究極のJKドリフト (肉ぶっかけわかめうどん)
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再誕したドリフトの天才

 9X年7月某日、群馬県S市。

 

 夏の熱気を含んだぬるい風が吹き抜ける県立S高校の屋上で、眠たげにあくびをする三年生の女子生徒、藤原拓海は秋名山の方角を眺めながら物思いにふけっていた。

 

(……今朝は久しぶりに見たな、あの日の夢。もう5年もたつのか)

 

 藤原拓海にとってはあるかもしれない未来の話。『藤原拓海』にとっては過ぎ去った過去の1日の話。

 初めてこの夢を見たのは中学一年生のころ。

 別に何かの記念日でもないただの平日だが、その夢を見た夜は拓海にとっては忘れられない1日だった。

 

 

 

 

 遡ること五年前。

 『藤原豆腐店』を経営する父、文太は山向こう、秋名湖近辺のホテル街に毎朝4時、自家製の豆腐の配達へ向かうのだが、その日はこれを拓海がやる事になったのだ。

 

 きっかけはちょっとした事だった。

 その日、店に立つ文太に頼まれ、拓海は自宅横のガレージで洗車をしていた。

 一通り洗車が終わったのち、拓海はふと何に気なしに運転席に腰を落としてみた。

 腕を伸ばしてハンドルを握り、ペダルに両足を置いてみると、それらは妙に体になじむ感覚がした。シートが遠すぎてこのままでは満足に操作できないが、それでも何故かしっくりくるのだ。

 

 しばらく意味もなくペダルやシフトレバーを操作していると、拓海の鼻腔を煙草の匂いがくすぐった。

 

「何やってんだ?」

 

 銜え煙草姿の文太が店の前から拓海を怪訝そうに見つめていた。なかなか戻ってこないので様子を見に来たのだろう。

 

「な、なんでもないよ」

 

 シフトレバーをニュートラルに戻し、車を降りる。

 車に鍵をかけ、気恥ずかしさを隠すように自室に戻ろうとする拓海の背中に、文太の声がぶつかる。

 

「……運転、してみたいか?」

 悪戯好きな子供のように、ほんのわずかに口角を上げた文太の細い瞳が拓海をまっすぐに見つめていた。

 

 

 

 その日の晩、拓海ははじめて車の運転をする事になった。ちなみにこの時、中学一年生である。

 

 運転席に座り、ステアリングに手を添えた瞬間、全身を強張らせていたはずの緊張はスッと体の中から抜け落ちていった。

 初めて乗ったはずなのに、まるで何年も乗り続けてきたかのような手に馴染む感触。今まで欠けていた何かが填まり込み、元の姿を取り戻したかのような充足感。

 

 それからの事はよく覚えていない。ただ勝手に手足が車を操り、ホテルまでの道を往復していた。

 配達を終えた拓海は家の前で待っていた父、文太の労いの言葉にテキトーな返事を返し、朝まで二度寝を決め込んだのだった。

 

 

 

 二度寝にふけった拓海は妙にリアリティを感じる夢を見ていた。

 

 

 

 それは自分と同じ名前の男が歩んできた23年間の人生だった。

 中学1年の時に父親から車の運転を仕込まれ、毎日毎日豆腐の配達に行かされた。

 高校3年の夏に初めて公道レース“バトル”を経験し、それからは県内のみならず関東中の峠という峠に繰り出してはバトルに熱を上げた。

 ついには念願のプロに……英国に渡ってラリーストとして実績を積み上げ、いよいよWRCの大舞台を目前に控えたある日、マシンテスト中に事故にあう。

 

 ドライバーの制御から離れた車が崖下へと転落していく最中“オレ”は半身も同然のような存在……最後の公道バトルで壊れてしまったあの白い車を思いながら最後の時を待ち続けていた。

 少しずつ直すから、と無理を言って実家に保管してもらっていたあれに思いをはせた時、強い衝撃に意識を刈り取られ、夢は終わりを迎える。

 

 

「変な夢……」

 

 目を覚ました拓海はぼんやりと天井を眺めながら、夢の内容を思い返していた。

 夢の内容なんて大抵は寝覚めてすぐに忘れてしまうものだが、今回の夢はいくら経っても消えていかない。

 それどころか時間がたてばたつほど自分の中で確固たる存在となりつつある。

 

 ベッドに腰かけ、両手を空に突き出し、そこにある架空のステアリングを握る。

 右足でアクセルをあおりながら左足のクラッチを素早くつなぐと、タイヤの空転を示す激しい摩擦音が響き、それに一拍遅れて車は勢い良く前に飛び出していく。

 1速ギアはあっという間にタコメーターの針が頭打ちし、クラッチを切ってシフトノブを2速に押し込む。一瞬だけ半クラッチを当てつつ素早くアクセルを踏み込めば、急激に回転数が低下したにも拘らず滑らかに繋がる。

 

 目の前にコーナーが現れる。

 足先でブレーキを踏み込みつつアクセルを蹴る。ステアをきりつつシフトダウンすれば、リアタイヤは地面をつかむことを早々に諦めアスファルト上を流れ始める。

 さらにアクセルを開けつつ、ステアを先ほどまでと反対方向に少しだけ向ける。独楽のように前輪を軸に回りだそうとしていた車体がわずかに横を向いた状態で安定する。

 コーナーの出口が見える。アクセルとステアを少しづつ戻していけば、それまで横に流れるばかりだったタイヤが再び地面を掴み、車体を前方へ猛然と弾き飛ばす。

 

「……おーい」

 

 イメージの中で、次々と秋名のコーナーを抜けていく。

 所詮妄想でしかないのだが、たとえ実車……ハチロク、というらしいあの車でも全く同じ挙動をするだろうという確信があった。

 

「……起きてるかー」

 

 明日の配達の帰りはこれが本当にできるかどうか試してみよう。

 そうと決まれば、昨日は単に面倒でしかなかった家業の手伝いも少しばかり楽しみになる。

 

「拓海ぃ!いつまで寝てやがる!!」

 

 妄想のステアリングを投げ捨てベッドから飛びあがる。いつの間にか時計の針はずいぶんと進んでいた。

 最低限の支度を整え部屋を飛び出ると、ドアの向こうにいた文太と目が合った。

 

「やっと出てきたか。大丈夫かお前?」

「……大丈夫だって。行ってくる」

 

 自宅兼店舗のドアを開け、店先まで付いてきていた文太に手を挙げて小走りで駆け出す。

 急げばギリギリで間に合うだろう。

 

 

 

(結局、あの日はギリ間に合わなくて遅刻だったっけ)

 

 夢の内容の正確なカタチ……それが自分の過去の記憶であると思い出すまでにはさらに時間がかかった。

 もう十年以上も生きてきた女性の身で自我が確立している上での記憶の復活のため、いまさら女であることに戸惑うようなことはない。

 配達に行きだした当初こそ、過去と現在の肉体の体力差に戸惑い、思ったように操作できずに車をスピンさせたことが何度かあったりしたが、今ではほぼ思い通りに動かせるようになっている。

 

(私は……藤原拓海は、やっぱり、クルマと峠が好き)

 

 普通なら、事故で痛い目にあったのなら、もうこんな危ない馬鹿な遊びはやめてもっと安定した道に進むのが正しい、あるいは賢いやり方なのだろう。

 それでも、車を速く走らせる。このたったひとつの自慢できる取り柄を押し出して生きていきたいという思いは変わらない。

 

(そのためにも、まずは)

 

 休み時間の終了が近いことを告げるチャイムがなっている。

 踵を返して拓海は教室へと向かう。

 

(期末試験、なんとかしないと……)

 

 学力的にはそう不安はないが、それでも万が一無様な点を取った結果、夜遊び禁止令の宣言でもされたら非常に困る。

 勝てる勝負を落とさないのはプロの鉄則なのだから。

 

 

 



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赤城レッドサンズ登場

 夜八時前。夕飯ののち、二人分のさして多くない食器を棚に片付け、自室に戻るべく居間を通り抜けようとしたちょうど真横で藤原家の固定電話が鳴りだし、拓海は耳元での突然の大音量に思わず顔をしかめた。

 

 

 

「はい、藤原豆腐店です……なんだ、イツキか」

 

 

 

 電話をかけてきたのは拓海のクラスメイトである武内樹だった。

 

 イツキは単なる同級生としての付き合いなら小学校から、本格的に交友を持ったのは高校からの友人で、すぐ調子に乗っては痛い目をみてを繰り返す明るく能天気な男だが、人付き合いがあまり得意ではない拓海にはその明るさが心地よかった。

 

 イツキの人の好さは知っていたのでもっと早く友人になりたかったのだが、異性であるという影響は意外に大きく、ちょうどよいきっかけを得られぬまま高校まで進んでしまった。

 

 高校に入ってからのきっかけも大したことではなく、中古車のカタログを開き、AE85のページを穴が開きそうなほど見つめて皮算用するイツキに“それハチロクじゃなくてハチゴーだよ”と背後から指摘したのが二人の最初の会話である。

 

 

 

「拓海ちゃん、今ヒマ?」

 

 

 

 受話器の向こうから虫の合唱が聞こえてくる。公衆電話からかけているらしい。

 

 

 

「よかったら今から秋名山まで来ない?」

 

「別にいいけど、なんで?」

 

 

 

 小銭を追加投入した音がした。長くなるのだろうか。

 

 

 

「前にバイト先の池谷、って先輩の話したの覚えてる?」

 

 

 

 イツキのバイト先のガソリンスタンドには、三歳年上の池谷浩一郎という人物がいる。彼は秋名山をホームとする走り屋チーム『秋名スピードスターズ』を率いる人物でもあり、イツキにとっては仕事でもプライベートでも尊敬している先輩だ。

 

 このあたりの事情は説明されずとも拓海は覚えている。“オレ”もそこでアルバイトをしていた時期があるからだ。

 

 男だった頃はだいたい父親に任せっきりだった各種家事をなるべく引き受けるようにした事で、今の拓海はあまり時間が取れないためアルバイトは夏休みまでお預けだが。

 

 

 

「今夜スピードスターズの皆で走りに行くんだけど、そこにオレも連れて行ってくれる事になってさ。せっかくだから拓海ちゃんも誘おうかと」

 

(スピードスターズか……懐かしい名前)

 

 

 

 拓海の脳裏に、初めてスピードスターズのメンバー達と会ったころの記憶がよみがえる。あの時は二人で池谷先輩に乗せてもらって、そしてそこで赤城山から来た他所の走り屋たちと出会うのだ。

 

 池谷の代理の代理という形で拓海はチームの交流戦に出場し、ここで初めての峠のバトルを経験する。

 

 走り屋としての藤原拓海はすべてここから始まっているといっても過言ではない。

 

 

 

「……うん、行くよ。何時?」

 

 

 

 仮にも試験間近であるのは変わりないためあまり出歩くのはよろしくないが、それでも顔を出す理由としては十分だ。

 

 あの人たちにまた会えるかもと思えば、拓海の頬がわずかに緩んだ。

 

 

 

「オレは8時にバス停で拾ってもらう約束だから、拓海ちゃんもそれぐらいに……あ、先輩きた。じゃ秋名山で!」

 

 

 

 拓海が時計を見るとちょうど8時を指した所だった。もうちょっと余裕を持って誘ってほしい、と思いつつ受話器を戻し、ちゃぶ台で晩酌中の文太に声をかける。

 

 

 

「ちょっと出かけるから車借りるね」

 

 

 

 拓海に声をかけられた文太は、手に持ったコップ内のビールを一息に飲み干すと、ビンから次の一杯を注ぎながら答える。

 

 

 

「おう……配達までには戻ってこいよ」

 

 

 

 

 

 

 

 秋名山頂の旧料金所跡に拓海がたどり着くと、そこにはすでに四台の車が停まっていた。

 

 

 

「おーい、こっちこっちー!」

 

 

 

 街灯の下でたむろしていた人影の中からイツキが現れ手を振る。

 

 その近くにハチロクを停め車から降りると、なぜか街灯の下でざわめきが起こった。

 

 

 

「イツキー、誘ってくれるのはいいけどもうちょっと早く言ってほしいな」

 

「ごめんごめん、バス停ついてから思いついたから」

 

 

 

 頭をぽりぽり掻いて謝るイツキ。そのイツキの背後から、ポロシャツを着た青年……池谷浩一郎が姿を現した。

 

 

 

「き、きみがイツキの言ってたと、友達か。俺は、池谷浩一郎、よろしく」

 

「藤原拓海です。池谷先輩の事は聞いています。よろしくお願いします」

 

 

 

 やけに声が震えている池谷に、拓海は何の気なしに愛想笑いを向けて挨拶を返すと池谷の肩が一瞬はねた。その背中を、何か哀れなものでも見るような目で他のメンバー達が見つめている。

 

 これじゃ一生無理だな、何がとは言わないけど……と誰かがヤジを飛ばすと、うるせぇ余計なお世話だ、と池谷が怒鳴り返した。

 

 

 

「緊張しすぎだっつの池谷。あ、俺は健二。気軽に健ちゃんとでも呼んでくれ」

 

「よろしくお願いします、健二先輩」

 

「健ちゃん呼びは却下か。それはそれとして……おいイツキ」

 

 

 

 健二がイツキの肩を抱き、くるりと後ろを向く。

 

 

 

「女の子が来るならそう最初に言えっ、俺らあの子が車降りてきた時マジでビビったんだからな。イツキの同類みたいな走り屋小僧を想像してたらそれを180度裏切られたんだから」

 

 

 

 それからメンバーとの自己紹介や雑談にひとしきり花を咲かし終え、そろそろ今夜の本題である峠攻めを始めようかと各々の車に散らばったころ。

 

 その音に最初に気づいたのは最も奥に愛車、180SXを停めていた健二だった。

 

 

 

「……エンジン音だ。上がってくる車がいるぞ」

 

 

 

 池谷も乗りかけていたS13シルビアのドアを閉め、耳を澄ませる。

 

 

 

「やけに台数が多いな」

 

 

 

 ハチロクのピラーにもたれかかっていた拓海の耳にもその音は届いていた。特に先頭にいる二台の音は特徴的で、拓海にとっては忘れられない音でもある。

 

 

 

(近いうちに会えるだろうとは思ってたけど……初日でいきなりか)

 

 

 

 

 

 夜の闇の中から姿を現した二台は白の旧型、FCと黄色の新型、FDの新旧RX-7。

 

 さらにその後ろから、一目で走り好きが所有者とわかる改造車がぞろぞろと続いてくる。

 

 

 

「池谷、あのステッカー……」

 

「ああ、先頭があの二台な時点で確定だ。あの高橋兄弟がなんでこの山に……?」

 

 

 

 池谷と健二がひそひそと声を交わしている間に、スピードスターズとは反対側に停められた車から次々にドライバーたちが降りてきていた。

 

 人が好さそうなのから柄の悪そうなのまで、何人もの男たちに相対された池谷達に緊張が走る。

 

 

 

 

 

 

 

 互いに無言で見つめあう中、最初に口を開いたのは黄色のFDから降りてきた、金髪の青年だった。

 

 

 

「俺たちは『赤城レッドサンズ』ってチームだ。不躾な頼みで悪いが、ひとつ聞かせてほしい……この山で一番速いチーム、あるいは走り屋を知らないか」

 

 

 

 金髪の青年、高橋啓介の視線を受けて、池谷もゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「俺たちは『秋名スピードスターズ』ってチームだけど、俺たちはいちおう秋名最速を名乗ってるよ」

 

「ほかに秋名を走るチームがいないってのもあるけどな」

 

 

 

 健二が小さく補足する向こうで、一人の穏やかそうな風貌の男がレッドサンズの人の波をかき分けて現れる。啓介に史浩と呼ばれた男はひとつ咳ばらいをした後、よく通る声で話し始めた。

 

 

 

「ちょっと話を聞いてもらいたいんだけど……」

 

 

 

 いくら車好き、峠好きといっても、いつもいつも同じ面子とコースではやがてマンネリしてしまう。

 

 さらなるレベルアップのためには他所のチームと交流して新しい刺激を得るのが一番。

 

 

 

「そこで提案なんだけどさ、来週の土曜、ここでうちのチームと交流会を開いてもらいたいんだ。まずはつるんで走って、最後は互いに代表者を出してタイムアタックをする……どうかな?」

 

 

 

 勝ち負けは二の次、あくまで交流目的だから、と史浩は付け加えた。

 

 

 

「……そういわれちゃ、断る理由もないけど」

 

「じゃ、決まりだな。さっそく俺たちも練習走行を始めさせてもらうよ」

 

 

 

 史浩のその言葉に呼応して、レッドサンズのメンバー達が次々に愛車のエンジンを始動させていく。

 

 FDを筆頭に道路へ飛び出していくレッドサンズの轟音に負けじと池谷と健二が声を張り上げる。

 

 

 

「俺たちも行こうぜ、秋名の山なら俺たちのが走り慣れてる分上だろ!」

 

「柔らかく言ってやがるけど、要は挑戦じゃねーか。赤城山の連中の実力見せてもらうぜ……イツキ、ここで待ってろ、終わったら迎えに来る!」

 

 

 

 

 

 

 

 スピードスターズの四台の車がけたたましく走り去る後ろで、拓海もまたハチロクのエンジンを始動させた。運転席からふとレッドサンズの側に目を向けると、レッドサンズの隊列の最後尾にいた白のFCが見える。

 

 目が合った。見えるはずもないのに、拓海は二枚の窓ガラス越しに確かにそう感じた。

 

 

 

「……涼介さん」

 

 

 

 赤城レッドサンズのリーダー、高橋涼介。弟の高橋啓介と並んで『高橋兄弟』として広く知られた凄腕で、拓海もかつて涼介の立ち上げた遠征専門チームに身を置いて関東各地に遠征を繰り返した。

 

 

 

(この人には敵わない、といつも思わされてばかりのすごい人だったな)

 

 

 

 今の自分がこの人に挑んだらどうなるだろうか。一度勝った事にはなっているが、あれは結局なんで勝てたのかわからないただのまぐれ勝ちだ。

 

 後になってこの人の実力を知れば知るほど余計にそう思う。

 

 この人が本気で、あらゆる手を尽くして勝ちにきたら、私はどこまで対抗できるだろうか。

 

 

 

(もう一度、今度は全力の涼介さんと、バトルしてみたいな)

 

 

 

 そのためにも、まずはこの人の視界に入らなくてはいけない。

 

 藤原拓海は、本気の高橋涼介でなくては対処できない相手だと認識させなくては始まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 FCはもう路上に侵入している。拓海は急いでサイドブレーキを解除すると、窓を開けて、街灯の下でぽつんと座り込んでいる取り残されたイツキに呼び掛けておく。

 

 

 

「イツキ、下まで降りたら私そのまま帰るから。先輩帰ってきたらそう言っといて」

 

「……どーせオレは車ないですよー。伝えとく」

 

「頼んだから。じゃあまた月曜に学校で」

 

 

 

 窓を閉め、スピンターンで車体を180度方向転換し、そのまま全開で路上へ飛び出る。

 

 一足早く加速を始めているFCに追いすがるべくアクセルを床まで踏みつける。

 

 

 

(今の“藤原拓海”の走りは、この人にはどう映るだろうか……)

 

 



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赤城レッドサンズ登場(後編)

 

 コーナーの向こうに消えていったFCのテールを追いかけ、拓海もブレーキを踏みつける。

 甲高いスキール音と軽やかな速度警告音をBGMに、ホイールロック寸前まで踏まれたフットブレーキとシフトダウンによるエンブレの合算が車速を急激に落としていく。

 コーナー奥まで攻め込み軽くステアリングを回してドリフトの姿勢を整えそのままコーナーを脱出すると、正面には先ほどより大きく近づいたFCが見える。

 FCが加速したことによりまた若干車間が開く。

 

(様子見されてる……?)

 

 FCという車にどれだけパワーがあるのか正確な数字は知らないが、第1コーナーまでの加速から考えれば立ち上がりでもう少し差がついているハズだ。

 

 第1の時ほど速度がのっていないため、第2コーナーへの進入ではそこまでハードなブレーキングは必要ない。

 最低限の減速と荷重移動を済ませてイン側へ切り込むと、カウンターはあてずにそのままの角度を維持する。タイヤは滑り出す寸前が最も地面に喰いつく事を利用し、最小限の舵角で車を大きく旋回させる。

 長い直線の後のように速度が乗りすぎている状況では流石にタイヤの限界を超えてしまうが、それ未満の中速域ならこのやり方で拓海とハチロクは曲がれる。

 

 ちなみに拓海にこの技法を初めて披露したドライバーは左手は常にシフトノブに置き、右手だけで操作する文字通りの“ワンハンドステア”だったが、拓海は左手も添えている。終始片手だけでは疲れるので楽がしたい以上の理由はない。

 

 第2コーナーを抜けた先のヘアピンカーブにリアを振り出しながら進入する。低速コーナーではグリップを意識するより思い切って滑らせるほうが進入速度を稼ぐ事ができる。

 

 それまで一定の間隔を保つように車速を調整していたFCがいきなり全力で立ち上がって視界から消えた。

 

 FCの姿に代わってハチロクのフロントガラスに映し出されたのはスピードスターズのステッカーを貼り付けた赤いスターレットだった。白のランサーEXの姿ももう少し奥に見える。この二台を追い越すために涼介はアクセルを開けたのだ。

 拓海もアクセルを踏みしめスターレットの横を駆け抜けると、次の左コーナーに向けイン側に寄せながら減速中のランサーの横に並びながらブレーキをかける。

 コーナリング勝負ではイン側が絶対的に有利だが、それを補って余りあるほどの速度差がハチロクをランサーの前に押し出した。

 

 馬力ではハチロクに勝るランサーが必死に追いすがろうとするのを尻目に、拓海はゆるい右に全速で突っ込んでいく。

 ここはブラインドカーブとなっており、ゆるい右を抜けると即目の前に左ヘアピンが現れる秋名の下りの難所である。そうと知らずに迂闊にゆるい右を抜けてしまうと減速が間に合わず、ガードレールに突き刺さること間違いなしの危険地帯だが、拓海はそんな事にはお構いなしに右をクリアする。

 

 ゆるい右を抜けると目の前に十分に減速した状態で走る白い180SX、健二の車が、その先では慣性ドリフトの態勢を作りながら左ヘアピンに突入しようとしているFC、さらにコーナー出口から立ち上がろうとする池谷のライムグリーンのS13と連なった三台が視界に入る。

 拓海も勢いのままに慣性ドリフトを行い、入口で健二を、抜けた先で池谷をそれぞれ追い越し、FCの追跡を再開する。

 

(……やっぱり上手いや、この人)

 

 前を走るレッドサンズの車両たちが涼介の接近に気付いて進路を譲り、それに便乗させてもらう形ですぐ後ろを拓海もレッドサンズの車両たちを追い抜いていく。

 もし前後が逆になっていたら、レッドサンズの車両はこちらをブロックしようと立ちはだかり、拓海がそれらをさばいている間にFCははるか先に行ってしまうだろう。

 

 長めのストレートに差し掛かっても距離が全く変わらない、明らかにこちらの加速に合わせているFCの後ろで、拓海は嘆息する。

 

 初めてこのコースを攻めているとは思えないハイペース。知らないコーナーに攻め込んでいく際のリズムやラインの取り方は今の拓海でも参考になる部分が多く、敵地攻略のスペシャリスト、高橋涼介の引き出しの多さにあらためてうならされる。

 秋名下りのタイムだけを競うなら勝利は揺るがないだろうが、それでは藤原拓海が高橋涼介に勝利したことにはならない。

 コースに不慣れな相手を地元でちぎっても、それは誇れるような結果ではない。傲慢なようだが、拓海にとって秋名でのバトルとは“勝って当然”なものなのだ。

 

(どうすれば、私はこの人に勝った気になれるかな……)

 

 

 そのまま後背を走り続けること数分、麓まで降り切った二台の道は分かれる。麓の旅館の駐車場にFCは入り、ハチロクはそのまま市街地側へ走り去る。

 後から来た二台に唯一追いつかれずにすんでいたFDと啓介だけが、走り去るハチロクの後ろ姿を見送ることができた。

 

 

 

 

 麓の駐車場に並んで停められている二台のRX-7のそばで、啓介が二本の缶コーヒーを片手に涼介がFCから降りてくるのを待っていた。

 誰よりも先に頂上から飛び出し、そして誰よりも先に麓についていた啓介はヒルクライムを邪魔されないよう、後続が降りてくるのを煙草で時間をつぶしながら待っていたのだが、そこにFCと見慣れぬハチロクがやってきたため涼介に事情を聴こうとしていた。

 

「……アニキが自分で走るとは思わなかったぜ。てっきりどっかで観察でもしてるのかと」

 

 運転席から降り立った涼介に缶コーヒーの片方を渡すと、自身も煙草の火を消し真っ黒な液体を一気飲みする。

 

「アニキについて行けるんだからあのハチロクもたいしたもんだ。来週はあいつがオレの相手になりそうだな。最近はコーナー3つで消える程度のカスの相手ばかりだったから楽しみだぜ……もっとも、アニキは軽く流してただけっぽいけど」

 

 涼介は冷たいコーヒーを一口含むと、冷たさを体にいきわたらせる様にゆっくりと嚥下する。

 

「そうだな、オレはまだコースを知らないし、それに他の車両が大量にいる状況でむやみに攻め込むのは危険だからな。流すだけにとどめるのがベターだし、向こうもそれに付き合ってくれた」

「向こう……?」

 

 啓介は眉をひそめた。

 

「いや、なんでもない」

 

 涼介はコーヒーを飲み干し、自販機横のごみ箱がいっぱいになっているのを見た後、空き缶をFCのドリンクホルダーに収めた。

 

(第1コーナー前後での車間の差から、ある程度ブレーキングの腕を予測する事はできる。あのハチロクは予想をはるかに上回るレベルだ。今の啓介ではまるで相手にはなるまい)

 

 涼介は考え込む。

 

(この交流戦に勝つことだけを考えるなら、下りのアタックはオレ自身がやるべきだ。向こうもオレとのバトルが狙いだろうしな。後ろにつき続ける、こちらに意識させようとするような走りはそういうことだろう)

 

 だが、それでも啓介を代表にすべきだ。涼介はそう考える。

 啓介には才能がある。いずれは涼介など軽く超えて行ってしまうであろう程に。だが、今の啓介はほかの石と見分けがつかない単なる原石でしかない。

 原石を磨くには、それ以上に硬いもので研磨しなくてはならない。

 

 己が走り屋を続けていられる残り時間はそう長くない。その間に啓介を鍛え上げるべく、兄として師として、とことん弟をイジメてやるつもりだ。

 

 来週の敗北は、きっと啓介に多くのモノをもたらすだろう。

 

(その誘いにはもちろん応じるさ。相手にとって不足はない。だがその前に、少しばかりこちらの事情に付き合ってもらえると助かる……もちろん、礼はするとも)

 

 

 

「クソ、まるでついて行けねぇ」

「あいつらすげぇ上手いけど、車も同じくらいやばいよ。相当な金掛けてるぜあれ」

 

 秋名山頂上、料金所跡に再集合したスピードスターズの面々が煙草や飲み物を片手にうなだれていた。

 口々に赤城とのレベルの差を嘆くが、会話の端々で何かを言いよどむように目を見合わせている。

 

「なあイツキ……ひとつ聞いていいか」

 

 やがて意を決したように、池谷がイツキに尋ねる。

 

「今日お前が連れてきたあの子だけどな……知ってたのか?」

「知ってたって……な、何のことっすか」

「あの子のテクニックだよ。FCを追っかけまわしながら、さもついでみたいな感じでオレたちも赤城もまとめてブチ抜いていったよ。おかげで麓の駐車場で赤城の連中が戦意喪失してたぞ。元気そうなのは高橋兄弟ぐらいだった」

 

 池谷の言葉に、周囲がうなずく。

 

「え、オ、オレが知ってる拓海ちゃんの事は、単に車好きな豆腐屋の一人娘だって事ぐらいですよ。免許だってまだ取ったばかりのはずだし、そんなテクニックなんてあるわけ……」

「とうふ……いや、お前は知らなかったみたいだな。ならいいんだ」

 

 いまだ飲み込み切れない様子のイツキを見て、池谷は眉間によっていたシワを伸ばす。悪趣味なドッキリでも仕掛けられていたわけではないらしい。

 同じく険しさをやわらげた健二が、気を取り直して池谷に本題を投げかける。

 

「池谷、それで交流戦はどうするんだ。オレたちじゃレッドサンズに張り合うなんて無理だぜ。イツキを通して頼んで、また来てもらうのか?」

 

「それは……今日はもう遅いし、また明日集まって話そうぜ」

「そうだな。今日一日でいろいろ起こりすぎだ。こんなグチャグチャの頭じゃ何も考えられないよ」

 

 池谷も健二も、疲れをふんだんに含んだため息をついた。

 

「明日の夜、閉店時間にいつものスタンドで集合だ。店長にも話に混ざってもらおう。あの人も昔は秋名の走り屋だったらしいから、そのツテで助っ人の一人も呼べるかもしれない。じゃあ、今日は解散としよう」

 

 

 イツキを横に乗せ、無言で山を下り続ける池谷は、かつて仕事の合間に交わされた他愛もない雑談の内容を思い出していた。

 

 池谷の務めるガソリンスタンドの店長は、若かりし頃は走り屋をしていたらしい。そんな彼が池谷達に語った昔話の中に、自他ともに認める秋名最速の走り屋、という話が有った。

 

(秋名の下りで一番速いのは豆腐屋のハチロクだ、最新のマシンで挑んでも秋名では勝てっこない、と店長は断言していた。そしてあのハチロク、暗くてはっきりとは見えてなかったけど、たしか側面にナントカとうふ店とか書いてあったはず……あの時はマユツバだと思って笑ったけど)

 

 これだけ材料が揃えばいやでも信じざるを得ない。

 

 

(やっぱりあれは本当だったんだ。かつて伝説の走り屋と呼ばれた豆腐屋のオヤジは実在するんだ。店長、明日はじっくり話を聞かせてもらいますからね……)

 

 

 

 

 



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交流戦開幕直前

 煌々と蛍光灯が灯る夜中のガソリンスタンドの事務所で、店長を務める立花祐一は今日一日の収支を帳簿にまとめていた。

 

「あの、店長……」

「おお、池谷。お疲れさん。施錠はしとくから上がっていいぞ」

 

 店の前に続々とスピードスターズの車両が集まってきている。自身が元走り屋ということもあり、祐一は車好きの若者には特に優しい。こうして店をたまり場に使うことも、営業の邪魔にならない範囲であれば許しているぐらいには。

 これから走りに行くのかと思い先に帰らせてやろうとしたが、池谷はそこを動かない。

 

「店長、お疲れのところすいませんが、ちょっと話を聞いてもらえませんか」

 

 何やら険しい顔をした池谷に切り出され、祐一は手を停めて池谷と向かい合う形でソファーに座る。

 内容については祐一には何となく予想はついていた。この店の前の道路を秋名山の方角へぞろぞろと走り抜ける車の群れを祐一も目撃しており、彼らと何かひと悶着あったのだろうと。

 

 池谷は昨日の事を語った。赤城レッドサンズの襲来、一週間後の交流戦、イツキが友達といって呼び寄せたハチロクに乗る女の子、そして彼女の速さ。

 

 話を聞き終えた祐一は、煙草に火をつけると窓の向こうに見える山々に目をやる。

 

「なるほどな……昔から、赤城には上手いやつがたくさんいたよ。秋名とは何がそんなに違うんだろうな」

 

 吐き出された紫煙が輪を描いて天井へ上る。

 

「それにしても……あいつの口ぶりからして相当ハイレベルなんだと予想してたが、赤城の連中が相手にならないほどとは。拓海ちゃん、スゲぇもんだな」

「店長、知ってるんですか?」

「知ってるさ。前にも話したことあるだろ、昔の走り屋仲間の文太の事は。あいつの娘だよ。3年くらい前だったかな、ここに来たこともあるんだぜ」

 

 3年前のとある日、祐一が一人で閉店の為の片付けをしていた時、見慣れたハチロクがのこのことやってきた。

 いつもいつも閉店時間になってから来やがって、とたまには嫌味の一つも言ってやろうかと車に近づいたら、そこに乗っていたのは見慣れた細目の中年オヤジではなく、どう見ても免許持ってる年齢ではない少女だった。

 

「その場で文太に電話かけたよ。中学生に何やらせてんだ事故ったらどうする、って言ったら文太のやつ、事故るわけねーだろお前よりは上手いわ、とかぬかしやがったよ」

 

 明日のガソリン無かったの今頃思い出したから行かせただけだ、今忙しいから切るぞと通話を打ち切られた文太に代わり本人に話を聞けば、もうずいぶん前から乗ってるとの事。

 

「中学一年からずっと、豆腐の配達の為に毎日欠かさず、とはいかんがそれでも数えきれないぐらい秋名山を往復してるんだとよ。つまり池谷たちよりキャリアはずっと長いし、速いのもそれが一番の理由だろうな」

 

 オレが知ってるのはこれぐらいだ、と言い煙草をもう一息吸うと、残りを灰皿に押し付け火を消す。

 

「その高橋兄弟とやらの実力は知らんが、秋名であの親子の右に出れる走り屋は知らんぞ……文太は人に頼まれて走るようなヤツじゃないし、拓海ちゃんに代表を頼むのがいいと思うぞ」

 

 池谷は一度強く奥歯をかみしめる。

 

「……長年走りこんでる上に、その親父さんにも色々教えてもらってるんでしょう。それならあの速さにも説明はつきます」

 

 池谷はソファーから立ち上がると、後ろで話を聞いていたメンバー達へと振り返る。

 

「なあ皆、やっぱり……下りの代表、頼むべきだと思うか」

 

 メンバー達は無言のまま顔を見合わせる。その反応だけでも答えとしては十分だった。

 

「わかった。下りをやってもらえるよう、頼んでみる。上りはオレがやる。いいな、健二」

「ちょ、ちょっと待てよ。チームの車で一番パワーあるのはオレの180SXだぜ。上りはてっきりオレでもう確定かと……」

 

 健二が異を唱える。別に立候補したいわけではないが、ただでさえ勝ち目が薄いにも関わらず、なぜパワーの劣る車で挑むのかは気になるところだった。

 

「別に健二じゃ駄目だというつもりじゃなくて、ただオレがやりたいだけだ。下りを他人にやってもらうんだ、せめて登りはリーダーのオレがやらなきゃダメだろ……当日も登りを先にしてもらって、まずオレが死ぬ気で攻める。いざって時に先頭きってみせる度胸もないんじゃ、リーダー失格だぜ」

「池谷……」

 

 健二が池谷の肩に手を置いた。

 

「気持ちはわかるけど、無茶はすんなよ。走らないオレが言うのもなんだけどさ」

 

 健二は他のチームメンバーをひとりづつ見回す。

 

「年下の女の子にぜんぶ丸投げして、大の男どもは指くわえて見てるだけ。地元のくせに情けねえって思う気持ちは俺達にだってあるんだぜ」

 

 かといって戦ったところで勝ち目はない。僅差ならば格好も付くだろうが結果はどう考えても惨敗。

 地元が逃げるのは論外である。

 

「でも、どうせ情けない結果にしかならないなら、もういっそ開き直るしかねぇよ。フリー走行でオレ達は下手な走りで笑われて、池谷も登りで惨敗して笑われて……今回はぐっとこらえて、次こんな機会があった時のために、これからレベルアップしていくしかないよ」

「健二……そうだな、その通りだ。誰だって、最初からスゲー走りができるわけじゃない。これから上達すればいいんだ」

 

 池谷の顔から険しさがやや消えた。

 その彼の手に、破られたメモ帳のページが祐一から手渡される。

 

「ほれ、これが伝説の豆腐屋への道のりだ。くれぐれもオレの名前は出すなよ。オレが教えたと知られたら、また飲み代たかられちまうからな」

 

 

 

 月曜日。この日は拓海たちの高校の期末試験初日の日でもあった。

 拓海としてはまあまあの手ごたえであった。上位に入れる程ではない、が平均点を上回れるぐらいにはあるだろう。

 何か言いたげにするものの、結局話しかけてこないイツキを放置し、さっさと下校しようと靴を履き替えていた時、拓海の肩を何者かが叩いた。

 

「やっほー、拓海ちゃん」

「藤原さん、今帰り?」

 

 振り返れば、別のクラスに属する茂木なつきが眩しいばかりの笑顔で立っていた。彼女の友人の白石も一緒にいる。

 茶髪にやや細められた眉に短めのスカート……今どきの若い子、遊んでそうといった表現をよくされる茂木と、真っ黒のおさげ髪に眼鏡、規定通りの制服と真面目を絵に描いたような白石。二人は見た目こそ両極端だが意外とウマは合うらしくよく行動を共にしている。

 

「私は今日はあんまりだったなー。たくちゃんは今日のテストどうだった?」

「まあまあかな。白石は?」

「今日は割と自信あるかな。藤原さん英語得意だったよね。今日いまいち自信無かった問題があるんだけど……」

 

 ちなみに拓海は己ではそこまで英語が得意だとは思っていない。いくら約三年間の英国暮らしの記憶があるとはいえ、日常会話としての英語と教科書的な英語では細かい部分が色々と違う。基本的な部分は問題ないが、ひねった問題を持ってこられると苦労する程度である。

 

「そうだ、拓海ちゃん。テスト終わったら皆で遊びに行こうよ」

 

 正面を向いていた茂木がくるりと拓海の側を向き、短めのスカートが動きに合わせてふわりと浮かぶ。周囲の男子の目線がいくつか向いたが、そんな事は気にも留めない。

 

「拓海ちゃん車の免許持ってたよね。じゃあ海にしようよ。拓海ちゃん水着持ってる?」

「いや、そういうとこ行く予定もないし……」

「じゃあ買いに行こ。拓海ちゃん身長高くてスタイル良いから水着きっと似合うよ。なつきもおニューの欲しかったし。あんまり予算無いけど……」

 

 勝手にどんどん話を進めている茂木の言葉に、引っかかる部分を感じた拓海が白石に小声で尋ねる。

 

「茂木ってカネ持ってるの?」

「……いえ、最近は金欠みたいよ」

 

 一言だけで聞きたい内容を察してくれたらしい白石が、素朴に微笑みをうかべる。

 

「バイトしたり、家事を手伝ったり、ダメオヤジとの付き合いやめたり。藤原さんのおかげよ」

「なんで私が出てくる」

「去年の今頃、なつきの“彼氏”を殴ったことあるでしょう。あのあたりからよ。なつきが良い方向に少しずつ変わりだしたの」

「……茂木の為じゃない」

「それでもよ」

 

 こっちは関わらないようにしてたのに、向こうから近寄ってくる勘違い野郎に思わず手が出てしまっただけ。この一件に茂木は関係ない。

 

「土曜日授業終わったら、三人で買い物行こうね。そして日曜は海だよ……二人とも聞いてる?」

「聞いてる。土曜日ね」

「約束だよ。なつき約束破る人は嫌いだからね!」

 

 

 

 帰宅した拓海が玄関を開けると、カウンター奥の椅子に腰かけた文太が麦茶をちびちび啜っているところだった。

 

「おい拓海、お前に客が来てたぞ」

「客?」

「池谷とかいうやつが、週末にやるバトルに助っ人として来てくれ、と頼みに来た。行くのか?」 

「……うん、行く」

「そうか。赤城最速だか何だか知らんが、まあ軽くひねってこい」

 

 文太は空になった湯飲みを置くと、煙草を取り出して火をつけた。

 

 

 

「そうそう、父さん。日曜、車借りてもいい?」

「日曜……まあ、いいぞ。乗ってけ」

「ありがとう」

 

 拓海が二階に去るのを待って、文太はため込んだ煙を一斉に吐き出す。

 

(日曜か……まあ、祐一を足にすればいいか。オレの店教えたのあいつしか考えられんしな)

 

 

 



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開戦

 夜10時、秋名山頂上。

 8時から始まったフリー走行、そしてヒルクライムのタイムアタックも終わり、いよいよダウンヒルのタイムアタックの時間となった。

 

「すげぇ数のギャラリー出てるなぁ。この中で走るなんて、オレなら生きた心地がしないよ」

 

 道端に押し寄せている大勢の人影を見て健二がぼやく。

 バトルの噂を聞きつけた大勢の見物人が、各所の展望台や待避スペース、コーナーのガードレール内側等に詰め寄せて、峠バトルの最大の見せ場、ダウンヒルアタックの開始を今か今かと待ちわびている。

 もっとも、彼らのほぼ全員が赤城レッドサンズ、ひいては噂の高橋啓介の妙技を一目見ようと集まった面々で、スピードスターズを応援してくれているものは皆無に近いが。 

 

「オーライ、オーライ……ストップ!」

 

 ダウンヒル開始に向け、レッドサンズ側の案内に従いながら、すでに配置についているFDの隣にハチロクを停める。

 拓海がエンジンはかけたままで運転席から降りると、ガードレール越しに池谷が声をかける。

 

「精一杯やってはみたけど、やっぱりオレじゃこんなもんだ……下り、頼む」

「わかりました。秋名の下りなら、任せてください」

 

 ヒルクライム戦では想像通りの結果に終わった池谷は、それでも悔しそうな表情をしている。

 同じく頂上に駆け付けていたイツキも、地元なのになぜか感じるアウェーな空気に泣きそうな雰囲気をかもしながら、拓海を不安げに見つめている。

 

「拓海ちゃん、おれ、こういう時なんて言ったらいいかわかんないけど……とにかく、頑張って」

「ありがと。まあ見ててよ」

 

 イツキに笑いかけた拓海が、背後から指し続ける視線にそろそろ耐えかねて振り向くと、ハチロクを挟んで向かい側で、高橋啓介が戸惑いを含んだ眼を拓海に向けていた。

 

「……お前が下りの代表なのか?」

「そうですけど」

 

 啓介だけでなく、スピードスターズの面々と高橋涼介を除いたこの場のほぼ全員がそういった目で拓海を見ていた。

 女性の走り屋というのは珍しい存在だが、チームの代表として走るレベルとなれば一県に一人いるかどうかのレベルで希少である。

 

「先週も居たのは憶えてたけどな。女は珍しいし。だけど、まさか代表とはな……名前は?」

「藤原拓海です」

「覚えておくぜ。オレは高橋啓介だ……そろそろ始めるか、史浩!」

 

 啓介がFDの運転席に収まると、脇に引っ込んでいた史浩が二台の前に立ち、カウントダウンの態勢に入る。

 

「それじゃ、カウント行くぞ。十秒前!」

 

 拓海も運転席に座り、シートベルトを締める。クラッチペダルをべったりと踏み込み、シフトノブを静かに左上に押し込む。

 

「3、2、1……!」

 

 空ぶかしされた二台のエンジンが、轟音と排ガスを吐き出す。

 その音に負けないよう、史浩もひときわ大きな声を張り上げた。

 

「GO!!」

 

 空転する二台四輪のタイヤが白煙とギャラリーの歓声を巻き上げながら、二つの鉄塊を派手に弾き飛ばす。

 開幕からわずか二秒後、すでに車一台分は優に前に出ているFDの大型リアスポイラーに観客の視線が釘付けになる。

 

「はっえーな、高橋啓介のFD。350馬力は伊達じゃねぇ!」

「クラッチミートもバッチシだぜ。ハチロクのフル加速なんか、まるで止まってるようにしか見えないだろうな」

「勝負になんねーよ、コーナー入ったら、ますます差が開く一方だろうな……」

 

 あっという間に夜の闇の向こうに消えたかと思えば、鳴り渡るハードなスキール音に再び大きな歓声が会場に木霊する。

 ようやく闇に消えたハチロクのテールを見送ったスピードスターズの面々は、会場の興奮の陰で静かに息を吐いた。

 

「任せるとは言ったものの……」

 

 こうしてまざまざと車の性能差を目の当たりにしては、腕があると知っていてもなお池谷は不安をぬぐいきれない。

 別に勝ち負けをいまさら気にするつもりもない。ただ無理をせず、無事に終わってくれれば何も言うことはない。

 

「信じるしか、ない……」

 

 

 

 第1コーナー進入の為FDを減速させながら、啓介はバックミラーをチラリと覗く。

 既に姿は見えないが、映り込む一対のヘッドライトの光がそこにハチロクが存在する事を教えてくれている。

 

(女だからといって遠慮なんかしない……この程度でミラーから消えるんじゃねぇぞ!)

 

 しっかりと前輪に荷重を移して頭を突き入れ、遠心力で振り出された後ろ半分をカウンターステアを切って安定させる。

 車体がきれいに横を向いた、絵に描いたような派手なドリフトでクリッピング、最もコーナーのイン側に寄るポイントを通過すると、大きくアクセルを開け大馬力を活かしてロケットのように立ち上がる。

 

 立ち上がる最中、コーナーの奥から飛び出してくるハチロクの白い車体をミラー越しに確認し、啓介はにやりと笑う。

 

(まだいるな……そうでなくちゃ面白くない。どこまでオレに付いてこれるか見物だな)

 

 並の相手なら、この時点で勝敗は明らかになっている。

 まだ鬼ごっこを続けさせてくれるなら、やはり期待した通りの相手というわけだ。久々の獲物と呼ぶにふさわしい相手の出現に、啓介の闘争心が掻き立てられる。

 

 

 だが二つ目のコーナーを抜けた後、啓介は気付く。

 

(差が詰まってる?)

 

 ヘッドライトの光でしか位置を確認できなかったはずのハチロクが、今は直接見えるようになっている。

 そんなはずはない、とアクセルを踏みしめる。だがヘアピンカーブに差し掛かりFDを横に向けた時、啓介は己のすぐ後ろで、今まさにターンインに入ろうとするハチロクの頭をはっきりと視界にいれてしまう。

 

「追いつかれた……!?」

 

 今まで経験したことのない状況に、啓介の額に冷や汗が一筋、音もなく流れた。

 

 

 

 後方からFDをしばらく眺めていた拓海は、現在の啓介の実力を大方把握すると予定を変更する。コース終盤まで待たねば厳しいと想定していたが、今の啓介が相手ならば早々に仕掛けにいけると判断したのだ。

 

(ちょっと無駄にアクセル開けすぎな感じ)

 

 有り余るパワーで暴れる車を抑え込むのにタイヤのグリップを割いているため、車がさっぱり前に進めない。

 並のドライバーならとっくに限界を超えてスピンしているであろうが、啓介ならギリギリでそれを抑え込めてしまう。

 FDの非常に高い旋回性能と啓介のコントロール能力、両者が悪い方向で噛み合い、足の引っ張り合いになっている。

 

(これなら、次でぎりぎり届くかな)

 

 迫る二連続のヘアピンの一つ目に、アウトからインへとFDが切り込んでいく。拓海はブレーキングを遅らせてFDに接触しないギリギリ外側をすり抜けながら、4速から3速へシフトダウンしつつアウト側を駆ける。

 一つ目の出口で並び、左右の入れ替わる二つ目のヘアピンでイン側を取りに行く戦術である。

 

 クリッピングにつかず、アウト側を目いっぱい使って速度を稼ぎ、コーナー勝負では不利な側にいながらも二つ目のイン側に何とかハチロクの鼻先をねじ込む事には成功するが、FDも前には行かせまいと加速を始めている。

 

 次のコーナーまでのわずかな距離、この位置を維持したいハチロクとの加速勝負が始まるのだが、もし啓介にもう少し技術があったか、4WD車のように加速に優れていたなら、この攻撃は容易く防げていただろう。

 しかしあと一歩のところで、啓介はブレーキングに入りハチロクが横に並ぶ事を許してしまう。拓海にとってはまだ早いと思えるが、啓介にはこれ以上は攻め込めないというタイミングだった。

 

 前に出る事に成功した拓海だが、まだ追い抜けたとは言えない。

 2連続ヘアピンを抜ければ、次は秋名のコース最長の直線であるスケートリンク前ストレート。実際には緩やかに曲がっており厳密な意味での直線ではないが、それでもこのコースで最もスピードが乗るポイントである。

 

 左車線にへばりつくようなライン取りで精一杯加速するハチロクの右側に、今度はFDが頭をねじ込みに来る。2速での立ち上がり、3速への切り替え直後まではハチロクが優勢だったが、ブーストさえ立ち上げ終えてしまえばターボ車の爆発力には敵うはずもない。

 先ほどの苦労はなんだったのかと、容易く前に出なおしたFDだが、拓海はここで抜き返されるのは想定済みである。

 

 このストレートの終点である左コーナーにはミゾが、排水用の小さな側溝が彫られている。これを利用する為に、このストレートで付けられる差を最小限にするのが目的でいったん前に出たのである。

 

 ブレーキランプを点灯させたFDの左側に突っ込んでいき、インに並ばれた事でアウト側よりへの走行ライン変更を余儀なくされたFDをよそに自身も減速にかかる。

 ややオーバースピードでの進入となるが、ミゾに引っ掛けられたタイヤの抵抗が、本来の限界よりもほんの少しだけ速い速度での進入を可能とした。

 

 

 

 スケートリンク前ストレートに詰めかけたギャラリーが、再び前に飛び出していったハチロクを大歓声で見送る。

 峠でのバトルで、抜きつ抜かれつの白熱した展開などそう滅多に見られはしない。

 珍しいものを見られた幸運に沸きたつ無関係なギャラリーの間で、バトルの様子を実況するために配置されたレッドサンズの連絡員が、震える手でトランシーバーを操作する。

 

 

 

「こちらスケートリンク前ストレート、今2台が通過した……啓介が、抜かれちまった。あっけなく、インから、スパーっと……」

 

 

 

 



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交流戦決着

 

「こちらスケートリンク前ストレート、今2台が通過した……啓介が、抜かれちまった。あっけなく、インから、スパーっと……」

 

 

 第1中継地点からの報告に、一名を除いてレッドサンズは凍り付いていた。

 進行を取り仕切る史浩が代表して報告を受けているが、複数の端末を通してチーム全員が話を聞いている。

 

「百歩譲ってコーナーならともかく、直線でハチロクに行かれるとかありえないだろ……もっと詳しく説明してくれ」

「オレ達にも理解が追いつかねぇよ、前のコーナーからブチ抜きながら飛び出してきて、でもこの長い直線でまた抜き返したと思ったら、今度はあのハチロク、いつブレーキ踏んだんだよって感じのワケわかんねー速度で突っ込んでいって、スパーっと……」

 

 静まり返る空気の中、涼介はこらえ切れなかったかのような含み笑いを上げた。

 

「涼介、笑い事じゃ」

「悪い。予想以上だったもんで、ついな……これで、下りの勝ち目は消えた。最も長い直線でも振り切れなかった時点でもう可能性はない。今ごろ啓介は運転席でムキになって攻め込んでいるだろうな。それでいい」

 

 平然と言い放つ涼介に、史浩はあっけにとられる。

 

「お前、この結果が予想できてたのか……分かっていたなら、なんでわざわざ負けに行くなんて事を」

「勝負に勝つ以外にも、重要視している事があるって事さ。もしオレの計画通りに啓介を誘導できれば……あいつはここから、急激に伸びるぜ。あいつには才能はあるんだが、それを磨くためには悔しさが必要だった」

 

 リスクはあるが、莫大なリターンが見込める投資だった。上手くいけば、レッドサンズに途轍もないドライバーが誕生することになる。

 

「今日のツケの事なら心配するな。そっちは何とかする。どうか、ここはオレと啓介を信じてくれないか」

 

 

 端末の一つを貸してもらい、同じく報告に耳を傾けていた池谷たちは、うれしいはずの報告に顔を引きつらせていた。

 

「スケートリンク前って、あそこだろ……まだコース半分も行ってねぇだろ」

「しかも直線一本の間に三回ポジション入れ替わってる。なんか、オレ達が考えていたようなバトルってものとは次元が違うよ……」

「オレ達には想像もつかないような高度な駆け引きとか、やってんだろうな……とにかく、今は応援あるのみだ」

 

 

 

 コーナーを抜ける度に、少しずつ差が開く。たとえ旋回速度で負けているとしても、加速で取り返せばいいとアクセルを開ける。前車との距離はじりじりと詰まるが、逆転には遠く至らない。

 振れるブースト計の針が、ターボチャージャーが正常に作動中であることを伝えているが、啓介にはとても信じられなかった。

 

「今日はやけにFDがノロく感じる……クソったれ、セカンダリータービン止まってんじゃねーのか!?」

 

 そしてすぐに次のコーナーが迫り、アクセルから足が離された事でせっかく掛けたブーストは全て抜けていってしまう。

 ならばと無理に追いすがろうと進入速度を上げるが、いつもよりほんの少しスピードのレンジを上げただけ、それだけで今まで心が通い合っていたはずの相棒は途端に言う事を聞かなくなる。

 

(AE86に、時代遅れの安物マシンにできる走りが、RX-7にできないなんて事あるハズがないんだ……頼むFD、大人しくオレの言う事を聞いてくれ!)

