港町を囲むように作られた五、六メートル近くはある外壁からは遠く遠くまで広がる平地の草原が見渡せた。
それと同時に草原を駆け抜ける魔狼たちの群れも。
―――南の大陸は魔物の脅威も無く長閑な田舎風景が広がっているらしい。
なんて噂を聞いてはてさてそんな場所がこの世界にあるものかと首を傾げて来てみれば、来て早々の魔物襲来である。
「ガセだった?」
「分かりきってたことじゃない」
呆れたような視線で嘆息するには俺の隣の少女である。
腰まで届く透き通るような薄紫色の長髪に宝石のような青と金色のオッドアイ。
ただそこに居るだけで人目を惹く少女だった。街を歩けば擦れ違う人誰もが振り返ってしまうような。
俺より一つ二つ低い身長も華奢な外見と合わさって守ってあげたくなるような風体を為している。
だからこそローブを深く被ってもらいその姿を隠している。これを取るとまた面倒になると分かっているため彼女もそれで納得してくれているのが幸いだった。
「まあ良いじゃん……俺たちの旅に明確な目的地があるわけでも無いんだし」
「調子が良いわね」
ジト目でこちらを見つめるその様すら美しいと思う。そこにいるだけで存在感を放つ芸術的な美、まさに人間離れした、というやつだ。
まさしくその通り、
「ていうかこっち来てない?」
「魔物だもの……これだけ生命が密集してれば寄って来るわよ」
「それはそうなんだけどね」
魔物は生命の敵だ。あらゆる命を貪り食らう魔神の眷属はだからこそあらゆる生命を敵対している。
だからこそ人類はずっと昔から魔物と戦い続けてきたし、街を作るなら必ず魔物避けをして簡単に魔物が近寄れないようにしている。
そのはずなのだが。
「魔物避けが無い?」
「珍しいわね」
珍しいというか普通あり得ないのだが。
などと思いながら視線を外壁の下の街へと向ければ、特に慌てた様子も無い。
魔物が近づいているのは見張りが気づいているはずで、魔物襲来の鐘も鳴らされているのに、だ。
さてどういうことだろうか、と思いながら様子を見ていると、中央門が開き槍を持った鎧姿の兵士が数人飛び出していく。
「お?」
魔狼の群れはもう目の前にまで来ていて、それに対して槍を構える兵士たち。
そこからはあっという間の出来事だ。
魔狼はその名の通り狼の魔物だ、素早い動きと鋭い牙が凶悪であり、さらにそれが群れを為し、連携してくるため熟練の戦士でも苦戦するような魔物だ。
だがそんな魔狼の群れを数人の兵士たちがあっという間に駆逐していく。
「人間にしては強いわね」
なんて、隣で彼女が呟くくらい、人間としては相当な腕前のなのだろう兵士たちによって十を超えた魔狼の群れは物の一、二分程度で全滅した。
なるほど、と一つ納得する。
「ガセじゃなかったみたいだな」
「……ん? 何が?」
「南の大陸は魔物の脅威も無く長閑な田舎風景が広がっているらしい、って話」
兵士たちが魔物の群れを駆逐し街へと戻って来るが、まるでそれが大したことでも無いとでも言うように街の様子に変化は無い。
つまり『この程度のこと』なら日常の範疇でしかない、ということだ。
そして先ほどの兵士たちを見るに、特別階級が高いとかそういうことも無い、本当にただの一兵士でしかないらしく。
「そら魔物だろうとあっさり駆逐できる兵士があっちこっちにいるなら魔物の脅威も無いよな」
魔物に怯える必要も、怖がる必要も無い、平穏な日々が送れるだろう。
『魔物の脅威も無く』『長閑な田舎風景』。
思ってたのとは真逆ではあるが、言ってることに嘘は無いらしかった。
* * *
旅の途中に寄った港町で一番の楽しみと言えば『魚料理』だろう。
どれだけ魔法技術が発展し凍結によって保存が容易になったと言っても結局時間が経てば鮮度が落ちることは間違いない。
内陸部では値段も高くなることもあって中々手が出せなかった魚料理だが、港町ならば毎日のように新鮮な魚が『仕入れ』られてくる。
中央大陸から南大陸に移動するのに一週間近い船旅だったが、船に乗る際に寄った向こうの港町で食べた魚料理はまさに絶品だった。
聞くところによるとあっち側とこっち側で取れる魚が変わるらしい。
