によると先生はまだヴァージンらしい……信じられないけど……。

 でも、密森先輩がとてもいけない悪い人だとしたら頷ける。

 ということは――。

 きっと先輩からは、いろんなことをされて愛されてるに違いない。

 あんなに綺麗な女の人が男の子に恋をしているなんて……。

 操祈先生が教え子に体を与えている姿なんて想像もつかないが、もしも自分と同じような経験を重ねているのだとしたら……。

 それなら……いまのわたしが感じているようなことも自身の問題としてご存知なのかもしれない……。

「今度、お話してみようかな……」

 優しくて賢くて、そしてとても美しい人。

 ずっと遠巻きにしていたのだが、もしも同じ悩みを抱えているのだとしたら……。

 アリスは生徒会室のドアを施錠して化粧室へと向かった。

 今の時間は朝食を摂りに集まってくる生徒たちで校舎内は次第に賑わってくるのだが、生徒会室のある地下一階に降りてくる者など誰も居なかった。

 女子用トイレのコンパートメントに入ってロックをすると手早く処理を済ませる。

 汚れ物を手に、

 こうしたものの処理にも気をつけないといけなくなるなんて……。

 と、当惑しながら用意していたビニール袋に入れて封をすると、それをジャケットの内ポケットに忍ばせることにした。

 利用者が限られているところで汚物入れに投じることが躊躇われたのでそうしたのだ。

 鏡を前に身づくろいをして、おかしなところのないことを確かめてから化粧室を後にして階段を上る。すると、折しも一階の職員用の化粧室から出てくる操祈の姿が目に入ってきて、美少女はちょっとびっくりした。

 シンクロニシティ――?

 まさか……それは考えすぎよね……。

 でも……先生だって女であることには変わりないし……もしも週末を先輩と過ごしていたのだとしたら……教室で彼と顔を合わせる時には、それなりの覚悟が要るはず……。

「あら、生徒会長さん、今朝はもうご出勤だったの?」

 アリスに気がついて操祈の方が気さくに声をかけてきた。

「おはようございます、操祈先生、先生もお早いですね」

「ええ、ちょっと仕事が溜まってしまっていて、能力不足で処理が追いつかないの、うふふっ」

「また、そんなご冗談をおっしゃって……」

 この香り……ラベンダーかしら……でも、もっと甘い香りのような……。

 操祈のそばに来ると、纏っている芳香を感じて少女の胸はなぜかドキっとする。こんな香りをさせている食峰操祈は、きっと初めてだと思った。

 なんて綺麗な金髪、でも猛々しさや(いかめ)しさとは無縁の、もの柔らかな大人の女性、なのにどこかインファントな無垢な気配も漂う美貌。

 男子たちが夢中になるのも無理はなかった。女の自分でも、うっとり見惚れてしまうくらいなのだから。

「あの……先生……」

「なぁに?」

「今度……折り入ってご相談したいことがあるんですけれど……」

 勇気をもって切り出すと、目の前の操祈は一瞬、懸念を示すように目を瞠ったが

「なにかしら? いいわよぉ、どんなこと?」

 すぐに普段どおりの顔に戻って応じてくれたのだ。

「大したことではないのですが……お時間のある時にでも……」

「珍しいわね、アリスさんからお誘いを受けるなんて……」

「お誘いだなんて……そんな……ただちょっと、お伺いしたかったことがあったので……」

「あら、わたしに聞きたいことぉ……? 今でもいいのよぉ……」

「い、いえ……ここではちょっと……」

 上手く返せずに言いよどんでしまったことをアリスは後悔したが遅かった。案の定、また操祈は複雑な表情になる。曇りのない笑顔に兆した影。

「そう……わかったわ……」

「すみません、お忙しいところ足止めをしてしまって……」

「いいのよ……」

 アリスは一礼をすると操祈の脇を通り過ぎようとした。

「……アリスさんは……たしかテレパシスト、だったのよね……」

 いきなりの指摘に足が停まって顔を上げると、自分を見つめる茶色い瞳と視線が重なった。操祈はすぐに目を伏せて、飴色の長いまつ毛の作る翳りが教師のものではなくなっていた。隠れていた女の素顔が表になったように感じる。

「はい……」

 アリスは自身の能力を公式に申告してはいなかった。能力といっても不安定なレベル0と1の間程度のもので、伝える必要がないほど低いものだったからだが、一方で操祈はかつてはレベル5、メンタルアウトと言われたほどの人、同系の高位能力者としてこちらの能力に気がついていたとしても不思議ではなかった。

 何もかもお見通し――?

「やっぱり……ご存知だったのですね……」

「……勘違いしないで、今の私には何も見えたり聞こえたりなんかしないから……」

「……申し訳ありません……」

 アリスは頭を下げた。何を謝しているのか自分でもよくわからないままに……否、判ってはいても言葉にすることが躊躇われて……。

「どうして謝るの……?」

「それは……」

「あなたの力は……きっと接触テレパスね……?」 

 ズバリと指摘されて、アリスは素直に頷いた。

 操祈は手を差し伸べてくる。

「あなたが新年の挨拶にやって来た時に、そのことに気がついたわ……そして……いずれまたわたしのところへ来るだろうということも……」

 何を言われているのかはすぐに判った。何を求められているのかも……。

「……手をにぎってちょうだい……」

 操祈は心許なげに微笑んでいる。

 笑顔を保とうとして努めているのが窺えて、促されるままに操祈の手に触れてみた。柔らかくてしなやかな指先……と思った途端、一瞬ではあったが彼女の心が流れ込んできて、慌てて手を引っ込めた。

 イメージの鮮烈さにアリスは喉をごくりと鳴らしてしまう。

 見えたのは飴色の髭を生やしていた密森黎太郎の顔と、彼女の不安や一途な思い、愛情、信頼……。

 それは操祈の記憶の一部だったのに違いない。この女神のように美しい女性の身に起きたこと……。

 そっくり同じようなことをアリスも一昨日、陽佐雄を相手に目にしていて、その時の自分の気持ちと操祈の思いとが重なり合っていた。

「……何か……見えた……?」

 美しい女教師が窺うような眼差しになって、不安げな顔をして訊く。

 恋をすると人はこんなにも儚げに、頼りなげになるのだろうか、と少女は心を動かされていた。

 操祈はすっかり乙女の顔をしていたのだ。彼女のせつない心根が少女の胸に迫るのだった。

「それは……」

 アリスは頬を鮮やかに染めていて、自分がどういう類いのものを見てしまったのかが操祈にも伝わってしまったようである。

 低位の接触テレパスは、たとえ相手に触れたところで、見ようと思っても見えるものではないし、見たいものが見えるわけでもなかった。

 その時、全くランダムに相手の心の欠片が見えることがあるかもしれない、という程度のもの。

 しかし、いま垣間見てしまったものはとても口にすることができないものだった。

 操祈は目のまわりを朱に染めながら、それでも気丈に少女を見つめていた。

「……いいえ……なにも……私の力は……以前の先生とは違って、ほんのわずかなものですから……見えないことの方が普通なので……」

「……それならよかったわ……生徒にみっともないところを見られずにすんで……」

 嘘――が、交錯する。

 互いに相手が偽っていることに気づきながらの。

 アリスには、操祈が心を見ることを自分に許したのは、託されたからなのだと気がついていた。

 頑なに心を閉ざして隠そうとするのではなくて、開くことで秘密を守ろうとしているのだということを。

 もちろんアリスの側にも彼女の禁断の恋を他人に吹聴するつもりなんか微塵もなかった。

 それをどうしたら伝えられるだろうと考えて、覚悟を決める。 

「……私も……弟を愛しています……」

 女として――という意味だった。それは言わなくても伝わる筈。タブーの関係にあることを打ち明けることで自分の立場を訴えた。

「……そう……」

 操祈は曖昧な表情のまま微笑んでいたが、躊躇いがちな視線を触れ合わせるうちに、やがて緊張が和らいで本当の笑顔になっていくのだった。

「ありがとう……」

 操祈は周りに目を遣って誰も居ないことを確かめてから、声をひそめて続けた。

「大切な人を大切にね……」

「操祈先生も……」

「ええ……」

 こっくり頷く仕草が愛らしい。

「お話ししたいことがあったら、またいつでもいらっしゃい……」

「はい……」

「じゃあね……」

 操祈はくるりと背を向けると教職員室へと足を向けた。

 その背中を見送りながらアリスは、既に気がついていたことではあったものの、それ――が、やはり現実であったことに感動していた。

 食峰操祈も女だった。自分と同じに必死に恋をしている、一人の若い女の子。

 そして、やっぱり密森黎太郎は悪い男だ……心優しいあんなに素敵な先生に、あんなに酷いことを“させて”いるなんて……。

 操祈の手に触れることで心に映ったシーンが、自分たちが演じていたものとよく似ているようで、実は大きく違っていることにも気がついていたのだった。

 視界に絨毯の模様が写り込んでいて、それで見えていた背景が壁ではなくて床だったことが分かったからだ。

 それは淑やかで身持ちのいい操祈のような女性が、とうてい自ら望んでするとは思えないこと。

 だからこそ彼女が恋人に対して、どんなに強く思いを寄せているのがよくわかるのだった。求められれば拒めないくらいに、懸命に男と女の恋のアラベスクを紡ごうとしていた。

 それは自分が陽佐雄に対して感じているものと同じものだった。

 だから、

 二人を応援しないわけにはいかない――。

 でも、どうして先生は……こんなにも大きな秘密を自分のような者に打ち明ける覚悟をしたのだろう……?

 それがとても不思議なのだった。

 これまで特別に親しくしてきたわけではなかったのに……。

 操祈のまわりには常に上級生の女子たちが取り巻いていて、容易には近づけなかったということもあるが、アリスの方からもアプローチを避けていた面がないわけではなかったのだ。

 圧倒的な美貌に気後れを感じていたということもあるが、なにより同系の、それも強大な能力者であったことへの畏怖がなかったかといえば、やはり嘘になる。

 操祈が再覚醒しているのではないか、という噂は、一部の生徒の間では今も密かに囁かれていて、それは少女の耳にも届いていたのだった。

 レベル5、心理掌握(メンタルアウト)の食峰操祈は、既にレジェンド、精神系能力者の比類なき巨人だ。

 その力の一部でも蘇っているのだとしたら、自分のような矮小な能力者は近寄りがたかった。彼女が悪意を振るうはずなどないと判ってはいても身構えてしまう。

 でも――。

 今、はっきりわかったのは、食峰操祈は力の再覚醒をしてはいないこと。自らを守る術を持たない無力で非力な存在。

 奇跡のように美しいひとりの女性に過ぎなかった。

 それが己の全てを賭けて、教え子の男子生徒との恋に身をやつしている。

 こんなに愛おしい人は他にはいない――。

 安心して心を寄せられる大人の女の人だと思うのだった。

 秘密を分かち合うことで絆を深めるのは、男と女の間だけに留まらない。人間関係の裏の不文律、決まり事のようなもので、大きな秘密になればなるほど紐帯もまた太く強くなるもの。

 先生になら、きっとどんなことでも打ち明けられる――。

 アリスはそう心に決めると、気分も軽くなって、朝食を摂りに食堂へと向かうのだった。

 



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週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る 6

 制服に着替えてからも、鏡を見ながら首筋に残る虫さされのような痕を隠そうとしきりに襟元を整えるのだが、少し体を動かしただけでたちまち暗紅色の淵が覗いてしまうのだった。

 山崎碧子は、わずかに不満げに頬をピリっとさせて

「顕正さん、もっと気をつけてくれれば良かったのに……」

 ひとりごちた。

 ファンデーションを塗ってごまかそうかとも思ったが、そうすると寧ろ逆効果になってしまいそうで、もしも誰かに見咎められた時の言い訳を考えると、虫にでも刺されたことにするのが無難だと結局そのままにする。

 いずれにしても午後の体育の授業は見学するしかなかった。

 もとよりバスケットボールなど取り立ててやりたいわけではなかったが、イレギュラーに休みを入れるとなると周りから何事かとアレコレ気をまわされるのが鬱陶しいのだ。

 ただ現状、とても更衣室や浴室などで他人前で肌を晒せるような状態ではなかった。

 昨日の朝、シャワーを浴びた時に肌の上に夥しい数の赤い斑点があるのに気がついて愕然としたが、それは一日経っても薄くなるどころか更に色が赤黒くなって、白い体をキャンバスにしてかえって目立つようになっている。

 柔らかな二の腕の内側、巨きな胸、すんなりとした腹、伸びやかな内腿、流れるような曲線を描いた優美な背中、そしてふっくらハリのある臀部……。

 全身くまなくと言っていいほど醜い染みが浮き出しているのだ。まるで発疹性の疾患にでも侵されたような惨状だった。

 顕正さんが、あんな変態だったなんて……しかたのない男……。

 白皙の美貌にさまざまな感情が入り混じった複雑な表情が作られ、やがて諦念の頬笑みへと置き換わっていった。

 週末、葉山にある顕正の別荘――リゾートマンションの最上階にある一室で、ベッドルームがホスト用とゲスト用の二部屋しかないという手狭なものだったが、プライバシーは十分に保たれる仕様になっていた――で過ごした碧子は、そこで年上の男の望むとおりに身を任せていた。

 これまでは、たとえ(しとね)であっても男に対して自身の優位性をけっして手放すまいとしていた碧子にとって、相手の望むままに流されてみるというのは初めてといってもいい試みで、その結果は想像していた以上のものなのだった。

 自分が拒まない――と、判ると、顕正はこれまで見せたことがなかったほど欲深で情熱的になった。様々な要求を繰り出してきては碧子の体を弄んだのだ。

「女性の体は男性とは比較にならないくらい大きな歓びを感じるように造られている……もしきみが、それを弱さの現れだと思うのなら大きな誤解だ……僕はきみに(かしず)いて、心から歓びを与えさせてほしいと願うよ」

 跪いて顔を寄せてくる男に、碧子は素直に脚を開いて受け容れていた。

 こうしたことを今までは相手に自分の弱みを晒すことで、支配されてしまうように感じて求められても拒んだり、たとえ許したとしても気持ちを解き放つまいとして心から愉しんだことはなかったのだが、また顕正の方でもそんな彼女の胸の裡を慮ってのことか――今はそうだったのだと判っていた――あまり深入りするようなことはなく、結局二人の間では脇へと置かれがちで、彼女の方が男に対してマウントを取るためにすることはあっても自身が受けることは稀なのだった。

 一見、同レベルのことをしているように見えて、オーラルセックスは女が男に対してする場合と、男が女に対してする場合とではまるで意味が違っている。

 支払う対価は女の側の方がはるかに大きくて、失うもの、奪われるものが多いと思う。

 相手の面前に秘所を晒すのは、女にとっては自尊心や誇りを差し出すのと変わらない。処女を失う時には肉体的苦痛を伴うが、性器接吻には羞恥という心の痛みが伴うのだ。

 そしてひとたび相手に知られてしまったことは、けっして取り返せないし、知られる以前の状態に戻すことなどできはしない。

 自分ですら良く知らずにいる自身の体の仕組みについての詳細を、相手に知り尽くされてしまうことへの不安と畏れは、美貌への自負もあって碧子を頑なにさせずにはおかないのだった。

 そんな気持ちに変化が現れたのは食峰操祈のセックスライフを垣間見るようになって以来のことだ。

 密森黎太郎は女の心の侵し方、(くじ)き方を心得て、女教師の体を支配していた。

 さまざまな体位で陰部だけでなく全身を舐り取られていく彼女の姿は、教室での容子からはとても窺い知れないような哀れなもの。

 男の口や手というものが、どれほど女にとっては危険なものか、女の心と体を削る無慈悲な責め具となるものかということを、二人のセックスがわかりやすく教えていた。

 あの食峰操祈が、彼女の教え子の前では、いかなるプライバシーを持つことも許されてはいなかったとは――。

 舐められて、吸われて、撫で回されて、ほじくり返される。

 啼いて、のたうちまわり、逃れようと抗いながらも儚く散っていく、淫汁を溢れさせて(とろ)け堕ちていく女体……。

 とてもびっくりだった。

 自分よりも遥かに年下の、体格も劣る男子生徒の望むままに体を(ほしいまま)にされていた女の恥態――。

 若きマスターにひれ伏す奴隷女のように従順になって。

 しかし観察しているうちに、本当にそうなのだろうか、という疑念が湧いてくるようになっていったのだ。

 嫌ならハネ退ければいい。きっと拒めば、愛撫から逃れることなんて簡単にできたはずなのに。

 何より彼女は能力者なのだから。

 それもほんの僅か、力を振るうだけで相手を意のままに操れるという史上最強ともいわれる精神系能力者。

 にもかかわらずそれをしないというのはどうしたことか?

 尋問の際、密森黎太郎も自分の意思であのような振る舞いをしていると言っていた。

 心を覗いても同じで、彼は嘘を言ってはいなかった。

 ならば明白だ。

 彼女自身がそれを望んでいるからだ。

 一見、虐げられているようで、そうではなかったのだ。

 されるままになっているように見えるのは仮相に過ぎず、操祈の方が主導権を握って、歓びを得るために素直に、そして貪欲になっている、というのが実相なのではないか?

 とどのつまり、ああいったことの一切は、全てを差し出しても構わないほど、きっと心地の良いことなのだろう。

 プライベートでは操祈がセックスジャンキーの享楽主義者だと看做せば、少年の前で悲劇のヒロインを演じて効率的に快楽の果実を貪っている、との見立てには納得がいく。

 それにどんなことをしても、いざとなれば相手の記憶を消すことだって彼女にはできるのかもしれない。

 これは碧子の胸にも落ちやすい帰結だった。

 

 やっぱりあの女っ、自分の生徒をセックストイに利用しているんじゃないっ――!

 

 しかしそれはそれで面白い試みだった。自分でも取り入れてみてもいいと思えるほど。

 男の手に身をまかせることで、存分に歓びを味わうという密かな目論見。

 一度は試しておいても悪くはないのかもしれない。

 そう決意して臨んだ顕正との週末。

 結果が今だった――。

 碧子は初めて本気になった男の怖さを肌で知ることになった。

 それまで自分の支配下にあるのが当然だと思っていた自身の肉体が、背き寝返るという経験をイヤというほどさせられていた。

 男の愛撫とは、想っていたような奉仕されるというレベルの(ぬる)いものではなかったのだ。寧ろ欲望そのものであり、確かな意思を持って女の精を吸い尽くそうとする、尽きざる女体への執着だった。

「……それっ……きたないわ……」

「そんな謙遜は無用だよ……きみのような美しい女性の体には汚いところなんてどこにもないからね……」

「……ああ……いや……おねがいよ……しないでっ……」

「そうはいかない……こんなに可愛くなったきみを放っておくことなんて、できはしないよ……無理を言わないでくれないか……」

「顕正さんっ――」

 性器だけでなく、彼女が他人目から遠ざけたいと思う自分だけのプライベートが、あられもなく(ひら)かれて、ことごとく彼のものにされていった。

 淫らな詮索の中で体だけでなく、刻一刻、麻薬のように心が侵されていくのが判るのだ。にもかかわらずその時にはもう歯止めが利かなくなっていた。

 自分が自分でなくなっていく無力感と絶望感――。

 できることは鳴くことだけだった。

 何度、許しを請いて涙を流したことだろう。

 悔しかった、許せなかった、自分をこのようにした男が憎かった。

 だが、泣いたのはそれだけではなかったのだ。

 心を冒していたものが、やがて、恋、なのだと悟った時、碧子は初めて感じる眩いほどの高揚感に全身が満たされて女の至福に触れたように思うのだった。

 そして、そんな彼女を、男は信じられないくらいの優しさで包んでくれた……。

 あの感動を体験して、それを知る以前の自分には戻れないだろう。

 このことで、二人の関係に変化が現れても仕方がなかった。仮に主従の入れ替わりがあったとしても……。

 以前に顕正が、女は抱かれ馴れした方が幸せなのだ、と言っていたことの意味が漸く納得できたように思うのだった。

 女が男の腕の中にいる時に感じる緊張は、自分とは異なる強い性への警戒感によるもの。だがそれがいったん安堵へと代わると、この上なく居心地のいい(よすが)となる。

 歓びの後、ぐったりとなって顕正の胸の中で微睡みながら碧子が想うのは、自分を愛してくれた(ろう)たけた大人の男の過去、だった。

「……顕正さんは……きっといろんな女のひとのことを知ってるのね……」

 あらためて相手が女の扱いについて、たくさんの抽出しを持っていたことを認めざるを得なかった。

 自分は今まで、彼の腕の中で我がままを許されていただけなのだということを。

 手加減ですって――!

 このわたしに……。

「驚いたな、きみが僕のプライバシーなんかに興味を持つなんて……」

「………」

「まあ、そうだね……三十四にもなって坊屋じゃいられないからね……でもきみほど素晴らしい子は知らないよ……誰にも負けない……本当だ……」

 彼の言葉に感じる、かすかな胸の痛みは、きっと嫉妬というものなのだと思う。

「……じゃあ、それを証明して……」

 碧子は強い羞じらいの中、気丈に男の顔を見上げた。

「いいとも……」

 再び愛撫が始まって、やがて碧子は男の手に誘われるままに大胆に膝を割ると、ついには男の顔の上に腰を下ろしていったのだった。

 その時の羞恥とスリルとが蘇ってきて、喉を鳴らして唾液を呑んだ。

 あんなことを自分は、したのではなくて、させられたのだと思う。

 きっと操祈もそうだったのだ。どんなに恥ずかしくても、淫らなことだとわかっていても、でも恋人から希まれれば拒めない。

 そこに力――なんかが入り込む余地などなかった。

 碧子もただ純粋に顕正との契りが欲しかったのだ。

 彼の手で変えられていく自分を、絆のように感じていたかったからなのかもしれない。

「顕正さん……」

 恋人の名を呼び、求められるままに恥ずかしい体液をふるまっていた。自分から腰を動かして心地よくあたるポイントを探していた。

 歓びの中で碧子は、親鳥が大切な卵を温めるように、両手で男の頭をしっかりと包んで抱きよせるようにして股間に閉じ込め、女の密やかな肉が剥き展かれたままで男の顔と密着し一つになっていた。

 それは映像の中で食峰操祈が密森黎太郎にしていた時のものと、そっくり同じ姿なのだった。

 デリケートな陰部の全体で男の顔の起伏を感じるという、この上なく大胆なふるまい。あまつさえ貪欲に動き回る舌のつくる甘美な刺戟と、そこを啜る水っぽい響きが今も耳に残っている。

 密森黎太郎の心の鋳型を読み取った際には、彼の記憶の中でこの時の操祈はなんども「愛してる」と訴えかけていて、その気持ちは碧子にもよく分かるのだ。

 自分も強い愛情を感じていたからだ。

 あんなにも淫らで大胆な行動は、誰よりも愛する者にしかできないし、してはいけないことだった。

 疎ましいと思うばかりだった女体の脆さが、今は逆に愛おしくなっている。

 自分が少なくとも一人の男を魅了しているという事実は、碧子には驚きであるとともに女としての矜持を満たして、それは彼女の心境に変化をもたらしているようなのだった。

 

            ◇            ◇

 

 その朝、二年二組は驚きと感慨、そして幾ばくかの緊張を含んだ常ならぬ空気に囲繞(いにょう)されていた。前会長の山崎碧子が取り巻き――そこには京極なつきが加わっていることがほとんどだったが――を従えることなくたった一人で現会長の黒田アリスを訪ねてきたからである。

 方や学園を代表する美少女、美女である碧子と、会長就任以来、一皮むけたようにこのところ一段と魅力を増しているアリスのツーショットは、男子生徒だけでなく女子たちの目も惹きつけずにはおかなかったのだった。

 みな何事かと固唾を呑んで見守る中、碧子が、

「別に大したことじゃないのよ、会長にちょっとお話があって来ただけだから――」

 と()って、居合わせた生徒たちに普段通りに戻るように促したのだが、四十九の瞳――一人の少女はものもらいの治療のため眼帯をしていた――は突然の事態に呆気にとられたように二人に集中したままでいるのだった。

 仕方がないわね、というようにアリスに目配せをした碧子は、

「別に見られていても構わないことだし、むしろ見せた方がいいのかもしれないから……」

 碧子は突然、アリスに頭を垂れて見せ、遅れて教室にやってきた廊下を行き交う生徒たちを含めて周囲をさらに唖然とさせるのだった。

「会長の職権を侵すようなことをして、申し訳ありませんでした」

 この異例の振る舞いに誰よりも驚かされていたのはアリスだったにちがいない。

「かいちょ、山崎先輩っ、どうか頭をあげてくださいっ、周りの目もありますのでっ」

 椿事の発生に他の生徒たちがスマホのレンズを向けようとしてくるのをアリスは手の動きで制したが、

「いいじゃない、撮らせてあげたって、あなたが名実ともにこの学園をとり仕切る生徒会長であることを知らしめるには丁度いい機会でしょ、もうあと二ヶ月あまりで私たちはここを去っていくのだから」

「ですが会長……」

「ほら、また間違えてる、会長はあなたよっ」

 碧子はアリスの背中に腕を回すと身を寄せて、二人の親密さをアピールするように、ツーショットの撮影に応じて華やかな笑顔を振りまいてサービスをするのだった。

 ひとしきりのシャッター音を浴びてから、

「それに、これは私なりのけじめでもあるの、例の会計処理の件であなたの職権を侵害したのは事実だから……思い込みから勝手に先走っていただけで、みっともないことをしたと反省しているわ」

「では、あの件は……」

「落着よ、こちらの思い過ごしだったみたい、彼との関係はなかったというのがはっきりしたから。あとで報告書を持って行くから見てみて」

「はい……」

「ただその前にちゃんと私の口からも伝えておかないといけないと思ったの」

「そのためにわざわざ……」

 碧子はいまだ胸落ちしない容子でいるアリスの手を自分から取ると、しっかりと握りながら、一件についてのごくあらましを口にしたのだった。一般生徒には解りにくい生徒会役員同士ならではの用語を頻用して。

「……そういうことであれば、こちらも動きやすくなるので助かります」

「後のこと、お願いするわね、あなたならきっと立派にこなしてくれると思うけど」

「山崎先輩……」

「アリスさん、あなたにはこれまで、いろいろと難題を押し付けてきたから今更かもしれないけど、もしもわたしの至らなさから気を悪くさせてしまったことがあったとしたら謝るわ、どうか許して下さい」

「そんなこと……」

 アリスは目をパチクリさせていた。無理もなかった。儀礼的な場合を除いて碧子が明朗な感情表現をするのは珍しいことだったからだ。

 碧子は握る手にも思いをのせて、偽りのない気持ちをアリスに伝えていた。

 アリスが接触テレパスであることを知っていて、そうしていたのだった。

「じゃあ、わたしはこれで――」 

 まだどこか釈然としない顔のアリスを残してその場を離れると、碧子は二年生の教室のある三階から階段を降りていった。踊り場には京極なつきが居て、碧子が現れるや姿勢を正した。

「ついてきてくれなくてもいいって言ったのに……」

 碧子は忠実な腹心を労った。

「申し訳ありません……」

 階段を駆け上ってきた後輩の生徒たちが、わきを通り過ぎる際に二人の姿を認めるや、みな一様にギョッとした顔をして、教師たちに対してするのと同じように一礼して去っていく。

「進路希望届けは出してきたのね?」

 碧子が訊くとなつきは表情を綻ばせた。

「はい、長点上機の化学系にはなんとか滑り込めそうです。これもみな会長のおかげです」

「そう、良かったわ、おめでとう」

「会長は法学系ですか? それとも数物系?」

「ねぇ、なつき……」

 碧子はなつきに正対した。上背のある少女を見上げる形になる。

「私は静菜に進もうと思うの……」

「えっ!?」

 相手は明らかに意表を突かれた容子で狼狽えていた。

「社会科学系はあっちの方が私の性に合っているような気がして……」

「では、私も希望を静菜に変更してきますっ、今なら間に合うと思うのでっ」

「待って、なつき……」

 碧子はすぐにも動き出そうとした友の両肩に手を置いて引き止めながら言った。

「ダメよ、静菜はあまり理系が強くないから」

「それなら私も社会科学系にしますっ」

「ねぇ聞いて、なつき……理系に進むなら長点上機がうってつけだから。あなたの進学が決まってとても嬉しいの。あなたの不断の努力の成果よ」

「ですが、それではっ……」

「もうそろそろあなたも、私から離れて独り立ちしてもいい頃だとおもうわ……」

「会長……」

「わたしはもう会長じゃないって、何度言ったらわかるの?」

「私にとっては会長は、一人しかいませんから……」

「これまで、あなたはよく私を支えてくれたわ、本当に感謝しているの。でもこれから先、進むべき道は別々の方がいいと思うのよ……お互いにとって……」

「そ、そんな……」

 碧子の宣告に少女は表情を曇らせてうなだれた。

「あなたには随分、わたしのわがままに付き合わせてしまったわね……ごめんなさい……」

「会長……」

「これからは碧子って呼んで……」

「……できません……そんなこと……」

「わたしがお願いしてもダメ?」

「………」

「……だって、私にとってあなたはたった一人のお友達と呼べる人なんだから……」

「!」

 小刻みに肩を震わせていたなつきが、ひきつるように嗚咽をはじめた。

「……どうしてですか……どうして一緒じゃいけないのですか……?」

「なつき……あなたには対等の友人であって欲しいから……同じような能力のものが二人いても仕方がないでしょ? あなたにはわたしのできないことを経験して欲しいの……新しい時代を作るためには、あなたの力が必要になる時が必ず来るから、その日ために共に力を蓄えておかないと……ね?」

「……会長……」

「ほら、泣かないで……わたしがあなたに酷いことをしているみたいじゃない」

「泣いてません……」

「同じ学園都市(まち)に居るんだし、なつきなら飛び級だってできるわ、そうすればすぐにまた大学では再会できるでしょ」

 それでもぐずるなつきを言葉を重ねることでなんとか説き伏せた。

「高校に進学したら、ひとつだけあなたに課しておきたい……そういう言い方をしたら失礼よね……お願いしたいことがあるんだけど、聞いてくれる?」

「はい、なんなりと……」

「ボーイフレンドをつくって――」

「は――!?」

 なつきが驚きに目を瞠るのを笑顔で受け止めて言った。

「もしも仮にあなたが性的マイノリティーだったとしても、男のひとから愛されることを学びなさい」

「わたしは……たぶんマイノリティーではないと思いますが……しかしそれは……どういうことですか……?」

「言葉通りよ……この常盤台を離れて、次にあなたと再会する時は、あなたには大人の女性になっていて欲しいの」

「……そういうことは……わたしには……」

 なつきは畏友の思いがけない提案に訝しげな顔をしていた。

「でも、つまらない相手と(ケダモノ)のするようなことをして、さっさと処女を失いなさいって言ってるのじゃなくてよ。あなたを愛して、大切にしてくれる一生のパートナーとなるべき人を見つける努力をなさいってこと。それにはわたしの傍にいることが妨げになると思うの。だって、あなたはわたしのことしか見ようとしないから」

「………」

「いいこと、なつき……女にとってはどんな男と出会い、どんなセックスをするかっていうのは、とても大切なことなの。きっと一生を左右すると言っても言い過ぎではないわ。特に最初にどんな相手と(つが)うかは、その後の影響を考えるととても重要よ。だからしっかり目を開いて、相手をよく見て、そしてどうするかを考えなさい。自分が正しく成長していくのに必要な運命の一歩になると思って」

「会長は……?」

 何を問われているかは判る。

「それは、あなたが知っての通りよ……だから大切なお友達である、なつき、あなたにも良い学びがあって欲しいと思うの」

 言外に“卒業”していることを親友には伝えることにした。なつきは、碧子と顕正との交際を知る数少ない一人だった。

 少女はちょっと当惑している容子でいたが、

「でも、どうしたらいいか……わかりません……考えたこともなかったので……」

「いまは分からなくてもいいわ……無理にわかろうとしなくても、時が来ればきっと気がつくから。だから心に留めておいて……わたしの親友へ向けての思いを……」

「親友だなんて、重たいです……会長からそんなふうに言われるのは……」

「わたしはあなたをそう思っているのよ、もし、今、あなたからそう思ってもらえなくても、いつかはそんなふうに互いを思えあえる時が来るのを、わたしは待ってるわ……」

 キーンコーンカーンコーン――。

 始業を告げるチャイムが鳴って、なつきとの立ち話はそれまでになった。

「行きましょう教室へ」

「はい、会長っ」

「だからもう会長ってのは止してっていったでしょっ、今度間違ったら絶交するわよっ」

「それだけはご勘弁下さいっ、かいっ……や、ま、ざ、き、さん……」

 言いにくそうにやってから、飼い主に騙されて病院に連れてこられたバセットハウンドのような情けない表情になる。

「そんな顔しないで、なつきっ」

「努力しますので、いましばらくの猶予をいただけないでしょうか……」

「しかたないわね――」

 碧子は友の背中に腕を回すと、促すようにして階段を下りていくのだった。

 



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週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る Half a Dozen & 1

 長期休暇明け以降の最初のデートということもあって、島崎一成のアパートでの週末は一層、甘いものになっていた。些細なことから喧嘩をした後の仲直りということも手伝ってか、彼が時間をかけて惜しみない愛情を注いでくれたのだ。

 その夜は彼の言葉通りにスキンを使わないやり方で、昨日は一箱を使い切るほどの勢いで、ワルいこと、イケナイことをいっぱいしてしまった美少女は、未だ恋の酔いから醒めやらずといった感じで、どこかふわふわとした気持ちのままで教室にやってくると自身の机に着くのだった。

 さすがに朝帰り――と、なるといろいろと気忙しかった。

 眠りこけている恋人をベッドに残して、五時に起床。シャワーを浴びて身づくろいをして、朝食代わりのホットチョコレートを飲んでから三河島の古ぼけたタワマンを後にしたのが六時前。

 早暁ということもあってラッシュにはぶつからなかったものの、寮に戻ってきたときには既に七時半を廻っていた。

 ルームシェアをしている後輩女子の興味津々の視線を疎ましく感じながら、制服に着替えて化粧を落とし、恋にうつつをぬかす年頃の女の子から栄えある常盤台中学の女子生徒に戻ったのだが、中身はまだ完全には入れ替わっては居ないのだった。

 学園都市に戻ってくるまでの長い通学時間は、真夜中の雰囲気を拭い去るには丁度いい猶予期間となってはいたものの、まだ心と体は敏感さを引きずっているいるのか、外からのちょっとした刺激だけで肌がピリピリしてきて、また妖しいイメージが湧きだしてしまうのだ。

 ついよからぬことを考えてしまうのもきっとその所為だろうと思う。

 今も教室の隅でイケてない男子連中と、他愛もない話題で談笑している密森黎太郎を見ながら、舘野唯香は少年の別の一面、夜の顔を想って胸をときめかせている。

 奈良の温泉で垣間見ることができた操祈先生の体――。

 飴色のキラキラしたヘアが濡れて、深い切れ込みの唇がくっきりと浮き上がっていた。

 愛らしくてとても素敵で、こんなに美しい女の人があられもない姿になって脚を開くところなんて想像もできないけれど……。

 でも、先生は経験している――。

 彼の舌と唇が、敬愛する女教師であり尊敬する友でもある女性の秘密と接して、くまなく舐り尽くしていることに感じるそわそわとしてくる気持ちは、きっと嫉妬に近いものだと思うのだった。

 たとえレズビアンではなくても、同性を好きになる気持ちを解らないわけではない。綺麗な人への憧れから、その人のことをもっと知りたいと思うのは自然な感情だったし、それは直線的で衝動的なものではないのかもしれないが、男が女に対して抱く恋愛感情に、きっと似ているのだと思う。

 だから以前、操祈との語らいの中で彼女が、

「……彼……とってもイケない人なの……悪いこと、いっぱい知っていて……」

「そんなにワルい人なのに、未経験でいらっしゃるのですか……?」

「……だって……あの子……その……ああ、そんなこと恥ずかしくて、とても言えないわ……」

 顔を真っ赤にしてうったえた時、はっきり判ったのだ。彼女の身に常にどんなことが起きているかということを。

「それって……もしかしてずっとアレばっかりされてるってことですよね……」

 自分がまだヴァージンであるという、とっておきの秘密を打ち明けてくれたときの容子を間近にして、その時、クラスメートの件の男の子に感じたのは軽い殺意だ。

 こんなにも美しい人を淫らな愛撫で犯して、こんなにも愛らしい顔をさせていることへの強い憧れと羨望だった。

「……やっぱり、変よね……そういうのって……」

「ええ……その人、すっごくエッチでヘンタイです……でも、すごく先生のことを愛してるってのはわかりますよ……クンニはわたしの彼もやりたがるので……彼もすっごいヘンタイだから……」

 その頃はまだ、操祈の恋人が密森黎太郎であることに気づいてはいても、知らないふりをしていたのだった。彼女の心理的なハードルが下がって、話しやすいだろうと思ったので敢えてそうしていた。

「……唯香さんの彼氏も、そうなんだ……」

「仕方ないですね……愛情表現だと思って好きにさせるしか……でも、わたし、もうそんなにイヤじゃないですよ……やさしくされると、とってもステキな気持ちになれるから……先生はおイヤなのですか……?」

「……イヤではないけれど……でも、イケないことをしているって思ってしまって……」

「セックスの仕方は、べつに他人がとやかく言うことじゃないので、お二人の間で愛を感じることであれば、何をしてもいいんじゃないかと思うんですけど……」

「……うん……そうね……そうよね……」

 同じ悩みを持つもの同士の連帯感で、操祈との距離をさらに縮めることに繋がっていた。

 憎むべきは密森黎太郎――。

 よりにもよって操祈先生の恋人が教え子で、そいつが中坊のクセにとんでもないヘンタイだというのは、許すまじ、という気持ちにもなる。これでもしも先生のことを不幸にしようものなら、断固とした制裁を科さずにはおくものか――そんな気分だった。 

「ねぇどーしたの? さっきから密森くんの方ばーっかり見てるけど、まさか気になったりしてる?」

 いつの間に忍び寄っていたのか、隣の席の華ちゃん――篠原華琳――が耳許にささやきかけてきた。口許に悪戯な含み笑いを貼りつけたまま覗き込むようにして。

「えっ!? ナニいってるのよ、そんなことあるわけないでしょっ」

 唯香は取り合わなかったが

「えー、そうなの? だって彼のことケッコー真剣な目で見てたから……なんかあった? コクったとかコクられたとかで」

「だから、そんなんじゃないってばっ」

「ならいいんだけどー……」

「誰があんなヤツなんかにっ」

 友の手前、吐き棄てながらも胸がチクリとなる。

 操祈の恋人を腐すのには抵抗があっただけでなく、華琳に指摘をされて初めて自分が密森黎太郎のことを意識していることに気がつかされていたのだ。

「そうかな……でもあたし、最近、彼、ちょっといいかなって思うことあるわよ」

「あら、だって華ちゃん、アツアツホヤホヤの彼氏居るじゃない」

「だから別にどうこういうんじゃなくて、単にカレシにするのに密森くんみたいなのもありかなっていうだけで」

「どうして――?」

「わかんないけど、なんか気になるヤツっていうか……唯ちゃんだって、そうでしょ? 男の子の顔をガン見するなんて、好きか嫌いかしかないじゃない? 気になってるから、つい目がいっちゃう」

 確かに、操祈のボーイフレンド、というのはそれだけでブランド化する。

 気にならないかと言われれば嘘になるのだ。

 背は高く無いし、顔だってどうってことのない普通の男の子だが、よく見ると、ちょっとノーブルな雰囲気を放っているようにも見えなくもないし、明晰さと温和さ、それに何より寛容でやさしげなところは、女子目線で十分に加点対象になっていた。

「気になんてなってないわっ、だれがあんなヘンタイ、お断りよっ」

「あれ、どうして彼のこと、変態だって知ってるの? やっぱりなんかされちゃったりした?」

「ちがうわよっ、なんにもないわっ、私だって彼氏、居るしっ」

「そうよねー、今日は朝帰りだもんねー、それも週末二晩もだなんて、あーアツいアツいっ」

 顔の前で扇ぐように手をヒラヒラさせる。

「そんなんじゃないって、昨夜の内に帰るつもりだったけど、弟の宿題を手伝ってたら遅くなっちゃって、それだけよ」

「弟ねー、ふーん、まぁ、そういうことにしておいてあげるわ」

 阿吽の呼吸で停戦ラインが引かれた。

 お互いに際どい部分には踏み込まないのは暗黙のルールだった。

 唯香も華琳が週末はお泊りデートだったことを知っているのだ。相手は4コ上の都内の大学生。一端覧祭の時に知り合って以降、急接近、めでたくクリスマスイヴ・ロスヴァーして、仲間内での隠語となっている“オトナクラブ”に入会を果たした一番新しいメンバーでもある。

 因みにオトナクラブの会員数は、唯香も含めて現在四名。

 メンバーにならないと会員名が明かされないことになっているが、有資格者であるか否かに関わらず、女子たちは誰がそうで、誰がそうでないかをほぼ正確に把握していて、仕立ては秘密クラブめいているが実態は有名無実化していた。

 華琳も唯香と同様に、足――が、つかないように学園都市を抜け出して、主に都内でデートを重ねているものらしい。

「密森くんに、ガールフレンド居るのかな? 唯ちゃん、何か知らない?」

「わたしが知るはずないでしょっ」

「そっか……でも、アレは居るな……」

「そうなの?」

「だって見てるとわかるじゃない、今だって、あのポンコツども中で一人だけオットナーな感じに浮いて見えるし」

 華琳が小さくレイの居る方に顎をしゃくった。

「だからって別にかまわないけど――」

「そうなんだけどね……でも、ちょっと気になることがあってさ……」

 華琳は再び額を寄せるようにしてきて声をひそめた。

「わたし、変なことを耳にしてサ……」

「変なこと?」

「知ってるでしょ、うちのルームメート……」

「ええ、メグちゃんでしょ? 一年一組の坂下恵美(さかもとめぐみ)さん、それがどうかしたの?」

「実はあの子ね、リモートビューワーだったらしいのよ」

「へーえ、能力者だったんだ、あの子……それは初耳……」

「そりゃそうよ、わたしだってつい最近、知ったばっかりなんだから……レベル1だから大したことは無いって、本人は言ってるけど、でも、結構、見えたりするみたいなの」

「見えるって、なにが――?」

「まー見えるっていうか、あの子が言うには起きてる時にはぜんぜん見えなくて、寝ている間に夢に出てくるってことらしいんだけど……それに見えたとしも、せいぜい身の周り一キロ圏内ぐらいのことみたいらしくて……学校近くのビルで夜中に知らないオジさんたちがよく分からない話をしているところとか、近くのマンションでエロゲーやってる小学生の容子とか……脈絡もなくて確かめようもないことばっかりだって……」

「まあ、レベル1だとそうよね……無能力者の私たちと大して違わない……」

「ただね、この間は飼い主の元から逃げ出したトカゲが、自分が夢で見たところから見つかったってニュースになってたって言ってたわ」

「ふーん……」

「……それでね、大事なのはここからなんだけど……絶対、内緒よ、ここだけの話に……これで噂にでもなったりしたら、それだけで大変なんだから……」

「じゃあ、聞かないことにするわ――」

 他人に口止めを求めるような話は、そもそも聞くべきではない。唯香も友人の話の先が気になったが、一度は突っぱねることで筋を通すことにした。

「それなら私も教えてあげない――」

 華琳も話の腰を折られてつむじを曲げたのか、口を尖らせて宣言する。しかし、喉元から溢れ出ようとしていた言葉を無理に呑みこむ形になって、欲求不満が顔に表れてしまうのだ。

 とっておきの秘密を誰かと共有しないことには、収まらないという塩梅になっている。

「いいわ、聞いてあげるから……誰にも言わないからおっしゃい」

 唯香が助け舟を出すと、華琳も

「そうこなくっちゃっ……それでね……」

 待ってましたとばかりに唯香に耳うちする。しかし黙って聴いていた唯香の顔は、話が進むうちに次第に強張っていき、やがて驚愕を貼り付けたまま凝固まってしまった。

 ただ、それは華琳が期待するのとは別の意味でなのだった。

 華琳の話は唯香を驚かせるだけでなく慄然とさせるものだったのだ。

 動揺を相手に気取られぬようにして、

「華ちゃん、その話、私の他にも誰かにした?」

 訊く。

「うううん、まだ誰にも……唯ちゃんにしか言ってないわ」

「それなら、もう言わない方がいいわ……メグちゃんにも、そうするように言ってあげた方がいいかもしれない」

「……ねぇ、唯ちゃんはどう思う? 今の話……」

「マジにならないでっ、そんな夢みたいなことがあるワケないでしょっ、バカバカしいっ……だって密森くんも、たしか今週末は実家に帰省してた筈よ、彼も朝帰り組みたいだから」

「え、そうだったのっ――?」

「昨日も一昨日も、学園都市内には居なかった筈、出入履歴を確かめれば判ると思うけど……その子に見えるのが一キロ程度の範囲ってことなら、見えるはずがないわよね」

「じゃあ、やっぱり違うわね……ま、ただの夢ってことか、まぁそれならそれでいいわけで……」

「メグちゃんって、たしか漫研の子とかじゃなかった?」

「うん、そうだけど――」

「じゃあ、普段からBLとかNTRとか、いろんなことを考えてるうちに現実と夢とがごっちゃになっちゃってるんじゃないのかしら?」

「まぁ、そもそも夢の中の話だし、そうなのかもしれないわねぇ」

「変な噂をたてると自分にも跳ね返ってくるから、華ちゃんもそういうのってスルーしておいた方がいいわよ」

「やっぱ、そうなるわよね……うん、わたしもそう思うわ……ありがと、ちょっとスッキリしたかも……メグには後で言っておくわ、密森くんがその日、学園都市(こっち)には居なかったことも含めて」

「そうした方が無難ね――」

「なにが無難なんですか? さっきから二人して額を寄せてヒソヒソと……」

 窓際で容子を窺っていた小田切芳迺が訝しげな顔をして二人の元へやってくると尋ねた。

「別に大したことじゃないわ、週末の話をしてたの」

 唯香は巧みに辻褄を合わせた。

「芳迺ちゃんは今週、ずっと寮に居たんですって?」

 訊き返して攻守をすり替える。

「うん、わたしも彼も、まだ進路が確定してないから……試験の準備をしないといけなくて……いーなぁ、二人は行く先が定まっていて……」

 芳迺のボーイフレンドは同い年だが、他校の男子だった。幼なじみだそうで、交際期間は仲間内では一番長かった。

 もちろん彼女もオトナクラブの一人である。

 ショートヘアーのボーイッシュな容貌だが性格はもっとも女の子らしい。

「いいなって言っても、わたしは入れるところでいいやって妥協して高望みしないから……唯ちゃんは将来のやりたいことがもーちゃんと決まっていて、その上での選択だし……」

「ウチは実家が病院だから、医学系に進まないとならなくて……でも長点上機は無理だし、多分、靜菜も厳しくて……生物系ならなんとかなりそうなんだけど……それなら長点上機を志望してもいいかなって……」

 人にはそれぞれ悩みがある、抱えているものがあるのだった。

 芳迺の場合は、今はテストと進路――。

 わたしは……。

 と、考えて、唯香の気がかりは、自分のことというよりも、操祈先生についてかもしれないと思うのだった。

 本当に危なっかしくて、危なっかしくて――。

 とても綺麗な人であるだけに、なんとか守ってあげたいと思う。

 それなのに、これまでひた隠しにしてきたものの足元がいま崩れかけていた。

 その迫り来る危機について当人たちがどこまで緊迫感を持って受け止めているか、厳しい実態を知っているかどうかが、傍で見守っている者としてははなはだ心もとないのだ。

「たしか試験って、来週だったっけ?」

 華琳が尋ねた。

「うん、木曜に進振りの結果が出て、それを受けて二次審査請求を出して、課題レポートのテーマを貰って、来月七日の土曜日に提出、そのまま特考の筆記があって……この二週間は息が抜けないくらい大変……過去問を見てるんだけど、とても歯が立たないのが幾つもあったから……」

 芳迺は肩で大きくため息をひとつついた。

「ガンバってね、ヨッちゃん、応援してるから」

「できることがあったらするから、何でも言ってね」

「ありがとう……華ちゃん、唯ちゃん……」

 

 起立――っ!

 

 今日の日直の安西遥果が、操祈の入室にあわせて号令する。

 遥果もオトナクラブのメンバーだった。まだ進路が確定しているわけではないが、今週も週末デートは外さないという剛の者である。

「おはよう、みんな」

 操祈の声に合わせて生徒たちは素早く自分の席に戻ると立ち上がって美教師を迎えるのだった。

「「「おはようございます、先生」」」

 教壇に立った操祈は、グレーのスーツにスカート、白のブラウスのコーデがシックでエレガント、スカートのつくるゆったりとしたドレープと広襟の胸元を飾るブラウスのフリルが大人可愛いインパクトがあって、教室の中が一気に華やいだ印象へと変わっていく。

 今一度、端然とした礼を交わしあってから操祈がホームルーム開始の口火を切った。

「いよいよ今週は進路振り分けの発表よねぇ、みんな心の準備はできてるかしらぁ?」

「ハイ、大丈夫ですっ」

 いつものように教室の隅の方から男声が応じ、

「いっちばん大丈夫じゃない人が大丈夫って言ってるぐらいですから、全員、大丈夫だと思いますっ」

 日直の遥果がそれを受けて斬り返して教室内のそちこちから賛同の冷笑があがった。

「ハイハーイ、でも特考を受けることになる人たちは、今が踏ん張りどころだからしっかりね。各校の過去問は教員室にも用意してあるから、必要な人たちは取りにいらっしゃい」

「もー、とっくに集めてまーす」

 コースケが胸を張るが純平に

「お前のは集めるだけな、ただのコレクションだろっ」

 と、混ぜっ返されて

「うっせー、オメーにはぜぇってぇ負けねぇからなっ、俺は操祈ちゃんの後輩になるべく、長点上機一直線!」

「そういうコースケ、奈落の底に一直線――」

 二組の朝の恒例、イケてない男子同士の掛け合いが始まると、教室は活気に溢れて、厳しい選考が控えていると思いつつも各位の顔には笑顔が浮かび、裡に決意を秘めたものになっていく。

 イケてないと言われつつも、けっして底割れしないのがこの男子たちの良いところであり、凄みでもあると女子たちも認めているのだ。

 スクールカースト下層を担ってくれたこの男子たちは、クラスのムードメーカーとしては優秀で、久しく馴染んだこの風景とも、あと二ヶ月あまりでお別れしないとならないというのは唯香も少し寂しくなってくる。

 ただ、美少女の表情がひとり冴えないのはそれだけではなかった。

 華琳に対しては明確に否定したが、唯香にはたぶん後輩のメグが見たというリモート映像は、やはり現実だろうという感触があるのだった。

 なにより、一年生の少女が想像するものとしてはあまりにも生々しすぎるのだ。

 先生の全身に生クリームを塗りたくって、それを男子生徒が舐め回すなんてことは十二、三歳の未経験の少女にはとうてい思い描けるものではなかった。

 一方で、密森黎太郎の持つ嗜好とはぴったりと重なる。

 恋に酔ったあの二人は、どうやら今週末、また一段と挑戦的な試みに溺れていたようだった。

 ついにはベッドに小道具を持ち込んできた一成もかなりの変態だが、密森黎太郎はその上を行く猥褻漢ぶりだった。

 バカ……。

 密森くんの、バカ――。

 先生にそんな非道いことをしてるなんて……。

 でも、彼、どうやって学園都市の出入管理をかいくぐっているんだろう?