 

 ステアリングの角度、アクセルの踏み具合、それらが1センチも変わるだけでラインは大きく変わる。ほんの少し手足の角度がぶれただけで途端に明後日の方向を向いてすっ飛んでいく。

 コーナリングに特化したマシンゆえのピーキーさに啓介は改めて手を焼いていた。まるで初めてこの車で山を攻めたあの日に戻ったかのような気分だった。

 

 想像以上に膨らんだラインを抑えるべく咄嗟の修正を加えるが、ほんの僅かな荷重の変化が今度は逆方向に車を膨らませようとする。

 いわゆるお釣りをもらうという初心者にありがちな凡ミスに思わず舌打ちする。急いで立て直して再度アクセルを開けるが、もうその視界にハチロクの姿は映っていなかった。

 

 

 

 コース後半に存在する、秋名の名物ともいえる5連続ヘアピン。 

 その3つ目のヘアピンを観戦場所に選んでいたギャラリーの一段の中に、チームで観戦に来た一団がいた。

 

「ホントにハチロクがくるんですかねぇ」

「間違いない。あいつだけが飛び抜けて上手かったからな」

「オレ達には、どこにでもいるような普通のハチロクにしか見えませんけどね」

 

 赤城と並び、群馬県内でその名を知られたチームである『妙義ナイトキッズ』のリーダー、中里毅は秋名の下り代表であろうハチロクの姿を待っていた。

 

(ま、無理もないか……)

 

 車を己の手足のように操れる、人馬ならぬ人車一体の領域にたどり着いたドライバーと車には、一種のオーラとでもいうべきものが漂うようになる。同じ領域に達しているもの同士であれば、それは何となく感じられるようになるが、至っていない者には何を言っているのか理解できないだろう。

 

 高橋涼介はかなり強いオーラが漂い、啓介のそれはまだ微かに感じられる程度。秋名スピードスターズの登り代表のシルビアは言うまでもない。

 あの程度が出てくる時点で、秋名のレベルと交流戦の結果は知れたもの。

 もう見るモノは無いと踵を返しかけたが、下りスタートに備えて山を上がっていく車列の最後列が視界に映った時、中里の身に戦慄が走った。

 

 それは一見何の変哲もない、ほぼノーマルに近い外観のハチロクであったが、中里にははっきりと見えた。今まで見たこともないレベルのオーラがあの車を確かに包み込んでいたのを。

 

 

「来たぞー!」

 

 

 頭上からの声に、5連続ヘアピンにいたすべてのギャラリーの目が第1ヘアピンの先に集まる。

 第1ヘアピンにいたレッドサンズの連絡員が実況すべく身構えた時、山肌の陰からハチロクが飛び出す。

 

「こちら5連続ヘアピン、ハチロクが来た……FDは音は聞こえるけど、姿はまだ見えない!」

 

 ハチロクの最初のヘアピンへの進入に歓声が沸いた。

 

「下りのブレーキングドリフト完璧だぜ、すげぇ突っ込みだ!」

 

 どんな車も、ここでは嫌でも速度が落ちる。だがハチロクはとても失速しているとは思えない滑らかなドリフト走行を見せて5連の先に消えていく。

 ここでようやくFDが姿を現し、同じくブレーキングドリフトで抜けていくが、歓声はほとんど上がらない。上手いのは上手いのだが、先のインパクトの前にはどうしても霞んでしまう。

 

「……下りは惨敗。これで一勝一敗の引き分けですかね」

「馬鹿言え、どこが引き分けだ」

 

 FDを見送った仲間がぽつりと漏らした一言に、中里は訂正をせずにはいられなかった。

 

「下りで負けたってのは大きい。下りで速いのが本物の峠の走り屋だからな。この交流戦はレッドサンズの負けだ」

 

 呆ける仲間たちに先に帰るぞ、と言い残し、中里は近くに止めてあった己の車、BNR32スカイラインGT-Rに乗り込む。

 

(世の中にはとんでもないヤツがいる……悔しいが、あれほどの技術はオレには無い)

 

 中里も一人の走り屋として、己の技術には自信を持っている。だがあのハチロクにウデだけで勝負を挑んでも遠く及ばないだろう。

 それを認めざるを得ないのは業腹だが、しかし己にはこの車がある。

 GT-Rの圧倒的性能を持ってすれば、いかにドライバーに差があろうともひねり潰す事ができるはず。いや、むしろそうでなくてはならない。

 

(こいつに乗り換えて以来、オレに敵はいなくなった。昔は互角だった連中も、今は軽く流すだけでミラーから消せる。久しぶりにとことん本気になれそうな相手だ)

 

 かつて味わわされた無念を、今度は己が与える番だ。

 

(秋名の下りスペシャリスト、あいつを仕留めるのはこのオレだ……)

 

 

 

 

 秋名山のふもとで、トランシーバーに向けた叫びが響く。

 

「こちらゴール地点。今ハチロクがゴールした、FDは……もしかして、今向こうでチラッと光ったのがそうか!?」

「もうぶっちぎりとかそんな域じゃない……試合が成立してないってレベルじゃねぇか」

 

 あまりの結果に、誰もが沈黙していた。ここまで一方的と誰が予想しただろうか。

 

「……FDもゴールした。スピードスターズのハチロクの勝ちだ」

 

 そこへ、ゴールするやいなや車から飛び降りた啓介が計測員の肩をつかむ。

 

「おい、何秒だ!」

「え、ええと啓介さんのは……」

 

 啓介の剣幕にたじろぎながら、レッドサンズの計測員はストップウォッチの表示を見せようとする。

 

「オレのじゃねぇよ、あいつとの差が何秒だったか聞いてるんだ!」

「……に、21秒です」

 

 ハチロクの分のタイムと並べて見せられたストップウォッチの数字に、啓介の肩が震える。

 

 

「クソっ……オレのFDが、350馬力が、ぼろハチロクなんぞにっ……!」

 

 

 

 



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啓介の決意

 新潟県のとある海水浴場。

 真夏の昼のきつい日差しも、間に潮風を挟むと心地よい陽気に変わった気がする。思わずうとうととしそうになる拓海の意識を茂木のはしゃぎ声が呼び戻した。

 

「拓海ちゃんお待たせー!」

「藤原さん、場所取りありがとう。はいこれ」

 

 両手に飲み物を抱えてやってきた白石が、手に持った片方を拓海に差し出す。

 

「ありがとう」

 

「ふふ、どういたしまして。藤原さん、水着似合ってるわよ。なつきもこういう時は役に立つわね」

「あ、ちゃんと水着合ってた。試着室と外でちょっと雰囲気かわるから心配だったの。いかにも女の子向けです、って感じのデザインだと何かしっくり来ないし、拓海ちゃんはボーイッシュ路線で攻めた方がいい感じだよね」

 

 土曜日に茂木に選定されたボーイレッグ型のビキニの上に無地のTシャツを着た拓海は、この海岸ではそこまで目立つ存在にはなっていない。もっと華美、あるいは過激な装いの若い女性がその辺にいくらでも転がっている。

 

「てかこういう時ってなによー。それはそれとして、拓海ちゃんやっぱりお腹細くていーなー。なつきなんて今年はずっとお腹気になってるのに」

 

 茂木は手足や胸元を出しつつ、ウエストはさり気なく覆うビスチェ型の水着のトップスをめくり、おなかを軽くつまむ。

 上下が一体になったワンピース型の白石の水着のお腹もついでに茂木がつつく。

 

「いーなー二人ともお腹にお肉なくって。拓海ちゃん普段何食べてたらこうなるの?」

「おからと豆腐ならうちに山ほどある。形が悪いのとか売れ残りとか、捨てるのもったいないからできるだけ家で食べてるよ」

「へーなつきもお豆腐食べようかな。冷奴でいいかな」

 

 二日で飽きる、てか飽きたと拓海が過去の経験から告げる。

 

「えーじゃあ今度拓海ちゃんの豆腐料理レパートリー教えてね。それじゃ、せっかく海に来たんだし、いつまでも立ち話してないで泳ごっか」

 

 

 

 交流戦から一夜明け、昼過ぎまで眠りこける事で昨夜のショックからやや立ち直った啓介は、髪型を最低限整えると真っ直ぐ兄、涼介の部屋に向かう。

 

「アニキ、今いいか」

「啓介か。やっと起きてきたのか」

 

 机上のパソコンに向かい何かを一心不乱に打ち込んでいた涼介は、手を止めて入室してきた啓介に向かい合う。

 

「史浩たちから聞いたぜ。昨日は全てわかってたって」

「ああ」

 

 それがどうした、と言わんばかりに涼介は先を促す。

 

「アニキがなんか企んでるのはいつもの事だから、それについては今更何も言う気はない。ただ、なんで今なんだ。オレに教えたいことがあったなら、もっと前でもできただろ?」

「教えなかった理由か……」

 

 とうにぬるくなったコーヒーで口を軽く湿らせ、涼介はひとつ問いかける。

 

「啓介、お前はなぜ峠を攻める?」

「はぁ?」

 

 唐突過ぎる話題の転換に、まだ若干残っていた啓介の眠気は完全にとんだ。

 

「なんでって……それが楽しいからだろ。ほかに何があるんだよ」

「そうだな。楽しいからやっている。誰だってそうだ。お前に足りないもの、ぜひ身につけてほしいものはいくつもあるが、オレが何も言わずにいた理由だ」

 

 新たなものを会得するには練習が必要だが、それらはえてして地味で退屈で苦痛なものである。

 楽しむことが目的の人間に苦痛なことを要求しても真面目に取り組んではもらえないし、そんな練習ならやらない方がマシなのである。

 

「だが、今のお前なら取り組める。負けん気は最高のモチベーションになるからな……あのバトルの中で、課題を見つけることはできたか?」

「まあ……確かに、アクセルを上手く開けられなくて苦労はした。でも何度か、ピタリとハマったと感じる場面があった。あれがいつでもできるようになれば、もっと速く走れるようになるはずだ。だけど……」

 

 より繊細なアクセルワークを習得できれば、確かに今より数段速くコーナーを回れるし、直線でもより効率の良い加速ができる。

 だが、それだけではまだ何か足りない気がする。

 FDの限界までコーナーを攻めても、まだあのハチロクの走りを上回れる気がしない。啓介は昨夜を振り返ってそう感じる。

 

「なあ、アニキの目から見て、あの車はどうだった。何か特別なチューンがしてあったとか、特殊なテクニックを使っていたとか、何かないのか。コーナーワークとかブレーキングとか、そんなありきたりな理由じゃあのハチロクの速さを表せない気がするんだ」

 

 上手く言えないものを何とか言い表そうと言葉を探す啓介の姿に、涼介がにやりと笑う。

 まだ何の講義もしていないにも関わらず、啓介は本能的に“それ”に気付いた。涼介的にも上出来である。

 

「オレの目から見ても、車自体は大したことない。足回りはかなり深くやっているが、あとは吸排気やギヤ比くらいしかノーマルとの違いはない。バケットシートや四点式シートベルトといった必需品レベルの装備すら装着していなかったしな。モンスターと呼ぶには程遠い」

 

 まだ信じられないといった顔をする啓介に、涼介は言葉を続ける。まだ早いかとも思ったが、気付いているならついでに教えてしまった方がいいだろう。

 

「啓介、その感覚をよく覚えておけ。一流のドライバーは、ストレートでもコーナーでもない、第3のポイントで差をつける。お前が感じたものの正体を理解できた時、一つ上のステージへの扉が開くんだ」

「第3のポイント……?」

「そうだ。まあ第3のポイントは今は置いておけ。直線とコーナーを極めない事にはスタートラインに立てないからな。まずはアクセルワークの特訓だ。メニューはもう組み終わってるぞ」

 

 当の昔に準備されていた特訓の内容を聞いて、啓介は絶句する。

 仮に今の啓介が全閉全開を除いて微開、浅め、深めの三段階のアクセル開度を使い分けているとしたら、最終的にはこれを十段階程度まで増やす事を目指していく特訓である。

 昨日までの啓介ならば、勘弁してくれと言って間違いなく逃げていただろう。楽しむために山に来ているのに、アクセルを開けずして、エンジンを回さずしてどうやって気持ちよくなるのか。

 

 だが今の、燃え上がっている自分なら我慢できるかもしれない。

 

 今まで啓介が戦ってきた相手は皆、バトルの前は対抗心を燃やして啓介を睨み付けてきた。

 その後叩き潰す工程まで含めて、啓介はその向けられる敵意を心地よく感じていた。

 だが昨夜の相手、藤原拓海の目にはそういった感情はいっさい含まれていなかった。バトル前の名乗りも、それがしきたりだから淡々とやっているといった具合。

 単に緊張感に欠けているだけかもしれないが、とてもこれからチームの看板背負って真剣勝負に挑む走り屋の姿には見えなかった。

 

 そしてバトルでは啓介をあっさりと抜き去り、ゴールしたら自分はそのまま帰ってしまう淡白さに、啓介は最初からまるで相手にされていなかったのだと思い知らされた。

 一人で勝手に盛り上がって勝手に落ち込んで、さぞ滑稽な姿だっただろう。

 

 これならいっそ罵倒でもされた方が良かった。今までの対戦相手にそうしてきたように、今度は自分がカス呼ばわりされても文句を言える筋合いなどない。

 

(走り屋ってのは自分の積み上げてきたモノにプライド持ってる生き物なんだ……それを無視される事ほど屈辱な事はないぜ)

 

 ただ漠然と走るだけだった啓介の中に、初めての目標と呼べるものが生まれる。

 散々コケにしてくれた、顔を思い出すだけでもムカついてしょうがない女に吠え面をかかせてやる。

 

「やるぜアニキ、速くなるためなら何だってやってやるさ」

 

 

 



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イツキの独断

 

 いよいよ待ちに待った終業式を終え、浮かれたムードの学生たちが次々に校舎を出ていく。

 拓海は靴を履き替えて校庭に出ると、校門で待っていた茂木に話しかけられた。

 

「ねえねえ拓海ちゃん、今日の夕方空いてる?」

「どうしたの」

「うち今日親が遅くてね、今日は外で晩ごはん食べなきゃいけないんだけど、一人じゃファミレスとか入りづらくってね。もし良かったら拓海ちゃん一緒にご飯食べに行かない?」

 

 そういえば文太も今晩は遅くなるのを拓海は思い出した。

 いつもの商工会の飲兵衛仲間たちと飲みに行くらしい。明日から拓海も休みなので、明日の商品の仕込みさえ済ませておけば後は店番を任せてほっつき歩けるのである。

 自分しか食べないからととことん手抜きするつもりでいたが、それならいっそ外食しに行ってもいい。

 

「いいよ」

「じゃあ、六時に駅で待ってるからね」

 

 地面に置かれていた鞄を取り、手を振って遠ざかる茂木。

 さて自分も帰るかと歩き出した拓海の肩を叩く影が。

 

「……イツキか」

「やあ拓海ちゃん、ちょっと話したいことがあるんだけど……」

 

 そして拓海は何やら奇妙な笑みを張り付けたイツキに、もみ手をしながら校舎裏に呼び出されていた。

 

「いやーごめんね拓海ちゃん、なんか用事あった?」

「何もないけど。で、なに?」

「いや、その……つかぬ事をお聞きしますが、土曜日ってヒマだったりしますか?」

 

 何かはわからないが、何かやらかしましたと顔に書いてあるイツキ。

 そんなイツキの態度に、ふと『記憶』の片隅に引っかかる事があった拓海はいかにも困ったように言い放ってみる。

 

「もしかして、誰かバトルの申し込みにでも来たのかな。でも、土曜はちょっとなー」

「そうそう……え、無理なの?」

「ちょっと都合が悪いかな。誰かがもう勝手に受けちゃってたりするなら話は別だけど……わっ!」

 

 イツキは目にもとまらぬ速さでその場に土下座していた。

 

「オレが悪いんです、ごめんなさーいっ!」

「いや、まだ悪いとかそういう話は……」

「そりゃそうだよぉ。これだけ騒ぎになっちゃってるんだ、当人の耳にも入ってないハズない……オレが調子に乗って勝手に受けたんです、はぐらかそうとして申し訳ございませんでした!」

 

 イツキのバイト先のガソリンスタンドに、妙義ナイトキッズというチームの中里と名乗る男が現れ、この間のハチロクと下りで勝負がしたいと伝えてきたらしい。

 スピードスターズのメンバーとして扱ってもらえるのが嬉しくて調子に乗った対応をしていたら、いつの間にかそういう話になってしまった。

 慌てて誤解を解こうにも、中里は自分の言いたいことを言い終えたらさっさと帰ってしまった。

 スピードスターズとナイトキッズのバトルはもう群馬中の話題になっており、それでバレた池谷達には既に大目玉を食らってきた後だとか。

 

「都合が悪いなら仕方ないよ。向こうにはオレが謝るから、この話は忘れてよ。もともとオレが悪いんだしさ」

「やらないとは言ってないから。いいから土下座やめて早く立って」

「えっ……」

 

 顔を上げ、こちらを見上げるイツキを立たせてやる。

 放課後の校舎裏とはいえいつ人に見られるかがあるか分からないし、至近距離で足元から見上げてくるアングルもやめてほしい。

 

「もう騒ぎになってるのに、今更無かった事になんて言ったらスピードスターズが逃げた扱いになるでしょ。バトルがしたいというなら受けてもいいから。何時?」

「十時です……本当にいいの?」

「いいけど、ひとつ条件が……茂木」

 

 建物の陰からこちらの様子をうかがっていた茂木を手招きして呼び寄せる。

 

「えへへ、帰ろうとしたら、ふと拓海ちゃんたちが目に入ってね。なんか面白いものが見れそうだったからつい」

「茂木、さっき言ってたあれ、こいつも連れてっていいかな。奢ってくれるから好きなだけ食べられるよ」

「え、いいの武内くん?」

「いいのいいの。これでチャラになるなら、二人分くらい安いものでしょ、イツキ?」

 

 茂木の登場からあっけにとられていたイツキは、再起動を果たすと深々と頭を下げた。

 

「つ、謹んでお供させていただきます」

 

 

 

 走り屋としての活動とは基本的に夜中に行われるものであり、その時間帯にふとどこかに立ち寄りたくなった場合はコンビニやファミレスといった深夜でも営業している店に入るしかない。

 なので走り屋にはたいてい行きつけのファミレスというものがあり、それは富裕なことで知られる高橋兄弟も例外ではない。

 

「二人とも、こっちだ」

 

 先に来て席を確保していた史浩に呼ばれ、涼介は史浩の隣に、啓介は向かいへとそれぞれ空き席に着く。

 入口から席までのわずかな距離だけでも多くの女性客や走り屋客の視線を集めるが、二人は気にもせず店員からお冷を受け取る。

 

「悪いな、史浩。席取らせて」

「気にするな涼介。それより、聞いたか。ナイトキッズの中里ってやつがあのハチロクにバトル挑むって噂」

 

 史浩からメニュー表を受け取り、さっそく今宵のメインとなる一品を厳選していた啓介が、僅かに冊子から目を上げ尋ねる。

 

「噂はオレ達も聞いたけどさ。その中里とかいうやつ、有名なのか?」

「すごい有名だよ。というか妙義ナイトキッズはオレ達レッドサンズと並ぶ群馬の二大勢力って扱いなんだし、そのリーダーを知らないってのはどうよ」

「そう言われてもな。群馬にオレの敵なんざいないって思ってたから、他所のチームに興味がなくてよ。まあそれも先週までの話だけど」

「まったく啓介は……オレの知ってる範囲だとだな」

 

 妙義ナイトキッズのリーダー、中里はこの一帯では負け知らずな凄腕のS13シルビア乗りとして、妙義山に名を知られていた走り屋だった。

 最近はR32GT-Rに乗り換えた事もあり、もう地元では誰もついていけない速さだとか。あと副リーダーと仲が悪いことでも有名。

 

「信じられねぇなあGT-R乗りのウデなんか。誰でも知ってるような有名な車買って調子こいてるカスばっかだろGT-R乗りなんざ。まともに乗れてるヤツなんか滅多に見ないぜ」

「またでた。啓介の4WD嫌いはホント筋金入りだな。とはいえ、車が速いのは事実だし、もし万が一ハチロクが負けたりしたら大変な事になるぞ。レッドサンズが負けた相手にナイトキッズが勝ったとなれば、チームの名声ガタ落ちだ」

 

 一足先に届いたアイスコーヒーを口に流し、二人のやり取りを眺めていた涼介が、ここで啓介の後方を見てふっと笑みをこぼす。

 

「GT-Rなんかに負けるわけないだろ。そこが秋名の下りである限り、あいつに勝ちうる走り屋はアニキ以外に今は存在しねぇよ」

「そういうものかなぁ……古い車でもよほどの売りがあるならともかく、ハチロクなんてただの平凡なFRだろ。そんな車がなんでRX-7やGT-Rみたいなハイパワー車に張り合えるのか、オレにはさっぱりだよ」

 

 啓介が店員を呼び出し注文を伝える。ガッツリ食べる気の大量の注文を読み上げる啓介を見ながら、涼介は史浩に語る。

 

「パワーというのは、ある方が有利なのは確かだ。だが、それが絶対の要素にはならないのが峠というステージなのさ。サーキットと違って、峠にはネガティブな要素が多い」

 

 峠道というものはサーキットと比べ、幅は狭いし、路面は汚い。そこをいつ現れるか分からない対向車や野生動物、障害物に注意を払いながら攻めるのが走り屋である。

 

「どんな車も、どんなドライバーも、峠を100パーセント攻め切る事は不可能なんだ。だからサーキットでは有り得ない組み合わせの勝負が、峠では成立してしまう。先週、啓介が抜かれたポイントを覚えているか?」

「ああ、あのスケートリンク前のストレートか。まさかあんなところで行かれるなんて思いもしなかったよ」

「そう。目の前にロングストレートが控えているタイミングで、自分よりハイパワーな車に仕掛けようだなんて普通は考えない。だが、いけるという確信があったからこそ仕掛けたし、実際オーバーテイクに成功してしまった」

 

 注文を終えた啓介が、メニュー表を机のわきに戻す。

 

「あそこでオレをブチ抜くぐらいコースに精通してりゃ、余所者のGT-Rなんざ怖くもないだろ。GT-Rは確かにすごいマシンだが、弱点が無いわけでもないし……今度教えに行ってやろうかな。あっこのガソリンスタンド行けばスピードスターズとは連絡つくだろ」

「啓介。そんな事をする必要はないぞ」

「ん、なんでだアニキ」

「言いたいなら、直接言えばいいだろう。お前から見て、右後方の席を見てみろ」

 

 そして啓介は右後方を、史浩のは左前方へと目をやり、そこに入ってきていた三人組の客の姿を確認し、ゆっくりと目を前に戻す。

 

「弱点を教えてやるんじゃなかったのか、啓介」

「やめた。ツラ見たらなんかムカついてきた。やっぱあいつは敵だ」

 

 水を一息に飲み干し、外の景色に視線を固定した啓介に、

 

「しかし先週以来、啓介はホントあの子にご執心だな」

「それだけ衝撃だったのさ。俺にとってもそうだぜ。いままで出会ったことのないタイプのドライバーだからな。よく分からない、なのに速い」

「タイプだって……?」

「そうさ。オレが『公道最速理論』を形にしようとした時、ベースとしたのはまだ一匹狼として走り回っていたころの自分の経験や、その頃に知り合った速いドライバー達の姿だ。モータースポーツで確立された、速く走る技術を峠に応用していく、いわば正統派のスタイルがほとんどだな」

 

 峠には峠のテクニックがある、が信条の涼介も、基本的な部分は変わらない。あくまでもプラスアルファの要素が存在するという考えである。

 

「だがあのハチロクはそうではない。モータースポーツの経験自体はかなりありそうだが、ベースにあるものがおそらく違う……今はこれ以上は言えないな。データがまるで足りない。ぜひ後ろを追いかけていってみたいものだが……良いことを思いついた。おい啓介」

「……なんだよアニキ」

「明日のバトル、特等席から見物してみたくないか?」

 

 

 

 外で知り合いに出会ったとき、嬉しく思うか気まずく思うかは人それぞれ。拓海は近くの席に見覚えのある一団がいたが気にしないことにした。

 今日は中身がとうふじゃない、ちゃんとした肉の揚げ物にしようとパラパラめくっていると、向かいからイツキが小声で話しかけてくる。

 

「なあ、あそこの席にいるのって……」

「同じ県に住んでるんだし、鉢合わせるくらいあるでしょ。気にしない」

 

 そんな事情はつゆしらず、のんきに茂木はサラダやデザートを選んでいる。

 

「最近のファミレスはデザートとかも力入れてるよねー。拓海ちゃん、これとこれならどっちがいいと思う?」

「気になるなら両方頼めば?」

「それ良いね、拓海ちゃんも一緒に食べようよ。そしたら色んなもの食べられるし」

「私は家だと甘いもの食べないしなあ……こういう時くらいデザート三昧も悪くないかな」

 

 注文のリストアップを始めた茂木に、イツキは机の下でこっそり財布の中身の再確認を開始する。

 

「これで頼んで良い、武内君?」

「良い、イツキ」

「……どーんと来い」

 

 何とか予算内には収まりそうである。

 季節は夏真っ盛り、人々の服装と同じくらい財布も薄くなりそうだが、自身の行いのツケと思えば安いものにイツキは思えた。

 

 



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三つ巴のダウンヒル

 朝四時前に帰宅し、三時間経ってもまだ抜けきらない心地よい酒気と頭の中で格闘していた文太を電話が叩き起こした。

 

「はい藤原豆腐店……祐一か。なんだ朝っぱらから。切るぞ」

「いや要件くらい聞けよ文太。先週RX-7をちぎったハチロクに、今度はGT-Rがバトル挑むって話は聞いたか?」

「……あっそ」

 

 文太は煙草を求めて胸元のポケットを探り、出てきた空箱を小さく丸めてゴミ箱めがけて投げ捨てた。

 

「あっそ、って……もうちょっと何か無いのかよ。GT-Rのヤバさを知らないわけではないだろ」

「拓海がやりたいんなら好きにやればいいだろ。そんなこと伝えてどうすんだ。オレにできる事なんか何もないぞ」

「なんかこう、アドバイスとか、車弄るとかないのかよ。だいぶ前だけど、普段は豆腐運ぶように足は妥協してあるとか何とか言ってなかったか?」

 

 買い置きの新しい煙草の箱を開けて、一本火をつける。紫煙をゆっくりと肺に入れると、頭の中の靄が若干晴れた気がした。

 

「どんだけ昔の話なんだ。とっくに足は元に戻してるぞ」

 

 娘に豆腐の配達をやらせ始めた直後あたりは、一時的にもっと柔らかい足回りに設定していた時期もあった。一年もしないうちに完全に元の文太好みのセッティングに戻ったが。

 これがもし拓海がもっと下手で、そもそも運転自体の才能が無かったり、あるいは無茶苦茶に振り回して部品や燃費に優しくない運転をするようなら、頻繁な整備が必要になって藤原家の家計に小さくないダメージが入っていたかもしれない。

 

「心配なんかいらねーよ。そこが秋名の下りである限り、GT-Rだろうがポルシェだろうが目じゃねぇよ……ま、オレには負けるがな。じゃ切るぞ」

 

 

 

 秋名山頂上には、どこから話を聞きつけたのやら先週よりも多く人が集まっているように見える。

 

「しかし参ったな……さあ基本からやり直しだ、ってタイミングで次の挑戦者だ。これじゃいつまで経っても新生スピードスターズ計画が始められないぜ」

 

 高橋兄弟の姿すら見える大観衆に池谷がぼやく。

 いくら地元と言ってもそう毎日走りに来られるわけではない。平日は仕事があるので明日に備えたいのだ。

 格好の機会である土曜の夜に毎度のようにバトルが開催されては練習もはかどらない。

 

「でも池谷、もし今日のバトルで拓海ちゃんが勝ったらしばらくは静かになると思うぜ。あの高橋啓介や、妙義の中里でも勝てなかった相手に挑もうなんてヤツはそうそういねぇだろ……あれに勝てれば、だけど」

 

 既にスタート位置にGT-Rを待機させている気の早い中里に、健二がため息をつく。

 

「GT-Rが相手となっちゃあ、いくらテクがあったってハチロクじゃきついよなぁ」

「それを言うなら、FDだって普通ハチロクがかなう相手じゃないだろ健二。GT-Rだって、やってみなきゃ分からないぜ」

 

 その時、闇の向こうからヘッドライトの光と歓声が料金所跡に届けられた。

 

「……来たか!」

 

 十時きっかりに表れたハチロクがGT-Rの横を通り過ぎ、少し奥で切り返してから自身もスタート位置につく。

 

「こんばんは」

 

 運転席から拓海が降り、集まってくるスピードスターズのメンバー達に挨拶を返す。

 イツキがあからさまにホッとした顔で拓海に声をかけた。

 

「良かった……ギリギリになっても拓海ちゃん来ないからハラハラしたよ」

「さすがに食い逃げはしないって。ごめんね、ちょっとガラスの汚れが気になって拭いてたら遅くなって」

 

 イツキの肩を一度軽くたたくと、そのまま振り返って挑戦者の顔と車を見る。

 

(GT-Rか……)

 

 記憶にあるあの時は、GT-Rは凄い、GT-Rはやめとけと騒ぐ周囲に、そんなに言うならじゃあその凄さとやらを拝んでやる、とバトルに臨んだ覚えがある。

 とはいえ結局いつも通りただがむしゃらに走って、気が付いたら勝っていたというだけで、GT-Rの何が凄いのかを具体的に理解することはなかったが。

 

 

 

 中里の周囲で、ギャラリー達が騒めいている声が聞こえる。

 

「あの女の子が先週FDを軽くぶっちぎったハチロク?」

「間違いないよ、オレ先週もここで見てたもん。ちょっと目細いけどスタイル良くてイイよな」

「すげぇ走りだぞ。一回見たら夢に出てくるぞーあのドリフト」

「うわオレもそれ見たいなー、もっと下でギャラリーするんだった」

 

 フン、と中里は鼻を鳴らした。

 どいつもこいつも口を開けばドリフトの事ばかり。

 観客としては場を湧かせる派手なパフォーマンスをお望みなのだろうが、走り屋たるものまずは速い事が第一であって、見栄えだのなんだのは切って捨てるものであるのが中里の考えだ。

 

(それにしても、若いな……)

 

 あれだけのオーラの持ち主なのだ、てっきり自分よりはるか年上が出て来るものと中里は思っていたが、フタを開ければ現れたのは免許取ったばかりであろう年に見えるドライバー、しかも女性ときた。

 どう考えてもあのオーラの持ち主だとは思えない。あれはたかだか数年走り込んだ程度で身に付くようなレベルではない。

 

(どういうカラクリなんだ……いや、今そんな事を考えても仕方ないぜ。今は全力でこいつに挑むだけだ)

 

 ちょうど向こうがこちらに振り向いたタイミングで、中里は意を決して話しかける。

 

「……オレがナイトキッズの中里だ。そっちは?」

「藤原拓海です」

 

 特に緊張した風もなく、自然に名乗りを返される。その目にも特に明確な意思のようなものは籠っておらず、どこか遠くでも見るように、ただ真っ直ぐに中里を見ている。

 

 しかし、合わされた目の奥から感じ取れたオーラの炎の圧力に、思わず中里は視線を下げてしまう。向こうは威圧したつもりなど欠片もないのだろうが、ただの自然体の状態ですら中里に息をのませるには十分だった。

 

「……あの、そろそろ始めませんか?」

「……あ、ああ」

 

 固まっていたのはほんの数秒だろうか。

 かけられた言葉にはっと我に返った中里は反射的に愛車のドアに手をかける。

 さりげなく胸元を隠すように腕をかざしながらハチロクに乗り込む拓海の姿が目に映り、中里は自分がさっきまでどこに視線をやっていたのか思い知った。

 

 あくまでオーラから目をそらしたかっただけであり、彼に他意はないのだ。

 

 

 

 カウントダウンが終わりスタートを切った二台に向けられる啓介の意識を、涼介がFCのギアを一速に押し込んだ音が前方へ引き戻す。

 軽くエンジンをふかすと、周囲にいたギャラリー達が慌ててFCから距離を取った。

 

「シートベルトは締めておけよ」

 

 啓介が返事を返す間もなくFCはガードレールの隙間から車道へと飛び出し、ハチロクの後方へピタリとつける。

 追いついたことでアクセルが緩められ、シートベルトの締め付けから解放された啓介が息を吐く。

 前方では二台が前後に連なって加速し続けており、差はほとんど開いていない。

 

「中里のやつ、ハチロクを待ってるぜ……本当のスタートは、コーナーに入ってからだとでもいう気か?」

「……その余裕が、後半で命取りにならなきゃいいがな」

 

 見る間に第1コーナーが迫り、先頭を行くGT-Rのブレーキランプが点灯する。

 全開で加速しきっていないため、短い時間でブレーキングを終了し、イン側のガードレールに向けて黒い頭をねじ込む。

 遠めに設定したクリッピングを抜け出口に差し掛かれば、横Gを逃がすためにワイドな脱出ラインを描きながらアクセルを開け、四輪すべてのグリップを存分に使って車を再加速させる。

 

「上手いな、中里は。GT-Rの特性をよく理解した走りだ。十分に荷重をかけてアンダーを抑えている。堅実でスキが少ない」

「だけどただ堅実なだけじゃねえ。中里もいい根性してるぜ、重量級の車で下りのコーナーに思い切った突っ込みかますんだからな」

 

 まあそれでも、あのハチロクを振り切る事は出来ないだろうけどな、と啓介は付け加えた。

 

 

 立ち上がりで離れていく特徴的なテールランプを見つめながら、拓海は思う。前はただがむしゃらに走っただけだが、改めてじっくりと見れば、あの時周囲があれほど騒いだ理由もよく分かる。

 4WD車ならではの立ち上がりの速さは言うまでもないが、コーナーの速さも相当なものである。状況に応じて後輪駆動と四輪駆動を自動的に切り替えるというGT-Rのシステムを知識としては知っていたが、実際に後ろから見れば確かにこれは凄いものだ。

 これが普通の4WD車ならこの速度での進入は、ドリフト状態に持ち込むなど一工夫必要だろう。しかし旋回中はFR車としての性格が強くなるGT-Rならグリップ走行でクリアできる。

 

 だが弱点も同時に見えてくる。とにかく重いのだ。加速、減速、旋回。全てに車の重量差は重くのしかかってくる。

 今は強力なブレーキとエンジンパワーが覆い隠しているが、酷使し続けていれば長くは持たせられないだろう。

 平坦なサーキットを走るなら殆ど問題にならなかった要素が、常にフロントに負荷のかかり続ける峠のダウンヒルでは致命的な要素になる。荒い路面で重たい車を制動し続けるのはさぞ負担になっている事だろう。

 

(そう長く持たないだろうし、攻めるならそこまで待って、なんだろうけど……でも一本だけならギリギリ持つかもしれないしなあ)

 

 高橋涼介あたりならともかく、拓海では相手の車が消耗するタイミングを正確に掴むまではできない。

 待った挙句逃げ切られましたでは笑えないし、もう待てないと最後の最後で『奥の手』を切らされるのは拓海的には勝った気がしなくて面白くない。

 

(とりあえず揺さぶってみようか……)

 

 ヘアピンカーブに差し掛かり、しっかりと車速を落そうとしているGT-Rの隣に、ブレーキを遅らせて頭を突っ込みインに並ぼうとする素振りを見せてみる。

 狙った通り、GT-Rは一瞬ブレーキを緩めると早めにインにつき、こちらが通れないようブロックしにかかってきた。

 インよりのラインを取るためにより大きく減速する必要に駆られ、GT-Rのドライバーはブレーキを離すタイミングを遅らせなくてはならない。フットブレーキを長く使用すればするほどブレーキが終わるタイミングは早まる。

 

(この調子で……)

 

 ふっと口元に笑みが浮かぶ。

 前はバトルと言えばただ必死に逃げる、あるいは追い縋るばかり。ラリードライバーになってからはタイム等を競うことはあっても追いかけっことはそもそも無縁。

 自分ひとりで作戦を考えて戦うなんてとても新鮮な気分だった。

 

 

 バックミラーに映り続ける姿に、中里は思わず舌打ちする。

 先週の、高橋啓介とのバトルをギャラリーした時から、ある程度の想定はしていた。あれだけコーナリングが速い相手なら、スキあらばどこであろうと飛び込んで来るはずだ、と。

 ここまで早い段階でもう仕掛けてくるとは思わなかったが、おかげで心のどこかにあったハチロクは古いマシンだと侮る気持ちは完全に吹き飛んだ。

 

(絶対に前には出さない……抜けるもんなら抜いてみろ!)

 

 前にさえ出さなければ、後はGT-Rのトラクションが全てをねじ伏せてくれる。

 ターボ車であるS13でも抜ききれない相手に、たかがノンターボの1.6L車が敵うはずがない。

 いくらでも仕掛けてくるがいい。その全ての攻撃を防ぎきって勝ってみせる。

 

(このまま逃げ切って、ゴール地点で悔し泣きする姿でも拝ませてもらおうじゃねぇか。ドリフトでは勝てないって現実を教えてやる!)

 

 FR車で華麗なドリフトが決まれば確かに気持ちは良い。だがそれは派手なだけで決して速くはないのだ。

 本気で峠で速さを求めるなら、パワーのある車でキッチリとグリップ決めながら走行する、サーキットでのレースに近いスタイルへと自然に近付いていくはず。

 非力な車を横に向けて遊んでいるだけの幼稚な走り屋に、GT-Rが負けるわけにはいかない。

 

「サーキットで最強のマシンは、公道でも最強だぜ。オレのRに付いてこれるか!?」

 

 

 

 



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三つ巴のダウンヒル(後編)

 車一台がギリギリ通れない程度に内に寄せて走るGT-Rの後方に、ハチロクが接触寸前までべったりと張り付いている。あと数センチでも外に寄れば遠慮なく並ばせてもらう構えを隠しもせずあからさまに煽る。

 

「いっそ芸術的といいたいレベルのコントロールだな。きれいなリズムとラインで速く走るやつは大勢いるが、ベストを外していてなお速く走れるドライバーというのは希少な存在だ。強引なラインで失速しているGT-Rを余裕をもって追いかけている。この差は終盤で大きく響くだろうな」

「見てるだけでも冷や汗が出そうだぜ。あれだけ煽りかまされて、平静でいられる走り屋はそうはいないだろうな……おっと」

 

 後方から二台を眺める涼介と啓介の目の前で動きがあった。

 GT-Rがブレーキングしつつインに寄せた際に、僅かに目測を見誤り減速しすぎてしまったのである。

 

 

 ブレーキングが早すぎた事に気付き咄嗟に中里はペダルを緩め、ミラーで後方を確認するも、既にハチロクの姿はそこにはない。

 イン側にいないとすれば、ほかの候補は一つしかない。中里は右に視線を向ける。

 

「……外か!」

 

 アウト側、右方向にその姿を認めると、すぐさまステアリングを切りにかかる。インに来ないのならむしろ好都合、さらに広くラインをとって進入速度を稼ぐチャンスである。

 しかしその目論見はすぐさま潰える。

 まだ切ってもいないのに縮まる車間に、向こうも限界までインに寄せて来ようとしていることに気付き、中里は一度は緩めかけたブレーキを再び床まで踏み込む。

 お互いの車のサイドミラーが覗き込めるほど接近したままコーナーに進入、両車ともインベタのラインのまま立ち上がりを迎える。

 

(並んで立ちあがれるならこっちのもんだ……!)

 

 アクセルを思いきり踏みつけ加速にうつる。並の車ならタイヤを空転させるだけの暴挙のようなアクセル操作でも、GT-Rならばこれが最適解である。

 後輪のキャパシティを超えた分の駆動力を随時前輪に流し、常に最高効率での加速を心がけるコンピューター制御が売りのGT-Rでは、ドライバーはただ単にフル加速がしたいという『意思表示』をするだけでいいのである。

 

 

 

 コーナーを抜けた先にあった光景に、FCの助手席で啓介は息をのんだ。

 二台横並びでの加速競争は、出だしこそハチロクがわずかに前に出るも、すぐさま並んだGT-Rと数秒並走し、次の左コーナーで再びGT-Rが前に復帰した。これが左右が違えば結果は逆になっていただろうから、これは中里の幸運である。

 

「惜しい……それにしても、ずいぶん粘れるもんだな。直線加速となればハチロクに勝ち目はないと思ったけど、惜しいとこまで食い下がった。それだけ脱出速度の差が大きかったって事かな、アニキ」

「それもあるが……」

 

 涼介はそこでいったん言葉を切り、FCをシフトアップさせた。

 

「それだけではないのだが……上手く説明できそうにない」

「説明つかないって、どうしたんだよ。アニキでも分からないなんてことがあるのか?」

 

 珍しく言いよどむ涼介に、啓介はさらに問う。

 目測だけで自動車のおおよそのスペックを割り出してしまうことから、人間ダイナモシャーシなどとあだ名されたこともある涼介の観察眼には、啓介のみならずレッドサンズの多くのメンバーが信を置いているものである。

 

「あるさ。分からない事だらけだとも……あのハチロクの立ち上がりは、一般的なFR車と比べても踏み始めがワンテンポ早い。後ろから見ると、まるで4WDを追いかけているような気分にさせられる。あくまで、そう錯覚させられそうな程のキレというだけだが。これに無理矢理に説明をつけるなら……未来予知だな」

「未来予知だって……?」

 

 涼介の口から飛び出す科学的とは離れた言葉に、啓介は怪訝気に返す。

 

「ドライバーというものは、皆多かれ少なかれ周囲を見て、先を予測をしながら走っているものだ」

 

 攻める時だけに関わらず、街中をゆっくり走っている時でも、ドライバーは安全のために常に周囲の情報からある程度の未来を予想しながら運転しているものである。

 

「おそらく、この予測の精度が恐ろしく高いんだ。他の走り屋がまだ様子を見ながら微調整を続けているようなタイミングで、既にあいつは次の動作に移っている。コンマ1秒先に車がどうなっているかが完全に予測できているから、動作にタイムラグがない」

 

 まだ車が前に向ききっていない、他のドライバーならまだ踏まないタイミングで、躊躇いなくアクセルに足をかけている。

 踏み始めが早いから立ち上がりも早い、といえば単純だが、一歩間違えれば制御不能の大惨事。絶対の自信無くしてはやれない、一般的に言えば無謀な運転である。

 

「気の遠くなるほど走り込み続けて、コースと車への熟練度を上げ続ければ、いつかはたどり着けるかもしれない。そんな領域だな。その年で、どうやってそこまで磨き上げたかは想像もできないが」

 

 突然のスケールの大きな話に、啓介は開いた口が閉じなくなった。

 

 

「とんでもない話だぜ……オレもそこに行けると、アニキは思うか」

「いつも言ってるだろ。オレの理論に、お前のセンスが合わされば最強だと。後はお前のやる気次第なんだ。とはいえ、あれが絶対無謬な正解だとは、オレは思わない、いや、思いたくないがな」

「え……?」

「まだこれからの話さ。今は、この戦いを見届けようぜ」

 

 

 

 

 コースも後半に差し掛かった頃、中里は運転席で一人舌打ちしていた。

 

(ブレーキの効きが、悪くなってる気がするぜ……)

 

 まだ気持ち感じる程度にではあるが、ABSが作動するまで踏みつけても減速しなくなりつつある。

 もちろん気のせいという可能性もまだある。秋名の下りは前半より後半の方が勾配がきついため、単にそのせいでブレーキが効かないのだと考えることもできる。それならお互い条件は同じである。

 

 だがもしこちらのブレーキだけが危なくなっているのだとしたら問題である。効きが悪いからと言ってより長く踏めばさらにブレーキの過熱が進む悪循環である事は言うまでもない。

 最小限のブレーキで曲がれるようスピードを抑え、冷えるまで堪えるしか手はないが、今はバトルの真っ最中なのである。

 GT-Rを最強足らしめるトラクションも、アクセルを開けられなければ役に立たない。踏めないGT-Rなどただの鈍重なFR車だ。

 

(下まで持つか……?)

 

 今はまだ、微かなレベル。ゴールまで持ちこたえてくれれば良いが、持ちそうにないなら、これまで以上にブロックを意識する必要がある。

 中里がミラーに目をやれば、いまだにぴったりと喰いつき続けるハチロクが映っている。

 

(スキなんか見せてやらねぇぞ)

 

 普段なら、峠の下り一本ごときでブレーキが悲鳴をあげることなどない。

 しかし、後方をけん制すべくラインを狭く取り続けた結果ブレーキの使用量が大幅に増加している。強く踏むだけなら大したことはないが、長く踏むのはてきめんにブレーキを弱らせるのだ。

 

(ちょっとくらいブレーキが怪しくたって、ハチロクなんかに負けるわけにはいかねぇぜ)

 

 

 

 ハチロクの運転席で、拓海はステアリングから離した左手で汗をさっとぬぐった。窓は当然閉め切られているので車内はかなり暑いのだ。もうエアコンのスイッチを入れてしまおうかとも思うが、いまさら入れても効き始める前にゴールしてしまうので結局入れなかった。

 

(もっと早く決まると思ったんだけどなぁ)

 

 コースは早くも終盤の名物、5連続ヘアピンに近づいている。

 GT-Rの方はようやくブレーキが怪しくなってきたようだが、やろうと思えばまだまだ粘れるだろう。

 やはり今までやった事の無いものを、いきなりやろうとしても上手くはいかないものらしい。

 とはいえ今から作戦を無かった事にするのも悔しいが。

 

(5連続ヘアピンでもう一度仕掛けてみて、ダメだったら全開でやるということで……)

 

 拘って負けては元も子も無いので、次でダメならミゾ落としその他を解禁する事を決意し、拓海はギアを4速に押し込んで直線を駆け抜ける。

 

 

 

 5連続ヘアピンは名前こそ5連続だが、4つ目と5つ目の間にはそこそこの長さの直線があり、さらに5つ目の次もかなりきついコーナーなので、実質4連続とも6連続とも言っても間違いではない場所である。

 テクニカルな場所故ギャラリー人気も高く、今夜も多くのギャラリーが各ヘアピンに詰め寄せていた。

 

 その大勢のギャラリー達の歓声が、前を走る二台を包み込む。

 大柄な図体とは裏腹にコンパクトに第1ヘアピンをクリアするGT-Rに、やや距離があったにもかかわらずブレーキングでべったりと張り付くハチロク。

 

「先週も見たけど、やっぱ上手いぜハチロクのブレーキングドリフト!」

「古くて非力だけど、下りならめちゃ速とか走り屋として最高にシブいよなぁ」

「妙義の中里もたまんねえよな。ハチロクに煽られっぱなしとかプライド傷付きまくりだろ……」

 

 そして2つ目のヘアピンへと飛び込もうとする二台と、やや後方に続くFCを見送ろうとしていたギャラリー達から、再びの、そして驚きの歓声があがる。

 

「ハチロクが、外からいったーっ!」

 

 

 中里は外側に陣取ろうとするハチロクをにらみつけると、ブレーキをしっかりと踏む。自分が有利な側にいるのだ、焦る必要などないと落ち着いて減速させ、接触しないギリギリまで外に振りながら最短距離を回る。

 

「行かせねぇっての!」

 

 向こうもラインの自由度の少ないヘアピンを無理して抜けてきているのである。脱出速度はさして稼げていないハズ。

 2.6リッターの排気量を誇るGT-Rの心臓、RB26エンジンならば、まだブースト圧が立ち上がりきっていない状態でもハチロク相手なら十分なパワーを絞り出せる。

 

 予想通り、3つ目のヘアピン入口までに前に出なおせて一息つこうとする間もなく、ミラーの中で動きが起こる。

 ミラーから消えたヘッドライトの光を追って左に目をやれば、ハチロクが再び外から回ろうとしている。

 

「ウロチョロと、目障りな!」

 

 再びインベタをきっちり旋回する。ミスさえしなければ追い抜かれはしないことはもう分かっている。

 減速がわずかに足りなかったのか、フロントタイヤの応答が少し怪しいが、中里はさらにステアリングをこじって強引にアンダーステアを抑え込む。

 

 そして二度目の立ち上がり競争を終え、ブレーキングポイントを目前にしながら中里が再びミラーを覗き込むと、三度アウト側へと消えようとするハチロクが垣間見える。

 

「またアウト……懲りない女だな、しつこいぞ!」

 

 外側に入り込んでくることを予測し、そちらにある程度のスペースを残したうえで外に振りつつラインを作りにかかる。

 いざステアをきってターンインにかかるべく、進行方向である左前方へと目を向けた中里はそこでありえないものを見る。

 

「……インだと!?」

 

 ほんの一秒前まではアウト側にいたはずのハチロクが、今はイン側で鼻先をねじ込みにかかっている。

 いつの間にそちらへ移動したのか、後方のチェックは欠かしていなかったはず。

 今ならまだ間に合う、と咄嗟にブレーキングをやめ思い切りステアを切り込み、頭を抑えにかかるが、GT-Rは中里の意思に逆らいインへ行こうとはしてくれない。

 

(アンダーかよ、こんな時に!)

