復讐の炎がこの身を焼き尽くす前に (上光)
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プロローグ

 その日、少年は伯父から父の死を告げられた。

 

 厳格を絵に描いたような伯父は嘘を好まず幼いウィルの冗談にも怒るような人で、信じられないような言葉でも嘘ではないと信じるだけの重みがあった。

 でも実感はわかなくて。その日はいつものように寝て、慌ただしく駆け回る伯父の一家をどこか他人事のように眺めながら、次の日もいつものように寝て。

 数日後におこなわれた父の葬儀には死体はなく、そのせいか葬儀の最中もそのうちひょっこりと帰って来て、いつものように遊んでくれるのではないかと心のどこかで考えていた。

 

「お前の父は私たちのいる世界を守るために勇敢に戦った。さあ、別れを告げなさい、ウィル」

 

 伯父の家族と一緒に訪れた墓地。

 夕陽に照らされる父の墓を見た時に少年は──ウィルはようやく、父にはもう会えないのだと理解できた。

 

「……ふざけないでよ」

 

 誰に対しての、何に対しての感情だったのかはわからない。

 ただ、その時確かに呪った。漠然として形のないものを、自分から父を奪ったものを呪った。

 あふれだした涙を袖で拭いながら報復を誓う。相手が何かもわからないままに己に誓う。

 夕陽に照らされた赤髪が燃える炎のように揺らめいて、刻まれた想いが胸に火を灯す。

 以来、ウィルの内面にはずっと炎が燃えている。呪いを固めたような、永遠の炎が。

 

 

 

 それから十年が過ぎ──とある辺境世界の基地、士官用の一人部屋でウィルは目を覚ます。

 

 手をのばしてベッド横のサイドテーブルに乗せていたタオルを取って、汗ばんだ額に張り付く髪をかき上げ顔を拭う。

 部屋の中も窓の外も暗い。端末で時間を確認すると起床時間の一時間ほど前だったが、今更眠る気にもなれずベッドに腰かけて先ほどの夢を思い返す。

 

 あの夢は子供の頃から何度も、数えるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに繰り返し見続けている。

 夢は記憶の整理のために見ると聞いたことがあるが、だとすればいまだに自分は当時のことを整理しきれていないのだろう。

 あの日からウィルは父を死なせたモノ──『闇の書』と呼ばれる存在を滅ぼすために生きている。

 不毛なことかもしれない。父を死なせたそれはハリケーンや地震のような災害に等しい。

 いつかは必ず現れるが、現れたその時その場所に居合わせる可能性は限りなく低く、個人で対抗できる相手ではない。横槍を防ぐために大規模な報道管制が敷かれるので、その時の事件が終わるまで現れたと知ることすら叶わない。

 そして闇の書は一定の期間の後に再び現れる。延々に続くいたちごっこの繰り返し。

 

 それでも、諦めきれない。

 数多の世界をまたにかける治安維持組織たる時空管理局に入局したのも、士官として一般的にエリートと呼ばれる道に進んだのも、そこでなら仇の情報を少しでも得られると考えたから。

 

 それでも、いざその時に自分が関われる可能性は極めて低い。仇討ちなんて諦めた方がきっと楽だ。

 

 それでも、と思う。それでも──

 

 突然、基地内に緊急を告げる警報が鳴り響き、まだ消灯時間にも関わらず一斉に照明がつき始める。

 

「珍しいな」

 

 ため息を一つで気持ちを切り替え、三十秒で時空管理局の制服に袖を通すと勢いよく部屋から飛び出した。

 

 

 

 

 その少し前、同基地の管制室。

 現代の主流である空間投影型のホロディスプレイが、基地を中心とした代わり映えのしないマップを何時間も映し続けている。

 夜勤で監視をしている少女たちにも緊張感はなく、机の上には菓子の袋や遊びに使うカードが散らばっている。

 

 それも仕方のないことだ。

 基地の敷地の外には小さな町があるが住む人はほとんどおらず、町の外に出ればあとはもう地平線の彼方まで続く砂、砂、砂。砂漠がどこまでも広がっている。

 第百二十二無人世界と名付けられたこの地に、豊かな緑と多くの生命があふれ、高度な文明が築かれていたのは五百年ほど前の話。

 文明は災害で消滅し、その影響を受けた気候の変化で地表は砂漠化。建造物の多くは大規模な地殻変動の影響で地の底に沈み、年月が流れるうちにほとんどが砂のベールで被い隠され、この世界から文明という概念は姿を消した。

 

 そんな滅びた世界にも、半世紀前には訪れる者が大勢いた。

 過去の文明の調査という学術的好奇心と、滅びた文明が生み出した現代技術では再現不可能な品──ロストロギアの発掘という即物的な理由で。

 めぼしい遺跡の発掘の完了とともに、そんなゴールドラッシュが終わりを迎えれば、人の波は驚くほどの勢いで引いていき、往時は一万人を超えた街に人はおらず、発掘のために一時滞在している調査団を含めて二百人にも満たない。

 治安維持という目的をなくした管理局の基地は、広大な土地を利用しての長期訓練や開発局の装備品の試験が主な業務となり、たまに遺跡の崩落に巻き込まれた調査団が出す救難信号に駆けつける程度。

 

 

 突然ディスプレイが音をたて、基地外部からの通信を知らせる。

 表示されるのは緊急時の通信コード。

 

 この世界には通信衛星も基地局もないため、管理局も調査団もそれらに頼らない長距離通信機を自前で持ち込んで使用する。

 表示された通信地点は基地から百キロメートルほど離れたあたりの遺跡群で、半年前にそこから少々貴重なロストロギアが発掘されたことで、人気のないこの世界にしては珍しく現在四つの調査団が調査に乗り出している。

 

 珍しい事態に夜勤の局員が急いでヘッドセットを装着して通信を繋げば、

 

『たすけてください!!』

 

 繋がった瞬間に響いた大声が、局員の耳を大きく震わせる。

 

「お、落ち着いてください。まず深呼吸──」

『私っ、よその調査団の無線を借りているんですけどっ! スクライアなんです!』

「スクライア?」

 

 局員はもう一人の局員に目線をやりながら繰り返す。

 そちらの局員が基地内のデータベースを用いて調べると、たしかにその地点の発掘申請を出している調査団にそのような名称の団があった。

 

 たまにあるように、彼らも遺跡の崩落にでも巻き込まれたのだろうか、という局員の予想は次の言葉で裏切られた。

 

『私たちの団が他の調査団に襲われてるんです!』

「しゅ、襲撃!?」

 

 応答していた局員の声が裏返る。事故ではなく事件。しかも、人による犯罪。

 基地全体に警報が鳴り響いたのは、この少し後のことだった。

 

 

 

 

 

 この世界にあった建築物はたいてい瓦礫と化しており、もとの形を残している遺跡はあまりない。

 まずは災害による大破壊に耐え、その次におこった地殻変動にも耐え、最後に建造物の上に積もる砂の莫大な質量に五百年間耐え続けられるような建造物などそうそうあるものではない。

 スクライア調査団が発掘調査をおこなっていた大型遺跡はそれらの破壊活動に耐えきった数少ない代物だったが、さすがに無傷とはいかず壁や床の崩落がそこかしこに見受けられる。

 

 重なる瓦礫の間に灯りもつけずに身を潜める者がいた。まだ十歳に満たないようなあどけない顔の少年。

 しかし彼の姿──汚れて輝きを失った金髪も、疲労の色が濃く表れている顔も、闇に隠されて見えはしない。もちろん彼がその手に握る大きな鞄も同様に。

 

 スクライア調査団の一員、ユーノ・スクライアは遺跡内部で隠れていた。

 

 ユーノは親の顔を知らない。どのような経緯があったのかは知らないが、物心がついた頃にはすでに遺跡の調査をなりわいとするスクライア一族で暮らしていた。

 人並以上の魔力を有し、幼いながらも聡明さを発揮していたユーノは、一族の中でも将来を嘱望される期待の星。齢九歳にして飛び級で魔法学校の初等課程を終えた彼を調査団に含めたことからも、一族が彼にかける期待の大きさを裏付けている。

 とはいえ、いきなり本格的な調査に同行したわけではない。調査の目的は一族の若者に実地で経験を積ませることで、団員にはユーノほどではないが年若い者が多く、場所もかつてスクライアの大人たちが調査をおこなった場所の再調査で、大規模な実地研修と言い換えた方が適切だ。

 

 だから、ユーノが最近崩落したと思われる瓦礫の向こうに未知の通路を発見したのはまったくの偶然だ。

 

 瓦礫をどかすために他の調査団に協力を依頼し、その向こうに発見された通路の先で小部屋を見つけた。

 小部屋は遺跡にあるどの部屋とも違っていた。壁は周囲からの魔力素の侵入を許さず、魔力的影響をシャットアウトするように作られており、ユーノたちが扉を開けて入るまでは、内部の魔力素濃度が異常に薄く保たれていた。

 小さな部屋というよりは大きな箱──忌々しい物を封印するための筺のよう。

 

 部屋の中にあったのは、植物の種に似た形の、二十一個の青い石。

 

 ユーノをはじめとして魔導師たちは石のそばにいるだけで、胸の奥がざわつく不思議な感覚を覚えていた。

 魔導師の素養ある者が体内に魔力を蓄積するために形成する、仮想臓器リンカーコアを揺らされる感覚。

 

 石の調査が進むにつれて調査団を包む熱気は大きくなっていった。

 発掘品はそれ単体で次元界面に干渉し得るほどの高エネルギーを内包しており、相当に高い等級のロストロギアに認定される可能性がでてきたからだ。

 一族の大人たちだって三等級以上のロストロギアを発見できた者は一握りだ。それを自分たちがと浮足立ってしまったのが悪かったのか、ユーノたちは協力してくれた調査団に注意をはらうことを怠ってしまった。

 

 その結果が今だ。

 彼らは日が沈んでからの輸送は危険だと言ってユーノたちを遺跡に留まらせ、発掘品を奪い取ろうとしてきた。すんでのところで気づいて慌てて応戦したが、相手はこちらより数が多い上に戦い慣れていて勝ち目はなかった。

 

 ロストロギアを渡して投降するわけにはいかない。それで安全が確保される保証はない。

 それにロストロギアを犯罪者に渡すなんて、発掘業に携わる者として絶対にやってはいけないタブーだ。一族の大半が発掘業に携わるスクライアにとって、発掘業における信用を失うことは一族全体への滅びに直結する。

 迷った末、ユーノはロストロギアを持って遺跡内に逃げ込んだ。自分が囮になることで相手の注意をひきつければ、仲間たちは逃げやすくすると考えて。誰かが逃げ延びれさえすれば管理局に連絡がとれるはず、と。

 

 

 それから数時間。外では恒星が昇り始める頃。

 ユーノは今もロストロギアの入った鞄を持って隠れ続けながらも、少しずつ追い詰められていた。

 

 突然、周囲がほんの少し明るくなる。

 隠れている瓦礫の影から顔をのぞかせると、暗闇の中を十ほどの鬼火があちらこちらを行ったり来たりしているのが見える──サーチャーだ。

 ユーノが身を隠す部屋は広く、一人で捜索するのであれば十分以上はかかる大きさがある。だが、十個ものサーチャーがあれば一分とかからない。

 迷っている暇はない。すぐに行動しなくては見つかってしまう。

 でも、どう行動するのが最善なのだろう?

 

 これまで通り、管理局が来ると信じて奥に逃げ続けるか。

 それとも──

 

 

 

 

 

 黎明、地平線から恒星が昇る。

 鮮烈な光が白い砂で覆われた大地を照らしあげ、急激に熱せられた地表が朝露を蒸発させる。熱気をはらんだ水蒸気が生じたせいで蜃気楼が発生し始めた。

 三百六十度全周囲、地平線の彼方まで続く砂漠に、蛇がのたうったような形の砂丘という自然物と、地面の下から突き出る数多の遺跡という人工物が入り乱れ、それらが陽光を遮ることでできた影が、無彩色の砂漠に白い砂と黒い影という単純で、だからこそ美しいコントラストを作り出していた。

 

 赤から青へと変わりつつある空をウィルが飛翔する。

 白地に青の縁取りという管理局の標準的な色使いをしたロングコート。両脚には膝まで覆う銀の金属ブーツ。右手には一振りの剣。

 

 高度百メートルほどを低速で飛行しながら地表を見下ろす。地上にはいくつもの瓦礫が転がっている。その一つ一つが砂の下に埋もれた遺跡の一部だ。

 地平線の先まで広がる景色はずっと変わらず砂と遺跡のみ。白い砂が陽光に照らされてきらきらと輝くが、動くものはまったくと言っていいほどない。この世界では、どこにいってもこんな光景ばかりだ。

 

 遠方に目を向ければ、離れたところに他よりもひときわ大きな建造物が見える。襲撃されていたスクライア調査団が調査しており、今は襲撃犯が立て籠もっている遺跡だ。

 現在は戦闘系の魔導師部隊が遺跡に突入中。守りに入った襲撃犯に手こずりながらも、少しずつ押しているそうだ。

 ウィルも戦闘を得意とする魔導師だが、飛行魔法を得意とする魔導師を遺跡という閉所での戦闘に送り込むよりも、周囲の哨戒に回した方がいいとの判断により突撃部隊から外されている。

 その配置は適切であったようで、すでに襲撃犯から逃げて砂漠をさまよっていたスクライア調査団の方々数名を保護し、襲撃犯の仲間と思われる者も何人も捕縛している。

 

 ウィルはひときわ大きな瓦礫のせいで上空からでも視線の通らない場所を見つけると、その傍でぴたりと静止する。そして右手に握る剣を前に突き出し、語りかけるように声を発する。

 

「F4W、エリアサーチ」

『Roger. Create searchers.』

 

 無機質な機械音声が応え、音声に合わせて剣の表層に光の筋が走り、明滅を繰りかえす。

 直後、剣から赤色の光の球が五つ現れ、それぞれ地上に向かって降下していった。

 

 ウィルの持つ剣はただの武器ではなく、デバイスと呼ばれる魔法行使の補助をおこなうための機械端末。

 魔法によって生み出された光の球は、サーチャーという視覚や聴覚を共有できる魔法の感覚器。

 

 光球はそれぞれ地表に転がる瓦礫の周辺をぐるぐると回り、その映像がウィルの頭にも流れ込んでくる──が、何も見つかることはなかった。

 デバイスの通信機能を起動させると、離れた場所にいる通信車に連絡をする。

 

「こちらサンドガル・ワン。バースツール、そっちのセンサーに何か異常はない?」

『こちらバースツール。全然、まったく、なーんにも。レーダもセンサーも特に反応なし』

 

 通信車は通信インフラが整備されていないこの世界における通信系統の要というだけではなく、搭載された各種センサーによる赤外線や電磁波、魔力波の感知もおこなえる。

 

『もうこのあたりには誰もいないんじゃない?』

「そう思いたいけど、うちの通信車はおんぼろだからなぁ」

 

 その時、通信士が『あっ』と声をあげた。

 

『新しく反応あり。これは……個人用の携帯端末のものかな』

「通信反応?」

『違うよ。電源の入っている携帯端末からは常に微弱な電波が出ているから、それを捕まえたみたい。どうする?』

 

 今時の携帯端末には通信以外にも日常的に用いられる様々な機能が備わっているため、端末を使った通信ができないこの世界にも、自らの携帯端末を持ち込む者は多い。管理局からも万が一遭難した時の位置検出に使えるので持ち込みは推奨されている。

 

 これまでなかった反応が急に表れたということは、先ほどまでは電源を切っていたのか、それとも反応がない場所──地下に埋もれた遺跡内にでもいたのか。

 

 その端末の持ち主が敵であれ見方であれ、ウィルのやることに変わりはない。

 

「位置情報を送ってくれ。俺が確認に行く。行くのも何かあった時に引くのも俺が一番速い」

 

 送られてきた情報を確認し、ウィルはその方向に向き直る。

 銀のブーツが輝くと、風のない砂漠に起こった颶風が砂塵を大きく巻き上げた。

 

 

 

 

 

 暗い遺跡の中を飛ぶ人影。

 

 ユーノの魔力は自らの瞳と同じ翡翠の色を放つ。それを光源にしてユーノは遺跡の中を駆けぬける。

 駆けるユーノに気づいたサーチャーが後を追いかけるが、ユーノが自らを中心に結界魔法を展開するとその姿が見えなくなる。

 結界は内外での波動の干渉を防ぐことができるので、結界の内にいるユーノの姿は結界の外にあるサーチャーでは認識できなくなる。

 サーチャーから十分に離れたら結界を解き、またサーチャーに見つかれば再び結界を展開。相手も結界を張られたことには気付くので、ユーノの場所をある程度特定されてしまう危険はあるが、サーチャーの追跡さえ撒くことができればそこからどこに向かったのかまではわからない。

 

 ユーノは自力で遺跡から脱出することを選んだ。

 このまま中にいても追いつめられる。隠れるためにより奥深く逃げ込めばそれだけ管理局からの救援も遅れてしまいかねない。

 それならば一か八か外に出て自分から管理局に合流する──それがユーノが下した決断だった。

 

 幸いにもこの遺跡には抜け道がある。

 崩落して行き止まりになっている通路の中に、瓦礫の間に隙間があって隣接する別の遺跡に抜けられるようになっている箇所がある。

 仲間うちでも知っているのは一部だけ。だからこそ襲撃犯は知らないはずだ。

 

 抜け道のそばまで到達した時、結界が揺れた。続けて数度の揺れの後、結界が破壊される。

 

 背後からの怒号が通路に反響する。デバイスを構えた魔導師がユーノを追いかけて来ていた。

 デバイスの先から輝く鎖が現れ、ユーノに向かって飛ぶ。バインドと呼ばれる相手を捕獲するための魔法。

 ユーノは後ろを振り向き、バインドに合わせて防御魔法を行使。宙に出現したシールドがバインドを防ぐ。が、直後ユーノの体に強い衝撃。後ろを向きながら移動していたため、前方の瓦礫に気づけず体をぶつけてしまった。

 壁に二度三度体をぶつけながらも体勢を立て直そうとするが、飛行魔法がうまく発動せずにそのまま床を転がる。

 原因はぶつけた衝撃による軽い脳震盪。魔法を使うための演算をおこなうのは脳だ。脳震盪という思考能力の低下は事実上の魔法行使不可を意味する。

 

 転がる勢いをとどめて、口に入った砂利を吐き出して、逃げるために走り始めるが、視界が傾いてまっすぐ進めない。

 くらくらとする頭で今度からはデバイスを持とうと思いながらユーノは駆ける。

 

 迫る魔導師の足音は先ほどより近い。もう一度背後からバインドが飛ぶ。転がるようにして通路を曲がって回避。ふらふらとした足どりで懸命に走る。

 抜け道まではほんの数メートル。けれどこの状況で飛び込めば、ユーノがそこに入ったことは丸わかりだ。

 それでもこのままでは捕まるだけ。ユーノは意を決して抜け道に飛び込んだ。

 

 飛び込む瞬間にまた瓦礫で頭を打ち、潜り抜ける時には肩をぶつけ、ようやく向こう側に抜けるという時にはロストロギアの詰まった鞄をぶつけ。それがきっかけとなって、ユーノが通り抜けた瞬間に背後で瓦礫が崩れ始めた。

 そのあまりの音に、ユーノは抜け道を出たところでぺたんとしりもちをつく。

 振り返れば、先ほど通った通路はもう瓦礫と砂で埋まって通れそうにない。

 これで少なくとも追われる心配はなくなったわけだが。

 

「あ、あはは……怪我の功名、かな。……あの人、埋まってないと良いけど」

 

 自分を追いかけていた魔導師の心配をしながらも、ユーノは遺跡から脱出するべくゆっくりと立ち上がった。

 

 

 やがて進む通路の先に自然の光が見え始める。

 鼻に感じる臭いは遺跡内の湿ってかび臭いものから乾いた砂のものへ、通路の床は外から吹き込む風で運ばれた砂で白くなり、足音が、こつんこつん、から、じゃりじゃり、へ変わる。

 

 ユーノはついに遺跡から抜け出した。目の前には広がるのは一面の砂漠と、それに埋もれた遺跡群。あまりのまぶしさに目をつむった瞬間、目の前に現れた藍色の光鎖がユーノの体を絡めとる。

 

「ようやくだな。手間取らせやがって」

 

 目の前に男が現れる。ユーノたちの調査団に協力してくれた別の調査団の一人。つまり、ユーノたちを襲撃した奴らの一人だ。彼は縛られたユーノの手から鞄を奪い取ると、中身を確かめ始める。

 

「どうしてこんなところに……」

「短い時間でどれだけ準備できるかってのが成功の秘訣でな。襲撃前にガキどもから遺跡のことをできるだけ聞き出しておいたのさ。で、お前が姿を遺跡の中にくらませた時点で、念のために俺がこっちに待機していたんだよ。もしお前がここを使わなかったとしてもあの遺跡から離れたこの場所ならならいざって時に逃げやすいしな」

 

 男は鞄の中に目当てのロストロギアが入っていることを確認するとにこにこ顔で鞄を閉じ、デバイスをユーノに向ける。

 

「安心しろ。気は失ってもらうが殺しはしない。今回のことは勉強代だと思って次からは気を付けて──」

 

 その時、男は何かに気づいて振り向いた。

 同時に遠方から小さな音が聞こえ始める。かすかだったその音はすぐに風を切る轟音に変わる。

 風よりも早く表れたのは赤髪の青年──ウィル。彼は困ったような顔で男とユーノを見て口を開く。

 

「時空管理局だ。どっちが悪党かは……見たままでいいのかな」

 

 

 

 

「おとなしくデバイスを解除して投降してくれないか」

 

 ウィルは右手の剣を男に向けながら告げる。

 

「この少年がどうなっても──」

 

 男は勧告に従わず、ウィルに背を向けてバインドで捕らえられているユーノへと向かう。人質にされると厄介だ。

 

 瞬間、ウィルの銀のブーツが輝く。男がユーノとの十メートル程度の距離を詰めるより、ウィルがその何倍もある距離を詰める方が圧倒的に早かった。

 男の背に追いつき右手の剣を振り上げる。刀身が陽光を反射して煌めき、剣の峰が男の背を打ち据える

 

「馬鹿がっ!」

 

 その直前、ウィルの体がバインドで絡め取られる。男がユーノを捕らえるためにあらかじめ設置し、隠蔽しておいた設置型バインドの一つ。

 男は武器型のデバイスを持つウィルを見て、遠距離より近接戦を好む魔導師だと判断。背を見せることでウィルの接近を誘い、設置型バインドの効果範囲内に来るように誘導する、という男の考えは見事に的中した。

 男は反転し、思惑通りの展開に笑いを隠そうともせず、ウィルに向けて先端に魔力光が集ったデバイスを向ける。

 

 ウィルもまた笑う。この程度のバインドで動きを止められたと思われていることに。

 

 ウィルのブーツがさらに輝き、絡め取るバインドが砕ける。速度とはエネルギー。ただ物理的な力によるバインドの破壊。

 

 男は驚愕しながらも魔法を放とうとする。が、男の体はその直前に翡翠色のバインドで絡め取られる。男の背後でバインドに捕まっていたはずのユーノのものだ。

 男の意識がユーノからそれている内にユーノもまたバインドを破壊していた。ウィルのように力だけではなく、バインドの構成式を解析し式に干渉して強度を弱体化させ破壊。時間はかかったがお手本のようなバインド破り。

 動けなくなった男の肩に今度こそ剣が叩き込まれる。峰打ちと言えども、叩き込まれた剣の物理的な威力と剣を介して叩き込まれた魔力の威力が相乗し、男の意識をあっけなく刈り取った。

 

 その手から滑り落ちた鞄をウィルが空中でキャッチする。

 

 ウィルとユーノは向かい合い、どちらからとなく笑った。

 

「ナイスアシスト」

 

 ウィルが拳を軽く突き出す。一拍遅れてその仕草の意味を理解しユーノもまた拳を突き出す。二人の拳がこつんとぶつかる。

 それで安心したのか、ユーノもその場で意識を手放した。

 

 

 

 その後、ユーノは基地のベッドの上で目を覚ました。

 やって来た管理局の医務官には半日ほど眠っていたと告げられ、その頃には襲撃犯はほとんどが捕らえられていた。

 スクライア調査団のメンバーはちょっとした怪我を負った者はいたものの、全員無事に保護されており、そのことを教えられてユーノもほっと胸をなでおろす。

 

 ユーノ・スクライアが遭遇した事件は、こうして終わりを迎えた。が、この時に発掘されたロストロギア──ジュエルシードを巡って新たな事件に遭遇する。

 そしてその時には何の縁か、この時にユーノと一緒に戦った管理局の局員ウィリアム・カルマンと再び顔を合わせることになる。

 




何年もエタらせていた作品のリメイクです。
ラスボス戦が終わる程度まで書き溜めたので、見直しながら一日一話ペースで投稿していく予定です。予定通りなら九月になるまでに完結できるはず。


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白昼 無印編 
第九十七管理外世界


 掃き出し窓からリビングへと午後の穏やかな陽光が差し込み、ソファに座るウィルの足元を照らす。

 窓の外のウッドデッキには、一匹の猫が寝そべって気持ちよさそうに日差しをあびている。

 

「あの猫、ようこのあたりで見かけるんです」

 

 語るのはウィルの隣に座る少女。年は十歳くらいだろうか。愛らしく笑う子だ。

 この家に入る前に見た表札によれば、ヤガミというのがこの子のファミリーネームなのだろう。

 少女の手には包帯。ソファの前の机には、消毒液やガーゼの入った救急箱や血で赤く染まったタオルが置かれている。それらは全て、怪我を負ったウィルを治療するために使われたものだ。

 

「これを巻いたら終わりですから、もうちょっとだけ、じっとしててくださいね」

 

 医療の経験はあまりないらしく、包帯を巻く手つきはたどたどしい。それでも彼女の手つきからは、怪我人を気づかう思いやりが伝わってくる。

 だから、ウィルは治療に関しては彼女に一任して──そもそもこの世界の医療器具の使い方なんてよくわからないのだし──部屋の隅に置かれたテレビに視線をやりながら、こんなことになった経緯を思い返し始めた。

 

 

 

 

 数時間前まで、ウィルは次元空間を航行する物資輸送船の中でくつろいでいた。

 

 異世界の存在は、現代においてはごく当たり前に認識されている。

 世界は一個ではなく、一種でもない。かつては絶対のものと思われていた大地が無数に存在する惑星の一つでしかなく、星という世界が宇宙という巨大な世界に内包されるように、宇宙を包括するさらなる上位世界が存在する。

 『次元空間』と呼ばれる、広大で混沌とした領域。人類が居住する大地持つ世界は、次元空間という大海に浮かぶ小島のようなものだ。

 小島(世界)から小島(世界)へと、(次元空間)を渡ることができる特殊な船は、次元空間航行艦船と呼ばれており、管理局も多くの艦船を所有している。

 

 

 ウィルの任務は先日発掘されたロストロギア──ジュエルシードと名付けられたそれを別の世界の研究所に移送すること。

 

 襲撃事件の後に基地に預けられたジュエルシードを解析した結果、次元に干渉する性質があることが判明。

 強い魔力や生物の思念波を受けると活性化し、次元空間へとつながる極小のゲートを内部に構築。そのゲートを使って次元空間からエネルギーを取り込む一種のバッテリーのような物ではないか、というのが基地の技術者の見解だ。

 さらに一度活性化したジュエルシードを抑えるためにはAランク相当の魔力が必要とされることから、基地で唯一その条件を満たすウィルが輸送任務に同行することになった。

 

 管理局に所属する者は様々なランクを持つ。

 たとえばウィルの局員IDを見れば魔力ランクAAと記されているが、これはその魔導師が保有する魔力の最大量によって決められた先天的なもの。

 その隣には魔導師ランクAAとも記されている。これは魔導師の実力を表す資格のようなものだ。ランクにより任せられる業務や配属先にも関わり、よく強さの指標として挙げられる。

 両方ともSを最高、Fを最低とし、さらにAとSはそれぞれシングルからトリプルまでの三段階にわけられ、実績やスキルによってはプラスやマイナスがつくこともあってややこしい。

 管理局に所属する魔導師の平均ランクは、魔力、魔導師ともにC前後。魔力、魔導師ランクともにAA(ダブルエー)のウィルは、基地では名実ともに最大の腕利きだった。

 

 

 航海はひどく穏やかで、体をなまらせないためのトレーニングの時以外は、乗員たちとのお喋りをするしかないほどだった。

 異変が起きたのは航路の半分ほどにさしかかった頃だ。

 

 ベッドで眠っていたウィルは、突如体内の魔力を強く揺さぶるような感覚にベッドから跳び起きた。

 部屋の照明を点けようとするが、電源が落ちているのかコンソールが機能しない。十秒ほどたって自動的に照明が灯ったが、それも薄暗い非常灯だった。

 船内回線で艦橋へと連絡を取るが悠長に説明している余裕がないらしく、ウィルは自ら艦橋へと向かった。

 

 艦橋では色とりどりの警報で満たされたディスプレイに向かって、船員たちが悪戦苦闘していた。

 入って来たウィルに気づいた船長が、恰幅のいい体を揺らしながら振り向く。

 

「おお、良いタイミングだ。ようやくひと段落ついたところだ」

 

 この船は管理局の艦船ではなく、船長も管理局の局員ではない。

 ジュエルシードの移送は、定期的に物資補給のために訪れる管理局御用達の民間輸送船に便乗する形でおこなわれることになった。彼はその民間企業お抱えの雇われ船長だ。

 ロストロギアの輸送は危険なものであれば管理局の艦船でしか輸送できないが、危険性の低いものであればその限りではない。

 

 ウィルは軽く会釈をしながら、船長のそばに駆け寄り訊く。

 

「事故ですか?」

「強い魔力波にあおられた。定置観測所からの連絡が遅くて避けれられんでな」

「船は大丈夫なんですか?」

「ただの時化みたいなもんだが、さっきのはでかかったからな。魔力波の影響が内側にも及んだみたいで機関系に少し問題が発生した。今は主動力を一時的に落として点検中だ」

 

 わずかに嫌な予感を覚えた。ジュエルシードは周囲の魔力に反応する性質があるという解析結果を思い出す。

 

「ジュエルシードを保管している貨物室はどうなっていますか?」

 

 船員の一人がコンソールを操作すると、艦橋前面のスクリーンに貨物室の内部が映し出される。

 貨物室の中は暗かった。ぽつんぽつんと点いている非常灯に照らされて、積荷の輪郭がうっすらと見える程度だ。

 その貨物室の一室にロストロギアの輸送のために特別にあつらえられた区画があり、そこにジュエルシードが納められたケースが設置されている。

 

 何もおこっていないと胸をなでおろした瞬間、ケースに亀裂が入って内側から光が漏れだした。

 保管していたケースは砕け、破片が周囲に散らばる。

 納められていた二十一個のジュエルシードは宙に浮きあがると、さらに強い輝きを放つ。周囲に渦巻く魔力の濃度が加速度的に勢いを増し、強い魔力が空間に影響を与え始めていた。

 

 ウィルはバリアジャケットを纏いデバイスを起動させると、すぐさま艦橋を飛び出した。

 活性化したジュエルシードに封印処置をほどこすためだ。

 活性化の度合いによるが、ウィルの魔力で二十一個全てに処置をほどこすのは難しい。それでも、このまま放置して致命的なことになれば結局は無事ではすまない。

 

 貨物室へ向かう途中に、さらなる強い振動が船を揺らす。そして前方の壁を壊し貫いて、炎と熱風がウィルへと襲い掛かる。

 前方にシールドを貼りつつ、後方へと急加速で下がる。向かい来る爆風と炎。高機動空戦で鍛えられた動体視力で飛来する壁の破片を視認して回避する。

 しかし狭い通路では完全に避けきることはできず、大型の破片こそ回避したものの避けきれなかった小さな破片に体を切り裂かれて姿勢を崩され、迫る爆炎にあおられそうになる。

 とっさに片足を船内の壁に叩きつけて強引な方向転換。すぐ横の通路に逃げ込んで炎に巻かれるのを防いだ。

 閉所で無理な軌道変更をしたため、体を通路の壁にこすりつけるようにして十メートルほど滑ってようやく静止。

 

 爆風を遮るように艦の隔壁がウィルの目の前で閉まり、ひとまずの安全は確保された。

 

『大丈夫か!! 返事をしろ!!』

 

 痛みに顔をしかめながら、船内回線で呼びかけてくる船長に応える。

 

「なんとか無事です。ちょっと怪我しましたけど重傷ってほどではありません」

 

 自分の体を見れば、バリアジャケットが半分ほど解除されており、体にはいくつもの創傷と打撲ができていた。

 船長の声には安堵。しかしすぐに真剣な声色に変わる。

 

『今の爆発で状況が変わった。貨物室の周辺が魔力で内部から吹き飛ばされたせいで、船の底がごっそり持っていかれて、これ以上航行を継続できそうにない。俺たちは連絡船で船から離れて救助されるのを待つつもりなんだが……あんたのいるところの周りの通路は、さっきの爆発で壁が壊れて外──次元空間に繋がっちまった』

「隔壁一枚向こうはあの世ですか。間一髪助けてもらったわけですね。ありがとうございます」

 

 ウィルは空気のありがたさを味わうように深呼吸をした。即座に隔壁が降りていなければ、今頃この場の空気は全て次元空間に流出してウィルも窒息死するか次元空間に放り出されて死ぬかの二択だった。

 

『だが悪い知らせもある。あんたが連絡船に行くための通路も隔壁で通れない』

「……死刑宣告?」

『安心しろ。あんたのいる通路のそばに転送室があるが、どうやらそこは壊れていないみたいようだ。艦橋から操作できたからな。艦のセンサー系も最低限は生きているし転送する程度のエネルギーも残っている。悪いがそれで近くの無人世界に転送するから、そこで救助を待ってくれ』

 

 士官学校でも最低限のサバイバル訓練は受けた。デバイスの中にも多少のサバイバルキットくらいは収納してある。多少の不便は魔法で解決できるので、転送先が生物の生存に適する世界であれば一月でも二月でも生きていけるだけのポテンシャルはある。

 

「そういえば、ロストロギア……ジュエルシードはどうなりましたか?」

『爆発で次元空間に放りだされて、そのまま近くの世界に落下したよ。ピンポイントでは追跡できなかったがどのあたりに落ちたかはわかってる。後は海の部隊が回収してくれるはずだ』

「その世界の情報を送ってくれませんか?」

『別にかまわんが、管理外世界だからたいした情報はないぞ』

 

 すぐにF4Wに落下した世界のデータが送られてくる。

 それぞれの世界は、発見された順番に通し番号がつけられている。そして番号とは別に、管理・管理外・無人・観測指定など、世界の在り方によって分類される。

 この世界の場合は九十七番目に発見された世界で、人類が文明を築いてはいるものの管理局の存在を認めている管理世界ではない。

 よって『第九十七管理外世界』となる。

 

 ウィルは書かれている内容にざっと目を通し、文明レベルの欄の魔法に関する項目に目を留める。第九十七管理外世界の魔法技術レベルはゼロ。その世界の住民は魔法の存在を認識できていないことを示していた。

 もしもジュエルシードが活性化しても、その世界の住人では封印はできない。ジュエルシードがどれほどの被害を出すのかはわからないが、船を半壊させるほどの威力はあったのだから、人の多い場所で発動すれば極めて危険だ。

 

「船長。俺を第九十七管理外世界に送ってください」

 

 回線越しにも驚いた様子が伝わってくる。少しの間があいて、船長からの返事が返ってくる。

 

『管理外世界だぞ。許可のない渡航もその幇助も違法だ。だってのに、俺がそんなことに協力すると思うか?』

「違法なこと、海への業務侵犯であることも理解していますよ」

 

 ウィルが言う『海』とは、管理局の中でも複数世界にまたがるような業務を担当する部署のことを示している。

 対して、ウィルがいた基地のように一個の世界内の諸々を担当する部署は『地上』と呼ばれる。

 地上の部隊はたいてい担当となる世界に駐留しているが、海の部隊は次元空間に浮遊するする大型の中継ポートを拠点とし、必要に応じて各世界に派遣される形をとる。管理局が所有する次元空間航行艦船の九割は海が運用しているため、駐屯地のない管理外世界への干渉は海の業務範囲だ。

 

「ですが、落下した世界には魔法が存在しません。落下したジュエルシードへの対応は不可能です。万が一の時のために誰かが行っておくべきです。それに管理外世界への干渉は海の担当でも、ジュエルシードの移送における安全確保は自分が任された業務です。責任は自分がとります……とりあえず、この発言を録音して提出してもらえれば、船長に責任が及ぶことはありませんよ」

『……わかったよ。仕方ねえな』

 

 ウィルは、音声越しでは見えないとわかっていたが、船長に頭を下げた。

 下手をすれば自分のキャリアを汚点を残すことになりかねない。それでもロストロギアのせいで誰かが犠牲になる可能性は看過できなかった。

 

 

 

 

 

 第九十七管理外世界──通称地球の小さな島国に、海鳴市という街がある。

 沖積平野に作られた港町であり、海に接する一面以外はまるで街を包みこむように急峻な山々がつらなっている。海には海水浴場、山には温泉のある、ちょっとした観光地だ。

 港には外国船籍の船もよく訪れるので、外国人を見かける頻度は他の街よりずっと多い。そのためか、人種を問わず受け入れるおおらか雰囲気を持つ土地でもある。

 

 その海鳴の空に二十一個の流星が煌めいた。小石ほどの大きさのそれらは、市街地へ、山へ、海へ、それぞれがてんでばらばらに落下し、誰も──少なくともこの世界の人間の中には──そのことに気が付く者はいなかった。

 

 

 少し遅れて。

 海鳴市の山側の土地に一軒家が立ち並ぶ住宅地があり、そばには公園がある。そこから山へと続く小道を進んで行けば市を一望できる高台に到着する。

 その上空の空間が歪み、ウィルが転送されてきた。ほとんど自由落下に近い速度で高台に降り立ち、周囲を見回して誰もいないことを確認すると東屋の中にある長椅子に座り込んだ。

 無事に到着したことで気が抜けたのか、先ほど負った傷が痛みだす。

 バリアジャケットを解除すると、現れた私服はところどころ焦げ、破れているところもあった。ウィルのバリアジャケットは戦闘用に調整していたので耐火性は重視していない。

 

 痛みに顔をしかめながらも懐から携帯端末を取り出し、投入していた言語翻訳用ソフトウェアを起動させる。三十余の管理世界全てはもちろんのこと、なんらかの形で交流のあった管理外世界の言語さえ含まれる定番の一品だ。データベースを確認すると、この世界の主要言語もあらかた翻訳対象になっている。

 少々高かったが、極めて小さな幻術魔法を並列展開して会話内容に合わせて口の動きも補正してくれるオプションもつけてあるので、会話についてはこれで問題ないはずだ。

 それだけをおこなうと、張っていた気が抜けて急に痛みと疲れが重くのしかかって来た。少し体を休めようと長椅子の背にもたれかかって目を閉じ、回復魔法を自分にかけようとして、

 

「あの……怪我してるんですか?」

 

 誰かに呼びかけられ、慌てて目を開き声の方を向くと、東屋の外で一人の少女が椅子に座っていた。

 あんなところに椅子があっただろうかと不思議に思ったが、少女の座る椅子には両側に大きな車輪がついていることに気がつく。備え付けの椅子ではなく、足の不自由な人を補助するための移動用の器具、車椅子だ。

 管理世界でも似たようなものはあるが、あまり使用する人がいない古典的な器具のためとっさに連想できなかった。

 途端に現状を思い出し、焦る。

 

「いや、大丈夫。軽いものだから──ッ!!」

 

 思わず立ち上がろうとしたが、足に力が入らず膝をつく。それを見た少女は、車輪を自分の手で回して近寄って来る。

 

「この怪我……全然軽ないやないですか。ちょっと待ってください。今、救急車を呼びますから。ちゃんと病院で見てもらわんな……」

「待って!」

 

 病院に連絡されるわけにはいかない。設備の整ったところで治療してもらうに越したことはないが、それがこの世界の公的機関となると話は異なる。

 ウィルはこの世界についての情報を全く知らない。異なる世界──しかも管理世界の常識が通用しない管理外世界では、ある程度の知識を得るためまでは公的機関に関わりたくはない。

 知らず非常識な行動をとって目をつけられでもしたら、今後のジュエルシードの捜索に大きな支障をきたす。時空管理局という官憲に属するウィルだからこそ、官憲に目をつけられることの厄介さは人一倍知っていた。

 心配させないように、怖がらせないように、微笑みながら話しかける。

 

「病院に行く必要はないよ。おれなら大丈夫。ほら、立ち上がることもできる」

 

 先ほどのように失敗しないよう、慎重に立ち上がった。

 

「休んでいたのはちょっと疲れていただけ。怪我も山で転んだ時に枝でちょっと擦れただけのかすり傷だよ」

「ほ、ほんまですか? ──って、その手!?」

 

 納得しかけていた少女が、ウィルの手を見て顔色を変える。ウィルも自分の手を見る──と、腕の傷が原因だろうか。袖から手へと血が垂れて来て地面にぽたりぽたりと零れ落ちていた。

 

「……この程度なめれば治るから」

「そんなわけ……もしかして、病院に行きたくないんですか?」

 

 言葉につまる。無言は肯定を表すと理解していながら、何も言葉が出てこなかった。

 

「それならこの近くに私の家があります。歩いて十分くらいですけど、そこまで歩けますか?」

「え?」

「病院が嫌やったら、無理に連れていきません。でも、せめて治療くらいはせなあきませんよ」

 

 予想していなかった言葉に、ウィルはただただ呆然とするだけだった。

 

 

 

 

「よしっ! これでおしまい」

 

 そう言うと少女はウィルから体を離してにっこりと笑い、治療に使った物を片付け始めた。

 怪我人を気づかい、相手を不安にさせないようにという心のこもった彼女の笑顔からは、幼さに似合わぬ母性がある。

 

「そうや、お茶でもいれましょうか。のどかわいてるんと違います?」

 

 出された茶をいただきながら、この世界についての情報を頭にまとめる。

 次元世界に進出しておらず魔法も存在していないのに、ここに来るまで、そしてテレビ越しに見たこの世界は想像以上に活気があった。このレベルまで発達していながら、次元世界へとまったく進出できていないのは珍しい。

 やはり、魔法がないことが原因なのだろうか。魔法技術、そして次元世界への進出には魔力素と呼ばれるものが大いに活用されており、それは重力子やニュートリノなどの次元の壁を越えて影響を与える素粒子の中でも最も制御が簡単なものだ。

 

 そんなことを考えている内に、外は太陽が西に傾き、空に若干赤みがさし始めていた。

 

「手当をしてくれて、ありがとう。お礼もろくにできなくてごめんね」

 

 ウィルはソファから腰をあげ、この家を出る支度をしようとしたが、脱いだ服を再び手に取ったところで手が止まった。ジャケットはところどころ破れているくらいだが、インナーは血で斑模様ができている。服のデザインと言い張るにはあまりにも血の臭いがきつい。

 

「それで出歩いたら、多分通報されると思いますよ」

 

 少女は苦笑いしながら提案する。

 

「多分押し入れにお父さんの服が残ってますから、おゆずりしましょうか? サイズが合うかどうかわかりませんし、もしかしたらちょっと虫食ってるかもしれませんけど」

「残っている?」

「お父さんもお母さんも事故で亡くなってしもて。それ以来、一人暮らしで」

「この家に一人で? お手伝いさんとかはいないの?」

「ええ。たまに来てもらうことはありますけど、普段は私一人です」

 

 ウィルの頭にこの少女に頼ってはどうだろうという考えがうかんだ。

 大人ならばウィルのような不審者を受け入れはしないだろう。しかし、子供ならどうだろう。しかもこんなに丁寧に手当をしてくれるような親切な少女であるなら。

 駄目でもともと。断られればどこかの廃ビルでも見つけて寝泊まりするだけ。思い切って提案する。

 

「それならお願いがあるんだ。ちょっと親と喧嘩して家出中で、この街に到着して早々にこのありさまで、財布もどこかに落としたみたいでさ。どこかに泊まることもできないし、警察に頼ったら絶対に家に連れ戻される。厚かましいお願いだけど、少しの間、俺をこの家に置いてくれないだろうか?」

 

 言う内に、子供をだまかそうとしている自分が情けなく、恥ずかしくなる。しかし、ゆっくりと休息がとれる場所が確保できれば、ジュエルシードの捜索もはかどるはずだ。

 

「置いてもらう間は家事はできる限りやるから。もちろんお礼も必ずする。ほとぼりが冷めたら帰るし、かかったお金はその時に返すよ。だから──」

「いいですよ。それじゃあ、これからお夕飯作りますから、それまでゆっくりしててください」

 

 少女はにこりとほほ笑むと、車いすを操作して台所に向かう。

 いろいろと質問されたら、どうやってごまかそうかと考えていたウィルは、そのあっけなさに拍子抜けした。気勢を減じられ再びソファに座り込む。

 その後、衣服を貸してもらい、暖かい夕食をいただき、部屋に案内された。少女は手慣れた様子で車椅子に乗ったまま掃除機を操り、部屋を片付け、ベッドに新しいシーツをひいた。

 少女の行動からは困っている人を助けたいという善意しか感じられなくて、目当ての寝床が手に入ったというのになんだか情けない気持ちになった。

 



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居候、はじめました

 居候となったウィルは、あてがわれた部屋の中に立ち、周りを見回した。

 書棚には様々な言語で記述された書籍や、どこかの民芸品のような用途不明の物品が並んでいる。少女の説明によると、この部屋のかつての主は少女の父親で、彼は生前は貿易関係の仕事をしており、外国との付き合いも多かったのだという。

 

 真新しいシーツが敷かれたベッドに飛び込みたい気持ちを抑えて、扉に鍵をかけカーテンを隙間なく閉めると、右手首のブレスレットと首元のペンダントを外して机に置いた。

 装飾もない無個性なアクセサリに見えるこれが、ウィルにとっての魔法の杖(デバイス)だ。

 

 ブレスレットは『ヴィルベルヴィント』──通称は『F4W』

 デバイスとしての形状は飾り気のない片刃の剣。

 

 デバイスの形状や性能は、用途に応じて多岐にわたる。

 

 管理世界で主流となっているのは、『ストレージデバイス』と言われる、魔法の行使に特化したデバイスだ。

 管理局の戦闘部隊が使用するデバイスはたいていがこれで、戦闘スタイルは射撃魔法を主体とした中・遠距離となっている。魔法を使うだけならデバイスの形状は指輪でも本でも良いのだが、近接戦闘にも対応できるように杖型を用いる者が多い。

 

 一方、ウィルのF4Wのように武器として振るうことを前提としたデバイスは、『武装型(アームド)デバイス』と呼ばれる。

 この種のデバイスは、武器として相手に叩きつけるため耐衝撃性に優れており、反面、演算の処理速度は低い。

 そのため、アームドデバイスは複雑な術式や連続した魔法行使よりも、強化魔法のように単純かつ恒常的に機能し続ける魔法の行使に向いており、使い手の戦闘スタイルも魔法で強化した肉体を頼りにした近距離戦が多い。

 少しでも演算速度を上昇させるために、比較的単純で余裕のある機構をしていることが多く、所有者によってはそこに様々なユニットを追加することもある。

 その中でも有名なものとして魔力を瞬間的に増加させるカートリッジシステムがあるが、制御が難しいので使用者は少ない。ウィルも過去に試してみたことがあるが扱いきれずに取り外した。

 

 ウィルが持つもう一つのデバイス、ペンダント型の方はストレージデバイス『ハイロゥ』

 デバイスとしての形状は両足を膝まで覆う金属質なブーツ。

 デバイスは本来それ一つで様々な魔法を用いるために使われる万能機だが、ハイロゥはそのような在り方とは真逆。

 幼い頃からたびたび世話になっている先生が、ウィルに合わせて作ってくれた専用デバイス。

 その役割は亡くなった父親から受け継いだ魔力変換資質の制御と増幅のみという、ウィル以外にとってはガラクタ同然の一品だ。

 

 ウィルは懐から携帯端末を取り出し、端末とデバイスを接続してコンソールを操作する。デバイスの調子を看るためだ。

 デバイスの調整や修理は、普段はデバイスマイスターと呼ばれる整備士に任せるが、ここは支援を受けられない管理外世界だ。自分のデバイスの面倒は自分でみなくてはならない。

 といっても携帯端末に入れておいたデバイス診断用のソフトウェアを起動するだけだが。

 

「F4Wは異常なし。ハイロゥは……駄目か」

 

 デバイスは外装であるフレームならある程度壊れても修復できるが、コアに衝撃が加わるとあっさりと動かなくなることもある。

 不幸中の幸いというか、ハイロゥには微弱ながら緊急時の自動修復機能があるため、定期的に一定量の魔力を与えておけば徐々にだが自動的に修復されていく。損傷具合から、完全に修復されるまでには半月ほどかかりそうだ。

 それまではデバイス一つでやるしかないと心に決めて、ハイロゥに魔力を蓄積すると、傷ついた自身の肉体に治癒魔法をかけてから眠りについた。

 

 

 

 

 

 翌日の食卓に並んだ朝食は、汁物と山菜の浸物、そして白米。ウィルにとっては見慣れない組み合わせだ。味付けは少し薄く感じたが、味自体は悪くない。

 ウィルのために用意されたスプーンでがつがつと食べる。もともと体が資本の武闘派ということもあり、あっという間に全てたいらげる。

 いつもの癖で空になった茶碗を突き出そうとウィルの手が動き、その途中で止まる。居候がおかわりをして良いのだろうかと、窺うように少女を見る──と、少女はにこにことウィルを眺めていた。視線が合うと、少女ははにかみながら問う。

 

「どうですか? 口にあいましたか?」

「おいしいよ。まだ若いのに料理が上手なんだね」

「毎日作ってますから、嫌でも上達します。足りへんかったら言ってください。少し多めに作っておきましたから」

 

 お言葉に甘えて二回おかわりして炊飯器の中を空にした頃、少女が再び話しかけてくる。

 

「怪我の具合はどうですか? 動いても平気です?」

「一晩寝たらずいぶんましになった。おいしいごはんもいただいたし、もう治っているかもしれない」

「さすがにそれは無理ちゃいますか」

 

 少女は冗談だと思ってくすくすと笑うが、魔法の効果もあって怪我の中でも軽いものはすでに治り始めている。

 ウィルが使える治療系魔法は初歩中の初歩で、自然治癒力を高める程度のものだ。

 高度なものなら未分化細胞を生成し、軽傷ならほんのわずかな時間で跡形もなくなるようなものもある。それらに比べれば児戯に等しいが、完治までにかかる時間を半分ほどに短縮する効果はある。

 

「でも、動けるんやったら買い物に行きませんか? 実は昼から足の検査で病院に行かなあかんから、そのついでに。着替えもお父さんのやと微妙にサイズ合わへんみたいですし、他にもいろいろと入り用になりますから」

「そこまでしてもらうのは──」

 

 反射的に遠慮しかけるが、向こうから言い出してくれたことを断る謂れはない。あるとすれば、十歳程度の子に全額出してもらうということに対する自尊心の傷くらいか。利とプライドを天秤にかけるが、あっさりと決着がつく。

 

「ごめん。後でお礼も含めてちゃんと払うよ」

「今はお礼なんて気にせんで良いですから。困っている人がいるなら、助けるのが当たり前です」

 

 

 

 家の戸締りを終えると、ウィルは少女の車いすを押しながら、市街地へ行くためにバス停まで歩き始める。その道程、少女とたわいのない話をしながらも、ウィルはジュエルシードを探すために周囲に気をやっていた。

 輸送船のセンサーで追跡できた範囲では、ジュエルシードはこの街を中心とした約三十キロメートル四方に落下している。

 それだけ広範囲に散らばった小石ほどの大きさの物を視覚で探すのは無謀だ。そこでウィルは視覚ではなく触覚を用いることにした。

 

 ジュエルシードは活性化しておらずとも周囲の魔力に影響を与える。そして魔導師は体内に魔力を蓄えているため、外界の魔力の動きをある程度は感じることができる。

 輸送前にジュエルシードについて説明を受けた時のデータによれば、非活性状態なら十メートル弱、活性化すれば一キロメートルは離れていても魔力反応を察知できる。なにせ魔法技術のないこの世界は魔力的には無音に等しく、魔力反応の察知はしやすい。

 

 発見だけが目的なら、周囲の魔力素を動かして魔力の流れを作り、魔力に反応する物質を探索する方法が効率良い。

 パッシブソナーに対するアクティブソナーのようなもので、うまくやれば周囲数キロメートル内にあるジュエルシードを見つけることができるだろう。

 ただし、それによって周囲の環境やジュエルシードにどの程度の影響を与えるのかが未知数だ。最悪、輸送船の時のように、流した魔力によってジュエルシードが活性化してしまうこともあり得る。

 また、広範囲に影響を及ぼすほどの大きな魔力の流れを発生させれば、それだけ魔力と体力も大きく消費する。自分の他にも封印してくれる者がいない現状ではあまりにも危険すぎ、特定のエリアに複数個のジュエルシードが同時に存在していて同時に活性化し制御できる範囲を超える可能性を考えると、他に魔導師がいても使いたくない方法だ。

 結局、足を使って様々な場所を練り歩くのが、最も安全で確実な手段になる。

 

 

 

 病院の検診を終え、駅前のデパートで買い物をすませた二人は、その足で近くの図書館に寄ることにした。

 

 図書館の中は、一メートル程度の間を開けていくつもの棚が並び、その棚には百にのぼるかというほどの書物が並んでいる。その光景に圧倒された。

 管理世界では本というのはデータとして存在するもので、紙にインクで記されるような装丁のある本がこれほど揃っているのはまず見かけない。

 あるとすれば希少な嗜好品か、あるいはウィルの仇でもある『魔導書』と呼ばれるデバイスか。

 

 図書館の中を移動する時、少女が振り向いた。

 

「借りたい本があるんで、少しだけ寄ってもええですか?」

「もちろん。どんな本?」

「童話です。場所はわかってますから、少し待っててください」

 

 少女はとある棚の前まで行くと、本を探し始める。高いところにある本なら手伝おうかと考えていたが、下の方を探しているので、出番はなさそうだ。

 その隣の棚の前に黒い髪を腰まで伸ばした少女が立っていた。ウェーブのかかった黒髪は、艶があるせいか蒼くさえ見える。彼女は一番上の棚に手を伸ばしていたが、子供の身長ではぎりぎり届かない。

 

「欲しいのはこれ?」

 

 横から声をかけながら、おそらくこれとあたりをつけた本を棚から抜き出し、黒髪の少女に手渡す。

 彼女は「ありがとうございます」と深々と礼をし、すでに持っていた数冊の本に、その一冊を加えた。その礼一つを見ても、育ちの良さがうかがえる。

 

「ごめん。誰かが借りてるみたいやった──」

 

 その時、少女がウィルのそばにやって来た。

 

「あ、その本」

 

 少女の視線は、黒髪の少女が持っている本の一冊に注がれていた。

 

「この本?」

 

 黒髪の少女が、抱えた本の一つを見せるが、少女は首を横にふった。

 

「ううん。なんでもないんよ。気にしやんといて」

「もしかしてこの本を探していたの? それなら、どうぞ」

「そんな! 遠慮せんで良いですから」

「そっちこそ遠慮しなくて良いよ。それに私はまだこの前の巻も読んでないから」

 

 そう言うと、黒髪の少女はそっと本を手渡した。

 

「あ、ありがとう」少女は申し訳なさそうに言う。 「なるべく、はよ返すようにするから」

「急がなくても良いよ。私はじっくり読む方だから」

 

 黒髪の少女は、ウィルとはやてを見比べながら訊く。

 

「ところで、お二人はどんな関係なんですか?」

「それは……」

「親戚なんだ。こっちには遊びに来てるとこ」

 

 答えによどんだ少女に変わり、ウィルが答えた。

 

「そ、そうなんよ」

 

 慌てて少女もうなずくと、黒髪の少女はそれで納得したようだ。

 

 親戚というのは嘘にしても、ウィルと少女の関係はなんと言い表せば良いのだろうか。

 そんなことは決まっている。赤の他人だ。知り合いというほどですらない。

 それなのに少女はウィルに親身になってくれる。それは本当に善意なのだろうか。それともウィルには想像もつかないような打算が裏には隠されているのだろうか。

 横目で見た少女の横顔にはその答えは書かれていなかった。

 

 

 

 図書館を出た頃にはあたりは赤く染まり始めており、学生服の子供が大勢通りを歩きだす。

 少女に連れられて寄った図書館は、ウィルにとってもこの街の地図をはじめとする地理情報が手に入る有益な場所だった。

 今日一日歩いたおかげで、人の集まるところや魔力素の濃度が濃いところといった、危険な場所もある程度わかった。

 ウィル一人で全てのジュエルシードを発見できなくとも、これらの調査結果は後々回収のために訪れる海の部隊のためにもなるだろう。

 

 一日の成果に充足感を抱きながら最寄りのバス停で降りた時、体内の魔力が揺らされるような感覚に思わず足を止める。船で感じたジュエルシードのものに似ている。

 少女を置いてこの場を離れることに躊躇し、しかし強力な魔力反応を放置してはおくこともできず、

 

「ごめん! すぐに戻るから、ちょっと待ってて!」

 

 その言葉を残してウィルは魔力の発生源へとかけ出した。

 

 

 

 バス停横の公園を駆け抜け、昨日少女と出会った東屋を通り越し、山へと続く小道に入って少し行けば、木々の生えていない開けた場所に出た。

 そこには全長五メートルを越す巨大な獣がいた。犬に似ているが、肥大化してはちきれそうになっているその体躯は自然の生物としてはあまりに不自然。趣味の悪いシアターで公開されるパニック映画に出てくるキメラのようだ。

 改めて探るまでもなく、先ほど感じた魔力反応は目の前の獣から発生していた。

 

「F4W、スティンガーレイ」

『Sir. Stinger Ray!』

 

 デバイスを起動。バリアジャケットを纏うと同時に、展開され右手におさまった剣型のデバイスF4Wから三つの赤い魔力弾を放つ。

 放たれた魔力弾は全て獣の体を貫き、開かれた穴の一つからジュエルシードが見えた。淀んだ光──魔力を放っている。魔力は獣の肉体に吸収され、開いた穴を生成された新たな肉が埋めていく。ジュエルシードの魔力が獣に何らかの影響を与えているのは確実だ。

 

 穴が完全に消える前にと、ジュエルシードに狙いを定めて再び魔力弾を放つ。が、光る弾が自身に対する攻撃であると学習した獣は、野生の俊敏さで弾を回避する。

 遠距離からの射撃ではらちがあかぬと、ウィルは飛行魔法で地面すれすれを駆け、獣に接近する。F4Wでジュエルシード周辺を切り裂き、そこから封印のために魔力を直接流し込むためだ。

 

 五十メートルはあった獣との距離が急激に減少する。

 獣が前脚を振り上げ、ウィルを迎え撃つ。脚の攻撃範囲まではまだ少しの猶予がある──と考えたウィルの予想を裏切り、獣の脚は粘液のように溶けたかと思うと、すぐさま鋭角的な針へと形を変え、突っ込んで来るウィルめがけて伸びる。

 あわや串刺しになるかという刹那、ウィルの右脚が目にもとまらぬ速度で動く。何の予備動作もなく、予兆さえ感じさせず、カタパルトで発射されたかのように右脚が地面に向かって振り下された。

 

 

 ウィルは少し珍しい資質を持っている。

 

 魔法は魔力素という粒子を媒介にしているだけで、れっきとした物理現象だ。

 プログラムによってその振る舞いを制御することで、魔力弾のように純粋な魔力として運用することもできれば、強化魔法のように実体を持つモノに影響を与えることもできる。

 そして、プログラム次第では任意の物理現象を引き起こすこともできる。魔法で物質を動かしたり、炎や風、氷を作り出すことも。

 

 通常、魔力を用いて物理現象を引き起こすには、高度な修練と制御能力を必要とする。

 しかし、世の中には生まれつき特定の物理現象への変換を簡単に、そして効率良くおこなえる者がいる。

 その才能は魔力変換資質と呼ばれ、何らかの資質を持つ者の割合は、魔導師十人につき一人か二人程度。左ききの人よりは珍しくない。

 

 そしてウィルの持つ資質は、魔力の運動エネルギーへの変換。

 

 漠然とした力ゆえに、ウィル個人では造りだした運動エネルギーを自身の体に作用させることしかできない。できることはごく単純な行為、自らの肉体を動かすというだけ。

 ウィルはそれを使い、足の魔力を運動エネルギーに変換した。足は本来筋肉によって発揮される以上の力で発射され、地面へと叩きつけるように振り下ろされる。つまり筋肉に頼らず肉体を外力で駆動させた。

 

 この技の名は『肉体駆動(ドライブ)』。

 ウィルと同じ変換資質を持っていた亡き父、ヒュー・カルマンが得意とした技だ。

 

 

 発射された足が強く地面を蹴り、反動で体は高く跳びあがる。触手は貫く的をなくし、ただ空気を裂くだけ。

 跳躍中に体を前屈気味に傾けながら、背に構えた剣を両手で持つ。魔力を込められた剣が赤色の魔力光を纏って輝く。獣の頭上を越え背中の上に差し掛かった瞬間に、体を宙転させながら剣を振り抜いた。

 F4Wの刀身が獣の背に振り下ろされる。自身の腕力に、魔力を変換した運動エネルギーを加え、そして飛行速度を追加したその一撃は、獣の背をたやすく切り裂いた。

 断面からはジュエルシードが見える。もう一度背中に剣を振り下ろし──今度は斬るのではなく突きたてる──剣を錨として獣の背中に乗り、魔力を込める。

 

「ジュエルシード、シリアルⅠ、封印」

 

 

 ジュエルシードの活性化が抑まると、巨大な獣は徐々に縮小して最後にはただの大型の野犬の姿になった。にわかには信じがたいが、この犬がジュエルシードの魔力の影響を受けて、あの巨大な獣に変身していたのだろう。

 怪我をさせてしまったかと心配するも、元に戻った野犬の身体には傷一つなく。ウィルと目が合うと脱兎のごとく森の中へと消えて行った。

 後に残されたのは、封印されたジュエルシード。淀んだ光の代わりに透き通った淡い光を放っていたが、それも次第におさまり、輝きを失うと同時に地面にぽてんと落ちた。

 

 それを拾おうと歩を進めた時、踏み込みに使った右足に痛みがはしった。

 肉体駆動の副作用だ。自身の体を魔力によって無理に動かすことになるため、変換して生み出すエネルギーが大きければ大きいほど、筋肉にかかる負担も大きくなる。

 接近戦において強力な能力だが、扱いづらい能力であることもまた確か。だからこそ、普段はもう一つのデバイスであるハイロゥを用いているのだが、それが使えない今はこの使い方をするしかない。

 痛みをこらえながら、ウィルはジュエルシードに近づき、拾う。

 

「これで一個目。……さて、あの子になんて言い訳しよう」

 

 

 

 

 少女を置いてきた場所に戻ると、彼女は昨日ウィルと出会った東屋のそばで風景を眺めていた。

 近づいたウィルの視界にも、少女が見ているものが飛び込んでくる。それは高台から見える、夕焼けで赤く染まった海鳴の街だ。

 

「あ。帰って来たんやね」

「ごめん、急にいなくなったりして」

 

 謝りながらも、内心では先ほど獣と対峙した時よりも遥かに緊張していた。

 少女に問い詰められたらどう答えるか、ここに戻ってくるまでに様々なパターンを考えていた。

 足の不自由な少女を一人置き去りにしてその場を離れるなんて、その場で出ていけと言われても仕方がない。ウィルだって事情を知らなければ軽蔑の目で見る。

 

「ええよええよ。それじゃあ、帰りましょうか」

 

 それなのに少女は何も追求することなく、微笑んでウィルを迎えてくれて。

 

「きみはどうして、ここまで俺によくしてくれるの?」

 

 つい、ウィルはそう問いかけてしまった。

 

 彼女は見知らぬ人物であるウィルを治療してくれただけでなく、自分の家に泊めてくれた。ウィルが本当に返してくれるという保証もないのに、ウィルのために必要な雑貨を買ってくれた。そして、先ほど突然いなくなったのに詮索しようとしない。

 親切すぎる。あまりにウィルにとって都合が良すぎる。その好意がありがたすぎて、だからこそ疑ってしまう。

 

 少女の顔に浮かんだのは、ウィルの予想とはまるで異なり、迷いと恥じらいだった。

 やがて少女は訥々と語り始める。

 

「ほら、私ってこんなんでしょ?」はやては自分の足を指して言う。 「せやから、あんまり人と話すこともないし、街の方に出るのなんてほんまに久しぶりやったんです。この街って坂が多くて、一人やとあんまり遠出できへんし。す、少し……寂しかったんやと思うんです。そんで……昨日泊めてほしいって言われた時、思ったんです。助けたら、話し相手になってくれるかな、一緒に買い物に行ってくれるかな、って」

 

 少女の顔は真っ赤だ。善意ではなく、下心によって人を助けた自らを恥じていた。

 

「ごめんなさい。幻滅しましたよね」

 

 ウィルは少女の行動に納得がいって安心した。と同時に、自らを深く恥じた。

 少女がどんな理由で行動したのであれ、結果的にそれでウィルは助けられた。少女は善意だけで動けなかったことを恥じているようだが、それができるのは聖人くらいだ。そんなことを恥じる必要などない。

 そんな少女に比べてウィルはどうだ。少女の優しさ、寂しさに付け入るようなことをし、これだけ世話になってなお少女を信じることもできず、裏があるのではないかと深読みし少女の善性を疑っていた。

 人を安易に信じるのは愚かだ。だが、今のウィルは賢いわけではなく、ただ小賢しいだけだ。

 たまらなく恥ずかしくなり、少女の顔を見ることができなる。ウィルは少女から視線をはずし、海鳴の景色を見ながら話し続ける。

 

「そんなことはないよ。きみがどんな目的で助けてくれたにせよ、それで俺は助かった。意図がなんであれ、その行為の価値まで落ちるわけじゃないと──」

 

 そこまで言ってから、大きくかぶりを振った。伝えるべきはこれではない。恥ずかしさを押さえつけ、しっかりと少女の顔を見る。

 

「その……ありがとう。助けてくれて、嬉しかった」

 

 短い言葉に精一杯の感謝を込めて言った。

 少女の瞳には、ウィル自身の顔が映っている。そんな写像では色まではわからないはずだが、瞳の中の自らの顔は真っ赤であるように見えた。きっと夕陽のせいだけではない。

 気恥ずかしさに何かを話そうとして、そういえばお互いに肝心なことをしていなかったと思い出す。

 

「俺の名前はウィリアム。ウィリアム・カルマン。きみの名前は?」

「そういえば、一日一緒にいたのに、自己紹介もしてなかったんやね。私ははやて。八神はやて、って言います」

「はやて、って呼んでも良い?」

「もちろん」はやては笑ってうなずく。 「じゃあ、私はウィリアムさん、かな」

「ウィルでも良いよ。友達はたいていそう呼ぶから」

「じゃあ、私たち友達?」

「ああ、その方が単なる居候や赤の他人よりはずっと良いね」

 

 ウィルはポケットに右手を突っ込むと、デバイスに収納していたジュエルシードをポケットの中で取り出し、右手に握り込む。

 そうしてはやての前で右手を開いて、見えるように晒した。

 

「ごめん、家出っていうのは嘘なんだ。この街のどこかに、これと同じような石が後二十個ある。俺の仕事はその回収。理由や経緯を話すことはできない。でも、俺は決して悪いことをしにこの街に来たわけじゃない。それは約束する。だから、ごめん。しばらくきみの世話になっても良いかな」

 

 こういう時にどこまで情報を開示するのがベストなのか、管理外世界で活動した経験のないウィルには判断がつかない。マニュアル的には管理外世界の人間には何も教えないのが正しいが、隠し通したまま不審な行動をとり続けるのも不自然だ。

 だから、魔法の情報は話さない。それでも自分が何をしたいのか、その心の在り方は話す。

 それがウィルの選択で、誠実であることがはやてに対する礼儀だと考えた。

 

「ええよ。友達を助けるのは当たり前やん」

 

 はやては笑った。昨日今日何度も見た微笑み。でも少し違う。陰りのない、綺麗な笑みだった。

 

 

 

 

 海鳴市に住む少女、高町なのはは駆け巡る悪寒に身を震わせた。

 周りを見回してみるが、リビングには兄の恭也と自分がいるだけだ。他には誰もおらず、窓も扉も空いていない。だというのに、冷たい風が吹き付けてきたような感覚があった。しばらくするとそれも消えたが、結局なんなのかわからず、心にもやもやとしたものが残る。

 

「どうかしたか?」

 

 不安げにしているなのはに気が付いた恭也が、声をかけてくる。

 

「えっと……お兄ちゃんは何か感じなかった?」

「感じる? 何をだ?」

「よくわからないけど、こう、胸がもやもやーってして、背中がぞくっとするような。そんな感じがしたの」

 

 恭也は妹の言葉を無碍にせず、探るように周囲に警戒する。そして、何かに気づいたようにはっとした。

 

「わかったぞ」

「えっ!? 本当に?」

 

 恭也うなずきながら、なのはを──その後ろを指さす。

 

「後ろにいるそいつが原因だ」

「え? え?」

 

 なのはは背後を振り返る。が、そこには誰もいない。

 

「誰もいないよ?」

「見えないのか? 青白い顔をしているじゃないか」

「えっ!? うそっ! うそだよね!?」

 

 恭也の言葉の意味に気づき、自分が真っ青になりながら、自らのしっぽを追いかける犬のようにぐるぐると回る。

 

 恭也はそんななのはを笑って見ながらも、あらためて周囲の気配を探る。だが、常人より優れた感覚を持つ恭也でも、なのはが感じた悪寒の正体──魔力の波には気が付けなかった。

 

 

 

 ユーノ・スクライアは第一管理世界ミッドチルダの次元港を訪れていた。

 第百二十二無人世界からミッドチルダへと帰還したユーノは、その場で輸送船の事故を知った。

 発掘者であるスクライアとして管理局にジュエルシードの行方の情報の開示を求めたところ、救助された輸送船の乗員の証言からそれらが第九十七管理外世界に落下したこと、そしていまだ一名が救助されていないことを知った。

 

 ウィリアム・カルマン──彼とはあまり話をしたわけではない。あの襲撃事件の時と、その後のジュエルシードの輸送における会議で少し会った程度だ。それでも、彼には助けてもらった恩があると思っていた。

 そしてそれ以上に、ジュエルシードを発掘してしまった者として自分も何かしなければ、自分にも何かできるはずだと思った。

 

 ユーノの行動は迅速だった。調査団の仲間から離れ、単身スクライアに帰還する。

 そしてスクライアの大人たち相手に喧々諤々の議論を繰り広げ、根負けした大人たちが許可を出したのが昨日のこと。そして管理局から先行調査の許可が得られたのも同じ日だった。

 翌日に第九十七管理外世界の近くを通る航路の船があることを知ったユーノは、貯金を使い、足りない分は大人たちに出してもらって、当日のチケットと転送サービスを購入。船が第九十七管理外世界に最接近した時に転送装置で送ってもらうことで、落下地点に行くつもりだ。

 

 出国審査を終えたユーノは、船に乗り込む途中で立ち止まる。ここから先は自分一人でやらなくてはならない。自分から望んだこととはいえ、いざ臨むとなると失敗した時のことが頭にうかんでくる。

 

『What's the problem?』

 

 ユーノのすぐそばで声がした。機械的なその音声を聞き、ユーノの心は少し楽になる。自分一人ではないと思いだしたからだ。

 ユーノは首からかけたペンダント──その先にある赤い宝石に触れる。

 

「なんでもないよ。……頼りにしてるよ、レイジングハート」

『Yes, my master』

 

 赤い宝石は明滅して、応えた。

 



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現地協力者

 八神家の居候になってから二週間が過ぎた。

 

 裏庭では色とりどりの洗濯物が物干し竿にかけられ、風にそよいでいる。

 ウィルはそれを眺めながら満足げに息を吐く。数日続いた雨のせいで溜まっていた洗濯物を、ようやくまとめて干せてすっきり。

 低気圧とそれにともなった雨雲は昨日のうちに海鳴上空を通りすぎ、朝の天気予報は今日一日の快晴を謳っている。空には雲一つなく、洗濯ものは夕方を待たずとも正午には全て乾いてそうだ。

 

 振り返ると、掃き出し窓から八神家のリビングが、そしてその向こう側の台所にいるはやての姿が見える。彼女は鼻歌交じりに食事の準備をしていた。朝食に加えて、昼食用の弁当二人分。

 

 家事、ジュエルシードの捜索、はやてとだらだらとすごす。

 この二週間はその三つを繰り返すだけの穏やかで規則正しい生活を送っていた。そのおかげで怪我は完治し、体調も良い。

 日々の捜索は新たに三つのジュエルシードを見つけるという成果を結び、合計四個のジュエルシードがウィルのデバイスに保存されている。

 今のところ一個目の時のように戦闘が起きることもなく、この街もウィル同様に穏やかな時間の中にある。とはいえ海鳴は広いので、ウィルが感知できないような離れた場所で事件が起きている可能性もある。最近では市内の動物病院や市営プールで何やら不審な事故が起きたというニュースを見て、ジュエルシードのせいではないかと考えて足を運んだが無駄足に終わった。

 

 そして今日の捜索は普段とは少し異なり、はやても一緒だ。

 どうせぶらぶらと街をうろつくのであれば、あまり外出できないはやてをそこに同行させたってかまわないだろう。

 

「これはこれで、充実してるなぁ」

 

 最低限のトレーニングは欠かしていないが、このような毎日では、体だけではなく心もなまってしまいそう。それでもウィルはこの日々が嫌いではなかった。

 しかし旅に別れはつきもの。この穏やかな日々も一月もしないうちに終わり、ウィルは再び管理世界に戻る。そうなれば、はやてとも会えなくなる。仕方がないと思いながらも、心に浮かぶ一抹の寂しさに今度はため息を吐いた。

 

 

 

 カラッと晴れ渡る散歩日和に、しかし二人の間にはなんともいえないぎこちのない空気がわだかまっていた。

 

「暑くなってきたね」

「そうやね……少し休もっか」

 

 はやての声は沈んでいる。

 家事を終えた二人は、朝食を食べると早々に家を出た。市内の美術館の特別展を見てから、軽くウィンドウショッピング。

 昼になれば臨海公園のベンチに座ってランチタイム。はやてが自らの鞄の中から、腕によりをかけて作った弁当を取り出す。しかし、ふたを開いた時にうっかりと弁当を落としてしまった。マーフィーの法則に従い弁当は開いた口を下にして落下し、中身が地面にこぼれた。

 その時のはやての顔を見たウィルは、落ちた弁当を食べようとさえ思ったが、実行前にはやてに止められてしまい断念した。

 それ以降、はやての気分は沈んだままだ。昼食代わりにと臨海公園の出店で買ったたいやきとたこやきはなかなかの味だったが、それでも気分を盛り上げるには至らない。はやて自身、落ち込みながらも気を使わせまいと元気にふるまおうとしてはいるが、それが逆に痛々しく思える。

 

 木陰に車椅子を止めると、階段の上にある自動販売機までひとっ走りして飲み物を買いに行った。

 その間も頭に浮かぶのははやてのこと。なんとか元気づけたいと思うが、そう簡単に名案が出てくることもない。悲しみが吹き飛ぶようなとてつもないインパクトのあることでも起こらないかと、思わず人任せな思考になってしまう。

 

 硬貨を投入しようとしたところ、突然自動販売機が小刻みに揺れ、硬貨が投入口から外れて地面に落ちる。地震だろうかと思った直後、大きな魔力反応。ジュエルシードが励起した時の感覚に似ているが、一個目のジュエルシードで感じたものに比べると桁違いに大きい。

 

 そして、それは現れた。

 足元のアスファルトを砕き、車を横転させ、信号機をなぎ倒しながら、地下から地表へと姿を現す巨大な樹の根。直径が数メートル、長さにいたってはわけのわからないほどの()()は巨大な物のごく一部でしかなかった。

 さらに遠方、市街地に巨大な樹が現れる。その大きさたるや、次元世界でもなかなか見られるものではなく、ましてや先ほどまで何もなかった所に急に現れるなど考えられない。

 

 あまりのことに一瞬我を忘れたウィルだが、次に感じたのは周囲への影響。そして、はやての安否だった。

 はやてを待たせていた木陰の方を向く──ウィルの視界には空中に放り出され、落下を始めたはやての姿が映った。魔導師でもないただの人間にとっては、落ち方によっては死もありえる高さ。

 管理局の局員としての訓練の成果か、それともウィルの生来の気質によるものか、迷うよりも先に身体が動いていた。

 

「F4W!」

 

 デバイスを起動すると極小規模な結界を張り目撃者になるような人間の目を排除し、即座に飛行してはやての元に向かう。

 地上に激突する前にはやての体に手が届く。そのまま受け止めれば、ただの人間であるはやては受け止められた時の衝撃に耐えられない。

 瞬時にバリアジャケットの設定を変更。衝撃吸収機能を内部だけではなく、外部にも適用する。同時に、飛行魔法に付属する慣性制御圏を拡大させはやてを包み込む。

 空から降ってくる生卵をつぶさないほどの精妙さで、ウィルははやての体を抱きとめた。

 

「あ……れ? 私、まだ死んでない?」

 

 はやては目をぱちくりさせ、ウィルを見る。

 

「もしかして、受け止めてくれたん?」

 

 と言った直後、はやては自らとウィルが空に浮かんでいることに気が付き、ぎょっとした顔になる。

 結界で他の人の目は隠せても、救助対象のはやてをごまかすことはできない。やってしまったとバリアジャケットの内側の素肌に冷や汗が流れるが、はやての命には代えられない。

 

「これってどういう──」

「いろいろ聞きたいだろうけど、後にしてくれると助かる」

 

 ウィルははやてをその腕に抱きかかえたまま飛行し、結界を解除して人目につかないよう、近くの安全そうなビルの屋上に降りた。

 突如現れた巨大な樹。その成長はいったん止まっているように見えるが、またいつ動きだすとも限らない。

 樹による直接の被害だけでなく、間接的な被害も見られる。驚いた車両が事故を起こし、樹の根が道路をふさいでいるため、車両が通れなくなっている。このままでは救助のための車両もやって来れない。

 ウィルとはやては街のあちこちで起きている惨状に息を飲む。

 

「まずはこの樹をなんとかしないと」

 

 ウィルはそう宣言すると、抱えていたはやてをゆっくりとおろした。そして樹を見て、しかし数秒後に肩を落とした。

 

「……どうしたん?」

「大見えきったのはいいけれど、これ本当にどうしようかなぁって」

「どばぁっとでっかいビームで倒したりはできへんの? 空飛べるんやから、そういうこともできたりとか」

「そういう魔法はあんまり得意じゃないから威力が出ないんだよね。それに枝葉を散らしても効果は薄いから、やるなら樹の中心部を見つけ出してからじゃないと」

「あ、ビーム自体はほんまに出せるんや……」

 

 先日の獣の体はジュエルシードから発生する魔力で作られていた。規模は違うが、この大樹も同じように魔力によって構成されていると考えられる。事態をおさめるには先日と同じようにジュエルシードを封印するべきだ。が、肝心のジュエルシードが樹のどこにあるのかわからない。

 

「このまま空飛んで探すのは?」

「この規模の相手を包みこむ結界は俺には張れないし、結界なしだと明日の新聞にこの樹と一緒に俺が載りそう。……言ってても仕方ないか。人の命には代えられないもんな」

 

 ウィルが飛んで探そうとした時、頭上を無数の桜色の星が空を駆けた。星のように見えた物はサーチャーだ。それらは縦横無尽に街中を、特に巨大樹の周りを飛び回っている。その数は三十にも及ぶ。

 サーチャーに類似する魔法ではなく、ウィルもよく知るミッド式──次元世界で最もメジャーな魔法体系で構築されたサーチャーそのものだった。つまりこの魔法の行使者は次元世界の住人だ。

 行使者を探して周囲を見回せば、百メートルほど離れたビルの屋上に少女が立っていた。

 

 茶色の髪を頭の両端でくくった、はやてと同じくらいの年齢の少女。

 少女は閉じていた目を開くと、ある一点を見据えてデバイスを構える。その膨大な数のサーチャーで、大樹のどこかにあるジュエルシードを見つけたのだ。

 

 デバイスが杖から槍へと形を変える。あふれる魔力がノズルから放出され翼のように広がり、槍の先に膨大な魔力が集う。魔力運用はつたないが、少女の強い意志がうかがえるような強壮さで魔法が構築される。

 体の底まで響き渡るような轟音が響き、魔法が解き放たれる。桜色の一条の光が、樹の一点を貫いた。

 

 大樹が徐々に輪郭を希薄にし霧散していく光景を見て、無事にジュエルシードが封印されたことにウィルはほっと胸をなでおろした。

 そして、それを為してくれた少女を観察する。

 一気に膨大な魔力を消費したせいか、少女はその場にぺたんと座り込んでいる。彼女が纏う白いバリアジャケットは女の子らしいかわいらしい意匠で、決して管理局のものではない。

 魔導師なら念話が通じるはずだと話しかけようとした時、逆にウィルが念話で話しかけられた。

 

『カルマンさん! 聞こえますか?』

『その声は──』

『ユーノ・スクライアです。覚えていますか?』

『あ、ああ。覚えているよ。久しぶり。どうしてきみが……いや、事情は後で聞くよ。今はどこに?』

『カルマンさんの目の前にあるビルの屋上にいます』

 

 いくらウィルが目を凝らしても、ビルの屋上には白いバリアジャケットの少女しか見当たらなかった。バリアジャケットとはいえ、フリフリの服を着ている少女は、どこからどう見ても女の子だ。

 

『ごめん、俺、きみのことを男の子だと思ってたんだけど、もしかして女の子だった?』

『いきなり何を言ってるんですか!? 僕は男です!』

『なら女装?』

『それも違います!』

『……じゃあ、その白い服はスクライアの民族衣装的な何かとか』

『うちの部族をなんだと思っているんですか! 違います! その白い服の子の肩の上です!』

 

 目を凝らして見ると、肩の上に一匹の小動物がちょこんと乗っかっており、獣にあるまじき二足歩行をおこなっていた。

 

『……俺の目には小動物しか見えないんだけど』

『それが僕ですよ』

『もしかしてきみもジュエルシードの影響で変貌して……』

『これは魔法で変身してるだけですよ! さっきからわかってて言ってませんか!?』

 

『ねえ、ユーノ君ってフェレットさんじゃなかったの?』

 

 二人の念話に、戸惑いを含んだ新たな声が混じる。小動物姿のユーノが首をかしげながら少女の顔を見たので、その声の主は白い少女だとわかった。

 

『あれ? ……言ってなかったけ?』

『聞いてないよ! え、えっと、ユーノ君が男の子ってことは、あれも、これも──きゃああぁ!』

 

「あの子、何してるん?」

 

 狼狽する少女をユーノがなだめている光景も、念話の聞こえていないはやてには、少女が一人できゃあきゃあ騒いでいるだけの不思議な光景に見えるのだろう。

 

 ウィルは彼らのやり取りを微笑ましく見ていたが、地上から聞こえてきたサイレンの音で気持ちを切り替える。樹が消えたことによって、車両が通れるようになっていた。空には報道用なのかヘリも見える。

 急いで念話で少女に語りかけた。

 

『ちょっといいかな?』

『は、はいっ! わたしですか?』

『そうそう。これ以上この場に長居しているといらない詮索をされるかもしれないから、早めに地上に降りよう。それに話したいこともあるから、この後でユーノ君と一緒に少し時間をもらいたいんだけど良いかな?』

 

 少女はこくこくとうなずきながら答える。

 

『はい! 大丈夫です!』

『なら、このビルの下で合流しようか』

『わかりました!』

 

 少女はビルから降りていった。ミッド式を使う新しい魔法使い。ユーノと共にこの世界に来た友人か、それとも現地の協力者か。ユーノが人間であることを知らないなら、後者だろうか。

 

「それじゃあ、俺たちも降りようか」

「そうしよか。……ところで、私どうやって移動したらええんかな。なんか、すっごい恥ずかしいことになりそうやねんけど」

 

 車椅子が壊れて移動手段をなくしたはやてが、座った状態でウィルを見上げている。

 

「おんぶとお姫様抱っこ。どっちが良い?」

「…………おんぶで」

 

 顔を赤くしながら、はやては決断した。

 

 

 

 

 空が青から赤へと色を変える頃、八神家のリビングに、四人の少年少女がテーブルを囲んでいた。内一人は小動物の姿をしているので一匹と形容することもできるかもしれない。

 

 合流してから四人はすぐに封印したジュエルシードを回収していないことを思い出し、その回収に向かった。

 駆けつけた警官による交通整理を、時には走って、時には結界を利用してかいくぐり、救急車で運ばれようとする少年──ジュエルシードを持っていた人物だ──を見つけ、小動物姿のユーノがその姿を利用して彼の懐からジュエルシードを回収した。

 そして再び警官たちに見つからないように隠れながら、このはやての家まで戻ってきたのがつい先ほど。

 

 大樹が発生した市街地ではひっきりなしに聞こえていたサイレンの音も、さすがに山に近いこの住宅街まで届かない。

 

「そう固くならずに、気軽にその辺に座ってて」

 

 ウィルはリビングの入り口に立っている少女とユーノにそう言うと、背負ったはやてをソファに下ろす。

 

「それ、家主の私の台詞と違うん?」

 

 苦笑しながら自宅用の車椅子に乗り換えたはやては来客のために茶を用意し始め、ウィルはその間に洗濯物を取り込みに裏庭に。

 少女はおずおずとソファに座りながら、携帯電話で家族に帰りが遅くなると連絡しており、ユーノは小動物姿のままなのはの隣に所在なさげに座り込んでいる。

 

 

 全員が落ち着くのを待ってから、まず初めにウィルが口火を切った。

 

「先ほどはジュエルシードの封印に協力いただき、ありがとうございました。お互いに聞きたいこともあるとは思いますが、焦っても話がこじれるだけです。まずは自己紹介から始めましょう。というわけで、まずは俺から」

 

 ウィルは名前と所属を名乗り、身分証明のために懐から取り出した携帯端末で局員IDを呈示する。

 見せたところで管理外世界の人が真偽を判定することなどできないが、形式上というやつだ。

 続けて、隣に座るはやてを指しながら語る。

 

「こちらの方は八神はやてさん。俺にこの世界での夜露をしのぐ場所を提供してくれているとんでもなく良い子です」

「どうも、八神はやていいます。ウィルさんとは、なりゆきというか……そんな感じで」

 

 あはは、と笑いながらはやても自己紹介。ウィル、はやて、と続いたので、必然的にはやての向こう側に座る少女の番になる。

 

「わ、わたしは高町なのは、小学三年生です」

 

 若干緊張しながら、少女──なのはが答えた。

 

「同い年なんやし、なのはちゃんって呼んでええかな?」

「う、うん! じゃあ、わたしははやてちゃんって呼ぶね」

 

 なのはの緊張が少しやわらぐ。

 

「はやてちゃんの学校はどこ? わたしは聖翔なんだけど」

「学校には通ってないんよ。この足やし」

「あ……そうなんだ。ごめんなさい……」

 

 いけないことを聞いたかと、なのはが再び萎縮する。

 ウィルはぱんぱんと手を叩き、女の子二人の会話を止める。

 

「それじゃあ、自己紹介も終わったところで──」

「あの……僕の番がまだ」

「ごめん、人間の姿をしていないからうっかり忘れてた」

「なんか今日ひどくないですか? ……僕はユーノ・スクライア。こんな姿をしていますけど、本当は人間です」

 

 そう言ってくるんと回転すると同時に、秋の稲穂のような金色の髪をした優しそうな少年が現れる。手品のような早業に、なのはとはやては思わず拍手。

 

 

 これまでの経緯を語るとしても、管理世界出身者のウィルとユーノは地球のことをこれまでの滞在で学んでおり、なのははすでにある程度のことをユーノから聞いている。

 したがって、まずははやてに管理世界のあれこれ──管理局のこと、魔法のこと、ジュエルシードのこと──を教えるところから始まった。

 

「ってことは、さっきのあの木は、前にウィルさんが見せてくれた石、ジュエルシードってやつのせいなんやね?」

「実際にジュエルシードが手に入ったから、それは間違いない。でも、俺にもどうしてあんなことになったのかは、よくわからないんだ。ユーノ君は何か知っている?」

「これはカルマンさんが出発して──」

「ウィルでいいよ」

「えっと……じゃあ、ウィルさん、が出発してからわかったことなんですが、ジュエルシードは思念に反応して活性化する際に、その思念に応じて周囲の状況を変化させるようなんです。単純な言い方をすれば、ジュエルシードは人の願いを叶えるんです」

 

 ウィルはぽかんと口を開けたまま固まった。なんでもありのロストロギアとはいえあまりに突拍子のない話だ。

 しかし真剣なユーノの表情は、とても冗談を言っているようには見えなかった。

 

「本当に願いが叶うわけではありませんよ。ただそれらしい変化を起こすというだけですけどね」

「それじゃあ、さっきの大樹はあの倒れていた少年の願いに反応した結果かもしれないけど、彼自身が望んだことではないかもしれないんだね?」

「そうですね。何を願えばあんな樹ができるのかわかりませんし」

「年々深刻化する温暖化問題をなんとかしたかったんかなぁ」

 

 閑話休題。

 背景説明を終え、個人のこれまでの経緯を語る。まずはウィルから、自分がどのような事情で地球に来ることになったのかと、はやてと出会ってからの経緯を語った。そして、ユーノとなのはの方を向く。

 

「次はユーノ君となのはちゃんの方のことを聞きたいんだけど、どうしてもしっかりと聞いておかないといけないことがある。なのはちゃんはこの世界の、この街の人なんだよね?」

 

 なのはがうなずいたのを見て、ユーノに向き直る。

 

「なら、どうしてなのはちゃんが魔法を使えるのか。そのあたりを詳しく話してくれるかな」

 

 管理局の介入を認めていない世界は全て管理外世界と呼ばれるが、管理世界に並ぶ文明を持ちながら管理局の介入を良しとしない世界と、それ以前の次元世界に進出さえできておらず管理局の存在自体を知らない世界では扱いが大きくことなる。

 地球のように後者に分類される世界に、外の世界の技術──この場合は魔法の力──を与えるのは禁止されている。技術とはそれを生み出した社会によって制御されて初めて技術として機能するのであって、そうでなければただの異能でしかない。異能を持つ者は良かれ悪かれ社会に混乱をもたらす。ロストロギアのように。

 ユーノは表情を引き締め、語り始めた。

 

「地球に来てすぐに、ジュエルシードの暴走体と遭遇したんです」

「それって、現地生物が魔力で変質したようなやつ?」

「いえ、そういう類のも後で見ましたけど、その時のはジュエルシードの魔力そのものが形を成していました。もう少しで封印には成功するというところで、暴走体の攻撃をくらって戦えなくなってしまったんです。このまま暴走体を放置するわけにはいかないと思って、広域念話で助けを求めました。ウィルさんが地球に来ていることは知っていましたから、もしかしたら届くかもしれないと思って。そうしたら──」

「わたしにユーノ君の声が届いたんです」と、なのはがユーノの後を継ぐ。 「最初はびっくりして、周りに誰もいなかったから気のせいかと思ったんです。でも、すごく困っているみたいだったから……なんとなくどっちから聞こえてくるのかわかったから行ってみて、そしたらフェレット姿をしたユーノ君を見つけたんです」

 

 『念話』とは、魔導師による特殊な通信手段だ。自身の魔力によって大気中の魔力の素──魔力素に働きかけ、自らの思考を相手に伝える初歩的な魔法。音波に比べると魔力波は減衰率が低いので、念話は発声よりも遠くまで伝わる。

 念話は体内に魔力を持たない者は聞くことができない。つまり、なのはがユーノの念話を聞けたということは、彼女も魔導師の素質があることを表している。そしてこれまで念話を受けたことがないにも関わらず、念話の発信源であるユーノのもとにたどりつけた事実は、彼女が持つ資質の高さを示していた。

 

「僕はもう魔力が残っていなかったので、なのはに僕のデバイス──レイジングハートを渡して代わりに封印してもらったんです」

「デバイス持ってたんだ」

「あの襲撃で痛い目を見たので持つようにしたんです」

 

 ウィルは続けてユーノに質問をする。

 

「少し確認しておきたいんだけど、ユーノ君は広域念話をおこなった結果、なのはちゃんのように反応する人が出てくることは想定していた?」

「していませんでした。地球に魔法技術がないことと、地球人がリンカーコアを持っていないことは渡航前に確認して知っていたので、広域でもウィルさん以外には届かないと考えました」

「でも、念話は俺に届くことはなく、なのはちゃんのところにだけ届いた。なのはちゃんがリンカーコアを持っているのはたまにある突然変異だとしても、俺に聞こえなかったのは距離のせいか? 一応場所を教えてくれるかな」

 

 ウィルはユーノから暴走体と戦った場所──念話を発信した場所を、そしてなのはからは自宅の場所──念話を聞いた場所を聞き、地図に印をつける。

 

「それじゃあもう一つ。広域念話はそれっきり使わなかったの?」

「はい。なのはに念話が届いたことで、そう何度も広域への念話の発信をしない方が良いと考えなおしたんです。ウィルさんとは早めに合流するべきか悩みましたけど、なのはみたいに新しく他の人を巻き込んでしまうかもしれませんし」

 

 続けて、なのはがジュエルシード回収代行をするようになってからの経緯を聞いている最中、ウィルは自らを見るユーノの視線に困惑が含まれているのに気付いた。

 

 なのはに聞こえないように、ユーノのみに念話を発信する。

 念話は二種類にわかれており、一つはユーノが助けを求めるために放った広域念話。声を発するように無差別に周囲に念話を拡散させるこれは、声を届ける対象を選べないので、あまり使われることはない。

 もう一つは、レーザーのように指向性を持たせることで、特定の対象にのみと会話するもの。単に念話といえばたいていはこちらのことを示している。盗聴されにくいというメリットを持つ反面、相手の位置を把握していなければ届かないため、視界内の相手以外に使われることは少ない。ウィルとユーノの内緒話はこちらでおこなわれた。

 

『どうかした?』

『いえ……その、怒らないんですか? 広域への無差別な念話も、なのはにデバイスを渡したことも、十分すぎるほど違法なことです』

『でも必要だからやったんだろう? 話を聞いた限りだと、少なくともその場では適切な判断だったと感じたよ』

『でも、だからといって許されることでもないでしょう?』

『法的な繊細な問題は一局員の俺が判断することじゃないし、できることでもないよ。判断するのは、増援でこの世界にやって来る管理局の船の艦長。もしくは船付の執務官だ。俺から言えることがあるとすれば、彼らへの発言は慎重にした方がいいってことくらいかな』

『それで良いんですか?』

『俺自身業務を拡大解釈して勝手に管理外世界に介入してるし、はやてに魔法のことをバラしてしまってるからね。……この有様でユーノ君を責めることはできないよ』

 

 

 

 これまでの話は終わり、これからの話へと移る。

 ジュエルシードの現在の収集状況は、ユーノたちが所持しているのが三個。ウィルが所持しているのが四個。これに今日の分を含めると合計で八個のジュエルシードが見つかったことになる。全体の三分の一以上だ。

 ユーノたちの情報も加えられて書き込みの量が増えた地図を見ながら相談をする。

 

「市街地は半分以上調査が終わっていますけど、山や海の方は今のところ手つかずですね」

「郊外を探すとなると、ある程度質の良いセンサーか、もっと大勢の手が必要だ。郊外はなるべく管理局に任せた方が良い。それにジュエルシードが活性化した時の被害は人の多い街中の方が遥かに大きくなる。今日みたいにね」

 

 ウィルのその言葉に、なのはがびくりと体を震わせる。

 

「もう少しの間は、街を中心に捜索を続けよう。でも、その前に」

 

 ウィルはなのはの方を向き頭を下げる。

 

「高町さん。俺の不手際のせいでこの世界にいらない騒動を持ちこんで、あなたや街の方を危険にさらして、傷つく人を出してしまいました。こんなことを起こさないために来たのに阻止できなかった俺の責任です。その挙句、無関係のあなたに回収の協力までさせてしまった。本当に、申し訳ないと思っています」

 

 そうして顔を上げ、じっと彼女の目を見る。緊張の色が見えるのは、おそらく彼女もこれから何について話すのかをわかっているからだろうか。

 

「今までジュエルシードの回収を手伝っていただき、ありがとうございました。今後は俺とユーノ君が捜索を続けます。ですから、あなたが今までのように協力してくださる必要はありません」

「わ、わたしも一緒に探します!!」

 

 突然、なのはが声をあげる。さっきまでのおとなしい少女とは別人。極限まで抑えたばねが、抑えを外され跳び上がるかのように立ち上がり、宣言する。その顔に浮かぶのは決意と焦燥だった。

 

「違うんです! わたしの責任なんです! わたし気づいてたんです! あの男の子がジュエルシードを持ってたこと。それなのに、きっと気のせいだって思って何も行動しなかったから……そのせいで街の人も、街も、いっぱい傷ついて……! 自分のできることをしないで、そのせいで誰かが傷つくのは嫌なんです! ここで他の人に任せて、その人が傷ついたら、きっとまた後悔するから、だからッ──」

「少し落ち着いて」

「でもっ!!」

 

 矢継ぎ早に繰り出されるなのはの言葉に押されながらも、ウィルは話の展開を考える。

 話の組立を失敗した。ロストロギアのせいで被害が出たのは、ウィル自身非常に後悔している。でもそのことを口にしたせいでなのはの負い目を強く刺激したのは予想外だった。

 この状況で強引に協力を打ち切らせていいのか。失敗したと思っている子に挽回の機会を与えないまま放り出すのは良くないのではないか。

 瞬時に結論を出して話を続ける。

 

「これまでのように協力してくださる必要はありません。ですが、あなたのサーチャーによる捜索能力と強力な遠距離魔法はとても役に立ちます。また、管理外世界の住人でありながら魔法の力を手にしてしまったあなたを、このまま放置するわけにもいきません。そこでしばらくは民間の協力者として活動していただき、今後は自分の監督下で魔法を使っていただけないでしょうか。簡単に言えば、俺ともコンビを組んでくれない? ってことなんだけど……」

「やります! やらせてくださいっ!」

 

 予想以上の即答と勢いにたじろぐ。

 

「えっと、話はまだあってね? 協力する場合、なのはちゃんには主にジュエルシードの捜索面で協力してもらいたいんだ。戦うような事態になればなるべく俺の方で対応して、なのはちゃんの手を煩わせないようにする。ただどんな状況も考えられるから。なのはちゃんを守りきれないような事態に遭遇することもありえるし、場合によってはなのはちゃんにも一緒に危険な目にあってもらうこともあるかもしれない。それでも、これから協力して──」

「やります! やらせてくださいっ! よろしくお願いします!」

「あっ、はい。こちらこそよろしくお願いします」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 

 極彩色の混沌が入り乱れた、世界を包括する領域──次元空間に、巨大な建造物が浮かんでいる。

 時空管理局の艦隊の母港であり司令部でもあるそれは、もはや要塞や人工天体とでも呼んだ方が適当であるほどの巨大さだ。

 時空管理局本局──海と呼ばれる部署の中心であるこれは、地上と呼ばれる部署の中心である本部と並び、時空管理局の最重要拠点となっている。

 

 本局内に星の数ほどある執務室の一つで、初老の男性がホロディスプレイに映る相手と通信をおこなっていた。

 どちらも将官服を着用してはいるが、堂々とした初老の男性と、彼に敬意を払う通信相手の姿を見れば、どちらの立場が上なのかは一目瞭然だ。

 

『ジュエルシードの輸送船が事故を起こして以降に出港予定を提出した船舶から、背後関係が疑わしいものに任意検査を要請しました。そのほとんどが要請に従いましたが、一部拒んだものに対しては現在こちらの執務官が交渉中です。従わない場合は出航許可の停止も考えています』

「そうか。手間をかけさせてすまない」

『気になさらないでください。グレアム提督の頼みとあれば断れません』

 

 初老の男性──グレアムは、本局で顧問官をやっている。これは半ば引退した者への名誉職であり、人を動かす権限など持っていない。

 しかしそれは言葉の上だけのことにすぎず、今でもグレアムには人を動かすだけの力がある。半世紀もの間を管理局に所属し続け、数多の戦いを乗り越え、数多の事件を解決に導き、数多の人材を輩出し、ついには英雄とまで呼ばれた過去を持つ彼は、数多くのコネクションを持つだけではなく言葉そのものに他者を動かすだけの権威を宿している。

 

 通信を終えたグレアムの顔からは笑みが消えていた。

 

「これで当分は地球に干渉する組織も出てこないだろう」

 

 先日見つかったジュエルシードの情報が漏れてしまっていることは、彼の悩みの種だった。詳細な情報ではないので、おそらくジュエルシードが発掘された時の襲撃犯。その中でも捕まらずに逃げきった者の間から漏れたのだと思われるが、情報元は彼にとっては些事にすぎなかった。

 グレアムの懸念は、ジュエルシードのことを知った者たちの中に、その回収のために管理外世界である地球に干渉しようとしている者がいる可能性だ。

 しかし()()()に海鳴を監視していた彼は表だって動くこともできない。できることと言えば自らが持つコネクションを利用して、地球に近づこうとする者、その恐れのある者を取り締まるように誘導することくらい。

 

 打てる手はほとんど打ったが、彼の懸念はまだ消えていない。

 ジュエルシードを欲する者が組織的な背景を持つなら、グレアムの打った手は効果がある。組織が動く時、必ずどこかにその兆候が表れる。その兆候さえつかめば、事前に抑えることも可能だ。

 しかし、個人で地球に向かおうとする者がいたら。グレアムの打った手はそういった者まで完全に抑え込むことはできない。デスクの上の力である政治力では、集団は御することができても、個人を抑えこむことは難しい。

 いつだって最後の砦は現場で相対する者たちだ。

 

「もう一つ手を打っておくべきか」

 

 そうひとりごち、彼はディスプレイに表示された艦船のリストに目をやった。管理局中に張り巡らされた彼のコネクションから得た、管理局の艦船の情報をまとめたものだ。

 無論、できるからといって命令系統を無視したお願いをあまりに多用するのは危険だ。グレアムを快く思わない者に感づかれてしまう恐れがある。

 しかし今回に限って言えば、彼らとてグレアムの真意には気が付かないだろう。せいぜいグレアムが自らの故郷である地球を心配して横槍を通したと思われるくらいだ。

 

 そうではない。全ては彼女一人のためだ。

 

 そのために海鳴がジュエルシードを巡る戦場になることは阻止しなければならない。

 たとえ彼女をいずれ殺さなければならないとしても、それまでは安全に生きていてもらわなければならない。

 

 グレアムは地球の存在する宙域を巡航中の艦船の中から、最も事件の解決に適したものを探し、見つけた。

 グレアムの瞳が揺れる。この船の乗員は船長をはじめとして非常に優秀だ。任せておけば必ずジュエルシードを回収して戻って来れると確信できる。

 だが、そのめぐりあわせには運命の皮肉を感じざるを得なかった。

 

 



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黒衣の少女

 気持ちまで晴れ渡るような陽気をした休日の午後。

 ウィルとはやては、なのはと彼女の兄である恭也と共にバスに乗っていた。

 バスは坂の多い海鳴市における主要な交通機関であり、休日であることも相まって、乗車したばかりの頃は席に座れないほどの盛況ぶりだった。

 その混雑も市内までで、郊外に近づくにつれて乗客は減って行き、席は次第に空き始める。

 

「なのはちゃん、今日は誘うてくれてありがとうな」

「はやてちゃんのことを話したら、二人とも会いたいって言ってたから」

 

 はやてとなのはは、空いた席に隣同士に座り談笑する。彼女たちの膝の上では、フェレットの姿のユーノが寝ている。二人ともユーノが人間だと知っているはずだが、いつの間にかフェレット姿の時は気にせずに気軽に身体に乗せるようになっている。

 やがて窓の外に見える建物が次第に少なくなっていき、反比例して山の木々が増加し始める。

 

「そろそろ降りるぞ」

 

 恭也が降車ボタンを押してみんなに声をかける。その声に反応して、なのはは急いで立ち上がるが、バスは停留所に止まるために減速を始めていたので、おもわず転びそうになり、恭也に支えられた。

 

「ウィルさん、私らも降り……ね、寝とる……」

 

 

 

 バス停から少し歩くと大きな門が見えて来る。その門が今日の目的地である月村邸の入り口だ。

 

 月村家の上の娘は恭也の恋人で、下の娘はなのはとクラスメイトであり、月村家と高町家は家族ぐるみの付き合いがある。

 その月村家ではたびたびお茶会が開かれる。といっても格式ばったパーティーではなく、親しい友達と遊ぶのをちょっと気取った言い方をしているだけのことだ。

 はやてが学校に通っておらず同年代の友達がいないことを知ったなのはは、月村の娘に相談してお茶会にはやてを誘い、はやては二つ返事で了解。

 なのはがついているのなら大丈夫だろうと、最初はウィルとユーノは二人でジュエルシードの捜索をおこなうつもりだったが、月村の家が非常に広大な敷地を持っていることを知り予定を変更した。

 土地が広い分、その場所にジュエルシードが落下した可能性もある。敷地内に合法的に入ることができる機会を逃す手はない。

 

 

 年季の入った重厚な門扉を通り、舗装された道を歩き続ける。道の両側に植えられた常緑樹は、その全てが見事に剪定されていた。木々の向こう側には庭が、さらに奥には森が続いているが、見える範囲にある木々は同様に手入れされている。さすがに森の全てを手入れしているわけはないとは思うが、それでもどこまでやっているのかと考えると底知れないものを感じる。

 月村の屋敷は門から歩いて数分ほどのところにあった。

 

「……でかいね」ウィルが思わずつぶやき、「うん、おっきい」とはやても呆然と相槌をうった。

 

 屋敷は大きかった。物理的な大きさだけではなく、存在感が大きかった。

 一目見ただけでも、屋敷が丁重に造られた一級のものであるとわかる。毛の一本に至るまで職人が心魂を込めて作ったビスクドールが、実物の大きさ以上の何かを内包しているように感じるのと似ているように。

 屋敷を囲む庭、それをさらに囲む森や山さえも存在感を持っていた。

 魔法による結界とは意味が異なるが、これもまた結界だと言えるだろう。屋敷を囲う森という物理的な意味での結界、そして屋敷が与える底知れない印象は心理的な結界として、この屋敷を世俗から隔離された幽世へと変貌させている。

 

 もっとも、なのはたち兄妹にとっては見慣れたものなのか、彼女たちはまったく物おじせずにインターホンを鳴らした。扉の向こうで待ち構えていたかのようにすぐに現れた若い女性、使用人のノエルに連れられて、サンルームへと案内される。

 お天道様の慈悲を余すところなく受け止めるように設計されたその部屋は、包み込むような暖かさで、先ほどまでバスで寝ていたウィルなどは、再び眠気を感じて立ったまま眠りたいと感じるほど。

 部屋の端には観葉植物が並べられており、その中心に机と椅子、そして大量の猫が配置されていた。椅子にはすでに数人の参加者が座っており、その中の一人が立ち上がると、はやてたちの前まで来てにこやかにほほ笑む。

 

「いらっしゃい、はやてちゃん」

 

 ウィルとはやてはその子に見覚えがあった。かつて図書館で出会った黒髪の少女だ。

 

「ええっと……なんでここに?」

「なのはちゃんから最近知り合ったお友達のお話を聞いた時に、ぴんときたの。車椅子に乗った同じくらいの年の女の子っていえば、きっと図書館で出会ったあの子だろうなって」

「そやったんか。ええっと……」

「私はすずか。月村すずかって言います。よろしくね、はやてちゃん」

「すずかちゃん、今日はお呼びいただいてありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 続けて、各々が自己紹介を行った。

 金髪の少女がアリサ・バニングス──なのはとすずかの同級生で、二人とは親友らしい。

 すずかをそのまま大きくしたような女性がこの屋敷の主で、月村忍──すずかの姉で、恭也の恋人。

 給仕の少女は、すずか専属の使用人で、名をファリンというらしい。ファリンはノエルの妹だというが、その印象は正反対で、ファリンが動、ノエルが静だ。

 

 自己紹介が終わると恭也と忍はノエルと共に別室へと移り、四人の少女はそのままサンルームで机を囲みながらお茶を楽しみ始める。

 ファリンが新しいお茶とお菓子を用意するためにサンルームを出ていったので、ウィルは少女たちに一言ことわって彼女を追いかけた。

 廊下で彼女に追いつき、声をかける。

 

「ファリンさん。俺も手伝いますよ」

「とんでもないです! お客様にそんなことさせられません!」

 

 ファリンは表を突かれた顔をして、それから大きく首を振った。

 給仕としては当然の反応だが、ウィルは残念そうに肩を落とす──ふりをした。

 

「実は、はやてがあの子たちと仲良くするには、俺はあの場にいちゃいけないと思ったんですよ。ほら、年上がいるとあの子たちも遠慮して思ったことを話せないでしょう。だから、手伝うってのを口実にして席をはずそうと思ったんですが──」

 

 半分は嘘だ──というか冷静な人が聞いたら「だったら最初から来るなよ」と言われるようなことをほざいているが、このファリンという純真そうな少女なら大丈夫だと判断した。

 事情を疑わなかったとしてもさすがに客に手伝いはさせないだろうから、それでは庭を見せてほしいと言って敷地内をうろつきまわる。そして庭を見ている最中に勝手に森に入っていくユーノ(フェレット)を見かけて追いかける、という形で森を探索。あまり長く席をはずしていると不審がられるかもしれないが、この嘘話を事前に話しておけばなかなか帰って来ないのは気を利かせているからだと思ってもらえる。

 と、これがウィルが考えた華麗なる探索方法なのだが。

 

「でも、手伝うことがないのなら仕方ないですね。それじゃあ、少し庭を散策させてもらって──あの、ファリンさん、聞いてます?なんで涙ぐんでいるんですか?」

「うう……妹さん思いなんですね。わかりました! 不肖ながら、このファリン! 全力をもってあなたに仕事を与えます!」

「……い、いえ、やっぱりいいです」

「心配いりません! 簡単な仕事ですから!」

 

 

 

「……ただいま~」

 

 やっとのことで解放されたウィルが戻って来た時には、四人はとっくに屋外へ移ってた。

 

「えらい遅かったなぁ、何してたん?」

「なぜか厨房の掃除をしてた。ノエルさんに助けてもらわなかったら、帰るまでずっとやってたかも」

「何やってるのよ」と、あきれ顔のアリサ。

 

 ウィルはとぼとぼと歩き、ユーノをむぎゅっとつかみ、念話で語りかける。

 

『はぁ……それじゃあユーノ君、予定通り逃げてもらおうか』

『わかりました。……最初っから小細工しない方が良かったんじゃないですか。捜索する時間も減っちゃいましたし』

『確かに今回は失敗したけど、自分の目的の為に自分で方法を考えて行動するっていうのは大切なことだよ。そりゃあ失敗することもあるけど、与えられた選択肢を選んで状況に流されることを良しとせず、自分から選択肢を作って行動することは、将来的にきっと役に立つことになる』

『言い訳ですよね?』

『はいその通りです、ごめんなさい』

 

 その時、ウィル、なのは、ユーノの三人はもはや慣れ親しんだともいえる感覚を感じる。

 

『これって──』

『ジュエルシードだね。行くよ、ユーノ君。なのはちゃんはどうする?』

『わたしも行きます!』

『わかった。でも、まず俺が行って危険がないか調べるから、数分おいてから来て。一度に来たら怪しまれるかもしれないし』

 

 

 

 ウィルとユーノがジュエルシードの反応を追いかけて森の中を進むと、突然空が陰り出した──ように思えたが、それは錯覚だった。何か巨大なものが、太陽とウィルたちの間に現れていた。

 

 猫だ。

 足は森の木よりも太く、頭は木々からはみでるほどような、猫だった。

 かつて出会った犬のように醜悪に変化してはおらず、子猫としての形を維持したまま巨大化していた。ただし、体は高さだけでもゆうに五メートルを超えており、身に着けていた首輪の鈴の音は、小さい時はちりんちりんと耳を休める良い音だったのに、大きくなった今ではがらんがらんと頭に響くような大音声。

 

「ガリバーかアリスの世界だな、これ」

「なんです、それ?」

「はやてが読んでた本にそういうのがあったんだ。それにしてもこれだけ大きいと目立つな」

 

 可愛い子猫がそのまま巨大化しただけの見た目が非常にシュールで、現実感を薄れさせていた。周りの木々という比較対象がなければ、自分たちが小さくなったのだと思ってしまったかもしれない。

 

「なら、結界を張って隔離します。設定はどうしましょうか?」

「範囲は屋敷の手前まで、あの猫以外の生命体は全て結界外に、俺とユーノくんとなのはちゃんの三人だけ自由に結界の出入りを可能に……できる?」

 

 ユーノは行動でその問いに答えた。さすがは結界魔導師。いとも簡単に十分な広さを持つ結界を張り終える。理論に基づいた精密な魔法の構築からは、彼の性格がうかがえるようだ。

 結界の中で二人は巨大猫を観察した。一見すると無害で、じっと眺めていてもやっぱり無害だった。

 

「これもジュエルシードのせいだよね?」

「多分。猫の大きくなりたいって願いが正しく叶えられたんじゃないかと」

「単純な願いなら、正しく叶えられるのかな?」

「そうかもしれませんね。……あそこまで大きくなりたかったのかはわかりませんけど。なんだか怖がってるみたいですし」

 

 巨大猫は突然大きくなったことに戸惑っているのか、縮こまってぷるぷる震えていた。

 

「なら、さっさともとに戻してあげようか」

 

 ウィルはデバイスを起動させ、そのままバリアジャケットを身に纏う。剣型デバイスF4Wを右手に持って飛び上がろうとした瞬間、ユーノが突然あわてだす。

 

「待ってください! 誰かが結界内に侵入しました!!」

「なのはちゃんじゃなくて?」

「違います! こんなあっさり侵入されるなんて──!」

 

 ウィルたちとは反対方向からの魔力弾が巨大猫を襲う。金色の魔力弾が、巨大猫の横腹に直撃する。

 同時に、森に設置された電柱に誰かが降り立った。

 

 黒い少女。

 手には黒いデバイス。身を包むのは体のラインに沿った黒いバリアジャケット、そして黒いマント。その衣装は黒一色。

 しかし髪はさながら光の束のように輝いている。ユーノやアリサと同様に金髪に分類されるのだろうが、二人とはまた違った様相でもある。ユーノが大地の稲穂だとすれば、アリサは陽光の煌めき、そして目の前の彼女は視覚化した風のようだ。

 肌は白く、輪郭は上質の羽二重のように繊細を極めており、彼女の存在をあやふやなものと化している。

 ただ、そのような精緻を尽くした容貌の中で、瞳だけが安物の硝子玉のように何も映さず──それが彼女の存在感を薄くし、人形のような印象を抱かせる。

 だからだろうか、黒い衣装は着る者を際立たせるように働かず、逆に彼女の容姿が衣装の黒を引き立ててしまっているのは。

 

「バルディッシュ、フォトンランサー連撃」

『Photon lancer full-auto fire』

 

 少女の構えたデバイスの前にスフィアが出現。金色の魔力弾が次々と発射され、巨大化した猫に容赦なく命中する。猫は苦痛の声を上げその場にうずくまった。

 

「彼女の魔法はミッド式ですね。管理局の人でしょうか?」

「他人の張った結界に侵入したのに声もかけてこないなんて、お行儀の良い海の局員や民間人ではあまり考えられないな。ジュエルシードの話を聞きつけたどこかの犯罪者って可能性もある」

「もしかして、あの襲撃犯の仲間……とか?」

 

 ウィルとユーノの頭には、かつてジュエルシードが発掘された時の襲撃犯が頭に浮かぶ。

 

「だとしたら、戦闘も想定しておかないとな。ユーノ君はなのはちゃんと合流して、少し離れた場所で待機していてくれ」

「手伝わなくて良いんですか?」

 

 ウィルには、相手の手のうちが見えるまではユーノを戦わせるつもりはなかった。そして、なのははそれ以前の問題だ。

 なのはは先天的な魔力の高さだけではなく、三十を越えるサーチャーを操ることができる高度な思念制御と、高威力の砲撃魔法を行使できるほどの優れた魔法構築能力を持っており、とても魔法と出会って半月もたっていないとは思えないほど器用に魔法を使う。

 しかし、どれだけ魔法の才能にあふれていたとしても、戦闘訓練を積んだわけでもないただの女の子だ。単調なジュエルシードの暴走体が相手ならまだしも、魔導師相手の戦いは危険に過ぎる。

 もしも彼女たちを戦わせるとすれば、その力を安全かつ最大限に生かせるような状況になった時だけだ。

 

「ユーノ君の結界に簡単に侵入できるなら、彼女は魔導師としては俺よりも優秀だ。まずは俺一人で様子見をする。……負けるつもりはないけど、万が一やられることがあれば、今後のジュエルシードの捜索はまかせたよ」

「わかりました。でも、危なくなったら助けに入りますからね」

「そうならないように願いたいね」

 

 ユーノはウィルの肩から飛び降り、こちらに向かっているであろうなのはと合流するために駆けだした。その姿が茂みの奥に消えていったのを確認すると、ウィルは改めて乱入してきた少女を見た。

 少女は倒れた猫にさらに魔力弾を撃ち込む。そして弱った猫に砲撃魔法を放ち、一気にジュエルシードを封印した。一連の動きは流れるようで非の打ちどころがない。

 少女がジュエルシードを回収するために動こうとした時、ウィルは大きな声で少女に呼びかける。

 

「ちょっと待った!」

 

 少女は驚くこともなく、声の方向に向き直った。結界の中に侵入したのだから、自分以外の魔導師の存在は想定内していたのだろう。

 

「自分は時空管理局の局員です。そちらの氏名と所属を述べてください。また、管理外世界での活動は管理局法によって禁じられています。許可を取っておられるようでしたら提示をお願いします」

 

 少女は答えず、デバイスを握る腕に力を込めた。その姿からは緊張がうかがえる。

 すでに彼女は戦うつもりなのだと、ウィルは判断した。これ以上の勧告は無駄だと考えつつも、管理局の局員として続ける。

 

「それから……そのロストロギアは管理局の介在のもとで輸送中に紛失したものであり、その回収における優先権は管理局と発掘者にあります。ですので、譲っていただけないかなぁ、なんて」

「申し訳ないけれど」

 

 彼女はデバイスの形状を杖から鎌へと変化させ、明確に宣言する。

 

「ロストロギア、ジュエルシードはいただきます」

 

 ウィルは宣戦布告に舌打ちすると、自らもまたF4Wを構えて少女に向き直った。

 

 

 

 少女はデバイスを構えてウィルに向かってまっすぐ飛行し、鎌を振りかぶる。

 ウィルもF4Wを迫る少女に向かって振るう。剣と鎌がぶつかり、互いにはじかれあう。ただし、振った当人たちまで同じようにはじかれたわけではない。突撃してきた少女の方が、受け止めただけのウィルよりも総エネルギー量は上。ウィルの体は衝撃を受け止めきれずに後方に吹き飛ばされてしまう。

 飛行魔法によって空中で体勢を立て直すウィルに少女は追いつき、追撃のために再び鎌を振るう。しかし、鎌の軌道は先ほどと同じ。基本に忠実といえば聞こえは良いが、フェイントもない単純な軌道は見切りやすい。少女が戦い慣れしていない証左だ。

 

 鎌が描く軌道の外側に体を置くことで攻撃を回避し、体をひねって少女に切りかかる。

 少女はさらに加速し、ウィルが剣を薙ぐ前に間合いから逃れると、そのまま空中にあがる。ウィルも少女を追って空中にあがる。

 

 接近戦に持ち込もうとするウィルとは対照に、少女は先ほどとはうって変わって直射弾の連射で牽制し、中距離を保とうとする。接近できなければウィルも直射弾を撃つしかない。二人は一定の距離を維持しつつ、円を描くように飛行しながら魔力弾を放ち続ける。

 射撃魔法が不得手なウィルとは異なり、少女はジュエルシードの封印時に見せたように、射撃でも十分な実力を持っていた。だが、少女の方が射撃戦における火力が優れていても、それが即勝利に繋がりはしない。

 互いに移動している状態での射撃はそうそう当たるものではないからだ。当たったとしても、それが一発二発ではバリアジャケットで防がれる。高機動空戦では優れている程度の射撃では意味をなさず、少女の射撃は今のところはその域を越えてはいなかった。

 だから、この状況はお互いに次の行動に移るまでの前哨戦にすぎない。

 

 先に仕掛けたのは少女だった。離れているにも関わらず、ウィルを切り裂かんとばかりにデバイスを振るう。

 

『Arc Saber』

 

 鎌の刃を形成していた光刃がデバイスから離れ、輪刃となり不規則な軌道で向かってきた。その独特の軌道に意識をやってしまい、少女に対する注意が希薄になってしまう。

 まさにその瞬間に、少女は大きく動き出した。

 

『Blitz Action』

 

 空に響くデバイスの音声。爆発的な加速力で少女は動く。意識がそれていたとはいえ、高速戦闘になれたウィルが焦るほどの加速力。

 少女のデバイスには新たに光刃が生まれ出で、すれ違いざまに振るわれる。鎌の軌道は先ほど同様に読みやすく、ウィルもまたデバイスを前に出して防ごうとする。だが、速度が違いすぎる。速度とはエネルギー。少女の鎌はウィルの剣を圧する。

 防ぎきれずにウィルは吹き飛ばされた。さらに、湾曲している鎌の刃の形状のせいで、防いだにも関わらず右肩を切られていた。剣に比べて使い勝手の悪い鎌も、圧し切るという点では有効な武器だ。

 とっさに動いたおかげで深く斬られることはなく、少女の攻撃が非殺傷設定だったため肉体への影響もあまりないが、体内の魔力は確実に削られていた。

 

 少女は空中に静止すると、落下するウィルへと追撃の魔力弾を放つ。ウィルは避けるが、姿勢を立て直せずに墜落同然に森に落下した。

 だが、幸いにもそれが功を奏した。旺盛に葉をつけた木々は身を隠すにはもってこい。葉のせいで視界が通らないので、遠距離魔法で上空から狙われることはない。木が邪魔になるので、先ほどのような高速移動で近づかれることもない。守るにはうってつけの場所だった。

 木の影に身を潜めながら、空に留まる少女の様子を見る。彼女は森の中からの不意打ちを警戒して上昇して高度をとると、光刃を飛ばして木を切り倒したり、サーチャーを飛ばしたりして、ウィルを探し始める。ウィルは広大な森の中を移動し続けることで、その捜索から逃れ続ける。

 だが、隠れていれば良いというわけではない。ウィルが見つからないのであれば、少女はジュエルシードの回収のみで良しとするかもしれなかった。少女がその選択をとる前に、何か手を打たなければならない。

 

 少女の高速移動魔法は要注意だが、それも無制限に行使できるわけではない。吹き飛ばされて森に落下するウィルを、もう一度高速移動で接近して切らずに、不確かな魔力弾で追い打ちをかけたことから、おそらく連続で行使することはできないと予想。

 しかし、高速移動を除いても、少女が遠近両方をこなせるバランスのとれた良い魔導師であることに変わりはない。才能に恵まれ、努力を積んだであろうことがはっきりとわかる。

 つけいる隙があるとすれば経験の差か。少女の戦い方からは、対人戦の経験が希薄であろうことが読み取れる。

 

 ウィルは策を弄することにした。

 今のウィルでは、真正面から彼女と戦えば負ける可能性が高かった。そしてここで負ければ、今後のジュエルシードの探索に大きく影を落とす以上、分の悪い賭けをおこなうのは得策ではない。

 確実な勝利のために、後方に控えているなのはたちに念話を送る。

 

『ユーノ君、なのはちゃん、聞こえる? 聞こえてたら、返事をしてくれ』

『大丈夫です。聞こえてます』

 

 と、ユーノが返事をする。

 

 ウィルが思いついた作戦では、なのはたちにはさほど危険はない。だからと言って、少し前まで戦いに巻き込むみたくないと思っていたなのはたちを必要だからと利用する行為は、良識のある者が見れば眉をひそめることだ。

 そういう意味では、ウィルも焦って冷静な判断を欠いていたのだろう。ロストロギアが犯罪者の手に渡ってしまうかもしれないということに。

 

 二人に指示を出し終えると、ウィルは森の中を移動する。

 やがて、少女はウィルの発見を諦め、ジュエルシードを回収するために動き出した。

 

 のんびりと降下すればそれだけ森に隠れたウィルから不意打ちを受ける可能性が増えるため、少女は先ほど見せた高速移動でジュエルシードに向かい、一瞬でジュエルシードのもとへたどり着いた。

 タイミングを合わせてウィルも飛行する。森の木々をかいくぐり、加速。

 少女がジュエルシードを手にするのと、ウィルが森から飛び出したのはほぼ同時だった。

 

 向かい来るウィルを迎撃するため、少女が魔力弾を連続で放つ。少女とてジュエルシードに向かえば隙ができ、その瞬間をウィルが狙ってくること自体は予測しており、あらかじめ高速移動魔法と並行して射撃魔法の構築をすませていた。

 まっすぐ突っ込めば、魔力弾をくらう。一発二発ならバリアジャケットで耐えられるが、全弾くらえば確実に落とされる。そのため、ウィルは突撃を諦め、回避せざるを得なくなった。

 ウィルがもう一度突撃しようとするまでに、少女はジュエルシードを持ってゆうゆうと去ることができる。

 

『ユーノ君!』

 

 ウィルが、ユーノに向けて念話を送る。直後、結界が解かれた。それにともない、先ほどまでは阻害されていた結界内外の波長が干渉しだす。

 

 結界の中にいたウィルや少女にも、結界の外の光景が見える。そして、少女のそばには、レイジングハートを構えたなのはの姿。レイジングハートの先には、桜色の魔力光──砲撃魔法ディバインバスターの発射準備が完了していた。

 

 なのはが結界外で、砲撃魔法の準備をする。結界内と結界外は遮断されているので見ることも魔力を感じることもできず、したがってその姿に気付かれることはない。

 少女がジュエルシードを回収に行くことはわかっていたので、その地点の近くで準備をしていれば不意打ちができる。高速移動直後の隙を狙ったウィルの攻撃が成功すれば良し、失敗してもすかさず結界を解除してなのはが砲撃を叩きこむ二段構えの攻撃。

 少女はウィルへの対応に意識をやっており、さらに結界が解かれたことにわずかでも動揺するため、なのはへの対応はどうしても遅れてしまう。

 

 砲撃を放とうとしたなのはと少女の視線が合う。

 奇妙な静寂が訪れた。なのはは、魔法を撃たなかった。

 

 静寂を先に破ったのは少女でもなのはでもなく、ウィルだった。

 なのはが撃たないとわかった時、ウィルもまた動揺した。

 それでも瞬間的に回避機動から切り返しをおこない、再び少女に向かって突撃する。

 寸前でウィルに気づいた少女は、デバイスでウィルの剣を受ける。不意打ちの一撃に姿勢が崩れ、そこにウィルの二撃目が叩き込まれる──その直前、ようやく使用可能になった高速移動を発動させ、少女はその場から離れた。

 

 上空に逃げた少女はウィルたちを一瞥すると、街の方へと飛んでいった。二対一では分が悪いと判断したのか、ジュエルシードさえ手に入れば良いと考えたのかは定かではない。

 確実なのは、ジュエルシードを犯罪者に奪われてしまったという結果だけだ。

 

 

「ごめんなさい。あの──」

 

 彼女が見えなくなった後でなのはが話しかけてきたが、ウィルはそれを遮った。

 

「いや、気にしなくていいよ。今回は俺のミスだ」

 

 笑顔でそういいながらも、ウィルは己の失策を悔いていた。

 

 撃たなかったなのはを責める気持ちはない。

 いくら覚悟があっても、なのはは最近まで魔法の力を持たないただの女の子で、今も精神的に何かが変わったわけではない。非殺傷設定とはいえ、いきなり人を撃てと言われても撃てるものではない。その相手が自分と同じような年齢の子供ならなおさらだ。

 それなのに、なのはの能力だけを見て、戦いに利用しようとしてしまった。

 

(俺一人でなんとかするしかないな)

 

 ウィルはF4Wを腕輪に戻すと、ネックレス──待機状態のハイロゥにそっと触れた。

 これが使えるようになれば、一人でもあの子と戦うことができるだろう。

 

 

 

 

 

 翌日の早朝、ノエルは森の中を歩いていた。昇り始めたばかりの太陽の光が、木々の葉の隙間から漏れだし、まぶしくて思わず目を細める。

 昨日の昼、自らの主の月村忍と、彼女の恋人の高町恭也。彼らと共にいた部屋の窓から、森に何か大きなモノがいるのが見えた──ような気がした。見えたのは一瞬で、それからは何も見えなかったが、それでも何となく気になってしまい朝の散歩を兼ねてその辺りの様子を見に来てしまった。

 

「あら……これは」

 

 彼女は切り倒された木々を見つける。その切断面は、非常に鮮やかなもので、どんな道具を使えばこんなに見事に切れるのだろうか皆目見当がつかない。しかも、木に登らなければ切れないような場所が切られていたり、幹が真っ二つにされているものもあった。

 彼女が、この場で何があったのかを正確に推察はできない。だが、彼女は自らの主に見たことを伝えるために、屋敷に戻った。

 



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湯煙温泉旅慕情

 山道を進む三台の車の中は、それぞれ旅行への期待で活気に満ちていた。

 参加者は高町家と月村家、そしてアリサとはやてとウィルの総勢十三名、内一名はフェレットの大所帯。道中は期待に胸ふくらませ話はずむかと思いきや、三人ばかり車中でぐっすりと眠っている者たちがいた。なのはとユーノ、そしてウィルだ。

 

 事の発端は数日前。

 ウィルとユーノはいつものように日中のジュエルシードの捜索を終えて八神家に戻ってきた。

 フェレット状態のユーノは高町家のペット扱いなので、なのはがいない時に勝手に捜索のために外出するのは難しい。そのため動物を飼ってみたかったというはやてのもとにたびたびユーノを預け、なのはが学校に行っている間の世話を担当してもらっているという建前をとっていた。

 八神家のリビングでは、学校を終えたなのはがはやてと一緒に二人の帰りを待っていた。いつも通りユーノを迎えに来ただけかと思っていたところ、なのはが次の連休を使った温泉旅行の話を切り出した。

 

「いいね。はやても行きたいだろ」

「うん! でもええんかな……みんなとは会ったばかりやのに、こんなにお世話になって」

「もちろん!」と首を縦にふるなのは。

「俺もそれだけの大所帯なら、安心してはやてを任せられる。留守は任せていってらっしゃい」

 

 その言葉が予想外だったようで、なのはがきょとんとした表情で問いかける。

 

「ウィルさんは行かないの?」

「行かないよ。その間に街でジュエルシードが発動したら、誰かが対処しないといけないから」

「あ! そ、そっか……それじゃあ、わたしも行くの、やめようかな……」

 

 なのはは一瞬愕然とした表情になるが、それでもジュエルシードを優先させようとする。

 

「気を使う必要はないって。俺一人いれば大丈夫。なのはちゃんが行かないってなると、ご家族も残念がるし、不審に思われかねない」

「でも、ウィルさんだけ残して行くのは──」

「そうですよ」

 

 いつの間にか人間形態に戻り、これまたいつの間にか八神家に置かれるようになった専用のマグカップに自分でコーヒーを入れて飲む程度には場に慣れたユーノが話に加わる。

 

「旅館は山にあるので自動車では時間がかかりますけど、直線距離はそれほどでもありませんから、空を飛べばすぐに駆け付けることもできます。大樹のような規模でジュエルシードが活性化した場合、旅館に居ても気付くことができるはずです。それに、最近はジュエルシードも見つかっていませんから、なのはもウィルさんも、たまにはジュエルシードのことを忘れて休んでも良いと思いますよ」

「私も泊まりでウィルさんを残していくっていうのは、ちょっとなぁ。……一緒に行かへん?」

 

 ユーノの支援に、はやてのおねだり。そして再びユーノがたたみかけるよう。

 

「ウィルさんはなのはの監督責任があるでしょう? 旅行先でジュエルシードが見つかって、なのはが対処する、という事態になるかもしれません。単にジュエルシードだけならなのはでも大丈夫ですけど……」

 

 ユーノはその先を濁すが、先日出会ったあの少女──ジュエルシードの探索者のことを言っているのはあきらかだった。なのはとユーノだけで彼女と相対するのはあまりに危険だ。

 

「わかった、行かせてもらうよ。その代わりに前日の捜索は念入りにしよう。ユーノ君、手伝ってくれるかい?」

 

 うなずくユーノ。なのはも横で「わたしも手伝います!」と立ちあがった。

 そして、ユーノとウィルは前日にいつも以上に念入りに捜索をおこなった。昼だけではなく夜中もだ。なのはも夜の方はこっそりと家を抜け出して二人を手伝い、代償として三人は寝不足になった。

 

 

 

 一行が宿泊する温泉宿は、海鳴を囲む山々の中でも、ひときわ大きな山の中腹にある。秋に木々の葉が紅葉する頃は県外からも大勢の客が来るらしいが、連休とはいえ四月も半ばのこの時期では、訪れる者は海鳴の住人が多い。

 人気の喫茶店を経営している高町夫妻は顔が広く、他の客の中には面識のある者も多い。人とすれ違うたびに一言二言挨拶を交わし歩みが止まってしまう有様で、一行はひとまず彼らをおいて先に部屋に向かった。

 荷物を下ろし各自が宿に備え付けている浴衣を手にとって、さっそく温泉へと向かう。

 途中で追いついた高町夫妻と合流。皆で浴場の入り口まで来て、男女にわかれて入ろうとしたところで問題が発生した。

 

「さあユーノ! 一緒に入るわよ」

 

 アリサがそう言いながら、ユーノの体をむんずと掴む。ユーノはその手から逃れようと身をくねらせるが、いかんせんその体は小動物。幼いとはいえ人間の力には対抗できない。

 

「ア、アリサちゃん……それは止めた方がいいんじゃないかなぁ」

 

 ユーノが人間であると知っているなのはが、やんわりと止めようとする。同年代の男の子と風呂に入るのは恥ずかしいようだ。はやても心なしか顔を赤くしているように見える。

 

「何でよ」

「ほら、ユーノ君って男の子だし」

「フェレットが雄でも雌でも気にしないわよ」

「……雄じゃなくて、男の子なの」

「なに意味のわからないこと言ってるのよ。ほらユーノ、行くわよ」

 

 理由を示せない説得に効果はなく、なのはの言葉はあっさりと却下された。

 諦めるなのは、困るユーノ。ユーノは一縷の望みをかけて、ウィルに念話を送った。

 

『ウィルさんも見てないで助けてくださいよ!』

『本当に助けて良いの? 今は嫌かもしれないけど、将来的には良い思い出になるかもしれないよ?』

『将来の前に明日からどんな顔してなのはと顔合わせればいいのかわからなくなりますよ!』

『仕方ないなぁ』

 

 ウィルは女湯の暖簾をくぐりかけていたアリサの手からユーノをつまみ上げ、自分の頭にのせた。

 

「あ! ちょっと、何するんですか!?」

「残念だけどユーノ君はいただいていくよ。ただでさえ男湯の方は人が少ないんだ、賑やかしは少しでも多い方がいいからさ」

 

 女性陣からのブーイングを受けつつ、ウィルは男湯に入っていく。正しい行動をとったのに誰にも理解されない。そんな正義の悲哀をなのはは学んだかもしれない。

 

 

 男性陣三人とユーノの他には誰もいない男湯。

 残念ながら動物は湯船に入れてはいけないようで、そのあたりに置いてあった桶に湯を汲み、その中にユーノを浸けておく。湯舟はダメでも風呂場までなら入れて良いというあたり、この旅館も懐が広い。

 念話で調子を聞いてみたところ、それでも十分に気持ちが良いようで、時折うとうとと桶の淵にもたれかかって目を瞑っていた。こっそり湯を増量して溺れかけさせたところ、反撃で噛みつかれた。

 

 そのうち、サウナを知らないというウィルに一度体験させてみようということで、ユーノを放置して三人でサウナに。サウナとは、汗をかくことで体内の老廃物を外に排出するという効果以外にも、古来より我慢大会のための場として使われていたらしい──というわけで勝負だ、初心者相手にそれはひどくないですか──などといったやりとりの後、三人は並んで座りこむ。

 

「ウィル君は、なかなか良い身体つきをしているね。何かスポーツをしていたのかい?」

 

 なのはの父親の士郎がウィルに問いかけるが、ウィルはサッカーと野球くらいしか、この世界のスポーツの名前を知らない。つっこまれて聞かれても答えられない。

 

「ええ。空を飛ぶ系を少し」

「と言うとハングライダーとか、そういったものか。それにしても随分鍛えているんだね。傷も結構あるようだ」

「見た目より厳しいんですよ、あれ。でも、士郎さんと恭也さんの方がずっと良い身体をしていますよ。特に士郎さんなんて歴戦の勇士って感じで」

「ああ、この傷はちょっと──」

「いいえ、聞くつもりはありませんよ、むしろ頼まれても聞きません」

「いや……そこまでのものじゃないよ」

 

 士郎は大柄な体格で、背もウィルや恭也と比べても頭一つ抜けている。相当鍛えているであろうと服の上からでも想像がついたが、こうして見る裸体はその想像を軽々と吹き飛ばすものだった。全身は傷だらけ、刃傷、火傷、銃創、ありとあらゆる傷とその治療痕が残っていた。人に歴史ありというが、その歴史は気になるものの、怖くて聞きたくない気持ちの方が勝る。

 一方、恭也は体格自体は士郎に劣るが、引きしまっていて無駄がない。服の上からでは一般人と変わらなく見えるところなどもウィルと似ているが、密度は恭也の方がさらに上だ。

 二人とも、しっとりと汗をかいているその姿には妙な色気があるが、ウィルにとってはこの熱さの中だというのに、しっとりとしか汗をかいてない二人の身体構造の方が気になって仕方がない。

 

「そういえば、女湯って覗けないんですかね」

 

 サウナ内の体感温度が急激に低下する。それぞれの恋人と伴侶のいる女湯を覗けないか、というこの言動は自ら死地に踏み込む愚者のそれだが、その発言の衝撃で二人の質問から方向がそれた。

 ちなみに反応はというと、気にせずに笑っている士郎と、さすがに憮然としている恭也と対照的だ。

 

「そういえば、この温泉には混浴があるから、そっちに行ったら良いんじゃないかな」士郎が提案する。

「いいですね。そろそろ熱さも限界ですから、ちょっと行ってきます」

「サウナを出たら、まずはゆっくりと体に水をかけるんだよ」

「混浴に行っても、今の時間だと誰もいないんじゃないか?」

 

 二人の声を背に受けながら、ウィルは男湯を出て行った。それを確認してから、士郎が苦笑とともにつぶやく。

 

「わかりやすく逃げたな。少し性急すぎたか」

「なら、引き止めた方が良かったか」

「あまりしつこく尋ねては逆効果になるだけだぞ」

「だが、あの鍛え方はとても一般人とは思えない。傷跡もそうだ」

 

 恭也が指摘した通り、ウィルもまた一般人とは思えないほどに鍛えられている。斬った張ったの立ち回りばかりが多い近接魔導師は体が資本だ。当然、傷も多くなる。

 管理局の医療技術であれば望めばたいていの傷痕は消すことができるが、ウィルはよほど酷いもの以外は消していない。小さな傷をいちいち気にしていてはきりがないし、お金だってかかる。

 そしてこの場にいる二人は、事故の傷と戦闘で負った傷の区別くらい一目でわかる。

 

「とはいえ、悪い子でもなさそうだ。忍ちゃんや恭也が気にする気持ちもわかるが、あまり心配する必要はないと思うんだがなぁ」

「忍のことだけじゃない。父さんもなのはの様子が最近変なのは知っているだろ。ウィルに出会った頃からは特にだ」

 

 最近のなのはは帰りが遅く、なかなか家に帰って来ない。そして、街で何をするでもなく一人でぼうっとしていたり、ウィルと思われる人物と一緒にいたという目撃情報を聞いている。いつからかと言えば、大樹が街中に現れた日、そしてなのはがウィルとはやてに出会った日からだ。

 人気の喫茶店の情報収集能力は馬鹿にならない。高町家が本気になれば、この街に住んでいる者の情報程度ならあっという間に知ることができる。家族であるなのはの行動などは、常連のご婦人などが目撃情報を勝手に話してくれるので調べるまでもなく手に入る。

 

「今のところ街をうろうろとしているだけで、悪いことをしている様子はないんだろう? 門限を破ったわけではないのだから、放っておきなさい。単に二人が付き合っているだけだったらどうする」

「それはないだろう。年齢が離れている」

「といっても五つかそこらだろう? あの年頃の女の子なら、年上に興味を持つということもあるんじゃないか?」

 

 冗談のつもりで言った士朗の言葉に、恭也が真顔になる。そのまますっと立ち上がり、出口へ向かう。

 

「……それも含めて、もう少し問い詰めてくる」

「そういうことに怒るのは、昔から父親の役目だと相場が決まっているんだが……まあ、ほどほどにな」

 

 と、意気込んで混浴の前までやってきた恭也だったが、いざ混浴の扉の前に来ると躊躇が勝りだした。ウィルは本当にこの中にいるのだろうか。もう出たかもしれないし、そもそも来ていないかもしれない。

 入って確認すればすぐにわかることだが、混浴を確認したことが恋人の忍に発覚すれば、恭也はこの旅行の間ずっと機嫌の悪い忍と一緒に過ごさなくてはならない。

 入口前でうろうろと迷う不審人物になりかけていたところ、突然混浴から大きな悲鳴が聞こえた。

 

 

 

 混浴は露天風呂になっていた。誰もいなかったが、質問から逃げることが目的だったウィルはたいして気にしない。温泉の湯は先ほどの男湯と同じ成分であったが、立ち上る温かな湯煙が、時折ひょうと吹く涼しい風を受けて、ゆらりとゆらめく光景は見ているだけでも面白い。

 垣根を越えて風呂に浸入している樹の枝の葉が、陽光を受けて輝く様や、その葉がこすれあう音なども乙なものだ。乙という言葉が何を意味しているのか、ウィルはよくわかっていないが。

 今までは風呂に入る時には何かをしながら、ということが多かったが、なかなかどうして、このように何もせずにいるというのも良いものだ。露天風呂の存在を聞いた時は、なぜわざわざ屋外に風呂を設置するのかと疑問に思ったが、これはこれで悪くない。

 

「わびさびだなぁ……違うか?」

 

 ところが先ほどまでなれないサウナにこもっていて体温が上がっていたせいか、すぐにのぼせてしまった。

 これはまずいと風呂から出ようとしたところ、入口からガラガラと引き戸が開かれる音が聞こえてきた。

 

 現れたのは美しい女性だった。ウィルよりも明るい赤髪を無造作に腰元まで伸ばしているが、手入れを怠ってはいないらしく、髪にはもぎたての林檎のような艶がある。

 タオルを巻いてはいるものの、一枚の布切れ程度ではどうしてもその張りつめた胸元や腰の形を隠せるわけもなく、むしろ湯煙でかすかに湿ったタオルが、体の輪郭をより鮮明に現わしている。

 それでも艶めかしさをあまり感じないのは、本人の気質によるものだろうか。目や表情がいたずらをたくらむ悪童のようで、どこか大人の女性という感じがしない。だからといって美人であるということに変わりはないのだが。

 

「ハァーイ」

 

 美女は親しげに声をかけてきた。

 こんな状況でなければ共に湯船につかりながら話を楽しめたのに、と残念に思いながらも、のぼせかけた状態で長居はできない。ウィルはただ挨拶を返すだけにとどめ、脱衣場に向かおうとする。

 

「あんたが管理局の魔導師かい?」

 

 すれ違いざまにかけられたその一言で思わず足が止まり、弛緩していた空気が一変する。

 

「黒いマントの女の子のお知り合いですか?」

「あの子が世話になったみたいだから、お礼くらいしておこうと思ってね」

「管理局の者として当然のことをしただけですよ。収賄になるのでお礼は受け取れません」

「まぁまぁそう言わずにさ」

 

 軽口をたたき合いながらも、ウィルの方には若干の焦り。デバイスは身につけているものの(脱衣所に置いて盗まれました、ということになればあまりにも情けない)、のぼせた頭で実力不明の相手と戦うのは避けたい。

 とはいえ結界も張っていないところをみると、向こうもこんなところで本気で戦うつもりはないのだろう。何かきっかけがあれば引くはずだ。

 そう考えると、少し余裕も出てきて、ひやりとさせられた仕返しをしてやろうという茶目っ気もわいてくる。

 

「こっちも何もするつもりはないよ。でも、ジュエルシードから手を引かないっていうなら無理にでもお礼を受け取ってもらわないとねえ」

 

 じりじりと緊張感が高まる。二人とも自然とその場で構えをとる。ウィルはどっしりとその場に根を張るように。対して美女は飛びかかる獣のように。

 先に動いたのは美女の方だった。しかし、この濡れた足場では素早く踏み込めない。したがってその動作には十分に対応できる。問題はこちらも同様に足場が悪いこと。戦うのはよろしくない──ならば。

 ウィルは、その場に尻もちをつくようにして攻撃を避ける。美女は尻もちをついたウィルに掴みかかろうとするが、それより先にウィルの方からも美女の手を握り、大声をあげた。

 

「キャ──!! 誰かァ──!!」

 

 悲鳴が響き渡る。美女は突然のことに困惑して硬直する。

 

「どうした!!」

 

 悲鳴を聞きつけ、ガラガラっと戸を開けて入ってきたのは恭也だった。タオル一枚の女性に一瞬たじろぐが、極力見ないようにしながら駆けよってくる。少し遅れて従業員らしき女性もやってきて、ウィルはその二人に訴えかけた。

 

「こ、この女の人が急に襲いかかってきたんです! 今もぼくを組み敷こうと──」

 

 その言葉に女性の方を見る二人。恭也は見てすぐに目をそらしたが。

 たしかに状況だけ見れば、女の側が腰をぬかしたウィルに襲いかかって組み敷こうとしているように見える。

 周囲からどのような目で見られているかに気付いた女性は、慌てて弁明する。

 

「ち、違うっ!別にそういう意味で襲おうなんて──」

「いまさら言い逃れようっていうの!?」

 

 煽るウィル。こめかみをひくつかせる女性。

 

「こ、困りますよ、お客さん」

 

 従業員が慌てて女性を制止しようと割って入ってくる。

 

「いや……あたしは──くそっ、覚えときな!」

 

 女性は逃げるようにして脱衣所に走って消えた。

 

 

 浴場から出て部屋に戻ると、なのはが念話で話しかけてきた。

 

『さっきお風呂から出た時に、女の人が話しかけてきたんです! それで、念話でわたしたちに注意、っていうか警告してきたんですけど、ウィルさんの方は大丈夫ですか!?』

『俺も出会ったよ。こっちも警告だけだったから大丈夫。でも──』

『あ、鼻血が出てますよ。のぼせたんですか?』

『ごめん、ティッシュ貸して……うん、そういうことにしといて』

 

 

 

 

「良い風だねー」

「そうですねー」

 

 人気のない夜の森。木々の間にある小道は、月明かりに照らし出され白く浮かび上がっていた。足元の砂利を踏みしめながら、ウィルとユーノは小道を進む。

 

「もう旅館から離れたし、ユーノ君ももとに戻ったらどう?」

「じゃあ、そうしましょうか」

 

 ウィルの肩に乗っていたユーノは、ぴょんと飛び降りて人間の姿に戻る。二人で連れ合いながら、森の小道を歩きだす。

 

 夕食の後で、ウィルとユーノは一緒に外に出た。他の面子には夜風を楽しんでくると言ったが、その目的は偵察だ。

 風呂場で出会った美女がウィルたちを追ってきたのか、それとも偶然なのかはわからない。どちらにしても、単にくつろぎに来たわけではないだろう。目的がジュエルシードの捜索だとすれば、こちらも負けてはいられない。

 なのはは自分も手伝うと言っていたが「家族や友人に怪しまれると今後が大変だ。何かあったら呼ぶから心配しないで」と言うウィルの言葉を受け、旅館に残った。いきなり襲いかからずに、事前に警告してきたくらいだから、捜索に参加しないなのはを最初に襲うということはないはずだ。

 一緒に歩く中、ユーノがぽつりぽつりと話し始める。

 

「僕は、最初は自分一人でジュエルシードの捜索をするつもりでした。それなのに、いつの間にかなのはを巻き込んでしまいました」

「悪い面ばかりみても仕方がないよ。なのはちゃんがいなければ、あの大樹の解決に時間がかかって被害が拡大していた」

「それはもういいんです。いえ、いいって言うのとは少し違うんですけど……もうどうにもならないことを悔やんで落ち込み続けるよりも、これからのことを考えるべきだと思い直しました」

「かわいい顔に似合わず、ユーノ君は意外とタフだね」

 

 頭をぐりぐりとなでると、ユーノは身をよじってウィルの手から逃れた。

 

「かわいいなんて言われても嬉しくないです。それにタフでないとスクライアではやっていけません」

「自然の中で生きてる人たちは強いな。都会育ちの俺は、なかなかその辺が割り切れなくて……で、なんの話だっけ?」

 

 ユーノはあきれたような視線でウィルを見る。しかし、すぐに真剣な顔で語り始めた。

 

「巻き込んだ僕が言えたことではありませんけど、なのははこの事件から手を引いた方が良いと思うんです。先日の金髪の女の子に、今日の赤い髪の女の人。女の人の方の実力はまだわかりませんが、女の子の方は凄腕の魔導師でした。だから──」

「戦いになって怪我でもする前に、なのはちゃんにはジュエルシードの捜索から手を引いてもらいたい、と」

 

 ユーノはうなずく。月明かりに照らされたユーノの横顔にはなのはへの心配。

 

「どうするかな……あの少女とは一対一で戦ったとしても確実に勝てる相手じゃない。そこにあの女性も加わっての二対一になったらほぼ確実に負けだ」

「なら、分担しませんか。僕が女の人と戦いますから、ウィルさんは女の子との戦いに専念してください」

「良いの? 一人で戦うとなると危険だよ。それに向こうの力もまだ未知数だ」

「大丈夫ですよ。あの女の子ほど強力な魔導師がごろごろしていることはないでしょうし、こう見えても、僕はAランクの魔導師ですからね」

 

 ユーノのその言葉は、ウィルを納得させるためのはったりに過ぎない。

 魔導師ランクといっても、ウィルの魔導師ランクとユーノの魔導師ランクはまったくの別物だ。

 ユーノの魔導師ランクは魔法の構築能力や使用可能魔法数といった、純粋に魔導師としての能力を評価されたもの。

 一方、管理局の戦闘部隊に配属されているウィルのランクは戦闘能力を前提として評価されたもので、両者はまったくの別種だ。魔導師ランクと呼ばれてはいるが厳密には名称も異なる。

 そのため、ユーノがどれほど戦えるのかははっきりとわからない。ユーノが修得している魔法は、防御や結界に関係するものが多いので、時間稼ぎという観点ではウィルよりも適任かもしれない。が、やはり戦闘訓練を積んでいないというのは不安だ。

 ウィルはそれをふまえた上で考え、結局そのはったりに騙されることにした。女の子を守りたいという男の子の心意気は無下にし難い。

 とはいえ、それはあくまでも戦闘に関しての話。

 

「わかった、頼りにさせてもらうよ。なのはちゃんに危険な目にあってほしくないのは、俺も変わらない。ただ、ジュエルシードの捜索には協力してもらった方が良いと思う」

「たしかになのはの手助けがあれば効率は上がりますけど、その分僕が──」

「効率だけじゃないんだ。なのはちゃんと初めて会った時、街が破壊されたのを結構気にしてたでしょ? あれから何の成果もないままもう手伝わなくて良いよって突き放すのは、あの子にとっても良くない気がする」

 

 思うところもあったのだろう。ユーノも悩ましげに頭を振る。

 

「たしかにそうかもしれません。でも、なのはが責任感を負う必要なんてどこにもないのに……」

 

 ウィルはそんなユーノに苦笑する。責任を負わなくて良いのはユーノも同じだ。

 それでも自分には何かできるはずだ、何かしなければならないと思い、できなかった時に自分を責めてしまう。それは彼らが善良な人間の証なのだろう、と。自分もその内の一人であることに気付かないまま。

 

 

 ジュエルシードの気配を感知したのはその数分後。二人はなのはには伝えずに現場に向かった。

 ただ、旅館にいるなのはも同様に、ジュエルシードの気配を感知していた。

 



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光輪

 二人が駆け付けた先には小さな橋があった。

 その下の河原が淡く光っているのは、水面が月光を反射しているからではなく、わずかに活性化するジュエルシードの魔力光が周囲をほのかに照らしているから。

 欄干の上には金髪の少女が、そして橋の真中には風呂で出会った女性が立っていた。

 

「おや、昼間の。奇遇ですね」

「ほんっと奇遇だね。ちょうど一回噛まなきゃ気がすまないと思ってたところだよ! 警告を無視したんだ! 痛い目にあってもらうよ!」

 

 ウィルたちに向かって吼えると、女性の髪が揺らめき重力に逆らい天を衝く。そのまま身をかがめると、その姿は赤毛の狼へと変貌した。ユーノのように変身魔法を行使するのとはまるで逆。人間の姿から獣の姿に戻ったのだ。

 

「使い魔かっ!」

 

 使い魔は、死んだ生物の肉体を素体として造りだされた魔導生命体だ。目の前の女性は、金髪の少女によって狼を素体にして造りだされたのだと推測。

 使い魔は空に響きわたる咆哮をあげ、それを開戦の号砲としてウィルに跳びかかった。が、ユーノがウィルの前に進み出て、シールドを展開して使い魔の攻撃を防いだ。さらに間髪いれず相手の足にチェーンバインドを放つが、使い魔は空中で体をねじって回避。

 

「邪魔するなら、あんたからぶっ飛ばすよ!」

「使い魔の方は僕に任せてください!」

 

 ユーノは使い魔の恫喝を受けながらも、ウィルに向かって言った。同時に周囲一帯を覆う結界を張り、人目を気にせずに戦える場を作り出す。

 ウィルはユーノの実力と意志を信じ、自らは少女に向き直り夜空へと飛び上がる。

 

「バルディッシュ、セットアップ」

『Yes, sir. Set up.』

 

 少女はその身を黒いバリアジャケットで包み、その手にデバイス──バルディッシュを握りしめた。

 

「F4W、ハイロゥ、セットアップ」

 

 右手に剣、両脚に銀色のブーツ、白地に青の縁取りをしたロングコート状のバリアジャケットに身を包み、ウィルは少女に語りかける。

 

「投降してくれないかな。得物を見ればわかるかもしれないけど、俺の使う魔法は近代とはいえベルカ式だ。非殺傷設定が効きにくい」

 

 非殺傷設定とは、物質には影響せず、魔力に関するモノにのみ影響を与える技術のことだ。この技術を応用すれば、相手の肉体を損傷させずリンカーコアに蓄積した魔力に働きかけて、リンカーコアの蓄積機能に干渉して相手の魔力のみを削ることが可能となる。

 ミッド式は魔力の運用を得意とするため、非殺傷設定に非常に適している。

 反面、ベルカ式は魔力による物質の強化を得意とするため、物質的な武器であるアームドデバイスと相性が良いが、非殺傷設定とは相性が悪い。

 ウィルは純粋なベルカ式である『古代ベルカ式』の使い手ではなく、ミッド式によってエミュレートした『近代ベルカ式』と呼ばれる魔法体系の使い手だ。近代ベルカ式は元はミッド式のため、古代ベルカ式に比べれば非殺傷をおこないやすい。それでも、F4Wという実体剣を使った攻撃では、どうしても物理的なダメージを避けることはできない。

 

「きみに勝とうと思ったら、俺も手を抜くことはできない。そうなれば万が一ということもある。取り返しのつかないことになってからじゃ遅い。……重ねて言うよ、投降してください」

「引けません。これがあの人の望みだから」

 

 少女は首を横に振りながら最後通告を蹴った。

 

「そう……本当に、残念だ」

 

 二人は弾かれたように加速し、互いが互いへと最短経路をとって突撃する。両者ともに微塵も速度を落とすことなく、すれ違いざまに剣を、鎌を、振るう。

 衝突。

 二つのものがぶつかりあった時に押し勝つのは、より重い方、より速い方。つまりは、よりエネルギー量が大きい方であり、魔導師にとってのエネルギーとは、魔法の構築技能によほどの差がない限りは魔法につぎ込んだ魔力が多い方だ。

 魔力量は少女の方が上。したがって、押し勝ったのは少女で、押し負けたのはウィル。はじかれたウィルは、再加速しながら体勢をたてなおすが、その隙に少女はウィルの背後をとっていた。少女はウィルを後ろから追跡しながら魔力弾を放つ。

 ウィルは旋回し続けることで、少女に的を絞らせないようにする。飛行しながらF4Wを肩に担ぐように構え、切っ先を後方に向ける。そのまま魔力弾を連続して発射。ろくに目視もできない後方の相手に当たるわけがないが、こうでもして動きを鈍らせなければ、少女の方が魔力が多い──速い以上、すぐに追いつかれて後ろから切られてしまう。

 

『Blitz Action』

 

 ウィルの後方射撃の隙をついて、少女が高速移動魔法を行使。一気に加速する。

 しかし、それはウィルが待ち望んでいた行動でもあった。

 少女が加速するその瞬間に、ウィルはバリアジャケットの一部を限定的に解除し、体を進行方向に垂直に起こす。空気抵抗を低減させるバリアジャケットがなくなれば、空気が持つ本来の抵抗力が体に襲いかかる。

 自らの加速にタイミングを合わせて減速をされたことで、少女はタイミングをずらされ、本来予定していたよりもずっと早くウィルを追い越してしまう。ウィルはバリアジャケットを再構成しながら姿勢を制御し、少女の後ろにつく。二人の位置関係は先ほどとは逆転していた。

 空気抵抗を利用した過失速(ディープストール)、姿勢制御とバリアジャケット再構築による回復を連続しておこなう空戦機動(マニューバ)だ。

 

 予定が狂わされたにも関わらず、少女に焦りはない。位置関係は逆転したが、ウィルは失速──エネルギーを失っている。少女が再度高速移動魔法を行使できるようになるまでは数秒のタイムラグがあるが、もとの速度と機動力で上回っているので、このまま後方のウィルを振り切るのは容易だ。

 振り切るという行為は相手との間に距離をとることと同じなので、その間に大規模な射撃魔法を構築される危険性はある。しかし、少女は以前の戦いでウィルが射撃魔法があまり得意ではないことを理解していた。

 

 が、そう考えて油断するところまでが事前の想定通り。その隙をついてウィルは動く。

 

「ハイロゥ、ブースト」

 

 脚部を覆うハイロゥが吸入口を広げ、周囲の空気が内部へと吸い込まれる。即座に圧縮されたそれらは、デバイスが持つ量子化による物体の保存機能によってデバイス内部に保存される。

 同時にハイロゥの魔導回路を魔力が通る。魔力コンデンサに蓄えられ、ウィルの持つ魔力変換資質によって、微塵のエネルギーロスもなく指向性を持った純粋な運動エネルギーに変換される。

 内部に保存された圧縮空気に生成したエネルギーを与え、収納を解除。解き放たれた圧縮空気は、ハイロゥのノズルから一気に噴出する。

 反作用でウィルの体は、足とは反対方向、すなわち正面に向かって加速する。爆発的な加速力を得た体は飛行魔法のみでおこなわれる飛行の限界を突破した。

 

 ウィルを中心に円状の空気の層が現れる。月の光を受けて薄く輝く天使の光輪(エンジェルハイロゥ)

 その実態は衝撃波──物体が音速を超えた時に発生するソニックブームだ。

 

 ウィルと少女の相対速度は、即座にマイナスからゼロへ、そしてプラスへと移り変わる。少女の背中がF4Wの剣の間合いに入る直前、ウィルはF4Wを振りかぶった。

 少女のデバイスが短く声を上げ、注意を喚起する。振り返った少女の瞳には、今にも剣を振り下さんとするウィルの姿。少女は姿勢を反転させ、デバイスでF4Wの刀身を受け止めるが、咄嗟の対応のため姿勢制御もろくにできない。勢いを殺せず下方に向けて吹き飛ばされる。

 この機を逃すつもりがないウィルは、すぐさま追いかける。少女は姿勢を立て直しながら、迫るウィルに牽制のための魔力弾を放つ。

 ウィルは姿勢を縦横無尽に変えながら少女に迫る。足の向きや位置を変えて空気を噴出させることで、様々な方向へと瞬時に加速できる。ハイロゥのノズルが足にあるからこそできるこの技は、かつて友人に「空を蹴っているようだ」と評された芸当だ。

 単に加速に使うだけであれば、多少不恰好ではあるが、背中に背負った方が安定する。足では、微細なずれが飛行姿勢に大きく影響してしまう。その不安定さこそがハイロゥの、そしてウィルの武器。

 

 少女は再度高速移動に移る。今のウィルに対して、牽制で撃てる程度の魔力弾では意味をなさない。何がなんでも距離をとって、射撃戦に移る必要がある。

 ウィルは逃がさないよう追い続ける。少女の高速移動の方が加速力では優れているため、行使してすぐは距離をあけることができるが、ウィルのハイロゥは連続して加速ができるため、総合的にはウィルの方が速い。

 迫るウィルに先んじて、少女がデバイスをふるう。距離をとることが不可能と判断し、高機動での接近戦に挑むつもりだ。が、その戦い方はウィルの土俵だ。

 速度を調整してわずかに間合いに入るタイミングをずらすことで、少女の鎌をいなし、直後に振るわれたF4Wが少女の左肩口に打ち込まれる。

 手ごたえあり。少女は左手をデバイスから離す。衝撃と痛みでしばらくはデバイスを握れないだろう。

 

 飛行軌道の先読み、状況に応じてのマニューバ、間合いの取り方、飛行ベクトルを利用した武器の使い方。全てウィルの得意分野だ。

 ウィルは射撃をはじめとするその他の魔法を差し置いてでも、近接空戦を鍛えてきた。いびつな成長だが、いびつ故に限定的な状況に持ちこみさえすれば、総合力で自らを上回る相手にも勝てる。

 

 再度後方から少女を追いかける。

 その瞬間、少女がバリアジャケットを解除した。

 

 少女がとった空戦機動は、先ほどウィルがやってみせたマニューバ。エアブレーキを利用した大幅な減速だ。

 近接戦を求めるなら、推力でウィルを下回る少女がそれを使用してもあまり意味はないが、距離をとりたい──射撃戦をしたいのであれば、十分有効な手段だ。ウィルが切り返すまでに射撃魔法の一つや二つを構築する時間は得られる。近接戦はウィルの方に分があると認め、すぐに射撃戦に持ち込もうとする切り替えの早さに舌を巻く。

 だから、ウィルもまたバリアジャケットを解除し、減速。同種のマニューバをぶつけた。

 

 空気抵抗によって減速するこのマニューバは、使用者によって限界が存在する。

 バリアジャケットは超音速の飛行にさえ耐えるほどの耐G能力、慣性制御を有しており、それを完全に解除してしまうと、襲いかかる空気抵抗とGに体が耐えられない。したがって、バリアジャケットの解除は飛行状況に応じて限定的にしなければならない。

 その解除量が少なければ、空気抵抗が小さく減速は不十分になる。逆に解除量が多ければ、空気抵抗が大きすぎて負荷に体が耐えられない。その度合を見極めるためには、事前に幾度もの練習を積んでいなければならない。

 そして、どれだけ解除できるか──どれだけの負荷に耐えられるかは、天性の耐G能力という才能的なものを除けば、身体的なスペックに依存する。すなわち、肉体強化に優れたベルカ式の使い手であり、なおかつ少女よりも大柄で筋肉量の多いウィルの方が、より多くの負荷に耐えられ、より大きく減速ができる。

 

 再度バリアジャケットを構築し、体勢を整えようとする少女の眼前にウィルが現れる。少女以上の減速によって距離をつめ、慌てて鎌を振るおうとする少女よりも、ウィルが振り下した剣が少女の体を打ち据える方が早かった。

 

 吹き飛ばされた少女の体は、放物線を描きながら落下しかける。

 落ちる前に助けようと、ウィルは落下する少女に近寄ろうとするが、その前に少女は自力で空中に留まった。先ほどの一撃は魔力ダメージを多く与えるように威力を調節したが、それでも物理的なダメージがなくなったわけではない。あのようにか弱い少女の肉体なら骨にひびが入っていてもおかしくはないほどだ。

 それを受けてなお、少女は戦う気力を失っていない。何が彼女をここまで突き動かすのか。

 

「ア、ルカス……クルタス……」

 

 少女の口元が言葉を紡ぎ始めていた。対話のための言葉ではなく、魔法のための言葉。詠唱魔法──魔法の構築プログラムに、音の連なりという新たなパラメータを加えることで、さらに複雑な魔法を構築するという技法だ。

 詠唱魔法には時間がかかるという欠点がある。もう一度F4Wで切る必要もない。非殺傷設定の魔力弾で簡単に倒せる。

 だから、ウィルは少女にめがけて魔力弾を放った。

 

 はたしてそれは命中した。少女にではなく、その射線上に踊り込んできたなのはに、だが。

 

「は?────」

 

 突然の乱入者に動揺。しかし、なぜ? どうして? といった理由に関する思考を放棄し、状況のみに限定して思考を巡らせる。

 なのはの魔力量は高く、その高い魔力によって構築されるバリアジャケットはユーノが防御性能を重視するように構築プログラムに手を加えたため、ウィルの魔力弾が少し当たったくらいでは貫通しないほどに堅牢だ。

 問題ない──次は弾数を増やして確実に少女に当てる。それだけの猶予はまだある。念のために魔力弾と同時にウィル自身も突撃して確実に戦闘不能にさせる。

 

 だが、その見通しの甘さをすぐに後悔することになる。

 なのはのバリアジャケットも無敵ではない。ウィルがよく使う射撃魔法スティンガーレイは、貫通力と弾速に優れた魔法だ。その魔力弾をくらったなのはは、魔力ダメージこそ負わなかったが衝撃で姿勢を崩してしまう。

 その拍子になのはの手からレイジングハートがこぼれ落ちる。

 

 レイジングハートは人工知能を搭載したデバイス──インテリジェントデバイスだ。

 デバイスそのものが自立した意識を持つインテリジェントデバイスは、所有者を様々な面で補助することができる。魔法を知って半月程度のなのはが様々な魔法を行使できるのは、魔法構築能力に天性の才能を持つというだけではなく、高性能なインテリジェントデバイスによる補助を受けているから。

 したがって、それから手を放したなのはが姿勢を制御できずに落下するのは当然の帰結。

 

 ウィルは急遽魔力弾の構築を破棄。慌ててなのはのもとに駆けつけ、空中で抱き止める。

 腕の中のなのはのバリアジャケットには傷一つない。本当に衝撃で思わず手を放してしまっただけのようで安心する。

 

「ウィルさんっ! あの──」

 

 なのはが何かを言おうとしているが、悠長に聞いている余裕はない。なのはを助けに行ったから、少女の詠唱魔法を阻止できていない。一刻も早く止めなければまずい。

 ウィルはなのはを抱えたまま、もう一度少女に魔力弾を撃とうして、斜め下から接近する存在に気が付いた。

 使い魔だ。そのさらに下方にユーノ。使い魔はユーノを振りきってウィル目がけて突っ込んできていた。

 

 なのはを抱えたままでは受け止められない。ウィルはなのは襟を掴むと、ユーノに向かって投げる。

 直後、使い魔渾身の右直突きがウィルに襲いかかり、受け止めた剣ごと吹き飛ばされる。

 

「フェイトッ! 今だよ!」

 

 使い魔の合図に応え、少女はデバイスを吹き飛ばされているウィルに向ける。少女の周囲には空に煌めく星よりも眩い星々──数十個のスフィアが浮かんでいた。

 

「フォ、トンランサー……ファランクス、シフト」

 

 吹き飛ばされながら姿勢制御。即座に回避機動をおこなおうとする──が、間に合わない。

 

「ファイアァァアアアアア!!」

 

 少女の号令と共に、スフィアからウィルめがけて魔力弾が吐き出される。

 防御魔法──シールドを展開。魔力弾を防ごうと試みるが、毎秒二百五十六発の速度で放たれる魔力弾という数の暴力の前に、一秒も持たず破られる。防ぐためにかざしたF4Wは次々と襲いかかる魔力弾の負荷に機能を停止。最後の砦のバリアジャケットもまばたきほどももたなかった。

 ウィルの意識は、金の雨に飲み込まれあっさりと消失した。

 意識を失う直前に、ユーノが魔法によってなのはを受け止めている光景が見えて、少しだけ安心した。

 

 

 

 

 

 ウィルが目を覚ました時、視界に飛び込んで来たのは天井の木目だった。障子越しの外は明るく、影の差し方から見て正午を過ぎたあたりだとわかる。

 ぺたぺたと自分の肉体を触ると、目立った外傷はなかった。安心すると同時に、戦った少女に感謝する。彼女がもし非殺傷設定をやめて物質への干渉が可能となる対物設定で戦っていれば、今頃ウィルの体は無数の弾丸に貫かれて跡形も残っていない。

 ウィルが相手を傷つけるつもりで戦い、峰打ちとはいえ二回も切りつけて痛みを与えたのに、少女は最後まで非殺傷を貫いていた。

 犯罪に手を染めてはいるが、根は良い子なんだろうと漠然と感じた。

 もっとも、非殺傷だからといって完全に無傷になるわけはなく、外傷こそないが体に蓄積されたダメージは大きい。今日一日は満足に動けないだろう。

 

 ウィルは布団に寝かされている状態から自らの上体を起こそうとするが、いつの間にそこにいたのか、浴衣姿のノエルが起き上がろうとするウィルをそっと押しとどめる。

 

「無理はなさらないでください」

「……ノエルさん、ですか? えっと、俺はどうしてここに?」

「恭也さんが、森で倒れているウィリアム様を連れて来られたのです。半日ほど眠られていたのですが──」

 

 無事にお目覚めになられたようで良かったです、と言いながら、ノエルはコップに水を入れて、ウィルに差し出す。一気に飲み干し、意識を明確にした。

 その間にノエルは携帯電話で連絡をしていた。この部屋はウィル一人を寝かせるために追加で借りたもので、みんなは本来の部屋にいるのだとか。

 

 しばらくすると、月村忍、高町士朗、恭也の三人が揃って部屋に入って来た。忍と恭也はウィルの近くに、ノエルと士朗は彼らの後ろに座る。

 そして、忍が口を開いた。

 

「目覚めたばかりで申し訳ありませんが、お聞きしたいことがあります。あなたは何者でしょうか?」

 



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話し合いの可能性

 部屋の外は明るく獅子脅しの音色が青空に響いているのに、部屋の中は重苦しく吐息の音が澱のように溜まる。

 八畳の広さを持つ和室には、五人の男女。布団から上半身を起こしたウィル。その右側に月村忍と高町恭也が並んで座り、彼らの後ろにノエルと士朗が控える。

 

 ウィルの正体を訊いてきた忍とは、あまり話したことはない。外見こそ冷たい美人といった様子だが、性格は良家の令嬢にしては庶民的で、年下に対してもほがらかに接する人であったはずだ。

 しかし、今の彼女の言葉使いはまるで初対面の人物のように丁寧で、加えて警戒に満ちたそのたたずまいは外見同様の冷たさを宿している。

 

「どうしてそんなことを聞くんですか?」

「とぼけるつもりですか」

 

 相手がどこまで知っているのかがわからない状況でうかつな返事はできない。相手の言葉を引き出すために、ウィルは迂遠な言葉を重ねる。

 

「理由と経緯がわからないと何から話せばいいのか迷ってしまいますよ。とりあえず、俺の家族のことから話せばいいですか?」

「……それでは順を追ってお話しましょうか。疑問を抱いたのは、先のお茶会の翌日です。その日の早朝に、ノエルが敷地内の森の木々が切り倒されているのを発見しました。それは普通ではありえない、大型の機械を用いない限り不可能な切り方でした。機械でもあのように綺麗な切断面が機械で作れるかどうか……。切り口は新しく、少なくとも数日以内に切られたことは確かです。森を散策していたあなたが犯人だと思ったわけではありませんが、念のためにあなたについて調べました。ですが、あなたが何のために海鳴にやってきたのかどころか、あなたが何者なのかもつかめませんでした」

 

 それは当然だ。ウィルはこの世界の人間ではない。どこをどう調べても、ウィルについてはわからないということがわかるくらいだ。

 ウィルは内心の動揺を隠しながら言い返す。

 

「木が切れていたくらいで、よくそこまで調べましたね」

「残念なことですが、月村には敵も多いのでこのような些事でも漫然と放置しておくわけにはいきません。まして超常的な力が関わっている可能性があるとなればなおさらです。それからは恭也と士朗さんにも協力してもらい、普段のあなたの行動を監視してもらいました。それでも不審なところはあっても、危険ではなかったので警戒するだけにとどめておいたのです。しかしそれも昨日までのこと」

「悪いが、昨夜は尾行させてもらった」恭也が続ける。 「夜なのに森の方へ歩いて行くのが見えて、どうにも気になったからな。何事もなければすぐに戻るつもりだったが、その散歩の途中でユーノがいきなり人間になれば驚きもする」

 

 そこから見られていたのかと驚愕する。ウィルもユーノも尾行されていることにまったく気が付かなかった。恭也には結界が張られるまでのことは一通り見られたと考えて良い。当然散策の途中の会話も聞かれているだろう。

 

「俺たちも人に知られたくないことの一つや二つ持っている。お前だけの問題であれば、ここまで強引に聞くつもりはなかった。しかし家族が関係しているとわかった以上、納得のいく説明のないまま引くことはできない」

 

 恭也から圧が発せられる。その真剣さはそれだけ家族を大切に思うことの裏返しか。

 けれどその圧力には暴力的な気配はなく、ふと、なのはたちのことが気になった。ウィルに対しての取り調べがこの程度ですんでいるなら、きっと無事に帰れたのだとは思うが。

 

「なのはちゃんとユーノ君は無事ですか?」

「大丈夫だ。特に怪我もない。お前に助けられたのだと言っていた。それについては感謝している」

「二人からは何か聞いていないのですか?」

「昨夜戦いがあったことは聞いた。だが、それ以上のことはまだだ。二人とも、自分たちではどこまで話して良いのか判断できないと言っていた」

 

 その言葉が真実であるなら、おそらくユーノが気をきかせたのだろう。管理世界のことを知られてしまえば、その者も管理局がやって来てからの事後処理に巻き込むことになってしまう。だからこそ、ユーノはどの程度まで話をするのかを、管理局の局員であるウィルに任せることにしたのだろう。

 

「お二人とも、そうけんか腰ではいけませんよ」

 

 重い空気を中和するように、ノエルの穏やかな声が響く。

 

「気を悪くなさらないでください。お二人は問い詰めるようなことをおっしゃいますが、それはなのはお嬢様を心配しているからこそで、私たちはウィリアム様に積極的に敵対する意思は持っておりません。ただ、この街で()()が起こっていて、それにウィリアム様となのはお嬢様が巻き込まれているのであれば、その()()を知りたいというだけ。そして、できることならそのお力になれれば……と考えているのですよ」

 

 たしかに敵視しているのであれば、忍と恭也も経緯を詳しく語ったりはしない。恭也が尾行によって得た情報を黙っていれば、ウィルが適当なごまかしをした時にその嘘を問い詰めることができる札になる。

 それを明かしたのは、彼らなりの誠意だ。自分たちの手札を見せて、相手を信用しようとしている姿勢を表す。誠意には誠意で答えるのが道理だ。

 

「わかりました。教えられる範囲になりますが説明します。そのかわり他言無用でお願いします」

 

 

 ウィルはこれまでの事情を語った。あまりに突飛な話に、一様に茫然とした顔が並ぶ。

 

「異世界人に、願いを叶える宝石……」ため息をつくように、忍が言葉を絞り出す。 「にわかには信じられないわね」

「魔法か。たしかに信じがたいが、フェレットが人間になるところを見たからには、信じざるを得ないな」

 

 恭也たちも超常的な現象が起こっている以上、ある程度のぶっとんだ事情は覚悟していたのだろうが、ウィルの告白はその予想をはるかに越えていたようだ。

 魔法という未知の技術の存在。多元世界を股にかける巨大組織。海鳴に危険物がばらまかれていること。どれか一つだけでも信じがたいのに、それが何個も一気に飛び出て来たのだから突拍子もない。

 この突拍子もない真実を証明する術をウィルは持っていない。たとえこの場で魔法を実演したところで、それは超常的な力を持っているという証明にはなっても、ウィルの言っていることが正しいという証明にはならない。

 そう考えていたところに、士朗の思いがけない一言がかかる。

 

「それは大変だったね。私たちに何ができるかはよくわからないが、協力は惜しまないつもりだ」

 

 それまで一言も発しなかった士朗の意外な発言に、全員が注目する。

 

「ん? ……どうかしたか?」

「父さん、それは早計過ぎるんじゃないか」

 

 困惑する恭也の一言に、ウィルも思わず追随してしまう。

 

「そうですよ。俺の話を鵜呑みにするんですか?」

「でも、それが事実なんだろう?」

「それはそうですけど……俺の話はどれも、この世界の常識ではありえないことでしょう? そちらには検証する手段もないのに、そんなに簡単に信用して良いんですか?」

 

 士朗は困ったような顔で、頭をポリポリとかく。

 

「正直に言えばきみが言うことが正しいのかはわからない。それ以前に、きみが何を言っているのかさえはっきりとわかったわけじゃないんだが」

「それならどうして──」

「人を見る目はあるつもりだ、というとうぬぼれになるかもしれないが、昔取った杵柄とでも言うのかな。きみが危険な人物かはなんとなくわかる。身体は鍛えられているけど、諜報員や工作員にしては周囲への気の配り方が稚拙──すまない、素人に毛の生えたレベルだ。印象としては警官や普通の軍人に近いかな。そして、それはきみが語った時空管理局の在り方と一致する。まあ、それに加えてウィル君が我々をだますような人間には見えないし、だますならもっとうまい説明があるはずだ。だから信用してもかまわないと考えたんだ」

「そこまでわかっていたのなら、言ってくれれば良かったじゃないか」と恭也がつぶやく。

「恭也は自分で確認しないと納得しないだろう?」

 

 苦い顔の恭也と対照的に、士朗はからからと快活に笑い、周囲を見渡す。

 

「原因はともかく、ウィル君がこの街のために働いてくれていることに変わりはない。私たちもできる限りは力になろう。忍さんもそれで構わないかな?」

「はい。ごめんね、ウィル君。あなたを疑うようなことを言って」

「いえ、疑うのは当然のことですから。信じてもらえただけでありがたいです」

「俺も悪かった」続けて恭也も頭を下げる。 「だが、なのはのことをもう少し詳しく聞かせてほしい。昨日のユーノとの会話を聞いていたが、お前──いつまでもこんな呼び方は駄目だな。ウィルとユーノはなのはが戦うことを良しとしてはいない。それは間違いないんだよな?」

「そうですね。ですから、昨夜はジュエルシードの反応があっても、なのはちゃんに連絡はしませんでした」

「なのに、なのははその戦いの場所にやって来た」

「ええ。おそらく旅館までジュエルシードの反応が届いたんでしょう。なのはちゃんがやって来た気持ちはなんとなくわかります。自分の関われない場所で事態が動くのは居心地が悪いですから。でも、なのはちゃんがどうして俺と少女の戦いに乱入したのかはわかりません」

 

 なのはの行動はウィルには理解できない。なのはが近接が得意な魔導師なら、少女に攻撃しようとしたと無理やり考えることもできるが、なのはの得意とするのは射撃魔法だったはずだ。わざわざ飛んで来てまで両者の間に割って入る行動の意図がわからない。

 そういえばウィルはなのはが空を飛べることを知らなかった。仲間でありながらウィルはなのはのことを知らなすぎることに今更ながら気が付かされる。

 

「ウィル君には迷惑かもしれないが、なのはと話し合ってはもらえないだろうか」

 

 そのように頼む士郎の目は先ほど以上に真剣だった。

 

「なのははたしかにまだ子供だが、良いことと悪いことの分別はつく年齢だ。戦場に突っ込んで行ったのは、あの子なりの考えがあったからだろう」

「もしも、なのはちゃんが戦うつもりだったらどうしますか?」

「そのせいできみが余計な危険を負うようなら断ってくれ。でも、もしもなのはの力が事件解決のために必要でなのは自身もそれを望んでいるのなら、私はなのはが戦うことになっても構わないと思っている」

「危険な目にあうかもしれません。今の俺のように怪我をすることもありえます。それでもですか?」

 

 士郎は黙ってうなずいた。

 

 

 

 

 

 高町なのはという少女は、大勢から好かれている。

 

 十人に尋ねれば八人は本心からかわいいと答えるであろう容貌は言わずもがな。容姿が気に入らない残り二人も、直に彼女に接すれば悪い気分になりはしない。

 なのはは困っている人がいれば助け、他者と話し合いでわかりあおうとし、みんなに笑顔でいて欲しいと本気で願うような少女だ。なのはの屈託のない笑顔には、そんな彼女の性格や気質が現れている。

 むしろ容姿はおまけだ。彼女の容姿が十人並み以下であったとしても、やはり彼女は大勢に好かれていただろう。

 

 彼女が良い子な理由はいくつもある。

 生まれつき良い子だった。教育が良かった。周囲に善人が多かった。感受性が豊かだった。

 しかし、その始まりは負の記憶だった。

 

 彼女がまだ片手で数えられるくらいの年の頃に、父親の士郎が事故にあって大怪我を負った。

 その後、高町家に起こった家庭環境の変化は、彼女の人格形成に大きな影響を与える。

 意識不明が続く父、母は父の分まで働くことになり、兄と姉は母の手伝いと父の看病に明け暮れた。彼女も自分に手伝えること探したが、まだ幼い子にできることは何もない。

 かといって手伝うことを諦めて遊び歩くことができるほど、今も昔も物事を割り切れる子供でもない。

 結局何もできなかった彼女は、せめて家族に迷惑をかけない良い子であろうとした。それだけでも年齢に比すれば十分に優れた思考と行動だが、彼女自身はそうは思わずにそれしかできない自らへの複雑な思いを溜めこんでいった。

 助けてあげたいのに、今の自分では何もできないという無力感。その思いに苦しむ自分を、誰も助けてくれないという寂寥感。助けることも助けられることもない自分は、誰とも繋がっていないという孤独。つまるところ、彼女は寂しかった。

 けれど、彼女はその思いを溜め込み鬱屈するだけで終わらせず、むしろバネにして昇華した。

 無力感と寂寥感は、人を助けてあげたいという誠心と、それを為せるだけの力への意思へ。孤独は他者と話し合い理解し合うことで関係を持ちたいという期待に。

 

 その後、士郎は無事に回復し、桃子の経営する喫茶店も有名になり、家族は以前のような生活に戻った。このまま何事もなく成長していれば彼女も大人になるに従って諦めと妥協を覚え、自分のできうる範囲で他人を思いやるお人よし程度に落ち着いていただろう。

 

 だが、彼女は魔法の力とそれがもたらす災いに出会ってしまう。

 ジュエルシードのせいで大樹が街に現れた日、ウィルやはやてと出会った日、そしてなのはがジュエルシードを見逃してしまったせいで多くのものが傷ついた日。

 封印の後でジュエルシードを回収するために街を駆け巡った時、彼女は自分のミスが引き起こした結果をまざまざと見せつけられた。幾台もの救急車のサイレンが崩れかけた建物の間に木霊し、怪我をした子供の泣き声が響く。横転した車、壊れた家、夏にはほっと一息つける憩いの場である噴水は壊れて、水が地面を濡らしていた。奇跡的に死者はゼロだと言われていたが、それでも怪我をした人は大勢いただろう。もしかしたら、取り返しのつかない怪我を負った人もいたかもしれない。

 自分はこの事態を防ぐことができたのに、それなのに何もしなかったと、彼女はとらえてしまった。

 善良であるからこそ、どうしようもなかった罪まで背負ってしまう。子供だからこそ、仕方がなかったのだと諦められない。

 

 なのはは誓う。

 これ以上誰も傷つかないようにするために、自分はこの魔法の力を振るおう。たとえそれがどれほど危険であろうとも、それこそが魔法の力を得た自分に課せられた責務だ。

 子供の頃からなのはの心で仄かに燻っていた人を助けたいという篝火が、薪をくべられて炎のように燃え上がり始めた瞬間だった。

 

 

 

 ジュエルシードの反応を感知したなのはは旅館を抜けだした。

 途中でその周囲に結界が張られたこともあり迷わずに到着。ユーノの結界は設定を変更していなかったため、なのはをすんなりと中に入れてしまった。

 自身の張った結界になのはが入って来たことに気が付いたユーノが、なのはに『危ないから下がっていて!』と念話を送ってきたが、その時なのはの意識は上空で戦うウィルと少女に向いており、聞こえているにも関わらず、念話の内容を認識できなかった。

 お互いに目にもとまらぬ速度で空を縦横無尽に駆け巡り、魔力弾の閃光が二人の間を交錯する。時折二人の軌跡が重なり、夜空にデバイス同士がぶつかり合う金属音が響き、火花が散る。

 なのはが初めて見た人と人がぶつかり合う本気の戦い。兄と姉が手合わせをするのとも異なる、相手を倒すためなら傷つけても構わないという、本物の戦闘だ。

 

 なのはは月村邸の庭で見た少女の目を思い出した。とても悲しい目──悲しさを悲しいととらえられないような目。

 その目を見た瞬間に、なのはは彼女を撃てなくなった。

 ウィルが間違っていると思ったわけではない。しかし、何も知らず、何も聞かず、人に言われるがまま、一方的にこの少女を撃って良いとも思えなかった。ウィルやユーノ、そして自分と同じように、きっと彼女にも為さねばならないだけの事情があるはずだ。

 だから、なのはは少女にジュエルシードを集める理由を語って欲しい。そして少女になのはたちがジュエルシードを集める理由を理解してほしい。

 少女もウィルも、こうして戦い合う前にもっと話し合うべきだ。

 

 そう考えるなのはの前で二人の戦いは激化する。ついにウィルの剣が少女を吹き飛ばす。

 

 ──止めないと!

 

 ここからでは止められない。止めるためには空中に行かなければ。ジャンプしたって届かない。飛ばないと──飛びたい!

 インテリジェントデバイスであるレイジングハートは、記憶領域からなのはの目的に適した魔法──飛行魔法を選択し、提案。なのははレイジングハートの補助を受けて空に飛び上がる。

 さらになのはの強い思いは無意識のうちに飛行魔法を改良し始める。ただの飛行魔法のプログラムを、膨大な魔力を推進力に変える高速飛行魔法へ書き換え、なのはの体を一気に加速させる。

 

 同時に、離れた場所で戦っていた使い魔も少女がやられかけていることに気づき、ユーノを追うのをやめて空中に飛び上がる。ユーノも慌ててそれを追う。

 

 けれど、正しい思いが正しい結果を招くとは限らない。

 ウィルと少女の戦いを止めようとしたなのはは、ウィルの魔力弾に当たってレイジングハートを取り落してしまう。

 急に魔法が使えなくなり、落下し始めるなのはをウィルが抱きとめた──かと思うと、いきなり空中に投げ出され、それをユーノがキャッチ。

 その直後に金色の無数の魔力弾にウィルが飲み込まれ、彼は気絶して落下。ユーノはなのはを抱えたまま、落下するウィルに近づき魔法を行使。結界魔法を応用してウィルの下方に足場にもなる魔法陣を作り出し、その身体を受け止めた。

 

 一方、ウィルを倒した少女の方も魔力を使い果たして、空中で気を失って落下するところを使い魔に支えられた。

 使い魔は少女を抱きしめながら、なのはとユーノを一瞥する。大切な者を傷つけられたことへの怒りがこめられた瞳に、なのはの体は金縛りにあったように硬直した。

 しかし、激情が形となってなのはたちに振るわれることはなかった。使い魔は少女を抱えたまま戦闘することを良しとせず、ジュエルシードを回収するとそのまま去って行った。

 

 残されたなのはは再び後悔する。自分が乱入したことがきっかけでこんなことになってしまった。

 でも、戦いを止めたいという意志が間違っているとも思えなくて、なのはは泣きたくなった。

 

 

 

 

 

 士郎たちが下がった後で、ウィルはデバイスの点検していた。

 地球に来た時とは逆に、ハイロゥは無事で、F4Wが壊れている。大規模な魔力攻撃を受けたせいで、負荷のかかったF4Wがオーバーヒートを起こして、いくつかの回路が切れパーツが破損していた。

 F4Wの方は自動修復機能がない。ハイロゥのように特注のオリジナルデバイスは構成や使用パーツが独特なことが多いため、多少の手間と費用をかけてでも自動修復機能をつけるものだが、F4Wのようなごく普通の市販品は自動修復に頼るよりもパーツを買い変えた方が早い。

 管理局の部隊が来るまでは修理は不可能と考えるべきだ。飛行の底上げであるハイロゥがないだけならまだしも、武器でもあるF4Wがないとなれば、戦い方そのものを変えなければ。

 これからのジュエルシードの捜索のことを考えていると、ふすまが開く音がした。

 

「えっと……入っても良いですか」

 

 おずおずと入ってきたなのはは緊張した面持ちでウィルのそばに正座する。

 

「体は大丈夫ですか」

「やられたのはほとんど魔力の方だから、よく食べてよく寝れば大丈夫だよ。ところで、俺が気を失ってからのことを聞かせてもらえないかな」

「あの子たちはジュエルシードを回収して帰って行きました。わたしたちも結界を解除して帰ろうとしたんです。でも、そこでお兄ちゃんに出会ってしまって」

 

 その後、恭也がウィルを旅館まで運んで今に至る経緯を聞いてから、ウィルは慎重に問題へと切り込んだ。

 

「どうして戦いに割り込んできたの? きみと同じくらいの年齢とはいえ、あの少女は強力な魔導師だ。見た目よりもずっと危険な相手だよ」

「……戦いを止めたかったんです。あの子、すごく悲しい目をしていたから」

「目?」

 

 ウィルは少女の目を思い返す。初めて出会った時は、何の意思も持たない硝子細工のような目をしていると感じた。しかし、昨夜の戦いでは何がなんでも負けられないという、強い使命感を宿した目を見た。

 それを踏まえてもう一度思い返すと、初めて出会った時から、どこか感情を抑えこんでいたように思える。

 しかし、なのはが少女と顔を合わせる機会は一度しかなかった。それなのに、少女の瞳の奥に押さえ込んでいた感情を読み取ったのであれば、なのはの観察力は非情に優れている。あの親にしてこの子ありというところだろうか。

 

「きっとあの子も本当は戦うのが嫌で……でも、大切な理由があるからジュエルシードを集めていると思うんです。だから、わたしはあの子とお話したい。何も知らずに戦うんじゃなくて、お互いの事情を話し合って、納得できるような方法を選ぶべきだと思うから──これがわたしの理由です。でも、一晩考えて、それは少し間違ってたのかなって。あの子とお話ししようとする前に、わたしにはお話ししなきゃならない人がいたことに気がついたんです」

 

 そして、なのははウィルの目をじっと見る。

 

「あの……ウィルさんの戦う理由を話してくれませんか。ウィルさんがジュエルシードを集めに来たってことは知ってます。でも、それ以外のことは全然知らないから。だから、何をしたいのか、あの子のことをどう思っているのか、そういうことをお互いに全部伝えて、これからどうするのかを話し合いたいんです。わたしはあの子よりも先に一緒にいるウィルさんとお話をしなきゃならなかった。それなのにあの子のことばかり考えて、そうしなかったのがわたしの間違いだと思うんです」

 

 なのはは一気に話した後、そわそわとしながら縋るようにウィルを見ている。

 その視線を受けて、ウィルは痛ましげに目をふせた。なのはの言葉はまさにその通りで、仲間内での意見の統一という基本中の基本をおこなわなかったのはウィルのミスだ。

 こういうことは年上であるウィルが率先してやるべきことだ。現場になれているウィルがリーダーシップをとっているが、なのはもユーノもウィルの部下ではない。命令を聞けと言える関係ではないのだ。

 ならば、自分だけで決めるのではなく、相手に理解してもらうように努めるべきだった。気遣っているからといって、勝手に決定するのはただの独善に過ぎない。

 ウィルは顔を上げ、なのはの顔をしっかりと見据えて口を開く。隠さずに自分の意見をなのはに伝える。

 

「俺はあの子と話し合おうとは思わない」

 

 断言。なのはもウィルのその返事は想定していたので、声を荒げたりせずに話の先をうながした。ウィルはさらに語る。

 

「俺もあの子が悪い子だとは思わない。自分を正当化するようなことは言わなかったし、傷つけられても俺相手に最後まで非殺傷のまま戦ってくれた。でも、あの子がやっていることは、俺の世界の基準で考えると犯罪なんだ。ロストロギアと理解しているのにジュエルシードを無断で収集し、管理局の局員とわかっているのに攻撃して来た。……そうか。もしかしたら、なのはちゃんには、俺もあの子も、同じことをやっているように見えているのか」

 

 その言葉になのはは控えめにうなずいた。

 なのはの、そしてこの世界の住人の視点では、ウィルと少女はどちらも同じだ。理由はともかく二人ともこの街に落ちた危険物を回収してくれているのだから。

 ウィルやユーノは合法で少女は非合法というのは、あくまでも管理世界の基準だ。日本の法で考えるのであればウィルもユーノも少女も非合法な存在でしかない。

 

「なるほど……だからなのはちゃんは、あの子を助けることにそれほど抵抗感を感じないのかもしれないな。でも、俺にとっては違う。たとえば、目の前の爆弾を勝手に持っていこうとする人がいたら止めるだろう? あの子自身が悪い子じゃなくて、悪い人の手に渡って誰かが傷つくこともある。何か事情があったとしても、まずは捕まえることを優先させるべきだ──っていうのが俺の考え」

 

 しかし、なのははかぶりを振る。

 

「ウィルさんが正しいってことはわかります。でも、おかしいって思うかもしれないけど、わたしはあの子が悪いことをしているとわかっていても、それでも話をしたいんです。戦うのもぶつかり合うのも仕方がないことかもしれない。でも、その前に話し合えば、もしかしたら戦わなくても良くなるかもしれないから」

 

 ウィルとなのはの意見は相いれない。信条や思想面では相手の意見を変えることができないと考え、話し合うということの実現性に話を転換させる。

 

「あの子とはもう二度も戦っている。それなのに、次に出会った時にいきなり話し合いたいって言っても信用されない。それ以前に、俺は武器にしているデバイスが壊れてしまったから、あの子と戦ってもおそらく勝つことはできない。目的が相反する者たちの交渉や話し合いは、お互いに対等な立場、対等な力を持っていないと成り立たないんだ。そして、今のおれはあの子と対等じゃない。話し合いはもう無理だよ。だから諦めてくれないか?」

「それなら、わたしだけで出るのはどうですか。わたしは弱いけど、まだあの子と戦ったわけじゃないから、もしかしたら話を聞いてくれるかも……」

「危険すぎる。なのはちゃんの機動力だと、もし相手が襲ってきたら逃げることもできないよ」

「危険でもかまいません。わたしは、あの子とちゃんとお話しがしたい──ううん、わたしが無理なお願いをしてるんだから、わたしだけ安全なのはだめだと思うんです」

「……なるほど、頑固だ」

 

 士朗たちに信用してもらったという義理があるため、ウィルはなのはの意見を無碍にはしたくない。しかし、不可能なことをさせるわけにもいかない。なのは一人ではどうやってもあの少女には勝てない。いくらなのは本人が望み、親の許可が出ているとはいえ、説得できるというわずかな可能性にかけて死地に放り込むのは、逆に義理を踏みつけて肥溜めに放りこむような行為だ。

 それに少女に加え使い魔もいる──と、ウィルに一つ案が浮かんだ。妙案にはほど遠いがまだ可能性のある案だ。

 

「なのはちゃんの目的は話し合うこと……少し譲ってくれるなら、話し合いの場を提供できると思う」

「本当ですか!?」

「これからは一緒に行動しよう。そして、あの子とその使い魔に遭遇したら、まずはなのはちゃんが話しかければ良い。もしも話し合えずに戦いになった場合は、俺が使い魔と戦うから、なのはちゃんがあの子と戦えば良い。今のなのはちゃんではどうやっても勝てないけど、ジュエルシードが取られないように守り続けるだけなら、訓練すればできるようになるかもしれない。なのはちゃんはそうして戦いながらあの子を説得し続ければ良い」

「わ、わかりました。頑張ります!」

 

 なのはは自分の考えが採用されたと思って喜ぶが、これで終わりではない。

 ここから先はわざわざなのはに話す必要はない。昨日までのウィルなら、なのはには言わず、実戦でこっそりとやっていた。が、仲間に腹の内をさらさない愚かさを味わったばかりのウィルは、続きを話し始める。

 

「まだ終わりじゃない。その間、俺は俺で使い魔を倒すつもりだ。なのはちゃんがあの子を説得できれば良いけど、そうでなければいつかはやられてしまう。なのはちゃんがやられたら、次は俺がやられる番だ。だから、俺は使い魔を倒して、その身柄を取引材料にして、あの子を無理にでも交渉のテーブルに着かせるつもりだ」

「人質にする……ってことですか?」

「そうなるね。だから、相手がこちらの呼びかけにまったく答えてくれない時のために俺がそうすることを受け入れてほしい」

 

 最善(ベスト)を志すのがなのはの希望であるなら、ウィルの提案は最善がうまくいかなかった時のために用意しておく次善(ベター)、というのはおこがましいかもしれない。せいぜい三番目か四番目あたりだろう。

 

 なのはは目を閉じて悩む。お互いに何も言わず、ただ庭から聞こえるししおどしの音だけ部屋に響く。

 ししおどしの音が十を超えた頃、なのはは決意とともに目を開く。

 

「わかりました」

 

 二人は顔を見合わせ、お互いにうなずいた。

 と、緊張感を崩すように、明るい声でウィルが言う。

 

「決意してくれた後で言うのは気が引けるけど、実は他に二つクリアしなきゃならないことがあるんだ。なのはちゃん一人であの子と戦っても、ほとんどもたない。そこでユーノ君もなのはちゃんと一緒に戦ってもらう。だから、彼ともお話しして協力してもらわないとね」

「は、はいっ!! ……そうだよね。ユーノ君も仲間なんだから、お話ししないとなの」

「もう一つは、あの子と戦えるようになるために、これから朝から晩まで訓練をすること」

「えぇっと……その間は、学校はどうしたら?」

「当然休んでもらうことになるよ。訓練時間は多い方が良い。それが嫌なら、残念だけど──」

「やります!! 大丈夫です!!」

 

 今度の返事はなのはらしい即答だった。

 

 

 

 

 その後、はやてと共にユーノが見舞いにやって来た。

 ユーノになのはと共に闘ってくれるかと尋ねたところ、自身が戦うということよりもなのはが戦うことについてひと悶着があった。

 しかしユーノもなのはの熱意には勝てず、最後には協力することを約束した。

 方針が一致したところで、ウィルたちは高町家と月村家にあらためて事情と今後の予定を説明する。ウィルたちが話し合っている間に士郎が説得してくれたのか、両家とも強く反対するものはおらず、なのはが自ら意思表示をおこなうと、みなそれを認めた。

 学校も一週間という期間限定だが、休んでも良いと許可が出た。高町家もほとんどが何かしらの実戦を経験しているらしく、だからこそ戦いに臨むにあたって中途半端はよくないという考えのようだ。

 

 

 その夜。ウィルは旅館の廊下から、森を眺めていた。昨夜の戦いが嘘のように、森は夜の闇に沈んでいる。

 宿泊客の中に、金髪の少女と赤髪の女性はいない。彼女たちは宿泊せずに海鳴に帰ったのだろう。ウィルたちも翌日の朝には帰る予定だ。集まったジュエルシードはまだ半分ほど。少女たちとはいずれ出会うことになるだろう。

 

 廊下の床がきしみ、音をたてる。発生源に視線をやると、高町夫妻が立っていた。彼らはウィルに近づくと、多くを語らずに「なのはをお願いします」とだけ言い、年下のウィルに頭を下げた。

 なのはは両親から愛されている。これだけ優しい子なのだから当然だ。

 

 望郷に駆られ、亡き父や故郷の養父のことが少し恋しくなった。

 



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修行回

 月村邸とは比べるまでもないが、高町家も一般家庭にしては相当に大きな家だ。

 高町夫妻が経営する喫茶店翠屋は商店街の一角に位置し、高町家はその近くという良い立地条件でありながら広い敷地を持っている。一軒家は五人の家族それぞれに個室を与えてなお余裕があり、庭には池、敷地内に小さな道場が建てられている。

 

 そんな高町家のインターホンの前に人影が二つ。ウィルとはやてだ。

 

 なのはの特訓は温泉旅行から帰ったその日から始まり、今日で四日目になる。

 ウィルが朝から晩まで高町家に入り浸るのはその一環だが、はやても一緒についてきて高町家の家事や翠屋を手伝っている。「うちの居候がお世話になってるんやから、このくらいせんとあかんよ」と笑って言うはやてに、ウィルはさらに頭が上がらなくなってきた。

 

 なのはは午前中にはユーノによる座学。午後からは魔力運用とサーチャーと誘導弾の練習。そして晩にはウィルを相手に実戦形式で対空戦魔導師の戦い方を学んでいる。

 一方ウィルはといえば、なのはを直接指導する晩まではもっぱら恭也と組手に明け暮れている。

 数日の特訓がどれだけ役に立つのかはわからない。ジュエルシードが海鳴に落ちてからもうじき一ヶ月が経過する。管理外世界とはいえ、管理局の部隊が来てもおかしくはない。

 やって来た部隊が、現在進行形で法を犯し続けている少女に対して話し合いをしたいという考えを許すとは思えないので、特訓自体が無駄になる可能性も高い。

 

 それでも、無駄かもしれないから何もしないでおこうと思うほど彼らは諦めが良くなかった。

 だから、今日も今日とて少年と少女は特訓を続ける。自分たちが望む未来を引き寄せるために。

 

 

 

 床を蹴る音、手足が風を切る音が、木造の壁で反射して道場中に響き渡る。

 対峙するのはジャージ姿のウィルと恭也。

 互いに武器は持たず素手での組手だ。

 

 ウィルが武器として用いるアームドデバイスF4Wは先日の戦闘で故障して、代替部品のない現状では修理の見通しはたっていない。

 壊れていないハイロゥの方は、飛行能力の底上げという限定的な機能に特化しているため代用にはならない。

 デバイスの補助がなくとも、空戦と近接戦に必須であり恒常的に行使し続けるタイプの魔法──飛行や身体強化のような魔法は問題なく使用できる。

 反面、使用頻度の低い魔法は完全に頭に叩き込んで身に染み付いているわけではなく、使用不可とまではいかないが構築の精度と速度は明確に落ちる。具体的には、元から牽制程度にしか使わない射撃魔法、回避を優先するせいでそれほど使わないシールドなどだ。

 つまり今のウィルが戦うとなれば、徒手空拳での近接格闘しかない。

 

 素手での戦い方を知らないわけではない。

 士官学校においても、配属後の訓練でも、前衛の魔導師ならばデバイスを用いない格闘や捕縛術に関しては一通り教え込まれる。

 だが普段から頻繁にする戦い方ではないので、その距離感での勘が錆びついているのも事実。

 恭也との組手は教えを請うためではなく、勘を研ぎ澄ませて己を最適な状態に持っていくためのものだ。

 

 そもそも、ウィルはまだ若いが幼い頃から訓練を積み実戦もそれなりに経験している。いくら恭也が武術を修めており実戦経験もあるとはいえ、これだけ平和な国では機会もそれほど多くないはず。だから案外あっさりと自分が勝ってしまうかもしれない。怪我をさせるのは申し訳ないから最初は少し様子見で──という侮りは、組手が始まった瞬間に覆された。

 

 恭也の動きは魔法を使っていないとは信じられないほどに速く、初戦は一瞬で決着がついた。

 静から動、動から静への切り返しという瞬発力。そして相手の動きを見極めて動きを変える対応力──反応速度が優れている。

 恭也の体には武術の動き──型が染みついている。どうすれば相手の隙をつけるのか、相手の攻撃をどう返すのか。体系化された戦闘の行動様式を、思考せずとも体が勝手に動くほどに身体に覚えこませている。その上で状況に応じて臨機応変に対応する機転も持ち合わせている恐るべき実力者だ。

 初日に八神家に帰ってから、自分が侮っていただけでこの世界の武闘家はあのくらいが平均なのかもしれないと考えて、ネットでいろいろと検索した出した結論は、この世界の武術水準ではなく恭也の方がおかしい。

 なのはの姉の美由希も恭也に等しいの実力者で、父の士郎は二人を遥かに上回る達人らしい。そして三人とも徒手空拳はついでで、得物を使うのが本来の戦闘スタイルだという。あの一家がおかしい。

 

 

 ともあれ、鍛え上げられた異常な技量を上回るには、技が想定していない異能に頼るしかない。

 

 ウィルは恭也の前蹴りを避ける。強引に跳び退いたせいで体は床から離れ、重心が浮いてしまう。追撃されれば、避けるどころかろくな反撃もできない。地に足がついておらず、腕や足の力しか使えないようでは、速度も威力も足りなさすぎる。

 

 詰みの状況でも恭也は追撃しない。ウィルの異能──肉体駆動(ドライブ)による反撃を警戒しているからだ。

 魔力を運動エネルギーに瞬時に変換し、それによって肉体を強制的に動かすことで、いつでも、どんな状況でも、溜めもなしに、全力以上の力で体を動かすことができる。そんな相手に対しての不用意な追撃は、逆に自らの首を絞めるはめになる。

 

 足が床についた瞬間、ウィルは前へと大きく踏み込みながら右の直突き。回避した恭也に、左拳による二撃目。

 恭也は紙一重で回避し、ウィルが拳を引く前に懐に入ろうとするが、そこにウィルの三撃目──再度の右拳が放たれた。

 肉体駆動によって拳を前へと振るい(発射)、同じく肉体駆動によって、撃ち出した拳を引き戻す(再装填)ことで拳を機関銃と化す。一発一発が全力で撃ち出される拳の弾幕。避けて近寄ることなどできはしない。

 格上の魔導師であれば、強固なシールドを張って拳の雨に耐えながら突破するなど、魔力の差というというスペックの違いで強引に対処されることもありえるが、魔法が使えない恭也では対応不可能。

 という普通の思惑が通用する相手ではない。

 

 恭也はウィルの右拳が伸びた瞬間を見極め、伸びた右腕を掴みとりひねる。流れるようにウィルの右外側に回り込み、左手でガラ空きのウィルの肝臓に突き刺さるような一撃を撃ちこんだ。どれだけ体が自在に動かせるとしても、人間の体の構造を越えた動きはできないので、その一撃を防ぐことはできない。

 苦痛に硬直した瞬間を狙い、恭也が掴んだままの右腕をさらにひねる。そのままウィルの体は一回転。板張りの床に叩きつけられた。

 

 

「やっぱり勝てませんね。自信をつけるためにも、せめて一回くらいは勝ちたいなぁ」

 

 組手の後、先ほどの一戦の検討を終え二人は道場の端に座り込んで休憩していた。

 

「初めの頃に比べれば動きは良くなっている。その年齢でそれだけできれば上出来だ。最後の攻撃にはひやりとさせられたしな」

 

 そう言いながら恭也は用意してあったスポーツドリンクをウィルに投げ渡す。

 

「ありがとうございますって言いたいところですけど、俺は肉体駆動がなかったら手も足もでてませんからね」

「それを言われると、こっちはウィルに魔法を使われたら勝てなくなる。正直に言えば悔しさもある。鍛えてきた技が通用しない世界があることも、妹が危険な目にあいかねないのに何もできないことも」

 

 組手でのウィルは身体強化系の魔法を一切使っていない。唯一の例外が肉体駆動だが、それでも身体強化をおこなっていない素の肉体で耐えられる程度に出力を調整した、限定的な使用にとどめている。

 魔法を使ってしまうと肉体のスペックが異なりすぎて訓練にならないから。

 

 ウィルが得意とする高機動近接戦では、バリアジャケットによる慣性制御だけでなく、強化魔法による身体強化も高いレベルで修めている必要がある。強化が不十分な肉体では、高速で接近して相手を切った時の衝撃で自分の腕が吹き飛ぶという笑えない事態も起こり得る。

 身体強化を使えば、ウィルの肉体は拳で軽々とセメントを砕き、踏み込みの反動で道場の床を貫き、恭也の拳を受けても身じろぎ一つしないだろう。

 ウィルに限らず、魔法によって強化された近接魔導師はもはや人類という種の限界を軽々と凌駕した超人だ。

 

 恭也ほどの技量があれば、並の魔導師が相手なら得物を持ち室内のような閉所など有利な状況に持ち込めば勝ち目もある。

 それでもAランクより上の魔導師は、生物としての出力が違いすぎる。魔法という力を持つ者と持たざる者の差は、非常に大きい。

 

「ま、そういうわけだからウィルの特訓相手として貢献するさ。きっちり強くなってもらうぞ?」

「望むところです。次こそ一勝をもぎとってみせますよ」

 

 二人とも見合って、鮫のように笑った。

 互いに思惑はあれど、それ以前に二人とも戦うこと自体が嫌いではない。むしろ組手程度なら楽しいと感じるくらいにはバトルジャンキーに足を踏み入れている。

 

 

 

 

 同じく午前中。

 薄いピンク色を基調に暖色系で整えられたなのはの部屋は、かわいらしくありながらも、過剰な装飾や派手な色彩は用いられていない。よく観察すれば、物の選定から配置に実用性を重視していることがわかる。

 大きな格子窓から入る朝日が部屋を光で白く漂白している。なのはは窓際の学習机に向かい合い、ユーノの魔法講義にうんうんと唸り声をあげていた。

 やがてぐでんと机に突っ伏し動かなくなる。机の上に乗っていたフェレット姿のユーノは、その様子を見てどうしたものかと困り果てる。

 

「もう疲れたの……」

 

 なのはが先ほどまで解いていたのは数学の問題集だ。ユーノの授業は魔法の原理の説明や、魔法プログラムを構成するための基礎知識を教えている。そして、そのプログラムを組むには数学的知識が必須であり、なのははユーノ手製の問題集を解かされていた。

 なのはは理数系が得意科目で、算数の成績にいたっては学年でも上位数名になるほどだが、それはあくまで算数。ユーノが教えている内容はそれをはるかに超えている。

 数学があれば宇宙人とだって対話できる──とは誰が言ったかは知らないが、地球とミッドチルダでも数学に本質的な差はない。それでも時折地球にない数学記号が出て来て、なのはをよりいっそう困惑させる。

 ついに、なのはの頭はオーバーヒートを起こした。

 

「しっかりしてよ、なのは。まだ朝だよ」

「その朝が一番つらいの……ねぇユーノ君、理論がわからなくても、魔法は使えるんだから、もういいんじゃないかな。それより、もっと魔法の練習をした方が──」

 

 ユーノは首を横に振って、それを否定する。

 

「確かになのはの魔法構築能力はすごいよ。レイジングハートの補助を受けてるとは言え、いきなり砲撃魔法や飛行魔法を使えたり、あまつさえ感覚だけでプログラムを改変したりね。ここまで自在に構築できるなんて天才だと思う。でも感覚だけでやっているからなのはの魔法には無駄が多い。原理原則を理解できれば、今よりもずっと魔法がうまく使えるようになるから」

「……わかった、頑張る。でもその前に──」

 

 なのははうつむいた顔を上げると、ユーノをおもむろに掴んだ。

 

「ちょ、ちょっと! なにするんだい!?」

「疲れた頭を治すために、ユーノ君に癒してもらおうと思って。……ああ、お腹の毛が柔らかいの」

 

 そう言うと、なのははユーノの体をなでまわし始める。

 

「ちょ、やめて……アハハハハハ、くすぐったいよ」

 

 両手でわしゃわしゃとユーノをもふる。されるユーノも、弱いところに触れられてしまったのか、笑ってまともに呼吸もできない。

 しばしの間、なでまわし続けたことで、なのはも癒されたようで、頭がようやく正常に動き始めた。

 正常に戻ると、なのはは先ほどの自分の行動を思い出して硬直した。フェレットの姿をしているとはいえ、ユーノは元は人間だ。それをなでくりまわしていた、というのは男の子の体をまさぐっていたということになる。

 

(わ、わたし、ユーノ君のおなかを……)

 

 人間の姿のユーノのお腹を直接触る自分の姿を想像してしまい、急速に立ち上ってくる恥ずかしさに顔を朱に染める。

 急に大人しくなったなのはを不思議に思い、ユーノが声をかける。

 

「どうかした?」

「なんでもない! なんでもないの……そ、そういえば、どうして勉強の時のユーノ君はフェレットさんのままなの?」

 

 なのはは話題をそらそうとして、適当な質問をする。しかし、その質問を受けて今度はユーノが言い淀む。

 人間だとばれて以来、ユーノは高町家では人間の姿でいることが多い。食事時は今まで通りフェレット姿でいることで食費を減らそうと思ったのだが、なのはの母親である桃子に「子供はしっかり食べなきゃ」と言われて以来、人間の姿で人間の食べ物を食べている。ちゃんと風呂にも入るし、寝る時も空いている部屋に布団を敷いて寝ている。

 時折、桃子や美由紀がなでたいという時はフェレットになるが、それ以外では人間の姿だ。

 

 だからフェレット姿でいるのはかなり限定的な状況だけ。そのうちの一つが、なのはへの講義時だ。

 きっかけは些細なことだった。講義を始めたばかりの時は、今のようになのはは机に向かい、ユーノ手製の問題を解き、人間姿のユーノは横に座ってなのはの答案を覗き込みながら指導していた。

 そうして何十分か経って、ふとユーノが横を向くと、なのはの横顔がすぐ近くにあった。そして思った以上に自分たちが密着していたことに、今さらながら気がついた。

 少し開けた窓から入った風がなのはの髪を揺らし、ツインテールがユーノの頬をなでた瞬間、なんだか気恥ずかしくなってしまい、とっさにフェレットに変身してしまった。

 それ以来、なんだか並んで勉強を教えるのが恥ずかしく、フェレット姿で机の上にのって指導している。

 そんなことを正直に言うわけにもいかず、適当にごまかす。

 

「この姿の方が怪我の治りが早いからね。変身魔法は変身後の生物の姿、その理想的な健康状態を保とうとするから、回復効果が強いんだ」

 

 魔法の説明はともかく理由は当然ごまかしである。そもそもユーノの怪我はもう治っている。

 

「そうなんだ……わたしも覚えてみたいな」

「あんまりおすすめはしないよ。動物への変身魔法は覚えるのに時間がかかるし、古代の魔法をミッド式でエミュレートしているだけで、原理にはまだわからないところも多いんだ。僕は遺跡の調査で、人が通れないような狭いところに入る必要があったから覚えたけど、普通の人にはあまり使い道のない魔法だよ。悪用して、潜入とか監視に使う魔導師もいるから、覚えているとあらぬ疑いをかけられることもあるし」

 

 ユーノの変身魔法トランスフォームはスクライア一族に伝わる魔法で、今は使われなくなった遺失魔法の一種であるという。人間の肉体を完全に動物のものに変化させ、その上で思考能力や記憶は人間のままにするという、変身魔法の中でもかなり異質なものだ。

 デバイスの収納機能と同じように、自己の肉体を量子化して保存しているのではないかなどと、そのシステムは諸説あるが、いまだ正確なところはわかっていない。

 解析が完全でない魔法を使うのは危険だが、別にユーノに危機感がないわけではない。一般的に使われているような魔法の中にも、このように原理はわからないが実際に使えるのだから利用してしまえというものが多くある。

 

「でも、変身魔法って一番魔法少女っぽい気がしてちょっと憧れる。魔法少年ラディカルユーノ、はじまります」

「大丈夫? 何かおかしな電波でも受信した? とにかく、今はあの子と戦えるようになるために、できることをやっていこうよ。他の魔法が使えるようになりたいなら、この事件が終わった後にでも教えるからさ」

「そうだね。それじゃあ、勉強の続きをよろしくね、ユーノ君」

「うん、一緒に頑張ろう」

 

 二人は顔を見合わせ、自然に笑い合った。

 

『Sugary』

 

 二人に聞こえない程度の音声で、ベッド脇の籠に入れられたレイジングハートはつぶやいた。

 

 

 

 

 夕刻。日が暮れるころには、ウィルたちは車で月村邸へ向かう。

 実戦形式の訓練は、月村家の上空で行われる。

 広大な私有地は街から離れており、大部分は山林なので、空を飛んでも誰かに見つかることはない。

 

 市街地でも結界を張ればいくらでも訓練はできるが、そうすると少女たちに感知される危険性がある。結界を張ったせいでそこにジュエルシードがあると勘違いされて乱入されては厄介だし、こちらが集めたジュエルシードを奪おうと襲撃してくる可能性もある。

 理由は何にせよ、特訓で消耗しているところに乱入されてしまうのは非常に危険だ。

 それに比べて、月村邸周辺なら一度ジュエルシードが見つかった場所のそばなので、少女が今さらこの周辺を捜索に訪れる可能性も少ない。

 

 

 バリアジャケット姿で森の上空に浮かぶなのはの両足には、桜色の光の翼が輝いている。なのはの手のひらほどの大きさのかわいらしい翼は、飛行時の姿勢制御をおこなうスラスターとして機能する。

 

 まずはなのはに基本的な飛行機動を繰り返させる。

 仮に飛行魔法の制御に失敗して落下するような羽目に陥っても、待機しているウィルか、フェレット姿になってなのはの肩につかまるユーノがリカバリーする手筈になっていた。

 そんな助けなんていらないとばかりになのはは飛び回る。初日こそぎこちなく、空を飛ぶことへの脅えもあったなのはだったが、みるみるうちに空になれて今や地上にいる時以上にのびのびとしている。

 

 その感覚はよくわかる。

 空は自由だ。飛行魔法とバリアジャケットにより、重力その他の外力から解き放たれた状態からは、人によって全く異なる二種の反応が得られる。

 

 怖く、心もとないと感じる者。

 せいせいして、自由だと感じる者。

 

 ウィルは後者だった。おそらくなのはも同じなのだろう。空戦の適正があるのは、得てしてこちらのタイプだ

 地上では多くのしがらみがある。知らず知らずのうちに絡みつく鎖もあれば、自ら縛られることを望んだ鎖もある。縛られた現状に不満があるわけではないが、それでも飛行している時に感じる全ての束縛から解放されたような感覚は、心の内に積もった澱を洗い流してくれる気さえする。

 

 やがて、なのはは予定していた飛行機動を全て終え、ウィルの前へとやって来た。

 

「飛ぶことにはもう慣れたみたいだね。魔法だけじゃなくて、こっちの才能もあるみたいだ」

「そうなんですか? 言われた通りに飛んでただけなんですけど」

「空を飛ぶための飛行魔法はそれほど難しくないんだけど、空を自在に飛びまわれるようになるには普通はかなりの練習が必要なんだよ? なれない内はいろいろと問題が起こることもある。飛行魔法によって擬似的な無重力状態になるせいで、空間認識の喪失が起こったりとかね。まぁ、なのはちゃんの場合は、何かあったらレイジングハートかユーノ君がなんとかしてくれるから心配いらないよ」

『Of course.』

「任せてください」

 

 一機と一人の頼もしい言葉を聞きながら、ウィルはなのはたちと距離を取る。

 

「さて、それじゃあ、試験といこうか」

 

 ウィルの宣言に合わせて、なのはは十数個のサーチャーを夜空に配置する。

 

「これからやるのはあの子の高速移動に対応する訓練兼試験だ。これの出来次第では、あの子との戦いを許可できなくなるから、緊張感を持ってやるように」

「わっ、わかりました!」

「あの少女の攻撃の中でなのはちゃんにとって最も驚異的なのは、高速移動からの近接攻撃だ。高機動戦の経験がないなのはちゃんだと、多分彼女の動きを見ることはできないと思う」

「そのためにこのサーチャーを使うんですね」

 

 ウィルは事前にサーチャーのちょっとした応用をなのはに教えていた。それが役にたつかは半々というところだが。

 

「それじゃあ、行くよ」

 

 ウィルが合図すると、なのはが逃げ始めウィルがそれを追いかける。いわゆる鬼ごっこ。

 本気で追えば捕まえることは簡単なので速度は抑え目。それに普段の飛行では捕まえないという制限をかけている。ウィルがなのはを捕まえることができるのは、ハイロゥを用いた高速移動中だけだ。

 この訓練は、あの少女の高速移動からの攻撃を避ける訓練だ。

 

 ウィルはハイロゥの出力を調節し、少女の高速移動と同程度の速度で突然移動する。直進ではなく、一旦なのはの視界から外れるように右に移動し、それから下に回り込み、最終的に下方から接近し、なのはの足を掴もうとする。

 

「レイジングハート!」

『Flash Move』

 

 両足の翼に魔力が注ぎ込まれ、大きさを増す。魔力は推進力となって、なのはの体を一瞬で左に三十メートルほど移動させる。

 高速移動魔法、『フラッシュムーヴ』

 夜の森で、なのはがウィルと少女の間に割り込んで来た時にも無意識で使った魔法を、ユーノとウィルの監修を受けて、なのはが自分の力で一からプログラムを組み直した魔法だ。

 少女の高速移動と同様に連発できない上、移動距離も大したことはない。それでも瞬間的な加速能力は高く、回避に用いる分には申し分ない性能を誇る。

 

「良い感じだ。それじゃあ、どんどん行くよ」

 

 

 

 

 

 ジュエルシードが発動したのは、その二日後の夕方、時刻も七時になる頃。ちょうど高町家から月村邸に向かおうとした時だった。

 ウィルはなのはとユーノに声をかける。

 

「二人とも、体と魔力に異常はない?」

 

 大きくうなずいた二人を見て、そして昨日の訓練結果を思い出し、ウィルも満足そうにうなずく。

 

「それじゃあ、ユーノ君。お願い」

 

 ユーノはバインドを応用して三人の身体を連結。さらに小規模な結界を張ることで人目をなくしてから、ウィルは空に飛び上がった。バインドで連結されたなのはとユーノも、そのまま牽引される。

 地上からでは目撃されない高度まで上がった後は、結界を解除し目的地に向かう。

 三十秒もせずに目的地の上空にたどりついた。周囲は雲が立ち込め、雷が響き始めている。ユーノが再度広域結界を張ると同時に、ウィルはそのまま地上に降下した。

 

 三人が降り立った場所はビルが立ち並ぶオフィス街の間にある少し大きな道路上。結界が張られているので、人っ子一人そこにはいない。結界の主が許したものと、高い魔力ゆえに結界にあらがえる者以外は。

 

 少し離れた所には、すでに封印されたジュエルシードが浮いている。

 その向こう側には、金の髪を風になびかせる少女とその使い魔の姿があった。

 



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努力の結実

 ジュエルシードを間に挟んで、両陣営は向かい合う。

 先ほどまで星々の光がまたたいていた夜空は厚い雲に覆われ、結界のせいで人々が消えた街では喧騒という背景曲の代わりを雷の轟きが務めている。

 

「魔力流操作ですね。しかも結構範囲の広い」

「ああ、たいした腕前だよ。俺にはちょっとできそうにない」

 

 ユーノとウィルがこっそりと話し合う。

 

 魔力流とは、魔力素の流れだ。

 魔力の元となる魔力素は自然に存在する粒子であり、他の粒子と同じく濃度の高いところから低いところへと拡散し、最終的に均一になろうとする。そして勾配がなければ、外力が加わらない限りその場に留まり続ける。

 魔導師は、周囲の空間の魔力素を体内の『リンカーコア』と呼ばれる器官に吸収し、魔力素を結合させて、自分が使いやすい形である『魔力』に変換。蓄えた魔力を用いて魔法を行使する。

 そのため、大気中に存在する段階、変換前の使いにくい形である魔力素を用いて魔法を使うことは、個人の力ではほとんど不可能に近い。しかし魔法とまでいかないのであれば──たとえば大気中の魔力素を動かして魔力の流れを作るという『魔力流操作』なら、腕が良く十分な魔力量を持つ魔導師なら可能だ。

 この周囲一帯の魔力素の密度が高くなっていること。そして、今もなお魔力素が活発に動きいていることから、誰かが意図的にこの場所に魔力素が流れ込むようにしたと推測できる。

 

 魔力流を発生させて周囲の魔力素濃度を高めることで、思念や周囲の魔力に反応するジュエルシードを意図的に活性化させる。ウィルの技量では体力や魔力の消耗が激しく、あまり広範囲の魔力流操作はできないという技術的な点。そして不必要に周囲に影響を与えるという倫理的な点から実行しなかった手段だ。

 

 魔力流のせいでジュエルシードが必要以上に活性化して暴走する危険性があるのはもちろんだが、それ以外にも危険はある。

 魔力素も大気中に存在する以上、大気を構成する原子と無関係ではない。魔力素が動かされることで、風や気圧の変化が引き起こされてしまう。

 現に、この付近一帯は、魔力流とジュエルシードの活性化によって、急速に天候が悪くなっている。

 ユーノの結界によって、魔力素の動きが結界外に影響することを阻止したため、異常がこれ以上拡大することはない。魔力流が落ち着いてから結界を解除すれば、街に対する影響は最小限に留まるはずだ。

 少女たちは結界を張れなかったのか。それともウィルたちがジュエルシードに気付くのを遅らせるためにわざと結界を張らなかったのか。どちらにせよその行為は不必要に管理外世界に影響を与える危険なものだ。

 

 

 少女はデバイスを構え、その隣の使い魔は人間の姿のままいつでもこちらに飛びかかれる姿勢をとっている。

 ウィルは彼女たちを刺激しないように、空手のままで話しかける。

 

「戦うのは少し待ってくれないかな。この子がきみに話したいことがあるみたいなんだ」

 

 背を押され、フェレット姿のユーノを肩に乗せたなのはが一歩前に踏み出す。意図のわからない行動に少女たちも戸惑う。

 なのはは大きく深呼吸をすると意を決して話し始めた。

 

「わたしの名前は高町なのは。この街の聖翔大付属小学校に通う三年生で──」

「あいつ、なにを言ってるんだい?」

 

 突然の自己紹介に、使い魔が呆れたような声をあげる。

 

「わたしは、つい最近まで魔法のことなんて知らなかったの。でも、この──」肩のユーノに、少し視線をやる。 「ユーノ君と出会って、ジュエルシードっていう危ないものがこの街に散らばってしまったことを知ってしまった。わたしには魔法の才能があったから、怪我したユーノ君の代わりに、ジュエルシードを封印することにしたの。この街はわたしが、わたしの大切な人たちが住んでいる街だから、わたしはこの街を守りたい……もう、誰にも悲しんで欲しくないから。これがわたしがジュエルシードを集める理由。でも、今はそれだけじゃない」

 

 なのはは少女の目をしっかりと見つめる。視線が合っても少女は眉一つ動かさない。

 

「わたしはあなたとお話しがしたいの。あなたがどうしてジュエルシードを集めているのかがわかれば、わたしもあなたの力になれるかもしれないから。ウィルさんは管理局の人だから、わたしとは違う考えを持ってるけど……でも、それも話し合えば、解決するかもしれない──ううん、きっと誰にとってもいい方法が見つかると思う」

 

 そして、なのはは大きく息を吸い込むと、ひときわ大きな声で少女に呼びかける。

 

「だから、あなたにも教えてほしいんだ! どうしてジュエルシードを集めるのか、その理由を!!」

 

 思いのたけを叩きつけたなのはの言葉に、少女の瞳がかすかに揺れる。

 なのはの言葉は、強要でも恫喝でもなく、ただ純粋に願っているだけ──純粋だからこそ強烈だ。

 

「私は──」

「答える必要はないよ」

 

 少女の返事を止めたのは使い魔。彼女はこちらを──とりわけなのはの方を睨んでいる。その表情にはなのはに対する明らかな敵意が含まれていた。

 

「答える必要なんかない。こんな甘い世界で暮らしてきたガキに、何も教える必要なんかない。だいたい他人のあんたたちにあたしたちの何がわかるっていうのさ。こんなやつに構うことはないよ! それよりもジュエルシードの回収を!」

「……わかった」

 

 少女はなのはから視線を外し、ジュエルシードを目指して動く。しかし、なのはは少女に呼びかけながらも──呼びかける相手だからこそ──少女のことをよく観察していた。

 だから、少女が動いた瞬間に、なのはもまた同時に動くことができた。

 

『Flash move』

 

 ジュエルシードに手を伸ばそうとした少女の前に、なのはが立ちふさがる。先ほどまで大きな声を出さねば届かなかった二人の距離は、今や手を伸ばせば届くほど。

 なのはは少女の目を見ながらもう一度繰り返す。

 

「お願い。あなたの話を聞かせて欲しいの」

「あのチビッ──イッ!?」

 

 主を邪魔する者を排除するために動き始めた使い魔に、ウィルが襲いかかる。ウィルはなのはに注意がいった直後に、すでに上空に飛びあがっており、使い魔が動き始めたと同時に急降下しながらの飛び蹴りを放った。

 使い魔は両手を交差させ防御するが、勢いを殺しきれずに地面に落とされる。追うようにして、ウィルも地上へと降りる。

 

「よそ見するなよ、わんこ。一度言ってみたかったんだよな──お前の相手は、俺だ」 

「ちっ!──狼だよ!!」

 

 空中でなのはとユーノの二人と謎の少女の戦いが、地上でウィルと使い魔の勝負が始まる。

 

 

 

 

 

 深呼吸。短期間だけど、やれることはやった。実戦でも、できることをやるだけだ。

 なのはは二十個ばかりの桜色の光球を生み出すと、辺り一面にばらまく。

 少女は一旦下がって様子を見るが、光球が魔力弾ではなくただのサーチャーだとわかると、それらを無視してデバイスをなのはに向ける。

 金色の大きな光球──こちらは魔力弾を発射するためのスフィア──が少女の周囲に現れる。スフィアからは小さな魔力弾が、機関銃のように発射される。

 

『Photon Lancer full-auto fire』

 

 なのはの肩につかまるユーノが、襲いかかる魔力弾に反応。

 

「ラウンドシールド!!」

 

 なのはと少女の間に、翡翠色の魔法陣が現れる。ミッド式でシールド系魔法と言えばこれ、と言われるほどにオーソドックスな──つまり、完成度の高い魔法。

 ユーノのシールドは飛来する魔力弾を全て防ぎきる。

 ユーノの専門は結界だが、それ以外にも補助系の魔法は一通り行使できる。中でも防御魔法は結界魔法と比較しても遜色がなく、その質の高さはとてもAランクとは思えないほどだ。

 しかし、ユーノが真に優れている点は、原理原則を完璧に修めることで数多くの魔法をデバイスの補助なしで行使できることにある。

 使い慣れている魔法──ウィルなら飛行魔法や強化魔法──なら、デバイスなしでも行使できる者は多い。だが、ユーノは自身が習得している魔法全てをデバイスなしで行使できる。

 魔法を正しく理解し、正しく構築できるからこそできる芸当。そして基礎を修めているがゆえに多少の魔法改良なら自在にできる。

 魔力が高いわけでも、構築速度が速いわけでも、高度な魔法を行使できるわけでもない。基本的な魔法を、その魔法の本来の力を発揮できるように完全な形で行使し、組み合わせることができる。その安定性と手札の多さがユーノの持つ強みだ。

 職歴十年以上のベテラン専門職ならまだしも、十になるかどうかの少年がこれを為すというのは才能云々よりも偏執的なものを感じるほどで、ユーノ・スクライアという少年もまた異常の側にいる存在だということを物語っている。

 

 魔力弾を止められた少女は、淀みなく次の攻撃に移る。

 いくら頑強であっても、シールドには一方向にしか展開できないという弱点がある。予測できない方向から攻撃すれば、シールドは張れない。

 少女の姿がなのはたちの視界から消え、『Blitz Action』というデバイスの声だけが周囲に響き渡る。高速移動からの急襲だ。

 周囲にビルが立ち並ぶこの状況で、その間を高速で飛び回る少女の位置を捕捉し続けることは、なのはにはできない。

 

 

 いつ襲いかかられるかわからない恐怖の中で、なのはは特訓初日のウィルとの会話を思い出す。

 

「もう一度確認するけど、なのはちゃんの目的は何だったかな?」

「あの子の事情を聞いて、話し合うことです!」

「それじゃあ、戦いになった場合の目的は?」

「え……っと、もしもわたしが説得できないなら、その時はウィルさんが使い魔さんを捕まえるまで、あの子と戦いを引き伸ばすこと……ですよね?」

 

 目的を定めることができれば、おのずととるべき行動も定まる。

 

「そう、なのはちゃんは、あの子を倒す必要はない。大切なことは倒されないこと。じゃあ、その為に必要なのは何だと思う?」

「防御ですか?」

「そうだね。なら、何をすればいいかわかるかな?」

「防御魔法の練習?」

「それはユーノ君に任せればいい。練習すれば、なのはちゃんも強力な防御魔法を使えるようになれると思う。でも、他人ができることは、他人に任せるべきだ。自分より上手なら尚更ね。だから、なのはちゃんには()()を担当してもらう」

「で、でも、わたしはまだあんまり速く飛べないし、あの子の動きにはついていけそうにないし……」

「だから、まずは瞬間的な高速移動を練習してもらう」

 

 こうして生み出されたのが、なのはの高速移動魔法フラッシュムーブだ。

 少女が接近してくるなら、フラッシュムーブを行使して距離をとり続る。ある程度の距離があれば、ユーノが反応して防御魔法で攻撃を防いでくれる。怖いのはユーノが反応できないよう攻撃──ユーノの見えない方向からの攻撃や、近距離の連打(ラッシュ)だ。

 

「近づかれたら高速移動で距離を維持。あの子が姿を消したら、とにかくどの方向でも良いから高速移動を使って、とにかくその場から離れること」

「でも、それだと逃げた方向にあの子がいて、やられちゃうってこともあるんじゃ……」

「相手の動きと周辺の地形を把握していれば、ある程度は相手が来る方向はわかるよ。障害物がある地形なら来る方向も絞れるしね。それでも駄目だったら……その時は運が悪かったと思って」

「そんなぁ……何か方法はないんですか?」

 

 ウィルはしばらく思案すると、少し困った顔をしながら言う。

 

「なのはちゃんはサーチャーをたくさん出せたよね? 短期間で身に付くかはわからないけど、ちょっとした小技があるからやってみようか」

 

 

 なのはの動体視力では、高速移動に入った少女の動きを見極めて回避することはできない。たとえ目の前を通られても、せいぜい通ったということしかわからない。

 だが、逆に言えば通ったこと自体はわかる。

 しかも今のなのはの目は両目二つだけではない。サーチャーという二十を越える目からの情報がある。

 

(あの子は三番、十四番、十一番の順で通過──つまり右に移動後、ビルの間を下降ぎみに通りながら、下方向から接近。タイミングは……六番を通った今!)

 

 なのはの思考を言語化すればこうなるが、それを一瞬のうちに閃光のように組み立てて、体を動かす。

 

『Flash Move』

 

 なのはは右に回避する。そのすぐ後に、下から上へ抜ける斬撃──先ほどまでなのはのいた場所、今は何もないただの空を、少女の鎌が刈り取っていった。

 まさか見切られるとは思わなかったのか、少女の顔には驚きが生まれる。

 

 空中に配置したサーチャーをチェックポイントとし、少女がそばを通った順番に結ぶことで移動経路を導き出す。経路がわかれば、どの方向に回避すれば良いのかがわかる。

 回避するタイミングは、自分から近い位置に置いたサーチャーを目安に。それを通過した瞬間──つまり、自分に対して一定距離に近づいた瞬間に動けば良い。

 言葉にすれば簡単だが、少女がなのはに接近するまでの時間は、何秒もかからない。障害の多いビル街だから、少女も全速力で移動することはできず多少は多めに時間がかかるが、だからといってその間に複数のサーチャーからの状況を頭の中で組み合わせ、相手のルートを戦闘で使えるほどに瞬時に導出するのは難しい。

 それができるのは、なのはが持つ才能によるところが大きい。

 

 魔法の才能以外に、なのはが天から与えられたもう一つの才能、空間認識能力だ。

 距離感の把握はもちろん、地図を見て地形を想像できる、建物を複数方向から撮った写真を見て建物を立体的に想像できるという能力。

 なのはは、サーチャーを用いてこのビル街の地形を把握し、さらに少女がどのサーチャーの前をどんな順番で通ったか──という断片的な情報から、少女の移動経路をもおおまかにだが把握できる。

 

 そしてもう一つ。なのはが後天的に得た才能がある。天から与えられたのではなく、自分の力で手に入れた才能が。

 なのははサーチャーの一部を使って、常に少女の行動を観察していた。そして、少女を複数の方向から見ていると、少女が移動を始める前に既になんとなくわかる。

 少女がどの方向に動くつもりなのか。少女が自分のどの部位を狙っているのか。少女がどのようなルートを通ろうとしているのか。

 行動には予兆が存在する。高速で移動するのだから、移動する前に今から自分がどのルートを通るかを確認しなければならない。そして、それは目線や体の向きを追っていれば、ある程度は掴める。そして、いざ動くとなれば、魔法で移動できるとはいえ、習性として移動する方向への重心の変化が現れる。

 そういった複数の情報が、少女がどのルートを通ってどの方向からなのはに攻撃を仕掛けようとしているのかを伝えてくれる。

 これがなのはのもう一つの能力、観察力。

 

 なのはは、幼い頃にずっと家族を見続けていた。自分に手伝えることが少しでもないかを探して。手伝うこともできないとわかった後も見続けていた。他人に迷惑をかけない良い子でいるために。何もできない無力さと孤独に耐えながら、ずっと観察し続けていた。そうすることしかできなかった。

 そして今、鍛えられた観察力が、少女の仮面の奥に隠した悲しさを見抜き、そのために行動するなのはの手助けをしている。

 なのはは不幸に耐え、それでもなお他者を思って行動してきた。その献身と過去という努力が結実し、今のなのはの力となる。

 

 

 

 

 少女に初めて焦りが生まれる。

 遠距離魔法はユーノの防御魔法で防がれる。高速移動からの近距離攻撃はなのはに回避され、攻撃は当たらない上に間合いを縮めることもできない。

 仮になのは一人、もしくはユーノ一人であれば簡単に倒せているはず。なのに、なのはとユーノの二人が揃えばこんなにも厄介な敵になる。

 

 状況を変えるため少女は強引な手段をとる。

 少女はビルの影に姿を隠して詠唱を開始する。

 

「アルカス・クルタス・エイギアス」

 

 ウィルを倒した詠唱魔法。フォトンランサー・ファランクスシフト。四秒間に千を越える魔力弾を発射する、少女が修得している中でも最大規模の魔法だ。

 魔力弾の一点集中。堅固な城門さえ打ち破るファランクス。どれほど強固な守りでも、一斉射撃で撃ち貫く。

 

「疾風なりし天神、今導きのもと撃ちかかれ。バルエ──」

「ディバイン・シューター!」

 

 詠唱を続ける少女に桜色の魔力弾が接近する。そんな大きな隙ができる魔法を、むざむざ撃たせるわけもない。

 少女が身を隠せばサーチャーですぐさま少女の位置を探し出し、二発の誘導弾を放つ。誘導弾の制御もサーチャーの制御も同じ思念制御。サーチャーの訓練をしていたなのはにはこの程度は容易い。

 少女は避ける──が、誘導弾は初めから囮だ。

 

「チェーンバインド!」

 

 誘導弾を避けた先には、なのはがすでに待ち構えていた。肩のユーノから翡翠色に輝くバインドが伸びる。ふいをつかれたせいで避けることもかなわず、少女の体が絡め捕られてしまう。

 が、少女もさるもの。それで終わりはしない。バリアジャケットを構成している魔力を全て、外部に向けて解き放つ。その魔力を用いて、バインドを相殺する。

 代償にバリアジャケットが消失。再構成するまではろくに移動もできず、先ほど回避した誘導弾に狙われれば避けることはできない。

 

 少女は覚悟を決めた。一発や二発くらいなら、バリアジャケットがなくとも耐えてみせる。

 しかし、誘導弾は少女を攻撃しない。なのはにとって、誘導弾はユーノのバインドで少女を抑えるための陽動にすぎず、少女を傷つけるためのものではないからだ。

 

 

 少女の精神が再びかき乱される。絶好の機会だったのに攻撃しない理由がわからない。

 

 ──余裕のつもり? ここで攻撃しなくても、いつでも倒せるつもりなの?

