この眼に視えるモノ (ニコフ)
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01話 アメストリスの天剣

 暖かい陽気な日射しが体を温める。列車の揺れは激しいが慣れてくればそれも心地よく、ゆりかごのように眠気を誘ってくる。開け放たれた窓からは冷たすぎない優しい風が、草木の香りを連れて車内へと吹き込む。

 この国、アメストリスの中心、中央(セントラル)から太い動脈のように東西南北の四方へと伸びる蒸気機関車。その列車は今北部地方から中央を経由し東部へと向かっていた。

 

「……」

 

 その列車の座席で、1人の男が心地よさそうに眠りに落ちていた。4人がけの席に1人で座り、窓際に立てた腕を枕に熟睡。その眩しい陽光を遮るためか、頭から被っている黒いコートの裾が微かに風に揺れていた。

 その黒いコートはアメストリス国軍の支給品であり、コートから覗かせる服装は濃い群青をしており、これもまたアメストリス国軍の制服であった。

 日々の激務が祟ってかその青年が目を覚ます様子はなく、黒いコートの蓑虫が静かに膨らんではしぼんでいた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「まずいわね……、なんでこんな時に」

 

 その女性、アメストリス国軍所属のマリア・ロス少尉は頭を抱えて神妙な面持ちで困惑したように大きな溜め息を吐いていた。

 そのショートヘアの黒髪をかき上げて頭を押さえる。苛立たしく忌々しそうに、しかしどこか弱々しく追い詰められたように目を細め、目元の泣きぼくろがきゅっとつり上がる。

 今日非番だった彼女は、日々の仕事の疲れを癒やし息抜きのために、中央から東部の実家へと帰省していた。不運極まりなくも、その列車が武装過激派集団により乗っ取られてしまったらしい。

 まず最初に先頭車両、運転部と機関部がジャックされ列車の自由が奪われた。たまたま2番目の車両に乗車していたロス少尉は、それを目撃するやいなや、音を立てず静かに後部車両へと移動を開始した。

 

「今日は非番で銃もなにも持ってないのに……っ」

 

 彼女は武装集団に臆したわけではなかった。しかし私服姿の彼女は銃火器の類いを持ち合わせておらず、単身相手をしても勝ち目はなかった。まずは時間と距離を稼ぎ、落ち着いて冷静に打開策を練る必要があった。

 彼女が静かに、しかしどこか慌てたように車両を移動してくるのを見て、他の乗客たちが彼女を訝しがるように見つめる。その視線を払いのけるように息を整えて咳払いをしてから更に後方へと向かう。

 しかし当てもなく策も思い浮かばない彼女が思わず口元に当てた右手人差し指の山を噛みながら辺りを見回したとき、思わぬ人物が目にとまった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「乗っ取られたのはニューオプティン発、特急04840便、東部過激派“青の団”による犯行のようです」

 

 アメストリス東方司令部内でも、現在進行中の列車乗っ取り事件の情報が回ってきていた。

 その事件解決のために、軍靴の音を廊下に響かせながらブリーフィングルームに向かうのはアメストリス国軍東方司令部所属、焔の錬金術師ロイ・マスタング大佐だ。自身の管轄下での事件にいささか立腹なのか、面倒くさそうにその黒髪を掻く。

 彼の傍らに立つのは同じくアメストリス軍東方司令部に所属するリザ・ホークアイ中尉。手元の資料を確認しながら必要な情報を上官であるマスタング大佐へと報告する。

 

「声明は?」

「気合いの入ったのが来てますよ。読みますか?」

「いや、いい。どうせ軍部の悪口に決まっている」

「ごもっとも」

 

 ブリーフィングルームの扉を開くと、既にマスタング大佐の部下たちが仕事に着手していた。

 

「要求は現在収監中の彼らの指導者を解放すること」

「ありきたりだな」

 

 首に手をかけぐりぐりと鳴らしながら、マスタング大佐はふざけた様子もなく、いたって真面目に呟く。

 

「困ったな。夕方からデートの約束があったのに」

「たまには俺達と残業デートとしましょうやー。まずい茶でも飲んで」

 

 マスタング大佐のぼやきに間髪入れずコーヒーカップを片手に口を挟むのは、ハイマンス・ブレダ少尉。小太りな体にサイドを刈り上げた短い金髪、その態度と見た目は一見チンピラのようにも見えるが、彼もまたアメストリス軍人である。

 

「乗客名簿があがりました、大佐」

 

 入ってきた情報を元にタイプライターで出力した用紙をマスタング大佐へと差し出したのはケイン・フュリー軍曹。大佐の冗談なのか本気なのか分からない言葉に眉尻を下げ、呆れたような表情を浮かべる。

 フュリー軍曹から受け取った名簿をまじまじと見つめていたマスタング大佐が、嬉しそうに口元に嫌みったらしいニヒルな笑みを浮かべる。

 

「ああ諸君、今日は思ったより早く帰れそうだ」

 

 大佐の言葉に、真意を問うような室内の視線が集まる。

 

()()()()()()()が乗っている」

 

 大佐の一言に、一同は各々、同情したような乾いた笑いを零したり、哀れむように瞳を閉じる。

 

「ふむ、デートに間に合うな」

 

 顎に手を当て天井を見上げるマスタング大佐の視線は至って真剣であった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「すみません……っ」

 

 暗闇の奥から声をかけられる。ぼんやりとくぐもったその問いかけと共に体がそっと揺すられた。

 

「すみません……っ、軍関係者の方ですか? 緊急事態です、ご協力願いたいのですが……っ」

 

 大きな声を上げないように、喉を震わさず小声で語りかける。しかしどこか焦っているように、その吐息混じりの囁きは語気を荒げていた。

 

「んん……、ん。……はい……?」

 

 聞き慣れない女性の声に、列車の客席で眠っていた青年が目を覚ました。頭からコートを被ったまま、腕枕に頭を乗せ未だぼんやりと微睡む思考で反射的に返事を返す。

 そんな彼に対し、ロス少尉は一度前方車両へと振り返ってから、急かすようにまくし立てる。

 

「私は中央(セントラル)所属のマリア・ロス少尉。制服を着ているあなたを軍関係者と見込み声をかけました。現在この列車の機関部が過激派組織によって占拠、前方車両から順に乗客も人質にされています……っ」

「……」

 

 コートの男はピクリとも反応せず、ただ沈黙を持ってロス少尉の言葉に耳を傾ける。

 少尉は彼の座席の隣へと座り、恐らく彼の頭があるであろう位置に自身の顔と口元を近づける。話を聞いているのか寝ているのかも分からない目の前の男に、焦りと少しの憤りを込めて言葉を続ける。

 

「見たところ他に軍関係者は乗車していませんし、私たちでこの状況を打開する必要があります。……もしあなたが無理だというのなら、銃だけでも私に渡していただければ私が――」

 

 なにも応えない男に痺れを切らしたロス少尉が、その腰に下がっているであろう銃を取ろうと彼の制服へ手を伸ばす。沈黙したままの彼をこの状況に臆してしまったのだと判断したからだ。

 しかしその伸ばされた腕が、コートの下から伸びてきた男の屈強な腕で掴まれる。痛みはない、しかしビクともしない。

 

「……っ!?」

「いや、そういうことなら私が行きましょう」

 

 男はロス少尉の手を離すと、静かに立ち上がった。身の丈180は超えているであろう大男が、頭から被っていたコートを座席へと脱ぎ捨てる。

 

「……あ……っ」

 

 隣の席に座ったまま、伸ばした手もそのまま呆けたように、立ち上がる男を見上げるロス少尉。彼女が口をぽかんと開いて呆気にとられているのは、その男性に見覚えがあったからだ。

 身の丈180を超える体躯に制服が張り詰めるような筋骨隆々なシルエット。健康的に薄く焼けた肌、整えられた艶のある黒曜石のような黒髪。

 黒色に見える瞳だが、窓から陽光が差し込めば夜明け前の空のような濃い蒼を秘めた瑠璃色が反射する。大総統とは反対の右の目に眼帯を巻いており、顔や手など制服から見える僅かな露出部分だけでも数多の古傷が見て取れる。

 その腰に銃は下がっておらず、代わりにあるのは二振りの軍刀。一つはアメストリス軍が支給している軍刀。もう一振りは上品な黒鞘に丁寧かつ落ち着いた銀細工が施されている、支給品ではない立派な軍刀だ。

 そしてその制服の胸元にはアメストリス軍の大尉を表す階級章と、いくつかの技能章や従軍章、戦功章などの徽章(きしょう)が取り付けられている。その中でも一つ、特別にこの青年の功績を称える勲章が見て取れた。

 

「黄金柏葉剣……ダイヤモンド付騎士鉄獅子勲章……」

 

 ぽつりと零したロス少尉へ視線を配ると、その青年は彼女を安堵させるように優しく微笑んだ。

 呆ける彼女をハッとさせたのは、車両連結通路の扉が荒々しく開けられた音だった。銃を持った2人組の男が駆け込んでくる。

 

「動くんじゃねえッ! この列車は我々“青の団”が乗っ取ったッ!」

 

 車両内に響き渡るように怒鳴りつける男。威嚇のためか1発天井へと放たれた銃声に乗客たちは怯えきり沈黙する。

 ロス少尉もまた、眉間にしわを寄せ一筋の汗を流す。「しまった」と彼女が胸中で焦る中、例の青年が軍靴の音だけが静かに反響した。

 通路へと歩み出た彼が軍刀の鞘を左手に握り、男たちと数メートルの距離で仁王立つ。

 

「んだ? テメェは。その制服は軍人か。余計な真似すんじゃねえぞ! この列車の乗客全てが人質だ!」

「逆らう者がいれば容赦するなと言われている。我々は軍人が相手でも撃つぞ」

 

 男たちが銃口を青年へと向ける。その瞬間、青年のだらりと脱力した右手とこめかみがピクリと反応する。

 男たちを睨み付ける彼の瞳には哀れみと蔑みと、そして微かな ()()が見て取れた。

 

「「ッ!!?」」

 

 青年の眼に睨まれた時、心臓が締め付けられるような、背筋に氷柱でも突き刺されたような戦慄が男たちの脳天からつま先へと走る。心臓が一気に激しく鼓動し、足が震える。“逃げねばならない”男たちの本能がそう叫んでいた。

 しかし彼はふと視線を感じ、男たちを睨み付けていた鬼気迫る視線を外して自身が座っていた席とは反対の客席を見やる。そこには家族連れだろうか、両親と思しき男女と、小さな女の子が怯えながら座っていた。

 彼は少女と目が合うと、しばしの沈黙の後、その大きな手のひらで少女の頭を優しく撫でた。

 

「子供には血も死体も見せたくない。銃を置き大人しく投降し、残りの仲間の情報を吐くのなら、怪我もなく憲兵へ引き渡すことを約束する」

 

 再び男たちへと振り向いた青年がそう切り出した。その表情に先程のような殺意は見えない。

 

「…………ふ、ざんけんなッ!」

「……軍刀だけでどうしようってんだ!」

 

 先程まで冷や汗を流し戦意を失っていた男たちが目を合わせて一瞬考え込むも、要求を呑む気はないらしく、下ろしていた銃口を再び突きつける。半ば自暴自棄にもなっているかのように、その呼吸は荒く目は血走っていた。

 

「交渉決裂だな」

 

 そう呟いた青年の瞳に再び微かな()()の色が宿る。左足を下げ半身となり、膝を曲げ腰を下ろしぐっと身を屈める青年。軍刀の鞘を掴む左手で鍔を少し押し上げ、右手で柄を掴み、抜刀の姿勢に入る。

 男たちが引き金にかけた指の筋1本動かしたとき、刹那の瞬間だった。

 木製の床が割れるほどの強烈な踏み込み、男たちが引き金を引くよりも速く、青年はその懐へと飛び込む。

 抜刀一閃。鞘から抜かれた勢いそのままに軍刀は右上へと振り抜かれる。一瞬の甲高い金属音が響いたかと思うと、美しい切断面からずれ落ちるように男たちの銃は斜めに切断されていた。

 ごとりと、銃の破片が床へと転がる。銃身と一緒に切り落とされた薬室の弾丸から黒色の火薬がこぼれ落ちた。

 青年は振り抜いた軍刀を男たちの喉元へとあてがう。

 

「首を飛ばさなかったのは子供に血を見せないためだ。わかるな。これ以上はやめておけ、私は手加減が苦手なんだ」

 

 青年の問いかけは「殺そうと思えば殺せた」と言外に男たちへと突き刺さる。男たちは顔面を蒼白にさせ、慌てて何度も頷くしかなかった。

 

「では、他の乗客を解放してきますので、ここは頼みましたよマリア・ロス少尉」

「は……はいっ!」

 

 縛り上げた男たちから残りの仲間の人数等を聞き出した青年は、この車両と男たちをロス少尉へと預ける。引き抜いた軍刀を片手に単身、前方車両へと足を進めていく。

 目の前で繰り広げられた一瞬の出来事に処理の追いつかないロス少尉だったが、青年の一言に無意識のまま直立し敬礼の姿勢で彼を見送っていた。

 

「あっ……名前」

 

 本人を見るのは初めてだが、あの特徴と勲章を持つ人物に心当たりはあった。ただそれを確認するのをつい忘れてしまった彼女。それに気がついたときには既に、前方車両の騒ぎは解決されていた。

 彼が目を覚まして10分足らずの間にトレインジャックは鎮圧された。

 目的の駅に到着するまでの間、過激派一同を縛り上げ一カ所に集め、軍刀片手に青年が睨みをきかせていたため、男たちは生きた心地がしなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「よー、エルバ、災難だったなー」

「だが、おかげで手間が省けた。礼を言うぞクライス大尉」

 

 過激派を鎮圧した男、エルバ・クライス大尉が東部イーストシティ駅に到着すると、そこには彼の迎え役であるアメストリス国軍中央司令部所属のマース・ヒューズ中佐と、今回の一件の管轄担当であるロイ・マスタング大佐とその部下たちが待機していた。

 上官にも関わらずヒューズ中佐がエルバを迎えに来たのは個人的な親交が深く、気心の知れた仲であり、丁度東部に所用で出向いていたため「ついでだから」らしい。その口調も親しげである。対してマスタング大佐は、親交が深い相手にも形式上は軍人として言葉をかける。

 

「ご無沙汰しております、ヒューズ中佐。そして、やはりマスタング大佐の管轄でしたか。……では、放っておいてもよかったのでは……」

「ん? なにか言ったかね」

「いえ、なにも」

 

 マスタング大佐の部下が過激派一派を憲兵隊へと引き渡す中、列車から降りてきた1人の女性に気がついたヒューズ中佐が声をかける。

 

「お? 君は確か……」

「は、はい! 中央所属のマリア・ロス少尉であります!」

 

 自身の上官に当たるヒューズ中佐に敬礼と共に名乗るロス少尉。それに気がついたエルバが彼女へと向き直り、その深い瑠璃色の左目で真っ直ぐに見つめる。

 

「マリア・ロス少尉」

「はッ、はいッ!」

「猪突猛進せず、極めて冷静な判断と的確な行動でした。素晴らしい動きでしたよ、少尉」

「あ、ありがとうございます! あの()()()()()()()()()殿にそのように仰っていただけて光栄です!」

 

 畏まる彼女の態度に思わず困ったような苦笑いを浮かべるエルバ。そんな彼の前で再び姿勢を正したロス少尉が深呼吸をし、敬礼のまま口を開く。

 

「不躾ながら改めて名乗らせて頂きます。私はマリア・ロス、中央司令部所属、階級は少尉であります。お初にお目にかかれて光栄です」

 

 尊敬と憧れの感情のこもった眼差しで名乗るロス少尉。エルバは顎に手を当て何かを思い出すように、彼女の顔をまじまじと見つめる。その視線に思わず恥ずかしいような、居心地が悪そうに視線を泳がせるロス少尉。緊張からかほのかに顔に熱が集まる。

 

「初めまして、ではなかったはず」

「もっ、申し訳ありません! ……大変失礼ながら……いったい、どちらで?」

 

 エルバの一言に肩をビクリと弾ませて慌てるロス少尉。頭を下げる彼女がチラリと窺うように上目に視線をエルバへと向ける。

 

「お気になさらず。会ったと言っても私が一方的に見かけただけですので」

 

 エルバが困ったように両の手を振りながら彼女に頭を上げるよう促す。

 

「あれは確か、昨年の中央と北とで合同訓練をしたときだったかな。あなたをお見かけしました」

「顔を覚えていて頂けて光栄であります」

「美人は一度見たら忘れないので。特にそのセクシーな泣きぼくろは」

 

 そう言って優しく微笑まれると、思わず心臓が鳴ってしまうロス少尉。その思いもよらぬ言葉に咄嗟に頬に手を当て自身の泣きぼくろを隠してしまう。顔に熱が集まってくるのは緊張のせいだけではないようだ。

 

「クライス大尉、その発言はセクハラに当たる可能性があります」

「えっ、いや、そういうつもりじゃ」

 

 マスタング大佐の後ろに控えていたホークアイ中尉が目を伏せてそっと忠告する。

 慌てるエルバは自身の発言が問題になる前にと、ヒューズ中佐と共に現場を後にしようとする。「大佐に用があったので丁度よかったです」と、マスタング大佐たちも連れて一同は東方司令部へと向かう。

 

「では、ロス少尉、またどこかで。よい休日を」

「は、はいっ」

 

 そう言い残してヒューズの用意していた車に乗り込み去って行く一同を敬礼のまま見送るロス少尉。

 その車の背中が見えなくなると、どっと疲れたようにその場にしゃがみ込む少尉。膝の下へと腕を回し、しゃがむ両膝に自身の口元を隠すように大きなため息を吐く。

 

「……はふぅ……」

 

 勇名轟かせる憧れの人物が思っていたよりも遙かに凄腕で、その屈強な体と強面から想像していたイメージとは裏腹に優しく微笑んでくるものだから不意打ちを食らってしまった。

 どうにも彼の甘く低い声や、鋭く綺麗な瑠璃色の瞳、礼儀正しく真っ直ぐな言葉、目の当たりにした勇姿、それらが母性本能とでも言うのか、心の隅をくすぐるのだ。体躯や古傷、眼帯などどう見ても屈強な男らしい外観にも関わらず。いや、そのギャップのせいだろうか。

 もやもやと思考を巡らすロス少尉がそっと自身の泣きぼくろに触れる。

 その日イーストシティ駅構内で膝に顔を埋め「うー……」と呻る女性の姿がしばらく見られたとか。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「改めて、トレインジャックを解決してくれて礼を言うよ、クライス大尉」

「最近、国内で物騒な事件が多いですね。少し前は中央司令部が氷漬けにされそうになったとか」

「今に始まったことじゃないさ」

 

 東方司令部、ロイ・マスタング大佐の執務室内。自身の椅子に座りホークアイ中尉が差し出した資料に目を通す大佐と、デスク越しに立つエルバ。

 ヒューズ中佐はエルバたちを送り届けると、さっさと中央へと帰ってしまった。愛妻と愛娘の自慢を残して。

 それと入れ違いになるように、1人の屈強な男性がマスタング大佐の執務室を訪ねてきた。

 

「エルバ殿、東部にいらっしゃるとお聞きし挨拶に伺いましたぞ!」

「ああ、アームストロング少佐。お久しぶりです」

 

 エルバ以上の屈強な肉体を持ち、綺麗に剃られたスキンヘッドにはちょろんとカールした金色の前髪が残っている。同じく黄金に輝く立派な髭を蓄えたその人はアメストリス国軍中央司令部所属、豪腕の錬金術師アレックス・ルイ・アームストロング少佐その人だった。彼もまた東部に立ち寄ったついでに挨拶へと来たらしい。

 アームストロング少佐の熱烈な抱擁を躱すエルバ。逃すまいと少佐は彼の手を掴み暑苦しく激しい握手を交わす。

 

「そのような他人行儀な態度はおやめ下さい。我らいずれは義兄弟に……」

 

 エルバの腰に下げられた()()()()()()()()()()()()()()()()()のサーベルを見た少佐の言葉が尻すぼみに止まる。

 

「未だ我がアームストロング家の宝剣を抜いておられないのですね。まだ()()とお呼びできませんか」

「まだもなにも、……今後もそのつもりはありません」

 

 彼らの会話に呆れたように、からかうようなニヒルな笑みを浮かべるマスタング大佐だったが、その傍らに立つホークアイ中尉は理解が追いつかない様子。頭に「?」を浮かべると、思わず尋ねる。

 

「そういえば今のクライス大尉の代名詞ともなっているその軍支給の軍刀とは別のもう一振りの剣。アームストロング少佐は何かご存じなのですか?」

「うむ……」

 

 ホークアイ中尉の質問にチラリとエルバの顔を窺うアームストロング少佐。エルバは瞳を閉じ肩をすくめて「ご自由に」と言外に伝える。

 

「エルバ殿の下げるこの剣はアームストロング家に代々伝わりし宝剣。これを異性に渡すことは由緒あるアームストロング家の婚姻の儀。いわばプロポーズですな」

「宝剣? プロポーズ?」

 

 ますます話が分からないと言うように聞き返すホークアイ中尉。その視線は彼の腰に下がる剣へと向けられる。

 艶やかな黒い革に包まれた鞘に走る上品かつ実戦の邪魔にならない、しかし威厳も感じる銀細工の装飾。柄は剣として実戦で振るいやすくするために握り込むことを想定した作り、鍔部分にも鞘同様に最低限の、それでいて重々しくも品のある細工が見て取れる。アームストロング家の家柄と戦場で使用されることも想定された質実剛健の剣だ。

 

「アームストロング家の男が女へと渡した場合、女がその刃を自身に向け柄を男に持たせれば婚姻が成立する。“私の命までもあなたに捧げる”という意味がある。そして、アームストロング家の女が男に渡した場合、男がその剣を戦場で抜刀したとき婚姻が成立する。“命尽きるその瞬間(とき)まであなたと共に”という意味があるのだ」

「なんだか、随分とロマンチックですね」

 

 腕を組み自身の髭を撫でながらどこか誇らしげに説明するアームストロング少佐。

 隣のエルバは後ろ手に手を組み、窓の外を眺めながら諦めたように小さくため息を吐く。

 興味深そうに話を聞くホークアイ中尉と、ニヤニヤと楽しそうに笑うマスタング大佐。

 

「そしてこの剣は当然一振りしかなく、アームストロング家の長子から順に使用権があるのです。これを姉上はエルバ殿に渡しているのですが……エルバ殿は未だ戦場で抜いて頂けていないご様子で」

 

 目を伏せ溜め息を吐いた少佐がチラリと横目にエルバの様子を窺う。我関せずと言わんばかりに窓から空を眺めているエルバへと詰め寄る。

 

「姉上がお嫌いなのですかッ!?」

「いや、決してそのようなことはありません」

「私は苦手だがね」

 

 アームストロング少佐の姉、“ブリッグズの北壁”や“氷の女王”などと呼ばれる、豪胆にして苛烈な北方司令部所属のオリヴィエ・ミラ・アームストロング少将の姿を思い浮かべてぽつりと漏らしてしまうマスタング大佐。

 嫌いかと尋ねられたエルバはきっぱりと、間髪入れずに少佐の目を見返しながら断言する。

 

「あの方は私の恩人であり、尊敬するお人です。軍人としても的確で合理的で迷いがなく、……強くて美しい。ブリッグズという過酷な地で大国ドラクマ相手に一歩も引かず、屈強な兵士を鍛え上げた。厳しくも部下想いな一面もあります。少将の優しさは私もよく知っています」

 

 屈託のないその瞳は真っ直ぐで、想ったままを言葉にしていると言うことは、そこにいる誰もが理解できた。

 

「絹のような金色(こんじき)の髪も、力強くも艶やかな声も、憂いを帯びた横顔も、優しさも実直さも……。時折見せる少将の、少女のように温かいあの微笑みも……。私は…………少将を守るためならばこの命を投げ出し、押し寄せる炎の波から、降り注ぐ鉄の雨から、尽きぬ怨嗟の声から、数多の艱難辛苦から少将を守るための盾となりましょう」

 

 聞いている方が赤面しそうなほどに真っ直ぐで迷いの無い言葉。アームストロング少佐は流れる感涙をハンカチで拭い、ホークアイ中尉は聞いているのが恥ずかしくなったのか薄らと赤面しつつ思わず微笑みかけ、マスタング大佐も頬杖をつき半ば呆れながらもその真っ直ぐな気持ちのよい言葉に思わず笑みが零れる。

 だが、彼はその真っ直ぐな瞳を微かに閉じ、どこか寂しげな、叶わぬ願いを思い描くように自嘲気味の笑みを浮かべる。

 

「しかし私は……()()()()()()を願ってはいけないのです……」

 

 そっと腰に下げられた宝剣を撫でる。彼の言葉に執務室の空気は静かに沈み込んでいくようだった。

 

「……イシュヴァールのことか?」

「……」

「酷い……戦いでした」

 

 マスタング大佐の言葉に沈黙で返すエルバ。思わずホークアイ中尉とアームストロング少佐の視線が床へと落とされる。

 ぽつりと漏らした少佐の言葉に沈黙はますます深くなっていく。

 

「あれは戦争だった。君が必要以上に自責の念にかられることも、罪を背負うこともない……と言っても無理か。君の性格上」

「数多の戦地で、私は多くの人の幸せを奪いすぎました。……それ以外にも、色々と思うところがあるのです」

 

 エルバが自嘲するように悲しげに笑う理由を聞く前に、その空気に似つかわしくない呑気な声と共に執務室の扉が開かれた。

 

「持ってきましたよ、大佐。例のリオールとかいう町の……、って、なんかお邪魔でした?」

 

 マスタング大佐の部下、ジャン・ハボック少尉だ。金の短髪に先程まで喫煙していたのか紫煙の匂いを纏わせながら入室する。何らかの資料を片手に面倒くさそうに頭をポリポリと掻く。

 

「いえ、丁度その話に移ろうと思っていたところです。資料をよろしいですか、ハボック少尉」

「あ、はい。どうぞ」

 

 空気を切り替えるかのように、いつもの明るく紳士的な態度と声色で対応するエルバ。彼がハボック少尉から受け取った資料に目を通しながら仕事の話をはじめると、すっかり先程までの話を蒸し返せる雰囲気ではなくなってしまった。

 

「東部の片田舎に()()()()を使っている者がいるという話が入りました。その真相を確かめに」

「ふむ、賢者の石か。だとすれば、鋼のと出くわすかもな」

「ああ、禁忌の子ですね」

 