 

 そんな急旋回を許容してくれるほどには減速できていなかったGT-Rの車体は外に向かってズルズルと流れてゆき、外側のガードレールと擦れ始めたあたりでようやく前を向く。

 さらに激しく擦れる事にも構わずアクセルを開けるも、既にハチロクは前に出てしまっていた。

 ガードレールの抵抗もあり失速してしまっている今の状態では、さすがのGT-Rでも5つ目のヘアピンまでに抜き返す事は不可能だろう。

 

 

 

 ガードレールと接触し失速したGT-Rの姿を拓海はミラー越しに確認し、少々の罪悪感に苛まれながら逃げの態勢に入る。

 擦るだけで済んだようなのは良いが、それでもやはり車が事故る光景というものは走り屋としてあまり気分の良いものではない。

 走り屋が山で事故るのは自己責任が原則とはいえ、もし怪我でもしていたり、損傷がひどいようなら申し訳ない気持ちになる。

 

 二度の外回りで注意を引き付けてから、前走車のミラーの死角に潜り込む形でのイン攻めは想像以上の手ごたえだった。

 向こうはまだ追いかけてくる気でいるようだが、抜かれた事にか、愛車をぶつけてしまった事にか、はたまた両方か。もう車に覇気を感じられなくなっている。

 もう普通に走るだけで終わりだろう。

 

(怪我でもしてたらアレだし、後で一声くらいかけてから帰ろうか……)

 

 その後、GT-Rがミラーから消えるのに、さして時間はかからなかった。



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新たなアルバイト仲間

 

 ハザードランプを付けて路肩に止まっているハチロクの横を抜けて、FCは帰宅への道に就いた。

 

「何やってんだ路肩に停めて。オレの時はさっさと帰ってたのによ」

「何か話したい事でもあるんだろう。啓介の時よりは手こずらされたようだしな」

「……けっ」

 

 忌々し気に鼻を鳴らし、啓介は視線を助手席の前方に戻した。

 

「それにしても、あれだけ後ろを気にしてた割にはあっさり行かれたな、中里のやつ」

「あれはハチロクが直前のライン変更でGT-Rのミラーの死角に潜り込んだんだ。気が付いた時にはもう自分のラインに割り込まれているから、もうブロックは間に合わない。それでも無理して頭を抑えに行こうとすれば、オーバースピードで膨らむのは当たり前の事だ」

 

 涼介はFCのギアを5速に変更し、常識的な速度での巡行に移る。

 

「中里の敗因は、ハチロクを気にし過ぎた事だな。さっきの5連続ヘアピンにしても、別に相手にする必要はなかった。あんなところで無理に並んでも、次のコーナーまでに前に出られたかどうかは怪しい」

 

 自分の走りに集中できていれば、まだ中里にもチャンスはあったかもしれない、と涼介は締めた。

 

 

 

 秋名の下りのゴール地点を超えた先で、路肩に寄せて止めたGT-Rの傷の具合を確認して、中里は軽く安堵の息をついた。

 一見些細な擦り傷でも、付き方によっては思いがけない金額になることもある。中里の経験上、この傷の感じなら何とか財布は持ちこたえてくれそうである。

 これで十万超え確定コースにでもなっていたら色々と切り詰めた生活を当面余儀なくされていただろう。

 

「大丈夫ですか?」

 

 街灯の光に差した影と声に中里が振り返ると、そこには先の対戦相手である女性……藤原拓海がそこにいた。

 

「……擦っただけだ。見た目以外は問題ない。もし気にしてるんなら、それは余計なお世話だぜ。オレが下手だったからアンダー出してぶつけただけだ。見事な追い抜きだったぜ」

「そうですか。なら良いんです」

 

 虫の鳴き声が静かに響き、しばし無言になった二人の横を、帰宅中のギャラリーらしきS13シルビアが通り過ぎていった。

 練習なのか単なる格好付けか、無駄にヒールアンドトゥでエンジンを唸らせながら交差点へゆっくりと進入していったシルビアのテールを見送っていた中里が、ぼそりと口を開いた。

 

「オレも昔、S13に乗っていた。ある日、神奈川ナンバーのR32に妙義の下りで煽られてな。その流れでバトルになったんだが、負けたよ。地元だし、ウデも確実にこっちが勝っている確信があった。それでも、どうしても追い抜けなかった」

 

 中里は振り返り、まだまだ温かいGT-Rのボンネットに手を乗せた。

 

「悔しかったよ。あんなヘタクソ相手でも負けは負けだ。車の差ってのはオレが思っていた以上に大きな要素だった。いいマシン持って、まず相手と同じ土俵に立つ。そして初めてウデの勝負ができるんだって」

 

 そう思い知らされたつもりだったんだけどな、と中里は呟く。

 車を言い訳にしているうちは、走り屋としてまだまだ二流。あの日の自分にももっと実力や度胸があったなら、また結果は変わっていたかもしれない。

 GT-Rに乗り換えて以来、もう群馬にこの車の敵はいないと調子に乗っていたが、まだまだ甘いと教えられた。

 

「またウデ磨いて出直すわ。今日のバトル、受けてくれてありがとうよ」

 

 じゃあな、と中里はGT-Rに乗り込もうとするが、ふと何かを思い出したように運転席から振り返る。

 

「……ナイトキッズのナンバー2に、慎吾っていうシビック乗りがいるんだ。オレとあいつはあまり仲が良く無くてな。オレが負けたと聞きつけたら、喜び勇んで挑みに行くかもしれない」

 

 中里が負けた相手に慎吾が勝てば、慎吾の方が走り屋として格上であると周囲に知らしめる事ができる。慎吾の性格を考えれば、まず間違いなく挑みに行くだろう。

 

「ウデは確かなんだが、性格が悪い。バトルでも追い抜くんじゃなくて、相手を潰して勝とうとするようなやつなんだ。もし来たら、気を付けてくれ……と言っても、お前なら普通に逃げられるだろうけどな。じゃあ、また機会があったらやろうぜ」

 

 慎吾のスタイルを考えれば、スタート直後に後ろについて仕掛けるタイミングを計ろうとするだろう。しかし、それはハチロクの前に障害物が存在しなくなることを意味する。

 逃げに徹するハチロクを慎吾のシビックが捕まえる、それは些か難しいだろうと中里は思った。

 

 

 街灯のぼんやりとした光を痛々しく反射するGT-Rを見送り、拓海はあくびを一つ。

 時刻はもうすぐ11時を指す。そろそろ帰らなくては明日の配達、そして明日からようやく始められるアルバイトに差し支える。

 

 

 

 一夜明け、今日もガソリンスタンドの開店の時刻が迫る。

 池谷はS13シルビアの隣にイツキを乗せ、職場への道を走っていた。もともと近所住まいという事もあり、出勤の時間が合えばイツキもついでに送ってやる事も時たまあった。

 

「昨日は凄かったっすよね。池谷先輩」

「ああ。今思い出してもつい口元がにやついちまうよ。なんかもう、笑うしかないって感じだよな」

 

 スポーツ走行用の四点式ではなく、普通の三点式シートベルトを締めて走る池谷は口元からわずかに歯をのぞかせる。

 

「GT-Rなんて、誰もが知ってる“スゴイ車”の代表格だからな。それを、これでもかと終始煽り倒してたんだってな。群馬エリアはレベル高いけど、それでも別格って感じだよ」

「そうっすよね。もう秋名の下りで挑戦しようなんてやつ、当分はいなくなるでしょうし、オレも車さえ届けばそれはもう今のうちにガンガン走り込むのに」

「届けばって……おいイツキ、お前もようやく車買ったのか?」

 

 前方を走る軽自動車の加速に合わせ、じわじわとアクセルを踏みたしながら、池谷はイツキに問いかける。車探しをしていたこと自体は知っていたが、契約までこぎつけたとは初耳である。

 

「はい、ようやくっすよ。親父に泣きついてローンの保証人になってもらって、そこそこキレイな中古のハチロクレビン買ったんですよ!」

「へぇ、良かったじゃねぇか。今もうキレイなハチロクの中古なんてだいぶ少なくなってるだろ。一時期タチ悪い業者も多かったっていうしな……あれ?」

 

 職場前までたどり着き、従業員用の駐車スペースとなっている店の隅に車を放り込む。

 サイドブレーキを引き、既に店長の祐一の愛車であるカムリが停まっているのを確認すると、残りの開店準備を引き継ぐべく車を降りた池谷は店の姿に違和感を覚える。

 まだ開店前の時刻なのに既に開店準備が終わり、いつでも客が入れる状態になっているのだ。店長の祐一が朝早く来て準備をしている事はたまにあるが、既に準備が終わっているというのは初めてである。

 

「もう支度終わってるぜ……店長どんだけ早く来たんだ?」

 

 池谷は時刻を確認した。遅刻という万が一の事態では無いようで一安心である。

 店の奥に見えたスタンドの制服姿に向けて声をかけようと一歩踏み出したところで、池谷は逆に店の裏側から声をかけられた。

 

「別にいつも通りだよ……池谷、イツキ、お早うさん」

 

 そこでは祐一が裏口に立って窓を拭いていた。

 

「おはようございます店長……あれ、じゃあさっきのは」

「突然だが、今日から新しいバイトが入る事になってるんだ。二人いるから支度も捗ったよ……おーい、ちょっと来てくれ」

 

 祐一が店の奥の影に呼び掛けると、その陰の主がこちらに近づいてくる。顔が判別できる距離まできた段階で、池谷とイツキは思わず寸頓狂な声を上げた。

 

「今日からバイトさせていただく、藤原拓海です。よろしくお願いします」

「お互いもう自己紹介は不要だろ。二人とも、色々教えてやってくれ」

 

 

 

 レギュラーガソリンを満タンにされた家族連れのミニバンが大きな音を立てて店を出ていく。

 その様を帽子を脱いで見送った池谷とイツキは、日陰に入りながら汗をぬぐう。次の客がやってくるまでしばしの休憩である。

 

「なあイツキ。店長からは色々教えてやってくれと言われたけどさあ、もう言う事ないよな」

「そうっすね。もう完全にマスターしちゃってますよ」

 

 二人の目線は現在使用済みウエスの片付け中の拓海の方へと向けられる。

 最初に一通り口頭で説明したのち、さあ実際に作業してみようと接客にあたらせてみたが、その結果は非常に満足がいくものであった。過去にスタンドバイトの経験でもあるのかと思うほど拓海は迷いなく業務をこなしていく。

 失敗があれば即座にフォローに入るつもりで目を光らせていたが、その時がやってくることは一度も無いまま昼を迎えようとしていた。

 

「さっきの家族連れのセレナのおっちゃん、ちょくちょく来るウチの常連の一人だけど、すげぇ驚いてたよな。女の子でガソスタバイトって確かに珍しいし」

「お釣り手渡されたとき思いっきり顔にやついてましたね。そんで隣の奥さんっぽい人に無言でスゴイ視線を向けられてて、窓拭いてて思わず吹き出しそうになったっすよ」

 

 池谷は帽子とシャツで自身を扇ぎながら、僅かな時間で少しでも排熱に励む。

 

「それにしても……いいな、花のある職場って。いつものエンストしないギリギリでやってる退屈なルーチンワークだけど、今日はパワーバンドで全力運転だぜ」

「わかりますよ先輩。何か意味もなく張り切っちゃいますよね」

 

 池谷達は店のマークが入った半袖長ズボンの地味な貸与制服を着ているが、女子用だと上は共通だが下がまるで作業させる気を感じさせないかなり短いスカートに変わる。火花や切粉が飛ぶような作業はガソリンスタンドには無いので問題は無いのだろうが、この肌の露出面積は作業着としてどうかと思うレベルである。

 

「今朝来たAZ-1の兄ちゃん、真っ黒のサングラスかけて気取ってたけど、明らかに視線が窓拭いてる拓海ちゃんのスカートの方に行ってたからな。体乗り出してフロントガラス拭いてる時とかもう露骨だったぞ」

「あれだけ車高低かったらドライバーの視線も相当に低くなりますよね。あれ普段から色んなモノが見えてそう」

「あれな、見える見えないのギリギリの高さらしいぞ。それを楽しむために乗ってるヤツも世の中にはいるらしい」

 

 それと引き換えに街乗りでは物凄く苦労するだろうけどな、と池谷は言う。視点が低くて信号や縁石が見づらいのはスポーツカー乗りのあるあるなのだ。

 

 

「ていうかウチ、女子用の制服なんてあったんですね。初めて見ましたよ。池谷先輩は見たことあるんですか?」

「棚の奥に新品のまましまってあるのは見たことあるけどな……」

 

 ある日の掃除中、ビニールに入った新品の制服の山の中に女子用もあるのを見つけ、池谷は祐一に昔は女の子がいたこともあるのかと尋ねてみた事がある。

 

「服は作るのに時間かかるから、予備はいつもストックしてあるだけだとさ。急なバイト希望の女の子なんて来るわけないからそれ一着しかないけどな、って。いつでも受け入れられる体制作っとかないと色々うるさい時代らしい」

「制服なら男女共通でも別にいいんじゃないですか?」

「ダメらしい。偉い人が一度そう決めたら、現場は黙って従うしかないんだと。まあ制服のデザインで進路選ぶ子も一定数いるだろうから、今どき風のデザインした制服ってのも分からんことはないけどさ……まあ本当に来ちゃったけどな」

 

 店長もあれを棚から出す日が来るとは思わなかっただろうな、それはそれとしてガソリンスタンドが若い女の子狙いは方針としてどうかと思うぜ、と池谷はぼやいた。

 

「ああ、それで……」

 

 イツキが拓海の方を見ながらふと呟く。

 

「なんだ、イツキ?」

「どうりで、何か窮屈そうにしてると思ったんですよ。微妙にサイズ合ってないんじゃないですか?」

 

 池谷も目を凝らし、そして首を傾げた。

 

「この年頃の女の子って露出凄いイメージあるから、全然違和感無かったぜ。言われてみればそうかもしれないな……それで余計に短く見えてるのか」

 

「……短いとか何とか、どうしました池谷先輩?」

 

 二人して拓海の方を見ながら話しこんでいたからだろう、さすがに気付いた拓海が近づいてきていた。

 

「え、い、いやそれは……」

 

 池谷は頭頂部を軽く掻き、言葉を探した。

 

「……う、運転歴の話だよ。店長が前言ってたけど、拓海ちゃん、中学生の頃から運転してたんだっけ。オレこうして先輩ぶってるけど、運転キャリアはオレの方が短いんだよなぁ、って」

「まあ、確かに中一からやってますけど……」

「そ、そこでだな。オレ達ももっともっと上手くなりたいし、君みたいな凄腕の走り屋がコーチとしてついてくれれば心強い」

 

 適当に思い浮かんだだけの内容だったが、一度しゃべり始めれば言葉は自然とすらすら出てきた。

 もともと拓海さえ良いと言ってくれるなら彼女に色々教えを請おうというのはチームの中でも話が出ていたことなのだ。

 

「もし良かったら、今晩オレ達を横に乗せて秋名を攻めてみてくれないか。速いヤツがどんな風に走っているのか、勉強させて欲しいんだ。頼む」

「……いいですよ。ただ車が私のじゃないので、借りてもいいか聞いてからですけど」

 

 

 



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池谷達のダウンヒル体験会

 休日の深夜となれば走り屋でごった返す赤城山も、平日の夜には車の影はぱったりと途絶える。

 がらがらに空いた道路で存分に練習走行に励んでいた啓介は、山の麓でFDを路肩に寄せて一休みしようと煙草の箱を取り出した。

 

「啓介さーん!」

 

 闇夜の向こうから、手を振りながら啓介に近づいてきた影に、啓介は火をつけようとしていた手を止めて向き直る。

 

「ケン太か」

 

 高橋兄弟に次ぐレッドサンズのナンバー3、ケン太こと中村賢太は主人に飛びついてくる忠犬の如く啓介の正面まで走り寄る。

 

「珍しいな。平日の夜だぞ」

「ふと急に走りたくなっちゃいまして。給料日前だから、あんまりガソリンもタイヤも減らせませんけど。啓介さんはいつもこの時間に?」

「おう。ここ最近は毎日この時間だな」

「熱心ですね……涼介さんは?」

「アニキか……」

 

 啓介は煙草を咥え、火をつけ直した。

 

「家でずっとパソコンに向かってるよ。こないだのGT-Rとハチロクの一件以来、論文の書き直しに大忙しらしい」

「ハチロクっすか……」

 

 ケン太は複雑そうな表情を浮かべる。

 

「話は変わりますけど、啓介さんは、あのハチロクの女の事ってどう思ってるんです?」

「……どうって言われてもな。どうした急に」

「最近の啓介さん、妙にあの女に執着してるじゃないですか。そりゃ負けたのは悔しいでしょうけど……ただ負けただけにしてはやたら意識してるなって」

 

 啓介は言いづらそうにしているケン太を鼻で笑った。

 

「別にそういうのじゃねぇよ。一つの目標ではあるけどな。古いボロマシンでも、乗り手次第でああも化けるってのを見せられたら、良い車乗ってる走り屋としてやる気出さないわけにはいかないだろ。車の限界なんてものは、オレ達が思っているよりはるか向こうに存在することが証明されたからな」

 

 ドライバーの能力でここまで走るのなら、自分が同じ領域までくればさらに速くなるはずだ。RX-7はAE86をあらゆる面で上回るマシンである事は啓介には疑う余地はない。

 乗り手がヘタクソなせいで格下の車相手に敗北を喫し、FDもさぞ悔しかった事だろう。

 FDの全力を引き出せるようになった自分が、今度こそ本気になった藤原拓海のAE86と戦い、打ち勝つのだ。それができて初めて胸を張って真のロータリー使いを名乗れる気がする。

 

 

 それはそれとして、兄以外で自分より上の評価をアレから受ける走り屋がいれば全力で叩き潰しに行くのだが。

 自分の時より手こずったというなら、成長を確かめるには丁度いい相手として、いずれ来るレッドサンズの妙義山遠征で叩きのめさせてもらうつもりである。

 これに勝てば、とりあえず眼中にも無い程度の存在からは脱却できるだろう。

 

「女だから意識してるって事は無い……つもりだ。そういう意味ならアニキの方がよっぽどだぜ」

「え、涼介さんが?」

「アニキは何も語っちゃくれねぇから、単なるオレの勘だけどな。アニキと話してると、そんな感じがするんだ。ただ速いから、ただ上手いから、ってだけじゃなくて、女だから意識してるって部分があるっぽいんだよな」

 

 紫煙を静かに吐き出すと、啓介は吸える部分がまだまだ残っている長い煙草を携帯灰皿に押し込んだ。もったいないとケン太は感じたが、啓介にとっては無くなったらまた買えばいいぐらいの感覚なのだろう。

 

「へぇー、涼介さんにもそういう感情ってあったんですね。あの人、そういうの全然興味ないのかと」

「何年か前にな、アニキ、やたら浮かれてた時期があったんだよ。しばらくしたら今度はものすごく沈んでたけどな。何があったのかは全く知らないが、アニキにもそういう話が無いわけではないんだぜ……それじゃあ、オレはもう行くぞ」

 

 啓介はFDに乗り込むと、素早く切り返して今度は赤城の道路を登り始める。

 

「え、ちょっと待ってくださいよ啓介さーん!」

 

 せっかく鉢合わせられたのだから一緒に走りたかったのだが、向こうはこちらの相手をしてくれる気はないらしい。

 ケン太も丸っこいフォルムの前期型S14シルビアに乗り込み後を追おうとするが、金が無くて上位グレードが買えずエンジンがノンターボ仕様になっているケン太のシルビアではもう姿を見ることはかなわなかった。

 

 

 

 秋名山頂上で、ハチロクの助手席に乗り込んだ池谷は、シートベルトを締めて一番腰が落ち着く位置を模索する。

 フルバケットの安定感に一度慣れてしまうと、ノーマルのシートが非常に不安になる。この椅子で強い横Gに耐えようと思ったら、自分の足の膝から下をボディに押し付けて踏ん張るしかない。池谷はシートを前に寄せて、少しでも安定しそうな場所に両足のポジションを定めた。

 

「よし、こっちはいつでも良いぜ。全開で頼む」

 

 準備完了を伝えて隣を向いた時、池谷はある事に気付いた。

 

「いきなり全開はちょっと辛いと思いますけど……良いんですか?」

 

 ドアを閉めた今、隔離された空間と化したこの車の中にいるのは自分と運転手の拓海の二人だけ。

 よく考えてみれば、自分は今母親以外の女性と初めて至近距離で二人きりになっているのだ。それに気付いた池谷は急激に脳が沸騰しそうな焦りを覚える。

 

(仕事から帰ってすぐ風呂には入ってるから汗臭くはないはずだけど……何で気付かなかったオレ、気付いてたら念入りに三回は体も服も洗っておいたのに……!)

 

「池谷先輩?」

「あ、ああ……オレだって走り屋の端くれ、ちょっとやそっとのスピードでビビりやしないぜ。思いっきり突っ込んでくれ」

「分かりました」

 

 運転席の窓の向こうから、ついてきたイツキと健二が心配そうな目を向けるが、今の池谷にそちらを見る余裕はない。

 やがて池谷にもよく馴染みがあるFR車のロケットスタートの感触がリアタイヤから伝わってくるが、これはよりパワーのあるS13のフル加速に慣れている池谷には丁度良い刺激となって彼の意識を目の前に呼び戻した。

 

(いかんいかん、今はこっちに集中だ。走りの勉強をさせてもらいに来たんだろオレは。何も盗めず終わったんじゃ、せっかく引き受けてくれた拓海ちゃんに申し訳ないぜ)

 

 一速で限界まで引っ張ってからの二速へのシフトアップ。その動作は自分のそれよりも確実に速い。

 急激にエンジンの回転が落ちたはずだが、ショックはほとんど無く加速が途切れない。

 ヘタクソがこれをやるとエンジンブレーキで前につんのめるか、もたついて結果的に回転合わせにはなっても大きなタイムロスになるかのどちらかである。

 

(上手いな……こういう地味なところも大事なんだよな)

 

 一回のシフトチェンジのもたつきでのコンマ1秒のロスは些細なものに見えるが、レース全体でのシフトチェンジの回数分積み重なってくればやがて大きな差となる。

 

(ノブの手の動き、ペダルの足の動きのバランス、よく見とかないとな……)

 

 ジーンズにスニーカー、男でも掃いて捨てる程いる定番過ぎる下の服装の先の動きを池谷は目に焼き付ける。

 二速から三速とさらに上がっていくが、とにかくアクセルをべった踏みである。クラッチを切る瞬間以外にアクセルから右足が離れる時が無い。

 

 速度が上がったことにより、キン、コンと警報音が車内に鳴り始める。

 

(そういやキンコンチャイム付いてるのか……確か105キロで作動だったな。もうそんな速度なのか)

 

 メーターを見ようと視線をやや上に向けると、ややゆったりサイズの半袖の白いシャツでハンドルを握る拓海の上半身も視界に映る。あってもワンポイント程度の飾り気皆無の服装だが、これでダサくならないのは何故だろうか。自分がやったらヨレヨレのシャツを着た服買う金すら惜しむダサくてカネの無い男に見られそうだ。

 

(てか運転席もノーマルなんだよなこの車。よく横Gに耐えられるな……う)

 

 何気なく運転席の三点式シートベルトを見た池谷は、斜めに胸元を締めるシートベルトにより強調された一点を視界に入れてしまい思わず目をそらす。

 

(どこ見てるんだオレ、前を見ろ前。距離的に考えてそろそろ第1コーナーのハズ……)

 

 軽く頭を振って邪念を払い、池谷は前を向く。上手いドライバーが行うブレーキングを見逃すわけにはいかない。これを逃したら今夜ここに来た意味の八割はなくなってしまう。

 

(さあ来いコーナー……コーナー?)

 

 

 池谷がようやく正面を見据えた時、そこにもう道路は伸びていなかった。

 

 

 あるべき黒い直線の道路の代わりに、こちらに顔を向ける白い板の正体が第1コーナーのガードレールであると気付いた時、池谷は走馬灯が眼前によぎった気がした。

 今更ながらに始まったブレーキングの慣性から乗員を守るべく、シートベルトが全力で池谷の体をシートに押さえつけるが、池谷の体はもう何も感じてはいなかった。

 

 池谷の短いながらも積み上げてきた走り屋としての感性が言っている。こんな速度で進入してはいけない、と。

 しかし今日はドライバーではない池谷にはどうすることもできず、ただどんどん視界の中で大きくなってゆくガードレールを呆然と眺めることしかできない。

 

 ふっとガードレールが視界から消える。ステアリングがきられ、車が向きを変えたのだ。

 遠心力に負けたリアタイヤが滑り始め、ドリフトと池谷が自称するパワースライドで慣れ親しんだリアが流れる感覚がシートを通して池谷に伝わる。

 リアが流れ始めてすぐ、リアタイヤが仕事を放棄したことにより負荷の集中したフロントタイヤも路面を手放し四輪すべてが流れだす。

 

(フロントまで滑った……)

 

 しかし四輪ドリフトの知識を持たない池谷にはこれは危機的な状況にしか映らない。

 コーナリング中に四つのタイヤが全て滑り始めた。もうこの車は完全に制御不能の状態に陥ったと池谷は認識したのだ。

 相変わらず車内にはキンコンと小気味良くチャイムが鳴り響いている。

 常識的に考えてこんな速度で車が曲がるわけはない。ものすごく粘る足をした本格的なレース仕様のマシンならともかく、ハチロクのような古い車がこの状態から立て直せるはずがない。

 

 

 ゴン、と車内に衝撃が走った。

 それをガードレールと接触した際の音と認識した池谷は、正面に広がる闇を見る。もうガードレールは見えない。そして今この車は加速中である。

 

(……)

 

 落ちた、と感じた池谷は恐怖で薄れそうになる意識の中、運転席の拓海の横顔を盗み見る。

 そこには何か心配そうな表情でミラーを覗く彼女の横顔があった。

 

 

 

 頂上でスピンターンの練習をしていた健二と、それを見ていたイツキは、先ほど出ていったばかりのはずのエンジン音がまた近づいてきたことに疑問気に顔を見合わせた。

 

「もう戻ってきた?」

「なんかトラブルでもあったんすかね」

 

 やがて戻ってきたハチロクに、何かあったのかと二人が駆け寄ると、そこには助手席で伸びている池谷と、右のリアタイヤを懐中電灯で照らす拓海の姿があった。

 

「何かあった?」

 

 イツキが拓海に尋ねると、拓海は懐中電灯を消して第1コーナーの方を指さした。

 

「多分空き缶か何かだと思うけど、何か踏んづけたみたい。この程度でどうこうなるとは思わないけど、一応チェック」

「一個目のコーナー?」

「一個目の出口のところ」

 

 その話を横で聞いていた健二が、助手席から池谷を引っ張り出しながらあきれた様に漏らす。

 

「……じゃあこいつコーナー1個で失神したのか」

 

 大方『よそ見』でもしてたんだろ、と健二は結論付け、池谷をシルビアの運転席に放り込む。

 でなければそれなりに経験ある走り屋がたかが横Gごときで気を失うとは思えない。自分ならみっともなく叫んだりくらいはあるかもしれないが、それでも最後まで耐えるくらいはできるはずだ。

 

「そうだ、拓海ちゃん。今度はオレを横に乗せてくんない?」

「次は健二先輩ですか?」

「そうそう。池谷と出し合って、ガソリン満タンサービスするからオレも勉強させてくれ」

 

 健二は拓海に向かって手を合わせる。

 

「あ、健二先輩ずるいですよオレもやりたいです!」

「イツキもやりたいか。それじゃあ3人で折半だな。拓海ちゃん、いいかな?」

 

 まあ、いいですけど。と拓海はうなずき、今度は健二を横に乗せてのダウンヒル見学会が開催されるも、コーナー3つ抜けた時点でまたも引き返してきたハチロクを見て、イツキは謹んで同乗を辞退した。

 

 

 



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ダーティシビックEG6

 ライムグリーンのS13シルビアが大きくリアを振り出し、タイヤから白煙を拭き上げてコーナーを大回りに回る。

 二、三度お釣りをもらいながらも立て直すと、そのままブレーキを踏んでシルビアは停車した。

 

「池谷、中々カッコ良くなったじゃん」

 

 路肩に立っていた健二がシルビアに近づくと、池谷は運転席の窓を開けて健二に笑顔を向けた。

 

「タイミングがやっと掴めてきたぜ。ドリフトは始める時より終える時の方が大事みたいだな。スライドを抑えるのが早すぎても遅すぎてもダメなんだ」

 

 サイドブレーキを使った初歩的なドリフト走行の練習をするべく、池谷達は秋名山のヘアピンが連続する場所で交代で走り込んでいた。

 走行だけに集中できるよう、今走っている一人以外は見張りとして路肩に立ち、対向車が来ないか監視している。

 

「最終的には、拓海ちゃんみたいにサイド無しで横向けれるようになりてぇな。今のオレらがやってもクラッシュするだけだろうけど」

「コーナー1個で気絶したくせに何でそんな事知ってるんだ池谷?」

「それぐらいは見てたわ。というか健二だって3つで気絶だろ、ヤバいと分かってた二人目でこれとかオレより情けないんじゃないのか?」

 

 にやにやと笑いながら『1個』を強調した健二に、池谷は指を三本立てて言い返す。

 

「……まあ、サイドでロック掛けないって事は、荷重移動だけで流してるってことだからな。相当にスピード出てないと出来ないだろう。アクセルで曲げるってやつだな」

「今の良い車しか知らないヤツには中々想像つかない感覚だよな。店長も言ってたけど、昔の車は足がへぼだから、ちょっと負荷かけるとすぐズルズル滑り出してたって。峠の制限速度ってオレらにはかったるい数字だけど、昔の車であれ以上出すとヤバかったとか」

 

 池谷のシルビアも、今はあえて安価な低グレードのタイヤを装着している。いつもの食い付きの良いタイヤではまだ上手く滑らせられないのだ。

 

「……次、健二行くか?」

「おう……あれ、何か来てるぞ」

 

 ブラインドのコーナーの先から、懐中電灯の明滅する光が見える。事前に決めておいた対向車接近中のサインである。

 池谷はブレーキを解除し、下りの重力に車を引かせながらシルビアを左側のガードレールに寄せていく。ヘッドライトもハザードランプも点いているので、もし今から来る車が対向車線にはみ出しながら走ってきていても気付いてよけてくれるだろう。

 

「いい音させてんなぁ。攻めてるぜ……来たぞ」

 

 池谷達の横を、赤い3ドアハッチバックの車、EG6シビックが駆け抜けていった。

 一瞬だけブレーキランプを光らせ、ヘアピンの先に消えていく赤い後ろ姿を見送った二人は、再び集まって顔を見合わせる。

 

「シビックか。この辺りじゃ見ないな」

「でもあれ、昨日も見たシビックだぜ。ヤバい突っ込みしてたからよく覚えてるよ。秋名も有名になっちまったもんだな」

「そうなのか?」

「池谷は昨日は居なかったなそういや。ただ通り過ぎただけだから、ステッカーとかはよく見えなかったけど……よし、じゃあ次はオレ、行くよ」

 

 健二はポケットから車のキーを取り出す。

 池谷も車をどかすと、エンジンを切って健二と見張りを交代した。

 

 

 

 練習がさらに一巡し、池谷は再びシルビアを走らせていた。

 コーナー目掛けて加速させている最中、池谷はミラーに差し込んだ強烈な光に目を細める。

 

(後ろから一台来てるな。ここ抜けたら譲るか)

 

 後方から猛スピードで追いついてきた一台の車がべったりと張り付き、前に出たそうにしているのを確認し、池谷は目前に迫った次のコーナーを抜けたら脇に寄せ、この車を行かせてやることにする。

 フットブレーキを踏み込み、前輪に荷重がかかったことを肌で感じた池谷はステアリングを切り込み、左手をサイドブレーキに掛ける。

 

(ここでクラッチ切ってサイドを……うおっ!?)

 

 後方に張り付いていた車に押され、まだカウンターステアのあてられていなかったシルビアはフロントタイヤの向きに従って急速にインに旋回、スピン状態に入る。

 池谷は咄嗟にブレーキを踏み、車を止めようとする。こうなってしまったら無理に立て直そうとせず、とにかく減速した方がいいと判断しての事である。最悪どこかにぶつけるかもしれないが、速度が落ちていれば大怪我はしなくてすむ。

 

(よし、何とか止まってくれた……ラッキーだぜ)

 

 上手くコーナーのRに沿ってスピンし、どこにもぶつけずに済んだ池谷は己の幸運に感謝する。

 焦燥がため息と共に体外に出ていくと、今度は胃の底から怒りの炎が湧き上がってくる。

 元凶を探して周囲に目を向けると、その相手は逃げるわけでも、謝りに来るでもなくただコーナーの先に停車していた。

 

(あの車、さっきのシビックか!)

 

 見覚えのある赤いボディは先ほどここを登って行ったEG6シビックである。

 池谷が車を切りかえして正面に向けると、シビックも発進し逃げ始める。

 

(今のはわざとぶつけただろ……待ちやがれ!)

 

 アクセルを全開にし、シルビアを追い縋らせる。

 停止状態からの加速なら前輪駆動車であるシビックよりもシルビアに分がある。差はあっという間につまり、次のコーナーに入る頃には横に並べそうだ。

 別にぶつけ返したりする気は池谷にはないが、このまま逃げさせるつもりもない。前に出て相手を止めさせ、先の行為を謝らせない事には気が済まない。

 

 コーナーが迫り、池谷はブレーキを踏む。今度はサイドブレーキは使わずグリップでのコーナリングである。いきなりのバトルで使用するほどの自信は、まだ池谷には無かった。

 

(なに……!?)

 

 EG6シビックは途轍もない勢いでコーナーに進入していく。後輪を引き摺り、スキール音を奏でながら横を向く、先ほどまで池谷達がモノにしようと散々練習していた、サイドブレーキを使用したドリフト走行そのものだった。

 ブレーキランプを数度点灯させ、高速でコーナーを脱出したシビックが軽やかに再加速を始める。

 1.6L程度の排気量でターボも無し、それでいながらノーマル状態で170馬力も搾るシビックの加速は、1.8Lターボと格上のはずのシルビアでも追い縋るのは容易ではない。

 

「くそっ、ついて行けない……!」

 

 地元の池谷でもゾッとするスピードで駆け抜けるシビックは、あっという間に視界から消え失せた。戦意を失い停止した池谷の後方から、180SXを先頭にスピードスターズの面々が下りてくる。

 先のシビックを見ていた健二らが、走りだした池谷を慌てて追いかけてきていたのだ。

 

「大丈夫か、池谷。ぶつけられてたろ、ケガはないか?」

「ああ、なんとかな。あの野郎、態度はともかく、すげぇテクだ。余所者だし、コースもよく知らないだろうによく突っ込めるぜ……」

「ああ、でもあんなタチ悪い事するとは思わなかったよ。もし明日も来てたらチーム総出で取り囲んでやろう」

 

 

 

 池谷達が秋名で練習に励んでいた翌日、日の光を浴びて美しく輝く赤いAE86カローラレビンが、道幅はそう広くないものの、交通量が少なくのびのび走れる快適な道路をゆっくりと流している。上り勾配によりレビンのフロントガラスには青空が大きく映し出されており、気持ちの良いドライブに一役買っていた。

 

「くうーっ、最高だよオレのレビン!」

 

 運転席でステアリングを握りながら、歓喜の声を上げるのはイツキである。ようやく納車された念願のハチロク、それを自らの手足で思うがままに操れる喜びに、思わず体が震える。

 

「これで新車の匂いがしてれば、もうこれをおかずに飯食えるレベルだよ」

 

 外観と裏腹に内装には若干の傷などがあったりするが、古めの車だと考えれば綺麗な方だと言える範疇である。

 

「……そうかな、あんまり新車の匂いって好きじゃないんだけど」

 

 その助手席で窓枠に肘をつき、外を眺めている拓海。

 

「うーん、まあ好きじゃない、酔うって人もいるよね。それはそうと、今日はご指導よろしくお願いします、藤原先生!」

「はいはい。それでどこ行くの?」

「まずは街中ぶらぶらして、車に慣れようかなって。車運転するの教習所以来だし、ちょっと緊張してるんだよね。親父の車借りても良かったんだけど、あれFFでオートマだし、おまけにディーゼルだし」

 

 それに親父かお袋が絶対心配して付いてきて、横で細かいことでグチグチ口出ししてくるだろうし、そんな乗ってて楽しくなさそうなのはお断りだよ、とイツキは顔をしかめて言う。

 

「ある程度慣れたら、峠に行きたいな。明るい内に練習して、夜になったらいよいよ待ちに待った全開走行……といきたいけど、いきなりは怖いから少しづつペース上げてこう。皆にはちょっと出遅れたけど、オレもいっぱしの走り屋として胸張れる日を目指して……くーっ!」

 

 イツキはタコメーターのレッドゾーンに目を落とす。今はまだ少ししか回していないが、今夜は思いっきりぶん回して4AーGEUエンジンの咆哮を全身で楽しむのだ。その時を妄想するだけで思わず声にならない叫びが口をつく。

 

「それはいいけど、前見て。一時停止だよ」

「あっ、ごめん……おわーっ!?」

 

 前方にそびえたつ一時停止の標識に気が付いたイツキが全力でブレーキを踏み込む。

 ホイールロックした4つのタイヤを引き摺り、何とかレビンは停止線ぎりぎりで停車する。急ブレーキでロックの掛かったシートベルトから解放され、イツキはほっと息を吐く。

 

 落ち着いたイツキは周囲をさっと見渡す。後続車は居なかったので急ブレーキで後ろが迷惑することはなかったようだ。

 右を向くと、茂みに隠れていて見えづらいが、白と黒の特徴的なツートンカラーの普通車がこちらに頭を向けて鎮座している。その正体に気付いた時、イツキの心拍数が一気に跳ね上がった。

 

「げ、パトカーいるじゃん……」

 

 運悪く今日の取り締まり場所にここは選ばれていたらしい。声をかけてもらえたこと、何とか止まれたことの幸運にイツキは感謝した。納車したその日に切符をきられようものなら今夜は家族会議待ったなしの事態だった。

 そしてそれ以上に、隣に女の子を乗せた状態でのサイン会など男として格好悪すぎてしばらく立ち直れない事間違いなし。

 

「ごめんごめん、次は気を付けるから……」

 

 気を取り直し、ギアを1速に押し込む。ここは上り坂だが、イツキは坂道発進は得意な方と自負している。教官に坂道発進を褒められた事はちょっとした自慢なのだ。

 教科書通りのサイドブレーキを用いた坂道発進をしても良いが、ここは先ほどの挽回の意味も込めてブレーキ無しで行くことにイツキは決めた。素早い踏みかえによるスムーズな発進はサラッと決められると格好良いのだ。

 

 マニュアル車の運転の基本にして極意はアクセルだ。イツキに付いていた自動車学校の教官はそう言っていた。

 クラッチにばかり目が行きがちであるが、多少のクラッチ操作のミスはアクセルで誤魔化せる。初心者こそ恐れずにしっかりとアクセルを踏まねばならない。

 

(……それっ!)

 

 ぐっとアクセルを踏みしめ、クラッチペダルに置いた左足を持ち上げる。

 タコメーターの針が急降下し、じわりと車が前進を始める。回転数が再び上昇を始めた事を確認してからそっとクラッチから足を離し、巡行に移る。

 

「ふぅ……」

 

 車内に漂った焦げ臭さを意識して無視し、1速で引っ張りすぎたのでショックを恐れて2速を飛ばし3速へ繋げる。

 

「ところで、話は変わるけどさ……拓海ちゃんって、進路とか、何か考えてたりする?」

「進路か……無難に、県内で就職しようぐらいしか考えてないけど」

「そっか。オレも、近場で良さそうなところが見つからなかったら、あのスタンドにそのまま社員として雇ってもらおうかなって思ってるよ。店長なら、頼めば入れてくれそうだし、何より車に関わる仕事したいし」

 

 給料はお察しだけどね、とイツキは笑った。池谷という実例が既に存在するため待遇面はおおむね想像がつく。

 

「もう高3だし、あと半年もしたら卒業なんだよなぁ。やっと自分の車ができて、憧れの人と同じステージに上がれるようになったし、今が一番人生楽しい時期だと思ってるよ。それもあと半年で終わりだって思うと、なんか悲しくなってくるよ」

「……そうだね」

 

 無言になった両者の隙間に、シフトショックの振動ががくりと挟まった。

 

「……夕方になったら一旦家まで送るから、夜になったら車持ってきてよ。秋名を一緒に流したいんだ」

「いいけど、横でなくていいの?」

「走り屋って、チームの皆が列になって走るでしょ。オレ、あの列に加わってみたかったんだ。一番後ろで、余裕で置いて行かれるだろうけど、一度はやってみたかったんだよね。池谷先輩たちも今夜は来てると思うし、長年の夢を一つ叶えたいよ」

 

 走り屋のチームでは、お互いの邪魔にならないよう、より上手い順に一列になって走るという事はよくある。その末席に自分の車で加わるというのはイツキにとっては長年の、やってみたい事のひとつだった。

 

「分かった。帰ったら聞いとく。あ、買い物しときたいから夕方スーパー寄って」

「はいよ。夕方のスーパーの駐車場か、今から緊張してきた……」

 

 



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FR殺しのデスマッチ?

 日の落ちた秋名山を、赤いイツキのレビンが登っていく。

 周囲に白いトレノの姿は見えない。もう上にいるのか、それともまだ下にいるのかは分からないが、来られないという連絡は無かったのできっと彼女は来てくれるだろう。

 

「うおーっ、いっけーオレのレビン!」

 

 エンジンが大きく唸り、興味のない人からすればひどい騒音でしかないような音を上げる。といっても、シフトレバーは1速に入れられているので大してスピードは出してはいない。

 ギアを2速を飛ばして3速に変え、迫るコーナーに備えて減速を行う。

 

「とりゃーっ」

 

 わずかに車体をセンターラインからはみ出させ、ブレーキを踏みながら右足をひねる。クラッチを切って踵をアクセルに叩き付け、ブレーキ踏力の増加により体がつんのめるのに耐えながら、クラッチをつなぎ直す。

 ものすごく機械に悪そうな音と衝撃がレビンを襲った。

 

「回転合ってない……でも今オレ、すごく走り屋やってるって感じがするよ。くーっ!」

 

 実際は吹かし過ぎでも不足でもなく、単にクラッチを繋ぐのが遅いので吹かした意味が無くなっているだけである。隣に『先生』がいれば駄目出しの一つも飛んだだろうが、今はいないので誰も指摘する者はいない。

 

「ん、何か来た?」

 

 イツキがふとミラーを覗くと、一対のヘッドライトがものすごい速さで迫り来ている。

 最初は彼女のトレノかと思ったが、それがリトラクタブルのライトでは無いと気付く頃にはもう後背にべったりと付いていた。

 

「シビックか……レビン乗りとして、シビックに道は譲れないなぁ、なーんて」

 

 イツキは右足に力をこめた。どうせやりあっても勝ち目なんてあるはずはないが、走り屋のバトルを気分だけでも味わってみたかっただけである。

 

「抜けるもんなら抜いてみろーっ……おわっ!?」

 

 いざコーナーへ向けステアを切ろうとした瞬間、背後からの衝撃を受け車が制御を失う。

 回転する視界の中、何が起こったのか理解できぬままただイツキはブレーキを踏み続けた。

 

「わ、わっ!」

 

 山の斜面に僅かに乗り上げて停止し、エンストによって明かりの無くなったくらいレビンの暗い車内で、走り去っていく赤い車と、仲間らしき2台の後ろ姿だけがフロントガラスで動いていた。

 安堵の息を吐くのもつかの間、自分が後ろから突き飛ばされたのだと理解すると、わなわなと怒りが湧き出す。

 

「この……!」

 

 ろくなウデもないのにバトルなんかするな、と言われてしまえばそれまでだが、それにしても突き飛ばすなんてあんまりだろう。わざとではないにしても、黙って走り去るのはどうなのか。

 

 イツキはレビンのエンジンをかけ直すと、怒りのままにアクセルを踏み込み、頂上を目指した。

 ちなみにロケットスタートの動作が完璧にできていたのだが、本人がそれに気づくのはもう少し後の事であった。

 

 

 

 出来合いの総菜と残り物を駆使した夕食と酒のつまみの準備を終えた拓海が、焼酎を湯飲みに注いでいる文太から借り出したハチロクで秋名山に到着した頃、山頂は普段そうは見ない物騒な喧騒に包まれていた。

 見慣れたスピードスターズの面々と、見慣れぬ3人組が道路の真ん中で向かい合い、剣呑な雰囲気で言い合っている。

 

「……騒がしいですね。どうしたんですか」

「来たか拓海ちゃん。あの赤いEG6の野郎、この間オレのS13にぶつけやがったヤツなんだ。ターンインの時に後ろから押して姿勢を崩してきやがった」

 

 先頭に立っていた池谷が、同じく向かいの先頭にいる男を指さし言う。

 指を差された相手の男は、顔に浮かべた嘲笑を崩さず、池谷に言い返す。

 

「だから言ってるだろ。あれはお前があんまりにもトロい走りしてるからだ。まさかここまでレベル低いやつとは思わなくてな。ブレーキが間に合わなくてこつん、ってな」

「この野郎……オレは百歩譲ってそうだとしても、イツキの件はどうしらばっくれる気だ。登りで大してスピードも出ていなかったはずだ。ウデはあるみたいだし、避けようと思えばいくらでも避けられただろ」

 

 池谷はイツキのレビンを指す。

 拓海が夕方まで乗っていたレビンを見ると、右のリアと左フロントのバンパーに跡がついている。

 

「大丈夫?」

「うん、大丈夫……傷はついちゃったけどね」

「そっか。なら良かった」

 

 イツキはそっと傷に触れた。

 

「そこの赤いレビンか……確かにぶつけたが、むしろ感謝してほしいぐらいだな」

「感謝だと……?」

「荷重移動も何もかもお話にならなくてな。あれじゃアンダー出して膨らんで、山に激突すんのがオチだっただろうからな。オレがスピンさせてやったから、あの程度で済んでるんだぜ?」

 

 そこのドライバーのガキみたいなヘタクソじゃ、そんなの分かんなかっただろうけどよ。と、山肌に衝突して潰れる車の様子を身振り手振りで再現しながらへらへらと笑う。

 

「……謝るつもりはねーってか」

「そらそうだろ。まあ、どうしてもって言うなら……オレとここの下りでバトルして、もし勝てたら考えてやっても良いぜ。ルールはこっちで決めさせてもらうけどな」

 

「本当に、負けたら謝るんですか?」

 

「拓海ちゃん!?」

 

 拓海が一歩踏み出すと、その場の視線が一挙に拓海に集まった。

 

「……ああ、謝るとも。お前が毅(中里)に、黒のGT-Rに勝った例のハチロクか?」

「そうです」

「そうか。オレは庄司慎吾。ナイトキッズのナンバー2だ。後ろの二人はうちのチームメンバー。あいつがハチロクに負けたと聞いたんで、どんなヤツか興味が沸いたから秋名に来たが……なるほどな」

 

 ヘラヘラした笑いを顔から消し、見定めるように拓海と背後のハチロクに目をやる。そうした慎吾の後ろで、取り巻きの二人がどっと笑った。

 

「GT-Rに勝ったというからどんなのかと思ったら、まさかガキ、しかも女かよ。こんなのに負けるとか、中里さんの栄光ももう昔の話か」

「おーい、こんなカスぞろいのチームなんか抜けて妙義に来いよ。可愛い女の子ならウデに関わらず大歓迎だぜ!」

 

 わいわい騒ぎだした取り巻き二人に、完全に笑みの抜けた真剣な顔になった慎吾がぴしゃりと冷や水を浴びせる。

 

「おい、今オレが話してんだ。ちょっと静かにしろ」

「す、すんません慎吾さん……」

 

 慎吾は拓海の方へ向き直した。

 

「悪いな。オレの連れは、というか、ナイトキッズはああいうヤツが多くてな。オレは別に、女だからどうこうと言う気はないぜ。オレの知り合いにも『インパクトブルー』とか呼ばれてる女で走り屋やってるヤツらがいるしな。もしあいつらがナイトキッズにいたら、ナンバー3はあいつで確定するぐらいには上手いぜ」

「……それで、ルールとは?」

 

 慎吾は取り巻きの一人に指示を出し、車内から布製の粘着テープを持ってこさせた。

 

「こいつを使うんだ。ガムテープで自分の右手をハンドルに固定して、その状態でバトルする。オレ達の間では『ガムテープデスマッチ』って呼んでる」

 

 慎吾は何かを握り、その上からテープをぐるぐる巻きつけるような動作をする。

 

 

 拓海の後方で、池谷達が目の前に架空のステアリングを用意し、走行のシミュレーションをしていた。

 

「右手を固定すると……おい、池谷。これステアの持ち替えができなくなるぞ」

「持ち替え無しで走るという事は……そういう事か。拓海ちゃん!」

 

 これがどういうルールなのかいち早く理解した池谷が拓海に駆け寄った。

 

「このルールはヤバいぞ……オレでも分かる程度の事に気づいてないとは思わないけど、今からでも引き下がるべきだって。走り屋やってりゃ車ぶつけるなんてよくある事だし、運が悪かったと思ってオレもイツキも諦める事にするから!」

「大丈夫です池谷先輩。そんな事にはならないし、させませんから。あいつ負かして、イツキや先輩の前で頭下げさせないと私の気が済まないので」

「拓海ちゃん!」

 

 池谷の制止を振り切り、拓海は自分の車へと向かう。

 

「決まりだな。おい、お前あっち縛りに行け。途中で外れないようにがっちり止めろよ」

「分かりました慎吾さん」

 

 慎吾も自身のシビックに乗り込み、スタートラインに向け移動させる。

 

 

 適当なガードレールの切れ目に車を並べ、取り巻き達にガムテープを巻かせる。

 

「そこで良いのか?」

「ここで」

「わかった。巻くぞ……」

 

 開けられた運転席の窓から手を入れた取り巻きの片割れが、粘着テープの独特の剥離音を立てながら、右手ごとステアリングに巻き付けられる。数周巻き付ければそれだけでもう簡単には剥がれなくなるが、やけに巻く作業が遅いことに拓海は気付く。

 

「……」

 

 最初は手だけを入れていたのに、今では頭も入ってきている。その上、ちらちらと視線が下に落ちている。その事に気付いた拓海はとろとろと作業している手を軽くつねってやった。

 

「いたっ!」

「暑いんですからさっさとしてください」

「……終わりました」

 

 嘘のようにさっさと巻き終えた取り巻きが窓から体を抜くと、そのまま2台の間に立ち、片手を挙げてカウントの態勢をとった。

 

「カウント行きます……5、4、3、2、1、GO!」

 

 

 

 慎吾は横に並ぶハチロクを見つつ思案していた。第1コーナーまでの直線は長く、AE86とEG6のパワー差なら先行も後追いも慎吾の意思ひとつで決められる。

 いつものやり方で行くのなら、ここは先頭は譲って後追いの立場をとる事になる。だが、慎吾の走り屋としての勘は先行を訴えていた。

 

(あいつを一目見た瞬間に分かった……あいつはとんでもなく速い。R32を負かすだけの実力があるんだ)

 

 妙義下りのタイムは中里より慎吾の方が上だが、そう極端な差がついているわけでもない。その中里を負かした相手なら本来はいくら警戒しても足りない相手ではあるが、FR車であるならばガムテープデスマッチに持ち込みさえすれば勝てると慎吾は判断していた。

 

(どうする……このルールでペースダウンしないFRなんか普通はいないが、なぜかあいつ相手じゃその確信が持てない。あいつならやりかねない。そんな気がしてくる)

 

 自分より速い相手に先行させたら、その先にあるのは順当な敗北だ。

 

 最悪速さで勝てなくとも、潰してしまえばいい。クラッシュは負けだ。ただ潰せばいいだけなら、相手の方が速くともいくらでも手はある。

 ただしその場合、負けではないが勝ちでもなくなる。

 自分より速い相手にぶつけるためには、こちらは限界以上のスピードを出さねばならない。自分でも制御できないスピードで、相手だけ事故らせるというのは難しい。

 

(もしこの勘が当たれば、引き分けか負けの二択だ)

 

 だが先行していたならば。

 自分の方が速ければそのままちぎるだけであるし、ほぼ差が無いのならその場合でも逃げ切りが狙える。

 もし抜き返される程の差があるのなら、その時は潰す作戦に切り替えるだけだ。少なくとも一度は横並びになる瞬間がある以上、相手だけを潰せるチャンスはある。それすらダメでも引き分け狙いが残っている。

 

(勝たなきゃやる意味ねーんだ。ここは先行で行くぜ)

 

 185馬力までチューンアップさせたB16Aエンジンに鞭を入れ、ハチロクの前に出るよう慎吾は指示する。視界から下がっていくハチロクには目もくれず、左手をシフトノブにかけて慎重にブレーキングポイントを見極める。

 

「群馬ナンバー1の下りスペシャリストはこのオレだ……それを今夜証明してやるぜ!」

 

 

 

 去ってゆく二重のエンジン音を背景に、ため息と嘲笑の2つが道路を挟んで飛び交う。

 

「コーナー何個持つのか見物だな。このルールはホントFRにはキツイからな。一人で走るだけならともかく、慎吾さんもいるんだからなぁ」

「でも慎吾さん、さっき前に出たよな。いつもなら後ろに付くんだけど」

「考えようによっちゃ、前にいる方がやれることは多いぜ。後ろからなら精神的に、前からなら物理的にだ」

「なるほど、今回はそういう作戦なのかな……それはそれとして、お前、さっき見てたの感想聞かせろ。どうだった?」

 

 慎吾の取り巻きをしていたナイトキッズの二人は、若干の戸惑いを含みながらも楽観を多分多量に含んだ笑いをあげる。

 

「本当に始まっちまった。いっそ力づくででも止めるべきだったか……?」

「あの、池谷先輩。オレ、さっきのやり取りの意味がよく分かんなかったんですけど」

 

 第1コーナーの方角をじっと見つめていた池谷の元に、イツキが歩み寄る。

 

「イツキか。お前、ちょっと自分の車に乗ってみろ」

「はい……これでいいっすか」

 

 言われたイツキがレビンの運転席に座る。

 

「その状態で、右手を離さずにどこまで曲げられるか試してみろ。左右どっちでもいい」

 

 イツキはハンドルに掛けた右手を下に引く。停止状態の車のハンドル操作は大変なので手を滑らせるだけであるが。

 

「よっ、と……あ」

「分かっただろ。緩いコーナーならともかく、ヘアピンもそれでクリアしなくちゃならないんだ。全コーナーでドリフトする事になるけど、ターンに入ってから微調整できる範囲が極端に狭いから、目測を誤ったら即クラッシュなんだよ」

「で、でも、拓海ちゃんはドリフト得意だし、相手だって同じ条件じゃないですか。同じ土俵で秋名の下りなら、負けるわけが……」

「同じじゃない。FF車のシビックなら、もしアンダー出して膨らんでもサイドブレーキでケツを振り足せるし、オーバーはアクセル踏むだけでいい。後輪駆動で同じことをやったらスピンか、立て直せても大失速だ」

 

 池谷はイツキに車から降りるよう促すと、再び視線をワインディングの向こうに戻す。

 

「確かに、拓海ちゃん程のウデがあれば、片手縛ったまま走るなんてわけはないかもしれない。だけど、この勝負のポイントはそこじゃない。もし『不測の事態』を起こされたらどうなるのか。それが心配だよ……」

 

 

 

 

 

 



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FR殺しのデスマッチ?殺しの(後編)

 バックミラーに映り込み続ける一対の光に、慎吾は思わず舌打ちする。

 

(やっぱ前に出といて正解だったぜ。逆だったらと思うとゾッとする)

 

 ガムテープデスマッチというルールをFR殺しだと認識している者もいるが、繊細なコントロールさえできればFR車でも走り切る事は可能である。

 

(オレも今まで、右手を持ち替えずに走る練習は山のようにやってきた。当然、最小限の舵角で曲がる方が速い事だって分かってる……)

 

 実際にタイムを計測したわけではなく、プロのようなコンマ1秒単位のシビアな時間感覚も無い。それでも明確に感じ取れるだけの差がある。

 ならば一定以上のレベルのドライバーであれば、普段からそういう運転をしており、ガムテープごとき彼らには何の制約にもならないという事態はありうる。

 その場合、慣れない道路でさらに片手を縛っている自分こそが不利な立場にいることになる。

 

(だけどな、オレも下りには自信がある。このまま抜かせずにゴールすればオレの勝ちなんだ。全力で逃げる……!)