 

 そんなはずはない。地力では少女の方が二人よりずっと上だ。ジュエルシードが欲しいのなら、攻撃しない理由がない。

 

 ──もしかして、彼女たちは本当に、ただ単純に話がしたいだけ?

 

 話をしたいというあの言葉は、まともに戦っても勝ち目が薄いから話し合いでごまかそうだとか、そういう打算に基づいた言葉ではなくて。少女のことを思ってかけられたのか。

 

 ──なぜ?

 

 他人どころか敵の自分にそこまで優しくする理由なんてない。

 少女には、なのはが理解できない。

 

 

 なのはは愚直に何度も、何度でも呼びかけ続ける。

 

「お願い! 教えて欲しいの!」

 

 その声が少女の心をさらにかき乱す。動揺する心を抑えつけるために、その呼びかけを否定する。自分自身に言い聞かせるために多弁になる。

 

「たとえ言ったところで何も変わらない。話し合ったところで、利害が一致しないなら、戦いは避けられない。あの管理局の魔導師はそれをわかっていたから、私と戦った。……あの魔導師には止められなかったの?」

「止められたよ! でも、それでも嫌なの! 何もわからずにただぶつかり合うなんて! それに、利害がどうとかなんて、話してみるまでわからないじゃない! だからわたしたちとお話ししよう!」

 

 少女の心にもう久しく受けていない感覚──心が温かいという感覚が呼び起こされる。なのはの言葉は、少女と敵対したくない、少女を肯定してあげたいと言う気持ち──善意で構成されている。

 いつぶりだろう。いつ、こんな温かさを味わったのだろう。かつては自分もこんな温かさに包まれていたことがあった。

 考えなくてもすぐに思い出せる。少女の人生において無償の善意を与えてくれた者など数人しかいない。そして、その中で一番大きく自分という存在を全肯定してくれた人は、誰よりも一番最初に包み込んでくれた人は。

 

「────ッ!!」

 

 

 

 なおも呼びかけようとしたなのはは、少女の変化に言葉を失った。

 柳葉のように細く端正だった眉は歪み、目には玉のような涙。閉じられていた唇は震え、その奥に見える歯は何かに耐えるように噛みしめられている。頬は紅潮し、体は小刻みに震え、のどから唸るような声が漏れる。

 泣き出しそうな子供が、そこにいた。

 

「ああああああああああああああ!!」

 

 少女は身を裂かれるような絶叫を迸らせ、なのはを睨む。

 

「どうして!? どうして敵のあなたが、優しく声をかけてくれるの! どうして母さんじゃなくて、あなたが!」

 

 認識できないほどの加速で、少女はなのはに一直線に突撃する。鎌がなのはを捉える直前、紙一重でユーノのシールドが発動される。

 しかし、少女の斬撃はシールドを切り裂いてなのはに迫る。

 そこでようやくなのはは我に返り、フラッシュムーブで回避。わずかに回避が間に合わずになのはは腕を切られた。

 細い腕に小さな創傷ができ、うっすらと血がにじみだす。少女は非殺傷設定をやめたわけではない。だが、それが不十分になるほどに混乱していた。

 

 少女は肩で息をしながら、なのはを見る。すがるように、睨む。

 が、頭を振ると、少女はなのはから視線を外す。ユーノはすぐに少女の意図に気がついた。

 

『なのは! 彼女は──』

『わかってる!』

 

 なのはは動き出し、少女とジュエルシードの間に割り込むように入る。。

 少女はなのはの声を意識から遮断した。それどころか、もはやなのはの存在そのものを無視して、ただジュエルシードを手に入れようとする。

 ユーノはバインドを、なのはは誘導弾を利用して阻止を試みるが、攻撃をしのぐのと相手を妨害するのではわけが違う。

 ついになのはたちの妨害をくぐり抜け、少女の手がジュエルシードに伸びる。

 

 

 

 

 

 なのはと少女が戦い始めた頃、地上ではウィルが使い魔と向き合っていた。

 使い魔はただウィルのみを見ており、主人の方には全く視線を送らない。主人への信頼の表れだ。

 

「あんなちびっこで、あの子に勝てると思ってるのかい?」

「どっちもちびっこだろ。まぁ、良い戦いはできるけど勝つのは難しいかな」

「へえ、無駄だとわかってるのにやるっての? 管理局ってのはそんなにお仕事が大切かい」

「無駄じゃないさ。その間に俺がお前を倒せるから」

「言うねぇ」

 

 お互いに拳を握って向かいあう。

 

「あん? あんたの得物は剣じゃなかったのかい?」

 

 不思議そうにする使い魔に嘲笑を向け、指先をくいっと曲げる。

 

「犬を躾けるのに、わざわざ刃物を使う奴がいるか?」

「狼だって言ってんだろ! 二度とそんな口がきけないようにしてやるよ!」

 

 挑発は成功。元から相手も近接戦が得意なタイプだとはわかっていたが、射撃魔法が使えない弱点を見抜かれて距離をとられて引き撃ちされる可能性は下げておきたかった。

 

 使い魔が疾ける。間合いは一足で半分、二足で完全に消失。ウィルは動かずに待ち受けた。

 使い魔は速度の乗った右拳を振るう。ウィルはわずかに顔を右に動かし回避する。と同時に肉体駆動によって、予兆のない左直突きを使い魔目掛けて発射した。使い魔の左手が阻むが、予想外の速度と威力を受け止めきれず、体の軸が崩れてゆらめく。

 しかし、使い魔は片足を軸として、衝撃のベクトルをいなしながら時計回りに一回転し、右の裏拳を放つ。ウィルは上体を反らして回避、後ろに倒れこみながら肉体駆動で右足を動かし、相手のあごを蹴り上げる。

 直撃。使い魔の顔がはね上がる。普通ならこれで決まり。

 

 ぎろりと、使い魔の眼がウィルを捕える。

 受けた衝撃などものともせず、右足を天へと伸ばし、仰向けのウィルに振り下ろす。かかと落としだ。

 勝負が決まったと思って油断していれば一貫の終わりだったが、あいにくウィルもそのような新兵ではない。倒れこむ直前に飛行魔法を唱えており、その体はわずかに浮いていた。かかとがふり下ろされる前に、仰向けのまま地面すれすれを飛行して距離をとる。

 

 距離をとって起き上がろうとした時、空に使い魔の姿を見る。

 使い魔はウィルのいる地点に向かって高く跳びながら、空中で前方に一回転すると、その勢いをも利用して再度かかと落としを放つ。体を丸ごと利用し、全体重を乗せたかかと落としだ。

 しかし、そんな隙の大きすぎる技──体を少しだけずらしてあっさり回避。かかと落としを決められたアスファルトが、粉々に砕け散る。

 ウィルは使い魔が立ち上がる前にローキックを放つが、使い魔は跳び上がって避けながらウィルの側頭部を刈るようにして蹴りを放つ。

 回避は間に合わない。とっさに左腕でかばうも、腕が嫌な音をたてる。威力を軽減できずに吹き飛ばされた。

 

 転がるように吹き飛ばされる最中、飛行魔法で姿勢制御。さらに右手を伸ばして近く街灯を掴み、体を静止させる。

 静止しようと強く握りすぎたのか、街灯を握りつぶしてしまった。後悔しつつそのまま引きちぎると向かってくる使い魔に向かって投擲する。

 人間離れしたウィルの膂力で投げられたそれは槍となって一直線に使い魔に向かう。

 

 使い魔はほんの少し跳び上がり、それを踏み台にしてさらに飛翔し、跳び蹴り。

 ウィルは避けながら飛び蹴りの脚を掴み、蹴りの勢いをそのままに使い魔を地面にたたきつけた。

 そのまま使い魔を踏みつけようとするが、相手も狼に変身してウィルの腕から逃れる。

 

 

 二人は再び、間をあけて対峙する。

 

 ウィルがくらったのは、たった一発の蹴りのみ。

 それもガードした──というのに、その左腕はいまだにしびれがとれない。折れてはいないが、ひびくらいは入っているかもしれない。

 使い魔の格闘技術はウィルよりも未熟だが、その一撃の威力も頑強さもウィルよりさらに上。一撃でもまともくらえば、その瞬間に敗けかねない。

 

(あまりにもタフすぎる! 長期戦になると肉体駆動の反動でこっちに先に限界が来そうだし……安全策はもうやめるか)

 

 一方使い魔も困惑していた。

 肉体駆動を用いたウィルの動きに、どう対処していのかわからないからだ。

 

(あいつの体はどうなってんだい。攻撃の気配が読めないから、まともに当たりやしない……)

 

 

 遠方からは少女たちが戦っている音が聞こえる。なのはがいつまでもつかはわからない。早く決着をつけなくては。

 ウィルは、一か八か、大技にかける決意をする。避けられると隙が大きいので、確実に決めるためにももう一度挑発でもしようか──と思った直後、絶叫がビル街に響き渡った。

 なのはでもユーノでもなく、少女のものだ。

 

(えっ! なに!? なのはちゃんどんな説得したの!?)

 

 そんなウィルの疑問は、対峙する使い魔が代弁してくれた。

 

「あのガキども、フェイトに何しやがった!」

 

 使い魔は胸を押さえながら、激怒していた。使い魔と主は魔力を供給するためのパスが繋がっており、それを通じて主の感情を感じ取ることができるという知識を思い出す。

 使い魔の目に獣の凶暴さが宿る。主の異常を察知して、それを助けに行くために、強引にでもウィルを倒すつもりだ。

 風の速度で駆け、一直線にウィルに迫る。

 

 ──好都合!

 

 ウィルは真っ向正面から迎え撃つ。先に攻撃するだけなら容易だ。ウィルは肉体駆動を用いて、予兆なく、初めから最高速で攻撃できる。

 しかし、ウィルの通常の一撃で相手を倒せないのは、先ほどで証明済みだ。使い魔もそれをわかっているからこそ、こうして捨て身で飛びかかって来た。たとえウィルの攻撃を先にくらっても、それに耐えて確実にウィルに一撃をくらわせる。肉を切らせて骨を断つ戦い方だ。

 一撃で意識を刈り取らなければ、ウィルは負ける。

 

 そのためにウィルが選んだ攻撃方法は、とびひざ蹴りだった。左足で地を蹴る。右足を折り曲げて、膝を前方に突き出す。

 そして最後の仕上げに両足のハイロゥから圧縮空気を噴出させた。音速を突破する加速力を受けて、ウィルの体そのものが弾丸と化す。

 

 右ひざが使い魔のあごを撃ち抜いた。

 

 ウィルは即座に飛行魔法で姿勢を変え、両足を前に出してエンジェルハイロゥの噴射で減速する──が、勢いを完全に殺すことはできず、そのまま前方のビルに窓から突っ込む。ガラスを突き抜けた先のオフィスでぎりぎり止まれたが、ハイロゥから噴出される圧縮空気のせいで部屋の中は滅茶苦茶になった。

 明日オフィスに来た人たちの苦労を思いながら飛び降り、倒れている使い魔に近づく。

 普通の魔導師相手に使うには危険すぎる一撃。

 格闘戦の時の攻撃や防御の強さ、そして使い魔だということを加味して威力を調節したこともあり、使い魔は無事に気を失うだけですんだようだ。

 

 気を失った使い魔を小脇に抱えて、なのはたちの所へ向かおうとしたその時、ビルの間から光の柱が立ち昇った。

 

 

 

 

 

 ジュエルシードを回収しようとする少女と、防ごうとするなのは。両者が同時にジュエルシードに手を伸ばしたことで、封印されていたはずのジュエルシードは再活性を始めた。AAAランクの魔力を持つ魔導師二人の魔力を受けて活性化したジュエルシードから、莫大な魔力が噴出する。

 周囲の魔力素全てが一瞬で揺り動かされ、揺り動かされた魔力素がさらに周囲の魔力素を揺り動かす。大規模な魔力によって生み出される波──魔力波だ。

 巨大な魔力波は、結界を砕き、空の雲を吹き飛ばし、さらには空間自体を揺り動かし始める。

 

 間近で波を受けた主たちを守るため、それぞれの持つインテリジェントデバイスが、自動で防御魔法を唱えた。

 波は防御魔法をも破壊し、デバイスを半壊させて、なのはと少女を吹き飛ばす。

 少女はデバイスが使えなくとも、自分の飛行魔法で姿勢を制御し、無事に地面に降りる。

 なのははレイジングハートの補助がなくなったせいでふらつくが、空中でフェレットから人間に戻ったユーノに抱きかかえられ、無事に地上に降り立った。ユーノはなのはを助けると同時に、壊れた結界を再度張り直す。

 

 ジュエルシードはいまだに活性化のまま魔力を吐き出し続ける。

 少女は壊れかけたデバイスを待機状態にすると、ジュエルシードの元に駆けつけ、素手で封印を試みる。しかし、暴走する魔力を抑えきれず、握る両手を中心にバリアジャケットが破れていく。

 ジュエルシードから迸る魔力は、少女の体内の魔力にも影響を与え、全身に内側から刺し貫かれるような耐えがたい激痛が走る。

 

 その少女の両手に、そっと両手が添えられた。

 少女が顔を上げると、そこにはなのはの姿。なのはもまた、自身の魔力を送り込み、ジュエルシードを封印しようとする。

 そして、二人の少女の傍にはユーノが立ち、少女たちを包み込む空間を形成する。温かな光に包まれ、少女たちの痛みを和らげる。

 『ラウンドガーダー・エクステンド』──肉体と魔力を回復させる、ユーノのオリジナルスペル。

 ほどなくして、ジュエルシードは封印された。

 

 

「えへへ……大丈夫?」

 

 なのはのバリアジャケットは、少女と同じようにぼろぼろ。しかし、なのはは気にせずに少女に笑いかける。

 笑みを向けられた少女は、疑問を口にする。

 

「どうして……? どうして、あなたはそんなになってまで私を気にしてくれるの? 私とあなたは出会ったばっかりで何の関係もないのに」

「気にするよ。だって、そんなに悲しそうなんだもん」

「それだけ、なの?」

 

 目の前にいる少女はたったそれだけのことで自分に優しくしてくれる。それが嬉しくて、悲しくて、また泣きそうになるのをこらえる。

 

「私は……私の名前は、フェイト・テスタロッサ」

「え? え……っと、フェイトちゃんって呼んでもいいかな?」

 

 少女──フェイトはうなずきながらおずおずとしながらも言葉を続ける。

 

「私はジュエルシードを集めないといけない──それは絶対に譲れない。……でも、そんな私でも、あなたたちと話をしてもいいかな?」

 

 なのはは言葉の意味をすぐには理解できず、ポカンとしていた。数秒たって、ようやく理解すると、跳び上がって喜んだ。

 

「もちろん! それじゃあ早速ウィルさんと使い魔さんを呼んで来ないと──」

「呼んだ?」

 

 なのはたちの近くにあるビルの壁の裏から、ウィルの声が聞こえた。

 

「わっ! いつからそこに!?」

「なのはちゃんとその子が向かいあって話しているところから……なんだか良い雰囲気で、邪魔しちゃ悪いかと思って」

 

 片手で使い魔の襟首をつかみ、ずるずると引きずりながら、近づいてくる。

 

「アルフ!」

 

 ぐったりとしている自らの使い魔に、フェイトは顔を青くしてその名を叫ぶ。

 駆け寄ってくるフェイトに、使い魔を──アルフを見せる。

 

「安心してくれ、命に別状はないよ。軽く看てみたけど、怪我もほとんどない。どれだけ頑丈なんだ」

「良かった……」

 

 本当に良かったと、ウィルも胸をなでおろす。

 人工生命である使い魔でも生命に変わりはなく、命には代わりはない。それを損なうような真似はしたくないし、たとえ犯罪者であっても目の前の幼子から大切な存在を奪うようなことまではしたくない。

 打算的なことを言えば、優秀な使い魔を作った魔導師は使い魔に提供するために自分の魔力をそがれてしまうのだが、これだけの使い魔を作ってなおフェイトはウィルと渡り合うほどの力を持っていた。

 もし使い魔に何かあれば、使い魔という()を外した恐るべき魔導師を相手にするはめになっていたかもしれない。

 

 フェイトは使い魔の無事を確認してほっとして体の力が抜けたようで、その場に尻もちをつく。

 ウィルは彼女がはっきりと感情を現わしているのをみて驚く。先ほどまで無表情だったのにこの短期間に何があったのか。今の彼女は年相応の少し気弱な女の子に見える。

 

「さてと、一応こいつは人質だ。こっちの要求を聞いてくれれば、きみに返そう」

「……ジュエルシードなら渡します」

「そんな大それた要求じゃないよ。こっちの要求はさっきから伝えている通り。でも念のためにもう一度言おうか。──さあ、なのはちゃん。どうぞ」

「わたし?」

「なんかさ、ここで俺が言うと、おいしいところを持って行ったみたいじゃない?」

「そ、それじゃあ……」

 

 こほん──と軽く咳をして、なのははあらためて少女に向かいあう。

 

「わたしたちと、お話ししよう?」

 



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嵐の前の静けさ

 勉強と訓練漬けの一週間を終え、なのはは久しぶりに小学校に通い始めた。

 

 一週間ぶりのクラスの様子は、大人の視点ではあまり変化していないように見えても、当の子供たちにとっては大きく異なる。とある男子が女子を泣かせただの、それを聞いたアリサが逆に男子を泣かせただの、わずか数日のうちにいろんなことがあったようで。盛り上がる話題についていけずにかすかに疎外感。

 

 親友のアリサとすずかと一緒に昼食をとりつつ、自分が休んでいる間の出来事をいろいろと教えてもらった。そして二人がどんな風に一週間を過ごしたのかも。

 けれど、なのはからは二人には何も言うことができない。月村家はすでに魔法関係のあれこれをウィル経由で認識しているため、そこの娘であるすずかには伝えても良かったのだけど、すずか自身がそれを断った。「アリサちゃんが知らないのに、わたしだけ教えてもらうのは駄目だよ」と。そして「いつか話してもよくなった時に、二人一緒に教えてね」とも。

 とはいえ、いつになってもアリサに魔法を教えるわけにはいかないのだが。

 でも、これだけは言ってもいいんじゃないか──そう思って、なのはは二人に一つだけ教える。

 新しい友だちができたことを。

 

 

 学校から帰ったなのはは、自分の部屋にかばんを置いて着替えをすませると、急いで翠屋へ向かった。

 店の扉を開ければ、店内には二十人程度の客の姿。あと一時間もすれば、学校帰りの学生客が増えて忙しくなるが、この時間帯にいるのは顔見知りで年配の常連が多い。

 なのはは店内を見渡し、先に来ていた友達たちが囲むテーブルを見つける。

 駆け寄ろうとしたその時、それを咎める声がかかった。

 

「お客様、店内で走るのはおやめください」

 

 店の奥からトレーを片手に翠屋のエプロンをつけたウィルが現れる。服の端にわずかに濡れた跡があるので、先ほどまで皿洗いでもしていたのだろう。

 ウィルはエスコートするようになのはを件のテーブルへと導くと、音もなく椅子を引き、新しいカップに紅茶を注ぐ。

 テーブルの中心には切り分けられたラズベリータルト。紅茶はラズベリーティー。

 席に座っているのは、この一月で友達になったはやてとユーノ。そしてつい数日前に新しく友達になれたフェイトだ。

 

 

 

 

 オフィス街での戦いの後、落ち着いて会話のできる場所を求めて、一行はカラオケ店に寄った。

 ウィルは何かあった時のためにと、はやてにある程度の金銭を渡してもらっている。おこづかい制のヒモだ。

 

 話ができる場所なら高町家か八神家でも良いのではという意見も挙がったが、どちらも彼らにとって身近な人たちがいる場所。話し合いが決裂して再度敵対した場合に巻き込まれる可能性を考えて却下になった。

 

 もっとも、その心配は杞憂ではあっただろう。

 なのはのレイジングハート、フェイトのバルディッシュは、ジュエルシードから発せられた莫大な魔力のせいで機能を停止してしまった。両方ともわずかながらコアが損傷。幸いどちらのデバイスにも強力な自動修復機能があるので、魔力さえ込め続ければ一日もあれば直るようだが、なのははいまだデバイスがなければうまく魔法を使えない。

 フェイトはデバイスなしでも魔法は使えるが、ジュエルシード捜索のためにおこなった魔力流操作の影響で体力・魔力ともにこの中の誰よりも消耗している。

 ユーノはなのはとフェイトにかけた回復魔法に気合を入れすぎたのか、回復のためにフェレット状態になっている。

 使い魔はいまだ気絶中で、ウィルの背中に背負われている。

 そしてウィルも肉体駆動の使いすぎで体中の筋肉が悲鳴をあげているし、使い魔の攻撃を受けた左腕は痛みがひかない。

 仮に話し合いが決裂したとしても、全員わりと満身創痍。今日は解散して日を改めて戦いましょうとなりそうな状態だ。

 

 

 カラオケ店についた時には、すでに午後八時前。小学生は九時以降は入店禁止のため、一時間だけとする。それに二時間だとはやてに貰っているおこづかいもオーバーする。

 部屋に入ると、なのははさあ話し合いだと意気ごみ満タンで話し始めたが、フェイト自身が語ったこと、語れたことは非常に少なかった。

 

 フェイト・テスタロッサという名前。使い魔の名前はアルフ。ジュエルシードを集める目的は、必要としている人がいるから。なぜ必要なのかはフェイトも知らない。まとめてみれば、たったこれだけのこと。

 

 さすがにこれだけではいけないと、ウィルからもフェイトに質問したが、それでもわかったことは少なかった。

 

 地球に来ているのはフェイトたちだけであり、フェイトは何らかの組織に所属しているわけではない。地球にやって来たのは、ウィルたちと初めて接触した日(月村家のお茶会)の二日前。持っているデバイスのバルディッシュはフェイトに魔法を教えてくれた先生が作ってくれた特注品であること。

 

「ジュエルシードを必要としている人──きみに回収を命令している人が誰なのかは、話せない?」

 

 フェイトは申し訳なさそうにうなずく。隣のユーノが何かに気がつき、「あっ」と小さく声を漏らし、フェイトに訊く。

 

「もしかしたら、フェイトのお母さん? さっきの戦いの途中で、そんなことを言っていたよね?」

 

 ユーノの指摘でフェイトの息が途絶する。顔には驚愕。否定しようと口を開こうとして静止し、しばらくして諦めたのか、涙目でウィルを見る。

 

「私、顔に出てましたよね?」

「まあね」

 

 なのはが泣きそうになっているフェイトをなぐさめながら、ユーノを責める。ユーノはあたふたとしながら弁明する。

 

 そのやり取りを見ながら、ウィルはこれまでの情報をまとめる。

 フェイトが単独で来ている以上、犯罪組織が関わっている確率は低い。たとえ封印できない程度の魔導師でも複数人で連携すれば捜索の効率は上がる。フェイトが存在すら知らされていないということは組織的な関与はまずない。

 次にフェイトのデバイスであるバルディッシュの存在から、金銭的には潤沢であることがわかる。このような高性能なデバイスを作るには、十分な設備と費用が必要だ。だが金銭的に余裕があるなら人を雇わず単独で行動するのは疑問だ。

 導かれる可能性は二つ。

 管理外世界で行動するという非合法な行為に手を貸し、なおかつ裏切らないと信用できるような組織とのコネクションがない。

 もしくはジュエルシードの使用目的がそういった組織でさえ手を引くようなやばいものである。

 後者でないことを祈りたい。

 

「どうすれば良いんだろう……」

 

 なのはは頬に手を当てながら悩む。フェイト、ウィル、ユーノ、なのは、全員が納得するような折衷案を模索中。

 ウィルが一つ案を出そうと手をあげようとした時、ユーノが声を上げた。

 

「お互いにジュエルシードの捜査情報を交換して、協力して探すっていうのはどうだろう。今みたいにジュエルシードを見つけるたびに戦っていたら危険だよ。だから、二十一個のジュエルシードを全部集めるまでは、一緒に探したら良いんじゃなかって……どうかな?」

 

「わ、ユーノ君すごい! わたしは賛成!」

「私も、それくらいなら」

 

 なのはが真っ先に賛同し、フェイトもそれに続く。そして彼らの視線を受けたウィルは、

 

「俺も賛成。一時休戦だね」

 

 ウィルがあっさりとその意見を飲んだ理由の一つに、先ほどのジュエルシードのこともあった。

 ジュエルシードが引き起こした魔力波は、小規模ではあるが、空間に作用する次元震クラスだった。封印せずに放っておけばさらに大規模になっていたかもしれない。

 それを引き起こしたのが、たった一個のジュエルシード。同じものが海鳴にあと十個もある状態で、毎度毎度ジュエルシードの周りで争うのは危険すぎる。

 最悪、一個のジュエルシードに影響されて、残りのジュエルシードがドミノ倒しのように次々に活性化して、十個全てが活性化という事態も想定される。そうなれば海鳴が地図から消えることもありえる。

 管理局にとっては都合が悪いが、もともと輸送の事故はウィルの、ひいては管理局のミスでこの世界の人々には関係のないこと。さっさと回収して、管理局とフェイトたちという管理世界に住む者同士、この世界に関係ないところで決着をつけるべきだ。

 

 話し合いの結果、管理局の部隊が来るまでという期間限定で、両者の間に協定が結ばれた。

 お互い今まで通り別々に捜索をするが、毎日夕方に集まって、お互いのジュエルシードの捜索状況とその成果を教えること。そして、全てのジュエルシードの収集が終わるまでは、互いのジュエルシードには手を出さないことが決定した。

 

 

 その夕方の集合場所が、ここ翠屋だ。

 あれから毎日、一同はこうして夕方に集まって情報交換をしている。昨日などは、店が混んでいたので途中から高町家に集まった。なぜかはやても参加しており、もう誰も数日前まで敵だったことを気にしていない風に見える。

 

 互いの捜索状況を記した地図は書き込みだらけ。

 お互いの持つ情報を嘘偽りなく教えた結果、ほぼ毎日のようにジュエルシードが見つかって、現在はウィルとなのはが九個、フェイトが五個──合計して十四個のジュエルシードが見つかった。

 街の周辺と、山林方面の捜索はほぼ終了。残りは捜索が大変なことと、周囲にほとんど人間がいないので放っておいても大丈夫だろうと後回しにしていた海方面を残すのみ。

 

 そして今日の報告も終わりなのはたちはもうお喋りを続けている。

 

「こうしてフェイトちゃんと仲良くなれて良かった。これもおまじないのおかげかな」

「なのはちゃん、そんなこともしてたんや……」

「おまじない?」なのはの言葉に首をかしげるフェイト。

「あのね、自分の持ち物を机の上に置いて、秘密の呪文を唱えながら願いごとを三回書くの。それから、願いがかなうまで毎日身につけるんだよ。秘密の呪文はね──」

 

 フェイトはあの晩から、よく表情を見せるようになってきた。

 あまり世間ずれしていないようで、なのはのメルヘンな発言に感心しながら聞いている。隣でかなり微妙な顔をして聞いているはやてよりは、よほど普通の少女に見えるだろう。

 はやては童話や夢のある話が好きなくせに、意外とまじないなどを信じない現実主義な面がある。

 話は話、現実とは違うとはっきりとわけられるほど、精神年齢が高いのだろうか。

 それとも、おまじないや願いが、無意味で何の効果もないことを自分の身で知っているからだろうか。

 

 

 

 ウィルが皿洗いをするために調理場に戻ろうとすると、裏口からアルフが顔をのぞかせた。

 彼女はウィルを見つけると、目線はそのままに首を斜め上に動かす。「面を貸せ」と意訳できるジェスチャーだ。店長の桃子に一言断りをいれて裏口から出る。

 アルフは翠屋の裏に生える欅に背を預けながら待っていて、現れたウィルを見て眉尻を下げた。

 

「……悪いね、仕事中に呼び出して。体はもう大丈夫かい?」

「今日はいやに殊勝だな。悪いものでも食べたのか? 狼とはいえ飼われているんだから、拾い食いはしない方が良いぞ」

「むかつくやつだね。ちょっと気にしてあげたのにさ」

「こっちはいまだに首に違和感があるんだよ」

 

 

 話し合いが終わった後、まだ時間があったので何か歌おうか、せっかくカラオケに来たんだし、ミッドの曲は入ってないけど──などと言っていると、フェイトの隣で寝ていたアルフの目が開く。

 そしてウィルの姿を認めた瞬間その目に殺気が宿り、とび跳ねるように起き上がり、突撃。

 ウィルは後方に跳びはねるが、壁にぶつかってそれ以上下がれない。

 ユーノがチェーンバインドを発動。アルフの右腕をからめ捕る──が、引きちぎられる。魔力が減少した今のバインドでは、怒りに我を忘れているアルフは止められない。

 

「アルフ駄目っ!!」

 

 フェイトがいさめるが、跳びかかるアルフの耳には届かない。ウィルはとっさに両手をクロスさせて、防御する。

 アルフの一撃──下から打ち上げるアッパーは、防御したウィルの体を天井へとめり込ませた。

 

 その直後にフェイトがアルフをなだめ、これまでの経緯を語ったことでとりあえずアルフも落ち着いたが、首から上が天井にめり込んで体がぶらりと揺れている首吊りめいたウィルの姿は、幼い少女たちに若干のトラウマを植えつけた。

 当然カラオケ店には出禁に。天井の修理費は使い魔の責任を取るということでフェイトが出してくれたおかげで、はやてに泣きつかずにすんだ。

 

 

 そんなことがあったものの、アルフは相変わらずウィルのことはあまり良く思ってないようで、怪我のことを気づかうような言動をするのも今日が初めてだ。

 いつもと比べるとなんだか覇気に欠けている。街中をうろつく時は耳や尻尾は隠しているが、見えていればきっとしょんぼりと垂れているに違いない。

 

「それで、話は何だ?」

 

 アルフは問いかけにすぐには答えず、視線を彷徨わせる。

 

「どうせあんたたちは、最後には全部のジュエルシードを取り返すつもりなんだろ。だったら、今だけで良いから何個か貸してくれないかい?」

「無茶を言うなよ。それで必要な数が揃ったからさようなら、なんてことになったら目も当てられない。……何かあったのか?」

「フェイトに母親がいることは聞いてるんだろ。今日、そいつのところに報告に行ったんだよ。あんたらと戦いながらも五個も集めたんだ。フェイトもあたしも、きっとほめてもらえるって思ってた。そしたらさ、あいつ、いったいどうしたと思う?」

 

 うつむきながら語るアルフの表情は見えないが、歯を食いしばる音はウィルの耳にも届いた。

 

「フェイトを拘束して、鞭で叩き続けたんだよ! それも、何回も、何回も! 役立たずってののしりながらさぁ! なんでだよ! フェイトはあいつのためにずっと頑張っているんだよ。全然知らない世界で、こんなわけのわからない石ころを探せって言われて、理由も教えてもらえないのにたった一人で…………少しくらいほめてあげたっていいじゃないか」

 

 アルフの足元の土が、こぼれた涙で色を濃くする。

 使い魔がいるとはいえ、あんな子供を一人で管理外世界に送り込んでいる時点で想像はついたが、実際に聞けば胸糞の悪い話だ。

 

「かわいそうだとは思う。でも、たとえジュエルシードを渡しても、渡した時だけ優しくなるだけだ」

「じゃあ、どうすれば良いんだよ!」

 

 ウィルは一歩前に出ながら、声を荒げるアルフの頭に手を伸ばして抱き寄せる。うつむいたアルフの額が、ウィルの肩に乗る。

 主でもない人間に触れられ、アルフの体が一度大きく震える。だが、すぐに力が抜け、ウィルの肩にかかる圧力が大きくなる。

 

「……さわんじゃないよ」

 

 言葉で拒絶しながらも、力尽くで離れようとしない。アルフの精神は、それほどまでにに弱っていた。

 無理もない。使い魔は素体にした生物の特性は受け継いでも、記憶はほとんど受け継がない。アルフがフェイトに作り出されたのなら、長くても生まれて二、三年といったところ。どれだけ知識があったとしても、大人びた容姿をしていても、その精神はフェイトよりもさらに幼い。

 そんな幼子が、大好きな人がぼろぼろになっていくのを見ながらも止めることができないのは、ひどく酷なことだ。

 任務ではないが、これもまた問題だ。局員として、年上として、放置できない問題。

 

「フェイトの母親はどこにいる?」

 

 アルフは驚いたように顔をあげ、ウィルから離れようとするが、後ろの木に背をぶつけてそれ以上後退できない。

 ウィルはアルフの腕をつかみ、顔を寄せ、語り続ける。

 

「罪を犯す母親についていくことが幸せだと思うか? ジュエルシードを全て集めれば、フェイトが幸せになれると、本気で考えているのか? 管理局に手配されれば管理世界でまともに生きていくのは絶望的だ」

「それは……」

「フェイトが母親についていくことが望んでいて、自分から母親を見限らないのなら、誰かが母親の方を止めるしかない」

「そんなこと……わかってるよ! でもあたしじゃ無理──」

「俺がいる。そのために力が必要なら俺が貸してやる」

 

 ウィルの誘いは、アルフの脳に蕩けるような甘さをもって染み渡る。フェイトを救うためという大義名分がある。使い魔であるアルフの功績は、フェイトのものにもなる。管理局はフェイトがこれまでに犯した罪を軽減してくれるかもしれない。

 これはフェイトのため。裏切るわけじゃない。フェイトのためなんだから──

 

「無理だよ。あいつのいる所に行くには、向こうの転送装置の承認がいるんだ。部外者のあんたは行くことさえできやしない……から」

 

 理性的な理由で、アルフはウィルの提案を断った。

 

「そっか。なら、仕方ないな」

 

 ウィルは一歩さがると、ほほ笑みながらアルフの腕を離す。

 タイミング良く、活性化したジュエルシードの反応が感じられた。方角は海の方。これで十五個目だ。

 ウィルは振り向き、翠屋の裏口に向かいながら話す。

 

「それじゃあ、今まで通りジュエルシードの回収をするとしようか。でも覚えておいてくれ。気が変わったらいつでも協力するし、管理局との橋渡しくらいするから」

 

 アルフに背を向けたまま、ウィルは自分自身を嘲笑する。

 一人の男として、フェイトとアルフの置かれた境遇に何かできないかと思いながらも、そのために口から吐いた言葉はあまりに滑稽。

 個人の感情を優先させ、そんな人生が幸せでないとわかっていながらも、復讐を諦められられない。

 そんな自分が、どの口でフェイトの生き方を否定するようなことを語るのか。おかしすぎて涙が出そうだ。

 でも、ウィルは騙ることができる。他人事だからだ。

 

 

 

 

 ジュエルシードの反応は臨海公園からだった。

 久々のジュエルシードの暴走体は、公園の木がジュエルシードによって動くようになった、木の怪物だった。動いているとはいえ、以前の巨大樹に比べると見劣りする。

 

「フェイトちゃん! 一緒に封印しよう!」

「うん!」

 

 ユーノが張った結界魔法の中、同時に現場に到着した二人の魔法少女が、攻撃の届かない遠距離から攻撃。桜色と金色の砲撃が命中し、あっという間に封印。

 ウィルとアルフは何もすることもなく、ただ見ているだけだった。

 

 双方が同時に現場に到着したので、取り決め通りジュエルシード争奪のための戦いが始まる。戦いのために、ユーノが広域結界の範囲を変更。海側に拡大する。海上ならお互いに存分に戦うことができる。

 海上で向かい合うなのはとフェイト。その間に浮かぶユーノが、ルールの説明をおこなう。

 これは一種の模擬戦だ。ルールは「決闘の終了条件なんて、昔からお決まりだよね。最初の血が流れた時か、どちらかが死んだ時……つまり、最初に一発当てた方が勝ちってことで」というウィルの一言で方向性が決定した。

 

「それじゃあ二人とも。この勝負は、僕──ユーノ・スクライアが審判を務めるよ。ルールは、より早く相手のバリアジャケットを傷つけた方が勝ち。魔法は対象が何であれ対物設定は完全禁止。制限時間は十五分。時間内に決着がつかなければじゃんけんで──」

 

 アルフとウィルは、ルール説明をするユーノを眺めながら、臨海公園のベンチに腰掛ける。

 一応二人は何かあった時の抑え役なのだが、アルフなどは翠屋からもらってきたシュークリームを手に持ちながらなのはたちを眺めている。もはやただの観客だ。

 

「あんたはこの試合、どう思う」

 

 アルフはもしゃもしゃとシュークリームをほおばりながらウィルに尋ねる。

 

「実力ならまだまだフェイトの方が強い。なのはちゃんでは勝てないよ」

「ふふん、わかってるじゃないか。あんたが戦えれば、まだ可能性もあったのにね」

「でも、この勝負に限ってはなのはちゃんにも十分に勝機はある」

 

 首をかしげるアルフ。

 

「先に一撃当てれば勝ちだからな。フェイトの直射弾は軌道が読みやすいから回避も簡単だし、中途半端な威力なら、なのはちゃんの高い魔力にものをいわせたシールドを抜くことはできない。逆に、なのはちゃんが得意な誘導弾は回避するのが難しい。となると、遠距離を維持できればなのはちゃんの勝ち、接近戦に持ち込めばフェイトの勝ちだ」

「なんだい! 楽勝だと思ってたのに!」

 

 アルフはやけくそ気味に箱に残っていたもう一つのシュークリームを掴むと、「俺のシュークリーム!」というウィルの悲鳴を意に介さずがぶりとかぶりつく。

 勢いよくかぶりついたせいで、口とは反対側からクリームがにゅるんと飛び出して、アルフの膝を汚す。

 

「あーもうこの子は」

 

 いそいそと取り出したハンカチで拭う。初めて会った時はなかなかの美女だと思ったが、こうして接してみると身体だけ大きい手のかかる子供だ。

 

「食べたかったら舐めてもいいよ」

「羞恥プレイかよ」

 

 騒いでいるのが気になっているのか、こちらをじっと見ている三人に向かってなんでもないと手を振ってベンチに座りなおす。

 

「……そういえば、さっきの提案って、もしかして泣いてるあたしにつけこんで情報を聞き出そうとしてた?」

「人の親切心をなんだと……。それにしても……へえ、さっきアルフ泣いてたんだ。意外だな」

「なっ! あんたそれくらいわかってたんじゃないのか!?」

「アルフがうつむいていたから、はっきり顔は見えなかったよ。でも、アルフ自身が自分は泣いてたって言うんだから間違いないなぁ」

 

 シュークリームをとられた腹いせに笑いながらからかうウィル。

 アルフは恥ずかしさと怒りで言葉を失い、顔を髪色以上に真っ赤にさせてウィルをぽかぽかと殴る。

 

「ごめんごめん。痛いからやめてくれ」アルフの殴る勢いが増す。 「痛い痛いっ! 本当に痛いからやめてっ!」

 

 なのはとフェイトは、じゃれあうウィルとアルフを呆れたように、そして笑いながら見ていたが、ユーノの声で二人とも緊張感を取り戻す。

 

「二人とも、準備は良いね?」

 

 確認の声に両者ともにうなずき、デバイスを構える。ユーノは二人の邪魔にならないように、フェレットの姿になって距離をとり、大きく息を吸う。

 

「それでは、はじめっ──」

 

「そこまでだ!」

 

 結界内に、六人目の声が響く。

 なのはとフェイトの間に、少年が突然現れる。まだなのはたちとあまり変わらないような容姿の少年。背もなのはより少し高いくらいだ。

 少年の黒いバリアジャケットは、ウィルのものと形状は似ているが、首元は詰襟のようで、肩には大きな棘がついている。さらに、ところどころにはしる金属的なラインは、落ち着いたデザインの中に秘めた攻撃性を感じさせる。

 戦いを始めかけていたなのはとフェイトは、動きを止める。

 

「時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。双方とも武器をおさめろ」

 

 執務官の肩書きに、なのはは首をかしげ、ユーノは驚き、フェイトとアルフの顔には危機感が生まれる。

 ウィルは複雑な笑みを浮かべる。嬉しさ半分と──間の悪さに苦笑い半分。彼は間違ったことはしていない。今にもジュエルシードのそばで、お互いに戦い始めようとしているのだ、止めるのは当然。

 時空管理局の増援。しかも同期の中でも指折りの人間が来てくれたことは、本来ならば喜ぶべきなのだろうが。

 

「クロノ」

 

 友人に声をかける。どうしても言いたい一言を言うために。クロノはこちらを見ると、口元をにやりと上げて応じる。

 

「久しぶりだな、ウィル。すまないが、挨拶は──

 「空気読もう?」

 ──なんで!?」

 




主人公クロノがようやく登場して、ここから一期の後半戦です。
ちなみにこの作品の主人公は、ウィル、クロノ、なのはの三人でお送りします。


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次元航行艦アースラ

 時空管理局には執務官という役職がある。

 事件の捜査権と局員への指揮、指示権。管理世界における管理局法の執行権限──つまり一時的ではあるが現地法よりも管理局法を優先させる権限や、担当案件に関係する管理外世界への介入権など、極めて強力な権限を持つ。

 高い権限にふさわしく、求められる能力も並大抵ではない。多種多様な世界の法知識や文化への知見は前提だが、重視されるのは確実に事件を解決する戦闘能力、もしくは指揮能力だ。

 複数の世界に関わる事件においては、通常の権限に縛られた捜査官だけでは適切な判断を下せないがゆえに生まれた存在。

 それは管理局が築き上げた過去の実績と現在の信用と未来の期待を象徴する、管理局随一の花形部門だ。

 

 要するに今この場に現れた少年、クロノ・ハラオウンはこの場にいる誰よりも優秀で強い。

 

 ウィルがクロノに声をかけた時、フェイトは魔法を行使し始めていた。不意をつくつもりだろうが、クロノはウィルの方を向きながらもフェイトへの注意も怠っていなかった。フェイトの動きに呼応するように魔法を紡ぐ。

 そんな二人を見ながらウィルはアルフに告げる。

 

「管理局が来たから、約束通り休戦はここでおしまい。早くフェイトを連れて去った方が良いよ」

「見逃すつもりかい?」

 

 すでに戦うつもりだったアルフは、ウィルの態度に拍子抜けする。

 ウィルはハイロゥを起動。同時にバリアジャケットを身に纏いながら、その言葉に苦笑を返す。

 

「ここで取り押さえようとすると、なのはちゃんが反対して絶対にややこしいことになる。俺にはわかる」

「ああ……うん、そうだろうね」

 

 意図的に執務官の妨害をしたとなれば、本来なら民間協力者として称賛を受けるべきなのはの立場も一気に反転する。そんな事態は避けなければならない。

 

「だからジュエルシードだけで我慢しておくよ。もしフェイトの母親のことで気が変わったらいつでも連絡してくれ」

「だからそれは……わかったよ、覚えとく」

 

 

 フェイトがクロノへと放った魔力弾はシールドで容易に防がれる。

 しかし魔力弾は牽制にすぎず、真の狙いはその隙にジュエルシードを回収すること。

 クロノはフェイトの一連の動作にまるで動じず、冷静さを保ったままデバイスの先端をフェイトに向ける。

 

『Stinger ray』

 

 たった一発の魔力弾が放たれた。誘導性もない直射弾でありながら吸い込まれるようにフェイトの元へと向かい、展開したシールドをこともなげに貫通して直撃。

 スティンガーレイは威力は控えめだが速度と貫通力に優れた魔法だ。クロノのそれはウィルと比べてはるかに強力で、生半なシールドでは止めることすらできない。

 

 フェイトが体勢を立て直して再度ジュエルシードを目指そうとする頃には、クロノはフェイトを捕縛するための魔法の構築を終えていたのだが、

 

「ちょっと待って! わたしたち、別に戦おうとしてたわけじゃ……ええと……戦おうとは思ってたんだけど、それは別に本気の勝負ってわけじゃなくて──」

 

 射線上に身を躍らせたなのはの姿に一瞬の躊躇。

 

 その間にフェイトがジュエルシードに向かおうとするも、その横をハイロゥによって加速したウィルが駆け抜けて一足先にジュエルシードを確保した。

 彼の移動によって発生した衝撃波が臨海公園の木々の葉を吹き飛ばし、すぐそばを通られたフェイトもその影響を受けて姿勢を崩す。が、それを後から来たアルフが空中で掴んだ。

 

「フェイト! ここは引くよ!」

 

 言うやいなや海面に拳を叩きつけ、数メートルにも及ぶ水柱を上げて視界を遮断する。

 水柱が消えた時、彼女たちの姿は結界内のどこにもなかった。

 

 

「久しぶり。アースラが来てくれるなんて、ありがたいな」

 

 ウィルは挨拶をしながらクロノに近寄り、ジュエルシードを手渡す。

 

「アースラからでは彼女たちと敵対していないように見えたが、事情を説明してくれるか」

「金髪の少女はジュエルシードを無断で回収している。一緒にいたのは彼女の使い魔。管理局法を犯していることはわかっていたが、ジュエルシードの危険性とそれに対する戦力の薄さを鑑みて、最優先事項は回収と判断し管理局が来るまでという期限付きで協力していた」

 

 次に、海上のなのはを指さす。

 

「そこの女の子は偶発的な事故でこの事件に巻き込まれた現地の子だ。本人の強い意思もあって民間協力者としてジュエルシードの回収に協力してもらっていた。まだ魔法を知ってから一月程度で、次元世界に関する知識もほとんどない。説明する時にはそれを考慮にいれてくれると助かる」

 

 必要最低限なことだけを伝える。クロノは少し思案したようだが、ここで話をしても時間の無駄だと判断したのか、質問をせずにうなずいた。

 

「わかった。それ以上は艦長への報告の時に聞こう」

 

 少し離れたところからこちらを見ているなのはとユーノに、クロノが呼びかける。

 

「突然で申し訳ないが事件の詳細を把握したい。今から僕たちの船に来てもらいたいのだけれど、構わないだろうか」

 

 なのははきょろきょろと回りを見回す。

 

「わかりました……でも、船ってどこにあるんですか?」

「船はこの世界のそばの次元空間にとどまっている。行き来には転送装置を使うので僕のそばに集まってほしい」

 

 なのはたちがこちらに近づいてくるその段になって、クロノはようやく笑みという私的な表情をのぞかせ、ウィルにだけ聞こえるようにつぶやく。

 

「遅れてすまない」

 

 なのはたちがそばに来ると、クロノは再び執務官としての仮面をかぶり、右手を上げた。

 周囲に魔法陣が展開され、数秒後にはウィルたちの姿はこの世界から完全に消えた。

 

 

 

 視界が切り替わると、巨大な部屋の中にいた。高さだけでも十メートルはあり、確とした照明もないのに、部屋全体が薄い光に包まれて明るく照らされている。空気自体が淡く発光しているようだ。

 部屋の中心には大型転送をおこなうための魔法陣が強い光を放ち、ウィルたちはその手前に設置された足場に現れた。正面には道が続いており、その先にはこれまた数メートルはあろうかという巨大な扉があるが、いかんせん部屋が巨大すぎる上に扉まで距離があるせいで相対的に小さく感じられる。

 

「ねえ、ユーノ君、ここ……どこ?」

 

 なのはが見慣れない光景に委縮し、不安そうに尋ねる。

 

「時空管理局の次元空間航行艦船の中だと思う。僕も管理局の船には乗ったことはないから、はっきりとはわからないんだけど」

 

 歩き始めようとしていたクロノが足を止め、ユーノを見る。

 

「その小動物はきみの使い魔か?」

 

 その言葉に、ウィルが思い出したというようにポンと手を打つ。

 

「そう言えばユーノ君を紹介するのを忘れていたな」

「またですか……」ユーノ、しょんぼり。

「俺も悪気があったわけじゃない、許してやってくれないか」

「それは本人がいけしゃあしゃあと言うことじゃないですよね」

 

 ユーノはなのはの肩から飛び降りると、人間の姿に戻る。そして挨拶をしようとするが、クロノはそれを押しとどめた。

 

「なるほど。きみがユーノ・スクライアか」

「僕のことを知っているんですか?」

「当然だ。ジュエルシードの発掘者で、先行調査のために第九十七管理外世界への渡航許可をとっていたきみを、ジュエルシードの回収のために来た僕たちが知らないわけがない。きみにも聞きたいことはあるが、話は艦長の前でしよう。

 その前に、三人とも──次元空間航行艦船アースラへようこそ。歓迎するよ」

 

 歩き始めたクロノの後に付いて、三人も歩きだす。

 転送室を出てすぐに振り返ると、扉の近くには複数の言語で転送室という文字が浮かんでいた。

 寄港する場合を除けば、船自体が次元世界内に姿を現すことは実はほとんどない。たいていは次元世界の外に広がる次元空間で待機しつつ、先ほどの部屋にあるような転送装置を利用して魔導師という実働部隊や物資を送り込む。

 一度に何十人も転送でき、さらには船に備え付けられている高性能な各種レーダで観測できる場所であれば、ウィルたちが連れて来られたように船へと召喚することもできる。

 

 アースラの通路を歩いている時に、クロノが何かに気付いたように振り返る。

 

「いつまでもその姿というのも窮屈だろう。バリアジャケットとデバイスは解除してもかまわない」

 

 なのはは今になって気付いたようで、慌てて解除する。それを確認すると、クロノは再び歩き始めた。なのはがその背中に声をかける。

 

「クロノ君は解除しないんですか?」

「クロノ君……?」

 

 クロノはその呼び方に少しだけ眉をひそめるも、すぐに平静を取り戻し。

 

「僕はまだ任務中だ。艦内とはいえ、気を抜くわけにはいかない」

 

 顔だけで振り返って答え、その言葉通りに両方とも解除せずに、再び歩きだした。敵でない可能性が高いとはいえ、事情を聞くまでは完全に警戒を解くつもりはないという姿勢の表れだ。なのはたちは委縮してしまい、しばらく無言で通路を歩く。

 そんな中、ウィルがなのはたちに耳うちする。

 

「なんて言ってるけど、本当はあのバリアジャケットを気に入ってるんだよ。自分で考えたんだよあのデザイン。ほら、肩のあたりにトゲあるでしょ? あの光沢とか角度を決めるために、何日も悩んでたんだ。俺も当時巻き込まれてさ」

「いらないことは言わなくていい」

 

 先ほど現れたばかりのクロノと普通に会話しているウィルに疑問をもったのか、ユーノが質問する。

 

「二人はお知り合いなんですか?」

「士官学校の同期で、それ以来のつきあいだ」

「ウィルさんと同期……あの、クロノ君って何才なのかな?」

 

「十四才だ」とクロノが、「同い年」と続けてウィルが言う。

 二人とも声をあげて驚く。クロノは童顔な上に背丈もなのはより少し高い程度。

 ウィルの背丈は百七十センチメートルを越えていて、鍛えている分体格も良い。

 背だけでも頭一つ分以上異なる二人が並んでいると、とても同年代には見えない。

 

「あ……私、何か怒らせることをしちゃったのかな」

 

 不安そうにクロノの様子をうかがうなのはに、ウィルは笑いながら答える。

 

「気にしなくても良いよ。ただ、身長が低くて子供だと思われるのを気にしているだけだから」

「そんなことはない!」

 

 クロノは振り返りながら強い口調で否定する。が、ムキになって否定したことに顔を赤くさせると、また前を向いてずんずんと歩き始めた。

 その大人げない様子が緊張をほぐしたのか、先ほどよりも若干生ぬるい雰囲気で一行は艦長室へと歩んで行った。

 

 

 

 

「艦長、来てもらいました」

 

 クロノに続いて足を踏み入れた部屋の内部は、なんとも説明しがたい様相になっていた。

 執務机があるはずの場所には畳が敷かれ、屋内だというのに野だての用の和傘がその横に置かれていた。壁にはいくつもの盆栽が並び、掛け軸がかかり、極めつけにししおどしが部屋の隅に置かれていた。

 畳の上では茶釜が風炉にかけられており、その奥に管理局の制服に身を包んだ見目麗しい女性が座っていた。彼女は豊満な胸の前で両手をあわせると、帰って来た家族を迎え入れるように満面の笑みをうかべる。

 

「はじめまして、わたしがこの艦の艦長。リンディ・ハラオウンです。みなさんお疲れ様。どうぞ楽にしてね」

 

 アースラの艦長にしてクロノの母親でもあるこの女性は、まだ二十代半ばにしか見えないが、実年齢はそれより十は上だ。実は成長や老化が極度に遅い種族で、クロノの身長が伸び悩んでいるのもそのせいではなかろうかとウィルは勝手に疑っている。

 絶えない笑顔は一種のポーカーフェイスの役を果たしており、何を考えているのかを読み取るのは困難だ。

 クロノがリンディの横に座り、ウィルたちはその対面に座る。

 リンディ自らが点てた茶をご馳走になりながら、ウィルたちはこれまでの経緯を最後まで話し終えた。

 

「三人とも立派だわ」

 

 称賛するリンディとは対照的に、クロノは渋面を作っている。

 

「だが、同時に無謀でもある。特にウィルとユーノ、きみたちは一人で来るべきではなかった」

「お叱りはあまんじて受けるよ。でも、今回ばかりはその判断が功を奏しただろ?」

「たしかに封印できる者が誰もいなければ、被害の規模は現状の比ではなかった。その点ではきみたちの行動は称賛されてしかるべきだ──が、その行為が法にふれていることも事実だ。ウィルはロストロギアの輸送任務中で、輸送物に対して責任を持つ立場だったことを考慮すれば、許可なしに管理外世界へ介入したことも緊急的な措置だったと認められる。だが、管理外世界の住民に管理世界のことを教えたのは別の問題だ。さらにユーノ、きみが犯した管理世界の技術譲渡という罪は重い。デバイス一つとはいえ最低でも数年の懲役刑になるくらいだ」

 

 クロノの発言になのはが抗議の声をあげるが、ユーノは首を横に振ってそれを抑える。法を知らなかったわけではない。知った上で法を犯した。それが善意からであれ、悪意からであれ、その事実は変わらない。

 それになにより──

 

「覚悟はしています。それに僕は……僕の思慮が足りなかったせいで、無関係ななのはをこんな危険なことに巻き込んでしまいました。それに対する罰も加えればまだ軽いくらいです」

「ユーノ君……」

「本当に、立派ね」

 

 なのはが言葉につまり、リンディが慈しむように言う。

 ウィルはユーノの背中を軽く叩く。

 

「大丈夫、管理局は加点主義だ。事件解決への貢献と相殺しあって最終的にはそれほど重い罰にはならないと思うよ。なぁ、クロノ?」

「その通りだ」クロノもまた、優しげな笑みを浮かべる。 「脅すようなことを言ってすまない。状況を考えれば、きみのとった行動のほとんどには緊急避難が適応される。それにウィルの言う通りきみの行動は結果的にこの世界に対する被害を大幅に減少させた。足りない分があっても、きみのように優秀な魔導師であれば奉仕時間の方で大幅に贖うこともできる。無罪は無理でも懲役にまではなることはない」

 

 なのはがユーノの手をとって喜ぶ。ユーノはこの世界の人々のことを考えて、善意から行動したのだ。それが裁かれるなんて、なのはには信じられない。

 しかしユーノは安心したような表情と同時に、何か納得のいかないような複雑な表情をうかべている。

 その気持ちがウィルには少し理解できた。罪を覚悟していたユーノにとっては、罰が軽くなったこと自体は喜ぶべきことだが、本当にこれで良いのかと思ってしまう気持ちもあるのだろう。

 どのような事情があれ、罪は罪としてきちんと裁かれるべきではないのか──と。

 

「一旦休憩しましょうか」

 

 リンディの言葉に合わせるように、茶釜から湯気が出る。リンディは新たにお茶を入れ、そしてどこからか羊羹をとりだした。彼女の手製らしいそれは妙に甘かったが、苦い茶とよく合っていて、思わずにやけてしまうほどの出来だった。

 しかし、リンディが突然茶に砂糖を溶かしだし、甘い羊羹と甘い茶という組み合わせをおこない始めると、その胸やけしそうな光景にみな揃って視線を外した。

 リンディは羊羹を口に含むと、残念そうにため息をつく。

 

「少し薄味だったかしら?」

 

 

 

 一服が終わると、リンディは色を正して三人の方を向き、つられるようにウィルたちも思わず襟を正す。

 

「これからのことを話す前に、ジュエルシードについて、こちらでわかっていることを伝えておきましょう」

 

 説明の序盤は既知の情報ばかりで、おさらいのようなものだった。

 ジュエルシードは次元干渉型の結晶体で、生物の思念や魔力に反応して活性化する。その結果、内部に次元空間に繋がるゲートを作り出し、そこから得た魔力を周囲へと放出する。これが基本的な性質だ。

 さらに生物の思念に反応した場合は放出されるはずの魔力がその思念を実現するように働く──願いを叶えようとする。

 魔力に反応した場合は、ただ無差別に周囲に魔力を放出する。その場合、加えられた魔力の量によって、活性化のレベルも変化する。数日前のビル街では、AAAランクの魔力量をもつ魔導師二人に反応したため、非常に大きな魔力が放出された。

 その空間をゆがめるほどの魔力の波動は、次元世界では次元震と呼ばれている。

 

「私たちが今になって介入したのは、その時の次元震を観測したからなの。その凄まじさは、現場にいたあなたたちが一番よく知っているわね?」

「次元震ってなんですか?」

 

 なのはの疑問にクロノが答える。

 

「一定以上の規模を持つ巨大な魔力波につけられる名前だ。魔力素の振動、そしてそれを媒介として伝わる魔力波は、音波や電波に比べて波の減衰率が非情に低い。空間を移動する転移魔法や、次元世界間を移動する次元転移魔法が存在することからもわかるように、魔力素は重力子のように空間や次元の制約を受けにくい。だから、大規模な魔力波──次元震は、次元空間を介して近隣世界にも被害を与えるんだ。魔力素の大規模な変化は天候や地殻にも大きな影響を与えるから、次元震の周囲では空は暴風が吹き、海は荒れ、地は揺れ動く。次元震の影響下では座標が安定しないから転送魔法で外部から救助することもできない──」

「あの……クロノさん。なのはの頭がオーバーヒートしそうなんで、もう少し簡単に……」

 

 ユーノの懇願に、クロノは困った顔をする。

 

「ひとまず、次元震は文明を滅ぼしかねない恐ろしい災害だと思ってくれれば良い。そしてきみたちが体験した次元震は、ジュエルシードの何万分の一かの力が解放されただけにすぎない」

「あれで万分の一!?」

 

 思いもかけない言葉に、ウィルの声が思わず裏返った。

 最悪の展開として街が消える程度の被害は想像していたが、それはまだ楽観的だった。あれで万分の一なら、たった一個でも完全に発動すれば日本は間違いなく滅ぶだろう。ましてや二十一個全てが揃えばその被害は地球だけでおさまる規模ではない。

 その考えを読み取ったかのように、リンディは話を続ける。

 

「輸送前に採られたデータを古代遺物管理部で解析した結果、いくつか判明したことがあるのよ。あなたたちが今まで経験してきたのは、ジュエルシードを使用するための準備段階にすぎなくて、本来は複数個で使用することを前提に作られているみたい。活性化したジュエルシードを互いに干渉させ合い、それによって発生するエネルギーによってさらに強く活性化させる。そしてそれらをまた干渉させて──それを繰り返すことで徐々に活性化の段階を上げていく。やがて完全に解放されたジュエルシードのエネルギーは空間に干渉して、次元世界規模で大規模な変革をひき起こす。それがどれだけの規模になるのかはわからないし、そんなことをして破壊以外の結果が生まれるのかもわからない。でも、まず間違いなく大規模な次元震が発生……もしかしたら、次元断層を発生させてしまうかもしれないわ」

 

 ウィルとユーノが絶句する。二人の脳裏に浮かんだのは百二十二無人世界──二人が一月前までいた、砂のみ世界だ。あの世界は五百年前──旧暦四百六十二年に発生した次元断層によって滅びたことが、調査によって判明している。もしかすると、このジュエルシードこそがあの世界を滅ぼした元凶なのかもしれない。

 ほんの少し何かを間違えただけで、地球があの世界のようになっていたのかもしれない。自分たちが気づかぬうちに薄氷の上を歩いていたことを知り、ウィルとユーノはぞっとした。

 

 一方、そんな二人の心中を知らぬなのはは、首をかしげながらクロノに問う。

 

「次元断層?」

「あまりにも大きすぎる次元震によって生みだされる、空間の亀裂のことだ。次元断層は正常な空間が膨大なエネルギーで無理やり引き裂かれたものだから、元の正常な状態に戻ろうとして再び動きだすんだ。そのためにまた空間を動かすわけだから、それにともなって次元震が発生してしまう。でも、断裂は大きいからそう簡単には直らない。そのせいで、次元断層のそばの世界は、完全に閉じるまでの数十年から百年の間、ずっと大規模な次元震にさらされ続けることになる」

 

 相変わらず小難しい説明だったが、なのははなんとか理解したようだった。

 

 ウィルは説明を聞きながら、後悔していた。それほどまでに危険な代物なら、一個でもフェイトに渡すべきではなく、なのはたちの不興をかってでも彼女たちから奪っておくべきだった。

 リンディの言葉は単に危険性を示しているだけではない。フェイトがジュエルシードを複数個集めていること、そして現在五個所有していることを考えると、それが実際に起こる──今すぐにでも起こされる可能性は十分にある。

 もちろん五個集めたのにフェイトが叱られていたというアルフの話を聞く限り、今すぐ作動させる可能性は少ないはずだが。

 

 リンディが真剣な表情で、再び話し始める。

 

「そんな事態は、絶対に防がないといけないわ。でも、今の話は推測にすぎなくて詳しいことはまだわからないのよ。だから、あなたたちが持つジュエルシードをアースラで預かって解析したいのだけど良いかしら?」

 

 そんなことを聞いた後で断るわけもなく、十個のジュエルシードはそのままアースラに預けられることになった。

 

「では、これよりジュエルシードの回収は、時空管理局が責任をもって遂行します。なのはさんとユーノ君は、今まで良く頑張ってくれたわ。後は私たちに任せてちょうだい」

 

 なのはは思わず身を乗り出す。

 

「あの、このまま手伝っちゃだめですか?」

「これは時空管理局が起こした事件だ。これ以上民間人を巻き込むわけにはいかない」

 

 クロノがあっさりと斬って捨てた。

 

「でも……」

「急に言われても気持ちの整理もつかないでしょうから、今日は帰ってからゆっくり考えてみて。できれば、ご家族ときちんと話し合った方が良いわ。……そうね、今回のことでなのはさんのご両親にはいろいろと説明しなきゃいけないし、できれば明日にでもご両親とお話ししましょうか」

 

 どうせなら高町家にだけでなく、他の関係者──すなわち月村家とはやてもまとめて、一度に説明する方が楽だ。ということで、ウィルには両家&はやてと相談して、会談の時間と場所を決める任務が与えられた。

 

「ウィル君はできる限り早く報告書を提出してちょうだい。それと、あなたの立場はアースラに保護されたという形になるのだけど、解決するまでの間はいろいろと協力してもらいたいの。立場上、あまり積極的に活動してもらうわけにはいかないけれど、かまわないかしら」

「もちろんです。報告書はすでに完成していますから、今日の分を書き足せばすぐにでも提出できますよ。デバイスが壊れているので、アースラで修理をお願いしたいのですが、その許可をいただけますか」

「了承。申請書は後日で構わないわ」

「なのはちゃん、ユーノ君、ささっと報告書を書きなおすから、少し待っててくれるかな。クロノ、その間にアースラの中を案内してあげたらどうかな。ついでに俺のデバイスを修理に出してくれたりするとと助かるよ」

 

 ウィルは腕輪状態のF4Wをはずして、クロノに投げ渡す。受け取ったクロノは苦笑。

 

「執務官になってから、使いっぱしりにさせられたのは初めてだよ」

 

 

 

 

 三人が出て行った後、リンディと二人きりの艦長室で、報告書を書き続けながら、話をする。

 

「リンディさんやクロノが来てくれたのなら、もう事件も解決したようなものですね。俺にとっては、他のどんな部隊が来るよりも心強いです」

「あらあら、照れるわね」

 

 ハラオウンは数代にわたって提督を輩出し続けている、管理局の名家だ。百年にわたり築き上げたコネクションは管理局内に留まらない程に広く、次元世界で最大規模の宗教組織『聖王教会』にもコネクションがあるという噂もある。

 そんなハラオウンも、十年前にクライド・ハラオウン提督──クロノの父親が死亡したことで一時期はその勢力を減じていた。

 それでもいまだに大きな影響力を維持しているのは、クライドの伴侶であるリンディが自ら提督として活躍を続けていること。そして、これまた海の名家であるロウランをはじめとする大勢の有力者と良好な関係を築いていることが大きい。

 

「それに、アースラ以外が来ていたら、俺は捜査から完全にシャットアウトされてたかもしれません。俺は海にとっては憎たらしい人の養子ですし。ここまで首をつっこんだ事件に最後まで関われないのは、やっぱり嫌ですから」

「なのはさんもそういう気持ちなんでしょうね」

「責任感が強い子ですからね。彼女の家族もそういうことに理解のある人ですから、彼女が強く望むのなら許可すると思いますよ」

 

 リンディは、その時初めて困ったような顔を見せる。

 

「本来なら倫理的な面でお断りするのだけど、彼女の高い魔力はジュエルシードの封印にとっては非常に有効なのよね。強い意思があるのなら、お断りして勝手に動かれるよりは、こちらの指揮下で行動してもらった方が安全かもしれないわ」

「なら、なのはちゃんもアースラで生活することになりますか」

「あくまでもなのはさんが望めば、ね。そうそう、家族と言えば、ゲイズ少将が心配してらしたわよ。私たちが担当に決まった時に、わざわざ連絡してきたくらい」

「親父が?」

 

 リンディは何かを思い出したのか、クスクスと笑いながら話す。

 

「ええ。息子のことをお願いしますって。おかげでレジアス・ゲイズに頭を下げさせた女って本局で噂になっちゃった♪」

「なっちゃったって……ははは……親子ともどもご迷惑をおかけします」

 

 ウィルの養父、レジアス・ゲイズ少将は、ミッドチルダ地上本部でも有数の本局嫌いとして有名な人物だ。

 彼と海の関係は最悪に近い。レジアスは海がたびたび優秀な人材を陸から引き抜いていくこと、陸海間の予算不均等に血管が破裂せんばかりに怒っており、公の場でも歯に衣着せずに海を批判する。

 そんな人物が海側の人間に頭を下げたとなれば、良くも悪くも話題になる。

 

「子供の頃は何も考えてませんでしたけど、よく考えたら俺がリンディさんやクロノによくしてもらってるのって結構まずいですよね」

「今はまだ、そんなことは気にしなくて良いのよ。だいたい、同じ組織なのにいがみあってる現状の方がおかしいんだから。なにより、私はあの子に気の置けない友達がいることが、とても嬉しいの」

「子供としてはそうやって大人の優しさに甘えるのってなんだか抵抗感あります」

「親としては甘えられた方が嬉しいわ。たとえ他所の子でもね」

 

 リンディの暖かな視線が少し恥ずかしく、ウィルは思わず顔をそむけた。

 

 

 

 三人が転送装置で臨海公園に送り届けられた頃には、すでに日は暮れていた。戻って来た翠屋には、士朗と桃子だけではなく、恭也と美由希も集まっており、帰りが遅れるなら連絡くらい入れろと三人とも怒られた。

 しかしこれ幸いと全員に事情を説明し、電話を借りて月村家にも事情を伝えて日程を決める。その結果、会談は明日の午後から月村邸でおこなうことになった。その旨を下船する時に受け取った通信機でアースラに伝え終えると、ウィルは翠屋に待たせていたはやてと一緒に八神家に帰る。

 今日で一旦お別れだというのに、その帰り道はなんの変哲もない、いつも通りの帰り道だった。

 ただ、

 

「これからどないするの?」

「この事件が解決するまでは艦の方で待機することになる。管理局が来たからにはもう安心だよ」

「ん、わかった。……ジュエルシードを集めたら、帰ってしまうんやね」

「そうだね」

「そんで、もう来れへんの?」

「多分ね」

「……そっか」

 

 そんな短い会話が加わっただけ。

 家に着いて、遅めの夕食を食べる。その日の夕食は、いつもよりほんの少し豪勢だった。

 部屋に戻り、荷物をまとめる。もともと身一つでこの家に厄介になったのだから、せいぜい衣類と歯ブラシくらい。寝るまでの時間をたっぷり使って、部屋の掃除をおこなった。この家から自分の痕跡を消すように。

 

 

 翌日の月村邸での会談には、まだ子供のすずかを除いて両家の関係者全員が集合した。

 アースラ側は、クロノが武装局員と共にジュエルシードの捜索に乗り出しているため、リンディが一人で訪れた。

 

 なのはとユーノはこれ以上は事件に関わらないことになった。

 なのはが手を引いたことは、ウィルにとっては意外だった。すっぱりと諦めたわけではなく、何かに悩んでいるように感じられたので、注意しておこうと心に刻む。

 ユーノは事件解決まで高町家に残留することになり、意外にも恭也がそのことをとても喜んでいた。一つ屋根の下で暮らしているうちに男同士で仲良くなったようで、恭也曰く「弟ができたようで楽しい」そうだ。

 

 ジュエルシードによってこの街が負った被害の補填、管理世界のことを知った両家に対する事件解決後の対応など、問題はとうてい一日の会談だけでは終わらないほどに山積みだ。

 よって、そういった政治的な話は事件が解決した後に時間をかけて決定することになり、

 会談が終わると、ウィルはそのままアースラに向かった。

 

 

 

 

 

 会談後、はやては士朗に車で送ってもらって帰宅する。

 士朗たちに夕食に誘われたが、断った。ウィルが来てからは食材を二人分買っていたので、はやて一人では食べきれない程の食材が冷蔵庫の中に残っている。傷む前になんとかして使いきらなければ──と言うのは口実にすぎず、なんとなくそんな気分ではなかっただけだ。

 家に帰って夕食を作ろうとするが、どうにもやる気がでない。集中できない。別段何かを考えているわけではないのに、時折ぼうっとしてしまう。

 なんだか夢を見ているみたいだ。いや、この一月が夢だったのかもしれない。

 

 料理にもそんな気持ちが反映してしまう。

 

「あかん、煮崩れしとる」

 

 食べるのが自分だけで良かったと考えながら、棚から食器を出そうとして、いつものようにウィルの食器を一緒に取り出してしまう。どれだけうっかりしているのかと、自分に苦笑しながらウィルの分だけをしまっていく。

 食器棚の中には、以前よりも少し増えた食器が並んでいる。ウィルがこの家にいたことを示す、数少ない痕跡だ。

 

 彼がこの家に来てから変わったことはいくつかある。

 一月前までは自由に使っていたソファーは、彼が来てから自然と位置が決まり、今では何も考えずとも自然と決まった位置に座ってしまうようになった。家事は二人で分担していたので、以前に比べると空き時間が大幅に増えていた。

 でも、そんな目に見えない変化は、一人の生活に戻ればどんどん消えていくだろう。

 残った物といえば食器くらい。これがなくなれば、この家に彼を連想させるものはなくなってしまう。夢のようだった一月が、本当の夢になってしまうかもしれない。

 

 いっそ、捨ててしまうのも良いかもしれない。

 見るたびに、思い出して泣きそうになるくらいなら。

 楽しかったこの一月と、これからを比べてしまうくらいなら。

 

 ほうとため息をつく。

 

「この家も、また広うなるなぁ」

 



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後悔しない選択を

 なのはが日常に戻ってから数日がすぎた。

 

 その日、高町夫妻は翠屋、子供三人は学校で、高町家にはユーノ一人が留守番として残されていた。

 これまでは毎日ジュエルシードの捜索のためにウィルと一緒に出歩いていたが、管理局に全てを任せると決めた以上、やることはない。

 

 窓から見える空模様はコンクリートを溶かしこんだような陰鬱な塩梅。なのはは傘を忘れずに持って行ったかなとユーノが心配した時、玄関が開き、なのはが帰ってきた。

 

「おかえり」

「うん……ただいま」

 

 声には張りがなく、眉は八の字。落ち込んでいることがまるわかり。ユーノが何か話す前に、自分の部屋へと上がって行く。

 なかなか降りてこないなのはが心配になり、部屋の前まで行きドアをノックする。

 

「なのは、入って良い?」

「…………いいよ」

 

 返事を待ってドアを開けると、なのはは着替えもせずに、ベッドに仰向けに寝転がっていた。

 

「どこか具合でも悪いの? それとも、学校で何かあった?」

 

 なのははゆっくりと上半身を起こすと、悲しげに笑う。

 

「ちょっとアリサちゃんに怒られちゃって」

「喧嘩したの? どうして?」

「多分、わたしが最近うじうじしてたからだと思う」

 

 なのはは月村邸での会談の後から、ずっと心ここにあらずといった様子。ユーノがアースラに行かず高町家に残ったのも、それが原因の一つだ。

 ユーノだけではなく、なのはに親しい者は薄々気付いていた。そして詳細はともかく、何について悩んでいるかもおおよそ想像はついていた。

 

「やっぱり管理局を手伝いたいから?」

「うん。……ううん。わからないの」

 

 士朗や桃子は少し考える時間を与えた方が良いと言っていたが、こんなさまを見て放っておくことはユーノにはできなかった。学習机の椅子に座り、ベットに腰掛けるなのはと向き合う。

 

「なのはが悩んでいること、僕に話してみて。うまくアドバイスできるかわからないけど、相談にのるくらいはできると思うから」

 

 なのはは迷うような素振りを見せた後、ぽつりぽつりと話し出した。

 

「わたし、魔法に出会えたことがうれしかったんだ」

 

 それを皮切りに、なのはは幼い頃の自分のことを語り始める。父親の士朗が大きな怪我を負って入院したこと。変化した家庭と、その中で自分が感じたこと。それから、人の役に立ちたいと願うようになったこと。

 

「小さい頃のわたしは、人を助けたいって思ってもなんにもできなかったの。それが嫌で、頑張ってたくさんの人を助けることのできる大人になろうって思ってた。でも、最近怖くなっていたの。このまま大きくなってもたくさんの人を助けられるようにはなれないんじゃないかって。お父さんとお兄ちゃんはすごいんだよ。とっても強くて、いっぱい困った人を助けてる。お姉ちゃんだってそう。お母さんは……言わなくても、ユーノ君ならわかるよね」

 

 ユーノはうなずいた。翠屋の客の顔を見ていれば、桃子がどれだけの人を笑顔にしているのか、どれだけの人を助けているのか、わからないはずがない。

 

「わたしもみんなみたいになりたいって思ってた。でも、できることが増えるたびに、みんなとの差がはっきりとわかるの。わたしは運動なんて全然できないし、料理だってあんまり上手くない。みんなみたいにはなれない。それがわかったら、何を目指せば良いのか、わからなくなったの。アリサちゃんやすずかちゃんは、わたしと同じ年なのに、ちゃんと自分の道を決めているのに……わたしだけ、いったい何をしたらいいのかわからなかったの」

 

 それがなのはの迷いで、緩やかに心を蝕む恐怖。いつだって願いこそが恐怖と絶望を生みだす原因だ。

 頑張れば何にだってなれる──大人が子供によく言うその言葉は、論理的には間違っていても、頑張らなければ何もなせない以上助言としては間違っているわけではない。が、その小さな可能性を信じて何年にもわたって努力し続けることはとても難しく、怖い。

 なのはの目的がただ一つの道しかない確固たるものであれば、いくら可能性が小さくとも迷うことはなかっただろう。なのはには小さな可能性を信じて突き進む強さがある。

 しかし人を助けるという漠然とした目的は、達成する手段も溢れている。父のように力で人を守る道を選ばなくても、母のように料理で人を笑顔にさせる道を選ばなくても、医者でも、弁護士でも、教師でも、福祉士でも良い。

 自分は一度きりの人生で、どの道を選べば良いのか。もしも自分に合わない道を選んでしまったら、どれだけ努力をしても、何にもなれずに終わってしまうのではないか。そう考えてしまうと、怖くなり動けなくなる。

 

「だけど、ユーノ君とレイジングハートに出会って、魔法の力を手に入れて……やっとわたしも人を助けることができた。こんなわたしでも、誰かの役に立てることが、他の誰にもできないことができるようになれたんだ」

 

 その時のことを思い出し、なのはは一片ほどの笑みを浮かべた。

 彼女の目には魔法がとても魅力的に映った。これ以上なくわかりやすい形で明確に人を助けることができる。父や兄にだってこんなことできやしない。魔法という自分だけの道が見つかったような気がした。

 しかし欠片のような笑みは儚く溶けて消えた。

 

「でも、今はどうしたらいいのか全然わからないの。今までみたいに力になりたいんだけど、こんな大きな事件で、ウィルさんとかクロノ君とか、管理局の人たちがいるのに、わたしが手伝っても何の役にも立たないんじゃないかなって。もし役に立たなかったら、わたしはやっぱり、魔法でもたいしたことないって言われる気がして。そう考えたら、とっても怖くて、どうしたらいいのかわからなくなって、手伝いたいって言えなくなって……えへへ、変なこと言ってごめんね」

 

 なのはの悩みは、生まれながらにしてスクライアとして生きることを目指していたユーノにはわからない。なのはが自身の魔法の才はたいしたことないかもしれないと恐れるのも理解できない。

 なのはの魔法の才能はずば抜けていると言っても良い。スクライアでも、魔法学校でも、これほど自在に魔力を操る子を見たことがない。

 でも、管理局というプロフェッショナルが到着した今、できることがあるのかと聞かれれば断言できない。

 それにユーノ自身、なのはにはあまり管理局を手伝ってほしくない。でもそれはなのはには危険なことをして欲しくないというユーノの考えにすぎず、なのはの気持ちを考えての言葉ではない。

 

「なのは……僕は──」

 

 ユーノが何でも良いからとにかく話そうとした時、二人は叩きつけるような強烈な魔力波を感じた。

 いったい何個のジュエルシードが発動してたのか。リンカーコアを直接揺さぶられるほどの振動に怖気が止まらない。

 魔力波はすぐに消えた。管理局かフェイトか、どちらかが結界を張って外部への影響を遮断したのだろう。

 

 なのはは反射的に動こうとして、しかしレイジングハートを握りしめたまま動けずにいた。

 もしもユーノが「大丈夫だよ、きっとウィルさんやクロノさんが、管理局が何とかしてくれるよ」とでも言えば、なのはが行くことはないだろう。

 でも、本当にそれで良いのだろうか。

 

「すごい規模だね。これだけ大きいと、管理局が気付いて向かっているはずだ。僕たちが行かなくても、きっと大丈夫だよ」

 

 止めるような言葉を発し、その後にもう少し。多くを付け加えるわけではなく、ただ一言。

 

「でも、後悔しない?」

 

 なのははその問いかけに、体を震わせた。やがてなのははドアではなく窓を向く。その姿にユーノはなのはの意思を理解した。

 

「行くつもり?」

「うん」

「今回はすごく危険だよ。多分、今までとは比べものにならないくらい」

「前に、男の子がジュエルシードを持ってたのに、気のせいだって思って何もしなかった時すごく後悔した。ここで行かないとまたあの時みたいに後悔しそうなの。それはもう、いやだなって」

 

 なのはの眼には久しぶりに強い決意がうかんでいた。ユーノは嘆息をもらしつつこれで良いとも感じた。なのはがこれ以上落ち込むのは見たくない。それに危険だと言うのなら誰かが守ってあげれば良いだけだ。

 

「わかったよ。なのはがそう言うのなら、僕も行く」

「ユーノ君は無理に付き合わなくて良いんだよ。わたしのわがままなんだし」

「僕も自分がやりたいことをやるだけだよ。僕はなのはを守りたい。だから僕になのはを守らせて」

 

 数秒置いて、なのはの顔が真っ赤になる。

 ユーノ自身も自分の発言の恥ずかしさに顔を赤くするが、自分の決断に満足していた。

 

「え、えっと……そうだ! 行く前に、お母さんに連絡しないと」

 

 なのはは慌てて携帯を取り出すと、翠屋に電話をかける。手短にこれから出かけること、危険なことにまた首を突っ込むことを告げると、携帯を切ってポケットにしまう。

 

「それじゃあ行こう、ユーノ君!」

 

 なのはは、バリアジャケットを身に纏うと、窓を開ける。同時にユーノが人目払いのために結界を張り、二人は空に飛び上がる。

 そして、ジュエルシードの気配がする方──海へと一緒に向かった。

 

 

 

 意気込んで向かった先。海上に張られた広域結界の中は、二人の予想をはるかに超える光景が広がっていた。

 上空を厚い雲に覆われた海上は、日中でも月夜の晩程度の明るさで、不規則に吹き荒れる暴風が全てを薙ぎ払う竜巻を発生させている。巻き上げられた海水は意思を持っているかのように蠢く。空から降り注ぎ、海から昇り、横から叩きつけ、四方八方から水が襲い来る。

 

 死の予感に、二人は入ったばかりの場所で止まってしまった。ジュエルシードを封印するには、ここから先に行かなければならない。ここでさえ風のせいで姿勢を保つのが精一杯で、雨で目がほとんど開けられないのに、なお先に進まなければならない。

 ユーノは恐怖を覚えながら、隣のなのはを見た。なのははユーノよりも、もっとおびえていた。おびえながらも、一点を見つめていた。

 暴風の中心で、見覚えのある金色と橙色の魔力光が煌めいている。

 なのはは風雨の影響を減らすようにバリアジャケットを調節すると、中心地に向かって再び飛び始めた。ユーノは離れないように急いでその後について行く。

 

 風に耐えつつ近づいた先にいたのは、二人が想像した通り、フェイトとアルフだった。

 風に煽られながらも懸命に嵐を抑えようとしているが、肝心のフェイトの消耗が激しく、余力の残っているアルフに支えられていなければ今にも飛ばされてしまいそう。

 なのはは彼女たちの元へと飛び寄ってアルフと一緒にフェイトを支え、ユーノはアルフに質問する。

 

「これはジュエルシードのせいで?」

「あ、ああ。海に魔力流を流し込んで、海のジュエルシードを見つけるつもりだったんだ。でも無理だった。海流かなんかのせいだと思うけど、残りのジュエルシードが想像してたよりも近くに固まっていて、あたしたちだけじゃとうてい抑えられる規模じゃなくなったんだよ。ごめんよ、なのは。このままじゃ、あんたたちの街を危険にさらすことになっちゃう」

「後はわたしたちに任せて、アルフさんはフェイトちゃんを連れて離れてください」

 

 なのははレイジングハートを構えてユーノと二人で嵐に立ち向かおうとするが、当のユーノはそれを押し留める。

 

「駄目だよ、二人にも残ってもらわないと」

「どうして!? フェイトちゃんはもう倒れそうなのに!」

「リンディさんが言ってたことを思い出して。ジュエルシードは周囲の魔力に反応して活性化するんだ。全てのジュエルシードをまとめて封印しないと、他のジュエルシードのせいで封印が破られてしまう。でも、僕となのはだけだと六個のジュエルシードを一度に封印するなんてできない。フェイトの力も必要だよ」

「無理だよ!」アルフが叫ぶ。 「もうフェイトの魔力は残り少ないんだ。これ以上消耗したら倒れてしまうよ!」

 

 たしかにフェイトの魔力はかなり減少しているが、ユーノの見立てではまだ身体に異常は出ていない。ブラックアウト──魔力を短期間で大幅に失うことで意識を喪失する直前だが、魔力さえ元に戻れば再び動けるようになるだろう。

 

「だったら魔力を回復させれば良いんだよ」

「そ、そういえば、あんた回復魔法が使えるんだっけ。それで──」

 

 ユーノは首を横に振る。

 ユーノの回復魔法は、あくまで自然治癒を強化するもの。リンカーコアを強化して大気中の魔力素の吸収を促進させるだけで、すぐに効果があるわけではない。普通でさえ完全な回復には数十分はかかるうえ、このように魔力素が荒れ狂う嵐の中では、おちついて魔力素を取り込むこともできない。

 

「じゃあ、どうすれば良いのさ!」

 

 アルフは怒鳴り声はもはや悲鳴に近く、声には涙がにじんでいる。

 ユーノは冷静に、考えた案を口に出す。

 

「なのはの魔力をフェイトに与えるんだ」

 

 なのはとフェイトの魔力量はほぼ同じ。むしろ使い魔にリソースをふっているフェイトよりは、なのはの方が多いくらいだ。

 

「でも、わたしはそんな魔法は知らないんだけど……」

 

 なのはがおずおずと声をあげる。

 問題点は、なのはがそういった魔法を知らない、そしてレイジングハートにもそんな魔法プログラムはインストールされていないこと。

 感覚だけでも魔法を構築できるなのはなら、今から即興で魔法を構成することもできる。だが、即興で作られた魔法は構成が粗い。魔力の譲渡をおこなう魔法は、ダメージを与える攻撃系魔法よりもさらに慎重な構築が必要とされるので、感覚で魔法を構築するのは論外だ。

 理論を理解し基礎が完璧であるユーノなら、今から完全な魔力移譲魔法を構築することも可能だが、彼の全魔力でどうにかなるのなら、そもそも最初からユーノ自身が封印する。

 しかしそれらの問題は間にもう一人、いやもう一機を挟むことで解決する。

 

「大丈夫。僕が今からプログラムを作って、レイジングハートに送る。なのははそれにそって魔法を使ってくれれば良い。ただ、なのはにとっては初めての経験だから、正確に発動させるのは難しいと思う。レイジングハートには僕のプログラムを解析して、なのはの魔法構成を修正してもらいたいんだけど……できる?」

 

 構築と行使を別々の人間がおこなうのが、ユーノの考えた解決策。

 魔法を発動させる過程を一枚の絵画に例えるなら、即興の魔法構築は下書き(プログラム)を描かずに、ペンで直接描くようなもの。

 今回はユーノが下書きをして、なのはが下書きをなぞって完成させる。絵のさまざまな技法を知らないなのはでは、ユーノの下書きを完全にトレースすることはできないから、レイジングハートがなのはの手をとって描くのを助ける。

 そのためには、レイジングハートがユーノの描き方に熟知している必要があるが、

 

『Too easy. I remember your structure of magic well, my masters. (簡単ですよ。マスターたちの魔法構成はしっかりと覚えていますから)』

「そうだったね」

 

 なのはに貸しているとはいえ、ユーノもまた、レイジングハートのマスターだ。何も問題はない。

 

 ユーノは早速魔法を構築しようとするが、こちらの体を持って行こうとする暴風に集中力を削られる。さらに時折一際大きな竜巻が接近してくるので一旦構築を止めて回避する必要があり、思ったように進まない。

 突然、ユーノたちの体、正確には胴がバインドで縛られる。だがそれは、動きを封じるものではなく、逆にバインドのおかげで体が空間に固定されて安定する。

 リングバインド──空間固定型バインドの基本魔法。

 そして、接近する竜巻もまた、縄のようなバインドで縛られて手前で停止する。

 チェーンバインド──術者を起点にして対象を縛り付ける、これまたバインド系の基本魔法。

 バインドの色は橙。この薄暗い空間の中で、太陽のように温かな光を放つ。

 ユーノたち三人の前に、アルフが仁王立ちする。そして、彼女は胸の前で両拳を打ちつけて笑う。先ほどまでの泣きそうな顔はどこにいったのか。野生の狼のように攻撃的な、それでいて頼もしく思えるような笑みだ。

 

「守りは任せな。準備ができるまで、三人きっちり守りぬいてみせるさ」

 

 頼もしい後ろ姿。ユーノは意識を集中させ、プログラムの構築を再開する。

 単に組むだけではなく、なのはがトレースしやすい形にする。難しいことではない。なのはに魔法を教えていた時に、なのはがどんなふうに魔法を構築し行使するのかは把握している。教える生徒の得手不得手──傾向を知るのは教育の基本。

 幾度目かの迫りくる竜巻をアルフが食い止め、ついに魔力移譲魔法『ディバイドエナジー』の魔法プログラムの組み立てが完了する。

 

「できたっ! 送るよ、レイジングハート!!」

 

 ユーノはレイジングハートにふれ、プログラムをインストールさせる。レイジングハートのコア、赤い宝石の部分が明滅する。

 

『Received. It's a good one.』

 

 なのはが掲げるレイジングハートを中心に魔法陣が宙に浮かび上がる。続けて、なのはの体からあふれる桜色の魔力光。

 

「わたしの力をフェイトちゃんに……届けてっ!」

『Divide energy.』

 

 魔力はレイジングハートを介して、フェイトのバルディッシュへと流れ込む。そして、バルディッシュからフェイトへと。

 流れ込む魔力が止まった時、フェイトは一人でしっかりと空に浮いていた。

 

「ユーノ、アルフ、それになのは……ありがとう」

『Thanks a lot.』

 

 バルディッシュが再び展開。槍状に変形し、四枚の光翼が生える。

 レイジングハートも同様に槍状に、そして二枚の光翼。

 お互いに最も出力の高い形態へと姿を変える。

 

「ディバインバスター!!」

「サンダーレイジ!!」

 

 桜色と金色の光が絡み合い、海中に吸い込まれた。

 

 

 

 嵐はすっかりやみ、厚い雲も拡散して、雲の切れ目から太陽の光が差し込んでいる。薄明光線、天使の階段とも呼ばれる現象は、達成感も相まって目を奪われるほどに美しかった。

 海面からわずかに上、封印されたばかりの六つのジュエルシードが浮かんでいる。

 

「なのはのおかげで助かった。ありがとう」

「にゃはは、わたしはあんまり……ユーノ君がいなかったらなにもできなかったの」

「ユーノにも感謝してる。もちろん、アルフにも。でも……ジュエルシードは譲れない」

 

 フェイトがこんな危険なまねをしたのは、ジュエルシードを手に入れるため。なのはがそれを止めようとするのなら、ぶつかり合うのは必然。

 

「あのね、そのジュエルシードはすごく危険なものなんだよ。わたしにはよくわからなかったんだけど、管理局の人が言うには、ジュエルシードを使ったら次元断層っていうのを引き起こしかねないんだって」

 

 アルフが驚愕に目を見開き、勢いよくフェイトを見る。ジュエルシードがそこまでの危険性を持つと初めて知った様子だ。

 

「やばいよ、フェイト。あいつがなんのつもりでこれを集めろって言うのかわからないけどさ、これ以上そんなものに手を出したら──」

 

 フェイトはアルフの言葉に首を振って否定し、なのはにバルディッシュの矛先を向ける。

 

「わたしはフェイトちゃんと戦いたくないよ」

「私もなのはと戦いたくない。でも、お互いに引けないなら戦うしかないんだ」

 

 魔力流を発生させ、初めから嵐の中にいたフェイトは、なのは以上に疲労している。

 だが、そんなことは何のアドバンテージにもならないほど、両者のモチベーションは隔絶している。

 バルディッシュの先端をなのはへと向けているフェイト。本当は戦いたくなくても、その思いを塗りつぶしてでも戦う決意が彼女にはある。

 レイジングハートを胸の前で抱えて震えるなのは。そこには決意などない。ただ困惑し、迷っているだけ。今のなのはとフェイトが戦えば、なのははなすすべもなく敗れる。

 ユーノはなのはを守れるように身構えながらアルフにも注意を払う。しかしアルフも見た目は身構えてはいるものの困惑を隠せずにいて、視線はフェイトとなのはの間を行ったり来たりと彷徨っている。

 

 緊張が高まり爆発する直前、両者の間の空間が揺らいで赤髪の少年が出現する。

 

「悪いけど、喧嘩は止めてくれるかな?」

 

 両者が共に見覚えのある人物──ウィルだ。

 

「ウィルさん!」

「遅れてごめんね。みんながいてくれて本当に助かった」

 

 いつもと変わらぬ笑顔を浮かべるウィル。

 だが、本来なら管理局こそがイの一番に駆けつけていなければならない。局員であるウィルがこんなタイミングで現れたことは、一つの事実を指し示していた。

 

「……ずっと見ていたんですか」

 

 ユーノの言葉にウィルはばつが悪そうに目を逸らした。

 敵に──フェイトたちに封印を任せ、消耗したところで現れる。理屈ではわかる。それが最善であると言うことも。だが、心では納得がいかない。

 

「抵抗はしないでね。暴れるようならすぐにでも執務官や武装隊が来て取り押さえることになっているから。俺が一人先鋒として来たのは、なるべく穏便に、できれば戦わずに投降してもらうためだから」

「だからって、僕たちが──」

「あともう一つ理由があってさ」

 

 ユーノが反発した時、待て、と言うかのようにウィルは手を前に出した。そしてそのまま人差し指を立てて上空を指し示す。と同時に、海上に雷鳴が響き渡り始めた。雲は晴れたはずなのに、なぜ?

 ウィルにならって空を見上げると、雲の隙間のその向こうに極彩色の闇が見える。闇の正体は次元空間。空間を歪めて、次元空間とこの世界が繋げられていた。

 その向こうに見えるのは山のように巨大な何か。そこから、紫色の稲光。

 

 全員が気をとられていたその隙に、ウィルはすでにユーノのそばまで来ていた。

 

「やっぱり来たか。逃げるよ」

 

 ウィルはなのはとユーノを片手でまとめて抱え、そしてフェイトとアルフをもう片方の手で掴もうとする。だが、フェイトはウィルに掴まれる前に、ジュエルシードの方に向かって飛び出し、アルフもそれを追うように移動したため、その手は空を切った。

 ウィルは一瞬のためらいを見せるも、それ以上二人を追おうとせずにハイロゥを作動させ、ユーノとなのはを抱えて一気にその場を離れる。

 ほんの三秒で六百メートルほど移動。直後、先ほどまでいた空間に雷が落ちた。威力は恐ろしく高いわけではないが、消耗しているなのはやユーノに直撃していれば、間違いなく意識を持っていかれたはずだ。

 

「次元跳躍型広域魔法。オーバーSの神業だな」

 

 ウィルは顔色一つ変えていない。そして口ぶりからも、これはウィルにとって予測していたことにすぎないとわかる。

 雷が消えるとフェイトたちの姿は海上から消えていた。

 

「さて、いろいろ説明したいしアースラに来てくれるかな。フェイトちゃんのことなら心配いらないよ。彼女たちがどう動こうが、この事件はすぐに終わるから」

 

 

 

 

 

 アルフは次元空間に存在する本拠地『時の庭園』に帰って来ると、まず部屋にフェイトを運んで寝かせた。

 フェイトはジュエルシードを取ろうとしたが、雷に直撃して意識を失った。幸いフェイトの命に別状はなかったが、それでもアルフの心には抑えきれない猛りがあった。

 アルフがここに転移した理由は逃げるためだけではない。それなら海鳴で拠点にしているマンションに逃げれば良かったのだから。

 

 部屋を出て、玉座の間──彼女たちに命令を下す、フェイトの母親のいる場所に向かう。

 薄汚れた暗い通路を進み庭に出る。植物のほとんどは枯れ果てている。雨も降らないような次元空間で、手入れもせずに長い間放置されればほとんどの植物は生きていけない。

 アルフは歩きながらおもむろに片手を振るい、その指先に触れた彫像が砕け飛んだ。

 

「あのババア……!」

 

 一際大きな扉の先は大広間になっており、中心には玉座とも言えるような椅子が一つ。ここが玉座の間。かつては貴い身分の人間の別荘だったと言われる、時の庭園。在りし日は訪れる者がここで庭園の主に拝謁したという。

 その椅子には女性が一人座っている。怜悧な刃物をさらに削って作った針のような鋭さを感じる女だ。美しい女だが、病的なまでに青白い肌は生者には──まっとうな人間には思えない。

 腰まで伸びる黒色の髪は天然のウェーブがかかっていて、暗い海を連想させる。髪と同色の黒いドレスは遠目に見ても上等だとわかるが、普段着に用いるものではない。だがこの女はいつもこうだ。家族であるフェイトの前でも、こんな仰々しい衣服──いや衣装を身に纏っている。まるで君主が配下に接するように。

 彼女こそフェイト・テスタロッサの母親。そしてフェイトにジュエルシードを集めるように命令した首謀者。プレシア・テスタロッサ。

 

 プレシアはアルフを一瞥すると、表情一つ変えずに問いかける。

 

「ジュエルシードはどうしたの?」

「あんな石ころを拾う趣味なんてないさ。食えないもんなんて、犬でも拾わない」

 

 アルフはジュエルシードを回収しなかった。あんな物はもう必要なかったから。

 

「ふざけているの」

 

 苛立ちを隠さないプレシアの言葉には答えず、逆に問う。

 

「なんでフェイトを巻き込んで……」

「そんなことを怒っているの? 広域魔法を敵だけに狙って当てるなんて、できるわけがないわ。少しは行動する余裕を与えたのに、避けられなかったあの子が鈍かっただけのことよ」

 

 なんの感慨も持たない声に、抑え込んでいた感情が噴き出す。

 

「そんなことを聞いているんじゃないよ! なんでフェイトを巻き込んで、そんなに平然としてるんだ!!」

 

 あふれる衝動を拳にのせ、アルフはプレシアに突撃する。が、その手前で設置型のバインドに身体を捕えられる。アルフを見るプレシアの瞳は、実験動物を見る科学者のように何の感情も浮かんでいない。

 

「なんのつもりかしら」

「ようやくわかったのさ……あんたはフェイトの敵だ! もっと早く決断するべきだったよ! あんたといると、フェイトが壊れてしまう!」

 

 もう我慢が出来なかった。このままフェイトが使い潰されていくのを、ただ見ていることはできない。

 使い魔として生まれた時、死ぬまで共にいると、守り続けると誓った。騎士のように、家族のように、彼女と共に在ると。その矜持をアルフは示す。

 

「だから、あんたを倒して管理局に引き渡す!」

 

 フェイトはプレシアから、ジュエルシードの詳細を教えられていなかった。ロストロギアであること、そして実際に回収する時の経験から危険な物だとはわかっていたが、先ほどなのはから聞いたような、世界を危機に陥らせるほどの物だとは知らなかった。

 ここでプレシアを倒して管理局に引き渡して自首すれば、真実を知らずに利用されていたのだと弁明できるかもしれない。使い魔の功績はフェイトのものとなり少しは減刑されるだろう。ウィルも協力するなら口利きはしてくれると言っていた。

 逆に、なのはから危険性を教えられた今、なおも管理局に逆い続ければもはや言い逃れはできず罰は一気に重くなる。

 だから元凶はここで狩る。

 

「それは、あの子が命じたの?」

「違う! あたしが考えたんだ!」

 

 力尽くでバインドを破り、振りかぶった右の拳をプレシアにふるう。

 しかしそれはプレシアの手前で止まっていた。二段重ねのバインド。

 

「そう。あの子は使い魔を作るのが下手ね。こんな──」

 

 プレシアの右手に、紫色の魔力弾が生成され、バインドごとアルフを飲み込んだ。アルフは十メートルほど吹き飛ばされて背中から壁に叩きつけられ、反動で前のめりに倒れる。天然石を用いた硬質的な床に額をこすりつけるように倒れ伏す。

 アルフを悠然と見下ろしながら、プレシアは感情のこもらない淡々とした声で語る。

 

「こんな余計な感情を持ったものを作ってしまうなんて。使い魔は使用用途に応じて必要最低限の思考能力だけ与えれば良い。こんなに感情機能に割り振っていては、消費する魔力量の割に合わないわ。やっぱり間違った物からは間違った物しか生まれないのね」

「どういう、意味……だい」

「知る必要はないわ。それじゃあ消えなさい。失敗作を二つも置いておくほど、私は寛容ではないの。フェイトには逃げたとでも言っておくわ」

 

 身体を動かそうとするが、顔を上げてプレシアを睨むだけで精いっぱいだった。

 ここで自分が死んだら、フェイトはまたプレシアの命じる通りに動く。ブレーキのない車のように壊れるまで走り続ける。自分が殺されることよりも、その未来予測がアルフを絶望させた。

 アルフには願うことしかできない。誰でも良いからフェイトを助けて下さい、と。

 

「そこまでだ!」

 

 アルフの前に誰かが現れた。その誰かはシールドを展開し、プレシアの魔法を防ぐ。もっとも完全には防げなかったようで、壁に叩きつけられる。

 アルフはその人を見る。青年だが、その顔に見覚えはない。しかしその格好は管理局──確か、武装隊の。

 

 玉座の間に次々と人が現れる。先ほどの青年を含めて、その数十名。みな武装隊の格好をしている。

 青年も立ち上がり、十人がプレシアを囲む。そのうちの一人がデバイスをプレシアに突きつけたまま、慎重にアルフを抱え起こす。

 隊員の一人が告げる。

 

「プレシア・テスタロッサ。時空管理法違反、および管理局艦船への攻撃容疑であなたを逮捕します」

 




次回は少しだけ時間が巻き戻って、数日前のアースラの艦内になります


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同期の桜

 海上でジュエルシードの封印をおこなわれる数日前──月村邸での会談の翌日。

 

 ウィルは艦の主戦力である武装隊の面々と顔合わせをしていたところをクロノに呼び出され、アースラの艦橋を訪れた。

 艦橋は高さごとに三段に別れており、最上段にあるのがリンディの艦長席で、二段目が各分野の主任、一番下が一般的なオペレータたちの席になっている。

 二段目にクロノの姿を見つけて近づくが、彼は立ったままホロディスプレイを見て考え込んでいた。ウィルはクロノを放置して、その隣──通信主任の席でコンソールを叩きながら、ウィルに向かって手を振る女性に話しかける。

 

「おはよう、エイミィ。相手の足取りはつかめた?」

 

 エイミィ・リミエッタ。くせ毛がチャームポイントの少女──と言っても年齢はウィルとクロノよりも二つ上の十六才だ。コースこそ異なっていたものの三人は士官学校の同期で、彼女は卒業後にクロノと同じくアースラに配属された。後方における情報支援が専門で、アースラでは通信主任と執務官補佐を兼任している。

 エイミィはこちらに顔を向けると、人懐っこく、それでいて猫のようにどこか人をからかうような表情を浮かべる。

 

「さっぱりだねー。アルフって使い魔の証言通りに拠点が次元空間に停留しているとしたら、捜索範囲が広すぎてアースラだけだと時間がかかりそう。拠点を放棄して逃げる場合も考えて、近隣世界に次元間転送の痕跡がないか調べているんだけど、それも今のところなし。まだジュエルシードを諦めるつもりはないんじゃないかな?」

「ポジティブに考えよう。このままどこかに持ち逃げされるよりずっと良い。はいポジティブ終わり。それで、ジュエルシードの捜索状況は?」

「昨日のうちにクロノ君と武装隊のみんなで海鳴の周囲一帯を調査したんだけど、やっぱりこれ以上は陸地にはないみたい」

 

 エイミィがコンソールをなぞると、海鳴周辺のマップがエイミィとウィルの間に投影される。

 場所ごとの魔力素密度や風向き、人口密度と言った様々な情報が加えられたマップは、ここ一月のウィルたちの調査記録、アースラの観測機器やクロノたちによる測定結果をまとめている。

 エイミィは反対側からマップを指し、残りのジュエルシードは全て海中に存在する可能性が高く、さらに海流を考慮に入れると六つとも近しい場所に固まっている可能性が高いと説明する。

 ウィルたちと接触してからまだ一日半程度で、ここまで調べた能力に拍手と賛嘆。

 

「さすがはアースラのスタッフ。優秀さは折り紙つきだね」

「ウィルくんがきっちり下調べしてくれてたおかげだよ。よっ! ナイス前座!」

「……馬鹿にされた気がする。まぁいいや。それで、どうやって回収するつもり?」

 

 その時、クロノがようやくモニターから目を離して、エイミィの代わりに答える。

 

「海中に魔力流を発生させて、ジュエルシードを活性化させる予定だ」

 

 あっさりと言うが、海中に魔力流を発生させるのは、空中で発生させるよりも難しい。その後にジュエルシードを封印することを考えると、魔力消費は並々ならぬものになる。クロノは魔力の使い方は巧みだが、魔力量自体はウィルと大差なく、なのはやフェイトには及ばない。

 

「そこをフェイトに襲われたら危険じゃないか?」

「まだ実行すると決まったわけじゃない。詳細はこれから詰めていくつもりだ。きみの意見も聞いておきたいが、わざわざ艦橋に呼んだ理由は他にある。これを見てくれ」

 

 クロノは、先ほどまで自分が見ていたホロディスプレイを示す。そこに写っているのは研究施設や学会で撮られたと思われる写真。どの写真にも黒髪の美女が写っている。目の覚めるような美貌に感嘆のため息がこぼれる。

 

「すごい美人だな」

「残念ながらフェイト・テスタロッサの名前、容姿、魔力波形、全てに完全一致する人物のデータはなかったが、関係ありそうなデータを本局に要請したところ、彼女と関係がある──そして、黒幕にきわめて近い人物が見つかった。それが彼女、プレシア・テスタロッサだ」

 

 表示された経歴によると、オーバーSランクの魔力と、雷への魔力変換資質を持つ魔導師。大魔導師と認定されており、魔導工学を専攻とする科学者でもある。

 ミッドチルダの管理局下の公的機関、中央技術開発局に勤めていたこともあり、魔導エネルギーの抽出・運用については次元世界有数との呼び声も高かった。

 

 彼女の人生を大きく変えたのは、中央技術開発局から民間企業であるアレクトロ社に移り、試験的魔導炉ヒュードラの設計主任になったことだった。

 ヒュードラ計画は一度の試験運転をおこない、それきり凍結された。その一度の時に、取り返しのつかない事故が発生したから。

 

 ヒュードラ暴走事故──魔導炉から抽出途中の魔力が漏れ、半径数十キロメートルに甚大な被害をもたらした、新暦でも十指に入る事故。

 物理的被害は事前に張られていたバリアによって抑えられたが、酸素分子が魔力の影響を受けて変質したことで、被害範囲の全生命体が窒息死するという大惨事となった。

 事故はプレシアの設計に問題があったとされ、その責任を問われる。しかし管理局の捜査と事故前後にプロジェクトを抜けた社員による告発により、彼女の設計には問題がなかったこと、そして企業の体制自体に問題があったことが発覚。プレシアの科学者としての名声は回復したかに見えた。

 しかし自らが責任を被ることと引き換えに企業から多額の金銭をもらっていたことが明るみになり、事実の隠蔽に加担したとされ、結局その社会的地位は失墜。

 その後、世間の目から逃れるように地方に転勤。数年前に消息不明。転勤後の主だった動きは、日常品と研究に必要とされる器具の購入以外では、病院への通院歴と時の庭園の購入歴のみ。

 両親とは幼い頃に死別しており、身内と言えるのは夫と娘だけ。その夫とは娘が物心ついた時には離婚しており、娘はヒュードラ暴走事故で亡くなっている。

 

「時の庭園って?」

「旧暦から存在する、貴人の別荘……と言うのは表向きで、次元空間における中継ポートとしても機能する移動要塞だ。当然、単独での次元航行もできる。質量兵器が禁止された時に武装は全て廃棄され、民間に払い下げられた。かつてはミッドチルダの地方に存在していたがプレシアの失踪と共に姿を消している」

「ちょっと豪華な艦船みたいなもんか。たしかにそれを使えば地球まで来ることもできるし、次元空間に駐留しているとすれば、転送装置を使わないと行けない場所にいるというアルフの発言とも矛盾しない。でもこれだけでは根拠としては少し足りないんじゃないか?」

 

 個人でこのような物を所有している人物はそうそういないが、別に庭園のように大掛かりな物でなくとも、小型の次元航行艦船でも同じ役割は果たせる。

 クロノはウィルの疑問にうなずき、コンソールを操作しながら答える。

 

「それについては、彼女の娘のデータを見ればわかる。これがプレシアの娘、アリシア・テスタロッサだ」

 

 モニターが切り替わり、今度は金髪の、十に満たない少女の姿が写る。事故で幼くして命を失った少女──アリシアの経歴と写真だ。

 それを見て、なぜフェイトの存在からプレシアが容疑者として浮かび上がってきたのかを理解する。プレシアの亡き娘、アリシアの容貌は、海鳴でジュエルシードを巡って戦ったフェイトに瓜二つだった。

 しかしその写真の中で屈託なく笑うアリシアの姿は、ウィルの知るフェイトとはまるで異なっていて、それがウィルに強烈な違和感を与えた。

 とは言え、ここまでそっくりならプレシアとフェイトに何らかの関係があるのは間違いない。順当に考えればフェイトの言う母親がプレシア──つまり、フェイトはアリシアと同じく、プレシアの娘と考えられるが──

 

「……クロノ、プレシアの夫の経歴は取り寄せた?」

「つい先ほど確認した。彼は離婚後に別件で亡くなっている」

「精子バンクに登録は?」

「されていない。夫婦ともにそちらとは無関係だ。プレシアが個人的に保管してあった可能性までは否定できないが、おそらくは……」

「ねえ、二人とも何か気付いたの?」

 

 エイミィは興味津々に尋ねるが、二人が気付いた内容はあまり良いものではない。ウィルは苦い顔をしながら、説明を始める。

 

「フェイトとアリシアは双子のように似ているよね? 父親が違うのならここまで似るなんて考えられない。両親が同じでも普通はありえない」

 

 一例を挙げれば、髪の色の問題がある。二人とも金髪だが、そもそも母親のプレシアは黒髪だ。金髪は劣性遺伝だから、たとえプレシアの新しい伴侶が金髪だとしても連続で金髪の子供が生まれる確率は低い──と、髪の色一つとっても、異なる可能性はある。ここまで同じ容貌をしているとなれば、答えは一つしかない。

 

「おそらく、フェイトはアリシアのクローンなんだろうね」

「それってもしかして……自分の手駒にするために、娘のクローンを作ったってこと?」

 

 エイミィの呟きに、、ウィルは首を横に振る。

 資料を見る限り、アリシアには魔法の素質はない。魔法の素質──リンカーコアが発現するかどうかは血統によるところが大きいが、絶対ではない。兄弟でも片方にリンカーコアがないというように、運にも影響される。アリシアは運が悪くリンカーコアが発現しなかっただけで、そのクローンが優秀な魔導師の素質を持つ可能性はあるのだが──

 

「単なる手駒なら金で雇う方が確実だ。もし手駒が目的だとしても、リンカーコアのない娘をクローンの素体にするかな? 戦力としては大魔導師である自分のクローンの方が優秀な魔導師が生まれる可能性は高いし、一人だけよりもっと多く作った方が良い。……そうしないってことは、アリシアでなくちゃいけない理由があったはずだ。多分フェイトはアリシアの代替品──失った娘によく似た、自分の悲しみを癒すための都合のいい子供として作られたんだ」

 

 つまり、フェイトは()()()として造られた存在。その答えにクロノもエイミィも嫌悪感をあらわにする。そんな身勝手な理由で一個の生命を創り上げるなんて、と。エイミィはその境遇に同情してか、目を伏せる。

 

「それが事実なら、とうてい許されることじゃない」

 

 クロノは険しい顔をしながら言う。彼が抱くのは同情ではなく義憤──彼に融通の利かないところがあるのは、高い正義感の裏返しだ。

 

「あくまで推測だから真に受けないでくれよ? プレシアが個人でクローンを作り出せる設備と知識があったのかわからないし、なにより外見は似ていてもクローンは決して本人と同じようには育たない。そんなあたりまえのことを知らなかったわけじゃないだろうし……外見さえ似ていれば良いって割り切ったのかもしれないけど」

「そうだな、何事も裏付けが必要だ。フェイトの年齢から考えて、作られたのは失踪前後か。その頃のプレシアの動向を調査するように、本局に要請してみよう。仮にプレシアが黒幕だとすれば、彼女の目的は何だと思う?」

 

 もし本当にフェイトを代替品として生み出したのなら、その精神は倫理的をはるか後方に置き捨てている。そんな人物なら、およそ考えつかないような非常識な目的のために、ジュエルシードを集めていることもある。

 だが、五個ではまだまだ足りないと言われ、そのせいでフェイトが折檻を受けたと言うアルフの言葉を信じるなら、複数個を用いる本来の使用法を実行しようとしている可能性は高い。

 

「次元断層を引き起こしかねない目的なんて、俺にはまったく想像できないよ。それ自体が目的──つまり次元干渉の実験がしたいって可能性は? 科学者って人種は大なり小なり好奇心のかたまりで、興味があったらとりあえずやってみようって思うもんじゃないかな?」

「どんな偏見だ……そういったマッドサイエンティストもいるだろうが、プレシアの人物像とは一致しないな。後に判明したことだが、ヒュードラの安全管理には非常に気をつかっていたらしい。それでも、娘のように守り切れなかった人々も多かったが。先ほどのきみの予想通り、愛玩用として娘のクローンを作るほどに狂ってしまっているのなら、その人物像にあまり期待はできないが……それでもただの実験のためにここまで危険なことをするかは疑問だな」

 

 二人が話し続けていると、隣でエイミィが呆れるようなため息をつく。

 

「二人とも、そういうことはプロファイラーに任せれば良いのに。せっかくアースラにも乗ってるんだから」

「たしかにこれ以上は単なる推測にしかならないね。この辺りで止めておこうか……プレシアが関係してなかったら名誉毀損ものだ」

「そろそろ休憩時間だ。昼食にしよう。その後に少し時間をもらえるか? 海中のジュエルシード探索に関して、実際に一か月以上この街で過ごしたきみの意見を聞きたい」

 

 

 

 

 海の調理師は腕が良い、というのは有名な話だが、アースラの食堂もその通りだった。

 食事を作っているのは管理局の局員だが、彼らはみな調理に関する専門の教育を受けているため、その味はお墨付きだ。アースラのような次元航行艦船やウィルがいた辺境世界の基地の食堂には、特に優秀なコックが配属されるようになっている。そのような環境下では、管理局の食堂しか食事処がないからだ。

 反面、都市内部にある基地の食堂は、あまり食事に力を入れていないことが多い。近くにいくらでも民間の料理店があるため、まずいなら外で食えというスタンスだ。そのため、都市部に配属された時は、何をさしおいてでも、うまい料理店を教えてもらうことが大切と言われている。

 

 食事を終えた三人は、アースラの一室を借りて、そこで話をすることにした。

 

「僕らの目的は、首魁──推定プレシア・テスタロッサの逮捕。そして当該ロストロギア、ジュエルシードを全て回収することだ。その際、第九十七管理外世界、通称地球には必要以上に影響を与えないことが望ましい」

 

 クロノの前置きに合わせて、エイミィの端末から立体映像が机の上に投影される。

 下方には海鳴の街と海が表示される。その上にはアースラと時の庭園が浮かんでいるが、両者の間には壁があり、お互い行き来できないことを視覚的に表現している。

 アースラの上には、クロノ、リンディ、三十人近い武装隊。ついでにウィルがミニチュア化されて乗っている。一方、時の庭園にはフェイトとアルフ、そしてプレシアが、これまたミニチュア化されて乗っている。立体映像の部分には位置センサが働いているので、あたかも実際にそこにあるかのように、動かすこともできる。ミニクロノを振りまわして遊んでいると、リアルクロノに怒られたので、しぶしぶ元の位置に戻した。

 

 ジュエルシードはアースラに十個、時の庭園に五個、いまだ見つかっていない六個は海にある。

 アースラの勝利条件は、ジュエルシードを確保し、プレシアを捕まえること。そのためには、時の庭園の位置を特定する必要がある。

 敵の勝利条件は必要とするジュエルシードの個数によって、三種にわかれる。

 五個以下、もしくは諦めるのなら、アースラからの逃亡。

 六個以上十一個以下なら、海中に眠る残りのジュエルシードの入手。

 それ以上なら、アースラにあるジュエルシードの奪取。

 

「きみならどう動く? フェイトたちと交戦経験のあるきみならその実力は良く知っているだろ?」

「……時の庭園の位置を把握するまでは、こちらからは動きようがない。無難な選択は、アースラが時の庭園の位置を特定するか、ジュエルシードを捜索するフェイトを捕まえて庭園の位置を聞き出すまで待機。長期戦になるけど、別にそうなったからって困ることはないよな?」

「費用がかさむことと、ウィルとユーノが事件が解決するまで帰れないことくらいか」

「それは困るなぁ。でもこちらが能動的にできることと言ったら、残り六個のジュエルシードを集めるくらいだ。海のジュエルシードを回収するとして……相手に見つからないように、こっそりと回収することはできるか?」

「無理だ。ジュエルシードを活性化させるような魔力流は、気象に影響を与える。おそらく付近一帯は大規模な嵐になるだろう。それを抑えるためには大規模な結界を張らねばならないが、そうすれば今度は結界に気付かれる。魔導師相手に隠すことは不可能だ」

「ジュエルシードをクロノ一人で抑えることは?」

「一個二個なら問題ないが、六個同時は無謀だな。安全を考えれば武装隊の半分に手伝ってもらいたい」

 

 エイミィが端末をいじると、海上にクロノと武装隊(半数)のミニチュアが出現。荒れる海の上で協力してジュエルシードを封印し始める。

 封印を終えるが、彼らはみな魔力を消費して疲れてきっている。武装隊はその名の通り戦闘では強いが、魔力量はあまり高くなく、ジュエルシードの封印に適しているとは言えない。

 

「相手は確実に、こちらが疲弊している封印後のタイミングを狙ってくる。フェイトとアルフだけなら、残り半数の武装隊が出れば確実に抑えることができる。けど、プレシアまで出てくるとどうなるかわからない」

 

 海上という戦場は隠れるところがない。よって、魔力が高く広域魔法を行使できる者が圧倒的に有利な場所。加えて、雷の魔力変換資質を持つフェイトとプレシアにとっては最高のフィールド。万全な状態でなければ負ける可能性がある。

 クロノもそのことを理解しているので、腕を組み眉をしかめながらも同意する。

 

「こちらから動くのは危険だな。長期戦になるが、仕方がないか。では、あちらが同じようにジュエルシードを捜索した場合はどうなる?」

 

 戦場を一旦初期状態に戻す。相手がジュエルシードを捜索してくれれば、相手だけが消耗してくれるので、管理局にとっては非常に都合が良い。

 

「プレシアを含めて三人で来た場合はシンプルだな。相手が封印を終えて消耗している時に、こちらの全戦力で抑え込むだけ。フェイトとアルフしかジュエルシード捜索に出してないってことは、それ以上の戦力を隠してる可能性は低い。

 今まで通りにフェイトとアルフだけで来た場合だけど、二人だけで六個のジュエルシードの封印に成功するかは疑問だな。成功か失敗かで二つのケースを考えよう。

 成功してくれた場合は、その直後にジュエルシードとフェイトを確保する。封印で力を使い果たした彼女たちが相手なら簡単だ。プレシアが出て来ても、武装隊がほぼ完全な状態で残っていれば、抑えることはできるはずだ。

 失敗しちゃった場合は、そのまま身柄を確保して、同じようにクロノと武装隊で封印すれば良い。封印後にプレシアが出て来た場合でも、自分たちから仕掛けるよりは状況が良いし、勝てなくともフェイトとアルフを確保できたなら一旦引くのも手だ。彼女たちから時の庭園の場所を聞き出して、準備ができてから再度こちらから仕掛けても良い」

 

 クロノは腕組みをしながらウィルの考えを吟味するが、問題はないと判断した。

 

「対応はそれで良いとして」クロノはエイミィに尋ねる。 「相手が自滅するまで放置すると次元震が発生して地球に被害を与えないだろうか?」

「どの程度の規模になるのかは、ジュエルシードの解析が終わるのを待つしかないよ。でも、危なくなったら艦長のディストーションシールドに頼るのも手だね」

「え? あの人、生身で次元震抑え込めるの!?」

「できるらしいよー。さすがに艦長個人の魔力だけじゃ無理だからアースラの魔力炉からの供給は必要だし、どのくらいの規模まで抑えられるかは相談しないとわからないけど。ところで、私もちょっと不安なことがあるんだ。相手も私たちが来るかもしれないってことは予想してるでしょ。だったら、それを逆手に取ってくるんじゃない? 例えば、アースラから武装隊を送り込む時に、そこからアースラの位置を逆探知されたりでもしたら」

「……直接アースラに攻撃が来るかもしれないか。アースラを落とすほどの攻撃ができるとは思えないが、船体表面のセンサー系を壊されでもしたら、相手の動向をつかむのは難しくなる」

 

 センサー系が壊滅すれば、転送装置は使用できなくなる。

 万が一、攻撃の当たり所が悪くてアースラが沈むような事態になれば最悪だ。船がこれだけ地球に接近している状況で破壊されれば、落下範囲は以前より狭くなり、非常に探しやすくなるだろう。管理局の増援が来る前に、もう一度集め終えることなど造作もない。

 だが、だからと言ってみすみす放置するわけにはいかない。ウィルは逆に考えてみる。

 

「それを利用してみよう。プレシアが逆探知して、アースラの位置を特定する。でも、プレシアがアースラに攻撃すれば、今度はこちらがプレシアの居場所を逆探知できる。アースラへの攻撃も、来るとわかっていれば防ぐ方法くらいあるんじゃないか?」

「そうだね。さっき言ったディストーションシールドを使えば、質量兵器以外の魔法攻撃はほとんど防げると思うよ。これも、詳しくは艦長と相談しないといけないけど……」

「僕たちだけでは、このあたりが限界か。きみの見解は会議で有効に活用させてもらう。他には何かないか?」

 

 その時、ウィルは思い出す。目の前に浮かぶ可視化されたミニチュアに注意して忘れていた、盤外の駒の存在を。

 

「一つ懸念が残ってた。もしフェイトがジュエルシードに手を出して活性化すれば、海鳴にいるなのはちゃんもきっと気付く」

「何か問題でも? あの民間協力者の子は昨日の話し合いでこれ以上は関わらないと決まったと聞いているが」

「こっちがフェイトだけでの封印の結果が出るまで静観するとなると、それだけ長い間結界が張られたままだと、きっとあの子たちも不審に思う。俺たちが気づいてないか、苦戦していると思って、手助けに駆けつけるかもしれない」

「そうなったら結界に入る手前で止めて、事情を説明すれば良いだけだろう」

「友達のフェイトとアルフが消耗するのを待ってるから、手を出さないでくれって? 絶対反発して、強引に突破しようとしてくる。今日の昼食を賭けたって良い」

「さっき食べたし、うちの食堂は原則無料でおかわり自由だ」

「……いっそ、最初から巻き込んだ方が良いかもしれないな」

「……どういう意味だ?」

 

 クロノの剣呑な視線を受けながら、ウィルは続ける。

 

「フェイトがジュエルシードに手を出したら、なのはちゃんに連絡をするんだ──俺たちは向かうことができないから、代わりに行ってくれって。理由は転送機器の故障とか、ある程度の信憑性があれば良いと思う。なのはちゃんはもちろんだけど、ユーノ君だってアースラのことを良く知っているわけじゃないから疑いはしないだろう。なのはちゃんとフェイト、そしてユーノ君とアルフ、この四人が協力すればきっと封印できる」

 

 だが、提案を聞いたクロノは、つかみかからんばかりにウィルを問い詰める。

 

「ふざけるな! 民間人を利用する気か!」

「だけど、これが一番安全だ。もし連絡せず、俺たちがフェイトを捕まえようとしている時に来られたら、こちらの言う通りにおとなしく引いてくれないかもしれない。そこでプレシアまで参戦して来たら、最悪三つ巴の大混戦だ」

 

 温泉と臨海公園の二回、争いに割って入ってきた前例が、ウィルを過剰なまでに慎重にさせる。

 

「四人で確実に封印してもらって、それから消耗したフェイトを捕縛。このケースでもなのはちゃんが納得せずに妨害してくる可能性はあるけど、たとえそうなっても消耗したなのはちゃんなら抑え込むのは簡単だろ? あとは管理局の活動を妨害したってところにリンディさんやクロノが目を瞑って、なかったことにしてくれれば──」

 

 説明を聞いたクロノは、さらに語気を荒げて詰め寄る。

 

「それにどれだけの意味がある。かもしれないで民間人を巻き込んで、挙句僕に真実を曲げろと? 僕だってそれが必要なことならためらいはしないさ。だが、そこまでしなくても事件は解決できる」

「解決できるかもしれない、だ。ジュエルシードが悪用されれば世界の一つや二つ吹き飛ぶなら、より確実な手段をとるべきだ」

「規則や理念を曲げるのは信頼を裏切る行為だ。必要もないのにやって良いことじゃない」

 

 管理局の『海』は複数の世界をまたにかける組織だ。各世界と交渉する必要があり、交渉において信用というものは大きな価値を持つ。民間人を勝手に利用するなどもっての外。

 

「それ以前に、管理局は世界を災厄から守る義務があるだろ。恐れるのは民間人を巻き込むことじゃなくて、制御できる範疇を越えて民間人を守れなくなることだ」

 

 管理局の『陸』は一つの世界に駐留し、現地を守る組織だ。しかし、戦力は海よりも低く、必然的に守るために手段を選ばない時が多くなる。

 

「理念を曲げてしまえば腐敗してしまうだけだということがわからないのか」

「別に曲げようとしているわけじゃない。理念はあくまでも守るための基準で、それ自体は抽象的なモノだ。個々のケースに適応させて具体化する時には例外となるケースも出てくる」

 

 次第に険悪な雰囲気になっていくが、二人は止まらない。

 エイミィは我関せずと二人から距離をとって観戦に徹する。彼らが喧嘩をするのはよくあることだ。

 この二人は容姿や性格、戦闘スタイルにいたるまで、多くのことで正反対だ。なのに──だからこそ──仲が良い。

 エイミィがそんなことを考えているうちにも丁々発止の舌戦は続き、もはや個人攻撃の域に至る。しかし、両者ともヒートアップするほどにねちねち、ぐちぐちと相手を責め始める。

 

「クロノは昔から理念や理想に縛られすぎだ。まさかまだ正義の味方を目指しているつもりか? 理念にそって行動しています、これは正しいことだからこれ以外に手段はないんですなんてのはアホの言うことだろ」

「正義の味方の何が悪い。だいたいきみは昔から斜に構えすぎなんだ。変に知恵を働かせたような邪道ばっかり考えて、それで後々どれだけの敵を作って来たことか。正しくない手段は必要以上の敵意と味方の不信感を買ってしまう。そんなだから、昔から人付き合いは多いくせに友達が少ないんだ」

「な……ちょっと傷ついたぞ。そういうクロノもあんまり友達いないじゃないか」

「くッ……もういい、立て。言ってわからないきみには拳で教えてやる」

「上等だよ。魔法なしの格闘訓練で、俺がクロノに一度でも負けたことがあったか?」

「魔法ありならほとんど負けてるくせによく言えたな」

「言ったな? よし──」

「それじゃあ──」

「「模擬戦だ!!」」

 

 模擬戦用シミュレーションエリアに到着する前に、エイミィがこっそり連絡していたリンディに見つかって、しこたま怒られた。

 

 

 

 

 会議では様々な情報が出て来たものの、結局はウィルたちが考えた通りの展開になった。

 そして、なのはを使うという案は、

 

「なのはちゃんに連絡するのは駄目よ。でも、協力してもらうって言うのは良い考えね。なのはちゃんとユーノ君が自分からやってきたら止めないことにしましょう。ここで管理局に協力してくれたっていうのは彼女に、そして、とりわけユーノ君には有利になるわ。彼女たちが危険になったら、すぐに武装隊を出動できるようにしておけば大丈夫でしょう」

 

 リンディの判定は当然ながらクロノ寄りだが、ウィルの意見も取り入れている。ウィルを慮っただけではない。この件でリンディが最も重視していたのはユーノだった。

 秘密だと念を押しながらも、リンディはウィルに理由を教えてくれた。ユーノたちが介入した場合、彼らが勝手に介入して来たという形ではなく、方針が決まらず対応が遅れた管理局に代わって、民間人の彼らが助けてくれたという形で報告をまとめる。そして、その功績と引き換えにして、ユーノの罪を少しでも軽くするという算段だった。

 ただ、その場合はアースラが失態を犯したことになるのだが、リンディは全く気にせず、子供の将来には代えられない、と言い切った。

 

「艦長は子供に優しすぎます」

「だって、母親だもの♪」

 




次回は元に戻って海上での封印後から


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僕たちの父

「ウィル君、聞こえる?」

『ああ。見えているとは思うけど、なのはちゃんとユーノ君も無事に保護したよ』

 

 アースラのエイミィから、海上のウィルへと通信が繋がる。

 六つのジュエルシードが活性化していた時は、荒れ狂う魔力が通信妨害となり映像も音声もノイズだらけだったが、封印と共に周囲の空間は正常に戻りつつある。

 

『ところで、フェイトとジュエルシードはどうなった?』

「二人とも転送魔法で逃げたみたい。逃げる前にフェイトちゃんが次元跳躍魔法に当たって気を失っていたのが気になるけど。あれじゃあ当分は戦えないだろうね。よっぽど慌ててたのか、ジュエルシードがそのまま放置されちゃってるの」

『わかった。回収してくるよ』

「それが終わったら、なのはちゃんとユーノ君を連れてアースラに戻ってきてくれるかな? それからいやなお仕事だけど、二人に事情を説明してほしいんだけど……ダメ?」

『気がすすまないなぁ』

 

 苦笑いを残して、ウィルはなのはたちを連れてジュエルシードの元へ移動し始めた。

 

「ごめんねー。後で埋め合わせはするから」

 

 ウィルとの通信を終えたエイミィは、続いて部下に問いかける。

 

「アレックス君、アースラへの攻撃は解析できた?」

「魔力波形はプレシア・テスタロッサのものと一致しました。海上への攻撃も同様です」

「攻撃元は特定できそうかな?」

「海とアースラの二か所に攻撃してきましたからね。双方のデータを組み合わせれば、かなりの精度で特定できますよ」

 

 懸念の通り、アースラも海上とほぼ同時に次元跳躍魔法による攻撃を受けた。

 海上の方は回避すれば良く、そのためにクロノや武装隊ではなく速度特化のウィルを一人で派遣したのだが、アースラの巨体で回避は難しい。

 そこで艦長であるリンディが使うディストーションシールドによる防御を選択。

 一定範囲の空間そのものを、魔力の伝播が極度に鈍くなるように歪ませる魔法。それによって範囲内の魔力波を抑えたり、範囲外からの魔法攻撃を遮断することができる。

 前もって準備をしており、プレシアの次元跳躍魔法に合わせて発動させて完全な防御に成功。

 

 被害を受けず万全の状態のアースラのセンサー系は、次元跳躍の痕跡を見逃すことなく発見。解析することで、敵の攻撃元──すなわち本拠地を探りだす。

 

 エイミィはアレックス通信士にそのまま解析を続けるように指示すると、今度は別のオペレータに問いかけた。

 

「ランディ君、艦長は?」

「医務室で検査を受けてから戻って来られると。今のところ大きな問題はないみたいです」

「そう。良かった」

 

 ほっと胸をなでおろす。

 ディストーションシールドは行使者であるリンディに大きな負担をかける。艦船一つを守るほどの魔法を展開するには、リンディが内包する魔力だけではとうてい賄えず、アースラの炉からの供給を受けなければならなかった。

 

 それには課題が二つ。

 まず艦の動力となる魔力をそのまま使うことはできないので、なのはがフェイトに魔力を譲渡した時のように、魔力をリンディに適した形に変化させる必要があった。こちらはその場でやらなければならなかったなのはたちとは異なり、事前に数日の猶予があったので問題なくクリアできた。

 

 深刻なのはもう一つの方。

 大量の魔力の外部供給は、一時的とはいえリンディ自身のリンカーコアの容量を越える魔力を体内に取り入れ、それは肉体──とりわけリンカーコアに大きな負担を与える。

 今回は相手の攻撃に合わせて十数秒間だけ発動したにすぎないが、それでも身体に与える影響は大きい。

 

 リンディの体調は心配だが、事態はアースラにとって理想的に進んでいる。

 後はフェイトたちの持つ五個のジュエルシードを取り戻し、プレシアを捕まえるだけ。彼女たちの拠点はじきに見つかる。そこで戦いがおこったとしても、フェイトとアルフは先ほどの封印で相当消耗している。相手はプレシア一人だと考えて良いだろう。

 それに比べれば、アースラの戦力は何一つ欠けていない。負ける要素はない。

 

「気を抜かない方が良い」

 

 そのゆるみが表に出ていたのか、いつのまにかエイミィの横に来ていたクロノが戒めるように言う。これだけ優勢でもクロノの顔は険しいままだ。

 

「でも、もう解決したようなものじゃない。何か気にかかることがあるの?」

「手負いとはいえ相手は大魔導師だ。下手に大勢を捕縛に向かわせると、広域魔法を受けてこちらの被害も大きくなる。武装隊の被害をできるだけ抑えるために、何か良い方法はないものか……ん、どうかしたのか?」

 

 クロノはじっと自分を見るエイミィの視線に気づき、怪訝な顔をする。

 

「いやぁ、クロノ君はやっぱり偉いなと思って」

「急になんだ。やめろ、頭をなでようとするな」

「なんでもないよ。そうだ! 艦長が医務室で検査を受けているんだけど、それって向こうも同じような状態だってことだよね。二箇所への同時次元跳躍魔法なんて普通の人間の魔力じゃ足りないんだし。だったら──」

 

 

 

 

 

 時の庭園はすぐに発見された。各種センサーで遠距離から観察。次に、艦載の機械式サーチャーを転送装置で庭園に送り込み、内部から調査する。

 サーチャーの一つが、庭園部を移動するアルフを発見した。幸いにも気付かれることなく追跡したところ、彼女はひときわ大きな部屋に入っていった。

 部屋の中にいたのはまさしくプレシアその人。さては報告に訪れたのかと思いきや、アルフは翻意を明らかにしてプレシアに襲いかかる。しかし力及ばずプレシアに敗れ殺されそうになったため、クロノは十名から成る武装隊の一小隊を突入させた。

 すぐさまアルフを保護し、アースラに転送。残った武装隊はプレシアを囲むように半円状に位置取った。

 

『プレシア・テスタロッサ。時空管理法違反、および管理局艦船への攻撃容疑であなたを逮捕します』

『邪魔よ』

 

 何のためらいもなく、プレシアは魔法を放った。

 部屋全体を範囲とする広域魔法、上方から降り注ぐ無数の雷の雨から逃げられる場所などなく、武装隊はただ防御するしかない。

 個人ではとうてい防げない。オーバーSの魔導師の魔法に対抗するには、武装隊では圧倒的に魔力が足りていない。十人の隊員は一か所に固まり、一斉に防御魔法を行使。協力して合計二十層におよぶシールドを展開する。一人で無理なら十人で。一枚一枚のシールドは弱くとも、これだけの数があれば話は違う。

 質に量で対抗するための武装()だ。

 

 それでも彼らを守る盾としては十分ではなく、二十層全てが破られてプレシアの魔法が彼らを襲う。

 シールドで軽減されたおかげで、居並ぶ武装隊はみな軽傷。しかし再び同様の攻撃を受ければ危うい。

 

 そのタイミングで、クロノはエイミィに指示を出す。

 

「第二隊を時の庭園に転送。同時に、第一隊をアースラに召還」

「了解!」

 

 新たな武装隊が送りこまれ、先ほどまで戦っていた武装隊とアルフが回収される。

 送り込まれた者たちは先ほどの焼きまわしのように再びプレシアと向かいあう。

 

 一度に大人数を送り込んでも、そのほとんどがプレシアの広域魔法で一網打尽にされかねない。そこで武装隊一個中隊を一小隊ずつ分けて送り込んで戦わせる。

 戦力の逐次投入は一般的には愚行だが、それはプレシアが本来の調子であれば、だ。

 

 次元跳躍魔法をアースラと海上──座標の全く異なる二つの場所に同時に放つ。それはプレシアの魔力量でも不可能だ。しかし次元跳躍魔法の魔力波形がプレシアのものである以上、攻撃は何らかの兵器によるものではなく、プレシア自身の魔法によるもの。

 ならば、プレシアもリンディと同じように外部から、おそらく時の庭園内部の魔導炉から魔力を引っ張って来たと推測。

 行使された魔力の規模や威力と、管理局のデータベースにあるプレシアの保有魔力量や制御技術を比較し、デバイス等の支援を考慮に入れた上でアースラの医師が見立てたところによれば、今のプレシアの身体やリンカーコアには極度の負荷がかかっており、機能不全を起こしかねない可能性が高いとの結論がでた。

 その状態では魔法一つを行使するだけでも身体に耐えがたい苦痛がはしる。広域魔法のように消費の大きい魔法を撃てば、それだけで気を失うこともある。

 

 武装隊の一小隊が完全に守りに専念すれば、プレシアの魔法でも一撃くらいなら耐えられる。プレシアが攻撃して武装隊が防御する。そしてすぐに残りの武装隊と入れ替える。

 こうすれば、武装隊にも大きな被害をだすことなく、確実にプレシアを倒すことができる。

 

『なるほど、そういうやり方ね。小癪だわ』

 

 再び現れた武装隊の姿にこちらの意図を察し、プレシアがその形の良い柳眉を歪めた。

 二度目の投降勧告のため、玉座の間にホロディスプレイを投影させる。映し出されるのはリンディの顔。

 

「あなたにもう勝機がないことはわかるでしょう。投降してください、プレシア・テスタロッサ。我々もこれ以上の戦闘は望みません」

 

 沈黙が玉座の間に訪れる。だがそれもほんの少しの間。

 

『甘く見られたものね』

 

 プレシアは先ほどと同じように魔法を放つ。

 武装隊は同じように協力してシールドを展開。先ほどの魔法を見ていたこともあり、より迅速に、より余裕を持ってシールドは展開された。

 さらにプレシア自身の魔法の威力も先ほどに比べて低下している。シールドは破壊されずに残り、プレシアの攻撃は完全に防がれた。

 だが──

 

『終わりと思ったの?』

 

 続けてもう一度、部屋中に雷が降り注ぐ。

 並の魔導師では不可能な広域魔法の並列構築と、そこからの二連撃。残りのシールドが貫かれ、武装隊は雷に焼かれる。

 

 殺傷設定の一撃にクロノは青くなるが、すぐにやられた武装隊の様子を観察する。傷を負っている者もいるが、致命傷の者はいない。すぐに治療すれば全員助かるだろうと判断。

 一方、プレシアは病的ながらも美麗な顔を苦痛に歪め、滝のような汗をしたたらせながら、今にも崩れ落ちそうな体を玉座にすがりつくようにして支えていた。

 これだけ弱っていればもう彼女を取り押さえることもできる。

 だから、先ほどと同じように武装隊を入れ替えるように指示する。

 

 指示通りにエイミィはコンソールを操作しようとして、その指が凍りついたかのように動かなくなる。

 

「時の庭園を中心に小規模の次元震の発生を確認。……これじゃアースラに戻せないよ!」

 

 その言葉を裏付けるように、次第に時の庭園が揺れ始め、モニターにはノイズがかかり始める。

 モニターの向こうのプレシアは、玉座にすがりつきながらも嘲るように笑っている。

 

『勝てないなら、負けなければ良いのよ』

「ジュエルシードと心中するつもり!?」

『馬鹿を言わないで。ジュエルシードを暴走させたわけではないわ。ちゃんと制御して発動させたの。今日のところは引き分け──日を改めての再試合といきましょう。数日もすれば治まるからそれまで私はゆっくり休ませてもらうわ』

 

 よりいっそう次元震が激しくなる。まもなく通信は完全に途切れ、玉座の間を観測することさえできなくなった。

 

 ノイズばかりが映るホロディスプレイを前にして、ブリッジは重い沈黙に包まれていた。

 沈黙を続けていても事態は悪化するだけ。艦長であるリンディが、状況を打破するために口を開く。

 

「やられたわね……単にジュエルシードを暴走させただけなら抑えこめば良いけれど、相手が完全に制御できるのなら、抑え込んだ後で再び発動されるだけだわ。まずは時の庭園に乗り込んで、彼女を捕まえるか、ジュエルシードを回収しないと」

 

 状況を整理したリンディの言葉を聞き、オペレータが慌てて計測されるデータを確認し、発言する。

 

「次元震自体は小規模なので、外部から観測可能かつある程度の広さがある場所になら、アースラからの転送は可能です。庭園部の上空であればその条件を満たしています。ですが、一度突入すれば次元震が治まるまではアースラには戻すことはできません」

 

 転送魔法は座標を指定するため、次元震のような空間そのものが揺れている環境下では、指定した座標からずれてしまう恐れが高いので転送できる場所が限られてくる。この次元震の規模なら周囲五十メートルには何もない場所が望ましい。

 アースラに戻せないのは、安定しない空間での召喚はさらに危険だからだ。呼び戻す対象の座標が正確に指定できなければ、空間同期のための歪曲境界に巻き込まれた物質は、召喚元と召喚先の双方の空間に対して()()()()()()()()()結果を招く。

 こちらから浸入することのみ可能。しかしプレシアもそれは予想しているはず。

 

「回復のための時間稼ぎに見せかけて、私たちをおびき寄せて少しでも戦力を減らしたいのでしょう。罠が仕掛けられていると考えるべきね」

 

 一度突入したが最後、何が待ち受けていようと戻ることはできない。補給も回復もできないとなれば、全滅の危険もある。

 ブリッジに再び訪れかけた沈黙を切り裂いて、クロノが大きく声をあげる。

 

「だとしても、僕たちは引くわけにはいきません! 突入した仲間たちが、まだあそこに取り残されている。治療を受けられないままでは命にかかわります。それにプレシアが回復してしまえば、その後の戦いではさらに多く犠牲が出ることになります」

「そうね。私たちはさっき彼女を追いつめて、勝ち目がほとんどないことを理解させてしまった。体勢を立て直したプレシアは手段を選ばずに行動してくるでしょう。ジュエルシードと地球を盾に脅迫してくることもあるかもしれないわ。そんな相手に考える間を与えては駄目。クロノ執務官、残りの武装隊を率いて時の庭園に突入。取り残された武装隊を回収し、プレシア・テスタロッサを捕縛しなさい」

「イエスマム!」

 

 それからもリンディは次々に指示を出す。武装隊への連絡、医療班の編成、これまでの観測結果を元にした時の庭園のマップの作製。準備は念入りに、しかしなるべく迅速に突入しなければ、取り残された武装隊の命が危うい。

 

 

 それらの作業をこなし突入準備が着々と進んだ頃、ブリッジに思わぬ声が響いた。

 

「あー、クロノ。少し良いかな」

 

 振り返ると、ブリッジの扉のあたりにウィルが立っていた。その後ろにはなのはとユーノ。そして武装隊の第一陣と一緒に時の庭園から連れて来たアルフも一緒だ。

 クロノは呆気にとられた顔をしていたが、すぐに我に返ると他のブリッジクルーに作業を続けるように指示してウィルたちの元へと駆け寄る。

 

「どうしてきみたちがブリッジにいる? 医務室にいたんじゃないのか?」

「さっきまではいたんだけど、そこで武装隊が連れて来てくれたアルフと顔をあわせてね。ある程度の事情は聞いた。その上で提案があるから聞いてもらいたい」

 

 ウィルがうながすと、なのはとアルフが一歩前に踏み出て、声を上げる。

 

「わたしたちも時の庭園に連れて行ってください!」

「フェイトを部屋に寝かせてきたままなんだ! あのままだと、目が覚めたらまたプレシアのいいなりになってしまうよ! だから、あたしたちで保護したいんだ!」

 

 フェイトを保護することにメリットはあるが、その優先順位は低い。

 彼女がただの民間人であれば、その保護は管理局としても優先すべき目標だが、子供とはいえ実際に犯行を繰り返している犯罪者。

 保護したとしても、プレシアを捕えてこの次元震を抑えなければアースラに連れて帰ることもできず、逆にプレシアを捕えてしまえば、フェイトが敵対してもさして恐れることはない。

 武装隊の回収、プレシアの捕縛に続く第三目的としてカウントしておこうと決め、クロノは答える。

 

「フェイト・テスタロッサの保護も、こちらの目的に加えておく。だからきみたちは大人しく待っていてくれ」

「それは信用できません」

 

 今度はユーノがクロノに食ってかかる。

 

「さっき、海上で僕たちが封印していたのを傍観していましたよね? フェイトが消耗した方が有利だっていう判断がわからないわけじゃないです。でも、その決断をした管理局が今度は間違いなくフェイトを保護してくれるとは思えません」

 

 痛いところを突かれたクロノはしばし言葉に迷うが、冷静さを取り戻すと諭すようになのはたちに語りかける。

 

「今の時の庭園では何がおこるかわからない。そんな危険な場所に民間人を連れていくわけにはいかない」

「その理屈は通りませんよ。その民間人が危険な目にあっても、傍観していたじゃないですか」

 

 なのはとユーノが海上に現れても管理局が一切動かなかったことを引き合いに出し、ユーノがさらなる反撃を加えるが

 

「ごめん、ユーノ君。きみたちがやって来たらそのまま見てるように最初に進言したの俺なんだ。だからそのことでクロノを責めるのは勘弁して」

「えっ……?」

 

 突然ウィルがクロノに援護射撃。後ろから撃たれたユーノは目を白黒させている。

 その間にクロノは体勢を立て直し、イニシアチブを取り戻すために発言する。

 

「先ほどとは事情が異なる。海上での封印はきみたちにとっては危険に思えても、いざとなれば僕たちが助けに行ける状況だった。だけどここからは違う。それに今のきみたちは消耗している。そんな者を戦場に送りこむことは認められない。そのフェイトの部屋までの途中に、罠や敵がいないなんて保証はない以上、きみたちを行かせるとなればこちらも最低限護衛をつけなければならない。しかしこの状況で戦力はなるべく割きたくない」

「それなら、なのはちゃんたちにつける護衛以上に役立つものを提供できれば良いよな?」

 

 先ほどはクロノ側に援護射撃してきたウィルが、今度は自分に言葉の銃口を向けてくる。

 いったいどちら側の味方なのかとウィルを睨めば、ウィルは視線を受け流して隣にいるアルフに目配せ。再びアルフが声をあげる。

 

「あたしはあそこで何年も暮らしてきた。時の庭園の構造は、最深部以外はほとんど把握してるんだよ。あたしたちを行かせてくれるなら、知っている限りの情報をあんたたちに教える。それでどうだい?」

 

 アルフの提案にクロノの心は揺れる。条件は魅力的。地図の有無は作戦の成功に大きく関わる。詳細であればなおさらだ。

 

「そしてもう一つは、俺。クロノには負けてるけど、これでも一応AAランクだ。護衛に割く以上の戦力としてこき使ってくれ」

「戦力はなるべくほしいが、もしきみに何かあったら──」

 

 今のウィルは任務中に遭難したところをアースラが保護したという形になっており、立場はかなりあやふやだ。

 その彼を全滅の危険性も高い戦場に送り込むべきではない。

 それにウィルのことは彼の養父であるゲイズ少将からも任されている。命を落とすことになれば、陸と海の亀裂を広げてしまう恐れもある。

 

「アルフ、今はこれ以上時間を使うわけにはいかない。エイミィ……って言ってもわからないよな。あそこの茶髪でくせ毛のお姉さんのところに行って、時の庭園の情報を教えてあげてくれないか。ついでになのはちゃんとユーノ君もちょっと離れてて」

「それはそこの黒いのが許可してから──」

「クロノは俺が説得する」

「……わかったよ。できなかったらひどいからね!」

 

 ウィルの断言に感じるものがあったのか、アルフがエイミィのもとへと行き、なのはとユーノもその後についていく。

 たしかにアルフに情報を教えてもらっても、それを地図の形にするには時間がかかる。自分とウィルの問答が終わってから教えてもらっていては、それだけ出発の時間に遅れる。

 その判断はわかる。だが、自分のことを説得すると断言した友人の調子にクロノの心臓が鼓動を早める。

 

「もちろん、俺に何かあったらアースラに迷惑がかかるってわかっているさ。でもさ、俺の父さんはクロノの父さん──クライドさんと一緒にエスティアに残って死んだ。それは知っているだろ」

「もちろんだ。だが、今はそのことは……」

 

 父親の話を出されてクロノの心臓が大きく脈打った。

 この話題は二人にとっての鬼門だ。

 

 十年前、ロストロギア闇の書の輸送をおこなっていた管理局の艦船『エスティア』が消滅した。

 その時の死傷者は二名。艦長であるクライド・ハラオウンと、武装隊の隊長にして彼の友人であったヒュー・カルマン。

 クライドは自分以外の全乗員に退艦命令を出し、自分一人を残した。しかし、それに従わなかった乗員が一人。それが、ヒューだった。何があったのかは誰も知らない。ただ、彼ら二人は船と共にこの世から完全に消滅した。

 クロノとウィルの人生に影を落とし、そして進む道を決定付けた大きな事件。二人にとっての原点(オリジン)

 

「なんで、俺の父さんは残ったんだろうな。他の乗員と一緒に脱出すれば良かったのに。クライドさんはともかく、父さんは無駄死になんじゃないか?」

「それは……わからない」

「そう、わからない。死人に口なしだ。父さんが何を考えていたのかなんてわからない……帰って来なかったんだから。でも一つ、事実が語っていることがある。父さんは生きている俺じゃなくて、死に往く友人と運命を共にしたってことだ。俺はそれが──」

 

 ウィルは寂しさが混じった顔で、呟くように語る。

 

「それが、間違ったことだと思いたくないんだ。……クロノだってクライドさんを尊敬しているんだ。なんとなくわかってくれるだろ? ここで死地に行く友人を安全な場所から見送るなんて、父さんと真逆のことをしたら、自分で父さんの決断を否定することになるんじゃないかって思うんだ。だから、頼むよクロノ。俺に父さんを否定させないでくれ」

 

 それはただの感情論。けれど、クロノの心に深く刺さる一矢。

 長い付き合いだからわかる。ウィルが自分を説得するために有効だからとこの話を持ち出したことも、しかしその気持ち自体に嘘はないことも。

 

「……僕はきみのそういうところが嫌いだ。情と理屈を場合に応じて使い分けて盾にして、結局は自分のやりたいことを通そうとする。あまりにも身勝手だ」

「いつもごめん。自覚はある」

「それが一番性質が悪いんだ」

 

 クロノは大きくため息を吐き出して、笑った。

 

「それにこっちが断れないところをついてくるところも嫌いだ。まったく…………たしかに今は少しでも多くの戦力がほしい。AAランクの魔導師が協力してくれるのは心強い」

 

 クロノは自らを納得させるように何度かうなずくと、振り返って大きな声をあげる。

 

「艦長! ウィリアム・カルマン三尉と高町なのは、ユーノ・スクライア、アルフの四名を突入メンバーに加えます! よろしいですか!」

「はい了承。その代わりに一つだけ絶対に守ってちょうだい。必ず死なずに生きて戻ってくること。一番大切で、一番難しいことよ」

 

 クロノは裏拳でウィルの胸を軽く小突くと、指示を出す。

 

「ウィルは僕について来てもらう。最悪の場合は、僕と二人で突撃だ。一番辛い役目を受け持ってもらうからな」

「良いね。クロノとバディを組むのは三年ぶりか」

「不謹慎だけど、少しだけ心が躍るよ」

 

 視線を合わせて笑い合うウィルとクロノを見て、エイミィもまた微笑みながら語る。

 

「なつかしいねー。学内三位までいった二人のコンビ……えっとたしかブラック・ブラッド・ブラザーズだっけ」

 

 闘志にあふれた笑みを浮かべていた二人の顔が凍り付く。

 

「あら、初めて聞くわね? 士官学校時代のお話? いい名前ね」

「いえ、その……」

「僕の考えた名前じゃない。ウィルのだ」

「お前がブラックは絶対に入れろって言ったんだろ」

「知らない」

「えー、悪くない名前だと思うんだけどなぁ。かっこいいと思うよ?」

「いや……正直にいえば今でもかっこいいと思ってるんだけど、自分でそれを名乗ってたっていうのが……」

「あー、コンビ名とかつけてたの二人くらいだったしねぇ」

「やめてください……」

 

 これまでのシリアスな雰囲気はどこに行ったのか、突然賑やかに騒ぎだしたウィルたちの様子を、なのはたちが不思議そうに眺めていた。

 



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時の庭園

 宇宙を海と言うことがあるように、次元空間も海と呼ばれることがある。アースラのように世界をまたにかける管理局の部隊が海と呼ばれる所以だ。

 次元空間が海なら、各世界は広大な海に浮かぶ浮き島で、世界を揺るがす次元震は嵐。嵐に揺られている時の庭園はさしずめ波に弄ばれる小舟。

 

 プレシアの拠点たる時の庭園は、遠景では立ち並ぶ塔が棘のように見えて、上下双方向に棘が生えているような外観。

 中央のひときわ大きな塔の周囲をその名の通りに庭園部が囲み、そのさらに外側には小型の塔が乱立する。

 

 庭園部は次元震のせいで建物内部の観測がほぼ不可能になった現在、唯一アースラから観測可能なエリアだが、モニターに映る庭園の光景を見たアースラのブリッジスタッフは眉をしかめた。

 枯れた植物。砕けた彫像。くすんだ柱に刻まれたレリーフは、からみつく枯茶色のつたで大半が隠されており、何を表しているのかまるでわからない。作為的に廃墟の趣をだそうとしたのだと堂々と言われれば納得してしまいかねないほど、放置された庭園は薄気味が悪かった。

 

 その場所に勇敢にも浸入する者たちがいる。

 彼らは庭園部の上空に順番に転送されると、後続の邪魔にならないように素早く地上に下りて周囲の警戒をおこなう。

 そうして現れた三十人弱の人々。その半数はアースラの武装隊。その中にはウィルも混ざっており、率いるのは執務官たるクロノ。彼らに守られるようにして、緊急に編成された医療班もいる。

 

 その集団から少し離れて、なのはとユーノ、アルフの姿。

 クロノは彼らを今一度確認し、ため息をついた。突入してしまった以上、ジュエルシードを確保して次元震を抑えるまでアースラに帰ることはできない。

 そもそも、次元震のせいでアースラと連絡をとるどころか、クロノやユーノでさえ数十メートル離れた相手には念話が届けることができない環境になっている。

 クロノはなのはたち三人の方を向いて、告げる。

 

「きみたちとは、ここで別れることになる」

 

 クロノたちが目指す玉座の間は、中心の大きな塔の内部にある。そこは在りし日には貴人のための住居──城として使われていたらしい。

 一方、なのはたちが向かうのは、その他の小型の塔。ここは貴人に仕える者──使用人の住居として使われていたそうだ。

 これらの間を行き来するには地上の庭園部を通る以外に道はない。

 

「僕たちはとり残された負傷者の救助と治療のために、医療班を護衛しながら玉座の間に向かう。その後、僕はそのままプレシアの捜索を続けるが、負傷者が動かせる程度に回復すれば、彼らと医療班を武装隊に護衛をさせてこの庭園部に戻すつもりだ。治療が必要なようなら、きみたちもここに戻って来ると良い。しかし僕たちが戻れない状況も考えられるから、なるべく怪我はしないように。一応、きみたちに二人の護衛をつけておく」

 

 武装隊から腕利きのバディ二人を選出してなのはたちの護衛にすると、クロノは彼らに背を向け城へ向かう。

 それでも少し進んでからやはり気になって、後ろを振り向く。なのはたちの姿はすでに遠くなっている。

 この状況では、危険に陥っても助けることはできない。あの二人の武装隊員が精一杯の助け。

 

「まったく、世界はこんなはずじゃなかったことばっかりだ」

「まったくだな」

 

 思わずこぼれたつぶやきに、隣に立つウィルが同情めいた顔で同意を示した。

 

 

 

 踏み入れた塔の内部は薄暗く、壁が揺れ動いているせいで、揺れる通路が蠕動する臓器のようにも見え、巨大生物の体内に踏み込んだかのような気持ちの悪さがあった。

 

 入口のホールには侵入者を迎え撃つための番人たちが待ち構えている。

 武骨な甲冑を着込んだ人間のような()たち。それらはどう見ても生物ではない。魔法の力を動力とした機械の兵士──『傀儡兵』と呼ばれる物。

 空を飛ぶ槍兵、人より大きな剣士、さらに大型の斧を持つ重戦士。そのバリエーションは多様だが、共通していることがある。その全てが武器を手にしていること。しかも、ミッド式の魔導師のように魔法で構成した物とは違う、実体を持つ正真正銘の武器。そこには非殺傷などという言葉は存在しない。

 傀儡兵はこちらを視認するとすぐさま向かってくる。それに対し、武装隊の中でも前線維持担当のフロントアタッカーと呼ばれる者たちが前に出て迎え撃つ。

 一人の隊員が剣士型の一閃を受け止めようとする。

 

「うわぁっ!!」

 

 予想よりもはるかに重い一撃を受け切れず、隊員はそのまま後ろに飛ばされる。本局武装隊は最低でもBランク魔導師が選出される。それを上回るならば、傀儡兵はこと膂力に関してはAランクの近接型魔導師並と見ていい。

 

 吹き飛んでくる隊員に、後衛がすぐさま魔法を発動。網状に広がった魔法で彼を受け止めながら、射撃魔法を傀儡兵に放つ。

 傀儡兵の膂力は並の隊員よりも上。加えて数はこちらの倍以上。質でも量でも負けている相手に、どうやって勝てば良いのか。

 前衛に加わろうとするウィルの肩を、クロノが押さえる。

 

「きみが行く必要はない」

「でも、俺やクロノが前に出た方が──」

 

 クロノは首を横に振る。彼の視線の先では、武装隊の隊長が大声で指示を出していた。

 

「ひるむな! 魔力値が高くとも、所詮はただの機械人形だ! 前衛は目の前の一体だけに集中! 相手の挙動をよく観察しろ! 機械である以上、必ずパターンがあるはずだ! 後衛は前衛が一体に集中できるように、それ以外の相手の動きを制限しろ! 前衛が囲まれるような状況にだけは決してするな!」

 

 武装隊が動き、傀儡兵たちとの交戦が始まる。隊長も鈍色のデバイスの先端に射撃魔法を構築しながら、クロノに向かって声をあげる。

 

「クロノ執務官! 医療班は任せます!」

「了解した。きみたちは後ろを気にせず、ただ眼前の敵に集中してくれ」

 

 戦闘が激化する中、クロノは一箇所に固まる医療班の前に陣取り、彼らを守るようにシールドを展開する。

 

「武装隊だけに任せて良いのか?」

「もちろんだ。彼らは本局武装隊──管理局の精鋭だ。多少スペックが高い程度の機械に負けはしないよ」

 

 クロノの横顔には、仲間である武装隊への確固とした信頼と、彼らの強さを誇るような輝きがあった。

 

「それよりウィル。きみは僕と一緒に医療班の護衛を担当してくれ。射撃魔法は僕がシールドで防ぐから、きみは武装隊の間を抜けて来る近接型を頼む」

「了解!」

 

 ウィルはデバイスを起動させる。右手にはなじみの片刃剣。一時フェイトに壊されたことを感じさせないくらい、スムーズに手に収まった。腕の良いアースラのデバイスマイスターに感謝する。

 

「久しぶりの戦闘だ。行けるな、F4W」

『Without saying.』

 

 ウィルは医療班やクロノがいる最後衛に近づこうとする飛行型を切り落とす。しかし、それも最初だけで、次第に動く必要がなくなってきた。武装隊が連携をとり始めると、クロノの発言通り、武装隊は傀儡兵を圧倒し始めた。

 機械の動きは読みやすい。人間にある揺らぎが存在しない。フレキシブルさが足りない。同じように動けば同じような反応が返ってくる。

 それに加えて、傀儡兵は一体一体がそれぞれ動いているだけで、仲間とのコンビネーションが存在しない。唯一、他の傀儡兵を攻撃しないようにしている程度だ。彼らの動きは、一足す一を二にしているだけ。

 チームワークは一足す一が三にも四にもなるという、数学的常識の外に存在する概念だ。

 

 戦いは数分で終了した。広間に金属の塊だけを残して一行は玉座の間へと進軍する。

 

 

 途中の別れ道で、クロノは全員に止まるように命令する。

 通路は右と左にわかれており、アルフから得た情報によればどちらを通っても玉座の間には繋がっているが、左の道は隔壁で閉められていた。

 

「やはりここも閉まっているか」

 

 ここだけではない。これまで分岐点があると、必ず隔壁が閉められており、通れる道が限定されていた。

 ウィルは携帯端末に表示された地図とこれまでの道を見比べて答える。

 

「傀儡兵も無限じゃない。少しでも多くの傀儡兵と戦わせるために、道を限定しているんだろう。右の道をこのまま進めば、この先にまた広間がある。おそらくそこにも傀儡兵が配置してあるはずだ」

 

 語るウィルの表情は険しい。先ほどはさほど損害もなく傀儡兵に勝ったが、連戦になると負傷者が出る可能性も上がる。何より戦った分だけ時間がかかる。時間を浪費すれば、その分を取り返そうと無意識の内に焦りが生まれる。

 しかしながらクロノは、そんな懸念はどこ吹く風と平然としていた。

 

「それは好都合だ。逆に言えば、閉まっている道には傀儡兵を配置していない可能性が高いということだろ。だったら、ショートカットするしかないな」

 

 何をするつもりだとクロノに問おうとして、彼の表情にびくりとする。クロノは愉しそうにニヤリと笑っていた。

 笑みを浮かべながら、クロノは閉じた隔壁に手のひらをつけて、静止する。

 

「解析完了。ブレイクインパルス」

 

 隔壁が一瞬で粉々に砕けた。

 

 ブレイクインパルス。

 物体の固有振動数を算出し、対応する振動エネルギーを送り込むことで、物体を破壊する魔法だ。

 粉みじんになった隔壁を飛び越え、クロノは全員に呼び掛ける。

 

「さあ、時間が惜しい。このまま玉座の間まで突き進むぞ」

 

 次々に隔壁を破壊して突き進むクロノ。地図を見て、時間の短縮になりそうだと思えば、隔壁ではない普通の壁や床や天井さえも破壊して進む。

 普段は真面目なのに妙なところで豪快な友人の背を慌てて追いかける。

 

 

 

 到着した玉座の間にプレシアの姿はなく、負傷した武装隊だけがその場に残されていた。

 すぐさま医療班が治療を開始。武装隊は傀儡兵等の邪魔が入らないように負傷者にはりついて周囲を警戒し続ける。

 そして、こうしている間にもプレシアが何らかの策を考えているかもしれない──そう考えたウィルとクロノは、少数精鋭、二人でプレシアの捕縛に乗り出した。

 

 アルフから得た情報によれば、プレシアの私室や研究施設が存在するのは時の庭園下層部。

 アルフとフェイトはその区域への立ち入りを禁じられていたらしく、詳しい情報はない。もしかするとプレシアだけであれば別の場所で休んでいるという可能性もあり得る。

 しかしジュエルシードを完全に制御して発動するために大型の設備を必要とする以上、ジュエルシードは必ず下層部の研究施設にある。プレシアがいなくても、ジュエルシードだけでも回収できれば次元震の発生を抑えることができる。

 

 だからウィルとクロノは下層部を目指して通路を駆ける。

 

「三年間で指揮能力は上がったみたいだけど、個人技はどう? なまっているようなら、ちょっとゆっくり動くけど」

「きみの動きに合わせるくらい、なんてことはない。こんな全速力で飛べない閉所ならなおさらだ」

「それじゃあお言葉に甘えて昔のままやらせてもらうよ」

 

 前方に五体の傀儡兵を発見。しかし二人は足を止めない。

 通路は広いとはいえ、五体全てが横に並ぶことはできない。前に三体の傀儡兵。その後ろに二体という配置。

 

 ウィルは弾丸のように飛び出すと、並んだ三体の傀儡兵──その中央の一体へと一切減速せずに正面から突撃する。

 傀儡兵と正面衝突する直前に、ウィルの体が急停止する。その足には、青色の鎖──クロノのチェーンバインド。

 文字通り足を引っ張られたウィルは、つまずくように前に倒れこむ。そのまま足を中心に回転し始め、前方への運動エネルギーは下へとベクトルを変える。そのまま一体目の傀儡兵を頭から胴まで縦に両断。

 

 勢いそのままに空中で前方に一回転しつつ飛行魔法で姿勢を制御する。その時にはすでに足のバインドは解けている。

 突然自分たちのそばに現れた敵に、右の傀儡兵が剣をふるう。仲間がやられたというのにまったく動揺せずにやるべきことをやる。こればかりは機械の長所と言えるだろう。

 が、単調な軌道は読みやすい。攻撃をいなしながら、相手の腕を切り上げた。先ほどのような運動エネルギーをもたずとも容易く破壊できる肘の関節部を狙った斬撃に、傀儡兵の腕が剣ごと空中に舞う。

 突然腕の重量がなくなった傀儡兵はバランスを崩し、オートバランサーが機能して姿勢制御のために動きが停止する。その頭をクロノのスティンガーレイが貫き、二体目の傀儡兵は動きを止めた。

 

 前衛三体のうち最後の一つがウィルの背へと拳を振るう。

 しかし、その直前でクロノのデバイスから伸びるチェーンバインドが、傀儡兵の体を縛りあげて動きを阻害。

 ウィルの振り向きざまの斬撃が三体目の頭をはねて動作停止。

 

 残り二体の傀儡兵は、ウィルが後方に下がると機能を停止した三体のなきがらを飛び越え追いかけてくる。

 その瞬間、クロノから三体目の傀儡兵へと繋がるバインドを握り、魔法によって強化された身体能力をもってして、バインドを思い切り手前へと引っ張った。

 迫りくる二体の傀儡兵の背中に、傀儡兵のなきがらが直撃。

 走っているところを後ろから押されては、優れたバランサーを搭載していてもさすがに転倒を免れない。二体の傀儡兵は走る勢いのまま転がり、ウィルを越えて後衛のクロノの手前でようやく止まった。

 クロノは起き上がろうとする二体をいたわるように、右手と左手をそれぞれの頭部に置いた。

 

「ブレイクインパルス」

 

 五体の傀儡兵を十秒もかからずに撃破し、ウィルとクロノは再び走り始めた。

 

 

 

 通路を抜けると、下方に伸びる縦穴に出た。

 縦穴には飛行型の傀儡兵が今まで以上にうようよとおり、飛んで降りようものならすぐさま囲まれてしまう。

 穴の外周に下へと続く螺旋階段があるので、そこを使って少しずつ降りていくのが安全策だ。

 もっとも二人ともそんな悠長に行動するつもりはない。

 

「今から道を作る!」

 

 クロノは縦穴の中心に飛び込むと、デバイスを真下に向けた。当然、三百六十度全方向から傀儡兵が襲いかかるが、クロノはそれらを一顧だにしない。クロノのかわりに、ウィルがそれらを薙ぎ払う。

 そして、クロノのデバイスから放たれた砲撃魔法が、見えぬ縦穴の底に向けて突き進む。

 

『Blaze cannon』

 

 ウィルはすぐさまクロノを抱えて、砲撃の後を追う。砲撃は進行方向に存在する傀儡兵を消しとばしながら下へと向かう。そのすぐ後ろについて、ウィルたちも下へと進む。

 このまま一気に底まで。

 

 底が見えるところまで進んだ時、外壁を破壊して新たに一体の傀儡兵が現れた。巻き起こる煙で姿が見えないが、影から判断できるその大きさは、今までの傀儡兵の比ではない。

 クロノの砲撃が煙を吹き飛ばし傀儡兵に直撃する。しかし、砲撃はその身に纏うバリアに防がれる。

 巨体はこけおどしではなく、それに見合った出力の高さを持っていた。

 巨大な傀儡兵には、人間のように二つの腕があり、また背中から十を超える副腕が生えている。腕の先はどれも漏斗に似た形をしており、先端には穴が空いていた。

 

「こいつ、砲撃型か」

 

 すぐさま降下を止める。

 次の瞬間、先ほどまで自分たちが通過するはずだった所を、主腕から発射された閃光が通過する。遅れて副腕が次々に魔力弾を放つ。

 ウィルとクロノは一旦体を離して、それらを回避する。

 クロノは主腕の砲撃を回避し、副腕の射撃をシールドで防ぎながら下りようとするが、厚くなる弾幕のせいで下りることはできない。

 

「ウィル、先に行け。きみなら弾幕をかいくぐって下まで到達できるだろ。先に行ってプレシアを見つけ出してくれ」

「一人で倒せるか?」

「こいつが相手では、きみがいても役にたたない」

 

 ウィルの攻撃方法は剣だ。高速飛行からの速度を利用した一撃は強力で、この傀儡兵の装甲でも簡単に切り裂ける。が、剣の攻撃範囲はせいぜい一メートルまで。相手がこれほどの巨体であれば、表面の装甲を切ることしかできない。

 

「なるべく早く来てくれよ」

「善処する」

 

 そう言いながらも、ウィルは言われるがままに急降下した。

 即座に砲撃型がウィルに狙いを定める。主腕の砲撃をバレルロールで回避。さらに副腕の射撃が弾幕となって、ウィルを追い詰める。

 

『Stinger Snipe』

 

 傀儡兵がウィルに狙いを定めている隙に、クロノは射撃魔法を構築し、発射。副腕が青色の魔力弾に貫かれ、次々と爆発する。

 ウィルは悠々と下層に降りる。穴の底からクロノに手を振ると、横穴の通路に飛び込んだ。

 

 ウィルを見失った砲撃型が再びクロノに照準を合わせる。だが、副腕のほとんどが消滅した今、回避は造作もない。

 それでも構わず砲撃を放つ傀儡兵。撃ち続ければいつかはあたると言わんばかりの単純な攻撃。その姿に、これだけのバリアをもたせておけば管理局くらいなんとでもなるだろうという設計者の驕りを感じて、クロノは少し嗜虐的な笑みをうかべる。

 

「機械に言ってもわからないだろうが、ブレイズキャノンは物質破壊のための砲撃魔法だ。だから、そのバリアでも止めることができた。しかし、その程度なら貫通力にすぐれた魔法でたやすく打ち破れる。このように──」

 

 クロノがスティンガーレイを放つ。それはバリアを貫通し、砲撃型に傷をつける。

 

「──簡単に。……威力が低い分、倒すまでに時間がかかるところが難点だが」

 

 語るクロノの周りに先ほどやり過ごした飛行型が、続々と集まっている。前後左右、そして上下。全周囲が敵。飛行型は一斉にクロノに襲いかかろうとするが

 

「スナイプショット」

 

 クロノのつぶやき(コマンドワード)に呼応して、先ほど放った、そしていつの間にか上空で待機していたスティンガースナイプの魔力弾が、天から降り注ぐ。

 スティンガースナイプは、一度敵を貫いた後、そのまま消滅せずに上昇する。そして、その抜けがらとなった魔力弾は、周囲の魔力素を取り込んで再びその威力を取り戻し、クロノの号令と共に再度敵に襲いかかる──そのようにプログラミングされている。

 飛行型は次々と貫かれ、爆発を起こした。

 

 煙の中で、クロノは今日何度目かのため息をついた。

 

「このくらいでは、相手にならないな」

 



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運命との戦い

 なのはたちはアルフに先導されて、ただひたすらにフェイトの部屋を目指していた。

 

 クロノや武装隊が傀儡兵を相手どって戦っている最中も、こちらの道中は至って平和。誰一人どころか、何一つ出くわさない。困難といえば、次元震のせいで足元が軽く揺れ続けているせいで歩きにくい程度だ。

 ただ、時の庭園の不気味な装いも相まって、心休まることもなかった。むしろ何も起こらないことがかえって気味悪く、言い知れぬ不安が一行を包み込んでいた。

 それが現実となったのは、アルフが「もう少しで着くよ」と言ってまもなくのことだった。

 

 階段を昇り終えた先には、幅の広い通路が広がっていた。先を照らす灯は少なく、通路の先は闇に包まれていて先が見えない。

 ぽっかりと口を開けた闇の向こうから、こつん、こつんと、ゆっくりとではあるが、たしかに足音が聞こえてくる。

 護衛につけられた男女二人組の武装隊員が、なのはたちをかばうようにすぐさま前に出てデバイスを構えた。

 

 足音の正体はすぐにわかった。薄暗い通路においても輝いて見える、流れるような金色の髪。なのはたちの目的であるフェイトその人。

 少し眠った程度ではたいして回復していないようで、壁に手をつき視線は床に落ちて、一歩ずつ踏みしめるようにして歩みを進めていた。

 

「フェイト!」

 

 アルフが声を張り上げてまっさきに駆けだし、なのはたちもその後を慌てて追いかける。

 どたばたとした足音にようやくフェイトは顔をあげ、自分の使い魔の姿を目にした。

 

「アルフ?」

 

 アルフはフェイトに抱きついた。いつものように激しく、それでいて気づかうように優しい抱擁に、疲労が濃く残るフェイトの顔も思わずほろこぶ。

 

「体は大丈夫かい? どこか痛いところはない?」

「大丈夫、寝たおかげで少し回復したから。心配してくれてありがとう。目が覚めたらいなかったから私も心配したんだよ」

「ごめんね、ずっとそばにいなくて。ちょっと事情があったのさ。絶対、絶対にフェイトを見捨てたわけじゃないからね!」

「わかってるよ。アルフはそんなことしないってことくらい。ところで……その事情って管理局の人と一緒にいることと関係あるの?」

 

 アルフの視線はずっとフェイトのみに向けられていたが、フェイトの視線は最初からアルフだけではなく、そのさらに後ろ──なのはとユーノ、そして二人の武装隊員に向けられていた。

 フェイトの声には使い魔に対する親愛と同時に、感情を殺した詰問が同居していて、アルフは叱られた子犬のようにびくりと震える。

 

「どういう状況なの? 母さんは?」

 

 答えに迷うアルフへとさらに重ねられる問い。

 口ごもるアルフに代わって答えたのは、武装隊の隊員の男の方。

 

「私たちはフェイトさんを保護するために来ました。お気づきかもしれませんが、活性化したジュエルシードによって時の庭園を中心に次元震が発生しています。ひとまず私たちについてきていただけますか。あなたのお母さんの方にも仲間が向かっています。心配なさらずともじきに()()されるでしょう」

 

 嘘ではない。ただしその保護は逮捕という名をしている。

 フェイトはゆっくりと首を横に振った。

 

「ありがとうございます。でも、まずは母さんに会いに行かないと。行こう、アルフ」

 

 そう言って、フェイトは歩き始める。敵であった管理局の言葉を、そのまま素直に受けとりはしない。プレシア自身から事情を聞き、プレシア自身に何をすれば良いのかを教えてもらう。そのためにフェイトは武装隊の提案を拒否した。

 目的を見つけた足取りは、先ほどとは異なりしっかりとしたものだった。

 

「二人ともできるだけ下がって、通路の端でじっとしていてください」

 

 男はなのはとユーノに指示すると、フェイトの行く手を阻むように立ちはだかった。

 

「申し訳ありませんが、それは看過できません。この次元震はプレシア・テスタロッサが意図的に起こしたものです。今の彼女は何をするかわかりません。我々と一緒に、避難を」

「ありがとうございます。でも、それならなおさら母さんの手助けをしないと」

 

 なお進もうとするフェイトに、アルフが追いすがる。

 

「ここはひとまず一緒に避難しようよ。気を失う前のことを覚えているだろ。プレシアは……あの女はフェイトを巻き込んで魔法を撃ったんだよ。そんなやつのことを心配する必要なんてないよ」

「母さんは、それでも私ならできるって信じてくれていたんだよ。だから期待にこたえられなかった私がいけないんだ。嫌ならついて来てくれなくてもいいよ。アルフも疲れているみたいだし、休んでいて。私だけで行くから」

 

 それが当然と言う顔で、フェイトはアルフの横を通り立ちはばかる武装隊の方へと歩を進める。

 武装隊の二人はデバイスを構える。すでに臨戦態勢。フェイトがおかしな動きをとれば、その瞬間にも戦いは始まる。

 

「今は私たちと一緒に来てくれないかな?」

 

 武装隊員の女の方が説得の言葉をかけるが、フェイトの歩みは止まらない。

 

「彼女の言うとおり、どうしても進むのなら少々強引な手段をとらざるをえません」

 

 フェイトの体を案じているからだけではない。このまま行かせてフェイトがプレシアに会ったなら、彼女は再び管理局の敵となる。プレシアと武装隊が戦っていればプレシアを助ける──そうフェイトは言った。それは彼らの仲間を、武装隊を傷つけるということ。

 

 男のデバイスに青い魔力光が灯る。女がデバイスを薙刀のように構える。

 フェイトはバリアジャケットを纏う。バルディッシュが変形し、鎌をかたどった。黒い衣装は背景の暗さに溶け込み、金の髪と白い肌、そして赤い目だけが浮き上がって見える。此岸と彼岸の狭間に漂う幽鬼や死神めいた姿。

 

 フェイトの後ろからアルフが、武装隊の後ろからなのはが何かを叫ぶ。しかし、言葉には戦いに臨む三人を止めるだけの力はなかった。

 

 

『Photon lancer full-auto fire』

 

 フェイトの周囲に生じる金色の発射台(スフィア)。それらから同じく金色の魔力弾が次々と発射される。

 間断なく、シャワーから撒かれる水のように放出される魔力弾。このような通路で回避するのは至難の技だ。

 男も同様に魔力弾を連射。青と金は空中で衝突して相殺し合う。

 

 フェイトは自身の放った魔力弾を追いかけるようにしてその後ろにつく。前の魔力弾が相殺されるとすぐさま別の魔力弾の後ろにつき、青色の雨を避けながら接近する。

 対して、武装隊はすぐさま女が前に出て、男が女の前方にシールドを展開してフェイトの魔力弾を防ぐ。

 一人で多くのことをしなければならないフェイトと異なり、こちらは二人いるがゆえに単純な行動で対処できる。男はフェイトの魔力弾に、女は向かって来るフェイト自身に集中する。

 

 フェイトはシールドが展開されていない横方向に回り込むと、下段に構えていたバルディッシュで逆袈裟に切り上げる。

 女もタイミングを合わせて自身のデバイスをバルディッシュに振り下ろす。

 彼女も伊達や酔狂で本局武装隊に配属されたわけではない。本局武装隊のフロントアタッカーの技量はフェイトという天才児に劣るものではない。

 

 激突する二つのデバイス。金属同士がぶつかる時の耳障りな音が通路に反響し、一瞬の火花が二人を照らす。

 衝突の結果は、相手の体を狙ったフェイトよりも、最初から相手のデバイス自体を狙った女性隊員の方がやや優勢となった。

 女性隊員の方はデバイスが上へとわずかに跳ね上がっただけ。重心はぶれておらず、すぐに次の行動に移ることができる。

 フェイトはバランスを崩し、バルディッシュの軌道が下方にそれた。しかし強引に修正しようとはせず、相手の足首を刈るように軌道変更する。

 女性隊員は跳び上がって回避し、空振って体勢の崩れたフェイトの背に覆いかぶさるように組み付いて、右腕をねじり上げつつバインドでその身の自由を奪う。

 痛みがフェイトの握力を奪い、バルディッシュが手からこぼれ落ちる。女は即座にバルディッシュを蹴り飛ばして手元から引き離す。

 デバイスという力を奪い取るのは普通に考えれば悪くはない判断だった。フェイトが我が身を顧みない子だということを考慮にいれなければ。

 

 女性隊員の意識がバルディッシュへと移った一瞬の隙をつき、フェイトは自身を組み伏せる彼女を巻き込んで、高速移動ブリッツアクションを実行。

 一秒足らずで亜音速に達する超加速を可能とする高速移動魔法によって、身体そのものを弾丸に、女性隊員の体を盾にして、男性隊員に突撃する。

 まともに衝突した武装隊員たちは、水面を跳ねる水切りの石のように通路を跳ね飛ばされていく。一回、二回、三回のあたりでなのはとユーノの前を通過する──四、五、六回。

 跳ねた回数は六回。七回目の前に、通路の行き当たりの壁にぶつかって止まった。

 

 フェイトは大きく息を吐いて気を落ちつけると、床に転がるバルディッシュを拾い上げようとし、顔をしかめて動きを止める。腕をねじりあげられていた状態で無理に動いたせいで、右肩が外れて動かせなくなっていた。

 痛みに顔を歪めながらも、残った左手でバルディッシュを拾って再び歩き始める。

 

「待って、フェイト! 管理局と戦っちゃ駄目だよ!」

「今さら何を言ってるの? 最初から管理局は敵だったじゃない」

 

 フェイトは倒れている二人の武装隊から目を離さぬように前を向いたまま、後ろから駆け寄ってきたアルフに応える。

 

「それは……初めはあたしも、プレシアにも何かちゃんとした理由が──管理局を敵にするだけの理由があると思ってたから。でも、あの女にどんな理由があったって、そのためにフェイトが戦う必要なんてないよ。あいつがいったい何をしてくれた? いつもいつも、ねぎらいの言葉一つなく、ただフェイトを傷つけるだけじゃないか。あれだけひどいことをするくせに、母親らしいことなんて一度もしたことないやつのために!」

「そうだね。でも、そんなことはどうでもいいんだよ」

「嘘だ! あたしはフェイトの使い魔なんだよ! フェイトの気持ちは魔力パスを通じて伝わってくるんだ! フェイトはあいつに酷い目にあわされて、あんなに悲んでたじゃないか! それなのに、どうでもいいはずないだろ!」

「……そうだね。どうでも良くはない、かな。私だって母さんにまた優しくしてほしいし、また抱きしめてほしい。でも、そうじゃないんだよ」

 

 フェイトはほほ笑みを浮かべ、諭すようにアルフに教える。脳裏に浮かぶはの自分の脳に()()()()()幸福な日々の記憶。

 

「アルフは知らないだけ。母さんは、幼い頃に私に笑ってくれた。優しく抱きしめてくれたし、一緒に花の冠を作ってくれた。それだけで良いの。私はその時に母さんを大好きになったから。私は、見返りが欲しいから母さんが好きなわけじゃない。たとえ今、何も与えてくれなくてかまわない。笑いかけてくれなくても、見てくれなくても良い。それは苦しいことだけど、そんなことで母さんを好きだって気持ちは変わらない。好きな人を助けるのは当たり前のことでしょ?」

「そんなの……おかしいよ」

「わかるはずだよ。他の誰にわからなくても、私の使い魔のあなたなら」

 

 その言葉で、アルフはフェイトのプレシアに対する絶大なる愛を、否が応でも理解した。

 そしてアルフ自身、プレシアが間違ったことをしているから放っておけとフェイトに言いながら、今まさに誤った道へと進むフェイトを放っておけないでいる。

 

 言葉は力を持たない。フェイトを止めるには、力でもって強引に止めるしかない。力で──拳で、フェイトを殴ってでも止める。今ならできる。フェイトがアルフに背を向けているこの状況なら、不意打ちでフェイトを気絶させるのはあまりに容易い。

 

「そんなこと、できるわけ……ないじゃないか」

 

 フェイトが前を向いているのは、前方で倒れている武装隊を警戒しているから。

 フェイトがアルフに背を向けていられるのは、アルフを全面的に信頼しているから。

 アルフが自分を攻撃するなんて、夢にも思っていない。そんな自分を信頼する主人の背中を、いったいどうして襲うことができるのか。

 

 自分ではフェイトを止められないことを理解して、アルフはその場に崩れ落ちる。

 四肢に力が入らなくなる。人間を超える頑丈さをもつ使い魔といえども限界はある。治療もそこそこに無理を通してここまでやってきたせいで、アルフの肉体は消耗しきっている。

 フェイトのためという目的意識が肉体をカバーしていたが、そのフェイトに断られた今、アルフの身体を支えてくれるものは何もない。

 うずくまった姿勢で、視界を上げることもできず、床を濡らしながらアルフは懇願する。

 

「お願い……行かないでおくれよ。フェイトがいなくなったら、あたし、どうやって……」

 

 フェイトは、背中から聞こえるアルフの痛みを抑えるような声、涙をこらえるような声、そして懇願を聞きながらも、振りかえらずに歩き始めた。

 追いすがることもできずに、アルフはその場にうずくまる。

 できることはただ祈ることだけ。もう一度、同じように願えば、助けが来てくれるだろうか──藁にもすがる思いで、アルフは泣きながら願う。

 

「誰か……お願いだから、フェイトを助けてよぉ」

 

 

 

 

 ユーノは、わずか数分の間に凄惨な状況になった通路を見る。

 護衛につけてもらった二人は倒れ伏したまま。アルフもフェイト相手に戦えそうな状態ではない。

 

 残っているのは、なのはとユーノだけだ。

 フェイトはゆっくりとであるが、こちらに歩いて来ている。プレシアのもとへと向かおうとする彼女の表情には、鬼気迫るものがある。邪魔するのであればなのはとユーノが相手でも容赦はしないだろう。

 

 通路の端まで吹き飛ばされた武装隊の二人の姿を見る。

 女の方はバリアジャケットが解けて、管理局の制服姿に戻っている。吹き飛ばされた時にできたのだろう。体のあちこちに一見してはっきりとわかる傷ができている。男も同様だ。

 これが戦いか──と戦慄を覚える。鍛えている武装隊でさえ、このありさまだというのに、ろくろく戦いの経験もない自分ではどんなことになるか。

 この一月で危険な状況はいくつも味わってきた。特に、海上でのジュエルシードの封印では死を覚悟した。それに比べれば、ここでフェイトに負けても確実に死ぬわけではない分、こちらの方がましとも言える。

 だが、負ければこうなるぞ、と。その例を目の前にはっきりと見せられて冷静に判断できるほど死線をくぐった経験もない。

 

 ──戦わずにこのままじっとしていたい

 

 ユーノは、自分の顔と心に巣くう臆病を両手の掌で叩く。

 ぱちん、とかわいた良い音がして、それに驚いてなのはとフェイトがユーノを見る。

 二人の注目を浴びながら、ユーノは通路の真ん中に歩を進めてフェイトの前に立ちはだかる。

 

「できれば、ユーノには退いてほしい」

 

 フェイトは動かない右手をぶらりと垂らしたまま、左手でバルディッシュを構えながら言う。

 

「退かないよ。僕だって男だ。この身をはるくらいの勇気はある。それに僕はフェイトの友達だからね。友達が間違った道に進もうとするなら止めないと」

 

 フェイトの威圧に負けないように、ユーノも言い返す。

 

「どうなっても知らないよ。ユーノは攻撃魔法は得意じゃないよね。それじゃあ私には勝てない」

「そうだね。でもフェイトこそそんな状態で戦えるの? 右手動かないんでしょ? 少し寝たからって魔力がそれほど回復したわけじゃない。これだけ戦えば回復した魔力もかなり減っているはずだ。何回もバインドを解けるだけの魔力は残っていない。文字通りふん縛ってでも、きみを行かせはしない」

「……そうだね。今の私は余裕がない。手加減なんてしていられないから。だから──本当にどうなっても……()()()()()知らないよ」

 

 フェイトからの圧迫感がさらに強まる。瞳には見ただけで気押される威圧感がある。今のフェイトは狂気の相に足を一歩踏み入れている。

 それでもユーノが退くことはなかった。

 

 フェイトとユーノが同時に動いた。

 ユーノはチェーンバインドをフェイトに向かって飛ばす。その程度、フェイトにとっては障害にはならない。武装隊員の魔力弾と比べれば、機関銃と投げ縄のようなものだ。

 飛行しながら軽く軸をずらして回避。そのまま接近しようとする。

 接近戦を嫌ったユーノが、バインドを通路一面に蜘蛛の巣のように張り巡らせる。

 それ以上近づけずに、フェイトが止まった。

 

 地面や壁、天井からバインドが現れ、フェイトに襲いかかる。

 魔法弾が壁を透過することが可能なように、非殺傷設定の魔法は物質に干渉しない。ユーノはフェイトに気付かれないように、多くのバインドの中の数本を壁の中を通してフェイトの近くに潜ませていた。

 フェイトは後ろに跳び退いて回避。左手が雷光を纏ったかと思えば、握るバルディッシュを宙に投げると、空いた左手を振りかぶって槍を投げるようにユーノに向かって振り下ろす。

 

「サンダースマッシャー!!」

 

 自身の残り魔力の半分近くを使った雷の槍が、蜘蛛の巣のように張られたバインドを突き破ってユーノにせまる。

 翡翠色の盾が雷の槍を防ぐ。その間にフェイトは宙に投げたバルティッシュを再び左手で掴むと、瞬時にユーノに肉薄していた。雷の槍は始めから行く手を阻むバインドの除去が目的だ。シールドの張られていない方向に回りこみ、ユーノに切りかかる。

 直前、ユーノの姿が突如目の前から消滅し、斬撃が空を切った。

 その瞬間、フェイトは転がるようにしてその場から跳び退いた。一拍遅れて先ほどまでフェイトがいた場所をバインドが通過する。

 発生源は足元の小動物(フェレット)。ユーノは変身魔法で瞬時に身体を縮めてフェイトの攻撃を回避していた。

 

 ユーノは再び人間の姿に戻り、フェイトも距離をとって立ち上がり、二人は再び静止し睨み合う。

 連戦につぐ連戦のフェイト。命がけのユーノ。たったこれだけの攻防でさえ、両者の集中力はごっそりと削られた。このまま戦えばやがてミスが増え、勝敗の行方を偶然が左右する割合が大きくなる。

 それは避けなければならない。互いにこの勝負は負けられない。

 必ず勝つために、このインターバルの間にできる限り体力と集中力を回復させ、次の一手を考え、布石を打たなければならない。

 そして二人は再び動こうとする。第二ラウンドの開始だ。

 

 

 その直前。窓もない屋内に、風が吹き始めた。

 

 

 

 なのはの眼の前で、ユーノとフェイトが戦いを繰り広げている。

 

 なのはは認めたくない。

 友達同士が戦うことが、ではない。戦う以外にフェイトを止める方法がないということをだ。

 

 フェイトと戦うのは嫌だ。たとえそれしか方法がなくても、友達を傷つけることが正しいと、戦いを止めるために戦うことが正解だと思えない──思いたくない。

 しかし他に道はない。問題はすでに話し合いで解決する範疇を超えていることは、フェイトを見ればわかる。母親のために全てを投げ捨てて戦える、金剛石のような意思に言葉の刃は通らない。

 その事実を理解して受け止めたから、ユーノはフェイトと戦うことを選んだ。友達であるフェイトを止めるために。

 

 レイジングハートを強く握り締める。

 感情では戦いたくないと感じている一方で、理性はユーノだけに戦いを任せてはいけないと警鐘を鳴らしていた。

 フェイトは強い。傷ついていてなお、ユーノ一人では互角に戦うことが精一杯だ。このまま静観していては、ユーノまで傷つき倒れてしまうかもしれない。

 フェイトのためにも、ユーノのためにも、なのはも戦う決意をしなければならない。

 

 誰かの力になるために振るうと決意した魔法の力を、友達を倒すために振るうことには抵抗感がある。でも、魔法の力だからこそ、フェイトを傷つけずに倒すこともできる。

 後は己の心次第。戦いを止めるために戦うことを受け入れれば良い。そうしなければフェイトを止めることはできない。

 そして、なのははフェイトを倒すことを受け入れた。

 

 

 周囲の風が蠢き始める。魔法理論も魔法構成もなく、なのははただ感覚のままに、フェイトを倒すための魔法を紡ぐ。

 あれだけ強く、硬い意思を持つフェイトを倒すには、並大抵の魔法ではいけない。なのはの残りの魔力では足りない。もっと、もっと大きな魔力がいる。

 だからなのはは新しい魔法を創造する。

 レイジングハートが明滅を繰り返す。あまりにも馬鹿げた魔法構築に悲鳴を上げるながら、それでも主を助け続けていた。

 

 

 

 吸い込まれるような風の発生源に視線をやったフェイトとユーノは、廊下の中心に立つなのはと、その前方に浮かぶ小さな球体を見た。

 球体の色はなのはの魔力光と同じ桜色。周囲の風を取り込んで加速度的に大きくなる。いや、風ではない。取り込んでいるのは周囲の魔力素だ。魔力素が渦巻き、球体に取り込まれていく。風は結果として生じているだけ。

 具象絵画を描く精妙さで、光の軌跡が抽象画を描く。無色の魔力素はなのはに近づくにつれ桜色を帯びながら球体に吸い込まれる。なのはに近づくにつれ世界が彩られていく。

 際限なく大きくなる桜色の球体は、周りの暗さのせいだろうか、出すこともできないのに血液が流れ込んで膨れ上がる心臓のよう。

 

「収束……魔法」

 

 ユーノの口から、そんな単語がもれた。知識としては知っていたが自分の目で見るのは初めてだった。

 

 魔法とは体外の魔力素を体内のリンカーコアで結合させ、自らが使いやすい魔力という形に変換して貯蔵。それを消費することで行使される。

 だが収束魔法は違う。収束魔法とは術者の周囲に遍在する魔力素をかき集めて、魔法として放つもの。魔力ではなく、純粋な魔力素を操る収束魔法は人間には理論上不可能だ。無色の絵の具を使って絵画を描くのは不可能なように。

 だから、なのはは単なる魔力素ではなく、他者が使った後の魔力を利用していた。一度魔法を行使するために消費され空気中に放出された魔力は、結合が解かれて再び魔力素へと戻る。しかしすぐに戻るわけではない。ある程度時間が経過するまでは魔力としての性質を残し続けている。

 なのはが使うのはそれ──他者が消費して周囲に散乱する魔力だ。

 まだ結合が解かれていない魔力なら本来の収束魔法に比べれば比較的簡単に扱える──理論上は。

 だからと言ってそのためにはどれほど精密な魔力操作を必要とするのだろうか。魔力に近い性質があるといっても所詮は他人の魔力。入り乱れての戦闘がおこなわれたこの場所の、どこに誰が使った魔力があり、その魔力にはどんな性質があるのか。そんなことはすぐにわからない。

 

 魔法の構築を絵画に例えるのなら、通常の魔法は自分の用意した絵の具を使い、自分の望む絵を描くこと。

 なのはのこれは、他人から適当に渡された色を使って自分の望む絵を描くようなもの。

 それを練習もせずに成し遂げる規格外のセンス。プログラムではなく肌で魔力の質の違いを判断し、感覚的に魔法を構築するこの才能。

 三十余の管理世界から人の集う時空管理局でも、いったいどれだけの魔導師がこの才に倣えるのか。

 

 

 けれど、その瞬間にユーノの心を占めたのはなのはの才への称賛ではなく、その構築がなのはに与える負荷への危惧だった。

 

「なのは、止めて! そんな無茶な構築をしたら──」

 

 対して、フェイトの動きは迅速だった。なのはの魔法は危険。だから放たれる前に止めなければならない。彼女にはそれで十分だった。

 幸いにもなのはまでの距離はそれほど離れていない。魔法はまだ未完成だ。

 

 まずは邪魔をされないように、呆然としているユーノに切りかかった。なのはに気をとられていたせいで、ユーノは回避できず、袈裟に切られて壁にぶつかった。

 視界の端に映るなのはの顔が悲壮に歪む。なのはが魔法を構築したせいで、ユーノのフェイトへの注意がそれてしまった。その事実がなのはの精神集中を乱し魔法の構築速度を遅らせた。

 

 今なら間に合うと、フェイトは返す刃でなのはに飛びかかり、バルディッシュを振るった。

 そのバルディッシュの金色の刃は、青色のシールドに防がれた。

 壁際で倒れていたはずの武装隊の男の手にが顔を上げ、その手に握られるデバイスが淡い光を放っていた。

 

「ごめんね」

 

 フェイトの視界が光に包まれ、そして意識が闇に閉ざされる直前、懺悔するようななのはの声が聞こえた。

 

 

 

 数分後、少しだけ動けるようになったアルフは狼の姿になり、その背にフェイトとなのはとユーノを乗せて、立ち上がろうとする武装隊の男の元へと歩み寄る。

 

「あんたたちも乗る?」

「いえ、護衛対象の手を煩わせるわけにはいきません。スペースもないですしね」

 

 アルフの提案に、男は笑って首を横に振る。さすがに大の大人二人の追加は定員オーバーだ。

 男は女を背負うと、デバイスを杖替わりにして歩き出した。

 

「護衛を任されたのにこの有様です。役に立たず申し訳ありません」

「何言ってんだい。……あそこでフェイトを捕縛じゃなくて気絶させようとしてたら、最初からあんたらの勝ちだったろ」

「お恥ずかしい。我々の判断ミスです」

「……管理局ってのは案外お人よしばかりなんだね」

 

 男は少しばかりの誇らしさを顔に浮かべて、言った。

 

「管理局の別称をご存じですか? 次元世界一のお節介焼き、ですよ」

「……そうだね、あんたらも、この子らも、みぃんなお節介だらけだよ」

 



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運命への抗い

 時の庭園下層部の通路には傀儡兵の残骸が点々と横たわり、意図してかせずか後から来る者のための道標となっていた。

 その光景を作り出した人物──ウィルは、通路の突き当りにあるひときわ大きな扉から離れると、通路の途中に横たわる傀儡兵の残骸の頭を掴んで、三百キロを超える金属のボディを持ち上げる。

 

 扉の向こうからはこの一月で何度も感じたジュエルシードの魔力反応。

 事態を解決するために、早急に部屋の中へと突入してジュエルシードを回収する必要がある。

 ただし、この先にあるのがジュエルシードだけとは限らない。一連の事件の元凶となるプレシア・テスタロッサもまた、この中にいる可能性は高い。

 

「今から連絡用の信号を発信し続けてくれ。クロノのS2U以外には受信されないように設定。俺の命令があるまで解除はしないで」

『He doesn't exist around here.(周辺にクロノ執務官は存在していません)』

「それでも構わない。受信範囲に入れば向こうから連絡があるから」

 

 ウィルは自らのデバイス、F4Wに命令して、デバイスがクロノ宛に信号を発し続けるように設定する。

 次元震の環境下では通信状況が悪くなり、発生源のジュエルシードに近づいた現状では、その有効範囲は三百メートルもない。その範囲にクロノが入れば彼のS2Uに信号が届く。そうすれば折り返し彼から念話が送られてくるだろう。

 当然、その時にウィルが倒されていれば返事はできないが、それならそれでクロノに伝えることができる──この部屋の中にはウィルを倒すほどの脅威が存在しているということを。

 

「ちょっと乱暴だけど仕方ないよな。扉閉まってて開けてくれないし」

 

 ウィルは傀儡兵を掴んだまま飛行魔法で浮きあがる。

 

「それじゃあ、行きますか」

 

 ウィルは扉に向けて飛翔し、手に持った傀儡兵を扉に向かって投げつけた。

 飛行と投擲の速度が加算された金属の残骸が扉を突き破り、扉を新たな残骸へと加えながら部屋の中へとなだれ込む。

 それがジュエルシードをめぐる事件の、最終戦のゴングとなった。

 

 

 

 突入した先は部屋と呼ぶには非常に広く、直径二百メートルにも及ぶ広大な空洞だった。

 その中にいくつもの機械が立ち並び、数えきれないほどのケーブルがそれらを繋ぎ合わせている。

 

 その中央、待ち構えていたプレシアの片手に紫の魔力光が集まる。

 向こうもウィルが扉の前でうろちょろとしていたことには気づいていたようだ。突然侵入してきたウィルに驚く様子はない。

 

 勧告の猶予はなしと判断。ウィルは即座に突撃を止めて上昇する。その動作と、プレシアがナイフを投げるように手首を返したのはほぼ同時。

 先ほどまでウィルのいた場所を雷が通りすぎる。バチバチと空気が引き裂かれる音と、生成されたオゾンの悪臭がウィルの感覚器を刺激する。

 雷は入口付近の壁を抉り取って消えた。対物破壊──つまり非殺傷ではない。フェイトと同系統の雷の魔力変換だが、速さ練度威力全てが数段上。

 加えて、玉座の間で武装隊と相対した時には消耗しきっていたはずのプレシアは、あれから二時間弱の間にこうしてウィルを圧倒する魔法を放てる程度には回復しているという事実。

 事態は想定内を越えてはおらず、そして想定の範囲の最悪に位置していた。

 

 一撃でウィルの命まで刈り取りかねない魔法も、大魔導師プレシア・テスタロッサにとっては牽制にすぎない。すでにプレシアの周囲には二十を越える魔力弾が浮遊しており、上昇途中のウィルに向かって一斉に放たれる。

 この魔力弾をかいくぐって、プレシアに攻撃するのは危険。二十の全てが直射弾であれば隙間を潜り抜けてみせる自信はあるが、自動追尾または思考制御型の誘導弾であれば難しい。

 見たところ、威力も格下のウィルにとっては十分。一発でバリアジャケットを持っていかれる。

 

 横方向に移動して避けると、魔力弾の群れはウィルの横を通りすぎた──が、背後で軌道が変化。回避したはずの魔力弾が、進路を変えて背後から襲いかかってきた。危惧した通り、誘導弾だったようだ。

 回避のために速度を落とすようなまねはせず、むしろ加速して、誘導弾に背を向けるようにして逃げる。

 

 広大な空洞もウィルが全速力を出すには狭すぎる。もしハイロゥを使用して音速を突破する加速力を存分に発揮すれば、静止状態からでも一秒強で端から端まで到達する。そしてそのまま壁に激突し、物言わぬ赤黒いシミを残すハメになる。

 

 したがってハイロゥは使用せず、飛行魔法のみで追いつかれないように加速。それでもすぐに部屋の端に到達。壁が目前に迫る。

 減速をかけると魔力弾との相対速度がマイナスになり、両者の距離が縮まる。魔力弾はウィルのすぐ後ろに迫っていた。

 ウィルは壁にぶつかる直前に、くるりと百八十度回転。頭と足の方向を逆転させる。脚のばねで衝撃を受け流し、力強く壁を蹴って斜め上に飛びあがる。

 ウィルが壁を離れた瞬間、そこに次々と魔力弾が殺到した。ただ回避するのではなく、魔力弾を壁にぶつけることで消すのが目的だ。

 

 だが、魔力弾はぶつかることなく、そのまま壁の向こうへと消えていった。そして、すぐさま壁から魔力弾が飛びだしてきた。

 物質に影響されていない。つまり、魔法弾は非殺傷設定。

 先ほどの攻撃が対物設定だったので、この魔法もそうだと思い込んでしまった自分に舌打ちする。

 

 さらに悪いことに、プレシアの周囲にはさらに新たな魔力弾が浮いていた。その数は、後方から迫って来ているのと同数程度。前方と後方を合わせれば魔力弾の数は四十を越える。

 ウィルを追いかけてくる後方の魔力弾が誘導弾である以上、新しく生み出された前方の方は直射弾であるはず──そんな考えはプレシアには通用しなかった。

 前後合わせて四十個の魔力弾は、それぞれが意志を持つかのごとく、それぞればらばらの方向に動き始めた。

 誘導弾は術者の思考によって動きを変えることができる。魔導師はマルチタスクによって複数の誘導弾を操るが、一個につき分割された思考が一つ必要だ。つまり、四十全てを自在に操るには思考を四十個以上に分割しなければならない。

 

 戦いなど経験しなくとも、規格外に優れた魔法と知性のみで、他を寄せ付けない圧倒的な実力を誇る。それが大魔導師プレシア・テスタロッサ。

 

 

 誘導弾は球を描くようにウィルを包囲し、その全てが中心のウィルに向けて襲いかかる。

 動かなければ、前後左右上下あらゆる方向から襲われる。早く行動すればするほど球の半径は大きい。つまり、弾と弾の間隔も広くなる。できるだけ大きな隙間を見つけて、この包囲網から少しでも早く脱出しなければ。

 弾の密度が薄い場所はすぐに見つかった。ウィルとプレシアをつなぐ直線上だ。その意味するところを理解したウィルの顔が歪むが、それでも即座にその隙間に向かって駆ける。

 見上げるプレシアと、見下ろすウィルの視線が交差し、プレシアが嗤う。

 

 わかっている。このルートが罠だということくらい。

 

 自分の真正面など、本来なら最も優先して防がなければならない場所。

 無意識にそこの密度が高くなることはあっても、無意識に密度を薄くすることなどありえない。

 そんな場所の弾の密度を下げたとなれば、意図的としか考えられない。おそらく、ちょこまかと動き回るウィルを確実に仕留めるため、わざと逃げ道を作り出してのこのこやってきた時を本命の魔法で狙うつもりなのだろう。

 それがわかっていても、のるしかなかった。のれば相手の思うつぼだが、のらなければこのままやられるだけ。

 

 ウィルは脚部のハイロゥに魔力を流し込む。魔力から変換された運動エネルギーを与えられた圧縮空気が、ノズルから勢いよく噴出した。

 

 プレシアの瞳が驚愕で大きく開かれる。

 ウィルはここまでハイロゥを使わずに戦っていた。したがって、プレシアはこれを使った超加速を知らない。予想外の速度を出すことでタイミングを狂わせ、プレシアに攻撃される前に包囲網を脱出する。

 目論見通り、ウィルはプレシアの次なる魔法構築が完了する前に包囲網を抜けた。プレシアとの距離は五十メートルをきる。

 

 ウィルはそのままプレシアに突撃する。

 時間を与えても、また包囲されるだけ。今度はハイロゥの加速さえ計算に入れて、完璧にウィルを封じにくる。勝機はここにしかない。

 ここに至ってプレシアは自分の予測が崩されたことに気付くが、かまわずに魔法を放とうとする。

 ウィルの剣が叩き伏せるが早いか。それとも、プレシアの魔法が貫くが早いか。

 

 お互いの距離は三十メートルをきる。

 

 ──無理だ

 

 実戦で培った勘がそう告げる。このまま直進してもプレシアは倒せない。わずかにウィルが雷に焼かれる方が早い。

 

 その瞬間、ウィルはバリアジャケットを解除した。

 バリアジャケットで軽減されていた空気抵抗が身体を押しつぶす。見えない壁に叩きつけられる痛みに身もだえしながら、逆流しそうな胃の中身を抑え込む。

 空気抵抗による過失速状態で、右に突き出した右足のハイロゥにいつも以上の魔力を込め、ブースト。ウィルの体が左へと大きく動く。

 

 プレシアの手から雷が放たれるが、ウィルの体はそこにない。すでに左へと移動している。

 

 飛行魔法で姿勢を、身体の向きを変える。今度は左側に左足を突き出し、ありったけの魔力を左足のハイロゥに込める。先ほどと同じ魔力では左向きの力が打ち消されるだけ。先ほどの倍以上の魔力を込める。

 過剰に生成された運動エネルギーにデバイスのボディが悲鳴を上げる。その莫大なエネルギーを使って、ウィルはほぼ鋭角の切り返しをおこなう。

 

 雷を避けたその軌跡が稲妻を描く──固有空戦機動(オリジナルマニューバ)ライド・ザ・ライトニング

 

 そして振りかぶったF4Wがプレシアの身体を打ち据えて勝敗を決するその直前、プレシアの身体が崩れ落ちた。

 

 二時間ばかり休んだからといって、同時次元跳躍魔法で負荷のかかった肉体が万全な状態にまで回復するわけがない。

 ウィルとの戦いでの立て続けの魔法の連続行使は、かろうじて安定していたプレシアの身体にさらなる負担を与え、その意識を一瞬だけ途絶させた。

 それはウィルの勝利を確定させる幸運となるはずだった。この瞬間でなければ。

 

 F4Wの刃は崩れ落ちるプレシアをとらえられず、空を切る。

 

 あまりにも見事に回避され、ウィルは一瞬我を忘れた。が、すぐに反撃するために反転しようとして、今度は自らの目前に迫る物の存在に気を取られた。

 

 

 進行方向に一つの円柱が備え付けられていた。生物を保存するためのポッドだ。

 外側は透明な材質でできていたため、中に入っているものの形がはっきりとわかる。中には緑色で透過性の高い液体が注入され、()()()()がその中に入っていた。

 ただの実験器具なら、気にせず突っ込むなり、足蹴にして方向転換の道具にするなりしたはずだ。しかしその中身を認識した瞬間、それらの選択肢はウィルの頭から消し飛んだ。

 

 ウィルは飛行魔法で減速。再度バリアジャケットを解除してエアブレーキで減速。剣を床に突き立てて減速。

 三重の減速に加えて、さらに身体をひねり、ハイロゥを再度使って強引に進路を変えて、そのポッドを避け、バリアジャケットのない状態で地面を転がってようやく止まる。

 短期間に連続して強いGがかかったせいで、ついに腹からせりあがる胃液を抑えられずにその場に吐き出した。

 

 敵前で隙を見せる愚行。これだけ猶予があればプレシアも立ち直っているはずだ。

 死を覚悟しながら顔を上げると、プレシアもまた床に膝をつき、苦しみながらこちらを見ていた。

 そしてプレシアから放たれたのは、覚悟していた魔法の一撃ではなく、言葉による問いかけだった。

 

「どうして避けたの」

 

 プレシアとウィルの視線が、ポッドに注がれる。

 

「……あそこに突っ込むのはいくらなんでも気が引けるじゃない?」

 

 ポッドの中には、緑色の液体に包まれて、フェイトそっくりの少女が眠るように浮かんでいた。

 

 

 

 ウィルはポッドを指さしながら、疑問を口に出す。

 

「俺の方からも質問していいかな。この子はアリシア……でいいのかな? それともフェイトと同じく、アリシアのクローンなのか?」

「アリシアのことは知っているのね。……これはアリシア本人よ。あんな失敗作と一緒にしないで」

 

 答えるプレシアの口調には激しい嫌悪があった。二つを同一視されることが余程嫌なのだろう。オリジナルのアリシアとクローンのフェイトを同じように扱われることを嫌悪するという理屈は理解できる。

 しかし、自分で生み出したフェイトをそこまで嫌う理由がわからない。

 

「フェイトは十分すぎるくらいに良い子に見えるんだけど」

「何も知らないあなたから見ればそうかもしれないわね。でも、あれはアリシアになれなかった。だから失敗作よ」

「クローンは本人にはなれない。それくらいわかっているはずだ」

 

 プレシアは怪訝そうに眉をひそめる。そして得心がいったのか、皮肉気に口元を歪める。

 

「そこまでは調べてなかったのね。あれは、ただのクローンじゃないの。肉体はただのクローンにすぎないけれど、頭の方は違う。あの子の頭にはね、アリシアの記憶が焼き付いているの。プロジェクトFATE──他者の記憶を移植する技術を使ってね」

 

 プレシアの言葉はにわかには信じがたかった。

 記憶の移植とは、つまるところ人の頭の中身を書きかえるということにほかならない。いや、そもそも人の記憶というあいまいな情報を他者に与えるほど具体的なデータにできるものなのか。

 アナログからディジタルへの変換を可能とするとなら、その技術は現状の生命の定義に対する大きなアンチテーゼになり得る。脳を回路に、ニューロンを電気信号に置き換えることを可能とするかもしれないのだから。

 ウィルの懐疑的な思いを感じたのか、プレシアは嘲笑のような笑みをうかべる。

 

「信じられないの?」

「そんなことが可能なら、間違いなく管理世界全体がひっくり返る。それに……失礼だけど、それはあなたの専門分野とは異なるんじゃないか?」

「否定しないわ。私が考えたわけじゃないのだから。この理論はもらいもの……というよりは、天才の出した試験のようなものなのよ。プロジェクトの基礎理論は公開されていたけれど、理解できなければ何に利用できるのかもわからない。理解さえできれば後は実証実験を繰り返せば良いだけ。それほどの完成度があったのよ。私はその理論を実用できる段階にまで持っていった。その成果がフェイト。……でも駄目だったわ。できたのはアリシアにはほど遠いものが一つ。それでも本当のアリシアを取り戻せる日まで、アリシアの代わりとして少しの慰めになるかと思ったのだけど、それ以下だったわ。駒として有用じゃなかったらとっくの昔に処分していたでしょうね」

 

 プレシアのフェイトへの思いは失望という生易しいものではなく、もはや憎しみとなっていた。無関心なら理解もできるが、自分が生み出した者をどうしてここまで憎めるのか。

 

「娘にそっくりの子に向かってよくそんなことが言えるな」

「そっくり? あれが? 笑えないわ。アリシアのことを何も知らないあなたが勝手に語らないで。そっくりなのは見た目だけ。記憶を持っているのにそれ以外は全然駄目よ。利き手は逆。話し方はおどおどしているし、私の顔色をうかがうような卑屈な目、アリシアは絶対になかったわ。なにより、アリシアはもっと優しく笑ってくれた。アリシアは時々わがままも言ったけど、私の言うことをとてもよく聞いてくれた。アリシアはいつでも私に優しかった。あれとアリシアはまったくの別物。作りものの命では、失った命の変わりにはならない……命そのものを取り戻すしかない」

「つまり、死者の復活……それがジュエルシードを集めるあなたの目的だと?」

「そうよ。私はジュエルシードを使ってアリシアを蘇らせる」

 

 プレシアは高らかに宣言する。その言葉を発した自らの意志、それを自身を支える柱として彼女はゆっくりと立ち上がる。まだ戦える、まだ戦うという姿勢の表れ。

 魔法一つ放つだけでも演算ができなくなるほどの激痛がはしるはずなのに。黄金のように変わらない意志で痛みさえねじ伏せて立つ。

 魔法の実力ではなく精神的な面で、戦いを生業としないただの科学者がここまで戦えるというのは想定を超えていた。

 意思の力はここまで人を強くさせるのか。その姿に、ウィルの身体は震えた。

 

「どうやって? ジュエルシードの願いを叶えるってふれこみは誇大広告もいいところだ」

「そんなものには興味ないわ。私にとって大切なのは、このロストロギアに次元干渉効果があるということ。世界を、空間を捻じ曲げる力──それはつまり、次元震をおこすことも、止めることも可能ということ。この力で私は旅立つの。失われし都、世界の狭間に存在する禁断の地──アルハザードへ!」

 

 その言葉の意味を理解するには、少し時間が必要だった。一拍遅れて、ようやく理解が追いつく。

 

 アルハザード──はるか古代から存在していたと言われる伝説の世界。

 数多くの文明が発達した自らの技術を制御できずに崩壊する一方で、森羅万象を自在に操るに至った一つの世界があったと言われている。

 命でさえ、時でさえも、可逆とする幻の理想郷。

 

 実在する世界なのかはわからない。いくつかの古代文明が残した記述にそれらしき文明の存在が示唆されており、アルハザード由来という触れ込みのロストロギアが存在する。それだけだ。どこにあるのか、まだあるのかもわからない。

 有力な仮説では、アルハザードの周囲は常に大規模な次元断層に囲まれているため、こちらから観測することはできないのだとも言われている。それが事実なら、ジュエルシードはその次元断層を抑え込むために必要──と言ったところなのだろうか。

 たしかにそんな世界に行けば、死者の蘇生くらい造作もないが──

 

「あるかもわからない御伽話を信じているのか」

「アルハザードは存在するわ。そこに至る道のりもある」

「仮にあったとしてもそこに辿りつける可能性なんて──」

「限りなく少ないでしょうね」

 

 プレシアは実験結果を述べるように淡々としている。そんな危険な賭けをおこなうと言うのに。失敗すれば当然生きて帰って来ることはないというのに、まるで不安を抱いてない。

 

「それがわかっているのに本気でやるつもりなのか。失敗すればあなただって死ぬ。それに、行けようが行けまいが、ジュエルシードが発動すれば何の関係もない地球を巻き込むのに」

「当然よ。たとえ塵ほどであっても可能性があるのなら、諦めることなんてできないわ」

「アリシアが亡くなって、もう二十年近くになるのに……それなのにまだ諦められないのか。新しい道、新しい幸せだってあるだろうに」

「そんな道はないわ。たとえその道がどれほど楽だとしても、今の道を進むことを止めた瞬間に、私は私でいられなくなる。あなたみたいな子供にはわからないでしょうね。この、どこまでも求める、狂おしい渇望は」

 

 突き放すようなプレシアの言葉。他者の理解と共感を拒絶する凍りついた意志。

 その姿に、ウィルは身体を震わせながらつぶやいた。

 

「わかるよ」

 

 フェイトへの仕打ちも態度も許容できるものではない。

 ただ、たった一つのことにかける彼女の渇望はウィルにも覚えがある。

 

「わかるから、すごいと思うよ。そして、あなたの強さを尊敬する」

 

 プレシアは、初めて呆気にとられた顔をしていた。

 その時ウィルは、気の合う友人と出会った時のように、美しいものを見た時のように、凄いものを見た時のように、笑っていた。興奮で身体を震わせながら。

 

「あなたの行動は容認できないけど、その強さは俺の憧れそのものだ。俺にもどうしてもなしとげたい目的がある。それを成し遂げるためなら、この身を犠牲にしても、焼き尽くされても構わないって思えるような。十年、そう思い続けてきた。だから、それを実践しているという点においては、俺はあなたを尊敬する」

「あなたみたいな子供が、一体何に……」

 

 ウィルははにかみながら、そして誇らしげに、己の絶望を口に出す。

 胸の奥底で炎が燃えている。十年前、父の死を理解したあの日から、ずっと。

 

「復讐。父さんを殺したモノをこの世界から消し去りたい」

「……無意味ね。仇をとったとしても何も得るものはないわよ」

「でも、どうしてもしたいんだ。この先、どれだけ自分の人生を犠牲にしても構わない。だって、この気持ちは抑えられないんだから。あなたならわかってくれるだろ?」

 

 他人を気づかいそのために我が身を盾にできる心で、炎のように苛烈な憎悪を口から吐く。

 

「……本気みたいね。あなたも同類、か。皮肉なものね。最後に私を止めに来たのがそんなやつだなんて」

「似たもの同士だから、あなたの想いが叶えられてほしいとも思うんだ。……でもそれはできない。俺は管理局の一員だし、この作戦には友達も参加している。俺が引いたら、今度はその友達が危険な目に合う。あなたがジュエルシードを発動させたら地球が滅ぶ。短い間だったけど、あの世界には世話になった人がいる。幸せになってほしい……幸せにしてあげたい人もできた。だから、ごめん。あなたの思いが間違っているとは思わない。でも、俺は俺の大切な人たちのためにあなたを止めなくちゃならない」

 

 語り終え、ウィルも立ち上がる。魔力が循環し、バリアジャケットが再構成される。それに合わせてプレシアも身構えた。

 しかし、ウィルはほほ笑んでゆっくりと歩き始める。アリシアが眠るポッドから離れるように。

 

「それでも、せめてできる限りの範囲で協力するよ。とりあえず、もう二度とアリシアちゃんを戦闘に巻き込まないようにする。それから、()()()()()()、あなたを傷つけないように倒すよ」

「そんな手加減をして、私に勝てると思っているの? それに手を抜く必要なんてどこにもないわ。どうせこれが失敗すれば、私に生きている意味も価値もないのだから」

「そんなことはない。負けて管理局に捕まっても、命さえあれば再挑戦のチャンスはある。あなたが生きているうちに画期的な技術の進歩があって、合法的な手段でアリシアちゃんを復活させることもできるかもしれない。局員としてはおすすめできないけど、脱走するチャンスだってあるかもしれない、生きてさえいれば、可能性はいくらでもあるんだ」

 

 局員らしからぬことを臆面もなく話すウィルの姿に、プレシアの表情が変わった。

 馬鹿な者を見て呆れるような、でも少しだけ愉快そうなその顔は、プレシアがその日初めて見せた笑顔だった。

 

「あなた、変わっているわ。でも、確かにそうね。生きている限り希望はある。そう言えば、まだお礼を言ってなかったわ…………ありがとう。あなたがアリシアの入ったポッドを優先してくれた時、本当に心の底からほっとした。それから、私の気持ちを、行為を否定しないでくれたことも。……少し嬉しかったわ」

「結局あなたの邪魔をしようとしているんだ。同じことだよ」

「でも、あなたが邪魔するのは利害の不一致ゆえ……でしょう? だから嬉しかったのよ。間違っていることをしていることも、他人に迷惑をかけていることもわかっている。自分のしていることは許されないと理解している。だけど、少し寂しさもあったのかもしれないわ。だから、私からもお返しにこの道の先輩として一つ忠告してあげる」

 

 プレシアは笑顔を消して語り始める。

 その顔に浮かぶのは、願いのためなら世界を滅ぼしても構わないと豪語する彼女には似つかわしくない、後悔の色。

 

「私があの子──フェイトが嫌いな理由はね、似てないからだけじゃないのよ。むしろその逆よ。何よりも、似ているところに腹がたつの。姿なんかは特にそうね。時々、フェイトがアリシアのようにふるまう時が…………違うわね。あの子をアリシアのように錯覚してしまう時があるのよ。錯覚するということは、その二つのものの境界が揺らぐと言うこと。その結果、何が起こると思う? 次第に、アリシアのことを思いだせなくなるのよ。アリシアのことを、その声を、仕草を、体温を思い出そうとしても、うかんでくるそれがフェイトのものに変わっているのよ。気付いた時は心底絶望したわ。もう一度、アリシアが死んだような気さえした。慌てて昔の映像を引っ張りだして、こうして保存していたアリシアの姿を見て、私の中のアリシアを取り戻そうとしたけど、もう駄目だった。きっと情報量が違うからでしょうね。映像や記憶の反芻では、今触れあえる生の人間から得られる情報量にはかなわないから。これが、私があの子が嫌いな理由。あの子はただ存在するだけで、私の中のアリシアを犯す。私の中のアリシアを殺していくのよ」

 

 ずいぶんと勝手な理屈だ。模造品として生み出され、似ていないところがあるから本物ではないと嫌われ、似ているところがあるからと憎悪される。

 これではあまりにもフェイトが救われない。彼女がどれだけ頑張っても、プレシアがフェイトを好きになることはないのだから。

 

 本当にそうかだろうか。

 嫌いなこと、憎むこと。それだけではないのではないか。むしろ、プレシアがフェイトにも安らぎを覚え始めていたから、同種の感情を持ち始めたから、二人の境界があやふやになったのかもしれない。強引な理屈かもしれないが、そう思いたい。これではあまりにもフェイトが救われないから。

 だから、ウィルは話を続けようとするプレシアを遮って問いかける。

 

「でもそれは、フェイトちゃんのことを愛し始めていたってことじゃないか?」

「そんなわけないじゃない。私はフェイトが嫌い。憎んでさえいる」

「愛と憎しみは同一直線上にあるわけじゃないよ。それぞれに独立したパラメータだ」

「二十年も生きてないくせに、知ったようなことを言うのね。……まあいいわ。もしかしたら、そんな気持ちもほんの少しくらい、あったのかもしれないわね。今さらだけど」

 

 プレシアは苦笑する。

 

「話がそれたわね。私が言いたいのは、どんな思いも変質してしまうということ。あなたの復讐心がどれだけのものかはわからないけど、それだっていつかは変質する。大切な人の記憶だって時間ともに消える。過去の大切な人のいた場所が新しい大切な人で埋め尽くされていく。私はそれを自覚したから、こんな場所に引きこもって誰とも付き合わなくなった。……きっと、その孤独に耐えられなくて、フェイトを生み出したんでしょうね。記憶を受け継いだだけではアリシアは戻って来ない。そんなこと予想できていたのに。そしてそのフェイトが私を変質させる最後の藁になった。あなたも覚悟しておきなさい。いつまでも復讐心を失わないなんてことはない。あなたが本気でその気持ちを変質させたくないと思うのなら、その道はきっと私以上に厳しいものになる。きっと、自分の命だけではなく今持っている全てを投げ出さなければならないほどに。その覚悟がないのなら、早めに諦めなさい」

「自分はその道を選んだのに?」

「選んだからよ」

「……大人っていうのはどうしていつも、自分のことを棚に上げて言うかなぁ」

「大人だからよ。特に親って言うのはね、自分が出来なかったことを子供にやらせようとしてしまうの。……そう言えば、私もアリシアにいろいろと習い事をさせようとしたことがあったわね」

 

 昔を懐かしむプレシアの笑みは本当に綺麗で、これ以上聞いていると引きずり込まれそうな気がして、ウィルは剣を構えた。それを見て、プレシアも微笑むのをやめる。

 ここから先は再び戦い。だからその前に、最後に一言。

 

「ありがとうございます。すごく、参考になりました」

 

 人によっては、娘を失ったことに心が耐えられなくて狂気にとりつかれた悲劇の人だと、彼女を表現するかもしれない。

 でもウィルはまったく逆のように感じる。

 彼女は、本当に強い人だと。

 

 現実を容認しない傲慢さ。欲しいもの以外を拒絶してしまう愚かさ。手に入れるためになりふり構わない醜さ。ありえない夢物語を、ちっぽけな可能性を信じて本気で渇望できる。

 渇望の前では、正義も悪も生も死も──そういった他者との比較の基準が等しく無意味だ。渇望を満たすか、満たさないか。ただそれだけの二元論。まさに駄々をこねる子供。

 本当にただの子供なら恐ろしくはない。だが、彼女は大人だ。怖いもの知らずの子供ではない。

 恐怖を──失うことを、奪われることを知っている。

 絶望を──届かないことを知っている。

 安らぎを──全て忘れ去って、新しい幸せと共に生きることを知っている。

 こんなはずじゃなかった世界──どうしようもならない現実を知った上で、なお世界と戦うことを選んでいる。

 

 それは強さではないのか。

 悲しい過去を乗り越えて新しく生きることが強さなら、悲しい過去と向き合って戦うのもまた強さ。

 プレシアの強さに、それがたとえどす黒いものだとしても、彼女の意志の輝きを感じ、改めて彼女に対して憧れを抱いた。

 

 二人は互いを認め合いながらも、己を通すため、互いを倒そうとする。

 

 

 そして、ウィルが先に動いた。プレシア目掛けて一直線に駆ける。

 プレシアもまた、ウィルの動きに反応する。疲労しきっているはずの身体に驚くほど俊敏に魔力が廻り、必殺の魔法が構築されるのがわかる。

 

 このまま突撃しては途中で撃ち落とされるだけ。だけどウィルは突撃をやめない。

 勝敗はすでに決しているから。

 

 

「良いタイミングだったよ、クロノ」

 

 

 そしてウィルはそのままプレシアの元へと駆け、背後からの攻撃で意識を失って崩れ落ちたプレシアの身体を抱きとめた。

 プレシアの後方に立つクロノは、不機嫌そうに言う。

 

「こういうやり方は……あまり好きじゃない」

 

 クロノがこの部屋に辿りついたのは、ウィルとプレシアが話している時だった。

 クロノはウィルに念話で連絡。それを受けたウィルは、そのまま会話を続けプレシアの視線を自分一人に集中させる。そして、その隙にクロノは入口からプレシアの死角へと移動。

 最後の戦いでプレシアの意識が完全にウィル一人に向いている隙を使って、背後からクロノが魔法を叩きこんで、眠るようにプレシアの意識を落とした。

 

「これが一番この人を傷つけない方法だ。それから、クロノもプレシアの人となりはわかっただろ? この人は、ただの悪人じゃなかった」

「……そうだな。やったことは許されないが、彼女には彼女の思いがあった」

「それじゃあフェイトと二人合わせて、良い感じにおさまるようにしてくれよ、クロノ執務官」

「言われるまでもない。……ところで、さっき言っていたことは……」

「どれのことを言っているのかはあえて聞かないけど、どれも本心だよ」

 

 ウィルとクロノはしばらくお互いをじっと見合っていたが、やがてクロノは部屋の中で魔力波を放出し続けるジュエルシードに向き合って、封印を始めた。

 

 その後ろで、ウィルはプレシアの顔を見る。願い叶わず敗れたはずの彼女は驚くほど穏やかな顔をしていた。

 目が覚めた時。彼女がどう行動するのかはわからない。真実を知ったフェイトが何を思うのかもわからない。

 

 二人の行く末に不幸以外の結末が横たわっていることを、静かに願った。

 



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後始末

 ジュエルシードが封印されたことで次元震は徐々に鎮静化していき、ダメ押しにと時の庭園に乗り込んだリンディが内部からディストーションシールドを展開。

 空間を歪めて魔力の伝播を強制的に低減させるこの魔法によって、魔力の波である次元震は完全に抑え込まれた。

 空間座標の安定化にともないアースラへの召喚も可能となり、突入部隊全員がアースラへと帰還できたのが日本の標準時でいえば日付が変わる頃。クロノたちが時の庭園に乗り込んでから六時間、フェイトが海中のジュエルシードを活性化させてからとなると十二時間後──半日がかりの大規模な作戦となった。

 

 無傷ですんだのはほとんどおらず、重傷者も決して少なくはない。

 それでも、時の庭園における攻防戦での死亡者は、敵味方含めてただの一人もいなかった。

 

 

 それからさらに時が経ち。昇り始めた太陽が海鳴の海岸線を黄金に照らし出して人々が活動を始めだす頃、昼も夜もない次元空間に浮かぶアースラでは後始末のために局員たちが活発に動き回り続けていた。

 

 犯人を逮捕しても事件がそこで終わるわけではない。戦闘が職務の武装隊でさえデバイスのメンテナンスや報告書の作成が待っている。ましてや執務官のクロノには、気が遠くなるほどの事後処理が待ち構えていた。

 それでもいい加減休むようにと、エイミィだけではなくリンディにまで怖い顔で詰め寄られ、クロノはしぶしぶ仮眠をとるために自室に戻る。

 

「今まで仕事か? お疲れ様」

「お疲れ様です。クロノさんも食べますか?」

 

 扉の開いた自室の中では、ウィルとユーノが食事をしていた。机の上には、食堂でもらってきたであろう食事がゆうに五人前は置かれている。鼻孔をくすぐる温かな料理の香りにクロノの腹が音をたて、半日以上まともに食事をとっていなかったことを思いださせた。

 文句を言う気も失せて、二人の間にもう一つ椅子を置いて座ると、消費したエネルギーを補充するために黙々と食べ始めた。

 

 食事の後、クロノがベッドに腰かけ、ウィルとユーノはそのまま椅子に腰かけてクロノと向かいあう。

 

「それで二人とも何の用だ。わざわざ人の部屋に食事をしに来たわけじゃないだろ?」

「みんなの容態とか、いろいろと訊きたいことがあったからさ。もちろん邪魔だったら帰るけど」

「ユーノも同じか?」

「はい。あと、僕からも言いたいことが……いえ、まずはみんなの容態について、聞かせてもらえませんか?」

 

 時の庭園から帰還してから休まずに仕事をしていたため、疲労は相当溜まっている。本能に従うなら、食欲を満たした後は睡眠欲を満たしたい。早く白い枕に顔をうずめ、シーツの感触を楽しみながら眠りにつきたい。しかし──

 ため息をつくと、名残惜しそうに枕から視線を外して二人に向き直る。

 

「……いいだろう。どうせ二人には後で話を聴きに行くつもりだった。少し予定が早まったと思うことにする。特にユーノには、きみたちとフェイトが交戦した時のことを教えてほしい」

 

 全員が怪我人ばかりなので、話を聞くのは落ち着いてからにしようと思っていたが、ユーノの方からやって来てくれたのならちょうど良い。

 

「わかりました。僕も最後の方で気を失ったので、それまでのことになりますけど」

 

 ユーノから別行動してからの事の顛末を聞き、クロノとウィルは二人揃って驚かされた。

 

「そうして、きみはなのはが魔法を放つ前にフェイトにやられて気を失った、と。それにしても、収束魔法……収束砲撃か」

「なのはちゃんには驚かされてばかりだな。ひょっとすると俺たちはとんでもない存在を目覚めさせてしまったのかもしれない……」

「無茶にもほどがある……しかし、そうか、それなら医務官からの報告にも納得がいくな」

 

 一人で納得しているクロノに、ユーノが先をせかす。

 

「それで、みんなは大丈夫なんでしょうか?」

「一人ずつ順番に説明していこう。まずはアルフからだ。彼女はプレシアに傷を負わされた状態で動きまわったせいで、容態はあまりかんばしくない。本来なら使い魔の治癒速度は人間よりも圧倒的に速いんだが、どうやらフェイトが弱っているのを無意識のうちに察しているのか、アルフの方から魔力のリンクを弱めているようだ」

「それって……かなり危険な状態ですよね? 主からの魔力供給がない使い魔は、治癒どころかやがて生命活動すら危うくなるって聞いたことがあります」

 

 指摘するユーノの声には不安が含有されている。

 

 使い魔は動物の死体を元に造り出される人工生命体。ただの動物を人間の魔導師に匹敵する知性種へと昇華させるために用いられるのは、魔力で構築された『人工魂魄』と呼ばれる器官である。

 この人工魂魄は生物本来の脳を活性化させ、同時に人工魂魄そのものが補助的な第二の脳として働く。そのための動力は魔力であり、使い魔の体内には魔力を貯蔵するために擬似リンカーコアと肉体へ魔力を伝えるために経路が、それぞれ形成される。

 

 しかしながら完全なリンカーコアを人工的に作ることは現代の技術では不可能であり、使い魔に形成されるリンカーコアは不完全な代物にすぎない。魔力を貯めて放出することはできても、大気中から魔力素を取り込んで結合させ魔力に変換することはできない。

 だから、使い魔は生きるために魔力を外部から供給してもらう必要がある。しかも誰の魔力でも良いわけではない。人工魂魄を構築した人物──すなわちその使い魔にとっての主に近い波長の魔力でなければ拒絶反応を起こしてしまう。

 そのため、使い魔と主は魔法的な繋がりを持っており、それを通じて主から魔力の供給を受けている。これが断たれれば、治癒どころか存在の維持さえ不可能となってしまう。

 

「心配することはない。魔力の波長を調整するための機器はアースラにもある。アルフにはフェイトの魔力に近い波長に調整した魔力を少しずつ投与しているから、時間はかかるが少しずつ魔力も貯まっていくはずだ。もともとが使い魔だから、魔力がある程度貯まれば問題なく回復するはずだ。

 次はなのはだ。彼女はリンカーコアに強めの負荷がかかって意識を失っているだけだ。ただ、リンカーコアの状態に医務官が頭を悩ませていた。負荷と言っても攻撃魔法を受けた時の損傷とは違う。では何か大規模な魔法でも使ったのかと思えば、魔力はほとんど減っていない。いったい何があったのか不思議に思っていたんだが、さっきユーノの説明を聞いてようやく合点がいったよ。まさか収束魔法とは……誰もわからなかったわけだ」

「それで、なのはは大丈夫なんですよね?」

 

 回りくどいクロノの説明に、ユーノがじれったそうに先をうながす。

 

「健康面では特に問題はない。三日ほどは魔法も使わずに安静にしておいた方が良いが、目が覚めてからもう一度検査を受けて、半日ほどアースラで様子を見て問題がないようなら家に帰っても構わないだろう」

「本当ですか! 良かった……って、そうだ! なのはの家族に連絡しておかないと!」

「そのことなら心配いらない。時の庭園への突入前、帰還後、検査結果が出た時と、状況はその都度エイミィから連絡を入れてある」

 

 クロノの言葉にユーノはほっと胸をなでおろした。

 

「フェイトの様子はどうなんだ? 収束砲撃を受けたのなら、かなり危険な状態じゃないのか?」

 

 ウィルの問いかけに、クロノも先ほどまでと異なり顔を曇らせる。

 

「幸い命に別状はないようだが、もともとの無理もあって一時はかなり危険だった。まず、魔力が枯渇しすぎていてリンカーコアがほとんど機能していない。今の彼女は外部の補助装置を使わなければ、自然治癒すらできない」

 

 リンカーコアを動かすのは自身の魔力。肺に空気が残っていなければ呼吸ができぬように、呼び水がなければ井戸から水を汲めぬように、魔力が残っていなければ、魔力素を結合させ魔力に変換するどころか外部から魔力素を取り入れることすらできない。

 

「それに、肉体にもかなりのダメージが蓄積されている。収束砲撃を受けたのなら、それも当然だな。非殺傷とはいっても話を聞く限り相当な規模だ。しかも初めての魔法では構成も甘くなるから、必然的に物質への干渉も大きくなる。脱臼や軽度の骨折もあるから数日は絶対安静だ」

 

 ウィルはやりきれない思いに眉をしかめ、ユーノは顔を伏せる。部屋の雰囲気が重くなる。

 クロノはいたたまれなくなって、ポケットから携帯端末を取り出す。そのまま携帯端末を自分の机のコネクタにかざして、パスワードを入力する。そして、自分に送られてきている報告内容にざっと目を通す。

 

「朗報だ。なのははつい先ほど目が覚めたらしい。意識もはっきりしているそうだ」

「本当ですか! ちょっと様子を見てきます!」

 

 ユーノは勢いよく立ち上がって部屋を飛び出ようとして、その直前にクロノの方を振り返ると勢いよく頭を下げた。

 

「クロノさん。ブリッジでのことなんですけど……あなたの立場も考えないで、いろいろとひどいことを言ってすみませんでした!」

 

 あっけにとられたクロノを残して、ユーノは今度こそ部屋を出ていった。

 やがて残された二人は顔を合わせて笑いあう。

 

「今のが言いたいこと、か。海上でのことなら、どう考えても俺たちが悪かったのに……今更だけど、俺、ユーノ君が無事ですっごくほっとしてる」

「そうだな。海上でも、時の庭園でも、誰にも犠牲がでなくて良かったよ。それにしても、ユーノはなのはのことが好きなのか?」

「どうだろう? なのはちゃんだけへの好意なのか、単に異性を意識してるだけなのか、恋人ができたことのない俺にはよくわからないよ。その点、俺よりもクロノの方がそういうのはわかるんじゃないか?」

「どうしてだ? 僕も恋人はいないぞ」

「え……エイミィとまだくっついてないの?」

「どうしてそこでエイミィの名前が出てくるんだ。彼女は信頼できる友人ではあるが」

「嘘だろ……? 学校の頃から仲が良かったから、エイミィが執務官補佐の試験を受けてアースラに配属された時、みんなそのままくっつくと思ってたんだけど。むしろなんでくっついてないの?」

 

 クロノは在学中に受けた執務官試験では落ちており、アースラに配属されてからの二度目の試験で合格したのだが、それでも当時から執務官を目指すと周囲に明言したいた。

 その後を追うようにして執務官補佐の試験を受けたエイミィを見て、単に有力派閥に取り入ろうとしていると考える者は、少なくとも彼女と友人関係にある者の中には一人もいなかった。

 

「なんでと言われてもな……」

「エイミィじゃ駄目な理由でもあるのか?」

「あると言えばあるが……言っても良いけど、笑うなよ。……付き合うなら僕よりも背の低い人が良い」

 