 ただ、いざとなれば裏技、奥の手の類は、自分が知らないだけで幾らでもあるのかもしれなかった。所詮、相手はコンピューターだ。

 欺くことにかけては人間ほど抜け目のないものは居ないだろう。

 たぶん、現場は先生のアパートだったのだと思う。それならここから三百メートルも離れてはいない。

 坂下恵美のスペックからすると、彼女の能力に捉えられていたというのも頷けるのだ。

 考えると頭が痛くなってきた。

 目下、操祈先生と密森くんの関係を知っているのは栃織紅音、山崎碧子、そして自分を入れて少なくとも三人。それだけだと思っていたが、実際はもっと拡がっているのかもしれない。

 なんといっても、ここ学園都市には様々なタイプの能力者たちがいた。

 当人たちがいくら気をつけていたところで、能力者の前では限界がある。

 もしも操祈が以前のような強力な能力者であれば封じる手だては幾らでもあるのかもしれないが、レベル1の能力者の透視にも気づかないというのは、彼女たちにはもはや身を守る術がないということだった。

 言ってみれば何時、誰が入ってくるかもわからないドアが開けっ放しにされた寝室で、丸裸になって絶対に秘密の恋を必死に紡いでいるということになる。

 二人にしか許されないようなアブノーマルなプレイを重ねて。

 危なっかしいにもほどがあった。

 このことを操祈には注意喚起しておく必要があると思う。

 実際、今朝、関係に疑いを持つものが二人もあらたに加わってしまったのだ。

 今日はごまかせても、二度、三度と重なるとそれも難しくなってくるだろう。

 密森くんにも一度、きつく言っておかないといけないとは思うが、さて今、こちらから接近を計るというのはどうしたものか……。

 かえって他人目をひくことになってしまわないだろうか……。

 目敏い山崎碧子のような者の存在を考えると、動くに動きづらい。

 本当に、手のかかるお姉さまたちだわ――。

 みんな、あなたがイケナイのよ――。

 美少女は密森黎太郎の方へ非難の鋭い一瞥をくれると、まずは今日の放課後、食峰操祈と密談をする時間が作れるかを探ってみようと思うのだった。

 



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家庭訪問

 校門前にレンタルしていた軽乗用車を乗り捨てして、操祈が教職員室へ戻ってきたときには午後の七時半を過ぎていたが、室内にはまだ野々村凛子が独り居残っていて、ちょうど給湯器でお茶を煎れているところだった。

「いま、お戻りですか? お疲れ様です」

「凛子先生こそ、遅くまでお疲れさま」

「先生にもお茶、お淹れしますね」

 操祈は、自分で――と、言いかけて

「じゃあ、甘えさせていただきます、カフェオレをお願いしてもいいですか?」

「ええ、操祈先生みたいに上手くできないと思いますけど、勘弁してください」

 年明け以降、凛子とは話をする機会もめっきり増えて、彼女からの呼びかけが「食峰先生」という堅苦しいものからファーストネームを交えた「操祈先生」という、より親しげなものへと変わっていた。

 凛子がすっかり慣れた手つきで給湯器を操作すると、すぐに良い香りが漂ってくるようになる。彼女は淹れたてのカフェオレの入った操祈のマグと、自分用のマグを持ってデスクに戻ってきた。

 操祈が口をつけるのを、ちょっと心もとなげな容子で窺っていたが

「いかがですか?」と尋かれ

「ええ、とっても――」

 操祈は同僚の女教師に笑顔を向けた。

「ああ、良かったです、合格点を貰えたようで」

「この前もお上手だったですから、きっと給湯器さんから気に入られたんだと思いますよ」

「だったらいいんですけど……」

 気の置けない者同士の微笑みを交わし合う。

「でも本当にスゴいですね……操祈先生は……」

 ブラックコーヒーのマグを傾けながら凛子は意味ありげに目をまん丸にして、片眉を吊り上げて傍の操祈を見上げていた。

「そんなに大したことなかったですよ。往復四時間もかかるからって生徒からは脅かされてましたけど、車の方が速くて高速を乗り継いで三時間とちょっとで済みましたし、午後の教科部会はリモートだったので車中で済ませることができたので一石二鳥になって、退屈な会議もラクちんでした」

「私がビックリしたのはそのことじゃなくて……先生、その格好で生徒さんのお家を訪問されたんですよね?」

「え、ええ……そうですけど……それが何か……?」

「ため息がでちゃいますよ……」

「あの、わたし、そんなにおかしいですか……?」

 操祈はにわかに不安げな顔になって自分の身なりをたしかめた。

 たしかにレイの実家近く、最寄り駅前にある有料駐車場に車を停めて家まで歩く道すがらも、すれ違う人がみな一様に不審者を見るように、ぎょっとした顔になって二度見して行き過ぎていったのを訝しく感じていたのだ。

「おかしいっていうどころか……とても中学校の先生には見えませんから……ハリウッドの看板女優さんとか、ヴォーグの表紙を飾るモデルさんとかみたいで……スゴすぎてスゴすぎて……」

「え――!?」

 レイの両親との初対面ということで、普段よりもちょっとだけ身だしなみに気を配って出かけて行ったつもりではあったが、同僚の目にはそれが不自然に映るらしいのだ。

 だが、それも宜なるかな――。

 今の操祈は行き先が真冬の東京だったということもあって、黒のロングコートに黒のロシアン帽、黒のロングブーツという――地味――な冬仕立ての装いにした筈だったが、それはあくまでも彼女の感覚であり、もちろん平凡な防寒仕様などに見えるわけがなかった。

 シックな黒いシルエットにブロンドの長い髪が背中で見事に映えていて、頭身のある白い瓜実顔の美貌とともに映画のヒロインのように説得力のある豪華なオーラを纏っている。

「きっと保護者の方は何者が現れたかと、とても驚かれたんじゃないですか?」

「……別に……そんなこともなかったですけど……」

 結局、レイの保護者には会えずじまいだったが、そのことには触れないことにした。

「一応、志望校については納得が得られて、これで今夜に締め切られる進路振り分け選考にエントリーができますので、担任としては先ずはひと安心です」 

「その生徒さん、たしか密森くん、でしたっけ? おとなしそうな、感じのいい子ですよね。成績もいいし」

「ええ……でも芯が強いというか、なかなかいうことを聞いてくれないこともあって……」

「彼、どうして進路アンケートをずっと白紙のままにしていたんでしょう?」

「さぁ、まだやりたいことが何かわからないからって、言ってましたけど……」

 レイにはこれまでになんども将来、何になりたいのか訊いたのだが、その都度「まだわかりません」と、はっきり答えてもらえずにいたのだ。

 

 

 

「……でもなにかあるでしょ? 男の子ならお医者さんになりたいとか、科学者になりたいとか、宇宙飛行士とか……それともスポーツ選手?」

「医師は血を見るのが苦手だし、科学者には向き不向きがありそうだし、ボク、飛行機が大の苦手で見るのも嫌いですから、ロケットに乗るのなんてもっとありえないです……スポーツは体がついていきません……」

「じゃあ画家とか作家さん、タレントさんとかは?」

「全部、才能ないです。先生、ボクのことバカにしてますか? タレントなんてなれっこないに決まってるじゃないですかっ。うちの男子でその可能性があるのはルームメートのヒサオぐらいですよ」

「バカになんてしてないわよぉ、だってほらぁ、レイくん、絵も上手だしぃ……そうだっ、お料理が得意だから調理師さんとかはどう?」

「あれは趣味でやるから楽しいのであって、仕事にすると大変なんですよ。例えばラーメン屋を始めて仮に成功したとすると、一日に三百杯として、一年に十万杯のラーメンを作ることになりますよね? それが何十年も続くって考えたら気が遠くなりませんか? 無理ですっ。きっと途中で飽きてきて、もしもお客さんに変なものを出したりしたら、それこそ大変でしょ?」

「うーん……ならどうしたいのよぉ、もう……」

「そうですねぇ……強いてなりたいものがあるかと言われれば……」

「言われれば……?」

「なれたらいいなって思ってるものならありますけど……」

「ほら、あるじゃない! それよっ、それをあたしに教えてちょうだいっ」

「でも、ボクの一存では決められないから……」

「それって、ご家族の事情とか?」

「うーん……ちょっと違うような気もするけど……」

「もしも言いにくいことだったら、わたしがご両親に口添えしてあげてもいいわよ」

「先生が“口添え”するんですか? それこそ真逆のことになりそうで……」

「どうして――? わたしじゃ力になれないの?」

「そうじゃなくて……“先生にしか出来ないこと”だから……」

「……じゃあ、なんでも言って……なんでもするわよぉ……」

「なんでもですか?」

「ええ、まかせてっ」

「わかりました――」

「なぁに……? あたしはどうすればいいの?」

「それじゃあ――」

 しかし操祈が期待して待っていると、

「ボク、やっぱり先生のショーツになりたいな」

 そう言ってペロッと舌をだすのだ。

「ねぇ、ボクの顔を跨いで、先生のいちばんいいにおいのするところにお口添えさせてくださいな」

 その言葉に、たちまち操祈は真っ赤になる。

「もう、バカぁっ――!」

 こうしてベッドの上での睦言は、結局いつもはぐらかされて、少年は言葉通りに自分がなりたいものになって操祈を悩ませるのだった。

 

 

 

「……あるいは……密森くんにはもっと別にやりたいことがあるのかもしれません……ただ、それを口にすると周りから反対されると思って言えずにいるとか……」

「かもしれません……でもそれがわからなくて、それで保護者の方のお話をお伺いしようと思ったので……」

 操祈も、レイの実家を訪問する前までは凛子が口にしたようなことを頭の隅に置いていた。

 それ以前に舘野唯香からは、二人の関係に気がついているものが学園内に増えていることを指摘されていて、この時期に実家を訪ねるのは控えた方がいいとも言われていたのだが、あえてそのリスクを取ることにしたのは担任の教師として譲れないものがあったからだ。

 それというのも、とうとう彼からは期限までに進路志望アンケートを得られなかったのだ。エントリーシートの提出の締め切りが今夜だったことから、もう後がなくて仕方なく――実際は恋人の家庭環境にも関心があって、動機の相当の部分を占めていたのも間違いなかったのだが――動くことにしたのだった。

 もちろん抜き打ち訪問などではなく、レイにも話をしていて了解を取っていたし、実家にはレイを通じて連絡をしてもらってもいた。

 午後の授業を終えてから、あらかじめ事情を説明していた村脇静繪の許可を得て一時帰宅、着替えてからオーダーしていたレンタカーに乗ってそのまま東京横断、レイの家に着いた時には午後四時を過ぎていた。

「それで、親御さんとの話し合いで彼の進路は?……担任でもないわたしがお伺いしてもいいのかわかりませんが……」

 仲の良い同僚から遠慮がちに訊かれて、操祈は

「別にかまいませんよ、いずれにしても結果は明日、周知されることになるので……彼は成績が良いので、とりあえず長点上機の数物系を第一志望に、第二志望を同じく長点上機の医学生物学系に、そして第三志望も同様に物性科学にする、ということになりました」

「数物系っていうと、それじゃあ先生の直系の後輩になるんですね、凄いですね、やっぱり出来る子はそうなりますよね」

「私の場合は少しも凄くなんかないんです、劣等生だったので留年していて、半年遅れて進学しているので……」

「でも飛び級で卒業して、大学でも飛び級してるじゃないですか」

「それもたまたまです。遅れを取り戻そうとただ必死にやっていただけで……」

「素敵ですね……とてもかなわない……って、そもそも比較にもならないんですけど……」

 年上の凛子から心理的にも見上げるような視線を送られて、操祈は当惑していた。

「何を……おっしゃられてるのか……」

「だって操祈先生みたいな、なんでも完璧な方が必死に努力することができるなんて……それだけで、とても素敵だと思いますよ……凄い人が努力も凄かったりすると、私のような凡人はただ憧れて見ていることしかできなくなっちゃいますから……」

「凛子先生は私を買いかぶられてるんです……能力があったころはともかく、今の私は大した取り柄のないいたって平凡な女ですから……」

 操祈が弁解すると、凛子はわざとらしく肩を上下させて大きくため息をひとつ、

「またそんなことを言われて……もういいですから……じゃあ、そういうことにしておいてあげます……」

「わたし、また何かおかしなこと言いましたか?」

 操祈はやや不満げに唇を尖らせた。そうすると表情が完成された大人の女性からおきゃんな少女のものに一変するのだった。

「いいんです、操祈先生はそれで。だってわたしも先生のファンの一人ですから、うふふっ……それで、当人はなんと? 進路を当事者の頭越しに親と教師の間で勝手に決めてしまったんでしょ?」

「え? ええ、ただ、そもそも生徒の了解をとっての家庭訪問だったので……それに一応、本人にも面談の後にメールで伝えておいたので、返信がなかったということは同意してもらえたんじゃないかなと……」

 言いながら操祈はまた表情を翳らせた。

 自分の舌はいったい何枚あるんだろうとの忸怩に襲われていたのだった。

 

 

 その四時間ほど前、東東京、県境近くの住宅街――。

 駅前の繁華街を一つ外れると、昼間だというのに通りには人の姿もまばらになって、住みやすそうな閑静な家並みが広がっていた。

 住所録にあったとおりにスマホのナビゲーターに従って、レイの家はすぐに見つけられたのだ。

「三島内科/小児科医院……ここで間違いないわね……」

 通りに面した間口が三間あまりの四階建てのビル。

 いかにも昔からある、町のお医者さん、という感じ。

 閉院してから随分と時が経っているのかクリニックの玄関の観音開きの分厚いガラス扉には、張り出した押し板に頑丈な鎖を渡して幾重にも巻き付けられてあって開かないようにしてあったのだが、その鎖にもすっかりサビが浮いていて赤茶けている。

 見上げると、建物の全ての窓が閉ざされていて人の気配というものが全くといっていいほど感じられなかった。

 こうした中で呼び鈴を押そうにも見つからず、とりあえず奥を覗いてみようかと敷地内に足を踏み入れた時、隣家の住人と思しき老女が境の塀越しに声をかけてきたのだ。

「あの、そこはやってないよ……わたしの言ってること、わかるかい?」

 身振り手振りを交えて訊かれ、こういう状況をこれまで際限なく経験していた操祈は淀みない完璧な東京弁で応じるのだった。

「あら、お嬢ちゃん、言葉、通じるんだね、それは良かったよ。翻訳機使うのは年寄りには面倒なものだからねぇ……嬢ちゃん、患者さんには見えないけど、診察かい? でもそこはもうとっくの昔に廃院しちまってるから、病院なら他所を探したほうがいいね」

「いえ、あの、わたし、こちらのお家の方に用事があって伺っているのですが……」

 操祈が応えると、

「家の者に用事? だってそこは空き家だよ」

「空き家? そんなはずは……」

「もう何十年も前から誰も住んでないから」

「何十年も!? それじゃあ、ここ以外に三島内科って、近くにありますか?」

「はてどうかねぇ……あたしは知らないけど……」

 あらためて住所を確認すると、この廃ビルこそがレイが学校に申告していた実家の住所であることに間違いは無かった。

 老女の話によると、件のクリニックは先代の院長が亡くなって閉院してからも、その娘夫婦とその子どもたちがしばらく暮らしていたらしいが、一家は旦那の都合でアメリカに渡って以降、それっきりになっているという。噂では飛行機事故で家族全員が亡くなったらしいとのことだった。

 それ以降は権利関係が複雑なのか、それとも相続人が拒否しているのか、売却されるでもなく、とり壊すわけでもなくずっとこの状態が続いているのだという。

「こういう廃屋ってのはねぇ、とかく妙な噂がたちがちでね、なんでも時々、誰もいない筈なのに窓際に人影が見えたりするとかで、近所では幽霊病院とか言われてるらしくて……ウチとしちゃいい迷惑だよ」

 老女は痩せて貧相なシワだらけの額を、さらに顰めて渋い顔をした。

「あの……ご親族には、中学生ぐらいの男の子が居る筈なんですが……出入りしているのを見かけたことありませんか?」

「はてね……そんな子どもが居たかねぇ……知らないねぇ……ここには長く住んでるけど、そういうのはとんと見たことがないねぇ……」

「失礼ですが、こちらにはどのくらいお住まいなのですか?」

「産まれてからこっちずっとさ、七十年以上もここで暮らしてるよ……」

 やがて老女は身の上話を始め、いきがかりからつきあうことになってしまった。

 昔は大手企業に勤務するバリバリのキャリアウーマンだったこと、結婚を約束した相手がいたが、双方の家の事情で叶わなかったこと、二人の間には子どもが出来たが臨月を前にして事故で流産をしてしまったことなど、そしてもしもその子供が生きていれば、自分の人生はもっとずっとマシになったに違いないといって涙する。

 今、病を患って、独り死を待つだけの人生とは、なんと残酷なものなのかと訴えるのだ。

 孤老の繰り言と流してしまうにはやるせない、しかしどこにでもある幸薄いひとりの女の一生を聞かされて、操祈の気分はさらに重たくなってくる。

 長話がようやく途切れ、その場を離れることができたのだったが、見込み違いと、妙に噛み合わない状況とに操祈はすっかり途方に暮れてしまうのだった。

「ここがレイくんのおうちじゃないとしたら……お引越しでもしたのかしら……?」

 諦めかけたが、念のため建物の裏手に回り込んでみた。と、クリニックの玄関とは別に、家人用と思われる勝手口があるのが目に止まったのだ。

 それはドアスコープの付いた古めかしいデザインの鉄製のドアで、気になったのはよくある廃屋のように新聞受けが、詰め込まれた大量のビラやチラシなどで溢れかえっているようなことはなく、すっきりとしていて比較的最近にも人の手が入った跡があることだった。

 管理者がいる――?

 仮に建物の管理人が居るのだとしたら、そこからレイの現在の実家の在り処を辿ることもできるのかもしれない。そう考えた操祈はとりあえずドアの前までやってくると、さらに大きな目を丸くする。

 ドアの表面には消えかけていたがローマ字で『MITSUNOMORI』とプリントされているのが読み取れたのだ。

「やっぱり……ここでいいんだわ……でも……どうして……?」

 なにもかもがひどくくすんでいて、生き生きとした生活感が無いのだろう? 主人を失ってから長い間、放置されていたような感じになっていて、隣家の老女が言っていたように、

 まさに廃屋――。

 その時、不意にドアの内側に人の気配がして、カチャリ、とドアノブが回ると、自分の方へと外開きをはじめたのだった。

 




来週は更新できないかもしれません

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閉館後の図書館で

 扉を開いて、目に入ったのは参考図書の山の間に埋もれるようにして、デスクの上で突っ伏して眠りこけているらしい男子生徒の後ろ姿だった。

 梶谷満里乃(かじたにまりの)は相手の無防備な容子に躊躇ったが、

「あの……密森先輩……閉館、なんですが……」

 恐る恐る声を掛けながらキャレルの中に入ると椅子の前に回り込み、身を屈めて覗きこんだ。男の子の寝顔が見えて、途端にドキッとする。

 密森黎太郎は図書館の常連なので委員の女子たちにはお馴染みだったが、自分が間近で男子の顔をしげしげと見入るのは、きっと初めてのことだと思う。

 

 密森先輩ってこんなに睫毛が長かったんだ……。

 

 安らかな寝息が聞こえている。

 少年は人あたりがやわらかくて、背はそれほど高くはなかったが、ふとした時に大人っぽい雰囲気を感じることのある、満里乃にとってはちょっと気になる先輩なのだった。

 それが眠っていると幼なく見えたりするものだから、また少女の胸をキュンとさせてしまう。安息を妨げるのがなんだか罪なことのような気がしてくるのだ。

 しかしこのまま放っておくわけにもいかず、少女は勇気を出して相手のブレザーの肩に手を伸ばした。と、触れようとしていた背中がピクっと痙攣して、満里乃は、わっ、と驚きの声を発してしまう。

 その気配に反応して少年も「えっ!?」といきなり身を起こしたものだから、少女はさらに「きゃっ!」と、悲鳴をあげてキャレルの後方へと跳ね退いていた。

「なっ、なにっ――!」

 虚を衝かれた少年は椅子の上で反射的に防御の態勢をとろうとして、その弾みで、積み上げていた分厚い本の山がドサっと崩れ、一冊が足の上にでも落っこちたのか

「あっ、いったたたたたっ!」

 顔をしかめている。

「だっ、大丈夫ですかっ!?」

「うん……大丈夫だけど……えっと……びっくりしたぁ、どうしたんですか?」

 本を拾い上げ、足をさすりながらようやく少年が笑顔を向けたので、少女も気おくれしているような曖昧な笑みを返すのだった。

「あの、ノックをしてもご返事がなかったものですから……」

「ごめん、ボク、寝ちゃってたみたいで、驚かせちゃったかな? ハハハハ……」

「閉館時間を過ぎましたので退館のお願いをしようと……」

「え、もうそんな時間っ!?」

「八時をまわってますよ」

「わっ、ホントだ――」

 デスクの上にあったスマホの時刻表示を見て、少年は目を丸くする。

「いっけない、すっかり寝過ごしちゃった……なんにもしてないのに……」

 自嘲気味に笑いかけながら拡げていたノートを閉じて教科書や筆記具を揃えて帰り支度を始める。

「受験対策の勉強ですか……?」

「うん……」

 三年生にとって今はデリケートな時期なのだった。満里乃も来年のことを想うと顔見知りの上級生の挙措にはいきおい関心が向かずにはいられない。

「たしか明日ですよね、三年生の進路振り分けの発表があるのは……試験勉強は結果を見てからでも良いんじゃないかと思うんですが……密森先輩なら、きっと合格してるに決まってるので」

「いやあ、きみはボクを買いかぶりすぎてるんじゃない? きっと明日はエントリーしたところ全て落選していると思うよ……」

「そんな、先輩が落ちるなんて……」

 満里乃が訝しむと少年は自身の事情を簡単に説明してくれたのだ。親と教師の意向で一番人気の難関校へのチャレンジを余儀なくされているのだという。

「これで二次募集にもひっかからなかったら、最悪、学園都市からも所払いの刑に処せられるかもしれないから」

 少年がボヤいて少女は銀縁メガネの中の眼を驚きに大きくした。

「そんなわけないじゃないですか、先輩なら願書さえ出せばどこでも歓迎してくれるはずです」

 密森黎太郎は学年でもトップクラスの優等生であることは彼女もよく知っているのだ。

「試験の方が推薦枠で決まるよりもずっと大変なんだよ……だからボクはみんなの進路が決まった後で、定員が割れて隙間のあるところに潜り込ませてもらえれば十分だって思ってたんだけど……なのに大人たちが話し合ってサクサク決めてしまって、こっちには事後承諾による重大決定の押し付けが廻ってくるっていうんだから、ひどいよね」

「でも先輩の担任って食峰先生ですよね? スゴイじゃないですか、先生からそれだけ期待されてるってことで」

「なのかなぁ……だけど自分の適性もわからないままに勝手に進路を決められちゃうってのはどうなんだろう……」

「先輩は、将来の希望とか……ないんですか……?」

 碌に言葉を交わした事もない男子に、いきなり踏み込んだ質問をしてしまっていた。

 満里乃はそんな自分を、らしくないな、と思う。男子相手にいつになく言葉の接ぎ穂を探して会話に積極的になっているのが不思議だった。

「そりゃあ、ないわけじゃないけど……いま決めなきゃって迫られると、ちょっと退いちゃうかもしれない……現時点で適性と希望がしっかりマッチしている人って、そんなに居るものなのかな? みんなまだ手探り状態だと思うんだけど……きみには希望とかあるの? まだ一年先のことだから考えてない?」

 逆に訊かれて満里乃は答えに窮してしまった。

 こちらから切り出しておいて失礼だろうと焦るが、にわかには気の利いた返事が頭に浮かんで来ないのだ。

 物語をつくったりすることに興味があって図書委員などをしているが、だからといって自分に才能があるかどうかなんてわからない。

「わたしは……」

「言い辛かったら、無理に教えてくれなくてもいいですよ」

 質問を投げかけた相手は、そう言ってやさしげに微笑みかけてくる。積み上げた本を抱えて返却図書置き場へと運ぼうとする少年に

「そのままで結構です、あとは図書委員たちが朝の見回りの際にやりますので……」

「でもこれ重たいよ」

「大丈夫です、ワゴンも使いますし馴れてますから。それより早くしないと購買も閉まっちゃいますよ。先輩、きっと夕ご飯まだですよね?」

「あ、そうだね……学食はもう終わっちゃってるか、参ったな……じゃあお言葉に甘えさせてもらうけど……」

 重ねた辞典などの大型書籍をデスクの上に戻しながら、シャイな感じに肩を竦めてみせ、少女の胸の扉をまたノックしていた。

「ごめんね、遅くまで手を煩わせて」

「いいんです、これも図書委員の仕事ですので」

 少年は満里乃に促されるままノートと筆記具を携えてキャレルを後にする。その背中に向けて少女は、

「密森先輩、頑張ってくださいねっ」

 激励の声をかけるのだった。

「寝惚けていたのを見られちゃったから、その応援はちょっと痛いけど……うん、ありがとう、梶谷さん」

 振り向いて会釈が返ってくる。

 相手が自分の名前を覚えてくれているのが意外で、少女は素直に嬉しかった。

 地下一階の書庫に居残っていた最後の利用者が通路の先から見えなくなるまで見送ると、満里乃は念のためにフロアーの四隅に散在する他のキャレルの扉も叩いて開いて回り、誰もいないことを確かめると一階受付へと戻っていくのだった。

「書庫の見回り完了、異常なし」

「リノちゃん、お疲れー」

 図書カウンターの向こう側にはクラスメートで、同じく図書委員の飯島音瑠(いいじまねる)がいてメインコンピュータの端末ディスプレイに向き合っていた。他にも一年生の図書委員の少女が二人、すでに館内の見回りから戻ってきていてパソコンで業務日誌をつけている。

 満里乃も席についてパソコンを開いた。

「いま密森先輩が慌てて出て行ったけど三年生は明日は大変よね、うちらも来年のこと、今から考えておかないとね」

 閉館のルーティンをこなしながら音瑠が話を向けてきた。館内の照明が次々に落とされていく。

「ネルはどうするの?」

「まぁ、わたしは文系だから、高望みをしなければどこかには収まると思ってるけど……リノっちは?」

「まだわかんないな、そんなこと……ところで特別考査って、志望校の変更がきかないって知ってた?」

「そうだってね……だからエントリーの時に滑り止めをしっかり塗っておかないと、もし試験でも拾って貰えなかったら、最悪、全然興味のないところに行くしかなくなっちゃうかもって話よ」

 エントリーシートには進路希望先を三つまで記載することになっているが、推薦に漏れた場合は不服申し立てをして同じ志望校の受験をすることになっていた。しかし仮にもしもその試験にも落ちた場合には、あとはランダムに定員割れした先に送られることになるのだ。

 満里乃にはこの受験縛りがきついと思う。

 自分の適性と希望をよく見極めてからエントリー申請しないと、密森黎太郎が言っていたように、最悪、行き先がなくなって学園都市外へと落ちのびるしかなくなってしまうかもしれなかった。

 もしも文系の自分が理系に進学するとしたら地獄だし、ましてや体育系や芸術系へと送られるとなったら泣く泣く辞退する他ない。

「どうしてそんな融通の利かないルールにしてるんだろう? 二次募集の選抜法をもっと弾力のあるものにしてくれたら気分的にはずっと楽になるのに」

 少なくとも第三志望には推薦枠を含めて確実に入れるところを入れておかないと、と満里乃は思う。

「そもそも学園都市では飛び級やら専門課程の変更やらを融通無碍にしているから、その分、締めるところは締めておかないとということなんでしょ。きっと冷やかし受験を避けさせるって意味もあるんだと思うわ」

「そういうことか……」

「まぁ、自分の適性ぐらい見極めをつけられないようじゃ、そもそも見込みがないってことで、逆に考えれば仮に回り道をすることになっても挽回できる機会は常に与えられているんだから、やる気次第だよって話よね……」

「そのことでいま密森先輩と話をしてたんだけど、彼、エントリーシートを白紙で出したら、親と先生から第三志望までみんな長点上機にされちゃったってこぼしてたから……」

「わー、それは大変……でもなんとかなるんでしょ。だってあの人、操祈先生のお気に入りみたいだから」

「え、そうなの!?」

 友人からの意外な物言いに満里乃の胸はチクっとする。

「それってどういうこと……?」

「うーん、なんて言ったらいいのかな……単なる教え子以上の関係っていうか……あんた知らなかった? 以前から一部の女子たちの間では噂になってたみたいだけど」

「噂って……付き合ってるとかじゃないでしょ……?」

「私もさすがにそれはないと思うけど……でもそう思ってる子もいるみたいよ、心と体の相性がとてもいいんだって」

「心と体の相性って……そんな……」

 悩ましげな表現に、満里乃は頬をポッと赧らめた。

「一年の誰かが言ってたらしいけど、二人が並んで歩いたりしているのを見るとまるで恋人同士みたいに親密に見えるからってサ……」

 満里乃にすると初耳だった。

 コミュニケーション能力が高くないことは自覚しているが、一方で飯島音瑠はソツがないのだ。適度な距離感で上とも下とも手広くやっている。それゆえ仲間内での情報は音瑠から降りてくることばかりの一方通行で、その逆というのはまずなかった。

「ホラ、ここって昔は能力のある子たちを集めていた特殊研究教育機関だったじゃない? その流れで今も超能力のある生徒が何人もいるから」

「それは知ってるけど……」

「でね、中には見えたり感じたりする子も混じってるのよ」

「見える……?……透視とか予知とか?」

「うんそう、テレパシーを使える人もいるみたい……その子たちが言ってるらしいのよ、操祈先生と密森先輩はあやしいって……」

「まさか……」

「こっそりデートをしているんじゃないかって……そうよね? あなたたち」

 音瑠は後ろを振り返って下級生の二人の女子に確かめた。

 一年生の二人は申し合わせたように同じリズムで首を縦にふる。

「先生の心の声が聞こえちゃったりする子とか、二人がキスしてるところが“見えちゃったり”する子とかが居るらしくてサ」

 同僚の少女はちょっと得意げな容子でそれを言い、逆に満里乃は頑なになる。

「それは信じられないな……だって先生と生徒よ……歳だって離れてるし……」

「なに言ってるのよ、あの操祈先生よっ、男子なら誰だって憧れてるマドンナなんだから、歳の差なんて全然関係ないでしょ」

「それはそうかもしれないけど……でも、操祈先生が生徒を相手にするとも思えないし……」

「ま、そうよね……先生なら相手なんて選び放題だし、生徒に手をだすのって先生の方にはリスクしかないし……でも、そういうのが刺激になって、かえってのめり込んだりすることもないとは言いきれないでしょ?」

「ねぇ、その手の噂話って、どんなスジから出てくるの?」

「えっと……一年の……誰だっけ……」

 音瑠はまた首をひねって後ろの席にいた後輩の少女たちに訊いた。少女たちが応えて

「よくわかんないけど、中堂アキとか加賀まどか、入江忍あたりが出所らしいんだって……知ってる?」

 満里乃は首を振った。

「その子たちとは面識がないからわからないわ……わたし、能力とかってあまり信じてないから……」

「でも操祈先生は、その昔、ものすごい超能力者だったじゃない」

「その先生が言ってたけど、特殊な能力って思春期に一過性の不安定なもので、原因不明の病気のようなものだったって。それに今はもうほとんど居ないんでしょ? 弱い力を持っている人が少し出てくるぐらいで……低レベルの能力者のそれって、ちょっとカンがいいとか、運が強いとかくらいのもので無能力者とほとんど違わないって筈だったけど……そういう子たちが関心を集めようとしていい加減な作り話を吹聴して周りを騒がせるのは感心しないな……」

 噂話の類いは発信元をたどるとたいがい、つまらない動機、例えば嫉妬とかいわれのない差別意識とかが発端になっていて、他者を傷つけるものも少なくないのだ。

 満里乃はそうしたことを以前、自身で経験したこともあって、根も葉もない話には容易に迎合する気にはなれないのだった。

「確かにうちらの代ではリッちゃんと一組の藤枝和美ぐらいしか能力のある人はいなかったし、特殊能力といっても、手を触れずにコインを動かせたり、トランプの神経衰弱がちょっと強いってぐらいしかなかったから、うちらも力のことをあまり意識しないで居られたけど、でもいまの一年にはもっと能力のある子が居るらしいのよ。だって、レベル2となると前会長の山崎先輩と同じくらいの強さよ」

「………」

 多くの生徒たちが山崎碧子に対して憧れを感じつつも畏怖するのは、その圧倒的ともいえる美貌に負い目を感じてしまうこともあったが、他方、学園最強のレベル2のサイコメトラーという能力に対しての虞れも働いていた。

 あの美しくも碧い瞳に見据えられると、心の奥底まで透視されてしまいそうでいたたまれなくなるのだ。

「……さっき言った三人はみんなレベル1程度だっていうから置くとしても、それとは別に、レベル2のマジモンの能力者の子も一年生にはひとり居るらしいんだわ……その子には予知能力があるらしくて未来の出来事を結構な確率で言い当てているって言うから……それでね、彼女の話だと操祈先生は今日、外で密森先輩とデートをすることになっているらしくて……」

 音瑠が言うには、今日の午後、食峰操祈は車で学園都市の外に出て、都内にあるどこかのホテルかアパートの一室で密森黎太郎と秘密の逢瀬をする――した――のだという。予知能力があるという少女の目には狭いシングルベッドの上で裸になって愛し合っている二人の姿が見えていたのだそうだ。

 むろん、満里乃には到底、信じられないことだった。

 あの操祈先生と密森黎太郎が肉体関係にあるなんてあまりにも荒唐無稽すぎて、想像するだに難しい。

「……私もさすがに、そんなことありっこないとは思っていたんだけど、それでも気にしていたら本当に先生は午後には早退されて学外へと出かけられたそうだから……」

「でも密森先輩はここにいたわよ――」

「そうなんだよね……」

 音瑠は悩ましげに眉を顰めた。ひっつめ髪の額に手をあてがって思案する容子になる。

「そもそも未来って、あらかじめ決まってるものなんかではなくて、ロールプレイングゲームみたいに選択によって枝葉が刻々と変わっていくものでしょ? 当たるも八卦当たらぬも八卦じゃないの? 偶にまぐれで当たることもあるのかもしれないけど……」

「でもね、さっき食堂行った帰りに偶然、学校に戻ってきた先生の姿を見かけたんだけど、すっごい綺麗な格好してたの、まるでモデルさんみたいだった。だから勝負服でお出かけしてたのは確かよ」

「その話なら先生は今日、密森先輩のご実家で先輩の進路の相談をされていたそうだから……保護者の方と面談するのに普段着ってわけにもいかなかっただけじゃないのかな? 先輩絡みという意味では、まぁ予知も当たらずといえども遠からずかもしれないけど」

「あ、そうなの?」

「うん――」

 満里乃はいましがた密森黎太郎本人から聞いたことを音瑠にも話して聞かせた。

「その能力者の子が、密森先輩の家庭訪問をした、というのを先輩とデートしたと読み違えていたとかならありそうなオチよね」

 自分が受け容れやすい結論へと相手も誘導する。

「そっか……そうかもね……先輩はずっと図書館に居たんだから、瞬間移動でもできない限り先生とデートするのは無理なわけだし……でもさ、もしも密森先輩が能力者で……」

「瞬間移動ってレベル2とか3とかの話じゃないでしょ? そんなのが居たらとっくに大騒ぎになってるはずよ、学校だって定期的に能力者の検査をしてるから気がつかないわけがないし」

「やっぱりそうよねぇ……でも先生が勝負服を着てお出かけしてたのは事実だから、デートの相手は密森先輩じゃないのかもしれないけど、生徒の家庭訪問にかこつけて外で誰かとデートをしていたってのはありえる話じゃない?」

「別にそれならそれでいいでしょ? 先生は大人なんだし、プライベートで交際してる男性が居ても少しもおかしくはないし……」

「へー、満里乃って案外、ドライなんだ」

「どうして?」

「だって気にならないの? あの操祈先生がエッチしてるなんて結構ショックじゃない?」

「ショック……かな? わからないわ……もしも私が男の子だったらそうなのかもしれないけど……」

「わたしはちょっとイヤかな……教室での先生とは違う操祈先生が居るっていうのは……理由を言葉にするのは難しいけど……なんかイヤだ……」

「ネルって、見かけによらずロマンチストなんだ」

「見かけによらずってどういう意味よぉ、わたしってどこをどうみてもロマンチストにしか見えないでしょっ」

 ポニーテールにした長い髪の毛をナルシストっぽく撫でつけてみせる。

「ええ、そうね、そういうことにしておいてあげるわ……綺麗な人がいつまでも綺麗なままで居てほしい、っていうのは私にもわからなくはないから……」

「そうそう、そんな感じ……わかるでしょ? あの先生が男の人と変なことをしてるかと思うと……お姉ちゃんに彼氏ができた時もなんかイヤだったけど、それとちょっと似てるかもしれない……」

「でも先生の恋人が密森先輩なら良くて、他の男の人ならダメっていうのはどうして?」

 それまでの音瑠はどこか操祈と密森黎太郎の関係を期待している風だったのだ。それが満里乃の立場との決定的な違いなのだった。

「わたし、別にそういうつもりはないんだけど……ただ、知らない相手よりは知ってる人の方がイイかなってぐらい?……よくわかんない……」

「先輩だと、プラトニックな感じがするからなのかしら……」

 満里乃は口にした言葉に納得していた。同時に、胸がまたざわっとしてきて自分の心のありように戸惑いを感じてもいるのだった。

「ああ、そうかも……あの人、色が白くて線が細くてあんまり動物的な感じがしないから……オトコくさくないっていうか……」

 そこがハードルが低いというか、彼と話をしやすかった理由なのだと判る。

 満里乃は体が大きくて筋肉的な男の子に対しては、まず異質さを感じてしまって近づきたくはなかったのだ。

 狭いキャレルで二人きりになるなんて、とんでもなかった。

 だが密森黎太郎にはそうした警戒感をあまり抱かずに済んでいた……。

「たしかにネルはロマンチストよね……」

「でしょ、でしょっ」

 友人はなぜか胸を張る。

「あなたのそういうところ、好きよ、わたし……」

 満里乃もそれに応じて、わざと流し目を送ってしなを作ると、

「え――! あたしのことが好きって……あたし、そっちの趣味はないから勘弁してよっ」

 音瑠が大げさに反応して、満里乃も即座に打ち返した。

「わたしだってないわよ、仮にあったとしても、ネルはパスだから」

「え――?」

 どう受けたらいいか、一瞬、呆とする友人に

「褒めてるのよ」

 と、更にたたみかける。

「ほめてるの?……そう……なの……?……うん……???……どうせほめるなら、もっと分かりやすくやってくれるといいんだけど……」

「だって、ロマンチストだっていってたから解ってもらえると思って、それともど真ん中にストライクを投げないとダメ?」

「いや、いい……いま分った、いまので完全に理解できた……ありがと」

 上級生二人の掛け合いを黙って聞いていた一年生の少女二人が、堪えきれなくなったように、くくくっと笑い声を漏らして、それはすぐに当事者二人にも伝染していく。

 その意味するところをようやく悟ったのか、音瑠がキッとして椅子から立ち上がった。

「たばかったかっ、リノぉっ!」

「飯島音瑠、やぶれたりぃっ!」

 やがて照明を落としたガランとした図書館に少女らしい笑い声が弾けるのだった。

 




一週とばして二週間ぶりの更新になります
ホットパート前のタメって感じで・・・うすーい味のものを


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この世の果てで愛をささやくあなたへ 前編

 

 扉が開いて相手の姿が目に入った途端、操祈の瞳が驚きに大きく見開かれた。

「どうして……?」

 予想外にもそこに居たのはレイなのだった。彼もちょっとびっくりした顔で玄関に立ちつくしている。

「なぜ……貴方がここに居るの……?」

「そのお話は後で、まずは中へお入りください」

「うん……」

 訝しげに玄関に入ると、廃ビルに思われたほどの荒涼とした外観とうってかわって、建物内部は目につく限り小綺麗に整っているのだった。

 実用的なコンクリートの白壁――時に燻されてすっかりくすんでいた――に四角い灰色柄の樹脂製のパネルを敷き詰めた廊下、正面の上り階段までゴミなど残されてはいなかった。それどころか無駄なものはいっさいなくてすっきり見通せている。いまどき珍しい長い蛍光灯が一本、まだ現役であるらしく天井を這っている。

 床材は経時劣化が進んでいるのだろう、パネルにはひび割れや欠損が所々に見られたが、手入れがされているのか捲れ上がったりズレたりしているような容子はないのだった。

 玄関の土間も掃き清められたばかりのように塵ひとつ落ちていない。

「よければスリッパをどうぞ」

 レイは玄関マットの上に、ホルダーにあったスリッパを揃えて置いた。

 来客用のスリッパだけは最近になって用意されたものらしく外来製品の安売り店で扱っているような簡素なデザインで、まるで時が止まったかのように“昭和?”の名残を留めている屋内の古びた雰囲気にはそぐわない真新しさがあるのだった。

「おじゃまします……」

 ブーツを脱いで段差のある上がり(がまち)をのぼる。

「このままでいいの?」

 操祈はオーバーコートの胸に触れながら訊いた。

「上にハンガーがあるので、そちらでおあずかりします。黒のロングコート、すごく似合ってますね。びっくりしちゃった……あんまり綺麗でかわいいから」

「ありがと……」

 特別におめかしをしてきたつもりではなかったが、恋人から褒められるとやはり心が浮き立ってくる。

「先生は何を着ても似合うし、かわいいけど……どんな姿になってもボクにはみんな新鮮です……ステキだなって……」

「コラぁ、そんなこと言って先生を懐柔しようとしてもムダなんだゾっ、今日は担任教師としてあなたの将来についてしっかり問いただすために来てるんだからぁ」

「うーん、バレてるのかぁ……」

 少年はいかにもポーズとわかる仕草で頭をかいた。

 レイの眼差しが生徒のものではなく恋人のものになっていて、操祈は用心、用心、と自分に言い聞かせるのだった。

 うっかり女の気配を漂わせようものなら、敏感な女親にならばあらぬ疑い――疑いどころかすでに実行犯になっているのだが――を抱かれかねなかったからだ。

 表情を引き締めて少年の後ろに続いて階段を上っていく。

「いちおう四階建なのでエレベーターはあるんですけれど、診察フロアとの出入り用としていたので、もうずっと使っていないものですから……」

「この壁の向こう側が診察室ね?」

「そうです……」

 実家がクリニックを開業していたり医療関係者だったりすると、そうした生徒の殆どは医学系のコースを志望するものだったが、レイはどうしてそうしないのだろうと不思議だった。

「失礼いたします……」

 通された二階はリビングとダイニングを兼ねた細長いワンフロアの部屋で、通りに面した窓際に応接セットが置かれ、部屋の中ほどには十人掛けの大きなダイニングテーブルがあった。

 ちょっと緊張していたのだが、両親と思しき人物はおろか、そこには誰も待ち受けて居なくて拍子抜けする。

「ソファでもテーブルでも、お好きな方にお掛け下さい」

 操祈は促されて手近のダイニングテーブルへと足を向けた。

 室内は空調が効いていて暖かく、寒空の下で老女と長話をしていて冷えた体にはありがたい。

 レイは操祈に恭しく椅子を引きながら

「コートと帽子をおあずかりします……」

「ありがとう……」

「あの、まさか下はスッポンポンの素っ裸ってことはないですよね?」

「そんなことしてるはずがないでしょっ」

「なあんだ、残念――」

「もう、なに言ってるのっ」

 少年は女教師に向けてぬけぬけとセクハラ発言をしてくる。それどころか受け取ったコートに顔を埋め、くんくんにおいを嗅ぎはじめてさらに操祈を困惑させるのだ。

「ちょっと、なにしてるのよぉっ」

「大好きな女の人のにおいを楽しむ権利を行使してるんですよ……すごくいいにおいがするから……操祈先生らしい、やさしいにおい……もふもふの裏地にはほんのり甘い香りのする体臭がたっぷり沁みついていて……」

「変なことしないで……そんなことしてるのを見られたら……」

 セクシャルな振る舞いに操祈は目許を赧らめながら窘めた。

「ねぇご両親は……?」

「いませんよ――」

「え――!? どこかにお出かけ中?」

「ええ――」

「じゃあ、いつ戻られるの?」

「今日はもう、戻ってくることはないんじゃないかな」

 少年はニンマリしていて、ドキッとする。それは彼が二人だけになった時にワルい――イケナイ――ことを考えている時の顔なのだった。

「どういうこと……?」

「まずはお掛けになってください、お話はそれからにしましょう」

「いいけど……」

「買い置き、ペットボトルのお茶ぐらいしかないんですけど、飲み物は熱いお茶でいいですか?」

 少年は操祈のコートをクローゼットハンガーにかけるとキッチンに行って冷蔵庫を開きながら訊いた。

「え、ええ……おかまいなく……」

 ややあって操祈の前に茶托が置かれ、レンジで加熱されたらしい暖かい緑茶が供される。

 レイも操祈のすぐ隣に腰を下ろした。

「どうして……? わたし、あなたのご両親とお話がしたくて来たのよ。レイくんもそのことは伝えてくれていたんでしょ?」

「それについてはお詫びします……お忙しい先生にわざわざご足労をお掛けしてしまったのですから……」

 少年はしおらしく頭を下げた。

「べつにいいんだけど……でも……」

 操祈はそういうことか……と、察しのため息をひとつ。

 でも、そんな嘘までつかなくてもいいのにと思うのだ。

 デートをするのならそうと言っておいてもらえれば……。

 しかしレイのすることだからきっと何か理由があるのに違いないと、窘める前に話を聞くことにするのだった。

「ワケを話してくれるわね……」

 こうして少年は事情を説明し、言い訳めいた部分もあったが操祈は納得するしかなかった。

 先まわりをすることができたのは、本数は限られているが特急を使えば十五分ほど乗車時間を短縮できるそうで、普段から電車を使い慣れているからだということだった。

「……じゃあ、三年も前からここで独り暮らしだったのぉ……?」

 びっくりだった。

 子供を一人残して両親だけで長期の海外出張というのはネグレクト、と受け取れなくもない。

 だが家庭の事情はそれぞれだ。

 男の子で、しかもとても賢明なレイのような子の場合には、親が独り暮らしが可能と判断したとしてもわからぬではなかった。

 無用な気遣いを避けようとして、少年がその事実を周りに伏せていたのも理解できる。

「……ですけど必要に応じて連絡はしてるので……ただ電話だと時差があるから、殆どメールに限られますけど……先生のことも伝えてはおいたんですよ……ホラ……でも、自分のことは自分で判断して決めなさいって言うだけで……」

 レイがスマホの該当メールの文面を示して、操祈は肩を竦めた。

「仕方ないわねぇ……」

「嘘をついたことは許してください……無駄足をさせてしまったことも……」

「いいわ、勘弁してあげる……私もレイくんのおうちのことが少しだけ分かったし……」

 愛し合いながらも、どこか謎めいたところのある恋人のプライベートに触れられたのは良かったと思う。

「……ボク、先生におヘソを曲げられたらどうしようかと思っていたから……」

 少年が顔を綻ばせて

「ホッとしたらお腹が空いてきちゃった。今日はそれが心配で心配でお昼が喉を通らなかったくらいだったんですよ」

「ウソっ、そんなことちっとも心配なんかしてなかったくせにぃ」

「でも、先生が笑顔になってくれて嬉しいな」

「ホント、しょうがない子……それで、どうするの? エントリーシートの提出期限は今夜いっぱいなんだけど、ご両親と相談できないとなると……」

「先生が決めてください、ボクの保護者代わりということで」

 レイから、保護者代わり――と指名されると、嬉しいようなくすぐったいような気持ちになった。

 またひとつ、二人の間の絆が深まって……。

 レイくんの実の姉にでもなったみたいね、うふふっ――。

「いいわ、じゃあお姉さんとして、かわいい弟くんの将来を一緒に考えてあげる」

「はい、操祈お姉ちゃん」

「よろしいっ――」

 姉として、担任の教師として、そして恋人として、最愛の人の将来をともに考えるのには心が躍る。大好きな人の人生に深く関わるのは、とても責任が重いが、自分もその担い手になれるのだとしたら素敵なことだと思うのだった。

 

 

 

「……あら、だってレイくんのご実家はお医者さんじゃない? 医学系のコースは入れておいてもいいんじゃない?」

「ボクは血を見るのが苦手だってお話しした筈ですよ、ぜったい無理です。骨を切ったり、ひどく損壊した重傷者を診るのなんて、できっこないし、したくないですっ」

「そういうのばかりじゃないでしょ? 医学といってもいろいろあるから……科によっては苦手なことから無縁でいられるのではなくて?」

「そりゃ、婦人科医にならよろこんでなりますけど」

「え――?!」

「ただし操祈先生だけを専門に診るって条件で。ここは譲れないなぁ……基礎から臨床まで先生のカラダは一生をかけて学ぶ価値があると思うし」

 油断すると少年はすぐにおかしな方向へと話を脱線させてしまう。

「ボク、一刻を惜しんで一生懸命、勉強しますよ――」

 ちょっとエッチな軽口をのせてきて操祈を困らせるのだった。

「こらぁっ」

 操祈がはにかんで弱みを覗かせると、少年はさらに彼女の肉体の隅々までを知悉するものにしか言えない猥褻なことを口にして真っ赤にさせるのだ。

 ワインのソムリエがするように詳細な吟味と評価がなされていると知って、

「おねがいレイくん……もう勘弁して……」

 操祈はとうとう音を上げた。

 伝えられたのは彼女が知らないことばかり。

 少年の、自分へ向けられた愛着とこだわりには、嬉しさもあるがそれ以上にいたたまれなくなるほど恥ずかしい。

 そういうことをしているのだから知られてしまっても仕方がなかったが、そんなことまで気づかれているのかと思うと、またあらためて強い羞恥に身が竦む。

「かわいいな……先生は……可愛い女の人が恥ずかしがっている姿って、なにより可愛いと思います……」

「……いじわる……ホントにイケナイ子なんだからぁ……」

「そうですね……」

 少年が手を伸ばしてきて操祈の頭の上に置かれた。子供をあやすようにやさしく撫でつける。

 それはベッドの中に居るときのような親密な愛撫なのだった。愛し合った後に恋人の胸の中で甘える時の。

「先生はいい子だから……」

「なぁに、その口の利きようは、先生にむかってナマイキなんだゾっ」

 操祈は言葉では抗いながらも愛撫からは逃れない。

「だってしょうがないじゃないですか……ホントに可愛いんだから……こんなにカワイイ女のコ、見たことがない……」

 椅子から立ち上がった少年の胸に抱き寄せられた。

「大好き……先生……」

 セーターの上から胸に触れられて、瞬間、身をこわばらせたが、すぐにくすぐったくも心地のいいタッチに操祈は目を閉じた。

 少年は、いきなり敏感な部分を刺戟しようというのではなくて、いつも探り探りに女の体に尋ねてくるのだった。壊れ物を扱うようにして、やさしくて恭しく、愛情を注がれているのを感じずにはいられないやり方。

 きわどいところを巧みに避けたマイルドな心地よさはちょっぴり物足りないもので、操祈にもっとして欲しいと思わせてしまう。気づいた時にはいつのまにか自然に身をゆだねるような形になっているのだ。

 口づけ――。

 はじめは軽く唇と唇を触れ合わせるだけの、子供同士のするようなキス。

 けれども操祈はそれが入り口に過ぎないことを知っている。

 男と女が愛を言い訳にしてどれほど罪深い接吻をしうるものなのか、どんなに大胆な行為が可能なのかを知っている。

 性の持つ狂おしい深淵そのものともいえる世界へと続く甘美な道、背徳の隘路。

 それは一年以上も前のこと、ほんの戯れのつもりのキス、ちょうど今のような罪のない挨拶のキスから始まったのだった。

 そこから何ヶ月もかけて一歩一歩、二人だけで積み重ねてきた経験をいまでは一晩の間に何度も通り過ぎていた。

 キス……キス……キス……。

 お互いさまの口づけ――というのは最初の間だけ。あとはただ一方的に愛されることになる。

 彼から求められて拒めることはもうなにもないのだった。

 少年は操祈が嫌がっていないことを見届けたらしく、愛撫の手を更に先へと進めてくるのだ。

 セーターをスカートの中からたくし上げられて、忍ばせてきた手は易々とブラのフロントホックを外して今度は直に触れてくる。

 女の肌の脆さを心得た指が、胸の周りに散りばめられた感じやすい場所を丹念になぞっていて、いつしか操祈の開かれた口もとから甘い吐息がこぼれるようになっていくのだった。

「……レイくん……」

「なんですか……?」

 頭の上で落ち着いたトーンの声が尋ねていた。

 操祈は童女のように瞳を大きくして恋人の顔を見あげた。自分を見つめる黒い瞳がなんてやさしい色を湛えているんだろうと胸を熱くして。

「先生、ボクの部屋に行きませんか……?」

 レイは指のはらで乳房の先をくすぐるように撫でていて、刻々と迫る甘い刺戟に瞳を潤ませながら

「あなたのお部屋……?」

 訊く。

「ええ、六時にはここを出ないと門限に引っかかってしまいますけど、それまでまだ一時間以上ありますから」

 体を求められていて、それに応じるということはまた性愛の淵へと身を投じることを意味していた。

「でも……まだ大事なお話しは終わってないわよぉ……」

 強く誘惑されながら、ギリギリ踏み堪えた。

 欲望に負けて目的を取り違えたら本末転倒、元も子もない。

「それなら先生にみんなお任せします。先生がボクのためにしてくれることだから結果がどうなってもボクはかまいません……」

「……わたしがレイくんの将来を定めてしまうことになるかもしれないのよ……そんな大事なことを他人任せにするなんて……」

「先生はボクのお姉さんなんでしょ? じゃあもう他人じゃないじゃないですか……」

「だって……」

 そもそも保護者と膝詰めで相談するつもりでいて、さすがに当人から丸投げされるとまでは思っていなかったので、一人の前途有為な少年の未来を自分一人が握ることの責任の重さにはたじろぐものがある。

「ボクがなりたいものを探すよりも、先生がなって欲しいと思うボクである方が正解かもしれないでしょ……そうだっ、きっとそうですよっ」

「私は……押しつけるようなことはしたくないわ……ああっ……」

 椅子の背後にまわられて、両の乳房が彼の手の中に堕ちてしまった。

 ゆっさりと見事な肉の果実を下から支えるようにされて、乾いた感触の(たなごころ)が二つの尖りの上を幾度も擦っては体に痺れるような快美感を駆け巡らせている。胸への刺戟はドミノ倒しのようになって、やがては密やかな器官にも達してしまうのだ。

 操祈はせつなげに呻いた。

「じゃあ、ボクが先生の後輩になる、というのはどうですか?」

「……レイくんが……あたしの……後輩に……? それって……」

「長点上機だと数物系はちょっと厳しいですけど……その他なら……」

「あ、レイくんっ――」

 腋の下から乳房の縁をなぞって乳先にいたるまでのスイートスポット、感じるところを捉えられてゾクゾクする快感に操祈は身をのけぞらせた。

 顔を上向けたところを待ちうけていたように、唇を奪われて今度はディープキスになる。彼の舌が口のなかを探るように動いて操祈の唾液を掻き出していた。

 糸をひくような長く官能的な口づけの後、操祈がきつく閉じていた瞼を開いたときには瞳に情欲の炎がちらつくようになっているのだった。

「きもちいいでしょ?」

 すっかり目覚めた尖りの先端をくすぐられながら訊かれる。

「うん……」

「先生の体はとっても敏感だから……」

 鼻先で髪をかき分けられて、細いうなじにも唇を這わせてきた。

「いいにおい……なんていいにおいがするんだろうな……先生のカラダは……」

 耳元に、彼がしたいことをはっきりと囁かれて操祈は目を閉じた。

 それは彼が好むことで、淫らでとても恥ずかしいこと。

 そして、今の操祈にも密かな希いともなっている……特別な呼び方をされるその愛撫……。

 伏せたまぶたの長い睫毛に翳が濃くなる。白い目許を薄紅色に染めて、愁いのある美貌は端正な清潔感がある分、いっそう官能的に映えているようだった。

「ボク、いちばん大好きな先生のいちばん大好きなにおいが欲しい……いいでしょ?」

 彼の本気を感じてもう逃れられないと覚悟をするしかなかった。

 操祈は仕方なくこっくりする。

「いいわ……」

「良かった……先生はボクに、いつもこの大切な体をまかせてくれる……だからボクも先生に全てお任せします……これならお互いさまになりませんか?」

 レイ一流の詭弁を弄されて、操祈はつぶらな目をぱっちり開いて、恋人になった教え子の顔を見つめた。思いをのせてそうしたのは教師としての最後の矜持だったのかもしれない。

 この後、女になった自分にはきっとかける言葉など見つからなくなってしまう。

 愛しか見えなくなって……。

 視線が交わり、二人の気持ちが言葉にもまさる密度で行き来していた。

 やがて少年が大人びた微笑みを泛べて、操祈も胸の裡が相手に届いたのだと感じることができたのだった。

 椅子から立ち上がると、今度は自分から顔を寄せて唇を合わせた。恋人同士の口づけ、愛し合うことを決意した女のキスを。

「好きよ……レイくん……大好き……愛してるわ……」

 



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この世の果てで愛をささやくあなたへ 中編

 

 階段を四階まで上がって案内されたのは十畳ほどの広さの洋室だった。

「ここがレイくんのお部屋……」

「ええ、オンナのコを招くのは初めてですけど」

「あら、それは光栄ね」

 “女の子”と言われたことを含めてちょっぴり嬉しくなって心が躍る。

 操祈は興味津々に中に足を踏み入れた。

 部屋に入って真向かいに明かりとりの腰高窓があって、その前には古びてはいるが重厚感のある両袖の大きなマホガニーのデスクが置かれている。デスクの上にはお定まりのパソコン。けれども二、三世代前のやや旧式のもののようで、ディスプレイがホロではなくてフィルム式だった。

 窓にはレースのカーテンが引かれていて、その向こうには近隣の家々の屋根が見えている。

 しかし何より目をひいたのは、入り口から左手壁の全面が木製の本棚になっていて天井に届くまで書籍でびっしりと埋め尽くされていること。

 図書館でも見られるようなスライド式の書架には、ざっと数千から一万冊ぐらいの蔵書がありそうなのだ。

「ずいぶんたくさん本があるのね、すごいわ……」

「この部屋は昔、祖父が書斎として使っていたもので殆どが祖父のものですけど……ボクのはデスクの横のコーナーにほんの少しあるだけで……」

 たしかに多くは医学系と思しき専門書で、背表紙のタイトルをひとわたりする限りどれもかなり以前のものらしい。

 たしかに中学生男子の私室というよりも、造作は老成した知性を窺わせるものだった。

 部屋の大きさに比べて窓が小さいのは、大切な本を陽射しから守るためなのだろう。

 少年の話によると、元は四階は祖父母世代、三階をレイを含む両親が暮らすフロアという形にして棲みわけていたそうだが、高齢化に伴い階段を嫌った祖父母が三階へ移動、代わりに少年と妹が四階に移ってきたのだという。

 ドレッシングルーム付きの広い祖父母の寝室を相部屋とするのを拒んだ妹から、追い出される形で狭い書斎を彼の勉強部屋として使うことになったのだそうだ。

「期待外れでしたか?」

「あら、どうして?」

「だって中坊男児の部屋にありがちなものが全然ないから――」

「ありがちなもの……?」

「例えばビキニの水着の女の子のポスターだとか、猥褻な本だとか」

「そんなこと思ってもいなかったわ」

 レイに限ってそうした俗っぽさとは無縁だと思っていた。意外だったのは妹がいたことの方だ。

「妹さんが居たのね……」

 どこか孤独の影を纏っていたことで、なんとなくひとりっ子だとばかり思い込んでいた。

「あれ、ご存知じゃなかったんですか?」

「うん、だってレイくん、自分のことは何にも話してくれないんだもん」

「そうだったかなぁ……先生にも言ってなかったでしたっけ?」

「ええ、初耳よ」

「たしかにボク、学校では一人っ子っていうことにはしてますけど……」

「どうして……?」

「保護者不在を伏せているのと同じ理由です。妹は両親と行動を共にしていてずっとここにはいないので……」

「そう……でも寂しいわねぇ、いつも独りぼっちだなんて……」

「いえ、今のボクには友達が居るし……それに誰よりも大切な人、先生が居るから……」

 傍らで少年は黒い瞳を憧れに輝かせて見上げていた。

 リビングでは躊躇いもなく肌に触れてきたのに、今はまた純情そうな男の子の顔をしている。

 レイには二面性があって、外では温順なしくてナイーブな聞き分けの良い優等生なのに、プライベートでは大胆さや好色さを隠さずに見せつけてくるようになっている。

 その相反する性向にデートの時はいつでも翻弄されっぱなしだった。

 そしてひとたび肌を接するようになるといっそう触れ幅が大きくなるのだ。

 神さまのようにやさしいのに無慈悲、とても情が深いのにけっして妥協をしてくれない。

 操祈がどんなに拒んでも、容赦を願っても、そのときだけいったん退いたふりをするが、やっぱり最後には彼の方が我を通して思いどおりにされてしまう。

 悔しい――。

 でも今ではそれさえも、良かったのだ――と納得ができていた。

 性愛のすばらしさは、どんな果実よりも甘やかなもの、そして一人ではけして手に入れることができないものだ。

 そこは心を許した最愛の恋人を得てたどりつける二人だけの秘密の聖域、どこよりも遠い所。

 だから操祈も彼の前でだけは、けっして他人には見せられない自分を見せている。

 きっとレイもそうなのだ……。

 どちらが偽りでどちらが本当というのではなく、やさしい男の子のレイも、若い暴君のレイもどちらも同じ彼。

 操祈自身がそうであるように――。

 でも……。

 心と体の中心に、理性だけではどうにもならないものを抱えさせられて、どうして神さまは人の体をこんな仕掛けにしてしまったのかしらと思う。

 欲しくても自分からは欲しいとは言えないように、罪の意識と羞恥の感情という二つの鍵がかけられているなんて……。

 すごくいじわる――。

 操祈の場合には、さらに法と倫理というハードルまであるのだから尚更だった。

 けれど、軽々しく手の届かないところに隠されているからこそ、男と女の秘めごとはこのうえもなく甘美な経験になるように思う。

 他人目を忍んで、時を惜しんで結ばれるから、互いの関係はいっそう濃密なものになれるのだ。

 いま自分は恋人の寝室に居て求められるときを待っていた。

 じきに裸になって体を開いて彼の愛撫に身をまかせることになる。

 女にとってこれ以上ないと思えるような辱め、けれども一度でも知ってしまったらけしてそれ以前には戻れなくなってしまう悦楽の迷宮。

 いつしか見つめ合うレイの眼差しが女の体を知悉する男のものになっていて、操祈は視線を逃れて目を伏せた。

 そうすると非のうちどころのない完璧なレディでありながら、悩ましい恋に身を灼くとびきりの美少女の顔になるのだった。

 長い睫、気貴く整った鼻梁、面相筆で描いたような細い顎のラインには未だに穢れを知らない処女――実際に未だそうなのだったが――の生硬さが残っているよう。

 ノーメイクであることでかえって初々しく、清楚な美貌を際立たせている。

「だいぶ部屋も暖まってきましたし……まだお寒いですか?」

「ありがとう、もう平気よ……大丈夫……」

 頬笑みは自然に愁いを含んだものになっていた。

「ボク、先生にお見せしたいものがあるんですけど……ご覧になっていただけますか?」

「え? いいけど……なあに?」

 てっきりベッドに招かれると思っていてそのつもりでいたのだが、ちょっとはぐらかされたようにも感じて小首を傾げた。

 少年は壁際に据えられたシングルベッドをギシギシと軋ませて、そこに腰をおろすと下からキャスター付きの木箱を引っ張りだしはじめた。

 こちらはスチールパイプ製の折りたたみ式の簡易ベッドで、明らかに部屋の元の主の趣味ではないのだった。

「エッチ関係のものはみんなベッドの下に隠してあるんです」

 エッチ関係って――?