となればこちら側にはこちら側だけで食べられる料理というものもあるのだろうと予想していた。
「うーん」
白身魚のグラタン焼きをフォークで突きながら先ほどもらってきたばかりの数枚の用紙を広げる。
新鮮な白身魚のあっさりとしていて上品な甘みと敷き詰められたポテトのホクホクさ、そして上からこれでもかと散りばめられた胡椒とチーズが合わさって口の中が幸せで満ちていた。
対面の席に座る彼女もまたせっせと手を動かし、空っぽのお皿を次々と積みあげていく。
何度も見ても凄い光景だ。本当に良く食べる……まあ物質的な飲食は全てその身を形作る魔力に変換されているらしいので、文字通り胃袋が底無しなのだろう。
そんなことを考えていると、ふと視線を感じる。
顔を上げれば対面の彼女がじとーとした目でこちらを見ていて。
「どうかした?」
「何か失礼なこと考えなかった?」
「いや? 気のせいじゃないかな?」
そうかなあ、と首を傾げる彼女に危ない危ないと内心で冷や汗をかきながら再び用紙へと視線を落とす。
並べられているのは『ギルド』でもらってきた俺たちでも可能そうな依頼書だ。
俺たち、というか正確には俺でも、だが。
対面の彼女は基本的に動かない、俺に着いてくるだけで手伝ったりはしてくれないので、依頼を受けても実際に動くのは大体俺だ。
できれば楽して稼ぎたい、なんて邪な思いを抱きながら依頼書を一つ一つ見ていく。
「人間は……あむ……食べることに関してホント貪欲よね……あむあむ」
この地上に来て最も衝撃的だったことはご飯が美味しいことだと豪語する彼女は、俺の見ている前ですでに十枚以上の皿を積み上げ、今まさに十一枚目が積みあがらんとしていた。
「シエル、そろそろ路銀が心もとないんだけど」
「だからまた依頼書見てるのね」
もう無くなったのか、と思ってそうな表情だったが、誰のせいだと思っているのだ……とは言わないし言えない。
『この程度』のことで彼女が満足してくれるならばそれに越したことはないからだ。
「それに想像以上に俺向きな依頼が多い」
結構器用な性質だと自負しているので、街中での依頼であればそれなりに熟せる物も多い。
逆に戦闘に関しては本当に才能が無いというか、そもそも戦わないに越したことはないと思っているのでこの街は案外気風にあった。
何せ『魔物退治』系の依頼がほぼ無い。
理由は明瞭だろう。
あんな凄腕の兵士があちこちにいるらしいこの大陸で魔物退治なんてわざわざ外注する必要が無いからだ。
だからそれ以外の依頼が増える。雑事から専門的なことまで幅は広いが、その中でも俺向けなやつをいくつか『ギルド』で見繕ってきたのだ。
「んー、ごちそうさま」
ちりん、とフォークが音を立てて最後に積み上げられた十五枚目の皿の上を滑る。
頭の中で総計を数え、大体今の手持ちと同じくらいかと気づいて嘆息する。
「取り合えず次の街に行く前にいくつかやらないとな」
呟きながら机の上に広げた依頼書の中から適当に数枚抜いた。
* * *
当たり前の話。
魔物という明確な脅威が存在するこの世界において、それと戦う戦士の価値は高くなる。
それに反比例するように『命の危険の無い』仕事というのは価値が低くなりがちだ。
需要と供給の問題、魔物と戦うことが恐ろしい人間にとって命の危険の無い仕事というのはとても魅力的で、そして街の大多数の人間は戦うことが恐ろしい。
これもまた難しい話。
一つの街で戦士が多すぎればそれに支払う対価が少なくなる。戦士というのは基本的に何も生み出さない。街を守ることはできても、街の産業になんら関与できない。そのため街全体の金が足りなくなるのだ。
逆に戦士が少なすぎれば迫りくる魔物の脅威に対抗できない。否、人類の脅威は魔物だけではない。というか魔物よりもっとシンプルに分かりやすい脅威がある。それに対抗するために人類は戦士を増やさざるを得ないのだ。
理想的な環境を述べるならば強い戦士が少数いる、そんな環境が良いだろう。
街を守るのに十全であり、同時に産業も発達している。
今の人類にとってそれが理想と言える。
そういう意味でこの街は中々にその理想に近い。