 二人の間には先程以上の、水底のように重く暗い沈黙が横たわる。フッ、と細い穴から空気が漏れたかのような音がすると同時に、ウィルが椅子ごと体の向きを百八十度回転させる。

 

「ウィル、どうして突然顔をそらしたんだ? ちょっとこっち向いてくれないか」

 

 クロノはウィルの肩を掴み、自分の方に引っ張ろうとする。

 

「いや、誰かに呼ばれた気がしたから」

「見え透いた嘘を言うな! 笑うなと言っただろ!」

「笑ってないよ、まだ笑ってない……ごめん、やっぱ無理だわ」

 

 腹を抱えて笑うウィルの顔を、枕でクロノが一閃。

 しばらくして、ようやく笑いがおさまったのか、ウィルが向き直って、きわめて神妙な顔で、しかし頬を笑いでひくつかせながら言う。

 

「心配しなくても大丈夫さ。まだ俺たちは十四才だ。半分ほど過ぎたけど、まだ成長期は残っているからな。それに生きてさえいれば可能性はある」

 

 クロノも頬を怒りでひくつかせながら、答える。

 

「どうしてプレシア相手の時よりも心がこもっていないんだ。……そう言うウィルこそどうなんだ。恋人はいなくても、なんというか……いい感じの相手くらいいないのか?」

 

 ウィルは両手を肩まで上げるという、大げさな身振りをする。

 

「あいにくと好いたのなんだのとは無縁の生活だよ。笑ってくれ」

「本当か? 情報元は明かせないが、クラナガンのブティックで女性と連れ歩いてるのを見かけたという話も聞いたが」

「どうせ同期の誰かの噂話だろ。というか、俺だって女性と一緒にいる時くらいあるよ。卒業してすぐに配属されたクラナガンの陸士部隊じゃ、事務のおばさま方に荷物持ちとして買い物に付き合わされてたからな。一応これでも士官なのに」

「いや、たしか若い人だと聞いたぞ。茶色がかった髪で、眼鏡をかけていたとか」

「それオーリス姉さんだろ」

 

 ウィルの義姉、オーリス・ゲイズはもうすぐ二十歳を迎えようという才媛で、父のレジアスと共にミッドチルダの管理局地上本部に勤めている。クロノも直接会ったことは数えるほどしかないが、たしかに特徴と合致するような容貌だった気がする。

 

「そんなことよりも、まだ一人話してない人がいるよな。プレシアの容体は?」

「……彼女もまた無理のしすぎだ。フェイトと違って肉体的なダメージはそれほど受けていないが、回復には時間がかかる。それに……」

 

 クロノは言葉につまる。犠牲者が出なくて良かったという考えは、間違いかもしれない。

 

「彼女は病魔に侵されていたようだ。肺に悪性の腫瘍が見つかった。断定はできないが複数の臓器に転移している可能性も、かなり高い。この船の医師は僕の父さんが現役の頃からのベテランなんだが、その人の見立てだと、もうどうやっても取り返しがつかないくらいに進行しているらしい。頑張っても……一年もつかどうかだそうだ」

 

 次元航行艦船の船医は優秀なだけでなく、様々な世界の病気に通じている。

 海の部隊は事件の解決のために様々な世界を訪れる。その過程でその世界独自の病気に遭遇することも多々あり、たとえそのような状態に陥っても治療の目途をつけられるように非常に豊富な知識を必要とされるのだと聞く。

 そんな人物が言うのであれば、その言葉は十中八九正しいと思って良いだろう。

 

 ウィルは「そっか」と呟くと、目をつぶった。二人とも何も話さず、ただ時間だけが流れる。

 しばらくして、ウィルはようやく口を開いた。

 

「生きていればいくらでも可能性はあるけど、生きられなきゃどうしようもないな。時の庭園とアリシアの遺体はどうなるんだ?」

「本局に増援を要請した。アースラと入れ替わりにやって来るその部隊が調査をおこなって、その後はひとまずかつて時の庭園のあったミッドの郊外に戻されることになるだろう。そこから先はプレシア次第だ。アリシアの遺体もそうだな。死体をどのように扱うかまでは、管理局がとやかく言うことじゃない」

 

 死体の埋葬方法は世界によって大きく異なる。そして、埋葬方法にはその人の価値観、文化、風習が大きく表れるため、管理局のような異なる世界の者たちがそれに口を出しすることはタブーとされている。

 人間の死体を使った実験はどの世界でも禁じられているが、プレシアはアリシアを腐敗しないように保存していただけ。管理世界の中には、ミイラのように死体に特殊な加工を施して保存する民族も存在することに比べれば常識的な範囲内と言える。

 プレシアが遺体の維持を望むのであれば、現状のまま遺体は保存され続けるだろう。そのための資金くらいはプレシアの遺産で賄える。プレシアが亡くなって、蘇らせようとする者がいなくなっても、ずっと。

 

 

「ああそうだ。もう一つ聞きたいことがあるんだ。執務官として法にも詳しいクロノに聞きたいんだけど──」

 

 予想外の質問にクロノはしばらく唖然としたが、事情を聴くうちに冗談で言っているのではないと理解し、いくつかの判例を交えて質問に答える。

 

「以上の前例から、高い確率で可能だと言える。もちろん人格や思想に問題がないかなど、いくつかの試験を必要とするが。……しかし本当に提案するつもりなのか? 向こうにも事情があるだろう?」

「断られたら素直に諦めるよ。これは俺なりの恩返しだからさ。恩を押し売りする気はないよ」

 

 ウィルは立ち上がって、その場で大きく伸びをする。

 

「聞きたいことも一通り聞いたし、そろそろ帰るよ。邪魔して悪かった」

「待て。僕もきみに聞きたいことがある。……まだ、復讐したいと思っているのか」

「いきなりだな。あー……プレシアとの会話を聞いていたからか。当たり前だろ。そう簡単に諦められるかよ」

 

 ウィルはなんのてらいもなく答えた。

 クロノはしばしの逡巡の後、思いきって提案する。

 

「アースラに来ないか? 地上よりも海の方が闇の書の担当になる可能性は高い」

「遠慮しておく。うまく担当になれれば良いけど、そうなる可能性は低い。それに余所が担当になって自分のところが長期航海中だったら、船を下りて向かうこともできない」

「それは……」

 

 それは暗に地上なら駆けつけることができると語っているようなものだ。そして闇の書の活動場所が管理外世界なら、そこに向かう方法は非合法な手段となる可能性が高い。

 

「いったいどうしたんだよ。ゲイズの養子になってる俺を囲ったりなんかしたら、リンディさんの立場が悪くなることくらいわかっているはずだろ」

「不安なんだ。きみがプレシアのように暴走してしまうんじゃないかと」

「だから自分の目の届くところに置いときたいってのは、友達でもちょっと過保護すぎるよ。むしろそっちの方が怖くない? 俺そのうち監禁されちゃうの?」

「茶化す話じゃない──」

「茶化したくもなる笑い話だよ」

 

 クロノの懸念をウィルはありえない冗談を聞いたかのように笑いとばす。

 

「プレシアと俺は根本的なところで違っているから。プレシアの行動は大勢の犠牲を出すものだったけど、俺は違う。復讐なんて言っているけど、やること自体はクロノたちと同じさ。世界の敵、邪悪なロストロギア──闇の書を破壊する。もう二度と転生しないように、完璧に、完膚なく消滅させる」

 

 正義感からの行動も、復讐心からの行動も、やることが同じなら何も変わらない。そうウィルは嘯く。

 それでも復讐を語るウィルの顔を見ていたクロノにはやはり納得できない。

 なぜ、そんなに嬉しそうな顔ができるのか。

 仄暗い憎悪の念をまるで希望のように語る彼が、とても正しいとは思えない。

 

「だから、クロノ」

 

 ウィルはベッドに腰かけるクロノに歩み寄ると、顔を近づけてささやく。

 

「もし、闇の書のことで何か掴んだら俺にも教えてくれよ?」

 

 いつものような笑みを浮かべ、冗談めかした口調で、まったく笑っていない目で。

 それだけ告げると、ウィルは今度こそ背を向けて部屋を立ち去った。

 



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家族二つ

 日が沈み、周囲から人気がなくなるのを待ってから、ウィルとなのはは海鳴の臨海公園に転送された。

 ユーノはアースラに残り、回復魔法で治療班の手伝いをしている。言葉だけではなく、貢献によってきちんとクロノへの謝意を形にしたいらしい。

 

 なのはと二人で翠屋まで歩く中で、街灯に照らされる海鳴の街へと視線をやる。

 ジュエルシードが発生させた大樹のせいで壊れた建築物の修理も着々と進んでいる。ジュエルシードがもたらした変化はこの街で生きる人々の営みに飲まれて、やがては消えてなくなる。

 それは良いことだ。ウィルの存在も、ジュエルシードも、もともとこの世界にとっては異物なのだから。

 

「今までおつかれさま。後始末は大人たちの仕事だから、なのはちゃんは今は体をゆっくりと休めて……」

 

 街の光景に感慨に抱きながら、隣を歩くなのはへと声をかける。

 しかしなのはからの反応はなく、横を見ればなのははまったく周囲を見ずにうつむきながら歩いていた。

 

「なのはちゃん?」

 

 呼びかける声が聞こえていないのか、とぼとぼと歩き続けるなのは。

 その進行方向に電柱が直立していたので、ぶつかる直前に後ろからなのはの襟を掴んで彼女の歩みを止める。少し首がしまったせいで、きゅうとかわいらしい声をあげて、なのははようやくウィルの方を向いた。

 

「フェイトのことなら、気にしない方が良いよ」

「でも……」

 

 ウィルを見上げるなのはの瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいる。

 

「責任と原因は違うよ。酷な言い方かもしれないけど、フェイトが傷ついたことに対する責任は、要請に従わなかったフェイト自身か、彼女の保護者兼事件の首謀者のプレシアにある。なのはちゃんのやったことは間違っていない」

「でも、私がもっとうまくやっていればフェイトちゃんはあんなに傷つかなくても……。それに、最初から私が戦っていたら武装隊の人たちだって……」

「それは自惚れだよ。武装隊は何年も訓練を続けてきたプロだ。プロの仕事の結果を見て、素人が自分が手伝えば良かったかもなんて、彼らに対して失礼だ。それに話を聞いた限りだと、収束砲撃は威力は大きいけど隙も大きい。きっとその状況でなかったら発動する前に止められていたよ」

「でも、でも、私があとほんの少しでも丁寧に魔法を組んでいたら! フェイトちゃんを止められるような強い魔法を撃とうってことしか考えてなくって! あんなことになるなんて、全然考えてなかった!!」

 

 なのははついに泣きだす。両手を顔に当てて堪えようとしているが、あふれ出る涙は指の間を通り、腕を滴り落ちていく。

 ウィルは、なのはが人目を気にせずに泣けるように結界を張った。そして結界の反応を感知したアースラから何かあったのかと連絡が来て怒られた。

 

 近くの植え込みを囲むブロックになのはを座らせ、ポケットのハンカチを渡す。

 なのはの悲しみの原因は、魔法の非殺傷についてしっかり教えていなかったウィルにもある。

 

 ミッド式は非殺傷を大きな利点として謳っているが、傷つけずに倒すなど都合の良い幻想だ。

 魔法とは不可思議な力によって引き起こす万能の奇跡ではなく、れっきとした技術であり、物理現象だ。この広大な宇宙のどんな場所でも、たとえ世界が異なったとしても、物理法則は変わらない。そして蝶のはばたきが竜巻を引き起こすように森羅万象は密接に関わりを持っている。

 魔法は物質に影響を及ぼすことができる。砲撃は壁を貫くことができるし、魔力で肉体を強化することも、魔力を雷や炎のようなものに変換することもできる。

 非殺傷設定のように、魔力や魔力素のみに働きかけることで、物質に対する影響を極力減らそうとする方が無理をしているのだ。

 物体に与える影響を小さくすることはできても、完全になくすことはできない。しかもどれだけ影響を小さくできるかは、魔導師本人の技量に頼る部分が大きい。

 

 たとえ構成が未熟でも、普通の魔導師なら多少の構成の甘さは問題にならない。

 よくできた魔導師が百の威力の魔法による物理ダメージを一に軽減できて、未熟な魔導師が同じ魔法を使ったところ、構築が甘くて物理ダメージが三までしか軽減できなかったとする。

 その差は三倍。しかし、両者の与える影響はさほど変わりない。もともとの威力が低いからだ。

 

 しかし、なのはのような高い魔力を持つ魔導師では、ほんの少しの構成の甘さが決定的な差となる。

 なのはの魔法が千の威力を持っていたとすれば、よくできた魔導師と同じ程度の魔法構築で満足してしまえば、その物理ダメージは十。もし構成が甘ければ二十、三十――非殺傷設定でも、人を傷つけてしまう。ましてや収束砲撃となれば、その威力は文字通り桁違いだ。

 

 魔法に関することを学ぶ魔法学校や、魔法を力として行使する管理局の訓練校で教えられる、初歩的な話。

 しかし、なのはは知らない。ウィルたちは技術的なこと――いかにうまく魔法を使うかという方法ばかり教えていたから。

 交通ルールを教えずに車の運転方法だけを教えたようなものだ。

 心構えを説くことなく人を傷つけ得る凶器にもなる力を持たせてしまった結果がこれだ。なのはは友達のためにと、その凶器を友達に向かって振り下ろしてしまった。

 フェイトの怪我は数日もあれば問題なく回復するだろう。でも、幼い少女の心についた傷が癒されるのにどれだけの時間がかかるのかは、ウィルにはわからない。

 

 このままなのはを放っておくわけにはいかない。

 

「そういえばこっちの学校って季節の変わり目に長期休暇があるって聞いたんだけど、今度はいつになるの?」

 

 なのはは時折しゃくりあげながらも、その質問に答える。後二月半で夏休みになり、一月以上続く長期休暇に突入すると。

 

「じゃあ、その時にミッドチルダに来てみない?」

 

 

 

「――ということを、なのはちゃんに提案してみたんです」

 

 閉店し客がいなくなった翠屋のカウンター席に座り、ウィルと士朗は今後のなのはについて話をしていた。テーブルには士朗がいれてくれたコーヒーと残り物のスイーツがのっている。

 

 士郎には事件の経緯や今のなのはの状態について、知っていることを包み隠さずに話した。そして最後になのはのミッドチルダ留学について提案した。

 フェイトを傷つけてしまった心の傷を治すことは、ウィルにはできない。けれど、これをきっかけにして魔法そのものにまで悪い印象を抱いて忌避してほしくはない。

 なのはがこれを機に魔法を使わなくなってもそれはそれで構わない。ただ、魔法自体を嫌ってしまえば、魔法と共にあったこの一月をも忌まわしい記憶に変えてしまうのではないか。この一月での出会いと、その中で必死にやってきた頑張りを、自分自身で否定するようになってしまうのはあまりにも悲しすぎる。

 だから、管理世界の中心であるミッドチルダの学校に、一月ばかりの短期留学で魔法の使い方やあり方を学ばせる。

 

「なるほど。たしかに、これからも魔法の力を持ったまま生きていくなら、遅かれ早かれちゃんとした場所で学んだ方が良いか」

「実現するのであれば俺も休みをとって同行しようと思います。滞在期間中ずっと一緒というわけにはいかないので、その辺りは信頼できる人――ユーノ君にでも、なのはちゃんと一緒に留学してくれないか頼んでみるつもりです。士朗さんもついて来てくださって構いませんよ。一人か二人分の渡航許可ならとれると思いますから」

「異世界か……行ってみたいのはやまやまだけど、長い間店を閉めるわけにはいかないからね。夏休みにサッカーチームの監督がいなくなるわけにもいかないから、恭也か美由希に興味がないか聞いてみるよ。ところで、ウィル君はいつここを発つ予定かな?」

「まだ決まっていませんが、おそらく一週間以内には」

「そうか……ユーノとウィル君がいなくなると寂しくなるね。でももう二度と来れないってわけでもないんだろう?」

「最初はそのつもりでしたよ。でも、次元震が起こるほどの大ごとになったからには、このまま放置とはいかないようで。管理局も事後処理と情報の隠蔽のために定期的にこの世界を訪れることになるみたいです。俺も関係者ですから、申請さえすればまた海鳴に来ることもできると思います。その時は今みたいなおごりじゃなくて、ちゃんと自分のお金で食べに来ますよ」

「その時はサービスさせてもらうよ」

 

 なのはが泣いたことを伝えたばかりなのに、士朗はウィルのことも忘れずに気にかけてくれる。その気遣いがとても嬉しく、少し痛かった。

 

「そろそろおいとまします。もう一軒寄ってこのことを伝えないといけませんから」

「そうか。外はもう暗いから気をつけて。それから、これまでお疲れ様。この街を守ってくれてありがとう」

 

 そっとカップに口をつけ、残っていたコーヒーを飲み干す。冷めたコーヒーが妙に温かく感じた。

 底に溶けなかった砂糖がたまっていたのだろう。海鳴のコーヒーは甘い。

 

 

 

 

 そしてウィルは八神家の前までやって来た。出て行ってから一週間もたっていないが、ずいぶんと久しぶりに感じる。

 門扉の横のインターホンを鳴らす。が、反応はない。

 リビングには明かりがついているので、不在ではないはずだ。ためしに玄関に触れてみると、鍵もかかっていない。

 

「無用心だなぁ……ただい――」間違えた。 「おじゃまします」

 

 明かりのついたリビングを覗くと、はやてがテレビをつけたままソファにもたれて眠っていた。テレビを消すと、細い寝息がだけが聞こえる。

 音をたてないように忍び足でソファに近づいて、はやての顔を覗きこむ。一月ほど一緒に暮らしていたのに、はやての寝顔を見るのは初めてだ。

 

 社会福祉が充実しているとはいえ足が動かないことは肉体的に、それ以上に精神的に辛く感じる時があったことは容易に想像できる。両親という絶対的な味方がいないならなおさらだ。

 はやてが幼いのによく他人を気づかえるのは、そういった境遇によるところも大きいのかもしれない。

 それでも、穏やかに眠るはやての姿を見れてほっとした。眠る時くらいは幸せであってほしい。ウィルのように、眠りにまで苦しみを持ち込むようにはなってほしくない。そして起きている間はずっと幸せでいてほしい。そう願う。

 

 ウィルは兄が妹を見るような笑顔ではやてを見ていたが、急に悪童めいた笑みを浮かべた。

 寝ているはやての後ろに回りこんで、耳の後ろに吐息を吹きかける。

 体を大きく震わせて、はやては跳び起きた。焦点の合わない目で左右を見回し、後ろに立つウィルの存在に気がつく。

 

「え、っと、……ウィルさん? 」

 

 

 

「来るんやったら前もって連絡くらいしてくれたらよかったのに。晩ご飯は食べた? まだやったらありあわせのもので何か作るけど」

「それじゃあお言葉に甘えて。翠屋でケーキはいただいたんだけど、さすがにそれだけだと腹に溜まらなくて」

 

 数日ぶりに食べたはやての料理は、格別においしく感じられた。本職であるアースラの料理人と比べれば技術は遥かに劣るはずだが、はやての料理の方が良いと感じた。

 食するウィルの心の持ちようだとは思うが、意思で魔力を動かせるくらいだ。愛情で味が変わってもおかしくはないのかもしれない。

 

 ウィルは夕食をいただきながら、テーブルの向い側に座っているはやてにここ数日のことを語った。

 食事を終える頃、「それで、これからのことなんだけど」と、ウィルは話題を変えた。はやての表情が少しだけ曇る。しかしすぐに元の笑顔に戻り、何事もなかったかのように「事件が終わったんやから、いつまでもいるわけにはいかんよね」と言った。

 

「そうだね。あと一週間もしないうちにこの世界を離れることになるよ」

「良かったやん。きっと家族も心配しとる。はよ帰って元気な顔を見せんとあかんよ」

 

 はやては笑って元の世界に帰ることができるウィルを祝福している。だが、テーブルの上に乗っている腕がかすかに震えた。瞳も同じだ。

 ウィルははやての顔を見て、はっきりと伝える。

 

「でもはやてと会えなくなるのは寂しいよ」

 

 はやてはウィルから視線をそらした。そして、ぎりっ――と、歯を噛みしめる音が響いた。小さな音だが、悲しみと怒りの詰まった大きな音だった。

 肩を震わせながら、はやては再びウィルに視線を合わせる。睨むような、すがるような眼だった。

 初めて見る、はやての負の感情だ。

 

「そんなこと言わんといて。今までお互い、触れへんようにやってきたやん……別れるんやから、余計に悲しくなるようなことは言わんようにしてきたのに……なんで今になってそんなこと言うん……」

 

 はやての瞳が大きく揺れ、悲憤の涙が目じりに溜まる。

 これまでウィルは、はやてに無用な希望は与えないように付き合ってきた。いつか別れるからこそ、余計な期待を持たせないようにしてきたつもりだった。

 近づき過ぎれば、離れる時の痛みが増す。それなりに日々を楽しく過ごし、最後は少し悲しくても、お互い笑いながら自分の世界に戻る――そんな小さな理想。それを抱いていたのはウィルだけではない。はやても同じで、だからこそ先ほども別れることの悲しさを見せず、ウィルが帰れることを祝福しようとしていた。

 ウィルの一言はその暗黙の協定を破壊する。惜別を表す言葉は期待を抱かせてしまう――もしかしたら、また会えるのではないか、と。引きとめる言葉をかければ、もしかしたら留まってくれるのではないかと。

 それで良い。ウィルがここに来たのは、そんな安穏とした、互いに傷つかずにいられる関係を終わらせるためだ。

 

「状況が変わったんだ。最初の頃と違って、高町家と月村家の人間にも魔法のことが知られてしまった。特に月村さんのとこは結構大きな家だよね」

「……お家の大きさの話じゃなくて、社会的な影響力……とか?」

「そう、そんな人たちに知られてしまったからには、管理局も相応の対処をしなければならない。街への被害の補填だとか、関係者への監視だとか、大人たちはこれから一年以上そんなことを話し合わなくちゃならない。それが終わるまでは管理局も定期的にこの世界を訪れることになるし、事件に関わった俺も申請すればまたこの街に来ることもできると思う」

「えっと、それって……また会えるってこと?」

「少なくとも、あと一年くらいは確実にね」

 

 ウィルはほほ笑みを返すと、一月の間にすっかり使いなれた箸を置き、カップの茶を飲み干す。

 

「ごちそうさま。洗いものは俺がしておくよ。話してたいことはまだあるから、先にリビングに行って待っていて」

 

 

 ウィルは自分の使った食器を洗い、はやての分と一緒に乾燥機に入れる。

 一足先にリビングで待っていてくれたはやてのもとへ行くと、その体を抱え上げてソファに下ろし、自分はその隣に座った。

 はやては期待と不安が混じった目でウィルを見上げている。

 

「この上さらにもったいぶるようで悪いけど、少し昔話をさせてくれないかな? あんまり聞いてて楽しい話じゃないんだけど、でも今は……はやてには聞いていてほしい。かまわないかな?」

 

 はやてがうなずいたのを確認すると、ウィルは胸に痛みを感じながら、過去の扉を開く。

 

「俺の母さんは、俺が物心つく前に病気で亡くなった。父さんは仕事の都合で長い間家を空けることが多かったから、俺は親父の家に預けられることになったんだ」

「父さんと親父……って、その二人は別々やの?」

「父さんの方はヒューって名前で、俺の実の父親。親父はレジアスって名前で、もとはヒューの親戚筋にあたるおじさんで、今は俺の養父になってくれている」

 

 はやては顔を曇らせながらも、ウィルに気づかうような視線を送る。ウィルはそんなはやての頭を軽くなで、話を続ける。

 

「父さんは管理局の、本局武装隊で働いていた。部隊が船付きになったら、何ヶ月も帰って来れないこともザラにある仕事だ。だから、俺はずっと親父の家で育ってきた」

「お父さんと会えなくて、寂しなかった?」

「寂しくなかった……って言ったら嘘になるけど、親父の家ではとてもよくしてもらったからね。それに、親父やその周りの人たちは、父さんのことをよく教えてくれた。いろいろな武勇伝も聞いたし、どれだけ立派な人だったのかってこともたくさん教えてもらった。今になって思えば、俺が父さんのことを恨んだりしないように気をつかってくれたんだって思うけど。……でも、当時は放っておかれたなんて、全然考えなかった。父さんは世界のために戦っている立派な人、正義の味方だって尊敬していたよ」

 

 目を閉じて、幸福だった頃に思いをはせる。記憶に浮かぶ具象は、時の流れに輪郭を削られて、もはやおぼろげだ。そして、だからこそ幸福であったという抽象的な感覚が、はっきりと感じられる。

 

「でも、俺が四歳の頃――今から十年、もうすぐ十一年前になるかな……父さんが任務中に亡くなったんだ」

 

 何があったのかはやてが聞く前に、ウィルはその先を続けた。

 

「悪いことは続くもので、その後すぐに、俺と親父の奥さんが外出先でテロに遭遇した。親父の奥さんは死んで、俺だけが生き残った」

 

 ウィルの人生でも最低最悪の時期。

 復讐を決意しても、当時四歳のウィルには何もできなかった。何をして良いのかわからず、養父のレジアスに相談したが、真っ当な大人が復讐の手伝いなどしてくれるわけがなく、逆に復讐など止めろと怒られた。

 それでも諦めきれずに魔法の訓練を初めたが、文字を読んで簡単な計算ができる程度の子供が我流で何かしようとしても、一つとして満足にできはしない。復讐相手の情報を知ろうとしても、闇の書に関する情報は重大な機密になっていて知る術がない。事件の関係者も、子供を相手に教えてくれるわけがない。

 闇の書を守護する四人の騎士がいることすら、知ったのは士官学校に入ってからだ。その守護騎士に関しても、それ以上の固体名や容姿、戦闘スタイルについてはウィルの持つ権限やコネではいまだに知ることができていない。

 

 幼子だったウィルにできることは、狂いそうなほどの激情と、鬱屈とした現状への不満を抱え続けることだけだった。

 そんなウィルを見かねて、レジアスの細君はいろいろと気をつかった。そして、少しでも気晴らしになればとウィルを連れ出して、その先でテロに巻き込まれた。

 

「死にはしなかったけど、俺も大きな怪我を負った。瀕死の重傷――たとえ生きていても、二度とまともに動けないだろうってくらい。足なんて両方吹っ飛んでなくなちゃったしね。でも、今の俺はこうしてぴんぴんしている。なんでだと思う?」

 

 自分を気づかってくれた人まで死なせてしまい、自分も寝たきりになった。

 死にたいと思ったその絶望の中で、ウィルは希望の光に出会った。恒星よりもなお強く輝く、金色の瞳の救世主。

 

「治療してもらったんだ。親父のコネで優秀な人を紹介してもらってね。医者じゃないけど、優秀な――天才としか表現できないような人だった。変わり者で絵に描いたようなマッドサイエンティストだけど、俺にとっては恩人で人生の師だ。その先生のおかげで、俺は今みたいな健康体に戻ることができた」

 

 ウィルは手は無意識に首元のネックレスを――待機状態のハイロゥを触っていた。市販のF4Wとは異なりハイロゥは先生がウィルのために作ってくれた物だ。

 健全な肉体、デバイス、魔法理論、思考方法、知識、戦技。それらの基礎は全て、先生と彼の三人の娘に与えてもらった。最も仲が良かったのは四人目の娘だが。

 

「と、実例を持ち出したところで、俺からはやてに提案したいんだ。次元世界の医療技術はほとんど全ての分野で地球の先をいく。それに地球にはない魔法的なアプローチの仕方もある。この世界では治せない病気だって、向こうではそうじゃない。それに一般的な病院では無理でも、先生みたいに個人で特別な技術を持っている人もいる。だから……俺の家族になってみない?」

「家族に……えっ? ごめん。繋がりがよくわからんのやけど」

「ごめん、ちょっと焦った。……えっと、普通は管理外世界の人を治療のためだけに長期滞在させることはできないし、管理局も管理世界のことを知られたからって管理外世界の人を無理矢理に管理世界に連れて行ったりはしない。でも、その人が望んで、管理世界側でちゃんと受け入れる人が現れれば別だ。ありていに言えば監視の手間が省けるしね。法律に詳しい友達にも聞いてみたけど、前例は結構あるみたい。だからはやてにその気があるなら、親父に頼んで我が家の養子にしてもらえないか掛け合ってみるつもり」

「つまり……ウィルさんの妹になるってこと」

「そうだね。今すぐに決めてとは言わないよ。養子になったら管理世界に住んでもらうことになるから、この世界にはなかなか戻って来れなくなる。事後処理が終わって数年たてば、この世界にを訪れることが完全にできなくなるかもしれない。そうなれば、なのはちゃんやすずかちゃんとは二度と会えなくなる。逆にフェイトとはよく会えるようになるかもしれないけど……だからよく考えてほしいんだ」

 

 はやては大きくうなずいた。

 

「そやね。よう考えてみる。でも今のところ私は受けてみたいて思ってる」

 

 はにかみながら、はやては語る。

 

「私な、不安に思てたことがあったんよ。これまでウィルさんとは仲良くやれて来たと思う。でも、それは単に孤独を癒してくれる人が欲しかっただけで、別にウィルさんやなくてもよかったんやないかって……そんで、ウィルさんも住む場所が欲しかっただけで私なんかどうでもよかったんやないかって。そやけど自分の気持ちが最近になってようやくわかった。ウィルさんがこの家を出てった時すごく寂しかった。ウィルさんがおらんようになっても、なのはちゃんにすずかちゃん、アリサちゃんがいるはずやのに。だからみんなも大切やけど、何よりもウィルさんにいてほしいんやって、気付いてん」

 

 はやてはウィルにさらに近寄る。そして、ウィルの袖をぎゅっと握った。今更に自分の発言が恥ずかしくなったのか、顔はうつむいている。髪の間からのぞく耳はとても赤かった。

 

「ありがとう……なんか、照れるね」

 

 ここまではっきりと気持ちを告げられると恥ずかしさと嬉しさでウィルの顔も赤くなる。

 はやてはうつむいたまま尋ねる。

 

「ウィルさんはどうなん? なんで、私にそこまでしてくれるん?」

「理由はいくつかあるんよ。打算的な理由がないわけじゃない」

 

 恩を返したいとか、魔法のことを知った者を管理外世界から減らしたいとか、自分と似た境遇の子を放っておきたくないとか。

 

「でも一番大きな理由は、はやてに幸せになってほしいって、そう思ったから」

 

 言った途端、ウィルも恥ずかしくて顔がさらに赤くなる。狼狽しているところを見られたくなくて、ウィルは自分にもたれかかるはやての頭をなでた。

「ありがとう」と小さくはやてが呟く。お互いにまともに相手の顔を見ることができずしばらくそのままでいた。

 

 

 

 ウィルは靴を履き、玄関まで見送りにきたはやてに向き直る。

 

「それじゃあ、今日はこれで帰るよ」

「泊っていかんの?」

「友達が事件の後始末に追われていて、ユーノ君もその手伝いをしているんだ。俺一人だけゆっくり外泊していたら帰った時が怖い」

「友達を手伝いに帰るって素直に言うたらええのに」

 

 はやての生温かい視線から逃れるために、ウィルは話題を変える。

 

「申請には何ヶ月もかかるから、それまでにもう一度良く考えてみて。気が変わったらその時は言ってくれ。ことわったら悪いとかは気にしないで良いから」

 

 管理外世界からの移住ゆえに管理局本局へ、そして移住先のミッドチルダの管理局本部に申請する必要がある。両方から許可が下りるには数ヶ月はかかるし、その後も検査など様々な手続きが必要だ。

 なのはのように高い魔力を持つのであれば、いろいろと裏技も使えるのだが。どこをどう見てもはやては一般人だ。まっとうな方法をとるしかない。

 

「そやね。グレアムおじさんにも説明せんとあかんし。どうしよ……異世界に行くなんて、言えるわけないし……」

 

 悩むはやての頭をもう一度なでると、ウィルは八神家を去った。

 

 

 ウィルの姿が見えなくなってから、はやては食器棚からカップを一つ持ってきて、部屋に戻った。

 ウィルのマグカップ。彼を思いださないように捨てようと思っていた。もうその必要はない。むしろ希望の象徴だ。

 それを机の上に置くと、その底にペンで字を書く――また会えますように――と。

 翠屋でなのはが言っていたおまじない。聞いた時は馬鹿にしていたが、今なら信じられる。

 

 そして、はやてはカップを部屋の棚に置いた。毎朝、毎晩、見ることができるようにと。

 その横には、鎖のかかった古びた本が置かれていた。

 



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ハッピーバースデイ

 静まりかえった部屋にベッドが一つ。隣には小さな机とドレッサー。その他、生活に必要なものが一通り揃えられている。

 アースラに存在する安物のホテルのようなこの部屋は、本局に移送されるまでの間、フェイトに与えられた自室。

 逃亡を防ぐため、本局に到着するまでは魔力にリミッターをかけられ、この部屋から出ることは許されない。

 

 その部屋にこれから訪れる者が一人いる。

 出航の数時間前、面会時間も定められた、限られた邂逅。

 

 

 扉が開く音がする。フェイトと同じくらいの背丈の少女――なのはが、部屋に足を踏み入れた。

 扉の外では両脇に武装隊員が立っている。妙な行動をすれば即座に取り押さえられるよう、デバイスも展開ずみだ。

 

 けれど、フェイトには何かをする気はまったくない。

 ベッドで上半身を起こしているだけで、入って来たなのはを一瞥さえしない。そういった動作をおこなうだけの関心を外界に向けられない。

 フェイトは知ってしまった。自分が本当の子供ではないこと。アリシアという名前のプレシアの本当の子供の()()()でしかないこと。プレシアとの大切な思い出も、いったいどこまでが自分の記憶なのかわからない。

 何も考えたくない。心の中の出口のない迷宮をただぐるぐると回り続けることにも疲れ、フェイトは思考することさえ放棄していた。

 

 なのはもまた、しばらくの間は椅子に座ったまま何も言わなかった。

 貴重な面会時間が無為に削られていく。

 やがてなのはは思い切ったように立ち上がると、フェイトに頭を下げて「ごめんなさい」と謝った。

 その言葉でフェイトの意識は思考の牢獄からほんの少し離れた。

 フェイトには、なのはの言葉の意味がわからなかったから。

 

「なんで?」

 

 フェイトが絞り出すようにして出した声は、その一言だけだった。呟くような小さな声。

 

「わ、わたしのせいで、フェイトちゃんにひどい怪我をさせちゃったから」

 

 泣き出しそうになりながら、なのはは懺悔する。今度こそフェイトの意識ははっきりと現実に引き戻された。目の前のなのはが、あまりにも的外れなことで悲しんでいると感じたから。

 

「そんなこと、なのはが気に病むことじゃないよ」

「そんなことない! そのせいでフェイトちゃん、もう何日も目が覚めなかったんだよ!」

「それは私のせいで、なのはのせいじゃない。……私なんか管理局の人たちとユーノに怪我させちゃったんだよ」

 

 なのはに罪があるなら、三人も傷つけた自分はどれほどの罪を背負わねばならないのか。もしかすると、今の苦しみこそが自分に与えられた罰なのかもしれない。

 しかしなのははその言葉を否定する。

 

「それとこれとは別だよ! だからって、フェイトちゃんを傷つけていいわけがない!」

「なのはに撃たれる前、私はなのはを倒そうとしていたんだよ……たとえなのはの攻撃で私が死んでも正当防衛だよ」

「なんてこと言うの!? 死んでもなんて、簡単に言わないでよっ!」

 

 互いに相手の意見を否定し合う。互いに内罰的なために実現する、責任のなすりつけ合いならぬ奪い取り合い。

 対話ではなく、相手に自分の考えを叩きつける。進展のない不毛なやり取りが続き、互いに感情だけがヒートアップする。その無為な行動を止めたのは、外部からの声だった。

 ベッド向かい側にある大型のディスプレイが自動的に点灯し、少年の顔を映し出す。

 そこに映ったクロノは表情を変えずに注意する。

 

『きみたち、もう少し静かに面会できないのか』

 

 面会の様子はモニタリングされており、クロノは別室でその様子を監視していた。

 最初はお互いに小さな声から始まった二人の会話は、エスカレートしていった結果、部屋中に響くような大音声になっていた。さすがに放置できない。

 

『面会時間には限りがある。お互いに言いたいこともあるだろうが、だからこそ落ち着いて話すんだ。ヒートアップしてはよくない』

『まぁ俺たちもよく意見が合わずに殴り合うけど』

 

 画面外から誰かがクロノに話しかける声が聞こえた。

 

『うるさい、きみは余計なことを言うな! ……とにかく、落ち着いて話し合うんだ。あまりこんな言い争いが続くなら、面会を途中で打ち切らないといけなくなる。良いね?』

 

 映像が消える。しかし、ディスプレイは点灯したままだ。ディスプレイのスピーカからクロノの声が聞こえてくる。

 

『まったくきみはどうしていつも! 茶化したい気持ちは百歩譲って受け入れよう! しかし仕事中に――

 『執務官! 音声のスイッチ切れてませんよ!』

 ――しまった!』

 

 どたばたとした音が聞こえたかと思うと、ぶつりと大きな音をたて、今度こそ完全にディスプレイの電源が落ちた。

 

 なのはとフェイトは毒気を抜かれて、顔を見合わせる。二人の心が妙に澄んでいるのは、クロノたちの間の抜けた会話のおかげ、だけではない。

 先ほどの口論で大声を出したことで、内省的になっていた二人の心は楽になっていた。

 なのははフェイトの顔を見ながら、一つ一つ言葉を選んで話し始める。

 

「……えっと、フェイトちゃんは自分のせいだから謝らなくていいって言うけど……わたしは、それは違うと思うの。どんな理由があっても、友達に怪我をさせちゃったんだから、謝るのは当たり前だと思うんだ」

「友達……私が?」

「あ、あれ? 友達……のつもりだったんだけど……もしかして嫌だった?」

 

 フェイトは首を横に振る。嫌なはずがない。

 でも実感がない。生まれてから今まで、友達はいなかった――いたのは母と師と使い魔。師は消えた。アルフは使い魔だから根っこのところでは対等ではなかった。

 

「嫌じゃない……でも、今まで友達がいなかったから、友達がなんなのかわからない」

「友達がなにかなんてわたしもよくわからないよ。でも、難しく考えなくてもいいと思うの。いっしょにお話しして、いっしょに遊んで、悩みがあったら相談して、困ったことがあったら助ける。まずはそれだけで良いと思う。

 フェイトちゃん。あらためて、わたしと友達になってほしい」

 

 フェイトへと、なのはの右手が差し出される。そのなのはの暖かな思いが、ありし日のプレシアと重なった。

 それにすがろうとおずおずと手を伸ばし、

 

 ――だめだ!!

 

 フェイトはなのはに触れる寸前で、必死になって自分の手を止めた。

 これではプレシアに怯えて、なのはに逃げ込んでいるだけだ。

 プレシアに会うのは怖い。もしも拒絶されたら――そう想像するだけで体が震える。

 自分自身に向き合うのも怖い。どこまで与えられた記憶なのか知らなければ、大切な記憶だけは与えられたものでないと、自分自身を欺くことができる。

 でも、ここでなのはの優しさにすがりついては駄目だ。そんなことをしてしまえば、いつか絶対に同じことを繰り返す。なのはとの関係が悪化したら、恥もせずにまた新しい人にすがりつくだろう。

 

 それに、自分は時の庭園でアルフに告げた。たとえプレシアが自分を見てくれなくても、自分がプレシアを好きだから戦うのだと。だから、ユーノと武装隊の人たちを傷つけた。プレシアが自分の母親ではなかったからといって、今さらそれを曲げることはできない。そんなことをすれば、そんな薄っぺらい信念のために彼らを傷つけたことになってしまう。

 たとえ存在を否定されることが怖くとも、フェイトはプレシアと向き合わなければならない。

 だから、()()()()()()()いけない。

 

 フェイトは、差し出されたなのはの手を()()。そしてなのはの顔を見ながら、言った。

 

「相談したいことがあるの。聞いてくれる?」

 

 もたれかかり依存するのではなく、支えて助けてもらうために。

 

 

 それから、残りの面会時間を使って、フェイトはなのはに語った。自分の出生の真実や、プレシアと会うことへの不安を。

 口に出すという行為を経ると、人はその内容を認識してしまう。フェイトはなのはに話す過程で真実と向き合う。話している途中でその重さに何度も押しつぶされそうになった。怖くて泣きだしたこともあった。

 そのたびに、なのははフェイトを支えてくれた。怖くて悲しくて震えだせば、おさまるように抱きしめてくれた。よく聞いて、一緒にどうすればいいのかを考えあった。

 そして一つの結論が出た時、部屋のディスプレイが再び点灯し、面会時間の終わりが近づいていることを伝えてきた。

 

 なのはは立ち上がり、自分の髪をくくるリボンをほどいた。そして、フェイトに差し出す。

 とまどいながらも、フェイトはリボンを受け取る。

 

「願いを叶えるおまじないの話、覚えてる? クロノ君と始めて会った日に、翠屋で話したこと。わたしの願いは、フェイトちゃんとお友達になること。私の願いは叶ったから、フェイトちゃんにあげる。だから、お母さんのことも大丈夫だよ」

 

 なのはは部屋を出ていく。それからすぐに、アースラは地球を離れた。

 

 

 

 その日の内にプレシアは目覚め、翌日にはフェイトに面会が許可された。

 

 フェイトはディスプレイを鏡面モードに切り替え、身だしなみを整えて、最後になのはがくれたピンクのリボンで髪を結んだ。

 リボンの隅に書かれた小さな文字を思いだし、笑みを浮かべる。

 

 今でもプレシアに会うことは怖い。

 それでも、やることなんて最初から決まっている。

 

 私は母さんが好き。私に笑いかけてくれた母さんはもういない――始めからいなかった。

 でも、私が好きになった人は今もいる。そして私はまだその人のことが好きで、母さんだと思っている。

 だったら、やることなんてたった一つ。

 

 フェイトは通路を歩く。これから母に会うために。それから母と話すために。

 その足取りに迷いはなかった。

 

 

 

 

 

 六月三日 夜

 

 時計の針がかちかちと音をたてる。

 秒針が正確にリズムを刻んで時を未来に進めてくれることが妙に愛おしく思えて、はやては時計にキスしたい気分になった。

 

 明日は、はやての誕生日。去年までは一人の誕生日だった。でも、今年からは違う。

 明日には友達が家に来て、誕生会を開いてくれる。来てくれるのはなのはとすずか、アリサ。

 ずっとは無理だけど、石田先生も途中で顔を出しに来てくれると連絡があった。石田先生には、前の検診の時に一緒に食事でもいかないかと誘われたが、その時にはもうなのはたちと約束をしていたから断らざるをえなかった。

 そのことを聞いた先生は残念がるどころか、立ちあがって喜び、その日の診療時間は、ずっと質問され続けた。その喜びようと言ったら、はやても嬉しくなってしまう――を通り越して、思わず笑ってしまうほどだった。

 自分のことでもないのに、石田先生はこんなに喜んでくれるのか。ウィルと出会うまではやては自分が孤独だと思っていたが、どうやらそれは思い込みで、自分は意外とみんなに気にされていたようだ。

 

 石田先生だけではない。近所の人たちとも、少しだけど交流できるようになった。

 どうやら近所の方々の中にも、以前からはやてのことを気にしていた人はそれなりにいたらしい。

 それを聞いた時は、「なんでもっと早くに声をかけてくれへんの!」と怒りたくなってしまった。でも話しているうちに、その人たちは悪い人どころか良い人たちばかりだということがわかった。ただ、はやては孤独で、ほとんど誰とも交流がなかった。そういった子に話しかけることはやっぱり難しいらしい。気難しい子だったら――とか、立ち入ってはいけないような事情があるのではないか――とか。

 しかし、ウィルと共に行動し始め、最近はなのはたちに連れだされてよく街に出たりしていることもあって、その敷居が下がってたようだ。特になのはと行動を共にしていたことは、大きな影響があったらしい。

 人気喫茶店翠屋の娘である彼女を知っている人も多く、そういった人たちが翠屋に立ち寄った時に、桃子に聞いてみる。そんな風にしてはやてのことが伝わったそうだ。

 そのことを桃子に聞いた時、彼女は「勝手に話しちゃってごめんなさい」と謝っていたが、彼女のことだから大丈夫だと思う人だけに話したのだろう。

 そうして今、八神はやては生まれて初めて自身がとても恵まれていると実感している。養子の話がまとまれば離れなければならなくなる世界に、今さらながら未練がわき上がってしまうほどに。

 

 ともかく、今まで内心で世をすねていた八神はやては今日で終わり。明日からは新・八神はやての誕生だ。

 誕生日はもはや誕生した日を祝うだけのものではなく、新しい自分の誕生を祝う日となるのだ!

 

 そんなことを考えて――でも、一つだけ不満点がある。

 誕生日にウィルが来れないこと。

 

 管理外世界である地球に来るためには、事後処理のための管理局の船に乗るしかない。本局と地球の間は、往復で一週間はかかる。管理局の仕事がどのようなものかはわからないが、それだけの間休むのが難しいのは仕方ない。

 仮に休みを取れたとしても、船がやって来るスケジュールをはやての誕生日に合わせるなんてことはできないので、休みをとってやって来ても誕生日には来ることはできない。

 もう少しすると、月村邸の敷地内に大型の転送ポートが設置されることになるらしい。それができれば、船がなくともポートを乗り継いでミッドチルダとも行き来が可能になるそうだが、残念ながら誕生日には間に合いそうもない。

 

 新・八神はやての誕生のきっかけ、先駆者は間違いなく彼で、一番祝ってほしい人で、一番一緒にいたい人――それがいないというのは画竜点睛を欠くけれど仕方ない。

 

 来れないお詫びとして、メッセージカードが届いていた。メッセージカードは、日本語で書かれていた。書きなれていないのだろう。ところどころ変なとこもあった。

 ちなみに、プレゼントには地球に存在しない技術が含まれていたため、途中で没収されてしまったと、先月メッセージカードを届けに来たクロノという少年が言っていた。

 

 

 これまでのことを思い出し、これからのことに思いをはせていると、もう十一時を過ぎていた。

 

 用意もひと段落ついたので、後は明日の朝からやれば良い。そう考えて、さっさとお風呂に入って寝床についた。

 

 ところがなかなか寝付けない。時計を見ればもうすぐ十二時だ。日付が変わる。

 この際だから、それをこの目で確認しよう。

 布団から身体を起こし、時計を目の前に置いて、カウントダウンを始める。

 

「十、九、八」

 

 何をやっているのかと自分でもバカバカしくと思う。

 

「七、六、五」

 

 どうせカウントダウンが終わったら、またすぐに寝るだけだ。

 

「四、三」

 

 でも、楽しい。わくわくする。

 これまでは、失うことを恐れて希望をもたないようにしてきた。

 なんてもったいない。未来に希望を抱けば、こんなにも世界は楽しいものになるのに。

 

「二、一」

 

 零!

 両手を上げて、自分で自分を祝う――ハッピーバースデイ!!

 

 

 その瞬間だった。自分の中で、何かが鳴動するのを感じたのは。

 心臓のよう――でも、心臓ではない。これまで感じたことのない脈動。

 

 一冊の本が勝手に本棚から出て、宙に浮かび上がる。それは、物心ついた頃からはやての部屋にあった本だった。鎖と錠がかかった奇妙な本。

 本から光が漏れる。発光しているはずなのに、なぜかそうは思えない。じわりと、手のひらいっぱいにすくった水が隙間から漏れているよう。その光は黒い。闇色の光。

 

 本が蠢き始める。血管が浮き出て、膨張と収縮を繰り返す。そのたびに少しずつ鎖がほどけていく。合わせるように、はやての中に現れたもう一つの心臓も膨張と収縮を繰り返す。

 鎖が完全にほどけた時、本の装丁が見えた。

 十字架――中心に丸い宝石を置き、四方に剣を向けたような十字。

 まるで、その宝石を守るために、周りの全てに敵意を向けているような。

 

『Anfang(起動)』

 

 今までにないほどに強い光が漏れ、はやては思わず目をつぶった。

 

 光がおさまった時、今まで時計しかなかった目の前に、新たに誰かがいた。

 人――四人の、人間?

 

 

 

 

 同刻。第百二十二無人世界。

 

「こんな時間に出かけるのか?」

「ちょっと空を飛びたくなっただけだよ。すぐに戻ってくる」

 

 ウィルは基地の正門を警備している局員にIDを呈示し、二言三言、言葉を交わしてから、飛行魔法で空に飛び上がった。そのまま砂漠へと向かう。

 

 アースラが本局に到着した後、ウィルはミッドチルダに寄って家族に顔を見せたりしている内に時間はどんどん流れ、勤務先のこの世界には戻って来たのはつい先日だった。

 ウィルがいない間にも、この世界ではいろいろと事件が起こっていたらしいが、ウィルが帰る頃には事件は完全に終わっていた。

 また、いつも通り管理局の局員としての生活が始まる。もう数ヶ月もすれば、この世界への出向期間は終わる。そうなれば、ウィルは再びミッドチルダに戻ることになるだろう。ミッドに戻ることができれば、はやてにも頻繁に会うことができる。

 そんなことを考えている自分に苦笑する。不確定の未来に過度な期待は禁物だ。

 それに、うかれてばかりはいられない。幸福なことは良いことだが、それで目的を忘れてはいけない。

 

 ウィルは果たすべき目的を忘れていない。

 父が死んだ原因であるロストロギア『闇の書』と、それを守護する四人の騎士をこの世界から完全に消し去るという目的。

 闇の書という存在そのものに、燃え続けているこの瞋恚の炎を叩きつけ、復讐する。十年という長さはそのために費やした。

 プレシアが忠告したように、いつかはこの感情も薄れるのかもしれない。それならそれで構わない。その時は復讐ではなく、管理局の一人として世界を守るために闇の書と戦おう。

 だが、少なくとも今は断言できる――この身を焦がす永遠の炎は消えることはない。

 

 ウィルにとって闇の書は不倶戴天の敵。まさしく不倶戴天――やつらに、俺と同じ(そら)は戴かせない。

 そのためには、もっと強くならなければ。

 戦い方をさらに習熟させなければ。新しいデバイスも必要になる。共に戦ってくれる仲間や、支援してくれる味方――もっと大きなコネクションも。

 

 かぶりをふる。

 もうすぐはやての誕生日だ。こんな暗い思いは彼女には似つかわしくないし、見せる必要もない。

 きっと彼女は、クロノと同じように良く思わないだろうから。

 

 

 基地から離れ、遺跡を越え、何もない砂漠の真ん中に着く。この星には衛星はないので、夜はとても暗い。そしてだからこそ、星の光がよく映える。しばらくの間、星を眺め続けた。

 携帯端末が、第九十七管理外世界の日本の日付が、六月四日に変わったことを伝える。

 誰もいない、周囲に何もない砂漠の上空で、ウィルは地球のはやてに届けとばかりに祝福の声をあげる。

 彼女のこれからの人生にあらん限りの幸福が訪れんことを願って、星のまたたく闇夜の天へと。

 

 ――――ハッピーバースデイ!! 八神はやて!!

 

 

 

「闇の書の起動を確認しました」

「我ら闇の書の蒐集をおこない、主を守る守護騎士にございます」

「夜天の主のもとに集いし雲」

雲の騎士(ヴォルケンリッター)――何なりと命令を」

 

 呆然とするはやての前に跪き、彼ら四人はそう告げた。

 彼らの後ろで、棚から落ちたカップが粉々に砕けていたことに、まだはやては気がつかない。

 

 ――――ハッピーバースデイ!! 闇の書の主!!

 

 

 

 ジュエルシードの発掘に端を発した事件は、かくして終わりを告げた。

 全てのジュエルシードは回収され、海鳴の街は元通り平穏につつまれている。

 

 そうして次の事件が産声をあげ始める。

 ずっと前から始まっていた事件の終わりが、ようやく始まる。

 

 




無印編 完

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薄暮 無印~A’s
傾く太陽


 巡航L級八番艦、次元空間航行艦船アースラ。

 

 巡行L級艦は戦艦並の図体の大きさでありながら、極めて少ない乗組員で運用できるよう高度に自動化されたシステムで運用されている。

 構造強度や艦の制御装置は全体的に余裕のある設計をされており、状況に応じた武装の追加や機能の改良を容易にしている。

 また、乗組員の数に比べて大きな船体のおかげで居住エリアは広く、武装隊の追加や避難民の受け入れなど、急な乗員の増加にも問題なく対応できる。

 つまり巡行L級艦は様々な事件に対応するため、必要に応じて機能や人員を追加する柔軟性を持った遊撃隊と言える。

 

 そのアースラの中には、艦付きの武装隊や乗組員が使うための訓練施設が供えつけられてあり、中心には艦船の中だというのに模擬戦用のシミュレーションエリアが存在しているのも特徴的だろう。

 許可申請は必要だが、武装隊の訓練時間以外であれば他の者でも使用可能なそのシミュレーションエリアを連日使用している二人の魔導師がいた。

 紛うことなきアースラ最強の魔導師、クロノ・ハラオウン執務官。そして、彼の友人であるウィリアム・カルマン三尉だ。

 

 

 青の魔力弾が飛び交う中をかいくぐって、爆音残して影が駆ける。

 

「相変わらずちょこまかとよく動く!」

「クロノ相手に足止めて相手なんてできるかよ!」 

 

 一方的に攻撃をしかけ続けるクロノ。一方のウィルは、的を絞らせないよう、先を読ませないように、断続的な加速と方向転換で常に場所を変えて逃げ続けながら、接近の機会をうかがう。

 

 戦況は一方的に見えるが、その実、特筆してどちらが有利というわけではない。

 クロノにとっては、常に攻撃の手を休めずに主導権を握ることで、接近されるのを防ぎ続けなければならない。それでもなお強引に攻め込まれた時に迎撃できるよう余力を残しておかねばならないので、全力を出すわけにもいかない。

 ウィルも常に動き回って攻撃を回避しながら、機会があれば瞬時に攻撃に移れるような位置取りを保ち続けなければならない。反撃不可能な位置に誘導されてしまえば、その瞬間にクロノは全てのリソースをつぎ込んでウィルを落としにかかるだろう。

 一方的に見えて、お互いに相手のミスを誘い、待ち続ける拮抗した状況だ。

 

 クロノは魔導師ランクAAA+という一流の魔導師。あと一歩、オーバーSという魔の領域に踏み込むための規格外の素養には恵まれていないが、優れた才覚を鍛えぬいて磨かれた技量は極めて高く、同年代の中ではトップクラスといえる。

 一方、ウィルの魔導師ランクAAは優れた部類に入るが、クロノには及ばない。

 しかしながら、魔導師ランクは強さの単純な可視化ではなく、同等の難易度の任務を安定して達成できるか否かが評価基準。特化型ゆえに任務における汎用性は大幅に劣るものの、純粋な戦士としてのウィルの技量は、決してクロノに大きく劣るものではない。

 そしてベルカ式の騎士は一対一の戦いにおいては同格の魔導師を上回るとも言われている。もっとも、それは真正古代ベルカ式の騎士の話であり、近代ベルカ式ではそこまで明確な差はないのだが。

 

 

 代わり映えのない戦いに、先に変化を与えたのはクロノ。

 クロノから放たれた魔力弾が螺旋を描くような軌道で、ウィルとクロノの間にある障害物を貫き破壊しながら迫る。

 不規則な動きだが、視認しての回避は容易だ。しかし視認のためにその魔力弾に注視した意識の隙を狙い、クロノが魔力弾を増やす。

 クロノは一手一手を重ねるようにして、徐々に相手を追い込んでいく。

 

「スナイプショット!」

 

 さらにトリガーワードに反応して、先ほど通過したはずの魔力弾が再反応。ウィルを背後から急襲する。

 前後からの同時攻撃。

 ウィルはF4Wの刃に反射した光で背後から魔力弾が迫るタイミングを計り、軌道を変更して回避。

 

 攻撃のルーティンを変化させる時、そこには大なり小なり隙が生まれる。

 先ほどまでは隙がなかった弾幕にできたわずかな空白に身体をねじ込ませ、そのままクロノへと急接近する。

 その途中、F4Wに魔力を通わせると、いまだ距離のあるクロノへ向かって振るう。

 

「アナテマ!」 

 

 ウィルの握るF4Wに宿る魔力が大気と交じり合い、赤に染まった衝撃破を撃ち出す。 

 それはウィルの予定進路を一足先に駆け抜け、その途中で見えない何かに干渉して威力を減じながら、クロノの足元に着弾する。

 

「やっぱり潜伏させてやがったな!」

 

 魔力を宿す衝撃波が通った軌跡には、設置型のバインドが隠されていた。

 魔法の潜伏設置には明確な弱点がある。たとえ顕在化していなくとも、魔力で構築された式がその空間にあることは変わらないため、魔力弾や今の魔力の混じった衝撃波のように、ある程度の魔力が潜伏箇所を通過すると干渉を受けて式が崩れてしまう。つまり遠距離から魔力弾を放って戦う魔導師相手にはまるで意味をなさない。

 しかし近接を得意とする魔導師にとっては極めて厄介な代物だ。並の魔導師であれば潜伏箇所に消しきれない魔力光や空間の歪みを感じさせるが、クロノの高い技量は視覚での看破をほぼ不可能としている。

 近寄らせないように一手一手詰めて戦場を支配し、それに焦れた相手が一気に勝負を決めるために接近してくるのを予想して、この潜伏型バインド――ディレイドバインドを仕掛けておくというのは、クロノがよく使う手口だ。

 士官学校同期の近接魔導師の八割が一度は引っかかったことのある悪名高いコンボ。ウィルも両手で数え足りないほどにひっかかって負けた経験がある。

 

「そっちは初めて見る技だな!」

「日々是精進だよ!」

 

 一方、ウィルが放った技――アナテマは、卒業後に独自に開発した魔法だ。

 空気に運動エネルギーを与えて加速とするハイロゥの術式を元に、己の魔力と大気を干渉させて衝撃波として放つ遠距離魔法。

 魔力のエネルギーへの変換量にもよるが、衝撃波の発生は避けられないため、対物設定以外では撃てず、ジュエルシードを巡る事件では使用する機会のなかった技だ。

 

 

 クロノは舌打ち一つと同時に、自らとウィルの間の空間に魔力による炎を生まない風のみの爆発を起こす。

 アクティブガードという、本来は落下する要救助対象を受け止めるためのエアバッグのような用途で使われる魔法。

 それがクロノに向かうウィルの速度を下げ、逆にクロノ自身も爆風で吹き飛ばされる形で距離を取りながらスティンガーレイを連射する。

 

 アクティブガードを強引に突っ切ることは十分に可能だが、速度の減少は避けられない。遅くなった動きではクロノの魔力弾を完全に回避するのは難しいため、一度方向転換してアクティブガードの影響下から離れ、再度突撃。

 

 しかしその時には、すでにクロノは新たな魔法を構築し終えていた。

 クロノの周囲に浮かぶ百を超える魔力の刃。

 貫通性に優れた魔力刃を生み出す魔法スティンガーブレイド。それを相手を確実に仕留めるために改良した、クロノお得意の必殺技(フェイバリット)

 

「スティンガーブレイド・エクスキューションシフト!」

 

 魔法名の宣言がスタートの合図。ウィルの移動速度を理解しているクロノは、ウィルがここから全力で逃げを打ってもぎりぎり避けられない程度に刃の群れを拡散させて面として放つ。

 

 

 対抗して、ウィルはプレシア戦で偶然使った空戦機動(マニューバ)を再現する。

 バリアジャケットの一部を解除し、空気抵抗で減速しながら片足を横へと。そしてハイロゥから放たれる圧縮空気がウィルの飛行軌道を鋭角的に捻じ曲げる。

 雷の如き軌跡を描き、迫る魔力の刃を回避し、間断いれずに再度クロノへと突撃。

 

 今のクロノの立ち位置はアクティブガードの爆風で飛ばされてできたもの。であれば、先ほどのような潜伏型のバインドをあらかじめ設置してある可能性はない。

 

 いや、油断はできない。クロノの周囲には十ばかりの魔力刃が放たれないまま残っていた。

 ウィルが回避してくる可能性を考慮して、一度に射出せず保険として残していたのだろう。

 しかし間断ない一斉射出ならまだしも、十程度の魔力刃ならウィルは悠々と回避できる。

 クロノもそれはわかっているはずだが――と、ウィルが疑惑に頭を悩ませている間にも彼我の距離は三十メートルを切った。

 

 その時、クロノがS2Uを振りかぶる。無骨な黒色のデバイスの先端に、残されていた魔力刃が集結し、瞬時に十メートルほどの長刀へと変化した。

 ウィルのF4Wの刃渡り一メートル強の刃よりも、クロノの十メートルを超える魔力刃の方が先に届くのは必然。

 

 そうして振るわれた長刀は、受け止めるために立てられたF4Wと触れ合った瞬間にいともたやすく折れて消失した。

 

 

 

「おいクロノ、勝ち越しが決まったからって最後に遊ぶなよ」

 

 決着後、ウィルは苦笑いを浮かべながらクロノへと歩み寄る。

 

 ウィルとクロノの模擬戦、五セットマッチは先ほどの勝負で終了。結果はウィルの二勝三敗。

 一勝三敗ですでに勝敗が決定した状態で始まった五戦目は、クロノの長大な魔力刃が茹でていないパスタのようにぽっきり折れ、そのまま距離を詰めたウィルの一撃が決まって勝利をおさめた。

 とはいえ、あの勝ち方では勝利というよりもクロノの自滅に近く釈然としない。

 

 クロノはといえば、ウィルの文句を意に介さず腕を組んで考えこんでいる。

 

「やはりうまくいかなかったか。状況に応じて遠距離用のエクスキューションシフトから中・近距離に対応できるように切り替える技を考えてみたんだが」

「びっくりはした。でもあれだけ長い魔力刃になると構成が甘くなって当然だろ」

「やはりそこがネックだな」

 

 魔力刃はつぎ込む魔力によって長さを変えることができる。

 五年前に、十代の魔導師が覇を競うインターミドルチャンピオンシップ世界代表選のチケットに運良く当選し、クロノや当時の士官学校の仲間と一緒に見に行ったことがあったが、第四管理世界ファストラウムの世界代表に自在に魔力刃の長さを操る女の子がいたのは印象深い。

 最大で五十メートルに届く魔力刃を詠唱などの予備動作なしに瞬時に形勢、伸縮させ、その場からほとんど動くことなく腕を振るうだけで並み居る強豪を打ちのめして世界代表の座を獲得し「指揮者」の異名をとった魔導師。結局その人も二戦目で負けたのだが。

 

 世界にはそのような規格外もいるが、普通は魔力刃を伸ばすのは非常に難しい。

 クロノの魔力量でも、大半を注ぎ込めば百メートルほどの魔力刃を形成することは可能だ。ただし、そこまで長くすると少し動かしただけで構築が崩れ、魔力刃の強度が低下。相手と打ち合うどころか、触れた瞬間にぽっきりと折れるかわいそうな代物になってしまう。

 その問題を解消するには、密度を上げるためにより多くの魔力をつぎ込むか、より精度高く演算できる高性能なデバイスを使用するか、魔法の構築そのものを強固にするかだが。

 

「素直に詠唱魔法に、ってわけにはいかないか」

「あくまでもエクスキューションシフトを展開後に接近されそうな場合への備えだからな。その状態から悠長に詠唱にしだしても、構築を終える前に斬られて終わりだ。何かしら別のアプローチは必要か。ところで……」

「わかってるよ。それよりも重要なことがある、だろ?」

 

 ウィルはすっと目を細め、少しだけクロノに身体を寄せ、クロノもまた真剣な目でウィルを見返す。

 

「やはりきみもそう思うか」

 

 二人してうなずき合う。クロノの新技、目下最大の課題とは、

 

「「技名をどうするかだ」」

 

「やはり統一感は欲しいな。遠距離用のエクスキューションシフトの対となる技だから、名称にも類似もしくは相反する要素をいれたい」

処刑(エクスキューション)の類語となると……断罪、処罰あたりか」

「断罪ならコンヴィクションシフトか。しっくりこないな」

「刃系の魔法なんだ。斬首でディキャピテーションシフトなんてのはどうだ?」

「さすがに物騒すぎる。サンクションシフト、パニッシュメントシフト……どれもしっくりこないな」

「処刑もたいがい物騒だと思うけど……少しニュアンスを変えて、介錯はどうだ?」

とどめの一撃(クーデグラ)……いや、単体の技名としてはいいが、スティンガーブレイドと組み合わせるとなるといまいちだな」

「介錯……セップクシフト」

「それはなんか違う」

 

 

 しばらくお互いに案を出し合うも、良いものは浮かばず、技名は保留となった。

 

 使用可能な時間が終わり、二人してシミュレーションエリアの入り口のベンチに腰掛け、エイミィが用意しておいてくれたスポーツドリンクで水分補給。

 学生時代から仲間内で模擬戦をやる時は、よくエイミィやその友人が自作のスポーツドリンクやらプロテインドリンクやらを全員分用意してくれていた。自作なので時々味覚や栄養素の限界に挑戦しているようなものが出てくることもあったが。

 

「こうしてクロノと思いっきりやり合うのも随分久しぶりだよなぁ」

 

 学生時代は頻繁にやり合っていたが、お互いに配属されてからは会う機会も減っていった。

 クロノは普段から艦船に乗りこんで哨戒任務で次元世界を彷徨っているし、ウィルも地上配属のキャリア組によくある形として、様々な部署や他所の管理世界の部隊に配属されて転々としていた。

 たまに同期で集まることもあるが、みんな明日の仕事を気にして本気で模擬戦をやろうとなることは少ない。

 

「こうしてきみと戦えるのも、本局につくまでだな」

「そういえば、本局に着いたらユーノ君はどうなる? やっぱり、裁判は受ける必要があるんだよな?」

 

 ユーノは艦内で手伝いをして回っているようで、乗員からの評判も上々だ。

 友人としてフェイトやアルフとも親しくしており、彼女たちの世話役にもなっている。

 そんな様子を見ると忘れてしまいそうになるが、ユーノもなのはへの管理世界技術の譲渡など、いくつかの管理局法を破っているので一応は犯罪者。本局に戻れば法に則って裁かれなければならない。

 

「事態が事態だ。ユーノも弁護人を雇って徹底抗戦と考えているわけでもないし、今回の事件における彼の貢献は著しい。裁判自体は略式で迅速に終わらせて、せいぜい二・三カ月の奉仕活動になるだろう。当分は本局に滞在してもらうことになるけれど、悪いようにはしない。きみはまぁ……事情聴取の後に厳重注意か、訓告くらいにはなるかもしれないが、すぐに解放されて元の配属先に戻されるはずだ。アースラもしばらくは本局に停留しているから、しばらく我が家(うち)に来るか?」

「いや、いったんミッドに帰省するよ。はやてを養子にする件で親父と話し合う必要があるから。クロノにはこれからもいろいろ頼ることになるけど……」

「気まぐれなら付き合わないが、人のためになることなら断わる謂れはないよ」

 

 さらっとこう言えるあたりに、クロノの人の良さがうかがえる。

 

「ありがとう。はやての誕生日が来月だから、プレゼントを買おうと思うんだ。クロノに預けるから今度地球に訪れる時に俺の代わりに渡しておいて」

「わかった。……ところで、今年の墓参りはどうする?」

「あー……もうそんな時期か。俺、二ケ月も地球にいたんだもんなぁ」

 

 配属されてから会う機会は減ったと言ったが、それでも一年に一度、できる限り予定を合わせて顔を合わせる時があった。

 自分たち二人の父親の命日。その墓参りのために。

 

「これだけ配属先を空けといて、またすぐに休暇申請するのも気がひけるから今年は命日には行けないなぁ。メモリアルガーデンには今回の帰省の時に一人で行くことにするよ。クライドさんのとこにも花供えとくから」

「ああ、じゃあ僕たちも後でヒューさんの方に」

 

 メモリアルガーデンは、ミッドチルダ西部にある墓地の名称だ。非常に広大で、単なる墓ではなく、一種の観光地としても機能している。

 ウィルとクロノが初めて出会ったのもその場所だった。

 

 だが、メモリアルガーデンに彼らの父の遺体は存在しない。彼らはもうこの世界のどこにも存在しない。二人とも分子一粒も残さずに消滅した。墓の下には骨の一つもない。

 ならば、墓とは何のためにあるのだろう。

 

 

 

 

 第一管理世界ミッドチルダ首都クラナガン。その高級住宅街の一軒家のリビングで、一人の女性がソファに寝そべりながら映画を見ていた。

 オーリス・ゲイズ、十八才。ウィリアム・カルマンの義姉にして、時空管理局地上本部の若き才媛と称される女性だ。

 

 事務的な物腰と、女性にしては少し低い声。魔法の素質はないため戦闘能力は皆無だが、士官学校を出ているだけはあって運動能力は一般人よりもずっと高い。

 適度に鍛えられた体は均整のとれたプロポーションを維持しており、亡くなった母親譲りの理知的な顔には、必要以上の感情がうかぶことはめったにない。少なくとも公人としてふるまう時は。

 学生時代から愛用しているフォックス型の眼鏡は切れ長の目と相乗して、見る者に鋭敏で少々威圧的な印象を与えている。代償として女性的な艶には欠けており、他者に媚を売ろうとしない父譲りの姿勢のせいで快く思わない者もいる。

 

 とはいえ、クロノがそうであるように、彼女も決して情が薄いわけでもない。公私をきっちりわけているだけで、身内への情は深い方だと自分では思っている。

 たまに通信してきて、益体もない世間話と職場の愚痴を聞いてくれる義弟のことはそれなりに大事に思っている。

 

 だから義弟が行方不明になった一件は彼女の心に影を落としている。

 先日ようやくハラオウン提督の船に見つけられたらしいが、どうせ彼のことだからそのまま大人しくしているとは思えない。

 真面目なようで奔放で、従順なようで頑固で、聡明なようで間抜けで、明るく見えて繊細な子だ。きっと知らない土地で余計なものを背負い込んで、周囲を振り回しながら周囲に振り回されて傷ついているに違いない。

 世間的には一家揃って管理局のエリートコースを歩んでいるように見えるそうだが、オーリスにとってのあれは、周囲に心配をかけさせてばかりのただの放っておけない愚弟だ。

 

 だから不安を紛らわせるために酒を飲んでしまうのは愚弟のせいなのだ。

 と、クライマックスにさしかかる映画を見ながら次の缶を開けようとする。父は今日は遅くなるはずだから、もう少し飲んでいても問題ない――

 

「オーリス・ゲイズ二尉!!」

「ひゃ、ひゃい!……って、お父さん?」

 

 雷鳴のごとき一喝に思わず手に持っていた酒缶を取り落としそうになる。

 リビングの入り口に父のレジアスが立っていた。

 齢四十を越えてなお熊のような体格を維持している。非魔導師だからとなめていると魔法を唱える前にラリアットでふき飛ばされそうだ。

 

 慌てながら、おかえりと挨拶をするオーリスに彼は再度一喝。

 

「平日はほどほどににしておけとあれほど言っただろう! 体調管理を怠るようでは士官は務まらんぞ!」

 

 雷鳴のような、もとい熊の咆哮のような大声。アルコールのまわった頭にはきつい一発。

 オーリスは父の説教を覚悟したが、意外にもレジアスはそれ以上注意をせず、棚から自分の酒とグラスを取り出しに行った。

 父が平日に酒をたしなむのは珍しい。仕事で何かあったのだろうか。しかし、親子とはいえ仕事の内容をぺらぺら話すわけにはいかない。レジアスのような将官の関わる仕事となればなおさらだ。向こうが話さない限りは、何も聞くわけにはいかない。

 そう考えて躊躇していたところ、レジアスはあっさりと原因を話し始めた。

 

「アースラが本局に帰還したそうだ。先ほど、ウィルからも連絡があった」

「それは良い知らせではないですか? どうしてそんなに怒って……」

「見ればわかる」

 

 レジアスは彼自身の携帯端末を操作して、一つの動画ファイルを開いた。テーブルに置いた端末から空中にホロディスプレイが投影され、椅子に座るウィルが映し出される。

 

『長らく音信不通でごめん。心配かけただろうけど、俺はご覧の通りぴんぴんしているよ。明日……は無理かもしれないけど、近いうちにクラナガンに帰省して、顔を見に行くよ。だったら、こんなメッセージを送らなくても良いだろって思うかもしれないけど、実は帰った時にお願いしたいことがあるんだ。いきなりだと混乱させるだけだろうし、通話だと怒鳴られそうな気がするから、このメッセージで頼み事の内容だけは伝えておこうと思う』

 

 そう言うと、映像の中のウィルは携帯端末を操作すると、一人の少女の姿を映し出す。

 

『かわいいでしょ? この子には、今回の事件でとてもお世話になったんだ。三食昼寝つきのヒモ同然の生活を送らせてもらってた。この子を俺みたいにゲイズ家の養子に迎えてほしい。無理なら誰か信頼できる人のとこでも良いんだけど、とにかく彼女が管理世界に移住できるようにしてほしいんだ。詳しい事情は帰ってから話すよ。ちゃんと本局に確認をとってからじゃないと、些細なことでも漏洩扱いされるかもしれないし。それじゃあ二人とも風邪をひかないように……って、言わなくても親父はひかないか。とにかく、元気で』

 

 普段と変わらないにこやかな笑顔を残して動画は終了し、ディスプレイも消失する。突拍子のない提案に、オーリスの口は開いたままだまだった。

 そんな、帰り道で子犬を拾ったから飼って良い? みたいな軽さで言うことではないだろう。

 

「まったく……人間を犬や猫みたいにぽんぽん持って帰ろうとするんじゃない!」

 

 レジアスも同じような感想だったのだろう。しかし、ぷんすかと怒るレジアスを見たら、オーリスはおもわず笑ってしまった。

 怒ってはいるものの、同時に少し嬉しそうだったから。ウィルがこんな馬鹿をしでかすのも元気な証拠だ。我が子の無事を知れて嬉しくないはずがない。決して自分(オーリス)とはまるでタイプの違う、かわいい娘ができることが嬉しいわけではないと思う。そう信じたい。

 

 こんな風になかなかに凸凹な人間が三人。心の内までさらけ出し、何でも言える理想の家族とはいかないが、ゲイズ家はそれなりに仲良くやっている。

 

 

 

 

 

 男は多くの情報に囲まれていた。周囲の空間に投影されているホロディスプレイと三次元空間ホログラフィの総数は三十を超え、時間の経過とともに刻々と内容を変えていく。その全てに映る情報を把握することなど、ただの人には不可能だろう。

 部屋には男が一人だけ。彫刻のように動かない。時折するまばたきだけが、彼が生物であることを示している。

 動かない彼の代わりにディスプレイの方が動き、彼の目の前を流れていく。男は瞬時にそれらの情報を頭に入力(インプット)する。

 

 これだけ大量のデータを次々に処理できる彼は間違いなく天才――などと言うと、男は笑って否定するだろう。

 いくら男がすごくとも、情報を入力するだけなら機械の方がはるかに上だ。

 天才とは、情報処理の速さや知識の多さでは決定されない。

 データを全て覚えることは男にとっては簡単なだが、同時にそんな能力は絶対に必要なものではないと考えている。大切なことは、データが何を表わしているのかという個の絶対的な存在意義を理解し、それが全体の中でどのような立場にあるのかという相対的な存在意義を把握すること。

 そして目的のためにこれから何をおこなうべきかその道筋を見つけること。

 

 天才とは機械ではなく人間を表わす言葉。ならば、機械が持ちえない能力こそが天才の条件。

 すなわちモノとモノを関連付ける能力、そしていまだ何も存在しない思考の白地へと飛び立つことができる、思考の飛翔力――ネットワークの構築能力こそが人間の持つ偉大な力であり、天才を決定する基準となる。それが男の持論だ。

 

 

 響く電子音――通信の合図。男はディスプレイの流れを止める。

 新しく男のそばに投影されたホロディスプレイには、年の頃二十ほどの女が映っていた。彼女もまた、彫像のようだと感じさせる雰囲気を持っている。男のように動かないからではなく、動いていてもなお彫像に思えてしまうほど。

 

「定時報告の時間ではないね。何かあったのかな?」

 

 男は先ほどの理知的な雰囲気とは裏腹に、誕生日プレゼントを開ける子供のように期待に満ちた顔をする。予定にない連絡、未知の情報が自分に何をもたらすのか、期待に胸をふくらませて。

 

『ウィルの行方が確認できました。輸送船の事故の後、ロストロギアの違法回収者と争いながらも、本局より派遣された部隊と合流して、事件の解決に協力していたようです。現在はクラナガンに戻っています』

 

 男は「そう」と一言返す。顔は嬉しそうだ。しかしプレゼントの中身は最近発売されたゲーム機だった――つまり意外性がなかったことを残念がるような表情でもあった。

 

「それは良かった。何を為すにも、まずは命ありきだからね。無事でなによりだ。でも要件はそれじゃないだろう?」

 

 ウィルの無事は喜ばしいことではあるが、重要ではない。ウィルが以前のように大怪我を負ってすぐにでも助けを求めているのならともかく、無事なのであれば何もすることはない。それこそ定時報告の時にでもすればいい。

 男の予想通り女は「はい」と答える。表情は変わらないが言葉の重さが増していた。

 

『プレシア・テスタロッサという科学者を覚えておいででしょうか。何度か学会でお会いになったことがありますが』

「覚えているよ、研究内容もね。セル・マテリアルズ・ジャーナルに掲載された彼女の論文はどれも面白かった。時間が許せば私も研究してみたいくらいだったよ。それで?」

『ウィルが争ったロストロギアの違法回収者が、彼女でした。彼女はロストロギアを回収するために、亡くなった娘のクローン体を手駒として使っていたようですが、そのクローン体は()()()()と名付けられており、自らのことをプレシアの娘だと信じ込んでいたようです。おそらく、ドクターの研究に関係が――』

 

 男の雰囲気が変わる。ふっと呼気が吐かれる音が聞こえたかと思うと、男の肩がぶるぶると震える。

 

「彼女はプロジェクトFを完成させたんだね。そうか……あれが理解できる者が現れたのか」

 

 その震えは喜びゆえに。嬉しくて、嬉しくて、震えてしまうほどに。

 

「長かったなぁ……せっかく世界中に論文をばらまいたのに、こんなに時間がかかるとは思わなかったよ。他人に期待する時は、少し悲観的に見たが良いのだろうね。それでも彼女は完成させたわけだ。私の論文を理解し、私と同じモノを見ることができたわけだ。数多の生命工学の専門家が実現できずにいたプロジェクトを最初に完成させた者が、まさか異なる分野の専門家だとはね。それだけ彼女が素晴らしいのか――それとも私が知らないだけで、とっくに完成させた者もいるのかな? やっぱり人は捨てたものじゃないねぇ」

 

 男は言葉を紡ぐ。それは決して通信相手の女に聞かせるために話しているのではない。ただ、男の内側に溢れる喜びが、外に表現しなければ抑えられないほど大きいだけだ。女は男が話している間、何も言わずに聞き続けていた。そして男の言葉が途切れてから、ようやく続きを話す。

 

『プレシアからドクターのことが漏れるかもしれません。処分しますか?』

「放って置きなさい。私がばらまいた中でも、F、G、Hに関する情報は拡散しすぎて、もはや誰が持っていてもおかしくない」

『ですが、万が一ドクターに辿りつく可能性も――』

 

 男の耳には、女の言葉は入っていない。彼は再び、自分の欲望に従って言葉を発する。

 

「それにもったいないじゃないか。それだけの才能を、たかだか我が身の危険程度で潰すなんて。ああ、会いたいなぁ。会って語りたい。尋ねてみたい。彼女の心を、頭脳を知りたい。細胞と細胞をつなぐネットワークが、その間を流れる電気信号が、どんな彼女という幻想を創り上げたのか。私の領域にたどりつく可能性とはどのようなものか。私の見ているモノをかいま見ることができた彼女がいったい何を感じたのか」

 

 男は、「ウーノ」と女に向かって呼びかける。それが女の名前なのだろう。

 

「今すぐ彼女と事件について調べなさい。スケジュールはきみに任せる。会いに行くよ、彼女に」

 

 不可能な注文だった。まだ事件は裁判すら始まっていない。プロジェクトFという未知の技術の影響もあり、概要はともかく詳細については一級の報道規制がかかっている。

 だが、彼女はまったく逡巡せずに『はい』と答えた。彼女にとっては――正確には、彼女たち姉妹にとっては、その程度のことは難しくもなんともない。

 その間にも、男の思考はすでに別のことに飛んでいる。

 

「手土産は何が良いかな。やはり彼女が望むものが良いな。でもそれだけではつまらない。他に何か……そうだ、花を贈ろう。古来より男性が女性のもとを訪れる時は花を贈るんだったかな?」

『該当するケースは相当数あります。絶対ではありませんが、定番かと』

「なら、薔薇にしよう。青い青い薔薇が良いな」

 

 男は笑う。子供のように邪気のない顔で笑う。この世の全てを祝福しているかのように。

 多くのディスプレイの光が、幻想的に部屋を照らし続けている。しかし、どの光よりも強烈に輝くのは、男の両目に宿る金の光だった。

 

 

 

 

 

 住宅街にセミの声がする。蝉の声が岩にしみいると表現した詩人がいるそうだが、現実は音がコンクリートで反響して、ウィルの脳天に響いてくる。

 

 久しぶりに訪れた地球は、来る星を間違えたかと思うほどに暑い。

 ウィルは先日まで一面砂漠の世界に配属されていたので暑さには慣れているという自負を持っていたが、地球の暑さは質が違う。サウナといい、この星の人々は蒸されるのが好きなのだろうか。

 いっそバリアジャケットを展開して熱をシャットアウトしようか――と、半ば本気で考えながら、変わらぬ海鳴を歩く。

 季節は夏。地球の暦では七月下旬。約束していた魔法世界(ミッドチルダ)の学校への短期留学のため、ウィルはなのはを迎えに来た。しかしそのまま高町家に向かわず、まずは八神家に向かう。

 はやてに会いたいだけではない。ウィルと入れ替わるようにして八神家に居候することになった、三人の女性の顔を見ておきたかった。

 

 彼女たちのことは、はやての誕生日から少し経った時分に送られてきた手紙で知った。はやての後見人である今はイギリスに住んでいるというグレアムおじさんの紹介で、世話人としてはやてのもとにやって来た旨が手紙に記されていた。女性三人と大型犬が一匹。一人暮らしの女の子の世話係としては適任だろう。

 

 インターホンの音が響き、八神家の玄関の扉が開く。扉の向こうにいたのは初めて見る女性。しかし、はやてからの手紙に書いてあった特徴から類推するに――

 

「えっと、金髪の美人さんだから……シャマルさんですよね?」

「あなたがウィルさんですね。はやてちゃんから聞いています。どうぞお上がりください」

 

 靴を脱ぎながらシャマルに注意を払う。シャマルは優しい笑みを浮かべているが、探るような色がこびりついている。なかなかの演技派だが、リンディには遠く及ばない。意識すれば若干の不自然さを感じ取れる。

 良い気はしないが、彼女たちの立場を思えば当然か。

 管理世界でのウィルは管理局の士官、社会的信用のある立場だ。が、管理外世界である地球では、単なる住所不定、身分証明不可の不審者でしかない。グレアムからはやての世話を任せられているシャマルにとっては要注意人物に見えるのだろう。

 あえて気付かないふりをして、八神家のリビングに入る。

 

(……ここまでとは)

 

 笑顔でウィルを迎えてくれるはやては良い。

 しかし、他の面々は明らかにウィルを歓迎していなかった。

 

 髪を後頭部の高い位置でくくっている長身の女性、シグナムは警戒の色をにじませていて、小柄な少女、ヴィータは剣呑な空気を醸し出していた。こころなしか大型犬にも睨まれているような気がする。そしてウィルの後ろに立つシャマルからは相変わらず探るような気配。

 いくらなんでも初対面の人物への対応ではない。かつてウィルを問い詰めた月村忍たちでさえ、これに比べれば幾分か穏やかだった。

 先ほどとは真逆に寒気で汗を流しながら、ウィルは彼女たちの威圧感に気付かないふりをして――むしろ怖いので積極的に目をそむけつつ、挨拶を始めた。

 

 はやてと二人きりになるまでに、それから一時間もの時を消費した。

 リビングの外、ウッドデッキの椅子に二人で腰掛ける。

 

「手紙、読んだよ。本当に行く気はないんだね」

「……うん。やっぱり、頑張ってくれてる石田先生にも申し訳ないし、私を頼って来てくれたみんながおるから」

 

 新たな同居人の報告には、養子の件を断る旨も一緒に記されていた。シャマルたちにも事情があり、はやてがいなくなったからといって、もとの場所に帰るというわけにはいかないらしい。はやてがミッドチルダに移住してしまえばシャマルたちの行く場所がなくなってしまう。だから今はミッドチルダには行けない。

 残念だが仕方がないとも思う。その優しさがはやての良さ。そんなはやてだからこそウィルを拾ってくれたのだから。

 

「ごめん。せっかくウィルさんがいろいろ骨を折ってくれたのに」

 

 ウィルは苦笑しながら、はやての頭をなでる。

 

「提案した時に言わなかった? はやてはそんなこと気にしなくて良いんだよ。……ところでさ、みなさんに俺のことをどんな風に話したの?」

「え、えーと、別に普通のことしか話してないよ?」

「本当に? 魔法のこととか話してないよね」

 

 魔法のことをはやてが話したのなら、この対応も納得できる。

 彼女たちが魔法を信じないのであれば、ウィルは年齢一桁の子供に魔法を使えると騙り、一月以上ヒモになっていたろくでなしでしかない。

 

「もちろん話してないよ! そんなこと話しても、私が頭の弱い子やと思われるだけやし!」

「そっか。でも、すごく警戒されていたような気がするんだけど」

「気のせいやって」

 

 はやては妙に強い口調で否定する。これはどこかでうっかり漏らしてしまったなと確信を抱く。

 

(まあいいか)

 

 シャマルたちがウィルのことをどう思っていようと、それはこれから解決していけば良い。悪い人たちでないなら、誠意をもってつきあえばきっと大丈夫と、ウィルには珍しく脳天気な思考をする。

 仮に何かあったとしても、高町家と月村家の人たちがいる。はやてが何かに悩んでいても今のはやてには支えてくれる人がたくさんいる。

 ウィルは、ウィルにできること、やるべきことをしなければ。

 まずはなのはを迎えに行かなくてはならない。そろそろ向かわなければ遅刻してしまう。

 

「それじゃあ、今日はこれくらいで帰るよ」

 

 八神家を出て少し歩いてから、ほんの少しだけ振り返って、また歩き出す。

 居場所をなくした喪失感で胸が少しだけ痛んだ。

 

 

 

「やっぱり話してみてもええんやないか? きっとウィルさんやったら――」

 

 目の前で閉まった玄関の扉を見ながら、はやてはシグナムに話しかけた。

 

「なりません。時空管理局は我らの敵。歴代の主の多くは、奴らによって殺されてきました。主はやてが闇の書の主と知られた時には、必ずや命を奪いに来るでしょう」

「そやけど、隠しごとは……」

「でしたら、我らに蒐集の許可を。全ての(ページ)を埋めた闇の書の力があれば、隠す必要もなくなるでしょう。なにより、主のお体も――」

「あかん。人様に迷惑かけてまで治そうとは思わへん。自分一人のわがままで他の大勢を傷つけるなんて、そんなことはできへんよ。やっぱりええよ、諦める。ウィルさんとは今すぐ会えへんようになったわけやないし、足が動かんのもなれっこやしな。それに、今はなのはちゃんやすずかちゃんみたいに助けてくれる友達もおる。もちろん、新しい家族も」

 

 はやてはシグナムの方を向き、曇りのないように見える顔でにっこりと笑った。

 

 

 

 その夜、シグナムはリビングのソファに身をゆだねながらも、少し寝付けずにいた。

 

『まだ起きているか?』

 

 空気を震わせぬ声。念話でシグナムに語りかけるのは、リビングの床に伏している大型犬――ザフィーラだ。

 

『起きている。何かあったか?』

『……私たちは本当にここにいて良いのだろうか』

 

 ザフィーラがぽつりと呟く。

 

『今さら何を言う。主の傍に控え、その身をお守りする――それが我らヴォルケンリッターの使命だろう』

 

 自分たちの使命、存在意義を疑うような言葉を、シグナムは強く否定する。それでもザフィーラは疑念をぬぐい切れないでいた。

 

『私たちさえいなくなれば、主は幸せになれるのではないか。ベルカの時代はとうに過ぎた。もはや戦乱の世ではない。守護などせずとも、主が災禍に飲み込まれることはない。私たちがここにいる意味はあるのだろうか?』

『……必要のない疑問だ。我らが何を思おうと、主はやては闇の書に選ばれた。我らはその身をお守りするしかない。それとも、お前は使命を放棄するつもりか?』

『私とて主の元を離れたいとは思わん。今代の主は優しい。どのような主にも心よりの忠誠を誓ってきたつもりだ。だが、主は……はやてのことは、今までのどの主よりも守りたいと思う。だからこそ、疑問に思うのだ――私たちは、本当に主のためだけに、ここにいるのか?』

『それ以外に何がある』

 

 シグナムの詰問めいた問いに、ザフィーラは八神家のある方角に顔を向けながら応える。

 

『ヴィータやシャマルは、はやてが主になってから、よく笑うようになった。これまではこんなことはなかった。私はあいつらにもっと笑っていてほしいと思う。そして、そう考える自分が怖い。今の私たちは、主のためと言いながら、自分たちが楽になりたいだけではないのか?』

『……くどいぞ。たとえお前の言うことが正しかったとしても、我らのやることは変わらない。魔法がない世界とはいえ、現に今日のように管理局の者が主はやての周りにいるというのに、離れることなど……できるものか』

 

 何を望もうが、何を考えようが変わらない。ヴォルケンリッターの使命が闇の書の主の守護であり、管理局が闇の書を滅ぼそうとする限りは。

 

『そうだな……すまん、忘れてくれ。しかし、気を張っていたのはわかるが、昼の対応はないのではないか。あれでは管理局の男を不審がらせるだけだ』

 

 その言葉に、シグナムは憮然として顔をそむけた。

 なぜあのような態度をとったのか自分でもよくわかっていない。管理局だからというだけではない何かが、彼の名前を聞いた時からずっとシグナムの頭の片隅にこびりついていた。

 




単独で掲載するには短すぎる話をまとめた結果、短編にも関わらずこれまでで最長の話になってしまいました。
前々話のはやてとの会話中にさらっと流しましたが、この作品ではヴォルケンリッターの容姿や固体名などの闇の書に関わる情報の大部分は機密情報として公開されておらず、闇の書にご執心なウィルも現段階では知らないとしています。本編でもクロノたちがヴォルケン自体ではなくシャマルが抱える書の装丁を見て気づいていた覚えがありますし(うろ覚え)
それはそれとして、敵と知らずに仲良くする展開が好きなだけでもあります。最近は忍者と極道という漫画がお気に入りです。


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十年前、エスティア

 淡い光が視界を覆い、続いて一瞬の浮遊感。

 光はすぐに消えて、十分な広さをもった無機質な部屋が視界に入る。数秒前までいた部屋と同じつくりの、だが確実に異なる部屋。

 ウィルは先ほどまでミッドチルダ中央部のクラナガンにいたが、わずか数秒で西部のエルセア地方に移動した。

 鉄道でも数時間はかかる距離をこうも一瞬で移動できるのは、異なる空間を歪めて同期させる転送装置という魔法文明の利器のおかげだ。

 

 ウィルがたった今利用したような転送装置は、特定の場所に設置された転送施設間を行き来するためのもの。

 一方、次元空間航行艦船の転送装置は、PT事件でアースラがウィルや武装隊員を海鳴沖や時の庭園に転送したり、逆に船へと召喚したように、任意の場所に転送することができる。

 次元航行艦船が転送元と先の座標の相対的な変化、そして魔力素の偏移を観測できるだけの高性能なレーダが多数有しているからこそ可能な芸当だ。

 

 技術力の低かった旧暦の頃は、転送機能付きの次元航行艦船を建造するには船と同体積の金塊が必要とまで言われており、当時の管理局はベルカ崩壊以前から存在するロストロギアまがいの物をそのまま運用していた。

 管理局の部隊も今のように流動的に配属先が変わることは少なく、一つの世界の一つの地域に十年単位で腰を据えて活動するのが当たり前。運用できる艦船が少ない海よりも陸の方が発言力が高かったと聞く。

 

 

 転送施設から出ると、いまどき珍しく石畳でできた道がわずかに右曲がりの弧を描きながら前方に続き、道の左右には緑の広場、その先には広大な共同墓地が広がっている。

 

 ここはメモリアルガーデン。エルセア地方の共同墓地にして観光名所。

 管理局の中枢たるミッドチルダに、複数の次元世界から集まる人々のため、様々な文化に配慮した巨大霊園が新たに必要として、半世紀前に次元世界規模のコンペによって設計された。

 クラナガン市民や、管理局の局員の墓の八割はここにあると言っても過言ではなく、ウィルの父――ヒュー・カルマンの墓もそこにある。

 

 霊園は埋葬様式を始めとしてさまざまな要因でわけられており、エリア間はレールウェイで移動する。

 花壇や池が要所に配置され、霊園をただ墓石が並ぶ無機質な墓地ではなく光と色彩あふれる庭園へと変えている。礼拝所ですらコンペで選出され、後に管理世界中に名を轟かせた有名設計者のデザインだ。

 

 ウィルにとっては何度も通った道なので、道を確認することもなく景観を楽しみながら散歩気分で歩く。入場口は人も多く騒がしいが、数分も歩けば喧騒は枝に止まる鳥の囀りよりも目立たなくなる。

 空を見上げれば、思わず飛びたくなるような透き通った青空。雲量は二。空の青と雲の白のコントラストがはっきりとしている。

 

 ヒューの墓がある区画が見えてくる。その区画は、殉職した局員たちのためのもの。

 管理局には殉職者に対して、全ての手続きと費用を管理局が負担して墓を建てている。ヒューの墓もその制度で建ててもらった物だ。非常に簡素で飾り気のない、墓として最低限のもの。

 

 ヒュー・カルマン、と名が刻まれた墓石の前に立つ。ウィルの一人目の、そして実の父親の名前の刻まれた墓だ。

 

 ウィルがまだ四才の時に亡くなったため、どんな人物なのか、本当のところはよく知らない。

 もちろん経歴くらいは知っている。新暦二十八年に生まれ、五十四年に亡くなった。享年二十六才。本局武装隊所属で魔導師ランクは空戦AAA。

 生まれはミッドチルダ以外の管理世界。十代前半の頃に自分の親戚――当時士官であったレジアスのもとを訪れ、彼に入学と奨学金の手続きをしてもらって訓練校に入った。卒業後は陸士部隊でめきめきと頭角を現し、数年後本局の武装隊から勧誘を受ける。

 この時、ヒューとレジアスは大喧嘩をした。あくまでも地に足をつけて、一つの世界を守るべきであると唱えるレジアスと、任務の危険が小さい地上に必要なのは突出した戦力ではなく数であり、自分のように高ランクの魔導師は力を存分に発揮できる場所――危険な戦場で戦うべきだというヒューの主張がまっこうから対立し、そのまま喧嘩別れとなった。

 その後結婚して子供が生まれてからも喧嘩は続いていたが、妻を病気で亡くしたことをきっかけにして、レジアスと和解した。当時次元航行艦船付の武装隊に配属されていたヒューは、船が長期哨戒に出るとウィルの面倒をみることができなくなるので、その間ゲイズ家で預かってもらうために頭を下げたそうだ。

 よくよく考えてみると本局にも子供を長期間預ける施設くらいあるので、単にレジアスと和解する方便にウィルを使ったのではないかとも思う。

 

 こんな経歴を知ったのは、ウィルが士官学校を卒業してからのことで、それまでレジアスは――いや、レジアスだけではなく、ウィルの周りの人々は、ヒューのことをまるで英雄か何かのように語ってくれた。幼いウィルが自分のそばにいない父親のことを恨まないようにと、周囲が気づかったからだろう。今では聞きなれたレジアスの海への不満話も、幼い頃は一度も聞いたことはなかった。

 その結果、ウィルの中で、父は天下無敵のヒーローとして確立されていった。憧れであり、尊敬であり、もはや崇拝にも近かった。帰ってくる日を指折り数え、急な任務で帰ってこれなくなれば事件をひきおこすような悪に対して本気で怒ったものだ。

 父のことが、本当に、誰よりも、大好きだった。

 

 

 そんなヒューの最後の任務が、ロストロギア『闇の書』

 闇の書は、十年から二十年ごとに世界に現れて、多くの犠牲者を生むロストロギアだ。十年前に現れた闇の書の捕獲、または破壊のために、管理局は複数隻からなる艦隊を派遣した。戦いの果てに、闇の書とその主を捕えることに成功。

 ヒューの配属されていたエスティアは増援として派遣されたので、到着した時には争いはほとんど終わっていた。しかし先遣部隊は随分と消耗していたため、ほぼ無傷だったエスティアが捕獲した闇の書を保管することとなり――研究施設に輸送する途中に、闇の書が動き出した。

 エスティアの制御を奪おうとした闇の書を止めるために、管理局は他の艦船による攻撃で、エスティアごと闇の書を消滅させた。

 

 闇の書事件にかかわることになった艦船には、魔導砲アルカンシェルが装備されていた。効果範囲百キロメートル以上。範囲内に存在するものを、この世から消滅させる兵器。

 もしもエスティアの制御が完全に奪われることになれば、アルカンシェルによって近隣世界全てに滅びをまき散らす災厄と化しただろう。だからそうなる前に、エスティアは他の艦船に搭載されたアルカンシェルによって闇の書ごと消えなければならなかった。

 闇の書が艦の制御を完全に掌握するまでの間に、エスティアの乗員のほとんどは無事に退艦できた。退艦できなかった――しなかったのは、たった二人。エスティアの艦長であり、クロノの父の、クライド・ハラオウン。そして、エスティア付武装隊の隊長にして、ウィルの父、ヒュー・カルマンの二人。

 クライドはエスティアの制御が奪われ、アルカンシェルのチャージが完了するまでの時間を演算するために残り、エスティアが消滅するまでずっと、残り時間を周囲の艦船に送信し続けていたそうだ。絶対に他の艦船や世界が犠牲にならないようにという、執念にも近い念の入れ方だ。

 

 では、ヒューは何のために残ったのだろう。

 当時のヒューの部下に会って、尋ねたことがある。その人はクライドを連れて来て一緒に退艦するつもりではなかったのかと言った。別の人は艦長と一緒に死ぬつもりだったのではないかと言った。

 おそらくそんなところなのだろう。もちろん本人がいないので、真意は謎のままだが。

それに、そんな推測はどうでもいい。父が死んだという事実こそが、最も大切で普遍的な真実なのだから。

 

 ウィルはひざまずき、祈りを捧げる姿勢で父を偲ぶ。願うわけでもなく、誓うわけでもなく、ただ確認するために。

 目を閉じて、心の中にある扉にそっと手をかける。扉には文字が刻まれている。

 

 

                

 

 

 

 次元航行艦船エスティアは犯されていた。平和を守るという誇りを汚されていた。

 艦内には血管――樹の静脈のようなものが脈動し、莫大な魔力によって物理的に、魔術的に、機械的に、エスティアを蹂躙している。

 

 脱出艇に続く通路の途中でヒューは煙草を吸う。トレンチコートに似た形状のバリアジャケットをその身に纏いながら。

 エスティア付武装隊の最後の任務は、乗員たちを脱出艇まで誘導することだった。その任務は無事に果たされ、武装隊員もすでに退艦を終えた。

 ヒューがここに残っているのは、友人を――クライドを待っているからだ。脱出するためには、必ずこの通路を通らなければならない。

 もっとも、クライドは退艦せずに最後まで残ると、ヒューは予想していた。彼がそういう気性だということは、友人として、そして部下として理解している。

 万が一予想が外れ、彼が退艦するようなら一緒にヒューも退艦しよう。残るのであればヒューも付き合う。クライドがこのことを知れば嫌がるだろうからこっそりと。

 

 煙草の煙が肺を満たす。古くから主流の紙巻き煙草(シガレット)

 喫煙者に対するスタンスは管理世界ごとにさまざまだが、ミッドチルダでは年々風当たりが厳しくなっている。ヒューも子供の頃は、喫煙なんて健康を害するだけで、何の得もないものだと考えていた。

 そんな彼が初めて煙草を覚えたのは、クラナガンの地上部隊に配属された時だ。その部隊には珍しく喫煙者が多く、しばしば喫煙室がいっぱいになることもあった。配属されたばかりのヒューはそんな先輩たちと少しでもコミュニケーションをとろうとした。よく知らない人と一緒に戦うのは訓練校を卒業したばかりの彼には怖かった。

 手っ取り早くコミュニケーションをとるための手段として選んだのが、煙草だった。吸い方もよく知らないまま、適当な銘柄のものを買って喫煙室に入る時はどきどきしたが、それをきっかけに先輩たちと打ち解けることができたと思う。

 煙草ほど便利なコミュニケーションツールはないと思う。煙草を吸いながらする会話には、適度な間がある。会話のネタがつきれば、一服して間を開ければ良い。そうやって時間をあけるとそのうちに話すことも浮かんでくる。

 また、社会的に肩見が狭いもの同士の妙な連帯感も生まれるため、喫煙者同士は距離が縮まりやすい。なるほど、この魔法全盛の時代に宗教がなくならないのも、きっと似たような理屈なのだろう。どれだけ時代が経ても、人は誰かと繋がらなくては生きていけない。

 

 それが、海――本局武装隊に来てからは、ほとんど吸わなくなった。

 原因の一つは、環境の変化だ。海の喫煙者への対応は地上よりずっと厳しい。海の拠点や艦船は密閉された空間なので空気を汚すものを嫌う。小型の次元航行艦船では煙を出すタイプの煙草は完全に禁止されている。

 だがやはり息子ができたから、というのが一番大きな理由だろう。自分が顔を近づけるたびに赤ん坊の顔が歪んでいやいやと首を横にふるのはなかなか胸に突き刺さるものがあった。

 

 だから煙草は本当に久しぶりだ。吸わなくなってからも、未練がましく一本だけ持っていた、お気に入りの銘柄。たった一本をゆっくりと楽しむ。

 静かに吸い、味を楽しんで、心の中にあるもやもやとした嫌なものと一緒に吐き出す。

 追い出すのは、死への恐怖と生への渇望――今すぐに脱出艇に乗って、逃げだしたいという欲望。

 だが、ヒューはもう決めた。クライドを一人で残しはしないと。友人を残して逃げはしないと。

 

 それはクライドのためではなく、自分の誇りのための選択だ。

 

 

 最期の一服を楽しむヒューの前に、通路の向こうから何かが現れる。黒い不定形な塊のようであり、植物のようでもあり、多くの動物や人間を混合したようでもある、形容しがたい化物。それ以上に表現する方法はないが、この状況で出てくるのだから闇の書に関係したものだと断定しても良いだろう。

 つまりは敵だ。運命は人生の最期をのんびりとすごさせてはくれないらしい。

 

 ヒューは短くなった煙草を足元に落として、踏みつけて火を消した。

 煙草の先の赤い火が消え、代わりに、展開されたデバイスの先に赤い魔力刃が形成された。

 

 

 

 耳をつんざく不快な音が、休むことなく通路に響き続けていた。踏み込む足が鳴らす轟音、うなる剣閃が風を切り裂く音、互いの剣がぶつかり合い打ち鳴らす音。

 音が発生し、壁で反射する。発生、反射、干渉、残響。幾百の音色が重なり合い、溶け合い、一つの連続した和音となって通路に響き続ける。

 

 ヒューの短杖型デバイスの先端からは、緋色の魔力刃。槍というよりは薙刀のように、デバイスを振るう。その一挙手一投足は、人の限界を悠々と超えていた。

 静から動へ、(ストップ)から最高速(トップギア)への急激な変化。微塵も溜めが存在しない動きは、挙動からの行動予測を不可能にしている。

 魔力変換資質:キネティックエネルギーによる、自身の肉体の強制動作。肉体駆動(ドライブ)と名付けた、ヒュー独自の戦闘技術。肉体への負荷が大きいため、常人であればすぐに行動できなくなるが、長年鍛え続けた彼の肉体は、負荷に難なく耐える筋肉の鎧を纏っている。

 

 腕の魔力を変換すれば、目にも止まらない閃光の如き剣閃を。

 脚部の魔力を変換すれば、幽霊のごとく忽然と消えたと錯覚する急激な移動を。

 常に相手との距離を支配しつつ最大の威力を叩き込めるヒューは、閉所での近接戦闘では無類の強さを誇る。ついた二つ名は、ゴースト・ヒュー。

 

 彼と戦う化物は、姿の不気味さに反して、さして恐ろしい相手ではなかった。見た目通りの化物で、力も魔力もある。だが、技がない。

 力まかせに棒を振りまわす猿や、プログラム通りに正確無比に動作する機械など、経験に裏打ちされた戦闘技術の前ではただの児戯。

 

 ヒューにはこの化物が何なのか知る由もないが、これは闇の書の暴走によって現れた防衛プログラムの一部だった。今回蒐集された生物全てがまじりあった、生命のるつぼ、混沌のスープ――――闇の書の闇の、ほんの一欠片にすぎないもの。

 それは明確な意志などもたないにもかかわらず、目の前の存在を倒すための手段を模索する。

 選択した手段は、蒐集して闇の書に取り込んだデータから、最も強い者へと変化するという、極めて単純なものだった。

 

 不定形な化物が、明確な形をとり始めた。まずはおおまかに、樹を寄せ集めて作ったまがいものの人間へと姿を変える。そして樹から本物の質感を持った人間へと、少しずつ変化させる。

 樹のような手が変わる。ヒューの剣をさばくほどの、精妙な動きをする五指へと。

 樹のような足が変わる。ヒューの動きについていくほどの、力に満ちた脚へと。

 樹のような目が変わる。ヒューの行動を全て見切るほどの、主神のごとき瞳へと。

 樹のような体が変わる。ヒューの攻撃を受け止めるほどの、騎士甲冑を纏う身体へと。

 一撃を交わすたびに、人の形へと変わり、化物の動きが精彩を増していく。

 そして最後に、ツタを寄せ集めて作られた棒が一振りの剣に変わる。光沢のない灰の柄に白く輝く刀身。その武骨ななりを唯一彩るのは柄から刀身にかけてのスミレ色の装飾。

 

 その瞬間、照明が一斉に消え、周囲が暗闇に包まれた。

 残った光源はヒューの魔力刃の光。

 そして――

 

 対敵の剣、その装飾が動き、薬莢が排出される。膨れ上がる魔力が刀身を纏い、魔力は炎へと変換され、もう一つの光源となる。

 灼熱の炎は周囲を包む闇のとばりを吹き飛ばし、剣を振るう者の姿を凄絶に浮かび上がらせた。

 死神――天宮へと戦士をいざなう戦乙女のごとく、戦と死の気配を纏った美女。その姿は、これから訪れる避けようもない死を、ヒューの脳裏に刻みこんだ。

 だからこそ、ヒューはさらに一歩、前方の死地へと歩を進める。

 もとより死ぬ気。ならば、こちらも出し惜しみのない全力を。

 全身の魔力を、可能な限り運動エネルギーに変換する。方向は前方。限界を超えた肉体駆動(オーバードライブ)が、体そのものを弾丸と化す。

 だが、全霊をかけた一撃よりも、横薙ぎに振るわれた刃が炎の軌跡を描く方がなお早かった。

 

 

 気がつくとヒューは壁に上半身をもたれかけていた。激突の衝撃で吹き飛び、そのまま壁に当たったようだ。

 もしや勝ったのかと思ったが腹部の激痛がそれを否定していた。流れ出る血が臓腑を直接愛撫しているようで、きもちわるい。

 傷を手で押さえようとするが、両手はともに動かない。両足も動かない。限界を越えた肉体駆動の反動で両手両足の感覚がなくなっている。動くのは胴と首から上だけだ。

 首を下げる。バリアジャケットが切り裂かれ、腹部に大きな創傷ができていた。傷の大きさのわりに流れる血の量が少ないのは、斬られたと同時に炎で傷が焼かれたからだろうか。それでも少しずつ流れる血が血だまりを作り始めている。

 

(これはもう助からないな)

 

 冷静に自分の未来を理解する。

 今度は首を上げ、目の前に立つ女性を見上げる。その姿は樹をよせ集めたような化物ではなく、ひとりの女性だった。

 身を包む甲冑は禍々しい装飾がほどこされ、己の力を周囲に誇示していた。力に溺れた製作者の姿が透けて見えるようだ。だが甲冑を纏うその人は、意匠の醜悪な印象を打ち払うほどに美しい。

 

 彼女の胸をヒューのデバイスが貫いていた。良かったと安堵する。全霊を込めた文字通り命をかけた一撃。届かなければ立つ瀬がない。

 しかし彼女はそれをいとも簡単に引きぬく。傷口からは勢いよく血が噴き出すが、次第にその勢いは小さくなっていく。

 傷が治っているのか。だがこんな時間を巻き戻したかのように傷を治すなど、どんな治療魔法でも適わない。

 

 視線に気づいた彼女がとった行動はとどめをさすことではなく、引き抜いたデバイスを持ち主へと返し、そして名を尋ねることだった。戦った相手の名を知ることは自分のせいで死ぬ者のことを、自分だけは覚えておこうとすること。彼女がまさに騎士だということの証明。

 ヒューは自身の名を告げ、今度は自分からも名を尋ねる。それが騎士である彼女に対する礼儀だから。だが、ただ単純に、純粋に、全力を出してなお勝てなかった相手の名を知りたいと思ったからでもあった。

 

「ヴォルケンリッターの将……剣の騎士シグナムだ」

 

 その名乗りに驚愕する。ヴォルケンリッターとは、闇の書を守護する四人の騎士の名。

 だが、彼女は闇の書が暴れる艦の中に現れた存在。理由はわからないが、少なくとも他のどんな答えよりも信憑性はある。

 

 シグナムは問いを発する。ここはどこで、何が起きているのかと。彼女は現状をまったく把握していなかった。

 ヒューは正直に答える。どうせ、もうすぐこの船は消滅する。教えたところで何も変わらない。そして話し終えたヒューは、自分からシグナムに一つ頼みごとをする。

 

「話した代わりってわけじゃないけど、一つお願いがあるんだ。俺の右胸のポケットに端末が入ってるから、それを取り出してくれないか」

 

 少々怪しげな提案を、シグナムはためらわずに頼みを聞いてくれた。死にいくものへの慈悲だろうか。

 今回の作戦前、ヴォルケンリッターは人間ではなく、彼らには血も涙もないと聞かされていたが、どうやらそれは大きな間違いだったようだ。

 

 シグナムは頼み通りに端末を取り出す。続けて画面に触れて床に置くように指示。シグナムが触れると、端末が起動する。持ち主であるヒューが起動させていないので、それ以上の操作は受け付けず、待機状態の画面のままだ。

 その画面にはヒューと、彼が腕に抱きかかえられた子供が写っていた。

 

「これは?」

「俺の息子だよ。かわいい奴でね……死ぬ前に、もう一度顔が見たくなったんだ」

 

 ヒューの顔がほころぶ。しかし、シグナムの顔は対照的に険しくなった。

 

「守るべき者がいるのであれば、私と戦うべきではなかった。守りたい者は、傍にいなければ守れない」

「俺は守るために行動したんだよ。身体じゃなくて、心――誇りだ。友達を置いて逃げたなんて知ったらきっと失望される。情けないやつの息子だなんて思わせたくない。自分の生まれを恥じてほしくない。俺の命でウィルが自分に誇りを持てるのならそれで良い。心に信じるべき柱があれば、俺がいなくても立派に育ってくれるさ」

 

 シグナムは何も言い返さずに立ち上がった。

 

「私はもう行かねばならないが、介錯は必要だろうか」

「いらないよ。あまりにも痛くて、もう麻痺してきた。こうなったら、後数分、物思いにふけりながら人生の最後を楽しませてもらうよ。きみみたいな美女に看取られて死ぬのなら、なかなか良い死に方だと思うんだけど――」

「すまない……死に逝く戦士の願いは聞いてやりたいが、それはできない。私はヴォルケンリッターだ。闇の書に何がおこっているのかを知らなければならない。こんな状態は、我らにとっても異常だ」

「だろうな」

 

 シグナムはヒューに背を向ける。そして、歩み始めるが、数歩で止まる。

 表情に少しのためらいと恥じらいを混ぜ込み、かすかに赤めた顔で、シグナムは振り返った。

 

「闇の書の保管場所を教えてくれないだろうか。どこにいけば良いのか、皆目……」

「……意外とドジっ子なんだな」

 

 保管場所についても素直に教えた。倉庫はブリッジとは正反対。このままやみくもに歩き回られて、ブリッジのクライドの元に辿り着かれては困る。もしも彼女が保管されている闇の書の元にたどり着き、この異常を止めてくれれば万々歳だ。

 

 場所を聞いて去る彼女の後ろ姿を見て、笑いがこぼれる。見れば見るほど、話せば話すほど、彼女は人間のようだった。とてもヴォルケンリッター――闇の書を守護する役目を与えられただけの『プログラム体』とは思えないほどに。

 人間とプログラムの違いは、どこにあるのだろう――そんな疑問を抱いたが、その哲学的命題に答えを出すには残りの人生は短すぎるため、疑問はさっさと心の虚数空間に捨てた。

 

 視線を動かし、床に置かれた端末――その画面に写る画像をもう一度見ようとする。無邪気に笑うその幼い顔。親としてはたいしたことのできなかった自分を、無邪気に慕ってくれた息子の姿を。

 自分がいなくともきっと立派に育ってくれるだろう。レジアスは見た目通りに厳格すぎるところがあるが、悪を許さぬ正義の心を持っている。彼のもとでなら正しく育ってくれるはずだと信じられる。

 だからこそ、レジアスの教育を受けて成長したウィルが恥じずに名前を言えるような父親でありたい。たとえ自分が死ぬことで悲しませることになったとしても。クソのような親の元に生まれた自分のようにはならずにすむように。

 ヒューの行動はウィルのことを思うがゆえなのだろうか。それとも、自分が持てなかったものを子供に持たせようとする親のエゴなのだろうか。

 

「ごめんな。帰ってやれなくて」

 

 体の下には、血だまりができている。血を流しすぎたのか、妙に寒い。急激に力がぬけ、すべるように崩れ落ちる。血だまりの血がぱしゃりとはねる。

 もう一度息子を見ようとして、最後の力を振り絞って身をよじり、画面に顔を近づけるが、端末の画面は飛び散った血で隠れていた。

 

 残念だ。息子を放って死ぬ、勝手な父親に対する罰だろうか。いや、本当に罰なら、一目たりとて見ることはできなかったはずだ。一目でも見ることができたのだから、もうこれ以上は欲張るなということなのだろう。

 もう十分だ、これ以上は何もいらない。そう思いながらもさらに心にうかぶ一つの欲。

 

 ――できればもう一度、息子を抱きしめたかった。

 

「死にたくないなぁ」

 

 自分の口から出た言葉と、その欲深さに苦笑して、ヒューは目を閉じた。

 寒さはもう、感じなかった。

 

 

 

 

 ウィルは目を開けた。外界は閉じる前と何も変わらない。変わったのは内界。

 亡き父を思い出すことで、普段は扉の先に抑えている我が身に宿る炎を露わにする。

 身体の底から熱が湧きあがってくる。根から吸った水が葉脈にいきわたるように、熱は血流と共に体の末端にいたるまで、余すことなく遍く伝わる。

 この熱が怒りか、悲しみか、それとももっと別の何かなのか――ウィルにはわからない。

 メーターの限界を超えた速度をただ速いとしか表現できないように、度を越したこの感情はただの熱としか認識できない。

 

 熱は拡散せずに、明確な指向性を持って、訴えかける。

 グツグツと、煮え滾る、五臓六腑が叫んでいる。

 

 ――俺は十年前から、何も変わっていない

 

 それが確認できて満足する。プレシアが言った、「どんな思いも時間がたてばやがて薄れる」という言葉が、ウィルに不安を与えていた。もしかしたらウィルの感情も知らないうちに薄まっているのではないかと。

 だが確信が持てた。ヒューの死を理解した時に感じたこの激情は、十年たっても微塵も薄れてはいない。きっと、次の十年も大丈夫だ。次の次の十年も大丈夫だ。復讐を遂げるまで、ずっと大丈夫だ。

 何度でも何度でも何度でも、俺が死ぬか闇の書が滅びるまでずっと――

 

 心を落ち着かせるために、立ちあがって深呼吸をする。大きく背筋を伸ばし、わざとあくびをする。数秒もすると熱は再び腹の底に、扉の向こうへと消えていった。

 

 

 目的を終えたウィルは、墓石から離れようとして、もう一つやるべきことを思いだす。

 踵を返して、墓石の前にまたひざまずき、再び目を閉じて祈る姿勢をとる。今度は確認ではなく謝罪のためだ。

 

 ヒューは、きっとウィルが復讐することを望んでいない。息子が復讐に一生をかけようとするのを喜ぶ父親ではないと思う。

 だから復讐はウィルのエゴだ。父のためでなく、世界のためでもなく、ただ己がやりたいからやる。とんだ親不幸だ。

 同じような境遇のクロノは父の後を継ぐために管理局に入った。父の守った平和を自分もまた守り継いでいくために。それに比べてなんとあさましいことか。

 

 だがこうするしかない。こうする以外に考えられない。それ以外にこの思いを――()()を充足させる方法があるのであれば、誰でもいい、どうか教えてほしい。

 

「親不幸でごめんね。もしも嫌だったら……生き返って止めてみてくれ……なんてね」

 

 おどけるようにそう言ってから、立ちあがって墓石に背を向けた。

 冗談まじりのその願いはもちろん叶うことはなく、一陣の風が言の葉を、どこか遠くへと連れていった。



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ブルーローズ

 極彩色に彩られた次元空間に浮かぶ要塞。

 それは三十余の管理世界、二百を超える管理外世界に目を光らせ、災厄の種を摘むべく日夜活動を続けている時空管理局の本局。

 すなわち艦船や転送装置によって次元世界を行き来し流動的に事案に対処する、海と呼ばれる部署の中枢だ。

 

 クロノ・ハラオウンはその本局内の執務室に篭り、今日も今日とて黙々とデスクワークに励んでいる。

 本局に帰還してから一月の間、まともに休日もとれず仕事に励んだ甲斐あって、ようやく今回の事件――首謀者であるプレシア・テスタロッサの頭文字をとって、PT事件と呼称される――の事後処理は終わろうとしている。

 

 フェイトの裁判は佳境を迎えている。このまま進めば、判決後にクラナガンの海上隔離施設に入れられ、短期更生プログラムを受けることになる。

 一般常識には疎いが、根は善良な子だ。プログラムの過程で問題を起こさなければ、途中から嘱託魔導師として管理局で働かせることでプログラムとその後の監察期間を大幅に縮小する方法もとれる。

 嘱託魔導師とは人手不足を解消するために管理局が設けた制度の一つ。平たく言えばアルバイト局員の一種だが、必要とあれば武装隊と同等の任務に動員されることもあり、事前対策もなしに通るほど試験は甘くない。フェイトは魔法知識や戦闘系技能は優れている反面、教養知識に疎いので、隔離施設でも試験勉強を続けることになるだろう。

 

 一方、プレシアは病人ということもあり、拘置所ではなく管理局御用達の病院に入院している。裁判が進めば非常に重い刑が科せられるのは確実だが、病魔に犯された彼女の余命は決して長くない。

 管理外世界で繰り広げられた事件、ジュエルシードというロストロギアの存在、プロジェクトFという未知の技術、余命いくばくもない被告人。様々な事情が絡み合った結果、プレシアの裁判はまだ始まってもおらず、いざ始まっても通常の刑事事件に比べて非常に長くなることは目に見えている。おそらくプレシアは裁判が終わる前に亡くなるだろう。

 

 そして本局はプレシア自身には大して関心を払っていない。

 

 クロノは自らのディスプレイに、時の庭園の調査結果の中でも、この事件で最も重要となる案件を表示させる。

 

『プロジェクトF』

 

 クロノは執務官になるために法曹に必要な知識や魔法の修練に多くの時間を費やしてきたため、科学に関しては人並み程度の知識しかない。その点エイミィは普段の軽薄さとは裏腹に、様々な分野にわたる幅広い知識を有しており、クロノを補佐している。

 そんなクロノでも、記憶移植というものが世界を変え得る技術だということはわかる。

 

 まず、移植のために記憶をデータとして扱えるという点が恐ろしい。

 クロノには『思考捜査』という稀少技能(レアスキル)を持つ友人がいる。他人の記憶を覗くという凄まじい能力で、類似した技能を持つ人物は管理局でも非常に少ない。

 この能力は、記憶の内容については技能を持つ魔導師の証言に頼ることになるので、客観性に欠けるとして法廷では重視されていない。したがって覗いた記憶の内容を元に物証を探す必要がある。

 しかしプロジェクトFが実用化されれば、同じことが可能になる。それも機械という絶対的客観をもち、それ自体が物証となる。

 また、プレシアはアリシアの死体から記憶を取り出しフェイトに移植した。死体から情報を得ることができるようになれば犯罪捜査は非常に楽になる。また医療面では、脳が物理的に傷ついたことによる記憶の損壊を治療することも可能となるかもしれない。

 

 学習形態も大きく変わるだろう。

 いちいち本を読まずとも、記憶と一緒に知識を移植すれば良い。あたかもコンピュータにデータをインストールするように。

 そんな時代が訪れれば、知識の量は能力の優劣を判定する基準にならず、もっと根源的な思考能力が優秀さを競う大きな要因になる。もっともウェブの発達が多くの情報へのアクセスを容易にした現代の時点で、その傾向は現れているのだが。

 

 もちろん良いことばかりではなく、実用化の前に安全性という大きな問題が立ちはだかっている。

 フェイトがアリシアにならなかったと言っても、アリシアの記憶はフェイトに大きな影響を与えているはず。しかし成功例がフェイト一つしかない現状、移植先にどれだけの影響があるのかは未知数だ。それにフェイトのように生みだされる段階で記憶を移植する場合と、成人に移植する場合では結果も大きく異なる。

 危険性を調べるためには、多くの、それこそ万単位の実験を重ねなければならないが、このご時世に人体実験を認めるわけにはいかない。

 実用化されれば人類は確実に発展するが、実用化にもっていくことは不可能な、時代の徒花。

 その処遇を巡って、本局上層部は秘密裏に各分野の有識者を招いて、今日も喧々諤々の議論をおこなっている。

 

 

 クロノはエイミィを見る。執務官補佐である彼女は、同じ部屋でディスプレイに向かいながらコンソールを叩き続けている

 

「プロジェクトFについて、何かわかったか?」

 

 エイミィはディスプレイの方を向いたまま、視線だけをクロノにやって答える。

 

「プロジェクトFの大本になった論文って、ちょっぴりアングラな研究の世界だと結構有名だったみたい。一人の天才の残した遺産――もしくは課題って感じでね。ただ、理解できる人が全然いなかったから、実際にそれをもとに何かを作り出した人は今までいなかったんだけど」

「執筆者の名前は?」

「ジェイル・スカリエッティ」

「広域指名手配犯の一覧で名前を見た覚えがあるな」

「彼の経歴、すごいよ。読む?」

 

 エイミィはクロノの前にスカリエッティの経歴が記されたホロディスプレイを投影する。

 

 彼の人物が表舞台に現れたのは十五年前のこと。

 生物学において、次元世界で最も権威のある学術雑誌に、ジェイル・スカリエッティという人物から一編の論文が送られてきた。その内容はとある未解決問題を解決するためのブレイクスルーになり得るものだった。

 厳密な査読の末に、その論文の掲載が決定された。だが、その論文が掲載されたのとほぼ時を同じくして、生物学のみに留まらず、魔導工学、通信工学、魔素物性論など、様々な分野の学術雑誌にジェイル・スカリエッティの論文が掲載され始めた。

 おそらくジェイル・スカリエッティとは、表に出ることができない複数の違法科学者たちが作りだした、架空の名義なのではないかという予想すらあった。

 

 それからまもなくして、ジェイル・スカリエッティを名乗る年若い青年がとある学会に姿を現したが、誰もが彼を本物とは考えず、せいぜいジェイル・スカリエッティの代理人なのだろうと考えた。

 しかし青年はどのような問いにも非常に的を射た答えを返し、学会の場で得たコネクションを利用し、多くのプロジェクトにも参加し始める。共に仕事をしていてもまったくぼろを出さないどころか、一人で十分だと言わんばかりの優秀さを間近で見せつけられれば、嫌でも認めざるをえない――彼こそが、ジェイル・スカリエッティ、稀代の天才なのだと。

 

 彼を信奉する者、嫉妬する者、負けじとより一層研究に打ち込む者、反応は様々だったが、その存在は多くの研究者に影響を与えた。

 彼の数多くの業績の中で最も価値があったのは、業績の数そのものだと言われている。

 科学は無限の広がりを持つ。一つの問題が解決したからといって、そこで終わることはない。科学において問題を解決するということは、新たな土壌を切り開く行為に等しい。真理は数多の問題を生み、問題を解決するために仮説が生みだされる。仮説はやがて証明され、真理へと変わる。一つの論文が、何百もの論文を生みだし、後に続く数多の開拓者を受け入れる土壌となる。

 彼によって開かれた全く新しい土壌は、何人たりとも足を踏み入れたことのない広大な処女地。それは多くの野心家な科学者――特に若い者たちに好まれた。誰も踏み入れたことのない地を自分が開墾することに知的な興奮を覚える者もいれば、それを手段にして歴史に名を残そうと考えた者もいた。

 若手の活躍は全体の活性化につながる。彼の最大の功績は、多くの分野をたった一人で活気づけたことだった。

 

「超人だな。こんな人ならもっと有名でもおかしくはなさそうだが」

「科学者がニュースで取り上げられるのは、何か賞を取った時くらいだからねー。いろんな賞の話は来ていたみたいだけど、彼が犯罪者になった時に業界全体が自粛したらしいよ。現在出版されている書籍のほとんどから、彼の名前が消されてる。そもそも表に出てた時期もほんの三年足らずと短いし。でも、犯罪者にさえならなかったら、今頃みんな知っているくらいには有名になっていたかもしれないね?」

 

 クロノは知らずの内に顔をしかめていた。

 それほどの人物であれば、いまだ何一つ解決の糸口が見つからず、数百年に渡り被害を出し続けてきた闇の書に対しても、何か光明を見つけ出すことができるのかもしれない。

 しかし犯罪者を危険なロストロギアに関わらせるわけにはいかない。輝かしい才覚を持つ者が、素晴らしい人間性を持っているとは限らない。仕方がないとわかっていても、その不条理が残念でならない。

 もしも彼がプレシアのようにやむにやまれぬ事情によって犯罪者となってしまった人物であれば、また違うのだろうが。

 

「いったい、どんな人物なんだろうな」

 

 クロノはまだ見ぬ犯罪者の人物像に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 来客を告げる音が病室に響きわたり、プレシアは最新の論文雑誌を投影していたホロディスプレイを消した。

 今日はフェイトが面会に訪ねて来る日だ。しかしその時間にはまだ余裕があった。予定の時間までまだ余裕があるが、早くに到着してしまったのだろうか――そう思って扉に視線をやる。

 

 病室に入って来たのはフェイトではなく、青い薔薇の花束を抱えた男だった。

 年は二十前後か。紫の髪を肩まで伸ばし、線のやわらかい吊り目――いわゆる狐目をした男。スーツを着崩したその姿は、一見すればただの優男。

 しかし顔を見れば、見た目よりもずっと子供っぽい笑顔をうかべている。全体を見れば、見た目よりずっと老成した雰囲気を纏っている。男は相反する要素を兼ね備え、その両極を爛々と輝く金色の双眸に内包していた。

 

「やあ、久しぶりだね。プレシア・テスタロッサ」

「この病院は管理局御用達よ。よくもここまで入って来られたわね、ジェイル・スカリエッティ」

 

 驚きはある。なぜ彼がここにという疑問もある。だがプレシアはそれを表には出さずに強がって言い返す。

 対して、彼はおどけたように両手を肩の高さまで上げて、驚いたというジェスチャーをとった。

 

「嬉しいよ。私のことを覚えていてくれたんだね」

「あの時代に活動していた科学者で、あなたのことを知らない人がどれだけいて?」

「最近はあまり知られていないがね。これも良識ある学会のお歴々と管理局の地道な活動のたまものだ。そうそう、警備のことは気にしなくていいよ。娘の一人が監視機器をごまかしているから」

「子供がいたの? ……いえ、そもそもあなたはジェイル・スカリエッティ本人? その姿、十年以上前に会った時より若く見えるのだけど」

 

 ジェイル・スカリエッティの容姿は十五年前で二十台後半。本人であれば四十台のはずだ。

 だというのに、目の前にいるスカリエッティを名乗る人物の顔は若々しかった。十五年前同様、もしかするとそれ以上に。もっとも彼はアンチエイジングに関しても多大な業績を残している。老化を抑制することなど、彼には造作もないのかもしれない。

 

「最初の質問については――きみにとっての子供の定義が、生殖によって生産される自身の遺伝子を継ぐ存在に限定されているならばN()O()だ。そしてもう一方、私の同一性についてはY()E()S()だ。私はまぎれもなくジェイル・スカリエッティだ。その理由はじきにわかるよ。だが容姿のことを言うなら、きみも以前とさほど変わっていないようだ。相変わらず綺麗だよ」

「お世辞はいいわ。私に何の用?」

 

 彼は手に持った花束を近くの机に置くと、来客用の椅子に座り、あらためてプレシアに向きなおった。

 プレシアは横目に薔薇の花束を見る。綺麗な青色。市販されている一般的な品種よりもさらに純粋な――引き込まれそうな――青だ。

 若いころは、気品と誇りを感じさせる紫の薔薇が好きだった。だが、アリシアを失った時にすべて捨てた。気品や誇りなんていらない。そんなものはアリシアの復活のためには邪魔になるだけ。

 その代わりに青い薔薇を置くようになった。それは自然に存在しない、人為的に作り出された花――だから良い。人間の科学が不可能を可能にしたという事実そのもの。科学への祝福を表す花だ。

 

「アルハザードを目指そうなんて、思い切ったことを考えたものだね」

 

 花に思いを馳せていたところ、スカリエッティの声で引き戻された。

 

「耳が早いわね。もう報道されているの?」

「いいや、まだだよ。ただ、きみの起こした事件に私の友人が関わっていてね。ウィリアム・カルマン――と言ってもわからないかな? きみと戦った赤い髪の局員だよ。行方不明になった彼の様子を調べていたら、偶然事件のことを知ったのさ」

「ああ……あの変わった子とあなたが。愛と憎しみはそれぞれ独立パラメータだ――なんてませたことを言っていたけど、もしかしてあなたの影響?」

 

 スカリエッティは嬉しそうに笑う。

 

「七年前かな、迷っている彼にそんなことを教えたよ。愛と憎しみ、好意と嫌悪、全ての感情は同一平面上に存在しない。それぞれの感情自体は、異なる次元に属するパラメータ――つまり数学的に独立しているものさ。きみという人格は、そんな複数のパラメータで形成された非常にあやふやなものだ。だから愛や憎悪という一つのパラメータだけを見て悩むことはない。迷った時はただ心から湧き上がる衝動――欲望に任せれば良い。それこそが、きみ自身の望みだから、とね」

「……子供に教えることじゃないわね」

 

 目の前の男は子供に何を教えているのだろうと、プレシアは呆れを通り越して完全に引いていた。こんな男の影響を受けたのであれば、あの局員も多少変わっていて当然だ。

 そんなプレシアに対して、スカリエッティは呆れたように首を振った。

 

「嘘やおためごかしを告げるよりはずっと良い。子供は大人が思う以上に賢いから、適当なことを言っては信用を失うよ? 多少難しくとも真実を教えるべきだ。そうすればその時は理解できなかったとしても、彼のように覚えていてくれることもあるからね。成長してから私の言葉を理解して、彼自身が自分で思考して間違いだと判断したのならそれはそれで良い。私の考えは彼にとっての真理足りえなかったと言うことさ。だが、科学者であり、プロジェクトFを理解したきみになら、先ほどの言葉が真理だということはわかるはずだ」

 

 スカリエッティの言葉は、プロジェクトFの根幹を成す考え方の一つ。

 音が様々な周波数の波が重なった結果生まれる複合波であり、それを構成する複数の正弦波へと分解できるように。全ての感情や記憶は分解可能なそれぞれ独立したパラメータでなければ、コピーなどできない。

 しぶしぶ納得したプレシアの顔を見て、スカリエッティは続ける。

 

「そう、プロジェクトF――FATEを完成させたみたいだね。そのことでお礼を言いに来た。きみがやってくれて助かったよ。昔から反復作業が嫌いなんだ。結果がわかりきったことをやるのはどうにも面倒だった」

「完成と言えるのかしらね。あれで生みだしたフェイトはアリシアにはなれなかった」

 

 その言葉に、スカリエッティは大きくため息をつく。

 

「やはりそうか。もしかしたらと思っていたが、あれを理解できるほどの頭脳を持ちながら、きみは初歩的な間違いを犯していたようだ」

「間違い……やっぱり私は間違っていたの?」

「単なる記憶の移植で、人間を再現できるはずがないじゃないか。ある船とまったく同じ船を造るために、同じ資材を用意した――プロジェクトFは所詮そこまでだ。資材だけを見ても、当然船には見えない。同じ船を造りたいのであれば、そこからさらに一歩踏み込んで、建造する必要がある。人間で言うなら、モノとモノをつなげるネットワークのコピーが必要だ。プロジェクトFだけで人間の再現をおこなおうなんて、最初から無理な話さ」

 

 その言葉が学術的に正しいのかはわからないが、スカリエッティの言葉には信じてしまうような正しさがあった。

 平衡感覚を失いかけ、思わず手をついて体を支える。フェイトとアリシアは違うと、すでに自分の中で結論を出していなければショックで倒れていたかもしれない。結論が出ている今でさえ、これだけの衝撃を受けているのだから。

 はっはっ、と息が漏れる。呼吸がおかしくなったのか。それとも、嗤っているのか。

 スカリエッティは、そんなプレシアをいたまし気に見やる。心の底から同情しているような目。実力があるのに、ケアレスミスで試験に落ちてしまった生徒を見るような目だ。

 

「きみの聡明さなら考えればわかったはずだ。それができなかったのは、相当焦っていたからか、それともわざと気付かないふりをしていたのか」

 

 スカリエッティの問いかけに、プレシアは追い打ちをかけられているように感じる。

 落ち着いてくると目の前の男が憎たらしくなる。本当に、何をしにきたのだ。

 

「あのね……あなたは私を落ちこませるために来たのかしら? それとも怒らせるため? 魔法が使えなくても、あなたをひっぱたくことくらいはできるわよ」

「すまない、そんな意図はなかったんだが」

 

 スカリエッティは心の底からの謝罪をする。が、直後にはまた笑みを浮かべて話を続ける。

 

「プレゼントはもう一つあるんだ。きみは病に犯されているらしいね。ここに来るまでにカルテを盗み見させてもらったが、よくもこれだけ長い間放置していたものだ。ここまで腫瘍が転移しているようでは、多少の延命程度ならともかく完全な治療は私にも不可能だ。このままでは良くて半年といったところだろう」

 

 スカリエッティの言うことは、プレシア自身も重々承知している。今さら彼に言われることではない。治療などもはや不可能――いや、彼は()()()()()は不可能と言った。そして()()()()()()とも。

 プレシアはスカリエッティの意図を推測する――おそらくプレゼントとは延命のことだ。

 だが、プレゼントと言ってはいるが、ただでそんなことをしてくれるとは思えない。彼が要求する対価はなんなのか。

 ――なんだってかまわない。どうせ、このまま朽ちていくよりは良い。

 

「延命処置をしてくれるというのなら、喜んで受けるわ。私はまだアリシアの復活を諦めてはいないから」

 

 スカリエッティは首をかしげる。深読みしすぎたかと、後悔と恥ずかしさがないまぜになったプレシアに、彼は問いかけた。

 

「そんな程度で満足なのかい?」

 

 スカリエッティは椅子から立ち上がると、病室を歩きながら話し始める。生徒に講義する教授を思わせる仕草だ。

 

「今から数百年前、数多くの王国が乱立し、覇を争っていた時代があった。国家の主たる王は、その存在自体が強大な兵器を兼ねていた。王の前ではどれだけ強くともただの魔導師など有象無象にすぎず、現代では考えられないことだが王の強さこそが国家としての強さを表していたのさ。だがそれは逆に、王の死が国家の崩壊を意味していた。それを防ぐために当時の科学者たちは、常に保険をかけていた」

「いきなりどうしたの?」

 

 プレシアの疑問を無視して、スカリエッティは続ける。

 

「彼らは、王が死んだ時に保存していた細胞から王のクローンを生み出す――そんな技術、ロストロギアを造りだしたのさ。生みだされたクローンは、魔法の才能(リンカーコア)稀少技能(レアスキル)といった魔法的素養はもちろんのこと、記憶や精神をも受け継いだ、故人と完全に同一の存在だ。プロジェクトFは、その装置の記憶継承方法を説明したものでね。装置は王のためのものだけあってほとんどがブラックボックスで、いまだに記憶の継承部分しか解析できていないのだけどね」

 

 簡単に言うが、隔絶した技術で造られたものを解析することがどれだけ困難なことか。

 だが、スカリエッティが何を言いたいのかわからず、プレシアは戸惑う。

 

「それがいったいなんだというの? その技術があればアリシアを蘇らせることができると、紹介してくれているのかしら?」

「現段階では不可能だ。その装置では、死体からでは十分な情報が得られないからね。ただ、プロジェクトFは死体からでも十分な情報を取得できるように改良してあっただろう? いずれ完全に解析できた時には、死者の復活くらいはできるようになるだろうね」

 

 そこでプレシアは気付いた。彼は()()したと言った。つまり、そのロストロギアを所有、もしくは解析させてもらえるほど所有者に近しい立場にある。

 そして、使用することもできる。彼の年齢にしては若すぎる容姿は単なる老化抑制ではなく、その装置によるものではないのか。つまり今の彼は十年前と同じ体ではなく、今の話はアリシアのためではなく――

 

「私はきみに健全で新しい肉体をプレゼントしよう。きみはもう一度――いや、望むのであれば何度でも、意志が折れぬ限り永遠にアリシア・テスタロッサを蘇らせるための研究を続けることができる。私の代わりにきみがその装置の解析と改良を進めてくれても良い。再びアルハザードを目指すのも一興だろう。疲れたなら少し休んでも構わない。誰か他の者が死者蘇生の技術を発見するまで待つのも一つの手だ。時間は無限にある。何をしようときみの自由だ。装置が正常に機能することは保障しよう。ほかならぬ私自身で証明済みだから、何の心配もいらない。後はただ一つ――すべてはきみの自由意志」

 

 聖者のように微笑みながら、スカリエッティは救いを差し伸べる。地獄へと蜘蛛の糸を垂らすように。そして誘う。リンゴを勧める蛇のように。

 考えるまでもなく、プレシアの答えは決まっていた。

 

「いやよ」

 

 スカリエッティの顔に、初めて笑み以外がうかぶ。その唖然とした表情に小気味のいいものを感じる。

 ――なんだ、笑ってばかりいたが、ちゃんとそれ以外の顔もできるんじゃないか。

 

「ノータイムで答えられるとは思わなかった。理由を聞いても?」

「たしかに新しく生み出された私は、フェイトとは違って記憶だけじゃなくて精神もコピーしているのかもしれない。他人から見れば私と全然変わらないように見えるのかもしれない。でも、今ここに生きている私には、どうしてもそれが私と同一の存在だとは思えない。フェイトという失敗を経験したからでしょうね。結局新しい命を作り出して受け継がせるという方法では、よく似た別人を生みだしているようにしか思えないのよ。そして――」

 

 プレシアはスカリエッティをしっかりと見返して言った。

 

「私はどうしてもアリシアを蘇らせたい。でも、アリシア自身が蘇らせてほしいと、私に罪を犯してでも蘇らせてほしいと思っているわけじゃない。だからアリシアの復活は私のエゴよ。このエゴは――アリシアへの思いも記憶も、私一人だけのもの。ほかの誰にも譲ってなんかあげないわ」

 

 断言。スカリエッティはゆっくりと首を横に振る。

 

「こんな私にも親はいるんだが……きみは彼らと同じことを言うんだね。肉体にこだわって脳だけで生き永らえずとも、同じ肉体と同じ精神をもっているなら、それらは同じ存在じゃないか。魂など存在しないのだから」

 

 見上げるプレシアの視線と、見下ろすスカリエッティの視線がぶつかった。

 

「あなたは歪んでいるわ」

「遅れているんだよ、きみたちが」

 

 スカリエッティは椅子に座りなおし、二人の視線は再び等しくなる。

 

「残念だよ。興味を持ってくれたなら、引き換えにきみに仲間になってもらいたかったんだが」

「仲間? それがあなたの求める対価なの?」

 

 思いもかけない、そして似つかわしくない言葉に思わずくすりと笑う。この男が群れている姿など想像がつかない。

 スカリエッティはテーブルにのせた青い薔薇の花を指でいじりながら、再び笑う。

 

「そうだよ。プロジェクトFを完成させる者がいるとすれば、それは集団だと思っていた。だが、その予想は外れた。きみはたった一人で私の研究に届いた。そんな人物は初めてだったんだ。もしかしたらと期待を抱いたよ。私と同じフィールドに立てるきみなら、私の理解者になってくれるかもしれないと」

「仲間になってあげても良いわよ」

 

 スカリエッティの表情が止まる。指の動きも止まる。口だけが短く動き、「望みは?」と音を発する。

 

「私を私のままで延命させることはできるの?」

「可能だが、死期を遅らせるだけだよ。長くて五年といったところだろう」

「それで良いわ。私を延命させる。それが一つ目の条件。二つ目は、私をここから逃してかくまうこと。命だけ延びてもどうしようもないわ。三つ目は、研究のためにあなたのラボを貸すこと。時の庭園の設備はもったいないけど、あなたのところならもっと良いものがそろっているでしょ? 四つ目は、アリシアの遺体を回収すること。最後に……片手間でも良いわ。あなた自身もアリシアの復活に力を貸しなさい。この条件を飲んでくれるなら、私もあなたに協力してもいいわよ」

 

 スカリエッティから、ふっふっ、と息が漏れる音がする。それは次第に大きくなり、ついには病室に響きわたる大音声になる。防音されているとはいえ、外に漏れるのではないかと心配になるくらいの大きな笑い声だった。

 彼は心の底からおかしそうに笑う。

 

「私が望みを言った途端、あっさりとそれを利用して望みを通そう、だなんて! きみはとてもしたたかで、そして()()だ!」

 

 ひとしきり笑った後、彼は何事もなかったかのように普通の笑顔に戻って、鷹揚にうなずいた。

 

「良いよ、今のは琴線に触れた。条件はすべて飲もう。きみを口説くためだ。そのくらいは貢がないとね。……あらかじめ言っておくが、私が手伝ったとしても、きみが生きている間にアリシア君を復活させることができる可能性は極めて低いよ。それでも良いんだね?」

「構わないわ。ここで終えるよりはましだから」

「それでは、いつ逃がそうか。望むなら今すぐでも可能だが」

 

 できる限り早い方が良い。だが、少し考えてからプレシアは首を横に振った。

 

「フェイトの裁判が終わってからにして。今逃げると、あの子の方にも影響するから」

「それはかまわないが、きみはフェイト君を虐待していたそうじゃないか。今さら気にかけるなんて、どういう心変わりだい?」

「そんなことまで知られているなんて、嫌になるわね。……まだ嫌いよ。でも、あの子は私に足りないものを与えてくれた」

「ふむ、興味はつきないが……どうやらもうすぐそのフェイト君が来る時間だね。今日はこのあたりで失礼するよ。主観的に見れば、なかなか充実した楽しい時間だった。たまには外にでるのも良いものだね」

 

 腰を上げ扉に向かう途中で、振り返ることなく背を向けたままで、思い出したかのように彼は言った。

 

「ああ、そうだ。この後のフェイト君との面会だが、引き続き監視機器を狂わせたままにしておくよ。何を話そうが当たり障りのない会話にしかならないようにこちらで調整しておこう。好きなことを話すと良い」

 

 彼は扉を開けて帰って行った。その言葉と、薔薇の花束だけを残して。

 

 

 

 

 

 フェイトは、面会時間ぴったりに部屋に入って来た。

 時の庭園の頃は地味な服を着ていた彼女も、今は流行りのかわいらしい服を着ている。服に無頓着なフェイトやアルフが自分で選んだとは考えられないので、管理局の者が世話を焼いているらしいとわかる。悪い扱いは受けていないと考えても良いだろう。

 彼女は、机の上に置かれたままの青い薔薇を見て、首をかしげる。

 

「誰か訪ねて来たんですか?」

「ちょっとした知り合いよ。……近い内に、ここを離れるわ」

 

 びくりとフェイトは震えるが、拳を握りしめながらも言葉を発した。

 

「ついていっても――」

「駄目よ。あなたは残りなさい」

「……わかりました」

 

 口ではそう言ったが、フェイトの瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれる。

 プレシアは手招きし、おずおずと近づくフェイトに手を伸ばして抱き寄せた。自分の胸に顔をうずめるフェイトの耳に、唇を近づける。

 

「そんな顔をしなくても、きっとまた会えるわよ。会えないなんて、私の方がまいってしまうわ」

 

 プレシアはフェイトの髪をなでる。あの時も、こうして抱きしめた。

 

 

 

 アースラが地球から本局へと帰還する時のこと。

 ベッドで上半身を起こしたプレシアとその横の椅子に腰かけたフェイト。二人の視線は重なっていない。その原因はプレシアにある。フェイトはプレシアを見ているが、プレシアはフェイトから視線をそらしていた。

 

「……いろいろ、聞きました。私のこととか……アリシアのこととか」

 

 無言を打ち破ったのはフェイトの言葉。

 

「知ったのなら何をしにきたの。もうわかったはずよ。私はあなたの母親ではないし、あなたは私の娘ではないわ」

 

 フェイトはうつむき震える。それをプレシアは、怒りによるものだと解釈した。自分を利用し、関係ないと切って捨てる自分に対する怒りだと。それは正当な感情だ。だから告げる。

 

「私に復讐するつもりなら止めておきなさい。たしかにあなたにはその資格があるわ。でも勝手に私を殺せば、執務官もあなたをかばいきれなくなる。私のことなんか放っておきなさい。あなたが何もしなくてもじきに死ぬわ」

 

 フェイトは音がするほど激しく、首を横に振った。ピンクのリボンで結ばれた金の髪が揺れる。

 

「復讐なんてする気はありません。私はただ伝えに来たんです。あなたがどう思おうが構わない。私は今でもあなたのことが大好きです。あなたが娘だと思ってくれなくても、私はあなたを母親だと思っています」

 

 不意打ちだった。だが半ば予想していた言葉でもあった。あれだけひどい目に合わせて、それでも自分についてきたフェイトならもしかしたら、と。

 時の庭園で意識を失う直前、誰かに――おそらくあの赤髪の局員に――抱きしめられた時、プレシアは自分に足りないものを認識した。そしてフェイトならそれを与えてくれるのではないか、と。

 

 思わずフェイトに手を伸ばす。だが、今さら――

 やっぱりやめようと手を引っ込めようとして、体がふらついた。

 バランスを崩したプレシアの体を、フェイトが抱きとめる。その手から、フェイトの暖かさが伝わる。あれだけ憎んでいた模造品で、こうしている今も嫌悪感があるのに。同時に心を包み込むような優しい暖かさもある。

 

「私は……まだ、あなたのことを娘だとは思えない」

「かまいません」

 

 フェイトは即答する。紅玉の色を持つ瞳には、一人の人間としての意思の輝きがあった。

 

「アリシアを蘇らせることも、諦めていない」

「だったら、私も手伝います。あなたの役に立てることが私の喜びだから」

 

 再度即答。フェイトは揺るがない。「馬鹿な子」とフェイトの愚かさを嘲笑う。これだけの目に合って、なおも変わらない愚かさ。おとなしそうなくせに、賢そうなくせに――わがままで、向こう見ずで、無鉄砲で、人の言うことを聞かない。

 やっぱり、フェイトはアリシアではない。全然似ていない。

 

「まったく、誰に似たのかしらね」

 

 あの日、プレシアは初めてフェイトを抱きしめた。

 

 

 

 あの時と同様にフェイトを抱きしめ、その熱を感じる。

 そしてもう一つの熱を感じる。自分の内側から湧き上がる、衝動のような熱さ。

 

 私以外の誰かが、私を見てくれている。支えようとしてくれる。味方でいてくれる。すべてを知った上で肯定してくれている。

 自分を愛してくれる人。そして、自分が愛せる人がいる。

 人の意志に永遠はない。時間の中で思いは変質する。抱きしめることのできない死者への思いをいつまでも持続させることなんてできない。

 人は一人では想いを維持できない。だから誰か活力を与えてくれる、生きた人間が必要だったのだ。

 

 ――私はついに、それを手に入れた。

 

 フェイトを完全に受け入れたわけではない。憎いという気持ちはまったく薄れていない。

 だが、あの局員が、そしてあの科学者が言った通り、愛情と憎悪は異なるパラメータだ。憎みながら愛することはできる。そしてアリシアが蘇った時、もしかするとこの憎しみも消えて愛情だけが残るかもしれない。

 

「アリシアを蘇らせることができたら、あの子と一緒にいてくれる? あの子の妹として……いえ、その頃にはもうあなたの方がお姉ちゃんか」

「もちろん。その時は、かあさんも一緒に三人で」

「そうね。一瞬でもそうなれたら、素敵よね」

 

 その幸福な未来を共有し、プレシアは、強く強く、大切なフェイトを抱きしめた。

 

 

 

 それからしばらくの後、プレシア・テスタロッサは病院から忽然と姿を消した。

 その事実は、本局のアルフや更生施設に入れられたフェイトにも伝えられた。

 アルフは怒り狂ったが、フェイトは「そうですか」とうなずいただけだった。

 その平然とした態度に、何か知っているのではないかと怪しむ者もいたが、具体的な証拠は何も出なかった。

 

 プレシアの失踪とほぼ同時刻、時の庭園に存在していたアリシアの遺体を保存していたポッドがなくなったため、管理局は彼女に共犯者がいると考えている。

 だが、どのようにして共犯者とコンタクトを取ったのかはわからず、依然としてプレシアの足取りはつかめていない。

 

 

 彼女はまだ生きている。

 いつか自分とアリシアとフェイトの三人が出会う、その一瞬を夢見ながら。




次回からA'sに入ります。
最初のうちは平穏に。


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闇夜 A's編
幼馴染


 (カルマ)って知ってるか?

 

 動作、行動、技術、何かをすることを表すこの概念は、呼び方は違っていてもずっと昔からいろんな世界で使われているんだ。

 いまだに世界間移動もできてない管理外世界にすらこの概念があるっていうんだから驚きだよな。俺はきっと遥か過去に存在していたアルハザードに源流があると考えているんだが――こら、笑うな。いいだろアルハザードを信じてたって。実際に今の技術でも再現できないオーパーツは山のようにあるんだ。俺たちベルカでも及ばないような文明が過去にあったこと自体は間違いなくて……悪い、話がそれた。

 

 とにかく、だ。行い、語り、思い、それが業だ。

 やったことは消えない。語ったことは消えない。思ったことは消えない。

 たとえ死んだとしても失われることはなく、業が重なって新たな運命となる。

 

 だから嘆くことも怖がることもないんだ。

 故郷を滅ぼされた俺たちがこうしてここに立っているように、ここで俺たちが死んだとしても、俺たちの願いもまた消えることはない。

 意志は受け継がれて、因と果は繋がって、新たな運命を紡ぎ続け、いつかは奴らを滅ぼすだろう。

 

 恐怖が消えたなら……さあ、あの魔導書と騎士たちを倒しに行こう。

 

 我らの旅路に曙光(モルゲンローテ)の祝福あらんことを。

 

 

 ――発掘された古代ベルカ式デバイス内の音声データ

 

 

 

 

 ミッドチルダ首都クラナガンの商業エリア、その低層建築区画にある喫茶店の個室で、ウィルは待ちぼうけをくらっていた。

 

 年度代わりの人事異動で、ウィルはクラナガンの首都防衛隊に配属されることになり、故郷たる第一世界ミッドチルダに戻ってきている。

 首都防衛隊は腕利きの魔導師が集められ、通常の陸士部隊では手に負えない重大犯罪への対応を任務とする部署だ。対人制圧を目的とした訓練が多く、強くなるためにはもってこいの環境は、以前から配属を希望していた部署である。

 

 最近のニュースに一通り目を通しながら、コーヒー系メニューを上から順番に注文していくという益体もない遊びを始めてから一時間あまり、ようやく扉が開いて待ち人来たる。

 入って来たのは、十代半ばの少女。豊かな栗色の髪を二つにわけ、肩元で結んでいる。大きな丸眼鏡に、最近流行の淡い色のオフショルダーのワンピース。クラナガンのファッション街を歩けばいくらでも見つかるくらいには、見た目はどこにでもいる少女だ。

 挨拶のつもりなのか手をひらひらとさせる彼女に、ウィルは憮然とした顔を作って応じた。

 

「遅れるなら遅れるで連絡くらい入れろよ。何回そっちの端末にかけてもつながらないし」

「ごめんなさいねぇ。前の端末は足がつきそうだったからもう捨てちゃったの。後で今使ってるのを送るわね」

 

 言葉は届いたはずだが、彼女の顔は申し訳ないという気持ちはまったく見られない。それどころか笑顔を浮かべながらウィルの対面に座った。

 

「なんで眼鏡? ファッション?」

「最近流行っているのよ。なかなか似合っているでしょ?」

「正直に言っていい?」

「感想を聞かれて正直に答えるのはデート相手として落第点よ?」

「デート……デートかぁ……クアットロとデートなんて、あんまり実感わかないなぁ」

 

 目の前に座ってに笑みを絶やさない少女――クアットロは、見た目はそこら辺に山のようにいるサブカル女子に見えるが、ウィルがかつて世話になった先生――ジェイル・スカリエッティが造り出した戦闘機人というサイボーグだ。

 スカリエッティは実験体のことを娘と呼ぶ。クアットロはその名が示す通り四番目の娘。

 

「そんなこと言うなら、せっかく用意してあげた誕生日プレゼントあげないわよ?」

 

 クアットロは立ち上がると、テーブルの横を通ってウィルのそばへと近づいて来ると、前かがみになって両手をウィルへと伸ばす。

 右手はウィルの髪に一度指を通すと、次に産毛を触るかどうかといった繊細さで耳殻、そして耳朶に触れ、やがて両手が首筋に触れる。細くしなやかな両手の指が首筋をなでる感覚に思わず背筋が伸びる。

 オフショルダーのワンピースの隙間から胸元が見えそうで目を逸らす。

 彼女の裸なんて、子供の頃から調整用ポッドの中に浮かんでいるところを何度も見て知っているはずなのに。普通の女の子のような恰好をされると意識してしまうのは、悲しい男の性だ。

 

 好奇心に負けて目線を再び前にやれば、吐息がかかるほどに近くにクアットロの顔があった。

 もしかして誕生日プレゼントとは――と淡い期待を抱いたのもつかの間、かちり、と首の後ろで音がした。同時に首筋を細い糸のようなものが流れる感触。

 それが首のネックレス――デバイスであるハイロゥを身につけるための鎖――をはずされたのだと、一拍遅れてから気がついた。

 クアットロは続けて、懐から小箱を取り出す。その中には鎖。銀か、それとも白金か。その鎖は蛇の鱗のようで、投影された月の光を照り返している様が、妖しい美しさと犯しがたい神聖さを感じさせた。

 クアットロは鎖を入れ替えると、ウィルにハイロゥを返す。

 

「はいこれ。私からの誕生日プレゼント。前々から気になっていたのよね~。せっかくドクターが造ってくださったデバイスなのに、つけるのがそんな安物の鎖だなんて台無しだわぁ」

 

 早鐘のように打つ鼓動を隠しながら、ウィルは返事する。

 

「こ……こういうセンスは良いんだな」

「私を教育したのが誰だと思っているの? センスも仕草もドゥーエお姉さま直伝よ。それよりもぉ……なんだか顔が赤いわよぉ? 何か別の期待でもしたのかしらぁ?」

「してない」

「ほんとうに~?」

「してないったらしてない」

 

 横を向き、ぶっきらぼうに言い放つ。

 

「……まあ、ありがとう。もしかして、これのために来るのが遅れたとか?」

「それは関係ないわ」

「じゃあやっぱり連絡いれろよ」

 

 

 

 

「最近顔見せれてなかったけど、みんなは元気にしてる?」

「健康面への質問なら言うまでもないわね。でもドゥーエ姉さまはどこかに潜入したっきり全然帰ってこないし、トーレ姉さまもお仕事でたびたび出かけているから、二人のことは知らないわ。それ以外は私も含めて()()()()よ。変わったことなんて、ちょっと前に六人目の子――セインちゃんが完成したくらいかしら」

「一度見たことあるな。そのうち会いに行こうかな」

 

 二年ほど前、スカリエッティのラボに訪れた時に見かけた女の子を思い出す。調整中でポッドの中に入っていたので直接会って話をしたわけではないが、翡翠色の髪が綺麗だった記憶がある。

 

「セインちゃんったら、チンクちゃんにべったりで、あんまり私には懐いてくれないのよねぇ」

「チンクになつくなら、まともな証拠だよ。当時はよくわかってなかったけど、ウーノ姉さんからクアットロまでの四人は全員変人ばかりだ」

「あなたも人のことは言えないじゃない。……ところでプレシア・テスタロッサに会ったらしいわね」

 

 何気ないクアットロの言葉。しかしウィルがPT事件に関わったことは、公開されていない情報だ。

 管理局は現段階でプロジェクトFの存在が公になるのは危険と判断し、PT事件についての情報を制限した。事件情報の公開前に首謀者のプレシアが脱走したことも、その一因だ。

 プロジェクトFを完成させた彼女の影響力は非常に高い。彼女からプロジェクトFの情報が公開されることを防ぐために、本局はプレシアの行方を必死に探しているらしい。

 だというのに、クアットロはウィルがPT事件に関わったこと、そしてプレシア本人と会ったことを知っている。

 

「ウーノ姉さんが調べたのか? あの人の手にかかったら、ウェブの繋がる場所ならセキュリティも何もあったものじゃない。……あんまり派手なことはしないでほしいんだけど」

「ごめ~ん、それ無理なの。もうやっちゃったから」

「……何を?」

 

 あっけらかんとしたクアットロの笑顔に嫌な予感を感じながらも、問う。

 

「プレシア・テスタロッサの脱走の手引き」

 

 一瞬呼吸が途絶し、数秒後に身体の力が抜けて椅子からずり落ちそうになる。

 管理局がこれほどの注目をしているプレシアを、あろうことか脱走させた。注目を浴びるには十分すぎる。

 

「いったいなんでまた……」

 

 ウィルの心中の焦りを知ってか知らずか――十中八九知ってだろうが――クアットロは話し続ける。

 

「実はプレシアが完成させたプロジェクトFって、ドクターが提唱した理論なのよ。それでドクターがプレシアに興味を持っちゃったみたい。おかげで私はセインちゃんの最終テストも兼ねて、こわ~い夜の病院に侵入するはめになったのよ。ちなみに、FはFate(運命)の頭文字。知性ある生物の行動には、常に経験というものが関係している。経験は過去の記憶のことだから、行動は記憶によって決定されていると言い換えることもできるでしょ? そして人の行動を決定づけるものを運命と呼ぶならば、記憶と運命はほとんど同じモノ――だからこそのフェイト。運命を与えるプロジェクト……洒落た名前だと思わない?」

 

 笑顔で語るクアットロに、悪いことをしたという自覚はまるでない。もうどうしたものかと頭を悩ませつつ、絞り出すようにのどの奥から声を出した。

 

「……やりすぎじゃないか? いくら先生でも――」

「大丈夫みたいよ。どうせ捜査担当はドクターの保護者(クライアント)の息のかかった執務官が引き継ぐでしょうし」

「うちの親父も関わっているっていうアレ関係?」

「そうよ。ウィルも帰ったらレジーおじさんに聞いてみるといいわ。きっと、プレシアのことはとっくに知っているでしょうから。でもぉ、さすがに今回のことはやりすぎだったみたいで、すっごく怒られたらしいわ。当分はあんまり大きく動かないように、釘を刺されちゃったみたい」

 

 詳しく教えられているわけではないが、スカリエッティは犯罪者ながらも、養父たるレジアス・ゲイズだけではなく、管理局の上層部のとある派閥と協力関係にあり、実際に多大なる成果を挙げていると聞く。

 その派閥は極めて強大であり、奔放なスカリエッティですら彼らの意向を無視できないのだとも。

 スカリエッティのことは気になるが、ウィルが心配しても何ができるわけでもない。そもそもスカリエッティは心配などしなくても大丈夫、というか無駄だ。両手に釘を刺されたくらいでは意味をなさず、心臓に白木の杭でも打ち込んでおかないと動きまわりそうな気がする。

 

「プレシアは元気にしているの?」

「ええ、精力的に研究しているわ。死にかけだなんて全然思えないわよぉ。蝋燭は最後の一瞬に輝くらしいって言うけど、そういうのかしら。おかげで私も時々借り出されるからもう大変。今はプロジェクトFを止めて、娘の遺体を元に蘇生させる方法を模索しているみたい」

「そっか。元気にしてるなら……まぁいいか」

 

 脱走したプレシアも、脱走させたスカリエッティも、それを手伝ったというクアットロも、管理局の局員としては許さないのが正しい反応なのだろう。

 けれど、幼少期から犯罪者であるスカリエッティに助けられ、クアットロら戦闘機人と関係を持ち、養父をはじめとした管理局上層部が犯罪者である彼らと協力関係にあるという事実を知って育ってきたウィルは、犯罪者に対してはあまり強い怒りを覚えられない。

 もちろんジュエルシードを巡る一連の事件の時のように、目の前で何の罪もない人が害されようとするという状況であれば、迷うことなく犯罪者を倒そうとするし、自分と関わりを持たない犯罪者に対してまで容赦しようとも思わない。

 ただ、相手が犯罪者であったとしても、その人となりを知ってしまうと、どうしても相手のことが憎めなくなってしまう。きっとウィルが知らないだけで、彼らを看過してしまうことで犠牲になっている人が少なからずいるのだと、薄々理解していても。

 

 そんなウィルの懊悩とはまるで無関係に、クアットロは嬉々としてプレシアについて語り続けている。

 

「あるのかどうかもわからないやり方を探すよりも、前みたいにプロジェクトFを発展させた方が良いとは言ったのよ? そしたらそうして生み出されるのはアリシアじゃないとか言うのよ。おかしいわよねえ。体も心も全て同じに作ったら、それは本人以外の何者でもないのに。ウィルもそう思うでしょ?」

「俺は……どっちとも言えないかな」

「なぁに? もしかして難しくてわからなかったのかしら?」

「違う。たしかに俺だって身体も精神も同じなら同一の存在だと思う。だって、闇の書は毎回現れるたびに、塵一つ残らず滅ぼされている。でも、今回の闇の書と前回はまったくの別物、今回には何の罪もありませんなんて――そんな虫のいい話を認められるわけがない。それだけは絶対に曲げられない」

 

 犯罪者とはいえ憎み切れないウィルが唯一明確に憎悪する対象。それが闇の書。

 ウィルが奴らを憎むのは犯罪者だからではない。大切な人を奪ったから憎むのだ。

 

「それならどうして断言しないのよ?」

「もしも死んだ父さんが昔と同じ姿で、同じ精神で、今の俺の目の前に現れたとして、それを父さんが戻ってきてくれたって素直に喜べるかわからないからだよ」

 

 こんなに自分の過去を、自分の気持ちを素直に話せるのは、ウィルにとって二人だけだ。

 同じ事件で父を亡くすという共通の過去と闇の書を滅ぼすという共通の目的を持ちながらも、意見の違いで何度もぶつかってきた友人クロノ。

 そして、子供の頃に思わず復讐について零してしまい、その時に傷つけてしまったというのに、なぜかそんなウィルによく絡むようになり、なし崩しに相談することの増えたクアットロ。

 

「そんな感情論を出されてもねえ。……それにしても、相も変わらず復讐なんて不毛なことに一生懸命になっているのね」

「悪いか? いや、世間一般の常識から見れば悪いんだろうけど」

「そしてそんな世間の常識なんてもの、私にはどうでもいいわ。私の感想は初めて会った時とおんなじ。復讐なんて過去のことにこだわるなんて馬鹿みたい。……でも、夢に向かって走る男の子ってと~ってもかっこいいと思うわ。だからこれからも頑張ってね」

 

 嫌味なのか、それとも本気なのか。

 本気で応援してくれているとしても、それはハムスターが回し車の中を走り続けるのを眺めるように、徒労に等しい問題に向かってウィルが走り続けているのを楽しんでいるだけなのかもしれない。

 

 ただ、真面目で堅物な正義感で、ウィルの復讐心に否定的なクロノと。

 軽薄で倫理観に欠けていて、ウィルの復讐心を肯定してくれるクアットロ。

 どちらもウィルにとっては大切な幼馴染に変わりない。



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癒える傷痕

 アースラ艦長リンディ・ハラオウンは、哨戒のための長期航海から戻り、時空管理局の総本山である本局の通路を一人歩いていた。

 

 本局は元から非常に巨大で、内部に居住区として都市を丸々一つ納めているほどだが、近年は増築によりさらに拡大の一途を辿っている。

 管理世界が増えれば必要な艦船が増え、その整備のためのドックが要る。人員を増やせば、資源を搬入するための搬入口や保管する空間もさらに要る。本局に住まず管理世界から通う局員もいるので、彼らのための転送装置も増やさなければならない。

 放置できないからと本局まで引っ張って来た挙句、ほとんど封印状態で放置されている無限書庫のように人の踏み込まない場所も多々ある始末。改築に次ぐ改築、増築に次ぐ増築を繰り返した本局は、管理世界最大の迷宮とよくネタにされている。

 これから会う予定の人物は、リンディよりもはるかに本局内部に精通しているが、その者でさえもどれほどの施設があるか、一体何人が働いているのかさえ、完全には把握できていない。

 

 リンディはやっとのことで目的の執務室に到着した。約束は事前にしているので、簡単な確認だけで扉は開き、中へと通される。

 正面のデスクでは一人の女性が仕事をしている。長い髪を首のあたりでひとくくりにしており、スクウェア型のメタルフレームは光沢が適度に抑えられているため、派手な印象を与えることなく、彼女が本来持つクールな雰囲気を底上げしている。

 まだ若く見えるがリンディと大差ない年齢。つまるところリンディやプレシア同様、外見年齢が実年齢と一致していない人種だ。

 

 彼女は訪れたリンディを見て微笑むと、デスクのインターカムで秘書官に合図する。そして、応接セットのソファに座るようにうながすと、自らも仕事を中断して、リンディの対面に座った。

 応接セットは一目で高級品だとわかるもので、ソファの包み込むような柔らかさが、疲れているリンディには心地良い。

 事前に用意してあったのか、すぐに青年秘書士官が紅茶を持って部屋に入って来る。彼は二人の前に紅茶を置くと、お手本のように綺麗な一礼をして部屋を出て行った。

 

「お疲れ様。今回は何も起こらなかったみたいね」

 

 リンディをいたわる言葉をかけてくれる彼女――レティ・ロウラン提督とは古くからのつきあいで、リンディにとっては公私ともに頼れる人物だ。

 

 彼女は時空管理局本局の内局、その中でも運用部に所属している。

 同じ提督でありながら、リンディのように現場に残る者もいれば、レティのように現場と内勤を行き来し、次第に内局へと働く場を移す者もいる。

 現場だけで組織が回るわけもなく、計画、予算、編成、人事、給与、教育、装備、さまざまなことを担当する裏方の存在が組織には不可欠だ。これら全てにおいて強い決定権を持つ内局はまさに組織の中枢であるということを示している。本局の内局となれば、もはや時空管理局全体の中枢と言っても過言ではない。

 重要な部署である以上、現場からはさまざまな不満や要望が発生する。それを回避するためには、相手が納得する判断を下せる客観性と判断力、それでもなお発生する不満を解消できる交渉力と人心掌握力。さらには、問題にならない程度に特定の派閥に肩入れする要領のよさと先見性も――必要なものが多すぎて数えきれない。

 光り輝く才と巨大組織の闇が交わり、不透明な人心が乱舞する。権謀術数が渦巻く伏魔殿どころではなく、人外化生が蠢く万魔殿だ。

 彼女はその住人。敵に回せば恐ろしい人物だが、味方にすれば武装隊の一個中隊より心強い。

 

「PT事件のような大事件がそうそうあるようだと困るわよ。それよりフェイトさんのことだけど」

 

 そのリンディの言葉に、レティは微笑みながら答える。

 

「心配ないわ。嘱託魔導師試験、筆記の方は合格よ。実技はあなたと一緒に見ることになるでしょうけど、見せてもらったデータを見る限り、ヘマをしなければ落ちることはないわね。気が早いけど合格した後のことを考えましょう。更生プログラムが残っている児童を嘱託魔導師として働かせる場合には保護観察が必要だけど、誰かご希望は?」

「グレアム提督はどうかしら」

 

 普段なら担当保護観察官を自由に決めることはできないが、今回は少々事情が異なる。プロジェクトFの重要性のせいでPT事件の大部分がいまだに公開されていないため、プロジェクトFの申し子たるフェイトと密接に関わることになる保護観察官の選択も慎重におこなう必要がある。

 その点、かつて執務官長を務めながらも、現在は時間的余裕の多い法務顧問官。PT事件後にプロジェクトFを争点にした有識者会議の出席者にして、なおかつフェイトの境遇に理解と同情を示す人柄を持ち、今は亡きクライドの恩師でもあるグレアム提督は人選として申し分ない。

 

「なるほどね。手続きは私の方でやっておくけれど、あなたからもグレアム提督に連絡を入れるのを忘れないようにね」

「もちろんよ。ところで、フェイトさんの様子はどう?」

「普段は使い魔のアルフさんと一緒に行動しているみたいね。肉体的には問題なし。精神的にも変わった様子は見られない。でも、それが逆に気になるわ。あなたの話だと相当母親に依存していたのよね? それにしては、母親がいなくなったというのに落ち着きすぎているように見える」

 

 プレシア脱走にフェイトが何らかの関係を持っていると暗に言い含める発言に、リンディは眉をしかめる。

 

「プレシアが脱走した時にはフェイトさんはもう施設にいた。脱走に関して彼女は直接的な関係はもっていない」

「わかっているわよ。脱走したのは母親の罪。そのことで子供にどうこう言うつもりはないわ。でも、これほど安定しているところを見ると、面会に行った時に何らかの方法で教えてもらった……あるいは教えなくとも感づいてしまった可能性もある。というわけで、試験に合格したらアースラに配属させるわよ」

「私に監視をしろってことね?」

 

 じとっと睨むリンディの視線を受けても、レティはいたずらがばれたとでもいうように軽く笑う。

 

「そしてあわよくば探りをいれてほしいわね……怖い顔しないでよ。ただの病院とはいえ、あそこからプレシアが一人で脱走できるわけがない。誰か協力者がいたはず。その潜在的な危険性は非常に高くて、放っておくわけにもいかない。それに前科のある彼女はどこかの派閥に入れた方が良い。あなたのところなら私も心配せずに送り出せるわ。監視はあくまでもついでよ。何もなければそれでいいの。あなたやアースラの乗員が嫌がるようなら、どこか他のところに頼むけど」

「わかっているわ……念のために試験までに乗員に確認をとるけれど、その方向で進めておいて」

 

 管理局は――本人の意思次第だが――前科者であろうとも、事情や更生の余地がある者であれば局員として採用する。

 だが、元犯罪者の雇用に嫌悪感を持つ局員は海陸問わず少数ではない。それは当然だろう。事情があろうがなかろうが、犯罪によって市民が危険にさらされ、その解決のために自身と仲間が命をかけているのだから。

 法律(公)と感情(私)は常に同じ方向を向くわけではない。あまり認めたくないことだが、いい年の大人が集まる社会集団でもいじめは存在する。バックがない前科者は、その標的として最適だ。

 そこで前科持ちを勧誘した場合は、彼らを周囲の風聞から守るために派閥に組み込むことが暗黙のルールとして存在している。

 それは周囲の風聞から彼らを守るためであり、更生の意志を見せる者のやり直す道を閉ざさないためであり、前科持ちを引き入れたことへの責任を持つということでもある。

 その風潮を悪用して減刑を餌に贖罪の気持ちを持たない者を積極的に勧誘する者もいるが、そうして引き入れた者が問題を起こした場合は庇護している派閥に何らかの形でペナルティを与えるという風潮も暗黙のルールとして存在している。

 

「それで、そのプレシアの捜査はどうなっているの?」

 

 話題を変えるように、リンディが尋ねた。

 

「運用部の私が知るわけないじゃない」

「あら? 私の知らない間にレティ・ロウランの耳もずいぶん遠くなったのね」

 

 軽口をたたくリンディに嘆息し、「貸し一つね」と言ってレティは口を開いた。

 

「現状、何も足取りはつかめていないわ。脱走した病院も、アリシアの遺骸が消えた時の庭園も、両方とも痕跡はゼロ。どこに行ったのかはまったくわからないわ。担当者の報告が笑えるのよ。脱出方法は、病院内のセンサやロック全てを掌握した上で、姿を光学的にも完全に欺瞞する技術を持っていると思われる――なんて。どうやら犯人は、どんなものでも開けられる魔法のカギと、姿を消せる魔法のマントを持っているみたいね」

 

 結論から言うと、何もわからない。相手は管理局に何も掴ませないだけの技術を持っている危険人物ということがわかった、と言い変えることもできる。

 

「私たちもアースラの整備が終わったら協力する事になるのかしら?」

「それはないわ。艦船付きの事案になるほどの確定的な情報があるわけでもないし、今は各地で問題が頻発していて有事に動ける船も足りていないから、いつでも動かせる船は残しておきたいわ。だから、もし近々何か大きな事件が起こったら、その時はあなたのアースラに出てもらうことになるでしょうね。PT事件を解決した手腕、頼りにしているわよ」

 

 リンディはため息をこぼした。何も起こらなければ良いという願いは、往々にして叶わないと知っているからだ。

 

 

 

 

 クロノがフェイトとアルフを連れてやって来たメンテナンスルームは、本局武装隊が詰めるB3区画の隣に位置しており、本局第四技術部が本局武装隊の装備の管理をおこなっている。

 青地の本局制服の上に白衣を羽織った少女が、フェイトに待機状態のバルディッシュを手渡す。

 

「メンテナンスだけだからほとんど変化はないはずだけど、ちゃんと慣らしはしておいてね。デバイスのせいで試験に落ちたなんてことになったら、デバイスマイスターの名折れだから」

 

 眼鏡をかけた垢抜けない少女は、第四技術部所属の技官、マリエル・アテンザ。

 クロノやエイミィにとっては士官学校の後輩にあたり、その縁でクロノはしばしば個人的にデバイス関係の相談を持ちかけることがある。

 

 フェイトはバルディッシュを受け取ると、頭を下げる。

 

「わかりました。ありがとうございました、マリエルさん」

『Thanks.』

「マリーで良いよ。それにしても、凄いデバイスだね。パーツの一つ一つが特注品。かかった費用だけで言えば、クロノ先輩のS2Uが四つ買えるよ。値段だけじゃなくて、機関部は魔導端末メーカーの規制品には見られない独特の組み合わせ方をしているし、フェイトちゃんの魔力変換に合わせた魔力変換器なんか、理論から独自に設計されてる。しかも、たしかこの理論って当時はまだ実証されていなかった――」

 

 始まったマリエルの長話に、クロノがうんざりとした顔をする。

 しかし、当のフェイトはバルディッシュを褒められたことを、嬉しく感じていた。バルディッシュはデバイスだが、生まれてからほぼ全ての時間を時の庭園で過ごしたフェイトにとっては、プレシアやアルフと同じく家族の一員だ。ほめられれば嬉しい。

 バルディッシュを褒めてくれたマリエルに、もう一度お礼を言おうとして、フェイトは顔をあげた。が、当のマリエルはバルディッシュを陶然と眺め、熱っぽい息を吐く。

 

「是非とも解体(バラ)してじっくりたっぷり解析したいなぁ。……ねえ、やっぱり後一日調整のために渡してくれない?」

 

 フェイトは全力で首を横に振った。

 

 

 未練たっぷりのマリエルの視線を背に感じながらメンテナンスルームを後にした。

 歩きながらクロノはフェイトとアルフに語りかける。

 

「管理局には様々な考えの者が集う。アースラは僕がこれだから慣れている者も多いが、他の部隊には年若いというだけで見下す者も出てくるだろう。嘱託として働き始めればそんな人物と一緒に仕事をしなければならないこともある。そんな時は――」

「わかってるよ。なめられないように初対面でガツンといけばいいんだろ?」

 

 アルフが笑顔で語る内容に、クロノは大きく顔をしかめた。

 

「頼むからやめてくれ。騒動を起こしたら更生施設に逆戻りもある。……何かあったら、他所の部隊のことであっても遠慮せずに僕たちに相談してほしい。出来得る限りきみたちを守るつもりだ。ただ、もし嘱託を続けたくなくなったら――」

「大丈夫だよ」

 

 フェイトは明るい声で、クロノに答えた。

 

 

 裁判中のこと。クロノの執務室で、フェイトはクロノとから今後の方針について説明を受けた。

 二人の間にはホロディスプレイが投影されており、クロノは裁判の経過や今後の展望を事細かに語る。途中まではアルフも一緒に聞いていたが、半時間を過ぎた頃には飽きて、すでにソファで寝ていた。

 

「裁判がこのまま進めば、きみは一年ほど隔離施設に収容されて、更生プログラムをこなすことになる。でも、嘱託の資格をとって管理局で働くことにすれば、一年の中期から半年の短期、三ヶ月の特別短期に切り替えることができるし、給与もでる。事務系の嘱託は専門の勉強が必要だから難しいが、魔導師としてなら十分に合格を狙える。だからきみには嘱託魔導師を勧めるのだけど、最後に僕の考えを伝えておこうと思う」

 

 二人の間にあったホロ・ディスプレイが消え、クロノの顔がはっきりと見える。

 真剣な顔に、フェイトも居住まいを正す。

 

「きみは罪を犯した。それは変えようのない事実だ」

 

 膝の上に置いた手に、力が入る。フェイトは大切な人のために罪を犯した。

 その選択を後悔しているわけではないが、自分のせいで傷ついた人を無視できるほど弱くもなく盲目でもない。仕方がないと折り合いをつけられるほど強くもなく器用でもない。

 

「だが、時の庭園で生まれ、他の人間とほとんど交流を持つことができなかったきみには、選択の自由がなかった。その不自由さは犯罪を起こさせた一因だ。犯した罪を償うのは当然の義務だけど、それとは別にきみには少しでも早く自由を手に入れて欲しいと考えている」

 

 不安げなフェイトに、クロノは優しく微笑む。

 

「嘱託魔導師は危険もあるけれど、一年も働けばきみは自由だ。隔離施設で更生プログラムをこなし、その後の数年間を管理局の監視下で斡旋された仕事をこなすよりはずっと早い。それが僕が嘱託魔導師を提案した最大の理由だ。きみたちには自由を手にして、自分で人生を選び、自分の道を歩んでほしい。もちろん僕の考えにすぎないから、やってみて嫌だと感じたら断ってくれてもかまわない」

「でも、自由って言われても、私、どうしたら良いのか……」

 

 これまで触れたことのない概念に、フェイトは不安を覚える。主の感情が伝わったのか、寝ていたアルフも目を開けて、横目でフェイトとクロノを見る。

 

「それはこれからゆっくり考えれば良い。わからないことや辛いこと、悩みがあればまずは相談してほしい。僕だけじゃなく、母さんやエイミィ、なのは、ユーノ、……多分ウィルも。僕たちはきみが自分の人生を生きるために、助力は惜しまないつもりだ」

 

 クロノの言葉に裏表はなく、純粋に善意のみで構成されていた。

 かつてプレシアがフェイトに――本当はアリシアにだが――見せていたような。なのはがフェイトを救おうとした時に見せていたような。相手の幸福を願う気持ちだ。

 

 

 その時の言葉を思い出し、フェイトは花が咲くように笑い、クロノに答えた。

 

「みんながいてくれるから、私は大丈夫」

「そうか、それなら良いよ」

 

 クロノは再びフェイトとアルフに背を向け、歩き始めようとして、一歩目で止まる。体はそのまま、首だけ曲げてフェイトたちを見る。横顔の口元はほんのわずか、何か月もの付き合いを経てようやくわかるようになった程度に、口角が上がっていた。

 

「帰る前に、何か食べに寄ろうか」

 

 数日後、フェイトは見事に嘱託魔導師試験に合格し、アースラでクロノやエイミィたちと一緒に働くことになる。

 

 

 

 

 格子窓からは月灯りが差し込み、板張りの床に月光の白と影の黒のストライプを作り出す。

 日付も変わる深夜。高町なのはは、魔法の訓練のために静謐満ちる道場に座り込む。

 なのはは起床から登校までの間と、帰宅から夕飯までの間。日に二回の訓練を欠かさずに続けている。だが、夢見が悪くて眠れなかったなのはは、こっそりと家を抜け出して、本日三回目の訓練をおこなおうとしていた。

 十月も下旬にさしかかろうというこの時期、深夜は足元が少し冷える。格子窓から吹き込む風の音と、庭の木の葉が擦れ合う音。そして、乱れることなく一定のリズムを刻むなのはの呼吸音。夜の世界を作り上げる音はたったのそれだけ。あまりにも小さな音の連なりは、道場の大部分を占める闇に飲まれて消える。

 

 凪いだ現実世界とは裏腹に、なのはの体の内側では静かに、しかし大きく、魔力が渦巻いていた。

 

 魔法の訓練といっても、いきなり魔法を使いはしない。運動をする前に準備体操をするように、魔法にも準備体操がある。

 

 まず、己の体内を観ることで内包する魔力を認識する。感覚は五体を離れ、魔力――アストラルの流れを知覚する。

 流れの中には熱の塊がある。リンカーコアと呼ばれる、魔導師なら誰でも持つ魔力を蓄えるための器官だ。物質的に存在するわけではないが、たしかに体内に存在する魔力的な器官。

 リンカーコアを見つけた後はゆっくりと魔力を巡らせる。

 上のものを下の如く、下のものを上の如くに。体内の魔力を均一化させ、粗雑なものから精妙なものを、ゆっくりと巧みに分離する。体内の魔力といえども全てが同じ性質をもつわけではない。それぞれの持つ性質を理解していく。

 ここに至ると、なのはは己の体内に蓄積された魔力の流れを、明確なイメージとして認識できるようになる。

 なのはの身体の中には一本の太い管が形成されていた。リンカーコアから出て、体内を巡り、また戻る。途切れない管。イメージをさらに強固にし、より多くの魔力を巡らせる。管は太くなりとぐろを巻く蛇と化す。さらに魔力を増やす。蛇は龍へと成長し輝きを増す。

 

 この訓練の目的は、己の体にとって最適な魔力の流れを作り出し、それをイメージとして捉えることだ。

 龍はなのはにとっての最適な魔力の流れ。蜘蛛の巣や、複数の面で造られた多面体、もう一つの血管など、最適なイメージは人によって異なるらしい。なのはにこの訓練を教えてくれたウィルとユーノの場合は、リンカーコアを中心に燃える炎と、背骨を幹にした木だという。

 魔力の流れを確固としたイメージとして捉えることができれば、準備運動は終了。

 

 なのははゆっくりと目を開き、息を吐くような自然さで魔力の流れを変える。体内の龍が首をもたげると、なのはの魔力が魔力弾という形で体外に放出された。

 

 電化製品に定格があり、使用出来る電圧や電流量が定められているように、魔力にも魔法プログラムに応じての定格がある。デバイスがあれば、デバイスが変換器の役割を果たしてくれたり、逆に魔力量に応じてプログラムの一部を変更してくれたりもする。

 しかし、魔力を練り上げることによって、その手間を小さくできる。これにより、なのははかつて以上に迅速に、そして負担もなく魔法を構築できるようになっていた。

 

 半年前、何もわからずにレイジングハートに助けてもらいながら魔法を使っていた時と、今のなのはは違う。ユーノに理論を教わり、短期間ながら学校で専門教育を受け、自分でも勉強と訓練を重ね続けた結果、成長速度は加速度的に上昇している。

 

 それでも、なのはは満足していなかった。魔法が使えるようになるほどに、瞬時に魔法を構築して戦闘ができるウィルやフェイト、デバイスもなしに多数の魔法を行使できるユーノの凄さがわかる。見たことはないがクロノは彼らよりさらに上の魔導師だと聞く。

 自分はまだ届かない。もっと強く、もっと高く、もっと巧く。

 

 なのはを突き動かす力への意思。

 その原因は幼少期の体験であり、見逃した大樹で街に被害が出たことであり、自らの魔法でフェイトを傷つけてしまったことにある。

 特にフェイトを傷つけてしまった事実は今でもなのはの心に暗い影を落としている。自分の行使する力は人を傷つけることが可能なものだと、明確に認識した。

 だからといって、なのはは魔法の力を捨てることもできない。そうすれば、みんなと出会わせてくれたきっかけとなるこの力を、自分で忌まわしいものだと認めてしまうような気がした。

 そして、感情的ではない合理的な部分で理解していた。あの時のフェイトを止めるには、魔法の力以外に手段はなかった。言葉ではフェイトの信念は曲がらなかっただろう。

 魔法という人を傷つける力を肯定しながら、傷つけることを否定するなのはは、一つの結論に至った。

 

 ――間違っていたのは魔法じゃない。それを扱う自分の未熟な技量だ。

 

 だから鍛える。次は同じ間違いをしないように。次はもっとうまくやれるように。

 高町なのはという少女は、悩みもするし後悔もするが、根っこが徹底的に前向きでタフだ。

 彼女は幼い頃の寂しさをバネに優しくなったように、恐れを糧に強くなり続けている。

 

 

 一時間後。訓練を一通り終えたなのはは、へとへとになりながら立ち上がる。日に二回を想定した訓練を三回おこなったのだから当然だが、今日は特に張り切り過ぎた。

 立ち上がる行為にさえ全霊を必要とする。頭に鉛のように重くのしかかる疲労感を抱えながら部屋に戻ろうと歩き始めるが、右足を一歩前に踏み出した途端、膝が折れ曲がり体が崩れる。

 道場の板に顔をぶつける直前、誰かに体を支えられた気がしたが、それが誰なのかを確認する前に意識の糸はぷつりと切れて――

 

 

「起きろ、なのは」

 

 自分の名前を呼ぶ声で、なのはは目を覚ました。目に映るのは道場ではなく、見慣れた自分の部屋とのぞこむ恭也の顔だ。

 

「やっと起きたか。このままだと学校にも遅刻するぞ」

 

 カーテンから漏れる光は、すでに太陽が昇っている証。なのはは体を半回転させて、ベッドに置かれた目覚まし時計を確認し、落胆する。半年前までならいつも通りの起床時間だが、朝の訓練をおこない始めたこの半年間の起床時間に比べれば遅すぎる。

 

「あ……これじゃあ、トレーニングしてる時間が……」

「夜中に鍛錬なんてするからだ」

「ごめんなさい…………あれ? もしかして、お兄ちゃんが部屋まで運んでくれたの?」

「そういうことになるな」恭也は一歩下がり、椅子に座る。 「俺も美由希も無茶な鍛錬をして父さんに怒られたことがあるから、本当は偉そうに言える立場ではないが……オーバーワークは怪我のもとだ」

 

 注意する恭也の顔は、なのはがこれまで見たこともないほどに真剣だ。

 

「昨日だけじゃない。これまでも、たびたび夜中に鍛錬をしていただろ」

「気がついていたの?」

「あたりまえだ。俺だけじゃなくて、父さんも気づいていた。もしかしたら、母さんや美由希も気づいていたかもしれない。それでも何も言わなかったのは、なのはなら無茶はしないと考えたからだ。なのにまさか、倒れるまでやるなんてな。昨日はたまたま起きていた俺が様子を見に行ったから良かったが、そうでなかったら風邪をひいているところだ」

 

 注意しながらも、恭也はなのはの頭に手をのせてなでる。

 

「無茶をするなとは言わない。だが、無茶をするなら、その時は俺たちにも声をかけろ。家族なんだ。もっと頼ってもバチは当たらないと思うぞ――」

 

 説教は唐突に途切れた。恭也は突然狼狽しながら室内を見渡してティッシュを取り、なのはの顔に当てる。

 

「なにしてるの?」

「俺が聞きたい。いきなり泣くなんて、俺はそんなにキツいことを言ったのか?」

 

 ぺたぺたと頬をさわると、たしかに頬は濡れていた。流れる液体が口に入る。しょっぱい。机の鏡に映る自分は、たしかに泣いていた。

 理由はわからない。わからないが、悪い涙ではないことはわかる。心が暖かくて、鼻の奥がツンとしていて、涙が次から次へとあふれてくる。こらえようとしても止まらないので、なのはは言われた通りにさっそく家族に頼ることにした。

 恭也に飛びつき、彼の胸に顔をうずめて、思いっきり泣いてみた。恭也は驚きながらも、なのはの気が済むまでじっと動かずにいてくれた。

 

 なのはは幼少の頃、寂しさを感じていた。その辛さを糧になのはは成長したが、それでも心の傷が癒えたわけではない。

 だが、自分のことを家族が見ていてくれた。気にかけてくれた。その事実が、ほんの少し、なのはの傷を癒してくれた。

 



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予兆の赤

 シグナム――それが彼女の名。闇の書の主に仕える守護騎士、その一員にして将としての識別記号。

 主と他の守護騎士以外が彼女の名を口にする時、そこに込められているのは畏怖か憎悪か。そのどちらかでしかなかった。

 少なくとも、これまでは。

 

「シグナムさん! そろそろ時間だぞ!」

 

 上下紺の道着を着た男の野太い声が道場に響く。

 ただの人がただの人へと呼び掛けるような声色で、シグナムの名が呼ばれる。昔ではとうてい考えられないことで、今ではごく当たり前のこと。

 道場にいるのはシグナムを含めて数人。その内の一人が、シグナムに呼び掛けている師範代の男で、残りは門下生の中でも授業のない平日昼間に暇を持て余した大学生たちだ。もう少しすれば、学校が終わった子供たちがやって来てにぎわい始めるだろう。

 かかり稽古の相手役をしていたシグナムだったが、打ちかかってくる相手を竹刀で押しとどめて稽古を中断して壁にかかった丸時計を見れば、時刻は五時を迎えようとしていた。

 

「もうそんな時間か。……すまないが、これであがらせてもらう」

 

 シグナムはそのまま道場の壁際まで退き、正座をする。手慣れた様子で防具を外し、防具をまとめて棚に直す。

 そのシグナムの姿に、稽古中の門下生ほぼ全員が目を奪われ、遅れて師範代の一喝と竹刀で叩かれる音が道場に響く。

 

 今のシグナムは腰まで届く長髪を肩口でひとくくりにし、上は白、下は紺の道着を身につけている。彼女の肉つきの良い体躯は、体の線を目立たなくさせる剣道着でも隠しきれていない。汗で濡れた様は女性ですら目を奪われるほど扇情的。

 もっとも、見られているシグナム当人は視線を意に介していない。彼女にとって敵意のない視線はないも同じだ。この国の生まれでない自分には、この道着が似合っていないのだろう――と、そんな的外れな思考をする程度。

 彼女は自分の容姿の価値を理解していない。そんなことは、これまで気にする必要がなかったから。

 

 シグナムは現在、八神家の近所に位置する剣道の道場の手伝いをしている。

 闇の書の守護騎士四人は六月に八神はやてのもとに現れた。されど地球には魔法はなく、日本には戦乱さえもなかった。そして今代の闇の書の主として選ばれたはやては、これまでの主とは異なり蒐集を望まなかった。

 シグナムは、生み出されて初めてやるべきことを見失った。

 

 途方に暮れたシグナムに、はやてはみんなが一緒に暮らしてくれればそれで良いと言ったが、何もしない状況というのは逆に落ち着けなかった。

 仲間たちのように――ヴィータのようにさっさと割り切って遊ぶこともできず、シャマルのように家事全般を受け持つこともできず、家番は自分よりもザフィーラの方が向いていて。

 そんな時、ヴィータが時折参加するゲートボールの集まりを通じて、この剣道場の師範と知り合い、講師をしないかと誘われた。剣道について微塵も知らない自分では、何も教えることなどできはしないと思ったのだが、師範曰く戦い慣れた実力者に相手をしてもらえるのは貴重なのだとかなんとか。

 それからかれこれ三月になるだろうか、ほとんどはかかり稽古の相手役をして、少しずつ剣道や型を教わりながら、週に二度ほど道場に通っている。それが彼女の、今の姿だった。

 

 

 シグナムは更衣室に入り、私服に着替え始める。普段ならば、シャワー室で汗を流してから着替え、髪がかわくまで茶をいただきながら四方山話を聞くのが常だが、今日はそこまでの時間はない。

 道着を脱ぎ捨て下着姿になったシグナムの体は、男の理想が形になったかのような艶冶。

 何よりも特徴的なのは肌だ。白磁の白さ、羽二重の繊細さ、琺瑯の光沢を持ち合わせ、一切の傷どころかシミや黒子すらもない。生まれたての赤子以上だ。

 ただしその完璧さは、彼女の裸体から幾分かの色気を減じる欠点でもある。白亜の女神像を美しいと愛でる者は多いが、それに欲情する者は稀であるように。

 

 それほどの肌もシグナムにとっては珍しいものではない。彼女の仲間たち――ヴィータ、シャマル、ザフィーラの三人もまた、それぞれ肌の色こそ違えども、その肌にはシミも傷もない。

 なぜなら、彼女たちは全員人工的に造り出された存在だから。作成時にわざわざ肌にシミや傷を設定するものはあまりいないだろう。

 そしてもう一つ、後天的にできたそれらを消すことができるから。

 

 汗を拭いている途中、シグナムは右手が少しだけ腫れているのを見つけた。稽古をしているのだから、この程度はよくあること。放っておいても良いのだが――

 

(主に見つかれば、心配させてしまうかもしれないな)

 

 そう考えたシグナムは、魔力を少しだけ右手に巡らせた。それだけ――ただそれだけで腫れは消えた。回復魔法ではない。シグナムはただ、魔力を使用して自分の体を構成しなおしただけ。

 汗のように一度流れ出たものは消えないが、傷のように欠けた部分はこれで直すことができる。

 

 守護騎士(ヴォルケンリッター)は、闇の書と主を守るために造り出された『プログラム生命体』だ。

 どれだけ人間に見えようが、シグナムの体も意志も、プログラムが現実に投影されたことで生み出される虚像――影絵に過ぎない。傷は単なるのデータの破損。破損したデータは、バックアップデータで上書きして修正すれば良い。肉体の再構成には魔力が必要だが、逆に言えば魔力さえあればいくらでも傷を直すことができる。

 このような超回復能力を持つヴォルケンリッターは、戦場においては死霊よりもはるかに厄介な、悪魔のような存在となる。

 それが彼女の、かつての姿だった。

 

 

 はやてが買ってくれた普段着に着替える。装いの良し悪しはわからないが、主が買い与えてくれた物というだけで、シグナムにとっては十分以上に価値がある。

 肩口で纏めた髪を解くと、すくい上げて後頭部の高いところで新たに纏める。無造作に作られた総髪(ポニーテール)は、しかしながら凜とした雰囲気を持つ彼女に良く似合っていた。

 最後に衣紋掛けのコートに袖を通し、脱いだ道着をつめ込んだ鞄を肩にかけ、更衣室から出る。練習を続ける門下生に一言別れを告げて、道場を去った。背後では、再び門下生が竹刀で叩かれる音が鳴り響く。

 

 

 道場の外は赤に染まっていた。夕日が海鳴の街を赤く染めるのを見て、シグナムの脳裏にかつての記憶が蘇える。

 幻視するのは炎の記憶――業々と燃える炎の中、仲間と共に戦い続けた日々。

 シグナム自身の戦い方もあって、彼らの戦場には炎が絶えなかった。森で戦えば森を焼き、山で戦えば山を焼き、街なら当然――

 思わず顔が強張る。記憶の中の赤い光景は、かつては何とも思わなかったのに、この世界に来てから少しずつ陰鬱な黒いモノへと変質しているようだ。

 

「おやシグナムさん、今日はもうお帰りですか」

 

 風雨にさらされ続けた木の枝のような老人が、門のそばに立っていた。好好爺としたその人は、この道場の師範。

 ただの老人のように見えるが、シグナムが戦い慣れていることを見抜いたあたり、ただ者ではない。シグナムに何かあると気づいたのはこの師範と、はやての友人である高町なのはの父親の二人だけ。

 顔を崩して笑う師範に、シグナムは会釈して答える。

 

「はい、今日は主……家主のご友人の誕生日を――」

「あァ、そうでした、お誕生日会をするんでしたな。この年になると新しいことはすぐに忘れてしまって……我ながら困ったものです。そんな私ですが、こればっかりは忘れちゃいかんと、肝に命じていることがありましてな」

 

 老人は懐から封筒を取り出し、「今月もありがとうございました」と言いながら、シグナムに差し出した。

 教えてもらうことが多いとはいえ、一応は手伝いとして雇われている身。労働の対価の報酬は貰っている。雀の涙ではあるが収入には違いない。

 

(これで少しは主の役に立てただろうか)

 

 従者として生み出されたゆえの本能か、それともはやて自身への好意か。はやての役にたてているということが、シグナムに充実感を与えてくれる。

 

「いつも申し訳ありません」

「いえいえ、シグナムさんが来るようになってから、若いのから子供たちまで、みな熱心に来るようになりましたから、こちらも助かっとります」

 

 そう言って、シグナムと師範はお互いに頭を下げ合った。

 シグナムは気づいていない。彼女の本当の変化は、剣道を学んだことでも、長話に付き合えるようになったことでもない。

 それは主でもない者に頭を下げることができること――他者を尊重できるようになったことだ。

 

 

 八神家へとの帰路で、シグナムはこれからのことに思いをはせる。

 師範の励ましを受けてなお、不安は完全に消えなかった。

 その原因は今夜の誕生日パーティの主賓、ウィリアム・カルマン。

 

 彼は夏に八神家に来てからも、最低でも月に一度は八神家を訪れていた。その義理固さは嫌いではない。はやてに優しく、はやても訪問を喜んでいる。管理局の人間ということを除けば、特に嫌う要素などないはずだ。

 だというのに、なぜかシグナムは言い知れない不安を感じている。生理的嫌悪感とはまた違う。何か、思い出さなければならないことを、忘れているような――上手く言葉にできない感覚だ。

 過剰な反応だと理性は判断する。バグではないのかとさえ思う。しかし騎士として戦士として、無意識下が告げる予兆を無碍にすることはできない。これまでの戦いでどれだけ、その本能的で言語にできない感覚に助けられてきたのか。その数はもはや数えきれるものではない。

 

(不安……か)

 

 シグナムは前を向く。前方には夕日、赤い世界。

 それは予兆。ここからは世界が変わるぞ、と告げる予兆の赤。

 思いすごしであれば良い。そう思いながら、彼女は自らの帰るべき場所へと歩を進めた。

 

 

 

 

「またすごいことになってもうたなぁ……」

 

 調理の手を一旦止めて台所からリビングを覗きこんだはやては、思わず呆れと感嘆の入り混じった声をあげた。

 八神家のリビングは、今宵のパーティのために、様々なオーナメントで色とりどりに飾られている。室内だというのにピカピカと光る電飾も使われており、少し目が痛くなるほどだ。

 最初はここまでするつもりではなかったが、はやてを含めた八神家の五人は、誰一人定職についていない。シグナムやヴィータのように自分の用事で外出する者もいるとはいえ、それも週に一回か二回程度――つまり毎日が休日で、暇を持て余している。

 最初は小規模だった飾り付けが、暇に飽かせてこんなのもある、あれもできるとどんどんエスカレートし、どうせ一月後のクリスマスでも使えるんだからと制止しなかった結果がこの有様。

 

「はやて~、飾り付け終わったぞ」

「はやてちゃん、やっぱり私もお料理を手伝うわ。一人で作るには多すぎるわよ」

 

 気だるそうに思える話し方をするのは、赤い髪の少女、ヴィータ。一般的にはかわいらしい印象を与える大きな瞳は、つり目のせいで気の強さを先に感じさせる。見た目ははやてと同じくらいの年頃だが、少し気だるげに話すその姿は反抗期の少年のようだ。

 もう一人、心配そうに声をかけた女性がシャマル。凪いだ湖面のように穏やかな人なのだろうと思わせる容姿をしており、事実その通りの人だ。控えめに輝くセミロングの金髪は、水面に映る月の色をしている。

 

「たくさんっていうても、いつもの五割増しくらいやから」

 

 だから心配しなくていいとはやては言うが、シャマルは「でも……」と食い下がる。

 シャマルの背後にいるヴィータが呆れた声をあげる。

 

「いいからおとなしくはやてに任せとけよ。だいたい、シャマルの料理が混ざったら、はやてのギガうまな料理が台無しじゃん」

「そりゃはやてちゃんには負けるかもしれないけど、私だってそんなに料理下手なわけじゃ……ただ、時々失敗することがあるだけで……」

 

 はやての記憶が正確なら、シャマルの失敗の割合は五分を超えている。

 シャマルもそれを思いだしたのか、後半になるにつれてどんどん声が小さくなっていく。そこに追い打ちをかけるように、ヴィータが言葉を被せる。

 

「それが駄目なんじゃねーか。それにまずいだけならともかく、シャマルの料理は微妙すぎて罰ゲームにもなんないし」

 

 ヴィータの雑言にシャマルは瞳を潤ませながら、ううぅ、と小さく唸る。抗議をしたいのだが、いかんせん事実なだけになんと反論していいのかわからない、といった様相。

 シャマルの何事にも慎重な性格は料理にも表れており、レシピから大きく外れた料理になることはまずない。しかし同時に、ここ肝心なところで失敗をしやすいという性質もまた料理に表れているため、レシピ通りにならないことが多々ある。

 結果、まずいわけではないが、求めた味から三歩ほどはずれた味になるので、どこかちぐはぐな珍味が出来上がることがしばしば。

 

「もう、二人とも喧嘩はあかんよ。台所は私に任せて。腕によりをかけてとびっきりのを作るから。もう少ししたら、二人にも盛り付けとか手伝ってもらうつもりやから、それまで休んでて」

「うんっ! 楽しみにしてる!」

「わかりました……でも、手が必要になったら呼んでね?」

 

 はやてが微笑みながら仲裁すると、二人ともすぐに口論を止めてソファに向かった。

 

 少しして、リビングの扉が開く。その向こうには白髪の浅黒い肌の男が立っていた。彼がザフィーラ。筋骨隆々とした偉丈夫で、その腕はヴィータやはやての胴くらいはある。

 

「客間の掃除を終えましたので、その報告に」

 

 決して無愛想なわけではないが、表情をまったく変えないその様は、人間の表情の作り方を知らないからではないのかと思うほど。

 

「おつかれさま。もう特にやることもないから、ザフィーラも休んで――」

 

「ただいま戻りました」

「おじゃまします」

 

 はやての言葉にかぶさるように、新たな声が玄関から聞こえてきた。一人はシグナム、続くもう一人の声は、八神家の面々には聞きなれた声――はやての友達、なのはの声だ。

 瞬間、ザフィーラは空中に飛び上がり、くるりと後方一回転。地面に着地した時には人間形態から大きな犬の姿へと変わっていた。そのままザフィーラはソファのそばに行って伏せ、ただの犬のようにふるまう。

 

「こんにちは、なのはちゃん」と、シャマルが。「おう、高町か」と、ヴィータが反応する。

 

「シャマルさん、こんにちは。ヴィータちゃん、名前で呼んでって言ったじゃない」

「やだよ、高町の名前はなんか言いにくい」

「そ、そんなことないよ!」

 

 シグナムとなのははコートを脱ぎ、シャマルが二人のコートを衣紋掛けにかける。その間にヴィータがケーキの箱を開けようとして、ザフィーラに吠えられる。

 これが今の八神家。はやてが欲しかった家族の形。

 

 彼女たちはもう五ヶ月前になるか、六月初旬の誕生日の夜に、いつの間にか家にあった一冊の本『闇の書』から現れた。

 彼女たちが言うには、自分はその本に選ばれた主で、彼女たちはその主――つまりはやてを守るために存在する四人の騎士、ヴォルケンリッターなのだそうだ。

 

 正直、実感はない。

 闇の書の主になったとはいえ、いきなり魔法が使えるようになったわけではない。これから『蒐集』という行為をおこなって、闇の書の頁を埋めていけば、はやてもさまざまな魔法が使えるようになるらしい。

 しかし、そのためには魔力を作るために必要な器官、リンカーコアから魔力をもらう必要があり、その行為は相手のリンカーコアに大きな負担をかけてしまうそうだ。

 ヴォルケンリッターのもう一つの目的は、主のために蒐集をおこない、闇の書の頁を埋めることらしいが、はやてはその行為を禁止した。誰かを犠牲にしてまで、魔法が使えるようになりたいとは思わない。

 そのため、今のところ使える魔法は、念話というもの一つ。これはこれで便利だ。静かにしなければならない図書館でも普通に会話ができるし、それなりに離れていても通じるので携帯電話いらずだ。

 

 良いこと尽くしだ――ただ一つ、ウィルと家族になれなくなったことを除いては。

 ヴォルケンリッターにウィルのことを話した時の、彼らの剣幕は恐ろしいものだった。そして、決して闇の書のことを話してはいけないと言われた。

 理由はただ一つ。ウィルが時空管理局の局員だから。

 闇の書と管理局はここ百年の間、幾度も戦ってきて、そのたびに歴代の主と闇の書は滅ぼされてきた。もしも管理局が闇の書のことを知られれば、また管理局が闇の書を滅ぼしに来る。その時には、はやても殺されるだろう――ヴォルケンリッターはそう語った。

 だから、はやては闇の書のことをウィルはもちろん、誰にも教えていない。そして、ウィルの提案する次元世界の病院で診てもらうという提案もことわった。検査をされれば、闇の書のこともばれてしまう危険があるからだ。

 

 ――別にかまわない。今の生活は幸せだ。

 

 新しい家族がいるおかげで、家は賑やかになった。友達も時々遊びに来てくれる。ウィルとも会えなくなったわけではなく、夏の終わり頃からは月に一度は会いに来てくれる。

脚は動かないけど、それだっていつも通り。全然問題なんてない。

 

 ――本当に?