 猥褻本でも見せるつもりなのかしらと怪しむ。

「見せたいものってそういうものぉ? いいわよ、そんなの見せてくれなくてもぉ……」 

「そう言わないで、せっかくの家庭訪問なんですから思春期男子の実態もしっかり見ていってくださいよ」

「だって、平均からはかけ離れたあなたを見ても、大して参考になるとは思えないんだけどぉ……」

「うーん……じゃあ、ボクのヒミツの宝ものを先生にだけお披露目する、というのならどうですか?」

 秘密、と言われると、やはり気になってしまう。

「レイくんの宝もの……?」

 少年に手を引かれてベッドの端に並んで腰掛ける。木箱の中には何冊かのスケッチブックが収められているのが目に入った。

 その一冊を手渡される。

「ここにあるスケッチブックは、出逢ってから以降、こっそり先生のデッサンをしていてずっと描き貯めていたものなんです」

 表紙には番号が振られていて、“新版No.1”とされたものには三年前の日付が添えられていた。

 三年前というと、まだ常盤台に着任する少し前――。

 操祈がレイと出逢ったのは教師になってからだったが、少年はそれ以前から自分を知っていたらしい。

 彼が以前に見せてくれた写真には西伊豆での卒業旅行のものが混じっていて、(えにし)の不思議を感じさせている。

 スケッチブックを膝の上にのせ、まるで仲睦まじい姉弟が一冊の絵本を囲むときのように、身を寄せ合ってボール紙の表紙を開く。と、そこには紛れもなく彼女の姿が描かれていた。

 正面顔、横顔にはじまり、笑顔や憂い、怒りや恐れ、そしてはにかみや羞恥など様々な表情が描かれている。

 鉛筆デッサンというよりも、ディテールへのこだわりは細密画に近いもので、ひとつひとつがしっかり描き込まれていた。

「……とても上手だわ……」

 操祈は素直に賞讃したが、だがそれはまだほんの序の口に過ぎないのだった。

 二冊目以降になると、坐像、立像、半身、全身と展開していき、テーマも着衣から、やがては裸婦画になり、後の作品になるほどきわどいポーズを取るようになっていったのだ。

「こんなの描かないでよぉ、恥ずかしいじゃない……ねぇ、いつのまに描いていたの? 全然、気がつかなかったわ」

 操祈は絵のモデルをしたことなどなかったのだった。

 自身のリアルな表情を見せられて、いったいいつこんなところを描かれたのだろうかと不思議になる。

「ヌードは最初は想像して描いていただけだったんですけど、途中からは目にしたものをそのままに描けるようになって……」

「目にしたもの……?」

「覚えてますから……っていうか忘れられないから……絶対に忘れたりしたくないから……」

「覚えてるって!?……じゃあ、頭の中にあるイメージだけで描いてるってこと?」

「ええ……」

「すごいのね、絵を描ける人の観察力や記憶力って……」

「大好きなものをなんども目にしていれば誰だってできるんじゃないかな……」

「そんなこと……」

 自分にはできっこないと思う。自分だけではなく大概の人にはまず無理だ。見たままを描くことだってトレーニングを積まないと出来るようにはならないし、どんなに努力をしてもできない人にはできないことがある。

 想像していた以上にレイの画才は非凡なものだった。

 能力というのなら、つまらない特殊能力なんかよりもずっと素敵だと思う。

 同時に、こんなにも詳細に写し取ることができる眼でいつも見つめられているのかと思うと少し心が落ちつかなくなるのだった。

「やだっ、こんなのまで描いてるしっ!」

 これまで二人が演じた体位も、さまざまなアングルから構図を工夫して描かれていて、それはもはやアートではなく紛れもないポルノだった。

「ボクたちのことも描いておきたかったから……」

 官能の奔騰に余裕を失って、男の子の顔の上にしゃがんでいるのは、まさしく操祈本人だった。

 上気した顔で快感に瞳を潤ませて、息を乱しているのか半ば開かれた口許、量感もみごとな胸の先を発情の徴も露わに尖らせて、あられもない角度に股間を割って女の秘所を舐らせている。

 作品は、今にも腰をわななかせそうになる逸楽の瞬間を見事に切り取って描きあげていた。

「もう、なに考えてるのよぉっ!」

 真っ赤になった操祈は恥ずかし紛れに声を黄色くして、握った手を振り上げて傍らの少年の頭を戯れに打擲しようとする。が、その手が、つ、と止まってしまった。

「怒らないで、先生っ」

 少年はひしっと身を寄せてきて、彼の温もりが体にじんわりと伝わってくると、たちまち気がそがれてしまう。

「だって、どうしても描きたかったから……すごく綺麗で……」

「……ずるいわ、そういうのって……」

「女の人が感じている時の姿って、いちばん美しくて可愛いと思うから……歓びと愛とを全身で表現していて……先生は特に……」

「言っておくけど、こんなのあたしじゃないからねっ! ゼッタイちがうもん。あたし、こんなはしたないことしないわっ」

 駄々をこねた。

 けれども言葉では否定してもそれが自分自身の姿であることはよく判っているのだった。

 密やかなくさむらの影に隠れていても少年の歓喜の表情や、(ひら)かれた谷間を労るようになぞる舌の動きまで想像させる巧みな構図。

 互いを思い合い、愛しあっていることがひと目で感じられるほど、描かれた二人は強い絆で結ばれていた。操祈の脇腹のあたりを支える少年の両手は、淫らな肉の感動に乱れる女を励ますようにさすっているのが窺える。

 その時の感覚が蘇ってきて操祈は非難の言葉を呑み込んだ。

 裸になった彼女に少年はどこまでもやさしいのだ。濃い愛撫になればなるほど配慮、思いやりを忘れない。

 歓びを迎え入れた後には、しっかり寄り添って独りじゃないことを教えてくれる。

 そんな二人の親密さまで一枚の絵の中にしっかり描きこまれているようなのだ。

 彼のひたむきな思いの込められた作品。

 淫らでとても扇情的ではあるものの、美的であることは認めないわけにはいかなかった。

 モデルが自分でなければ、きっと素直に讃辞を贈ることができたに違いない。

「内緒でこんないけない絵をかいてるなんて……ワルい子……」

「わかってます、だから先生にしかお見せしません……ボクたちだけのヒミツです……」

 真摯な顔をして訴えられて、またしても少年のペースにはまって言いくるめられてしまった。

「まだ先もありますから、続きをご覧になってください……」

 促されて仕方なく更にページを捲っていくと、今度は彼女の肉体の様々な部分のパーツアップとなり、とりわけ陰部には多くのウエイトが割かれているのが判って操祈の悩みは深まるばかりだった。

 自分でも見たことのない姿が描かれていて、とても正視に堪えられないものばかり。

「もう、なによぉっ! 描かないでよ、こんなことまでぇ!」

「でも可愛らしいじゃないですか。これだけで完成されたとても綺麗な造形物だと思いますよ、ボクの大好物ですから」

「バカっ――」

 操祈は今度は相手の頭を軽くはたいて不満を行動にしてうったえた。

 それでも少年は悪びれるでもなく幸せそうにしている。

 写真以上に淫靡であるのは、それが彼の手によって描かれたものであること。

 こんなにも仔細に観察されていたのかと思うと、やっぱりやりきれない。

 けれども初毛の一本一本、繊細な皺や毛穴の一つ一つまで再現しようとするこだわりは、強い情熱に支えられたものであるのに他ならなかった。

 同時にいつもこんな密度で愛情を注がれていたのだとすると、この恋に後戻りなんてできるはずがなかったのだと胸に落ちるのだ。

「じゃあ、叱られついでにこういうのはどうですか……?」

 少年はさらに別の箱をベッドから引っぱりだしてきた。

 取り出されたのは菓子の空き箱のような縦横二十センチあまりの方形の紙箱だった。

「……これ、先生からおあずかりしているボクの大切なコレクションなんですけど……」

 なんだか胸騒ぎがして悪い予感がしていたが、

 なぁに――?

 と言いかけて、中に収められていたものをひとめ見て、操祈は呆れはてて肩で大きくため息をついた。

「それも……わたしの……?」

 強い羞恥に頬を見事にバラ色に染めて訊く。

「もちろん先生のだけにきまってるじゃないですか」

 少年は、だけ――というところをことさら強調して誇らしげに言った。

「ボク、先生にしか興味ないから――」

「………」

 見せられたのは透明なフィルムに真空パックされた肌着だったのだ。何枚かあるらしく箱の中に丁寧に重ね置きされていた。

 それもわざわざクロッチの部分を裏返しにして展げてあって、穢れを露わにして封じられている。

 黄ばんだシミのロールシャッハ図は産みだした本人にとっては見るに堪えないもの。

「しまってよ、そんなものぉ」

 半ば悲鳴に近く、声音を高くして訴える。

「そう言わないで下さい、ボクにとってはたからものなんですから……四枚あるんですけど……これが一番最初に戴いたものです……去年のバースデープレゼントに……とってもいいにおいのするなによりの贈り物……」

 ひとつひとつ取り出した少年は自身の膝の上に大事そうに並べている。

 それぞれに日付と場所を記した記録票も一緒に封じられていて、恥ずかしい秘密が永久標本にされてしまっているのだ。

 淫物嗜好のある少年ならではのこだわりが反映されていた。

「もう……変なことばっかりするんだから……」

「だって、みんな香りが違うんですよ、それって凄いと思いませんか? 生理の前後だけじゃなくて、その合間でも強く鋭角的に香る時と、複雑に濃厚ににおうときがあって、そればかりか一日の間でも変化しているんですから、どんなに芳しい花だって先生のにはとてもかなわない……」

「いわないでっ、そういうことぉ!」

「優しくてこんなに綺麗なお姉さんなのに……こんなに可愛い顔をしているのに……あんなにステキなにおいをさせているなんて……」

 何を言われているかはよく分かっていた。操祈自身にもそのことへの自覚があるからだった。

 恥ずかしさに、怒ったらいいのか悲鳴をあげたらいいのか判らなくなってきて、ついには瞳を潤ませてうなだれる。

「……バカ……女に恥をかかせるなんて、最低よ……」

 絵でも肌着でも行為でも、少年が彼女の陰部へ寄せるこだわりは女にとっては堪え難いもの。それなのに嫌悪する以外の感情も目覚めて、深く強く揺さぶられている。

「先生が素敵なのは姿形ばかりじゃないから……においもお味も、大好きです……」

 デリカシーのかけらもない直截な物言い。

「レイくんのエッチ……変態……」

 口では非難するが、けれども体は勝手に感動していて蕩け始めている。忘れようもない感覚が蘇って、操祈は両脚をきつく閉ざして堪えるのに精一杯になっていた。

「うれしいな、先生にそう言われるのは最高の褒め言葉だから。だってボクは先生にだけはそうありたいと思っているから……先生がボクに教えてくれたんですよ……女神がどんなセックスをするのか……それがどんなに美しい奇蹟なのかを……」

「……何度も言ってるけど、わたし、女神なんかじゃないわ……」

「でも、先生と居ると、ボク、とても敬虔な気持ちになるから……」

 敬虔であることと濃厚な性行為との間には大きな隔たりがあると思うのだが、それが少年の中では矛盾なく一致しているものらしい。

「どうして人間の女の人がこんなにも美しい姿をしているのかと思って……先生の体に触れているときも、描いているときも……そして、美味しく食べているときも……あのときボクが感じている歓びの一端でも知ったら、先生はきっとボクにジェラシーを感じるんじゃないかな……」

 少年は、あのとき――と、言いながら陶然とした面持ちで唇の間に舌を覗かせていた。

 愛されているのは自分だけのはずなのに、そのさなか彼も歓びを感じているという告白には胸をうたれてしまう。その言葉に偽りのないことも、強いこだわりを示されて思い知らされたばかりだったのだ。

「先生……男が女の子に向かって、キミのセックスのにおいが好きって言うのは、キミのことが大好きって言う以上のことなんですよ……」

「………」

「でもボクは先生のセックスのにおいが好きなわけじゃないから――」

「――!――」

 いきなり胸に刺さる言葉を浴びせかけられて、甘い気持ちになりかけていた操祈は一瞬で凝固(かたま)ってしまった。泣きたくなるくらいの衝撃を受けて。それは女にとって恋人から言われる最も残酷な宣告。まるで全てを否定されたような感じに。

「……ひどい……」

 目頭が熱くなってくる。

 自分の醜さを知ってはいても、それでも彼にはどこかで期待していたものもあったのだ。でもやっぱり本音はそうだったのか、という失意と落胆。

「待って先生、最後まで聴いて……」

 慰めるつもりなのかレイの手が背中をさすっている。

「ちがうんだから誤解しないで下さいっ、ボク、先生のセックスのにおいが好きなわけじゃなくて……大好きなんです、そう言いたかっただけなのに……」

「――!?――」

「ずっと顔を埋めて居たいなって思うくらい……どんな良い香りのするものよりも、大好きだから……」

 打ちのめされた反動で今度は感動で胸が熱くなる。それ――が、自分にとってどんなに大切なことだったのかを強く思い知らされていた。

 涙が溢れて頬を伝って落ちていく。

 悔しいけど、また彼の言葉の罠に嵌められていた。

「……ずるいな……ほんとにずるいなきみは……そんなこと言われたら……もう……」

 肩を慄わせて嗚咽する。

「大好きです……先生のことが……言葉にできないくらい……好き……」

「……嫌いよ……レイくんなんか、大っ嫌い……」

 甘えて胸に抱きすがると、頭を優しく撫でられる。

 大好きな人からいい子いい子されるのはいつでもとても嬉しいことだった。

「………」

「困ったな……また嫌われちゃった……先生に嫌われたら、もう生きていても仕方ないから……」

 その言葉にはっとして身を起こすと、涙で頬を濡らしたまま少年の顔を見上げて訴える。

「イヤよ、そんなのっ! 嘘よ、嘘だからっ!……だから……そんなこと言わないでちょうだっ……んんんっ」

 終わりの方は唇を奪われて言葉にならなかった。

 舌と舌とを絡め合う長いディープキスの後、

「脱いで、先生……」

 少年から命じられる。

 キスの後は、まるで魔法にかけられたようなふわふわした心地になっていた。

「いいわ……」

「裸になって先生のいちばん綺麗な姿を見せてください」

 操祈はこくんと大きく頷くと、自らセーターをスカートの中からたくり上げて、みごとに白い肌を晒していくのだった。

 



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この世の果てで愛をささやくあなたへ 後編

 両肘をついて切なく泳ぐ視線の先に映るのは、元は白かったのだろう薄黄色く褪せた壁紙と簡易ベッドのヘッドボード替わりのスチールパイプだけ。きっと二つ折りにたたんだ際に移動しやすくするためなのだろうパイプの端にはキャスターが付いている。

 マットは薄く粗末なもので僅かに身じろぎするだけで、ギシギシと安っぽい音を立てるのだった。

 レイらしいともいえる実用的で殺風景な部屋、大好きな彼のにおいのするベッド――。

 その上で操祈は四つん這いにされている。

 すんなり長い二の腕の間に、肉感も見事に膨らんだふた房の白い果実がゆっさりと垂れて、豊かなひろがりも(あや)な乳暈の真ん中で愛くるしい桜色の尖りの先がシーツに擦れんばかりになっている。

 いつもはお茶目に明るく輝くこともあるつぶらな瞳は、時に何かに驚いたように大きく(みは)ることもあるが、すぐに憂いを宿して昏く沈んでいった。

 細かく揮える伏し目がちの長い睫――。

 宵闇の迫る少年の寝室で、いま操祈は二人にしか許されない禁忌の口づけに身を委ねている。

 服を脱いですっかり裸になると、少年ははっきりとしたいことを言葉にして求めてきたのだ。

 いきなりの要求に、さすがにそれは――と、たじろぐが、結局、彼女には拒み通すことなどできはしないのだった。

「……ああ……レイくんっ……ダメ……」

 無慈悲な詮索に小さな悲鳴を発して許しを願うと

「大丈夫ですよ、先生のはいつでもとってもステキですから……かわいくて、胸がつぶれてしまいそうなくらい愛おしくて……」

 頭にするのと同じようにお尻の山の頂きを丹念に撫でられる。大切にされていると感じるやり方で。それ以上に口づけはもっとやさしくて、惜しみない愛情が注がれているのがわかるのだ。

 女にとってとりわけ抵抗感のある、この上なく淫備で背徳的ないとなみ。

 たとえどのような惨めな姿になっても、そのことで少年が彼女を憎んだり疎んだりすることはないのかもしれない。それでも尋常ならざる行為に女の安息はないのだった。

 甘美な歓びに逃げることもできずに、意識は少年の繰り出す愛技の一つ一つを必死に追って身を守ろうとしてはかなく抗っている。そんな彼女を(くじ)こうとする舌の動きは執拗で、強い愛着と興味を伝えて女の心と体とを蝕んでいた。

 初めてそれを経験させられた、去年のあの夏の日――。

 本気になった男の子の一途な愛撫に、女としての歓びを知った暑い日の午后、シエスタ。

 夏休みも終わり近くになって、休暇を楽しむ親子連れの姿も目立つ都内のホテルでのこと。

 それを身に受けたとき、操祈は少年が気でも狂ってしまったのかとひどく驚いて、そして恐れもしたのだった。

 さすがにそんなことを許してしまってはいけないと拒んだが、逃れられない体位でそれをされていた彼女には、そこが侵されていくのをただ呆然と堪えて受け容れるしかなかったのだ。

 そして最後には見知らぬ歓びの尾根に誘われて涙していた。

 女の誇りを一度に全て失ってしまったような失楽感と喪失感の中で。

 恥ずかしい秘密のベーゼの先に、さらにもっと大きなタブーがあったことのショック、人が踏み外してはいけない一線を少年はいとも易々と乗り越えてきた。

 多分そのとき、きっと自分の中でも何かが変わってしまったのかもしれないと今では思う。

 少年の手に導かれるままに平穏な楽園から逃れて、愛と性の冒険に身を投じる覚悟のようなものが生まれたような気がしている。

 

 

「また、泣かせちゃったみたいですね……」

 愛の嵐の後、少年の胸に抱かれて慰められる中、激しい羞恥が蘇ってきて肩を震わせた。

「……ひどい……あんなひどいこと……あたし……」

「だって先生だから……ボク、もうがまんできなくて……」

「………」

「この世でいちばん美しい女のひと……心も体もなにもかもがステキな人だから……想像していた通りでした……いいえ、それ以上にずっとステキで……こうしている今も夢のよう、ボク、信じられないくらい幸せです……」

 言葉でも行為でも辱めを受けた後の操祈に、少年は自身の歓びと感動をすなおに口にして、傷ついた女心に寄り添おうとしてくれる。体を丹念に撫でるやさしい手の温もりが肌に浸みた。

 相手の顔が見られないほど恥ずかしかったが、少しずつ諦めと受容の感情が胸の中でひろがっていくのがわかるのだった。

 同時に強い愛情が膨らんでくる。

「……泣いてなんかいないわ……ただびっくりしたの……レイくんが変なことをするから、おかしくなっちゃったんじゃないかって思って……」

「ボク、少しもおかしなことなんてしてませんよ、だって、とても自然なことだと思うから……先生は、やっぱりイヤだったですか……?」

 イヤ――というのではなくて、とてもいけないことなのだと思う。レイの嗜好は常軌を逸していて、明らかに一線を越えていると。

「ボクは先生にしかできないこと、したいとは思わないことをしただけなんですけど……ずっと憧れていて、ずっと大好きだった人に……今はもっともっとずっと大好きな先生に……」

「……そんなこと言って……とても、いけないことなのに……ああいうのは……」

 ああいうの――と、曖昧にするしかなかった。

 言葉にすることも憚られる、女の口からはとても言えないことなのだ。

「イケナイことなんでしょうか? きっと先生は少し勘違いをされてるんだと思います。だってボクは人の子として女神に抱く当然の思いを、ただ祈りに変えているだけだと思うので……」

「祈り……?!」

 予想もしない物言いをされて、その瞬間、恥じらいも忘れて少年の顔を見上げてしまう。が、優しさと憧れを隠さない黒い瞳と視線が重なって、たちまちまた真っ赤になって少年の胸に甘えてしまうのだった。

「歓びも、誓いも祈りも、みんな愛の二つ名だから。だから、もしも先生がおイヤじゃなければ、イケナイことなんてなにもないはずなんです」

「……ずるいわ、そんな言い方して……もう騙されないんだから……温順(おとな)しくていい子だと思っていたのに……ワルい子……」

 拒めなくしているのは少年の方なのに、と恨みがましい気持ちになる。

 優しくされて何度も何度も挑まれたら、きっとどんなに身持ちのいい女だって最後には言うなりになるしかなくなってしまう。

 そうやって操祈は、ついには籠絡されていた。

「ダマすだなんて……でも、そうかもしれませんね……だって、出逢った時からの夢だったから……」

「――!?――」

 少年はこれまで操祈に対して抱いていた思いを隠さず口にして彼女を驚かせるのだった。

 (よわい)、まだ十二、三の、ついこの前までランドセルを背負っていたような児童が、よもや大人の女に対してそのような欲情を抱くものなのかと俄かには信じられなかった。

「……男の子って……みんなそうなの……?」

 訊きながらも、さすがにそんなことはないだろうと思う。レイが特別だというのは心でも体でも、もう十分すぎるほどよく分かっていた。

「どうかな……でも、大なり小なりそうなんじゃないかな? だって女子のスカートを捲ろうとする連中の中には、本気の奴もきっと混じってるハズだから……ボクはしないですけどね……でも、先生のスカートの中はこの世で最も遠くにある憧れだったってことは本当ですよ」

「……バカ……」

「……その気持ちは、こうしている今も少しも変わりませんけど……」

 そういうと少年は再び操祈の体を這い降りて行き、もうダメっ――と、思うよりも先に両脚を肩に担いで、また彼女を悩ませるようになるのだった。

 今度もまっさきに寄り道をされて、操祈は唇を噛んだ。

 否応もなく、それも少年の愛撫のメニューに加えられてしまったようである。操祈の体が忘れないうちに、しっかり復習させられているような具合に。

 実際、一度(ひとたび)ほころんだ体はすぐに運命のパートナーとの再会を歓んでたちまち馴染んでしまっている。

 ぺたり、と貼りついて生まれる(あや)しいくすぐったさは、その先にある遥か逸楽の途へと確かに続いていた。

 こんなふうにして体に条件付けをされていったら、あたしはどうなってしまうんだろう……。

 くやしいな……悪魔……ちっちゃい悪魔……女の扱いが、こんなにも巧みで心やさしい男の子が居るなんて……。

 また隅々にまで及ぶ一途な愛撫を受けた後、彼の胸の中で慰められて、操祈は恋人のためならどんなことでもしたい、そんなふうに感じてしまうほど恋の虜になっていくのだった。

 

 

 

 以降、二人の間は少し年の差のある、けれどもひたむきにお互いを思い合う親密な恋人、というものからより濃厚な男女関係に、操祈に対していかなるアブノーマルなプレイも躊躇うことなく挑んでくる貪欲な性の探求者である少年と、それを拒めずにただしどけなく崩れていくしかなくなった女教師、というような危ないなものになっていったようである。

 レイは愛し合うときになると当たり前のようにそれを求めてくるようになったからだ。そして彼女の方も躊躇いながらも望まれるままに体を開いていた。

 ただ、愛されている間にも罪の意識は常にあって、自分が良俗に背いていること、人としての掟を破ってしまっていることの自責と嫌悪感は消えずに(わだかま)っている。

 それから数ヶ月――。

 操祈は生来の美貌にますます磨きがかかったように美しくなっていった。

 良く知る古くからの友人たちであれば、ひとめ見て彼女の変化に気がつき、あの食峰操祈が熱い恋に身を焦がしているのを察したことだろう。

 本人には自覚がなかったのかもしれないが、能力を失った後にはまるで憑き物が落ちたように、それまで隠されてきた本来の性格が表になって、恋愛にはどこか消極的な潔癖な少女のようになっていたのだ。

 そんなややおくてな美女が恋を知って、女の弱さを教えられて、表情は愁いを含んでさらに(たお)やかなものになっていったのだった。

 柔らかな三日月を描く眉、ひっそりと大人の女の翳を宿した白皙の瓜実顔、愛くるしいつぶらな瞳は時に寂しげな光を湛えて潤んだようになる。

 いま(にえ)となって辱めに堪える姿は、人の手によって(けが)されて白き羽を毟り取られた悩める女神そのものに聖と俗とが溶け合っていて、少年の目と心を愉しませていた。

 口づけ一つで慎ましい美女にこんな顔をされたら劣情の炎に油をそそぐようなものだった。男からすれば挑発されているも同じでいっそう奮い立たずにはいられなくなる。

 それはミドルティーンのレイにとっても少しも変らない。

 それどころか性癖を形作る上での決定的な時期に、こんなにも豪華な獲物を得た少年を有頂天にさせている。

 健康な若い牡にとって女教師の充実した肉体は、この上もなく甘い食べ物、蜜たっぷりの芳しくも美味な果実に他ならないのだった。

 だが、心を読む力をすっかり無くした操祈にはそうしたことに気付くこともなく、優しい年下の恋人の閨での変貌ぶりにただ驚かされて動揺するばかりになっている。

 まだ未経験で、自分ほどにも性を知らない筈の男の子が寄せてくる思いは、受けとめきれないと感じるほど深く情熱的で、セックスというものが単に秘めごと、という言葉で片付けられる以上に女にとっては覚悟のいる、とても恥ずかしい経験であることを教えられたのだ。

 まだ一線を越えないが、結ばれるよりもずっと淫らなことをしていた。

 今もそこに身を寄せたまま粘っこい温もりを伝えて、なかなか離れてはくれない舌の感触が悩ましいのだ。しつこく舐めとられて、時に、ボクは先生のカラダにこんなことだってできるんですよ――と、いわんばかりの執拗さで指のはらで因果を含まれて、その危険なくすぐったさに、刻々、心が負けて(なび)いていくのが判るのだった。

 そしてついには唇を圧しあてられて、ためらいを窺わせることなく、あいせつな凹みを深く吸われてしまう。そっとしておいて欲しい女の秘密のなにもかもを知り尽くされて、操祈は観念して目をきつく閉じ合わせた。

 どうしてこんなことをするんだろう……?

 なぜこんなことをしたがるのか、今もよく解らずにいる。

 これも愛の行為なの――?

 たしかに少年の愛情は強く感じている。

 レイが言うようにオーラルセックスは直接、生殖に繋がらない分、男女間でのより純粋な愛情表現といえるものなのかもしれない。

 けれども、たとえ愛を伝え合うのにしても、はたしてこのような方法を取ることが許されるのだろうか?

 まして相手はまだミドルティーンの教え子なのだ。

 どんなに賢くても、どんなにオトナ顔負けの振る舞いをしても、責任は大人であり教師でもある自分の側にある。

 それなのに……。

 悔いや畏れの感情を抱きながらも屈していくという虐げられる感覚が、さらなる強い感動を呼び込む促進剤になっているようで、一度でもその甘さを知ってしまった操祈はもう抗えずに堕ちていくしかなかったのだった。

 少年は狡智を巡らせて時をかけて、愛を言い訳にすることで彼女を二度と後戻りのできない性的倒錯へと見事に引きずり込んでしまったようである。

 巡り合うまではキスさえも知らなかった初心な女教師の真っ白な心と体に、思い通りの淫靡な絵を描いて、けして逃れられない恋の魔法をかけていったのだ。

 強い羞恥とそれにともなう快感に加えて背徳感という異なる糸で(あや)なされた官能のアラベスクは、デートを重ねるたびに鮮やかで豊潤な、けして打ち消せない記憶となって操祈の心に折り重なっていったのだった。

 

 

「あ、ヤダっ、あたしっ――!」

 まだ我を忘れるような具合になっていないにもかかわらず、不意に体の奥があのときのようにゆるんだ感覚になってたじろいだ。

「スゴイっ、先生のカラダから、こんなにいっぱい」

 感嘆の声が背後から聞こえる。

「いわないでっ、そういうことっ……」

 しどけない肉は少年の愛撫を待ちきれずに歓迎の涙を流してしまっているらしい。

 葛藤をよそに、体だけがさっさと応えてしまっているのが情けなかった。いつでも真っ先に官能の踊り場にたどりつくと、勝手にグズグズになって心が追いついてくるのを急きたてるのだ。そして再び心と体が一つになるや、一気に天上を目指して駆け上がっていく。

 身も心もとろけてしまうほどの、それはそれは甘美な口づけの味。

 自分がどんなにだらしなく、哀れなことになっているのか、ただその瞬間、(そら)の彼方を目指している時だけはどうでもよくなっていた。

「……キラキラしてる……先生の愛の蜜が……きれいだ……」

「レイくん……」

「ご褒美を下さいな、ボクの女神さま……」

 ようやく待ちかねていた本当の愛撫になると思った操祈は、その甘やかな衝撃に備えて腕の間に頭を垂れた。歓びを求めて自然にお尻をさらに突き上げる形になる。

 けれどもいつものように痺れるようなキスをされる代わりに、そこを何かで拭われているような、もどかしい感覚になって当惑に目をパチクリさせていた。

「……?……」

「今日はボクのベッドに、先生のにおいをたくさん遺していって下さいね」

 背後で少年は捲り上げたシーツをタオル替わりにしていた。

「……もう、なに言ってるのよぉ、イヤよ、そういうのは……」

 恋人から自身のにおいを好まれて嬉しくても、女の矜持があって素直にはなれないのだ。

「それじゃあ今度は横になってください、仰向けに」

「え、仰向けに……仰向けになるの……?……いいけど……」

 求められるままに気怠げに身を返して少年と向き合う。当惑の視線をチラリと送って、彼が股間のものを高々と屹立させているのに気がつくとギョッとしてすぐに目を逸らしてしまった。

「ホラ寝て、先生――」

 促されて、ころん、と身を倒して今度は体を長らえる。すばらしいプロポーションの裸身は横たえても少しも変らなかった。

 豊満でありながらも張りのある乳房はだらしなく流れてしまうことなく、山の頂きに(おお)きめの乳暈をしっかりとのせている。股間を飾る飴色のヘアは、すでにしとどに蜜を含んで毛羽だっていて、くさむらの中に愛らしい秘密のスリットが覗いていた。

 男の視線が全身のそこかしこに注がれているのを感じて操祈は少しばかり緊張していたが、やがて女の体にどこにも欠点がないのを見届けたように、少年は顔を綻ばせるのだった。

「膝を抱えて」

 再び命じられる。

 レイが自分に何をさせたいのかは分かっていた。その体位も女にとってはひどく屈辱的なものだが未経験ではなかったからだ。

 デートの際に、少年が好んで持ちかけてくるものの一つ。

 女神――と、持ち上げる一方で、その舌の根も乾かぬうちに、動物のように四つん這いにされたり、おしめを替えられる赤子のように無防備な姿にされている。

「先生がイク時のいちばん可愛い顔を見ていたいから……」

「………」

 おずおずとした物憂げなしぐさで、少年の要求に応じて膝を抱えて身を丸くした。長い(もも)の裏をすっかり上向けて、女の隠しどころを全て(さら)けてしまう大胆な格好に。

 今度はレイもベッドに上がってくると、操祈のお尻の下に膝を()じ入れてきて、更に腰が高々と持ち上げられてしまう。体にしっかり腕を廻されて抱きとられ、身動きさえもままならなくなっていた。

 ここへ来てわずかの間に教師と生徒の間柄から、(いまし)めるものと虐げられるものの関係に堕とされていて、操祈は目を閉じて顔を横に背けた。

 細い(くび)に哀しみの筋を浮かせて思いをうったえる。それが女に許された僅かな、そして最後の抗い方だった。

 けれども――。

「先生、目を開けて……」

 少年の手が胸をあやして彼女に起きるようにと促している。

「ボクがすることを見ていて……」

 この小さな暴君は、もう無言の抗議も、黙認も、哀しい諦めさえも許すつもりはないらしく、操祈にも当事者であることを求めているようなのだ。

「きっと、その方がキモチがいいはずだから――」

 薄く瞼を開いた視界に、黒瞳を妖しく輝かせて見つめている少年の顔が映った。目と目が合うと少年は真顔になって視線をさらに強くして絡みつかせてくる。

「ボクをちゃんと見て――」

 操祈も必死のせつない思いをのせて少年と相対していた。

 恋をして知った男と女の立場の違い。

 たとえ相手が年下であっても、教え子であったとしても、裸になった後、愛されるものは愛するものには敵わない。

「……こんなにも美しい女の人がこの世に居るなんて……今だって信じられないくらいなのに……」

「………」

「……ショックだったんですよ、“キミ”を初めて見た時は……ボクは自分の目を疑って……」

 自分への呼びかけがいきなり、キミ――という親称になって、それがどこにも子供っぽさを感じさせずに響いて胸を突いた。なんだか大人の男性に囁かれたようなのだった。

 実際、ベッドの上のレイは、することも少しも子供らしくはなかったのだが。

「……だから何度も確かめて、本当に生きている女の人だと判った時にはものすごく嬉しかった……」

 そう言いながら目の前で彼の指がやさしく、けれども意思をのせてやわらかな肉を左右に展いていた。

 健気にしっかりと結んでいた口を割られて、ひんやりとした外気に晒されて、それが奥の方にまで届くと心がいっそう頼りなくなってくる。

 けれども、こんなにも惨いことをされても、操祈は声をあげることもできずに、ただ固唾をのむばかりになっているしかなかったのだ。

「……なんて綺麗なんだろうな……先生は、コンテストになんか出なくたって世界でいちばんだってことをボクはよく知ってますから……」

 少年は操祈の顔と見較べるように視線を前後させて言う。

 そして彼女が目を閉じていないのを確かめると、今度はそこをしっかり覗き込むようにした。けれども(うね)をなぞられて、甘い感覚と羞恥からたまらず目を閉じようとすると、少年は視線を向けてきて許さない。

 操祈は潤んだ瞳で少年が顔を寄せるのを見ているしかなかったのだった。恐れと不安と恨み、そして期待とがないまぜになった眼差しで。

「……いいにおい……心のやさしい、とっても美しい女神さまのにおいがする……ボク、キミのどっちのにおいも大好きです……」

 どっちも、というのが何のことを指すのか判っていた。きっと、つい今しがたまで彼の舌がしつこく貼り付いていたところのこと。そう思うともう心がくじけてしまいそう。

 それを意図してのことか少年は長く舌を伸ばして見せつけていた。

「ボクは人間です……人間の男……」

「………」

「……だから、先生にはするんです……どんなことでも……」

 だからするってなによ……わたしだってただの人間よ、人間の女……なのに――。

 操祈はそう胸の裡で叫んで、レイにもこれまでも何度も伝えていたのだが、彼に翻意のつもりがないことは判っていた。いつも行為でそのことを教えられている。

 祈り――。

 なんて都合のいい言葉なのかしら、と思う。

 けれども、女の自尊心をくすぐられている面も確かにあるのだ。

 けっして自分を傷つけたりしないという彼のやさしさと、思いやりと、その決意の表れでもあると。

 どんなにひどいことをされても、イジワルをされても、それでも少年が彼女へ向けてくるロイヤリティー、ギャラントリーには偽りはなかった。

 我が身に置き換えると、少年が訴える、愛するが故に、というのはきっとそうなのだろうと胸に落ちる。

 自分だってこんな姿を見せられるのは彼を信じて、愛しているからに他ならなかった。他の誰にもできないことをレイにだけはしてしまっている。

 膨らんだ思いを伝えようとして、言葉にならない気持ちを行為に換えるとき、ちょっぴり極端に(はし)ってしまったとして、それのいったいどこがいけないの?

 もしかすると少しも悪いことではないのかな?

 むしろ、許されるべきことだったり……。

 愛って、どんなことよりも正しい、魔法の言葉?

 愛し愛されて、愛されて愛する――。

 男と女……。

 恋をするって不思議……。

 だってわたしは、この人を愛しているんだから……誰よりも……。

 自分よりも大切な人――。

 それなら恐れることなんて、もうなんにもないはずじゃない?

 操祈は大きな目をぱっちりと開いて恋人の顔を見つめた。

「……レイくん……好きよ、大好き……」

 ついには自分の方から言葉にして愛撫をねだっていた。

 可愛がって――と、言わなくてもすぐに思いは伝わって、少年は幸せな頬笑みを向けると長く舌を伸ばしてみせる。

 それはけして嘲弄するのではなく、彼も一途な愛を形にしようとしていたのだ。

 操祈が息をのんで必死の思いで見守る中、今度は迷わずに妖精の(おとがい)の下に舌先を差し入れてきて、そのどこまでも甘い衝撃の中、たちまち彼女の視界はピンク一色に染まっていくのだった。

 




実家編は、3回のつもりでしたが、あともう一話続きます


誤字等、一部修正しました
申し訳ありません


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永遠(とわ)の夕暮れ、乙女の身果つるまで……

 

「……ああっ……レイくぅんっ、おっ、おねがいよっ……もう……もう、いじわるしないでっ……いまやめられたら……あたしっ、ホントに変になっちゃうからぁっ……」

 教室で生徒たちを相手に数理を説く怜悧な教師の時とはまるで違う、オクターブを上げた高い声になって啼いてうったえた。

 逸楽に屈してすっかり従順になった操祈は、ミルクのような真っ白い肌を薄桜色に上気させ、健気に乳先を尖らせた豊満な肉体のつくるやさしい曲線にはさらに蜜の甘さがのって、黄金色の長い乱れ髪に鼻筋の通った高貴な顔立ちとのコントラストは、さながら性のいとなみを決意をした誇り高き処女神のようなのだった。

 牡を奮い立たせずにはおかない魅力に溢れている。

 彼女は今、その美貌にふさわしい運命の(しとね)にあって、若いけれども少し意地の悪いところもある恋人を相手に凄艶な悲劇のヒロインを演じさせられている。

「頑張ってください、先生……もう少しだけ……」

「あっ……やだっ――」

 彼が指を交えてきて、たまらず身を揉んでたぷたぷと豊満な胸の肉を波打たせて喘いだ。

 イジワルな、とてもイケナイな指が彼女を(さいな)んでいる。

「ね? いい気持ちでしょ……でも……ほうら、こうするともっと気持ちがいい……」

「ああ、レイくんっ……それっ……いいっ……いっちゃうっ……」

 裏側から指で支えて押し出したものを、信じられないくらいのやさしさで吸われて、操祈は身を仰け反らせた。白い喉元をわななかせて歓びを迎え入れる姿になる。

 だが、彼女の願いはけして叶わない。

「ほらほら、ボクのすることを見ていないとダメですよ」

「……え? うん……ああ……だから、やめないで……」

 手を伸ばして少年の顔を留めようとするが、肝心の動きが求めているものとは少しだけ違うのだ。

 ポイントを僅かに外して悩ましい。

 はぐらかして、焦らして、もったいつけて……。

 けれども諦めた操祈が身を投げてぐったりすると、また近づいてきては要所を捉えて慰め始める。

 一つならずも、二ヶ所も三ヶ所も同時に連動させる女殺しの秘奥義。

 彼女の泣き所を心得た者ならではの心憎い仕打ちが繰り返されるのだった。

 どこまでもやさしいのに、どこまでも無慈悲な。

 こんなことを幾度となく繰り返されていると、本当に体も心もどうにかなってしまいそう。

 実際、操祈の体にはもうどこにも固く締まったところはなくなっている。充実した肉をいっそう柔らかにして、その一部は()っくの以前からすでにしどけなく融け出しているのだ。

 彼女の女性特有の組織、愛を知るために誂えられた奇跡の器官は、まるで一杯にまで温かい蜜を含んだスポンジのように情熱を満々と湛えて、ぐっしょりとなっていて、身も心も蕩けてしまうようなすばらしい刺戟に応えてしなやかな若い筋肉がキュっ痙攣するたびに歓びのひとしずくを放っている。

 そして欲深になった彼女がさらなる高み、それも二度と戻れないのではないかと思えるほどの歓喜の極みを目指して舞い上がろうとすると、少年はその瞬間を見越していたように直前で停まってしまってそれを許さない。

 呑気な愛撫に戻って、操祈を現実へとまた連れ戻そうとする。

 本当に、あともう少し……だったのに……。

 それなのに……。

 その上、狡智に長けた恋人がさらに残酷なのは、そんな操祈をけして()ませたりはしないことなのだった。

 体を問い詰める代わりになると、今度はいっそうやさしさを思い知らせてくるようになるのだ。だから、心までもがもう壊れてしまいそう。

 官能の荒波に翻弄されてすっかり心細くなった女の体の、その最も敏感な肌に、彼女のことをどんなに大切に思っているか、愛しているかを切々とした行為でうったえられては女心が蹂躙されるも同じだった。

 カラダにも心にもけして消えない記憶となって深く刻まれる、うら若き無垢な美女を恋の奴隷へと変える愛という名の呪い。

 目には見えないが、既に全身の隅々にまで(まじ)の烙印が押されてしまっていて、操祈は自ら鎖に繋がれることを切望するようになっているのだった。

 諦めの瞼を開くと、潤んだ瞳に最愛の恋人の顔が見えた。鼻下に濡れた飴色の髭をたくわえて、愛情に溢れた視線が恋に酔った女の胸をさらに甘く切なくさせる。

 彼がそこでいま何をしているのかが判るというのがいっそう悩ましいのだ。視界からの刺戟がデリケートな隈の部分をさらに鋭敏にさせて歓びを膨らませていく。

 他人にはけして見せられない見苦しい姿を彼にだけは晒して、そこから紡がれる果てのない甘い経験。

 恥ずかしさと心地よさと嬉しさと、そして口惜しさとが依り合わさって、操祈は畏れと幸せとを全身で感じていた。二人だけの特別に濃密な時間が互いの思いを刻々しっかりと結びつけていた。

 刹那が永遠ともなる中で愛のありかを必死に求めあう、男と女の命をかけたいとなみ、それは一点のくもりもなく純粋で、そして一途なものなのだった。

 形のないものが肌と肌、肉と肉を接することで確かな像を結んでいく。

 これが……わたしの気持ち……。

 羞恥と歓びが愛情に結晶して、大きな感動が胸の中で輝いて、背中には汚れのない純白の翼がいっぱいに羽を伸ばしていた。舞い上がった心は地上をはるかに超えて、遠く銀河の彼方にまで届くような全能感、開放感をもたらしている。

 この子のためなら……どんなことだって……。

 愛してるの……あなたのことを……。

 大好きよ……。

 年上の可愛い恋人の意識が肉体の(くびき)から解き放たれるのを待ちかねていたように、少年はようやく彼女の体にもその後を追わせるようにと促すことにしたらしい。それは密やかな肉ばかりか女の全身の細胞を振動させて心の感動と響き合い、さらに大きなうねりとなって鳴動させていく。

 やがて――。

 永遠に続くかと思えるほどの至福の瞬間を迎えて、眩いばかりの光の玉となった操祈は、時を超えて、空間を超えて、無限の一点を目指して拡がっていくのだった。

 

 

 

 目が醒めた時にはいつものように恋人の胸の中に居た。そこが彼女の拠り所、どこよりも安らげる居場所なのだ。

 愛情を注がれて、体に中心に命を吹き込まれて、目眩(めくるめ)く恋の試練を乗り越えて女であることの歓びに満たされていた。

 髪を撫で、背中をさする手のやさしさ、温もりにキュンとなる。ぐっと愛着を込めて抱きすくめられると嬉しくてまた意識が遠のきそうになるのだった。

 彼のベッドで、レイにとってのホーム、ということもあったのかいつも以上に手をかけられて愛されたのだと感じている。それが心と体に沁みていた。

 すばらしい経験だった。

 行為の最中、薄く開いた瞼に、目に映る世界の全てが輝きを放っているように感じていたのを思い出す。

 けれど、最初の歓喜を迎え入れてからの後のことは、本当のところはもうよくわからなかったのだ。

 現実なのか夢なのか、記憶なのかそれともその時の心が勝手に描き出した幻想なのかも曖昧になっている。

 辿れたのはただ自分が抱いた鮮やかな感情の記憶――。

 きっと幾度も声をあげて歓びを訴えていたのだろう、彼が愛おしくてならなかった。

 そしてひとりに取り残されると胸がつぶれそうなほど切なくなったのだった。

 だから自分からも求めてしまったのかもしれない。すっかりしどけなくなって、どんなに恥ずかしくてはしたないことでも進んで挑もうとしていたのだろう。

 彼をそこに閉じ込めようとして――。

 そんな自分に対しても少年はけっして手を抜いたりおざなりにするようなことはなく、いつでも快く大切に可愛がってくれたのだ。

 細やかな気遣いを感じる手の運び、肌の上を這う唇と、凹みを切り分ける舌の貪欲な動きとともに、愛された――という確かな感覚だけははっきり残っている。

 それだけで女にとっては十分すぎるほどのことなのだった。

「お目覚めですか……?」

「……うん……」

 操祈は男の胸に頬を擦りつけて甘えた。いつものように響く彼の鼓動に耳を傾けている。

 トクン、トクン、トクン……。

 最も尊い命の時を刻む音、彼が血の通った人の子であることの証。

 薄く目を開いて顔を上げると男の顔と目が合った。彼も満たされて幸せそうでいる容子に胸が熱くなる。お腹にあたる猛々しい強張りを感じているのに、それなのにこんなにもやさしい顔をして自分を見つめてくれる恋人。

 本当なら、この子の情熱も満たしてあげたいのに……。

 自分にできることならどんなことでも厭わずにやりたいと思う。それなのに、彼は未だに自身の肉体の欲求充足については関心が薄くてストイックなのだ。

 でも……そういえば、今日は……そうだわ……。

 陶酔の余韻が醒めていく間に、起きた出来事のひとつがぼんやりと脳裏に蘇えり、次第に形をなしていった。

 ……一度だけ、あったわね……そういうことが……うふっ……。

 その日、彼ははじめて男にしかできないことを彼女の体に求めようとしてくれたのだった。

 肉と肉を接して、ひとつに繋がろうとしていた。

 

 

「……あったかいなぁ、キミのからだ……やさしくて、柔らかくて……とてもステキ……」

 上になって組み敷かれて、彼女の体の中にこわばりを充ててきて――。

 初めてのことだったので余計にびっくりだった。

 一瞬ではあったが、レイの本気を、男の強さとたくましさを思い知らされていた。

 でも障りとなるところまで来ると、もう彼はそれ以上は求めようとはしてくれなかったのだ。

 自分はその先を望んでいたのに……。

 身も心も何もかも全てを捧げて彼のものにされてしまいたい、そのためならどうなってもかまわない。

 そう思っていた。だからそれを言葉にして訴えた。

 けれども――。

「……先生は良くても、ボクが困ります……大切な先生に痛みを与えてしまうようなことは、今のボクにはできません……だから今日はここまでにします……とても名残惜しいですけど……」

 そういうと少年は再び体位をずらしていって、また心やさしい愛撫に戻ってしまったのだった。

「……先生の痛みに見合うくらい、ボクはもっともっと、先生にはいっぱい歓びと幸せを感じて欲しいから……」

 その言葉にはほんの僅かでも嘘や誇張がないことを、彼の行為が彼女の体に教えてくれていた。

 

 

 ステキだった……。

 ……すごぉくエッチで、いじわるで……でも、とっても心のやさしい男の子……。

 大好き――。

 欲しいもの、ご褒美をたっぷり与えられて、幸福感と満足感にぬくぬくとする。

 そうかと思うと、また自身が演じてしまったおぞましい瞬間が蘇ってきて羞恥に身を竦める。

 深く愛された後の乙女は、体だけでなく心もまたむき出しにされた予後のショックを引きずって、とかく反応が大きく振れがちになるのだ。

 それを知っているのだろう、レイは事後にこそ操祈を独りにしないようにと気配りを欠かさない。

 しっかり寄り添って、心と体の負担を分かち合おうとしてくれる。

 余韻の熱気が体の中から次第に引いていき、自分の汗の臭いと、他ならぬ自身の分泌物のニオイに気がつくと、操祈はせつないため息をひとつついた。

 真冬のベッドで、全身汗まみれになってしどけなく乱れてしまった。

 また彼はそんな情けない姿をいつものように冷静に、残酷に、細大漏らさずすっかり見とどけていたのに違いない。

 あんなに緻密な絵を描くことができるのだから、また何もかも記憶に留められてしまったのだろう。

 淫らな、恥ずかしいことばっかりしているところを……。

 ワルいこと、いっぱいしちゃったから……。

 くやしいな……かなわないな……レイくんには……。

 恥ずかしくてたまらないのに、嬉しくて自然に目頭が熱くなってくる。

「愛してるわ……レイくん……」

 言葉にできることには限りがあって、だから体で思いを伝えたばかりだったのに、それでも口にせずにはいられない。

「ボクもです……大好きです、先生のことが……でも、先生に恋をするのは容易(たやす)いことだから……キミのようにかわいい女のコなら誰だって大好きになる……」

 まるで秤の傾きが一方に寄っていると言わんばかりの物言いには、いつもながら当惑させられていた。

「それなのにいつでもキミはボクにいっぱいの愛を贈ってくれます……ボクはほんの少ししかお返しができないのに……」

 ほんの少しですって? いっぱい愛されたのはあたしの方なのに――?

「……かわいい男の子に、セックスの手ほどきをするのは、本当は大人の女の役目のはずなのに……生徒から教えてもらうばっかりだなんて、ダメな先生ね……」

「そうでしょうか……ボクは嬉しいな……だって先生の全てをボクだけのものにできるんだから……」

「………」

「こんなに綺麗な女のひとの……今日はキミのいちばん可愛い顔をたくさん見せてもらえたから、すごく嬉しかった……」

 彼の両手が操祈の広い額にかかる乱れ髪を丁寧に整えて顔を面にすると、頬を挟むようにしてじっと見つめてくる。

「きっとキミは造化の神さまが、美しい魂に相応しい依り代として、最愛の一人娘に与えた人の姿の模範解答……」

 人の模範――!? このあたしがっ!? もう、何を言ってるのよ、この子は……。

 こんなどこにでもいるような、オバさんになりかけた女をつかまえて……。

「……そんなことを言われたら、わたし、これからどうしたらいいか……困るわ……」

 少年は自分をまるで女神であるかのように崇めている。

 あまりハードルを上げられてしまうと、かえって気詰まりを感じてしまうが、でも、自分の真の姿を知りつくしているのに、それでも今も憧れの気持ちを抱き続けてもらえることはやはり嬉しくて、女の矜持が満たされてもいる。

「そしてボクは、そんな可愛い女神を自陣へ引きずり込むために、地の底から地上に遣わされた女神殺しのサキュバスの弟……」

 少年はいつものように思わせぶりな笑顔を向けていた。

「醜い小鬼の淫魔で、たしかインキュバスって言ったかな――」

 インキュバスというのは、真夜中に淑女の寝所に忍び込んで夢の中で交わるという伝説の魔物のことであるのを操祈も知っていた。

「まぁ、なんて可愛らしいインキュバスさんなのかしら……でも、そうかもしれないわね、レイくん、ワルいこといっぱいするんだもん……」

「それはキミを永遠に地上の監獄につなぐために、キミが自分の意思でボクとセックスをしたくなるように呪いをかけているから……」

「それならあなたの勝ちよ……この体はもうあなたのことしか見えなくなってしまっているわ……ひどいわよね、どうしてくれるのよぉ……」

 自分の言葉にも甘えの蜜がのっているのを感じながら、操祈は男の肌に身をすり寄せている。

「いいえ、勝ったのは先生です……呪いをかけるつもりで、先生の心と体の美しさにうたれて虜にされてしまったのはボクの方だから……所詮、下級の魔族だから女神の御威光には太刀打できる筈もなく……」

「本当に物は言いよう、口は重宝なものねっ」

「たしかに口は達者なつもりですけど……だって先生はご存知ですよね、ボクのお口の働きを」

「こらぁっ、もう、すぐにそういうことを言うんだもんっ……憎らしいっ」

「だってキミのはとっても美味しくて、お口がとろけてしまいそうなくらいだから……それに、とってもいいにおいがするし……いつだって顔を埋めていたいなって思いますよ……」

 直截なものいいは女をたじろがせずにはおかないもの。これまでなら強い羞恥にたちまち真っ赤になって彼の胸の中に逃れていたところだった。けれどもその時の操祈は、

「バカ……もう、バカなんだからぁ……」

 頬をバラ色に染めながらも恋人の熱い視線に堪えていた。

 彼の手に(おとがい)をとらえられていたこともあったが、少年の視線をまっすぐ受け止めて見つめ返している。

「……でも……あなたになら……いいの……」

 自分の秘密を、女の醜い姿まで知り尽くしている相手に、もう虚栄も、(てら)いや外連(けれん)も意味がなくて必要もないのだった。

 全てを許して受け容れてくれたのだから、何も怖いことなどないと言い聞かせる。

 だから自分も彼の全てを受け止めるつもりでいた。

「……それなら好きなだけあげるわ……みんなあなたのものなんだから……どうせイヤだって言っても、あたしのことなんて聞いてはくれないしぃ……」

「ボクは先生を傷つけることは……ぜったいにしたくないです……」

「知ってるわよ、そんなこと……」

「じゃあ、続きをしませんか……」

「続きって……」

 操祈はさすがに驚きに目をまるくする。

 たった今まで愛し合っていたばかりなのに、少年はまた唇を窄めて舌舐めずりをしているのだ。

 まるでお気に入りのスイーツを前にしている子供のような顔をして。

「見すぼらしい魂が捧げる女神への祈り……誓いのキスを……したいな……」

「誓いのキス……」

 言葉は美しくても、中身はとても口にはできない淫らなことだった。

「だってレイくん……」

 やっと解き放たれて、安らぎの時を迎えたばかりだというのに、少年はまだ操祈を抱き足りないということらしい。

「ボク、のど乾いちゃった……」

 少年は(わざ)とらしくのど仏をゴクリと上下させて、それは彼女を愕然とさせる要求なのだった。

 彼がそういうとき、何を求められているのかをもう知っていた。

 初めてのことではなかったからだ。

 イケナイこと、ワルイこと……恥ずかしいこと……そして……。

「……変なこと……いわないで……」

 さすがに気持ちが退いてしまう。 

「だって先生のカラダがつくってくれるものは、ボクにとってはみんな甘いご褒美だから……」

「……変態よ……レイくんは……」

「そう言っていただけるのは光栄です――」

 少年は悪びれたようすなど微塵も見せずに言った。

「……イヤ……あれはイヤよ……ホントにダメ……」

「そんなこと言わないで……」

「え? ちょっと、なによぉっ」

「なんでもないですよ」

「やだっ、ねぇレイくんっ……イヤって言ってるのにぃ……きゃっ――」

 ボディタッチから始まった軽いじゃれあいから、(たしな)めようとした一瞬の隙を突かれて、少年の手がいち早く股間に伸びてきたのだった。守りの弱い背後から攻めかかられてはひとたまりもなかった。

 あっ、と思った時には両脚を担がれて、また彼の両手を二つのお尻の下に感じている。

「ああ……もう、言うこときいてくれないのね……」

 いつもの無防備な体勢に、ベッドの上でのおきまりのポジションになっていた。そこからさらにいくつもの大胆な体位へと展開する前のとば口ともいえる、長く愛し合うと決めた時のものに。

「可愛い毛並みの愛の妖精さん……」

 身動きを封じられて下生えを指先でくすぐられながら、

「先生のにおいが欲しいから……心やさしい女神さまのにおいが……ボク、無理強いはしませんから……だから、怖がらないでください……」

 妥協点を探るつもりなのか、少年は少し要求のハードルを下げていることを臭わせていて、この姿になって求められては操祈は折れて受け容れるしかなかったのだった。

 それに一時の休息を得てまどろんでいた体は、わずかのきっかけですぐに本気になってしまい、彼の眼前にぷりっと爆ぜた姿を晒すようになっていたのだ。

 うらめしいことに女の体は言葉ほど都合良く本音を隠してはくれないのだった。

「すごいな、先生は……とってもきれい……」

 股間に感嘆の声がして、すぐに唇が落ちてきて瞼を閉じた。目を瞑っても今度は咎められることはなく、賛美をうったえていた彼の口が、また思いをじかに囁きかけ始めた。

 この子はどうしてこんなにも人にやさしくできるんだろうと感動せずにはいられない、やわらかなタッチの愛情深い口づけ。操祈の形を確かめようとして、丹念に隈なく行きつ戻りつをしている。

 まだ我を失うような強い刺戟にはなってはいない、それでも再び彼女を楽園へと誘う逸楽の途が目の前には示されていた。

「かわいいっ……先生が、かわいくて……ボク……」

「レイくぅん……」

 なにかとても大切なことを忘れているような気がしたが、少年の祈りのキスに熱がこもると、それもどうでもよくなってしまうのだった。

 まるで巨きな白い花が開花のときを迎えたように、操祈は長い脚をゆっくりと大胆に開いて、二人にしか許されない神秘の儀式のもたらす歓びに美しい体を委ねていくのだった。

 




ちょっと誤字、脱字他がひどいので
後ほど修正します

申し訳ありませんでした


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操と祈りと初恋と

 

「……レイくん、それ、きたないですから……」

 申し訳ないことをしている負い目から、言葉遣いまでもが教え子に対するものではなくなっていた。

「……そんなことありませんよ、女神の美しい体に汚ないところなんて……それに、そもそも無菌のものだし……先生には不要でもボクにはとても尊くて貴重なものだから……だからどうか再利用をさせてください」

「………」

 ここに来るときには、レイくんのご両親とお会いするつもりで……不安と緊張で、胸をドキドキさせていたのに……。

 けれども――。

 待っていたのは彼ひとりなのだった。

 恋人たちが二人だけになれば家庭訪問はたちまちあぶない密会になってしまう。

 操祈にそのつもりがあろうとなかろうと彼の部屋に連れてこられた後は、ひたすら彼女の体をもてなすためのフルコースになって、さらには彼が欲しがるもの、欲しいというものをみんな与えることになってしまっていた。

 たっぷりと愛された後に、あられもなく乱れた姿をしっかり見届けられたあげくに持ちかけられれば、もはやお上品ぶった言い訳など通用するはずもなかった。

 おとなしそうに見えても、レイはことセックスに関してはとても貪欲で、けして無理強いはしないけれど妥協もしてはくれないのだ。いつでも詰将棋のように彼女を追い込んでは最後には自分の思いを遂げていく。

 結局、操祈は言われるままにベッドのヘッドボードのスチールパイプに掴まって体を支え、大胆に大きく膝を割って少年の顔の上にしゃがむと、促されるままに緊張を(ほど)いていったのだった。

 それはとても罪深いこと、不埒きわまる人の道にも外れた背徳の所業――。

 なのにどこか開放感、安堵感のようなものもあって、もう仕方のないことだから、と諦めて許してしまっていた。

 それが初めてではなかったのも、こうした心境の変化の支えになっていたのかもしれない。

 ただ、最初の時は逃れられない形でそうなってしまったのに対して、今日は自ら具合が良くなるように腰を微妙に動かして当たる位置を探るようにもしている。

 大人の女が未成年男子に対してそれをするのは、間違いなく性的虐待になるのに違いない。この一事をもってしても操祈は重大な法令違反を犯していると言える。

 実際には彼が強く望み、彼女は拒み通せずに応じてしまっただけで、求められたから仕方なく与えてしまった、あるいは女の感覚としては、奪われた、に近いものだったとしても――事実、決して逃すまいというように彼の両手が彼女のお尻をしっかりと抱き寄せていて、事が済んでもなお名残惜しげに舌先でなぞって、最後のひとしずくまでしつこいくらいに丁寧に(すす)っていた――それは操祈の演じたおぞましい逸脱行為の理由にも言い訳にもなりはしなかったのだ。

 そんな成熟したカップルでも躊躇うような爛れた肉体関係は、絶対に他人には知られてはいけない秘密だったのだが、にもかかわらず二人が熱愛関係にあることは既に少し前から栃織紅音と舘野唯香の知るところとなっていて、そればかりか唯香によれば、一年生の能力者の女子の中にも二人の関係に気がついているものがボツボツ出始めて居るらしい。

 噂は今も密かに拡散していて、まだ顕在化していないものの公然の秘密になる一歩前の状態に置かれているのだともいう。

 去年の新入生たちの中には、一定レベルに達した透視や予知の能力者がいることを操祈も知ってはいたが、よもや自分にその力が向けられていようとは思いもしなかったのだった。なによりショックだったのは他者の特殊能力の気配に気づかずにいたこと。

 仮にも元レベル5の心理系能力者でひと一倍、敏感であることを自負していたつもりが、身に迫るリスクに無頓着でいられたことの方に驚きを禁じえない。

 身を守る術を心得ていた筈なのに、そのつもりでいたのに、それがまったくのザル状態だったなんて!