腕利きの戦士が少数。それで街を守っている。
時折襲来してくる魔物も外壁の内側の街の人間からすれば他所事とばかりに平和を謳歌できている。
そしてこうなると今度は街の中では命の危険の無い仕事が増える。
産業を発展させようとするならば必然の話だ。
そして誰でもできるような仕事の価値は下がり、逆に特定の人間にしかできないような仕事の価値は上がっていく。
旅をしていると多芸になっていく。
色々な場所を旅してその地その地で新しいことを覚えていると必然的にそうなるのだ。
物覚えと要領は良い方だと思っているので、それなりに専門性のある仕事も熟せる。
これまで旅してきた街だと基本的に戦える人間向けの依頼が多かったので、余り良い稼ぎにならなかったが、この街ではそうでもないらしく。
「シエルが無茶しなきゃ一月はいけるかなあ」
と頭の中で算盤を弾きながら収支を数えていた。
そして話題に上がったシエルと言えば。
「くぅ……」
宿のベッドに突っ伏して安らかに眠っていた。
外見と相まって寝ている時だけは本当に天使のようにも思える。
まあその実情、天使
本当見ていて飽きない、というかずっと見ていたいと思うその姿はぞっとするほどに美しく、触れがたいほどに気高い。
とは言え。
「ああもう……またお腹出てる」
寝相が悪いわけではないのだが、服装が煽情的過ぎる。
ノースリーブのセーラー服で前のボタンを一つしか止めていない。
本人曰く全部止めると寝苦しいらしいが、下は派手にめくれてお腹が丸見えだし、上は下着も何もつけていない膨らみのある肌色がちらちらと見えてしまっている。
しかも外でも平然とこんな格好をしているのだ。
容姿の件を抜きにしてもローブを被せねばならない。
しかも本人は人目を惹き過ぎる癖に、人目に無頓着過ぎる。
それが原因で以前にもごたごたがあったので宿の個室以外ではローブを着ているように頼んだのだが正解だった。
まあシエルからすれば『人間』からの視線など路傍の石よりも興味が無いのだろうが。
『人』でない彼女からすればそれで良いのかもしれないが、その隣を歩く俺は『人』なので人の視線は気になってしまうし、シエルがそういう視線に晒されることに嫌な物を感じるのも間違いない。
「うーん、独占欲、なのかなあ」
庇護欲、というのは力関係が逆だ。
俺が彼女を守っているのではない、彼女が俺を守っていて、その関係はどう足掻いたって逆転しない。
恩義、というのも間違いではないだろう。シエルが居なければ去年俺は死んでいた。
だがそれだけではない、もっとこうドロドロとした情欲のようなものがあって。
だから独占欲。
俺にしか興味を抱かず、俺だけを見て、俺と『契約』してくれた彼女。
その視線を独り占めしたい、その姿を独り占めしたい。
彼女が見るのは俺だけで良いし、彼女を見ていいのは俺だけで良い。
と、そこまで極端なことは言わないが。
他人の不躾な視線で彼女を見られるのは嫌だし、彼女がそんな他人の視線を道端に落ちた石ころ以下の興味しか持っていないことに安堵している。
考えてみると気持ち悪いなあ、こういうの。
と思わなくも無い。
彼女には知られたくない、こんな気持ち。
なんて言ったって『契約』によって繋がっている以上、彼女にも伝わってしまっているのだろう。
はてさて、その割に特に反応は無いが。
一体どう思っているのだろう。
そもそもの話。
―――どうして彼女は俺と『契約』したのだろう。
彼女との出会いは一年前。
何の変哲も無い村人だった俺。
唐突に訪れた『竜災』。
物理的に地図の上から消滅させられた村。
死にかけだった俺の前に。
彼女は現れた。
「選びなさいな」
まるで天使か、死神か。
「『生』か」
この世の物とは思えないほどの美しさに。
「それとも『死』か」
初めて見た瞬間、心を奪われたのだ。
「そう、それが答えなのね」
ああ、認めよう。
「なら」
俺は。
「今日からアナタは『ソレーユ』よ」
『ソレーユ』という名の俺は。
「私は■■」
あの瞬間。
「そうね」
彼女に恋をした。
「シエルとでも呼ぶと良いわ」