 

 今の生活は確かに楽しいけれど、もっと楽しくできるはずだ。最上ははやての足が治り、約束した通りウィルとも家族になって、みんなで仲良く暮らすこと。誰だってそれが最上だということくらいわかる。

 最上を目指すなら、闇の書のことも含めてウィルに相談するべきだ。ヴォルケンリッターのみんなが許さないのであれば、手紙を書いてこっそり渡せば良い。

 

 ――かまわないなんて嘘だ。

 

 行動しないのは怖いからだ。

 もしもウィルがヴォルケンリッターを敵だとみなしたら。もしウィルが闇の書の主である、はやて自身をも敵だとみなしたら。

 そんな人じゃないと信じているのに、その一歩を踏み出す勇気がない。

 

 今のはやては、ただ与えられた現状を許容しているだけ――今だけではない。昔から、ずっと受け身のままだった。

 病気ともまともに向き合ってこなかった。石田先生が隠さずに答えてくれるのかはともかくとして、自分から病気のことを尋ねようとしたことはない。

 ヴォルケンリッターに対してもそうだ。彼らの目的は、はやての守護だけではなく、闇の書の完成もある。彼女たちが現状の生活に満足しているのか、本当は蒐集をしたいと思っているのではないのか。そのことについて深く踏み込めずにいる。

 

 ウィルも、ヴォルケンリッターも、友人のなのはたちも、近所のおばさんたちも、はやてのことを優しいと言ってくれる。

 そんなのは嘘だ。優しいはやてという印象は、見えているだけの虚像に過ぎない。優しさはただ臆病が形を変えただけ。

 自分から何かをするのが怖い。自分の言動で、取り返しのつかないことになるのが怖い。だから何もしない。何も聞かない。

 いつまでこの生活が続くかを知ろうとせず、いつまでも続けば良いなと考えて。いざその時が来れば、恥ずかしげもなく悲しむのだろう。それまで何もしてこなかった自分の怠慢に目を背けて。

 

「はやてちゃん……キッチンから煙が出てるんだけど、大丈夫かしら?」

 

 おずおずと進言するシャマルの声で、はやての意識は現実に引き戻された。急いでコンロの前に戻り、火を消す。少し焦げたかもしれない。

 振り返れば、五人ともこちらを見ている。その視線は料理にではなく、はやてに向けられていた。料理を焦がすという、らしくない失敗をしたはやてを心配しているもの。

 

「大丈夫、ちょっと焦げたけど、削ったら普通に食べられるから」

 

 はやては、みんなに笑い返した。

 

 みんながいる――今はこれで良い。

 病気がどうなるのかはわからないし、ヴォルケンリッターのみんながどう考えているのかもわからない。でも今の自分は幸せだ。

 だからもう、これで良い。

 

 

 

 

 世界間転送のための転送ポートが、月村邸の裏に広がる山――当然そこも月村家の所有地――に設置されたのは、PT事件が終わってから二ヶ月、つまり七月の頃だった。これによりミッドチルダと地球を行き来するのは簡単になったが、これは異例の速さと言える。

 本局やミッドチルダと地球は離れているため、ただ一度の転送では移動できない。安全に移動するためには、途中に中継点となる転送ポートをいくつも作らなければならない。

 それがたったの二ヶ月で完成したのは、もともと本局・地球間の転送ポートが存在していたから。半世紀前に、地球で管理局を巻き込むような事件があり、地球行きの転送ポートはその時に造られた。海鳴への転送も途中まではそれを利用している。

 半世紀前のポートも管理局が設置したものなので、当然アースラもその存在は把握していたが、同じ地球とはいえ転送先は欧州の英国――つまり海鳴のある日本から遠く離れていたため、PT事件の時にはまったく使用されることはなかったらしい。

 一度作ったからと言って、放置しておけば機械はすぐに使えなくなる。こまめなメンテナンスは機械の運用において最も大切なこと。精密性が求められる転送関連の機器なら、特に綿密なメンテナンスが必要になる。それが今も稼働している背景には混み入った事情がありそうだ。

 

 ウィルは見た目は倉庫にしか見えない転送ポートから出て辺りを眺める。

 まず見えるのは、小屋を取り囲む多くの木々。樹を彩る葉も少し精彩を欠き始めている。後一月もすれば紅や黄に色を変え、紅葉を楽しめるようになるのだろう。

 

 吹く風は少し冷たい。

 地球の暦では十月の終わり。日本に四季があることは知っているし、八月に訪れた時はその暑さに驚かされもした。先月訪れた時はまだ暑かったので、今回も大丈夫だと思い薄着で着てしまったことを後悔する。

 ウィルは体を温めるために、月村邸まで走ることにした。

 

 

 森を抜けると、月村邸の裏手に出る。裏庭の掃除をしている少女――ファリンに挨拶をすると、彼女は大きく元気な声で挨拶を返して、屋敷に駆け込んで行った。春も夏も、そして今も同じようなお仕着せを着ているが、寒くないのだろうか。

 ファリンはすぐに戻って来た。その手には大きな紙袋。袋の中にはいくつかの箱。ウィルが頼んでおいた、はやて含む八神家の四人と一匹へのプレゼントだ。自分で吟味したい気持ちはあったが、向こうで買うとまたゲートで没収されかねない。

 金銭は、管理局と月村間での換金によって得られた日本円で支払っている。袋の中にはしっかりとお釣りの入った封筒と領収書があり、ファリンに言われるがままに確認させられた。

 わざわざ手間取らせてしまったのだから、礼とチップを兼ねてお釣りを渡そうとすると、ファリンは「とんでもないです! そんなことできませんよ!」と体全体を使って否定した。

 

「それにしても、今日はウィルさんの誕生日なんですよね? それなのに、ウィルさんからプレゼントを渡すんですか?」

「居候させてもらった借りがありますから、こういう細かいところで少しずつ返しておきたいんですよ。……ついでに機嫌をとっておきたいという下心も少し。どうにも俺はあの三人にあまり歓迎されていないようで……」

「良い人たちなんですけどね。すずかお嬢様とも仲良くしていただいていますし。知らないうちに何か機嫌を損ねるようなことしてませんか?」

「初対面からずっとでしたから……。これを機に、もっと仲良くなりたいんですけど」

 

 適度なところで話を切り、ウィルはもう一度礼を言って去ろうとする。しかし、ファリンに呼びとめられた。何だろうと思い振り返ると、彼女は笑顔を浮かべて祝いの言葉を口にした。

 

「お誕生日おめでとうございます!」

 

 

 正門に向かう途中、屋敷の玄関で今度はすずかとノエルに出会った。車で学校に迎えに行っていたらしい。互いに挨拶を交わし、少しだけ話をする。

 すずかはいまだに、魔法のこと、管理世界のことを知らない。月村家が管理局との交渉をおこなっているので話しても良いのに、本人がそれを望んでいない。なのはの秘密を知るなら、友人のアリサと一緒でなければ駄目だ、と言っている。

 だから彼女の知識では、ウィルはまだ外国人のままだ。そして外国人が日本にやってくる時に、なぜか自分の家の裏庭から現れるというわけのわからない状況。だというのに、すずかは聞こうとするそぶりを微塵も見せない。比べるまでもなく、好奇心よりも友情の方が重要だと感じているのだろう。

 彼女はこれからすぐに着替えて、アリサと一緒にバイオリンの稽古に行くらしい。

 別れ際にすずかとノエルの二人から、はやてによろしくという言葉と、ファリン同様誕生日を祝う言葉をもらった。

 誰かに祝われるのがうれしくて、思わずにやける顔を抑えながら、ウィルは月村邸を出た。

 

 

 月村邸の正門から少し歩くと、海鳴から隣町に続く山道に合流する。三差路のそばにあるバス停で待っていると、すぐにバスがやって来た。夕方なので乗客は多くほぼ満員だ。

 

 八神家最寄のバス停で降りる。バス停のそばには公園がある。

 時計を見て、時間に猶予があることを確認すると、ウィルは公園に入り、その奥の小道を進む。やがて、少し開けた場所に東屋が一つ建っているのが見える。はやてと初めて会った高台だ。

 夕日で赤く染まった海鳴の街を眺める。夕焼けに照らされる海鳴の街は、半年たった今でも変わらずにあった。

 

 この平穏な街に、かつてウィルは災厄の種を持ちこんだ。きっと、一人ではどうにもならなかった。ウィルが具体的な人数を知らないだけで、海鳴に住む市井の人々の中にはジュエルシードのせいで傷を負った者も少なくはない。

 けれど、はやてやなのはがいてくれたから。彼女たちのおかげでフェイトとアルフと和解できた。

 クロノが、アースラが駆け付けてくれたから。彼らのおかげでプレシアを止めることができた。

 

 滞在していたのは二月足らずだったけど、いろんな人に出会えたこの街を、いろんな人たちが過ごすこの街を守ることができた。

 

 その充足感を胸に抱いて、ウィルは来た道を戻り八神家へと足を進めた。

 



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忍び寄る魔法

 父と一緒に、よく公園に行ったのを覚えている。

 艦付きの武装隊でなかなかミッドチルダに戻ってこれない父は、たまの休みでゲイズ家にやって来るとその埋め合わせをするようにウィルを遊びに連れて出かけてくれた。

 デパートに買い物に行ったり、アミューズメント施設に遊びに行ったり、DSAAやエリアルジョストのようなスポーツ観戦に行ったり、行先は様々だったが、その帰りにはいつもゲイズ家の近くの公園に寄った。

 何か特別なことをしていたわけでもない。高層ビルの隙間にできた猫の額ほどの公園で、ベンチに座って今日のことを、それからお互いに離れていた間にあったことを話すだけ。

 

 何度も繰り返した親子の交流だが、父が亡くなる前のそれは特に記憶に残っている。

 その日、公園の敷地に足を踏み入れたウィルはトコトコとベンチまで走っていた。一人で先にベンチに行っても、ヒューがいなければ意味がないのに、それでもはやる気持ちを抑えられずに走る。

 

「こけるなよ」

 

 後ろを歩くヒューが注意をするが、それは逆効果。ウィルは走りながらヒューの方を振り向き、足元がふらつきころびかける。

 あわや地面に顔をぶつけるかというところで、ヒューがウィルの襟首を掴み上げた。こけるまでの一瞬で、魔法も使わず三メートルはあった距離を一足で詰めていた。

 

「一緒に行くか」

 

 ヒューは苦笑しながら、ウィルを自分の肩にのせて歩きだした。

 ベンチに座って、お互いに会えなかった時のことを話す。話したいことは山ほどある。でも、お互いに交互に話すのが暗黙の決まりだった。ヒューがひとつ話せば、ウィルもひとつ話す。

 語らう二人の前を親子連れが通った。ウィルより少し年上の子が、右手に父親の、左手に母親の手を握り、楽しそうに歩いていた。

 

「どうした? ウィルの番だぞ?」

「うちにはおかーさん、いないんだよね」

 

 親子連れから目を離さずに、ぽつりと言う。

 

「さびしいか?」

 

 困ったような顔でヒューは問う。ウィルはぶんぶんとかぶりを振って否定した。

 

「ううん、おばさんもおねーちゃんもいるから、ぼくは平気。おじさんはちょっとこわいけど。……でも、おとーさんはさみしくないの?」

「俺か? 大丈夫に決まってるだろ。なんてったって、ウィルがいるからな」

 

 そう言って、ウィルの頭をガシガシとなでる。普段から鍛えまくっているヒューのそれは幼子にとってはなでるという範疇を越えていたが、その乱暴さがウィルは嫌いではなかった。

 それからその体格に似合わず、少し寂しそうに、不安そうに、弱弱しい笑みを浮かべる。

 

「なぁ、ウィルにとって俺はかっこいい父親かな?」

 

 ウィルはきょとんとして、首をかしげる。ヒューもよくわからなかったかと思って、それきりその質問をやめた。

 質問の意図は理解できていた。でも理由がわからなかった。ウィルにとって、父親とはかっこいいもので、ヒーローだった。それが当たり前だと思っていたから、どうしてそんなことを聞くのかわからなかった。

 

 

 これは夢、そして記憶。

 未来に何の不安も抱いていなかった、大勢に守られて生きていた日々の記憶。

 

 

「……答えれば良かったな」

 

 目を覚まし、つぶやいたのは夢の光景への未練。

 

 居候していた頃は見慣れたものだった八神家の天井が、ずいぶんと懐かしく感じられる。

 ウィルが滞在していた春頃とは異なりカーテンは厚手のものに変わっており、その隙間からは朝日の光が漏れていた。開けてみるまでもなく外は快晴だとわかる。

 枕元の時計は八時を示している。想定よりも起きるのが遅くなったのは時差ボケのせいか。それとも夢から覚めるのを精神が嫌がっていたのか。

 起き上がろうとして、体が汗でべたついていることに気がついた。朝食の前に、軽くシャワーを浴びようと思いながら、ウィルは体を起こした。

 

 

 

 着替えを持って風呂に向かう途中、リビングへとつながる扉から朝食の匂いが漂ってくる。匂いに誘われるように、ウィルは予定を変えてリビングの扉を開く。

 リビングは昨夜と比べて少しだけ片付いていたが、飾りつけのほとんどがいまだに部屋中を彩っていて、寝起き眼には刺激が強い。

 ソファに座ったヴィータが、湯気のたつホットミルクを片手にうつらうつらとしていた。

 

「おはよう、ヴィータちゃん」

「あぁ……うん……ぉぁよぅ……」

 

 言葉が通じる状態ではないようだ。

 ソファの横では犬のザフィーラがニュース番組を見ていた。挨拶をすれば、しっかりとウィルと視線を合わせて軽く吠え、挨拶を返してくる。人語を解しているかもしれないと思えるほど利口な犬だ。

 食卓に行くと、シャマルが食器を並べていた。シャマルとも挨拶を交わしてキッチンへと入れば、白いエプロンを身に付けたはやてが朝食の用意をしていた。

 キッチンには卵焼きとアジのひらき、春菊のおひたしがあり、味噌汁の入った鍋からは湯気が立ち上っている。おそらく八神家の朝食の中でも、最も食べた回数が多いであろう定番のメニューだ。しかし、少しの違和感。

 

「おはようさん。もうちょっとしたら起こしに行こうと思てたんやけど」

「おはよう。味噌汁少し変えた?」

「わかる? 近所のおばさんが教えてくれたんよ。具は変えてないけど、お出汁を変えてみてん。前は昆布やったけど、今日のはかつお。味見してみる?」

 

 はやては味噌汁を小皿にすくって差し出す。ウィルはそれを受け取って、一口啜る。

 

「前より少し辛くなったかな。それに少し味が大雑把だね」

「あらら、まだ慣れてへんからかな。……あかんかった?」

「そんなことないよ。おいしいし、この味の方がおれの舌にはあっているみたいだ。ミッドは濃い味付けの食べ物が多いから」

 

 良かった――とはやては微笑んだ。その笑顔は幸せそうで、シグナムたちとの暮らしが良い影響を与えているのがわかる。

 はやてはいつもにこにこと微笑んでいて、悲しそうな顔はしない。こちらから踏み込まない限り、自分の弱みや苦しみを決して他人に見せようとしない子だと、居候していた頃の経験から理解している。

 だから今もいろいろと悩んでいるのかもしれない。それでも、彼女の笑みを見れば今の生活に幸せを感じているのは間違いないと確信が持てる。

 

 その姿に大きな安堵と、ほんの少しの嫉妬を覚える。

 そんな自分の内なる感情を自覚して、独占欲が強いのだろうかと自嘲する。

 

「なに笑てるん?」

「なんでもないよ。ところで、シャワーを浴びてきてもいいかな。寝ている間に少し汗をかいちゃって」

「ええよ。もうすぐ朝ごはんの用意も終わるから、急いでな」

「了解」

 

 

 

 ウィルが行った後、はやてはもう一度味噌汁を小皿にすくい、味見する。

 

(なるほど、こっちがウィルさんの好みなんやな)

 

 今度来た時は、もっとうまく作れるようになっておこう。

 小皿を置こうとして、その手が止まる。たしかウィルも同じ小皿で味見したはず。ということは――

 

(――うわ? もしかしてこれって――いや、でも反対側使ったかもしれへんし――)

 

 顔が熱い。鍋を覗きこむふりをして、うつむいて顔を誰にも見られないようにする。そして、シャマルがキッチンに入ってこないように願った。きっと今の自分は、耳まで真っ赤になっているに違いないから。

 

 その時、廊下の方から、扉が勢いよく閉められる音が聞こえてきた。ふと違和感を覚えて、あらためて周囲を確認する。食卓にシャマル。リビングにヴィータとザフィーラ――そういえば、一人足りない。

 

 

 

 洗面所の扉の前、ウィルは頭を抱えて座り込んだ。

 注意力のない三秒前のウィルに責任があるのは間違いない。しかしウィルが洗面所への扉を開けた瞬間に、相手もまた浴室から洗面所に繋がる扉を開けるという偶然――運と言う不可知な物にだって責任が一割くらいあるはずだ。

 ウィルだって洗面所に、しかも扉一枚向こうに相手がいたのであれば、さすがに開ける前に気がついただろう。そして洗面所にだって鍵はついているのに、鍵をかけなかった彼女にも責任の一割くらいは――いや、やめておこう。加害者側が被害者に責任を押し付けるのはあまりに情けない。

 可能な限り迅速に扉を閉めたが、それでも見えるものは見えてしまった。血と肉が通っているとは信じられないほどのシグナムの裸体の美しさは、ウィルの脳裏に鮮明に焼き付いた。

 湯気という白い羽衣を纏った天女(ヴァルキリー)のような、ある種の超越者か天上人――などと表現できるくらいにははっきりと見えた。己の動体視力が呪わしい。

 

 朝から本当に良いものを見せてもらい眼福だ。

 しかしウィルの目下の目的は、彼女たちに信頼してもらうこと。偶然とはいえ、裸体を見てしまったというのは嫌われるに十分な理由だ。

 昨日のパーティでは、みんなまんざらではない顔をしていたし、なによりリビングの飾りつけは電飾まで使う手の凝りよう。ウィルの誕生日のためにここまでやってくれるのであれば、まだ嫌われているということもないはず。もしかしてもう好かれているかも、なんて思っていたのに。

 これが天からの贈り物だとしたら、こんな誕生日プレゼントはいらなかった。

 

 何食わぬ顔でリビングに戻ることもできず、どうしようもない衝動を抱えたまま廊下の壁に背をもたれかけさせ、膝を抱えて三角座り。

 そこにさらなる追い打ち。

 

「何しとるん?」

 

 現れたはやてを見て、いよいよウィルは絶望する。これを知ったはやてに幻滅されるのは避けたいと言い訳を考えようとする。

 しかしウィルのひきつった顔を見て、はやてはため息をつくと、仕方ないなぁという顔でウィルのそばまでやって来た。

 

「間にあわんかったんやね」

「もしかして、シグナムさんがお風呂に入ってること知ってた? ……教えてほしかったな」

「ごめんな、すっかり忘れてた。お詫びになるかわからんけど、シグナムが出てきたら私も一緒に謝るから」

 

 その申し出はウィルにとっては救いの言葉だった。

 ウィルが言えたことではないが、シグナムたちははやてには非常に優しい。甘いと言ってもいいほどだ。その口ききがあれば少しはましになるかもしれない。

 

「ありがたい。はやてが聖王様に見えてきた」

「誰やのそれ? ……ところで、シグナムの裸見たんやろ? 胸、見えた?」

 

 急に声を小さくして、はやてはウィルに問いかける。頭が勝手に先ほどの光景を再生し、首が自動的に縦に振られる。

 

「すごかったやろ?」

「すごかった。今まで見てきた中で一番すごかった」

「……そんなに大勢の見たことあるん?」

「あんまり色気色気しいもんじゃないけどね」

 

 ウィルの脳裏に浮かんだのは、スカリエッティのラボで調整用ポッドの中に浮かんでいた戦闘機人の姿だ。

 

「へぇ…………たまに一緒にお風呂に入るんやけど、いっぺん揉ませてもらったことがあるんよ。なんていうんやろ……同じ人間やのに、こうも違うもんなんやなぁって悲しくなるくらい柔らかくて、思わずやみつきになりそうやった」

「それはうらやましい。俺も揉んでみたい――」

 

 安心して気が緩んだせいか、思ったことをそのまま口に出したウィルに、はやての車椅子が襲いかかる。五年を越える車いすの操縦経験をもってして、タイヤでウィルの足の指のみを的確に轢く。

 鍛えようのない部分への攻撃に、さすがに悶絶。ウィルは少し涙目になりながら、はやてに抗議する。

 

「……ねえ、自分から話をふっておいてこの仕打ちは酷いと思わない?」

「ごめんな。でも、無性にイラっときてん。理不尽やけど、乙女心やと思って堪忍して」

「くそう、女性はいつもそうやって――」

「おはようございます。こんなところで何をしておられるのですか」

 

 気がつけば着替えを終えたシグナムが、二人の隣に立っていた。

 座ったまま急いで頭を下げ、もはや土下座に近い姿勢で謝るウィルと、その横で助け舟を出すはやてを、シグナムは不思議そうな顔で見る。

 

「許すもなにも、そもそも怒るほどのことではないでしょうに」

「でも、俺は見て――」

「ただの肌だ。積極的に見せるものではないが、見られて何かが減るものでもない。それよりも風呂場を使うのであれば、急いだ方が良いのではないか?」とウィルを向いて言う。続けてはやての方を向き 「ある……はやてがここにいるということは、朝食の支度は終わったのでしょう」

 

 そのままシグナムは二人の前を通って、リビングに入って行った。どうやらシグナムは羞恥心が最初から減っている人物だったようだ。

 

「……とりあえずシャワー浴びてくるよ」

 

 

 

 

 朝食を食べ、食器を洗い終われば時刻は九時。

 支度を終えて玄関に集まると、見送りに来たザフィーラに別れを告げて出発する。

 

 バスに揺られて一時間。一行は山を越えた隣町にある遊園地にやって来た。

 うさぎのキャラクターをマスコットにしたこの遊園地は全国的に知名度が高い。敵役であるのろいうさぎの絶妙に気の抜けた感じが十代女子の間で人気を博したのがきっかけで有名になり、入場直後のグッズ売場でものろいうさぎ関連の商品が店頭に並べられている。

 ヴィータは海鳴に来たばかりの頃に、はやてにぬいぐるみを買ってもらったことがきっかけで、こののろいうさぎをいたく気に入っているらしく、今も誘蛾灯に魅かれる蛾のように、ふらふらとそちらに向かいそうになってシャマルに止められていた。

 棚の片隅に追いやられている本来の主役たるメインマスコットの方から、そこはかとない呪詛(のろい)を感じるのは気のせいだろうか。

 

 グッズ売場の並ぶ通りを抜けた所で、一行は立ち止った。

 

「はやて、まずは何に乗りたい?」

「えっと…………よくわからへん。こういうとこに来るの、初めてやから」

 

 はやては幼い頃に両親を亡くし、以来お手伝いさんを雇っていた時期はあれど長らく一人の生活を続けてきたため、遊園地には一度も来たことがない。

 そして今日の遊園地行きは昨夜のパーティ中にそのことを知ったシャマルの提案で急遽決定されたものなので、下調べはまったくしていない。

 

「とりあえず、あれに乗ってはどうでしょう?」

 

 上を見上げながら言うシグナムにつられて、ウィルも視線を上にあげる。すると、上空に設置されたレールを、コースターと悲鳴が駆け抜けていった。

 

 どの遊園地でもコースターはたいてい人気上位のアトラクションで、この遊園地でもそれは例外ではない。

 全長千六百メートル。最高速度は時速百八キロメートル、ウサギがとび跳ねた軌跡のようにも見える駱駝の背(キャメルバック)の後には、国内有数の巨大宙返り(ループ)と二つの縦長楕円ループが続く。

 体がしっかりと座席に固定されるタイプなので、足の不自由なはやてでも乗ることが可能だ。

 

 一行はとにかく定番のアトラクションを流すことに決めて、さっそく列に並ぶ。平日の午前中だからか並ぶ人は少なかったので、すぐにプラットホームまで進んで順番が回ってきた。

 しかし席についた後で急にシグナムと従業員がもめ始める。

 

「申しわけありません。お客様の安全のためにも、安全バーとベルトはしっかりとしていただくことになっておりまして」

「せめて腰のベルトは外したいのだが。これではいざという時に動くまでに、時間がかかってしまう」

「動かさないためにあるのですが――」

「もう、シグナムは何を言うて……ウィルさんはいったい何してるん?」

 

 シグナムの前の席に乗っていたはやては、隣に座るウィルがぶつぶつと言いながら、ベルトを引っ張っている姿を見て声をかける。

 ウィルははやてにだけ聞こえるような小声で、今度は安全バーを押したりしながら答えた。

 

「本気でこれつけて拘束されて飛ぶの? 動けないの怖くない? ない方がいいんだけど――」

 

 自由に飛ぶのは慣れているが、身動き取れずに飛ばされるのは怖い。

 結局、コースターが出発するのが一分遅れ、原因であるはやて御一行は他の乗客からの厳しい視線にさらされ続けることになった。

 

 

 

「定番の次も定番といこか」

「あんまり見ないらしいけどね、お化け屋敷のある遊園地」

 

 三十年前に廃校になった小学校。誰もいない真っ暗な校舎を、小さな懐中電灯を片手に進んでいかなければならない。呪われた校舎の中を進み、目指すは校舎裏のうさぎ小屋。その小さな飼育小屋には、かつて廃校になった時に放置されて死んだウサギたちの霊が今も死に気づけず囚われている。

 きみたちには入り口でウサギのエサが渡される。飼育小屋の中にある小皿にエサを入れて、かわいそうなウサギたちの霊を成仏させてあげてくれ――というアトラクション。

 入り口から出口までの距離は五百メートル。平均所要時間二十分。

 

「どうやら、車椅子でも入場できるようですね」看板を見ながら言うシグナム。

「なんで三十年前の学校がバリアフリーやねん……っていうのは、つっこんだらあかんねやろなぁ。でも、雰囲気あるから、学校に対してトラウマを持ってしまうかも」

「ふっ、この魔法全盛の時代にお化けなんて非科学的なもの」鼻で笑うウィル。

「それ、つっこみ待ち?」笑うはやて。

「暗いところから人が飛び出てくるだけなんだろ? どこが怖いんだ?」ヴィータは理解できないと首をかしげる。

 

 ただ一人、シャマルだけが顔を青くしていた。

 

 

 

 心臓に負担のかかるアトラクション二連発の後は少し休息が必要だろう、主にシャマルのために――というわけで。

 

 この園内には、動物とふれ合うための場所がある。また、ペットや育てるための商品も取り扱っており、育て方の講習もおこなわれている。

 一行もご多分にもれず、ウサギたちとのふれ愛を楽しんでいた。垂れた耳とひくひく動く鼻がかわいらしい。ちょこまかと動くのもかわいらしい。背中や頭をなでると、じっとしてなでられ続けているのもかわいらしい。全てがかわいらしい生き物だった。

 これだけかわいらしいと、野生ではどうやって生きて来たのか。八神家にあったゲームのように、鋭い門歯で噛みついて首をはねるのだろうか。それとも八神家にあったパソコンで見た昔の映像のように、恐ろしい速さで飛びかかってやっぱり首をはねるのだろうか。聖なる手榴弾はないが魔力弾は撃てる。

 と益体もないことをウィルとはやてが話している間も、ヴィータはウサギをなで続けていた。あまりにも長くなったために、シャマルが出発をうながすためにヴィータに近付く。

 

「ヴィータちゃん、そろそろ行きましょう?」

 

 声をかけ、シャマルはヴィータの顔をのぞきこむ。夢中になっているヴィータの顔を見てみたいという稚気。

 しかし、実際にシャマルが見た表情はまるで逆だった。その顔に嬉しさはなく、悲しさと慈しみが混じった表情。ヴォルケンリッターの中でも、最も幼いと思っていたヴィータの、誰よりも大人びた表情。

 ウサギの背をなでながら、ヴィータは言う。

 

「あったかい。こんな小さいのに、こいつらも生きてるんだよな」

 

 誰に向けるわけでもない、独り言のような言葉を呟くと、すぐにヴィータは立ちあがった。

 

「悪いな、待たせちまった。こいつらがこんなになで心地が良いのがいけないんだ」

 

 それだけであのような顔をするわけがない。

 けれどシャマルはそれ以上は何も言えず。

 結局二人はそれ以上ウサギについて話さず、そのままはやてたちに合流した。

 

 

「さて、それでは次は――」

 

 どこへ行こうか? 四人ははやての方を向いて尋ねる。

 

「それじゃあ、次は――」

 

 

 

 

 テレビは正午を告げ、昼のニュース番組が始まる。内容は朝とほとんど変りなく、ザフィーラは前足でボタンを押して、テレビを切った。

 留守番中のザフィーラには、やることがない。リビングの飾りつけを片付けようかと考えたが、もしもウィルが直接帰らずにもう一度家に帰ってくれば疑問を持たれてしまう――犬しかいなかったはずなのに、誰が部屋を片づけたのか? と。

 したがって、できることと言えばテレビを見て本を読むことくらいだ。

 

 ザフィーラは体を起こし、今ごろ遊んでいるであろう主たちに思いをはせる。少しだけ、ほんの少しだけザフィーラも行きたかったが、犬は入れないらしい。

 悔しくはない。主の帰ってくる場所を守るのも守護獣のつとめだ。

 それに八神家には闇の書がある。普段ははやてとヴォルケンリッターが共に外出する時には一緒に持って出かけるのだが、今回ばかりは万が一にも同行するウィルに見つからないよう、はやての部屋に隠してある。

 闇の書の安全、ひいては()()の安全を守ることも、ザフィーラに課せられた使命の一つ。

 たかがお留守番。されどお留守番。これもまた非常に重要な任務。そんな風に自分に言い聞かせた。

 

 時刻は正午――昼食の時間だが、動いていないのでたいして腹はすいていない。

 それに掃除と同様に、ただの犬と思われているザフィーラが食事を作ったことがばれては不審に思われる。

 どうしようかと悩むザフィーラの目が一つの物体をとらえる。リビングの端に置かれた、ラッピングされた箱。昨日、ウィルが持ってきたプレゼントの一つで、たしか中身は高級ドッグフード。

 

 ザフィーラは守護獣形態のまま、器用に両の前足を駆使して箱を開ける。箱の中に見えるのは画一的な大きさの、茶色の物体。食事というよりはジャンクフードのようだ。見た目はともかく、匂いは悪くない。ザフィーラは少しずつ口に運び始めた。

 無人のリビングに、むしゃむしゃと噛み砕いて咀嚼する音が響く。

 

「……味が薄いな」

 

 栄養バランスだの減塩だの、ドッグフードの味はザフィーラにとっては今一つ物足りない。高級なドッグフードであれば違うのではないかと期待したが、あまり変わらないようだ。

 

 食事を終えたザフィーラは、カーペットに寝そべった。またテレビをつけていても良いし、本を読むのも良い。パソコンを使っても良いが、履歴はしっかりと消しておかなければ。

 しかし今日は本当にいい陽気だ。ひなたぼっこに興じるのも悪くない。

 

 太陽の光を浴びながら、ザフィーラは未来に思いを馳せる。

 八神はやてが今代の主になってから、はや五ヶ月。ヴォルケンリッターは、その間一度も戦っていない。

 これほどまでに長い間、戦いから離れたのは初めてだ。

 

 一月二月戦わないだけならこれまでもあった。

 しかしそれはあくまでもいずれ来る大きな戦いのための準備期間――戦いに備えてカートリッジを作成し、己を鍛えるための猶予であり、戦いから離れたわけではない。

 ヴォルケンリッターの肉体はプログラムが実体を持ったものにすぎない。鍛えても肉体的、魔力的には成長もしなければ、長らく平穏を貪っても劣化はしない。

 しかし記憶は蓄積する。繰り返される戦いの記憶はヴォルケンリッターを歴戦の戦士へと鍛え上げたが、逆に長く戦わなければ勘が鈍ることもある。

 そして、この数ヶ月はまともに訓練さえおこなってもいない。

 

(一度、四人で集まって訓練をするべきか。しかし、全員が主から離れるわけにはいかない。ならば二人で――いや、いっそのこと主も一緒に連れて行くか。我らが戦うことを厭うているが、見世物のようにすれば喜んでくれるのではないだろうか――)

 

 八神家の庭で小さな何かが動いた。

 ザフィーラは思索にふけりながらも、そのわずかな音を聞き逃さず、瞬時に意識を切り替えて庭を見る。

 

(なんだ、猫か)

 

 庭にいたのは一匹の猫だった。ザフィーラが軽く吠えると、猫はすたすたと庭から出て行った。

 

(ふむ、考え事をしながらあれに気付けるなら、まだそれほどなまってはいないようだな)

 

 自分の鋭敏な感覚に少しだけ得意げになる。

 かつては様々な小動物――地を駆ける動物、木を駆け巡るげっ歯類、空を飛ぶ鳥、その全てに気を払わなければならなかった。それらの中には、ザフィーラと同じ守護獣――動物の姿をとることが可能な者が紛れている怖れがあったからだ。

 もっとも、魔法のないこの世界ならば、そこまで気をつける必要はないだろう――とザフィーラは考えていた。

 

 それにしても、今日は本当にいい天気だ。

 ザフィーラはカーペットに身を沈め、ひなたぼっこをしながらあれこれと今後のことを考え続けた。

 想像の中では、今と同じような穏やかな日々が続いていた。

 

 庭を囲う木々と茂みの影から、先ほど立ち去ったはずの猫がその姿をじっと見つめていることに気付かず。

 

 

 

 

 日常と非日常の境界はない。平穏と戦場を分ける垣根も存在しない。

 もしもあるとしても、せいぜい薄い氷一枚程度。

 

 普通の日常(エブリデイ)に、日常を変革する魔法(マジック)が突然現れる。

 そんな奇跡のようなイベントは、いつだって唐突に訪れる。

 

 はやての日常に訪れた最初の魔法は、ウィルという異世界の来訪者とで出会ったこと。

 次の魔法は、ヴォルケンリッターが現れて、闇の書の主になったこと。

 

 次のアトラクションに胸を躍らせるはやては、かすかな痛みを感じた。

 それは非常に小さく、肉体の痛みというにはあまりにもふわついていて実感がなかったので、はやてはそれを無視した。きっと、珍しく興奮して少し疲れてしまっただけなのだと――

 

 その痛みが、はやての日常を壊す三つ目の魔法。

 

 

 ――また……始まるのだな

 

 はやての部屋。鍵のかけられた引き出しの中に、闇の書がある。

 いまだ現れない五人目のヴォルケンリッターの諦観が、書の内に広がる昏黒の闇に木霊した。



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薄氷の割れる音

 澄みわたる秋晴れの青空が夕色に染まり始める。

 恵まれた天気の下、一同は心行くまで行楽を楽しんだ。

 回れていないアトラクションや夜間限定のイベントも残っているが、はやての体力を考えるとこのあたりが限度。今が楽しいからと無理をして翌日体調がすぐれないとなっては、せっかくの良い思い出もくすんでしまう。

 そのことを伝えると、はやては一つのアトラクションを指差した。

 

「最後はあれに乗りたいんやけど、ええかな」

 

 指の先にそびえ立つのは、このテーマパークで最も大きなアトラクション――観覧車。

 小さなゴンドラに乗せられて、円の軌跡に沿いながら天高く上昇し、再び地に戻ってくる。移り変わる景色を楽しむための構造は、どこか象徴的で概念的ですらある。

 

 乗り込む時、係員がはやてが乗るのを手伝おうとする。が、それをやんわりと断ってウィルは自分ではやてを抱えあげる。ウィルはそのまま乗り込むと、はやてを自分の膝の上に乗せた。

 

「……へぁ?」

 

 呆気にとられたはやての、間の抜けた声。突然のことにシグナムたちも思わず固まるが、その間にもゴンドラは進んで行くので、文句を言う余裕もなく慌てて乗り込む。

 結局、ウィルの正面にシグナム。横にヴィータ。斜め前にシャマルが座る。そしてはやてはウィルの膝の上で後ろから抱きすくめられている。

 

「な、なぁ、なんでこんな乗り方したん?」

 

 尋ねるはやての顔は、夕焼けに照らされていることを抜きにしても赤い。

 

「五人で普通に座るのは、ちょっと狭そうだったから……って理由じゃ駄目かな。それとも、嫌だった?」

「別に嫌やないけど……」

 

 観覧車は少しずつ地上を離れる。地面にいる人々が小さくなるにしたがって、周囲が静かになっていく。

 

 はやてはウィルに抱かれて座っている。常日頃から鍛えているウィルの体はお世辞にも柔らかいとは言えないが、無機物とは異なる暖かみがあった。添えられた腕ははやての小さな体躯を、情感を込めて包み込んでいる。

 異性に抱かれているということへの恥ずかしさは次第にはやての中から消えていき、両親を亡くす前のことを思い出したはやてはゆっくりとウィルに体重をかける。背から伝わる熱が少し恋しくて、暖を求める子猫のように体をさらに寄せる。

 暖かさに包まれたまま、はやてはゆっくりと瞳を閉じた。

 

 地上から切り離された個室の中、はやての寝息がかすかに聞こえる。

 

「寝ちゃったみたいですね」

 

 シャマルが葉の触れ合い程度の声で囁くと、シグナムも声を落として首肯する。

 

「お疲れだったのだろう。頂点につくまではそっとしておこう」

 

 ゴンドラは座席とフレーム以外が透明になっていて、差し込む夕日の赤でゴンドラが満たされる。

 

「みなさんにお聞きしたいことがあります」

 

 暖かな静寂をやぶったのは、声を落としつつも硬質的な硬さを持ったウィルの声。

 

「なんでしょうか?」

 

 首をかしげながらシャマルが質問の先をうながす。

 

「あなたたちは、いつまではやてのところにいるつもりですか?」

「それは――」

 

 いきなり突き立てられた問いに、シャマルは答えあぐねているようだった。

 シャマルがもちまえの優柔不断さを発揮してあれこれ思案しているうちに、その隣のシグナムが何を当たり前のことをという顔で答える。

 

「無論はやてがその生を終えるまでだ。その気持ちは皆も変わらない」

「グレアムさんが戻って来いって言っても?」

 

 彼女たちははやての財産管理をしているグレアムおじさんから派遣されて、日本にやって来たと聞く。それが事実であれば、そのグレアムおじさんの判断次第では、自分の意にそわずとも帰らなければいけなくなることもあるはずだが。

 

「グレアム? ……誰だ――ッ! 何をするシャマ、痛っ!」

 

 シグナムの肩にシャマルの手がのせられている。スキンシップのように見えるが、指先に尋常ならざる力が込められている。

 シグナムが余計なことを口にしている内に答えが組み立て終わったのか、シャマルが答える。

 

「たしかに、グレアムさんから戻ってくるようにと言われれば帰ることになるでしょう。でも、たとえそう言われたとしても、できる限りはやてちゃんのおそばにいたいと思っています。はやてちゃん一人置いていきなり帰るなんてそんなことできません」

 

 シャマルとシグナムの奇妙なスキンシップに驚かされつつも、ウィルは話を進めることにした。

 

「あなたたちが来る前に、はやてに家族にならないかって提案したんですよ。結局ことわられましたけど、そのことは知っていますか?」

「はい……そちらのご養子にと」

「こちらからも、一つ聞いて良いだろうか」

 

 先ほど掴まれていた肩をさすりながらシグナムが問う。

 その隣では、シグナムがまた変なことを言わないだろうかと、シャマルがひやひやとしながら横目で見ている。

 

「貴方はなぜ、はやてにそこまでしてくれる?」

 

 問われたウィルは少し考えて口を開く。

 

「なんらかの形で恩を返したかったから……ってだけでもないんでしょうね。でも、はやてが好きだからっていうのも、少し違います。もちろんはやてのことは好きですけど。……あえて言うなら、違うなって思ったんです。こんな良い子が不幸になるのは違うって。だから自分のできる範囲で幸せにしたいと思った……そんなところでしょうか」

「それだけなのか?」

「行動する理由なんて納得できないってだけで十分じゃないですか? それでですね、いろいろと決まりがあって俺がこうして海鳴に来ることができるのも、後半年か一年か……いつまでもは遊びに来ることはできないんです。まぁ、士郎さんや桃子さんははやてに親切ですし、なのはちゃんやすずかちゃんみたいな友達もいますから、あんまり心配はしていません。唯一気がかりだったのは、あなたたちのことです」

 

 さらに一歩踏み込んだ問いかけに、シャマルとシグナムが動揺したのが、ウィルにもわかった。けれども、わざと気付かなかったふりをして先を進める。

 

「俺はあなたたちが何者なのか知りません。グレアムさんのところから来たという言葉をはやてが信じている以上、それが真っ赤な嘘だとも思えません。それでも、やっぱり不安だったんです。たとえば……はやてはちょっとしたお金持ちみたいですから、それを狙う人がいてもおかしくないかな、とか」

 

 途端、シグナムが腰を浮かせ、声を荒げる。大切な誇りを汚されたという憤怒だ。

 

「我らをそのような盗人と疑っていたのか!! たかが金で我らが主を――むぐっ! むぁにをふる、ふぁまふ!」

「も、もう、シグナムったら! 大きな声なんか出したら、はやてちゃんを起こしちゃうわ」

 

 隣のシャマルが手を伸ばし、急いでシグナムの口を押さえていた。押さえるというより、むしろ頬を指先で締めあげている。顔は笑っていたが、なに余計なこと言おうとしてんだこのやろう、という半ば恫喝めいた気色が混じっていた。

 ウィルはため息一つくと、目の前の光景をスルーして再び口を開く。

 

「あなたがたにも事情があるのは、見ていると何となくわかります。時々、この人たち明らかにカタギじゃないなって思うこともありましたし。だからこっちに来るたびにあなたたちのことを観察していました。あなたたちがはやてにとって良くない人であれば、やっぱり養子にならないかと説得しようかと思っていたんですが……」

 

 はやての栗色の髪にそっと指を通す。さらさらと指の間をこぼれる髪が、夕日に照らされる。

 

「今のはやては幸せそうに笑っているんです。あなたたちを捨てて俺のところに来てもらって、今より良い顔で笑ってくれるなんて、とてもじゃないけど自信ありません。だからはやてを連れていくのは諦めます」

 

 一緒に暮らしてくれる新たな家族と、ようやくできた同い年の友達たち。

 大切な人たちと引き離してまで自分のところに来てもらおうというのは、ウィルのただの独占欲でしかない。

 

「はやてのことをこれからもよろしくお願いします」

 

 そう言って、ウィルは頭を下げた。はやてを抱きしめているので首から上を動かしただけの会釈だったが、それだけの所作に全霊をこめた。

 その時、ウィルの隣から声。

 

「お前さぁ」

 

 観覧車に乗ってから一言も話さなかったヴィータの呆れたような声。いや、声だけではなく表情、全身を使って心底呆れたと表現している。

 

「ほんっっっとにめんどくさい奴だな。そんな理屈こねまわして身を引くくらいなら、一緒にいたいって素直に言えば良いじゃねーか」

「……年をとると、それだけじゃ動けなくなるんだよ」

「十五かそこらの子供がよく言うよ。あたしにはただ一人で賢ぶってるようにしか見えねーよ」

 

 ヴィータの言葉の剣が、強がっていたウィルの心にぐさりと突き刺さる。

 

「……でもヴィータちゃんは、俺よりは年下だろ?」

「馬鹿言うな。あたしの方が年上だっての」

「そうなの!?」

 

 ウィルはヴィータの姿を上から下まで見て、それでも納得がいかずに首をかしげる。

 

「ヴィータちゃん……いえ、ヴィータさんはおいくつなんでしょうか?」

「秘密……ってか、わかんね」

「それは……もしかして何か悪いことを聞いた……のかな?」

 

 ヴィータは横目でウィルを睨む。

 

「ともかく、そういうことはちゃんとはやてが起きている時に話せよ。こんなところで、寝ているうちにすまそうとすんな。はやての幸せは、はやてに決めてもらえば良いんだ」

「でも話し合うことになれば、はやては俺のところに来るかもしれないよ。ヴィータちゃんは、はやてがいなくなっても良いの?」

「あたしたちからはやてを奪えると思ってんのか? ちゃんと話し合っても、はやては絶対にあたしたちを選ぶ。お前なんかに負けねーよ」

 

 ヴィータの言葉は正論だ。眩しすぎるほどの理想論だ。はやてに選んでもらう――それは正しい。でも、どちらかを選ぶ行為は、きっとはやてを傷つける。選んだ方よりも、選ばなかった方を見て心苦しめるような子だから。

 

 でもそれらは全てウィルの頭の中のこと。ウィルが勝手に想像したはやての内心にすぎない。

 そして、たとえそれが当たっていたとしても、はやてのことははやてに決めさせるべきではないか。

 それとも、はやての気持ちを考えて身を引くというのは建前で、実は本気で説得して、その上で自分が選ばれないことが怖いのか。

 考えれば考えるほど思考の糸は絡まる。

 

「何が正しいのか、わからなくなってきたよ」

「ほんとに馬鹿だな」

 

 ヴィータは聞きわけのない生徒に諭すように語る。

 

「正しいとかじゃなくて、やりたいようにやれば良いって言ってんですよ」

 

 ヴィータの理屈は単純明快だ。情理の絡み合った複雑怪奇な結び目を、一つ一つ解いていくのではなく、自分の願いという剣で断ち切る。

 ウィルの頭にある言葉が蘇る。先生のもとで治療を受けていた時に、先生が語った言葉。

 

 ――迷った時はただ心から湧き上がる衝動、欲望に任せれば良い

 

 ニュアンスは違うが、その言葉も根っこは同じだ。

 

「……わかったよ、降参だ。次に来た時から、はやてを説得することにするよ。俺と一緒に来てくれってね。でも良いのかな? 俺のいるところは医療技術が進んでいるから、もしかしたらはやての脚も治るかもしれない。これは結構強力な説得材料だよ」

 

 にやりと笑うウィルに、ヴィータは不敵な笑みを浮かべ真っ向から睨み返す。

 

「上等だよ。だったらあたしたちは、脚が治らなくたって、そんなの関係ないくらいこっちの方が幸せだって思わせるだけだ」

 

 ヴィータの宣言にシャマルが続く。

 

「わ、私だって頑張ります! はやてちゃんが幸せだって思えるように!」

「なら、俺もいろんな方法で説得しますよ。タイムリミットまで半年か一年か……それだけチャンスはあるってことですからね。俺の家族になることのメリットを論理的に伝え、時には感情に訴えてでも――泣き落としくらいは平気でやりますよ、俺は」

 

 少し楽しそうに笑いながら睨み合い、そんなやり取りをするウィルたちを見て、シグナムは腕組み姿勢でふっと笑う。

 

「やれやれ、時には考えない言葉の方が有効なのだな。だが、ヴィータの言うとおりだ。主はやてのご意向を無視して考えるなど、騎士たる―― 「シグナムはもう黙ってて」 ……はい」

 

 なんだかおかしくなって、ウィルは笑った。その振動で寝ていたはやてがびっくりして起きる。

 そんなはやての体に手をまわし、後ろから抱きしめた。突然の抱擁に驚き目を白黒させるはやて。そんなに密着するなとヴィータの怒号が飛び、あまり無礼なことはとシグナムが立ちあがろうとして、ゴンドラが揺れる。

 

 

 ウィルがはやてを膝に乗せたのは、後ろ向きな感情からだった。これで別れと思い定めていたからこその抱擁。これから遠くへと旅立つ子を、親が惜別の思いと共に抱きしめるような。

 でも今の抱擁は違う。はやての熱を確認するため。離したりはしない、きみたちに渡したりはしないという意思表示だった。

 

 その後、みんなで夕日に染まる街並を見て、再び地上に戻って来た。あんまり中で暴れないでくださいと係員に叱られた後、帰る前にみんなでグッズ売場のぬいぐるみや土産を買いこみ、うきうき気分でバスに乗った。

 

 

 

 

 はやてが突然苦しみ出して倒れたのは、そのバスの中だった。

 

 

 

 

 外はすでに日が沈み、街には人工の光が灯っている。

 ウィルは病院の電話機で月村家に遅れる旨を連絡し、受話器を戻す。ため息を一つ吐き、シグナムたちのもと――海鳴大学病院のロビーへと戻った。

 

 はやての検査が終わるのを待つ彼らは、全員が椅子に座ったまま。誰も一言も発しない。

 深海に沈み込むような消沈と行き場のない苛立ちが伝わるのか、三人の周囲には人払いの結界でも張られているかのように誰も近付かない。ウィルだけがその中に入って行き、結界を構成する四人目になって、さらに誰も近寄らなくなる。

 

 まだ医者から何かを告げられたわけではない。

 たいしたことないのかもしれない。いや、ないに決まっている。

 あまりに突然のことに重く考えすぎているだけで、きっと一日遊び回った疲れが何か悪い方に出てしまっただけだ。

 そんな何の根拠もない希望的観測を口に出そうとする前に、脳裏によぎるバスの中でのはやての苦しみ様が空虚な妄想を打ち砕く。

 

 やがて、白衣を着た女性がウィルたちのもとへと歩いて来た。

 はやての主治医である、石田先生。シグナムたちはもちろんのこと、ウィルも居候していた頃に幾度かはやての通院に付き添ったので面識はある。

 彼女ははやての検査が終わったことを伝えると、一同を病室へと案内した。

 

「みんな、心配かけてごめん!」

 

 ベッドで上半身を起こし、両の掌を顔前で合わせて、上目づかいにウィルたちを見ているはやての姿。病院に着くまで狂態ともいえる痛がりようは性質の悪い白昼夢だったのかと思えくる。

 

「はやて、大丈夫? もう痛くない?」

 

 ヴィータはベッドにすがりつくようにして、問い続ける。ウィル相手に啖呵をきった人物と同じとは思えない、外見相応の子供の顔。

 問われるはやては笑顔で、痛みを我慢しているようには見えない。

 

「うん、もうなんともないよ。ちょっと大げさに騒ぎすぎてしもた。バスの人らにもえらい迷惑かけてしもて……ああ、恥ずかしいわあ」

 

 と、恥ずかしがっているようなことを口にしながらも、その表情は口よりさらに雄弁で、ぬぐいきれない怯えが刻まれていた。

 それが先ほどのことは夢ではないと教えてくれる。今は痛みがないのは本当のようだが、次の痛みがいつ襲ってくるのかはわからない。その恐怖はいかばかりか。

 それを押し殺して、周囲に心配をかけまいとふるまう健気さと優しさは、もはや痛々しい。

 

「今日はもう遅いし、何かあった時のために今日一日は病院にいてもらった方が良いでしょう。明日もう一度検査をして、それで何もなければ退院しても構わないと考えています。ただ今後しばらくは診察の頻度を上げた方が良いかもしれませんね。少し相談したいので、シグナムさんとシャマルさんはついて来ていただけますか?」

「俺もついて行って良いですか?」

 

 二人を伴って病室を出ようとする石田先生の動きが、背中に投げかけられた嘆願で止まる。それも一瞬のこと。振り返った時の顔は笑顔。

 

「ええ、良いわよ」

 

 笑みは渇いていた。

 

 

 

「命の危険……ですか」

 

 肯定も否定もなく、ただ呆気にとられたシャマルの言葉に、石田先生はうなずいた。

 

「はやてちゃんの下肢は何年も前から原因不明の神経性麻痺で動かせませんでしたが、それでもこれまでは安定していたんです。ですが、六月の検診から少しずつ変化が表れ始めました。最初は誤差かとも思える程度だったのですが、先ほどの検査結果では、麻痺している範囲が二週間前の検診と比べて大幅に上へと広がっていました。これが一時的なことであれば良いですが、もしもこのままのペースで広がり続けることになれば、数ヶ月で一部の内臓器官が機能不全に陥ります。そうなれば――」

「原因はわからないんですか!?」

「ごめんなさい。こちらもできる限りのことは調べているのですが……症状はわかっても、その原因がどこにあるのか、まったくつかめないんです」

 

 石田先生は泣きそうになるのをこらえながら、話す。だが、その様子も平静を欠いたシャマルには見えていない。

 

「そんな! そんなことって――」

「シャマル」

 

 一言、ただ名を呼ばれただけでシャマルの動きが止まった。シグナムの静かな一喝には、普段のどこかズレている彼女とはまるで異なり、巌にも似た威圧感があった。言霊の向けられていないウィルと石田先生の呼吸さえ止まるほどだ。

 シャマルは平静を取り戻し、石田先生に頭を下げる。

 

「すみませんでした、お話を続けてください」

 

 石田先生からは、今後の診察スケジュールや、再度痛み出した時の対応が語られる。だが、肝心の原因がわからないため、これからも検査を続けることしかできない。重い沈黙が室内に満ちたまま、話は終わった。

 

 

 部屋から出た後、三人とも無言。それぞれが隣の二人に構う余裕はなく、告げられた真実といかようにして向き合うかを考えていた。

 三人の間に会話らしい会話が生まれたのは、階段に到着してから。はやてのいる上階に上がろうとするシグナムとシャマル。しかしウィルは立ち止まって二人に声をかける。

 

「時間が押しているので、今日はもう帰ります」

 

 ウィルが帰るはずだった時間はとっくに過ぎている。だからこれは事実の確認に等しい、当然の言葉。

 にも関わらず、二人の心には憤りが生まれる。はやてに命の危機があると知らされたのに一人さっさと帰ろうとするウィルへの苛立ちは、やつあたりとわかっていても抑えられない。

 睨むような二人の視線にウィルは微笑みを返す。笑みというにはあまりにも歪んでいる、無理に作ったと一目でわかる顔だ。

 

「そして、遅くても一週間以内にはやてを迎えに来ます」

「なっ!? ……それは、はやてちゃんの説得を始めるってことですか?」

「違います。説得ではなく、俺の故郷に連れて行きます。この一大事に、何度も何度も行き来して説得してる余裕なんてないでしょう。手遅れになる前に診察しないと。卑怯な言い方になりますが、はやてが大切なら賛成してください」

 

 ウィルはそれ以上何も言わず、深々と頭を下げて階段を下りて行った。

 残されたのは見ていて悲しくなるほどうろたえるシャマルと、腕組み姿の――服にしわができるほど、手が腕を強く握りしめているシグナム。

 

「どうしよう。このままだと……」

 

 シグナムはシャマルの問いかけにも何も返さない。昇り階段に片足をかけたまま、眉を寄せ目を閉じている。一目見ただけでわかるほどの苦悶の表情だった。

 

 魔法技術のある世界で診察を受ければ、はやてのリンカーコアが何かと魔力の経路が繋がっていることは一瞬で判明する。

 魔法技術のない世界の少女があまりにも巨大なリンカーコアを有していて、正体不明の魔力パスが繋がっている。これに疑惑を覚えない者などいない。

 追及されれば闇の書とのリンクがあることもすぐにばれる。そうなれば、はやてを待ち受けている運命は――

 

 時間にして数分。ゆるやかに開かれたシグナムの目には、氷の冷徹さと決意が宿っていた。

 今更ウィルに言われるまでもない。はやては大切な存在だ。だからこそウィルの提案は受け入れられない。

 シグナムは念話でシャマルに語りかける。呪いを紡ぐように暗い声色で。

 

『主を脅かすものは消さなければならない。たとえそれが主とどのような関係にあろうとも。これまでもこれからも変わらない。だというのに、我らは主の好意に甘えて、己の本分と使命を忘れ、怠惰な幸福を享受してきた』

『……どうするつもりなの?』

 

 はやてを管理世界に連れて行かせるわけにはいかない。取り得る選択肢は二つある。

 一つはウィルが再び来るまでに、はやてを連れて逃げること。数日の猶予があれば、逃げる準備は可能。しかしそれは友を失くし家を追われる、あてもない逃避行だ。とても耐えられるものではない。

 ならばもう一つの選択を。

 

『彼にはここで死んでもらう。シャマルはザフィーラに連絡してくれ。決断に時間をかけすぎた。私もこれから彼を追いかけるが、ここよりも主の家の方が月村に近い。それから、闇の書を持ってくるように、と』

『蒐集するつもり!? でもそれは、はやてちゃんに禁じられて――』

『ここで彼を討ったとしても、主はやての病が治るわけではない。ならばもはや、闇の書に頼るしかない』

 

 ウィルに全てを話し、協力を得るという方法もあったのかもしれない。

 だが、彼個人がどれだけ善良そうに見えても、今日したばかりの説得し合うという約束を破って連れて行こうとする彼を、心の底から信用することはできない。

 もちろん、はやての命の危機は約束を破るに足る事情だ。だからこそ、闇の書の主というそれ以上の事情がでてきた時に、管理局の局員である彼がどのように動くのかまで信用できない。

 

『シャマル、お前にも協力してほしい。私は決めることはできても、深く考えることはできない。お前の知恵が必要だ』

『……わかったわ』

 

 シャマルはすぐさま状況を整理する。

 

『ザフィーラに闇の書を持ってきてもらうのはやめた方が良いわね。ウィル君の実力は未知数だから、戦闘の邪魔になる要素は排除しないと。代わりに私が家に戻って、闇の書を持って来るわ。シグナムはザフィーラの加勢に向かってちょうだい。ヴィータちゃんには何も伝えず、このままはやてちゃんのそばにいてもらいましょう。何か起こっていることに気付いていても、あの子ははやてちゃんを放っておきはしないわ……こんなところで良いかしら』

『十分だ。いつも世話をかけてすまない』

『……あなたにお礼を言われるなんて、はやてちゃんが主になるまでは考えられなかったことよね』

『そうだな。我らはみな変わった。主が変えてくだされた』

 

 シグナムははやての病室の方へと顔を向けた。向けただけで、何も言わない。

 これから約束を破る自分たちに、語る言葉などない。

 

 

 

 ザフィーラは念話を受けるとカーペットから体を起きあがらせ、獣から人間へと姿を変えた。

 ガラス戸を開けて裏庭に出て、夜空へと飛びあがる。昼とはうってかわって外は冷たく、風がザフィーラの白髪をかすかに揺らす。

 

 ウィルが他の次元世界との行き来のため、月村家の敷地に建設された転送施設を利用していることは、はやてから聞き及んでいる。直線距離では病院よりも八神家からの方が近い。先回りは十分にできる。何も問題はない。

 時間がないからと事情は詳しく教えてもらっていない。それでもこれは将たるシグナムの命であり、主の為の行い。反する道理はなく、これまで通りに従えば良いだけ。

 

 だと言うのに、めったに表情を出さないザフィーラの顔は、この時ばかりは苦々しげに歪んでいた。

 彼にとって、これほどまでに気のりしない戦いは初めての経験だった。

 

 

 ザフィーラが月村家に向かった直後、八神家の裏庭で影が動く。

 小動物程度の大きさの影はまばたきほどの時間の後に消え去り、代わりに一人の人間が立っていた。

 その人物はザフィーラの後を追うように、空へと飛びあがった。月の光で浮かび上がるその顔には、空に浮かぶ細い三日月よりも、なお寒々とした仮面。

 

 

 

 ウィルは病院の入り口でタクシーを拾い、月村邸まで行くように頼むと、静かな車内でこれからの予定を考え始めた。

 夕暮の暖かさはどこに行ったのか、外気もウィルの心も冷たくなっていた。

 観覧車で交わした約束を反故にすることに罪悪感はある。だが、命の危険があるのに、何度も説得するなどと悠長なことをする気にもなれなかった。

 

 ウィルの頭を占めているのは、どうやってはやてを管理世界に連れていくかということだけだ。

 正式に手続きをおこない、渡航許可が下りるのを待つのは時間がかかりすぎる。なのはの短期留学も、彼女が魔導師の才能を持っているという点を加味された上で、審査に一ケ月を必要とした。

 病気だからという理由だけで管理外世界の住人を連れて行けるわけがない。その前段階としての養子だったが、そのための審査に何ケ月必要とするか。

 確実と迅速を期すのであれば、非合法なルートを使わざるをえない。問題は非合法なルートに繋がる友人や伝手は、ウィルの交友関係にはたった一つしか存在しないことだ。

 

 

 そのただ一つの例外に思いを馳せた瞬間、山道に差し掛かったタクシーの前方に白い流星が落ちた。

 けたたましいブレーキの音を響かせ、横滑りしながらタクシーが停止する。

 

 流星の正体は、停止した車から二メートル離れたところに存在していた。

 白髪に褐色の肌をした偉丈夫。秋も深まるこの時期だというのに、上半身には薄手の藍衣のみ。両手両足に手甲とブーツの銀の輝き。金属製のそれらは、どちらも只人が身に着けるようなものではない。

 彼は微動だにせず車を――その中のウィルを睨みつけている。

 

『降りろ』

 

 ウィルの頭に声が響く。念話、すなわち魔法。つまり相手は魔導師だ。

 財布から紙幣を取り出し、運転手に渡す。

 

「お釣りはいりません。急いで引き換えして、ここから離れてください」

「あ、あんた、外に出る気か?」

 

 人のよさそうな運転手は、異常な事態に怯えを見せている。それでいて車から下りようとするウィルを心配している。優しい人だ。

 市民に安心を与えるのは局員の務め。世界が変わってもそれは変わらない。いつも仕事でやっているように笑みをうかべる。

 

「大丈夫ですよ。さあ、俺が降りたら振りかえらずに、急いで街に戻ってください」

 

 言われた通りに元来た道を下っていくタクシーを見送りつつ、ウィルは二つのデバイスを展開し、バリアジャケットを纏う。

 目の前の魔導師が何者か、ウィルには皆目見当がつかない。実はこの地球にも固有の魔術師がいたのか、管理世界を利用している犯罪結社や、管理外世界への干渉を嫌うテロ組織という可能性もある。

 

 ウィルが考えている間に、突如周囲の空間が色を変えた。こことよく似て異なる空間を作り出す魔法――結界魔法。その結界の内部にただ二人だけが取り残される。

 魔法構成はミッド式ではなくベルカ式。それもウィルのような近代ベルカ式ではない。聖王教会の騎士たちの中でも、一部の筋金入りが使うような古いベルカ式に酷似していた。

 

「戦意満々って顔だけど、お互い人間同士なんだ。まずは話し合わない? そのためにできれば名前と目的を教えてほしいんだけど、どうかな?」

「名乗ることはできない。ただ、お前の魔力を蒐集させてもらう」

 

 返答と同時に、物理的な影響を及ぼすほどに空気が張り詰める。

 だが、ウィルが意識を向けていたのは、相手の構えではなく、放たれた言葉。

 

 魔力の蒐集

 

 一般の局員が聞いても首をひねるような単語。ごく一部の者――特にウィルにとっては、どうしても聞き逃すことのできない単語。

 

 ウィルの瞳が、暗く深く沈む。心の底、瞋恚の炎を閉じ込めた扉が、ゆっくりと開き始める。

 

 

 

 

 同刻、自室で勉強をしていたなのはは、ほんのかすかだが魔法の気配を感じた。気のせいかとも思ったが、やはり気になって部屋を出た。そのまま裏口からこっそり家を出ようとして、靴を履き替える直前に足を止める。

 わずかばかりの躊躇の後、なのはは振り向きながら、声を張り上げる。

 

「お兄ちゃ――」

「なんだ?」

 

 振り返ったらすぐ目の前に立っていた恭也に、なのはは心臓が止まりそうなほどに驚いた。呼ぼうとした恭也は、いつの間にか後ろに立っていた。

 

「え、えっと……」

 

 ばくばくと鳴り続ける心臓を押さえながら、なのはは感じた気配のことを伝える。と、恭也は腕を組んで思考し始める。

 

「方角や距離はわかるのか?」

「えっと……多分、山――すずかちゃんのお家の方。距離ははっきりとはわからないけど、街よりは向こうだと思う」

「少し待て」

 

 恭也はなのはの肩に片手を置きながら、もう片手で携帯を取り出すと、電話をかけ始める。会話の内容を聞いていると、忍にかけているとわかる。

 やがて電話を切ると、恭也は真剣な目でなのはに向き直る。

 

「ウィルはまだ海鳴にいるらしい。あいつは携帯を持っていないから、こちらから連絡をとることはできないが、何かあったのなら気づくはずだ。だとすれば、なのはが行く必要はないが、それでも行くか?」

 

 恭也の射抜かんばかりの瞳を見返しながら、なのははうなずいた。

 

「わかった、行っても良いぞ」

「ほんとに!?」

「ああ。それで、どうやって行く? 必要なら車を出すが」

「飛んで行くつもり」

「わかった。だが、本当に何かが起こっているようなら、その場に飛びこむ前に忍に状況を連絡するんだ。そうすれば、管理局からの応援も期待できる」

 

 恭也はその頭に手を置き、なでた。

 

「場所がわかれば、俺と父さんも車で近くまで行く。何かあったら頼ってくれ」

 

 頭から手を離し、同じ手でなのはの背を押した。なのはは恭也の顔をしっかり見ると、力強くうなずいて裏口から飛び出る。流れるようにデバイスとバリアジャケットを展開し、空へと飛びあがった。

 

 見送る恭也の背後には、いつの間にか士郎が立っていた。恭也と士郎は視線を合わせ、口元に笑みを浮かべる。なのはが一人で行こうとせずに、恭也に声をかけようとしたことが、二人には嬉しかった。

 

「これで何もなかったら少し恥ずかしいな」

「茶化すなよ、父さん。それじゃあ、車を出してくれ。結界とかいうのが張られているなら俺たちが行っても無駄になるが、それでもいざという時のために現場の近くで待機しておいた方が良い」

 士郎はため息をつきながら息子を見る。

 

「わかった。だが、お前もいい加減免許くらいとれ」

「考えておく」

 

 



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守護の獣

 舗装された山道。両端の木々が作り出す天然自然の(アーチ)の隙間から、わずかな月の光が差し込む。

 夜の山中だというのに、夜気は微塵も感じられない。鼻孔に香る山の匂い、夜の音の響き、吹く風の肌触り、全てが先ほどまでと同じようで明確に違う。何より目に映る光景は、彩度を変えた写真のように色褪せている。 

 ここは結界。この領域に存在を許されるのは結界の主が認めた者のみ。そして入るも出るも結界の主の許可を必要とする幽世。

 今の主は白髪褐色の偉丈夫――ザフィーラ。彼がウィルという獲物を狩るために造った狩場だ。

 

 跳びかかる野獣を思わせる前傾姿勢をとるザフィーラ。その姿がわずかに揺らいだ瞬間、すでに疾走は始まっていた。

 疾風のごとき俊敏さを生み出すのは、足元のアスファルトを砕くほどの踏み込み。

 両者の距離が一瞬で縮まる。

 

 それが零になる前にウィルは飛行魔法で空に飛びあがり、上空の木の枝など意に介さずに折りながら上昇し、木の梁の上に出る。

 空には刀剣より細い三日月が薄い輝きを放っている。

 続いてザフィーラも強く踏み込み、跳躍。そして飛翔。ウィルの後を追うようにして空中に上がるも、木々を抜けた瞬間に上から赤色の魔力弾四発が降り注ぐ。

 スティンガーレイは威力こそ低いが、弾速が速いため回避は難しく、防御系魔法に対する貫通力にも優れているため防ぐことも難しい。これは相手の実力を探るための攻撃。この程度の攻撃も防げないようでは、敵は三流だ。ヴォルケンリッターであるはずがない。

 

 そう、ヴォルケンリッター。

 災厄たる闇の書に選ばれた主を守護し、魔力の蒐集を代行する騎士の名。

 その四人――いや、四体全てがSランクの魔導師をも打ち倒し得る真正古代ベルカ式の騎士という理外の化生。

 

 ウィルは魔力の蒐集という用語を使用した相手が()()ではないかと疑いながらも、確証を得られないせいで迷っていた。

 こちらは次元世界のお巡りさん。因縁をつけられたからといきなり抜刀即殺というわけにはいかない。

 まず最初にやるべきことは敵の力量の把握。騙りか否かの判断だ。

 

 ザフィーラは魔力弾を避けるどころか、防ぎもしなかった。四発全てを正面からその身に受けるが、まったくの無傷。突撃の勢いも微塵も衰えていない。

 ベルカ式には騎士甲冑と呼ばれる、ミッド式のバリアジャケット相当の防護服が存在するが、それを身に纏っているとはいえ尋常ではない防御力だ。

 本物のヴォルケンリッターかはともかく、高い実力を持つ騎士であるのは間違いない。

 

 ウィルは引き撃ちをやめて前進に転じる。同時にデバイスに魔力を通し纏わせる。

 自らの射撃魔法ではダメージどころか騎士甲冑すら貫けないと判断し、刃を返して峰打ちでの接近戦に切り替える。

 

 ウィルの剣撃に合わせ、ザフィーラも手甲に覆われた左拳をふるう。だが反応されることは想定内。

 剣と手甲、どちらが有利かは明白だ。もしもザフィーラの拳の方が弱ければ、ウィルの剣が手甲ごと拳を砕く。

 逆に、ザフィーラの方が強くとも、デバイスの刀身(ボディ)が傷つくだけでウィル自身は傷つかない。コアが損傷しない限り、魔力さえ通せばボディは再構成できる。

 押し勝てば、腕が壊れ体勢を崩した相手に続けて攻撃して終わり。

 押し負ければ、即座に引いて距離をとり次の手を考える。

 ウィルにとっては、この一合も所詮は相手の実力を測るための単なる試金石に過ぎない。

 

 油断はしていない。考えた上で常識的かつ合理的な戦法を選択しただけ。

 それでも、本物のヴォルケンリッターを相手どるには、あまりにも甘すぎた。

 

 剣と拳がぶつかる直前、ザフィーラは剣を鋼の手甲に覆われた拳でなくただの肉である掌で受け、そのまま掴み取った。

 峰打ちとはいえわざわざ自分から鋼を肉で受けにいく狂気の所業を誰が想像できるものか。

 実力が足りなければ、ただいたずらに手を砕かれるだけ。それだけ自身の騎士甲冑に自信があったのか――違う。剣と纏わせた魔力を通して伝わった感触は、たしかに生身のものであり、騎士甲冑による防御は抜いている。

 ようやくウィルは思い違いを悟った。あの手甲は攻撃のためでも防御のためのものでもないただの装身具。

 敵の真価は人体の極限を越えるほどの肉体強化。生半な金属など比べることもおこがましい金剛の体。騎士甲冑でさえも彼にとってはついでにすぎない。

 

 極限まで鍛えられた肉体が、防御でなく攻撃に転じれば――危機感を抱き、距離をとろうとするが、すんでのところで思いとどまる。剣が――F4Wが相手に握られたままだ。

 汎用デバイスを捨ててなりふり構わず逃げても、アルフの時のように両足に残った加速用特化のハイロゥだけで戦って勝てる相手ではない。

 

 構えられたザフィーラの右腕が静止し、震える。限界までに引き絞られた弓が放たれる、その直前の弦と同じ震え方。

 瞬間、ウィルはハイロゥを起動。一瞬だけ噴出された圧縮空気によって体が上へと持ち上げられるも、右腕は剣を握ったまま。したがって剣が碇となり、体が腕の長さ以上に剣から離れることを阻止する。

 それでもなお上に行こうとする体は、足を天に頭を地に向けさせ、一瞬の内に視界の天地上下が逆転した。

 逆さまになったウィルの頭の下を、弩のごときザフィーラの右拳が通過した。赤髪の数本をかすめながらも、拳は空を切る。

 

 その瞬間、ウィルは相手に掴まれたままのF4Wに待機状態に戻るように命令を下す。

 刃の部分――ボディは後から形成されたものにすぎない。待機状態に戻せば物質結合が解かれ粒子状態に変化し、デバイスの本体たるコアに収納される。

 

 さらに、空振って前傾しているザフィーラの後頭部に向かって、ウィルは右足を蹴り上げる。コンクリートを砕く蹴撃が、ザフィーラの頭上に振り下ろされる。

 直撃寸前に、ザフィーラはさらに前傾。白髪をかすめながらも、蹴りは空を切る。死角からの攻撃を見もせずに、最低限の動きで避けた。いかなる魔術を用いたわけでもない、実戦経験とそれに裏付けされた勘による行動だ。

 互いに空振って姿勢を崩した状態から先に立ち直ったのはザフィーラの方。野生の獣の敏捷さで、前屈から全身をばねとしたアッパーカットへと移行。

 

 同時に、ウィルの右手首に待機状態のブレスレットになったF4Wが戻ってくる。

 即座にハイロゥで距離をとろうとするも、それよりも先に相手の攻撃が届くことを理解して、体を守るように左腕を咄嗟に前に出した。

 

 樹の幹を力任せに折ったような、ひどく嫌な低音が響いた。

 左前腕への衝撃はそのまま上腕に伝わり、守ったはずの体まで響きわたる。激痛が電流のように全身を駆け巡り、脳髄をしびれさせる。

 耐えられず上空へと吹き飛ばされるウィル。追撃せんと追いかけるザフィーラ。しかしウィルはすぐさま姿勢を制御し、ハイロゥのジェット噴射を使って加速し、離れる。速度では勝負にならぬと判断し、ザフィーラは追撃せずにその場に留まった。

 

 離れた場所で、ウィルはザフィーラに向き直り、再度F4Wを展開。

 剣となりウィルの右手に吸い込まれるように収まる。

 

 しかし、デバイスを取り戻すために支払った代償は大きかった。

 

 腕の関節は肘と手首の二つにしかないはずだが、その自分の知識が間違っているのかと思わず考え込みそうになる。それほど見事に、前腕が――肘と手首のちょうど真中で折れていた。まるで初めからそこに間接があったとでも言うように。

 もうこの戦闘で左腕を使うことはできない。

 折れた腕がぷらぷらと揺れるたびに激痛が波紋のように広がるので、自分の腕にバインドをかけて固定する。それでも襲いかかる激痛は歯を食いしばって耐えれば良い。そう思い、痛みが消えるくらいに歯を食いしばり、敵を睨みつけた。

 今回は腕一本ですんだが、次の判断ミスはおそらく命でもって支払わされることになるだろう。

 

 

 両者は互いに睨みながら、一定の距離を維持したまま向かいあう。

 ザフィーラはウィルの逃げる範囲を狭めるように近付き、ウィルは逃げる範囲が広くなるように後退しながら、次の一手のために頭を働かせる。

 

 いたずらに接近戦を挑むのは論外だ。

 敵の膂力と頑健さはウィルをはるかに上回る。さらには戦闘経験も極めて豊富だ。あれだけの頑健さを持っていながら、即座に反撃に移れるように最小限の動きでウィルの蹴りを回避したことからも、そのことが見て取れる。

 高ランクの魔導師でさえ、高い魔力にものを言わせたバリアジャケットと防御魔法を持つがゆえに、危機に対する感知能力が低い者は珍しくないが、そのような人たちとは文字通り住む世界、潜り抜けてきた戦場が違う。

 

 では、このまま距離をとるのはどうか。

 ウィルの射撃魔法が通用しないのは先刻証明済みだが、相手もおそらく遠距離は苦手だ。

 ベルカ式は物質の強化に優れるという特性があるため、必然的に魔法も物質を用いて戦う近接に特化したものになる。反面、純粋な魔力のみを用いるような射撃系魔法に向いていない。

 ミッド式の魔法も使える近代ベルカ式は比較的この傾向が小さいが、古代ベルカ式となればほとんど近接のみと考えて良い。

 したがって距離さえ取ればひとまずの安心は確保できる、と考えるのは早計だ。

 たしかに古代ベルカ式は近接特化だが、弱点とわかってそれをカバーしない者もいない。近年の儀礼的な古代ベルカ式の使い手ならともかく、戦乱ただ中の旧暦では、優れた騎士は苦手な遠距離においても何らかの奥の手――切り札となる強力な魔法を一つ取得していたと聞く。

 

 

 事実、ザフィーラには奥の手がある。広域型拘束魔法『鋼の(くびき)

 数十メートルにも及ぶ槍にも似た拘束条が大地から現れ、突き刺した相手の動きを停止させる魔法。この拘束条はそれ自体を巨大な槍か剣のようにして薙ぎ払うという使い方も可能だ。

 一度触れれば逃れることはできず、百舌の早贄の如く空中に捕えられる。もしもこれが発動されれば、ウィルは回避さえできずに敗れる――が、ザフィーラはそれをする気はなかった。

 大技とは生じる隙も大きくなるもの。高速機動型の敵に隙の大きな技を出すのは悪手だ。

 そもそも、そこまでして倒す必要はないのだ。なぜなら、ザフィーラがシャマルに受けた指示では、対象の無力化はあくまでも()()()()のこと。

 

 

 ウィルはザフィーラたちの事情は知る由もないが、あれだけ優勢に進めた攻撃から一転して、ゆっくりと距離を詰めようとするザフィーラの姿勢から、すぐに狙いを看過した。

 敵はこちらを倒せれば良し、最悪でも足止めさえできれば良いと考えている、と。

 

 それを理解した時、ウィルの全身に怖気がはしった。

 もしも敵が本物のヴォルケンリッターであるなら、残りの三体はどこにいるのか。

 

 海鳴には高町なのはがいる。ウィルを遥かに超える魔力量を持つ、彼女が。

 

 目標二つ。そのうち一つが莫大な魔力持ちとなれば、そちらに多く戦力を割り振るのは当然の判断だろう。相手からすればウィルとなのはの魔力量に関わらない技量などわからないのだから。

 かといって各個撃破で片方に全員でかかるのはふさわしくない。一人を確実に仕留めれても、もう一人がその間に逃げたり援軍を呼ぶ可能性がある。

 ならば、魔力量が高く手ごわそうな方に多くの戦力を振り分け、もう一方には時間稼ぎのために防御に優れた者を送りこんで足止めさせる。そして手ごわい方を迅速かつ安全に倒し、返す刀で弱い方を倒す。

 

 この考え通りなら、今ごろなのはが残りの三人に襲われていることもありえる。

 なのはの高い魔力による堅牢な防御魔法と、限定的ではあるが鋭い観察力による行動の先読みを最大限に活用して守りに徹すればはある程度は持ちこたえられるかもしれない。

 それでもなのはの実戦経験は浅い。こうして睨みあっている間にもわずかな判断ミスでやられてしまうかもしれない。目的が蒐集ならばすぐに殺すことはないだろうが、それでも――

 

 幼い戦友の命をヴォルケンリッターを名乗る者に奪われるかもしれない。

 その恐怖はウィルの想像を加速度的に肥大化させ、やがて結論を出した。

 

 

 デバイスの刃を返す。それは峰打ちをやめる、斬る、殺すという決断。

 ウィルは迅速かつ確実な決着のために、対象の殺害を決断した。

 

 かすかに腕が震える。死んでも仕方ないと思って戦ったことは何度かある。

 ウィルは余裕がなくなると手段を選ばなくなる。不意打ちをしてでも、相手が大怪我を負うかもしれないとしても、目的を達成しようとしてしまう。

 それは勝たなければ奪われる。勝てる時に勝たなければ今度は自分がやられるという弱者の怯えの表れだ。

 

 それでも、明確に殺そうと思い定めて戦ったことはない。

 相手が本物のヴォルケンリッターであるなら良い。だが、ただ強いだけの犯罪者であるという可能性も十分に残っている。

 相手に仲間がいるというのも考えすぎかもしれない。まして勘違いで、いやたとえ予想が事実だったとしても、人を殺して駆け付けた自分をなのはがどんな目で見るのか。

 その想像がウィルに最後の決断をさせるのを迷わせ、できれば殺したくない――そんな思いから、最後にウィルは相手に念話を送った。

 

『俺の方が重傷なのに、こういうことを言うのは非常にかっこ悪いんだけど……投降するつもりはない? これ以上やるなら、命の保証はできない』

『愚問。戦場は生命をかけるもの。失う覚悟なしに出て来はしない』

 

 降伏勧告への返答は、使う魔法にふさわしく考え方も古風。きっとこの意志は曲がらない。

 

『そうか。なら――』

 

 理性を強制的に遮断し、全霊をただ殺害のためにかける。

 殺すとは言わない。本気の殺意はまず最初に自らの言葉を殺すと知った。

 

 ウィルは剣を肩に担ぐ。

 どれだけ普段策を弄していようが、結局のところウィルが最も信を置く攻撃はこれ――突撃からの斬撃、だ。

 まさにこのような状況――たった一人でも格上の敵に勝つために鍛えた。歪であろうともただ一点に特化して鍛えれば、もしかしたら自分の力だけでヴォルケンリッターを殺せるようになるかもしれない。そんな願望を込めた技だ。

 単純にして明快な力。目で捉えられないような高速移動。捉えられたとしてもなお相手よりも早く到達する剣閃。防がれたとしても守りごと相手を切り裂く重さ。

 

 一撃、必殺。

 

 ベルカ式には様々な流派があるが、流派を越えて存在する『一』と呼ばれる技がある。

 基礎にして奥義とも呼ばれるそれは、ベルカ式の使い手であれば誰でも使える技。

 されどその『一』に己の在り方を表する名をつけるのは、自身の完成形を見つけられた者だけ。

 その『一』を、いまだ名もなき『一閃』をウィルは放つ。

 

 

 ウィルは駆けた。生みだした光輪と全ての音を置き去りにして。軌跡さえも残さない。

 魔力を力に転じ、力は速さを生み、速さは威力へと変わる。ただ光のごとく最短距離を進み、万難排して敵を裂く。

 ウィルが動いたその直後、ザフィーラは動物めいた直感に従い、迷うことなく防御を選択。前方に障壁を展開。

 

 急速に拡大する互いの姿。

 ウィルが駆ける。ザフィーラが待つ。

 

 ウィルの右手が動いた。

 超音速から繰り出された斬撃。その全力になおザフィーラは反応した。自身の左上方から袈裟切りにせんと迫る剣に、左腕を折り曲げて盾とする。

 ここまでは互いに十全。矛が勝つか、盾が勝つか。それを決するのは互いの力量のみ。

 

 刃はザフィーラの障壁を飴細工のように砕き進む。手甲を砕きながらそれでも進む。

 刃はザフィーラの手首に食い込み、筋線維をひきちぎり尺骨を割りながらさらに進む。

 ついには手首を切り落とし、肩に三寸食い込み――動かなくなった。

 

 先ほどの光景の焼き直し。刃は肩に食い込んでいて、抜けない。

 ザフィーラの右手が伸び、ウィルの折れた左腕を掴んだ。デバイスをつかまれた先ほどとは違い、もう逃げることはできない。だがザフィーラの右腕と同時に、ウィルの右腕もまた動きだしていた。

 剣から右手を離し前へ伸ばす。つかむのは相手の顔。そして体ごと飛びこむ。

 

 体当たりの衝撃はザフィーラとウィルに等しく訪れたが、体格でも防御力でも劣るウィルが受ける反動の方が大きい。

 しかしザフィーラも無傷とはいかない。衝撃で体勢は崩れ、ウィルを攻撃するのが少し遅れる。その少しで十分。突撃からの斬撃、そして突撃からの体当たりの二段構え程度で終わらせるつもりはない。

 

 朦朧とする意識の中、ウィルは突撃の威力を緩めることなく、さらに加速した。

 ザフィーラもその行動の意図に気付き、急いでウィルを突き放そうと膝蹴りをウィルの腹へと放つ。

 密着した状態で放たれた威力の減殺されている膝蹴りは、ウィルの肋骨のいくつかにひびを入れ、横隔膜を跳ね上げ痙攣させて呼吸を途絶させた。

 それでもウィルの動きを止めるには届かない。

 ザフィーラは二撃目を放とうとするが、もう間にあわない。二人の戦っていた高度は百メートル程度。

 一秒もたたずに彼らと地面との相対距離は零になった。

 

 

 

 

 

 四人用の病室に、はやてとヴィータの二人きり。この時期あまり入院患者はいないのか、そうでなければこの病室は急な入院患者が発生した時のために開けてあったのだろう。

 はやてはベッドから体を起こして、ベッドの横で見舞客用の丸椅子に座るヴィータに話しかけていた。が、そのヴィータはと言えば、はやてではなく窓の外を横目で見ていて、心ここにあらずと言う有様。

 珍しい事態にはやてはじっとヴィータの顔を見つめる。

 

 

 ヴィータは先ほどからかすかに魔法の気配を感じていた。気配は一定で変化しないことから、空間生成系の魔法『封鎖領域』であることもわかる。だが、それ以上のことは距離が離れすぎていてわからない。

 大学病院はなのはがぎりぎり気付けた高町家よりもさらに現場から離れた場所にある。だというのに、ヴィータが気付けたのは経験と環境の違いが大きい。

 いついかなる時に襲われるかわからない日々を過ごして来た経験が、彼女たちを周囲の魔力の動きに敏感にさせた。

 さらにかつては魔法が日常的に利用されていた世界にいた彼女たちにとって、魔法を使わないこの世界は静かすぎる。静寂の中では衣擦れの音でさえ響くように、魔力の変化もはっきりと感じられる。

 

 何かが起こっていることを知りつつも、ヴィータは動けないでいた。

 魔法を感知する直前にシャマルからの念話で、「ヴィータちゃんははやてちゃんの傍にいて」と釘を刺されていたからだ。だから、この魔法もシグナムやシャマルによるものなのだろう。

 よくあると言えばよくあることだ。ヴォルケンリッターはその全てが主のもとに同列だが、個体ごとに役割はわけられている。主がいなければ将たるシグナムが決断を下し、シャマルが参謀として補佐する。総体としての意思決定はこの二人によってなされ、ヴィータやザフィーラには指示こそ与えられたとしても理由が説明されないことはたびたびあった。

 そのような時は往々にして時間がなかったり聞いても理解できなかったりするので、理由を教えられずとも今更怒ったりはしない。

 そも、はやての元から離れろという命令ならともかく、護衛を続けろと言う命令は当り前のこと。従わない理由はない。

 だというのに――

 

(あぁもう! あたしはいったい、何にこんなにいらついてるんだ!)

 

 だというのにヴィータは苛立っていた。何かはわからないが不快だ。心の内にもやもやがある。それが何なのかわからず、次第に苛立ちのボルテージが上昇する。

 ヴィータは知らない内に体を揺らし、そのたびに丸椅子の四脚は病室の床でタップダンスを踊る。がたんがたがた。

 

「こら! ヴィータ!」

「え……うわぁっ!」

 

 見かねたはやてが叱る声が、ヴィータを驚かせ体を硬直させる。しかし椅子が傾いた状態のまま動きを止めてしまったものだから、椅子はそのまま慣性と重力に導かれ、横に倒れる。

 ヴィータ、倒れる前に椅子を手で強く押す。椅子はそのまま床を転がるが、反面ヴィータの体は宙に跳びあがり、そのまま屋根上から落下する猫のごとく体をひねり、ねじり、見事に足から着地した。

 これにははやても思わず拍手喝采。

 

「って、そやなくて! ……この部屋に私らしかいないからって、うるさくしたらあかんよ。ここは病院なんやから」

「はぁい」

 

 ヴィータはしゅんとなり、うなだれながらも倒れた椅子をもとに戻して座りなおす。

 その時、はやてがぽつりとつぶやいた。

 

「それにしても、シグナムもシャマルも遅いなあ……ま、病院の中やから心配いらんけど」

 

 何気ない一言が、ヴィータの心にかかったもやを晴らした。

 

「心配……そっか。心配なんだ」

 

 呆然としたかと思えば、妙に得心したような面持ちになって、ヴィータははやてに向かって言う。

 

「ごめん、はやて! すぐに戻って来るから心配しないで!」

「え? ちょっ――」

 

 赤い閃光かという勢いで、ヴィータは病室を飛び出る。扉のあたりでやって来た石田先生とぶつかりそうになるが、器用に体をひねり避ける。「ごめんなさい!」とその言葉だけを残して、風のように駆けて行った。石田先生はと言えば、幽霊が自分の体をすり抜けたかのような驚き顔。

 ヴィータはそのまま病院の外に出て、結界目指して飛んで行く。

 

 シャマルの予想は外れた。

 長いつきあいでありながらシャマルがヴィータの行動を予見できなかった理由は、彼らの身に起きた変化を理解できていなかったから。

 たしかに以前のヴィータであれば、何が起こっていようと命令されれば主のそばは離れなかった。ましてや今代の闇の書の主たるはやては優しく、主従という関係を越えてヴィータははやてを慕っている。

 だが、それはヴィータとはやての関係しか見ていない考えだ。ヴィータと自分たちの関係を考えていない。

 かつてのヴィータはヴォルケンリッターの中でもとりわけ無愛想だった。長いつきあいと言っても、シャマルとシグナムの二人とはほとんど口を利かず、ザフィーラとは比較的一緒にいる時間が長かったがそれでも会話らしい会話はなかった。

 常に苛立ちを抱えながら日々を何も語らずにすごし、戦場の相手に苛立ちをぶつける――それが鉄槌の騎士ヴィータの在りし日の姿。

 

 今は違う。今を生きるヴィータにとっては、シグナムもシャマルもザフィーラも、はやてと同じく大切な家族だ。それが帰ってこなければ心配だし、何かが起こっているのであれば助けに行きたくもなる。心配だから。

 そしてヴォルケンリッターだけではない。ヴィータはこの海鳴の街そのものが好きだ。一緒に公園でゲートボールをする老人たちも、はやてを治療するために頑張っている石田先生も、はやての友達のなのはたちも好きだ。この街で何かが起こっているのであれば、向かわずにはいられない――心配だから。

 ウィルにやりたいことをやれと言った少女は、まさに今、心の向くままにやりたいことをやろうとしていた。

 

 はじまりは他者の認識。世界が主と敵しかいないという認識をやめること。

 それがヴォルケンリッターを変え、ヴィータを戦いの場へと向かわせた。

 

 

 

 

 なのはは海鳴の夜空を飛んでいた。後方へと流れ行く街の灯が、地上の流れ星のよう。

 

 魔法訓練のため飛行魔法をはじめとするいくつかの魔法の使用許可はとっているが、市街地での飛行は他者に発見される危険があるため管理局に禁止されている。これで何もなかったと言うことになれば、当面の魔法使用禁止等、何らかの処罰が科されることもあるだろう。

 無論、それは杞憂にすぎなかった。向かうにつれて魔法の気配は大きくなる。だが、それは近付いているからであって、気配の元自体は一定のまま。

 留学中での勉強の成果か、なのはは視認する前からそこに何があるのかをある程度予想できていた。

 魔法の気配とはつまり、風を身体で感じるのと同じだ。魔法を行使することによって影響を受けた周囲の魔力の流れを、自分の体内のリンカーコアで受けて感じるもの。

 砲撃魔法のように大きな魔法なら、そのたびに強い風が吹きつけてくるように感じるし、逆に考えれば今のように常に同じ方向からゆるやかで変化のない風が吹いてくるようであれば、ある種の場に影響するタイプの魔法であることがわかる。

 なら、その中で最も一般的な魔法と言えば――

 

 やがて山際に到達して、なのはは空中で静止する。眼前には予想通りに結界が貼られていた。

 

「やっぱり結界……でもこれ、ちょっと違う?」

『This field-magic doesn't come under the Mid-Childa system. (この結界魔法はミッドチルダ式ではありません)』

 

 なのはの疑問にレイジングハートが答える。

 

「じゃあ、ウィルさんと同じベルカ式?」

『Maybe, but more ancient.(おそらくは。ですが、より古いものかと)

 Do you want to analyze it?(解析しますか?)』

「うん、お願い」

『Roger』

 

 レイジングハートに解析をお願いしている内に、なのはは携帯を取り出した。恭也に言われた通りに、まずは忍に連絡をとるためだ。

 事前に恭也が連絡していたおかげか、たった一回のコール音ですぐに電話はつながった。

 

「もしもし、なのはちゃん?」

「あ、忍さ―― 『Master!!』 ――え?」

 

 レイジングハートが警告するが、それはあまりにも遅すぎた――否、相手が早すぎた。携帯に意識がいった一瞬のうちに、影はなのはに忍び寄っていた。

 腹につきささる拳。拳の威力は、ちょうどバリアジャケットと相殺する程度。しかし直後に全身をかき混ぜられるような魔力の奔流が送り込まれ、衝撃は全身に鋭い痛みを走らせる。

 なのはの体が崩れる。魔力ダメージによるブラックアウト。迅速かつ鮮やかな手腕で、なのはの体に傷一つ与えず確実に意識のみを刈り取る。

 

『Ma――』

 

 レイジングハートが何かを言う前に、襲撃者はレイジングハートのコアを握る。

 宝石にも似たコアにひびが入り、それきりレイジングハートは光を失って何も語らなくなった。こちらもまた迅速。

 襲撃者は心拍一つの間に魔導師とデバイスの双方を無力化させた。

 

 力なく垂れたなのはの手から携帯がすべり落ち、夜の山へと落下していった。

 仮面をつけたその男はなのはを抱えながら結界を見る。仮面はその下の表情を語らない。だが、直後につぶやいた言葉にはたしかな侮蔑が込もっていた。

 

「ヴォルケンリッターも詰めが甘い」

 

 

 

 

 アスファルトで舗装された道路を、巻き上げられた煙が包み隠している。

 中心地で、ウィルはよろめきながら立ち上がる。足元ではアスファルトが砕けて割れて、地面がスプーンですくわれたかのように凹形にへこんでいる。

 中心には気を失ったザフィーラの姿があった。左腕がなくなっているが、意外にもそれ以外に大きな傷はない。元来の頑健さだけではなく、衝突の瞬間自身の背後に障壁を展開して威力を減殺させていたのが見えた。

 

 対してウィルはといえば、腹からせりあがる粘性の高い液体をアスファルトに吐き出していた。

 液体は赤色――血液。衝撃がバリアジャケットを突き抜けて、内臓をさらに傷つけていた。体を動かすとひびの入ったあばらが軋む。

 

 右手を見れば、五本の指はそれぞれがあらぬ方向に曲がっていて、先端は潰れている。

 肘からは白い骨が突き出していて、赤い血と重なって地獄のコントラストをなしていた。相手を地面に叩きつけた時の衝撃を一番大きく受けたのだから当たり前。ちぎれなかっただけでも僥倖。

 両腕とも二の腕までは動くが、肘から先は動かない。折れた左腕程度なら管理世界の医療技術なら完治までそれほどかからないが、右手は一月ではとても治りはしないだろう。

 

 両手が動かせず満身創痍のウィルと、左手はなくなっているがそれ以外に目立った傷はないザフィーラ。

 それでもこの戦いはウィルの勝ちだ。どれほどの強者でも気を失ってしまえば赤子と変わりなく、ザフィーラの生殺与奪の権利はウィルにある。

 十度戦えば九は負ける実力差があった。だが、その十の一が今。

 

 周囲を見れば、主が気を失ったことで結界は解除されていた。

 なのはのことが気にかかるが、さすがにここから高町家は離れすぎていて、ウィルの念話では繋がらない。それにこの怪我で行っても足手まといだ。ならば早く月村のもとに行き、管理局に連絡をするのが優先か。それから傷の治療も必要だ。

 だがその前に、倒れているこの男の扱いを考えなければ。

 

 放置してすぐに月村に向かうべきか。それともこの男も連れていくか。

 今は気を失っているとはいえ、月村で目覚められれば彼女たちを巻き込んでしまう。かといってこの場においていけばその間に目を覚まして逃げられるかもしれない。バインドで捕縛したところで、彼の実力ならウィルのバインドくらいは用意に引きちぎるだろう。

 それに本物のヴォルケンリッターだったとしたら、逃がせば回復してまた犠牲者を増やす。絶対に捕まえなければならない。

 

 

 悩んでいた時間はほんの十数秒。

 けれど真っ先に月村への連絡を優先させ、すぐさま最高速度でこの場を離れていれば、これからの戦いは回避できていたのかもしれない。

 

 

 周囲の風景が色を変えた。再度結界が展開される。構成は先ほど同様、古代ベルカ式。

 空を仰いだのはなぜだろう? ただ、なんとなく――なんとなく、天啓に導かれるようにして、ウィルは視線をついと上げた。

 

 彼女はそこにいた。

 

「貴方を甘く見ていたようだ」

 

 夜天より舞い降りる戦乙女。

 佳人と言えるその容貌に見覚えがある。しかし、記憶の中の彼女と目の前にいる彼女は同じ人なのか。

 記憶の中の彼女も常日頃から険しい顔をしてはいたが、ここまで峻厳で怜悧ではなかった。

 記憶の中の彼女の瞳は剣の鋭さを宿してはいなかったし、右手に一振りの剣など持っていなかった。

 同じ造形で、何もかも違う。ただ、風に揺れる赤い髪だけが、いつもの彼女と――シグナムと変わらなかった。



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復讐の刃

 舞い降りるシグナムの纏う装束は、昼とは趣を変えていた。勇壮かつ華美な紅花染めの戦衣。右手には片刃の剣――武器型(アームド)デバイス。

 白磁のようなシグナムの肌は、天の月が陽光を反射して輝くように、月光を反射して白く輝く地上の月と化していた。その姿はどこか絵画めいていて現実感がない。自分はすでに息絶えていて、その魂を天宮へと導くために降臨した戦乙女がたまたまシグナムそっくりだったのだと――そんな馬鹿げた、子供じみた想像をしてしまう。

 

 わかっている、それは単なる現実逃避だ。

 現状が何を意味しているのか深く考えたくないだけだ。

 

 三日月が雲に覆われて隠れ、空想は消え現実が目に映る。

 地に足をつけたシグナムは、ウィルとその後ろで倒れているザフィーラに目をやった。

 一文字に閉じられていた形の良い桜色の唇が開く。

 

「ザフィーラを倒すか。どうやら貴方を甘く見ていたようだ」

 

 ――そうか、この男の名前はザフィーラと言うのか。シグナムはなぜここにいる。ザフィーラ、聞いたことのある名だ。シグナムはなぜこの男の名を知っている。全身が痛い。その手に持っている剣はデバイスか。早く管理局に連絡しなければ。ザフィーラ。結界を新しく張ったのはシグナムなのか。疲労感で瞼が落ちそうだ。留守番をしているザフィーラはお腹をすかせていないだろうか。体が熱い。はやてはどうしたんだ。白髪の男のことをシグナムは知っている。なのはちゃんは大丈夫だろうか。ヴォルケンリッターのザフィーラ。早く首を切らないと。白髪の男と同じ古代ベルカ式の結界。ヴォルケンリッターのマスターは誰だ。闇の書の主は――

 

 心の水面に投じられた巨大な一石。思考は飛沫のように無数にとびはね、水面が揺れて自らの心という水底がはっきり見えなくなる。それでも人間の脳とは優秀なもので、論理だった筋道を辿らなくとも無意識のうちに答えを出していた。

 

「あなたもヴォルケンリッターなんですね。なら、はやてが闇の書の主ですか」

「なぜ、ヴォルケンリッターのことを? ザフィーラが何か言ったのか?」

「魔力の蒐集がどうとかは言っていましたね。後はちょっとしたかまかけです。……というか、隠すつもりならザフィーラって呼んじゃ駄目ですよ」

「……その通りだな。私は昔から、言葉の駆け引きが不得手だ」

 

 シグナムは自嘲。その会話は顔見知り同士の心易いやり取りのようで。

 その幻はすぐさま消え、冷徹な戦士の顔を露わにする。

 

「ならば、もはや隠すこともないな。我が名はシグナム。ヴォルケンリッターが将、剣の騎士。貴方に恨みはないが、主はやてのため、ここで命を貰い受ける」

 

 明確な死の宣告。シグナムの剣は魔力光の輝きを帯び、薄紫の光が時折真っ赤な炎に変わる。

 ウィルの口からは渇いた笑いがこぼれた。

 

「俺がはやてを連れて行ったら、闇の書の主だってことがばれちゃいますもんね。で、邪魔者をただ殺すだけではもったいないから、ついで魔力もいただいておこう――と。なるほど、合理的です。欲を言えば俺の都合というか、主に生命のこともちょっとは考えてほしかったなぁ――でも、そうか、シグナムさん、ヴォルケンリッター、なんだ」

 

 こんな時だというのに、相変わらずウィルの口は回る。だがそれはうわべだけ。

 頭の中はごちゃごちゃで、何を考えているかどころか、何を感じているのかさえわからない。キャンパスに原色の絵の具をぶちまけたように、脳の中は極彩色のマーブル模様。

 その中でただ一つ。鮮烈な光、鮮明な感覚があった。

 

 ()()

 

 体が痛かった。心が痛かった。でもそんなものがどうでもよくなるほど熱かった。

 あらゆる光さえ見えなくなるほど鮮烈で、口中の血の味さえ忘れるほど甘美、全身の肉が蕩け出すほど淫蕩な、これまでのどんな経験さえも色あせてしまいそうな熱。

 この感覚はなんと呼べば良いのか。憎悪だろうか、悲嘆だろうか、歓喜だろうか、絶望だろうか、怨嗟だろうか、それとも、もっと純粋で無色な狂気なのか。

 言葉をたぐってもわからない。既知の単語では表現できない。人間の思考は不自由だ。言葉という道具を得た代わりに、言葉を通さなければ自分の気持ちさえ認識できない。

 わからない。自分のことが理解できない。でも、わからない時はどうすれば良いのか――それはもう教えられている。頭に浮かぶのは、先生の言葉。

 

 ――迷った時は、欲望に身を任せれば良い

 

 だからウィルは、敵を目の前にして瞳を閉じた。時間にすればほんの刹那だが、その瞬間、己の心がはっきりと見えた。

 心の内には扉がある。扉の向こうで燃えている。子供の頃からずっと感じてきた。熱。扉越しにもその圧力を感じる。隙間から光と熱気が漏れている。

 

    E  A      E 

 

 扉はひとりでに開かれ、中が見える。

 

 それは炎だった/それは鎖だった

 それは赫焉たる赤だった/それは目を灼く黄金だった

 それは流動し変化する熱だった/それは状態を維持しようとする停滞だった

 微視的な視点ではありとあらゆる変化が起きているがゆえに、巨視的な視点では停滞していた。

 物理法則の鎖の届かぬ精神世界であるがゆえに、エントロピーの増大から外れていた。

 この我が身を焼く炎こそがウィルの本質。余分なものを持たないがゆえに、きっと最も幼く最も強い。だから、その原始的な我に己を開け渡す。

 

 

 全身に魔力を通わせ、バリアジャケットを再構成。そしてF4Wを展開する。現れた片刃剣は常ならば右手におさまるはずだが、その右手は壊れている。肘から先は微塵も動かず、これでは剣を握れない。握られぬ剣はそのまま重力にしたがって落下する。

 直前、赤い縄(バインド)が蛇のように剣をからめ捕る。添え木のようにして動かぬ右腕と剣を縛りつけ、腕そのものを剣と化す。精密な動きは期待できないが、上腕は動くのだから叩きつけることくらいは可能。

 

 ウィルの動きに合わせて、シグナムもレヴァンティンを構えた。

 本当に自らの意志で構えたのか、もしかしたら構えさせられたではないか、歴戦の兵たるシグナムがそんな疑問が浮かべるほどに、ウィルの狂相は常軌を逸していた。

 

 汗と血で額に貼りついた前髪のせいで瞳が隠されたその顔は、宵闇に塗りつぶされた無貌と化していた。空の三日月をかたどったような薄い笑みだけがかろうじて見えるが、それも無貌に穿たれたひび割れのよう。その奥には白い歯、牙を剥き。

 手は重力に従ってだらりと地へと下ろされて、白い骨が突き出した右腕にはどす黒い赤血と輝く赤い縄(バインド)が蛇のように纏わりつく。くくりつけられた刃は、もとより彼の体の一部であったとしか思えないほど、彼の纏う邪気によく馴染んでいた。

 

 ウィルは折れた左腕で額に貼りついた前髪をかき上げる。

 現れた双眸には、うぶで奥手な少年が意を決して初恋の人に告白するような、自分の気持ちを相手に理解してもらうためになれない愛の言葉を連ねるような、自らの思いを万の言葉に変えて伝えようとするような、そんな真摯さがあった――そんな真摯な殺意が込められ、悪意が刻まれていた。

 炎のごとき激情を抱えた瞳も本能的な殺意に染まった瞳も、幾度となく戦場を経験したシグナムには見慣れたもの。でも、これはもっと異質でおぞましい。

 

 常軌を逸した敵と戦うため、シグナムもまた、かつてのように己の心を消した。

 ここに存在するのはヴォルケンリッター――主を守護する騎士である。そしてシグナムは、主の敵を切る剣の騎士である。

 たとえ心がなくとも、存在に刻まれた使命が彼女の体を突き動かしてくれる。

 

 

 

 ウィルの周囲に十を超える魔力弾が現れ、シグナム目がけて殺到する。直射弾といえども、ウィルが一度に構築できる弾数限界を超えている。そのため群れの半分は途中で構成を維持できず霧散したが、残り半分はシグナムに向かう。

 

「軟弱な弓撃など、ベルカの騎士には届かない」

 

 シグナムの前方に障壁が発生。すべての魔力弾が衝突し消滅する。

 直後に障壁を砕いてウィルが現れる。魔力弾は目くらまし。矢弾より我が身の方がなお速く、なお強い。

 ウィルが腕ごと叩きつけるようにして剣を振るい、シグナムは剣を前に出して防ぐ。両者の剣が衝突し金属が絶叫と火花をあげる。

 

 鍔迫り合いになれば速度を得ているウィルの方が遥かに有利、そのまま剣ごと圧し切ろうとする――が、突然ウィルの胸部に強い衝撃。胸骨が割れ、肺の呼気を全て吐き出しながら吹き飛ばされる。

 シグナムはウィルの剣を正面から受けた直後、ウィルの胸部に前蹴りを放った。ただそれだけの――しかし高い魔力操作能力、身体能力、身体操作能力を必要とする妙技。

 十分な魔力が通っていなければ剣は敵の攻撃に耐える盾とはならない。腕の力が抜けていれば押し切られてしまう。そして強い衝撃を受けながらも、次に蹴りを放つために体幹をぶらさない精妙な姿勢制御。

 ただの蹴り一つで、シグナムは己が近接に必要な才全てを持つ超級の戦士であることを示した。

 

 吹き飛ばされる最中、瞬時に飛行魔法で姿勢を制御した――が、その時にはすでに刃を振りかざしたシグナムが目の前に。

 

「断ち切れ、レヴァンティン」

『Jawohl!!(了解)』

 

 刃の装飾が動き薬莢が排出される。膨れ上がる魔力が刀身を覆い、燃え上がる炎の剣と化す。

 ウィルは迷わず回避を選択して刃から逃れようとするがわずかに遅い。否、シグナムが速い。

 

 瞬間、シグナムの脳裏に一つの光景がフラッシュバックした。暗い通路、戦う己、目の前には赤い髪の男。記憶にないが、たしかにあったことだと感じる奇妙な光景。

 剣速がわずかに鈍る。時間にすればコンマ一秒に満たない遅れだが、そのおかげでウィルは紙一重でシグナムの剣の範囲から逃れた。わずかに炎がかすめた胸元を中心に、バリアジャケットがはじけとんだ。

 

 ウィルはそのまま距離を取る。ウィルの力では、結界を破壊して逃げることはできない。それでもなお遠くへ。

 結界の果てまで移動したウィルは、すぐさま反転。シグナムの姿を確認すると、月まで届けとばかりに言葉にならぬ咆哮をあげる。

 

「ギ、……ガァァァァアアアアアア!!!!」

 

 割れた胸骨が肺を傷つけたか、燃える炎が喉を焼いたか、かすれて獣じみた呻き声をあげながら、駆ける。

 ハイロゥから圧縮空気を連続で噴出させ、飛行魔法の慣性制御でもバリアジャケットでの負荷軽減でさえも消しきれないほどの速度で駆ける。

 やることは変わらない。突撃からの斬撃のみ。全力で駄目ならば限界の先へ踏み込むだけ。

 

 

 対するシグナムはフラッシュバックする光景への疑問を放置し、ウィルを向かい討つ。

 

『Schlange form!!』

 

 レヴァンティンの刀身が、砕けたかのように四方に飛び散る。

 散った刀身は、全てが細い糸で繋がれていた。蛇のごとく伸びた剣――鞭状連結刃はシグナムの思うがままに空間を駆け巡り、その剣先は向かい来るウィルを串刺しにせんと迫る。

 

 ウィルはほんの少し、片足のハイロゥの出力を緩める。バランスが崩れて体の軸がねじれ、素早く横転する。わずかに飛行軸がずれ、剣先はウィルの肩口をかすめ、後方に消えて行った。

 紙一重の回避。神業に等しい動きも今のウィルにとっては奇跡ではない。狂気の意志は速度だけでなく、知覚の面でも限界を越えさせていた。

 一秒が十倍に引き延ばされた空間を行動する。肉体が粘性の高い液体に包まれているようで、その動きは遅々としている。その代わりに、間違った行動をとることもない。引き延ばされた時の中、最善手を思考し、考えた通りに動く。焦りによる失敗など存在しない。

 

 連結刃が縦横無尽に空間を駆け巡り、刃の迷路を描く。伸ばされた蛇腹剣は剣先による刺突のみが武器ではない。伸びた蛇腹はもちろんのこと、それを繋げる線さえも魔力を纏い、触れた物全てを両断する鋭さを持っている。

 ウィルはその隙間を薄皮一枚かすめながらシグナム目がけて進む。光は目的地へと到達するために最短の経路をとると言う。今のウィルはシグナムの体に剣を突き立てるために、一条の光となって駆けていた。

 

 後少し、一秒もかからない。もうすぐこの刃が怨敵の胸を貫く。その直前、シグナムの描く刃の絵が完成し、両者の間に姿を現す。

 刃で出来た蜘蛛の巣。線を重ね、面とするシグナムの絶技。

 遅々とした時を進むウィルには、それがはっきりと見えていて、だからこそ理解できた。この蜘蛛の巣は、絶対不可避であると。

 

 とっさに右腕の剣を盾とする。金属が金属によって削りとられていく音。デバイスの断末魔が響く。刃はデバイスだけではなく、縛りつけられた右腕さえも削っていく。それでも体は止まらず、全身が蜘蛛の巣に突っ込んで行った。

 灼熱が爆ぜ、血の花弁が咲いた。

 

 

 血を周囲に撒き散らしながら、体は勢いよく道路を転がる。車道のガードレールにぶつかってようやく停止。車道には深紅の車線が新たに引かれ、二車線を三車線へと変えていた。

 

 転がる途中で頭を何度か打ったため、視界が揺れ、意識が定まらない。全身の創傷から赤い筋が流れ、血潮の滴がこぼれる。浅深の度合いに差はあれども、体中の筋肉が切り裂かれ、腱が断裂している。

 足を覆っていたハイロゥは砕け、右手に握っていたF4Wは粉々になって離れたところに落ちていた。双方ともコアが割れ、何も反応しない。

 左腕はもとより折れて動かない。そして右腕は肘から先がすっかりなくなっていた。消えた右腕は、きっとどこかに転がっているのだろう。

 彼我の力の差は圧倒的。限界を越えても、何一つ為せぬまま倒された。

 だが、ウィルは死んでいない。意識も残っている。()()()()と願うのであれば、()()戦うと決めたのであれば、負けてはいない。

 

 

 シグナムが倒れ伏したウィルに近付いた時、血だまりが弾け、血の塊がシグナムに襲い掛かる。

 魔力を運動エネルギーに変える力を持って、自らの体から流出する血に指向性を持たせて発射させた。肉体から離れれば著しく減衰するこの力も自らの血はまだ効果範囲内。

 血の指向性散弾(クレイモア)は、シグナムの体を傷つけることはできなかったが、その騎士甲冑の一部を破壊し、ほんの少し目をくらませた。

 

 直後、ばね仕掛けの人形のようにウィルは跳び起き、シグナムに飛びかかっていた。

 血でおこなったのと同じように、全身に巡らせた魔力を運動エネルギーに変えて、体そのものを強制的に動かす。筋肉ではなく、方向性を持ったエネルギーそのものが操り人形を紐で動かすように肉体を駆動させる。あまりに人体構造を無視した動きに、腱が断裂する音が体内に響く。

 体そのものを一個の弾丸と化して、怨敵を貫かんとする。

 

 だがそんな末期のあがきなど所詮は悪あがきと断じるように――そもそも最期の一撃などというものはすべからく悪あがきにすぎない。

 

「遅い」

 

 先ほどまでの音の空裂く一合に比すれば鈍重亀もいいところ。唯一の利点は、まさかこのような死にぞこないが動くまいという心の間断をつくことができる程度。それも数多の戦場を戦い抜いた歴戦の戦士の危機感知能力に通用するはずもなく――シグナムは向かい来るウィルの頭を掴んで、地面に叩きつけた。

 どれだけ意志が強くとも、脳を揺らされれば意識を保てるわけもなく、ウィルのあがきはあっけなく終わった。

 意思の力は時に限界を超えることがあるが、それでも歴然たる力の差は往々にして埋まらない。

 ウィルは弱かった。限界を越えたとしても、狂気に満たされた心を持っていても、それでもシグナムよりも弱かった。

 

 

 

 

 気を失ったウィルを、静かにシグナムの双眸が見下ろす。切断された右腕から流れ出る血が、夜のアスファルトをより黒く染め上げていた。出血は激しく、このままではじきに死ぬ。

 シグナムの右手が――右手が持つレヴァンティンがゆっくりと動かされ、右腕の切断面に当てられる。デバイスから噴き出した赤い炎の蛇は、ちろちろと右腕の切断面の桃色の肉を舐めて黒く炭化させる。魔力を蒐集するまで死んでもらうわけにはいかない。だからこその強引な止血。

 止血を施すシグナムのもとに、ザフィーラとシャマルがやって来た。

 

「すまない。不覚をとった」

 

 ザフィーラはシグナムに謝罪し、倒れるウィルの姿を一瞥する。無残な姿に変わり果てたそれを見て、瞳がかすかに揺らぐ。自分がしっかりと倒していれば、ここまで無残な姿にならなったのに、という悔恨。彼はそれを気取れられぬように、すぐにシグナムに視線を戻した。

 

「気にするな。お前こそ大事ないか?」

「この程度の傷なら、シャマルの手を借りるまでもない。再構成すれば良いだけだ。」

 

 ザフィーラの体には傷一つなく、左腕は元通りに存在していた。

 肉体の再構成――プログラムという数式を媒介に受肉した存在である彼らは、大本である闇の書とのリンクが活きている状態であれば、魔力で再度肉体を構成し直すことができる。

 存在に刻み付けられた異形の(わざ)だ。

 消失した人体を再構成するには多くの魔力を必要とするが、それを差し置いても、肉体の損壊による戦闘不能がなくなるのは、戦いにおいて圧倒的なアドバンテージだ。

 

 続けて、シグナムはシャマルを見る。浅緑と濃緑、そして白の三色で構成された神官服――それが彼女の騎士甲冑。帽子が神官というよりナースキャップに近いのは、主のはやてが看護師を見かけることが多かったからか。

 彼女は倒れているウィルの姿を見ていた。その顔には憐れむような、悼むような情があったが、それを抑えながらシグナムに告げる。

 

「それじゃあ、始めるわね」

「……ああ、彼の命が尽きる前に蒐集を」

 

 シグナムはウィルから離れ、代わりにシャマルが近づく。手には一冊の本。中央の玉と四方を向く剣が構成する剣十字の装丁。これこそが闇の書。魔導を喰らう書物。

 シャマルが手をかざすと、倒れ伏したウィルの胸に光球が浮きあがる。魔導師が魔力素を魔力に変換し、蓄積するための器官、リンカーコア。

 

「リンカーコア、捕獲完了」

 

 闇の書が開かれる。全ての頁は白紙。今は、まだ。

 

「蒐集……開始」

 

 獲物を喰らわんと上顎と下顎を開くように、闇の書がさらに大きく開かれた。羽虫のように乱舞する文字と数式が白紙の頁に定着し、魔力をインクとして術式を刻んでいく。そのたびにウィルのリンカーコアの光は弱くなり、大きさも小さくなる。

 三頁ほどが埋められたところで、シャマルはシグナムに問いかける。

 

「これ以上は命の危険があるけど……最後までやるのよね?」

「当然だ。今さら引くことなどできない。それに彼は我々がヴォルケンリッターだと知っている」

「蒐集が終わるまで、どこかに捕えておくっていうのは――」

「それが無理なことくらい、私でもわかる。蒐集の完了には短くても二月はかかるだろう。その間、設備をもたない私たちが、どうやって彼を閉じ込めておくつもりだ。……迷うな、全ての責は将たる私が負う」

 

 一般人ならまだしも、ウィルは魔導師だ。たとえ両手両足がなくても空を飛んで移動することはできる。特に転移魔法は厄介で、これを防ぐには専用の処置が施された設備がなければ封じられない。魔導師を隔離するのは容易ではない。

 自らが責任を負うと宣言した将の言葉に応えるため、シャマルも覚悟を決めて蒐集を続けようとした時、上空から声が降り注いだ。

 

「何やってんだよ、お前ら!!」

 

 そこにいたのは赤い少女。深紅を基調とした少女服に、黒のレースを施した騎士甲冑を纏う少女――ヴィータは顔さえも赤く、憤怒を顕わにして吠える。

 突撃する彼女の左指には鉄球、五指に挟んだ計四つ。全てを宙に放つと、右手に持つ巨大なスレッジハンマー――彼女のアームドデバイス、グラーフアイゼンで叩きつけた。

 

『Schwalbe fliegen』

 

 四つの鉄の流星は、内二つがシグナムに、残り二つが蒐集中のシャマルに向かう。

 シグナムは自らの左右から襲い来る鉄球を、一つを展開した障壁で、もう一つをレヴァンティンでさばく。

 蒐集中のシャマルは防御魔法の展開が間に合わず、そばにいたザフィーラがシャマルの腰を掴んで身体を引き寄せ、自らの肉体を盾として守る。

 三人の動きが止まったその隙に、ヴィータはウィルのそばに降り立っていた。ヴィータの干渉によって闇の書の蒐集が止まる。

 

「ヴィータ、いきなり何のつもりだ」

 

 いきなり攻撃を仕掛けてきたヴィータに、シグナムが問う。問われたヴィータの顔には変わらず怒り。

 

「それはこっちの台詞だ! お前らこそなかなか帰ってこないと思ったら、いったい何のつもりで蒐集なんてしてんだよ!」

 

 弾劾の言葉がヴィータの口から放たれる。家族が暴漢に襲われているのではと心配してやって来たのに、家族が暴漢だったという状況に怒り心頭。

 弾劾を真正面から受け止め、シグナムは答える。

 

「理由は帰ってからいくらでも説明しよう」

 

 シグナムはヴィータに――その後ろのウィルに剣を向ける。

 

「だが、その前にそこをどいてくれ。まずは、彼にとどめをささなくてはならない」

「ふ、ふざけんな!! 蒐集はもうやったんだろ! どうしてわざわざ殺すんだよ!」

 

 一度蒐集した対象から二度目の蒐集はできない。だからこそヴィータは、蒐集を一旦止めるために、仲間に攻撃してまで強引に割りこんだ。そして実際に蒐集は中断され、ウィルからこれ以上蒐集することは不可能になっている。

 

「お前は勘違いしている。我らは蒐集のためだけに彼を襲ったわけではない。彼の殺害。魔力の蒐集。どちらも主のためだ」

「蒐集はしないって、はやてと約束しただろ! それをはやてに相談もせずに破って、その上はやての大切な奴を傷つけて、それのどこがはやてのためだよ!」

「そうしなければ、主は死ぬ」

 

 予想だにしない告知に、ヴィータは絶句する。

 

「は……? なに、言って……」

「それが真実だ。ヴィータ、お前は主のことは主に決めさせるべきだと言ったな。それは正しい。だが、所詮は理想論だ。事実を話し、他人と自分の命を選ばせればどうなるかなど考えずともわかるだろう。主は優しいからこそ、その選択に苦しみながらも最後には苦しみさえ隠して自分の命を捨てる」

 

 わかりもしない未来を、まるで見てきたかのように予言するシグナムの言葉。

 それに異を挟む者はこの場に誰もいない。皆、はやてがそういう子なのだとよく知っている。

 

「もう一度言おう。主には相談できない。事情は帰ってから説明する。彼はここで殺す。わかったか? ……わかったなら、将として命ずる――そこをどけ」

「駄目だ」

 

 それでも、ヴィータはシグナムの命令をはねのけた。

 

「シグナムがそこまで言うなら、本当にこいつを殺す必要があるのかもしれない……ううん、必要なんだろう。でも、駄目だ。ここで誰かを殺したら、また戦ってばかりいたあの頃に戻る気がするんだ。……あたしは嫌だ。もうあの頃には戻りたくない。シグナムだってそう思っていたから、使命に背くことになるのに蒐集しないって約束をしたんだろう?」

 

 ヴィータは、グラーフアイゼンを構えた。

 

「あたしはヴォルケンリッターの鉄槌の騎士だ。でも今は、はやての家族のヴィータなんだ。だから、シグナムがこいつを殺そうとするなら止める」

「私もできることなら殺したくない。主はやての家族でありたいとも思っている。それでも私は、ヴォルケンリッターの剣の騎士だ。主の害になる者は殺さなければならない」

 

 レヴァンティンを構えるシグナムから菫色の魔力光が、グラーフアイゼンを構えるヴィータから赤色の魔力光が発せられる。

 ウィルという異物を排除する戦いは、いつの間にかシグナムとヴィータの二者の戦いに形を変え、そして。

 

「二人とも、やめて」

 

 静かに、しかしたしなめるようにシャマルが言い、ザフィーラもうなずく。

 体は浅緑と白の魔力光が覆っている。この二人もシグナムとヴィータが戦い始めれば、それを止めるために動く。

 場は混沌とした空気に包まれ、戦いは三つ巴の様相を呈していた。かくして、再び戦いが始まる――はずだった。

 

「戦場で内輪もめとは、名にし負うヴォルケンリッターも地に堕ちたものだな」

 

 戦いを止めたのは、前触れなく結界内に響いた声。

 いつからそこにいたのか。仮面をつけた男が月を背に空に立ち、ヴォルケンリッターを見下ろしていた。



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闇夜の雨

 声の主は月を背に空に立っていた。

 月光よりもなお寒々とした仮面を身につけた人物。

 痩身だが体格は男のもの。片手には白いものを抱えている。

 

 突然の乱入者に対する騎士たちの反応は、当然ながら敵意と警戒心。

 仮面をつけたその人物は四人の騎士に敵意を向けられながらも、動揺はない。それでいて余裕ぶっているわけでもなく、立ち姿には微塵の隙もない。シグナムが張った封鎖領域へと容易に侵入したことからわかるように、間違いなく一流の戦士だ。

 だが、仲間割れの最中とはいえこちらは四人で、仮面の戦士は一人。

 相手がヴォルケンリッターと知ってなお一人で現れるとは、よほど己の実力に自信がある愚者か、考えなしの馬鹿か、あるいは底知れぬ策略を秘めているのか。

 

「お前たちと事を構えるつもりはない。そのつもりならば、お前たちが益体のない言い争いをしている内に一体は殺している」

「なら、何をしに来た」

「仲裁だ。私は蒐集の完了を望んでいる。そのためにはこのようなところで仲間割れをされては困る」

 

 仮面の戦士はシグナムとヴィータを交互に見やり、続ける。

 

「お前はその男から自分たちの情報が漏れては困るから、その男を殺そうとしている。そしてお前は殺したくはないから、それに反対している。ならば私がその男の身柄を預かり隔離しよう。それでこの場はひとまず収まるだろう?」

「断る」シグナムは即断。 「申し出そのものはありがたい。突然現れたお前を信用できるのならばな」

「その通りです。それに顔を見せない――いいえ」シャマルは仮面の戦士を睨む。 「姿さえ偽るような人の言葉なら、なおさらです」

「偽る?」

 

 ヴィータの疑問に、シャマルがうなずく。

 

「この人、声も姿も偽りよ。多分、変身魔法。それに今夜のことは、はやてちゃんが急に倒れたことがきっかけで起きた、誰にとっても想定外の状況よ。その場に居合わせるってことは、この人はずっと前から私たちを――はやてちゃんを監視していたのよ」

「変身魔法を一目で見抜くか。先ほどの軽口は訂正しよう。そしてその推測も概ね正しい」

 

 あっさりと認めた仮面の戦士に、シャマルは続ける。

 

「なら、はやてちゃんが苦しみ出したのも……もしかしたら病気自体が、あなたが仕組んだのではありませんか?」

 

 その言葉に他の三人も殺気立つ。

 ヴォルケンリッターの参謀役たるシャマルの推測。だが、それはただ論理のみをもってなされた推測ではない。もしも目の前の人物が元凶ならば、蒐集をしなくてもはやての体はもとに戻るのではないか。そんな期待から生じた推測だった。

 それを見抜いたのか、仮面の戦士は初めて声に感情をのせる。嘲りを。

 

「その推測は外れだ。八神はやてに訪れた異変は全て、闇の書とお前たちが原因だ」

「……どういうことです?」

「私が答えるより自分たちで調べた方が良い。そうすれば否が応でも受け入れるだろう。それに今はあまり悠長に話している暇もない。お前たちは自らがおかれた状況に気が付いてないようだが、制限時間が迫っている」

 

 戦士は片手で抱えていた白い塊を空中に投げてよこした。それが人間の体――騎士たちもよく知る人物の体だと気付いた時、真っ先に動いたのはヴィータだった。

 

「高町っ!!」

 

 ヴィータは空中でなのはの体を抱え込むと、殺意すらこもった眼で戦士を睨みつける。

 

「てめぇッ! 高町に何しやがった!」

「この結界に入ろうとしていたので、気を失ってもらっただけだ。どうやら、お前たちが張った結界を調査しようとしていたようだな」

 

 守護騎士たちの背筋が凍り付く。もしも顔を見られていれば、ウィルだけでなくなのはをも殺さなければならなかった、という事実に。

 

「連絡がなくなったことで少女の関係者が動きだしている。魔導師でない現地人が来るだけなら良いが、おそらく管理局にも連絡は入っているだろう。時間がないと言った意味はわかるな?」

 

 ヴォルケンリッターに選択の自由はなくなった。今、管理局に発見されれば、蒐集は始まる前に終わる。

 

「……わかった。お前に任せる」

「賢い選択だ。それではこの男はもらっていく。その少女は好きにしろ。その辺りに置いておけば、後で駆けつけた管理局が見つけるだろう」

 

 仮面の戦士はウィルの体を抱えて、再び空に浮く。そして立ち去る直前、振り返る。

 

「お前たちが蒐集を続けるつもりであれば、極力顔は隠せ。この男と親交があったお前たちの顔は、管理局に覚えられることになるだろう。顔が割れようものなら、次の日にはあの家まで突き止められるぞ」

 

 言い残して、仮面の戦士は結界から出て行った。後には騎士たちと気を失ったなのはが残される。

 

「あたしたちも、ひとまず帰ろう……はやてが心配してる」

 

 まだ不満は残っているが、仮面の戦士の乱入で気勢を削がれたか、ヴィータが力なく言う。

 が、シグナムは首を振る。首をかしげたヴィータの体が、バインドに捕えられる。菫と浅緑と白藍の三重バインド。

 

「まだだ。高町ほどの魔力を放っておくわけにはいかない」

「シグナム! てめえッ!!」

「すまないな。だが、これも必要なことだ。……シャマル、殺すほどは奪うな」

 

 結界の中にヴィータの怒号が響き渡るが、書は無情にも頁を刻んでいった。

 

 

 

 結界から出ると、仮面の男はあからさまに舌打ちをした。先ほどの無機質な雰囲気は立ち消えて、苛立ちを顕わにする。

 

 舗装された道路が砕け、道の端に植えられた木々は切り倒され、そして血が広範囲に飛び散っていた現場を思い返す。あれではウィルが何者かと戦ったことが丸わかりだ。証拠を消すほどの時間もない。

 局員一人が突然行方不明にというだけならば、しばらくの間ごまかす方法はいくらでもあったが、あれだけ戦闘の証拠があれば確実に明日から管理局が捜査に乗り出してくる。

 それもPT事件で海鳴という土地に協力者を有し、仮面の戦士が優秀とお墨付きをあげたくなるアースラの者たちが。

 

 仮面の戦士は飛びながら、通信装置を起動させる。小型だが次元転送ポートを利用することで、次元世界間の通信さえ可能な機器。

 そのために使う転送ポートは月村の敷地にある物ではない。それを経由すれば、通信履歴が残ってしまう。PT事件が始まる前からこの世界を訪れていた仮面の戦士は、この街に管理局の知らない転送ポートを設置している。

 

「管理局の様子はどう?」

「すでに動き始めているよ。軽く妨害しておいたけど、後十五分もすれば地球に到着するでしょうね」

 

 通信機から聞こえるのは、冷めた少女の声。そして仮面の戦士も姿はそのままだが、声と口調は活発そうな少女のものに変わっている。

 

「うわ、結構やばかったんだね。でも、それだけあればあいつらも逃げられる……か。 そうそう、怪我人がいるから治療の用意をしておいて」

「わかった。手配しておく。それで、彼らと直に接触した感触はどう?」

「強いね。あたしも一対一だとカードを惜しみなく使って五分五分かな。でも、それだけ。今のままだと蒐集の途中で管理局に見つかって捕まるよ」

 

 この目で見たヴォルケンリッターの強さはたしかに恐るべきものだったが、個人の域を越えていない。個は数で圧殺し、(わざ)は技で封じれば良い。治安維持組織たる管理局には、そのノウハウは山ほどある。それに、現代は技術の進歩にともなって、一般的な武装隊員の力も十年前よりさらに上昇している。

 デバイスの性能の上昇、魔法の体系化にともなって、個々の実力差が占める割合は減り、一騎当千は次第に幻想となっている。そして仮面の戦士は自らの生みの親と共に半世紀を戦い抜いてきたからこそ、それを実感として知っている。

 だからこそヴォルケンリッターは管理局に見つからないように、そして管理局が介入できないよう戦わなければならなかったのに、初手でいきなりつまずいてしまった。

 顔を隠すように助言はしたが、ウィルと直前まで顔を合わせていた八神家の居候とこれから始まる連続襲撃事件の犯人を関連づけるのを防ぐ時間稼ぎにしかならない。

 蒐集の被害者が増え続ければ、いずれ管理局も単なる通り魔的犯行ではなく、計画的なものだと――闇の書による蒐集が再来したのだと疑い始める。

 そして闇の書の関連が決定的になり、過去の闇の書事件の情報の閲覧許可が出てしまえば、八神家の居候たちが闇の書の守護騎士であるとすぐ知れる。

 

「蒐集が佳境を迎えるまでは表にでないつもりだったけど、こっちも状況に合わせて動きを変える必要があるか。ところで、怪我人はやっぱりあの子?」

 

 仮面の戦士は肩に抱えたウィルに視線をやる。それから思わずため息をついた。

 

「うん、例の子。必要な行為だったと思うけど、ちょっと私情が入ったかもしれない。でも、ねぇ……」

 

 この子が死ねば教え子が悲しんだかもしれないから、という言葉が浮かび、思わず自嘲する。

 

「あたしも甘いよねぇ」

 

 

 

 

 日は明け、そしてまた夜が訪れた。

 あの夜から一日。はやては次の日の再検査で特に異常が見られなかったため、昼前に退院して迎えに来たシャマルたちと外食してから家に戻り、用心のためと早めに眠りについた。

 それが自らの余命を知らされていないはやてにとっての認識。

 

 八神家のリビングには疲労困憊の騎士たちが、ソファに座って話を続けている。

 昨夜は全員が事情を共有し、それからずっと今後の方針について話し合いを続け、気がつけば朝。昼にははやてを病院に迎えに行き、夕方にはウィルのことで彼の知人と名乗る者から電話があり、シャマルが応対した。すでに管理局は動き始めているようだ。

 もちろんプログラム体の守護騎士がこの程度で疲れるはずがない。体の疲れなら肉体を構成し直せば良いだけだ。だからこれは精神的な疲れ。

 

「それで、主の病気については何かわかったか?」

「仮面の人が言っていたことは本当。はやてちゃんの足が動かないのは、闇の書の存在がはやてちゃんの未成熟なリンカーコアに大きな負担をかけているから。……多分、私たちの実体化に膨大な魔力を消費したことも無関係じゃないと思う」

 

 語るシャマルは途中から涙混じりの声。

 守護騎士は肉体的な痛みにはなれていても、精神的な痛みにまで強くはない。自意識はあっても、はやてが主になるまで人と交流した経験がほとんどなかった幼子のような彼らの心を、自分たちが全ての元凶だという事実が深くえぐる。

 

「治す方法はないのか?」

「……確実とは言えないけれど、ないわけじゃないわ。蒐集によって闇の書を完成させれば、はやてちゃんは正式な闇の書の主になれる。闇の書がはやてちゃんにかけている負担も、主の権限で制御できるようになる……と思うの」

「結局、蒐集か」

 

 ザフィーラがつぶやく。

 

「ザフィーラ、あの仮面の者はあれから現れていないか」

「昨日今日と周囲の気配を探っているが、監視するような気配は感じられない」

「信用できる人たちではなかったけど、あの人たちは私たちも知らない病気の原因を知っていた。もし出会うことあれば、協力してくれるようにお願いした方が良いかもしれないわね。それで、これからのことだけど……」

 

 シャマルはそこまで言うと、ヴィータの方を向いて様子をうかがうが。

 

「わかってる、蒐集するんだろ」

「良いの? 昨夜はあれだけ嫌がっていたのに」

「はやてが死ぬよりは良い」腹の底から絞りだすような声で、ヴィータは言う。 「でも、殺しはしない。効率は悪くなるけど、死ぬまで吸わなくても蒐集はできる。だからそれが条件だ。殺さずに蒐集を終えて、戦うような生き方もこれで終わりにするんだ」

「わかった、二人もそれで良いな」

 

 シグナムはザフィーラとシャマルを向く。二人も静かに首肯した。

 

「それでは――これより蒐集を始める」

 

 これが最善だと、最初で最後の主への裏切りだと、この先に幸せな生活が戻るのだと、この夜がすぎれば再び陽の当たる場所で生活ができるのだと。

 そう信じて、シグナムは蒐集の開始を宣言した。

 

 

 

 シグナムの最初の獲物は、無人世界の遺跡を探索していた若者たちだった。

 顔を隠すために仮面をつけたシグナムの姿に彼らは、なぜ、どうして、俺たちが何をしたんだと、悲鳴をあげて逃げ出した。そんな彼らを一人残らず捕まえ、リンカーコアを持つ者全てから蒐集した。彼らに非はない。ただ魔力を奪うために襲った。

 二度目の蒐集対象は一人の戦士だった。戦慣れしているようで、シグナム相手にも恐れずに立ち向かってきた。彼が召喚した赤竜を切った時、切られた赤竜が最後に戦士の方を向いて倒れたのが印象的だった。召喚師と召喚獣の間には強い関係があるという。主従か友好かはわからないが、きっと彼らの間には大切な関係があったのだろう。

 三度目の蒐集対象は十人ほどの悪党だった。仲間が蒐集される様子を見て殺されると思ったのか、命までは取らないというシグナムの声も届かず、ひたすら命乞いをした男がいた。病気の母親がいるからと頭を地にこすりつけて。その言葉が真実なら、男が死ねば彼の母は悲しむだろう。

 四度目の蒐集対象は一家だった。妻と子を守ろうとする夫を気絶させ、全員を捕らえて蒐集した。主を――家族を――守ろうとする己が、家族を襲った。

 

 四度目の蒐集を終えたシグナムは肩で息をしながら、空を仰いだ。叢雲が月を隠し、星々さえも見えはしない。

 主のための行動、何も間違ってなどいないはず。だというのに、纏わりつくような悪寒が消えない。先ほどから肉体を再構成しているのに、まったく消えてくれない。

 剣を握りしめたまま、シグナムは一人、その場に立ち尽くした。

 

 

 別の場所で、ヴィータとザフィーラもまた正体を隠すために仮面をつけて、蒐集のために戦っていた。

 ヴィータは敵を殴る直前に思わず手を止めてしまった。その隙に敵はヴィータに反撃。そしてヴィータがひるんだ隙に逃げようとするも、ザフィーラの一撃で沈んだ。

 

「敵を逃がすとは、お前らしくもない」

 

 そう、敵に容赦しては駄目だ。敵――違う、それは人だ。主と同じく、人だ。

 彼にも人生があり、守るべきものがいて、やりたいことがあるのだろう。そんな人を傷つけた。その事実にヴィータは吐き気を覚える。

 それを無理やり呑み込む。ここでやらなければ、はやてが死ぬ。だから続けなくては。

 

「大丈夫だよ。もうこんなへまはしねーって」

「……ならば良い」

 

 そういうザフィーラも倒れた男を見た後で、殴った自分の手を見た。格闘は昔からのザフィーラの戦い方だ。なのになぜか、手には嫌な感触が残っていた。

 

 

 シャマルは広域探査をおこない蒐集対象を探していた。

 魔導師というだけではなく、人家から離れていて通報されずできる限り魔力量が多い者。その他にも様々な要素から蒐集対象を決定し、仲間に連絡する。

 仲間に危険が及ばないように、()()()()()はなるべく早く終わらせるために、最高の効率を求める。

 今もまた、新しい蒐集対象を見つけ出した。そして近場にいる仲間に連絡する。その時、その蒐集対象がこれからどうなるのかを想像してしまい、彼女の端正な顔がかすかに歪んだ。

 

 

 

 はじまりは他者の認識。世界が主と敵しかいないという認識をやめること。

 それがヴォルケンリッターを変え、罪悪感という意識を芽生えさせる。

 

 彼らは気付いてしまった。自分とは関わりのない他人も自分たちと同じように生きていて、自分たちが主を守ろうとするようにそれぞれ守りたい者がいる。

 他人を思いやることができる。他人の痛みがわかる。それは人として最高の美徳であり、その美徳を持つ者がそれでも人を傷つけなければならないとすれば、美徳はその瞬間から猛毒に変わる。

 

 それでも、止まることはできない。

 全てははやてを生かすため。

 蒐集を終えて、もう人を傷つけなくても良くなれば、きっとこの苦しみからも解放されると信じて突き進む。

 その果てに、愛するはやてと共に、好きになったこの海鳴の街で、再び笑って過ごせる日が訪れるのだと――

 

 

 

 これは過去。

 

 召喚されてしばらくたった日の夜、みんなで裏庭に出た。裏庭にはウッドデッキがあり、そこには小さな机と椅子が置かれていた。空は満天の星々と満月が輝く穏やかな夜天。

 

「本当に良いのですか? 主の命あらば、我らはすぐにでも頁を蒐集し、主は大いなる力を手に入れることができます。その足も、きっと治るはずです」

「自分の身勝手で他人に迷惑はかけられへんよ。それに、そんなおっきな力があったって、使う場所があらへんしなぁ」

「しかし、使命も果たさない我らが、ここにいるというのは……」

 

 はやては愚直な騎士に困ったように笑いかけた後で、わざと怒ったかのように顔をふくらませる。

 

「もぅ、そんなこと気にせんでええのに。でも、そこまで言うんやったら、一つお願いごとをしてもええかな?」

「なんなりと!」

「みんなが現れる前も、私は幸せやった。誰にも迷惑をかけんように暮らしていられたらそれでええと思ってたのに、なのはちゃんたちが遊びに来てくれて、石田先生や桃子さんや近所のおばさんたちも親切で、ウィルさんは来れんでも、時々手紙をくれる。十分やと思ってた。でも……でもな、夜に家で一人でいると、時々すごくさみしくなってしまうんよ。欲張りやとわかってるんやけど、誰か一緒の家にいてほしいって思ってしまう。

 だから、みんなにするお願いは――私の家族になって、一緒にいてください、ってことなんやけど……どうやろ?」

 

 はやてはシグナムの顔を見て、それからシャマルの、ヴィータの、ザフィーラの顔を見る。

 みんな、買ってもらったばかりの服を着ている。余所行きのような服を、昔の主は与えてもくれなかった服を、何着も何着も。

 その顔にはいまだどう反応していいのかわからないという不器用さがあった。でも、ある種の期待を込めながら将であるシグナムを見ていた。

 シグナムは彼らを代表して答える。道具である自分たちを家族として見てくれる優しい主へと。

 

「わかりました、主はやて。あなたが望む限り、我々は貴方と共に在ります」

 

 はやてが嬉しそうに微笑む。

 振り向けば、シャマルが微笑んでいた。

 ヴィータも恥ずかしそうにもぞもぞしながらも口角が上がっていた。

 ザフィーラは表情こそ変わらぬものの耳をピンと立てていた。

 そこには、みんながいた。

 

 

 

 これは未来。

 

 空は曇天。痛みを感じるほどに周囲の気温は低く、灰色の厚い雲が陽光を遮るので、日中だというのに辺りは薄暗い。灰色の世界に、氷のような白雪が降り注ぐ。

 

「このあたりで良いだろう」

「そうですね。このあたりで」

 

 シグナムの前にはウィルがいる。その右手に握られた刃は深紅に濡れていた。

 シグナムが奪ったはずの右腕には、新しい腕が――銀色の義手(デバイス)がある。

 

「俺のわがままにつきあってくれて、ありがとうございます」

 

 弱ったシグナムに、ウィルがにこやかに笑いかける。殺そうとしているのに、表面上を取り繕い続けている。これまでのように、ずっと。

 

「始める前に、一つ聞かせてほしい。何のために私を殺す?」

「今更言わなくたって、理由は知ってるでしょう」

「原因ではない。貴方の心が知りたい」

 

 ウィルは困ったような笑みを浮かべ、答えるのを拒否する。

 この後に及んで、殺そうとするこの瞬間にまで、己の心の内を語ろうとしない彼の態度に胸がしめつけられる。でも、たとえ語りたくなくても教えてほしい。シグナムがこれまで何を犯したのか、その罪を認識させてほしい。

 それがわかれば、きっと怯懦なこの心にも一歩を踏み出す力が湧いてくる。

 そんな意思を込めてじっと睨み返せば、ウィルは呆れたように口元を緩めると訥々と語り始めた。

 

「復讐なんて無意味だってことはわかっています。それにシグナムさんのことも好きですから、抑えられるものなら抑えたいんですけど……どうやらそうはいかないみたいです。どうしても許せないんですよ、あなたが生きているのが。……許せるものかよ、奪った奴が生きているなんて。はやてと一緒に生きる、なんて」

 

 ひび割れるように、ウィルの表情は崩れて歪む。先ほどまでの穏やかな笑みも感情も偽物ではない。ただ隠していた――これから見せる――顔の方が、笑みを塗りつぶすほどの圧倒的質量を持っていた。

 

「許せるか!! 奪ったお前に、幸福な人生なんて与えるものか! 贖罪なんて綺麗な言葉にくるんだ、安穏とした生活なんて認められるか! 奪われた者はもう帰ってこれないんだよ! もう、二度と! 何をしたって! 父さんはおれのところに帰って来てくれないんだ! なのに、なのに、……畜生ぉぉぉお!! 奪ったお前が奪われずにすむだと!? ふ、ふざけるな! そんな理不尽を認められるかよ! 世界の誰が許したって、俺はお前を許さない! お前にはどんな人生だって与えない! そうだ! 死以外、何か一つでも与えてやるものか!!」

 

 子供が泣き叫ぶように声をあげる。奪われたから奪い返す――なんて、わかりやすい。

 

 叫びながらウィルは不可視の翼を生みだして向かってきた。

 シグナムもまた自らの体に鞭打って、レヴァンティンを掲げて駆ける。

 それが彼女にとっての義務であり、彼女が得た答えだから。

 脳裏に浮かぶのはあの日の記憶。赤い髪の男――目の前の彼の父親で、シグナムがその手で殺した人。全てを思い出した今、逃げることは許されない。

 周りには誰もいない。二人の他には誰もいらない。ここは咎人と断罪者、二人だけの血戦場。

 

 

  「ずっと一緒に」 彼女が願う

 

  「殺すッ!!」  彼が吼える

 

 

 

 

 今。

 救済を受けた過去は過ぎ去り、断罪を受ける未来は未だ来ず。

 

 空を見上げるシグナムに、水滴が落ちる。

 初めは少しずつ、次第に勢いを増して雨が降る。足元の土は水を得て泥に変わっていく。

 シグナムは騎士甲冑を解いた。雨にうたれる体は急速に温度を失う。寒さが悪寒を上書きしてくれて少し楽になる。

 心には一つの疑問。

 

 ――我々はどうすればいい

 

 今のシグナムは、答えを持っていない。

 代わりに持っている物と言えば、右手の剣。そう、剣――数多の人を切ってきたもの、数多の人を焼いてきたもの。それがとても忌まわしい物に思えて、彼女は思わず手を離した。

 足元で水と泥がはねる。自分の手放したレヴァンティンが、泥に塗れ、汚れていた。

 心が後悔で埋め尽くされる。これまで一緒に戦ってきた相棒に、自分は何をしているのか。剣に罪はない。それを振るって来た自分たちにこそ罪はある。

 では、主に命令されて戦ってきた自分たちも罪はないのか? それはおかしい。何かに強いられていたという理由で納得するのなら、この世の殺人者のほぼ全てに罪はなくなる。

 では、罪とはなんだ?

 

 明朗としない思考を抱えたまま、シグナムは泥の中に膝をつき、すぐにレヴァンティンを拾い上げる。

 

「すまないな、レヴァンティン……すまない、本当にすまない」

『Meister(主)?』

 

 シグナムは汚れたレヴァンティンを胸にかき抱いたまま動かなかった。ただ、すまない、と、何度も繰り返す。誰に謝っているのか、なぜ謝っているのかもわからず、何度も繰り返す。

 

 誰か、誰でも良い。どうか教えてくれ。何が正しくて、何が間違っているのか。我々はどこで間違ってしまったのか。

 我々は―――私は、いったいどうすればいい。

 

 

 問いかけに答えるのは、雨音だけ。

 

「シグナム? ねえ、返事がないけど、どうしたの?」

 

 心配したシャマルからの連絡で、ようやくシグナムは我に返った。

 

「あ、ああ。……大丈夫だ。なんでもない」

「そう。それなら良いけど。新しい魔力反応があったの。座標を伝えるから、すぐに向かって」

 

 新たな蒐集対象を告げる言葉に、雨にうたれて青ざめた唇が歪み、剣を握る手が痙攣する。

 

 

 陽は沈み、雨降る闇の夜が訪れる。




 ここまでA's編のプロローグ。


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連続魔導士襲撃事件

 宙空に投影された複数のホロディスプレイが、管理局の制服に身を包む人々の指の動きにしたがって次々と画面を変えて行く。

 もとはただの洋室であったその部屋は、壁際に並べられていた書棚や年代ものの大理石の机といった長年連れ添ったインテリアと離別させられ、代わりに無数のコードが繋がる機械、購入してきたばかりと思われる安物の椅子と机が、我がもの気取りで部屋に鎮座している。

 

 ここは月村邸の一室。

 今は『連続魔導師襲撃事件』の捜査のために管理局が借りている部屋の一つだ。

 

 事の始まりは三週間前。海鳴で現地の魔導師高町なのはと、知人を訪問していた管理局の局員ウィリアム・カルマンが、何者かの襲撃を受けた事件に端を発する。

 その日から連日繰り返される犯行によって、被害者の総数はもはや三桁に届こうとしている。せめてもの救いは一部の例外を除いて重傷者・死亡者が存在しないこと。

 犯行は主に地球の周辺世界で発見されており、一件目が先日PT事件の主要な舞台となった海鳴ということもあり、現地人と交流のあるアースラチームが捜査を担当することとなった。

 ただしアースラ自体は整備のために動かせないため、局員たちは転送ポートを利用して海鳴へと訪れ、月村邸内に設置された臨時捜査本部を中心に活動を続けている。

 部屋の中心にいるのは、アースラの通信主任エイミィ・リミエッタ。この事案の捜査司令であるリンディ・ハラオウンがわけあって不在の今、彼女とクロノが捜査員の指揮をとっている。

 

 エイミィはゆっくりと立ち上がると、自らの腰を叩きながら、近くに座るランディ通信士に声をかける。

 

「それじゃあクロノ君と一緒になのはちゃんに会ってくるから、後はよろしくね」

「わかりました。顔、整えてから行った方が良いですよ」

「あはは……そんなにひどいかな」

 

 その隣のアレックス通信士が眼鏡を拭きながら言う。

 

「ちゃんと休んでくださいよ。艦長がいない今、主任に倒れられたら大変ですからね。主に僕たちが」

 

 上司にきっちり苦言を呈してくれる部下に後を任せて、エイミィは自室に戻った。

 ほとんどの捜査員は交代で本局から通っているが、クロノやエイミィをはじめとした意思決定に関わる数名は、部屋を借りて常に月村邸に滞在している。

 自室で軽く化粧をしてから、先ほどとは異なる部屋に入る。その中では執務官のクロノと数人の捜査官が仕事中。

 エイミィに気付いたクロノは、他の捜査員に声をかけてから部屋から出て来た――が、クロノの顔を見たエイミィの顔がひきつる。疲れているのはエイミィも同じだが、クロノは輪をかけてひどい。

 

「うわぁ、目が真っ赤。もしかして徹夜?」

「仮眠はとったから、体調を崩すようなことはない。今すぐ戦闘がおこっても十全に戦える」

 

 言いながらクロノは廊下を進むが、血走った赤い目とその下の隈、それらを周囲から飾り立てる陰鬱な表情がいっしょくたになっていて。普段はかわいらしさすらある童顔に、今や幼子が目を合わせれば泣きだしかねない鬼気を纏っている。

 

「もう、しょうがないな。ちょっとこっちに来て!」

「あまりなのはたちを待たせるわけには――」

 

 エイミィはクロノの手を引っ張って洗面所に連れて行く。鏡で自身の顔を確認させると、さすがのクロノも鏡の中の悪相に顔をしかめる。

 

「ほら、こんな顔であの子たちの前に顔を出すつもりなの? まずは顔を洗うところから!」

 

 顔を洗わせ、懐から取り出したクシで髪を整え、携帯している目薬を注し、服のしわを軽く伸ばす。そしてクロノが嫌がるのも気にせず、マッサージと称して顔を三次元的なあらゆるベクトルに引っ張りたりつねったりして、ほぐした。

 

「うん、だいぶましになったかな。でも後ひと押しが必要だね」

 

 言うや否や、エイミィはさらに懐から化粧品の入ったポーチを取り出す。

 

「……ちょっと待て。それをどうするつもり――」

 

 疑問の言葉が届くよりも、エイミィの手がクロノを逃さないように動く方が早く、速かった。

 数分後、鏡の前には先ほどに比べるとかなり健康そうなクロノの姿。

 

「ね? これで目の下の隈も目立たないでしょ?」

「たしかに。でも、化粧をしているとばれはしないだろうか。男が化粧と言うのは少し……」

「最近は男の人でも多いよ? それに故郷の風習だとかで普段から顔にペイントしている人だって、管理局にも何人もいるでしょ。ってわけで、ちょっと口紅もつけてみよっか?」

「それは断固拒否する」

「え〜……今なら私と間接キスになるけど?」

「…いらない」

「あ、少し間があった。クロノ君のむっつり」

 

 クロノはエイミィに背を向けて、さっさと廊下に出て歩き始めた。顔が赤いのは怒りか羞恥か。どちらにせよその足取りは先ほどよりも力強く。

 

「ごめんごめん! ねぇ、謝るからちょっと待ってよ!」

 

 追いかけるエイミィの顔は、謝罪の言葉とは正反対で嬉しそう。

 無理をしないで、なんて言えないから。せめて自分の軽口でちょっとでも気をまぎらわせてほしいな、なんて思いながら。エイミィはクロノの後を追いかける。

 

 

 

 

「嘱託魔導師になりたい、だって?」

 

 床には観葉植物が並び、天からは陽光差し込む昼のサンルームは、十一月の半ばでもほのかに暖かく快適だった。

 白い円形のテーブルには、クロノとエイミィ、そして彼らと向かいあうように、なのはとユーノが座る。

 

「なのはちゃん、体の具合はもう大丈夫なの?」

「はい。もうなんともないです」

『Thanks for taking care of us the other day.(先日はお世話になりました)』

 

 なのはとレイジングハートがそれぞれ返事をするが、ユーノは首を横に振る。

 

「たしかに魔法もうまく使えていますし、特に後遺症も見当たりません。でも、僕は表面上の異常の有無しかわかりませんから、もう一度ちゃんと診察を受けた方が――」

 

 三週間前、なのはは気を失って事件現場で倒れているところを発見された。

 外傷はなかったが、意識が戻らなかったため、月村家から本局の医療施設に搬送。幸いにも大事には至らず、半日後には意識を取り戻し、修理を受けたレイジングハートと共に三日ほどで海鳴に戻って来ることができた。

 

 民間人のユーノがここにいるのは、なのはの経過観察のために高町家に滞在しているからだ。なのはが襲われたと聞いて本局に駆けつけたら、リンディの計らいでいつの間にかそういうことになっていた。

 もちろん経過観察であれば、ユーノではなく医療の心得がある者を派遣した方が良い。ユーノではせいぜい魔法の構築、行使における異常の有無を見るくらいのことしかできない。

 しかし、なのはの回復が順調だったことに加え、万が一何かがあった時、防御魔法にも優れた結界魔導師のユーノがいれば、月村邸のクロノたちが駆けつけるまでの時間を稼ぐことができること。見知らぬ局員が一緒にいるよりも、同年代の友人でありかつて一緒に暮らしていたユーノの方がなのはの精神的負担にならないことなど、様々な面を考慮すればユーノ以上の適任はいなかった。

 

 ちなみに最初はフェイトが同任務を受ける予定だったのだが、ユーノの出現によって仕事が変更。現在は嘱託魔導師としてアースラチームの武装隊と共に、周辺世界の巡回任務についている。

 

「ユーノ君は心配しすぎだよ。三週間もたってるのになんともないんだから、もう大丈夫なのに」

 

 ほら、と両手を広げて自身の健在をアピールするなのは。そのやり取りに割り込み、クロノがなのはに問いかける。

 

「こんな時に嘱託になりたいと言い出すのは、なのはも捜査に協力したいと思っているから、と考えても良いのかな?」

 

 なのはは慌ててクロノの方を向き、力強くうなずく。

 

「自分がやられた仕返しなんて短絡的なことは考えていないと思うが――」

「あたりまえだよっ!」

「もちろん僕もそんな心配はしていない。でも、別の心配はしている。もしかしてウィルのことでいらない責任を感じていて、それでこんなことを言い出したんじゃないのか、と」

 

 クロノ以外の全員の顔が曇る。無事だったなのはとは逆に、ウィルは現在も行方不明のままだ。

 大量の血液が飛び散っていた事件現場の状況、そして捜査官のサーチャーによって発見された切断された右腕――照合の結果、血液と右腕はウィルのものと確定――は、ウィルが治療を施さねば死に至る傷を負った証拠。

 致命的な死傷者の出ていないこの事案における、唯一の例外だ。

 

「ウィルさんのこと、関係ないわけじゃないよ。でも、責任とかそういうんじゃなくて――わたしはただ、何かをしたいの。知ってる人が傷ついているのに、このまま何もしないでいるのは嫌だから。……こんな理由じゃダメ、かな?」

「駄目とは言えないな。僕も同じようなものだ。何もしていないと不安になるから捜査にのめりこんでしまう。きみの動機を否定することはできない。……いきなり嘱託は無理だけど、この件に関わりたいというだけなら、以前のように民間協力者という形で参加してもらうことはできる」

「それじゃあ――」

 

 瞳を輝かせるなのはに、クロノはうなずいて答えた。しかし、視線は鋭いままだ。

 

「ただ、今回はPT事件とは性質がまるで違う。PT事件はジュエルシードの封印が要だったから、魔力量の高いきみが協力してくれるのはとてもありがたかった。しかし今回はおそらく純粋な戦闘が要になる。僕としては、いくら魔力が高くても魔法を知って半年のきみを参加させるのは少し怖いな」

「なのははとても優秀だよ」クロノの指摘に、ユーノが反論する。 「前に出て戦うのは危険かもしれないけど、なのはが出るなら僕も参加するつもりだし、たとえば前衛のフェイトと組ませての後衛に専念すれば――」

「なのはの優秀さを疑っているわけじゃない。魔力量は僕以上で精鋭ぞろいの本局でもトップクラス。本番でいきなり収束魔法を放てる魔法構築能力に至っては、もう次元が違いすぎて羨む気すらおきないくらいだ」

 

 手放しの称賛に、なのはも思わず照れてしまう。だが、クロノは表情を変えずに「だけど」と続ける。

 

「才能のみでの戦いには限界がある。ある程度以上の相手との戦いは、積み重ねた技量こそがものを言うんだ。特に後衛は前衛よりも、経験や思考能力が重要視される。戦場全体を俯瞰して状況を把握し、相手の性質に応じての効果的な魔法選択。やることだって、射撃系による前衛の援護、捕獲系による敵の弱体化、広域系による多数の敵の一掃、そして前衛が稼いだ時間を使って構築した砲撃による一撃必殺、いろいろある。それらを効果的に行使するには、敵味方の動きを予測することが何よりも大切だ。つまり本職の後衛には、判断力と決断力、高い観察力が必要とされる。こればかりは魔法の才能だけでどうにかなるものじゃない」

 

 ここにウィルがいれば、なのはちゃんそれだいたい持ってるぞ、と言っていただろうが、いまだになのはがまともに戦っているところを見ていないクロノと、自らの技量にいま一つ自信の持てないなのはではそうもいかず。

 

「うう……あんまり自信ないかも。ちなみに、魔導師以外の方法でお手伝いするっていうのは……?」

「……難しいな。ユーノのように民間人に捜査協力をしてもらうことはあるけど、これもある程度の経験が必要だ。ユーノは読書魔法や検索魔法が使えるから、なんとかできたけれど……」

 

 遠まわしに役にたたないと告げられ、さらに落ち込むなのは。

 しかししばらくすると首を左右に振って顔を上げ、決意をみなぎらせた表情で食い下がる。

 

「やる前から諦めてちゃダメだよね。力不足なら諦めるよ。でも、その前に一度私の力を見てほしいの」

「わかった。母さんが本局から帰ってきたら、僕から連絡する。フェイト相手にでも簡単な模擬戦をしてもらって、それを見てから決めよう」

「やった! ありがとう、クロノ君!」

 

 立ち上がって頭を下げるなのは。

 一方、ユーノは先ほどのクロノの言葉に気にかかったところがあるようで。

 

「リンディさん、本局にいるんだね。いつ頃帰ってくるの?」

「……いつになるかな。うまくいっていれば、もうすぐだと思うんだが。難航していればまだまだかかるかもしれない」

「何をしに行ってるのか、聞いても良いのかな?」

 

 ユーノとクロノはPT事件後の本局への帰還、その後の略式裁判と奉仕時間などで顔を合わせていた時間が長く、PT事件の頃は敬語を使っていたユーノも今では普通に話すようになっている。

 尋ねられたクロノは、両手を机の上で組み、神妙な面持ちで語り始める。

 

「明日の捜査会議でも話が出るけど、僕たちは今回の事件には、とあるロストロギアが関係していると考えている。母さんはそれに関係した会議に出席しているんだ」

「ロストロギアが? ただの襲撃事件じゃないの?」

「過去に何度も似たような事件をおこしたロストロギアがある。その時のは被害者は今みたいに数日で治る程度ではなく、ほとんどが死亡したという違いはあるが」

「でも、それって大きな違いだよね。無関係だったり、模倣犯ってことはないの?」

 

 ユーノの問いに、クロノは首を横に振った。

 

「今回の犯行もただの人間では難しいところがある。事件は複数の次元世界にわたって起きているから、これらが同一犯によるものと仮定すれば、犯人は次元航行艦船を所有してこまめに動き続けていると考えられる。だが、定置観測所や航路観測隊からの報告では周辺海域に怪しい艦船はおろかそれらしき痕跡すら見つかっていない。では、犯人はどうやって移動しているか……ユーノはわかるか?」

「普通に考えれば、転送ポートだよね」

「犯行がおこなわれた世界の転送ポートを、犯人と思われる人物が使用した形跡はない。非公式な転送ポートを使用している可能性もあるが、襲撃場所が多すぎる。一箇所や二箇所ならまだしも、三十件を越える事件現場の近く全てにあらかじめ転送ポートを設置しておくなんて現実的じゃない。艦船も転送ポートもなしとなれば、残った可能性は次元転送魔法だ」

「それこそ無理だよ。普通の転送魔法なら僕やアルフみたいに使える人はいるけど、それは同じ世界の中だからだ。機械に頼らずに人間を他の世界に転送するなんて、大魔導師でもなきゃできない」

 

 魔法と科学が発達した管理世界でも、個人で次元の壁を越えるのはいまだ難しい。

 PT事件でフェイトとアルフが時の庭園と行き来することができたのも、庭園の転送装置にアクセスし、転送してもらっていたからで、フェイト個人が次元間転送魔法を行使できるわけではない。

 異なる次元世界間の空間を同期させるための空間歪曲、そして歪曲された空間を支えるための質量を代替するためには、オーバーSの魔導師でも足りないほどの膨大な魔力が必要となる。

 同一世界内の三次元転送よりも演算に必要なパラメータも爆発的に増え、プログラムも複雑化するため、演算量は人間の限界を軽々と越える。

 本人も次元跳躍魔法を始めとする次元系魔法を行使できた、大魔導師プレシア・テスタロッサ。彼女が大魔導師と呼ばれるきっかけともなったのは、まさに個人で次元間転送をなしとげたからだ。しかし、そんな彼女でさえ、魔導炉で足りない魔力を補い、演算のために専用デバイスを用意しなければ成功はしない。

 

「たしかに、普通の人間なら無理だ。でも、転送するものが人体ではなく情報ならどうだ?」

「情報……ってことは、次元間転送じゃなくて次元間通信ってこと? それならそこそこ腕の立つ魔導師なら個人でもできるけど、それと移動に何の関係があるの?」

「物質は無理でも、情報と魔力さえ送れるなら十分だ。かつて事件をおこしたロストロギアは、魔力で人体を構築する古代ベルカの魔法プログラムを有していて、所有者の意のままに動く手駒を作り出すことができた。これに被害者の共通点であるリンカーコアの不自然な衰弱、魔力の減少が合わされば、そのロストロギアが関わっている状況証拠になる」

 

 リンカーコアの極端な収縮と衰弱――これはなのはだけでなく、連続襲撃事件の被害者には共通している。魔法を行使しすぎて極端に魔力を失えばこのような状態になることがあるが、なのはを始めとして被害者にはろくに抵抗できない内にやられた者も多い。

 魔法を使っていないはずの被害者まで、魔力がほとんどなくなったかのような衰弱状態にある。これはこの事件の特徴的な共通点だ。

 

「だが、あくまでも状況証拠。まだ死人が出ていないというのもあるんだろう。本局は違った時のことを考えて渋っている。こうしている内にも被害者は増え続けているんだ。今回だって、いつまた昔のように人が死ぬようになるのかわからないし、ウィルの行方だって手がかりのないままなんだ。それなのに……!」

 

 クロノが言うとあるロストロギア――闇の書は災害級、秘匿級とも呼ばれる第一級捜索指定に認定されている。

 特定の事案や秘匿級のロストロギアの詳細情報の閲覧許可が下りるには、この事件に闇の書が関わっていると正式に認定され、現在の連続魔導士襲撃事件の捜査本部が闇の書対策特別捜査本部へと再編される必要がある。

 ロストロギアの情報に秘匿が必要なことは理解している。捜査員間での捜査情報の保秘の徹底、各次元世界のマスコミ等への報道規制、襲撃の被害が出ている各管理世界への根回しと捜査協力要請の必要があるため、安易に早期認定するわけにはいかないのもわかっている。追加人員として別の部署から部隊が回され、それで人手が足りなくなるのを嫌がる人たちがいるのもわかっている。

 けれど、それら全ては増え続ける被害者よりも優先されることではないはずだ。

 

 苦悩するクロノの手を、エイミィが掴んだ。突然のことにきょとんするも、クロノ以上にエイミィが、そしてなのはとユーノの方が騒然としていた。

 原因はすぐにわかった。机の上で組んでいたクロノの両手、意識していない内に力が入りすぎて白く変色し、同時に爪が手の甲に食い込んで血が出ている。

 

「……そう言えば、爪を切るのを忘れていたな」

「そういう問題じゃないよ! ユーノ君、回復魔法――」

 

 なのはの指示にユーノが慌てて腰を浮かすが、クロノは掌を前に出してそれを押しとどめる。

 

「いいよ。皮がやぶれただけだ。この程度なら自分でもどうにかなる。それよりも、すまない。愚痴をこぼしたあげく醜態をさらしてしまった。今日はここまでにしよう。僕は少し頭を冷やしてくる」

 

 クロノは立ち上がり背を向けると、一度も振りかえらずにサンルームを出て行く。

 

「追いかけなくて良いんですか?」

 

 なのははエイミィの方を見るが、彼女は静かに首を横に振った。

 

「放っておいた方が良いよ。今のクロノ君は、お父さんのこと、ウィル君のこと、本局の方針に、どんどん増える被害者。いろいろつもりすぎて少し混乱しているんだと思う。誰かがいろいろ言っても余計に考えることを増やして逆効果になるだけだよ」

「お父さん?」

「……あちゃあ、私も少しまいってるのかな。まぁ捜査員はみんな知ってるから今更隠しても仕方ないか。クロノ君のお父さん、そのロストロギアが前に起こした事件で亡くなってるの。それから、その時にウィル君のお父さんも一緒に。だからクロノ君にとっては今回の事件はいろいろと思うところがあるんだよ。私ですら正直、どこまで冷静に対処できてるかわかんない」

 

 なのはたちは絶句し、クロノが出て行った扉の方を見る。そんな二人にエイミィは微笑みかける。相手のことを心配しながらも、それでも心の底から信じきっている表情。

 

「そんな心配そうな顔しないで。クロノ君は強い人だから、きっと大丈夫」

「クロノ君のこと、信頼しているんですね」

「そりゃ、ずっと近くで見て来たからね」

 

 エイミィはかすかに頬を赤らめながら言い切った。

 

 

 

 クロノは貸し与えられている自室に戻り、その部屋のベランダに出て、柵に肘をつく。視界には月村邸を囲む森と、そこから続く山々が見える。

 紅や黄に彩り始めたが樹葉が作り出す、視界いっぱいに広がるマーブル模様のパノラマも、今のクロノの心を揺らすには至らない。むしろ肌を刺すような木枯らしと、手の傷による微細な痛みの方が慰めになる。

 

 もし、自分が闇の書事件を担当することになったら――そんな想像は何度もしたことがあった。クロノも幼い頃は自分が父の仇を取るのだと息巻いていた。しかしハラオウン家とも深い親交のあった父の上官から師事を受けるようになってからは、連綿と続くこの悲しみを終わらせるのだと思うようになった。もう誰も、自分のように悲しむ者を出さないようにと考えて。

 それなのに――

 

 クロノの瞳にも瞋恚の炎が熾り始める。父だけでなく、友をも奪ったかもしれない闇の書への怒りの火だ。

 仇なんてとっても死んだ人は戻って来ない。亡き父もそんなことは望んでいない。それでも、闇の書がウィルを殺したのであれば、報いを与えたいと思っている自分がいる。

 

「僕は執務官だろ、クロノ・ハラオウン」

 

 クロノは燃える双眸を閉じて、自らに言い聞かせる。

 自分は己の意志で執務官として在る生き方を選んだ。だから自分が担当する事件に私情を持ちこんではいけない。

 少しでも悲しむ人が少なくなるよう、事件を早急に解決へと導き、犯人には法にのっとって正しい裁きを与える。やむおえない事情があればそれを考慮に入れる。

 それだけだ、それ以外であってはならない。執務官という大きな力を持つ自分は、それにふさわしい行動をとらなければならない。恩師に何度も繰り返し言われた教えだ。

 再び開かれたクロノの瞳に、もう炎はない。その代わりに意志を固めて造った瞳がそこにある。今はまだ、炎で溶けてしまいそうになる蝋のようだけれど。

 

 その時、先ほどまで一緒の部屋で仕事をしていた捜査官から連絡が入る。すぐに部屋の中に入り通信を開くと、ホロディスプレイに捜査員の顔が映る。

 

「休憩中にすみません。ですが、本局のリンディ司令から連絡がありまして」

「かまわないよ。それで?」

「はい。闇の書の認定が出た、と。司令は必要な指示を出したら、捜査本部に戻ってくるそうです」

 

 

 この数時間後、たしかにリンディは月村邸に戻って来た。

 もう一人、亡き父の上官でありクロノの恩師でもあるギル・グレアム提督を伴って。



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ギル・グレアム

 水平線の向こうから太陽が昇る前、わずかに空が白み始めた頃に、ザフィーラは初めて八神家の台所に立っていた。

 薄暗いリビングをのぞきこみながら、ソファに座るヴィータに尋ねる。

 

「どうだ?」

 

 ヴィータは湯気をたてるマグカップ両手で持って飲もうとし、「あちっ」と小さく声をあげる。ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら、もう一度そっと口をつけ、マグカップの中の白い液体を嚥下する。一拍おいて彼女は首をかしげた。

 

「うぅん……はやてのと比べたら微妙」

「そうか」

 

 いったい何が違うのだろうと思案にふけるザフィーラの耳に、からから、と音が聞こえる。八神家のリビングと裏庭を繋ぐガラス戸が開く音だ。裏庭から入って来たのは蒐集を終えて帰ってきたシャマルとシグナム。

 ザフィーラは用意していた二つのマグカップをソファに座ったシャマルとシグナムの前に置いた。

 

「これは私たちに?」

 

 万が一にも主を起こさないように声量を落として、シグナムが問う。

 マグカップの中には湯気をたてるホットミルクが入っていた。

 

「少しは心が落ち着くかと思い、主をまねてみた。だが、私では主のようにうまくできなかったようだ」

「まずくはないんだ」

 

 ヴィータは相変わらず息を吹きかけ、冷ましながら感想を述べる。

 

「でもザフィーラのミルクはなんか膜が張ってて飲みにくいし、あんまり甘くない」

「と、ヴィータには不評だ。温めるだけならば、私でもできると思ったのだが……」

「温める前に少しお砂糖を入れておくのよ。そうすればミルクが沸きにくくなって膜も張りにくくなるって、はやてちゃんが言ってたわ」

「そうか。やはり簡単そうに見えてコツがあるのだな」

 

 しん、と静まり返った室内。ヴィータとシグナムが黙々と飲み続ける中、ザフィーラとシャマルが今日の成果について話を続ける。

 

「それで今日の成果は?」

「今日は三頁。これで二百二と半分」

「……連日蒐集を続けて、ようやく二百か。わかっていたことだが、殺さぬ程度に抑えると効率が落ちるな。だが、それを差し引いても今日は少ないな。邪魔が入ったか?」

「ええ。蒐集中に管理局に見つかったの。それで中途半端に切り上げることになっちゃって――」

 

 ヴォルケンリッターならば、遭遇した管理局の局員数人くらいなら簡単に倒すことができる。だが、増援のことを考えれば相手をするのも危険が大きい。まだ大丈夫という過信は、致命的な失敗――死に繋がることを文字通り身を持って知っている。

 これまでの戦いでヴォルケンリッターが負けた時も、ほとんどは圧倒的な物量差による消耗の末だった。こちらからは攻撃できない次元航行艦船という安全地帯から、次々と戦力を投入される。負傷した者を艦船に戻し、治療をおこない再度投入。体感では本来の倍以上の人数を相手にするようなものだ。

 

 ザフィーラは前回のこと――八神はやての前の主の時の戦いを思い出す。

 戦いの指揮を取っていた壮年の男性は、守護騎士と渡り合うほどの実力を持ち、彼らですらほとんど見たことのない凍結魔法を自在に操る恐ろしい敵だった。

 しかし何よりも脅威だったのは、彼の指揮だ。もう少しだけ戦えるとこちらに思わせる巧みな用兵で、気がついた時には魔力を大幅に削られていた。

 危機感を覚え、それぞれが奥の手を使って隙を生じさせ、。相手の艦船のレーダから逃れるために多重転送で各自ばらばらに逃亡した。ヴォルケンリッターがこれまでよく使ってきた手口だ。

 

 そこから先は思い出したくもない。あれは戦いではなく狩りだった。相次ぐ戦いと転送によって魔力の大部分を失ったザフィーラは、狐のように追いたてられて狩られた。逃げても逃げても、こちらの動きを読んで先回りし、確実に追い詰め、そして仕留められた。

 

「今日見つかったのは単なる偶然かもしれない。だが、時間がたつほど状況は悪くなる。蒐集ペースを上げなければ」

「でも、これ以上家を出ている時間が延びたら、はやてちゃんに気付かれるわ」

 

 焦ってペースを上げようとするシグナムに、シャマルが反論した。

 

「時間を延ばせないなら、量と質を上げるしかない。昔のようにどこかの城に乗り込んで蒐集するか?」

「今も城ってあんのかな?」

 

 ザフィーラが新たに提案し、ヴィータが疑問を浮かべる。

 

「城がなければ管理局の砦でも良い。危険は大きいが、その分見返りも大きい」

「あまり大きな場所では返り討ちにあう。ベルカの時代が終わり屈強な騎士はいなくなったが、今の戦士の練度もまた騎士の領域にまで向上してきている。昔は一軍と戦えた我らも、この時代ではもう同じことはできないだろう。小さい基地――砦となると……」

「……月村さんのお家しかないでしょうね」

 

 月村の屋敷に魔導師――集まり始めた時期を考えるとまず管理局の者――が集っていることは、シャマルの探査魔法で早い段階でわかっている。

 ただ、管理局もこちらを探しているはずなので、精度の高い大規模な探査魔法は自分たちの存在がばれてしまうため使えない。そのため精度の低い探査魔法しか使えず、それでは相手がどの程度の戦力なのかはまったくわからない。

 十人以下ということはないだろうが、二十人か三十人か、それ以上か。そして、その魔導師たちが、それぞれどの程度の戦力を持っているのかもわからない。戦いを生業とする武人か、戦闘訓練も受けていない文官か。

 仮に三十人いたとして、その全てが鍛えられた武人であれば、負けはしないまでも勝つのも容易ではない。そして戦いに時間がかかれば、管理局の増援が来ることもある。

 

 危険の大きな方法に、最も早く賛意を示したのはヴィータだった。

 ヴィータはカップに視線を落としながら、ぽつぽつと話す。 

 

「あたしは賛成だ。蒐集を始めてからさ、毎日があんまり楽しくないんだ。それに、なんだか体が重くてうまく戦えない。……みんなはそんなことないか?」

 

 ヴィータの指摘に騎士たちは押し黙る。無言は否定ではなく肯定を表していた。

 体に異常がおこったわけでもないのに、人を傷つけるたびに纏わりつく気持ちの悪さが、彼らの体を縛り始めていた。

 生物は() を感じる行為には積極的になるし、()()と感じる行為には消極的になる。条件付けによる学習の結果は、プログラム体の騎士たちにも適用される。元がプログラムでも、人間を模した肉体をもってこの世界に顕現する以上は生物の在り方から逃れられない。

 

「ぐずぐずしてたら、あたしたちはどんどん戦えなくなる……そんな気がするんだ。それが蒐集が終わってからなら別に良いけど……でも、まだ二百頁なんだ。まだ三割で――」

「もういい」

 

 ヴィータの言葉を遮るようにシグナムが言葉を発し、話を強制的に打ちきる。

 勢いよくミルクを飲みほし、もうこれで話は終わりとばかりに立ち上がる。

 去り際に将としての命令を残して。

 

「昼の蒐集はなしだ。夜に備えて、体と魔力を休めておけ。今夜、主が寝静まり次第、月村を襲撃する」

 

 

 

 

 日曜の昼は穏やかな秋晴れだった。

 

 早朝にクロノからの連絡を受け、なのはとユーノは昼食を食べ終えてから士郎に送迎してもらい、月村邸に向かった。

 いつも通り出迎えてくれたノエルに案内されながら邸内を歩く。邸内に満ちる空気は張りつめていて、時折すれ違う局員の顔もみな一様に厳しい。通いなれたはずの友人の家がまるで知らない場所のように感じられる。

 

 だから一階廊下の曲がり角でばったりと見知った顔に出くわした時には、二人とも少しだけほっとした。

 そこにいたのは、フェイトとアルフの二人。なのはが襲われて本局に運ばれた時に顔を合わせて以来、三週間ぶりの再会になる。

 

「二人ともこっちに来てたんだ! もしかして、わたしの試験のために?」

 

 昨日、なのはが民間協力者としてやっていけるかの実力を測るため、フェイトを相手にしてもらおうかと、クロノが言っていたのを思い出す。

 もしかしたらこの後早速フェイトと模擬戦をやることになるかも――と、なのはは意気込むが、一方のフェイトとアルフは視線をそらして何か言いにくそうに口をまごつかせて。

 

「えっと……その……それよりも、体は大丈夫?」

「もうなんともないよ。にゃはは、なんだか会う人会う人に聞かれてる気がする。昨日もエイミィさんに聞かれたし」

「それだけ心配させたってことさ。ユーノ、あたしたちをさしおいてなのはと一緒にいるんだ。しっかりなのはを守るんだよ」

「責任の重さはわかってるつもりだよ。……ところで、アルフはそんな格好で寒くないの?」

 

 秋晴れとはいえ、もう木枯らしも吹く時期にタンクトップとホットパンツのアルフの姿はいろいろと凄い。見ているだけで震えがくる。

 

「なんだい、軟弱だね。あんたもフェレットなんだからこのくらいの寒さは平気になりなよ。野性が足りないよ」

「僕は人間の姿が本来なんだけど……」

 

 模擬戦について尋ねようかと思ったが、ノエルがあまりお待たせてはと、なのはたちの会話にやんわりと制止を入れ、それに合わせてフェイトとアルフはその場を離れていったので訊くことはできなかった。

 二人は再びノエルに先導されて歩き始める。階段を昇り、邸宅の二階廊下を歩いている途中、裏庭の倉庫に入るフェイトとアルフの姿が窓ガラス越しに見えた。

 

 

 

 

「高町なのは君とユーノ・スクライア君だね。よく来てくれた。きみたちのことはクロノやフェイト君から聞いている」

 

 案内された部屋で待っていたのは、時を経た錫のような光沢を持つ灰色の髪を後ろへとなでつけ、豊かな口髭と顎鬚を蓄えた初老の男。

 着用する制服の意匠は、彼もまたリンディと同様に提督、もしくは将官などの高位の役職についていることを表している。

 

 クロノかエイミィが出てくると思っていた二人は意表をつかれる。心中を読み取ったかのように、男は続ける。

 

「私はギル・グレアム。なかば引退したような年寄りだが、時空管理局で顧問官という相談役のような仕事をしている。クロノから話は聞いているかね?」

「いいえ、伝えたいことがあるからお屋敷に来てほしいと言われただけで。僕たちはてっきり昨日話していた民間協力者の件かと思っていたんですけど。……そんな感じじゃなさそうですよね?」

「昨日、事件が大きく動いたのでね。それでリンディ君もクロノも今は少し手が離せない。だから、私がきみたちへの連絡役に名乗りを上げた。個人的にきみたちには会いたいと思っていたからね」

 

 と言われても、なのはとユーノには心当たりはなく、首をかしげる。

 

「まずは、PT事件の解決に尽力してくれたことにお礼を言いたい」

「そんな……たいしたことはしていません」

「いいや、きみたちがいなければ、アースラが来る前に地球に大きな被害が出ていただろう。私も地球を故郷に持つ一人として感謝している」

「えっ!? グレアムさんも地球の出身なんですか?」

 

 尋ねるユーノに、グレアムはうなずく。

 

「この国ではないがね。UK――イギリスの生まれになる」

「でも地球は管理外世界で……もしかして、PT事件以前にも地球が次元犯罪に巻き込まれたことがあったんですか?」

「その通り。もう半世紀も前になる。あの日もこんな風に移り行く木々の色合いが美しかった。日本の紅葉の美しさは格別だが、祖国の黄葉も綺麗なものだよ。黄は灰色の空にこそ映えるからね」

 

 グレアムは窓の向こうに広がる紅葉し始めた山々を見ながら、口元を緩めた。

 

「当時の私はプレップスクールの寮生活が嫌で、時々抜け出すことがあった。その帰り道で誰かに呼ばれたような気がして普段は通らない道に足を踏み入れてみれば、傷だらけで倒れている青年を発見した。連れて帰って手当をしたところ、なんと彼は犯罪者を追って地球にやって来た時空管理局の局員だという。後はなりゆきだ。怪我を負って戦えなくなった彼の代わりに、魔法の資質を持っていた私が魔法を教わって事件の解決に手を貸すことになった」

 

 窓からなのはたちに視線を戻して、グレアムは語り続ける。その様は孫に若かりし頃の思い出話をする好々爺だ。

 

「僕たちの時と、同じような形ですね」

「わ、ほんとだ。よくあることなんですか?」

「今はさすがにほとんどないが、当時は今ほどはっきりと管理局法が守られていなかったので、管理局の局員が犯罪者を追って他世界に介入することが少なからずあったようだ。私が出会った局員も正義感に駆られて無断で地球にやって来た一人だった。私は事件が解決した後、彼を迎えにやってきた管理局の部隊と一緒に管理世界に行った。以来、この年になるまでずっと管理局で働いている」

 

 なのははグレアムの話に疑問を抱いた。尋ねようとして口を開くが、初対面の人にするには失礼な質問であると考え、慌てて口を閉じる。

 

「気になったことがあるなら、なんでも聞いてくれてかまわないよ」

 

 グレアムはなのはの様子を見てとり、水を向ける。それでもなのはは躊躇したが、思い切って尋ねることにした。

 

「どうして、管理局に行ったんですか? 家族とか、友達は……」

 

 痛いところをつく質問にグレアムは苦笑いをうかべる。

 

「当時の私は幼稚で、母国に留まり非力で何もできない子供のままでいるよりは、管理世界で自分が手に入れた力を――魔法を生かしたいと願った。もちろん両親には大反対されたよ。管理世界と管理外世界の間に交流はないから、二度と戻ってこれないとなれば仕方のない反応だ。結局最後まで納得してもらえず、その時は喧嘩別れになった」

 

 グレアムの双眸には後悔と寂しさが浮かぶ。それを見たなのはも、我が事のように悲しくなった。形は異なるが、なのはは家族という存在には人一倍思い入れがあるから。

 

「ごめんなさい。そんなことを聞いて。……あの、せっかくこうして地球に戻って来れたんだから、家族に会いに行ったらどうですか?」

「それはできない」

「でも、喧嘩したままなんて……」

「言い方を間違えた。する必要がないんだよ。家族とはもうとっくに和解しているからね」

 

 わけがわからなくなり首をひねるなのはに、グレアムは悪戯っ子のように微笑む。

 

「本当なら行ったきり地球に帰って来れなくなるはずだったが、幸か不幸か、私が関わった事件は解決後にも長期間の観察が必要と判断された。そのため、数年後には本局と地球の間に転送ポートが設置されたのだよ。いちいち許可を取らなければならないのが面倒だが、それ以来、年に数度は地球に里帰りをしている」

 

 それを聞き、なのははほっとした。家族といき別れになるなんて悲しすぎる。

 そんななのはを見るグレアムの目が、眩しいものを見たように細められる。穏やかに凪いだ双眸には、愛し子を見守るような愛情があった。

 

「なのは君には、さらにお礼を言わなければならなくなった。こんな老いぼれのことを真剣に気にかけてくれて、ありがとう。先ほどのように、またたいしたことはしていないなどとは言わないでおくれ。この年になると、立場や関係を気にせずに、悪く思われることも厭わずに注意してくれる人はほとんどいないのだから」

 

 ほめられて照れるなのはに、グレアムはほほ笑みながらウィンクをする。気障だがまったく嫌味はなく、格好良いと感じるほどにその仕草が似合っていた。

 

「きみたち二人には、もう一つお礼が残っている。……はやて君と仲良くしてくれて、ありがとう」

「はやてちゃんのことを知ってるんですか!?」

 

 予想外の名前が出たことに、二人は驚く。

 

「はやて君の父親は仕事の関係で私の実家と繋がりがあってね。私にとっても数少ない地球での知り合いの一人だった。ご両親が亡くなってから、私ははやて君の後見人として財産管理を引き受けていたのだが、仕事柄あまり会いには行けなかったことが気がかりでね。……普段の彼女は元気にしていただろうか?」

 

 なのはとユーノが彼らの知るはやてのことを語り、グレアムはそのたびにうなずきながら聞き続けた。

 しばらくすると、ノエルが紅茶とビスケットを運んできた。運び終えた彼女は部屋を出て、中には再びなのはたち三人だけが残る。

 

「いつまでも聞いていたいが、そういうわけにもいかない。そろそろ話を始めようと思うのだが、その前に確認しておかなければならない。これから伝える情報には、捜査関係者にしか話してはならないことが混じっている。きみたちは絶対にこのことを他の人に話してはいけない。たとえ家族であってもだ。約束してくれるかな?」

「はい!」

 

 なのはは即座に返事をしたが、ユーノは答えずにグレアムを見返した。

 なのはの困惑した視線を受けながら、ユーノは疑問を口にする。

 

「そんな秘密をどうして教えてくれるんですか? 関係者と言っても、僕たちは捜査に直接的な協力をしてきたわけじゃないですから、部外者とあまり変わらないのに」

「クロノの意思だよ。あの子はPT事件できみたちに何も伝えず利用する形になったことを後悔しているようだ。あの時のように情報を伝えずにいたせいで、きみたちが干渉してしまってはいけないからね」

「……海鳴で何か起こるということですか?」

「管理局が起こすのだよ。迷惑をかけるつもりはないが、おそらくそれが起こればきみたちも気がつくだろう」

「いったい何をするつもりなんですか?」

「誰にも話さないと約束できるかな?」

「……わかりました。僕も約束します」

「ありがとう。それでは話すとしようか」

 

 グレアムはなのはとユーノの目を交互に見る。

 なのははグレアムと視線が合った時、背筋にえも言われぬ寒気を感じた。穏やかに凪ぎ、暖かみさえ感じていた灰色の瞳は、変わらず優しげでありながら異様なほどに深みを増していた。川で泳いでいたら、気がつけば自分の周りが底も見えぬ藍色に変わっていたような。

 

「今朝の捜査会議の主題となったロストロギア――闇の書。この街に潜伏しているその主と四人の守護騎士について。そして、管理局がこれからどう動くつもりなのかを」



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捜査会議

 正面玄関から月村邸に足を踏み入れた先には玄関ホールがあり、そのさらに奥には大ホールが広がっている。

 晩餐となればキャンドルに灯される赤橙色の炎が暖かみと活気のある空間を作りだすはずの大ホール内部は、管理局おなじみの青白い灯に照らされて冬の聖堂のような静謐かつ厳粛な空気に満ちていた。

 

 フェイトはホール内に持ち込まれた椅子に腰かけ、周囲を見渡す。

 これから始まる捜査会議のために、ホールの内部には多数の椅子と机が持ち込まれている。

 フェイトの右隣にはアルフが、左隣にはいつぞや怪我させた武装隊の男性隊員が座っており、周囲には顔見知りのアースラチームが固まっている。

 しかし少し離れたところに視線をやれば、知らない顔も大勢いる。

 

 捜査会議の出席者は、武装隊、通信士、捜査官、医療局、技術部の技官など五十名を超える。ここにいない人々も含めて、この事案の捜査のために動いている人々の総数は二百名を超え、特別捜査本部が置かれた今、人員はさらに増える予定だと聞く。

 

 ホールの一番前には、捜査員たちと向かい合う形で、捜査司令のリンディと執務官のクロノなど、指揮官たちが座っている。

 会議のはじめに、リンディがこの事件の概要に触れる。捜査員たちにとっては今さらの事実だったが、誰も聞く姿勢を崩さない。

 リンディは一旦間をとると、本題を切り出した。

 

「この事件は古代遺物管理部により、ロストロギア闇の書によるものであると正式に認められました。今の私たちには闇の書に関する全ての情報を閲覧する許可が与えられています」

 

 本局にその許可を取りに行っていたリンディが帰ってきていた時点で、捜査員の大半にとっては予測できていた事実。それでもはっきりと宣言されて喜ばない者はいなかった。

 闇の書が関与している可能性はこれまでの捜査会議でも言及されていたが、情報開示のための審査を通過し上層部を説得するには、相当な証拠と相応の時間を必要とした。

 そのせいで事件の発生から二十日あまり、捜査員は数少ない情報を頼りに受け身の捜査を続けてきた。けれど、それは決して無駄な行為ではない。

 

「みんな、少ない手札でよく頑張ってくれたわ。これまでの捜査のおかげで、被疑者の行動や活動範囲はほぼ確実に絞り込めている。これからは私たちが攻める時間よ」

 

 どよめきを伴った捜査員の興奮が、静謐な大ホールに熱気の渦を生み出す。

 リンディは隣に座る通信主任兼会議進行役のエイミィに目配せする。

 

「では、これより闇の書の説明をおこないます。なお情報には保秘が義務付けられていますので、そのことを念頭に置いて聞いてください。ではマリエル技術官、お願いします」

 

 エイミィの声に従い、最前列右端に座っていたマリエルが立ち上がる。

 ホール前方に三次元ホログラフィが投影される。映されるのは革表紙に剣十字の装丁がなされた、古ぼけた一冊の書物。

 

「闇の書は古代ベルカで作られた、一種のデバイスだと考えられています。特異な点として、デバイス側が自らを扱うに足る者を所有者――主に選ぶという点があげられます。闇の書を扱える者は書に認められたただ一人の主だけであり、主が死亡するまで変更されることはありません」

 

 捜査員たちは何も言わず、マリエルの説明に耳を傾ける。

 

「新しい主のもとに現れた段階では、闇の書のデバイスとしての機能は著しく低下しています。そこで、闇の書は実動隊である『守護騎士』という存在を作り出します。守護騎士の役目は主の守護と、闇の書を完全な状態にするための『蒐集』です。そして蒐集の完了前、完了後を問わず、書の破壊、もしくは主の死亡が確認された時、闇の書は『転生機能』によって新たな主のもとに現れる――闇の書の活動は十年から二十年周期でこれを繰り返します」

 

 マリエルが一旦説明を止め、エイミィが説明の方向を定める。

 

「マリエル技術官、闇の書が持つ三つの機能――蒐集、転生、守護騎士について、順に説明をお願いします」

「わかりました。……蒐集機能は、生物が体内に持つリンカーコアを介して、生物の持つ魔力を奪い取る機能です。闇の書は蒐集によって魔力を蓄えると同時に、蒐集対象が行使したことのある魔法プログラムを記録。魔力とプログラムは頁という形で闇の書に蓄えられます。六六六頁分の魔力を蓄えた時、闇の書は完成する――と言われていますが、実際に起こるのは大規模な破壊です。魔法による単純な破壊だけでなく、闇の書それ自体が生物非生物を問わずに侵食し、できうる限りの破壊行為をはたらきます」

「魔力を手に入れるために、魔導炉を狙うということはないのか?」

 

 一人の捜査員の質問に、マリエルが答える。

 

「それはありません。過去の事例を見る限り、蒐集対象は生物に限定されていると考えられます」

 

 非効率的だ、というつぶやき声がどこかから聞こえる。その声にマリエルはうなずいた。

 

「そうですね。ですから、本来の闇の書は魔力ではなく魔法プログラムを蒐集するもので、それが何らかの要因によって変化したのではないかと考えられています」

「マリエルの説明中だが、医師として少し付け加えておこう」

 

 声をあげたのは、アースラの船医でもあった老医師。彼が立ち上がると、エイミィが事前に用意されていた各種バイタルデータをモニターに表示させる。

 

「蒐集された者のリンカーコアは魔力の減少によって、一時的な衰弱状態に陥る。魔導師なら経験した者ことがある者も多いだろうが、魔力の減少は身体機能に異常を及ぼし、一定量以下になれば意識の喪失(ブラックアウト)を起こす。それ以上に魔力が減少すれば、不可逆な障害が発生し、最悪の場合は死に至る。それでなくとも、蒐集はリンカーコアという内臓器官を直接刺激する行為であり、身体への負担も大きい非常に危険な行為だ。この三週間の一連の事件の被害者は、過去に蒐集された被害者の例と酷似しているが、一連の事件の被害者はせいぜい魔力の六割程度しか蒐集されていない。これは闇の書の仕業にしては非情に珍しい。どうやら、今の闇の書の主は今までよりまともなようだ。無論、犯罪者にしてはだが」

 

 老医師の発言には隠しようのない侮蔑がこもっていた。そのことに眉をひそめる者もいたが、老医師が前回の闇の書事件にも携わっていることを知る者はそっと目を伏せた。

 重くなる空気の中、マリエルは説明を続ける。

 

「で、では、次に転生機能です。闇の書はこれまで幾度となく物理的に破壊されてきましたが、どのような手段で破壊しても、闇の書は再びこの世界に現れます。管理局ではこれを転生機能と呼んでいますが、その詳細はまったく判明していません。闇の書による被害を完全に防ぐためには、闇の書を捕獲し解析する必要があります」

 

 捜査員の舌打ちや苦悶の声が会場のあちこちから漏れてくる。

 

「そして、最後に守護騎士機能です。闇の書は自らと主を守護、そして無力な主に変わり蒐集をおこなう要員として、四体の従者――ヴォルケンリッターと呼ばれる騎士を作り出します」

 

 前方のモニターに四人の姿が投影され、それぞれの固有データが姿に重なるように表示される。

 捜査員にとって、ヴォルケンリッターの姿を見るのはこれが初めてのことだった。

 

 過去の闇の書事件の関係者が保秘義務で口を閉ざしているため、闇の書やヴォルケンリッターの姿を知る者は少ない。

 ヴォルケンリッターに関しては蒐集で襲われながらも生存した者から、その容姿についての情報が漏れることもあった。しかし巷に流れるヴォルケンリッターの姿に関する情報はあまりに多く、その全てがてんでばらばら。過去に姿を真似た愉快犯がいたせいで大混乱が発生し、その対策として管理局が意図的に事実と異なる情報を流布したのだと、まことしやかに囁かれているが真偽は不明だ。

 さらに、今回の連続魔導士襲撃事件の犯人は仮面で顔を隠して活動していたため、被害者ですらその顔は見ていない。

 

 モニターに映った四人のうち、三人は外見年齢に差はあるが見目麗しい女性。残り一人も凛々しい偉丈夫。

 世界を崩壊させる闇の書の尖兵としてはあまりにも似つかわしくない容貌に、ざわめきが起こる。

 

「彼らは見た目こそ人間と変わりませんが、使い魔でも人間でもない疑似生命体――闇の書に内蔵されたプログラムが人の形をとって顕現した物です」

「知性や言語能力の有無はどうなっているのでしょう?」捜査官の一人が質問。

「対話能力と、自律行動をとるだけの知性は確認されています。人間らしい感情は確認されていませんが、街中に溶け込まれれば普通の人間と区別はつけにくいのではないかと」

「人間と区別のつかない高度な知性を持つのなら、彼らも人間とみなせるんじゃないのか? そのあたりはどうなっているんだ」

「それは……」

 

 武装隊の一人があげた疑問にマリエルは答えることができず、リンディの方を見る。ヴォルケンリッターが人か物かというのは、実際に彼らと戦闘することになる武装隊の行動に大きく関わることであり、一介の技術官が答えを出して良いものではない。

 リンディがマリエルの視線に答えるよりもわずかに早く、声をあげたものがいた。

 

「その質問には私が答えよう」

 

 リンディたちと同じく、捜査員たちと向き合う形となる席に着いていたグレアムが声をあげた。十一年前の闇の書事件の捜査司令であった彼は、今日の捜査会議に相談役として参加している。

 

「あ、はい。ギル・グレアム法務顧問官、どうぞ」

 

 立ち上がりグレアムが話し始める。彼の声は、重ねて来た年月を感じさせる重さを持ちながら、聴く者を不快にさせない明朗さも兼ね備えていた。拡声器を使わずともホールの隅々まで響き渡り、聴く者の臓腑に浸透する。

 

「ヴォルケンリッターが人間かどうか――法務に関わる者としての見解を述べるなら、彼らは人間ではない。既存の法律の枠内ではインテリジェントデバイスと同等の人工知能として扱われる。したがって管理局法を始めとする全管理世界のどの法でも人権は認められていない。そして人間の定義という哲学的な問題は、現場の者が考えることではない」

「しかし――」

「自らと相似形を持つものに共感を抱くのは、きみが心優しい人間である証明だ。間違ったことではない。だが、奴らはそれで手を抜けるほど甘い相手ではない。奴らは四体全てが古代ベルカ式を用いる超一流の騎士だ。圧倒的な場数を積み重ねたことによる経験は、彼らを魔力値といった数字以上の強敵へと化している。そして、ヴォルケンリッターのデバイスはベルカ式カートリッジシステムを搭載しているため、瞬間的にその実力を倍化させることも可能だ。臨むのであれば、Sランクの魔導師四人と戦うと考えた方が良い」

 

「カートリッジシステム?」

 

 聞きなれない単語にフェイトが首をかしげる。

 

「ご存じありませんか?」

 

 フェイトのつぶやきに応じたのは、隣に座る武装隊員だった。

 こくりとうなずいたフェイトに、隊員は会議の邪魔にならないように念話に切り替えて説明する。

 

『魔力のこめられた特殊な弾丸――カートリッジを用いて、一時的に本来以上の魔力を用いる技術のことです。簡単に言えば、自分たちの体内以外に外付けの魔力タンクを用意するようなものでしょうか。うまく使うことができれば、瞬間的な威力の倍加、本来は不可能な規模の魔法を構築できるようになるそうです』

『すごく便利そうなのに、武装隊で使っている人はいませんよね』

『普段以上の魔力を扱うので、制御は非常に難しくなり、体にかかる負担も大きくなりますから』

 

 

 しばらくの間、マリエルを中心に闇の書に関する説明が続いた。

 それが終われば続いて各捜査班の報告に移る予定となっていたが、その前にグレアムが「少し話しておきたいことがある」と、発言許可を求めた。

 

「闇の書がどれほど危険であるかの説明がなされたが、私はきみたちがその真の脅威を理解していないと考えている」

 

 ざわめく捜査員を意に介さず、グレアムは続ける。

 

「失われた文明の遺産であるロストロギアは、現在の技術力では完全な解析ができず、それゆえ明確な対処方法が存在しない中、手さぐりで立ち向かわなければならない。それがとてつもない困難だということは、私もかつて現場で働いていた者としてわかっているつもりだ。それでも、ロストロギアはどこまでいっても道具にすぎない。たとえ基盤となる技術体系が異なろうと、道具として作られた以上は最低限の安定性をもつように作られている。だが、闇の書は違う。あれには枷がない。最善を尽くしたとしても、それを嘲笑うように裏をかく。闇の書は見つけ次第破壊するのが最も確実な対処法だ。解決しようと欲を出せば、私のように手痛いしっぺ返しをくらうだろう。今すぐに解決せずとも、十年先、二十年先になれば管理世界の技術もさらに発達している。問題を先送りした分だけ、対処できる確率は上昇する」

 

 ざわめきが一層大きくなる。

 リンディが事件の解決をおこなうと捜査員の士気を上げた後に、よりによってかつて闇の書事件を担当した男からこの意見。

 多くの捜査員はあまりに消極的な態度に不快感を覚えていた。中にはあからさまに軽蔑や失望の視線を向ける者も出始めたが――

 

 グレアムは瞳を閉じ、その顔を痛みをこらえるように歪ませると、なお話を続ける。

 

「私はかつて、蒐集によって亡くなった大勢の罪なき人々と、闇の書の確保のために傷ついた多くの勇敢な局員の犠牲を無駄にした。そして今は未来を担うきみたちに自らの尻拭いをさせている。恥ずべきことだ。管理局の一員として、年長者として、何より一人の男として、許されざる行為だ。たとえ問題の先送りという確実な対処をきみたちが選んだとしても文句を言える立場ではない。……それでも、恥を忍んで頼みたい。どうか先延ばしではなく、ここでこの事件を終わらせてほしい」

 

 グレアムは深々と頭を下げた。

 その姿にざわめきがぴたりと止まり、ホールに静寂が戻る。十秒ほどたったろうか。ようやく顔をあげたグレアムの灰色の瞳には、先ほどまで淡々と事実を述べていた姿からは想像もできないほどに大きな感情の波が刻まれていた。あまりにも凄愴で、絶望で、悲壮。彼が十年経った今でも、事件の記憶を、その悲しみを風化させずに抱き続けていることが理解できる。そんな瞳だった。

 

「これまで多くの人々が闇の書の犠牲になって来た。これ以上は、もういいだろう」

 

 静寂の水面に、グレアムの言葉が波紋のように広がる。居並ぶ捜査員たちの瞳から不満が消え、代わりに闘志の炎が灯る。

 敵は世界を滅ぼす災厄。その災厄に愛する家族を奪われた司令官の指揮のもと、かつて失敗した老兵の無念を晴らすため、世界を救う戦いに挑む。わかりやすい敵、わかりやすい正義だ。思考を酔わせるには十分な。

 

 進行役のエイミィの声に合わせて、近隣世界の調査をおこなっていた調査隊や定置観測所など、他の捜査員による定例報告がおこなわれていく。

 そして、地球に滞在する捜査員が立ち上がり、ディスプレイに映る画像がまた切り替わる。

 そこに映しだされたのは、フェイトやアルフも見知った少女の姿。

 

 

 

 

「はやてちゃんが闇の書の主って、どういうことですか!? それに、シグナムさんたちがヴォルケンリッターだっていうのも!」

 

 なのはが勢いよく立ち上がった衝撃で机が揺れ、ティーカップとソーサーが振動でかちかちとぶつかり、音をたてる。

 グレアムの口から語られた今朝の捜査会議の内容は、なのはにとって信じがたいものだった。

 

「なのは君はヴォルケンリッターとも知り合いらしいな。信じたくない気持ちはわかる」

「何かの間違いです! はやてちゃんは人を傷つけるような子じゃないし、シグナムさんたちだって!」

「私も認めたくなかった。もし事実であれば今回の事件もまた私の責任だ。十一年前に管理局を辞め、両親を失った彼女を引き取っていれば今回の事件は防げたかもしれない。しかし残念ながら昨夜はやて君の家から、ヴォルケンリッター――名前で呼ぶなら、シグナムとシャマルと思われる人物が現れて姿を消し、夜明け前に八神家に再び帰宅する様子が確認されている。昨夜の蒐集は彼女たちが家を離れている間に地球の近隣世界で発生した。彼女たちが関与している可能性は極めて高い。見過ごすことはできない」

 

 覆せない事実を突きつけられ、返す言葉を失ったなのは代わり、ユーノが理で問う。

 

「ですが、はやては家を提供しているだけで、他に闇の書の主がいるのかもしれません。たとえはやてが闇の書の主であったとしても、彼女は何も知らずヴォルケンリッターが勝手に蒐集をしている可能性もありますよね。もう少し調査してをしてからでも――」

「その可能性も検討された。だが、はやて君が利用されているだけなのだとすれば、なおさら急いでヴォルケンリッターを捕縛して引き離さなければならない。なにより、対応が一日遅れればそれだけ蒐集による被害者が増える」

「……すみません。軽率な考えでした」

 

 刃の鋭さと氷点下の冷たさを帯びた炯炯とした眼光。

 先ほどまでの和やかな会話が嘘のよう。凍土に閉ざされた大陸のごとき峻厳と怜悧を併せ持ったグレアムの存在感に、部屋の空気が冷えて硬質化したようにさえ感じられる。

 

「今夜、武装隊ではやて君の家を包囲し、彼女たちに同行を要請する。なるべく穏便に行きたいが、相手が相手だ。戦闘も覚悟しなければならない」

 

 容赦のない断言が二人に重くのしかかる。やがて、なのはがぽつりと言葉をもらす。

 

「なにか、ないんでしょうか? 戦ったりしなくてすむやり方が、なにか……。ヴィータちゃんも、シグナムさんも、シャマルさんも……みんな、すごく良い人なんです。だから……」

 

 なおも食い下がるなのはの姿に、グレアムの冷たい双眸に慈愛と寂しさが戻る。

 

「わかってほしい。闇の書が蒐集を終えてしまえば世界が滅びる。それだけは決して許すことはできない。このチャンスを逃がすわけにはいかないのだ。自宅で何もせずにいるのも不安だろう。もしきみたちが望むなら、作戦時にはリンディ君のいる指揮所にいられるように取り計らおう。だから、我々に任せてくれないだろうか。管理局や私を信じてほしいとは言わない。クロノやリンディ君のことを信じて、見守っていてほしい」

 

 

 自分の提案にうなずく二人を見て、グレアムは己を嫌悪した。他人を欺きながら、ぬけぬけと他人を信じろなどと、どの口が言えたのか。

 

 このタイミングで闇の書によるものと認定され、クロノたちが八神はやてこそが闇の書の主であると知ることになったのは、グレアムが仕組んだことだ。

 このまま蒐集が進んでも、いずれヴォルケンリッターは管理局にその存在を補足されて、蒐集を終える前に捕まってしまう。

 それまでに局面を大きく変える次の一手を打つ必要があり、そのために絵図を描いた。

 

 そして不確定要素の排除。

 なのはとユーノは局員ではないため、命令することができない。特になのはは闇の書の主であるはやてだけでなく、ヴォルケンリッターとも親交がある特大のイレギュラー。PT事件における彼女たちの行動を考慮すると、放置しておくにはあまりにも大きな異物だ。

 ウィリアム・カルマン――彼の生死を巡って争うほどに、ヴォルケンリッターに人間らしい人格と意識があるのも予定外のイレギュラー。

 ありえないとは思うが、なのはがヴォルケンリッターの説得を試みて、万が一にもそれが成功してしまうようなことがあれば計画が狂ってしまう。

 今日という日は、管理局とヴォルケンリッターが戦う日でなければならない。その邪魔をされないように、直接話をして釘を刺し、作戦中は目の届くところにいるように誘導した。

 

 必要なことだと割り切っている。それでも、正義感を煽り徒労に終わると決まっている戦いに駆り立て、良き子らの心を圧迫し行動を縛る。そんな己の言動には反吐が出る。

 

 グレアムは心の中で、子供の頃の習慣通りにそっと十字をきり、昔は信じていた――いつしか聖句さえ忘れた、神に祈った。

 これが最善と偽り、善なる者を欺き惑わす罪深い我が身に、どうか裁きがくだりますように。

 

 

 

 

 太陽が海鳴を取り囲む山々の向こうに落ち、青から黒へと移り変わった空に月はない。

 月齢は下弦から新月へと移ろい行く頃で、夜明け前にならなければ姿は現さない。空の星々の輝きは天上を覆う幕に開いた虫食い穴から漏れる光。

 

 八神家から少し離れた場所にある高台に、二つの人影があった。

 その中の一人、高級なチョコレートのようになめらかな色合いの茶髪を肩口で切り揃えた女――リーゼロッテは、自らの携帯端末に届いた連絡を読み、もう一人に告げる。

 

「お父様から連絡。管理局の動きは今のところ予定通り。……ねえアリア、本当にこんな大雑把な作戦がうまくいくだろうか」

 

 リーゼロッテの問いかけは、そばにいるもう一つの人影に向けられている。リーゼロッテと瓜二つの顔をして、同じ色の髪を背まで伸ばした長髪の女――リーゼアリアへ。

 リーゼアリアは宙空に月村邸と八神家の外観が映されているホロディスプレイから外し、リーゼロッテと目を合わせる。

 

「失敗する可能性は低いわね。クロノもリンディも締めるところは締めるからヴォルケンリッター相手にそれほど譲歩はしないし、ヴォルケンリッターも八神はやてのことを大切に思うなら、これまで敵だった管理局には頼れない。生殺与奪を相手に完全に移譲するなんてできやしない。お父様もあの子も、そこは同じ意見よ」

「それはそうだけどさぁ。まったく、あの子は駄目だよ。クロスケと違ってかわいげがない」

 

「あらぁ、人の相方を悪く言わないでくれますかぁ」

 

 甘ったるい、挑発的な響きを持つ声が、彼女たちのわずかに上から響いてくる。

 

「戻っていたなら、さっさと声をかけなさい」

 

 注意など何食わぬ顔。腰まで届く豊かな栗色の髪をたなびかせ、大きな丸眼鏡をかけた少女――クアットロは、高台にある東屋の屋根に腰かけて、両足を振り子運動のようにぷらぷらと振っていた。

 腰かけていた屋根を両手で、とん、と軽く押す。そのまま後方に宙返りをすると、羽毛のように音もたてずに屋根の上に降り立つ。羽織るケープが風を孕む。

 クアットロは深呼吸をするように大きく両手を広げ、高台から海鳴の夜景を見下ろす。

 

「高いところは良いですね~。私、星空はあんまり好きじゃないんですよ。お空のお星さまよりも、見下ろす街のお星さまの方がずっと色とりどりで綺麗じゃないですか」

「いいから、さっさと報告してくれない?」

「余裕がないって嫌ですねぇ」

 

 大げさに肩をすくめると、報告を始める。

 クアットロの報告によって、八神家周辺に張り込んでいる捜査官の情報が記されていく。容貌程度の情報は当たり前。会話や張り込みをしながら食べていた食品の銘柄など、間近で確認したとしか思えない情報まである。

 

「それから、どうやら闇の書の主はもう寝ているみたいです」

「捜査員たちは、そのことには?」

「動きはありませんから、気づいてないと思いますよ? 寝室は敷地の外からは木の影になっていて見えませんし」

「あんたは敷地内に入ったのか?」

「庭までは。さすがに家の中にまでは怖くて入れませんよ。あいつらもなんか『勘』とか言って斬り掛かってきそうですし〜」

 

 恐怖に怯え、両手で我が身をかき抱き、体を震わせる。そんな芝居がかったジェスチャーをするクアットロを、二人の女は白けた目で見ながら同時にため息をついた。

 たしかに彼女は役に立つ。だが信頼できない味方は怖い。

 

「ま、良いわ。管理局が作戦を実行するまで、残り半時間。武装隊が月村を出たらお父様から連絡が来るから、私たちはそれから動けば――」

「あら? どうやら、予定通りにはならないみたいですよ」

 

 八神家の方向を向いていたクアットロの視線が細められる。

 クアットロの視線の先には住宅街。その中にある一軒の家――八神家の扉が開くのを、人間を超える視覚ではっきりととらえていた。

 

「ヴォルケンリッターが先に動くのは予定外ですね~」

「なっ!? なんで今日に限って、蒐集を始めるのがこんなに早いの!」

「八神はやての就寝が早かったから、でしょうね。それで、蒐集のために出たのは何人?」

「えっとぉ……四人全員みたいですよ?」

「「はあっ?」」

 

 リーゼロッテとリーゼアリアは、二人して思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまった。懐から取り出したスコープを目に当て、自分たちでも確認。愕然とし、頭を抱える。今日に限ってなぜ四人全員で出かけるのか。

 クアットロは振り返り、どうするのかと視線で問いかける。リーゼロッテは一歩前に進み出る。

 

「張り込んでる捜査官が機転をきかせて八神はやてを確保しようとするかもしれない。ヴォルケンリッターも闇の書もない主は無力だ。だったら、私たちがやることは管理局より先に八神はやての身柄を確保すること」

「それが良いわね。幸い武装隊が月村から八神家に到着するよりも、私たちが八神家に行く方が早い。ヴォルケンリッターの説得は彼らが蒐集から帰ってきてからでも――」

 

 話す途中で、三人は魔力の波動を感じた。感覚から、結界系の魔法であることがわかる。距離は離れている。おそらく山側の郊外――月村の敷地辺り。

 リーゼアリアは月村の屋敷にいるグレアムの端末へと連絡をとろうとするが、繋がらなかった。

 ヴォルケンリッターが蒐集をおこなう時には、助けを呼ばれないように、よく通信妨害をしていた。

 つまり――

 

「まさか、月村に襲撃をかけたの!?」

「なんであいつら今日に限って予定外の行動ばっかりするんだよおお!!」

「あら、あらあらあらあらぁ。なんだか楽しくなってきましたね~」

 

 悲鳴めいた声をあげるリーゼアリアとリーゼロッテとは裏腹に、クアットロは他人事のように笑う。事実、他人事に近いのだが。

 しかし二人もすぐに冷静さを取り戻す。武装隊とヴォルケンリッターがぶつかるなら、当初の計画とさほど違いはない。

 

「やることは変わらない。ロッテとクアットロは、捜査官より先に八神はやての身柄を確保して。私は先に月村の方に向かっておくから」

「わかった」

 

 リーゼロッテは返事をすると同時に変身魔法を行使する。若い女の姿は消え、顔を仮面で隠した痩身の男性の姿へと。優雅に頭を下げて応えたクアットロが、姿を変えたリーゼロッテと共に飛び立つ。

 二人を見送ると、リーゼアリアもまた仮面の戦士へと姿を変え、月村邸へと向かった。

 

 高台には誰もいない。眼下に広がる街の灯はこれから起こる戦いを何も知らず、煌々と輝き続けていた。



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月村邸決戦

 星々の微かな光を遮り、灯のない森を塞ぎ、結界が月村邸周辺を囲っていた。

 

 結界は逃げ場をなくすだけではなく、結界内部に展開する通信妨害によって外部への救助連絡を妨害し、結界内に連れ込まれた者同士の念話による連携を封じる。

 月村邸にどれだけの数の魔導師がいようと、通信が封じられた状況で奇襲を受ければ混乱は免れない。彼らが統率のとれた動きを取り戻す前に数を減らせば、その後の戦闘を有利に運ぶことができる。最悪の場合でも、最初の奇襲で蒐集した魔力を成果として逃走すれば良い――というヴォルケンリッターの目論見は、しかしたやすく覆されていた。

 

「……なんでこんなにいんだよ」

 

 ヴィータが呆然とつぶやく。その声色には顔を隠すための仮面の下の表情を想起させるほどに動揺が表れていた。

 

 四人のヴォルケンリッターと相対するのは、十倍に及ぶ武装隊の隊員。

 前衛が隊列を組みデバイスを並べ、後衛のデバイスから放たれる魔力光がサーチライト代わりに四人のヴォルケンリッターを照らす。

 奇襲どころか、彼らはヴォルケンリッターが月村の敷地に結界を張っている最中に、月村邸の裏の倉庫から一斉に姿を現した。

 その中の一人が声を大きく張り上げる。対峙する魔導師たちの中でも、一二を争う幼さの少年だ。

 

「僕は時空管理局執務官クロノ・ハラオウンだ。武装を解除して同行してもらおう」

 

 飲めない要求にシグナムが剣で答えようとした時、シャマルから三人に念話による通信が届く。通信妨害環境下でもヴォルケンリッターだけは連携が取れるように、特定の魔力波長には効果がないように設定されている。

 シグナムはシャマルと念話でやり取りをしつつ、時間稼ぎのために剣を一旦下ろしてクロノの呼びかけに答える。

 

「拒否した場合はどうなる?」

「管理外世界での許可なき魔法行使の現行犯。多数の傷害事件の容疑。なによりヴォルケンリッターを放置するわけにはいかない。投降するのであれば攻撃はしない。だが、抵抗するのなら容赦するつもりもない」

 

 クロノが話している間に、シャマルの懸念が全員に伝えられた。

 

『管理局は私たちの居場所をつきとめていたのかもしれないわ』

 

 というものだ。

 

 武装隊の対応は襲撃される可能性を考慮していたとしてもあまりに早すぎる。

 普通は結界を張られて異常に気付き、急いで出てくるものだ。しかし結界を張っている最中に、デバイスとバリアジャケットを完全に展開した状態で現れるとなれば、ヴォルケンリッターの行動があらかじめ監視されていたとしか思えない。

 

 八神家を出てすぐに見つかったのか。それとも八神家にいた頃から見張られていたのか。

 後者であれば、はやてが危険だ。ヴォルケンリッターがここに出向いている間に、管理局の別働隊が動いている可能性も有り得る。

 

『ヴィータ。結界から離脱して、主はやてを家から移動させろ』

『シグナムたちはどうするつもりだよ? これだけの人数に三人じゃ、いくらなんでも危ないって』

『心配するな。ある程度蒐集したらすみやかに撤退するつもりだ』

 

 魔力消費の少ない肉弾戦を得意とするザフィーラと防御魔法に優れたシャマルは、戦闘継続時間と安定性に秀でており、よほどのことがない限り即座に倒されることはない。そして将たるシグナムの戦闘能力には微塵の不安も持っていない。

 彼女ら三人なら、たとえ勝てなくとも引き際さえ間違えなければやられることはない――はずだ。

 

「このまま返答がなければ、敵対の意思があるとみなす」

 

 何も答えないヴォルケンリッターにクロノが最後通告を送り、武装隊がデバイスをヴォルケンリッターに向けて構える。

 

『行けっ!』

 

 シグナムの叱咤を受け、ヴィータは短距離の高速移動魔法を行使し、その場からはじかれるように離脱する。

 逃すまいと動く武装隊を防ぐようにシグナムが前に出る。

 

『はやてを安全な場所に連れて行ったらすぐに戻ってくるから! それまでやられんなよ!』

『約束する』

『絶対だからな!』

 

 ヴィータは結界の外へと離脱し、シグナムは武装隊に突撃。シャマルは動かず、ザフィーラはシャマルのそばに位置どる。

 

 クロノが迎撃命令を下す。

 

「射撃準備! ――斉射!」

 

 魔導師たちのデバイスに、それぞれの魔力光が灯る。号令するクロノのS2Uにも青色の魔力光。

 色とりどりの魔力弾が一斉に放たれる。シャマルは魔力を纏った風を生み出して迎撃し、ザフィーラは体で弾く。そしてシグナムは異なる角度から迫る魔力弾を見極め、隙間を縫うようにして敵に接近する。

 駆けるシグナムの周囲の空間が青く発光し、幾重もの青色の輪が体を拘束する。空間指定型のバインド。クロノは味方の弾幕を冷静に俯瞰し、弾幕の隙間に一瞬で捕縛魔法を潜伏させていた。

 

「行くぞお前ら!」

 

 武装隊の隊長の号令で、彼を含む前衛の魔導師が一斉に突撃を開始する。

 その中でもエレメントであろう二人の隊員が縛られて動けないシグナムにいち早く接近する。

 

「はぁっ!」

 

 シグナムは短く吼えると、拘束するバインドの構成式に魔力をもって強引に介入し、クロノのバインドを引きちぎる。

 その隙に左右からシグナムに切りかかる隊員たち。シグナムは同時に二人を相手にしようとせず、まずは右から迫る隊員に向かって剣を振り、相手をはるかに上回る剣速で打ちのめす。

 もう一人の隊員が背後から一撃を叩き込もうとする。が、シグナムの騎士甲冑の外套の陰から鞘が現れる。威力はないが、不意をつかれ隊員の攻撃の勢いが鈍る。

 生まれたわずかな時間で、シグナムは瞬時に反転、即斬撃。隊員の魔力刃とシグナムの愛刀レヴァンティンの刀身が激突。拮抗する互いの刃の隙間を縫って放たれたシグナムの前蹴りが、隊員を吹き飛ばす。

 

 同時攻撃を凌ぎきっても物思いにふける暇はない。上空から急降下する者が一人。

 

「るるるるうううああああぁぁッ!!」

 

 謳うような雄叫びと共に、武装隊の隊長の一撃が振り下ろされる。

 

「おおおおおおおおおおおおぉっ!!」

 

 咆哮――シグナムは向かい来る敵を調伏する獅子吼を発しながら切り上げる。

 瀑布のごとき打ちおろしと疾風のごとき切り上げが衝突。衝撃波が森の木々を揺らし、煽られた紅葉の葉が夜空を踊り狂う。

 

 隊長が押し勝ち、魔力刃がシグナムの肩口に食い込む。いくらシグナムといえど、左手に鞘を持ったまま右手一本でとっさに切り上げた剣では、精鋭揃いの本局武装隊で隊長に選出される戦士の渾身の攻撃を受け止めることはできはしない。

 ふらつく体を制御、さらに体をひねることで攻撃の威力を受け流しつつ、敵の腹部に回転蹴りを叩き込む。が、相手もさるもの。とっさにデバイスから片手を離し、シグナムの脚を掴み取った。

 

「足癖の悪いやつだ!」

 

 シグナムはそのまま放り投げられた。投げ飛ばされた先には誰もいない。

 相手が追撃の機会を捨ててまで投げたのは、それ以上に効果的な攻撃を用意しているからで。

 

「第二射! 放てっ!!」

 

 クロノの大音声。

 前衛の攻撃は初めから後衛が砲撃魔法を構築するための時間稼ぎ。

 クロノと十人を超える後衛魔導師の砲撃魔法がシグナムに狙いを定めていた。

 

「砲撃なんぞ、撃たせんっ!!」

 

 砲撃がシグナムを貫くより早く、ザフィーラが魔法を放つ。腕の先に百メートルにも及ぶ巨大な白色の槍が現れ、砲撃を放たんとする後衛に向けて一閃される。ザフィーラの奥の手、拘束魔法『鋼の軛』の応用技。

 後衛は砲撃を中断し回避するが、その中の二人の魔導師が避けきれずに直撃する。どちらも一撃で意識を刈り取られ、ゆらと体が傾き、自然落下を始める。

 

 落ちる二人の体を鎖が捕える。シャマルの捕縛魔法『戒めの鎖』だ。

 鎖に囚われた魔導師たちの胸部前方にリンカーコアが浮かびあがり、収縮する。シャマルの手にある闇の書の頁が増加する。

 

 蒐集を止めるため、前衛数人がシャマルに接近し魔力刃を振るう。

 ザフィーラがその間に割り込み、鋼を超えるその肉体で魔力刃を受け止める。生半な刃ではザフィーラの強靭な肉体を貫けない。

 

「前衛は下がれ! 第三射!」

 

 クロノの指示を受け、前衛が一斉に下がる。と同時に、後衛の魔導師が魔法を放つ。射撃、砲撃に続いて、今度は広域魔法だ。

 

『二人とも下がって!』

 

 シャマルの指示を受け、シグナムとザフィーラがシャマルのそばに寄る。シャマルは防御魔法を行使。空中に魔力の盾が現れる。

 放たれた広域魔法の魔力の総量は、シャマルの防御魔法の許容量を超えていたが、同一空間に放たれた広域魔法が互いに干渉し合い威力が減殺されたため、壊れることなくかろうじて攻撃を受けきった。

 しかし広域魔法はヴォルケンリッターの動きを止め、前衛を後退させるためのもの。

 広域魔法が終わり、クロノが紡いでいた魔法が完成する。

 

「スティンガーブレイド! エクスキューションシフト!」

 

 クロノの周囲には、百にも及ぶ魔力刃が浮かび、ヴォルケンリッター目掛けて一斉に飛翔。範囲魔法で弱っていたシャマルのシールドを完全に破壊する。

 ザフィーラがシャマルの体を抱き寄せ、刃の群れを代わりに受けた。青色の魔力刃が腕に突き刺さる。

 

 これで守りの要たるシャマルとザフィーラを守るものは全て取り除かれた。

 

 満を持して、天空にわだかまる闇の帳が取り払われてフェイトが姿を現す。

 彼女の周囲には金色の球が浮いている。数は十より少し多いくらいだが、その一つ一つが、莫大な魔力を込められた発射台(スフィア)だった。

 フェイトは前衛と後衛の波状攻撃のどちらに加わることもなく、着々と一つの大魔法を構築し続けていた。

 魔法の構築がヴォルケンリッターに悟られなかったのは、幻術魔法を覚えている隊員が彼女の姿や魔力反応を隠していたからだ。もちろん幻術魔法だけでフェイトの巨大な魔力反応を完全に隠蔽するなどできはしないが、数十人の魔法が吹き荒れるこの戦場では、ヴォルケンリッターでさえも気がつかない程度に弱めることはできる。

 

「シグナム! お前も俺の後ろに――」

「フォトンランサー! ファランクスシフト!!」

 

 シグナムがシャマル同様、ザフィーラの背後につき、二人を守るためザフィーラが両腕を広げて仁王立ち。

 直後、金色の魔力弾がヴォルケンリッターを飲み込む。クロノのエクスキューションシフトが青の雨なら、フェイトのファランクスシフトは金の滝。

 四秒後、合計千二十四発の魔力弾を吐き出して役目を終えた発射台が崩壊し、滝はやがて線となって消失した。

 

 前衛と後衛が交互に攻め立てる波状攻撃で相手に自由を与えず行動を縛り続け、最大級の攻撃を叩きこむ。

 個ではなく数を活かし、チームワークという組織の力で戦う管理局の戦い方が十全に発揮された。

 

 

 フェイトの最大魔法の直撃を受けたザフィーラの騎士甲冑は、もはや原型を留めていない。だが――

 

「……嘘だろ」

 

 隊員の誰かのつぶやきは、その場にいる者たち全員の心中を代弁していた。

 あれだけの攻撃魔法が直撃してなお、ザフィーラは意識を保っていた。その双眸に宿る赤の煌めきには微塵の陰りもない。

 彼の背後のシャマルにいたっては無傷。そして同じくザフィーラの背後にいたはずのシグナムの姿は、すでにその場にいなかった。

 

 クロノは周囲に素早く視線を巡らせ、叫ぶ。

 

「フェイト、後ろだ!」

 

 フェイトの背後の空間に歪み。転送魔法によって、シグナムが虚空から姿を現す。

 

 クロノは転送途中のシグナムに向けて魔力弾を放つが、プログラム体であるヴォルケンリッターの転送は普通よりも遥かに早く、クロノの魔力弾が届く前に完了する。

 フェイトが避けようと体を動かし始めるが、大規模な詠唱魔法を行使した直後のため、反応が遅れる。武装隊の隊長がフェイトを守ろうと駆けているが間に合う距離ではない。

 レヴァンティンの刀身が、戦場を飛び交う魔力光を照り返し、夜空に七色の光の筋を描く――が、最後まで描かれることはなかった。横薙ぎの一閃がフェイトを打ち据える前に、フェイトとシグナムの間に割って入ったアルフが、自らの体を盾に斬撃を止めていたからだ。

 

「がっ、頑丈なのが、取り柄でね」

 

 アルフは激痛に顔をしかめながらも、横腹にめりこむレヴァンティンの刀身を抑え込む。

 

「いまだよ!」

 

 アルフの合図で我に返ったフェイトは、バルディッシュに魔力刃を形成。シグナムに切りかかる。さらに、フェイトとは逆方向から隊長も迫る。

 剣を押さえられ、残る鞘だけで二人を同時に相手するのは困難と判断したシグナムは、あえて防御を捨てた。

 左右からの斬撃が騎士甲冑を越えてシグナムへと届く。

 

 その瞬間、レヴァンティンの鍔がスライドし、魔力を込めたカートリッジがロードされた。

 

『Explosion!!』

 

 レヴァンティン・シュランゲフォルム。

 分割された剣の破片を細い糸で繋いだ、鞭状連結刃による全方位斬撃が、シグナムのそばにいたフェイト、アルフ、隊長の三人を同時に攻撃。

 さらに剣に纏う魔力が炎に変換され、シグナムを中心に発生した爆発めいた衝撃の波が三者を吹き飛ばした。

 

 シグナムを包み込むように、宙空に赫焉として燃える炎の球が現れる。違う、蛇だ。鞭状連結刃が纏う魔力が炎と化して生み出された長い長い炎の蛇が、とぐろを巻くようにして球を形成している。

 シグナムは、あえて攻撃を受けてからシュランゲフォルムを展開。負傷と引換に両者を至近にひきつけて、回避を許さず直撃させるという荒業を見せた。

 そして受けた攻撃でついた傷は、魔力が通うと共に修復されていく。一秒後には数分前と変わらない無傷のシグナムが戦場を睥睨していた。

 

 これがヴォルケンリッター。プログラムが魔力で形を成した古代の騎士。

 痛みへの怯えも、欠損による戦力低下もない。魔力がある限り戦い続ける理外の存在という圧倒的な個は、数の力と渡り合うだけの力量を有している。

 

 

 吹き飛ばされたフェイトは、隊員の一人が放った網状のバインドに受け止められる。フェイトは自分同様にシグナムのそばにいた二人を探し、周囲に視線を巡らせる。

 アルフは空中で隊員によって受け止められていた。最も至近距離で攻撃を受けたため、気を失っている。

 隊長は誰の手も借りず、自ら空中に留まっていた。しかしその右腕はだらりとぶら下がり、デバイスを左手に持ち替えている。先ほどの一撃で右腕が折れたのだろう。

 

 フェイトも無傷ではない。黒色のバリアジャケットに、幾筋もの白い模様が描かれていた。それは肌だ。縦横無尽に疾った連結刃に触れた部分のバリアジャケットが綺麗に消失し、その下の柔肌が外気にさらされていた。破れた部分が痛み、ミミズ腫れのように赤く腫れ始める。

 シュランゲフォルムによる攻撃が、斬撃ではなく打撃の性質を持っていたのは、殺さないようにとシグナムが手加減をしたから。もしも斬撃であれば、今頃フェイトは血まみれ、隊長は右腕を失い、アルフは使い魔の生命力をもっても瀕死に追い込まれていた。

 

 彼我の実力差を実感しながらも、フェイトの心は折れない。アルフが我が身を挺して助けてくれたのだからここで踏ん張らなければと考えて、バルディッシュを構えようとし――激痛で腕が上がらなくなる。

 

 

「つかまえた」

 

 

 フェイトの胸から、腕が突き出されていた。白くて細い腕から伸びる白魚のような指の先に、輝く光球――フェイトのリンカーコアが掴みとられていた。

 

 フェイトの背後には誰もいない。腕はフェイトの胸部からわずかに数センチメートル先の空間から突き出されていた。

 空間連結によって二つの空間を同期させ、離れた場所にいる相手の体内に干渉。魔力によって構成された実体のない腕によってリンカーコアを体内から押し出し、体内に戻ろうと働くそれを連結された空間を通して送られた己の腕によって保持する。

 相手の肉体に直接の負傷を与えずリンカーコアのみを掴みとるという、曲芸めいた高等技術。

 ヴォルケンリッターの一人シャマルの奥の手、空間連結魔法『旅の扉』の応用技。

 

 シグナムの攻撃によって、フェイトのバリアジャケットが破壊された――すなわち、外部からの魔力干渉を阻害する防御が消失した瞬間を狙っての奇襲だった。

 

 闇の書の頁が埋められていく。

 

 

 

 

 月村邸の一室、前面に投影されたホロディスプレイには、ヴォルケンリッターと武装隊の姿が映しだされていた。

 通信妨害が無線による情報伝達を著しく阻害しているせいで、映像は不鮮明。頻繁にノイズがはしって画面がぶれる。

 

 エイミィら通信担当が通信妨害の解析をおこない、リンディは部下に指示を飛ばす。命令を受けた局員は無線通信が使えないので伝令のため走って部屋から出ていく。

 急な事態に焦りながらも、局員はリンディの指揮のもと確実に対応していた。

 

 ヴォルケンリッターの襲撃はリンディにとって予定外であっても、想定外ではなかった。

 こちらから攻撃をしかけようとしている日に限って、向こうから攻めてくるのはさすがに予想していなかったが、襲撃の可能性自体は地球に拠点を置くと決めた時点で考慮されており、その場合の対応も検討済みだ。

 

 管理局が月村の屋敷を拠点としたのも、転送ポートから近いという利点だけが原因ではなく、襲撃される可能性があることを知った忍たち月村の者が自発的に貸し出してくれたからだ。

 街中に拠点をかまえれば、襲撃された時に周囲に被害が及び騒ぎが広がる。だが、月村の屋敷の周囲は森と山。ここに襲撃をかけられても、月村家の所有物にしか被害はでない。

 我が身の危険をかえりみず、最低限の費用のみで屋敷の一部を貸し出してくれた彼らに応える最大の方法は、屋敷の人々に被害を出すことなくここでヴォルケンリッターを捕縛することだろう。

 

 

 命令を出し終たリンディは、砂糖の入った緑茶をのどに流し込みながら、少しでもこの状況を有利に変えるために何ができることはないかと思考する。

 数秒後、リンディの脳裏に一つの作戦が閃いた。

 視線を前方のディスプレイから外し、ノイズのかかった映像を食い入るように見ているなのはとユーノを見る。思いついた作戦には、彼らの協力が必要だ。

 リンディが彼らに声をかけようとする前に、そばに座っていたグレアムがエイミィに尋ねた。

 

「結界を解除することは可能か?」

「ジャミングによってセンサーが軒並み機能していませんから、ジャミングを解除するまでは結界の解析ができません。残っている魔導師では、結界に干渉しての解除はほぼ不可能です」

「では、高出力の魔法による破壊しかないか。なのは君、ユーノ君。きみたちの力を貸してくれないだろうか?」

 

 なのはとユーノは驚き、グレアムを見返す。

 

「何をすれば良いんですか?」

「なのは君の砲撃魔法で結界を破壊し、ユーノ君に新たな結界を張って欲しい。きみたちなら可能だ」

「そのくらいなら――」

「待って下さい」エイミィが会話に割り込む。 「結界を破壊できるくらいの砲撃魔法を構築したら、ヴォルケンリッターにも気づかれます。そうなれば、なのはちゃんとユーノ君が危険です」

 

 言って、エイミィはリンディを見る。捜査司令はリンディだ。いくらグレアムが提案したところでリンディが却下すればそれまでだ。

 

「この状況では有効ね」

 

 しかし、リンディの判断はグレアムの提案を支持するものだった。先ほどリンディが思いついた作戦とグレアムの提案はまったく同じ。

 

 結界を管理局側の魔導師が張り直すことには、二つの利点がある。

 一つは結界内外の出入りを、こちらが自在に操れるようになること。つまりヴォルケンリッターの逃走を阻止できるようになる。

 さらに、結界内に取り込まれた月村の住人たち非戦闘員を結界外に脱出させることもできる。ヴォルケンリッターがわざわざ武装隊に背後をつかれる危険を犯してまで、魔力を持たない邸内の人間に襲いかかるとは思えないが、戦闘の余波を受けて屋敷に被害が出て非戦闘員が傷つく危険は小さくない。

 

 もう一つの利点は、通信妨害を無効化できることだ。

 過去の戦闘記録から、ヴォルケンリッターの通信妨害は他者の張った結界内部では機能を著しく低下させると判明している。張り直してすぐとはいかないが十分もたてば通信も復旧するはずだ。

 通信が戻れば、本局へ応援の緊急要請ができる。八神家の周囲に張り込んでいる捜査官に命令し、八神はやての身柄を確保することもできる。

 

 抗議を続けようとするエイミィをリンディは手で制しつつ立ち上がった。

 

「もちろん護衛はつけるわ。エイミィ、戦闘訓練を受けたことがある者をリストアップして。それから、私もなのはさんとユーノ君の護衛に回るわ。私が加われば持ちこたえることくらいできるでしょう? 以降の指揮はあなたが引き継いでちょうだい」

「リンディ君が出るのは、あまり良い判断とは言えないな」

 

 グレアムがリンディの判断を否定するように、首を横に振った。

 

「では、十分な護衛もなしに、なのはさんとユーノ君を危険に飛び込ませろとおっしゃるのですか?」

「そうではない。護衛はたしかに必要だ。だが、リンディ君が行かずともここに手の空いている魔導師が一人いる」

 

 グレアムは将官服の胸ポケットから、一枚のカード――待機状態のデバイスを取り出す。

 

「セットアップ。フルンティング」

『At your pleasure.(仰せのままに)』

 

 純白のカードが光を放つ。グレアムは現れた純白の槍を右手で握ると、戦士の顔を見せる。

 

「衰えても戦い方を忘れたわけではない。二人を守るくらいなら、今の私でもできるだろう」

 



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炎熱VS凍結

 戦況は一進一退のまま均衡状態に陥りかけていた。

 

 管理局側の脱落者はフェイトとアルフを含めて六人。

 戦闘開始直後はヴォルケンリッターの技の冴えに対応が追い付かず、直撃を受けて脱落する者もいたが、彼らとて精鋭たる本局武装隊。相手の実力を把握できれば、それでなお落とされぬように守りを固めてくるだけの柔軟性と実力を有している。

 

 ヴォルケンリッターは三人とも健在といえ、ザフィーラとシャマルは共に鋼の軛と旅の扉という奥の手を見せており、シグナムもシュランゲフォルムまでは見せた。

 当然武装隊もそれらの技を警戒しているため、再度同じ技を使ったところで初見の時のように不意をついて戦闘不能に追い込むのは難しい。

 言い換えれば、それらの切り札をフェイトとアルフという敵戦力の要を落とすために切ることができたのは僥倖だ。彼女たちが残っていれば、この一進一退の状況は確実にヴォルケンリッターにとって不利に傾いていったことだろう。

 

 しかし、このまま多数の敵からの攻撃をさばき続けていれば先に魔力が尽きるのはヴォルケンリッターの方。タイミングを見計らって撤退しなければならないが、その展望を覆すような要因がシャマルから告げられる。

 

『シグナム! 東に五百メートル――屋敷の反対側に魔力反応! 誰かがとても大きな魔法を使おうとしているわ!』

 

 この混戦目掛けて視界外から大規模魔法を撃ち込めば、武装隊も大勢巻き込まれかねない。

 ならばその魔法の目的はヴォルケンリッターへの攻撃ではなく結界の破壊。

 

『ここは頼んだ!』

 

 シグナムはこの場を二人に任せて後方に下がり、転送魔法を行使した。

 

 シグナムの目に映る光景が変化する。

 武装隊が駆け回り、色とりどりの魔力光が輝く戦場はもう見えない。

 新たに映るのは地上にいる数人の魔導師。その中の一人、桜色の魔力光を持つ者が砲撃魔法を構築していた。翡翠の魔力光を持つ者は広域結界の準備中。それ以外の者は二人を守るように立っている。

 

 最優先で止めるべきは砲撃魔法。

 桜色の魔力光に向かって急降下するシグナムは、構築中の魔導師の姿を視認した。同時に相手もシグナムに気が付き、両者の視線が合う。

 

 ――高町なのは

 

 風を裂く音と衝撃。

 動揺でわずかに意識がそれたシグナムの顔を、純白の槍が殴りつけて吹き飛ばした。

 空中で姿勢を制御しながら攻撃した相手を確認しようと顔を向ければ、視界に映るのは氷と液体。

 

「アイスコフィン」

 

 シグナムの周囲を取り囲む氷の花と液体が動きを阻害し、強壮で知られるベルカ式の騎士甲冑をいとも簡単に貫いた。

 液体が体に触れる。体温が急激に奪われ肉が溶ける。あまりの激痛にシグナムが悲鳴をあげようとするが、そのために開かれた口から侵入した極寒の冷気が喉を内部から破壊する。死ぬような痛みを幾度となく味わってきたヴォルケンリッターでなければ、痛みで動くことさえできなくなっただろう。

 

 シグナムはその魔法の正体を理解した――いや、覚えていた。もちろんその対処法も。

 体内の魔力を全身に纏わせると、それを炎熱へと変換する。炎が氷を溶かし、液体を蒸発させる。しかし生み出した炎が液体と触れた途端、急激に勢いを増す。炎が制御できなくなり、術者であるシグナムの肉体を燃やし始める。

 

 炎にあぶられながらも飛行魔法でその場を離脱。

 月村邸のガラスを突き破って室内に転がりこみ、勢いそのままに扉を突き破って廊下へ飛び出てる。

 扉の影に身を潜めて肉体の再構成を実行しながら先ほどの攻撃を受けた場所を見れば、シグナムがいなくなった後でも炎は空中に残って燃え続けていた。

 あのまま留まっていれば、全身を焼かれて致命傷を負っていたに違いない。

 いくら魔力で肉体を再構成すれば傷は消えるとはいえ、その隙もなく生命活動が停止するような攻撃を受ければそのまま死ぬ。

 

 かつて己を死の寸前まで追いやったその技の悪辣さと恐ろしさは、シグナムを構成する情報に刻み込まれている。

 

 先ほどの魔法は『凍結魔法』――凍結の魔力変換によって発生したもの。

 魔力変換のほとんどがエネルギーを発生させるのに対して、凍結は熱――エネルギーを奪う性質を持つ。

 先ほどシグナムの周囲に現れた氷は気体中の水蒸気。液体は酸素と窒素。凍結によってシグナムの周辺の空間の温度を超低温――おそらくマイナス二百度前後にまで下げたのだろう。

 

 バリアジャケットはある程度の熱変化には強い。雪の降る凍土や灼熱の砂漠といった厳しい環境も、バリアジャケットを纏う魔導師にはそよ風の吹く春の草原と変わらない。

 それでも千度を超える炎やマイナス百度の氷といった極度の熱変化にまで耐えられるわけではない。

 そのような特殊な状況に耐えられるバリアジャケットを構成しようとそちらにリソースを振れば、基本である耐衝撃、耐魔力がおろそかになってしまう。だから普通は熱変化への耐性はそこまで重視されない。

 シグナムがしばしば剣に炎を纏わせるのは、その弱点を突くためだ。炎でバリアジャケットを容易に破壊できれば、剣と魔力の威力をより効率良く相手へと叩きこむことができる。

 

 しかし、その弱点はシグナムたち騎士にとっても同じ。超低温の氷は騎士甲冑を容易に破る。

 騎士甲冑を破って侵入した液体窒素はシグナムの体を凍てつかせ、生命活動を停止させる。液体酸素は触れた有機物を酸化させる――肉や骨を溶かす。

 さらに、液体酸素は高い支燃性を持つため、シグナムが低温に対抗するために炎を生み出せば、炎は爆発的に勢いを増して術者であるシグナム自身をも焼きつくす。かといって、炎を生み出さなければ氷と酸で殺される。

 唯一の対処法は、先ほどシグナムがやったように炎によって氷を溶かし、動けるようになった瞬間にその場を離れることだ。

 それでも相当の負傷はまぬがれない。即座に魔法の正体に気づき迅速に対処したシグナムでさえ、負った傷の深さは致命傷一歩手前。

 

 肉体の再構成が完了し、シグナムは再び傷一つない肉体を取り戻す。

 同時に、シグナムの制御を離れて燃え盛っていた炎が消失した。

 晴れた視界の向こう、悠然と立つ魔導師の姿が見える。見忘れるはずがない。前回のヴォルケンリッターを倒した管理局の魔導師。その彼らを率いていた指揮官の姿。

 

「やはりお前か」

 

 凍結魔法も他の魔力変換と同様で、魔力変換資質を持たない魔導師でも、そのためのプログラムを構築すれば使うことができる。

 しかし、凍結は破壊力という点では純粋魔力運用の攻撃魔法や他の魔力変換に劣るうえに、発動には高度な制御力が必要とされる使い勝手の悪い魔法だ。

 凍結魔法を実戦で使用できるレベルの魔導師は、管理世界でも極少数。シグナムの記憶にも近年では奴一人しか存在しない。

 

「十一年ぶりだな。お前たちにとっては、そうでもなかろうが」

 

 グレアムが鮫のような笑みを浮かべると同時に、なのはの砲撃魔法が完成。桜色の砲撃が天へと奔り結界を貫いた。穴が開き、構成を維持できなくなった結界が崩壊する。

 間髪入れず、ユーノが新たな結界を張る。

 

 これで結界を破壊しない限り、ヴォルケンリッターは逃走できなくなった。ならば、対峙する強敵を倒して進むより他に道はない。

 

 

 

 

 海鳴の街の空をヴィータは駆ける。

 月のない晩だ。一般人に見咎められる可能性は低いので、高度を気にせず速度重視で飛ぶ。

 

 結界を出てからずっと、ヴィータははやてをどこに連れて行くべきか考え続けている。

 今日一晩隠れるだけなら、街の廃ビルなり港湾部の倉庫なりいくつかの選択肢がある。最悪、海鳴を囲む山中でも良い。

 しかし相手に知られている恐れがある以上、もう八神家に戻ることはできない。

 

 では、どこに行けば良いのか。

 はやてがヴォルケンリッターのように自在に次元世界を渡れるなら、管理局の目が届かないほど遠くにまで逃げることもできるが、あいにく闇の書の主は生身の人間。プログラム体のヴォルケンリッターのように次元世界を渡ることはできない。

 これまでの闇の書の主が捕まって来たのも、結局のところそれが原因だ。主が世界間を移動できないから、ヴォルケンリッターの蒐集範囲は一定範囲に留まり、蒐集が進むごとに範囲が特定されていく。

 

 結界のおかげで、今のところ管理局の魔導師が追いかけてくる様子はない。

 その代わり、逃げ切れるのだろうか、そもそもはやてはもう捕まっているんじゃないだろうか――そんな不安の影が後を追いかけてきて、それを振り払うためにヴィータはさらに加速する。

 

 

 八神家の外観が見えてきた。出かけた時と同じく、玄関とリビングに灯りがついたままだ。

 その光に照らされて、玄関に三人、裏庭に二人。計五人の男が八神家の周辺に倒れているのが見えた。

 急降下して裏庭に降り立つと、倒れている男に触れて生体反応を確かめる。

 気を失っているだけで死んでいるわけではない。目立った外傷もない。

 

「なにもんだ、こいつら」

 

 もしも管理局の魔導師だとすれば、いったい誰が倒したのか。わざわざ管理局に敵対して闇の書を助けようとする者などいるはずが――いや、心当たりがあった。

 だが、まずははやての安全を確認する方が優先だ。出かける時に鍵をかけずにおいた掃き出し窓から家に入る。扉を開け放った音が家中に響き渡る中、リビングのソファを飛び越え、廊下側からはやての寝室に向かう。

 

 寝室の前で、ヴィータは足を止めた。扉の向こうからわずかな魔力が漏れている。魔力の流れは無秩序。魔法行使による魔力が漏れているわけではなく、ただ魔力を垂れ流しているだけ。

 意味のない行為か――違う、ヴィータを誘っているのだ。

 ヴィータは防御魔法を張り、グラーフアイゼンを構えながら寝室へと踏み込んだ。

 

「早い帰りだ」

 

 ベッドの前に男が立っていた。月よりも寒々とした仮面をつけた戦士。

 仮面をつけたその姿は見覚えがある。自分たちが八神はやての騎士となってから初めて蒐集をおこなった、あの夜に現れた魔導師だ。

 

「やっぱりお前か」

 

 部屋の中が荒らされた様子はなかった。いつもヴィータがはやてと一緒に寝る時と変わらない。しかし、仮面の戦士の背後にあるベッドは無人。寝ているはずのはやての姿がない。

 

「答えろ。はやてをどこにやった」

 

 ヴィータの濃密な敵意を受けても、仮面の戦士に動揺はない。問いかけに答える言葉は、仮面同様に冷ややか。

 

「彼女はもう、この世界にはいない」

 

 

 

 

 冷気と炎が空気の対流を生み出し、無風のはずの結界内に暴風が吹き荒れる。

 肉体の再構成を終えると、シグナムは月村邸の窓から飛び出てグレアムに対峙するが、

 

「シグナムさん!」

 

 名前を呼ばれ、シグナムは空いた左手で己の顔に触れ舌打ちした。

 顔を隠すためにつけていた仮面がない。肉体を再構成した時に、具現化し直すのを忘れていた。

 誰がシグナムの名前を呼んだのかは考えるまでもない。

 

「お願い、戦いを止めて! こんなこと、はやてちゃんが悲しむだけだよ!」

 

 地上のなのはが、上空にいるシグナムに向かって叫ぶ。

 彼女の言うように主がこのことを知れば悲しむだろう。それでも、止まるわけにはいかない。

 

「邪魔はするな」

 

 せめてこの戦いに巻き込まないようにと、それだけを告げてシグナムはグレアムへと突撃する。

 

 

 なのははシグナムのもとへと駆けつけようと、飛行魔法を行使。靴に羽根が生えて、今にも飛び上がろうとした時、なのはの腕をユーノが掴んで止める。

 

「離してっ!」

「落ち着いて! あそこに飛び込んで行ったら、死んじゃうよ!」

 

 ユーノの顔は蒼白だ。グレアムの魔法の効果を理解できた彼には、上空の戦いがどれほど恐ろしいのかがわかる。

 グレアムの凍結魔法は、肉体を再構成できるヴォルケンリッターだからこそ戦闘が継続できているのであって、人間が直撃すれば死をまぬがれない。

 超級の魔導師と騎士の戦いは小規模な災害のようなものだ。巻き込まれれば命はない。

 

「でも、でも――!」

 

 なのはだって、魔法の効果がわからなくとも、上空でおこなわれている戦いがとてつもなく高レベルなことくらい理解できる。

 それでも、何かをしたいと願う。みんなが不幸にならないために、自分には何かができるはずだと。魔法にはそれだけの力があるのだと。

 でも、なのははユーノの腕を振りほどけなかった。いったいどう動けば良いのか、それがまったくわからなかった。

 

 

 

 十を超える魔力弾がシグナムに襲いかかる。巧みに軌道が変化する魔法を回避するのは困難だ。だが、足を止めて打ち落とそうとすれば、その瞬間に凍結魔法の餌食になる。

 凍結魔法のみなら騎士甲冑の低温への耐久力を上昇させて防ぐこともできるが、純粋魔力による攻撃を織り交ぜられてはそうもいかない。

 騎士甲冑に冷気と魔力、両方への高い防御を持たせることは、さしものシグナムでも不可能だ。

 

 移動し続けるシグナムに、前方から誘導弾が迫る。魔力を纏わせたレヴァンティンでなぎ払う。魔力構成が崩壊し、誘導弾が霧散する。

 わずかにタイミングをずらし、斜め前方から異なる誘導弾が迫る。速度を上げて回避するが、誘導弾が髪を掠めて髪留めのリボンがちぎれ飛ぶ。

 レヴァンティンに魔力をのせて振るえば、大気と魔力が混じった衝撃波となってグレアムを襲う。グレアムは瞬時にシールドを展開して防ぐ。

 

 シールドを展開した瞬間、誘導弾に若干のぶれが生じたのをシグナムは見逃さなかった。シールドの高速構築と魔力弾の誘導を両立させることはできなかったのか。

 これを好機と捉え突撃する。誘導弾の反応は予想通りにわずかに遅れ、シグナムは誘導弾の包囲を抜けてグレアムに接近する。

 

 グレアムの背後から、二つの青白い壁が現れた。グレアムの左右を通って前方に出ると、合流して一つの波濤となる。

 ぶれたように見えたのは、シグナムの接近を誘うためのフェイク。

 デバイス内に保管していた圧縮空気を解放し、瞬時に凍結魔法でエネルギーを奪い液体窒素と液体酸素を生成。波濤と化したそれらは、接近したシグナムを飲み込まんと白煙をともなって迫る。

 触れれば先ほどの再現となるだけ。しかしここで下がっても状況は改善されない。グレアムは脅威だが、いつまでもかかずらわっていて良いわけではない。こうしている間にも、ザフィーラとシャマルは武装隊を相手に戦い続けている。

 

 レヴァンティンのカートリッジの装弾数は三発。鞭状連結刃シュランゲフォルムへの変形に一発消費した。残りは二発。

 

 鍔がスライドし、カートリッジに込められた魔力が刀身を覆い、薄紫の魔力が炎に変わる。

 シグナムがレヴァンティンを振るうと、炎が横向きの火柱となって波濤と激突する。

 氷は溶けたが、液体酸素のせいで炎が激しく燃え盛り、新たに炎の壁が生み出される。このまま突っ込めば自らが生み出した炎に再度焼かれてしまう。

 

「紫電一閃!」

 

 超高速で振るわれたレヴァンティンが風を裂き、衝撃破を生み出した。

 炎の壁に風圧で穴が空く。シグナムはさらに加速。開いた穴を通過し、ほどけた赤い髪を戦旗のようになびかせながらグレアムに肉薄する。もはや両者の間には何の障害物も存在しない。

 

 レヴァンティン内に残った最後の一発のカートリッジをロード。再度の紫電一閃。炎を纏った剣が夜空に赤い軌跡を生む。

 グレアムは凍結魔法によって作り出した氷をフルンティングの先に誘導。氷の長槍が触れた空間を凍てつかせながら迎撃する。

 

 凍結と炎熱が激突。マイナスとプラスが互いを打ち消し合い、纏う炎と氷の穂先が互いに消失。

 白煙を裂き、レヴァンティンが一閃。フルンティングは弾くことさえできず、甲高い音をたてて真っ二つに断ち切られた。グレアムは衝撃で吹き飛ばされ、姿勢を制御する間もなく月村邸の屋根に衝突する。

 屋根に手をついて立ち上がろうとするグレアムに、追撃を狙うシグナムが迫るが、青色の光弾――スティンガーレイが接近を阻止した。

 

 光弾に遅れて、クロノとともに武装隊一小隊が現れる。彼らはグレアムの前に立つと、シグナムへと魔力弾を放ち続ける。

 

「無茶をなさらないでください!」

「すまないな。だが、私もまだ戦える」

 

 グレアムはそう言って、クロノの横に立つ。その周囲に次々に魔力弾を発射するためのスフィアが現れる。

 

「凍結以外なら、デバイスがなくとも使えるからな」

 

 シグナムの前には武装隊の一小隊とAAAを超える魔導師が二人。

 

 シグナムの指が二つのカートリッジを虚空から取り出し、レヴァンティンに装弾する。

 ザフィーラの鋼の軛、シャマルの旅の扉のように、シグナムも奥の手を持っている。グレアムに対しては十一年前に見せてしまったが、執務官の方ならばこの一撃で墜とせる可能性はある。

 だが、この一撃はシャマルやザフィーラの奥の手とは異なり、直撃すれば死は免れない。

 

 それでも――

 

 

 カートリッジがロードされる、まさにその直前。結界に重低音が響き渡った。

 

 天と地を揺るがす振動。結界に大きくひびが入り、甲高い音を立てて崩壊する。

 小型のビルに匹敵する巨大な円筒が夜空を高速で動いていた。円筒の側面から伸びる細い棒を、十歳前後の少女が握って振り回している。非現実になれている魔導師さえも唖然とさせる、現実離れした光景だ。

 

 円筒を振り回すのは、ヴォルケンリッターの鉄槌の騎士、ヴィータ。そして円筒は彼女が持つ槌型デバイス、グラーフアイゼンの頭部だ。

 

 グラーフアイゼン・ギガントフォルム――カートリッジ二発分という巨大な魔力によって、内蔵していた膨大な質量を量子の海から引きずり出し、デバイスの外装とする。ヴォルケンリッターの中でも最大の破壊力を持つヴィータの奥の手。

 

 クロノでさえ、突然のことにヴィータの方に気をやってしまった。

 対峙するシグナムへの警戒を怠るなどという初歩的なミスはしなかったが、ヴィータとシグナム以外への注意が低下する。

 

 その意識の間隙をついて、上空から仮面の戦士がクロノに襲いかかる。

 急降下の勢いのまま、かかと落とし。直前で気が付いたクロノは上方向にシールドを張り攻撃を防ごうとする。

 仮面の戦士はかかと落としの途中で強引に体をねじる。巧みな姿勢制御で蹴りの軌道が縦から横へと変化し、シールドのない横方向からの蹴りがクロノを吹き飛ばす。

 返す刃で放たれた横蹴りがグレアムの腹部に命中。グレアムもクロノ同様に吹き飛ばされた。

 

 指揮官二人が文字通り一蹴されたことで、隊員が動揺する。

 その隙に、仮面の戦士はシグナムに念話を送る。

 

『まだ転送をおこなうだけの魔力は残っているな? 今から指定する座標に行け。逃走の手はずを整えている』

『お前は、あの時の――』

『新たな結界を張られる前に急げ。八神はやても我らが保護している。返して欲しければ従え』

 

 信用できないが、戦場から撤退するのが最優先と判断。仲間と合流するために、隊員たちの間を強引に突破して、月村邸を越える。仮面の戦士もシグナムの後に続く。

 前方ではヴィータがシャマルとザフィーラと合流していた。ヴィータが振り回す巨大なグラーフアイゼンのせいで前衛はおいそれと近づけず、後衛が魔力弾を用いて遠距離攻撃をしかけ、それをザフィーラとシャマルが防御している。

 三人の仲間に向けて、念話を送る。

 

『座標は――』

『聞いている!』『聞いたわ!』『二人にも伝えた!』

 

 シグナムが接近すると、ヴィータはギガントフォルムを収納。シグナムはレヴァンティンを鞘に納め、すれ違いざまに右手でザフィーラ、左手でシャマルを掴み、戦場から逃走する。ヴィータと仮面の戦士もシグナムの後を追いかける。

 邪魔されずに多重転移をおこなうために、一旦敵から距離をとらなければならない。

 

「逃がすな!」

 

 武装隊の前衛が彼らを追いかける。

 さらに、クロノが片手で腹部を抑えながら、月村邸の屋根の上に立ってデバイスを構えていた。周囲には魔力刃が次々と生成されていく。

 

「アクティブガード」

 

 シグナムたちの後方で爆風が発生。逃げるシグナムたちは後押しされて速度が上昇し、追いかける隊員たちは押しとどめられて速度が低下する。

 

 いったい誰が――と周囲に視線を巡らせる。

 シグナムたちの前方に、もう一人の仮面の戦士が立っていた。手には一枚のカードを持っている。

 

『後は任せろ』

 

 仮面の戦士の周囲に、魔力弾が次々と生成される。さらに、カードが輝きを放ち消失すると、仮面の戦士の魔力が増加する。カートリッジのようなものかと、シグナムは推測。

 さらなる魔力を得て、生成される魔力弾の数がさらに増加する。

 

 クロノの魔力刃と、仮面の戦士の魔力弾。双方合わせて百を超える数の魔力の塊が空中でぶつかり合う。

 次々と起こる爆発で、シグナムたちの姿が隠される。

 

 爆発が晴れた時、空には誰もいなかった。

 

 

「エイミィ! 追跡は!?」

「やっています! でも――」

 

 邸内では、エイミィが額に汗をかきながら、コンソールを一心不乱に操作し続けるが、いまだに完全には消えていないジャミングの影響や、結界内で大量に消費された魔力が周囲に急激に拡散することで発生した魔力流が、各種センサーを狂わせていた。

 やがて、エイミィの指の動きがぴたりと止まった。

 

「……反応、ロストしました」

 

 ヴォルケンリッターも、仮面の戦士も、どちらもその場から消えてしまった。

 次第に鮮明さを取り戻していくディスプレイを見つめながら、リンディは命令を下す。

 

「負傷者の回収に医療班を向かわせて。それから、本局への連絡も」

 

 そして、椅子の背もたれに体重を預け、長い長いため息を吐いた。

 

「今回は、私たちの負けね」



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真実の重さ

 潮風が混じった夜気が渦巻いては消える。

 海鳴市港湾部の倉庫群は、対岸のガントリークレーン周辺は照明に煌々と照らされて明るいが、仮面の戦士が指定した座標周辺には最低限の灯りしかなかった。

 

「主はやてはどうした?」

 

 シグナムに問われ、ヴィータは苛立ちも顕わにボラードを蹴り飛ばしながら語る。

 

「家に戻ったらはやての代わりにあの仮面がいたんだ。あたしたちがいない間に管理局の奴らがはやてを狙って来たのを撃退して、それからあいつらの仲間がはやてを拉致して別の世界に連れて行ったらしい」

「認識の相違だな。拉致ではなく、保護だ」

 

 暗がりから声。

 多重転送で到着したヴォルケンリッターから少し遅れて、二人の仮面の戦士が倉庫の影から姿を現した。

 

「ものは言いようだな」

 

 ふんと鼻を鳴らすヴィータを意に介さず、仮面の戦士はヴォルケンリッターが四人とも揃っていることを確認すると、近くの倉庫に入るようにうながした。

 海風にあてられたせいできぃきぃと音をたてる錆びた扉をくぐれば、倉庫の中には起動済みの転送ポートが淡い光を放っていた。

 

「八神はやてには一足先に我々の隠れ家へと向かってもらった。ついて来てもらおう」

「今の私たちは、お前たちに従う他ないようだ。だが、主はやてにもしものことがあれば、その時は相応の報いを受けてもらうぞ」

「無用の心配だな。我々も八神はやてのために動いている。……いつまでもこの姿のままでもいられないのだし、姿くらいは見せましょうか」

 

 仮面の戦士たちの声色と口調が途中から女性のものに変化すると、姿が輪郭を失い歪む。

 その後に現れたのは、十代後半の容貌をした女性二人。リーゼロッテとリーゼアリアだ。

 ザフィーラがその正体を探るように目を細める。

 

「若い女……いや、まっとうな人間ではないな。そうか、お前たちは守護獣だな」

「この時代では使い魔っていうんだよ。さ、ついて来て」

 

 

 転送ポートで他の世界に渡り、その先でまた別の転送ポートでさらに他の場所、他の世界に渡る。それを何度も何度も繰り返した。

 利用した中には公的機関が作った合法と思われるポートもあれば、隠された場所にひっそりと建てられている非合法と思われるポートもあった。

 先導するリーゼ姉妹はまっすぐに目的地に向かっているわけではなく、意図的に遠回りをしているように思えた。その理由が管理局の捜査への撹乱なのか、ただの時間稼ぎなのか、それともヴォルケンリッターに現在地を掴ませないためなのかはわからない。

 

 海鳴を離れてから半日が経過した頃。

 何度目かの世界間転送を終えて転送ポートから出れば、外には彩の欠けた光景が広がっていた。

 平地には背が低く枯れた色の植物がまばらに生え、岩肌がむきだしの山には植物の影も形も見あたらない。生え、育ち、繁り、枯れ、落ち、還るといった生命の円環が生み出す動性が感じられない世界だ。

 

「到着。ここは無人世界だから簡単に見つかることはないけど、ところどころに観測用のプローブが置かれているから、寄り道せずについて来て」

 

 山麓にぽっかりと開いた洞窟に入る。なめらかな岩肌は、洞窟が人工物である証拠。一分ほど歩き続けると、岩の洞穴は銀灰色の金属質な通路へと変わる。

 

 突き当りにある扉の前にリーゼロッテとリーゼアリアが立つと音もなく開く。

 

 扉の向こうには小部屋が広がっていた。壁がぼんやりと発光しており、正面にはさらに扉が続いている。

 こちらが近づく前に、前方の扉がひとりでに開いた。

 扉の向こうから現れた男の姿を見て、リーゼロッテとリーゼアリアが眉をひそめる。

 

「あなた自ら出迎えてくれるなんてね」

「ゲストを歓待するのはホストの務めだからね」

 

 現れたのは、紫の髪に金の眼の優男だ。白いシャツと品の良いスラックスを着たその姿は、世間を知らない良家の子息のようにも見える。しかし彼の金色の双眸は、金融市場の最前線で戦う投資家よりも、布教に燃える殉教者よりも、さらに強い光を宿していた。

 暗闇の中にありて、他者を自然と惹きつける魔眼めいた瞳をしている。

 

「はじめまして、ヴォルケンリッターの諸君。私はジェイル・スカリエッティという者だ」

 

 いち早く魔眼の呪縛から逃れたシグナムが、スカリエッティに問う。

 

「お前が主はやてをさらったのか?」

「共犯者だが、首謀者ではない。私はそこのリーゼ姉妹の主からの依頼を受けた身でね。人材を貸し出したり、このラボを隠れ家として提供しているのはそのついでだよ」

「依頼とは?」

「八神はやて君と闇の書の治療さ」そう言い、ヴォルケンリッターに背を向ける。 「いつまでも玄関で話しているのも行儀が悪い。ついて来たまえ」

 

 先に続く通路は、ヴォルケンリッター全員が横一列に並んで歩けるほどの広さを持っていた。

 少し歩いただけで通路は終わり、前方にはまた新たな扉。スカリエッティが触れると扉が開き、四方の壁が黒色の小部屋が現れる。

 まずはスカリエッティが入り、続いてリーゼロッテとリーゼアリアが続く。ヴォルケンリッターは躊躇するが、ここで踵を返したところではやては戻ってこない。意を決して部屋に入ると、後ろで扉が閉まり、部屋全体に魔法がかけられた。罠かと身構えるが、すぐにただの慣性制御だとわかり拍子抜けする。

 

「心配しなくてもただの昇降機(エレベーター)だよ」

 

 昇降機の壁が色を変える。

 黒色の壁は実際には透明で、先ほどまでの壁の色は昇降機が通る竪穴の色。

 

 透明な壁の向こうには、地中に広がる大空洞があった。

 空洞にはドームのような建物がいくつか並んでおり、その外壁は淡い光を放って陽の光の届かぬ地下空洞を照らしている。

 空洞の壁面近くでは藍色のカプセル型の機械がふわふわと浮きながら、何かの作業をおこなっていた。

 

 幻想的な光景に目を奪われている内に、昇降機は秒速十メートルほどの速度で急速に下降を続け、すぐに大空洞の底に到着する。

 再びスカリエッティが先頭に立つ。正面にあるドームへと歩を進める彼の後にヴォルケンリッターは警戒しながら続く。

 

「先ほど治療と言っていたな。どういうことだ? 主はやてはわかるが、闇の書の何を治療する必要がある」

 

 スカリエッティは変わらず軽い足取りで歩みながら、振り返ることなく答える。

 

「それはこれから会う首謀者に聞くと良い。知りたいことも、知りたくないことも、きっと親切に教えてくれるはずだよ」

 

 

 

 

 案内された一室は広い部屋に机と椅子が数脚ずつ置かれており、談話室(サロン)のようだった。

 一つの机を挟んで、赤髪の少年と初老の男が紅茶を片手に談笑している。

 

 ヴォルケンリッターの入室に気付くと、少年――ウィルは右手に持ったティーカップを下ろして微笑みを浮かべた。

 

「みなさん無事なようで何よりです。心配しましたよ」

 

 仮面の戦士に連れて行かれた彼が仮面の戦士の隠れ家らしいこの場所にいるのは予想の範疇。しかし自らを殺しかけた相手と相対しているはずなのに友好的に笑って見せるその態度に、シグナムは強烈な違和感を覚えた。

 

 しかし、そのことを追求している余裕はなかった。彼と談笑していたもう一人、初老の男の存在がヴォルケンリッターの注意をより強く惹きつけたからだ。

 

「あそこまでしたのだ。来てもらわなければ困る」

 

 初老の男――ここに来る前にヴォルケンリッターと戦っていた人物、グレアムが椅子に腰かけたまま、ヴォルケンリッターに視線を向けた。

 

 四人の全身を魔力が駆け巡り騎士甲冑を形成。それぞれが自らの得物に手をかける。

 可燃性のガスよりも危険な、ヴォルケンリッターの敵意がサロンに充満する。

 だというのに、ウィルもグレアムも、そしてスカリエッティも、誰一人として戦闘の準備どころか警戒さえしない。

 

 ウィルが椅子から立ち上がり、両腕を横に伸ばす。相手に向かって胸襟を開く――友好を示すジェスチャーが、この場を構成する面子と雰囲気にそぐわなくて、妙に不気味に映る。

 

「落ち着いてください。俺たちはみなさんに危害を加えるつもりはありません」

 

 グレアムもまた敵意などまるで意に介さない様子で、優雅ささえ感じる仕草でティーカップをソーサーに下ろす。

 

「昨日の私は、管理局の局員として仕方なくお前たちと戦わなければならなかった。だが、今日の私は管理局の局員ではなく、はやて君の後見人であるギル・グレアムとしてここにいる。カルマン君の言うように敵対の意思はない」

 

 聞き覚えのある名前に、シャマルが目を見開く。ギル・グレアム――はやてがグレアムおじさんと呼ぶ人物の名前と同じだ。

 グレアムはテーブルの上に乗っている端末に手をのばす。

 

「我々がなぜこのような手間をかけてまで、お前たちをここに連れてきたのか。それを教えるために見てもらいたいものがある」

 

 グレアムが端末のコンソールに触れると、部屋の中に大きなホロディスプレイが投影される。

 映しだされたのは、怒号と爆発音が鳴り響く戦場。大勢の魔導師が矛先を揃えて突撃し、魔法が放たれる。さらに後ろにずらりと並んだ砲台や空を飛ぶ船から、レーザーが発射され続ける。

 それら全てはたった一つの目標に向かっていた。

 

「なんだ、これは」

 

 それを正確に表す単語など、どのような言語体系にも存在しない。ありとあらゆる生物を無思慮に思いつきのままに混ぜたそれは、既知の生物のあらゆる特徴を持ち、どれにも完全一致せず、ただただ()()と抽象的に表すより他にない。

 その姿は見るだけで怖気がはしるほどに醜悪で、しかしながら強靭。

 山のように大きな体が身じろぎをするたびに、周囲の物体が吹き飛び消える。

 

 立ち向かおうとする魔導師たちが、化物の触腕の一振りで四散。かい潜って近接を試みた魔導師を小さな触手が捕える。細い触手が魔導師の皮膚を破り、肌と肉の間を触手が蠢く。耐え難い激痛に、男の魔導師が女のように高い声で絶叫をあげる。やがて抵抗する力を失い肉塊となった魔導師は、ずぶずぶと化物に取り込まれていった。

 質量兵器であろう砲台が化物を撃つ。放たれた熱線は化物の周囲に多重展開された巨大障壁を突破できない。続けて化物が放つ砲撃によって、砲台の半分が消失。残り半分は化物から伸びる触手が触れると、非生物と生物の中間ともいえる異形の魔砲へと変化して、かつての味方を撃ち放ち始める。

 

 人の命が塵芥のように吹き飛ぶ、地獄が広がっていた。

 

「これは二百年前。今は第十九管理世界と呼ばれる地で、現地政府の軍隊と闇の書が戦った時の映像だ」

「な……!」シグナムは呆然、そして激昂する。 「この化物と闇の書に、いったい何の関係がある!」

「これが蒐集が完了した後に闇の書を待ち受けている運命だ。蒐集が完了した闇の書は異形の化物となって、無差別な破壊を始める。そこに書の主の意思が介在する余地はない」

 

 何を言うべきかわからない。出鱈目をと一笑に付すか。馬鹿なことをと憤るか。告げられた事実は、どちらもできなくなるほどに突拍子がなかった。反論するより先に、もう一度ディスプレイを見る。破壊の限りを尽くす化物――これが闇の書?