 今更ながらに力をそっくり失った凡婦でいることを再確認することとなっていた。

 だからくれぐれも用心しなければいけないと、唯香からは軽率な行動は慎むようにとの注進をされていたのだった。

 けれども、それを受けた結果が今だった。

 彼のベッドで時を忘れて痴態を晒して、これまでにないほど淫らに奔放に振る舞ってしまっている。いつもは慎ましく閉じ合わされているものをいっぱいに(ひら)いて、愛する男に女の秘密をどこまでも(つまび)らかにされて一心に愛玩されていた。

 しかもまだその最中、終わったわけではなかったのだ。

「……?……」

 しどけないお務めを終えた彼女がようやく立ち上がりかけたところを、レイの両手が腰を捉えて引き止めようとしていて、操祈は切ない視線を股間に落として少年の容子を窺うのだった。

 思いを遂げて満たされた顔がやさしげに、幸せそうに微笑んでいる。黒い瞳を憧れに輝かせていて、醜態を演じて気おくれを感じている操祈の胸の扉を宥めるようにトントンと軽くノックしている。

「ありがとうございます先生、すっごくステキでしたよ……とても光栄です……嬉しいな、先生がボクにこんなことまでしてくれるようになるなんて……」

 ひどいことをしていたばかりなのに、そんな罪の影など微塵もうかがわせない屈託のない表情をして言うのだ。

「でも、せっかくですからもう少しだけ楽しみませんか?」

「……!?……」

 感じやすい腰のくびれを撫でる手の動きは愛着といたわりを感じるもの。それが彼女をまた誘惑していた。

「おイヤですか?」

 訊かれた操祈には、切なげに首を横に振ることしかできなかった。同意しているとも拒否しているともとれる曖昧なしぐさで。だが少年はそれを都合よく解釈したようである。

「じゃあ、この体位でも“お祈り”の続きをしましょうか」

 宣告するなり、その姿勢のままでもう何度目になるかもわからないことがまた始まってしまったのだ。

 今度の少年は喉を潤すのではなく、彼女を愛するときの口づけになっていて、それはまさに彼にしかできない愛撫なのだった。

 操祈のことを強く思っているが故の行為、だから、どこまでもやさしくて、そして残酷。

「……ん……あはぁっ……レイくん、そこっ……はあっ……」

 豊満な乳房のいただきを飾る可憐な尖りは、片時も安らぐことを許されずに男の指が(なぶ)るのを健気に受け止めている。

 みごとな広がりを見せている淡い(かさ)の外縁から、指の腹でまあるく螺旋を描くようになぞられながら丁寧に念を込められたり、目覚めた先っぽだけをクスクスと爪弾かれたり、あるいは指と指の間に挟まれて慈しむようにあやされたり、手のひらで大きく包まれて感じ易い部分全体を広く擦られたり……。

 揉んだりつねったり潰したりするのとは違ってとても柔らかい刺激なのに、どれもうっとりするほど気持ちが良いのだった。

 けれども、そんなすばらしい心地よさですら他愛もないものに思えてしまうほど、彼女のデリケートな場所にはさらに愛情たっぷりの深刻なお仕置きが加えられている。

「……ああっ、いけないっ……」

「大丈夫です、先生のことはボクが必ず守りますから……だから、心配しないで……今はリラックスして……」

 案じているのはそのことではなくて、また当然のように彼女のぬかるみを犯そうとしている二つの指の方。だがひとたび少年の唇に包まれてしまうと、そんな行き違いもたちまちどうでもよくなってしまう。

「……イヤぁっ……それ、だめぇっ……ねぇ……」

 抗いの言葉も幼い女の子が駄々をこねるように儚いものになっていた。操祈が恋人にせいいっぱい甘えている時の声音に。

「いい子だね、先生はカワイイな」

 反対に男の声には、思い通りに女体を支配する者の自信と余裕とがうかがえる。

 繰り返されてきた愛撫に既にすっかりほぐれていた体は、無防備な姿勢もあって守りも手薄で容易に受け容れてしまうのだった。前と後ろを深く侵されて、何かに堪えるように操祈の背中がピンとしなって優美な弓型を描いていった。長い髪が腰にまで届く豪華な金色の滝となって乱れ落ちている。

「レイくんっ――」

 啼いても愛撫に熱中を始めた男はもう応えない。代わりに行為で彼女に屈服を促している。どんなに優しくてもけして容赦のない愛の試練、逝くも留まるも男の口先ひとつで運命を操られていて、もう彼女の自由になるものなど何ひとつないのだった。

「いっ、いっちゃう……」

 きっと本能からなのだろうしなやかな両腕を懸命に伸ばして愛しい顔を閉じ込めようとしていた。それは少年が描いたスケッチブックにあったのと同じ、この上なく淫らで美しいポーズなのだった。

 優美な腰のラインを艶かしく蠢かせて、いまにも泣き出しそうな悩ましげな表情になって、彼女の方からいじわるな舌の動きを追いかけている。

 やわらかな肉をまとった白い内腿に時にピンと張り詰めた筋がたち、女体の尋常ならざる緊張と興奮とを伝えているのだ。熱気をまとって上気した肌は全身が薄桃色を帯びて、薄い皮膜が浮いているのか宝石をちりばめたように汗が玉をなしていた。

 それが未だ美少女の面影を留めた清潔感のある顔立ちとみごとなコントラストをなして、操祈をさらに凄艶に見せているのだ。

 女が本気になって歓びを求めるときの、褥を共にできる男だけが知っているいちばん美しい姿に。

「……愛してるわっ……大好きっ……レイくんっ……」

 快感の尾根を駆け上りながら、譫言(うわごと)のように胸にあふれる思い口にしている。

 誰よりも愛する男から心を込められて可愛がられるからこそ、素晴らしく甘美で幸せな経験になるというのを彼女はもう良く知っているのだ。

 この数ヶ月、レイと男女の関係を持つようになってからは恥ずかしいこと、淫らなことがそのまま歓喜へと繋がっていることを教えられて、心やさしい彼に励まされてひとつひとつ乗り越えながら学んできた。

 ベッドで見せる少年の忠誠と愛情深さは女を虜にせずにはおかないもの。

 愛してる――。

 どれほど繰り返しても足りない言葉。

 だから、気持ちを確かめるために体で伝え合っている、それなのに……。

 恋の甘さと男のやさしさを教えてくれた人が、たまたま教え子の一人だったというだけで、その人を愛することがどうしていけないことなのだろう……。

 中心から拡がる痺れるような快感に堪えながら、操祈の思いはまたひとり漂流しはじめた。

 教室にいるときには誓ってレイを特別扱いしたりしたことはなかったはずだった。

 教師としての倫理感を(あざむ)いたことなど一度もない。そんなことをしなくても彼は常に真摯にとりくんでいて、ベッドでの生真面目で緻密な振る舞いをするのと同様に、教室においても常にベストスコアで応えてくれていたからだ。

 彼と体の関係を持つのは罪なことなの?

 それはレイがまだ十五歳の男の子だから?

 たしかにそうなのかもしれない。年齢差を考えればきっとアンバランスなのだろう。

 けれども互いに初めての異性として巡り逢い、一緒に時を重ねてきたのだ。

 男を知らなかった操祈が少年と出逢って恋を知り、心と心、体と体の絆を結んで、堅い信頼と愛情を育んできた。

 深く愛し合っているから求め合う、セックスはかけがえのない相手となされる尊いいとなみ――。

 特別な人とだけかわされる、とりわけ大切なことだから二人だけの秘め事として隠され護られている。

 恋とは互いのプライバシーを共にすること、秘密を分かち合うことでもあるのだった。

 他人には見せない、見せられない姿を恋人にだけは見せ合って、許し合うこと。

 大切なのは二人の気持ちだけなのに……。

 他の誰かが、ましてやルールによって愛し合う者たちの心に制限を設けようとするなんて、その方が理不尽だと思う。

 今の自分たちがしているようなことだって半年前の操祈にはありえないこと、考えられないことだったのだ。それが互いを許しあう中で最も熱心に取り組まれるようになって、心と体の紐帯を深めるための真剣な愛の行為へと変わっていったのだった。

 信じ合っているからこそできること、密やかな経験を共にすることでさらに相手を大切に思えるようになっていく。

 この気持ちは、体の関係を結ぶようになって、デートを重ねるたびに濃厚なセックスをするようになる以前の「好き――」とは違って、ずっと大きく深く根を張ったものになっている。

 それなのに大好きな人を愛することが、許されないことなの?

 誰が、なぜ、どうしてそんなことになってしまったの……?

「あん――っ♡」

 予期せぬ刺戟に腰をキュンと浮かせて彼の舌先から逃れる。が、すぐにまた捉えられて、新鮮な感覚が彼女を悩ませるのだった。

 小指の爪先ほどの小さな場所の支配権を巡っての男と女の一途で懸命なせめぎあい。

 もっとも戦況は常に劣勢で敗色濃厚の防戦一方だったが――。

 こんなにも恥ずかしいことを、少し前の自分にはけしてできなかったことを、今は彼の(ねが)い容れて受け止めている。

 そんな自分こそが、いちばんすなおな、偽らない本当の姿なのだと操祈は思う。 

 でも、もしも生徒の誰かが今のわたしたちを透視しているのだとしたら……。

 自分たちの女教師がこのようなことをしていて、さぞやショックだろうと思う。中には、裏切りだと嫌悪する子も居るかもしれない。

 でも、これがあたしなんだから……。

 あなたたちだって、好きな男の人ができたら、きっと自分が変わっていくことに気がつくことになるのよ……。

 人には誰にでも見せられる公にできる部分と、家族にしか見せないプライベートな面とがあって、さらには家族にすら見せられない姿も見せ合う、恋人だけに向けられる秘密の顔だってあるの。

 だから、セックスは秘め事にしておかなければならない、隠しごと……。

 ああ、能力って、なんと呪わしいものなのかしら……。

 容易に他人のプライバシーを盗み見て、虚飾を剥ぎ取ってしまうなんて……。

 しかし、かつての自分がそうであったように、人の心の機微に無関心であったことの報いを受けているのだとしたら、因果応報、仕方のないことなのかもしれなかった。

 それだからって、今になって持ちだしてくるなんてあんまりだと思う。

 こんなに人を好きになってしまってから、それを台無しにしようと動き始めた運命の仕打ちに強い不満を覚えるのだ。

 意趣返しは、願わくば穏便なものにしてちょうだいっ――!

 手前勝手な希望だったが、犯した罪の償いは、これから時間をかけて少しずつ“善行”を積み上げていくことでチャラ――にして欲しかった。

 もしも許されるのなら……。

 操祈がなにより恐れたのはレイを失ってしまうこと。

 それゆえ願わずにはいられない。

 どうか、私から彼を奪わないで、と。

 どんな責めを受けようとも、それだけは容赦して欲しい。もしも代わりに命が要るというのならよろこんで差し出しますから……。

 愛しているの……彼のことを……神さま……だから、どうか……。

「んんんっ――」

 心も体も悶々とするなかで、その時は不意に訪れた。

 体の中心から頭の先まで一本の串が通されたように、体が一瞬、ピンっと突っ張ったかと思うと、ぶるんっ、と腰を痙攣させる。

 体の内部に、あの覚えのある絞り出すような感覚が何度も繰り返されて、また熱いものが流れだしていく感じがして恨めしい。

 彼がその全てを受け止めてくれているのがわかるのだった。

 いったい、この体はどうなっているのだろうと自分でも情けなくなるほど、愛されるたびにおびただしい放出感が()つ自身のしどけなさが哀しかった。

 ごめんなさい……レイくん……こんなあたしで……。

 今度はあまり焦らされることもなく操祈は安息の波打ち際にたどり着くのを許されたようなのだ。その代わり悦楽の極みからは離れているその分、我を失うこともなく、自分の体がどのようにダメになってしまうのか、もちくずしていくのかをしっかりと意識させられていた。

「はあっ……はあっ……はあっ……」

 汗ばむ白い腰を切なげにわななかせながらも、体からゆっくりと熱が引いていくのを感じている。

 やがて事後の心地よい気だるさが全身を満たしていった。

 少年の口づけは、彼女を歓びへと誘う時のものから、爆ぜて乱れたその部分を清め整える時のものに代わっているのだ。

 それは男の優しさを感じずにはいられないものなのだった。

「……レイくん……」

 恥ずかしさと申し訳なさ、それと歓びとが織りなす感動に鼻をくすりとさせて、誰よりも愛する人の名を呼んだ。

 傍にきて欲しいと、もう独りにはしないで、とせつない思いを込めて。 

「疲れたでしょ? 座ってもいいですよ……ボクの上に……」

 後始末を終えた少年は、彼女の体を両手で支えながら胸の上に腰を降ろすようにと促していた。

 操祈は両足を前に投げ出す形で、彼の面前に脚を大きく開いた姿で、秘所をさらしたまま最愛の男と視線を絡めて向き合っている。

「カワイイな、先生は……こんなにかわいい女のコの……」

 祝福のキスが寄せられる。

 固唾を飲んで見守る前で、少年はそこを両手でやさしくひろげるようにすると、愛おしげに頬を押し当ててきて、まだ(こわ)い髭の生える前のつるんとした感触が、デリケートな肌に感じられるようになった。そこを傷めることのないように心を配っているのがわかる、恭しさを感じさせる寄せ方で顔を埋めてきて、彼がすすんで匂いを纏おうとしているのが判ると、とても恥ずかしいのに泣きたくなるくらい嬉しくなる。

 遠い日、自分はこの人を産んだことがあるのではないか、ふと、そんな不思議な気持ちにもなってくるのだった。

 そう、この男の人よ――。

 女の肌がそう言っているようだった。どこよりも敏感である分、誰を愛したら良いかを知っている、愛する人が誰なのかを教えてくれている。

 逢えて良かった――。

 わたしを見つけ出してくれて、ありがとう……レイくん……。

「体を倒して……楽にして……」

「うん……」

 操祈は命じられるままに、少年の体の上に身を横たえていく。それは互いに楽な姿勢に戻って長く愛を確かめあうときの体位なのだった。

 蹲踞(そんきょ)の姿勢からのこの流れも、以前に経験したことのあったもの。

 普通に熱愛中の恋人たちなら、きっと逆向きに抱き合って慰め合う形になるところを、操祈の体を(ほしいまま)にすることにこだわりのある少年は、彼女の腰を後ろ抱きにすることで女の弱みを一方的に自由にできるこの体位を好むのだった。

 柔らかな毛並みを撫でられながらの、繊細なタッチの口づけはとても心地が良くて、操祈は全てを委ねるつもりで目を閉じた。

 大胆な姿になって性愛のシーンに身を投じてはいても、長い睫毛に愁いを宿した悩ましげな風情にはなお清らな処女性が失われずにいて、愛くるしさと艶めかしさとが損いあうことなく共存している。

 人にして人に非ざるものの正体を隠しきれずに、まるで操祈の魂の形、心の姿が滲み出してきているよう。

 少年が女神――と、慕うのも大げさではなかったのかもしれない。

 けれども当人には、相手の感動にまで思いが及ぶことはなく、彼がまたいつ本気になって彼女を逸楽の淵へと引きずりこもうとするのかわからない中で、スリルを感じながらのつかの間の安らぎの波間に漂っているのだった。

 ふと胸の横にあたるものに気がついて、

「ねぇ、レイくん……」

「え、なぁに、先生」

「わたしも、触ってもいいですか……?」

 おずおずと切り出してみる。すぐ近くの手の届くところに彼の情熱の強張りが、みごとにそそり勃っているのが目に入ってきたからだった。

「ダメです――」

 案の定、つれない反応が返ってきた。

「ずるいな……レイくんばっかり……」

「だって、ボクももういっぱいいっぱいになってるから、すぐに暴発しちゃいそうなんだもん」

「わたしだって見たいわ、あなたが暴発するところ……」

「つまんないですよ、ただ臭くて汚いだけで」

「そんなことないわ、レイくんのだもん……」

「それはどうかな……ボクと先生とでは立場が違いすぎるから……キミのはみんなきれいだけど……奇蹟のように美しいけれど……人間の男のものは女神であるキミにとっては穢れでしかないですから……」

「………」

「それに、ボクのベッドにはキミのにおいだけを残しておきたいな……」

「……そんなこと言って、わたしのベッドでもさせてくれないのに……」

 のらりくらり、いつも適当な言い訳をして逃げられてしまう。

「もう少しだけ待ってください、そうしたら好きにしてもいいですから……」

「もう少しって、どのくらい……?」

「ボクたちがオトナになるまで――」

「大人になるって……」

 ちょっと不満げに唇を尖らせる。優美な女神がおきゃんな堕天使になったよう。

「だって先生とボクは、まだそうじゃないでしょ? 結婚するまでは今のままで居ようって約束したじゃないですか」

「……そうだけど……」

 結婚――というのは、彼の口から出てくると胸に響くのだ。

 そう言われてしまうと返す言葉を奪われて、半ば諦めからかそれでもいいかという気持ちにもなる。

 ただ、そうなるまでにはいくつもハードルがあって、レイが法的に婚姻が認められる歳になるのには、まだ三年近くも待たなければならないのだった。

「先生は心配しなくても大丈夫ですよ」

 まるで子供をあやすように操祈のお腹をやさしく撫でながら言う。

「心配なんかしてないわ……」

 ぼんやり天井を眺めて、壁紙の一部が剥がれかけているのが目にとまった。

 糊付けされたシボのある部材は、シームレス加工がメインとなった今時、とても珍しいものなのだと思う。

 いったいいつの時代からの建物なのかしら……?

 昭和、平成、それとも令和……?

「……あなたがそう言うのなら、きっとそれがいちばん良いことなのよね……」

「そうです。それにもしもキミに異存さえなければ、この春にでも二人でどこか余所の国へ行って、そこで契りを交わすことだってできるかもしれないですし……」

「え――!?」

「婚姻の年齢制限が緩い国はまだいくつもあって……中には十五歳で夫に成れる国もあるみたいだから……」

「でも、それは……日本では通用しないものでしょ……」

「たしかに国内法では認められなくても、でもそうしておけば事実婚の体裁をとれるかもしれないし、少なくとも先生にとってのアドバンテージにはなりますよ。その他にもボクたちの関係を守るための手立てならいくらでもあるから、だからもうあまり心配しなくてもいいと思うな。大切なことはボクたちが真剣に交際しているということ……スケッチブックや先生の肌着のコレクションも、いざという時の真剣交際の証になったりして……」

「やめてっ! おねがいだからっ!」

 あんなものを公にされてしまったら、もう生きてはいけそうになかった。

「冗談です、冗談です」

「もう――」

 操祈はむくれた顔をしたが、ずっと先と思っていたことが前倒しにできるかもしれない、というプロポーズはとても魅力的なものに思えるのだった。

「でも、そうなのかなぁ……ちゃんと交際しているという実態があれば……」

「そうですよ、だって、こんなに愛し合ってるんだから……」

「あんっ――♡」

 ソフトなキスから、いきなり舌で深く探ってくるディープキスになって、くんっ、と脚を開いてしまう。愛撫に馴染んだ体は、とっさに逃れようとするよりも委ねる方を選んでしまっているのだった。

「……あはぁ……いいっ……」

 (おとがい)を上げて、露わになった白い喉許をわななかせて甘い責め苦に堪える。

「きもちいい? 先生……」

「……うん……すてき……とっても……」

 少年はまた舌の動きに情熱を込めてきて操祈の意識を刈り取ろうとしていた。無防備な女体に加えられる執拗な詮索。互いの純潔を保ったままで、男と女の秘儀を極める二人だけの愛のかたちになっていた。

 そのままの姿でいちばん敏感な尖りを包み込まれてしまうと、女の生身にはもう後がなくなってしまう。

 こんなふうにして追い詰めてから、少年はまた彼女を置き去りにした。

 操祈は長い睫毛を瞬かせて、疲れたため息をひとつつく。

 深く睦みながらも、おしゃべりができるのもこの体位ならではなのだった。

 こうして日々の学園での生活やそれぞれの日常にあった出来事ついて語らうことは、ちょっと濃い目のピロートークにもなっていた。

 もっとも主導権は常に彼に握られっぱなしで、会話のリズムもタイミングも少年の気分しだいではあったのだが。

「でもボクは先生とのこと、もう誰かに見られていても平気かな……」

 不意に少年は危ないことを口にした。

「どうして……?」

「透視ぐらいなら、むしろ見せつけてやりたいなって思うこともありますよ」

「……そんなの……ダメよ……あたし……」

 ダメと思っても、今の自分にそれを防ぐ手立ては思いつかなかった。

 自室にジャマーを設置するというのは、あまりにも仕掛けが大きすぎてかえって不自然になるばかり。コストや安全性まで考えるとおよそ現実的ではない。

「ですよね、先生は女のコだから……でも、大丈夫ですよ、ここでのことはすべてノーカウントになるはずだから」

「……うん……」

 企みについては知らされていて、レイのことだからきっと抜かりはないのだろうと思う。今はそこにすがるしか道がないようだった。

「だからキミは何も心配しないで、ただ自分が幸せになることだけを思っていてくれればいいんです……」

「……うん……ありがとう……」

「キミは必ず幸せにならなければいけないよ……」

 男の子というよりも、ずっと年上の男のような物言いをされる。

 なんだか父親が最愛のひとり娘を諭す時のような……。

「先生のような美しい魂が傷を負うようなことを、ボクはぜったいにゆるさないから」

 胸が熱く膨らんで、こみ上げてくる感情に嗚咽がこぼれてしまいそう。

 彼の言葉は肉体への愛撫よりも嬉しい、心への気持ちの込もった愛撫になっていた。

「……うん……うん、わかったわ……」

 操祈は上体を起こして、また少年と向き合った。手を伸ばして愛おしい彼の髪の中に指を絡める。

「……信じているわ……あなたのこと……」

「誓います……女神に……ボクの大切な、心やさしい女神さまに……」

 少年が深く顔を埋めて祈りの口づけとなって、操祈は気をやるまいと大きな瞳を瞠って愛しい顔を見つめていたが、そんな抵抗もほんのわずかの間のこと。

 彼女の体のなりたちを知悉する男が一途な情熱を込めてくると、たちまち黒い髪が飴色の和毛と溶け合っていき、二人の境が曖昧になってまた見知らぬ逸楽の世界を彷徨うようになっていくのだった。

 




およそ一ヶ月ぶりの更新

少し書き溜めもできたので、ちょっとは更新頻度を上げられたらいーな

もう少し、この年の差カップルの仲良しぶりを覗いてみたくて


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操と祈りと初恋と II

 

「とても名残惜しいですけど、もうそろそろ帰る支度をしないといけませんね……」

 甘い夢から醒めてまどろむ操祈の背中を宥めるように撫でながら、少年は顔を寄せて耳許に囁きかけてきた。

 声変わりを始めたのか、少しだけ男っぽくなって聞こえている。

 そうだったわ――と、思いながら、操祈は自分がとっくにそれを諦めていたことに忸怩と後ろめたさを覚えていた。

 本当は八時前には学校に戻っている予定だったのに、教師として生徒の進路の手続きを最優先にしなければならなかったはずなのに、欲望に溺れて義務を投げ出していた。

「……あなたをちゃんとエントリーさせるために来たのに……それをしなくちゃいけなかったのに、こんなことになって……もう、できなくなってしまったなんて……」

 操祈はしょげるが、少年は逆に欣然、してやったりの顔をして

「良かったぁ! やっと諦めてくれたんですね。じゃあ、ボクは受験をしなくても済むんだっ」

「そんな、あたしどうしたらいいの……あなたの将来がかかっていたのよ……」

「そんなことどうにだってなりますよ、心配しないでください。それよりボクは寮の門限があるから、そろそろ帰り支度を始めますけど、そういうことなら先生はゆっくりしてらして下さってもいいんですよ」

「門限? 生徒の門限って、たしか八時でしょ、もう間に合わないわ……」

「え、どうしてです?」

 少年は不思議そうな顔でこちらを見ていた。

「いま……何時……?」

「もうじき五時半になるところですけど」

「五時半?!……いつの……」

「いつのって、今日のに決まってるじゃないですか」

「今日って……?」

 自分でもどうかしていると思うような頓珍漢な会話になっていた。

「どうされたんですか先生? 今日は先生が家庭訪問でウチに来られてたんですよ」

「そうだけど……だって……」

 つぶらな瞳を見ひらいて怪訝そうにして少年の顔を見上げた。

 淫らな体位で幾度も迎えた歓びの全てが、ほんの三十分あまりの出来事だったなんてとても信じられなかったのだ。

 もう何時間も、否、それどころか幾夜も褥を共にしていたような感覚でいた。さすがに何日もというのは大袈裟だったかもしれないが、それでも束の間の逢瀬というのとは違っている。

 全身で女の愛をうったえて、恋人に身も心も捧げていた――。

 そう思ってから、それが綺麗ごとだと認める。

 実際は目の前にあった甘美な果実を思うさま頬張る誘惑に抗えずに、神聖で大切な役目を投げ出して淫らな欲望を満たす方を選んでしまっていたのだ。

 もっともっと可愛がられたくて、体をいっぱいに開いて愛撫をおねだりしていた。心優しい恋人は、そんな彼女に応えてさまざまな形で歓びへと(いざな)ってくれたのだった。

 心地よい疲労感と充足感、気怠さ、それは深く愛を契った後ならではのもの。そして汗にまみれた肌の汚れと身に纏った淫らな臭いが二人が演じた情熱の密度と時間の長さを教えている。

「こんなに遅くなってしまって……ごめんなさい……」

「遅く? 寝ぼけちゃったんですか?」

「だって……だって……」

 操祈は合点がいかなくて、納得のいく答えを求めて相手の顔をまんじりとしてしまう。その罪のない表情はいたいけな美少女のようでもあった。

「そんなにボク、頑張っちゃったかな」

 すぐに少年はわけ知りのいたずらな笑みを向けてくる。

「コラぁ、先生をバカにしてるなっ、許さないんだゾっ」

「時間を忘れるほど歓んでもらえたなんて嬉しいなぁ」

「もう、イヤな子ぉ……だって、そんなはずがないから……あんなことだってしてしまったのに……」

 女の秘密をさらけて、やすやすと禁忌を破り(のり)を越えてしまっていた。そのことにもう後悔はないが罪の意識だけは燻り続けている。

 堕落して、穢れた咎人(とがびと)となってしまったことへの自覚。

 それでも体と体でたくさんのおしゃべりをして、思いのたけを伝え合って、そしてどこまでも許しあったのはとてもステキなことだと思うのだ。

 ただ長く愛し合ったというのは操祈の錯覚であるらしく、恋人によればほんの小半刻にも満たない間の出来事だったらしい。

 不思議――。

「きっと、先生がそう感じるくらい深く愛しあえたってことですよね……ボクたち……」

 また真顔になった恋人に言われて、操祈も素直に「うん」と、頷いていた。

「カワイイな……先生がそんなふうに時間感覚もはっきりしなくなるなんて、余計にかわいくて……」

「……だって……あんなにいっぱい……レイくん、やさしくしてくれたんだもん……」

「どうしてキミはこんなに可愛いんだろう、ああもうボク、学校になんて帰りたくないな……こんなにも愛おしい人と離れるのなんて……」

 少年はごろんと身を返して操祈を組み敷くと、仰け反ってあらわになった操祈の喉にしゃぶりついてきた。

「レイくんっ」

「ずっとキミとこうしていたい……」

 舌を絡めてのディープキスに始まって乳房への恭しい口づけとなり、甘い刺激にうっとりとなって身をもがかせて、気づいた時には彼女の脚はまた大きく開かれようとしていた。

 けれども少年がまた顔を寄せようとしてくるのが判ると、寸前に操祈はハッとして上体を起こすと手を伸ばして股間を庇って愛撫を拒んだ。

「本当なの……?」

「何がですか?」

「まだ間に合うっていうのは……」

「もういいんです……ボク、先生と暮らせるのなら……そっちのほうがいいから……」

 少年は操祈の手を剥がして舌先を差し入れてくる。おっつけてくるような温かなものにいきなり感動の極みを包まれて、愛撫にすっかり馴染んでいた体はすぐに花弁を展げて歓びを受け容れる姿になっていた。

「ああ――っ、ダメっ……レイくんっ……!」

 なんてやさしい、そして愛情深い口づけ。めくるめく官能の甘い誘惑に体はたちまちとろけてしまいそう。それでも懸命に勇気を振り絞って両手を伸ばすと、操祈は少年の顔をそこから押しのけようとする。細く長い指に必死の思いをのせて。

「ダメよ、レイくん……帰らないと……」

 息を乱して訴えた。

「あなたの志望校の申請をしないといけないから……」

 義務を果たせると思うと俄かに教師であることの矜持を取り戻すことができたのだった。女が一瞬でも気を緩めてしまうと転落しそうなギリギリの状態でいる中、

「そうですね……」

 少年は素直に矛を収めてくれて安堵する。

 こうした場合、いつもは言うことを聞いてくれないのが常であったのだが、幸いなことに今日ばかりは彼女の言葉に従ってくれたようだった。

「じゃあ、一緒にシャワーを浴びましょうか……」

「うん……」

「先生はまだゆっくり間に合いますよ。ボクの方が時間がかかるから六時前にはここを出ますけど……後のことをお任せしてもいいですか?」

「後のこと?」

「戸締りとか火の元とかですけど」

「だって、お家の鍵を……」

「ここの合鍵を先生におあずけしますので」

 鍵を託されるというのは特別なことだった。

 操祈は既にレイには自室の鍵をあずけていたので、これで互いの鍵を持ち合うことになる。

 それには二人の生活が溶け合っていくのを実感させる象徴的な意味合いがあるのだった。

 これまでは寝室にいる時だけが素の姿になれる場所であったのが、これからは共に活動する場も拡がって、そしてますます重なりあっていくようになるのかもしれない。

 現実的にも人生を共にするパートナーであることを意味しているよう。

「いけませんか?」

 念を押されて操祈は首を横にうち振った。

「良かった……助かります……」

 互いに支えあうようにして身を起こして、その間も惜しんで感謝の口づけを交わし合う。

「愛してるわ、レイくん……」

 操祈の明るいブラウンの瞳が恋の歓びに燃えて深い色に変わっている。

「愛してます……先生がボクを思うよりもずっと……」

 少年の言葉に操祈はもう争わなかった。

 愛が量れるものではないことを分かっているからだった。賢い少年がそれを知らないはずはないことも。

「いいわ、それで……いつかきっと、あなたにわたしの思いが届く時までは……」

 ベッドの縁に全裸で並んで腰掛けたまま微笑みを交わし合う。

「もうお互いの心の鍵の交換は済ませているので、今更って感じかもしれませんけど……先生にボクの家の鍵を持っていてもらえるのは嬉しいな……」

「心の鍵? ナマイキ言って……うふっ……」

「東京に来て、もしもお泊りの際にはこの部屋、自由に使っていただいて構いませんので……ボロ屋ですけど……」

「そんなこと……」

「ちょっと都心からは離れてますが足の便はまずまずでしょ?……もしも結婚できたら、春からはきっと今よりも自由度が増すはずですし……今日みたいにここでデートをしてもいいかもしれません……いずれにしても、あと二ヶ月の辛抱ですね……」

「……うん……」

「ボク、きっとすっごく悪い夫になりますよ。今よりももっといろんなことをして、先生のことを虐めて、いっぱい啼かせちゃいますから……」

 少年は腰のものをまたいちだんと逞しくさせて言った。

「まぁ、こわい……」

 操祈は怖がったふりをして少年の体に身を寄せる。肌と肌とを接して温もりを感じて、心も体もじんとしてくるのだった。

 まだ十五歳なのに自分へと向けてくるロイヤリティの(あつ)さは、彼が示してきた強い自制心からも疑いようもなかった。

 心からの友、魂のパートナー、ソウルメイト。

「でも、先生のこと、ぜったいに護りますから……」

「うん……頼りにしているわ……ダンナさま……」

 おそるおそる最後の言葉を口にしてみた。それが予期せずとても魅力的に響いて、他ならぬ自分自身の声なのにドキッとさせられて胸がホカホカと浮き立ってくる。

「旦那さまかぁ……なんかいいかも……でも、ボクは今のままの方が好きかな……ボクが先生を愛しているときに“旦那さまぁ”って啼かれるよりも“レイくんっ”て言われる方が、先生の切迫した感じが伝わってくるような気がするから……」

「もう、すぐそういう話にもっていこうとするんだからぁ」

「だってカワイイんだよ、胸がつぶれてしまいそうなくらい可愛くて……この子のためなら死んでも構わないって思えるんだ……もし先生がボクと入れ替わったら、きっとボクに嫉妬すると思うな……キミが感じているよりも遥かに大きな歓びを味わっているということが判って……」

「レイくん……」

 先生――が、キミになり、いままた、この子、に代わっている。

 ずっと年下で、教え子で、体格だってまだ優っていた。

 それなのに、精神的には既に操祈が凭れかかるかたちにもなっていた。いつのまにか立場が逆転していて、それが屈折せずにいられるのは受け容れられると感じているからだった。

「さあ、シャワーに行きましょう、先生」

「そうね……」

 振り返るとベッドの白いシーツには睦みあった証が生々しく遺っていて驚きに目を丸くする。

 とても片時の逢瀬でできたとは思えないほどの、おびただしい量の汗染み――きっとそれだけではないものも含まれているのに違いない――をつくっていた。

「やだ、こんなになってるなんて……」

「……キミのにおいをいっぱい残してくれて……うれしいな……ボクへの最高のプレゼントですから、ありがたく頂戴させていただきますね」

「……羞ずかしい……ホントにあたし、こんなに汚しちゃったの……?」

「汚れだなんて……これでボク、ここでひとりで寝るとき寂しさを感じずにすみます……先生のにおいに包まれて幸せに眠れますから……」

「もうイヤぁ……」

「この部屋に来ても先生のにおいを感じられるんですから、このシーツだけはぜったい洗濯なんてしませんからねっ」

 操祈は頬を赤くして、不安げに唇をキュッと結びながらも気持ちは嬉しさに高鳴っていた。

 嗅覚は最も古い脳を刺激して、その愛着は心の一番深いところから生まれる。操祈も初めてレイのベッドの上に身を横たえた時、彼のにおいが恋しくて胸が躍っていた。 

 愛し合うと互いのにおいを好ましく感じるようになるのか、それとも体臭が好ましくて愛情を感じるようになるのか、どちらが先なのかわからない。

 ただ女にとって、大好きになった男から自分のにおいを愛してもらえるのは、恥ずかしいがとても嬉しいことなのだった。

「キミの体はとってもステキないいにおいがするから……」

 ただ恋人からそう言われても素直になりきれないのが女心の複雑なところ。

「エッチ……女の匂いが好きって、変態よ……」

「違いますよ、ボク、女の人のにおいが好きっていうのじゃなくて、先生のにおいが好きなだけですから……それって、とても自然なことだと思うな……だって、キミのことが大好きなんだから……男にとって大好きな女の人のにおいほど恋しいものはないから……」

 またストレートな言葉が返ってきて、操祈の胸を強く刺し貫いていく。

「うん……あたしも……レイくんのにおい、大好きよ……」

 恋愛についてまだ若葉マークをつけている女としては、そう言い返すのが精一杯なのだった。

 




年内にアップしたくて途中のキリのいいところで上げることにしました



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121話 操と祈りと初恋と III

 時が迫っていても別れがたくて、腕を絡め肌と肌とを接して片時も離れまいとするようにして部屋の外へと出た。

 暖房の効いていない廊下はぐっと冷え込んでいて

「きゃっ、寒いっ――」

「大丈夫ですか?」

 少年の腕に力がこめられて強く抱き寄せられる。膂力(りょりょく)の逞しさに改めてレイに大人の男性を意識させられていた。

「うん、平気……」

 

 巡り逢って二年あまり――。

 児童のようだった子が生徒になって、いま一人の男になろうとしていた。対等のパートナーであるとともに雄として、か弱い性への庇護者であろうとしてくれている。

 それを嬉しく、頼もしく感じてしまうのは以前の自分、少女の頃にはなかった感情だった。

 肌を許したことからくる心の変容に途惑いながらも、女であることをいちばん面白く思っていたのは他ならぬ操祈本人だったのかもしれない。

 強い力を失ってからの彼女は他人に対して心を閉ざすことでしか身を保つこと、守る術を持たなかったからだ。

 自分に近づこうとするものを峻拒するよそよそしさは、きっとレベル5であったとき以上だったのだろう、数学を専攻したのも自身に適性があるかどうかではなく単に抽象の世界の居心地が良かったからだった。

 数学は鉛筆と紙さえあればどこに居たとしても、一瞬で自分の世界に没入することができた。

 孤独は少しも苦にならない、むしろ幸い。

 私をほっといて、ひとりにしてっ――。

 みごとなまでのブロンドの髪をした絶世の美女の放つ接近禁止オーラ、盤石のアイアンドームをかいくぐれるものなど、ごくわずかな例外――ダブルジュンコ――を除いては殆どいなかった。

 それが教師となって子供達の指導をするようになり、そしてレイと心を通わせるようになってからは長い冬の季節を終えて雪溶けとなり、待ち焦がれた開花の時を迎えたように心と体を惜しみなく開いている。

 同時に彼女を見る周囲の眼差しも大きく変化していたようである。

 表情から険がとれ、身にまとっていた棘をすっかり払い落とした食峰操祈は、これが彼女の本当の姿だったのかと人々を驚嘆させるものだったからだ。

 大きな瞳の愛くるしい顔立ちの美貌、優しげな性格をうかがわせる曇りのない明朗な笑顔、それが時に愁いの影が差すと神秘的な雰囲気を纏うようになって彼女をさらに特別な存在にしていた。

 人々の間で彼女が学園都市の女神――と、囁かれるようになるまでにはさほどの時間はかからなかったのだった。

 ただ、本人にはその自覚が乏しかったのだが――。

 

 

「姉の寝室にシャワーがあるので、そっちを使いましょう。このまま裸で三階に下りていくのはさすがにきついですから」

「ええ、そうね……」

 たしか隣は妹の部屋だと言われていたようにも思ったが、“シスター”を言い間違えることもあるのかもしれないと、その時の操祈は特に気にも留めずにいたのだった。

 妹の居室は彼の書斎――よりも遥かに広く、部屋の奥にシングルベッドがゆったりと据えられている。

 マンションの一室のようにバスとトイレ、キッチンまでが設えられているばかりか、ウォークインのクローゼットやドレッシングルームまでも備えた立派なものだった。

 またレイの部屋とは違ってカラーリングはやはり女の子の部屋らしくパステル調で統一されている。

「ここのトイレとシャワーは姉からは使用厳禁を申し渡されているんですけど、今は使っちゃってます。ボクが掃除をやってるんですから、そのくらいは良いだろうって」

「あら、お姉さんも居るの?」

「あ、いえ妹です――」

 少年はちょっと複雑な表情になっていた。

「こっちのはバスタブがないので、ゆっくり温まるには三階の方に行かないとなりませんが、お湯を張るのもめんどくさくて……ボクは真冬でもこっちばっかり使ってるんです」

 脱衣所の扉を開けて操祈を中へと導いた。

 浴室は一人用のシャワーブースで、二人だとちょっと狭苦しい。

「先生は髪を濡らさないように持ち上げていて下さいね」

 レイから言われて操祈は仕方なくそうするが、両手を頭の上に、髪をおさえて全身を無防備にさらす形になるのだった。

「シャワーキャップがあればいいんだけど……体ぐらい自分で洗えるわよ……」

「ありますけど、でもボクがしたいから……」

 少年は彼女の体に温かい湯をかけながら、慣れた容子で肌に触れてくる。

 このところは愛し合った後、彼女の体を洗うのも彼のオシゴト――あるいは少年にとっては夫権の行使のつもりなのかもしれない――になっていた。

「でも時間に余裕がないのはレイくんの方でしょ?」

「ボクはいいんです、こっちはすぐに済みますから――」

「わたしだって自分でやればすぐに済むわ」

「ダメですよ、ちゃんと洗わないと。汚れというのは汚した側の方がよく判ってるものなので」

「………」

「それにボクは全然、汚れてなんかいませんから。本当はせっかくの先生のにおいを洗い流したくなんかないんだけどな」

「もう、すぐバカ言うんだから……」

「でも他の人にキミのステキなにおいを知られるのは嫌だから、顔はしっかり洗いますけどね」

 エロティックな仄めかしをしながら、いきなり開いていた腋の下をペロッと舐められて、操祈は「ひっ――」と小さな悲鳴を発して腕を閉じようとする。だが髪を濡らすわけにもいかずに

「やめてレイくん」

 言葉で抗議することしかできないのだった。

「こんなにきれいな体を汚してしまったのはボクの所為ですから、ちゃんと責任とらないと。でもイヤイヤやってるわけじゃないですから誤解しないでくださいね」

 軽口をたたきながらも手はこまめに動かしていて、女のプライバシーにも自由に立ち入ってくる。

 それが自分自身でするよりも、さらに柔らかくて丹念なので、くすぐったさに甘啼きをしながら胸の裡もまたモヤついてしまうのだった。

 まるで精巧なガラス細工にでも触れるようなデリケートなボディタッチは閨での愛撫そのもの。

「……それに先生は肌もとてもきれいだから、洗うのもすごく楽しいんです……手に吸いつくようにしっとりもちもちで、まるで赤ちゃんの肌みたい……」

 女体への崇敬の念を隠さずに愛情たっぷりのお触り、ボディソープのヌルヌル感がいつぞやの生クリームを使ったプレイを思い出させて、いけないとは思っていても少年の指の中で乳先を目覚めさせてしまう。

「開いて、先生……」

 下腹部のくさむらの中を指先でくすぐるようになぞり洗いをしていた手が、さらに奥を求めて促していた。

 操祈が膝の間をわずかに緩めると、スルリと手が差し入れられてきて、デリケートゾーンがすっぽり包まれてしまう。

「……ああ、レイくん……」

 大切なところを委ねて息遣いは自然に甘えの熱を帯びるようになっていた。

「大丈夫です、ここには石鹸を使いませんから心配しないでください……」

 自分なら汚らわしいものを扱う感じで、いくぶんぞんざいにシャワーの湯を浴びせかけてしまうところを、少年はけしてそのようにはせずに、手のひらに湯をためてパタパタと軽く叩き洗いをするのだった。いちばん敏感な部分にはとりわけ繊細なタッチで撫でられて、それはもうほとんど愛撫と変わらないのだ。ベッドの中でするのと違うのは、さらに踏み込んではこないこと。

 だから彼の優しさが肌にしみる。

 愛されている、大切にされているというのをはっきり感じるから、いつでも女は安心して身をまかせることができるのだった。

 それ以上に、もっと触れて欲しいとさえ思ってしまう。もっともっと可愛がって欲しい、やさしくして欲しい、と。

 褥での操祈がどんどん大胆に振る舞うようになっていったのには、そんな女の本音を心得た少年の狡智と企みとがあった。

 彼女の体を開発するのに少年は信じられないくらい辛抱強く、時間と手間を惜しまなかったのだ。

 デートの度にハードルを僅かずつ上げていき、初心(うぶ)な操祈が、さすがにそれは、と躊躇うとその都度、彼女をほんの少しだけ欲求不満にさせて、最後には女の側に決意を促すようなやり方をされていた。

 これぐらいなら……。

 あとちょっとのことだから……。

 操祈に自らそう思わせる、受け容れるための理由をチラつかされて、巧みに誘導されて、そして気がついたときには普通の女のコならけっしてしないようなことまで、今ではするようになってしまっている。

 なんてひどい子――。

 いい子だと思っていたのに……。

 ひとりになってから、自身が犯してしまった過ちに気づいて羞恥と悔いに身を揉むが、それすらひとしきりの発作のようなもので、時が経つとやっぱり次のデートの日を心待ちにするようになっていた。

 それの繰り返し。

 少年が、いい子などではなくて、自分にとってのたった一人の“良いひと――”になって、

 これでいいのだ、よかったのだ、との納得感が操祈の心を満たしている。

 でも、世の中に居る普通の恋人たちは、はたして自分たちのようなことをしているのだろうかと不安になることも少なからずあるのだ。

 少年の女の体へ向けてくる愛着は嬉しくても、時に常軌を逸しているのではないかと感じてしまうこともしばしばだったからだ。

 いつか、もっと酷いことまで求められたらどうしよう――。

 実際、既に彼からはそんなことも仄めかされている。

 それは女が絶対に他人には見られたくない姿なのだった。 

「ひっ――」

 男の手が彼女のあいせつな凹みにまで指を伸ばしてきて、思わず喉を鳴らしてしまった。身を守ろうとする防御反射に腰をキュンと引いて逃れようとしていた。

 いま少年の手は背後からお尻の谷間をやんわりと広げようとしていて、そこに指をしっかり当ててきて洗おうとしているのだ。

 こちらにはボディーソープの泡をたっぷりとのせられていて、ふわふわの中から現れた陵辱者の指が彼女の体に問いかけるようにヌルヌルと円を描いて(さす)っている。

 何度経験していても悩ましいくすぐったさに、声を切なげにして

「そこは……」

 慈悲をうったえた。

「大丈夫ですよ……痛くしませんから……だから、楽にしていてください……」

「だって……」

 瞼を伏せて目を細くして、恋人の顔に哀切な濡れた眼差しを送って、黒瞳のつくるやさしい視線と重なると、操祈も仕方なく口許だけの微笑みを返してしまう。

 それは諦めと同意のないまぜになったもの。

「可愛いな……キミはどこまでも……可愛いな……」

「あ……そんなことっ……」

 拒む間も与えられずに指先を受け容れさせられて、体を緊張させながら肩を竦めて項垂れた。

「大丈夫、先生のはとてもきれいで清潔だから……すぐに済みますよ……」

「………」

 今、彼の指が周りを丹念につまみ洗いをしていて、長い産毛があることを意識させられていた。

 自分でも知らなかったことまで、もう少年には知り尽くされてしまっている。

 本人よりも女の体のことをよく心得ている人……。

 愛し合うたびにそこにも熱烈な口づけをされているのだから無理からぬことだった。

 初めての時はとても驚いて、恥ずかしさと恐ろしさとで嵐が去るのを待つような気持ちになって身を固くしていたが、それすら是非もなく愛撫のメニューに加えられた今は嫌悪感や敗北感よりも、ゆっくりと受容の心境へと置き換わりつつあるのだった。

 他人には言えないようなことができるのも、愛している証だから――。

 そう思うことで納得させている。

 女にとって最愛の恋人との間で働く恥ずかしいという感情は、愛を知った心の悲鳴なのかもしれなかった。

 だから他の誰にもできないことを彼にだけは許してしまう。

 これからも……きっと……。

 デリケートゾーンへの仕上げの注ぎ洗いをしている少年の、そのちょっとクセのある黒い髪を見おろして、

「レイくんはやさしいね……いつも……」

 感謝の言葉をなげかけた。

 レイとのセックスがいつでもひとえに彼女を可愛がるためにいとなまれていることを、操祈は肌身を通して良く判かっているのだ。

 いろんなことをして慰めようとしてくれる、愛しくてとっても悪い男の子――。

 男の指がどれほど無慈悲になれるものなのか、くちづけというものがただ唇を重ねるだけでないことを、さらにどんなに大胆なことが可能なのか、それが女にとってどれほど甘美な経験となるものかを、ありとあらゆることをして彼女の体に教えてくれたセックスの導き手、ちっちゃい悪魔。

 でも、神さまみたいにやさしい――。

「だって、こんなに繊細できれいな体を傷めたらかわいそうだから……」

 屈んで熱心に取り組んでいた少年が、憧れに瞳を輝かせて見上げていた。

「指だと、うっかりすると刺戟が強すぎてしまいそうで……やっぱりお口でしたいな……」

 少年は操祈を誘うようにまた舌を長く伸ばしてみせる。その心地よさを知っている体がすぐに反応して甘く疼いてしまうのだ。

 操祈は無言の同意で瞳を潤ませていた。

「先生との時間が、いくらでもあったらいいのに……」

 言いながら、洗ったばかりのところにまた顔を寄せてくる。

 スリルを覚えながら見守っていた操祈は、すぐに彼がそれをしやすくなるようにさらに優雅に脚を開いていくのだった。

 

            ◇            ◇

 

 恋人から託された鍵を使って裏口のドアの施錠をし、駅前のパーキングから建物正面玄関前にまで呼び寄せていたレンタカーに乗り込んだとき、時刻はすでに六時をかなり回っていた。

 レンタルしていた軽自動車は車重が三百キロにも満たない小型の電気自動車ではあったが、一応2シーターで、レイにも同乗の希望を尋ねたのだが、さすがにそれはリスキーだというので辞退されて結局、帰り道も一人旅となっている。

 シートに身をあずけ、下町の住宅街をゆっくりと車を滑らせながら全ての窓をプライバシーモードにすると行き先を告げた。

 搭載されたAIが女声で、

#首都高中央線、及び中央自動車道は渋滞により七時過ぎごろまで五十キロ以下の速度制限となるため、到着予定時刻は午後七時五十分前後になりますがよろしいですか?#

 学校には八時前にはどうしても戻りたかったので、誤差を考えるとちょっと心もとない感じだった。

「もう少し早く着ける方法はないかしら――?」

#東京横断バイパスを使うと早く到着できる可能性が高くなります。第二府中インターから甲州新道、八王子バイパスへ抜けるルートで、距離的には二割ほど遠回りすることになりますが、七時半ごろには到着できるでしょう#

「それでいいわ、そちらにしてちょうだい」

 操祈は指示をすると冠っていた黒のフェイクファーの帽子を脇に置き、ヘッドレストに頭を凭せて目を閉じた。

 ファーカラーから覗く喉もとがさらに白く眩しい。

 細い顎のラインのはかなげな柔らかさは未だ幼さを残してひっそりとした神秘を宿しているよう。

 デートの度に、彼女の体のなりたちを知り尽くした男が繰り出す一途で愛情豊かなプレイに、身をまもる備えのすべて奪われて、あらゆる凹みも襞の間もくまなくねぶり尽くされているのだとは思えない清潔感のある美貌だった。

 長い睫毛に縁取られた大きな瞳の愛くるしい顔立ちは、セックスとは無縁の無垢な輝きを留めている。

 けれども口許を緩めて、ルージュを結んでいない清楚な唇から、フーッと、大きなため息をつくと、たちまち愁が兆して悩ましげな表情になっていくのだった。

 ブロンドの前髪の影が深く落ちて、清らな少女のようだった顔にそこはかとなく大人の女の夜の香りが立ち上りはじめる。

 それも無理からぬことだった。

 レイとは、ほんの十数分前に浴室で別れたばかりだったのだ。

 もうひとつの唇に惜別の思いのこもったキスをたっぷり贈りつけて、心と体に消えようのない恋の炎を灯して去っていったあの子。

「……困ったな……もう、どうしてくれるのよぉ……」

 そちらの方に少しでも気持ちが向かうと、浸出液の薄膜ができたばかりの生傷が、息を吐きかけるほどの僅かな刺激でも疼くように、また女の部分が甘く、(あや)しくほどけてしまいそうになるのだ。

 恋を知って、すっかりしどけなくされてしまった体――。

 そんな操祈の生理を熟知している恋人は、彼女のために生理用品まで用意してくれていた。

 わざわざ一番大きなサイズのものが脱衣籠の中に残してあって、それは今、どんなに粗相をしても大丈夫なようにフワフワが彼女のデリケートな部分をすっぽりと覆うようにして包んでいる。

 くやしいな……。

 自身の体の機微について、本人以上に通じている男の子。

「あたしはきみの先生なんだゾ――」

 操祈は口角をキュッとさせるが、

「……でも、レイくんにとって、プライベートのわたしはもう一人の女でしかないのよね……」

 ひとりごちて伏せた瞼に懊悩の翳が濃い、それなのに口許にはアルカイックな微笑みが泛んでいる。

 目を閉じると脳裏に、いままで二人で描いてきた数々の愛の物語が蘇ってくるのだ。

 初めは戯れのキスからだった。

 小さな男の子、可愛らしい男の子、酷いことをして彼の心を傷つけてしまってはいけない、そう気をつけながらも受け容れてしまった口づけ。

 賢くて、ナイーブそうで、無垢で、心のやさしい男の子――。

 そう思っていたのに……。

 その彼が、自分に本当の気持ちを向けていることに気がついたときの驚きと困惑。

 けれど彼と共にする時間を重ねるほど、教師としての後ろめたさはあっても気持ちがどんどん傾いていってしまった。

 まるで身内のように気のおけない相手に対する親しみが、実は女の本心を(つくろ)う隠れ蓑ではなかったのかと疑うようになってからは、そういう関係になるのはむしろ自然なことだったのだと今では思う。

 そして肌と肌とを接するようになって、常に彼の方がこちらを気遣ってくれているのが判って……。

 初めから、お姉さんぶる必要なんて少しもなかったのだった。

 愛情を注がれて、可愛がられて……。

 

 

「可愛い人――」

 

 

 今日は彼から、幾度となく甘い言葉を囁きかけられていた。

 愛する人から、可愛い、と言われて嬉しくない女はいない。それがたとえ七つも年下のミドルティーンの教え子からであっても。

 教師としての体裁や、中学男子生徒との淫行に大人の女としての罪の意識を抱くべきだと思いつつ、やっぱり胸が踊ってしまう。

 そして言葉通りに、それ以上に丹念に、それはそれは大切にかわいがってくれたのだ。

 心も体も甘くとろけて、全身がたっぷりの熱い蜜のようにされてしまった。

「……あたし、また男の子とセックス……しちゃった……うふっ」

 セックスをした――というのは正確ではなくて、ちょっと見栄をはって背伸びをしている自覚はあった。

 操祈はまだ本当の意味で大人の女にはなりきれていないのだから。

 今日も寸前にまでいっていながら、彼は頑なにそれ以上を望まなかったのだ。

 正しくは、ペッティングをされた、身体中を隅々まで愛撫された、ということ。

 今もなお、互いの体を一つにするまでの長い、とても長い前戯の最中にいるよう。

 レイはそれを、祈り――と、言ったりもするのだが、その物言いをズルいなと思いながら、でも行為を表す直接の言葉の方は女の口からは触りを感じてもっと言いにくいものでもあるのだった。

 そんな普通のセックスよりもためらうことをデートの度に、時間をかけられてたっぷり経験してしまっている。

 恥ずかしいけど嬉しくて、悔しいのに幸せな、とてもステキな気持ちのいいこと。

 熟練したレズビアンのカップルたちならばきっとその良さを知っているのだろう、けれども同性同士とちがって相手が男の子というのは、本当にいけないことをしてしまっているのだと思う。

 それなのに求められたら、もう拒めない。

 あの甘美さを経験した体は、彼から背中をほんの少し押されただけで、すぐに前のめりになってしまうのだ。

 身持ちのいい女であれば、許してはいけないことなのに、とてもイヤらしいことのハズなのに、二人の間ではそうではなくなっているのだった。

 ほんの数ヶ月前までの自分なら、そのことを耳にしただけで卒倒してしまいそうなくらい恥ずかしくて、それが我が身に起こるなんて想像もできない、したくないことだった。

 自分にはありえない、無縁だからと信じていたことがレイとのデートでは、いつしかあたりまえになっている。

「……先生はどんなときもすごく綺麗でカワイイけど、でもボクの愛撫に歓びを感じてくれている時のキミの姿ほど美しいものはないと思うな……ボクだけがいちばん可愛いキミを知ってるだなんて、それがどんなに嬉しいことか……だからボクはもっともっと、キミをかわいがりたくなる……」

 その日、レイはそうしたことを何度も口にして励ましてくれたのだった。淫らな口づけの最中にも感動で胸が熱くなることを言われて、瞳から溢れた涙は歓びをさらに尊いものへと変えてくれていた。

 どんなに焦らされても、いじわるをされても、最後には必ず思いを遂げさせてくれる。そのことがわかっているから何をされても堪えられるのだった。

「……だってあの子、いじわるなことばっかりするんだもん――」

 ひとりごちて、また頬を紅く染めていた。

 車窓からの眺めは住宅街を抜け、開けた湾岸エリアへと変わっている。

 メガフロートの上に作られた人造都市の幾つかは、規模こそ違え学園都市を模しているのだとも言われていた。

 さらに国と都は今後十年余をかけて、総額千五百兆円を超える空前の予算規模の大規模再開発を推し進めるつもりであるという。

 東京湾ミレニアムシティプロジェクト――。

 一帯は、莫大な予算と膨大な資源を注ぎ込んでの、日本の国運を賭けた巨大な挑戦のまさに最前線だった。

 次に操祈がここに来るときはさらに景観が変わっていて、普通ならその変貌の大胆さに目を盱っているのに違いなかったのだが、いまの彼女の目に映るのは無機的な抽象パターンでしかなく、心を占めているのはただ恋人と過ごした時のことばかりだった。

「あんな酷いことして……あたしを虐めて……きらいよ……だいっきらい……」

 思い出すと恥ずかしさと口惜しさとで体が熱く火照ってしまう。

 

 

 

「先生はボクからお祈りされるの、好き? ク○ニリングスやア○リングスはお好きですか? ステキに巨きなオッパイだけじゃなくて、腋の下やお臍をペロペロされるのは?」

 体をさんざん弄ばれた後に、わざと直接的な言葉を交えて訊かれたのだ。

 きらい――。

 だなんて言えるはずがないのに、そのことを良く知っているはずなのに……。

 応えられずに黙っていると、

「ボクは大好きです。でもそう思うのはキミにだけですけど……」

 言いながら少年は、脱ぎ捨てられて床に落ちたままになっていた彼女の肌着を手にとると目の前でにおいを嗅いで見せて、その唐突な行動に、操祈が一瞬、と胸を衝かれて凝固まっていると、

「キミのは、なんていいにおいがするんだろうね」

 露骨なものいいをして、激しく赤面させるのだった。

「やめてっ、へんなことするのはっ、返してっ」

 自身の羞恥の極みを奪われて焦る女が、必死に取り返そうとするのを巧みに(かわ)して、

「これ、またボクにくださいな」

 実に愉しげにしている。

「だめっ、もうあげないわっ」

「どうしてですか? だってボクはキミのにおいを知ってるのに、今になって直に嗅ぐのは良くても間接的なのはダメって、なぜですか?」

「そんなこと知らないっ! だって、だって、ダメなものはダメなのぉっ!」

 ひとたび身から離れた肌着に感じる疎ましさは、汚穢だと感じてしまうからだ。けれどもたとえわかっていても、それを女の口から言えるはずもなかった。

「ちゃんと納得できる説明ができたら返してあげますよ」

 当然、聡明なレイはそんな操祈の心の動きを心得ているのに違いない。判っていてするのだから余計にタチが悪かった。

「返してよ、レイくんっ」

 彼が背中に隠した肌着に手を伸ばすと、いっそう肌と肌とが密着してもみ合いになり、仲良くじゃれているような具合になってしまう。そのままギュッと抱きすくめられて、やさしい愛撫を背に受けて、操祈は抱かれたままでいる方を選ぶことしかできなくなってしまうのだった。

「これもさっきのコレクションに加えさせてください」

 恥じらいのパニックをやり過ごして、おとなしくなった操祈の耳許に囁きかけてくる。

「……ずるいわ……こうやっていつもうやむやにするんだから……女の子は可愛がればなんでも言うことを聞くようになるなんて思っていたら、おおまちがいなんだゾっ……」

 言葉では抗ってみせても、結局、また彼の言うままに絡め取られてしまっていた。諦めの念の方が大きくなって拗ねて甘える。

 すると今度は、

「嗅いでごらん――」

 いきなり裏返しにされたクロッチの部分を鼻先に近づけてきて、

「これがボクのいちばん好きなにおいですよ」

 と、またエロチックなからかいを仕掛けられてしまった。

「やだっ――!」

 女の身としては、その饐えた生臭い異臭を感じるともういたたまれない。

「ね、ステキでしょ?」

「やめてっ!」

 耳まで真っ赤にして枕に顔を伏せて逃れた。

「ひどいっ……」

「ひどいっていうのはキミ自身のにおいのことですか?」

「いじわるしないでよぉ……」

 顔を枕に押し付けたまま、くぐもった声で非礼をなじった。

「でも違いますよ……先生にとっては汚れ物かもしれないけど……ボクにとっては何よりステキな美しい香りのするものだから……」

 美しいですって! そんなはずないのにっ――!