 一通り資料に目を通したエルバに手を伸ばすマスタング大佐。その意図を察するエルバが資料を手渡す。同じく資料を眺めながら話す大佐とエルバに、ホークアイ中尉が質問する。

 

「しかし、なぜ北方司令部の、それもブリッグズ砦にいらっしゃるクライス大尉がわざわざ?」

「彼は氷の女王だけでなく、大総統のお気に入りでもある。大総統府の命令でよく動いているのだよ」

 

 どこかつまらなさそうな、気に入らないといった風に吐き捨てるマスタング大佐。アームストロング少佐が髭を指で摘まみながら「そういえば」と続ける。

 

「剣も大総統から習われたとか」

「ええ、まあ……」

 

 彼らの言葉にエルバは気まずそうに、何かを言いたそうに、しかし隠し事をしているように、視線を泳がせて言葉を濁すのだった。

 そしてリオールという町までの道のりを地図を見ながらマスタング大佐に確認すると、エルバはアームストロング少佐と共に執務室を後にする。少佐が駅まで送ると聞かなかったようだ。

 彼らの去った後の執務室でホークアイ中尉が紅茶を淹れながら独り言のようにマスタング大佐へ声をかける。

 

「イシュヴァールでの大尉は……壮絶でした」

 

 かつて自身も歩んだ地獄の景色を思い出すように、カップへと注がれた紅茶の水面に映る自身を見つめる中尉。

 

「ああ。そうだな。……我々()()()()よりも、彼はその刃で多くの敵を屠った。まさに鬼神の如き戦いぶりだったよ」

 

 腰掛ける椅子に頭まで預けて窓の外を見やるマスタング大佐が、当時の光景を思い出すように目を閉じる。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 砂漠に降り注ぐ灼熱の陽光は容赦なく歩兵の水分と体力を奪う。瓦礫の山に砂塵の舞うこのイシュヴァールの地は憎悪と怨嗟、復讐と血にまみれたこの世の地獄と化していた。

 イシュヴァールの内乱。もとより宗教的価値観の違いなどから政府と衝突を繰り返していたこの地で、アメストリス軍の将校が誤ってイシュヴァール人の少女を射殺してしまった事件を皮切りに、その後七年にも及ぶ大規模な内乱へと発展してしまったのだ。

 内乱が勃発後、大総統は性急な判断を控え事態を静観。その七年後にようやく下された命令が「殲滅命令」だった。その殲滅戦には実戦での実用性を試す意味合いで、多数の国家錬金術師が投入された。

 そこにはマスタングをはじめとした、強力な戦闘力を持つ国家錬金術師が何人もいたが、その中でもとびきりアメストリス軍内部でも目を引き、畏怖され、イシュヴァールからは「ヤツこそが神イシュヴァラ、延いてはイシュヴァール人民最大の敵」と比喩される人物がいた。

 

「それがエルバ・クライス。当時の階級は何だったのか? 所属は? 出自は? 一切が謎に包まれた男……、いや、少年だった」

「当時の彼はまだ10代も中頃だったのでは?」

「制服こそ着ていたが、正式なアメストリス軍人だったのかも怪しいな」

 

 ホークアイ中尉の差し出した紅茶を一飲みし、口元を湿らせたマスタング大佐が言葉を続ける。

 

「その剣の腕前は大総統から直々に習ったというし、大総統の虎の子を実戦投入したのかもしれない。我々()()()()のように」

「非公式の、それもまだ年端もいかない少年を、あの戦場に?」

「やりかねないさ。アメストリス(うち)の軍部とは今も昔もそういうものだ。ましてや内乱は七年にも及び、泥沼と化していたからな」

「……」

 

 俯き眉間にしわを寄せるホークアイ中尉の表情には憐憫と怒りが見て取れた。その拳が強く握られる。

 

「だが、確かに彼の実力は想像を絶した。我々よりもよっぽど()()()()()()()さ」

 

 灰燼と化すイシュヴァールの地を疾風迅雷のごとく駆け回る男がいた。たった一本の軍刀サーベルを片手に敵陣へと切り込み、瞬く間に敵兵を肉塊へと変えていった。

 右目を眼帯で隠し、深い瑠璃色の左目は獲物を逃さない。屈強な肉体を躍動させ、その紺碧の軍服が濃紫(こむらさき)に染まろうとも止まらない。

 建物の壁面を蹴り飛び越え、鳥が障害物を避け飛ぶが如くするりと細い路地を駆け抜けていく。弾丸は当たらず、飛来するランチャーの弾頭は切り落とされ、近づこうものなら瞬きする間に頭は体と離別していた。

 剣が折れれば倒れる兵の腰から引き抜き、敵から奪い、落ちている銃を撃ち、迫撃砲の弾頭を投擲し、それでも駄目なら素手で相手の頭蓋を砕き、首をへし折った。

 複数の兵士が数々の武器兵器を用いてなんとか傷を負わせても、男の進撃は止まるところを知らない。例え自身の血で汚れようとも、どれだけ深く傷つこうとも、その一帯のイシュヴァール人が動かなくなるまで、彼は戦い続けた。

 イシュヴァール人だけではない、アメストリス軍人さえもが恐れおののき、彼に恐怖し、近づく者は居なかった。誰もが彼を避ける中、数少ない話し相手はマース・ヒューズと名乗る男とロイ・マスタングその人だけだった。もっとも、当初のヒューズは「こいつのそばに居れば死ぬことはない」と打算的な部分もあったようだが。

 そしてもう一人、殲滅戦を高見から見下ろす男。アメストリス軍の総司令官にして実質この国を支配する男、キング・ブラッドレイ大総統もまた、顔には出さなくとも、どこか満足げに、彼の戦いっぷりを観戦していた。

 

 

「だが、彼は一人も殺していない」

「え?」

「そういうことになっている。エルバ・クライスという人物はあのイシュヴァール殲滅戦には参加していない」

「どういうことですか、大佐。私もこの目で彼の獅子奮迅の戦いぶりは目撃しましたが」

 

 マスタング大佐の思わぬ言葉に、ホークアイ中尉も思わず聞き返してしまう。ではあの日私が見たものは何だったのかと。

 大佐がカップを受け皿へと静かに置くと、皮肉めいた笑みを浮かべた。

 

「どこの所属かも軍人かも分からない、まだ年端もいかない少年をあの殲滅戦に参加させたという事実をもみ消した。……だが、記録からは消せても人々の記憶からは消せない」

「……」

「事実、私も君も、彼の戦いっぷりを()()()()()。記録から消したことは軍上層部しか知らんようだがね。私も偶然知ったくらいだ」

 

 ホークアイ中尉の表情はますます険しくなる。勲章のためにも、報償のためにも戦った訳ではないことは分かる。それでも、あれだけの傷を体にも心にも負い、あの地獄を戦い抜いたにも関わらず、その事実をいとも容易くなかったことにした軍上層部へ、怒りと不信感が高まるのを感じていた。

 

「そんな怖い顔をするな中尉。言っただろう、記録から消せても人々の記憶からは消せなかった。だからこそ、()()()()()()()()()()()()も込みで、彼は先日あの勲章を貰ったのさ」

「黄金柏葉剣、ダイヤモンド付騎士鉄獅子勲章……」

 

 軍上層部の辻褄合わせをあざ笑うかのような嫌みな笑みを浮かべる大佐に、中尉は何かを思い出すように呟いた。

 

「そう。かつて大総統が大総統となる前、その比類なき戦場での活躍から贈られた勲章。それ以来数十年、他に授与された者が居なかったそれは()()()()()()()()()()()()()()()()と噂される程のものだった。だからこそ授与式は大きな話題となったな」

「彼はイシュヴァール以外にも」

「ああ。やつは東の内乱(イシュヴァール)以外にも西(クレタ)(アエルゴ)の国境戦線にも参戦し、今はブリッグズで(ドラクマ)を相手に国境を守っている」

 

 マスタング大佐は椅子から腰を上げると、執務室の窓際へと歩み寄る。窓越しに空を漂う雲を眺める。その頭の中には様々な思考の波が押し寄せていた。

 その視線はもう見えなくなったエルバの背中を見送っているかのようだった。

 

「……今では()()()()()()()()()だ。本人は嫌がっているようだがね。そんな彼だからこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()でも、彼があの勲章を授与されることに疑問を抱く者はいなかった」

「平時には悪魔と畏れられ、都合のいいときは英雄、ですか」

 

 無意識にホークアイ中尉は目を伏せ、その視線は足下へと落とされる。

 

「私も随分と多く殺した」

「……私もです」

 

 背中越しにそう呟くマスタング大佐に、その背中を見つめながらホークアイ中尉も応えた。

 

「それについて悔いている暇はない。贖罪も私が大総統となってからの話だ。……ただ……、彼は、随分と真っ直ぐな眼をしたまま育ったものだ」

 

 我々以上に、殺していただろうに。その一言を呑み込んだ大佐であったが、言わんとしていることは中尉にも伝わっていたようだ。

 

「周りに支えられたのでしょう。彼がアームストロング少将の話をするときの顔は、素敵ですから」

「彼は今でも西や南の国境線にも、国内の内乱や紛争にも呼び出される。そして普段は……ブリッグズという過酷な地で大国相手に緊張の糸を張っている……。しかし、皮肉なものだな。その最果ての地で彼は、心の安寧を手に入れる出会いを果たしたという訳か」

 

 小さく嘆息を零して腕を組む大佐の顔に憐憫の色はなく、心底ほっとしたような笑みが浮かんでいる。中尉もまた、瞳を伏せて微かな微笑みと共に「そうですね」と小さく頷いた。

 

「しかし……。彼の戦果はイシュヴァール以外にも数多ある、にも関わらず彼の階級は未だ大尉止まりであり、それに不平を言うわけでもない。そこにはどうも何か引っかかるものがあるが……」

 

 顎に手を当て、そう独り言のように怪訝な顔で呟くマスタング大佐。

 

「ああ、殺しと言えば」

 

 はっとして、何かを思い出したかのように振り返ったマスタング大佐が右手の人差し指を立てる。

 それまでの重たい話の暗い雰囲気を変えるかのように明るいトーンでホークアイ中尉へと声をかけた。

 

「彼はああ見えて生粋の()()()()だ。中尉も気をつけた方がいい」

 

 そんな言葉にきょとんとするホークアイ中尉が今日のエルバの行動や仕草を思い返す。なるほど、と納得した中尉は呆れたように小さく息をつき、手元の資料の束を大佐のデスクへと差し出した。

 

「確かに彼は誠実で実力があり、紳士的で何より、()()()()()()()()()真面目に仕事に取り組んでいるようですから」

 

 その言葉に耳が痛いと言わんばかりにそそくさとデスクへと戻る大佐。そんな大佐に背を向け二杯目の紅茶を淹れるホークアイ中尉は小さく微笑むのだった。

 

 

 



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02話 人ならざるモノ

「あー、さすがにお尻が痛い」

 

 エルバが列車に揺られ例の町、リオールの最寄り駅に着いたのは午後を回った頃だった。イーストシティ駅でアームストロング少佐の熱烈な別れの抱擁を躱し、列車でここまで辿り着いた。今朝早くから特急列車で北から長時間揺られていたこともあり、彼の尻は固い木製の座席に悲鳴を上げていた。

 

『この地上に生ける神の子らよ――祈り信じよ、されば救われん――』

 

 尻と腰をさすりながらエルバがリオールに辿り着くと、町の街頭ラジオからは宗教放送が流れてきていた。それを耳にした彼は無表情のまま、小さく呟いた。

 

「教主様はうまくやっているようで」

 

 彼の目には冷徹な色と僅かばかりの葛藤が見えるようだった。

 こんな片田舎の町で軍服姿は目立つのか、エルバが行く先々で彼は好奇の視線に晒された。もっとも絡んでくるものが居なかったのは、彼のその見た目故だろう。

 エルバが腹ごしらえがてら近くの定食屋へと向かうと、そこには見覚えのある金髪のお下げと自分よりも一回り大きな甲冑がいた。

 

「ご無沙汰しております、鋼の錬金術師殿」

「――ッ! げふッ! げほッ」

「クライス大尉、お久しぶりです」

 

 その二人組、鋼の錬金術師ことエドワード・エルリックとアルフォンス・エルリック兄弟へ声をかけると、丁度水を飲んでいたエドワードが盛大にむせる。アルフォンスは表情こそ分からないものの、柔和な声色で挨拶を返す。

 

「げッ、クライス大尉かよ」

「げ、とは、上官といえど失礼ですね」

「大尉はどうしてここに?」

「ええ、ちょっと。野暮用で」

 

 袖で口元を拭うエドワードが威嚇する猫のように頭の毛を逆立てる。その隣の席へと腰掛け、エルバはいくつかの食事と飲み物を店主に注文する。

 

「しかし、久しぶりにお会いしたのに鋼の錬金術師殿は、なにやら私に当たりが強いですね」

「兄さんは大尉にトラウマがあるんだよ」

「ねえよ! そんなもん!」

「トラウマ?」

「ええ、あれは昨年の北方司令部と東方司令部での合同訓練の時のことです」

 

 隣でぎゃいぎゃいと騒ぐエドワードを無視してアルフォンスは続け、出されたエッグハンバーグをナイフとフォークで切り分けながらエルバは耳を傾ける。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「君はエドワード・エルリック、鋼の錬金術師が護衛する対象を見つけ出し手中に収めれば勝ちだ。もちろん彼は抵抗してくる。だがお互い多少の負傷は仕方なくとも殺してはいけない、これはあくまで訓練だからね」

「心得ています」

「それと、通常時の市街地訓練のため住民は避難していない。訓練自体の説明はしているが、くれぐれも民間人に危害を加えないように」

「……はい」

 

 エルバにそう説明するのは、この北と東の合同訓練を企画した中央から送られてきた中央所属の佐官だ。ハンドボードに挟んだ資料を捲りながらどこかと通信している。準備ができたかどうとかと話しているところを見るに、エドワード側についている管理者と話しているようだ。

 北方司令部と東方司令部の合同訓練。数日に渡り行われるこの訓練の終盤。本日の内容は要人警護と要人奪還の同時訓練のようで、片や要人を連れて開始地点から所定の回収地点へと無事連れて行くこと。もう一方はその要人を奪取することを目的とする。

 公式な軍人ではない鋼の錬金術師だったが、「国家錬金術師」としてその実力を軍の内外に見せつけるために招集されていた。マスタング大佐は別件の仕事があり、参加できなかったらしい。

 

「では向こうの準備が整って移動を開始した。君は十分後、この時計が鳴ったら追跡を開始するように」

 

 そう言い残すと佐官は小さな時計を手渡し、そそくさと逃げるように去って行く。エルバはその佐官の顔をイシュヴァールの内乱で見覚えがあったため、彼の自身を避けるような態度には疑問を感じなかった。

 訓練場所はイーストシティから少し外れた東部の郊外にある市街地。もとよりイーストシティほどの人口はいないが、どの付く田舎と言うほどではないため、民間人にはそれなりに気を使わなければならなさそうだ。

 静かな路地裏、建物の建設現場。本日の業務は休みのようで、そこに放置されている資材の上に腰を下ろし大きく息をつく。

 

「仕方ない……」

 

 そう呟く彼は正直この訓練に乗り気ではなかったものの、仮にも北部の代表として参加させられている以上は無様な姿を晒すわけにはいかなかった。

 手元の時計を見つめる。長針が丁度真上を向き一瞬ベルのような音が鳴ったかと思うと、エルバは間髪入れずにそれを止めて立ち上がる。

 ぐっと背筋を伸ばして体をほぐすと、時計を資材の上にちょんと乗せ、腕や首を回しながら出陣した。

 

「鋼の錬金術師、お手並み拝見」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ああッ、くそッ! もう追いついてきやがったッ!」

「きゃあッ!」

 

 エドワードは護衛対象役の女性軍人を引き連れながら路地を駆け抜ける。護衛対象にはあえてデスクワーク専門の女性が選ばれているようで、30代半ばの年齢に色白の肌、少し肉付のよいその体はお世辞にも体を動かすのが得意そうには見えない。彼女を連れて走り回るだけでも一苦労のようだ。

 人混みをかき分け、彼女の手を引きながら細い裏路地へと駆け込むエドワード。その少し後方には既にエルバが差し迫っていた。

 エルバは町の様子や、軍人である自身を目にした一般人の反応を確認し、頭に叩き込んだ町の地図を脳内で広げる。最も逃走に適した場所はどこか。人混みに紛れつつも錬金術で足止めできる路地裏……。

 

「んにゃろッ! これでどうだッ!」

 

 エルバが当たりを付けた路地を曲がると、そこには焦るエドワードと手を膝につき肩で息をする女性軍人の姿が。

 エドワードはエルバの姿を確認すると、慌てて両手の平を叩き合掌する。その手を地面に当てると青白い漏電のような錬成反応が辺りを包み、みるみるうちに巨大なコンクリートの壁が路地を塞いだ。

 地面や建物の外壁を錬金術で障害物へと錬成させたようだ。思わず見上げるほどの巨大なその壁で時間稼ぎをするつもりらしい。

 

「これでしばらくは……、って、はぁッ!?」

 

 その壁に幾本もの光の筋が走った。するとその分厚いコンクリート壁が大きな音を立て、滑らかな断面と共にいくつかに分断されて転がり落ちてきた。

 その瓦礫と土煙の向こうにはサーベルを抜刀したエルバの姿が。信じられないが、信じるしかない。彼がこの障害物を叩っ切ったのだ。

 

「こっちだッ!」

「ちょっと、まだ息がぁっ……!」

 

 慌てて踵を返したエドワードが、へとへとの女性の手を引き路地の奥へと駆けていく。抜刀したままそれを追いかけるエルバ。このままでは次の瞬間にはその刃先がこちらを捉えるであろうことはエドワードにも容易に想像ができた。

 

「お姉さんそのまま走って!」

「な、なんで私がっ、こんな役ぅ……」

「早くッ!」

「は、はいぃっ……!」

 

 手を引いていた女性軍人を先に行かせるエドワード。女性の後を走りながらチラリと後方に迫るエルバを確認すると、先程と同じように両手で合掌し壁を叩く。

 

「これで、どうだッ!」

 

 青白い錬成反応と共に建造物の外壁が隆起し、幾本もの太いコンクリートの支柱が横向きに錬成されエルバとの間を遮る。

 しかしそれをまるで、熱したナイフでバターでも切るかのように滑らかに抵抗なくサーベルで切断し、文字通り道を切り開くエルバ。

 走りながら次から次へと錬成するエドワードと、それを切り伏せながら確実に距離を詰めるエルバ。

 エドワードが舌打ちと共に再び地面から巨大な壁を錬成する。

 

「また(それ)ですか、……ッ!」

 

 半ば呆れたように呟いたエルバが再びその巨大なコンクリート壁を切断したとき、その土煙の向こうから幾本もの巨大な腕が殴りかかってきた。

 粉塵をかき分けながら迫るレンガや石の拳をすんでの所で受け止めるエルバ。サーベルの刃を迫る拳に当て峰を左手で支える。拳の勢いを利用しそのまま縦に引き裂くように斬る。

 

「ぅぉッ……!」

 

 しかしその拳の勢いに体はいくらか後方へと押し戻される。その隙にエドワードは再び両手を地面に押し当て錬成を行う。自身と女性軍人の足下の石やレンガ、土などを錬成し巨大な柱を生やすかのように上空へと避難する。建物の屋根まで到達するとそのまま女性を連れて逃走する。

 少しは距離を稼げるだろう、そう想いチラリと振り返ったエドワードの顔には、この日何度目かの驚愕の表情を浮かべる。

 

「逃がしませんよ……ッ!」

 

 エルバはエドワードの錬成した柱の一部を削るように斬り出し、右足のつま先を引っかけるようにそこに飛び乗る。腰を落とし膝を曲げ、屈伸した体を一気に伸ばすように全身のバネを使って跳躍する。反対側の建物の窓の縁へと飛び乗り更に跳躍、壁面に伸びる配水管を手に取り自身の体を振り子のように下から上へと振り上げる。

 エドワードたちがいる屋上と、路地を一本挟んだ建物の屋上へと上ったエルバ。息つく暇もなく錬成された支柱へ飛び移り、そのままエドワードたちのいる屋上へと突っ込む。

 エドワードが咄嗟に手を合わせ、屋上を素材に再びいくつもの硬いコンクリートの拳で殴りかかるも、エルバはその一切を斬り伏せる。

 

「だったら……ッ!」

「遅いッ」

 

 眼前に迫るエルバを迎撃しようと再び手を合わせるエドワードだったが、自身の機械鎧の腕を武器へと錬成する前に、エルバの有無を言わせぬ切っ先がその喉元へとあてがわれた。

 

「……」

「……ま、参った」

 

 その鋭い眼光と大総統を彷彿とさせる眼帯と剣捌きを前に、エドワードも思わず冷や汗をかいて白旗と共にその両腕を上げざるをえなかった。

 降参の言葉を聞くと、エルバもその鋭い瞳をいつもの柔和なものへと変え、剣を下ろして小さく微笑んだ。

 

「かーっ、信じらんねえ。インチキくせえにも程が……ッ」

「きゃぁっ!」

「ッ!」

 

 エドワードが悔しそうに目を閉じ頭を掻きながら愚痴をこぼそうとしたとき、護衛対象役の女性の悲鳴が上がる。咄嗟に目を向けるエルバとエドワードの視界には、足下が崩れ今にも屋上から落下しそうな彼女の姿が。エドワードが最後のラッシュの際に屋上を素材として錬金術を行ったため、屋上の一部が薄く脆くなっていたようだ。

 

「やべッ……!」

 

 慌てて錬金術を発動させようとするエドワードの横でエルバは自身のサーベルを素早く逆手に持ち、そのまま全身の筋力で弾き出すように投擲する。真っ直ぐに突き進む剣先は女性軍人の軍服を縫うようにその首の裏側、背中上部の軍服部分のみを刺し貫き、彼女の体重を支えられるほど深々と壁面へ突き刺さる。

 

「ふげっ……!」

 

 壁へと縫い付けられるように制止する女性が、絞まる首元に思わずうめき声を漏らす。屋根を飛び降り、宙ぶらりんの彼女の元へとエルバが駆け寄る。そしてその体を支えながら剣を引き抜き、彼女をその力強い片腕にそっと抱き寄せ地上へと降りていく。

 

「……完敗だな、こりゃ……」

 

 その一連の流れを見ていたエドワードは、今の咄嗟の救出劇の対応力や素早さ、そして今回の訓練のことを思い返し、どこかつまらなさそうに、しかし感服したように後頭部を掻きながら小さく呟いた。エルバの動きや戦闘力などを見習うように、屋上から彼を眺めるエドワード。

 

「大丈夫でしたか? お怪我は?」

「は、はひ、大丈夫、です……」

「軍服を斬ってしまいましたね。申し訳ない」

「い、いえ、そんな、とんでもないですっ」

「しかし、その綺麗な肌に傷を付けなくてよかった」

「あの、その、ちか、近いです……大尉……」

 

 女性軍人を心配するように声をかけるエルバだったが、彼女は近づけられる彼の顔に思わず焦ってしまう。

 そんな真っ直ぐな眼で見つめられ力強い腕で抱き寄せられて、甘い声で囁かれたり助けてもらったりしたら年甲斐もなく多少なりとも心が弾んでしまって、ああずっと走ってたから今自分は汗臭いんじゃないかとか化粧が崩れたりしているんじゃとか最近またちょっと太ったから重いんじゃないかとか気になってしまって……。

 

「だだ、大丈夫でありますです……ッ!」

 

 彼女はハッとしたように我に返り、その両手で力なくもエルバの胸板を押して距離を開けようとする。微かに頬を染めるのは激しい運動の後だからと言うだけではなさそうだ。

 

「でもあれは見習わねえ!」

 

 エドワードもまた屋上から見ていたエルバの行動に大きく呆れたように溜め息をつくのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「自分の錬金術じゃ全く歯が立たなかったって兄さんが」

「そこまで言ってねえ! ちょっと油断したってだけだ!」

 

 からかうように楽しげな声色で思い出話をするアルフォンスとそれに噛みつくエドワードを眺めながら、エルバも楽しそうに微笑む。

 ナイフとフォークを皿に置いたエルバがコップ一杯の水を一気に呷り飲み干すと、「さてと」と重い腰を上げた。

 

「なんだ、もう行くのか?」

「仕事で来たので、職務に戻らないと」

 

 食事代を店主へ支払い愛想よく会話を交わしたエルバが店を後にする。露店形式の席を立ちエルリック兄弟へと振り返って呟いた。

 

「賢者の石、見つかるといいですね。ご武運を」

「……どうも」

「クライス大尉もお仕事頑張ってください」

 

 こちらに手を振る大きな鎧へ、エルバも小さく手を振り返す。エドワードもまた、振り返りはしないものの、後ろ手に手を振っていた。

 

「あれ、そういえば大尉はなんの仕事でわざわざこの町に?」

「さあな。どうにも底が見えねえやつだからな」

 

 隣で水を飲みながらぶっきらぼうに答える兄を横目に、アルフォンスは小さくなっていく軍服の背中を見送った。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『まさか……、貴様ぁーーーーッ!』

 

 夕暮れの茜色に染まるリオールの町にしゃがれた初老の男の絶叫がこだまする。小さな街並みの隙間を縫うように音は反響し、全ての町民がその声を聞くには十分な声量だった。

 

『いつからだ! そのスイッチいつから……ッ』

『最初から。もー全部だだもれ』

『なっなっなっ……なんて事を……っっ』

 

 町の中央に存在する場違いなほど大きく立派な教会の屋上に、錬金術で錬成した巨大な拡声器を担ぐ鎧の姿が確認できた。その拡声器から聞こえてくる悪意ある声に町民たちの開いた口は塞がらない。

 

「これだから三流は……。まあ、よかった、かな」

 

 一人、アメストリス軍の軍服を身に纏う青年だけが、困ったように眉を垂らして呟いた。しかしその顔はどこか晴れやかにも見えた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 アメストリス東方司令部内、マスタング大佐のデスクの上に白いハンカチに包まれた金属片が差し出された。大佐はそれをまじまじと見つめ、頬杖をついて摘まみ上げたそれを指先でもてあそぶ。

 

「リオールの賢者の石に関しては東方司令部の上より中央へ報告が入り、私が調査に向かいました。大した成果はありませんが、ご報告だけでもと」

 