 

「闇の書は、蒐集しなければ主の体を蝕み、蒐集で多くの人々を傷つける。しかし管理局が最も恐れているのはヴォルケンリッターによる蒐集などではなく、蒐集が終わった後に現れて無尽蔵の魔力を用いて世界を破壊するこの化物だ」

 

 ディスプレイの中の化物はさらに暴れ続ける。周囲の地形が崩壊。山脈は消え、海洋は枯れ、大地を、雲海を、動物を、機械を、魔導を、この世界に存在するありとあらゆるモノをあまねく全て取り込んで、その体躯を指数関数的に肥大化させる。

 

「この時の映像はここまでだ。伝聞によると、質量兵器による飽和攻撃で闇の書を破壊したが、その代償に星の一割が人の住めない土地になったと言われている」

「この映像が本物だという証拠は?」と、ようやくザフィーラが問う。 「これだけでは闇の書と関係があるとは思えない」

「映像はこれだけではない。嘘だと思うなら、これ以外も見せよう。その中には、お前たちの覚えのある光景もあるはずだ」

 

 新たな映像が映し出される。

 戦いながら蒐集するヴォルケンリッター。対する相手の衣装は、知識ある者が見れば百年以上前――黎明期の管理局の服だとわかる。

 局員の奮戦むなしく、ヴォルケンリッターによって頁が埋められて闇の書が完成する。

 十代後半ほどの年頃の女――その時代の闇の書の主が完成した闇の書を起動させようとした途端、書から闇色の閃光がほとばしり主の姿を飲みこんだ。

 光が収まった後に現れたのは、怖気が走るほどに美しい銀髪の女。

 女が無感情に手をかざせば、慌てふためくヴォルケンリッターと管理局の部隊をもろともに巻き込んでこの世から消失させた。

 

「これは管理局と闇の書が始めて交戦した時の記録だ。この後、周囲の魔導師を全て殲滅したこの女は有機物や無機物を取り込み始め、先ほどの映像と同質の化物へと変化していった。魔導師による対処が不可能と判断した当時の管理局は、近隣宙域に待機していた艦船に搭載していた対消滅砲アルカンシェルによって、周囲の空間ごと闇の書を消滅させた。以来、管理局は闇の書が暴走した時に備えて、事件を担当する艦船にアルカンシェルを装備を義務付けるようになる」

「こんな映像は嘘っぱちだ! たしかに、こんな戦いがあったことは覚えてる! でも、あんなことにはならなかった! それにあれは――!」

 

 ヴィータが叫ぶ。いつも以上に大きな声で強気に否定するのは、不安の表れか。

 

「では、お前はこの時の戦いがどのように終わったのか、覚えているのか?」

「それは……覚えてねーけど……でも、今の映像だと蒐集が終わった後もあたしたちの何人かが残っていた! この映像が本物なら、あたしたちの誰もその時のことを覚えてなかったなんておかしいじゃねーか!」

「そうでもないさ」

 

 今まで黙っていたスカリエッティが突然発言した。いつの間にか椅子に座っており、新しいティーカップに紅茶を注ぎながらヴィータに答える。

 

「きみたちヴォルケンリッターは、肉体が消失しているにも関わらず、過去の記憶を持ったまま新たな主のもとに作り出される。つまりきみたちは消滅した時のバックアップとして、記憶をはじめとした様々な固有情報を定期的に闇の書へと保存しているんだろう?」

 

 その指摘は事実だ。その特性ゆえに、ヴォルケンリッターは自分が死ぬ瞬間の記憶を持たない。

 スカリエッティは語りながらも、ピッチャーからミルクを注ぐとスプーンでかき混ぜる。世間話をしているような気軽さで、話を続ける。

 

「蒐集後の暴走は書の主やヴォルケンリッターでさえも止めることはできない。その事実は、暴走中の闇の書は外部からの操作を受け付けないことを証明している。それは単に権限がないから干渉できないのではなく、闇の書が外部からの情報全てをシャットアウトしているのだとすれば、ヴォルケンリッターという外部からの記憶情報が受け取られないのもありえないことではない。他にもいくつか仮説はあるが……ふむ、この紅茶はグレアム君が持ってきたのかい?」

 

 話している途中でスカリエッティの興味は紅茶に移ったようで、グレアムに紅茶について尋ね始める。グレアムに無視されると、スカリエッティは机の上のビスケットを食べ始めた。

 ウィルでさえ緊張した面持ちでいるというのに、スカリエッティ一人だけが場違いなほどに緊張感を持っていない。

 

 

 それから、時の流れに沿って、管理局が担当した闇の書事件の映像が流され続けた。闇の書が事件を起こすスパンは十年から二十年。管理局が設立してからは百五十年と少し。管理局と闇の書が関わった回数は、両手で数えられるほどだ。

 数々の映像の中には、十一年前のグレアムたちとヴォルケンリッターの戦いの映像も含まれていた。その戦いの結果は、分断されたヴォルケンリッターが各個撃破されて終わった。

 

 

 再び画面が切り替わる。漆黒の宇宙空間に、数隻の次元空間航行艦船が陣形を組んで整然と進んでいる。

 しかしその内の一隻のシルエットは他の艦船と比べて明らかに異質だった。映像はズームアップ、その一隻を大写しにする。

 

「私がきみたちと戦った後の映像だ。闇の書とその主を輸送していた巡航艦エスティアが、闇の書の暴走によって機能を停止した」

 

 巡航艦エスティア。白銀に輝く外観は、木の根にも血管にも見える無数の触手にまとわりつかれていた。触手がまだ届いていないシャトルベイから、数隻の脱出艇が飛び出す。映像が早回しになる。触手が艦船の大部分を侵食する。一方、シャトルが急速に艦から離れていく。

 映像の端に表示されている時刻表示でおよそ半時間が経過した頃、映像が等速再生に戻る。

 

 宇宙の闇を裂いて一条の光がエスティアに突き刺さった。それは一個の魔導弾頭が描く軌跡。

 着弾と同時に、魔法を構成する式が開放される。無数の魔法式が弧を描き、闇に包まれた宇宙空間に円環の虹がいくつも現れる。

 そして世界が歪む。桁違いの魔法が、半径百キロメートルを超える空間を歪曲させていた。音のない宇宙空間を映しているはずなのに、見る者は空間そのものが発する絶叫をはっきりと感じた。

 時間にして一分。虹が消失し、エスティア周辺の宇宙空間に再び漆黒が戻る。エスティアはおろか、歪曲された空間内に存在していたデブリや岩石でできた小惑星、その全てがこの世界から消えてなくなっていた。目に見えない微粒子になったのではなく、対消滅による完全な消滅だ。

 

「私はアルカンシェルによって、エスティアを消滅させた。この時、二名の乗員がエスティアと運命を共にした」

 

 映像が消えると共に、部屋から音が消え去った。呼吸音すらしない。誰もが息をすることさえ忘れて映像に見入っていた。

 

 やがて、沈黙を破ってシャマルが問う。

 

「……どうして? これだけのことがわかっていたのに、どうして私たちがはやてちゃんのもとに現れた時に教えてくれなかったの?」

「初めは、ヴォルケンリッターに人間らしい意思があると信じられなかったからだ。お前たちがはやて君のもとで人のように生きていると知ってからも、口で伝えるだけでは信じてもらえるとは思えなかった」

 

 シャマルは沈黙した。映像として見せられた今さえ、容易には信じられない――信じたくない。言葉だけでは信じられたかどうか。

 

「これらの映像は厳重に保管されており、かつて捜査司令であった私でさえ、必要がなければ持ち出すことを許されていない。そこで私はお前たちが蒐集を始め、管理局が事件の解決に乗り出すのを待った。幸いにも今回の闇の書事件の主要捜査員には、私と旧知の仲の者たちが選ばれた。彼らに接触し、協力するふりをして闇の書に関する映像を複製するのは造作も無いことだった」

 

 

 グレアムの説明が終わると、もう誰も問いを発さなかった。

 見せられた光景、紡がれた論理。それを打ち崩すだけの言葉は誰も持ち合わせていなかった。

 

 やがて、ヴィータがグラーフアイゼンを取り落とした。

 シャマルは押し寄せる嘔吐感を抑えるように口元に震える手をやる。

 ザフィーラは犬歯をむき出しにして、耐えるように歯を食いしばる。

 

 誰もがうちひしがれていた。この瞬間に襲われたとしても、ろくな抵抗もできずに倒されてしまうだろう。もしかしたら、襲われることを望んでいたのかもしれない。そうすれば、先ほどの映像はヴォルケンリッターを動揺させるための罠だと判断できる。

 だが、誰もそのようなことはせず、何も語らずにヴォルケンリッターを見ているだけ。

 

 明かされた事実は、ヴォルケンリッターから希望と誇りを奪い取った。

 

 何人、何百人、何千人と蒐集してきた。蒐集対象でなくとも、蒐集の邪魔をする者にも容赦はしなかった。蒐集完了後の暴走の犠牲者を含めれば、その数はどれほどになるのか想像もつかない。

 身に刻まれた使命のせいだとはいえ、多くの人々の命を奪った。それが主のためであったから、忠義と言い繕うこともできた。

 だが、その実態はまるで逆。蒐集の完了は主の死と同義であり、ヴォルケンリッターの活動は主の死期を早めていただけであった。

 何百年の時をかけて、無意味な殺戮を繰り返しただけ。屍で山を築き上げ、夜空に輝く星をつかみとろうとする愚行。

 殺した自分たちも、殺された者たちも、誰も望まず、誰の目的も果たされない。犠牲に意味はなく、意義はたったいま失った。

 これまでヴォルケンリッターを支えてきたアイデンティティが粉微塵に砕け散る。

 

 耐え切れず、シグナムはその場に膝をついた。

 立ち上がろうとしても、六十キログラムにも満たない己の体さえ支えることすらできなかった。積み重なった死者の手が、シグナムの身体を底なしの沼へと引きずり込もうとしているようだ。

 

 このまま死者の重さに押しつぶされて、消えてしまうべきかもしれない。

 シグナムが諦観と共に生を諦めようとした瞬間、脳裏に主のあどけない笑顔が浮かんだ。

 

 

 部屋に甲高い金属音が響く。

 シグナムは硬質的な床にレヴァンティンをまっすぐに突き刺し、杖代わりとして立ち上がった。

 

 ここで絶望に飲まれて、立ち止まることは簡単だ。だが、それは今を生きるはやての命をも諦めてしまうことだ。

 はやては死を振りまいてきた自分とは違う。彼女は他人に注いだ愛情のぶんだけ、これからずっと、もっと、幸福になるべき人だ。死なせるなんて許されない。

 

「私は、主はやてを助けたい」

 

 その言葉を待っていたというように、グレアムが満足気にうなずく。

 

「私は闇の書が引き起こす破滅を防ぎたい。はやて君が死なない方法があれば、それが最善だ。我々の利害はある程度は一致していると言える」

「何をすれば良い? ただ真実を告げるためだけに、私たちをここに連れてきたわけではないだろう」

「連綿と続く悲劇を阻止するには、はやて君とヴォルケンリッター、そして闇の書をより詳細に解析する必要がある。そのためには、お前たちの自発的な協力が不可欠だ」

「わかった」

 

 即答。迷いはない。シグナムは続けて、血反吐のように言葉を紡ぐ。

 

「必要とあれば、私の体を最後の一片まで切り刻んでくれても良い。だから、お願いだ。主はやてを救ってくれ」

「わかった……と言いたいが、あいにく私の仕事は状況を作り出すまでだ。その願いは、この男にした方が良いだろう」

 

 グレアムが指し示した先には、ビスケットを食べているスカリエッティの姿があった。彼は初めてその顔から笑みを消し、ヴォルケンリッターを見据えて口を開く。

 

「きみたちの欲望(ねがい)は聞いた。このジェイル・スカリエッティがきみたちに纏わりつく闇を打ち祓ってみせよう」

 

 グレアムとは異なる種の、しかし勝るとも劣らない圧をもって、スカリエッティは願いに応える。口の端についたビスケットの欠片が、いささかならず雰囲気を台無しにしていたが。



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管制人格

「せっかく協力関係を築けたんだ。もう少し仲良く行こう。いつまでも立ち話というのも疲れるだろう。適当なところに座ると良い。リーゼアリア君、彼らにお茶をお願いするよ」

「いやよ」

「私からも頼むよ、アリア」

「承知いたしました、お父様」

 

 などという会話がなされた後、談話室に置かれた椅子やソファに思い思いに腰かけたヴォルケンリッターの元へ、リーゼアリアが紅茶を淹れて回った。

 紅茶が全員分に行き渡ったのを見届けると、グレアムが再び口火を切る。

 

「今度はこちらから尋ねたいことがある」

 

 闇の書の暴走という真実を告げられた直後だ。次はいったい何が飛び出して来るのか。想像するだけで緊張で喉がからからになる。

 シグナムは渇く喉を紅茶で潤し、グレアムの質問の続きを待った。

 

「私は十一年前の闇の書事件の後も、個人的に闇の書を調べ続けた。管理局のデータベースはもちろん、管理、管理外を問わず様々な世界の伝承や記録を集め、とある魔導書の記述を見つけた。『夜天の書』――この名前に聞き覚えはないか?」

「夜天……」

 

 シグナムは声に出し、言葉の響きを口と耳で確かめる。

 

「……いや、ない。魔導書の名か?」

「そうだ。夜天の書は古代ベルカに作られた魔導書で、他者の魔法を書へ自動で記述する『収集機能』を持ち、書によって造り出された騎士を護衛として、いくつもの世界を渡り歩いていたとある」

「闇の書と似たような魔導書が他にもあったのか? しかし寡聞にして知らないな」

 

 魔導書は古代ベルカ時代に存在していた大型の魔法行使補助端末だ。

 その製作には非常に優れた魔導の使い手と設備が必要とされる、非常に貴重なもの。

 そのように数の少ない魔導書の中でも、闇の書は類を見ないほどに独特で、強力だった。一部の機能だけとはいえ、似たような魔導書があるというのは驚きだ。

 

「本当に覚えがないのだな」

 

 グレアムの視線はシグナムの隣、ヴィータに移った。

 机に視線を落としていたヴィータがグレアムの視線に気づいてつぶやいた。

 

「あたしは……その名前を聞くとなんかもやもやする」

「何か心当たりがあるのか?」

「ぜんぜん。聞いたこともない。……ないはずなのに、もやもやするんだ」

 

 ヴィータも自分同様知らないだろうと思っていただけに、そのどこか不安げな様子に不安をかきたてられる。先ほど告げられた暴走と同様に何か致命的な欠落に繋がっているような気がして、たまらず尋ねる。

 

「なぜその書のことを聞く。私たちとその書には、何か関係があるのか?」

「夜天の書は、闇の書のかつての名だ」

 

 あっさりと告げられた衝撃の事実にヴォルケンリッターの顔が驚愕に染まる。

 

「二つの魔導書にはいくつか異なる点がある。闇の書は主の死亡や本体の消滅をトリガーとして、無作為な転生によって新たな主を見つけ出すが、夜天の書は通常のデバイスと同じように、管理権の譲渡によって主を変えることができた、というように。何より、夜天の書であった頃には暴走を起こすようなことはなかった。私たちはそれらの相違点は歴代の主による改竄によって変化したものであり、その変化に闇の書が暴走したきっかけがあるのではないかと考えている」

 

 と、グレアムは話を締めくくった。

 談話室に重苦しい沈黙がおちる。十数秒ほどたって、真っ先に口を開いたのは、指をほほにあてて考え込んでいたシャマルだった。

 

「もしも闇の書が夜天の書だったとしたら……私たちは闇の書じゃなくて夜天の書の騎士って名乗るべきなのかしら?」

 

 シャマルは大真面目な様子で、しかしどこかピントの外れた発言に空気が弛緩する。

 続いて、シグナムが率直に述べる。

 

「すまないが何も思い出せない。そのせいか、闇の書のかつての名と言われても、どこか人事のように感じられる。ヴィータは何か思い出せたか?」

「さっきと同じだ。もやもやするけど、それ以上は何も」

「ザフィーラ、お前はどうだ?」

 

 ザフィーラは先ほどからずっと腕を組んで目を閉じていたが、シグナムに声をかけられると、目と口を開く。

 

「俺にも心当たりはない。だがあいつなら何か覚えているのではないか」

 

 あいつ――それが誰のことを指しているのか、シグナムはすぐに理解した。

 彼女だけではない。ヴィータもシャマルも。四人のヴォルケンリッター全員が知る人物。

 

「誰のことだ?」

 

 問いかけるというよりも、詰問するようなグレアムの声。灰色の瞳は真冬の雪雲のように、重厚な圧力を伴っていた。

 シャマルが不安げにシグナムをうかがう。

 

 あいつのことまで教えるべきか。そこまでグレアムたちを信用しても良いのか、シグナムにはわからない。だが、寡黙なザフィーラがその存在を示唆する言葉をわざわざ口に出したのは、単に口をすべらしただけのわけではないだろう。

 毒を食らわば皿まで。協力を仰ぐと決めた以上、彼女のことをも話すべきだと判断したのだ。

 

「シャマル。彼女のことを彼らに話してくれないか」

「いいの?」

「彼らには闇の書を調べ、解決方法を見つけ出してもらわなければならない。こちらの知る情報は少しでも伝えておくべきだ」

「……そうね」

 

 シャマルは落ち着きを取り戻すと、グレアムに向き直る。

 そのたたずまいからただならぬものを感じ取ったのか、グレアムたちの間の緊張感が高まる。

 

「守護騎士は私たち以外にも、もう一体、管制人格(マスタープログラム)という子がいるんです。その姿は……先ほどの映像で蒐集完了後に出てきた銀色の髪の子です」

 

 今度はグレアムたちが驚く番だった。

 

「彼女は主を敵からお守りすることを使命とする私たちとは、まったく違った役割を持つ守護騎士です。闇の書は数多くのアーキテクチャを包括する巨大な魔導書で、人間である主一人ではとても管理しきません。彼女は主に代わって闇の書の全システムを管理し、プログラムに調整を加え、状況に応じて主が望む機能を提供するために存在しているんです」

「五人目のヴォルケンリッター……。ならば、暴走後のあれはお前たち同様に実体化したのか?」

「それは……多分違います。管制人格は普段は実体化せず、闇の書の中でシステムとして動いています。蒐集を一定の段階にまで進めた後に、主の許可があれば、私たちと同じように姿を持って顕現することもできますが、単独で戦うよりもユニゾンによって主を補助することが多いです。先ほどの映像では主の姿が消えていたので、きっとユニゾンなんじゃないかと……」

 

 今度はスカリエッティが、「ほぅ」と感嘆の声をあげた。

 

「ユニゾン。管制人格は融合騎か。しかも古代ベルカに作られたオリジナルとは興味深い。データはいくつか見たが、そのものにお目にかかったことはまだなくてね」

「あの――」

 

 これまで言葉を発さなかったウィルが、初めて発言した。

 

「話の腰を折って申し訳ありませんが、融合騎とはどのようなものなのですか?」

「なんだ、ウィルはそんなことも知らないのかい?」

「すみません。不勉強なもので」

 

 呆れた様子のスカリエッティ、肩を落とすウィル。それを見てグレアムが苦笑を浮かべる。

 

「知らないのも無理はない。融合騎はすでに失われた技術だ。士官学校でも技術系のコース以外では学ぶ機会もないだろう。一度簡単にでも説明した方が良いのではないか? 私たちが知る融合騎と闇の書の管制人格がまったく同じものであるとは限らない。認識の齟齬は早めに潰しておくべきだ」

「では、少し説明するとしよう。ヴォルケンリッター諸君には、管制人格の特徴と異なる点があればその都度訂正をお願いしたい」

 

 スカリエッティはヴォルケンリッターに向けてそう言うと、ウィルに顔を向けて説明を始めた。

 

「融合騎――ユニゾンデバイスとは、古代ベルカを発祥とする極めて特殊なデバイスだ。まずは外見だが、現代のデバイスのように一見して道具とわかる機械的な形状ではなく、魔力によって人間と区別がつかないほどの有機的なボディ――プログラム体を形成している。目の前にいるヴォルケンリッターのようにね。大きさには個体差があるが、人間の子供より小さいことが多い。ベルカ文化圏の外では妖精や精霊といった呼び名で記されている場合もある」

「管制人格の体は、私やシグナムと同じくらいでした」と、シャマルが補足する。

「人間大とは珍しいね。おそらく、そうしなくてはならない何らかの理由があったのだろう。単なる推測だが、融合騎の肉体構成式を流用して守護騎士機能を実装したのかもしれないね」

「なるほど……しかし、使いまわしの割には一人だけ身体的特徴が大きく異なっているな」

 

 と、スカリエッティの推論にグレアムが疑問をはさむ。

 それを受けて、ヴォルケンリッターの一人に視線が集中した。

 

「――って、あたしかよ!? 普通そこはザフィーラだろ! 一人だけ男なんだから!」

 

 大声で抗議するヴィータをスルーして、スカリエッティが説明を再開する。

 

「融合騎は人間と違和感なくコミュニケーションをとれるほどの高度な人工知能を有している。これも説明するよりも目の前にいるヴォルケンリッターを例として挙げた方が早いだろう」

「でも、デバイスにそこまで高い知能が必要なんですか?」

「その疑問に答える前に、最後の特徴を挙げておこう。融合騎は、実体を捨てて所有者と一体化する、『融合(ユニゾン)』と呼ばれる極めて特殊な能力を有している。よりリンカーコアの近くで、よりダイレクトに魔法行使を補助するためにね。一般的なデバイスが外付けの演算装置であるのに対して、融合騎は内蔵式と言ったところかな。さらに融合状態の融合騎は主の肉体や魔力を代わりに使えるだけでなく、デバイスがパーツを内部に収納するように、主の肉体を格納して融合騎自らが前面に出て戦うこともできる。これらの機能がどのような目的で作られたのか。ウィル、なんだと思う?」

「いざという時に主を保護するためですか?」

「半分正解だね。残り半分の解答は、教育だよ。主の肉体と魔力を操作できるということは、体の動きや魔力の流れを体感をもって教えることができるということだ。手取り足取りどころではない。未熟な主を迅速に教育するには非常に都合の良い機能だ」

「そこまでいくと、どちらが主なのかわかりませんね」

 

 ウィルにとっては何気ない素直な感想。しかし、スカリエッティの口元には生徒の感性への称賛が笑みという形で表れていた。

 

「その見方はあながち間違ってはいない。融合騎は主を何度も変えて、何十年も使い続けるのが普通だったそうだからね。なにせ融合騎は当時の技術をもってしても莫大な予算と手間が必要とされた。だから、たいていは国家がスポンサーとして製造され、優秀な騎士に使わせることが多かったそうだ。中には一度に何人もの主を持ち、状況に応じて使い分けていた融合騎もいたみたいだね。こうなると融合騎が使い手で、主は道具のようなものだ」

 

 ザフィーラがスカリエッティをじろりと睨みつける。

 

「あいつは我らの中でも、最も主のことを大切に思っていた。主を軽んじるような奴ではない」

「一例を挙げただけさ。主の扱いは融合騎によって多種多様。製造目的に大きく左右されるし、高度な知能が生み出す擬似的な自意識による変化も存在する。ちなみに先ほどの融合騎のように一度に複数の主を持つというのは、当時の倫理観ではあまりよろしくないことだと思われていたようでね。尻軽と言われていたそうだ」

 

 冗談めかした口調で言い、誰もにこりともしないとわかると、スカリエッティは肩をすくめた。

 

「さて、融合騎の説明はこれで終わるとして、私の方からもいくつか質問をさせてもらおうか。シャマルくん、闇の書の場合は管制人格と書の主のどちらの権限の方が強いのだろうか?」

「初期段階での主の権限は非常に限られています。例えば、今のはやてちゃんは私たち守護騎士とほぼ同程度の権限しか持っていません。仮の主と呼ばれるこの段階では、管制人格の方が強い権限を持っています。ですが、主が闇の書の全てを統べるにふさわしい高位の魔導師――真の主に育ったと判断されれば、主には管制人格以上の管理者権限が与えられます」

「真の主の基準は? 管制人格が独断で決定するのかい?」

「いいえ。私の知る限り、真の主と認められる手段はたった一つ。蒐集によって六百六十六頁を満たすことだけです」

「蒐集を完了させた主への管理者権限の譲渡を、管制人格の一存で破棄することはできるのかな?」

「それは……管制人格にしかわからないと思います。でも、おそらくできないはずです。管制人格の意志で権限の譲渡を決定できるのなら、そもそも選定方法が存在する必要性がなくなりますから」

「では、管制人格の権限と主の管理者権限に、何か具体的に違いはあるのだろうか」

「管制人格の持つ権限はあくまで管理者代行としてのもの。システムの修復や一時的な改変は可能ですが、システムやノードの破棄といった機能は真の主にしか許されていません」

「ありがとう。今のところはこれで十分だ。他の質問に関しては、解析を始めてからにするとしよう」

 

 スカリエッティは鷹揚にうなずき、背もたれに体を預けた。何を思考しているのか、宙空を見る瞳からは何も読み取れない。

 

「暴走の原因は、管制人格にあるのではないか?」

 

 沈黙を破るようにして、グレアムが発言した。

 

「先ほども言ったはずだ。あいつはどのような主であれ軽んじることはしなかった。暴走を引き起こし、主を殺すようなことをする奴ではない」

 

 反論したザフィーラは顔こそ無表情だったが、声には怒気を纏っていた。

 しかし、グレアムは意に介さず続ける。

 

「では、なぜ暴走の初期に管制人格が現れる? それに管制人格が暴走を望んでいないのであれば、主に管理者権限が渡るのは望ましいことのはずだ。だが、実際には蒐集を完了させると暴走が起きる。これは土壇場で管理者権限の移譲を阻止しようとして起こしているとは考えられないか?」

 

 ザフィーラは黙った。反論できないのか、する必要がないと考えているのか。変化の乏しい表情からは読み取れない。

 代わりに口を開いたのは、再びのスカリエッティだ。

 

「なるほど。それがグレアム君の考えか」

「お前は違うと考えているのか?」

「現状、その可能性が最も高いのは否定しないよ。しかし、気にかかるところも多い。自立判断能力に優れた融合騎が任意で暴走を引き起こしているにしては、暴走が起こる状況が限られすぎている。本当に管制人格が原因なら、ヴォルケンリッターが私による解析を承諾した今この瞬間にも暴走を起こしてもおかしくないだろう? 彼女が宿題を長期休暇の最後の日まで引っ張るタイプというだけの可能性ももちろんあるけどね?」

「……たしかに、それは気にかかるな。闇の書が解析されて解決方法が見つかるのは望ましくないはずだ。では、暴走の原因はなんだ?」

「それはまだわからないさ。私たちが考えすぎているだけで、やはり管制人格が元凶かもしれない。ただ、違うとすれば、原因は闇の書を管理する管制人格にも手を出せないに部分にあることになる。管制人格の権限を受け付けないのか、改変が製造目的に反するのか、改変のために止めることでシステムに危険を引き入れるのか、改変が論理矛盾を起こすような構造を持っているのか」

 

 列挙される多くの可能性。しかし、スカリエッティの笑みが崩れることはない。

 

「アプローチするべき箇所が見えてきたのは大きな収穫だ。無限の欲望の名が伊達ではないことを証明してみせよう」

 

 

 

 

「それじゃあ、行きましょうか。はやてもみなさんの到着を待ちわびていましたから、顔を見せれば喜ぶと思いますよ」

 

 シグナムたちはウィルに連れられて、はやてに会いに行くためにラボの中を歩く。

 はやてはシグナムたちよりも何時間も前に到着しており、ここに到着してからは検査を受けていた――と、ウィルは歩きながら語った。

 

「主はやては事情をご存知なのか?」

「いいえ。俺とあなたたちが戦ったこと、病気が闇の書のせいであること、あなたたちが蒐集をしていたこと。そのあたりの、はやてが悲しむような事実はでき得る限り伝えていませんし、これからも伝えるつもりもありません。……十一年前の、蒐集完了前の闇の書の暴走。その原因ははっきりとはわかっていませんが、グレアムさんやジェイル先生は、捕えた闇の書の主に大きなストレスがかかったことが原因なのではないかと考えているようです」

「闇の書が主の危機に反応したということか?」

「ええ。……確証はありませんよ? でもリスクはなるべく避けた方が良い。だから、はやてには必要な時が来るまでは、真実を伝えないことにしました」

「それなら、主はやてはこの事態をどのように捉えているのだ?」

 

 ウィルやグレアムといった親しい人の言葉であれば信用してもらいやすいとはいえ、はやては寝ているところを叩き起こされて、どこともわからない場所に連れてこられたのだ。それなりに筋の通った嘘でなければ納得できないだろう。

 

「このまま放置すれば、はやてが近い将来どうなってしまうか。遊園地に行った日に、石田先生がその予測される未来を教えてくれましたよね」

「ああ。覚えている」

 

 ただの確認のように答えたシグナムとは対照的に、シャマルはわざわざその時のことを持ちだした意味を理解し、顔を青くして詰め寄る。

 

「まさか、伝えたの!?」

「ええ。石田先生からの話は、そっくりそのまま伝えました」

「でも、さっきは伝えるつもりはないと言ったじゃない!?」

「伝えないのは、闇の書に関することだけです」

 

 シグナムも理解する。ウィルは、はやての余命が残り数ヶ月であることを伝えたのだ。

 

「それでは本末転倒だ。死期が近いという事実こそ、主はやての精神に大きな負担をかけてしまう」

「でしょうね。でも、管理世界でなら病気は治すことができる。そんな嘘を一緒に伝えれば、精神的負担は大きく減少するとは思いませんか? 後でみなさんにも紹介するつもりですが、このラボには肉体のほとんどを人工物に置き換えた子らが住んでいるんです。それを見せたらとりあえずは納得してくれましたよ」

 

 世界を移動できる船を造るだけの技術力を持ち、魔法という未知の力を持ち、人体の大半を人工物に置き換える。そんな世界の医療は、管理世界に関する知識を持たないはやてには万能に見えるだろう。

 死期が近いという影と、助かるという光。それらを隠れ蓑にすることで、さらなる闇からはやての目をそらさせるのが、ウィルの考えだった。

 

「他にもいろいろと質問されましたが、事前に知らせなかったのは、こっそり連れ出すための仕組みが管理局にばれかけたので、急遽予定を前倒しにしたから。みなさんと一緒じゃなかったのは、みなさんがはやてを確実に他の世界に連れていくために、近くの世界で管理局の目を引くようなことをしてもらってたからと、そんな感じでごまかしておきました。ただ、自分のために無茶をさせたって気に病んでいましたから、みなさんにはできる限りいつも通りに振る舞ってほしいですね。その方がはやても安心するでしょうから」

 

 ヴォルケンリッターが何を考える必要もない。全ての答えがあらかじめ用意されていた。

 手のひらの上で踊らされている感覚に不安と気味の悪さを感じるが、用意された状況がヴォルケンリッターの望むものでもあるため、反対する理由が存在しない。できることは欺かれていないか油断せず彼らを観察するくらいだが、用意周到な彼らは簡単に尻尾をつかませてくれはしないだろう。

 

 そこでふつと会話が途切れる。歩みを進めながら、シグナムは気になっていたことを、本当は彼の姿を見た時から聞きたかったことを尋ねる。

 

「ところで……その腕は?」

「ああ、右手ですか? 義手ですよ。本物の腕のように見えるでしょう? いきなり腕がなくなってたらはやてがびっくりしちゃいますからね。一皮むいたら、中身は機械ですけど――おっと」

 

 ウィルは扉の前で立ち止まると、振り返って口元で人差し指を立てる。

 

「この扉の向こうです。……重ねて言いますが、くれぐれも闇の書のことは内密に」

 

 

 

 一日ぶりに見たはやては、変わりないように見えた。ウィルとヴォルケンリッターに気がつくと、はやての顔にぱっと喜色が散るが、すぐに悲しそうになった。

 はやては、ヴォルケンリッターが病気のことを知りながらも隠していたことを責めたりせず、むしろ隠し続けるのは辛かっただろうと気づかった。それから、自分の病気せいで迷惑をかけてしまったと、頭を下げて謝った。

 シグナムははやての顔にそっと右手を伸ばして、頬に添える。

 

「気になさらないでください。主の御心をお守りできなかった、私にこそ責があります。どうか、この身の不忠をお許し下さい」

 

 せめてもの慰めは、ひどく空虚に響いた。もしかしたら、真実を話すことなく、うまく慰める方法があったのかもしれない。しかし、シグナムにはそんなうまい方法は思いつかない。

 はやてはシグナムの言葉を否定せず、「うん」とうなずいた。シグナムの言葉に納得したからではない。否定して自分に責任があると言い張れば、シグナムをさらに悲しませてしまう。そう考えたがゆえの優しい嘘だった。

 

 主の年に合わぬ明敏さが無性に悲しく、それをさせてしまう己がどうしようもなく情けなくて、シグナムは造りだされて初めて涙を流しそうになった。



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歩むべき道

 月村邸での決戦の翌日。

 フェイトがベッドから上半身を起こして待っていると、病室の扉が開いて少女が病室に入って来た。フェイトにとっての数少ない、そして初めての友達――高町なのは。

 なのはは起きているフェイトの姿を見て安堵し、それから患者衣の隙間から見える包帯を目に止め、表情を曇らせた。

 

「体、大丈夫なの?」

 

 なのはの声は不安に揺れていた。安心させようと、フェイトはできるだけ元気に答える。

 

「私は平気。怪我はたいしたことないし、リンカーコアも何日かしたら元に戻るらしいから。アルフの怪我はもう少し重いみたいだけど、魔力が結構残っているから完治するのは私より早いかもしれないって」

 

 使い魔はただでさえ人間よりも頑丈なうえに、高い自己回復能力を持っている。十分な魔力さえあれば、欠損でもしない限りほとんどの怪我は自然に治るようになっている。

 重傷を負ったとはいえ、魔力を消耗していない序盤のうちに物理的な攻撃によって気を失ったのは、ある意味では幸運だったかもしれない。

 

「医務官の人から聞いたよ。私たちを心配してずっと待っていてくれたんだって」

 

 心配をかけて申し訳ないと思う気持ちと、心配してくれて嬉しいと思う気持ちがあふれる。相手のことを本気で心配して気にかけられるなのはの優しさが、フェイトに家族以外の他者を意識させるきっかけとなり、友達という言葉に実感を与えてくれた。

 背筋を伸ばし、姿勢を正す。その様子を不思議そうに眺めるなのはに、頭を下げる。

 

「ありがとう」

 

 なのはは少し照れくさそうに笑った。

 

 

 二人の会話は自然と闇の書事件のことになった。

 

「フェイトちゃんは、はやてちゃんが闇の書の主だっていつ知ったの?」

「私が教えられたのは昨日の朝の会議だった。なのはは?」

「私は昨日のお昼に、ユーノ君と一緒にグレアムさんに教えてもらったの」

 

 なのはの表情には陰りがあった。

 闇の書の騎士、ヴォルケンリッター。彼らは複数の次元世界で魔導師を襲い、その魔力を蒐集している。そんな彼らに命令を下している元凶とも言える存在――闇の書の主が、よりによって友達である八神はやてだったのだから無理もない。

 

「本当にはやてちゃんが命令してるのかな?」

「みんなそう思ってるみたい。でも、会議で説明を受けた時には、そうじゃない場合も考えられるとも言われたよ。ヴォルケンリッターに歪んだ知識を教えられていたり、本当の闇の書の主が別にいて、カモフラージュのためにヴォルケンリッターにはやてと同居するように命令しているってことも考えられるって」

 

 フェイトとはやてはそれほど仲が良いわけではない。二人が会ったのはPT事件でなのはと協力してジュエルシードを集めていたほんの数日の間。しかもなのはやアルフ、ウィルを交えて少し話をしただけだ。

 そんな程度の付き合いだが、当時まだ人と話すのになれていなかったフェイトを気づかって積極的に話しかけてくれたりと、はやてが優しい子であることはフェイトにもわかった。

 だから、はやてが闇の書の主でなければ良いと思っている。ただ、だからといってはやてが無実だと確信しているわけでもない。

 

「……グレアムさんもそういう可能性はあるって言ってくれてたんだけど……はやてちゃんと一緒に暮らしてた人たちが、ヴォルケンリッターじゃないってことはないのかな?」

「それは……さすがにないと思う」

「そっか。……そうだよね」

 

 その時、フェイトはようやくなのはが顔を曇らせている理由に気が付いた。

 なのはとはやては友達なのだから、フェイトがいなくなった後もはやてとの交流は当然ある。はやての家に暮らしていたヴォルケンリッターとも、何らかの関係を持っていて当然だ。

 

「もしかして、ヴォルケンリッターとも知り合いだったの?」

「……うん。みんな、すごくいい人たちだった」

 

 なのははヴォルケンリッターと呼ばれる四人のことを語り始めた。

 アースラが地球を離れてから一ヶ月ほど後。はやての誕生日にやって来て、はやての家に住み始めたこと。

 はやてからは自分の世話のために送られてきたお手伝いさんだと聞かされたこと。

 最初はあまり話もしてくれず、なのはがはやてと話をすること自体を心良く思ってなかったみたいで、それでも何度も通う内に次第にうちとけていったこと。

 やがて、彼らの方も翠屋にやって来てくれるようになったこと。

 

 剣道を習っているクラスの友達が道場でシグナムに相手をしてもらっていたり、翠屋の常連のお爺さんが公園でやっているゲートボール大会にヴィータが参加するようになったり、シャマルと一緒に惣菜を買いに行ったり、ザフィーラの散歩に付き合ったり。

 なのはは普段のヴォルケンリッターのことを切々と語った。その様子から、なのはが彼らのことも友達と思っていたことが伝わってくる。

 

「……だからなのはは、その人たちとヴォルケンリッターは別人だと思ってるんだね」

 

 なのははうつむいていたが、しばらくしてゆっくりと首を横に振った。

 

「グレアムさんから話を聞いた時は、絶対に別人だって思ってた。なにか勘違いしてるだけで、すぐに本当のことがわかるって思って……だけど……昨日、ヴォルケンリッターの人の仮面が壊れた時、顔が見えたの。あの顔は間違いなくシグナムさんだった。信じたくないけど、シグナムさんたちがヴォルケンリッターだっていうのはほんとのことなんだと思う。でも、グレアムさんが言ってたみたいに、シグナムさんたちが命令されて人を襲うだけのプログラムで、はやてちゃんがそんな命令をしていたなんて思えないの。でも、でも……違うって思ってたのにシグナムさんたちはヴォルケンリッターだった。私の考えてることって、全部的外れな思いこみなんじゃないかな。友だちって思ってたのに、わたしははやてちゃんのこともシグナムさんたちのことも、なにもわかってなかったんじゃないかな」

「そんなことない。なのはが何ヶ月も一緒に過ごして、それで悪い人じゃないと感じたのなら、その人たちは本当に悪い人じゃないんだと思う」

「でも……」

 

 だけど、とかぶせる。

 

「悪い人じゃないからって、悪いことをしないとは限らない。私は裁判の後に更生施設に入ってたけど、そこで会った子の中には優しい子もいっぱいいた。でも、そんな子も、環境だったり人だったり、いろんな原因があって犯罪に手を染めていたんだ」

 

 誰も彼もがなのはやクロノのように道を誤ることなく生きられるなら、どんなに素敵なことだろう。

 だが、そうではない。フェイトは、世の中には正義や倫理よりも大切なものを持っていたり、身近な人のためなら見知らぬ他人を犠牲にできる人がいることを知っている――実感として。

 かつてのフェイトもそうであり、今でもきっと変わらない。なのはは大切な友達だ。クロノやリンディはお世話になった恩人だ。それでも、もしも自分の前にプレシアが現れて、フェイトのことが必要だと言って、手を差し伸べてくれたら。

 

「……説得はできないのかな」

「わからない。でも、もしあの人たちが以前の私のように自分たちだけで完結しているのなら、きっと戦うしかないと思う」

「話しかけても、意味はないってこと?」

「意味はあるよ」

 

 なのはの言葉がフェイトに届いていたように。

 

「でも、言葉だけじゃ止まらない」

 

 届いていても止まれなかったように。

 

 

 

 

 海鳴を囲む山の稜線に、太陽の輪郭が現れた。空は宵の黒から明けの橙に移り往き、陽光は紅や黄に色づいた山を照らしあげる。市井の人々は眠りから目覚め始め、山麓の月村邸では夜通し活動していた管理局の局員たちが交代で休憩に入り始めていた。

 

 なのはは本局から帰ってきたことを報告するために、月村家の一室を訪れた。

 青白色のほのかな光が満ちる部屋に、十人ほどの局員がいた。局員の視線は自分の前に投影されたホロディスプレイに向いており、指先はコンソールを縦横無尽に飛び跳ねている。

 入ってきたなのはに気づいたエイミィが、ホロディスプレイから視線を外した。

 

「あ、なのはちゃん帰って来たんだ」

「はい。……あの、リンディさんは?」

「艦長ならさっき本局に向かったよ。途中ですれ違わなかった? 捜索が一旦中断になったから、今のうちにお偉いさんへの報告とか、もろもろをすませておくつもりなんだって」

 

 エイミィはなのはが本局に向かってからのことを、簡潔に説明してくれた。

 あの後、動ける武装隊を総動員して、行方をくらませたはやてとヴォルケンリッターを探して海鳴の街を徹底的に捜索。

 だが成果はあがらないまま夜が明け始めた。そうなれば空を飛んでの捜索はできなくなる。朝になれば人目が増えるし、明るくなれば見つかりやすい。結界魔法や幻術魔法を駆使すれば日中でも捜索を続けられなくもないが、魔力消費量に対する捜索効率はぐんと落ちる。

 何より捜査員が消耗して効率が落ち始めていたので、このまま無理に捜索を続けるよりも休息をとる方が優先と判断された。

 

「エイミィさんは休まないんですか?」

「休む前にみんなが夜の間に集めてくれた観測データの解析を終わらせないとね。はっきりとした足跡はなくても、どんな手がかりが潜んでいるかはわからないんだし」

 

 そう答えるエイミィの顔には隠し切れない疲れが表れていた。この部屋にいる他の隊員たちも同じだ。

 ヴォルケンリッターと戦いを繰り広げ、夜通し街を駆けまわった武装隊が一番疲れているのはたしかだが、エイミィたち後方スタッフも一晩中活動していたことには変わりない。

 なのはの視線に気づいて、エイミィがわざとらしい笑顔を浮かべる。

 

「心配してくれてありがと。でも、戦えない私たちにとっての戦場は今だから。それより、なのはちゃんも疲れてるでしょ。いろいろ心配だろうけど、今はお家に帰った方が良いよ。何か見つかったらまた連絡するからさ」

 

 みんな、精一杯を尽くしている。

 なのはだけが、歩むべき道を決められずに停滞している。

 

 

 

 

 本局に帰還したリンディは周辺世界への警戒を促すかたわら、闇の書事件に関わる少数の関係者――外務や法務、古代遺物管理など、いくつかの部局の高官へと昨夜の経緯を報告した。

 闇の書の主の潜伏先が判明しているという千載一遇の好機を逸した結果に、関係者は大いに落胆した。

 中にはリンディを糾弾する者もいたが、相談役(オブザーバ)として行動を共にしていたグレアム、運用部の代表として出席していたレティらのとりなしもあり、リンディは依然変わらず闇の書事件の指揮をとり続けられることになった。

 もっとも、責める方も本気でリンディが更迭されれば良いと思っているわけではない。リンディが捜査司令を降ろされれば、結局誰かが闇の書の相手という貧乏くじを次に引かされる。それが自分の所属する派閥の者ではないとは限らない。

 

 報告を終えたリンディは、そのままレティの執務室を訪れる。

 

「さっきはありがとう。あなたが味方してくれたおかげで助かったわ」

「礼を言われるようなことじゃないわ。責任の追求なんてものは終わった後にすれば良いのよ。今はそれよりもどうやって闇の書を確保するのかを第一に考えるべきでしょう? 私たちの相手は闇の書の主と思われる少女八神はやてと彼女につき従うヴォルケンリッターだけじゃない。それに協力する正体不明の仮面の戦士。彼らはとても厄介だわ」

 

 仮面をつけた正体不明の魔導師たち――仮面の戦士。

 彼らは月村邸に姿を現してヴォルケンリッターの逃走を助けた。八神家周辺に待機していた捜査官の話によれば、ヴォルケンリッターの襲撃直後に八神家にも現れ、止めようとする捜査官を倒して八神はやてを連れ去った。

 実力は極めて高く、不意打ちとはいえグレアムとクロノを一蹴するほど。魔法陣の形状や使用魔法の種別から、魔法体系はミッド式と推測される。

 だが、仮面の戦士が幻術魔法を行使していたのか、それともヴォルケンリッターによる通信妨害の影響が続いていたせいか、あるいはその両方か。観測された魔力波形はまるでデタラメで役にたたず、彼らの正体を特定する情報はほとんど皆無と言える。

 しかし本当に厄介なのはその高い実力や謎に包まれた正体ではなく、彼らのような存在が闇の書に協力しているという事実そのものだ。

 

「これまでの蒐集は地球の周辺世界で発生していた。だからこそ私たちは闇の書の主の居場所を徐々に絞りこんでいくことができた。……でも、仮面の戦士のせいでそのやり方が通用しなくなってしまう」

 

 ヴォルケンリッターはプログラム体――情報が本質という性質を利用して、単独での次元間転移を可能としている。対して闇の書の主は生身の人間であり、ヴォルケンリッターのように次元を渡ることはできない。

 

 生身の人間が次元を移動する手段は三つ。

 膨大な魔力と専門的な知識が必要な次元転移魔法。

 内部に転送装置と高精度な観測機器を有する次元空間航行艦船。

 あらかじめ建造しておく必要のある転送ポート。

 どの手段も地球に生まれたはやての力だけで用意できるものではない。

 したがって、はやては地球を出ることができない、と昨夜までは思われていた。

 

 しかし、管理世界の人間の支援があれば話は変わってくる。ミッド式の魔法を行使していた仮面の戦士はおそらく管理世界の人間だ。そして彼らが管理局に気づかれることなく地球に来ていた以上、彼らが地球と他の次元世界を行き来できる手段を有している可能性は非常に高い。

 彼らの手引きがあれば、はやても地球から出ることができるようになる。

 

「仮面の戦士が用いた次元間移動手段……十中八九転送ポートでしょうけど、発見できそう?」

 

 では、仮面の戦士はどのようにして地球にやって来たのか。

 使用者が極めて限られる次元転移魔法はありえない。地球周辺の次元航路に不審な艦船の痕跡は見られないので、次元空間航行艦船の可能性も小さい。

 したがって、最も有力な候補は転送ポートとなる。数人が移動できる程度の小型のポートであれば、管理局に見つからずに設置するのも不可能ではない。

 

「状況を考えれば海鳴市内か、海鳴市からそう遠くない場所にあると思うのだけど、管理外世界では表立って捜査するわけにはいかないから、発見までにどれだけの時間がかかるかわからないわ。それに相手も足取りを掴まれるような情報は消しているでしょうし」

「かかる手間を考えると割に合わなさそうね」

「ええ。だからこれからは周辺世界の調査――特に蒐集の痕跡の発見に力を入れるつもり。海鳴での捜査の方だけど、今後数日は武装隊による捜索を続けるけど、成果がでなければ捜査官によるはやてさんの身辺調査程度に留めようと思うの」

 

 闇の書事件では、リンディの要請を受けて多くの部隊が動いている。

 月村邸に集まっていた人員はその一部でしかない。地球周辺の次元世界では駐留部隊と本局から出向している武装隊が共同で巡回をおこなっており、捜査官は転送ポートを中心に検問を設置しつつ、目撃情報を集めるために自らの足で奔走している。本局では多数のオペレータが動員されて、観測所や定置観測用プローブから得られる莫大なデータを昼夜を問わず解析し続けている。

 アースラの整備も急ピッチですすみ、新たに装備されたアルカンシェルの試運転を残すのみとなっている。次元空間航行艦船に備え付けられている高性能な各種レーダは、ヴォルケンリッターの発見に大いに役立つことになるだろう。

 各次元世界の国家にも秘密裏に話を通してあり、関係する可能性のある様々な情報が本局情報部に集められている。

 それでも、事件の規模を考えると足りていないくらいだ。

 

 そのことへの不満はある。しかしリンディもレティも人員や装備がいつも万全とはいかないのが世の常だと経験として知っている。そしてどんな時だって現状でできることをやっていくしかないとも。

 レティは口角を釣り上げ、皮肉げな笑みを浮かべる。

 

「なら、私はあなたが失敗しないように注意して見ておいてあげる。あなたは昔からどこか抜けているところがあるから。手始めに、今のうちに仮眠でもとっておくことをおすすめするわ。顔、ひどいわよ」

「だけど、エイミィさんに任せて来たから、早く戻ってあげないと……」

「あの子ならクロノ君と交代でなんとかやっているはずよ。それよりもふらふらなままのあなたに指揮をとられる方が、あの子たちにとっては迷惑で不安でしょうね」

「じゃあ、少しだけ……九十分たったら起こして」

 

 リンディの決断は早かった。言うやいなや制服のジャケットを脱ぎ、崩れるようにソファに横になった。

 

「ここで寝ろとは言ってないんだけど……仕方ないわね」

 

 レティはデスクのインターカムで秘書官に連絡する。

 

「毛布を一枚持ってきて。あと、枕代わりになりそうなものも。……私が使うわけじゃないわよ」

 

 

 寝息を立て始めたリンディを見ながら、レティは昨夜の襲撃について思考を巡らせていた。

 タイミングを見計らったかのように現れた仮面の戦士はもちろんだが、それ以前のヴォルケンリッターの行動にも不可解な点がある。

 

 武装隊が集結していた月村邸に襲撃をかけ、結界による通信妨害環境下に置くことで、武装隊の移動と外部への通信を妨害。その隙にはやてを逃す。

 数時間後にははやての逮捕のために、武装隊が八神家を包囲する予定だった。仮面の戦士という管理局が想定していないイレギュラーの助力があれば、その状態からの突破も不可能ではなかったと思われるが、万全の状態の武装隊に包囲された状態で突破を試みるよりは、先んじて襲撃をかけた方が断然良い。最悪の場合でも闇の書の主は逃げることができるから。

 ヴォルケンリッターの襲撃は管理局から逃れるために、最高のタイミングでおこなわれたと言える。まるで管理局の動きを知っていたかのようなタイミングの良さ。これを単なる偶然と考えていいのだろうか。

 

 内通者――という言葉がレティの脳裏をよぎる。

 

 だが、理由がわからない。

 捜査本部の情報を漏らせるほどの高官であれば、闇の書の味方をしたところで得られるものがないことは理解しているはずだ。

 闇の書は制御の効かない危険な代物だ。暴走を起こせば最低でもその周辺地域の消失は間逃れず、とても隠蔽できる規模ではない。普通の神経を持っている人間が手を出すはずのない代物だ。

 

 闇の書そのものが目的の可能性は低いとなると、次に浮かんだのはリンディを狙った可能性だった。

 管理局は人間が運営する組織だ。部署や人脈など、様々な要因で派閥が形成される。派閥同士の足の引っ張り合いが起きることも少なくない。

 これまで管理局が七度に渡り失敗を重ねてきた闇の書は、管理局史に残る汚点だ。もしも完全に解決できれば、それを為したリンディには誰もが羨む栄光の道が約束される。各部局の最高ポストとなる統括官への道さえ拓くだろう。

 逆に闇の書の捜査に失敗し、暴走した闇の書が甚大な被害を及ぼすことになれば、どれだけ最善を尽くしていたとしても司令の責任は免れない。十一年前、英雄とまで謳われ次期法務統括官を確実視されていたグレアムが、闇の書事件の失敗をきっかけに顧問官という閑職に引っ込むことになったように。

 今回の闇の書事件はリンディを追い落とすには絶好の機会――と、そこまで考えてからレティは自分の想像に苦笑を漏らした。

 派閥同士の足の引っ張り合いと言っても、普通は非協力的な対応をとる程度。相手の出世を妨げるためにこれほどの犯罪に加担するなど、陰謀論にしてもあまりにリスキーすぎて現実味に乏しい考えだ。

 

 ヴォルケンリッターは前々から月村邸が管理局の捜査拠点となっていることにも気づいていて、その動きからこちらが仕掛けることを察知して行動を起こしただけといったケースが一番現実的だろう。

 管理局側も月村邸周辺に探査妨害を仕掛けて動きを察知されないように慎重に動いていたが、見破られていたとしても不思議ではない。

 なにしろ八神はやてはPT事件に関わり、局員であるウィリアム・カルマンと親交があった。

 PT事件の後、ウィリアム・カルマンは月村邸に設置された転送ポートを通って地球を訪れていたし、はやての友人である高町なのはも同じ転送ポートを通ってミッドチルダや本局を訪れたこともあった。はやてが月村邸の転送ポートの存在を聞いていた可能性は十分にあり、月村邸周辺を見張っていれば管理局の動きをつかめるのではと考えたとしても何ら不思議はない。

 

 こういった可能性を考慮せずに安易に内通者の存在を疑うのは、解決に繋がる突破口を求めるあまり、簡単で劇的な答えを求めているだけに思える。

 

 一通り考え、ため息をつき、寝ているリンディに視線をやる。

 どれだけ考えても、内通者の可能性は低い。もしかしたら深読みのしすぎで、実際は単に管理局とヴォルケンリッターの行動タイミングがうまい具合に噛み合って、仮面の戦士が慌てて奔走したという可能性だってあるかもしれない。

 

 だが、これまで本局上層部という万魔殿を生き抜いてきたレティの勘が、内通者という小さな可能性を無視することを良しとしなかった。

 それにリンディは優秀だが、今回ばかりは事件の規模が大きすぎる。各部署からの報告はあまりに膨大で、捜査状況を把握するだけでも手一杯だろう。もしも誰かが暗躍していたとしても、それに気付けるだけの余裕があるとは限らない。

 

「とりあえず、お偉方の動向に注意しておくくらいのことは、してあげようかしらね」

 

 

 

 

 なのはが月村の車で家まで送り届けてもらった頃には、時刻は七時を過ぎており、すでに太陽は完全に昇っていた。

 家の中では、桃子がキッチンで朝ごはんを作っていた。士郎と恭也、美由希の姿は見えない。おそらく、いつもどおり道場で早朝の鍛錬をおこなっているのだろう。

 朝帰りを怒られるかと思ったが、ユーノが事前に連絡しておいてくれたらしく、桃子はあまり怒らなかった。ただ、なのはが寝ていないことに気づいて眉をしかめた。

 

「ご飯ができるまでもう少し時間があるから、今のうちにお風呂に入ってきなさい。学校には連絡しておくから、お風呂から出たらご飯を食べて、今日はゆっくり休みなさい」

 

 言われるままに、なのはは浴場にやってきた。

 蓋を開くと湯気が濛々と広がり浴場に満ちる。バスタブにはすでにお湯がたまっていた。恭也たちが朝の稽古を終えた後に使うつもりだったのだろう。

 

 髪と体を洗って熱めの湯に体を浸した時、突然ガラガラと音をたてて風呂場の扉が開き、姉の美由希が顔をのぞかせた

 

「おかえり、なのは」

「お姉ちゃん……?」

 

 美由希はそのまま浴場に入ってきた。漂う湯気の他には一切の衣類を纏っていない。

 

「ごめんね。順番待ってたら遅くなるから一緒に入りなさいって、お母さんがね」

 

 と言いながら洗面器に湯を張り、片膝ついた姿勢で肩から湯をかけ、朝の鍛錬で生じた汗を洗い流す。

 

 体を洗い始めた美由希の体をなのはは打ち眺めていた。

 今の美由希は眼鏡を外して、ほどいた髪を頭の上にまとめているので、いつもよりはっきりと顔の造形がわかる。毎日見ているはずの姉の顔が、まったく違ったものに見えてくる。

 外した眼鏡の下に見える、意外と鋭い目。ほどいた髪を頭の上にをまとめたせいで、あらわになったうなじ。呼吸に合わせて上下する双乳、引き締まりつつもふっくらと女性らしさを描く腹から腰へのライン。

 鍛えられた武人の魅力と完成されたばかりの大人の魅力を兼ね備えた姿が、シグナムと重なって見える。

 

「どうしたの? 何か悩み事?」

「え?」

「そういう顔してるから」

 

 しばらく考えて、なのはは水面を眺めながらぽつりと言葉を漏らした。

 

「やりたいことはわかっているの」

 

 フェイトは戦うしかないと言った。

 シグナムたちと戦うのは嫌だ。できることなら戦いたくない。

 だが、戦わなければどうにもならない時があることは、なのはも知っている。時の庭園でフェイトと対峙した時のように、お互いにどうしても引けなくて、止めるために撃つしかなくなる時があることを。

 あの時のなのはは止めようとするあまり、フェイトを傷つけてしまった。なのはがこの半年間、欠かさず訓練を続けてきたのは、同じような状況になった時に、今度は傷つけずに止めるためだ。

 だから覚悟はある。必要とあれば戦う覚悟。そのために友達であっても撃つ覚悟。傍観していて最悪の事態になったらきっと後悔するから。

 

「でも……ほんとにこれで良いのかなって」

「なるほど。迷ってるんだね?」

 

 覚悟だけあれば良いと思っていた。

 だけど、本当にそれしかないのか。もしかしたら、もっと良い道があるんじゃないか。そんな考えが頭をよぎって離れない。

 

「どうしたら、迷いって消えるんだろう」

「いいんじゃない、迷ったままで」

 

 意外な言葉に、なのはは思わず美由希の方を向いた。

 

「迷うってことは、考えてるってことでしょ。悪いどころか、良いことだよ」

 

 美由希は体を洗うのを止めて、じっと自分の手を見ていた。

 荒野の岩石を思わせるごつごつとした掌。鍛えていながらも女性らしさを失わない美由希の体の中で、唯一女性らしくない部分。

 それを見る美由希の姿は、どこか後悔しているように見えた。

 

「本当にダメなのは、迷いを無理に断ち切ろうとすること。これで良いんだって思い込んで、全部一人で抱え込んで。なんとかしようと気負って、それがどんどん積み重なっていって、結論を出したつもりで自分が何をやってるのかも見えなくなって……みんなに迷惑だけをかけて」

「……お姉ちゃん?」

 

 美由希は微笑を浮かべながら、なのはの方を向いた。

 

「でも、迷ってるだけなのもダメだよね。迷いを捨てて走るんじゃなくて、迷っていつまでも足を止めたままでもなくて、迷いを持ちながら歩いてるくらいがちょうど良いんじゃないかって、私は思うよ」

 

 美由希の言葉を心の中で何度も反芻し、自分なりに考えをまとめる。

 

 もしかしたら、戦わなくてもいい道があるかもしれない。

 でもそれは今いる場所にあるとは限らないし、一本しかないとも限らない。

 道があるかもと思い続けてこのまま動かなければ、見える風景は変わらない。

 今は歩いて行くしかない。歩いて行くことで新たな風景が見えてきて、新たな道が見えることもあるかもしれない。

 大切なのは歩きながらも考え続けて、見落とさないこと。

 

「そっか……迷いがあっても良いんだね。お姉ちゃん。ありがとう」

「どういたしまして。私もたまには年上らしいところ見せないとね」

 

 姉妹二人は顔を見合わせて、笑いあった。

 

 迷いを捨てない強さ。それはきっと、()()にはない、なのはの強さになる。



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歓迎会

 八神はやてにとって、この二日間は激動の日々だった。

 

 すやすやと眠っていたところを叩き起こされたかと思えば、目の前には仮面をつけた男と眼鏡をかけた少女の不審人物コンビ。押し込み強盗かと思って警戒するも、ただの強盗であれば頼りになる家族四人が気づかないのも不自然。

 クアットロと名乗った眼鏡の少女に大人しくついて行ったのは、逆らったところでどうしようもないのも大きかったが、彼女がウィルとグレアムに頼まれたと二人の名前を出し、さらにはやての家族たるヴォルケンリッターもまたそのために行動しているのだと説明されたからだ。

 誰にも漏らしていないはずの闇の書やヴォルケンリッターのことを知っている事実は、彼女がシグナムたちと結託しているという説明に信憑性を持たせていた。

 

 その言葉は嘘ではなかったようで、到着したラボではウィルが出迎えてくれて、しばらくすると最近会っていなかったグレアムおじさんまでもが現れた。

 グレアムおじさんが魔導師で、ウィル同様に管理局で働いていることには驚かされたが、そのびっくりも二人から告げられた内容――自分の余命があまりないという事実の前に吹き飛んだ。

 

 ただし、それはあくまでも地球の医療技術での話にすぎないと、ウィルとグレアムおじさんは何度も繰り返し説明してくれて、それからラボの持ち主であるジェイル・スカリエッティ先生を紹介された。

 まだ二十代に見えるのに、その若さで世界有数のお医者さんで研究者らしい。

 

「言葉だけで絶対に治せるなんて言われても信用できないだろう?」

 

 先生はそう言うと、自分をここまで連れてきてくれたクアットロと先生の助手であるウーノをそばに呼び、そしてはやては彼女たちが普通の人間ではない――サイボーグのような存在であるところを見せられた。

 たしかにこんな凄い技術力があるのなら、病気の一つ二つ簡単に治せるのかもしれないと思えた。……思えたが、あれはちょっとはやてには刺激的すぎた。

 

 

 そうして昨日、今日と先生のもとで何度もよくわからない検査を受けて。その途中でシグナムたちも合流して。

 海鳴の人たちには、病状を知ったグレアムおじさんがはやてをイギリスへと連れて行ったという形で失踪をごまかしておくと告げられ、これから数ケ月はここで暮らすことになって。

 

 

 そして今。

 蒼白な人工灯に照らされた一室に、このラボにいる人間全員が集められていた。

 部屋の中央には円卓が置かれ、それを囲むようにして十人が席についている。

 はやてのそばにはシグナムたち四人。それ以外は、ウィル、ジェイル先生、ウーノ、クアットロ。

 そして一人、見たことのない子が混じっていた。年の頃ははやてと同じくらいだろうか。翡翠色の髪をした少女だ。

 

 ウィルが立ち上がり、咳を一つしてから朗々とした声色で宣言する。

 

「それではみなさま、八神一家の逗留を祝しまして、鍋パーティを開催したいと思います!」

 

「いえー!」

「わーわー」

 

 ウィルの宣言に合わせて、翡翠の髪の子が拳を突き上げ、クアットロがやる気のない口調で形だけの歓声をあげ、ウーノは無表情のまま拍手して、スカリエッティは無言のまま笑みを浮かべている。

 

 そんなスカリエッティ一家の様子を、はやての家族である騎士四人は胡乱気に見ている。

 はやて自身はといえば、ウーノに追従するようにおずおずと手を叩きながらも、視線は円卓の中心に置かれた直径一メートル近い巨大な鍋に自然と向かう。

 

「でっか……!」

 

 なぜこんな大きなものがあるのか。わざわざ今回のために用意したのか。そんな疑惑が浮かんでくる巨大な鍋。

 鍋は四つに区切られており、それぞれに異なる出汁が投入されており、すでにいくつかの具材が投入されてぐつぐつと熱せられている。

 机は鍋の乗っている部分が少し高くなっていて、回転できるようになっていた。

 行った経験はないが、中華料理店のテーブルがこんな感じだった気がする――と、テレビのグルメ番組で見た光景がぼんやりと頭に浮かぶ。

 

「では開催にあたって、家主のジェイル先生より一言!」

「早く食べよう」

「以上! いただきます!」

 

 言うや否や翡翠の髪の少女が先走って鍋に箸を躍らせ、クアットロが続く。

 ウーノは最適な煮具合のものを見極め、せっせとスカリエッティの取り皿へと移していく。

 

 

「これどうやってあっためてるん……? IH?」

 

 はやてが思わずこぼした疑問に、ウーノ任せでまったく箸を動かすつもりのないスカリエッティが答えを返す。

 

「動力は魔力だね。鍋そのものに熱を発生させる簡易な魔導式を刻んである」

「へぇ~。魔力溜めた電池みたいなんでそれを……起動? 発動? させてるんですか?」

「いや、そこのウィルを見てごらん」

 

 ウィルは右手に持った取り箸で具を取り皿にとりわけながらも、左掌を開いて鍋にかざし続けている。冬の寒い日に外から帰ってきた後にストーブに手をかざすような光景だが、まさか鍋で暖をとっているわけでもないはず。

 

「……あの左手は何してるんですか?」

「あそこから魔力を流し込んでいるんだよ」

「まさかの人力!? 挨拶終わってからずっとあのままですけど、もしかしてずっとああしてやんとあかんの!?」

「本当にただ式を刻んだだけだからねえ。必要以上の魔力を注入したら鍋が一気に燃え上がるよ」

「怖っ!!」

 

 

 一方、ヴォルケンリッターの方は警戒ととまどいでしばらくの間は躊躇していたが、ちょうど良い煮え頃の、肉に野菜にを次々と取っていく少女たちを見て、ヴィータが観念したように箸を手に取った。

 

「ま、気にしても仕方ない。せっかくだから、あたしらも食べようぜ」

 

 主催のウィルがそこまで考えていたのかはわからないが、全員同じ鍋をつつくのであれば毒も何もあったものではない。たとえ毒があったとしても、肉体の再構成ができるヴォルケンリッターには通用しないのだけど。

 そう思ってヴィータが自らの前にある水炊きコーナーの、よく煮えて食べ頃だろうと思われる鶏肉へと箸を伸ばした瞬間、鍋が回転して離れていく。

 目当ての肉は対面に座るクアットロの目の前に到着し、クアットロの箸がひょいと取り皿へと奪っていった。

 

「おい、勝手に回すな。しかもそれあたしが取ろうとしてた肉じゃねーか」

「あらぁ? 肉ならそっちにもあるじゃない」

「あたしはその水炊きの鶏肉が欲しかったんだよ」

 

 と、文句を言いながら、鍋を回転させて先ほどの水炊きコーナーを手前に持ってこようとすれば、それに合わせてクアットロが回転をさらに加速させて、その隣のすき焼き風コーナーが手前に来る。

 別にすき焼きが嫌いなわけでも、水炊きにそこまで執着があるわけでもない。

 ただ、からかわれていると認識した瞬間、ヴィータの心に火がついた。

 

 ぐるぐる、ぐるぐる。ヴィータが水炊きコーナーを自分の手前に持ってこようと回転させれば、クアットロはそこに止まらないようにさらに回転をかける。遠心力で鍋の中身が外周へと寄っていく。

 

「やめろ。汁が飛ぶ」

 

 ザフィーラが机の回転部を強引に掴んで静止させた。同時に机の内側から金属の割れるような音。

 

 沈黙の帳が落ちた中、ザフィーラがそっと机を回そうとするも、先ほどまでなめらかに動いていたはずの机はガリガリガリと擦過音を響かせて、摩擦係数を百倍にしたかのようにぎこちない動き。

 

「……何もしていないのに壊れた」

「どう考えても無理に止めたせいでしょ」

 

 

 先ほどまでの躊躇はどこに行ったのやら。

 わいのわいのと騒ぎ始めた家族の姿を見てるはやてのそばに、翡翠色の髪の少女がやって来る。

 

「ごめんね、うちのクア姉が迷惑かけて。いっつもああなんだよ。何かあると人をからかって、たいてい私がその迷惑をかけさせられるんだけど」

 

 と言いつつ、はやてとシグナムの間に身体をねじこませ、腕を伸ばして鍋の具を取って食べていく。

 

「えっと、あなたは……」

「あー、自己紹介してなかったね。はやてのことはウィル兄から聞いてたからさ、なんだか前から知ってたような気がして。セインっていうんだ」

「よ、よろしゅう。……セインちゃんも、その……ウーノさんやクアットロさんみたいなサイボーグやの?」

「サイボーグ……まぁ、そんな感じかなー。あ、でも戦闘機人って言った方がいいかも。私は呼び名なんてどうでもいいけど、クア姉はそういうとこ気にする繊細さんだから」

「セインちゃ~ん、聞こえてるわよ」

 

 机が壊れた原因をヴィータと言い争っていたクアットロ。セインの言葉に反応し、ヴィータを捨ておいてセインの元にやってくると、形の良い胸を張って堂々と哀れみの視線をセインに向ける。

 

「私にとっては、そのことに誇りを持たないセインちゃんの方が不思議よぉ。私たちはいずれ来る新人類(ポストヒューマン)へと繋がる超人(トランスヒューマン)たる戦闘機人。その完成形のナンバーズだっていうのに。自覚が足りないんじゃないかしら」

「うええ……まーた始まった……」

 

 セインは肩を縮こめて、顔をそらす。

 

「あっ、あの、戦闘機人って何なんですか?」

 

 このままでは自分の言葉が原因でセインが怒られるのでは、と心配したはやては、慌てて会話に割り込んだ。

 尋ねられて気分を良くしたのか、クアットロは腕を組むと上機嫌で語りだす。

 

「私たちは単に肉体機能の一部を機械で代替しているサイボーグとは格が違うのよ。人工物ではあるけれど、無機物と有機物を複合させた様々な先端技術が用いられているの。おかげで骨密度、神経反応速度、筋肉量、全て生身の人間とは比べものにならない数値。もちろん身体能力だけじゃないわよ。受容体が得た情報は、普通の人間と同じように五感で認識するだけではなく、ディジタルな数値にも変換されるから、意識して特定の情報を遮断したり増幅することで、暗視や魔力視、ノイズキャンセルなんかもできるわね」

 

 感心して聞いているはやてに気を良くしたのか、クアットロは得意気になり、ヴォルケンリッターへと視線を向ける。

 

「その他にもリンカーコアの安定性、魔力の運用速度、ISのような特定魔法への効率化、機人同士のデータリンクとか、いろいろあるんだけど……このあたりは魔法のことを知らないはやてちゃんにはまだ早いかしら。はやてちゃんの家族もなかなか凄いみたいだけど、私たちに比べたらたいしたことないわね」

「……お前、あたしらのことを知っててそんなこと言ってんのか?」

 

 声をあげたのはヴィータだ。

 ヴィータだけではなく、四人ともが食事をとる手を止めてクアットロを見ていた。

 

 四人の視線を浴びてなお、クアットロはまるで意に介さずに言葉を放つ。

 

「プログラム体だとか言っても、結局再現してるのは人間の肉体にすぎないんだもの。それって、ただの人間とたいして違わないわよね。私から見れば、ヴィータちゃんなんてただの魔法が得意でからかったら面白そうな小さな女の子よ」

 

 シャマルが胸の前でぎゅっと両手を握り、つぶやく。

 

「私たちが、人間と大差ない……」

 

 ヴィータは呆れているような、泣いているような、そんな表情で笑った。

 

「ははっ、そんなこと言う馬鹿、初めてかも」

 

 

 はやてには、クアットロの言葉に家族がどれほどの衝撃を受けたのかはわからない。

 はやてにとってヴォルケンリッターは家族だ。でもそれはプログラム体だとか、闇の書の守護騎士だとか、そういったものをよく知らず、さして興味もないからこその視点。

 クアットロはヴォルケンリッターという存在の特質性を理解した上で、彼女たちを人間と同等に見ている。クアットロだけでなく、ウーノも、セインも、ヴォルケンリッターを特別視している様子はない。おそらくは彼女たちがヴォルケンリッター同様に、いやクアットロの言葉を借りるならそれ以上に普通の人間からかけ離れているがゆえの視点で。

 それはきっと、はやてには与えられないものだ。

 

 愛しい家族を人間と変わらないと認めてくれる彼女たちのことを、もう少し信用して良いかもしれないと、はやてが感じた瞬間だった。

 

 同時に、年端もいかない女の子が自分は人間からかけ離れていると思うような改造を施している、ジェイル先生の人格と倫理観への不審は大きくなったが。

 

(ウーノさんもクアットロさんもセインちゃんも、みんな怖がっている様子ないあたり、悪い人ではないんやろけど……)

 

 

 

 

 スカリエッティのラボの訓練場は、地下大空洞の一角に築かれた半球状の広大な部屋だ。

 その外周部の一角には、データの観測や訓練用シミュレータの調整をおこなうモニタールームが併設されている。

 

 訓練場の中心に立ち、ウィルはマニュアル通りに義手を動かして簡易な動作確認をしながら、モニタールームのクアットロへと話しかける。

 

「できるだけヴォルケンリッターにも積極的に絡んでとはお願いしたけど、あそこまで踏み込んだ話をするとは思わなくて冷や冷やしたよ」

『あなたがはやてちゃんがヴォルケンリッターのことを家族扱いしてるって言ってたから、話の流れでそのあたりをちょっとつついてみたのよ。私の銀幕芝居にはアドリブのできないような三流役者なんてございませんの』

 

 ほほほ、とわざとらしい笑い声が聞こえてくる。

 

「食べ終わる頃には悪くない雰囲気になってたし、このままうまくいけば良いんだけどな。ここまでやったのに、日々の態度で不審がられてご破算って展開は避けたい」

『そうねぇ……っと、EEGコネクト完了、エンゲージ確認。データトリミング正常。エンベロープ限界、適正範囲内』

 

 会話をしながらも、クアットロはウィルの義手に異常がないかを確認していく。

 

システムに異常なし(オールグリーン)。それじゃあ次は展開状態の動作を確認するから、早くデバイスを起動させてちょうだい」

 

 ウィルは言われるがまま、右腕を前へと掲げた。

 

 右腕の肌に幾何学的な模様の光の線が走り、右腕の皮膚が消失。肌の下から曇りのない真銀の輝きが現れる。

 

 失った腕の代わりとなる、ウィルの新たな腕。義手型デバイス。

 

 

 この腕を手に入れるまでの経緯を思い返す。

 

 

 

 

 

 輝きを感じた途端、自我のみが存在する黒い闇は消え、光の波長という外界の情報を認識する。

 久々に開かれた瞳は光量の調節に手間取っているようで、視界に映る光景はぼんやりとしていて像を結ばない。

 

 次第に鮮明になる意識で、記憶をたぐり寄せる。

 みんなで遊園地に行った。病院ではやての死期が近いことを告げられた。海鳴から帰る途中、謎の男に襲われた。男はザフィーラで、その後に現れたシグナムとの会話で彼らがヴォルケンリッターであることがわかり、彼女との戦いで負けた――なら、なぜ生きているのだろう。

 あの戦いは現実だったのだろうか。激昂して我を忘れていたせいか、記憶は現実感に乏しい。

 

 瞳が光に慣れ、明確な物体の像が結ばれる。視界には、ほのかに輝く天井と壁。

 体を動かそうとすると、胸が強く痛んだ。思わず腕で押さえようとしたが、そのために動かした右腕は思いの他に軽い。右腕の肘には包帯が巻かれていたが、肘より先には巻かれていなかった。巻くべき腕がないのだから、巻きようがない。

 記憶の中の戦いが現実だった動かぬ証拠を見て、なぜまだ生きていられるのかと再度疑問。

 

 絶体絶命の危機に突然生えてきた奇跡の力で逆転したのなら嬉しいが、それを期待できるほどウィルは自分の潜在能力を信じられない。

 かといって、ヴォルケンリッターが見逃してくれたとも思えない。では、第三者の介入によって、ヴォルケンリッターが引かざるを得なくなったのだろうか。管理局が広域結界に気がついて、ウィルが死ぬ前に助けに来てくれたと考えれば――

 頭を振って、まとまらない思考を散らした。判断するには情報が少なすぎる。

 

 ベッドに備え付けられた端末を操作する。端末はウェブから独立しており、通常の通信はできなくなっていたが、医務官を呼び出すための限定的な通信は機能していた。

 念のためにベッドから降りて扉に近づいたが、開くことはなかった。どうやらこの端末が、外界とウィルを繋ぐ唯一の糸のようだ。

 

 

「あれほどの状態から、よくここまで持ち直したな」

 

 現れた医務官は、PT事件の際にアースラで船医をしていた老医師だった。

 彼はウィルの肉体の現状――何処の骨が折れているだの、某の腱が切れているだのといった異常を丁寧に説明してくれた。

 診断結果は全治三週間。管理世界では普通の骨折程度なら一週間で治るので、三週間はかなりの重傷だ。臓器系への損傷や肋骨を始めとする各部骨折のように、深刻な怪我の治療はウィルが寝ている間に終わっていたが、細やかな部分は自然治癒に任せた方が早く馴染むので、最低限の治療しかおこなわなかったと教えられた。

 

「左腕の骨折は十日もあれば治るだろう。だが、右腕はな。今すぐにとは言わんが、義手の手配を考えた方が良い」

 

 義手があれば日常生活を送るには支障がない。良い義手なら、魔導師としても特筆して不利になることはない。人体が欠損すると体内を巡る魔力の流れが変化するが、それも時間が経てば適応する。義手義足の魔導師はそれほど珍しくはない。

 

 だが、それは遠距離主体の魔導師にとってだ。

 ウィルのような近接主体、それも高位の魔導師や騎士の近接戦闘についていけるほどの追従性を持つ義肢は、管理世界の医療技術でもいまだに存在しない。

 四肢が万全な状態ではザフィーラ相手に偶然に近い勝利を得ることができた。だが、利き腕を失ったウィルでは、その偶然さえ起こるかどうか。ましてや、あの鬼神のごとき力を持ったシグナムが相手では、とても。

 ネガティブになりそうな気持ちを切り替える。落ち込むのは後でいくらでもできる。まずは少しでも情報を得なければと話しかけたところ、老医師は顔をしかめた。

 

「私はこれ以上何も説明するつもりはない。状況は彼から聞け」

「彼?」

「すぐに会える」

 

 老医師はウィルに背を向け、扉に向かう。そして最後に体を気づかう言葉をかけると、部屋から立ち去った。

 

 一人部屋に残されたウィルは、腕を組んで目を閉じて、状況を整理しようとして

 

 

『なにを考えているの?』

 

 突然頭の中に響いた念話に驚いて、飛び跳ねかけた身体を意志で押さえつける。

 聞き覚えのある声だ。

 

『何から考えるべきかを考えようとしたところ。でも何を考えるにしても情報が少なすぎる。だから俺の方からもいくつか聞きたいことがあるんだけど、かまわないかな?』

『あらぁ、どんな質問かしら』

『いろいろあるよ。たとえば俺に念話を送ってきているクアットロは、いったいどこにいるのか、とか』

『あなたの左側三メートルのところよ』

 

 ウィルは顔をそのままに、視線だけ動かして左側を見た。三メートル先はこの部屋の壁の手前だ。そこには何もなく、誰もいない。

 クアットロには、いるはずなのに見えない――そんな状況を作り出すための『IS』がある。

 

 

 IS――Inherent Skill(先天固有技能)

 魔導師の中には、ウィルやフェイトのように魔力を特定の性質へと変換させやすいという、魔力変換資質を持つものが存在する。

 ISはそれのさらに限定的なケースだ。体内の魔力の性質や流れが複雑に作用した結果、生まれながらにして特定の魔法に大きなアドバンテージを持つ者。

 どのような魔法にアドバンテージを持つのかは、人によって異なる。射撃魔法や防御魔法のように、すでに技術として確立されている魔法に近しい場合が多いが、ISホルダー以外では再現できないような稀少技能まがいの場合もある。

 

 クアットロは前者であり、効果は幻術魔法に分類される。

 彼女は生まれた時から、息をするような気軽さで幻術魔法を展開できる。普通の魔導師なら周囲の状況や映し出す光景の性質を考え、デバイスの補助を受けながら構築するのに、彼女は自分の頭の中で描いた通りに、瞬時に数十の幻術魔法を並列展開できる。

 そのISと戦闘機人として持つセンサーからの知覚が合わされば、生物の知覚はおろかレーダーなどの電子システムでさえも欺く世界最高の幻術魔法の完成だ。

 クアットロが本気になれば、ほんの一メートルほど近くにいても、高性能なセンサーを多数搭載している次元艦船の船体に直接腰かけていたとしても、誰もクアットロに気がつくことさえできない。

 あたかも、ディスプレイの中で繰り広げられる物語の登場人物が、それを見る観客を認識できないように。

 

 そのISにつけられた名前は『銀幕(シルバーカーテン)

 

 今のように映像を空間に投影するホロディスプレイが存在しなかった頃に、映像を投影するために用意された平面状の装置の名前からとられたそうだ。

 

 

 ウィルは部屋の様子が監視されている可能性を考えて、視線を正面に戻して平静を装う。

 

 先ほどアースラの船医が現れたことから、この部屋はアースラか、アースラにとっての拠点港である本局のどちらかにある可能性が高い。

 クアットロがシルバーカーテンで姿を隠したまま念話で話しかけてきたことと合わせると、クアットロはこの部屋の主にとっては招かれざる客。監視されている可能性を考えれば、いないように振るまう方が良い。

 

『それにしても、あんまり驚かないのね。拍子ぬけだわ』

『このくらいでは驚かないよ』

 

 もちろん驚いていた。それを表に出すのを良しとしなかったのは、監視されている可能性があるからだけではなく、クアットロに驚かされるのは癪だという子供じみた対抗心もある。

 

『じゃあ、次の質問。どうやってこの部屋に入って来たんだ?』

 

 この部屋唯一の扉は、ウィルのベッドを基準に右側にある。扉が開いたのは、老医師が入退室をおこなった二回のみ。扉は大きくないので、高確率で老医師にぶつかってしまう。

 

『ああ、それならセインちゃんに頼んだのよ。ほら、ご挨拶』

『はじめまして、ナンバーズ六番、セインです』

『これはご丁寧に。ウィルです。聞いてるかもしれないけど、縁あって昔ジェイル先生にお世話になってたんだ。セインちゃんは翡翠みたいな綺麗な髪の子だよね? 調整ポッドの中に入ってたのを見かけたことがあるよ』

『綺麗って……へへ……』

『うわ、私の妹チョロすぎじゃなぁい?』

 

 声だけだが、クアットロの呆れ顔が目に浮かぶ。

 

『セインちゃんのおかげって言っていたけど、やっぱりISの能力で?』

『そうそう! 私のISは――』

『素直に教えても面白くないわよ。どんなISか当てられるかしら?』

 

 クアットロが割って入って唐突に問題を出す。

 とはいえさほど難しい問題ではない。気付かれずに部屋の中に現れる能力は限られている。

 

『転移系だろ?』

『ざ~んねん、ハズレよ。正解は物質透過よ』

『え? ……本当に?』

 

 予想外の答えに驚かされる。

 一般公開されているような魔法にそんなことが可能なものは存在しない。

 どうやらセインのISは既存の魔法の延長線上にあるものではなく、まねのできない稀少技能に近いようだ。

 

『ところで、何でクアットロは俺の居場所がわかったんだ?』

『私たちは反応を辿ってあなたを見つけただけよ』

『反応? なんの?』

『誕生日プレゼントであげたチェーンのことは覚えている? あれにはヴァイタルデータの計測とか、そのデータの送信をおこなう機能がついていたのよ。便利でしょ?』

『……は? ……ちょっと待って…………とりあえず、持ち主が知らない機能に便利も何もないよね? っていうか、俺のデータを取ることの意味がわからなくて怖いんだけど!?』

『えぇ~、だってぇ、去年みたいにどこか知らない世界で行方不明になられても困るしぃ』

 

 プライバシーも何もあったものではない。

 なんだかんだといってプレゼントが貰えたことが嬉しくて、なるべく身に着けていた。というより、デバイスを身に着けるためのチェーンなのだから基本的に外すことはないし、寝る時は手の届く位置に置いてあった。風呂場以外では四六時中そばにあった。

 ヴァイタルデータだけならまだしも、もし音声等も送信されていたらと考えると恥ずかしくて顔も合わせられない。

 

『どしたの? ご機嫌斜めねぇ』

『……もう二度とつけないからな』

『でもそのおかげであなたが重症を負ったことや、本局に運ばれたこともわかったのよ? 大まかな場所しかわからないし、チェーンも治療の途中で外されていたみたいで、探しだすのに半日かかっちゃったけれど』

『本局? やっぱりここは時空管理局の本局なのか』

『ええ。そしてこの部屋はL12エリア――ネットワークにおいてはおけないような、紙媒体の法務資料が保管されている区画にある空き部屋の一つよ。普通の局員じゃこのエリアに入るのも一苦労でしょうね』

 

 本局を利用していることから、ウィルを運び込んだ者は管理局の人間。部屋の場所から、法務系の高官が関与していることがわかる。

 病棟を利用していないのは、秘密にしておきたいからだろうか? ならば、その理由は?

 

『この部屋を利用しているのが誰かはわからないか?』

『そこまでは無理ね。ウーノお姉さまかドゥーエお姉さまのお力を借りれば、それもできたのでしょうけど。でもそのためにウーノお姉さまにドクターの元を離れてなんて言えないし、ドゥーエお姉様にはここまでの大まかな経路を教えていただいたから、これ以上手を貸していただくなんて恥ずかしくってできないわぁ』

 

 数字の一を表すウーノという名をつけられたのは、戦闘機人の最初の完成体。常にスカリエッティのそばにいて、彼の身の回りの世話と研究の補佐といった、内向きの仕事を任せられている。

 数字の二を表すドゥーエという名をつけられたのは、戦闘機人の二番目の完成体。交渉や諜報など、外向きの仕事は彼女の領分だ。

 どちらも、ウィルが初めてスカリエッティに出会った頃からいる古株だ。

 ドゥーエのことを語る時、クアットロは家族を誇る少女のような幼さを見せる。父を尊敬していた、子供の頃のウィルのような。そういうところがあるからウィルはクアットロのことを嫌いになれない。

 

『私、ドゥーエ姉には直接会ったことないんだよね。どんな人?』

 

 セインの問いかけ。念話の声だけで首をかしげる動作が見えるようだ。

 

『素敵な人よ。私の憧れでもあるわね』

『簡潔に言えば、三倍に濃縮して熟成させたクアットロだ』

『えっと、つまりクア姉の成長したような人ってこと? …………うわぁ』

 

 セインは珍獣を目撃したかのような、えも言われぬ声をあげた。

 

 

『さて、こっちのことは教えたんだから、そろそろそっちのことも教えてほしいわね』

 

 好奇心を隠そうともせず、クアットロが尋ねる。

 ウィルは一連の出来事を包み隠さずに話した。語りが進むと、反応するセインの声のトーンが落ちた。気にかけていた子がよりによって仇の関係者で殺されかけた、という話に対する反応としては非常に常識的で癒しさえ覚える。

 一方、クアットロは愉快そうに笑い始めた。

 

『それでそのはやてって子が闇の書の主で、その子と一緒に暮らしてたのがヴォルケンリッター? ほんと馬っ鹿みたいな話ね。仇相手にプレゼントとか送ってたの?』

 

 念話は意識して伝えようと思わなければ届かないのに、クアットロはわざわざ愉しそうに笑う声をウィルへと届けてくれる。その親切心へのお返しに、心の中でこっそりと呪いの言葉を唱える。

 

『あぁ、お腹痛い。その馬鹿で腕まで失ったらどうしようもないわね』

『でも、いろいろと良い経験もできた。腕一本と引換にしても惜しくはなかった……かもしれない』

『はっきりしないわねぇ』

『そうでも思わないとやってられないって気持ちもあるから』

 

 収穫があったことは嘘ではない。

 走者が己のスタミナの限界を把握しているように、己の限界を知り、敵との力量差を把握できたのは得難い経験だ。

 力はまるで足りていない。だが、どれほど足りないかもわからないほどではない。ならば、不足分を満たすための方策をこれから考えていけば良い。

 

『ふぅん……で、これからどうするの? 逃げるつもりなら、私たちが帰るついでに連れて行ってあげるけど。セインちゃんもできるわよね?』

『うーん……人間二人くらいなら、なんとか』

 

 ウィルは考えこんでいるように見せるために、目を閉じた。

 しかし、悩むまでもなく方針はとっくに決定している。このままスカリエッティの元に単身逃げこむのは、コインを投げて表が出ることを望むような運試しだ。

 ウィルはスカリエッティの能力への尊敬と信頼の念を欠かしたことはないが、人格と倫理感を信用したことはないし、好奇心で発揮される安定しない親切心に期待をするのは危うすぎる。

 たっぷり十秒ほど間を置いてから、再び念話を再開する。

 

『少し待ってほしい。俺をここに連れてきた人がどんな思惑を持っていようが、助けてもらったことには変わりない。お礼くらいはしておかないと』

『義理堅いわね~。……まさかそれが本心ってわけじゃないでしょうね?』

 

 管理局の人間でありながら独自に動き、管理局が来る前にウィルを回収したとすれば、その人物は闇の書のことをあらかじめ知っていながら秘密裏に動いていた可能性が高い。

 

『……相手の目的を知っておきたい。闇の書の力を利用しようとしているのか、闇の書を破壊しようとしているのか、それを見極めないと。医者は近いうちに会いに来るらしいことを言っていたから、もう少しだけ本局にいてくれないか?』

『一日くらいならいいわよ。そうと決まれば、しばらく本局観光をして暇をつぶしましょうか。セインちゃん本局に来るの初めてよね? 一緒にショッピングしましょう』

『やった! あ……でもお金持ってきてない……』

『気にしなくて良いわよ。ウィルに出してもらうんだし』

『え!?』

『人を働かせるんだからそのくらいは当然でしょ?』

『…………お手柔らかにお願いします』

 

 

 やがて二人からの念話が届かなくなってから、ウィルはベッドに寝転がって大きくため息をついた。これで最低限の保障は手に入った。次は、この絵を描いた者の懐にどれだけ深く切り込めるかだ。

 

 自分の預金の行方は気にかかるが、さすがに一日では限度額もあるから大丈夫だろう。

 

 それにもし仮に預金が全部使われてしまったとしても、闇の書さえ滅ぼすことができれば、どうだって良いことだ。

 




 箸の使い方はウーノが一日でマスターして、データリンクでナンバーズ全員が使えるようになりました。


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氷の魔人

 部屋の扉が開き、管理局の将官服を着た初老の男性と、彼に付き従う二人の年若い女性が入って来た。

 初老の男性がベッドの横へと歩み寄る。体幹を揺らさないその歩き方は、彼がかつては実戦で戦う魔導師であったことをうかがわせる。お固い将官服を規則通りに着用していながらも、洗練された優雅と洒脱を兼ね備えていた。

 付き従う二人の女性局員は男性の副官なのだろうか。印象こそ異なるが、互い双子かと思うほど似通った顔立ち。

 

 ウィルは半身を起こして彼らの方を向き背筋を正そうとするが、傷口にはしる痛みに顔をしかめる。

 男性は落ち着きはらった声と態度で、やんわりとウィルの行動をたしなめる。

 

「無理に動かなくてもかまわない。目覚めたばかりのきみに面会しようなど、非常識なことだとはわかってはいる。しかし、わからないことばかりで気が気でない状態では、きみも落ち着いて休めないのではないかと思ってね。無論、失礼ならおいとまするが」

「お心遣いに感謝します。ですが、英雄ギル・グレアムとお会いできるなんて、望外の光栄です。無理をする価値はあります」

「私を知っているのかね?」

 

 驚いたような言葉とは裏腹に、男――グレアムは眉一つ動かさない。対して、ウィルの声には熱がこもる。

 

「教本にだって載っている英雄の名前を忘れていたら、卒業を取り消されてしまいます」

 

 ギル・グレアム。

 管理局でも最難関とも言われる執務官、その彼らを束ねる執務官長、管理局の運営に関する諮問機関たる評議会のメンバー、支局の艦隊司令など、数々の重要な役職を歴任。現在は一線を退き、法務顧問官として局に勤めている。

 一介の魔導師としても、指揮官としてもその功績は輝かしい。

 直接会うのは初めてだが噂はいくつも聞いていた。その大半は、ウィルの友人であるクロノからだ。

 

「クロノからもお話は伺っています。良き師だったと」

 

 クロノは士官学校に入るまでグレアムのもとで指導を受けていたそうで、彼のことを非常に尊敬していた。聞いてもいないのに話を聞かされて辟易したこともある。

 グレアムは微笑みを絶やさずに首を横に振る。

 

「私はただ心得を伝えただけで、たいしたことはしていない。クロノを鍛えたのはこの二人だ。紹介しよう。リーゼロッテとリーゼアリア。私が若い頃から使い魔として公私を支えてきてくれた二人だ」

 

 グレアムの後ろに控えていた二人の女性が頭を下げる。

 彼女たちはグレアムの護衛も兼ねているのだろう。立ち居振る舞いにまるで隙がない。

 

「こうして直接話すのは初めてだが、私もきみのことは以前から知っていた。クロノやリンディ君から聞いていたのもあるが……きみは私の担当した闇の書事件の被害者の遺族だ。仕事上だが、きみのお父さんとも何度か話をしたことがある」

 

 ウィルはうなずいた。グレアムは十一年前の闇の書事件の捜査司令だ。

 元捜査司令としてのグレアムに聞きたいことは山のようにある。だが、今この時に聞くべきことは、また別にある。

 

「グレアムさんは俺に事情を説明するために来てくださった、と考えてもよろしいのでしょうか?」

「私はそのつもりだ。もっとも、きみが何を知りたいかによるが」

「では、グレアムさんの目的を教えていただきたいです」

「随分と漠然とした質問だ。まるで私が何かを企んでいるようだね」

 

 ウィルがここにいる理由とグレアムが無関係なわけがない。クアットロからの情報がなくとも、グレアムが不審人物であることに変わりはない。

 ウィルはヴォルケンリッターと遭遇して、戦い、死に瀕した。殺される直前に管理局に助けられたのなら、まずは事情聴取に捜査官が来るはずだ。

 まだこれがリンディやクロノといった旧知の面子が来るのであれば、事情聴取と共に怪我を負った知人の様子を見に来たとも思えるが、いくら接点があるとはいえグレアムが来るのは不自然にすぎる。

 そして、もう一つ。グレアムを疑う決定的な理由がある。

 

「では、質問を変えます。おれの友人に八神はやてってかわいらしい女の子がいるんですが、ご存じですか?」

「その子と私に関係があるのかね?」

「彼女の財産管理をしている人の名前が、グレアムと言うらしいんです」

 

 グレアムという名前自体はそれほど珍しくはない。もしもはやてからグレアムの名前を教えられた時に、ギル・グレアムのことを思い出していたとしても、管理外世界のよく知らない国に住むグレアムおじさんと、管理局の偉人であるギル・グレアムを関係づけることはできなかっただろう。

 しかし今は違う。

 闇の書の主である八神はやてに密接に関わる人物と、かつて闇の書事件の捜査司令の名前が同じで、なおかつウィルが闇の書の守護騎士と接触した直後に会いに来た人物がまさにそのギル・グレアム。これがただの偶然であるわけがない。

 

 所詮は情況証拠。確実な証拠は何もない。関係ないと言われればそれで終わり。

 しかし、隠しておきたいのならば、他の人に捜査官のふりをさせてウィルのもとに寄越すくらいのことはするはずだ。わざわざ顔を出すあたり、グレアムは初めからはやてとの関係を隠すつもりはない。

 正確には、外界との情報を遮断されている今のウィルに知られることに何の脅威も感じていない。

 それならば、その油断を利用してなるべく大きく踏み込んで情報を得るまでだ。

 

 その推測通り、グレアムは口の端を緩めると滔々と語り始めた。

 

「きみが気がつかないようであれば、隠し続けるつもりだったが……私の出身は地球でね。はやて君のご両親とは私の実家の都合で面識があった。こうなるとわかっていれば、偽名を使ったのだがな」

 

 グレアムはウィルから視線をそらし、虚空をさまよわせる。何もない宙空に、過去の光景が広がっているとでも言うように。

 その仕草が疲れきった老人に似ていて、目の前の人物が超人ではなく一人の人間だというごく当たり前の事実に、ウィルはこの時はじめて気がついた。

 

「あの子と私の出会いは、偶然の産物だ。私は管理局に所属しながらもたびたび地球に戻ることを許されており、地球にも友人がいた。闇の書事件を解決できなかった私は当時本当にまいっていてね。責任をとるという形で前線から退いた代わりに、少しでも人の力になって気を紛らわせようとしていた。他者を己の心の救済に利用しようという、救いがたい自己満足だ。その中で亡くなった友人の遺産管理を引き受け、その手続きとただ一人残された娘に会うために海鳴を訪れ、()()を見つけた」

「……闇の書」

 

 グレアムは微笑みながら肯定する。変わらない表情とは異なり、双眸には憤怒と悲嘆の入り混じった救われない渇きが宿る。

 

「私は管理局には連絡せず、独自に闇の書を調べ初めた。手始めに海鳴へと秘密裏に繋がる転送ポートを用意した。次に、親交のある管理世界の学者を内密に地球に呼び寄せ、闇の書を調べた。適切な施設は用意できなかったが、いざとなれば管理局ではできないような手段で調べるつもりだった。本当にどうしようもなければ、はやて君を殺して問題を先送りにすることも。そのような方法に手をつける前に、闇の書を止める方法を見つけることができたのは幸運だった」

 

 呼吸が途絶する。さらりと語られたおぞましい言葉への怒りも、その後に語られた事実に塗りつぶされた。

 にわかには信じられない。これまで何百年の間、誰も解決法を見つけられなかったのに。

 

「完全に暴走し無尽蔵に肥大化していく闇の書は手のつけようがないが、蒐集完了後、銀髪の女の姿となって暴走を始めた時点では、魔力こそ膨大なものの無限にも等しいはずの再生能力がほとんど機能していない。その間であれば、凍結魔法によって闇の書の機能を完全に停止させることができる。そのための凍結封印の式と専用デバイスの開発は終えている。後はヴォルケンリッターが蒐集を終えるのを待つだけだ」

「蒐集を見逃すつもりですか!?」

 

 発した言葉は、自分で思っていた以上に大きかった。

 闇の書が完成するまでには三桁を越える人が犠牲になる。その中には家族を持つ者もいるはずだ。蒐集を見逃せば、ウィルと同じように家族を奪われる者が大勢生み出される――たとえ必要だとしても、すぐに納得できることではなかった。

 

「蒐集による犠牲者の心配はしなくても良くなりそうだ。ヴォルケンリッターはきみを襲った翌日から蒐集を開始したが、今のところ死者は一人も出ていない。どうやら彼らは意図的に死者を出すことを禁じているようだ。このままうまくいけば犠牲者は最小限ですむだろう」

 

 グレアムの言葉に安堵しかけ、最小限という言葉にひっかかりを覚える。

 ウィルの頭に一つの疑問が浮かび上がり、同時に背筋を氷塊が滑り落ちる。たまらず疑問を口に出す。

 

「凍結するのは闇の書だけですか?」

「きみが想像している通りだよ。その段階になれば、もはや闇の書と主は不可分だ。闇の書を凍結すれば、はやて君も運命を共にする」

 

 血の気が引く音を聞いた気がした。口の中が乾き、指先が冷たくなる。

 怒りか、恐怖か。歯の根が合わずに、かちかちと音をたてる。歯を食いしばって震えを止め、さらに問い続ける。

 

「管理局には、まだ内密に?」

「幾人かの協力者はいるが、管理局そのものは関わっていない。最初から最後まで私の判断だ」

「……でしょうね。管理局がこのことを知れば、あなたの計画も頓挫して――」

「それはない。時間はかかるかもしれないが、最終的に管理局もはやて君を犠牲にする選択をとるはずだ。それ以外に解決の方法がないのだから」

 

 半世紀を管理局で過ごした人物の言葉には、単なる憶測ではなく確信の響きがあった。

 

「なら、どうして隠しているんですか?」

「管理局にその決断を下させてはならないからだ。大衆が求める管理局は弱者と正義の守護者であり、被害者の多寡を計る天秤ではない。尋常の事件であれば事件の存在そのものを秘匿することもできるが、凍結した闇の書を管理し続けなければならない以上、いつまでも隠し通すことはできない。はやて君のような罪のない子供を犠牲にしたことが知られれば、管理局への信用は著しく悪化する。ようやく安定し始めた管理世界全体のバランスを崩壊させるわけにはいかない。不祥事には代わりないが、部下を死なせ復讐に狂った老人が管理局をあざむき独断で実行し、管理局は必死に止めようとしたが間に合わずに封印が為されてしまった、という形にした方が世界全体への影響は遥かに小さくなる」

 

 語る未来の中ではグレアム自身も罪人として裁かれているのに、そのことに対するためらいはまるで感じられない。まるで管理世界全体を舞台にしたシミュレーションゲームの結果を述べているようで。

 半世紀を越えて管理世界を見てきた彼の見ているものが、ウィルには理解できない。

 

「あなたは……いったい何のために行動しているんですか」

「大勢が犠牲になることを防ぎ、勇敢なる局員に降りかかる脅威を取り除く。今の私はそれだけを思って行動している」

 

 犠牲者の数を予測し、その期待値が最も低い道を選ぶ。それがグレアムの行動理念。

 もしかしたら、あとちょっと待てば、ぎりぎりになれば、もっと良い方法が見つかるかもしれない。そんな希望を一蹴する、絶望に満ちた妄執。それがグレアムの原動力。

 閃光のように煌めき駆け抜ける雷のようなプレシアや、掴みどころがなく名状しがたい混沌めいたスカリエッティとはまた別種の狂気。

 目の前にいる人物は超人でも只人でもない。

 凍結された意思を刃として振るう冷徹な管理者。まぎれもない魔人だ。

 

「長くとも二月以内に事態は収束する。きみはそれまでの間この部屋に監禁され、全てが終わった時には被害者として救出される。それまで不自由を強いるが、世界のためにおとなしく囚われていてほしい。……病み上がりに辛い話を聞かせてしまった。今は休みなさい」

 

 一方的に告げて去ろうとするグレアムの背を見た瞬間、思わず声が出た。

 

「待ってください。……管理局以外の……たとえばロストロギアに関係する企業に協力を仰いで、今からでもはやてを犠牲にしない方法を模索することはできないんですか」

「いくつかの企業や国家とは知遇を得ているが、闇の書ほどの危険な代物を管理局に隠れて受け入れるようなまねができる所はない。古代ベルカの叡智を手にできるとしても、リスクがあまりに高すぎる」

「犯罪組織ならどうですか?」

「同じことだ。合法であれ非合法であれ、組織がこれほどの危険に手をだすことはない」

「……では、個人なら」

「私が協力してもらった学者も相当に優秀な人だったが、それでも完全な解決策はとても見つけられなかった。闇の書に対抗できる個人などいない」

 

 頭の中で理性的な自分が警鐘を鳴らす。

 スカリエッティのことを話してしまえば、闇の書事件が終わった後で自分に待っているのは破滅だ。いいや、自分が社会的に破滅するだけならかまわない。はやての命には代えられない。それに元から闇の書への復讐さえ果たせれば良いと考えて生きてきたのだ。たとえ命を失っても後悔はない。

 だが、きっとグレアムはウィルとスカリエッティが個人的に付き合いがあるとは思ってくれないだろう。養父のレジアスがスカリエッティに協力していることまで知られてしまう可能性は高い。

 その時、レジアスのさらに背後にいる者たちはどのように判断するのか。管理局の高官が大勢関わる恐るべき組織だとは聞いているが、それは失墜してなおいまだに強い影響力のある英雄ギル・グレアムに対抗し得るものなのか。

 

 このままグレアムに何も告げずに、クアットロたちに逃がしてもらうのが一番確実だ。

 ……けれど、その選択をした後でどうする?

 管理局にグレアムのことを教えたところで、グレアムの発言が正しいのであれば彼らもはやての命と引き換えにする方法を選んでしまう。

 ではスカリエッティに協力してもらい、闇の書、管理局、グレアムに続く独自の第四勢力になるか? 本当に? 子供の頃から世話になっているとはいえ、自分が頼み込んだだけでスカリエッティが喜んで協力してくれると? その妄想はあまりに楽観がすぎる。

 

 ここでグレアムの譲歩を引き出し、協力を取り付ける。それは避けられない最低条件だと直感で判断した。

 

「もしも……そんな人がいて、渡りをつけることができるとしたら。グレアムさんはたとえ相手が犯罪者であっても、協力を得ることをよしとしますか?」

 

 親父ごめん、と心の中で謝る。

 

「考慮するまでもない。不確定な可能性のために、犯罪者に闇の書のことを教えることはできない。管理局の未来を担うべき士官が犯罪者と繋がりを持つのは感心しないが、今は聞かなかったことにしよう。きみは意識を取り戻したばかりで、うまく頭が働いていないのだろう。ゆっくり身体を休めると良い」

 

 グレアムは話は終わったとばかりに再びウィルに背を向ける。

 

「なら、俺とあなたは敵同士ですね。俺ははやてを見殺しにはできませんから」

 

 グレアムはウィルに向き直り、笑う。

 

「敵? 重傷を負い、デバイスを持たず、この部屋から出ることさえできない。きみは私の敵ではない」

「でしょうね。でも、もしも、万が一……俺がここを脱出できたなら。その時にはあなたの計画を白日のもとにさらして、味方になってくれる人を募って必ず全てひっくり返します。そして――」

 

 これから語るのはただのハッタリだ。相手の協力を得るための恐喝だ。

 けれど、溢れる感情の奔流とともに、自然に言葉が湧き出てくる。言葉にすることで、ウィルは遅れて自分の中に渦巻く激情を自覚した。

 

「はやてを殺そうとするあんたらは、闇の書と同じで俺から大切な人を奪おうとする仇だ。闇の書と一緒に殺してやる」

 

 宣言と同時に、リーゼロッテがウィルの隣に一瞬で移動。その指先がウィルの首筋に触れる。リーゼアリアは位置はそのままに、掌をウィルに向けていた。

 ウィルは先生が――スカリエッティがよくやるように、不敵な笑みを浮かべ、彼のように語る。

 

「さあ、選んでください。俺を敵にまわすのか、まわさないのか――あなたの自由意思で」

 

 二人の間には、分子一つさえ動いていないのではないかと錯覚するような静謐。

 時間さえ忘れそうになった時、グレアムがようやく口を開いた。

 

「いざという時にそなえて、蒐集は続けさせる。何も解決策が見つからないようであれば、当初の予定通りにはやて君を犠牲にすることを受け入れる。きみがこの条件を飲むなら、私もきみの提案を受け入れよう」

「約束します」

 

 即答するウィル。しかし納得しない者が二人。

 

「「お父様!」」

 

 リーゼ姉妹が、同時に抗議の声をあげた。

 ウィルの首に手をやるリーゼロッテが、先に続ける。

 

「こいつの言葉は、私たちの自滅を狙うハッタリです! こいつがここから逃げ出すことはできません!」

 

 続けて、瞳孔を猫のように細めながら、リーゼアリアが言葉を紡ぐ。

 

「私はそうは思いません。彼の言葉には、ハッタリと一蹴できない何かがあります。彼はここから脱出できるような、何らかの稀少技能を保持しているのかもしれません。逃げられないように残りの三肢を折るか、麻酔で半覚醒状態のまま留めておきましょう」

「二人とも、手を下げなさい。私はカルマン君の発言をハッタリだとは思わないし、彼が逃げることを危惧しているわけではない。敵にまわさない方が良いと決定したのだよ」

 

 グレアムはリーゼロッテとリーゼアリアを交互に見据え、やがて二人の手がゆっくりと下がる。

 死地から生還した心持ちに、ウィルは大きく息を吐いた。と、その時ウィルの腹が大きく音をたてて空腹を知らせる。

 

「そういえば、きみは三日も何も食べていなかったのだな。すぐに食事を用意しよう。ああ、その前に――」

 

 グレアムが突然、指を鳴らした。その音に重なって、目にも止まらない高速で魔法が構築される。部屋の片隅で青色の光が輝く。発声ではなく、フィンガースナップの音をトリガーワードとした、極小規模な魔法。

 

「うぅ」「きゅう」

 

 グレアムの青い魔力光が消えると、何もないはずの空間がカーテンが風に揺らぐように歪む。

 透明なカーテンの向こう側から、二人の少女がかわいらしい悲鳴をあげながら姿を現す。クアットロとセインだ。どちらも今の魔法で気を失っている。

 黙って隠れて見ていたのは、単なる見物のつもりだったのか、それともウィルがスカリエッティのことを漏らさないように監視するつもりだったのか。何のアクションもなかったところからすると、きっと前者なのだろう。

 問題は、いざという時の脱出方法も、スカリエッティへの連絡方法も奪われてしまったということだ。

 

「先ほどから何かがいると思えば、こんな子供だったとは。きみの言葉が持つ何かも、この子たちと関係があるのだろうね。きみの発言はあまりにも自信に満ちていた。何か保障がなければ、あのような言葉は出せない」

 

 そう言って、グレアムは声もなく笑った。

 ウィルの口が酸素を求める鯉のように動く。しかし、声は喉でつっかえて出てこない。空気だけが抜けて、ひゅうと笛のような音をたてる。

 

「では、食事をしながらこれからのことを話しあおう。もちろん、この少女たちも交えて、ゆっくりと」



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黒幕の宴

 薄暗い個室。白いクロスがかけられたダイニングテーブルの上で、クリスタルが穏やかな光を放ち、照らされて銀器が輝く。

 

 対面に座るクアットロはウィルの視線に引きつった笑いを返すくらいの余裕は残っていたが、その隣に座るセインは虜囚というなれない状況と高級レストランというなれない場所のせいで完全に硬直している。

 うかがうように隣に視線をやれば、そこに座っていたグレアムは自らに向けられた視線にすぐに気づいて、ウィルに微笑みを向ける。

 

「楽しみにすると良い。ここの料理は絶品だ」

「高級! って雰囲気ですね。……期待しています」

 

 経験上、料理の値段と旨さの相関は対数関数に似た曲線を描く。

 

 

 クアットロとセインがグレアムに囚われてから、一日が経過した。

 クアットロはその日のうちにスカリエッティとの連絡のとり方をグレアムに教えた。教えるまでずっと囚われの身が続く。そんなのは無駄な時間だ、という判断の速さはクアットロらしい。

 グレアムはスカリエッティの協力を得るために早速連絡をとって、二人はこのレストランで待ち合わせをすることになった。

 場所も名前も知らない。わかるのは見るからに高級だということと、グレアムが秘密の話をする場所として選ぶほどに信用されている場所ということくらいだ。

 

 

 個室の扉が開くと、燕尾服の店員に案内されて、スカリエッティとウーノが現れた。

 いつも着ている白衣を脱いで、オーダーメイドのスーツに身を包み、サングラスを着用している。ウーノも飾り気のない藍色のカクテルドレスを着ている。

 

 グレアムは椅子から立ち上がって、歩み寄るスカリエッティに右手を差し出す。スカリエッティも同じように右手を差し出し、握手を交わす。

 

「今夜の招待に感謝しているよ」

「こちらこそ。応えてもらえてなによりだ」

 

 スカリエッティはグレアムから視線を外してウィルを向き、なくなった右腕に目を止める。

 

「怪我をしたんだね。若い内はよくあることだ」

「先生はお変わりないようで」

「年齢はただの経過年数だ。パーソナリティに関与するものではないよ」

 

 スカリエッティとウーノはグレアムの対面側の席に着く。

 食前酒が運ばれてくると、スカリエッティとグレアムはともにグラスを目の高さまで掲げる。

 

「それでは、私たちの出会いに」

 

 食事が運ばれてきた。

 テーブルマナーも士官学校で一通り叩きこまれているが、高級店での食事など滅多にない。数年前の記憶を引っ張りだしながら、もたもたと食べ始める。

 グレアムが太鼓判を押すだけはあり、素晴らしい味だった。良い料理は心を満たしてくれる。

 先ほどまで緊張していたセインも今は目の前の料理に夢中だ。その食べ方はかろうじて原始人ではなく現代人類に分類されるという有様だったが、途中から急速にまともになっていく。おそらく見かねたウーノかクアットロあたりが、機人同士のデータリンクで情報を送りつけたのだろう。

 

 

 食事を始めたばかりの頃は、お互いに相手の腹を探るようにとりとめのないディナー向きの会話が交わされていたが、前菜を食べ終える頃に話題のベクトルが変わり始めた。

 

「それにしても、クアットロとセインが囚われることになるなんて思ってもみなかった」

「非礼は詫びよう」

「責めるつもりはないよ。非は勝手に忍びこんだこちらにあるんだ。それに無傷で返してくれるというのだからなおさらだ」

 

 言うと、スカリエッティはクアットロとセインに視線をやった。

 叱られると思ったのか、彼女たちの肩がわずかに震えるが、スカリエッティはそれを見て笑みを浮かべるだけ。

 

「二人とも優秀な子だが、まだ幼い。今回の失敗は良い経験になっただろう。私としてはどうやってクアットロのシルバーカーテンを見破ったのかが気になるね。あれを見破るのはそう簡単ではないはずだ」

 

 クアットロも食事を止めて、グレアムの返事に耳を傾ける。その目はいつになく真剣だ。自らのISの弱点に関係する話なのだから、当然といえば当然だが。

 

「話すほどのことはもない。一言で言えば勘だ。もう少し言葉を付け加えるのなら、漠然とした気配を感じただけのこと」

「気配だなんて……そんなオカルトじみたもので!?」

 

 敬語も忘れて、クアットロが声をあげる。

 グレアムはしばし瞠目し、言葉を選びながら感覚を言語化する。

 

「しいて言うなら……どれだけ精妙な幻術であっても、すでにあるモノを消しているわけではなく、何もないに近しい状態を作り出しているだけにすぎない。人によっては違和感を覚えることもあるはずだ」

「そんなの誤差の範囲内。そもそもそんな微小な反応にただの人間が気付けるはずが……」

「クアットロ。人間を侮るのは、きみの悪い癖だ」スカリエッティがクアットロをたしなめる。 「数値を計るだけであれば人間が機械に勝るわけがないが、物事を測るとなればまた別だ。個々の情報は微小であっても、それらが統合されてモノとモノを繋ぐネットワークが形成された時、そこに何を見出すのか。そこに生じる思考の飛躍こそ、人間が与えられた偉大な権能の一つであり、ドローンではなくきみたち戦闘機人こそが真に強者たる理由の一つだ」

 

 クアットロは納得がいかないという顔をしていたが、しぶしぶ首を縦にふって引き下がった。

 

「その子たちはやはり、プロジェクトHの申し子か」

「プロジェクトH?」

 

 グレアムが漏らした単語に、ウィルが反応する。初耳だが似たような単語に聞き覚えがある。

 

「カルマン君は、PT事件ですでにプロジェクトFに出会っているだろう。プロジェクトH――HYBRIDは、プロジェクトF同様にスカリエッティが表舞台から退く時に世界中にばらまいた理論の一つ。人間の遺伝子をどのようにいじくれば良いのかを記した悪魔の書だ」

「ひどい言い草だ。プロジェクトHの基礎理論は、それなりに社会の役に立っているはずだよ」

「たしかに、いくつもの遺伝子疾患の治療が可能になった。だが同時にその中に記された機械と人間を融合させた新たな人間――戦闘機人の概念に魅せられた者を生み出した。最近では戦闘機人を造りだそうとする違法研究所も現れ始めている。そのために犠牲になった人々も少なくはない」

「嘆かわしいことだね。世の中には犠牲を出した分だけ成功すると考えている科学者もどきが存在する。論理と倫理を忘れたマッドの存在は、科学者の端くれとして私も憂慮しているよ」

 

 スカリエッティは悲しみと憐れみを含有した顔で大げさに肩をすくめた。

 スカリエッティもどう考えてもマッドに分類される科学者だが、本人なりに矜持は持っているらしい。他人に理解されるのかは、また別の問題だが。

 

「まあ、いい。良くはないが、今は置いておこう。ジェイル・スカリエッティ、それだけの能力と実績を見込んで、公人としての立場を忘れ私人としてお前に頼みたいことがある」

 

 グレアムが闇の書の話を語り出すと、スカリエッティは興味深々といった面持ちで、時折質問をはさみながら聞き続ける。

 説明が終わると、スカリエッティはグレアムの依頼を要約した。

 

「つまり、きみたちは闇の書の主である八神はやてを死なせずに、闇の書だけを滅ぼす方法を私に模索してほしい、と」

 

 管理局が追う第一級捜索指定のロストロギアを匿い、そのロストロギアはいつ何時暴走するかわからない代物。

 さらに、依頼内容には解析によって得られた情報全ての開示や、グレアムとその部下のラボへの滞在許可などが含まれていた。ウィルもスカリエッティの監視のために、これから事件解決まではラボに滞在し続けることになっている。スカリエッティに任せっきりにして勝手な行動をとられないための処置だが、スカリエッティにしてみればいつ裏切るかもしれない管理局の高官に自分の居場所を把握され続けることになる。

 こんな依頼をされて面白いわけがないはずだが、スカリエッティは愉しそうに笑う。

 

「わかった、引き受けよう。闇の書にはさして興味はわかないが、古代ベルカのプログラム生命体には関心がある。古代の人々がどのような形で人間を再現しようとしたのか。生命の意義を追求する私にとって、その手法は実に興味深い。さて、さしあたって闇の書に関する全てのデータが必要だ。管理局が所有する分はもちろん、グレアム君が独自に解析した分もね」

「私が独自に得たデータはすでに持ってきている。局が保管しているデータは、少し待ってほしい」

 

 グレアムは懐から記録素子を取り出し、スカリエッティが手を伸ばして受け取った。

 

「わかったよ。それから、解析のために検体を直接私の元に連れて来てもらわなければ。きみたちだけでヴォルケンリッターを全員捕まえて、私のところまで連れてこれるかい?」

「手段はすでに考えてある。私が説得に出向いたところで、向こうがこちらの言い分を信じてくれるとは限らない。ましてや解析させろと言われて納得すまい。そこで私が管理局がヴォルケンリッターとはやて君の関連性に気がつくように誘導する。今いる家を追われて居場所を失えば、彼らも我々に頼らざるを得なくなるだろう」

「手法はグレアム君に任せるよ。できれば早く連れて来てほしいが、強引に連れてきて抵抗されるのも厄介だ。多少遅くとも自発的に解析に協力してくれる方が、私としても望ましい」

 

 

 二人は他にも、必要となる資金や解析のために用いるラボの場所など、様々な条件について話し合いを続ける。その様子を見ながら、ウィルはスカリエッティが依頼を受けてくれたことに、ほっとした。

 

 スカリエッティは興味を惹かれれば、ほぼ無償でも依頼を受けてくれる。しかし惹けなければ、いくら頭を下げたところであしらわれるだけ。そしてスカリエッティが興味を示してくれるのかは他者が予想できるところではない。幸運にも依頼を受けてくれたとしても、気まぐれを起こして本来の目的から離れた行動をとり、全てがご破算になることもある。

 だから依頼を確実に受けさせ、最後までやり遂げてもらうためにも、スカリエッティに対するカウンターとなり得る強い力を持った第三者が必要だった。

 

 グレアムにはそれだけの力がある。

 グレアムは何も言わないが、今このレストランの近くに何らかの形で管理局の部隊が伏せられていてもおかしくはない。グレアムほどの人物に頼まれれば、詳しい事情を聞かされずとも協力する者もいるだろう。むしろこのレストランはそういう者の力が及ぶ地区にあるからこそ会談場所に選ばれたのではないか、と想像もできる。

 実際にそうしているかは問題ではない。グレアムにはその想像を実現できるだけの力があることが重要だ。

 

 そして、スカリエッティはレジアスをはじめとする管理局の上層部に繋がりを持っているが、上層部の中でもスカリエッティに協力しているのは極一部で、大多数の人間はまさか犯罪者と管理局に繋がりがあるとは思ってもいない。

 通常の捜査でスカリエッティを追いかけても、途中で圧力をかけられて捜査を断念させられてしまう。しかし、彼らの手の届かないところで逮捕されてしまえば、それをなかったことにするのは非常に困難だ。

 スカリエッティにとっても、逮捕されるような事態になるのは非常に困るはずだ。

 

 スカリエッティは逮捕されたくないので、依頼を達成するために努力しなければならない。

 グレアムは闇の書についての事情をスカリエッティたちに知られているので、おいそれとスカリエッティを切り捨てて、はやてを犠牲にする元の計画に戻すことはできない。

 お互いに相手を潰す切り札を持ち合うから、共倒れになることを防ぐために争いをさけて妥協し合う。

 そんな構図ができあがる――と良いなぁ、というのがあの時グレアムに凄まれる中でウィルが考え付いた絵図だ。

 それが今後どの程度機能するのかは未知数だが、ひとまずスカリエッティが依頼を引き受けてくれたことに安堵する。

 

 予定通りに事態が進んでヴォルケンリッターが加われば、スカリエッティとギル・グレアム、そしてヴォルケンリッターの三すくみの均衡ができあがる。

 そうなれば、いずれかの陣営が主導権を握って専横を企んだり、途中で裏切る可能性はさらに低くなるはずだ。下手な行動をとれば、残りの二陣営に叩き潰されるから。

 

 

 

 

 グレアムとスカリエッティの同盟が締結すると、ウィルたちの身柄もそのままスカリエッティへと引き渡され、そのままスカリエッティの現在の拠点へと連れて行かれた。

 スカリエッティは人も寄らないような辺境に築かれたラボを拠点にしていることが多いが、今回到着したのはとある学術研究都市の中に築かれた医療研究センター。

 スポンサーの息がかかった研究所で、独立した権限を与えられた架空の研究者として活動しているらしい。

 

 

 数多くの研究棟が立ち並ぶ中、スカリエッティに与えられた一棟に足を踏み入れる。

 最上階の一室、ガラス張りの壁から入る陽光に照らし上げられた部屋。デスクに頬杖をついて思索にふけっていた黒髪の女性が、入ってきたスカリエッティたちに気が付くと、無言のまま立ち上がった。

 羽織る白衣をなびかせて足音高らかに歩み寄ると、スカリエッティではなくウィルの前に立ち、

 

「久しぶりね」

 

 再会の挨拶とともに振り抜かれた右手が、ウィルの頬に真っ赤な紅葉型の手形を残す。

 

「いったい!」

「不意打ちしてくれたお礼よ。それからクアットロ、どこに行っていたの。整理してほしいデータが溜まっているのよ」

 

 女性は用件はそれで終わりとばかりに踵を返し、デスクへと戻る。

 クアットロは横目でウィルを見ると肩をすくめ、やる気のない声で返事をしながら女性の元へと向かう。

 

 半年ぶりに再会した彼女は、顔にも声にも張りがあり、所作には無駄を嫌う鋭さがあった。以前に会った時のような燃え尽きる直前の輝きではなく、意思持つ者が自然と有する生命力(バイタリティ)に溢れていた。

 

「お元気そうで何よりです。プレシア・テスタロッサ……さん」

 

 

 

「さてと、新たなクライアントから仕事をいただいたのでね。そのことについて打ち合わせをしよう」

 

 室内の椅子をプレシアのデスクの周囲に寄せ集めて座ると、スカリエッティはグレアムとの会談の内容について、プレシアに語った。

 

「それで、私にも闇の書の解析に協力しろと? 延命してもらったとはいえ、私に残された時間に限りがあることは、他ならぬあなたが一番よく知っていると思っていたのだけど」

 

 長い脚を組み、コーヒーを飲みながら話を聞き終えたプレシアは、不機嫌を隠そうともせずにスカリエッティを睨む。

 腰まで伸びて広がっていた黒髪はゆるく束ねられて、黒が基調なのは相変わらずだがゆったりとしたブラウスの上に白衣を羽織るその姿は、以前のような病的な淀みや、触れれば折れそうな雰囲気がない。

 依然として病魔に犯されているようだが、今の状態が本来のプレシア・テスタロッサという女性に近しいのかもしれない。

 

 射ぬかんばかりのプレシアの視線を受けても、スカリエッティにひるむ様子はないどころか、楽しそうに会話を続ける。

 

「解析は私が主導で進めるから、あまり時間をとらせはしないよ。それに私だけではなく、きみもヴォルケンリッターというプログラム体には興味をそそられるんじゃないかと思ってね。彼らは何度消滅しても、闇の書がこの世界に舞い戻るたびに姿を現す。しかも記憶や人格の変化を引き継いだままに」

「記憶と人格情報の選択と保存……なるほど、たしかにそれがわかればアリシアの人格の完全なコピー、いえ、補完も可能に……壊れてしまった細胞も、人体構成式で代用して……あとはそれを維持するための魔力源さえあれば……」

 

 プレシアの双眸に、雷光の如き光が煌めく。

 

「わかったわ。私もこの件に協力する。いえ、絶対に噛ませなさい」

「興味を持ってもらえたようで嬉しいよ」

 

 スカリエッティは満足そうに笑うと、あらためて今後の予定を語り始める。

 

「全員が一ヶ所に固まるのはリスクが高い。きみにはナンバーズの半分を連れて私とは別行動をとってもらいたい。私は適当な無人世界のラボに移り、そこで闇の書の解析を進める。連れていくのはウーノとクアットロとセインの三人にしよう」

「なら、私の方はトーレとチンクとディエチ。あなたの方は非戦闘型ばかりで、こちらは戦闘型ばかりね。もう少しバランス良くしたら?」

「ヴォルケンリッターに本気で敵視された場合、その場にいる者だけで対処するのはリスクが高すぎる。それなら逃走に適しているクアットロとセインを選んだ方が良い。きみの方は私の側に問題が発生した場合に、トーレたちを使ってグレアム君と協力してヴォルケンリッターを抑え込んでほしい。そして私に何かあった時には、娘たちと私の研究を引き継いでくれると嬉しいね」

「面倒だから何かあっても生きて戻ってきなさい」

「善処しよう」

 

 

 二人の会話が一段落つく頃合いを見計らって、ウィルが声をあげる。

 

「あの、俺も先生の方について行ってもいいですか?」

「もちろんだとも。闇の書の主の精神状態を安定させるには、顔見知りがいた方が良い。グレアム君に常に私のラボに滞在してもらうわけにはいかない以上、きみがその要だ」

 

 スカリエッティの言葉を聞き、プレシアがウィルのなくなった右腕に視線を落とす。

 

「それなら、腕を何とかした方が良いわね。久しぶりに会う大切な人の腕がなくなっているなんて、結構ショッキングよ」

 

 指摘通り、右腕の欠損は解決しておかなければならない問題だ。はやてのためだけではなく、その後のことを見据えても。

 

「そのことで、先生にお願いがあるんですけどかまいませんか?」

「昔のように再生治療がお望みかな?」

 

 十年前にウィルが巻き込まれた大規模爆破テロは、多くの人々の命を奪った。レジアスの妻もその中の一人だ。

 ウィルはかろうじて生き残ったが、左手首の先と両脚の膝から下など、人体のおよそ二割以上を損なう重傷を負った。

 

 当時のレジアスとスカリエッティの間に、どのようなやり取りがあったのか。レジアスは語らず、スカリエッティも口止めされているからと教えてはくれない。知っているのは、スカリエッティはウィルを治療するというレジアスの依頼を受けたということだけ。

 スカリエッティの治療により、ウィルは健康体を取り戻した。後から聞いたところによると、その内容はまだ五歳になったばかりの子供が受けるのは相当に厳しいものらしい。

 スカリエッティ曰く、強い欲望が――生への執着があったから乗り越えられたのだと。

 その言葉はすんなりと受け入れられた。復讐するためには、なにがなんでも生き延びて体を取り戻す必要があった。死ぬことより、このまま何もできずに終わることの方が怖かった。

 それは昔も今も変わらない。

 

「あの頃は、再生してもらった左手と両脚がまともに動かせるようになるまで、結構かかりましたよね」

「神経が完全に繋がるまでにおよそ半月。それから以前のように動かせるようになるまで三ヶ月かかっていたね。普通の人間に比べればなかなか驚異的な速度だったよ」

「二ヶ月以内に完治する方法はありませんか? この事件が終わるまでに戦えるようになっておきたいんです。いつ力が必要になるのか、わかりませんから」

「再生治療では不可能だ。一刻も早く戦える体に戻ることを優先するなら、素直に義手にした方が良い」

「それも考えました。でも、義手では戦力が落ちると聞いています。何か方法はありませんか?」

 

 反応速度と追従性の両立は、義肢開発の大きな壁だ。

 脳波や脳血流量、筋電位や視線など、生体反応の変化を重点的に感知することで、反応速度を向上することはできる。だが、それらだけでは高位の近接魔導師が欲する、薄皮一枚のみを切るような精密な動作を再現することはできない。

 だからといって、民間の義肢で使われるような思考制御では、反射にも等しい動作速度にはほど遠い。

 

「ないわけではない。やろうと思えば、義肢と神経を直接繋げることもできるからね。ただ、神経に強く干渉するため、持ち主の肉体に大きな負担を与え、蝕む。実用化されている義肢はそれを防ぐために、所有者の意思を読み取ってスタンドアローンで動作して――」

 

 スカリエッティは言葉を止め、しばらくしてから笑う。

 

「ふむ……この手があったか、義手だけに」

「……何か方法が?」

「戦闘機人のように、発想を逆転させれば良いのさ。人間と義手は、生体反応や思考を読み取り、分析し、動作する――複雑な伝言ゲームで繋がっている。これでは速度も正確さも落ちて当たり前だ。それなら、はじめから義手の中に義手を操作するウィルを用意すれば良い」

「……意味がわからないので、もう少し詳しく」

「プロジェクトFの応用だよ。義手にきみ自身の脳内データを移植した人工知能を搭載する。義肢のセンサーで得られる入力情報から、人間の感覚器官で得られない情報を動作判断からはずすことで、ウィルと義肢の入力情報を限りなく等しくさせることができる。入力される値と計算式が等しければ、自然と解――動きも等しくなる」

「そんなことができるんですか? プレシアさんからは、プロジェクトFではもとになった人間を再現することはできなかったと聞いていますが」

 

 と、プレシアを見れば、返ってきた返事は予想に反して「可能よ」と。

 

「完全な再現は不可能だけど、戦闘という限定環境での動作程度ならやりようはあるわ」

 

 プレシアの答えにスカリエッティはうなずき、その指先で椅子の肘掛けを軽やかに叩きながら、その旋律に乗せて謳うように言葉を紡ぐ。

 

「ただ、いくつか問題点も思いつく。その解消のために他の機能も追加してみよう。たとえば、機人がどんなものか、ほんの少しだけ体験してみる気はないだろうか?」

 

 ウィルは戦慄に貫かれていた。かすれた声で問う。

 

「俺もなれるってことですか? ……戦闘機人に」

 

 ウィルはかつて、戦闘機人になりたいと頼んだことがある。強さを求めた幼少期のウィルが戦闘機人の力に憧れないはずがなかった。

 しかし当時はその頼みは技術的に不可能だからと、すげなく断られた。

 戦闘機人の素体は、生まれる前の遺伝子の段階から調整を繰り返さなければならない。それは選別され精錬された上質な鉄を打って鍛えた、一振りの刀のような芸術品。ウィルのような石ころを打ったところで砕けるだけだ。

 

 その機人に、なれるというのか――が、スカリエッティは笑って首を横に振った。

 

「後天的に戦闘機人になることは今でも不可能だ。だが、機人はもともとそれ自体が完成形でありながらも、機械と人体を融和させる技術のテストベッドとなるという役割も持つ。機人に用いている技術には、普通の人間にフィードバックできるものもいくつかある。そのいくつかを、きみで試してみたいと思ってね」

 

 スカリエッティの瞳には、友人の願いを聞いてあげようとする親愛と、実験動物に注ぐ興味の双方が、矛盾せずに含まれていた。

 

「機人ではない普通の人体への試験はいまだにおこなったことのない技術だ。だから、これに関してはきみの自由意思に委ねよう」

「お願いします」

 

 患者ではなく実験体であったとしても、それで強くなれる可能性があるのならウィルが迷うわけもない。

 元より義手の件に関しては、スカリエッティを引き込むためにグレアムという抑止力を抱き込んだ先ほどとは異なり、完全にスカリエッティの好意と気まぐれを期待して頼み込んだお願いでしかない。

 ならば、その代償に実験体になる程度の危険を支払うのは当然の対価――と覚悟を決めて答えたが、その悪魔の契約にプレシアが割り込む。

 

「ヴォルケンリッターや闇の書が来るまでには、まだ時間があるのよね? なら、私もデバイスの製作に協力するわ」

「いいんですか?」

「どういった風の吹き回しだね?」

 

 思わぬ申し出に、ウィルとスカリエッティは二人揃って目を見開いた。

 

「さっき不意打ちされた分は返したから、次は私が死なないように立ち回ってくれた借りを返すだけよ。デバイスの製作と、この男が無茶な改造しないように見張るくらいはしてあげるわ。それで貸し借りはなしで良いかしら?」

 

 プレシアは朱色の唇に艶やかな笑みを浮かべて、ウィルへと微笑みかけた。

 

 

 

 

 その後、スカリエッティとプレシアは共同でウィルの義手とちょっとした人体改造を行った。並行して、グレアムに渡されたデータを元に検討を重ねつつ、必要な機材を無人世界のラボに移動させて研究環境を整える。

 一方、グレアムはスカリエッティの監視のためにリーゼ姉妹を交互に寄越しながら、自らは本局で古代遺物管理部やリンディたちと接触して、管理局の動きを調整し続けた。

 

 管理局の武装隊とヴォルケンリッターが激突したのは、スカリエッティとグレアムの会談がおこなわれた十五日後。

 そしてその翌日、スカリエッティとグレアムとヴォルケンリッターの三者の間に協力関係が結ばれた。



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恩寵

『せっかく人が付き合ってあげてるんだから、きびきびと動くのがマナーじゃない?』

 

 義手となった右手を見て、物思いにふけっていると、モニタールームのクアットロがしびれをきらして催促の声。

 

「ごめん、すぐに準備する――――行こうか、グレイス」

 

 真銀の輝きを放つ右腕。義手型インテリジェントデバイス『恩寵(グレイス)』からの返事はない。

 ウィルもこれまでの癖で呼びかけているが、本来ならその必要もない。

 グレイスの制御用人工知能は、ウィルと同質の思考を持つ。声をかけた時にはすでにバリアジャケットの生成とデバイスの展開が始まっていた。

 

 グレイス内部に量子として収納されていた合金が解放され、宙空で結合されてウィルの身体を覆う。

 両脚にはかつてのハイロゥと同質の銀色の金属ブーツ。そのくるぶしの部分には飾りのような可動肢が付属している。

 両腕には肘まで覆う銀の手甲。そちらにもまた飾りのような可動肢が付属している。

 そして右手の先に出現した一振りの銀剣を握る。形状はかつてのF4Wと同じく刃渡り一メートルの片刃。

 

 広大な訓練場に魔力で形作られた戦闘空間のテクスチャが貼り付けられ、固定されていく。

 続けて、戦域に十体のドローンが姿を現す。

 

 ウィルは飛行魔法で宙に浮き、剣を構える。同時にドローンの周辺を囲んでいたリングが砕け、シミュレーションの始まりを告げた。

 

 

 銀脚『ハイロゥ』から圧縮空気が噴出する。向上した魔力変換効率は以前を上回るエネルギーをウィルに与え、加速する。

 以前のハイロゥも手慰みとはいえスカリエッティが製作した一品。その演算速度は通常のデバイスに比べても圧倒的であったが、スカリエッティに加えプレシアの手が加わったグレイスのそれは、右腕一つ分という本体の大きさゆえの演算速度の高さも相まって、人工知能に処理の一部を割かれているにも関わらず以前のハイロゥを上回る。

 

 音速を越えて発生した衝撃破を逃すため、訓練場の壁全体にかけられた衝撃吸収魔法が発動し、空間が魔力の光で一瞬鮮やかに彩られる。

 

 ウィルは正面のドローンへ向かうと見せかけ、途中で軌道をずらして右斜め上空のドローンに接近。ドローンがウィルに狙いを定める前に、振り切られた剣がすれ違いざまに両断する。

 もともと実体を持たないドローンは、剣によって与えられる衝撃を計算、設定された耐久値を越えたことで消滅する。

 残敵と己の間に通る射線が限りなく少なくなるような軌道を取りつつ、ウィルは急減速をかけた。

 

 ドローンがウィルに狙いを定めて魔力弾を発射した瞬間、ウィルの左腕を覆う手甲の可動肢から不可視の翼が――圧縮空気が噴出する。ウィルの体は右方向へと急加速。襲いかかる光弾を回避する。

 ドローンが照準を移してウィルを追いかけようとするが、当のウィルはすでに上方へと移動ベクトルを変えていた。上方へと照準が追いかけた時には、すでに右斜め下方へ、続けて右斜め上方、左斜め上方、切り返して右。次々と方向転換をおこない、狙いを定めさせない。

 

 両腕両脚に備え付けられた四つの可動肢『フェザー』は、推力偏向(ベクタード)ノズルだ。

 思考制御された可動肢は、ウィルの意志のままに角度を変えながら、圧縮空気を噴出させる。

 口が小さいため噴出できる空気量は少なく、ハイロゥに比べると加速力は落ちるが、四個のスラスターを四肢に分散して配置したことで以前よりさらに繊細な機動が可能になる。

 

 足裏という一方向に空気を噴出させるハイロゥというメインブースター。

 両手両足に備え付けられた四つの可動肢フェザーというサブスラスター。

 この二種の加速を織り交ぜることで向上したのは機動力だけではない。

 

 

 斬撃の瞬間に腕部のスラスターを噴かし、加速した剣撃がドローンを両断。

 続けて姿勢を制御しながら右脚のスラスターを噴かせば、加速した右足による回し蹴りが、背後から接近を仕掛けようとしていたドローンへと叩きこまれる。

 威力が足りなかったか、蹴りはドローンに受け止められたが、再度圧縮空気を噴出させれば、再加速して威力を増した右脚がドローンを吹き飛ばす。

 吹き飛んだドローンに向かって左腕を振るう。左腕を覆う手甲に魔力が通い、大気と混ざり合って衝撃波を生み出し、ドローンが姿勢を取り戻す前に直撃、破壊する。

 

 四肢のスラスターを攻撃のタイミングに合わせて使用すれば、部分的に速度を上昇させることで攻撃力を高めることができる。

 

 

 ウィルは止まることなく、次の標的へと向かって移動を始める。

 両手両足のスラスターを断続的に吹かし続け、移動のベクトルを常に変化させ続けながら、魔力弾の雨をくぐり抜けてドローンを落とし続ける。

 戦闘開始から二分後、ウィルはシミュレーションで形成されたドローン十体全てを破壊し終えた。

 

 

 

『はいおつかれさま~。ウィルの方で何か問題は感じられた?』

「相変わらずだけど、動作タイミングに何度かずれを感じることがあったな。そっちでも観測できてるだろ?」

『それに関してはどうしようもないわね~。これからもこまめに戦闘データを更新して、覚えさせ続けるしかないわよ』

 

 グレイスの人工知能がウィルの脳内情報をコピーしているとはいえ、グレイスはデバイスでウィルは人間だ。

 同じ入力情報、同じ計算式。限りなく近くとも、機械と人では出力される情報が異なる時が稀にある。その差異を埋めるためにも、クアットロにサポートしてもらってのシミュレーションの繰り返しは非常に重要だ。

 

 そして何より、フェザーという四つのベクタードノズルが増えたことにより、戦い方は以前よりさらに複雑さを増している。

 新しい力を活かすためには、どのような戦えば良いのか。まずはデスクに向きあって理屈を噛み砕いて理解し、次に反復訓練によって基本的な動作を身体に覚えこませ、シミュレーションによって動作を繋げ、己の戦闘スタイルへと昇華させる。今のウィルに必要なのはその繰り返しだ。

 

 新たなデバイスでの戦い方を身につけにして、ウィル自身に加えられた改造による新たな領域――アセンションの世界を己のものにした時、きっとウィルの刃はヴォルケンリッターにも届き得るという確信がある。

 

 

「というわけで、さっそく次のシムを頼むよ」

『りょ~かい。じゃあとっておきのいくわね』

「へえ、楽しみ……!?」

 

 眼前に現れたのは、モデルのような高身長の美女。

 ボディラインにフィットした青いバトルスーツを身を包み、長い手足には刃を削ったかのような八つの光。

 その鋭い目に何の感情も浮かんでいないのは、これがシミュレーションというのもあるが、もともとの本人の気質によるところも大きい。

 ウィルにとっての憧れの人――ただし戦闘面に限る。

 

「ちょっ……! 待て待て待って!! いきなりトーレ姉さんとか無理――」

『はいスタート♪』

 

 ナンバーズ三番目、トーレ。スカリエッティが認める現時点で最強の戦闘機人。

 ISとして発現した極限まで研ぎ澄まされた飛行魔法を、戦闘機人の中でも最高の肉体強度を誇るトーレが用いる。その加速力と戦闘機動は人類という種が到達できる領域を超えている。

 

 勝てるわけがないという認識が身体を後ろに後退させかけた時、ウィルの脳裏をシグナムの姿がよぎる。圧倒的な強さで、ウィルを完膚なきまでに叩きのめし、死の寸前にまで追いやったその姿。

 トーレは戦闘機人の中でも別格の強さだが、シグナムがトーレよりあきらかに劣るとも思えない。シミュレーションのトーレにすら勝てないようで、シグナムに勝てるはずがない。

 

「上等だ! 全力で――」

 

 

 

 十分後、両手を地面につけた四つん這いの姿勢で、汗を滝のように流しながら荒い呼吸を何度も繰り返す。

 

 高機動近接型同士の戦闘はそう長引かない。長くても一分とかからず、最初の一合ではっきりと優勢が決まり十秒もかからず決着がついたこともあった。

 一戦が終わるたびにすぐさま次の戦いが始まり、わずか十分間で何度も打ちのめされて、何度も叩き落されて、途中からはいまだに試験すらほとんどしていないアセンションをも発動させ、その果てに。

 

「ど……うだっ! 見てるかクアットロ! 勝ったぞ!」

 

 掴み取ったのはわずかに一勝。しかも相手はシミュレーション上の存在であり、本物のトーレには及ばない。

 しかし子供の頃から憧れていた背中が手の届くところに来た手応えは、連戦による酸素の欠乏と全身にかかるGによ嘔吐感の苦しさを跳ね除けるほどの充足感を与えてくれた。

 

 けれど、クアットロからの返事はいつまで経ってもない。この結果に賞賛であれ皮肉であれ、何かを返してくれることを期待していたのに。

 疑問に思って顔をあげようとしたその時、不意にそばで足音が鳴り、俯き下を向いた視界の端に映る蒼の靴。

 

「だらしないわねぇ」

 

 声はモニタールームからの通信ではなく、すぐそばから空気を振るわせて耳を軽やかに打つ。

 

 顔を上げれば、すぐそばにクアットロの顔。膝を曲げて腰を折り、視点を合わせるために前傾してウィルの顔を覗き込んでいた。

 丸眼鏡の下、金色に輝く大きな瞳を彩る睫毛は長く、鼻筋はすらりと通り、桃色の唇が弧を描き、悪戯っぽい微笑みを浮かべている。

 伏したウィルを覗き込むクアットロの顔は随分と大人っぽくなっていて、しかしその姿勢は十年前の記憶を想起させる。

 

「こうしていると、初めて会った時のことを思い出さない?」

 

 考えていたことを先に口に出され、言葉に詰まる。

 脳裡に去来するのは、幻燈画と呼ぶには鮮やかすぎる在りし日の、過ちの苦さと懐かしい温もりの記憶。

 

 

 

 

 己の肉体が五体満足に戻っているのを見た時、幼いウィルは喜びで涙を流したが、その喜びもつかの間、戻ったばかりの身体は自らのものとは思えないほどに重く、頭で考えた通りに動いてはくれなかった。

 そこからは一刻も早く元のように身体を動かせるようになるためのリハビリの日々。並行して、いつか闇の書に立ち向かえるような魔導師になるための訓練を始めた。

 

 ゲイズ家では、子供にはまだ危険だと魔法も戦い方も教えてはもらえなかったが、スカリエッティのラボは違った。

 

 ナンバーズの二番目ドゥーエは、魔法の使い方をはじめとした様々な知識を教えてくれた。

 ナンバーズの三番目トーレは何も教えてはくれなかったが、訓練場で見かける彼女の圧倒的な強さは、ウィルに目指すべき目標を示してくれた。

 ドゥーエが与えてくれる知識を一つとして取りこぼさぬように。トーレが見せる戦い方に一歩でも追いつけるように。震えてペンも持てない指を握りしめて、崩れ落ちそうになるか弱い足に力を込めて足掻き始めた。

 苦しいとは思わなかった。心の底には父の死を理解した瞬間に熾った炎が燃え続けている。炎が与える熱がウィルの身体を突き動かしてくれた。

 

 

 

 そんなラボでの生活が続いたある日、ウィルはいつも通り、トーレが使用しない時間帯を見計らって訓練場で魔法の練習をしていた。

 その頃のウィルはトーレの真似をするべく、飛行魔法の訓練にとりかかっていた。

 初めて見たトーレの訓練の光景が目に焼きついていた。自在に訓練場を飛び回り、鋭角的ともいえる軌道で瞬く間に敵へと接近し、両手両足の光刃で切り裂いていく姿には、美しさすらあった。

 ウィルは父が戦っている姿を見たことがない。だからトーレのその姿は、幼いウィルにとって圧倒的な力の象徴だった。

 

 その力に一歩でも近づくため、ドゥーエに教えてもらった通りにバリアジャケットを展開して、訓練場の中を飛ぶ。

 最初は浮くだけで精一杯で、気を抜けばバランスが崩れて落下しそうになる始末だったが、不格好でも何度も何度も繰り返せば、少しずつ軌道が安定していく。

 

 自分は少しずつ上達している。成長している。その実感が充足感を与えてくれる。

 

 そういえば、トーレは以前にシミュレーションで様々な地形やコースを作って、そこを駆け抜ける訓練をしていた。

 今度、ドゥーエに頼んで自分もそれをやらせてもらおう、と。

 

 飛行中に余計なことを考えてしまったのが良くなかった。

 マルチタスクもうまくできず、デバイスも持たない。そんなウィルが使用する魔法以外のことに頭を回せば制御できなくなるのは当たり前。

 

 飛行魔法に綻びが生まれたことで、慣性制御の効果が低下。先ほどまでは何の負荷もかかっていなかった身体に、突然押し付けられるような圧力がかかる。

 混乱と痛みがさらに判断と思考を狂わせ、飛行魔法が完全に崩壊してウィルの身体が空中に放り出される。

 高度は低く、速度もそれほど上げておらず、バリアジャケットを纏っていたおかげだろう。そのまま訓練場の床を十メートル以上転がって全身を強く打ち付けても、幸運なことに大きな怪我はなかった。

 

 

 うつ伏せに倒れている姿勢から、手足に力を入れて身体を起こす。

 四つん這いの姿勢から立ち上がろうと腕に力を込めれば、再生治療で戻ったばかりの左手に力が入らずに滑り、再び崩れ落ちる。

 這いつくばった状態で何度か深呼吸をしてから、息を止めて歯を食いしばり、もう一度全身に力を入れて四つん這いの姿勢に戻る。

 馬鹿な失敗をした自分が情けなかったのか、それとも立ち上がることすらできない我が身が悲しかったのか、涙で視界がにじみそうになるが、まぶたを強く閉じて涙を抑えこむ。鼻の奥が痛くなるのを歯を食いしばって耐える。

 

 泣いちゃダメだ。止まっちゃダメだ。

 こんなところで止まっていては、自分はどこにも辿り着けない。

 

 もう一度挑戦だと、決意を固めてまぶたを開けば、ウィルの視界に影がさしていた。

 

 

 顔を上げれば、栗色の髪の女の子がウィルを見下ろしていた。

 年の頃はウィルと同じ五歳くらいだろうか。金色の瞳には見た目の年齢には合わない理知的な輝きがあり、五歳年上のオーリスを連想した。

 誰かは知らないが、かっこ悪いところを見られた羞恥で顔が赤くなるのを感じる。笑われるのか、慰められるのか。どちらにしても恥ずかしい。

 

 女の子の小さな唇がゆっくりと開かれて

 

「あなた、どうしてそんなに馬鹿なことをしているの?」

 

 放たれた言葉は予想だにしない辛辣。

 

「きみは……?」

「質問の内容も理解できないのかしら? まぁいいわ。私はクアットロ。ナンバーズの四番目――こういえば、さすがにわかるわよね?」

 

 その存在は知っていた。ラボには、すでに完成しているウーノ、ドゥーエ、トーレの他に、遺伝子の設計が完了し生まれたばかりの子が二人いた。ナンバーズ四番目のクアットロと、五番目のチンク。

 彼女らは生み出された後、急速成長で五歳児程度にまで肉体を成長させられ、それから成長速度を普通の人間と同じレベルに落とし、埋め込まれた機械に馴染むように、そして個々が持つ資質を活かすように肉体を改造(チューンアップ)されていく。

 

 ただ、普段は調整用のポッドの中で眠るように揺蕩っているため、顔を合わせたのはその時が初めてだった。

 後から知ったことだが、外界の情報を正しく認識できるか、他者と言語でコミュニケーションをとるだけの知能が発達しているかなど、いくつもの項目をチェックするために時々ポッドから出して活動させていたらしい。

 

「おれの名前は――」

「いらないわ。知ってるもの」

 

 自己紹介はすげなく断ち切られ、この時点でウィルは結構苛々とし始めていたが、世話になっている先生の娘で、自分に様々な知識を教えてくれるドゥーエの妹だ。怒っちゃダメだと自分に言い聞かせながら、質問に答える。

 

「父さんを死なせたやつを、おれがたおすんだ。そのためには、強くならないと」

 

 堂々と、胸を張って宣言する。

 ゲイズ家では、みんな悲しそうな顔をしたり、気まずそうな顔をしたり、時には怒ることもあった。この願いは口にしない方が良いのだと、その時に学んだ。

 

 でも、ここでは違う。

 先生は強い願い、強い欲望を持つのは素晴らしいことだと褒めてくれた。ドゥーエもその意志の強さがあるのならと勉強を教えてくれた。

 その二人が認めてくれた願いだから、きっとクアットロもわかってくれると思って口にしたのに――

 

「それも知ってるわ。私が聞きたいのは、どうしてそんな馬鹿なことをしているのってこと」

 

 本当にあっさりと、あたりまえのことを告げるかのように、ウィルの願いは切り捨てられた。

 

「な、なんだよっ! おまえも、ダメだって言うのか!?」

 

 願いを否定された怒りがウィルを動かす力になる。足に力を込めて立ち上がり、クアットロに掴みかかろうと一歩前に踏み出す。

 感情を顕わにし怒りの形相で寄るウィルを見て、クアットロは汚らしいものに触れられるのを嫌うように避け、足払いをかける。

 ウィルの体は再び地面にたたきつけられ、あおむけのままクアットロを見上げる形になる。

 

 ウィルを高みから見下すように、のぞきこみ。クアットロは大きくため息をついた。

 

「ドクターもドゥーエ姉様も、どうしてこんなのを置いているのか理解に苦しむわ」

 

 幼子にあたりまえのことを言い聞かせるように、クアットロは淡々と言葉を紡ぐ。

 

「父親が死んだのは残念なことよね。自分を庇護する者がいなくなってしまうんだから。それで? 今のあなたがするべきことは新しい庇護者に気に入られることじゃないの? 失われた者に固執してそんな無様をさらすことにどんな意味があるの?」

「父さんは、すごい人だったんだ! 世界を守るために、ずっとがんばってたんだ! そんな父さんをころしたやつは死ななきゃならないんだ!」

「それも理解できないわね。死んだのはただ力が足りないから。第一、あなたの父親にそれだけの価値なんてないでしょう」

 

 告げられた言葉に、心臓が大きく脈打った。

 鼓動に合わせて全身を巡る血流が熱湯のように熱い。その源泉は胸のさらに奥。心の底から。

 

「子が親に感謝を抱くのは、親が子を庇護するから。でもあなたの親は知人に子を預けて、世話を任せていた。その上、あなたを残して死んだんでしょう?」

 

 心の底には扉がある。扉の向こうで燃える炎の熱が、ウィルに力を与えてくれる。

 

「子供を育てる義務を果たせなかった使()()()()親のために人生を浪費するなんて。復讐なんて馬鹿みたい」

 

 体をどのように動かしたのかもわからず、湧き上がる熱に突き動かされるようにして、ウィルはクアットロに飛びかかっていた。

 今にして思えば、ウィルの激情に呼応して体内で魔力変換が発生し、ウィルの身体をそのまま動かしたのではないか、と思う。

 

 クアットロは戦闘が主体ではないとはいえ戦闘機人だ。幼いとはいえ、本来ならばリハビリ途中で稚拙な身体強化魔法しか使えないウィルなんて返り討ちにされるはずだった。

 ただ、クアットロもまた一時的にポッドから出されただけの調整中で、機械が身体に馴染んでいなくて、十全に動けなかったのかもしれない。

 

 理由はわからずとも、結果は一つしかない。

 ウィルはクアットロを押し倒し、胴の上に馬乗りになって左手で首を押さえつけ、右手でクアットロの顔を殴った。

 

 そして二発目をたたき込もうと、右手を大きく振りかぶった時、自分を見上げるその顔に浮かんだ怯えと目尻に溜まった涙を見て、体が動かなくなった。

 

 父親は凄い人だ。かっこいい人だ。正義の味方だ。その認識に変わりはない。

 それで、その尊敬する父親の子である自分は、嫌なことを言われたからと、何をしているのか。してしまったのか。

 

 

 急速に戻る理性。

 すぐにクアットロから離れようとするが、先ほどの激情が消えたウィルの身体は、いまだリハビリ途中の脆弱な肉体へと戻っていた。

 震える手に力を入れて、首を押さえつけていた左手を引きはがす。震える足に力を入れて、クアットロの上からどこうとした時、クアットロが身体を起こして掌でウィルの胸を突いた。

 機人の膂力は子供の姿でも大人を凌駕しており、その衝撃でウィルの身体は後方に飛ばされる。

 

 立ち上がったクアットロが、尻もちをついたウィルを睨む。

 その顔にはやられたことへの怒りではなく、事態を理解できていない困惑が張り付いていた。

 

 お互いに睨み合っていた時間は十秒くらいだったか。

 

「その――」

「―――!!」

 

 謝ろうとしたウィルが声をあげた途端、クアットロはその場から飛びのいて訓練場から走り去った。

 

 慌ててウィルも後を追いかける。どうすれば良いのかわかっていたわけではない。とにかく謝らないとという一念で、壁に手をつきながらクアットロを追いかけて訓練場を飛び出し、気が付いたらベッドの上で目を覚ました。

 疲れが出たのか痛みのせいか、通路の真ん中で気を失って倒れていたのを、訓練場に向かおうとしていたトーレが見つけたらしい。

 様子を見にやって来たスカリエッティに事情を説明して、クアットロに会わせてほしいとお願いしたが、すでに外に出ていられる時間は終わり、再び調整用ポッドの中に戻ったのでしばらくは出てこれないと告げられた。

 

 ショックだったのは、事情を知ったスカリエッティは、起きたことにさして興味もないようで。彼だけでなく、ウーノも、ドゥーエも、トーレも。誰もウィルのことを叱りもしない。

 それまでは、復讐という願いを話しても肯定してくれる此処の人たちはみんな良い人なのだと思っていた。

 きっとこの時からだろう。此処にいる人たちはみんなどこか普通ではないのだと感じるようになったのは。

 

 

 

 何週間かたって、クアットロが再度目覚めると教えてもらったウィルは、通路の真ん中に立って彼女を待っていた。

 扉からクアットロが顔を出した瞬間、有無を言わさず頭を下げて謝った。

 クアットロはわずかに眉を歪めて、一言「そう」と言っただけ。「許す」とも「許さない」とも言わず。その場から去った。

 ああ、きっとクアットロはウィルにはもう関わりたくもないのだろうなと。

 悲しいけれど、傷つけるというのはそういうことなんだと思って。

 

 

 だというのに、その日からウィルがラボで何かをしていると、よくクアットロがそばにいて、それを見ているようになった。

 仕返しの機会でも伺っているのかと思っていたが、クアットロは本当に見ているだけ。見られることに慣れ始めると、次第にウィルのやり方に口を出してくるようになった。

 苛立つことも多々あったが、以前に押し倒した負い目があって強く出ることができず。

 そんなクアットロの変化にスカリエッティも思うところがあったのか、それからというもの、クアットロはチンクに比べて調整ポッドの中にいる期間は短くなり。

 

 結局、スカリエッティのラボを出てレジアスのところに戻るまでの一年ばかり、ウィルとクアットロはよく一緒に行動していた。

 

 共にドゥーエから学び、トーレを真似しようとするウィルをクアットロが見ていて、一緒に食事をして。

 そんな日々を過ごすうちに、いつの間にかかつて喧嘩の原因になった復讐について語れるようになっていて。お互いに復讐に対する考え方は相変わらず合わなかったけれど、その違いを流せるようになって。

 

 チンクが調整用ポッドから出てくる頻度が増えるようになると、彼女も混ざるようになり、ウィルとチンクで模擬戦めいたことをすることも増えた。

 ウィルが息をするように飛べるようになると、これまでは教えてくれることのなかったトーレがたまに空戦機動を教えてくれるようになったり(大半は身体能力が違いすぎて何の参考にもならなかったが)、

 ウーノがデバイスの基礎理論を教えてくれて、ウィルも自分のデバイスを組んでみたが結局うまくいかず、最後は先生がクアットロやチンクのISを制御するための装備と一緒に手慰みで作ってくれたこともあった。

 その時に作ってもらったハイロゥは、以来十年間ウィルの相棒として活躍してくれた。先日のシグナムとの戦いで完璧に壊れてしまったが。

 

 

 子供の頃に漠然と感じたように、スカリエッティとその娘たちはどこか普通とずれている。それは常識であったり、感覚であったり、倫理観であったり、様々だ。

 その思いはラボから帰って、親戚のおじさんから正式に養父となったレジアスの元で暮らし、似たような境遇のクロノと出会い、士官学校で大勢の仲間たちと過ごし、管理局で働くようになってからはさらに強くなった。

 けれど、ウィルが普通に生きられるようになったのは、先生とその娘たちの、なによりも一緒にいてくれたクアットロのおかげだった。

 

 あの日々の輝きは、大切な存在を失い己の無力を呪うウィルに与えられた恩寵(すくい)だった。

 

 

 

「覚えているよ。あれは俺の愚かさの象徴だ。忘れるわけにはいかない」

「私も愚かだったわ。愚か者が事実を指摘された時に逆上するだなんて、そんな当たり前のことも考慮に入れてなかったんだもの」

 

 言って、お互いに笑う。

 いつまでも四つん這いで顔だけ上げているのも疲れるので、ウィルはそのままごろんとひっくり返り、あおむけに寝転んでクアットロを見上げる。

 

「お腹をさらすなんて、なんだか服従を誓う犬みたい」

 

 クアットロはウィルの頭のすぐそばに腰を下ろすと、ウィルの頭を少し持ち上げてその間に自らの太腿を差し込む。

 ボディスーツ越しに感じられるクアットロの身体は、その内側に様々な人工物が秘められているとは思えないくらいに柔らかい。

 

「トーレ姉さまに勝ったご褒美。どう?」

「予想以上のサービスで後が怖い」

「なんてサービスし甲斐がないのかしら。……それで、十年間待ち望んでた仇に出会えて、あまつさえ同居している気持ちはどう?」

「たいしたことはないよ。もちろんこのまま許すつもりなんてさらさらないけれど、まずは闇の書のことが解決してから――」

 

 いつものように言葉を重ねる。自分はいつだって冷静だと、想定外の事態に巻き込まれることは多いが、その場その場でやるべきことをやるだけだと。

 

 そう思っていたのに、言葉が突然喉でつっかえて、代わりに出てこようとするのは形も音もない嗚咽。

 歯を食いしばって、せりあがるそれを抑え込みながら、言葉を繋ぐ。

 

「ごめん……思ってた以上にきつい、みたい」

 

 吐き出した弱音は、自分の声とは思えないほどに弱弱しくて。

 一度弱音を吐くと、堰を切ったように溢れて止まらない。

 

「なんで、はやてなんだよ。はやてじゃなければ、あんな人たちだって知らなければ、今頃……何も考えずに、戦えてたのに」

 

 ヴォルケンリッターに襲われてからずっと、忙しさを理由に目をそらし続けてきた不満と不安が、ヴォルケンリッターの協力を取り付けられて余裕ができたせいで湧き出してくる。

 

「自分が何を考えてるのか、わからないんだ。頭の中じゃ、闇の書が解決したらそれで終わるべきだって思ってる。あの人たちを殺せたとしても、それじゃあはやてが悲しむ。それに、あの人たちだって……。でも、俺の気持ちは、あの人たちを――あいつらに、今すぐにでも報いを与えたくてたまらない。そんなことをしたらはやてがどうなるかなんて、わかってるのに」

「問題を混ぜて考えるから悩むのよ。まずは闇の書の問題が解決するまで我慢するのが辛いってことよね。それについてはこう考えたらどうかしら? あなたは今、復讐という料理を冷ましているの」

「……料理? 復讐が?」

「聞いたことない? 復讐という料理は冷めれば冷めるほどおいしいそうよ。だから、あなたは復讐をしないでいるんじゃないの。おいしく食べるために、我慢しているところなの。十分にお腹を空かせて、充分に冷えきってから、フォークを突き立てて、口に運んで、咀嚼して、飲み干すの。今はそのための準備期間」

 

 語りながら、クアットロはウィルの頭を撫でながら、赤髪に指を通し、指に巻いては離してを繰り返す。

 

「俺があの人たちを殺したら、はやては悲しむだろうな……」

「ええ、そうね。それがあなたを悩ませる二つ目の問題。あののほほんとした子を悲しませてまで、ヴォルケンリッターに復讐するかどうか。……でも、その答えは決まっているわよね。我慢なんてできないんでしょう? そんな思いを抱えたまま、平気な顔をして罪を犯した者がのうのうと暮らしていくのを眺めてなんていられないんでしょう?」

「…………ああ、そう……だな」

「なら、受け入れるしかないわよね。忘れないで。敵は復讐相手だけじゃなくて、あなたの復讐を邪魔しようとする相手も敵よ。容赦しては駄目」

 

 結論なんて最初から決まっていた。

 はやてが敵に回る――その未来を想像するだけで、胸が引き裂かれそうに苦しくて、もしかしたら自分が我慢するべきなのではないかと、そうできるだけの強さがあるのではないかと、思い込もうとしていただけだ。

 ウィルの前に広がる道はただ一本。

 

 同じように愛する家族を奪われたクロノとリンディは、どちらを選ぶのだろう。

 大切な家族を奪った闇の書とその尖兵のヴォルケンリッターを許さず、ウィルに協力してくれるだろうか。

 それとも、闇の書という根本を解決できれば、ヴォルケンリッターのことは見逃すのだろうか。

 もしそうだとすれば――

 

「もしかしたら管理局も……世界全部が敵になるかもしれない」

「そうなるかもしれないわね。管理局のことだから、何かと理由をつけて、あの子ごとヴォルケンリッターを取り込もうとするかもしれないわね」

 

 管理局が下した判断に逆らうなら、管理世界全てがウィルの邪魔をする敵になる。

 

 はやても、レジアスも、オーリスも、クロノも、エイミィも、リンディも、なのはやユーノだって、みんな、敵になる。

 これまで繋いできた絆が、人々の温かさが離れていくのが怖くて。

 ウィルは頭の下にある、触れ合う温もりにすがりつくように声をあげた。 

 

「なあ、クアットロ。もしも、世界全部が敵になっても、お前は俺の味方でいてくれるか?」

 

 クアットロは微笑を消すと、ウィルの髪から右手を離し、眼鏡と髪留めをそっと外す。

 意外と鋭い金色の双眸と、腰まで伸びる栗色の綺麗な長髪。

 眼鏡をしている最近のクアットロもかわいいと思うが、やっぱり初めて出会った時と同じ、こちらの方がウィルは好きだ。

 クアットロの顔が音もなく近づいてきて、瞳に映るウィルの姿すらわかるほどに近くなり。

 

 額に、温かで、柔らかな感触。

 一瞬触れて、すぐさま離れていった。

 

「私はあなたが復讐を諦めないことを望んでいるわ」



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三者三様

 ウィルがラボの談話室を訪れると、約束の時間にはまだ余裕があるというのに、すでにシグナムが待っていた。

 椅子に腰かけている彼女と差し向かいになる形でウィルも座る。

 部屋の中には二人きり。他には誰もいない。

 

「はやての様子はどうでしたか?」

「今夜は早めに眠られた。痛みを感じておられるような素振りもない」

「今日も一安心ですね。これもみなさんが蒐集を続けてくださっているおかげです」

 

 スカリエッティとグレアムの要望を受けて、ヴォルケンリッターは今も蒐集を続けている。ただし、その対象は人間ではない。

 蒐集できる対象は生物に限られており、無機物を対象にはできない。逆に、魔力を持つ生物でさえあれば、人間に限る必要はない。次元世界には生まれつきリンカーコアを持ち、その身に蓄えた魔力によって恒常的に魔法を発動し続けることで、生物学的に不可能としか思えない進化を遂げた生物が存在する。

 

 それほど数が多いわけではないので発見しにくく、蓄積する魔力量もそこまで多くはないため、蒐集の効率は人間の魔導師を対象にするより劣る。

 しかし今回のヴォルケンリッターは死人を出さないように気をつかっているため、人間が相手では限界まで魔力を蒐集することができない。命に別状がない程度に留めるなら、奪える魔力は最大量の七割以下。

 さらに管理局の避難誘導が進んでいるため、人間の魔導師は日に日に見つからなくなっている上に、生き延びた被害者の通報によって活動範囲が特定されやすい。

 現状では、人間から蒐集するメリットはないも同然だ。

 

 

 そもそもなぜ蒐集を続ける必要があるのか? 蒐集を完了させたところで、はやてが救われるわけではなく、むしろ闇の書の暴走を引き起こすだけではなかったのか?

 

 ヴォルケンリッターのその疑問に対して、グレアムとスカリエッティは二つの理由を述べた。

 一つ目は、闇の書がはやてにかける負担を軽減するためだ。蒐集をしない期間が続くと、闇の書が主のリンカーコアにかける負担が徐々に大きくなっていく。逆に言えば、蒐集をおこなうことで少しでも現状を維持することができる。

 二つ目は、闇の書の解析のため。闇の書には管制人格の顕現以外にも、蒐集が進むごとに開放される機能がいくつも存在する。より多くの機能へのアクセス権限を得ることができれば、スカリエッティによる書の解析はさらに進展する。

 

 ただ、ウィルはヴォルケンリッターには説明されなかった三つ目の理由を知っている。

 後一押しで蒐集が完了する状態を維持することで、治療が不可能だという判断が下された時に、グレアムの当初の計画――蒐集を完了させて闇の書の暴走を引き起こし、対闇の書用に開発された専用デバイス『デュランダル』によって凍結封印する案へと迅速に移行できるようにするためだ。

 

「だが、蒐集では対症療法にしかならない。根本的な解決方法を見つけなければ、主はやてはまた苦しみを味わうことになり、いずれは……。あのスカリエッティという男は、本当に信用できるのか?」

「頭の出来の方なら、先生はああ見えて管理世界有数ですよ。性格の方は……完全に信用して良い人ではありません。でも、万が一先生が何か出来心を抱いたって、グレアムさんが見張っているから大丈夫ですよ」

「彼らか……」

 

 こぼれた呟きには疑念がこめられていた。

 シグナムにとっては、グレアムはかつて自身と仲間を殺した人物だ。生理的な苦手意識があるのだろう。

 

 このラボにおけるウィルの役割は、現状に警戒心を抱くヴォルケンリッターとの緩衝材になること。

 こうして話をしているのもその一貫。彼らの味方として振る舞い、その思惑を把握し、不満を見つければ解消する。望まない方向に向かわないように誘導し、危うい点があればグレアムに報告する。

 与えられた役目を果たすため、ウィルは私情を押し殺し、笑顔の仮面を被って言葉を紡ぐ。

 

「不安なのはわかります。何か不満や疑問があれば、遠慮無く俺に言ってください。できる限り力になりますから」

「私たちの味方として動いてくれる、ということか?」

「それがはやてのためでもありますから。俺のことも信用できませんか?」

 

 冗談めかした問いかけに、シグナムはウィルの顔を真正面から見返した。切れ長の目に宿る光には一切の遊びが含まれていない。

 

「観覧車に乗った時のことを覚えているか?」

「え? ……ええ、覚えていますよ」

 

 予期せぬ話題の転換にとまどいを覚えつつも、答える。

 

「私もよく覚えている。主はやては不幸になるべきではない、幸せにしたい。あの時、貴方はそう言った」

 

 シグナムの視線が下がり、ウィルの右腕に注がれる。その目が何かを悼むように閉じられたかと思うと、再びウィルをまっすぐ見据える。

 

「本当ならば、再会した時にすぐにでも言うべきだった。……あの時の私は貴方の言葉を信じられず、貴方の行動が主はやてに害をもたらすと思い込み、排除しようとした。その浅慮で、取り返しの付かない傷を負わせてしまった」

 

 シグナムは断頭台に首を差し出すかのように、深々と頭を下げた。

 

「すまなかった」

 

 ウィルは呆然と目と口を見開き、間抜けな面をさらしていた。

 シグナムの言葉には何も不思議なところはない。ただ、シグナムが――ヴォルケンリッターが謝ったという事実が、途方もなく衝撃だった。

 胸の内によくわからない熱が渦巻いて、言葉がせき止められる。感情的な言葉を理性が止め、理性的な言葉を感情が止めていた。

 過ぎる時の間、シグナムは微動だにせず頭を下げ続けている。

 

「……頭をあげてください」

 

 やっとのことで、言葉を発する。

 顔を上げたシグナムと目が合う。彼女の瞳は変わらず真剣。冗談とも芝居とも思えない。言葉だけであっても本気で謝罪しているのだと、どうしようもなく理解できた。

 だから、どうしようもなく苛立ちがつのる。

 

「意外ですね。シグナムさんは……ヴォルケンリッターはこういうことには無頓着だと思っていました」

「そうだな……かつての私は戦う相手の人生どころか、命でさえ気に留めてはいなかった。だが、主はやての元に召喚され、海鳴で穏やかな日々を過ごす中で幾人もの人と出会って、少しずつ理解できるようになってきたと思っている」

 

 一つ一つの経験をかみしめるように語るその姿からは、大勢を死に追いやった闇の書の尖兵としての姿は感じられない。

 

「仲間たちが貴方をどう思っているのかはわからない。だが、約束する。私はもう貴方を疑うことも、裏切ることもしない」

 

 

 

 ウィルは自室に戻ると、背中からベッドに倒れこんだ。

 荒れる心を落ち着かせるために、大きく息を吸って、吐く。瞬間、精神に魔力が呼応して無作為な魔力変換が起こり、窓もない部屋に風が生まれて携帯端末が机から落ちる。

 

 緩衝材になるという任務の困難さはすぐに実感として理解させられた。

 ヴォルケンリッターに接触するということは、彼らの人となりを深く知るということ。

 今日のは格別に効いたが、彼らが人間らしい感情を、それも善良な人のような優しさや徳を見せるたびに、得体の知れない衝動が胸の内に生まれる。

 

 闇の書とヴォルケンリッターは同じ。一人の人間の頭と手のような関係。それがかつてのウィルの認識だった。

 シグナムたちと出会って、その認識は変わった。少なくとも、ウィルはシグナムたちを人間に近しい個として認識するようになった。

 主のために蒐集を続けてきたつもりで、その実、主の死を早めていただけにすぎなかった。そんなヴォルケンリッターも、ある意味では闇の書の被害者と言えるかもしれない。

 初めはヴォルケンリッターと知らず、はやての同居人として出会ったせいで、シグナムたち個人への親愛もある。

 

 だが、彼らは決定的に加害者で、その事実が変わることはない。

 もしもヴォルケンリッターがただ闇の書が生み出したというだけの存在で、過去に人を襲ったことがないのであれば、負の感情を抱くことはなかっただろう。だが、彼らは闇の書の尖兵として大勢を殺してきた。今ほど感情豊かではなかったとしても、彼らも彼らなりに人格があり、知性があった。無自覚ではなかった。

 そんな罪深い相手が、贖罪を口にした。そんな憎い相手が、自分への信頼を見せた。それはどうしようもなく、ウィルの心をかき乱す。

 

 なぜ、今なのか。それが持てるのであれば、なぜ、もっと前に発揮してくれなかったのか。

 

 

 ウィルはもう一度大きく息を吸い、吐いた。今度は魔力変換も発生しない。

 

 クアットロが教えてくれたように考える。今の自分は、復讐という料理をおいしく食べるために待っているのだ。だから、耐えられる。

 今日、シグナムから謝罪されたのは相当に()()()が、それに衝撃を受けてなお感情を律して我慢ができた。

 いつまでもは無理でも、この一件が解決するまでの後一月か二月。そのくらいは我慢ができるはずだ。

 

 きっと、今日の謝罪以上に衝撃的なことなどないはずだから。

 

 

 

 

 クロノが本局技術部にある試験場付きモニタールームに入ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「今から防御結界の強度を上げるね。ちょっと時間かかるから、楽な姿勢で待機していて」

 

 技術部所属の少女、マリエル・アテンザの声だ。彼女はヘッドセットをつけて、コンソールを操作していた。

 その隣にはユーノが立っており、歩み寄るクロノに気がついて振り返る。

 

「遅かったね、もう始まっているよ」

 

 前方の大型スクリーンには、デバイスを構えるなのはの姿が映っており、その端になのはのヴァイタルデータがオーバーレイ表示されている。

 

「あれがそうか」

 

 マリエルが首だけ振り返って、クロノの疑問に答える。

 

「ええ。あれがなのはちゃんの新しいデバイスです」

 

 予想を遥かに超える優秀さをクロノとリンディに見せつけ、晴れて民間協力者として捜査に協力することになったなのはに、クロノは何人かの知人を紹介した。

 マリエルはその内の一人だ。本職のデバイスマイスターにメンテナンスをしてもらえば、それだけでデバイスの性能は数段向上する。クロノの想定では、デバイスの調整をするだけ、せいぜい古いパーツを交換する程度で終わるはずだった。

 

 ところが、マリエルはなのはのレイジングハートと同時に、フェイトのバルディッシュの調整も担当していた。

 マリエルが二つの高性能デバイスをうきうきとしながらいじっていると、突然バルディッシュが自身の強化案を進言。デバイス同士リンクしていたのか、はたまた偶然か、レイジングハートも同様の強化を進言。

 なのはとフェイトにそのことを話してみたところ、デバイスが望んでるならかまわないと了承したので思い切ってやってみた――と、そんな経緯をクロノが聞いたのはデバイスの改造が終わってからだった。

 

「試験場の防護結界の展開が終わっていますから、先に大出力モードの試験をやらせてくださいね。デバイスの話はその後で」

 

 そう言うと、マリエルは前方に向き直って、再びなのはに指示を出し始める。

 

 クロノはなのはが体の前に掲げるデバイスを観察する。

 白い杖の先にコアとなる赤玉が取り付けられ、月を模した金色のフレームがそれを囲む。なのはの相棒たるインテリジェントデバイス、レイジングハートの姿だ。しかし、金色のフレーム部には新たに排熱機構が取り付けられており、その異物感がフォルムから洗練を奪い取り、荒々しさを加えていた。

 さらに、クロノは見慣れないパーツの存在に気がつく。

 

「弾倉……件の強化パーツか」

 

 マリエルがにやりと笑う。金色のフレーム部の付け根には、弾倉のように見えるパーツが取り付けられていた。

 

「ええ。CVKシリーズの792番――通称、ベルカ式カートリッジシステムです」

 

 ディスプレイに映るなのはが大きな声で、高らかに新たな相棒の名を唱える。

 

『レイジングハート・エクセリオン! バスターモード!』

 

 コアを囲む金色の半月が音叉にも似た形状へと変化する。大量の魔力の運用と放出に特化した、レイジングハートの大出力モードだ。

 なのはが内包する魔力がデバイスの矛先へと集い、光球を形作る。

 

『カートリッジロード!』

 

 弾倉――カートリッジから薬莢が吐き出される。なのはの親指ほどの大きさのその中に注入されていたのは、なのはに合うように調整された圧縮された魔力。

 カートリッジから解放された魔力は、魔導師であるなのはの魔力と混じり合いながら、デバイスであるレイジングハートが走らせる魔法プログラムの流れにそって巡り、デバイス先端に形を成す光球へと流れこむ。

 

『ディバイン――』

 

 なのはの額に汗が浮かび上がり、手は一層強くデバイスを握り締める。

 魔力が増えたことで、光球はさらに肥大化しようとする。なのははさらなる集中をもって荒れ狂う魔力を一定の大きさへと保ち続ける。莫大な魔力の流れを制御し、淀みなく巡らせる。

 

「あ、まずいかも」

「え?」

「なのはちゃんの砲撃魔法の収束率が予想より高くて、もしかしたら防護結界を貫いちゃう――」

 

『――バスター!!』

 

 枷から解き放たれた膨大な魔力は、与えられた指向性にしたがって直進。

 壁にぶつかった瞬間、試験場の映像が大きくぶれ、耳障りな音をたてる。

 

「だ、大丈夫なんですか!?」

「た、多分。念の為に防護結界のランクを二段階上げて設定しておいたから……」

 

 心配そうに聞くユーノに、マリエルが引きつった顔でコンソールを操作しながら答える。しばらくして、安堵の息をこぼす。

 

「ぎりぎり……ほんとにぎりぎり大丈夫。良かったぁ、無理言って借りてるのに設備壊したりしたら減給じゃすまないよ」

「なのはの方は?」

「そっちも大丈夫。……ああ、でも内壁の防護システムが落ちてるから、一度立ち上げなおさないと」

 

 

 マリエルがシステムの復旧をしている中、クロノはサブディスプレイに表示された砲撃のデータに目をやった。同じくデータを見ていたユーノが、率直な感想を口にする。

 

「すごいね。単なる砲撃魔法なのに、時の庭園で撃った収束砲撃と同じ……もしかしたら、それ以上の威力があったかもしれない。いくらヴォルケンリッターでも、直撃したらただじゃすまないんじゃないかな」

「これだけの収束率と砲撃初速があれば、射程距離もかなりのものになりますよ。有効射程でさえ、本局内の試験場では狭くて測り切れないでしょうね」

 

 と、マリエルが付け加える。

 褒める発言をする二人とは対照的に、クロノの心中は懸念の占める割合の方が大きかった。

 たしかに使いこなせれば大幅な戦力増になる。堅固な騎士甲冑を持つヴォルケンリッターに対して確実な有効打を持っているなのはの存在は心強い。

 しかし、それらは使いこなせればの話だ。

 

「あれだけの魔力の運用と放出は、デバイスの演算部やフレームに相当の負荷がかかっているはずだ。それにインテリジェントデバイスとの相性や、リンカーコアのポテンシャル以上の魔力を使うことによる肉体への負担……カートリッジシステムに関してはあまり良い噂を聞かない。そのあたりの問題は解決しているのか?」

 

 マリエルはスクリーンを向きながら、クロノに答える。

 

「たしかにインテリジェントデバイスとカートリッジシステムの相性は良くありません。カートリッジの魔力を制御するために生成される新たなプロセスは、全体の演算速度を低下させてしまいます。インテリジェントデバイスは高度な人工知能を搭載している分、ただでさえ即応性が悪いので、演算速度の低下によって受ける影響は大きいです。でも、それは標準的なインテリジェントデバイスで生じる問題なんです。レイジングハートほどの性能があれば、このくらいの速度低下が大きな問題になることはありません。デバイスへの負荷に関しては、排熱機構とフレームの強化で対応していく予定です。レイジングハートはインテリジェントデバイスにしては余裕のある造りをしていますから、十分に対応可能です」

「高性能なワンオフ機だからできるということか。魔導師の安全面は?」

 

 マリエルは別のサブディスプレイになのはのヴァイタルデータを表示させる。

 

「ご覧のとおり、試験では特に問題は表れていません。未熟な魔導師なら魔力を制御しきれずにもてあまして、リンカーコアに過剰な負荷がかかってしまうこともありますけど、なのはちゃんの制御技術なら十分に許容範囲内に留めることができます」

 

 マリエルは自信満々に答える。

 デバイスマイスターはデバイスの調子を見ているだけでは半人前。一人前はデバイスを通して魔導師を見ると言う。

 マリエルはまだ若いが、その知見は間違いなく一人前のデバイスマイスターだ。

 

「フェイトの方はまだ試験をしていないようだが、大丈夫そうか?」

 

 フェイトのリンカーコアはほぼ完治している。このまま経過観察で異常がなければ、数日後には彼女も訓練の再開、そしてカートリッジシステムの試験にとりかかることになる。

 

「バルディッシュ――新しい名前はバルディッシュ・アサルトって言うんですけど――あの子もレイジングハート並の高性能機です。それにフェイトちゃんの魔法構築技術は、得意な魔法に限れば魔法学院の修士生にも匹敵しています」

「二人とも、問題ないと考えてかまわないんだな?」

「理論上は大丈夫です」

「……不安になる言い方だな」

「こういうのに絶対はありませんから。何度も試験をして、そのたびに精密検査を受けて、その結果が出てからでないと確実なことは言えませんよ。でも、私も人とデバイスを繋ぐデバイスマイスターの端くれです。使い手の体をないがしろにするようなことはしませんから、安心してください」

 

 莞爾と笑いながら宣誓するマリエル。

 職の矜持を示されては、クロノも納得せざるを得ない。

 

「それならいい。彼女たちがより良い状態で戦えるように、これからも手を貸してやってくれないか」

「わかってます。あ、そういえば、頼まれていたデータの調査結果が出ましたよ。後で報告書をあげるつもりですけど、概要だけでも見ますか?」

「もちろんだ。ぜひ頼む」

 

 マリエルは復旧作業をおこなう手を止めて、懐から取り出した別の端末を操作する。

 

「ジャミングのせいで有効な観測データがあまり取れてなかったので、確実ではないんですけど、おそらくこれで間違いありません」

 

 映し出されたのは、仮面の戦士が使っていたカードだ。

 

「ミッド式の理論で組まれた魔力蓄積器。いわば、ミッド式カートリッジシステムです」

「見たことがないな」

「開発されたのは二十年以上前で、今はほとんど使われていないみたいですから。最初から全部ミッド式で組まれているので、ベルカ式カートリッジと違ってデバイスをかまさなくても使えますし、蓄積魔力の変換ロスもほとんどないと、良いところも結構あるんですけどね」

「それだけ聞くと便利すぎるように思えるな。使われてないのなら、何か欠点があるんだろう?」

「もちろんです。まず、ミッド式はベルカ式に比べて魔力の圧縮封入に向いていないので、器の損傷が激しいんです。ベルカ式カートリッジは再び魔力をこめて何度か再利用することができるんですけど、こっちは一度使えばおじゃんの完全な使い捨てです。製造にかかる費用と時間も大きいので、普通に使うには贅沢すぎる代物ですよ。それに強引に圧縮しているせいで、解放された魔力が不安定で制御が難しいです」

 

 わかっていたことだが、仮面の戦士は相当な実力の魔導師のようだ。今ではほとんど使われていない技術を用いているのなら、年をとったベテランである可能性も高い。

 

「あまり使われていないのなら、製造ラインの調査から収穫が得られるかもしれないな。ありがとう、参考になった」時計を見て、ユーノに声をかける。 「ユーノ、そろそろ時間だ。行くぞ」

 

 

 

「ここだ」

 

 クロノは先方から伝えられている部屋であることを確認すると、扉を開き、部屋の中へと脚を踏み入れる。

 

 途端、部屋の中から何かが跳びかかってきた。

 とっさに横に跳び退いて避けようとするが、後ろにユーノが立っていることを思い出して直前でその場に踏みとどまる。姿勢の崩れたところに跳びかかられ、その衝撃を支えきれずその場に押し倒された。

 

 倒れたクロノに馬乗りに乗っかっているのは、若い女性だった。腹部に女の臀部の感触が、女性の肉体がもつ柔らかさが伝わる。

 

「――っ!」

 

 もっとも、クロノにそれを堪能する余裕はなかった。女性の重みが仮面の戦士との戦いで怪我を負った部分にかかっていて、痛みというもっとスパイシィな刺激が与えられていたからだ。

 女性は焦ってクロノの上から飛び退くと、バツの悪そうな顔で手を差し伸べた。

 

「悪いね。まさか倒れるなんて思わなかったから。大丈夫だった?」

 

 クロノは顔をしかめながらも、差し出された手を取って立ち上がる。

 目の前の女性はよく見知った相手だ。高級なチョコレートのようになめらかな色合いの茶色の髪から獣の耳が飛びてており、クロノを見つめる瞳には猫のように縦長の虹彩。

 クロノの師の一人、リーゼロッテだ。

 

「そんなところでふざけていないで、こっちに来て座りなさい」

 

 部屋の中心の方から声がする。そこにはテーブルを囲むようにコの字型にソファが置かれていて、その一画に、リーゼロッテとよく似た顔の女性が座っている。

 クロノの師の一人、リーゼアリア。

 

 

 リーゼロッテがソファへと戻りリーゼアリアの横に。対面のソファにクロノとユーノが腰掛ける。

 

「紹介するよ。僕にぶつかってきた方がリーゼロッテで、もう一人がリーゼアリアだ」

「そしてこれが私たちの弟子のクロノ」と、リーゼロッテ。

「誰に紹介してるんだ……? まぁいい。ユーノもグレアム提督には会ったことがあるだろう。二人はグレアム提督の使い魔で、見ての通り素体は猫だ。それからロッテの言う通り、僕にとっては一応師にあたる」

「へえ、お二人は教官なんですか?」

「教官資格は持ってるけど、クロスケ相手のは家庭教師みたいなもんだよ。私が基礎トレーニングと戦技全般」

 

 と、リーゼロッテが胸を張れば

 

「私は基礎教養と魔法学全般をね。士官学校に入るまでだけれど」

 

 と、リーゼアリアが微笑をたたえながら語った。

 

 クロノが彼女たちの教えを受けたのは、士官学校に入学する前。まだ年齢が一桁の頃だった。

 その当時、グレアムは艦隊司令を辞して顧問官になっていたが、かつての功績と人望のためか相変わらず多忙であり、クロノを直接指導できる時間がとれなかったと聞く。そのため、普段のクロノの教育は使い魔であるリーゼロッテとリーゼアリアが担当していた。

 現役時代は武装隊員や捜査官として大いに活躍していたリーゼ姉妹だが、闇の書事件の後はグレアム同様に閑職に配属されるようになった。しかし一線を退いたとはいえ、今でも魔導師ランクでAAAを維持している凄腕の魔導師だ。

 

「あんたが連絡にあったユーノ?」

「はい、挨拶が遅れてすみません。ユーノ・スクライアです」

「ふぅん……」

 

 リーゼロッテが前に乗り出して、見定めるようにユーノの顔を覗きこむ。ユーノも初めは動かずにじっとしていたが、五秒を越えた辺りで恥ずかしくなりだして体を縮こめる。

 その仕草が気に入ったのか、リーゼロッテはにんまりと笑った。

 

「あんた、おいしそうな匂いがするね。食べていい?」

「えっ、ええっ!?」

 

 狼狽するユーノ。クロノが眉をしかめる。

 

「ダメだ。ユーノにはこれから調査をしてもらうつもりなんだ」

「じゃあ、終わってからは?」

「……ちょっとだけならいいだろう」

「僕の意志は!?」

 

 リーゼアリアが手を伸ばし、リーゼロッテの後ろ首を掴んでソファに引き戻す。

 

「からかうのもそのくらいにしておきなさい。話が進まないわ。さて、仕事の内容はクロノから聞いているのかしら」

「はい。無限書庫に収められた資料の中から、闇の書に関係するものを見つけるんですよね」

 

 『無限書庫』は、本局内部に入り口を持つ管理世界最大のデータベース、そしてその貯蔵空間のことを示している。

 固定された広大な空間には中心に一台のサーバーが置かれており、このサーバーに入力されたデータは書物という形で無限書庫に現れる。無限書庫という空間そのものが一種のアウトプット装置になっている。

 かつては、書庫のデータを管理するための巨大デバイス――魔導書が存在していたが、現在は紛失している。魔導書がなくなったことで出力アルゴリズムを変えられず、自動ソート機能も使えなくなり、書の整理や発見が非常に面倒になってしまった。

 手作業で書を整理、管理しようという動きもあったのだが、予算と人員の都合で実行されることはなく、現在ではデータの入力のみが継続しておこなわれている。

 

「古いデータは過去の調査でほとんど調べつくされているはずだ。だからユーノにはまだ調査されていない部分――ここ十年の間に入力されたデータを中心に捜索してほしい」

「もしかして、僕一人で?」

「いいや、すでに司書資格を持つ局員が何人か入っている。だが、まったく人手が足りていない」

 

 無限書庫にはデータの入力をおこなうための人員しか配置されておらず、調べたいことがあれば、その都度司書資格か、それに相当する技能を持つ人員を集めて調査するしかない。

 しかし、今回のように急に調査が決定しても、司書資格を持つ局員はたいてい手が空いておらず、調査人員をなかなか揃えることができないという事態におちいりやすい。読書魔法と検索魔法を覚えているユーノに声がかかったのも、局員だけでは充分な人手が集められなかったからだ。

 

 クロノの言葉を、リーゼアリアが引き継ぐ。

 

「今日のところは私たちと同伴で、すでに入っている局員との顔合わせと書庫内部の確認。急で悪いけれど、明日から調査に加わってもらうわ。いけるわね?」

 

 ユーノはリーゼ姉妹に向き直り、頭を下げる。

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 クロノはソファから立ち上がる。

 

「書庫の調査の関してはきみたちに全て任せるよ。僕はこれで失礼させてもらう」

「あ、クロノ」

 

 出口に向かうクロノを、リーゼロッテが呼び止める。

 

「さっきはごめんね。怪我してるのに、配慮が足りなかったよ」

「気にしなくてもいい。それにロッテに気配りができないのは知っている」

「なにおう!」

 

 リーゼロッテが顔を赤くして怒り、隣のリーゼアリアがくすくすと笑う。

 

 

 部屋から出てから、クロノは忍び笑いをもらした。面倒なところもたくさんあるが、師匠たちとの再会は嬉しいものだ。

 それにしても今日のリーゼロッテは珍しいくらいに優しかった。怪我をするのは鍛え方が足りないからだと言うような人なのに、まさかクロノの怪我の具合を心配するなんて。やはり闇の書絡みとなれば、リーゼロッテでもナーバスにならざるを得ないのだろうか。

 

 そう考えた時、進む脚が止まる。

 

「怪我?」

 

 リーゼロッテは、怪我しているクロノを気づかう発言をした。たしかにクロノは怪我をしている。月村邸での戦いで仮面の戦士の攻撃を受けて。だが、彼女はそのことをいつ知ったのか。

 グレアムから聞いたのだろうか。しかし、グレアムはクロノがその怪我を負う直前に仮面の戦士にやられていたはずだ。いや、ああ見えて情の深い師だ。クロノが怪我をしていないか心配して、リンディやエイミィあたりに問い合わせてくれていたのかもしれない。

 しかし彼女がクロノに乗った時、その視線は怪我をしたところを正確に見てはいなかったか? それに、カードの解析結果が示す人物像もちらつく。

 

 自分がとても罪深い結論に至ろうとしていることに気づき、繋がりかけた思考を慌てて否定する。

 だが、心に芽生えた疑念は消えてくれなかった。

 

「……エイミィと母さんに相談してみるか」




 この作品の主役三人(ウィル・なのは・クロノ)の現況です。
 クロノは現状他二人より出番少なめになっていますが、完結後にはあいつも主人公だったなと思っていただける……といいなぁ。


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夜天の書

 グレアムが通された研究室の中は、埋め込み型の照明が冷たい灯を放ち静謐な雰囲気を作り出していた。

 

 部屋の中央で、椅子に腰掛けたスカリエッティが投影された無数のホロディスプレイを見ていたが、ウーノに案内されて入室してきたグレアムに気がつくと、全てのホロを消してゆっくりと腰を上げた。

 肩まで伸ばした紫の髪に輝く金色の瞳。端正な顔に、にやにやとした笑み。名のある職人が仕立てたであろう上質のスーツの上に、無造作に白衣を羽織る。すべて、いつもと変わらない。

 

「きみ自身がわざわざ足を運んでくれるとはね」

「リーゼのことは信頼しているが、たまには自分の目で確認しないと不安でな。予定より少し早くついてしまったが、かまわないか?」

 

 会話を交わしながら、部屋の隅に置かれた机を挟んで、互いに椅子に座る。

 

「問題ないよ。こちらも予定していた実験を半端なところで中断するはめになって、時間を持て余していたところだ」

「何か問題でも?」

「闇の書の通信領域にある破損データから、ヴォルケンリッターの記憶情報をサルベージしたんだ。それを使って少しね」

 

 闇の書の中には膨大な破損データが存在する。

 その大半は過去に蒐集した魔法や蒐集した対象の生体情報といった、転生のたびに消去されるデータの残りカスだ。

 

「ヴォルケンリッターは定期的に自らの記憶情報を闇の書へと送り、保存している。しかし莫大な記憶容量を持っているとはいえ、無限ではない。正しい手順で記録されたならいつまでも残しておきはしない。ということは――」

 

 そこまで語ると、スカリエッティは言葉を切る。

 彼は時々このよう間を取ることがある。自分が一方的に話すだけではなく、相手にも発言の機会を与えることで、教師のように思考を喚起させようとしている。

 というわけでもなく、ただ自分だけが話し続けるのが嫌なだけのようだ。かといって、相手に一方的に話されるのも好きではないようで。

 目立ちたがりで、寂しがり屋で、主導権を握りたがる。優れた知性を有している割に子供っぽい感性を見ていると、あのクアットロという少女をそのまま大きくさせたような男だと感じる。逆か。

 

「見つけた情報は正しく記録されなかった記憶。ヴォルケンリッターが経験していながらも憶えていない記憶。つまり闇の書が暴走した時の記憶である可能性が高い。そういうことか?」

「正解だよ。データは損傷が激しく、内容を読み取ることはできなかった。しかし元はヴォルケンリッターの記憶だ。彼ら自身にその記憶を読み取らせれば、断片的にでも中身がわかるのではないか。そう考えて実験を持ちかけてみた」

「ヴォルケンリッターにとって、危険ではないのか?」

 

 元が自分たちの記憶だとはいえ、破損したデータを入れた結果どのような影響があるのかは未知数。

 スカリエッティに悪意があるなら、恣意的に改竄されたデータを読み込むことで、人格や記憶を書き換えられてしまう危険すらあるのではないか。

 そのような危険な実験をヴォルケンリッターが受けるだろうか。

 

「闇の書にプログラム体を構成するオリジナルデータがある以上、たとえ異常が発生したとしても容易に元の状態に復旧できる。そのことは彼ら自身が一番よく理解しているから、快く協力してくれたよ。ただ……」

 

 スカリエッティは肩をすくめる。

 

「彼らは記憶を読み取ることができたし、データ的な異常も起きなかったが……プログラム体とはいえ彼らは人間の肉体機能を再現していることで、人間によく似た精神構造を持つに至った。蘇った記憶に強い情動を引き起こされることもある」

「思い出した内容にショックでも受けたか。暴走を間近で見た記憶が蘇れば、それも無理はない」

 

 グレアムの言葉に、スカリエッティは上を向き。結果を見通せなかった自らの不明を恥じるように大きく息を吐いた。

 

「実験に参加してくれたのはシグナム君とヴィータ君、どちらも大きなショックを受けていたよ。記憶については日をまたいで落ち着いてから聞き出すつもりだ」

「賢明な判断だ。無理強いして信頼を失い、奴らに裏切られてしまっては元も子もない。記憶の内容に興味はあるが、ヴォルケンリッターの視点だからといって目新しい情報が手に入るとも限らない」

 

 ウーノがティーセットを乗せた浮遊型ドローンを伴って部屋に入って来て、紅茶を注ぐと、再び退出した。

 注がれた紅茶を飲んで一息つく。寒い中を歩いてきて冷えた体に、温かさが染みわたる。

 

 

「はやて君の体調はまだもつのか?」

 

 本題に入る。今日訪れたのは、はやてがこのラボに滞在し始めてから半月ほど経過した今、現状を把握し、今後の予定について打ち合わせをするためだ。

 スカリエッティはホロディスプレイを投影し、はやてのヴァイタルデータを表示する。しばらく専門用語混じりの説明が続いた後、

 

「要するに、容態は徐々に悪化し続けているということだよ。今はまだ安定しているが、はやて君のリンカーコアにかかる負荷は日に日に大きくなっている。このままだと近いうちにリンカーコアが耐え切れなくなり、強い痛みをともなう発作を引き起こす。そうなればリンカーコアの崩壊は一気に進行し、制御できなくなった魔力が肉体を破壊する」

 

 と締めくくった。

 

「これ以上負荷を軽減することはできないのか」

「擬似的な魔力パスを形成して負荷を散らすのは簡単だし、すでにやっているよ。しかしやりすぎれば闇の書が主とのリンクが絶たれていると判断してしまう。現状が精一杯だ」

 

 次元世界最高峰の科学者であっても時間稼ぎすら容易ではない。予想はしていたが、闇の書とはどこまでも厄介な存在だ。

 

「猶予はどれほど残されている?」

「私の見立てではリンカーコア崩壊の契機となる発作まで半月、生命活動の停止は最大限に手をつくしても発作から一月といったところかな」

「一月半……命を落とすまでヴォルケンリッターがおとなしくしているはずがない。実質、一月と見た方が良いか」

「その期限も、あくまでも何もなければだよ。精神的ストレスによって体内魔力が乱れるようなことがあれば猶予はさらに短くなる。最悪、即座に暴走を起こす可能性もね」

 

 グレアムの脳裏に闇の書に侵食されるエスティアの光景がよぎる。はやての意識一つで、あの時と同じ事態が引き起こされかねない。

 

「はやて君のような幼い子にとって、生活環境が変わるだけでも相当にストレスがかかる。メンタルケアに問題はないか?」

「そちらは予定通りにウィルに任せている。苦しみながらも健気に頑張っているよ。それに、はやて君もなかなか面白い子だ。ヴォルケンリッターだけではなく、ウィルやクアットロも当人たちが思っているほど演技がうまいわけではない。仲の良いふりをしていても、ぎこちなさを隠し切れていない。彼女はそれを感じ取り、自分に不安を与えないようにふるまう周囲の配慮を理解して、何も気づいていないふりをしている。それどころか気づいてないと自分で自分を欺いている。役者の才能があるよ」

「……意外とよく人を見ているのだな。研究にしか興味がないのかと思っていた」

「人間関係のしがらみは煩わしいが、コミュニケーション自体は好ましいと感じているよ。さて、はやて君に残された一月という時間を考えれば、そろそろ私たちも方針を絞って動き始めなければならない。ここからは闇の書を滅ぼすための方策について話をしよう」

 

 

 

 

「夜天の書は単なる魔法の記録本だった」

 

 紅茶を一口飲んで喉を潤してから、スカリエッティは語り始める。

 

「古代ベルカ後期は相次ぐ戦乱によって、国や文明が簡単に失われた時代だ。地域ごとに発達した多種多様な魔法技術が、国と共に永遠に失われてしまう。その損失を嘆いた者がいたのか、リンカーコアを通して魔導師が行使した魔法を読み取り記述する『収集機能』を持つ魔導書として夜天の書が作り出された。その他にも、主を守護するための騎士を作り出す『守護騎士機能』、魔法技術がなくメンテナンスを受けられない場所でも長期間の活動を可能とする『復元機能』、書と主を危機から逃すための次元間移動をおこなう『緊急脱出機能』など、様々な機能が実装されていた。単なる記録本にしてはオーバースペックだが、幾人もの王が覇を競い合う戦乱のベルカを巡るとなれば、このくらいは最低限必要だったのかもしれないね」

「戦乱の時代に様々な地域の魔法を集めて回るなど、諜報員と見なされて殺されてもおかしくない。十分な戦力と逃走手段は必須だろう。案外、本当に他国の魔法技術を諜報するために造り出されたのではないか?」

「それを求めた者はいただろうね。開発者がそれを望んでいたかは知る由もないが。一方、所有者ごと消滅して新たな主の元に現れる『転生機能』や、周囲の物質すら取り込んで己の構成物へと変化させる『無限増殖機能』のように、闇の書には夜天の書にない機能がいくつかある。夜天の書の機能を改変したと思われる部分も多いが、最も恐るべき転生機能については――」

 

 スカリエッティはわざとらしく大げさに肩を落とす。

 

「詳細不明だ。なにせ、現段階で調べられる範疇では転生機能らしいものがどこにも見当たらない。しかしその他の機能に関しては、夜天の書は歴代の主による度重なる改変によって闇の書へと変化した、というきみの推測はおおむね当たっていたよ」

 

 かつての自らの推測が正しいと告げられても、グレアムはすんなりと納得できなかった。

 今のグレアムは、闇の書の全てを統括する管制人格の存在を知っているから。

 

「今の私はその考えには少々懐疑的だ。闇の書は主を変えるたびに蒐集した記録が消去されている。これでは集めた魔法を後世に残すことができない。管理者である管制人格が夜天の書の頃からいたのであれば、このような己の存在意義を揺るがす改変を看過するとは思えない」

「看過するしかないのさ。夜天の書にはなく、闇の書にある機能の一つ『防衛プログラム』のせいでね。巨大なセキュリティプログラムであるこいつは、なぜか管制人格の管理下にないんだ。夜天の書にもセキュリティプログラムがあったにも関わらず、管制人格から独立したプログラムとしてわざわざ新たに組み込まれた――何のためにそんなことをしたのだろうね?」

 

 また出てきたこちらを試すような口調に、ため息一つ落として、答える。

 

「政に軍を付随させず、王権のもとに政権と兵権を分離するようなものだな。それを王がするとなれば、政の動きを牽制するため。防衛プログラムを組み込んだ主は、管制人格に干渉されるのを嫌がったのだろう」

「話が早い。私もきみ同様、防衛プログラムは外部からの干渉への対処だけではなく、内部からの干渉を封じるために後から追加されたのだと考えている。管制人格は異常なプログラムを修正しないのではなく、防衛プログラムに妨害されて修正ができなくなっているのさ」

 

 グレアムは苦々しさに顔を歪める。

 防衛プログラムの妨害によって管制人格が異常を修正できなくなっているにも関わらず、歴代の主たちは己の都合の良いように改変を続けていった。

 主だけでは管理できないから管制人格という補佐を置いたのに、それを切り離してしまえばどうなるのかは火を見るより明らかだ。制止されるはずの危険な改変が看過され、簡単に修正できるはずのエラーが放置され、積み重なったバグがシステム全体を大きく狂わせた。

 その成れの果てが闇の書なのかもしれない――と、しかしその想像は、スカリエッティの次の発言で否定された。

 

「ただ、管制人格を抑えるためだけに組み込まれたわけではないと、私は考えているんだ。解析を進めていくうちに、防衛プログラムが管理する領域に、隔離された何かがいる」

「隔離……ウイルスプログラムか?」

「おそらくはね。その領域は防衛プログラムの警戒が最も厳しくて、中を覗くことはできなかった。……ここからは単なる私の想像にすぎないが、ウイルスは夜天の書の管理者権限を奪うために送り込まれた刺客で、防衛プログラムはそれを隔離するために組み込まれたのではないだろうか」

「管制人格の干渉を妨害するためではなかったのか?」

「それも目的の一つには違いないよ。ただし管制人格を疎ましがったわけではなく、ウイルスの駆除が終わるまでの一時的な間、管制人格の権限を封じるだったのではないかな。当時の主は管制人格がウイルスに感染して、駆除を妨害してくるのを恐れた。そこでセキュリティに特化した防衛プログラムを組み込んで、主以外の者によるシステムへの干渉を排除し、自分の力だけで夜天の書を元に戻そうとした。しかしその途中で命を落としたのか、駆除が完了せずに、防衛プログラムもそのまま残ってしまった。ウイルスの駆除を引き継いでくれる者が主になってくれれば良かったのだが、その後の主たちは管制人格が干渉できないのを良いことに、自分にとって都合の良いようにシステムを改変し始めた。その結果が――」

「暴走か。……それが真相だとしたら、なんともやりきれない結末だな」

 

 元凶は誰かと問うならば、防衛プログラムを追加した者こそがそれなのだろう。しかし本質はそこにない。スカリエッティの憶測が正しいとすれば、防衛プログラムを組み込んだ主にも悪意はなかったことになる。

 現状を生み出したのは、その後に続く数多の主たちによる改変。そしてそれを成した歴代の主たちにも悪意はなかった。ただ無知で無謀で無関心な、想像力の欠如した愚かさが長い時間をかけて絡まり合って、その果てに闇の書という災厄が生まれた。

 大勢の犠牲者を出し、世界を揺るがし続ける災厄が、誰も望んでないのに生み出されたのだとすれば、それはなんともやりきれない想像だった。

 

 感傷的になるグレアムと対照的に、スカリエッティは淡々と話を続ける。

 

「では次に暴走についてだ。蒐集の完了がトリガーとなっている以上、暴走の原因は蒐集を終えた後に実行されるプロセスにある。管理者権限を得るためには蒐集を終えなければならないというヴォルケンリッターの証言もあるし、暴走の原因は管理者権限を取得するためのプロセスにあると考えるのが自然だね。この時に何が起こっているのかは、実際に観測してみるまではなんとも言えない」

「原因についての推測はないのか?」

「数多の改変が管理者権限の取得プロセスに歪みが生じ、それを検知した防衛プログラムが、ウイルスが主を装って管理者権限を取得しようとしていると判断した。もしくは、管理者権限を取得する瞬間を狙って、ウイルスが隔離領域から這い出て来る。このどちらかの可能性が高いと考えている」

「防衛プログラムはウイルスに対応しようとしてるだけで、それが我々には暴走しているように見えているだけということか? なら、なぜ周囲への破壊活動をおこなう?」

「攻撃ではなく、無限増殖機能による侵食が目的だとしたら? 闇の書はウイルスを抑えるために、周囲の物質を取り込んで自らの一部として演算能力を増加させようとしており、その過程で敵対的な存在を見つけたから攻撃していると考えることもできる」

「……苦しいな」

 

 スカリエッティは苦笑する。

 

「だからあまり言いたくなかったのさ。情報が少なすぎるから、断定できることは限られているし、特に原因については妄想の域を出ない。これ以上を求めるなら防衛プログラム本体を調べる必要がある」

「危険だな」

「超危険だよ。今ははやて君のヴァイタルデータを使って、闇の書の各システムにアクセスしているけど、防衛プログラムに近づきすぎるとさすがにバレてしまうだろうね。もっともそれで暴走でも起こってくれれば、その過程を観測することで闇の書の全貌を解明することもできるのだけど。そうなれば()はもっとうまくやれるかもしれないが、どうだろうか?」

 

 グレアムはゆっくりと首を横にふった。

 

「次もまたはやて君のような優しい子が主になるとは限らない。今回、奴らの信用を得るためとはいえ、管理局の対応を一部明かしてしまった。奴らは人形だが知恵をつける。次の主が蒐集を望めば、奴らはこれまで以上にうまく身を隠しながら蒐集を進めるだろう。今回で終わらせる。これは譲ることのできない最低条件だ」

「では、今回で終わらせるための建設的な話をするとしよう。闇の書を脅威をなくすためのプランはいくつかあるが、その中でも十分な見込みのあるプランは二つ」

 

 スカリエッティは右手の指を二本立て、グレアムに示す。

 

「一つ目はきみが立案した凍結封印だ。魔力素だけではなく、あらゆる素粒子の振る舞いを停止させる完全凍結魔法によって、暴走してリソースを削られている闇の書を封印する。このプランは成功する見込みが高い代わりに、闇の書の主――八神はやて君の犠牲が必須だ。さらに凍結封印は内部からは粒子一つすら動かせない代わり、外部からの干渉があれば封印を破ることができる。封印後は厳重な管理を続ける必要がある」

「管理局が管理するロストロギアの中には、潜在的な危険度は闇の書に匹敵する物がある。闇の書といえど、凍結さえしてしまえばそれらと同じだ」

「たしかに、適切な管理をおこない続けることができれば、安全は保たれるだろうね。管理局にいつまでそれが可能か――いつまで存在していられるかは意見がわかれそうだが。それにこのプランは成功すれば良いが、もしも封印に失敗、もしくは封印が解かれて再び闇の書が活動を始めた場合、ヴォルケンリッターの助力は二度と得られなくなる」

 

 ヴォルケンリッターは不信感を持ちながらも、はやての命を助けるためにグレアムと協力している。

 その信頼を裏切れば、もはやヴォルケンリッターは主以外を信用しなくなる。

 

「それも承知の上だ。その上で、この案には実行するだけのメリットがあると考えている」

「聡明なはずのきみが、このことになるとやけに固執するね。そのあたりに君自身の歪みがありそうだが――」

「訳知り顔の精神分析は不愉快だ。それで、次の案は何だ?」

「私から提案できるプランは、防衛プログラムの破壊だ。防衛プログラムがなくなれば、管制人格が行動を阻害されることはなくなる。管制人格が自由に動けるようになれば、はやて君が管理者権限を持つ真の主になれる。管理者権限があれば、システムやノードの破棄がおこなえる。転生機能が闇の書のどこにあるのかわからなくても、動力源である中枢とその他のシステムの繋がりを断ち切れば同じことだ」

 

 簡単だろう? という風のスカリエッティ。

 語られたプランは、たしかにそれだけ聞けば簡単に思える。しかし、グレアムには実現不可能な絵に描いた餅にしか見えなかった。

 

「忘れたわけではあるまい。防衛プログラムを破壊しようとする過程で、転生システムが発動するのではないか? どうやって突破するつもりだ」

 

 権限のない者が無理に改変や破壊を試みた場合、闇の書は主を飲み込んで転生を起こす。これは過去の管理局がすでに実証している。

 

「かつての管理局の失敗は、外部から改変を試みたことだよ。外部から不正なアクセスを受けても、空間的、時間的に距離を取れば逃れることができる。だから闇の書は転生機能の使用をためらわない。しかし内部からならどうなる?」

 

 闇の書は転生すると蒐集した魔力と魔導式こそ初期化されるが、それ以外の各システムの情報は更新されたままだ。

 何より、先ほどから聞いたばかりではないか。闇の書の中にはずっと昔からウイルスが存在していると。

 

「内部に原因が残っている状態で転生してしまえば、転生後にまで原因がついてくるのか」

「そうさ。そのような事態を避けるために、即座に転生するのではなく、まずは原因の排除を試みる。駆除なり隔離なりをしないままに転生してしまえば、転生直後の機能が低下している状態を襲われてしまうからね。個人的にはそれを狙うのも面白そうだと思うが」

「闇の書に新たなウイルスを送り込むのか。しかし、防衛プログラムを破壊するだけのプログラムを用意できるのか?」

「一年時間をくれるなら、地上本部や本局のメインシステムをダウンさせる攻性プログラムだって用意してみせるよ」

 

 軽口めいた言葉には真実の響きがあり、やはりこの男は野放しにしてはならないとひそかに決意を固めた。

 

「しかし一ヶ月で用意できる物では、おそらく防衛プログラムに届かない。差を覆すためには、闇の書の演算能力を削るための援護がいる」

 

 スカリエッティは新たに左手の指を三本立てて示す。

 

「必要な援護は三つ。まずは状況」

 

 立てた三本の指の内、一本を折り曲げる。

 

「このプランは闇の書を暴走させた状態で実行する。暴走時の防衛プログラムが最も優先して対処しなければならない問題は、暴走の原因――管理者権限移譲のエラーだ。暴走中なら、我々の干渉に割くリソースは大きく減少する」

 

 続けて、二本目の指を折る。

 

「次に別働隊による支援が必要だ。暴走する闇の書に外部の魔導師が攻撃を加えることで、迎撃にリソースを割かせる。闇の書にとって単に破壊されるだけなら転生機能で復活できるが、その場合は――」

「内側から攻撃を仕掛けている攻性プログラムをかかえたまま転生してしまう。だから必ず外部からの攻撃の迎撃にも相応のリソースを裂く。……理由は理解したが難しいな」

 

 闇の書相手では、時間稼ぎは破壊以上に難しい。 

 破壊なら、アルカンシェルなどの兵器や、高ランク魔導師による一斉攻撃をおこなえばいい。しかしこちらの目的は演算能力を削ることであり、破壊して転生機能が発動しては作戦は失敗だ。

 求められているのは、闇の書を破壊することなく長時間にわたって攻め続けること。一撃一撃がオーバーSの攻撃を放つ闇の書に対しての長期戦となれば、犠牲は免れない。

 

 そして、スカリエッティは最後に残った指を折り曲げる。

 

「三つ目は攻性プログラムと共に内部で戦う仲間だ。闇の書には『アブソーブ』という魔導プログラムが搭載されている。融合騎が主の肉体を保護するために用いる魔導式だが、主以外の人間にも用いることができる。これを利用して闇の書の内部に魔導師を送り込む。魔導師はアブソーブで保護された肉体から魔力を引き出して、内部の魔導回路を破壊。より直接的に闇の書の演算能力を低下させる」

 

 暴走の原因の排除。外部からの攻撃の迎撃。破壊される内部システムの修復とその原因の駆除。

 これだけのことに同時に対処するとなれば、いくら闇の書でも手が足りなくなる。そうなれば、こちらの仕掛けた攻性プログラムにも勝機はある。

 

「破壊に成功したその後は?」

「防衛プログラムがなくなれば、管制人格が自由になりはやて君が管理者権限を取得できるようになる。突入チームは管理者権限を得たはやて君の力を借りて現実へと帰還。同時に、管理者権限で中枢以外の全ての領域を破棄し、動力源から切り離す。もしも破棄した部分が停止せずに自立稼働するようであれば、残った戦力で協力して破壊。手に負えない場合も考慮して、この作戦は無人世界でおこない、アルカンシェルなど破壊手段を用意しておくべきだ――詰めなければならないところは多々あるが、これが私が提案するプランの概要だ」

 

 スカリエッティのプランが成功すれば、闇の書の脅威は完全に取り除かれる。

 主を死なせない方法なので、ヴォルケンリッターの協力を得やすく、主を生かすために最善を尽くすこのプランであれば、失敗してもヴォルケンリッターからの信頼を損なわずにすむ可能性も高い。

 だが、それらのメリットを上回るデメリットも存在する。

 

「自由になった管制人格がこちらに協力してくれるかが問題だな」

「そこはヴォルケンリッターの言葉を信じるしかないさ」

「それに局員の犠牲が免れない」

「相当に運が良ければ犠牲を出さずにすむが、望み薄だね」

 

 最も危険なのは、暴走する闇の書を相手にする迎撃チームだ。

 突入チームと攻性プログラムがすぐに防衛プログラムを破壊できれば良いが、長引けばそれだけ危険度は上がる。

 九十九パーセント回避できる攻撃でも、試行回数が百を超えれば、回避し続けられる確率は四割を切る。そして闇の書の攻撃を一撃でもくらえば無事ではすまない。十人中五人は死ぬ――というのは、楽観的すぎる見方か。

 一人が落ちれば残された者にかかる負担が増える。万全なら九十九パーセント回避できる攻撃でも、仲間が落ちるたびに八十、七十と確率が下がる。試行回数が百を超える頃には、おそらく誰も残っていない可能性も。

 

 ――それがどうした

 

 管理局の局員、特に戦闘を生業とする者にとっては、命をかけることこそが本分。無辜の民間人を一人助けるためなら、百人の局員の犠牲も厭わない。それこそが次元世界に安寧と平穏をもたらす時空管理局の局員としての矜持だ。

 管理局の局員なら取るべき行動は決まっている。

 

 ――だからどうした

 

 グレアムの胸に去来するのは仲間を失った者たちが見せる悔恨と絶望。

 家族を奪われた者たち、夫を失ったリンディの悲しみ、父を奪われたクロノの怒り。

 

 管理局として取るべき行動は決まっていて、グレアムはすでに管理局の理想に背をそむけている。

 

「犠牲は少ない方が良い。闇の書は凍結封印する。少女一人の犠牲ですむのなら安いものだ」

 

 罪のない子どもを殺す――その意味を自らに認識させるために、あえて酷薄な言い回しをとる。

 その残酷な宣言を、スカリエッティは「そうか」といつもと同じ様子で受け、皮肉げにゆがめた唇で吐き捨てる。

 

「ギル・グレアム、きみは管理局の体現者だ」

「何を言っている。私は管理局の理想に背を向けた、ただの背信者だ」

 

 

 スカリエッティの顔から笑みが消えた。

 いつも浮かべていた微笑と薄笑いの間の子のようなものが消えうせた顔には、ひどい陰性が刻まれていた。笑みを浮かべていてなお強い印象を持っていた金色の瞳は、今や視線を合わせた者が動けなくなりかねないほどの圧迫感を放っている。

 

「これはなんとも……あまりに滑稽で、あまりに哀れすぎる」

 

 言葉とは裏腹に、スカリエッティの眼光は対面の相手を刺し殺すような鋭さがあった。

 

「同情など欲しては――」

 

 視線に負けじとグレアムが口を開いたその時、宙空にホロ・ディスプレイが出現した。

 

『お話中申し訳ありません。外部から通信が――』

 

 映しだされたウーノは夕食の準備をしている途中だったのか、エプロンをつけていたが、スカリエッティの顔を見た途端に言葉を失った。

 

「どうした、ウーノ」

『いえ、何でもありません』

「何でもないという様子ではないよ。言ってみなさい」

 

 わずかな逡巡の後、ウーノは意を決したように言葉を続けた。

 

『その……ドクターのお顔が』

「私の顔が?」

『……怖いです』

 

 スカリエッティは自らの顔を両の手のひらでぺたぺたと触ったかと思うと、指先で自らの頬を押し上げて再び笑みを形作る。

 

「ああ! なんてことだ! グレアム君があまりに無反応だから、全然気が付かなかったじゃないか! 笑顔は円滑なコミュニケーションと信頼を築くために必要だからね。……それでウーノ。何か急な要件でも入ったかな?」

『はい。()のメンバーから、緊急の連絡が入っています』

 

 報告しながら、ウーノは一瞬グレアムに視線をやる。

 

「では、私はしばらく席を外すとしよう」

 

 グレアムは視線の意図を汲んで立ち上がる。

 ラボに直接通信してくるほどだ。その人物はスカリエッティと密接なつながりがあると考えて間違いない。単なる依頼者どころか、支援者の可能性すらある。

 スカリエッティにとって知られるのは困る相手で、自分の同席を許すはずがない。

 そう思っていたのに、

 

「その必要はない。きみの姿は映らないようにするから、ここにいれば良い」

 

 驚き、立ち上がりかけた姿勢のまま固まる。

 スカリエッティはいたずらを思いついた子どものような笑みを浮かべていた。

 

「ウーノ、こちらに通信をまわしてくれ」

『……わかりました』

 

 ウーノもさすがに躊躇していた様子だったが、結局は逆らうことなく従う。

 いいのか? と問う前に、通信用のホロディスプレイが新たに投影される。

 

 

『遅い! 急いでいると言っただろう!』

 

 通信がつながると同時に、叱咤の声が飛ぶ。映し出されたのは管理局の将官服に身を包む中年の男。

 その顔に見覚えがあって、グレアムは思わず声をあげそうになった。

 現在の所属は本局査察部。次期首席査察官を有力視されており、かつては捜査官としてグレアムの部下であった時期もある男だ。

 

「きみが直接私に連絡をとってくるなんて珍しい。管理部の件ならいつも通りやってくれればかまわないよ?」

『今回は違う要件だ。グレアム提督は今、お前のところにいるか?』

「ああ、闇の書について先ほどまで話をしていたところだよ」

『では本局に帰らせるな。これから無限書庫に査察が入る』

「無限書庫というと、リーゼロッテ君とリーゼアリア君が表向き配属されているところだったか。それは普通の査察ではないのかい?」

『この忙しい時期にあんな窓際を査察する理由などあるものか。しかも査察に関して読心系の稀少技能の使用許可が下りている』

 

 読心系の稀少技能は、人権を侵害するとして多くの国家で使用に制限がつけられており、管理局でも緊急性を要する事案以外での使用は禁じられている。

 読心で得た情報はあくまでも能力者の主観でしかなく、言い換えれば、能力者の勘違いや虚偽の報告の可能性があるため、得られた情報に証拠能力は認められず、裁判では用いられない。

 とはいえ、その情報は捜査をすすめていく上での重要な参考意見として扱われる。

 犯行の記憶だけでは証拠にならなくても、記憶を手がかりに物証を見つければいいのだから。

 

「読心系の稀少技能保有者(レアスキルホルダー)を投入するとなれば、たしかに単なる査察ではなさそうだね」

『おそらくハラオウンとロウランの差金だ。奴らは闇の書の一件にグレアム提督が関わっているのを見抜いたのだ。この査察でグレアム提督の懐刀であるリーゼ姉妹を抑え、読心で彼女たちから情報を聞き出すつもりに違いない』

「なるほど、さすが管理局だ。頭の回る者が多い」

『私が動くと足がつく。お前にはリーゼロッテとリーゼアリアの両名を急いで書庫から連れ出してもらいたい』

「わかった。彼女たちのことはドゥーエにお願いするとしよう。ところで、グレアム君にはどのように説明すればいいと思う?」

『……事が終われば我らのこともお伝えする予定とはいえ、この段階で知られるのは好ましくない。お前が独自に管理局に探りを入れていたことにしろ。いいな』

 

 通信が切れる。ホロが消え、痛いほどの静寂が戻った中。

 

「そんな風に伝えたら、私がグレアム君に怒られるじゃないか。ねぇ?」

 

 グレアムに向けられたスカリエッティの顔には、亀裂のような笑みが浮かんでいた。



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薄氷の割れる音Ⅱ

 雲ひとつない空。遮られることのない太陽の光が、原初の荒々しさを残すむき出しの岩肌に照り付ける。

 この地域一帯には連日豪雨が続く雨季が存在する。大量の雨水は地表の土を流出させ、もろい地層を浸食し、急峻な峡谷と侵食に耐えた幾つもの岩の柱がそそり立つ、悪地と呼ばれるユニークな地形を形成する。

 雨季を終えたばかりのこの時期に雨が降る。降り注ぐのは色とりどりの光の雨。その一つ一つが、式で編まれた魔力の弾丸――魔力弾だ。

 

 空には制服と装甲に身を包んだ者が二十ほど。時空管理局の武装隊。彼らは統率のとれた動きで、下方へと魔力弾を次々と斉射し続けている。

 地上はといえば、岩柱が立ち並ぶ間を魔力弾を避けながら駆け抜ける狼にも似た動物と、その背に腰掛けて上空へと視線をやる女の姿。

 蒐集に出ていたヴォルケンリッター、ザフィーラとシャマルの二人組だ。

 

 地球を離れてからの一月、彼らはラボを拠点に非公式の転送ポートや自前の次元間転送を用いて次元を移動し、複数の次元世界で蒐集をおこなっていた。

 次元世界で最大規模の組織である管理局といえど戦力には限りがある。それどころか、管理世界の広さに比べて人員が足りておらず、定置プロープ等、各次元世界に設置された観測機器が収取する情報に頼っているところも大きい。

 それらの観測機器の設置場所や対策本部の動向は、グレアムという内通者によってヴォルケンリッターへと筒抜けになっている。

 相手の手の内さえわかれば、いくらでも裏をかくことはできる。情報という武器を手にしたヴォルケンリッターは、管理局の部隊との遭遇を避けつつ蒐集を続け、それは今日も同様になる――はずだったのに。

 

 

 魔力弾の集中砲火をザフィーラは体の向きはそのままに横っ跳びで回避。

 続けて着地を狙った射撃を、わずかに飛行魔法を発動させて着地位置をずらすことで回避する。獣のしなやかな脚は着地の衝撃を瞬時に吸収し、ほとんど速度を低下させることなく疾走へと戻る。

 

 降ってきた魔力弾の一つがザフィーラの直前で弾け、複数の小型魔力弾となって広範囲に散らばる。その全てを回避するのは至難の業だ。

 が、背に乗るシャマルが手をかかげると、弾丸の軌道に対して鋭角に現れた浅緑のシールドが小型魔力弾を左右へと受け流した。

 

 進行方向で範囲魔法が炸裂し、広がる光が二人の姿を飲み込まんと迫る。

 二人の全身を浅緑の多面体――シャマルのバリア型防御魔法が囲む。同時にザフィーラはさらに強く地を蹴って加速する。速度を上げることで接触時間を最低限にし、防御魔法が壊れる前に範囲魔法の中を強引に突っ切った。

 

 降り注ぐ弾丸は雨。此処彼処で炸裂する魔力は華。

 僧服の美女を背に乗せた蒼白の狼が、縦横無尽に駆けぬける。その光景は幻想的な絵画のようであり、しかし焦りをにじませる彼らの表情は幻想的とはほど遠い。

 

「奴らとの距離は?」

「あまり開いてないわ」

 

 ザフィーラの問いに、シャマルが答える。

 

 立ち並ぶ岩柱の間などの遮蔽物の多い所を選んで走っているため、武装隊はこちらに狙いをつけることも、接近することも困難になっている。

 だが遮蔽物になる物が多いところを走る以上、走行ルートは自然と複雑で無駄の多いものになる。一方、武装隊は空を飛んで一直線に追いかけている。

 結果、両者は付かず離れずの距離を保ったまま追いかけっこを続けていた。

 

「やはり足を止めて戦うべきではないか?」

「ダメよ。この波長……近くに船があるわ。半端に戦って消耗したら、前回の二の舞になりかねないわ」

 

 襲撃を受けた瞬間から、シャマルは周辺を走査する波――レーダーを知覚している。強力なレーダーは次元空間航行艦船が近辺にある証。

 船があれば、重傷を負った隊員を呼び戻して治療することも、劣勢に陥った場合に撤退して態勢を立て直すこともできる。そのような相手と正面から戦うのは得策とはいえない。

 

「逃げ切る算段はあるのか?」

 

 ザフィーラの問いに、シャマルはうなずいた。

 八神家を拠点にしていた時とは異なり、管理局の捜査動向や、各次元世界の地形、生息動物の分布など、様々なデータをもとに、クアットロやリーゼアリアと相談して蒐集の計画をたてている。不測の事態も想定ずみだ。

 

「この先の渓谷に地下坑道への入り口があるの。そこに逃げ込めば、あの人たちも容易には追ってこれないはずよ」

 

 この地域には旧暦の頃に鉱山資源を採取するために拓かれた鉱山の跡が残っている。内部は非常に複雑になっており、含有される特殊な鉱石の影響で各種レーダーも阻害される。

 逃げ込んだ者の居場所を突き止めるのは至難。仮に見つかったとしても、狭い坑道での集団戦闘は困難で各個撃破は容易だ。

 

 

 と、その時追いかけていた武装隊の一人が空中に静止してデバイスを構えた。

 先端に大量の魔力が集い始める。砲撃魔法の準備だ。

 数秒のチャージを経て放たれた魔力の奔流は、空を裂いて奔り、ザフィーラたちの前方にある巨大な岩柱を真中から貫いた。

 

 崩れ始める岩柱を見て、シャマルは砲撃の意図に気がついた。

 ザフィーラたちの進行方向には多くの岩柱が立ち並んで、幅が狭くなっている箇所がある。壊された岩柱はちょうどそこを潰すように落下を始めていた。。

 周囲の地形を把握し、こちらの進路と速度を見極め、狙った方向に適切なタイミングで落下するように砲撃の威力と角度を計算する。並大抵の技量ではない。見た目は他の武装局員と同じに見えるが、月村邸で戦った黒衣の少年のようにエースと呼ばれる類の上級魔導師なのだろう。

 

 岩柱が落下を始めると同時に、武装隊の近接魔道士たちが一気にザフィーラたち目掛けて降下する。

 岩を避けようと飛行魔法で上昇、もしくは横に迂回しようものなら、追撃する武装隊に距離を詰められて包囲されてしまう。かといって、このまま走っても岩が落下するまでに通過するのは厳しい。

 

 ならば、一瞬でも岩の落下を遅らせればいい。

 

「まっすぐ! 全力で走って!」

 

 ザフィーラはシャマルの指示に疑問を呈することなく、即座に限界まで速度を上げて、疾風となって最短経路を行く。

 直線的な動きになったザフィーラに襲いかかる攻撃をシールドで防ぎながら、シャマルは周囲の地形に視線をはしらせる。さらに、岩の大きさと速度から落下エネルギーを概算し、シールドと並行して魔法を発動させる。

 

 落下する岩と周囲の石柱が薄緑の(バインド)で繋がれる。

 

 岩の落下が一瞬止まり、その隙にザフィーラは岩の下方に滑りこむ。

 鎖で繋がれた周囲の石柱がにぶい音を立てて壊れ、動きを緩めていた岩が再び落下を始めるが、その時にはすでにザフィーラとシャマルは岩の下をくぐり抜けていた。

 直後、背後で岩が地面に激突し、轟音を響かせて地面を揺らした。

 

 連鎖的に崩れた石柱は、岩で進行を防がれるだろうザフィーラたちに近接戦をしかけようと追撃をかけていた武装隊員たちに襲いかかりつつ、次々に地面に激突。

 砕けた岩片が周囲に飛び散り、衝撃で砂煙が高く巻き上げられ、嵐となって周囲に広がる。

 下降していた近接魔導師は、降り注ぐ石に襲われ、上空の魔導師も砂煙で視界は不明瞭。

 どちらも追撃どころではない。

 

 地下坑道まで逃げ込むまでもない、今こそ絶好の逃亡チャンス。

 二人は近くの岩影に入ると、即座に次元間転移を発動した。

 

 

 グレアムから提供された捜査情報によれば、この世界の周辺を管理局の艦船が哨戒する予定はなかったはず。

 おさまりかけていたグレアムへの疑念を抱きながら、想定外の襲撃のことを報告するために、二人は蒐集を切り上げてスカリエッティのラボへと帰還することにした。

 

 

 

 

 時空管理局本局の片隅にある、巨大図書施設『無限書庫』

 

 その書庫エリアは大部分が意図的に無重力に保たれている。

 飛行魔法訓練を受けたことがある者は無重力環境下での感覚を掴みやすいが、経験のない者が慣れるには時間がかかり、とても効率の良い環境とはいえない。

 しかし無限書庫にはまるで巨人が使っていたのかと思えるほど、建築物としては異常ともいえる高さを持つ部屋が多い。中には部屋の形が球状で、三百六十度前後左右上下全ての壁が書架になっているという冗談のような部屋も存在している。

 現文明において不合理な構造を補うために別の不自由を許容する。他文明の産物を利用する時にはよくあることだ。

 

 そんな書庫エリアの一室に、リーゼアリアはいた。

 

 部屋は大型ホテルロビーの吹き抜けほどの大きさで、四方の壁は扉になっている部分を除けばすべて本で埋め尽くされている。

 部屋の中ごろでは十数冊の本が円を描くように浮遊していて、触れてもいないのにひとりでにページがめくられていく。

 それらの本の配置が描く円軌道の中心で、リーゼアリアは目を閉じながら浮遊している。

 閉じた瞳は何も写しはしない。しかし脳内には周囲の書物に記されたいくつもの文字がたしかに乱舞している。

 

 読書魔法という、書物を目に頼ることなく読む魔法がある。

 

 魔法で擬似的な感覚端末を作り出して離れた場所の映像や音を認識するサーチャー生成は、多くの魔導師が使える初歩的な魔法だ。

 読書魔法はサーチャーと原理は同じだが、送信する情報量が大きく異なる。

 本を読むために必要なテキストや図の情報のみを抜き出し、受信する情報を極力削ることで行使者への負担を少なくして、より多くの情報処理を可能とするのが読書魔法。

 

 読書魔法で十を超える本を同時に読むリーゼアリアの、使われていない聴覚が、扉の開く音をとらえた。

 続けて「入るよ」と聞き慣れた声。

 

「もうすぐ終わるから少し待ってて」

 

 音のした方向に声をかけつつ、本を読み続ける。

 二分ほどたって全ての本を読み終えてから、ようやくリーゼアリアは目を開く。

 視界には宙に浮かぶ本。そしてそのそばに浮かぶ自分とよく似た姿の少女――リーゼアリアにとっての姉妹ともいえる存在、リーゼロッテだった。

 

「頑張ってるわね。感心感心」

「あなたもここの職員なのだから少しは手伝って」

 

 リーゼロッテとリーゼアリアは、かれこれ五年近く無限書庫の職員として働いている。

 

 無限書庫は一説にはベルカ以前より存在していたといわれ、様々な稀少な情報が収められている可能性がある類を見ない書庫だ。

 しかしながら、管理用ユニットが失われ、保管データの具象化アルゴリズムに介入できなくなった現在、保管された膨大な情報を整理するには実体化した本を手動で整理するという極めて面倒で前時代的な作業をしなければならない。

 実体としての本が稀少になり、多くの図書施設が本をデータとして管理しているこの御時世。整理のために、その前時代的手法になれた司書を数十人。図書施設として稼働させるとなれば、必要となる人数はさらに増える。

 たしかに無限書庫には様々な稀少な情報が収められている()()()がある。しかし現実的に必要なのは稀少な情報ではなく必要な情報。無限書庫を稼働させるに足るだけの司書を必要とする部署は他に多く存在する。

 

 そのあまりに悪いコストパフォーマンスの他にも様々な要因が重なって、無限書庫は稼働状態を保つには値しないと判断され、現在は施設の保全管理と一部の情報の入力のみがおこなわれる閑職となっている。

 年に数回、稀少な歴史的史料を求めた学者や、闇の書のようなロストロギアに関する情報を求めた者がやって来て、少しだけ忙しくなる時はある。

 しかし、無限書庫の職員だけで求められたものを見つけることなどできない。やって来る者たちもそれを承知で自前で調査団を用意しているのが通例で、職員の大半は配架などの単純な補助作業をするだけだ。

 

 このように業務がほとんどない無限書庫の職員は、闇の書の主――八神はやての監視や、闇の書への対策を進めるためのカモフラージュにうってつけだった。

 リーゼ姉妹のような優秀な職員を閑職に回すという本来ならありえない人事も、主のグレアムが闇の書事件の解決に失敗し、顧問官に配属されるという実質上の左遷をうけた後とあっては、不審に思う者も少なかった。

 

 リーゼアリアはもともと空戦魔導師だったので、無重力環境下での作業は苦にならなかった。闇の書に関係する資料がないかと自発的に調査していたおかげで、使いなれなかった読書魔法にもずいぶんと慣れた。

 数少ない業務をきちんとこなしていく内に、気づけば周囲から頼られ始め、今では十名程度しかいない職員の中心として、ほとんど名義のみである書庫長の代わりに業務を取り仕切るようになった。

 

 一方、同時に無限書庫に配属されたリーゼロッテといえば、

 

「いやだよ。私、読書魔法は苦手なんだから」

 

 相変わらずのこの調子だ。

 リーゼロッテは書庫の業務をリーゼアリアに任せて、はやての監視に出向く方を好んでいた。

 この一月ばかりも、闇の書に関する資料を探しに来た調査団の手伝いはリーゼアリアに任せ、スカリエッティのラボに赴くことが多かった。

 姿の似ている自分たち姉妹だが、得意な魔法、好きな食べもの、男の趣味、中身はまったく違う。

 

「それならユーノが持ち込んだ魔法を使ってみればいいのに。とても使いやすいから、ロッテでもきっと大丈夫よ」

「ええっと、オリジナルの読書魔法だったっけ?」

「読書魔法を中心に、翻訳魔法と検索魔法を組み合わせたものね。インストールしておいて損はないわよ」

 

 ユーノ・スクライア。クロノの推薦で調査チームに加わった、十歳にも満たない少年。

 彼が持ち込んだ翻訳魔法は、既成品ではなくスクライア一族のオリジナルだった。

 遺跡発掘を生業とできるだけの専門性を持ち、古代文化への造詣も深い。そのような一族が年月をかけて改良してきた古代文明専門の翻訳魔法、さらにそれが組み込まれたスクライア式検索魔法の存在は、古代ベルカに関する文献の調査において大きな助けとなった。

 

 スクライア式の魔法を取り入れた調査団は想像を遥かに超える速度で調査を進め、つい先日、闇の書に関する文献を発見した。

 もっとも、彼らが発見したデータはかつてグレアムが数年に及ぶ独自の調査で発見し、次に闇の書が目覚めた時に調査隊が見つけられるようにと、職員であるリーゼアリアたちを通して密かに書庫へと収めておいたものだが。

 ともあれ、その情報を届けるために、ユーノが無限書庫を離れてアースラに赴いたのが一昨日のこと。残りの調査員はさらなる手がかりを求めて、今も調査を続けている。

 

「そう言われてもね。どうせ闇の書のことが解決したら、私たちがここで働くこともなくなるんだし」

「……そうね。闇の書はここで私たちが終わらせる。管理局の手をわずらわせることもなく」

「頑張っているみんなには悪い気がするわ。覚悟していたクロノとリンディはもちろんだけど、エイミィたち捜査員。それどころか嘱託のフェイト、民間協力者のなのはまで、闇の書が相手でもみんな怖気づかずに必死に取り組んでいるのに」

 

 リーゼロッテは一人一人の顔を思い返すかのように名前を挙げていき、最後に大きなため息をつく。

 

「まったく……ビビって及び腰のお偉方にも見習わせたいよ」

 

 吐き捨てるようなリーゼロッテの罵倒に、リーゼアリアは眉をひそめた。

 

 闇の書事件のことを知る高官の大半は、どのようにして闇の書を抑えるかではなく、失敗した時の後始末に頭を使っている。

 暴走前に止められれば良し。次に繋がる何かが発見されれば上出来。今回だけで闇の書事件が解決できると信じている者は皆無に等しい。

 おかげで捜査に口を出されることも少なく、捜査司令であるリンディが自由に動けるというメリットもあるのだが、だからといって必死に現場で立ち向かう者たちにとっては腹ただしいことだろう。

 

 それでもリーゼアリアは彼らを悪しざまに罵る気分にはなれなかった。

 

「たしかに上層部の消極的な対応は感心できないけれど、あの人たちだってエスティアのことさえなければ違っていたはずよ」

 

 正義感にあふれる者ばかりではないにせよ、高い地位にある者は己の責務を理解しているものだ。リーゼアリアは現場を優先させていたリーゼロッテと違い、将官となったグレアムの秘書官として、高官たちと立ち会う機会も多かったから知っている。

 管理局が闇の書の対処にのりだしてから百五十年以上、たいした成果もあがらず、ただ失敗を繰り返し続けてきたという事実が、使命感や責任感を塗りつぶすほどの強烈な苦手意識となり、諦めにも似た空気が管理局上層部に蔓延している。

 

 その傾向がより強くなったのは、他ならぬ十一年前の闇の書事件が失敗に終わってからだ。

 当時、グレアムは伝説の三提督に継ぐ次代の英雄として管理世界中に名をはせていた。そんなグレアムに失敗する可能性の高い対闇の書の指揮をとらせたのは、上層部にとっての最後の賭けにも近かった。

 グレアムは築き上げてきた名声と人脈を最大限に利用して各次元世界の捜査機関に根回しをおこない、各次元世界の部隊と密に連携して迅速に避難を完了させ、ヴォルケンリッターの動きを予測して網を張り、最後には己の身をも囮としてヴォルケンリッターと相対。戦いの果てに彼らを打ち破り、逃走するところを巧みな用兵と追撃で各個撃破。闇の書の回収とその主の拘束に成功した。

 だからこそ、その成功全てを無に帰したエスティアの件は関係者を落胆させた。輝かんばかりの栄光に満ちたグレアムの経歴と、期待を遥かに超える鮮やかな手腕も、闇の書の前では絶望を彩る淡い光でしかなかった。

 管理局の上層部にいる面子の多くは、十一年前の失敗を、その落胆と無力感を記憶している。そして、英雄とまで呼ばれたグレアムが、その失敗がもとで顧問官という閑職に落ちる様も。

 

 上層部の消極的な態度が正しいわけではない。だが、その根本にあるのは自分たちの失敗だ。

 その事実を横に置いて彼らを責めるなど許されるだろうか。

 

「アリアは父様が悪いって言いたいの?」

 

 物思いにふけっていたリーゼアリアの意識を、リーゼロッテの声が引き戻す。

 苛立ちを隠そうともしないその声に、リーゼアリアの心に冷たい何かが生まれる。

 その何かに突き動かされ、きっとこれを口にするとリーゼロッテは怒るだろうとわかっていながら、

 

「誰が原因か……悪かったのかといえば、父様以外にはいないでしょうね」

 

 リーゼアリアもまた吐き捨てるように言った。

 一瞬の静寂の後、予想通りリーゼロッテは爆発した。

 

「バカじゃないの! アリアだって父様がどれだけ苦しんできたのか感じてきただろ! それなのによくそんなことが言えるね!」

 

 リーゼロッテの言葉は比喩ではない。使い魔は主従間の魔力パスを通して、主の心を感じることができる。

 感情が伝わらないように主の側で意識して遮断することはできるが、魔力パスが開かれている以上、何かの拍子に漏れるのを完全に防ぐことはできない。

 この十一年間をグレアムがどれほどの絶望と後悔を抱えて生き続けてきたのか、彼女たちは誰よりもよく知っている。

 その事実が、リーゼアリアの心にささくれのような瑕を生む。

 

「負うべき責任を同情で否定するのは、責任を背負った者への侮辱。父様は苦しみながらも責任を背負った。同情するのはお門違いなのよ」

「そんなことを言ってるんじゃない!」

 

 リーゼロッテの怒りはさらに激しく燃え盛る。激情は体内の魔力を激しく巡らせ、その流れは無意識に大気中の魔力素を揺さぶる。リーゼロッテの周囲は陽炎のように歪み、まるで怒気が可視化されたようだ。

 その怒りを感じるほどに、リーゼアリアの心は一層冷え込んでいく。

 

「私たちは局員である前に、父様の使い魔で、ずっと一緒にやってきたパートナーじゃないか! だから私たちだけでも――」

「相談してももらえない私たちのどこがパートナーよ」

 

 口をついて出た言葉は氷のようで、怒りを爆発させていたリーゼロッテがおもわず黙りこむほどに冷たかった。

 重苦しい沈黙が部屋に充満して、何秒たったのか。

 

「ねえ、アリア。それ、本気で言ってるの?」

 

 問う声は震えていて、そこに先程までの怒りはどこにもない。

 罪悪感が刺激される。謝ればいい。売り言葉に買い言葉で口をついて出た言葉にすぎないのだから。

 

「ええ。そう思ってる私がいるのは事実よ」

 

 リーゼアリアの心はごまかすことをよしとしなかった。

 口に出したのは衝動的であっても、その言葉はずっとリーゼアリアの内側で育まれてきた淀みだ。

 

「父様は私たちなら何も言わなくてもわかってくれると信じてたから……」

「わかってるわよ。きっとロッテの言う通りで、父様のことを信じられない私が弱いだけなのでしょうね。でも、どうしても思ってしまうのよ。あれだけ苦しんでいるのなら、せめて私たちにくらい頼ってほしかったのに。思ったことはない? もしかしたら私たちは父様に信用されてないんじゃないかって」

「……アリアはずっとそう思ってたんだね?」

 

 押し黙るリーゼアリアに、リーゼロッテは潤んだ瞳で睨みながら、声をあげる。

 

「私はそんな風に思ったことはなかった。……でも、今は同じ気持ちだよ。アリアこそ不安なら私に相談してくれても良かったじゃない。そんな風に思ってたのに気づけなくて……これじゃ私、バカじゃないの」

 

 虚をつかれたようにきょとんとリーゼロッテをながめ、やがてリーゼアリアは吹き出した。

 

「バカは私よ。自分ができてないことを父様に押し付けて心の中で責めて…………ほんとに、どうしようもないバカだわ」

 

 自分の救いがたい愚かさに気がついて、もう笑うしかない。

 

 使い魔は主の感情を感じることができる。だが、魔力が主から使い魔へと流れる以上、逆はない。

 相手の気持ちがわかるから、自分たちは繋がっているのだと思い込んでいた。自分がこんなに心配してるのに、何も言わないグレアムに不満と不安を覚えて、繋がりすら嘘だったのではないかと怯えてしまった。

 それが勘違いだったのだ。最初から誰も繋がってなどいない。立場や血縁、ましてや主従の魔力パスなんかで人と人は結びつかない。

 長年一緒にいれば相手のことが手に取るようにわかるようになるというが、そんなのは相手の行動パターンから傾向を見出した結果にすぎない。エスティアの時のような手酷い挫折を味わうのは、グレアムもリーゼたちも初めての経験だ。

 初めてはわからない。だから態度で、言葉で、表現する必要があったのに。

 

 笑い声にいつしか嗚咽が混じる。

 何も言わないのが賢いのだと気取って、不満を内に溜め込んで、勝手に疎外感を覚えて、いったい自分は十年間何をしてきたのだろう。

 

 背に手が回され引き寄せられる。久しぶりに触れ合うリーゼロッテの手と胸は暖かかった。

 そういえば、昔はよく二人とも猫の姿になって身を寄せあって寝ていた。いつからしなくなったのだろう。

 

「私たち、似た者同士だね」

 

 自分たち姉妹は、案外中身はまったく違うのに。

 

「バカなところだけ似てるなんて、そんなの嬉しくないわ」

 

 もしかしたら、自分たちが知らないだけで、グレアムにも馬鹿なところはあるのだろうか。

 

 

 ぱん、と。

 手を打つ音が書庫に響いた。

 

「仲が良いのは素晴らしいですわね」

 

 下方から声が聞こえる。

 いつの間にそこにいたのか。扉の前に少女が立っていた。

 

 少女から女として花開くその途中、両方の美しさを併せ持つその顔には、傲慢とさえ感じるほどの強い自負が浮かんでいる。まるであの狂科学者のような。

 

「ですがここはもうじき騒がしくなります。その前に少し場所をかえませんか?」

「あなたは誰?」

 

 睨みつけながら、リーゼロッテが問う。

 少女の顔に見覚えはない。つまり書庫の職員でも調査団の一員でもない。

 主任であるリーゼアリアが何の連絡も受けていないということは、正規の手段で入って来たわけではない。

 

「ああ、申し遅れました」

 

 秘書官がするような丁寧な礼をして、女は艶然と微笑んだ。

 

「ナンバーズ二番、ドゥーエと申します」

 

 

 

 

 

「では、二人とも無事に本局を離れたのだね」

『ええ、いつもの裏口を使いましたから足取りをたどられる心配はありませんわ。あとは彼女たちがヘマをしなければ無事にラボに到着するでしょう』

 

 グレアムとスカリエッティの前に、通信用のホロ・ディスプレイが投影されている。通信画面には何も表示されておらず、通信相手の姿はわからない。

 音声として聞こえてくるのは若い女性の声。蠱惑的な艶を含んだ、自信に満ちた声。

 

「そうか。迷惑をかけたね」

『まったくです。あの裏口は使いやすくてお気に入りだったのに。彼女たちに知られたらもう使えなくなってしまいます』

「そこまで警戒しなくても良いんじゃないか? 別にきみだけが使っているわけでもなし」

『ドクターはご自分の警戒心のなさを自覚された方が良いです』

 

 通信が切れると、スカリエッティはグレアムに向きなおり、肩をすくめた。

 

「名前くらいは聞いているかもしれないが、今のが二番目の戦闘機人ドゥーエだ。なかなか自由奔放な子で手を焼かされることも多い」

「管理局に潜入しているという子か」

「管理局だけではないがね。さて、聞いての通りリーゼ姉妹はこちらに向かっているし、管理局の捜査部隊もラボの詳細な位置までは突き止めてはいないようだ。決して安心はできないが、差し迫った危機というほどでもない」

 

 本局には公になっている転送ターミナルの他にも、要人の移動や公にできない業務をおこなう時に用いられる、裏口と呼ばれる小さな転送ポートがいくつもある。グレアムもそのうちの何個かを知っており、リーゼ姉妹が地球に行き来する時に利用していた。

 それらを使って脱出すれば話は早いのだが、グレアムが知る範疇の転送ポートには網がはられている恐れがあるため、ドゥーエの知る別の転送ポートから脱出させることになった。

 不安はあったが、先ほどの通信を聞いた限りは二人とも無事に本局から出ることができたようだ。

 

 ドゥーエから連絡が来るまでの間、スカリエッティが周辺の航路観測所のデータを盗み見たところ、この世界の周辺海域に艦船がいる可能性があると判明した。

 おそらくは、いつからかグレアムやリーゼ姉妹の行動は監視されており、尾行されてもいたのだろう。

 足がついた場合を想定して、ここに来るまでのルートは複数用意してある。公式非公式の転送ポートを織り交ぜ、わざと複数の国の転送ポートを利用している。数度の尾行程度で目的地を突き止められることはない。

 それでも繰り返せばある程度場所は絞られる。蒐集の分布や外出時間など、いくつかの情報をまとめれば、この周辺海域に拠点があると当たりをつけることは可能だ。

 

 しかしそれ以上を突き止めることができなかったため、査察部に借りを作ることになってでも、無限書庫に査察を入れてリーゼ姉妹の身柄を抑え、記憶を探ろうとしたのだろう――というのが、グレアムとスカリエッティの共通見解だ。

 

「リーゼ姉妹と蒐集に出ているシャマル君とザフィーラ君が戻ってきたら、他のラボに引っ越した方が良さそうだ。それまでしばらくこのラボでくつろぐといいよ。私はその間、引っ越しの準備を進めておこう」

「その前に、お前を問い詰める時間はあるか?」

 

 リーゼ姉妹の無事を確認できても、グレアムの心はまったく落ち着かなかった。

 彼の心を占めるのは、先ほどスカリエッティと通信をしていたかつての部下の――今の管理局高官の姿。

 

「かまわないが、それがきみにとって不幸でないことを願うよ」

 

 グレアムの余裕のなさを見透かすように、スカリエッティは楽しそうにほほ笑んだ。

 

 

 

 

 

 日課の訓練後、シャワールームから出てきたウィルを出迎えたのは、腕を組み通路の壁に背中を預けて立っているシグナムだった。

 

「シグナムさん?」

 

 声をかけると、シグナムはびくりと肩を震わせて、床に落としていた視線をのろのろと上げる。ウィルと視線を合わせるまでに一秒。唇をわずかに開いて、すぐにきゅっと結ばれる。桜色の唇も心なし青ざめて見える。

 シグナムは闇の書の暴走を聞かされた時でさえ、気丈な態度を崩さなかった。そんな彼女らしからぬ姿に、不安が募る。

 

「どうしてここに?」

「貴方を待っていた」

 

 疑問への返答は不安を解消してはくれなかった。

 はやてに何かがあったのなら、もっと血相を変えているはずだし、悠長にウィルがシャワーから出てくるのを待ちはしない。

 

 だが、緊急性のない要件にしてはシグナムの様子がおかしい。

 スカリエッティが実験中に、何かを不審を抱かせるような言動をしたのだろうか。それで同じくラボに残っているヴィータをはやてにつけて、一人でウィルに相談をしに来たか。

 ありえない話ではないが、その場合は最大戦力であるシグナムがはやてにつき、ヴィータが相談に来るのではないか。もしくは、蒐集に出ているザフィーラとシャマルが戻って来るのを待ってから動く方が安全に思える。

 疑惑に固まるウィルに、シグナムは続けて言葉をかける。

 

「これから時間はあるだろうか」

「ええ、夕食までは何も予定はありませんが」

「そうか」

 

 シグナムの目には覚悟を決めた者の、悲壮な決意がこめられていた。

 

「では、少し付き合ってほしい。貴方に伝えることが――伝えなければならないことがある」



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私の正義

 机を挟んで対峙しつつ、グレアムが口火を切る。先ほどの件について質問――いや詰問するために。

 

「彼は昔から厳格で正義感が強かった。同僚とはたびたび軋轢を生んでいたが、それは自他ともに厳しすぎることの裏返しだった。そんな彼がお前のような犯罪者に加担しているなど、今でも信じられない」

「きみが言えたことかい?」

 

 からかいの言葉には刺すような視線を返し、続ける。

 

「たしかに私も彼の全てを知っているわけではない。彼がお前と繋がっていた理由はこの際置いておこう。問題なのは、どうして彼は私とお前の繋がりを知っていたのかだ。管理局に属する私と犯罪者であるお前の協力関係は、お互いに約束を守り、相手の立場を尊重することで成り立っていた。この件に関しても納得のいく説明をしてもらえるものと信じている」

 

 納得できなければこの場で協力関係を破棄して叩きのめすと、言外にそう含ませながら睨む。

 冗談でも脅しでもない。信頼関係を裏切った相手に何の制裁も加えないほどお人好しではない。

 

「さて、何から話そうか」

 

 スカリエッティはわざとらしく視線を泳がせ、考えている素振りを見せ、

 

「とりあえず、私が逆らえない立場にあるというところから話そうか」

「主導権を握っているのは彼の方で、お前は逆らえずに私と闇の書のことを話すしかなかったと?」

「一つ訂正するなら、彼ではなく彼らだ」

 

 その言葉の意味するところは、管理局にスカリエッティに協力する者が複数存在し、彼ら同士も互いに連絡を取り合う派閥や集団のようなものを形成しているということ。

 スカリエッティの告白をそのまま信じるわけではないが、その内容はかねてよりグレアムが抱いていた危惧と一致していた。

 

 きっかけはグレアムとスカリエッティを引きあわせた青年、ウィリアム・カルマンの存在だ。

 

 地上本部の重鎮を養親に持ち、本人もれっきとした士官としての経歴を持つ彼が、スカリエッティという大物犯罪者と繋がりを持っていたのはなぜか。

 局員としての経歴を調べても、スカリエッティと繋がるような事件に関わりがあったわけではない。保有する能力は変換資質くらいで、スカリエッティに目をつけられるような稀少技能や遺伝的特徴を持っているわけではない。学術的な分野で特筆すべき業績をあげたわけでも、画期的な論文を発表したわけでもない。

 本人ではないのなら、その周辺。交友関係に原因があるはず。ウィルとスカリエッティの間には、それなりの年月を積み重ねた気安さが感じられた。誰かがスカリエッティにウィルを紹介したのだとすれば、その人物は当然スカリエッティ以上にウィルとの付き合いが長い人物だ。

 その条件で真っ先に挙がった人物は、彼の保護者であるレジアス・ゲイズ少将だった。

 

 次に、治療を終えたウィルと接触しに来たクアットロとセインの存在が、管理局にゲイズ少将以外にもスカリエッティの協力者がいる可能性を高めた。

 

 発信機によってウィルの位置が判明しており、センサーに感知されない迷彩と、壁を通過できる技能を持っていたとしても、それだけでウィルのところにたどり着けるものだろうか。

 本局は迷路のように複雑な構造をしている。ゴールの方向が示されていたとしても、そこにたどりつくための道のりが見つからなければ意味はない。

 セインの壁を通り抜けるISがあれば、簡単にたどり着けるように思えるが、エリアによっては高圧電流や高濃度の未生成魔力が流れたり、真空状態になっている箇所もあるのだ。特にISも魔法の一種である以上、魔力の干渉を受ける環境は好ましくないはずで、不用意に壁を抜けるのは危険だ。

 クアットロのセンサーに感知されない迷彩も非常に強力だが、実体がなくなるわけではない。主要なセンサーはあらかた欺けるようだが、その性質は幻術魔法と同質のようだ。ならば、本局をうろつく何時間もの間、各種センサーを欺瞞し続ける幻術を展開し続けられるだろうか。

 

 彼女たちがウィルのところにたどり着けたのは、内部情報を入手していたか、内部から手引した者がいたのではないか。

 捕まえた時にその件について問いただしたところ、管理局にはドゥーエという戦闘機人が潜入しており彼女から一部区画の内部構造に関する情報を得たのだと、セインの方があっさりと白状した。

 

 それで疑問が解消されたわけではない。むしろ、連鎖的に次の疑惑が浮かんでくる。

 

 ドゥーエはどのようにして潜入しているのか。

 管理局に潜入するだけなら簡単だ。戸籍でも偽造して、試験を受ければ良い。本局でも末端の職員程度ならそれで十分。入局する全ての職員は身元や前科を調べられるが、なにせ管理局は次元世界随一の巨大組織だ。全ての職員に綿密な調査をしていられない。

 だが、末端の職員程度で得られる情報などたかが知れている。わざわざ虎の子の戦闘機人をたいしたことのない部署に潜入させるはずがない。

 重要な情報に触れられるポジションにつけるには、管理局の高官の協力が必要だ。また、局員に対する定期的な検診を戦闘機人が乗り切ろうとすれば、その部署の上官の理解を必要とするだろう。

 

 その協力者はゲイズ少将ではない。地上本部と本局は折り合いが悪い。地上本部のゲイズ少将が誰にも知られずに本局の人事に干渉できたとは思えない。

 順当に人事方面か、もしくは外部協力者を引き入れることもある情報部や技術開発あたりの高官が関わっているのだろうと、見当をつけていた。

 

 ただ予想外だったのは、スカリエッティの方が主導権を握っていないということだ。

 かつての部下もゲイズ少将も、どちらも非常に生真面目と厳格で知られた人物。いくら優秀とはいえスカリエッティのような男と好んで内通するとは思えない。

 きっとスカリエッティの方から脅しをかけていたのだと思っていたのだが。

 

「ところで、こう見えて私には夢があるんだ。生命を理解したいという夢が」

 

 さらなる核心に話を進めようとした矢先。唐突な話題の転換に苛立ちを覚える。

 

「自分語りがしたいなら檻の中で捜査官を相手にするのをおすすめする。きっと喜んで聞き、調書にまとめてくれるだろう」

「そう急かないでくれ。私と彼らの関係を語るうえで、外すことのできない話なんだ」

 

 その顔は相変わらず笑みを浮かべていたが、瞳にはこれまでと違う奇妙な熱が宿っていた。それは喜怒哀楽のようにわかりやすく表層的ではなく、様々な感情が複雑に絡みあい織りなされている。

 それが何であるのか見極めることができれば、スカリエッティという男の底を見ることができるかもしれない。それはなんとも抗いがたい誘惑だった。

 

「……わかった。続けろ」

「では、お言葉に甘えて――夢は人生を彩る上でとても大切だ。夢があるから、人は努力できるし、苦難にも耐えることができる。しかし、自分の才能に合った夢を持てる者は少ない。類まれな身体能力を持ちながらも学問を志す者がいれば、膨大な魔力を持ちながらも後方任務につく者もいる。珍しい稀少技能を有しながら使わずに一生を終える者。古代ベルカでは、優秀な王となるべく造られた者が統治を嫌がり国内を混乱させたこともあったそうだ。夢は時に才能を無駄にさせてしまうんだ」

「それは人間が自由意志を与えられた以上、受け入れなければいけないことだ。惜しいからといって、生き方を強いるわけにいくまい」

「……全ての人間が、きみのように考えられるなら良かったのだろうね」

 

 スカリエッティは眩しいものを見る時のように目を細め、そのまま目を閉じて語り続ける。

 

「旧暦の頃、生まれつきある種の情動……()()を持った人間を作り出す計画があった。遺伝子操作によって造り出されたデザイナー・チャイルドに、数多の世界、数多の時代の膨大な知識を流し込む。そして優れた素質と植えつけた知識を最大限に活用させる人間にするために、生まれる前から意志を捻じ曲げる。科学の追求、生命の究明、その見果てぬ夢に邁進することこそが自分の望みで幸福なのだと。決して尽きない欲望の望むがままに歩みを止めることなく」

 

 漏れる言葉には熱がある。普段の彼からはまったく想像もできない。切実な、魂に絡みついた熱さが。

 

「プロジェクトD――DESIREの実験体の一人、プログレスデザイアというコードを与えられ、最後まで生き残りアンリミテッドを冠された成功体。未知という闇を駆逐する理性の光となるために造り出された存在。……それが私だ」

 

 スカリエッティが指先を動かすと、周囲に二十ほどのホロディスプレイが投影された。

 映る物は様々。石盤、魔導書、装飾品、遺伝子地図、宝石、家具、武器。どれ一つとして同じものはなく、また全てが現代の管理世界とは異なる様式、技術、美的感覚に基づいて作られていた。

 それが何であるのか理解した瞬間、グレアムは驚愕で言葉を失った。

 

「これはそんな私が、求められるがままに解析してきたロストロギアのデータ、そのほんの一部だ。どれも見覚えがあるだろう?」

 

 ライブラリアンレポート、天命の書、完全性球体、天彗児、ギンヌンガガップの雫、怨王の断頭台、貫きの樹。どれもグレアムがかつて回収に関わり、管理局の古代遺物管理部が保管しているはずのロストロギアだ。

 

「それから、これは最近私が解析を依頼された物だ。これも知っているんじゃないかな?」

 

 スカリエッティが指をわずかに動かすと、研究室の片隅に置かれていた小箱が彼の手元へと引き寄せられ、静かに机の中心へと降りる。

 中に収められていたのは、種のような形をした小さな石だった。

 

 それが何なのかはすぐに理解した。実物を見たことはなかったが、資料でその形状と特性は知っている。

 

 ジュエルシード――PT事件の焦点となったこのロストロギアは、単独でも大規模な次元震を発生さえ、複数個揃えば次元断層を生み出すことすら可能な極めて危険な代物だ。アースラが本局に持ち帰った後は古代遺物管理部によって厳重に保管されている。

 数個が解析のために技術部に貸し出されていると聞いていたが、そのうちの一つをスカリエッティが持っているのはなぜだ。

 

 ロストロギアを扱う部署は、物が物だけに情報部や査察部並に情報の保秘が徹底されている。そのような場所から情報一つでも盗み出すのは至難の業だ。

 様々なロストロギアのデータについては、本局に忍び込んだセインとクアットロ、情報機器への高度なアクセスを可能とするウーノ、潜入しているドゥーエ、彼女たちをうまく使えば、管理局に見つかることなく数々のロストロギアのデータを抜き出してくることも不可能ではないのかもしれない。

 それでも今目の前にあるジュエルシードのように、現物を盗み出して来るとなれば話は別だ。半年前に危うく一つの世界を崩壊させかけたほどの代物が一つでもなくなったとなれば大騒ぎになる。

 このジュエルシードは技術部に正式に貸し出されたうちの一つであり、スカリエッティに通じる技術部の高官が解析のために横流ししたのだろう。当然、紛失すれば大事になるので、あくまでもスカリエッティに解析してもらうために、一時的に。

 

 ――本当にそうなのか?