 

 当初の構想とは全く違った形になってしまったが、始めてしまった以上は後には引けない。

 

 迫る緩い右コーナーに、慎吾はステアをきりつつアクセルを離すと同時に軽くブレーキ、元々重いFF車のフロントにさらに荷重がのしかかり、前輪の切れている方角へ向かって急激に旋回を開始。

 最小限の減速で抜けたシビックの目の前に左へアピンが現れ、慎吾が息をのむ。

 

(何度通ってもここのキツイ左はぎょっとするぜ……)

 

 一度フェイントモーションをかけた後、アクセルをふかしてシフトレバーを2速へ押し込みつつ、右手が耐えられる目一杯の範囲で左へステアを回す。

 車が曲がり始める瞬間にアクセルを抜けば、それまで前進に使用されていた前輪のグリップがほぼ全て旋回に回され、エンジンブレーキによる回転速度抑制の補助も受けつつ、その重たい頭をコーナーの先にねじ込もうと懸命に路面を蹴る。

 

(……ここだ!)

 

 いわゆるタックイン現象の発生を感じ取ると、左手で勢いよくサイドブレーキを引き上げる。

 それまで前輪に追従しきれず、慣性に流されるままの抵抗となっていた後輪にロックが掛かり、前輪を軸に回転する独楽が完成。

 即座にサイドブレーキを解除、アクセルを踏みつけてアンダーステアを発生させて独楽の回転を止め、コーナーの出口へと向かわせる。

 

 ここを抜ければ長いストレートが待っている。まだ2速でもエンジンの回転数に余裕はあるが、それでも慎吾はギアを3速へと入れ替えると、アクセルを床まで踏み抜く。

 踏める場所で少しでも長く踏みたいが故の行動だが、ギアを上げてなおEG6シビックは飛ぶようにスケートリンク前ストレートをかけ続ける。

 

 スポーツカーによく使用される大馬力の高回転型エンジンというものは、高回転域での出力こそ素晴らしい反面、低回転ではトルク不足で乗りづらくなったりする。

 EG6シビックに搭載されたB16Aエンジンには、それまで相反する要素と考えられていた低回転時のトルクと高回転時のパワーを両立させるVTEC機構が搭載されており、多少回転が落ちようとももたつくことなく加速することができる。

 

(直線なら単純なパワー勝負……ここで稼がせてもらうぜ)

 

 ミラーを覗けば、ハチロクはじりじりと引き離せていることが確認できる。

 いずれは追いつかれるだろうが、抜かせなければいいのである。ここで稼げたことで、一歩勝利が近づいた。

 ふとメーターに目を落とせば、早めのシフトアップにより大きく落ち込んだはずのタコメーターの針が早くもレッドゾーンに近づいている。

 

「レッドゾーンまで一気に吹き抜けるこの音……最高だぜ、たまんねぇ!」

 

 1.6Lでこれだけの加速をする車なぞ、他のメーカーの、どんな車種にも無いだろう。下り勾配さえあればGT-Rにすら食らい付く、官能的な加速に慎吾の表情がほころぶ。

 

 

 ストレートの終盤、慎吾は己の両眼に全神経を集中させ、ブレーキを踏み始めるポイントを見定める。妙義最速の下りスペシャリストと自称し、ブレーキングを遅らせ突っ込みを速める走り込みを続けてきた慎吾の目でもこれ以上は怖いとなるギリギリの一線を絞り込み、渾身のフルブレーキングを敢行する。

 荷重の抜けてふらつく後輪の挙動に注意を払いつつ、ステアリングを握る腕に力を籠め、行き先となる

コーナーの出口がある左前方をにらんだ時、その視界に強い光が飛び込んできた。

 

(なにっ!)

 

 まさにこれから切り込もうとしているイン側に、ハチロクの頭が既にねじ込まれている。

 ブレーキングに移る前はそれなりに距離があったはず、それなのに横まで来られたという事は、それだけさらにブレーキングが遅らせられているという事になる。

 コースへの熟練度が十分なら、もう少しぐらいは遅らせても曲がれるだろうが、今の差を詰められる程ぬるい突っ込みなど慎吾はした覚えはない。

 

(……ぶつかる!?)

 

 明らかにオーバースピード。一秒後に予想されるラインの膨らみからシビックを逃がすべく咄嗟の修正を慎吾は行うが、その予想に反しハチロクのラインは膨らむことなくコーナーを脱出。何事もなかったかのように再加速に移っている。

 

(なんだ今のは……あのスピードでインベタなんてありえないだろ!)

 

 最新鋭の車の足とタイヤならば、あの速度でもグリップは持ちこたえるのかもしれない。だが、今目の前にいるのは旧式マシンなのである。

 テクニックでどうこうという範囲は超えている。秋名の峠には何か自分の知らない地元ならではのギミックがあったりするのだろうか。

 

 しかしそんな事を今考えても仕方がない。それが何か分かったところで今夜のバトルには寄与しないし、抜かれる寸前で仕掛けるという目論見もご破算となった。

 勝利の為の次なる一手を考えなくてはいけない。そしてそれを思いつき、かつ実行可能な段階になるまで必死で食らい付かねばならないのだ。

 

 

 スケートリンク前ストレートを抜ければ、後はしばらく緩めのコーナーと半端な長さの直線が続く。

 FF車はヘアピンのような場所でこそFR車に一歩劣るが、少しの回頭で済む緩いコーナーならばそうではない。路面次第ではむしろトラクションをかけやすいFF車に有利な状況も多々ある。

 終盤ではまたヘアピンが顔を出し始める。そこまでが勝負どころとアクセルに力を籠めるも、追いかけるだけでも一苦労な状況に慎吾は舌打ちを一つ響かせる。

 

(あいつが負けるわけだぜ……このアマおっそろしく上手い)

 

 そのコーナリングは一見するとただのグリップ走行である。リアを振り出さず、カウンターステアも当てていない。

 

(見るやつが見れば分かる。あれはドリフトなんだ。タイヤ四つのグリップ全部使って車を曲げてやがる)

 

 前方を行くハチロクのラインをなぞるように、左足にブレーキを任せ、右足のアクセルはわずかに開けたままシビックの頭をガードレールすれすれ目掛けて投げ込み、クリッピングの瞬間にアクセルを抜く。

 頭が抜けたら再びアクセルをオン、外に向かって流れようとする車体のスライドを最小限に抑え、短い直線と道幅を目いっぱいに使って駆ける。

 

(ダウンヒルがここまで怖いと感じるのは初めてだ……ただハチロクを追いかけているだけだってのによ)

 

 車の性能は間違いなくこちらが上。GT-Rのように車重などの分かりやすい弱点を抱えているわけでもない。

 

 

 左のヘアピンが近づいてくる。ここを抜けてしまえばもう次は5連ヘアピン区画となる。

 仕掛けなければいけないのに、仕掛けるチャンスがまるで見えない。ただ走り続けるしかできなかった慎吾の視界に、ふと変化が起きた。

 前方、コーナー出口付近に街灯でもハチロクのヘッドライトでもない光が存在している。

 全ての走り屋にとっての恐怖の存在……悪者なのはこちらなので恐怖の存在呼ばわりは向こうのセリフであろうが、それでも走り屋達にとって会いたくない存在。

 

「対向車か……!」

 

 ハチロクのブレーキランプが早いタイミングで点灯する。左車線のみでのインベタのコーナリングのため、どうしても車速を落とさざるをえないのだ。

 その時慎吾の脳内に、ふと考えが浮かんだ。

 そこまでやるのはどうかという思いも浮かぶが、それ以上に、ここを逃せばもうチャンスは無いという思いが脳裏を染める。

 

(まともに逃げても勝負にならねぇんだ、オレが勝つにはこいつを潰すしかない……)

 

 ターンインの瞬間に間に合うようブレーキを調節し、ちょうど横を向き始めたハチロクのテールに接触させ押してやる。

 大きく姿勢を崩したハチロクが対向車線側に流れ始めたのを横目に自分は颯爽と左車線を抜けていく。

 

「並のウデなら、ガードレールに刺さって終わり。アンタほどのウデなら、この状況からでも間一髪立て直せるかもしれねぇが……」

 

 姿を現した対向車のハイビームに目をしかめながら、慎吾はアクセルは踏まず速度を落としたままミラーを覗き続ける。

 右隣りから響く急ブレーキによるスキール音や耳障りなクラクションの大音量を無視し、こんな時だけ制限速度を守ってのろのろとシビックを走らせる。

 

(目の前に対向車がいる。オレが邪魔で反対車線に逃げることすらできない対向車がな)

 

 ガードレールに刺さり、最悪崖下への転落を回避したければスピンから車を立て直さなければならない。しかしカウンターステアによるオーソドックスな立て直しにせよ、さらに回って360度ターンを試みるにせよ、右車線にいる限り対向車との正面衝突が待っている。

 

「選ばせてやるぜ……壁か、対向車か。どっちとキスがしたい、お嬢ちゃん?」

 

 

 

 ギアをニュートラルに入れ、軽くエンジンを回してやる。軽くなったシフトノブを1速に入れ、まだクラッチは繋がず空ぶかしを続ける。

 

 相手が相手なだけに、そういう行為には警戒していたつもりだし、そう簡単に当てに来られないよう立ち上がりを多少犠牲にしてでも進入速度重視のラインを走っていた。

 対向車の存在には向こうも気が付いていたはずだし、さすがにここではやらないだろうと後方への警戒を切った途端にやられた。

 

(帰ったら久しぶりに怒られるだろうなーこれ)

 

 まあ回ってしまったものは仕方ない。拓海は回る視界の中で、時折映る対向車を正面に捉えたタイミングでクラッチを一気に繋ぎつつ、ステアを思い切り左に切る。

 

 

 限界目一杯回され続けたエンジンに引っ張られ、リアタイヤが空転する。オーバーステア状態になり激しく反時計回りに振り出された車体がガードレールにヒット、その衝撃と同時にステアを右に切り直し逆方向、時計回りのスピンに今度は持ち込む。

 今からどんな操作を加えても間に合わないので、いっそ自分からガードレールにぶつかりに行き、反動で吹っ飛ばされる事で走行車線に復帰する作戦である。

 

 目論見通り勢いよく吹き飛んだところでまたまた左へステアを切る。片手で回せる範囲では、スピンを止めるにはカウンターの当て具合がまるで足りないが、それでも勢いを弱めることはできる。

 

 対向車との接触ギリギリを掠めながら、その外周を回る。

 ハチロクのヘッドライトに、名も知らぬ運転手の影がちらりと映った。

 

 吹き飛んだ先で再び衝撃。今度は反対側の山肌にぶつかり、その反動で今度こそ車は正面を向き直す。

 今だそこにいたシビックを抜き去り、そのまま5連続ヘアピンに突入する。

 

 

 

 慎吾はミラーの中で何が起きたのか理解するのにやや時間を要した。

 

(……ぶつけた反動で逆ドリフト!?)

 

 危機的な状況で、むしろ自分からぶつかりに行く判断が下せるドライバーなどそうはいない。いるとすれば、それはよほど場慣れしていて、かつ頭のネジに何らかの異常があるドライバーだろう。

 仮に思いつけたとしても、それを実行するには高度な技量が必要である。

 ただ速いとか遅いとか、上手い下手で語れる一般的なレベルではない。

 

「ガムテープ巻いててこれかよ……!」

 

 ミラーの中でハチロクの姿が大きくなる。

 ミラーを見るばかりでアクセルを踏むのも忘れていた慎吾は慌てて加速を試みるが、出足の遅れはどうにもならず、あっさりと前に行かれる。

 

 そして最初に危惧した通り、あっさりと前に出たハチロクがそのまま消えてしまうのに、さして時間はかからなかった。

 

 

 



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池谷に舞い降りた天使?

 深夜が迫り、静まりかえったガソリンスタンドで、一人戸締りしていた祐一の耳に、聞きなれたエンジン音が近づいてくる。

 その音は照明の落ちた真っ暗な店先に停まると、短くクラクションを二回鳴らす。

 

「はいはい。今日はもう終わりだぞ」

「かたい事言うなよ。ハイオク満タンだ」

「ハチロクのくせにハイオク飲もうとは贅沢な……このやり取りすんのも随分久しぶりな気がするな。文太」

 

 先ほど締めた鍵の束を祐一がちらつかせるも、車の運転手は目もくれず。エンジンを切った車内からのそりと這い出てはポケットをまさぐっている。

 ドアに『藤原とうふ店(自家用)』と大きく書き込まれたハチロクトレノが、久々に本来の主人藤原文太を伴っての来店であった。

 

「まあ実際ガソリンはまだ先でもいいんだけどな」

「わかったからそこで吸おうとするんじゃない。中入って話そうぜ」

 

 一分前に施錠したドアを再び開け、祐一と文太は店内のソファーに腰を落ちつけるとお互いに煙草に火をつけた。

 

「しかし、綺麗なもんだな。池谷達の話を聞く限り、もっと派手にいってそうなもんだと。昨晩、思いっきりぶつけたらしいじゃねえか」

「今まさにそれを直してきた帰りだっての。まあ別に大した事は無い。ただ凹んでるだけだ。上手くガワだけぶつけてある」

 

 文太は灰皿のふちで煙草を叩き、灰を落とした。 

 

「池谷達、昨晩の顛末を拓海ちゃんから聞いた後、吹き上がってたぞ。やり口がやり口だけに、警察呼んどいたほうがいいんじゃないか、とかな」

「ほーん。止めたんだろうな、祐一?」

「当然だろ。走り屋同士でもめたからって警察駆け込むヤツがどこにいるんだ。普段自分たちがやってる行いについて警官になんて説明する気だ、ってな」

「なら良い」

 

 缶コーヒーを開ける音が静かな室内に響いた。

 

「わざとか否かなんて関係ない。そこで起こったあらゆる事の責任を、一人で背負って泣き寝入りする。その覚悟が無いなら走り屋なんざ名乗る権利はないね。もし警察だなんだとか言ってたのが拓海だったなら、オレは今すぐあいつからハチロクのキーを没収してた」

「お前には向いてないからやるな、ってか」

 

 祐一が静かに笑った。

 

「法に守ってほしければ、まず自分が法を守らないとな、って事だろ文太」

「そうとも言える」

 

 ただ対処が後回しにされているだけで、決して走り屋という存在は世間に容認されているわけではない。いざ本腰を入れて取り締まりをやれば走り屋などあっという間に全国の山々から駆逐される程度の存在なのである。

 峠を走っていたいなら、決して警察の世話になどなってはならない。

 

「まあその池谷達も、いざ当の相手が頭下げに来たら怒りはひっこめたけどな。負けたら謝るとは言っていたが、まさか本当に来るとは思わなかった、って。それに、一番被害受けてるはずの拓海ちゃんが何も言わないから、池谷達も何も言えないしな。話聞く限りじゃ、こっぴどく負けたそうだからさすがに何か思うところでもあったんだろう」

「あっそう……」

 

 二人がほぼ同時に、ほぼ吸い終わった煙草を灰皿に押し付けた。

 

「そうだ祐一。ハチロク直すついでにちょっと気になってたパーツ入れてみたんだが、お前もテストに来るか?」

「行くのは構わんが……攻めるのは無しだぞ」

「分かった分かった。じゃあ久しぶりのドライブとするか」

 

 文太は空き缶を手に取り、ほど近い場所にある空き缶入れを見た。

 そして腕を僅かに持ち上げる。

 

「投げても良いが、明日の朝ここを掃除するのは拓海ちゃんだぞ」

 

 文太は立ち上がり、空き缶をそっと捨てると、灰皿の灰と吸い殻もついでにゴミ箱に放り込んだ。

 

 

 

 

 数日後、今日も今日とてそれなりの客入りのガソリンスタンドで、池谷は一枚の紙きれを手に熱弁をふるっていた。

 

「……それで池谷、オチは?」

 

 懐疑的な視線を池谷に向ける健二。

 

「オチなんかねぇよ」

 

 池谷はむすっとした顔で健二を指さした。

 

「信じてない、って顔だな」

「いや信じられるわけないだろ可愛い子なんて。だって池谷なんだぞ?」

「そりゃどういう意味だ健二?」

 

 池谷の顔を指し、ハッと健二が鼻で笑うと、池谷はさらにむすっとした顔を深めて健二に一歩にじり寄った。

 

「……さっきから何の話をしてるんだ?」

「店長!」

 

 その時、店長の祐一が店の奥からのそりと現れた。

 

「客がいない時なら多少の私語も構わんが、争いになりそうならさすがに止めるぞ。何があったんだ?」

「実はですね……」

 

 事の発端は昨日、池谷が一人街中をうろついていた時である。

 ボンネットを開け、いかにもトラブル中ですといった軽自動車を道端に見つけた池谷は、自身も車を止めて様子を見に行ったのだが、その軽自動車の持ち主は若い女性であったという。

 エンジンが急にかからなくなって困っていた女性に代わり車を見たのだが、一般人ならともかく、多少なりとも知識がある者ならば何と言う事は無い軽微な不具合だったので池谷はその場でささっと直してあげたという。

 

 お礼がしたいから、と連絡先を書いた紙を池谷に握らせ去っていった、先ほどから池谷が熱心に語っている女性の名を、佐藤真子という。

 

「それで、かけたのか、その番号。まさかとは思うが、お掛けになった番号は現在……なんてこともあるかもしれんぞ」

「はい。ばっちり繋がりましたよ店長。明日、軽井沢まで一緒に行く約束までしましたよ」

「ほー、そりゃいいな。お前その子に気に入られたと思っていいぞ……まあまだスタートラインに立っただけだし、ここから台無しになる可能性もあるんだけどな。頑張れよ」

 

 祐一は池谷の肩を軽く叩くと、また店の奥へと帰っていった。

 

「くーっ、明日が楽しみで仕方ないぜ。今夜しっかり眠れるよう、今のうちにたっぷり疲れとかないとな……さあ仕事仕事!」

 

 帽子を深くかぶり直し、珍しくも自主的に掃除用具を取りに行った池谷を、いまだ疑わしい目で健二が見つめていた。

 

 

 

 翌日。

 高速道路を安全運転で流す緑のS13シルビアの後ろを、車種が判別できるギリギリの距離を保ちながら180SXが追跡していた。

 

「いやーどんな人が出てくるのか。楽しみっすねー」

「とりあえず、普通以下なのは間違いないぜ。一度舞い上がると止まらねぇからな池谷は」

 

 助手席にイツキを乗せ、健二は慎重にアクセルを操作して等速を維持する。

 後席には誰もいない。もう一人誘おうと藤原とうふ店まで訪ねはしたが、店番中だったので仕事の邪魔するのは悪いと引き返した。

 

「まあ池谷だしな。下手に不相応な美人に惚れちまうよりは良いと思うぜ。気後れして間違いなくチャンスを逃すだろうし……それはそれとして」

 

 トラックを追い抜くべく車線変更したシルビアを追いかけるべく、ウィンカーの操作レバーに手をかけながら、健二はふと話題を変えた。

 

「なあイツキ。ぶっちゃけ、お前ってあの子の事どう思ってるの?」

「あの子って……拓海ちゃんの事ですか?」

「そうそう。前からいっぺん聞いてみたいと思ってたんだよ」

 

「どうって……うーん……よくわかんないです」

 

「いや、わかんないってどうなんだよ」

 

「ホントっすよ……最初はものすごく舞い上がってたんすよ。学校で、事務的以外の内容で女の子が話しかけてくるなんてそうないし、ただ挨拶させてくれるだけでも嬉しかったんです。でもさすがに、しばらくすると慣れてくるというか、落ち着いてくるんですよね」

 

 イツキは目をつむり、首をひねりながら言葉をひねりだそうとしている。

 

「落ち着いたあとで、改めて考えてみると、なんで拓海ちゃんみたいな子がオレなんかに、とは思いましたよ。男子人気高いし、オレが唯一自信あった車の知識でも遥か上だし。一人の車好きとして憧れはしますけど……」

「そうだろうなー。オレはたまに仕事ぶりを横で見るだけだけど、知識凄いのはよく分かるよ。やっぱオレ達みたいな、車しか取り柄の無い男どもとしては思うところがあるよな。彼女の車をさっと直してあげたりして、キャー健ちゃんすごーいとか言われてみたいけど、あの子の場合は逆にオレ達が直してもらう側なんだから」

 

 健二は一瞬だけハンドルから手を離し、顔の前で組んで、いかにも黄色い声を上げる乙女のようなポーズをとった。

 すぐに手を戻し、些か気持ち悪い乙女風の笑みを消して今度はやや神妙そうな顔をする。

 

「つまり、イツキとしては近付きはしたいけど、気後れもしてるといった理解でいいか?」

「……それでいいっす」

「まあ、男として、女の子とは対等以上でありたいって気持ちは分かるぜ。ちょっとやそっとの努力で埋まるレベルの差じゃないし、何か別の取り柄があれば、そっちに注力って選択もあるんだ、が、な……」

 

 健二は今己の視界にライムグリーンの物体が入っていたことに気付いてしまった。 

 慌てて走行車線側を確認すると、そこにはとてもよく見慣れたシルビアと、その運転席で無表情にこちらをにらむ池谷の姿。

 こちらが増速したのか、それとも向こうが減速したのか。いずれにせよ、話に夢中になってしまった健二は尾行対象との相対速度の変化に気付かず、横並びになってしまったのだった。

 

 

 

 池谷は尾行していた健二たちに佐藤真子の紹介だけして帰らせると、向こうが出ていったのを確認してから自身も再度サービスエリアから高速道路に合流した。

 

「ごめんね真子ちゃん……まさか追ってきてるとまでは思わなくって」

「い、いえ大丈夫です。みんな優しそうな人達で安心しました。池谷さんって人望あるんですね」

「そ、そうかな……ありがとう」

 

 背中まで伸びた黒髪をそっと視界の端に捉えながら、池谷はぎこちなく話す。

 

「何かあったら言ってね。そっと走るつもりだけど、走り屋の車って、乗り心地は褒められたもんじゃないから……」

「私は大丈夫です。私、走り屋って好きだから……」

「そ、そう?」

 

 好き、と言われ、池谷は思わず手に力が入ってしまう。 

 

「ほら、走り屋って運転上手い人多いじゃないですか。私、高い外車とか見せびらかしてくる人より、普通の車でも上手に、丁寧に乗ってる人の方がずっといいと思います」

 

 池谷は胸が熱くなるような感覚を覚えた。

 

「あの、池谷さんは……峠とか、走り屋の真似事やってるような女の人がいたらどう思いますか?」

 

 じっと、真子が視線を送ってきているのが、見なくても分かった。

 

「……いいと思うよ。別に走り屋に男も女もないって。少なくともオレの周りには、女だからって下に見るヤツなんか一人もいないよ」

 

 池谷の脳裏に、秋名最速と誰もが認める女の子の姿が浮かぶ。

 走り屋は速さが第一。それ以外にどんな問題があるヤツであっても、ウデさえあるなら一定の尊敬は集めるのだ。

 

「そうなんですか!」

 

 真子が嬉しそうに声を上げた。

 

 きっと彼女は、走り屋の世界に興味があるのだろう。とはいえ、走り屋の世界は男がほとんど。そんな世界に飛び込んで、本当に受け入れてもらえるのか不安があったのだろう。

 

 自分が先輩として手取り足取り、いずれは肩を並べて……そんな妄想を広げた池谷の前に、再び藤原拓海の姿が浮かぶ。

 そう、彼女が初めて秋名スピードスターズの集まりに来た時も、こんな事を自分は考えていたのだ。

 もちろんその甘い期待は、その遥か斜め上をかっとばれる形で消え去ったわけだが。

 

 もしかしたら、今横にいるこの佐藤真子という女の子もそうではないのか、という考えがふと池谷をよぎる。

 彼女はすでに走り屋をしていて、しかしそれが自分に受け入れられるか不安で、そんな事を聞いているのではないか。

 

(いやいや、あんな規格外の女の子がそういてたまるか……)

 

 とはいえ否定できる材料もない。

 

 そんな事を考えているうちに、降りる予定のインターチェンジが近付いてくる。

 余計なことなど考えなくていい。仮に真子がそうだとしても、そうでなかったとしても、それで彼女への気持ちが何か変わるわけではないのだ。

 今はただ、このむさい男のさえない匂いが充満するこの狭い空間へ、嫌な顔一つせず乗り込んでくれた彼女とのひと時をとことん楽しむだけだ。

 

 池谷は、そう決意を新たに、高速料金を払うため、精一杯の金額を詰め込んだ色あせ気味の財布をズボンから引き抜いた。

 

 



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碓氷峠のレディースタッグ

 高速道路を降り、一般道をのんびりと走るようになってからも、池谷と真子の間にはあまり会話が弾まなかった。別に仲が悪いという事ではなく、単にお互いこういった状況に不慣れというのが大きな要因である。

 

「あの……池谷さんって、秋名のチームに入ってるんですよね」

「え、うん、スピードスターズっていうチームだよ。実は作ったのはオレだったり」

「池谷さんのチームって、きっとレベル高いんでしょうね……秋名って、私でも名前は聞いた事あるぐらいですし」

 

 真子の言葉に池谷はちょっと誇らしい気分になった。あれだけ戦果を挙げていれば秋名スピードスターズが有名になっているであろうことは疑う余地が無いが、実際に他人の口から聞くとリーダーしてひときわ感慨が深くなる。 

 

「そ、そうなんだ。オレ達も有名になっちゃったなぁ……」

 

 藤原拓海様々、という考えが浮かんだところで、池谷はふと思った。

 イツキはともかく、拓海をスピードスターズのメンバーとして扱っていいのだろうか。

 もちろん同じ秋名の仲間ではある。だが彼女はチームへの参加を表明してはいない。そして、今秋名が有名なのは、はっきり言って全て彼女一人の功績なのだ。

 それをチーム全体の物として扱うのはいかがなものか。レッドサンズが襲来したあの日より少しはマシになったとはいえ、それでも群馬の強豪たちにはまるで敵わない二流三流の集団なのには変わりがない。

 

「でも、オレなんてまだまだだよ……最近、後輩が二人できたんだけどさ。その内の片方がおっそろしく速い子でさ。チームが有名になったのは全部その子のおかげなんだよ」

「恐ろしく速い……それって『秋名のハチロク』ですか?」

「そうそう。あの子が来てから、秋名のコースレコードは秒どころか『分』単位で塗り替わったよ……て、知ってるの?」

「友達が言ってたんです。今、群馬の話題は秋名のハチロクでもちきりだって。もし良かったら、もっと詳しく教えてくれませんか?」

 

 意外なところに喰いつかれた池谷が戸惑いを見せた。

 

「詳しくか……一か月くらい前に後輩の一人が、同じ走り屋志望の友達だって言って連れてきたんだけど……」

 

 紹介されたその日がレッドサンズの襲来日と重なって両チームを巻き込んだ騒ぎが起きたり、その後の交流戦では池谷視点では雲の上の存在同然だった高橋啓介を一蹴、さらに群馬のもう一方の雄、ナイトキッズのトップ2との諍いなどを池谷は運転操作の合間に少しずつ語った。

 

「もうめちゃくちゃでね……一番速いヤツがリーダーって慣習で言えば、オレはあの子に役を譲るべきなんだろうけど。実際言ってみたら断られたけどね。私はそういう柄じゃないって」

 

 正面に迫った赤信号を認識した池谷は、車を停止線手前でなるべくそっと止める。

 止まり切る瞬間に車がかくんと揺れるが、池谷も真子もわずかに体を揺らしてショックに耐える。

 

「私……」

「真子ちゃん?」

「池谷さん、その後輩の子ってもしかして、女の人なんですか?」

「え、そうだけど。秋名のハチロクが有名になったなら、ドライバーの事も広まってそうなもんだけど」

「私の友達が、そんな事を言ってたような気が……その友達のさらに友達の話らしくて、私としてはちょっと話半分で聞いてたところがあって。でも地元の池谷さんも言うなら本当なんですね」

 

 真子は池谷の目をじっと見た。

 

「私、さっき池谷さんに、走り屋やってる女の人をどう思うかって聞きましたよね。そしたら池谷さんは、走り屋に男も女も関係ないって」

 

 池谷の心臓がどきりと跳ねる。意図的に考えないようにしていた話題を向こうから切り出され、同じく封印していた疑惑が再び眼前に突き出される。

 

「言った。車好きの女の子とか、むしろ歓迎だよ。オレらって車しかないから、車に興味ない人とは話題が何もないからね……それ聞かれた時から思ってたけど、もしかして、真子ちゃんも走り屋やってたりする?」

「……はい」

 

 意を決した池谷の問いに、真子は静かに肯定を返した。

 

 

 

 

 日も暮れ始め、真子を下ろす予定の駅前に車を着けた池谷は、先に車を降りてエスコートをしようと助手席の側に回った。

 助手席のシートから脚をのばして出てくる際、持ち上がった真子の短いスカートに目がいきそうになりバッと池谷が視線を逸らす。 

 

「え、ええと。真子ちゃん、今日はありがとう」

「はい、こちらこそ……あの、池谷さん。ひとつ聞いてもいいですか。池谷さんって、彼女とかはいらっしゃるんですか?」

「え、いやいないけど……真子ちゃんは?」

「私もなんです。私の友達とかには派手に遊んでるような子も多いのに、私だけそういうのと無縁で。その友達にアドバイスされてこんな短いスカートとか履いてみてるんですけど」

 

 真子はミニスカートの裾をそっと押さえた。

 

「地元の走り屋の男の人達も、私の事全然そういう目では見てくれなくって。だから今日、池谷さんが車好きな女の人歓迎って言ってくれたの、嬉しかったです。だからもし、池谷さんが迷惑じゃなかったら、また遊んでくださいね」

 

 連絡待ってます、と真子は池谷に一礼し、駅内へと歩き去っていった。

 池谷はその場で五分ほど意識が飛んでいた。

 

 

 

 

 翌日、池谷はスタンドにて昨日の一部始終を語っていた。早朝の時間帯故、客はまだ来ていない。

 店の従業員が一塊に群れて会話に興じている光景はさぞ目につくであろうが、道行く人たちにはあまり気にされてはいないらしい。朝礼にでも見えるのだろう。

 

「へぇ……池谷の事だし、会話が弾まなくて気まずくなるだろとは予想したけど、まさかの向こうも走り屋とはなぁ」

 

 意外な結果に健二は腕を組んで唸っていた。

 

「健二先輩、その走り屋の女の子って、昨日聞いたシルエイティの事じゃ?」

「シルエイティ?」

 

 イツキが健二に発した言葉に、池谷が疑問をうかべる。

 健二もイツキの言葉に得心したように頷いた。

 

「ああ、昨日別れた後でさ、せっかくここまで来たのにただ帰るんじゃ高速代が勿体ないからどこか行こうってなってさ、ちょっくら碓氷峠まで足を運んでみたんだ。そんで途中寄ったガソスタで、この辺りの走り屋事情について聞いてみたんだよ」

 

 地元走り屋事情に詳しそうな兄ちゃん曰く、この碓氷峠では女の子二人組が転がす青いシルエイティが地元最速として知られているとの事。

 シルエイティとは後ろ半分が180SX、前半分がシルビアという特異な外見をした改造車の通称である。書類上の正式名称は改造元の180SXのままだが、外見が大きく変わるため区別の為通称で呼ばれることが多い。

 

「オレも車種までは聞かなかったけれど、女の子の走り屋なんてそう人数いないし、真子ちゃんがそうである可能性は高そうだなぁ……今度一緒に走ろうなんて言われたらどうしよう」

「まあ、そん時は諦めろ。下手に意地張らずにあれこれ教えてもらった方がいいんじゃないのか……しっかし、聞けば聞くほど何で池谷なんかにあんないい子がって感じだな」

 

「オレも同意見だな。お前らの年代でそんな出会いは普通まずできないぞ」

「店長、聞いてたんですか?」

 

 いつの間にか二、三歩離れた位置に立って聞いていた祐一がにこやかに笑っていた。

 

「さっきから聞いてたら、まるで学生みたいな内容の金かけてないデートだったらしいのに、楽しかったまた遊ぼうなんて言ってくれるなんてな。普通は社会人ならもうワンランク上のデートを要求されるもんだぜ。可愛い走り屋の女の子なんて周りが放っておかないだろうし、とんでもない掘り出し物に違いない……なあ?」

「え、私ですか?」

 

 祐一は同じく聞きに徹していた拓海に話を振った。

 

「女性の目から見て、池谷は今回いけそうだと思うか?」

「私もあんまりそういう話は得意じゃないんですけど」

「それでも、友達とそういう話になったりする事はあるだろう。今どきの若い女の子の視点からの意見は他に言える人がいないからな。池谷は魅力ある異性に見てもらえるのかね?」

 

 拓海はやや考え込む素振りを見せる。

 そういう話になるとは言っても、拓海に利用できるサンプルデータの量はそう多くはない。女子の語る理想の男子像は、男性から見た理想の女性像と同じく、とてもじゃないが現実には存在しない完璧超人である。

 高橋兄弟のようなのは非常に希少な存在だ。

 

 池谷に近そうな、普通なかつ奥手な男に好意を持ち、かつ拓海にその話を事細かにしてくれるような知り合いというのはまずいない。

 

 だいたいどこぞの運動部のエースだったり、成績優秀だったり、容姿端麗だったりするようなのばかりが女子達の話題になるような男子である。

 あるいは欠点を隠して余りあるような金持ちか。

 

「……そうですね。あまり魅力的とは言いづらいかもしれません」

 

 拓海の発言に、池谷は分かりやすくショックを受けている。

 

「車が趣味っていうのは評価が分かれるところだと思いますよ。理解できない人には単なる金の無駄にしか見えませんから」

「で、でもよ拓海ちゃん。そんなの趣味全般に言えることだろう?」

「車の場合は特に、という事ですね。派手に飾った外観や爆音が嫌いな人もいますし、なにより、お金が有り余ってる人がセカンドカーとかでやるならともかく、池谷先輩は車のためにそれ以外を削ってるじゃないですか。裕福じゃないのに浪費はするって普通は大きなマイナスですよ」

「うぐ……」

 

 思い当たる節がありすぎる池谷が押し黙る。私服が二枚のポロシャツとジーンズしかない等、まさしく車のために削れるだけ削っている生活である。

 

「だからこそ、車に、速く走る事に理解がある人が向こうから来てくれたのは大チャンスですよ。これをモノにできないと一生独り確定だと思った方がいいです」

「まさしく、神様がくれた最初で最後のチャンスか……」

「池谷先輩はいい人ですから、何度か遊んでれば人柄も理解してもらえますよ。頑張ってください」

「くぅーっ、こうまで言われちゃ頑張るしかねぇ……」

 

 池谷が今にも走りだしそうに拳を握り締めていると、乗用車が一台、スタンドの中に入り込んできた。本日の朝の自由時間はこれにて終了である。

 

「ほーれお前らお喋りは中断だ。仕事を始めるぞ」

 

 祐一が手を叩いて店員たちを散らばらせると、自身も店の中へと戻っていく。

 一声で仕事モードに切り替わった各々が、客の車を誘導したり、あるいは邪魔にならないよう店の隅に引っ込んだりする。

 虫の声を聴きながら、今日も一日炎天下での接客の開始である。

 

 

 

 

 長野県と群馬県を結ぶ峠道の一つ、碓氷峠の麓に停まった軽自動車の周りに、飲み物片手に語らう二人の女性がいた。

 明日には返却される代車での最後のドライブは、昨日のデートもどきを肴にした佐藤真子の恋愛話に決定されていた。

 

「年の割に清らか過ぎるとは思うけど、まあ初めてにしちゃ上出来なんじゃないの?」

 

 腕を組み、まるで親が子に、師が弟子に向けるような微笑みを向けているのは佐藤真子の親友、沙雪。

 

「で、真子から見て、その池谷って男はどうなの。アリな感じ?」

 

 へそが見えそうな丈、ちょっと段差に足をかければ中身がちらりと行きそうな裾。露出面積を限界まで伸ばすことに血道をあげていそうな沙雪は、最近自分の真似をしてようやくスカートの裾を切り詰め始めた友人の顔面をぴしりと指さした。

 

「アリって?」

 

 真子は質問の意味を理解しかねた様に首をひねった。

 

「だから、彼氏として、伴侶としてアリかって意味よ。アンタ、それが欲しい一心でそのミニスカート買ったんでしょ。真子から見た、池谷って男の印象はどうなのって聞いてるのよ」

 

 真子はようやく合点がいったような表情を浮かべた。

 

「それならそうと言ってよ沙雪……池谷さんは、優しそうな人だった。隠し事とか、そういうのすっごく下手そうで」

「うんうん」

「私が走り屋だって知られてからも、特に態度とかは変えてなかったし、その……」

 

 言葉を探そうと俯いて考えこむ真子の肩に、沙雪がそっと手を置いた。

 

「つまり、馬鹿正直そうな男って事ね。うんうん、真子には多分、そういう男が一番似合うと思ってたのよ。あんた、腹の探り合いとかまるっきり無理そうだし、そういうのが一番いいわよ」

「探り合いって、沙雪はそういうことするの?」

「たまにね。何人も男見てると、そういう嗅覚は自然と身に付くわよ。お互い遊びと弁えて、ルール守って楽しく遊べるヤツだけなら楽なんだけど、そうじゃないヤツもいたりする。そういうのを素早く察知して、逃げの一手を打てるようじゃないと、夜遊びなんて恐ろしくてできやしないわよ」

 

 沙雪は過去に遊んだ相手でも思い出したのか、うんざりしたような顔をうかべた。

 

「正直アタシも、身を固めろって言われたらそういう相手が良いし。一晩ならともかく、この先永遠に気なんて張ってられないし、ちょっと馬鹿なくらいの優しい男を適度に尻に敷きながら生きるのが一番幸せよ。そんな相手を一発目で引けた真子は超ラッキーなんだから、グイグイ行っときなさい」

 

 沙雪は真子の肩を強く叩いた。

 

「いたっ、ちょっと沙雪」

「はは、ごめんごめん……ところでさ、あっちの件はどうするの?」

 

 真子と沙雪の顔にあった喜色が消え、真面目な、走りの話をしている時の顔に戻った。

 

「うん、そっちも次に池谷さんと会った時に頼んでみる」

「池谷とやらのお陰で理由半分消えてるみたいなもんだけど、いいの?」

「うん、いいの。そっちとは別に、私自身も興味出てきたし。秋名のハチロクのドライバーが女だって噂は本当だったみたいだし、どうせ最後ならそういう相手がいいなぁって思うから」

「ちょっと待って」

 

 沙雪が真子の話を遮り、その両肩を掴んだ。

 

「アンタまさか、この沙雪様が仕入れてきた情報を信じてなかったの?」

「うん……さすがに突拍子もないかなって。でも、池谷さんに聞いたら本当らしいって分かったから、疑ってごめんね?」

「まあアタシもちょっと衝撃受ける内容だったし、この話持ってきたのが慎吾じゃなかったら流してた可能性が無くもないけどさ……それはそれとして、パートナーの事は信じなさいよっ!」

 

 

 週明け、労働初日を目前とした静粛な夜の山に、暫し女二人の姦しい声が響き渡っていた。

 



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走る理由

 秋名山の頂には、かつてこの山が火山活動を行っていたころの名残であるカルデラ湖、秋名湖が存在し、休日などはそれなりに賑わいのある観光地となっている。夏真っ盛りのこの時期だが、標高約1400メートルに位置するこの湖はそのような暑さとは無縁の心地よい場所だった。

 平日の昼間という事もあり人気はまばらなこの湖のほとりに、いま三台の車と四人の男女が向かい合っている。

 

「あの……はじめまして、佐藤真子といいます」

 

 落ち着いた青色のシルエイティを背景に、真子はぺこりと育ちや親のしつけの良さを伺える綺麗なお辞儀を披露する。

 

「あ、はい、こちらこそはじめまして、藤原拓海です」

 

 赤いレビンを後ろに置いた、ガソリンスタンドの制服のままの拓海がつられて頭を下げ返す。

 

 そしてその様を少し離れた場所から見ていた、シルビアの脇に立つ池谷は、同じくこの光景を見ていたイツキに小さな声で話しかけた。

 

「なあイツキ。オレ達どうするべきだろう」

「そうですね……とりあえず、しばらくここから離れます?」

「……そうだな。ここは二人っきりにしておこう」

 

 女二人、黙って見つめあっているだけの空気に耐えられそうになかった小心な男二人はそそくさと、時間つぶしのために秋名を軽く流しに行こうとするのであった。

 

 

 

 

 事の起こりはその前日の朝まで遡る。

 

「実は今朝、真子ちゃんから電話があって」

 

 店内にいた拓海に話しかけた池谷は、開口一番に佐藤真子の名前を出した。

 そんな池谷の話を横で聞いていた祐一はニヤニヤと口角をあげた。

 

「朝一番にする話が彼女との惚気とは。池谷も随分出世したもんだな」

「違いますよ店長、オレと真子ちゃんはまだ正式にそういう関係になったわけじゃ……ってそうじゃなくて一応真面目な話なんですよ!」

 

 池谷はこほん、と咳ばらいを一つ。

 

「真子ちゃんがな、拓海ちゃんの事に随分興味持ってるみたいでな。ぜひ一度会って話してみたいって言ってるんだ。拓海ちゃんさえよければ、どうかな」

「いいですよ。別に断る理由もありませんし」

「ありがとう。じゃあ真子ちゃんにはオーケーって伝えとくから、予定決まったらまた伝える……あ、いらっしゃいませー!じゃあ拓海ちゃん、また後で!」

 

 来客を示すエンジン音の接近に、池谷はさっと話を打ち切って駆け出していった。 

 

「池谷もすっかり春だな」

「そうですね。楽しそうで何よりです」

 

 

 

 

 翌朝、イツキが出勤すると、すでに揃っていた他の同僚たちからの視線が一斉にイツキに刺さった。

 

「おうイツキ。いいところに来た。今日の夕方ヒマか?」

「予定はありませんけど、どうしたんですか?」

 

 祐一は紫煙を漂わせる灰皿を傍らに置き、池谷を指さして言った。

 その顔はやれやれといった表情で、何か彼が店長を呆れさせるようなことを言ったらしいという状況だけはイツキにも理解できた。

 

「例の真子ちゃんが拓海ちゃんに会いたいらしいんだが、今日の夕方に秋名湖でと決まったそうだ。それで、今日仕事が終わったら池谷が拓海ちゃんを乗っけて秋名湖まで行こうとしていたんだよ。駄目に決まってるだろう。分かるか?」

「ダメって……池谷先輩の横に乗ることがですか?」

 

 そうそう、と祐一はいっそ大げさなまでに首を縦に振った。

 

「だって、彼女に会いに行くんだぞ?」

「そうですね」

 

 まだ彼女というわけでは、と横から何か聞こえるが、祐一はそちらの方は無視して続ける。

 

「いくら制服で、単なる職場の後輩だからといっても、お揃いの服着た若い女を助手席に乗っけて彼女に会いに行くやつがあるか、という話だな」

 

 いくら同じ時間に同じ場所に向かうからといって、同じ車に乗っていくべきではない。時間と油だけ見れば効率的な最善手に見えるが、彼女の事を考えるならむしろ悪手だな、と祐一は語った。

 

「そこでだ、イツキ。お前が拓海ちゃんを送ってやってくれ。最初は拓海ちゃんには自力で行ってもらおうかとも考えたが、やはり他の同年代の男とセットになってる方が向こうも安心だろう。池谷の応援だと思って引き受けてくれないか」

「は、はい。送っていきます店長」

 

 その時、来客を告げるエンジン音が店内に響いてきた。

 

「今日のお喋りはここまでだな。そらそら、お客さんだぞ仕事しろ仕事。池谷も行ってこい」

 

 

 

 

「では、お車をお預かりします」

 

 イツキは客から車のキーを預かると、ゆっくりと徐行させながら車を店の奥まで運んでいく。

 

 

 今日やってきたその軽自動車はタイヤが大きく潰れていた。空気圧など調べるまでもなく不足である。

 ここまで減っていれば明らかに走行に影響が出ているだろうが、気にしない人というものはとことん気にしないものである。

 今日もおそらくは給油だけのつもりで来店したのであろうが、見かねた池谷が点検を勧めたのであった。

 

 既に道具の準備を終えて待っている拓海の前に車を置き、キーを渡して後は彼女に任せるだけ。自身は表での接客に戻ろうと背を向けた時、拓海の方からイツキに話しかけられた。

 

「朝の話だけどさ。ごめんね。実は今日の夕方って車使えそうになかったから、誰かに送ってもらうしかなくって。ガソリン代は出すから」

「いやいいよこれくらい何でもないから。気にしないで……それにしても、話したい事ってなんだろう。バトルの申し込みかなやっぱり」

「さあ……バトルならバトルって最初からそう言うんじゃない?」

「それもそっか。じゃあ、オレ戻ってるね」

「うん」

 

 イツキはそのまま背を向け、今度こそ表での接客に戻ろうとするが、その時背後から聞こえた小さな声に再び足を止めることになる。

 

「あっ」

 

 振り返ったイツキが見たものは、屈みこんで何かを探す動作をしていた拓海の姿。

 

「どうしたの?」

「……キャップ落とした」

 

 小さな部品であるタイヤのエアーバルブキャップをうっかり手から滑り落してしまったらしい。こういった小さな物を紛失するのはよくある事で、店には替えの備蓄がたっぷりと置いてあった。

 

「新しいの持ってこようか?」

「もうちょっと探してみて、無かったら持ってくる」

「わかった」

 

 とはいえ、預かり物をなくさないに越したことはない。まだ探すつもりの拓海にここは任せて、自分は表に戻って一人奮闘中の先輩を手伝うべきだと判断。

 そうして返そうとした踵に、こつんと何かが触れた感触があった。

 

(……ん?)