 デスクの前にはその偽物の賢者の石がはめ込まれていたらしいボロボロの指輪を持ってきたエルバ。

 しばらくその指輪と報告書に目を通した大佐が溜め息交じりに尋ねる。

 

「それで、賢者の石は本物だったのかね?」

「いえ、偽物でした。得られたのはこの残骸だけです」

「……その教主というのは?」

「……鋼の錬金術師殿との戦闘の後、失踪しました」

 

 エルバは表情一つ変えず、その報告は淡々と事務的に伝えられるも、その言葉の微かな間にマスタング大佐は追求する。

 

「君ほどの手練れが、取り逃がしたのか?」

「申し訳ありません」

「黄金柏葉剣が泣いているぞ」

「……」

 

 マスタング大佐の言葉に小さく頭を下げるエルバ。床を見つめるその視線はどこか焦点が合わず、何かをぼんやりと思い出しているかのようだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 エルリック兄弟の手によって身の程を知らぬ野望を打ち砕かれた男。このリオールで信仰を集めていた太陽神レト教の教主。

 賢者の石を手に鋼の錬金術師、エドワード・エルリックと相対するも、敗北。贋作の賢者の石は男に激しいリバウンドを引き起こし、その右腕は金属片と一体化してしまう。

 

「……くそ!! あんな小僧に私の野望を……」

 

 教主の裏側とこの町の闇を白日の元に晒したエルリック兄弟であったが、肝心の賢者の石が偽物だと知り失意のままに街を後にする。彼らに見逃される形となった教主は、怒りに染まる町民から逃げるように教会奥へと避難していた。

 

「冗談じゃないぞ、これまでどれだけの投資をしたと……」

 

 今にも破られそうになる教会の扉と、エルリック兄弟によって始末された粗末な合成獣(キメラ)の死骸を尻目に教会の秘密の地下室へと逃げおおせる。

 

「ほーんと、せっかくいいところまでいったのに。台無しだわ」

 

 金属と合成してしまった右腕の痛みに脂汗を流し息の上がる教主に、地下室の奥から妖艶な艶のある女性の声がかけられた。

 

「久しぶりに来てみれば何この騒ぎ。困った教主様ねぇ」

 

 そこにはウェーブがかった長い黒髪に涼しげな切れ長の瞳。豊満な胸を強調するかのように肩口から胸元まで大きく開いた、闇に溶け込むような黒いタイトドレスを身に纏った女性の姿が。どうやら声の主は彼女のようだ。

 床に座り込む男の姿も見て取れる。腹が大きく出た肥満体型にスキンヘッドの頭。太い腕は何かの肉片を鷲掴み、それを貪っている。まるで赤子のような瞳と体型をしたその男が薄暗い地下室で咀嚼音を立てながら生肉を食す光景は不気味なものだった。

 その男の背中に座る女性が、退屈そうに呆れたように、高いヒールの足をぷらぷらと振る。

 

「あ、あんた達どういう事だ!!」

 

 その2人を知っているのか、教主は声を荒げて食ってかかる。

 

「あんたがくれた賢者の石! 壊れてしまったじゃないか! あんなハンパ物掴ませおって!」

「いやぁね、あなたみたいなのに本物渡すわけないじゃないの」

「ぐ……この石を使えば国を取れると言ったではないか!」

「んー、そんなことも言ったかしら?」

 

 女はその細く長いしなやかな指を口元に当て、怒る教主に対して嘲笑うかのように冷ややかな視線と冷笑を浴びせる。

 

「こっちとしてはこの地でちょっと混乱を起こしてくれるだけでよかったのよね。それとも何? あなたみたいな三流が一国の主になれると、本気で思ってたワケ?」

 

 女は心底愉快そうに高笑いを上げる。

 

「ほんっとおめでたいわ、あなた」

 

 女の言葉に教主の眉間の皺は深くなっていき、こめかみが小さく痙攣する。音が聞こえそうなほど強く歯を噛みしめる。

 

「ねぇ色欲(ラスト)、このおっさん食べていい? 食べていい?」

 

 何かの肉を貪っていたもう一人の男の方が、無邪気そうに彼女へ問いかける。その言葉に色欲(ラスト)と呼ばれた女の瞳は細められ、呆れたような侮蔑の視線を教主へと向ける。

 

「だめよ暴食(グラトニー)、こんなの食べたらお腹こわすわよぉ。こんな三流……いえ、四流野郎なんか食べたらね」

「ぬああああ! どいつもこいつも私を馬鹿に……ッ!」

 

 ラストの言葉に教主の目が見開かれた。血走った瞳を剥き出しラストへと殴りかかろうとしたとき、地下室の扉が開かれた。その蝶番の軋む高い音は外の騒音と隔絶されたこの地下室にはよく響き渡った。

 教主は殴りかかろうとした動きを止め、思わず扉へと振り返る。ラストとグラトニーもまた、その扉へと視線を向けた。

 

「ああ、なるほど。こんな地下室があったんですね」

 

 そこにはこの場に似つかわしくない素っ頓狂な声を上げて地下室へと入ってくる男の姿が。先程まで頭に血が上っていた教主だったが、その男の姿を見るやいなや、その足下へと跪くように懇願した。

 

「お、お前っ、い、いや、あなたはあのアメストリスの天剣と謳われるエルバ・クライスか! ちょうどよかった、この犯罪者共をなんとかしてくれぇ!」

 

 そこにいたのはアメストリス軍の紺碧の軍服を着込んだエルバの姿が。その勇名は東の果ての片田舎にも届いているようで、教主はエルバの足下に跪いてまるで神にでも祈るかのようにその両手の指を組む。

 なぜ彼がここにいるのかという疑問すら持つ余裕はないようだ。

 

「無様ねぇ。こんな時こそあなたの信仰する神様っていうのにでも祈ればいいじゃない。ねえ、()()()

「うるさいッ! 私の身を守るモノこそが神なのだ……ッ! 今はこの人こそが私の救世の神だッ!」

 

 ラスト達へと振り返った教主の顔には先程までの怒りと不安にまみれた色はなりを潜め、正に虎の威をかるように後ろに立つエルバを指さす。

 

「ほんとに彼、あなたの救世主(メシア)かしら?」

 

 グラトニーの背に足を組んで座り直し、教主を小馬鹿にするように小さく微笑むラスト。肘を膝について頬杖で口元を支える彼女が心底楽しそうに、まぶたを下ろし細めた切れ長の瞳で色っぽくも意地悪そうに教主を見つめる。

 その笑みに、声に、仕草になにやらぞわぞわとする不安が脳裏を過ぎる。そういえば今自身の後ろにいるこの凄腕の軍人はどうしてさっきから動かない。なぜ口を開かない。なぜ()()()()()()()()()()()()()

 薄暗い地下室で、教主は自身の視線の先に浮かぶラストの胸元にあるウロボロスの入れ墨が、妙にハッキリと見えた気がした。

 

「んふふっ。教主様、あなたの神様って、そんな眼をしているの?」

「…………ッ!」

 

 彼女の言葉に、油の切れた機械のようにゆっくりと振り返る教主。その視線の先にはただ黙して静観するだけのエルバが。

 ラストの愉快そうな視線の意味を理解しているエルバは、その目を一度閉じて静かに小さく嘆息すると、自身の右目の眼帯へと手を伸ばす。

 エルバがその眼帯を外し、痛々しい古傷の刻まれた右の瞳を開眼すると、教主は驚愕に目を見開き、開いた口も塞がらず、ただただ目の前の光景を信じられないと言うかのように首を横に振っていた。

 

「まさか……あんたも……ッ」

 

 その右の眼には、左の深い瑠璃色と相対するような紅蓮の色をしたウロボロスの紋章が刻まれていた。

 

「まあ、そういうことです、教主様。私はあなたを()()()()

「そんな、アメストリスの天剣と謳われるこの国の英雄が……ッ、大総統から勲章を授与されたと聞いたが、まさか大総統をも、この国の軍部をも騙して……ッ」

 

 床に座り込んだまま両の手足をバタつかせてエルバから必死に距離を取る教主。ラスト達とエルバを交互に見やると、ラストはまた楽しそうに、しかしどこか小馬鹿にしたように小さく笑っていた。

 

「ふふふっ。彼はその大総統から剣を教わったのよ。ここに来たのも大総統府、引いてはキング・ブラッドレイの指示で。あなたを助けるためでも、この町の胡散臭い宗教を咎めるためでもない。わかる? 教主様」

 

 ラストの挑発的な視線が教主の胸中を貫く。横ではグラトニーが子供のようににんまりと微笑む。エルバは何も答えず、眼を隠すように再び眼帯を巻き直す。

 

「まさか、まさか……ッ!? 大総統……キング・ブラッドレイもッ、この国さえもッ、もう既にッ……ッ!」

 

 何かを察した教主の顔はみるみる青ざめ、その目は再び見開かれ手足が恐怖で震える。絞り出すような声で()()()()()をするも、返ってきたその回答はラストの研ぎ澄まされた鋭利な爪だった。

 木の板でも貫くような心地のよい音と、柔い肉が裂かれ脳髄のひしゃげる水音が反響する。

 

「ええ、そう。でもね、あなたもう用済みなのよ」

 

 ラストがその凶器と化した爪を引き抜いて手についた鮮血を吹き払うように指先で宙を薙ぐ。口を開けたまま白目を向いた教主は額の風穴から噴水のように真っ赤な血を吹き出して崩れ落ちた。

 既に教主には興味を失ったのか、ラストは自身の長い艶やかな後ろ髪をうなじからかき上げ首筋に風を通すと、瞳を閉じ眉尻を下げて困ったように言葉を紡いだ。

 

「あーあ、せっかくここまで盛り上がったのに、また一からやり直しね。お父様に怒られちゃうわ」

 

 ラストはその豊満な胸元を強調するように腕を組み、その細くしなやかな右手の指先で額をとんとんと叩く。知恵を絞り出すように悩むその仕草も、どこか色気に溢れていた。

 彼女の隣にいたグラトニーは既に動かない教主の死体を興味深そうに持ち上げると、しばらくその肉体を注視した後、よだれと共にでろりと舌を出し、歯を剥き出しにした。ウロボロスの紋章の浮かぶグラトニーの舌が、教主の死体を()()()()

 

「あら。食べちゃいけないったら」

 

 骨の砕ける音と柔い生肉を咀嚼する水気を含んだ粘つくような音が地下室を反響し、途端に鉄臭い血の匂いが辺りに充満する。食事に夢中のグラトニーの頭を楽しげにそっと撫でたラストが、エルバへと視線を向ける。

 

「それで、あなたがどうしてここに? 憤怒崩れ(エクスラース)

 

 ラストがその高いヒールの音を鳴らして彼に近づく。スタイルのよい彼女は女性の中では比較的背の高い方だが、それでも目の前のエルバの顔を見つめるには顎を上げて見上げる形となる。

 

「最近リオール(ここ)のやり方に東方司令部が疑惑を持つように。下手に調べられる前に手を打つよう大総統府……大総統より指示を受けてきました。もっとも、鋼の錬金術師殿の登場でこの有様ですが」

 

 目の前に迫る美女の圧にも負けず、エルバは淡々と自身の状況を報告する。そんな彼の態度にラストは小さく微笑んで顎を引き上目遣いに瞳を見つめる。

 

「そう。()()()()()()()()()に感づかれるのは面倒ね。うまく誤魔化しておいて」

 

 そう呟いたラストが自身の手をエルバへと伸ばしその手のひらで彼の胸板を扇情的に撫でる。

 

「あなたも上手に軍に潜り込んで、東奔西走の大活躍で信頼を得てるみたいね。北にも潜り込めたみたいだし。あなたを大総統の弟子として動きやすくして正解ね」

 

 ラストの手が左右に滑るようにエルバの体を撫で下りていく。

 

「……でも、あんまり悪い女に捕まっちゃだめよ……?」

 

 エルバに体を押し寄せて顔を近づけると、耳元で官能的に囁くラスト。彼の腹筋を指先で伝い、手先が腰回りを撫で、そっと、彼が腰に帯刀している()()()()()()()()()()へと手を伸ばそうとする。

 それを察したかのようにエルバは左足を一歩下げ、ラストの指先が剣にかからないように半身を引いた。まるで彼女にその剣を触れられることを避けるかのように。

 そんな彼の態度にどこか不満そうに鼻を鳴らして離れるラスト。

 

「忘れちゃだめよ? あなたが()()()()なのか」

「……はい。心得ています」

「ほんとかしら。あなたは凄く、人間くさいところがあるから」

「……」

「あら、そんな顔しないで。褒め言葉かもしれないわよ」

 

 からかうように笑うラスト。それを見つめるエルバの顔はなにかを葛藤するかのように歪む。そして自身の眼帯越しに右目に触れる。

 

「……この眼がある限り、私は私の立場を理解しています」

「そうね。あなたは憤怒崩れ(エクスラース)。一つの命しか持たない憤怒(ラース)に万が一があったときの予備だものね」

 

 再びそのしなやかな指先でエルバの胸板を突くラストが「でも……」と続ける。

 

「あなたも一つの命なんだから……あんまり無茶して死なないようにね」

 

 そう言い残すとラストは踵を返し、教主を美味しく頂いたグラトニーを引き連れて地下室の深く濃い影の中へと溶けて消えていく。

 最後にチラリと振り返った彼女の瞳は獲物を見る獣のような、男を見定める女のような、悪戯する子供を咎める母のような、様々な色が見て取れた。しかしそのどれもが、自身に釘を刺しているかのようで、エルバはどうにも居心地が悪かった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 椅子に深く腰掛けるマスタング大佐が背もたれに体重を預け、既にぬるくなっている手元のマグカップのコーヒーを一口すすった。

 

「偽物だとしても報告に上がっている石の性能は相当なものだ。ただの辺境の新興宗教の教主が作れるとは思えない。……誰か不審な者はいなかったか? 裏で手を引いているものは?」

「……誰も、いませんでした」

 

 淡々と報告を続ける彼だったが、大佐の執務室を後にするその時一瞬浮かべた何かを葛藤するような苦悶の表情を、大佐は見逃さなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そうか。中央の遣い、ご苦労だったな」

 

 暴力的なまでの吹雪が吹き荒れる、アメストリスの北の果て、ブリッグズ砦にエルバは帰還した。

 今回の仕事を上官でありこのブリッグズ砦のトップであるオリヴィエ・ミラ・アームストロング少将の執務室にて報告を行うも、彼女は簡素な労いの言葉を投げかけるのみで報告そのものには興味がなさそうだった。

 

「それで?」

「報告は以上ですが……?」

「違う。……抜いたのか?」

「……へ?」

 

 少将の言葉に思わず間の抜けた返事をするエルバ。痺れを切らしたオリヴィエが自身の右手でデスクを叩いた。

 

「剣は抜いたのか、と聞いているんだ」

 

 そう聞く彼女の瞳は肉食獣のそれを思わせた。鋭く切れ長の鮮やかな青い瞳は何かを期待するように、どこか恋慕に揺れる乙女のように微かに濡れるも束の間、エルバの「いえ」という返答にキッと鋭くつり上がる。

 

「私の剣が抜けぬのか?」

「いえ、そう言うわけでは、その……」

「では私が嫌いか? その剣は貴様にとって重荷か?」

 

 いつもの豪胆にして強気な態度は崩れないものの、その言葉の中には僅かな不安と気遣いの色が滲んでいた。あまりにも微かなものだから他の人には分からないかもしれないが、エルバにはオリヴィエのその感情が感じ取れた。

 だからこそ、その期待に応えられない事にやきもきするのだ。エルバも朴念仁ではない。相手の気持ちはよく理解しているし、自身の気持ちにも気がついている。しかし、後先考えずに行動できない自分の立場に、唇を噛みしめるのだった。そしてまた適当にはぐらかして、残念そうに眉尻を下げるオリヴィエに背を向け、彼女の執務室を後にした。

 オリヴィエの執務室を出たエルバはその扉に額を当て深く静かな溜め息を、長く零した。

 反対を向き扉に背を預ける。目の前には廊下の大きな窓が広がるも、外は見えない。明るい室内から暗い外を覗き込めば、ガラスには自身の姿が反射されるのみだった。自身の右目を隠す眼帯に右手でそっと触れる。

 ふと自身の腰に下げられた銀細工のサーベルを見つめる。その柄を左手でそっと撫で、力強く握り込んだ。

 

「……人ならざる私に……()()()()()()は、不相応なのです、少将……」

 

 強く握りしめられたサーベルの柄は、何かを諦めるかのように、そっと手放された。

 ブリッグズの吹雪は全てを覆い尽くす。様々な人の感情や思惑さえも……。



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03話 建国祭

「まったく、中央(セントラル)は気楽なものだな。父上もブリッグズ砦(こちら)の事をもう少し考えて頂きたい」

 

 アメストリスの極北、ブリッグズ砦内の自身の執務室で、オリヴィエはなにかの資料を片手に嘆息を零していた。

 窓の外ではここしばらくの吹雪が嘘のように久しぶりの太陽がその雲間から顔を覗かせ、辺りの銀世界を眩しいほど煌びやかに照らしていた。

 彼女はブリキ製のマグカップに注がれたコーヒーに口を付け温度を確かめると、それを一気に飲み干す。香りと味を楽しむ優雅なティータイムなどではなく、その苦みとカフェインで朝の眠気を吹き飛ばし仕事に取りかかるためのもの。質実剛健で実直な軍人たるオリヴィエらしい一服であった。

 彼女はどこか呆れたように「ふん」と小さく鼻を鳴らすと、その手にあった書類を興味もなさそうに丸めて足下の屑籠へと放り込んでしまった。それは何かの案内のようにも見えたが……。

 

「少将、マイルズです」

「入れ」

 

 執務室のドアがノックされると、扉越しにくぐもった男性の声が聞こえた。部屋の主の許可が下りると、ドアノブを捻り入ってきたのは1人の軍人の男。褐色の肌に、赤い瞳、その眼をサイドガード付きのサングラスで隠し、白い髪を全て結い上げ後頭部の高い位置で縛り、オールバックのように髪の毛をまとめている。オリヴィエの補佐を務める北方軍山岳警備隊の士官、マイルズ少佐その人である。

 

「中央より少将宛ての書類が」

「……ふん」

 

 マイルズから分厚い封筒を受け取ると、オリヴィエは少し鬱陶しそうに嘆息し、封筒の口を破る。中から取り出した資料を確認しながら必要なもの、緊急性の高いもの、そして無視しても構わないものをより分けていく。

 数枚の資料に目を通した彼女の手がピタリと止まった。それに気がついたマイルズ少佐がオリヴィエの手元を覗き込む。

 

「ああ、建国記念祭の通知ですね。もうそんな時期ですか」

「今し方、同じようなものを捨てたところだ」

 

 その書類には、何やら国を挙げての一大イベントの催しについて記載されており、それの参加を要請する書類のようだった。

 オリヴィエの言葉に思わずチラリと屑籠に視線を送るマイルズ少佐。

 

「父上が、夜の方に参加しろとな。軍人ではなくアームストロング家の長子として」

「なるほど。確かに夜は多くの名家の方々が参加されると聞きます」

 

 腕を組む少将がデスクチェアに大きくもたれ掛かりまぶたを閉じて鼻から息を吐く。どこか呆れたような困ったような、鬱陶しそうに、目の前に待機するマイルズ少佐にも聞こえないほどの声量で小さく零す。

 

「私に、……あいつ以外の誰と踊れと言うんだ」

 

 そっと開かれた切れ長の青い瞳が、眩い陽光に照らされる白んだ空を反射した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんだかやけに賑やかなような……?」

 

 まだ日の高い中、中央(セントラル)には大総統府を後にするエルバの姿が見えた。遣いの仕事として中央へと顔を出していた彼だったがそれも片がついたらしく、休憩がてらセントラルシティ内を1人散歩していた。

 街の巡回も兼ねてしばらく彼がぶらついていると、いつもとどこか違う街の変化に気がついた。街のあちこちからいつもより活気づいたかけ声や、何かを建設するような釘打ちの音が聞こえ、いつも以上に鼻腔をくすぐる美味しそうな料理の香りが漂ってくる。その匂いに釣られるように歩みを進め角を一つ曲がると、一軒の小洒落た洋食屋さんが目に飛び込んできた、どうやらこのデミグラスのいい香りはそこから溢れてきているようだ。

 

「ああ、そういえば、もうじき建国記念祭か」

 

 その洋食屋の看板の横には『祝・建国記念祭特別価格!!』と派手な塗料でデカデカと書かれた看板が吊されていた。

 それを見てエルバも自然と心が高揚する。お祭り事の準備を見ていると思わず子供のように気持ちが弾んでしまう。

 

「ん? よー、エルバ! 奇遇だなこんなところで」

「あ、ヒューズ中佐。少し仕事で中央に寄ったところでして。中佐は……一体なにを?」

 

 エルバがお店の看板を見上げていると、通りの向こうから両手いっぱいに食材をの詰まった袋を抱えたヒューズ中佐が声をかけてきた。その様子に思わず怪訝な視線を向けてしまうエルバ。軍服ではなく普段着であるとこを見るに今日は非番のようだ。

 

「いやさ、なに、もうすぐ建国記念祭だろ? ここ、うちの(カミ)さんの知り合いの店でな、記念祭に向けた新しいメニューの開発に協力してんのよ」

「なるほど。記念祭はアメストリス中から人が集まりますし、稼ぎ時ですからね」

「あら、クライス大尉、久しぶりね」

「ご無沙汰しております、グレイシアさん」

 

 2人の会話を聞きつけたヒューズ中佐の妻、グレイシア・ヒューズが店の入り口から顔を覗かせる。明るいブラウンのショートヘアに温和な笑みを浮かべ、その香る色香にエルバも少し心が綻びそうになるが、そんな気配を見せようものなら隣のヒューズ中佐からどんな仕打ちをされるか、と紳士的に振る舞う。

 エルバが「ということは」と、体を横に倒しながら店の中を覗き込むと、何やら一生懸命に料理の準備を手伝う小さな女の子の姿が見えた。ヒューズ中佐の娘、エリシア・ヒューズ嬢のようだ。

 

「ああかわいいぃ! エリシアが一生懸命料理してるぅ!」

 

 両手を頬にあてがい体をくねらせながら身もだえるヒューズ中佐を尻目に店内へと入るよう促されるエルバ。彼が断ろうと申し訳なさそうに眉尻を垂らすと、ヒューズ中佐がその首に腕を回してくる。

 

「そうつれねえこと言わずに、お前も試作品食ってけよ」

「いや、しかし私はまだ職務中でして」

「こんなところふらついてんだから、終わったんだろ?」

「まだ報告が……」

「じゃあ上官命令だ。急な仕事って事で」

「……分かりました、仕事というのなら」

 

 観念したかのような深いため息をつくエルバだったが、店先を漂う香りに思わず腹が鳴ってしまう。「食事をとって体調管理するのもお仕事よ」と小さく微笑むグレイシアに恥ずかしげに頬をかく。

 ヒューズ中佐に引きずられるように店内へと連れ込まれると、彼らの姿を確認したエリシアがパッと明るい笑顔で駆け寄ってくる。エルバがその頭を撫でてあげている姿を見るに、彼とヒューズ家の親交は深いようだ。もっとも、ヒューズ中佐が妻子自慢したいがために何かにつけてエルバに構っているようにも見えるが。

 

「ところでお前さん、舞踏会の方には出るのかい?」

 

 グレイシアとエリシアが厨房で、グレイシアの友人というこの店のオーナーと思しき女性の手伝いをしている。

 試食係であるエルバと買い出し係の仕事を終えたヒューズ中佐は、店内の4人がけテーブルに向かい合って座り、休憩がてらコーヒーを片手に料理が出てくるのを待っている。ふと何かを思い出したかのように、ヒューズ中佐が右手に持つマグカップでエルバを差しながら尋ねる。

 

「舞踏会? ああ、建国祭の夜に行われるあれですか?」

「そう、あれだ。政府主催のパーティ」

「いえ、私は特に……」

 

 ヒューズ中佐の言葉にエルバは今の今まで忘れていたことを思い出したかのようにきょとんと返事を返す。眉尻を下げ肩をすくめる彼に、ヒューズは眼鏡の縁を親指と薬指で持ち上げながら嬉しそうに笑う。

 

「俺はグレイシアとエリシアを連れてホールの方まで行くぜ。軍関係者の特権ってヤツだ、普段仕事ばっかで家族団欒の時間を削って働いてやってんだ、こんな時くらい小せえ権力使わねーとな」

 

 家族の話をするヒューズ中佐を見て、どこか眩しげに眼を細め微笑むエルバ。「いいですね」そう相槌を打ち温くなりはじめたコーヒーを口に含んだとき、思わぬ言葉がかけられた。

 

「お前は舞踏会の方、あの氷の女王様と一緒に参加しねえのかい?」

「ッ……!」

 

 その質問に吹き出そうになるコーヒーを堪えるエルバ。気管にでも入ってしまったのかむせ返り激しく咳き込む彼を、向かいのヒューズ中佐はテーブルに頬杖をつき眺めていた。

 

「ッ……、……いや。……、少将はそういった催しに興味はなさそうですし、パーティは中央(セントラル)で行われますから、ブリッグズ砦を離れるわけには」

 

 テーブルに備え付けられた紙ナプキンを数枚取って口元を拭うエルバ。落ち着いたのか、淡々と応える彼にヒューズ中佐は面白くなさそうな顔を浮かべる。

 

「なんでえ、誘ってみりゃいいじゃねえか」

「私が叩っ切られますよ」

「女王様のドレス姿が拝めるかもしれないぜ」

「……」

 

 ヒューズ中佐の一言に思わず何かを想像するように黙り込んでしまうエルバ。

 

「……」

「それはそうと、今年の演習内容は聞いたか?」

 

 黒く揺れるコーヒーの水面を見つめながら物思いにふけるエルバに、ヒューズ中佐は小さく息を吐くと、背もたれに大きく寄りかかりながら何かを期待するように目を輝かせて尋ねる。聞こえていないのか、ぼーっとするエルバに「おい」と声をかけると、彼はハッとしたように顔を上げた。

 

「演習だよ、演習。記念祭の昼間の」

「ああ、軍事演習ですね。特に内容は伺っていませんが」

 

 建国記念祭、アメストリスの中央(セントラル)で行われるこの国一番のお祭りごと。昼には他国へ軍事力を見せつけるかのように軍事パレードや軍事演習が執り行われ、自国民への国力のアピールも兼ねそれは民間人も見学が可能なように一般公開される。