 

 ミッドチルダにおける首都防衛部隊の指揮権限を持つゲイズ少将。管理局の各部署に目を光らせる査察部の次期トップを嘱望される査察官。ドゥーエを潜入させるための手引ができる高官。そしてジュエルシードほどのロストロギアを貸し出すための偽装工作おこなえる立場にいる技術部高官。

 スカリエッティの協力者はどれも管理局の中枢を担うような人材ばかり。

 

「まさか、時空管理局がそのような非人道的な研究をおこなっていたと言うつもりか!?」

 

 彼の話をつなげれば、その結論にたどり着くのは自然だった。

 時空管理局こそがスカリエッティを造り出した組織である。スカリエッティもまた形は異なっていても管理局の一員であり、だからこそ管理局の高官たちはスカリエッティに対して主導権を握れるのだと。

 スカリエッティは優秀な生徒を称えるように、その顔に微笑を湛えながら、その最悪の想像を肯定する。

 

「寝物語によく聞かされたよ。人類には余裕がないのだとね。ベルカの崩壊は、周囲の次元世界に大きな混乱をもたらした。しかしわずかに残った諸王が消えていき、民衆の主導する国家が形成されてからが、本当の戦乱の始まりだった。ベルカにおける王とは絶対の権力者にして、国家の有する最強の兵器でもあった。最強の兵器を生み出す王家には、国家の保有するあらゆる技術が結集していた。その王と王家を――彼らの保有する技術を失った国家は、退行を余儀なくされた。皆一律に退行できたわけではない。その度合は国によって異なる。そこで始まったのは経済戦争以前の、技術と政治構造の差による争い――侵略だ」

 

 退行したということはこれまで当たり前だったものを保てなくなる、使えなくなるということ。

 今さら電気のない生活に戻れるか? 今さら魔法のない生活に戻れるか?

 

 答えは否だ。

 

 失われたものを補填しようと、あるいは不満のはけ口として、戦争は起こる。

 

「一方が侵略するだけならまだ良かった。けれど、当時の次元世界にはベルカ崩壊で多くのロストロギアや質量兵器が散逸していた。かつては厳重に管理されていた質量兵器を個人が手にして、侵略する側を一夜にして壊滅させたこともあった。できたばかりの時空管理局が国家間の軍事バランスをとり、戦争への抑止力となるだけの力を有するためには、戦乱をさらなる混乱に導きかねないロストロギアと質量兵器を回収して封印するだけではなく、自らの力へと変えるための解析が必要だった。そのために私は造り出された。かつて時空管理局の中枢であり、今もなお影響を与え続ける者たち――最高評議会の手によって」

 

 グレアムの頭を占めたのは、驚愕よりも困惑だった。

 聞き覚えのある名称だが、新暦以降に入局したグレアムにとっては歴史の中の存在だ。

 

「最高評議会は、失くなったはずでは……」

 

 『最高評議会』――時空管理局を創設した初期メンバーによる、管理局黎明期の最高意志決定機関の名称だ。

 肥大化し体制の改革を余儀なくされた管理局が、大改革の果てに現在の体制に落ち着いた時期――すなわち旧暦から新暦へとなった時に、巨大組織となった管理局にとって少数の評議員による意思決定は不適当であること、管理局創設に関わる初期評議員の大半が亡くなっていたことを理由に解散された。

 現在の管理局の意思決定機関は黎明期の管理局を支えた最高評議会に敬意を示し、単に評議会という名称で呼ばれている。

 

「彼らは亡くなってなどいなかった。それだけのことさ。私は今も彼らという(スポンサー)の要請を受けて研究をしている。きみから見れば勝手気ままに生きているように見えるのだろうけど、これでなかなか窮屈な生活でね。目を盗んで勝手なことをする時もあるけれど、それも限度がある。第一級のロストロギアである闇の書の存在と、違法行為に手を染める管理局高官。これを報告しなければ、後で大目玉をくらってしまう――ということで、彼らがきみのことを知っていたことは許してはもらえないだろうか」

 

 冗談めかして言っているが、たしかにこれほどの重大事項を隠していたとなれば、叛意ありとして処分されかねない。

 

「……わからん。お前の言葉がどこまで真実なのか。判断の材料が足りない」

 

 言葉とは裏腹に、グレアムはスカリエッティの発言を否定することができなかった。

 このラボを見た時に考えたはずだ。このように設備の整った研究施設を複数維持するには、組織的な支援が必要だと。

 

「仮に真実であったとして、最高評議会は闇の書をどうするつもりなのだ」

「心配いらない。彼らはきみの行動を評価し、容認する方針で意見が一致している。ただし表立ってきみを支援すると捜査関係者に自分たちの存在が知られかねないので、代わりに私にでき得る限りきみの力になるように厳命してね。だからきみが私を警戒する必要なんて、本当はどこにもないのさ。きみを裏切ろうものなら、こうだ」

 

 と言って、スカリエッティは手刀を自らの首に当てる。

 

「では、いずれ伝えるとはどういうことだ。」

「ああ、彼が先ほどの通信で言ってたことかい?」

「そうだ。彼はいずれ私に教えるつもりだが、今知られるのはまずいと言っていた。最高評議会のことを私に教える必要などないはずだ」

「それは簡単だよ。彼らはきみが晴れて闇の書の駆逐に成功した暁には、きみを最高評議会の一員として迎え入れるつもりでいるみたいだからね。その時に伝えるつもりだったんだろう」

 

 その言葉に、瞬時に頭に血がのぼる。

 

「私がそんな誘いにのると思っているのか!」

「彼らは思っているようだよ。世界のために罪のない少女の死を許容する――多数のために少数の犠牲を許容できるきみは、自分たちと志を同じくする者に違いないとね」

 

 スカリエッティの顔には、再び亀裂のような笑み――嘲笑が浮かんでいた。

 

 

 

 

 白々とした光に照らされるラボの通路が、ひどく暗く感じられる。一歩を踏み出すたびに、泥濘にとらわれた足を引き抜くような疲労を覚える。

 鉛のような身体とは対照的に、グレアムの胸のうちにはやり場のない憤りが渦巻いていた。

 

 スカリエッティは管理局主導の人体実験は旧暦に限ったことであり、今はもうおこなわれていないと言った。

 だが、そのようにして造り出されたスカリエッティが、戦闘機人をはじめとする人体実験をおこなっており、最高評議会がそれを看過しているならば同じことだ。

 

 もしも彼の言葉が真実なら、グレアムが信じてきた管理局の正義とはなんだったのか。

 

 スカリエッティの語った内容は荒唐無稽で、とても信じられないはずなのに、論理とは別のところで奇妙な真実味があった。

 

 グレアムも管理局が完全無欠の善であるなどと思っていたわけではない。半世紀の間に様々な暗部を見てきた。個人どころか部署ぐるみの汚職を目にしたこともある。組織としてどれだけ綺麗なお題目を掲げていても、実際に動くのは個人であり、末端になれば不正も起こる。

 だが、管理局の意思決定機関である評議会は、人体で言えば心に相当すると言っても過言ではない。その中でも管理局の創設者たちが所属していた最高評議会が暗部そのものという事実は、管理局に所属する者すべてへの裏切りだと――これまで管理局の一員として生きてきた己の人生を否定されたように感じられた。

 

(カルマン君なら何か知っているかもしれない)

 

 彼がどれだけ事情を知らされているのかはわからないが、このまま頭の中だけで真偽に悩み続けるよりも建設的に思えた。

 ウィルの姿を求めて、グレアムは重い足をひきずりながら、ラボの中を歩く。

 

 

 訪れた談話室にはウィルの姿はなく、代わりに二人の少女が談笑していた。

 

 浮遊する椅子に座った、茶色の柔らかな髪に、優しげな目の少女、八神はやて。

 左右で編んで垂らした赤い髪に、つり目がちな碧眼、ヴィータ。

 

 二人の少女は入ってきたグレアムに同じように驚き、対照的な反応を見せた。

 

「こんにちは、グレアムおじさん。来てたんですね」

 

 驚きを喜びに変え、笑顔でグレアムへと寄るはやて。

 一方、ヴィータは渋面を浮かべ、警戒と手に持ったうさぎのぬいぐるみを抱きながらグレアムを見ていた。

 

「ああ、こんにちは。あまり会いに来れずにすまない」

 

 そばに来たはやての頭にそっと手をおき、ゆっくりとなでる。

 掌に収まりそうな小さな頭は、グレアムの手より暖かで、彼女がまだ小さな子供なのだとはっきりと理解する。

 初めは嬉しそうになでられていたはやてだったが、グレアムの顔を見ると途端に眉をよせ、顔を曇らせる。

 

「おじさん、身体どこか悪いんですか?」

「何を……いや、少し疲れているから、そのせいかもしれないな」

 

 顧問官としての業務をこなしながら、闇の書事件のオブザーバーとして活動しつつ、裏では独自にスカリエッティたちと接触。体力の衰えたこの肉体には負担が大きいのは事実だ。

 しかし、この程度の疲れはいつものこと。

 蓄積する肉体的疲労は精神でカバーできる。これまでずっとそうやってきた。

 だというのに、今はなぜだか身体がうまく動かない。

 

「仕事で少し困ったことがあってね。先ほどからずっとそのことを考えていたのだよ。せっかくきみと会える機会だというのに心配をかけて申し訳ない」

 

 心配そうに見上げるはやてを安心させるために笑みを浮かべようとしても、表情筋が固まって、ぎこちない笑みしか作れない。

 

「ところでカルマン君がどこにいるのか知らないだろうか」ごまかすように話題を変える。 「仕事のことで話があるのだが」

「ウィルさんですか? この時間やったら……訓練してるか部屋に戻ってお仕事やと思いますけど。最近流行りのテレワーク、とかで」

「では、少し歩きまわって探してみるとしよう」

 

 礼を言って立ち去ろうとすると、はやてに袖を引っ張られる。

 

「待ってください。私が代わりに探して来ます。おじさんはウィルさんの部屋の場所、知らないでしょ?」

「気持ちはありがたいが、これは私の用事だ。それにきみは病気を治療しに来ている身だ。いくらなんでも病人の手を借りるわけにはいかない」

「今のグレアムおじさん、私よりずっと体調悪そうに見えます」

「しかしだね――」

「大丈夫です。ジェイル先生がこれ用意してくれたから、どこに行くのも楽ちんなんです」

 

 はやては自らが乗る機械をなでる。

 このラボで時折見かける作業用ドローンに座るための窪みを取り付けただけに見えるそれが、今のはやてにとっての車椅子代わり。思考制御式なのか、操作パネルのようなものはどこにも見当たらない。

 たしかにあちこち移動したところで疲れることはなさそうだ。

 

「私が探してくる間、おじさんはここで休んでてください。疲れてる時に無理したらあきません」

 

 はやては子どもに注意する母親のようにグレアムに釘をさし、ドローンに乗って部屋から出ていった。

 強引にも思えるその態度はグレアムを休ませるための、やさしさの表れなのだろう。

 PT事件の時も、怪我をしているウィルを家に引っ張っていって治療したと聞く。

 

 八神はやてとはそういうやさしい子なのだ。

 そんな子を自分は犠牲にしようとしていた。

 それどころか、今もまだ場合によっては彼女の犠牲もやむなしと考えている。

 

 管理局はグレアムの信頼を裏切ったかもしれない。

 だが、大勢のため世界のためと、罪のない子供の命を切り捨てようとした自分はどうだ。

 スカリエッティが語った事実であれ虚構であれ、そこで語られたおぞましき最高評議会とグレアムは同類ではないのか。

 

 平穏のためなら、どれだけ堕してもかまわないと考えていた。

 それなのに、いざ堕した己と同じような姿を見せられて衝撃を受けるということは、心のどこかでは今でもまだ正義の味方でいたつもりだったのだ。

 己のおこないは最善でこそないが、現状で取り得る行動の中では最も正しい次善で、誰かが引き受けなければならない汚名を自らかぶりにいくのだと、過ちを正当化していたのだ。

 偽悪者のふりをする偽善者の姿は、あまりに醜い。

 

 道理で身体がうまく動かないはずだ。

 蓄積する肉体的疲労は精神でカバーできる。これまでずっとそうやってきた。

 その精神が崩れてしまったのだから。

 

 胸の奥にあった何かがぷつりと切れる感覚を最後に、身体にまとわりつく鉛のような重さが消失する。もう重くない。軽くもない。身体中の感覚が消失して、足裏の地面さえわからない。

 

 視界が傾く。自分が倒れかけているのだと気づいたが、身体に力が入らない。そのまま傾きは増して白色の床が急速に近づいて――途中で止められた。

 倒れかけた体を支えたのは自分の足ではなく、赤い髪の少女。ヴォルケンリッターの一人、ヴィータだった。

 

「……いつの間に」

「年寄りの相手は慣れたからな。急にふらふらしだすから、よく見とかないとダメなんだ」

 

 言いながら、ヴィータはグレアムの腰のあたりに手をやって支えながら、近くのソファへと連れて行き座らせる。

 そして自分は近くの椅子に座り、グレアムの顔をじっと見る。

 

「何かあったのか?」

「はやて君だけではなく、お前にまで心配されるとはな。そんなに今の私はいつもと違うか」

「倒れかけといていつもと違うかも何もあるかよ。……びっくりするぐらいひでー顔してる」

「……そういうお前もずいぶんとひどい顔をしているな」

 

 近くで見るヴィータは、心が弱った者の顔をしていた。スカリエッティの言ってた実験の影響だろうか。

 

「……マジか?」

「こんな状態の私が気づく程度にはな」

「そっか。もしかして、はやてにも心配かけちゃってたのかな」

 

 ヴィータはうさぎの人形を強く抱きしめ、顔をうずめた。

 

 重苦しい沈黙を破ったのは、グレアムの方だった。

 思考は固まる前のコンクリートのように粘性が高く、うまく形にならない。

 ただ思ったことをぽつりぽつりと語り始める。

 

「私はな……これまでずっと管理局の一員として生きてきた。自分の仕事は少しでも世界を良くする、価値のあることだと信じていた。だが、それが信じられなくなってしまった」

「なんだ、お前もかよ。あたしだってそうだ。蒐集も、闇の書も、何も信じられなくなっちまった」

「教えてくれ。お前はどうして戦える。どうやって立ち直った」

「立ち直れてなんかない。……最初はさ、蒐集さえ終わって闇の書が完成したら、はやては助かって、みんな元通りになるんだと思ってた。だから嫌でも戦えてた。でも……もうそんなこと言ってられる段階じゃないんだろ?」

 

 答えを返せないグレアムに、ヴィータはさらに続ける。

 

「あたしたちがはやてといたことも、はやてが闇の書の主だってことも管理局にばれた。もう海鳴で、今まで通りにみんな一緒で暮らすのなんて無理なんだろ?」

「……そうだな」

 

 たとえスカリエッティの研究がうまくいき、闇の書が何の犠牲もなく解決したとしても、はやてが闇の書と関係をもっていることはすでに管理局にばれている。

 はやて自身が罪を問われることはない。事件ははやてを中心に動いてこそいるが、彼女自身は何も知らず、犯行には一切関わっていない。

 その事実が明らかになるまでは監視が続くが、闇の書の危険がなくなったと判明し、ヴォルケンリッターが自らの意思で襲撃をおこなっていたとわかれば、はやて自身はまた自由に暮らせるようになる。

 

 しかし、自らの意思で襲撃をおこなったヴォルケンリッターが許されることはない。プログラム体である彼らは、既存の法の範疇では人間ではなく傀儡兵や人工知能のような無機物と同様に扱われる。

 そして、人に危害を加えたモノへの対応の中で最も確率が高いのは、廃棄――すなわち消滅だ。

 

 これまで通りの日常が戻ることはもはやありえない。

 

「それがわかった時、もう戦うのが嫌になった。だけど、やめるのはもっと嫌だったんだ。だって、やらないとはやてが死んじゃうから。闇の書のことも自分のことも信じられなくても、はやてがくれた幸せな時間だけは確かだから」

 

 横顔には子供らしい顔つきには不似合いな悲壮な決意が刻まれていた。

 

「その結果、自分たちが滅ぶことになってもか」

「ああ」

「滅ぶのは怖くないのか?」

 

 馬鹿な問いだ。

 ヴォルケンリッターは闇の書に造られたプログラム。主を生かすために自らが滅ぶことに苦を感じるはずもない。

 それでも問いかけてしまったのは、目の前にいるのは思い悩むただの人間のようで、そんな少女が自分の滅びを許容できるとは思えなかったから。

 

 ヴィータは天井を、その向こうにある現在(ここ)ではない過去(どこか)を見る目で語る。

 

「今日、思い出したんだ。ずっと昔、あたしが倒した奴が言ってた。自分はここで死ぬけど、それで終わったりはしないって。意志は受け継がれて、因果が繋がって、あたしたちを追い続ける。いつかそれが追いついた時、あたしたちが滅ぶ番が来るんだ……って。きっと、今がその番なんだ。だからいいよ。あたしはここまでで良い。もう十分、幸せな思い出をもらえたから。後悔なんてしない」

 

 ヴィータは笑った。喜びのない、諦観の笑みだった。

 その顔を見て空虚だった胸にぼんやりとした何かが生まれる。

 

「嘘を言うな」

「嘘なんかじゃねえよ」

「そんな顔で言って誰が信じる」

 

 口を閉ざしたヴィータにかまわず口早に続ける。

 

「はやて君は死なせない。そして、お前たちを滅ぼさせもしない」

 

 ヴィータが驚いた顔で、グレアムを見返す。

 

 グレアム自身、自分の言葉に困惑していた。

 今更どの口でそんなことを言うのかと自分自身へ憤る一方、どこか納得していた。

 

 エスティアが消滅したあの日から、ずっと勘違いをしていた。

 正しさは甘さ。甘さが隙を作り、悲劇を生み出してしまった。

 自分は闇の書と戦うために、甘さを捨てなければならないのだと。

 

 とんだ思い違いで、思い上がりも甚だしい。

 初めて管理局に来た時を思い出せ。 それまで生まれた国から出たこともなかった自分が、右も左もわからない異世界で頑張ってこれたのは、正しいことをしているという確信があったからではなかったか。

 人は信じられるものがあるから戦える。正しさは甘さではない。闇と戦うための刃であり、己の心を守るための盾だ。

 

 そしてその正しさは所属する団体によるものではない。

 天上の星の輝きに魅入ったのは、我が心の内なる道徳律によく似ていると思ったから。

 管理局の正義を信奉していたのではない。己の正義を為すために管理局に所属したのだ。

 最高評議会が管理局の正義を否定し、グレアムを裏切ったのではない。グレアムの正義を裏切ったのはグレアム自身だ。

 

「お前、あたしたちのことを嫌いじゃなかったのか?」

「嫌いだ。憎んですらいる。お前たちは私の敵だ」

「ならなんで……ああ、はやてが悲しむからか」

「それだけではない」

 

 信じるものが崩れて、心が折れてしまったなら。

 再び立ち上がるための寄る辺が必要であるなら。

 みっともなくても、一度裏切った正義をまた拾って折れた芯に接ぐしかない。

 

 だから口にする。

 今さら何をという心の声をねじ伏せて、自分の感じたままの、かつての自分が抱いていた正義を。

 

「今のお前のような顔をしている者を見捨てることが正しいとは思えないからだ」

「だけど、あたしたちは――」

「これまで多くの命が失われて来た。これ以上は、もういいだろう。誰も死なない未来があっても良い」

「その命を奪ったのがあたしたちなんだぞ」ヴィータはぬいぐるみに顔をうずめる。 「お前はバカだ。そんな綺麗事が通るわけがない」

「たしかに周囲はそれで納得しないだろうが、私にとっては綺麗だからこそ目指す価値がある。困難な道だからと安易な方を選んでも、恐ろしく後悔すると先ほど身をもって学んだからな」

 

 目指すのは犠牲のない結末。誰一人死なせることなく、家族の元に帰ることができる世界。

 かつての自分は常にそれを目指していた。

 

「それから、これは私の個人的な願いだが……お前たちが罪の意識を感じてくれるのなら、できれば死以外で償ってほしい」

 

 ヴィータはぬいぐるみから顔をあげ、言葉を探しているのか、何度か口を開けたりと閉じたりして、ようやく何かを言おうとしたその時

 

 突然の音と揺れが言葉を遮った。

 

 音は大きくなく、揺れも強くはない。むしろ弱いと言ってもいい、しかし地震とはまったく異なる振動に、グレアムは不吉なものを感じた。

 

 

 

 

 

 シグナムがとっさに体を左へと動かすことができたのは、積み重ねた無数の戦闘経験が築き上げた直感のおかげだった。

 それでも完全な回避にはわずかに届かず、銀の刃は彼女の右肩へと突き立てられ、背後の壁へと体ごと押しつけられる。

 昆虫標本のように、突き立てられた剣がシグナムの体を壁に縫い止める。

 

 剣を握るウィルの顔には、先ほどまでの微笑は欠片もなく、いまや怨嗟と憎悪に歪み、心を削る狂相と化していた。

 

 濃い魔力が刃に集い始めた瞬間、シグナムの体は反射的に動いた。

 左手にレヴァンティンを展開させ、瞬時に込められるだけの魔力を込め、背後へと突き出した。

 背にした壁が砕ける。壁の先は居住棟の外、地下大空洞が広がっていた。

 シグナムは後方に飛び退く。肩に刺さった剣が抜けた瞬間に、騎士甲冑を纏いながら距離を取ろうとする。

 

 

 シグナムの心は後悔でうめつくされていた。

 

 なぜ、告げてしまったのか。

 

 理由はわかっている。彼に嘘をつきたくなかった。裏切るようなまねはしないと、誓ったから。

 だから思い出したその記憶をありのままに伝えてしまった。

 

 もしかすると、思い出した記憶の重さに耐えられずに、責めてもらいたかったのかもしれない。

 

 そこに己の見通しの甘さがなかったと言えば、嘘になる。

 

 きっと甘く見ていたのだ――ウィルならば、右腕を奪ったことを責めようとしない優しい彼ならば、激怒はしても直情的な行動にはでないだろうと。少なくともはやてのことが解決するまでは待ってくれるだろうと。

 あるいは、甘く見ていたのだ――自分の犯した罪の重さを。

 

 崩れた壁の向こうから、砂煙を貫いてウィルが姿を現す。

 纏うバリアジャケットは白から黒へ、剣を握る右腕は真銀の輝き。

 右腕以外の四肢にも銀の輝きを身につけたその姿は、シグナムの知らない彼の新たな戦装束。

 

 殺意に染まった見覚えのある眼光が、刃より速く鋭くシグナムの胸を貫く。

 

 

 

 

 捻じれ、歪み、軋みをあげながら、かろうじて保たれていた構造体。

 

 いつか訪れる崩壊を決定づける引き金が、赤髪の少年によって引かれた瞬間だった。




 三話かけてのグレアム陣営の掘り下げ終了。

 A's編のプロローグ・序盤・中盤までが終わり、ここから終盤に入ります。
 作品全体としても、ここから先は終盤戦になります。


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復讐の刃Ⅱ

 シグナムは居住区の壁を破壊して、ラボの外に広がる地下空洞へと飛び出した。

 

 右腕は力なくだらりとぶら下がっていて、貫かれた右肩の傷からは血が流れ続けている。腕につながる筋皮神経が損傷したようで、右手がうまく動かない。人間なら致命的な怪我だ。

 しかしプログラム体であるヴォルケンリッターにとって、肉の現し身は式の写し身にすぎない。肉体がどれほど酷く損傷したところで、魔力を消費して再構成すれば怪我は消えてなくなる。

 ただしそのために必要とする数秒の時間を、戦いの最中に相手が与えてくれるとは限らない。

 

 一拍置く間もなく、砂塵を裂いて姿を現したウィルが急迫。殺意が刃に乗って迫り来る。

 纏うバリアジャケットは管理局らしさのある白地に青のロングコートから、黒地に赤を差した軽装へと変化している。防御に回す魔力を減らしたと一目で見てとれる、より攻撃的なスタイル。

 

 傷を治して右腕を使えるようにするだけの猶予はない。レヴァンティンを左手で握ったまま迫る刃を受け止める。

 

 金属がぶつかり合うけたたましい音が空洞に反響する。

 二つの刃が拮抗したのは一瞬。迫り合いに押し勝ったのはウィルの方。

 シグナムといえど利き腕ではない腕一本だけで受け止められるほど、速度の乗ったウィルの突撃は甘くない。

 

 受け止めきれないなら受け流すまでと、押し込むウィルの動きに合わせてあえて剣を引き、相手の突撃の威力を利用した前蹴りを放つが、かつては届いたはずの槍の鋭さをもった蹴撃が空を切る。

 ウィルはあらかじめ予測していたかのように、身体を半身にして蹴りを回避すると、動きを止めることなく後ろ回し蹴りに移る。

 シグナムはとっさに蹴り足を引き戻して、身体の前で折り曲げて盾とする。回避の態勢から強引に放たれる蹴りなら威力は低い。十分受けきれるはず。

 

 その瞬間、ウィルの蹴り足を覆う金属製のブーツに取り付けられたノズル――フェザーから、圧縮された空気が噴出する。

 急激に加速した蹴りの衝撃は、盾とした右脚を突き抜けて全身に響き渡り、シグナムの身体を弾き飛ばす。

 

 飛ばされながら、飛行魔法で姿勢を制御するよりも先に、レヴァンティンに魔力を送り込んで空を裂くように振るう。

 

「陣風」

 

 刀身に込められた魔力が大気と交じり合い、指向性を持つ衝撃破を生み出して、追撃を目論むウィルを迎撃する。

 

「アナテマ」

 

 呼応するようにウィルが何もない空間を蹴った。銀脚に込められた魔力が大気と交じり合い、指向性を持つ衝撃破を撃ち出す。

 

 同質の技、二つの衝撃波が宙空で激突。

 衝撃波に指向性を持たせていた魔力が干渉し合い、崩し合う。

 指向性を失い四方八方へ撒き散らされた衝撃波が、周囲の岩壁やラボの壁を砕く。

 

 散乱する衝撃波と飛び散る瓦礫の合間を縫ってウィルが迫る。

 直進できない分、飛行速度は先ほどより落ちている。この速度からの突撃なら左腕だけで競り負けることはない。

 ウィルもそれは承知しているのか、シグナムの手前で急激に速度を落としつつ、魔力運用で足裏に形成した膜で衝撃を吸収しつつ着地。その足で地を蹴って、飛行から走行へと移る。

 ここからは刹那に渾身の一撃を交わす騎兵の戦いではなく、技巧で相手を詰ませる剣士の戦いだ。

 

 斜め左から切り上げるウィルの剣を、金属製のコンバットブーツの裏で受け止め、上段に構えたレヴァンティンを振り下ろす。

 ウィルは左足を一歩踏み込んで前身し、剣の軌道から外れながらシグナムの右斜め前方の至近距離に位置取り、剣を引き戻す動きに連動して、左肘で弧を描くようにしてシグナムの顔を狙う。

 顔を上体ごと後ろに逸らしてかろうじて回避したその瞬間、肘打ちの動きに連動して動いていたウィルの左膝が右脇腹に突き刺さる。

 シグナムの身体がくの字に身体が曲がり、がら空きになった首筋めがけて、かついだ剣が振り落ろされる。

 

 その確かな殺意にシグナムの肉体が反応した。

 首筋に打ち落とされる剣をレヴァンティンの柄で受ける。そして剣との接触点を中心として弧を描く斬撃。

 ウィルは剣を引きつつ立ててこれを防御。その間にシグナムは後方へ跳躍。

 距離をとらせるものかとウィルが再び突撃し、剣と拳と脚を駆使した攻防が再度繰り広げられる。

 

 

 攻め続けるウィルと防戦一方のシグナム。

 片腕が使えないのだから手数が落ちて守勢に回るのは当然の成り行きといえ、シグナムの劣勢はそれだけが原因ではない。

 シグナムの動きは本来よりワンテンポ遅れている。

 

 戦うために造られ、何万という戦いを経験として蓄積してきたシグナムにとって、肉体が勝手に動くというのはごく自然なことだ。

 個々の動作すべてを頭で考えているようでは、瞬間的な対応を要求される近接戦で一流と言われる領域に上がることはできない。

 かといって、思考を放棄して本能のままに動くのでは動物と同じ。頭脳に求められるのは細やかな指示ではなく大まかな方針だ。頭脳は管理者、末端の肉体は労働者。方針を定めさえすれば、優秀な肉体はいちいち指示をしなくとも最適な行動をする。訓練とはつまるところ肉体という部下を教育するようなもの。

 逆に、頭脳が方針を打ち出せないうちは、肉体がどれだけ優秀であっても目指すところがわからず明確な反応を返してくれない。

 今のシグナムの状況はまさにそれ。彼女の内にあるためらいと迷いが、肉体の判断を妨げている。

 

 肉体を十全に働かせるためには、決めなければならない。

 目の前の障害をどのようにして排除するのか。

 

 いや、本当に排除しなければならないのか。

 受け入れた方が良いのではないか。

 

 襲いかかるウィルの殺意に満ちた瞳は、ひび割れ、歪み、怒りと歓喜と嘆きがないまぜになった狂相に包括されている。

 

 ここで戦うことがどれほど愚かな行為か、彼が理解していないはずがない。

 戦いの果てにシグナムが討たれて、もしくはウィルが返り討ちにされて、どちらかが命を落とすようにことになれば、はやての精神にどれほどの悪影響を与えるか。大きなストレスが闇の書の暴走を引き起こす可能性があると、シグナムに語ったのは彼自身だ。

 

 ――はやてには幸せになってほしいんです

 

 あの言葉は偽りだったのだろうか。シグナムを騙すための心にもない言葉だったのか。

 

 

 それは違う、と断じられる。

 

 人は物事に優先順位をつける。

 シグナムも人を傷つけてきたことに罪の意識を覚えるようになってなお、はやてのためにさらなる罪を犯す道を選んだ。

 彼も同じことなのだろう。はやてを助けたいと願う彼も、シグナムを殺したいと狂う彼も、どちらも真実で、シグナムを殺すことを優先したからといって、はやてを助けたかった気持ちが嘘にはならない。

 

 はやてを大切に思う彼に、その想いを踏みにじるほどの憎悪を抱かせてしまったのは、シグナム自身だ。

 

(そうか……私はこの人を――こんな人たちを生み出し続けて来たのだな)

 

 命を奪われた一人一人に人生があり、未来があり、家族がいて、愛する者がいた。

 奪った命はもう戻ってこない。命の重さは不可逆だ。

 

 はじまりは他者の認識。それは罪の認識。

 プログラムの写し身でしかないはずの肉の躰に、臓腑を焦がさんばかりの火が熾こる。

 闇の書の騎士としてではなく、シグナムという一個人が生み出した、それは怒りだ。

 知らず、理解せず、体を動かして、心を凍りつかせて、時間だけを重ねてきた、唾棄すべき己への。

 

 仕方がなかったのかもしれない。

 罪の認識や死への忌避は、生を尊ぶ世界、優しい主の元へ召喚されたからこそ手に入れられたものであり、過去では理解することが不可能だったのかもしれない。

 システムの一部である自分がこのように人間めいた倫理感を有することこそがイレギュラーで、本来ありえないことなのかもしれない。

 言い訳はいくらでも思いつく。

 だが、その理屈を罪から逃れる口実にしてしまった時、二度と自分を許せなくなるという確かな予感があった。

 

 闇の書は多くの人びとの命を奪った。守護騎士もその尖兵として、多くの人々の命を奪ってきた。騎士に命令を下していた過去の主はもういない。今の主に罪はない。罪を覚えているのは騎士だけだ。

 誰かが嘆きと怨嗟に応えなければならないのであれば、それをすべきはシグナムを置いて他にない。守護騎士の将として、重ねてきた罪と向きあわなければならない。

 

 彼の憎悪の刃をこの身で受け止めることで、それが成せるのであれば――

 

 そう思ったはずなのに、湧き上がる贖罪の念と同時に、シグナムの頭に浮かぶものがある。

 微笑みを浮かべた少女の姿。自分たちに幸福の意味を教えてくれた最高の主。

 

 シグナムとウィル。どちらが勝利したとしても、それが死を伴うものであれば、はやては嘆き悲しみ、闇の書の暴走を引き起こしてしまうかもしれない。

 はやてのためにはここで死ぬわけにはいかない。まだウィルの復讐に決着をつけさせるわけにはいかない。

 

 物事には優先順位がある。

 シグナムにとって最も優先することは、優しい主が生き残ること。

 そのために殺さないように彼を無力化させる。それがシグナムの下した判断だった。

 

 

 目的意識が明確になったことで急速に肉体が活性化を始める。

 

 頭部を狙う剣閃をレヴァンティンで受ける。それは予測の上と、ウィルは続けて足元を横に薙ぐ。

 軽く跳躍して回避。瞬間、ウィルの腕部のフェザーから翼――圧縮空気が噴出。全力で振るわれた剣が、瞬時に真逆の方向に斬り返される。

 

 地面にレヴァンティンを突き立てる。ウィルの剣が突き立てられたレヴァンティンと衝突して、その動きが鈍った刹那。

 シグナムはレヴァンティンから手を放し、姿勢を低くしてウィルの懐へと飛び込んだ。

 突進の威力を乗せた左肘がみぞおちへと突き刺さり、ウィルの口から声にもならない苦悶をあげさせる。

 間髪いれず、がらあきの顎を左手の掌で打ち上げる。

 

 跳ね上がるウィルの頭。掌には意識を断った確かな感触。

 昔のシグナムなら、さらに攻撃を続けてとどめを刺していたはずだ。

 今のシグナムが望むのは、相手を殺さずに無力化すること。意識を断ったという手応えがある以上、これ以上の攻撃はウィルにいたずらにダメージを与えるだけで必要ない。

 だからそこで動作を止めてしまった。

 

 

  Possesion 

 

 

 ウィルの脚部のノズルから圧縮空気が噴出。人間一人に音速を突破させるだけのエネルギーで加速したウィルの膝がシグナムへと。

 

 騎士甲冑を貫かれ、胸が潰れ、胸骨が割れ、心臓が一瞬鼓動を止めた。

 

『Meister!!』

 

 瞬間、とっさに声のした方に手を伸ばす。手に触れたのは、先ほど地面に突き立てていたレヴァンティンだ。

 吹き飛ばされる最中、再びレヴァンティンを地面に突き立てる。刃は地面を削り取りながら、錨となって吹き飛ばされる速度を減少させる。

 

 地に足をつけ、ウィルの姿を探す。

 膝蹴りの威力そのままに飛び上がったウィルは旋回を終え、シグナムへと狙いを定めて突撃を始めている。

 意識は断ったはずなのにどのような理屈で動いているのかはわからない。確かなことは、生半な攻撃で彼を止めるのは不可能だということ。

 止めるには一撃で行動能力を奪うより他にない。

 

 左腕でレヴァンティンを掲げ、刃を返しつつ上段に構える。

 最も頼れる技(フェイバリット)たる紫電一閃で迎え討つと心に定める。

 

 身体の動きも魔力の運用も最速最強の一撃を放つことに特化させる一閃は、回避された時の隙が大きい諸刃の剣だ。

 第一、必殺技というものは技単体で必殺足りえるのではない。その技を確実に当てるまでの行程を無視して放つ必殺技は、格下に付け込まれる隙になる。

 

 それでもここで最も信を置ける技以外を頼る気にはなれない。

 ウィルはもはや格下ではなく、本気で戦うに値する難敵だ。純粋な技量のみであればいまだシグナムに及ぶところではないが、彼の狂固な殺意はその差を埋めかねない領域に到達している。

 そのような相手をリスクを負わずに制圧しようとするなら、その思考こそが付け込まれる新たな隙になる。

 だからもてる全力をこの一閃につぎ込む。ただ殺すために放つ時よりもなお全霊を込めて。最適のタイミング、最高の速度で、最高の一撃を。

 

 

 訪れる一瞬の交錯に全神経を集中させた、その時。

 風切る音が耳に届き、同時に上段にかまえたレヴァンティンが弾きとばされた。

 

 事態を把握するより早く、真横から何者かの突撃を受けて押し倒される。

 完全な意識外からの攻撃に反応が遅れ、その間に馬乗りになられて、両腕を地面に押さえつけられる。

 

 女の自分よりも細い、子どもの腕。赤いおさげがシグナムの顔をくすぐる。

 仲間のはずのヴィータが、シグナムの身体を押さえつけていた。

 見た目は子どもでも、単純な腕力においてはザフィーラに次ぐ怪力だ。マウントポジションを取られればなすすべがない。

 

 

「どけ! このままでは――」

 

 シグナムは上に乗るヴィータをどかそうと声を張り上げる。

 ヴィータが乱入したからといって、今のウィルが矛を納めるとは思えない。取り押さえようとるヴィータごとシグナムを両断しようとするだけだ。

 このままでは二人とも死んでしまう――と、そこで早とちりに気がつく。争いを止めるために、片方だけを抑えるような愚をヴィータが犯すはずがない。

 

 視線を横にずらすと、そこには乱入してきた男により、突撃を不本意な形で止められたウィルがいた。

 

 

 

 剣が肉を裂く感触で、ウィルは意識を取り戻した。

 意識の覚醒を検知したグレイスが、主の意識レベルが低下した状態における自律行動モード『憑依(ポゼッション)』を解除する。

 身体の自由を返されたにも関わらず、ウィルは目に映る光景を受け止めきれずに動けなかった。

 

「……しくじってしまったか」

 

 苦しげな男の声。

 ウィルの刃が切り裂いたのは、紅花染めの戦衣に身を包む赤い髪の佳人ではなく、穏やかで上品な仕立てのスーツを着こなした灰色髪の初老の男。

 

 肩口から体の半ばまで切り裂かれながらも、グレアムは酷く穏やかな瞳でウィルを見つめながら、右手の杖を掲げた。

 剣はグレアムの身体を切り裂いたその状態のまま氷で覆われた。

 

「グレアム、さん…?」

 

 熱狂に身を任せていた意識は冷水を浴びせられたように鮮明になり、正気へと引き戻される。

 

 グレアムはウィルが止まったのを見た表情を和らげると、膝から崩れ落ちる。

 呆然としてまとまらぬ思考を抱えたまま、肉体は倒れるグレアムの体を正面から支える。

 

「……なんで」

 

 ウィルの心を代弁するかのようなその声は、聞き逃してもおかしくないほどに小さく。しかし、静寂を壊して、辺りにしっかりと響いた。

 細い、細い、子供の声。

 八神はやての声が、空洞に響いた。

 はやては壁の壊れたウィルの部屋のそばで、移動用のドローンに腰掛けたまま、目を見開いていた。

 

 彼女が声を発した瞬間まで、誰もその存在に気が付かなかった。

 放つ魔力が風を巻き、剣戟と拳が交わす高音と低音が溢れる命を賭した戦い。それがあまりに鮮やかで。見ているだけの少女に誰も気が付かなかった。

 

「……なんで」

 

 呆然とし、言葉を失う三人の耳朶を、再びはやての声が打つ。周囲は驚くほどに静かで、遠く離れているのに声がはっきりと届く。

 誰も答える声を出せなかった。

 腕の中のグレアムがびくんと身体をはねさせ、口から真っ赤な血を吐いた。

 ウィルの服が、腕が、血で染まる。

 

「はっ――はやく手当て! ジェイル先生に連絡せんと!」

 

 鮮烈な赤色は離れていても見えたのか、呆然としていたはやては狼狽しながらもそう口にする。

 ウィルの身体は動かなかった。ウィルだけではない。誰も彼もが、氷漬けにされたようにその場から動くことができず、視線を外すことができなかった。

 

 その様子を見て、狼狽していたはやての、常に優しげで、年齢にそぐわない落ち着きをたたえていて、ほんの少しの寂しさを残していた顔が、いびつに歪んだ。

 

「なんで誰も動かんの! おじさんがそんな怪我してんのに、なんで私の方ばっかり見てるん!」

 

 大きな声を出すことなど滅多になかったからか。詰問の声は滑稽に裏返っていて。

 そんなはやては、まるで知らない人を見るような目でこちらを見て。

 そんな目で見たことを自覚して、自己嫌悪でさらに顔を歪ませて。

 

 誰もが動けなかったのは、グレアムのことがどうでも良かったからではない。

 

 はやての隣に、いつの間にか黒ずんだ闇が現れて、書の形を成していたからだ。

 金色の剣十字が刻まれた、黒より昏い装丁の。実験棟に保管されているはずの。

 

 

 心臓の鼓動が体に響くように、闇の書の鳴動が空間を大きく揺らした。

 

 

 頁の隙間から様々な色の絵の具を混ぜて煮詰めたような、黒く汚れた光があふれる。

 はやてを中心にして、周囲の地表を覆い隠すように巨大な魔法陣が描かれ始める。

 陣を成す線は視覚化されたプログラムの塊だ。

 

 現在の収集状況は六百頁と少しと聞いている。

 未完成の闇の書の起動。それが示す状態は、すなわち

 

 ――暴走が起こる

 

 ウィルの腕に支えられたグレアムが絞り出した言葉は小さくて、口からあぶく血で濁って明瞭としていなかったが、たしかにそのように聞こえた。

 

 書からあふれる黒が軟体生物の触腕のような形を成し、はやての四肢に抱きしめるような優しさで絡みつく。

 

「すまない」

 

 声を発したシグナムの方に振り返る。視線が交錯した次の瞬間には、彼女の身体は疾風となって駆けだしていた。

 その途中に転がるレヴァンティンを拾い、闇の書に囚われたはやてに向かって一直線に。

 

「そいつを死なせないでくれ」

 

 そしてもう一人。ヴィータはグレアムの命をウィルに託し、同じように闇の書に向かって突撃した。

 

 書から溢れ出る黒の触腕は四方八方へ伸びて、暴れまわる。

 

 シグナムとヴィータを追って、闇の書の元へと突っ込むべきか。

 逡巡するも、腕の中の冷たい身体を再認識した瞬間、ウィルはグレアムを抱えたままその場から飛び退いた。

 直後、先ほどまでウィルたちがいた空間を、触腕がえぐり取るように通過する。

 

 突撃するシグナムとヴィータは、それぞれカートリッジの弾丸をデバイスへと装填する。

 そこに容赦ない一撃が襲いかかる。

 ヴィータは振りかぶったグラーフアイゼンを狙い定めてぶん回し、迫る触腕を打ち返す。

 強い威力には強い反動。ヴィータ自身も数メートル後方に吹き飛ばされたところを、間髪入れずに触腕の追撃。ふりかぶる猶予はない。カートリッジに込められていた魔力が解放され、推進力となってグラーフアイゼンを加速させる。

 迫る触腕の一本目は一撃を受け真っ二つに。直後に襲いかかった二本目は打ち返され、三本目で拮抗し、四本目でグラーフアイゼンが押し負け、五本目がヴィータの身体を串刺しにした。

 

 シグナムは襲いかかる触腕を紙一重で回避しながら、はやての元へと向かう。

 闇の書へと近づくにつれ、触腕の密度は上昇し、ついには避けようのない全方位からの攻撃を受ける。

 カートリッジに込められた魔力が解放され、刀身が分割され、ワイヤーで繋がれた連結刃へと姿を変える。シグナムを囲うように張り巡らせた、触れるものを両断する刃の結界。

 膨大な数の触腕が次々と殺到し、物量が刃ごとシグナムを飲み込んだ。

 

 ウィルはグレアムに負担を与えないように、出口であるエレベーターへと飛ぶ。

 

 まずはグレアムを安全なところに連れて行って、治療をほどこさなければならない。

 だが、ウィルだけでは何もできない。治癒力をわずかに高める程度の回復魔法でどうにかなるような傷でないことは、傷を与えたウィル自身が何よりも理解している。

 頼みの綱のスカリエッティはまだラボにいる。ラボにはウーノもクアットロもセインも残っている。スカリエッティなら他の脱出手段くらいは用意していて、みんな脱出できるはずだ。そうであってくれ。

 もしなければ、みんな死ぬ。ウィルのせいで死ぬ。

 

 

 その時、空洞全域に特殊な場が展開された。

 突然、飛行魔法の制御がきかなくなる。肉体の周囲を覆う慣性制御場が解けていく。

 AMF――魔力の結合を崩す特殊な空間が空洞全体に展開されていた。

 

 その影響は飛行魔法に限らない。魔力を体外に出そうとすると即座に結合がほどけて魔力素へと戻ってしまう。それどころか体内に巡らされる魔力すら気を抜けば崩れてしまいそうだ。

 肉体強化がとける前にと、飛行魔法を完全に解除して着地する。

 

 空洞のあちらこちらから現れたドローンが闇の書に向かって突撃を始めた。

 魔力によらない動力で動いているのか、ドローンはAMFの環境下でも次々に闇の書へと殺到する。

 一方、魔力で構成された闇の書の触腕は、AMF環境下で次第に動きを鈍らせていく。

 はじめは一撃でドローンを破壊していたのに、二度三度と打ち据えなければ壊せなくなり、次第にドローンの接近を許すようになる。

 いくつかのドローンは触腕の一撃で破壊されていったが、そのたびに新たなドローンが闇の書へと向かう。破壊されたドローンを盾に新たなドローンが突撃し、やがて一体のドローンが闇の書の至近距離へと到達すると、己を中心にさらなるAMFを展開した。

 さらなるドローンが闇の書へ。取り付くと同時にAMFを展開。さらに新たなドローンが。まるでスズメバチを包み込むミツバチの大群だ。

 それを何度も繰り返すたび、ドローンが発生させるAMFは強固になっていく。

 

「いつまで呆けているつもりだい」

 

 いつの間にか、そばにはスカリエッティが立っていた。

 彼の後ろには、ウーノにクアットロ、セイン。ラボにいる戦闘機人が揃っていた。

 

「まずは逃げよう。話はそれからだ」



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命を支払う賭け

 ラボに最寄りの転送ポート。その小屋の隅には無菌状態を作り出す結界が張られ、スカリエッティによるグレアムの治療が続いている。

 離れた場所で目を閉じているウーノ、その指先は宙空に浮かぶコンソールを操作し続けており、この事態に何らかの対応をとっているのは明らかだ。

 何もしていないのは、残りの三人。すなわち、クアットロ、セイン、そしてウィル。

 

 小屋の壁に背を預けるウィルの胸の内は後悔で占められている。

 

 全てが頭から飛んで、ただ心の底から湧き上がる熱さに身を任せて襲いかかった、あの時の自分の愚かさ。

 子供の頃、クアットロを殴った時からまるで成長していない。あの思い出を過ちとして忘れないようにしたのではなかったのか。

 同じように我を忘れて襲い掛かった結果は、子供の過ちとは規模が違う。グレアムに重傷を負わせ、闇の書の暴走を招き、救いたかったはやてを死なせ、仇は討つ前に失った。

 闇の書は再び転生する。次の闇の書が出す犠牲はウィルが出したようなものだ――と、延々と続いていた悔恨と慙愧は、扉が荒々しく開けられる音で打ち切られた。

 

 入り口に立っていたのは、蒐集に出ていたザフィーラとシャマルだ。

 

「何があった」

 

 ザフィーラの鋭い視線が、部屋の中を横切る。

 その後ろからシャマルが不安気な顔をのぞかせる。

 

「闇の書が暴走したのよ」

 

 億劫そうに顔をあげたクアットロが疑問に答える。

 

「私も自分の目で見たわけじゃないけど、ウィルとシグナムが殺し合いを始めて、グレアムおじさまが巻き込まれて、それを目撃しちゃったはやてちゃんがショックで暴走したみたい。シグナムとヴィータは暴走した闇の書に飲まれちゃったようね」

 

 目を見開いて茫然と固まったのもつかの間、シャマルは困惑と怒りをもってウィルを睨みつける。

 

「どうしてそんなことを!?」

 

 問い詰めんと寄ろうとしたシャマルは、隣のザフィーラのたくましい腕に制止されて、その場でたたらを踏んだ。

 ザフィーラの視線はウィルに向いていなかった。

 

「それは後回しだ。主を助けるために、俺たちは何をすればいい」

 

 その先には、結界から出てきたばかりのスカリエッティがいた。

 彼は抗菌性を高め医療用に調節したバリアジャケットを解除して、ザフィーラの元へと歩み寄る。

 

「良いタイミングで戻ってきてくれた。きみたちがいないとどうにもならないところだ」

 

 幾分か落ち着きを取り戻したシャマルが答える。

 

「戻る途中でウーノさんからの緊急信号を受信しましたから。でも、私たちがどこにいるかわからなかったとはいえ、あんな広域に発信すると管理局にも見つかってしまいませんか?」

「管理局とそれ以外の何人かに知らせるのも目的のうちだよ。事態を収束させるには、兎にも角にも戦力がいる。今は猫の手でも借りたいくらいだ」

 

 話の邪魔とわかっていながらも、ウィルはスカリエッティに尋ねる。

 

「あの……グレアムさんの容体はどうでしたか?」

 

 スカリエッティはウィルに向き直ることなく答える。

 

「命に別状はないよ。傷は深かったが、自分で傷口に凍結魔法をかけて出血を抑えていた。すぐに解凍できたから神経組織への損傷もさほど深くはない。平常ではなかったとはいえ、さすがの判断力だ」

「そうですか……」

 

 良かった、と続けかけた言葉を喉の奥に飲み込み、うなだれる。

 

 グレアムは当初、はやてを犠牲にしてでも闇の書を滅ぼそうとしていた。ウィルははやてを救うため、グレアムの計画を捻じ曲げさせてスカリエッティと会わせた。それなのに、このままでははやては死に、闇の書の悲劇はまた繰り返す。

 目が覚めた時にグレアムは死すら救いに思えるほどの絶望を味わうに違いない。

 

「主を助けることはできるか?」

「可能性は極めて低いが、途絶えてはいない」

 

 その言葉に、ウィルは弾かれたようにスカリエッティの顔を見上げる。

 

「ウーノ、ラボはどうなっているかな?」

「三分前に、闇の書を取り囲んでいたドローンはすべて破壊されました。闇の書はAMF環境下で行動を鈍らせながらも、徐々にラボ全体に侵食を進めています」

 

 現在、ラボのある地下空洞全体を包むように、肉体強化などの体内に作用する魔法すら効果を失うほどの超高密度AMFが展開されている。

 このラボは無人世界に築かれただけあって、しくじれば周囲一帯を崩壊させかねない危険なロストロギアをも取り扱えるよう、壁面は次元干渉型の実験の影響すら外に漏らさない構造をしている。セキュリティは、スカリエッティ自らが改良を加えた特製で、次元空間航行艦船に搭載されているそれをゆうに上回る。

 現在のラボは一種の隔離空間。それでも、暴走する闇の書を抑えられる時間は限られている。

 

「後どれほどもつ?」

「多めに見積もって一時間。最短で四十分。それだけの時間があれば、闇の書ならラボの動力炉を掌握できるでしょう」

 

 動力源たる炉を落とされれば、AMFは効果をなくす。

 AMFによる弱体化がなければ、闇の書はあっという間に地上へと姿を現すことだろう。

 

「結構。それだけあればこちらも手を打つことができる」

 

 ウーノの報告を聞き終え、スカリエッティは再びザフィーラたちに向き直る。

 

「どうやらグレアム君が尻尾を掴まれていたようでね。アルカンシェルを搭載している艦船が近隣海域に来ている。さっきザフィーラ君とシャマル君宛の信号を広範囲に発信したから、そう遠くない内にここまで来るはずだ。いざという時はアルカンシェルで闇の書を消してくれるだろう」

 

 スカリエッティのラボは様々な世界に複数存在しているが、わざわざ無人世界のラボを拠点にしたのは、万が一闇の書が暴走した時に周囲の被害を気にすることなく破壊できるためだ。

 だが、それはここにいる面子にとっては求めるべき手段ではない。

 

「俺たちが求めるものは主を救うための手立てだけだ」

「わかっている。彼らはあくまでも私たちが失敗した時の保険だ。私はこれから暴走する闇の書へ赴いて、はやて君を救い出すための仕掛けを施す。そのために、ザフィーラ君、シャマル君、そしてウィルには同行をお願いしたい」

 

 スカリエッティは腰をかがめて、座り込んだままのウィルと視線を合わせると、挑発的な笑みを浮かべる。

 

「グレアム君のことは私にも原因の一端がある。彼の精神状態が万全なら、自分が傷つくという愚は犯さなかったはずだ。だから私はきみを責めはしない。しかしだ、もしきみが――」

「やります。俺にできることなら、何でも」

「即断即決は昔からきみの美徳だね。ザフィーラ君とシャマル君は聞くまでもないか。それでは説明を始めよう。なに、気負わなくてもきみたちにやってもらうことは至極簡単だ」

 

 そうして語られた、命を賭けるというより支払うような計画に、周囲で聞いていたセインが息を呑む。

 ただ、参加者たちは誰も顔色一つ変えることなく、余計な口を挟むこともせず、耳を傾け続けていた。

 

 数分後、スカリエッティが計画を語り終えると、

 

「たしかに俺たちがいなければ不可能な計画だ」

「ひとまずラボの手前まで行きましょう。準備が整ったらすぐに突入できるように」

 

 ザフィーラとシャマルは即座に背を向け、扉へと向かう。

 ウィルもその後に続こうとして、立ち止まり、振り返る。視線は部屋の隅でドローンに寝かされたグレアムへ。

 遠目ではよくわからない。近寄ってこの目で容体を見たいと思ったが、顔をそむけて扉の方へと歩を進める。はやてを助けて闇の書を滅ぼすまでは合わせる顔がなかった。

 

「彼女たちが到着したら連絡を。グレアム君は到着した管理局に引き渡せば良いだろう。見物していてもいいが、適当なところで合流して引き上げるように。きみたちを失うのは惜しい」

「ドクターはいかがなされるおつもりですか?」

「生き残れたら適当な手段を見つけて戻る。無理ならその時は……ウーノ、きみに頼むよ」

「承知いたしました。……ご無事なお帰りをお待ちしております」

 

 スカリエッティはウーノと簡単な言葉を交わすと、先に出て行った三人の後を追って、扉から小屋の外へと出て行く。

 

 

 残された面々の様子は変わらない。

 ウーノは相変わらずコンソールを操作し続け、セインは所在なさ気にうろうろと小屋の中をうろついて、そしてクアットロは座り込んだまま四人が出て行った扉をじっと見つめて、ぼそりとつぶやいた。

 

「……バカ」

 

 近くを行きつ戻りつしていたセインが、首をかしげる。

 

「クア姉、何か言いました?」

「セインちゃんには関係のないことよ」

 

 クアットロは唇をとがらせながら、いつになく真剣な面持ちで己の首に触れた。

 

 

 

 

 山のふもとにある洞窟を進むと、途中から岩肌は銀灰色の金属質な通路に変わる。

 地中のケーブルが途中で断裂したのか、脱出する時には付いていた照明は消えていた。ウィルたちが光源として生み出した魔力光が通路をほのかに照らすが、浮かび上がる金属の無機質な輝きは、どこか不気味さを感じさせる。

 四人はその先の、本来ならラボに入るための生体認証がおこなわれる小部屋で待機する。

 

 四人はあくまでもはやてを救うための最初の段階の担当で、たとえ成功したとしてもその後に続いてくれる者がいなければ、事態はより悪化しかねない。

 ウーノは闇の書が動力炉を落とすまでに、最短で四十分かかると言っていた。スカリエッティが計画を説明して、小屋から出るまでに十分弱。小屋からラボの入り口まで五分ほど。ラボの入り口から闇の書のいる空洞へも同じくらいかかると考えて、二十分間待機することになった。

 

「今のうちに、聞いても良いかしら?」

 

 おずおずとながら、シャマルが話しかけてきた。

 ぼんやりと暗がりに目をやるばかりのウィルが、内心では次から次へと湧き上がる慙愧の念に焦がされていると見とったのか、見かねたのか。

 

「シグナムさんとのことですか?」

 

 暗いが、シャマルがわずかに首を縦に振ったのが見えた。

 

「私たちは表面上だったかもしれないけれど、仲良くやってこれたと思っていたの。でも、あなたにとってはそうではなかったのかしら。……やっぱり、私たちがあなたを襲ったことを恨んでいるの?」

 

 だらんとぶら下げていた両手を胸の高さまで持ち上げて、じっと見る。

 暗がりにあってわずかな光を受けて、陰影をはっきりとさせる生身の左手、反射させて鈍い輝きを放つ金属の右手。

 腕を奪われたのは恨むには十分な理由かもしれないが、ウィルにとってはどうでもいい。

 

「俺の父さんは、十一年前の闇の書事件に参加していました。エスティアという船に配属されていた武装隊の一員です」

「エスティアって、たしか……」

 

 即座に事情を理解したシャマルが、口元を手で押さえ息を呑む。

 十一年前、確保した闇の書とその主を運ぶことになった、管理局の艦船。途中で闇の書が暴走し、闇の書ごと消滅した。その存在は、ヴォルケンリッターがラボに連れてこられたその日に見せた映像にも映っていた。

 

「それじゃあ、ずっと闇の書のことを……私たちのことも恨んでいたの?」

「あなたたちと闇の書を滅ぼすために生きてきました」

「で、でも、どうして今なの?」

「シグナムさんが言ったんです。俺の父さんを殺したのは自分だって」

 

 シャマルは怪訝な表情で、ウィルの発言を咀嚼するように数度呼吸して、それでも納得できずに首を横に振った。

 

「前回の私たちは分断されたところを管理局に撃破されたのよ。それはザフィーラも同じよね?」

 

 シャマルに話を振られたザフィーラは無言で首肯する。

 

「本人から最期を聞いたわけじゃないけれど、わざわざシグナムだけ生け捕りにされたとは思いにくいわ」

「そうですね。俺も嘘か勘違いじゃないかと考えなかったわけじゃありません」

 

 シグナムに呼び出されて、まず最初に尋ねられたのは、ヒュー・カルマンという名前に聞き覚えがあるかということだった。

 どこからその名を聞いたのかと動揺しながらも、肯定する。

 やはりそうか、と。シグナムは顔を伏せ、そして告白した。

 

 ――私は貴方の父親と戦い、殺した

 

 前回の闇の書事件で、ヴォルケンリッターは各個撃破されて消滅している。それはグレアムから聞いた確たる事実だ。

 だからこそ、父の死に直接関わっていないのであれば、もしかしたらヴォルケンリッターも許すべきではないか、許せるのではないかと悩み、クアットロに弱音をこぼす羽目になった。

 

 ――彼が死ぬ前に見ていた端末に写っていた子どもは、貴方だったのだな

 

 その後、書から再召喚される前に闇の書と主を確保した以上、エスティアにヴォルケンリッターが現れるはずがない。

 

 ――謝って許されることではないとわかっている

 

 しかし、ヴォルケンリッターは魔力さえあれば何度でも召喚できる。暴走時かその前か、消滅したシグナムがエスティア内で再召喚されたという可能性もあるのかもしれない。

 

 ――今の私にはこうすることしかできない

 

 混乱するウィルの眼前で、シグナムが頭を下げた。その姿を見た瞬間、

 

「でも、許せなかったんです」

 

 もしかすると、実験のせいで闇の書そのものの記録だとかそのような某が混じって、シグナムはただそれを自分の記憶だと勘違いしただけなのかもしれないと、そのような可能性も想像できた。

 可能性。所詮は可能性に過ぎない。エスティアの中で何が起きていたのか、真相を明らかにする手段はない。

 ウィルにとってシグナムがはやてやクアットロ、クロノに匹敵するほど大切な人で、絶対に死なせたくないと思えたのなら、シグナムが勘違いしている可能性を信じ込もうとしたかもしれない。

 しかし、ウィルは自分の考えた根拠のない可能性ではなく、本人の罪の告白を信じた。ウィルにとって、ヴォルケンリッターは初めから敵だったから。

 

 というのは後からつけた理屈で、あの瞬間にそこまで考えて行動したわけではない。

 あの時はただシグナムが、父を奪った相手がここに存在しているという事実が許せなかった。

 

「盛り上がっているところ悪いが、ウーノから連絡がきた。彼女たちが到着したようだ」

 

 離れた場所で一人座り込んで何事かのプログラムを組んでいたスカリエッティが、腰を上げて呼びかけてきた。

 

「さて、後詰も用意できたことだし、私たちは死にに行こうか」

 

 

 無言で通路を進む内に思い出したのは、もう何ヶ月も会っていない高町なのはのことだった。

 

 誰かの力になりたい、放っておけないからと、自分がやる必要なんてないのに、鉄火場に飛び込んでいく無鉄砲な少女。

 もしもウィルがなのはなら。無茶で無謀で、優しく勇敢な、彼女のようであれたのなら。きっとヴォルケンリッターとも信頼関係を結ぶことができて、誰もが幸せな未来があったのかもしれない。

 もちろんそんなのはありえない。恨みや憎悪を消し去ることは不可能だ。きっと、何があってもヴォルケンリッターが憎いという思いは変わらない。

 それでも、だ。

 

 ――お話がしたいんです

 

 彼女のように相手ともっと話をしようとしていれば、胸襟を開いて語り合えていれば、何かが変わったかもしれない。

 そのせいで信用されずにご破産にしてしまったかもしれないが、殺意を笑顔の仮面の裏に隠して暴発させてしまうよりは、よっぽどマシな結果を引き寄せることだってできたかもしれない。

 憎悪をごまかそうと、偽りの信頼を得ようと、上辺だけの笑顔を取り繕って接していなければ。父のことを告げずとも、少しでもヴォルケンリッターを憎む素振りを見せていれば。シグナムもウィルを警戒して正直に告白しようとは思わなかったかもしれない。

 可能性。これも所詮は可能性にすぎない。

 

 あれこれ可能性を考えて、その都度自分の意志を肯定したり、行動を否定したり、せわしないことこの上ない。

 そんな愚かさに辟易しつつ、ここまでのことをやらかして思い悩まないようであればもっと酷い自己嫌悪に陥っていただろう――ほら、また否定と肯定を繰り返している。

 結局こんなのは反省のふりをして、後出しの理屈で自分の歩いた道を舗装しようとしているだけだ。

 

 今はただ目の前にある問題に取り組む。

 

 はやてを助ける。

 

 全てはそれを為してからだ。

 

 

 

 通路の突き当り、電源が落ちているエレベータの扉をこじ開ける。エレベーターは逃げる時に使ったままそこにあったが、電源が通っていないので動かない。

 

 床を蹴破って、そこから縦穴へと降下する。

 先頭はザフィーラで、次にシャマルとスカリエッティが続き、一番後ろがウィルだ。

 

 先をサーチャーで確認しながら、真っ暗な縦穴を魔力光で照らしながら慎重に降下する。

 下りゆく縦穴は、いつもなら慣性制御されたエレベータが終点まで高速で運んでくれるのだが、こうして見やれば果て知れぬほど深く、延々と地獄まで続いているような錯覚を覚える。

 もっとも、底にはお伽話の死神などより恐ろしい闇の書が待ち構えているのだから、行き先が地獄なことには違いない。

 

「ウィル」

 

 突然、先に進むスカリエッティが、降下しながらもくるりと姿勢を入れ替えて、後に続くウィルに向き直る。

 

「なんですか、先生。ちゃんと下を向いてないと危ないですよ」

「きみはきみの思うように生きるといい」

「唐突ですね」

「いろいろと思い悩んでいるみたいだったからね」

 

 スカリエッティも心配してくれていたのかと、嬉しさが半分、申し訳なさが半分。

 

「……ご心配をおかけして申し訳ありません」

「きみのためじゃない。私も常々見たいと思っているんだよ。思うがまま進んで夢を実現できた時のきみをね。そうすれば、私が求めていた答えが見えてくるかもしれない」

 

 それだけ言うと、スカリエッティはまた反転し、再び下方へと向き直る。

 

「こんな時にまで、意味深で抽象的なことを言ってミステリアスぶらないでください」

 

 後ろから投げかけた文句が聞こえているのかいないのか。

 

「そろそろAMFの範囲内に入る。飛行魔法はしまうとしよう」

 

 スカリエッティの右手に鉤爪のようなデバイスが取り付く。

 己の頭脳だけでほぼ全ての魔法を演算できる彼がデバイスを使うのは初めて見る。闇の書が相手となればスカリエッティも本気にならざるを得ないということか。

 

 と、スカリエッティはその鉤爪型デバイスでエレベータのロープをつかみ、するするとラペリング降下じみたことを始めた。

 若干複雑な思いを抱きつつも、ウィルもスカリエッティにならって義手でロープを掴んで同じようにする。空戦魔導師のウィルだが、状況によっては飛行魔法が使えないこともあるからと、ラペリング降下の訓練を受けたことはある。どんなものでも覚えていれば意外と役に立つ日は来るものだ。

 スカリエッティよりさらにを下では、ザフィーラもまた同様に降下している。が、片腕にシャマルを抱え、ウィルやスカリエッティのようにデバイスをかませることもなく、魔力運用で膜のようなものを作ってもおらず、素手の握力のみで降下速度を調節しているようで。やはり守護獣。素の肉体の強度は人間を遥かに凌駕している。

 

 

 AMFの範囲に近づき、灯代わりにしていた魔力光が次第に薄れていくと、スカリエッティの鉤爪が光を放ち新たな灯となる。魔力を用いない電気式の灯なのだろう。

 もしかしてあの鉤爪はデバイスではないのだろうかと疑惑を抱きつつしばらく降下すると、縦穴の片側が金属から透明な繊維強化樹脂に変わる。

 

 いつもなら、そこからは地下に広がる空洞と淡く輪郭を輝かせるラボが見えるのだが、今や透明な壁に、樹の根のような、あるいは脈動する血管のような、闇の書の触腕がびっしりと張り巡らされていて、空洞の中は触腕のわずかな隙間からうかがえるのみだ。

 

 エレベータの底まで残り二十メートルほどにまで降下した時、突然壁面にひびが入る。

 

「さすがに気がつくか」

 

 張り付いていた触腕が蠢き出す。ウィルたちの来訪に気がついて襲いかかろうとしている。

 特殊な繊維強化樹脂とはいえ、魔法で肉体を強化したウィルなら助走がなくても破壊できる程度だ。それを触腕が一瞬で破壊できないのは、AMFが効いているおかげだ。

 とはいえ、じきに破壊してウィルたちに襲いかかるのは確実で、その時、降下中で身動きがとれず、魔法による肉体強化もできないウィルたちではなすすべがない。

 

「さあ、スタートだ」

 

 スカリエッティの宣言と同時に、AMFの濃度が低下する。

 

 依然として外部に放出するタイプの魔法は構築できないが、体内――肉体を強化する程度なら可能となる。

 

 その恩恵は触腕にも等しく訪れる。先ほどまで手こずっていた強化樹脂を一瞬で破壊し、降下中のウィルたちに迫る。

 が、縦穴の反対側の壁を足場にして跳躍したザフィーラが、迫り来る触腕を拳で打ち砕き、その勢いのまま壊された強化樹脂の穴から空洞へと跳びだしていった。

 ウィルはすぐそばにいたスカリエッティと、ザフィーラが放り投げたシャマルをそれぞれ片手で掴むと、同様に壁を蹴ってザフィーラの後に続いて穴から飛び出す。

 

 

 広がる大空洞は闇の書に侵されながらも一部の照明が残っていて、月のある夜ほどの暗さだった。

 居住棟や研究棟、それどころか地面や壁にまで、あらゆる部分が木の根とも血管ともつかない黒色の触腕に覆われていた。

 十一年前のエスティアの中もこんな風だったのだろうかと一瞬だけ考え、余計な思考は捨てた。

 

 穴から地面までの二十メートルほどを自由落下する。襲いかかる触腕は先駆けとなったザフィーラが四肢を駆使して次々と迎撃している。

 

 濃度が低下したとはいえど、空洞全体にはいまだAMFが展開されている。触腕の動きは暴走直後に比べると遥かに緩慢だ。

 そうでもなければ、いくら身体能力が高く守りに優れたザフィーラといえど耐えられない。なにせ彼と同等の実力を持つシグナムとヴィータが十秒足らずで屠られたのだから。

 それを考えれば、真に恐るべきはこちらが対処できるギリギリのAMF濃度を算出していたスカリエッティなのかもしれない。

 

 二十メートルほどの自由落下を終え、足から着地。

 抱えていた二人を下ろすと、三人並んで先行するザフィーラを追いかける。

 

 ザフィーラの向かう先は、触腕の中心にある闇の書だ。

 触腕を四方八方に伸ばして侵食しているが、本体となる闇の書の位置は暴走を始めた時と変わっておらず、その周囲には破壊されたドローンの破片が散らばっている。

 あそこに四人とも健在で到着するのが最低条件。

 そのための露払いがザフィーラであり、肉体的には貧弱なシャマルとスカリエッティを護衛するのがウィルの役目だ。

 

 飛行できないとはいえ、強化した肉体なら十秒とかからない距離だが、襲い来る触腕を迎撃しながらとなると、その三倍はかかる。

 ましてや守らねばならない護衛対象が二人もいるのだ。出し惜しみをしている余裕はない。

 デバイスから武器となる剣を出しながら、頭の中で命じる。

 

 

  Ascension 

 

 

 音もなく、世界が塗り替わった。

 新しい世界は光で埋め尽くされていて、ずいぶんと明るい。

 前方には白藍の光。後ろには紫と翠の光。そして空洞全体に系統樹のように張り巡らされた黒い光。

 

 駆けるウィルたちの右方、黒い光がさらに明るさを増し、直後に二条の黒光がこちらに向かって伸びてくる。

 ウィルは体の中を巡る赤を剣に通わせ、一直線に伸びる黒の軌跡を遮断するように刃を置いて両断。返す刀で薙ぐように伸びる黒を斬り下ろしの一刀で両断。それで二つの黒は散って消えた。

 

 義手型デバイスであるグレイスの製作と共に、ウィルの脊髄には人間の神経と電子機器を接続するヒューマンマシンインタフェースが埋め込まれた。

 戦闘機人が身体各所に埋め込まれた人工機器を制御するために用いられているこのサイバーウェアは、人工物への拒絶反応を示さないデザイナー・チャイルドの遺伝子地図と並び、プロジェクトHの中枢となる技術である。

 

 このインタフェースは、普段は人体への負荷を抑えるためにリミッターがかけられていて、グレイスの動作を補助するにとどまっている。

 そのリミッターを一時的に解放し、デバイスと神経を直結させたその先に、二つの状態(ステート)がある。

 主の意識レベルが低下した時、デバイスがインタフェースを通して主の肉体を直接操作する『憑依(ポゼッション)

 そして、人間の知覚と機械の認識を結びつけて同調させる『昇天(アセンション)

 

 アセンション状態では、デバイスに取り付けられたセンサーが得た、人間には知覚できない、できても定量化できない情報――不可視光線、超音波、魔力波、魔力密度、その他様々なものをすべて五感の延長線上として認識させる。

 攻撃をしかける時には、より強い魔力を通わせ、構造を強化するのが基本。まして闇の書の触腕のように魔力で造り出されたものであればなおさらだ。

 その魔力密度の変化を光の大きさとして認識することで、ウィルは敵が動き出すよりも一歩早く迎撃に移ることができる。

 

 背後で黒い光が強くなる。今度はウィルではなく、翠の光の塊――おそらくシャマルを狙って、黒い光が動いた。

 感知できているのだから、振り向く必要もない。後方へと剣をつきだして、光の軌跡を両断する。

 足元の黒光が強くなり始めれば、集まる前に突き立てて散らす。

 

 触腕の動きは単調で、この調子であればいくらでも対処できそうだが、ウィルの心には微塵の油断もない。

 ウィルが対処できているのは、あくまでもAMFの影響で触腕の動きが鈍り、構造も脆くなっているから。もし何の枷もない暴走状態の闇の書が相手なら、両断しようとしても剣ごと触腕に弾き飛ばされるのが関の山だ。

 さらに、最も密度が高い前方からの攻撃を受け持っているのはザフィーラだ。

 そのザフィーラとウィルたちの距離が詰まってきている。闇の書に近づくにつれて密度を増し続ける触腕の攻撃が、次第にザフィーラの対応速度の限界に近づきつつある証左だ。

 ザフィーラが落ちれば、ウィルだけでは四方八方からの攻撃に対処できず、すぐに触腕の餌食となる。そんな状況で油断できるわけがない。

 

 

 闇の書まで残り三十メートルを切った時、ついに猛攻はザフィーラの許容量を越えた。

 一本の触腕がザフィーラの両手両足を駆使した迎撃をかいくぐる。身体を打ち据えられたザフィーラはその場に踏みとどまったが、崩れた態勢を立て直すよりもなお早く、次の触腕がザフィーラの身体を地面へと叩きつける。

 片膝をついたザフィーラに追い打ちとばかりに触腕が襲いかかり、次の瞬間、糸でその場に固定された。

 その糸は、人間の視覚では赤に見えただろう。だが、魔力を中心に世界を見ている今のウィルにとっては、闇の書の黒い魔力よりもさらに暗い無に見えた。

 色の無い線――魔力をもたない糸。いや、色を奪う線――魔力の結合を阻害する糸。つまりはAMFを応用したバインド。

 

 その出処はウィルのすぐ後ろ。スカリエッティだった。

 AMF環境下で使ったということは、おそらくドローンに搭載されているのと同じ機械式なのだろう。

 

 バインドによる拘束は一秒ももたない程度であったが、その一秒の間に、さらに襲いかかろうとした触腕が、拘束された触腕に激突し、双方がその場に崩れて落ちて、ウィルたちを守る遮蔽となる。

 そうして産み出された猶予は、四人全員が残りの三十メートルを駆け抜けるには充分な時間だった。

 

 

 四人揃って闇の書へとゴールイン、となるその直前に、スカリエッティの鉤爪がザフィーラとシャマルを同時に薙ぐ。 

 魔力的視界をもつウィルには、ザフィーラとシャマルを構成する魔力のコアようなもの、人間でいうところのリンカーコアが、スカリエッティによって抜き取られたのが見えた。

 二つのコアを掴んだ鉤爪が闇の書へと突き刺さると、あれだけ動いていた触腕が一斉に動きを止めた。

 

「あとは頼んだぞ」

「はやてちゃんをお願いします」

 

 コアを抜き取られて自らの消滅が決定しても、ザフィーラとシャマルは恨み言を口にしない。

 これはあらかじめ決まっていた筋書きだ。

 

 ヴォルケンリッターは守護騎士機能によって、魔力を用いて構成された存在だ。

 闇の書が主の元に現れてから守護騎士が顕現するまでに年月を必要とするのは、構成に必要な魔力を主から少しずつもらって蓄積しなければならないから。

 

 そして、蒐集にはヴォルケンリッターの魔力を戻すことで頁を埋めるという裏技がある。

 過去にそれを知らなかった管理局が、主をあと一歩のところまで追い詰めたものの闇の書の完成を許してしまったことがあった。

 

 闇の書の蒐集はすでに残り一割を切っている。ザフィーラとシャマル、二人の魔力に今日彼らが集めてきた魔力を重ねて返上すれば、計算上では闇の書の蒐集は完了する。

 これは命を賭ける計画ではない。ヴォルケンリッターにとっては文字通り命を支払う賭け。

 返したところで闇の書が受け取ってくれるかもわからない、あまりに分の悪い賭けだったが、闇の書が動きを変えたということは目論見はうまくいったようで。

 それでもまだ細い細い綱渡りのような計画の、第一段階にすぎない。

 

 スカリエッティの腕に無数の式が浮かびあがる。頁が埋まるという変化によって動作を変えようとするその隙を狙って、闇の書へと干渉をしている。

 スカリエッティの目的は、闇の書自体の改竄ではない。この短時間でそんなだいそれたことはできない。

 これはただ闇の書に備え付けられたたった一つの魔法プログラムを発動させるだけの干渉。

 

 

『Absorption』

 

 

 闇の書から放たれた光がウィルを包み込み、その姿が掻き消えた。

 

 

 

 地下大空洞に一人残されたスカリエッティは、これで自分の役目は終わりとすぐさまその場から離れようとしたが、先ほど激突し合って沈黙していた触腕が突然動きだす。

 強い衝撃を受けた次の瞬間には、視界がぐるぐると回転しながら高速で移動していた。地面か壊されたドローンや建造物の破片か、もしかしたら他の触腕か。様々な物体に何度もぶつかり、やがてひときわ大きな衝撃をともなって回転する視界が停止した。

 

 声が出ない。身体は動かない。そもそも感覚がない。顔を動かして傷を見ることさえできないが、確実な致命傷を負ったということくらいはわかる。最後にくだらないミスをした。

 血液が身体から抜け落ちていき、血という動力を失った肉体の動きは急速に低下する。

 酸素の供給量が減って、脳細胞が死滅し、スカリエッティという個を構成する知性が失われていく。彼を縛る鎖を道連れにして。

 

「ああ、これが()か」

 

 その果てに望んでやまなかった境地を垣間見て。

 命が消える刹那、スカリエッティは大きく笑った。

 

 

 

 一人の男の命が潰えるのと時を同じくして、一人の少女が生まれ変わろうとしていた。

 

 触腕は暴れるかのように蠢きながらも闇の書へと還って行く。

 全ての触腕が集い、大きな繭を形作り、すぐに弾けた。

 

 中から現れたのは、目を閉じた妙齢の女性。

 腰まで伸びる白銀の髪。金の刺繍が施された黒衣を纏い、背に二対、頭に一対――六枚の黒翼を背負った姿は、お伽話に謳われる世に福音をもたらす天の御使いめいていて、性別を超越した美しさを持っていた。

 内包された魔力は肉体という器に収まりきらない。何の魔法も使っていないにも関わらず、AMFで結合を崩し切れないほどの濃密な魔力光という形で周囲に放出されている。

 その色は淀んだ黒の混じった紫。

 

 これこそが五人目のヴォルケンリッター。闇の書のシステムを統括する管制人格の姿。

 

 空洞の各所で爆発が起き、崩れ始める。

 証拠隠滅用にスカリエッティが地下空洞に仕掛けていた爆薬が起爆した。

 

 空洞全体を崩壊させ、全てを灰塵に帰すだけの爆発が、屍と化したスカリエッティと生まれ変わった少女を等しく飲み込む。

 

 その刹那、管制人格から膨大な魔力が放たれ、周囲のAMFを強引に押しのけた。

 結合を解除されるよりも速く大量の魔力を放出することで、自らの周囲からAMFの影響を排除し、さらなる魔力をもってして空間を歪める。

 

 AMF環境下で転移魔法を行使するという離れ業をいともたやすくおこなって、管制人格は爆炎に包まれる空洞から姿を消した。

 

 

 空洞より上方へと三百メートル。地上からの高度百メートルに管制人格が姿を現した。

 管制人格の閉じられた目が開かれる。

 何の感情も浮かばない血を塗った紅眼に映ったのは、鈍色の曇り空に輝く青色の魔力光。

 

 

 待ち構えていたリーゼアリアの砲撃が、管制人格めがけて放たれた。




 アセンション中は視界が変化していることを表現するために、ずっと背景色と文字色変えようかと思いましたが、これ普通に見にくいだけのやつや……と気づいてやめました。


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管制人格と安いプライド

 こんなはずじゃなかったのに。

 

 その懊悩は、リーゼアリアにとってエスティアが消滅した時からずっと我が身をさいなむ厄介もので、それは今も変わらない。

 

 無限書庫に現れ、スカリエッティの使者を名乗った女、ドゥーエ。じきに査察部が来るという忠告を受けて、リーゼアリアとリーゼロッテは彼女の手引によって本局から逃げ出した。

 その足で慌ててスカリエッティのラボまで駆けつけたら闇の書が暴走していて、主であるグレアムは酷い傷を負って昏睡状態。スカリエッティとウィル、生き残ったヴォルケンリッターは、暴走を止める準備のために闇の書の元へと再び赴いていて、その成否はいまだ不明。

 リーゼアリアとリーゼロッテは、準備が成功した場合に再び暴走を再開する闇の書を相手に時間稼ぎするため、ラボ直上の空で待機中、と。

 

 八神はやてのもとに転生した闇の書を見つけてから、数年。こちらの予定通りに事が運ばず、闇の書が暴走してしまう状況は常に想定していた。それなのにいざそうなればこんなに衝撃を受けている自分が滑稽に思える。

 闇の書の主を何年も監視しているうちに、主導権を握っているのは自分たちだと錯覚をするようになっていたのかもしれない。

 だとすれば、自分たちがそんな驕りを抱くようになってしまったこと。それこそが最もこんなはずじゃなかったことだ。

 

 リーゼアリアとリーゼロッテは、二人並んで肺の中の空気をすべて吐き出すような深いため息をつく。

 

「ま、なったものは仕方ない。まだ終わったわけじゃないんだから」

 

 リーゼロッテが顔をあげ、肩と首を大きく回して音を鳴らしながら言い放つ。前を向いた顔には不敵な笑み。

 リーゼアリアは目を閉じて、吐き出した以上の息を吸い込み、細く長く吐き出す。再び目を開いた時には、焦燥も後悔も表情からは消えている。

 

「そうね。今の私たちにはできることがある」

 

 こんなはずじゃなかったと、うつむきうなだれるだけの時間はとうに過ぎ去った。

 ただの囮でも、時間稼ぎでも、死に逝く教え子にして友人の姿を艦橋に表示されるディスプレイ越しに、自らの部下に死を与える父の背を間近に見るしかできなかったあの時よりはマシだ。

 

 

 空は鉛のような灰色の雲に覆われ、眼前にそびえる山と眼下に広がる平地は渇いて枯れた色。遥か後方には闇のように昏い海が見え、そちらの方から吹く風には、わずかに潮の香りが含まれている。

 人類どころか生物の気配も薄いこの無人世界なら、周囲を気にする必要はまったくない。ただ戦いだけに集中できる。

 

 来やがれ闇の書。一発、思いっきりぶん殴ってやる。

 

 

 

 空の一点に巨大な歪みが生じる。

 視認できるほどの空間歪曲は、それが必要となるほどの質量――エネルギーが現れようとしている証拠だ。

 

 リーゼアリアは歪みに向けて右腕を突き出す。砲台のようにまっすぐに伸ばされた腕の先で、大きく開かれた掌のさらに先に青い魔力が集う。

 

 空間の歪みは指数関数的に拡大する。ついに空間が歪曲に耐え切れなくなり、断裂を起こす。

 世界を砕く音を先駆けに、歪みから深い闇が姿を現す。

 

 その正体を確認するよりも早く、リーゼアリアは構築していた砲撃を放つ。

 

 迫る砲撃に対して、現れた何か――人型をしているそれは、ついと指を向ける。その指先に紫黒の魔力が集うのに、コンマ一秒。

 

「ディバインバスター」

 

 紫黒の砲撃が青の砲撃を迎えうち、空中で衝突した大魔力同士はその場で爆発を生じさせる。

 

「……さすが」

 

 リーゼアリアは戦慄でひきつりそうな顔を隠しながらつぶやく。

 小手調べの砲撃がまともに通ると考えていたわけではないが、敵の動きはこちらの予想を越えていた。

 長距離というほど離れてはいないのに、向かい来る砲撃魔法を視認してから砲撃魔法を構築して迎撃するなんて、規格外にもほどがある。

 

 その人外の業を見せた敵は顔色を変えることなく平然と、というよりも表情の作り方を知らないとでもいうように、無表情にリーゼアリアを見返す。

 人型をしているということは、あれが闇の書の管制人格なのだろう。

 

 幽鬼のように透き通る白銀の髪。死人のように真白な顔を彩るは血色の刺青。四肢に巻きつけられた真紅のベルトは血塗れた包帯か。

 金の刺繍が施された黒衣を纏い、背に二対、頭に一対――六枚の黒翼を背負った姿は、聖書に記された堕ちた悪魔めいていて、それでいてどうしようもなく見惚れてしまうほどの美しさを持っていた。

 内包する魔力は仮初の肉の器に収まりきらず、紫黒のオーラとなって周囲に発散され続け、存在するだけで周囲の魔力素を揺り動かして付近一帯に魔力流を生じさせている。

 

 

 管制人格の指先に再び魔力が集い始めた、と思った瞬間には発射されていた。

 リーゼアリアは短距離の高速移動魔法を行使。魔力を推進力へと変えて急加速。その場を離脱する。

 その背に次々と魔力弾が降り注ぐ。

 連射速度は一秒あたり五発という魔力弾並の構築速度で、そのくせ一発一発の威力がリーゼアリアの砲撃に等しいという、非常識極まりない攻撃。

 リーゼアリアは短距離高速移動を連続して行使し、狙いを定めさせないように、フェイントをまじえつつ絶えず上下左右に動き回って回避し続ける。光弾の雨はその軌跡を一テンポ遅れてなぞっていく。

 

 いくら威力が高くても、狙いを定めさせないように動けば回避は容易だ。

 だが、管制人格の全力がこの程度のはずがない。今のままでは仕留められないと判断すれば、すぐに攻撃手段を変えてくるはずだ。

 その前に再びこちらから仕掛ける。攻めるにせよ守るにせよ、戦いの基本は主導権を握り続けることにある。こちらが地力で圧倒的に劣る格下となればなおさらだ。

 

 

 管制人格の背後、何もない空間が真夏の陽炎のように、はたまたそよ風になびくカーテンのように揺らめき、リーゼロッテが飛び出す。

 リーゼアリアが管制人格が現れた瞬間に攻撃をしかけたのは、その直前に幻術魔法でひっそり姿を隠したリーゼロッテが気づかれにくくするためでもある。

 

 管制人格の背後をとったリーゼロッテが力の限り振るった拳は、管制人格の周囲にただようオーラめいた魔力によって、いとも簡単に防がれる。

 奇襲に気が付いた管制人格が振り向く。その前にリーゼロッテは拳を一層強く握りしめて、手に仕込んでいた一枚のカードをそのまま握りつぶす。

 カードが粒子化して消失すると同時に、拳から魔力があふれだす。

 

 カードは魔力を内蔵するタンク、いわばミッド式のカートリッジシステムだ。

 

 闇の書封印の要となる凍結特化デバイスを開発する際、エネルギー源の確保が問題となった。

 闇の書を封印するほどの魔法となれば、魔導師が体内に蓄えられる魔力だけではとても足りない。

 不足分の魔力を補うために、ベルカ式のカートリッジシステムを用いることはできなかった。カートリッジはベルカ式の魔法理論に基づいて設計されている。そこに蓄えられた魔力はベルカ式に合わせて最適化されているため、ミッド式に用いた場合は構築式に微細な影響を及ぼす。

 その影響は純粋魔力運用では無視してもかまわないほどのズレだが、物理現象を引き起こす魔力変換ではズレが大きくなる。さらに、凍結魔法はエネルギーを生じさせる他の魔力変換と異なり、エネルギーを奪うという特殊な魔力変換。その構築式は非常に繊細で、多少のズレが看過できないほどの悪影響を及ぼす。

 

 もしジュエルシードの紛失がその当時に起きていれば、エネルギー源とするために入手に躍起になっていただろう。だが、あいにくと当時にジュエルシードほど都合の良い品は存在せず、グレアムは選択を迫られることになる。

 ベルカ式のカートリッジを用いるために、未経験のベルカ式で凍結魔法を組むのか。それともミッド式の凍結魔法を用いるために、ミッド式のカートリッジシステムを造り上げるのか。

 

 グレアムが選んだのは後者。そのために白羽の矢がたてられたのが、かつて管理局の技術部が提唱し、不採用になっていたカードシステムだ。

 すでに野に下り民間企業で活躍していた当時の開発責任者を見つけ出し、いぶかしむ彼と信頼を築き、私費を投じて秘密裏に製造する準備を整えるまでに二年の月日を必要とした。

 最終的に製造された完成品は五十二枚。その一枚一枚に、AAAランクの魔法を発動させるに足る魔力が込められている。

 五十二枚の内、安定性に優れた二十六枚は当初の予定通りデュランダルに内蔵されている。残りの二十六枚はリーゼ姉妹が分けて所持している。ここまでの活動で何枚かは消費したが、まだ二十枚近く残っている。

 

 カードの魔力はリーゼロッテの掌に集まり、小さく、それでいて高密度に圧縮された魔力刃へと姿を変える。

 刃はオーラを祓い、錐のようにバリアを貫く。穴が空いて脆くなったバリアを、今度こそリーゼロッテの拳が突き破る。

 

 管制人格は振り向き様に魔力刃を掴んで止め、刃に込められた魔力を上回る魔力で抑えこんで砕く。

 続けて管制人格の前蹴り。腹部を狙ったそれを、リーゼロッテはわずかに上方へと移動して紙一重の回避。伸びきった管制人格の脚を踏み台にして、魔力を載せた膝蹴りを頭へとぶちかます。

 リーゼロッテ必殺のシャイニングウィザードが脳天に炸裂した――というのに、膝はまるで巨大な岩壁にぶつかったよう。

 

「なっ――んて石頭!」

 

 管制人格は表情一つ変えることなく、右拳で直突きを返す。リーゼロッテは体を翻して回避しつつ、伸ばされた管制人格の右腕を絡め取って腕ひしぎ十字固めに移行。即座に折りにいくが、やはりびくともしない。

 漏れる魔力が成すオーラも、周囲に展開されるバリアも、そして全身に満ちる強大な魔力も、すべてが管制人格を守るための防壁。

 

 

 魔力の差は、力の差だ。

 

 子供と大人が殴りあえば大人が勝つように、ボクシングが階級で分かれているように、体格の差はいかんともしがたい力の差を生じさせる。

 質量が大きい方が大きなエネルギーを有しているのは自然の摂理。筋肉がある方が強く、筋肉がある方が堅く、筋肉がある方が速いのは生物の摂理。

 魔導師の戦いでも同じことだ。魔導師の世界では、魔力こそエネルギーにして筋肉。魔力とは攻撃力であり、防御力であり、機動力。

 その差を覆すため、人は経験を蓄積し、技術を築き上げてきた。だが、それらは己のもつエネルギーを最大の効率で運用する最適化にすぎず、行使するエネルギーに差がありすぎれば勝敗を覆すには至らない。

 

 

 管制人格は腕に纏う魔力を衝撃へと変え、組み付いたリーゼロッテの体を吹き飛ばす。

 宙を舞うリーゼロッテに向けて追撃の砲撃魔法を放とうとして、直前で腕の向きを変える。

 

 直径で二メートルはあろうかという極太の砲撃が管制人格を襲う。リーゼアリアが三枚のカードを使って構築した、特大の砲撃魔法だ。

 カード一枚だけでもAAAランクの魔法一発と同等で、二枚ならAAA+、三枚重ねればオーバーS。リーゼアリアが反動を気にせず一度に使える限界枚数で、最大威力の攻撃魔法だ。

 魔力の差で攻撃が通じないのなら、通じるようにさらなる魔力を込める。極めてシンプルな解法。

 

 その砲撃を、管制人格は右腕で受け止める。

 オーバーSの砲撃は、管制人格の右手の甲と掌を守るように覆っている黒い布地を消し飛ばした。

 得られた成果はそれだけだった。

 

「化物め」

 

 心を諦めが覆いつくそうとするが、すぐさま気持ちを切り替える。

 まだやれることをすべてやったわけではない。一人一人の攻撃では無理なら、今度は二人の攻撃を重ねてみればいい。

 

 冷静さを取り戻すまでの一秒足らずの間に、管制人格は次の攻撃の準備に入っていた。人間の魔導師なら詠唱を必要とするほどの高度な魔法を自前の構築能力で強引に作り上げる。

 両手を大きく広げた管制人格を中心点として、周囲に巨大な魔法陣がいくつも描かれる。陣の外周上に光球が次々と構築されていく様は、さながら星屑の群れ(アステロイドベルト)

 生み出された百にも届く光球は、魔力弾ではなくそれを発射するための土台(スフィア)だ。

 

「フォトンランサー・ジェノサイドシフト」

 

 その魔法は、フェイトから蒐集されたフォトンランサー・ファランクスシフトを改造して作り出された即興魔法。

 ファランクスシフトは、三十六のスフィアから合計千二十四発の魔力弾を四秒かけて高速射出する連射型射撃魔法。紙さえ破れない一滴の水でも、多くを集めて一点へと集中させれば金属をも切り裂くウォーターカッターとなるように、量で圧倒する高威力魔法だ。

 ただでさえ驚異的なその魔法が、管制人格によってスフィアの数がおよそ三倍、そこから発射される一発一発の威力は砲撃魔法級という、規格外の怪物魔法へと変貌を遂げる。

 さらに管制人格は、一点に集中させれば次元空間航行艦船の外装ですらたやすく撃ち貫くであろうそれを、拡散させて面制圧する範囲攻撃へと改造した。

 

 スフィアが一斉に弾を射出する。数千の弾が並列することで面が作り出される。

 

 迫り来る紫黒の面。たった一発二発の攻撃を当てるために千倍の魔法を繰り出すという恐るべき無駄使い。

 

 防御魔法を展開すれば凌ぐことはできる。数千の弾があっても、広げて面にしたのだからこちらに接触するのは一つか二つ。砲撃級の攻撃でも一発二発なら耐えることくらいできる。

 だが、二人はそれをよしとしない。防御魔法に魔力を注ぎ込むために足を止めれば、相手に主導権を与え続けることになる。

 

 瞬時に判断を下した二人は、自分から面へと突貫する。

 迫る面は一見完全に見えるが、魔力弾という球によって構成された擬似的な面だ。弾同士が干渉し合って減衰するのを防ぐためにも、弾と弾の間には必ず隙間がある。

 その隙間が三十センチメートルもあれば、二人にとっては十分すぎる。

 面と接触するその直前、二人は瞬時に身体を猫へと変化させ、隙間に身体をねじ込んでくぐり抜ける。

 

 再び人間の姿に戻ると、リーゼロッテはそのまま管制人格へと突撃。リーゼアリアはリーゼロッテが接近するまでの間、管制人格を引きつけようとその場で散弾を放つ。砲撃ですら効かない相手にただの散弾など通用するはずもないが、途中で分裂してさらに分裂してを繰り返した散弾の群れは、先の管制人格のジェノサイドシフトのように擬似的な面を生み出して、近寄ろうとするリーゼロッテの姿を隠す、はずだった。

 

 散らばり始めた散弾が突然再び集まり出して、個々の軌道がねじ曲がって螺旋を描き、すぐに径が極小に縮まって魔法ごと空間の一点で圧壊した。

 

 管制人格の前方、ほんの数メートルのところの空間が歪んでいた。

 転移魔法による歪みとは異なるそれの正体を類推。散らばるはずだった魔法が一点に引き寄せられた。その不可解な動きから、管制人格の前方に重力場が展開されていると看破した。

 だが、正体を見ぬけても意図がわからない。

 重力操作系の魔法は距離による減衰が激しいため、慣性制御など、自身の周囲に補助的な役割で作用させるのが一般的で、防御するだけなら通常のシールドを展開した方が効率は良い。

 

 困惑するリーゼアリアの目の前で、管制人格が造り出した重力場の中心に向かって周囲の空気が引き寄せられていく。

 集うのは空気だけではない。空気とともに引き寄せられた大気中の魔力素が、渦巻き集い、圧縮されて、球を形成す。

 無色の魔力素が、球体に近づくにつれて黒へ塗りつぶされる。管制人格に近づくにつれ、世界が彩りを失っていく。

 膨れ上がる黒色の球体は、星が命尽きた後に誕生するブラックホールのよう。

 

 

 何が起きているのかを理解した瞬間、二人は攻撃を中止してその場からの離脱を選択した。

 

 管制人格は右手で徐々に肥大化する黒色の球体を制御しつつ、左手の指先から砲撃を連続して射出する。当てるための攻撃ではない。二人がこの場から転移魔法によって逃走するのを防ぐための牽制だ。

 転移を封じられた二人は、飛行による逃走を選択し、管制人格に背を向ける。次々と飛んでくる砲撃を回避しつつ、全力で距離を取ることに専念する。

 

 重力魔法の真の意図は、周囲の物質、正確には魔力素をかき集めること。そしてその先、かき集めた大量の魔力素を運用しての魔法――いわゆる収束魔法の構築こそが真の目的だ。

 

「いったい誰よ!? あんな馬鹿げた魔法を蒐集されたのは!?」

 

 片手間で放つ砲撃ですら、リーゼ姉妹にとっては数発防ぐのが精一杯なのだ。収束魔法が直撃しようものなら、全ての魔力を防御魔法に回したとしても、それを紙くずのごとくに吹き飛ばしてリーゼ姉妹をこの世から消し去るのは確実だ。

 発射前に止めようにも、足を止めて砲撃を構築し始めたり、接近戦を挑みに近寄れば、まだ不完全な収束魔法を強引に放ってくる恐れがある。

 人間の魔導師がそんな真似をすれば制御できずに暴発させるだけでも、管制人格という規格外の演算能力と魔力制御能力なら、その無茶を通してくるに違いない。二人は二分足らずの攻防でそれを確信していた。

 残された選択肢は回避のみ。ある程度距離がとれれば、管制人格の牽制の合間を縫って、多重転移でさらに遠くへ離れることができる――その二人の目論見を崩すように、管制人格が行動パターンを変える。

 

 管制人格からの牽制射撃が止み、直後、逃げる二人の周囲に巨大な魔法陣が浮かび上がる。

 そこから泥のような塊がこぼれ落ち、形を成す。

 それは闇のように黒々とした生物だった。全体的なフォルムは竜によく似ていたが、身体には黒い体毛が生えている。首にはエラがあり、類人猿のように長い二本の手を持ち、背から触腕が突き出て、どんよりとしてくぼんだ知性の輝きの感じられない目で二人を捕捉して、左右で釣り合いのとれない歪な翼で器用に空を飛ぶ。

 たわむれに描かれた化物といった風貌のそれは、魔力で式に仮初の肉を与えた生物――プログラム体だ。

 ヴォルケンリッターのように精密に作り上げられた芸術にも等しい一品とは異なり、ただ単に二人の足止めをするために、蒐集対象となった複数の生物の情報をもとに即興で構成された、雑で駄目なコラージュのような粗悪品。

 

 召喚された生物――獣が、牙の生えた口を大きく広げる。口腔の更に奥では熱量が急速に高まる。リーゼアリアのバインドが獣の上顎と下顎をくくりつけ、開いた口を強引に閉じる。獣の内部で生成された炎は行き場をなくして体内で爆発を起こした。

 続けて飛び込んだリーゼロッテの蹴りが、苦悶の声をあげる獣の胴に突き刺さる。

 

 

 粒子となって消滅していく獣。

 開けた視界のその先に、周囲の魔力素を吸い込んで膨れ上がる黒色の球体が浮かんでいた。

 大きさこそまだ小さいが、前方に浮かぶそれは、はるか後方にある収束魔法のそれと同質。

 

「遠距離収束!?」

 

 自身から遠く離れた場所に魔力素をかき集めて構築するなど。百メートルの絵筆使って、遠く離れたキャンパスに絵を描くようなものだ。

 

 その神業を支えるのは、管制人格の規格外の魔法構築能力。遠方の魔力素すらはっきりと認識できる、次元艦船にも負けないほどの感知能力。

 そして、もうひとつ。異なる空間を長時間同期させ続ける神業。ヴォルケンリッターの一人、シャマルの絶技――旅の鏡。管制人格は己の左腕を遠方へと移し、それを起点として収束する魔力素を制御していた。

 

 前も駄目、後ろも駄目。

 さらに別方向に逃げようとした瞬間、周囲に次々と魔法陣が浮かびあがり、そこから零れ落ちた醜悪な獣の群れが二人を二重三重に取り囲む。

 即興で造られたプログラム体など二人の足元にも及ばないが、収束魔法が完成するまでにこの包囲網を突破して魔法の範囲外に逃れるのは――。

 

 

 ――咎人たちに滅びの光を 星々よ集え、全てを撃ち抜く光となれ 照らせ、閃光

 

 

 主星の死角を補う伴星の輝きが増し、ついに解き放たれる。

 その瞬間、

 

「ディバイン、バスタァアアア!!」

 

 気合の入った一声とともに降ってきた一条の光の柱が、伴星の中核を貫いた。

 

 

 貫かれた球は中心のぽっかり抜けたドーナツ状に変形。かきあつめた莫大な魔力素を押し固めて球形にしていたのに、その中核が失われればどうなるか。

 喪失した部分へと外側の魔力が移動する。移動した魔力と魔力は予期せぬ衝突を起こし、その衝撃が周囲の魔力へと伝播して、綻びがさらなる綻びを生むように、魔力が暴れだす。

 荒れ狂う魔力を再び制御することはできなかったのか。管制人格は旅の鏡を消す。完全に制御を失った収束魔法はその場で弾け、範囲魔法のように四方八方へと破壊の力を撒き散らす。

 

 その破壊がリーゼ姉妹のところへ到達するより先に、色とりどりの魔力の弾丸が雨あられと降り注ぎ、次々にプログラム体の獣どもを貫いていく。

 包囲網に穴が空いた瞬間、天から地へと一羽の隼が翔ける。獲物を狙う猛禽の如く急降下し、すれ違い様にリーゼアリアとリーゼロッテを引っ掛けて、獣の間を縫ってその場を離れた。

 その場に取り残された獣どもは、暴走した収束魔法の余波に巻き込まれてこの世から姿を消した。

 

 

「大丈夫ですか?」

「あんたは――」

 

 リーゼロッテを死地から連れだした少女、フェイト・ハラオウンは、二人を連れたまま旋回し、上昇。

 見上げれば、上空に数十の人影。デバイス、バリアジャケット、ともに精鋭たる本局武装隊の制式装備だ。

 

 同じような装備をした局員たちの中に、異物が四つ。

 

 一人目は重装の武装隊とは真逆、胸当てとホットパンツという水着と大差ない格好をして、獣耳と尻尾を元気よくたてる少女。フェイトの使い魔、アルフ。

 二人目は民族的な意匠のバリアジャケットを纏い、いまだ構築が進むもう一つの収束魔法に対抗するために、武装隊と協力して何重もの防御魔法を構築する少年。民間協力者、ユーノ・スクライア。

 三人目は白地に青のラインが入ったドレス型のバリアジャケットを纏い、排熱で煙をあげる長杖型のデバイスを構えた少女。同じく民間協力者、高町なのは。

 そして最後、長套型の黒いバリアジャケットに身を包む童顔の執務官。

 

「クロノ……」

 

 愛弟子であるクロノ・ハラオウンが、そこにいた。

 

 

 

 

「まだ本命が残っている! 全員、防御魔法用意!」

 

 武装隊の隊長の声に合わせて、全員が一箇所に固まって、何重もの防御魔法を張り巡らせる。なのはの砲撃で破壊できたのは遠距離収束で作られた小さな伴星だけで、管制人格のそばにある主星の方は今もまだ膨らみ続けて、直径十メートルを超える巨大な黒の塊となっている。

 

 クロノも武装隊とともに防御魔法を展開させながら、下方から昇ってくるフェイトに視線をやる。

 フェイトに襟首を掴まれて連れてこられるリーゼアリアとリーゼロッテ。彼女たちの姿を見て初めに心に浮かんだのは、仮面の戦士としてヴォルケンリッターに協力していたことへの怒りではなく、恩師の危機に間に合ったことへの安堵だった。

 

 

 アースラは数日前からこの付近を巡回していた。

 この海域のどこかに闇の書の潜伏先があるのは、闇の書に内通するグレアム主従への尾行や、ヴォルケンリッターが蒐集した痕跡の分布から導き出せていたが、それだけではある程度は絞りこむことができても、詳細な場所を突き止めるには至らなかった。

 刻々と時間がたつ中、リンディはついに行動を起こす。

 グレアムに偽の捜査情報を伝えることで、ヴォルケンリッターの出現場所を管理局の艦船が網を張る領域に誘導する。

 同時に、査察の体をとって無限書庫に務めるリーゼ姉妹を拘束する。ヴォルケンリッターとリーゼ姉妹、どちらかの身柄でも確保できれば潜伏先を突き止める大きな助けになるはずだ。

 

 その目論見は失敗に終わった。

 罠を張った海域を担当していた艦船から、蒐集に出てきたヴォルケンリッターを発見したが取り逃がしてしまったと連絡が来たのが二時間前。

 リーゼ姉妹の身柄を抑えるために無限書庫に乗り込んだ査察官から、彼女たち二人が書庫にいないと連絡が来たのが一時間前。

 目論見をくじかれ、次の手を考えていたアースラが救難信号を受信したのが半時間前だった。

 

 発信源は目をつけていた無人世界の一つ。定期的に観測部隊が訪れるだけで普段は誰もいないはずの転送施設からの救難信号だ。怪しみながらも連絡をとったところ、通信に出たのはグレアムの共犯者を名乗る女だった。

 彼女から驚くべき事情を聞いたアースラはこの世界へと直行した。少し移動しただけでこの世界に転送できるほど近くにアースラがあったのは、不幸中の幸いだった。

 

 

 フェイトは武装隊に合流すると、リーゼ姉妹をクロノのそばで下ろす。

 クロノの視線に、二人は目をそらしながら口を開いた。

 

「ごめん、クロノ。私たち――」

「釈明は後だ。今はこの戦いを乗り切るために協力してほしい」

 

 クロノは自身も防御魔法を多重展開しながら、続ける。

 

「きみたちの協力者からおおまかな事情は聞いた。あれが闇の書の管制人格なのか?」

「ええ。あの中にウィルが突入して、闇の書を内側から壊そうとしている。それが終わるまで管制人格を引きつけておくのが私たちの仕事よ」

 

 グレアムの共犯者との通信で、仲間の一人が闇の書の中に侵入を試みているとは聞いていたが、それが消息不明になっていたウィルとなれば驚きも二重だ。

 

「そうか。生きていてくれたか」

 

 今は感傷にひたっている場合ではない。闇の書の中に突入しているということは、うまくいかなかった時は死ぬということだろう。

 

 収束魔法は肥大化を止め、攻撃に転換するために形を整えて始めている。

 一方、武装隊を中心に、クロノやなのは、アルフにユーノ、合流したフェイトやリーゼ姉妹も協力して、管制人格の収束魔法を防ぐための一大防御魔法が完成する。百層を超える防御魔法に、位相をずらす結界、熱を散乱させる強力な磁場。各々が持つ最大の魔法を駆使して編まれた防御魔法の軍勢で、今まさに解き放たれようとする闇の球を迎え撃つ。

 

 その時、収束魔法に異変が生じ始めた。

 

 綺麗な球形が徐々にねじれて、表層に生じた綻びからクエーサーのように魔力が勢い良く噴き出る。せっかく集めた魔力素を無為に放出して、徐々に小さくなっていく。

 自滅か。制御できなくなったのか。身構えていた隊員が思い思いに言葉をこぼす。

 たしかに、魔力が大きくなればそれだけ制御は難しくなる。魔力にすらなっていない不安定な力――魔力素を制御するのはさらに難しい。集めた魔力素が多すぎて制御しきれなくなるのは不思議なことではない。

 しかしそれは人間の場合だ。闇の書という機械仕掛けの魔導書が、制御可能な量を見誤るようなことがあるだろうか。

 

 

 疑問への回答は、クロノたちの背後に唐突に現れた。吹き付ける暴風をともなって。されど幽鬼のように忽然と。

 

 見知らぬ女。年の頃は十代の後半あたりか。

 モデルのような高身長。ボディラインにフィットした青いバトルスーツを身を包み、長い手足には煌めく光の翼。踝に二対、両腿に一対、前腕に一対。計八翼。

 短く切りそろえられた紫髪に、鋭い目。剣が人の形をとったような峻厳な容貌。

 

「遅くなった」

 

 前方の縮んでいく収束魔法と後方の闖入者。場に混乱が生じかけた瞬間、リーゼロッテが大きな声を張り上げる。

 

「彼女は敵じゃないわ!」

 

 一方、リーゼアリアは女へと問いかける。

 

「今のはあなたがやったの?」

「お前たちの方にばかり気をやっているようだから、後ろから自分が構築している魔法の中へと突き飛ばしただけだ」

 

 クロノは武装隊に小さくなりつつも崩壊しない収束魔法の方を警戒するように指示を下し、女に向き合い問いただす。

 

「きみは何者だ。なぜここにいる」

「ギル・グレアムと協力関係にある者。名はトーレ。ここには援軍となるために来た。これ以上は言えない」

 

 トーレと名乗る女は、必要事項のみを極めて端的に答えた。

 

(トーレ)か」

 

 なんともわかりやすい偽名だ。おそらくは何らかの組織で与えられたコードネームか何かなのだろう。

 

「先に言っておくが本名だ」

「そうか。それは、その……ユニークだと思う」クロノはごほんと咳を一つして 「事態が事態だ。今はこれ以上追求しない。手伝ってくれるか?」

 

 あやしすぎる存在でも、その是非を問い正している余裕はない。なにせ、まだ闇の書との戦いは続いているのだから。

 クロノは臨機応変な対応で謎の闖入者の存在を受け入れるべきと判断する。

 

「あの、今ので倒せたんじゃないんですか?」

 

 横から疑問の声をあげたのはなのはに、クロノは「いいや」と言って、いまだ残る黒球に視線をやりながら答える。

 

「術者が倒れたなら、魔法も制御を失って暴走しているはずだ」

 

 直径で十メートル以上はあった収束魔法は、いまや二メートルほどの大きさにまで縮みながらも、球の形を維持し続けている。

 それどころか、次第に噴出する魔力の量が減少し、歪んだ楕円から再び真球へと形を戻しつつある。

 

 黒球の一部が盛り上がり。管制人格がずるりと這い出てくる。

 大量の魔力が放出されたことで生じた暴風に長い銀髪を巻き上げられながら、騎士甲冑のほとんどが消え失せて、彫像のように均整の取れた裸体をむき出しにしながら、管制人格はこちらを見ていた。

 雪のように白い肌を黒い粒子が包みこむと、再び騎士甲冑が形成される。

 

『S゛』

 

 管制人格の口から、壊れたデバイスのようにひずんだ機械音声が漏れる。

 黒球が脈動する心臓のように、倍ほども大きくなったり、半分ほどに小さくなったりを、繰り返すこと数度。

 

『Shooting Starlight Breaker』

 

 一気に十分の一ほどにまで収縮。そして闇が煌めいた。

 極限にまで圧縮された魔力が、人為的に与えられた出口へと殺到。超高速で射出された魔力は、もはや砲撃ではなくレーザーとなって直進。百層を超える防御魔法の九割を消し飛ばした。

 

 

 誰もが動くのを忘れていた。闇の極光を視認した瞬間、肉体が死を直感した。対応を間違えた。あんなものを止められるはずがない。全てが終わったのだ、と。

 やがて前方に残る十数層の防御魔法を見て、再び脈打つ己の心臓の音を聞いて、自分たちがまだ生きているのだと思い出す。

 そして恐怖する。圧倒的な破壊の力。滅びは生物に刻まれた原初の畏れだ。

 

 クロノは懐にしまっていた一枚のカード、凍結特化デバイス『デュランダル』を強く意識する。

 クロノたちがこの世界に到着した時にグレアムの共犯者を名乗る女が――おそらくトーレの仲間でもあるのだろう――治療を終えて眠るグレアムとともに渡してきたカード。暴走する闇の書を封印するためにグレアムが用意していたというデバイス。これを使うということは、八神はやてとウィルの命を犠牲にすること。

 渡された時には絶対に使うものかと思っていたのに、使った方が良いのではないかという考えが頭によぎる。このまま戦って、全員が無事に勝つビジョンがまるで見えない。二人を救うために、何人が死ぬことになるのか。

 

 その考えに至った時、逆にクロノの精神は落ち着きを取り戻した。

 自分もグレアムがずっと感じていた苦しみを、少しでも理解できたのかもしれないと思ったからだ。

 だけど、自分が感じているのは実際に部下を失ったグレアムのそれに比べれば、随分と小さいものだろう。それに負けるようでは自分を育ててくれた人たちに顔向けができない。

 クロノは大きく息を吸い込むと、声を張り上げる。

 

「ぼうっとするな! 僕たちが呑まれてどうする!」

 

 いまだ畏れから立ち直れない局員へと声をかける。リーゼ姉妹や武装隊の半数近くがその一喝で正気に戻るが、染み付いた恐怖を一瞬で拭える者ばかりではない。

 そんな中、平静を保っていたトーレがクロノたちへと言い放つ。

 

「あれを相手に正面からかかっても一掃されるだけだ。私がスピードで翻弄する。お前たちは後ろから仕留めろ」

「その役目、私にもやらせてください」

 

 トーレは割って入ってきたフェイトをじっと見て。

 

「それでは足手まといだ」

 

 その短いやり取りで何かを理解したのか、フェイトは無言でカートリッジの弾丸をリロードする。

 全身を纏うバリアジャケットが弾けた。背負うマントが消え、身体のラインに合わせてフィットした黒のボディスーツだけが残される。肩から先、太ももの半ばから先がむき出しの無防備な姿には、競泳水着のような一種の機能美がある。

 だが、特筆すべきはその薄くなった装甲ではない。フェイトの周囲に展開され、姿を霞ませるほどに輝く金色の魔力光だ。

 

「これでも足りませんか?」

 

 高速で飛行する魔導師は身体の周りに魔力光を纏う。加速度を打ち消すために、魔力光が生じるほどの慣性制御を働かせなければならないからだ。

 姿さえ霞むほどの魔力光は、それだけの慣性制御が必要な速度で飛ぶのだ――飛べるのだという宣言。

 

「無理だと感じたらすぐに下がれ」

 

 トーレは静かに告げると、その場から掻き消えるように飛び立った。それを追って、フェイトも飛び立つ。

 

 それだけでクロノが喝を入れる必要はなくなった。

 フェイトの行動をきっかけとして、青ざめていた者たちにも変化が起きていた。

 

 いつの時代も、御大層なお題目や大義よりもなお単純で、だからこそ強い動機が存在する。

 それはプライドだ。

 目の前で自分より幼い子が戦っているのに、自分が退いていられるか。そんな大人としての安いプライド。

 それは次代に繋ごうとする生物の本能。滅びによる自己の消失と真逆にある強い力が、闇の書が振りまく畏れを凌駕して局員たちの心に火を灯していた。

 



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管制人格と最期の記憶

 温もりを感じた。

この身は絶対的な庇護の下にあり、脅かすモノはどこにも存在しないのだと感じられる暖かな。母の胸に抱かれるような。父の背に負われるような。安らかな呼吸。幸福。沈む。体を丸めて。溶ける。胎児の夢。ゆだねて。

 それは誕生に似ていて、死にも似ていて。自我の喪失だった。

 

 炎が熾った。

 

 途端、湧き上がる灼熱がこの身を奮い起こす。

 あの日からいつも身体の底でくすぶり続けていた、身を焦がすような篝火が、意識を覚醒させる火花となる。

 わずかに目覚めた意識に連動して、肉体が駆動し始める。動き始めた肉体は意識を深みから引きずり出す。ずっとここにいるわけにはいかない。自分にはやるべきことがある。やりたいことがある。だから安らぎを引き剥がそうとしたその直前――

 

 

 カーテンから漏れる光が、寝覚めたばかりのウィルの目を焼いた。部屋の奥深くまで差し込む光が朝を告げる。

 

 見慣れた部屋だった。ウィルが寝ているベッド。コンピュータ内蔵型の多目的デスク。デバイスに用いるパーツがケースに収められて並ぶ棚。殺風景だからと義姉が持ってきた小鉢の観葉植物。物心ついた頃から暮らしてきた、ミッドチルダのゲイズ家。その二階にあるウィルの部屋だった。

 着ている服は、八神家に世話になった時に買ってもらいそのまま管理世界に持って返ったパジャマだ。

 

 寝ぼけているのか。頭はぼんやりとしていて、物事を深く考えられない。

 

「いかないと」

 

 つぶやいて、ウィルは扉を開けて外に出る。廊下を歩き、階段を降りる途中

 

「おはよ」

 

 階下のリビングから、声をかけられた。視線を向けると、八神はやてがウィルの方を向いてにっこりと笑っていた。

 

「朝ごはん、もうすぐできるから、ちょっと待っててな」

 

 そう言うと、はやてはスリッパのぺたぺたという音を響かせながら、小走りにキッチンの方へと歩いて行く。

 

 階段からは、リビングとダイニングが見下ろせた。

 犬の姿でカーペットに寝そべるザフィーラと、そこに背を預けながらホットミルクを飲むヴィータ。

 キッチンではレジアスの妻が食事を作り、ダイニングではシャマルとはやてが食事を運び、いち早く食卓に座るレジアスは小難しい顔をしながらニュースに目を通している。リビングのソファには、風呂あがりなのかかすかに湯気を立ち上らせているシグナムと、寝ぼけ眼でソファに身を深く沈めるオーリス。そして――――

 彼らはそれぞれ、最後に起きてきたウィルに声をかけてくる。

 

 何かがおかしいと思いつつも、何が間違っているのかがわからない。目の前に広がる光景は、幸福感とともにウィルの心の中にすっと入りこんでくる。

 

 ウィルが階段を降りると、タイミング良く「みんな、ご飯できたでー」とはやてが声をあげ、全員食卓に向かい始める。

 食卓には、一般家庭に置かれるにしては大きく、十人分の朝食が並べられている。

 

「ウィル、まず顔を洗ってきたらどうだ?」

 

 なつかしい声が聞こえた。

 ウィルの視線は、声の主――ソファから腰をあげた男に吸い込まれる。

 短く刈られた、ウィルと同じ赤髪。服の上からでもわかる、鍛えあげられた肉体。隣に座るシグナムが小さく見える背丈。若々しい父がそこにいた。

 

「……父さん」

「ん? どうした?」

 

 微笑む父の顔。それがきっかけとなった。

 ウィルは目の前にいる父という存在を受け入れることができない。なぜなら、父が存在しているということ自体が、今のウィルの否定に繋がるから。

 

『In order to prevent mental pollutant, unauthorized attak to master's mind has been restricted.(精神汚染を除去するため、許可なき精神干渉を制限します)』

 

 頭の中にデバイスの音声が響く。頭――というのはウィルの認識にすぎない。意識そのものへと警鐘が鳴らされた。

 同時に目の前が真っ暗になる。視覚だけではなく、あらゆる感覚が失われている。思考汚染を検知したグレイスが、外からの影響を遮断し、インストールしていたプログラムを起動したのだ。

 

 起動したのはシンクロナイゼーションプログラム。

 魔法プログラムではなく、脊髄に埋め込まれたヒューマンマシンインタフェースを通して神経に作用するこのニューラル・プログラムは、スカリエッティがヴォルケンリッターの在り方に着想を得て即興で作り上げた手慰みの一品だ。

 ライトハンドに保存されているウィルの人格や記憶に関するデータを、逆に脳へと送信することで双方の同期をとるという、ただそれだけのプログラムには、記憶移植をおこなうプロジェクトFの技術が用いられていると聞く。

 ただし、生み出したばかりの無垢な人間に情報を移植させ、自身の記憶と()()させるプロジェクトFとは違い、情報を受け取るウィルはすでに自我の確立された一個の人間だ。有機的な生物の脳は、シナプスの結びつきは、データを送っただけで上書き保存されて書き換わりはしない。

 健常な状態で起動しても、一瞬の間に様々な記憶が走馬灯のようにフラッシュバックしては消えていくのを感じるだけだ。

 だが、もし使用者が正常な状態でなかったら。たとえば今のウィルのように、思考への干渉を受けているのであれば、現状認識とフィードバックされた記憶の差異が異常を浮かび上がらせ、本来の記憶を戻す呼び水となる。

 

 はやてが自分の足で立っていること、ウィルの家族とはやての家族がともに暮らしていること、死んだ人間が生きていること。様々な差異を認識した時、ウィルの脳は外部からの干渉をはねのけて、ここに至るまでの経緯を思い出す。

 自分が何をしでかして、何をするためにここにいるのか。

 

 ここが闇の書の中なら、この肉体はただのイメージにすぎない。自分の姿を再定義。

 平和な夢の象徴である凡庸なパジャマを捨てて、戦いに臨むための黒いバリアジャケットを纏う。それにともない、生身の腕は金属の義手へと変化する。

 

 現実と同じ姿で虚構の父の隣を通りすぎ、食卓のそばに立つはやてのもとへと歩み寄る。

 突然姿を変えたウィルを怪訝そうに見るはやてに、ウィルは

 

「ごめん」

 

 深々と頭を下げた。

 

「ふぇっ? ……えっ、なんで……?」

 

 はやての顔は見えないが、声色には困惑が多分に含まれている。

 

「ずっと騙してきて、ずっと黙ってて、ごめん。何も教えずに、痛さと怖さに耐えさせ続けるだけで、ごめん。はやての大切な人を傷つけて、悲しませて、ごめん」

「なんのこと――」

「この夢みたいな世界にいた方が、はやてには幸せなのかもしれない。戻ったって、もうシグナムさんも、ザフィーラも、ヴィータちゃんも、シャマルさんもいない。その足だって動かなくなって、また自分の力では動くこともできなくなる」

 

 顔をあげて、二本の足で立つはやての、とまどいで揺れる双眸を正面から見つめて、告げる。

 

「でも、俺ははやてに生きていてほしい。闇の書をこのまま放置したくない。だからこの夢の世界を捨ててくれないか」

 

「やめろ」

 

 誰かがウィルの右腕をつかんだ。

 声は背後から。振り向けば、すぐそばに銀髪の少女が立っている。先ほどまでの団欒にはいなかった、初めて見る顔。

 ここが闇の書の中である以上、正体は検討がつく。

 

「お前が管制人格なのか」

「やめろ。主をこれ以上苦しませるな」

 

 少女はウィルの問いかけには答えず、言葉を重ねる。その声は警告や忠告というよりも懇願に近い響きで、今にも涙を流しそうな顔をしていた。

 彼女がはやてにこの夢を見せたのだとすれば、その意図は明らかだ。

 だから夢から覚ましたいウィルを実力行使で排除するつもりなのではと身構えたのだが、管制人格は言葉を重ねるだけで何もしてこない。

 

「力づくで止めようとしないんだな。お前も本当はわかっているんだろ? こんなのはただの安楽死だ」

 

 管制人格は悲しそうに首を横に振るばかりで答えない。

 その時、空間に大きく亀裂が走った。

 

「あ、あ……そうや。私はさっきまでジェイル先生のところにいて……それで、グレアムおじさんが……」

 

 はやての足から力が抜けて、その場に倒れこむ。

 ウィルは管制人格に掴まれた腕を振りほどき、はやてに駆け寄ると、崩れ落ちる身体を受け止める。

 腕の中のはやては、焦点の合わない瞳で虚空を見て、先ほどまで身体を支えていた二本の足は力なくだらりと弛緩している。

 空間がガラガラと音をたてて崩れていく。穏やかな風景というテクスチャが剥がれた後に残ったのは闇だ。何もない、絶望のような闇が広がっている。

 

 管制人格はのろのろとはやてのそばに寄ると、膝をつく。

 

「主にこんな悲しみを味わわせる必要などなかった。せめて最後くらいは、夢の中で安らかにすごしてほしかったのに」

 

 諦めを口にする管制人格に、ウィルが抗議を口にしようとしたその時、腕の中のはやてがかすれた声で囁いた。

 

「私なら大丈夫やから」

 

 はやては弱々しく微笑んで、身体を起こそうとしたが、力が入らないのか身じろぎにとどまる。

 ウィルは腕にほんの少し力を入れて、はやてと管制人格の目線が合うように背を起こす。

 

「前にも会うたことあるよね? あの時は、夢の中やったけど」

「それも思い出してしまわれたのですか」

「うん。あなたが私にこれを見せてくれたん?」

 

 管制人格は控えめに首を縦に振る。

 

「……最後はせめて幸せな記憶をと」

「ありがとな。ずっとこうなったらええって思い続けてた、このまま続きを見ていたいって思うような、素敵な夢やった。そやけど、ここまででええよ。せっかくウィルさんが起こしにきてくれたんやし、お寝坊さんなところを見せるのはかっこわるいしな」

 

 管制人格は眉を歪め、やがて苦しげに目をつぶって、うなだれる。

 わなわなと肩をふるわせ、絞りだすように声をあげる。

 

「ですが、術が……何もないのです。こうなってしまっては、闇の書は破壊によってしか止まれない」

 

 伏せられた顔。嗚咽がこぼれ、涙は目元から鼻筋を伝って床に落ちる。

 

「私は無力だ……! ナハトヴァールに身体を利用され、主を逃がすことも暴走を止めることもできない!」

 

 はやては管制人格の伏せられた顔に片手を差し伸ばし、そっと頬を包み込む。

 

「ごめんな」

「なぜ、主が謝るのですか」

「私、あなたになんて声をかけたらいいのかわからへん。今何が起こってるのかも、あなたが何を言ってるのかも、ちんぷんかんぷんや。あなたたちの主やっていうのに、ほんとに情けない」

「……それは私たちが隠していたからです。主に非はありません」

「でも、きっと気づくことはできた」

 

 はやては手を伸ばした姿勢のまま、今度は自分が顔を伏せる。

 

「ずっと気にしやんようにしてた。見やんようにしてたら、いつまでも幸せなままが続くと思ってた。……そんなわけないのにね。私が止まってても、周りは……世界は動いていて……そんなこと知ってたはずやのに」

 

 はやては顔をあげる。もう一方の手も管制人格の頬に添えると、両の手に力を入れて、管制人格に前を向かせる。

 

「だから、聞かせてほしい。闇の書のこと。私の知らないところで、みんなが何をしてたんか、してくれてたんか」

 

 はやては、身体を支え続けるウィルの方を見て微笑んだ。その眼には力が宿っている。自分が何をするべきか理解している者の瞳だ。

 

「もちろん、ウィルさんも。みんな、もう隠し事はなしにしよ」

 

 はやての優しさに心をうたれたことは何度もあったが、その能力に感銘を受けたのは初めてだ。

 あれだけ心を傷つけられたばかりなのに、記憶が戻ってほんのわずかの間に、他人のことを気にかけながらも成すべきことと向き合った。その明敏さは非凡どころではない。

 きっとはやて自身が言うとおり、彼女は周囲の嘘に気づくことができたのかもしれない。周囲に遠慮して無意識に思考のレベルを落としていただけで、いずれはリンディやグレアムのような者たちと同じフィールドに立てるほどの才覚を持つ存在なのかもしれない。

 

 自分の腕が、そんなはやての身体を支えていることに感謝した。

 

 もし見ているだけで触れていなければ、能力にばかり目をやって、はやてのことを賞賛するだけで、気がつくこともできなかったに違いない。

 抱き止める腕から伝わる、わずかな震え。それは彼女がこれまで戦いに無縁だった十歳の少女にすぎないという証。どれだけ聡明で優しくとも、このままでは死ぬとなれば怖くて当然だ。

 

「そうだな。まずは説明が必要だ」

 

 現状を把握してもらうためだけではなく、彼女の恐怖を取り除くために。

 

 ウィルはニューラル・プログラムの一つを起動。中にある意識体の体感時間と外で流れる時間の流れを可視化する。中の時間表示が一秒二秒と時を刻んでも、外の時間表示は変わらない。

 今こうしている間も、外では戦いが続いているのだろう。

 だけど、これは夢だ。現実とは体感速度が違う、意識の世界。

 現実で戦っている人たちに申し訳ないが、少しだけ夢の中で話をさせてもらおう。

 

「少し長くなるけど、積もる話を一つずつ片付けていこうか」

 

 

 

 事情を説明しよう――となったは良いが、どこから始めたものか。

 闇の書について説明するにしても、その構造を説明するには魔法の知識が、引き起こした事件を説明するには次元世界の歴史と社会の知識が不可欠で、当のはやてはそれらの知識がまったくない。

 これが教室であれば、まず基礎知識からとなるのだけれど、いくら闇の書の内部が時間感覚が数十倍に引き伸ばされた特異な空間とはいえ、あまりに迂遠な説明で時間を費やすのは外で戦っている者たちに申し訳がたたない。ましてや説明の仕方で悩んで時間を浪費するのはもってのほかで。

 結局、はやてに密接に関係している事柄から話した方が良いだろうと、はやてが倒れ、ウィルとヴォルケンリッターが初めて戦ったあの日を起点として、時系列にそって説明することになった。

 

 無意識の枷が外れたはやては、渇いた大地に水が染みこんで行くかのように、人並み外れた理解力で知識を吸収するだけでなく、遠慮せずに質問してくることもあった。

 その内容が管理世界に関係しているなら引き続きウィルが応え、魔法や闇の書の構造については管制人格が応える。そんな役割分担が自然となされたこともあり、説明はスムーズに進行し、ついに先程の闇の書が暴走を始めたところにまで到達した。

 

「親しい者同士の戦いを目撃したことによる興奮、とまどい、逃避、絶望……そのような精神の乱れが、かろうじて均衡を保っていた体内魔力に影響を及ぼしました。闇の書に選ばれるほどの巨大な魔力が、負荷をかけられ続けて弱っていたリンカーコアと魔力パスを傷つけたのです。防衛プログラムが主に生命の危機が迫っていると判断したのも無理からぬ状況でした」

 

 興奮すれば脈拍は増加するし、汗も出る。血圧が高い人ならさらなる負荷で血管が傷ついたり狭心症を引き起こすこともある。魔力でも同じようなことは起こり得る。

 

「防衛プログラムは御身を守るため、肉体と精神を闇の書の内部空間へと移して保護したのです」

「そんで、あなたは入ってきた私に夢を見せてくれたんやね?」

「防衛プログラムに主を害するつもりがなくとも、暴走が始まれば行き着く先はたった一つ。それなら……せめて夢をお見せすることで、主が安らかにその先へ逝けるようにと」

 

 申し訳なさそうにうつむく管制人格に代わり、ウィルが語り始める。

 

「暴走が起きてしまった以上、元の状態に戻すことはできない。だから先生は一か八か、防衛プログラムの破壊を前倒しで実行することにした」

 

 計画の具体的な内容をウィルが知らされたのは暴走が起きてからだ。

 突入までの短い間に教えてもらったのは概要程度で、詳しく説明することはできないのだけど、と前置きをしてから話し始める。

 

「闇の書は内部にウイルスプログラムが侵入した状況だと、転生後にウイルスがついてくるのを嫌って、なるべく駆除を優先させるみたいなんだ。だから、ウイルスを送り込むことで転生を一時的に封じる。もちろんそのままだといずれウイルスが駆除されるだけだ。そこで、ウイルスと一緒に魔導師を送り込んで、内部の魔力回路を破壊する。同時に外部から魔導師による攻撃をしかける。そうしてリソースをあちこちに割かせることで、防衛プログラムに駆除されるより早く、ウイルスが防衛プログラムを破壊できる環境を作り出す――ってのがおおまかな内容」

「なんか簡単そうやけど、それでほんまに倒せるん?」

 

 計画の中身は至極単純だが、内側に忍び込ませるウイルスはスカリエッティが闇の書に合わせてカスタマイズした特別性を、外側から攻撃する魔導師は管理局の精鋭部隊を用意する手はずになっていた。

 だが――

 

「今のままでは無理だ。俺のせいで予定よりずっと早く暴走のトリガーが引かれてしまったから、準備が全然足りていない」

 

 ウィルが持ち込んだウイルスは、スカリエッティがこれまでに制作していたものを組み合わせた即興の品。それでも、管理局の艦船を掌握できるほどの代物だ。

 外側で戦うのはリーゼ姉妹。周辺海域を捜索している管理局の部隊や、他のラボから駆けつけてくれたトーレたちも加わって、相当の戦力になっているはずだ。

 それでもまるで足りない。どちらも必要量の半分程度にしかならず、奇跡でも起きなければ破壊は不可能、とスカリエッティは評していた。

 

「だけど、破壊はできなくたって、足りない戦力でも隙を作り出すことはできるかもしれない。ほんのわずかでも防衛プログラムを食い止めることができれば、その隙にはやてが管理者権限を奪取できるかもしれない。俺たちはその可能性にかけた」

 

 目標を元の計画よりもずっと下げて、それでも成功する可能性はほとんどないのだから笑えない。

 それもこれも自分の軽率な行動が元凶だ。罪悪感に身を焼かれながら、ウィルは説明を再開する。

 

「まず始めにとりかかったのは、管理者権限を持つ真の主になるために必須のプロセス、蒐集の完了だ。そのために必要な魔力の調達には、生き残ったヴォルケンリッター、シャマルとザフィーラに協力してもらった」

 

 はやては自分を救うために家族が命を捧げたことを知り苦しそうに瞳を閉じたが、すぐに目を開け、「続けて」と話の先をうながす。

 

「たとえ暴走中でも、蒐集の完了は内部のシステムに大きな変化をもたらすはずだ。その瞬間を狙って闇の書に介入して、ウイルスと俺を闇の書の内部へ送り込んだ」

「ウィルさんと一緒に入ってきたっていうウイルスは、もう働いてるん?」

「まだだよ。起動させるのは内側の準備を整えてからだ。その準備っていうのが……はやて、きみの説得だ」

 

 どれだけウィルたちが小細工を弄しても、結局のところ管理者権限を得るには、得た管理者権限をもって防衛プログラムを切り離すには、闇の書に選ばれた主たるはやてが動かなければならない。

 もしもはやてが生きることを望まなければ、失敗だ。

 はやてを説得できても、防衛プログラムだけでなく管制人格までもおかしくなっていてはやての命令を聞かなければ、失敗だ。

 はやてと管制人格の協力を得ても、蒐集が完了したとみなされてなければ、失敗だ。

 それらのすべてをくぐり抜けて、ようやく管理者権限を賭けた戦いを始めることができる。

 

「権限さえ手に入れば、防衛プログラムを破棄することもできる。そうなれば、はやては無事に戻って来れて、破棄した防衛プログラムは集まった魔導師たちで集中攻撃するなりアルカンシェルで破壊するなり、倒す方法はいくらでもある……と、ここまでが俺たちの計画の概要なんだけど、おかしなところはあるか?」

 

 と、はやてから管制人格へと視線を移動させつつ言う。

 管制人格は唖然とした、もしくは信じられないといった顔でウィルを見返す。

 

「あまりに確率の低い、しかも推測に推測を重ねたような作戦だ。お前はそんな作戦のために命を賭けたのか」

「他に方法はなかった。それに失敗した時の保険はかけてある。一定の時間が経っても闇の書が暴れ続けているようなら、凍結魔法で闇の書を封印する手はずになっている。俺が成功しても失敗しても、闇の書はここで終わりだ」

 

 凍結封印魔法を行使するために、グレアムが開発した専用デバイス『デュランダル』

 本来使うはずだったリーゼ姉妹は今頃防衛プログラムと戦っているのだろうが、デュランダルそのものは転送施設に残ったウーノかクアットロあたりが、駆けつけてきた管理局の部隊に渡しているはずだ。

 リーゼ姉妹から魔法の手ほどきを受けたクロノ、もしくは卓越した技量を持つリンディであれば、デュランダルを使うこともできるだろう。

 

「だが、失敗すればお前は命を落とすことになる」

「俺が引き起こした暴走だ。俺が命を賭けなくてどうする」

 

 くい、と袖を引っ張られた。

 

「ウィルさんは……できるって思ってたん?」

 

 上目遣いに見つめるはやてに「もちろんだ」と、応えようとして。嘘をつくことができずに、首を横に振った。

 

「無理だと思っていたよ」

 

 スカリエッティがウィルを指名した理由は、説得が成功する可能性を少しでも上げるためだ。

 はやてが説得に応じなければ、内部にいる人間は闇の書ごと命を落とすことになる。守護騎士を除けばはやてと最も親しい人物、ウィルの命が賭ければ説得に応じる確率は上がる。

 

 でも、それがどれほどの意味を持つのだろう。

 傷ついたばかりの少女が傷つけた自分の言うことを信じてくれる。

 信じて、辛いことばかりの元の世界に戻ろうとしてくれる。

 そんなのはありえないと、そう思っていた。

 

「思いつく限りの言葉を使って、時間が許す限り説得し続けるつもりだったけど……はやてがもう戻りたくないと思うなら、それも仕方がないと思っていたんだ。その時は、一人で寂しい思いはさせないでおこうって……騙してた俺なんかじゃ不満かもしれないけど、せめて一緒にって――」

 

 はやての平手がウィルの頬を打って、暗闇に小さな音が響いた。

 十歳の少女の、運動不足の細腕。普段から痛みになれているウィルにとっては、なでられるに等しいはずなのに、その衝撃は頬を通って背筋を痺れさせる。

 

「痛い」

「うん。私も今、痛かった」

「ごめん」

「うん。みんなで生きて戻れたら許したげるから」

 

 目尻をわずかに濡らす雫をぬぐえば、先程までの悲しみに満ちた顔はどこへ消えたのか、はやてはにこりと笑顔を浮かべた。

 

「でも、これでだいたいわかった気がする? 今の状況は、お外に出よう思ても過保護なお父さんが家から出してくれへんって感じなんやね。お父さんを気絶させれたら早かったんやけど、お父さんはすごく強くて、子供とお母さんと近所の人たちが一緒になってもびくともせえへんと」

「え、ええ……おおむねその通りです」

 

 管制人格がユニークな比喩に面くらいながらも首を縦に振るのを見ると、はやてはさらに深まった笑みで。

 

「だから、家の中と外で騒ぎ立てて気をそらしてるうちに、鍵とかハンコとか、そういうのを見つけて家を出て離婚調停にって――それが今の目的なんやね。それで、今のところうまくいきそうやの?」

「理屈に際立った齟齬はありません。騎士に分け与えていた魔力が戻ってきたことで、蒐集は完了しています。防衛プログラムに大きな負荷がかかれば、その隙に権限を奪取することも可能でしょう。ですが――」

 

 計画を肯定しながらも、管制人格の顔は決して明るくない。

 いくら計算式が正しかろうと、変数に入力する値が間違っていれば、求める値は出てこないのだ。

 

「理屈を実現するための力が不足しています。防衛プログラムに隙を作るのなら、奴が戦闘のために用いる私の顕現体を追い込まなければなりません。申し上げにくいのですが、外で戦っている魔導師の魔力を合わせたところで――」

 

 その時、周囲に広がる真黒な闇が大きなうねりをあげ、足元が激しく揺れ動く。

 はやてを守るように強く抱きかかえながら――もっともこの空間で物理的な行動を取った所で何の意味も持たないが――茫然と立ったままの管制人格を見上げ、声をあげる。

 

「何が起きた!?」

 

 管制人格は立ち尽くしたまま、虚空を見上げていた。焦点のあっていない瞳でここではないところを見ながら、驚愕をわずかに混ぜた声で答える。

 

「外の連中が防衛プログラムの魔法を逆手に取って、私の顕現体に損傷を与えたようだ」

 

 

 

 

 闇の帳を銀幕代わりに、ウィルたちの周囲に外の光景が投影されていた。

 あれほどの衝撃があった後では、一度外の様子を確認しないことには話に集中もできないだろうと、管制人格が見せてくれた。

 闇の書の内で感じられる時間は、外の数十分の一といった塩梅なので、投影された映像はほとんど動かず、静止画のようだ。

 

 闇の書から五百メートルは離れたところに、三十人ほどの人影がある。

 大半は管理局の武装隊だが、その中にはなのはやフェイト、クロノ、リーゼ姉妹など、見覚えのある者も混ざっている。

 

 茫然と周囲を見回していたはやての瞳から、急に涙があふれた。

 慌てるウィルと管制人格に、はやてはなんでもないと首を振って答える。

 

「ごめんな。こうして見たら、みんなはほんとにいなくなってしもたんやなって、実感がわいてきて……」

 

 はやてのそばにいた四人の守護騎士。シグナムとヴィータは暴走した闇の書に立ち向かって、呑まれて消えた。シャマルとザフィーラは主を救うためにその身を捧げて消えた。

 別れを告げる猶予も離別の覚悟もなく。ある日突然親しい者が消えたと告げられる。その辛さを身をもって理解しているウィルは、腕に抱くはやての頭を撫でようと。

 しかしその彼らが消滅することになった原因はウィルであり、彼らの消滅はウィルの望みでもあり、そんな自分がはやてを慰める資格などあるのかと躊躇し。

 

「ご安心ください、我が主。騎士たちを復活させることは可能です」

 

 管制人格の言葉に、ウィルとはやては同時に顔を跳ね上げた。

 

「我らはプログラム体――魔力によって構成されていた存在。残存魔力の量からいえばおそらく一度きりになるでしょうが、再度召喚することは可能です。騎士は夜天の書の頃にすでに構築されていましたから、防衛プログラムを切り離した後でも十分に」

「ほんまに……? ありがとう! ……えっと、そういえば、あなたの名前まだ聞いてなかった」

「夜天の書と一体化している私に、個別の名はありません。ただ、管制人格とお呼び下さい」

 

 形の良い眉をしかめるはやてに対して、ウィルといえば管制人格の言葉に衝撃を受けて茫然自失。

 

「ヴォルケンリッターは、復活できるのか。そうか……考えてみれば、当たり前か」

 

 言われることを為すことばかり考えて、その事実に思い至っていなかった。それともわざと目をそらしていたのかもしれない。

 

「お前にとっては、都合が悪かったな」

「二人で納得してやんと、私にも教えて。ウィルさんはみんなが戻ってきたら困ることがあるん?」

 

 告げるかどうか一瞬迷って、隠し事はなしと言われたことを思い出し、口を開く。

 

「俺の父さんのことは前に話したよね」

「――――っ!」

 

 それだけで推測できたのか、はやての表情が凍りついた。

 

「前回の闇の書事件で、なんだ。それからずっと、俺は闇の書を憎んで生きてきた。いつの日か、闇の書の尖兵であるヴォルケンリッターを倒して、闇の書を滅ぼせればって思っていて……でも、みんなで遊園地に行ったあの日までは、あの人たちがヴォルケンリッターだったなんて、知らなかった」

 

 知らなければあの人たちをただ好きなままでいられたのに。知らなければヴォルケンリッターをただ憎いままでいられたのに。

 ずっと憎んできた仇だと知った今も、彼らへの好意は消えていない。でも好意が残っていても、憎しみは消えてなくならない。

 それらは異なる次元に属するパラメータであるがゆえに打ち消しあってはくれず、間に挟まれたウィルに負荷をかける。

 

「今日、シグナムさんに言われたんだ。父さんを殺したのは自分だって」

「だからシグナムと戦って……でも、その、ほんまやの? シグナムがウィルさんのお父さんを……」

「烈火の将の言葉は真実です」

 

 言いよどむはやてに答えたのはウィルではなく、管制人格だった。

 

「私は闇の書の中枢たる管制人格だ。防衛プログラムのせいで動きを封じられていても、外を見ることはできる。このように――」両腕を広げ、周囲に投影された映像を示しながら 「今も、昔も、ずっと見続けてきた」

 

 その意味を測りかねていたウィルに、管制人格が告げる。

 

「あの日、闇の書は管理局の船の大部分を侵食していた。だからこそ、私はあの場にいたお前の父親の最期も見ていた」

 

 そして管制人格は語り始めた。

 誰にも知られることなく、船とともに消え去ったはずの、父の最期を。



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リインフォースと八神はやて

 鈍色の空を彩る魔力の色。その九割九分は紫黒。あふれる紫黒の光の洪水で、戦場は夜闇のごとき昏に染まる。

 此度の蒐集で手に入れた百を超える魔導師の千を超える魔法。それを惜しげも無く披露する管制人格。正確には、管制人格の顕現体を使い外敵を排除しようとする防衛プログラム。

 右腕を振るえば地に形成された魔法陣から無数の柱がせり出して、左腕を振るえば魔力弾が天を覆う雲霞となって降り注ぐ。十の指の先から伸びる細く長い鞭が震えて波動を形作る。

 

 昏の中、光を放ち輝くは、流星めいて奔る色とりどりの魔力光。管理局の魔導師たちが放つ魔力の煌き。

 無数の魔力弾が星々の煌きを見せたかと思えば、重なるシールドがステンドグラスのように淡く輝く。砲撃が天を裂く一条の線を刻み、バインドが空間に非線形な曲線を描く。

 

 明の中でもとりわけ目立つのは、縦横無尽に翔ける金色の光。音速を越え戦場を駆け巡るフェイト、その周囲に展開された慣性制御場の色だ。

 

 ソニックフォーム――その名の通り、音速の領域に到達したフェイトの新たな力。

 

 カートリッジによって増加した魔力を、推進力と負荷を抑える慣性制御、そしてバルディッシュの先に形成される魔力刃に集中。

 機動力と攻撃力に特化する代償として、バリアジャケットの対衝撃、対魔力へとつぎ込む魔力を限りなく削減した、防御を放棄した捨て身の形態。

 ヴォルケンリッターに負けぬ力を求めたフェイトが手に入れた新たな力は、奇しくも受けてしまえば耐えることのできない攻撃ばかりを放つ管制人格を相手にする上での最適解であった。

 

 管制人格は、宙空に何十もの魔法陣を同時に描く。

 陣からは五メートル近い体長の、鳥と蛇の合いの子のような獣が召喚される。

 一匹一匹の力は弱く、フェイトに追いつけるほど速く飛べないが、それだけの数の獣、その存在自体が障害物となって、フェイトの進路を狭めて機動力を削ぐ。

 狙いを定められないのなら、まず行動を縛るところから。

 そのような目論見で作り出された獣たちは、陣から生まれ落ちた瞬間に遠方から飛来した魔力弾に貫かれ、つんざく悲鳴をあげる間もなく消滅する。

 

 管制人格から離れた場所に陣取った、クロノを中心とした武装隊による支援だ。

 

 邪魔をした遠方の武装隊を排除すべく、管制人格が新たに魔法を構築即発射。連射される砲撃が、何重もの防御魔法を次々と破っていく。

 管制人格と人間の魔導師では出力の桁が違う。真正面から受ければすぐに打ち破られる。

 フェイトのように高速で移動できない者は、いずれ耐えきれなくなる時が来ると理解していても、こうして受け止めるしか術がない。

 

 だがこれは、いずれきたる死を恐れ、縮こまりながら待つ怯懦とは決して違う。これは敵を見据えながら、仲間が事態を打開するのを信じた時間稼ぎだ。

 

 

 フェイトは飛行軌道を曲げて管制人格へと接近する。

 武装隊への攻撃にリソースを割けば、それだけフェイトの迎撃に放たれる魔法は減る。

 迎撃に生じた穴を瞬時に見抜いたフェイトの洞察力、すぐさま突撃に移った決断力に非の打ち所はない。

 

 にも関わらず、フェイトよりも先に管制人格の懐に到達した者がいた。

 フェイト同様、戦場を飛び回って管制人格を翻弄する囮となっていたトーレだ。

 彼女はあざやかというより気味が悪いほど鋭角的な軌道で迎撃をくぐり抜け、勢いそのままに管制人格の腹を蹴りつけた。

 

 (スピード)(エネルギー)

 超音速からの蹴りは管制人格の堅固なバリアすら破壊する。反撃のいとまを与えることなく、両手両足に生じるエネルギー翼を使った斬撃を加え、とどめとばかりに横蹴りを叩き込み、その状態でさらに加速して管制人格の身体を吹き飛ばす。

 

 それだけ攻撃しても、管制人格の騎士甲冑に傷を残しただけ。

 管制人格の背から生じる黒い六翼が瞬時に肥大化したかと思えば、黒翼一つ一つがソニックフォームに等しい規模の慣性制御場を生み出して、吹き飛ばされる身体をぴたりと静止させる。

 よりも早く、すぐそばを駆け抜けたフェイトがすれ違い様に黒翼二つを切り裂く。

 

 慣性制御のバランスを乱されて姿勢を崩した管制人格に、クロノの合図で攻勢へと転じた武装隊の魔法が殺到する。

 次々と直撃する砲撃魔法が管制人格の周囲に展開するバリアを歪め、ひときわ大きな桜色の砲撃が、ついにバリアを貫いて管制人格を飲み込んだ。

 

 PT事件の頃から、こと一撃の威力に関しては、武装隊やクロノ、フェイトをも上回っていたなのは。その彼女がカートリッジというブーストを得た今、その砲撃魔法の威力は他者の追随を許さない。

 そのなのはの砲撃を受け、管制人格の右手の手甲と腕に巻き付いた血色のベルトが吹き飛んでいた。

 味方の中で最大の攻撃が直撃してなお、与えた損傷はそれだけにすぎなかった。

 

『もう一度やらせて! 次はもっと威力を上げるから!』

 

 場が負の想念に飲まれるより早く、なのはの念話が場に響き渡る。

 続いて、アルフとユーノが笑い声をあげた。

 

「それでこそ、なのはだ」

 

 初めて会った時から変わらない。

 彼女はよく落ち込むし、よく悩みもするけれど、いつだって前向きで、どうしようもなく頑固だ。

 フェイトと話をするためにあれだけのことをしたなのはが、はやてとウィルの命がかかっているのに諦めるはずない。たとえ自分一人しかいなくとも、絶対に勝てずとも、決して諦めずに戦い続けるに違いない。

 そんな彼女だから、みんな放っておけないのだ。

 

 新たに召喚され、武装隊めがけて襲いかかってくる獣たち。それらを鉄拳で打ち落としながら、アルフは犬歯を剥き出しにして笑う。

 

「周りは気にすんな! あんたは全力で撃てばいい!」

 

 場を淡い若草色の光が包み込む。

 ユーノはなのはを中心に、武装隊全員を効果範囲にする、魔力回復の場を展開する。瞬時に回復するわけではないが、継戦時間は確実に伸びる。

 続けて射撃の威力を上げる補助魔法。さらに、なのはが砲撃のみに集中できるように彼女の足元に足場となるフロータを生成する。

 

「やりたいようにやればいい! 僕が全力で支援するから!」

 

 なのはの力強い宣言が、アルフとユーノに伝わって、隊全体へと伝播する。

 

 空気が変わったのを感じ、クロノは苦笑する。

 本来、隊を活気づけるのは隊長や自分のような上官の役目だというのに、最近はその役目を取られっぱなしだ。

 一兵卒でありながら、周囲を活気づける者。困難という壁に穿たれた初めの一穴。そんな魔導師の呼び名を思い出す。

 

切り札(エース)にして切り拓く者(ストライカー)か。随分と欲張りだ」

 

 

 依然変わりなく、それどころか勢いを増す攻撃が、管制人格の迎撃の閾値を越えた。

 

 管制人格の左手。先程なのはの砲撃で壊れた黒いベルトが元通りに再生した。かと思うと、生物のように蠢き始め、波打ち、太さを増し、そして蛇へと変貌して首をもたげた。

 それは防衛プログラムが外敵の排除にさらに多くのリソースをつぎ込んだ証。

 

 攻撃の威力が、密度が、速度が、すべてが上昇する。

 距離をとって戦う者には、新たな攻撃に対応するだけの猶予があった。

 だが、管制人格の近くにいた者にとって、その変化はあまりに突然で。

 

 フェイトに、死を告げる紫黒の魔法が迫っていた。

 

 

 

 紫黒の魔法が体に触れるより一瞬早く、フェイトは誰かに胴を掴まれた。同時に身体が自分の意志とは無関係に急加速。

 ソニックフォームの慣性制御ですら軽減しきれない強烈なGに、胃液が喉元までせり上がり、脳や手足を流れる血液の量が減って意識がとびかける。

 意識を手繰り寄せて戻った時、目に映ったのは自分を見下ろす鋭い瞳だった。

 

「あ、ありがとうございます」

「礼を言われるようなことではありません。フェイトお嬢様に何かあれば、私が叱られます」

 

 トーレは表情を変えることなく答えると、フェイトから手を放し、再び管制人格へと向かっていた。

 どうして名前を知っているのか。お嬢様とは。先ほどみんなの前で言葉を交わした時とはまるで違う丁寧な言葉づかいは。

 頭にいくつもの疑問が浮かぶが、そのすべてを後回しにして、フェイトもまた管制人格へと向かっていく。

 わからないことは後で聞けば良い。今はその()を作り出すために戦う時だ。

 

 

 

 管制人格の攻撃の威力、速度、密度が上昇しても、やることは同じだ。

 フェイトとトーレが近接戦を仕掛け、武装隊とクロノ、リーゼ姉妹がフェイトとトーレを支援。

 管制人格が武装隊に攻撃を集中して先に仕留めようとすれば、その隙をついて、フェイトやトーレが懐に潜り込んで攻撃。

 そうしている間に、なのはの砲撃魔法の構築は進んでいく。

 

 先程の砲撃は、直撃しても管制人格の騎士甲冑の一部を破壊しただけ。

 もっと威力を上げなければならない。威力を上げるためには、さらに魔力を込めればいい。

 

(それだけじゃだめだよね)

 

 どうすれば良いのか。その答えはすでになのはの内にある。いや、先程見て学んだばかりだ。

 

 長杖型のデバイス――レイジングハート・エクセリオンの先端に構築される砲撃。

 なのはの魔力にカートリッジの魔力が加わって肥大化する魔力を、一定の大きさに保ったまま、指向性を与えて一気に放出させる。

 それが今までの、普通の、砲撃魔法。

 

 なのはが息を吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、吐く。

 その動きに呼応して、魔力の球が肥大化して、収縮する。倍ほどに大きく、半分ほどに小さく。ゆるんで大きく、きつく小さく。

 

 魔力球を一気に収縮させた次の瞬間、なのははその大きさを維持したまま、一部分だけをゆるめた。

 堤防が決壊するように、蓄えられて押さえつけられていた魔力が解放され、与えられた方向へと殺到。

 

 レーザーのような魔力の奔流に、管制人格が両の手を突き出す。

 到達するまでの一秒足らずで十重二十重のシールドが手の先に構築され、その全てを撃ち貫いて、なのはの砲撃が管制人格に直撃する。

 

「うん、だいたいコツ、つかめたかも」なのはは満足げにうなずくと 「次はもっとうまく撃てると思う!」と声をあげた。

 

 これほどの砲撃でも、管制人格に与えた損傷は先程と同様。両の腕に巻いたベルトとも蛇ともつかない騎士甲冑の一部を破壊しただけ。

 しかし、その意味はまるで違う。この戦いで管制人格が初めて防御反応をとって、その上で相手に損傷を与えることができたのだ。

 最初の時のように、フェイトやトーレが敵の体勢を崩し、防御が間に合わない状況で当てることができれば、勝機はある。

 

 

 

 その光景を間近で見て、フェイトは生まれて初めて覚える感情に昂ぶっていた。

 

 訓練の間に、なのはがあのような技を使ったことは一度もなかった。いつの間にあんな技を覚えたのか。

 

 決まっている。今だ。

 

 なのはの技は、つい先程、管制人格が収束魔法を放つ時に見せた、極限の圧縮からの解放に似ている。それを模倣したのだとすれば、正気の沙汰ではない。

 フェイトは以前ウィルと戦った時に、見よう見まねで相手のマニューバを真似して敗北した苦い記憶がある。練習による積み重ねもなく、実戦で新たなことに挑戦することの危うさはよく理解している。

 新たな技能とは、デスクに向きあって理屈を噛み砕いて理解し、反復訓練によって基本的な動作を身体に覚えこませ、シミュレーションによって動作を繋げ、戦闘スタイルへと昇華させる。そういう流れを必要としている。

 大量の魔力を用いる大規模な魔法となればなおさら慎重な訓練が必要となる。それをぶっつけ本番でなしとげるなんて。

 本来なら何日も、何ヶ月もかかるその過程を、なのははまたたく間に駆け上がる。その規格外のセンスは、十歳にして魔法学校の修士生並の魔法知識と構築能力を持つフェイトにとってすら畏怖を覚えるほどだ。

 

 フェイトは優秀な魔導師だ。知識と魔力は言わずもがな。戦闘経験もこの半年で多く積んだ。

 エリートである本局武装隊の面々が相手でも、一対一の模擬戦で負けることは滅多にない。さすがに隊長クラスが相手の時は今でも五本中一本二本は落とすし、クロノが相手になると逆に五本中一本とれるかといったところだが。

 それでもフェイトより強い者は全員フェイトより年上。フェイトより長い年月を修練に費やしてきた人たちだ。若いフェイトは挑戦者で追い越す側だった。

 だけど、先程はっきりと聞いた。自分の後ろから駆けてくる騒々しい足音を。立ち止まればすぐさま自分を抜き去って置き去りにされそうで。

 

「……負けたくないな」

 

 己に芽生えた新たな感情の名前を、フェイトはまだ知らない。大切な友達に対して、闘争心めいたものを抱くなんておかしいと思う気持ちもある。

 けれど不思議と悪い気はしない。負けたくないけど、倒したいわけではない。抜かれたくないけど、追いて行きたいわけでもない。

 

 その関係は世間一般ではこう呼ばれる――ライバル、と。

 

 

 

 管制人格に、見かけほどの余裕は残っていなかった。

 攻撃が通っても、すぐに修復して無傷に戻る。一見無駄なことを繰り返しているように見えるが、徐々にその魔力は削られている。

 

 無限に等しい魔力を持つと言われる闇の書も、内包する魔力の総量は有限だ。

 空間にある魔力素は、体内に吸収されて結合し魔力となり、魔法として使用されると魔力素へと戻る。

 魔力素へと分解された使用済みの魔力をかき集めて取り込み、再度結合させ、励起させて魔力へと戻す。人間が何日もかけておこなうその動作を、闇の書はもっと短時間でおこなっている。

 

 伝承に謳われる半永久機関エーヴィヒカイト。夜天の書が多くの魔導師に狙われ続けた原因。無限の一歩手前まで到達した、ベルカが生み出した至高の技術の一つ。

 無数の魔法を記録する万魔書庫。そして、それを好きなだけ行使できる擬似的な永久機関。それが夜天の書の真の在り方。六六六の頁はその儀式魔法を起動するための媒介にすぎない。

 全人類が欲しがる無限の力を、擬似的にとはいえ体現した闇の書と単身で渡り合えるのは、同様に無尽蔵の魔力を生み出す紫天や、万物を消滅させる雷帝、虹の鎧であらゆる干渉をはねのける聖王のような、古代ベルカの諸王くらいだろう。

 

 だが、管制人格とて、一瞬で魔力素を魔力へと変えているわけではない。自動回復は時間的な永久であって、瞬間的な量は無限ではない。削りきられれば倒される可能性もあるのだ。

 敗北の可能性を算出した管制人格は、これまで通りの安全策をやめ、敵を倒すためのリスクのある行動を選択する。

 

 

 空中に巨大な魔法陣が形成される。ミッド式で編まれた陣が、形を変える。管制人格によって、プログラムが書き換えられているからだ。

 空を覆う暗雲の間に小さな稲光が連続して発生する。

 

「あれは――ッ!」

 

 フェイトが顔色を変える。彼女はその魔法を知っていた。

 見覚えがあるどころではない。それはフェイトの魔法。フェイトがかつて母の使い魔から教えられた魔法。

 

 儀式魔法サンダーフォール

 人工的に落雷を発生させるこの魔法は、雷を形成する前段階となる電子雪崩で、連続した放電を起こす。

 同じ魔法を使うフェイトがそれを見れば、魔法の規模や威力を推し量ることができる。管制人格が放つそれは、少なく見積もってもフェイトの百倍は下らない。

 

 その場から急いで離脱しようとしたフェイトの、

 

『避ける必要はないわ。あなたが持つ、最高の一撃を叩き込みなさい』

 

 脳裏に響いたのは、久しぶりに聞いた大好きなあの人の声で。

 戦いの最中だというのに頬が緩んで、爪の先、毛髪の一本一本にまで力がみなぎる。

 

「カートリッジロード!」

 

 フェイトはためらうことなくその場にとどまり、ありったけのカートリッジをロード。

 同時に管制人格の魔法が完成し、手を振り下ろす。

 

 

「サンダーフォール・ミョルニル」

 

 

 あまりにも巨大な雷は大気の抵抗を意に介さず、天と地を一直線に繋ぐ、巨大な雷の柱となる。

 山のように大きな巨人が振り下ろした巨大な槌の頭部にも似た雷。

 ()()が振り下ろされる。

 

 莫大な魔力によって造られた人工の雷は、自然の雷の数百倍にも及ぶテラジュールの熱量を発生させる。小型の戦略核にも匹敵するエネルギーを防ぐことなど不可能。

 雷の通路を形成する先駆放電ですら音速の数百倍。雷そのものはさらに百倍。意図して回避することは不可能。よしんば直撃を避けたとしても雷撃が発生させる膨大な熱量に焼かれる。

 

 その絶対不可避の死を前にしても、不思議とフェイトの心に恐怖はなかった。

 

 

 

 

 

 管制人格の語りが終わり、場が沈黙に満たされる。

 

 告げるべきは告げたと口を閉ざした管制人格。

 何か言いたげにしながらも、ウィルより先に口を開くつもりはないはやて。

 肝心のウィルは、父の最期の行動を、発言を、いまだに消化しきれずにいたけれど、それでもひとりでに言葉は紡がれ始める。

 

「管制人格。俺はお前が嫌いだ」

「そうだろうな」

「お前だけじゃない。ヴォルケンリッターも、闇の書に関わるすべてが憎い。でも、はやてを助けさせてくれることには感謝している」

「利害が一致しただけだ」

「父さんのことを教えてくれたのも、利害の一致か?」

 

 管制人格の告げた真実が、シグナムがウィルの父を殺したというのは勘違いだ、という内容であれば利もあるが、シグナムの告白を肯定したところで管制人格にとっては得などないはずだ。

 それなのにわざわざ教えてくれたのはなぜか。

 視線をそらした管制人格に、さらにたたみかける。

 

「俺がはやてを目覚めさせようとした時も、力づくで止めようと思えばできたはずだ。それをしなかったのは内心で間違っていると気づいていたから――」

「…………」

「――だけじゃなく……うぬぼれかもしれないけど、俺のことを気づかってくれたのか?」

 

 しばしの沈黙。管制人格は一度はやてに視線をやり、再びウィルに向かい合うと、寂しげな微笑を浮かべた。

 

「私はずっと主を見てきた。両親に先立たれて悲しみに暮れる姿も、孤独に耐える姿も。お前はそんな主の孤独を和らげてくれた」

「たまたまだ。俺がいなくても、タイミングが少し変わるだけだ。はやてなら、そのうち図書館ですずかちゃんと出会って、そこからなのはちゃんとも知り合って、友達になっていたはずだ」

「替えがきくかは関係ない。仮定の話に価値はない。偶然であっても、きっかけはお前だ。お前と出会って主に笑顔が戻った。主のおかげで渇ききっていた騎士たちの心には、つかの間の安らぎが与えられた。だから、この半年はこれまでで一番幸せな時間だった。そのきっかけをくれたお前のことを害したくはなかった」

 

 憎むべき闇の書を統べるものが、誰よりも自分を評価してくれる。

 震える唇を動かそうとしても、肝心の言葉が出てこない。感謝すればいいのか、皮肉を返せばいいのか、消えない憎悪をぶつければいいのか。何を言えば良いのかわからない。

 

 その沈黙はウィルの唇のもっと下、抱き抱えたはやてによって打ち破られる。

 

「でも、その幸せにあなたはいなかった」

 

 強い口調で割り込んできたはやてに、管制人格ははかなげな笑みを浮かべる。

 

「私はもとよりそういう存在なのです。見ているだけでも十分すぎます」

「それで満足してたらあかん。これからは、あなたも一緒に幸せにならんと」

「私は魔導書の一部。ただのシステムにすぎません」

「それなら、私が名前をあげる。闇の書とか、夜天の書とか、そういう物の一部と違う、あなたがあなたである名前を。これまでずっとみんなを支えてきてくれたあなたが、幸せになるための名前」

 

 言の葉はずっと前から考えていたかのように淀みなく紡がれる。

 

「強く支えるもの、幸運の追い風、祝福のエール」

 

 何もない闇の中に、風が吹いた気がした。

 月光に照らされた平原の、青い草の香りを連れた風。

 

「リインフォース」

 

 管制人格の表情に変化はない。少なくとも、表面上は。

 

「リイン、フォース」

「そう、それが私が贈る、あなたの名前」

「リインフォース」

 

 その響きを確かめるよう、管制人格は何度も口の中で音を転がす。

 

「リインフォース、私の家族になってくれへんかな?」

 

 はやては体を起こして、ウィルの腕から離れて、管制人格へと手を伸ばす。

 

 その手が管制人格の背中へと回されて、包み込むように体を抱きしめた時、管制人格の瞳は涙でにじみ、すぐに大粒の滴となってぼたりぼたりとこぼれ落ちる。

 管制人格は――リインフォースは、涙を流しながらはやての背へと腕を回して、その体を支えながら大きくうなずいた。

 

 ウィルは立ち上がって、その場から一歩二歩と後じさる。

 もうウィルがはやてを支える必要はない。これからはリインフォースと蘇ったヴォルケンリッターがはやてを支える。

 彼らとウィルは相容れない。

 だから、一緒にはいられない。

 

「ね、ウィルさん」

 

 離れようとするウィルを、はやてが呼び止める。

 ウィルに背を向けてリインフォースと抱き合っていて、こちらの動きは見えないはずなのに。

 

「家族になろうって言ってくれた日のこと、覚えてる?」

「忘れないよ。ああ見えて結構緊張してたんだ」

 

 PT事件が終わって管理世界へと帰る前にかけ、一度は受けてもらえたのに、ヴォルケンリッターが現れたことで断られてしまった誘い。

 もしもヴォルケンリッターが召喚されるのがあと数ヶ月遅ければ、ウィルとはやての関係はもっと違っていたのだろうか。敵になることなく、家族としていられたのだろうか。

 

「今はあの時のウィルさんがかけてくれた言葉の理由がようわかる。シグナムを、ヴィータを、シャマルを、ザフィーラを、それからリインフォースを。私はみんなを、家族を幸せにしたい」

「……そっか」

 

 はっきりと言葉にされれば、否が応でもわかってしまう。自分とはやての道は、決定的にわかれてしまった。

 管理者権限を得たはやては、ヴォルケンリッターを再度召喚して、闇の書の防衛プログラムを切り離して破壊するのだろう。守護騎士が夜天の書側のシステムなら、闇の書が滅んでもヴォルケンリッターが消えることはない。

 

「俺たちは、ここから出て、闇の書を滅ぼすまでは一緒に戦えると思う。だけど、ヴォルケンリッターがその後も残るのなら、それがはやての望みなら、きっと……いや、絶対に、俺とはやての幸せは相容れない。父さんのことを聞いても、やっぱり俺は闇の書のことも、ヴォルケンリッターのことも許せないんだ」

 

 はやてはリインフォースからゆっくりと体を放し、まだ片方の腕はリインフォースの背に回したままだけれど、体をひねってウィルの方を向く。

 

「ええよ。復讐がしたいのなら、いくらでもしようとしてくれてかまいません。でも、これからは私が守るから。ウィルさんやからって、私の家族に手を出させたりさせんから」

 

 告げる言葉には力がこめられていて、真っ直ぐな瞳には覚悟がある。我が子を守る母にも似た覚悟だ。

 自分ははやての敵になった。その事実を受け止めて、ウィルも覚悟を決める。はやてと敵対する覚悟を。

 

「そんで……今はどうやったら良いのか全然わからんのやけど……でも、いつか絶対に、ウィルさんのことも(たす)ける」

 

 そんな覚悟は、はやての言葉で簡単に吹き飛ばされた。

 

「なにを……言って……」

「わかったんや。闇の書を破壊するだけじゃ何も終わってない。闇の書に囚われてたみんなだけが救われても終わらない。私たちのマイナスがなくなっただけじゃあかんかったんや」

 

 宣言。きっと、復讐の念から解き放つ――救うと。

 ぬるい願望はどんな辛辣な罵倒よりもウィルの心に深く突き刺さり、脳髄を甘く痺れさせる。

 同時に、その意味するところに背筋が凍りつく。

 

「闇の書が生み出した悲しみまで背負うつもりか。そんなもの人が背負える重さじゃない。まして、はやてが背負う必要なんかない」

「私、みんなが悪いことしてないと思ってるわけやないんよ。望んでやってなかったからって、悪いことをしてきた過去が消えてなくなるわけと違う。望んでても望んでなくても、そんなのやられた人には関係ない。……そういう気持ちもわかるつもりやから。それでも、私はみんなが好きで、幸せになってほしい。許せない人の気持ちを踏みにじってみんなを幸せにしようとするんやったら、その人たちに応えんとあかんと思うから。

 なんて、いろいろ言うてみたけど、ほんまはもっと簡単な理由があったりするんやけどね――私も、ウィルさんに幸せになってほしい」

 

 幸せになってほしい――その言葉はかつてウィルがはやてを家族にしようとした時に告げたのと同じで。

 でも、そこに込められた決意の強さは雲泥の差で。

 

 何も返すこともできず、はやてに背を向けて目を閉じた。

 八神はやてという光は、あまりにまぶしすぎて直視できなかった。

 

 

 

 

 宙空に突如出現した極彩色の穴が、絶対の死を運ぶ雷槌を飲み込んでいた。

 その極彩色が穴自身の色ではなく、穴の向こうに広がる次元空間の色だと気づいた者はどれだけいただろう。

 

 次元歪曲魔法

 異なる次元世界を同期させるための空間歪曲に必要な演算も、歪曲された空間を支えるための質量を代替するための魔力も、個人でまかなうのは不可能と言われていた。

 だから、実証をもって不可能を可能にした者は讃えられるのだ。

 敬意と畏怖とともに、大魔導師、と。

 

 

「まったく、世話をかけさせる子ね」

 

 魔法が飛び交う戦場の下方、岩場の端に腰掛けつつ、あきれた口調に隠し切れない喜びを含ませつつ、女はつぶやいた。

 

 年を重ねて陰るどころか深みを増した美貌。腰まで届く深海のように深い黒色の髪をゆるやかに束ねて、白衣を羽織った研究者然とした女。

 雷が消失するのを確認すると、大魔導師プレシア・テスタロッサは、右手首につけた腕輪型のデバイスを軽く撫でて、次元歪曲魔法を停止させる。デバイスの中央に取り付けられていた種子のような形をした石――ジュエルシードもまた、輝きを失った。

 

 プレシアの傍らには身体よりも大きな砲を担いだ少女が立っている。

 年の頃はフェイトと同じくらいか。長い茶髪を肩のあたりでリボンでたばねているが、くせ毛のせいでどうにもまとまりが悪い。

 少女はぼうっとした目で上空を眺めながら、砲の先を管制人格に合わせる。

 直後、砲身を遥かに越える砲撃が放たれ、管制人格に直撃する。

 

「圧縮が甘いわね。砲身での圧縮に頼っているから、射出した後で広がるのよ。きちんとできていれば、あの桜色の砲撃に劣らない威力が出せるでしょうに」

 

 少女は幼児がするようにいやいやと首を振って叱責するプレシアから視線をそらす。宙をさまよう少女の視線は、大剣を振りかざして管制人格に斬りかかるフェイトをとらえる。

 

「あの金色の子がプレシアさんの娘?」

「そうよ。あれで結構私に似ているの」

「会わなくていいの?」

「せっかくうまくやってるみたいなのに、ここで私が出ていったら余計面倒なことになるだけよ」

 

 プレシアはフェイトから視線をはずすと、さっさと後ろを向いてその場から離れる。

 

「管理局に見つかると面倒だわ。行くわよ、ディエチ」

 

 少女はこくりとうなずくと、砲身を引きずりながらプレシアの後についていった。

 

 

 

 上空。

 雷槌が不発に終わった瞬間、フェイトは管制人格へと向かって一直線に翔けつつ、カートリッジの魔力を全て魔力刃へと変換する。

 

「プラズマザンバー!」

 

 バルディッシュの魔力刃が細く長く伸びて芯となる。カートリッジから解放された魔力が芯を覆い、太く固くする。

 肥大化し五十メートルを超えた刃を、巨大な魔法を行使した反動で隙だらけの管制人格へと。

 振りぬかれた刃は管制人格の周囲に張られたバリアを砕き、管制人格が纏う黒衣の騎士甲冑を半壊させる。

 管制人格の身体が揺らぐ――が、それまで。

 

 負荷から立ち直った管制人格の指先に反撃のための紫黒の魔力が集いかけた瞬間、下方から飛来した誰のものともわからぬ砲撃を食らい、魔法構築が妨害される。

 そしてさらに

 

「私たちを忘れてもらっては困るわ」

 

 管制人格の体を青の鎖が何重にも絡めとる。リーゼアリアの多重捕縛魔法。

 

 雷槌を恐れずに攻撃に向かったのはフェイトだけではなかった。

 フェイトとは異なり、リーゼアリアには管制人格が構築していた魔法の正体はわからなかった。わからない魔法に対しては距離を取るのが常道。

 けれどフェイトが退かずにカートリッジをロードした瞬間、歴戦の戦士たる彼女たちも悟ったのだ。

 ここが千載一遇の好機なのだと。

 

「あなただって望まれないことを強いられてきたのかもしれないけれど」

 

 語るリーゼアリアのそばから、人影が踊りだす。リーゼロッテだ。

 動けない管制人格の懐に入った彼女の手には、十枚を超えるカードが握られていた。

 リーゼロッテは目の前にいる管制人格を視界に納めながらも、その目に過去の楽しかった日々を映す。

 

「……クライド君」

 

 リーゼロッテは手に持った十枚を超えるカードを握りつぶす。解き放たれる魔力が、恒星にも似た輝きを創り出す。魔力のあまりにもな巨大さに、リーゼロッテの手が裂け、血が噴き出る。

 過剰な負荷に人工魂魄が悲鳴をあげるのを感じながらも、リーゼロッテは荒れ狂う魔力を制御する。

 

「私たちもさ、これで結構辛かったんだ」

 

 身を屈め、拳を握りしめたリーゼロッテが

 

「だから! 一発!! 本気で殴らせてもらうよ!!!」

 

 渾身のボディブローが抉るように突き刺さる。蒼天よりもまばゆく輝く青が、拳を通して管制人格の内部に叩き込まれる。

 一拍置いて叩き込んだ魔力が、正確にはその一部が内部で炸裂した。

 

「ごめん、今の嘘」

 

 続けて、炸裂の衝撃で次の炸裂が発生し、その衝撃がさらなる炸裂反応を引き起こす。

 莫大な魔力を一度に反応させるのではなく、細やかに分割した上で衝撃を受けて構築が崩れると炸裂するようにプログラミングすることで、小規模な炸裂反応を連鎖させる。

 休む間もなく続く炸裂で体を内部から打ち続けられる管制人格に向かって、リーゼロッテは殴りつけた姿勢そのままに握り拳の中指を立てた。

 

「一発で気がすむかぁ!!! そのまましばらく吹っ飛ばされろ!!!!」

 

 内部で巻き起こる連鎖的な炸裂反応は、管制人格の魔法構築を阻害する。

 反応の持続時間は十秒にも満たなかったけれど、その間、攻撃も防御もできなくなる。

 それが、リーゼロッテからなのはへの、最大のアシストだった。

 

 遠方、なのはを中心に周囲の魔力素が集う。

 この戦いで消費された莫大な魔力。その残滓が渦巻き集い、圧縮されて、球を形成す。

 紫黒の色を残す昏い魔力素が、球体に近づくにつれて鮮やかに色づいていく。曇天にひときわ強く輝く桜色。

 それをカートリッジから解放された魔力が覆い、締め付けるように圧縮していく。自分の身体を超える大きさの球を、手のひら一つ分にまで圧縮して。

 

「シューティング――――スターライトブレイカー!」

 

 桜色の流星(シューティングスター)の輝きが、夜闇のごとき昏に染まった空を砕き、光で染め尽くした。

 



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ずっと、待ってた

 映し出される外界の色は、曇天の灰色と暴走する管制人格の魔力光である紫黒が多くを占める昏から、フェイトの金、リーゼロッテの青と、明色の割合が増えていき、最後は輝くような桜色の光に満たされた。

 

「あの魔法なら、私の顕現体とて無事ではすまない」

 

 観劇の終わりを告げるリインフォースの声に、ウィルはずっと背を向けていた彼女たちに向き直る。

 慎ましやかに座るはやてと、彼女の背に手を添えて、支えながらその隣に在るリインフォース。

 

「ようやく俺たちの出番ってわけだ」

「直撃の直前にこの隔離領域を破棄する。私と主は権限の奪取に向かう。お前は――」

「ウイルスプログラムを起動させて防衛プログラムを足止めする」

 

 言を継げば、当初の予定通りなのにリインフォースは目を伏せる。

 

「お前の魔力量と持ち込んだウイルスの性能は把握している。防衛プログラム本体が出てくればひとたまりもない。無理はするな」

「するさ。そのために来たんだ」

 

 意地を張って答えてから、はやての眉が悲しげに下がるのに気がついて、慌てて弁明する。

 

「大丈夫だよ。こうしている俺もはやてもただの意識で、肉体は別の空間に隔離されている。夢の中で死んだって、朝が来れば目を覚ますだろ? 心配いらないよ」

「夢と侮るな。主もお前もただの意識ではない。我が主は権限を取得するために、お前は破壊工作に魔力を用いるために、肉体との魔力パスが繋がっている。その状態の意識体が破壊されれば少なからずフィードバックは起きる。そのまま目覚めなかった例もある」

 

 拙いなぐさめは、リインフォースにばっさりと否定され。

 そんな事実を聞かされたはやては、さらに悲しみを増して眉を下げるかと思えば、憂愁こそたたえながらも同時に幼い顔に確かな決意を宿していた。

 

「私だってみんなが戦ってるのを見てたんやから、今が無理せなあかん時やってわかってる。でもお願い。絶対に生きて戻ろ」

「わかった。約束だ。外でまた会おう」

 

 約束なんて言葉のやり取りにすぎないけれど、交わしたという記憶と守ろうとする想いがあれば、闇の中でも灯となって導いてくれる。吹けば消えるようなか細い灯でも、ないよりはマシだ。

 

 リインフォースが銀色の輝きを放って霧散し、粒子となってはやてを包み込み、内側へと吸い込まれていく。

 座っていたはやてが、操り人形が見えない糸に引かれるように立ち上がる。内側から光が放たれると、はやての服は見慣れた普段着ではなくなっていた。

 

 混沌とした淀みの如き昏黒ではなく、上質なベルベット生地のように光沢のある漆黒を、金と白の刺繍が美しく引き立てる服。それを純白のショート丈のジャケットが覆う。

 背からは黒い粒子が塊となり、三対六枚の黒翼を象る。

 右手に握られているのは金色の十字杖。その上部は闇の書の表紙を飾る剣十字に似ていたけれど、四つの剣先を支えるように円環が繋ぐ。

 はやての栗色の髪は以前から輪のような艶があったけれど、今や髪の一本一本が空に浮かぶ月のように白い輝きを放っていた。

 月の白と夜の黒を剣の金が彩るこの姿こそが、夜天の主としてのあるべき形。

 

「よく似合ってるよ」

「ありがと」

「でも、そのスカート丈はいただけないな。破廉恥すぎる」

 

 軽口に、はにかむような笑みを浮かべるはやて。

 彼女と融合しているもう一人に、今だけは仲間として声をかける。

 

「はやてを頼んだ、リインフォース」

「後ろは任せたぞ、ウィリアム」

 

 ウイルスプログラムを起動。

 銀色の腕から漏れるのは、白く透き通った魔力光。奔るプログラムが長く尾をひく音を立てる。夏にはやての家を訪ねた時に耳にした、風鈴の音色のように透明で清涼な。

 数多の拙い改変で矛盾を抱えた闇の書が黒く淀んでいるように、スカリエッティの用意した美しいプログラムは白く輝く。矛盾のない優れたプログラムは純粋だ。ゆえに澄んでいて、ゆえに白い。

 

 

 準備を終えたのを確認したかのように、世界が音を立てて砕け始めた。

 はやてを閉じ込めていた、保護していた、隔離していた、空間。

 その壁が天井から崩れていく。細かに砕かれた欠片が、雪のように舞い落ちる。

 

 はやての黒翼が一斉に広がる。ウィルの銀腕から強い光が広がる。

 はやては天へと飛び立つ。天蓋を占める闇の先にある、月の輝きを目指して。

 ウィルは地を睨みつける。底なしの深淵から訪れる、闇黒を迎え撃つために。

 

 

 

 リインフォースが用意した隔離用空間の外、闇の書の内部は、ある種の宇宙を構成していた。

 宇宙空間にも似た暗闇に、恒星のように輝く球体が点在し、その表面上に刻まれた幾何学模様は刻々と変化を続け、球体同士の間を光が頻繁に行き交う。

 構築された様々なシステムが、実行されるプログラムが、行き交う電気信号が、ウィルの脳によってわかりやすい形に変換された結果だ。

 

 下と呼んで良いのかはわからないが、はやてが飛び立ったのとは逆方向にあたる空間は闇の霧に閉ざされていた。

 光が届かないから暗いのではない。輝くものがないから暗いのでもない。光を奪うから暗い。

 闇の霧に包まれたその空間は、あらゆる光――電気信号を遮断する真っ黒な防壁。すなわち防衛プログラムの領域だ。

 

 その領域から何かが飛燕のごとく飛び出してきた。人だ。人のような何かだ。

 

 美しく整った顔は、眼球すべてが血に濡れた紅に染まって、体は青紫に変色した死者のような肌で、足元まで伸びる色の抜けた灰色の髪を振り乱して、まるで魔女か山姥の様相。

 けれど、美しく整った目鼻立ち、均整のとれた女の体、ウェーブを描く豊かな髪は、管制人格やヴォルケンリッター同様に美しい姿をしていた頃の名残ではないだろうか。

 纏う光は黒ずんだ紫。白が正しいプログラムの色であるのなら、奴にはどれほどの無駄と矛盾が内包されているのか。いったいどれだけ歪められてしまったのか。

 

 はやてがいなくて良かった。彼女がこの姿を見れば、きっと憐れに思ってしまっただろうから。

 

「行かせない」

 

 右腕から解き放たれたウイルスプログラムが、天と地を分断する真白な境を作り上げる。

 境からは無数の針が次々に放たれる。周囲の空間が歪んで逸れたかと思いきや、針はさらに追尾し、防衛プログラムを貫いて消滅させる。

 あまりにあっけない最後で、これで終わったとの勘違いすらできない。

 

 予感通り、新たな防衛プログラムが漆黒の幕より飛び出してくる。それも一体や二体ではない。こいつらは防衛プログラムがはやてを止めるために放った尖兵なのだろう。

 放たれる針に大半が消滅させられていくが、中にはかいくぐって境に取り付くものも出てくる。

 境を破ろうともがく尖兵を、ウィルの剣が排除していく。

 ウィルの攻撃はウイルスのそれとは異なる。論理を戦わせるのではなく、肉体から引っ張ってきた魔力によって、プログラムを構成する魔力を散らして破壊する。極めて直接的な攻撃だ。

 

 やってくる防衛プログラムのどれもが、ウィルのことなど意に介さずひたすらに上を目指す。それを横から殴りつけるだけ。あまりに楽な仕事に、むしろ焦燥がつのる。

 リインフォースが事前に忠告までくれたのに、これが防衛プログラムの全力のはずがない。

 

 

 倒した数が三桁に届く頃、新たな防衛プログラムがやってこなくなった。

 

 訝しんで下方に目をやれば、霧の中にぼうっと紅い灯火が二つ浮かび上がる。

 紅灯はいまだに霧の中にありながら、ウィルの視界の大半を占めている。おそらく、この空間に浮かぶどんな球体(システム)よりも大きい。

 光を遮断する霧の中にあってその色が見える。それは遮断する必要がない、すなわち防衛プログラム側の存在が放つ光だということ。

 あの紅色には見覚えがある。先程まで戦っていた防衛プログラムの瞳の色だ。

 

 霧を突き破ってそれが姿を現した。

 先程までの防衛プログラムとまったく同じ姿の、しかし大きさは桁違い。

 初めて管理局地上本部の、天を衝く様を見上げた時を思い出す。その威容に畏れを感じ、次にもしも自分の方に倒れてきたらと、子供心に想像して怖くなった。

 それと同じ、いやそれ以上の巨大なものが天へと昇ってくる。

 

 ウイルスはこれまでの比ではない巨大な針を撃ち出し、ウィルもまた渾身の魔力を放つ。

 防衛プログラムは防御も回避もしない。まるでそんなものは最初から眼中にないかのように真っ直ぐ上昇。

 ハリケーンのように、こちらの攻撃も、ウイルスが張った白の境も、ウィルという存在も、すべてを巻き込んで、飛翔の衝撃だけで引き裂いて。その結果を確認もせず、さらに天を目指す。

 

 防衛プログラムの双眸は、純度の高い宝石のように澄んだ紅で、だけど無機質で、ガラス玉のように均一で、何の意志も宿していない。

 先程の小型プログラムも、防衛プログラムの本体も、同じだ。その目はウィルを認識していない。彼女が見ていたのは、ずっと先の天空で管理者権限を奪取しようとしているはやてとリインフォース。

 相手はウィルを見てなどいない。あの紅眼には何も映されていない。

 

 そうだろう。ずっとそうだった。

 

 闇の書はずっと悪意をもって誰かを傷つけてきたわけではない。

 内なる律に従って動いていただけ。そこに誰かを傷つけようという意図はない。

 

 ――なんだそれは

 

 そこにいるとすら認識されず、路傍の石のように踏みつけられて、蹴飛ばされて、砕かれて。

 

 ――ふざけるな

 

 引き裂かれたウィルの喉から、憎悪のこもった怒号が発せられる。

 必死に生きてきた者たちを、大勢で築きあげてきた物を、連綿と繋いで来た共同体を、何も思わずに無に帰してきただなんて、そんな理不尽は許せない。

 

 怒りのまま、遠ざかる防衛プログラムへと手を伸ばす。

 けれど、ウィルの体躯は奴に比べると矮小にすぎる。踏み潰された蟻が、そのまま歩いていく人間に向かって足を伸ばすしたところで届くはずがない。すぐに視覚の限界からはずれ、そのまま息絶えるのを待つばかり。

 

 それなのに、ウィルの指は防衛プログラムに届いていた。

 ウィルの手から伸びた巨大な腕が、防衛プログラムの足を掴んでいた。

 

 あまりに不可解な現象への驚きで、怒りの叫びも止まる。

 それなのに、依然として耳には怒りに満ちた叫び声が聞こえる。自分の声ではない。周囲から複数の人間の叫び声が聞こえてくる。闇の書の内部には、ウィルとはやてしか人間はいないはずなのに。

 

 辺りを見回せば、無数の粒子がウィルのそばで蠢いていた。防衛プログラムが先程までいた底なしの深淵から粒子が湧きあがりウィルの周囲に集う。

 その一粒一粒は塵芥のように小さく汚れていたが、だけど多かった。

 その粒子がウィルの右腕に集まって、輝く巨大な腕になっていた。

 

 誰かが自分のそばにいるのがわかった。

 

 

 ――俺たちはずっと、待っていた

 

 ――奴らは多くの命を奪った。多くの未来を閉ざしてきた

 

 ――だが、そのたびに業は重なり繋がり続けた

 

 ――その果てに、お前がここにたどり着いた

 

 ――俺たちの願いを受け止める王として

 

 

 粒子はウィルの体を見えなくなるほどに覆い尽くしていく。

 恐怖はなかった。無数の粒子が触れるたびに流れ込んでくる思いが、その存在の本質を理解させた。

 

 ()()()()なのだ。

 

 闇の書に踏みにじられてきた、奪われてきた命の、その搾りかすのような残り香。

 肉体が滅びようと、精神が壊れようと、なくなることはない。

 死と哀しみは積み重なる。吹けば飛ぶような塵芥でも、集まれば天をも覆い隠す叢雲となる。

 

 リインフォースと融合したはやての髪が白く輝いていた理由が、その瞬間に理解できた。

 光が重なれば白くなるように、無駄のないプログラムが白いように、心も一つになれば白くなるのだ。

 

 それなら、()はもっと白くなれるはずだ。

 心を通わせた主従であれだけ白くなれたのなら。

 ずっとずっと、何年も、何十年も、何百年も。

 そのために澱のようにこびり付いて、それでもなお残り続けてきた()()()ならば、きっと。

 

 

 意識が白に染まる。赤く輝く髪からは色が抜け、肌も色を薄くする。

 あらゆる魔力の光のスペクトルが干渉し合って生まれた完全なる白。髪も肌も、瞳すら白い。光そのものであるかのような、異様な白さ。

 それはあらゆる思いと願いを受け止めて、其処に立つと決めたから。全ての苦しみと悲しみを我がものとして受け入れて、代行すると誓ったから。

 

「ここまでだ」

 

 いまや防衛プログラムと等しい大きさとなったウィルが、天に昇ろうとするそれを引きずり落とす。

 防衛プログラムを闇の底へと叩きつけ、高みから見下ろす。

 

 再度飛翔した防衛プログラムは、もはや天を目指していなかった。髪を振り乱し、障害と認識したウィルへと手を伸ばし、

 

「お前はここまでだ、ナハトヴァール」

 

 その体が刃圏に入った瞬間、閃光に等しい白剣が魔を両断していた。

 

 

 

 

 闇にヒビが入り、隙間から桜色の魔力が差し込む。

 魔力の欠片が闇を舞う。

 大きな月の浮かぶ夜に、舞う夜桜を背に、

 

 魔導書は数百年ぶりに真の主を手に入れた。

 

 

 

 

 

「大丈夫ですかぁ、トーレ姉さま」

「すこぶる気分が悪い。五感すべてがノイズだらけだ」

 

 海岸の岩壁で、濡れ鼠になったトーレが大の字になって寝そべって。その隣に座り込んだクアットロが見下ろしてため息をつく。

 

「EMP対策はしてるはずなんですけどねぇ。馬鹿正直に突っ込まなければなんとかなったでしょうに」

 

 管制人格の極大雷槌はプレシアの次元歪曲魔法で不発に終わったが、発生した電磁波が消滅したわけではない。

 トーレは間近で強力な電磁波を浴びたことで、センサー系に異常をきたして海に墜落。

 常人の数倍の筋密度、強化骨格、機械パーツを内包した肉体は水に浮かばず、そのまま沈みいくところを間一髪で救出したのがクアットロ。

 

「プレシア様と妹たちはどうした?」

「やることやったらさっさとこの世界から離れるように動いてるはずですよ」

「私の回収にお前だけを残してか。それで、目的は何だ」

「なんのことです?」

 

 首をかしげる仕草のわざとらしさに、トーレは鼻白んだ気色で。

 

「とぼけるな。普段のお前ならこの程度の仕事はセインあたりに押し付けているだろう」

「さすが姉様。脳筋に見えて案外知性派なんですね。でも、今はただ最後まで見届けたいだけですよ。面白いものが見れるかもしれませんし」

 

 上空は先程までの戦いが嘘のように静まり返っている。

 

 管制人格は――正確には外敵排除のために管制人格のアバターを利用した防衛プログラムは――巨大魔力刃による外装破壊、多重捕縛と内部からの魔力炸裂による肉体動作と魔法構築の阻害、最後の収束砲撃、どれをとってもオーバーSと評される魔法を受けて、ついに活動を停止した。

 ただしそれは一時的なものにすぎない。魔力で構成された存在であるがゆえに、大きな魔力ダメージを受けたことで一時的に活動を停止したすぎない。

 

 しかし管制人格が活動を再開するよりも先に、異変が生じた。

 管制人格の内側から突然白い光が放出され、同時に周囲にベルカ型の古めかしい魔法陣が数え切れないくらい重なって展開され始めた。

 

 人間ならばまぶしくて目を開けていられないほどの光でも、機人たるクアットロは余計な情報を遮断し、先程まで管制人格がいたあたりに六つの人影が現れたのを確認する。

 お目当ての人影がそこにあると認識して、クアットロは笑った。

 

 その笑みは、大人の女のように艶めいて、幼い童女のように悪戯な、上下の唇を閉じたまま口の端を綻ばすようないつもの微笑――ではなく。

 

 口を開いて犬歯を見せる、飢えた山犬のような、笑みと呼ぶには凄絶な――欲望の表れ。

 

「やっぱり、場合によっては、姉様にお願いをするかもしれません」

「感覚器が正常に動作していない私に何をしろと」

「五感は私とリンクして代用すればいいじゃないですか。何もまだ戦えってわけじゃありませんから」

 

 上空を見上げるクアットロからは、いつもの傍観者めいて斜に構えた態度は消えていた。

 

「あの日からずっと、ずっと、焦がれていたのよ。また、私に味わわせてちょうだい」

 

 熱の籠った瞳、陶然として緩んだ顔、胸の内から絞り出した吐息混じりの声。

 恋に恋する乙女のような、狂気を宿した顔。

 

 

 

 

 目を灼く白い光が消えた時、ウィルの体は宙に浮かんでいた。

 

 空は灰色の雲に覆われて暗く、下方には昏い海が広がっている。周囲には人生で初めて感じるほどの強く、荒れた魔力波を感じる。

 遠くを見やれば、警戒を解かずデバイスを構えたままの武装隊が。そこから何人かの見知った顔がこちらに向かって飛んでくるのが見える。

 

 一番近くにいたのはフェイト。

 顔がはっきりと見えるほどの距離で停止して、そこから先へは近づこうとしない。

 その視線はウィルよりも若干右に向いていて、そちらに顔を向ければ、夜天の装束に身を包んだはやてが宙に浮いていた。周囲には四人の騎士の姿も。

 無事に闇の書の管理者権限を手に入れて、防衛プログラムの支配領域を切り離し、ヴォルケンリッターを再召喚したのだろう。

 

 フェイトとはやてはPT事件の折に面識があり親しくしていたが、ウィルが行方不明になっている間の戦闘でヴォルケンリッターの蒐集を受けてもいる。

 そんな相手に不用意に近づけないのは当たり前の行動なのだが、

 

「ちょっとなのは!」

 

 そのフェイトを追い越して、微塵の躊躇もなく、はやてへとタックルさながら飛び込んで抱きつくような者もいる。

 

「はやてちゃん! はやてちゃん! 無事だったんだね! たいへんなことになっちゃったって聞いて、本当に心配で!」

「ぐふっ……なのはちゃん、今のちょっと痛かった」

 

 ラグビーのタックル同然の突撃を受けて悶えるはやてを見かね、ヴィータが割って入る。

 

「おい高町! はやてから離れろ! 痛がってんじゃねーか……って今度は私に抱きつくな!」

 

 その様に毒気を抜かれ、フェイトもはやての元へと近づいていく。

 

 彼女らの後に続くのは、ユーノとアルフだ。

 アルフはそのままフェイトを追いかけて。その途中、ちらっとウィルの方を見てわずかに口角を上げた。

 ユーノはなのはが再会を楽しんでいるのを見ると、そちらには行かずウィルの方へとやってきた。気配りの達人だ。

 

「ウィルさん、ご無事で何よりです」

「きみもなのはちゃんも……局員じゃないのにこんなところにまで付き合ってくれたんだね」

「今回ばっかりは本当に死ぬかと思いました。危ないことはこれっきりだと良いんですけどね」

「……ちょっと難しいんじゃないかな」

「ですよね」

 

 と、二人で横目でなのはを見て。ユーノが彼女のそばに居続けるなら、きっと平穏とは真逆の騒がしい日々が待っているだろう。

 

 

 続いてやってきたのは、リーゼアリアとクロノだ。

 リーゼロッテはどこにいったのかと思いきや、猫の姿になってリーゼアリアの肩にしがみついている。最後の一撃で人間の姿を維持できないほどに消耗したようだ。

 

 にゃあ、と彼女が鳴けば、それでリーゼアリア、委細承知したのか。うなずいて応じ、こちらに近づいてくる。

 無表情のように見えて、顔のこわばりから彼女が冷静の真逆にあることが知れる。

 まったくの無も、莫大なエネルギーの釣り合いが取れた状態も、端から見れば静止しているように見えるのと似ている。この場合は当然後者だ。

 

「よくも父様をあんな目に合わせたわね」

 

 頬にはしった痛みは飛び上がるほどに鮮烈な。

 手首のスナップをきかせた、鞭のような痛烈な平手打ち。闇の書の中ではやてに打たれたのは心に来る痛みだったが、こちらは素直にものすごく痛い。涙が出そうになる。

 最近女性にひっぱたかれてばかりな気がする。

 

 リーゼアリアは肩に乗るリーゼロッテを一瞥すると、再びウィルに手を伸ばして、「次はリーゼロッテの分!」ともう一発叩かれるのかと身をすくませたその頬に

 

「大役も果たしたことだし、一発ですませてあげる」

 

 リーゼアリアはいたわるような優しさで手を添えて、泣きそうな笑みを浮かべた。

 

「よくやってくれたわ。本当に、ありがとう」

 

 肩に乗っていたリーゼロッテは、リーゼアリアがウィルの頬に伸ばした腕の上を、これぞ猫といった動きで渡り、器用に手首のところに座りこむと、前足の肉球でウィルの顔をぐいぐいと押してくる。

 

「無茶な役目をおしつけて、すみませんでした」

「あら、私たちはお礼を言ったのに、あなたは謝るだけなの?」

「……あなたたちのおかげです。ありがとうございます」

 

 

 そうしてリーゼアリアとリーゼロッテは下がって、最後にウィルの前に立ったのはクロノだった。

 

「随分と久しぶりにきみの顔を見た気がする」

「二、三ケ月会わなかったことなんて、これまでもよくあっただろ。……でも、そうだな。本当に、随分と長い間会っていなかったみたいだ」

 

 クロノは葬儀に立ち会った者のように沈痛な表情をしていたけれど、付き合いの長いウィルには、どんな顔をすれば良いのかわからずに困っているのだとわかった。

 お互いに何も言わずに、ゆっくりと一呼吸。やがて、口の端に仄かな笑み。

 

「きみには聞きたいことも、言いたいことも山ほどある。でも今は……無事でいてくれて良かったと、心からそう思うよ。闇の書のせいで二度も親しい人を失うのは勘弁だ」

 

 常日頃のウィルなら、気恥ずかしさに憎まれ口の一つや二つ叩くところだが、今ばかりはそんな気分になれなかった。きっとこんな風に素直に言葉をかわせるのはここが最後だから。

 

「闇の書の中から見てたよ。必死に戦うクロノたちの姿。それに捜査でもすごく頑張ってたみたいじゃないか。グレアムさんを出し抜くなんて、なかなかできることじゃない」

 

 暴走した闇の書に突入する前に聞いた話によると、クロノたちはグレアムがこちらに内通していることを見破り、このあたりの世界を拠点としていることまで突き止めていたそうだ。

 グレアムの裏をかけたのは、それほどに必死になって、短期間で彼の想像を越えるほどに成長したからに他ならない。

 

「ありがとな。クロノたちが予想を越えて頑張ってくれなかったら、きっとこうはならなかった。本当に感謝してる」

 

 もしも彼らが何も見抜けず、グレアムの思惑通りに動いているだけであれば。

 アースラは今もまだ地球の近くをうろうろと巡回していて、この戦いに駆けつけることもなく、リーゼ姉妹とナンバーズだけで暴走した闇の書と戦い、力及ばず敗北していただろう。

 管理局の尽力もまた、闇の書を滅ぼした大きな要因だ。

 

「柄にもない」

「まったくだ」

 

 お互いに顔を見合わせて、笑う。

 笑い声は少しずつ大きくなって、そのまま続いていれば、きっと二人とも途中から泣き出していたのだろうけど

 

「ウィルさん!」

 

 焦りを含んだはやての声が空に響き、中断される。

 

 どうやらまだ終幕とはいかないようだ。



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闇の書の残滓

 たどたどしく飛んでくるはやての周囲に、白とも銀ともつかない粉がぱっと散って、飛行の軌跡を空に残す。

 鱗粉を纏う蝶か妖精のようで非常に幻想的だが、おそらく内包する魔力をいまだに制御しきれておらず、何か動作をするたびに余剰魔力が外部に漏れているだけだろう。

 

「ウィルさん! この場の責任者って誰?」

 

 ウィルが答えるよりも早く、クロノが前に出る。

 

「現在通信状況が悪くて艦長につながらない。用件があるなら現場の責任者として僕が聞こう」

「あ、クロノさんやったんやね。お久しぶりです。いますぐ話さなあかんことがあるんやけど、その前にここにいる全員に回復魔法っていうのをかけてもええですか?」

「こちらとしても助かるが……」

 

 はやてが合図すると、シャマルの周囲に魔法陣が展開。

 発生した緑色の風は、遠くで待機している武装隊にまで届く。

 風に触れた瞬間、リンカーコア内に蓄積されていた魔力素の結合が促進され、魔力が回復する。

 

 回復魔法にも様々な種類がある。魔力を回復させるだけの魔法であっても、その効果や原理は様々だ。

 

 たとえば、かつてなのはがユーノと協力して行使した魔力移譲。

 己の魔力を相手に合うように変換させる必要があるため調節が難しく、基本的に一度に一人にしか使えない。しかし魔力そのものを分け与えるため即座に回復させることができる。

 

 たとえば、ユーノが先程の戦闘で使っていた広域型の回復魔法。

 空間の魔力素に働きかけ、人体が吸収しやすい状態へと変化させる。場に働きかけるため一度に大勢に効果を及ぼすが、敵味方の区別はつけられない。また、取り込んだ魔力素が結合して魔力に変換されるまでには時間がかかるため、即効性は低い。

 

 シャマルが放ったそれはさらに高度。

 リンカーコアを活性化させ、蓄えられていながらも未結合状態の魔力素の結合を促進させて魔力へと変えることで、瞬時に回復させる。一度使えば体内の未結合魔力素がなくなるため、外部から取り込んで蓄えができるまでは使用しても効果がない一度限りの魔法ではあるが、非常に効果が高い。

 それを使うというのは、裏を返せば即座に魔力が必要となる切迫した事態が差し迫っているということ。

 

「まだ終わっていないのか」

『ここから先は私が話そう』

 

 問いかけに答えたのは、はやてではなく、彼女と融合しているリインフォース。

 

『ウィリアム、お前はナハトヴァール――防衛プログラムを破壊しただろう?』

「……そうなのか? 戦った記憶はあるんだが、吹き飛ばされてからは無我夢中でよく思い出せないんだ」

 

 思い出そうとすると、たくさんの情念が心の底からわいてきて、見たこともないような様々な光景が目に浮かんで、肝心のその時の記憶が出てこない。都市の雑踏でたった一人の声を聞き分けようとするのに近い。

 

『あれが破壊されたのはたしかだ。おかげで防衛プログラムの支配領域を迅速に切り離せたが、弊害もあった。まさかこんな事態になるとは予想していなかった』

 

 リインフォースが話し始めたそばから、ごくかすかに音が聞こえ始めた。

 最初は蛇の鳴き声のように小さくシュウシュウと、徐々に風切り音のように大きくなり、音の輪も広がっていく。

 周囲を見回しても、発生源がわからない。どこから聞こえてくるのかわからないのではない。どこからも音が聞こえてくるのだ。

 

『――来るぞ。備えろ』

 

 宙空に、紙へと黒々としたインクをひとしずく垂らしたように、黒い染みがにじみだす。はじめは一つだったそれは、降り始めた雨がアスファルトに染みを作るように、あっという間に数を増やしていく。

 それが何なのかと想像を働かせるよりも早く、染みが生物へと形を変える。

 

 現れた生物は多種多様に渡っていた。

 骨ばった鳥がいた。赤い幼竜がいた。黒壇のような光沢の蟲がいた。それらを適当な塩梅で混ぜ合わせた合成獣(キメラ)も混じっていた。

 十メートルに及ぶ巨大なものから、人間の子供よりも小さいものまで。

 地をかける狼、水に住む魚、砂に潜るワームといった空を飛べないものまで一律に宙に浮いていた。

 

 それらは生まれ落ちると同時に襲いかかる。

 誰に? この場にいる人間すべてにだ。

 

 いまだ戦列を崩さず待機していた武装隊の対応は迅速だった。

 襲いかかる生物を危なげもなく打ち据え、縛り上げ、撃ち抜き。戦闘よりも駆除といった動きで、突然の事態にも冷静に対応する。

 武装隊ともなれば相手は人間ばかりではない。未開世界の調査任務で現地に生息する生物と遭遇して戦闘になることもあれば、希少な生物を保護するために自然保護官と協力しての捕獲任務、逆に増えすぎた有害な生物の駆除任務に携わることもある。

 このような生物相手の戦闘はお手の物、であるはずが、どうにも今回は勝手が違った。

 

 現れた生物を倒すのは容易でも、倒したそばから新たな染みが空に生まれ、次々と湧き出てくるのだ。

 

「何だこいつら!?」

 

 ウィルもまた間近に現れた体の透けた魚を切り身へと変えながら、リインフォースに問う。

 

『消滅した防衛プログラムの置き土産だ。偶然か故意かはわからないが、領域に残っていた魔力が外敵に対抗するために用意していた魔導式を実行し始めたようだ』

「さっきの戦闘でも合成獣めいたものを大量に召喚していたな。あれか」

『そうだ。蒐集の過程で得た生物のデータをもとに、魔力で構成された顕現体――お前たちの言い方をするなら、プログラム体を創造し続ける』

「それもこれも、俺が防衛プログラムを倒してしまったのが原因か。……身に覚えないんだけどなぁ」

『本来なら、行き場を失った魔力は空間に散逸するはずだ。こんなことが起こるとは私も予想できなかった。お前が自分を責める必要はない。それに悪手とは限らない。防衛プログラムが残っていれば、確実に切り離された防衛プログラムを中心に残存魔力を集中した融合体が顕現していただろう』

 

 防衛プログラムを中心に、無数の生物が混ぜ合わされた怪物。それは過去の闇の書事件において、蒐集が完了した後に現れるという闇の書の暴走体の小型版か。

 要するに、現状のように雑魚が無数に湧くか、一体の強力な化物か現れるかの二択だったということなのだろう。

 どちらがマシだったかを考えている余裕はない。弁護してくれるリインフォースに思考を向ける余裕もない。

 今やるべきは、目の前で起きている事態への対処だ。

 

 隣で話を聞いていたクロノが会話に加わる。

 

「先程の戦闘の影響で空間座標が安定していない。アースラの空間転送による回収は当分不可能だ。転送ポートなら繋がるようだが、これでは全員でそこまで逃げるのも難しいな」

 

 今のところは現れた生物を撃破する速度の方が、新しく実体化してくる速度を上回っているが、その差は微々たるものだ。逃げようとして下手に攻撃の手を緩めた結果、増えた生物に取り囲まれて身動きができなくなる危険も十分にある。

 

「敵も無限に湧くわけではないのだろう?」

『当然だ。切り離した時の残存魔力と実体化の速度、個体の質から算出すると、半時間も続きはしない』

「なら、このまま迎え撃つ! みんな、ここを乗り越えれば終わりだ! 行くぞ!」

 

 クロノの号令とともに、大乱闘が幕を開けた。

 

 

 敵の最中に真っ先に突っ込んで行ったのが、フェイトとシグナムとウィル。三者はまるで別々の方角へと突っ込んでいき、無数の敵をかいくぐりながら、触れたものを切り刻む。

 彼らが撹乱し注意をひきつけているところに突っ込んでいくのが、アルフとヴィータとザフィーラ。豪腕剛力から放たれる一撃は触れたものを砕く。

 切り拓かれた道を平定するのが武装隊の近接魔導師。巧みなチームワークで隙を作らず、確実に屠り続ける。

 後衛も負けていない。クロノが次々と魔法弾を構築して手数で多数の敵を殲滅し、撃ち漏らしをなのはの誘導弾が貫き、リーゼアリアが戦えないリーゼロッテをかばいつつ幻術魔法で敵を撹乱し、ユーノとシャマルが遠距離シールドにバインドにと、その場に応じた的確な支援で前衛を助ける。

 武装隊の後衛魔導師たちも、負けじと魔力弾に砲撃魔法に範囲魔法にと攻撃魔法の雨あられ。防御魔法に回復魔法に幻術魔法にと、魔力光が綺羅綺羅と輝いて視覚的にやかましい。

 

 特にヴォルケンリッターの奮闘は目覚ましい。

 赤い髪を戦旗のようになびかせて、戦場を縦横自在に駆けるシグナム。

 鉄槌を棒きれのように振り回し、触れたもの全てを破砕するヴィータ。

 豪腕であらゆる障害を打払い、体躯であらゆる障害を防ぐザフィーラ。

 戦場を俯瞰し、最適な支援を最短の時間で最高の精度で放つシャマル。

 

 何百年も続けてきた戦いで、彼らが相手を数で上回ったことなどほとんどない。

 常に少数。常に劣勢。それが彼らの闘争。ゆえにこの戦いこそが彼らの実力を十全に発揮する戦場となる。

 

「私たちも何かできへんかな」

 

 はやては不安げに周囲を見回しながら、自らと融合しているリインフォースに問いかける。

 はやてには魔法に関する知識なんてこれっぽっちもないし、なのはのように感覚で魔力を自在に操作する天性の才もない。

 なのはですら及ばないほどの莫大な魔力を有しているにも関わらず、リインフォースの協力がなければ何もできない。で、そのリインフォースが何をしているのかといえば。

 

『今しばらくお待ちを。魔法構築に必要なアーキテクチャを主の魔力に合わせて最適化しているところです』

「それが終わらんと魔法を使えんの?」

『このまま魔法を行使すれば、主の肉体に負担がかかりすぎます。いましばらくご容赦ください』

 

 真の主となったことで魔導書からの負荷が消えたとはいえ、長期間蝕まれていた肉体までもが回復したわけではない。体力は随分と消耗しており、リンカーコアも魔力パスも弱ったままだ。

 

 はやての背後にも黒い染みが現れ、狼の形をとって襲いかかる。その牙が柔肌を突き破り肉に喰らいつく、なんて事態を彼女の騎士が許すはずもない。

 周囲に生じた突風が襲いかかる暴漢を弾き飛ばす。触れたものにだけ作用し、中にいるはやてにはそよ風すら感じさせない、精妙で優しい魔法だ。

 

『相変わらずの魔導の冴えだな、風の癒し手』

「私がはやてちゃんを守るから、あなたは作業に集中して」

 

 シャマルは複数の魔法を並列で構築しつつも、どこか嬉しそうな口ぶりで話す。

 

「それから、これからはシャマルって呼んでちょうだい。私もあなたのこと、管制人格じゃなくてリインフォースって呼ぶわ」

 

 

 

 

 戦況は次第に一方に傾いていった。

 

「……まずいな」

 

 実体化が撃破速度を上回り始めた戦場に、クロノは焦りを抑えられなかった。

 

 実体化の速度が増したわけではない。撃破に手間取るようになってきたのだ。

 では敵の強さが増したのかといえばそれも違う。敵の質に大きな変化はない。

 問題は敵が空間のどこからでも現れるせいで、こちらの戦い方が崩され始めていることにあった、

 

 闇の書が蓄えていた魔力は、いまやこの空域一帯に拡散している。

 十分な隙間があればどこにでも染みが生じ、次の瞬間には生物となって襲いかかってくる。

 いったいどこから現れるのか予測がつかず、後衛が魔法を練っている真後ろに現れることも珍しくない。

 おかげで後衛までもが前衛と同様に魔力刃を振り回して近接戦闘を試みなければならない事態もたびたびで、そうなれば前衛は支援なしで戦わねばならない。

 武装隊を管理局屈指の練度をもつ精鋭たらしめているのは、個々の実力とチームワーク。片方がなくなれば戦力は半減する。

 

 ヴォルケンリッターはさすがの一言。このような多数相手の戦闘は、この場にいる誰よりも手慣れたものだ。特に後衛が機能不全を起こしかけている現状では、シャマルの支援は生命線といってもいいほどの活躍ぶりだ。

 大群の中に単身突っ込んでの撹乱陽動をしていたフェイトやウィルもたいして変わりない。

 

 一方、管制人格相手では大活躍していたなのはは大苦戦中だ。

 射撃を鍛えてきたからだろう。近くに敵が現れてもとっさに近接に切り替えることができず、そもそも生来の運動音痴と経験不足が相まって近接の技量自体がお粗末だ。

 バリアジャケットの強度が非常に高いため、生半な攻撃では怪我を負うこともないが、先程は大量の蟲に取り付かれて悲鳴をあげていた。

 

 

 リーゼアリアが本日何枚目かのカードを使用し、多数の魔力弾を構築する。

 無防備な彼女に巨大な鳥が襲いかかるが、肩に乗っていた猫状態のリーゼロッテが飛びついて引っ掻いて防ぐ。

 その間に構築が完了した百近い魔力弾は、仲間の間を縫って綺麗に敵だけを撃ち貫き、戦場の一角から生物を消滅させた。

 彼女は戦況が傾きかけるたびにこうして再び膠着状態に戻してくれていたが、それにも限度がある。

 

「これでカードは打ち止め。このままだとじきにまた押され始めるわ」

 

 リーゼアリアはクロノのそばにやって来ると、肩をつかむ。

 

「デュランダルを出しなさい。出力を抑えた凍結魔法で、空域の魔力に干渉して活性化を抑えるのよ」

 

 凍結魔法はエネルギーを奪う魔法。通常は物質を構成する原子の動きを低下させて凍結させるが、凍結魔法の中には魔力の動きすら低下させるものも存在する。

 その極地が物質も魔力も関係なくあらゆる粒子の運動を完全にゼロにする凍結封印。

 

 実体化がプログラム体を作るという魔法である以上、空域に遍在する防衛プログラムが残した魔力に干渉し、そのエネルギーを減衰させることができれば、実体化を防ぐことができるはずだ。

 そしてデュランダルの凍結封印ならそれができる。

 

 ただし、凍結封印を本来の出力でそのまま使えば、周囲の味方を巻き込んで氷漬けにしてしまう。

 バリアジャケットの対熱機能で防げる範囲に収めるため、なるべく温度低下を引き起こさないよう出力と魔法式を調節する必要がある。

 

「抑えた出力でも、実体化の速度を下げるくらいはできるか。わかった。頼む、アリア」

 

 懐から真白なカードを取り出して手渡そうとして、リーゼアリアにカードを押し返される。

 

「あなたがやるのよ、クロノ・ハラオウン。ロッテほどじゃないけれど、何度もカードを使ったせいで、私の体もガタが来ているの。デュランダルの魔力を制御するだけの余裕がないのよ」

「なっ――」絶句した後、狼狽するクロノ。 「凍結魔法なんてろくに使ったこともないし、このデバイスの魔法式もまともに見てないんだぞ! 出力や術式の調整なんてできるはずがない!」

「式の調整は私がやる。クロノはデュランダルに内蔵してある魔力の制御に集中しなさい」

 

 リーゼアリアの目は有無を言わさない迫力があって、それがクロノの懐かしい記憶を呼び起こす。

 師事していた頃、無茶とも思える課題を課されたことは何度もあった。できるはずがない、自分にはまだ早いと、何度思ったことかわからない。けれど、全力で取り組んでみればいつだってかろうじて成功した。

 

 愛用のS2Uを待機状態――真黒なカードに戻し、真白なカードを展開する。

 デュランダルは、白と青の二色で構成された杖型のデバイスだった。先端は猛禽の嘴を思わせるフォルムで、槍のようにも見える。

 

「他に道もないか……みんな、僕が合図をしたらバリアジャケットの耐寒機能をレベル七以上に上げろ! 対応できない者がいたらフォローを頼む!」

 

 周囲に命令しながら、両の手でしっかりと握り、魔力を通す。

 このデバイスにおいて、術者の魔力はあくまでも起爆剤だ。凍結封印に用いる魔力は、デバイスに内蔵されたカードが肩代わりしてくれる。

 その一部を解放し、すでに用意されているプログラムに通わせるだけ。

 

 魔力が解放されると同時に、絶え間なく殴打され続けるような衝撃が全身に響く。リンカーコアがマラソンを終えた直後の心臓のように激しく脈打ち、息をすることすら難しい。

 身の丈を越える魔力の制御が困難と知識としては知っていたが、体験してみればクロノの予想を遥かに越えていた。

 なのはやフェイト、ヴォルケンリッターが用いるカートリッジも、所詮は補助であって、自らの魔力総量を越えるほどではない。

 魔力総量を遥かに上回る魔力の制御というのは、動力炉から魔力を引っ張ってくるリンディやプレシア、周囲の魔力素をかき集めて収束魔法を放つなのはなど、非常に優れた技術や類まれな才覚がなければできるものではない。

 このままでは流れから外れた魔力がクロノの体を傷つけ始める。

 

「制御の仕方は感覚で覚えなさい」

 

 デュランダルを持つ手と背に、そっと添えられるリーゼアリアの手。途端、外れそうになった魔力が、正しい流れに戻される。

 師匠に補助されながら、クロノは少しずつ魔力の制御を覚えていく。

 

 

 デュランダルの凍結封印は対闇の書に用意されただけあって、その魔力式は極めて複雑で、構築に要する時間も長い。

 それだけの時間リーゼアリアとクロノという貴重な戦力が抜ければ、戦況は再び悪化していく。

 このままでは凍結魔法の構築が完了するまでに、誰か犠牲者がでかねないというタイミングで。

 

『我が主、魔導書の調整、完了しました。制御と演算は私がおこないます。主は流れる魔力に逆らわず、私に続いて詠唱してください』

「了解! えっと……彼方より来たれ、やどりぎの枝。銀月の槍となりて、撃ち貫け。石化の槍、ミストルティン!」

 

 はやてが高々に魔法の名前を唱えると、魔法陣から現れた六本の白槍が高々と空へ撃ち上げられる。

 槍は上空で分割して枝となり、降り注ぐ軌跡が逆向きの系統樹を描く。枝の先端が正確に生物を貫き、石へと変える。

 古代ベルカの魔法。現代では遺失した石化魔法だ。

 

 

 そして、凍結魔法が完成した。

 

「凍てつけ!」

『エターナルコフィン』

 

 起動を告げる清冽な音が広がり、一拍遅れて広がった波に呑まれて、余韻を残さず消える。

 それは凍結の波。世界を殺し、静寂を広げる、秩序の体現。

 熱、音、風、魔力波、すべてが消えていく。この世の事象はすべて粒子のふるまいにすぎないがゆえに。

 空気中の水蒸気が氷結し、生み出されたダイヤモンドダストが無風の中でゆっくりと地面に落ちていく。

 下方に広がる海面が凍りついていく。クロノの真下を中心に円状に凍りついていき、水平線まで広がってなお止まる気配はない。

 実体化した合成獣もまた、肉体を構成する魔力を固められたことで次々に地面に落下し、凍り付いた海面に激突して砕け散る。

 

 

 白い息を吐きながら、クロノは周囲を見回す。

 魔導師はみな健在。新たな合成獣が実体化を始めているが、そのペースは先程と比べて非常に遅い。

 

「合格よ。花丸をあげたい気分だわ」

「そこまで褒められるのは初めてだな、アリア先生」

 

 師弟は顔を見合わせて笑みを交わす。師の肩に乗る猫、リーゼロッテも満足げに、にゃあ、と鳴いた。

 

 

 

 実体化の速度が低下したとはいえ、実体化そのものが起きなくなったわけではなく、次々と現れる生物を撃破する戦いは続く。

 連戦に継ぐ連戦で、途中からは戦えなくなる者もでてきた。

 リーゼ姉妹はカードを大量に使った負荷で早々にギブアップ。クロノもデュランダルの制御で消耗し、離脱。武装隊の面々も魔力に限界が訪れて、飛行魔法すら維持できなくなる者が現れ始め、ユーノが作り出したフロータの上に立ち、残り少ない魔力を魔力刃だけに回して戦い始める有様で。

 

『空域内に反応なし。新たな召喚の兆候も確認されません』

 

 凍結魔法の影響が薄れ、通信が復旧していたアースラから、事態の収束を告げる通信が空に響き渡る。

 それを聞いても、誰も大声で歓声をあげたりはしなかった。

 精も根も尽き果てて、ようやく終わったことに安堵のため息をもらすばかりである。

 

 ほっと力を抜いたはやてがそのまま意識を失い、ヴォルケンリッターやなのはたちが慌てて駆けつけた。

 

 

 

 

 

「アースラの空間転送で戻るのは無理か」

『今度は凍結魔法のせいで、遠隔で空間に干渉するのが難しくなってるからね〜。最寄りの転送ポートは影響が少ないから、使えるようになったらすぐに医療班を送るよ』

「なら、僕たちも転送ポートに向かうとするか。そろそろただ浮いているだけでも辛くなってきた」

 

「はやてっ! おいリインフォース! はやては無事なのか!?」

『眠られただけだ。だが肉体も魔力パスも消耗している。安静なところで休息を取る必要がある』

「気休めだけれど、回復魔法をかけるわ」

「支援で魔力を消費しただろう。俺の魔力も使え」

 

 クロノとエイミィの通信や、はやてを取り囲んだヴォルケンリッターの会話を聞きながら、ウィルは未来を思い描く。

 

 このまま、はやてに駆け寄って、みんなでアースラに戻って、クロノやリンディに勝手な行動をとったことを謝って。後始末が終わったら、ミッドチルダに戻ってレジアスやオーリスにたっぷりと叱られて。

 何ヶ月かたって落ち着いてから、はやての元を訪れる。雪が降る海鳴の街か、初めて出会った時のような暖かな春かはわからないけれど、インターホンを鳴らして、扉の前で待つ。

 笑顔でウィルを出迎えてくれるはやて。その背後には、ようやく得られた平穏に、穏やかな笑みを浮かべるヴォルケンリッター。

 

  E E NA   LA E 

 

「やっぱり、許せないよな」

 

 小さくつぶやき。はやてのそばにいるシグナムを睨みつける。まったく同じタイミングで、彼女も振り返ってウィルを見た。

 ウィルは疲れ果てた顔のクロノを一瞥。これ以上気苦労をかけたくはないが、自分にも目的がある。

 

「ごめんな、みんな」

 

 

 シグナムは最愛の主の元に集う、最愛の仲間に背を向ける。せっかく全員が揃ったのに別れを告げるのは悲しいが、自分には使命がある。

 

「我らの主を頼んだぞ」

 

 

 合図は必要なかった。異なる二点でまったく同時に破裂音が生じ、次の瞬間には一点で金属同士が擦れ合う音が大気を揺らした。

 

 ウィルとシグナム。三度目の決闘が始まる。



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復讐の刃Ⅲ

 大気を震わせる甲高い音が響く。

 振り向いたなのはの瞳に映るのは赤と菫。天へと昇る二色の魔力光の残像。

 光の軌跡を追いかけて視線を上へと向けても、二つの光の筋は途中で天に蓋する雲へと紛れて見えなくなっていた。

 残されたのは耳が痛くなるほどの静謐の中で、なのはと同様にあっけにとられ空を見上げる人々。

 

 赤の魔力光を見間違えることはない。なのはにとっては、自分とユーノの魔力光の次によく見た光。ウィルの色。

 

「あいつらっ!」

 

 声をあげたヴィータの方を見れば、そこにいたのは激情を顕わにしたヴィータと、沈痛な面持ちで顔を伏せるシャマルと、眉間にしわを寄せて目を閉じるザフィーラ。

 シグナムの姿がどこにもない。

 

「くそっ! なんだって急に――っ!!」

 

 クロノは二人の後を追いかけようと飛び立とうとするも、突然胸を押さえて苦しみだし、隣にいたリーゼアリアに体を支えられる。

 デュランダルに蓄積されていた膨大な魔力を制御したせいで、クロノのリンカーコアは疲弊しきっている。魔力は残っていても、それを急に引き出そうとしたショックで、リンカーコアが萎縮して機能不全に陥るほどに。

 

 なのはに理解できたのは、ウィルとシグナムが突然この場を離れたということだけ。その行動の理由と目的がわからない。

 

「ウィルさんとシグナムさん、どうしていきなり……?」

『決着をつけるつもりなのだろう。誰の邪魔も入らないところで』

 

 特定の誰かに向けたわけではないなのはの問いかけに、気絶しているはやてから答えが返る。正確には、彼女と融合しているリインフォースから。

 しかしその言葉の意味もわからず、なのはは問い返す。

 

「でも全部終わったのに、二人が戦う理由なんて、どこにも……」

「あの二人が戦うのは今に始まったことではない。俺もこの目で見たわけではないが、闇の書が暴走を起こす直前も、あいつらは戦っていたそうだ」

 

 続けての疑問にはザフィーラから答えが返ってきたが、その内容は再びなのはの理解を越えていた。

 

「どういうことですか……? ウィルさんも、シグナムさんも、はやてちゃんを助けるために協力してたんじゃなかったんですか?」

 

 なのはが駆けつけられず、ウィルが戦闘と負傷の痕跡だけを残して失踪したあの日に、彼とヴォルケンリッターの間に何があったのか。あの日から今日までにどんな紆余曲折を経てここに至ったのか、なのはは知らない。

 けれど、両者が揃ってこの世界にいたということは、ウィルははやてを助けるためにグレアムやヴォルケンリッターと協力していたのだと思っていたのだが。

 

「はやてちゃんのため……その志は同じでも、ウィル君にはもう一つの目的があったの。お父さんの仇を討ちたいって」

 

 ――クロノ君のお父さん、そのロストロギアが前に起こした事件で亡くなってるの。それから、その時にウィル君のお父さんも一緒に。

 

 シャマルの言葉で、かつて月村邸でエイミィが語った言葉を思い出し、絶句する。

 

『不幸なめぐり合わせだが、真実だ。烈火の将……シグナムは、己の罪をさらけ出し、応えることを望んだのだろう』

 

 そして戦いを望んでいるのはシグナムも同様だと、リインフォースは語る。

 

 たしかにいくら消耗しているとはいえ、この場にいる魔導師全員で協力すれば暴れるウィル一人を取り押さえるくらいはできる。戦いに応じる意志がないのなら、この場にとどまれば容易に戦いを回避できたはずだ。

 逆に考えれば、この場で戦えば必ず取り押さえられてしまう。二人してこの場を離れたのは、邪魔をされずに決着をつけることを双方が望んだから。

 

 それを理解して、それでも納得できなくて。

 なのはがその思いを言語化するよりも早く、クロノが痛みをこらえながらも声を絞り出す。

 

「だからって……認められるか! やっと、たどり着けたのに……誰も失わずに、終われそうだったのに……!」

 

 なのはの心中を代弁したかのような言葉に、シャマルが力なく首を横に振る。

 

「けれど、止める方法がありません。凍結封印で空間の魔力素の動きが阻害されていて、私たちでも空間転移は使えません。管理局の船――アースラもそれは同じなのでしょう? 飛んで追いかけたとしても、あの二人が移動しながら戦っているのなら追いつくのは……」

 

 いや、いる。

 

「できます。私なら、追いつけます。カートリッジはまだ一つ残してあるから」

 

 胸の前でデバイスを構えながら、フェイトが宣言する。

 管制人格との戦闘でのフェイトの戦い方を見ていないヴォルケンリッターが訝しげな視線を送るが、フェイトの新たな力ソニックフォームであれば、あの二人に追いつくのも不可能ではない。

 

「無茶だよ! フェイトだって戦える体じゃないんだよ!?」

 

 アルフが悲痛な声をあげ、今にもカートリッジをロードしようとするフェイトを押し留める。

 フェイトは一連の戦闘で常に前線にいて最後まで戦い続けていた。いくら彼女が魔力総量や制御構築に優れた魔導師であっても、肉体は十歳の子供にすぎない。連続した超音速飛行が身体に与えた負担は決して軽くない。魔力パスによって繋がっているアルフが止めようとするほどに、フェイトもまた消耗している。

 いくら魔力が残っていても、そんな状態で体を酷使して、よしんば追いつけたとしても、たった一人でウィルとシグナムの二人を止められるはずがない。

 

 一人では、無理だ。

 

「フェイトちゃん、私を二人のところに連れていって」

「僕も行くよ。ちょっとした補助魔法を使うくらいの魔力は残ってる」

 

 だから、なのはとユーノが声をあげた。

 PT事件で短くとも濃い付き合いを重ねた三人の間に、それ以上の問答は必要なかった。

 うなずき合うと、フェイトがカートリッジをロード。姿さえ霞むほどの魔力光を纏ったソニックフォームとなる。

 続けて、なのはがフェイトにバインドをかけて体を連結させ、ユーノはフェレット姿になってなのはの肩に乗る。

 行くのはすでに決定事項とばかりに行動しだす三人の様子を見て、アルフも諦めたのか、子犬の姿になってフェイトにしがみついた。

 

 出発しようとする四人を周囲の局員が慌てて制止しようとする中で、

 

「あたしも連れてけ」

 

 フェイトの体に新たな鎖がかけられる。バインドとも違うその捕縛魔法の使い手はヴィータ。

 

「シャマルとザフィーラははやてについててくれ。騎士の決闘を邪魔するのは、あたし一人でいい」

 

 ヴィータの行動に、局員の制止の声がさらに強くなる。

 先程は共闘したとはいえ、敵であったヴォルケンリッターと子供たちを同行させることに不安を抱く者がいるのは当然の反応だ。

 けれど、武装隊の隊員は軒並み魔力切れで、クロノやリーゼ姉妹はデュランダルやカードなど、身の丈を越える魔力を立て続けに制御したせいで、リンカーコアが衰弱して魔法もろくに使えない。

 戦える者はもうなのはとヴォルケンリッターしか残っていないという現状もまた厳然たる事実であり、迷う局員の視線は現場責任者であるクロノへと向かう。

 

「……頼んだ。あの馬鹿をぶん殴って連れて帰ってきてくれ」

 

 許可を出すクロノの声は弱々しかった。

 それが痛みに苦しんでいるからでも、決断に迷っているからでもなく、自分の無力さを悔やんでいるからだと、なのはには痛いくらいによくわかった。

 

 安心させるように大きくうなずいて、その場を飛び立つ。

 

 

 二人と二匹を牽引しながらも、フェイトは数秒で音速に到達し、突破する。

 フェイトがなのはとヴィータをカバーするために慣性制御圏を広げてくれているため、体を押しつぶすような加速度はほとんど感じない。

 超音速で移動し続けているのに、視界に広がるのは光を閉ざす厚い雲と水平線の彼方まで広がる凍りついた海面。

 

 

 なのはは代わり映えのない景色を眺めながら、ウィルのことを考えていた。

 

 半年前の自分は、敵として出会ったフェイトと戦うことを受け入れられなかった。

 一月前の自分は、知り合いだったシグナムが敵という事実に動揺して戦えなかった。

 そして今は、ウィルを止めるために戦わなければならない。

 

 魔法に触れて右も左もわからない自分を導いてくれたのは、ユーノとウィルだ。

 ユーノが技術を、なのはが立つ足場を固めてくれて。ウィルは戦う方策を、道を示してくれた。

 なのはの意見は管理局の局員として行動しなければならない彼にとっては、勝手で迷惑だったことも少なくなかったはずで。それでも一蹴したりせずに、受け止めた上で妥協案を模索してくれた。誰かのために何かをしたいと、意志はあったけど手段がわからない、そんななのはを導いてくれた。

 

 けれど、なのはは気づいていた。

 彼の瞳に時々、寂しさや諦めのような色が宿ることに。その時の彼は、普段とはまるで違う、全てを拒絶するような目になる。

 それは戦場で出会った時のフェイトやシグナムに宿っていたのと同じ色だ。

 

 みんな同じなのかもしれない。

 誰だって大切なもの、譲れないものを持っていて、それが現実と合わなくて。

 一人で全部抱えて、言っても仕方がないのだと、これしかないのだと、諦めて。苦慮の末に行動に移す。

 

 そんな人たちを相手に、いったいなのはに何ができるのか。

 話し合いで解決できるなら最高だ。でも、なのはは理屈を説いて相手の意志を変えられるほどに賢くはない。

 それに相手だって諦めるまでに必死に考えて、その末に行動を起こしているはずで。後からやって来た者が口を挟んだところで、ただの言葉が入り込むのは困難だ。

 

 それなら、この一瞬一瞬に己の最善を尽くそう。

 相手を止めるために全力で戦い、全霊で言葉をかけよう。

 

 

 

 

 ウィルとシグナムがあの場を離れたのは、邪魔の入らない場所で二人存分に戦うためだったが、そのために仲良く並んで移動するなんて平和的な光景はありえない。

 二人は場所を移しながらも、抜きつ抜かれつを繰り返す中で戦いを繰り広げていた。

 

 ウィルが後方から衝撃波を撃ち出せば、先を行くシグナムは進行方向を右に傾けて回避する。

 回避のために弧を描く機動をとったシグナムの進行方向を先読みして一直線。

 

 ウィルの接近を悟ったシグナムは高度をわずかに下げ、雲に紛れる。

 人が初めて空を飛び出した時代でもなし、その程度で相手の姿を完全に見失うことはない。

 しかし視覚情報は人間の知覚の中では最も重要で、わずかでも姿が見えなくなれば決断に迷いが生じる。その一瞬を突いて再度雲から飛び出て襲いかかることで、シグナムが機先を制する。

 

 このまま斬り結ぶのは不利と判断したウィルは、速度を上げてシグナムの刃圏を逃れる。

 一転して追われる側になったウィルはさらに加速して距離を離し、雲を突き抜けてくすんだ日の出ている空を昇る。

 体を翻し、減速。速度が零になる瞬間、両腕両脚のフェザーから圧縮空気を翼のように放ち、追いかけてくるシグナムへと急降下。

 

 シグナムも降下し、両者ともに雲の下へともぐる。

 赤と菫、漸近する二つの曲線軌道の距離が極小になった瞬間、二曲線を結ぶ銀の線分がいくつも刻まれる。両者の間で交わされる剣の閃光だ。

 曲線間の距離が再び離れ始めた瞬間、宙にわずかに赤が残された。

 一瞬の攻防の果てに、ウィルの剣がシグナムの腹をわずかに裂いていた。

 

 二人はどちらともなく減速し、距離を保ったまま再び対峙する。

 

「このあたりで良いだろう」

「そうですね。このあたりで」

 

 数分間、本気を出せば音速を越える二人が、戦いながらとはいえ駆けた。もう十分に距離はとった。

 前哨戦はこのあたりでいいだろう。

 

 

 空は相変わらずの曇天。

 デュランダルの影響がこんなところにまで及んでいるのか、バリアジャケットがなければ痛みを感じるほどに周囲の気温は低い。

 灰色の厚い雲が陽光を遮るので、日中だというのに辺りは薄暗い。灰色の世界に、氷のような白雪が降り注ぐ。

 

「俺のわがままにつきあってくれて、ありがとうございます」

 

 シグナムはゆっくりと首を横に振った。

 

「礼を言うのはこちらだ。主はやてを助けてくれたことに感謝している。……始める前に一つ聞かせてほしい。何のために私を殺す?」

「今更言わなくたって、理由は知ってるでしょう?」

「原因ではない。貴方の心が知りたい」

 

 自分の意を通すだけなら、そんなもの伝える必要は必要ない。けれど――

 わずかな空白の後、ウィルは困ったような顔を浮かべる。

 

「嫌ですよ。それを言えば、あなたの心を傷つけるかもしれない。そこまでは望んでいません。ただ、死んでくれれば、それで俺は満足です」

 

 シグナムは何も言わず、強い意志を込めた目でウィルを見返す。

 ウィルは呆れたように口元を歪ませて、それから語り始めた。

 

「復讐なんて無意味だってことはわかっています。それにシグナムさんのことも好きですから、抑えられるものなら抑えたいんですけど……どうやらそうはいかないみたいです。どうしても許せないんですよ、あなたが生きているのが。……許せるものかよ、奪った奴が生きているなんて。はやてと一緒に生きる、なんて」

 

 自然と言葉が漏れた。どうやって抑えつけていたのか、こんなものを内に囲って生きて来たのかと、他ならぬウィル自身が驚くほどに、吹き出る憎悪は激しかった。

 表情を作ることは得意だったはずなのに、顔の筋肉一つ動かすことができない。ただ一つ、憎悪以外の顔を作れない。

 

「許せるか!! 奪ったお前に、幸福な人生なんて与えるものか! 贖罪なんて綺麗な言葉にくるんだ、安穏とした生活なんて認められるか! 奪われた者はもう帰ってこれないんだよ! もう、二度と! 何をしたって! 父さんは俺のところに帰って来てくれないんだ! なのに、なのに、……畜生ぉぉぉお!!」

 

 心の裏から湧き出る言葉を、斟酌一切無く叩きつける。あらんばかりの罵声に、溢れんばかりの感情を乗せても、まだ足りない。

 

「奪ったお前が奪われずにすむだと!? ふ、ふざけるな! そんな理不尽を認められるかよ! 世界の誰が許したって、俺はお前を許さない! お前にはどんな人生だって与えない! そうだ! 死以外、何か一つでも与えてやるものか!!」

 

 ウィルの殺意を後押しするように、風雪は一層強く吹き付ける。

 言葉が止まる。内心を吐露したことでこもる憎悪が発散できた、などありえない。

 十年だ。十年、体の奥で薪をくべられ理性を燃やし心を煮えたたせ続けたそれが、たかだか百字二百字の言葉に変えただけで薄れるわけがない。

 

 言葉を用いるのは、他者に伝えるため。シグナムが求めた分はこれで喋った。

 だから口を閉じ、なおも体の奥から溢れ出てくる憎悪を言葉に変えず、内にためこむ。

 つがえた矢を引き絞るが如く。溢れる憎悪は体を手足を満たし、爪の先から毛の一本一本に至るまで通う。

 

 ここで決める。その意志が伝わったのか、それとも思考を移植したデバイスも同じ判断を下したのか。命令なしに状態が遷移する。

 

  Ascension 

 

 インテリジェントデバイスたるグレイスが有する機械の知覚と、魔導師たるウィリアム・カルマンの意識が繋がり、世界が姿を変える。

 

 

「貴方の復讐は正当で、その怒りは正しい」

 

 シグナムの全身を纏う魔力が燃え上がる。シグナムという存在そのものが燃えているかのように強く、激しく。

 振り続ける雪が溶け、水へと変わる暇もなく蒸発して消える。

 

「だが、私の使命は主に仕え、そばにあること。むざむざ殺されるわけにはいかない。私のことが憎いなら、その怒りを力に変えて、私に報いを受けさせてみせろ」

 

 

 再開に合図はいらなかった。

 圧縮空気が放たれる爆発めいた轟音が鳴り響き、ウィルが一直線に空を駆ける。

 突撃からの薙ぐウィルの剣を、同様に突撃していたシグナムのレヴァンティンが迎え撃つ。

 

 剣と剣は衝突することなく、互いの刃を避け合うようにして、相手の身体へと。

 互いに紙一重で回避し、すれ違い様に即座に反転、蹴りを放つ。

 

 ぶつかりあう脚と脚。衝突した互いの足の甲と甲を引っかけ合って錨として、軸として、鏡写しのように回転して剣を振るう。

 剣同士が激突し、反発して弾かれる。

 

 シグナムが身をひるがえし、横回し蹴りをウィルの胴めがけて叩き込もうとすれば、ウィルのフェザーから放たれる圧縮空気が、不可視の羽根となってその攻撃を回避するだけの動力を与える。

 迫る横回転の蹴りを、シグナムの頭上から背後へと回る円軌道をとって回避。続けて放たれた圧縮空気で加速された脚で縦回転の蹴りをシグナムへと返すが、シグナムは読んでいたかのように回避。

 

 続けて空を裂いて奔るウィルの刺突を、シグナムは左手に持ちかえたレヴァンティンで受けながし、開いたウィルの体に右の直突きを打つ。

 ウィルは体を横回転させてかわすと同時に、フェザーで左脚を加速させ、半身になったシグナムへと回転蹴り。

 シグナムは左手のレヴァンティンを盾として蹴りを迎撃。刃とブーツが激突。剣戟であれば装甲ごとウィルの脚を切り落とすこともできたろうが、守るためにとっさに置いた剣にそれだけの速さも鋭さもありはしない。

 蹴りが剣を押し込みシグナムの胸部を打つと同時、彼女の裏拳がウィルの頭を打ち抜く。

 

 打たれた衝撃で肺から息を押し出されたシグナム。次の行動のため、新たな息を吸い込み。

 打たれた衝撃で意識を失いかけたウィル。グレイスからの電機信号で、意識を覚醒させられ。

 

 次の行動に移るまでの一瞬の猶予。

 手を伸ばしあえば触れ合える。眼前の敵の瞳の奥に映る己の姿すらわかる。呼吸どころか心拍すら伝わる。

 その間合いで、二人は目をそらさず、相手を見る。

 

 そして息の続く限りの連撃(ラッシュ)が始まった。

 密着した近接格闘の間合いでは四肢をぶつけ合い、衝撃で距離が開いて近接戦闘の間合いになれば刃を交わし合い。刃と刃の衝突が生んだ隙にさらに距離をつめ、また四肢をぶつけ合う。

 上から下から、左から右から、手を変え品を変え、狙う部位もタイミングも変え、互いの位置を変えて何度も何度も繰り返す。

 

 そのうち、変化が生まれ始める。

 四肢のぶつかり合う鈍い音も、刃と刃が擦れ合う甲高い音も、次第に聞こえなくなっていき、互いの動作が生み出す風切り音だけが残される。

 互いの刃も体も、相手に当たることなくすりぬける。互いに相手の行動を予測して、紙一重で回避しているからだ。

 

 二人が直接戦うのはこれで三度目。

 三度目で手の内を把握するどころか、一挙手一投足を予測できるほどに理解し合えるのなら、二人はとても相性が良いのかもしれない。

 こんな形で出会わなければ、もっと違う因果で結ばれていたのなら、息を合わせ、ともに肩を並べて戦う相棒になることだって。

 

 そんな感傷を断ち切るように、剣と魔が渾然一体となる戦いの中で、ウィルが吼え、シグナムが叫ぶ。二人の獅子吼が空を震わせる。

 互いの間を斬撃の暴風が荒れ狂い、その隙を縫うようにして徒手空拳が飛び交う。二人の間に侵入した雪はその余波を受け、切られ、砕かれ、目に見えぬ微細な粒子へと分解される。

 

 百分の一秒を知覚し、千分の一秒の差を求めて競り合う。

 身に染みついた戦技、記憶する魔法、頭脳が紡ぐ論理、己の肉体を駆動する感情、

 機械と繋がった人間のみが/歴戦のプログラム体のみが、得られる特異な知覚。

 ありとあらゆるものを複雑怪奇に統合し、昇華させた、己のスタイルとスタイルの激突。

 

 機械だけでもプログラムだけでも到達できない、人のみがたどり着くことを許された魔境に足を踏み入れた両者が、相手の命に食らいつくためにさらに深層へと踏み込もうとした――その瞬間

 

 

 ウィルはセンサーがとらえた魔力反応を見て。シグナムは戦士の直感で。両者共に、その場から飛び退いた。

 わずかに遅れて、二人がいた空間を桜色の光の柱が貫く。

 

「外れたっ!」

 

 放ったのはフェイトに牽引され、ウィルたちの元に急速に近づいて来るなのは。

 

「でもこれで二人とも範囲内だ!」

 

 なのはの肩にくっついていたフェレット姿のユーノが逃走防止に結界を展開する。

 

「フェイトッ! これ以上は!」

「うんっ……ごめん……ここまでが限界」

 

 魔力が切れて墜落し始めたフェイトの身体を、子犬から人型へと戻ったアルフが支える。

 

「いいさ、あんがとよ」

 

 牽引するバインドが解かれ、ヴィータとなのはの体が解き放たれる。

 なのはとユーノはその場にとどまり、もう一発砲撃を放つ。

 そしてヴィータは、

 

「こんの馬鹿二人! これで三度目だぞ三度目! その都度あたしに止められてんのに性懲りもなく! 今度という今度は、両方ぶっ飛ばしてやるからな!!」

 

 怒声をあげて一直線に飛び出していった。

 

 

 

 

 ヴォルケンリッターで最も速いのは誰か、という問いに単一の答えはない。

 

 長距離移動であれば、飛行と継続的な魔力放出に優れたシグナムが頭一つ抜きん出ている。

 移動時間であれば、少々ずるい気もするが転送魔法に熟達しているシャマルに並ぶ者はいない。

 地上や閉所を駆けるのであれば、獣となり四足で駆けるザフィーラの得意とするところだ。

 ではヴィータは?