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南大陸②
――ただ見ていた。
ただ高い高い空の上の更に上にある『そこ』から地上を見下ろしていた。
この世界において最も異端な生まれである彼女にとって、地上とは未知の世界であり、一般に不可侵領域とされる場所こそが本来の住処だった。
生まれた時からずっとそこにいた。
地上の誰しもがそこにたどり着くことを願うはずの場所に、けれど彼女は最初からいた。
だからだろうか。
空の上に在るはずの彼女は、けれど逆に空の下の地上に興味を持った。
―――ただ見ていた。
地上をただ見下ろしていた。
* * *
人間というのは本当に多種多様な生き物だ。
同じ『人間』という一つの種族として括られている癖に、まるで言ってることもやっていることも考えるこも違う。それも個人個人で、だ。
シエル本人にとって『個』という概念はそれなりに馴染みがあるが、シエル『たち』にとっては余り馴染みの無い物であるが故に余計にだ。
基本的に動物というのは種族ごとに同じような生態をしている。
同じような物を食べ、同じような物を飲み、同じような場所に住み着き、同じような場所に寝て、同じようなサイクルで生活する。
同じ種族なのだから当然だろう。
特に幻想生物はこの傾向が非常に強い。
概念が魔力で肉体を形作り現象化した存在であるが故に、元の概念にどうやっても縛られる。
それは動物で言うところの『本能』というものだ。
だが人間にはここにさらに『理性』というものが加わる。
人間というのは自ら『我慢』ができる動物なのだ。
こればかりは世界中探しても滅多にいるものでは無い。
そしてその『我慢』が思考の多様性を生み、思考の多様性こそが『個性』を形作る。
人間は『群れ』で生きる生物だ。
この地上で生きるには『個』の力が弱すぎて、その体は脆すぎて、だから『群れ』を成して生きる。
だというのに人間は『個』を抱えたまま生きる生物でもあるのだ。
『個』でありながら『集』であり、そして『群』である。
人間というのは本当に不思議な生物だとシエルは思う。
誰も彼もが寝静まった夜半過ぎ。
宿のベッドの上で眠っていたシエルの目が開く。
正確に言えば『目を閉じてじっとしていた』というのが正しいのだろう。
『陽の住人*1』に分類される人間とは違い、シエルのこの体には『眠り』というものが存在しない。
まあとは言え、シエルが『夜の旅人*2』なのかと言えばそれはまた別の話ではあるのだが。
シエルはこの地上の生物のいずれとも違う存在ではあるが、あえて分類するなら『黄昏の幻影*3』である。
故に本質的に『食事』や『睡眠』と言った行為を必要としない。
つまり昼前に食べていたのも、夜に寝ているのも『道楽』の延長でしかない。
とは言えシエルが今この地上にいるのもその『道楽』のためという面が強いのでそれはそれで良いのだろう。
何よりも『
「良く寝てる」
呟きながら机に突っ伏して眠る少年の姿を見てくすりと笑みを浮かべる。
「本当はアナタだってそんなもの必要無いのに」
まだ『人間の時の習慣』が抜けないのだろう。
「もう一年も経つのにね」
彼と出会ってから。
* * *
地上の風景を見ることが好きだった。
でも。
こうして地上から空を見上げると不思議な気持ちになる。
「遠いのね……空って」
手を伸ばしてみてもまるで届かない。
立ち上がるだけで『天』に届くような巨人もいるらしいが、生憎シエルはそういう存在をまだ見たことが無い。
そうして見上げた『天』は星々が輝いていて、まるで真っ暗なキャンパスに散りばめられた光の粒のような芸術的な美しさがあった。
「本当に綺麗ね」
シエルはずっと『見下ろす』側だった。
だからこうして『見上げる』側になってみると、空の美しさに溜め息が出る。
「やっぱり地上に来て正解だったわね」
ずっと『天』に居たのでは何十年、何百年、何千年かかっても知ることは無かっただろう光景だった。
そうして見上げながら街の大通りを歩く。
数時間前まで人でごった返していたこの通りも、こんな夜遅くに歩くような物好きはシエルくらいしか居ないと言わんばかりに閑散としていた。