 建国以来、常に隣国や国内部での小競り合いの絶えないこの国での、国民のガス抜きのような役割も兼ねているため、催しは毎年お祭りのように活気立っている。当然国中から多くの人が中央(セントラル)に集まるため、商業施設や飲食店もかき入れ時となる。

 

「それに私はパレードの方に呼び出されていますから。パレードに参加する者は演習の方は免除されています」

「あー、そういや毎年パレード(そっち)だったな。今年の演習は面白えから、お前さんが参加するんなら見に行こうと思ったんだがな」

「……、一体何なんですか? 今年の演習内容は」

 

 つまらなさそうに口を歪ませコーヒーを一口すする中佐。すっかり冷めたそれに思わず唇をへの字に曲げる。

 エルバはそっとカップをテーブルに置くと、チラリと店内にかけられた時計に視線を送ってしまう。大した興味もなさそうだが話しの種にと尋ねた。

 

「まあいつも通りの火力演習が主だが、今年はイベントが一つ用意されてる。……中央と東西南北の各司令部が代表一名を選出しての実戦訓練だ」

「……また変な催しを」

「大総統が許可を出したんだとよ。“面白そうだからOK”だそうだ」

「……」

 

 額に指をついて思わず眉間に皺を寄せ、呆れたように目を閉じて小さなため息をつく。「よくもまあそんな演技を」という言葉を飲み込む彼の姿は、端から見れば総統の軽口に辟易する部下のようにしか見えない。ヒューズ中佐もそう感じたようだ。

 

「前にも東方司令部で焔の錬金術師vs鋼の錬金術師なんてイベントを大総統の鶴の一声でやったみてえだし。それが軍内部で意外と好評だったみたいだぜ」

「各司令部のプライドをかけた一大イベントですか。建国祭の公開演習の一環であれば一般人も当然見学可能でしょうし、ますます負けられない訳ですね」

「どこも国家錬金術師を選出するだろうな。お前さんが出ないなら国家錬金術師の力を一般人に見せつけて終了か」

「デタラメ人間の万国ビックリショー、ですね」

「お前さんも十分デタラメだ」

 

 中佐の冷静な一言を受け流すように手元のメニューをぱらりとめくったエルバが、何かに気がついたように顔を上げる。鉄板の上で弾ける肉汁の音と芳醇なデミグラスの香りが、厨房を覗き込む彼の鼻腔をくすぐり思わず鼻がひくつく。

 

「で、話し戻すけどよ、ダンスパーティーに少将殿は誘わねえのか?」

「……」

 

 そっぽを向くエルバに、頬杖をつきながら面白そうににやつくヒューズ中佐が再度質問する。その言葉に思わず半眼の横目で中佐の顔を覗き込むエルバ。しつこいですね、とその視線がもの申す。

 

「そんな顔すんなよ。俺はお前さんに幸せになってもらいてえのよ」

「……私に幸せなど……」

 

 建国祭の夜には中央(セントラル)にある国営の大ホールにてダンスパーティーを兼ねた立食パーティーが執り行われている。それは華やかで盛大、豪華絢爛に執り行われ、セントラルシティは一昼夜お祭り騒ぎとなる。

 軍関係者やこの国の有力者などが主な参加者だが、そのホールの周りや広場でも同様にダンスパーティーがはじまり、一般人も含めて一帯がお祭りの夜を楽しむ。

 ホール周辺には昼間からの出店などが並び続け、ゆらゆらと揺れるガス灯のネオンは舞台をオレンジ色に染め上げる。辺りに装飾されたイルミネーションは見るものの胸を高鳴らせ、どこかから聞こえてくる音楽はそこにいる者たちの心を躍らせる。

 そんな夜に異性をダンスに誘うということには、当然()()()()()が込められていることは明白だった。

 

「……」

「……ったくよ」

 

 自然とエルバの視線がコーヒーカップに落とされる。何を言うわけでもないが、その静かな彼に対して中佐も困ったような呆れたような、手のかかる子供の相手をするように、目を細めて小さく笑った。

 2人の間に沈黙が居座ったとき、厨房の方から幼い少女の声が聞こえてきた。

 

「パパ! おにいちゃん! どーぞ!」

 

 エリシアが2人のテーブルに置いたのはお皿に盛られたポテトサラダ。火を使うのは大人だが、ふかしたジャガイモと材料を一生懸命に混ぜ合わせたのはエリシアのようだ。その自信作を差し出して瞳を期待に輝かせる。

 

「エリシアの手料理でちゅかー! パパがぜーんぶ食べちゃうよー!」

「パパだめ! ふたりでたべて!」

 

 テーブルのお皿を持ち上げてそのままの勢いよく全部かき込もうとするヒューズ中佐。彼の上着の裾を引っ張りそれを食い止めようとするエリシア嬢。

 

「ありがとう、エリシアちゃん。頂くね」

「エリシアの手料理が……他の男に……?」

 

 俯きがちにブツブツと呟く中佐に苦笑いを浮かべるエルバ。ヒューズ中佐の眼鏡の奥で暗い瞳がギラリと研ぎ澄まされた。その腰に下げられた銃を引き抜き、鈍い金属音を立てて弾丸が装填される。

 

「食うなよ、食ったら撃つぞ。食わずにエリシアを悲しませても、撃つ」

「……どうしろと?」

 

 スプーンですくい上げたポテトサラダを途中で止め、呆れた顔を中佐に向ける。

 

「エリシアー」

「パパおひげくすぐったいー」

「エリシア、パパと一緒に踊ろうなー」

「うん! ママもいっしょー」

「もちろんだ、三人で行こうな!」

 

 目の前で娘に頬ずりをするヒューズ中佐と、眩しいほどの家族団欒。それを見ながらポテトサラダをすくったスプーンを思わず皿へと置いてしまい、何かを考え込むエルバ。

 

「少将の、ドレス姿……」

 

 口元を隠すように頬杖をつき、目の前のヒューズ中佐にも聞こえないほどの声量でエルバはぽつりと呟いた。

 その深い瑠璃色の瞳はテーブルの上の食事を映してはいるものの、その意識は遙か彼方へと飛んでいるようだった。美しい何かを想像するように、目の前の幸せな日常に自身と誰かを投影するように、その瞳が儚くも満足そうに細められた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 北の僻地、ブリッグズ砦。弱肉強食を掲げる、頑強にして強靱な一枚岩の拠点。

 エルバが中央での仕事と報告を終え、試食係という緊急の仕事もこなした後、砦に帰ってきたときにはすっかり日は沈み込んでいた。

 大粒の雪が降る曇天の空には星や月の姿も見えない。ファーの付いた北方司令部支給の黒いコートの襟首を掴み首元まで覆う。吐く息が蒸気のように白く煙るなか、エルバは砦の番兵と挨拶を交わし中へと入っていく。

 

「うー、寒い。余所に遠征すると戻ってきたときが辛いんだよなぁ」

 

 肩に積もった雪を軽く払いのけ、砦内を暖める地下施設の蒸気のぬくもりに縮こまった体を解す。交代制で24時間常に設備の点検を行う整備士達が、せわしなく辺りを動き回っている。それの邪魔にならないようそそくさと上階へ駆け上がるエルバ。

 すれ違う者たちと挨拶を交わしながら食堂へ辿り着くと、いつもとどこか違う雰囲気が漂っている気がする。

 普段はこの過酷な環境と山の向こうの大国ドラクマを相手に緊張の糸を張っている砦内だが、今日はどこか浮き足立っているように感じた。

 

「おお、帰ってきてたのか、エルバ」

「お疲れ様です、クライス大尉」

「ああ、バッカニア大尉にヘンシェル少尉。つい先程戻りました。お二人揃って食事ですか?」

 

 中央辺りの席に腰掛け食事を取る二人の人影。一人は熊を思わせる大きな巨体に機械鎧の右腕を備え付け、モヒカンのように頭頂部を残して綺麗に剃られた頭、後ろ髪は弁髪を思わせる長い三つ編みを垂らしている。鼻の下に伸びるナマズのような髭を汚さないように器用に食事をとっているのはバッカニア大尉。

 もう1人は金の短髪を撫でつけるようにオールバックにセットした、バッカニアほどではないが大柄で強面の男、ヘンシェル少尉である。

 

「なんだか今日は砦内が浮き足立っていませんか?」

「例の建国記念祭が近いからですよ。ブリッグズ(うち)は男ばかりで女性がいないに等しいので、みんな建国記念祭で縁がないかと落ち着かないのです」

 

 厨房に暖かいコーヒーを頼んでからエルバが戻ると、ブリッグズ内の様子に気がつく。気のせいかどこか上の空な者、髪型がいつもと違う者、逆に雑念を払うかのように黙々と仕事に打ち込む者と、違和感を感じる。わざわざ非番に街まで降りたのか、髪を染めている者もいた。

 彼の疑問にヘンシェル少尉は苦笑いを浮かべて説明する。普段は浮かれる暇もなく国境を守っている強固な一枚岩のブリッグズ砦、仕事一本硬派一筋と言わんばかりの連中だが、やはり多少なりとも思うところはあるらしい。

 この僻地においてはそういったイベントが仕事として合法的な、数少ない出会いの場となるのだ。なんなら普段の仕事よりも気合いの入っている者もいる。砦内はいささか色めき立っていた。

 

「悪かったわね、女性がいないに等しくて」

「あ、先生、いや、そういう訳では」

「先生はいつも通りですね」

「まあね。こんな時だけ気合いを入れたってすぐにぼろが出るものよ」

 

 ヘアバンドで髪を持ち上げている眼鏡をかけた色白の女性、先生と呼ばれ慕われるブリッグズ砦の女軍医である。休憩を終え医務室に戻るところでヘンシェル少尉の言葉がたまたま聞こえたのか、コーヒー片手に吐き捨てる。

 エルバの言葉にさも当然と言わんばかりに肩をすくめる。

 

「それに、女成分ならボスがいるじゃない」

「あんなおっかないのメスじゃねえよ」

「……」

 

 彼女の言葉に応えたのは後ろの席で食事をとっていた整備士。ここブリッグズ砦の機械鎧整備士をしている、自身の金髪が仕事の邪魔にならないよう額に巻いているバンダナが特徴の男、ベニー整備士。普段は無精髭を生やした彼だが、今日は綺麗に剃られている。

 彼のぼやきとも取れる一言に思わずその鋭い瑠璃色の瞳を向けてしまうエルバ。それに気がついたベニーは慌てて乾いた笑いで誤魔化した。

 

「全く、どいつもこいつも浮かれよって。もう少し緊張感を持って仕事をせんか」

 

 鼻をフンッとならし自慢の髭を揺らしながらバッカニア大尉が腕を組む。砦内の現状を快く思っていないようで、どこか不満そうだ。しかしそのバッカニア大尉の姿にエルバは違和感を感じた。

 

「あれ、そういえばバッカニア大尉、機械鎧を新調しました? いつものごついのと比べると随分スタイリッシュな腕ですね」

「……」

「しかもお洒落に彫刻(エングレーブ)まで刻んじゃって。実戦ではなんの戦術的優位性(タクティカルアドバンテージ)もないわね」

「なんだ、自分も意識しまくってんじゃん」

 

 エルバの質問に先生の辛辣な一言。呆れたようにぼそりと呟くベニーに思わず顔を伏せるバッカニア大尉。耳までさっと赤く染まり、どこか恥ずかしそうに見える。大熊の如き巨漢のそんな姿を見たベニーが思わず吹き出すと、「フンッ」とその大熊の一振りが彼を襲う。砦内に男の悲鳴がこだました。

 

「いてて……、でも建国祭が今年で最後なんて噂も聞いたけどな」

「建国祭が最後? そんなわけないでしょ、()()()()()()()()建国記念日はくるんだから」

「どこからの噂ですか? それ」

 

 バッカニアにどつかれた頭をさすりながらベニーが、これ以上余計なことを言って殴られる前にと、最近耳にした噂について話を逸らした。

 先生がこのブリッグズの気温にすっかり冷めてしまったコーヒーを一口すすり、呆れたように嘆息混じりにその噂を訝しがる。

 ヘンシェル少尉も、毎年行われている国を上げてのお祭りである建国祭が急に終了するなど信じられないと、肩をすくめながら噂の出所について尋ねた。

 

「さあ、知らねえけど、そんな話も聞いたってだけで」

「……ああ、そうか……」

 

 ()()()()()()()()()()()、エルバがポツリと呟いた。それは誰の耳にも届かなかったようだが、エルバは1人、心にぽっかりと穴が空いたような気がした。

 しばらく何もないテーブルを虚ろに眺めていたエルバだったが、音もなく、しかし力強く立ち上がる。その顔にはどこか寂しさや悲哀、葛藤と苦悩、様々な感情が見て取れたが、それらを覆い隠すように、決意めいたものが宿っていた。

 

「クライス大尉、どうかしましたか?」

 

 突然立ち上がったエルバに、ヘンシェル少尉がきょとんとした顔で尋ねる。バッカニア大尉や先生、ベニー達も見守る中で、エルバは何やら覚悟を決めたかのようにその唇を開いた。

 

「……少将を、ダンスパーティーにお誘いします……」

 

 真剣なその眼差しと低く重いその声色には、彼の決意が滲み出ているかのようだたった。

 

「「……うえぇっ!?」」

 

 エルバの呟きは周りで休息していた他のブリッグズ兵達にも聞こえていたようで、食堂内にいた全員の困惑と驚愕の声が重なった。

 彼がオリヴィエに対してそこまで積極的に動くことが珍しかったようだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「少将っ! 私と、……私と、ダ、ダンスパーティーに出て下さいませんか……?」

 

 善は急げと食堂を後にし、オリヴィエの執務室に駆け込むように現れたエルバ。普段落ち着いている彼がどこか焦ったように飛び込んでくるものだから、オリヴィエも思わずきょとんと仕事する手を止めてしまう。同室に居合わせたマイルズ少佐も表情こそ薄いがどこか驚いた様子。

 気がせいているように彼が開口一番、オリヴィエを建国祭のダンスパーティーへと誘う。いったい何の話しをしているのかと少し思考を巡らせたオリヴィエだったが、数秒の間を置いて何かに気づいたように、小さな嘆息と共に彼の提案を一蹴した。

 

「……ああ、建国祭の話か。……私がブリッグズ(ここ)を離れてどうする。国中が浮き足立つこんな時だからこそ我々国境を守備する者は気を引き締めねばならない」

 

 ほんの少し、誰にも気づかれないほど微かにだが、一瞬瞳の奥を輝かせたオリヴィエだったが、それを悟られまいと小さな溜め息と共に瞳を閉じて(かぶり)を振る。金色の絹のような髪がさらりと舞い、執務室の明かりに弾ける。

 チラリとエルバの表情を見ると、よほど急いで駆けつけたのか、息を整えながらまだ微かに肩を上下させていた。そんな彼の姿を見ていると断るのも心苦しくなり、思わず手元の資料に視線を落とすオリヴィエ。自身の気持ちを誤魔化すように、どこかぶっきらぼうに言葉を紡いだ。

 

「しかし少将、中央(セントラル)からも出席するようにと……」

「私が出ずとも北方司令部からは他の暇な連中が顔を出すだろう」

 

 話を聞いていたマイルズ少佐が口を挟むも、オリヴィエは手元の資料にペンを走らせながら淡々と受け応える。

 少し唇を結んだ後、オリヴィエは事務連絡のように口を開く。

 

「国内の有権者も多く参加する。キャスリンも父上と母上と共に行くだろうし、そっちに合流してやってくれ」

 

 チラリと覗くエルバの顔。その視線は執務室の床へと落とされ、微かに首も傾いている。沈んだ肩とは裏腹に拳はそっと握られていた。そのどれもが微かな仕草ではあったが、オリヴィエの目にはありありと彼の落ち込む姿が見て取れた。

 思わず眉間に微かな皺を浮かべて嘆息と共にこめかみを掻く。本意ではないものの自身の発言は事実だ、しかしエルバの表情を見ていると彼女もまたどうにも気まずい。もっとも、氷の女王はそんな気持ちを態度には表さないが。

 

「しかし、少将も働き詰めでしょう……」

 

 エルバの後を追って共に執務室へ来ていたバッカニア大尉が、見てられないとでも言うかのように、2人の間にそっと言葉を挟んだ。

 その言葉の真意を推し量るようにオリヴィエの鋭い視線がバッカニアを捉える。

 

「先日の、久しぶりのオフも結局は働いておられましたね」

 

 続くように、傍らに佇むマイルズ少佐も言葉を続ける。

 

ブリッグズ兵(我々)にも一応、順繰りで休暇はあります」

「何が言いたい……?」

 

 サングラスを右手の中指でくいっと持ち上げるマイルズ少佐。濃いレンズの奥の視線は見えないが、首の角度を見るにカレンダーを見ているようだ。

 オリヴィエの底冷えするような詰問が2人を問いただす。

 

「せっかくです、少将。息抜きがてら、たまの休みと思って建国祭へ行かれては?」

「私は十分に、必要な分は休息をとっている。それに指揮官である私がここを離れてどうする」

「普段も少将が中央の議会などに行かれる時など、ここを留守にされる際は我々だけでブリッグズ砦(ここ)の守備を行っておりますし……」

 

 そっと提案するマイルズ少佐にオリヴィエは淡々と応える。すかさずバッカニア大尉が援護射撃のように続けた。

 

「しかしだな……」

 

 なおも食い下がるオリヴィエに、マイルズ少佐は小さな笑みを浮かべ、バッカニア大尉は快活に笑いながら、共に胸を張り堂々と言い放った。

 

「真の主が不在でも動揺せず、一つの意思の元に動くことのできる巨大な一枚岩……それがブリッグズ砦」

「我々、あなたに育てられたブリッグズ兵にお任せ下さいや!」

 

 彼らの言葉にオリヴィエは今日一番の大きな溜め息を吐きながら椅子に深く腰掛け背を預ける。肘掛けに右肘を突き、額に手をあてがい目を閉じる。幾ばくかの逡巡の後、諦めたようにオリヴィエは左手に持っていた書類をデスクへと放った。

 

「……わかった。そこまで言うなら行ってやる。部下にここまで言わせておいて行かなければ、お前達に対する信頼も疑われかねん」

 

 これまでの一連の説得の流れを見ているしかできなかったエルバだったが、オリヴィエのその言葉にハッとしたように顔に光が差す。

 マイルズ少佐はニヒルに微笑み、バッカニア大尉はエルバの背中を叩いた。執務室の外で耳を澄ませていた他のブリッグズ兵たちも楽しげににんまりと笑い、室内に気づかれないように小さくハイタッチする。

 

「……ただし、ダンスパーティーで私をエスコートしたいのであれば条件がある」

「条件、ですか?」

「不服か?」

「いえ、何なりと」

 

 彼女の提案に気合い十分のエルバが間髪入れずに応答した。

 身を乗り出すオリヴィエがデスクに肘を突きエルバを指さす。

 

「今年の軍事演習の内容は知っているか?」

「はい、多少は。各支部から代表を選出しての実戦訓練だとか」

「そうだ。そして北方司令部からの代表はブリッグズ兵(うち)から出せと言われている」

「しかしブリッグズ兵(われわれ)は……」

 

 2人の話しを聞いていたマイルズ少佐は少し困惑したように意見をするも、「わかっている」と言わんばかりに右手でそれを遮ったオリヴィエが続ける。

 

ブリッグズ兵(われわれ)は部隊としての、軍としての戦力ではアメストリス随一だ。それは疑いようがない。だが、『個』の戦力で見た場合、国家錬金術師を擁していないうちの戦力、火力、制圧能力は低いだろう」

「……」

 

 その意見にマイルズも眼鏡を上げながら沈黙し、バッカニアも眉間に皺を寄せるも口は噤んでいる。2人ともオリヴィエに同意はするも快くは思っていないようだ。

 

「まあそれを承知の上で、ブリッグズ(われわれ)にデカい顔をされるのが癪に障る阿呆共が、恥をかかせるために手を回したのだろう」

 

 呆れた、と言わんばかりに腕を組みそっぽを向くオリヴィエ。小さな嘆息が聞こえたのは、マイルズとバッカニアもオリヴィエと同意見だったからだろう。

 

「つまり、条件というのは……」

「悪いが、元々はバッカニアにでも出てもらうつもりだった。個の戦闘力で見るならば、エルバを除けばうちでは最も高いだろう」

 

 その言葉にバッカニアも満更ではなさそうに頷く。

 

「だが、バッカニアがブリッグズ(ここ)の守備に当たるなら当日は残ってもらわねばな。……だからお前が参加しろ」

「……なるほど」

「お前が北方司令部、もといブリッグズ砦(うち)の代表だ。そしてお前がもし優勝できれば……、私の手を引かせてやる」

 

 挑発的に切れ長の青い瞳を細めてエルバを見つめる。そのどこか扇情的な艶めかしい視線に思わず生唾を飲み込みそうになりながら、エルバは力強い瑠璃色の瞳で真っ直ぐに見つめ返し、右の手のひらを胸に当てながら小さく頭を下げる。

 

「お任せ下さい。必ず勝利を少将に」

「あー、気合い十分のところすまないが、クライス大尉は当日パレードの方に参加するのでは?」

 

 マイルズ少佐が少し困ったように手を上げながら進言する。オリヴィエがチラリとマイルズを横目に確認すると、頬杖をついてエルバを見る。「どうするか選べ」と、その視線は訴えていた。

 

「パレードは建国祭の開始を告げる開会式のようなものですので、朝から執り行われます。なのでパレードに参加後、午後からの演習には間に合います」

 

 指を顎に当て思い出すように部屋の隅を見つめるエルバに、オリヴィエも満足そうに微笑んだ。

 エルバは念押しでオリヴィエに当日のスケジュールと、一緒に踊るための条件を確認してから執務室を後にする。バッカニアとマイルズもそれぞれ仕事へと戻っていく。

 皆が執務室を後にしたのを確認し、オリヴィエは何食わぬ顔でいそいそと、足下の屑籠から案内の資料を取りだし、デスクの上で皺を広げてそれを確認する。

 

「なに、パーティは夜18時より……? まずい、時間が……」

 

 ぶつぶつと呟きながら忌々しそうに爪を噛むオリヴィエ。デスクの端に置かれた外線電話を引っ掴むと、慌てた様子でどこかへと電話をかける。

 

「私です、オリヴィエです。突然ですが至急私のドレスの準備を……、ええ、そうです、父上。……はい、参加すると言っているのです。ええ、いえ、そんな時間は……。はい、ですから私のドレスを……はい、お願いします」

 

 どうやら電話の向こうは中央(セントラル)の自宅、アームストロング家だったようだ。受話器の向こうから聞こえたしゃがれた男性の声は父親のようで、その詮索に「まったく……」と思わず嘆息するオリヴィエ。

 受話器を置いた彼女がキョロキョロと辺りを見回し何かを探すように物色する。しかしお目当てのものは見つからなかったようで、少し考えてから自身のデスクの脇に据えられた軍刀を手に取る。少し鞘から抜かれたその美しい刃面に反射する自身を、様々な角度から確認して物思いにふける。

 軍刀を収めた彼女が手の甲に顎を乗せ数秒の沈黙の後、「ふむ……」と何やら悩ましげに自身の毛先のカールする前髪をちょんと摘まんだ。

 

「髪か……」

 

 しばらくの間、彼女はぶつぶつと呟きながら自身の体を見回していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 建国祭当日。近年、この国で続く様々な血なまぐさい事件を忘れるかのように、中央(セントラル)は人々の笑顔と活気に溢れていた。

 晴れ渡る雲一つない晴天に大きな祝砲が放たれ、国を上げてのお祭りは開催された。

 大総統府の前の大通りを頑強ながらも威厳のある軍用車両が、指紋一つなく磨かれた真っ黒いボディの高級車両を取り囲むようにゆっくりと進む。

 その車には大総統や軍関係者、名のある国家錬金術師、そしてアメストリスの天剣と謳われる男、エルバ・クライスなどを乗せてまるで凱旋パレードのように華やかに突き進む。道の両側を取り囲むように市民が群がり、彼らを一目見ようと背伸びをして覗き込む。軍事国家であるこの国では、軍を賞賛する輝く瞳と、戦争に傾倒していく政府に不信感を抱く白い目の、両極端の視線が集まってくる。もっとも、その中には国家錬金術師のファンもいれば、天剣殿への黄色い声援なんかも混じっているようだ。

 

「……」

「クライス大尉、笑顔を」

「……」

「大尉っ……」

「……っ、あ、はい、申し訳ありません」

 

 彼の隣の軍上層部関係者が、上の空のエルバを肘で突く。大総統などが威厳を象徴するかのように厳格な態度で臨むのとは裏腹に、エルバの仕事は軍のイメージアップだ。英雄と賞される彼が笑顔で手を振ればそれだけで軍への印象は良くなるのだ。

 

「……」

「大尉ッ……!」

 

 もっとも、彼自身はこの後の演習のことで頭がいっぱいのようだ。

 彼の記憶の中では、国や軍のためではなく、ホムンクルスの指示でもなく、民を救うためでもなく、自身の望みを叶えるために剣を抜くのは、これが初めてのような気がしていた。

 眩しい陽光に照らされ、白くも見えるほど晴れ渡る青空を見上げて、眼を細めた。どうにも心が落ち着かなかったが、それがなぜなのかは分からなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「もうっ! あんたの旦那どこ行ったのよ、この忙しいときに!」

「ごめんなさい、どうしても見たい物があるんだって聞かなくて」

「それって、例の演習? でもあんたの旦那って軍法会議所の所属で演習には参加しないんでしょ? というか今日はオフなんでしょ!」

 

 建国祭を告げる凱旋めいたパレードがセントラルシティの大通りを縦断すると、街は一気に活気づく。辺りは香ばしい何かが焼ける美味しそうな煙りに包まれ、通りは車の通行が制限され、そこに置かれたテラス席では昼間からお酒を楽しむ人たちもいる。

 アメストリス中から押し寄せてくる人の波にセントラルシティ駅も朝早くからごった返し、駅から中央市街までの道のりは人の頭で埋め尽くされた。

 店主も祭りを楽しみたいのか、「建国祭休業」する店もある中、営業中の飲食店は目が回るほどの忙しさのようだ。ここ、マース・ヒューズ中佐の妻、グレイシア・ヒューズの友人が営む店もその例に漏れない。今日に向けて開発された新作料理と、店先で客引きをする可愛らしい3歳の女の子に釣られてお客さんは引っ切りなしだ。