 

 彼女が小柄な体躯に反して高い攻撃力と防御力を併せ持つのは、内包する魔力が多いからではなく、瞬間的に制御できる魔力量が非常に多いからだ。

 つまり極々短距離に限れば、ヴォルケンリッターで最も速いのはヴィータだ。

 

 ヴィータの両足に生じた大量の魔力の塊が大気と混じり合って衝撃波を形成し、その体を加速させる。

 衝撃波で吹き飛ばすという攻撃方法を制御して己の加速手段とする曲芸で最短距離を駆け、二人との距離を一気に縮める。

 その最中、再び足に魔力を集めて、再度の衝撃加速。

 わずかに方向を変え、二人のうちの一方――ウィルへと明確に狙いを定める。

 

 復讐を望んでいるのはウィルであり、シグナムは応えようとしているだけ。

 それならウィルの方を先に気絶させてしまえば、シグナムが戦闘を継続する意味はなくなる。

 逆にシグナムを気絶させても、動けないシグナムを守りながらウィルと戦うことになる可能性があるのだから、ウィルを狙うのは当然の選択だろう。

 もっとも、それを相手が受け入れるかはまた別の問題。

 

 ヴィータの突撃を、白銀の刀身が受け止める。刃の繰り手の、赤い長髪が風になびく。

 

「だろうなっ!」

 

 ウィルを守るように割り込んできたシグナム。その瞳は口下手な彼女の言葉よりもよほど雄弁だ。止めるなと言いたいのだろう。これは自分の責務なのだと。

 けれど、認めるわけにはいかない。

 

 グラーフアイゼンを力任せに振り回し、レヴァンティンを払いのける。

 膂力勝負でヴィータと互角にやりあえるのは、ヴォルケンリッターではザフィーラくらいだ。シグナムでも鍔迫り合いでヴィータに勝てはしない。

 しかし、技量はまた別。鉄槌の切り返しより早く、崩された姿勢を利用してのシグナムの左拳による直突き。

 ヴィータは鉄槌を中心として、自らの体を回転させて攻撃を回避し、その最中に再び鉄槌を振るう。

 

 鉄槌が己より重くとも、魔力による身体強化があれば、自在に振り回して回転することは可能。

 鉄槌が己より重いが故に、身体強化を弱めれば、鉄槌を中心に己の体の方を動かすことも可能。

 鉄槌を振り回し、鉄槌に振り回されて己の位置を変え、再び鉄槌を振り回す。速度と威力が落ちない連続攻撃の嵐は、まるで見えないパートナーと踊る舞踏めいている。

 己と鉄槌、二つの軸を瞬時に切り替えて行われる連続攻撃。鉄槌の騎士と鉄の伯爵による、止むことない嵐のような重量級輪舞曲(ヘヴィーロンド)

 

 シグナムもまた、受けきれぬ攻撃をそらし、間断なく続く攻撃の隙をついて的確に反撃。

 将たるシグナムはヴォルケンリッターにおいて最も優れている。だが、それはどんな状況でも最強であることを意味してはいない。

 攻防は互角。よく手の内をよく知る者同士ゆえに、初見の技による不意打ちも不可能。

 戦況を分けるのは相手の意表をつくような奇策。もしくは、さらなる外部要因が均衡を崩すしかない。

 

 

 

 シグナムとヴィータが攻防を繰り広げる中でウィルがとった行動は、二人の戦いが終わるまで傍観して体力を温存するでもなく、シグナムと協調して乱入者のヴィータを狙うでもなく、自分を守るために動いたシグナムを後ろから狙うでもなかった。

 

 シグナムとヴィータの戦いは容易に決着がつかないと判断し、彼女ら二人以外の外部要因をまず排除すべきと判断した。

 何よりも、この場で最も危険な存在、それは高町なのはだ――その確信があった。

 

 なのはの持つ魔法の才能は規格外だ。PT事件の頃ならいざしらず、いまや武装隊ですら彼女の実力を疑う者はいない。しかし、ウィルが脅威に感じているのはそんな目に見える力ではない。

 なのはには物事を好転させる力がある。無論、神に愛されているとか、幸運の星の元に生まれただとか、物語の主人公めいてるだとか、そんなオカルトじみた意味ではない。

 

 彼女は流されない。自分の感情に嘘をつかない。こうなるのは仕方がないとみんなが思っていても、彼女は諦めない。

 フェイトを取り押さえて捕まえることばかり考えていたウィルに、話し合うための戦いを考えさせたように。フェイトを助けるために、死ぬような嵐の中に突っ込んでいったように。傷ついたフェイトを救出するために、時の庭園に乗り込むことを志願した時のように。

 そして今、疲れ切っているのに、ウィルとシグナムを止めるため、動ける面々を連れて追いかけてきたように。

 彼女はいつでも自分が望む未来のために、自分にできることを考えて、行動する。

 その彼女の本気は、誠実さは、周囲の人間に伝わり、動かして、物事を良い方向へと変えていく。

 

 その結果、望む未来に必ず到達できるわけではない。むしろ、うまくいかないことばかりだ。

 フェイトとの話し合いは結局ウィルが倒したアルフを人質にすることで成り立ち、嵐を抑えこんだところで敵味方を巻き込むプレシアの攻撃でフェイトは傷ついて、乗り込んだ先の時の庭園では助けるはずだったフェイトと戦いになった。

 けれど、その意志と行動が、なるはずだった結末に確実に変化を与えている。

 それがウィルにはとてもかけがえのないものに思えた。闇の書を暴走させてしまった時に、なのはのようであればもっとマシな結果を引き寄せられたかもしれないと、彼女のことを思い出すくらいには。

 

 だからこそ、なのはを真っ先に排除しなければならない。

 今のウィルはなのはに止められる側の存在だから。幸福な結末を汚すのであれば、きっとなのはこそが最大の脅威だ。

 

 

 こちらに照準を合わせて砲撃の構築するなのはへと、ウィルもまた一直線に向かい、人間としての視覚で認識するなのはまで、後百メートルほどに近づいた瞬間、何もない空間に蹴りを叩き込んだ。

 そこにはレイジングハートを構えているもう一人のなのはの姿。その肩に乗るユーノが驚きの声をあげた。

 

「いつから気づいて……」

 

 ウィルを止めるために、彼女たちも必死に考えたのだろう。

 遠距離で砲撃を構築しているなのはは、幻術魔法で作られた虚像。本物のなのはは同じく幻術魔法で姿を消してウィルへと接近していた。

 

 幻術魔法が展開されたのは、なのはが二度目の砲撃を放った直後。砲撃の閃光と魔力に紛れるようにしてユーノが自分たちの姿を消し、同時になのはの虚像を作り出す。

 そしてヴィータが大声をあげて突撃。シグナムとウィルの注意がヴィータに向いている隙に姿を隠したままウィルに近づく。

 遠距離型で接近戦は不得手ななのはが、突撃してくるとは考えない。その意識の隙をつかれて奇襲を受け、残存魔力とカートリッジの全てをかけた突撃でも敢行されれば、ウィルはあっさりと負けていた。

 

 でも、そうはならなかった。

 

「最初から見えていたよ」

 

 ウィルには最初から最後まで、なのはたちの行動が手に取るように見えていた。

 光なんてものは数多くの知覚情報の一つにすぎない。機械が得た各種情報を五感にフィードバックさせているウィルには、遠くに見えるなのはたちの姿が魔力で構成された幻術魔法であることも、幻術魔法を使って接近していることも簡単に見抜けた。

 今のウィルにとって、視覚ですら光だけで構成されてはいない。隠しきれていない彼らの体温も、移動が生み出す音や気流の変化も、すべてがウィルには五感の一部として認識できる。

 ヴィータも、なのはたちも知らない、ウィルの力。機械の知覚を得るアセンションを欺ける幻術魔法など、クアットロのISくらいだ。

 

 ウィルの蹴りはなのはが構えるレイジングハートへと。

 接近した時に魔法を叩きこむ予定だったのだろう。すでにレイジングハートはカートリッジをロードし終えていた。

 カートリッジの圧縮された魔力を解き放つ。そのための精密な制御を必要とする瞬間に与えられた衝撃は、デバイスの動作を一時的に停止させ、半端に解放されたカートリッジの魔力は制御されずに暴発し、デバイス内を駆け巡り、いくつかの部品を焼き切って、一時的に機能不全にさせるほどのダメージを与える。

 そして魔力パスの繋がっている魔導師へと流れ込んで、体内へと魔力ダメージを叩き込む。

 

 その一連の流れもまた、ウィルの感覚は正確にとらえていた。

 アースラに戻り部品を交換すればすぐに直せるだろうが、少なくともこの戦いではレイジングハートは確実に使用不可能。なのはへの魔力ダメージも少なくはない。

 

 飛行魔法を維持できずに落下するなのはを見ながら、ウィルは脚部のフェザーから圧縮空気を噴出させる。

 なのはに追い打ちするためではなく、

 

「それも見えている」

 

 とんぼ返りの要領で放たれた蹴りの狙いは、落下するなのはとは真逆の上方。

 短距離転移によってウィルに奇襲をかけようとしていたアルフをとらえた。

 

 グレイスのセンサー網は、全周囲に張り巡らされている。二つの目のように、前しか見えないわけではない。

 魔力や空間の歪みが観測できるのなら、どこにどの程度の質量が転移してくるかもわかる。

 

 ウィルが再びシグナムの方を向いた時、そちらの戦いも終わりを迎えた。

 なのはたちの策が破られたことでヴィータに生じたわずかな隙をつき、シグナムがヴィータを海へと叩き落としていた。

 

 乱入者を退場させて、戦場には再び二人が残った。

 

 

 

 

 存分に戦うためにせっかく離れたところにやってきたというのに、ぞろぞろとやって来て。

 なのは、ヴィータ、アルフは迎撃したが、確実に戦闘不能といえる状態に追い込んだわけではない。時間をおけば、また何かしら仕掛けてくる。

 戦いには向かないユーノや、魔力を随分と消費しているようなフェイトにも、何か手があるのかもしれない。

 もう猶予はない。名残惜しくとも、戦いには幕をひかなければならない。

 

「互いの一で、決着をつけよう」

 

 シグナムの提案、というよりも宣誓を合図に、二人は逆方向に加速して距離をとる。

 そして反転。一気に距離をつめる。

 猛禽のように襲いかかるシグナム。右手に握られたレヴァンティンには先程を上回る菫色の魔力光がこもっている。

 

 ベルカ式には様々な流派が存在するが、流派を越えて共通する『(いち)』と呼ばれる技がある。

 ベルカ式の魔法が得意とするのは強化。ゆえに近接戦闘のエッセンスは極めて単純だ。

 魔力によって強化した己の武装を、魔力によって高めた肉体によって振るう。

 

 『一』はそこにある。

 

 武装に纏わせる魔力をより高密度にし、魔法による肉体強化を限界まで高め、体に染み付いた技で敵を討つ。ただそれだけの技が一。

 基礎であるがゆえに一。二撃は必要ないがゆえに一。最短であるがゆえに一。

 小細工一切なし、基礎の延長であるがゆえに騎士の技量がそのまま表れる。

 シグナムほどの騎士の振るうそれは、まさしく必殺。単純だからこそ強力。時代が移り変わろうとシンプル・イズ・ベストは真理だ。

 

 ウィルもまた己の剣を両手で握りしめ、対敵を見やる。

 飛行魔法を最大限に行使し、音の壁を破った光輪を宙に描き、肉体の限界まで加速。

 

「紫電――」

 

 空間そのものを削り取るかと錯覚するほどの圧力を持った斬撃が、炎を纏って迫る。

 

「至天――」

 

 剣を振る動作に合わせて、両腕のフェザーから翼を吐き出し、剣速をさらに加速させる。

 

 

「「一閃!!」」

 

 

 互いの一閃が激突した。

 

 牙と牙が噛み合う異形の接吻。赤と菫の魔力光が混じり合う。纏う炎を風が吹き飛ばす。相反する二つの魔力の激突が生み出す衝撃に、空間が悲鳴にも似た音をあげる。

 

 両者ともに剣を振るうタイミングは完璧だった。威力も申し分なく互角。

 

 勝敗を分けたのは、互いの剣。

 機械の視点を持つウィルは、己の銀剣が先に限界を迎えることを理解した。

 古代ベルカの時代に鍛え上げられた真正のアームドデバイスは折れず、曲がらず、刃こぼれしない。そう謳われるほどに頑強だ。

 

 ウィルの右手が柄から離れた瞬間に、剣が刀身の真中で真っ二つに折れ、レヴァンティンの刃がウィルを袈裟に切らんと迫る。

 ウィルは二つに折れた剣の先。宙空に舞ったむき出しの刀身に手を伸ばして掴み取る。

 

 シグナムの刃がウィルに届く。

 左肩に剣が触れる。

 肩から全身へと伝わる激痛。

 

 きっとその剣は左肩から胸骨に守られた心臓を通り、臓器を裂いて左下へと抜けていくのだろう。そしてウィルは血と内臓をまき散らして絶命するのだろう。

 だが、ウィルの死が確定しても、シグナムの生まで確定したわけではない。

 

 ウィルは右手に握った刀身を、シグナムの胸へと目掛けて突き出した。

 体を両断されたとしても問題はない。シグナムの心臓を貫くその動きは、すでにプログラムされた動き。右腕の魔力が運動エネルギーへと変換され、まっすぐに動く。

 

 刃がシグナムの騎士甲冑を破り、皮を裂き、肉を貫く。

 そのまま心臓を貫き、致命の傷を負わせる直前、ウィルの体が弾き飛ばされた。

 

 

 何故――と疑問が頭を埋め尽くす。

 その答えは弾き飛ばされて急速に離れるシグナムの姿――彼女が持つレヴァンティンにあった。

 シグナムはレヴァンティンを、普段の握りから九十度返していた。

 

 峰打ちですらない。シグナムは鍔競り合いで自らが勝ったと理解した瞬間、刃を返して横の平たい部分でウィルを打ったのだ。

 だからウィルの体は切り裂かれずに、左肩の肉が抉れ骨が砕かれ体が吹き飛ばされるだけですんだ。

 

 もしもレヴァンティンの刃が返されることなく、そのままウィルの体を両断していたら、ウィルの肉体は弾かれることなくその場に残り、ウィルの刃もまたシグナムを貫いていたはずだった。

 

 狙ってやったのなら、あの一瞬でウィルの最後の攻撃を予測して対応したその嗅覚に畏怖を覚える。

 だが、最初からシグナムにウィルを殺す気がなかったのだとすれば、きっと彼女は――

 

 

 関係ない。まだウィルは生きている。シグナムも生きている。それが全てだ。

 

 

 すぐさま体勢を立て直す。再びシグナムの姿をとらえると、一条の光となって空を駆ける。

 もはや刃はない。グレイスそのものに魔力を纏わせて、銀の腕を赤の魔力で染めて突撃する。

 

 突き出した捨て身の手刀はシグナムへと到達し、そして何の感触もなく、ウィルの身体はシグナムを通り抜けた。

 まるで、何もない空間を駆け抜けただけのように。

 振り返れば、たしかに先程まで捉えていたはずのシグナムの姿が、忽然と消えていた。

 

 

 目の前からだけではない。周囲にもシグナムの反応はない。

 転移で回避したのだとしても、それなら魔法の反応と空間への痕跡が残るはず。

 

「……どう、して?」

 

 もしも、シグナムがこの場からいなくなったのではなく。

 ウィルの方が、五感だけではなく、アセンションによって得られる機械的知覚すら欺かれているのだとしたら。

 そんなことができるのは一人だけ。

 

「どうして――――!!」

 

 その名を口にしようとして、視界が桜色に染まった。

 体内を駆け巡る魔力の奔流は、力強く、けれど優しく、ウィルの戦う力を奪っていく。

 

 視界から桜色が消えて、舞い散る白い雪と、空を閉ざす灰の雲と、眼下に広がる深く黒い海が目に映る。黒い海の海面のそばに、若草色のフロータが展開されていた。

 その上に立つ、なのはとユーノ。鏡合わせのように、なのはが右腕を、ユーノが左腕を、互いに半身で前に突き出す姿勢をとり、前に出された二人の腕が砲身を成すような形になっている。

 おそらく、デュランダルを使うクロノをリーゼアリアが補助したように、レイジングハートが使えなくなったなのはをユーノが補助したのだろう。

 

 しくじった。たしかに物事を好転させてきたのはなのはの意志だったが、それをずっとそばで支えてきたのはユーノで。

 注意するべきはなのはではなく、なのはとユーノだったのに。

 

 

 結局、止められてしまったのか。

 友人の、善良な人々の隙をついてまで得た千載一遇の好機で、しかし仇を倒すことはできず、返り討ちにされて死んで終わることすら叶わない。

 

「シグ……ナム…………クア……ロ……」

 

 うわごとのように名前を口にしながら、懸命に首を動かして、周囲を見回す。

 けれど、どちらの姿も見当たらず。

 

 胸の奥に燃える炎の熱ですら埋めきれない寒さが、身体を震わせる。

 仇には決着の直前で手を抜かれ。尊敬できる子らは仇を助けるためにウィルの前に立ちはだかり。唯一味方でいてくれると思っていた幼馴染も、さっきいなくなった。

 ウィルのそばにはもう、誰もいない。これからは一人で歩むしかない。

 

 耐えがたい寒さを覚える中で、次第に目がかすみ、視界が黒に染まっていく。

 魔力切れによるブラックアウトの兆候。

 

 

 やがて、視界も意識も真っ黒に染まって、消えた。




 A's編 完

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
 お気に入り、感想、評価など、とても励みになっています。

 特にA's編は様々な意見が聞けて嬉しかったです。


 次回から最終章、もとい最終戦になります。それほど長くはなりません。


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黎明 完結編


【業】ごう
 梵語 karman(カルマン)の訳
 行為。行動。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為(三業)。
 また、その行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき。


 ウィルが意識を取り戻してすぐ、クロノによる聴取が行われた。

 

 シグナムとの戦いから一日経過したようで、全身は鉛のように重く、倦怠感で起き上がるのすら億劫。魔力もたいして戻っていない。

 そんな体調を鑑みてか、聴取はベッドから上半身を起こした状態で行われた。

 

 クロノからの問いには、台本を読むように淀みなく無感情に答える。

 事件の解決後に管理局にどのように説明するかは、事前にグレアムと相談して決めていた。

 

 あの日、ザフィーラとシグナムに襲われて大怪我をしたこと。闇の書の主であるはやてを監視していたグレアムに拾われて一命をとりとめたこと。スカリエッティの研究所に滞在して解決法を探っていたこと。自分がシグナムに襲い掛かり、それが原因で闇の書が暴走を始めたことも。包み隠さずに話す。

 語らないのはウィルが以前からスカリエッティと面識があったことくらいで、そこは管理外世界で活動をしていたグレアムの痕跡を発見したスカリエッティが闇の書のことを知り、口外しないことを条件に研究のための協力を強制してきた――ということにしてある。

 

 話を聞くクロノの表情に驚愕が浮かぶことはなく、すでに誰かから事の成り行きを聞いていて、彼にとっては事実関係の確認でしかないようだ。

 クロノからの聴取が一通りすんでから、ウィルも質問をなげかける。

 

「グレアム提督は?」

「きみより先に意識を取り戻されたよ。事情聴取はすでに終えている。おおむね、きみが今語ったことと変わらない内容だった」

「そっか。ご無事で安心した。……話はできたか?」

「いや……まだ安静にしていないといけないから、最低限のことを聞けただけだ」

 

 意外にもクロノの声は平静を保っていた。

 道を踏み外した恩師との対面がクロノにとってどれほどのものだったのか、ウィルには計り知れない。

 わかるのはグレアムが生きていることに安堵している自分がいることだ。

 

「他の人たちは?」

「八神はやてはアースラに収容している。命に別状はないが、疲労と衰弱が原因なのかまだ眠っている。ヴォルケンリッターはあの無人世界の、転送ポートが設置されていた小屋で待機中だ」

 

 協力したとはいえ、昨日まで敵対していた相手。

 武装隊も魔力を使い果たして十分に動けない今、戦力のほとんどないアースラに招けるほどには信用できていないのだろう。

 主たるはやてをアースラで確保しているなら、反抗される危険を冒してまで拘束する必要はないと判断したのか。

 

「なのはとフェイトはあれから半日ほどアースラで休息をとって、今は彼女らの希望でヴォルケンリッターと一緒にいる。アルフは怪我の治療中で、ユーノは医療班を手伝っているところ。……きみの関係者はそんなところだな」

 

 クロノが意図的に詳細を省いたのかはわからないが、その中にウィルが最も知りたい相手のことが抜けている。

 

「シグナムさんも他のヴォルケンリッターのところに?」

 

 クロノの視線が鋭く、にらみつけるように変化する。

 互いに視線を合わせて十秒ほど経過しただろうか、沈黙を破ってクロノが再び口を開く。

 

「彼女もまた、アースラに収容している。傷が深く、意識はまだ戻っていない。再構成による修復も本人の意識が戻らないと使用できないそうだ」

 

 やはりウィルの刃は彼女の命を刈り取るまでは到達していなかった。

 死んだかもしれないと思っていた時はどこか案じるような心持ちがあったのに、生きているとわかると殺さなければという思いが燃え上がる。

 

「今の闇の……夜天の書に蓄積されている魔力は残り少なく、ヴォルケンリッターが消滅した場合、もう一度再召喚するのは不可能だそうだ。……きみはそれを知った上で攻撃をしかけたのか?」

「知っていたよ。闇の書の中でリインフォースがそんなことを言ってたからな」

「彼女を恨んでいるのか? だからあんなことを?」

「ああ」

「自分の腕を奪ったからか? それとも――」

「聞いてないのか? だとしても、クロノなら言わなくてもわかるだろ」

 

 確かにウィルはシグナムを恨んでいる。

 父を奪った闇の書への憎悪は、その手足であるヴォルケンリッターにも及んでいる。

 たとえ連綿と続いてきた悲劇の元凶が、闇の書の改変により生み出された歪みにあったのだとしても、それは何度も繰り返し悲劇が上映された理由だ。

 その個々の悲劇の中にある蒐集という演目で命を奪ってきたのは、ヴォルケンリッター自身に他ならない。

 そしてなにより、シグナム自身の告白――自分がウィルの父を殺したというその言葉で憎悪はついに焦点を結んだ。

 自分から幸福を奪った相手が幸福に生きるだなんて、()()できない。

 

 ――頭がずきりと痛む

 

 頭の痛みに呼応するように、胸の中で今も燃える炎が物理的な痛みを伴うほどに鮮烈に主張する。

 殺せ、と。自分から奪った仇を許すなと。奪われたものは帰ってこないのだから、奪うことでしか帳尻は合わせられないのだと。

 

 けれど、この復讐は誰も認めてはくれない。

 クロノを見れば、ウィルがシグナムに――ヴォルケンリッターに攻撃を仕掛けたことを良く思っていないとわかる。きっとクロノやリンディはヴォルケンリッターを生かす方向で動こうとするのだろう。

 似たような過去を持つ幼馴染はウィルと異なる決断をして、考えを肯定してくれると思っていた幼馴染は土壇場で復讐を妨害した。

 

 

 これからのウィルは、誰一人として味方のいない状況で必死に策を練り、力を蓄えて、そして――

 

 そうして、父を直接殺めたシグナムを殺せば、この炎は消えるのだろうか。

 

 それとも夜天の書を司るリインフォースも殺さなければ消えないのだろうか。

 ヴォルケンリッター全員を殺さなければ消えないのか。

 それとも全員を殺してなお、消えてはくれないのだろうか。

 この復讐は、いったいいつ終わるのだろう。

 

 

 クロノはしばらくの間、どこかにある正解の言葉を探すかのように視線を動かしていたが、やがてため息とともにウィルを見据えて口を開く。

 

「きみが目覚めた時に何を言うべきか、ずっと考えていた。けれど何を言えばいいのかわからない。僕も気持ちを整理できていない。ただ、これだけは言える。きみは間違っている」

「そうだな、間違ってる。でも、納得できないんだ」

 

 友人として、同じ境遇にあった者として、ぶつかりながらも共に苦楽を分かち合ってきた。

 だからこそ、お互いに自分の抱えている思いを言葉にして重ねても届かないとわかっている。

 ウィルがいかに彼らを許せないかを語っても、クロノは私的な復讐という犯罪行為を認めはしないし、クロノがどれほど復讐の無意味さを説いたところで、感情に突き動かされるウィルを止めることはできない。お互いにそれを理解している。

 だから二人きりの問答はそれで終わり。

 

「ウィリアム・カルマン三尉。貴官はやむを得ない事情があったとはいえ、広域指名手配犯と接触し管理局の機密情報を漏洩した疑いがある。また今後、当該事案の関係者に危害を加える恐れがある。よって本局に引き渡すまでアースラにて勾留する。異論は?」

「ないよ」

「そうか。それならきみを拘束する前に来てもらいたいところがある。夜天の書の管制人格――リインフォースがきみに会いたがっている。今から僕と一緒に降りてもらうぞ」

「正気か?」

 

 仲間を殺そうとした以上、彼らが自分を問いただしたいだろうことは予想ができる。

 ただこの後に及んでウィルとヴォルケンリッターの顔を突き合わさせるなんて、そんな新たな争いが生みかねないことをクロノが許可したというのは信じがたい。

 クロノは表情をゆがめ、大きくため息をついた。

 

「悩みはした。本当なら却下して、きみのこともこのベッドに括りつけておきたいくらいだ。けれど最期の願いと言われてしまってはな」

 

 

 

 

 最低限の身支度を整えるとクロノに連れられてアースラの転送室へと向かい、そこから無人世界の転送ポートへと転移された。

 

 転移の光が収まり視界が明瞭になると、光の向こうの六対の刺すような視線に出迎えられた。なのはとフェイト、そしてシグナムを除く四人のヴォルケンリッターの六人だ。

 その誰もがウィルとクロノをじっと見つめていた。視線に込めた意志は人によって異なるが、不思議なことに警戒はあっても敵意のようなものは感じられなかった。むしろ悲しみと困惑がその場に満ちていた。

 

 クロノは愛用のデバイスS2Uを握ると、この場にいる全員に視線をやって宣言する。

 

「これはあくまでも話し合いのための場だ。この場にいる誰だろうと、戦闘行為に繋がる可能性のある行動をとれば、その瞬間に魔法を叩きこむ。フェイト、なのは、きみたちもデバイスの用意を。僕一人だとカバーしきれない」

 

 フェイトとなのはも慌ててバリアジャケットを展開し、ヴォルケンリッターとウィルから少し距離をとって、デバイスを構える。

 

 

 ヴォルケンリッターの側から、リインフォースが数歩前に歩み出る。

 その朱色の瞳がウィルとクロノをとらえ、そして彼女は深々と頭を下げた。

 

「よく来てくれた。許可をくれた管理局にも感謝を」

「事情を説明してくれないか。最期ってどういうことだ」

 

 リインフォースは淡々と、自らの身に起きた「事情」を説明する

 

 新たなる所有者たる八神はやてが管理者権限を取得したことで、狂った防衛プログラムを切り離し夜天の魔導書は真の姿を取り戻した。管制人格たるリインフォースは八神はやてを支えるべく、書の全てにアクセスでき、夜天の書はかつての姿を取り戻した――はずだった。

 

「防衛プログラムは破壊できたが、あれを生み出す仕組み自体は夜天の書の根幹に組み込まれていた。たとえ夜天の書のあらゆるシステムを破棄したとしても、私……管制人格というシステムを残していれば、いずれ遠くない内に新たな防衛プログラムが生み出され、再び私は夜天の書への干渉を封じられて望まぬ悲劇が繰り返される。……だから、その前に私を消し去ってもらいたい」

 

 そのように語るリインフォースは淡々としていて、顔色一つ変えることなく。

 周囲に視線をやれば、皆悲しみや悔しさをにじませてはいたが、驚いている者は誰もいない。

 

 ――頭の痛みはさらに強くなる

 

「何か解決策は……」

「ない。根幹にまで及ぶプログラムを取り除き、正常な状態に戻すには十年は必要だ。防衛プログラムの再構築はすでに書の中で始まっている。私の権限に干渉してくるのに一週間とかからないだろう」

 

 振り返ってクロノを見るが、首を横に振るだけ。

 ウィルが眠っていたこの一日の間に全員がその事実を知らされ、散々繰り返され続けてきた問答なのだろう。

 だからといって諦めていいのかと言いかけて、けれど復讐を望む自分がそれを口には出すのはあまりに滑稽で、逡巡の末に口から出たのは別の言葉。

 

「はやてには何も言わなくていいのか?」

「あまり時間がない。主が目覚められるまで待つわけにもいかない……いや、これはただの建前か。ただ私が恐れているだけなのだろう。言えばきっと止めようとする。最後まで泣いて、何もできない自らを呪うに違いない。私はそんな主の悲しむ顔を見ずに逝きたい。これが私の最後のわがままで……そして、ここからは私からの最後の願いになる」

 

 右手を掲げると、掌の上に魔導書が姿を現す。革表紙に魔導金で剣十字が打ち込まれた装丁。闇の書、いや夜天の書。

 

「書と一体化している私とは異なり、ヴォルケンリッターは書の守護騎士機能によって顕現した個体だ。書にあるのは、プログラム体を生成するための式とマザーデータのみ。たとえ私が消滅し、夜天の書がその機能を失ったとしても、今ここに存在している騎士たちまで消えるわけではない。

 だからこそ、お願いだ――ウィリアム・カルマン、クロノ・ハラオウン。闇の書がお前たちの父の命を奪ったのは変えようのない事実だ。だが、闇の書と守護騎士が築いた罪の根源は夜天の書を司る私にある。元より先のない我が身にたいした価値があるとは思えないが、私の命を捧げよう。それで手打ちにしてもらえないだろうか」

 

 つまり、ウィルとクロノの二人で夜天の書とリインフォースを消滅させることで、復讐をやめてほしい、と。

 呼吸が浅くなる。胸の内から膨れ上がる何かに言葉をつまらされそうになりながら、絞り出すようにして声を出す。

 

「そんな話を受けられるわけがないだろ。……取引にもなっていない」

 

 すぐに消える命を自分の手でつぶしたところで、満足するのか。復讐とは「奪う」ことが本意。「与えられる」ものではない。

 いやもしかしたら満足できるのかもしれない。自分が最も納得できないのは、奪った側が生き続けること。それなら消えてくれさえすれば気持ちは晴れずとも、納得はできるかもしれない。

 だが、ここでリインフォースを殺したとしても、生き残るシグナムへの殺意が消失するとはとても思えない。

 

「無理だ。きっと俺は最低でもシグナムさんを殺すまで納得できない。お前だけ殺したところで、納得できるとは思えないんだ」

「そうか……では、お前の方は決まったか?」

 

 リインフォースの視線はウィルからわずかにそれ、その後ろに立つクロノに目を向けられた。

 

「管理局は危険性を鑑みて、リインフォースの破壊を決定した。その意思決定の代行者として、僕も破壊のための儀式魔法を担当する。でもそれは管理局の一員としてだ。殺意や憎悪できみを消滅させるつもりはない」

 

 ――頭が痛い 耐えられないほどに痛い

 

「なあクロノ。どうしてお前はそんな風に言えるんだ?」

 

 どこまでも正しいクロノの言葉に、先ほどは言わなかった言葉が口をつく。

 

「お前だって俺と同じで父さんを殺されたんだ。恨んだはずだ。許せなかったはずだ」

「恨んださ。許したわけでもない。罪には罰が与えられてしかるべきだ。でもそれは僕が与えるものじゃない」

 

 頭の中で誰かが叫んでいる。声が反響して、内側から叩かれているように痛む。

 

 視界が重なる。目に映るクロノに重なるように、知らない記憶が脳裏に次々と浮かんでは消える。

 一面に広がる血の海。燃え堕ちた麦畑。崩れた街。枯れた海。骸となった朋輩。涙を流す佳人。積もる屍の山。

 鼻が曲がりそうな臭いがする。火の臭い。人の臭い。脂の焼ける臭い。鉄錆びた臭い。そのどれもが強い死の気配を帯びている。

 握りしめた拳にぬめりを感じる。それは汗か、それとも血か。

 

「なんでそれで納得できる!? なんであれだけのことをしたやつらを! あれだけ大勢を――俺たちの未来を――――ッ!!」

 

 あまりに膨大な数の記憶が、頭を焼く。右腕のグレイスが熱を持ち、発光する。

 身体から湧き上がる魔力が抑えられずに、自分の周囲で稲光のように魔力光がはじける。

 

 ウィルの変化に即座にクロノが反応し、両手両足に空間固定型のバインドがかけられる。

 身動きのとれない状態で、頭の内側を焼き尽くすような激痛から逃れようと唯一自由な頭を大きく振るいながら絶叫する。

 

 ――跪いているのは誰だ。祈りを捧げるのは誰だ。誰か聞いてくれと。消え去りそうになりながら、寄り集まって必死に叫んでいる。その切なる思いはよく知っているもので。

 

 

 次々と、まったく異なる人間の声がいくつも、たった一つしかないウィルの口から同時に発せられる。斉唱するように。輪唱するように。無数の叫びが絡み合い、無限数の和音が重なったそれは大気を(どよ)もして、やがて一つの音へと収束する。

 

 

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――わかったよ」

 

 

 

 

 

 ウィルが指揮者のように右手を上げた瞬間、地鳴りのような叫び声は一斉に止んだ。

 バインドで拘束されていたはずの右腕を、まるで濡れた紙の輪を引きちぎるかのようにあっさりと動かしていた。

 右手だけではない。ウィルの四肢を拘束していたはずのバインドは全て、陶器を叩きつけたかのような音を立て一瞬で砕けて散っていた。

 

 クロノは内心の驚愕を抑え込み、ウィルを昏倒させるべく魔力弾を放った。その動きに一切の躊躇はない。

 自分が注意をはらっていれば、ウィルとシグナムの戦いを起こさせずにすませることができたかもしれない。その後悔がクロノの体を突き動かし、ウィルに何かをさせる前に止めるという行動にはしらせた。

 またクロノに勝るとも劣らない速度で、なのはもまた再度ウィルを拘束すべくバインドを放っていた。

 

 前方より迫る青色より、後方より迫る桜色より、なお早くウィルの姿が消失する。

 

 少し離れた場所に立っていた者たちならば、ウィルが跳躍してクロノを飛び越えたのだと理解できたろう。

 ただその動作があまりに速すぎて、至近距離にいたクロノの目ではウィルの跳躍を追えなかっただけのこと。

 それでもクロノの視界には、周囲にいたザフィーラが、ヴィータが、フェイトが、クロノの後方に視線をやり、デバイスを構えて飛びかかろうとしているのは見て取れた。

 だからクロノ自身もデバイスを構えながら振り返る。そこにウィルがいると確信して。

 

 たしかにウィルはそこにいた。まだ跳躍中で宙を舞うウィルが、銀色の右手を天から地へと大きく振るった。

 

 

『Utopia Come』

 

 

 見えざる手に頭を押さえつけられたかと錯覚するほどの圧力が頭上から降り注いだ。

 急加速した車のシートに体が押し付けられるように、上方から叩きつけられる圧に膝をつく。

 

 膝をつきながらも顔を上げれば、自由を奪われた彼らの前でゆっくりとウィルが地に足をつけた。音一つ立てず、実体のない幽鬼の如く静かに、軽やかに。

 

 

 そこにいたのはウィルによく似た人物だった。

 顔立ちも背丈も服装も変わっていない。ただ赤く輝いていた髪も、象牙色の肌も、全てが白に染まっていた。

 白子(アルビノ)よりもさらに白い。髪はあらゆる光のスペクトルが干渉し合った完全なる白に近い。肌は空間からそこだけが抜き取られて空白にされたような異様な白さ。

 

融合(ユニゾン)だとッ!?」

 

 背後ではリインフォースが驚愕の声をあげる。

 融合――リインフォースのような融合型デバイスが実体を捨て所有者と一体化すること。クロノも知識としては多少知っている。

 けれど、融合型のデバイスは失われた技術。ウィルはそのようなものは所有していないはずだ。あの右腕のデバイスもウィルをアースラに収容する際に検査がなされたが、極めて高度な技術が使用されているだけのインテリジェントデバイスだったはず。

 では、目の前にいるのは何者なのか。

 

「死は終わりではない。意志は受け継がれ、残り、因果を結んで追い続けた。いつかそれが追いついた時お前たちが滅ぶ。かつてそう告げたな、血染めの鉄槌。ようやくその時が訪れた」

「なっ――なんでそれを!」

 

 声はたしかにウィルのもの。しかし語られた内容はクロノにとっては意味のわからないもの。

 しかしこの中で唯一ヴィータにだけは言葉の意味が通じたようで、反応した声色にはありえないものを見た時の驚愕と怯えが含まれていた。

 

「心当たりがあるのか?」

「聞いた覚えはあるんだ。でも、おかしい。だってその言葉は最近までずっと忘れてて。もう随分前の、まだベルカがあった頃に聞いた言葉で――」

 

 こちらの困惑などまるで気にもとめず、ウィルは瞳を閉じながら口を開く。

 

「お前たちが停滞した生と死を繰り返している間も、意思は積み重ねられた。同じ闇の書の中にいても、お前たちには聞こえなかったか? これまで蒐集された、明日を奪われてきた、命を犯されてきた、人々の怒り、嘆き、憎悪、よくも奪ったなと叫ぶ怨嗟の声が。一度も感じたことはなかったか? 奪った者がのうのうと生きることを許さない、俺たちも奪い返してやるという復讐の炎を」

 

 クロノの体は自然と震える。目の前にいる友人の姿をした何かが異質なのは姿だけではない。

 それが内包する異常なまでの魔力量は推し量ることすらできない。暴走していた闇の書の管制人格と同様に、ただ途方もないということだけがわかる。いや、クロノの直感が間違っていなければ、目の前のそれは管制人格よりもなお強大で。

 額から流れる汗が、氷水のように冷たく感じられた。

 

「お前は……いったい何だ?」

 

 絞り出したクロノの問いかけに、ウィルのような何かは瞳を閉じたまま笑って答えた。

 

「魔力と魔法が蒐集される時、それを扱う魔導師の個人情報――記憶や人格の一部も、情報として集積される。ならば、何百年もの間、闇の書が飲み込んできた者たちのそれも残っているとは思わないか?」

「ありえない! 闇の書は一度消滅するごとに頁を失い白紙に戻る! 以前の蒐集の犠牲者の情報が残るはずがない」

 

 リインフォースの否定に、ウィルのような何かは鷹揚にうなずく。

 

「たしかに、転生すればそれまでに蒐集した魔力と魔法は消える――だが、すべてを消し去ることなんてできない。やったことを、なかったことにはできない。守護騎士であるお前たちや今回蒐集された者の情報のように、個としての形を為せるほどに残りはせずとも、水流が川底の泥の塊を削っていくように転生のたびに削られながらも、澱のようにわずかでも意志は残し続けてきた。憎々しい永遠結晶(エグザミア)にこびり付いて、そこから漏れる泥水のような魔力を啜り、それでもなお声をあげながら、時の連鎖にしがみついてきた。防衛プログラムのせいで表には出られずとも、いつかはと未来に願いをかけながら。

 そして防衛プログラムが破壊された今、俺たちは肉体を――いや、主を手に入れた。遺志を遂行する代行者! 願いを受け止める依り代! そして!! ――――俺たちの力を捧げるべき王を」

 

 光のように白いウィルの肉体が、黒い、夜よりも昏いバリアジャケットを纏う。

 

 銀の右腕が輝けば、両腕に銀色の手甲、両足に銀色のブーツが展開される。

 両腕で一対、片脚に一対、計四つの可動肢からは圧縮空気が噴出し不可視の四翼を形作る。

 さらに背からは黒い魔力が噴出し八翼を形作る。

 これより黒ければ光を飲み込んで消滅してしまうのではないかと錯覚するほどに、濃厚で深い昏黒の魔力光。

 

 八枚の黒翼と四枚の透翼を抱くそのシルエットは、禍々しくありながら神々しさをも兼ね備えていた。

 それはまるで、地上の一切を認めぬ、裁きを執り行う異教の神の御使い。

 あらゆる記憶と思いをを受け止めて、その全てを塗りつぶす復讐の炎から成る熾の天使。

 

「俺たちが()かと聞いたな、クロノ。

 俺たちは数多の犠牲者たちの意志の集合体にして、ウィリアム・カルマンでもある。闇の書がこれまでに積み重ねてきた行いの報いそのもの。そうだな……あえて名乗るのなら、俺たちの名は」

 

 ゆるりと開かれた黒白の逆転した双眸で、膝をつく者たちを睥睨し、告げる。

 

 

「闇の書の(カルマ)だ」

 

 




 余談
 BoAのボスキャラといえばマテリアルズですが、道中で闇の欠片がメインキャラの過去を模して敵として出てきます。
 それを見た時にこれって蒐集した時のデータから再現してたりするのかな、もしそうならもっと前に蒐集された人たちの情報は残ってないのかなと、当時勝手に妄想を重ねた結果生まれたのがこれです。
 リメイク前の予定だとBoAベースの話でマテリアルズと戦い、最後に彼女ら三人を飲み込んで業が出てくる予定でした。GoDをプレイした結果単なるやられ役にするのが忍びなくなり、かと言って砕け得ぬ闇まで入れると話が纏まらない気がしたので、紫天一家の出番はなくなり、いきなりボス戦からスタートと相成りました。


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冷めた料理

 闇の書の業が両手を広げると、頭を押さえつけるように上空から降り注いでいた圧力が消失する。

 即座、各々が身体の自由を取り戻し行動に移り始めたが、それを嘲笑うかのように、次は下方から間欠泉めいて噴出する圧力。

 それは小屋の屋根をいともたやすく吹き飛ばし、中にいたクロノたちや転送ポートを構築する機材を天高く舞い上げる。

 

 クロノは飛行魔法の慣性制御とバリアジャケットの耐衝撃へのリソースを増加させ、姿勢を制御し宙にとどまろうとするが勢いは止まらず、停止したのは上空百メートルほどに到達してようやく。

 何かに殴り飛ばされたわけではない。まるでその場にあったもの全てが空に向かって落ちていったかのよう。さらに慣性制御によりその場に留まろうとしても、途中まで効果がなかったのも理解できない。

 いや、今はそれよりも。闇の書の業がウィルの体と技を使うのであれば、なによりも警戒しなければならないのはその速度だ。空に巻き上げられてから静止するまでの三秒。それだけの間、音速を超える高機動型の魔導師から目を離すのは致命的すぎるミスだ。

 

 クロノの懸念に反して、闇の書の業はいまだ地上付近、吹き飛んだ小屋の跡に立っていた。

 その足元に浮かび上がる奇怪な魔法陣。歪な円と不揃いな三角形から構成されるそれが光を放つと、世界が色を変えた。

 雪が舞う夜闇という光景が、さらに純白に染めあげられる。風の音が消失し、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。闇の書の業が展開した結界に取り込まれた。

 

 相手は追撃で一人二人に攻撃を加えるよりも、強固な結界を張って逃亡を阻止する方を選んだ。逃げられさえしなければ確実に倒せるという自信があるのだろう。

 こちらもウィルを――友人を乗っ取られた以上最初から逃げるつもりはなかったが、アースラとの連絡を取れなくなったのは痛手だ。

 アースラ側もずっとヴォルケンリッターを監視していたため、すでに異変には気づいているはず。ただし、アースラの武装隊は昨夜の闇の書の残滓との戦いで魔力を使い果たしているため、戦力として期待するのは難しい。

 昨夜の戦いを越えてなお戦える者たちは、もとより並外れた魔力量をもっていた者のみ。奇しくもこの場にいる面々のみが最後の戦力だ。

 

「これから奴を拘束する! リインフォース! 奴の状態を分析できるか?」

「すでにやっている!」

 

 アースラとの通信ができない以上、融合騎である彼女が頼りだ。

 ウィルの身に何が起きているのか。どうすれば元の状態に戻せるのか。それがわからないことには対応ができない。

 

 

 そして、闇の書の業は薄く笑みを浮かべて――

 

 

 不可視の翼が煌いたと思った瞬間にその姿はかき消えて、次に目に飛び込んできたのは闇の書の業の拳を受け止めるザフィーラの姿。

 昨日の戦いで見たウィルの動きよりもさらに速い。動きの起こりと終わりしか認識できず、接近する中途の認識が抜け落ちるほどの速度。

 それに反応できたザフィーラの反射神経も常軌を逸している。

 

 至近距離、ザフィーラが闇の書の業に掴みかかろうとするも、その腕を悠々とかいくぐり、蹴りが腹を打ち抜く。また動きの中途が抜け落ちたかのような速度の蹴り。その威力は頑強さにかけては追随を許さないザフィーラが一撃でくの字になるほど。

 さらに追撃を加えんとする闇の書の業の動きを阻止するため、音速を越えたフェイトがすれ違いざまにバルディッシュで薙ぎ払おうと。

 その光鎌振り切る前に闇の書の業の手がバルディッシュの柄へと伸び、一瞬だけ抑えつけられる。全速力で走っている時に足払いをかけられたようなもので、姿勢を崩されたフェイトはそのままの速度であらぬ方向へと投げ飛ばされる。

 そしてフェイトとタイミングを合わせてヴィータから放たれた鎖に対しては、背後からだというのに身体を半身にして回避し、そのまま半回転しての回し蹴り。

 間合いの外にあったはずのその蹴りは、なぜかヴィータが自ら闇の書の業の元へと飛び込むかのように動いたことで衝突し、とっさに身体の前で盾としたグラーフアイゼンごと蹴り飛ばされる。

 蹴り飛ばした方向には、大規模な拘束魔法を準備中のシャマルの姿。

 

「スティンガーレイ ローカストシフト」

 

 闇の書の業の周囲に数十の黒光が現れて、ヴィータとシャマルに向かって飛び立つ。蝗の群れが空を埋め尽くすような禍々しい唸り音とともに。

 それらはシャマルの貼ったシールドに衝突しても消滅することなく、あろうことかシールドに取りついて齧り始める。

 それへの対応でシャマルは詠唱中の魔法を破棄し、発生させた魔力の風で黒蝗を吹き飛ばして迎撃する。

 

 闇の書の業を取り囲むようにケージが生じる。クロノが発動させたその拘束魔法は、一辺三メートル程度の立方体の内部に相手を閉じ込めるもので、

 

「ディバインバスター!」

 

 その立方体を丸ごと飲み込む回避不可能な砲撃がなのはから放たれる。

 

 けれど、その砲撃はウィルに当たる前に軌道が曲がって反れた。

 何かの防御魔法が発動したようには見えない。まるで投げたボールが横合いから吹き付ける強風に煽られたように自然と曲がって外れた。

 それから悠然と、家の中に貼られた蜘蛛の巣を払うように手を軽く振るい、自らを捕らえるケージを破壊して外に出る。

 

 闇の書の業は六人がかりの波状攻撃をあっさりとしのいで平然としている。

 ウィル自身ももはや一流の魔導師と言っても過言ではない実力を有していた。

 けれどこれはあまりに異常な強さだ。暴走する管制人格のように強大な魔力であらゆる攻撃を防いでいたのとは別種の強さ。

 強大な魔力を有していながら、こちらの行動の意図を見抜いて潰してくる。その動きと読みの巧みさもウィルの実力を大きく上回っている。

 

 

「リインフォース、戦っている途中で前衛の動きが遅くなったように見えたが」 

 

 今の攻防には不審な点がいくつもあった。

 たしかに闇の書の業の動きは巧みであったが、同時にこちらの動きが鈍っているようにも見えた。ザフィーラも、ヴィータも、フェイトも、本来はもっと速かったはずだ。

 なのに闇の書の業に攻撃を仕掛けた瞬間その動きが遅くなった。そして最後に放ったなのはの砲撃の軌道が曲がったこと。

 

「以前にウィリアムから蒐集した魔法式の中にこれに近いものがあった。彼の持っていた魔力変換資質を応用した、空間駆動魔法ユートピア――周囲に己の魔力を拡散させ指向性を持ったエネルギーに変換することで、空間そのものに動きを与える魔法だ。相手にではなく空間に作用するから、その影響を防護魔法で防ぐこともできない。相当に厄介な魔法だ」

 

 リインフォースからの解答は耳を疑うようなものだ。

 自分への攻撃は減衰するように。自分からの攻撃は加速するように。

 そんな机上の空論めいた魔法が本当に存在するというのか。

 

「ウィルのあれは自分の肉体しか動かせないと言っていたぞ」

「魔力が濃く巡る己の内にしか作用しない魔法と、外に影響を与える魔法では構築の複雑さは桁違いだ。人間や普通のデバイスの演算能力なら体内が限界だろう。蒐集したその魔法式も完成度の低い不完全なものでしかなかった。ただ、ユニゾン状態にある今の彼の魔法構築能力と演算能力なら不可能ではない」

「ユニゾン……奴らもまた融合騎のような存在だと?」

「蒐集や闇の書の暴走で取り込まれた魔導師の情報が、闇の書が内包する魔力の影響を受けて、実体のない極小のプログラム体――意識体となっているのだろう。無数の意識体が折り重なることで膨大な並列処理能力を得た彼らは、一種の巨大演算装置とも言える。疑似的ではあるが融合騎と言っても過言ではない」

 

 魔力で構成されるがゆえに実体持つ者と重なることができ、高度な自立判断能力と演算能力で主を補助できる存在。

 それはたしかに融合騎の在り方に近い。

 

「きみと比べてどちらの方が上だ?」

「これまで蒐集した相手だけでも数千……闇の書の暴走に取り込まれた犠牲者も含めれば、意識体の数は少なく見積もっても数万ではとどまらない。その演算能力は少なくとも今の不完全な私とは比べるまでもない。……つまり私より遥かに格上だ」

 

 

 その言葉を裏付けるように、闇の書の業が次の魔法を展開する。

 

 突然身体が右へと吹き飛ばされる。上空に打ち上げられた時と同じその現象は、リインフォースの言う空間そのものを動かす魔法なのだろう。

 その場に留まる慣性制御では対応できない。なら、体そのものを動かせばいいと、飛行魔法で左に飛ぶことで位置の変位を打ち消そうとする。

 

 その瞬間、次は身体が上へと引っ張られる。対応しようとした瞬間、今度は前へ、次は後ろへ、さらに左へ、途端に下へ。

 結界内は攪拌機にぶちこまれたような有様で、誰もが翻弄されてまともに動けない中で唯一不動であった闇の書の業がヴィータへと手をかざす。

 

「ディバイン――」

「高町の砲撃も使えんのかよ!」

 

 黒色の砲撃が放たれた瞬間、ヴィータがの両足に魔力が竜巻のように渦巻いた。短距離高速移動魔法で、空間駆動魔法による減衰も承知で砲撃の軌道線上から強引に離脱する。

 砲撃はカンマ数秒前までヴィータがいた座標を貫いて、

 

「――スクリーム」

 

 伸びた砲撃が空中で固定化された。砲撃を固めたあまりに長大な魔力刃。

 魔力刃は自由自在に長さを変えることはできるが、伸ばせば伸ばすほど刃の形状を維持するのが困難になる。

 熟練の魔導師ならば十メートルを超えて伸ばすこともできる。カートリッジの助力を得たフェイトのプラズマザンバーなら一振りの間だけなら五十メートルにも届く。けれど今目の前にあるそれはゆうに百メートルに達する巨大さだ。

 

 闇の書の業が手を振るい、回避したヴィータの背へと昏黒の巨刃が迫る。

 直前、ザフィーラの咆哮が轟き、巨大な白色の杭が次々と発生して巨刃を抑え込む。

 

「悪いっ! 助かった!」

 

 ヴィータの声にザフィーラは答えず。険しい表情のまま闇の書の業から視線を外さない。

 闇の書の業は動かせなくなった魔力刃を消すと、両手を広げた。そして先ほど同様の魔力刃が生成される。今度は両手に一本ずつの二刀流。

 脅威を二倍に増やした昏黒の魔力刃が再び振るわれる。

 

「くそっ!!」

 

 ヴィータはグラーフアイゼンをギガントフォルムへと変え、迎え撃った。

 

 

 

「何か解決策はないか!?」

 

 クロノも魔力刃に狙われ続けるヴィータたちを援護するように動きながら、リインフォースに問いかける。

 彼我の戦力差は圧倒的。こうしてリインフォースと会話していられるのすら、闇の書の業の動きにある特徴を発見したからに他ならない。

 

「ユニゾン時の融合騎は、魔力で構成された情報体だ。純粋な魔力ダメージなら融合騎にのみダメージを与えることができる。魔力を削りきれれば、彼を解放することもできるが……」

「それなら――」

「だが、奴が保有する魔力量は莫大だ。夜天の書がない以上、暴走した時の私のように瞬間的な魔力結合ができるわけではないから、いずれは枯渇するはずだが……それでもここにいる者たちだけで削りきれるほど瑣末でもない」

 

 闇の書の管制人格は六六六の頁に相当する魔力をもって、魔力素の取り込みと結合を極めて短時間で行う半永久機関を実現していた。

 これは夜天の書の機能であり、闇の書の業は異なる。

 これまで何度も蒐集を繰り返して集められた六六六頁に相当する魔力。暴走した闇の書との戦いで死して闇の書に取り込まれた魔力。

 転生機能が発動されるたびに抹消されるはずのそれらの残り滓は、闇の書の業を構成する犠牲者の人格情報と結びいて残り、その累積は膨大な量の魔力と化した。頁に換算すれば数千か、それとも万か。それほどの量の魔力。

 闇の書の管制人格は規格外の回復力で、闇の書の業は規格外の体力を有しているようなもの。

 

 魔力を削るには魔力を当てる必要がある。

 十の魔力を削るには十の魔力を当てなければならない、というほど単純ではなく、攻撃を受けた側が削られる魔力の方が多く、受けた魔力や魔法の性質にも左右されるのだが。

 それでも、覆し得る限界というのはある。たとえこの場にいる者の魔力全てを足したとしても、リインフォースの見立てた闇の書の業の魔力全てを削るには桁が足りない。

 

 絶望的な戦力差だと思えた暴走状態の管制人格。奴も恐るべき脅威だったが、本来の管制人格たるリインフォースの姿を借りているだけの暴走体であった奴は、戦い方が洗練されていなかった。

 大規模な魔法を次々と唱えてくる砲台に等しく、その何分の一かの魔法でも直撃すれば並みの魔導師は吹き飛んで消えるというのに、不必要なほどの大規模魔法を唱える戦い方には隙も大きく、つけいる隙もあった。

 だが、目の前にいる敵は違う。魔力だけではなく戦闘経験や技術すらも積み重ねた規格外の存在。

 

 

「一度に大量の魔力を失わせて、リンカーコアへの負荷で意識を喪失させるというのはどうだ?」

 

 思考を回す。全ての魔力を削らなければ倒せないわけではない。もしそうなら、クロノですらなのはやフェイトを非殺傷設定では倒せないことになる。

 だが、実際にはある程度の魔力を削られれば魔導師は意識を喪失する。短時間で急激に削れば、それだけ意識も落ちやすくなる。

 

「主の意識が落ちても融合騎は動き続ける。まして今の奴は融合騎側が主導権を握る融合事故に近い状態だ」

「くそっ……厄介にすぎるな、融合騎は。……なにか、なにか方法は……」

 

 しばらく間をおいてから、リインフォースが口にした案は。

 

「一番速いのは器を破壊することだ。彼らは融合騎と似たような性質をもっているが、守護騎士機能によって肉体を持つ私とは異なる形のない存在だ。宿る器がなければこちらに干渉できない可能性は高い」

「ウィルを殺せ、と……本気で言っているのか?」

「最も可能性の高い方法というだけだ。……たとえ誰が賛同したとしても、私はその手段をとるつもりはない。そうするくらいならいっそ……いや……」

 

 リインフォースにそのつもりがなかったことに安堵する。もしもその案を本気で唱えられたら、戦いの最中でありながらクロノとヴォルケンリッターの間に拭い切れない不信が生まれていただろう。

 一応、その解決策について全員に念話で伝えたところ、案の定全会一致の否。

 

「他に方法はないのか?」

 

 問われたリインフォースは黙して答えず。

 ない、とも言わないその態度に違和感を覚える。それに先程何かを口にしようとして言い淀んでもいた。

 

「あるんだな? どんな案でも良い。このまま打つ手がないよりはマシだ」

 

 クロノも手詰まりの状況に焦っていた。

 少し考えを巡らせれば、やるつもりはないにしてもウィルを死なせるという案を口には出したリインフォースが、口にすることすらはばかる案がどのようなものか想像がついたはずだ。

 

「ま、こうなったらあれしかねーな」

 

 魔力刃との追いかけっこをしていたヴィータはそう言うと、再度カートリッジをロード。ギガントフォルムへと変形したグラーフアイゼンと闇の書の業の巨大魔力刃が激突して相殺。

 闇の書の業はまるで気にもとめず新たな魔力刃を生み出そうとするが、

 

「やめだ」

 

 ヴィータは突然手に持っていたグラーフアイゼンを待機状態に戻した。

 平然と戦っていた闇の書の業が、初めて怪訝そうに眉をしかめた。

 

「和平の使者なら槍は持たない。お前らもベルカ人の記憶があるなら知ってんだろ?」

「小咄のオチだろ、あれは」

 

 即座に返すあたり、闇の書の業に過去の人間の記憶があるのは事実のようで。

 闇の書の業はそのまま動きを止めると、伺うようにこちらを見ながら挑発的に笑う。

 

「和平ね……見逃してくださいと?」

 

 突然争う様子をなくしたのはヴィータだけではなく、シャマルもまた先ほどまで断続的に発動し続けていた魔法を全て止めて、闇の書の業に向き直る。

 

「あなたの目的は私たちを殺すこと。そうでしょう? それならこの場にいる他の人たちまで巻き込む必要はないはずよね。現にあなたはこれまで私たちヴォルケンリッター以外の、クロノさん、なのはちゃん、フェイトちゃんには避けたり吹き飛ばすだけで、攻撃を当てようとしていなかった。だったら――」

 

 わずかに言い淀むシャマルの言葉を引き継いで、ザフィーラが宣言する。

 

「我らの命が欲しいのなら持っていけ」

 

 闇の書の業の嘲笑が止まる。

 

 クロノはその発言の意味を理解して、隙を見せることになるというのも忘れて振り返り、リインフォースを見た。

 リインフォースは悔しげに顔を歪ませつつも何も答えない。仲間が自ら命を差し出そうとしているのに、何も。

 それを見てクロノもようやく気が付く。これがリインフォースが口にしたくなかった別の手段。

 先ほどのウィルを殺す案とは違って、この手段は犠牲になる当人らがそれを受け入れるとわかっていた。だからリインフォースは口にしたくなかったのだ。気付いてほしくなかった。仲間に死んでほしくなかったから。

 けれど、ヴォルケンリッターもまた同時にその結論に到達していた。

 

「その代わり、私たち以外の子らを帰らせてあげて。そして私たちを殺した後は、その体を返してあげて。消耗した身体でそんなに大きな魔法を何度も使って、大丈夫なはずがないわ。お願い、その子とはやてちゃんは闇の書の……私たちが犯した罪とは関係ないわ」

 

 クロノ、なのは、フェイトを逃がすため、そしてウィルを助けるため、彼らは自らの命を差し出そうとしている。人の命を奪ってきたヴォルケンリッターがだ。

 

 クロノは先ほどまでヴォルケンリッターのことを信用はしていなかった。

 昨日共闘したのも、同じ敵を前にしたがゆえのその場しのぎにすぎないのではないかと疑っていた。

 たしかになのはを始めとして八神はやてと交流のあった人たちからは、同居人たる彼らがいかに良い人なのか様々な証言を得ていた。

 そんなものは日常生活に紛れるための擬態のようなものではないと、どうして言い切れるだろう。過去に大勢を犠牲にしてきた奴らが、プログラムで構成されたシステムが、急に善性に目覚めただなんて、どうして信じられるだろう。

 

 その彼らが今まさに、主たる八神はやてのためでなく、同胞たるヴォルケンリッターのためでもなく、第三者のために命を捨てようとしている。

 その事実に胸が締め付けられるように痛む。

 

「ダメだよそんなのっ!」

 

 なのはが敵前だということも忘れ、悲痛な叫び声をあげてヴィータの元へと飛びついて詰め寄る。

 ヴィータは寂しげに笑うと、なのはの額を指で弾く。

 

「いいんだよ。もともとリインフォースだけを逝かせる時点で釈然としないもんはあったんだ。一番苦しんできたあいつだけが消滅して、あたしたちが残ってていのかって」

「我らはみな主と共に生きられるという誘惑に抗えなかった」

「ちょっと夢を見てしまったのよ。もしかしたら新しい生き方があるのかもって……」

 

 三人は憂愁をたたえた瞳で生への未練とその末の諦めをつぶやいた。

 リインフォースはその瞳に涙を浮かべる。

 

「そんなこと……気にする必要はない。私は消えても、主と騎士たちが幸せな未来があればそれだけで十分に幸福で……」

「ごめんな」

 

 押しとどめようとする声を袖にして、ヴィータは闇の書の業に向き直り、ヴォルケンリッターを代表して宣言する。

 

「夜天の書もヴォルケンリッターも消える。あんたらも悲願を果たして消える。それで終わりにしよう」

 

 その姿に、クロノは亡き父の背を見た気がした。

 母や自分のいる世界を守るために、自ら犠牲になった父クライド。

 そして、他に打つ手もなく犠牲を見ているしかない自分は師グレアムと同じ立場で。

 

 ――ああ、これがグレアム提督の絶望か。

 

「……そんなのはダメだ」

「そう、ダメだ」

 

 クロノのつぶやきにかぶせるように、声。

 ウィルの――闇の書の業の声。

 

 苦渋に顔を歪めてしぼりだすように声を発したクロノとは違い、闇の書の業はその顔に笑みを浮かべてヴォルケンリッターの提案をあっさりと切って捨てた。

 続けて、ぐはあ、と吐き出した息を皮切りに、決壊したかのように笑う、笑う、笑う。ヴォルケンリッターの決意を踏みつけ嘲笑う。そして憐れむようにヴォルケンリッターを見下す。

 

「思い違いをしているようだ。お前たちを殺す――それは確かに俺たちの願いだ。けれどそれだけじゃない。その程度で満足はできない。俺たちの願いは闇の書に関わるもの全ての消滅と裁きだ。そのためにまずはヴォルケンリッターを殺し、夜天の書を手に入れる。俺たちのための防衛プログラムを創り出し、永遠結晶を手中に収め、二つの天を塗りつぶす真の闇の書となる。そして永劫に転生を繰り返し、お前たち夜天の眷属とこそこそ隠れている紫天の構築体どもに無際限の死を与えよう」

 

 笑みの中にはおぞましいほどの憤怒の塊があった。

 吐く言の葉の一つ一つに乗せられた憎悪は、聞く者の心までをも焼かんばかり。放出する殺意はヴォルケンリッターに向けられているはずなのに、そばにいるクロノですら死神の鎌を首元にかけられていると錯覚するほどに濃密。

 

「命を差し出せばそれで終わりだと思ったか? 一度の死で全てが帳消しになると思ったか? たった一度殺す程度で満足するものかよ。

 知ってるか? 復讐という料理は冷めれば冷めるほどうまいそうだ。お前たちは永遠の中でこれからずっと俺たちのために冷めていくんだ」

 

 反論しなければと、否定して、彼らを殺させないと言わなければ。

 そうしてクロノが全霊を込めて金縛りの如き殺意を破らんと力を入れようとした時に、

 

「馬鹿なことばかり言わないでっ!」

 

 これまでの誰よりも、先ほどの闇の書の業の笑い声よりも、さらなる大音声が響き渡る。

 

 高町なのはが、声をあげた。




 余談
 ウィルの姓のカルマンは、はじめから業(カルマ)から連想したというわけではなく、もともとはリリカルなのはらしく自動車関係の名前にしようと、フォルクスワーゲン・カルマンギアからとりました。


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諦めない

「あのね……ずっと思ってたの。みんな事情があって、引けなくて、だからぶつかってるっていうのはわかってるつもりで……。でも、やっぱり我慢できないから、言わせて」

 

 その声は震えていて、その身体もデバイスを握る手も小刻みに震えていて。

 

 だけどその震えは決して怯えによるものではなく、むしろ真逆。

 腹の底の五臓六腑から湧き上がる熱量を、そのかわいい頭と小さな身体で処理しきれずに噴出しているがゆえの現象。

 簡潔に表現すれば――なのはがキレた。

 

「みんなみんな勝手ばっかり! そりゃお互い納得できなくてぶつかり合うことがあるのはわかるよ! だけどどうしてそんな極端ばかりなの! すぐに相手を殺さなきゃ駄目だとか、自分が犠牲にならなきゃ駄目だとか! どうしてもっと時間をかけた方法を話し合おうとしないの!」

「話し合ってどうにかなる領域は――」

 

 闇の書の業が口を挟もうとするが、キレたなのはの言葉は止まらない。

 

「ダメかどうかはじっくりと時間をかけてお話してからにすればいいじゃない! 罰でも償いでも、まずは裁判とか受けて! えっと……どういうのがあるのかわからないけど、その結果を見てからでいいじゃない! 悪いことしたって思っているなら、それで決められたことをきちんとこなせばいいし、ちゃんと償えてないと思ったら、それが終わった時にもっと別の方法で償ってもらうようにすればいいじゃない!」

「いや……一度決まった量刑をこなした後で増やそうとされるのも困る――」

 

 クロノが口を挟もうとするが、ボルテージの上がったなのはの勢いに飲まれる。

 

「なんでもいいの! とにかくみんな極端すぎるの! もう! もう!!」

 

 怒りが臨界点を越えたのかもはや言葉にならず。顔は真っ赤で柳眉は吊り上がり。

 なのはの隣にいたヴィータはぽかんと口を開けていた。至近距離であの声量をうけた耳が心配になるほどに。

 フェイトはどうしていいのかわからないのか、おどおどとなのはと闇の書の業とクロノの間で視線をいったりきたりさせている。

 

 全員、十歳の女の子の本気の怒りを叩きつけられて所在なさげで。次に発言する勇気がなくて。

 

「話をすれば満足なのか?」

 

 最初に口を開いた闇の書の業の胆力はさすがの一言。

 ただし闇の書の業の視線はなのはでもヴォルケンリッターでもなく、クロノに向けられる。

 

「殺す以外に方法がある……と。ちょうど聞きたいこともあるから良い機会だ。なぁクロノ、お前は死以外に妥当な裁きがあると思うか? お前だって俺と同じ経験をしているんだ。殺したいとは思わないのか?」

 

 それは闇の書の業が目覚める前に、ウィルがした質問と同種。

 なぜ被害を受けた側がやり返そうとしないのか。

 

「犯した罪は法によって裁かれるべきだ。僕個人の裁量でするものじゃない」

「誰がやったって同じことだ。奴らのせいでどれだけのものが、どれだけの俺たちが無念のうちに死んでいったと思っている」

「彼らだって強いられていた面はある。それをただ悪だと断じて殺すのか?」

「事情は誰にだってある。それでも罪を犯したのなら、罰をもって裁かれるべきだ」

「違う! 裁きは償いと共にあるものだ!」

 

 クロノも彼らのことを許せるわけではない。悪いのは闇の書だけでヴォルケンリッターには一分の否もないと思えるわけがない。

 それでも先ほどの彼らの姿と言葉はクロノの心を揺さぶった。

 

「きみたちはさっきの彼らの言葉に何一つ感じなかったのか!? 彼らはもうただのプログラムじゃない! 闇の書に関係ない僕たちを逃がすため、きみたちが使っているウィルを助けるために、自分の命を投げ出そうとしたんだ! 今の彼らには他人を思いやる気持ちがある! それがあれば罪を償うことだってできるはずだ!」

 

 クロノの主張を受けて、しかし闇の書の業は何も感じるところがない様子。それどころか薄っすらと笑みを浮かべる。

 

「どうやって? こいつらがやってきたことにふさわしい償いなんてあるのか? なによりも、そいつらに本当に償うつもりなんてあるのか? 数え切れないほどの罪を重ねて、ようやくその因果から解放されたのに、死のうとしているのは管制人格一人だけ。残りの奴らはここに至るまでそのまま生きながらえるつもりだったじゃないか。こんな奴らが本当に命の重さを理解して改心したと思えるのか?」

 

 闇の書の業はヴォルケンリッターに顔を向ける。

 クロノに対してとは一転し、憎悪に燃える灼熱と愚者を憐れむ絶対零度を兼ね備えた瞳で、彼らを責める。

 

「のうのうと生きるお前らを見る被害者の気持ちを考えたことがあるか? 頑張ればどうせみんな許してくれると思っていたか? ああ、大多数はお前らのことを許してくれるに違いない。許すことが倫理的に正しいのだと思い。法に反した私刑で自分の人生を棒に振ることができなくて。お前たちに罰を与えるほどの力を持たなくて。お前たちが生きているだけで、お前たちが幸せそうにしているのを見るだけで、苦しむ者がこの世にはいるんだよ。どうしてお前たちが生きているのに、自分の大切な人は生きていないんだ。どうしてお前たちは笑っているのに、自分の大切な人はもう笑えないんだって。そして悩むんだ。許すことが正しい道だと思いながらも、抑えられない怒りにその身を焼かれ。理性と感情の板挟みの中で、許せない自分がおかしいのではないかと悩んで。苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて――その心の底がどうなっているのか、本当に思いを馳せ、寄り添えることができたのなら、生き続けるなんて選択肢は生まれなかったはずだ」

 

 語る口調には、途中から奇妙な優しさが含まれていた。

 殺された、奪われたという直接的な憎悪とはまた違う。まるで、そのように感じる誰かを気遣っているような。その誰かの代わりに義憤に燃えるような。

 

「それなのにお前たちは……主を守るため、主が望んでいるから、死では何も解決しないから。だからこれからは償いながら生きて行きます――そんなおためごかしで取り繕い、いざ死が不可避になってようやく仕方がないと悟ったような、受け入れたようなふりをする。飽きれ果てた性根だ。()()()俺たちもまたここにいる。いまだに罪から目を背け、白昼夢を見るものを本来いるべき闇の底へと連れ戻すために」

 

 一転して、語る言葉には深い絶望が込められていた。

 闇の書の業は自分たち以外の心を信じていない。行動で示されぬモノに何の期待も抱いていない。

 彼らは救われなかった。闇の書という絶望に未来を奪われて、次の誰かが解決してくれるかもしれないと淡い期待を、闇の書に加わる犠牲者の命で塗りつぶされてきた。

 

「今からお前たちを殺す。これから無限に殺し続ける。安心しろ。死は苦痛であると同時に救済でもある。無限の死に勝る罰はない。もしお前たちが真実過去の所業を悔いているなら、これから無限の苦痛と引き換えに、心は安寧を得られる。罪も償いも考えなくて良い。俺たちが全ての罰を与えてやる。だから、安心して、奪われて、苦しみ続けろ」

 

 だとしても、クロノは放たれる彼らの言葉に、どうしようもなく怒りが湧いた。

 

「僕の友人の口を使って、勝手なことばかりを言うな」

「違う。これは俺たちの遺志であり、ウィリアム・カルマンの意思でもある。彼自身が心の内に抑圧していた絶望だ。友達なのに知らなかったのか? クロノ・ハラオウン」

 

 友がその意思を抱いていたことを否定するつもりはない。彼が闇の書への憎悪を募らせていたことは知っていたし、クロノ自身そんな彼の危うさがずっと気になっていた。

 

 ただ、自分の友人はたしかに闇の書やヴォルケンリッターへと恨みを抱いていて、憎しみを押さえられなかったかもしれないが、それでも優しさも持っていた。

 人をからかって、騙して、屁理屈で言い繕って。だけどずっと思い悩んでいた。

 なのはは怒るだろうが、自分の本音を口にすることで誰かを不安にさせ、傷つけるかもしれないと思って、似たような過去を持ち辛さと思いを共有できるクロノにすら、滅多にこぼそうとしない男だった。

 こんな風に、誰かを傷つけるためにその思いを口にするような男ではなかった。

 

 そんな自分以上に不器用なところが、クロノは好きだった。

 

「それが事実だとしても――お前たちの言い分には納得できない。これ以上誰かを不幸にするな! お前がつらい目にあったからって、誰かを不幸にして良い権利なんてないんだ!」

「なら、やられた側は膝を抱えて座り込んでいろと? たとえ十分な罰が与えられなくとも黙って見ていろと言うのか?」

 

 闇の書の業がせせら笑う。

 そんなはずはないとクロノ自身わかっているだろう? と言外に語っている。

 

 その瞬間、クロノもまたキレた。口から出た言葉は説得のための理屈を超えた、彼の心の底だった。

 

「ああ、そうだ」

 

 闇の書の業が初めて、不快気に眉をひそめた。

 吐く言葉は理論をかなぐり捨てた、クロノ自身の本音だ。誰にも言わないように、自分自身でも気づかないようにしていた、心の声。

 

「なぜやり返そうとしないかと訊いたな! その答えはシンプルだ! 世界はそういうものなんだ! こんなはずじゃなかったことばかりなんだ! 非がなくても、理由がなくても、奪われる時は奪われるんだ! 理不尽に、無意味に!」

 

 迸るクロノの言葉にも強い諦観と絶望があった。

 クロノだって恨んでいないわけではない。憎しみが消えたわけでもない。

 同時に、クロノはすでに過去を諦めている。世界はどうしたって不公平にできていて、理由なく不幸が襲いかかる。何一つ悪いことをしなかった父が死んでしまったように。そのせいで平和を求めたグレアムが過った道に進んだように。

 この世界は、納得できないことばかりの、こんなはずじゃなかったことばかりでできている。

 

「だからこそ未来は――自分が築いていけるものくらいは! 幸せなものにしなくちゃならないんじゃないのか!!」

 

 闇の書の業から笑みが消え、顔が怒りに歪む。

 その表情は泰然としていた彼らではなく、見覚えのある彼のもの。

 

「それでクロノは納得できたのか!? なら、()()()()()良い! ()()()()()諦めれば良い! 俺はまだ奪われた時の怒りと苦しさを覚えている! 頭がどうにかなりそうで、諦められない、おさまらない、止められないんだ! 教えてくれ! どうか、頼むから、教えてくれ! 俺はどうやって諦めれば良いんだ! どうすれば!! あきらめられるんだよ……!」

 

 その時、気づく。

 どうして抑えられるのか。

 問われていたのは()()という理由ではなく、()()()()()という方法の話なのだと。

 

「そんなの、つらくたって、納得できなくたって、無理やり抑え込んで生きていくしかない」

「ふざけるな! それができないから――」

「できる! 僕にだってできた! それなら、きみにだってできるはずだ!」

 

 それもまたクロノにとっての本音だ。自分たちは勝った負けたはあっても優劣はない。同じ過去を持ち、共に励み、たとえ負けたとしても諦めずに追いつこうとしてきた。自分だけが耐えられたのだとしたら、それは自分の方が先にできたというだけのこと。

 

「きみはできないからと諦めるような奴じゃ――」

「お前の強さを、俺たちに押し付けるな」

 

 氷のように冷たく、刃のように鋭い、拒絶の声。

 

 闇の書の業の背、黒い八翼が大きく広がって。

 クロノは無意識に突き動かされるように、デバイスを展開した。

 その動きを認識できた者はいたが、誰も防ぐことなどできなかった。

 動こうとした瞬間には闇の書の業の姿は消失していて、気づいた時にはクロノの目の前に現れていて、昏黒の刃が深々とクロノの腹に突き刺さっていた。

 

 そして、その刃に貫かれたクロノの腹も、その刃を握る闇の書の業の腕も、どちらも結晶で固められていた。触れれば崩れそうな儚い氷の結晶。しかし絶対に崩れることのない、元素も魔力素も動きを止める絶対零度の封印。

 

「弱さを……人を傷つける理由にするな」

 

 クロノが展開したのは、氷結の槍デュランダル。

 右手に握っていた使い慣れてS2Uではなく、事後処理に追われて技師に渡しそびれ、懐に入れていたままだったそれを展開した理由はわからない。もしかしたらデュランダルが自ら飛び出したのかもしれない。そう思えるほど、無意識の行動だった。

 闇の書の残滓との戦いで使用したことで、内部に蓄積されていたカードには魔力がほとんど残っていない。けれどデバイスに刻まれた凍結封印の魔法式は残っている。師に支えられて唱えた魔力の扱い方も体が覚えている。

 今この瞬間に、自分を中心とした半径五メートルに疑似的な凍結封印を展開するくらいはできる。

 

 闇の書の業は刃を引こうとするが、びくともしない。すでに凍結は手を越えて右肘の先まで及んでいる。

 

「俺たちごと凍るつもりか! 馬鹿な……それで死ぬのはお前だけだ! こんな不完全な凍結魔法では――」

 

 わかっている。

 デュランダルはもとより一度きりの凍結封印のために使われたデバイス。

 使い手のクロノは実戦の最中に一度教えられただけの不十分な使い手。

 そんな凍結魔法では、これだけ強大な魔力を内包した相手なら一日足りとて封印は持たないかもしれない。

 

 だからこそ、これでいい。

 

 クロノは微笑んでみせた。

 

「無駄じゃない。その間に増援が期待できる。それにウィルを助ける方法も見つかるかもしれない」

 

 万全のデュランダルの凍結封印なら、闇の書の業ですら抗えず、融合しているウィルをも殺してしまうだろう。

 けれど、先ほどリインフォースが言っていた。闇の書の業は疑似的な融合騎であっても、リインフォースのように個としての肉体を持つわけではない。器となる肉体がなければ存在を保てないはずだと。

 ならば、完全に封印できずにいずれ内側から解かれる程度の封印なら、それまでの間は闇の書の業が宿主であるウィルの肉体を死から守ってくれるはずだ。

 

 我が身の犠牲を許容する覚悟か。それとも友を助けようとする意志にか。闇の書の業が愕然と目を見開く。

 

 急速に低下する体温が身体の動きを鈍化させ、視界も思考も白に染まっていく。雪のような、氷のような、何もない空白に。

 誰かが何かを叫んでいる。闇の書の業か。それともなのはあたりか。

 

(ごめん、なのは。あんなに怒られたのに、結局僕まで自己犠牲だ)

 

 消えゆく思考で最後に家族の顔を思い浮かべようとする。

 

(ごめんなさい、父さん。せっかくつないでくれた命をここで途絶えさせてしまって。ごめんなさい、母さん。また家族を失う悲しみを味わわせてしまって……それから、ごめん、エイミィ)

 

 

 

 

 

 凍結封印が完成する直前、ひときわ甲高い音をたててデュランダルにひびが入り、動きを止めた。

 デュランダルはもとより一度きり、闇の書という規格外の存在を確実に凍結封印するために使われるデバイス。短期間に二度の負荷に耐えられるようにはできていなかった。

 

 魔法の構築がほどけ、行き場のない魔力が周囲を揺らし、二人を覆いかけていた氷は砕けて消える。

 低下した意識の中、凍り付いた唇で言葉を発そうとして、けれど舌も唇もまわらない。

 闇の書の業が発生させていた昏黒の魔力刃が消滅すると、二人を繋ぎ止めていたものがなくなり、意識を失ったクロノの身体は宙へと投げ出され。

 重力に引かれ、空中に血でわずかに赤い軌跡を描きながら、地上へと落下していった。

 

 闇の書の業はそれを呆然と見ていた。

 

「クロノ!!」

 

 フェイトが落下するクロノを助けるためにその場から飛び出し、一拍遅れてからシャマルもまた腹を貫かれたクロノを救おうと急降下する。

 

 闇の書の業は妨害する気配もなく、しばらくの間まるで意識ここにあらずといった有様をしていたが、やがて顔を上げると、一切の表情が消えた顔で残りの面子に向かい合う。

 

「……もう、いい。邪魔をするなら全員殺す。……いいや、死じゃない。ヴォルケンリッターだけじゃない。邪魔をする者も全て取り込んで連れていこう。ヴォルケンリッターのように死なせ続けたりはしない。みんな俺の内で永遠に幸福な夢を見続ければ良い」

 

 何か、決定的な枷が外れようとしている。

 これまではヴォルケンリッターにのみ向けられていた殺意が、指向性のあった殺意が拡散する。

 溢れ出る殺意は結界という空の器を満たすように空間に注がれる。ただの意志に質量なんてないはずなのに、あまりに密度の高いそれは、その場に居合わせる者の五感を変質させる。

 ただの空気がまるで粥全身に重苦しくまとわりつき、息一つ吸うだけにも全霊をかけなければならない。

 

 

 ヴォルケンリッターですら不可避の死を感じるその中で、一人だけがデバイスを構えて、闇の書の業と対峙する。一文字に結んだ口元には強い決意。纏う魔力は清浄さを持って。不屈の精神を体現した少女が立ち向かう。

 実力差は明白。七人がかりですらあしらわれたのに。三人減ったこの状況で敵うはずがない。その力の差が理解できないほど未熟でも愚かでもないのは、絶対の殺意を受けて恐怖に濁る瞳を見れば明らか。

 けれど彼女は双眸に怯えを宿しながらも、眉尻を下げないように眉間に力を入れて、視線は粥のような大気を清冽に裂いて、闇の書の業を射貫く。

 採算も勝率も度外視し、ただそうあるべきという想念だけで、高町なのはという少女は遥か高みにいる相手に挑むことができる。

 

「わたしも、諦めないから」

 

 高らかな宣言に呼応するかのように、結界が粉々に砕けた。

 

 

 

 

 結界の消失にともない、白く染まっていた周囲の光景は、再び夜の黒と雪の白のモノクロームに包まれる。

 結界の内側にいた者は何もしていない。何かするような予兆があれば闇の書の業が即座に止めていただろう。

 だから原因があるとすれば、それは結界の外側にある。

 

「駄目だ……もう魔力一滴も出てこねえ」

「かたすぎんだろこの結界……」

「すみませんが、あとはお願いします……」

 

 地上に大人たちが転がっていた。二十人はいるだろうか。その大半がその場に寝転がって、デバイスを握るほどの力もないほどに消耗している。

 アースラ付きの武装隊の隊員たちがそこにいた。

 一日の間に回復した少量の魔力を使い果たして、もはやバリアジャケットすら纏っていない。その場に膝をつく者、雪原に大の字で寝転がっている者、肩を貸し合って立っている者、すでに意識を失っている者もいるほどで。

 

 その中心に立ち、疲れて伏せる武装隊へと労わりの言葉をかける女、一人。

 

「お疲れ様。後は私たちに任せて」

 

 翠の髪をひとくくりにしたその女は、このような前線にいるはずのない将官服を着用している。

 彼女は地に伏せる武装隊から視線を外すと、上空のなのはたちへの視線を移す。

 

「それから、待たせてごめんなさい」

「リンディさん!?」

 

 アースラ艦長リンディ・ハラオウン。

 アースラの指揮を執る艦長直々に戦場へと足を運ぶなど考えられないことだが、その姿はまぎれもない実体。

 

 続けて、世界が再び色を変える。

 ただし、闇の書の業が張った時のような白に染まる異形の結界ではなく、色彩の明度と彩度を落としたような、ミッド式のお手本のような結界。

 

「ごめんなのは! 遅れた!」

 

 そういうと、膝をついていた者が――いや、膝立ちになって大地に描かれた魔法陣に手をつけ、自身が出来得る限りの精緻で強大な結界魔法を発動させた少年が、顔を上げる。

 

「ユーノ君!」

 

 なのはにとってはもはや見慣れた顔。最も信頼できるパートナー。ユーノ・スクライア。

 

 

 闇の書の業の周囲に浮かびあがった三十の黒球が、ユーノをめがけて襲い掛かる。

 同時にリンディの周囲にも翠の誘導弾が構築され、迎撃に向かう。

 

 黒と翠が衝突し相殺し合うが、撃ち漏れてユーノの元に迫る黒球が五つ。

 それを陽光にも似た橙の影が打ち払う。

 

「どおりゃあっ!!」

 

 豪腕一閃。防ぐなんてまどろっこしい真似はしない。黒球そのものを殴りつけ、衝撃で魔力構成そのものを崩して消滅させる。

 動くたびに長髪をたなびかせ、まるで橙色の風。歯をむき出しにして笑う様は野生の荒々しさ。

 今のアルフは、主以外の盾となることを厭わない。

 

 

 そして、闇の書の業がリンディたちに意識を取られている間隙を抜いて、菫色の流星が奔る。

 それはリインフォースの前で静止すると、宝物のように大切に腕に抱えていた少女をそっとさしだした。

 

「ごめんな、いっつもお寝坊さんで」

 

 リインフォースへと渡された少女がはにかむ。

 ゆったりとした寝間着のままで、茶色の髪も乱れていて、本当に慌てて来たとわかるその少女は、戦場にそぐわない優しい笑みを浮かべている。

 

 そして、はやてを連れてきた女性は愛剣レヴァンティンを鞘から抜き放つと、闇の書の業に向き直る。

 

「すまない、遅くなった」

 

 守るべき仲間には威風堂々とした背を見せつけて。雲の騎士(ヴォルケンリッター)の将。剣の騎士シグナムの髪が、風にゆられて深紅の戦旗のごとくたなびいた。

 

「事情はよくわからんのやけど、ウィルさんを連れ戻せばいいんやろ? みんな、力を貸して」

 

 五人のヴォルケンリッターを従えて、夜天の書の主、八神はやてが声をあげた。



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傷つけられない強さ

 先陣切って飛び出すシグナム。釣られて飛び出すヴィータ。

 二人の背を見るザフィーラは、ふっと息を漏らしたかと思えば、自らもまた飛び出した。

 シグナムの軌道は一直線に闇の書の業へと伸び、両者の距離がみるみる縮まる。

 

「ちょっと待てシグナム! あいつに不用意に近づいたら――」

 

 後を追うヴィータの声は、闇の書の業の異能を知るがゆえに警戒をうながすもの。

 そんなものがなくとも未知の相手には警戒するのが常套だが、今のシグナムは微塵の躊躇もなく敵へと飛び込んでいった。

 

 抜き放ったレヴァンティンによる斬撃は、その途中でとたんに遅くなる。

 それを理解した瞬間、減速させられたのを利用して剣を引き、逆側の足での蹴り上げに移行。

 蹴撃は闇の書の業には届かず空を裂いたのみにとどまった。シグナムが距離を測りそこなったわけではない。攻撃を減速させられて回避されたのでもない。シグナムがいた空間の位置をわずかに後方へと動した。

 

 空振って無防備なシグナムの側面に闇の書の業の蹴りが突き刺さり、吹き飛ばす。

 

「なるほど、奇妙な技を使う」

 

 打ち貫かれた右腹に騎士甲冑は一撃で消し飛ばされ。肉も半ばえぐれたように削られている。

 追いついたザフィーラはシグナムが再構成できるように庇うように前に立ち、ヴィータはといえば鉄槌を持たない左手でシグナムの頭を横薙ぎに叩いた。

 

「この馬鹿っ! 話を聞けよ! っていうかいきなり斬りかかるなんてウィルごと殺す気かよ!」

 

 やいのやいのと責め立てるヴィータに、不思議そうに首をかしげる。

 

「まさか。彼を殺すつもりなどあるはずがない」

「だったら――」

「今の我々の攻撃数発が当たった程度で、あの魔力の護りを貫いて肉に到達するはずがないだろう」

 

 言われてみれば当たり前の。今のウィルの周囲にはあふれ出る魔力が天然のバリアと化していて、元のウィルならば致命傷になり得る攻撃ですら護りを壊すことすらできない。

 ヴォルケンリッターそれぞれが持ちうる最大級の攻撃、シグナムの紫電一閃やヴィータのギガントフォルムが直撃すればさすがに護りを貫いて肉体を損傷させることも可能だろうが、それ以外であればせいぜい魔力を削る程度。

 

「リインフォースや管理局が彼を取り戻すための策を立てるまでの間、攻撃を仕掛け続けて時間を稼ぎ、魔力を削る。それが我々の役割だろう?」

「……だからって思い切りが良すぎんだろ」

 

 ぼやくヴィータをしり目に、損傷部分の再構築を終えたシグナムが再びレヴァンティンを構え飛び出そうとしていて、その肩をザフィーラが握って押しとどめる。

 

「目的はそれで良いが、個々にかかって打ち合える相手ではない。合わせるぞ」

 

 シグナム、ヴィータ、ザフィーラの三人が横一列に並び、構える。

 闇の書の業は余裕を崩さず、待ち構える。魔力を放出せずとも、ただそこにあるという存在感だけで舞う雪が軌道を変えられ空白を生み出す。

 

「我ら三人がかりで一人に相対するなど、どれほどぶりだ?」

 

 

 

 戦う家族たちの後方では、はやてがリインフォースを見上げながら、祈るように、ねだるように、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。

 

「この前みたいに力貸してくれる?」

 

 リインフォースは、何かを口にしようとして。けれど根負けしたかのように顔を緩める。

 

「それが我が主の願いなら」

 

 リインフォースが銀色の輝きを放って霧散し、粒子となってはやてを包み込み、内側へと吸い込まれていく。

 黒地を白と金の刺繍が飾り立てた舞踏服のような騎士甲冑。

 

 背には三対六枚の黒翼。

 ただそれは闇の書の業の光すら奪いかねない昏黒とは違う。

 何か一筋でも光射せばそれで消えるような、けれど静謐に包まれて凪いだ、穏やかな夜の闇のような黒。

 右手に握る十字杖、左手に浮かぶ魔導書。その双方に、四方を向く剣十字を円環が繋ぐ意匠が施されている。

 

「こちらの想像以上の一大事になっていたようね。事情を教えてはいただけないかしら」

「そうそれ! アースラからやと、何が起きてたのか全然わからなくて」

 

 いつの間にかそばに来ていたリンディの発言に、はやてが同意する。

 はやてが目を覚ましたのは、奇しくもクロノがウィルに事情聴取を行っている頃だった。主の目覚めに呼応したのか、シグナムもほぼ同じタイミングで意識を取り戻した。

 当然クロノにも連絡がいったのだが、その頃には彼らはリインフォースの元へと訪れていて、そこで急に結界が張られて内部の情報が確認できなくなったことで大慌て。

 増援を送ろうにも、武装隊の大半はまだ魔力もろくに回復していない。せいぜい全員でかかって結界を破壊するのが限界という有様。

 だから比較的無事だったユーノとアルフに加え、指揮をエイミィに任せてリンディ自らが訪れた。

 

 それは賭けだ。

 リンディが前線に出てくるというのは、闇の書に対抗するためにアースラに搭載された対消滅砲アルカンシェルの発射不可を示している。

 発射そのものはキーを指してひねるだけ、とはいえキー自体に登録された者以外が使用できないように生体認証が組み込まれている。百キロメートルに及ぶ広範囲に存在するあらゆる物質を消滅させるこの兵器は、鍵さえあれば誰でも使用できるものであってはならない。

 つまり、ここで解決しなければアースラにこの事態を治める手段はなく、事態の収束は極めて困難になる。

 

 事情をかいつまんで話す。

 

「今のところ打つ手はないのね。彼がこちらの撤退をみすみす見逃してくれるとも思えないし」

『我らヴォルケンリッターが身を捧げれば、あなた方を撤退させるくらいは可能だ。……先ほどまで、騎士たちもそうするつもりだった。だが、あなたのご子息がそれを留めてくれた』

 

 ユニゾンして姿はなくなったが、たしかにはやてと共にあるリインフォースが、念話の形で答えた。

 

「そう……クロノは正しい選択をしたのね」リンディは口元を引き締めて。「なら、私たちもでき得る限りをしましょう。ひとまずあの厄介な魔法をなんとかしないといけないわね。空間に対して作用する広域魔法なら……調整が難しいけれど、これでいけるわね」

 

 リンディの背に髪色と同じ翠の光が集い、体外から放出された魔力が高速で循環して、その背に妖精の羽根めいた場を生み出す。

 羽根から広がる場はそのまま結界内に広がり、空間に影響を及ぼす。

 

「みんな聞こえてるわね? 飛行や身体強化は大丈夫だけど、今から遠距離魔法は結構減衰すると思うから!」

 

 ディストーションシールド。

 空間を歪め魔力の伝達そのものを阻害する効果を持つ効果を持つこの魔法は、その場自体を盾とすればプレシア・テスタロッサによるアースラへの次元跳躍攻撃を防ぎ、場に包みこめば時の庭園を中心に発生した次元震すら抑え込む。

 アースラの魔力炉からの供給がないため、PT事件で使用した時ほどの効果はないが、むしろこの環境ではそれが十分に機能する。

 自身の周囲や体内に発生させる飛行魔法や強化魔法ならば直接的な影響は受けないが、身体から離れる魔法――射撃魔法や幻術魔法、そしてディストーションシールド同様に、場に影響を与える魔法の効果を著しく低減させる。

 闇の書の業が使う空間駆動魔法も、このディストーションシールドが張られている間はほとんど効果をなさない。

 

「これ、消費が激しいから私個人の魔力だとそんなにもたないのよ。だからリインフォースさん。闇の書の業の分析に加えて、あの空間を動かす魔法を阻害するための魔法を即興で用意してほしいの。離れた場所にある魔力を任意のタイミングで変化させているのなら、そのタイミングを伝える信号自体へのジャミングも可能よね? あなた方ヴォルケンリッターのジャミングは非常に優秀でしょう? 私たちに何度も煮え湯を飲ませたくらいに」

『……それなら不可能ではない。幸いと言っていいのか、あの魔法の元になった魔法式は蒐集によって私の中にある。だが、その次はどうする? あれがなくとも奴の力は我々全員を合わせた分よりもさらに上だ』

「それは戦いながら考えましょう。難しい局面も、確実な勝算がない戦いも、いつものことでしょ? 私たちにとっても、あなたたちにとっても」

 

 リンディは笑顔でそう言ってのけた。

 たしかに自分たちにとって逆境はいつものこと。しかしかつての闇の書の主もヴォルケンリッターも、逆境で精神的に追い込まれて常に不安を抱えながら戦ってきた。追いこまれて自暴自棄になった主も少なくない。

 逆境を当然と見なし、それでもなお不安を見せずに毅然としている指揮官の姿は、この人についていけば大丈夫だと思える安心感がある。

 闇の書の犠牲者であるクライド・ハラオウンの妻だという認識も影響しているとは思うが、それでもほとんど見ず知らずの最近まで敵だった相手に対して、この場は彼女に従うべきだと思わせるほどのカリスマと包容力。

 ギル・グレアムといい、管理局という組織は敵に回すと厄介で、味方にするとこの上なく頼りになる。

 

「あの、私は何したらええかな?」

 

 置いてきぼりにされたはやてに、杖を握ったまま所在なさげに問いかけられて。

 

『いましばらくお待ちください。御身はいまだ闇の書に加えられた負荷から回復しきっておらず、疲労も蓄積されています。あまり激しく魔法を使えば、我らの力が必要な状況になる前に、主の意識が落ちてしまいます』

 

 今はまだやれることは何もなく。

 はやてはしばらく虚空へと視線をやってから、意を決したように両手と声をあげる。

 

「……よし! がんばれみんなー!!」

 

 

 

 

 迫りくる鉄球を掴んで投げ返し、襲い掛かる衝撃破を圧縮空気で吹き飛ばし、地表から迫る鋼の軛を踏み砕いて。

 魔力噴射で加速する鉄槌を圧縮空気の噴射で加速させた剣撃で押し返し、鞭状連結刃の全方位攻撃を手刀で叩き斬り、バリア破壊特化の拳をただの拳で捕まえて。

 鉄槌を振り切るより速く懐に入り拳を叩き込み、接近されるよりも先に長大な魔力刃で叩き落し、堅牢な障壁を拳で砕いて纏う衝撃で吹き飛ばす。

 

 夜天の書を守護する騎士の内、前衛を担当する三人の遠距離攻撃、近距離攻撃、防御、そのすべてを圧倒して闇の書の業は戦場に君臨する。

 

 ディストーションシールドによって、一方的に間合いを掌握され触れることすらできずに翻弄されることはなくなった。

 だがウィルとしての本来の技である圧縮空気の噴出による超加速は健在。さらに闇の書の業が内包する数多くの騎士や魔導師の持つ技と経験、膨大な魔力と演算能力は一切陰りがない。

 その力量は騎士三人が総がかりでなお、たった一発たりとてまともに攻撃が入らないほどに隔絶していた。

 

 ヴォルケンリッターとて、歴戦という言葉では言い表せないほどの経験を積んでいる。

 だからこそ何度ともなく攻撃を受けても、かろうじて即死に至る傷は負わず、そのたびに何度も肉体を再構成して命をつなぐことができた。

 

 そのいずれ破綻する綱渡りに限界が訪れたのは、それほど遠くなかった。

 

 

 闇の書の業は何度も傷を与えて回復されてを繰り返すことに飽いたのか、ヴィータの腹に拳を叩きこむと、そのままその細い首を右手で掴んで宙に吊った。

 強化された肉体とはいえ本気で力を入れられれば、その瞬間に首の骨がへし折れて終わりだ。

 そして現在の夜天の書の魔力では、再度ヴォルケンリッターを召喚するのは不可能。

 

「言い残すことがあれば聞いてやる」

 

 と、こぼしたのは余裕の表れか。止めようと攻撃を仕掛けるザフィーラとシグナムの攻撃を残った左手一本であしらい、飛来するなのはの砲撃を鋭角に展開した積層シールドで減衰させながら逸らすという神業を見せながら、ヴィータが口を開くのを待っていた。

 

「ご、めん」

 

 かすかに瞳を潤ませてこぼれた言葉に、闇の書の業は嗜虐的な笑みを浮かべ、首を絞める力をわずかにに強くする。

 

「和平の次は命乞いか? で?」

 

 ヴィータは首を横に振る。首を握られているので、小刻みに震えているようにしか見えたかもしれない。

 気道が半分詰まった状態で、言葉を吐きだす。

 

「あんたらの……言う通りだよ。あ、たしは……自分たちのことばかり考えてた。死ななきゃならないってなった時だって、自分が罪を犯したから……仕方ないって、こんな自分は許されないだろうって、自分のやっ、たことしか……かんがえてなかった。やられた人のこと、かんがえてなかった」

 

 語る合間にも徐々に肺の中の空気は減少していき、朦朧としつつある意識で、最期の言葉を振り絞る。

 

「だから、ごめんなさい」

 

 それはヴォルケンリッターが被害者に対して告げた、謝罪の言葉。

 

 

 突然、ヴィータの首にかかる圧迫感がなくなった。

 首を絞めていた右手が痙攣したかのように小刻みに震えだし、掴む力が消え失せて首から手が離れる。

 

 自由を取り戻した気道が急速に肺に空気を取り込もうとし、咳込むヴィータ。

 一方、闇の書の業は震える右手を左手で抑えつけながら、にらみつける。

 

「今さら謝ったところで何になる」

 

 ヴィータは咳込みながらも言葉を振り絞る。

 

「わかってる。あたしたちがいくら謝ったところで、償ったところで、どうにもならない」

「そうだ……もう戻ってこないんだ。そんな謝罪、誰も求めては――」

「わかっている。だからただ繰り返すよ。ごめんなさい」

 

 再度繰り返された謝罪を聞き、闇の書の業が顔を伏せて、目の前にいるヴィータのことも忘れたかのように唸り。

 ざわりと頭髪が気を孕んで膨らんだように見えたのも錯覚ではなく。瞬間、分厚い硝子に金槌を叩きつけたような。割れはせずともヒビが入って欠片がこぼれたような。高く、低く、重厚で、甲高い、矛盾した和音が鳴り響き、闇の書の業は悲鳴をあげ、その肉体から光の粒がこぼれ出た。

 

 闇の書の業が纏う黒い魔力ではなく、白い粒。

 それは周囲へと散って、大半が溶けるように空の狭間に消えてなくなる中、わずかな粒がヴィータに触れた。

 

 途端、流れ込んでくる記憶と感情の奔流。

 

 大切なものを奪われた記憶。義憤に燃える記憶。踏みにじられた記憶。未来を奪われた記憶。

 人としての生の末期に、目に映るヴォルケンリッターと闇の書の姿。けれど、彼らの瞳は自分には向いていない。蒐集という目的を果たせるなら誰でもよく、その身に宿す魔力にしか興味はなく。

 路傍の石のように踏みつけられて、蹴とばされて、砕かれて。それきり排除された側のことなど思いも出さない。

 それが許せなかった。

 

 ただ一言で良かった。

 仲間内で慰め合って消えるのではなく。自分たちの存在に思いを馳せてほしかった。

 ただの糧でもいい。対等な敵としてでもいい。自分の命を奪ったということを、自分たちの魂を「いただいて」進むことを認識して、たった一言でも声をかけてほしかった。

 

 それは闇の書が生み出した犠牲者の中でも極一部でしかなかったが、犠牲者たちの中には、そのたった一言の謝罪を求めていた者たちだってたしかにいたのだ。

 

「お前ら……そんな……そんな程度のことで、あたしらを許してくれんのかよ」

 

 戦いの最中だというのに、こらえきれずに涙を流す。

 

 ――忘れるなよ

 

 記憶と感情が薄れる中で、最後にそんな声が聞こえた気がして

 

「忘れるもんかっ……!!」

 

 拭った涙の向こうでは、闇の書の業がヴィータをにらんでいた。

 憤怒に彩られたその顔に、これまでと同様の余裕は微塵もない。

 

「何が十分なものか! 一度罪を犯した奴をどうして信じられる!」

 

 その視線はヴォルケンリッターに向けられていたが、言葉は仲間に裏切られたかのような怒りと悲しみに満ちていた。

 さっきの光景で理解した。あそこに残っているのは謝罪された程度では納得できない者たち。そんな言葉を、不確定の未来を信じられないほどの絶望に身を焼かれる者たちだ。

 

「たとえ今苦しんでいても、どうせすぐに忘れるに決まっている! すまないと謝罪しながら、また人を傷つけるに決まっている!」

「そんなこと――」

「邪魔なんだよてめえらは!!!」

 

 闇の書の業の身体から昏黒の魔力がほとばしり、たばしる絶叫は物理的な圧を伴って、周囲にいたヴォルケンリッターを打ち据える。

 魔力そのものを叩きつける純粋魔力運用を、オーバーSなどという尺ではとうてい収まらないほど膨大な魔力でおこない、ディストーションシールドによって歪められた空間をさらに歪めて正常な状態に戻す。腰まで埋まる雪道を除雪車で強引に押し通れるようにするように。

 それは空間駆動魔法ユートピアが再び発動できるようになったということ。

 

 その瞳が吹き飛ばされるヴォルケンリッターたちに向けられて、直撃すればヴォルケンリッターですら跡形もなく消し飛ばす砲撃が手のひらに構築され、放たれる。その直前に、

 

 

()()()()()!」

「……は?」

 

 吹き荒れる魔力の嵐を突っ切って、少女が闇の書の業の胸元へと飛び込んで、桜色の矛先を突き立てた。

 

 

 

 

 本局技術部所属マリエル・アテンザ技士は、のちに高町なのはのデバイスに施した改造について問われ、早口でこう語った。

 

「ええ、たしかに実装しましたよ。レイジングハート・エクセリオンにカートリッジ一発分の魔力を呼び水に、持ち主のリンカーコアを刺激させ普段は無意識に抑えている魔力消費の枷を取り外し、一時的に出力を倍増させるエクセリオンモード。危険? たしかに危険性はありますね。カートリッジの魔力の上乗せは瞬間的でしかありませんが、こっちは肉体の魔力消費自体を増やして常にカートリッジ以上の魔力がデバイスを廻る状態にするんですから。まずデバイスのフレームがお粗末だとすぐに壊れてしまいます。特にフレームの鋼材に関しては三日間悩みましたよ。そっちじゃない? 魔導師の危険性? もちろんそれも考慮しましたよ。魔力消費が増えれば肉体への負荷も加速度的に増えますし……え? それほどの魔力を扱えるのかって? いやいや先輩、あなたはなのはちゃんという子のポテンシャルをわかっていません。あれだけ基礎的な魔力運用がしっかりと技術として身についてる子はいませんよ。普通なら基礎よりも魔法の構築と制御に時間をかけるんですけど、相当真面目なんでしょうかね? とにかくエクセリオンモードになれば瞬間的な魔力出力は普段の三倍! 遠距離は砲撃魔法エクセリオンバスター! 近距離はデバイスの先端に展開された魔力刃が攻撃と加速の双方を担う牽引(トラクタ)型の瞬間突撃システム(A.C.S)でオーバーSの防御魔法だってぶった切りです! はい? その状態でのカートリッジの使用って……いやあそんなのしないでしょ。短距離走で全力疾走してる時に踊り出すようなものですよ。いえたしかにカートリッジ使用数に制限はかけませんでしたけど、そんなの普通はしない……えっ! ちょっと、なんで怒った顔してるんですか先輩!? いやいや違います開き直ってるわけじゃないです! いたいいたい頭を掴むのはやめてください今日も徹夜明けなんですから! ギブ! ギブアーーップ!!」

 

 

 

 

 矛先が自分の身体に突き刺さる直前、闇の書の業はその先端を両手で押しとどめた。

 デバイスはレイジングハート・エクセリオン、飛び込んできたのは当然高町なのは。

 先程まではディストーションフィールドの影響で得意の遠距離魔法が減衰させられて支援もろくにできなかった彼女は、闇の書の業が力技でディストーションシールドの影響を消し去りヴォルケンリッターを吹き飛ばした瞬間に、誰よりも早く動いていた。

 その素早い判断の元となる高い観察力は、なのはという少女が幼少期の苦しみに負けずに得た後天的な資質。

 

「またか! またきみは、いつも勝手に割り込んできて――」

「さっきのだけじゃまだ言い足りないの!」

 

 闇の書の業は砲撃の構築を即座に取りやめ、代わりに手のひらに作り出した魔力の障壁で矛を抑え込もうとするが、レイジングハートの先端に集う魔力の量はまったくもってばかげているとしかいえない量だった。

 この時、なのははエクセリオンモードの発動に一発、残り五発分を攻撃のために消費、すなわちマガジン丸々一つをこの攻撃に使用していた。

 

「くどいんだよ! 彼が――俺が――どれだけ悩んでいたかも知らずに――」

「知らないよ! だってウィルさんわたしたちに何も話してくれないもの!」

 

 闇の書の業が魔力で抑え込もうとするのを諦め、力技で矛先を逸らそうとする。

 なのははさらに突き進もうと、矛先に展開した六枚羽による牽引(トラクタ)に加え、両足のフライヤーフィンによる推進(プッシャ)でさらに押し込もうとする。

 

「相談してよ! ウィルさんだけで耐えられないのなら、私たちが協力する! 耐えられるように支えるから!」

「どうしてそこまでして関わろうとする! 俺ときみはちょっと関わっただけで――」

「ウィルさんだって、たいして関わったことのない私たちや海鳴を守ろうとしてくれたじゃない!」

 

 体勢を立て直したヴォルケンリッターが加勢しようと近づくが、闇の書の業はそれを阻止するように身体の向きを変え、なのはがそれに振り回されつつも離すまいと食い下がる。

 傍から見れば、少女が青年にとびついてぐるぐると回転しているほほえましい光景にも見えるが、二人とも必死だ。

 

「わかるでしょ! 関わった時間なんて関係ないの! 放っておけるわけないよ! だって、わたしたちはとっくに繋がっているんだから!」

「俺ときみが――――?」

 

 その一言を聞いた瞬間、闇の書の業の純白の髪に一筋の赤が混じった。

 そして戦場には新たに金色の流星が奔る。

 

「なのはがそういう子だって、ウィルさんもわかってるでしょ。敵だった私を助けようとする子だよ」

 

 まばゆいほどの魔力光を纏ったフェイトが、闇の書の業の背にある八翼を切り裂いた。

 慣性制御を司っていた背の羽根を失ったことで、姿勢を崩す。

 続けてフェイトは闇の書の業の肉体にバインドを何重にもかけて語りかける。

 

「でも、私もそう。理屈じゃない。知り合いだから、友達だから、好きだから。そういうはっきりとした理由じゃない。でも、クロノもユーノもアルフもリンディさんも。みんな、あなたのことが放っておけないんだよ」

「そんなの……放っておいてくれ! 俺は一人なんだ! 一人で良いんだよ! 俺のやることを放っておけないなら、認めないのなら! 否定して俺を殺せばいいじゃないか!」

 

 フェイトのバインドも闇の書の業にとってはわずかに花の茎で作った手錠程度でしかなく、身をよじれば散切れるものではあったけれど、

 そのせいでなのはの突撃を抑えこめずに、ついには手のひらに展開していた最後のバリアを破られて。昏黒の魔力光に、赤い光が混じる。

 

「絶対にいや! だってウィルさんを死なせちゃったら、もう会えなくなるから! 放っておいて誰かを殺しちゃたら、きっとウィルさん笑えなくなっちゃうから! だから止めるの! 絶対に、死なせも、殺させもしない!」

 

 レイジングハートの先端がバリアの先に入った瞬間に、矛先に桜色の魔力が集う。

 

「きみにそんなことできるものか! 魔法を覚えたばかりの子供が! 友達を傷つけて泣いてたような子が!」

「そうだよ! わたしは誰かを傷つけたくない!」

 

 なのはの脳裏に浮かぶのは、これまでの戦いだ。

 フェイトとの戦い。管理局とヴォルケンリッターの戦い。そして、ウィルの復讐。

 みんな、自分の考えた正しいことをおこなっていて、どうしようもなくって、もう止められなくって、ああなるしかなかった。話では止められない、もう止まらない。

 だから、決定的な悲劇を迎えるまでの時間を稼ぐために、なのはの力はここにある。そうして稼がれた時間が話し合う猶予を生み出し、新しい道を見つけるきっかけになると信じて。

 

「だから私は考えるの! どうしたら傷つけずにすむのか! 傷つけたくないからもっと丁寧に魔法を使うの! 傷つけたくないからもっとよく見て! 傷つけたくないから手を伸ばすの!」

 

 彼我の距離零での接射。矛先に集った魔力が、傷ついてきた少女の信念が、まばゆい桜色の花となって咲き誇る。

 

「傷つけられない臆病さが、傷つけない勇気が、わたしをここまで連れてきてくれたから!」



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救済の刃

 至近距離からの接射砲撃は闇の書の業を飲み込み、空に光の桜を咲かせた。

 その一撃に全力全開の魔力を注ぎ込んだなのはは、発生した衝撃を受け止められずにその身を木の葉のように吹き飛ばされ、慌てて駆け付けたフェイトとヴィータに受け止められた。

 

「無茶すんなよ高町! あと金色の! でも助かった!」

「き、金色……!?」

 

 あまりにもな呼び名にフェイトが愕然としている一方、少し離れた場所ではザフィーラとシグナムが収まりつつある爆煙の中心地を睨みつけていた。

 

「あれで多少は削られてくれればいいのだが」

 

 爆煙の中央から突風が吹き、煙が一瞬で晴れる。その内から現れた闇の書の業は肉体に汚れ一つない。

 けれど、その髪色は純白から薄い赤に、肌は白いが生気の感じる人の色へと変じていた。

 取り乱している様子はなくなっているが、視線の険しさは増している。

 

「効いてないってわけじゃなさそう……それなら何度でもやるよ! フェイトちゃん!」

「わかってる! 行くよ!」

 

 そんな二人の頭をヴィータが掌で叩いて静止する。

 

「いたいよヴィータちゃん!」

「ああいう無茶は一回だけにしとけ! お前らは後衛! それでいいよな!」

「……たしかに前衛五人は多すぎるな」

 

 などと言っていると、突然すぐそばにいたはずのフェイトやヴィータとの距離が離れ始めた。近づこうと動くと、とたんに別の方向へと視界が動く。

 視界は一秒ごとに向きを変え、フェイトと合流しようとそちらに向かって飛行魔法で加速した瞬間に、フェイトは別の方向へと動かされて合流できず。

 

「ああくそっ! そりゃ使えるようになれば使ってくるよな!」

 

 ディストーションシールドが効果をなくした今、空間駆動魔法を発動しない理由もない。

 空間自体を動かし続けられれば、前衛は近づくこともできず、後衛は照準を定めることもできない。たとえ撃てたとしても暴風吹き荒れる中でキャッチャーめがけてボールを投げるようなもの。闇の書の業へは届かずにあらぬ方向へと反れて飛んでいく。

 

 

 その時、地上から穏やかな波動が広がっていく。

 包み込むようなその波が通った場所では、あれだけ荒れ狂っていた空間が凪いでいく。

 

「こんな感じでええんかな……?」

『御見事です』

 

 はやてが握りしめた十字杖の先端から、不可視の波が結界内に広がっていく。

 

 魔力を変換する魔法そのものは妨害できないが、遠距離にある己の魔力を運動エネルギーへと変化させるための信号自体を妨害する。その意図で即興で組まれた専用妨害魔法は正しく効果を示してくれたようだ。

 これなら、先ほどまでのディストーションシールドとは異なり、射撃や砲撃魔法も減衰されず、後衛も存分に前衛の支援ができる。

 

 額に浮かぶ汗を袖で拭う。

 魔力の使用。体内から自分の活力のようなものが抜けていく感覚にはいまだに慣れない。

 

 はやては一息つくと上空を見上げ、闇の書の業を見やる。

 ヴォルケンリッター三人と接近戦を繰り広げながら、なのはとフェイトの魔法をさばき続けている。その技量は恐るべきものではあるけれど、

 

「ウィルさんの姿、またちょっと変わった? あれって良い変化なのか、悪い変化なのか、どっち?」

 

 距離が遠いのではっきりとは見えないが、髪色に赤が混じったことも含めて、先ほどまでと少し雰囲気が違っているように感じられた。

 それに先ほどまでは、ディストーションシールドの影響下でもシグナムたちの攻撃を軽々とさばいていたが、今は三人の攻撃も当たり始め、向こうに余裕がないように見える。もちろんなのはとフェイトが援護しているからというのも大きいのだとは思うが。

 

『原因はわかりませんが、彼らの融合率が低下しているようです』

「なのはさんの攻撃が効いたのかしら?」

 

 リインフォースの言葉にリンディが食いついた。

 

『たしかにそれも関係あるのでしょうが、先ほどの攻撃でも内方する魔力量の絶対値に比すればさして大きくはないはずです。何よりも先ほどの攻防、ヴォルケンリッターと戦っていた時の闇の書の業の出力なら、高町なのはの突撃も容易とはいかずとも防ぎきれたはず。攻防の最中には融合率は落ちていたように思えます』

「直前に何か白い粒子が出ていて、闇の書の業の魔力が減ったように見えたけれど?」

『あれで減ったのはせいぜい一割程度かと。追い風ではありますが、それだけであそこまで弱体化するのでしょうか』

 

 大人二人が悩んでいる傍らで、はやては奇妙な確信を持っていた。

 

「なのはちゃんの声が届いたんとちゃうかな、心に……あ、ごめんなさい。やっぱり今のなしで……ってリインフォース? どないしたん?」

 

 言ってから場が静まり返っていることに気付いて、真面目に考えている二人にふわふわしたことをいうのはよくなかったのでは。と不安になったはやてだったが、自らの内側にいるリインフォースはその言葉に何か思うところがあったのか、何かを考えてる様子だった。

 

『そう……なのかもしれません。ウィリアムと闇の書の業は我らへの憎悪の一念で強く結びついていた。高町なのはの呼びかけでウィリアムの憎悪以外の意識が強くなり、互いの融合率を低下させた。その結果があの戦力の弱体化なのだとすれば……。我々ヴォルケンリッターではなく、あなたたちの存在を意識させることができれば融合率をさらに下げることができるかもしれません』

「でも、あくまでも融合率が落ちるだけなのよね? それだけで分離させられるわけではなくて」

 

 とすぐさま状況を把握するリンディ。

 

『ええ。融合率が低下すれば、一度に出力できる魔力量は落ちる。ただ、それだけで融合が解除されるほどにまで落とせる可能性は極めて低い。分離させるためには最後の一押しが必要になるでしょう』

「何かええ方法は?」

 

 はやての問いに、リインフォースは即答する

 

『一つだけ、あります。彼の内部で起きているのは融合事故。今の彼は浅い眠りについているような状態です。呼びかけられれば反射的に答えはしても、意識が覚醒しているわけではない。であれば、内部にいるウィリアム自身の意識を覚醒させ、彼自身に拒絶させれば』

「それはただ呼びかけるだけで戻せるものなのかしら?」

『難しいかと。私が彼の内側に潜り内部の彼を起こします。ただ、そのためには彼に干渉できる状態に持ち込まなくてはいけません。一時的にでも彼の周囲を纏う魔力を消し飛ばす必要があります』

 

 破損していないバリアジャケットや騎士甲冑を纏う相手には、シャマルも旅の鏡によるリンカーコア引き抜きができないように、纏う魔力には他者からの干渉を阻害する効果がある。

 

「総攻撃で彼のバリアジャケットを破壊し、再び纏われる前に潜るのね。問題点は?」

『潜った後のことで、二つあります。一つは私が持つ魔力よりも、闇の書の業が内包する魔力の方が遥かに量が多いこと。魔力が多いほど、内部にいる闇の書の業を押しとどめられる時間が増えます。私が彼の内部に潜った後で、あなた方が持つ魔力を全て夜天の書に注ぎ込んでいただきたい。書を中継して、内部の私に魔力が届きます。多少の魔力の質の違いは夜天の書の方で補正します』

「魔力なら何でもいいの? それならなんとかなるかもしれないわ。それで、もう一つの問題点は?」

『私だけが潜っても、それで彼を呼び戻せるとは思えないのです。私と一緒に潜ってくれる存在が必要です。彼の心を揺さぶれるような人が』

 

 そのやり方には既視感があった。昨日ウィルがはやてを助け出すために闇の書の内部に潜り込んだのと理屈としては同じこと。

 それならばと、はやてはぐっと拳を握る。

 

「わかった。私も一緒に潜ればいいんやね。昨日はウィルさんに潜って助けに来てもらったんやから、今度は私が助ける番――」

『いえ、主にはそのまま外に残っていただかなければ困ります。主まで内部に入ると、私に魔力を中継してくれる夜天の書を外に残せなくなります』

「えぇ……でもそれなら誰が行くん? なのはちゃん?」

 

 先ほどウィルの意識を表層化させたなのはなら役者不足にはならないか。

 と、そこでリンディが微笑みを浮かべた。

 

「あら、それならうってつけの人材がいるじゃない」

 

 

 

 

 白濁した視界、耳朶を振るわせる声は右から左へと流れ、肌は寒さも痛みも覚えず、五感は具象を掴み切れず、茫漠とした印象だけをクロノの内に残す。

 鈍化した意識に一つの言葉が浮かんでは消える。失敗した。失敗した。失敗した。

 自らを虐する思考の渦に沈む意識に、光が当たる。

 

『クロノくんっ!!』

 

 聞きなれた声に、頭の中の線が繋がった。

 

 自分があおむけに横たわっていることを理解すると、急いで跳ね起きようとして、肩をがっしりと掴まれて地面に押し付けられる。

 

「ダメです! 動かないで!」

 

 かすむ視界の曇りが晴れれば、妙齢の美女が自分の身体に覆いかぶさるようにして、吐息のかかる至近距離で顔をのぞき込まれていた。

 

「シャマル……?」

「良かった、意識は正常のようですね。傷口が開いてしまうからすぐには動かないで。動く時はゆっくりと、ね?」

 

 言いながら、ゆっくりとクロノの肩から手を放し身体を離す。

 

「くっ……状況はどうなってる?」

 

 焦るクロノの眼前に、ホロディスプレイが投影される。そこに映るのは見慣れた顔、聞きなれた声。

 

『援軍が到着してるから、クロノくんはひとまず大人しくしていて』

「エイミィ……そうか、アースラから……」

 

 アースラの通信士にして自らの補佐官でもあるエイミィ・リミエッタの声は、聞き分けのない子に注意するように若干の怒りを含んでいたけれど、その顔は泣き出しそうに頼りなさげで。普段は何があっても飄々としている彼女にそんな顔をされては、言われたことに逆らう気概もなくなってしまう。

 仕方なしに、あおむけのままで聞く。

 

「わかった。状況を把握するまでは大人しくする。あれから何があったんだ?」

「刃で貫かれて落ちていったあなたをフェイトさんが助けにいったのよ」

 

 シャマルが上空を見上げる。その視線の先には飛び交う金色の光がある。フェイトから放たれる魔力光だ。

 フェイトは落下するクロノを回収し、シャマルへと引き渡して無事を確認した後で、再び空での戦いへと戻っていった。

 

「そしてきみが怪我を治してくれたと……すまなかった。きみたちを助けるつもりで食いかかって、逆に手を煩わせてしまうなんて」

「それこそ気にしないで。それに怪我も完全に治ったわけではありませんし……刃が運良く臓器をはずれていたのは幸運でした」

 

 偶然なのだろうか。あれだけ巧みに戦える相手が、本気で相手を殺そうとしていたのなら、急所を外すようなことをするだろうか。

 もしかするとわざと――と考えるのは都合のいい妄想か。

 

『そのタイミングで武装隊が結界を壊して、リンディさんたちが突入。あのウィルくんみたいな……闇の書の業? だっけ。彼と戦っているよ』

 

 引き継いで語ったエイミィの言葉に驚く。

 

「母さんまで来ているのか!?」

『魔力残ってる人がほとんどいなかったから。武装隊も結界壊す程度にしか魔力回復してなかったし。だから指揮は私が代理でとって、艦内で戦える人は残らず連れて行ったよ。ユーノくんに、アルフさんに、目を覚ましたばかりのはやてちゃんとシグナム。それから……』

 

 周囲を見渡したクロノは、少し離れたところに立っているその人物を見つけた。

 事情聴取に行った時には患者着を着ていたのに、ブランドものだろうドレスシャツとスラックスという最低限ながらも見れる格好に着替えている。いついかなる時も人に見られていることを忘れるなという彼の教えを思い出す。

 その足元には二匹の猫の姿もあった。

 視線が合うと、彼は少し気まずそうに微笑みを浮かべた。

 

「無茶をする……。自分を巻き込んで凍結魔法をかけたと聞いた時は肝が冷えた。一歩間違えば腹の傷よりもそちらが原因で死んでもおかしくはなかった」

「グレアム提督……。ロッテとアリアも……」

 

 三人とも安静を厳命されていたはずなのに。

 彼らの顔を見て、先ほどの光景が頭をよぎる。死に行こうとする者を見送る側の気持ち。

 それを口にしようとする前に、エイミィが口をはさむ。

 

『さっきリインフォース発案の作戦が出たの。そのためにはまず純粋魔力による飽和攻撃が必要で……えっと、シャマルさん? クロノくんはどれだけ戦えるかな?』

「えっ……? まだ戦わせるつもりなんですか?」

 

 信じられないといったシャマルの態度は常識的な反応だ。ただ、クロノという人物をよく知らない反応でもある。

 

『って言われてるけど、クロノくんはこのまま大人しく帰るつもりある?』

「絶対に嫌だ」

『ほらね。こういう人だから』

 

 そのやり取りを見せられて、シャマルは嘆息して状況を語る。

 

「凍結されかけた影響で動きが停止しかかっていたリンカーコアは正常な動作に戻りました。魔法の使用に問題はありません。でも、お腹の傷は臓器こそ外れてましたけど、かなり深いです。今は一時的にくっつけましたけど、激しく動いたら傷がまた開いて動けなくなります」

「わかった。やるなら一回だけにしておけと」

「……本当にわかってる?」

 

 クロノはゆっくりと身体を起こし、自らのデバイスS2Uを杖代わりに立ち上がる。

 そんな弟子の様子にはグレアムも苦笑いして、足元にいる二匹の猫のうち片方に語り掛ける。

 

「アリア、クロノの補助を。クロノは防御も移動もアリアに任せ、きみ自身は無理に動こうとしないように」

 

 にゃあと一鳴きすると、クロノの服に軽く爪立ててするすると昇って、肩に鎮座する。

 怪我もしているし消耗もしている身体には猫一匹でもなかなかのもので、

 

「重いな」

 

 肉球で頬をぶん殴られた。

 

 

 エイミィから作戦についての説明を聞き終えた後、シャマルは一足先に上空の戦いに加勢に戻っていった。

 クロノとグレアム、それからリーゼ姉妹の病み上がりカルテットは終盤になってから加勢するようにと言われた。

 グレアムと並び立ちながら、クロノはこれまでの戦いで感じた想いをこぼす。

 

「さっき、彼女たちが僕たちのために命を捨てようとしたんです。ヴォルケンリッターが、です。ずっと絶対に倒さないといけない相手だと思っていた彼女らが、僕たちのために」

「そうか、彼らはそこまで……」

「それを見て、思いました。ヴォルケンリッターでこれほどなら、父さんが死に行くのを見ていた時のグレアム提督のお気持ちはいかばかりだったのかと」

 

 ずっとグレアムの背中を追いかけてきた。

 いなくなった父に代わり、父ですら憧れの対象としていたこの人のようになりたいと。そうすることで、父に近づけると思って。

 

「あなたがヴォルケンリッターに協力して独自に動いていたと気づいた時、どうしてそんな間違った道をと思ってしまいました。……でも、僕は目の前で誰かを失うことの辛さをわかっていなかった。結局、失うのが怖くて代わりに自分の命を使おうとしてこのザマです」

「それが私ときみの大きな違いだ。私は再び失うのを恐れるあまり、その痛みを他者へ――罪のないはやて君を犠牲にしようとした。困難な道を選ぶ勇気を失ったのを、管理局のため、世界のためとうそぶいて己の理想に背を向け、守るべき無辜の民の命を天秤で測って犠牲を強いようとした」

 

 憧れ、追いかけていた背中はもう目の前にない。

 憧れていた人と並び立ち、空を見上げる。視線の先には救うべき命がある。

 

「私は……きみに最後まで正しい道を示せなかった自らを嫌悪する。そして、それなのに正しく生きようとするきみを尊敬する。たとえかつての敵であっても、仇であっても守ろうとし、そのために命を燃やせる。きみは私の誇りだ」

「……ありがとうございます」

 

 言葉が胸にしみわたり、クロノの迷いは晴れた。

 己に戦う力をくれるデバイスを――S2Uを握りしめ、天を見上げる。

 あそこで戦っている仲間たちの力になるため、いまや仲間となったかつての敵を助けるため、そして敵になろうとしている友を連れ戻すため。

 

「自己犠牲が過ちだったと思うなら、これから取り返せばいい。きみはまだ何も失っていないのだから」

 

 

 

 

 上空に極大の魔力が三つ。

 桜色と金色、そして白灰の三色の魔力が高まる。

 作戦の前段階としての純粋魔力攻撃の要となるのは当然この三人。

 規格外の魔力を持つ、高町なのは、フェイト・テスタロッサ、八神はやて。

 

 妨害せんと放たれた黒蝗の魔力弾の群れを、彼女たちに合流していたユーノとアルフが協力して防ぎ、さらに追撃として振るわれんとする長大な魔力刃をザフィーラの鋼の軛が抑えこむ。

 魔力刃を消失させ、一発一発が致命となり得る砲撃を連射すればヴィータのギガントフォルムがその大質量そのものを盾代わりにして受け止め。

 けれど次の瞬間には闇の書の業の姿はその場から音だけ残して忽然と消え、圧倒的な速度でなのはとフェイトの元へと到達する――その最中に、その驚異的な速度に反応して進路上に身体を割り込ませるシグナム。

 激突する剣と剣が弾き合い、次の瞬間にはシグナムの蹴りが放たれる――より早く闇の書の業の貫手がシグナムの身体を貫通する。しかし自らの身体を貫いた手が戻るより早く、シグナムがその手を掴む。

 回避不可な状態からの蹴りを叩きこもうとしたシグナムの身体がふわりと浮く。投げ飛ばされたのではなく、触れ合った箇所から運動エネルギーを流し込まれて強制的に動かされた。

 身体の自由を奪われたところに、至近距離で放たれた砲撃がシグナムを飲み込む。一撃で騎士甲冑を砕かれ意識も刈り取られ、無防備な状態にさらに続けて砲撃が。

 

 とその直前に、闇の書の業の身体を翠のバインドが抑え込む。

 リンディが生み出したバインドはさらに数を増し、何重にも闇の書の業を抑え込み、けれど数を増やす倍の速度でバインドが壊される。

 闇の書の業の背後に生成された旅の鏡から伸びるクラールヴィントの鋼糸が四肢を拘束。さらにアルフとユーノの橙と若草色のバインドが重ねられ。

 

 一つ一つ破壊しようとするのではなく、大量の魔力放出により一瞬で破壊せんと闇の書の業が纏う魔力が膨れ上がったその瞬間、その眼前にグレアムが姿を現し、右手で杖を突きつけながら左手の人差し指を口元で立てる。

 

『Be quiet』

 

 凍結魔法で生成されたデクラインタイプの魔力場が闇の書の業を包み込む。

 氷は発生しない。凍結魔法の本質はエネルギーを奪うこと。通常の凍結魔法が物質の温度を低下させ氷の棺を作り上げることであり、凍結の極致が元素と魔力素のエネルギーを奪う物魔双方の完全な静止。そしてこれは物質の温度を低下させず、魔力の温度のみを低下させる――すなわち魔力のエネルギーを減衰させるための凍結魔法。

 

 バインドを破壊せんと膨れ上がった魔力は放出直前に勢いをなくし、自らを縛るバインドの半分を壊すにとどまった。

 そしてグレアムの肩に乗っていたリーゼロッテは、意識を失ったシグナムにとびかかって襟を咥えると、グレアムともどもその場から瞬時に離脱。

 

 

「スターライト――」

「プラズマザンバー――」

 

 なのはとフェイト、極限にまで高まった二人の魔力が解き放たれる。

 

「「ブレイカァアア!!」」

 

 二人の声が重なり、桜と金の二条の光が絡み合い、その力の奔流が闇の書の業へと迫る。

 闇の書の業の前方に展開された積層シールドがそれを受け止め、一枚一枚削られて徐々に迫る中、闇の書の業はそれを補うように新たなシールドを展開する。

 

「リインフォース! 力を貸して!」

「もちろんです。我が主」

 

 白灰の魔力が集う。なのはやフェイトをさらに上回る魔力量を持つはやてが、夜天の書に蓄えられた魔力を消費し、リインフォースという最高級の補助を受けて紡ぐ。人類最大級の純粋魔力運用。

 

「響け終焉の笛――ラグナロク!」

 

 目も眩むほどの閃光が結界内を白の一色で染め尽くし、シールドを消し飛ばして闇の書の業を飲み込んだ。

 

 光の靄が晴れた後にいたのは、両腕をだらんと垂らし、瞳は焦点を失ったウィル。

 白髪はいまやそのほとんどが赤へと戻っている。黒い魔力光は黒と赤が入り混じった血のような色へと変化している。

 作戦は成功したと誰もが思った瞬間、その顔がはやての方を向き、背に再び黒い八翼が形成される。

 

 今のはやては大規模魔法を使った直後で、対応できない。そばにいるなのはとフェイトも同様。

 あと一押しが足りない。ここではやてがやられることになれば、計画の全てが瓦解する。

 リインフォースがそれを庇ってもやられても、夜天の書を奪われてもおしまいだ。

 

 そして八翼が気を孕み、飛び立とうとする刹那に

 

()()()

 

 先ほどまで焦点の合わない瞳ではやてを向いていた闇の書の業の首が、声の方を向く。

 そして焦点の合わない瞳のまま、ウィルは彼を見た。

 

 いつも着ていた黒のロングコートすら形成せず、その内側に着ていたスポーツウェアのようなバリアジャケットをむき出しにして、両腕の手甲もなく素手でS2Uを握りしめ、その両目にはたしかな光を宿し、真っ向から闇の書の業を――ウィルをにらみつけるクロノの姿。

 

 ウィルという人間の意識を表層にもってくるのに最も適した存在は、クロノを置いて他にいない。

 

()()()

 

 それを告げ、その場から動かずに魔法の構築を始める。

 空から落ちずにいられるのは、傍らにいるリーゼアリアが足元にフロータを生み出してくれているから。

 

 叩きつけられた挑戦状に反応したのは、闇の書の業ではなく、きっとウィリアム・カルマンなのだろう。

 ウィルもまた剣を掲げる。体の内側から黒と赤の粒子が湧き出て、剣と化す。

 百メートルにも及ぶ大刀。黒の混じった赤色は渇いた血の色にも見える。

 

 クロノが掲げたS2Uの前方に、数百本の魔力刃が構築される。

 スティンガーブレイド・エクスキューションシフト――プログラムによって無慈悲に作り出された、咎人を裁く執行の刃の群れ。

 今のクロノの持ちえる魔力だけでなく、破損したデュランダルに組み込まれていたカードに残されていた魔力すらも制御して生み出されたその刃の数、普段の三倍の三百本。

 

 だが、そんな小さな刃がいくらあったところで、血塗れた大刀の一閃で砕かれるだけではないのか。

 

 

 争い溢れる戦場に、まるで場違いな音が流れる。静かで、どこか心安らかになる、優しい曲。音の発生源はクロノが持つデバイス。

 その曲を耳にしたリンディは耐えきれずに瞳を震わせた。

 

 それは亡くなった夫に代わり、派閥の長として皆を率いなければならなくなったリンディが、一緒にいてあげられない我が子へ――子守歌さえ歌ってあげられない我が子へと贈った一振りのデバイス。

 S2U――きみに贈る歌(Song to You)という名を冠するデバイスに込められた、母の思い。

 

 曲が干渉し、魔法プログラムが変化する。詠唱魔法は、声という新たなパラメータを用いて複雑なプログラムを練り上げる。そしてクロノは発声ではなく曲をもって、詠唱魔法を構築する。

 音の連なりに合わせて、無数の魔力刃が一つに重なり始める。いくつもの音の連なりが一つの曲を作り出すように。大勢の思いが集って一人の人間を育て上げるように。

 無数の魔力刃が重なり合って、巨大な一つの刃が現れる。長さが百メートルにも及ぶ巨大な魔力刃。クロノですら、詠唱なしでは維持できないほどの巨大な刃。

 それはもはや、咎人を裁く無慈悲な刃の群れではない。

 憎悪と肉体を切り離さんとする、救済の巨刃。

 

「スティンガーブレイド――――サルベーションシフト!!」

 

 青と赤の刃が激突し、互いを食い合うようにせめぎ合い、そして同時に砕けた。

 

 結果は互角。

 けれどウィルは砕けた刃を捨ておいて、再び昏赤の大刀を生み出す。

 一方のクロノにとっては魔力を振り絞った一撃。二度は同じものを生み出すだけの余力はない。

 

 その時、折れた柄の部分からバインドが伸び、折れた刀身をつなぎとめる。互いに手を伸ばし合うように。

 ウィルがもう一度生み出した刃を振るうよりも、手を伸ばし合って再び一つになった刃が振るわれる方が速く。

 青い巨刃がウィルの纏う魔力を切り裂いた。

 

 

 役目を果たしたとばかりに砕けて消えていく自分の魔力刃を見ながら、クロノは大きくため息をついた。その足元でリーゼアリアが褒めるようにじゃれつく。

 

「最後まで待機しておいて正解だったな」

「お手柄よクロノ」

 

 

 

 ダメ押しの一撃を受けたウィルは意識を失い、クラールヴィントをはじめとする多種多様なバインドで拘束されている。

 ただし、闇の書の業の全てをこの攻撃で祓えたわけではない。全体量としては二割か三割を削った程度でしかなく、これまでの攻防で削れた分をまとめてもまだ半分以上は残っていると思われる。

 この一連の攻撃はウィルの肉体を操るために表層に出てきていた魔力を飛ばしたにすぎない。

 うかうかとしていると、内部に巣くう残りの闇の書の業の魔力が再びウィルの肉体へと行き渡り、ウィルは再び闇の書の業としての活動を再開する。

 問題を根本から解決しなければ意味はない。

 

「行くぞ」

「ああ」

 

 クロノの背後にリインフォースが現れる。

 ユニゾンを解かれたはやては、なのはとフェイトに支えられて宙に怖々と浮かんでいる。

 

 クラールヴィントで肉体を拘束され、グレアムの凍結魔法で魔力の動きを緩慢にさせ、その隙にウィルの肉体へと潜り込む。そのために必要な人材は、リインフォースとクロノだ。

 

『Absorption』

 

 リインフォースは隔離領域にクロノを収納すると、ウィルの肉体へと目掛け空を翔ける。

 

「リインフォース!」

『クロノくん!』

 

 その背にはやてとエイミィの声が届く。

 

「『頑張って!!』」

 

 そしてリインフォースとクロノは、ウィルの内面世界へと飛び込んだ。

 



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さよなら

 一瞬の浮遊感の後、意識が深い穴の底へと落ちていく感覚。

 電灯を消すようにぶつりと途絶えた意識に再び明かりが灯された時、クロノは夕暮れの空の下、石畳で舗装された道の上に立っていた。

 隣にはリインフォースもいる。

 

「まさか、ここがウィルの精神なのか……?」

 

 クロノとリインフォースが周囲を見回せば、辺りに広がるのは庭園のような、公園のような、自然の風景。

 ゆるやかに曲がる石畳の道の右手には夕陽に照らされ赤と金に染まる池が、左手はゆるやかな斜面になっていて丘へと繋がり、遠くに見える森には木々に囲まれるように礼拝堂がたたずんでいる。

 

「たいていの人間の心象風景は慣れ親しんだ自らの家になるのだが……たしかに落ち着く場所ではあるが、ここがウィリアムにとって一番深く繋がる場所なのか?」

 

 不思議そうに首をかしげるリインフォース。

 一方、クロノは熱くなる目頭を押さえ、眉間に力をいれておさえて息を吐いた。

 

「……わかる気がする。あいつがどこにいるかも検討がつく」

「ここがどこだか知っているのか?」

「よく見知った場所だ。第一管理世界ミッドチルダ西部エルセア地方、共同墓地メモリアルガーデン。……僕たちの父が眠る場所だ」

 

 

 石畳の道を進めば、すぐに霊園部にたどり着いた。

 夕暮れに照らされる墓石が立ち並ぶ中、記憶を頼りに歩み続ける。

 友人になってからは命日に一緒に墓参りに訪れ、お互いの父の墓に花を捧げてもいる。

 

 そして辿り着いた場所には、ウィルの父――ヒュー・カルマンの墓はなかった。

 

 周囲にいくつもの墓石が並ぶ光景は記憶通り。

 しかし、ヒューの墓があるはずの場所には、墓石の代わりに扉があった。

 

 取っ手のない観音開きの鉄の扉。何の飾りもないその扉の向こうから、強烈な熱を感じる。

 開けてはならぬと本能が警鐘を鳴らすほどの圧力――熱が、扉一枚隔てた向こう側から伝わってくる。

 本能に逆らいながら歩み寄ると、門の上部に何かが記されていることに気がついた。

 クロノは目を細め、門の上部に刻まれた言葉を口にする。

 

 

 

  ETERNAL BLAZE 

 

 

 

「それが彼の核だ」

 

 第三者の声が墓地に響く。

 気が付くと、門のそばの墓石を椅子代わりに一人の男が腰かけていた。

 姿はウィルのまま。けれど纏う雰囲気は明らかに異なる。

 

「墓石に座るな」

「いいんだよ。これは俺の……俺たちの墓なんだから」

 

 ウィルの姿をした男は立ち上がると、周囲の墓石を見回す。つられてクロノも周囲を見れば、墓石の多くは名前が削り取られたかのように読み取れなくなっていて、名前が残っている一部の墓石を見れば妙に古風な名前が多いように見える。

 

「お前は闇の書の業か」

「本当の名前は―――――っていうんだが……あれ? なんだったかな。どうやらその情報は転生の中で欠落したみたいだ。まぁいいさ、もう自分の元の姿もわからないんだ。名前なんて今更だ」

 

 男が先ほどまで座っていた墓石を見ても、本来名前が刻まれている箇所は削り取られていた。

 

「内側に入り込んで、そこの管制人格が俺たちを抑えているうちにクロノが我らが王を説得して、自発的に俺たちとのリンクを弱めさせる。……おおかたそんなところだろう?」

 

 狙いを看破され緊張感を高めるクロノとは裏腹に、闇の書の業は大げさに両手を肩まであげて首を横に振った。

 

「あいにくとその目論見は大間違いだ。さっきも言っただろう? これは俺たちの遺志であり、彼の意志でもある」

「だが、我々がウィリアムに呼びかけるたびに、彼とお前たちの融合率は低下していった。お前たちはウィリアムの意識を掌握しきれていない。……違うか?」

「そりゃそうさ。王は臣下を従えるもの。そして王はたとえ復讐の邪魔になるとしても、クロノたちを殺すのを嫌がった。融合率の低下はそこでちょっとしたいさかいが起きただけの話さ。……ただな、その根っこの部分は別だ。王と俺たちの願いはともに復讐。ウィリアム・カルマンという存在の根幹は復讐の化身で、それが変わらない限り俺たちが離れることはない。……かわいそうなほどにな」

 

 語りながらも男は歩を進め、門の扉に手をかけた。

 

「信じられないのなら、拝謁を許そう。この扉の先に王はいる」

 

 取ってのない扉が解き放たれ、その向こうに広がる赤色が眼を灼くと同時に、クロノは後ろから誰かに突き飛ばされて門の中へと落ちていった。

 

 

「クロノ!」

 

 身を乗り出そうとしたリインフォースを遮るように、解き放たれた門の前に闇の書の業が立つ。

 

「「「呆けるなよ。クロノは彼と。それならお前は俺たちとだろう?」」」

 

 声は前だけでなく後ろから。先ほどまでクロノが立っていた場所のすぐ後ろにも、ウィルの姿をした男。

 いや、気づけば声は四方から聞こえてくる。

 地平線の彼方まで並ぶ墓石の半数ほどに、ウィルの姿をした無数の男たちが腰かけていた。

 男たちが立ち上がると、夕暮れ刻の空から太陽が沈み、世界は真っ暗な闇に包まれる。

 

「「「それでは俺たちも戦おう」」」

 

 クロノのことは心配だが、門の先にウィルがいるのであれば当初の目的と何も問題はない。

 

「そうだな。私も全力で相手をしよう」

 

 リインフォースの周囲の闇が押しのけられ、何もなかった虚空の闇に天が生まれる。

 月と雲があり、彼方に星の煌めく夜の(そら)

 闇と夜がお互いの領域を削り合うように浸食し合う。

 

「予想以上の魔力だ。どこから持ってきた?」「おそらく、アースラの動力炉からの直接供給だろう」「無茶をしたな」「アースラの魔力全てを流し込んでも、俺たちの魔力総量全てを削るには届かない」「なによりもそれだけの魔力を受け止めれば、お前は――」

 

 異なるウィルが次々と発する言葉に、リインフォースは毅然として応える。

 

「そんなものは早いか遅いかの差だ。私たちの未来はクロノ・ハラオウンという少年に賭けている。私が時間を稼いでいる間にクロノがきっとウィリアムを連れだしてくれる」

 

 リインフォースは己の胸に手を置いて、告げる。

 優しいはやても、真っ直ぐなクロノも、勇敢ななのはも、ウィルを――大切な人を連れ戻すために動いていた。そのために必死になっていて、気を配れなかったのだろう。向き合わなければならない相手はウィルだけではなく、闇の書に未来を奪われてきた数多の犠牲者たちもなのだと。

 いや、違う。

 

「お前たちの願いは叶わない。仲間たちは殺させない。……だから、お前たちの戦いはこれが最後だ」

 

 闇の書が築き上げた数多の犠牲者と向き合うべきは、今を生きる彼らではなく、『私』だ。

 

「お前たちを苦しめた元凶は、闇の書の罪はここにいる。存分にかかって来い」

 

 闇の書と呼ばれることを厭っていたはずの彼女は、自らの意志で闇の書の名と罪を背負って、復讐者たちと対峙する。

 

 夜と闇がせめぎ合い、世界に亀裂を生み出した。

 魔力で領域を奪い、演算で法則を犯し、互いの存在を喰らう、融合騎同士の戦いが始まった。

 

 

 

 

 門を通り抜ける時には意識の喪失はなかった。

 通ったと思った瞬間には、世界が色を変えていた。夕暮れの赤と金が染める世界から、鮮烈な赤と黄を基調とした暴力的なまでの光に満ちた世界。

 地が燃え、天が燃え、大気そのものが燃える、あまねく全てが燃える世界。

 

 現実であればバリアジャケットがあっても一瞬で身を焼かれ灰になるほどの炎に包まれながら、クロノの肉体には傷一つつかない。これだけの炎もただの心象風景であって、現実ではないのことの証左だ。

 ただ、炎が発する熱気は息苦しさを感じるほどで、クロノの心に行き場のない衝動を呼び起こそうとしてくる。

 在りし日にたしかに感じた我が身を燃やさんばかりの熱量。怒りや憎悪と呼ばれる類の熱。

 こんなところに長居すれば気が狂ってしまいそうだ。

 

 炎で満たされた世界にいく筋もの黒の線が見える。それらは全てが鎖だった。

 空から鈍く艶のない鎖が幾条も垂れ下がり、四方の大地からも鎖が伸びている。

 

 それらの鎖全てが集中する一点、そこに一人の少年がいた。

 

 大気さえも燃えるような世界で視線は通らないはずなのに、それでもそこに彼がいることははっきりとわかった。

 周囲の炎よりもひときわ赤い。真っ赤に輝く赤髪に、赫焉とした赤眼。ぼろきれのような服を身に纏い、天と地から伸びる鎖がその四肢へと繋がっている。

 

 そばに寄ろうと考えた瞬間、両者の距離は声をかければ届く程度へと変化していた。

 

「クロノか。何しにきた」

 

 ほんのわずかな言葉。でもそれだけでウィル本人なのだと直観した。

 

「闇の書の業を止めるため、そしてきみを助け出すために」

「必要ない。これは俺が望んだことだ」

 

 ウィルの答えは簡潔。

 闇の書の業が語った通りだというのか。

 ウィルの意識はヴォルケンリッター以外を殺さないように働いていただけで、闇の書の業に飲まれることも、彼らとともに永遠の復讐を果たすことも、ウィル自身が望んだことなのだとすれば。クロノたちの計画は最初から成功の目がない。

 

「これがきみの心の中なのか?」

「そうだ。父さんの死を理解した日から、心の内にずっと燃え続けている炎だ」

「これを……ずっと、抱え続けてきたのか?」

「最初のうちはな。そのうち、心の中に扉ができて炎はそこに押し込められて、普段は普通に生きられるようになったよ。でも、扉の向こうではずっとこの炎が燃え続けていたんだ。ほんの少し扉を開ければそれがわかる。いいや開ける必要もない。扉から漏れる熱がずっとじくじくと苛むんだ。諦めた方が楽だって思ってても、諦めようとすると気が狂いそうで、諦められない。だから俺は最後まで復讐のために駆け抜けて死ぬ。それが俺だ。俺の意思(WILL)だ」

 

 クロノはこんな風に可視化された形で自分の内面を見たことはない。だからもしかするとクロノの内側にも似たようなものはあったのかもしれない。

 自分も父の死を告げられた時、泣き崩れる母の姿を目にした時、泣き、怒り、そして憎んだ。自分から大切な父を奪った闇の書という存在を。この世の理不尽というものを。我が身を燃やさんばかりの熱を感じた。

 それでも、わかる。これを十年抱え続けてきたというのは、抱えたまま普段は何事もなかったかのように笑っていられたのは、異常にすぎる。

 

「諦めるつもりはないんだな?」

「諦められないんだよ。なぁクロノ、何度目になるか忘れたけど、教えてくれ。()()()()お前は諦められるんだ?」

 

 その質問の意図はすでに理解している。

 理由ではなく、方法。そして自分が用意できる答えは耐えるしかないということ。

 けれどそれは、ウィルにこれから先もこの炎に身を焼かれながら生きていけというに等しい。

 今は大丈夫かもしれない。でも耐え続けるだけでは、いつかはきっと狂ってしまう。何か代わりにウィルの心を守ってくれるものがなければ、いつかはこの炎にその身を焼き尽くされてしまう。

 

 復讐を止めるにはどうすればいいのか答えられず、ウィルを救うにはどうすればいいのかわからず。何もできないクロノは、その場でゆっくりと拳を構えた。

 

「殴って止めようって? たしかにそれが一番正しい選択だ。誰だってそうするよな。相手――敵のわがままに付き合う必要なんてない。それで良いんだ。どうせ、俺たちの歩む道はもう交わることはないんだから」

「違う。……違うんだ。どうしていいのかわからない。どうすればきみの望む答えを出せるのかも、どうすればきみを止められるのかも何もわからない。でも、きみを助けるのを諦めるのだけは……絶対に、嫌だ。だから、僕がやれることはたった一つだ。全霊できみにぶつかる。だからきみにも全霊でぶつかってほしい」

 

 その言葉に、ウィルは笑った。眉尻を下げて、悲しげにほほ笑んだ。

 

「そっか」

 

 そしてウィルもまた拳を構える。

 四肢を結ばれた鎖がじゃらりと金属質な音をたて、それが繋がる世界もまた大きく胎動する。

 

「行くぞ、ウィル」

「来いよ、クロノ」

 

 

 

 燃え盛る世界の中で、二人の少年がぶつかり合う。

 

 最初はお互いに、魔法を使い、覚えた格闘技を駆使して戦っていた。

 しかしそのうち、いかな魔法を使おうと、いかな技を使おうと、いかに急所を突こうが、何も関係はないと気づく。

 ここは精神世界。いかに隙をついて敵を撃ち貫くかの現実の戦いとはまるで違う。

 望めばどんな技でも、どんな魔法でも使える。近づこうと思えば一瞬で吐息のかかる距離まで近づくことができるし、離れようと思えば千里の先まで離れることもできる。天から流星を落とすことも、地を砕いて吹き飛ばすのも、視界一面を光で埋め尽くすのも、いくらでもできて、そして次の瞬間には時間が巻き戻ったかのように元に戻る。

 

 偶然の勝利も、意表をついた策略も意味をなさない。

 互いにできることは己という存在を押し付け合うことのみ。歩んできた道を、刻まれた思いの重さで、相手を押し潰し合う。

 

 だから、自然と闘いは地に足をつけての殴り合いになっていった。

 魔法もなく、技もなく、力の限り振り絞った拳と蹴りを、腹の底から引き絞った声に乗せて振るう。

 それが本当に効率的なのかはわからない。ただ、二人ともそれが一番効果的に相手に意思を押し付けれると感じた。

 

 そして実際に、拳を叩きつけるたびに何かが伝わってくる。

 ここが精神の中で、こうして姿を持つウィルやクロノ自身も精神体だからだろうか。お互いに強く接触するたびに、彼我の境界が揺らいで何かが流れ込んでくる。

 

 でも伝わるのは漠然とした思い。

 クロノが自分を本気で助けようとしているのは伝わってくる。

 クロノ自身もまた、闇の書への憎しみを抱えていることも伝わってくる。

 憎しみを抑え込んで、復讐の道を選ばずに生きるという決意も伝わってくる。

 

 それだけでは意味がない。

 こんな風に言葉という不自由なツールではなく、心と心が触れ合えば様々な誤解もなく人と人は通じあえるのかもしれない。

 でも、それだけでは新たな答えは生まれない。触れ合うクロノも答えを持っていないから、お互いの感情を伝えあっても、互いが持つものを共有するだけにしかならず。

 

 だから、二人は拳で感情を伝えながら、言葉を交わす。

 

「殺されたんだぞ!」

「知っている!」

「奪われたんだぞ!!」

「わかっているさ!!」

 

 言語という不完全なツールを己というフィルタを通して、自らの価値観に照らし合わせて理解し、時に受け入れ、時に拒絶して。今度は自分が相手に伝えようと言葉を尽くし、受け取った相手もまた彼の価値観というフィルタを通して理解し、時に受け入れ、時に拒絶して。

 そうして、不完全なものを理解しようと努めるその心こそがきっと、おはなしをするということなのだろう。

 

「許せっていうのか! あいつらを!」

「違う! 僕だって……僕だって、父さんを殺されて、母さんが苦しんできたのを見ていた。そんな簡単に許せるもんか!」

「だったらわかるはずだ!」

「でも! 僕たちは今の彼らのことも知っているだろう! 彼らがただの悪人じゃないってことは僕よりもきみの方が知っているはずだ!」

「知ったことか! 俺は奪われたんだ! だから、俺も奪うんだ! 奪った側だけそれっきりなんて、そんな不条理があるもんか!」

「きみの父親は、きみがそうすることを望んでいるのか!?」

「父さんが望んでいようが、いまいが、そんなことはどうでもいい!」

 

 クロノの腹に拳が突き刺さり、体が浮く。

 

「これは残された俺の意志! 俺の復讐だ! だってそうだろ! 死人は何も語らない――語れないんだから!!」

 

 続けて放つ拳が側頭部にたたきつけられる。

 ウィルは友に拳を振るうごとに、復讐以外の雑念を捨てて純粋な意思の塊へと変貌しようとしている。

 たった一つの元素で構成された高純度の刃へと変貌していく。

 

「違う!!」

 

 だが、クロノは折れない。ふらつく体は決して地につくことはなく、その瞳から意思が消えることもない。

 そして今、ウィルの言葉を受けて理解した。どうして復讐を望んでいないのか。どうして復讐以外の道を選んだのか。

 

 ウィルは自分の意志だと言った。他人の意志は関係ないと言った。死人は何も語れないと言った。

 クロノも自分の意志で復讐を止める。でもそこに他人の意志が関係ないわけではない。そして死んだ父は何も語れずとも、その生き方は何よりも雄弁にクロノに教えてくれた。

 

「僕たちは死んでいった父の生き方を見てきたはずだ! 僕たちを育ててくれた大人たちの願いを感じてきたはずだ! 心に生まれる思いだけが自分じゃない! 受け継いだ意志だって自分自身だ!」

 

 クロノという存在は、単一元素からなる純粋な刃には程遠い。

 だが、鉄には多くの元素が含まれているように、鉄に炭素を混ぜて鋼とするように、鋼を刃へと変じるように。時にはその不純物こそが、己という形を保つため、曲がらず、変わらず、存在し続けるために必要となる。

 そして重量が勝敗を分かつのであれば、すべてを投げ出した者よりも、より多くを背負った者の方が強く。

 

「僕はあの人たちのようになりたい! 僕たちの生きる世界を守ろうとしてくれた父さんのように! 僕の生きる世界を守り続けてくれた母さんのように! ()()()耐えるんだ! 憧れたあの人たちに胸を張って、これが僕だと――クロノ・ハラオウンだと言えるように!!」

 

 その言葉を受け止めたウィルは、過去の幸せだった頃に憧れていた、自分たちの世界を守ってくれていた父の背中を幻視して。

 自らもそうなろうと叫ぶクロノの姿がまばゆくて、まぶしくて、あまりにも綺麗で。

 拳を振るうのも忘れて、身体ごと叩きつけるようなクロノの拳を無防備に受け止めた。

 

 身体がもつれ合って、二人して炎の中をごろごろと転がって。

 やがて揃って仰向けに倒れ伏して、真っ赤な空が視界一面に広がる。

 

 

 隣で倒れているクロノが、ゆっくりと起き上がり、ウィルを見下ろしてつぶやいた。

 

「初めて……殴り合いできみに勝ったな」

 

 ウィルはゆっくりと首を横に振った。

 

「これのどこが殴り合いだ。こんなのただの意地の張り合いだろ」

「……じゃあ、僕が勝つのはいつものことだな」

「クロノは変なところで頑固だからなぁ」

「よく言われる。……答えは出たのか?」

 

 ウィルは倒れたまま、自分の右手をじっと見つめる。

 その手は現実同様の銀色の手。魔法を使い戦うためのデバイス。誰かを傷つけるための手だ。

 

「すごく嫌なんだ。父さんを殺したやつが生きてるのも。それをみんながかばうのも。罪を犯しても許されるのも。それを許せない自分も。みんなが伸ばしてくれる手を握り返せない自分も。何もかも……だから、この炎に身を委ねてしまえばいいと思ってた。迷いを捨てて、衝動のままに生きようって」

 

 クロノが膝を曲げ、倒れ伏したままのウィルへと手を伸ばす。

 

「でも、きみにはそうしない強さがある。僕はそう信じてる」

「俺にそんな大層な強さはないよ。買いかぶんな。押し付けんな。……でも、そうだな……さっき言ってたよな。クロノは両親みたいになりたくて、だから許すんだよな」

「何度も言わせるな」

 

 少し恥ずかしそうにしつつ、クロノはウィルから目をそむけなかった。

 代わりに伸ばしていた右手をさらに突き出す。早く握れというように。

 

「じゃあ俺も一回だけ言うよ。俺は、お前みたいになりたい――クロノみたいな、かっこいい生き方がしてみたい」

 

 炎に焼かれて耐え続けるだけではいずれ焼き尽くされてしまうが、憧れた相手のように生きている、近づいているという充足感があれば、崩れ行く心を保てるかもしれない。

 

 無理かもしれない。多分、無理だ。

 ウィルは自分をそんな強い人間だとは思えない。自分の弱さは自分がよく知っている。

 

 けれど、無理じゃないかもしれないと思えるほどに、憎悪を抑え込んで耐えると宣言したクロノの姿が、ウィルには格好よく見えたから。

 そんな相手が命を懸けて、ウィルを死なせないために必死に手を伸ばし続けてくれているから。

 そんな相手がウィル自身も信じられないような、ウィルの強さを信じてくれているから。

 もしかしたら、今すぐに決断を出さずに歩んだ先に、ウィル自身も知らないようなウィルの強さがあるからもしれないから。

 

 ()()()、ウィルはクロノの手を取り、クロノはウィルの身体を引き起した。

 

 

 そして四肢に絡みつく鎖が千切れた。

 ウィリアム・カルマンという存在の根幹を縛り付け、留めていた鎖が音を立てて壊れる。

 それは天を支える御柱であり、地を支える根でもあった。

 

 燃える大地も、燃える天も、崩れていく。

 閉じ込められていた炎が消えるわけではない。

 炎はその勢いを減じることなく、しかし狭い空間で燃え続けるだけでもなく、崩れた境界の向こうに広がるメモリアルガーデンへと広がっていく。

 

 

 夜と闇に包まれた世界を炎が奔り抜け、明かりを灯す。

 戦いを繰り広げていたリインフォースと無数のウィルもまた手を休めて、炎と共に現れたクロノとウィルを見ていた。

 

「うまくいったようだな」

 

 リインフォースはもはや満身創痍といった様子で、纏う騎士甲冑もぼろきれのようで、肉体もところどころが欠けている。

 それでも現れたウィルとクロノの姿を見て、嬉しそうに笑った。

 

 そして彼女と戦いを繰り広げていたウィルは――ウィルの姿をした闇の書の業たちは、クロノと共に出現した本物のウィルを見て、だらりと頭を垂らす。

 

「諦めるのか? 我らが王よ、あれだけ憎んでいたのに。あれだけ苦しんでいたのに……それを俺たちが許すと思うのか?」

 

 クロノがウィルを庇うように前に出ようとするが、ウィルもクロノの肩を抑えて、闇の書の業たちと向き合い、頭を下げた。

 やがて、闇の書の業は大きく息を吐いた。

 

「冗談だ。融合騎もどきな俺たちは闇の書ほどの強制力はないからな。目覚めた主に本気で逆らわれたらどうしようもない。見込み違いだったのか、それとも……よっぽど良い友達だったのか」

「このまま、俺の中に留まり続けませんか?」

 

 闇の書の業はウィルの提案に目を開き、口角を上げて、そして舌を出した。

 

「やなこった。それであいつらが生きるのを見てろって?」「そんなのに付き合えるかよ」「お前なんてもう王じゃねえ」「そうだそうだ」「ウィリアム・カルマン王朝の終焉だ」「在位一時間の王とかベルカにもいなかったぞ」「恥をしれ恥をー」

 

 やいのやいのと、口々に反応が返ってくる。

 

「俺たちはお前の可能性なんてのに付き合うつもりはない。復讐を果たせないなら、この世界が俺たちの邪魔をするなら、このまま消えるさ。俺たちの復讐を認めなかった世界がその後どうなろうが知ったことか」

「そう……ですよね」

「……なぁ、少しでも申し訳ないと思うのなら、一つだけ願いを聞き届けてくれないか。難しいことじゃない。生き残ったヴォルケンリッターがこれから罪を忘れてのうのうと生きるようなら、いなくなる俺たちに代わって罰を与えてほしい」

「……殺せってことですか?」

「そうしてくれれば一番良いんだが、復讐をやめるような奴にそこまで期待はしねえよ。だが償いを忘れた奴らには罰が必要だ。何だっていいさ。ただ……罪には罰があるのだと、俺たちに信じさせてほしい。そして奴らの罪と罰と、その償いの果てを見届けてくれ」

「わかった。あなたたちの想いも受け継いで進むよ。約束する」

 

 その言葉の響きをたしかめるように男は瞳を閉じて。

 再び目を開くと、次はリインフォースへと向き直り再度口角を上げる。ただし、そこに浮かぶのは嘲りの笑みだ。 

 

「俺たちが消えたところで、お前たちの罪は消えない。お前の同胞はこれからずっと、罪を抱いて生き続けなきゃならない。そして、俺たちみたいな過去の存在とは違う、お前たちを恨みながら今を生きている者たちとも向きあわなくてはならない。ウィル一人でこれなんだから、前途多難だな」

「きっと皆その覚悟はあるはずだ。私はそう信じている」

「どうだかな。……あいつらはこれから蔑まれ、怯えられ、そうやって生きていくしかない。あいつらに朝が訪れることはない。なら、せめて――」

 

 ――呪われた騎士たちに、夜天の祝福があらんことを。

 

 そう言い残して、彼らはその姿を輝く粒子へと変じる。

 暗夜に灯された篝火が生じる火の粉のように舞い踊り、さんざめき。鈴のような音色を残して、天へと昇り、溶けるように消えていく。

 粒子が集まり、光の柱となったそれは、あまりに永い刻を無念に囚われ続けた彼らの葬送の列。

 

 彼らは闇の書に未来を奪われた本人ではない。蒐集や取り込まれたことで闇の書に焼き付けられたその情報の残滓でしかない。

 それでも、彼らの行く末に幸運があってほしい。そう願わずにはいられなかった。

 

 

 三人ともしばらくその様子を眺めていたが、やがてクロノが声を上げる。

 

「僕たちもそろそろ出た方がいいな。外でみんなが心配しているはずだ」

「そうだな。ウィリアム、今こうして見ているのは夢のようなものだ。空間を維持している闇の書の業や私がいなくなれば、やがて毎夜見る夢のように意識は不鮮明になって元に戻るはずだ」

「わかった。二人とも、ごめん。それから本当にありがとう」

 

 復讐を止められて悔しいという気持ちも、ウィルの中にある。

 だけど、クロノとリインフォースにははただ止めるだけではなく、その身をもって復讐を抑えて生きる術を示してくれた。

 それは言葉の礼をどれだけ重ねても足りなくて、これから一生をかけても彼らには返しきれないだけの恩ができたというのに。

 

「僕への礼は後で聞く。今は彼女に」

 

 沈痛な面持ちで語るクロノ。その言い方はまるで後がないよう。

 

「そっか、そう……なんだな」

 

 状況を理解して、ウィルは歯を食いしばる。

 闇の書の管制人格であるリインフォースには恨みもある。はやてを助けるために協力して、今こうしてウィルのために命をかけてくれたことへの感謝もある。

 どちらの感情も抱えきれないほどで、でも、それらは独立したパラメータで打ち消し合うものじゃない。

 

「ありがとう。本当にお前には……リインフォースには助けられた。絶対に、忘れないから」

 

 その言葉を受けたリインフォースは、大きく目を開き、引き結ばれた唇を震わせた。

 

「……そうか、私はあなたを助けることができたのか」

 

 瞳を閉じて、その言葉を吟味するように沈黙すること数秒。

 

「私も、あなたのことをウィルと呼んでも良いだろうか?」

「ああ」

 

 瞳を開き、リインフォースは笑った。

 初めて見る、憂いのない満面の笑み。それがウィルの記憶に鮮明に焼き付く。

 

「主を頼んだぞ、ウィル」

 

 その言葉を残して、リインフォースとクロノはウィルの精神世界から消えた。

 

 

 

 一人残された精神世界で、ウィルは立ち昇る光の粒子の囁きに耳を傾けた。

 

 闇の書の業を構成していた大勢の声。満足している者もいる。まだ足りないと訴える者もいる。ウィルへの不満を訴える声も、罵倒していく声も、こんな一時協力しただけのウィルを気遣って消えていく声もあった。

 この世界がいつまで続くのかはわからない。ただその声が全て消えていくまではこうして耳を傾けていたいと願い――そしてどこか懐かしい声を聴いた。

 

 先ほどまで門があった場所。

 炎に満たされたあの空間がなくなって、繋がる先を失った門は役割をなくして消滅した。

 その代わり、そこには墓があった。墓石に腰かける男が一人。

 

 その姿を認めた時、ウィルの瞳から涙がこぼれ落ちた。

 

 

 

 

 クラールヴィントに捕縛されたウィルの周囲を取り囲む人たちは、かれこれ半時間ほどそうしていただろうか。

 すでに全員が持ち得る魔力を生命維持に支障がでないレベルで夜天の書に注ぎ込んだ。

 中で何が起きているのかを確かめる術もなく、ある者はこれからについて話し合いながら、ある者はひたすらに祈りながら待つ。

 

 そうして半時間ほどが経過した頃、ウィルの肉体がかすかに光を帯びると、白色の粒子が空へと立ち昇り始めた。

 それから間もなく、ウィルの隣にリインフォースとクロノが姿を現すと、待っていた人たちは口々に二人の名前を呼び、作戦の結果を聞こうと身体を乗り出す。

 

 大勢の視線にさらされたクロノはその場で口を開こうとして、やめた。

 

 満身創痍の身体に鞭打って、たった一人の元へ――自分を待つリンディの元へと、一歩一歩を踏みしめて歩み、目前に立つと背筋を伸ばして、胸を張り。

 

「クロノ・ハラオウン! ウィリアム・カルマンの救助、完了しました!」

 

 声は堂々と、口の端にかすかに笑みを浮かべ、毅然と言い放つ。

 その瞳が焦点を失い、糸が切れたように崩れ落ちるその身体が膝をつく前に、駆けだしたリンディが強く抱きしめる。

 

「よくやったわ、クロノ執務官。……おつかれさま、クロノ」

 

 

 

 そのやり取りを横目で眺めながら、リインフォースは目の前にいる自らの主に向き直る。

 融合の解けたはやては、左右からなのはとフェイトに支えられて、頑張って立っている。

 その後ろには信頼できる同胞、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラがいる。

 

「……私はもうじき消えます」

「うん」

 

 そのことは作戦開始前にすでにはやてに告げていた。

 夜天の書が機能している限り、防衛プログラムは遠くない内に蘇る。それを阻止するためには書を司る管制人格は消滅しなければならない。

 そしてウィルを救出するためにアースラの魔力炉からの魔力を受け止め、闇の書の業と戦えば、おそらく自分の肉体は構築を維持できなくなるだろうと。

 

「ごめんな。リインフォースがウィルさんを助けに行ってる間に、何か手段ないかってみんなと話し合ってたんやけど、なんも浮かばんかった。ダメな主でごめんな」

 

 リインフォースが見たくないと思っていた、悲しみに染まり自責の念に苛まれる主の姿。

 

「我々を案じ、救い出してくれたあなた以上の主などいませんよ。それに悪いことばかりではありません」

 

 この戦いが始まる前のリインフォースは諦観とともにあった。

 自分はこの場で死ななければならないという義務感を諦めとともに受け入れていた。

 だけど今のリインフォースは違う。たしかに己の死を諦めとともに受け入れているけれど、少しばかり晴れやかな気持ちがある。

 

「最期に良い思い出ができました。ずっと主を、仲間を……誰かが死ぬのを見続けてきた私が、最期に誰かを救うことができた。こんなに嬉しいことはありません」

 

 リインフォースは笑みを浮かべた。長い冬が終わりようやく芽吹いた花が咲いたような、曇りのない笑顔だった。

 

「もしも死後の世界があり、神が実在し、裁きが下されるのだとしても、その時に胸を張って言うことができます。私は多くの罪を重ね……そして、人を一人救うことができたのだと」

「そっか……そしたら、お釈迦様も蜘蛛の糸ひとつくらい垂らしてくれるかもしれんな」

 

 はやても笑いながら返した。瞳に涙を溜めながら。

 

 リインフォースは、その場に膝をつく。

 闇の書の主ではなく、八神はやてという少女に敬意を捧げるために。

 

「八神はやて。夜の帳があなたを包み、さやけさがあなたの心を癒し、雲があなたを寒さから守りますように」

 

 夜が終わる。

 東の空が白み始めている。いまだ地平線の向こうへと沈んだままの、しかし今にもそこから顔をのぞかせそうな太陽、その光を背に受けながら、リインフォースははやてに別れを告げた。

 

「優しい主に、夜天の祝福を」

 

 肉体の構成式が崩れ、肉体を構成していた魔力が光の粒子になって消えていく。

 

 溜まっていた涙が決壊して、はやての頬を流れ落ちる。

 

 

 

 

「さよなら、リインフォース」

 

「さよなら、父さん」

 

 

 光に溶けて消えゆく大切な家族を、送り出す言葉。

 

 

「良い旅を」



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永遠の炎

 眠るのは嫌いだった。夢で見る景色はいつも取り戻せない過去を想起させるものばかりで、たとえ幸福な夢でも辛い夢でも、目を覚ますたびにウィルを苦しめた。

 

 けれど今、目を開いたウィルの口の端にかすかな笑み。

 先ほどまで見ていた夢の光景は喜びも悲しみも寂しさもあったけれど。

 目が覚めたことに幸せを感じるなんて、初めてかもしれない。

 

 目に映るのは、ほんの少し前にも見たアースラの隔離用個室の天井。

 この一年で随分こんな光景を繰り返してきたなと自嘲する。

 山中でフェイトに敗北して旅館で目覚めて、シグナムに敗北して本局で目覚めて、シグナムと引き分けてアースラで目覚めて、そして闇の書の業とともに戦い敗北して。何度も危険な目に合いながらも、なんとか生き延びてきた。

 生き延びることができたのは、運が良かったというのもある。 

 ただ、今回は違う。今ここにウィルが生きていられるのは、絶対に運のおかげではない。

 

 

 目覚めたことを知らせようと、ベッドの横の端末でコールをかける。

 

 と、その途端に扉が開いて、なだれ込むようにして人が入ってくる。

 真っ先にシグナムに抱えられたはやてが、それからなのはとユーノ、フェイトとアルフが続き、ヴィータとシャマルとザフィーラ。最後に騒々しい彼らを咎めながらクロノとエイミィ。

 みんな、口々にウィルの名前を呼んでくれて。そこにはあれだけの騒動を引き起こしたウィルを責める視線は含まれておらず、ただ無事に戻ってこれたウィルを案じてくれる優しさに満ちていた。

 

 今ここに自分がいられるのは運ではなく、ここにいるみんなが助けてくれたからだ。

 こんな自分勝手な男を放っておかずに、最後まで手を差し伸べ続けてくれたからだ。

 

「みんな、ありがとう」

 

 そういって、ウィルは涙をこぼしながら、満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

 と、これで終わりなら綺麗に終われたのだけど。

 容体を気づかう言葉が少しの後、クロノのお説教が始まった。

 クロノの鬼気迫る形相にしばらくは誰も口を挟めず。ウィルもやらかしたことへの申し訳なさで甘んじてそれを受け入れて、説教が二十分を越えたあたりでエイミィが口を挟んで無理矢理終わらせた。

 まだ言い足りない様子のクロノの袖を引っ張って、エイミィが部屋の外へと連れて行こうとする。

 

「さ、無事な顔も十分見たんだし医務室に戻ろう? クロノ君も絶対安静なんだから」

 

 その言葉に周囲の人たちがぎょっとした顔をする。

 

「えっ? 僕たちが来た時には、扉の前にいましたよね?」とユーノが驚き。

「そんな状態でずっと扉の前で待ってたの?」となのはが続く。

「言うな」

 

 闇の書の業の魔力刃はクロノの腹を思いっきり貫いていたわけで。その状態でその後も獅子奮迅の活躍をしたのだから、絶対安静も無理からぬ。

 

「……その、重ね重ねすまなかった」

 

 申し訳なさで下げた頭を、クロノは鼻で笑う。

 

「僕たちが初めて喧嘩した時のことを覚えてるか?」

「ああ……士官学校に入る前の年だから八歳だっけ? お互いキレて模擬戦になだれこんで」

「当たり所が悪くてきみが墜落した。それに士官学校一回生の頃に喧嘩した時だって」

「俺が額でクロノの拳を受けたら、指が折れた時のか」

「あれからしばらく私がお世話してあげたんだよね」

 

 クロノは割って入ってきたエイミィを肘で小突き。

 

「それは思い出さなくていい。とにかく、僕ときみが喧嘩して怪我するのはよくあることだ。まぁ、僕らもいい歳だから、これを最後にするべきだろう」

「違いない。俺たち両方十五で、もう成人してるんだもんなぁ」

 

 苦笑いを浮かべて、背をむけたクロノはそのまま部屋から出て行った。その後ろ姿はどことなく嬉しそうに見えた。

 

「それじゃあ、私たちは一足先に戻るね。みんなもあんまり長居しちゃダメだよ」

 

 

 

 

「えっと、それじゃわたしたちも出よっか。落ち着いたらまた来ますね」

「ちょっと待って」

 

 気をつかって部屋から出ようとするなのはたちを呼び止める。

 なのはには伝えなければならないことが何個もある。

 

「みんなには本当に助けられた。特になのはちゃんの言葉はすごく効いた。どんな道を選ぼうが、最後は全部自分自身で背負うものだって、背負えるものだって思ってた。間違った道であっても、自分が納得できればそれでいいんだって。……誰かが俺のためにあんなに必死になってくれるなんて、考えてなかった」

「人のふり見て……だと思いますよ。なのはも大概ですけど、PT事件の時のウィルさんも人のためにいっつも駆け回ってたじゃないですか」

 

 ユーノに指摘され、ウィルは眉尻を下げる。

 

「困ってる人がいるんだし、俺の場合は仕事でもあるんだから当然だと思ってたんだけど」

「ウィルさんのそういうところは好きですけど、仕事であれだけやるのが当然だと思ってるなら、本気で直した方が良いと思います。多分将来部下の人がすごく困りそうだから」

「気を付けます……」

 

 うなだれて、しかしまだなのはに伝えなければならないことがあることを思い出し、顔をあげる。

 

「……怒られてからこんなことを言うのもしまらないけど、なのはちゃんも無茶はほどほどにね。あれ本当に死んでもおかしくなかったから。クロノのお腹刺してしまった時みたいに、思わず手が出てもおかしくない状況だったから」

 

 闇の書の業はウィルの意識を優先してくれてはいたが、ウィルもまた彼らに体を明け渡していた。

 そしてなのはが突撃してきた時、あのままだと闇の書の業は確実になのはに反撃していた。構築中だった砲撃魔法を未完成なまま放つだけでも、なのはを撃ち落とすだけなら容易。数多の戦士が集った彼らなら、なのはの突撃を受け止めた後でも反撃する方法などいくらでもあった。

 それが果たされなかったのは、なのはがウィルにかけてくれた言葉が、魂の叫びがウィルの意識を強く強く呼び起こして、あの瞬間は肉体の制御権が闇の書の業からウィルに傾いていたからだ。

 

 なのはは一瞬申し訳なさそうに顔を伏せたが、すぐに決意を宿した顔でウィルに向き直る。

 

「ごめんなさい……でも、きっと次に同じ状況になったら、やっぱり同じことすると思います。だから、もっと強くなります。今度は危なくならずに、争ってる人をごつん! ってして落ち着かせられるくらい!」

「あのぶっとんだ強さ以上か。そりゃまた壮大な夢だねぇ」

 

 なのはの途方もない目標を聞き、アルフが楽しそうに笑う。

 ウィルもまた、笑う。高町なのはという少女が、わかりましたと大人しくしていられるような子でないことは嫌というほど理解している。いつだって、自分に対しても他人に対してもまっすぐで、偽らない子だ。

 その子供ゆえの純粋さは、時に向けられる側にも痛みを生むことだろう。でも、それを曲げさせるのではなく、支える。

 それが年上としての責務――違う、その意思に助けられた者として、そして大切な友人へと、ウィルがしてあげたいことだ。

 

「俺に言ってくれたみたいに、なのはちゃんが大変な目にあったらみんな悲しむ。当然俺もだ。だから、なのはちゃんが無茶をしなきゃならないくらい困ってたら、今度は俺が手を貸すよ。もちろんなのはちゃんだけじゃない。この場にいる誰が困っていても、絶対に駆けつけるから」

「それはきっと、みんな同じ思いだと思います。私たちはみんなもうこんなに深く繋がっちゃってるんですから。だよね、なのは」

 

 フェイトに自分の発言を引用されて、なのはは顔を赤くしてうつむいた。

 

「うう……あらためて言われるとちょっと恥ずかしい……」

 

 

 

 

 そして部屋にははやてとシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラが残された。

 そこには五人目のヴォルケンリッターの姿はない。

 

「リインフォースは……逝ったんだな」

「うん。最後は笑ってた。満足できたって……言ってくれた」

 

 ウィルは目を閉じて、彼女の姿を瞼の裏に描く。

 初めて顔を合わせたのははやての心の中。関係としては二日にも満たない。あまりに短い間に、ウィルに多くのものを残していった。

 憎悪すべき闇の書を司どる仇でありながら、その闇の書の所業に誰よりも心を痛めていた者であり、共にはやてを救った仲間であり、復讐に駆られて死に向かっていたウィルを殺さずに救い出してくれた恩人。

 そのどれかの感情を優先させるわけでもなく、全てを抱えてこれから生きるべきなのだろう。

 

「今もやっぱり、みんなに復讐したいって思ってる?」

「憎いって気持ちは、やっぱり簡単に消えてくれはしないよ」

 

 憎悪の炎はいまだにウィルの内側で燃え続けている。いずれは勢いも衰える日が来るのかもしれないが、少なくとも今はこれまでとまるで変わらない。

 

「でも、みんなが示してくれた。俺が堕ちていなくなれば悲しむ人がいるんだと。クロノがあんな風に生きてみたいって思える姿を見せてくれた。だから、今は我慢してみる」

 

 はやての後ろに控えるヴォルケンリッターへと目をむける。

 

「だから、俺が我慢し続けられるように見せてほしいんです。あなたたちがこれからどう生きて、どんな風に罪と向き合っていくのか。そして……できれば、罪と向き合って生きる道の手助けを、俺にもさせてほしい」

 

 憎いからと離れた場所で何も知らないままでいれば、きっとよくない考えばかりが浮かんでしまう。彼らが罪も償いも忘れて気ままに生きているのではないかと。

 それ以前に、ウィルはヴォルケンリッターを――いや、シグナムを、ヴィータを、シャマルを、ザフィーラを、彼ら四人のことをまだ知り尽くしたわけではない。

 奪われたという事実、育ててきた憎悪が消えずとも、彼らの良いところも悪いところも知って、彼らと繋がることができれば。殺す、という選択肢はなくなるかもしれない。

 

「まぁ、八神家にとっての口うるさい小姑になりたいってことで」

 

 冗談めかした偽悪的な言葉に、シグナムが一歩前に踏み出してベッドに寄る。

 

「本当にそれでいいのか? 貴方の父を殺したのは、まぎれもなく――」

「そういえばシグナムさん。俺と戦った時の最後、わざと手抜きましたよね。その気だったら俺を斬れてたでしょ」

 

 指摘を受けたシグナムは言葉に詰まり、気まずそうに視線を泳がせていたが、やがて観念したのかうなだれながら、ぽつりぽつりと言葉を発する。

 

「いや、あれは……あの時の私は、貴方に斬られるべきだと思っていた。最後に貴方の一閃を受けるつもりだったのだが、その前に貴方の剣が折れてしまって、とっさに……」

「ドジっ娘かよ」

「うぐぅ」

 

 ヴィータにつっこまれて、シグナムは腹に打撃を食らったようなうめき声をあげた。

 

「じゃあ、わざわざ俺と戦ってくれたのは、殺す側の俺のことを気づかってくれてたんですね」

「……無抵抗でこの首を差し出しても殺されても、遺恨が残ると思っていた」

 

 だから互いに戦った。シグナムもまたウィルを殺そうとしていたという状況を作り、その上でやられようとしたのか。

 騎士の矜持を曲げ、真剣勝負を茶番に変えてまで、ウィルに応えようと。

 いったいどれほど周囲に気をつかわれていたのか、あらためて思い知らされる。

 

 しかし――

 

「無抵抗でも、戦った結果でも、シグナムが死んでたら遺恨は残ったと思うけど……」

「ぐふっ……申し訳ありません」

 

 はやての問い詰めるような声に、シグナムはみぞおちを抉られたようなうめき声をあげた。

 

 

「彼らが消えていく途中、父さんに会いました。父さんというか、闇の書に取り込まれた父さんの情報、っていう方が正しいんでしょうけど」

 

 シグナムが驚愕に顔を上げる。

 ウィルにとってもあの邂逅は想定外だった。この二日ばかりの出来事で、ウィルが想定できたことなんてほとんどなかったが。

 闇の書の業を構成していたのは蒐集された者だけでなく、暴走する闇の書に浸食され、取り込まれた者も含まれていた。父もシグナムに致命傷を負わされたが、完全に生命活動を停止する前にエスティアを浸食する闇の書に取り込まれたのかもしれない。

 

 自らが殺した相手のことを聞くのに躊躇してか、何も言えないシグナムに代わり、はやてが尋ねる。

 

「お父さんとはお話できたん?」

「ああ、不満も全部ぶちまけてきたよ。なんで俺を置いて死んだのかも、あらためて本人の口から聞いた。まったく……父さんは俺が思っていたよりも勝手で、駄目な父さんだったみたい。……それで、そんな父さんから伝言です。別に恨んじゃいないから気にするなって」

 

 別にそれを聞いて、ウィルの復讐心がマシになったわけではない。

 ウィルは元から父が復讐なんて望まないと理解している。それでも、納得できなくて、抑えられなくて、復讐を望んだのはウィルの意志だ。今更父親が何を言ったところで変わらない。

 ただ、それはそれとして腹は立ったので父を一発殴っておいた。最初で最後の、反抗期だ。

 

 伝言を聞いたシグナムは静かに首を横に振った。双眸に宿す決意は強く、

 

「その言葉は受けられない。たとえ恨まれていなくても、私が貴方の父を奪ったのは事実だ。大勢の犠牲を出してきたのは変えようもない事実なんだ。けれど、私は賢くはない。命を捧げることで償いができると考えて、あのような行動をとってしまった。けれど、それもまた正しい選択ではなかった。主はやてに言われたように、あそこで私が死んでいれば、あらたな遺恨が生まれていたのかもしれない」

 

 あそこでシグナムを殺してしまっていたら、闇の書の業との戦いで戦力が足りずにみな全滅していただろう。

 よしんば切り抜けられたとして、シグナムを殺したウィルが、シグナムを殺されたはやてが、こうして向かい合い語らえるようにはならなかっただろう。

 死を受け入れるという決断は、あの場では問題を根本から解決するための最善の方法であったことは疑いようはない。だが、未来にあるもっと良い可能性を摘み取る選択でもあった、というのは結果論で今の歩む道を正当化しているだけかもしれない。

 ただ、ウィルもシグナムも、それを信じてみることにした。

 

「だから、貴方には見ていてほしい。賢明ではない私が道を間違わないように、正しく贖罪の道を歩めるように。そばで見ていてくれる人がいれば、間違えてしまった時に正してくれる人がいれば、そうすれば私は歩み続けることができるから」

 

 それは先ほどウィルが言ったことと同じで。

 お互いに同じであれば、何も問題はない。

 

「嫌だって言っても見てますよ。ストーカーで訴えられたら敗訴確定ってくらいに」

「――ああ!! 望むところだ!」

 

 白磁の肌にわずかに朱を刺して、シグナムはうなずいた。

 

「二人が一緒にいるんやったら、当然私も一緒やから」

 

 ベッドに腰かけたはやてが、立ったままのシグナムと、体を起こしたウィルの手を取って繋げ、嬉しそうに笑う。

 続けて、ヴィータが後ろからシグナムの足を軽く蹴る。

 

「あたしもだぞ。だいたいお前ら、二人でいれば道を間違わないとか言ってるけど、散々勝手に戦いまくって周りに迷惑かけてたのもお前ら二人だからな? どんだけ迷走してんだよ」

「「返す言葉もない……」」

 

 ヴィータに叱られてシグナムと二人で頭を下げる。

 そんな様子をシャマルは微笑みながら見ていて、ザフィーラは目を閉じながらも耳を立てていた。

 

「一生の付き合いになりそうね」

「……それも悪くない」

 

 

 

 

 それから数日間、アースラは動力炉の魔力が充填されるのを待ってから本局に向けて出発した。

 本局に到着してからもすぐに終わりとはいかない。

 はやてとヴォルケンリッターは一旦その身柄を拘束され、リンディやクロノは事後処理とこれから待ち構えている裁判のための準備で駆け回ることになる。

 グレアムとウィルもまた捜査情報の漏洩の疑い、というよりも実際にそうなのだが、本局で拘留されることになった。

 

 

 ただ、ウィルは相当に重傷だったこともあり、拘置所ではなく本局の病院に押し込められた。

 闇の書事件については、落としどころが決まるまでは表沙汰にはしないようで、関わったウィルも当面は面会謝絶で個室に押し込まれ、外部との連絡も絶たれた状態。

 管理局の捜査官、査察官などが訪れることはあったが、怪我をしているウィルを気遣っているのか、それとも上の方で何かしらの思惑が働いているのか、追及はぬるく。

 

 そんな日が五日ばかり続いた頃、消灯時間がすぎてそろそろ寝ようかと横になった時、

 

「ちょっと目を離した隙に、面白いことになっていたみたいじゃない?」

 

 よく知る声が病室に響いた。

 

 部屋の扉のそばに、クアットロが立っていた。

 普段は肩元でまとめている髪を解き放ち、最近かけ始めた丸眼鏡も外して。

 黄金の光沢のある艶やかな髪とウーノやトーレに似た鋭い目を顕わにしたその顔は、幼さを残しながらも美女といって差し支えない妖しさをたたえている。

 瞳に宿す光と口元に浮かべる笑みは、いつものわざとらしい笑顔よりも粘度が高く、獲物を目の前にした蛇のよう。

 

 戸惑うウィルを前にして、クアットロは笑みを深くする。

 

「好きに喋っていいわよ? どうせシルバーカーテンで会話の内容も、あなたの様子も全部ごまかしているのだから。ここで何が起きたって、誰も気が付かないわ」

「俺、これから寝るつもりだったんだけど……最近夢見が良くなってすぐ寝れるようになったんだよ」

 

 渋々と身体を起こし、ベッドに腰かけたウィル。

 

「ふぅん……余裕ぶっているのね。私にそんな演技が通用すると思っているのかしら。私に言いたいことがあるんでしょう?」

 

 いったい何を言っているのだろうと、ウィルはしばらく本気で戸惑っていた。

 今回の件に関しては、スカリエッティには報告しなくても、すでに知っているはずだ。もちろん世話になったのだから人としてはまた顔を合わせて礼を言う必要はあるが。

 スカリエッティに対してではなく、ここでクアットロに対して言わなければならないこと、と考えてようやく思い至る。

 

「ああ、そういえば言わなきゃならないな。……ありがとな。あの時、シグナムさんを殺すのを止めてくれて本当に助かった」

 

 なぜ、あの時にクアットロが妨害したのかはわからない。

 ウィルの復讐心を知っている彼女がそれをする内容なんて、嫌がらせくらいしか考えつかないが、それにしては度が過ぎている。

 あの時のウィルはまるで世界全てから見放されたような気持ちになってしまい、それがすんなりと闇の書の業を受け入れた一因にもなっている。

 ただ、クアットロがウィルの邪魔をした理由がなんであれ、そのおかげでウィルが最後の一線を越えずに済んだのは事実だ。

 

「なに? 嫌味にしては随分と下手ね?」

 

 ウィルの礼はクアットロのお気に召さなかったようで、彼女のウィルを見る視線に剣呑としたものが混じり始める。

 

「嫌味も何も本心からのお礼だよ。あそこで邪魔されずに殺してしまっていたら、取り戻しのつかないことをしていたら、俺はクロノの姿を見ても考え直すことができなかったかもしれない。復讐を止められなかったかもしれない。だから本当に――」

「ちょっと待ちなさい」

 

 追憶に浸りながら述べていた礼を途中で切られ、あらためてクアットロを見れば。

 先ほどまでは壁際に背を預けながら薄笑いを浮かべてこちらを見下ろしていたのに、眉間にしわを寄せ、それなのに瞳を見開いて、笑みを消し、背を壁から離して。

 

「あなたが、復讐を、やめる? ……何の冗談よそれ?」

「にわかには信じてもらえないかもしれないけど、やめたんだよ、復讐。ひとまずは、だけどな。今後ヴォルケンリッターが罪なんて知らないってばかりに好き勝手に生き出したら、またやろうとするかもしれないけど。でも、そうならないために俺もはやても、あの人たちが――」

「馬鹿言わないでよ……やめられるわけないでしょう!」

 

 再び言葉を途中で切られ、クアットロを見れば、あきらかに感情が大きく振れているようで。

 クアットロは演技で怒ったり泣いたりと、ふりをすることはよくあった。だけどそういう時のクアットロはまるでお芝居で演技をしていますとばかりにどこか白白しさをだしていた。

 こんなに感情を剥き出しにしたクアットロを見るのは初めてだ。

 

「ちょっと落ち着けよ。やめたのがそんなに……ああいや、たしかに復讐のためだって散々相談にのってもらって、訓練に付き合ってもらったのに、勝手に俺の一存でやめたのは悪い。っていうか、世界が敵に回ってもとか、お前だけは味方でいてくれとか――やばい、思い出したらすごく恥ずかしくなってきた」

 

 多分、そういうことなのだろうとウィルはあたりをつける。

 あれだけ色々と語って、お前しかいないとばかりにすがっていたのに、顔を合せなかった間にやっぱりやめたなんて気軽に言われれば、ないがしろにされた気がして怒るのも当然だ。

 

「埋め合わせはいくらでもする。何があったのかもちゃんと話すから……」

「そうじゃないわよ!」

 

 癇癪を起こしたような叫び。ドゥーエに憧れて余裕のある大人の女性を目指していたクアットロがこんな風に声を荒げるのも初めて聞く。

 ウィルは今度こそ本当に、何もわからなくなって困惑し、何を言えばいいのかもわからず。

 やがて沈黙を破るように、クアットロが押し殺したように低く笑うと。

 

 

「いいわ。教えてあげる。あなたの秘密を」

 

 胸板に衝撃。

 

 壁際にいたクアットロが自分目掛けて突っ込んできたのだと気づいたのは少ししてから。

 魔法での強化もしておらず、意識を戦いへと切り替えてもいなかったウィルは、それを防ぐこともできず、ベッドに仰向けに押し倒された。

 

 右の掌で肩を押さえつけられ、腹に片膝を乗せられた状態で、上から顔を覗き込まれる。

 

「プロジェクトD――DESIREは聞いたことある? 人に特定の指向性を持たせた衝動、欲望を植え付ける研究よ。あなたも知っているプロジェクトF――FATEは人に他人の記憶を移植する技術。そしてその二つの間にプロジェクトE――ETERNALが存在するの。どんな研究だと思う?」

 

 永遠を冠する研究。初めに思い浮かぶのは、細胞の老化を防ぐようなものだが――

 でも、それよりもウィルにとっては、目の前のクアットロの様子の方が気にかかる。

 ウィルを見下ろしながら愉悦を持って他人にネタ晴らしをする風を装っているが、その態度にはまるで余裕がない。まるで何かに脅える子供のようだ。

 

「人の記憶は劣化する。どれだけ強い思いも、年を重ねれば引き出しにくくなる。かかる年月は人によって違っていても、時間は確実に思いを削って行く。プロジェクトEは、そんな人の記憶や感情を()()に留めておく技術のことよ」

 

 言葉を発せないウィルの様子に何を見たのか、クアットロは続ける。

 

「あなたの治療をした時に、ドクターはあなたに興味を持ったらしいの。失敗の確率が高い治療を乗り越えたあなたの意志の強さ。その原動力となる他者への復讐心に。学術的な意味はないわ。自分のように強い欲望を持った存在がそれを劣化させることなく成長し、目的を達成したらどうなるか。そんなただの好奇心で生まれた歪な復讐者」

 

 

  ETERNAL BLAZE 

 

 

「仇か己を焼き尽くすまで消えることのない永遠の炎。コードネーム『エターナルブレイズ』

 それがあなた、復讐者ウィリアム・カルマンの正体なのよ!」

 

 自らの心の中にあったあの扉は、その中で燃え続けていた炎は。

 復讐心を閉じ込めて保護するための。

 

「そんなあなたが復讐を諦められるはずがないの! 今もまだ憎いでしょう? あなたから父を奪った闇の書とヴォルケンリッターのことが! あなたをそんなにしたドクターのことが! そしてあなたの復讐の邪魔をした私のことも! 敵のことが憎くて仕方ないはずよ!」

 

 語り切って、クアットロは荒くなった息を整えて、嗤いだす。

 手のくわえられた憎悪に踊らされて滑稽に復讐劇を演じていた憐れな人形を嗤う。

 

 ウィルはそれに衝撃を受けながらも、どこか真実なのだと受け止めている自分もいた。

 スカリエッティがマッドサイエンティストなことなんてわかりきっていたことだ。レジアスとの繋がりがあるとはいえ、何の力もなく代償を支払うこともできない自分に、あんなに都合よく施してくれたと期待する方が愚かだろう。

 では、そんな風にしたスカリエッティに、そんなウィルを嗤うクアットロに、憎悪が湧くのか?