 

 見れば、今まさに彼女が探しているであろう品のキャップが転がっている。思ったより遠くまで飛んで行っていたようだ。

 何気なくしゃがんでそれを拾い、発見を伝えようと顔を上げたイツキの目に驚きの光景が飛び込んできた。

 

(!)

 

 車の下を探そうと、膝をつき、限界まで上半身を下げて暗闇を覗き込んでいる拓海の後ろ姿である。

 女子用制服のミニスカートの裾が持ち上がり、上着側に至っては前かがみの姿勢のせいで裾が重力でずり落ち中のシャツが見えている。

 

(……)

 

 何の変哲もない安物の白いシャツであるが、普段見えないものが見えていると何だかそれがお得なものに思えてくるのだから人間の目というのは不思議なものである。

 

 視線の先にいる拓海が動いた。ここには無いと判断し車の下から出てくるつもりのようだ。

 上半身を引き抜く際にスカートの裾がまた若干持ち上がった。思わずこちらの顔も動いて視線を下げてしまう。

 

(……ってそうじゃない!)

 

 暗かったとか黒かったとか言っている場合ではない。

 

 こんな場面を本人や第三者に見られでもしようものなら武内イツキという人物の社会的信用は地に落ちることになる。

 慌てて立ち上がると周囲を見渡し、こちらを見ていそうな人物がいないかチェックする。

 中にいるであろう店長などは心配ないだろう。壁の向こうなのだから見えるはずがない。

 

 続いて池谷先輩。こちらも大丈夫そうだ。給油ノズルを握っている状態でよそ見などできようはずもない。

 最後に他の客。これも問題ないだろう。給油待ちの行列でもできていてれば危なかったが、幸いにも一度に複数台が来店することはなかった。順番待ちで暇を持て余した客が暇つぶしに店内の様子でも眺めていたらどうなっていたことか。

 その口から出た噂が巡り巡って池谷先輩や拓海の耳に入らないとは限らない……そんな回りくどい事態よりその場で吹聴される可能性の方が高そうだが。

 

(うん、何も無かった。大丈夫)

 

 先ほどまでの光景は自身の海馬の片隅へいったん置いておき、立ち上がった拓海に今度こそ失せ物の発見を告げる。

 

「え、そんなところにあったの?」

「う、うん。オレも偶然目に入っただけだし、見つからなくても無理はないよね」

「そうだったんだ。探してくれてありがと」

「ど……どういたしまして」

 

 額の汗をぬぐいつつ礼を述べる拓海の姿に、イツキはいいようのない罪悪感を感じるのであった。

 

 

 

 

 

 そして冒頭に話は戻り、池谷とイツキがそそくさと湖から離れていくのを横目に見送りながら、拓海は佐藤真子からの声を待つ。

 

「ええと、仕事の日に呼び出してしまってごめんなさい。でも、どうしても貴方と話してみたかったんです。同じ女性の走り屋のあなたと話せば、何か分かるかもしれなくて」

「いえ、仕事は気にしないでください。別に無理はしていませんから」

 

 拓海は相槌を返す。というか、何か問いかけられたわけではないので他に何も返しようがないのだが。

 

「あの、池谷さんって、藤原さんから見てどんな人ですか?」

「いい人ですよ。素敵なプレゼントや、お洒落なデートができるような、いわゆる女性ウケするような人とは遠いと思いますけど、それでも。佐藤さんは、池谷先輩の事はどう思っているんですか」

「……優しい人だと思います。この人は、きっと私の事も大事にしてくれるんだろうなって、思えます」

 

 真子は数分前まで池谷のシルビアが停まっていた駐車場の枠を見ていた。

 

「私、以前から悩んでいたんです。最近、周りからの圧を感じるようになってきて。今はまだ感じるだけですけど、もう何年もしたら、はっきり言われるようになると思うんです。いい人はいないのか、将来の事はちゃんと考えているのか、と」

「……」

「将来の事ばかり頭にちらつくようになって、走るのにも集中できなくなって。それで、私はもう走り屋をやめよう、って決意したんです。でもただ消えていなくなるのも嫌だから、最後に思いっきりバトルがしてみたい。そう考えていた時に、池谷さんと出会ったんです」

 

 まさかその最後のバトルの直前に出会いが転がってくるなんて予想はしていませんでしたけど、と真子は苦笑いをしながら言った。

 

「……でも出会いがあったなら、佐藤さんが走り屋をやめる理由も無くなるんじゃないですか?」

「そう、ですね」

 

 ここで真子は視線をかつてシルビアがあった場所からシルエイティに移した。

 

「不安なんです。辞める必要がなくなったのに、それを素直に喜んでいない自分がいる。憧れて入った世界のはずなのに、もうやめたがっている自分もいる。私って、こんな中途半端な人間だったのかなって。池谷さんはあんなに真っすぐ私の事を見てくれるのに」

 

 続けるにせよ、辞めるにせよ、今までの自分がやってきた事にけじめをつけたい。中途半端な己のままでは池谷浩一郎のような素敵な人にはとても釣り合わない。

 

「だから……お願いします。私と、バトルしてはいただけませんか。走り続けてきたこの数年間で、私がどれだけの物を積み上げられたのか知りたいんです」

 

 

 一見軽薄そうに見える走り屋でも、地元の意地を始めとする、なにがしかの『重い』ものを背負ってバトルに臨むことはままある事だ。

 だがそれらとは別ベクトルで重たい真子の口上を耳にしながら、拓海は内心でげんなりとため息をついた。

 

(真面目な人だなぁ。そんなに思いつめなくてもいいのに)

 

 ただ一言でよいのだ。走りたいから走るだけ。戦争じゃないのだから、バトルするのにいちいち理由など用意する必要はないのに。

 よほどの理由が無ければ相手は断ったりなんかしない。

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 とはいえ、こういった女性の方が池谷浩一郎という男とは上手くやっていけるかもしれない。

 

 

 次の週末の夜、碓氷峠に向かう事を拓海と真子は約束。そしてこの約束は真子の親友たる沙雪、その幼馴染たる慎吾を通じて各所に知れ渡ることになり、大勢のギャラリーが碓氷に押し寄せることになるのはもう少し先のお話である。

 

 

 



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秋名発、碓氷行

 夏の長い日の中でもようやく気温の下がり始める夕方の時間帯、どこにでもあるありふれた二階建ての一軒家の先に白いハチロクトレノが止まった。

 近づいてくる音を聞き既に玄関先に待機していたイツキは財布などの最低限の荷物をポケットに押し込むと、他の部屋から漏れ出すエアコンの冷気で誤差程度には過ごしやすくなっていた玄関から熱気充満する屋外に出撃するべくドアノブに手をかける。

 

「イツキー」

 

 背後からの声にノブを回す手を止めて振り返れば、イツキの前にはにこやかな顔で佇む彼の母親が。

 イツキをもう少しふくよかにして二十年ほど経たせればこんな感じになるであろう、イツキが母親似であることがよく分かるくせ毛の優しそうな中年女性である母親が、やけに、嫌ににこやかな顔で玄関に立つ。

 

「……なんで見送りなんかに来てんだよ。気持ち悪いぞその笑顔」

 

 高校生にもなって、ただ出かけるだけで親の見送りだなんてどういう事か。

 

「いやだって、いつも以上にソワソワしてるもんだから」

「いつもと一緒だって。てか一千歩譲ってそうだったとしても関係ないだろ」

「そうね、関係ないわね。で、どこ行くの?」

 

 イツキが多少の口先の攻撃を試みても、その笑顔はまるで剥がれる気配が無い。

 

「碓氷峠だよ……ああもう、行ってくる。玄関から顔出してくんなよ!」

 

 追い払う事は難しそうなので、もうさっさと家を出てしまおうと今度こそ手をかけた時、ドアの向こうから呼び鈴の音が鳴り響いた。

 先ほどまで聞こえていたはずの4A-Gのエンジン音が聞こえなくなっている。

 待っていてもイツキがなかなか出てこないから向こうが来たのだ。

 

「……」

「とりあえず、開けてあげたら?」

 

 既に靴を履き、最も近い位置にいたイツキがドアを押し開けると、そこにいたのは予想通りの人物、藤原拓海であった。

 

「えっと、ごめん、今出ようとしてたとこで」

「あらあら……ん?」

 

 何してんの、と目で問いかけている拓海とあたふたするイツキをニコニコと眺めていたイツキの母親はドアの向こうに止まる車の側面に記された文字に気付く。

 

 藤原とうふ店と言えばご町内では割と有名な店である。

 豆腐屋の現主人、藤原文太の若い頃のやんちゃぶりは町の古くからの住民にとっては有名である。いつも頭の中は車と峠の事でいっぱい、暇さえあれば、時には深夜にすら家を飛び出すクルマ狂い。

 夜の峠以外の場所では大人しくしており、また何かしら家業がある者なら早朝から活動していることは多いのでご近所からの白眼視は無かったようだ。

 

 因みに、一人娘の方が店番に立つようになって以来景気がいいらしい。

 元々手作りならではの、スーパーの大量生産品では出せない味わいを求める常連がそこそこいたようだが、接客担当が不愛想な中年男性から交代した事がリピーターの増加に効いているらしい。

 以前町内会の寄り合いで、特定の曜日、時間帯だけ客が増える現象に複雑な気持ちになる事をぼやいていた、と同じ会に参加していた知り合いに聞いた事がある。

 

「もしかして、豆腐屋の藤原さんの娘さん?」

「そうですけど……初めまして、藤原拓海です」

「こちらこそ。しっかりしてそうな人が近くにいてくれて助かるわ。親が言うのもなんだけど、うちのイツキってすぐ調子に乗るような子でねぇ。あ、よかったらお茶でも……」

「ああもう、余計な事言わないで。もう行くから!」

 

 踵を返そうとするイツキの肩をそっとイツキの母親が掴んで耳元に口を寄せた。

 

「やるじゃない。イツキが女の子作れるなんて母さん正直期待してなかったわ。簡単に離しちゃだめよ?」

「そういうんじゃないから、ほっとけ!」

 

 

 

 住宅街を抜け、高速へと向かう県道を走行するハチロクの助手席で、イツキは窓の外に目を向けたまま拓海に話しかける。

 

「さっきはごめん。お袋も悪気はないんだけど、たまにうざくなる時が」

「いいよ、私も別に嫌じゃないし。一緒にいて楽しそうなお母さんでいいじゃん」

「えー」

 

 そうかな、ととりあえずの反論を試みて運転席の側へ振り向こうとしたイツキの体を、強めのブレーキの衝撃が襲った。

 

「わわっ……どしたの?」

「前、塞がってる」

 

 イツキが前を見れば、前方の交差点の中で、対向車線から右折しようとしていた若葉マーク付きの車が一台立ち往生している。

 

「私の前が開いてたから入ってこようとしてたみたいだけど、失敗してエンストみたい」

「あー、交差点とか一番恥ずかしいやつじゃん」

 

 おそらく、発進時にアクセルを踏みすぎ、勢いに驚いて思わずペダルを戻してしまったのだろう。

 慣れたドライバーならそもそも踏みすぎないか、踏みすぎに気付いてもそのまま発進を続行する場面だろう。 

 

「急ブレーキしたけど、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫、こんなので参ってたら走り屋は名乗れないって……」

 

 こちらをのぞく拓海と数秒間、目が合う。

 

「……」

 

 前方で例の右折車が脱出に成功した様子を横目に捉え、前に目を戻した拓海に合わせて、イツキも無言で前を向いた。

 

 

 イツキは顔を前に向けたままで、ちらりと隣を盗み見た。

 車を無駄にギクシャクさせることなく、静かに穏やかに走らせる拓海の姿が目に入る。緊張のかけらもないぼんやりした横顔から視線が下がり、白い首筋、そしてシートベルトに締め付けられた胸元が映りそうになった段階でさっと視線を戻す。

 

(……母ちゃんが余計な事言うからまた意識しそうになってるし)

 

 イツキは自分があまり異性に受けの良い、つまりモテる男だとは思っていない。お調子者らしく積極的な行動に出てみた例は過去にいくらかあるが、そのいずれもロクな結果にならなかった。

 緊張して何も話せずに終わるか、調子に乗って自爆して笑いものになるかの二択である。

 そんなイツキにとって拓海とは初めての親しい異性であるし、初めて向こうから近づいてきてくれた異性であった。モテたいがモテない男らしく、初めての相手を滅茶苦茶に意識していた。

 

 

 イツキと拓海の交流の始まりの頃。

 雑誌で見かけたAE86のデザインに一目ぼれし、免許取得後の野望として一人屋上でカタログを眺めていたイツキの背後に誰かが立った気配があったが、友人の誰かであろうとさして気に留めなかった。

 そして次の瞬間、視界に入り込んだ、どう見ても男の物ではない綺麗な指に心臓が口から飛び出そうになった事を覚えている。

 AE85という車が存在する事を初めて知ったその日から彼女との交流もスタートしたのであるが、その初期の頃、イツキはとてつもなく緊張していた。

 

 普段のぼんやり顔とたまの真剣な表情とのギャップ、優秀な成績、セーラー服の下から存在を主張する大きなふくらみ、と拓海の男子生徒からの評判は割と高い。

 女子間の評判についてはその方面のツテが無いので不明だが、誰かともめた等という話は聞かないので無難以上ではあるのだろう。実際はとある女がらみの悪い噂の絶えない先輩との一件で、怒らせると怖い、という噂がまことしやかに囁かれ、周囲から畏怖と好感を得ていたのであるがそれは彼の知るところではない。

 

 内心はガチガチで、表面はできるだけ爽やかを演じながら絞り出した挨拶をにこやかに返してもらえた時、ついに我が世にも春が訪れたかと家で一晩中にやけていたものである。

 そして翌日、己の得意分野でなら会話を弾ませられるだろう、と車に関するネタの数々をふり、そして片端からガセと勘違いの訂正をされて赤面した。

 

 

 ともあれ、しばらく交流を続けていれば向こうはこちらの事を友人として扱っており、当初期待していたようなものはない事はすぐに分かる。なのでこちらもできる限り友人として、性別を意識しないような振る舞いを心がけてきたつもりである。

 ようやく自然体に近い態度で接することができるようになっていたところへ誰かが余計な一言を付け加えてくれたお陰で、抜け始めていた異性としての意識がまた戻ってこようとしている。

 

 

 このままではよくない。

 車内という狭い空間で無言の二人きり、という良くない状況から脱すべく、何かしら話題を探してみる。

 

「そ、そういえばさ、今日のバトルの事だけどさ」

「なに?」

「池谷先輩も言ってたけど、夕方から移動でよかったの?」

 

 初の秋名以外でのバトルとなる今回、池谷達はもっと早い時間、できるなら早朝から碓氷峠に乗り込んで練習走行を行っておくことを提案していた。

 

「いいよ。一日練習なんてしてたら本番で使う体力なくなるし、家の事もやりたいし」

「そ、そうだよね結構疲れるもんね走るの……自信あるの?」

「それはやってみないと分からないけど……やるからには勝ちには行くよ」

 

 運転席から拓海が顔をこちらに向けた。

 

「ねぇ」

 

 黒い大きな双眸に静かに見つめられ、イツキは思わず息をのんだ。

 

「今回の相手だけどさ。私が勝ったら、池谷先輩は喜ぶかな。それとも悔しがるかな。どっちだと思う?」

 

 池谷が佐藤真子に大層入れ込んでいることはもはや誰もが知るところではあるが、果たして今回池谷はどちらの味方なのだろうか。

 普通に考えればこちらの味方であるが、内心では秋名の勝利を喜べない可能性も全くのゼロとは言えない。もしかすると、負けてほしいとすら思っているかもしれない。

 

「ええと……池谷先輩がどっちの側かは分からないけど、勝って良いと思うよ」

 

 だが、もしこちらが負けたとしても喜ぶようなことは無いだろう。

 どちらが勝ったとしても、それが切っ掛けで関係が拗れるようなことは無いであろう。イツキの知る池谷浩一郎という人物はそういう事をしそうな男ではない。

 

「それに、先輩がどうであれ、オレは拓海ちゃん応援だし」

「……ありがと」

 

 それきり前に向き直ってしまった拓海の横顔を見ながら、再び無言になった車内でイツキはさらなる話題を探してひたすら頭を唸らせていた。

 

 

 

 

 ようやく日が落ち始めてきた、まだまだ明るい夏の夕方の碓氷峠をシルビアでゆっくりと登りながら、池谷は助手席の健二に声をかける。

 

「ここが碓氷峠か。これまたえげつない曲がりくねりっぷりだな。秋名とかに比べても道は荒れ気味だし、パワーが無い側にとってはありがたいかもな」

「確かにそうだけど、地元はそんなこと百も承知だろうし……勝てると思うか、池谷?」

「……」

 

 木々に覆われ見通しが良くないコーナーの先を覗きながらの何気ない問いかけに、池谷は黙り込んだ。

 

「あっ……すまん、池谷的には答えづらいよな」

 

 どちらの側にも立ちづらい心情にあるだろう池谷に、健二は質問を引っ込めようとする。

 

「いや、いい。オレは今回は拓海ちゃん応援と決めてるんだ」

「……いいのか?」 

「オレは秋名のリーダーだからな。秋名の走り屋を応援しないわけにはいかねぇよ」

「まあ、そうだよな……すまん、余計な心配だった。オレはてっきり盲目になった池谷が何かやらかすんじゃないかと心配で」

「お前オレを何だと思ってる」

「秋名一モテない男……いてっ!」

「うるせぇ、今年こそその汚名も返上だ!」

 

 池谷と健二が車内で運転の傍らにつつきあいを始めた横を、さっと加速して追い抜いていった一台の白い車がいた。

 

「いてて……あれ、今の白いのってもしかして」

 

 右肩をさすりながら、今しがた追い抜いていった白い車のテールを健二が見つめる。

 

「高橋涼介じゃねぇか……やっぱ赤城の連中もギャラリーに来てたか」

「あいつら、拓海ちゃんがバトルするとなるとどこからともなく湧いてくるな。黄色の方はいないのか?」

 

 二人で周囲を確認してみるが、それらしき姿は見えなかった。

 

「いないな……黄色といえば池谷、最近妙義山の方で高橋啓介のFDが目撃されるようになってるらしいけど、知ってるか」

「妙義か。あいつら、てっきり秋名にリベンジしに来ると思ってたのに、そのまま次へ行ったのか?」

 

 秋名山での交流戦で高橋啓介が敗れて以来、高橋涼介の出陣を予測する声は多く、池谷や健二らも観戦希望の他山の走り屋達からリベンジ戦の申し出は無いのか、と度々聞かれてはいた。

 

「まさか負けっぱなしで終わり、なんてことはないだろうけどな。赤城に知り合いがいるヤツに探ってもらおうとしたけど、よく分からん」

 

 健二が知り合いの知り合い経由で探りを入れても、判明するのは意味不明な情報ばかり。

 

「再戦の声はあるらしいけど、高橋涼介がストップかけてるとか。その高橋涼介にしたって、ここ最近は赤城に姿を見せなくなってるらしい。何処で何やってるかは弟ですら把握してないって話らしいぜ」

「昼間が忙しいだけじゃないのか?」

「だったら安心なんだけどな。何考えてるか分からん天才ってのは怖いぜ……」

 

 何かしら企んではいるのだろうが、何を考えているかなど凡人には到底理解が及ばないであろう。

 何か奇策を練っているのかもしれないし、蓋を開けてみれば案外しょうもないことかもしれない。

 

「ま、秋名でなら何が来ようと拓海ちゃんならどうにかなるだろ」

「あの子で無理ならオレらどうしようもないからな。それはそれで情けないけど」

「……今は目の前の事に集中しようぜ。言ってて悲しくなってきた」

 

 空が赤く染まり、一部には夜の闇も浮かんできた碓氷の空に、集まり始めたギャラリー達の排気音がささやかに響いていた。

 

 

 

 

 



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前か、後ろか

 

 

 

 碓氷峠の頂上は秋名の山のソレと違い、多数の人車が身を置けるスペースなどない。そのため観戦に来た者たちはいったん頂上を通り過ぎ、コースとは逆方向、峠の長野県側に車を置いて徒歩で戻ってくるというルートを強いられることになった。

 

 時折通るそれらの車両の邪魔にならぬよう道路脇に寄りつつ集まった本日の主役たる面々の一角、沙雪は、今日初めて相対する拓海の姿を一目見ると、そっと目をつむって考え込む。

 

(年下の女の子とは聞いてたけど……)

 

 事前に真子や慎吾の話は聞いていたが、実際に目の当たりにするとやはり衝撃である。

 運転技能は一朝一夕で身に付くものではない以上、上手いドライバーにはどうしても年配の者が多くなる。

 真子のように二十代に入ったばかりの歳で自在に車を振り回せるだけでも相当なものである事は疑いない。それよりも下、つまりまだ免許を取得したばかりであろう十代の子供がその域にいるなどという事は、常識的には考えづらいものである。

 沙雪としては理解を拒みたくなるような事実である。自分たちが三年掛けた艱難辛苦の道のりを三日で踏破してきたヤツがいるなど考えたくもない。三日は言い過ぎだが、十八歳という情報が事実なら、どれだけ長く見ても免許を取って数か月以内である。何をどうすればそんな短期間で上達できるのやら。

 これで同性だとくれば、嫌でも何かと意識せざるを得ない存在である。 

 

「ええと、あたしは真子のコドライバーやってる沙雪。今日のバトルでも真子と一緒に走るから、よろしくね」

 

 すっと手を伸ばし握手を求めると、周囲から驚いたような声が上がる。一人で走る事が大半の走り屋の世界で助手がいるというのは珍しい。

 女とはいえ、大人一人となればそれなりの重量になる。車が50kg重くなればその差は明確にタイムに現れるだろう。そのハンデを背負った状態でバトルに挑もうというのは。相手によっては挑発にも受け取られるかもしれない。

 

「藤原拓海です。よろしくお願いします」

 

 握り返された手に、特に込められたものは感じ取れない。

 ならば目を、と相手に視線を向ける。向こうの方が身長では上なので僅かに見上げる形になりながら彼女の目を覗いてみる。

 

 そこにあったのは、じっと見つめてくる沙雪に疑問符を浮かべるぼんやりとした黒い瞳だった。

 

(ああこれ、何も考えてないヤツの目だわ。ド天然の目)

 

 どんなヤツか見てやろう、と意気込んでいたのが馬鹿らしくなるような気の抜ける顔である。バトル前のドライバーがよく顔に浮かべるような、自信や緊張といった要素が欠片もない自然体。

 

 思わず笑いそうになるのを微笑むだけに堪えて、改めて藤原拓海という人物を観察してみる。

 身長は高い。160は優にあるが、170まではいかないか。

 スタイルもかなり良い。出るところはかなり出ているが、こういう手合いに多いぽっちゃり感は無い。筋肉質な感じはしないので、せいぜい日常レベルの運動量でこの体型なのだろう。体型維持のために多大な努力を心がけさせられる沙雪としてはいっそ恨めしい。

 体重だけはこちらが勝ってそうなのが慰めか。

 天然感漂う雰囲気は年齢相応、あるいはそれ以下の幼い印象を相手に与える。今までの対戦相手はまず彼女が本当に免許を持っているかどうかからまず疑ったであろう。

 

 格好はシャツにジーンズ。当人の容姿のお陰で最低限見れたものにはなっているが、正直その辺の貧乏な走り屋小僧でももう少し小洒落た恰好をするだろう、と思う。

 目立つのが嫌であえて地味に振舞う娘というのもいないではないが、当人を見る限り意図してやっているのではなく単に無頓着なだけに違いない。

 

(とはいえ、これは良い偶然ね。計算づくで戦うタイプより、センス一本で突っ走る天然の方が真子との相性はいいはず。悔いのない晴れ舞台になりそうなのは良かったわ)

 

 ついでに、このバトルが終わったら連絡先を聞き出して、その服飾センスの矯正を試みようと沙雪は決意する。真子にも多少手ほどきをしたことはあるが、こういう無駄遣いされている素材を見ると一言言ってやりたくなる。

 

「……あのー?」

 

 黙したまま長時間見つめていた目の前の瞳の疑問符が怪訝に変わる。

 

「え、あーごめんごめん、何でもない」

 

 何にせよ、今は目の前の勝負。

 沙雪は先ほどまでの走りと関係ない考えを捨てて、今日の本題に入る事にする。

 

「えーとそれで、今日のバトルについての話に入るけどさ……見ての通り、碓氷の下りってスタート地点から第一コーナーまでの間がすごく短いの。道も狭いし、横に並んでヨーイドン、ってのは難しいから、ここでバトルをする時は縦に並んでスタートするようにしてるの。先行後追いって私らは呼んでるけど」

 

 前にいる側が先行、後ろ側が後追い。後追いをぶっちぎれば先行の勝ち、逆に先行を追い抜けば後追いの勝ち。もつれたまま終われば前後を入れ替えてもう一本。

 

「ポジションはそっちで選んで。あたしら地元だし、それぐらいはね。相談する?」

 

 沙雪がそう言うと、拓海のすぐ後ろで池谷達が円陣を組んで会議を始める。

 

「おい池谷、どう考える?」

「どうって、このルールなら先行一択だろ。一本練習できるし」

 

 健二の問いかけに、池谷はちらりとコースを見下ろして答える。ここまで登りながらコースを眺めた感想として、池谷は先行有利と確信していた。

 狭く曲がりくねったこの峠には、秋名で言うところのスケートリンク前ストレートのような格好の追い抜きポイントと呼べそうな場所がろくに見当たらなかった。

 加えて拓海の技量があれば、いくら真子達が地元といえど追い抜きを成功させるのは困難であろう。

 先行で一本走れれば、その知見を活かして二本目で戦う事だってできる。走り込んで地元のアドバンテージを縮めることができれば勝利は十分狙えるところにあるはずだ。

 

「でも、初めてのコースなんですよね。だったら後追いもアリじゃないっすか先輩?」

 

 しかしそこにイツキが異を唱えた。

 

「前の車がいつブレーキ踏むのか見ていれば……」

 

 先行車のリズムを観察していれば、初めてのコースでも簡単には事故にはつながらない、という主張である。同じタイミングでブレーキを踏んでいればオーバースピードにはならないであろう。車の重量差が大きい組み合わせならともかく、ハチロクである。

 前の車に合わせて動き、コースの理想的な攻略法をトレースしてしまえば二本目を大きく有利にできる。

 

「……イツキの言う事にも一理あるか」

「イツキも成長してるんだなあ」

 

 池谷と健二は腕を組んで唸り始めた。

 なお、街中での運転中に、前の車のテールランプをもっと見るよう助手席から拓海に叱られた事が発想の元であることは秘密である。

 街乗りに慣れていない初心者の頃から走り屋達に交じって峠を走った結果、ブレーキのタイミングと車間距離の感覚が一般人のそれとは少々ズレてしまっていたのを指摘されたのだ。

 

「しかし、そうなるとますます難しいな」

「オレ達視点じゃなくて拓海ちゃん視点で見なきゃだめだしな……分からねぇ」

 

 組んでいた腕を解き、考えることを中断した池谷と健二は一人無言で議論を眺めていた拓海に直接尋ねてみることにする。

 

「どう思う?」

「……このルールでどちらが有利かとか、そういうのは無いと思います。ほとんど好みの問題ですね」

 

 先行、後追いのどちらも一長一短。また、例えば後追い時に相手の後ろについて走る事を、敵を観察できる利点と評するドライバーがいれば、相手のリズムに合わせて走らないといけない欠点と思うドライバーもいる。

 

「どちらかと言えば、私は後ろがいいですけど……」

「じゃあ、後追いにするのか?」

「いえ、先行で行きたいと思います」

 

 当人がそう言うなら、と後追いでまとまりかけた池谷達が一斉にぎょっとした目を向けた。

 

「えっ……でも、今後ろがって」

「そうなんですけど、ちょっと試してみたい事もありますし。そのための先行です」 

 

 拓海はふと池谷から目を離すと、周辺で遠巻きにこちらを見ているギャラリーの一団に目を向けた。池谷達がその視線を追った先にいたのは、ギャラリー達の中でも一際目立つ、存在感溢れる兄弟がいた。

 

 

 

 

 スタート地点の数少ない駐車可能な場所に置かれた赤城の象徴、白と黄色のRX-7と妙義のステッカーを張り付けた赤色のシビックEG-6を背に、四人の男が揃って一方向を向いて佇んでいる。

 

「なあ、あの二人お前の知り合いだって言ってたよな」

「片方な。小学生の頃からの腐れ縁だ。で、それがどうかしたか?」

 

 高橋啓介は愛車に軽く体重を預けつつ、今夜のバトルの情報を流してきた相手でもある妙義のナンバー2、庄司慎吾に問いかける。

 

「あのシルエイティの二人組はどういう走りをするんだ?」

 

 啓介はポケットから煙草の箱を取り出すと、喫煙の支度をしながら言葉を続ける。

 

「オレも色んな走り屋を見てきたつもりだが、ああいうのは初めてだ。赤城にいるどんなタイプにも当てはまらない。だから気になっただけだ」

 

 火をつけた煙草を咥え、啓介は吸わずにただ煙を味わう。慎吾は煙を嫌がるようにそっぽを向いた。

 

「……あいつらは上手い。上手いが、速さはまだまだ甘いってところか。あくまで車を振り回して楽しむのがメインだしな」

 

 慎吾はシルエイティタッグの片割れ、沙雪を視界の中心に据えて話を続ける。

 

「もちろん、タイムを削る事を意識していないわけじゃない。ただコンマ一秒になりふり構わない程熱を上げているわけじゃないってだけだ。まあこれは碓氷には他に競う相手がいなかったってのも要因ではあるだろうが」

「……待て慎吾」

 

 慎吾の話を遮って、隣にいた妙義のリーダー、中里毅が声を上げる。

 因みに彼の愛車であるR32GT-Rはここには無い。妙義から碓氷までは慎吾のシビックに同乗していた。

 交通費が勿体無いから仕方なく、本当に仕方なく二人で協力する事にしたのだ。

 

「甘いって表現がイマイチ分からん。そんなとろい走りをするような下手なドライバーにはとても見えんが……」

 

 中里の目が真子を見据える。彼女は速い、彼の直感は間違いなくそう告げている。

 走りを直に見たことがあるであろう慎吾の話を否定する気はないが、納得するにはもう少し材料が欲しかった。

 

「甘いってのはまだ突き詰める余地が残ってるって事だ。お前も前はFR乗ってたんだから分かるだろ。綺麗なドリフトができるヤツは多いが、本当に速いドリフトができるヤツは少ない。タイムやバトルの勝利への貪欲さがなけりゃ、そういうテクニックってのは身に付きづらい」

「そう言う事か……」

 

 カウンターを大きく当てる派手なドリフトはとても見栄えが良い。観衆は盛り上がるし、ドライバーもマシンを思うがままに操る陶酔感に心地よく浸れるだろう。

 しかし、そこから先に進めるものは少ない。何を足し、どこを削れば速くなれるのか。ただ楽しむだけでも、ただ我武者羅なだけでも、それに気付くことは困難だ。

 

「だが、無駄と余裕ってのは区別が難しい。個人差も大きいしな」

 

 啓介が煙草を消しながら後を続ける。

 

「削っちゃならない無駄まで削り落して自爆するマヌケは赤城にも大勢いたぜ」

 

 無駄と安全マージンはとてもよく似ている。

 その境目を読み違えた走り屋は、もれなくガードレールに突き刺さる事になる。

 

「その辺突き詰めた走りとなると、神経すり減らす地味な走りになるしな。一人でやってて楽しいもんではないな」

 

 当人たちにとっては全開のつもりでも、それが本当に限界かどうかは分からない。

 無意識のうちに己の手足にリミッターをかけているかもしれない。今までマシンの限界だと思っていたそのラインは、本当は人間側の恐怖による自制心かもしれない。

 

「一番手っ取り早い方法は自分より上手いヤツと走って、まだ行ける、もっと攻められるって現実を見せつけられる事だろうが、それができるヤツが身近にいなかった」

 

 啓介はここでちらりと一方的に敵認定したハチロクの足を睨みつけた。

 足の性能は間違いなくこちらが上なのに、あの車と同じ速度で走れない。全く別の車種になったかのように暴れるFDを必死で抑え続けたあの戦いは、啓介の限界という名の思い込みを微塵に打ち砕いた。

 

「……このバトル、もしあのシルエイティが先行なら、どこかしらでサクッと抜かれて終わるだろうな。このコースは狭いが、それでも勝負に出られそうなポイントはある」

「もし沙雪達に勝ち筋があるとすれば、それは後追いだ。まだペースが上がり切らないうちにどれだけ目で見て盗めるか。そういう勝負になるな」

 

 啓介と慎吾が横目で視線を交わしながら話す隣で、中里が声を上げる。

 

「始まるみたいだぞ、ハチロクは……先行か!」

 

 眠っていたシルエイティとハチロクのエンジンが目を覚まし、その音に車が好きで仕方ないギャラリー達も活気づき始める。

 

 静かにそろそろと走り始めたハチロクと、その後背にぴったりと張り付いたシルエイティ、二台のテールランプが第1コーナーの向こうに消えると同時に、闇をつんざく二重奏が一帯に轟く。

 

「始まったぞ、全開走行だ!」

 

 ギャラリーの誰かが吠えるがいなや、ギャラリーの歓声が中里達の聴覚を押しつぶした。

 

 

 

 

 歓声とどろく一団から一歩下がり、啓介は先ほどから微動だにしない隣の長身に声をかける。

 

「なあ、アニキ。さっきからどうしたんだよ。黙って突っ立ってさ。何か言ってくれよ」

 

 彫刻のように動かず、喋らず。ただ今宵の主役たる三名を見つめていた高橋涼介は、ようやく、啓介主観では約二時間ぶりに口を開いた。

 

「少し考え事をな」

「アニキの事だから、やっぱあの二人についての分析でもしてたのか?」

「……啓介、もし藤原と戦うとして、お前はどう、走りたい」

 

 涼介はうっすらと隈のうかぶ瞼を閉じる。

 

「……どう、って?」

「何でもない。忘れてくれ」

 

 この兄が余人には理解しがたいことを言うのはいつもの事だが、ここ最近は輪をかけて変な気がする。

 

「アニキ、最近あっちこっち遠出してるみたいだけど、ちゃんと休んでるか? チームの皆も姿見せないから心配してるぜ」

「善処する」

「……」

 

 それっきり再び自分の世界に閉じこもった涼介の姿に、啓介は満天の夜空を仰いでため息をついた。

 

 



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未知の攻略

 

 最初のコーナー直後に早々に二速へと切り替え、荷重をかけるために僅かにブレーキペダルに足を乗せる。

 碓氷峠の下りは開始直後から激しく道が左右にくねる。

 左を抜けたと思えばもう目前に右が見えている。一秒にも満たない直線区間の間に何度もアクセルとブレーキを踏みかえてはラインを描くための位置取りを整え、次へと飛び込む。

 何十、何百と数え切れないほど走り込んだ真子達は、最良の加減が完全に手足に染みついていると自負していた。

 

「……へえ、やるじゃん」

 

 助手席で沙雪がにやりと笑った。

 今、真子はほぼほぼ己のリズムで最序盤を走り抜けた。それはつまり、先行車に合わせてペースを落とす必要がほとんど無かったという事だ。

 これがもっと下手なヤツであれば、追突防止のために苛つきに耐えながらもっとブレーキを踏み足してやらなくてはならなかっただろう。

 

「そうでなくっちゃ、先の楽しみがなくなるわ」

 

 運転席の真子も口角をあげて先のハチロクを見つめる。

 ハンドル握ると人が変わるタイプ、と沙雪に評される真子は獰猛で積極的な攻めの運転で、煽り立てるようにグイグイと車間を詰める。

 

「まだまだ、こんなモンじゃないよ私たちの本気は。どこまで逃げられるかしら……」

 

 この左を抜ければ、ここでようやく直線らしい直線が現れる。

 今夜初めての出番である三速ギアと共に躊躇いなくアクセルを踏み抜き加速するが、ハチロクとの距離は中々変わらない。向こうも恐れることなく全力での加速を選択している。

 ここがもっと距離のある直線ならば馬力の差で追いこせたであろうが、しかし並ぶ前に次のコーナーが迫ってくる。

 

「次の左、インベタ、グリップ!」

 

 沙雪が助手席で叫ぶ。

 真子が力強くブレーキを踏みつければ、先行するハチロクとの差が少し空く。

 一見すればよりブレーキを遅らせたハチロクの方が上手ともとれる状況、しかし真子は焦ることなく二速に落としてコーナーへと切り込む。

 ハチロクの方は、減速しつつ軽く右に車を振っている。それをドリフトの下準備と見た真子が隣の参謀役に呼び掛ける。

 

「沙雪!」

「見えてる、大外行くよ!」

 

 リアを振り出しドリフトの態勢に入ったハチロクを追って、ベタベタにインに寄せながらシルエイティを飛び込ませる。

 進入速度の差でじりじりと開いていくハチロクとの車間。それらを見ながら何かを脳裏で計っていた沙雪が声を上げた。

 

「今だよ真子!」

 

 声を耳にした真子は前を見ることなく全力でブレーキングを行う。

 

「っ!」

 

 減速のGでシートベルトに体を締め付けられながら前方を確認すれば、テールランプを煌々と光らせて減速を続けるハチロクの姿が視界一杯に映されている。

 

 先の左コーナーを抜けた先にあるのは右のヘアピン。山肌に覆われた視界が開けた時には既に次のコーナーに一歩足を踏み入れた状態なのである。

 

 左で勢いをつけすぎればこの右を曲がれなくなる。

 事故るのが嫌なら死ぬ気でブレーキペダルを踏みしめるしかない。間に合えば失速しつつも何とか曲がりきれるし、間に合わないならば崖に刺さるだけの話である。

 

 

 最初の左へ思い切り突っ込んだ時点で次の失速は目に見えている。

 よろよろになったその外側を遠慮なく追いこさせてもらう、二人の即興の策は成功しそうに見えた。

 

 既にステアリングは左には切られているので次は右に、シルエイティの鼻先をその頭にかぶせるべく空いているハチロクの左サイドへとボディをねじ込みにかかる。

 

「……真子っ!」

 

 沙雪の警告とほぼ同時に、再びシルエイティの視界がハチロクの右側面で埋め尽くされる。

 

 目の前でハチロクが横を向いている。それだけならばさして驚く事ではない。

 曲がり切れない、と判断して自らスピンする事を選ぶ可能性は十分にありうる。むしろ、その程度の判断ができる技量はある、と信じたからこそこうして仕掛けたのである。ねじ込まれてパニックを起こしそうなヘタクソに仕掛けて、こちら諸共事故られては大変だ。

 

 しかし、目の前のハチロクの挙動は明らかにスピンではない。

 ブレーキングを中断し、並びかけられていた状態を脱して車を回すスペースを確保。即座に全力でステアを切って車体を右に向ける。明らかにこのコーナーをクリアしようとしている動きである。

 

 大きくカウンターを当てた姿勢を維持しながら、イン側のガードレール目掛けて突っ込んでいく。

 

 この狭い道路で既にハチロクが横を向いている今、シルエイティが割って入るスペースはもうない。

 仕方なくこちらもハチロクの後に続く形でコーナーへ進入、並んで横を向く。

 内寄りのラインのハチロクと、外寄りのラインのシルエイティ。魅せるだけのドリフトでもここまでする事は滅多にないと言える程のカウンターを当てて、眼前のハチロクは懸命に制御を試みている。

 

(それ、曲がれるの?)

 

 すべき減速を途中でやめ、無理矢理方向転換したハチロクの速度はまだかなり高い。走り慣れた真子でもその速度、ラインで曲がれるかと問われれば、自信は無いと答えるほかない。

 

 隣で沙雪が息をのんだ音が聞こえた。

 

 なぜそれでぶつかっていないのか驚くほどガードレールをスレスレで抜けたにも関わらず、ハチロクの車体は外、山側に向けてどんどん膨らみ続けている。

 これだけインを攻めてなお、足りないのだ。

 

(ぶつかる……!?)

 

 あわやの事態も覚悟しそうになった真子と沙雪であるが、しかしハチロクはすんでのところで立て直しに成功、何事も無かったかのように猛然と加速し始める。

 

 

 逃げる相手を見てほぼ反射的にアクセルを踏みなおしながら、真子は隣の沙雪に目だけを向ける。

 

「沙雪……」

「うん、見てた。何今の……普通、やれそうと思ってもやらないよ。失敗した時のリスクが大きすぎる。相当自信あったね、あれ」

 

 信じられない物を見る目で沙雪が前を見つめている。

 

「まあ、今ので終わられてもつまんなかったしね。次行きましょ、沙雪」

「……そうね、隙あらばガンガン攻めてあげましょ。まだまだ始まったばかりなんだし」

 

 土壇場の底力に驚かされはしたが、同時にこちらの優位も確認できた。

 まだまだ落とし穴はたっぷりとある。右かと思えば左、左かと思えば右、今見えてる景色が信用できない碓氷のコーナーの恐ろしさを思い知るのはこれからである。

 

 

 

 べったりと張り付いている一対の光をミラー越しにちらりと確認し、拓海はまた正面に視線を戻す。

 

(ああもう、バンパー擦った)

 

 それなりのマージンは確保した上で飛び込んだつもりであったが、先の右コーナーはそれでも久々に肝が冷える思いをした。

 積み上げた数多の経験と『記憶』から算出される予測……行ける、との直感からの声を信じてブレーキペダルから足を離した拓海であったが、その結果はコーナーこそ辛くもクリアしたものの、膨らみすぎで車体の左後方を山肌に僅かに接触させてしまうものとなった。

 

 直感が間違っていたわけではない。脳裏には速度こそ大きく犠牲とするものの、ぶつける事無くギリギリで曲がり切れるラインが明確に描けていた。

 原因は操作ミスである。

 この動きを実現させるには、右へ左へステアリングを大きく、素早く回す操作を要求された。拓海は自身の身体能力の許す限りの速度で回したが、それは直感の要求した速度には僅かに届いていなかった。

 あとほんのコンマ数秒早く車を前に向けられていれば、ぶつけずに済んでいたのである。

 

「はぁ……っと」

 

 過ぎた事への葛藤や、父の雷の事は一旦ため息と共に頭の外へと追いやり、目の前のバトルへリソースを集約する。

 

 

 当初の目論見は半分成功、半分失敗といったところ。

 

 拓海はこの碓氷峠というコースについてよく知らない。自身の記憶ともう一つの『記憶』、二人分を足しても片手の指ほども走っていない場所であり、いくつかの特徴的だった場所を除けばコースレイアウトはさっぱりと言えるほど頭に入っていない。

 そして、こういった場所の攻略において、二人分の記憶の恩恵は普段よりもはるかに少ない。かつて関東各地へ遠征を繰り返した記憶はあるが、その時は事前にコースを撮影したビデオを何度も繰り返し見てレイアウトを頭に叩き込み、前日には現地に乗り込んで練習走行を繰り返し、自分なりの攻略を形作ってから戦いに臨んでいた。

 初見の場所を、なるべく安全に、しかし速く走るというのは経験のない、苦手な分野の技術である。

 

 一方、高橋涼介は先日の秋名での交流戦前の顔合わせにて、完全初見であるはずの秋名下りを拓海以外の地元が誰も追従できない速度で駆け下りていた。彼がこうした分野にて一定のノウハウを有しているのは明らかであり、今回先行を選んだのも、あの時FCの後を走って感じたものを少しでも己の物にできないか試す実験という意味合いが大きい。

 

 

 最初は調子よく走れたが、あの左はしくじった。ストレートだからと欲張らず、しっかりと減速しておいた方がトータルではずっと速い。

 まだまだあの再現には程遠い。

 

 先の見えないコーナーに進入する時、高橋涼介はどこに陣取っていた?

 あの時のFCは、いつブレーキングを始めて、いつ止めていた?

 タイヤはどう動いていただろうか。タイヤを見れば、車にいつどのような操作が加わったか読み取れるはずだ。もう一度よく思い出そう。

 

 

 

 ヘアピンというほどきつくはないが、しかし甘い操作では抜けられない程度の小刻みなカーブを繰り返し、たまに短い直線を挟みつつ、鬱蒼と茂る木々の緑と闇の中を駆ける。

 

「……最初と比べてペース上がってきてるね。慣れてきたかな」

 

 前方を行くハチロクの走りを見て、沙雪は一人ごちる。

 先の見えないコーナーへの進入ではまだまだこちらが上であるが、先の見えるコーナーへのそれは急激に差が詰まってきている。前ほど入口で車間が詰まらない。

 沙雪の考えるこのコースの最適解とはずいぶん異なる走り方だが、それでも相当なハイペースである。真子以外の地元の車ならとうに置き去りにされているだろう。

 

「次右、狭いよ!」

「OK!」

 

 並行して真子へのナビゲートを続けることももちろん忘れない。

 まだコースは半分も消化していないのに早くもこの峠のトリッキーさに順応し始めている。いや、どれだけ順応したところで道を知らないという足枷は絶対に消えない。他に要因がある。

 

(先を知らない以上、突っ込みの上限は上げられない。なのにペースが上がってるという事は……脱出速度の方が上がってる?)

 

 脱出速度で稼げるなら、無理に進入時に速度を保つ必要はなくなる。そして進入速度を下げられるという事は、採れるラインの自由度が増すという事だ。

 そう考えたうえでもう一度走りを見てみれば、確かに最初の頃程ハチロクはコーナー入口で車体を外に振らなくなっている。

 

 スポーツ走行でのコーナリングの基本はアウトインアウトと言われるが、外に振って大回りをすれば当然移動距離は伸びる。

 外に振っても大して速度を稼げないのなら、内寄りに最短を走った方が良くなる時もあるだろう。

 

(つまり、見えない入口ではロスを最小限にすることだけ考えて、見える立ち上がりを重視するスタイルに切り替えてきた)

「ここの左、軽く流し気味で!」

 

 そう簡単に勝たせてもらえるなどとは思っていなかったが、ここまでは予測の外。今はまだ余力を持ってついて行けているが、ここからさらにもう一段ギアを上げてくるような事があれば辛い。ついて行くだけなら問題なくとも、抜きに行けるかとなれば難しくなる。

 

(なら、いっそ二本目以降に勝負は持ち越すべき?)

 

 自分たちが前に出る偶数本のタイミングで突き放しにかかるか?

 

(いや、多分ついてくる)

「次、インに寄せ気味で!」

 

 あのペースはあくまでも先が見えていないから。自分たちのリズムを見ていれば良い後追い時なら、こちらがレコードを叩き出すぐらいの勢いで走らなければ、振り切れる保証はない。

 

 もつれて長期戦、というのは最悪の想定だ。

 真子があの拓海というドライバーに唯一明確に劣っているポイント、バトルの経験の乏しさを突かれるだろう。対等なケンカに持ち込まれたなら、既に県内有数の強豪らと争った経験のある分向こうが有利。

 

(なら、一本目、なるべく早い内に勝負に出るのがベスト。このコースで勝負と言ったらあのポイントしかない!)