 グレイシアも店を手伝うも人手は十分とは言えず、同じく手伝う予定であったヒューズ中佐も別のところへ顔を出しているようだ。

 

「ええ。参加はしないけど、『見とかなきゃ損だ』って」

「もう、なによそれー」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『えー、お集まりの皆様っ! お待たせいたしました! 軍属の方はもちろん! 一般の方々も本年度の実戦演習は例年以上に必見!』

 

 セントラルシティ、中心街よりやや外れにある国有の軍事演習施設。普段は用途に合わせて様々な訓練に使用されているこの会場だが、今日はいつもと様子が異なる。

 競技場の中央には国家錬金術師の手により生成されたと思しき、大きな石畳のリングが。縦横2m程の石のタイルが四方に十数メートルと整列しており、正四角形の大きな『場』となっている。かつて焔の錬金術師と鋼の錬金術師がイベント的に戦った施設と比べると、規模も観覧席となる周囲も、何もかも何倍も規模が異なるほど大きな演習施設だ。

 普段は軍の訓練施設ともなり民間人の立ち入りは禁止されている施設だが、今日は一般市民の入場も認められている。今日ここで行われる「軍事演習」は一般にも公開されているからだ。

 そのため競技場の周囲にも様々な出店が立ち並び、軍人民間人を問わず会場に足を運んだ人たち相手に商いをしている。

 競技場内の客席を見渡せば出店で買ったであろう食べ物や飲み物を片手に見物に来た人たちで埋め尽くされていた。群青の軍服もあれば私服の民間人も、今日はオフながらも見に来た私服の軍人の姿も見て取れた。

 そんな会場全体に響き渡るようにマイク越しの大きなアナウンスが流れている。メインステージだけでなく、会場の至る所に設置されたスピーカーからも流れているようだ。

 

「よー、ホークアイ中尉にハボック少尉。制服着てるってこたぁ、サボりかい?」

「ども、ヒューズ中佐。人聞き悪いこと言わんで下さいよ。演習(これ)見学するのも仕事の内っすよ」

「ヒューズ中佐は私服と言うことは、オフなのにわざわざ?」

 

 観客席の最前列付近でコーヒーを片手にホットドッグを頬張るハボック少尉を見つけたヒューズ中佐が隣に腰掛けた。反対側にいたホークアイ中尉が身を乗り出すようにヒューズを見やる。2人とも軍服を着ているところを見るに、今日はオフではないらしい。

 ホークアイ中尉の言葉に、同じく買っていたコーヒーを一口すすってからヒューズ中佐は目を輝かせる。

 

「ったりめえだろ、今日の演習、見とかねえと損だぜ。国家錬金術師様同士のガチンコバトル、滅多に見られるもんじゃねえ」

「そっすよね! 男なら燃えますよ!」

 

 どこか子供のようにはしゃぐヒューズに対し、ハボック少尉も食べ終わったホットドッグの包みを握りつぶして応えた。ホークアイ中尉だけが2人を横目に小さく息を吐いた。それには「男の人というのは……」と言外に呆れているようにも見えた。

 

「それに、こんなカードもう二度と見られねえ」

 

 はしゃぐ子供のような笑顔とは打って変わってニヒルな笑みを浮かべるヒューズ中佐。

 頭に「?」を浮かべながら、その言葉の意味を尋ねるホークアイとハボック。そんな2人にとっておきの秘密を教えるように、ヒューズ中佐はちょいちょいと手招きをすると、体を傾け耳を寄せる2人にそっと囁いた。

 

「今日の演習、北方司令部の代表は、エルバだ」

「ま、まじっすか、それ」

「いつもパレードに出て演習には参加してなかったから、予想外ね」

 

 咥えたたばこに火も付けず手に取り、思わず聞き返すハボック。ホークアイ中尉も顎に手を当てて何やら考えているようだ。

 

「で、東方司令部の代表は? ま、ここにあいつの姿が見えねえあたり、察しはつくがな」

「ええ、まあ。お察しの通り、うちの大将っすよ」

「しかし、エルバ君……、クライス大尉が出るなら中央代表にされそうなものですが」

 

 この先の演習を想像してか、困ったように乾いた笑みを浮かべるハボック。その隣からホークアイ中尉が至って冷静に呟く。

 

「ああ、まあ一応あいつは正式にはブリッグズ砦、もとい北方司令部の所属だからな。中央(セントラル)の遣いはよくやってるけど」

「あっ……」

「……」

 

 顎髭を撫でながら青い空を見上げてホークアイの質問に応えるヒューズ中佐だったが、目の前の2人の視線が自身の後方へ向けられている事に気がつく。彼が後ろを振り向くよりも先に、そのハスキーがかった力強くも艶のある、()()()()()声がかけられる。

 

「一応とは何だ。やつは(れっき)としたブリッグズ砦(うち)の所属だが。何か問題があるのか?」

 

 そこには氷の女王、ブリッグズ砦の主、オリヴィエ・ミラ・アームストロング少将が弟のアレックス・ルイ・アームストロング少佐と、数名のブリッグズ兵を引き連れて、腕を組み仁王立ちしていた。

 なぜこんなところにこの人が、という疑問が一同の頭を巡り反応が一瞬遅れる。しかし誰かが慌てて立ち上がり敬礼をすると、それに釣られるように皆が敬礼する。彼女たちの存在感はあまりに強く、そしてあまりに目立ち、周りの軍属関係者も次々とオリヴィエへと向き直り敬礼をする。また、オリヴィエの後ろに控えるブリッグズ兵たちも目の前の上官であるヒューズ中佐へと敬礼をする。

 彼女が軽く手を払い皆に礼を崩させた。

 

「今日はたまの休日だ。そう畏まるな」

 

 そう言ってヒューズ中佐から2席ほどの空席を空けて客席へと腰をかける。ヒューズ中佐も思わず零れそうになる「だったら軍服を着てくるなよ」という言葉を飲み込んだ。

 突然の少将の登場は無言の圧となり、再び沈黙が一同を包む。さっきまでなんの話しをしていたっけと思い出さなければならないほどの衝撃だったが、この沈黙を破るようにヒューズ中佐が少将へと声をかける。

 

「し、しかし、将軍閣下がなぜこんな客席に……? 少将ともなれば上の観覧席からゆっくりご覧になられるものかと」

 

 ヒューズ中佐が右手の親指で指したのは、観覧席中央上部、会場全体を見渡せる場所。座席もゆったりと並び、客席ほどごった返していない。現にこの演習を大総統や軍上層部はそこから見るようだ。

 

「あそこは気に食わん。息が詰まる。リングまで遠い。以上だ」

「ああ、はい……然様(さよう)で」

 

 ぴしゃりと言い放つオリヴィエは最早会話に興味をなくしたようにリングを見つめ、剣の鞘を地に突き、その柄の先で手を組む。威風堂々たる佇まいは自然と辺りに心身を凍てつかせるようなブリッグズの寒風を思わせる、気の抜けない空気感を漂わせる。

 そんな空気を察したようにアームストロング少佐がその輝く頭に汗をかきながら恐る恐る姉へと進言する。

 

「姉上、本日はせっかく休みを頂いたのです。軍服を脱がれては? 夜のパーティーの衣装の方も……ッ」

「アレックスッ、口が軽いぞ、少し黙っていろ」

「パーティー?」

 

 夜のダンスパーティーの件を口に出そうとするや否や、少佐のそのカールする僅かばかりの前髪がふわりと風に舞った。オリヴィエの剣先がアームストロング少佐の鼻先へと向けられたのだ。鞘こそ抜かれてはいないが、そのあまりの速さと威圧に口を噤み参ったと言わんばかりに両手のひらを向けるアームストロング少佐。

 

「あの、少将もしかして今夜のダンスパッ」

「少し、黙っていろ。そしてその苛立たしい薄ら笑いをやめろ」

「い、イエス、マム」

 

 少佐の言葉をしっかりと聞き漏らさなかったヒューズ中佐が思わず耳を大きくして反応するも、オリヴィエの鞘の切っ先が振り返り様にその鼻先へと向けられる。

 アームストロング少佐と同様に両の手のひらを見せて切っ先と距離をとるも、思わず頬はにやけそうになる。

 

「そもそも、私がパーティーに出るかどうかはこの演習の結果次第だ。場合によっては、演習が終わり次第ブリッグズ砦へと帰るだろうな」

 

 再び剣を突き手を組んだオリヴィエが嘆息混じりに瞳を閉じる。

 

「それはどういう……?」

「姉上はエルバ殿と約束をしておりまして、この演習にてエルバ殿が優勝すれば、彼と一緒にパーティーの方へ参加すると……」

 

 ホークアイ中尉の質問にアームストロング少佐がチラチラと姉の顔色を窺う。

 

「やつが私と参加したいと言ったのだ。代わりに私の要求の一つでも飲んでもらわねば」

「なにを要求したんで?」

「他の代表及び各司令部の鼻を明かしてやれ、だ」

「……あー、なるほどね……」

 

 “こちらの要求を全うすれば、一緒に参加してやる。”という上から目線の態度の裏に、彼女のプライドと本心が薄らとだが見え隠れしていることに気がついたヒューズ中佐はその場で一人苦笑いを浮かべる。

 なんにせよ、あいつが氷の女王を誘ったのなら良しとしよう、そうホークアイ中尉とハボック少尉へと目配せするヒューズ中佐に、2人も小さく頷いた。

 

『なお、本会場への入場に必要なチケット代ですが、こちらは今後の国家の繁栄、軍需の拡大、医療の推進、錬金術への更なる研究などなど、このアメストリスをよりよい国へと発展させていくために使用させて頂きますので!……――――』

 

 実況か司会進行役か、ステージ中央に立つ女性軍人の落ち着いたその声が会場にアナウンスを続ける。ろくに聞いている者もおらず、ざわつく観客席。開始時刻へと迫る頃、広かった会場が少し窮屈に思えるほどの人入りで観客席は満員となった。

 演習による民間人の見学者への被害を考慮し、最前列から数段は軍属専用の観覧席となっている。中央のリングを取り囲むように紺碧の壁が並んでいるかのようだった。

 

『本日の演習は各司令部からの代表選出された五名によるトーナメント形式の実戦演習となります! また、中央司令部代表者が決勝シードとなります!』

「中央だけ試合数が少ねえってことかよ」

「ちょっとでも中央(自分ら)が有利に進むようにですかね? 汚ったねえ」

 

 実況のルール説明に思わず愚痴をこぼすヒューズ中佐とハボック少尉。

 

『錬金術の使用はもちろん、武器装備の使用も許可されております! また観客の皆様には被害が及ばぬよう、前方観覧席は国軍関係者用としております! 万全を期してはおりますが、一般観客の皆様も十分にご注意頂きますようお願い申し上げます!』

 

 長々と前口上が続く。先程までまだ入場中の観客でざわついていた観覧席も落ち着きはじめた頃、司会の女性軍人がチラリと選手の入場口へと視線を送る。小さく頷く彼女の様子を見るに、ステージの脇から準備完了のサインが来たようだ。

 

『えー、皆様大変お待たせいたしました! それでは! 出場選手の準備も整ったとのことなので! これより第一試合をはじめさせて頂きます! 出場選手の紹介は入場時にさせて頂きます!』

 

 場を繋ぐのも大変だと困りはじめていた実況がパッと明るい表情でそう告げると、待ってましたと言わんばかりに会場は大いに盛り上がる。もはや会場の雰囲気は普段の重苦しく堅苦しい軍事演習ではなく、ただのイベントと化していた。

 

『では各代表選手の皆さん! 各々、日頃鍛えたその術と肉体っ、鍛錬の成果を思う存分に披露し! 互いにぶつけ合って下さい!』

 

 マイクを片手にバッと広げた右手が『東』と大きく書かれたゲートを指す。一同の視線がそのゲートの奥へと向けられる。

 

『第一試合! 選手入場! まずは東門へご注目! アメストリス国軍東方司令部代表! 女と錬金術の扱いは超一流! かつては歴戦の猛将にして今はクールなナイスガイ! ご存じっ、英雄と呼ばれるこのお人! 焔の錬金術師! ロイ・マスタング大佐の入場です!!』

 

 影となった通路の奥から軍靴のかかとの鳴る音が聞こえてくる。吹き抜けとなっている会場の陽光に照らされて、足下から徐々にその姿が露わとなっていく。

 ニヒルに微笑むマスタング大佐が軍服の首元を緩めながら入場する。良くも悪くも名の知れた彼の登場に観覧席からは大きな声援と、恨み節が聞こえてくる。

 純粋な声援と、主に男女関係のいざこざからの怨嗟の叫び、そして一部からは黄色い声援が飛び交う。石畳のリングへと上がったマスタング大佐が観客席へと手を振り、賛否両論のかけ声に応えていた。

 

「おーおー、流石はイシュヴァールの英雄。ロイの声援は大したものだな」

「ろくでもないかけ声もあるようですが」

 

 楽しそうなヒューズ中佐と呆れたように額に手をあて溜め息を漏らすホークアイ中尉。オリヴィエは手を組んだまま興味もなさそうに鼻で息を吐く。

 

『えー、続きまして! 西門にご注目!』

 

 リングインしたマスタング大佐に敬礼をした実況者が、マイクを持ち替え左手を広げる。手の先には『西』と大きく書かれたゲート。その奥から、先程と同じく軍靴(ぐんか)が硬いタイルを踏み奏でる音が聞こえてきた。

 

『アメストリス国軍北方司令部代表! 最早説明不要のこの男! 胸に煌めく“黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士鉄獅子勲章”の輝きは本物だっ! 氷の女王の懐刀! アメストリスの天剣こと! エルバ・クライス大尉の入場です!!』

 

 

 

 

 



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04話 vs東 vs南

 薄暗い通路を抜けると、エルバの視界に目が眩みそうなほどの眩い陽光が差し込む。耳を劈くほどの大歓声が会場内に響き渡り、高い空へと吸い込まれていく。

 

「おお……、気圧されそうなほどの人の数ですね……」

 

 “試合”という形式で闘うことなど今までになかったエルバ。観客席を見回して思わず声が漏れた。

 実況者に手招きされるようにリングへと上がる。マイクに拾われないよう小声で実況の女性がエルバに声援へ応えるよう促す。エルバが困ったように少々戸惑いながらも、例年のパレードを思い出しながら観客席へと手を振った。

 観客席から声援が上がるのはマスタング大佐の時と同じだが、どうも異なるのは、その声援の中に恨み節が聞こえてこないことだろうか。また、彼の声援にも黄色い歓声が聞こえてくるが、少しばかり、彼と比べて年上なお姉様方の声が多いような気がする。

 それに反応するように観客席の一部から、大きな舌打ちも聞こえた気がして、ヒューズ中佐がいささか怯えているようだ。

 

「やあ、クライス大尉。こんなところで会うとは奇遇だな」

「ええ、そうですね。できれば会いたくはなかったのですが」

「いやはや、それは私も同意見だね」

 

 両雄への歓声が鳴り止まぬ中、リング中央で言葉を交わす2人。困ったなと言わんばかりの2人だったが、その視線はいつもより鋭く絡み合う。

 その間に立つ実況者が天に手をかざすと、少しずつ歓声は収まっていく。

 

『それでは2人とも開始地点へと着いて下さい』

 

 そう促されたマスタング大佐は一言「お手柔らかに頼むよ」と言い残すと、エルバから距離をとり石畳に刻まれた目印へと下がる。

 その言葉に何かを言いかけたエルバだったが、少し考え込むように口を噤むと、自身も開始地点へと下がった。

 

『それではアメストリス建国祭! 軍事演習実戦火力演習第一試合! 始めて下さいッ!!』

 

 そのかけ声と共に掲げられた実況者の手が振り下ろされた。それを合図に会場に複数設置された大きなドラが内臓を震わせるほどの低く重い爆音を響き渡らせる。戦いの火蓋を切って落とすその合図に、再び観客席からは声援が飛び交い、雰囲気をより一層盛り上げるように音楽隊によるファンファーレが鳴り響いた。

 

「……悪いですが大佐」

「ん?」

 

 開始と同時にエルバが大佐へと声をかける。不思議と辺りを包む歓声にもそれはかき消されなかった。

 

「今日の私は()()()()()()のです。もし大佐もそのつもりなら、どうか最初から本気で。……私は手加減が苦手なのです」

「ほう……。嘗められたものだな」

 

 懐から発火布で織られた特製の手袋を取り出すマスタング大佐。手袋の甲には錬成陣が記されている。

 手加減という言葉にいささか目の色の変わった大佐が両の手を振り払うと、青白い漏電のような錬成反応と共に、その軌跡に緋色の眩い焔が追従する。そのパフォーマンスに観客席からの歓声は一層に盛り上がっていく。

 焔を生み出す大佐に呼応するように、エルバも自身の腰に下げられた二振りの剣の内、軍支給の軍刀サーベルを抜刀した。刃を己の眼前に立て、刃面に反射するその深い瑠璃色の瞳には、僅かばかりの憤怒が見て取れた。

 「イシュヴァールの英雄とアメストリスの天剣、これは事実上の決勝か」どこかから、そんな声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「マジで火を自在に操ってるよ、すげー」

「ああ、とんでもねえや」

「なんだ、大佐のあれ見るの初めてか?」

 

 観客席でハボック少尉の前に座っていた東方司令部所属の二人の軍人が思わず声を漏らした。知った顔だったのか、それに気がついたハボック少尉が声をかける。

 

「いったいどうやったらあんなことを……?」

「大佐の手袋は発火布っつー特殊なのでできててよ、強く摩擦すると火花を発する。あとは空気中の酸素濃度を可燃物の周りで調整してやれば……「ボン!」だそうだ」

「理屈はわかりますけど、そんな……」

「それをやってのけるのが錬金術師ってやつよ」

 

 困惑する男達にどこか自慢げに答えるハボック少尉。

 

「信じられんな……あれが人間兵器と言われる国家錬金術師……」

「ああ……、人間じゃねえよ。あんなの錬金術師じゃないクライス大尉じゃ……」

 

 男達の哀れみさえ含まれたその言葉に、今度はヒューズ中佐が声をかける。

 

「なんだお前ら、エルバの戦闘も見たことないのか?」

「は、はい。まあ、噂で聞く程度にしか」

「しかしどれも浮世離れしたものばかりで」

「……だとしたら、お前らが度肝抜かれるのは、エルバの方かもしれねえな」

 

 楽しそうにニヤリと笑いながら自身の髭を撫でるヒューズ中佐。彼の言葉が聞こえていたのか、長い前髪に見え隠れするオリヴィエの口元も、微かにほころんでいるようだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『おおっとッ、マスタング大佐! 先制のご挨拶だぁっ!!』

 

 パチンと、何かが弾けるような乾いた音がした。それは決して大きくはない音だったが、ざわつく会場中に響き渡ったかのように、自然と観客は口を閉ざす。

 ロイ・マスタング大佐が自身の右腕を突き出し、その指先を擦り合わせると、その発火布から微かな火花が飛び散った。それが()()()()()()()()()()()()空中を、マスタング大佐が指さす方へと真っ直ぐ駆け抜ける。

 その指先に相対するエルバは静かにサーベルを掲げる。両手に持ったその剣を頭の裏にまで振り上げ、剣先は背後の床を指す程だ。

 

「なッ!?」

『うそぉッ!?』

 

 思わず実況が仕事を放棄し、素のままに驚きの声を上げてしまう。マスタング大佐も自身の焔で膨張した熱風に前髪を吹きさらしながら、思わず眉間に皺を寄せる。

 それは無理もなかった。全身の筋力を膨張させるかのようにその制服に詰まった筋骨を隆起させたエルバが、両の手にしっかりと握り込み振りかざしたサーベルを差し迫る焔の波へと渾身の力で振り下ろしたのだ。

 左足を引き己の膂力を支える、右足は半歩踏みだし剣を振り抜く力をぶれさせない。そしてその剣先が光る鈍色の軌跡を描くほどの速度で振り抜かれれば、まるで()()()()()()()かのようにその火炎は両断されエルバの左右へと分断された。それは空気中の塵や可燃物を燃焼させながら轟音と共に上空へと舞い上がり霧散していく。

 焔を斬った、そう錯覚させるような目の前の光景に観客さえも開いた口が塞がらない。「んな、ばかな」誰かが呟いた言葉が皆の心の声のようだった。ただ1人その光景に口元を綻ばせるのは、やはり氷の女王その人だけだった。

 

「……()()は焔すら叩っ切る、か」

「……」

 

 半ば呆れたように半笑いに呟くマスタングに、黒煙を背に静かに佇むエルバの撫でつけられ整えられた黒髪が僅かに綻び熱風に揺れる。その瑠璃色の瞳は彼にしては珍しく、勝利に固執しているかのように爛々と怪しい光を湛えていた。

 

「焔を、斬ったんですか、今……」

 

 観客席ではハボック少尉の前に座る軍人がひねり出すように声を漏らす。こちらも半ば信じられないかのようにタバコをくわえたまま吸うのを忘れているハボック少尉に代わって、ヒューズ中佐が面白そうに口を開く。

 

(おも)っくそ剣を振り下ろした事で空気がかき分けられて、更には一瞬発生した真空に空気が巻き込まれるように()()()()()()()()調()()()()()()が吹き飛ばされた」

「その四散した空気に焔は追従してクライス大尉の四方へと霧散していった、というところでしょう」

 

 落ち着いた口調で続けるのはホークアイ中尉。顎に手を当てて冷静に推察する彼女にハボック少尉が思わず突っかかる。

 

「いやいやいやいや、理屈はそうかもしれませんがね中尉、そんな無茶苦茶な」

「その無茶苦茶をやってのけるからアイツは()()()()()()()()()で、非錬金術師でありながらデタラメ人間の万国ビックリショーみたいなこの演習に出てるんだよ」

 

 目を細めて呆れたように笑う中佐が肩をすくめてハボック少尉を宥めるように言い聞かせる。

 納得いかないように「いや、でも」と続けるハボック少尉の声は、ようやく目の前で繰り広げられた出来事の理解が追いついた観客の歓声でかき消されてしまった。

 

 

 

*****

 

 

 

 ぐっと身を屈めたエルバが「挨拶は終わり」と言わんばかりに、サーベル片手にその俊足でマスタング大佐へと疾風の如く駆けだした。

 弾丸が弾けたかと思うほどの踏み込みと、瞬きする間に視界から消えてしまいそうな加速。しかしそれに反応するはマスタング大佐。彼が眼前へと迫りその剣の射程圏内に入る前にと、右手を振りかざし発火布を擦り合わせるために指を鳴らそうとする。しかしエルバはそれを許さない。いくら彼でも()()のないノーモーションに近い剣の振り抜きでは焔の錬金術師の業火は捌けない。

 駆け抜ける勢いそのままに右足を軸に体を翻す。走ってきた力をそのまま回転力へと乗せ、その場で身を屈めてくるりと回る。その回転に合わせるように剣先を石畳へと斜めに薄く這わせると、刃先は石畳を削り取り、その剣速に弾かれるように飛散した細かい瓦礫は散弾の如く(つぶて)となってマスタング大佐へと襲いかかる。

 

「ぐっ……!」

 

 被弾したところで大した被害はないものの、顔面へと飛ばされる飛礫に思わず視界を狭めてしまう大佐。エルバの目的は視界を奪うことにあった。

 

「嘗めるなよッ……!」

「っ!?」

 

 一瞬の隙に大佐の懐へと飛び込もうとするエルバだったが、大佐は飛び込んでくるエルバを牽制するように腕を振り抜き自身の周囲、その足下へと焔を叩きつけた。あわや直撃するところだったエルバは自身の脚に力を込めると飛ぶように後退し、大佐との距離をとる。

 

「大人しく一本取られて頂きたいのですが……」

「残念だが、私にも面子(メンツ)があるのでね」

 

 屈めた身を起こすエルバが自身とサーベルに纏わり付く黒煙を振り払うように剣を振り抜き、眼前へと構える。その刃面には体に付いた土埃をはたく大佐の姿が反射する。

 

「だから、次は少々、強火(ウェルダン)でいくぞッ」

 

 まるで自身を抱きしめるかのように両腕を交差させる大佐。その口元を隠すようにクロスする両腕の向こうに見える瞳が挑発的に細められる。

 一際大きな乾いた音がしたと思えば、大佐の両腕は振り下ろされ、その両手からは先程よりも数倍はあろうかという爆炎が膨らみ燃え上がる。

 焔の砲弾のような一撃がエルバの眼前へと差し迫る。一瞬その火力と自身のほどけた前髪をふわりと持ち上げる熱風に目を見開いたエルバだったが、即座にその瞳は冷静さを取り戻す。

 彼が目にも止まらぬ速さでサーベルを数度振り回す。光る鈍色の剣先が彼の足下を幾本か駆け抜けた。すると即座にエルバは自身の眼前の石畳へと剣を突き刺し、その膂力を持ってして引き剥がすかのように石畳を持ち上げる。先程の剣撃は石畳を自身の体を隠すくらいの程よい大きさへと切り抜いていたのだ。

 

「ぐッ……熱ッ」

 

 まるで質量のある重量物がぶつけられたかのように激しい焔の一撃がエルバの跳ね上げた石畳へと衝突する。石畳の裏にいるエルバが影に飲まれるほど眩い焔が石盤の周囲へと四散していく。

 石畳の表面は焼きすぎたトーストのように真っ黒に焦げ黒煙をもくもくと湛え燻るも、その激しい一撃をなんとか耐えてくれたようだ。

 周囲が焔の閃光と黒煙、燃えて飛散する細かい瓦礫と、熱風に巻き上げられた土煙に視界を防がれる中、真っ先に動いたのはエルバだった。

 黒く焦げた石盤が倒れる前に、それを後ろから渾身の脚力を込めた回し蹴りで前方へと蹴り飛ばす。その一撃にいくらか砕けた石盤だったが、それでも十分に大きな瓦礫が黒煙と土煙をかき分けながらマスタング大佐へと飛来する。激しく煙る中で一瞬反応に遅れた大佐だったが、前方から迫る轟音と煙の向こうに微かに見えた何かの影に体はすかさず戦闘態勢を取る。

 その影が何かは分からないが、マスタング大佐は再び振り構えた右腕を振るった。その激しい焔が迫る影と衝突する。人体であればひとたまりもない火力だが、そこには()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という、ある種の信頼のようなものがあった。