 おんなの醜さは嫌でも自覚している。

「だって、この世でいちばん美しい女の人の、いちばんのひみつのにおいだから……尊い命の香り、気貴い魂のにおい……」

「……バカ……レイくんのバカ……エッチ……変態……」

 少年は伏せた操祈の頭を撫でながら、みだれ髪を整えて顔の半分を表にすると、辱めに恨みの色を浮かべた瞳が見つめる前で、肌着の股ぐりの部分に賛美のキスを落として見せるのだった。

 騎士が淑女の手の甲に恭順の口づけを贈って誠意を示すときのように。

「愛してます……」

「……わかってるわよ……そんなことしなくても……いじわるばっかりして、憎らしい……」

 照れ隠しに、つい拗ねた物言いになってしまう。

 けれども少年が肌着の匂いを嗅いで恍惚とした表情をみせると、たちまち心が折れてしまうのだった。

「……ほんとうにキミのはなんていいにおいがするんだろうな……大好き……ボクのいちばん大好きなにおい……」

「言わないで……レイくん……」

「クンニ◯ングスはね、とてもステキな特別な愛撫なんですよ。女のコにとっても特別なことなのかもしれないですけれど、男にとってはそれ以上に特別なこと……だって、ボクは先生にしかそれをしたいと思わないから……」

 そんなの……わたしだってそうよ――。

 操祈は思う。

 好きになった人だから許せることで、あんなに恥ずかしいことができるのはその人のことを愛しているがゆえだ。

 そんなふうに思わなければ心が壊れてしまいそう、それくらい女にとってショックなこと。

 自分のプライベートのなにもかもを失ってしまうのと同じことだった。

 だから、この子にだけ、レイくんにだけ……そう信じることで堪えてきたのだ。

 今はただ堪えているばかりではないことは認めても……。

「きっと先生も同じ気持ちだってことはわかってるつもりですけど……でも、男の場合はもっと複雑で……他の人にはしたくないことでも、大好きな憧れの人にするときだけはこの上ない歓びの経験になるんです……女のコにとってはきっと肉体的な感覚がめざましい筈ですけど、男にとっては何より精神的で、心の満たされ感が大きいものだから……」

 迂遠な言い回しだが何のことかは判っていた。それもまた女の方からは口にしにくい理由。

「だからボクは先生に初めて逢ったとき、こんなにステキな女のひとが居ることが信じられなくて……キミにだけはそれをしたいって強く思うようになったんです……他の誰でもない先生にだけはしたいなって……」

「………」

 少年からこのことを以前に打ち明けられたときには、わずか十二歳の男の子が教壇に立つ教師に対してよもやそのような邪なことを想っているとはと、とても驚いたものだったが彼ならそれも頷けるのだ。

 幼く見えても裡に宿した情熱は女が全身で命をかけて愛せる、たった一人の男性のもの。

「先生はどこまでも特別なんです……ボクにとってのただ一人の女の人……この世でいちばん美しい女神さまだから……だから初めてのとき、先生の長い両脚を腕に抱いて肩に担いだ時、そのリアルな重みを感じてどんなに嬉しかったか……ひどい辱めに(おのの)いているキミの気持ちをよそに、ボクだけは天にも昇るように幸せだった……」

 そのとき操祈の方は、温順(おとな)しい良い子だと思っていた彼の思いがけない行動に驚いて、レイにも自分の身にも取り返しのつかないことが起きる前に止めさせなければと、激しい羞恥を感じながらなんとかして逃れる理由を探していたのだ。

 思春期にある男の子が女体に興味を持つのは自然なことだとしても、さすがにそうしたことは許されないことだと思っていたのだった。

「……びっくりしたのはほんの一瞬のことで、そのあとはもう愛おしくて、これが先生のにおいなんだって思うと頭がおかしくなりそうになくらい嬉しくて……」

 彼女の記憶では彼の本気の愛撫を経験して、女の歓びを教えられたのはさらにデートを重ねた後のことだった。

「あの時は先生を泣かせちゃったから……ごめんなさい……」

「……泣いてなんかいないわよぉ……」

 強がるが、事実、どうしていいかわからなくなって心を乱してしまっていた。するとそれまで余裕を見せていた少年がオロオロ慌てだしたのを間近にして、急に可笑しくなったのを思い出していた。

「そうですね、本当に啼かせちゃったのは、もっと後でしたね。最初は許して貰えなかったから……」

 許さなかったのではなくて求められなかったからだった。だから逆に不安になってしまったのだ。

 自分が純真な男の子を幻滅させたのではないかと恐れて。

 ところがそうではなかったらしい。

 全ては彼の企て、プラン通りの経過を辿っていただけだった。

 時間はいくらでもあるのだから慌てる必要なんかない、先生のペースに合わせて少しずつ慣れてもらえればいい――そんなことを考えていたのだという。

 それを今頃になって打ち明けられて、驚く以上に唖然として脱力していた。

「だって、いきなりじゃ先生の方にも心の準備ができないし、だから最初は次へとつながる期待の種をキミの心と体に蒔くことができればいいかなって思っていたから」

「そんな……そうだったの……?」

 大した女たらしっぷりだった。

「だって、だいじな人だから……」

「もう、悪い子なんだから……いい子だと思っていたのに、ずっとダマしていたのね、あたしを」

「ええ――」

 少年はしれっとして微笑む。

「呆れた――」

 操祈はおどけて頬を膨らませてみせた。

 ピロートークの常で、すぐにまた和やかな雰囲気になってしまっている。

 肌と肌とを接していると、本当に腹を立てたり怒ったりするのがとても難しいのだった。

「ねぇ見て、先生」

「なぁに」

 少年はごろんと身を返して仰向けになると

「ボクは初めての時から、先生のだいじなところのにおいが大好きなんです」

 少年はまた手にした肌着のにおいを嗅いで、腰のものをまた一段とそそり勃たせてみせた。

「もう、バカなことやってないでよぉ……」

 強い羞恥と胸をうつ感動とがないまぜになって、また心と体がモヤモヤしてくる。

「じゃあ、この続きは直にしましょうか?」

「イヤ……」

 操祈は首を振った。小さな女の子がするように肩を頑なにして。

「もうイヤよ……しないわ……」

「ほうら、先生の方がよっぽどいじわるじゃないですか……ボクがいちばん好きなことをさせてくれないんだもん」

 とんでもない開き直り、言いがかりだった。

「あなたのいちばん好きなことって……」

 少年の露骨な言いようには、なんと返したらいいものかさすがに途方にくれてしまうのだ。

「そうに決まってるじゃないですか、だって、こんなにカワイイ女の子のなんだもん」

「ホントに変な子ね……レイくんは……」

「少しも変なんかじゃないですよ、これが健康な普通の男の感じ方ですから。でも先生のにおいはボクだけのもの……」

 その上、どこをどのようにするのが好きなのかを、さらに具体的に、散文的な感想を交えながら言葉にして操祈を困惑させている。

「この肌着よりもずっと濃いにおいがするときもあって、そんなときは嬉しくて、どうしてこんなにステキな香りがするんだろうって謎を解き明かしたくなって……もっともっとって気持ちになるんです……」

 女にとっては耳を塞ぎたくなるような聞くに堪えないことの連続。

 でも彼の心からの思いが告げられているのだと判るのだった。

「もう堪忍して……」

 音を上げて降参するのは、やっぱりここでも操祈の方だった。

「じゃあ、続きをさせて下さいね」

「続き……?」

「ええ、今度は先生が上になってください」

 思いのたけを訴えられて、切々と説かれて、拒めるはずもなかった。

 少年は仰向けのまま唇の間から舌先をチロチロと覗かせて誘っている。

「跨ぐのではなくて片膝を立てるようにすると腰の位置を自由に調整できると思いますよ――」

「………」

「先生が腰を使って、自分から愉しむようにしてくれますか? ボクは顔を動かしませんから」

 結局、最後には少年が思いを貫いて、ノーマルな体位でするのよりもずっと濃いプレイになるのを同意させられてしまっていた。

 完璧といってもいい造形の女体が、人には見せられない姿になって演じる愛の痴態。

 常の彼女を知るものが見たら、きっと目を疑うに違いない。

 けれども歓びもあらわに蜜を求める少年との間には、俗的な肉のいとなみを超えて、女神が人の子に対して情をかけているときのような、神秘なる聖餐の儀式のような厳かな気配がたちこめている。

 少年の思いが女の密やかな谷間を探っていて、操祈も好ましい場所にあたるように自ら腰を動かしていた。

 いい……気持ち……。

 体がとけちゃいそう……。

 こんなにひどいことをしているのに、あたしが女神? この世でいちばん美しい女ですって――?!

 そんなはずないのに――。

 この子にはそう見えるのかな……。

 私はごくごく普通の女よ……せいぜい十人並み、どこといって非凡なところがあるわけでもないわ……。

 かつては(たの)みにしていた自慢の能力だって、今やすっかり無くしてしまって、ろくな取り柄もなく、セールスポイントだってあるんだかどうだかあやしいものだった。

 操祈はそう思って屈折するが、彼女には自身の美貌への自覚が乏しく、自己への評価が辛口になる傾向が多分にあるのだった。

 それは巨大な能力を得て、そして喪うという、単にアップダウンというには留まらない振り切れた尋常ではない思春期を過ごしたからなのか、それとも生来の控えめな性格によるものなのかはわからない。

 男子生徒の多くから関心を寄せられていることについても、自分のどこかに教師としてあるまじき隙でもあるのではないかと考えてしまいがちになる。

 すっかり仲のいい女友達の一人になった舘野唯香からは、しばしば感覚の偏りを指摘されているのだが今もスッキリと胸に落ちているわけではなかったのだった。

 恋は盲目、痘痕(あばた)(えくぼ)というから――。

 納得できるとしたら、そのあたりまで。

 でも、レイくんのまわりには唯香ちゃんをはじめ、同世代の魅力的な美少女たちがあんなにたくさんいるのに、どうして教師のわたしなんかに……。

 こんな年上の女に興味の矛先が向かうのは、長らく母親と別れて暮らすことで本能的に母性を求めているからかな……?

 そう考えると、少し解るような気がしないでもなかった。

 だけど、あたし、レイくんのお母さんにはなれないわよ……お料理だってレイくんに敵わないしぃ……。

 翻って、自身がレイを恋するのは何故だろうと考えてみた。すると、しまった、と思うよりも先に、答えがすぐに像を結んでしまうのだった。

 

 そんなのセックスがしたいから、可愛がられたいからにキマってるでしょぉ、アバズレさんっ――。

 

 インナーセルフだかハイアーセルフだかのもう一人の自分が少女の頃の姿になって現れると、棘のある軽侮を含んだ声で言い放った。

 ちがうわ――!

 と、言い返したかったが、独り寝の夜には彼が恋しくて、体が夜啼きするようになっているのも事実なのだ。

 

 だって、恋をすればセックスをしたいと思うのは、普通のことでしょ……?

 

 あはっ、やっと本音が飛び出したわねぇ、じゃあ、あの子ともセックスがしたかったのよねぇ――?

 

 あの子とも……?

 

 何といったかしらぁ、あの男の子ぉ、ほら、ちょうどあなたが今の彼ぐらいの年だった頃の話よぉ――。

 

 内なる自分の言葉に、操祈は自身の初恋を思い出していた。

 今ではそのころ気になっていた相手の男の子の名前さえもすぐには思い出せないくらい、遠い昔のこと、自分が恥知らずな能力者だった時分の話。たしか、ちょうど今のレイと同い年か、ちょっと上ぐらいの少年だった筈。

 えーと……。

 どうしてるのかな、彼……。

 でも、彼がレイのように振る舞うとは思えなかった。

 そもそも、はたしてあれを初恋というべきかもわからない。

 自分も彼と体の関係を想ったことは一度もなかったし……。

 ただ、いつも一緒に居られたら、いちばんそばに居られたらいいな、そんな風に思うぐらいの、子供じみた実に他愛もないこと。

 いやだ、あたし、なにやってるんだろう、大好きな人と愛し合っている最中に別の男のことを想うなんて――!

 操祈は漂流し始めた思いを打ち消して、自分にとっての初恋は、今なのだと言い聞かせるのだった。

 恋と性とは分かちがたいものだから――。

 愛し合うこと、セックスをしたいという気持ちがいけないことだとは思えない。

 ただ時に後ろめたさを覚えずにはいられないのは、彼がまだ十五歳の教え子であること……。

 でも、愛してしまった……。

 好きになって、大好きな人から体を求められたら、応じてあげたい……。

 そう思うのが自然だし、女の真心の示し方だ。

 だって、セックスは互いの絆を確かめ合うとても大切ないとなみなのだから……。

 オーラルセックスは仮に一方通行なものだとしても、彼が言うように男と女の間に交わされるもっとも親密な愛情表現だった。

 そのことをデートのたびに操祈は教え込まれている。

 恥ずかしいけど、泣きたくなるほど嬉しい、幸せなこと。

 自分が恋人を魅了していると信じられるのは、女の矜持を満たす素晴らしい経験だった。

 でも彼を恋するのは、けっしてそれだけが理由なのではない。

 レイが示す愛情や忠誠は、肌を接している時に限られるわけではなかったからだ。

 どんな時でも彼女を大切にしようとする、守ろうとしてくれる。

 セックスの場面になると、それがちょっと行き過ぎたように感じることもないわけではないが、彼の気持ちを疑うことなどできはしなかった。

 今日のこのデートにしても、少年からは意図があったことを打ち明けられていたのだ。

 単に成り行きでも、思いつき的なものでもないということを。

 周到なレイらしく、ちゃんと綿密に考えた上での彼女を守るために打たれた布石の一つ。

 学内にいる能力者対策の一環として、ということらしい。

 仮に常盤台の生徒の中に高い能力者が居て、こちらのプライバシーの一部が漏れているのだとしても、操祈が恋をすることには本来なんの問題もないのだ。

 若く健康な女が恋人と愛し合っていることを、いったい誰が責めることができようか。

 問題なのは、その相手が未成年の教え子であること。

 その対抗策として、とった手段がこの日のデートなのだという。

 実はレイは今、学校図書館の地下で試験勉強をしている形になっているらしいのだ。

 それこそがアリバイ作り――ということだった。

 居ない相手とデートはできない。もしもそんなイメージが透視できたとしても、それは事実に非ず、操祈のセックスを含めてただの妄想、夢、幻として陳腐化、無効化させることができる。

「今日のことは噂の発信源となる彼女たちに自分たちが見たものへの自信を失わせることも目的だったんです。所詮、能力者といってもレベル2程度の低レベルのもの。連中の力への信頼性を損なうことができれば、噂も自然に立ち消えになる。それでこの話はおしまいです」

 理由の説明を受けて、あらためてレイを子供扱いしていた自分の心得違いを思い知らされていた。

 こちらが何も知らない間に、気がつきもしない間に、そんなことまで考えていたのかと驚かされるばかりになっている。

「また栃織さんの力を借りたの?」

「いいえ、今回は彼女は無関係です。そうそう頼ってばかりも居られないし」

「うん……」

 紅音との例の“約束”もこちらの履行待ちの状態で、この上さらに借りを重ねることには気がひけるのだ。

 “工作”には件の透明化フィルムもまた一役果たしていて、それ以外にもいくつものトリックやシステムの抜け穴を使うことで少年は今ここに居るのだと言う。

「先生は心配されなくても大丈夫ですよ……この先、たとえどんなことがあっても、キミのことはボクが守りますから……ぜったいに、傷を負うようなことにはさせませんから……」

 愛撫の最中の甘い夢を見ている時にこんなことを訴えられたら、女にはどんな逃げ道があるというのだろう。

 よそ見ができる筈などなかった。それを思い出してまたセンチメンタルな気持ちになる。

「大好きよ……あなたのことが……レイくん……本当に大好きなんだゾっ……」

 ひとりごちた。

「わたしだって、あなたのためならどんなことだってできるんだからねっ……」

 彼のためなら命を失ってもかまわない――。

 でもそれを言うと彼は、

「それこそボクにとっていちばん恐ろしいことですから、どうか勘弁してください」

 と、真顔になる。

「キミはいつでも自分の身を守ることを第一にして、たとえボクが目の前で殺されそうになっていても、放っておいて一目散に安全なところに逃げるんですよ、約束です」

 冗談とも本気ともつかないことを言うのだった。

 わたしだって、同じ気持ちでいるのに……。

 一緒……ずっと一緒にいられたら……死ぬ時も一緒なら……いいのにな……。

 それができるのなら、いちばん幸せなことだと思う。

 とりとめもなく湧き出てくるイメージに遊んでいた操祈が、わずかな加速を感じて瞼を開くと、車はちょうど高速に入ったところだった。前方車間を正確に百メートルとって、ダットサンEV250ポシェットは順調に速度を百二十キロにまで上げていく。

 目的地の到着予定時刻は午後七時二十二分。

「お腹、空いたな……」

 操祈はにわかに空腹であることを意識して、レイがサンドイッチのお弁当を用意してくれていたのを思い出した。

 サイドシートに置かれた紙袋の中には大きめのタッパーウエアと魔法瓶、それにウエットティッシュのお手拭きが入っていた。几帳面で用意周到な少年らしく痒いところに手の届く気の配りようだった。

 取り出したタッパーを開いて、思わず

「うわーっ」と、驚きの声を上げていた。

 短冊になったサンドイッチが断面を上にして、きちんと揃えて並んでいたのだ。デリカで売られているものにも負けないくらいの美しい仕上がりぶりに、いよいよ食欲が増す。

 添え書きには、

 ハムチーズ、テリヤキチキン&レタス、ツナマヨ、ブルーベリー、オレンジマーマレードの五種類とあって、いずれも操祈の好物で、さてどれから食べようかと迷ってしまうくらい。

 まずは左端のハムチーズ、定番を一口頬張って、思わず相好を崩した。

「おいしいっ」

 ハムはプロシュートでチーズはエメンタール、からしバターにわずかにマヨネーズを効かせていて、一口食べただけで、すぐに食べつくして無くなってしまうのが勿体なく思えてくるほど。

 でもその心配は要らないのだった。次に手にしたテリヤキチキンのサンドイッチはアボカド入りのマヨネーズソースとの相性が絶妙で、感動に体がしびれてしまうくらいだったからだ。

 添えられたピクルスで味覚をリセットしながら、瞬く間に残りのサンドイッチを平らげて、ポットのミルクココアで流し込んでいた。

 

 “飲み物はコーヒーの代わりにココアにしました。

 帰りの車中、少しでもお休みになれるようにと。

 きっととてもお疲れでしょうから”

 

 三行目の後に大小ハートマークがいっぱい描かれていて、意図は汲み取れた。

「ええそうね……たーんと可愛がってくれたものね……疲れを知らない年頃のあなたと違って、お姉さん、もうクタクタよ……うふっ」

 お腹がいっぱいになると、にわかに睡魔が寄せてきて操祈はシートを倒して身を長らえた。

「でもいつの間に、こんなお弁当の用意なんてしていたのかしら……こうなると思って予め準備しておいてくれたのぉ……?」

 考えると不可解なことがいろいろと頭に浮かんでくるのだが、瞼が重たくなってくると、それもどうでもいい些細なことに思えてくる。

 大切なことはただ一つ――。

 自分が彼を愛して信じていること。

 きっと彼もそう――。

 だから何も心配することはない……。

 操祈は大きく伸びをすると、モーターの奏でる静かな作動音を子守唄に、漆黒の闇の中にのみ込まれていくのだった。

 




また無駄に長くなりました

家庭訪問のエピソードはこれでおしまいです

ミスが多く、気がついた部分については加筆修正しました
申し訳ありませんでした


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122話 能力のたったひとつの冴えた使い方

「……うっ……」

 枕に顔を突っ伏したまま小さく呻くと、お尻の筋肉をかたく緊張させて粘っこい情熱の塊を放った。さらに感動の痙攣が二度、三度と続き、滾ったものを撃ち尽くそうとしている。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 今夜はもうこれで三回目だった。だが、とうていこれで済むとは思えない。

 熱い息をして束の間の衝動をやり過ごすと、森下翔馬はベッドの上で身を返して仰向けになった。ティッシュの中に包まれたまだ生温かいものが溢れ出す前に応援のティッシュをさらに何枚も取って股間にあてがい事後の処理をする。 

 もう慣れたもので、初めての頃のように肌着を汚してしまうようなことはなくなっていて、肌に付いた汚物も手際よく拭うとそれらを丸めてダストボックスへと放り投げた。

 普段ならその後は賢者タイムになって、あとはすっきりしてぐっすり眠れるはずなのだが、今夜はそれも長くは続かなかった。

 続くはずもなかった――。

 放出した先からもう次弾のチャージが始まっていて、その上このところ味をしめて欲深くなった青い体は、さらなる刺激を求めて既に蘇ろうとしている。

 

 食峰操祈――。

 

 彼女こそ、この半年ほどの間ずっと翔馬の心を占めて悩ませるこの上なく美しい女神、愛の化身だった。 

 その人のことを想うと、たとえ幼くても猛々しい雄性に火がついてしまうのだ。

 そして今日、さらに彼女についての、さらにいろんなこと♡――を、知ってしまった。

 広げられて赤みを増したみごとなまでに美しい秘密の谷間と、そのすばらしい匂いと味とを“思い出す”と、しびれるような興奮にまた股間のモノが鎌首を擡げてきてエラを張り、精気が吹き出しそうになってしまう。

「……あの人は裸になると、もっとずっとスゴいから……あんなに可愛い顔をしてるのにこんなにスゴい匂いがするなんてっ……スゴすぎるっ!」

 去年の夏の終わりに初めて彼女を目にした時のショック、その神々しいまでの美貌は、こんなにも美しい女性がこの世に居るのか、という鮮烈な驚きと感動をもたらしていた。

 白く整った顔のやさしげな微笑みと柔らかく心地のいい声音、清潔感のある石鹸やシャンプーの素朴な香り……そのどれもが強烈な忘れることのできない印象を、まだ幼かった胸に刻みつけていったのだ。

 その彼女が恋人らしき年下の男――自分といくらも年の違わないような少年に見えた――に抱かれて、彼の“目の前”で彼女の美しさの全てが何もかも奪われていくのをただ呆然として“視て”いた。

 とても美しい人であったその分、彼女が恋人の前でだけ見せる姿は常との落差があまりにも大きくてさらに衝撃なのだった。

 あんなにも綺麗な女の人が、こんな姿になるなんて!

 あんなことまでされているなんて!

 初めに感じたのは狂おしいほどの嫉妬、相手の少年への憎悪のような激しくも邪悪な黒い感情。

 一見、真面目そうな顔をしたその少年――後にそいつは食峰操祈が受け持ったクラスの男子生徒の一人で、密森黎太郎という名なのだというのを知った――は、とても貪欲で、操祈の肉体に対してどんなことでも自由にできることを翔馬に見せつけたのだ。

 大きく開かれた彼女の秘密に長くとどまっていた少年の歓喜の表情、あの日の午後、翔馬に優しく微笑みかけてきた彼女が羞恥に愛くるしい貌を耳まで真っ赤に染めて、瞳を愁いに潤ませて甘い声で啼きながら、豊満な白い肉を波うたせて肉欲の試練に幾度も呑み込まれていった。

 窓から差し込む午後の日差しの中に、きっと彼女のものに違いない秘密の分泌物が、長く続く淫らな口づけの合間に幾度も、弄ばれて鴇色に染まった神秘の花びらと少年の唇との間に糸を引いてきらりと輝くのを、翔馬は激しく心をかき乱されて、いたたまれない思いで凝視していた。

 しかもそれはまだほんの始まり、その日の陵辱劇のプレリュードに過ぎなかったのだ。

 見知らぬ少年がみせた彼女の密やかな肉への執着は、さらに翔馬を驚かせ恐ろしさに狼狽(うろた)えさせるものなのだった。

 そいつは操祈の神聖な肉体に対して、もっと大胆で淫らなことをしようとしていた。

 すぐ目の前のベッドの上で、彼女は獣のように四つんばいにされて、高々と差し出された豊麗な臀部の双丘が見えていた。非の打ち所のない真っ白な裸身に、どこまでも甘い曲線を描く二つの肉たぶ。もっちりと肉ののったお尻は触れると指が埋まるほど柔らかいのに、ヴィーナスのえくぼもくっきりと、ぷるんとしていて少しも形が崩れない。

 その美の極みとも思える創造物に対して、あろうことかその谷あいを少年の手はさらに分け広げようとしていたのだ。

 高貴な稜線の合間にちらちら垣間見える、無慈悲に露わにされていくものに翔馬の目も惹きつけられて釘付けになった。淡い色合いをした繊細な愛おしい姿に感動して心を奪われて魅入ってしまう。

 それはやさしい女神の美しくも哀しい秘密にちがいない。

 その時、ようやく翔馬もその少年の淫らな企みに気がついて、

 ダメだっ――!

 と、胸の中で叫んでいた。

 どうかやめて、彼女にそれだけはしないで、と祈るような気持ちで固唾をのんで見守っていたのだった。

 幼い倫理観からも、美しい女性が男にそのようなことを許しては絶対にいけないと思う。

 まして操祈のような特別な人が、卑しい人間に対してそこまで自身の弱みを晒していい筈がなかった。(よこしま)な欲望なんかに決して屈して欲しくはなかったのだ。

 おねがいです、イヤだって言って、拒んでっ――!

 だが、翔馬の切なる願いも空しく、そいつはそこにも当然のように顔を寄せていったのだった。

 それは最も遠く働きの異なる二つの種類の粘膜同士による接吻。前と後ろの、普通ではおよそありえない形のできごと、それがいま密着して一つになっていた。

 たちまち操祈の体に衝撃が駆け抜けて伏せた背中が弓なりになる。

「イヤっ! やめてレイくんっ!」

 きっとそれは彼女にとっても予期せぬ出来事だったのだろう、声を上げて恋人の非礼を詰って逃れようとしていた。

 けれども少年はそれを許さない。彼女の長い太腿に両腕をしっかりと絡みつかせてがっしりとお尻を捉えると淫らなキスから逃れられなくする。

 哀しい絶望の悲鳴があがり、やがて女は諦めたのか肘をついた両腕の間に頭を深く垂れて恭順の姿勢を示すようになっていったのだった。

 それから後は、彼女が仰向けになってされていたのと同じに、身を揉みながら時々堪えかねたように「はぁっ――」と、こぼれる熱いため息と、喘ぎとも悲鳴ともとれるせつなげな声、そして、ちゅくりちゅくりという淫らな音が奏でられるばかりになっていった。

 人にして人ならざる彼女の、ある意味でもっとも清らかな部分が、貪欲な舌にしつこく舐りとられて、慎ましくきつく結んでいたものがやがてはヒクヒクと(ほころ)んで、ついには指にまで襲いかかられて犯されていくのを翔馬は蒼ざめた顔でただ見つめていることしかできなかったのだ。

「ああ、イヤぁっ――」

 突如、哀切な声が迸り、操祈の肩口に緊張が奔って喉を長く仰け反らせて歓びを迎え入れる姿になった。

 少年の顔と接したまま、彼女のお尻がぶるぶる慄えだすのを目の当たりにして翔馬は激しく動揺する。

 まるで組木のように顔と体とがぴったりと一体化していて、いまどのようなことがなされているのか、翔馬にはただ少年の黒い頭の部分だけしか見えなかったのだ。

 それでも、こうしたやり方でもオルガスムスを迎えさせられた操祈の姿に、翔馬は強いショックを受けて胃の中にあったものを戻してしまいそうになっていた。

 美女の誇りを奪われて、純白の羽を毟り取られた痛みに彼女の大きな瞳からは哀しみの涙が溢れて、それは頬を伝って伏せた白い枕の上に落ちていく。

 ほんの小半刻ほどの間に、前ばかりでなく後ろまでも、彼女の清らかな部分の全てが汚されて見知らぬ少年のものにされていた。

 ベッドの上にはうつ伏せになって枕に顔を埋め、身を竦めて頼りなげにしている操祈と、この上ない美女の肉体を恣にして得意げにしている憎らしい顔があった。

 少年は荒淫の余韻も露わに、口の周りをぬめぬめと光らせている。

 奪う者と奪われた者、勝者と敗者……若い男と屈服させられた年上の女……。

 少年が部屋にやってきた時、仲の良い姉弟のようにも見えた二人、実は先生と生徒の間柄であった筈の二人が、今はっきりと立場を変えて添い寝をしていた。

「先生のはすごく美味しくて、お口の中がとろけてしまいそうなくらい……においもとってもステキ……ボク、あんまり幸せで、夢の中にいるみたいです……」

 少年は慰めるつもりなのかそんなことまで口にする。

 けれども、その言葉は女には少しも救いにはならないばかりか、残酷な物言いとなっているのにちがいない。操祈は終始、無言だった。頑なさには精一杯の拒絶と瞋恚が窺えた。

 それに何よりそうした散文的な表現は翔馬にとって堪えがたいものに響く。

「先生のカラダ、なにもかも想像していた通りにステキでした……いいえ、想像以上にもっとずっとステキだった……」

 少年の手が操祈の裸の背中を広く撫でながら言った。自分が仕留めた獲物に対してするような遠慮のない動きで、馴れた感じに彼女の体を自由に触れ回っている。

 見事にすぼまったくびれをなぞり、するすると駆け上った手はシーツの間に差し込まれて操祈の胸を探り始めた。豊満な横乳の肉が目にも艶やかに、はちきれんばかりに白く膨らんで、少年の手の中でやわやわと形を変えていく。

「夏休みが終わる前に、二学期が始まる前に、先生にはボクの気持ちをちゃんと伝えておきたかったから……」

 シーツとの隙間が少し広がって、操祈の胸の先が翔馬の位置からも見えるようになった。

 少年の指が豊かに広がった乳輪と、その真ん中の健気な尖りと戯れている。

「この世でいちばん大切な人に、ボクがどんなに大切に思っているかをわかって欲しかったから……だって、もう半年もしたらボクは卒業しないとならないし……先生と、もっとずっと仲良くなっていたかったから……」

「……だからって……あんなにひどいことして……わるい子よ、レイくんは……」

 操祈がようやく少年に応えて言葉を紡いでいた。髪を払って枕から顔を覗かせたが、まだ目の周りを真っ赤にしている。眩しそうに瞼を細めて、少年と視線が重なると胸を衝かれたようになって、また枕に顔を伏せて逃れてしまう。

 大人の女の人がこんなにも頼りなげになって、可愛い顔をするのはさらに新鮮な驚きで、翔馬の心を激しくかき乱していた。

「ひどいことですか……?」

「……いけないことよ……」

「どうして?」

「……どうしてって……そんなこと……」

「でも、先生みたいな綺麗な女の人は、いつかは経験することだから……」

「………」

「だから……それがボクでうれしいな……先生の初めてを、みんなボクのものにできて……すごく嬉しい……」

 操祈の肩が、ピクッと慄えて固さが緩んだようにも見えた。長い沈黙。

 やがて――。

「……あんなこと……もう二度としてはいけないわ……」

 お姉さんの声に戻って操祈は諌めるように言った。

「そんな……ボク、これからもいつだってしますよ……だってしたいから……先生のことが大好きだから……」

「……そんなこと言って……本当に、いけない子……」

 操祈はころんと身を返すと仰向けになった。恥じらいながらも微笑みを向けている。見事な乳房も、股間を飾る柔らかそうなふわふわのヘアも余さず少年の目の前に晒していた。

「……いい子だと思っていたのに……ウソつき……」

「ボク、ウソなんてついてません……ボクの気持ち、伝わらなかったのかな……先生に気持ちを届けたかったのに……ああするのがいちばん伝わりやすい方法だと思うから……」

「………」

「それに先生のカラダにいけないところなんてありませんよ、今日、ボクはそのことがはっきりわかりました……」

「……バカ……」

「ええ、そうですね……でも、先生のことを、ボクはどこまでも尊敬しています……」

 少年がまた操祈の体に覆いかぶさってきて、彼女は驚きに目を見開いた。

「まだ時間がありますから、時間を無駄にしたくないから……ボク、先生のカラダを抱き足りない……先生のにおいがもっと欲しくて……」

「レイくん……」

「先生が好きです……大好き……」

 また身を沈めていった少年は、今度は易々と操祈の両脚を肩に担ぐと、露わになった濡れた黄金色の草むらの中に顔を埋めていく。

「ああっ、レイくんっ……」

 操祈も、もう少しも拒もうとはしないのだった。全てを投げ出すようにして身を仰け反らせると脚を大きく開いていた。

 再び淫らな、けれども深い愛情と信頼に結ばれたものにしかできない愛の形になる。

「……愛してるわ……レイくん、わたしもあなたのことが大好きよ……」

 体の作りだす感覚に喘ぎながら操祈も少年への思いをうったえて、翔馬の胸を無慈悲に刺し貫いていた。

 レイと呼ばれる少年が、どのようにしてこのような幸福を、この上ない肉体的勝利を得たのかは知らない。だが、どんなにひどいことをされても彼女が相手の少年を怒ったり憎んだりしないのは、それほどまでに心を開いているからに違いなかった。

 だから自分だけのものだったプライベートを、ありとあらゆる秘密を、それが彼――のものにされていくのを許したのだ。

 女の隠し所の全てをくまなく詳らかにされてすっかり従順になった操祈は、もうどんな愛撫も強くは拒まなくなっていた。そして最後には自ら体を開いて、求められるままに少年の顔を跨ぐようなことまでするようになっていったのだった。

 意外だったのは少年が男の行為を求めなかったこと。

 長くそそり勃たせたものを見せつけながら、それだけはせずに去って行ってしまった。

 だがそれがかえって翔馬が件の少年――密森黎太郎――を激しく憎むことに繋がっていたようである。

 そいつの関心は、ひとえに彼女の体の仕組みと成り立ちを極めることに向けられているように思えたからだった。

 そして事実、彼は女神の体から神秘のヴェールを剥ぎ取って、大切に匿され、守られていた神聖なもの全てに自分の手垢をつけ唾液で汚していったのだ。

 アイツはみんな知っているんだ……。

 あの人の体の隅々まで、本人ですら知らないことだって……。

 それを想うと、強い嫉妬に気が変になってしまいそうになる。

 その上、彼女を思うさま陵辱していった恋人が去ってから、ひとりになった女の姿が寂しげで、また一段といじらしく、憔悴しきった翔馬の心をさらに傷つけていた。

 全裸でベッドの縁に腰をかけて、しばしの余韻、途方にくれた容子になって……。

 情事の間、強いられていた時とは違って慎ましく揃えられた両脚、お行儀良くならんだ形のいい膝小僧を見ていると翔馬の目に涙が浮いてきて視界が潤んでくる。

 体と心の変化を受けとめようとしているように物思いに沈む表情、長い金髪が顔にかかって胸を打つほど美しかった。

 人の世に堕ちた悩める女神そのものだった。

 たったいま目にしたばかりなのに、こんなにも尊い女の人があんなにも酷いことをされていたというのが信じられなくなってくる。

 みんな悪い夢だったらいいのに――と、願わずにはいられなかった。

 セックスというものが時に女の一生にとっての大事であり、とりわけ最初の経験は、その後の人生を変えてしまうような大きな出来事になるのを今の翔馬は知っていた。女の心と体に精神的にも肉体的にも消えない爪痕を遺していくものだというのを。

 そのことをあのイヤらしい小僧――は良く心得ていて、操祈を性的倒錯へと誘おうとしていたのだ。そして事実、目論見通りにその企みはまんまと成功していた。

 そんな特別な場面が、女の運命を変えてしまうようないとなみが、ほんの一時間余りの間に翔馬のすぐ目の前で演じられていた。

 操祈が少年の望み通りの姿に変えられて、少年の色に染められていくのを見せつけられて、敗北感と喪失感に打ちのめされていた。

 しかも彼はその後になって、そうなる前の、まだ彼女の体が取り返しのつかない経験をするほんの少し前の食峰操祈と出会って、彼女の魅力にさらに強く心を動かされることになるのだが、その時には自分が“目撃”していたことが、それが間もなく実際に彼女の身に起きることになるのだとも知らずにいて、それを後になって気づかされることでさらに手酷く心に傷を負うことになったのだった。 

 こうした因果の逆転こそが、先行透視――の奇妙なところだった。

 ただの白昼夢で終わってくれればどんなに良かったか――。

 胸に受けた衝撃の大きさは計り知れず、その後、暫くの間、翔馬はまともな精神ではいられなかったのだ。

 操祈のことを思うたびに、彼女の体を知悉する少年の存在を意識してしまい、そいつの唇や舌、鼻が、彼女の密やかな部分のあらゆるにおいと味とを知りつくしていることを想って、喪失感による強い焦燥感から脂汗を流して悶絶することになる。

 彼女への憧れが増すほどに、嫉妬の感情は翔馬の心を深く抉って切り刻んでいた。

 繰り返される打撃に心の一部が蒸発して、草一本生えない不毛の焼け野原になったようだった。

 そう――。

 確かにその一件によって森下翔馬は心のある部分を喪失したのだ。

 それは彼の子供時代の終焉を意味していた。

 ただその結果として、この時のショックが今につながっているのだとしたら、それも良かったのかもしれないと、自分を取り戻した翔馬は思う。

 強い精神的打撃は彼に力――の覚醒とさらなる能力の成長とをもたらしていたようだったからだ。

 今、彼が持っているとされる特殊能力は、遠隔視、透視、未来予知、そして先行透視……。

 いずれもレベル2以上、特に最初に発現した能力である先行透視は目に映るものの明瞭さ、精緻さだけを言えば既にレベル3に迫る水準にあった。

 冬の間に参加した学園都市で行われた能力者育成キャンプでは、翔馬の指導にあたった白衣姿の指導員から、先行透視というのがいわゆる予知とは少し違うというのを教えられていて、予知の場合は観察することによって未来が影響される場合があるが、先行透視はけして影響を及ぼすことがないのだという。

 その代わりに未来に介入することもできないのだ、と。

 視え方も、予知の場合はイメージ、映像が頭に浮かんでくる、という程度のものだが、先行透視はもっと明瞭で、翔馬の意識だけが未来に跳んで、その場で起きる出来事を予め経験してくる、というもの。

 “視る”というよりも、意識跳躍による予体験といえる。

 そして翔馬があらかじめ“体験”したものは必ず現実になる、つまりは必然ということだった。

 ただ、今も制御不能の力で、それが何時、何処で、どのようにして発現するか彼にはまだわからない。今のところ判明しているのは、ある場所の二十四時間後をその時空に対していかなる干渉もできない形で先行的に体験する、ということ。

 ちょうどあの日、食峰操祈たち二人が居たホテルの一室でのできごとを覗き視た時のように。

 透視能力についてはキャンプでは過剰に反応されて、その結果として能力を抑えるために鬱陶しいネックレスまでさせられることになり大層、不便を感じることになってしまったが、能力自体は人から疎まれるほどのものではなかった。

 例えば女子の連中が懸念していたように、女の子の裸を透視しようと思えばできなくはなかったが、それには一定の距離――せいぜい数メートル程度だろう――で何分間も集中して対象を凝視し続けなければならず、凡そ現実的なものではなかったのだ。

 一方、未来予知と遠隔透視は、多少、実用性もあって、関連する何らかの鍵となるアイテムなどがあれば、それを媒介させることである程度、意識的に視る確率をあげることができるようにもなっていた。

 たとえば食峰操祈の写真が手許にあれば、それを手がかりにして五回に一度ぐらいは彼女が現在居るところを当てることができるくらいまでに。

 こちらの思いが強ければ強いほど確率が増して、より遠くまで見通すことができる感じ。

 仮にランダムならかなり正確に遠方の映像を受け取ることができるようだが、どこかもわからない場所を視ることができたとして、それにどれほどの意味があるかはわからなかった。

 また予知については、見えたビジョンが現実になる確率は半々くらい。当たるも八卦当らぬも八卦では賭け事などには使えそうもない。しかしもしも悪い未来が見えたとしたらそれを避けるためのモチベーションを持つ契機となり得て、そういう意味では使い出がありそうなのだった。

 だが何より、今の翔馬がいちばん能力の成長に期待をかけているのは、記憶共有能力――だった。

 それはごく最近になって覚醒した翔馬の最も新しい力で、少しサイコメトリ能力に似ているのかもしれないが、他人の意識や記憶を覗いたり複製したりできるものだ。

 それをするには対象との物理的な接触が必要なのだが、上手くすると相手の心のなかにあった情報――即ち記憶――をかなり正確に写し取ることができるのだ。

 例えば、こちらが未見の映画を、既に映画を見た対象者の経験をコピーすることで、二時間あまりの情報を、一瞬とまではいかないがそれよりもはるかに短い時間で自身の経験に変えてしまうことができる、といった具合。

 何かを学習するなどの際には非常に強力なチートツールとなるに違いなかった。

 ただ、あくまでもそれは理想的にはということで、事はそれほど簡単ではない。感覚としては接触した相手の心の中に自分の意識だけがダイブするようなもので、相手の心の大海を漂いながら、獲物を探して竿を下ろして釣り上げるという、まさに何があたるか釣り上げてみるまでは判らないフィッシングだったからだ。

 そんなやり方をしていては時間がいくらあっても埒が明かない。

 大体、そんなに長く物理的な接触ができる相手は限られるし、短いアプローチででできることはさらに知れていた。

 要するに課題は、個人の記憶という膨大な情報から、いかに効率良く必要な情報を吸い上げられるようになるかということ。目指す魚群を見つけたらトロールでごっそり一網打尽、根こそぎにしてしまえるようなやり方をしないことには大した稼ぎにはならないのだ。

 もっとレベルを上げないと――。

 計画――を、実現するには、少なくともレベル4以上の能力が必要になると思う。

 自分にどこまで伸びしろがあるのかはわからない。

 ただ、学園都市にはそうなるための手っ取り早い方法もあるらしく、新学期が始まって常盤台に通えるようになったら、まずはその方法の調査に取り掛かろうと思っていた。

 そんな折、今日は予期せずとても大きな幸運が舞い込んできたのだ。

 あくまでも偶然、どこまでもビギナーズラックのようなものだったのだろうと思うが、

 でも、得られた――!

 実に素晴らしい“経験”――だった。

 それによって翔馬は密森黎太郎に対する憎悪や嫉妬の感情の多くをある意味で昇華することができたのだから。

 狙いが上手く運んだのは相手がこちらを知らなかったことと、外部の小学校のランドセルを背負っていたことで無警戒だったこともあったのだろう。

 だから今日の午後、家路につく途中の京王線の車内で彼――の姿を見かけた時、さりげなくロングシートの彼の隣に座り、大判のマンガ雑誌を読んでいるふりをしながら相手の指先に自分の手の甲をずっと触れさせてみたのだった。

 新宿までの三十分ほどの時間を使って彼の意識にダイブして、可能な限りコピーをしたのだが、得たものの大半は取るに足らないものばかりだった。

 たとえば友人たちとのクダらないおしゃべりの記憶や、いつのことか判らない昼食に食べたレストランのハンバーグ定食があまり美味しくなかったこと、試験勉強中のことなのか、かなかな解けずにいた問題に頭を悩ませていたことなど……。

 しかし、たったひとつだけ見事な獲物を手に入れることができたのだ。

 それを見つけて自分のものにした時の興奮と感動は、きっと彼――密森黎太郎本人が感じたものに比べても優るとも劣らなかっただろう。

 翔馬は歓喜と強烈な性衝動で、穿いていた半ズボンに黒っぽい染みが浮いてしまうほど、車内でありながら何度も暴発させてしまっていた。

 そしてそれは今も翔馬にとって最も貴重な“経験”となっていた。

 “思い出す”だけでなんどでも際限なく蘇り、口中豊かに唾液があふれてくる。

「あんなにいろんな味がするなんて……」

 翔馬はまたすっかり怒張したものにティッシュを何枚も巻きつけて、手で慰め始めた。

 しょっぱかったりするだけではなく、舌を伸ばして奥へ進むと酸っぱく感じたり、また苦味を感じたりもする場所もあるのだった。

 こんなにもいろんな味がするなんてびっくりだった。

 どんな蜜よりも甘い、まさに味覚のパラダイスだ。

 それに……。

 あの人のダイジなところって、あんなニオイがするんだっ――!

 あんなにも可愛くて綺麗な女の人なのに、まるで女神さまそのものなのに、でも凄く豊かで強いニオイがするっ!

 多分に民族的、遺伝的なものなのかもしれないが食峰操祈の体臭は、きっと濃いタチだったのだろう。

 少なくとも早川奈美や藤本絵美梨のものとは違っていた。

 絵美梨のものはまだ十二歳ということもあって鋭角的で青い感じだったし、早川奈美のような複雑に熟れた感じとも少し違っている。

 食峰操祈のは、もっと多くのいろいろな香りの成分が含まれていて、でも未熟な若々しさもあって、それがまた興味をそそるのだ。

 それにトロッとした粘りのある温かい体液の量の多さも、三人の中では飛び抜けていた。

 ちょっとしょっぱい味わいが口のなかに溢れてしまいそうなほどたっぷりで、それをあの少年――密森黎太郎――がどれほど好んで歓んでいるかも良くわかったのだった。

 舌で尖りを包んだ時のせつない声で許しを請う彼女は、あの人があんなにも頼りなげで可愛い声を発するのかと、愛おしさに胸が痛くなるほど。

 その艶やかな記憶の断片は、何度繰り返してもけして倦むことはなかったのだった。その都度、翔馬の体を激しく興奮させていきり立たせずにはおかずにいる。

「ああ……操祈さん……可愛い……」

 翔馬はまた左手をせわしなく上下させながら、四回目の精を放った。

 多分もうあと数回、これをしておかないと今夜はとても眠れそうにないと思う。

 本当に彼女の事を考えると、尽きることなく情熱が沸騰してしまう。

「こんなに綺麗な可愛い顔をして、あんなにスゴいニオイをさせてるなんて、夢中にならずにいる方がむりだよね……操祈さん……」

 スマートフォンのディスプレイに、優しく微笑む操祈の写真を表示させて翔馬はひとりごちた。

「あいつの記憶を全てものにできたら、君はもう僕の恋人になったのと同じだよ……だって今でも僕はもう君の体のこと、あいつと同じくらい良く知っているんだから」

 操祈が密森黎太郎からもっといろんなことをされているのを翔馬は知っていた。

 だから知るべきことはまだまだいっぱいあったが、それでもいつかはみんな自分のものにできる。できるかもしれない。

 そう考えると、なんだか胸がわくわくしてくるのだ。

 長く憎んでいた密森黎太郎の存在も、邪魔というよりも自分たちの仲を取り持つための装置、とでも考えると気持ちにも余裕が生まれてきていた。

「春になるのが楽しみだな……僕は君の恋人として、君の生徒になるのだから」

 翔馬はディスプレイに表示された操祈の気高い鼻筋を指でなぞって

「君は僕のものだ……絶対に逃さない……」

 口の端には十二歳の児童には不似合いなV字の笑みが浮かんでた。

 




誤記の修正をしました

申し訳ありませんでした


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愛の森の彷徨い人たち

「みっ、見ないでっ! そんなところばっかりっ……あっ……はうっ――」

 美由紀の背後に屈んで、彼女の片方の脚に腕を巻きつけてしっかり抱きとるようにしていた男の舌に、あいせつな急所を捉えられて美由紀の背中がクンッと(しな)り、白い尻肉を引き攣らせるようにして戦慄(わなな)かせる。窓についた両手の指が、何かを掴もうとするように力が込められていた。

 冷たく澄んだ強化ガラス製の壁の外には大都会の夜の街並みが一望できて、足元には赤坂御所、神宮外苑そして新宿御苑、少し離れて代々木公園が見えている。他にもところどころ光の海に浮かぶ小島のように暗いスポットが浮かんでいた。

 四谷、午後十一時すぎ――。

 七十三階にあるセミダブルルーム。

 リッツ・オータニ・グランドタワーはこのところ美由紀と俊介が定宿としていて、シティホテルと比べるとさすがに料金は嵩むのだが客のプライバシーが守られやすいことから、週末、仕事帰りに落ち合うのにはとても都合が良いのだった。

「そこはイヤっ……それ、本当にイヤなのっ斎藤くんっ……」

「もう先輩にはナンにもイヤだなんて言わせませんよ、ここしか僕に残しておいてくれなかったんですからね、だからしっかりいただかせてもらいます」

「そんなっ……」

 灯りを落とした薄昏い部屋で、黒い鏡面のようになった窓には街あかりに照らされて、全裸に剥かれた美由紀の全身が映し出されていた。

 四肢の長いファッションモデルのような体型をしていながら、両の乳房は量感もみごとな美しい曲線を描いていて、それは今、哀しげに先を尖らせている。

 男からは避けたい口づけをされて悩ましげに伏せられる端正な顔。甘く淫らな誘惑から逃れようと、時に豊かな長い髪をうち振って堪える姿には、一流の美女ならではの被虐美が匂いたつ。

 大学の後輩であり職場では部下でもある斎藤俊介は、セックスの場面でだけは(まつろ)わぬ存在になっていつでも彼女をリードしていた。

 このようなアブノーマルなプレイも、俊介と出会う以前の美由紀は当然、未経験であり、嫌悪を感じこそすれ嬉しいはずも無い――そう思っていたのだが、この若い牡は彼女の想像を越えたテクニシャンで、女体に隠された致命のボタンを探り当てると男と女の立場の違いをイヤというほど思い知らせてくるのだ。

「あぁっ、だめっ――」

 前からは(つよ)い指に迫られて、逃げ場を失った美由紀の体はただ男の愛撫に翻弄されるばかりになるしかないのだった。

 視界が焦点を失って、彼女の眼下に遠く遥かに広がる家並み、ビル群の灯火がいつしか地平線と溶け合っていき、眩いばかりに星辰の瞬く銀河に身を投げ出しているような浮遊感に包まれていく。

「ああ……斎藤くん……」

「気持ちいいですか?」

「……ん……ええ……」

 か弱い部分を舌と指とで優しく弄ばれて、体が飛躍に備えて身を竦ませていた。歓びに腰から力が抜けて萎えてしまいそうになるのを、股間を潜って胸にまで伸びてきた男のたくましい手と腕が支えている。

 愛撫が進むと美由紀はいっそう従順になるのだった。結局、男の剛い腕からは逃れられない、そう思うことでそれがさらなる見知らぬ歓びへと繋がっていく。

「あはぁ……いいっ……いっちゃうっ……あたしっ……」

「おっと、それはイケナイなぁ、そう簡単にイカせてはあげませんよ」

「えっ――!?」

 もうあと少し、というところで愛撫を中断されて、欲求不満とめくるめく陶酔への期待との間で心も体もみくちゃにされてしまうのだ。そんなどっちつかずの状態へと追いやられて、男の腕に軽々と抱き上げられて窓際からベッドへと運ばれたときには、美由紀にはもう抗う力はなにも残されてはいないのだった。

 羞恥と体の感動に顔を赧らめつつも、肉の歓びの酔いがまわり始めたつぶらな瞳を切なげにして、情の深い陵辱者となった男の顔を見つめる。

「とてもきれいですよ……本当に誰よりもきれいだ……」

「………」

 実際、森下美由紀は美しかった。

 この春には三十七、世間ではアラフォーと言われる年齢になるのだが、愁いを含んだ美貌は少しも衰えを感じさせないどころか、大人の女の落ち着きを備えることでかえって魅力に磨きがかかったようだった。

 長い睫毛に縁取られた黒目がちの大きな瞳、柔らかにナチュラルウエーブのかかったロングヘア。スレンダーなボディには不釣り合いなほどの豊かな胸が、たわわな肉感も露わに、バストトップの位置が重みでわずかに下がってきていることを除けば、清潔感のある面ざしとともに未だ女子大生と言っても誰も疑わないくらいに若々しさと瑞々しさを留めている。

 それが女の扱いに慣れた手練れの恋人に抱かれて、それまで知らなかった濃密な経験を重ねて、恋をすることでさらに白い肌が艶っぽく輝いていた。

「じゃあ、またこのあいだの続きをしよう」

 続き――と、言われて美由紀の表情が当惑に陰った。

 女にとって歓びと哀しみの舞台となる恥辱のベッド、そこで彼女は新しい自分と巡り合うための準備を少しずつ進められているのだった。

 初めはとても小さなものから――。

 けれどもそれは望まない調教であり、屈辱的な開発と言えるもの。それでも忍従しているのは、もう逃れられない、という諦めもあったが美由紀が本気で男を愛してしまったからでもあった。

 愛するがゆえにたとえ女の誇りと尊厳を奪われても、どんなことをされても、もう拒めなくなってしまったのだ。

 俊介から求められて「ノー」と言って撥ねつけ続けるだけの勇気をすっかり失っている。

 代わりに彼女がしがみついたのは、辱めの悔しさを埋め合わせて余りあるほどの恋の歓び。

 三十路の半ばを過ぎて初めて知った官能の極み、性愛のもたらすオルガスムスは、ひとたび味わってしまったら、もうそれ以前の自分には戻れなくなってしまうほどの甘美な経験なのだった。

 恋とは、まるで麻薬のように女の脳と心を蝕む禁忌の秘儀。

 貞淑な妻であり賢い母であった慎ましい美女が、哀れな生身の肉人形になることを選ばずにはいられなくする淫らな性技の誘惑。

 肌を許してからわずかの間で、美由紀の心と体は男の望むように作り変えられていた。

 煌々とした照明の下で(ひろ)げられ、花びらの一つ一つを執拗に捲り返されて、襞と襞の合間、肉うろの奥にまで無慈悲な光を注がれて。

 肌を合わせる度に、そこを念入りに(あらた)められて調べ尽くされて、的確に痛いところを愛されるようになって、同時に要求のハードルもどんどん上がっていったのだ。

 拘りの強い俊介は貪欲に美由紀の体を求めて、より淫らで背徳的な、抵抗感の強いプレイへと引きずりこんでいったのだった。

 悩ましい玉子を入れられて恥ずかしい体液を採集されたり、直にノギスをあてられて前後の大きさの変化を測られたりと、彼女自身が知らなかったこと、知りたくも無かったことまで今では詳らかにされてしまっている。

 そして――。

「今日はね、フィンガーエロンゲーターっていう小道具を持ってきたんだけど、きっと気に入ると思いますよ。“数珠”なんかよりよっぽど気が利いてるから」

「イヤよ……本当にイヤなの……ああいうことは……」

 あられもない姿になってひとつひとつ入れられるのは、女にとってのこの上ない辱めなのだ。そのうえ取り出される時はさらに惨めな気持ちにさせられる。

 美由紀は俊介の股間にそそり勃つ猛々しいものに怯える視線を送って慈悲を願った。けれどもその思いが彼にはもう届かないことも彼女には良く判っているのだった。

 ひとたび裸に剥かれて肌と肌とを接するようになった時、そこでは年の違いも社会的な上下関係もなくなって、ただ男と女という自然の掟、神の摂理しか通用しなくなるからだ。

 男の前ではどこまでもか弱い性である女は、慈悲にすがって相手を信じて愛される存在。哀しくてもそれが女の生きる道であり、歓びへの近道でもあった。

「心配しなくていいですよ、先輩の体の準備がしっかり整うまではしませんから。その前にやりたいことはいっぱいあるし」

 俊介がそそり勃ったものを誇らしげに軽くしごいて、ベッドに上がるやすぐに覆いかぶさってくると、美由紀は本能のままに自ら体を開いて迎え入れようとしていたが、だが男には別のたくらみがあるらしく、すぐに体を一つにしようとはしてくれないのだ。

 両手を掴まれて頭の上に導かれる。身を守る術を奪われて、豊満な乳房が男の大きな手に包まれて白い肉をさらに白く輝かせて、はちきれんばかりに盛り上がっていた。

 乳暈もバストサイズに見合って見事な拡がりを示していて、清楚な顔立ちとのコントラストを際立たせてより一層、官能的に見せている。

「こんなに綺麗な体を、ずっと何もしないで死蔵させておくなんて……もったいない……旦那さんが僕みたいな男じゃなくて本当に良かった……」

「………」

 美由紀の過去のセックスライフについて俊介は強い関心を示していて、繰り返しなんども訊かれていたのだった。

 初体験はいつだったのか、肉体関係を持った男の数、経験した全ての体位や、どんなことをされて、どこをどのように愛されるのが好きか、など。

 愛撫の合間に、セックスの最中にしつこく問いただされて、結局、心も体も挫けるかたちで打ち明けざるをえなくなっていた。

 そうしないとご褒美を与えては貰えないからだった。それほどまでに俊介の女体の扱いは巧みで、彼女がその時いちばん欲しているものを見つけるや、かえって腕を高く差し上げて、美由紀が伸ばした手から遠ざけてしまう。

 じっくりと時間をかけられて心と体のわだかまりを剥ぎ取られ、欲しくて欲しくてたまらなくされてから、今度はなかなか与えようとはしてくれない。それはほとんど拷問と言ってもいいような残酷なお仕置きになっている。

 こうして根負けしたあげく甘い果実と引き換えに美由紀は自分だけの秘密を失っていったのだった。

 (男性との)キスは夫が初めてであったこと、処女を失ったのは結婚後であったこと、セックスはノーマルでオーラルセックスは未経験だったことなど。

 美由紀の体が舌技を知らないということは、俊介をひどく悦ばせて逆に彼女を後悔させるものとなっていた。好色な本性を隠さなくなった男の愛撫は、経験豊富とは言えない女体にとっては毒になるものばかりだったからだ。

 全身をしゃぶられつくしてから、もうそれまでの自分でなくなってしまったことを鈍い敗北感と喪失感とともに思い知らされていた。

 あろうことか男の口の中で果ててしまうというのは、セックスを交わりとしか捉えていなかった美由紀にとっては激しいショックで、強い羞恥とその代償ともいえる歓びの大きさに自分があらためて、後輩と越えてはならない一線を越えてしまったことを認めないわけにはいかなくなったのだ。

 たった一度の過ちのつもりが、どこまでも堕ちていくきっかけとなってしまった。

 社の同じフロアーに、体の隅々まで知り尽くしている相手が居る、というのは俊介とそうなる以前に美由紀が覚悟していた予想を超えて特別なもので、二人の関係に決定的な変化をもたらしていたのだ。

「きみが肌を許したのは本当に旦那さん一人だけだったの? だって先輩みたいな美人、言い寄ってくる男はいくらだっていたはずだから。僕なら絶対に放ってはおかない」

「……だって、高校まではずっと女子校だったし……それに進学校だったから、脇見をしている余裕なんてなかったのよ……」

「でも大学ではそうもいかなかったでしょ? 卒業までバージンを守り通すなんてウチじゃなかなか珍しいから。叡智は積極的な奴が多いし、特に女子はブランド力もあって学外の男からも人気があるからさ」

 たしかに学生時代には同級生、先輩後輩を問わず、サークルでもゼミでも、またアルバイト先でも言い寄ってくる男は少なからず居たし、実際、貞操の危機的状況に追い込まれたことも一度だけではあったが遭遇していたのだ。ただ仲のいいクラスメートの女子が機転を利かせてくれて難を逃れることができたのだったが――。

 その時の友人こそが誰あろう亡き夫、翔悟の妹であり彼と引き合わせるきっかけをつくってくれたマホリン、こと森下真保里だった。

 人の縁とはつくづく不思議なものだと思う。

「特にきみみたいな美人は……なんといってもうちの準ミスだったわけだし……でもなんできみがクイーンじゃなくて準ミスだったりしたんだろうな? 当時の選考に参加した連中の目は節穴だったんじゃないのか?」

「………」

「……そうかっ、うちのミスコンには水着審査がないからなぁ、だから誰もきみのおっぱいがこんなに巨っきいってことに気づかなかったのか……僕だって裸を目のあたりにするまで、これほどとは分からなかったくらいだし……もの凄くうれしい驚きだったよ……」

 乳先を含んで舌で愛らしい尖りを擦りながら言う。

「ブラのカップサイズは? 九十のFってところかな? それともG?」

「………」

「教えてよ、きみに下着のプレゼントをするのに知っておかないとならないから」

 しつこく迫られて、仕方なく

「……今つけてるのは……たしか、E70の筈よ……」

「あれ、そいつはどうかな……ちょっと下にサバ読みしすぎじゃない? さすがにこのおっぱいがEなんていうファミリークラスの上限ってことはないと思うけどな。きみのはワールドクラスだからさ」

「……ワールドクラスって……もう、なんの話をしているのよ……」

「実際、きみのはスミソニアンかMOMAに常設展示してもいいくらいの完成度だと思うよ。もちろんアヴァンギャルドではなくてね」

「………」

「細っそり着瘦せするから緩めの服だと騙されちゃうけど、多分アンダーは一つ下のサイズのものの方がフィットする筈だよ……だとすると六十五のGとかHってところかな? みたところトップは九十くらいありそうだから」

 若い時はたしかにそれぐらいだったのかもしれないが、出産を経験して年齢を重ねてからは肌のうえに痕がつくほどのあまり窮屈なのも嫌で、サイドは緩めにしてホックで調整をするようにしていたのだった。だが女の事情に通じた俊介はすぐにそれを看破してしまう。

「強く抱くと折れてしまいそうなくらいなのに、おっぱいはこんなに大きいんだから、きみはなんて罪作りな体をしてるんだろうな……それなのにきみの旦那さんだった人は、ろくに面倒も見てくれなかったなんて信じられないよ……」

 亡夫の翔悟はエンジニアというよりも学究肌の人物で、出会った時から浮世離れしたところのある、どこか枯れた印象のある青年だった。

 痩身でひょろりと背が高く、申し訳なさそうにやや猫背になって歩くところも、彼女が知る他の男たちとは違っていて興味がわいたのだ。

 凡そ俗事や見栄、体裁といったことには拘らない性格で、好きな研究さえできればハッピーという最果ての理系オタク。

 せっかく会社からあてがわれた通勤用の高級車も、メンテを兼ねて乗りまわしていたのは専ら美由紀の方で、翔悟は論文を読んだり書いたりできるのであれば移動手段はなんでも構わなかったらしく、ラグジュアリーな装備にもほとんど関心を示さなかった。

 幼い頃から彼を知る男友達の言葉を借りれば、冗談交じりに「もしかすると冷蔵庫の開け方も知らないのではないか」とのこと。中高六年間、起居を共にした宿舎では、チャイムが鳴らなければけして食堂にやってくることは無く、仲間内では「館内スピーカーが壊れたら奴はきっと部屋で餓死するんだろうな」と噂されていたともいう。

 仙人みたい――。

 大学入学以来、周りに居合わせた、常に自己アピールに情熱を傾ける牡たちとは違う文化、空気を纏った二つ年上の男に感じた物珍しさ、好奇心はいつしか淡い恋心へと傾いていた。

 むしろ美由紀の方が積極的だったのだろう、またそうしなければ結婚することもなかっただろうし母にもならなかったと思う。

 思う……。

 ここで美由紀の気持ちはいつも停止せざるをえないのだ。夫の胸の内はこちらが想像するしかなかったからだった。

 本当に不思議な人だった――。

 実のところ、自分が夫から必要とされていたのか今も良くわからずにいる。

 夫が父親として息子の翔馬のことを愛していたのは判るが、自分のことを女として見てくれていたかどうかは、とうとう謎のままだった。

 愛されていたとは思うが、それはあくまでも家族としてであって、恋というものとは違う……違っていたのではないか……そんな気がしている。

「……あの人は、もともとそんなに強い方じゃなかったから……貴男とは違うわ……」

「でもきみのファーストキスの相手で、処女も捧げたんだろ……悔しい……本当はみんな僕のものになる筈だったのに……」

 口惜しげに言う俊介を前に美由紀はため息をつく。

 生殖ではなく恋愛感情の発露としての肉体関係という意味では、美由紀にとって俊介が初めてのパートナーといえるものだった……かもしれないからだ。

 だからヴァージンを失った時よりもセカンドバージンを奪われた時の方が喪失感は遥かに大きかった。けれどもそう感じてしまうのがとても罪深いことに思えて彼女をさらに屈折させている。

 男にリードされて、手取り足取り性の手ほどきを受けることの驚き、目醒しさ。

 女の身の弱さと脆さを思い知らされている。

 これがセックス――!?