 

 コース中盤における難所、C=121と呼ばれる長く急なコーナー。

 下り入口から見ると広そうに見えるが、出口が狭い。ここに突っ込む未熟者はコーナーのキツさを恐れてゆっくりと進入し、そしてコーナーの長さでアクセルを踏めず失速する。ここをドリフト状態を維持したまま抜けられれば上級者、などと言う地元の者もいる。

 自分たちが一番速い、と絶対の自信を持つあの場所で前に出る。これ以上に成功率の高い作戦は他に無い。

 

「真子、C=121で仕掛ける。行ける?」

「……そういう事ね。見せつけましょ。私と同じスピードで突っ込んで、クリアできたヤツなんていないからね!」

 

 もし、向こうがC=121を対策済みであったら、とは今は考えない。

 下から一度上がってくるだけでも、C=121の特異さは嫌でも印象に残るだろう。ここが勝負所になると考え、どう乗り越えるか脳内にイメージを描いている可能性は当然ある。

 

 それでも、走り込んだ自分たちのスピードを上回っている事だけはあり得ない。

 ここで仕掛ける。自分たちならばやれる。その確信を瞳に乗せて、真子と沙雪は僅かに顔を傾けて視線を交わし、頷きあった。

 

 



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未知の攻略(後編)

 こここそがC=121である事を指し示す標識の下に、複数人のギャラリーが押しかけている。大半はここが碓氷峠アタックにおける最大の見せ場であることをよく知っている地元近辺の者であるが、一部それを見抜けた目敏い余所者もここに集っている。

 赤城レッドサンズのナンバー3こと中村ケンタもここを観戦場所に選んだ一人であった。

 

 本当は敬愛する高橋兄弟もいるであろう頂上に自分も陣取りたかったが、涼介よりここで見るよう、そして後で走りを見た感想を述べるよう指示されてしまったのでやむなくここへ来たのである。

 

 隣にはおなじくレッドサンズの一員であり、走る事は少ないが営業役や事務役としてチームの運営に大きく貢献する史浩もビデオカメラを手に立っている。

 

「なあ、レッドサンズってあの秋名のハチロクとも戦り合ったことあるんだろ?」

「そうだけど、結果は知ってるだろ?」

「そりゃ聞いてるけど……どんなヤツなんだ、秋名のハチロクのドライバーって」

 

 現在二人は地元のドライバー達に絡まれている真っ最中である。

 あまり他山との交流の無い碓氷の住人でも、高橋兄弟や赤城レッドサンズの名くらいは流石に聞いた事がある。そのレッドサンズのステッカーを張った車に乗ってきたという事で興味を抱いた地元民たちから次々と世間話やドラテク話を振られていた。

 

「ぱっと見は……パッとしない感じだった。なあ史浩さん?」

「そうだったな。そのバトルはオレが司会やったけど、本当にこの子が代表で合ってるのか、って思ったよ。ある程度上手い走り屋って皆覇気というか、自信の表れみたいなの纏ってるけど、あの子はそういうの一切無かったし。完全に自然体って感じで」

「でも走りだしたら滅茶苦茶速い。ワケ分かんねぇスピードでハチロクがかっ飛んでいくんだよ」

 

 目当ての二台が来るまではどうせ暇なのである。二人はいつしか身振り手振りも交えて交流戦、そして交流戦前の顔見せの日の話を聴衆に語っていた。

 

「へー、そんなすごいヤツなら、なおさらここ通るのが楽しみだな。シルエイティのドリフトも痺れるけど、余所者がここをどう攻略するのか見物だぜ。オレもここの振りっぱなし、やってみた事あるけどてんでダメだったぜ」

 

 ピンクのポロシャツを着た地元の走り屋の一人がC=121の先を見つめて言った。

 同じく挑戦経験があるのであろう、複数の走り屋が懐かしむように同じ方を向く。

 

「このC=121とかいう場所だけどさ……そんなに難しいのか?」

 

 ケンタはコーナーの頭から終わりまでを視線でなぞる。

 何やらとんでもない難所のように彼らは語っているが、ケンタにはそこまで難しいとは思えなかった。

 

 勾配やRのキツさはかなりのものだが、これだけでは何処の峠にも一つはあるだろうキツいヘアピンでしかない。何度か練習すれば振りっぱなしでクリア程度はそう難しくないだろう。レッドサンズの一軍であればこのぐらいは当然だ。

 

「はははっ、初めてのヤツは皆そう言う……C=121の恐ろしさはむしろこの先にこそあるんだぜ」

 

 ケンタのような反応も経験があるのか、ポロシャツの走り屋は笑いながらコーナーの先、夜の闇に隠れて何も見えない場所を指さす。

 

「ここからだとギリ見えないけど、この左ヘアピンの突き当りは狭くなってる上に奥にもう一個左があるんだよ。さらにその先はゆるく右に折れてるんだ。ゆっくり走れば別々のコーナーだし、最後の右はコーナーにカウントされるかすら怪しいレベルだけど、スピード保って一気に抜けようとすると難易度が跳ね上がる」

 

 C=121を全開でロスなく駆け抜ける最も理想的な方法は、二つの左を一度の旋回で抜けつつ、最後の右の入口で理想的な位置につけるようなラインを描いて曲がる事。

 全開での突っ込みと、一本の正解のラインに車を乗せる精密さ。どちらか片方か、あるいは何回かに一回成功で良いならやれる者は何人かいるが、同時に、かつ毎回正確にやってのけるのは真子と沙雪のみであった。

 

「二つ目の終わりまで長いから、度胸一発、死ぬ気で突っ込まないとドリフトが続かないんだ。けどスピードを意識し過ぎてライン取りをミスると途中でドリフト止めて修正しなくちゃいけない。そしたら最初から普通に走った方がマシだったくらいロスが出る訳だ」

 

 説明されるにつれケンタと史浩もこの場所の難しさを理解してくる。

 どんなコーナーにも理想的なラインとスピードというものは存在するが、ミスでそれらを多少外してしまったところでタイムロスはコンマ数秒程度のものである。その程度が勝敗の分け目になるのは余程の上級者同士の対決ぐらいであろう。

 しかしここで失敗すると2、3秒、立て直しでさらにもたつくような事があれば5秒は失いかねない。お互い細かいミスを重ね続ける並の走り屋の戦いでもさすがに致命傷だ。

 

「それはキツイな……だから涼介もここを撮ってくるよう言ってたのか」

 

 史浩は手元のカメラに目を落とした。

 初見で挑戦するには難易度が高いが、走り慣れた地元のトップを相手にするなら挑戦しないという選択肢は無い。己が安全策に逃げる一方で相手が成功させたなら、そこでついてしまった大差を取り返すのは不可能に近い。

 熟練と初見、二台の同時アタックの一部始終を収めた映像は高橋涼介にとって値千金の価値ある資料になるだろう。撮影要員の都合がつかなかったなら、涼介は頂上ではなくここで観戦する事を選んでいたに違いない。

 

「……来た!」

 

 視界の端に光が映った。闇の中で絶え間なく動き続けるそれが競り合う二台のヘッドライトであるのは姿を確認するまでもなく分かる。

 先ほどまで談笑していたギャラリー達は一斉に動きを止め、通り過ぎるその一瞬を見逃すまいと目を凝らし始める。

 史浩も撮影準備が万端である事をもう一度確認し、顔の前に構えた。現地に早めに入って吟味したこの位置なら、最小限の動きで二台を追えるだろう。

 

 

 

 

 勝負所としては誂え向きな事に、C=121前はそれなりの長さのストレートになっている。

 

「前の動きをよく見て、真子」

 

 沙雪は自らだけでなく、真子にも注視を指示する。このポイントで仕掛けるにあたり、沙雪は二つのパターンを用意していた。

 

 一つは前を行くハチロクが威勢よく飛び込んでいった時。

 進入後オーバースピードに気付いて立て直しをかけた結果、一つ目と二つ目の間で大きく車速が落ちたところで並びに行く。二つ目までに並べれば、その次で抜ける。もし三つ目の右まで耐えられても、その次に待つのもまた右コーナー。再加速勝負、ブレーキング勝負、いずれでもこちらが圧倒的に有利だ。

 

 もう一つは事前にしっかりと減速してきた時。

 この場合は進入速度の差を活かして外から頭に被せる。一つしか無い最適最速のラインを先にこちらで抑えてしまえば向こうはもう先を譲るしかない。

 

 もし奇跡的にこちらと同じ、最適のタイミングで飛び込まれたら?

 可能性はゼロではないが、あまりにも低すぎるのでわざわざ対策を用意する必要はないだろう。

 練習でできない事は本番でもできない。それどころか練習自体をしていないのだ。素人目では完璧に成功したように見えていても、熟練の目から見れば何かしらの詰めの甘さは出る。そこを目敏く突けばいい。

 

「……行ったよ、沙雪!」

 

 そのポイントを過ぎても、いまだハチロクはブレーキングを始める様子はない。

 真子が全開の集中とわずかの緊張を手足に纏わせて鋭く叫ぶ。どれだけ走り込んでも、ここだけは気楽にとはいかない。

 

「突っ込んだか。じゃあこっちも派手にいこうよ、真子!」

「うん!」

 

 沙雪が手足を踏ん張りシートに一層体を押し付けると同時に、フルブレーキングのショックが後ろから襲い来る。シートベルトが強く胸に食い込み呼吸を妨げるが、慣れと根性で耐える。

 助手席の沙雪の側からでは今の正確なスピードは分からないが、ブレーキングを始めるポイント、終わらせるポイントと進入ライン、いずれもかなり理想に近い形で描けたと直感で感じる。

 

(ここまでは良し……ハチロクはどうしてる?)

 

 そしてハチロクの動きを確かめるため、視線をさまよわせてその姿を探した。

 

(あそこか!)

 

 横を向いた車の助手席からでは見えづらいが、視界の隅に白い姿が見える。

 C=121の入口は車三台半は並べられる広さがある。その横幅を目いっぱい使って攻め込んでいるが、あの速度では出口で膨らみすぎるだろう。減速と修正のためにカウンターの切り増しを行うはずだ。そこへ後ろから張り付いてインにねじ込めばこちらのもの。

 

「真子、もう5センチ外へ振って!」

「分かったわ!」

 

 ベストラインから僅かに外し、最終的な位置と速度を調整する。これで最後にピッタリ横に並べるだろう。臨機応変な微調整、今こそコドライバーの出番である。

 

 

 

 C=121で見物していたギャラリー達は一斉に息をのんでいた。

 

「つ、突っ込んだ!」

「真子以上の速度で突っ込むとか、とんでもねぇ馬鹿だ!」

「頼むから事故んじゃねーぞ……」

 

 ハチロクとシルエイティがほぼ同時にブレーキングを始めた時、ギャラリー達は皆ざわついていた。先行車の方がよりコーナーに近い位置にいるにもかかわらず同時という事は、ハチロクの側がそれだけブレーキングを遅らせてきたという事だ。

 シルエイティのブレーキングが早すぎだと思っているものなどいない。ここを一番上手く走る彼女達がそうしているのなら、きっとそれが最善のタイミングなのだと地元の者たちは信じている。

 

 ケンタと史浩も開いた口がまだ塞がっていない。

 後追いのシルエイティが下手でない事など見れば分かる。あの無駄のない、いっそ美しさすら感じるアプローチ。赤城のコーナーで同じことができる者は何人いるだろうか。

 それ以上の速度で進入したハチロクは明らかにやりすぎである。

 

「ヤバいぞ……」

 

 ケンタはハチロクの走りに焦燥を覚える。人の多いレッドサンズではそれだけ事故の数も多い。ケンタも己の見ている前で自爆、あるいはあわや寸前の事態が起きた経験はあるが、今のハチロクの動きはその時とよく似ている。

 タイヤのグリップを100パーセント使い切っている。今あのハチロクの足はもう追加の命令を受け付ける余地が無い。これ以上の負荷をかければたちまちスピンし始めるだろう。

 まだ超えていないのならいいじゃないか、ではなく、超えてしまったらもう手遅れなのだ。

 

 隣では史浩が抜かりなくカメラを構えたままであるが、やはりその横顔は強張っている。最悪の事態を想像してしまったのは同じなのだろう。

 

「史浩さん!」

「……待て、ケンタ。様子が変だぞ」

 

 史浩の言葉に、ケンタも再度視線を戻す。この間にもかなり先に進んでしまったようであるが、まだコントロールが失われたような様子はない。

 

「えっ……?」

 

 そしてそのまま、衝突音など響かせることなく二台ともコーナーの向こうに消えてしまった。

 これ以上の負荷に耐えられないハズのタイヤを引き摺って、さらに別のコーナーをクリアした。今まで培った己が知識と経験では分析しきれない事態に、閉じかけた口が再度開いた。

 

 

 

 ここで必ず仕掛けてくる。

 それだけは予想できていた拓海は、対抗策としてあえてオーバースピードでの進入を考えていた。このC=121は入口から中間は広いが、その先は狭い。強引にでも前に出てラインを奪取してしまうのがここで一番簡単な抜き方だろう。

 それを防ぐならこちらがそれ以上のスピードで入るしかない。

 

「よっ……と」

 

 右足を置いたアクセル。左足を置いたブレーキ。そして両手のステアリングを慎重に操作して、元々左へ回っている車をさらに左へ曲げる。

 既にタイヤは己の限界を拓海に訴えている。これ以上は無理と叫ぶタイヤにそれでも曲がれ、もう少しだけ頑張れ、と頼み込む。

 

 グリップを100パーセント使ったからといって、直ちにタイヤが地面を掴むことを諦めるわけではない。

 コップに容量以上の水を注いでも表面張力で耐えるように、タイヤもごくわずかなオーバースピードなら持ちこたえてくれる。

 101パーセントは行けるが、102パーセントはクラッシュするだろう。刻一刻と変化する状況の中、狭すぎるレッドゾーンの上を維持し続けるのは普通の人間にはできないし、拓海もこのハチロクを用いて、かつ数秒間限定でなら挑戦はしてみる、という程度のものである。

 

 ガードレール直撃コースから、ガードレールを舐めるように大外を回るコースへと車の向きが変わってくれたのを確認したら、すぐさま右へ切りかえす。

 コースの攻略としては先の左でしっかりと内に寄せて旋回を終え、最後のゆるい右はほぼ直進で抜けられるようにラインを設定するのが正しいのだろうが、これ以上内には曲がってくれない。

 

 ミラーに度々ライトを映り込ませて存在を主張する後方のシルエイティはこの最後の右でイン側のポジションを取りたいらしい。

 どの道外側一杯に膨らむしかないこちらにとってインに付かれること自体は仕方ないが、問題はこの次である。

 向こうがどれだけ闘争心を漲らせてくるか、それは読めない。

 

 

 

 シルエイティのタービンは軽快に回り、エンジンにさらなる空気を送り込んでいる。

 既に過給圧は十分なこちらと、これからようやく加速を始められる向こう。パワーの差がある二台はあっという間に横並びになる。

 

「C=121で決められなかったのはちょっと残念だけど……ここで決めるよ、真子。横並びならもう逃げられない」

「うん、もう逃がさない」

 

 右コーナーでインを抑えられた。後は普通に曲がれば終わりだ。

 もう左隣は見なくていい。落ち着いてインベタでの進入に最適なブレーキングポイントを図る。

 それでいいと思っていた。

 

「……っ!」

 

 横は見ずとも、正面の視界には二台分のヘッドライトの光が映っている。それが少しずつ近寄ってきているのが見えるのだ。

 反対側の車線にいたはずのハチロクは今はセンターラインに片足を乗せ、さらにこちらに寄せ続けている。

 少しこちらが右に逃げれば、向こうはさらにその分詰めてくる。

 思わずアクセルを踏む足が緩む。

 

「真子、見ちゃダメ。アンタは前に集中!」

 

 沙雪が叫んだ。その声にもほんの少し、震えが混ざっているように感じられた。

 

 これはこちらよりもブレーキを遅らせて前に出るつもり、という強い意思表示だ。

 こちらが踏めば向こうが前へ、向こうが踏めばこちらが前へ。もちろんいつまでも踏まなければ曲がり切れずクラッシュ。

 これではブレーキング勝負というよりチキンレースである。

 

 両車とも同時の場合、インを取っているこちらが勝てる。その時点で大きくこちらが有利な駆け引きであるが、バトルの経験の少ない、横並びという状況に対処した事の少ない真子の感じるであろうプレッシャーを差し引けば、あるいは互角か。

 

「くっ……!」

 

 この間にも迫り続けるコーナーに先に音を上げたのはやはり真子であった。

 これ以上は突っ込めない。インベタのラインを維持するにはあまり速度は出せないのだ。ここまでの走りで向こうの方が限界越えの状況からの引き出しが多いのも分かっている。

 立ち上がりでもたつけば結局差し返される、と判断し真子はブレーキペダルに足をかけた。

 

 

 

 正直、分の悪い賭けだった。

 これが高橋啓介や中里毅だったなら絶対に引いていない。それどころか限界までアクセルを踏み抜いただろう。

 群馬エリアの一流どころである彼らどころか、たとえ同じ場所にいるのが秋名スピードスターズの誰かだったとしてもおそらく引かない。不利ならともかく、絶対有利な状況で引き下がるほど弱気で闘争心の無い彼らではない。

 後でもたついたところで気にする必要はない。オーバースピードなのはお互い同じなのだ。

 

 何が何でも前に出てやる。

 

 そういった気迫を向こうはあの時点ではあまり持っていなかったからこそ、かろうじてこの賭けは拓海が勝てた。

 あれだけのテクニックと土地勘を持っていれば、彼女達とまともに勝負できる者など周囲には誰もいなかったであろう。煽られてプレッシャーを掛けられるという経験など持ち合わせていなかった事がここ一番での動揺を招いてしまった。

 

(でも、多分二度目は無い)

 

 拓海の知る限りの情報でも、真子と沙雪は自身の技術、経験に自信とプライドを持っていることは疑いようがない。

 勝てた勝負を落とした事は彼女らのプライドをいたく傷つけただろう。

 

 『記憶』に残るかつての勝負で、終盤にてさらなるペースアップをしてきた時のように、ここからは本当の全力で追い詰めに来る事は間違いない。

 彼女達の全力は恐ろしい。あの時も、後追いだからこそついて行けてただけで、先行していたらさっくりと抜かれていただろう。つくづく、コースを知らないハンデの重たさを思い知らされる。

 

(とはいえ、こっちもようやく分かってきたところだし。ここから本番、か)

 

 こちらもようやく碓氷のリズムに体が順応してきたところである。これでもう少しペースを上げられるようになるだろう。

 

 



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自分にないもの

「……ああ、分かった」

 

 C=121前からの報告を受け取った高橋啓介は、通話の切れた携帯電話をポケットに押し込む。

 

「アニキ、まだもつれたままってさ。仕掛けちゃいるが、仕留めきれないらしい」

「そうか」

 

 腕を組み、傍から見れば立ったまま寝ているかのようにすら思えるほど身動きをしない涼介は、閉じていた眼を薄く開いて答えた。

 

「アニキの予想通りか?」

「やや上回るが、概ねそんなところだ。思わぬ逸材がいたものだ」

「……もっと早くケリが着くだろうとオレは予測してたんだけどな」

 

 啓介は夜空を仰ぎながら、窓を開け放したFDの車内からペットボトルを取り出す。

 

「バトルはまだ半分も終わっちゃいないさ。むしろこの程度で決まるようなら拍子抜けだ。前半はろくに踏めていなかっただろうからな」

「たしかに、ここはやたら曲がりくねってるしな。多めにマージン作ろうと考えたら、踏む間なんて無くなるか」

「だが道幅や路面の状態、傾斜具合などに手足が慣れてくればもう少しマージンを削れるようになる。今まで50パーセントで流していたところを60で、やがては70パーセントまで攻められるようになってくる。駆け引きが始まるのはむしろここからだ」

「……なるほどな」

 

 たかが10パーセントといえど、拮抗した状況の中での一割加算は戦局を動かすには十分すぎる。

 啓介はペットボトルの中身を含む。冷気も炭酸ももはや欠片も残っていないかつて炭酸飲料だったそれを一口含み、蓋を締めて車内に戻した。こんな温く甘ったるいだけの代物、飲めば余計に渇きそうだ。

 

 

 少し離れた別の場所では池谷達が高橋兄弟の側に聞き耳を立てていた。

 

「聞いたか池谷、シルエイティが何度も仕掛けてるけど、捕まえきれてないって」

「やっぱ、知らないコースだとさすがの拓海ちゃんでも苦戦するかぁ……というか、初めてで地元に近いペース出せてる事自体がおかしいっちゃおかしいんだけどさ」

「池谷先輩も健二先輩も、どうしてそんなに弱気なんですか。むしろこっからじゃないですか、ここまでで抜かれてないなら、そこまで大きな実力差は無いってことっすよ!」

 

 不安げな声色を隠せない池谷と健二に、イツキが楽観を呼びかける。

 FDやGT-Rの時は常に拓海の側にあった主導権が、今回は未だシルエイティの側にある。それを不安に思う気持ちは理解できるが、悲観だけでなく楽観できる材料もある。

 最も苦しいであろう一本目の最序盤を乗り越えられた。現時点で追い抜けるほどの差が無いのなら、ここからどんどん状況は好転していくハズなのだ。

 イツキは拳を握り締めて力説する。

 

「イツキの言う事も尤もなんだが……オレとしては、もう一つ心配な事があるんだよ」

 

 徐々にヒートアップし始めるイツキを宥めながら、池谷が言う。

 

「へ?」

「確かに、拓海ちゃんもこの先もっとペースを上げていけるだろうけど、真子ちゃんも、最初はある程度様子見してたはずなんだ。このままじゃ不味いとなれば、当然本気を出すようになる。そして、後ろからせっつかれたら、前はもっと上げたくなるだろ?」

 

 勝負である以上、お互い熱が入るのは仕方ないだろう。煽られればさらにペースを上げ、前が逃げれば後ろは離されてなるものかとまたペースを上げる。 

 

「聞いてる限り、真子ちゃんも見掛けによらず熱くなっちゃうタイプらしいし……二台で際限なくペース上げた結果、どっちかが限界超えて事故りやしないか、なんて不安がな。今までは普通に拓海ちゃんが圧倒して終わりだったから、事故起こすなんて考えすらしなかったけど」

「考えすぎだって池谷。拓海ちゃんはウデあるし、あの真子ちゃんだって、やばくなったら横に乗ってる友達の子が止めるだろ。心配いらねぇよ」

「……だといいんだけどな。ふと頭をよぎっただけなんだけど、考えだしたら止まんなくなってさ。二人とも、無事に終わってほしいよ」

 

 

 一方、中里毅、庄司慎吾の妙義コンビはやる事もなく、微妙な感覚を開けて二人で並んで立っていた。

 

「……なあ慎吾、あの沙雪ってシルエイティの片割れだけどさ」

「お前今日あいつの話すんの何回目だよ。ただの昔馴染みだっての。たまたま家が近かっただけの関係だって……」

 

 その時、慎吾の脳裏にある可能性が浮かんだ。

 

「もしかしてお前、ああいう気の強い跳ねっ返りみたいなのが好みなのか?」

「え、いや別にそんな事は言ってないが……」

 

 ふっと顔をそらした中里を見て、慎吾の顔ににやりと笑みが浮かぶ。

 

(意外だな……ん、そういや誰か言ってたな、こいつが秋名行った時の事)

 

 以前中里が秋名へ向かった時、ギャラリーとして出向いていた妙義のメンバーの一人が何か面白いことを言っていたはず。

 

「それとも、アレか。何とは言わんが、アレが大きい女が好みか。秋名でもじっくり見てたらしいな。どうなんだ?」

 

 沙雪もスタイルの良さは中々のものだ。あれでもう少し性格が丸ければ引く手は数多となるであろうぐらいにはある。

 質実剛健な真面目男を気取っている割には俗な事である。

 

「……慎吾、一発殴っていいか?」

「いいぞ。帰りは乗せなくていいならな。妙義までタクシーにでも乗って帰れや」

 

 中里が反撃を試みても慎吾には響かない。ここまでの足が慎吾のシビックである以上、優位はこちらにある。群馬の西端である碓氷から東端の妙義までタクシーを走らせたら代金がいくらになるか、貧乏人には想像もしたくない。

 

「くっ……」

「まあ、今のはちょっとした冗談だ。悪かったよ……くくくっ、あーそうなのかー思わず目が行っちまうかー」

「妙義に帰ったら覚えとけよ……オレのR32で追い回してやる」

「お、やるか。下りならぜってー負けねぇぞ」

 

 けたけた笑う慎吾に今は何を言っても喜ばせるだけ、と反撃を取り止め、中里は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 

 

 

 木々の切れ目から僅かに覗いた空に、赤レンガ造りの巨大な橋が映り込む。碓氷第三橋梁、通称めがね橋とも呼ばれるかつて鉄道が通っていたこの橋は碓氷峠の下りももう終盤に近付いてきていることを示すランドマークである。

 

 迫りくる横Gに歯を食いしばり、沙雪は恐怖をぐっとこらえて正面を見据える。

 日頃、タイムアタックのため全力で走る事はままあれど、走っていて恐怖を感じるという経験は久しくなかった。

 こうして恐怖を感じるまでになっている原因は明確である。真子が自分のリズムで走れていないのだ。今の真子は前を行くハチロクを追いかける事に熱くなっており、これまで築き上げてきたコースの攻略が頭からすっぽり抜け落ちている。

 

(いや……この動き、もしかしてハチロクをなぞってる?)

 

 追う事に集中するあまり、無意識のうちにリズムとラインを模倣しているようだ。

 

(どうする……パートナーとしては当然、止めるべきなんだろうけど)

 

 コースを知らない他人のリズムに合わせて走るなど、走り慣れているという地元の強みを自分から投げ捨てる行いだ。

 それ以前に、今の真子には余裕が無い。初めての走りを真似ようとするのに手いっぱいで、マージンを意識できていない。

 

 どれほど限界の走りをしているように見えても、進入時には僅かに余力を残しているのが本当の上手いドライバーだ。

 だが今の真子は、本来ならマージンとして取っておくべき余力まで全てコーナリングに回してしまっている。今、彼女がうっかり操作ミスでもしたらどうなるか、など考えたくもない。

 ドライバーが無茶なペースで走っているのなら、止めるのがコドライバーとしての役割であろう。

 

(でも今の真子、今まで見た事ないぐらいスゴイ走りしてる)

 

 かつてなくハイテンションになり、極限まで集中力を研ぎ澄ませた真子のドラテクは、この土壇場でもう一段階進化しようとしている。

 ステアの舵角は小さくなり、コーナーではこれまでよりも奥深くまでブレーキを引き摺って攻め込んでいる。

 

(うん、決めた。今の真子に水は差さない)

 

 もし単独でこんな運転をしていたら、確実に真子を止めているだろう。安全を考えればそれは当たり前の行いだ。

 しかし、沙雪はこうも思うのだ。もしかしたら、自分は誰よりも真子の事を理解しているつもりで、実際はまるで見えていなかったのかもしれない。安全だの効率だのと、尤もらしい理屈をこねては彼女の成長の機会を奪ってしまっていたのかもしれない。

 導いているつもりで、実際はただの邪魔な重りでしかなかったなど笑えない話である。

 

(行けるとこまで行ってみよっか、真子。もしもの時は一蓮托生だよ)

 

 どちらにせよ、今から水をかけて引き戻したところで、一度冷えた真子のテンションが再び温まる頃にはもうゴールである。

 結末がどうなるかは分からないが、せめて悔いのない一戦となってほしい。

 

(とはいえ、ただ乗ってるだけの本当の重りってのも癪だしね。何かアドバイスできそうな事は……)

 

 沙雪は前を見る。

 その走りを観察していて真っ先に目につくのはその立ち上がりでの速さである。ほとんど同じリズムで走っているハズなのに、立ち上がりで一歩離されている。あちらの方が車が前を向くタイミングが一歩速いような気がするのだ。

 少しでも直線があるならすぐに取り戻せる程度のものであるが、コーナーが連続する区間ではその一歩分を詰めるために次のコーナーの進入でもう一歩分の無理をしなくてはならなくなる。

 

 当初はNAとターボの差と考えたが、それはやはりあり得ない。このシルエイティのエンジンはターボ抜きでもハチロクにパワー負けなんてしない。となれば、やはり乗り方、踏み方の違いにあるのだろう。

 だが、真子が踏み遅れているような感じはしない。今より早いタイミング、まだ旋回が終わり切っていない時に加速を掛ければ車は明後日の方を向いてすっ飛んで行ってしまうだろう。

 これは自分では手を付けられそうにない。

 

 ならば他の点はどうか。

 

(気になるのは……ブレーキの使い方?)

 

 ハチロクのコピー版である真子の今の走りと、従来の真子の走りを比べて感じることはブレーキの使い方の違いか。

 ただ全力で踏むのではなく、時にはあえて半端な踏み方をしていたりと一般的に考えられるようなセオリーとは違いも多い。テールランプは点灯しているのにさほど減速していない時もあるので、アクセルは煽ったまま左足でブレーキをかけているらしい場面もある。

 

(ブレーキをなるべく減らそう、ってまず考えるのが一般的な走り屋だけど……)

 

 減速の時間を減らし、加速の時間をコンマ一秒でも長く取る。速く走るにはどうすればよいか、と聞かれたとき、それが一般的な答えになるだろう。ブレーキを踏まなければタイムを縮められる、と勘違いしたヘタクソがブレーキを遅らせすぎてコーナー入口で自爆、というパターンが碓氷でもたまに起きるぐらいには多い。

 

 制動にタイヤのグリップを全て使用した状態でいくらステアを切っても車は曲がらない。これがコーナー入口での強いアンダーステアとして表れる。

 減速のためのブレーキは手前までで終わらせる、コーナーに入ってからのブレーキはあくまでも姿勢づくりのきっかけ、というのが沙雪の思う正しいブレーキングのあり方だ。グリップを全て曲げることに使うのが理論上最も速いコーナリングである。

 

(どちらかと言えば、ブレーキの使い方というよりはタイヤの使い方、か。四つのタイヤへの荷重の掛かり具合を常に意識しながら走ってるような感じ)

 

 タイヤを遊ばせず、全て使って速さに変える。適宜荷重を後ろから前へ、前から後ろへと調整を繰り返してアンダーステアの度合いを維持している。

 平たく、一周の短いサーキットのような場所なら自分でも練習すればやれそうだが、ここは峠である。狭い道幅に荒れ気味の路面、そして地面の傾斜具合なども計算に入れつつ、あとどれだけ負荷をかけられるか予測しなければならない。

 10メートル先がどうなっているか分からない初めての場所でそれをやり続けている車が前にいる。

 

(どう考えても、18歳が持ってていいテクじゃないっての……)

 

 意識したところでどうにかなるものじゃない。このスピードでは考えてから動いていても間に合わないのだから、手足が勝手に動くレベルになるまで乗り倒して感覚を染みつかせる必要がある。

 

(そんで、問題はこいつをどう攻めるかって点だけど……どこから手着ければいいのよこれ)

 

 沙雪が唯一自由になる頭で、どこかに攻略の糸口が無いかハチロクの一挙手一投足を注視していた矢先、インに切り込んだハチロクが跳ねた。

 

「えっ、うわっ!」

 

 何が起きたのか訝しむ前に、シルエイティの左のフロントタイヤも跳ねる。

 その動きと、一瞬見えた砂色で沙雪は今の跳ねがインを攻めた際に路肩にこぼれていた土砂を踏みつけたものだと理解する。

 素早く立て直した真子は相変わらず集中したまま口を開かない。

 

(しまった、気づかれた?)

 

 土砂といっても大した量ではなく、何事もなく立て直せる程度のものであるが、問題はそこではない。

 

 危惧した通り、その次のコーナーからハチロクのラインにブレが生じ始めた。

 走りを真似しようとされている事には薄々気付いていただろうが、それがこちらの作戦なのかどうかまでは分からなかったはずだ。しかし障害物の回避に失敗した事で、それが作戦ではなくナビゲートが機能していないのだとバレてしまった。

 狙ってやっている側は後からどうにでも修正できるが、何も考えず真似している真子はそのブレに振り回されて少しずつ遅れ始めている。

 

 シルエイティが追い、ハチロクが逃げる展開だったこれまでと攻守が逆転した瞬間である。

 

 

 

 少々ペースを上げたところで振り切れるなどとは思わなかったが、ようやく離れてもらえそうである。

 ミラー越しでも鬼気の迫りようが感じ取れるシルエイティの走りであるが、その内容がこちらをなぞっているのだと気付いた時は思わず驚愕しそうになった。

 普段走り込んでいる場所であればあるほど、日ごろ染みついたやり方が新たな挑戦の邪魔をする。理屈的な部分は全てパートナーに丸投げしている佐藤真子だからこそ、そういった先入観を持たず違うものを取り入れられたのかもしれない。

 高橋涼介以外の人物からこういったことをされるのは想定していなかったので、一つコーナーを抜けるごとにコピーの完成度が増していくシルエイティを見ていると何だかむず痒いような気分になる。

 このまま二本目、三本目と続けていった時、最終的にどこまで化けるか見てみたくもある。

 

(まあ、負けたくないから、それを利用させてはもらうけど)

 

 当初目指していた高橋涼介の走りとも、普段の秋名での走りとも随分違う内容になってしまったが、これはこれで悪くないとも思う。

 進入を抑えめにして立ち上がりで取り返す走りから、気が付けばいつもよりやや控えめ程度まで突っ込みを伸ばして後でライン調整で帳尻を合わせる走りに切り替わっていた。

 

 軽く後方に向けた揺さぶりも混ぜていきながら、拓海は最終的にこの形に落ち着いた今回の走りについて考える。

 

 毎朝の豆腐の配達。特に早起きの習慣があったわけでもない一中学生には苦痛であった。早く帰って二度寝したい一心で、行きこそ豆腐のために慎重に走るが、帰りはそれはもう飛ばして帰る日々を繰り返し、そしてその過程で藤原拓海はコントロールの技術を身につけていった。

 もちろん不慣れな頃には無謀な速度で進入しては対処で冷や汗を掻くことも何度もあった。

 

 この、オーバースピードで進入してはそこからの立て直しを図った経験の蓄積こそが『藤原拓海』流の走りの原点とも呼ぶべき部分であり、今日の碓氷での走りはある意味初心に帰ったような気持ちになる走りだった。

 

(と言っても、これは私のではないけど)

 

 あくまでも『藤原拓海』の初心であって、藤原拓海の初心ではない。

 彼にとっての走りがそうであったとして、自分にとってのそれは何になるのだろうか。乗る車も、転がす技術も今は全て他者からの借り物でしかない。

 自分のオリジナルと呼べるようなものは、今はまだ何もなかった。

 

 

 考え事に意識を少し割きながらも、後ろへの嫌がらせの継続は忘れない。

 と言ってもそこまで手の込んだことをする必要はなく、各種タイミングやラインをほんの少し前後にずらしながら走り続けるだけで効果は覿面である。

 これまでは何とか追従できていたシルエイティも、コーナーを抜ける度に一歩ずつ遅れていく。

 

 

 

 ゴール地点、という事になっている看板の下をシルエイティが抜けたのは、ハチロクが通り過ぎてから3秒後の事であった。

 

 

 

 

 



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夏の終わりの思い出に

 延々と狭苦しい道が続いた碓氷の山も、麓まで降り切れば広くきれいな道になる。止めた車から外に出て、草木と湿気と排ガスの匂いが入り混じった碓氷の香りを胸いっぱいに吸い込む。

 

 隣で今ようやく呼吸する事を思い出したように深呼吸を繰り返す真子が落ち着いた頃を見計らい、沙雪は声をかける。

 

「どうだった、真子」

「……いい気持ち。こんなに夢中になって走ったのなんて久しぶり」

「だろうね。真子ってこんな顔するんだ、って横に乗ってて思ったもん……すっきりした?」

「うん。とっても」

 

 額の汗もそのままに、子供みたいににっかりと笑う真子につられて、沙雪も笑みを浮かべる。

 

「すごかったよ、今日の真子は。もう完全に私なんか超えてる。今まではいつも私があれこれ口出ししてたけど、これからはあんたの好きにやりなよ、真子」

「沙雪……」

「さ、わたしらだけで喋ってないで、行こ。待ってくれてるよ、あの子」

 

 沙雪は10メートルほど向こうに停められているハチロクを指さす。

 

「聞いてみたい事も山ほどあるしね。あんまり夜遅くまで引き留めるのも可哀想だし、連絡先も聞いとこうか。真子は明日ヒマ?」

「え、いや何もないけど……」

「じゃあ向こうが良ければ明日で。熱いうちに打っとかないとね」

「何が?」

「こっちの話。ほら早く行くよ」

 

 早くもハチロクのドアをノックしに行った沙雪を追いかけて、道路の橋を歩く真子の横を山から下りてきた白いRX-7が通り過ぎていった。

 

「あっ……」

 

 モデルチェンジ前の旧式、いわゆるFCである。

 通り抜ける瞬間、運転席にいた男と真子は目が合ったような気がした。

 

 

 

 

 深夜。拓海が自宅こと藤原とうふ店の隣の車庫に車を停めると、ちょうど車から下りてきたタイミングで引き戸が開き、藤原文太がのっそりと顔を出した。

 

「ただいま」

「おう、遅かったな」

「父さん……これ見て」

「……?」

 

 ハチロクの左側に回っていく拓海を追って、文太もサンダルを鳴らして歩く。

 

「ごめん。ここちょっと擦った」

 

 暗くて見えづらいが、擦ったような傷が確かに入っている。

 

「これか……で、勝ったのか?」

「勝ったよ」

「そうか。わざとじゃないならいい。大した傷でもなさそうだしな」

 

 それきり踵を返し、文太は家の前に戻る。

 シャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、一本取り出して咥えた。

 

「キーは机の上に置いとけ」

「え、でも配達」

「疲れただろ。雑な運転されて豆腐を崩されちゃたまらんからな。今日はオレが行く」

「……ありがとう。おやすみ」

「おう」

 

 引き戸が締まる音を聞きながら、文太は咥えた煙草に静かに火をつけた。

 

 

 

 

 池谷は感激した。この光景を目に焼き付け、一生の思い出にしなければならないと決意した。池谷には恋愛がわからぬ。が、もし彼女ができたならの妄想だけなら人一倍してきた。

 

 今年は真子ちゃんとの思いがけぬ出会いもあり、せっかくの夏なんだしそういったイベントも、と期待しつつ、でも知り合ってからそんなに経っていないのに男の側からそんなお誘いをするのは下心丸見えで引かれはしないか、と心配でそんな話を切り出すなぞ夢のまた夢で。

 もし彼女との夢のような時間が来年までも続くのなら、来年の夏こそは……と一人鬼の笑いそうな決意を固めていたところだった。

 

 まさか、彼女らの方から誘ってもらえるなどとは望外の幸せである。

 

 

 朝一に、今日プールへ行かないかと電話で伝えられた時、池谷は思わずこれは夢ではないかと頬をつねってしまった。碓氷から自宅に帰り着いた時には既に深夜。いつもなら昼近くまで眠りこけている。まだ寝ぼけている可能性が頭をよぎる。

 そして現実だと理解した池谷は、電話を切るとすぐさま財布を掴んで車に飛び乗った。海パンなどという、泳ぐ趣味があるわけでもない独身男には無用の長物、池谷は当然持ってなどいなかった。

 

 

 

 同じく声の掛かった健二、イツキの二人をお供に引き連れ、カップルや家族連れで賑わう市民プールに足を踏み込む。

 

「おーい、こっちこっちー」

 

 手招きと声に視線を向ければ、そこには水着姿の三人の女性。

 赤い三角ビキニの沙雪に手を引かれ、その背に隠れ気味だった黄色ビキニの真子が沙雪の隣に並ぶ。派手で挑発的な色合いは避けつつも、余分な肉の無い引き締まった体を際立たせる真子の水着チョイスは親友に選んでもらったものなのか、それとも自分で選んだのか。

 

「あれが真子ちゃんの水着姿……オレ、幸せ過ぎて帰り事故るかも。すばらしー」

「ああ、すんげー素晴らしい」

 

 池谷は感極まって涙が出そうだった。隣で健二も幸せを噛みしめるように歯を食いしばる。

 

「……てかオレやイツキはともかく何でお前も感動してるんだよ。健二、お前は今はフリーなだけでいた事あるだろ。独り占めさせろよ!」

「したっていいだろ、何度見たって素晴らしいもんは素晴らしいんだよ、水着は。ここぞとばかりにオレが先輩面して勝ち誇ってたらそれこそキレるだろお前は!」

 

 池谷と健二が互いの背中に張り手を浴びせ、痺れる痛みに顔をしかめる。

 

「何してんの、そんなとこに突っ立ってても暑いだけでしょ。ほら水に入ろうよ」

 

 その様に、沙雪は呆れた声を上げた。

 

 

 

 しばらく健全な水のかけ合いや遊泳をひとしきり楽しみ、飲み物の買い出し等で各人がばらけだした頃合いを見計らい、沙雪は一人プールの縁でボケーっと水につかっているイツキに声をかけた。

 

「よーっす」

「うわっ!」

「……そんな驚く事ないでしょ」

 

 予想の三倍ぐらい驚かれた沙雪は、驚いた拍子に掛けられた水のお返しにこちらからもひと掬いの水をかけてやった。

 

「で、どうしたんですか」

「いや、ただヒマだったから。あっちも悪くなさそうだしね」

「あっちって?」

 

 沙雪はプールサイドの一角を指さした。

 いくつかのテーブルと椅子の並んだそこでは、池谷と真子が飲み物を手に向かい合って座っていた。

 

「真子がちゃんとくっつけるよう、最後の一押しの機会を作るのが今日の目的でもあったんだけどね。肝心のバトルでは私は良いとこ無しで終わっちゃったし、せめてこっちのアシストぐらいはキッチリやりとげないと、って思ってたんだけど」

「……大丈夫そうなんじゃないですか。二人とも笑ってますし」

「でしょ。出る幕なさそうだわ。だから仕事なくてヒマになっちゃった」

 

 二人から目を離し、プールの縁に肘をついて沙雪は広いプールを眺める。

 

「真子には今は絡めないし、拓海ちゃんと遊ぼうかな……ところで、姿見えないけどあの子どこ行ったの?」

「あそこっす」

 

 イツキの指さした方に、他の客の群れから距離をとって隅っこでぼんやりと水に浸かっている黒いボーイレッグの水着の拓海がいる。

 

「あ、いたいた……今即答出来たあたり、さてはずっと見てたなコイツ」

 

 沙雪の目が新しい暇つぶしのおもちゃを見つけてギラリと光る。

 

「え、いや、偶然っすよ偶然……」

「ね、ね、君ってあの子とどういう関係なの」

「どういうって……普通に同級生で友達ってだけですよ。一緒にバイトしてたり、たまにドライブとか付き合ってもらう程度の」

「ふーん。普通に、ねぇ」

 

 イツキの肩に手を回し、にやにやと沙雪は笑う。

 

「君は、普通の友達のままで満足なの?」

「満足って……」

「もう一つ上の関係になりたくないのかって事よ。本当にそんな気は無いんだったらごめんね。でも、何かそんな感じがしたからさ。で、どうなの。そういう期待とか願望とかないの?」

 

 沙雪がイツキの肩をぺしぺしと肩を叩く。

 

「そりゃ、全くなかったとは言わないっすけど……でもオレは」

「なるほど、君はともかく向こうにその気がないパターンか。でもそれって、向こうの気持ちであって君の気持ちじゃないよね」

「へ?」

「両想いじゃないとダメなんてことは無いって。今は無くともこの先その気が出てくる可能性はあるよ。誰かの紹介とか、お見合いみたいなゼロから始まる関係もあるんだし。好きって言われて好きになる事もあるって」

「……」

「ま、居心地の良い今を壊したくないから自分の方を合わせるって気持ちも分からないわけじゃないけどね。でもさ、それ大事なこと忘れてない?」

「大事な事って?」

「卒業よ。君らが進路どうするかは知らないけどさ、下手すりゃ卒業したらもう一生顔合わす機会無いかもしれない。今のこの関係にはタイムリミットがあるって事忘れちゃだめよ」

「……オレは」

 

 口を開きかけたイツキの顔の前に、沙雪はさっと手をかざした。

 

「あーあー、言わなくていいから。私は所詮無責任な外野でしかないからね。ま、結果がどう転んだとしても、後で振り返れば良い思い出になるだろうから、悔いの無い様にしな。私にできるアドバイスはこんなもんかな」

「はい……でも、どうしてオレなんかにそんな親切に?」

 

 イツキは尋ねてみた。バトルの当事者であった拓海や、以前から真子と関係のあった池谷と違い、健二とイツキはただあの場にいただけのオマケであり実質沙雪らとは初対面のようなものである。

 初対面の人間の悩みにこうまで首を突っ込んでくれる理由はなんなのか。

 

「ぷっ……別にそんな深い理由はないって」

 

 予想よりやたら深刻な受け取られ方をした様子に、沙雪は軽く噴き出した後、イツキの顔の前にぐっと親指を立てた。

 

「ヒマだって言ったでしょ。他人の恋路に首突っ込むのって最高の娯楽じゃん?」

 

 にっこりと、見てる人間の気の抜けるような笑顔で沙雪はイツキの鼻先に親指を押し付けた。

 

「真面目な話はこんなところにして、次はスライダー行こっか。私はあの子連れてくからさ、君はもう一人の方呼んできてよ。どのみち真子の方は二人きりにしておかなきゃだし、四人で滑ろう」

 

 あっけにとられるイツキをよそに、沙雪は水をかき分け拓海の方に歩いていった。

 

 

 

 15分後、このプールの目玉であるウォータースライダーの順番が回ってきたところで、イツキと拓海は後ろから沙雪と健二に背中を押された。

 

「イツキ、先に行け」

「はい、お先にどうぞ」

 

 順番待ちの間に打ち合わせでもしていたのかという連携で係員の前に押し出され、順番待ちがいるんだからさっさと行けと顔に書いてある笑顔の係員に追い出されるようにイツキと拓海はスライダーに乗せられた。

 

「うひーっ!」

 

 スライダーの勢いなど峠を攻める車の速度の半分以下、走り屋ならどうという事は無い。しかしそう考えていたイツキは今、自分でも情けないと思う声を上げていた。

 イツキが前、拓海が後ろの態勢で滑り始めたが、初めて直ぐにこの体制はまずいと感じた。後頭部のすぐ後ろに柔らかい人体の感触がある。視界の両端に白い脚が映っている。

 陽光に晒される前の流水は割と冷たかった。温かいと柔らかいの組み合わせは精神に悪いが、冷たいと柔らかいの組み合わせもよろしくない。

 いつもの距離、運転席と助手席程度の、ほんの30センチも空いていれば何ともないのに、その程度が詰まっただけでこうも精神に悪いのか。

 

 隙間を作ろうと変にもがけばかえって抵抗で自分だけブレーキがかかり、より密着する結果になる。

 下手に動けば悪化すると学習したイツキは無駄な事はやめて流されるままになる事にした。頭の上に乗る柔らかい二つの盛り上がりと、背中に密着するお腹の感触に何とも表現できぬ激情に内心を支配されつつも。

 

 やがて滑り降りて水面に放り出されたイツキは、周りを見ていなかった故に何が起きたか理解が遅れ、呆けた顔で周囲を見渡していたところを見た拓海に変な顔、と笑われるのであった。

 

 

 

 日差しを遮るパラソルの下で、飲み物をテーブルに置いて池谷と真子は未だぎこちなさを感じさせながら、それでも最初の頃よりは砕けた態度で談笑していた。

 お互いに何とか話題を探しながら話し、間を繋ぐために飲み物に手を付ける。そんな事をしていれば紙コップの中身はあっという間に底をつく。

 

「あっ、オレ新しいの買ってくるよ。真子ちゃん、何がいい?」

「えっ、じゃあ、同じもので……」

「そっか。行ってくるよ」

「……あの、池谷さん」

 

 席を立とうとした池谷の腕を、真子が軽く引いた。

 

「な、なに?」

「えっと……今日、ずっと言おうと思ってたんですけど」

 

 何かを改まって言おうとする真子の前に池谷が座り直した。

 

「その……今夜、もし池谷さんがよければ、会いませんか。皆居るとどうしてもゆっくりはしづらいですし、二人で落ち着ける場所で、改めて」

「真子ちゃん……」

「8時くらいに、池谷さんと初めて会ったあの場所で待ってます」

 

 真子は椅子から立ち上がると、まだ固まったままの池谷の手に握られた二つの紙コップに手を添えた。

 

「飲み物、やっぱり一緒に買いに行きましょう。池谷さん」

 

 

 

 新しい飲み物を買って戻ってきた時、池谷は彼女との距離がまた一歩近づいたような気がした。以前より気負いなく話せるようになった気がするし、並んで立った時の間隔も5センチほど狭まった気がする。

 受け入れてもらえた、今までよりもう一歩踏み込むことを許してもらえた喜びに、池谷は有頂天のような心地だった。

 

「3年前、私がまだ高校生だった時、車好きの先輩たちに誘われて、ギャラリーに行ったことがあるんです。あの頃はまだ、車とかそういうの全然興味なかったんですけど」

 

 池谷が何気なしに切り出した、過去の恋愛話。

 彼女は誰とも付き合ったことが無いと言う。しかし、こんないい子を他の男が放っておくなんて考えづらいし、彼女自身も今まで誰か気になる人ぐらいはいた事があるだろう。

 特に深く考える事もなく、単なる興味本位で出してみた話題。

 

 話をふられた真子も、いきなりの話題に少々戸惑いつつも、憧れの人の話を池谷に語る。

 

「ただ何も考えず見てたんですけど、その時に走ってきた一台が、すごく衝撃的だったんです。素人でもはっきり格の違いが分かるぐらい、凄い走りでした」

 

 それを見て以来、すっかり魅入られてしまった真子は免許と車を手に入れると夜は碓氷峠に籠る日々を送るようになった。

 

「いっぱい練習して、すこしでもあの人に近づきたいって。それで走り屋になったんです。なんだか不純な動機な感じもしますけど」

「へぇ、そんなすごい車かぁ……直接ドライバーの顔とか見た事あるの?」

「ありますよ。話したことは無いですけど……近寄るなんて、なんだか恐れ多くて。時々ギャラリーに行って遠目に見つめるのが精一杯でした」

「でも、好きだったんだ」

「……はい。と言っても、その人が好きなのか、走りが好きなだけなのかは自分でもよく分かってないんですけど」

 

 自分で聞いておきながら、池谷は深い衝撃を受けていた。

 

(……聞かなきゃよかったな。ちょっと考えりゃ、これくらい予想できただろうに)

 

 池谷とて、憧れた走り屋の先輩ぐらいはいる。しかし、彼女は思いの桁が違うのだ。

 その走り屋がどこの誰かは知らないが、彼女はそいつへの思いを原動力に走り込みを続け、あれだけの腕前に至るまでになったのだ。

 男として、走り屋の端くれとして、なんだか佐藤真子という存在が遠く感じた。

 

「あ、池谷さん。ちょっと電話かけてくるから、荷物見ててね」

「え、あ、ああ、わかった」

 

 真子がバッグと飲みかけのカップを置いて席を立った。

 

 

 歩き去っていく真子の背中をぼんやりと見ていた池谷の視界の端で、テーブルから何かが落ちたのが見えた。

 

「ん?」

 

 見てみれば、真子のバッグから落ちたと思しきパスケースがある。

 落ちた拍子に開いたケースの中には、何枚かのカードと一枚の写真が収められていた。

 

(この写真って……高橋涼介か!?)

 

 真子が言っていた憧れの走り屋が、もし高橋涼介だったとしたら。

 格が違うのも当然だ。この群馬エリアの頂点に何年も君臨し続けている男の走りがそこらの凡百のそれと同じに見えるはずなんかない。

 

 最近こそ自身が走る事は少なくなり、チームの看板を背負う役割は弟に任せているらしいが、真子が言っていた3年前はまさしく高橋涼介が暴れまわっていた時期だ。『赤城の白い流星』といえば当時まだ免許取り立てのひよっこだった池谷の耳にも届いていた名前である。

 

(……たまんねぇよ。高橋涼介なんて勝てるわけないだろ)

 

 もし己と高橋涼介が戦ったら、なんて考えるまでもない。車の勝負なんてそもそも成立すらしない。

 ドラテク以外でも差は歴然だ。

 父は病院の院長で、当人も医大生。行く先々で多くの女性ファンに追いかけられ、伝え聞く性格も紳士そのもの。どこをとっても男として勝ち目がない。

 

 そんな高橋涼介が好き、だなんて言われたら、池谷浩一郎ごときなぞ身を引くしかないじゃないか。

 

(ホント、たまんねぇよ……)

 

 

 

 



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キリキリ吐かせる

 暗い顔をして施設から出てきた池谷を見て、拓海は確信した。やはり二人は上手くいかないらしい。

 

 はっきり言って、自分が知っているのは池谷と真子は結ばれなかったという最終的な結果だけであり、何がどうしてそうなったのかは何も知らない。当人は何も語らなかったし、周囲もわざわざ古傷を抉ってまで話を求めるような事はしなかった。

 べた惚れしていた池谷の側に彼女を振る理由などない以上、真子の側から振ったものだと思っていたが、プールから上がった後もご機嫌なまま、彼と何を話していたのかと沙雪に揶揄われていた真子がそんな事をするとはとても思えなかった。

 

(何かすれ違いがおきてる?)