 ウィルの心には、まだ闇の書とヴォルケンリッターへの炎はある。けれど、スカリエッティとクアットロへの炎が新たに生まれた様子はない。

 いや、もしかしたらほんの少しは生まれたのかもしれない。ただ、その炎はウィルの視界に移る水に即座に消されてしまったようだ。

 

「たしかにそれがなかったら、ここまでややこしい事態にはならなかったかもしれない。でも、それがなかったら俺はここまで必死になれなかったと思う。もっと弱くて、PT事件でも力になれなかったかも。シグナムさんらと戦った時も、粘ることもできずにあっさり殺されて彼女らの心の傷になってしまったかもしれない。闇の書の業の……殺されていった彼らの思いを受け止める器にもなれず、約束もできなかったかもしれない」

 

 心の内で燃える炎はウィルを苦しめる要因でもあったけれど、大切な人の死で気力を奪われたウィルを突き動かしてくれた活力でもあった。

 

「それになんとなくだけど、当時の俺も望んでたんだと思う。この思いを、父さんへの気持ちを忘れたくないって。今の俺が、リインフォースの最後の顔を忘れたくないって思っているように。まぁ、判断能力のない子供につけこんでそんな実験台にする先生はろくでもないとは思うけど」

 

 押し倒されたまま、ウィルはクアットロの頬へと手を添える。

 目の前で嗤うふりをしながら、捨てられた子供のような顔をしている大切な幼馴染に。

 

「なぁ、クアットロ。なんでそんな顔してるんだよ。それをやったのは先生だろ? お前が気にすることなんて――」

「違うの! そうじゃなくて、だって、あなたに……」

 

 その時、外から誰かが走ってくるような足音がする。足音は扉の前で止まる。

 

「クアットロ、お前ISが解けて――」

 

 クアットロはウィルの上から飛び退くと、ISを再び展開したのだろう。扉が開いて職員が部屋に入ってくるのと同時に、その横をすりぬけるようにして部屋から走り去っていった。

 

 部屋に残されたウィルは、職員に詰問されながらじっと自分の手を見た。

 彼女の頬に添えた手。その指先を濡らした彼女の涙の意味は、どれだけ考えても見つからず。

 

 

 その日を境に、クアットロがスカリエッティのラボにも戻らなくなったと知るのは、少し先の話だ。



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エピローグ

 学術研究都市の研究棟、スカリエッティが架空の名義で使用していたその建物の最上階で、プレシア・テスタロッサはため息をついた。

 ガラス張りの壁からは、紫外線などのお肌に有害な成分が除去された陽光が、ちょうど良い室温になるように光量を調整されて入り込み、室内を照らし上げる。

 

 

 闇の書事件から半月。

 あの騒動に紛れて無人世界から撤退したナンバーズは、プレシアが研究を続けていたこの場所へと移り住んだ。

 闇の書の管制人格との戦いでセンサー類が軒並みやられたトーレを除けば、ナンバーズに損害はなかった。

 ただ、そのナンバーズの親たるジェイル・スカリエッティが戻ってくることはなかった。

 

「まさか、あんなにあっさり死んでしまうなんてね……」

 

 殺しても死なない男だと思っていたのに、あの闇の書の暴走を止めるために身体を張って乗り込み、そして命を落としたそうだ。そのおかげで闇の書の主であった少女、そして彼女を助けるために命をかけたあの赤髪の少年――ウィルは無事に戻ってこれたらしい。

 スカリエッティがいったい何のために、何を思い、自らの命をかけて彼らを助けようとしたのか、プレシアにはわからない。

 ただ、自分に第二のチャンスを与えてくれたスカリエッティには恩義を感じているし、その死を悼む気持ちはある。

 

 同時に、アリシアの復活を考えると、自分よりさらに上の研究者を失ったのは痛手だ。一応手法の目処はついたとはいえ、自分だけで間に合うかは心許ない。

 それどころか、スカリエッティが担当していただろう膨大な数の案件がプレシアに回ってきそうな状況であり、適当に理由をつけて断っている現状だ。

 

 戦闘機人のメンテナンスに関しては、ウーノが引き継いだので問題はない。そもそも、完成してしまえば長期間メンテナンスフリーでいられるのも戦闘機人の長所だ。

 新規の戦闘機人については、たしか九番目を表すノーヴェを冠する子の遺伝子改良がほぼ完了しており、実際に製造する段階にきていたようだが、スカリエッティのいないこの状況で作るのも難しいだろう。もしかすると、ずっと寝かせることになるかもしれない。

 

 機人といえば、チンクやセイン、ディエチはスカリエッティの死という報告を受けて、心なしか気を落としているように見える。

 だが逆にウーノとトーレという初期の二人は非常に淡々としていて、悲しんでいる様子はない。

 二人ともあまり感情を見せるタイプではないが、あれだけスカリエッティにべったりだったウーノがあっさりと死を受け止め、スカリエッティの代わりにプレシアの補佐をしている現状には違和感を覚える。

 

 そして、最後の一人。クアットロに関してだが

 

「クアットロはいったいどこに行ったのかしらね」

 

 自分のデスクへとコーヒーを淹れて持ってきたウーノに、なんとはなしに尋ねる。

 

 クアットロは現在失踪中だ。行方不明だ。かわいくいえば家出中だ。

 

 スカリエッティが亡くなってからのクアットロは、どこか浮足立った感じがあった。

 祭りが来るのを心待ちにしている子供のようで、研究を手伝わせている時にもどこか心ここにあらずで。

 そんな彼女が急に姿を消したかと思えば、それきりもう何日もラボに戻ってこない。

 一応、ウーノの元へはしばらく戻らないとの連絡はあったようで、誰かに目をつけられて自由を奪われているだとか、そういった身柄の心配をしなければならない事態にはなっていないようだが。

 

 プレシアの横に立つウーノは、表情を変えずに淡々と返事をする。

 

「ドクターはこうなる可能性を考慮していました。彼女の持つ欲望は少々特殊なようでして」

「欲望? ……ああ、研究資料にあったDESIREのこと。あなたたちにも使われていたの?」

 

 人類の進化に関する一連の研究シリーズ。

 意志に任意の指向性を与えるDESIRE、既にある意志や記憶を固定するETERNAL、記憶や知識を移植するFATE、リンカーコアや魔力変換、ISなどの素養を発現させるGIFT、人体が本来持たない物質を受け入れる土壌を作るHYBRID。この一連の人類進化に関する研究シリーズは、プレシアもずいぶんと参考にさせてもらった。

 それらを踏まえ、闇の書に使われていたプログラム体の生成術式を加えて生み出される新たな研究、IDEALこそがアリシア復活の要になると考えているのだが。

 

「ドクターのように決まった欲望を植え付けられたわけではありません。ただ、私たちナンバーズの中でも一から四は、DESIREを施されて生み出されたドクターと同種の因子を受け継いでいます。それゆえに何かしら特定の物事に強い欲望を抱きやすいのです」

「それは驚きね。普段から表情一つ変えないあなたにも欲望があるの?」

 

 出会ってから半年経っても数えるほどしか表情を変えたのも見たことない相手に、そのような強い思いがあるのだろうとかいぶかしむ。

 

「はい。私にとっての欲望は、この子です」

 

 そう言って、ウーノは陶然たる面持ちで自らの腹を愛おしげに撫でた

 プレシアはその様子を見て、一拍遅れて目を見開く。

 

「あなた、もしかして妊娠しているの……?」

 

 誰のかと考えるまでもない。スカリエッティの右腕となるウーノは常に彼のそばにいて、ラボの外に出るようなこともめったにない。

 なるほど恋愛は自由だ。遺伝子的な親子関係にあるわけでもない。しかしながら一人の親として娘と呼ぶ子を孕ませたという事実に抱く感情は生理的な嫌悪だ。死を悼む気持ちが三割ほど薄らいだ。

 

「そう、娘だなんて言いながら、やることやってたのねあの男。思っていたより数段気持ち悪いわね」

「誤解によるドクターへの侮辱は許しませんよ。この子はドクターと私の子ではありません」

 

 スカリエッティ以外の男となると、と考えて浮かんできたのは一風変わった管理局の少年の姿で。ここ二ケ月ほどは闇の書関係でラボに滞在していたウィル。

 それならまぁいいか、しかし十五歳ほどで子持ちになるのは、いささか大変なのではないだろうか。しかも管理局の人間が違法科学者によって造られた戦闘機人と――と、奇妙な縁のあった彼の将来を心配していたところ。ウーノには見透かされていたようで。

 

「それもはずれです。この子はドクターで、私の子です。万が一のことがあった場合にドクター自身を再び産み落とせるように、肉体が成熟したナンバーズの胎にはバックアップが仕込まれています。外部から特定のコードを送信することでカプセル内部の細胞は分裂を始め、約一か月ほどで出産が可能となります。FATEの原型技術を用いているため、定着まで多少の時間は必要ですが、ドクターと変わらない意識と記憶を持つ子に成長します」

 

 旧暦の頃は、権力者が自らのバックアップを用意していたという話は聞いたことがある。

 特にベルカの諸王が覇を競っていた頃は、圧倒的な力を持つ王の死が国家の存亡に関わる。最高の資質と経験を蓄え、常に全盛期の力を発揮する王の存在が国家に欠かせなかったのだと。

 

「……理解が追いつかないというか、理解したくない話ね。やっぱり気持ち悪い男じゃないの。女のおなかを何だと思っているのよ」

「現代管理世界の倫理感においてそうなるのは否定できません。ですが、これが私にとっての望み。私の欲望です」

「あの男のバックアップを産むのがあなたの願いなの? ちょっと理解できなのだけれど」

 

 ウーノの姿はプレシアの理解の埒外にある。愛する相手との子を望む気持ちは自分も痛いほどに理解できる。だが、そんな相手のバックアップを生み出すために胎を使われることが願いだというのか。

 

「新たなドクターを生み出すだけであれば、私を仲介する必要はありません。実際に、これまでドクターが年を重ねた肉体を捨てる時には、人工子宮となる装置で次のドクターを生み出していました。戦闘機人とはいえ、生身の肉体を用いれば少なからず母胎の影響を受けてしまいますから。

 私はドクターの唯一になりたいのです。一番の娘だと言われ、ドクターのおそばにいても、私はドクターにとっては複数人いる娘の一人でしかありません。ですが、これから産まれてくるドクターは私という母胎の影響を受けて産まれてきます。そしてドクターの娘は複数いても、このドクターを産み落とした母親は私だけです」

 

 ウーノは、自らの腹を撫でながら幸せそうに微笑んだ。

 

 なるほど、なるほど。理屈は理解できた。

 そしてプレシアは頭を抱えて、大きくため息をついた。ダメだちょっとついていけそうにない。

 

「実体験から言わせてもらうけれど、娘が何人いようが、誰かは誰かの代わりになんてならないわよ」

「そうなのかもしれません。ですが、私はそうは思えません。私は私自身が納得できる形で、唯一になりたいのです」

 

 欲望が叶ったかどうかは主観的なもの。ウーノの考えを変えるのは非常に困難だ。

 

「余計に頭が痛くなったわね。あなたのそれもだけど、クアットロを放っておくのはまずいとしか思えないわ。あの子はどんな欲望を持って、何をしでかそうとしているのよ」

「クアットロの欲望の詳細はわかりませんが、その対象が誰なのかはわかっています。あの子は十年前からずっと、ウィルに執着していましたから」

「ああそう……あの子も厄介な因果に目をつけられて大変ね……」

 

 あの少年の復讐はどうなったのだろうか。

 今回の一件で闇の書が滅んだ以上、叶えられたと考えても良いのだろうか。それとも、まだ彼の復讐は続いているのだろうか。会う機会があれば尋ねてみたい。

 ただ、大勢を巻き込んだ彼自身の欲望(ねがい)が叶えられていたとしても、クアットロという他者の欲望(ねがい)に巻き込まれる彼に安らぎが訪れるとは思えない。

 劇は終わらない。一度降りた幕は再び上がる。配役を替え、演出を変え、これから先も続いていく。

 

「二人とも、それに相応しい歪みと強さを持った子です。ドクターが特に目をかけるほどには」

 

 ウーノの瞳は弟妹をかわいがる優しさと、親にかわいがられる弟妹への嫉妬が含まれていた。

 

 どうしたものかと悩みながらも、結局プレシアはウーノの願いを否定するのはやめた。

 他人に理解され難い願いを抱いているのはお互い様だ。

 アリシアを蘇らせたい自分も、そんな自分のことを今でも母と思ってくれるフェイトも、復讐のために生きていたウィルも。みんな、他人からすれば理解され難いものだろう。その孤独を知っている自分が、他人の願いを否定するのも野暮というものだ。

 社会では認められないそれぞれの欲望。しかし社会から外れたところで生きている今の自分たちまで、社会の規範や倫理に従う必要もないだろう。

 なら、せめてでき得る限り支援してあげるのも良いかもしれない。

 

「仕方ないわね。スカリエッティが戻ってくるまでの間、私がある程度の面倒は見るわ。とりあえず、あなたは私の補佐をやめなさい」

「何か不手際がありましたか?」

「妊娠中。しかも出産が近い子を働かせるわけにはいかないわ」

「戦闘型ではありませんが、私も戦闘機人です。この程度の活動は問題ありません」

「私が気にするのよ。それに、あなたにとっては小さな負担でも、お腹の子に悪影響が出ても困るでしょう」

 

 ウーノは下腹部を押さえると、わずかに眉尻を下げた困り顔になる。

 

「それは……すごく困ります」

「でしょう? クアットロがいれば良かったのだけど……今からトーレとチンクとセインとディエチを呼んで、あの子ら四人で分担してあなたの代わりが務まるように鍛えましょう。そうと決まれば――」

 

 

 

 

 高級レストランの個室にて対面を果たす二人の男。

 かたや灰色の髪を後ろへ撫でつけ、洗練された洒脱を感じさせる初老の男。十年前の本局の重鎮であるギル・グレアム。

 かたや褐色の髪を短く刈り上げ、厳めしい顔と大柄な体格をした壮年の男。十年後の地上本部の重鎮となるレジアス・ゲイズ。

 対立の続く海と陸の重要人物が秘密裏におこなう会談は、それだけでゴシップ紙の紙面を賑わせるには十分すぎる。

 

「管理局の中では私の方が先輩でも、最高評議会においてはきみの方が先輩だ。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いするよ」

 

 紳士然とした笑みを向けられたレジアスは、柄にもなく緊張を隠せないでいた。

 

 管理局の高官同士とはいえ、レジアスがグレアムと直接顔を合わせて会話をしたことはない。

 十一年前の闇の書事件の前、グレアムが現役であった頃は、レジアスは出世頭とはいえ一介の佐官にすぎなかった。

 ただ、海の人間でありながらも尊敬できる人ではあった。築き上げた功績ももちろんだが、艦隊司令という立場にありながら、必要とあれば自ら最前線に出ることも厭わない姿勢。威風堂々としたたたずまいを崩さず、それでいてよく現場を理解し、末端にまで気を配れる。その姿は陸や海というくくりを飛び越えて、当時の管理局で正しい志を持つ者ならば誰もが憧れた英雄だ。

 

 そのような相手と相対し、レジアスが最初にしたことは、頭を下げることだった。

 

「この度は愚息がご迷惑をおかけしました」

 

 一般的には非公開の闇の書事件の概要も、ジェイル・スカリエッティが関わったこともあり、最高評議会の内部では周知の内容だ。

 その事件において、自らの子が数々のキーポイントになっていたことも。

 ヴォルケンリッターが初めて襲撃したのも、暗躍していたグレアムを説き伏せスカリエッティを巻き込んだのも、グレアムに重傷を負わせ闇の書暴走のトリガーを引いてしまったのも。

 

「そうだな。彼のせい……そして彼のおかげだ。彼がいなければ、私はきっと罪もない少女の命を奪ってしまっていた。どれだけ感謝しても足りないほどだ。ついでに、スカリエッティにもな」

 

 我が子を誉められ、しかしレジアスの心に浮かんだのは苛立ちだった。

 最終的にうまくいったから良いものの、後から聞かされたその過程は常に綱渡り。

 

「犠牲は……必要です。世界は不条理で満ちている。今回はうまくいったようですが、一歩間違えれば大勢の局員が死ぬ可能性もありました」

 

 目の前の男は民間人の少女を犠牲にする案を立てていたと聞く。

 

 レジアスがそれを聞いて感じたのは、怒りや失望ではなかった。

 最高評議会の命令とはいえ、ジェイル・スカリエッティの研究を黙認している己がそのことを否定することはできない。

 感じたのは、やはりそうなのだというわずかな安堵。

 あれほどの英雄であっても、犠牲を払わなければならないと感じるほどに、この世界は不条理に満ちている。だからこそジェイル・スカリエッティという違法な科学者を抱えて、不条理を抑えつけるためのさらなる不条理、最高評議会が必要なのだ。

 

「だからきみは最高評議会に所属したのだな」

 

 レジアスの内心の正当化を見抜いたか、言葉の刃が剣のように突き立てられる。

 知った風な言葉に激しかけた心を抑え込み、しかしその刃はレジアスの胸に秘めていた後悔へと深く突き刺さっていて、やがてレジアスは滔々と語りだした。

 

「きっかけは、あの子の怪我でした。父の死を知ったあの子は、自分が仇をとるのだと。そのための強さと知恵を欲した。……私はそれをやめさせようとしました。こんな小さいうちから復讐のために生きるなんて絶対にさせてはいけない。ヒューに顔向けができないと」

 

 守るためではなく、倒すため。しかも相手はいつ現れるかもわからない災害めいた存在。そんなもののために一生を費やせば、不幸になるのは目に見えている。

 

「ですが、それは逆効果でした。誰も理解者のいないあの子は荒れ始め、我流で魔法を覚えようとした。家内はそれを気にかけて、普通の子らしくなれるようにとあの子をよく連れ出していました。そこで遭遇したテロで家内は亡くなり、あの子も大きな怪我を……」

「細君を失う辛さ。想像に余りある。……その怪我の治療のために、スカリエッティに?」

「私に最高評議会が声をかけてきたのも、その時でした。首都防衛隊の部隊長となった私を……いや、私の友であり地上本部有数の騎士――ゼストを制御するためだったのやもしれません。今でこそ落ち着きましたが、若い頃のあいつは納得できなければ私以外の上官の命令に平気で逆らう男でしたから。……その見返りに、最高評議会を通しての予算や人員の融通を効かせてもらえる約束でした。それから、怪我で四肢を失い、抜け殻のようになったあの子に、最高級の再生治療を受けさせてくれるとも」

 

 いつでも自分は仕事にのめり込んでいて、魔導師ではない自分とは違い体を張って戦う仲間たちが少しでも楽になるようにと、家に帰らないことも多かった。

 妻はそんな自分を理解して、家庭を受け持ってくれていた。オーリスが生まれた時も、ウィルを預かる時も、いつだって。

 そんな妻を失って、十になる娘と四肢を失くした子が残った時に気づかされた。自分は子供への接し方など学んで来なかった。

 危険な任務に赴く仲間を支える術は数多く知っていても、母を失った娘を支える術は知らなかった。

 任務で傷ついた仲間の人生を支援する術は知っていても、傷つき生きる意味を失った子を支える術は知らなかった。

 

「私はあの子に向き合うのを辞めてしまった。治療のためを口実に、あの子を最高評議会の手配する医者へ預けてしまった。それがスカリエッティのことだとも知らずに」

「……後悔しているのかね?」

 

 グレアムの言葉に、レジアスは首を横に振った。

 

「一年経って帰ってきたあの子は、信じられないほどに成長していました。亡きヒューのように人を守るため、いずれ現れる闇の書や危険なロストロギアから人を守るために、士官学校に入学すると。あの子はスカリエッティの元で立ち直っていた。私は結局、あの子に何もしてやれなかった。あの子を正気の世界へと引き戻したのはスカリエッティであり、彼が生み出した戦闘機人たちだ。……私には奴らを、奴らを生み出した最高評議会を否定することはできません」

 

 ずっと誰にも言えず、胸の内に抱えていた後悔を――家族と向き合えなかった過去をさらけ出し、レジアスは酒をあおった。アルコールで腹の底が熱い。愚かな己を焼こうとするかのように。

 

 

「たしかに、最高評議会のおかげで救われた者も大勢いるのだろう。いや、人知れず救われた者の方が、人知れず犠牲にされた者よりも遥かに多いのだろう。私もそれを疑いはしない。だが、それは犠牲を前提にして良い理由にはならない」

 

 グレアムもまた、レジアスに合わせて酒をあおる。そして酒気と共に言葉を吐く。

 

「犠牲が生まれるのは必然だ。私たちは神ではない。救いきれない命は必ず出てしまう。しかし救おうと、とりこぼさないようにしようとする意志を失ってはならない。

 私は今回の一件で、その意志の力を見せてもらった。きみはあれを幸運の結果だと思っているようだが、それは違う。この結果は最後まで大切な人を救おうともがいた彼らの意志が引き寄せたもの。私が犠牲にするはずだったはやて君の命を救い、ウィル君を元の世界へと引き戻した。リインフォースという犠牲は避けられなかったが、あれこそが若者たちが導いた結果だ」

 

 どこまでも正しいその言葉は、英雄たる男にふさわしいもの。

 目的のために汚れることも厭わない己らとは対極に位置するもの。

 

「あなたはいまでも英雄なのですね。誰もがうらやみ憧れた綺麗事の塊だ。あなたは最高評議会に入るべきではない。一度入れば抜け出すことはできない。あそこにいるのは皆、世界のために甘さを切り捨てた怪物どもばかりだ。そんな甘い考えでは、やっていけないでしょう」

「正しさは甘さ……か。ならば私は正しさを武器に、最高評議会に所属しよう」

「私たちのやり方を否定するとおっしゃるのですか……ふざけるなよ。儂らが喜んで、必要のない犠牲を生み出してきたと思っているのか!」

 

 犠牲を生み出してきたわけではない。生まれる犠牲から、その価値を測り選択してきた。

 正しさだけではやっていけないから、そうするしかなかった。罪であることに変わりはなくとも、何の力もない正しさなどで代わりが務まると思われて良いものではない。その苦痛と絶望の意味を否定させはしない。

 

 並の局員なら腰を抜かすほどのレジアスの激昂を真正面から受けてなお、グレアムは揺るがない。

 

「最高評議会の存在は、時空管理局が秩序をもたらすためには必要な悪だったのだろう。だが、このまま正しい意志を持った若人たちが高みに昇り詰めた時に、その悪に組み込まれてしまう循環はどこかで絶たなければならない」

「なぜ儂にそんなことを告げる! そんな馬鹿げた夢は、己の心の中だけに秘めておけば良いではないか!」

「きみならわかってくれるかもしれないと考えた。カルマン君の養父であるきみなら、彼がこれから成長し、管理局で出世を重ねればどうなるかわかっているのではないか?」

 

 その可能性を突きつけられ、言葉に詰まる。

 親のひいき目を除いても、ウィルは優秀だ。魔導師としての実力も高く、自分という親の存在もある。本人にその気があれば、いずれは相応のポストにまで昇りつめるだろう。

 スカリエッティの存在を知り、奴や戦闘機人を好ましく思う。そんな存在を最高評議会が放っておくだろうか。いずれレジアスの後釜として取り込まれるのではないだろうか。

 だからといってレジアスには何もできない。闇の書の件が解決したのなら、一刻も早く管理局を辞めるように説得する程度のことしかできない。

 

「無謀だ……! できるはずがない! あなたは知らんのです! 最高評議会はただの派閥ではない! その中枢は管理局を立ち上げた始まりの人たちの生き残り! いまだに彼らを信奉する者は多い! 海の頂点たる伝説の三提督ですら、参加してはいないが彼らの存在を認識して看過している! 彼らに抗うというのは、管理世界最大の組織を敵に回すようなものだ!」

 

 最高評議会に抗うことなど、できるはずがない。

 しかしその事実を受けてなお、グレアムに怯えた様子はない。

 

「ほう、思っていたよりも規模は大きいようだ。しかし困難は承知している。私は私が正しいと思ったことをする。これが最善と偽って、犠牲を許容するのはもうやめると決めたのでね」

 

 引退を視野に入れるような年齢とは思えない、若人のような荒々しい活力が満ち溢れている。

 その瞳に諦観はない。あるのは天上の星々と等しい煌めき。

 

「そのためには仲間が必要だ。だからきみに声をかけた。手を貸してほしい。私にはきみの力が必要だ」

「潰して、どうするのです。最高評議会が裏で調整しなければ立ち行かなくなることは多い」

「ああ、きみは私が最高評議会を潰そうとしていると思っていたのか。それは訂正しなくてはならないな。最高評議会の行いは認められずとも、海と陸の悪化した関係を越えて協力し合うという派閥の存在は貴重だ。ただ潰すだけなのはもったいないと、私も思っている。だから――――」

 

 グレアムは笑う。夢を語る少年のような曇りなき笑みで。

 目の前にかざした掌を握りしめる。天上の星々を手中に収めるように。

 

 

「最高評議会は私が掌握する」

 

 

 

 

 

 

 勾留を終えて、本局内の病院からの退院が決まり、ウィルは大きく伸びをした。

 アースラが本局に帰還するまで五日ほど、そこからまた十日ほどの勾留。しかも病院のベッドで寝た切りで、身体がなまって仕方がない。

 

 病院のロビーで、私服のクロノが立っていた。ウィルの姿を認めると、何も言わずに横に並んで歩きだす。

 

「おつとめごくろうさまとか言わないの?」

「病院でそんなこと言うか。それに不起訴なんだから出所したわけでもないだろ」

 

 言葉の通り、ウィルについては証拠不十分で不起訴処分となった。

 本来なら捜査情報漏洩で懲戒免職は確定。刑務所へも直通だ。しかし、今回の闇の書事件、公式の記録からもスカリエッティの存在は抹消されている。スカリエッティがいないのであれば、ウィルやグレアムが存在を漏らした相手もいなくなる。したがって無罪。

 グレアムもまた、ヴォルケンリッターを匿っていたのではなく、多少非合法な手段を使ってでも、彼らの潜伏場所を突き止めようと独自に動いていただけとされた。何かしらの懲戒はあるとしても、それほど大きなものにはならないそうだ。

 相当に無茶のある話だ。その裏で何らかの、大きな存在の意思が働いていただろうことは明白だ。

 

「散々罪を償えって言ってた俺が、上の権力で不起訴処分。笑えないなぁ」

「僕も今回で初めて、上の圧力というものを身近に感じたよ。母さんやロウラン提督の険しい顔は忘れられないし、僕自身執務官長から直々に呼び出されて釘をさされたよ」

 

 病院から出て、適当な無人配送車を呼んで二人で乗り込む。

 時空管理局本局の内部には街が一つ丸々入っている。ウィルが押し込められていた病院は、その街のはずれにある。

 行き先を商業区画へと指定すれば、配送車は音もなく発車する。太陽光を再現した陽光が降り注ぐ中、街並みがゆるやかに後ろへ流れていく。

 

「きみはこれからも管理局で働くつもりか?」

「たしかに、俺が管理局に所属したのは、闇の書に復讐するために少しでも情報を得たかったからだ。闇の書のことが終わった今、管理局に居続ける必要はないんじゃないか……ってのは、少し悩んだよ」

 

 以前のウィルであれば、闇の書の件が片付けばそのまま管理局を辞めていたかもしれない。

 それとも、レジアスの望む通りにクラナガンを守るため、周囲の期待に応えるために管理局に居続けたかもしれない。

 ただ、どちらであれ以前のウィルであれば、流された結果の判断になっていただろう。

 

 でも、今のウィルには約束がある。消えゆく闇の書の業――犠牲者たちに誓い、今を生きるヴォルケンリッターと誓った。

 

「でも、ヴォルケンリッターがちゃんと罪を償って生きるか見張るって約束があるしな。ここで管理局をやめると、当分彼らと会いにくくなるだろ?」

「彼らの存在に関しては、少なくとも裁判が終わるまでは公開されないからな」

「隠し通すわけじゃないんだよな?」

「ああ。混乱や偏見をなくすには、隠し通して彼らには別の経歴をつけた方が手っ取り早いと、そういう意見もあった。でも事情があったとはいえ加害者を守るためにそこまでするというのには反対も多かった。それになにより、彼ら自身がそれを望んでいなかった」

 

 語るクロノの表情は穏やかで、ヴォルケンリッターの選択に満足しているようだった。

 クロノは正しく、優しい。必要なら、ヴォルケンリッターの存在を隠すことも受け入れただろう。

 だが、受け入れられることは、平気だということとは違う。ヴォルケンリッターが自分たちの正体を、やったことを隠して生きるとなっていれば、大きな不快感を覚えていただろう。

 

「結果がどうなったとして、これからどんな苦難が待ち構えていたとしても、自らを隠すことなく犯した罪に向き合うと決断したよ」

「贖罪のスタート地点にはついてくれたわけだ……じゃあ、俺も向き合うべきだよな」

 

 ウィルがこれから彼らの贖罪を見届け、判断する裁定者としてあり続けるなら、ウィル自身もまた清算しなければならないものがある。

 

「一つ決めたことがあるんだ。俺、管理局の上層部にあるとある派閥……それ、潰すよ」

 

 ウィルの告白に、クロノが目を見開いた。

 語らずとも、それが今回の一件に大きく関わっていたものだと理解したのだろう。

 

「これまでずっと諦めてきたんだ。必要悪っていうのかな? 悪いところがあるのも世界の常で、そういうのを許容しなきゃならないんだって。仕方ないんだって思ってた。どうせ俺一人が声をあげても変わらない。俺の目的は闇の書を滅ぼすことで、それ以外はどうでもいいんだって」

 

 スカリエッティとその娘たちは、ウィルの心を救ってくれた恩人だ。

 プロジェクトEを施されていたと理解してもなお、彼らのことは嫌いにはなれない。特に、涙を見せたクアットロが今頃どうしているのかと考えると、不安になる。

 でも、その人を好きだということは、その人がする全てを肯定することではない。

 

「ヴォルケンリッターに正しく生きろっていうのなら、俺もまた正しく生きなきゃならない。目の前にある悪をいつまでも看過して良いはずがない。大切な人が悪の側にいるのなら、それをやめさせてこっちに連れてきてあげなきゃならない。……きっといらないお節介で、あの人らには余計なお世話だって言われそうだけどな」

 

 そのためにいったいどれほどの準備が必要なのかはわからない。

 地上本部の少将にして、首都防衛隊の代表たる養父レジアスですら、その派閥の一員でしかないのだ。ウィルが人生全てをかけても倒せる相手ではないのだろう。

 でも、実現が不可能であったとしても、それは正しくあろうとすることを諦めて良い理由にはならない。

 倒すのが無理なら、レジアスの後釜としてその内部に入って、内側から変えていく手もある。

 諦めずに、立ち向かおう。諦めずに、自分を救おうと手を伸ばし続けてくれたみんなのように。

 

「なら、僕もだな。一人では難しいだろう?」

 

 思わずクロノを見れば、彼もまた険しい顔をしていた。

 

「今回の事件の成り行きや、はやて君から聞いたきみと戦闘機人の親しさを合わせれば少しはわかる。僕や母さんにかかった圧力も考慮すれば、どうやらその派閥は、地上だけではなく海にも大きく関わっているみたいだ。それなら、きみ一人では荷が重い」

「でも、クロノを巻き込むのは……」

「巻き込まれたわけじゃない。僕もそんなのがあると知って放置しておけるないだけだ」

 

 そしてクロノは横目でウィルを見つつ、挑発的な笑みを浮かべる。

 

「それに、きみにできることが僕にできないわけがない。逆もまた然りだ」

 

 不意打ちに放たれた言葉に、ウィルはクロノから顔をそむけて、外に広がる街の景色を見た。もうすぐ目的の商業区画に到着する。

 よくもまぁこんな真昼間から、恥ずかしげもなく言えたものだ。いったい、ウィルのどこを見ればそれだけ買いかぶれるのか――信頼できるのか。

 ただ、悪い気はしなかったから、ウィルもまたクロノを見て、仕返しをする。

 

「期待が重くてやんなるよ。まぁ、頑張るよ。俺の憧れは……俺がなりたいのは、クロノみたいなやつだからさ」

 

 その言葉にクロノもまたウィルから表情が見えないように、顔を窓の外の街へと向ける。隠しているつもりだろうが、耳が赤い。

 

「……一度しか言わないんじゃなかったのか?」

「改めての決意表明だよ。三度目は言わない」

 

 

 窓の外を流れる景色の速度が低下し始める。目的地に到着したようだ。

 商業区画の入り口まで運んでくれた配送車にクレジットを支払って外に出ると、周囲を見回す。

 

「少し待て。今エイミィに連絡する」

 

 と、携帯端末を取り出そうとしたクロノの手を押し留める。

 

「いた。あそこだ」

 

 商業エリアの入口から少し入ったところにある噴水の前に、目当ての集団がいた。

 この一年で深く結びついた仲間たち。ほとんどはあれからずっと本局にいたらしいが、地球に戻っていたなのはもまた、今日のためにわざわざやって来てくれたようで。

 その中心で、車椅子に乗ったはやてとエイミィが楽しそうに話をしている。

 二人とも、まだウィルとクロノには気づいていない。

 

 

「そうだ。あそこまで競争しようぜ」

「は?」

「当然魔法はなしな。人にぶつかったら失格。じゃあ、よーいドン」

 

 勝手に言うと、ウィルは一人で先に走り出す。

 

「おいここで走るな――っああもう! 負けるか!!」

 

 一足先に走り出したウィルを追いかけて、クロノもまた駆けだす。走る速度を緩めていたウィルの横をクロノが駆け抜け、直後ウィルもまた本気で走る。

 突然走り出した二人に周囲の人々が驚き、やがて噴水のそばにいたはやてたちも猛スピードで走ってくる二人に気づく。

 そしてウィルとクロノが、驚いた顔でこちらを見ているはやてとエイミィのところへと同時に到着して――

 

 

 この世界は、こんなはずじゃないことばかりでできている。

 きっと、これからも様々な困難が待ち受けているのだろう。

 自分の心ですら、自分一人では抑えられないのだから。

 

 だけど、今の自分には仲間がいる。

 どんな困難でも、彼らとなら乗り越えられると信じられる戦友が。

 復讐の炎がウィルという存在を焼き尽くす前に救いだしてくれた、大切な友人たちが。

 

 

 驚くはやての手を取って、その周りにいる仲間へと満面の笑顔を浮かべて宣言する。

 

 

「これからもよろしく!」

 

 

 

 

 

 

復讐の炎がこの身を焼き尽くす前に  完 




 本編はこれにて完結です。
 ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
 日々の感想、お気に入り、評価、とても励みになりました。

 更新間隔は不定期になりますが、そのうちおまけと後日談を更新する予定です。
 おまけは小説形式ではなく、リメイク前後でのプロットの違いの話やバッドエンド案の一部になります。
 後日談は個別ED三つ。現状は完成率半分以下ですが、九月中に投稿できればと考えています。

 最後に、アンケートを用意しましたので、お答えいただけると嬉しいです。
 特に結果が何かに反映されるわけでもなく、読者の皆様の認識を知りたい&アンケート機能を一度使ってみたかっただけなので、お気軽に。


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後日談
おまけ(後書き)


 小説ではなく、後書きみたいなものです。
 内容は、リメイク前後でのプロットの変遷とIfエンド案になります。
 こいつ何考えてこれ書いてたんだと気になった方は、見て笑ってやってください。

 本作のネタバレを多く含むため、未読の方は注意ください。


 プロットの変遷について

 

 

 スタンドバイ(プロトタイプ)

 

 Arcadiaに投稿した、今は無き作品です。

 無印の流れは大差ありませんが、ウィルが普通に悪い奴でした。

 普段は愛想よくしていますが、管理局に務めているくせに目的のためなら人を騙すことも傷つけることも許容する奴でした。性格の悪いクアットロの相手が普通につとまる奴。

 

 A's編での当初のプロットは、グレアムに拾われてスカリエッティを引き込むまでは予定と変わりませんが、その後三人目の仮面の戦士として参戦。要所要所でなのはらの邪魔をしつつ蒐集を完了させ、暴走状態の闇の書を本作でスカリエッティが語っていたプランで打倒。ヴォルケンリッターはこの時点では死なず、暴走する管制人格相手の戦闘に加わります。

 ウィルは内部に侵入した際に守護騎士機能を破損させて、死んでも復活できない状態を作り出し、本編通りにナハトヴァールを倒して全てが解決したと全員が安堵した隙をついて、連戦で疲労困憊のヴォルケンリッターを奇襲。

 シャマルに重傷を負わせ、仲間を守ろうとしたシグナムを戦いの果てに殺害。ヴィータとザフィーラも手にかけようとしたところでクロノに止められます。

 このルートではシグナムの記憶復活もないので、父の直接的な仇がシグナムだと知らないままに仇をとるので、シグナムだけでは満足しません。

 これにはさすがにはやても怒り、悲しみ、二人の関係は完全に決裂。

 

 ウィルはその後アースラの営巣にぶち込まれますが、数日後に発生した闇の書の欠片事件(BoA)で戦力が足りずに、クロノのお目付けの元で駆り出されます。

 この時のボスはマテリアルズで、この作品のラスボスを務めた闇の書の業の設定はこの時点では影も形もありませんでした。

 同時に、欠片として再現されたシグナムとはやてが邂逅。比較的新しい時間軸の情報から再現されたシグナムは他の欠片とは異なり、はやてを守ろうと動きます。そんなシグナムと会話して心に整理をつけたはやてはもう誰も死なせない&復讐に固執するウィルすらも救おうと手を差し伸べます。えらい。

 

 シグナム殺害により罪を犯した側に立ち、それでも自分に手を差し伸べてくれる彼女たちの優しさに触れ、罪を犯しながらも懸命に生きようとするヴォルケンリッターたちの気持ちを理解して、自分が復讐しなくても彼女たちは苦しみながら生きてることを実感として知って復讐を断念。

 その後こっちのルートでは死んでいないスカさんから自分にかけられた永遠の炎のことを教えられて心がぽっきりと折れてしまいます。

 そんな腑抜けたウィルを見かねたレジアスの計らいで、ゼスト隊に預けられることに。

 空白期では、守るべき市民や罪の意識のあったヴォルケンリッターとは異なる真正の悪たる犯罪者たちとの出会いを通じて、罪を犯した者は許されるのか、どうすれば自分自身を許せるのかに悩みながら、少しずつ立ちなおり始めます。

 しかしウィルに異常な執着を抱いているクアットロが独自に暗躍を始め、空白期のボス兼ヒロインに……。

 

 まぁ、そんなところまで描くどころか、A's編の序盤でPCが破損して、メモっていたパスワードで作者用ページに入れなくなって、本作でいえば月村邸での捜査会議が始まる前あたりでエタりました。

 

 

 

 スタンドバイ/スタンドアローン(リメイク)

 

 現在Arcadiaに掲載されている分です。

 ウィルの性格はだいぶマシになりました。

 A's編では、スカさんを引き込むまではリメイク前と同じですが、複数陣営の思惑が錯綜する展開をやりたくて、はやてとヴォルケンリッターが八神家を離れ、スカさんのラボに居候する展開に。

 加えて、スカさんは好きなキャラだけど、何から何まで悪役の思い通りに運んで事件解決ってのもムカつかね?と思い始め、シグナムによる告白イベントからのシグナム二戦目。そこからの闇の書早期暴走ルートにチェンジ。スカさんとグレアムさんも片や死亡、片や重傷と物理的に酷い目に合うことになりました。

 

 この時点で自分の投稿ペースではSTSどころか空白期も絶対書けないなと理解し、復讐だけに焦点絞ってA's編で決着するように変更。

 闇の書の業の存在と主人公のラスボス化が決定。マテリアルズとの戦いの最中に、ウィルが闇の書の業へと変貌して最終決戦が始まる予定でした。

 贖罪と復活まで書けないのなら主人公に人殺しさせちゃダメだなということでシグナム生存。

 どうやってウィルの復讐を止めるかと考えた結果、加害者側を守るために復讐者を止めるだけではなく、命を削り死へと突き進む復讐者を連れ戻すために全員が命をかけるという、復讐者のために全員が必死になってくれる形にしました。

 

 そして闇の書の業が登場する前の、A's編最後のシグナム戦でエタりました。

 後十話もなかったのにね……。

 

 

 

 復讐の炎がこの身を焼き尽くす前に

 

 旧タイトルが本編の内容何一つわかんないなと思ったので改題。

 

 大筋はArcadia版と大差ないですが、無印編を中心に必要ない描写を削ったり、ウィル以外のオリキャラの描写も削りました。

 ウィルの性格は結構お人よしで、他人のために身体をはることをいとわない子になりました。最後にみんなから命がけで助けられるなら、そうされるだけの献身をウィル側も見せなきゃならないかなと。はやてやなのははいい子らなので性格悪くても助けようとしてくれそうですが、気持ちの問題として。

 

 大筋はArcadia版で考えていた通りなのですが、変更点が一つ。最後の完結編でのマテリアルズの出番削除です。

 エタらせてる間に積んであったGoDをやって、マテリアルズを砕け得ぬ闇を出すことなく単なるかませで終わらせるのやだな、でも砕け得ぬ闇まで出すと復讐という焦点ぶれるなとなったので、出番をなくしました。

 本作では闇の書の業が存在を匂わせるだけで影も形もない彼女たちでしたが、多分そのうち復活して戦い、ハッピーエンドに持ち込んでいることでしょう。

 

 変更しようと思って結局しなかったものが、クアットロの目的です。

 空白期をやらないのであれば、彼女の偏執的な欲望を失くし、普通にウィルが思い悩む姿やすりきれる姿が見たくて煽り、もう復讐諦めたから楽しめなくなったと理解してネタ晴らしするという原作寄りの性格悪いクアットロにしようかと思っていました。

 ただ、単にそれだけのために何の情もない相手に十年単位で仕込むようなのは、それはそれで原作のクアットロなのか?と考え、A's編の途中で初期案のクアットロに戻し、過去描写となるエピソードを急いで追加し、詳細については後日談で語ることに決めました。

 彼女がウィルとの出会いで何を感じ、闇の書事件で何を目論んで協力し、空白期でウィルとどんな再会を果たし、STSの頃にどんな関係になっているのかは、クアットロEDをご覧ください。

 

 

 

 

 IFルートやIFエンドの話です。

 特に理由なくゲームっぽい書き方で。

 

 

 『超融合!究極完全体リインフォース!』

 

 シグナムとの会話イベントの回数を抑えなど、好感度を低いまま保つと父の仇の告白イベントがなくなります。

 連鎖的にウィルとシグナムの戦闘による闇の書早期暴走が起きず、スカリエッティが死ぬことなくA's編が終わります。

 これによりA'sラストのリインフォース消滅時に、生存しているスカリエッティの手を借りるという解決策がとれるようになります。

 

 守護騎士システムを解析して得た管制人格の人体構造式を転用し、リインフォース・アインスを完全に再現したデザイナーチャイルドに、進歩したプロジェクトFによりアインスの記憶と意識を移植することで、リインフォース・シャッテン(影)が誕生します。

 シャッテンは守護騎士機能とも夜天の書とも関係のない、リインフォースと同じ遺伝子と同じ記憶、同じ人格を持つ少女です。

 シャッテンは誕生後ある程度成長すると八神家に贈られますが、意識の定着が甘く完全にアインスと同一の自我を持っているわけではありません。

 また同一性の哲学的問題もあり、アインスと見なしてよいのかという葛藤がはやてたちを悩ませ、シャッテンの個別イベントではそれが焦点となります。

 

 その後STS時点で六課のユニットとしてシャッテン(外見年齢九歳)が使用可能になります。

 シャッテンとツヴァイ、双方のイベントをこなしていくことで地上本部襲撃時にシャッテンにツヴァイがユニゾンするイベントが発生。

 以降アインスの記憶と魔法を完全に思い出したユニット、リインフォース・フォルコメンハイトが使用可能になります。

 

 ただしこのルートでは消耗の少ないウィルと消耗しすぎたシグナムが戦うことになるので、A's編でのシグナムの死亡が確定し、ウィルが闇の書の内部に入らないため闇の書の業との戦いが発生しないこともあり、無印・Asのキャラクターとの関係を修復できないまま空白期へと進みます。

 そのせいで空白期序盤は罪の意識でウィルの人格が非常に根暗に変化しており、積極性のある選択肢が制限される他、ステータスアップに便利な八神一家との訓練コマンドも使用できなくなるため通常よりも遥かに難易度の高いルートになります。

 

 

 

 バッドエンド『最悪の結末』 

 

 はやてとの会話回数を極端に抑えることで無印編ラストでの養子イベントを発生させず、性格の悪い選択肢ばかりを選ぶことで陰湿の性格値を上げると、闇の書の闇撃破後に最悪の復讐方法としてヴォルケンリッターの目の前での八神はやての殺害を選択できるようになります。

 

 当然ぶちギレたという言葉では生ぬるいほどの殺意の塊になったヴォルケンリッター五人の手で、周囲にいるクロノたちですら止めきれずにウィルも死亡します。

 この時、闇の書の内部にウィルが侵入するルートを通っていた場合、宿主の生命活動停止により闇の書の業が早期に目覚めます。そのままヴォルケンリッターを殺害し夜天の書を再度取り込み、暴走して見境なく周囲に襲い掛かります。

 最後はリンディ提督がアルカンシェルによって最愛の息子たるクロノたちごと暴走体を消滅させる苦渋の選択をします。

 生き残ったグレアムは、守りたかった若者たちが全て死んでしまったにも関わらず元凶でもある自分が残ってしまったことに酷く後悔し、隠居先の英国の別荘でひっそりと自殺。

 子供の頃の友人が英国に帰って来たと聞いて駆け付けた古い友人が、凍り付いたグレアムとそばによりそう二匹の猫の遺体を見つけて終わります。

 

 復讐もののお約束として、復讐対象に同じ思いを味わわせるという展開もあるよなと思い、さらにはやてを凍結封印しようとしたグレアムが凍りついたかのように亡くなるという因果応報から逆算されたEDです。

 どんな感情でこんな悪趣味なもん考えてたんだ俺。

 

 

 

 バッドエンド『もう一度ゼロから』 

 

 スカリエッティとの会話で新たなデバイスを入手する際に、新デバイスにアセンション及びポゼッションを搭載せず、

 その状態で闇の書内部へ突入するルートを通った場合、内部でのナハトヴァールとの戦いで闇の書の業の元となる彼らの助力を得れずに敗北します。

 

 外部の戦闘で一定のダメージを与えられていれば、そのままはやてが管理者権限を取得してクリアとなりますが、ナハトヴァールに飲まれ精神を直接損傷したウィルは記憶を失います。

 ヴォルケンリッター相手にはなぜか生理的な嫌悪感を覚え、触れられると思わず飛びのいてしまうような過剰反応を示すようになりますが、大好きなはやてと一緒に士官学校の入学(再入学)試験のための勉強をするEDとなります。

 プラスもマイナスも全部リセットしてゼロから彼らの関係が始まります。リゼロ!

 

 

 

 ビターエンド『車椅子の隊長』  

 

 闇の書の業との戦いでは、基本的に魔力ダメージで削り、ウィル自身への肉体ダメージを抑えるのが救出のためのクリア条件となっています。

 クリア時に肉体へのダメージが一定量を越えていた場合、度重なる戦闘と重傷、何度も繰り返す気絶からの知らない天井だの天丼、とどめに闇の書の業となり限界を超えた戦闘を繰り返したことで、ウィルの肉体に致命的な損傷が発生し、一命こそとりとめますが以降治療不可の下半身不随になります。

 

 EDの時系列はSTS開始直後となり、車いすに乗ったウィルがレジアスの代理人として機動六課の官舎を訪問。

 課長のはやてや後見となるクロノとの打ち合わせを終えて去ろうとしますが、見送りもなく帰すわけにはいかないと、官舎の外まではやてが直々に車椅子を押してくれます。

 あの時とは逆の立場になった二人が、出会った頃から今にいたるまでの思い出をかみしめるように語りながら、それでも二人の道が交わることはあっても共に歩むことはないことを理解し寂しげな笑みを浮かべて別れます。

 成長して立場が逆転するのいいよね……。

 

 

 

 バッドエンド『墓標(ゆりかご)』

 

 案どまりの他のエンドと異なり、執筆予定のバッドエンドです。

 A's編ラストのシグナムとの決戦で邪魔が入らず、決着がついた状態から分岐するEDになります。

 シグナムとの決着は冒頭でつくので、復讐を果たしたウィルのその後に焦点があたる話です。

 

 

 

 後日談について   

 

 個別EDを三種。

 人選は、はやて、シグナム、クアットロです。

 はやては順当に。シグナムとクアットロはやり残しがあるので。

 

 個別といっても全編ヒロインとのいちゃいちゃではなく、その後の出来事をハイライト形式で描き、最後にヒロインとの会話で〆という形で。



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IF 墓標(ゆりかご)(前編)

注意
 このエピソードには原作で生存しているキャラの敗北や死亡、チート主人公などの要素が含まれます


 これは高町なのはが、ウィルとシグナムの戦いを止めに来れなかった「もしも」の話。

 

 

 降り注ぐ白雪が吹きすさぶ風に振り回されて舞い踊る中、ウィルとシグナムは数多の剣戟を交わし合い、数多の拳を打ち込み合う。

 その果てに、ウィルの握る銀剣がシグナムの左肩へと打ちこまれ、柔い女の肉を裂いて右胴へと抜けた。

 ヴォルケンリッターの修復力をもってしても、再構築よりも生命活動の停止の方が速い致命の傷。

 しかしウィルは留まらずにその場で回転。腕部から生じた無色の翼がひるがえる身体にさらなる加速を与え、次いで打ちこまれた銀剣が左胴から右肩へと抜ける。

 一拍遅れて、十字に刻まれた銀の軌跡をなぞるように血が爆ぜ、舞う白雪とウィルの顔を赤く染める。

 シグナムの身体がぐらりと傾くと、飛行魔法が造り出す慣性場がほどけるように解け、重力に導かれて空から落ちていった。

 

 後を追ってウィルも降下する。

 元は海であったはずの地上はデュランダルの影響で海面が凍り付き、降り注ぐ雪によって雪原となっていた。

 

 真っ白な雪原にぽつんと一つ赤い染み。

 流れ出た血で周囲を赤く染めながらも、その中心に横たわるシグナムの身体は随分と白く見えた。

 

 銀剣を雪原へと突き立てると、ウィルはシグナムの額へとそっと手を伸ばす。

 

 死闘の果てに先にたどり着いたのはウィルの剣。

 けれどウィルは認識していた。

 最後の一瞬、並みの剣士ならば隙をつくどころか気づくことすらできないような刹那。シグナムがわずかに剣を鈍らせたことを。

 迷いが剣に表れたというにはあまりに露骨なそれは、ウィルの力を試したのか、それともウィルならばその隙をつくと信頼していたのか。

 どちらにせよ、シグナムはたしかにその一瞬の隙を恣意的に作り出した。ウィルに敗けるために。仇を取らせるために。

 

「最後まで、嘘が下手なんですね」

 

 凍てついた外気にさらされて、騎士甲冑が解けたシグナムの身体は急速に冷たくなっていく。

 シグナムの額に当てた手からは、生命の熱は感じ取れない。

 肌をなでるように手を動かし、開いたままのまぶたを閉ざす。

 

「おやすみなさい、シグナムさん」

 

 

 幼い頃から我が身を焦がさんばかりに燃え盛っていた内なる炎は、まるで元から何もなかったかのように消え失せていた。

 その空白を埋めるのは、ついに復讐を果たしたという達成感と、淀みだ。

 

 ──ああ、自分は今、人を殺したのだ

 

 仇だった。復讐だった。大切な人を殺された痛みを、殺した者を殺すことで帳消しにしようとした。奪った者が奪われずにすむことが納得できなくて、奪うことで納得を得ようとした。因果が応報でないのが我慢ならず、自らの手で報復した。それが理由だ。

 けれど、今のシグナムがどれだけ善良な人格を有していても、ウィルの父を殺した事実が変わらないように、いかなる理由と背景があっても事実は覆らない。やったことは、なくならない。

 

 だから、この事実も等しくなくならない──自分は、人を殺した。この手で誰かが大切に思う人の命を、未来を奪った。

 

 

 ずっと前から決めていたことがある。

 たとえ父がウィルが復讐に生きることを望んでいなかったとしても、もしも闇の書を滅ぼして復讐を遂げることができたなら。父の命を奪ったものに報いを与えることができたなら。

 

 ──やったよ、父さん

 

 と、墓前に報告するつもりだった。

 けれど今、ウィルの口から漏れる言葉は。

 

「ごめん、父さん」

 

 あなの息子は、今、人を殺しました。

 あなたが未来を守ってくれた息子は、今、人の未来を奪いました。

 

 

 やがて周囲の魔力素が正常に戻り、転移でやってきたクロノの手で拘束されるまで、ウィルはその場から動くことなくシグナムの亡骸を見続けていた。

 

 

 

 

 アースラにて拘束を受けたウィルとはやてが再び顔を合わせたのは、それから三日後のことだった。

 

 ウィルには魔力出力を抑えるためのリミッターがかけられ、デバイスとなる義手も取り上げられている。

 両者の間は透明な繊維強化樹脂で区切られ、どれだけ手を伸ばしても届かない。

 加えて、ウィルの側にはクロノが、はやての側には武装隊の隊長がそれぞれ配備され、何かがあれば即座に取り押さえられる状態になっている。

 

「リインフォースが……死んでしもてん」

「さっきクロノから聞いたよ」

 

 闇の書の中枢──夜天の書の管制人格であったリインフォースは、闇の書を闇たらしめる防衛プログラムを破壊し、再び夜天の書の管制人格へと戻った。

 だが、その防衛プログラムを生成するためのプログラムは、管制人格たるリインフォースに刻まれていた。リインフォースが生きており、夜天の書が機能し続けている限り、防衛プログラムはそう遠くない内に蘇る。だから、リインフォースは自らその命を絶った。

 ウィルがその事実を聞いたのは、ここに来る直前。全てが終わってからだったが。

 

「最後の瞬間には、立ち会えてん。こんな私を、最高の主やって言って、消えて。……誰も守れんかった、私を」

「はやてのせいじゃない。リインフォースが死ぬしかなかったのは、過去の主たちに責任がある。そして、シグナムさんが死んだのは俺が原因だ」

 

 被害者にも原因があるなんて、そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。

 よしんばあったとしても、それは本当にただの原因でしかない。被害者に責任はない。

 

「はやてが俺を憎んで死を願うなら、俺は今すぐにでも受け入れる。はやてだけじゃなくて、残りのヴォルケンリッターでもいい。俺を許せずにこの胸に刃を突き立てたいと言うのなら抵抗はしない。ただ一言死ねと言うだけでも良い。そうすれば、俺は自分でこの命を断つから」

「ふざけんのもいい加減にして。ここでウィルさんが死んだら、シグナムは何のために死んだん?」

 

 放たれたはやての言葉に、ウィルは言葉を失い、顔を苦痛で歪ませる。

 はやてはウィルの目をまっすぐに見据えると、続けて語る。

 

「ウィルさんと今まで通りにっていうのは……ごめん、今すぐにはできそうにない。だからって、死んでほしいなんて思うはずない。それに、シグナムを殺したウィルさんよりも、リインフォースを死なせた昔の人らよりも……あれだけ大きな口を叩いといて肝心の時に何もできん! 間に合わなかった自分が一番憎い!」

 

 はやては机の上に乗せた両の掌を強く握りしめて、机に叩きつけ。双眸から涙がぽろぽろとこぼれ落とし。

 それでもウィルから視線を外すことはなかった。

 

「一つ、教えて。ウィルさんの復讐は、これで終わりやの? それとも、ヴィータとシャマルと、ザフィーラ……あの子らのことも仇やと思ってるの?」

「俺の復讐は……終わったよ」

 

 闇の書とヴォルケンリッターを憎んでいた思いは、シグナムの告白で闇の書とシグナムへと対象を変えた。そこに残りのヴォルケンリッターは含まれていない。

 他の三人だって誰かの命を奪っていたはずだ。でもウィルの復讐は、悪行を憎む正義感なんて綺麗なものから生じたわけではない。徹頭徹尾、父の命を奪われたことへの報復という私的な感情で成り立っている。

 残りのヴォルケンリッターを、ヴィータ、シャマル、ザフィーラという個人へと止められないほどの殺意を抱くことはできない。

 

「そう……それやったら、もう誰かが死なんとあかんようなことは、これで終わらせよ。だから、ウィルさんはシグナムの死を無駄にせんように生きて」

 

 突き立てられた言葉は、本物の刃を突き立てられるよりも、深く、鋭く、ウィルの心を抉る。

 はやては強く優しい子だ。大切な人を奪われた憎しみを他者にぶつけずに、どこまでも自罰的に、他者の苦しみを己の責任だと感じて、重荷を背負って歩き続ける。

 ウィルはそんなはやてを助けるどころか、この後に及んで、はやてという他者に裁かれることで苦しみから逃れようとしてしまった。その結果、ウィルの命というさらに重い荷物を背負わせることになってしまうのに。

 

 ならせめて、個人ではなく社会というシステムに、人を殺した罪を裁いてもらおう。

 

 

 

 

 アースラが本局に帰港すると、ウィルは本局内の施設で勾留されることになった。

 ウィルにはシグナムを殺害しただけではなく、闇の書事件に関してグレアムと共に闇の書に加担し、広域指名手配犯ジェイル・スカリエッティと協力していた嫌疑がかかっている。そのため、執務官であるクロノや本局の査察官に何度も事情聴取を受けた。

 そして半月が経過した頃、拘留中のウィルの元にクロノが訪れて、結論を告げた。

 

「不、起訴……?」

 

 告げられた言葉が理解できず、ウィルは間抜けにも首をかしげた。

 

「言った通りだ。不起訴処分、だそうだ。明日には釈放されてここを出られる」

 

 普通の犯罪者であれば、喜ぶべきことだ。

 不起訴処分──つまり、罪を犯していない。もしくは犯していたとしても立証できない。だから無罪だと判断されたということなのだから。

 

「いや、いやいやいやいや、待てよ、待て、待ってくれ。……ありえないだろそんなの」

「今回の一件、ヴォルケンリッターは人を殺さないように動いており、重傷を負ったきみもまた彼らに監禁されていた。海鳴での戦闘の後、現状の捜査方法では逃亡したヴォルケンリッターを発見できないと考えたグレアム提督は、捜査本部に無断で独自の情報網でヴォルケンリッターの行方を捜し続けていて、きみはその最中にグレアム提督に救助された──それが上層部による今回の一件のストーリーらしい」

 

 クロノの語る内容が意味するのは、スカリエッティが闇の書事件に関与していたという事実の抹消。

 だが、そのことはウィルにとってはどうでもいい。少なくとも、もう一つの大きな罪に比べれば些事だ。

 

「そんなことはどうでもいい! 俺は、シグナムさんを殺したんだ!!」

 

 ウィルはシグナムを殺した。決定的に、殺害した。

 ヴォルケンリッターは死んでも再召喚が可能だが、切り離した夜天の書に残された魔力は少なく、四人を再召喚することでほとんど消費されてなくなった。

 そしてリインフォースが消滅したことによって書は機能を失い、二度とヴォルケンリッターの再召喚はできなくなった。

 シグナムという存在はもう戻って来ない。

 

 それを殺人と言わず何と言う。

 あらゆる次元世界において傷害や殺人は罪だ。たとえ被害者やその身内が訴えるつもりがなかったとしても、法を司る者たちはその罪を裁かなければならない。人類が互いを傷つけることをタブーとして、安定した社会を形成する上で避けられない必須の条件だ。

 

「ヴォルケンリッターは、既存の法律の枠内ではインテリジェントデバイスと同等の人工知能として扱われる。管理局法を始めとする全管理世界のどの法でも人権は認められていない。それが法務部の下した判断だ」

 

 ヴォルケンリッターは人型をしているだけで、闇の書を構成するモノにすぎない。闇の書に関わるまで、ウィルも同様の認識をしていた。

 だが、はやての家族として暮らしていた彼女たちを知ってしまった以上、そんな歪な認識を認められない。

 

「ふざけるな!! シグナムさんは生きていた! 会話をして、自分のやったことを悔やんで、俺に頭を下げてくれて、それでも納得できなかったから俺はあの人を殺したんだ!!」

「彼らがこれから生活していく上で、周囲の認識も変化していくことだろう。そう遠くない内に、人の定義も変わることだろう。だが、少なくとも今回の一件に関する判断が覆ることはない」

 

 体から力が抜けて、椅子に座り込みうなだれる。

 何を言えば良いのか、わからず。理屈的な反論は浮かんで来ず、しかし管理局が下した決定は決定的に間違っている、歪んでいるとしか思えなかった。

 

「クロノはそれで納得できるのかよ」

「納得はしていない。何度も考え直すように進言した。だが、変わることはなかった。これが管理局の――僕たちが生きるこの世界が下した判断だ」

 

 クロノもまた歯を食いしばり、拳を握りしめて、それでも声を荒げることなく、現状を受け止めていた。

 

「僕たちは知っていたはずだ。この世界は残酷で、こんなはずじゃないことばかりなんだと。今回もまた、そうだった」

「それで、我慢するのか。……やっぱり強いよ、クロノは。俺は納得できない。そんな判断を受け止められない」

「納得できず、我慢できず、法に背いてまた力でなんとかしようとするのか? それこそ、ふざけるな」

 

 クロノは立ち上がってウィルのそばに来ると、肩を掴んでウィルを揺さぶった。

 うなだれるウィルの顔を強制的に上げさせて、目を合わせて言葉を紡ぐ。

 

「たとえ望んだ通りの最善が選ばれなかったとしても、僕たちは自分の意志で次善を考えて選ぶことができる。きみが罰を与えられることを望んでいるのなら、八神はやてやこの社会がそれを裁こうとしなくたって、向き合えばいい。他人が裁きを下さないというのなら、自分で償うしかない。……そのために助けが必要なら、僕はいくらでも力になる」

「俺にそんな価値あるのか? 人殺しだぞ?」

「だけど、友達だ」

 

 はやても、クロノも、罪を犯したウィルに手を差し伸べてくれる。

 失望して、そんな奴だと思わなかったと唾を吐きかけて、友情も親愛もなかったことにして、見捨ててくれれば良いのに。

 でもどうすれば良い。自分はいったいどうやって罪を償えば良い?

 

「命にふさわしい償いなんて、どこにあるんだよ……」

 

 

 

 クロノの言葉通り、ウィルは翌日には解放された。

 レジアスが本局へ訪れると大事になるからと、姉のオーリスがと本局へとやって来て、クロノやリンディたちと何事かを話してからウィルを連れて帰った。

 レジアスもオーリスも、すぐに全てを訊くつもりはないようで。勧められるがままに、しばらく休暇をとることになった。

 

 子供の頃から過ごしてきたゲイズ家の自室で、罪の償い方をひたすらに考える。

 

 大切な少女に、奪った命を無駄にしないように生きてと言われた。

 大切な幼馴染に、生きて罪を償うのだと言われた。

 管理局の局員として、他者を助けながら生き続けることこそが彼らが望むことなのだろうか。

 

 だけど、同時に思う。

 罪を犯したのに、償いだなんて綺麗な言葉で取り繕ってのうのうと生きて良いはずがないと。それは被害者の強く優しい心にもたれかかり甘える、唾棄すべき邪悪ではないのか。

 殺人を犯したもの全てが疾く死ぬべきだという極論を述べるつもりはない。

 だが、ウィルに関しては別だ。ウィルは父を殺したシグナムが生きることに納得できず、耐えられずに、シグナムを殺した。

 そんなウィル自身が、他人に同じような苦しみを与え、その苦しみに耐えるように強いてるかもしれないのに、生き続けて良いはずがない。

 

 それでもなお生きることを選ぶほどの、命を奪う大罪に相応しい贖罪の術をウィルは知らない。

 知らないから、奪われた命に対して命を支払わせる道を選んだ。

 どこかに術があったとして、知ろうともせずに命を支払わせたのに、自分の番になってから選ぶのは許されない行いではないか。

 やはりたとえ望まれずとも、自ら命を支払うべきではないだろうか。

 

 その思いがウィルの手のひらに魔力の塊を構築する。

 自分の身体を巡る魔力を操作し、抵抗力を極限まで下げる。そしてこの魔力を自分の頭に向けて放てば、それで簡単にウィルは死ぬ。

 

 生きて罪を償うべきだという気持ちと、己に死という罰を与えるべきだという相反する想いが高まり、決断できず。

 手のひらに集まる魔力だけが次第に肥大化して、銀腕が熱を持ち始めたその時に、

 

 

「──────────────────────」

 

 

 頭の中に、声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 それから、三年の月日が流れた。

 

 

 

 

 

 首都クラナガン。

 人口数億の巨大都市(メガシティ)にして、時空管理局発祥の地たる第一管理世界ミッドチルダの中心都市(メトロポリス)であり、あまたの管理世界の中心となる世界都市(グローバルシティ)たるこの街の中央にそびえ立つのは、各管理世界に駐留する管理局地上部隊を統括する地上本部だ。

 次元世界の調停者にして圧倒的な危機に対するカウンターとして次元の海に君臨する『本局』と、管理世界の守護者としてその地の民の安寧を常に守り続ける地上の『本部』は、ともに平和を乱すものから世界を守る双璧である。

 

 地上の象徴たる部隊が、陸上警備隊だ。

 最も数が多く、それゆえに犯罪予防、事件の捜査、鎮圧、交通の取締、通信の確保など、様々な面で常に安全と秩序を保ち続ける、地上部隊の理想の体現。

 だが、そんな彼らの数の力をもってしても抑えられない大きな事件が発生した時、それを抑えるさらに大きな力が地上にもある。

 

 首都防衛隊――レジアス・ゲイズが代表を務めるこの部隊は、地上部隊最強の戦力を有する機動部隊だ。

 必要に応じてミッドチルダで発生する様々な事件に介入し、鎮圧する。地上に在りながら海に近しい役割を持つこの部隊には、高い実力を持つ者だけが配属され、たゆまぬ訓練によって実力を高めており、海の本局武装隊や、海からミッドチルダに出向してきている本局航空隊にも劣らない精鋭が揃っている。

 

 地上本部に隣接して建設された総合訓練センターでは、今日も普段と変わらずに激しい訓練が行われている、はずだった。

 

 

 空は澄み渡る蒼。雲一つなく温かな日差しが屋外模擬戦場に降り注ぐ中で、首都防衛隊の中隊を構成する隊員たちが地に伏していた。

 

 倒れ伏した彼らの姿を背景に、超越者同士が戦いを繰り広げている。

 

 片割れは、一目で鍛え抜かれた戦士とわかるたくましい体格の偉丈夫。獅子のたてがみを思わせる褐色の髪の下で爛々と輝く、刃のごとく研ぎ澄まされた視線は、並みの戦士であれば目が合うだけで萎縮するほどの圧力を放っている。

 地上本部に名のある魔導師は数あれど、真正古代のベルカ式を使う騎士において最強は誰かと問われれば、半数以上が彼の名──ゼスト・グランガイツを挙げるだろう。

 そして首都防衛隊の中で最も精強な部隊はどこかと問われれば、みなが彼が指揮するゼスト隊の名を挙げる。

 そのゼストが繰り出す槍斧型のアームドデバイスによる連撃は、いずれも一撃必殺の威力を備えている。

 

 その圧倒的な暴風と至近距離で攻撃を交わし合うは黒い青年。

 目元まで覆うフードで顔の上半分を隠し、全身を覆う黒い長衣型のバリアジャケットを身に纏い、唯一右腕の義手だけが鈍い銀の輝きを放つ。

 ゼスト隊の副隊長を務める青年──ウィリアム・カルマンだ。

 

 息もつかない攻防は、素人目にはゼストの圧倒的優勢に見える。

 ウィルの長剣はゼストの槍斧と打ち合うたびに押し負け、ゼストの攻撃がその身に届く直前に、身をよじってかろうじて回避する。しかし避けた先にもゼストの攻撃が迫り、再び長剣で迎え撃ち──と、紙一重で生き残り続けているようにしか見えない。

 

 しかし、一流の戦士がこの攻防を見れば、明らかな違和感に気が付く。

 紙一重の攻防を繰り広げながらも、劣勢のはずのウィルはゼストの槍斧が届く範囲から脱出しようとせず、身体を動かしながらも常にゼストの刃圏に留まり続けている。さらに押し負けているように見える打ち合いも、最初から衝撃を受け流すようにさばいているのだと。

 そしてウィルを良く知る者なら、さらなる違和感に気が付く。

 彼の両手両足を覆う銀の装甲──フェザーとハイロゥはいまだ展開されておらず、彼の握る剣すら愛用の銀剣ではなく、鈍色の汎用型のアームドデバイスでしかないことに。

 

 およそ百を超える攻防が交わされた頃、ウィルの握るアームドデバイスの刀身がゼストの攻撃に耐えきれずに砕けた。

 逸らしきれなかったゼストの突きがウィルの顔面へと迫る。即座、ウィルは両足の力を抜いて膝を折り曲げ、大きくのけぞって回避する。

 逃げ遅れた毛髪とフードの一部が槍斧に貫かれ宙に舞う中、ようやくウィルはその場から飛びのいてゼストから距離をとった。

 

 やぶれたフードの隙間からのぞくウィルの顔は、およそ戦士とは思えない様子をしていた。

 心労か病か赤髪の半分は白くなり、遠くを見ているように焦点の合わない双眸の周囲には色濃い隈が浮かんでいる。

 陰気や暗鬱というよりはもはや病的と形容されるその様相は、彼の上官たるゼストにとっては見慣れたもの。

 纏う雰囲気こそ異質だが、この部下の技量は年々向上し続けている。

 

「自らのデバイスを使わずともこれほどとはな」

 

 ウィルが握る汎用アームドデバイスは、訓練校や陸士隊での訓練用に支給される汎用のアームドデバイス。粗悪ではないが、実戦に用いるには強度、性能ともに不安の残る品だ。

 武装隊や防衛隊ともなれば、自分自身の専用デバイスを持ち、訓練でもそれを用いるもの。

 義手型デバイスたるグレイスを展開せず、フェザーやハイロゥといった圧縮空気の噴出による加速を用いることなく、まともに正面から打ち合えば即砕かれるような訓練用デバイスで、ゼストと何十秒も渡り合う。

 それだけでも、彼の技量が超一流を越えて異常の域にあるとわかるというのに、ウィルは刀身の砕けた訓練用デバイスをその場に落とすと、今度は素手でゼストと対峙する。

 

「ここからは無手でいきます」

「……そうか」

 

 ふざけたことをぬかす部下に対して、しかしゼストは油断せずに対峙する。

 今のウィルの技量は、ゼストをもってしても計り知れない。

 三年前、ゼストの元に配属された時は、まさかここまで腕を上げるとは思っていなかった。

 

 

 ウィルがゼスト隊に配属されたのは、レジアスの意向が大きく関わっていた。

 数百年に渡り次元世界に君臨し続けた災厄──闇の書が滅ぼされた歴史的偉業。最後の闇の書事件と呼称されるその事件にウィルは大きく関わり精神的な傷を負った、と聞かされている。

 初めのうちはレジアスも管理局を辞めるように勧めたらしいが、ウィルの方がそれを断り管理局に、しかも戦う機会の多い首都防衛隊に残ることを望んだ。

 悩んだレジアスは、親友であるゼストの隊にウィルが配属されるように手を回した。

 

 管理局の仕事で関わるのは初めてであったが、ゼストにとってウィルは知らない相手ではなかった。

 親友が引き取った子供であるから、家を訪れた時に何度か顔を合わせているし、ウィルの父親であるヒューもゼストにとっては有望な後輩であった。

 地上に残りこの街と空を守ると誓った自分たちと道は異なっていても、彼もまた世界を守るための戦いに殉じた戦士だ。

 たとえレジアスからの頼みがなくとも、その忘れ形見の面倒を見ようとしていただろう。

 

 そうして初めて顔を合わせた時、ゼストはレジアスの危惧を理解した。

 赤い瞳に宿る色は昏く、身に纏う覇気は薄く、心はここにあらず。礼を失するような言動こそないが、他人との接触を極力避けようとする。

 通常の職務であれば問題となるほどではないが、命の危険のある鉄火場へと飛び込み、仲間と命を預けあって戦うこの仕事には最も向いていない。

 しかし、実力はその歳にしては極めて高いのも事実だった。

 魔導師ランクはAAだが、ゼストの見立てでは単純な実力であればAAA+に届く。いや、強い意思と気迫があればSランクの魔導師にすら匹敵するのではないかというほど。

 

 今は心が傷つき疲れているのだろうと考え、部下であるクイントやメガーヌにもなるべく面倒を見てくれるように頼み、ゼストは彼に戦い方を叩きこんだ。

 十年後、いや五年後にはゼストにも匹敵する魔導師に成長するのではないかと期待をかけて。

 

 

 そして、そんなゼストの思惑はあっさりと外れた。

 

 一年後のクラナガンに違法薬物を流通させるシンジケートの検挙。二年後の違法研究所摘発と反管理局組織によるテロの鎮圧で大きな活躍を繰り広げた彼は、配属から三年が経った今日この日、魔導師ランクの試験を突破してSランクに到達した。

 Sランクは魔導師にとっては事実上のゴールと言える。ランク上はS+やSS、SSSまで存在するが、その領域は単純な実力ではなく、Sランクの魔導師の中から、ゼストのように数多の戦歴や高い任務達成率を持つ者がS+と認定されたり、規格外の魔力や稀少技能を保有して大規模な事件の対処が可能と判断された者がSSやSSSに認定されるなど、単なる戦闘力よりも保有する技能が大きく関わっている。

 ゼストの予想を裏切り、たった三年でウィルは管理局が誇る最高峰の魔導師たちに列した。

 

 首都防衛隊とはいえど、同じ隊にSランクの魔導師を二人も配属させるのは、隊ごとの保有戦力上限に抵触するため、近々行われる人事異動で別の隊に配属されるのは確実。

 昇任祝いと迫る別れを惜しむ中隊の面々を前にして、ウィルはこう言い放った。

 

「最後に、全員と模擬戦をしたいんです」

 

 こんな仕事をするくらいだ。戦いを嫌うものはいない。

 格上とはいえ、若造からの挑戦状を意気揚々と受け、誰から先に戦うか、何日かけてやるかと打ち合わせを始めた隊員たちに続けて放たれた言葉に、中隊全員の表情が凍り付いた。

 

「全員と一度に戦いたいんです。もちろん、ゼストさんも含めて」

 

 中隊三十人、S+のゼストを筆頭にAAのメガーヌとクイントなど実力者を多数抱え、チームワークでも首都防衛隊随一。

 地上戦のみという地の利のある環境なら、管理局最強のエースたちが集う戦技教導隊複数人を相手にして勝利を収めたこともある。

 その彼らを相手に一人で戦いたいなど、正気とは思えない。記念の模擬戦にしても舐めている。

 

 その舐めた提案の結果が、こうして周囲に広がっている。ゼストを除く全員が倒れ伏しているというありえない結果として。

 

 

 無手のウィルは無造作に一歩前へと進み、直後、その気配が膨れ上がりゼストへと迫る。

 瞬間、ゼストは槍斧を突き出した。その動作は長年の訓練で肉体に染みついた反射に等しい攻撃。

 しかし突き出した一撃に手応えはなし。ウィルはいまだにゼストの刃圏の外にいた。

 

 不覚をとったことよりも、己の感覚を狂わせたその技量にゼストは驚愕を隠せなかった。

 魔導師も騎士も強くなるほどに、あらゆる感覚を総動員して戦う。

 視覚には限界がある。攻撃を見てから動くようでは間に合わない。一流と言える領域に到達した騎士や近接魔導師は皆、相手の動作の起こり――予備動作となる肉体のわずかな動き、なによりも魔力の流れを認識しなければならない。

 それを逆手にとったのが先ほどのウィルの虚。肉体は元の位置のまま魔力のみを動かして、相手に動いたと錯覚させる。魔力の動きをとらえたゼストの感覚が、ウィルが動いたという誤った情報を元に反射的に肉体を動かしてしまうほどの精度で。

 

 過ちを悟ったゼストは即座に槍斧を引くが、それに合わせて今度こそ本当にウィルがゼストの懐へと踏み込んでくる。

 リーチの長い槍斧は懐に潜り込まれると弱い――というのは誤りだ。

 ゼストは右手で槍斧を引きながら、左手を柄に添えて右手で握る箇所を支店として円運動へと移行し、先端の真逆、石突の部分で接近するウィルを横合いから殴りつける。

 ゼストの槍斧は刃となるヘッドのみならず、握る柄の部分にすら高密度な魔力が宿っている。刃ほどではなくとも、直撃すれば昏倒させるには十分な威力を宿している。

 

 ウィルはその攻撃を避けず、右の掌で受け止めた。

 掌からウィルの身体へと叩きこまれるゼストの魔力。それはウィルの右掌から右腕へと流れ、右肩から背へと、そして左肩、左腕へと流れ、ウィルの左拳による掌打がゼストの腹部へと叩きこまれるのと同時に左掌へと到達し、そっくりそのままゼストへと流し込まれた。

 カウンターを受けたゼストの身体が宙に浮き、肉体の動作が一瞬停止するも、ウィルは追撃をせずに再び距離をとる。

 何かを警戒したわけでもなく、ただ単にゼストの実力の底を見極めるまでは倒すつもりはないという意思表示だ。

 

「驚いたな。そのような技、いつの間会得した」

 

 ベルカ式の騎士としての単純な好奇心で、問いかける。

 先ほどの虚ですら、理屈は単純だが歴戦たるゼストを欺くとなれば極めて高い精度が必要になる。

 カウンターに至っては、もはや曲芸だ。

 自らの人体に魔力を流す通り道を即席で作りだし、己の体内と干渉せぬように極めて繊細に人体を流し、反対側から放出する。人体に落ちた雷撃を地面から逃がすような奇跡を人為的に行い、あまつさえタイミングを合わせて攻撃することで自らの魔力を使わずに相手へと叩きこむ。

 これほどの技を教えられるような存在は、現代ではそう多くない。

 

「声が教えてくれるんです。だから、たくさん練習しました」

 

 ウィルの返答は、実体をともなわないあやふやなもの。

 それは天性の才覚ゆえに流派の秘奥にも等しい技ですら独自に編み出したことの比喩だろうか。それとも教わった相手のことを教えたくなくて、ごまかしたのか。

 ともあれ、本人が教えるつもりがないのなら、誰からと掘り下げて聞くものではないだろう。

 肝心な事は、それほどの技量を身につけるほどに部下が成長したということ。そして真に問うべきは、その目的だ。

 

「始める前に詳しく聞いておくべきだったな。なぜ、この試合を? ただの腕試しか?」

「ええ……本当に、ただの腕試しです。必要な強さが俺に備わっているのか、確認するための」

「そうか……何故とは聞かん。ただ、騎士として全霊で応えよう」

 

 男に強さを求める理由を問うのは不粋。

 ゆえにゼストは、己のデバイスを両手で握り、構えた。

 

「ゼスト・グランガイツ、推して参る」

 

 全霊を込めた一撃。雷速にも例えられるゼストの『一』が放たれ――――

 

 

 

 ウィルは確かめるように自らの両手を握りしめた。

 その周囲には倒れ伏した隊員たちの姿。立っているのは、ウィル一人だけ。

 

 この日、ウィリアム・カルマンは地上本部最強の魔導師となった。

 

 

 

 

 地上本部の近くに建設されたマンションの一室。

 照明を落としたリビングで、ウィルはソファに深く腰かけて漫然と窓の外の夜景を眺めていた。

 

 子供の頃、執務室から眺めるクラナガンの景色が好きだと、酔ったレジアスに語られたことがある。自分たちが守らねばならないものを再認識させてくれるからと。

 今はその気持ちがわかる。ウィルもこの部屋から見える夜景が好きだ。人がいなければ街に光は灯らない。街並みを彩る様々な色の光は、そこに人が生きていることを認識させてくれる。自分が何のために命を捧げるのかを再認識させてくれる。

 

 ここでの生活の見納めにと夜景を眺めていると、インターホンが鳴り響き、来客の訪れを告げる。

 

「……予定より早いな」

 

 ウィルは現在時刻を確認すると、かすかに眉をしかめながらも家屋の管理AIに扉を開けるように指示する。

 すぐに扉の開閉音が聞こえ、リビングへと近づく足音。そしてリビングの扉が開いて部屋の灯が点き、

 

「灯りもつけないで、一体何をしているのですか」

 

 予想していなかった声に驚いて夜景から視線を外せば、開いた扉の前に立っていたのは、インテリを絵に描いたような妙齢の女。義姉のオーリス・ゲイズだった。

 

「……姉さん? なんで?」

「誰かも確認しないで開けたのですか? 不用心ですね」

 

 オーリスは淡々とした口調でウィルの不注意を咎めながら、部屋の様子を見て顔をしかめた。

 

「昔からあまり物を増やしたがらないのは知っていましたが、これはさすがに行きすぎですね。家具もほとんどないなんて」

 

 リビングに置かれているのは、入居した時から備え付けられていたソファとテーブルだけ。それ以外の物は先週のうちに処分した。

 

「誰もいない家で夕飯を食べるのにも飽きました。少し多めに買ってきたので、一緒に食べませんか?」

 

 オーリスは訊く前から来訪の理由を述べると、手に持っていた紙袋をテーブルへと置き、中から中食を取り出しながらウィルの隣に腰かけた。

 

 

 家に帰る前に夕食はすませていたが、当のオーリスは食が細いこともあり、結局持ってきた食事の半分ほど近くはウィルの胃袋へと収まった。

 

 家族の食事はたいして会話もないまま終わる。昔からそうだ。姉は食事中にむやみに喋るのを嫌う。

 そんな彼女が一人の食事が嫌だからやって来た、なんてのは考えるまでもなく嘘で。やって来た理由も考えるまでもなく、ウィルのことを気にかけてだろう。

 

 夕食を終えて、ゴミを再び紙袋の中へとまとめると、オーリスはウィルのそばへと座りなおし、その顔に手を伸ばし、細くしなやかな指でウィルの目元をそっとなでた。

 

「また隈が酷くなっていますね。ちゃんと寝ているのですか?」

「……仕事に支障をきたさない程度には寝ているよ」

「体が資本の仕事なのですから、大事にしないといけませんよ。もっとも、ゼストさんを倒してしまうような魔導師に言うのは、覇王に拳の振るい方を教えるようなものでしょうけど」

 

 数時間前の模擬戦に言及されて、気まずさで視線を逸らす。

 

「耳が早いね。観客もいない隊内の模擬戦のはずなんだけど」

「ゼストさんからお父さんに連絡がきましたから。耳を疑いましたよ。そんなことをしようとしたことも、それで勝ってしまったことも……本当に、あなたは昔から思いもよらない速度で成長しますね。それなのに、見ていると全然安心できない……むしろ心配は増すばかりで」

 

 オーリスは再びウィルの顔へと手を伸ばし、今度はウィルの髪に触れ、半ば白髪が混じっている髪の束へとそっと指を通す。

 

「髪もこんなになって……一度病院に行った方が良いですよ」

「……ただのファッションだよ」

「それが万に一つ本当だとしたら、少し残念ですね。子供の頃は羨ましかったのですよ。あなたの赤い髪は綺麗で、夕陽に照らされると炎みたいにきらきらと輝いていて」

 

 親戚なのに、どうして自分はくすんだ茶色なのだろうと少し嫉妬していたのですよ――と、オーリスは昔を懐かしむように少し笑みを浮かべた。

 普段は鉄面皮で知られるオーリスだが、家族の前では時折こうして表情を見せてくれる。

 言わずに置こうと思った言葉が口からこぼれ出る。

 

「管理局、辞めようと思うんだ」

「……そうですか」

 

 オーリスは切れ長の目を大きく見開きはしたが、すぐに元の表情に戻ると、変わらずにウィルの髪をなでる。

 

「理由、聞かないの?」

「教えてくれるつもりがあるなら聞きますが。自分から言わないということは、教えたくないのでしょう?」

「うん、ごめん。聞かれてもちょっと話せない」

 

 教えれば反対されるのはわかっているから。知られて邪魔される可能性を生みたくないから。

 そして知って看過したとなれば、その人がいらないことで気に病むかもしれないから。

 オーリスは小さくため息をつく。

 

「局員としては、反対です。ゼストさんを圧倒できる相手なんて、戦技教導隊にだって片手で数えられるほどしかいないでしょう。そんな存在がいるというだけで、犯罪者への抑止力になります」

 

 陸士隊ならまだしも、武装隊や首都防衛隊といった戦闘を本分とする部隊を打ち倒せる犯罪者など、滅多に存在しない。

 だが、自分はその滅多に存在しない強者だと勘違いした愚か者が犯罪を起こすことは往々にしてある。

 そんな愚か者でも、さすがに個としての圧倒的な格差は理解できるらしく、慢心すら打ち砕く圧倒的な強者の存在は犯罪予防にとって有益だ。

 

「ただ、私個人としては賛成です。この三年間、管理局で働くあなたは本当に辛そうでしたから。あなたも、お父さんも、ゼストさんも……みんな、自分を顧みなさすぎです。私としては、もう少し自分の幸せを考えても良いと思います」

「姉さんも、だよ。俺たちにかまわず、そろそろ恋人見つけなよ。きっと親父も心配してるよ?」

 

 オーリスは無言で目を細め、再びウィルの頬に手をやると、今度は頬の肉を指先でつまんで思い切りひねりあげた。

 久しぶりに受けた肉体的な痛みは心地よかった。

 

 

 しばらく会話を続けると、オーリスは手早く帰り支度を終えて、立ち上がる。

 

「お父さんには自分から言いなさい。小言は言われるでしょうけど、きっと反対はしないと思いますよ」

「そう……だね」

 

 公人としてのレジアスにとって、ウィルというSランク魔導師が抜けるのは大きな痛手だろう。

 犯罪と対峙する仲間たちのため、地上部隊の戦力不足を解消する。そのために最高評議会という存在に魂を売り渡すほどに、彼は戦力を欲している。

 一方で、最後の闇の書事件の後で、ウィルに管理局を辞めるようにうながしたのもまたレジアスの一面だ。己を犯罪者に堕としてまでも叶えたい願いを、ウィルという義理の息子のために曲げようとする。

 人から見れば管理局でありながら犯罪に加担する悪党で、レジアスが看過したスカリエッティのせいで犠牲になった者にとっては、許しがたい仇だろう。それでも、レジアスはウィルにとって、優しい…………父親だ。

 そしてオーリスもまた、こんなウィルを気にかけ続けてくれる優しい姉だ。

 

 玄関扉を開けようとするオーリスの背に、声をかける。

 

「俺は姉さんの髪も好きだよ。そういえば、俺が好きになる女の子はみんなそんな髪の色だ」

 

 微笑みを浮かべようとしたが、三年間で凍り付いた表情筋は思った通りに動かず、唇が歪に引きつっただけ。

 どうやって笑っていたのか、もう思い出せない。

 

「なんですか、急に」

 

 けれど、そんなウィルの言葉と顔、どちらがおかしかったのかはわからないが、オーリスはほんの少し嬉しそうに口元をほころばせてくれた。

 

「それでは、ウィル。おやすみなさい」

「おやすみ、姉さん」

 

 去っていくオーリスの背中を名残惜しげにしばらく見続け、ゆっくりと扉を閉めて、扉に頭をもたれかからせてつぶやく。

 

「……さよなら、姉さん」

 

 

 どれだけそうしていたのか、もたれかかっていた扉が急に開いた。

 閉まった時に自動でロックがかかるはずの扉を家主であるウィルの許可もなく開け放ち、扉の前に立つのは、紫髪の少年だった。

 年齢は、六、七歳くらい。白いシャツと短いズボンを履いた良家の子息のような子供。子供ながらも整った顔立ちの中で、金色の瞳が年齢に不釣り合いな酷く強い輝きを放つ。

 闇の書事件で死亡した先の彼に代わり、記憶と人格を受け継いで新たに産まれおちた、今代のジェイル・スカリエッティ。

 

「お別れはすんだようだね」

「お待たせしてすみません。突然、姉さんが来たので」

「家族の最後の団欒を邪魔するほど不粋ではないよ。準備はできているんだろう?」

「ええ。思い残すことは……いっぱいありますけど、後のものは全部ここに置いていきます」

 

 スカリエッティは満足そうにうなずくと、背を向けてマンションの廊下を歩み始める。

 三年間すごした部屋に別れを告げ、スカリエッティの背を追って廊下に出れば、扉の影にもう一人。戦闘機人として完成しているからか、三年経っても容姿に大きな変化のない幼馴染の姿。

 

「クアットロも、久しぶり」

「ええ。本当に久しぶりね」

 

 肉体は子供のスカリエッティの歩幅は小さく、その後ろを歩むウィルとクアットロの歩む速度も自然とゆったりとしたものになる。

 視線だけを動かして隣を歩むクアットロを見れば、クアットロはこちらに顔を向けて、ウィルの顔をじっと見ていた。

 視線が合ったのは一瞬、クアットロはウィルから視線をそらして再び前を向き、忌々しげにつぶやく。

 

「ずいぶんと嫌な目をするようになったのね」

「……知ってるよ」

 

 

 数日後、首都防衛隊隊員ウィリアム・カルマンの突然の失踪がクラナガンの各種ニュースで報道された。

 当初は事件性が疑われたものの、失踪当日に上官であるゼストのもとへと辞表が送信されており、捜査の結果数日前から住居の家具などを処分していたことが判明した。

 そのため、依然捜索は続いているものの本人の意志による失踪であると見なされ、次第にその他の大きなニュースにかき消され、一月もする頃には関係者以外の記憶からはすっかり消え去っていた。

 




 本編ルートのウィルはゼストさんの見立て通りに五年後くらいにSランクに上がり、しかし最後までゼストさん相手にはあまり勝てないくらいの強さになります。
 このルートで異様に強くなってるのは、明確な目的意識と技量を鍛えるに十分な大勢の脳内師匠がいたからです。


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IF 墓標(ゆりかご)(後編)

 二年後、無人世界上空。

 

 五年前の闇の書事件で、闇の書を構成する防衛プログラム――ナハトヴァールは破壊され、それが有していた隔離領域もまたナハトヴァールとともにこの世界から消滅した。

 管制人格の消失とともに夜天の書は機能を失い、ナハトヴァールも蘇ることはなく、繰り返されてきた闇の書事件は終焉を迎えた。

 

 ――本当にそうなのだろうか?

 

 積もり重なったバグにより管理者権限の取得を妨害し、周囲の全てを敵とみなして暴れ狂う防衛プログラムは、たしかに滅んだ。

 だが、疑問も残されている。

 防衛プログラムは管制人格が生存し、夜天の書が機能している限り蘇るようにプログラムされていた。転生という復活方法があるのに、別の復活方法もまた用意されているのは何故か。

 それについては、一つの推測がたてられる。すなわち、転生システムは夜天の書や防衛プログラムとはまた別種の、後付けされた要因によるものであると。

 

 では、そもそも転生システムとは何だったのか。闇の書が滅んでも再び時を経れば蘇っていたのは何故なのか。

 

 もし転生システムが後付けであるという推測が事実であれば。

 闇の書には無から有を創り出す、無限の連環を創り出していた要因があったのだとすれば。

 そしてそれが夜天の書や防衛プログラムと独立した存在であるのならば。

 その元凶は、両者が滅んで亡くなった後ですら、いずれは再び現世に姿を現すに違いない。

 

 

「ふ、ふふふ……」

 

 何もないはずの曇天の下、どこからともなく笑い声が木霊する。

 

「ははは……」

 

 幼い子供のような甲高い笑い声は次第に大きくなり、やがてけたたましい高笑いへと変わる。

 

「はーーーーっはっはっはっはっはっは!!!!」

 

 そして人型のフレームが宙空に出現し、集う闇がテクスチャとなって姿を与える。

 十才ほどの少女の姿。灰色の髪に透き通る水のような青。紫黒のインナーに闇色のジャケット。背には黒い六翼。

 その姿は闇の書の最後の主、八神はやてと酷似していた。

 

「ついに復ッ活ッ! 現世(うつしよ)よ! 私は帰ってきたぁ!!!」

 

 しかし放たれる声は大きく、言葉と態度は傲慢と尊大に溢れ、はやてとはまるで異なる存在であると明確に主張していた。

 

 

 そのはやてに酷似した少女のそばに寄る新たな人影が二つ。

 

「王様!」

 

 片やフェイト・テスタロッサに酷似した、しかし彼女がしないような快活な表情を浮かべた真っ青な髪の少女。

 

闇王(ディアーチェ)

 

 片や高町なのはに酷似した、しかし彼女の特徴的なツインテールがなくなったショートカットの物静かな少女。

 三人とも、闇のように黒い衣服を身に纏っている。

 

 寄ってくる二人の少女を見るや、ディアーチェと呼ばれた少女は全てを見下ろす傲岸たる表情を崩し、喜色を浮かべる。

 

「おお! (レヴィ)(シュテル)か! なんだその姿は!」

「わかんない! 目が覚めたらこうなってた!」

 

 真っ先に答えたのは、レヴィと呼ばれたフェイトに似た少女。何も考えずに発言していると一目でわかる。

 

「おそらく、現世に顕現する際に、蒐集にて集められた魔導師の中から特に優れた者たちの情報を、駆体構成式の基幹として利用したのかと」

 

 一方、シュテルと呼ばれたなのはに似た少女は、冷静に己の状態や状況から推測し、ディアーチェへと答えを返す。

 

「まぁ理由など良い! 先に蘇って出迎えるとは、褒めてつかわすぞ」

 

 ディアーチェはそばに寄ってきたレヴィの頭をぐりぐりとなで、レヴィも笑いながらきゃっきゃとそれを受ける。

 その光景に、本物のはやてたちのことを思い出して少し胸を痛めながらも、いつまでも黙っていては話が進まないので、ウィルは声をあげた。

 

「なのはちゃんとフェイトそっくりな顔が出てきた時点で薄々覚悟していたけど、本当にはやてそっくりな子が出てくるなんてなぁ」

「ん? シュテルよ、なんだこの白髪の男は?」

 

 発言したウィルに不快気な視線を向けるディアーチェ。

 一方のウィルは、ずっとシュテルのそばにいたのに、発言するまで認識されていなかった事実にため息をこぼす。

 

「私たちの復活を予期していたようです。システムU-Dに関しても情報を持っているようでしたので同行を許可しました」

 

 シュテルの紹介を受け、ウィルは軽く会釈しながら自己紹介。

 

「よろしくね。俺の目的もきみたちと同じ。単刀直入に言えば、システムU-D……闇の書を転生させ続けていた要因、無限連環機構を復活させたいんだ」

 

 それに対するディアーチェの返答は簡潔。

 

「そうか。疾く去ね」

「酷いな。少しくらい話を聞いてくれても良いじゃないか」

「下郎と話す口は持たぬ。それに――その目が気に食わぬ」

 

 肩をすくめるウィルを忌々しげに睨みつけて吐き捨てる。

 

「汚泥で濁り澱みきった目だ。暗黒は我が愛しき棲家なれど、貴様の眼に宿るのはもっと悍ましき混沌よ。媚びを売る佞臣であれば話くらいは聞いてやらんでもないが、貴様のごとき奸臣につけいらせる隙は与えん」

「はやての声と顔でそういうこと言われると、結構傷つくな……。まぁいいよ。それなら協力は諦めるから」

 

 敵対の意志はないとばかりに両手を上げると、ウィルはディアーチェたちから距離を取る。

 あまりに聞き分けの良い態度にディアーチェは眉をしかめ、シュテルは首をかしげながら問いかける。

 

「良いのですか? 私たちが必要だから声をかけたのでは?」

「どちらかといえば感傷かな。きみたちが知り合いによく似ていたから、つい声をかけてしまっただけで、本当はきみたち紫天の構築体が三基ともここで復活したってことさえ確認できれば、それで良かったんだ。構築体がここに集まっているなら、システムU-Dもまたこの空域に存在する。場所がわかれば、たたき起こすこともできる。だから――クアットロ、頼むよ」

 

 ウィルの合図にあわせて、空中にスカリエッティ製の複雑怪奇で芸術にも等しい魔法陣が描かれる。

 何のための魔法陣なのかを理解したディアーチェの顔が怒りで赤く染まる。

 

「魔導書の起動式……まさか貴様っ!」

「えっ? なになに? 何が起きてるの?」

「馬鹿者! 奴は我らに先んじてシステムU-Dを蘇らせるつもりだ!」

「……なんだとー! 横取りするのはダメなんだぞ!」

 

 声をあげて抗議するディアーチェとレヴィとは異なり、シュテルは予想外の行動にも瞬時に対応を開始していた。

 その行動力の高さはシュテルという存在が元より有していたものなのか、それともシュテルという駆体を構成するベースとなった少女の影響か。

 

 空域に展開するプログラムの実行者を捜索、周囲に障害物が何もないにも関わらず、実行者が見つからないと判断すると対応を変更。

 プログラムの流れから発生源を推測し、そこに向かって射撃魔法を拡散して放つ。

 その推測は的中し、射撃魔法の一部がシルバーカーテンに隠れたクアットロへと向かい、しかし射線の途中にウィルが割って入り、向かってくる射撃魔法を手のひらで受け止めてシュテルへと投げ返す。

 己の放った魔法をシールドで受け止めながら、シュテルはウィルの対応に感嘆の吐息をこぼす。

 

「弾殻を崩さぬように受け止めて返す。素晴らしい技量です」

「感心している場合か! ええい! まさか下郎相手に我自らが手をくださねばならんとは――」

 

 ディアーチェが杖をかかげて範囲魔法を構築し始めた瞬間、ウィルと彼女たちの間の空間に幾筋もの炎の柱が生じた。

 あらゆる方向から炎に照らしだされているその空間の中心に、存在するはずのない影が生じる。

 

『ユニット起動――無限連環機構動作開始。システムアンブレイカブルダーク正常作動』

 

 燃え盛る紅の炎を伴って、それは姿を現した。

 天に座す月のように金色に輝く髪と目、月が放つ光のように透明な青白い衣、凶日の月のように妖しくゆらめく紅い炎。月のあらゆる側面を収束させたかのような少女が、そこにいた。

 

「人型……? 我の記憶には、そんな情報は……」

 

 無から有を生み出す、闇の書を闇たらしめていたシステム。

 呼び出されたはずのそれは、少女の形をしていた。

 呆然とするディアーチェたちに先駆けて、まっさきにウィルが声をかける。

 

「はじめまして、っていうのも少し変か。こんばんわ」

「ええい! 何を勝手に挨拶をしておる! これは我のだ!」ディアーチェは少女に向き直り、大声をあげる。 「貴様がU-Dであるなら、我のことも知っておるな! 呼びかけに応えよ!」

 

 現れた少女は呆然と虚空を見つめていたが、騒ぐディアーチェの様子に意識を引き戻されたのか、その瞳が焦点を結ぶ。

 

「構築体の駆体起動を確認――ディアーチェ……レヴィ……シュテル。また会えるなんて、思っていませんでした」

「おお! やはりU-Dに相違ないのだな! 我ら三基とも貴様を捜しておったのよ。貴様がいれば、もはや我らに欠けたるものはない! この世を――」

「なぜ、目覚めさせてしまったのですか」

「――なんと?」

 

 少女の背から放出されるゆらめく炎の翼――魄翼が実体のある巨大な刃と化す。

 音速の数倍の速度で振るわれた刃は、少女を中心とした半径百メートルの空間を瞬き一つの間に薙ぎ払う。

 防ぐこと能わぬ無上の刃は、少女との再会を喜ぶ三基の構築体を無情にも両断していた。

 

「な……ぜ……?」

 

 はやてに似た顔を持つ少女ディアーチェ。彼女の肉体が消失する直前に浮かべた表情は、王のごとき傲慢ではなく、仲間に裏切られた怒りですらなく、自分たちを殺しながらも悲しみに涙を流す少女を案じる優しさで。

 その表情は家族を案じるはやてに、少し似ていた。

 

「ごめんなさい……これが運命。悲しい運命……動かざる運命……私が目覚めた後には破壊しか残らない」

「そんなことはないよ」

 

 空に残されたのは仲間を己の手で消滅させた少女と、ウィルの二人だけ。

 声をかけられて初めて、少女がウィルを認識する。

 

「あなたは――?」

 

 少女の顔に浮かぶのは、刃が振るわれた範囲内に自分以外に生存している者がいるという、ありえない事象への疑問。

 そして少女の肉体は少女の意思をまったく意に介さず、生存者を殺害することでありえない事象を正しい事象へと戻すために動き出す。

 再び振るわれる刃を、背面跳びのような姿勢で先ほど同様に回避する。

 驚愕に目を見開く少女。さらに数を増やしウィルの肉体を両断せんと迫る刃の翼を、ウィルは両手に出現させた白い刃で受け止める。

 

「大丈夫だよ。きみはもう何も破壊しなくて良い。何も、破壊させない。俺がこの場できみを砕くから」

 

 刃を受け止めるウィルの姿は、今や完全なる白へと変貌していた。

 髪も肌も、放たれる魔力光すら白い。透き通るような純白は、あらゆる光のスペクトルが――大勢の人間の、様々な色の魔力光が干渉し合って生まれた結果の、想いの結晶。

 今のウィルの身体が内包する魔力は、暴走する闇の書の管制人格をも上回る。

 

 諦観と悲嘆、そして驚愕に染まっていた少女の瞳から、一瞬、感情の色が消える。

 硝子細工のように無機質な、意思の介在しない機構の瞳で。口からこぼれる言葉も淡々としていて抑揚がない。

 

「危険因子の魔力量、閾値を突破。危機段階最大と認定。決戦システム起動。リミッタを解除します――――嫌ぁっ!」

 

 再び意思の光を取り戻し、己の振るう破壊の力を厭う少女の瞳。しかしその矮躯から、これまでは抑えられていた膨大な魔力が放出され、それだけで周囲の空間が歪み、周囲数十キロメートルに設置された観測機器が機能を失った。

 

 少女が内包する無限大の魔力とウィルが内包する八百万(やおよろず)の魔力が空間で衝突し、空間を断裂させる。

 砕けては修復され、破られては継ぎ接がれ、世界という帳が破られるたびにその向こう側にある次元空間の色が世界を浸食する。

 

 

 狂った色彩に飲み込まれた空で、世界を破壊し得る存在の戦いが始まった。

 

 

 少女の背から伸びる魄翼の周囲、太陽面爆発(フレア)めいた陽炎がうごめき、ウィルへ向かって一斉に放出される。

 直後、ウィルの頭上から降り注ぐ光線がその全てを迎撃。薄明光線にも似た数多の光の軌跡はまるで光のパイプオルガン。

 光線と陽炎が衝突して相殺し合う中で、魄翼を変化させた少女の刃と、魔力の光を固めたウィルの光の柱。ともに百メートルを超える巨大な大剣同士が激突して砕け散る。

 

 刃の形を失った魄翼は再び炎へと戻ったかと思えば、性質は炎のままに形を歯車の群れへと変える。

 熱を持たず、しかし触れれば原子すら焼き尽くして消滅させる炎の歯車が、進行方向に存在する気体を焼滅させながら迫る。

 防御不可能なその攻撃はウィルに触れる直前、その前方に開かれた空間の裂け目に吸い込まれて消失した。次元歪曲魔法――大魔導師と呼ばれた女ですら、魔力とデバイスの補助を必要とする大魔法。

 

「あなたは何者ですか?」

 

 脆弱な人間のように見える目の前の存在は、己が有する圧倒的な破壊の力をもってしても容易に砕ける弱者ではない。

 そう認識をあらためた少女からの問いかけに、ウィルはあの日、自分の頭に響いた声を――あの日からずっとウィルに目的を、戦い方を、遺志を、伝え続けてきた彼らを思い出しながら答える。

 

「声がきみの存在を教えてくれたんだ。闇の書の中にあるもう一つの闇。あらゆるシステムから切り離されて、異なるシステムで上書きされて、誰も到達できないように深く沈められた、転生システムの真の姿……無限の連環を構成する砕け得ぬ闇の存在を」

「構築体でも知り得ないことを、どうして……?」

「俺にきみの存在を教えてくれた彼らもまた、闇の書にとっての異物だった。本来なら無限の連環についてこれずに消滅するはずだった、闇の書が取り込んだデータの残骸。だからこそ、あらゆるシステムから切り離されたきみの存在に気が付き、そして、そのおこぼれに預かって、存在を繋ぎ止めることができた」

 

 二人は言葉を交わし合いながらも魔法をも交わし合い、その余波で無人世界に存在していた物質が次々と消滅していく。

 避けられた炎の砲撃は遠方にそびえる山を消し飛ばし、振り下ろした純白の光剣の余波で海が割れる。

 

 そして遠距離での攻撃では決着がつかないと判断した両者は、次第にその距離を詰めていく。

 少女の――砕け得ぬ闇の両手に生まれた炎の双剣による連撃。触れれば防ぐことすらできず焼滅する死の刃を紙一重で回避しながら、ウィルは両手の白い魔力刃で砕け得ぬ闇の身体を切りつけていく。

 

 勝敗を分かつのは技量の差。

 全てを破壊する圧倒的な力を持った砕け得ぬ闇というシステムよりなお、この世界に生きる数多の人々と、己の内にある数多の声に鍛えられたウィルの方が技量は勝っていた。

 けれど、徐々に劣勢になりながらも、砕け得ぬ闇は己が敗北するとは欠片も思っておらず、その顔にはただ目の前にいる存在を壊してしまうことへの嘆きだけが刻まれている。

 

「そう……ですか。あなたは、ずっと漂っていたあの人たちの器になったのですね。……ごめんなさい。私はあなたたちに二度目の死を与えてしまう」

 

 近接戦での斬り合いの最中、少女砕け得ぬ闇が双剣を大きく振るって両者に距離が生みだされた直後、彼女の平たい胸に突如として漆黒の孔が開き、その身の数倍にも及ぶ巨大な炎の槍が出現した。

 

 炎槍もまた炎の歯車や双剣と同様に、全てを焼滅させる魄翼の性質を持った一撃と判断したウィルは、次元歪曲魔法による防御を選択する。

 炎槍は先ほどの炎の歯車と同様に、歪曲によって同期させられた次元空間へと飲み込まれてその姿を消す――との想定は裏切られる。

 

 直進する炎槍は螺旋状に回転する炎錐(ドリル)でもあった。

 その回転に合わせて周囲の空間に存在する元素、魔力素、あらゆる物質が吸い込まれ、あまねく全てが焼滅させられる。

 次元歪曲魔法によって歪曲された空間を支えるため、質量の代替となっていた魔力もまた、炎槍へと引き込まれて焼滅させられる。魔力がなくなれば、空間の歪曲は保たれずに消失する。

 

 守りを失ったウィルの身体を飲み込むように炎槍は直進。

 一秒後、炎槍が通過した後の空間には、あらゆる元素も、魔力も、当然ウィルの肉体の欠片すら、何一つ残されていなかった。

 何もなくなった空間を埋めるように、周囲の大気がなだれ込み、生じた暴風が砕け得ぬ闇の金色の長髪を捲き上げる。

 

 変わらない姿のままその場に残ったのは砕け得ぬ闇のみ。

 彼女は定められた悲しい運命が変わらなかったことに悲しみ、自らの手で消滅させてしまった彼に――彼らへの哀悼を込めて、瞳を閉じて黙祷する。

 

「さよならです」

 

 

 別れの言葉を全て口にする前に、砕け得ぬ闇の身体が痙攣する。矮躯には不釣り合いな銀色の右腕が、彼女の小さな胸を後ろから突き破っていた。

 歯車仕掛けの機械のようにぎこちなく首を回して後ろを見た砕け得ぬ闇の目に、死んだはずの男の姿が映る。

 

 左腕も右足も左足も失い、それでもなお残った銀の右腕で砕け得ぬ闇の胸を貫いた男の姿。

 

 炎槍に飲み込まれる寸前、ウィルは次元歪曲によって自らの周囲の空間を砕け得ぬ闇の後方の空間と同期させ、転移することで炎槍の直撃を回避した。

 しかしウィルの肉体全てが転移を終える前に、迫る炎槍が歪曲のための魔力を奪い、空間の同期を強制的に解除させた。いくら膨大な魔力があるとはいえ、守護騎士や構築体のような情報体ではない生身の人間が、不完全な転移に巻き込まれた結果、肉体は無理矢理同期させられた空間が元に戻る際に引き裂かれた。

 奇跡的に残ったのは頭と胴と、機械の右腕。

 けれど、それだけ残っていれば全霊を込めた一撃を放つことはできる。

 

「砕けろ」

 

 右腕に集った魔力が曙光を生み出し、砕け得ぬ闇の駆体を内側から砕いた。

 

 

 肉体の大半を失った砕け得ぬ闇の肉体を、ウィルは唯一残った右腕で抱きとめた。

 消滅を待つばかりの彼女は、ほんの少しの安堵と、しかし変わらぬ悲しみを浮かべている。

 

「まさか、本当にこの身を砕くことが可能だとは想定していませんでした。これで私は、これ以上の破壊を行わずにすみます。……ですが、それも一時のこと。呪われたこの身はいずれまた、この世に現れます。沈むことなき黒い太陽……影落とす月……ゆえに、決して砕かれぬ闇。それが私、システムU-Dの宿業……」

「わかってるよ。だから俺はここに来たんだ。きみを復活させようと動き出す構築体三基と、きみ自身。その全てをこの身に取り込むために」

 

 言葉の意味するところを理解した砕け得ぬ闇の瞳が震える。

 表情は相変わらずの悲しみ。しかし今のそれは破壊を定められた己に対してではなく、目の前の男に対して。

 

「人の身で、防衛プログラムの代わりをするつもりなのですね。きっと、長くはもちませんよ」

「大丈夫だよ。この命に代えて、二度ときみたちが戻ってこれないようにする。約束するよ…………だから、()()()()()()

 

 ウィルの右腕から放たれた光が顎を形作り、消えゆく砕け得ぬ闇に食らいついた。

 砕け得ぬ闇がその身を砕かれ、咀嚼され、飲み込まれる瞬間に覚えたのは、視界に映る男への憐れみだった。

 

「なんて、かわいそうな人」

 

 

 

 

 力を失い、落下しかけたウィルの肉体は、疾風よりも速くその場に駆けつけた女によって受け止められた。

 

「助かりました、トーレ姉さん」

「目論見はうまくいったのか?」

「半分は。残り半分は……他のみんなは来ていますか?」

「約束通り、離れた場所に待機していた。じきに駆けつける」

 

 言葉通り、数十秒もすると浮遊するドローンに乗った残りのナンバーズがその場に現れる。

 チンク、セイン、ディエチ。そして昨年新たに完成したノーヴェの四人。

 

「あれ……クアットロは?」

「あいつなら先ほど、役目は終わったからと帰ったぞ」

 

 答えたのはナンバーズの五番目、チンク。

 白髪で十歳程度にしか見えない容姿の、しかし生み出された時期はクアットロとほとんど変わらない。

 幼い頃のウィルがスカリエッティのラボに滞在していた時期によく顔を合わせていた、クアットロ同様の幼馴染のような存在だ。

 

 

 大幅に欠損したウィルの状態に、集ったナンバーズも衝撃を受けている面子が多いが、その中でもひときわ狼狽しているのがセインだった。

 そのセインに向かって、トーレはウィルの肉体を投げ、ウィルの肉体は放物線を描いてセインの手元に到着。

 

「うわっ! うわわっ! 何考えてんのトーレ姉! 血は出てないけど、これ、切断面どうなって……」

 

 間近で見るウィルの姿に顔を青くさせるセイン。

 今のウィルの肉体は、切断された手足の断面を魔法で強制的に封をした状態だ。封をするまでに失われた血は戻らず、痛みは変わらない。

 

「できれば早めに先生のところに運んでほしいけど、その前にお願いがあるんだ。砕け得ぬ闇の手で構築体は消滅させられたけど、あれは単に駆体の維持を放棄しただけ。再び姿を現すために、このあたりの空間に散逸して力を蓄えているはずだ。本当なら、システムU-Dも構築体も俺が回収するつもりだったけど、このありさまだ。みんなには、俺の代わりに構築体を回収してほしい。お願いできるかな?」

 

 真っ先に賛意を示したのはトーレ。

 

「奴らは強いのだろう? なら私はかまわない。セインはウィルを連れてラボに戻っていろ」

「りょ、了解!」

 

 他のナンバーズも次々に声をあげる。

 

「あたしはもともと戦うことになるからって連れて来られたんだ。このまま戦いもせずに戻れって言われる方が嫌だね」

「……お仕事なら、やるよ」

 

 ノーヴェとディエチもまた賛同。最後に残ったチンクは肩をすくめる。

 

「妹が残るのに私が帰るわけにもいかないだろう。それに、弟の願いを聞いてやるのも、姉のつとめだからな」

「誰が弟だ。背伸ばしてから言え」

「……怪我していなかったら蹴り飛ばしているぞ」

 

 軽口を叩きながらも、ウィルは心の中でたいした見返りもないのに協力してくれる彼女たちに感謝する。

 この礼はこの世界を守ることで返すと誓って、ウィルとセインはスカリエッティのラボへと帰還した。

 

 

 

 

 翡翠色の溶液で満たされたポッドの中でたゆたいながら、ウィルはポッドの前に立つ少年に声をかける

 

「解析結果はどうですか?」

 

 十歳頃の年齢に成長したスカリエッティ少年は、楽しそうにデータを眺めながら答える。

 

「ある程度自覚はあるとは思うが、今もきみの肉体には負荷がかかっている。原因は説明するまでもないね?」

「システムU-Dを内包したことで、俺の肉体の許容量を遥かに上回るほどの魔力が、俺の内側で絶え間なく生成され続けているから……ですね。それでも俺が生き続けているのは、システムU-D由来とはまた別種の……俺の中にいる彼らの魔力がU-Dの魔力を相殺して抑え込んでいるから」

「そのおかげで今のところは肉体を徐々に蝕む程度の状態で安定しているわけだ。制御ユニットを増やせば、もう少し安定するだろう。都合よく残りの手足も失ったんだ。残りも義手義足にして、そこに防衛プログラムを模した機構を入れてみるとしよう」

「わかりました。それでお願いします」

 

 こうしている今も、ウィルの内側に存在するシステムU-Dは胎動を続けている。

 取り込んだ魔力が肉体を傷つけるのを、ウィルの内側にいる彼らが防ぎ、害を及ぼさないように周囲に発散させ続ける。

 それが続く限りは、システムU-Dが外に出ることはない。そして、そんな綱渡りはいずれ破綻する。

 

「だが、システムU-Dは次第に防ぎきれないほどに魔力を増加させ、きみという器を破壊して外に出てくるだろう。闇の書の転生がシステムU-Dによるものである以上、その期間もまた闇の書の復活周期とほぼ一致するだろうね。最短で十年。それがきみに残されたタイムリミットだ」

「じゃあ、それまでに解決しないといけませんね。先生、聖王のゆりかごを俺にください」

 

 刹那、スカリエッティの表情が固まった。すぐにいつも通りの微笑に戻るが、その瞳に生じた警戒と興味までは消えずに残り続けている。

 

「面白いことを言うね。それがどのようなものか、理解しているのかな」

「知ってますよ。古代ベルカの聖王家が保有していた戦艦。ベルカの戦乱を終結させた最悪の兵器。完全な状態であれば、次元断層の中ですら航行可能なオーパーツ。先生がそのゆりかごを奪取しようとしていることも、その起動のためにドゥーエ姉さんを使って聖王に関係した遺物を集めていることも」

 

 スカリエッティの唇の端がさらに吊り上がり、少年の顔に不釣り合いな亀裂のような笑みになる。

 

「どうやって情報を得たのかな? まさか、私の知らない間にウーノを上回るハッカーにでもなったとは言わないだろうね」

 

 ウィルの意志に呼応して、部屋が一瞬白い光で満たされ、そして再び消える。

 その現象を観察したスカリエッティは、数秒の思考で答えにたどり着いた。

 

「なるほど、周囲に己の魔力を散布し、極小のサーチャーとして運用しているのか。観測機器が反応しない程度の大きさの魔力で構成されたサーチャーでは、観察で得られる情報量も送信できる情報量も極めて微小だが、数百、数千のサーチャーからの情報を統合することでそれをカバーしている。人間のマルチタスク能力はせいぜい二桁の分割が限界だから到底不可能な芸当だが、彼らという膨大な意識体を宿す今のきみならばそれも不可能ではない――答え合わせは、そんなところかな?」

「さすがですね。満点です」

 

 ウーノをあざむいてラボのシステムから情報を盗み出すことはできなくとも、ドゥーエやウーノとスカリエッティの会話を聞くことはできる。

 

「では、正解の報酬として教えてもらおう。きみはゆりかごを手に入れて、いったいどうするつもりなのか」

 

 砕け得ぬ闇の存在を知ってから、ずっと考え続けてきた。何度でも蘇り続けるその災厄から世界を守るためには、どうすれば良いのか。

 

「ゆりかごなら次元断層を超えて、誰の手も届かない場所にだって行くことができる。だから、ゆりかごの中で俺を凍結封印して、そのまま次元断層の向こう側へと送り込めば、もう二度と誰の手も届かなくなる」

 

 かつてギル・グレアムが実行しようとしていた、凍結封印による解決。それがウィルの望みだ。

 誰も手出しができない次元断層ならば、凍結封印は永遠に破られることはない。

 

 万が一、凍結封印が溶けるようなことがあっても、次元断層そのものがシステムU-Dを閉じ込める檻になる。

 次元断層の先は観測できない。空間そのものが断たれ、あらゆる情報が遮断されるからだ。

 砕け得ぬ闇として現れたあの少女のように、この世界に顕現する駆体を滅ぼしても、情報そのものが本体のシステムU-Dはいずれ復活する。しかし情報は次元断層を超えられない。次元断層に到達した時点でゆりかごの航行機能を破壊しておけば、システムU-Dが戻ってくることはない。

 

「だから、ゆりかごの奪取は手伝います。先生だけに任せると、必要のない犠牲も出しそうですから。手に入れたゆりかごの中で俺を凍結封印して、先生はゆりかごを好きに使って、飽きたら俺ごと次元断層の中へと放り込んでくれればいい」

「聖王一族の生と死を見守り続けたゆりかごを、自らのための墓標にする――その贅沢は嫌いではない。だが、良いのかな。きみが死ななくてもうまくいく可能性というのも、万に一つはあるかもしれない」

「これが俺の贖罪……俺の望みです。人を殺した罪は償わなければならない。命の代償は、命で支払うしかない。だけど被害者が望んでいないのにただ命を捨てても、自己満足で意味がない。なら、今を生きる人たちを脅かす脅威……砕け得ぬ闇を抑え込むために、俺はこの命を捧げる。そうして、やっと……俺の命は償いに値する価値を得られる」

 

 シグナムはウィルに仇をとらせるという形で罪を贖った。

 けれど、ウィルを仇と見なし、死を望んでくれる者は誰もいない。ウィルが命を捨てたところで、その命には何の価値もない。

 あの日、ウィルに砕け得ぬ闇の存在を教えてくれた彼らの声は天啓だった。いずれ蘇る砕け得ぬ闇が生み出す破壊は、闇の書に劣らぬ犠牲を生む。この次元世界に生きる数多の人々の命を奪っていく。

 それをウィル一人の命で防ぐことができるなら、その死は価値のあるものだ。

 

「見る影もないね。あの日にきみを満たしていた炎は尽き、後に残されたのは灰。そして虚無だ」

 

 スカリエッティは天を仰ぎ、深く、深く、ため息をつき。大きく息を吸い込むと喝采した。

 

「そしてそれもまた欲望の形だ! 全てを吸い込むような重力の渦! 滅びへと向かう圧倒的な死の欲動(デストルドー)! きみは私に示してくれた! 欲望のために駆け抜けて、欲望を叶えたその先の姿を!」

 

 スカリエッティは息が途切れるまで狂ったように笑い続ける。

 やがて壊れそうなほどに強く自らの身体を抱きしめて、打ち震えながら静かに、情念を込めてひとりごちる。

 

「ああ……実に興味深い。私も私自身の欲望を叶えた先には、きみのような変化があるのだろうか。私の知らない、私自身が待っているのだろうか。その未知を想像すると、期待で胸がはちきれそうだ。あの日、きみを治療して良かった。あの日、きみに永遠を与えて良かった。きみに復讐をさせて、本当に良かった」

 

 スカリエッティは大きく腕を広げ、陶然とした顔でウィルを見上げ、高らかに宣言する。

 

「私は私の欲望を叶え、真の私を知るために! きみはきみの欲望の果て、闇の書に終わりを与え死の安らぎを得るために! ともに歩もうじゃないか! 我が共犯者ウィリアム・カルマン!!」

 

 

 スカリエッティは輝かしい未知を想って笑い、ウィルは償いの先の死を想い静かに微睡む。

 ここにはない未来に心を囚われている二人は気がつかなかった。

 部屋の片隅、姿を隠して二人の会話をずっと聞いていて、やがて部屋から出て行った少女の存在に。

 

 

 

 

 

 

 

 力もなく、現実から目を背けていたせいで、いつも自分の手は大切な人に届かない。だから、力が必要だ。

 その決意を抱いて歩み続けた八神はやては、今年、上級キャリア試験に合格した。

 

 海の上級キャリア試験を通過した者は、慣例として即座に三尉に任官し内局にて半年間の研修を受ける。そして二尉へと昇進し、見習いとして一年間海の部隊に配属される。それが終われば一尉へと昇進し、今度は陸の部隊に一年間の出向。そうして陸海双方の現場感覚を叩きこまれた後で佐官となる。

 士官学校卒業組を上回る出世を約束された上級キャリア組とて、現場感覚を知らないままに出世することは不可能だ。まして各管理世界への戦力配備に関わる海のキャリアとなれば、管理世界の現状を知ることは必須。

 

 はやてもその例に漏れず、研修を終えた後で海の部隊に配属された。

 その配属先がアースラであったのは偶然ではなく、はやてという存在がハラオウン閥に属する存在だと周囲に認識されているからだろう。

 実際、闇の書に大きく関わるはやての存在は非常に厄介なことになっており、並みの部隊に配属されたところで、その部隊の隊長が扱いに困って頭を抱えることになるだけだ。

 ヴォルケンリッターという過去に大きな被害を出した存在を庇うはやてのことをよく思わない者が想像以上に大勢いることも、闇の書事件からの五年間で嫌と言うほど味わった。

 

 

 アースラも五年の歳月で様々な変化があった。

 二年前に内局勤務になったリンディに代わり、副長が艦長へと昇進。同時に、艦付きの執務官であったクロノが副長へと移り、そして今年、副長の転属により、昇進したクロノがアースラの艦長を引き継いだ。

 

 そんな彼女たちの最初の任務は、無人世界への調査だった。

 かつてスカリエッティのラボがあり、闇の書事件の最後の舞台になったあの無人世界で、原因不明の高魔力反応が観測された。観測されたのは一瞬。なぜならあまりに高い魔力反応のせいで、その一瞬で周囲に設置されていたあらゆる観測機器が機能を失ったから。

 もしかして闇の書はまだ滅んでなかったのではないか。また何かが起きたのではないか。そんな気持ちで訪れた無人世界は、いくつかの山がえぐり取られたかのように消滅し、その表面が超高熱でガラス状に変質していたが、何が起きていたのかを知る手がかりは何一つ残されてはいなかった。

 ただ、現地世界を観測して得られた魔力の残滓は大別して二つに分かれており、そのうちの片方は闇の書と一部が類似していたため、やはり闇の書が関係しているのではないかということで、周辺海域はアースラが調査を終えて離れた後も、当分の間は警戒態勢がとられ続けることになる。

 

 

 アースラが本局の港に接弦して扉が開くと、はやては全速力でタラップを駆け下りて、驚く局員のそばを駆け抜けて、本局の通路をぱたぱたと走る。

 五年前まで動かなかった脚は、リハビリと訓練のおかげでこうして人並の速度で走れるようになっていた。

 

「エイミィさん! もう来てる!?」

 

 はやてが駆け込んだ部屋には、かつてアースラの通信主任を務め、執務官補佐として公私ともにクロノを支え、今はクロノの妻となったエイミィ・ハラオウンがいた。

 彼女は第一子の妊娠により、長期航海もある艦船での仕事から外され、内局にて働いている。

 もう少しお腹が大きくなれば休暇をとるつもりのようだが、今は膨らみ始めたお腹を抱えつつ仕事にいそしんでいる。

 

「うん、十分くらい前に来られたから、隣の部屋で待っていてもらってるよ。まぁ、アースラの帰港手続きが遅れてるとは伝えてあるから、別に怒ったりしてないと思うよ」

「ありがとうございます! それじゃ――」

「はいストップ。急いでいるのは良い心がけだけど、身だしなみはきちんとね」

 

 エイミィは慌てて隣の部屋に行こうとするはやてを制止すると、走って乱れたはやての髪と制服を、はやての呼吸が平常に戻る程度の時間をかけて整え、背中を押して送り出す。

 

 

「お待たせして申し訳ありません!」

「かまいませんよ。こちらこそ、急な訪問に対応していただいて感謝しています。お久しぶりですね、八神はやてさん」

 

 部屋の中にいた二人のうち、片方が表情を変えずにはやてに向き直り、軽く会釈する。

 管理局の制服に身を包む、クールビューティを体現した女性。オーリス・ゲイズだ。

 

 はやてがオーリスと初めて顔を合わせたのは二年前。ウィルが失踪してすぐの頃、事情を聴きにレジアスの元を私的に訪ねるクロノに無理を言って同行させてもらった時だ。

 結局、ウィルの行方はレジアスら家族も知らず、手がかりすら得られなかったが、その時にはやてはオーリスと親交を結び、何か情報があれば教えてもらうように約束を取り付けた。

 はやての立場上、直接顔を合わせたのはこの二年で片手で数えられるほどだったが、お互いに連絡は取り合っていた。

 

 そんなオーリスから、至急会って話がしたいと連絡が来たのが昨日のこと。二人の間で急ぎの要件となれば、当然その要件は限られている。

 

「お久しぶりです。あの、話っていうのは、やっぱりウィルさんのことですか? もしかして、居場所がわかったんですか?」

 

 オーリスの顔を見た途端、はやる気持ちを抑えられずに矢継ぎ早に言葉を重ねてしまい、それからオーリスの隣に座る帽子を目深にかぶった女性に気がついて、慌てて口をつぐむ。

 オーリスだけならまだしも、初めて会う相手がいるのに無視するような形で話し出したのは失礼だ。

 もう一人の女性に向き直り、頭を軽く下げる。

 

「申し訳ありません。次元航行部隊アースラ所属の八神はやてと――」

「いらないわ。知ってるもの」

 

 挨拶はすげなく断ち切られ、想像の埒外の反応に呆然とするはやて。

 オーリスはあまりに礼を失する同行者の態度にため息をつきながらも、たしなめるのは最初から諦めている様子で話を進める。

 

「用件については、私よりも彼女の口からお話する方が良いでしょうね」

 

 うながされ、女性が帽子を取る。

 あらわになった金色の瞳がはやてを真正面から睨みつける。腰まで伸ばした長髪は、はやてやオーリスとも似た栗色。

 初対面のはずなのに、どこかであったような――

 

「まさか、忘れたわけじゃないわよね」

「……クアットロさん?」

 

 あまりに雰囲気が違いすぎて、記憶と現実の姿が一致するまでに時間がかかった。

 はやての記憶にあるクアットロは、常に微笑を浮かべて飄々としている可愛い人という印象だったが、目の前にいる女性は抜き身の刃のように鋭く荒んだ剣呑。何よりも、炎のように荒々しい激情が刻まれた双眸は不安定で、導火線に火のついた爆薬のように今すぐにでも爆発しても不思議ではない危うさを宿していた。

 

「単刀直入に言うわ。ウィルの居場所を知りたいなら、そして命を救いたいと願うなら――手を貸しなさい、八神はやて」

 

 

 クアットロから情報を得て、管理局は海と陸の垣根を超えてスカリエッティの野望を阻止するために協力し合う。

 スカリエッティは最高評議会に追われながらも準備を整え、ゆりかごとその鍵となる聖王のクローンを狙い続ける。

 

 闇の書に関わる全ての闇を飲み込んだ男は、ゆりかごの玉座に座して、やがて訪れる死を待ち。

 夜天の終わりを看取った最後の主は、想いを同じくする者たちとともに、大切な人を救わんと走り続ける。

 

 

 

 のちにジェイル・スカリエッティ事件と――――あるいは、ウィリアム・カルマン事件と呼ばれる戦いが幕を開けた。

 

 

 

IF 墓標(ゆりかご)  完 




 この後どうなるのか。ウィルが生きることになるのか、死ぬことができたのかは、ご想像にお任せします。


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はやてED 八神家にようこそ

 聖王のゆりかご――数多の国家が時に争い、時に連合を組み、同盟と裏切りと平和と戦争が流動的に入り乱れていた古代ベルカ後期の諸王の中でも、最上位に位置する力を有していた王――聖王。その聖王家が保有していた巨大空中戦艦だ。

 ベルカの戦乱を終焉へと導いたとの伝説が残るその圧倒的な力は、戦乱の終焉とともに姿を消して、その行方は何百年もの間、誰にも知られていなかった。

 

 その御伽噺の箱舟は、今や第一管理世界ミッドチルダの大気圏を突破しようとしている。

 

 ゆりかごの中枢では、瞳を閉じた紫髪の少年が椅子に腰かけていた。

 外見は十代の前半だろうか。男女の性差の薄い時期を過ぎ、少年が大人の男へと変わるその刹那の危うさと妖しさをたたえている。

 

「予定通りに事が運ぶのも、存外つまらないものだね」

 

 開かれた口から流れ出す声色も、見た目通りに声変わりの過渡期にある。

 しかし、その声質は人の踏み入れない洞窟の奥から拭く風のように渇いていて、少年が積み重ねてきた年月の長さを感じさせた。

 

 少年のつぶやきに反応したのは、彼の隣に立つ金髪の女。

 万に一人の恵まれた容姿を磨き上げた成熟した女の魅力と、それを自覚して意識的に活用できる傲慢さを持つ妖しげな美女。

 

「あらドクター。そんなに退屈がお嫌いなら、機動六課を封殺しなければ良かったのに」

「ドゥーエ、あからさまに手を抜くのも失礼というものだよ。それに彼らならその上で予想を超えてくれると期待していたんだが」

 

 ドクターと呼ばれた男、ジェイル・スカリエッティ少年がやったことは酷く簡単。

 対スカリエッティを見込んで新設された非常設部隊たる機動六課課長八神はやて、クラナガン防衛の要たる首都防衛隊の代表レジアス・ゲイズ、首都防衛隊で最も臨機応変に動くことのできる機動部隊の部隊長を務めるウィリアム・カルマン・ゲイズ。

 彼らが自分と繋がりがあるという事実を確かな証拠と共に流しただけ。

 

 まるで内部からの手引きがあったかのような地上本部襲撃の後だ。管理局内の疑心暗鬼、マスコミへの対応、市民の反感を押さえるために、機動六課や首都防衛隊の一部は事実関係が明らかになるまでと営巣に軟禁状態になった。

 

 無論、本来ならば事情を知る最高評議会が手を回し、彼らもすぐさま解放されて対スカリエッティの戦力として復帰できただろう。

 しかしタイミングを合わせて、最高評議会を統べる三人を潜入していたドゥーエが殺害。もともと部署の境界を越えて協力し合えていたのは、管理局を立ち上げた彼ら三人の存在によるところが大きい。頭を失えばもともと我の強い者たちだ。足並みをそろえることもできなくなる。

 

 結果、戦力の半減した管理局の部隊は、用意しておいたドローンの大群と、闇の書の解析で得られた簡易プログラム体で生成した合成獣(キメラ)の群れの対処に手こずり、起動したゆりかごを阻止するほどの余裕はなかった。

 

「地上の様子は?」

 

 と、スカリエッティが問えば、管制室にてゆりかごが最大限のスペックを引き出せるように調整を続けているウーノから答えが返ってくる。

 

『クラナガンに配備したドローン、合成獣ともに殲滅されました。混乱する首都防衛隊を、ゼスト・グランガイツがまとめて対応したようです』

「さすがは我らが朋輩レジアスの盟友。地上最強の騎士にしてストライカーだ。まぁ時間が稼げたのならどちらでも良いか」

 

 口先で健闘を称えながらも、スカリエッティの声に熱はない。

 地上がどうなろうが興味はない。別段管理局を潰したくてやっているわけではない。

 なんなら、目的が叶った後ならこのゆりかごを戦力として、管理局が手を焼いている案件の幾つかを解決してあげても良いとすら思っている。

 

 現状にさして大きな不満があったわけではない。ただ自由という未知を知りたかっただけだ。

 生まれた時から縛られ続けてきた自分が、最高管理局という親から巣立つ身体的自由、そして植え付けられた欲望から解放される精神的自由。自分を縛り付けるあらゆるものから解放されて、本当の自分という最大の未知を既知に変え、思うがままに生きる。そんな子供じみた欲望を、しかし子供の頃から一度として叶ったことのない願いを叶えたくて。

 

 大気圏を突破すれば、もはや生身の魔導師では追いかけて来れない。

 艦船で乗り込んで来ようにも、本局の艦隊が到着するにはまだ時間がかかる。

 地上が保有する艦船もあるが、地上本部襲撃の時に管制システムを破壊しているため出航は不可能。

 突然正義感に目覚め、ゆりかごに単身特攻をかけてくる民間の艦船と正義の味方もどうやら存在しないようだ。

 このまま上昇し、ミッドチルダに存在する二つの月の魔力を充填し、ゆりかごは完全な復活を遂げる。その邪魔をする障害は何もない。

 

 ようやく人生の目的が叶うという段階になってなお、スカリエッティの心は踊らなかった。

 心のどこかで期待していたのかもしれない。

 ずっと束縛されてきた自分が、己の人生を賭けて世界に喧嘩を売る大博打。

 きっと計画通りに事が運ぶことはなく、賭けた欲望に相応しい巨大な障害が試練として立ちふさがるに違いないと。

 それなのに、こんなに簡単に事が進むようでは、本当にこの後に自分の欲望(ねがい)が叶うのか不安になってしまう。

 

 

 瞳を閉じて、己の内側に激しく巡り続ける欲望にひたろうとしたその時、ウーノの声が聞こえた。

 

「ゆりかごのそばに大質量が転移してきます! …………これは、船ではなく――」

 

 直後、ゆりかご全体を揺り動かす衝撃。

 スカリエッティはゆっくりと目を開き、吐息と共に言葉を漏らす。

 

「ようやく来てくれたか、私の障害が」

 

 口調とは裏腹に、スカリエッティが纏う雰囲気は急変していた。

 凄絶な笑みを浮かべた、人ならざる人。金色の瞳を欄々と輝かせた魔人が笑っていた。

 

 

 

 

「こちら八神はやて。無事に聖王のゆりかごに接弦完了しました」

「これを無事と呼ぶのか、ついでにこれを接弦と呼んでいいのは解釈がわかれそうだけどな……」

「航行可能なら無事扱いでいいんじゃなぁい?」

 

 部屋の中央にある玉座に腰かけるのは、機動六課課長八神はやて二佐。

 その隣で苦笑いを浮かべるのは、首都防衛隊の機動部隊隊長ウィリアム・カルマン・ゲイズ一佐。

 さらに隣で施設の稼働状況を確認しているのは、その秘書官のクアットロ。

 

 そして、三人がいるこの『間』には、それ以外にも二十人ほどの魔導師が詰めている。

 その大半は、機動六課に所属する人員。つい四半日前まで営巣にぶち込まれていた者たちだ。

 それがなぜこのようなところにいるのかといえば、当然営巣をぶち破って脱走したからであり、その手引きをした人物は、この部屋の前方に投影されたホロディスプレイに映っている。

 

「ありがとうございます。グレアム司令」

 

 はやてからの礼に、ディスプレイに映るグレアムが鷹揚にうなずく。十年でさらに年を重ね、その御髪は灰よりも白の割合が増えたが、瞳に宿す光は十年前と変わらず、いやそれ以上に欄々と輝いている。

 

『気にすることはない。最高評議会の混乱もようやく収まった。きみたちが戻ってくるまでに、対外的な立場もなんとかしておこう。きみたちはただ目の前の問題に全力を尽くしてくれれば良い』

 

 最高評議会のトップが亡くなった後の混乱に乗じて、最高評議会を掌握したギル・グレアムの手引きで集団脱走した彼らは、大気圏を突破しようとするゆりかごを抑えるために、十年前からミッドチルダの辺境に置かれたままのとある施設に向かった。

 

 

「ねえ、ティア。すごいよね。これ、テスタロッサ執務官の所有物なんだよね」

「いやアンタ……すごいっていうか……これ、どうすんのよ……」

 

 機動六課隊員のスバル・ナカジマが呑気につぶやく。

 その言葉に込められているのは純然たる感心だが、スバルの相方(バディ)たるティアナ・ランスターは、これがいったいどれほどの金銭的損失になるのかと想像して、気が遠くなりかけてやめた。

 

 

 同じく外部モニターに映る光景を見て、なのはは隣に立つフェイトに声をかける。

 

「フェイトちゃん、良かったの?」

 

 外部の様子を映すホロディスプレイには、この施設に立ち並ぶ尖塔がゆりかごの外殻を突き破り、穴を開けた光景が映し出されている。

 大質量のエネルギーをそのままに体当たりして、尖った部分で相手の船腹を突き破る。塩水満ちる本物の海で海戦が繰り広げられていた頃に、船に取り付けられた衝角を用いた行われていたその戦い方は、現代では見ることのないカビの生えたような原始的な戦法だ。

 その代償として施設に立ち並ぶ尖塔のほとんどは衝突時の衝撃で砕け、無惨に崩落して瓦礫の山と化している。ゆりかごほどではないが、この施設とてちょっとした文化財に指定されてもおかしくない代物だというのに。

 

 それに、なのはにとっては十年ぶり二度目に訪れた場所でしかないが、親友のフェイトにとっては、この施設――時の庭園は、幼い頃を過ごした思い出の場所のはずだ。

 けれど、フェイトは自らの胸に手を当てると、穏やかなほほ笑みを浮かべて首を横に振った。

 

「大丈夫。もう何年も来てなかったし。それに思い出なら、ここにあるから」

 

 

 

「ゆりかご最外殻エリアの観測完了。内部への転送ルート確保。いつでもいけます!」

 

 はやての副官を務めるグリフィス・ロウランから、ゆりかごへの突入準備が完了したことの報告が届く。

 各々がデバイスとバリアジャケットを展開。高まる闘争心で拳を打ち鳴らす者、興奮を抑えられずに雄たけびをあげる者、不安を塗りつぶすようにデバイスを強く握る者、その様子は様々であったが、全員の視線ははやてとウィルへと向く。

 

「じゃあ、はやて。突入前に一言」

 

 ウィルに水を向けられ、はやてが首をかしげる。

 

「私でいいの? 階級、ウィルさんの方が上やけど」

「メンバーほとんど機動六課だし。ほら見なよ、グリフィス君なんて俺のこと誰だあいつみたいな目で見てるよ」

「見てませんよ! だいたい、ゲイズ一佐が隊舎に来た時に何回も顔合わせてますよね!?」

 

 ウィルの背中に衝撃。後ろを向けば、長銃型のデバイスを構えた青年が、ウィルの背に蹴りをくれていた。

 

「若者にパワハラしてんなよ。時間ないんだろ」

「いてえよ、ヴァイス。お前に蹴られた怪我が原因で負けたらどうするんだ」

 

 そんな男どものじゃれ合いに溜息一つつき、はやてはこの玉座の間に集った面々を前に声を張り上げる。

 

「作戦の目標は三つ! 一つ目はこのゆりかごの起動に使われてるヴィヴィオちゃんの救出! 二つ目はゆりかごの動力炉の破壊! 三つ目は今回の事件の首謀者ジェイル・スカリエッティの身柄の確保!」

 

 作戦目標はその三つ。しかし、はやてはさらに声を張り上げる。

 

「そんで、四つ目! みんなで無事に生きて戻ってくること! 以上!」

 

 隊員たちの返答は地響きのように雄々しく、開戦の号砲となって玉座の間の空気を揺り動かした。

 

 

 

 ゆりかごの各所で戦いが始まる。

 

 

 紅の戦衣を身に纏うシグナムと、藍のバトルスーツに身を包むトーレが衝突する。

 全長十キロメートルに及ぶゆりかご内部は、通路ですら幅も高さもゆうに数メートルはあるが、それでも音速を越えて飛翔する彼女たちにとってあまりに狭いその中を、二人とも曲芸めいた技巧で飛び回りながら攻撃を交わし合う。

 空戦機動はトーレが上。剣技はシグナムが上。数合斬り合い、互いに無傷。

 油断なくレヴァンティンを構えたまま、シグナムが声をかける。

 

「貴方はたしか、トーレでしたか」

「ああ。……以前に会ったことが?」

「いえ。ですが、闇の書の時に協力してくれたと聞いています。それに、ウィルの師だとも」

 

 シグナムの言葉に、トーレはわずかに口元を緩めた。

 

「あいつにまともに教えることができたものなど、たかが知れている。……お前はシグナムだったな? あいつとは、よく戦うのか?」

「殺し合いなら三度。模擬戦なら二百六十二戦で、私の百四十二勝です」

「実力は伯仲か。なら、お前を通してあいつがどこまで強くなっているのか、見せてもらおう」

 

 二人の戦乙女は互いに鮫のような笑みを浮かべ、宙を翔け、激突する。

 

 

 

 隊長陣が足止めされている間、ともにゆりかごの中を駆けるスバルとティアナ。

 通路の中心に立ち、彼女たちを待ち受ける真っ赤な髪をした少女――ナンバーズ九番、ノーヴェを認めた瞬間、スバルはさらに加速してそのまままっすぐ突撃する。

 ノーヴェも同様にスバルの姿を認めると駆けだす。

 

「セカンド!」

 

 両者の距離が十メートルを切った瞬間、ノーヴェが跳躍。脚部のノズルから空気を噴出させて蹴りを放とうとし――

 

「母さんの仇!」

「――――え?」

 

 ノーヴェはスバルの言葉に身体を硬直させ、機先を制されてスバルの一撃を受けて吹き飛ばされる。

 そのまま空中で足から空気を噴出させ、姿勢を制御。

 

「……死んだのか? クイント」

「あなたにやられた時に腰をやっちゃって、今も家で寝込んでるよ! 全治二ヶ月だって!」

「あ、ああ。死んだわけじゃないのか。びっくりした。――まぎらわしいこと言うんじゃねえ!!」

 

 駆けるスバル、跳ぶノーヴェ。両者の拳と蹴が宙空で激突し、大気を震わせる。

 

「何やってんのよ、アンタら……」

 

 勝手に飛び出した相方にため息をつき、ティアナは距離をとって双銃を構えた。

 

 

 

「素晴らしい! 脱走くらいはあり得ると思っていたが、こんな騒々しい方法で侵入してくるのは予想外だった!」

 

 ゆりかごの各所で、待ち構えるナンバーズと突入した機動六課が衝突をはじめている。

 それらが映されたモニターを眺めるスカリエッティは、抑えきれない喜悦を顔に浮かべ、手を叩く。

 

 戦力の差は歴然だ。

 ゆりかごには十二人のナンバーズがいるものの、クアットロが敵側についているのでこちらの戦力は十一人。しかもその内、単体で戦える戦闘型は八人。

 戦闘型のナンバーズは一人一人が最低でもAAAランクと評されるほどの実力を有している。特にトーレとチンクはSランク以上の力を有しており、機動六課の隊長陣ですら一対一であれば抑え込めるほどの実力だ。

 

 一方、六課は隊長陣三人とウィル、ヴォルケンリッター四人、合計八人がSランクに等しい実力の持ち主。

 それに加えて、タイプゼロ・セカンド――スバル・ナカジマをはじめとする機動六課の隊員たち十数名も、それぞれが油断のできない実力者だ。戦闘型のナンバーズであっても、複数人でかかられることになれば敗北もあり得る。

 

 ゆりかご内部はウーノの管制下にあるため地の利はこちらにあるが、あらゆるセンサー系を欺瞞するクアットロが敵側にいる以上、万全とは言い難い。

 ナンバーズ以外にも自分に力を貸してくれている()()()の存在もある。それに聖王が目覚めれば戦況は一変する。しかしそれまでの戦力不足はぬぐえない。

 結論。戦況はスカリエッティにとって圧倒的に不利――だからこそ、素晴らしい。

 

「ではこちらもサプライズで客人たちをおもてなししてあげよう! ウーノ!」

 

 管制室でスカリエッティからの合図を聞いたウーノは、虚空に向かって声をかける。

 

「シャッテン」

「はい、姉様」

 

 ウーノだけがいる部屋に声が響く。それは部屋の床から。

 部屋の中に落ちる影が粘性を持つかのように集まり、固まって、人の形をとる。

 

 外見は十歳くらいの少女。しかしその容貌は常人とは隔絶した存在であると一目で見てとれる。

 異様に白い肌、影そのもののような漆黒のドレス、流れ出たばかりの血のように赤い瞳、まっすぐに流れ落ちる銀色の髪。

 

「行きなさい。あなたの出番です」

 

 少女は静かにうなずくと、床に目掛けて仰向けに倒れ込む。

 その背が床に接触した瞬間、一人の少女がバラバラに砕け、分裂し、そして影となって溶けて、跡形もなく消えた。

 

 

 

 スバルとティアナのコンビと、ノーヴェ。彼女たちはこの半年で何度もぶつかり合ってきた。

 初戦では未熟であったスバルとティアナが手も足もでずに敗北し、次は戦いでは敗北したがナンバーズ側の目的の阻止には成功し、三度目はスバルの様々な意味での母親たるクイント・ナカジマの尊い犠牲と引き換えに撤退させることができた。

 敗北のたびに悔しさを糧にしてスバルとティアナは学び、訓練で実力差を埋めていった。

 

 そして今、訓練によって完全に制御できたスバルのIS『振動破砕』がノーヴェの脚部を破壊する。

 片足を失い敗北が決定しようとした状況でも、ノーヴェの瞳に宿る戦意に陰りはない。

 だから、ティアナは片足をついたノーヴェへと追撃の銃撃を加えようとし、スバルもまた確実に相手の意識を断つために再度突撃をしようとして、二人ともその途中で急停止した。

 

 ノーヴェの足元、影から一人の少女が現れていた。

 いや、少女と呼ぶにはあまりに小さい。手のひらに乗るほどの大きさの、妖精めいた小人。

 

 それがなんであれ、ゆりかご内部に突然現れたのなら敵側の存在だ。それに躊躇して攻撃の手を休めるなど愚の骨頂。

 それなのに二人が思わず硬直してしまったのは、突然現れた少女の姿が機動六課の隊員であればよく見慣れたものだったからだ。

 管制担当として前線で戦う隊員たちを補佐してくれる、かわいらしさと頼もしさを併せ持つ曹長――リインフォースに。

 

「えっ……? リイン曹長?」

「シャッテンと申します。お見知りおきを」

 

 ノーヴェは苛立たしげに舌打ち一つするが、歯を食いしばって言葉を飲み込んだ。

 

「負けたよ。……おまえらの方が、あたしより強い。第一ラウンドはおまえらの勝ちだ」

 

 シャッテンはその姿を影へと変える。

 破損した片足で立ち上がったノーヴェの周囲を、影のように昏い粒子が纏う。

 

分割融合(ユニゾン)

 

 朱色の髪は白く染まり、濃藍のバトルスーツも黒に染まった、モノクロームの色合い。そして振動破砕によって壊された部品は、時間が巻き戻されたかのように再生する。

 かつてヴォルケンリッターの肉体を現世に生み出すために使われていた、肉体構造式のちょっとした応用だ。

 スカリエッティは融合騎の仕組みも、魔力による人体の模倣も、十年前の闇の書の解析で完全に己の物にしていた。

 

 そしてユニゾンしたノーヴェが持つ圧力は、対峙するだけではっきりと理解できるほどに変質していた。

 内包する魔力もその運用も、全てが桁違いに向上している。

 

「ここからは第二ラウンドだ!」

 

 

 

「卑怯だが、これも任務だ」

 

 白い髪、黒いバトルスーツに身を包むトーレが宙に浮き、地面に這いつくばるシグナムを見下ろしていた。

 トーレとシグナムの戦いは互角。一進一退の攻防を繰り広げていた――先ほどまでは。

 

 突如現れたシャッテンという少女。その姿は彼女たちヴォルケンリッターの末の妹とでもいうべきリインフォースⅡと同じ手のひらサイズの人型で、しかしその雰囲気は夜天の書の管制人格であった初代リインフォースに酷似している。

 彼女とトーレが融合してから、戦いは一瞬で決着がついた。

 

 シグナムをしてなお反応できぬ速度。四肢を纏う光刃の大きさや形状も伸縮自在に変化し、間合いを一方的に支配され、反撃のいとまは微塵もなく完全な敗北を迎えた。

 

「ドクターも今更ヴォルケンリッターのデータに興味はないだろう。大人しくしていれば、命まで取るつもりはない」

「……できない相談だな。今の貴方を自由にさせれば、仲間が大勢犠牲になる」

 

 高い機動力を持つトーレを野放しにしてしまえば、すぐさまゆりかご内の他の戦闘へと介入される。ユニゾンしたこのトーレに単独で勝てる存在は六課に存在しない。ゆえに、何としてでもこの場で食い止めなければならない。

 

「それに、まだこちらにも奥の手が残っている」

 

 不敵に笑うシグナムの後方の通路から、かっ飛んでくる人影一つ。その姿は深紅の妖精。

 闇の書事件の二年後にクラナガンを中心に起きた違法研究所の摘発を発端としたテロの最中に遭遇して以来、妙に融合率の高いシグナムと組むことの多い、古代ベルカの融合騎――アギトが、満身創痍のシグナムの姿を目にして、柳眉を釣り上げて大きく声をあげた。

 

「だから、置いて行くなって言ったろ! ――ユニゾン! イン!」

 

 その姿は解けるようにして赤の粒子へと変わり、シグナムの全身を包み込む。

 内包する魔力が高まり、息をするように炎へと変換される。出口を求めた炎が背から翼の如く放出され、騎士甲冑のジャケットを吹き飛ばす。

 髪色は融合により白が混じり薄紅へと。肩を剥き出しに、燃える翼を背に。機動六課最強の騎士が顕現する。

 

「これで二対二だな」

『真正古代の騎士と融合騎の力、まがいものに見せてやる!』

「ユニゾン同士の戦いか。面白い」

『古いばかりが取り得の骨董品に、最先端の力をお見せしましょう』

 

 放たれる言葉は四者四様。されど怯える者は皆無。

 噴出する炎が通路を埋め尽くし、光刃が炎を切り裂いて道を拓き、両者の激突の余波がゆりかごの堅牢な通路を崩落させた。

 

 

 

 ウーノは瞳を閉じながら、脳内に溢れかえる情報の群れを処理し続ける。

 ゆりかごは時の庭園の衝突による損傷で一時期は制御を失いかけたが、現在は破損した外殻の兵装こそ使用できないものの、航行可能状態に戻り再び上昇を開始し、じきに月の魔力圏内に入ろうとしている。

 あとは本局の艦隊が到着するまでに戦いを終え、次元空間へとゆりかごを転移させる。ゆりかごの航行能力であれば、管理局の艦船では航行できない海域、次元震どころか次元断層の中すら航行可能。現代の艦船では追いつくことはできない。

 内部に侵入した管理局を撃退すれば、計画に何の支障もない。

 

「ま、そううまくはいかないんですけどねぇ」

 

 甘ったるい、鼻にかかった声が耳元で囁かれる。同時に背に鋭い痛み。

 振り返る最中、足の力が抜けて膝から崩れ落ちる。

 

「対ナンバーズ用に用意した毒の味はどうですかぁ、ウーノ姉様」

「クアットロ……!」

 

 裏切り者の四女が、膝をつく長女を見下ろして笑う。

 大きな丸眼鏡の向こう側、切れ長の眼が嘲りを形作り、ペンの形をした注入器を右手の上でくるくると回して遊んでいる。

 

「ご安心くださぁい。対戦闘機人用に用意した、生体機能を停止させる麻痺毒と機械部分を鈍らせるウイルスプログラムの組み合わせですけど、生命の危険はありませんから。あ、でも、私がこういうの使ってたことはご内密に。そこそこ違法なものも入れてますから、バレたら後々面倒なので」

 

 無駄話をしているようで、毒が回り切ってウーノが行動不能になるのを待っている。その用心深さはかつて共にいた時のクアットロにはなかったものだ。

 だが、その程度の用心深さでは、彼女を相手にするには足りない。

 

 クアットロの右肩から胴へと抜けるように三筋の銀の輝きが奔る。

 いつの間にそこにいたのか、クアットロの背後に出現したドゥーエが、右腕に装着した爪でクアットロに致命の傷を与えていた。

 

 肉体を両断されたクアットロの姿が歪み、そして消える。

 直後、部屋に響くクアットロの笑い声。

 

「あら、ドゥーエ姉様。久しぶりに顔を合わせた妹にこの仕打ちは酷いんじゃないですかぁ」

「この程度も避けれないような不出来な教え子なら、死なせてあげた方が良いと思ったのよ」

「いやですねぇ。年をとるとすぐに苛々として」

「惚れた男のそばにいられるからと、随分浮かれているのね。かわいらしいこと」

 

 二人の女狐、あるいは毒蛇同士の笑い声が制御室に反響する。

 

 

 

 融合により強化されたナンバーズとの戦いは激化する。

 あるところではナンバーズが勝利をおさめ、またあるところでは管理局が勝利をおさめ、勝ち抜き戦のように勝者同士がぶつかり合い、削られていく。

 

 そして戦いは終盤へとなだれ込む。

 ゆりかご内で発生した累計二十を超える戦いの内、最も激しい戦いは、間違いなく勝ち残った機動六課十人が総がかりで挑んだ聖王との戦いであったが、

 最も激しい一騎打ちを繰り広げたのは、フェイト・テスタロッサだった。

 

 

 フェイトが到着したその大部屋に、彼女はいた。

 

 外見年齢は十代前半。

 風を視覚化したかのような透明感のある金髪、琥珀のような蜜を称えた瞳。

 されどその表情は陰のある自分とは真逆で、まるで太陽のよう。

 身を包むバリアジャケットもまた真黒な自分とは真逆で、花嫁装束のように真白。

 

 同じ顔なのに、纏う雰囲気は陰と陽のように異なる。

 こうして顔を合わせれば、母が自分と彼女を同一と見れなかったのもわかる。

 

 言いたいことはいくらでもあるが、事此処に至っては、もはや会話は必要ない。

 それは全てが終わった後で、どちらかが勝者になった後で存分に交わせる。

 だから、今はただ自らの立場に殉じ、目の前にいる相手を倒す。

 

 代用として生み出された偽物の少女は、長剣へと形を変えたバルディッシュの切っ先を相手に向け、己の存在を宣誓する。

 

「プレシア・テスタロッサの娘。フェイト・テスタロッサ・ハラオウン」

 

 再び生を取り戻した本物の少女は、十字架めいた権杖型デバイス――ジェズルを周囲に浮かべながら、己の存在を宣誓する。

 

「プレシア・テスタロッサの娘。アリシア・テスタロッサ・スカリエッティ」

 

 

 

 その数多の戦いの果てに、ウィリアム・カルマンとジェイル・スカリエッティは邂逅を果たす。

 

「なるほど、きみが真っ先に私の元にたどり着くか。なかなか数奇な運命だね」

「こういうのを、業っていうらしいですよ、先生」

 

 十年ぶりに顔を付き合わせた、少年から大人へと成長したウィルと、大人から少年の姿へと変貌したスカリエッティ。

 

 彼らの戦いが、一年間続いたジェイル・スカリエッティ事件の終幕を飾った。

 

 

 

 

 

 陽の落ちた閑静な住宅街。

 ウィルは緊張で速くなる脈動を抑え込むように大きく深呼吸して、一件の家屋の門扉の前に立つ。ほどなくして認証が終わり自動で扉が開いた。

 

「お邪魔するよ」

「あっ、ウィルさん! はやてちゃーん! ウィルさん来たですよー!」

 

 玄関に足を踏み入れて声をかければ、奥の扉が開いて姿を現れた、手のひらに乗るほどの大きさの少女――リインフォースⅡ。

 この子を見ると、どうしてもかつて夜天の書の管制人格であったリインフォースのことを思い出す。

 闇の書の根幹を司る憎い相手。そして命をかけてウィルを助け出してくれた、大恩ある相手。

 十年経った今も、彼女の最期の笑顔はウィルの胸に刻み込まれている。

 

 リインフォースⅡは彼女と違って幼く、赤い瞳の彼女と違い空のような青い瞳をしているのに、この子の顔を見るたびに記憶の中に刻み込まれた彼女の笑顔を思い出して、少しだけ泣きそうになる。

 

「やあリイン。久しぶり。ほーら、今日もおみやげ買ってきたよ」

「わーい! です!」

 

 顔を合わせるたびにこの子を甘やかしてしまうのは、彼女に受けた恩を返そうとしているからなのだろうか。

 

「もう、あんまり甘やかさんといて」

 

 リインフォースが出てきた扉から、遅れて顔を出したのはこの家の主人、八神はやて。

 ウィルが持ち込んだお土産を受け取って、仕草で居間へとうながす。

 

「今日は、みんなはいないよな?」

「お休みもろた私と違て、みんなは今日も仕事やからなぁ」

 

 六課の解散も近づいている現在、最も対処するべき案件はとうに片付いたとはいえ、みな忙しい身だ。

 普段であればこのような時間に在宅しているはずもなく、自分とて普段はこのような時間は隊舎に詰めて残業中で、山のような仕事の本日中の処理を諦めて、明日処理するための優先順位を考えているくらいの時間だ。

 

 場所も家具の配置もすっかりと変わってしまったが、あの頃のように八神家のソファに二人して隣り合わせて座る。

 

「ごめんな、リイン。ちょっと席外しててくれる?」

 

 両手を合わせて申し訳なさそうにするはやて。

 リインは何かに気付いたように勝手にうなずくと、口元に手を当てて含み笑い。

 

「了解です。みんなには内緒にするですよ。後は若い二人にお任せして退散するです」

 

 こちらを見てニヤニヤとした笑みを浮かべながら、扉を閉めて出て行った。

 

「どこで覚えてくるんかなぁ……」

 

 困った顔で苦笑いを浮かべるはやて。しかし、今回はあながち間違いでもないのだが。

 

 二人きりになると、ウィルはソファに深く腰をもたれこみ、滔々と語りだす。

 

「今日、正式に辞表が受理された。今月中に引継ぎ終わらせて、来月には二十代半ばにして晴れて無職だ」

「……そっか」

 

 JS事件の後始末も終わり、機動六課ももうじき解散する。

 そんな時期に、ウィルは管理局に辞表を提出した。

 

 スカリエッティという犯罪者との繋がりを暴露されたウィルたちだったが、はやてに関しては、闇の書に興味を持ったスカリエッティが一時期彼女を誘拐していたという、ほぼ真実に近い事実を公表したことで収まった。

 しかし、レジアスとスカリエッティの間に繋がりがあったのは事実。そしてレジアスはその繋がりを誤魔化すことをよしとせず、自らの罪を明らかにして罪を償う道を選んだ。

 ウィルはスカリエッティの件に関して、レジアスのように違法行為に手を貸したわけではない。十年前の闇の書事件以降、レジアスはウィルにもオーリスにも違法となるような事案への関与を断たせ、自分一人でスカリエッティ関連の事項を処理するようになった。

 とはいえ、ウィルもまたスカリエッティの存在を知りながら看過していたのは事実で。だからウィルもまたそのことを公表し、同時に辞表を提出した。

 最高評議会はグレアム主導で陸と海を繋ぐ真っ当な派閥へと変化を遂げつつあり、スカリエッティは逮捕された。あの日のクロノとの誓いを果たした今、管理局を離れることに悔いはない――といえば、嘘になる。

 大切な仲間たちがこれからも次元世界の平和を守るために戦い続けるのに、自分一人だけがドロップアウトするのは抵抗感がある。

 

「次の就職先のアテはあるん?」

「もちろん。最高評議会に所属していた人、その人の腹心をしていた人の中には、罪にこそ問われなかったけど責任とってやめるって人たちが、俺以外にも結構いてさ。その人たちについて行くために管理局を辞めるっていう人までいて、結構な人数になってるんだ。そういう人たちを集めて、これまでのコネとかノウハウを活かして、民間警備会社を立ち上げようって話になってる」

 

 それを聞いたはやては、苦笑い半分、心配半分という表情を浮かべる。

 

「めちゃくちゃ評判悪そうやけど……いろいろ大丈夫なん?」

「まぁ、俺含めて実力ある人材もわりと揃いそうだし。管理局時代のコネも結構あるしさ。世間からの評価は当分は最低だろうけど、仕事には困らない気はするよ」

 

 Sランクに到達しているウィルをはじめとして、AAAが何人も所属することになり、人材には困らない。

 むしろそれだけの人材が抜けた管理局が少し不安になる。だからといって、自分たちがそのまま管理局に所属し続けるというのも示しがつかず。

 だからそんな管理局の外から、管理局のフォローをできるような形を考えた結果が、民間警備会社の設立だ。

 

「最高評議会のやり方は間違っていた。でも、彼らの人を見る目は間違ってなかった。最高評議会の関係者には、現状に不満を持っていて、世界を良くするために力を使いたいって思ってるような人が大勢いた。例え管理局にいられなくなっても、その思いは変わらない。俺も牢獄で罪を償う親父の分まで、この街のために戦いたい」

 

 自分をここまで育てて、心配し続けてくれた養父の――いや、父たるレジアスに報いたいと思う。本人を前にしてそんなことを言えば、子供が親の心配をするなだとかうるさく言ってきそうだが。

 親が子供を世話するのが義務だとして、子供が親に報いるのは義務でないとして、それでも子供にだって親の手助けをする権利はあるはずだ。

 

「ということで、民間警備会社アインヘリアルをよろしく」

「名前の縁起悪っ!!」

「管理局からのお仕事依頼は割安で受けますので。価格に関してはオーリス姉さんに問い合わせてね」

「オーリスさんも辞めるん!?」

 

 オーリスはスカリエッティと直接の面識もないが、多少はスカリエッティや最高評議会に関する情報に触れることもあり。そのような情報を知りつつも看過していた自分が残るわけにはいかないと、ウィルに合わせて辞表を提出した。

 

「で、ここからが本題だ」

「前置きでちょっと疲れてしもたんやけど」

 

 ソファから身体を起こし、はやての方へ顔を向ける。

 間近で見るはやては、十年前に出会った少女ではなく、いまや立派な一人の女性へと成長していた。

 

「昔さ、家族になろうって……うちの養子にしようって話あったよな」

「あったなぁ。あれが実現してたら、今頃はやて・ヤガミ・ゲイズやったんやろか」

「あんまり響きはよくないな」

 

 わずかに軽口を叩くと、息を吸って覚悟を決める。

 

「で、だ。……その、今更なんだけど。俺と家族にならないか?」

「……今度は、養子って意味やないよね?」

「もちろん」

 

 はやては目を細めたままわずかに頬を紅潮させ、表情を緩ませる。

 

「なんや、えらい長かった気する。言うてくれるんやったら、もっと早よても良かったのに」

「先生の――スカリエッティのこと、最高評議会のこと。それが終わるまではこういうのはなしにしようと思ってたんだ。今回はJS事件の解決に尽力したのもあったからか、刑務所に放り込まれはしなかったけど、そうなる可能性もあった。もしも結ばれた後でそんなことになったら、一緒になった相手まで辛い目に合わせてしまう。まして、キャリアコースを歩んでるはやてにとっては大きなスキャンダルになる」

 

 今回はJS事件の解決に尽力したということで、お目こぼしされたところもある。

 これが何もない時に発覚していれば、その風聞はもっと悪くなっていただろう。そんな男と結ばれるなんて、その後の人生丸ごと苦労を背負わせるようなものだ。

 

「JS事件を解決したはやてには、良い縁談もどんどん舞い込んで来てるとは思うし、そんな中で俺みたいなキャリア捨てて転職しようって、しかも脛に傷ついた男がこう言うのもおこがましいと思うんだけど――」

「そうやって自分卑下して、あかんかった時の逃げ道作るの、昔からウィルさんの悪いとこやと思うよ?」

 

 内心を見透かしたかのように。否、今のはやてにとっては、ウィルの定まらない心なんて手に取るようにわかるのだろう。

 他者と交流の機会が少なかった子供の頃でさえ、あれほどの明敏さをもっていたはやてだ。この十年、大勢と関わり、多くを学び、ヴォルケンリッターを庇って多くの辛い目にもあいながら歩んできた。

 そんなはやてと今更共に歩みたいだなんて――

 

 いいや、そんな逃げはもうしないと、十年前に学んだだろう。

 

「はっきり言うて。ウィルさんの気持ち、聞かせてほしい」

 

 ウィルの頭の中、はやてと出会ってからの記憶が走馬燈のように浮かぶ。

 初めて出会った時から、はやてはよく笑顔を浮かべていた。でも、その笑顔にはいつも寂しさや悲しみのような影があった。

 幼い頃からそんな感情を笑顔の裏に隠して、この小さな体で、ずっとあまりに重い荷物を背負い続けて、これからももっと重い荷物を背負って歩み続けることになる。

 だからこそ、ウィルはそんなはやてを放っておけない。

 

「好きだ、はやて。俺と一緒にいるせいで、俺の荷物を持たせてしまうこともあると思う。なら、俺はそれ以上にきみの持つ荷物を持ってあげたい。きみの持つ重さを少しでも軽くしたい。だから、俺と一緒にこれからの人生を歩んでほしい」

 

 はやての瞳には、ウィル自身の顔が映っている。

 そんな写像では色まではわからないはずだが、瞳の中の自らの顔は真っ赤であるように見えた。

 

 はやては笑った。

 これまでに何百回と見た微笑みのようで、少し違う。

 穏やかで微塵の曇りもない、静かな夜に浮かぶ月のような綺麗な笑みだった。

 

「はい。不束者ですが、よろしくお願いします」

 

 その笑顔を見た瞬間、ウィルは気づいていなかった自分の想いに気付かされた。

 

 

 ――俺はずっと、この子のこんな笑顔が見たかったんだ。

 

 

 静かにはやての腰に手を回し、はやてもそれを拒絶することなく、ゆっくりとウィルの首に両手を回して、二人の顔が近づいて――――居間の扉が開いた。

 

 

「お茶ですよー」

 

 手のひら大から子供大へと姿を変えたリインフォースが、お盆にお茶を乗せて笑顔で居間に入ってきて、ウィルとはやてを見て硬直した。

 ウィルとはやてが弁明しようと口を開くより早く、リインフォースが目と口を大きく見開いて、声をあげた。 

 

「あーーーーーーーーー!!!!」

 

 続けて、玄関の扉が大きな音を立てて開かれる。

 

「どうしたリイン!」「主! ご無事ですか!」「賊か!」「何があったの!?」

 

 リインの大声が外まで届いたのか、ちょうど帰宅したヴォルケンリッターが駆け込んできて、抱き合ったままで固まったウィルとはやてを見て硬直する。

 

 間の悪さに苦笑しながら、ひとまずはやてから離れようとするが、首に回されたはやての両腕に強く力が込められて、それを許さなかった。

 はやての方に向き直った瞬間、唇に柔らかい感触。

 

 一拍置いて、見守るヴォルケンリッターが爆発したかのように口々に声を上げる。

 動揺、祝福、感嘆、羞恥、様々な感情が入り乱れた騒々しい声が家中に響き渡る中、ゆっくりと唇を離したはやてが耳まで真っ赤に染めながら、歓迎の言葉を告げた。

 

「八神家にようこそ、ウィル」




 ダイジェストでお送りするゆりかご戦+はやてED。婿入りは決定事項です。

 以下補足
 今回突然出てきたリインフォース・シャッテンは、おまけで語った融合騎としてのデータをベースに生み出した人間としてのリインフォースコピーとは真逆。完全にプログラムと魔力で構成された巨大な魔力生命体です。
 存在をプログラムへと戻してゆりかご内部のネットワークを駆け巡り自由自在に姿を現し、肉体を最大で十二に分割し、全てのナンバーズと同時にユニゾンが可能なサポート要員。たとえ物質としての肉体が滅んだとしても、式さえ残っていれば魔力が溜まれば復活できるので、ヴォルケンリッターよりもマテリアルズに近しい存在です。
 そんな彼女、他のEDでもう少しだけ出番があります。


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シグナムED 恩威並行

 闇の書事件より二年後。

 

 第一管理世界ミッドチルダ首都クラナガン上空。

 雲一つない快晴の空を、二つの飛翔体が駆ける。

 片割れは銀色の義手を持つ魔導師。首都防衛隊に所属する魔導師、ウィルだ。

 

 残された片割れはウィルよりも遥かに大きい。

 全長は十メートルを超え、頭部にはねじれた二本の角、濁った瞳孔は縦長に広がり、身体は白い鱗で覆われ、背から突き出た骨のようなフレームの間に薄い皮膜が張られて翼となる。

 偉大なる竜種(グレータードラゴン)。それも真竜と呼称されるだけの格を持つ古代種(エンシェント)

 違法研究所に囚われ、実験として数多の改造を施され、されど強大な生命力ゆえに死ぬことすら許されず。もはや自我は残っておらず、下された命令に従って目的地へと目掛けて飛翔する。

 

 竜の進行を阻止するために全霊で打ち込んだ剣は、鱗を砕いてその内側に詰まる肉を裂く。

 しかし刃が肉を通り抜けた瞬間、泡のように湧き出る肉で傷口が埋まる。竜の生命力という言葉では説明がつかない再生能力は、おそらくは実験で植え付けられた特性の一つ。

 刃がその身を裂いた痛みか、体内から湧き出る肉が己の肉体を強引に接着した痛みか、竜は咆哮をあげ身体を翻す。

 質量はエネルギー。速度もエネルギー。高速で動く巨体が持つ圧倒的なエネルギーが直撃し、ウィルの意識に白い靄がかかる。

 直後、義手型デバイスのグレイスがポゼッション――デバイス側による肉体操作によって、ウィルの身体を強制的に動かしてその場から離脱する。続けて、グレイスから送り込まれる電気信号がウィルの意識を強制的に呼び戻す。

 意識を取り戻したウィルは、再び竜へと向かって飛翔し、血と汗をまき散らしながら何度も剣を振るう。

 

 無謀な挑戦と知りつつも、諦めるわけにはいかなかった。

 首都防衛隊の仲間も本局航空武装隊の人たちも、この作戦に参加した隊員の中にこの竜に対抗できる人材は残っていない。

 ウィルの上官にして地上本部最強の騎士ゼスト、嘱託騎士として航空武装隊に所属していたシグナム。ともにウィルを超える実力を持つ二人は、解き放たれた竜が地下研究所を破壊して空へと飛び立つ際に、破壊の余波から他の隊員たちを守るために身体を張って瓦礫の下へと消えた。

 残されたのはウィルだけだ。ウィルがここで止めなければ、大勢が死ぬ。

 

 それは竜が暴れて街が破壊されるという、そんな規模の被害ではない。

 たしかにこれほどの存在が破壊のために力を振るえば、クラナガンの区画一つを瓦礫へと変え、新たな廃棄区画を作り出すことも可能だろう。

 だが、ウィルが危惧しているのは竜そのものの力ではなく、こうしている今も明滅を続けている、竜の肉体に刻まれた魔導式だ。

 

 

 表から追放された科学者たちが集った違法研究所と、反管理局をかかげるテロ組織旧世界秩序(ワールドオーダー)が絡まり合ったこの事件。

 スカリエッティが生み出した理論を元に戦闘機人や希少技能保有クローンを生み出していた地下組織を摘発するため、首都防衛隊と本局航空武装隊の共同作戦が行われ、クラナガン郊外の廃棄区画地下に築かれた研究所に乗り込んだ。

 様々なイレギュラーはあったものの、激闘の末に目的は達成されたかに思われたその最後、解き放たれた実験体の竜の身には魔導砲アルカンシェルと同じ魔導式が刻まれていた。

 発動に艦船の魔力炉を必要とするアルカンシェル。その代替となるのが、真竜が有する莫大な魔力。加えて、数多の改造により複数の貯蔵用の人造リンカーコアを植え付けられたことで、竜はアルカンシェルを発動させるに足る魔力を有するに至った。

 

 目標地点はクラナガン中央区、時空管理局地上本部。

 地上本部は物質的な障壁の他にも、有事の際には巨大魔法障壁によって守られる。単なる大規模魔法を撃ちこまれたところで、完全に無傷とはいかずとも大きな被害が出ることもない。

 だが、アルカンシェルは別だ。あらゆる粒子を消滅させる反粒子の前では、どのような障壁も意味をなさない。物質であれ魔法であれ、この世の全ての現象は粒子のふるまいであるがゆえに。

 アルカンシェルの効果範囲は半径百キロメートル。障壁の手前で発動したとしても、地上本部を丸ごとこの世から消滅させるには十分すぎる。

 

 竜の治癒がどのような原理で作用しているのかはわからない。魔力を消費しているのか、もっと生化学的な作用によるものなのか。どちらにせよ、今のウィルにできるのは、再生が尽きるまで斬り続けることだけだ。

 

 

 

 同時刻、竜が飛び立つために地面に開けた大穴から大小二つの人影が姿を現す。

 大きい方はシグナム。騎士甲冑は砕け、全身に裂傷を刻まれ、額から流れ出た血が顔と髪を汚す凄絶な姿で、遙か彼方の空を見上げる。

 竜ですらかろうじてその輪郭がわかるほどに距離は離れ、肉眼ではその周囲を飛び回る魔導師の姿が判別がつくはずもない。それでもシグナムにはそれが誰なのか即座に理解できた。

 

 後方待機していた治療班の局員が駆けつけきて治療を施そうとするが、シグナムはその手を押しのけて自らもまた空へと飛び立とうとする。

 

「馬鹿野郎! 何考えてんだよ!」

 

 シグナムの傍、大穴からシグナムと共に昇ってきた小さな人影の方――本当に小さな、手のひらに乗るほどの大きさをした、羽根が生えた少女が声をあげる。

 この違法研究所に捕獲され、実験対象とされていた古代ベルカ純正の融合騎だ。

 名も無き赤き少女は、突入した隊員たちによって助け出されてから、他の実験体のようにただ保護されるのを嫌い、研究所内の道案内や戦闘の補助といった形でシグナムに協力していた。

 

「いくらなんでも、そんな状態でこれ以上戦うのは無理だ! ほとんど魔力も残ってないだろ!」

 

 少女はなおも戦い続けるシグナムの愚行を咎める。

 ヴォルケンリッターは魔力を通わせて損傷した箇所を再構築すれば、傷も欠損も修復できる。それなのにこうして傷だらけの身体で立っているのは、再構築に必要な魔力すら残されていないから。その状態で真竜級の存在に挑むのはあまりに無謀だ。

 彼我の戦力差をシグナムが理解していないはずもない。けれど、シグナムの瞳には迷いも恐れもない。

 

「あそこで戦っているのは、私が生涯をかけて償わねばならない人だ。忠義を捧げた主にも、共に戦う同胞にも劣ることのない、大切な人だ。その彼が命を賭けて戦っているのに我が身かわいさに休むなど騎士ではない」

 

 二年前に贖罪として捧げるはずだったこの命は、大勢の温情のおかげで生き永らえることを許された。

 その時に決意した。この人生を贖罪のために、この命を主と仲間と、彼のために使うと。

 

 少女は飛び立とうとするシグナムの前方に身体を割り込ませる。

 

「しょうがねえな。助けられた借りだ。今だけあたしの力を貸してやる」

 

 少女の身体がほどけるようにして赤の粒子へと遷移して、シグナムの全身を包み込む。

 赤い総髪は白が混じり薄紅へと変わり、騎士甲冑は紅から海のような藍へと変わる。

 

「これは……ユニゾンか?」

『勘違いするなよ。あたしは誰にでも力を貸してやるわけじゃない。あの研究所の奴らの言うことなんて、一度だって聞いたことないしな。だけど――っておい!』

 

 みなまで聞かず、シグナムは遠方で戦い続けているウィルへ向かって空を翔ける。

 一刻も早く彼の元へと駆けつけるために高まり続ける魔力は意識せずとも自然に火へと変換され、炎の翼と化してシグナムの身体をさらに加速させる。

 

『人の話は最後まで聞け!』

「すまない! だが待ちきれなかった!」

 

 

 

 ウィルが竜へと斬撃を加えた回数も、もはや五十から先は数えていない。

 依然として竜の飛翔が止まる気配はなく、目標となる地上本部外縁部までの距離は百キロメートルを切った。今この瞬間に発動したとしても、地上本部の一部は消えてなくなる。このままあと十分も飛行すれば、地上本部の全域を効果範囲におさめることになる――その焦りが意識に隙を生み、反応を遅らせた。

 

 これまで身をよじるような近接攻撃しかしてこなかった竜が動きを変える。

 開かれた口腔に魔力が集い、石を打ち合わせたような音が響くと炎へと変わる。ウィルの身体を焼き尽くす炎熱のブレスが放たれるその直前、飛来した炎の柱が竜の頭部に直撃する。

 発生源へと顔を向ければ、遥か遠方から高速で飛来する飛翔体。

 

「シグナムさん!?」

 

 シグナムは竜へと直進しながら、振りかぶったレヴァンティンに残存魔力をつぎ込む。

 

『いいか! 練習なしの土壇場での融合だ! いつ解けるかもわからない! だから――』

「わかっている! この一撃に全てを込める!」

 

 レヴァンティンという剣を柄として、全長百メートルに到達する巨大な炎の剣が顕現する。

 

『剣閃烈火!』

「火竜一閃!」

 

 放たれた炎の剣は縦横無尽に空を奔り、文字通り火竜の身体を一薙ぎして、肉を焼き斬り、両断する。

 傷口を治すために新たな肉が湧いて出てこようとするも、焼かれた傷口のタンパク質が炎熱で凝固し、再生を阻害する。

 やがて両断された竜の肉体は完全に分かたれて、竜の生命活動が完全に停止し――

 

 

『――魔導式が止まらない?』

 

 

 竜の肉体に刻まれていた魔導師が、竜の肉体を離れて中空へと投射される。

 死を迎える竜の肉体に蓄積された魔力が、魔導式へと流れ込むのが感覚で理解できる。

 魔導式の発動条件は、目標地点への到達だけだと思い込んでいたが、

 

「死をトリガーにして……っ!」

 

 地上本部の敷地は数多くの庁舎を中心として、周辺に各種施設、訓練エリアや格納庫などが広がっている。

 ここで発動しても、地上本部の全てを効果範囲に収めることはできない。

 しかし、地上本部のおよそ半分は現時点でもアルカンシェルの効果範囲に含まれる。なによりも、地上本部のある第一区画に隣接する第三区画――この真下に広がる街は、完全に消滅する。その数は少なく見積もっても一千万人を下らない。

 

「もう一度だ!」

 

 シグナムが再度レヴァンティンを振りかぶるが、刃の周囲にわずかに炎が生じるのみ。

 先ほどの一撃はなけなしの魔力の全てをつぎ込んだ、文字通り最後の一撃。二撃を放つだけの余力はない。

 

 目の前でアルカンシェル発動の予兆たる七色の虹が描かれていく。

 闇の書事件の時にグレアムに見せてもらった、エスティアが消滅する時の映像。そこに映されていた破壊の虹が今まさに顕現しようとしている。

 

 このままではみんな死ぬ。

 何の罪もない無辜の民も、彼らを守るために日夜身を粉にして戦う局員も、この二年間クラナガンで働く中で出会った人たちも。そして、この場にいるウィルとシグナムも――復讐を我慢して贖罪を見守ろうとした自分の決意も、罪を償って生きると決めたシグナムの決意も、何もかもを飲み込んで消し去る。

 

「そんなの――許せるかよ!!」

 

 復讐心を抑えこんでもなお、消えない衝動がウィルの中にある。

 必死に生きてきた者を、大勢で築きあげてきた物を、連綿と繋いで来たこの瞬間を無に帰す理不尽への怒り。人から何かを奪い去ろうとする行為そのものへの怒り。

 

 己の中に残されたなけなしの魔力を、最後の一滴まで搾りだす。けれど、ウィルという個人の魔力では、発動を開始したアルカンシェルを止めるには到底足りない。

 怒りすら塗りつぶす絶望がウィルの心を浸食し、怒りの叫びも途絶え。

 

 それなのに、依然として耳には怒りに満ちた叫び声が聞こえる。自分の声ではない。身体の奥から複数の人間の叫び声が聞こえてくる。

 理解不能な現象――ではない。かつての闇の書事件で、ウィルは二度この現象に遭遇している。一度目は闇の書の内部でナハトヴァールと対峙した時。二度目は現実の世界でリインフォースと対峙した時。

 叫び声に混じって、呆れたようなつぶやきが響いた。

 

 ――まったく、相変わらず頼りない王様だ

 

 身体の奥から魔力が湧き上がり、爪の先、髪の一本一本に至るまで力がみなぎる。

 髪も、肌も、魔力の光すら白く染まるその姿は、ユニゾンの――誰かと心を重ねた証。

 

 あの日、復讐という一念でウィルと共にあった彼らは、一枚岩に見えてその在り方は多岐に渡った。

 周囲を巻き込んででも復讐を望んでいた者もいれば、対象以外には被害を出さないようにして復讐を果たそうとする者や、謝罪の言葉一つで矛をおさめた者もいた。納得して消えた者もいれば、最後まで憎悪したまま消えた者も、残されたウィルを案じながら消えた者もいた。

 それならば、彼らの全てが消滅を選んだわけではなく、このままウィルの中に留まらないかというウィルの案を受け入れて、現世にとどまった者たちもいたのだろう。

 そして今この瞬間、彼らはウィルを助けるため、この街を守るためにその力を尽くしてくれる。

 

「ありがとう、みんな」

 

 七色の虹をも塗りつぶす純白のアーチが、発動直前の魔法陣をさらなる光で塗りつぶした。

 

 

 

 

 

 一月後、地上本部

 

 総合訓練センターに築かれた簡易スタジアムの観客席には、管理局の局員たちが座して勝負を見守っていた。

 東側の客席を埋めるのは地上本部の職員たち。西側を埋めるのは本局の職員たち。

 西側に座る青年――本局航空武装隊に所属する魔導師、ヴァイス・グランセニックは、携帯端末に表示された記事に目を通した。

 

 

『テロにより延期となり一時は開催が危ぶまれた陸海戦が、事件の首謀者の逮捕に伴い一月遅れで開催されると地上本部広報部が報じ、注目が集まっている。

 

 時空管理局では、訓練として局員同士が模擬戦を行うのは日常茶飯事。その多くは非公開だが、お披露目を目的として行われる模擬戦がある。

 その中で最も有名なものは戦技披露会だ。管理局最強のアグレッサー部隊として名高い戦技教導隊や、Sランク以上に認定されるトップエースの多くが参加し、芸術ともいえる魔法技術を披露するそれは、試合というより大規模な祭典だ。

 

 しかし、クラナガンに住まう局員が最も注目している公開模擬戦といえば、やはりこれ――地上本部直属の首都防衛隊と本局から出向している航空武装隊が、団体戦形式で雌雄を決する対抗戦、通称陸海戦だろう。

 普段からライバル意識の強い二者の間で開かれるこの対抗戦は、戦技披露会と異なり一般客の立ち入りこそ許されていないものの、大手放送局にて試合の様子が中継されるほどの盛り上がりを迎える。

 首都防衛隊と本局航空武装隊は、先月に共同で違法研究に手を染める地下組織の摘発を成功に導いた功労者とあり、今年の陸海戦は例年以上に市民からも大きな注目を集めている。

 

 名のある局員を挙げればきりはないが、今最も注目を浴びているのはやはりこの二人だろう。

 先月、大勢の市民が空を見上げ、クラナガン上空を飛翔する巨大な竜の威容に脅える中、それを打ち倒した現代のドラゴンスレイヤーたち。

 かたや未来の地上本部を担う銀腕の魔導師、かたや過去より来たる最も古き騎士――』

 

 

「ウィリアム・カルマン二等空尉と、嘱託騎士シグナム・ヤガミの二人……ねぇ」

 

 ヴァイスはホロディスプレイから視線を外し、周囲を見回した。

 

 地上本部と本局、互いの広報部から送り込まれた応援団や音楽隊も、選手に負けじと競い合い、観客も声を張り上げている。

 クラナガンの局員であれば、例年見慣れた光景だ。しかし、例年通りに見えて少し違う光景が広がっている。

 クラナガン消滅の危機に際して、地上の首都防衛隊と海の首都航空隊が協力し、解決にあたった記憶が新しいからか。普段であれば勝敗が決まるたびに歓声と罵声が飛び交うというのに、今は試合が終わるごとに両者を称えるような声が多くみられる。

 地上と海の不和という不安要素を払拭し、関係改善を対外的にアピールするために、双方の上層部が仕込んだサクラもある程度混ざってはいるのだろうが――きっと、そんな計算づくだけで生まれた光景ではないと肌で感じることのできる。そんな熱気が――

 

 

「ヴァ~イスく~ん。なぁに読んでるの~?」

「うわっ! 酒臭っ!」

 

 突然背後からかけられた声と、酒精が多めに混じった息に、ヴァイスは逃げるように身体を大きく前のめりにしてから後ろを振り返る。

 動きやすいように長髪を後頭部でまとめた女性。意思の強さを表すかのような太い眉とは対照的に、表情筋の緩んだ赤ら顔のせいで、美女といってさしつかえない容姿なのに残念さしか感じない。首都防衛隊所属のクイント・ナカジマが背後に立ち、ヴァイスが読んでいた記事を覗き込んでいた。

 

「ウェブの記事をいくつか見てたんですよ。まーどこ見てもウィルウィルウィルウィル。……っていうか、クイントさんなんでこっちに? こっち側、本局側の観客席っすよ」

「良い機会だし、あの作戦でお世話になった航空隊の人たちに挨拶しとこうと思ってさ~。そしたら盛り上がって、こっち側で応援することになっちゃって~」

「この酔っ払い、コミュ力たっけえ……」

 

 片手にアルコール飲料を持ったままふらふらとうろついていたのだろうか。管理局の制服を着用はしているが、ジャケットは着用しておらず、シャツのボタンは上から三つ目ほどまで外れている。

 

「ヴァイスくんのことも探してたんだよ。ありがとね。うちのウィルを助けてくれたんでしょ」

 

 何が面白いのかケラケラと笑っていたクイントが、急に真面目なトーンで語り掛けてきたものだから、ヴァイスは少し気恥ずかしさを覚えてそっぽを向いた。

 

「いいっすよ。あいつに振り回されるのはもう慣れましたし。それに、あいつのためじゃなくて、かわいい子を助けるためです。勘違いしないでくださいよ」

「ああ、たしかに可愛かったよね。クアットロって言ったっけ――あっ、ちょうどウィルの試合が始まるみたい! ちょうどいいや、私もここで応援しよっと」

 

 言うや否や、ヴァイスの隣に座る航空隊の隊員にお願いして詰めてもらい、ヴァイスの隣へと無理矢理身体をねじ込んで座る。美女に密着されれば悪い気はしないが、それが人妻となれば別だ。旦那のゲンヤ・ナカジマ三佐には何度か世話になったこともあるのだし。

 ヴァイスはなるべく隣に座るクイントのことは考えないようにして、試合会場に出てきた同僚と悪友へと声援を送る。

 

「頑張れシグナムさーん!! ウィルは負けろ!!!」

 

 

 

 最終戦、両選手が姿を現すと、会場を満たす歓声が三段階ほど大きくなる。

 黒いインナーの上に、管理局カラーとも言われる白地に蒼のラインが入ったロングコート状のバリアジャケットを纏ったウィル。

 紅のインナーの上に、白いジャケットを羽織る形の騎士甲冑に身を包むシグナム。

 

 如才なく観客たちに手を振って応えるウィルとは対照的に、シグナムの視線はウィルただ一人へと向けられていた。

 

「最初から全力でいくべきだろうか?」

「それじゃあ、下手したら一瞬で終わってしまいますよ」

 

 高機動の近接戦を得意とするもの同士、最初から本気で勝負を決めに行こうものなら、勝敗がどちらになるにせよあまりに短時間で決着がついてしまう。

 ウィルは右手に現れた銀剣を肩に担ぎ、シグナムはレヴァンティンを鞘から抜き放つ。

 

「せっかくの大トリなんだ。徐々に上げていきましょう」

「承知した」

 

 試合開始の合図と共に飛び立ち、戦いの舞台を空中へと移した二人は、互いに示し合わせたかのように一度大きく離れ、互いに衝撃波を牽制として撃ち合い、双方ともに一瞬で音速を突破してすれ違いざまの斬撃。そのまま急停止して至近距離で一瞬のうちに数多の斬撃と拳打を交わし合う。

 

 その戦いを目撃したものはその異質さに困惑を覚えた。

 

 双方の攻撃がまるで相手に当たらない。剣同士が打ち合う音が響いたのは、最初の突撃からの斬撃の一合のみ。それからは空を切る音だけが会場に響く。

 まるでお互いに相手がそこにいることを確かめ合うように。攻撃のために伸ばした手が空を切る動作が、相手の輪郭をなぞりあげるよう。

 そうして戦う二人の様子は暴力ともスポーツとも異なり、まるで二人で踊るワルツのよう。

 

 試合開始から一分が経過した頃、両者ともに距離をわずかに詰め、空を切る攻撃が、相手の髪の端を、衣服の端を、かするようになる。

 さらに一分が経過すると、さらに一歩の距離を詰め、互いの刃と刃が、拳と拳が触れ合い、戦いのワルツを彩るバックミュージックとなる。

 

 やがて、試合開始から五分が経過した頃、両者は勝利を手にするため、自らの守りを放棄した攻めの姿勢へと転じ、シグナムがウィル目掛けて振り下ろした剣閃の軌道が大きく逸れたのを契機に決着に向けて動き出す。

 それがシグナムのミスではなく、空間そのものが動かされたのだと気づけたものは会場に数人。

 空振りで生まれた隙に叩きこまれる剣。シグナムはすんでのところで左手の手甲を盾として直撃を避けるが、片手で受け止められるはずもない。さらに衝突の瞬間にウィルのフェザーが剣を加速させ、シグナムの身体を吹き飛ばす。

 両足のハイロゥに魔力が集い、追撃のために圧縮空気を噴出させようとするその直前、細い細い光の反射がウィルの視界の端をかすめる。感じた悪寒に、大きく身体をのけぞらした瞬間、先ほどまでウィルの身体があった場所を鋼糸が通過した。

 レヴァンティン・シュランゲフォルム、分割した刃を糸が繋ぎ、変幻自在の斬撃が敵を襲う恐るべき姿。

 シグナムは空振りの瞬間にシュランゲフォルムへと変形させ、ウィルに気付かれないように刃ではなく糸のみを伸ばし、追撃しようとするウィルを背後から強襲した。

 

 すんでのところで回避され、目標を捉えられなかった糸は主の元へと戻る。

 追撃を免れたシグナムは姿勢を制御して地上へと降り立つと、再び長剣の形へと戻った愛刀レヴァンティンを鞘に納めた。

 左手を鞘に当てて固定し、右手を柄に。その構えが意味するのは居合だ。

 刃圏に足を踏み入れた瞬間に確実な敗北が待っていると理解できる濃密な剣気を放出しながら、シグナムはどうした? 来ないのか? と雄弁に語る挑発的な笑みを浮かべる。

 

 これが殺し合いや仕事であれば、こんなものは無視して、遠距離攻撃を加えれば良い。けれど、これは試合だ。

 それにシグナムとは闇の書事件から何度も刃を交わしたが、これまで一度として勝つことができなかった。復讐を抜きにしても、シグナムを正面から打ち倒してみたいという戦士としての欲求がある。

 

 だからウィルもまた地上へと降り立つと、シグナムの刃圏の直前で、愛刀たる銀剣アミンを大上段に掲げて静止する。かつては強度の差で折れたこの剣も、二年の間に知遇を得た聖王協会の騎士の手を借りて強化され、今や古代ベルカのアームドデバイスにも引けを取らない強度を誇る。

 

 シグナムとウィル。双方ともに構えたまま、じわりじわりと距離を詰める。

 互いの刃圏は等しい。一刀の間合いに入った瞬間に、どちらの振るう剣が速いかという単純な勝負。

 魔法の介在しない尋常の勝負であれば、勝つのは最初から刃を抜いているウィルだ。鞘走りの摩擦は抜刀の速度を鈍らせる。レヴァンティンほどの幅広な剣ならなおさらだ。

 勝機があるとすれば、剣を鞘に納めることで刃の間合いを正確につかませず、先手をとれることくらいか。しかしウィルとシグナムは互いの得物の長さなど、両手を広げて右手の端から左手の端まででミリメートルの誤差もなく再現できるほどに知っている。

 この状況であえて不利な構えを取るのなら、そこには勝利のための奇策があるはずだ。

 

 

 両者が剣を振るったタイミングはまったくの同時。

 

 シグナムが鞘から剣を解き放つと同時に、鞘の内側から爆音が鳴り響き、振るう剣の先端が音速を超える。

 魔力を纏わせた状態で納刀し、纏わせた魔力を炎熱変換させ、小規模な爆発を鞘の内部で起こす。結果、文字通り爆発的な加速を得た超音速の居合が可能となる。折れず、曲がらず、砕けない。真正ベルカのアームドデバイスであるがゆえに可能な荒業。

 一方のウィルもまた、腕部のフェザーから放たれる圧縮空気により瞬時に加速し、剣の先端が音速を超え破裂音を響かせる。

 互いの剣は両者の中間で激突し、衝撃が観客席との間に張られたバリアを揺らす。

 

 ウィルの打ち下ろしが、シグナムの横薙ぎを抑え込み、シグナムの手から離れたレヴァンティンの先端が地面に突き刺さっていた。

 

「……私の負けだ」

 

 どこか晴れやかな顔で己の敗北を認めたシグナムの言葉に、ウィルは両手を掲げて大きくガッツポーズをとり、観客席が一斉に湧く。

 

 

 歓声が飛び交う中で、ウィルとシグナムは向き合って話をする。

 

「ついに追いつかれてしまったか」

「まだ一勝ですよ。それに最後のはお遊びみたいなものですし」

「そういうわりに、嬉しそうだな」

 

 指摘されて、ウィルは照れ笑いを浮かべた。

 この二年間、特に最初の一年はシグナムも自由に動くことができず、顔を合わせる機会もあまり得られず、模擬戦などもっての他だったが、一年前に嘱託として管理局で働き始め航空武装隊としてクラナガンに配属されてからは、たびたび模擬戦をしてきた。

 結果、二十戦二十敗。今日の勝利は、闇の書事件での三度の殺し合いを含めて、初めてウィルが自分の力で勝ち取った勝利だった。

 

「遊びでもあの瞬間、貴方の力が私を超えたのは事実だ。貴方は本当に腕をあげた。特に空振りさせられた時には肝を冷やされた。まさか闇の書の業が使っていた技まで使えるようになっているとは」

「頑張って練習しましたからね」

 

 彼らとウィルが一緒に戦ったのはたった一度。その一度の戦闘で、彼らはウィルの肉体を使ってヴォルケンリッター複数人を同時にあしらうほどの卓越した戦い方を見せてくれた。器となるウィルに迷いがなければ、彼らが不覚をとることはなかっただろう。

 あの時の彼らの肉体の動かし方、瞬時の判断、残していった戦い方。この二年間、それらがウィルをより高みに導くための師匠だった。

 それに、たとえ技という形でも、彼らが残したものを継いでいくこと。それが消えていった彼らに対して自分ができることだと思ったから――と思っていのに、彼らの一部は消えずに残っていて、また力を貸してくれたのだが。

 あらためて感じさせられる。自分は大勢の人たちに助けられ、支えられて生きているのだと。

 

「今回はあまり見せられませんでしたけど。他にもいろいろとできるようになったんですよ。たとえば……シグナムさん、握手いいですか?」

「ん……んん!? す、少し待て!」

 

 シグナムは服の端で手のひらを勢いよく拭うと、突き出すように右手を差し出す。

 ウィルはその手に重ねるようにそっと触れて握る――と、途端にシグナムの肉体がふわりと宙へと持ち上がり、握手している場所を起点として逆立ちするような姿勢になる。

 そのままウィルは握手している手を放し、落ちてくるシグナムの身体を姫抱きに受け止める。

 相手と触れ合った箇所を通じて魔力を流し込み変換。相手の肉体を強制的に動かす。かつて闇の書の業が見せた技だ。

 

「今のところ実戦での活用方法はあまり見つかってませんけどね。……シグナムさん?」

 

 姫抱きに――いわゆるお姫様抱っこをされたシグナムは、顔を赤らめたまま何も答えず。

 これが衆人環視の状況だと思いだしたウィルは、途端に恥ずかしくなって、そっとシグナムの身体を足から降ろし、赤くなる顔を抑えようとし、

 

「いちゃついてんじゃねえぞー!!」

 

 観客席から飛んできたひときわ大きな野次は、都合よく気持ちを切り替える契機になってくれた。

 ウィルは振り返って本局側の観客席の一点を指さして、笑いながら負けじと大声で叫び返す。

 

「うるせえぞヴァーーーイス!!」

 

 

 

 

 八年後、メモリアルガーデン。

 

 ジェイル・スカリエッティが引き起こした一連の事件が終わりを迎えてから、半年が経過した。

 管理世界の守護者たる地上本部が陥落一歩手前にまで追い詰められ、お膝元で起動したゆりかごの大気圏突破を阻止できずに月の魔力を充填するポイントへの到達を許してしまったこと。暴露された最高評議会とその関係者の存在。

 その影響は地上だけにとどまらず、管理局全体への信用が大きく揺らいだが、最高評議会の首魁たる三人の死と、その後の混乱を制して最高評議会を掌握したグレアムの手腕により、徐々に落ち着きを取り戻している。

 

 三ケ月前には機動六課も役割を終えて解散。所属していた隊員たちはそれぞれ元いた部署へと戻って行った。中には六課での経験を評価されて新たな部署に異動したもの、挑戦しようとする者もいる。

 ウィルもまた管理局を辞して、民間警備会社アインヘリアルの設立に協力し、そのまま再就職。信頼していた上司や身内が最高評議会の関係者で、知らず知らずの内に関係していた者もいれば、ウィルのように知っていたが明確に協力はしていなかった者など。牢に放り込まれはしなかったが、責任をとって管理局を辞した者たちが集まった会社だ。

 最高評議会が選ぶほどの人材や、その者が重用していた者となれば当然優秀な者が多く、そのような人材が集ったおかげで世間からの評判とは裏腹にスタートダッシュは上々だった。当の管理局への信用の低下も相まって、各地で小規模な事件が頻発して需要が増していたのも理由だろう。

 

 平穏には程遠い日々だが、こうして今年も父の命日に墓参りに訪れることができた。

 いつもとほんの少し異なる点は、今年の同行者はクロノらハラオウン家の面々ではないこと。

 

 

 ウィルは父の墓前での祈りを終えて閉じていた目を開くと、自分の横で同じように膝をついて墓前に祈りを捧げている彼女――シグナムを見る。

 彼女もまた、闇の書事件の後、欠かすことなく何度も墓に足を運んでいた。

 

 シグナムが瞳を開くのを待ってから声をかける。

 

「行こうか」

 

 並んで歩けば、十年での変化が一目でわかる。

 十年前のウィルの背丈はシグナムよりほんの少し高い程度だったが、いまや頭半分ほどの差が生まれている。

 一方、隣に並ぶシグナムは十年前のまま変わりなく、二十歳前後の容姿。

 今はもう誰が見てもウィルの方が年上に見られることだろう。

 

 シグナムのジャケットの袖口から見える腕に、見慣れない模様が見えた。少し考えてようやく、それが傷痕だと気づく。

 

「シグナム、その腕の傷って」

「ああ、見苦しいものを見せてしまったな。ゆりかごでのトーレとの戦いでついた傷だ」

「それなら名誉の負傷だ。見苦しくなんてないよ。ただ、どうして治してないかって気になったから」

 

 ヴォルケンリッターの肉体は、プログラムというフレームに魔力で構成されたもの。

 夜天の書という大本がなくなった今、肉体が完全なる死を迎えてしまえば、再び召喚することはできない。今のヴォルケンリッターの命の残機は、普通の人間と同じように一つしかない。

 しかし、肉体の構成自体は人間と異なっている。魔力を通わせて損傷した箇所を再構築すれば、傷も欠損も修復される。だからヴォルケンリッターの肌には一切の傷どころかシミや黒子すらもないはずなのに。

 

「治せないんだ。プログラムで構成されていた我らも、時間の経過と共に肉体が物質として定着してしまった。かつてのように肉体を魔力で補うこともできなくなって……多分、そう遠くないうちに、ただの人間と変わらなくなってしまう」

 

 変化を語るシグナムは、まるで叱られるのを待つ子供のような表情をしていた。

 いくら傷ついても致命傷を負わなければ助かるヴォルケンリッターの性質は、戦力として非常に貴重で、それが失われることは損失ではあるのだろう。

 しかし人間は治らない。これからヴォルケンリッターが人間としてこの世界で生きていくなら、それが自然の形だ。

 

「じゃあ、これからはもっと気を付けて任務に当たらないとな。航空隊の人は知ってるんだよな? 今までみたいに治せると思われて、無茶な任務につくことになったら大変だ」

「……いいや、それはできない。我が身かわいさに身を引くなど、私には許されない」

「それで大怪我をしたら……死んだらどうするんだよ。頑張るのも良いけど、自分の身は――」

「私の命にたいした価値はない。私が奪ってきたものに比べれば、私がこの十年やってきたことなど比べものにもならない。主はやてと共にいられる……その最上の幸福を享受しているだけでも、私には十分にすぎる。これ以上を求めては申し訳がたたない」

 

 どこまでも身を削って贖罪にあたろうとするシグナムの姿。

 それは自らの手による復讐を諦めながらも、贖罪の見届け人としての立場を選んだウィルが望むものだ。

 奪った側がその罪を忘れず、己の幸福に背を向けて懸命に罪を贖おうとしている。喜ばしいことのはずだ。

 

「そうだね。たしかに、罪は償わないといけない。安易に許してはいけない……許されてはいけないんだと思う。でも……」

 

 ウィルはこの十年間で、何度となくシグナムと交流してきた。

 はやてを介してのことも多かったが、シグナムがよく出向していた航空武装隊との共同任務で肩を並べることもあれば、はやてを抜きに顔を合わせることもたびたびあった。

 シグナムのことを、ずっと見続けてきた。奪われた者として、贖罪の見届け人として、戦友として、友人として――だから、今のウィルはシグナムのことを信じられる。

 

「シグナムはこれまでずっと頑張ってきた。どれだけ批判されても決して言葉を荒げず、態度で示し続けてきた。……だから、あの日の言葉を撤回させてほしい」

 

 今でも思い出せる。あの日、薄氷舞う中で叩きつけた憎悪の言葉。

 それはきっと、これまでのシグナムの十年間を縛り続ける言葉であったろう。

 

 

 ――許せるか!! 奪ったお前に、幸福な人生なんて与えるものか! 贖罪なんて綺麗な言葉にくるんだ、安穏とした生活なんて認められるか!

 

「奪ったきみでも、もっと幸福な人生を手にしても良いんだ。きみは贖罪を言葉ではなく行動で示し、安穏とした生活に背を向けて歩んできた」

 

 ――奪われた者はもう帰ってこれないんだよ! もう、二度と! 何をしたって! 父さんはおれのところに帰って来てくれないんだ! なのに、なのに、……畜生ぉぉぉお!!

 

「奪われたものは戻ってこない。二度と、何をしたって、絶対に。だけど、それでも世界は続いていく。俺もきみもここに生きている。それなら……」

 

 ――奪ったお前が奪われずにすむだと!? ふ、ふざけるな! そんな理不尽を認められるかよ! 世界の誰が許したって、俺はお前を許さない! お前にはどんな人生だって与えない! そうだ! 死以外、何か一つでも与えてやるものか!!

 

「奪ったきみに与えられるものがあっても良いはずだ。たとえそれが俺以外の人にとって理不尽なことであったとして、世界中の全てがきみを許そうとしなくたって、きみには自分の人生を手にして、自分の手で望むものを手に入れてほしい。今の俺は、そう願っている」

 

 十年の努力で、シグナムが奪ったものが帳消しになるわけではない。やったことはなくならない。失われたものは取り返せない。奪われた者全てがシグナムを許せる日が来ることは、きっと永遠に来ないだろう。

 だけど、奪われた者全てが永遠に許さないまま変わらない必要もない。

 罪がいつまでも消えてなくならないとしても、それでも誠意を見せて懸命に贖罪を重ねれば、許さないと思っていた人が心を変える。そんな成果があっても良いはずだ。

 

「良いのだろうか。私が幸せになっても……今以上を望んでも……」

 

 ウィルは右手でシグナムの左手を取る。そこに刻まれた傷痕を指先でなぞる。

 

「俺は許すよ。それに、俺もいい加減、一人の人間同士としてシグナムと付き合っていきたいから」

 

 瞳を閉じてうつむいたシグナムの頬を一筋の涙が流れる。

 やがて再び顔を上げたシグナムが、ウィルの顔を見上げ、意を決したように口を開いた。

 

 

 二人の間に吹いた一陣の風が木々を揺らし、落ちた葉をどこか遠くへと連れていく。

 けれど彼女が告げた言の葉は風に揺らぐことなく、たしかに目の前にいる相手に届いていた。

 




 最後のシグナムの台詞、これから二人がどのような関係になるかはご想像にお任せします。関係は何であれ、これでようやく仇と復讐者ではなく、一人の人間同士として関係をもてるようになりました。

 以下補足
 序盤で出てきた融合騎は当然アギトなのですが、たしか名前はルーテシアが決めたみたいなうろ覚え記憶があったので、今回は名無しで通してます。この時空では、この後でルーテシア……は、まだ幼すぎるので、メガーヌさんあたりが名付けたのでしょう。
 はやてEDに引き続き突然出てきたヴァイス。クロノがなかなか出て来れない空白期で友人としてウィルに付き合っていたという設定です。リスペクトし合ってたクロノとは異なり、悪態つきあいながら付き合っていく悪友みたいな関係です。ラグナ誤射は未発生。


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クアットロED 世界が彩られた日

 筆が乗って普段の倍くらいの長さになりましたが、最後なので分割せずにまとめていきます。


「復讐なんて馬鹿みたい」

 

 それが彼女の世界を変えた、始まりの言葉。

 

 

 

 どこまでも続く通路に人気はなく、響く音は自らの足音のみ。前を向いても後ろを向いても目に映る光景は変わらず、それでもウィルは休むことなくゆりかごの通路を歩き続ける。

 しばらくすると、前方に通路同士が交わる十字路が現れる。直進するか、右に曲がるか、はたまた左に曲がるか。選択肢は三つ――しかし十字路に辿りつくと右と左の通路の先は隔壁が降りていて、直進以外の選択肢はなかった。

 分岐のたびに一つの道以外は封鎖されている。そんな光景が続くこと七度。偶然も三度続けば必然、裏に誰かの作為が潜んでいるというが、誰かがウィルを誘導しようとしているのは確実で、その誰かとはウィル以外でゆりかごに残ったもう一人に違いない。

 

 しばらく黙々と歩を進めると、前方にひときわ大きな扉。近づくと音もなく開く。

 扉の向こうは無機質な大部屋が広がっていて、ゆりかごの各所の光景を映したホロディスプレイがいくつも投影されていた。おそらくは、ゆりかごを制御するための管制室なのだろう。

 部屋の中央、ホロに囲まれてこちらに背を向けて立っていた女が振り返る。

 肩まで伸ばした栗色の髪をうなじの辺りで左右に分けて束ねて垂らし、大きな丸眼鏡をかけた女が、鼻にかかった甘ったるい声をあげる。

 

「やっと来たのね。待ちくたびれたわぁ」

 

 ゆりかごの内部に取り残されたという状況にそぐわない普段通りの微笑。彼女にとって表情を隠すためのポーカーフェイス。

 ウィルは大きく肩を落とすと、苦々しく顔をしかめながら、探し人の名前を呼ぶ。

 

「また最後の最後にやりやがったな、クアットロ」

 

 

 

 蘇った聖王のゆりかごでの戦いは熾烈を極めたが、最終的には全てのナンバーズと協力者のアリシア、そして首謀者のスカリエッティを捕縛し、ゆりかご起動のための鍵として捕らえられていた聖王のクローン――ヴィヴィオを救助した。

 しかし鍵となる聖王を失ったゆりかごは動作を停止させるどころか、防衛モードに移行。ゆりかごという兵器を敵に渡さないために船体を安全な場所――次元空間へと転移させようと動き始め、突入した隊員たちとスカリエッティ一味は、そのほとんどがゆりかごから時の庭園へと退避した。

 脱出せずにゆりかごに残った者は、この場にいる二人。クアットロと、彼女が残ることを知って引き返したウィルだけだ。

 

「みんなをゆりかごから退避させて、自分だけゆりかごに残ろうとして……いったい何がしたかったんだ?」

「ゆりかごの力を私一人が手に入れるためって言ったら、信じるかしら?」

「冗談だろ。ヴィヴィオがいない状態のゆりかごにどれだけのことができるんだよ?」

 

 月の魔力を充填したゆりかごは、古代ベルカの戦乱を終結へと導いた最悪の兵器に違いないが、今のゆりかごは聖王という主を失っている。その状態で万全の力を振るえるとは思えない。

 

「おあいにくさま。聖王はたしかにゆりかごを起動させるための鍵。でも、一度エンジンをかけた後で鍵を失くしたところで、機能が完全に停止するわけじゃないわ。まあ、強力な兵器はその都度聖王の承認がないと使えなかったりするけれど、簡単な兵装は今でも使用可能。それに次元断層すらも超える次元空間航行能力には一切の陰りがない。世界最高の乗り物よ」

 

 かつて、聖王の一族の多くは生まれてから死ぬまでの一生をゆりかごの中で過ごしていたと言われている。ゆりかごはそれを可能とするための食料生産プラントなどを内蔵し、自給自足が可能な完全環境移動都市(アーコロジー)でもある。

 一度魔力を充填すれば長期間補給を必要とせず、管理世界のあらゆる艦船をも凌駕する性能を持つ船。たとえ兵器の類が使用できずとも、それだけで大いなる脅威になり得るが――

 

「なるほどな。で、それなら俺を残す必要なんてないはずだよな」

「あなたが勝手に戻って来たんでしょう? 私にとっても予想外だったわあ」

「嘘だな。あの状態でクアットロを放置するなんて、俺にできるはずない。……他の誰かならともかく、クアットロにそれがわからなかったはずないだろ」

 

 全員がゆりかごから退避するために動き始める中、管制室にいたクアットロはそこから全ての隊員たちに脱出ルートを示し、誘導を続けた。そして全員を脱出させるために自分は最後までゆりかごに残ると、通信でウィルにのみ告げた。

 その在り方は、かつて乗員を逃がし最後まで艦の浸食状況を伝えるためにエスティアに残ったクロノの父――クライドを思い起こさせた。そして、そんな友を放っておけずに一人残った己の父――ヒューの息子であるウィルもまた、クアットロを連れ戻すために管制室へと引き換えした。

 そのクアットロの自己犠牲が嘘偽りだと気づいたのは、いまだ転移までの時間が残っていたはずなのに、クアットロとウィル以外の人間が脱出した瞬間にゆりかごが転移した瞬間だった。

 

「ごまかすな。どうしてこんなことをしたんだ?」

「あら残念~。さすがに騙されてはくれないみたいねえ」

 

 クアットロは小さく舌を出し、いたずらを仕掛けた子供のように笑うと、問いには答えず、かすかにメロディが耳に届くほどのささやかな鼻歌を口ずさみながら、部屋の壁へと向かって歩を進める。

 そして壁端まで到達すると、再びウィルへと向き直り、壁を背にその場に座り込むと自らの隣の床を手のひらで二、三度、軽く叩く。

 

「ちょっと長くなるから、座って話しましょう? まずは私とあなたが出会った、二十年前の話から」

 

 

 

 

 クアットロにとって、自我というものを認識した時からずっと、世界は色あせて退屈なものだった。

 

 先天的に保有する魔法技能――ISの性質が幻術魔法だと知ったスカリエッティが、最も効率的にそれを使えるように、センサーとその情報処理に特化させた存在。それが四番目の戦闘機人、クアットロ。

 目覚めた時から、彼女にとっては認識する全てが波形の集合でしかない。只人がただの光や音と認識する情報でも、クアットロの頭は勝手にそれらを構成する複数の波へと分解してしまう。

 この世界は情報の集積でできていて、そんな世界で他者に評価をつけるのであれば、その評価基準は持ち得る情報――エネルギーの量と、それをどれだけ効率良く処理しているか。

 その評価基準においては、生みの親にして底知れないスカリエッティと、保有するISのように変幻自在でとらえどころのない二番目の姉ドゥーエは、彼女の狭い世界の中で尊敬してあげても良いと思える人物だった。

 感情というものを必要以上に見せず、淡々とスカリエッティの補佐を務める、一番目の姉ウーノ。戦いという役割に特化し己を研ぎ澄ます、三番目の姉トーレ。効率に優れた彼女たちの在り方もまた、尊敬するほどではないが好ましく感じていた。

 

 尊敬する者と好ましい者に囲まれた狭い世界で、唯一侮蔑する対象だったのが、戦闘機人でもないのにラボに居座るウィリアム・カルマンという子供だった。

 魔導師の素質はあるが、保有するエネルギーは凡俗の域を出ない。しかもたかだか親という情報が失われただけで、自らの不利益を理解もせずに復讐という意味のない行為を目指しているらしく、効率に関しては論外だ。

 子供だから仕方ないという考えはクアットロには存在しない。年齢でいえば、肉体こそ急速成長されて五歳児程度になっているとはいえ、生み出されて一年二年しかたっていないクアットロの方が下だ。

 自分より長く生きているくせに、当然のことも理解できない。身体能力は戦闘機人たる己よりも圧倒的に劣り、知性でも己よりも劣る愚かな存在。本来なら歯牙にもかけない相手。

 だけど、自分が尊敬してあげても良いと思っているドクターが、そんな有象無象のことを気にかけているのが気に入らなかった。格上と認めてあげているドゥーエが、そんな愚か者に構うという無駄をしているのが苛立った。

 

 だから、ほんの少しちょっかいをかけてみた。

 愚か者に真実を啓蒙してあげて、その身の矮小さと愚かさを思い知らせてやれば、少しは留飲が下がるかもしれない。

 もし真実を神託してあげたクアットロに感激して平伏するようであれば、愚かではあっても将来性はある。それなら少しくらいはかわいがってあげてもいい、と。

 

 そんな甘い目論見は、視界にいっぱいに広がる拳と、直後に訪れた鮮烈な痛みに叩き潰されたのだが。

 

 

「信じられないわ。あんなに馬鹿な奴だったなんて」

「何もしていないのに殴るような子じゃないわ。何かあの子を怒らせるようなことを言ったんでしょう?」

「ドゥーエ姉様はあいつの肩を持つつもり?」

「あなたとあの子を性格を比較し俯瞰した上での、客観的な予測のつもりなのだけど。外れていたのかしら?」

 

 クアットロは何も言い返せず、視線をそらした。

 ドゥーエは何が可笑しいのか、そんなクアットロの様子を見て笑みを浮かべながら、クアットロに調整のためのナノマシンを投与する。

 

「……あいつは今どうしているの」

「トーレが通路で倒れているところを発見して、今はドクターが軽く手当をして部屋に戻してあるわ。全身打撲だったらしいけど、あなた――」

「それは私が話しかける前に飛行魔法に失敗して墜落してたせいよ。私のせいじゃないわ」

 

 あいつの愚かしさで生まれた怪我まで自分のせいにされてはたまらないと、早口で自己弁護するクアットロの様子に、ドゥーエはさらに愉快そうに笑う。

 

「わかってるわよ。私が言いたかったのは、あなた、あの子のことが気になるの? ってこと」

 

 まるで自分が興味を持っているかのような言い方に、クアットロの不満はさらに高まる。

 あまりに愚かだから少し正してあげようという親切心から生まれたもので、そもそも元を辿れば自分があんな愚かな存在に目をつけたのはドゥーエたちのせいなのに。

 

「ドゥーエ姉様とドクターこそ、どうしてあいつにかまうの?」

 

 ドゥーエはいまだ少女と呼ばれる容姿には不釣り合いな妖艶な笑みを浮かべて、質問に答える。

 

「それはあの子が強い欲望を持っているからよ」

「欲望? 主観を偏らせて正常な認知と判断を誤らせる、極めて非効率的な感情を有していることの、どこに興味を持つの?」

「その非効率的な偏りを生む欲望こそが、その存在が有する潜在的なエネルギーを底上げするの」

 

 ドゥーエは非論理的なことをさも真理のように語る。

 

「彼は強い欲望を持っている。自分の父を奪った天災のような存在に復讐したいという、実現する可能性が極めて小さな、けれど強い欲望。ドクターはあの子の治療をする時に、その欲望がいつまでも劣化しないようにほんの少しだけ手を加えたの。強い欲望を抱えながら生きるしかない者がどんな風に歪むのか、その欲望の果てに何があるのかを知りたくて。私があの子にいろいろと教えてあげるのは、そんなドクターの興味のためね。今の彼は欲望に向かう歩き方もわからない幼子だもの。せめて走り出せるくらいにはなってもらわないと、おもしろくないわ」

「……馬鹿馬鹿しい。そんなくだらないことのために、二人とも時間を割いているなんて。そんな意味のわからない実験に使われるなんて、あいつも――」

 

 かわいそうだ、と口にしかけ、すんでのところで止める。自分に危害を加えたあんな奴のことを気にかけてやる必要なんてない。ないのに――さっきから、なぜかあいつの顔が、違う、自分を殴ろうとした時の色が浮かぶ。

 

「他人事みたいに言うけれど、クアットロだってそうなのよ?」

 

 思考の渦に囚われかけたクアットロの意識を、ドゥーエの言葉が引き戻す。

 

「チンクは違うけれど、ウーノ、私、トーレ、そしてあなたまでの四人は、ドクターと同じ因子で生み出された機人。DESIREの影響を受けたドクターと同種の、だけどドクターのように欲望に指向性を与えられていない存在。そんな私たちがどんな欲望を抱いて、それを叶えるためにどんな風に奔走し、夢叶った時、夢破れた時にどうなるのか。私たちはみんな、ドクターの好奇心を満たすための実験体なの」

 

 告げられた真実に、クアットロの心臓が早鐘のように脈打つ。

 機人なのだから、脈拍数も血流量も自分の意志で制御できるはずなのに。

 

「だからあなたもまた欲望に目覚めたのなら、存分に突き進みなさい。それがドクターを喜ばせることになるのだから」

「私に欲望なんて――」

 

 ない、そう言おうとして、その時胸に沸き起こる得体のしれない感覚が、クアットロの言葉を止めた。

 それは数値や波として分析できない感覚。身体の底から湧いてきて、身体を熱くさせて、胸の奥に居座って。そのことを思うと、その場で駆け出したくなる。湧き上がる熱量が小さな身体に収まり切れず、行動という形で発散させなければ、気が狂いそうになるほどのエネルギー。

 

 ――ああ、これが、この感覚が欲望なんだ

 

 ドゥーエの手がクアットロの顔へと伸びて、細く長い人差し指で顎を持ち上げる。

 

「今のあなた、素敵よ。昨日までとは違ってとても感情豊かに見えるわ。恥ずかしがることはないの。私たち姉妹は、形は違っていても強い欲望を抱えながら生きるしかない理解者同士なんだから。……だから、ね? あなたの欲望が何なのか、私に教えてくれない?」

「私の欲望は……」

 

 頭に浮かぶのは、あいつに押し倒された時に、見上げた視界に広がる歪んだ顔――その赤い瞳が宿していた怒りの色。

 色なんて単なる光のスペクトルで、クアットロにとっては色あせたデータの一つでしかないのに。あの瞬間にあいつから放たれた色の鮮やかさが――真っ赤な色彩が忘れられない。

 それはきっと、あの時にあいつが向けていた怒りが、他の誰でもないクアットロに向けられていたからだ。

 クアットロがこれまでに解析しデータとして処理してきた情報は、クアットロがいなくともそこにあった。だけどあれは、あの瞬間にクアットロが感じた色彩は、クアットロという個人に向けて放たれた唯一のものだった。

 

「また、あんな色彩を見せて……あの感覚を味わわせてほしい……ううん、私に向けてほしい」

 

 それが、生まれて初めてクアットロが覚えた欲望だった。

 

 

 

 

「…………………………………………………………………………………………………………」

 

 クアットロの隣に座ったウィルは、かつての己の過ちの記憶、その裏側でクアットロが抱いていた感情を聞かされて、頭を抱えていた。

 

「どうしたのよ。そんなシャマルの料理を食べた時みたいな顔して」

「失礼なたとえ方をするな。なんて言えばいいのか……その……もしかして、俺が殴った時に当たりどころが悪かったんじゃないかって……」

「それこそ失礼しちゃうわぁ。あんな程度の衝撃でおかしくなるくらいにやわじゃないわよ」

 

 クアットロは肘でウィルの脇腹を小突いてえずかせながら、当時の感覚を思い出しているのか、陶然とした表情で瞳を閉じる。

 

「とりあえず、しばらくあなたに付きまとって観察して、また怒らせてみようとしたのよ。でも、ウィルったらあれ以来全然怒らなくなったでしょう?」

「当たり前だ。単に自分が気に入らないことを言われただけで人に暴力を振るうなんて、やっていいはずがない」

 

 嫌なことを言われたからと怒りに任せて他人を殴ったあの初対面は、ウィルにとっては忘れがたい過ちの記憶だ。だからクアットロが多少嫌なことを言ったところで我慢した。

 

「それで思ったのよねえ。どうしてかはわからないけれど、あなたの怒りの閾値が上がっちゃったのなら、もっと強く怒らせる必要があるって。どうせなら、あなたが復讐を果たせるような状況になった時に、邪魔して一緒に憎まれてみれば良いんじゃないかって。そうしたら、またあの時みたいな……あの時よりも、もっと綺麗で鮮やかな色彩を私に向けてくれるんじゃないかって。……そのために、いろんな次元世界の情報集めて、闇の書が現れたらあなたにこっそり教えてあげようとも思っていたのよ。それなのに突然知らない管理外世界で行方不明になったなんて聞いた時は気が気じゃなかったんだから」

「ああ……じゃあ、あの後の誕生日プレゼントは、その対策に贈ってくれたんだな」

 

 PT事件の後、クアットロは誕生日プレゼントとしてデバイスを身につけるためのネックレスをくれた。それがウィルの居場所やバイタルデータを記録し、送信する機能があると知ったのは、プレゼントを貰った一月後、ヴォルケンリッターとの戦闘で重傷を負った後だ。

 

「その後でグレアムおじさんに回収されたことを思うと、我ながらファインプレーだったわねえ」

 

 プレゼントのおかげで、クアットロはグレアムに回収されたウィルの居場所を突き止め、それがきっかけでグレアムとスカリエッティが協力することになったのだから、世の中何がうまくいくのかわからない。

 

「私が何かを教えるまでもなく、ヴォルケンリッターと接触したって聞いて小躍りしたいくらい嬉しかったわ。運命だって信じたくらいよ。あなたの手助けをするふりをして、最後の最後で闇の書の味方をして全部台無しにする。そしたらきっと、怒りを私に向けて――いいえ、今度は、殺意を向けてくれるかもしれない。途中まではうまく行くと思ってたのにねえ…………あなたは勝手にシグナムと殺し合うし、そのせいで闇の書は私の関係ないところで暴走するし、暴走を止めるために命を賭けに行っちゃうし……なんとかシグナムとの決着に割り込んで邪魔して、思っていた形とは違うけどこれであなたは私を憎んでくれると安心していたのに……」

 

 またもやクアットロの予想していない出来事が発生した。

 闇の書の内部に残り続けていた犠牲者たち――闇の書の業の目覚め。

 彼らと共に己の命を使い果たしてでも復讐を遂げようとするウィルを止めようと、そして死なせないために手を伸ばし続けてくれた仲間たちの献身が、復讐に染まっていたウィルの意志を変えた。

 

「俺が復讐を諦めたせいで、その目論見は潰れてしまったと」

「あなたが復讐を止めるなんて、全然想定してなかったのよ。心の中で戦ったことでプロジェクトEを構築する何かが損傷したのか、それとも復讐心をも上回る新しい感情があったのか……どっちにしても、これで十年かけた私の計画はあっさりと水泡に帰したのでした」

 

 肩をすくめて両手をあげ、おどけた風に語るが、その事実がどれほどクアットロに衝撃を与えたのかは、復讐をやめると告げた時の狼狽ぶりを思い出せばわかる。

 ウィルがまったく怒っていないと、むしろ感謝すると告げた時の焦り。復讐を止めると伝えた後、ウィルを押し倒してプロジェクトEのことを明かして、怒りを煽ろうと必死になって、涙を流してその場を去った姿。

 

「それであの時泣いてたのか……」

「は? 泣いてなんかいないわよ。勝手なこと言わないで」

「いや、たしか……まぁいいや。うん、話の腰を折ってごめん、進めて」

 

 投げ槍なウィルの返事に納得していないようだったが、それ以上の追及を諦めて、追憶を再開する。

 

「悔しかったけど、私の期待を裏切ったあなたにいつまでも固執する必要もないと思ったのよ。だからラボから離れて、あなた以外にも殺意を抱かれるくらいに憎まれてみようと負の感情が渦巻いてそうなところを転々としてたら、厄介な奴らに目をつけられてあの研究所にたどり着いたのよ」

 

 クラナガンに流通する違法薬物、裏で取引される改造クローンなど、様々な犯罪に手を染める地下組織。ラボを出たクアットロは彼らの研究所に身を寄せていた。

 表の世界から追放された研究者たちの寄せ集めともう言えるその研究所では、研究員ごとに様々な分野の研究が行われていたが、プロジェクトFによる記憶継承クローン、プロジェクトGによる希少技能保有クローン、プロジェクトHによる戦闘機人など、スカリエッティの理論を基に研究をしていた研究員たちもいた。

 そんな彼らにとって、スカリエッティ産の戦闘機人であるクアットロは神が地上に遣わした神器にも等しい。

 クアットロは貴重な研究対象として丁重な扱いを受けながらも、持ち前の頭脳を活かして立ち回り、研究所で生み出されたオリジナルの戦闘機人など、一部の実験体の管理を任されるに至っていた。

 

「保護した実験体の子らには、結構慕われてたって聞いてるよ」

「ちょっとかまってあげてただけなのよねぇ。それなのに顔を見せるたびにわらわらと寄ってこられて……そうなるのもわかるくらいに、劣悪な場所だったわ。ドクターに言わせれば、倫理と論理を失ったマッドの集まりね。あそこに比べたらドクターのラボは天国よ」

 

 スカリエッティは決して善人ではない。

 ナンバーズを娘と呼びながらも、研究者として実験対象として見てもいる。興味を持った実験のためなら犠牲を平然と出すし、嘘もつく。依頼された治療対象に、必要のない改造を施したりもする。善悪を測るならまごうことなき悪党だ。

 同時に、彼は実験対象を意味もなく虐げたりはしない。それは鳥かごの中で飼われる鳥に与えられる境遇に等しくとも、必要以上の束縛はせず、健康を保てる衣食住を与え、実験に関係ない部分で傷つけたりはせず、劣悪な環境に置くことはない。

 そんな環境の中で性格が悪いと言われるクアットロ程度では、外道に堕ちた本物の悪がうごめく地獄の中ではまともな方に見えたのだろう。

 

「でも、駄目だったのよねえ。いろんな人に憎まれてみて、恨まれてもみたけれど、あなたの時ほどの高揚感はなかったの。それで、思ったのよ。あなたが復讐を諦めたのであれば、もう一度復讐するつもりにさせれば良いんじゃないかって……奪うふりをすれば良いんじゃないかって」

「それがあの時、俺の前に立ちふさがった理由だったんだな」

 

 

 

 

「クアットロ……なのか?」

「ええそうよ。久しぶりね、ウィル」

 

 クラナガン郊外、廃棄区画の地下水道で、闇の書事件以来二年ぶりにウィルとクアットロは顔を合わせた。

 近年、活動を活発化させていた犯罪組織の研究所が廃棄区画の地下にあるという情報を得て、首都防衛隊と本局航空武装隊が協力して共に出動。研究所へと繋がる水の枯れた地下水道を進む途中で、ウィルは仲間たちとはぐれてしまった。

 薄暗いとはいえ、自分たちの他には誰もいない地下水道のトンネルではぐれるなんてありえない。だが、それもクアットロの持つIS『シルバーカーテン』の権能をもってすれば不可能ではない。

 

「どうしてこんなところに……?」

 

 河川や地上からの水を取り入れるための巨大な立坑の底に立つウィルを見下ろして、クアットロがは嘲りの笑みを浮かべる。

 

「わからない? あななたちに研究所の情報を提供したのが私だからよ。あの研究所、しばらく利用させてもらってたんだけど、最近邪魔になってきちゃってぇ。そろそろ壊滅してほしかったのよね~。だから管理局に潰してもらおうと思ったの」

「なら、どうして俺の前に姿を現したんだ? 放っておいても、お望み通りに摘発するつもりだったのに」

「あなたが参加してるのを見つけて、ちょっと気が変わったのよ。ここであなたを虐めてあげるのも愉しそうだなって」

 

 唇が裂けるかと思うほど大きく、その整った容姿をもってしても醜悪さを感じるほどの嗜虐的な笑みを浮かべて、クアットロが宣告する。

 

「さっき、研究所の方に管理局の部隊が近づいているって連絡を入れたわ。今頃迎撃の用意をして、管理局の部隊を出迎えるでしょうねえ。あなたの部隊、全滅しちゃうかも♪」

「な、何を言ってるんだよ。さっき、研究所が邪魔だから潰れてほしいって――」

「この戦いでどっちが勝っても別にいいのよねぇ。管理局が勝って壊滅すれば問題ないし、あなたの部隊が壊滅してもすぐに後続の部隊が派遣されてくるでしょうし。遅いか早いかの違いはあっても、研究所の壊滅は確定でしょ? 差は管理局側……あなたのお仲間にどれだけ被害が出るかだけ」

 

 ウィルは危機にさらされている仲間たちの元に駆けつけるため、即座にクアットロに背を向けて駆けそうとして、

 

「……まだ、足りないのね」

 

 立坑から通路へと入ろうとした瞬間、頭を強くぶつけてその場に崩れ落ちる。

 頭の中に火花が散ったかと思うほどの痛烈な痛み。視界に靄がかかり、平衡感覚が消失。額から流れる血が右目に流れこみ視界を赤く染める。

 痛みをこらえながら通路へと手を伸ばせば、視界にはたしかに通路が映っているのに、手に伝わる感触はざらざらとしたコンクリートの感触。シルバーカーテンによる幻の光景だ。

 

「な……んの、つもり、だ……」

「さっきも言ったでしょ。あなたを虐めてあげるって。自分が役立たずなせいで、大切な仲間が死んだ時のあなたの顔を見るの、とっても愉しそうかな~って」

 

 突然の風切り音に、とっさにその場から飛びのく。直後、先ほどまでウィルがいた地面に金属の腕が突き刺さる。そこにいたのは動く甲冑とでも表現されるような、魔法の力を動力とした機械の兵士――傀儡兵。時の庭園で見たものと酷似しているのは、クアットロがかつてプレシアの助手をしていた時にその知識を得たからか。

 立ち上がり様に振るった剣から発生した衝撃波が傀儡兵の頭を吹き飛ばす――はずが、衝撃波が通り抜ける。これもまた幻影。

 続けて、ウィルの右側から足音が響く。何も考えずに音の方向へと剣を振るえば、手には何かを金属のようなものを断ち切った感触。傀儡兵の腕が暗闇に飛ぶ。

 しかし、背後からも風切り音。再び跳びのこうとするが、今度は間に合わずに背に衝撃。跳ね飛ばされて壁へと叩きつけられる。

 

「クアットロ……! お前……!」

 

 怒りに染まるウィルを見下ろして、クアットロは嗤う。

 

 姿は見えないが、音で近づいてくるのがわかる。空に飛びあがって距離を取ろうとすると、再び身体が何かにぶつかり、直後に叩き落される。空にもまた見えない傀儡兵。

 気がつかない間に、ウィルは無数の敵に取り囲まれていた。

 

 広範囲を攻撃できるような魔法を使えるなら、この状況も打破できただろう。だが、ウィルにはシグナムのシュランゲフォルムやヴィータのギガントフォルムのような手段はない。

 できることは、反響するせいで発生源が明確ではない音を頼りに闇雲に剣を振り回すだけ。

 逃げようにもシルバーカーテンがある限り出口はわからない。見えない傀儡兵と戦いながら、壁際に手をついて感触で出口を探るなんて不可能だ。

 

 状況を打破する唯一の方策は、シルバーカーテンの解除。つまりクアットロを倒すこと。

 かつての幼馴染は、今や救いがたい悪党に成り下がった。彼女のせいで仲間たちが危機にさらされている以上、容赦をする必要はない。何か事情があるのかもしれないが、そんなものは倒して捕まえた後で聞けばいいだけのこと。

 ウィルは自分から大切なものを奪っているものを許せない。その怒りを込めて、吹き抜けの高みに腰かけてこちらを見下ろすクアットロを睨みつけて――

 

 

「なんだこれ」

 

 突然、響いた男の声に意識を引っ張られる。

 声の発生源に目を向ければ、立坑の途中、壁から見覚えのある青年の顔が突き出ていた。

 

 ヴァイス・グランセニック。

 航空武装隊の隊員でありながら、この一年、ウィルとも何度も顔を合わせてきた腐れ縁ともいえる青年。

 

 その姿を認識した瞬間、ウィルはハイロゥから圧縮空気を噴出させ、彼のいる場所へと向かって全力で飛んだ。

 ヴァイスの姿が見えたということは、そこまでの直線上の空間に障害物がないことを表している。もちろん壁に埋まったかのようなヴァイスの姿すらもクアットロがISで見せている幻であれば話は別だが、そんな意味不明で脈絡もない幻影を見せないだろうという確率に賭けた。

 確信通り、ウィルの肉体は視界に映る壁にぶつかることなく通り抜け、すれ違い様にヴァイスの襟首をひっ捕まえて狭い通路へと飛び込む。

 

「おい! どうしたんだよ! 説明!」

「その前に! 研究所の位置はわかるか!? わかるなら道案内頼む!」

 

 航空武装隊は首都防衛隊とは別のルートで地下研究所へと向かっていたはずだ。ヴァイス一人がなぜこんなところにいるのかはわからないが、現在地くらいは把握できているはず。

 ウィルの様子にただごとではないと理解したのか、ヴァイスは舌打ち一つで切り替えて、即座に順路を説明し始めるが、直後、前方で爆発が起きて通路が崩れる。クアットロがこちらを逃がさないために仕掛けていたのだろう。

 別のルートを通るために横穴に飛び込み、研究所へに向かって走る中、ヴァイスがたずねる。

 

「なあ、さっきのは何だったんだ? 交戦中に見えたけど」

「見たままだよ。交戦中だった。俺たちが乗り込む予定の研究所のやつだ」

「なら、放置するよりも捕まえていった方が良いだろ。それともアレか? まさかお前が手も足もでないくらいやばい奴なのか?」

「いや……」

 

 ヴァイスの言う通りだ。後のことを考えると、ここで倒した方が良い。

 たとえクアットロを無視して仲間たちの元に駆けつけたとして、シルバーカーテンを使うクアットロが合流されればさらに危険になる。

 それなのにヴァイスの姿を見た瞬間、退避を選んだのは、こうしている今も危機にさらされている可能性のある仲間の元に駆けつけることを優先したからだけではなく、

 

「……今は敵だけど、幼馴染なんだ。最近行方不明になってて、どうしてるのかと思ってたんだけど、さっき再会した」

 

 悪党であっても、大切な幼馴染を倒すことへの迷いがウィルの中にあったからに他ならない。

 ヴァイスはその言葉に目を丸くして、

 

「マジか〜。お前の知り合いはかわいい子ばっかでうらやましいな」

「この状況でそう言えるのはすげえよ。見直した」

 

 軽口に、少しだけ気が楽になる。

 

「だけど、それならなおさらじゃないか?」

「何がだよ」

「幼馴染があいつらに攫われて、操られるかなんかしてるんだろ? だったらそっちを助けるのが先決だろ」

「いや――」

 

 ヴァイスはとんだ誤解をしているようだった。

 たしかに一家みな管理局に務めているウィルが犯罪者たるスカリエッティと顔見知りで、幼馴染とは彼が生み出した戦闘機人のことで、彼女が犯罪組織に協力していると最初に連想できるはずもない。

 だが、的外れなはずのその言葉がウィルの胸の迷いに深く突き刺さる。

 

 

 横穴を抜けた先は、巨大な柱が立ち並ぶ水量調節のための空洞が広がっていた。

 

 その正面、非常灯で照らされたひときわ高い場所にある横穴に、クアットロが立っており、ウィルたちが走ってきた横穴が崩落して退路を断たれる。

 逃げられてもここに誘導できるよう、最初から計算していたのだろう。空洞にも傀儡兵が配置されているようで、姿は見えないが響く彼らの足音が鐘の音のように反響する。

 

「私から逃げきれると思っていたのなら、随分とおめでたいわねぇ」

 

 待ち構えていたクアットロの顔を見る。

 クアットロなら自分の姿もシルバーカーテンで隠せるのに、わざわざ姿を現して会話をしている。その姿すらも実はシルバーカーテンで作り出した幻影で、攻撃を仕掛けてもまるで意味がないという可能性もある。

 だけど、ウィルは自分の目に映るクアットロは本物だと確信していた。

 見覚えのある顔だ。闇の書事件の後、病室でウィルを押し倒してプロジェクトEのことを打ち明けた時のような、愚か者を嗤うふりをしながら捨てられた子供のような顔をしている。あれがシルバーカーテンで作り出した偽りの顔とは思えない。

 

 クアットロが何を考えているのかわからない。でも、何か思いつめているのはわかる。

 あの時、ウィルは何もできず、何も答えらず、涙を残して去っていくクアットロの後ろ姿を見送るしかできなかった。その結果が今のクアットロなのだとすれば、これはウィルに与えられたチャンスなのかもしれない。

 クアットロの手を取って、こちら側へと連れてくるための。

 

 それに、かつてクロノに誓ったはずだ。

 いつまでも悪を看過しないと。大切な人が悪の側にいるのなら、たとえ当人が嫌がっても、引きずってでも光の当たる場所に連れてくると。

 復讐という理由で人を殺そうとするウィルを見限っても良かったのに、失望したと吐き捨てても良かったのに、最後までウィルを見捨てずに手を伸ばしてくれたクロノたちのように。

 

「ヴァイス、頼みがある」

「おう、言うだけ言ってみろ」

「お前の言う通りだ。俺はあの子を助けたい。でも、俺だけじゃ無理だ。力を貸してくれ」

「高いぞ」

「言い値で返すよ」

 

 二人とも何も言わずに、握り拳を合わせて打ち付け合い、その光景に不快気に顔を歪めるクアットロへと宣言する。

 

「今度は、手放さないからな」

 

 

 

 

「結局、あなたと……誰だっけ、あの男」

「ヴァイスな。ゆりかごの突入メンバーにもいただろ」

 

 ウィルとヴァイスは協力してクアットロを取り押さえた。

 クアットロが研究所に管理局の部隊が接近中と連絡したというのは嘘で、首都防衛隊と航空武装隊による奇襲は成功して、研究所は制圧された。

 クアットロが組織を潰したがっていたのは本当だったが、その原因は研究所に捕らえられていた竜そのものを弾頭として、アルカンシェルの魔導式を発動させて地上本部を消滅させるという、犯罪組織に協力していた反管理局を掲げるテロ組織による悪魔じみた計画を止めるため。

 それをクアットロから知らされて急いで駆けつけたウィルの目前で、解き放たれた竜が破壊のブレスで研究所の天井を、そしてその上に広がる地下水道の壁面をも破って、地上へと飛翔。

 遅れたおかげで被害を免れたウィルは竜を追いかけて空へと飛び立ち、最終的に負傷を押して駆けつけたシグナムと協力して竜を倒した。

 

「そうそう、そいつに負けて捕まっちゃったのよね。なんだか私の人生、うまくいかないことばかりじゃない? 本当にままならないわあ」

 

 言葉とは裏腹にクアットロは笑みを浮かべていた。ポーカーフェイス代わりの微笑でも、他者を見下す嘲笑でもなく、幸福に触れたものが自然と浮かべる柔らかくほがらかな笑顔。

 

「でも、その時に満足しちゃったのよね……私に必死に向かってくるあなたの色彩を見て、求めていた怒りや憎しみの色彩じゃないけれど、これも素敵だなって……嬉しくなっちゃって。……始まりは負の感情に魅せられたせいだけど、それを追っかけてずーっとあなたを見てる内に、いつの間にかあなたじゃないと満足できないように調教されちゃってたんでしょうねえ」

「……何もしてないのに勝手に調教されてるのは俺から見たら恐怖でしかないけどな」

 

 事件の後、クアットロは犯罪組織に加担していたことで裁判を受けた。

 しかし研究所の情報を管理局にリークしたこと、協力者でありながらも研究所の実験対象でもあったこと、保護された実験体たちの中でもクアットロが世話をしてあげた者からの嘆願があったことなどが重なり、情状酌量の余地ありと判断された。

 ミッドチルダの海上隔離施設で二年間更生プログラムを受けた後、出所。スカリエッティの元に戻ることなく管理局に協力し、やがて正式に管理局の地上本部に所属。そのISと処理能力を買われて情報部で活躍した後、本人の希望もあって首都防衛隊の機動部隊隊長となっていたウィルの秘書官になった。

 

 ウィルもまた、クアットロが真っ当な道を歩めるように、裁判の時からずっと各所に頭を下げて回って奔走した。

 その甲斐あって、陽の当らない場所にいた幼馴染を、陽の当たる場所へと連れて来ることができたと思っていた――ほんの少し前までは。

 

「あれからずっと、クアットロは真面目に頑張ってきたと思ってるよ。今回だって、先生や姉妹と敵対してでも管理局側として動いてくれていた。それなのにどうしてこんなことをしたんだ? 先生の味方をするために裏切ったっていうのなら理解はできるよ。でも、俺を連れてゆりかごを手にする理由がわからない」

 

 過去を辿り、ようやく今の疑問に到達したというのに、クアットロからの返事はない。

 それどころか膝を抱えて顔を伏せて。髪の隙間から見えるクアットロの耳はほんのりと赤く染まっていた。体温の調節なんて戦闘機人なら簡単なはずなのに。

 やがて、少しだけ――かろうじて目が見えるくらいに顔を上げ、横目でウィルへと恨みがましい視線を送りながらつぶやく。

 

「……やっぱり、言わなきゃダメ?」

 

 ウィルがうなずくと深々とため息をつき、立ち上がる。

 髪留めと眼鏡を勢いよく外し、耳と同じくほのかに赤く染まった顔で、座ったままのウィルを見下ろしながら語る。

 

「秘書官としてあなたのそばにいるようになって、気づいたのよ。あなたはいろんな人を、みんなを見ているんだなって。……結局、あなたが私を強く見てくれるのは、私が何かをしでかした時だけなのよね」

「もしかして、そのためにわざと……?」

 

 過ちを犯せば、またウィルが見てくれる。だからこんなことをしでかしたのかと。

 しかし、クアットロはゆっくりと首を横に振った。

 

「そんなことをしても、その時は見てくれるかもしれないけど、またもと通りになるだけじゃない。私が求めたのは対症療法じゃなくて、根本から解決するためのラディカルでシンプルな手法……これからゆりかごは通常航路を外れ、次元世界の奥へと進んでいく。今のゆりかごなら次元断層だって越えていける。管理局の、管理世界の船ではもう、絶対に届かない」

 

 このままゆりかごは次元の海を彷徨い続ける。ウィルとクアットロの二人を唯一の乗員として、永遠に。

 

「ここには私とあなた以外誰もいないわ。だから――私だけを見て。私だけに触れて。私だけを想って。私以外を見ないで。私以外を考えないで。私以外を忘れて。ずっと、一緒にいて」

 

 告白はこれまでの人生で聞いたどんな愛の言葉よりも重く響く。

 熱に浮かされたような恋慕の言葉ではない。一言ごとに魂を削りながら口にするような、悲鳴にも似た心の叫び。

 

 唖然とするウィルとは対照的に、思いの丈をぶちまけたクアットロは、どこか清々とした、あきらめの境地にも等しい顔で返事を待つ。

 やがてウィルも自分の想いに整理をつけて、答えを返す――その前に。

 

「一つ言っていいかな」

「ええ。何かしら?」

「やることが行き当たりばったりすぎる」

 

 クアットロは視線をそらし、言い訳を口にする。

 

「……良いじゃない。計画はシンプルな方が臨機応変にいくのよ」

「シンプルすぎてメモ帳一枚でおさまりそうだぞ」

 

 少なくとも、突入前の段階でウィルと二人で残る方策があったわけではないだろう。

 思いついたのは、おそらくゆりかごが防衛モードに移行した後。他の隊員たちを誘導する中で、自分ならゆりかごを掌握できることに気付き、エスティアを連想させるような行動をとってウィルが残るように仕向けた。

 とっさにそれが思いつくくらいには頭が回るのに、長期的な展望がまるでない。

 

「もう、そんなことはどうでもいいでしょう? それで返事は? まぁ嫌って言われても逃がすつもりはないから、諦めて受け入れてほしいけど」

「気持ちは嬉しいけど、それはできない」

「……でしょうね。まぁいいわ。時間ならたっぷりあるんだし、ここまで来たら考えが変わるまで待つだけよ。ドクターが持ち込んだ食料もあるし、食料生産プラントも稼働可能なのは確認してあるから、私たちがお婆ちゃんとお爺ちゃんになるまではここで生きていけるわ」

 

 断られても、クアットロに取り乱した様子はない。

 この数年、ウィルの一番そばにいたのはクアットロだ。答えも予想できていたのだろう。少なくとも、ここまでは――では、ここから先は?

 

「俺と勝負しないか?」

「なによ突然。聞いてあげるメリットが私にあるとは思えないけど」

「メリットはある。勝負内容は管理局の艦船が救助に来れるかどうかだ。救助に来るまでは望み通り一緒にここで暮らそう。クアットロのことを邪険にしたりせずに、二人きりの同棲生活を目一杯楽しむよ」

「私が勝ったら――って、その場合はそれが永遠に続くだけね。それは私の望みとも合致する。……それで? 無理だと思うけど、救助が来てあなたが勝ったら?」

「その時は駄々をこねたりせずに俺と一緒に管理世界に戻れ。それから……」

「それから?」

「結婚しよう」

「……? ――――っ!!」

 

 ウィルの提案が予想外だったのか、クアットロは声にならない叫びをあげ、自らの反応を恥じて口元を手で押さえる。すぐさま平静を取り戻し、ウィルと視線を合わせて、即座に視線を外す。

 挙動不審になるクアットロに、ウィルは畳みかけるように言葉を重ねる。

 

「こうして大人になるまでに気づかされたよ。俺は大勢に囲まれて、支えられて生きているんだと。今度は俺も大勢を助けて、支え合って生きていくんだと。だからクアットロ一人を見ることはできない」

 

 それはウィルが闇の書事件で得た答え。

 ウィルという存在は、大勢の人間に支えられて、ここまで生きて来た。たとえ自分勝手に行動しても放っておかず、最後まで手を差し伸べてくれた。

 だから、ウィルもまた自分を支えてくれる者たちを、それだけでなく自分が関わった者たち、繋がった人たちを支えて生きていく。

 みんなのことを忘れて、自分だけが閉じた楽園で幸せに暮らすだなんて、選べない。

 

「でも、クアットロを一番にすることはできる。他の誰よりも多く見て、他の誰よりも長く触れて、他の誰よりも強く想うことはできる。結婚っていうのはその決意の意思表示と、社会的な証明のためだ。俺一人の口約束なんて信用できないだろ?」

 

 自らの抱える欲望がお互いに相容れないなら、後は戦うしかない――それだけではないことも、闇の書事件で知ることができた。

 選択肢は一本道の通路のように進むか戻るかだけではない。自分一人で悩んでいると、往々にしてそれに気づかないものだけど。

 

「ば、馬鹿じゃないの。私が求めてるのは、私とあなた以外の排除で……」

「わかってる。クアットロが求めているのは、一番じゃなくて唯一なんだろ? だからこれは一番で我慢してくれって言ってるようなもので、納得できないのは当然だ。だけど、もし救助されて管理世界に戻ることになったその時は、試しに俺と一緒の人生を送ってみないか? 俺がかつて復讐を我慢する道を選んでこうして今まで復讐せずにやって来れたみたいに、もしかしたらクアットロもその選択に満足できる日が来るかもしれない。俺が勝ったら、その可能性を信じて俺と結婚してくれ」

 

 言いたいことを言いきると、口を閉じて返答を待つ。

 しばしの沈黙、黙したままじっとクアットロを見つめるウィルと、唇を震わせながら視線をさまよわせ続けるクアットロ。

 選択を迫る側だったクアットロは、今や選択を迫られる側になっていた。

 やがて、沈黙に耐えられなくなったクアットロは躊躇いを振り切って、これまでの狼狽を隠すように威勢よく答える。 

 

「い、いいわよ! その勝負受けてあげる! どうせ誰もゆりかごを見つけるなんて不可能――

 

『おい、ウィル。聞こえるか? こちらクラウディア艦長、クロノ・ハラオウンだ』

 

 ――なんでぇ!??」

 

 裏返ったクアットロの悲鳴が響き渡ると同時に、管制室の前方に自動でホロディスプレイが投影されて映し出された友の顔に、さしものウィルも呆気にとられた。

 

「随分と早いな。予想外すぎて俺もびっくりなんだけど」

 

 必ず救助に来てくれると信じていたとはいえ、それは単に仲間を信じるという精神論であって、何かしらの根拠があったわけではない。

 姿をくらませたゆりかごを、どうやってこれほど早く発見したのか。

 

『それに関しては、こいつの情報が役に立った』

 

 クロノを映すホロディスプレイの隣に新たなホロが投影される。

 

『やあ、先ほどぶりだね』

「うわ」

 

 そこには身体をバインドで簀巻きのようにされながらもふてぶてしく笑う少年、ゆりかごでの戦いでウィルが打ち倒し捕縛した、一連の事件の元凶。ジェイル・スカリエッティが映っていた。

 

『あれからすぐに、このクラウディアを含めた本局の艦隊が到着して、航行能力を失った時の庭園を回収した。そして次元空間へと消えたゆりかごを追跡する方法がないかと話をしていたところに、こいつが割り込んできた。その内容というのが――』

 

 クロノの説明をスカリエッティが引き継ぐ。

 

『今回は管理局へのゆさぶりが成功して六課ときみを軟禁状態に持ち込めたが、うまくいかずに六課が健在のままの場合は、ガジェットや合成獣だけでは陽動足りえない。そこで私自身とナンバーズの何人かを地上に残して陽動とする計画も用意していてね。私が捕まればゆりかごの内部で新しい私を生み出してくれれば良し。しかし、もし私が逃げ延びることができた場合、後からゆりかごの場所を見つけて追いかけられるように、あらかじめ位置を追跡できるようにしていたのさ』

「そ、そんなはず……そんなプログラムが動いていたのなら、掌握した時に気付くはずで……」

 

 狼狽するクアットロを諭すように、スカリエッティが優しく語り掛ける。

 

『自分が一番できるという過信は、昔からのきみの欠点だ。よく考えてみるといい。きみを超える処理能力を持ち、きみに気付かれないように立ち回ることが可能な子がいることを』

「ありえないわあ……だって、そんなことができそうなウーノ姉様は六課が回収して……この場にいるのは私とウィルだけで……」

「私がいますよ」

 

 二人だけしかいないはずの部屋に少女の声が響く。

 部屋の隅にわだかまる影が形を成し、少女の姿を形作る。

 銀髪赤眼、かつて夜天の書の管制人格であったリインフォースを幼くしたような容姿。

 

「お役目は終わりのようで、一安心いたしました。救助が来なければこれから一生二人のイチャイチャを見続けるハメになるのかと、戦々恐々としていたのですよ」

 

 リインフォース・シャッテン。

 闇の書を解析した折に得た情報を元にスカリエッティが作り出した、リインフォースを模した融合騎だ。

 

「どうしてここにいるのよ……。あなたの分体は全員、ユニゾンしたナンバーズと一緒にゆりかごを脱出したはずじゃ……」

「認識に差があるようですね。私はウーノ姉様の補助のためにゆりかごのシステムに潜りこんでいましたが、不利な戦況を覆すために私の半分を実体化させ、それぞれのナンバーズとユニゾンするために向かわせました」

「じゃあ、もう半分のあなたは……」

「ええ。ずっとゆりかごに潜り込んでいました。感謝してくださってもかまいませんよ。ゆりかごの防衛モードは本来なら、内蔵する兵装を稼働させ、内部の生体反応を完全にゼロにするまでがセットなのです。それを改変してあなた方二人の安全を確保するのはなかなか(フレーム)が折れました」

 

 シャッテンは相変わらずの無表情だが、よく見れば少しばかり顔を上げて胸を張り、得意げになっているとわかる様相。

 

「ってことは、ずっと……見られて……」

 

 一方のクアットロは呆然自失としていて、焦点の合っていない瞳でぶつぶつとつぶやく。

 

 

『で、彼女が定置観測所に送信しておいた予定航路を元に、最も足の速い最新鋭の艦船、つまり僕のクラウディアが先行してきみたちを追いかけた。次元断層に突入されればさすがに追いかけようがないから冷や冷やしたが、間に合って良かったよ。これから接弦して救助するが、その前に――ゆりかごに取り残されてから何も異常はなかったか?』

 

 クロノは途中からは詰問するような口調になり、その鋭い視線はウィルではなくクアットロへと向けられていた。

 通信が繋がってからのクアットロの様子に、単に二人とも脱出できずにゆりかごに取り残されたというだけではないと勘づいているのは確実だが、 

 

「異常はあったよ。さっきまでちょっとした痴話喧嘩をしてたんだ。俺が浮気性なせいで心配かけさせてたみたいでさ」

『そうか。それなら平然としていられないのも当然だな。最近はハラスメントへの対応も厳しくなってきているから、あまり他人のプライベートな話に首を突っ込むわけにもいかないな』

 

 言外にこれ以上の追及はしないと言いながら、けれど、とクロノは続ける。

 

『ただ、友人としては、優柔不断な態度はあまり感心できないと忠告するよ。彼女には同情する。きみはさっさと安心させてあげるべきだ』

「ん、そうする」

 

 狼狽しているクアットロへと、ウィルは手を差し出す。

 

「もう一度言うよ、クアットロ。俺と、結婚してくれないか?」

「……どうして、この後に及んで私に選ばせようとするのよ。いいでしょ、もう。賭けに勝ったのはあなたなんだから、命令すればいいじゃないの」

 

 差し出した手を見るクアットロの顔は、迷いと怯えに染まっていた。

 欲望を抑え込んで新たな道を進んだとして、それで納得できるのか不安なのだろう――そう考えたウィルは、迷うクアットロの手を引っ張るのも選択肢を提示した自分の務めだと思って、口を開こうとした瞬間、己の大きな過ちに気付いた。

 

「ははっ」

 

 思わずこぼれた笑い声に、クアットロが怪訝そうに眉をしかめる。

 

「どうして、笑ったの」

「いや、俺って馬鹿だなって思ってさ。肝心なことを言うのを忘れていた」

 

 笑ったのはクアットロの迷いの意味をはき違えていた自分の愚かさ。

 クロノの助言がなければ気づかなかったかもしれない。

 ああ、安心させてやれというクロノの言葉はそういう意味かと納得する。さすがは既婚者。二児の父。家庭で散々鍛えられたのだろう。

 

 クアットロの怯えは、たしかに未来への不安ではあるのだろう。

 ウィルはクアットロの極端な手段への妥協案としてプロポーズした。そんな態度では不安を感じて当然だ。

 だから伝えなくてはならない。結婚は代案として挙げたものではあるが、結婚しても良いと思ったのは決して妥協でも憐憫によるものではないことを。

 

 ウィルは自分の顔が熱くなるのを感じながらも、言い忘れていた言葉を、まっさきに言うべきだった言葉を告げる。

 

「なんで選ばせようとするのかって、そんなの決まってるよ。俺だって、どうせなら好きな子とはお互いに同意の上で結ばれたい」

 

 忘れていた。好きだという気持ちを伝えることを。

 クアットロの手を取ってその身体を引き寄せて、心臓の音すら伝わりそうな距離で、想いを告げる。

 

「もう一度だなんて言わない。俺の気持ちが伝わるまで、何度だって言うよ。俺はクアットロが好きだ。だから結婚してほしい。二人っきりで永遠の新婚旅行をするよりも、もっと幸せな未来へ連れていく。もっと綺麗な色彩を見せるって約束するよ。だから――俺を信じろ」

 

 クアットロの瞳がうるみ、ゆっくりと唇を開いて、答えを返そうとし――

 

 

「なんだかまだるっこしいですね……そうだ、良いことを思いつきました。先ほどの会話映像を録画していたのですが、それを結婚式で流してはいかがでしょう? なんだかんだと言いながらも、男に悪い虫がつくのを危惧していらっしゃるように見受けられましたが、あれほどの愛を公表すれば、さすがに割って入ってくるような者もいなくなるでしょう」

 

 傍らで見守っていたシャッテンの突然の発言に、クアットロは目を見開いた。

 一方、ホロディスプレイに映るスカリエッティが瞳に好奇心を宿す。

 

『公表はともかく、内容には興味があるね。後で私にも見せておくれ』

「承知いたしました父様。それでしたら、今からでもモニターに――」

「ああもう! うるさい! うるさい!! うるさい!!!」

 

 大きな声を張り上げて、顔を真っ赤にさせて、クアットロは宣言する。

 

「わかったわ! するわよ、結婚!!」

 

 言うやいなや、勢いよくウィルへと身体を預けてきて、

 

「うわっ!」

 

 その場に押し倒される。

 右の掌で肩を押さえつけられ、腹に片膝を乗せられた状態で、上から顔を覗き込まれ――真っ赤に染まったクアットロの顔が勢いよく近づいてきて、唇で唇を押さえつけられる。

 勢いがつきすぎて、歯がぶつかり合って小さく音を立てる。かすかな痛みは、触れ合う箇所から伝わる互いの熱に塗りつぶされて消える。

 互いに呼吸することも忘れ、唇から伝わる熱に全神経が集中し、息苦しさを覚え始めた頃にクアットロがゆっくりと唇を離した。

 

 上気した赤い頬で、潤んだ金色の瞳で、蕩け切った顔で、先ほどまでの感触をたしかめるように自分の唇を指でなぞりながら、ウィルを見下ろすその姿は、これまでに見てきたクアットロのどんな姿よりも――

 

「綺麗だ」

 

 目の前にいる愛しい相手を見て、愛しい相手を感じて、胸に生まれた想いを告げる。

 

 金色の瞳から溢れた涙をウィルの顔に落としながら、クアットロは無垢な少女のような満面の笑みを浮かべた。

 

「ええ、本当に、綺麗な色彩だわ」

 




 作者が描ける限界の恋愛描写です……お納めください……。
 性格悪かったり歪んでたりコンプレックスを抱えてたりする子が、恋で変わるのいいよね!という気持ちがこもっています。
 ちなみに、はやてEDやシグナムEDでは二人とも普通にゆりかごから脱出していると考えています。ウィルからクアットロへの好感度が高い場合に、クアットロ側が未練を捨てられずに発生するEDですね。

 これにて後日談も完結です。
 ほとんど書き溜めしてあった本編と違い更新間隔が開きましたが、追いかけてくださった方々に心からの感謝を。
 ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


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