まあそれでも見回りの兵士が巡回しているらしい松明の光も見えたし、何やら悪だくみでもしているのかこんな夜半にこそこそと動く人影も見た。
はて、これからどこぞに窃盗でも行くのだろうかなんて思いながらもシエルはそれを誰かに伝えようとは思わない。
そういう人間のことは人間が対処すれば良い。
シエルはそんな人間同士のあれこれに首を突っ込むつもりは無い……シエルは。
そうして大通りを歩いて抜ければやがて港へと出る。
居並ぶ魚市場は朝になれば賑わうのだろうが、さすがにこの時間では誰も居ない。
ざあざあという波の音が響いてくると暗闇の向こう側に漆黒に染まった海が見えた。
「おっきな水溜まりよねえ」
海は広大だ。
初めて見た時はこんなにも大きな水溜まりが存在することに目を丸くしたし、その上この水溜まりが世界中で繋がっていると知った時の衝撃は計り知れない。
シエルが『見下ろしていた』頃に見ていたのは地上の生物の営みだった。
地上で生きる者たちがどんなことをしているのか、特に人間は多様性があって見ていて飽きない存在だった。
けれどこうして地上に降りて来てみると、世界はそれだけじゃない、ということが良く分かる。
見上げた空の美しさ。
どこまでも広がる海の広大さ。
壮大なる草原に、そこに吹いた風、香る草木の匂い。
陽に照らされた森の影の移ろい。
湖面に映った月の寂寥感。
人の街の賑やかさ。
どれもこれも見ているだけじゃ分からなくて、気づけなかったものばかりで。
だからシエルはこの地上にやってきて良かったと思っている。
それに、何よりも。
「
その名を呼ぶと、少しだけ心臓が跳ねる。
彼に合わせて人の姿を取ってみたがどうにもこの体は不思議が多い。
初めて彼を見つけてから一年。
それは彼と共に旅を始めてからの時間に等しく。
一年の間、ずっと胸の奥でむずむずと疼いていた何か。
「何なんだろうこれ」
胸を手を当ててみても、良く分からない。
人の姿をした弊害だろうか、とも思ったがそもそも彼を見つけた時、つまりまだ地上に降りる前から同じような感覚はあって。
ソレーユに聞いてみようか、と思ったこともあったが。
「何でだろう?」
それを口にしようとするとどうしてだろう、言葉が出なくなる。
それに何だか顔が熱くなって、思考がぐるぐるとして上手く回らなくなる。
人の身を再現しただけの『化身』であるが、本質的にシエルは人ではない。
だからこそ不調なんてものとは無縁のはずなのだが。
「本当に何でだろう?」
そんなことを考えていると、ふっと光が海に反射した。
顔を上げれば太陽が昇り始めようとしていて。
ああ、もうそんな時間か、と思うと共に。
「……綺麗」
朝焼けの海の美しさに息を吐いた。
* * *
人間というのは本当に多種多様な生き物だ。
そこには一人一人に『個性』があって、『嗜好』がある。
その中でも『食』に対するこだわりは本当に凄い。
「え、生? 生で食べるの? 魚を?」
「そうですよ。新鮮な海の魚はきちんと処理すれば生で食べることができます。『刺身』と言いましてうちの人気メニューですよ?」
びっくりしたような顔で目の前の皿を穴が開くほど見つめるソレーユに笑顔で説明する宿の従業員。
その横でシエルは平然とした顔で茶色のソースのかかった白身の魚にフォークを突き立て、口に入れる。
「あ、シエル」
「んぐ……んぐ……あら、美味しいわね。このぐにぐにした食感が溜まらないわ」
「だ、大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってるでしょ。私を何だと思っているのよ」
例え猛毒を持つ魚だったとしてもシエルからすればただの『物質』だ。
口に入れ、咀嚼し、嚥下した段階でそれは『魔力』へ置換される。
人間の体を模していても本質的には人間ではないのだから、この地上でシエルをまともに害せる物質はほぼほぼ存在しないと言っても良い。
「ソレーユだってもう似たようなものなんだから、安心して食べなさい」
「うーん……分かったよ。物は試しだ」