 

 いくら池谷が彼女を想っていたとしても、真子の側にその気がないのでは関係は成立しえない。だから拓海はこの後池谷がどうなるか知っていても口を挟む気は無かった。バトルに関してだけは自分の問題だが、その先は二人しか入れない領域だった。

 しかしその前提が間違っているのであれば話は違う。ただ単に双方に誤解があるだけなら、誰かがそれを解いてあげれば上手くいくのかもしれない。

 

(……上手くいくかは分からないけど、まあやるだけやってみようか)

 

 破局に終わった池谷はこの後何年もこの後悔を引き擦り続けるのだ。

 『藤原拓海』が日本を離れイギリスに移って以後の事は分からないが、何年どころか何十年も抱えたままでいたかもしれない。さすがに一生ではないと信じたいが。

 

(まずは、何があったのか聞きださないと)

 

 話を聞きに行こうと足を向けた矢先、健二が池谷の背に近寄っていくのが見えた。

 不自然に暗い池谷の様子に気付いたらしき健二が声をかけるも、彼の返事は素っ気ない。

 

「どうしたんだよ池谷、さっきからなんかブルーだぞ?」

「……ちょっと騒ぎすぎて疲れてるだけだよ。気にしないでくれ」

「そうか……?」

「池谷先輩、健二先輩、お待たせしましたー!」

 

 さすがに引っかかりを覚えるのか健二は怪訝そうな顔つきになるも、帰り支度を終えて戻ってきたイツキに声を掛けられ意識がそちらに向いてしまう。

 そしてその間に池谷はさっさと車に乗り込んでしまった。

 

(……駄目だなこれ)

 

 耳を澄ませてそのやり取りを聞き取った拓海は足を止める。

 同性にして一番の親友と言える健二相手でこれなら、年下の異性の立場で聞き出せるとは思えない。気持ちが落ち着くまである程度時間が必要だろうが、それを待っていたらタイムアップだ。

 

(ならあっちに聞くしかないか)

 

 拓海は足先を真子達の方へ向ける。逆にあちらであれば同性の仲、事情を話せば話を聞かせてもらえるかもしれない。

 

 

 

 

 沙雪は今、非常にご機嫌だった。真子と池谷の進展が順調に進んでいる事は真子の様子を見れば明らかで、峠以外の夜遊びなどまるで知らぬ彼女のために、デートに使えそうな付近の夜景スポットやホテルのリストアップ、施設の利用方法を軽くレクチャーするなどせっせと世話を焼いてやった甲斐もあるというものだ。

 男性側が何かプランを用意してくれているのならそちらに任せるべき、とは言ったが、池谷浩一郎という男を今日一日観察してみた限り、紳士的で情熱的で蠱惑的なエスコートを要求するのは酷に感じる。おそらく、自分の用意したサンプルプランほぼそのままで推移するだろう。

 もっとも、仮に池谷がその方面に心配の無い遊び慣れてそうな男だったとして、相棒を預ける気になれたかどうかは別の問題である。

 

 これまで何をするにも自分頼りだった真子が離れていってしまうのは少し寂しくもあるが、これが成長なのだとジュース片手に太陽に向かう。そんな黄昏れごっこに水を差したのは真子の成長に大きく寄与した恩義のある相手、藤原拓海であった。

 

「池谷先輩の様子が変ですよ」

「変?」

 

 少し離れたところにいたはずの男連中に目を向けようとするが、既にそこに車はない。

 

「なんであんなに暗い顔をしてるのか気になるので、何を話してたのか聞いてみたいんです」

「暗い顔ねぇ……」

 

 真子のお誘いが上手くいかなかったのなら、真子がもっと暗い顔をしているハズだ。上手くいったならばその逆である。結果がどちらであったにせよ二人の間に温度差があるのはおかしい。

 実は池谷は真子と結ばれるのが嫌だった、という大穴が思い浮かぶが、すぐに打ち消す。嫌い、あるいは遊び相手以上には見ていない相手と本心を隠してにこやかに談笑できる器用な男とはとても思えない。

 相手にどこまで気があるか、それなりに遊んできた経験が告げている。少なくともプールサイドにいた時点まではその気があった。だが、その後に何かあったのだ。

 

「うーん」

 

 他人に想い人との会話を根掘り葉掘り聞かれて愉快になれる人物などそうはいないだろう。沙雪としても真子が自分から話すというなら聞くが、嫌がる相手に無理強いして不興など買いたくないし、他人がそれをしようとしているのならもちろん止めに入る。

 しかし沙雪から見て、拓海が嘘をついていたり、興味本位で踏み込もうとしているようには見えない。自分に真子、そして池谷の三人からの信用を損ねて得るものが他人の惚気話だけでは割に合わない。実際に彼女から見た池谷の様子はおかしかったのだろう。

 沙雪としても、真子の気持ちが届いて幸せになってくれるならそれは大変喜ばしいことだ。そのために一苦労背負ってくれと言う頼みなら断る理由はない。

 

「……分かった。聞いてみよっか」

 

 言うが早いか、車を取りに行こうとしていた真子を沙雪は捕まえ、どこでそんなノウハウを覚えたのか手早く彼女を物陰まで連れ込むのであった。

 

「真子、ちょっと話があるんだけど」

 

 

 

「……うんうん、だいたい話は分かった」

 

 困惑する真子を急かし吐き出させた沙雪は、聞いている間胸の前で組んでいた両腕を解くと、そのまま 

真子の頭頂部にチョップとして叩き付けた。

 

「いたっ!」

「まったく、とんでもないことするわ真子は。男と会ってるときは他の男の話をしないなんて男遊びの常識じゃない。それに何よこれ」

 

 沙雪は真子のバックに入っていたパスケースを開き、そこに収められていた高橋涼介の写真を突き付ける。

 

「捨てろとは言わないけど、せめて家に置きっぱにしなさいよ。誤解を招くようなものを持ち歩かない!」

「……ごめん」

「それは私じゃなくて向こうに言う」

 

 パスケースをたたんでバックに入れ直した沙雪は、一歩離れた位置で聞いていた拓海に尋ねる。

 

「それで、この後どうする?」

「そうですね……」

 

 拓海もこの後どうすべきか考えてみる。

 プールの後二人がどう動くつもりだったのか知れたのは大きい。このまま何も知らなければ真子は予定通り八時に峠の釜めし屋とやらに行って池谷を待っていただろう。二人が会えてさえいれば誤解もおのずと解けたに違いない。

 

(つまり、池谷先輩は待ち合わせには現れなかったって事か……)

 

 そう推測できるのなら、待ち合わせを継続する意味はない。来ない相手をいつまでも待っていても仕方ないのでこちらから行く必要がある。

 

「今晩会うのは難しいかもしれませんね。明日なら仕事中のところを捕まえられるから明日にしますか?」

「それが一番確実そうかな。日をずらしてもう一回待ち合わせか。まず君に行ってもらって、もう一回話し合う場が欲しいって真子が言ってるって伝えてもらおうかな」

「あの……」

 

 それまで静かにしていた真子が手を挙げた。

 

「私が池谷さんに電話かけます。私が悪いんですから、藤原さんじゃなくて私が直接行かないと……電話でまず謝って、それから改めて会いに行きたい」

 

「あ、そういや真子って向こうの電話番号知ってたよね。じゃあ直接掛けてみて、出てくれればそれでよし、出なければ真子が直接行って捕まえるって方向で。渋川のガソスタだったよね?」

「それでいいです。場所は大丈夫ですか?」

「大丈夫。地図ぐらい読めるって」

 

 その後互いの連絡先を交換し、真子の方でうまく池谷を捕まえられなければ拓海が動くという事で決定しその日は解散となった。

 

 

 

 

 午後七時半。

 ガソリンスタンドの来客も一段落し、片付けもそこそこに椅子に座り込んだ店長の祐一の耳に聞き慣れたエンジン音が響いてきた。

給油スペースでなく店の隅に停まったシルビアから降りてきた池谷に、祐一は疲れ混じりの気さくな声をかけた。

 

「池谷じゃないか。どうしたこんな時間に」

「どうもっす、店長。すんませんでした、今日は無理言って」

 

池谷、イツキ、拓海は三人ともここで働いている。従業員三人が同時に休みを求めるというのは店を運営する立場としてはあまり歓迎できる話ではない。しかし、難色は示しつつもそれでも祐一はそれを許可した。

 

「まあ良いって事よ。たまにならな」

 

 結果として、人手が足りない分は店長自らの働きで埋め合わせる事になった。

 明日か明後日の筋肉痛に怯えながらクタクタの体を椅子に沈める己が容易に想像できていたが、若い衆なんだからたまには仕事よりプライベート優先もよかろう、と。

 

「それで、どうなんだ。あの真子ちゃんって娘とは上手くいきそうか?」

 

 これで彼の恋路に光が見えたなら、肥え衰えた中年ボディを酷使した甲斐もあるというものである。

 

「それが……」

 

 しかし、池谷の声にはどうにも嬉しそうな色が無い。

明らかに無理して作ったものとわかる笑みを顔に張り付けながら、今日の出来事をぼそぼそと語り始める声に、祐一はしばし聞きに徹した。

 

 

 

そして聞き終えた祐一は、いつしか作り笑いを浮かべる事も忘れて俯く池谷に、聞いている間ずっと胸中で温めていた言葉を贈った。

 

「バッカ野郎!」

 

 突然の大声に驚いて固まる池谷に、堰を切られて溢れ出す言いたかった言葉の数々を叩き付ける。

 

「お前何にも分かってねーな。真子ちゃんは今でも高橋涼介が好きだとか、前に付き合ってたとかはっきり言ったのか?」

「い、いや……」

「お前だって、テレビや雑誌の中のタレントに憧れた事ぐらい一度くらいあるだろう。それと同じだよ」

「は、はあ……」

「頭冷やして考えてみろ池谷。真子ちゃんは高橋涼介じゃなくて、お前を選んだからこそそんな話だって打ち明けてくれたんじゃないのか。彼女に信用されていながら、そこでお前が包容力の一つも見せられんでどうするんだ、わかんねーのか!」

「……!」

「わかったなら急いで待ち合わせに行け。時間は何時だ?」

「それが……八時なんです」

 

祐一は腕時計を覗き込んだ。

 

「八時って……今がその八時じゃねーか!」

 

 時計の針はもうすぐで8の字を指すところまで来ている。

 

「もう無理っすよ、ここからじゃ飛ばしたって一時間はかかりますし……」

「んな事行ってみなきゃ分かんないだろうが、いいから行け、ぶっ飛ばせ!」

「……っ!」

 

何も言わずシートに飛び乗り、夜の街中には相応しくない爆音を奏でて飛び出していった池谷のシルビアのランプの明かりを見ながら、祐一はため息を一つつく。

 

「偉そうに言ったものの、多分無理だろうな……」

 

それもまた青春か、と祐一は呟き、店じまいの続きをすべく道路に背を向けた。

 

 

 その後池谷は警察に睨まれない範囲で精一杯急ぎ、道中で事故の様子を見かけて、もう少し出るのが遅かったらここで渋滞に捕まっていたなと胸をなでおろしたりしながら釜めし屋にたどり着くも、当然そこに真子はおらず。

 失意のまま無人の駐車場に小一時間座り込んだ後深夜に帰宅、不在時に彼女から電話があったことを家族に告げられるのである。

 

 

 

 

「……はい、こちら藤原とうふ店。ああ、沙雪さんですか」

「真子、ダメだったって。かけたけど居ないみたい」

「そうですか。じゃあ明日、四時以降に来てもらえれば」

「四時ね、了解……ありがとね、君がいなかったら真子、今頃悲しんでたかも」

「いえ、私は」

「いいって、どんなつもりでも。大事なのは結果だからね。じゃあ、お休み」

 

 

 

 

 



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運命の神様には前髪が無い?

 その日のガソリンスタンドの空気は非常に重かった。

 半開きの口からため息を垂れ流しながら青い空を見つめる池谷と、それを遠巻きに見守るいつもの面子の構図が朝から昼過ぎまで延々と続いている。

 

「池谷のやつ、半日経ってもまだあの調子か……気の毒で声もかけらんねぇ」

「客の前ではシャキッとしてるんだけどな。仕事に身が入らんようならさっさと早退させるんだがなぁ。本人も大丈夫と言い張るし、やる事はキッチリやっとるから店長としては何も言えん」

 

 店の隅に停めた180SXの周りで、祐一と健二がこそこそと話をしている。

 二人の視線の先では洗車機から取り出された客の車を丁寧に池谷が拭き上げている。手つきは非常に熱心だが、しかし目だけは虚ろなままだ。

 因みに祐一は昨日の疲れ故今日はほぼいるだけ店長である。三人でも手が足りない程の客足は今日は無さそうなので、責任者の判子が必要ないくらかの仕事をこなした後は丸一日休憩時間だ。昨日は三人の分まで働いたのだから今日ぐらいは許される、とは祐一の思いである。

 

「あー、空気が重い……それにしても、どうして池谷フラれたんでしょうね。昨日の時点ではそんな気配はさっぱり無かったんですけど」

「……オレからは何とも言えんな。とはいえ、ちょっとしたミスで全部台無し、なんて世の中にはよくある事だ。池谷も何かやらかしちまったんだろうさ」

「百年の恋も何とやら、てか……」

「健二も気をつけろよ。捕まえたら意地でも離さんことだ。女の側から来てくれるようないい男ならともかく、そうでないならしつこいぐらい食らい付くしかないぞ……そろそろ出てくるかな」

 

 店の中で待っている客と今日はレジ担当の拓海にイツキが請求書を持って走る。

 客の見送りのために雑談を切り上げ、祐一は入口の近くに待機する。

 

「それができるなら苦労はしてないんだよなぁ……」

 

 健二は邪魔にならないよう奥に引っ込みながら一人小さくぼやく。

 自分からグイグイいける胆力があれば自分の人生はもっと良いものになっているだろうし、池谷もとうの昔に彼女ができているだろう。確かに自分たちは容姿にも金にもあまり恵まれなかったかもしれないが、それでも嫁や彼女を見つけている似たような男は大勢いるのだから、やはり一歩踏み出せない己の問題なのだろう。

 

(あの時勇気があれば、今頃何か違ってたんだろうか、なんてね)

 

 池谷と違い、健二は彼女がいた事はある。一応。

 今はフリーに戻ってしまったが、もう少し足掻けていれば何か変わったかも、と過去を振り返ったことは一度や二度ではすまない。

 

(ま、今更なに言っても遅いんだけどな……)

 

 先ほど一番高くなったばかりの太陽に向かって心の中でぼやいてみる。

 逃した魚は大きい。そして運命の女神には前髪しかない。

 自分にも池谷にも、もう一度チャンスが来ればいいなと願いつつ、世界はそんな都合良くなんてないんだろうと息を吐いた。

 

 ひとしきり息を吐いてとりあえず満足したところで、空から視線を戻す。

 

(あれ、まだ終わってなかったのか?)

 

 店長はまだ店の前で見送りの態勢のままだった。

 会計して出ていくだけにしては妙に時間がかかっている。何かあったのだろうか。

 実家のクリーニング店の手伝いでそれなりに接客の経験はあると自負している。何か問題なら喜んで手伝うつもりだが、そもそも責任者の祐一が動いていない時点で特にもめ事などは起きていないのだろう。

 

(お、出てきた)

 

 どうしたのだろうか、などど考えているうちに出てきたその客は何事もなかったかのように車に乗り込み、お帰りに気付いた池谷とイツキにも見送られながら店を出て行った。

 

 

 客がいなくなったのでまた奥に戻ってきた祐一に、何があったのか尋ねてみる。

 

「さっきの客、ずいぶん時間かかってたみたいですけど何かあったんですか?」

「ん、ああ、別に問題と言うほどのことは無かったぞ。ただ小銭が多めだっただけだ」

「小銭って、そんなに多かったんです?」

「まあ、あんまり多いのは店側も受け取り拒否していいって事になってるけど、そうされるほどでもないギリギリの線を攻めてる客だっだな」

「そんなトコ攻めて何の意味が……?」

 

 わざわざ大量の小銭で支払う理由を考えてみるが、特に合理的そうな内容が思いつかない。何らかの理由でたまたま財布が小銭まみれになっており、それをスッキリさせたかった?

 

「健二は、自分がレジにいるとして、客が小銭を複数出してきたらまずどうする?」

 

 祐一は架空の財布から金を取り出すような動作をすると、その手を健二の前に置いた。

 

「えーと、そりゃまず何円が何枚あるか数えて……」

 

 健二は軽く前かがみになると、小銭を一枚一枚数えるかのように手を動かす。

 

「それだよ。今数えるために前かがみになっただろう。それが目的だったらしい。オレも中に入らず遠目に見ただけだったから、何やってるのか気付くのに時間かかったよ」

 

 見送りに備えて出口に立っていた祐一が見たものは、小銭を数えるために屈んだ拓海の前でその胸元をじっと見つめる客の男の姿だったらしい。

 

「気付いた時は逆に感心しちまったよ。よくそんなの思いつくし、思いついても実際にやろうとは普通思わないって」

「……それ、見られてた側は?」

「多分気付いてたな。ああいうのアルカイックスマイルって言うのかな、釣りを渡すとき、顔はにこやかなんだけど、目が全く笑ってなかった。正直言って怖かったよ」

「……拓海ちゃん、あんまり怒らせない方が良さそうっすね」

「あの子に限らず、女はみんなそうだぞ。オレも自分の嫁で身に染みてる」

 

 遠い日の何かを思い出すように、祐一は煙草に火をつけて空を顧みるのだった。

 

 

 

 昼間の最も暑くなる時間帯も過ぎ去り、今日の仕事の終わりも見え始め色々と気の緩み始める頃。客もおらずとある男の周辺を除いて穏やかな雰囲気が流れる中、店のすぐ前でウィンカーを点け対向車待ちをしている一台の青い車が目に入る。

 

 緩みきった空気を振り切り、暑いからと脱いでいた帽子をしっかりと被り直し、イツキは道路を横断中の車に目を向ける。

 

(ん、あの車……)

 

 先ほど見た時は何とも思わなかったが、よく見ると何やら見覚えがある気がする。

 エアロパーツ、ホイール、そしてシートに座る二人の女性らしき影と視線を移していくにつれ見覚えは確信に変わる。

 しかし、車とドライバーに覚えはあれど、なぜ彼女らがここに来たのかは分からない。住んでいる場所は離れていたはずで、たまたま遊びに来た先で給油しようと入ったのがここである可能性は無くもないが。それにしてもすごい偶然である。

 

「ねぇ、あれって……」

 

 同じく店の外まで出迎えに出ていた拓海にシルエイティを指さして話しかけてみると、意外そうではあるが別に驚いてはいない落ち着いた声が返ってきた。

 

「うん。でも早いね、四時って言ったんだけど」

「早い……?」

 

 言っていることの意味はよく分からないが、それを聞き返す時間的余裕はなかった。客が目の前にいるのにそっちのけで雑談に花を咲かせるなど雇われの身には許されない。

 窓ふき用タオルを手に走る。

 

「いらっしゃいませーっ!」

 

 パワーウィンドウの作動音と共に開いた窓の中からのぞいた顔はやはり、昨日、一昨日と見た顔と同一のものであった。

 やや緊張のような色が見える佐藤真子が視線をイツキや助手席の沙雪、インパネ類とうろうろさせながら、おずおずと注文を口にした。 

 

「えっと……とりあえずハイオク満タン、で」

「はい、ハイオク満タン入りまーす!」

 

 イツキは車の前に手を伸ばして窓ふきを開始し、後方では給油ノズルを抱えて拓海が無言で作業を行っている。

 しばらく給油機の発する駆動音以外に何も聞こえない静寂が続いた後、きょろきょろと店内を見渡していた沙雪が助手席のドアを開けて降りてきた。

 

 そのまま車の後ろを回って拓海の近くに寄っていく。

 

「……早かったですね」

 

 沙雪が何かを言うより早く、拓海が視線は給油口から外さずに沙雪に声をかけた。

 

「ごめんごめん、本当はもっとギリギリを攻める予定だったんだけどさ、思ってたより早く着いちゃってね。仕事の邪魔しに来たわけじゃないって。それで、例のあの人は?」

 

 イツキには例のあの人、と言うのが誰かははっきりとは分からないが、真子と沙雪の二名が関わる人物という事で池谷先輩を指しているのだろうとは想像がついた。

 数分前に中に入って行くところを見た覚えがあるので、おそらくトイレにでも入ったか。そのタイミングで二人が来たのだから、これまたタイミングが悪い。

 

「呼んできましょうか?」

「いや、そこまでしてもらっちゃ悪いよ。そっちは仕事中なんだしね」

 

 話しているうちにもう給油が終わり、ノズルを持ち上げて少しだけ注ぎ足す。元々そんなに減ってはいなかったらしい。

 給油機が止まり、二人の会話もそこで途切れたため再び店内が静かになる。

 

「……あ」

 

 静まっていた店内に、真子の小さな呟きが響いた。

 店の一角を見つめる真子の声に釣られてイツキ達もそちらに目を向ける。

 

「……」

 

 透明なガラス戸の向こうで、取っ手に手をかけた状態で呆然と固まっている話題の先輩の姿がそこにあった。

 

 

 

 

 池谷は今朝からずっと絶望と後悔を味わっていた。一人で静かなところにいると延々と脳が昨日の光景を特大スクリーンで勝手に上映してくる。

 仕事で頭をいっぱいにする事で逃げることはできるが、一日中接客などできない。客がいなくなった時、あるいは今トイレの鏡を前に項垂れているようにふと一人になった瞬間に、耳元でプールの水音や町を道交法無視で駆け抜けた爆音、たどり着いた思い出の釜めし屋の駐車場の静寂が臨場感たっぷりに再生されてくる。

 

 いつまでもこうしてはいられない。

 

 夏の熱気で温くなった水道水で顔を濡らすと、また外に出るためにトイレのドアを開ける。もうすぐ今日の勤務は終わってしまうが、せめてその時までは何も考えないままでいたかった。

 

 いたかったのだが。

 

 

 ガラス戸の向こうにあるその側面を間違えようはずもない。

 車に興味のない人ならともかく、シルビアと180SXを飽きる程見てきた走り屋なら、目の前にいるその車が2台を繋ぎ合わせて作られている事など一目で見抜ける。

 

「……」

 

 今こうしてあの車がここにあるという事は、彼女がこの店に来ているということか。

 確かにあの晩、どうかもう一度だけチャンスを、と最近少しだけ信じるようになった神様に心から祈りを捧げはしたが、まさか昨日の今日でまた再会するとは思ってもみなかった。正直言って、池谷自身も期待していなかったのだ。世の中そんなうまい話は無いと。

 

 これは運命の神様が池谷に恵んだ慈悲なのか、もう一度絶望を味わわせんとする悪趣味なお遊びなのか。

 どちらにせよ、彼は世の99パーセントの男性が望みえないセカンドチャンスを手にしてしまったのである。

 

「どうした、池谷。そんなとこで立ち止まって」

「……店長」

 

 レジを挟んだ向かいから、店長の祐一に声を掛けられた。

 店長は彼女と会ったことは無いはずだが、それでも大まかな事は察してくれているようであった。

 

「進むも良し引くも良し……と言いたいところだが、向こうは客でお前は店員なんだから嫌でも行ってもらうんだが」

「……はい」

 

 シャツの裾に掌を数度こすりつけ、息と手汗を整えようとするも、拭うそばから次が出てきてきりがない。

 それでも意を決して戸に手をかけ押し開くと、彼女もこちらに向かって走り寄ってきた。

 

「……」

「……」

 

 戸の前で向かい合う。目は最初の一瞬だけ合わせたが、すぐ耐えられなくなって下を向いた。

 もう一度だけ会いたいと願った際には伝えたいことが山ほどあったはずだが、いざその時が来ると中々喉を通ってくれない。

 

 昨夜の身勝手を詫びるたった一言ですら辛い。

 

「池谷さん」

 

 自分の胸元に向かって口をパクパクとさせていると、しびれを切らしたのか向こうから話し始めてくれた。

 

「昨日は本当にすみませんでした」

「……えっ?」

 

 彼女が何を言っているのか分からない。

 彼女が気に病むような事が昨日あっただろうか。高橋涼介の一件なら彼女は軽い気持ちで口にしただけであろうそれを己が勝手に膨らませて勘違いしただけだ。挙句それを理由に待ち合わせをすっぽかしたのだから、それはこちらこそ謝らなければいけない立場である。

 

「私のせいで、池谷さんには不快な思いを……」

「え、ええと」

 

 真子が腰を折り、頭を下げてくる。

 本気で謝っている。彼女の気持ちがわずかな動作からでも伝わっている。

 

「こら真子」

 

 どう返したものかも分からず固まっていたところで、思わぬ助け舟がやってきた。

 いつの間にやら真子の後ろまで来ていた沙雪が真子の肩を掴んでいる。

 

「気持ちは分かるけどさ、ここでおっぱじめるんじゃないよ。向こうもまだ仕事中なんだしさ。今は私らしかいないみたいだけど、いつ他の客が来るかもわかんないし」

「……ごめん沙雪」

 

 真子は下げていた頭を上げて背筋を正すと、もう一度勢いよく下げてきた。

 

「あの、厚かましいお願いですけど、もう一度私と話をしてくれませんか。ちゃんと謝りたいんです。今日の池谷さんのお仕事が終わったらまた来ますから、その時にお返事を下さい」

 

 緊張気味にゆっくりと言うと、彼女は背を向けて車に戻ろうとする。

 その隣には沙雪が付き添っており、二人のうなじが陽光で照らされて白く光った。その光景が、昨日プールで別れた時の光景と脳内で重なる。

 

「ま、待ってくれ!」

 

 思わず声が出ていた。

 

「……えっ?」

「そこで五分、いや三分待ってて!」

 

 真子が戸惑う声を背に受けながら中に飛び込む。

 レジ向こうで静かに見物していた店長の前に立つと、思いっきり声を出して要望を叩き付ける。

 

「すいません店長、早退させていただきます!」

 

 そして返事も待たずに更衣室に駆け込み大急ぎで着替えて飛び出す。

 

 

「行こう、真子ちゃん!」

 

 

 手にシルビアのキーを握り締め、まだ待っていてくれた彼女に呼び掛ける。

 

「池谷さん、いいんですか……?」

「いい!」

 

 私服でキー、こちらの意図は察してくれたようだが、本当にいいのかと確認された。

 良い悪いで言うなら良くはないだろうが、でも今はこれで良いのだ。

 店長には明日全力で謝る。

 

「いいじゃん。せっかくああ言ってくれてるんだから行きなよ」

「沙雪!」

「シルエイティは私が持って帰っておくから。キー頂戴」

「……」

 

 沙雪が真子の背を押してくれている。この間に車に飛び乗ってエンジンをかけた。

 彼女の前まで車を動かすと、まるで初めて会った時のようにおずおずと助手席に乗り込んでくる。

 

 

 店から道路に出る際、ふと店の前に目を向けた真子に釣られて自分も目を向けると、そこで沙雪と、なぜか拓海が二人で見送りをしてくれていた。

 

 

 

 

 嵐のように飛び出していった池谷。遠ざかっていくエンジン音を聞きながら、祐一は煙草を咥えて苦笑いを浮かべていた。

 

「……まあ、たまにはこういうのも良いだろ」

 

 時計は後十五分程度で四時を指すところまで来ている。

 

「池谷は早退と言ったが、あと十五分くらいいた事にしておいてやるか」

 

 早退の事実は無かった事にしておく。然るべきところに知れたら雷が落ちるだろうが、まあそれを密告するような者などいないだろう。

 煙草の灰を灰皿に落とし、何事もなかったように仕事に戻ろうとする拓海を呼び止める。

 

「あの二人を呼んでくれてありがとな」

「何のことですか?」

「何となく、そんな気がした。皆驚いてたのに、一人だけ動じてなかったからな」

「……私は何もしてませんよ」

「そうか。上手くいくと良いな、池谷」

「そうですね」

 

 灰を落とした煙草を咥え直してゆっくりと吸い込む。

 話が途切れた事で拓海もこの場を離れて仕事に戻り、いまだ事態が飲み込み切れずにいるイツキの肩を叩いて呼び戻している。

 

 先ほどシルエイティに乗っていた二人組の片割れ、話に聞いたコドライバーを務めるらしい沙雪とか言う女性がその二人に背後から近づき、何やら話しかけている。

 聞こえてくる声からして、自身がヒマになったから仕事終わりに遊びに誘っているようだ。

 

「いいねぇ、若い連中が楽しそうにしてるのは。そう思うだろう?」

 

 店の隅で置物として一連の事態を見守っていた健二に、缶ジュースを一本渡してやる。

 

「オレも池谷が何とかなりそうでホッとしてますよ」

「それじゃ、次はお前の番だな。頑張れよ」

 

 頑張れと言われても、と健二は困った顔をしてジュースを呷り、顔をしかめる。購入からそれなりに時間が経っていたジュースは、とてもぬるく甘酸っぱい味がしたことだろう。

 

 

 



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あした天気になあれ

 とうに日付も変わった平日の深夜の妙義の山を、けたたましくエンジンとスキール音を鳴り響かせながら登っていく車が一台。

 頂上に輝く数少ない街灯から少し離れて休憩をとっていた妙義の下り担当、慎吾は手にしていたスチール缶を溢れかえりそうなゴミ箱にねじ込み、その車が登り切ってくるのを待っていた。

 

 やがて黒いR32GTRが頂上に姿を現し、慎吾の車、シビックEG6の近くに止まる。

 R32の扉を開いて降りてくるのは妙義の山の登り担当、中里毅である。

 

 

 中里はちらりと後方を振り返った。そこにあるのは平日の深夜にも関わらず山奥に居座る二台の車。

 彼の脳内のうち社会人としての常識をつかさどる部位は彼に今すぐ帰宅し明日に備えて休むよう強く主張しているが、それをねじ伏せ歩き出す。

 

 

 

 固まった体を軽く伸ばしながら近づいてくる中里に気が付いた慎吾は、愛車に乗り込もうとしていた手を止めて彼の方に向き直った。

 

「なんだよ毅、下りないのか?」

「休憩だ。熱がそろそろヤバくなってきた」

「そうか」

 

 慎吾は中里の説明に短く返した。

 峠にせよサーキットにせよ、攻める走りを嗜む者にとって車の過熱は非常に重大な問題である。

 止まれない、曲がれない、なんて事態に走行中に陥ったならばその先に待つのは悲惨な結末。兆候を感じたならば速やかに走行を中止して冷まさなければならない。

 自身のプライドを懸けた戦いの真っ最中であるならばそれでも続行するかもしれないが、ただの練習でそこまで無理をする意味は無い。むしろ限界まで攻める練習ができなくなるので害悪だ。

 

「……」

 

 ほんの少しの無言の見つめ合い、その時間にたちまち耐えられなくなった中里はたった今思いついた話題を慎吾に投げつけてみた。

 

「慎吾、下りはお前に任せる事になるんだが……お前個人じゃなくてチームとしてのバトルなんだから、いつもみたいなつまんねえマネすんじゃねぇぞ」

「つまんねえ?」

 

 慎吾は中里を怪訝そうな目で見つめ返した。

 

「ああ、そういう事か……心配せずともんな事しねぇよ。ホームコースなんだぞ」

「ああ、それなら良いんだ。余計な事聞いて悪かったな」

 

 気分を害しました、と顔にあからさまに浮かべる慎吾、中里はさすがに不適切な話題だったかと謝ろうと手を挙げるも、慎吾の次なる言葉に動きが固まった。

 

「あれこれ企むよりも普通に走った方が勝率高いだろうが」

「……懲りないヤツだな」

 

 中里はため息を一つついた。慎吾が秋名までお得意のガムテープデスマッチを仕掛けに行き、順当に返り討ちにされた話は中里の耳にも入ってきていた。

 それ以来、何がとははっきり言えないが、慎吾は少し変わったように感じられてはいたのだ。そうした面にも改善を期待してはいたのだが。

 

「オレの考え自体は変わってねぇよ。綺麗な二位より汚い一位だ。ただ、世の中には凡人のやる事なんざ何も通じない、格の違うバケモノがいるってのを分からされただけだ」

「……」

 

 またしばらくの沈黙。

 場を繋ぐためにも一本吸おうか、と中里はポケットに手を伸ばした。

 

 紫煙を虚空に吐き出そうと顔を上げると、それまでそっぽを向いていた慎吾がいつの間にかこちらを向いていた事に気が付いた。

 

「なあ毅。お前の目から見て、あのFDはどうだ」

 

 このFDが差している相手は言うまでもなく高橋啓介の事である。

 ここ最近妙義で頻繁に目撃されるようになった黄色のアイツ。その目的はこの週末に申し込まれた赤城と妙義の交流試合に向けた特訓。

 

「FD……ああ、あれか。確かに上手い。以前秋名で見かけた時より遙かにうまくなっていやがる」

「直前でさらにパワーアップしてくるとか嫌なヤツだな……秋名で負けたのが余程悔しいんだろうよ。それでいながら秋名へのリベンジはせず妙義の方に来やがった。何考えてやがる」

「リベンジか。確かにそれはオレも思った。高橋涼介が出てくると期待してギャラリーに行く準備してたのが何人もいたぜ」

 

 赤城の王者、高橋涼介は弟にばかりバトルさせて、己が矢面に出てくることは滅多にない。高橋啓介が秋名の無名の走り屋に敗北したニュースは群馬エリアを震撼させたが、同時に一つの期待も抱かせた。噂に名高い高橋涼介の走りを見られるかもしれない、と。

 ナンバー2が敗れたならば、その恥を雪ぐためにナンバー1が出てくるだろう。赤城の白い流星の走りを見逃さぬため、多くの走り屋が赤城の動向に聞き耳を立てていた。

 

「秋名でなく、妙義。しかも負けた弟がまた出てくる。まあウデは格段に上げたみたいだが……」

「リベンジする気が無い、なんてのは無いだろうな、流石に。となると、ウチに勝った後で秋名か。もうナイトキッズ以外のめぼしいチームとはだいたいやり終えてたハズだ」

「……その言い方だとオレらは秋名のハチロクの前座扱いのようにも聞こえるが」

「高橋涼介にとっては、そうなのかもな」

 

 二人はそこでしばし虚空を見つめた。ここでいくら話したところで高橋涼介の胸の内など分かるはずもない。

 中里がひときわ深く煙を吸い込んでいると、隣で慎吾の足音が聞こえた。

 

「今日はもう終わりにするわ。下りたらそのまま帰る」

「そうか……慎吾」

「なんだよ」

 

 車に乗り込もうとする足を止め、慎吾は顔だけ中里に向ける。

 

「また明日。そんだけだ」

「……おう」

 

 小さな声であったが、深夜の空には意外とよく響いた。

 

 

 

 

 夏休みも終わりを迎えた始業式の日。ただ座っているだけの楽だが退屈で暑さだけが記憶に残る式典を終えた後、気の早い一団はやる事が終わったならとそそくさと下校を開始していた。

 夏休み中、アルバイトと練習走行に時間を注ぎ込んだ結果少しだけ距離が開いていた男友達らとの特に中身の無い馬鹿話が一段落したイツキは、そろそろ自分も帰ろうかと薄い鞄を肩に下げて立ち上がった。

 

 周囲に人影は既にまばらで、少し遠くから賑やかな女子の話し声が聞こえる程度の静かな廊下を歩きながら、先ほどの男友達らとの会話の一部をイツキは脳裏で振り返る。

 

 イツキは友人らから今度の週末に一緒に遊ばないかと誘われたが、昼間は空いているが夕方からは無理だと返した。理由を問われて、夕方からは先約がある事、その相手が藤原拓海である事を吐かされ、友人らから大いに揶揄いを受けたところである。

 彼氏彼女の関係ではない、と否定したところで意味など無い。休日に一緒に遊んでくれる女友達がいる時点でもう揶揄いと少しの羨望の対象なのだ。

 それについてはイツキも否定はできない。この夏の日々を昨年の己に語って聞かせたら、同じような反応をするだろう。ハチロクと、気心知れた先輩達と、そして彼女。朝から晩まで好きなものに囲まれて過ごした日々が楽しくないはずがない。

 この日々が壊れずにいてくれることを願うばかりである。

 

 

 男友達らと別れたイツキは自身もそろそろ帰ろうかと鞄を手に取り教室を出る。先のバカ話の影響ではないが、イツキの脳内は週末に予定された極めて重要な用事でいっぱいになっている。

 

 もしも親が週末に何か予定を入れようとしてきても断固としてお断りする。その決心を胸に一人校舎の階段を下る。

 

(週末は妙義……これは絶対見逃せないよな走り屋としては!)

 

 予定、即ちこの週末に赤城レッドサンズが妙義に乗り込むらしいという情報を耳にした秋名の面々の考える事は一つ、ギャラリーに行くことである。

 池谷、健二の両先輩は交通費節約のため乗り合わせていくらしい。イツキも拓海に声を掛けてみたところ快諾を貰えた。

 

(道、ちゃんと確認しとかないとな。迷って遅れました、じゃカッコ悪いし)

 

 高速代を惜しんで下を走るか、それとも時間を惜しんで上を走るか。早く行かねばいい場所は取られてしまうが、さりとて学生走り屋の懐事情はそう豊かではない。片道の高速代ですらケチれる物ならケチりたくなる。

 物事を計画するとは難しく、そして楽しい。

 

「くーっ、早く土曜にならねぇかなーっ」

 

 そうして階段の踊り場の真ん中で一人くねくねと感極まっていると、視界の隅に人影が映り込んだ。

 人の目を認識するや否や我に返ったイツキが、先ほどの奇行を見られていやしないだろうかと心配になりながら上を確認する。

 

「あ、やっぱり武内君だ」

 

 階段の上から顔をのぞかせたのは同級生の茂木なつきであった。

 

「なんか声がしたからさぁー」

 

 そのままこつこつと軽い足音を響かせて階段を降りてくると、目線が同じ高さになるイツキより少し上の段で立ち止まった。

 彼女が段を降りる度に、短く折られたスカートがぴょこぴょこ揺れて白い太ももが垣間見える。この子はこれを狙って計算づくでやっているのだろうか。もしそうなら将来が恐ろしいものであるが、たぶん何も考えてないのだろう。

 

 以前同じようなシチュエーションがあった時に、思わずスカートの端に目をやってしまったら隣にいた拓海から無表情でただ見つめられて何だか心が冷えるような思いをしたのを思い出し、意地で目線を相手の顔に固定した。

 

「ねぇねぇ、土曜日がどうとか言ってたけどどっか遊びに行くの?」

「あ、えっと、土曜日に妙義に行くことになってて」

 

 なつきは小さくみょうぎ、みょうぎと繰り返し、それが妙義山の事だと理解するとイツキに意外そうな驚いた表情を向けた。

 

「武内君って登山とかする人だったの?」

「いや、登山じゃないよ。土曜の夜に妙義でバトルがあるから、それを見に行くんだよ」

 

 なつきは今度はバトル、という単語の意味するところが分からず小さく首をかしげる。

 自分の常識が全く通じていない事にイツキはもどかしさを感じるが、車に興味のない人ならまあ仕方がないか、と吐きかけたため息を飲みこむ。

 そういうイツキとて、スピードスターズの先輩方の繰り広げる車談議について行けなくなる事はあるし、そこに拓海も加わろうものならばもうお手上げである。

 拓海も彼女なりに嚙み砕いて伝えようとはしてくれているのであろうが、そもそも前提となる知識や技術に隔たりがありすぎて、嚙み砕かれてなおイツキ達では咀嚼困難なのである。拓海が人にものを教えるのがあまり得意ではない人間であることも拍車をかける。

 

 それに比べればこんなのは可愛いもの、むしろ自分が教える側に回れる希少な機会である。

 

「えーっとね、バトルってのはね……」

 

 

 最初は慎重に言葉を選びつつ、気が付けば熱が入って身振り手振りを交えて語る事約十分。

 

「そんなわけで、オレはこの週末は妙義に行かなきゃいけないんだ。群馬中の走り屋達が注目する対決だからね」

「そんなにスゴイの?」

「そりゃあ、もう。走ってるとこを一目見ようと大勢やってくるよ」

「へー」

 

 分かっているのかいないのか、よく分からない返事をしながら、少し前かがみになってなつきはイツキの顔を覗き込んだ。

 

「ねぇ」

 

 その顔に悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

 

「それ、拓海ちゃんも行くの?」

「あ、うん行くけど……」

「ふーん、じゃあなつきも一緒について行ってもいいー?」

「えっ?」

 

 まさかそんな事を言われるとは思ってもいなかったイツキが気の抜けたリアクションをすると、なつきは急に不機嫌そうな表情をする。

 

「だってさー、最近なつきと拓海ちゃん、予定が全然合わなくて遊べなくってさぁ。それに拓海ちゃんや武内君がハマってるものがどんなものなのか見てみたいし。ダメ?」

 

 イツキは答えに困ってしまった。不都合はない。むしろないからこそ困る。

 ああも熱く説いた結果、興味を持ってもらえたのならそれは大変喜ばしい事である。座席はもちろん空いているし、交通費の折半相手も増える。断る理由などあるはずもない。拓海だってこの子であればOKを出すだろう。

 とはいえ話を聞いたその場でそれを申し出てくるとはなんと思い切りが良いのか。

 

「……なーんて」

 

 どう返したものか悩むイツキの前で、なつきは不機嫌から笑顔へと表情を変えた。

 

「ウソだよ」

「えっ、えっ?」

「せっかく二人なんだし、邪魔なんかしないって。なつきもそれぐらいは空気読むって。武内君の事、これでも応援してるつもりなんだけどなぁ」

「いやでも、別にオレと拓海ちゃんはそういう関係じゃ……」

 

 なつきはニコニコと笑っている。ある意味、顔から感情や考えが読み取りにくい子だ。

 

「んー、別に脈が無いなんてことないと思うよ。嫌いな人のためにわざわざ休日潰したりなんて女の子はしないって。お金貰ってるとかならともかく。拓海ちゃんならなおさらだって」

「そ、そうかな……」

 

 お金貰ってる、の部分に妙に生々しさを感じる気がする。

 

「ホントだよ。男の子に言い寄られてもハッキリ断るし、それでもしつこい相手には本気で怒るし。中学の時、しつこく迫ってた一個上の先輩がいたけど、ぶん殴られたんだよ。ビンタとかじゃなくてグーで」

「拓海ちゃんが?」

 

 意外なエピソードである。というか、イツキだって同じ中学だったのだが、そんな話は聞いた事がない。

 

「周りには言わなかったんじゃないかな。恥ずかしくて。でもなつき見たんだよね、鼻押さえながら逃げてくその先輩」

「へ、へぇ……」

「なつきが拓海ちゃんと仲良くなれたのもそれからでね。普段は静かなんだけど、嫌な事ははっきりそう言うし、怒ると一歩も引かなくなるし。かっこいい人だなって。それまで全然話さなかったんだけど、思い切って行ってみたら仲良くなれたんだ」

 

 普段の静けさからは想像しづらい場面である。もし仕事中にそんな気配が見えたなら止めに入った方がいいかもしれない。いや、それ以前にその矛先が自分に向かないよう日常生活でももう少し気をつける方が先か。

 

「だから大丈夫だと思うよ。拓海ちゃんが自分から関わりに行った男の子なんて武内君以外知らないもん。チャンスは間違いなくあるって。あ、でも、なつきもたまには遊びたいから次の休みは拓海ちゃん貸してね。じゃあ、また明日ー」

 

 なつきはそこまで言い終えると、返事も聞かずに手を振りながら階段を下りていった。

 

(チャンス、かぁ……)

 

 イツキは表情を隠すように顔の汗をシャツで拭う。

 

(週末、晴れると良いなぁ)

 

 崩れたシャツを戻し、いつものお調子者の顔を取り戻したイツキはあらためて帰宅の途に就いた。

 

 



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ひとりぼっちの健二

 

「イツキ、これ持って行きな」

 

 いざ家を出立せん、と靴を履くために玄関に座り込んでいたイツキの前に、紙袋がずいっと突き出された。声の主は姿を見るまでもなく分かる。わが母だ。

 靴を履き終えたイツキが差し出された袋を見ると、傘の柄の部分が突き出ているのが目に入った。そういえば、今日はあまり空模様が良くなかった気がする。傘を持って行くのは有りかもしれない。

 しかし、傘を渡すだけならばわざわざ袋に入れる必要はない。イツキが袋の中を覗き込むと、折り畳みの傘だけでなく、タオルやシャツなどが入っているのが見えた。なぜか二セット用意されている。

 

「傘と拭くものと着替え。天気悪い日に出かけるんだ。男ならこれぐらい用意しときな。恥かかせんじゃないよ」

「……誰か乗せてくなんて言った覚えはないけど」

「言わなくても分かるさ、親を舐めるんじゃないよ。世の中には男が用意周到だと逆に萎えるなんて女もいるらしいけど、母さんには全く理解できないね。何もしてくれない旦那がどれだけ腹立たしいか、体験しなきゃ分からないらしい。全く父さんはね……」

「あ、うん……ありがとう」 

 

 余計なお世話、の一言ぐらい言ってやりたくはなったが、言うと面倒になりそうなので黙っておくことにした。

 今回は下道をのんびり走って行く事にしたので金の代わりに時間がかかる。余裕を持って出てきたつもりではあるが公道には何があるか分からない。何より道が不安である。地図と睨めっこは散々したものの、一度も行った事のない場所なので自信が無い。いつまでもここで時間を無駄にしているわけにもいかない。

 

 

 

 夕方、イツキは約束通りの時間に藤原とうふ店の前で拓海を助手席に迎えて走り出した。今日の拓海はいつもの恰好ではなく、インナーにタンクトップ、その上にブラウスを着、肩から小さな鞄を下げている。あれは確か、以前池谷先輩と真子が仕事を早退してまで消えた後、残された沙雪に拓海と三人で買い物に連れ出された際に選んでもらっていた物の一つである。

 

 最初に沙雪がセレクトしてきたものは流石に露出多すぎできつい、と断っていた。こんな格好が許されるのは今だけなのに、等とぼやきつつも、次のチョイスはまだ普通の範囲に収まっていた。

 あれは彼女流のジョークだったのか、それとも本気であれを着るよう促していたのか。

 

「それ、前に買ったやつ?」

「そう。買った以上は使わないと勿体無いし」

 

 二人で出かけるときに洒落た格好になってくれるのはイツキとしては大歓迎である。イツキはそういった方面にはかけらも知識も語彙も持たないが、一枚増えるだけでおおいに印象が変わった。まだ暑い季節に着込む心配はあるが、これから向かうのが夜の山と考えれば丁度良いかもしれない。

 

「に、似合ってる」

「……ありがと」

 

 とにかく何かコメントせねば、と声を絞り出す。

 

 その時である。店の奥から何か視線を感じた気がしたイツキはそちらに目を向けた。

 レジの向こう、暖簾越しに人影が見える……と思ったら奥に消えてしまった。あれが彼女の親父さんとやらだろうか。一応挨拶とかしに行った方が良いのだろうか。

 

「……行かないの?」

「えっ、ああ、今行くから」

 

 いつまでも車を出さないから拓海から催促されてしまった。

  

 

 

 

 夜の妙義山を登りながら、イツキは視線を右に左にさまよわせていた。既にあちこちにギャラリーが展開済みであり、めぼしいスポットは概ね取られてしまっている事は予想に難くない。完全に出遅れていた。助手席でも拓海が周囲に目を向けてくれているが、そちらも収穫は無さそうであった。

 

(どこもいっぱい……)

 

 それなりに余裕をもって出発したつもりであったが、予想以上に時間がかかってしまった。これで頂上まで行っても駐車場にありつけず、遠くに車を停めて彼女を長時間歩かせる羽目になったら格好悪い。やはりガス代をケチって地図だけで済ませず下見をしておくべきだったか、とイツキは反省する。

 次回、機会があればそうしようとイツキは静かに心に決めた。

 

 

 

 幸運にもいまだ駐車場は埋まり切ってはおらず、車を停める事が出来た二人は少し山を下り、上る途中で見つけた未だ人の少なかったコーナーを見物場所に決めた。

 ここは上りコース終盤の緩い右コーナー、下りから見ればその逆でスタート近くの緩い左となる場所である。

 ギャラリーはスタート・ゴール地点、あるいは派手なコーナリングが見られるきついコーナー、速度の乗る長いストレートに集まりやすい傾向があり、そのいずれにも該当しないここは場所取りには遅い時間にも関わらず人はまばらであった。

 

 

 二人が路肩に立つと、そのまばらなギャラリー達がちらりと視線を向けてきた。これが男一人なら気にもされないのであろうが、拓海には視線が集まっているのがわかる。隣で言葉を交わすイツキと拓海を交互に見やる視線を感じると、イツキは少しだけ謎の優越感を感じた。

 そんな関係にはまだ遠いというのに。

 

「空いててよかったね。本当はもっと上の方が良かったけど」

 

 イツキは上を見ながら言った。

 妙義の頂上付近には激しい競り合いが予想される三連続のヘアピンカーブがあり、そこから抜けてきた位置にあるこの右は当然だがそれらを見る事が出来ない。欲を言うならもっと上で見たかったのがイツキの本音である。贅沢は言えないが。

 

「うーん、でも、ここの方が面倒な場所だと思うよ」

 

 しかし拓海は少々意見を異にするらしい。

 

「そうなの?」

 

 イツキが聞き返すと、拓海はコーナーの上り側出口の一点を指さした。

 

「あの外側のところ、凹んでる」

 

 指さした先では確かにアスファルトに凹みがある。舗装が荒れ気味なこと自体はさして珍しくもない光景であるし、ここに来るまでも何度も見ている。やや深めだとは思うが、それがどうした、といった感じだ。

 

「あれが面倒なの?」

「ここ、割とスピードが出る場所だと思うけど、上りなら次のヘアピンに意識が行ってるタイミングだし、下りだと左に曲げつつ加速もして、って時に踏むことになるから危ないかもね。まあ、二人ともその程度でスピンするようなことはまず無いだろうけど、万が一、ね」

 

 風が吹き、拓海のブラウスがふわりと揺れた。

 

「雨、降りそうだなぁ」

 

 空は暗く、風も少し出てきていた。

 そしてイツキは、今の拓海の言葉である事を思い出した。

 

「あっ」

「……?」

 

 武内イツキ、痛恨のミス。

 せっかく傘を持ってきたのに、車に忘れてきている。後部座席に投げたっきり存在が頭から消えてしまっていた。

 

 

 

 

 夜の妙義の麓で一人、健二は手持ち無沙汰な時間を過ごしていた。

 

 一緒に乗り合わせて来た池谷は真子ちゃんを見つけるやいなやそちらに行ってしまったし、ならばと沙雪ちゃんを探したが、ようやく見つけた彼女はあの赤いシビックの運転手……以前ガムテープデスマッチとやらを仕掛けてきたムカつく野郎と何か話し込んでいた。割り込む勇気などあろうはずもない。

 

 月にため息でもついてやろうと空を見上げても、見えるのは分厚い雲の海。月明りは覆い隠され場を一層暗くしていた。

 後から来るであろうイツキと拓海が今どこにいるかは分からない。今いる付近は早くも埋まりつつあるので中腹辺りで見ることになるだろう。つまり今宵顔を合わせることは無い。 

 周囲は当然知らぬ顔ばかり。バトルが始まるまではひたすら孤独と退屈のひと時となりそうだ。仕方なく目の前にあるもの……ヒマそうな健二とは対照的に忙しなく動く赤城レッドサンズの面々でも眺めている事にする。

 

 コースの確認や計測員の準備など、バタバタと動き回っていた赤城の人々の波が急に割れた。それと同時に周囲に喧騒が一層大きくなった。何が来たのかと健二もそちらに目を向けてみれば、やって来ていたのは本日の主役の片割れ、FDとFCであった。

 

 止まったFDとFCから降りてきた高橋兄弟が騒ぐギャラリーを一瞥すると、喧騒の中から黄色い声がいくつも混ざる。そういえばあの兄弟には若い女性の追っかけが多数いるとか言う観測情報もあったな、と健二は思い出した。秋名の時にもいたような気がするが、当時は目先のバトルの心配であまり耳に入らなかったが。

 女に限らず、誰かに追いかけてもらえる立場になれた事の無い健二にとっては羨ましい限りだ。

 

 もはや見慣れた、見飽きた光景なのであろう。黄色い声を意に介さず話し始めた兄弟。赤城の面々がたむろしている道路奥に歩いていく最中、健二のいる方向にも視線が向いたが、特に反応はされなかった。