 三度の衝突、マスタング大佐へと迫っていたその大きな瓦礫は、彼に達する前に灰と化し、その眼前で焔と共に弾けるように爆散する。

 飛び散る火花と千切れた焔。さあ牽制は潰したぞと、マスタング大佐は再び右手を締め発火布の準備を整え、右腕を振り上げ構える。次に来るであろうエルバへと警戒を怠らない。

 真上から照りつける正午の太陽が大佐の影を黒く濃く足下へと映し出す。周囲に蔓延する爆煙の影もまた薄灰色に石畳に広がっていく。視線を泳がせ神経を研ぎ澄まし、辺りを警戒していた大佐の視界の足下にふっと、黒い影が映り込んだ。()()が何かは分からなかったが、自身の影の頭上にふわりと飛来するその影は、後方で何かが行われていると判断するには十分だった。

 

「後ろかッ!」

 

 即座に踵を返し、無駄な動作を削ぎ落とした俊敏な所作で振り返る焔の錬金術師。振り向きざまに力の込められた右手の発火布からは、青白い漏電のような錬成反応が円の軌跡を描く。

 

「……ッ!?」

 

 そこにいたのは確かにエルバ・クライス大尉その男だった。大佐の後方で膝を曲げ、腰を落とした彼が軍刀サーベルの切っ先を下方から大佐へと向け構えている。

 だが、エルバが突くが速いか、マスタングの焔が速いか、()()()()()()()()()()()()

 腰を落とし構えるエルバと、右腕の錬成を構えるマスタングの間に、何かが降ってきたのだ。とっさに目の前を縦断する()()が先程の影の正体だと察する大佐。

 

「しっ、手榴……ッ!?」

 

 それはエルバの用意していた虎の子の一撃。自身の後ろ腰に差していた一発の柄付手榴弾だった。マスタングの視界に広がるのは落下していく手榴弾と剣を構えたエルバ(天剣)。どちらにどう対応するか、一瞬の判断を迫られるも、イシュヴァールの英雄とも呼ばれるこの男、目の色は一瞬の焦燥から瞬時に冷静さを取り戻す。

 即座に視界内の情報を把握する。落下していく手榴弾の安全装置は外されていなかった。しかし、このまま構えた右腕の焔を振るえば、己の焔が手榴弾を飲み込み大惨事は免れない。それほどの威力があることは自身が一番よく理解している。かといって迎撃しなければ天剣の刃にやられる。

 マスタング大佐が下した結論は、咄嗟に空気の錬成を変更し、手榴弾を避けるようにその左右の空気を調整する。そうすれば焔の軌道は手榴弾を避け左右両側からエルバを飲み込むはずだ、と。

 

「……ッ!」

 

 しかし、そこまでの判断を下すのにかかったほんの僅かな瞬間は、天剣(エルバ)が剣を振るうには十分すぎる時間だった。ほんの一瞬の思考、しかしその一瞬を引き出すことこそ、エルバの目的であった。常人では認知することもできないほどに速いマスタングの判断速度。その一瞬の間を、天剣は刺し貫いた。

 思わず心臓が激しく大きく、どくりと脈動する。己の首筋へひやりと冷たい金属の、無機質な感触がした。

 

「……っ……」

 

 下方から迫るエルバの神速の突きは、的確に、正確に、()()()()()()()()()()()()()マスタング大佐の右手を貫く。大佐自身、己の手に傷が付いていないのが信じられないが、その剣先は大佐の手の甲薄皮一枚のところを縫うように貫かれ、発火布で織られた大佐の手袋をそこに刻まれた錬成陣ごと切り裂く。

 そして手袋を貫いた剣先はそのまま大佐の首元、左頸動脈すれすれを通り過ぎ、大佐の襟足を僅かに散らせる。ひたりと、冷たい金属の感触が首元へとあてがわれた。

 両手で構えていた剣から左手を離し、落下する手榴弾を受け止めるエルバ。右手の剣を対象へとあてがい、だらりと垂らした左手に手榴弾を掴むその姿は、天剣と呼ぶにはあまりに黒く恐ろしく、その深い瑠璃色の瞳は目を合わせた者を萎縮させ動けなくなるほどに鬼気迫る物があった。

 

「……お、おぉ……」

「勝負あり、ですね、大佐」

 

 思わずうめき声にも似た感嘆の声を絞り出す大佐。

 首元の冷たさは、少し、ほんの僅かに力を込めて引き抜けば、その刃が己の首筋を切り落とすことを大佐の頭に容易に想像させる感触。

 ここで即座に左手の発火布を弾いて爆炎を巻き起こそうか。いや、この男はそれを許さない。こちらが指先の筋一本でも動かせば先にこの首を跳ね飛ばすだろう。そう思わせるだけの力量と雰囲気と、経歴が彼にはある。額に一筋の冷や汗を垂らしながらそんな事を考えるマスタング大佐。

 演習とは思えないその気迫に、困ったように苦笑いを浮かべながら、焔の錬金術師はその手を上げた。

 

「参ったね、これは……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いやはや、今日の君は鬼気迫る物があったよ。完敗だ」

「なにを。言った通り最初から本気の火力でこられていたら、私もひとたまりもなかったですよ」

 

 会場を後にした2人が選手控え室で言葉を交わす。

 認識が追いつかない程の激しくも一瞬だった2人の攻防に静まりかえっていた会場だったが、実況兼審判がマスタング大佐の降参を確認すると、手を空にかざして高らかにエルバの勝利を告げた。

 その宣言に会場は一気に歓声に包まれた。マスタング大佐を激励する声やエルバへの賞賛、マスタング大佐への恨み節とエルバへの感謝の声。そして大佐の敗北を慰める黄色い声援と、エルバの勝利を褒め称える黄色い声援。

 会場に試合の幕引きを告げるドラの音とファンファーレが鳴り響く中、2人の英雄は舞台を後にした。

 

「しかし、どうしてそこまでこの試合に固執しているんだ? 君らしくもない」

 

 不思議そうに肩をすくめ尋ねるマスタング大佐を一瞥すると、エルバは少し視線を泳がせてから、零すように言葉を紡いだ。

 

「今年を逃したら、来年はどうなっているか、わかりませんから……」

「?」

 

 意味深な彼の言葉に大佐は頭に「?」を浮かべてしまうのだった。ただ、先程までの鬼気迫る気迫の込められた天剣の瞳とは思えないほどに、その遠くを見つめる視線はどこか不安げに揺れているような気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いやー、しかし驚きですね。勝っちゃいましたよ、大尉」

 

 雨でもないのにマスタング大佐が負けてしまった事実に、思わず驚嘆の声を漏らしてしまうのはハボック少尉。いつの間に買ってきたのか、その手にはおかわりのホットドッグとコーヒーが握られている。

 ホークアイ中尉は困ったように瞳を閉じて小さく溜め息を吐く。右手を額に当てやれやれと言わんばかりに首を振った。

 オリヴィエは満足そうに手を剣の上で組んだまま小さく鼻を鳴らして微笑んでいた。

 

「しかし、最後のあれ、手榴弾持ち込むってどうなんですか?」

 

 ハボック少尉の前に座っている軍人が様子を窺うように苦笑いを浮かべながら後ろのハボックへと振り返る。ハボックが「んー……」と何かを言いたげに思考を巡らせていると、その横にいたヒューズ中佐がからかうような、呆れたように笑った。

 

「そりゃ個人が携帯できる武器兵器の持ち込みはOKってルールだからな」

「いやでも大佐は丸腰ですよ?」

 

 その一言にキョトンとしてしまう一同。ヒューズ中佐が心底おかしそうにひとしきり笑った後、ニヒルな笑みを浮かべて男に問いかけた。

 

「じゃあ聞くがお前さん、さっきの試合を見て、剣一本と手榴弾一個でロイと勝負してみるかい?」

「いや、それは……」

 

 先程の焔の錬金術師の妙技を思い出し、慌てて両手と首を振る男。

 

「俺だって嫌だね、戦車を渡されたってゴメンだ。国家錬金術師ってのはただそれだけで数多の武器兵器に匹敵する。それを剣一本と爆弾一発で制したんだ。ほんと、デタラメ人間だよ」

 

 リングを見ながらぼやくヒューズ中佐に釣られるように男も視線を向ける。黒く焦げ炭化した石畳は、未だに緋色に燻っている。ゆらゆらと焦げ臭い黒煙を見ながら、男は己と次元の違う、己の想像や常識とは別の所での話しなのだと理解し、呆然と体から力が抜けるのを感じた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『それではお待たせ致しました! ただ今より第三回戦! 勝ち上がってきた北方司令部代表と南方司令部代表との試合となります!』

 

 第二回戦は南部と西部の戦いとなったが、南部代表が勝ち進んだようだ。三回戦、南部代表と戦うエルバだが、南部と西部の試合の間、1人休憩していたためそれぞれの代表をまだ見ていない。

 係の軍人に呼び出されて、一回戦と同じく実況の呼び声と共に会場へと入場すると、興奮冷めやらぬ観客からは一回戦以上の歓声が上がった。

 

「ああ、あなたでしたか、南部の代表は」

 

 試合が終わるたびに国家錬金術師が会場の石畳を修復しているようで、リングインするエルバの足下はすっかり綺麗に補修されていた。

 中央付近に立つのは実況とエルバ、そして南部の代表、バルマ中佐という男だった。

 褐色の肌は生来のものではなく、南部の厳しい陽光に照らされて焼けており、微かに見える軍服の首元などは少し色が薄い。微かに赤毛の混じったブラウンの髪は多少乱雑ながらも視界を邪魔しないように短く切りそろえられている。身長は体躯の良いエルバと比べて一回り小さいながらも、その肉体が屈強に鍛えられているのは軍服の上からでもよく分かる。

 しかし何よりも目を引くのは、その整った容姿を台無しにしてしまうほどの、顔面のほぼ半分を覆い尽くす酷い火傷の跡だった。目こそ見えてはいるのだろうが、肌は焼け爛れ色素は変色し、一般人からはいささか見るに堪えないものだった。

 

「はい、准将のご指名ですので。……灼陽(しゃくよう)の女王がくれぐれもよろしく、とのことです」

 

 小さく会釈する姿、階級的に下官であるエルバに対する丁寧な言葉遣い。それだけでその男、バルマ中佐の人となりが分かるようだった。

 だからこそエルバも柔和な笑みで彼に声をかけたのだ。しかし、バルマ中佐の口から「灼陽の女王」という言葉が出てくると、エルバが困ったようにその半眼の視線を泳がせてから小さなため息を吐いた。

 

「ベネルト准将には何度も丁寧にお伝えしているはずです……。上の指示があれば南へ行きますが、私の意思で北を離れるつもりはないと」

「私も、准将からよろしく伝えるよう、言われただけですので」

 

 気さくに微笑むバルマ中佐だったが、その瞳の奥には僅かに、ほんの微かな意思が見え隠れしていた。

 

 

 

*****

 

 

 

「おっと、クライス大尉の試合には間に合ったかな」

「あれ、大佐」

 

 観客席のヒューズ中佐やハボック少尉達の元に、少し急いだ様子のマスタング大佐が合流したのは、エルバとバルマ中佐がリング中央で言葉を交わしている時だった。

 

「大佐、試合が終わってからなにしてたんですか」

「負けたのが悔しくてトイレで泣いてたのか?」

「そんなわけないだろう。なに、私を慰めたくて仕方ないと言う女性が多くてね、少しばかりファンサービスをしていただけさ」

「……」

「あ、ちゅ、中尉もいたのか。ははは、奇遇だな」

 

 ヒューズ中佐のジョークに噛みつきながら、大佐はかいてもいない汗をわざとらしく拭いながら自慢げに話す。その言葉を聞いたホークアイ中尉は静かに大佐を見つめていた。なにを言うでもないが、その目は口以上にものを語っているかのようだった。

 

「この軟派な男が代表とは、東方司令部の底が知れるな」

「げっ、アームストロング少将⋯⋯も、いらしたのですね……。相変わらずお美しいですね、クライス大尉がうらやましいですよ」

「……」

 

 一瞬顔をこわばらせるも、息をするように女性を褒めるマスタング。彼の言葉に睨みをきかせるオリヴィエの目もまた、口ほどにものを言っているかのようだった。

 

「おい、それよりロイ、さっきの南部と西部の試合見てなかったろ。すげえぜあの南部代表の火傷顔(フライフェイス)君」

「ん? おや、これは……、珍しい顔を見たものだ」

「なんだ、知ってんのか」

 

 ヒューズ中佐がリング上のバルマ中佐を指さすと、それに釣られてマスタングも視線を送る。バルマ中佐の姿を見たマスタング大佐が驚いたように自身の顎に手を当て目を見開く。

 

糜爛(びらん)の錬金術師。南部の黒い噂にその男ありと言われるほど、南部戦線での汚れ仕事を一手に担っている錬金術師だと聞く。私も国家錬金術師として数度顔を合わせたことがある程度だがね」

 

 記憶を辿るように視線を上空に泳がせるマスタングだったが、何かを思い出すと、少し得意げにそのニヒルな笑みをヒューズへと向ける。

 

「しかし、面白い錬金術を使うだろう、彼は」

「なんだ、そこまで知ってんのかよ」

「ああ。彼は、()()()()()の所の懐刀、と言った所かな」

()()?」

 

 聞き慣れないマスタングの言葉にホークアイ中尉が思わず聞き返す。ヒューズ中佐も興味深そうにマスタングを見やるも、オリヴィエだけがどこか不愉快そうにその眉間に皺を寄せる。

 腕を組みヒューズ中佐の隣に腰掛けるマスタングが記憶を辿るように、時折オリヴィエの顔色を窺うように横目に彼女を見ながら、視線を泳がせる。

 

「南部、アエルゴとの国境戦線の指揮を執る南方司令部所属のイザベラ・ベネルト准将。その軍人としての手腕と功績から、北のアームストロング少将が()()()()と呼ばれるように、彼女は一部から()()()()()と呼ばれている」

「……ふん……」

「その、北と南の女王様の片腕同士がやり合うって訳か」

 

 不愉快そうに鼻を鳴らすオリヴィエの様子をチラリと覗き込んでから、ヒューズ中佐は肩をすくめる。

 

「実力は折り紙付きだろう」

「見物だな」

 

 顎に手をやり、リング中央の2人の男を見ながら興味深そうに呟くマスタング大佐に、全員の視線が釣られる。ヒューズはニヤリと笑い、その眼鏡は怪しく光っているかのようだった。

 まだ高い日の光が会場をじりじりと焼き付ける。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『それでは第三試合! 開始ですッ!!』

 

 実況者が掲げた手を振り下ろすと、開幕を告げる激しいドラの音とファンファーレが鳴り響いた。

 ボルテージの上がった会場の観客からは怒号にも似た歓声と声援が飛び交う。

 

「フッ……!」

 

 そんな会場の雰囲気などどこ吹く風で、開幕早々に動き出したのは南方司令部代表、バルマ中佐からだった。彼がぐっと腰を屈めて踏ん張りをきかせ、後ろに回した両の手で後ろ腰から投擲用のスローイングナイフを抜き取ると、その抜き取った勢いそのままに両腕を振り抜いてエルバへと投げつける。

 鍛え抜かれた腕と肩の筋力に、使い慣れたその武器の洗練された動作、短く吹かれる呼吸は腹筋を締め体幹をブレさせない。絶妙に効いた手首のスナップはより一層刃物に勢いを付加する。

 しかしエルバもまた開幕と同時に己の左手で軍用サーベルを持ち上げ、右手は柄に手をかけ抜刀の姿勢に入っていた。飛来する2本のナイフの軌道を、抜刀した一閃の斬撃で叩き落とす。

 金属のぶつかり合う激しい音が(つんざ)いたかと思うと、剣を振り抜いたエルバの懐へとバルマが飛び込む。ナイフは囮、投擲と同時にバルマは駆けだしていた。

 己の方が()()事は百も承知、相手が歴戦の猛者であることは言わずもがな。正面からまともに戦って勝てると思うほどの驕りもない。そもそも正面切っての戦闘となってしまうこの会場で、少しでも虚を突く。

 バルマの戦術には迷いがない。エルバとの距離を詰めながらその(なめ)された薄手の黒い皮手袋をした右手を彼へと突き出す。

 

「おッ……と」

 

 エルバの顔面を掴みかかるように突き出された右手の平に警戒するエルバは、その手に捕まれまいと咄嗟に上体を反らす。

 空を切ったバルマ中佐の右手からは青白い漏電のような錬成反応、そして皮の焼け焦げる匂いと白い煙が、その振り抜かれた手の軌道上に立ち上る。

 しかしその右手も囮、本命の左手が体を仰け反らせた状態のエルバへと襲いかかる。こちらもまた薄手の黒皮の手袋に包まれており、その手に錬成反応が起こるやいなや、力が込められ微かに曲げられた指関節からギシギシと何かの軋む音が聞こえ、手に纏うように白い(もや)が指の隙間を抜けていく。

 上体を反らしたエルバにもう一歩踏み込んだバルマ中佐が、左手の掌をエルバの体へと叩きつけるかのように、上から下へと振り下ろす。しかし彼の目に映ったエルバの表情、その眼には恐怖も驚愕もなく、ただただ凍える程の冷静さと燻されるほどの憤怒が見えたような気がした。

 

「ッ……!?」

 

 思わず背筋にぞくりと冷たいものを感じたバルマ中佐が振り下ろしかけたその左手を咄嗟に引いた。

 その刹那、バルマの視界を鈍色の一閃が薙いでいった。それがなんなのか理解できたのは、自身の短い前髪がふわりと風圧に揺らされ、その毛先がはらりと眼前を舞ったのを確認してからだった。

 過ぎ去ったのは、不安定な体勢からも横一線に振り抜かれたエルバの刃だった。あのまま腕を振り下ろしていたら、己の手が相手に触れるよりも速く切り落とされていただろうことは容易に想像がついた。

 一度止まってしまった開幕の奇襲、このまま戦い続けるのは不利だと、バルマ中佐はエルバから距離を取る。エルバもまたそれを追撃することもなく、逸らされた自身の上体を逆再生のようにぬるりと起こした。そして一度剣を振り払ってからその刃を己の眼前に立てる。

 

「……腕一本、容易に取られるところでした。剣を持ちながら空手の私より速く振り抜くとは、なんと速い剣捌き」

「流石にその()()には峰で振りました。それでも前腕骨の骨折くらいは覚悟して頂くつもりでしたが、まさか躱されるとは。上官に対し失礼な物言いで申し訳ありませんが、()()()()()()()()

「……恐縮ですよ、天剣殿……」

 

 エルバの言葉に自身の前髪にそっと触れるバルマ中佐。刃を立てていないにも関わらず、この短い毛先を散らせたのかと。その想像を絶する剣速に思わず冷や汗が頬を伝う。

 

『まずはバルマ中佐の速攻から始まった三回戦ッ! 実況する間もありませんでしたが、苛烈な攻防が繰り広げられておりますッ!』

 

 実況のアナウンスに会場から再び大きな歓声が上がった。そんな歓声を気にもとめず、エルバの深い瑠璃色の瞳はバルマの手を捉えて放さない。先程の攻撃から想像するに、その手が相手の攻撃手段であることは明白だった。

 その視線に気がついたバルマ中佐が、己の右手につけている焼け溶けたかのようにボロボロとなった手袋を脱ぎ捨て、その掌をエルバへ見せつけるように突き出す。

 重苦しい鈍色の鋼の手が突き出された。拳そのものを武器として使用することを想定された頑強な造りながらも、装着者の動きを極力邪魔しない軽量さ、相反する二つを絶妙な塩梅で兼ね備えた機械鎧。素人目にも傑作だと分かるほどだ。

 その機械鎧の内側には錬成陣が刻まれているのか、内側に刻みきれなかった刻印が僅かに外側にも漏れ出していた。

 

「私の体に刻み込んだ錬成陣です。お察しの通り、こちらの手もあります」

 

 左の手を振りながら話すバルマ中佐。しかしそれ以上を語らないところを見るに、具体的な錬金術の内容について教えるつもりはないらしい。

 

「しかし機械鎧は右手だけのようで」

「……」

「重心が僅かに右に寄っているように見受けられましたので」

「本当に、良い眼をしていますね……」

 

 エルバの観察眼に鋭い視線を送るバルマ中佐。そんな彼に対してエルバも微かに眼を細め、剣の刃面に鋭い眼光を反射させながらバルマの錬金術に対して考えを巡らせていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「熱?」

「ああ、そうだ。バルマ中佐の錬金術は熱に関係している」

「確かに中佐の手袋が焼けてるみたいでしたけど、大佐と同じ感じですか?」

 

 観客席ではマスタングがバルマ中佐の錬金術の正体について解説を行っていた。錬金術師ではないハボック少尉やヒューズ中佐はもちろんのこと、数席離れた位置に座るオリヴィエもまた興味深そうに聞き耳を立てていた。

 

「いや、私のものとは異なる。私は焔を、正確には酸素濃度だが、それを操作した結果熱が発生するだけだ。だが彼の錬金術はその手に刻まれた錬成陣で触れた対象そのものの熱量を操作する」

「はー、ほんとデタラメ人間ばっかだな」

「食い物暖めるのに便利そうっすね」

「大佐、他の錬金術師の錬金術について口外してもよろしいのですか?」

 

 ホークアイ中尉の言葉に少し困ったように笑うマスタング。

 

「確かに、中尉の言う通りあまり他人の錬金術についてべらべらと話すものじゃないが、こんな場に出てきて披露しているんだ、多少は構わんだろう」

 

 それに、と続けるマスタングの表情が微かに曇ったかと思うと、困ったように肩をすくめて短くため息を吐いた。

 

「私にも理屈はさっぱり分からん」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「灼陽の女王……ベネルト准将が貴方に執着している事は、私が南部に派兵された頃から存じております。そして貴方が今は氷の女王ことブリッグズ砦のアームストロング少将の懐刀と呼ばれることも」

「……それが、なにか?」

 

 バルマ中佐は左手の手袋を外しながら呟く。その左手は確かに生身の人間の手をしていたが、元の肌が見えない程に深く傷つき酷い火傷のような凍傷のような古傷がいくつも見て取れた。

 突然の彼の言葉にエルバも一瞬きょとんとしてから聞き返す。

 両手の手袋を外したバルマ中佐が、準備運動をするかのように何度か両の手の指を開いては握り込む。

 

「ベネルト准将もアームストロング少将も節穴などとは思っておりません。事実、貴方は黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士鉄獅子勲章を授与されている。……だからこそ、直接知りたいのです。アメストリスの天剣、それがどれほどのものか、体感してみたいのです」

「……光栄ですが、ご期待に添えるかどうか……」

「どうか、私が納得するまで、その腕前を見せて頂きたい……ッ」

 

 それだけ言うとバルマ中佐は再び駆けだした。

 エルバは焦ることなく落ち着いた様子で、チラリと足下に落ちているナイフを確認すると、抜刀している剣先をナイフへとあてがいくるりと回しはじめる。何回転かの後、剣先ですくい上げるようにナイフを持ち上げ、回転の勢いを乗せそのナイフをバルマ中佐へとまるでラケットでボールを打つかのように、弾くように投げ飛ばす。

 しかしバルマ中佐の脚は止まらない。駆け抜けながら自身の金属製の右手の平を突き出し、飛来するナイフへと向ける。それは戦闘の素人から見ても、金属でできた己の機械鎧での防衛行動だと思われた。しかしその想像は大きく外れた。

 

「この程度……ッ」

「ッ……!?」

 

 バルマ中佐の手にナイフが触れる直前にその手からは錬成反応が。ナイフの刃がバルマの手に触れるやいなや、まるで雪か、それとも水に溶ける綿菓子のように、そのナイフは一瞬にして真っ赤に熱され粘度を含んだ液体のようにどろりと溶け出し、その滴は糸を引くように引き延ばされながらバルマの右手の指の間をすり抜けていく。

 その錬成能力もさることながら驚くべきはその錬成速度と精密かつ熟練された練度だった。金属を容易に融解させてしまうほどの熱量を瞬く間に錬成したのだ。それも己の機械鎧は溶かさぬように。

 

「お返しですッ……!」

 

 バルマ中佐は溶け出した超高温の()()()()()()金属をそのまま右手で鷲掴むと、熱され朱色に鈍く燃え光る液体金属をエルバへと投擲する。

 しかしエルバも、飛来するそれを()()して身を翻す。金属がへばり付くため剣で捌くことはできないものの、弾丸飛び交う戦場を駆け抜けてきたエルバにとって体一つで躱すことは造作もなかった。

 

「本当にッ、速いですねえッ!」

「ッ!?」

「脚ッ、一瞬止めていただきますよッ……!」

 

 エルバの懐へ飛び込むバルマ中佐、それはエルバにとってもバルマにとっても必殺の間合い。身を屈め極力的を小さくしながらエルバの足下に迫るバルマ。腕を軽く振ると、その右手の裾から何か液体の入った小瓶がするりと落ちてくる。それを落とさぬよう掴み、咄嗟に頭を引いて躱すエルバの眼前で、猫だましのように両の手を合わせると同時に挟み込んで叩き割る。

 両手に瞬く漏電反応があったかと思うと、その液体が気化したのか、膨張した大量の蒸気が2人の体と視界を覆う。

 剣先で足下のバルマを刺し貫くように構えていたエルバだったが、その蒸気により視界は遮られる。

 このままバルマのペースに飲まれてはまずい、エルバは視界に広がる真っ白な蒸気の向こうに微かに揺れる影か見えた。殺す気はない、しかし多少の怪我は致し方なしと自身の中で問答し、エルバの切っ先はその影を刺し貫いた。

 

「囮……ッ!?」

 

 金属の剣先が石畳を刺し貫く激しく鈍い音、手応えはなかった。

 蒸気は一時的なカモフラージュに過ぎず、この数瞬の間に晴れていく。エルバの視界に見えたのは自身が刺し貫きサーベルで石畳に縫い付けたバルマ中佐の軍服だけだった。

 

「殺るッ……今ッ!!」

 

 大きく避ける暇はなかった。いや、保身のために大きく身を翻していては、ほんの微かに、一瞬作ることのできたこの隙を突く前に体勢を立て直されてしまう。そんなことはバルマ中佐が一番よく理解していた。

 エルバの足下で己の軍服を囮に最小限の動きでその凶刃を躱したバルマ中佐は、左手を自身の後ろ腰へと回し、水筒のようなものを取り出す。バチバチと錬成反応を見せる左手で、その液体の入った容器をエルバの右足元へと叩きつける。