少しばかり躊躇が見えたが同じようにフォークを使って口に運ぶ。
「あ、美味しい」
「それは良かった」
従業員が喜色をあらわにしながら、さらに追加で小皿を並べる。
「こちら付け合わせのソースですね。塩ベースの柑橘系ソース、今かかっている醤油ベースの山葵ソース、オリーブオイルを使ったバジルソースに、根菜を摩り下ろしたみぞれソースともみじソースになります」
「ソースだけでこんなにたくさんあるんだ」
「どれも試したいわね……こっちの刺身の皿もう二皿お願い」
「はーい、毎度ありがとうございます」
「え、シエル二皿も食べるの?」
「これだけバリエーションがあるなら全部試してみたいじゃない」
「よく食べるね……」
この地上において食べる物を『調理』をするのは人間という種族だけだ。
基本的に生物は食べるという行為を『必要』に迫られてやっている。故にそこに味は余り関係しない。
極論生きるための『栄養』さえ補給できれば何でも良いのだ。
そこにさらに消化器官などの関係で『食べられる物』と『食べられない物』を区別する。
そして食べられる物の中から自分の手に入る範囲の物を選択して食べようとする。
そこに『調理』という手間は入らない。
何故ならそれは必要の無い手間だからだ。
動物にだって味覚はある。
より美味しい食べ物を食べようとする思いはあるし、だからこそ良質な食べ物を求める。
だが自分で食べ物を『美味しくしよう』とするのは人間くらいだ。
それは大概の生物にとって『食事』とは生きるための行為であるが、人間にとって食事とは『娯楽』の一つだからだ。
食事だけに限らず、人間というのは『無駄』が好きな生き物だ。
『必要』のためにあれこれと欲する傍らで、同じくらい『無駄』も集めているのが人間だ。
だがその『無駄』こそが『文化』と呼ばれ、人の多様性を生み出しているのだとするならば、その『無駄』は決して無駄ではないのだろう。
少なくとも、シエルはその『無駄』を嫌いだとは思わない。
それはシエルの元いた場所には無い物だ。
『天』は合理と法則の世界だ。
『無駄』を省き、『必要』と『合理』で持って構成されるその世界は、半ば機械的ですらあり、絶対的な『システマチック』だった。
正直なところ今更あの場所に帰っても退屈すると思っている。
あの場所には本当に何も無いのだ。
そこに住まう者たち全員が指先一つでこの地上を滅亡に追い込むことができるような存在ばかりだったが、けれど必要以上のことをしようとしない。
気まぐれに地上に手を出すことも無く、悪戯に地上をかき乱すことも無く。
『天』では何もする必要が無い。
一番上の存在が決定したことを下位の存在が淡々と熟す。
それだけの日々が延々と繰り返されている。
地上において『天』に住まう存在を『神』などと呼ぶこともあるらしいが、けれどシエルからすればあそこにいるのは『枯れ木』どもだ。
まだしっかりと土台となる根が……力があるのに、葉を、花を咲かせようとしない、実をつけようとしない。
何かを『達観』してしまったように、あそこの住人は心を動かさない。
まるで機械仕掛けか何かのように。
正直あの場所を好きだったなどとシエルは口が裂けたって言わない。
とは言え嫌いだったかと言われるそうでも無い。
はっきり言えば好きも嫌いも思えないほどに何も無い、というのが正しいだろう。
この地上を、この星を、この世界を統括するはずの理を司る者たちがいる『天』なのに、けれどそこはこの世界のどこよりも空虚な場所だった。
「あむ……うん、美味しい」
色々なソースを試し、時に組み合わせながら一番美味しいと思うソースの配分を見つける。
試行錯誤という言葉をこの地上に来て初めて知ったシエルだが、それは素晴らしい言葉だと思った。
「やっぱり人間って面白いわ」
上から見ていただけでは分からないことがたくさんあった。
少なくとも海を泳ぐ魚を生で食べるとこれほど美味しいのだとシエルは今日初めて知った。
「今日も一日楽しみね」
そう呟きながら笑みを零した。
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