 まあ会った事が有ると言っても秋名での顔見せとバトル当日の二回だけ、それもバトル相手の拓海でもなければチーム代表として話していた池谷でもない、二人の添え物で背景な健二の顔など覚えていなくとも不思議ではないが。

 

「啓介。今日のバトルの事だが」

 

 二人の話している内容が健二の耳にも入ってくる。

 

「特にない」

「……ないのか」

「ああ、ない。全てお前に任せる。好きに走れ」

 

 啓介は立ち止まると、小さく拳を握り締めていた。

 

「つまり、今日は思いっきり走って良いって事か。最近はタイム指定だのパワー制限だの、抑えた走りばっかり指示されてたからな」

「あの程度で抑えた気になっていては困るな。今日の成果次第ではさらにハードルを上げる予定だったが」

「ええ……いや、やるけどさ」

 

 高橋涼介制作の特訓メニューの内容が気にかかる。健二もまた、人並みに上手くなりたい欲はあった。

 到底自分にはついて行けない、天才向きのハードな内容なのだろうが。

 

 

 健二がこっそり会話を聞いていた前を、また一台の車が通り過ぎた。赤いハチロクだ。

 視界に入っていた時間は短いが、それでも誰の車かは分かった。イツキがようやく到着したのだ。そしておそらく拓海も一緒であろう。

 道路脇の健二には気付かず行ってしまったようだが、この暗さと人だかりでは仕方あるまい。周囲のギャラリー達も何の反応も示していない。これが拓海の方のトレノであったならざわめきの一つも起きたかもしれないが、イツキの方は身内以外誰にも知られてない。

 

 しかし、ここにももう一人、反応を示した者がいた。

 

「……!」

 

 高橋涼介である。上っていく車を静かに目で追っている。鼻を鳴らしたような音が風に乗って小さく聞こえた気がした。

 

「兄貴?」

 

 その反応に気付いた啓介が声を掛けている。

 

「あのレビン、何か気になるとこでも?」

 

 どこにでもある普通のハチロクだと思うけど、と啓介が続けて呟いた。

 

「秋名のハチロク、藤原拓海が乗っていた」

「……あいつはパンダトレノだろ?」

「助手席だ。オレも偶然そっちを見たから気付いた。一瞬見えただけだが、間違いない」

 

 啓介の側はただの一般通過車の車内など全く気にも留めていなかった。が、兄が見たというのなら間違いは無いだろう。実際イツキの車なので正解である。

 

「へっ……藤原が見に来てんのか。気合入るぜ。眼中にすら無かった前のオレとは違うってトコ見せてやる。オレの敵はナイトキッズなんかじゃねぇ、あの女だ」

 

 握り込んだ拳の中でぱきりと関節の鳴る音がする。

 眼中にない、がどういう事か健二には分からないが、物凄く燃えているのだけは伝わってきた。

 

「まだ時間にならないのか。早く始めたくて足がうずくぜ」

「フリー走行まで十分前か……一足先に行ってくると良い。史浩たちには先に始めたとオレから伝えておく。セッティングの感想を言える程度の冷静さは残しておけよ?」

「分かってるって。頼むぜ」

 

 言うが早いか、啓介はくるりと踵を返して車に戻るとロータリーの爆音を轟かせて走り去っていってしまう。ゆっくり発進しても何の問題も無いのにわざわざホイールスピンさせて飛び出して行ったのは沸騰寸前なテンションの表れか。

 

「……あの女、か」

 

 間近で鼓膜を破れそうなほどに震わすサウンド。一種のファンサービスとも取れなくもない啓介の走りにまたギャラリー達が沸いていた。

 その陰で、涼介が小さく呟いている。そちらに注意を向けていてなお健二の位置では聞き取りの難しいぼやきだった。

 

「分かってるんだ。ただ大人げないだけだって。子供の癇癪と何が違う。これでは啓介を子供っぽいヤツと笑えない」

 

 涼介はギャラリー達に背を向け、人込みから抜け出す方向へ歩き出した。

 

「子供はどっちだか……あの人なら何て言うだろうな」

 

 



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湿り気とヒルクライム

 

フリー走行中の騒々しさから一転、静まりかえったスタート地点。ぴったりと同じ位置に並べられたR32とFDの前で、高橋啓介と中里毅は組んだ腕が触れあいそうなほどの近距離で静かににらみ合っていた。

 二人の後ろで、レッドサンズとナイトキッズ、それぞれのメンバーが期待、あるいは不安を乗せた、戦々恐々とした雰囲気で自分達の代表の背中を見やっている。

 秋名のハチロクという前触れなく生えてきた突然変異の一台を除けば、長らく群馬エリアの東西トップとして君臨してきた自負のあるチームの決戦である。一切の不安なく信じきれている者は少数だった。

 

「……妙義の谷は深いぜ。FDはコーナリングが自慢だか何だか知らねーが、調子に乗って滑って落ちないようにするんだな。命は大事にしろよ」

 

 先に口火を切ったのは中里だった。視線はFDのリアに向けられている。

 

「ぬかせ。そっちこそ熱くなりすぎて止まれなくなって壁に刺さらないよう気をつけるんだな。オレのと違って、GTRはクソ重たいんだからな。ブレーキは大事にしろよ」

 

 啓介も視線をGTRのフロントに移して言い返す。

 

「……」

「……」

 

 時間にしては一秒足らずの再びのにらみ合いの後、中里はGTRに乗り込むべく啓介に背を向けた。

 

「フン……」

 

 中里の敵意と戦意がこもったにらみに、啓介の口角が自然に上がる。

 思えば走り屋になってから、対等な勝負というものは久しく無かった。直近の秋名での戦いにしても、上りのS13シルビアの男は最初から勝負を棄てていた。やる気が無いわけではないが、あれはあくまでも一秒でも長く食らいつき意地を見せてやろうとするものであり勝利そのものは目指していなかった。勝てるわけがないと諦めてしまっている。

 下りの藤原拓海はその逆だ。最初は何を考えているのか今一つ読み取れなかったが、いざ走り始めてみればこれ以上ないほど明白だった。何も考えていない。見る必要も考える必要も無かった。リソースを割くに値しない相手なのだ。

 

 一目見ただけでこのFDが自身の脅威では無いと見抜いてしまい、そこでもうやる気が失せてしまっていたのだろう。それがあの表情だったのだ。

 競技者の精神状態がパフォーマンスに大きく影響する事は常識だ。競ってすらいない、完全な独走状態でテンションなどまるで上がるはずもない。

 手抜きはしていないだろうが、本気とも程遠い。それがあの晩の走りだと啓介は思っていた。本気であれば、あそこからさらに何秒縮んだのだろうか。

 

 

 そして中里の目は、欲に溢れていた。全力で勝ちに行く、お前を叩き潰してやる、と勝利への渇望が瞳の奥にギラギラと輝いていた。

 

「バトルってのはこうでなくっちゃ、面白くないよな」

 

 この車を買う前、悪友達と毎夜のように悪い事に明け暮れていた、やんちゃだった頃を思い出す。

 

「喧嘩上等、なんてな」

 

 ぐっと拳を握り込む。物を掴むための拳ではなく、久しく作っていない人を殴るための拳だ。

 数度握っては開きを繰り返してから、大きく息を吐いて力を抜き、啓介はその手でドアを掴んだ。

 

 

 

 

 カウント役を引き受けたのはナイトキッズの下り担当である慎吾だった。

 

「カウント行くぞ。5、4、3、2、1……GO!」

 

 腕が振り下ろされると同時に彼の横を駆け抜けたのはGTRである。一拍遅れてFDがそれに続いた。

 

「やっぱスタートダッシュはGTRか!」

「高橋啓介も上手いんだけど、四駆相手じゃ出遅れるのは仕方ないよな」

「でも、FDもスゲーぞ。もう出遅れ取り返してケツに張り付いてる」

 

 開始直後こそGTRに先行を許すも、第1コーナーとなる左にアプローチするタイミングでは既に接触の心配をされそうになるほどベッタリと背後に張り付くFD。

 コーナーからの立ち上がりこそGTRに離されるもすぐに追いつき、次のコーナー入口では煽るようにベタベタに接近する。

 その光景は見ているギャラリー達に加速のGTR対旋回のFDの構図を強く印象付けた。

 

 

 妙義の上りは始まってすぐは緩いコーナーが連続し、間に直線が挟まる高速区間となる。

 限界までブレーキを引き摺り進んでインに寄せ、出る時はアウト側へ目一杯膨らみつつの全開加速。GTRの強みたるブレーキとパワーを目いっぱい活かさんとする力強い走り。それを後方から見る啓介はFDの運転席で一人余裕たっぷりに口笛を吹いて見せた。

 

(おーおー、迫力たっぷりで良いねぇ。その辺の車に乗せられてるだけのヘボとは格が違うぜ)

 

 自身とマシン、一人と一台の特性と限界を理解していなければここまで攻め込む事はできない。いくらFDもまた性能自慢なマシンといえど、少しでも気を抜けばおいて行かれるであろう。

 

(限界目指して、とにかく死ぬ気で攻める。攻撃的で見てて楽しい走りだが、自分で思ってるほどにはタイムに繋がってない。自己流には限界があると、オレはアニキにまず教えられた)

 

 車の性能を限界まで使い切る事と速さは必ずしもイコールにならない。

 我武者羅な攻め方は無駄な動きで車に不要な負荷をかけ、あまつさえタイムを遅らせてしまう。しかしドライバーはタイヤとエンジンを限界までとにかく酷使する事が最適だと信じ込んでしまっており、無駄を無駄と気づけない。だから独学で速くなろうとしてもすぐに頭打ちする。

 スピードに慣れ、ある程度の制御技術が身に付いたのなら、そこから先は最適化のための理論が必要。

理論を頭に入れたらそれを現実で使えるようにする訓練。涼介が啓介に課していたものである。

 

(ブレーキをとことん遅らせつつ、立ち上がりで目一杯アクセル開けられるようにラインを描く。基本だが、GTRってのはその基本を突き詰めて走るようなクルマだしな)

 

 啓介の目から見て、中里のGTRはとにかくブレーキを遅らせる事にこだわっているように見えた。一人で何度も走り込んで、旋回が間に合う減速開始地点を詰めに詰めたのだろう。GTR使いでない啓介でもその積み重ねの厚みはうかがい知れた。

 

(だが、もっと攻められる。削りが甘いんじゃなく、削りすぎだ。そんなに余裕のないケツ見せられたら、ちょっかい掛けたくなってくるぜ)

 

 緩いコーナーが終わりに近づき、コーナーはきつく、直線は短くなっていく。その中の一つの右に狙いをつけた啓介は、GTRのブレーキランプが光り出す直前、そのタイミングを見計らいブレーキを遅らせてFDをその右後方にねじ込む。

 

(相手が仕掛けに来たと気付いたところで、このタイミングじゃ何もできない。予定が狂ったらどんなヤツでも一瞬は動揺する。その一瞬が取っ掛かりだ。さて、外に逃げるか、内に攻めるか。どっちだ?)

 

 啓介の注視する先でGTRが動いた。よりアウト寄りのラインに変更するためGTRが外に膨らんだのだ。

 

(そっち行ったか。じゃあこのまま内からだな)

 

「FDが仕掛けたぞ!」

「で、でも行けるのかアレ!?」

 

 啓介の突撃を目の当たりにしたギャラリー達が悲鳴に近い叫びをあげた。彼らの目にはFDの進入速度は無謀なものにしか見えなかった。

 しかし彼らの未来予想図に反し、FDはせっかく譲られたスペースを使わなかった。並びに行くものと思われたFDはGTRの右後方に位置したままブレーキングを開始したのだ。

 中里は元々限界までブレーキを遅らせていたが、そこからさらに遅らせたFDにも当然、余裕など無い。並んだ勢いそのままにインから抜き去るのは困難だった。

 アウト側を回るGTRに張り付くように、その後方をリアを振り出したFDが旋回する。接触しない、空間が許すギリギリまで寄せている。

 オーバースピード気味に進入したFDと外回り故むしろ進入速度だけは上げられるGTR、二台の速度

が偶然一致した事で生まれた紙一重の状況である。

 

「さ、さすがに高橋啓介でもあれは無理か……」

「でも、あのスピードで曲がり切るのは凄いぜ。コーナーならFDの方が速いんだよやっぱり」

 

 啓介の仕掛けは失敗したかのように見えた。車体半分の差でGTRは前に出たままであり、加速勝負では勝てないFDはコーナーで抜ききれなかった以上先頭は譲り返すしかない。

 

(これで良い。別に一度に全てやる必要はない。ただほんの少しだけ、遠回りしてくれりゃ十分だ)

 

 啓介の狙いはそこではなかった。理想のラインより外を回らせることでロスを生ませる事が狙いであり、この次こそが本命なのだ。

 最初の仕掛けのために相手より速い進入速度でコーナーをクリアしなければならないが、元よりFDはGTRよりもよく回るコーナリングが自慢のマシン。この程度は無茶の範疇にも入らない。啓介が要求すれば、FDは二つ返事で応えてくれる。

 

(不思議な感じだ。クルマの戦闘力は変わってないのに、手ごたえがまるで違う。オレはやっと、本当の意味でFDに乗れるようになったんだ)

 

 出口から立ち上がらんと唸る二台であるが、差がこれまでのコーナーほど開かない。

 これ以上外に膨らめないGTRはアクセル開度に制限が掛かっている。鈍ったままの半端な加速では、FDを何時ものようには突き放せない。

 しかし突き放すまでにはいかないものの、逆転もできない。ガードレールから車体を離すことができれば、またエンジンに鞭を入れられるようになる。

 これで次のコーナーが逆の左であったならば、GTRは左車線を死守する事で逃げ切ったかもしれない。だが、次のコーナーもまた無情な事に右であった。もちろん、偶然ではなく意図して二回連続で右が来る場所を選んだのだが。

 

(ロータリー使いにこのポジションを許した時点でお前の負けだ。行かせてもらうぜ)

 

 再度ブレーキが後らされ今度こそ二台が並ぶ。

 ひとつ前と違い、今度は余裕をもって曲がり切れる。先に回り終わり、アクセルを開けてしまえばもう遮るものは何もない。

 鼻歌代わりのロータリーサウンドと共に、悠々と啓介はGTRの前にふんぞり返ってみせたのだ。

 

(こんなもんはただのじゃれ合いみたいなもんだ。まさか、これで終わりなんてないよな?)

 

 一般に、早すぎる仕掛けは悪手と言われる。時間さえあれば人は動揺から立ち直り、反撃の策を練る事ができる。それを許さぬために、最後の最後で仕掛ける事が推奨される事が多い。

 しかし啓介は、中里に立ち直る時間をあえて与えた。後で兄には小言を言われる……あるいはそれ以上が待っているかもしれないが、それでもリスクを取った。

 

(ひたすら追いかけまわして、ラストでぶち抜く。スマートに勝つならこれが一番なんだろうが、そんな事する気はねぇ。早くギア上げて来いよ。全開の勝負をしようぜ)

 

 実戦は訓練の代わりにはならないが、それでも実戦の空気の中でしか得られないものはある。

 兄謹製の特訓メニューをこなし、実力を大きく伸ばした実感はある。だが足りない。初めて乗った兄の助手席から見た赤城に、そして秋名のハチロクの後ろ姿に。あいつらはまだまだ先にいる。いつまでも、この段階に踏み止まってはいられない。

 

 

 

 

 スタート地点で、啓介が前に出たと報告を受けた涼介は一人静かに肩を震わせた。別に怒ってはいない。笑っているのだ。

 

(おいおい……やりたい放題だな。好きにしていいとは確かに言ったが)

 

 涼介は息を吐いて笑いを鎮めると、周囲を見渡した。周囲にいるレッドサンズの面々の反応は喜ぶものと、困惑するものが半々といった具合である。仕掛けが早すぎる危険に気が付いている割合は意外と多いようだ。

 

「涼介、大丈夫なのか?」

 

 レッドサンズの広報部長であるが、今回はあまり仕事が無かった史浩が心配そうに尋ねて来た。

 

「これも作戦の内だと良いんだが……」

「特にそういうわけでは無いだろうが、心配は不要だろう。啓介はあれでいて慎重な一面はある」

「啓介ってあんまりそういうイメージじゃないけどな……」

 

 史浩は困ったような顔をした。

 

「あいつは勉強はともかく、頭は良いんだ。一見リスクが大きく見えても、許容範囲だと判断したか、全部頭から吹き飛ぶくらいブチ切れているかのどちらかだろう」

「つまり、啓介は勝てる算段があって、その上であえてやっている……ただ勝つだけじゃなくて、勝ち方にこだわっている、という事か?」

「そうなるな。順当にやれば勝てる、というのはオレも同意見だ。もっとも、計算は無意識にやっているだけで、本人視点ではただの直感だろうがな。まあ、今はあいつの計算を信じるとしよう……ああ史浩、悪いがオレの車から傘を持ってきてくれないか」

「傘?」

「面倒なのが来たぞ……予想より早い。降ってくる」

 

 涼介は空を見上げる。一般人の史浩には変わらぬどんよりした空に見えるが、涼介は何かを感じ取ったのだろう。史浩は彼から鍵を借り、FCへ向けて歩き出した。

 

 

 

 一方、同じく連絡を受けたナイトキッズ陣営でも、慎吾を中心に衝撃が走っていた。

 中里毅と庄司慎吾が距離を取っており、他のメンバーも自然と二つの派閥に別れと仲のあまりよろしくないナイトキッズであるが、それでも中里の速さは全員が認めるところである。彼のGTRがあっさり抜かれるなど俄かに信じられる事ではない。上りで中里に勝てるものなど妙義にはいないのだ。慎吾でさえ手も足も出ない。

 もちろんこれは車の性能差であり、技術の差ではないというのが慎吾派の主張であり、下りなら負けぬとそこは譲らないのであるが。

 

「慎吾さん……」

 

 中里がバトル中の今、自然とナイトキッズの面々は慎吾を中心に置き、彼を取り囲むように集まっていた。

 

「毅がこうも簡単に、ってのは衝撃だな」

 

 慎吾は腕を組み、遠ざかり続けるエンジン音を目で追い続けている。

 

「だが、こんな序盤から全開で飛ばしてはいなかっただろ。抜かれて火が付いた毅がもっとペースを上げて追いかける展開、になるとは思うんだが……」

「そ、そうですよね!」

 

 慎吾の希望的観測に、メンバー達は皆そろって顔を明るくする。

 どこかぎこちないながらも、全員が中里の勝利を願っていた。普段何かと張り合い、喧嘩も珍しくない荒れ気味のチームであるが、それでもナイトキッズの名とステッカーに掛けたプライドは皆持っている。余所者に地元で負けるなんてあってはならないのだ。

 

(負けんじゃねぇぞ毅……ここに、お前がこのまま終わるなんて未来を望んでるヤツなんて誰もいねぇ。ナイトキッズの全員がお前を応援してんだぞ)

 

 今この時だけは、派閥も実力も愛車の駆動方式も関係なく、妙義ナイトキッズは団結していた。

 

 



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湿り気とヒルクライム(後編)

 一方、山上。

 

「さっきから音は聞こえるけど、中々来ないなー」

「上がっては来てるね」

 

 音だけは聞こえるまだ見ぬ二台を探して、イツキは視線をさまよわせていた。そろそろ木々の間からライトの光くらいは見えそうなものだが、視界は真っ暗なままでもどかしい。

 

「そういやさー、自分で運転してて思ったけど、妙義の上りってなんだか秋名に似てるよね。広いし、直線多めでダイナミックって感じ。前のすごい狭かった碓氷とは真逆」

「そうかな。私的にはどっちかというと碓氷に似てると思うけど。リズムとか」

「……?」

 

 相変わらず見えてる世界が違う。いつか理解できるようになるのだろうか。

 

「……降ってきた」

 

 傍らで静かに拓海が声を上げた。

 

「え、あ、ほんとだ」

 

 イツキも、自身の顔に冷たい雫の感触があったことで降雨が始まった事に気付く。

 

「おいおい、降ってきたぞ」

「アタック中なのに、ヤバくないか?」

 

 周囲でも他のギャラリーが騒ぎ始めている。

 

「降り始めが一番ヤバいぞ……まだ行けそうに見えて、タイヤ乗っけた瞬間滑っちまうからな」

「中止あるか?」

「あるかもな。てかオレ達もヤバいぞ。傘なんか持ってきてねぇよ」

 

 イツキも雨具を忘れてきた男の一人である。

 軽い雨である事を祈り、空を見ようとしたイツキの隣でガサゴソと物音がした。見れば、拓海がいつの間にか手に折り畳み傘を持っているではないか。

 

「一応持ってきたけど……はい」

 

 傘を開き、イツキとの中間地点にかざしてくれた。これはイツキにも入れという事だろうか?

 

「……い、いや、オレはいいって」

「さすがに隣で友達が濡れてるのに自分だけってのはできないって」

 

 彼女はじっとこちらを見ている。できない、とは言っているがこれは単に意思を確認しているだけで、イツキが固辞するのであれば一人で傘を使うだろう。

 

「……ありがとう」

 

 甘えるか、意地を張るかでしばし悩んだ後、イツキは入れてもらう事にした。せっかくの好意だし、とか、傘持ってきてたのに濡れて帰ったらまた親がうるさいとか、多分こんな機会二度とないかもだし、などと色々な考えが脳内を走り去っていった。

 

 半歩寄り、肩を寄せ合う。が、通常の傘でも成人の二人横並びは難しいのに、今使っているのはそれよりさらに防護範囲の狭い折りたたみ傘である。体の半分以上が外に出てしまっている。

 自然とさらに距離が詰まり、肩が触れ合った。

 

「……」

 

 運転席と助手席の距離なら耐えられても、直に触れる程となると色々と辛いものがある。肩に感じる体温や、仄かに漂う何かしらの香り……イツキには洗剤や化粧品に関する知識は無いので、とりあえず己のような人種からは絶対にしない類の香りという事しか分からない。

 というか、こちらが匂いを感じられるという事は、向こうからも分かるという事ではないのか。イツキは人並みには清潔にはしているつもりではあるが、今は九月の頭。汗と無縁というのは不可能だ。

 何かしら反応を見せていないか、こっそり隣を覗いてみる。至近距離で真っ直ぐ見るのは気恥ずかしいので、小賢しく少し視線を下に外して。

 特に拓海の側に反応は見られないので、気に留める程ではないのだろう。きっと。

 

(あれ、この服……)

 

 拓海がインナーとして用いていた沙雪氏セレクトのタンクトップ。この服、上からよく見ると意外と胸元が開いている。今までじっくり見る機会も度胸も無かったから気がつかなかったが、やはり沙雪さんのチョイスなのか。

 

「そ、そういえばさぁ!」

 

 黙っていると谷間に目が吸われそうになるので、顔ごと視線を外に出して話をふる。

 

「このバトル、どっちが有利かな。やっぱ上りだからGTR?」

「んー……」

 

 数秒前までがっつり見られていたことにまるで気付いていないような平常の声色で拓海が唸っている。

 

「スタートは確かにGTRだろうけど、いったん走りだしたら分かんない。FDだってパワーはある車だし、置いて行かれるってのはまず無いかな」

「車が互角なら、ドライバーの勝負かな。拓海ちゃん的にはドライバーの二人ってどうなの?」

「何とも言えないかな。秋名のバトルの感じだと、GTRの方が少し上っぽいけど、こういうのって何か切っ掛けがあると一気に伸びるものだから」

「じゃあ、今は凄い伸びてるかも、って事?」

「バトルに出てるから、多分そうだと思う」

「あ、そっか。高橋啓介ってナンバー2だもんね。負けそうならリーダーが自分で走るか」

 

 実際に二人と勝負した経験のある拓海なら、ドライバーの傾向や優劣も分かるのではないか、という疑問は本人からすぐさま否定された。

 

「うん。でも一つだけ言えるとしたら」

「?」

「二人とも、雨が降ったぐらいで引くようなタイプじゃないよ」

 

 ぽつぽつ、と降り始めた雨はあっという間に本降りへ移り替わろうとしていた。

 

 

 

 

 GTRの車内で、中里は強く奥歯を嚙みしめた。言葉や行動にされずとも、目の前のFDが余裕を保って走っている事はよく分かる。

 

「舐めやがって……」

 

 噛みしめていた歯から力を抜き、口から大きく息を吐く。余計な力みや強張りは速さに繋がらない。怒りは脳内に押し込み、体からは力を抜く。

 まだスパートを駆ける予定では無いが、ここで仕掛け返さないのは自尊心が許さない。アクセルをさらに開く。

 

「……!」

 

 フロントガラスに水滴。模様の怪しかった空からとうとう降り始めたのだ。

 

(ここで来やがった……降り始めが一番怖いっていうのに!)

 

 まさしく水を差された気分になる中里。空気中と路上の汚れが蔓延る濡れ始めの路面の上を攻めるのは中里でも恐ろしい。ある程度洗い流される本降りの中の方がまだやりやすいというのに。

 思わず天を呪いそうになるが、そこでふと中里は考え直す。

 

(だが、条件は向こうも同じ……)

 

 むしろ、ペースを作る先行の方がプレッシャーがかかるだろう。FDがスリップを恐れて突っ込みを緩めれば、たちまち立ち上がりでGTRの餌食となる。どのラインなら使えるか、この先すべてのコーナーで咄嗟にその判断が求められる事になる。

 

 視界の先でFDがテールランプを光らせながら小刻みに揺れる。それが路面の手応えを確認している動きであることはすぐに分かった。ひとしきり確認を終えると、そのままコーナーの内へと切り込んでいく。

 速い。行けると確信すると同時に躊躇なく飛び込んでいる。

 

「そうかよ、そっちがその気なら、こっちも引くわけにはいかないよなあ……!」

 

 こじるようにステアリングを操作し、中里もGTRを突っ込ませる。

 旋回中、FDの姿が少しばかり視界の中で小さくなるが、立ち上がりで思い切り吹かせてやれば取り戻せる程度の差である。先に加速を始めてるはずのFDのリアに再び張り付き、攻めの機を窺う。

 

 

 

 いくつものコーナーを抜け、コースも後半に突入した頃。中里の焦りは徐々に増してきていた。

 コーナーで差が開くも、直線でまた詰める。何度繰り返したか数える気にもならない展開であるが、徐々に差が開いてきている気がするのだ。

 

(ここは長い直線だ……行けるか?)

 

 中里は強くアクセルを踏みしめ、思い切って抜きに出る。迫るリアをかわし、ジリジリと並びにかかるが、中々前に出きれない。

 雨足強まる中での果敢な動きに、ギャラリー達からも驚きの声が上がる。

 

「GTRが行ったぞー!」

「すげぇペースだ。見てるだけでも凍り付きそうになるぜ……目の前は崖なんだぞ」

 

 しかし、間に合わず。ブレーキを踏んでFDの後ろにGTRは戻らざるを得なくなる。

 

「うおっ、逃げ切ったか」

「パワー無い車なら今ので終わってたな……」

「高橋啓介のFD、確か350馬力だっけか。一回勢いついたら四駆でも手こずるのか……」

 

(ちっ、さすがに甘い考えか……)

 

 FDの加速に舌を巻くギャラリー達と混じって、中里もGTRの車内で一人毒づいた。やはり、このFDはコーナーからの立ち上がりで仕留めるしかないらしい。

 しかし、それが簡単にできたら苦労はしない。先ほどやられたように無理矢理ねじ込んで隙を作ろうにも仕掛け時が見つからない。

 

(なんなんだこの走りは……オレのとは随分違う)

 

 後ろから追いかけて気付いたが、高橋啓介は自身が突き詰めて作ったそれとは違うリズムで走っている。車の特性の違いだけでは説明しきれない何かを中里は感じていた。

 しかもそれで差が開きつつある。まるでお前のそれは間違っている、と示されているようで苛立ちが募る。

 

(どうする……雨も止む気配はさっぱり無いぞ)

 

 フロントガラスに張り付いている水分量は増える一方だ。悪化した視界がそろそろ鬱陶しく感じてきた中里はワイパーを動かし、水気を一掃する。

 とにかく今は進むしかない。攻める事をやめたら負けだ。中里にできる事は後方から圧をかけ続ける事だけであった。

 

 

 

 待ち続けていたイツキの視界にヘッドライトの光がようやく飛び込んできた。

 

「あっ、来た来た!」

 

 隣では拓海も視線をそちらに向けたのが分かった。

 周囲ではギャラリーも二台に気付いて騒ぎ始めている。

 

「FDが前だ!」

「突っ込んでくるぞ!」

「ウソだろ、GTRが抜かれたのか!?」

 

 狭い峠道の中、信じられない程の速度で二台が迫り来る。

 

「うおわっ!」

「……!」

 

 耳がおかしくなりそうな轟音だけを残し、二台が一瞬で通り過ぎる。あれほど待ち望んでいた二台はそのままテールランプを光らせ、十秒と経たないうちにコーナーの先に消えていってしまう。

 

「くーっ、すんげぇ迫力!」

 

 あの瞬間だけは他の全てが頭から消えて二台に夢中になっていた。イツキはハチロクが大好きだが、ハチロクであの迫力を出すのは難しいだろう。ストレートでの馬力の殴り合いはコーナーの技術勝負とはまた違った魅力がある。

 

「確かに凄いや。前とは比べ物にならないぐらい上手くなってる」

 

 拓海も二台が消えた先を見て感嘆している。声色から本気で褒めているのが分かった。

 

「どっちが?」

「FDが」

「そんなに分かるもんなの?」

「分かるよ。特にアクセルの使い方が上手くなってる感じ。車ってある程度スピード出てるとハンドルだけじゃなくてアクセル使う部分が出てくるから、コーナーもかなり速くなってるんじゃないかな。秋名の時はここまでじゃなかった」

 

 直線以外でアクセル踏み抜く度胸がまだないイツキにはイマイチ理解できないが、彼女がそう言うのならそれだけ上達しているのだろう。

 

「もしかして、今もう一回秋名の下りでやったら危なかったりする?」

「それはない。負けない」

 

 軽い気持ちで問うてみたら、予想以上に強く返された。むっとした表情というのは何気に初めて見たかもしれない。

 

 

 

 

 コースは既に最終盤。中里の視界の右端に赤い鳥居が映る。これが見えるという事は上りがもうすぐ終わるということである。この鳥居がある左コーナーを抜けた場所が頂上であり、ここからほんの少しの下った先がゴール地点なのだ。

 攻めなければ負けるが、攻めるどころか追い縋るのがやっとな戦況に中里は焦燥を募らせていた。

 もはやこれまでなのか。敗北の二文字が脳裏によぎらせながら下りに突入する。最初の右を越え、目前に左が迫る。この左が妙義上りのラストコーナーだ。

 

「!」

 

 左コーナーへのアプローチを開始するFDの動きが今までと違う。

 

(突っ込みが甘い!?)

 

 今なら、行ける。外から被せれば、並んでの立ち上がりに持ち込める。

 

 その事を認識した中里はすぐさまGTRを突入させようとするが、ここで脳内の未だ沸騰していなかった部分が警鐘を鳴らした。

 ここまで先行でペースを作ってきたFDが、急に遅くなった。これがただのミスなら問題ない。しかし、高橋啓介が無理だと判断してペースを落としたのなら?

 

(いや、それでも行く……!)

 

 ここで行かなければ負けが確定する。であれば、行かないという選択肢はあり得ない。怖気ついて逃げるなど認められない。

 FDをインに押し付けるように、そのすぐ外にGTRの大柄なボディを置く。これでFDはもう落とした速度を上げられなくなった。

 

 

「GTRが外から行ったーっ!」

「突っ込んでくるぞ、避けろ!」

 

 ギャラリーの誰かが叫んだ。叫ばなかった者達も、皆一様に顔を驚愕に染めている。

 

(そりゃ来るよな……オレが逆の立場でも仕掛けてたぜ)

 

 一方、さして驚いていない啓介は突っ込んできたGTRにアウト側を譲ってやり、感触を探り続けながらブレーキングを行う。

 啓介はここまでシート越しに伝わる四つのタイヤの感触を基に攻め込む限界を決めていた。ここまでグリップに問題は無かったにも関わらず、最後の最後で雨の影響が来てしまった。

 

 僅かに怪しくなった足元の感触に気付いた啓介はすぐさま安全マージンを拡大したが、中里はこれを見逃してくれる優しい敵ではなかった。

 小回りの為にさらに速度を落としつつ、この後の決戦に備え路面の情報を集める。

 

 

 回頭を終えた時点で、FDはまだ車体半分ほど前に出ていた。GTRの足ならばまだ逆転がありうる位置である。

 啓介はこれまで集めた情報と勘と経験を組み合わせ、今のタイヤが持ちこたえるであろうアクセル開度の限界に凡その当たりをつける。踏まなければ進まないし、踏みすぎても空転する。

 

(こいつでどうだ……!)

 

 一方で中里も最後のダッシュに備え右足をペダルに置いていた。水で滑りクラッシュ、という最悪の事態に陥ることなく並ぶ事に成功したのなら、次にやることなど一つである。

 

(全開で立ち上がる……これで抜き返せる!)

 

 アクセルを床まで踏みつける。両車の差は車体半分程で、ゴールは目前。GTRのトラクションならば確実に巻き返せる。

 踏み込みから一瞬遅れて、ブースト計の針が急激に振れる。

 

 

「なっ……!」

 

 

 リアタイヤの感覚が無くなった。GTRのフルパワーにリアタイヤが限界を超えてしまったのだ。

 踏ん張りの利かなくなった車体は掛かるGのままに外へと飛んで行ってしまう。

 

 中里は反射的に立て直しを始めるも、それができるだけの空間の余裕が無い。抵抗する間もなく右のリアを激しく山肌を覆うコンクリートの壁に擦ってしまう。

 

「やっちまった!」

「400馬力が荒れ狂ったぁーっ!」

「ひぃっ!?」

 

 最後の加速勝負の行く末を見守っていたギャラリー陣から悲鳴が上がる。ある者は似たような覚えがあるのか顔を青ざめさせ、また偶然進行方向にいた不運なある者は制御を失った暴れ馬から逃げようと走りだし周囲にパニックをばらまいている。

 

 黒いボディに痛々しい傷を幾本も付けながらコースへ復帰するも、既にFDはゴールラインの向こう。

 

 

 

 ひとしきり歓声を上げ終わった赤城と、声すら出せない妙義。それぞれのチームメンバーの視線を受けながら遅れてゴールラインをGTRが越える。

 交流戦、前半戦終了の瞬間は非常に静かなものとなっていた。

 

 

 

 

 



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雨中の行進

 妙義の山に降る雨は一向に弱まる様子が無い。

 道路を挟み濡れるのも構わず一堂に会する両陣営がそれぞれ話し合う内容はどちらもこの雨の事だった。

 

「……」

 

 慎吾を取り囲むように集まったナイトキッズの面々は、みな何も言わず、言えずにいた。しかし口に出さずとも何を言いたいかは慎吾には伝わっていた。

 

 この雨の中を本当に走る気か。

 

 ナイトキッズの面々は口と性格は悪くとも腕のある者は多い。層の厚さでは流石に敵わないものの、こちらの上位陣は赤城の一軍連中とも十分に戦えると慎吾と中里は信じている。そして、車を思いのままにコーナーで振り回せる腕があるからこそ、この雨に怖気ついている。

 

「慎吾」

 

 ナイトキッズの面々の輪を割って、中里が声を上げた。皆慌てて中里が前に出られるよう道を開ける。

 

「やる気か?」

「当たり前だろ」

 

 慎吾は即答だった。この即答に周囲の輪からはどよめきが漏れた。

 

「オレも、この雨が怖くないなんてことはねぇ。だけどよ、よく考えると別に今が悪い状況って訳でもねぇんだよ」

 

 一般に、ラリーではFFはFRより有利とされることが多い。路面が悪い状況ならば、駆動輪側が重い方が良いからだ。慎吾の愛車、シビックEG-6はFF車であり、高橋啓介のそれはFR車だ。

 またFDはハイパワーかつコーナー重視のマシンだ。すなわちそれだけ滑りやすい。

 さらにこの雨で視界が非常に悪化している。つまりコースへの熟練度の重要性が一段と高まった。

 

「条件は同じ……どころか、むしろこの天気はオレに有利だとも言える。なら、こっちに退く理由はなくなる。こんな好条件で迎えうてるなんて機会もう来ないだろうしな。やるしかねぇ」

 

 慎吾の覚悟に、それを聞いていた一同が思わず息をのむ。

 

「そうか手ごわいぜ、高橋啓介は」

「そりゃお前が負けるぐらいだからな。でも、オレだって……」

「下りならぜってー負けねぇ、か?」

「横取りしてんじゃねぇよ。けっ」

 

 慎吾は中里を睨みつけて舌打ちを一つ打った。そのまま中里の隣を通り抜けて愛車へと歩いていく。

 

「頼むぞ、後はお前だけなんだ」

 

 中里は去っていく背中に向けて小さく呟いた。

 

 

 

 一方、高橋涼介を輪の中心に置く赤城側では、涼介が史浩に詰め寄られていた。

 

「どうするんだ、涼介?」

「どうするってもな……」

 

 不安そうに空を見上げる史浩からの心配の声を受けて、涼介は道路の端を見た。そこには飲み物片手に車の中で足を休める啓介がいる。外に出ると靴底が濡れてしまうから休憩も車内で行うのだ。

 

「啓介はやる気のようだし、それを無理に止めるのもな」

「大丈夫なのか?」

「不安要素が無くはない」

「不安だって?」

 

 史浩は驚いた。いつも冷静沈着、かつ寡黙に計画を立てる男がはっきり不安と口にするのは珍しい。

 

「こういう、環境が悪い中での戦いについてはまだ教えてないんだ」

「お、おい」

 

 啓介の転機となった秋名の戦いから約一か月。もちろん涼介としては己の全てを叩きこむ気概でいたのだが、時間が無さ過ぎてさすがに基本以外には手が回っていなかった。

 

「一か月で可能な限りは詰め込んだし、ナイトキッズと渡り合うには不足は無かったはずなんだが、この雨は予想外だったな」

「それってヤバいんじゃ……」

「まあ、車を動かす基本たるペダルワークは固まりつつあるし、啓介の対応力なら行けるだろうとは思っている。それに、雨そのものは悪いものでもない」

 

 涼介は傘の下から手の平を出した。白い手の平に水滴が垂れ、手とシャツの袖がたちまち濡れ鼠と化す。

 

「こんな雨の中で赤城を走った経験はあるか?」

「いや、小雨ぐらいならともかくこれはさすがに……」

「そうだろう。道が平坦で綺麗なサーキットですら、ドライとウェットでは大違いだ。公道でのウェットに至っては完全に別物レベル。つまり」

「……コースへの熟練度が、実質ゼロ?」

「そうだ。オレ達にとっても、そして向こうにとっても初めて走るコースという事になる。挑戦者側であるにもかかわらず完全に対等な条件での対決になるんだ。これはこれで悪くない」

 

 後は啓介の腕を信じるのみ。そう言うと、涼介は話を打ち切った。

 

 

 

 

 口数少なく見守るギャラリー達の視線に包まれて、バトルが開始される。雨音でカウントダウンが聞きとりづらいため、声ではなく手の動きを誰もが注視していた。

 

「GO!」

 

 振り下ろされた瞬間に、二台が動き出した。

 濡れた路面、濡れたタイヤ。濡れた靴底とペダル。何もかもが滑りやすくなっている状態ではいつものようなロケットスタートなど出来ようハズもない。これが本当にバトルの開幕の瞬間なのかと思わず耳を疑うほど静かで滑らかなスタートだった。

 しかし一度ゴムが路面を捉えさえすればそこからは大きく加速できる。探るようなペダルワークでエンジンを唸らせ、闇夜の中でも目立つ赤と黄色が第一コーナー目掛け駆ける。

 

 慎吾はアクセルを踏み足しながら、ちらりと助手席の外を見た。窓一枚隔てた先にいるFDの中のあの野郎と目が合ったような気がした。

 バトルが始まってまず最初に行われるものはポジション争いだ。第一コーナーへのアプローチの瞬間に、どちらが逃げてどちらが追うかの勝負となるかが決まる。

 秋名のように第一コーナーまでが長いか、あるいは上りでの四駆のように両車の加速性能に余程の差が無い限り、ここではイン側にその決定権がある。即ち慎吾が譲るかどうかだ。

 

 そして慎吾はここで譲る気など毛頭無かった。

 

(この状況なら先行一択だろ。前に合わせて走るなんてできるか!)

 

 後追いはどうしても先行車にある程度合わせる必要がある。前が減速しているのにこちらが減速しなければどうなるかは火を見るよりも明らかだ。かわして抜けるなら良いが、逃げ道が無い状況でそうなったらどうする。例えば、前を行くFDが操作を誤って制御不能な状態にでもなったら?

 

(ダブルクラッシュだなんて笑えない結末だぜ)

 

 こんな状況でのアタックに不安は山ほどある。まずは前に出て、落ち着いて自分の走りができるようにすべきだ。

 他の事を考える必要はない。EG-6は優秀なマシンだ。乾いた路面や平坦な場所ではFDには及ぶまいが、このずぶ濡れの下り勾配という戦場では間違いなく優位に立てる。ここにドライバーの地の利まで加わるのだ。

 ミスさえしなければ勝てる。そう思えば不安も幾分和らいだ。

 

 

 

 啓介は走るシビックの後ろ姿に思わず口笛を吹いた。

 後追いを選んだことに特に理由は無い。ただ向こうが先に行きたそうなので好きにさせただけの結果だった。ついでに観察もしてやろうとコーナーを二つ、三つと抜ける姿を目で追っていたが、相手は啓介の予想を良い方向に裏切るものだった。

 チームの二番手という事で無意識に中里より下に見てしまっていたが、それは間違いだったようだ。

 

 コーナーの途中でブレーキの作動を示す赤い光が明滅している。左足ブレーキで荷重を抜いているのだ。右手のステア、右足のスロットル、左手のサイドブレーキに左足のブレーキ。四肢全てがそれぞれ繊細かつ丁寧な仕事をしている。純粋に技量だけで比べるなら中里よりこいつの方が上手いまであるかもしれない。

 

 啓介は与り知らぬ事であるが、慎吾の武器は右手をステアに固定して戦うガムテープデスマッチを通して培った制御である。車を思い通りの方向に進ませる手綱捌きは高橋涼介や藤原拓海といった超一級と比べれば見劣りはすれど、そこらの峠の走り屋など歯牙にもかけぬ水準に達していた。

 下り限定とはいえ、圧倒的なパワーを誇る中里のGTRと真っ向から張り合えていたのは伊達ではないのである。余計な事せず普通に戦った方が多分強い。中里は常々そう思っていたりする。

 

(ただちょーっとビビり過ぎじゃねぇか?)

 

 自分の足元の感触からすればもうひと踏みぐらいはできそうだが、このシビックはそれをしてこない。この雨に恐れをなしているのかもしれない。

 

 ここを越えれば下りに入る。下りに入ってすぐに仕掛けてみよう。

 

 

 

 ある者は傘を差し、またある者は木陰に身を寄せ、またまたある者は諦めて濡れるがまま下りの時を待つギャラリー達に混じって、拓海とイツキは一つ傘の下で静かに耳をそばだてていた。雨の音に紛れて走行音が聞こえ始めたような気がするのだ。

 

「来たかな?」

「……多分、下りに入ったぐらいじゃないかな」

 

 近くのギャラリー達も気付き始めたようで、話声が一斉に身をひそめ、視線が山上に向いているのが分かる。

 

「……来たぞ!」

 

 雨音に負けぬような大声で誰かが叫んだ。それと同時にヘッドライトの光が目に入る。イツキはマシンが目の前にあるその僅かな時を逃すまいと目を凝らす。

 

「シビックが前!」

 

 視界を狭める傘から身を乗り出し、イツキは迫る赤いシビックを、そしてその後方にピタリと張り付くFDをしかと見る。

 中の野郎は気に入らないが、車はやはり格好良い。中の野郎はとっても気に入らないが。やはりこの下りだけはレッドサンズに勝ってもらいたいものである。

 

(行けー、ぶち抜いてやれーっ!)

 

 そんなイツキの心の声が通じたのか、イツキの目の前でFDが動いた。インベタのラインを取るシビックに対し、FDが大きく外に出て仕掛けに行ったのだ。路面の凹みにたまった水が激しく吹き上がり、路肩のギャラリー達に降りかかった。

 

「うおーっ!?」

 

 まさかその瞬間が目の前で見られるのか。願ってみるものである。かつて敵であった事は一旦忘れて全力で声援を送る事にした。しかしその時、落ち着いた、どこか冷酷に聞こえるような声がイツキの耳を打った。

 

「……あ、無理」

 

 隣に立つ声の主にその意味を尋ねるより先に、周囲から悲鳴に似た絶叫が上がった。

 

 

 

 外から仕掛けてやろうと軽い気持ちでアウト側に出た一秒前の判断を、啓介は今激しく後悔していた。

 全身の毛穴が一斉に開き、氷のような冷や汗が激しくそこから溢れ出してくる。

 外に出た瞬間、タイヤが路面の凹みに乗った感触があった。それだけなら何の問題も無いはずだった。しかし一瞬とはいえ四つのタイヤに掛かる荷重のバランスが狂った事が予想をはるかに上回る事態を引き起こしつつある。

 ただほんの少し、ラインが外にズレただけのはずだった。普段であれば意識するまでもなく手足が自動に修正するであろう。しかし、FDは今も啓介の意思に反して外に膨らみ続けている。

 

 啓介は今日にいたるまでの特訓期間中に兄から教わった一節を思い出していた。

 

『雨の日は晴れた日とは別の走行ラインが必要になる。センターラインより向こうは逆バンクで使えないものと思え』

 

(アニキが言ってたのはこう言う事か……ちょっとはみ出しただけじゃねぇか!)

 

 話に聞くと実際に体験するとでは大違いだ。分かったつもりで分かっていなかった。コーナー中にわざと外に出るというのは一人だけの練習走行ではまず描かない、バトル時にしか使わないラインである。涼介であれば使わなかったか、あるいは最初から計算に入れておくかしただろう。知識や技量とはまた違う、経験の違いがここに出たか。また兄からの課題が増える事だけは間違いない。

 

(止まれ、止まれ……!)

 

 課題は今は横に置いておく。後の事は後で悩めば良い。今はとにかくFDのコースアウトを防がねばならない。

 慎重に手足を動かし、タイヤに逃げた荷重を乗せ直す。無理せずガードレールの限界まで膨らみ余計な力を逃がす。こういう時は焦らず耐えるのが大事だ。

 

(よーし……)

 

 タイヤの手ごたえが回復してきた。

 

(今だ、登れFD!)

 

 駆動力を路面に伝える。これ以上流れさえしなければ何とか保つだろう。逆バンクの斜面に逆らうようロータリーに鞭を入れれば、FDは主の意思通りしっかりと食らい付いてくれた。

 

 なんとか一息ついた啓介であったが、その顔は晴れない。今の失敗によって発覚したより大きな問題が立ちはだかっているからだ。

 

(センターラインより向こうには出られない。じゃあ、どうすりゃ良い?)

 

 センターラインより向こうは使えない。つまり道路の半分は無いものとして扱わねばならない。ただでさえ狭い峠道がさらに半分になっている。車3台どころか2台並べるかも怪しい。この道幅の中で啓介は目の前のシビックを追い抜かなくてはならないのだ。

 これで相手が下手なヤツならさしたる問題ではなかった。コーナーへの理想的な進入に失敗して膨らんだところで内から差してやるだけだ。しかしこのシビックにそういう期待はあまりできそうにない。姿勢制御に長けた相手が徹底してインに居座り『抜かせない走り』に徹している。

 

 思ったよりも厳しいバトルになりそうだ。啓介はやや距離の開いたシビックを目を細めて睨みつけた。

 

 

 

 FDが再びセンターラインの内側まで戻ってこれたのを見たギャラリー達が一斉に安堵の息を吐き、次いで急なアクシデントから見事に立て直して見せた技巧に称賛の声を上げる。

 

「……今何が起きたの?」

 

 イツキは隣の拓海に解説を求めた。イツキの目には突然FDが滑り出し、そして復帰したとしか映らなかった。滑っているのは分かるが、どうしてそうなったのかが分からないのだ。

 

「道路って、実は真っすぐじゃなくて左右に少し傾いてるんだよね。こういう雨の日にセンターラインをまたぐような動きをすると、ああいう風に外に飛んでいきそうになる事があるんだよ」

「へー」

「でも今の立て直しは良かった。やっぱり秋名の時よりずっと上手くなってるや」

 

 道路って傾いてるんだ。排水の都合とかそんな感じだろうか。法定速度なら気にならない程度のものでも、限界まで攻めてる状態だと問題になったりするらしい。

 

「なる事がある、って事は拓海ちゃんもあんな感じになったりした経験がある?」

「車乗り出した最初の頃とか。下手なくせに早く帰ろうと無理に飛ばして事故りそうになったことが何回もあるよ。あの頃は失敗ばっかりしてたっけ」

 

 とにかく上手いイメージしかない彼女にもへたっぴでミスばかりしていた初心者な頃があったらしい。考えてみれば当たり前のことであるが、正直今の彼女からは想像ができない。

 

「だからイツキも練習してれば上手くなれるよ。失敗しても何度もやってれば、きっと」

「う、うん……オレ、もっと頑張るよ」

 

 イツキはぐっとこぶしを握り締めた。今は足元にも及ばずとも、いつか後ろをついて行けるぐらいにはなってみたいものだ。

 

 

 ここにイツキよりも知識や経験が豊富な者、例えば沙雪あたりがいて彼女の言葉を聞いていたら思うだろう。普通の人は失敗などしない、と。

 並のドライバーが峠での限界アタック中にミスをすれば事故は免れない。そして事故れば無事では済まない。失敗イコール死が普通の人なのだ。

 何度失敗しても人も車もほぼ無傷と言う時点で普通の範疇を大きく逸脱している。凡人が絶対に真似をしてはいけないやり方だ。凡人は大人しくぶつかっても大事故にならない程度のスピードで練習しているべき、と。

 

 しかしそれを指摘するものはここにはいなかった。

 タイヤの滑り始める時の感触への恐怖がまだまだ拭えない未熟だが、イツキはもう少し勇気を出して踏み込んでみようと決意したのだった。

 

 

 決意を新たにしたところで、イツキは何やら下半身側に不快感を覚えた。

 先ほどまでは雨の湿気と合わさって蒸し暑いくらいだったのが、妙に冷たい。肌に張り付くような感覚もある。

 その不快感の正体を確かめんと視線を下にやれば、濡れて色が濃くなったズボンが見えた。

 

 とんだ贈物である。いや、ラリーでは走る車にタッチしたがるギャラリーも多いらしいし、水掛けられたなんて逆に自慢の種かもしれない。

 

「あ……」

 

 隣からも呟きが届いた。

 

 取り敢えず、見る物は見たのだし車に戻ろうか。バトルの結果は明日池谷先輩に聞こう。

 隣は見ないようにしながら、イツキはそうも決意した。

 



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