 男の人に抱かれるって、本当はこういうことだったのね……。

 それとも、この人が少し変わっているのかしら……?

 俊介が彼女の肉体へと向ける関心と興味は、とても女の口からは言えないようなもので、どこまでも執拗で容赦というものがなかった。

「もしも人生をやり直せるのなら、今度こそ絶対に誰よりも先にきみを見つけ出して、みんな僕だけのものにするから」

「もしそうなら……今頃、貴男はとっくに別のもっと若くて綺麗な女の子に夢中になってるわ……こんなおばさんなんか相手にしようなんて思わない筈よ……」

「きみは本当にそう思いますか?」

「これまでだって、いろいろな女性とお交際あいしてきたでしょ? そうだわ、法務の栗田さんとか……」

 実名を口にしてから、何やってるんだろうと後悔したが、言ってしまった以上はもう後戻りは利かない。

「栗田さん? ああ、あの子か……」

「綺麗な子よね……」

「たしかに彼女とは何回かデートをしたけど、それだけだよ、別に本気じゃないから。それにあっちにも本命の彼氏がいるみたいだし」

「あら、そうなの?」

「そうさ、僕が本当に好きになったのはきみが初めてだから」

「嘘……」

「ウソなもんか、もしもきみともっと前にちゃんと出逢っていたら、そして僕の恋人で妻になっていたら、今頃はしがないサラリーマン編集員なんてしてないと思うな。天才作家と呼ばれて文壇の寵児になっているか、それともビジネスで大成功して巨万の富を築いているか……」

「……?!……」

「男にとってミューズを自分のものにするっていうのはそういうことなんだ……人生の全ての幸いを携えてきみは今、ようやく僕のところへやってきてくれた……」

 男の瞳には少年のような真摯な色が窺えて、偽りやお追従を言っているようには見えなかった。だがそこに美由紀はかえって気詰まりを感じてしまう。評価があまりにも過大で、やがて迎えるだろう揺り戻しが怖くなってくる。

 ただ、それならそれでも構わなかった。

 彼が思いを遂げて満足するのなら、自分の存在がその助けとなるのであればそれで十分で、その後でどうなろうと、それは今頃になって恋に溺れたこちらが悪いのだから、罰を受けるというのならそれも仕方がないのだ、と。

「ねぇ、斎藤くん……貴男はあたしの歳を知ってるわよね? 再来月には三十七よ、もう立派なおばさんだわ……こんなおばさんにミューズなんて言葉は重たすぎるの……あなたが私を玩具にしたいというのなら、それはそれで仕方ないけど……」

「僕にはきみの体をオモチャにしているつもりはないですよ……やっぱりそんな風に思ってたんですね……」

 生真面目な顔で詰め寄られて、美由紀は俊介の意志的な眼ざしを逃れて横を向こうとする。だが、男の手がそれを許さない。(おとがい)に指がかかって唇を奪われると、たちまち舌と舌を絡めてのディープキスになった。

 俊介の口許が他ならぬ自身の移り香を纏っているのを感じて、美由紀の胸がまた妖しく高鳴り始めた。

「例えば……」

 強い意思を感じる手が腰に掛かかると、グイッと寝返りをうちながら体位を入れ替えて美由紀を上にする。男の体にまたがる形になって熱く固いものが太腿の間で猛々しく押し返そうとしていた。その貪欲な逞しさは女の体には無いもので、それはもう何度も彼女を挿し貫いて女の儚さを教えた憎らしいものだ。

 美由紀は瞳の色を懸命にして男に意志を問いかけた。腰を浮かせば、それはたちまち強靭なバネのように跳ね上がり、すぐにでも中へと誘うことができそうなのだった。

 だが俊介は微笑むばかりで逆に彼女の腰に腕を回すときつく抱きしめるようにする。そうしてから空いている手で最も触れられたくないと思っている場所へと指を伸ばしてくるのだった。

「いっ、イヤっ!」

 不意に再開された陵辱に美由紀は焦るが、開かれたそこはあまりにも無防備で、そのうえ腰をがっしりと抱き取られていては、たとえ腕を伸ばしても届かず、男の手を払いのけることも身を守ることもできずに、ただ男の指にされるままになっているしかなかった。

 中を窺おうと不穏な動きをする指に、既に愛撫をされていてほぐれかけていたそこは、たちまちのうちに口を開きかげんにしてしまっている。

 またあのイヤなことをされるのでは、と必死に身構える美由紀に、下にいた俊介は優しい顔をして見上げていた。

「おねがいよ、やめて……本当にイヤなの……しないで……」

 美由紀の瞳に悔し涙が滲む。

「きれいだな先輩は……きっと先輩は、僕がこういうことを誰に対してもしてると思ってるんですよね……」

 相手はとりわけ淫らなことをしている時になって、敢えて、先輩――という言葉を選んでくる。

 力関係で言えば圧倒的に有利なポジションを得て、美由紀に対してどのようなことでもできる今の状況で、そこに日常を持ち込まれるとどう反応していいかわからなくなってしまうのだ。

 それに男の指先とはなんて無慈悲でいやらしい動きをするんだろうとイヤになる。なぞられる度に、妖しいくすぐったさに、もう美由紀の心はくじけてしまいそう。ちょっとでも気を許してしまえば、体の方もたちまち折れて屈してしまう。

 それどころか口ではイヤだと言いながら、気持ちでは拒みながらも女の体は勝手に先を望んでどんどん淫らに、しどけなくなっていくのがわかるのだ。

 そこがヌルヌルとぬかるんできているのを感じると情けなくて泣きたくなる。

「男がココを食べたいと思うのは、誰よりも尊敬して、誰よりも愛する女性に対してだけなんですよ。たしかに今まできみ以外の女の子にしたことが無いとは言わないけど、それはその時の勢いとか成り行きとかでたまたまそんな風になったこともあったかなっていうだけで、きみにするのとは意味も内容も違う。先輩にする時は僕はどこまでも本気で、したくてしたくてたまらないからするんです。きみの体はどこもすごく美味しいご馳走だから」

 ココ――という場所を指の腹でやさしく、そして執拗に撫でられて女心の最後の砦に開城を迫っていた。

「俊介くん……」

「だから、ココは僕だけのもの……僕の先輩に対する愛と崇拝の証……永遠の忠誠の誓い……」

 それは美由紀が未だ拘り続ける心のわだかまりを萎えさせるものいいだった。

 思いが自分だけに向けられている、というのはたとえ嘘であっても恋に迷う女には道を照らす導きとなるもの、希望の灯火だった。

 そんなやり方をされたら、もうイヤだとは言えなくなってしまうのだ。

「……ずるい……ずるいわ、俊くんのそういう言い方……」

 鼻にかかった声音になっている。

 呼びかけもファーザーネームからファーストネームに、そして今はペットネームへと変わっていた。それは美由紀も見栄を棄てて男に甘える時のものなのだった。

 と、女の覚悟を見届けたかのように指が潜り込んできて、彼女は絶望と諦めの小さな悲鳴をあげていた。

 男の指は驚くほど長くて、深く奥まで分け入ってきて、さらに女の矜持を蹂躙していく。今まで感じたことの無いところまで触れられて、美由紀は驚きに目を瞠って男の顔を見つめていた。けれども嫌悪する相手を見るときのものとは違って黒目がちの瞳をさらに深い色に変えているのだ。

「俊くん……」

「びっくりしましたか? これがフィンガーエロンゲーターですよ。中指に被せてあって、こちらの必要に応じて最長二十五センチぐらいまで自在に伸び縮みをさせることができるスグレモノなんです。しかも先端にまで指の感覚があって、きみの温もりや柔らかさを感じることができる……たぶん……ここ……ここを押すと感じるかもしれません……」

「あっ……ヤダっ……」

「キモチいい?」

 美由紀は必死に目を凝らしているが、彼女が息を呑んで見つめているのは、もはや男の顔ではなくて自身の中で探るように動く指なのだった。体の裏側からの指圧がことのほか思いがけない刺戟となっていて女性特有の器官を鳴動させている。

「あ、ああっ……そんなっ……」

 支えていた両腕を突っ張らせて豊満な体に緊張が駆け抜けたかと思うと、力が抜けたようにがっくりとなって男の首に抱きついていた。

「ひどいっ……俊くんっ……」

「大丈夫、大丈夫ですよ……本当になんて可愛い顔をするんだろうな、先輩は……」

 犯されて哀しみに沈むことでさらに美しく輝くのは、美由紀の美貌が特別なものであるからに他ならなかった。

 たとえ本人は気がつかなくても、体に纏った汗が甘く香りたち、乳先を艶づかせて男を魅了する発情のサインも露わに女の体が蕩けていく。

 美由紀の変化を受けとめた男は女体を責め苦からいったん解き放つと、体位をずらし向かい合って抱き合う形になっていた。片腕を女の太腿の間にこじ入れて脚を抱え上げるようにするや、今度は迷わず本物の熱いものを刺し入れてきて、美由紀はたまらず男の体にしがみついた。太い首に回された細腕の必死さに、女体の深刻さと女の思いとが込められているようだった。

 不規則なリズムで行きつ戻りつする度に、目の奥に光が弾けて体に電気が駆け抜けるのだ。辛くて苦しくて悔しくて、それなのにそれをする憎い相手が愛おしくてたまらなくなる。

「ああっ、イヤよっ、ヤダッ、そんなのっ……」

 また再び指にも犯されて、それはもはや拷問といってもいい快感の奔騰となっていた。

 やがて美由紀の半ば開かれた口から、甘いため息と、哀しい囀りが途切れることなく溢れ出るようになっていく。

「いい子だ……美由紀……きみは外見だけでなく体の中だって、誰よりも素晴らしいよ……本当だ……」

「あ、あたしっ……あなたのことっ……」

 最後に美由紀は何かをいけないことを口走ってしまったように思ったが、意識が光の海に拡散していく中で言葉も逸楽の波にのみ込まれてわからなくなっていた。

 ただ彼女の思いは体の中に深く記憶されて、たとえ目には見えなくてもけして消えることのない烙印となっていくのだった。

 




ちょっと間があいてしまったので言い訳代わりにあとがきを少し。
今回はそのうちにキーキャラになる筈の翔馬の、その美母、森下美由紀のエピソードです。
美由紀はこの世界では操祈に次いでお気に入りのキャラで、好きなタイプだとついつい無駄に言葉を費やして長くなってしまいます。
彼女は三十代の操祈というイメージで、女性としての完成度の高さからすると、もしかすると操祈となんらかの繋がりがあるのかもしれませんが、今のところはまだよくわかりません。
書きながらセリフ部分は勝手にCVが、ママキャラ、お姉さまキャラ役のハマるあの方――もう中堅というよりベテランの域に入りつつある――で脳内再生されてます(笑)
十年後ぐらいには操祈もこんな感じにされちゃうのかもしれない、とか想像しつつ、相手がレイくんならそんな猶予があるはずもないか、と思ったり――。
男どもは揃いも揃って変態ばっかのホント、ロクでもない世界だっ!
けど、ま、そうなっちまうわな――。
女たちの殆どがワールドクラスの美女ってことなら……。
是非行きたい!



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愛の森の彷徨い人たち 2

「待って、翔馬くぅんっ――!」

 地下鉄の階段を降りかけた時、後ろから呼びかけられて少年は足を止めると声のする方を振り返った。

 見ると自分の方へと小走りに駆け寄ってくる藤本絵美梨のスラリとした姿が目に入る。

 どうやら学校から追ってきたものらしく美少女は翔馬のいるところまで来ると、肩を上下させて弾む息を整えながら、

「翔馬くん、あたしを置いていっちゃうなんてひどぉいっ」

 ちょっと拗ねたようにしてしなをつくった。

 やや赤みがかったブラウンのヘアをツインテールにした端正な面差し、くっきりとした目鼻立ちの愛らしい美少女ぶりは、行き交う人々が思わず目を留めずにはいられないほどである。それは傍にいる翔馬にとっても男の自尊心がくすぐられるようで、悪いものではなかったのだった。

「あれ? 僕、君となんか約束していたっけ?」

「別に約束はしてないけど……」

 背は翔馬よりも少し高く、向き合うと視線をやや上げる形になるが、絵美梨の方が上目遣いになって少年を窺うようにしていた。

「ああそうだ、桜葉女学院に合格したってね、おめでとう」

「うん、ありがとう……」

「君が合格するのはあたりまえだから、お祝いなんて言わないほうがスマートかなとも思うけど」

「そんなことない、嬉しいっ、翔馬くんに言われるのがいちばん嬉しいわ」

 少女ははにかんだように微笑んだ。そうすると意志的で利発そうな美貌にすなおな子供らしさが現れてくる。

 それはついこの冬の初めぐらいまでは、けして翔馬に向けられることのなかった表情なのだった。

 絵美梨とはクラスが別だったが、ほぼ全教科にわたって学内だけでなく全国でもトップクラスの成績で、長いあいだ翔馬のライバル――正確には絵美梨の方からライバル視をされていただけで、少年にはそうした感覚はなくて別の意味で意識していただけだったのだが――だった。

「推薦で決まっていたのに、それを蹴って受験して合格するなんて、さすが絵美梨ちゃんだよ」

 一緒に駅の階段を降りていきながら(ねぎら)いと讃辞を贈る。

 実際、桜葉女学院の推薦枠は受験するよりも狭き門とも言われていて、エントリーするだけでも同校が統一模試等の結果をもとに毎年選定する全国で僅か四十校余りの選り抜きの指定校にそれぞれ一、二名ほどしか振り当てられていないのだ。

 翔馬たちの通う旭日(あさひ)第一小の推薦枠は女子一名――都内全体でも枠を与えられた小学校はたった八校、十一名しかいない――だけだった。

 こうして実績のある名だたる進学校から上がってきた優等生の少女たちの詳細な調査書をもとに、女学院側が新入生の一割程度、ほんの十数名を選別する、というのだからどれほどハードルが高いかがわかろうというものだ。

 絵美梨は昨年暮れに合格内定を通知されていたが、彼女はそれを辞退して通常の学力試験に臨んでいた。

「だってせっかくトレーニングしていたのに、大会に出ないでメダルだけもらうなんてつまらないから。あたしはちゃんと戦って勝って表彰台に上がったんだってことを自分にも周りにも示したかったの」

 絵美梨らしいと思う。

 自信家で勝気、自他共に認める優等生で、抜群のルックスを誇る美少女。

 誰もが一目置かざるを得ない。

 午後の東西線の車内は空いていて、二人はロングシートの隅の席に並んで座るとひとしきり受験について振り返っての感想戦をしたり、互いのクラスの生徒たちの入試結果など差し障りの無い話題を重ねていた。

 あくまでも子供らしく、そして最大の関心事が『お受験』にある受験生らしく。

 だが本当のところ、既に進学先が常盤台に決まっている翔馬はもとより、試験を終えてしまった美少女の関心も、もうそこにはないのだった。

 今のいちばんの興味は、緊張から解き放たれたこの午后の過ごし方。

 いちばん有意義なことをしたい、そしてハメを外せる理由なら他人に配るほどあるのだった。

「今日はクラスのみんなと合格祝いをしなくて良かったの?」

「お祝い? そんなのないわ、だって学校によってはまだ結果が出ていない子たちも居るし……なのに翔馬くん、ひとりでさっさと帰っちゃうんだもん、慌てちゃった」

「だって“東京都幕張人”の僕は、“痛学”ハンデがあるから、あんまりのんびりもしていられなくてサ。毎日往復二時間もかけてるのなんて、全校でも僕を含めてほんの数人しかいないしね」

 田舎暮らしを自虐する。

 本音は一刻も早く家に帰って、母親が帰ってくるまでの独りっきりになれる間、記憶共有能力で密森黎太郎から写し取ったあの記憶をまた盛大に弄ぶつもりでいたのだ。あれ以来、ここ数日はいつもそんな具合でいる。

 ベッドで寝転んで、また心ゆくまで食蜂操祈の体を(ねぶ)り尽くしたい――。

 それが翔馬の足を速めていたのだ。

「でも、途中までは一緒なんだから、今日ぐらいは待っていてくれても良かったのに……お礼も言いたかったから……」

「お礼なんて、僕はなにもしてないのに」

「そんなこと……だって……あのとき……」

 美少女が何を言っているのか翔馬にもわかっていた。

 彼女の纏うフローラルな香りの中にほのかに汗の匂いを感じると、多情な股間はすぐに目覚めて硬度を増しはじめ、やがてそれは行き場をなくしたブリーフの中で痛いほどになっていった。

 長らく一番のお気に入りだった絵美梨と、とても“特別な”関係になってから、まだそんなに経ってはいなかったが、今では肉体――だけでなく戦略的な意味でも彼女は重要なパートナーだったのだ。

 なんといっても絵美梨のおかげで仮想、食峰操祈とも言える憧れだった早川奈美をあっけないほど易々とものにすることもできたのだから。

 藤本絵美梨、早川奈美、そして食峰操祈……。

 操祈との“経験”は今はまだあくまでも借り物だったが、彼女が密森黎太郎からされていたことを、ある時は見よう見まねで絵美梨に対してもトライして、そこで新たな発見があると今度は早川奈美にもそれを試してみる、そんなことを今年に入ってから加速させていた。

 このところ翔馬が女性に対する経験値をいや増しに膨らませているのは、ひとえに関係を結んだ女たちがとても上質な美女、男の好奇心をそそらずにはおかない魅力に溢れていたからに他ならない。

 美女たちの体の違い――を比較するのは、いつだって男にとってまたとはないお楽しみなのだ。目鼻立ちが一人一人違うように、(かく)されていた部分もみんな違っていて興味の尽きることがなかった。

 食峰操祈をオーセンティックにして、いろんな女子たちの個性を自分だけの秘密の座標に書き込んでいく――。

 こんなにも心躍る自由研究が他にあるだろうか?

 あの悩ましき真夏の幻だった謎の美女が、ついに食峰操祈であると知った去年のミス学園都市コンテストには、彼女の他にもびっくりするような美女、美少女たちが参加していて、世の中には絵美梨や早川奈美以外にも、ものすごい美人が居るんだということを教えられたのだ。

 胸の膨らみがとても美しくて手足が長くて、腰のくびれも艶やかな、愛らしい顔をした女神たち。

 彼女たちは春先に咲いて夏が来る前には枯れてしまうような、マスメディアによってプロデュースされた取るに足らない凡百のアイドルなどとは違って、素材そのものの持つクオリティの高さが群を抜いていた。

 あんな美女たちをみんな自分のものにできたらどんなに楽しいだろう。きっと彼女たちの肉体からも驚くような発見ができるにちがいない。

 それが単なる妄想に止まらないのが今の翔馬のポジションなのだ。

 力――。

 それは夢を叶えるための強力なチートツールだ。

 もしかすると自分に与えられた能力はそのためのものなのかもしれない、そんな夢想をしていると世界はバラ色に開けて洋々たる前途に期待がいっそう(たか)まってくる。

 事実、絵美梨も早川奈美もあの力――がなければきっと届かなかったに違いなかった。今も憧れの存在としてただ遠くから仰ぎ見るだけでいたことだろう。

 そんなのは絶対に嫌だ。

 ご馳走を目の前にしてもそれに触れることもできずに、他人が食い散らかしていくのをただ指をくわえて見ているのなんて!

 翔馬は初めのころこそ自身の特異な能力の行使にためらいを感じることもあったのだが、結局は欲望の実現に忠実であるべきだとの結論に達していた。

 みなそれぞれが己の力を駆使して自己実現を目指している。入学試験はまさにそれそのものではないのか? ならば自分の中にある力を自分のために行使することに何をためらう理由がある?

 それに――。

 ああ、セックスってなんて面白いんだろう!

 一度でも裸になって体を許した女の子は、それまでとはまるで別人のように、愛した男にだけは特別な表情を見せてくれるようになるのだから。

 絵美梨も早川奈美も、そしてあの食峰操祈も……。

 いつも慎ましくて優しくて、セックスなんてするように見えなかった奈美先生が、絵美梨に煽られるままにとても淫らな恥ずかしい体位を取るようになった時、翔馬は女には誰でも二つの顔があることを確信したのだった。

 一つは昼間の普段の顔、そしてもう一つは性をいとなむ夜の顔だ。

 背反しているようで、どちらも一人の女の心と体に宿っていた。

 それを建前と本音と言い換えれば、セックスをしている時の顔こそ女の本当の姿なのかもしれない。愛する男に身をゆだねる時だけ、女は他の誰にも見せない真の姿を見せてくれる。

 どんなに美しくて身持ちのいい女性であっても、セックスをすると決めた時には日常の仮面を外して素顔になって、そして愛されることを自ら欲するようになるものなのだ。

 年齢や経験こそ違え、絵美梨も、そして早川奈美も、その点については変わらなかった。

 彼女たちは翔馬が本気であることを知ると、歓びにも素直に真正面から向き合うようになってくれたのだ。

 そうだっ、舌の裏側を使うのを、まだ絵美梨には試していなかったっけ――。

 翔馬は口の中にたまった唾液をゴクリとのみ下しながら思う。

 記憶共有能力によって知ったばかりのテクニックを、今日は実際にこの美少女にもしてあげてもいいかもしれない。

 盗み録りをした密森黎太郎の記憶の中で、なるほどと感心したのは、いちばんデリケートな部分へ触れる時に、いきなり舐めるのではなくて舌の裏を圧し当てるようにすること。

 温もりを伝えるつもりで口の中の最も柔らかい粘膜の中に(うず)めて、操祈の尖りがおずおずと目覚めていくのを感じた時の嬉しさと、あたたかな優しい気持ちは言葉にならないくらいステキなものだった。

 その感動を絵美梨でも味わってみたい――。

 翔馬は傍でうつむく美少女の横顔を見つめた。スッと整った鼻筋、白い頬をうっすらとバラ色に染めて、大人になったらどんなにすごい美人になるだろうかと思う。きっと大勢の男たちから心を寄せられて、恋に破れた者たちの累々たる死体の山を築くことになるのに違いない。

 そんなすばらしい美少女を女――にしたのは他ならぬ自分なのだと思うと、勝利感、征服感に酩酊するような感じにもなるのだ。

 会うたびにふっくらと膨らみを増していく胸、淡い下生えも色づきを増して羞恥の唇を覆い始めている。彼女の人生で一度しかない変化を目の当たりにできる栄誉をこの世界でたったひとり、自分だけが享受している。

「翔馬くんのおかげよ……」

 美少女がせつなげにうったえた。

「試験に通ったのは君の実力じゃないか、さすが絵美梨ちゃんだよ」

 こんな言葉を期待されていないことは翔馬にもよく分かっているのだ。彼女が欲しているのはもっと甘美なプロポーズだった。それは自分を追ってきた絵美梨の顔を見た瞬間に察したことだった。

 それを知りながら出し渋っているのは……。

#次の停車駅は、大手町、大手町です――#

 竹橋を過ぎて、車内の電子音声アナウンスが告げていた。幾つもの乗換え線が交差する巨大ターミナル。そこを過ぎると浅草線への乗換えとなる日本橋までは駅区間も短くてほんの僅かのことだった。

「ねぇ、翔馬くん……」

 絵美梨がいつしか甘えるような声音になって自分を見つめていた。碧みがかった瞳を期待に潤ませて、まるで心の葛藤を映すように揺れる眼差し。

 下車が近づくにつれて美少女の思いはじりじりとした焦躁へと代わっていたのだ。

 言おうか言うまいか、言うべきか言わざるべきか――。

 どうして翔馬くんは誘ってくれないの? こういうことを女の子に言わせるなんて……。

 異能なんかを使わなくても、そんな胸の裡が翔馬には手に取るように窺えるのだった。

 

 

「……ねぇ翔馬くぅん……また……して……あれ、とってもステキだったの……」

「うん、いいよ……」

「あたしって、いけない子……?」

 美少女が欲望に瞳を妖しく煌めかせながら問いかけていた。彼女が他の誰にもけっして見せることのない表情になって。

「そんなことない、すごく嬉しいよ。絵美梨ちゃんにそう言ってもらえるなんて、君が僕を男として認めてくれたようで光栄だな」

「本当?」

「もちろんだよ……だった絵美梨ちゃん、とってもいい匂いがするから」

「やだぁ、エッチぃ、翔馬くんのバカ……でも、うれしいっ……ねぇ、どうしてこんな気持ちになるのかな……?」

「きっとそれが、人を好きになるってことなんだと思うよ」

「……うん……」

 

 

 初めての時、あんなにも恥ずかしがって躊躇っていた彼女が、二度目のデートの時には顔を真っ赤にしながら、それでも逆におねだりをするようになっていた。その変化がとても可愛くて、また翔馬自身の高揚感もすばらしかったのだ。

 背がいきなり二十センチも高くなったような気分だった。

 だから今も、できればそれを彼女に言わせたかった。欲望に屈した美少女の顔を見てみたい、そんな悖戻(よこしま)な期待もあって敢えて水を向けるのを避けていたのだった。

 だが今日の絵美梨はなかなか本音を口にしてはくれなかったのだ。代わりに拗ねたり甘えたり頑なになったり、女の武器をそれとなく匂わせて譲歩を迫ってくる。

 翔馬もつい彼女の大きな瞳に魅入られて

「ねぇ絵美梨ちゃん、ウチに来ない? またこのあいだの続きをしようよ」

 そう口にしてしまいそうになったのだが寸前のところで堪えていた。

 互いの心の裡、欲望の在り処を探り合う我慢比べ。

 ただそもそも翔馬には絵美梨を家に誘うつもりはなかったのだった。

 週明けの午後、彼女をあまり遠くまで連れ出すのは憚られたし、そもそも今日は彼女の自宅で何らかの合格祝いなどのイベントがあるはずなのだ。暗くなる前に家まで送っていくことまで考えると、あまりゆっくりできる気分ではなくなってしまう。

 だとしたら……。

 浅草橋にある絵美梨の実家は、一階が父親の会社事務所などになっていてとてもデートを楽しめるような場所ではないし、なかでも母親のイヴォンヌは父親以上に娘の素行に常に目を光らせていて、とりわけ昨年の師走の一件――翔馬が絵美梨との関係を深めるきっかけとなった彼女のトラブル――では、激怒した彼女は絵美梨からしばらくの間スマホを取りあげ、モデルのアルバイトをするなど以ての外とばかりに門限の厳格化を確約させた上、SNSへの画像の投稿も御法度にされてしまっているような案配だった。

 そんなところにボーイフレンドがのこのこついていけるワケもない。

 こうしたとき子供というカテゴリーに居るのは本当に不自由なものだと思う。

 これが中学生になるともっと自由度が増すのだろうか?

 あの密森黎太郎は操祈と堂々とホテルでの密会を楽しんでいた――。

 いくら時間があってもお金も資格もないなんて……。

 翔馬の当惑は察しのいい絵美梨にも伝わったようである。互いに何となく索漠とした気分になって顔を見合わせた。

 大手町での乗降客の派手な入れ代わりがあって

#次の停車駅は、日本橋……#

 車内アナウンスが告げると、決断するまでもう僅か。

 列車は既に減速を始めている。ややあって制動が一度、間隔を置いてさらにもう一度、深い制動がかかると、思う間もなくホームにさしかかっていた。

「……ねぇ、絵美梨ちゃん……」

 持ち時間切れ、降参するかたちで翔馬が先に口を開いた。

 少女は期待に長い睫をぱちくりさせている。

「ここで僕も降りるよ……」

「うん――」

 不思議そうにこっくりとしてから、くりくりと瞳を輝かせて愛らしい顔を綻ばせる。翔馬は嬉しいが、ちょっと微妙な気分でもあるのだった。提案は必ずしも少女にとって手放しに満足のいくものではないはずだからだ。

「博物館に行かない?」

 そう言うとその途端に、案の定、絵美梨の表情がかたくなり、まるで何かのスイッチが入ったように美少女からオンナになっていた。

 女ならではの打算を巡らす大人の女の顔に。

 だが、聡明で頭の回転の速い少女はすぐに最適解を導いたようだ。

 並んで電車を降りながら、翔馬の意図を酌んだ彼女は

「いいわ……先生には私から電話してみる……」

 言いながら既に制服の内ポケットからスマートフォンを取り出していた。人波を逃れて広いホームの真ん中まで来ると

「うん、たのむよ……たしか月曜の午後はご自宅にいらっしゃる筈なんだ……」

 早川奈美のコンドミニアムは京成の博物館動物園駅を降りて徒歩五分ほど、恩師公園にほど近い閑静な高級住宅地にあった。仕事で日本を離れがちな旦那が留守のときに、何度か絵美梨とともに訪問したことがあったのだ。 

「いいわ、翔馬くんにはいっぱい借りがあるから……」

「そんな……借りだなんて……」

「でも……今日は……今日だけはわたしがいちばんよ……約束……」

「うん、君の合格祝いだからね、でも君も忘れないでほしいな……」

「忘れないでってなんのこと……?」 

「それは……君にとって僕がそうであるように、僕にとっても君は、これからもずっといちばんだっていうこと、それは永遠に変らないんだから」

 だが絵美梨は、こんな安いレトリックが通じる相手ではなかったのだ。

「でも一番目っていうのはいちばんとは違うから……でしょ?」

 ちょっと屈折した顔をしてから、雲が晴れたように白い歯を覗かせて頬笑む。その輝くばかりの愛らしさにはただ胸をうたれるばかりだった。

 (せわ)しなげに列車にかけこもうとしていたスーツ姿の若いサラリーマンが、思わずギョッとしたような顔になって彼女を二度見しながら脇を通り過ぎていく。

 確かに学校の成績ではライバルであったのかもしれない。けれども容姿の偏差値はいつでも三十ポイントは置いてきぼりを食らっているのを自覚させられていた。

 絵美梨は軽やかなタッチでスマホを操作すると優雅な仕草でそれを耳に当てて呼び出し音を聴いていたが、ほどなく、

「早川先生、藤本です。あの、いまお電話しても宜しいですか?」

 少しも翳りを感じさせない澄んだ声音であることに、少年は密かに感嘆のため息をついていた。

 とびきりの美少女がとびきりの美女と、何の屈託も感じさせずに楽しげに言葉を交わしていて、翔馬だけが取り残されたような気持ちになってしまう。

 たとえ体の関係を結んではいても、きっと彼女たちの目に映っている世界はまるで違うのだ。

 自分は、ズルい力――を使って背伸びをしているだけ。

 やはりここでも翔馬の一人負け、完敗だった。

 

 



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戦いが終わって少年たちは……

 いつもは元気な夏上康祐や松之崎純平も、その日の朝食の際は緊張のためか普段よりも口数も少なめで、たまにブチあげる気勢もカラ元気にしか見えず、食の方もあまり進んでいる容子ではなかったのだが、今はグループ――イケてない男子六人――全員が上機嫌でランチを囲んでいた。

 彼らが陣取る食堂の長テーブルの上には鳥の唐揚げに竜田揚げ、フライドチキン、チキンカツ――学食のその日、日曜日のサンデーランチのメインディッシュの全て――と、それにフライドポテトなど、それぞれが六人前+オマケ分を山盛りにした大皿が置かれ、その他にも麻婆豆腐やら餃子、八宝菜、青椒肉絲などの中華、更にはハンバーガーやピザ、サンドイッチなどもあって、和洋中が入り乱れてのアンバランスの上に纏まりもないとっちらかった取り合わせではあるが、健啖(けんたん)男児の好物ばかりがズラリと並んでまことに賑やかであった。

 みなこれでもかと盛られたどんぶり飯を抱え、据えられたご馳走の片っ端から取り皿に盛り付けると、白飯を掻き込むようにしている。

 さながら勝利を喜ぶ兵士たちの宴のようでもあった。

 さもありなん――。

 今朝の九時に一斉に公表されたウエブ上での学園都市統一高校入試合同合否発表は、昨日の特別考査を受験した生徒たち――常盤台では三年生の半数以上が該当していたが、それでも例年よりはかなり減っていた――にとっては、まさに夫々の将来を決することになるかもしれない重要な結果であり、当事者たちばかりか、その周りに居るものたちにとっても固唾を呑む瞬間だったのだ。

 グループからは夏上康祐、堀田靖明、松之崎純平の三人と、推薦が定まっていたものの長点上機の物性科学系へのチャレンジを選んだ黒川田勇作の計四名が受験組で、推薦で既に長点上機の医学生物学系に決まっていたレイと静菜の情報科学系への推薦を果たしていた志茂妻真の二人がバックアップにまわって受験組を支援する形となって、昨一週間は受験勉強と課題レポートの作成に六名全員が一丸となって取り組んでいたのだ。

 なかでも推薦選考での評価が最も低かったコースケ――夏上康祐――の行方は誰もが気がかりで、レイは過去問の模範解答作りや出題傾向の分析、課題レポート用の文献の整理から、出来上がったテキストの査読などを懸命に行って、もっともエネルギーを割いていたのだった。その甲斐もあってかコースケは長点上機の社会科学系への補欠合格となり、つい先ほど、十一時を少し回った頃に正式な合格通知を得たという次第だったのである。

 これには本人だけでなくグループ全員で快哉を叫んだ。

 かくして誰一人落ちこぼれる事なく無事に進路が決まり、晴ればれとした気持ちで迎えたランチタイムだった。

 それを受けてコースケは

「ここは全部、俺のおごりだ。これまで忙しくてあんまりゆっくり食えなかったからな、みんな今日はなんでも好きにやってくれ、ドリンク、デザートも含めて遠慮なくじゃんじゃんいこうぜっ、俺の手持ちのクレジットがスッカラカンになるまでつきあうからよっ、おまえ等には世話になったからな、ささやかな感謝の気持ちだ、ありがとう……ホント、ありがとな……」

 頭を下げて言いながら、最後は柄にもなく涙ぐむ。

「あー世話をしてやった、まったく手のかかるヤツだったぜ」

 純平も鼻をぐずらせながら応じ、コースケは

「ヌカせ、てめーも十分レイたちに世話になったクチだろがっ」

 口では落としながらも友の片手をガッチリ握り、互いに肘と肘とをぶつけ合って健闘を讃え合う。

「おまえも自分のテストがあるのによ、俺の手伝いもしてくれてたからな……」

「いいんだよ、あれは俺の勉強にもなってたから……だいたいダチがピンチなときは助け合うってのが仲間っつうもんだろっ」

「すまねぇな……チキショウ、せっかく盛り上がってるのにしんみりしちまうじゃねぇかっ、気ぃ利かせろバカヤローっ」 

「良かったよね、本当に良かったよね、みんな頑張った甲斐があって」 

 レイも顔をほころばせながら周りのテーブルを窺うと、すべての生徒が希望を果たしたわけではないらしく、幾つかのテーブルではクラスは違うが、悲嘆にくれる少女を慰める少女たちの姿も見えていた。

 この最終試験に不合格となると、次はランダムに定員割れのある高校へと振り分けられることになるが、実際はアルマ――学園都市を総覧する人工知能――が見えざる手を使い各生徒の適性に応じた進路へと配置され、そちらで自身の本当の才能に気がついて能力を伸ばす生徒も少なくないのだ。

 ただこうした裏の仕掛けに接することができる者は学園都市全体を見渡してもほんのわずかであり、生徒はもとより教職員にすらこうした事情は知らされてはいなかった。

 故に、今朝の合否の結果を受けた後の昼の食堂は悲喜こもごも、レイたちのようなイケてない男子グループに笑顔が弾ける一方で、片やカースト上位だった女子グループの幾つかのテーブル席の上にはどんよりと重たい暗雲が低く垂れ込めているような具合で、明暗がくっきりと分かれた形になっていた。

「けど、おまえ、文転して良かったのか?」

 マコト――志茂妻真――が巨体を揺すってフライドチキンと鳥の唐揚げに交互に食らいつきながらコースケに訊いた。

 もとより惑星開発、軌道エレベーターといった巨大技術への関心が高く、将来は技術屋志望だったコースケが、いくら長点上機とはいえ社会学系へと転向したことは、進学先を優先して夢を諦めてしまったようにも見えるからだった。

「物性科学なら静菜も一流だぜ、おまえの惜敗ポイントならこっちの方が確率高かったし、なにも将来の目標まで変えて長上にこだわんなくても良かったんじゃね?」

 静菜の物性科学系への合格を決めたヤッさん――堀田靖明――があらためてコースケに問いかけた。

「社学だったら、まぁ実績では静菜の方が上っちゃ上だからなぁ、学年トップの山崎碧子サマも靜菜を選んだみてぇだし……まぁあいつは数理経済学、金融工学がお目当てで片手間に在校中にさっさと司法試験に通るつもりなんだろうけどな」

 静菜の社会学系への進学を果たした純平が口を添えた。

「そのことなんだけどね、進学してからでも成績次第では内部でコースの変更もできるからさ」

 レイがコースケに代わって応えた。

「でも、それって相当きついって話じゃん、よほど好成績じゃないと難しいって、だから俺は試験を受けることにしたんだけど」

 長点上機の物性科学系への合格を決めたばかりのゆうちゃん――黒川田勇作――が話を引き継ぐ。

「かもしれないけど、でも無理じゃないし、毎年、各校で一人、二人はそういう生徒も出るっていうから……たしか操祈先生もそうだったんだって」

「「え、そうなのっ――?!」」

 純平とヤッさんが驚きに目を剥いてレイの方を見た。

「知らなかったの?」

「俺は知ってたぜ――」

 マコトは得意げに太鼓腹を反らした。隣でゆうちゃんも相槌を打ち、そしてコースケはわが意を得たりとばかりに大きく頷いている。

「操祈先生は常盤台時代は劣等生だったらしくて、それで高校は推薦も試験も全部落っこちて、当時は今みたいに進路振り分けが無かったから半年遅れて秋入学で長上の社会学系に潜り込んでから、そこから猛勉強して数物系に移ったんだって」

「おいレイ、おまえそんなハナシどうして知ってるんだよ」

「ボクは……栃織さんから以前に聞いたことがあってさ……」

 嘘ではないが、操祈から直接聞かされても居たのだった。

 自身がひどい劣等生で、欠点だらけの落ちこぼれだったことを。とてもレイが思っているような特別な人間などではないという点を強調して。

 大きな瞳を懸命に、可愛い女の子の顔をして、まるで女子中学生のようないとけないオーラを全開にして打ち明けられては、そのあとは思いっきり可愛がらずにはいられなかった。生理を間近にした操祈のにおいは普段よりもかなりきつめで、このとびきり美しい年上の恋人については強い性器臭を好む少年をおおいに歓ばせたのだ。

 きっとそんなつもりなどなかった操祈が泣きそうな顔で真っ赤になって恥じらうところがなにより愛おしくて、粘り気のある濃厚な蜜は彼女にしか作れないすばらしい味と香りとでもてなして、健気に愛撫に堪える操祈自身以上に少年の心を甘くとろけさせてくれたのだった。

 それを思い出すと股間が不穏な気配になりそうで、レイはその時の記憶を脳裏から振り払うと、パンの間にチキンカツを挟んだものをガブリとやって気持ちを切り替えた。そうしながら、

「純平くんは知らなかったの……?」

「知らねぇよ……そうかぁ、栃織ルートかよ……」

「修学旅行の時に先生が話したみたいだよ、今は女子ならみんな知ってるんじゃないかな……」

「俺もレイから聞かされる前に奈津天(なつぞら)さんから聞いて知ってたよ、でもその話、意外だよなぁ、あの先生が劣等生だったなんてサ……あの人、なにもかも完璧にしか見えないから」

 勇作もレイの話の補強をした。

「ボクはてっきり知ってるものとばっかり思ってたんだけど……」

「ハイハイ、カノジョ持ちの情強者、ごっそさん」

「俺らはな、おまえらみたいな有力な敵信傍受班まで備えた最新型のイージスと違って、受信の精度がまるで違うんだよっ、女同士のことになるとヒラ電の会話だって頭の上を素通りするばっかでサッパリ聞こえてこねぇんだ」

「ソコ、妬かない妬かない――」

 マコトがまぜっかえす。

「マコトぉ、おまえはどうして知ってる?」

 ヤッさんが詰め寄り

「俺はこの学園都市の女子のことならたいがいのことは知ってるぜ、ただし美女美少女限定だがな」

「オメーの情報はネットの噂がソースでアテになんねーのばっかだろうがよっ」

「ついこないだも操祈ちゃんがこの春、寿退職するってデマに盛大に釣られてたばっかりじゃねぇかっ」

「あれは……俺もハナからガセだとは思ってたよ――」

 マコトは痛いところを衝かれて防戦となるが、

「てやんでぇ、情けねぇ顔して俺らに第一報を届けに来た時はマジにしか見えなかったぜっ」

「そりゃおまえらだってそうだったろっ――」

 ひとしきりの応酬の後、ようやく

「まぁ要するに俺は長上に入って操祈ちゃんの後をしっかりフォローするつもりってワケだ」

 コースケが得意げに宣言した。目論見によると、入ってしまえばこっちのモンというワケで、入学後に最難関の数物コースへの変更を願い出るつもりでいるという。

「また無謀な事を考えたもんだな……操祈ちゃんとおまえとじゃ比較にもなんねぇだろ」

 仲間からの当然の忠告にもコースケは臆せず悪びれるそぶりもない。

「操祈ちゃんの将来の夫としちゃ、妻のたどったコースをしっかりトレースしてこそだかんな」

 毎度のことながら、コースケの妄想にはつきあいきれんとばかりに、残りの者たちは「どうするよ、このド阿呆は」と互いに顔を見合わせるばかりになるのだった。

「あのなコースケ、夢みんのはたいがいにしとけよ、操祈ちゃんとオメェとじゃ釣り合うわけねぇだろっ、月とスッポン、磯のアワビの片思いだ――」

 そう腐しながら、厨房から呼ばれたヤッさんは「ハイ――」と手を上げて応えて席から立ちあがった。

「磯のアワビのナンちゃらって、またヤッさん、ヤケに時代がかった言い回しをしますなぁ……あ、レイどの、わるいがソコのソースとってくれない?」

「うん――」

 マコトは二枚重ねにしたチキンカツに、レイから渡された業務用の大きなボトルからとんかつソースをどばどばかけながら

「だいたい操祈ちゃんは半年遅れて入って、他の人の半年前に卒業って、高校を二年で、それもトップクラスで卒業してるんだよね。その間、最難関の数物コースへの変更までしてるってのにこの離れ技……まーあの人は普通に天才だね……そのことに本人はさっぱり自覚がないみたいだけど、本当なら中学の先生なんてしてないで最前線の研究者をしてたってちっともおかしくないんだな」

「コースケの数学の成績からすると、難しいとは思うけどトライするのは自由だから、ただ俺はおまえが物性に来るのを待ってるぜ」

 常識人の勇作がみんなが納得できるところに話を落とし込んだ。

「自覚ないっていえばさ、あの人、自分のことどう思ってるんだろ? あんな美人なのにそういうのにゼンゼン頓着ないっていうか、まるで自分のことをどこにでもいる普通の人みたいに思ってる風だろ、そんなの絶対ありえないのに……女子たちも訝しんでるみたいだぜ、なんで先生はいつも人の前に立つのを避けようとするんだろうって、もしも自分らなら自信満々でどこにでもブイブイ乗り出していくのにってな」

 マコトが女子情報を披瀝すると、厨房カウンターから五目そばの丼を載せたトレーを大事そうに捧げ持ちして戻って来たヤッさんが、椅子に長身を窮屈そうにして掛けながらまた話の輪に加わった。

「もしかすると普通の人のフリをしてるのかもな、みんなを萎縮させないように」

「それはないと思うなぁ、あの距離の近さを考えると。女子らと混ざってるときは教師には見えないくらい連中と馴染んでるし」

「その一方で男にはガードが堅そうだしって、まるでウブな感じだもんなぁ……そこが可愛いんだけど」

「昔、先生が常盤台にいたころはイケイケ女子の筆頭格だったらしいじゃん、今じゃ全然、そんな感じしねぇけどな、想像もつかねぇ」

「能力――って、やっぱ精神にも影響を与えてるのかもな、どう思う、レイ?」

「うーん……そういう研究結果も出てるらしいよ……能力を失うと性格も変わるとかって……よく知らないけど……」

「やっぱ、そうなのか……操祈ちゃんは人類史上最強のサイキック、レベル5だったんだもんな……それが無くなりゃ、そりゃ心への影響も大きいわな……」

「でも、性格は変わっても人格までもが変わるわけじゃないって……能力によって覆われていた元からある面が表になるだけだとか……たとえば年をとって一見、振る舞いは穏やかになっても、その人の本質までは変わらないっていうか、嫉妬深い人はやっぱりそのままだったりするよね」

「まぁな、爺さんになっても喧嘩っ早いやつはマンマだしな。うちのジジイを見てるとわかるぜ、年取って丸くなるどころかますます剣呑な感じになってるからよ」

 コースケがこぼした。常になく複雑な顔つきになっていて、家庭内の事情が垣間見えるようである。

「人ってそんなに簡単に変われるもんじゃないから……逆にちょっと成功したりすると浅ましい地金が出ちゃったりする人って珍しくないじゃない? ボクだって自信ないな、もしも巨万の富を得て何でも思い通りにできるとなったら……何をしても裁かれることがないとなったら、見境いがなくなっちゃうかもしれないし……たくさんの人が死ぬことにも鈍感になって、自分の利益だけを追求できるようになっちゃったりしてね……」

「人間は弱いですからな、その点は同感。俺がもしもギガリッチになったら、秘密の無人島にハーレムをつくって、そこに幼女から熟女までズラリと揃えて毎日っていうか、四六時中とっかえひっかえするよ」

 マコトが好色な本音を隠さずに言って、みんなの一斉口撃を浴びることになったが、この巨漢は気にも留めずにどこ吹く風、旺盛な食欲を見せつけてチーズバーガーのダブルをむしゃむしゃやりながら

「おまえたちカッコつけすぎ、人間なんて所詮そんなもんだから」

 と、まるで取り合わない。

 結局、みなそれぞれに思い当たる節でもあるのか「うーん」と唸るばかりになって、誰一人としてそれ以上ツッコもうとする者はいなくなってしまうのだった。

「……だけど操祈先生は世界を自分の思うままにできる力を持っていたのに、そうしなかったんだよ、それって凄いことだよ。巨大な力を持っていて、でもそれを自分の欲望を満たすために使おうとしなかった。それだけでも、とても自制心のある人だと思うな。だから先生の場合、万事について控えめっていうか高度な自己抑制は身に備わったものなんだと思うよ、他者への思いやりとかやさしさとかを含めて……それって今の操祈先生を見てると頷けるでしょ?」

「なるほどね……ワカルぜ……普通はそうならねぇもんな、コイツみてぇにやりたい放題したくなるよな」

 コースケが斜め向かいに居るマコトに向けて顎をしゃくった。

「無い袖は振れねぇ、どんなになっても元からねぇもんは出てきようもねぇってか……」

「たしかに人ってそんな簡単には変われないよな」

「それに……先生の場合はきっと思春期がそんな具合だったから、もしかすると今が先生にとっての本当の意味での中学生活なのかもしれないし……」

 勝手な想像を口にしながらレイは、自分でもそれが実際のところなのではと思うのだった。

 素の操祈は、教室でいる時以上に表情がくるくる変わるのが愛らしいのだ。

 小さなことでも瞳をまん丸にして驚いたり、些細な失敗にシュンと落ち込んだり、喜んだり悲しんだり怒ったり、感情の起伏の大きさは大人のレディというよりも未だ少女のものだった。 

「そうかぁ……だから操祈ちゃんは先生で年上なのにあんなにカワイく見えるのかもな……ヤベっ、よけい好きになりそうだ……好きになっても絶対に手が届きっこないのに……」

 レイの話を聞いていた一同を奇妙な沈黙が支配した。合格通知に沸いていたつい先ほどまでの勢いがすっかり影を潜め、むしろ沈鬱な空気に囲繞されている。

 あらためて自分たちが日頃、当たり前のように接していた担任の教師がどれほど特別な存在であるかに気がついて、その人との別れの時が迫っていることに俄かに思い至ったようなのだった。

「なら、あのオッパイは反則だよな……白ビキニの先生、超スゴかったし……スタイルがいいのはわかってたけど、あんなケシカラン巨乳だったなんて……それに香水らしい香水をつかってないところもオトナっぽくないっていうか……あの顔と体で一年の女子たちみたいなシャンプーと石鹸の香りってのも、もーどんだけなんだかと……」

 自称、女性生理に通じるマコトが鼻の下を伸ばしてそう云い、思春期ど真ん中にいる仲間たちのこみいった心理をひっかきまわしていく。

 担任教師である操祈を性的な目で見ることは、今なお潔癖な男子にとってはどこか禁忌である一方で、かえってそれがより強い衝動をもたらすものでもあるのだった。

 それぞれが去来するさまざまな思いを持て余す中、ひとりレイだけは忸怩を覚えつつも操祈の体臭への飢えを感じていた。

 ああ、先生のにおいが欲しいな……。

 先週は結局、一度もデートができなかったのだ。

 レイの側にも友人たちの試験の支援という理由があったのだが、操祈からも今週はダメ、と念押しされていた。

 理由はあえて訊かなくても判っていた。

 生理期間中だから――。

 少年は、そんなの全然かまわないのに、と思う。むしろそういう時の彼女の姿も見てみたかったが、今はまだ無理強いするのは可哀想だからと大人しくしていたのだった。

「ミスコン……断然、いちばんきれいだったよな……」

「当然といえば当然かもしんないけど、やっぱりあのルックスだから海外では受けてたらしくて、あの後しばらくの間ネット界では、世界の恋人――なんて言われてたりしてたんだよ」

「なぁマコト、たしか操祈ちゃんって、ハリウッドからもオファーがあったんだよな?」

「俺が知ってる限りじゃ四件かな。うちひとつはGGの相手役って話で主人公に敵対する隣国王家のお姫さまっていう大役。歴史大作ロマンの正統派ヒロインって、ピタッとハマれば一気にブレーク間違い無しのビッグチャンスだから、むこうの本気度がどれほどのものだったかが窺えるかと。出演料も素人の新人に対しては破格の好条件だったとかで……他にも企画書だけなら十指に余るくらいあったらしいぜ」

「GGって、あのジョージ・グラントン? ってことはいきなり大スターの向こうを張ってたかもしれなかったのかよ」

「ソソソソ、そゆこと、そゆこと。向こうさんとしちゃ操祈ちゃんを本気で“世界の恋人”にするつもりだったみたいで、でもどんな好条件のオファーが舞い込んでも、先生はそれを片っ端から断って、自分にはその気はないからって話も聞かずに門前払いってことだったらしくて」

「ホント、欲がねぇよなあ、うちのガッコの給料なんてたかがしれてるのによぉ」

「やっぱ世の中、金じゃねぇのよっ、みんな金の話になるとすぐに目の色が変わっちまってムキになるけどよ、人には金よかよっぽどダイジなもんがあるってことを、オレらに教えてくれてんのよ、操祈ちゃんは」

「俺としちゃ胸許が広く開いたドレス姿の先生の、たわわな胸のお肉が息をする度にはちきれそうになるところを大画面で見てみたかったりもするんで、ちょっぴり残念な気もー」

「ヤメロっ、オレたちの操祈ちゃんをそういう目で見るのはっ、オメェのヘンタイ趣味に先生を巻き込むなっ」

「ヘンタイ趣味? じゃあ堀田氏は操祈先生のノースリーブ写真、欲しくないんだ」

「「えっ、そんなのあんのかっ!?」」

 途端に少年たちは色めきたった。

「あるって言ったらどうする?」

「おい、ホントかよその話っ」

 マコトはチェシャ猫のようにニヤニヤ笑いを顔に貼付けたまま、自分のスマホの画面をまるまっちい指先で繰りはじめた。

「俺らが一年の夏、先生が着任する前にウチを訪問した時の写真がオレのスマホにあったのが見つかってでつね……その頃の操祈ちゃんはまだガードがそんなでもなくて、スーツを着てなかったから長い両腕がにょっきり、そんで無造作に腕を上げたときには腋の下もモロ出しって具合で、それはもう目の毒、目の毒、まぁお上品なみんなには関心ないとは思いまつけどね」

 あげくに何ごともなかったようにスマホをポケットに戻そうとしていた。これでは煽られた側はおさまらない。

「え、ちょっと待てよマコト、それだけかよ、見せろよっ」

 コースケは椅子から乗り出して、ハス向かいのマコトのスマホを覗きこもうとしていた。

「だってみんな興味ないんでしょ? 先生にエッチな妄想しちゃイケナイって」

「いや、それはヤスがそう言ってるだけで」

「そうかな、みんな堀田氏の言ったのを黙認してたよね」

「それは……わかった、俺があやまる、悪かった、俺が悪かった、だから頼む、見せてくれっ」

「どうしようかなぁ……」

 なおも勿体つけていたマコトだったが、結局、全員のスマホに当該データを送信して、レイのもとにも数枚の写真が送られてきたのだった。

「うっわー、操祈ちゃんえろーっ」

「なんか水着のときよりエッチぃ感じ」

 そちこちで嘆声がこぼれる中、レイも操祈の瑞々しいセックスアピールに魅了されていた。

 二年半前の操祈は、教師というよりもまだ女子学生そのもので、真夏に白いサマーシャツが眩しいくらいに清潔感があって良く似合っていた。その上で、本人に自覚が薄い分、無防備に肌を晒していて、メンタルな面での性的に未発達な部分とメリハリのある発達した肢体のアンバランスとが絶妙で新鮮なお色気をふりまいている。

「マコトくん、こんなのどこで撮ったの? ボク、全然気がつかなかったよ」

「夏休み中だったから、ほとんどの生徒は帰省してたりしたからね。密森氏も居なかったんじゃないかな。俺は寮の方が学園都市のサーバーが使えてネトゲが捗るから、盆が開けたらすぐにこっちに戻ってきてたのね、そしたら同じ部屋の先輩がいまウチにすっごい美人が来てるゾって教えてくれて、速攻、先輩と二人で校内を探しまわったら図書館にホントにスッゴイのが居て、あとはスマホのカメラを最大望遠にしてちょっと離れたところから気がつかれないようにして撮りまくったってワケ」

 マコトが言うように撮影場所は確かに常盤台の図書館だった。

 異性からの無遠慮な視線をあまり意識していなかったのか、豊かな胸の描く優しい曲線もくっきりと、ほっそりとしていながらももっちりと肉のついた二の腕の白さが目を惹いている。

 高い書棚に腕を伸ばしたときには腋の下の淡い翳りが露わになって、それは特別な女性だけが備えることのある実にドラマチックなエロティシズムを放っているようなのだった。

 レイはデートの度に興味津々にそこを間近にして、セックスにするのと同じくらいの情熱で舐めたり吸ったりをしていて、まるで熱帯果実のような濃厚な甘酸っぱい香り、フルーティでありながらそれでいて肉を感じさせずにはおかない(なまめ)いたにおいまでも良く知っている筈なのだが、他人の写真に捉えられたものにはまた別の趣きがあって好奇を惹かれるのだ。

「綺麗だね、先生は肌が白いから白い服を着てると一瞬全裸に見えてとてもエロティックになるから……いい写真だと思うな……」

 レイは撮影者であるマコトに素直に賞讃の言葉を贈った。

 このころの彼女は自分と出逢う前で、まだオーラルセックスどころか、いかなるキスも知らない生まれたままの無垢であったことを考えると写真がとても貴重なものに思えてくる。表情も今よりもどこか堅くて女のコっぽかった。

「オマエ、なんで今まで隠してたんだよ、こんないーもんをコッソリ独り占めしてやがって」

「いや実はソレ、撮影はしたものの、なぜかずっと暗号ロックの掛かったファイルになっていて、撮った俺でも開けなかったんだよ。アルマにも接続して鍵の解除を試みたんだけど何度やってもダメで、結局、諦めて廃棄するつもりだったんだけど……ところがこの間、廃棄前にもう一度だけ試してみようと適当にパスワードを入れてたら何故か急に解除できてサ」

「ホントかよ?」

「ウソじゃないってば」

 恐らくそれは操祈の、当時はまだ微弱ながらも残っていた“能力”によるものだったのだろうとレイは想った。無意識的に発現された、元レベル5の精神系能力者としての自己防衛反応だと。

 相手の意識に遠隔作用して盗聴や盗撮などの操作に干渉する、というのはレベル3クラスの能力者であれば使うことのある護身法だった。マコトは自分でも気づかないうちに暗号を入力してファイルにロックを掛けていて、撮影終了と同時にそのことを忘れてしまったのだろう。

 それを今になって取り戻した、というのは操祈の力がさらに弱まり、恐らく完全に消滅したことを示しているのではないのかとも思う。

 実際のところレイも、以前に較べて操祈はいろいろな意味で身を守る術を失っているように感じていたのだ。低位の能力者からの透視など、少し前の彼女であれば敏感に反応して対応できたように思うのだが、このところ危険に対しても無防備で無能力者と変らなくなっていた。

 たぶんそこには自分にも責任の一端があると思う。

 女子の能力者の場合、力を失う要因の一つにセックスがあることは、プライバシーとの兼ね合いで公式には認められてはいなかったが今も密かに囁かれていて、恐らくそれは事実なのだ。

 そして操祈はまだヴァージンかもしれないが、実際にはそれ以上の経験を自分とともに重ねてきている。

 その影響がでているのだとしたら……?