 破砕された容器から飛び散った液体は一瞬のうちに凍結し、エルバの右足を捉える。仕切り直すため一度下がろうとするエルバだったが、自身の右足が地面に縫い付けられたかのようにガクンと停止する。ただの水であればいくら凍り付こうが、あの量でここまで頑強な氷にはなるまいと、エルバが一瞬自身の右足に意識を向けていると、バルマ中佐はその隙を突くように流れるような攻撃を仕掛ける。

 

「フッ……!!」

 

 エルバの足下に身を屈めた状態のバルマ中佐は、右足の裾に仕込んだナイフを引き抜く。何度目かの錬成反応、右手に握り込まれたナイフが溶け出さぬ程度に、しかし人体に致命的な重度の火傷を与えるには十分なほど、赤く熱される。足下から立ち上がる勢いそのままに、下から上に刺し貫くようナイフの一閃を振り上げるバルマ。熱された赤い輝きが軌跡となって追従し、火の粉のような溶鉄が舞う。

 蒸気と囮で虚を突かれ、片足を捉えられたエルバ。対して素早く流れるような連撃を繰り出すバルマ。遅れをとったエルバだったが、その眼だけは、バルマの動きを、飛び散る火の粉を、舞う粉塵を全て捉えていた。

 

「いや、遅い……ッ」

「……ッ!?」

 

 自身の顎を狙って下から突き上げてくるナイフ。エルバはそれを()()と、ほんの少し頭を引き最小限の動きでその刃先を躱す。眼前を過ぎていくナイフの熱を肌で感じるほどの薄皮一枚で回避する。

 大きく空振るバルマ中佐の隙だらけの右脇腹、そこに峰打ちを叩き込むためにサーベルを構えるエルバだったが、ここまで冷静に戦ってきたエルバに微かな驚愕の色が見えた。彼の視界に入ってきたのは、大きく振り抜かれたバルマの右半身と、そこからそっと回された左手に握られたハンドガンの銃口だった。

 振り抜いた右腕の肩越しにバルマ中佐の瞳は確かに、未だエルバを捉えていた。一筋縄でいかぬ事など百も承知、だからこそ抜かりなく、念には念を、隙を与えぬ幾重にも周到に準備された攻撃だった。

 引き金にかけられた指は一切の躊躇いもなく、撃鉄を落とす。火薬の弾ける爆音が二発、会場を(つんざ)いた。

 

「くッ……!」

「ッ!!?」

 

 誰もが反応どころか、認識すらできない刹那の世界で、エルバだけはその弾丸を視認した。構えていたサーベルを眼前に立て刃を飛来する弾丸の軌道にあてがう。

 弾け出す弾頭はエルバの構えた刃に当たると真っ二つに両断され、エルバの両側へと分かれるように飛んでいく。二発分の鉛玉を両断するも、二発目の弾丸の片割れは大きく軌道を外れず、エルバの右肩を掠めていく。

 

「まだッ……」

 

 バルマ中佐が次弾を弾こうと引き金に力を込める。

 対するエルバは凍結された右足を軸に強烈なローキックを放ち、バルマ中佐の脚を後ろから払い飛ばす。

 体勢を崩したバルマ中佐の視界に抜けるような青空が広がった。背中から倒れる中、それでもバルマは受け身を取るよりも、もう一発エルバに銃弾を叩き込むことを優先する。重力に引かれながらも左手の指先に力を込めた。

 エルバは蒸気に包まれていた先刻と同じように、足下に落ちていくバルマ中佐を刺し貫くかのようにその剣先を構える。バルマが銃を弾くのと、エルバが突きを放つのはほぼ同時だった。

 会場を包み込む三度目の銃声。しかしそれは火薬の弾ける快音ではなく、金属の激しくぶつかり合う鈍い音と混じり合っていた。

 バルマの銃が弾丸を発射すると同時にエルバの剣先はその銃口から水平に切り裂くように刺し貫く。弾頭はバレルの中で両断され上下に分かれるように飛び出し、裂かれ砕けた銃身の部品が宙を舞う。切り裂いた剣先は勢い余り再び石畳を穿った。

 

「ッ……」

「ゲフッ……!」

 

 射出された弾丸の片割れは空の彼方へと飛来し、もう半分はエルバの右足を掠め地面に砕ける。エルバは己を掠めた弾丸の破片に顔を歪ませ、バルマは受け身もなく背中から地面に叩きつけられ、肺から弾けるように空気を吐き出してしまう。

 

「カハァッ……ま、だッ……!」

 

 背中と同時に後頭部も打ち付けたようで、ぐらりと歪む視界の中で、バルマは息も絶え絶えに己の機械鎧の右腕に力を込める。肘を曲げ前腕だけをなんとか持ち上げると機械鎧の手首を外側へと倒す。するとその関節部分から顔を覗かせたのは一発のライフル弾。

 仕込み銃ではない、言うなれば仕込み弾丸。発射機構などバルマには不要。青白く瞬く錬成反応がその機械鎧を包むと薬包は熱され弾頭は弾け飛ぶ。バレルはなく、狙いも雑だが、眼前にいる目標へ当てる程度であれば問題はなかった。

 そう、それがエルバ・クライスでなければ、問題はなかった。

 

「ぐゥッ……!!」

 

 ライフル弾の初速は拳銃弾のそれとは比にならない。ライフル弾を視認したエルバもそれは理解していた。

 突如として王手を突きつけられたエルバが渾身の力で体を捻り上げる。ガラスの砕けるような亀裂音と共に固められていたエルバの右足が捻れるように動き出す。

 先程よりも激しい銃声が耳を劈く。下から迫る凶弾はエルバの体を撫でるように天へと駆け上る。自由となった右足を軸に回転するように身を翻し、その致命の一撃をなんとか躱すエルバ。しかし彼でも無傷とはいかず、弾丸は微かにエルバの左こめかみを掠めていく。強烈な回転のかかった鉛玉は確かにエルバの肉を抉り取った。

 こめかみという当たり所のせいで、傷の深さ以上の鮮血が吹き出し、観客席から息をのむ声が聞こえる。

 しかしそんな傷も出血も構わず、エルバは躱した勢いのままに体に回転を加え、己の膂力に遠心力が上乗せされた刃を振り抜いた。回転する彼の軌道に赤い液体が追従し、円を描くように辺りへと飛び散る。

 バルマもまた己の認識が追いつくよりも速く、無意識にその機械鎧の右腕に錬成を行う。知覚は追いつかなくとも、歴戦の経験から相手が次にどこを狙ってくるのかは分かっていたからだ。

 バチバチと弾ける錬成音と共に熱され赤々と染まるバルマの右腕。触れるものを瞬く間に溶かしてしまうその機械鎧に、甲高い金属音が鳴り響いた。

 飛来するナイフを瞬く間に溶かしてしまうバルマの錬金術だったが、その神速の刃を捉えることはできず、エルバの振るった刀身は僅かばかりの白煙を纏うも溶解には至らず。

 振り抜かれたエルバの剣は溶かされるよりも速く、その神速の刃で朱色の右腕を切り飛ばした。

 バルマの持ち上げていた機械鎧の右腕が弾かれるように数メートル彼方の石畳を転がる。

 

「まだァッ!」

「いやッ……」

 

 右腕を吹き飛ばされて尚も、左手を錬成反応と共に突き出そうとするバルマだったが、それよりも速くエルバの右足がバルマの左肘を踏み抜くように押さえ込む。そして左の膝を立てバルマの右肩を押さえる。

 片膝立ちのような状態でバルマへとのし掛かり彼の自由を奪ったエルバは、そのサーベルの刃を上から押し切るかのようにバルマの首筋へと立てる。

 

「勝負あり、でしょう……流石に」

 

 打ち付けた後頭部と激しい運動、目が回るほどの攻防にぐらぐらと揺れていた視界が徐々に正常さを取り戻すと、バルマ中佐の視界には突き抜けるような高い青空を背に微笑む英雄の姿があった。

 なんとも清々しく、完敗だった。思わず笑いが込み上げてきたバルマ中佐はひとしきり笑い声を上げると、ふうと小さく息を吐いて呟いた。

 

「完敗です。……あなたは強い、本当に」

 

 その一言に実況がエルバの勝利宣言をすると、静まりかえっていた観客席から盛大な歓声が轟いた。

 降り注ぐ歓声と音楽隊の演奏が降りしきる中、エルバはバルマ中佐から立ち上がると彼の左手を掴み引き起こす。

 

「あなたは本当に強かった。ご教示いただき痛み入ります」

「なにを、中佐こそ。身が引き締まる思いでした」

「謙遜も遠慮もおやめ下さい天剣殿。……お察しの通り、私はあなたを殺すつもりで挑みました。入念に下準備もし、虚も突きました。そうしなければ勝負にならないと思ったからです」

 

 エルバが困ったように微笑みながら刀身を鞘へと収める。バルマ中佐は左手で自身の体に纏わり付く土埃を払い、投げ捨てられた自身の軍服の上着を拾い上げる。

 

「ですがあなたは、そんな私に極力怪我を負わさぬように立ち回っていました。もし最初からあなたも私と同じように、こちらを殺す気できていたなら、勝負にはならなかったでしょう。完敗です」

「そんなことは」

「ご安心下さい。それでプライドが傷つけられたなどおこがましい事は言いません」

 

 バルマ中佐は体の調子を確認するように左腕や右肩を回しながら、吹き飛んだ己の機械鎧を拾いに行く。

 数歩歩いた彼が少し振り返って、少し意地が悪そうに呟く。

 

「お二人の女王が取り合う理由が分かりました。灼陽の女王……、ベネルト准将には()()()()()()()()()()()()()()()()だと、改めて念押ししておきますよ」

「いや、それは少々困ると言いますか……」

 

 戦闘中の鬼気迫る雰囲気がすっかり消えてしまったエルバを見て、バルマ中佐はもう一度おかしそうに微笑むと、そのまま拾い上げた機械鎧の腕で手を振るようにガシャガシャと揺らすと、選手入場口の奥へと消えていった。

 

 



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05話 今宵、あなたと

『それでは! 早速選手紹介です! 東の門にご注目! 最後の代表、アメストリスの心臓、中央(セントラル)が選出したのはこの人! 鉄血の錬金術師ことバスク・グラン准将の入場です!』

 

 夕刻が迫り会場に微かな茜色が差し込む頃、実況が手で指し示す東門は怪しく黒々とした影の中に沈んでいる。その奥から重く硬い軍靴の音が聞こえてきた。誰もが知るその大物の紹介に軍関係者たちも思わずざわつく。

 ぬっと、入場口の影から姿を現したのは褐色の肌に綺麗に剃られたスキンヘッド。大柄な体躯に立派な髭。顔に横一文字に刻まれた古傷。国家錬金術師、鉄血の名を冠するバスク・グラン准将その人だった。

 

「我が名は鉄血の錬金術師バスク・グランッ!! 鉄と血ッ! すなわち兵器と兵士ッ! この身こそ闘争の手本とならんでなんとするッ!!」

 

 グラン准将の両腕には錬金術の構築式が刻み込まれた自慢の白銀に煌めくガントレット。拳を打ち鳴らすようにぶつければ荒々しく火花が飛び散る。

 先の第二試合が終了してからまだ僅かばかりの時間しか経っていないが、時間が押しているらしく、会場では早くも最終試合のカードが発表されていた。

 選手控え室にて先程の戦闘で負った傷に応急処置を施し、こめかみからの出血を抑え額に包帯を巻く。鏡に映る自身の姿を見つめるエルバ。

 

「……よし」

 

 遠くから自身の紹介をはじめた実況の声が聞こえる。一息吐いた彼は気合いを入れるかのように頬を叩くと、控え室を後にした。

 胸中に押し寄せるものは、己が栄光を手にした後の今宵の女王の姿か、それとも、湧き上がる歓声と楽しげに隣人と肩を抱き合う観客達の姿を、翌年には見られなくなる事への悲哀か――。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『アメストリス建国祭メインイベントもいよいよ残すところ最後の一戦! 公開実戦演習最終試合! それでは、開始して下さい!!』

 

 二人の男が中央で睨み合う中、実況が声高らかに最終試合の開幕を告げると、これまでよりも一層大きく盛大なファンファーレが音楽隊より奏でられ会場の空気を最高潮にまで盛り上げていく。

 湧き上がる声援の中、選手二人だけはお互いの眼を見つめたまま逸らさない。油断も、手加減も、花を持たせる気もない。互いに相手の力量は十分なほどに知っていた。

 エルバから見たグラン准将は歴戦の雄であり、自身より一回り大きな体躯は飾りではなく、その組まれた大きな拳は威厳を示すためのものではなく、実戦における武器の一つであると知っている。グラン准将からみたエルバもまた然り、非錬金術師でありながらその常軌を逸した戦闘力はまるで得体の知れない魑魅魍魎の如く見えていた。

 

「グラン准将。大変失礼ながら、私自身の鼓舞のため失言をお許し下さい」

「よかろう、言ってみろ」

 

 ふっと目を伏せたエルバが俯くように小さく頭を垂れると、自身に言い聞かせるように静かに、しかし力強く言葉を紡ぐ。

 

「……准将、どうか本気でお相手下さい。私は、手加減が苦手なのです」

「……ッ、よかろう」

 

 思わぬ言葉に一瞬きょとんとしてしまったグラン准将だったが、ニヤリと頬を吊り上げると、こめかみに僅かばかり血管をぴくつかせる。

 力強くどうどうと組まれていた腕を解くと、そのガントレットの両の拳を打ち鳴らし錬成の体勢へと入る。しかしそれよりも速く動いたのはエルバだった。

 

『クライス選手! 今大会初めての先制攻撃だァ!』

 

 いつの間に抜刀したかも分からなかった剣を右手に、エルバは石畳も砕けるのではと思うほどの力強い踏み込みと共に、弾丸を弾くが如く飛び出した。

 

「ヌンッ!!」

 

 思わぬエルバの速度に驚愕するグラン准将だったが、一瞬の間を作ることもなく即座に対応する。

 打ち合わせた自身の拳をそのまま握り込み、両手のガントレットを槌の様に振り下ろして地面を殴りつける。

 石や土、砕石にコンクリートなどを素材に大量、大質量の錬成物が即座に繰り出される。腕よりも太い鎖の先に繋がれた象をも射殺しそうなほどの槍先、巨大な鉄球、巨人仕様かという巨大な剣先、その他大小様々な大量の武器と鈍器。暴力が大波の様にエルバを飲み込まんと押し寄せてくる。

 

「……っ」

 

 しかしエルバは体を半身にし、ギリギリの隙間を縫うように躱す。そして避けきれない一撃を剣で払うように軌道をずらし、最低限の動きと体力でいなしていく。

 圧倒的暴力の雪崩を前にしてもエルバの直進は止まらず、グラン准将の目前まで差し迫る。今試合初めて大きく振り上げた剣先をグラン准将へと横一線に薙いだ。

 響く鈍い音はエルバのサーベルがグラン准将がすんでの所で錬成した石壁を横薙ぎに叩っ切った音だった。上下に斬り離された壁の上側がバランスを崩して倒れ、巨石の砕ける轟音と土煙が舞う。障壁によって一瞬グラン准将の姿を見失ったエルバだったが、斬られた石壁の断面を転がるように障壁の向こう側へと着地する。あの圧倒的物量の錬金術を知っているからこそ、距離を取られるのはこちらが一方的に不利になると理解している。エルバは距離を詰め続けるしかない。

 しかしエルバがそう動くことはグラン准将にとっても百も承知だった。

 エルバが着地したすぐ足下に、片膝をついて待ち構えていたのは鉄血の錬金術師。

 

「フンッ!!」

「ぐっ……!」

 

 軍隊格闘術の達人であるグラン准将の強さは錬金術のみにあらず。距離を詰めての戦いは望むところ。そう言わんばかりに鋭い掌底がエルバの顎を打ち抜かんと振り抜かれた。

 なんとか咄嗟に頭を引いて躱すエルバにすかさず返しの左拳。ボディを打ち抜くその一撃に、エルバが合わせるようにサーベルを構える。このまま拳を振り抜けば弾丸をも構えて切り裂くエルバの刃を前に、その左拳はガントレットごと切り裂かれると思われた。

 

「温いわァッ!!」

「ぐっ……!」

 

 刃を立てるエルバのサーベルに咄嗟に左拳の軸をずらし、左手ガントレットの手甲部分から滑らせるように前腕全体を用いてサーベルを弾く。ギリギリという鈍くも甲高い金属音と共に、眩いくらいの火花が剣とガントレットから飛び散る。

 グラン准将が、そのまま掌底で振り上げていた右手を握りしめ、(いわお)のように巨大なその拳を槌のようにエルバの頭頂部めがけて振り下ろそうとする。しかしエルバは咄嗟に体の重心を移動し、素早く前へと倒れ込むように右肩でのショルダータックルをグラン准将へとぶつけ一歩後退させる。

 先程より半歩ほど離れたこの距離はグラン准将の拳よりも、エルバの剣の間合いに適していた。弾かれていた剣を振り抜く様に横一線に走らせるも、グラン准将は再び刃の側面へと自身のガントレットを擦り合わせるように弾く。エルバが流れるように一歩踏み込んでからの縦一閃、それを三度(みたび)グラン准将が弾く。激しい火花を散らしながらエルバの連撃を凌いだ。

 それは見事な体術と言うしかなかった。決してエルバの()のように神速の剣撃を見切っているわけではない。しかしグラン准将の培ってきた経験による戦いの勘はエルバの剣筋を確かに捉えていた。

 ならばとエルバが刺突の構えを取ると、それを待っていたかのように防戦一方となっていたグラン准将の眼が見開かれる。

 

「フンッ!」

 

 エルバが刺突のために剣と腕を引き絞ったとき、それに合わせるように自身の右腕を突き出したグラン准将が、構えるエルバの左手首を捕まえた。咄嗟に振り払おうとするエルバよりも速く、グラン准将はその腕を外側へと捻り上げる。中央(セントラル)派の客席からか、どこかから「取ったッ!」と言う声が聞こえた気がした。

 握り締めたサーベルこそ手放しはしなかったが、外側に捻り上げられた左腕は関節の可動範囲限界まで極められ体が動かせない。開幕から動き続けていた二人の体が一瞬制止し、観客が思わず生唾を飲み込む。終わった……?、誰かがそう呟きそうになったとき、エルバの脚が宙を舞った。

 極められた左腕を軸に、まるで宙で側転でもするようにアクロバットな動きで関節技を回避するエルバ。外側に極められた関節は()()()()()()事で正常な可動域へと戻る。

 

「おおッ、見事ッ!」

 

 思わず感嘆の声を上げるグラン准将に、右手にサーベルを持ち替えたエルバの刺突が迫る。両腕をクロスさせガントレットで跳ね上げるようにそれを捌く准将。

 

「まだッ……!」

 

 跳ね上げられた剣を追いかけるように解放された左手もしかと柄を掴む。両の手で握り込まれた剣を引き下ろす様に上から斬り伏せる。その剣撃にはクロスさせたガントレットを斬り伏せるには十分の圧力があった。

 

「ぬうウゥッ!!」

「ッ!?」

 

 それを察知するグラン准将は全身の筋力を引き締め渾身の力で()()()()()。エルバの剣先がグラン准将の顔面左側面を縦に薙いだ。こめかみから顎にかけての裂傷は深く紅い体液が噴き出す。

 致命傷を負わせる気など毛頭なかったエルバは、ガントレットを切り裂き錬金術の発動を制し勝ちを得る算段だった。しかし思わぬグラン准将の()()()()()()()により止められない剣先はその頬を引き裂いた。

 

『おおおっとっ! 激しい出血ッ、だっ、大丈夫ですか准将!?』

 

 将校の負傷に思わず実況が試合の続行を躊躇するも、グラン准将が手を上げ試合終了の合図を制する。

 

「この程度で止めるでないわ! ()()()()はまだまだこれからよッ!」

 

 そう叫ぶと腕を大きく振り上げるグラン准将。しかしそれはエルバを攻撃するためのものではない。しまったとエルバが踏み込もうとしたが時既に遅く、ガントレットが打ち鳴らされる音が反響する。

 激しい錬成反応の明滅と共に石畳を叩くと、石や土が盛り上がる。それは武器を形成するものではなく、エルバの足下から石柱を作り出していた。

 斜めに錬成された石柱に押し上げられるように、強制的に距離を取らされるエルバ。錬成の勢いに押され宙返りしながら勢いを殺し着地するも、眼前には間合いから大きく離れた准将の姿が。

 

「ッ……!」

 

 思わず舌を鳴らしながら駆け出すエルバ。あの濁流の様な錬成をかいくぐって距離を詰めるのは決して楽なことではない。彼はそれをこの会場の誰よりも理解していた。

 脚力を奮い立たせて最短距離で突っ込むエルバに、グラン准将は再びガントレットを打ち鳴らす。その拳が地面を叩くと、エルバが准将に届くよりも先に、幾本もの石柱や石のトゲが地面から生えるようにエルバへと迫る。

 

「ッ!?」

 

 それを斬り伏せようと剣を振るったエルバだったが、思わぬ手応えを感じ、その刃は石柱を両断することなく中央辺りで制止する。

 これにはエルバも一瞬驚愕するも、次々と迫る石柱とトゲを回避するため剣を力ずくで引き抜き転がるように回避する。

 天剣斬れず。一瞬だったがそれを目の当たりにした観客からはどよめきが起こる。エルバは立ち上がると静かにサーベルを見つめる。その刃面に写る自身の額からは、痛々しい真っ赤な血が包帯に滲んでいた。

 

「斬れぬか! アメストリスの天剣よッ!」

 

 ガントレットを構えてそう叫ぶグラン准将に違和感を感じたのは他でもないエルバだった。なぜ准将は追撃をしてこないのか、なぜ構えて待っているのか。

 周囲のどよめきも気にすることなく、エルバは答えを求めて駆けだした。

 エルバがグラン准将の眼前へと差し迫った瞬間、准将は素早く石の壁を錬成する。先程は両断するに至ったそれはまた、エルバの横薙ぎの一閃を途中でせき止めた。

 見間違いではない天剣の姿に周囲のざわつきは大きくなる。

 

「フンヌァッ!」

 

 石壁の途中で止まる己の剣を見つめ一瞬硬直するエルバの耳に、その壁の向こうからガントレットの打ち鳴らす音とグラン准将の雄叫びが聞こえた。

 ハッとしたエルバが剣を引き抜き後ろに飛び退くように距離を取るも、壁を叩いたグラン准将は石壁から幾本もの槍を生やす。串刺しこそ免れたものの、幾本かの槍先がエルバの体を撫でるように切り裂いた。

 

「ぐっ……!」

 

 演習の域を超えているんじゃないかと誰かが言い出しそうで、しかし戦う二人の(ゆう)の姿を見ると、口を挟める雰囲気ではなかった。

 

「……なるほど」

 

 そう呟いたのはエルバだった。己のサーベルを、正確にはそのサーベルの刃面についた小さな傷跡を見つめた後、ゴロゴロと転がっているグラン准将の錬成した残骸へと視線を送る。少し考えるように眼を細めた彼だったが、その顔に薄っすらと不敵な笑みが零れた。

 

「不躾ながら准将、素晴らしい錬成練度と発想ですね」

「……」

 

 種が分かったようにそう零したエルバが、剣を手にグラン准将へと()()()()()。少し驚いた様子の准将だったが、こちらに歩み寄るエルバに対しガントレットを構える。

 

「気づかれてしまったか。しかし、分かったところで策はあるのかッ、天剣ッ!」

 

 エルバが一定の距離まで近づいたところで再び地面を叩いたグラン准将。エルバの足下から石柱と石トゲが錬成される。

 

「ッ!!」

 

 それに対しエルバは一瞬、ほんの刹那、動きを止めその錬成物を()()した。そしてエルバが一瞬の間の後に剣を振るえば、石柱と石トゲは滑らかな断面を残して一刀の元に斬り伏せられた。

 

「確かに私は普段、相手の錬成するものの形状、質量、規格、素材などを()()して剣を振るっています。そしてそのモノに対して完璧な角度で切りつける事で、斬り伏せる」

 

 エルバが剣を振り抜くと、風圧に土煙が追従する。再びエルバがグラン准将へと()()()()

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「だからグラン准将は、()()()()()()()錬成した、と?」

 

 ホークアイ中尉の言葉に頷くのは観客席で観戦していたマスタング大佐。

 

「先程のアームストロング少将の仰る通りに、クライス大尉が切りつける対象物を推察し、それに合わせて剣撃を放っているというならば」

「ふん。エルバ(アイツ)がそう言っていたからな」

 

 ちらりとにわかに信じられないとオリヴィエに目を配るマスタング大佐だったが、それに鼻を鳴らして当然のように答えるオリヴィエ。

 

「信じらんねえ。()()()()()()()、あいつ」

 

 肩をすくめて苦笑いを浮かべながらどこか呆れたようにぼやくヒューズ中佐。

 

「相手が優秀な錬金術師で、()()()()()()()()()を構築してしまうと、クライス大尉にとってはやりやすい、と」

「優秀であればあるほどな。鋼のが手も足も出ないわけだ、皮肉なことに。だが、グラン准将は自力でその推察へと辿り着き、あえて歪な形状、重心のずれ、余計な素材、そういった錬成を行い、クライス大尉の凶刃を止めて見せたわけだ」

 

 ホークアイ中尉の疑問に頭をかきながらどこか信じられないと言わんばかりに答えるマスタング大佐。

 

「しかし今度は、()()()()()にクライス大尉が気づいた」

「でも、歪だって分かったからって、どうやってもう一回斬れるようになったんすか? どんな変わった形状にするかなんて、錬成しているグラン准将本人にしか分からないんじゃあ?」

 

 ハボック少尉がすっかり冷めた売店のコーヒーの残りを一気に呷り、当然の疑問をぶつける。それに答えられる者は一人もおらず、みなが首を傾げるばかりだった。

 

「……」

 

 そこに何らかの秘密を感じ取ったオリヴィエのみが瞳を細めて、自身の知らないエルバの秘密に、どこか苛立たしげに、そして少し寂しげに彼を見つめていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なので、()()()()斬りました。准将がどのようなモノを錬成したのかを視認してからなら、確実に斬れる。⋯⋯多少、目はいい方なので」

「さらりとぬかしおる。目がいいなどという話ではない、恐怖すら覚えるほどの眼力、動体視力、反射神経……そしてそれに呼応する肉体……」

 