 だから、責任を果たさなければ……絶対に先生のことを守らなければ、とレイは思うのだった。

「なんか、初々しいって感じな、この操祈ちゃん……」

「コイツの話だと二年以上前っていうことだからね」

「やっぱ、いーよなー、操祈ちゃんは」

「これだと胸のボリュームの凄さがよくわかるな」

「今もこんな格好を見せてくれるといいのに」

「純平、さすがにそりゃマズいっしょ」

「どして?」

「操祈ちゃんのことが気になって、授業になんなくなっちまう」

「まぁ、そりゃそうだな」

「本当にきれいな女の人は裸に近いほど美しくなるんだっていうけど、先生も薄着の方がより綺麗に見えるよね」

 家庭訪問したときのように、黒いコートに身を包んたシックな装いであるときは息を呑むほどゴージャスで素晴らしかったし、またふわふわのリストカフとノースリーブの組み合わせもセクシーで可愛らしかった。逆に体の線がかくれるたっぷりしたセーター姿も大人の女性のたおやかさを感じて大好きだったし、トレンチコートに中折れ帽でスマートにキマッてるのも、さすがーと感心するほどカッコが良かった。

 でもレイは操祈がいちばん美しく、可愛らしく見えるのは、やっぱり全裸のときだと思う。それも歓びに堪えて、ついには屈していく時の崩れていく瞬間が何よりも魅力的だと。

 美しさと愛らしさ、強さと儚さ、やさしさ、艶かしさ、彼女の魅力の全てを一度に堪能できるのは、その一瞬だった。

 そして生々しい女体のリアルも――。

 美しい女教師に対する憧れと尊敬は、関係を結んでからも少しも変わらないどころか、彼女の体のなりたちを知れば知るほど、この人はやっぱり女神なんだという感動に包まれてしまう。

 たしかに人間くささは彼女もまた一人の女であることを教えていた。けれども密やかな肉芽や花襞、窄まりが悩ましげにふるえるのを間近にしたときの感動は、一瞬で目と心を奪い敬虔な気持ちにさせるのだ。

 この人のことを大切にしなければ、との決意を新たにして、男の勇気を奮い立たせてくれる。それは言葉にならないほどの歓びなのだった。

「女神ってね、自分を飾らないんだよ」

「え、なんだそれ、レイ?」

「以前に誰かからそんな話を聞いたことがあってね、神話の中で女神が全裸で描かれることが多いのは、何も隠す必要がなくて全てが完全で美しいからなんだって。宝石で飾りたてたり、豪華な衣装に身を包んだりしなくても、たとえ粗末な衣を纏っていたとしても、人の心をとらえて気づきを与えてくれる、それが本当の女神なんだってさ。その反対に魔女は醜い本性を偽るために煌びやかに自身を飾り立てるんだ。だからショービズっていう虚飾の世界は先生には最も縁遠い場所だと思うよ。映画スターなんかにならなくて本当に良かった」

「そうだな……やっぱ操祈ちゃん、女神なのかもな、本当に……」

「学園都市の女神か……コースケ、おまえそんなのに惚れたってどうしようもねぇだろ、身のほどをわきまえて憧れてるだけにしといた方が楽だぜ」

「うっせぇ、ヤスにオレの気持ちがわかってたまるかってんだっ、オレの操祈ちゃんへの思いは何があったってゆるがねぇんだっ」

「まーガンバレよ、どんなことにだって可能性はゼロじゃねぇから」

 隣に居た純平がヤレヤレというような顔つきになって友を宥めた。

「おまえはそう思うのか?」

 応援が得られたと勘違いしたのか、コースケは縋るような目で純平を見ている。

「ああ、可能性といえばオメーの身長がこれから六十メートルになって、両目から怪光線を放つようにだってなるかもしれねぇだろ」

 みんな純平が何を言い出すものかと黙っていたが、その答えを聞くやナイナイとばかりに手を振っている。

「いや、ここ学園都市なら何が起こるかもわからないだろ、未来なんて誰にもわからねぇんだからさ」

「まあ、いまはそういうことにしといてやろうぜ、じゃないとコースケもおさまりがつかないしな」

 勇作はここでもオトナな態度を示して、レイは彼がガールフレンドとの交際を順調に進めているのを感じるのだった。

「つうかさ、今週末はバレンタインデーだかんな、とりあえず操祈ちゃんからチョコレートを貰えるかどうか、そこが当面の課題っしょ」

 少年たちの悩ましい感情に火をつけたマコトが、現実的な問題へと巧みにスリ変えて場面を引き継いだ。

「ああ、そうか、そうだったっけな、ゴタゴタしててすっかり忘れてたぜ……土曜日だっけ?」

「ガッコは休みだからなぁ……」

「逆にその日、もし操祈ちゃんがお外にお出かけだったりすると、夏上氏の片思いもゲームセットってことかと……現実を受け止める覚悟はできてる?」

 操祈が学園都市の外に恋人が居て、密かにデートを重ねているらしい、という噂は女子たちの間で拡がっていて、一時、一部の間では操祈の相手候補として囁かれていたこともあったというレイではあったが、幸い、いまは対象からすっかり外されていたようである。

 マコトがそのあたりの事情にどこまで迫っているかはわからなかったが、目下の女子たちの噂については彼の耳にも届いているようだった。

「うっせぇなマコトぉ、そんなことはねぇよっ、その日は操祈ちゃんは学園都市から出るどころか、ガッコの外、教員室の外にだって一歩も出やしねぇからっ」

「そういうことなら俺、今週の操祈ちゃんのスケジュールにさぐりを入れてみることにしまつね」

 マコトはでっぷりしたにきび面に不敵な笑みをつくると、もう何杯目かという山盛りのご飯の上に青椒肉絲の残り汁をドロッとかけて盛大にかきこみはじめた。

 残り一同は巨漢の旺盛な食欲に呆れたように顔を見合わせるのだった。

 

 

            ◇            ◇

 

 

 日曜日の夜、操祈はベッドの上でうつ伏せになって、枕に細っこい(おとがい)を埋めながら枕元に置いた雑誌のページを拡げていた。夕ご飯を独りで食べて、洗いものをして、まだ入浴前だったが部屋着からパジャマに着替えてのんびりしている。

「うーん……どうしようかなぁ……」

 悩ましげに眉根を翳らせていながら、口許には幸せそうな笑みも泛かんでいた。

「レイくんがいけないだゾ……お手製のブラウニーなんて持ってくるんだもん……」

 去年のホワイトデーには彼女からのバレンタインチョコのお返しに、レイは手作りだという実に本格的なチョコブラウニーを贈ってくれたのだ。チョコレートがたっぷりのずっしりと重たいブラウニーケーキは、国内では滅多に見られないもので、大昔、子供の頃にボストンで曾祖父に日曜日の午后に連れて行ってもらったカフェで食べたものに良く似ていた。

 こってりとした甘さと深い苦みがちょっとオトナな感じで、背伸びをしたい年頃の少女の舌と心をとろけさせてくれたのだ。

 彼がそのことを知る由もないが、その味を思い出して懐かしさと、失われた子供時代を思う一抹の寂しさとが操祈の心の琴線に触れて、それを大好きな人から貰ったことが嬉しかったのだった。

 だから、今度はそのお返しをしてレイを驚かせたかったのだが、お手製のチョコレートケーキはレシピを読んだだけで絶望的な気持ちにさせられている。とても独りで再現できそうには思えないものばかりだった。

 仕方なく雑誌のページを捲って、何とか自分の手に負えそうなものを探しているのだが、作れそうな物を選ぶと今度は貧相なものになって気持ちが萎えてしまう。

 

 “彼の♡をゲットするバレンタインチョコレートレシピ28(2×14)選”

 

 特集記事につられて久しぶりに女性雑誌を買ってはみたものの、お風呂に入るのも忘れて、さっきから同じ記事を行ったり来たりの堂々巡りが続いているのだった。

 さすがに去年のように既製品で済ませたくはなかった。二度も同じ手抜きをするのは女の沽券に関わる気がする。だからといってカッコいいものを手作りするとなると上手くやれる自信がない。

「もう、レイくんがいけないんだからねっ、女の子よりもお料理が上手って、それだけでプレッシャーなんだからぁ」

 ぶつぶつと八つ当たりの愚痴をひとくさり。それが済むと今度はそんな情けない自分に自己嫌悪。

「あいたいな……レイくんに……いま、どうしてるのかなぁ……」

 先週はいろいろあって逢えずにいたことで、独りっきりで迎えた週末は余計に恋人の温もりが恋しかったのだ。

「今週末は……あえるかな……あえるといいなぁ……」

 もしあえるのなら……やっぱりとっておきの手作り生チョコケーキを出してびっくりさせたかった。レイが歓ぶ顔を想うと、雑誌の写真にあるようなハート型のケーキを作ってみたくなる。

 下ごしらえやステップの多さを思うと、いたるところにトラップがあって失敗しそうで不安になるが……。

 でも、まだ一週間ちかくあるから……。

 トライ&エラーの余裕はあった。

 だから――。

「……うん……大丈夫、きっとあたしにだってできるわよぉ……」

 操祈は自分を鼓舞するように言葉に力を込めるとベッドの上でころんっと仰向けになった。テディベアの縫ぐるみにするように枕をしっかり胸に抱いて、

「明日、学校の帰りに紅音さんのお店でお買い物しなくちゃ……」

 目を閉じて買い物リストを頭の中で反芻する。

 ビターチョコレートに……チョコレートは二種類、必要よね……それとは別にホワイトチョコレートも……玉子にバターはお家にあるからぁ……飾り付け用にココアパウダーが要るわね、パウダーシュガーももうなくなっちゃったわよね……それにケーキの型は無いから買わないといけないわ……それと……それと……。

 覚えたばかりのレシピを振り返っているうちに、瞼が重たくなってきていつしか眠りに堕ちてしまっていた。

 夢の中で操祈は、白い厨房服姿のカッコいいパティシエになっていてレイにケーキを振る舞って、彼が嬉しそうに頬張るのを満足げに見守っているのだった。

 

 



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少女と乙女のバレンタイン

 

「それならウチに来るといいわ、舘野さん」

 地下のスーパーで買い物――偶然、居合わせた操祈に合わせる形で、ベルギー製のクーベルチュールチョコレートのタブレットをカカオの含量を変えて三種類と、手作りチョコレートに必須のアイテムを幾つか――を終えた舘野唯香は操祈と二人、二階にあるファストフード店で一服していこうと思っていたところだったが、そこへ現れた栃織紅音に彼女の自宅でお茶をしないかと誘われたのだった。

「栃織さんのお家って、たしかこのビルの上にあるんでしたっけ?」

「ええそうよ――」

 また操祈と二人だけでナイショのおしゃべりができると思っていた唯香ではあったのだが、ペントハウスというのにも興味が湧く。庶民とは違うお金持ちの生活の一端を覗いてみたいとも思うのだった。

 傍の操祈の反応を窺いながら、

「でも、いいのかしら?」

「遠慮しないで、わたし一人しか居ないから」

「え、栃織さんって、ひとり暮らしだったのっ!?」

「ひとり暮らしっていうか、去年、住んでいた祖父が施設に移ってからは空き家にしていたのを、今は私が管理するようになったというだけのことよ」

 紅音の場合はこの街の新参者――唯香を含めてほとんどの生徒たちは外部から学園都市へとやってきた転入者だった――ではなく、彼女の実家がここが学園都市と呼ばれるようになる以前から地域に根をはる地元住人であり、わざわざ寮生になる必要もなかったのだが、全寮制ということから常盤台に入学後は寮生として学園内で暮らしていたのだ。

 言ってみればこの街は紅音にとってはホームタウンということになるのだが、しかし彼女が大層な資産家のご令嬢であると知ったのは最近になってからのことだった。

「コーヒーメーカーはお店のものにも負けないから、味の方は密森くんの折り紙つきよ」

「密森くんの? それは楽しみっ。彼が言うのならきっと間違いないわね、あの人、結構、味にはこだわりがあるみたいだから。先生、どうされますか?」

「操祈先生ならきっとオーケーしてくれるわよ、だって先生も何度かウチに来られたことがあるから……ですよね?」

「え、ええ……」

 操祈は相槌をうちながらも何故かうっすら頬を染めていて、唯香は別の理由からもまたちょっと興味が惹かれてくる。

 紅音が自分と同様に操祈と密森黎太郎の関係を知っている――。

 特に確認したわけではなかったが、かなり以前から唯香はそれを感じていた。

 そのことは二人の間での今の短いやり取りの中にも窺えるように思うのだ。単に茶席に招かれたことがあるというだけではなく、教師と生徒である以上のなにかしらの密な接点が臭う。

 ちょうど自分がそうであるように――。

 そして恐らく紅音の方でも、こちらが操祈の恋愛事情に関わりをもっていることに気がついている……。

 それなら、いったい彼女はいつから知っていて、そしてどこまで知っているのだろう?

 通り一遍の見方をすれば、女教師による自身の教え子である男子生徒への性的搾取、虐待ともとられかねない危険な関係のことを。でも真実は、ヘンタイさんのワルい男の子に恥ずかしいことをいっぱいされて、身も心も骨抜きにされてしまった乙女が一途に恋の熱に身を灼いていた。

 身持ちが良くて、心やさしい女神のように美しい人。

 そんな彼女が、女にとっては交わることよりも抵抗感のある愛撫に身をゆだねるためだけに、年下の彼とのデートを重ねている。

 操祈の傍に居て、清潔感いっぱいの清楚な横顔を見ているととても信じられないが、それが二人が紡いでいる性愛のドラマだった。

 破廉恥でアブノーマルな道ならぬ恋、それでも将来を誓い合った恋人たち。

 けっして人には知られてはいけない、もしも知られてしまったたちまち悪意のある良識によって打ち砕かれてしまう儚くも脆い恋だ。

 だから応援したくなる。

 大切な、大好きな人が傷つくところを見たくないから、幸せになってほしいから。

 紅音が山崎碧子のような、敵――ではないことは判っていた。

 密森黎太郎が庶務委員になったことだって、そもそもが彼女の仕掛けだったのにちがいない。

 そのことで学園内では今も彼と紅音との関係を噂する者も少なくなかったが、それが全くのフェイク、あるいは真実の巧妙な隠ミノとして機能していたことを唯香は事実として知っていた。

 ところが当初は愚かにも唯香自身、紅音が本当に密森黎太郎に懸想していて、それで彼を手元に置きたがっていたのだと邪推していたのだ。

 操祈を恋敵をするような三角関係を懸念していたくらい。

 しかし紅音と接するようになって判ったのは、彼女が誰もが思っているような、ただ学業成績が優秀なだけの陰キャ――などではなかったことだ。

 クラスメイトでありながら、これまでの紅音からは他人と交流を持とうという意識があまり感じられなかったこともあって、つい最近になるまでクラス委員ということ以外での接触がなかったのだが、目立たない容姿にゴマかされがちになるが素顔の彼女は単に学力が高いという以上に犀利(さいり)で鋭敏、機略に富んだデキる女だった。

 操祈を送別会の出し物であるバンドのヴォーカリストにハメこむというルールの隙を突いた悪だくみは、紅音なしには為しえなかっただろう。これは目下、二組の中だけのコンフィデンシャルとなっていて、送別会当日までは対外的には伏せるという了解がクラスで共有されていた。

 それを受けて操祈と数名の女子とでこっそりカラオケを楽しんだり、そこには紅音も参加するなどしていて近頃は距離がぐっと縮まっていたのだが、その上で彼女を知れば知るほど驚き以上のものを感じるようになっていた。

 底が見えないという面ではある意味、碧子以上かもしれないと畏敬の念すら抱き始めている。

 互いにファーストネームで呼び合うまでにはなっていなかったが、このところ人が変わったように社交性を表にするようになった紅音の変化には目を瞠りながら、心理的には古くから付き合いのある友人たちよりも信頼できる相手なのかもしれないと認めていたのだった。

「いま、小田切さんも下に“お買い物”に来ていて、さっき会った時に声をかけたの。済んだら上に来るようにって言っておいたから、彼女が来たら行きましょう」

「え、芳迺(よしの)ちゃんも来てるの?」

 唯香にはちょっと意外だった。紅音が彼女まで誘った意味がわからなくなる。操祈とその事情を知る自分たち以外に、芳迺という部外者――を交える意図が見えないのだ。

「小田切さんだけじゃないわ、特考の結果が出てホッとしたのか、昨日は午後からは女の子たちが入れ替わり立ち替わりチョコレート売り場にやってきては“燃料”をたっぷり仕込んでいってたわよ。みんな週末のことを思ってそわそわ浮き足立ってるみたい。で、そんな中、今日は先生までやってきて、そこへ舘野さんも現れたものだから、もう可笑しくなって」

「わたし、そういうのじゃないから……今年は最後になるから、クラスのみんなに手作りしたものを配ろうと思って……」

 操祈が苦しい言い訳をすると、

「でも義理チョコに紛れて本命を忍ばせるのは女のコの常套手段ですから」

 唯香も事情を知っていながら、ちょっと意地悪なことを口にする。

「そんな……本命だなんて……でもみんな進学先が定まってよかったわ……責任が果たせて、わたしもホッとしたんだゾ……」

 操祈は唯香にするのと同じように、大きな瞳を伏せながら、はにかむような容子で実に素早く紅音の顔色も窺っていて、それで唯香は紅音が“知っている”のを操祈の方でも了解済みであることを察したのだった。

 だからよけいに紅音の誘いの意味が気になってくる。奇しくも女教師の禁断の恋を知る二人が揃って、当人を交えていったい何を企んでいるのか、と。

 操祈と自分に艶っぽい内容のガールズトークでもさせようというのだろうか?

 でもそれはさすがに願い下げだった。たとえ女友達であったとしても、軽々に自身のセックスライフを吹聴するような悪趣味はないし、むろん操祈にもないだろう。

 操祈とは悩みを抱えるもの同士として立ち入った話もしているが、それでも節度はわきまえているつもりで、話せないことは操祈を相手にしてもやっぱり話せない。

 結局、セックスは当人同士だけの密やかないとなみだった。褥で知り得たことは褥の外には持ち出さない。

 それはレディにとっては当たり前のルールだ。慎みを失くしてしまったら、たちまち恋の魔法は解けてしまう。

 そのことを頭のいい紅音が知らないとも思えなかった。

 だとすると――。

「ねえ、栃織さん、やっぱりあなたも知ってたのよね……?」

 唯香の見つめる先の地味なメガネの奥の黒瞳が煌めいた。

「その話はここではアレだから上に行ってからにしましょ」

 当事者を脇に置いての、互いに何を言っているのか分かった上での探り合い、事の重要性を弁えた腹芸だった。

「でも芳迺ちゃんは何も知らないわよ」

「わかってるわ、だから話す内容には気をつけるから……あ、噂をすれば影、小田切さんが来たわ」

 目をやると廊下の先のエレベーターホールに小田切芳迺の姿が見えた。向こうは操祈の姿に気づいたのかボーイッシュなショートボブの顔を驚きに綻ばせて小走りになってやってくる。操祈や唯香と同様に、その手にはしっかり戦利品を収めたレジ袋がぶら下げられていた。

「唯ちゃんが来てるのは聞いてたけど、まさか先生まで居られたなんて! 操祈先生もチョコレートを仕入れに来られたんですか?」

「え、ええまあ……」

「それって、もちろん噂の彼氏さんにですよねっ?」

 少女はいきなり核心を突く問いを発して唯香をギョッとさせる。

「噂? なんのことかしら……?」

 操祈の表情に動揺の翳が過ぎった。

「先生には都内にアダルトな彼氏さんが居るって、女の子たちの間では噂になってますから、週末にはときどき通い妻までしてるとかなんとか」

「そんなこと、あるはずないでしょ。私は今年が最後になるからみんなに手製のものを配ろうと思って……だからいっぱい買っちゃったの」

 また同じ言い訳を繰り返していた。しかし明らかに的を外した噂に安堵したのか、操祈は優雅に微笑みながらひときわ大きなレジ袋を掲げて見せている。

 チョコレートだけでも四キロにもなる大人買いで、確かにみんなに配るというのは本当だろう。ただ、一緒に買っていたハートの形のケーキ型は一体、何に使うつもりなのだろうと思う。もっとも気づいても、それをいちいち問い詰めないのが恋を知るもの同士の情けというものだった。

「えー、違うんですかぁ、つまんないです」

「芳迺ちゃん、あなただってリオンくんにプレゼントするために材料を集めに来たんでしょ?」

 唯香はなお興味津々といった容子でいる友人に水を差すつもりで口を挟んだ。

 小田切芳迺は無事、第一志望の医科進学予科にあたる静菜の医学生物学系への進学を決め、さらには彼氏である白水(しろうず)リオンも同校の社会科学系への進学となって、来年から同じ高校に通うことになり普段よりもテンションがぐっと上がり気味なのだった。

「ホラホラ、つもるおしゃべりはウチに来てからにしましょ」

 紅音が先に立つ形で操祈をエスコートする。

「栃織さんの家って、ここのペントハウスなんでしょ、凄いわね、栃織さんちってお金持ちだったんだ」

 芳迺は恬淡として言うが、彼女自身も実家は大病院のお嬢様だった。

「そんなことないわ、こんな郊外の古いビルで、今じゃこの建物の大半はウチのものじゃなくなっているくらいだし、さ、みんな一番奥のエレベーターに乗って」

 仮にも業務用の大型エレベーターが四機もある大きなビルのオーナーというのは、いわゆる庶民というものではないと思う。

 紅音がエレベーターボタンのルーフ階を押す慣れた容子に唯香はため息をついた。

「すごいわね……ペントハウスなんて羨ましいわ……あたし、そういうの生まれて初めてかも……」

「何が羨ましいものかしら、将来はこの国の舵取りをしようかっていうアタリの彼氏持ちで、ミスコンにも選ばれるような凄い美人に生まれた人には、その言葉、そっくりお返ししたい気分よ」

「あら、だって栃織さんの彼氏の密森くんだって相当なものじゃない? 頭がいいし優しいしで、おまけにお料理だって上手だし、ね、先生、操祈先生だって女だからそういう男子って気になりますよね」

 芳迺は無知からくる無頓着さで、見事にきわどいところに触れてくる。

「え、ええ……」

 教え子の少女から無邪気な眼差しを向けられて、操祈は当惑気味に視線を泳がせていた。救いを求められるように流し目を送られて、唯香は仕方なく助け舟を出した。

「そんなこと聞かれて先生が、ハイそうねって言えるわけないでしょ、依怙贔屓することにもなりかねないから」

「あ、そうでした。でも、先生がどんなタイプの男性がお好みかは同性としてはやっぱり気になるし」

 紅音が芳迺まで茶席に誘ったのには、ただ親睦をはかるためだけではないだろう、何らかの意図があるに違いなかった。抜け目のない彼女が意味もなく事情を知らないものを同席させる筈もない。

 何を考えてるの? 栃織さん……。

 紅音と視線が交わると唯香は目で問いかけたが、彼女は(いわ)くありげな微笑みを返してくるばかりで、仕方なく唯香は、またあなたの手のひらの上で踊ってあげるわ、というように軽く肩をすくめてみせるのだった。

 




ちょっと短めです

温和な日常の一コマを


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バレンタインデー前日

 

 その日の朝のホームルームで、食峰操祈は彼女の受け持ちクラスの教え子二十五名(女子十七名、男子八名)全員に手製のチョコレート――宝石もかくやとばかりに美しくデコレーションされたボンボン・ショコラ――を配っていた。

 円いもの、四角いもの、そしてひし形をしたもの……形の異なる三種類を二個ずつ丁寧にラッピングをして、ひとり/\に宛てたメッセージを封じた手紙を添えて、操祈自身が教室をまわって生徒たちに感謝の言葉とともに手渡すかたちで。

 その恭しい儀礼を前に、当初、彼女がバレンタインチョコレートを配りたいと切り出した時に、一部の男子からあがった

「先生、バレンタインデーは明日です。今日は十三日の金曜日なんですけど――」

「え、今日って十三日の金曜日かよ、なんかヤバくね?」

「ついでに仏滅だったりしてなっ、知らんけど」

「バレンタインデーチョコを配るのは明日の方が適当なのではないかと具申いたします」

 などというようなわざとらしい懸念の声はたちまち鎮まり、みな一様に厳かな顔つきになって操祈からの心からのプレゼントを押し戴いたのだった。

 そしてなにより男子生徒たちを安堵させたのは、操祈本人の口から、明日の予定は何もない――と明言されたことだった。

「あら、あたしどうして東京にまで行かないといけないの?」

 逆に問い返されて、訊いた側が言葉に詰まってしまう。

 操祈が高級チョコレートを購入した直後から既にその話は拡散していて、常盤台の生徒のみならず、このところは学園都市(まち)の一部でも、彼女が“例の都内在留の外国籍の男友達”に“告白”をするつもりなのではないかという噂がまことしやかに囁かれていて、男に限らず誰もが彼女のその日の動静に神経を尖らせていたのだ。

 だがチョコレートの行く先が、彼女の教え子の生徒たちへのものだったと明らかになってからは、さながら街全体が喉のつかえが落ちたかのようにまたいつもの明朗で快活な雰囲気を取り戻したようなのだった。

 チョコレートを受け取った生徒たちが直後に発信した“操祈のハートをゲットだぜ!”の写真つきツイートの影響はたちまち学園都市内ばかりか街の外にまであふれ出し、嫉妬と羨望、安堵と好奇のコメントが交錯する中、和やかな波紋となって拡がっていったのだ。

 一方、噂の中心となっていた当の本人は、よもや自分の行動が周囲にそのような影響を及ぼしているなどとは思いもせずに、バレンタインウィークに入ってからもいたってマイペースでいつもと変わらぬ日々――自宅に戻るとチョコレートとの悪戦苦闘の連続であった。そもそも「テンパリングってあによぉ?」から始まったのだから仕方がない――を送っていたのだが、親しい女子生徒たちからの助言にも従って、職場用としては、男性教員其々に義理チョコを配る代わりに、作ったチョコレートを菓子受けのバスケットに盛って、男性に限らず誰でも気軽に手に取れるようにしたため、その日は教務主任の村脇静繪ばかりか教頭の武識美奈世(たけしきみなよ)、果てはどこからか噂を聞きつけてきたのか校長の谷津城妙子(やつしろたえこ)女史までが職員室に現れて、みな一つ手にとって口にしては満足げに眉を吊り上げる、という珍しいシーンが演じられることになったのだった。

 チョコレートのフィリングにしたのは操祈の説明によると、オレンジマーマレードとストロベリークリーム、それにガナッシュの三種類で「俺、これ死ぬまで永久保存する――」という生徒の声には

「フィリングも手作りで防腐剤、添加物は一切なしよぁ、だから傷んでしまうといけないから、なるべく早く食べてちょうだい」

 と柔らかに諭していた。

 だが男子だけでなく女子生徒を含めて全員が、操祈からもらったチョコレートにはすぐに手をつけることなく、まずは共用の冷蔵庫に保管することを選び、そのため庫内のスペースを確保するために、放課後は各自入れてあった清涼飲料水のペットボトルや保存食の類を消費することになったので、その日の放課後はどこの部室でも寮室でも、ひとしきりスナック菓子などをつまみにささやかな宴が催されることになったのだった。

 誰一人落ちこぼれることなくほぼ希望通りの進学先を()めて、中学生活も残すところひと月余り。三年二組の生徒たちは、新しい春を間近に希望に胸を膨らませる一方で、刻々と迫り来る卒業に向けて一様に寂しさも覚えているのだった。

 三年間、起居を共にしてきた友との別れ、そして敬愛する師との別れ……。

 ただ、その一つの救いとなったのは、操祈が配ったチョコレートに添えられた手紙だったのかもしれない。

 そこには個々の生徒へ向けての彼女からの思いのこもった言葉とともに、三年二組専用の掲示板のウエブサイトアドレスと、それぞれ別個のアクセスパスワードが添えられていて、それがあれば卒業後もいつでも気軽に伝言を書き入れることができて、旧交を温めることができるだろうということなのだった。

 栃織紅音の発案で急遽、少女の設計により誂えられたものであり、実際、それは生徒たちにも歓迎されていた。

「ちゃんと先生も書き込んでくれるんですか?」

「ええ、もちろんよ。だって気になるじゃない? みんなが進学先でどうしているのかってぇ。でも夏上くん、君は後ろを振り返るよりも、まずは前を向いて全力疾走することを考えないといけないわねぇ。だってコースの変更をするつもりなんでしょ? あれは入学してからが勝負だからよそ見をしている余裕なんてあるのかしらぁ? 転科するのは大変なんだゾ、あたしだって必死だったんだからぁ。もう毎日/\朝から晩まで一生懸命脇目もふらずに、食べることも忘れるぐらい勉強に明け暮れていたくらいだしぃ」

 男子生徒は痛いところをつかれて絶句する。

「コースケ、おまえの負け」

「永久不沈空母、食峰操祈に竹槍で突っ込むドン・キ・コースケ、艦影さえ目にすることなくあえなく沈没、無惨」

 いつものように仲間から冷やかされて、教室はまた賑やかな笑いにつつまれるのだった。

 

 

 放課後――。

 舘野唯香は二階教室の窓から、正門前に横付けされた迎えの車――運転手(本来は不要なのだが富裕層では今も車内にひとり配置する場合が少なくなかった)の男が黒塗りのセダンから出てきて待っていた――に向かう小田切芳迺の後ろ姿を見送っていた。

 なるほど、そういうことか――。

 と、漸く得心がいった気分でいるのだった。

 よく知っているつもりだった小田切芳迺も、いわゆる超のつくセレブのお嬢様なのだった。実家が病院であるとは聞いていたが、全国展開する病院グループのトップのご令嬢となると庶民感覚からはかけ離れていて、それがどんなものなのか想像すらつかなくなってしまう。

 あの日、ペントハウスに招かれた三人の中で自分だけが庶民で、残りは紅音を含めてみな特別な人たち――だった。

 初めて見る富裕層、富豪の生活、暮らしむき。

 見渡す限りのリビング、というのは驚き以上に呆れるほどだった。掃除機をかけるだけでも、一人だといったい何日かかるだろうかと案じてしまう。

 もっとも、きっと何人もいる専門の使用人がさっさと片付けてしまうのだろうから、そんなことを考えてしまうところがどこまでも自分は庶民なんだと思う。

 ホテル王――紅音は大半が如何わしいラブホテルだと卑しめていたが――の孫娘と、巨大医療法人理事長の一人娘。

 そして……操祈先生も、あのヴィルダーベント家に連なる者だったなんて……。

「ちがうの、向こうの家とはもう全然、関係ないんだから……そもそも曽祖父の代から外戚だったし……私はさらにまたその外戚で……」

 と弁明していたが、

「でも、先生の英語名のミドルネームはヴィルダーベントですよね」

 紅音がそう指摘すると

「栃織さん……どうしてそれを……」

 図星を指されたのか操祈はびっくりした容子だった。

「ひとたびネットワークに繋がったら秘密はないものと思って下さい。例えばコンビニでカード決済をされるだけでも履歴は永遠に残りますので。カード番号の下にいったいどれだけの個人情報がぶら下がっていると思いますか?」

「やっぱりそうだったんですね……だって、先生ってなにからなにまで普通じゃないから……」

 芳迺はさもありなん、という容子で納得していた。

 結局、まったく知らなかったのは居合わせた者の中で自分だけなのだった。

 ヴィルダーベントという姓についてもその場ではすぐにはピンと来ず、後になって世界的にどれほど影響力のあるスーパーファミリーであるのかを知ってたまげてしまったくらい。

 非凡な情報収集力のある紅音は当然としても、どちらかといえば仲間内では雑事にも疎い方の芳迺がそうした事情を知っていたというのは、エスタブリッシュメント階級は独自の情報ネットワークを介して互いを知るのだろうか、とも思ってしまう。

 棲む世界が違う――。

 それが偽らざる心境だった。

 だからと言って独り屈折したり、三人に対して距離を感じたりするわけではなかった。それまでどおりの接し方、付き合い方をするつもりではあったが、それでも見えている世界があまりにも違っているとなると、やはり気おくれを感じてしまう自分が居るのだ。

 気持ちの上で背伸びをしていると疲れてしまうかもしれない、と……。

 ただ、合点がいったのはそのことではなかった。

 今頃になってようやく胸に落ちたのは、なぜあの日、紅音が事情を知らない芳迺を操祈や自分とともに部屋に招いたのかということ。ずっと訝しく感じていたが、紅音からはその後も特に説明もなくそのままになっていたのだった。

 そのワケがやっと判ったのだ。

 適わないな……栃織さんには……。

 豪勢なペントハウスに招かれて、ふかふかの長椅子に座って四人でテーブルを囲み、紅音から供された“密森くんスペシャル”なるコーヒーを飲みながらの雑談の中で、やはり話題は美しき女性教師の異性関係に及んだのだ。

 そして、操祈には彼氏が居ること、

 既にプロポーズをされていること、

 相手は包容力のある優しい男性であるらしいことなど、

 十分に配慮された婉曲的な言い回しではあったが、そうしたことが小田切芳迺にも打ち明けられたのだった。

 たしかに全部、事実だった。

 そのときの判りやすい操祈の反応からも、芳迺の方でも今の話が全て本当のことであると思ったのに違いない。

「やっぱりそうだったんですね、女子たちの間ではずいぶん前から噂になってましたから、わたしもある程度は判ってましたけど……」

「でも小田切さん、このことは学校のみんなには内緒よ。まだここにいる私たちだけしか知らないんだから。いずれは表になるかもしれないけど、今はまだそっとしておいてあげて。先生のためにも、それからみんなのためにも」

 紅音が諭していた。

「ええ、わかってるわ、こんなことみんなに言えるわけがないでしょ。もしも男子たちが知ったら大騒動になるのは必至だし、それこそ本当に必死になっちゃうのも出てくるかもしれないし」

 少女が物騒なことを口にして操祈が唇を震わせる。

「おねがいよ芳迺さん、変なことを噂にしないで……」

「大丈夫です、先生、わたしもちゃんと節度は弁えているつもりですから……でも唯香ちゃんも知っていて、ずっと内緒にしてたなんて……」

「仕方ないでしょ、事が事だけに……噂って気をつけていてもすぐに拡散してしまうものだから、そのことで私が起点になるわけにはいかなかったし……」

「それはわかるけど……でも先生が……」

 少女は興味深げに瞳を輝かせて、少し言いにくそうにしながらも続けた。

「まだ……だったなんてちょっと意外です」

 まだ――というのは、操祈がまだヴァージンであるということで、唯香はそれが言葉通りの性的に潔癖、無垢を意味するわけではないことを知っているが、芳迺が誤解するのは好都合なのでそのままにしていた。

 口が裂けても交際相手がドのつくクンニストだから――などとは言えないし、言えるはずもない。

 密森黎太郎は女にとって最も嬉しい心からの友、セックスメイトであり、またある面で最大の敵なのだ。

 交わることよりも舐める方が好きだなんて、なんて罪作りな、許しがたいことだろう。

 でも実際に抱かれて、大好きな人から心のこもった愛撫をされれば女はもうダメになってしまう。

 自分だってそうだし……。

 だから操祈を見ているとそれが良くわかるのだ。

 唯香と二人で秘密のおしゃべりをしている時も、慎ましい彼女が話がそちらへ向かうと初々しい羞じらいを覗かせるようになって、それは胸がキュンとなるほどとても綺麗で可愛らしい反応なのだった。

 先生にこんな表情をさせるなんて、あのヘンタイはいったいどんなひどいことをしているんだか。きっとデートのたびに繰り返し恥ずかしいことをして、自分や芳迺でさえもまだ知らないような濃厚なプレイだって操祈の体はもう知っているのにちがいない。

 生クリームプレイですってっ――!

 よくもこの心やさしい先生に、そんなひどいことができるものだわっ(怒)!

 げに憎むべきは密森黎太郎! 諸悪の根源、女の仇。

 でも操祈が未だに処女であることは、まぎれもない事実なのだ。なんといっても操祈先生からのお返しの愛撫の申し立てさえ拒むなんて、あの男のある意味ストイックな変態ぶりは徹底していた。

「芳迺ちゃん、先生はあたしたちとは違うのよ、とても身持ちがいいんだから」

 唯香は話をさらりと流す意図をもって無用の詮索をたしなめたが、

「だって操祈先生はこんなにお綺麗で可愛いらしくて、女の子のあたしから見てもステキだなって憧れてるのに、その上すっごいグラマーでスタイルが抜群で……なのにずっとおあずけさせられてるなんて、彼氏さんの忍耐力にびっくりしちゃいます」

 どうやら恋では自分の方が先輩であると錯覚したらしい少女からの素直な意見表明に

「芳迺さんっ――」

 操祈の諫止の声は半ば悲鳴になって、白い頬を見事に朱く染めあげていたのだった。

 結局、それで話はそこまでとなって、唯香自身が、そしておそらく紅音も知っているのであろう操祈の恋についてのもっと込み入った事情までは伝えられることは無かったのだが、それまでは少女たちの間で囁かれていた単なる憶測、噂にすぎなかったものが噂ではなくなって、芳迺はすっかり満足げであった。

 そしてその後、小田切芳迺は約束を守って、ごく親しい仲間の少女たちにもこの話を広めることはなかったのだった。

 

 

「あら、珍しいわね、舘野さんが教室で一人、居残っているなんて」

 声がして振り返ると、特徴的なハスキーな声音ですぐに分かったが栃織紅音が前のドアから入ってくるのが目に入った。クラス委員として教室の最後のチェックにやってきたものらしい。

「掃除の後始末が終わって、いま帰るところよ」

「何を見てたの?」

「別に何でもないわ――」

 唯香はすぐに窓際から離れたが、紅音は彼女が窓際に立っていたあたりにまでやってくると窓の外に目をやって

「ああ、お嬢サマのお帰りを見ていたのね……将来の医療法人興志会グループ理事長になるご令嬢の」

「そういうあなただって立派なお嬢さまじゃないの――」

「うちはもう、とっくに没落して、いまじゃいたって平凡、普通よ」

「どうだか、あの豪華なペントハウスを見てしまったら、本当の庶民の私から言えば、栃織さんのいう普通ってナニ? って気分になるわ」

「図体が大きいだけで維持するのが大変だから、あれも早晩、処分することになるわね。うちの爺さまの道楽に付き合わされるのなんてゴメンこうむるから。ローカルな老朽化したビルのペントハウスなんて二束三文の値打ちもないわ」

「あら、ご聡明な栃織さんが二束三文の“本当の意味”をご存知なかったとは驚きだわ」

 言い返してから傍らの顔を見ると視線が重なって、どちらともなく、ぷっ、と吹き出すかたちになった。そこで手打ちとなる。

「でもびっくりしたな……今の今まで知らなかったから……」

 唯香は芳迺が乗り込んだリムジンが走り出すのを視線の端で追いながら、

「とうぜん、あなたはみんな知っていた上でのことだったのよね……」

「まぁね……たださすがに今日、小田切さんが急に帰省するとまでは思っていなかったけど」

「島津レオナが芳迺ちゃんの叔母さんだったなんて……なんかもう世の中って広いようで狭いっていうか……」

 はぁーっと、ため息をひとつ。

 唯香を含む華琳、遥果、芳迺のいつものメンバー四人で掃除当番をしている間のおしゃべりのネタは、四人が全員“オトナクラブ”のメンバーでもあったことから、この時期は誰もがおきまりの関心事である明日のバレンタインデーのこと、デートの話になったのだが、芳迺は当日のデートはキャンセルにしてこれから実家に帰ることになったというのだ。

 ワケを聞くと、子供の頃から仲の良い叔母が急遽、父親の病院に検査入院することになって、それで心配になって見舞いに行くことにしたのだという。

 その叔母という人こそが誰あろう、あの島津レオナだというので、みな仰天してしまったのだった。

 かつて一世を風靡した人気歌手であり、現在は著名な音楽プロデューサーとして各方面で活躍する彼女のことは、音楽関係に疎い唯香のようなものにまで聞こえているほどのビッグネームだった。

「それでやっと今になってあなたの考えが分かったところよ、どうして芳迺ちゃんがあの場に招かれたかってことの理由が」

「いちいち説明しなくても、どうせあなたにならいずれは解るだろうとは思っていたから」

「………」

 あの日、小田切芳迺に伝えられたことは事実だった。だがもっとも重要なポイント、すなわち操祈の恋人というのが密森黎太郎であることは伏せられていた。

 というよりも、むしろ芳迺を誤った思い込みへと誘導する形になっていたのだ。

 キーワードとなるヴィルダーベントの名前とともに聞くと、半ば必然的にあの場で語られた操祈の彼氏というもののプロフィールは、全く異なる男性をイメージさせるものとなる。

 誰も嘘は言わずにレトリックを用いることで隠したいものには蓋をする――。

 操祈にはひとことも語らせずに、居合わせた唯香の存在によっても情報にはさらなる信憑性が添えられていたようである。

 お見事、としか言いようがない。

 嘘は真実の中に、真実は嘘とともに――。

 情報操作の基本だった。

 だが真実に優る情報操作はないのだ。

 しかもその情報は芳迺の口から、恐らくはこの後、島津レオナの耳にも届くことになるのだろう。そして各方面に影響力のある彼女を通すことでロンダリングされて、折り紙付きの情報となってさらに広範に拡散していく。

 こうしてミスコン以来、今や時の人になったとも言える操祈のアヴァンチュールは、逆輸入される形で学園都市にまでもたらされることになるのだ。

 きっとそのとき生徒たちはショックを受けるかもしれないが、それがひとたび外の世界からもたらされる時、食峰操祈の物語は、自分たちのすぐ隣にいた若く美しい女教師としてのものではなく、人の手の届かない天上の名花の恋となって、地上を這う人間とは無縁の神話となる。

 そして生徒たちは、改めて遠い存在――となった操祈について、彼女の恋路をより客観的に、よりマイルドに受け止めることができるようになるのかもしれない。

 この春の卒業というのは、みんなが事実を知るタイミングや場面を考える時、いい契機になるとも思えた。

 よりにもよって教え子の一人、それもクラスメートの密森黎太郎が恋人であると知るよりも、よほど受け容れやすい回答になるにちがいない。

「島津レオナはね、操祈先生を芸能界に引っぱり込もうとしていた大手プロダクションとも繋がりがあって、また彼女自身も先生のタレント性に興味があったらしくて、以前にも歌手デビューのオファーをしてきたことがあったのよ。だって先生、歌もけっこううまいし、カラオケでびっくりしたわ、正直、あんなに上手だとは思わなかったから」

 歌についていえば確かにそうだった。

 操祈がチョイスした曲はあまり知られていない歌手のものだったが、伸びやかな高音から深い低音まで豊かに表現されて、みんなが息を呑んで聴き入ってしまっていた。

 天は二物を与えぬどころか、まるで操祈にだけはなにもかも惜しみなく与えることにしたようだったのだ。

「で、それも栃織さん、あなたの計算に入っていたんでしょ?」

「現状、戦局は必ずしもこちらに利があるとは言えないから、使えるものは使わないと。あのラブラブの二人、慎重なようでいてずいぶん危なっかしいところもあるのよ。見守っている方としてはヒヤヒヤさせられてばっかり」

 紅音が柄にもなくメガネの奥の細い目をウインクさせて、唯香は参りました、というように頭を掻いた。自分も同じことを案じていたからだった。

 恋をすると、想うのは大好きな人のことばかりになって、まわりのことが見えなくなってしまうもの。

 女の子の場合は特にだ。

 そして素顔の操祈は、レディというよりもまだ女の子、自分たちといくらも変わらないメンタリティーの恋する乙女だった。

 そんないとけない娘にエッチな行為をいっぱいして、身も心も弄ぶ密森黎太郎はなんて悪いヤツなんだと思う。

「きっと芳迺ちゃんは話しちゃうわよね……あなたのねらい通りに……」

「こっちがいくら内緒にしててねと言ってもね……城壁の外だし、身内だし、大好きな叔母さまから……あの島津レオナがご執心の食峰先生のことを聞かれりゃ、そりゃ話してしまうでしょうよ」

「ヴィルダーベント家のお姫さまには心に決めた許婚がいる、ってこと――?」

 唯香は半ば呆れ顔になって紅音の顔を見た。

「まあ、そんなところね……しばらくの間は虫除けになりそうでしょ?」

 虫除けか……なるほどね……。

 唯香も納得して頷いた。

 現状、学内に、そして学園都市内に、顕在者ばかりでなく潜在的に覚醒を待っている者まで含めると、どれだけ異能力者が居るのかわからない。山崎碧子だけでなく今この瞬間にも、操祈の危険な恋に気がつく者が現れるかもわからないのだ。

 唯香もつい先日、華琳の部屋っ子の少女が見たという“ヴィジョン”の噂話にドキリとさせられたばかりだった。

 幸い、あの時は噂は拡がることなく沈静化したが、またいつ思いもかけないところから吹き出すとも知れない以上、ガードは高くしておくに越したことはなかった。 

「降参よ、あなたには兜を脱ぐわ……このあいだスーパーで彼女に会った時、一瞬でそこまでのストーリーを思いついちゃうなんて、大したものね」

「さすがにそれはないわよ、ただ、小田切さんと島津レオナのことはいつかは使えるかもしれないとは思っていて、それでたまたまあの日、そのチャンスが巡ってきたので利用させてもらっただけ」

「ねぇ、どうして?」

 唯香が訊きたかったのは、どうしてそこまで、あの二人――操祈とレイ――に肩入れをするのか、ということ。それをいちいち口にしなくても察しのいい紅音にはすぐに伝わる。

 打てば響く会話のリズムはテンポがあがってやはり心地が良かった。

 これまでは自分も紅音も、操祈の秘密を守る、という一点において無言を貫くことで、彼女の恋を応援していた。今は、より積極的に庇護者であろうとしている。

「それはきっと……舘野さん、あなたと同じ理由からだと思うわ」

 栃織紅音も自分と同様に食峰操祈のことが好きだから――。

 というのを匂わせていた。

 だが、まだストンと胸に落ちない。なおわだかまるものがあるように思えて

「本当にそれだけ?」

「どうして――?」

「だって頭のいいあなたが、あたしのような、そんな一方通行の単線列車みたいな思考をするとも思えないから」

「そうね……」

 見ると紅音はずり下げたメガネのフレーム越しに唯香の表情を窺っていた。

「確かにわたしにもメリットを期待しているものはあるけど、でも今はまだその話はしたくないの……ただ心配しないで、だからといってあの人にハッピーになってほしいという気持ちに嘘偽りはないから」

「そう……ならいいわ、信じる……」

 唯香は諦観を含んだ微笑みで応えた。

「ところで、話はかわるけどあなたはどうするの? 明日……」

「どうするって?」

「密森くんにチョコレートをプレゼントしなくてもいいの? そうしないとあなたの描いたシナリオが完整しないんじゃなくて?」

「冗談言わないで、あたしがあの人と張り合って何とかなるとでも思うの?」

 その答えは唯香の予想していたものとは少し違っていて、目を瞠る。

 “あの人”“張り合う”というワーディングは、とても第三者の発するものではなかったからだ。

 紅音も自身の今の失言に気がついたのか、めずらしく狼狽えた容子になって言い直していた。

「わたし、別に手作りチョコなんて用意してないし、パスよ、パス。毎年毎年、バレンタインデーなんて来なきゃいいのにって思うわ。お美しい貴方たちと違ってね」

 そう言い捨てると紅音は背を向けた。クラス委員の顔に戻って、そそくさと教室内を歩き回って清掃作業後の点検を始める。それが済むと教室の後ろのドアから出ていくときに、

「舘野さん、帰るときには教室の電気を消していってね、後はよろしく」

 事務的な言葉を残していった。

「ええ、わかったわ……」

 唯香の返事を待たずに紅音の姿は見えなくなっていた。

 再び教室にひとりになった唯香は

「ねぇ、栃織さん……貴方たちって誰のこと……?」

 ひっそりと呟く。

 きっと無意識にだったのだろうが、紅音は、貴方、ではなく、貴方たち、と複数形を使っていた。

 とても頭が良くて、物事を常に合理的に進めようとする態度からついうっかりしてしまうが、栃織紅音もひとりの女の子、それも自分と同い年の女子中学生なのだ。

「……ホントにひどい(ひと)よね……あなたって……」 

 美少女は、当該の少年の机に目をやりながらひとりごちるのだった。

 




次話のバレンタインナイトに繋がる前の平和な日常を


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ビューティフル・ドリーマー

 

“あ、まただ……この夢……”

 坂下恵美(さかもとめぐみ)は眠りの中にあっても好奇と胸の高鳴りを覚えながら固唾をのんで目を凝らした。

“ああ、きれい……なんてお綺麗なんだろう……”

 視えているのは女の人の裸の胸、とても美しい。

 シミひとつ無いミルクのように真っ白な肌、すごくボリュームがあって肉感たっぷりなのに、誇らしげというよりも果敢(はか)なげな印象さえ抱かせる二つの乳房。桜色の乳暈のひろがりはみごとなまでに艶やかで官能的、くっきりとした輪郭を描いている。それなのに真ん中にある肉芽は羞ずかしそうに頭を覗かせていて、きっとまだ愛撫慣れしていないのだろうとても慎ましげなのだ。

 いまそれは背後から伸びてきた誰かの手――あんな(こわ)いペンダコのある指が女のものであるはずがなかった。異性、男のものだ――の中指の腹に愛しげに頭を撫でられて目覚めを促されていた。

 それは女の子が自分の体を慰めるときよりもデリケートなタッチ、なのに断固とした意思を感じる指の運びで丹念にくすぐったり、瘤のある指の背を渡らせて優しく擦ったりして、可憐な女の乳首を嬲っている。

 やがて指の爪先ほどにもなったそれは愛くるしい肉の尖りもけなげに、色づいた朧暈の中にも小さなツブツブが浮き上がってきて精いっぱいの興奮をうったえているよう。

 さらに男の手は二の腕の内側をじっくり撫であげながら女の両腕を頭の上へと導いて、露わになった腋の下と無防備にされた裸の乳房は、女の自分が見てもドキッとするほど甘くてエロティックなのだった。

 両手にゆっさりと包まれて、豊満な肉を眩しいほどに白く輝かせて深い谷間を作って盛り上がる胸。

 男が背後から顔を覗かせた。銀縁のメガネ、黒い瞳、ややくせ毛の黒い髪。

 やっぱり密森先輩だ――。

 目を細めてうっとりした表情で露わにした女の腋の香りを嗅ぐと、そこにも唇をあてて賛美のキスを送っている。

 すごい――。

 男ってこんなことまでするのっ!?

 彼がもっとずっとイケナイことをしているところを何度も視たことがあったが、少女にとっては腋の下へのキス、そこを舐めるのも予想もしないやり方で、倒錯的で異常なことのように感じてしまう。

 我身に置き換えると、恥ずかしいニオイを男の人に知られるのには強い抵抗があって身が竦むのだ。

 そしてそんなイヤらしいことをされているのは……長い金髪の……顔はまだ見えないがきっと操祈先生だ。

 だって、こんなに美しい体をした女の人を他には知らないから……。

 二人はこれからさらに懸命に、一途に愛を確かめ合うことになるのだろう、そしてそれを自分はまた覗き見ることになる……。

 初めはただの夢の中の出来事、自分の潜在意識が勝手に作り上げた幻想だと思っていたのに――。

 なんといっても自分の力は、せいぜいレベル1を少し超える程度の遠隔視能力で、精度も信頼性もおよそ不十分なものだとの自覚があるからだった。

 夢――を見るのが眠っている時に限られることもあって、それが現実とどこまでリンクしたものかを確かめるのさえ難しい。自身の感覚では的中率はせいぜい半分程度、当たるも八卦当らぬも八卦といったものだと思う。

 だからたまに視えていたものが現実とぴったり重なっていたりすると、かえってびっくりすることがあるくらい。

 でも、この二人のラヴシーンの夢はこれが初めてではなかったのだ。

 過去にも何度も繰り返し現れていた。

 見えるシーンもさまざまで、情事の初めから終わりまでを捉えた長いシークェンスだったり、部分的な短いカットだけのこともある。既にクライマックス寸前の先生が両肘をついて枕に顔を埋めたまま、お尻を高々と突き上げるようにしている姿で“それ”をされているところとか、きっと事後なのだろう一緒にバスタブに浸かって入れ()のようになって仲良く抱き合っている幸せそうな容子とかもあったりして、いろいろだった。

 中には先輩が先生のスカートの中に潜り込んでいく場面もあって、それこそが自分の見ているポルノチックな夢が本当なのではと疑うきっかけになった、あの去年の秋に週刊誌の記事になったものに酷似していた。

 きっと今夜もまた先生はイケナイことをいっぱいされちゃうんだろうな……。

 悪い人だな、密森先輩は……。

 だけどそれも仕方ないことだと思う。

 だって先生はあんなにもお綺麗で愛らしい人だから。

 常盤台に入学して、まず驚いたのは入学式での全教員の紹介で、先生が講堂の壇上に現れた時のことだった。

 豪華なブロンドヘアをさらさらとたなびかせて、一瞬、AIのホログラフィーかと思ったくらい。

 こんなにも美しい女の人が現実に居るなんて!

 生身で操祈先生ほど整った顔を見たことがなかった。

 それが自分たちのように生きて、同じ空気を吸っていることの不思議。

 ところが完璧そのものの見かけに反して当人はすごく気さくで人間的で、大きな目がいつもイタズラっぽい光をたたえているようで、すぐに大好きになったのだった。

 山崎先輩もすごくお綺麗な方だと思うけど、でもやっぱり操祈先生は特別。女の自分でもそうなのだから、男の子たちが夢中になるのも無理はなかった。

 美人で頭が良くて、そしてなによりとっても心やさしい人。いつも(たお)やかな微笑みを浮かべて。

 誰よりもスゴイ人なのに誰とでも分け隔てなく温かく接してくれる。

 なのに、どこか自分たちと同じ女の子の匂いもしていて……。

 大人の女の人でありながら、そこはかとなく漂う少女の雰囲気。

 それはきっと先生が纏った清らな気配の所為だと思う。

 真っ白な肌は無垢そのもので、まるで神秘を体現しているようなのだ。

 よこしまなことを考えるのも憚られるくもりのない清潔感は、安心して憧れることができるものなのだった。

 そんな先生がプライベートでは密森先輩にすっごいエッチなことをされてるなんて!

 初めはとても信じられなかったし、今でも夢の中ではあっても目を疑いたくなる。

 あんなにもステキな女の人があんなふうにされて――。

 もしも自分なら男からアレをされたら、恥ずかしくて死にたくなるかもしれない。

 でも好きな人からだったら、その人のことをたまらないくらい好きになってしまうのかな……?

 二人が本当に愛し合っていること、強い絆で結ばれた恋人たちであることは、少女の中ではもはや動かしようのない事実になっていた。

 だって、見たこともないほどの美しいセックスを視てしまうと、それが到底、自分勝手な想像の産物などとは思えなくなってしまうから。

 ただ事が事であるだけに他人に軽々しく触れ回るわけにもいかず、これまでずっと口を閉ざしていたのだが、ついこの間、うっかりルームメイトの華琳先輩に漏らしてしまいそうになって、それで慌ててオブラートに包んでごまかしたばかりなのだった。

 幸い、華琳先輩からはその後しっかり否定されてむしろ安堵していた。

 

 

「やっぱないわ、ないない、だいたいそんなのありえないって、あの操祈先生が生徒とキスしてる? レイっちと? 冗談にもありっこないし。それにね、週末はレイっち、密森くんは実家に帰っていて学園都市(ここ)には居なかったんだってサ、だからメグちゃんが見たのは、やっぱりただの夢よ」

「ですよね、わたしもそう思います。すみません、変なこと言っちゃったみたいで。だって私の力って、所詮レベル1ですから、きっと最近見た動画か何かのシーンが夢の中に混じったりかなんかしたんだと思います」

「混じったって、あんまり変な動画を見てるんじゃないわよっ、生クリームプレイってなによソレ? あのオクテな先生がそんな変なことしてるワケないじゃないのよっ」

「あ、あれは別の話で、お気に入りのパティシエ動画とごっちゃになっちゃたんだと思いますので、華琳先輩もサクッと忘れちゃってください――」

 

 

 事実、自分の遠隔透視力の及ぶ範囲は、だいたい数百メートルぐらいで過大に見積もっても一キロを超えるようなことは無いと思う。そしてその日、密森先輩が街の外に出ていたのだとしたら“視える”はずはなかった。普段ならただの幻想、気の迷いか妄想の類、とやり過ごす事ができることだ。

 でももしも、先輩が何らかの方法で街に戻ってきていたのだとしたら?

 そして先生のアパートでお泊まりデートをしていたのなら?

 学園都市の城壁は以前のように鉄壁なものではなく、アルマの監視もわりとルーズになってきているという噂も聞こえていた。

 あるいは知っている人については透視できる距離が伸びるのかもしれないし……。

 自分が興味を抱いたり、関心を持ったりすると共感の場のようなものが働いて、次元?――の扉が開きやすくなったりするのかも……。

 確信しているのは、夢で見ていることは今、現実に起きていること。

 その夢の中で彼――密森先輩がまた何か囁いた。声は聞こえない。恵美の力は視えるだけで、音まではカバーしていないからだった。

 視界に現れたのは、やっぱり操祈先生だった。

 先輩からいったい何を求められたものか、頬を朱らめて恥ずかしそうに目を細めて長い睫毛を(しばたた)かせている。でも躊躇いながらも小さく頷いていて、けっして拒んでいるのではないのが伺えるのだった。 

 きっと密森先輩からはまたアレをもちかけられたのに違いない。

 彼がいちばん好むことを。

 華琳先輩にはただ、キス――とだけ口を滑らせてしまったが、あの人がしているのは普通のキスなんかじゃなくて、

 クンニリングス――。

 セックスの時にいちばん時間をかけて取り組むのは、いつもそれだった。

 それは女のコにとって最も恥ずかしいこと、躊躇いのあること。でも内心では興味があって口にはできないけれど心惹かれるこの上なく淫らな愛撫だ。

 自分で触れるだけでもとても感じやすいのに、お口でされるというのだから。

 それも恋人から――。

 どんなにステキな気持ちになれるのだろうかと期待に胸がときめいてしまう。

 だから、生徒たちの中には思い余って女の子同士で試しちゃったりする子も居たりして。

 常盤台はもともとは良家の子女を集めた女子校で、今も容姿に恵まれた子は少なくないし、第一に男の子を相手にするよりもずっとハードルが低くなって冒険しやすいのかもしれない。

 さすがに自分の周りにはまだだとは思うけれど、既に密かに“恋人同士”になっているカップルは、同級生、上級生の別なく全然知らないわけではなかったのだった。

 でも、やっぱり男女でとなるとエッチのレベル感が一気に押し上がるのだ。

 それが美しい女の先生と生徒ということになれば、さらにイケナイこと、禁忌の香りが強くたちのぼる。その分、しびれるような感動があるのだった。

 とりわけ最初に見たときの衝撃は今もはっきり脳裏に焼きついている。

 そのときの先生は、そんなことをけっして望んでなんか居なかったのに……。

 全裸で抱き合っていた彼が体位をずらしていこうとすると、よこしまな企みに気がついたのか身を返して逃れようとしていた。執拗なまでに繰り返される先生の体へのキス。

 これもとってもイヤらしい感じがして片時も目が離せないものなのだった。

 豊かな胸から白く透きとおるようなお腹、わき腹にかけて丹念に唇を這わせていくと、また胸に返ってきて乳首を捉えて悩ませる。それを拒んで先生が背を向けると、今度は背中からふっくらしたお尻を窺うようになって……。

 どこからも攻められて、ベッドの上ではまるで言葉によらない体と体の会話が為されているようだった。女の命を燃やした愛の戦い。

 でも先輩の意思は堅くて、望みを遂げるまでは諦めるつもりなんかなかったのだ。

 やがて――。

 きちんと揃えて閉じていた立膝に先輩の手が掛かって割ろうとしていた。とうとう力なくそれを許す先生。

 しなやかに長い脚を大きく開いて、男の面前に自分のいちばん隠しておきたいところを見せなければいけないなんて、それも教え子の男子生徒を相手になんてどんなに羞ずかしかっただろう、先生の表情から窺えるのは運命に身を投げ出すことへの覚悟と諦めだった。それでも先輩の指がそこを左右に展げようとした時にはとても哀しげでお辛そうで……。

 やわらかな肉の膨らみがぷるんっと爆ぜるように割れて、煌々と降り注ぐ照明の光に隅々までさらされて、見つめる先輩の嬉しそうな顔と先生の不安気に曇る容子とが男と女の立場の違いを映してくっきりとコントラストを描いていた。

 初めて目にする大人の女の人のその部分。

 そこがどのような姿をしているか、もちろん女であれば知らないわけではない。でも、やっぱり先生はそうしたところまで先生らしかったのだ。

 肉厚の深い谷間に隠されていたものが露わになると、まるで多肉植物のような一対の花弁が真ん中にある繊細なフリル――くちゃっと閉ざしているのは先生がまだ乙女であるからかもしれない――を囲むように豪華な花を咲かせていた。

 うっすら蜜を帯びているのか粘膜の肌理もリアルに滑らかな光沢を放っている。フードを目深にしてうなだれているような花芯はまだ小さくとてもつつましげで、絢爛たる花冠の中でそこだけは先生の控えめな性格を映しているように思うのだった。

 あれが……操祈先生の体……。

 あんなふうになってるんだ……。

 学園都市の女神、世界の恋人とまで言われる比類なく美しい人のいちばん秘密の部分。

 きれい――。

 その美の極みを間近にして、先輩の歓喜が伝わって来る。

 それから始まったキスは少女が想像していたものよりもはるかに濃厚で、女にとっては過酷なものなのだった。

 あのいつも穏やかそうな密森先輩があんなに欲が深いなんて……。

 あんなにも先生のことを強く慕っているなんて……。

 先輩がしているのは、もはやキスなどと呼べるようなものではなかったのだ。

 舐めたり吸ったり、しつこいくらいに丁寧にしゃぶったり、そこに顔が寄せられることでできるあらゆることが試みられて、見ている方もハラハラさせられる。

 先生の体の秘密を何もかも知り尽くそうとするように、顔を上げると飴色のヘアをかき分けて、時々の姿を確かめては、またお口を寄せて挑みかかるのだった。

 体を与えてしまってから、その淫らな愛撫の恐ろしさに気づいたように初めのうちしばらくの間は、先生は脚を閉ざそうとしたり、身をよじって逃れようとしたり、先輩の頭をそこから追い出そうと必死に両手をのばしたりするなどして、なお健気に争う姿勢を見せていたが、本気になった男の愛撫にはいつまでも抗えるはずもなくて結局はただ身をもがかせるばかりになっていった。

 息づかいを乱して大きく上下している胸、半ば開かれた口許からは切ない喘ぎがこぼれているのに違いない。白いシーツの上で白い肌を上気させて、まるで淫魔のようになった生徒の繰り出す愛撫に堪えている。

 先輩の舌は当然のように、先生のもう一つのお口にもピタリと貼り付いて長くとどまったりもして、あんなところまでしっかり味をみられて、恥ずかしいニオイを嗅ぎ取られて、先生はいったいどんなお気持ちでいるんだろうかと胸が痛むのだ。

 

 これがそうなのっ!? 想っていたのと全然ちがうじゃないのっ!

 あんなひどいことまでされちゃったら……。

 

 きっと先輩はクサいとかキタないとか微塵も思ったりしないんだろうな――。

 だって、あの操祈先生のなんだもの。

 男なら誰だってみんな自分のものにしてしまいたくなるにちがいなかった。

 先生がウブだからなのか、それとも先輩が女の扱いに慣れているからなのかわからない。おそらくはその両方の理由からだろう、こんな風にしてベッドの上ではいつでも先輩が先生をリードして思いを遂げていた。

 先生にとってどんなに望まない愛撫でも最後に意思を貫くのは先輩の方。

 抗いきれずに許してしまったことを悔いているような姿は、愛する教え子が犯す過ちを自分が堪えることで償おうとしているみたい。

 操祈先生らしいな……。

 そんな凄艶な淫夢のなかで少女は思うのだった。

 これは人のいとなみなんかじゃない、見てはいけない女神の褥、寝乱れた姿なんだと。

 だって人間が演じればおぞましくて醜いことでも、先生の場合には少しもそうはならないから。

 辱められても堕落することなく、白い肌を欲望にくすませることなく、やがて歓びを迎えいれるときも、とても先生らしく静かに切なげに体をわななかせて女の情熱を解き放っていた。

 どんな姿にされても、どんなに恥ずかしい体位になってもイヤらしさや見苦しさがなくて、ため息が出るほど魅力的なのだ。愛を紡ぐ時、女の体はこんなにも美しくなるものなんだっていうことを教えてくれているよう。

 そしてそのことを密森先輩は知っている――。

 二人を見ていて気づいたのは、操祈先生の愛をひきだして、さらに輝かせているのは先輩だったこと。

 雄の本能のままに猛々しい情熱をぶつけてくるような一時のセックスではなくて、長い時間をかけてなされるペッティング、愛撫。女の体を愛することへの情熱は女性的とも言えるような優雅さで、細かなところにまで届く気配りを感じる繊細さは好ましかった。

 彼が惜しみない愛情を注ごうとしているのが伝わってくるのだ。先生のことをどんなに愛しているか、どんなに大切に思っているかを一つ一つの行為にのせているのかが窺える。

 その気持ちが先生に届かないはずがない。

 いちばん敏感なプライバシーに、あんなふうに心のこもったキスをされたら、女の子は……きっと誰だって心が萎えてしまうだろう、彼のことを忘れられなくなってしまうにちがいない……。

 いっぱい可愛がられて、羞ずかしい姿をバッチリ見届けられてしまったら、後にとり残された女にできるのはただ甘えること、男の胸に逃げ込むしかなくなってしまう。

 白い顔を耳まで真っ赤にして先輩の胸にすがりつく先生のなんと愛おしいこと、そしてそれを慰める先輩の手の動きのなんとやさしいこと。

 涙の滲む瞳を懸命にしてアイコンタクトに応える先生は恋する女の子の顔をしていて、もうとても年上にも教師にも見えなかったのだった。

 今だってそう。

 先輩からまた何を言われたのか、拒絶に首をうち振る容子はいたいけな少女の仕草だった。駄々をこねているように見えるのは相手を心から信頼していてすなおに甘えられるからだ。

 長い髪がせつなげに乱れて端正な顔に幾筋もかかるほつれ毛を作っている。

 逆に宥める先輩はとても穏やかで、もうどちらが年上なのか分からない。

 先生の前髪を整えて、ハッとするほど端整な白い顔を表にしながら先輩が耳もとに囁きかけていた。いったい何を説かれているのか、ちょっと怯えの色もちらつく瞳、普段はお茶目にいたずらっぽく笑んでいるようなブラウンの眼差しが、今は憂いを宿して揺れている。

 先輩はきっと懐柔するつもりなのだろう、せつなげに胸を庇っていた先生の両腕を取って背中に縛めると、ふたたび無防備に露わにされた乳房の先をくすぐりはじめた。

 指先の戯れに、羞ずかしげにキュンと身を揉む先生の体は細い鎖骨の窪みが際立って、なんと初々しい魅力に溢れていることか。

 

 

 かわいいっ――!

 だけど密森先輩、どうしてチョコレートなんか持ち出してくるんだろう……?

 

 すぐにも、いつものように愛を確かめ合うのかと思っていたが、今日は少し容子がちがうのだった。

 すっかり裸になっているのに、二人がいるのはベッドでもなく長椅子でもなく絨毯の上だった。

 膝をくずした先生を後ろ抱きにしている密森先輩。

 仲睦まじい恋人たちが身を寄せ合っている姿は微笑ましくも悩ましいもの。

 なのに先生は困惑している容子。

 どうやらまた先輩から、しきりに何か良からぬことをもちかけられているらしい。

 そして操祈先生がこんな顔をする時は、その後にはとても正視できないくらいのすっごくエッチなことをされていた。

 生クリームをつかったときもそうなのだった。

 お風呂場に連れて行かれて、そこで乳房の先や股間にクリームをたっぷり盛られて……。

 ああ、ひどい――。

 自分は夢うつつでところどころ意識が跳んでしまって全てを見ていたわけではなかったが、気がつくと二人が真夜中を過ぎて外が白み始めるようになってもまだ浴室に居たことから、先生への陵辱は延々と続いていたのに違いなかったのだ。

 ほとんど空になった生クリームのチューブと、精も根も尽き果てたようにぐったりしていた先生の肌が、全身、脂の皮膜で覆われていたようにテラテラと妖しく輝いていたのが思い出された。

 桜の花びらのような赤い湿疹――キスマークにちがいない――を身体中に散らして。

 あれは、つい三週間前の週末のこと。

 そして今夜はバレンタインナイト。

 女の子が大好きな人に思いにのせてチョコレートを贈る日だ。

 だからなのか、密森先輩の片手にはチョコレートが二つ載せられている。けれどもそれを前に先生は、恨みとも諦めともつかない哀愁のにじむ表情をされている。

 先輩の掌にあるのは一つは焦げ茶色のビターチョコレートで、もう一つはホワイトチョコだった。白い方が大きくて、どちらも縦長の椎の実の形をしている。

 チョコレート自体は特に珍しくもないごくありふれたもので、特別なデコレーションをされているわけでも、凝った加工がなれているわけでもない。

 つるんとしたデザインは

 なんだか、まるで生理用品かなにかみたい――。

 と、なにげなく思った途端、どんなにひどいプロポーズがなされたのか少女にも想像がついてしまったのだった。

 

 ウソっ、まさか、そんなことを先生にっ!?

 ……せっかくのチョコレートをそんなふうにしてしまったら……。

 あんまりよ……密森先輩……。

 ……先生がかわいそう……。

 

 でも好奇心の方が上回ってしまう。本当に先生の身にそんなにもひどいことが起きてしまうのか……?

 先輩は空いている方の手で重たげな乳房を愛おしそうに撫でてあやしながら、脇腹や腰のあたりにも淫らな感じのボディキスを重ねてためらう先生を誘っていた。

 慣れた感じの動きで白い肌をさする手がスルスルと体の前を這い降りていくと、諦めたのか操祈先生がそれまでお行儀よく揃えていた膝をわずかに緩めるのが見てとれるのだった。

 すかさず先輩の手が太腿にかかって更に股を割って大きく広げようとする。後ろから抱き上げるようにして足を絡めてきて、先生の長い両脚はあっと思う間も無く、グイッとあられもない形にまで開かれてしまった。

 腕の中の愛しい獲物を思いどおりにして、先輩は満足そうにストレートヘアのブロンドの頭を撫でている。そうしながらまたいくつか言葉を投げかけているらしい。

 一方、先生は無言で、くっきりと長い伏せた睫毛が悩ましげだった。

 疲れた容子で二度、三度と頷いていたが、その間も先輩の手は休みなく白い肌のあちこちを撫で(さす)っては先生の体への愛着を伝えていて、それは絡みつかれた男の足の(いまし)めに閉じることを許されなくなった股間にも及んだのだった。

 飴色のふんわりとした草むらの下に、面相筆で描かれたような一本の可憐なラインが覗いていて、少女の目が惹き付けられる。そこを男の指先がゆっくりとなぞるように上下していて、その痛々しいほどの白い唇は、今はまだひっそりと口を閉ざしているが、じきにいろんなことをされてかきみだされる運命にあるのだった。

 先生はもう拒めない――。

 これまでだってそうだった。

 先輩からどんなにひどいことを求められても、最後には受け容れさせられていた。

 でも……。

 ひどいことって――。

 本当にそうなのかな……。

 愛に溢れた辱めは無上の性の歓びと紙一重なのかもしれない。

 ただ体を重ねるだけなら動物と変わらないし……。

 こんなに素敵なセックスを、すごーいセックスをする男女は、他に見たことがなかった。

 淫らで、そして哀しいくらいに美しくて……。

 それは操祈先生がすごく綺麗な女の人だからというのもあるけれど、先生の官能美を際だたせているのは先輩の貪欲さによる面もあるのだ。

 どんなにイケナイことでも躊躇わずにできるのは、先生のことをとても愛していて尊敬しているからだ。

 ホラ、またエッチなことして先生を悩ませてるしっ――。

 先輩が濡れた指先の匂いを嗅いで幸せそうな笑顔を向けていた。何かを言われたらしい先生の顔がたちまち朱に染まっていく。

 ダメですよっ、男の人が女の子にそんなことしちゃ、恥をかかせるのはマナー違反のダメダメですっ!

 でも羞じらいながらも先生も仕方なさそうに微笑んでいるのだ。

 本当に仲良しなんだな……お二人は……。

 操祈先生も密森先輩のことを深く愛している。だからどんなに惨いと思われることでも彼のことを信じて身をまかせられるのだろう。

 男の両手が女のメリハリもみごとな体の線をなぞりながら下方へと撫で降りていった。

 開かれた左右の内腿から扇の要へと攻め寄られ、二つの手勢が一つになって操祈の体がクンっと(しな)る。先生も身を守ろうとする女の本能から両手を伸ばして、先輩の手を抑えようとしていた。が、すぐに両腕を背後へと縛められてまた無防備にさせられてしまうのだ。

 今度ははっきりとした意思を持った男の手に迫られて、固唾をのむような懸命な表情が痛々しかった。

 ついには是非もなくそこが菱に展かれて……。

 きゃあっ――!

 先生、スゴいっ!

 いま再び開花の時を迎えた美しき女教師の艶姿を、少女は期待に胸をときめかせて見守り続けるのだった。

 

 

 



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ショコラナイト

 

 深夜――。

 操祈はリビングの絨毯の上で恋人である教え子のレイに背後から抱かれて、また悩ましくも甘美な愛と性の冒険に身を投げ出そうとしていた。

 彼に触れられて慰められて体の方はとっくに屈してしまっていたが、気持ちだけはまだはかない抵抗を続けていて、女の矜持と見栄とが男の誘惑をただ諾として受け容れてしまうことを良しとせずに我儘を通そうと(あが)いているのだった。

 でもそれも今となってはただのいつもの定まりごとのようで、自身をより高みへと解き放つためのプレリュード、恋人の優しさを試して甘えているだけなのかもしれない……そんな自覚も(きざ)している。

 じっさい少年は操祈が拒んでも、苛立ったり不機嫌になったりすることなんて一度としてなかったのだ。いつでもこちらの思いに寄り添って、女の歩幅に合わせようとしてくれる、ますます大切にして、手をかけるのを惜しまずに愛そうとしてくれている。

 だから――。

 最後には彼の言いなりになるしかなかったのだ。

 裸にされ抱かれてしまえば時は女の味方をしてはくれないもの。

 さすがにそんなことには応じられない、あるいはたとえ未経験ではなかっとしても、やっぱりそれはイヤ、いくらなんでももう二度とあのようなことを繰り返したくはない――。 

 そう思って拒んでも、抵抗は一時の仮初(かりそ)めものにすぎず、二人の恋の物語にアクセントや彩りを与えるだけでいつでも結末は同じなのだ。

 彼が思いを遂げて、操祈は逸楽の淵にどこまでも堕ちていく。

 羞しい姿をさらして、女の誇りをかなぐり捨てて――。

 どんな秘め事も彼に対してだけはそうではなくなっていた。

 男と褥を共にするということは、体の隅々まで(つまび)らかにされて何一つとしてプライベートな部分を保ち続けることが許されなくなるということ、それを操祈は狡智に長けた年下の恋人から思い知らされている。

 けれども、もう逃れられないと思うことがまた新たな歓びに繋がっているようで、今宵も抱かれて、いろんなところを(ねぶ)られて、自分の体が彼の望む色に染められていくのを諦めに沈みながら、期待に胸をときめかせてもいるのだった。

 アンビバレントな心と体、躊躇いと(ねが)い――。

 女ってズルい生きものだ……。

 本当は自分こそが背徳の行為をのぞんでいても、男の所為にしようとするのだから。

 まして年端もいかない男の子にその(とが)の一切をなすりつけようとしているなんて……。

 彼は教え子なのに……自分は先生なのに……。

 互いに一糸まとわぬ生まれたままの姿になって肌と肌とを接するようになってからも、少年の繰り出す懇切な愛撫からうわべでは逃れようとしながら、内心ではもっと――と感じている自分の貪欲さに女であることの罪深さを思う。

 でも、仕方ないじゃない……。

 じゃあ、どうすればいいっていうのよ……。

 力まかせにこの子の手を払いのけて、突き放せばいいのっ?

 そんなこと……できるはずがないわっ!

 きっと彼をひどく傷つけてしまうことになるから……。

 この子のため……あたしが我慢することで済むのなら……それでいいじゃない……?

 そう考えてから、それが自らを欺くための偽りの思いやりだとすぐに気がつく。

 本当はみんなあたしがいけないのよね――。

 一線を越えてしまったのは、ひとえに自分がだらしなかったからだ。

 教師として折り目正しい接し方をしてさえいれば、こうしたことにはならなかった……。

 でも……。

 レイを愛する気持ちには一点の曇りもない、それだけは確かなのだと信じたいのだった。

 最愛の人から愛されて、可愛がられることほど女にとって幸せなことはない。それを教えてくれたのは彼なのだ。だからといって二人の関係をセックスだけが目的だとはけして思わない。

 これがあたしの愛し方……愛してるから……愛してるの……レイくんのことを……誰よりも……。

 

“あらぁ、愛を言いわけにすれば、なんでも許されるだなんて思わないことねぇ――”

 

 不意に彼女――インナーセルフ――の声が耳元で囁いて、操祈は唇を噛んだ。

 

“あなたが教え子のオーラルプレイに溺れる恥知らずなセックスジャンキーであることには少しもかわりがないんだから。クンニみたいなひどいこと、よくも大人の女が子供を相手にできるものだわぁ、あはっ、デートのたびにあの子にペロペロしてもらいたくて股間を疼かせているなんて、この恥知らずっ! ナニが学園都市の女神さまぁ、なものよ、ただのショタコンの淫乱女のくせにっ”

 

 誰よりも自分のことを良く知るもう一人の自分から看破されて、返す言葉も見つからなかった。

 

“ホーラみなさい、今だってもう待ちきれなくなって、アソコがトロトロになってるくせにぃ。賢いこの子がそれに気がついていないとでも思うのぉ? アバズレさん、ああ恥ずかしい、我ながら情けないったらないわっ”

 

 屈折する操祈の代わりに応えたのはレイが以前に自分に語ってくれたことだった。

 

『クンニリングスはね、いちばん尊い愛の形だと思うな。愛そのもの、神々のキスなんだって……先生みたいな身持ちのいい女の子が恥ずかしいと感じるのは当然だけど……でもワルいこと、イケナイことなんかではあるはずがないんだ……なによりキミはボクを幸せにしてくれるんだから』

 

 愛された後に慰められて、泣きたくなるくらい嬉しい記憶の宝物。

 愛撫以上に彼の思いやりが肌にも心にも深く沁み入って、瞬間、後ろめたさも罪の意識も浄化されるような気がしていた。

 その時のレイはもはや子供でも教え子でもなくて、全てを委ねることのできる大人の男だった。

 甘えても、駄々をこねても許してくれる男の人。

 ありのままの自分をみんな受け容れてくれる……。

 彼と過ごした二人だけの時間は、振り返るとどれも宝石のように光り輝いていた。

 かけがえのない経験、思い出。

 みんな彼から贈られたものだ。

 ステキだったな……。

 母校の教壇に立つようになって二年半。

 数学者になる正規のルートから外れることに屈折がなかったわけではなかったが、学ぶことと同様に前途のある子供達に教えることにもやりがいを感じていた。

 受け持ったのが一年生のクラスだったのも良かったと思う。

 生徒たちの成長を通して自分自身の、そして教師としての成長も重ね合わせて感じることができたのだから。

 レイくん、ちっちゃい男の子だったっけ……。

 最初に気づいた時の彼は、教室のいちばん後ろの席で体の大きな女の子の影に隠れて、まるでお家に連れてこられたばかりの子犬のようだった。

 それもそのはず、出逢ったときの彼はまだ十二歳で、ほんの数ヶ月前までランドセルを背負っていた小学児童だったのだ。

 ほんとうにまだ子ども子どもしていたのに……。

 そんな男の子と挨拶代わりにキスを交わしたのは些細な思いつき、ちょっとした悪戯心からだった。

 可愛い子が恥ずかしそうに顔を真っ赤にするところに胸をうたれてしまったから、それをもっと見たいと思ってしまったから。

 きっと油断をしていたのだと思う。

 教師としては迂闊だったし、公平にみても明らかにバイオレーションだ。

 でも……。

 その後のことは振り返っても、自分にはきっと他にどうしようもなかったと思う。

 彼は大人しそうな外見とは裏腹に実に大胆で巧みだったからだ。

 そんなの想像できるはずないわ、今だって驚かされることばっかりなんだから……。

 軽い気持ちのファーストキスから始まって半年余り、“キス――”で恥ずかしさに真っ赤になって身も心もとろけてしまいそうにされていたのは彼女の方だった。

 そして今では、そのためにデートを重ねているといってもいいような状態になっている。

 思ってもいなかったのに……。

 

 どうしてこんなことを知ってるの――?

 どうしてこんなことをするの――?

 どうしてこんなことができるの――?

 

 果たして初心な男の子とばかり思いこんでいた彼は、実際の経験はともかく女体に関して実に豊富な知識を持っていただけでなく、とても積極的で彼女を驚かせるばかりなのだった。

 そしてたくさんのびっくりは、たちまち心ときめく冒険に、そしてかけがえのない経験になるとともに欠くべからざるものへと育まれていった。

 これが恋なのね……。

 実際に、いまの操祈は恋い焦がれている。デートを重ねるたびに次のデートが待ち遠しくなって、その日が近づくと指折り数えて胸を踊らせていた。

 彼とめぐり合うことで知った初めての恋、初恋。

 それは性の歓びと分かちがたく結び合った愛のかたちなのだった。

 肉欲と愛情はコインの表裏のようで、互いの肌のにおいを知ることでますます相手を愛おしく感じるようになる、許しあえるようになる。

 性のいとなみの不思議……。

 恥ずかしいのに、とってもいけないことだと思うのに、身も心も幸せになれるなんて。

 それにも増して嬉しかったのは、彼も歓びを感じてくれていること。

 それをレイは言葉だけでなく行為で、態度でうったえかけてくれるのだ。

 教師と教え子ではなく、男と女という新しい関係となってから、あの子から蔑ろにされたことなんてあっただろうか?

 問いかけて、

 ないわ――。

 と、胸の裡で首を横に振った。

 見上げるような眼差しをくすぐったく感じることはあっても、傷つけられたり貶められたりしたことはなかった。

 他人に見せられない酷い姿を知られてもなお、彼からネガティブな気配を感じたことはなくて、いつも瞳をキラキラと憧れに輝かせて幸せそうな顔を向けてくれる、優しい笑顔で。

 それは彼を自分にとって特別な存在であると信じさせずにはいられないものなのだった。

 好きよ、レイくん……。

 大好き――。

 いつしかインナーセルフの気配が消えて操祈は閉じていた瞼を開いた。

 情欲の愁いに(かげ)る視線の先には、すぐ目の前にある壁の姿見に映る自身の裸体が映っていた。後ろで彼女の頭を愛しげに撫でる男の和んだ表情も。

 片方の乳房をあやす手の動きは、まるでそれが一個の愛玩動物ででもあるかのようにいたわりと愛情を感じるもの。下から上へ、外側から内側へと繰り返される甘やかなくすぐったさが視界からの刺激と相まって彼女の心と体にさらなる感動を呼び起こしている。

 目線が重なって微笑みかけられて、操祈も今できる精一杯の笑顔になってお返しをした。

「脚を開いて……先生……」

 また少年の手が膝頭にかかって操祈の揃えられた膝を割るように促していた。

「キミのいちばんきれいなところを見せて……」

 いちばんきれいですって――?

 そんなはずないのに……。

 男の子ってどうしてあんなところばかりに興味があるのかな……?

 恥ずかしくて隠しておきたいと思うとかえってそれに関心を向けてくるんだから……。

 イヤな子ぉ……。

 でも、そんな少年に自分は夢中になっている。

 彼の手がスルリと内腿へとすべり降りてきて、こそばゆくも悩ましい感覚についに彼女の心は折れてしまうのだった。前から後ろの方まで障わりのある部分の全てをすっかり包まれて歓びに身を委ねる覚悟を決める。

「……ん……」

「キモチいい? 先生」

「……くすぐったい……」

 Mの字を描くように開いた左右の太腿に少年の足が引っ掛けられて大胆な姿を強いられていて、彼は中指の腹を使って未だ慎ましく閉ざされたままの白い唇の合わせ目の上をゆっくり上下させて撫ではじめた。

 自分のことをどんなに大切に思っているのかを感じずにはいられない、神さまのように思いやりのあるタッチで。

「とてもステキでしたよ……先生が作ってくれたチョコレートケーキ……」

 そうしながら、夕食後のデザートに出した操祈のお手製のチョコレートケーキの感想を伝えているらしいのだが、彼女は半ば上の空で応じているのだった。

 指をくぐらせたり深く差し入れてきて中を探られたりされているわけではなかったが、くすぐったさのすぐ先には目もくらむような世界があることを知っていて、彼がいつ本気になるかもわからずにそれに備えて意識をそこに集中させているからだった。

「え、ええ……ありがとう……あン……レイくん……」

「でも、ボクが欲しいのはもっとずっとステキなチョコレート……」

「……もっとずっとって……そんな……あれだって、作るの、大変だったんだからぁ……それ以上を求められたら……あたし……どこかの、パティシエさんにっ……弟子入りするしかなくなって……しまうわっ……ひっ――」

 敏感なところが、ペンダコの指の上をコソッと辿らされて、しびれるような快感に身を仰け反らせる。

 もともと感じやすいたちであった上に、デートのたびに舌や唇で磨きをかけられて、さらに感じやすくなった体はほんのわずかな刺戟にもすぐにめざましい反応をしてしまうのだ。

「レイくんっ……ソコっ……」

 堪えきれなくなったように、気高い鼻梁の小鼻から、スンっと呼気が溢れる。

「大丈夫ですよ、先生……心配しないで下さい……」

 操祈は「うん」と啼いてすなおにこっくり頷いた。

「いい子だな、先生は……カワイイくて胸がつぶれてしまいそうなくらい……だから欲しくなるんです、最高のチョコレートが……」

「……最高の、チョコレート……?」

「先生が作ってくれたチョコレートもとってもステキだったけど、でもボク、今夜は()()()()()()()()()()チョコレートが食べたいな……」

「あたしにしか作れないって……あのケーキ、みんなあたしが作ったのよぉ……そりゃ原材料は買ったものだけど……でもチョコレートのスポンジ生地だってぇ……ちょうどいい厚さに揃えるの、とっても大変だったんだからぁ……既製品を使えばもっとずっと簡単だったんだけどぉ……」

「ええ、わかってますよ、すごいなって感心しました。ボクのためにいっぱい時間を使わせてしまって申し訳なくて……だから、来年からはもっとずっと簡単に、もっとずっとステキなバレンタインチョコレートの作り方を教えてあげないといけないなと思って……」

「あら、簡単レシピね……」

「そうですね――」

 レイはいつの間に持ち込んだのか、皿盛りをした大小まちまちのサイズの異なるビターチョコレートとホワイトチョコレートの粒の中から、大きさの違う二つをつまんで掌にのせて示している。

「先生が学校でみんなに配ったのは、中にイチゴやオレンジのクリームのフィリングを入れたものでしたけれど、ボクのレシピなら、こんななんの変哲もない普通のチョコレートだって、簡単に、そして最高に美味しくできると思います」

「……そうね……きっとレイくんなら……そういうこともできるのよね……」

 肌に馴染んだやさしい指で頭巾の上から妖精の頭を撫でられて、その疼くような甘美な刺戟に操祈はつぶらな瞳を潤ませていく。

 彼女の体を知り尽くした年若い恋人による愛情に溢れたペッティング、指との戯れ。

 操祈は恋人の愛がもっと欲しくなってきて、無意識に腰を蠢かせて男の指の動きを追っていた。(おとがい)の下に触れられると目もくらむ、あの痺れるような感動に包まれることになるのに、それなのにレイはちょっと触れてくれただけで、その後はなかなかそれをしてくれないのだった。

 ほんの少し、もうあとほんの少しだけ、指を伸ばしてそこに触れてくれれば……そうすれば、あのすばらしい感覚に身を慄わせることができるのに、彼の指は唇の谷間を行き来はしても、肝心なところにだけは触れずに通り過ぎていってしまう。

 それがじれったくてならない。

「ねぇ……レイくん……」

「なんですか……?」

「……おねがい……いじわる……しないで……」

「いじわるですか? ボクが?」

「うん……そうよ……レイくんはいじわるよ……とっても……」

「そうかな……こんなにかわいい女のコにはやさしくしたいなとは思っても、いじわるなんてできないものだけどな」

「……そんなこと言って……もう、わかってるくせにぃ……」

 少年から体をしきりに煽りたてられて、逃れようとしている間は攻めかかってくるのに、こちらがいざその気になると、今度は内腿やお腹などののんきな愛撫へと戻って行ってしまうのだ。

 いつものことながら焦らされ翻弄されて操祈はせつないため息をついた。華奢な鎖骨が浮き上がって女の哀感がにじむ。けれども膨らんだ二つの乳房は束の間の緊張から解き放たれて心なしか安堵しているようでもあるのだった。

 すぐ傍で自分の横顔を興味深げに見つめる目と視線が重なって

「なぁに、レイくん……?」

「きれいだな、先生は……キミはどんなときも、どんな表情のときも、どんな姿になっても……誰よりもきれいで可愛いと思うよ……」

 真顔になって言われると気恥ずかしさを通りこして、もはや諦めにも似た心境になってくる。

 今の操祈は鏡の前でみっともなく股を開いて、女体のいちばん見苦しい部分を晒して、偽ることのできない女の業と向き合わされていた。

 ご馳走を前に、待ちきれなくてヨダレを垂らしてしまいそうな具合になって。

 こんな自分のどこがステキなものかと思うのだが、少年にはそうは見えないものらしい。

 レイには巧みに足を絡められて脚を閉じられなくされていたが、彼女にはもう逃れようとする意思も気力も残されてはいないのだった。

 小さな肉芽に指がそえられるのを固唾をのんで見守る。でも彼がしてくれるのはそれだけ。指の腹からの温もりだけがジュワン、と伝わってくる。だが我を失いそうになるほどの刺戟になる寸前のギリギリのところで留まって、ただ悩ましいばかりだった。

「……レイ、くんっ……?」

「キミは、ここが……いちばん、感じますよね……」

 身をこわばらせて差し迫った操祈をよそに少年はまた彼女を置き去りにすると、鏡の中で濡れた指先の匂いを嗅いで女心を掻き乱すのだ。

「いいにおい……なんていいにおいがするんだろうな、先生は……」

「……もー、へんなことしないでよぉ……レイくん、エッチなんだからぁ……」

 恥ずかしいけれど嬉しくてイヤな筈なのにイヤじゃない、そんなおかしな気持ちになって自然、声音にも甘えるような蜜がのってしまうのだ。

 女の口からは言いにくいことだが、愛する人から体臭を好まれるのは女にとってどんな褒め言葉にも優るなによりも嬉しいことだった。

 これもレイが教えてくれたことだ。

 

“男が女の子に、キミのセックスのにおいが好きって言うのは、キミのことが大好きって言う以上のことなんですよ――”

 

 あの時のことを思い出すとまた泣きだしそうなってくる。奈落の底に突き落とされたような激しいショックと、その後の天にも舞い上がるような感動によって彼の言葉が真実であることを思い知らされていた。

「中を……見せてくださいね……先生のはいつもお行儀良くお口を閉ざしているから……」

 目の前でレイの両手が降りていくと、操祈がどう答えたものかと案じる間に左右から指が伸びてきてふっくらとした肉を(ひら)いてしまった。

 プリッと爆ぜて隠されていた一対の秘密の襞が露わにされて、それが既にしとどに潤いをまとっていて、戯れる指との間に糸を引いているのが判るといたたまれなくなる。

「あ、ヤダぁっ」

「スゴぉい、やっぱり先生はスゴいなぁ……」

「すごいってなによぉっ、バカにしてぇ……もう、あんまり見ないでってばぁ」

 両手で股間を庇って隠そうとするが彼はそれを許してはくれないのだ。

「どうして? こんなにステキなのに」

 両腕に腕を絡めてきて背中に縛められると、無防備にされたそこに再び手を伸ばしてきて、指先が(かが)めた縁をなぞってくつろがせる。

 くすぐったくて情けなくて、それなのに恭しげな指の運びに心も体も、そして視線さえも奪われてしまっていた。

 彼がいつもどのように自分を愛してくれているのか、片時も目を離せずにいる。

 脆くて壊れやすいものを扱うようにして、どんなに大切に、だいじにされているのが窺えるのだ。

「いいコだね……いいコ、いいコ……」

 口づけとは違う感触で、丹念に、それはそれは丹念に行きつ戻りつしている指。

 一方で刺戟を受けて色づきを増し、全体にポテッと肉厚な感じになって、我が身の女の谷間はますます卑しい正体を隠さなくなっていた。

 ろくに触れられてもいないのに勝手に目覚めた蕾がフードを払いのけて顔を覗かせている。蜜を帯びてきらきらとなめらかな真珠の輝きを放って存在を主張するようになっている。

 感動は体の深奥にまで及んできていて、そこがあのときのように綻んで情熱を迸らせそうになっているのがわかると、

「おねがいっ、あたし……おかしくなってしまいそうなのっ」

 訴えたが、自分でももう何を望んでいるのかわからなくなってしまっていた。止めてほしいのか、もっとして欲しいのか、どうしたらいいのか、どうしたいのか、迷子になって親を探す子供のように何度も彼の名を呼んでいた。

「ボクならここに居ますよ」

 背中からひしっと抱きすくめられて意識が、フッと遠のきそうになる。女の弱みを心得た少年の愛撫のなんと心憎いことか。

 鏡の中で演じられているのは男と女の間で交わされるとても繊細で情熱的ないとなみ、命の会話。寄せては返す波のように、レイは彼女が気をやりそうになると遠ざかり、一息つくとまた操祈の手を引いて温かい逸楽の沖へと連れ出そうとする。

 そんなことを何度も繰り返されて操祈の体はもうダメになってしまいそう。

 体の奥で情熱がどんどん膨らんでいき、女の固有の器官、組織がぐっしょりと重たくなっていくのがわかるのだ。もしも我慢ができなくなってしまったら――と、思いながら、目の前に迫る光の塊はあまりにも眩しくて魅力的なのだった。

 ああ、なんて呪わしいの、この体はっ……。

 レイくん、もうこれ以上あたしにやさしくしないで……。

 ほんとにいけないことになってしまうからっ――。

 そう思う間にも指の刺戟はさらに巧みに的を外さず彼女を追い詰めていた。

「……じゅっ、絨毯をっ……汚しちゃうっ……」

 腰のあたりを懸命に、身体をぐっとしならせて必死に堪える。子供がおねしょをするような粗相だけはしたくなかった。

 それなのに相手は

「それはいけませんね」

 ますます切迫していく操祈をよそに、実にのんびりとした言葉が返ってくるばかりなのだ。

「がまん、できないんですね?」

「う、うん……おねがいっ……だから勘忍っ……」

 口惜しいけど認めるしかなかった。

「じゃあ……立ちましょうか……もったいないですから」

「え……?!」

「立ってください、先生」

「た、立つの……?」

「ええ、立つんです」

 彼が両腋に手を添えて立ち上がらせようとしていて、操祈は官能の熱に頭を呆っとさせたまま物憂げな動作で身を起こしていった。所在無げに姿見の前で佇む。

 鏡に映る自身の姿に目をやって、股間から今にもヌメッとしたものが垂れ落ちそうになっているのが判ると慌てて脚を閉じ合わせて受け止めたが、すぐにべたつきが内腿の間に余るほど広く拡がっていって我が身のしまりの悪さがやりきれなかった。

「開いて……」

 足もとに座る少年の手が膝にかかってそこを分けようとしていた。彼の目はしっかり股間に注がれている。

「ふわふわしていて、なんて可愛らしい、きれいな毛並み……」

「………」

 お尻に回した手に抱き寄せられて賛美するようなソフトなキスが落ちてくる。二度、三度……。

「いいにおい……やさしいにおいがする……やさしい先生の、やさしいにおい……大好きだ……」

 操祈が感じているのは生ぐさいリアルな女の臭いだったが、今だけは彼の言葉を信じたかった。ヘアを通してのくすぐったくも悩ましい甘美な刺戟は我慢できるのにも限度がある。

「レイくん……あたし……」

 何を望まれているかはわかっていた。

 操祈は彼の手に倣うかたちで脚の間を開いていった。と、すぐに顔が寄せられて二つの体が一つになるのだった。いきなり温かくて柔らかく、少しザラついた感触のものが広くそこを舐っていき、しどけない潤いが巧みに清め取られていくのが感じられるようになっている。

 ただちに欲望の源に襲い掛かるような濃いタッチではない。でも深い愛情を感じる動きは体だけではなくて気持ちまでも挫けさせてしまうもの。

 みっともなくべたつく内腿に愛おしげに頰をすり寄せて、恋人が積極的に自分の臭いを纏おうとしている姿には彼の愛情の深さを感じて心うたれてしまうのだった。

 愛してる……レイくん……。

 これがあたしの、この子を愛しているときの姿なのね……。

 鏡の中に居たのは、恥ずかしげもなく男の子の顔に跨がって愛撫をねだっている肉欲に負けた愚かな女だった。

 瞳を切なげにした懸命な容子で、黒い髪の毛の中に両手の指を絡ませてそこに止めようとしている。

 淫らで……ぶざまで……。

 でも、もういいわ……。

 これでいいの……。

 これがあたしなんだから……。

 操祈は自ら情熱の高みを求めて視線を上げた。長い金髪がふっさりと優美なアーチを描いた背中にかかる。上気した肌、白い喉元をさらしてすなおに歓びに浸る姿になっていった。

 クリーニングを終えて、彼の舌と唇の動きは彼女が愛して欲しいと思う部分に、時をおかず的確に攻めかかるようになっているのだ。

 チュッと軽く吸われただけで視界に星々が瞬き、それに応えるように太腿をぎゅっと締めて堪えた。なんて甘美な、なんてすてきな感覚。

 言葉に頼らなくても互いの気持ちは伝わっている。相手が何を求めているか、刻々、絆を確かめ合っていた。

 執拗に追い詰めていきながら肝心なところになると彼がわざとポイントを外して焦らすのは、きっとこの濃密な時間を、男と女にとってもっとも尊い瞬間をより長くより深く味わおうとしているからだ。 

 実際に操祈はお口の中に含まれて愛されている部分だけでなく全身で愛を感じていた。赤子が乳を求めるように一途に顔を寄せる少年が愛おしくてたまらなくなっている。

 この子のためならどんなことだって平気、なんでもしてあげたいと思うように。

 それが伝わったのか、

「先生……」

 レイが顔を上げてこちらを見ていた。

挿入()れてもいいですか?」

「入れるって……?」

 瞬間、操祈は別のことを想って期待してしまったのだが、

「チョコレート」

 と、言われてなんのことかピンとこなかった。

「……チョコ、レート……?」

「おいしいチョコレートが食べたいから」

 少年がまた意味ありげな容子で舌を長く伸ばしていて、

「そう……そういうことだったのね……」

 ようやく相手の企みが判って、大きく肩で息をついた。

「いけませんか?」

 股間で不安げな顔をされていては無下にするわけにもいかず 

「……また……食べものでおイタをするなんて……」

 と、つい曖昧な態度になってしまう。

「おイタだなんて、ボクはいちばん美味しく食べたいだけなのに」

「……バカ……」

「だって先生より美味しい食べものなんてあるはずがないから」 

 またペロリっと舐られて「あん――」と、か弱い声を発して腰をひきつらせた。

 もうすっかりかたく締まっているところのなくなった体から温かいものがギュッと絞りだされる感覚に慌てる、が、粗相になる前に彼は顔を寄せてきれいに受け止めてくれて、情けなくて操祈は泣き笑いの表情になるのだった。

 こんな状態にされて「イヤ――」だなんて言えるはずもなく、ただ口をつぐみ、黙したまま察して欲しいと目を伏せた。

 だがそれはなし崩しに同意したものと取られても仕方のない反応だったのだ。

「それなら、ベッドに行きましょう」

 次の瞬間には操祈の体はふわりと持ち上げられていて少年の腕に抱き抱えられていた。

 彼は期待に顔をほころばせて、まるでお気に入りのプレゼントの約束をしてもらえた子供のような無邪気な喜びようでいる。

 その容子に胸がきゅんとなる一方で、いつの間にかすっかり逞しくなっていることにも心を動かされていた。

 判ってはいるつもりでも、いざ体感すると自分の中にある女の部分が強く揺さぶられるのだ。

 昨日の彼は今日の彼とは違い、明日の彼は今日の彼とも違う。

 共に過ごす今この時、一瞬一瞬がどれほど大切なものか。

 操祈は、すぐ間近にした少年の顔が他ならぬ自分自身のニオイを纏っていることにもかまわずに、抱かれたまま彼の首に腕をまわして口づけを求めてしまうのだった。

 ディープキスになって舌をからめて、そのちょっと(から)い味わいにも戸惑いを覚えるが、彼がそれでいいと感じていること、それを信じて、それに縋って自分自身を赦すことにした。

「レイくん……」

 大きな瞳をまんじりとさせて少年の顔を見つめる。

「なんですか? 先生」

「責任、とって下さいね……あたしをこんなにしちゃったのは、みんなあなたなんだから……」

 精一杯の憎まれ口をきいて甘える。

「それなら、先生こそ責任とって下さい。ボクをこんなふうにしたのは先生なんですからね」

「ずるいわ……そういうのって、ずるいんだゾ」

 自身の放った渾身のプロポーズをあっさりプロポーズで返されて嬉しさに目頭が熱くなる。

「ずるい? こんなにカワイイ顔をしてそれを言いますか?」

「だってそうじゃない……レイくん、いつも、あたしばっかりいじめるんだもん……あたしはキミの先生なんだゾ……」

「ボクの先生であることと愛しい女の子であることは背反しませんよ」

「………」

「キミがもしもただ綺麗なだけの女の人だったら、ボクがこんなに本気になることなんて絶対になかったんですから」

 こういう場面での言い合いには、いつも操祈の方が分が悪かった。

 恋い焦がれている相手から自身の魅力を褒められて嬉しくない女はいない。

「くやしいな……レイくんには勝てないんだもん……」

 寝室に運ばれて、大事そうにそっとベッドの上に置かれる。

 彼の優しい言葉やふるまいと、それにそぐわない感じで股間に猛々しくそそり立つものが目に入ると、いつの日か自分の中に導くときを想って陶然としてくるのだった。

 きっとすてきだろうな……。

 初めての、そして永遠の契りを結ぶことになるのだとしたら……。

「愛してる……先生……」

「あたしもよ……」

 レイがベッドの足元に跪くのがわかると、操祈は自ら立膝を大きく割ってまた口づけに身をまかせるのだった。実にレイらしく生真面目に、そして熱心に取り組まれてはもう全てをゆだねて従うしかなかったのだった。立位のときとは違ってリラックスをして官能の海に漂う。

 鏡で見せつけられたように彼のお口と手の動きのすべてが彼女を愛するために働いていた。そして自分の体が彼にとっての歓びとなっていることも深い感動をもたらしていて、言葉にならないくらい嬉しかったのだ。 

 体の中に何かを挿入れられる感覚が起きても、もう抗わずにされるままになっていた。

 はじめは形のあるものを入れたり出したり、くぐらされたりしていたようだったのが、それがやがて粘膜に塗り込められるような感じになっていって……。

 その時々にじっくりと味をみられて、少年の欲望は尽きることがないようなのだ。

「すごいや、想った通りです、やっぱり美味しいっ……先生のお味のするチョコレートは……」

 生クリームを使われた時もそうだったが、食べ物を男女の寝所に持ち込むということには一段と倒錯的で禁忌感があって、それがまためくるめく官能の歓びをもたらしていた。

 

(……あたし……また、食べられちゃってるのね……この子から……)

 

「……こんなことが……したいなんて……」

「ボクにとってなにより嬉しいステキな贈り物です。先生のバレンタインチョコ」

 その言葉には嘘も誇張もないのが分かる。どこまでもマメな舌の動きからも彼の歓びの大きさを感じていた。

 スリリングなひとつのイベントが終わると、今度はまた別のイベントが始まって……。

「えっ!? レイくんっ、あのっ……そっちもなのぉっ?」

 身をまかせた時から半ば覚悟はしていたが、やっぱり彼はどんなことも蔑ろにはしてくれないのだ。

「ええ、だってボクは先生の全てが大好きだから……前の方ばっかりだと、依怙贔屓してるみたいでかわいそうじゃないですか」

 是非もなくそちらにも何かが挿入れられる感覚があって、諦めに操祈は目を閉じた。

 よく動く彼の舌が貼りついてしつこく舐っていたかと思うと、今度は唇が重ねられて入れたものを吸い出そうとしている。とてもひどいことのはずなのに、彼は何の迷いもためらいもなく、飽くことなく幾度もそれを繰り返していた。

 けして逃すまいというように脚にしっかり腕をまわされて、彼の強い思いを感じずにはいられない。

 少年は愛情表現する際には妥協してくれないし、どんな誇張も厭わなかった。

 その気持ちがレイの言葉通りに自分にだけ向けられている――。

 

(やっぱり、あたしの所為なのかな……)

 

 そう思うのには自責の念もあったが、自尊心をくすぐられている部分もたしかにあるのだ。

 

(……でも、ほんとうにへんな子ね……いけないことばっかりするんだから……うふっ……)

 

 少年が“特製”のチョコレートを貪っている間、彼女は途惑いと陶酔の間を行ったり来たりしていた。

 ある時はやわらかな肉を波うたせて声を上げて慈悲を願い、またある時は感謝の涙を流して愛を誓っていた。

 とても敏感で味にも香りにもこだわりのある男の子から等身大のスイーツにされて、操祈のバレンタインナイトはまだ始まったばかりなのだった。

   

 




二ヶ月も開けてしまうとは・・・
久しぶりの更新です

もっと短くして更新間隔も刻んだ方がいいのかもとも思うのですが


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愛のかたち

 

「行っちゃうのぉ……?」

 ベッドサイドに座る裸の背中に気づいて操祈はまどろむ瞳を凝らして言った。

「うん、誰かが起きる前に寮に戻らないと……」

 今週末は入試の結果が出た最初の日曜日ということで、レイは友人たちと相模湖にまで足を伸ばしてボート釣りをすることになっていると言っていたが、それがとても恨めしい。

 いつものように帰省していたことにしてゆっくりしてくれたらいいのにと思ってしまう。

「行かないでぇ……」

 声を甘くしてわがままを言いながら、ころんと身を返して恋人の背中に手を伸ばし、指先でツンツンする。

 ほっそりと長くしなやかな二の腕とベッドの間に挟まれて豊満な乳房が二つ、はちきれんばかりに白い肉を輝かせている。乳先はまだ慎ましげに乳暈の真ん中で身を竦めているが、薄紅色の広がりはみごとなまでに官能的で、清潔感のある白皙の美貌とのコントラストを描いていた。

 操祈本人にはいささか自覚に乏しかったが、その自然なエロティシズムは牡の目と心をどれほど楽しませ誘惑するものであったことだろう、未だ女を知らない少年の股間は固く勃起している。 

「ボクだって行きたくないけど……ずっとここに居たいんだけど……」

「バレンタインデートの翌日にぃ、女のコを独りにするなんてぇ……お出かけするならあたしも一緒に連れて行きなさいよぉ」

 振り返ってこちらを見る少年の顔が済まなそうに見えて、その大人びた雰囲気にちょっと駄々をこねて困らせてみたくなったのだった。

「それもいいかもしれませんけど……でも真冬のボート釣りは寒いしけっこうキツいですよ……先生にはどうかな……」

「それならわざわざ釣りになんて行かなくてもいいのにぃ、お魚さんならスーパーに行けば買えるんだしぃ」

 口にしてから、さすがに自分でも無理スジだと思うが、レイが当惑しているのをみるとつい悪のりしたくなる。

「あたし、今日はレイくんの作ったチャーハンが食べたいんだゾ」

「そんな我がまま言わないでください」 

「いいもん、あたし、独りになったら何も食べないんだからぁ、餓死しても知らないわよぉ」

 髪をかき分けるしぐさも、指をくわえて拗ねたような物言いも無意識に婀娜っぽくなっていた。肌を許した男へ向けての精一杯の(しな)

「困ったなぁ……本当はボクだって先生と一緒に居たいんだけど……でも仕方ないじゃないですか、聞き分けてくれませんか?」

 少年は訥々とまた事情を説明しはじめた。

 自分が釣り研究会のユーレイ部員であること、企画はひと月も前からあったもので、よほどの悪天候等でもない限りひとりだけドタキャンはできないことなど。

 ちなみに二月十五日の首都圏は天気晴朗と予想されていた。

「こうなると判ってたら予定を変えられたんだけど、当日に変更するのはさすがにできないので……ごめんなさい……代わりに埋め合わせは必ずしますので……」

 年増女のおふざけにつきあって、なんてやさしい笑顔を向けてくれるのかしら、と胸がキュンとなる。

「先生のご飯はいまから用意しますから、つくりおきするってところで手打ちにしてもらえませんか?」

 ベッドから立上がりかけた少年の手を慌てて取って引き留めた。

「ウソよウソ、ごめんなさい、いいの、もう行って、あたしは大丈夫だから」

 そのままにすると本当にレイは今からお料理をしかねなかったのだ。少年のギャラントリーは常にまっすぐこちらに向けられていて、自分にはそんな値打ちがあるとも思えない操祈にすれば気詰まりを感じるほど一途なのだった。

「おひとりだからっていいかげんにしないで、ちゃんとしたものを食べてくださいね」

「うん……」

 頭を撫でられて、頬や首筋をやさしく愛撫されて……。

「手抜きしてインスタントや冷凍食品ばっかり食べてちゃダメですよ」

 諭される。

「わかってるわよぉ、そのくらいぃ……子供扱いしないでちょうだい……」

 年下の教え子には違いなかったが、老成した物言いをされると気持ちの方がもたれかかりたくなってもしまうのだ。声音のトーンがおきゃんな女のコのものになっている。

「ボク、今夜もまたお伺いしてもいいでしょうか?」

「……っ?!……」

「ダメ……ですか?」

 レイの提案は想定外で、そして一瞬で黄昏れかけた気分を湧き立たせてくれるものでもあるのだった。

「来てくれるのっ!?」

「だいぶ遅くになると思いますけど……1時過ぎぐらいに……やっぱり遅すぎますか?」

「ううん、いいのっ、来てっ、あたしはちっともかまわないからぁっ」

 逢えると思うと心は踊る。

「ボクはいつだって先生と一緒に居たいんです」

「あたしもよ……」

「だって……ここは天国だから……」

 立上がったレイの腰の物が猛々しく屹立したままであるのに気づいて目を奪われてしまう。少年は自分を慰めるようにその分身を片手で軽くしごいて切っ先を際だたせると、身を長らえたままの操祈にまた覆いかぶさってきた。

 体にかかっていた毛布を剥ぎ取られて、白い裸身をすっかり露わにされて操祈は再び恋人の腕の中に捕われてしまった。

「……天国にあるもの全てがここにあるから……」

 抱きすくめられ、欲望と愛情を感じる手に全身を撫でられて歓びに慄える。女の体を知悉する男の愛撫のなんと心地の良いことか。

 くすぐったくも感じやすい脇腹をさすり豊かな乳房を掌に包むと、やわやわとあやしながら指に捉えられてたちまち目覚めてしまう乳先。すぐに口を寄せられて舌の上で転がされて、操祈は身を反らせて甘い刺戟に堪えるのだった。

 口づけ。

 チョコレートの香りのする彼の口元。甘く香ばしい薫りに隠れて、それよりもずっと危険な臭いがしていて、それは彼女を当惑させる一方で情熱をかきたてるものでもあった。

 彼の望むままにスイーツにされてしまった夜。

 最後には自ら進んで、彼の面前に大きく脚を開いて自分からチョコレートキャンディーになることを選んでいた。

 なんてひどいこと、いけないことをしてしまったんだろうと思うが、もう悔いも後ろめたさもなく、ただ純粋に愛し合った感動の記憶として心と体に刻まれている。

 二人だけの、二人にしかできないやりかたで愛を確かめあったのだから……。

 それは誓いの契りであり、絆をたしかめあうための神聖な儀式のようでもあった。

 男と女が互いの違いをこえて、どこまで認め合い許しあえるものなのかという冒険。

 セックスは愛情の表れであり愛の深さによって性の姿もかわる。

 操祈が選んだ恋は、とても密やかでそしてどこまでも情熱的なものなのだった。

 自分がこんな恋をするなんて、こんなにも身も心も焦がすような恋ができるなんて……。

 レイと巡り逢う前には想像もつかなかったこと。

 男によって女の運命は変わる――。

 彼がそれを文字通り手取り足取り教えてくれたのだ。

 どんな相手とどのようなセックスをするか、ということは女にとって一生を左右する大事なのだということを。

 そして女の命とは愛そのものであることを。

 だから、後悔なんてもう微塵もなかった。

 これでいい……否、これがいちばんいいこと、欲しかったことなのだと信じられる。

 神さまから与えられた宝物を大切にしなければ、という感謝と決意。

「ここは天国なんだ……だから先生は女神さまに違いないんだ……ボクの、ボクだけの女神さま……」

「じゃあレイくん、あなたも神さまなのね……」

「ボクはただの凡夫ですよ……天上に迷い込んだ小さな魂に過ぎません……女神さまから愛情と慈悲を欲しがるばかりの……」

 組み敷かれて真剣で懸命な眼差しが注がれている。

 黒い瞳。

 やさしいのに強く、繊細なのに逞しい。

 控えめなのに大胆で、沈着なのに情熱的。

 そしてなにより、つねにこちらのことを第一に大切にしてくれる。

 こんな男の子……男の人が居たなんて……。

「先生……クンニリングスをしてもいいですか?……アニリングスも……」

 上になった彼から訊かれて、操祈は大きな瞳をさらに驚きに大きくした。

 刹那、どうしてそんなことを言うんだろう、と思う。

 いつでも好きな時に思い通りにしてきた彼が、あらたまって同意を求めてくるなんて……。

 でも、それが彼のロイヤリティの示し方だったのだ。

 彼はけして無理を通そうとはしなかったからだ。どんな時にも決定権は操祈が握っていて、レイはそれに服する形を墨守している。

 こちらが承諾するまで何度も何度も倦まずに問いかけはしても、否、という間はけして則を越えることなく尊重してくれる。

 ついさっきまであんなにも深く愛してくれたのに、今もその一線だけは譲らずに蔑ろにしようとしない姿勢がレイらしくて好ましかった。

「また……?」

「うん、股に」

「もうっ、すぐそんなこと言ってぇ……レイくん、エッチなんだからぁ……」

「イヤですか?」

「本気、なのぉ……?」

「うん――」

「……だって……あんなにいっぱい愛してくれたのに……愛してくれたばっかりなのに……」

「でもボクには全然足りないな……いつだって先生のにおいが欲しい……キミのにおいが大好きだから……」

 深く愛された後でこんな言葉をかけられたら、女には他にどんな逃げ道があるというのだろうか。その上、自分に注がれる愛情と思いやり、敬意は言葉以上に確かなものだった。そのことを肌と体とがよく知っている。

「いいわ……」

 操祈は恥じらいを含んだ微笑みで同意を与えた。

 真剣な顔つきをしていた少年が、その一瞬でとても幸せそうな顔になって操祈も満たされた気持ちになる。

 でも枕をお尻の下にあてがわれて腰の位置を高くされてしまうと、やっぱり恥ずかしい。なにもかも剥き出しにされて全てを見られてしまう形、これまでにも幾度も求められ演じさせられたことのある大胆な体位のひとつ。

「愛してる……」

 口づけが落ちてきて目を閉じた。赧らんだ瞼に長いまつ毛が羞恥の影を宿している。気高く整った鼻筋、慎ましく結ばれた口元。

 ブロンドの髪がシーツの上に拡がって煌めいた。豪華な美貌、それなのに柔らかな面ざしは愛くるしさを際立たせることはあっても損なうようなことはけしてなかったのだった。

 さながら褥に身を横たえて、人の世の穢れを身に受けることを決意した悩ましげな女神のように――。

 実際、いまの彼女は自身のもっとも密やかな部分を男の子に舐りとられている。

 展げられて、密やかな粘膜がひんやりとした外気にさらされて、彼の視線はほとんど物理的な力を持っているようで、愛撫と同じように甘くくすぐったくて反応してしまうのだ。

「先生は美しいな……どんなお花だって、キミの“二つ”のお花の優美さに比べたら遠く及ばない……うん、においもすばらしい……」

 




まだ書きかけの中途です
ただ二ヶ月も放っておくこともできず

急ごしらえのアップになってしまったこと
ご容赦を


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