 苦虫を噛みつぶしたかのように表情を曇らせるグラン准将。目の前の男の得体の知れない、底知れぬ強さに思わず自身の鼓動が聞こえてくる。恐怖しているのか、この若造に。そう自問自答するグラン准将のこめかみから、激しい脈動に呼応するように鉄臭い血液が溢れ出してくる。

 エルバの踏み込みが砕けた石畳の破片を踏みしめる。ジャリという不快な音がグラン准将の意識を引き戻す。確かにその隻眼でこちらを捉えるエルバが駆け出す。斬られるならば勝負はふりだし、近づかせないのがセオリー。

 

「ヌアァッ!」

 

 グラン准将がガントレットを打ち鳴らし、その右拳で無残にも上半分を切り捨てられた石壁を殴り飛ばす。拳の打たれる瞬間に錬成反応が石壁を包み、砕けた無数の砕石が弾丸の様に鋭利な切っ先へと形を変え、回転力を加えながらエルバへと襲いかかる。

 グラン准将の攻撃は止まない。すかさず体を傾け、左拳で足下に転がる自身が錬成した巨大な鈍器の残骸を下から抉り打ち上げるように殴りつけると、再び漏電のような錬成反応が瞬き、砕石の弾丸が第二波となって飛び散る。

 

「まだまだァッ!!」

 

 さながら暴力の暴風雨。グラン准将はエルバと一定の距離を保つように、彼を中心に円を描くように駆けながら、辺り一帯の石やコンクリートの塊を殴りつける。その度に瞬く錬成反応と砕石の(つぶて)が散弾の様に広範囲に撒き散らされる。客席にこそ影響の出ない範囲に抑えられてはいるが、錬金術も使えないまともな人間が防ぎきれるような代物ではなかった。

 

「フゥ……ッ!」

 

 短く息を吐くエルバ。刃を己の前に立て、その刃面に鋭い眼光が反射する。そこには微かな、憤怒が見て取れるようだった。

 あえて踏み込む脚を止める。散弾のように飛来するその(つぶて)は距離が伸びるほどに礫同士の隙間は大きく広がる。即座にそう判断したエルバは駆け出す脚に土煙と粉塵を纏わせ、滑るように踏ん張り己の体を制止する。

 迫り来る弾丸の如き砕石の群れを、エルバの深い瑠璃色の瞳が捉えた。眼帯の下の眼が疼いたような気がした。

 エルバは砕石の隙間を縫うように、石の隙間を水が流れるが如く最低限の所作ですり抜けていく。その眼の焦点は確かに飛び交う礫を視認している。交わせぬ弾は刃面で軌道を逸らし、刃を立て斬り伏せ己の体を射線から外す。

 

「……ッ、まずいな……」

 

 こちらから一定の距離を保って攻撃し続けてくるグラン准将相手に、捌いて身を守り続けていてはじり貧だ。何よりもエルバにとって致命的だったのは、度重なる激しい戦闘の連続に、アメストリス国軍が誇る軍刀サーベルも流石に限界を迎えていた。飛び散る礫の嵐にサーベルのこぼれた刃の微かな金属が混じる。

 

「くッ……!」

「如何に貴君が超人的であろうとッ、その剣は所詮はただの剣ッ! むしろここまでよく保ってくれたものだッ!」

 

 岩石と呼べるほどの一際大きな礫の塊がエルバの顔面へと飛来し、それをサーベルで切り裂いたエルバだったが、その衝突の瞬間金属のへし折れる甲高い音が鳴り響く。エルバの持つサーベルが真っ二つに砕け散った。

 天剣折れる。この日何度目かの衝撃が走る。剣を折る、それすなわち錬金術師の錬成陣を破壊したも同義。流石に勝負ありだろうとグラン准将も立ち止まり礫の嵐を沈める。

 

「もっとも、ここまでその剣が保ったのも、貴君の腕があったからこそだろう。だが、それも終わりだ」

 

 腕を組み満足そうに豪快な笑いを飛ばすグラン准将。次第に辺りの雰囲気もグラン准将の勝ち色に染まり、錬金術師でもないのによくやったと言わんばかりのエルバに対する慰みの色さえ帯び始めた。

 

「それとも、腰に下げられたそのもう一振りの剣を抜くかね? 貴君がそれを抜刀している姿を誰も見たことがないと言うが」

 

 エルバは俯いたままその折れた剣を見つめ、その残った刃を左の指先で撫でる。俯くその表情は観客席からは確認できなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「流石はグラン准将、と言うべきか?」

「うむ、まさかクライス大尉……もとい、()()を止めるとは」

 

 顎髭を擦りながらどこか悔しそうにぼやくヒューズ中佐に、膝に突いた両手を組み、口元を隠すように顎を乗せて支えるマスタング大佐が冷静に呟いた。

 ハボック少尉も頭を掻きながら頬杖を突き残念そうに半眼を宙にさまよわせ、ホークアイ中尉も表情こそ崩さないものの、小さく息を吐いた。

 

「……」

 

 オリヴィエの表情はその毛先のカールする長い前髪に隠れて窺い知ることはできない。しかしその背筋はピンと張ったまま、視線は未だ戦場から外さない。

 

「姉上……?」

 

 アームストロング少佐がそう尋ねたのは、この状況をして自身の姉上殿の口元に僅かばかりの笑みが零れたような気がしたからだ。

 

「……行くぞ」

 

 オリヴィエがおもむろに立ち上がったかと思うと、自身の率いる数名のブリッグズ兵達にそう声をかけた。まるでもう興味が失せたかのように軍服のスカートを翻す。振り向きもせず席を立つオリヴィエにブリッグズ兵達も、さも当然の様な表情で彼女に追従する。

 

「あ、姉上、どちらへ?」

「勝敗は決した」

 

 問いかける弟に振り返ることもせずそう吐き捨てるオリヴィエ。

 

「で、では夜の方は……?」

「……話したはずだぞアレックス。エルバ(あいつ)に言ったのは今宵のダンスパーティー、私の手を引きたくばこの演習で、ブリッグズ砦(われわれ)に勝利をもたらせ、という条件だったと」

 

 チラリとその鋭く冷たい眼光が前髪の隙間からアームストロング少佐を刺す。「しかしそれは……」とエルバを庇おうとする弟を無視するオリヴィエ。

 アームストロング少佐の後ろから「あちゃー、エルバのヤツそんな条件で……」とヒューズ中佐が額に手を当て参ったと顔をしかめ、話しの流れから何やら察しのついたホークアイ中尉もどこか心配そうに未だ俯き剣を見つめるエルバへと視線を送る。

 

「ですけど、剣が折られてもクライス大尉にはまだもう一振り剣を持っていますよね? あれで戦ったらいいんじゃ?」

 

 特に()()()()を知らないハボック少尉がなんて事なさそうに質問にも似た独り言を零すと、アームストロング少佐は腕を組み困ったと言わんばかりに小さく嘆息して視線を空へと送る。

 ハボック少尉へ振り返らず、オリヴィエは怒りも呆れもなく、さも当然の如く吐き捨てた。

 

「この程度の状況でアイツに剣を抜かせられるなら、今まで苦労はしていないさ」

 

 その言葉の意味が分からなかったハボック少尉は小首を傾げ「中尉、どういう意味ですか?」と隣のホークアイ中尉に問いかけるも、彼女もまたアームストロング少佐同様に頬に手を当て困ったように嘆息するだけだった。

 話は終わったと客席の階段状の通路を上ろうと一歩踏み出したオリヴィエに、マスタング大佐がどこか意味深に、その口元にニヒルな笑みを浮かべながら振り返ることもなく声をかける。

 

「しかし少将、……本当に最後まで見なくてよろしいので?」

「……構わん、結果はもう見えたからな」

 

 その問いかけにオリヴィエもまた、振り返ることなく答える。歩を進める彼女が「それに……」と呟く。

 

「着付けに少々、時間がかかるのでな」

 

 小さく振り返ったオリヴィエのその瞳は少し愉快そうに細められ、厚ぼったい艶やかな唇は薄らと笑みを称えていた。

 

 

 

 

******

 

 

 

 

「……いえ、この剣は()()()()()⋯⋯」

『えー、クライス選手の試合続行が不可のっ……!?』

 

 しばし様子を見ていた実況がエルバの言葉から彼が負けを認めたのだと思い、グラン准将の勝利宣言をしようとマイクに声を通したとき、一際大きな風鳴りと一陣の突風が吹き抜けた。

 会場中央ではエルバが、折れた剣を払うように振り抜いていた。刃の剣圧に追従する粉塵を纏いながら、エルバの深い瑠璃色の瞳がグラン准将を射貫く。

 

「……ッ!」

 

 ずくりと、縦に引き裂かれた己の顔の傷が疼く。目の前の男の眼は、その獲物がへし折られる前と何一つ変わってはいなかった。

 

「……よかろうッ! 天剣ッ! 未だ貴君がやるというならばッ、とことんまでッ!」

 

 エルバが未だ微塵も敗北を認めていないことに気がついたグラン准将が、実況のコールを制止させ声を荒げる。

 

「剣一本折られた程度でッ! 戦場で闘いが止まる訳もあるまいッ!」

 

 グラン准将がガントレットを打ち鳴らす。瞬く漏電にも似た錬成反応はエルバを扇動し、己を鼓舞するかのようだった。

 眼前に構えたサーベルを一撫でしたエルバが喉を震わせる。その瞳、未だ憤怒の色は抜けず。

 

「刃渡り30と余り……。ならば、十分ッ……!!」

 

 石畳に亀裂が入るほどの強烈な踏み込みで、天剣が駆け抜けた。

 准将のロングレンジの錬金術に比べて、先程よりも更にリーチが短くなったこちらの武器。後手に回っては受けきれぬ、守りに回ればじり貧、この攻防が恐らく最後の駆け引き、退路は無い、退けば負ける、行くしか無いッ――

 

「来るかッ、この鉄血の嵐の中をッ!」

 

 グラン准将が両の拳で地面を叩くと、准将の体が完全に隠れ見上げるほどの巨大な石壁が錬成される。しかしそれは防壁では無い、攻撃の一手。

 グラン准将が両手のガントレットに眩い錬成反応を纏わせながら石壁を殴りつける。エルバの様子など見る暇も無いほどの連打。

 壁の向こうで准将が拳を振るう度に錬成される(おびただ)しいほどの礫の散弾。散弾の隙間を埋めるかのように第二波、第三波の散弾が矢継ぎ早に押し寄せる。

 しかしエルバは踏みとどまらない。地を這うように極限まで体を低くし駆け抜ける。躱せるものは躱す、短くもその剣で凌げるものは凌いだ。

 

「ぐぅッ……!!」

 

 それでも捌ききれない礫の雨には打たれる覚悟で、体を切り裂かれ、血しぶきを撒き散らしながらもグラン准将の間合いへと詰め寄った。

 

「見事なりッ!!」

 

 撃ち尽くされた石壁には最早エルバと准将を隔てるほどの大きさは無い。砂塵舞う程にエルバが力強く踏み込むと、彼は天を舞うかの如くグラン准将の上空を飛び越える。それを捉えていたグラン准将の視界の隅に、なにかが見えた気がした。

 それは見逃されれば大惨事を招く一撃。されど准将ならば見逃すまいと、ある種の信頼にも似たエルバの置き土産。

 

「グッ、ゥゥウオオオオォォォッ!!」

 

 エルバがグラン准将の上空を飛び越える前に、安全ピンの抜いた手榴弾を落としていたのだ。准将の思考が回転する、後ろには天剣、前には安全装置の外された手榴弾。

 准将の雄叫びは咄嗟にエルバの方へと注意が向こうとする自身の体を無理矢理押しとどめているかのようで。エルバへと向き直る体を正面へと引き戻す。その両腕のガントレットを地面に叩きつけると落下してくる手榴弾を包むようにドーム状の防爆壁を錬成する。

 くぐもっていながらも一際大きな轟音、エルバが准将の後方に着地するのと同時に炸裂する手榴弾。即席の防爆壁は大きな亀裂が入りひび割れるもその爆撃を防ぐ。それでも漏れ出した大量の黒煙が二人を包む。

 

「ッ……!」

 

 グラン准将の背後を取ったエルバがその剣を振り抜く。視えていたのだ、准将が手榴弾を防ぐための錬成を行うと同時に、見えてもいない己の後方に防壁を築いたことを。

 エルバの短いサーベルはそれでも黒煙に燻る石壁を斬り伏せる。この展開は分かっていた。分かった上で来たのだ。エルバの勝機はもっとも死地に近い()()()()()()にしかないのだから。

 まるで初撃の展開を再現するかのように、エルバは両断された石壁の上を転がるように准将の前へと降り立つ。

 

「ヌンッ!!」

 

 着地と同時に待ち構えていたグラン准将の鉄拳が黒煙の向こうから強襲する。そのガントレットを剣で弾くようにいなす。今度はエルバの超近距離での切り上げをグラン准将がガントレットで防ぐ。

 

「ウラァッ!」

「ッ!?」

 

 弾かれた剣を振り下ろすエルバだったが、動き出すその前に、その刀身に准将のガントレットの拳があてがわれた。振るった神速の剣を止める術はなくとも、動き出す前であれば、更には折れて短くなった剣ならば尚更、捉えることは可能だった。

 咄嗟に剣に力を込めたエルバだったが、振り下ろしたその柄には最早刀身は残っておらず、青白い錬成反応とボロボロに分解された刀身だった金属片が降り注ぐ。

 

「ぬぐぅッ!?」

 

 剣が分解された。エルバはそう理解すると最早邪魔でしかない柄を捨て、グラン准将の股の間に一歩踏み込み、そのボディを自身の体重を乗せた肘で打ち抜く。

 ぐらつく准将がエルバの足に引っかかるように転倒する。しかしすんでの所で右手を地面に突くと体を捻り左足でエルバの右側頭部を狙う。

 それを視たエルバは頭を退いて躱す。風圧に髪が揺れるほどの紙一重。

 一歩踏み出すようにエルバは左足で、グラン准将の体を支えるように突っ張っている右足の膝裏を踏み抜く。

 

「ぐうッ……」

 

 支えを失いその場に倒れ込むグラン准将。その顔面へとエルバの右の脚撃が迫るも、両腕でそれを受け止める。絡めるように捉えたエルバの脚を巻き込んで、転がるようにエルバを転倒させる。

 咄嗟に左の脚で准将を振り払うと、二人は間髪入れずに起き上がる。

 

「――――ッ……」

「ヌゥッ……」

 

 お互い未だ一歩踏み込めば必殺の間合い。そこで准将が感じ取ったのはエルバの瞳に映る確かな憤怒。その眼力に思わず背筋が凍り心臓が大きく脈打つ。

 それどころではない、分かっていたはずなのに、その眼に睨まれグラン准将は思わず()()()()()()()()()()()に手を伸ばしてしまった。半ば無意識に両腕を広げてガントレットを打ち鳴らそうとした、その時だった。

 

「なッ……にィッ!?」

「ぐぅッ……!」

 

 エルバの渾身の踏み込み、彼の伸ばされた左腕は打ち鳴らそうとするグラン准将のガントレットの間に挟み込まれ、その錬成陣の完成を阻む。みしり、と骨身の打ち鳴らされる鈍い音を立てながらもその左腕はグラン准将の襟首を掴み上げた。

 痛みに僅かに眉間に皺を寄せながらもエルバはグラン准将を己へと引き寄せる。その腕を掴み関節を極めてやろうとするグラン准将だったが、どうにも、まるで岩か鉄の如くその腕は動かなかった。彼の不動の意思を反映するかのように。

 

「――――ッ!!!」

 

 引き寄せられ覗き見たエルバの眼、深き瑠璃色のその眼には確かに自身を臆させるほどの憤怒が見えたが、それと同時に、若き青年の苦悶のような、なにかに追われる焦りのような、純粋なまでの必死さが見えた気がした。

 その瞬間に、グラン准将はこの戦いの結末を悟った。

 エルバの遠慮のない渾身の右拳が准将の左頬を捉え、骨の軋む音を立てながら、その大きな褐色の体躯を数メートルに渡り殴り飛ばした。

 砂埃を上げて転がるグラン准将は動く気配がなく、しばしの沈黙が会場を包んだ。

 

「ハァ、ハァ……」

 

 肩で息をするエルバ、倒れ伏し動かないグラン准将。アメストリスの天剣と、熟練の国家錬金術師の闘いとしては余りに泥臭い決着ではあったが、勝敗は決した。

 実況と医療班が慌てて准将の元へと駆け寄る。エルバの元にも医療班が駆けつけ、ぐったりとする彼の体を支える。

 「流石に、疲れた……」とぼやくエルバと、飛んでいた意識が戻ったのか、グラン准将が支えられながらも上体を起こし、頭を振る。

 キョロキョロと二人の無事を確認した実況が改めるように咳払いをし、大きく息を吸い込むと、最終試合の結果を告げた。

 

『えっと……、ごほん。……勝者ッ、北方司令部代表ッ! エルバ・クライス大尉ッ! 皆様ッ、拍手をッ! クライス選手にッ! そして本演習に参加した全ての選手達にッ!!』

 

 会場が一気に歓声に包まれ、試合に夢中になっていた音楽隊がハッと己の職務を思い出し、試合終了のファンファーレと会場を盛り上げる演奏を奏でる。

 

「ぅ……くっ……、天剣殿、見事でしたな」

「いえ、准将の胸を借りたまでです」

 

 ゆっくりと立ち上がったグラン准将が、ふらつく足取りでエルバの元へ歩み寄る。エルバもまた痛む体にむち打つ。

 戦闘時とは打って変わって小さく笑ったグラン准将が手をさしだし、エルバと握手を交わす。

 

「一つ、聞きたい」

「……なんなりと」

「この演習では優勝すれば軍部が望む報酬を出すという話しだった。それを目当てに参加した者、他の目的がある者様々だっただろう。わしは職務のため、そして貴君に触発され闘った。……しかし貴君にはもっと別の、なにかがある気がしたのだが。いったい、何のために闘っていたのだ?」

 

 その問いかけに眼をパチパチと瞬かせ、顎に手を当てながら難しい顔をしたエルバだったが、しばし考えた後に困ったように眉を垂らして笑った。

 

「端的に申しますと……、惚れた(ひと)の手を取りたくて……」

 

 その言葉に肩すかしを食らったようにきょとんとするグラン准将だったが、俯き小さくくつくつと笑い出したかと思うと、我慢できないと言わんばかりに心底楽しそうな笑い声を上げた。

 エルバの肩を叩き会場を去る准将は最後にどこか呆れたように、しかし眩しそうにエルバをい見つめる。

 

「若き情熱とはかくも強いな」

「どうされました? 准将」

「いや、何でもないわ。⋯⋯わしも焼きが回ってきたかの」

 

 がははと豪快な笑い声が消えていく。

 顔を差す茜色に眩しそうに顔をしかめ、エルバは応急処置を受けながら自身の怪我の具合を確かめると、困ったように眉尻を下げた。

 

「踊れるかな……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 近年希に見る大盛り上がりの実技演習が終了したその夜。中央(セントラル)ではまた別の盛り上がりを見せていた。

 すっかり日の沈んだ暗い夜空だったが、星の明かりなど全く見えないほどに大通りは爛々と眩い照明に照らされ、軒並み立ち並んだ出店からは美味しそうな食事の匂いと活気溢れる人々の笑い声が溢れている。

 オレンジの電灯が並ぶ中肩を組んで酒を酌み交わす男達に、せっせと料理を運ぶウェイトレス、老いも若きも男も女も年に一度の建国祭の夜に、したたかに酔いしれ日頃の鬱憤を晴らすかのように楽しんでいた。

 商事どころの並ぶ大通りを途中で逸れると、それまでの活気は嘘のように静まりかえる。街灯の明かりは落ち着いた暖かい光を灯し、笑い声と楽しげな喧噪はなりを潜め、どこからかムーディーな音楽が聴こえてくる。

 老若男女が騒いでいた通りと異なり、こちらでは男女の姿がよく見られた。この通りの奥には国営の大ホールが存在し、そこでは建国祭を祝い貴族や資産家など国の有力者らや軍関係者などがパーティーを催している。

 一般人の入場は制限されているが、その会場から漏れ出すムーディーな音楽に耳を傾け雰囲気作りに利用するのが若者達の定番らしい。

 

「あっ、エルバお兄様! お久しぶりです!」

 

 ポツポツと並ぶ街灯に照らされるだけの外とは一変して、その会場内は豪華絢爛で眩い光に包まれたいた。

 ほのかに温もりを感じるブラウン混じりのオレンジのシャンデリアがいくつも吊され、一流のシェフにより調理されたばかりの暖かい料理が次々と運ばれてくる。

 見るからに良い服に身を包み口ひげを生やした初老の男性や、成金趣味を隠そうともしないブランド物で身を固めた女性、周りの人たちが引っ切りなしに挨拶に来る老人など、様々だがそこにいる誰もが位の高い人物であることは誰の目から見ても察しがつくようだった。

 少しの居心地の悪さと、この後の催しを考えるとエルバはどうにもそわそわとしてしまい落ち着かなかった。自身の身を包む軍服も戦闘服を兼ねた普段の常用の物とは異なり、式典などの正装用の物となっており、普段あまり着慣れないその感触がまた一層むずがゆさを感じる。腰に下げられた、新たに支給された真新しい軍刀とは別の、もう一振りの黒革の剣を思わず無意識に握り込んでしまう。

 そんな彼の緊張を解すように親しげに声をかけた来た女性、もとい女の子の姿が見えた。

 

「ああ、キャスリンお嬢様、お久しぶりでございます」

「そんな畏まった言い方はやめてください!」

 

 痛みのない絹のようなプラチナの髪に、シャンデリアの光を取り込みキラキラと輝く大きく蒼い双眸、そしてやはり毛先のカールした前髪。レースの揺れる純白のワンピースドレスに身を包み、エルバと比べて遙かに小柄で人形の様なその少女の名前はキャスリン・エル・アームストロング。オリヴィエの妹にしてアームストロング家の末っ子である。

 胸に手を当て頭を垂れるエルバに、キャスリンは頬を膨らませて抗議する。彼らの仲では礼儀は返って失礼に当たるらしい。

 「すみません、いかんせんこういった場ですので」と肩をすくめるエルバに、そうですねと小さく笑った少女が思い出したように手を叩く。

 

「そういえばエルバお兄様、演習のご様子拝見しました!」

「これは、お見苦しい姿を……」

「怖くて何度も目をつぶっちゃいましたけど⋯⋯」

「少々、過激な演習となってしまいました」

「お怪我の方は大丈夫ですか……?」

 

 心配そうにそっと腕を伸ばすキャスリンの手をとり、安心させるように柔和な笑みを浮かべる。

 

「ご心配をおかけして申し訳ございません。この程度、問題はございませんよ」

 

 そう微笑みかけると、キャスリンはあたふたと慌てたように握られた手を離し胸の前で手を組む。やんわりと頬に朱を差し、どこか照れくさそうにも嬉しそうに「えへへ」と微笑む。

 

「そういえば、お父上は来られていますか? 挨拶だけでも」

「お父様とお母様はあちらでお話しされています」

 

 キャスリンが手で差す向こうに、アームストロング家の当主とその夫人がまた別の有力者らしい老夫婦と雑談している様だった。挨拶はまた改めるかと思案するエルバの肩に、後ろから誰かが勢いよく腕を回してきた。

 

「よー、天剣殿っ、いい試合だったぜ。氷の女王様も満足そうでなによりだ」

 

 それはエルバと同様、正装用の軍服に身を包んだヒューズ中佐の姿と、後ろには同じく正装を着るマスタング大佐とホークアイ中尉が。

 

「ヒューズ中佐、お二人も、いらしてたんですね」

「おう、俺は今来たとこだぜ」

 

 彼が親指で差す方には奥方グレイシアの姿と、小さなドレスに身を包み一心不乱に美味しい料理を頬張るエリシアの姿が見えた。

 

「実戦演習参加者は強制参加らしい」

「私は大佐のお目付役として」

「おいおい、せめて補佐官としてと言ってくれたまえ」

 

 澄まし顔のホークアイ中尉にげんなりとマスタング大佐が苦笑いを浮かべる。そんな二人の様子を見ていたキャスリンも思わず上品に口元を隠して笑みを零してしまう。

 体躯の良いエルバに隠れて見えなかったその可憐な少女にようやく気がついたように、マスタング大佐が声をかけた。

 

「おや、そちらの見目麗しいお嬢様は?」

「こちらは少将の妹君です」

「ううぇっ!?」

「うそ……」

 

 エルバの紹介に思わず面食らったように素っ頓狂な声を上げてしまうマスタング大佐と、ホークアイ中尉も思わず口元に手を当てぽつりと零してしまう。

 

「分かるぜ、ロイ。あの女王様と少佐の家系からこんな血の繋がったお嬢さんが産まれるなんて信じられねえよな」

「……それはどういう意味ですか、ヒューズ中佐」

 

 腕を組みうんうんと頷くヒューズ中佐に思わずエルバの表情が険しくなる。ヒューズ中佐は慌てて冗談だと笑うと、誤魔化す様に再びエルバの肩に腕を回してぐっと顔を寄せ小声で問いかける。

 

「それで、このダンスパーティー、本当に氷の女王様を誘えたのか?」

「え、ええ、まあ。約束通り演習では優勝しましたので、来ていただけるかと……」

「いただけるかと、ってお前、なんにも話してないのか?」

「まあ、演習が終わってからは少将のお姿を見かけておりませんし……」

 

 腕から逃れるエルバに半ば呆れたように心配するヒューズ中佐。その会話を聞いていた後ろの二人も困ったと言わんばかりに溜め息を零す。

 その態度にどこかバツの悪そうな表情を浮かべ頭をかくエルバに、キャスリンがピンと人差し指を立てて微笑む。

 

「姉様でしたら先程、アームストロング家(うち)のメイドの方々と一緒にドレスの着付けをしておりましたので、もうすぐ来ると思いますよ」

 

 その言葉に大きく心臓を鳴らすのはエルバのみで、ヒューズ中佐は顎に手を当て「あの氷の女王がドレス……?」と神妙な面持ちで呟いた。

 

「タキシードの方が似合いそうだ」

「お前、それ絶対本人には言うなよ?」

「私の耳に入った時点でアウトだとは思わないんですか?」

 

 マスタング大佐の思わず零れてしまった本音にヒューズ中佐の心配するような半眼と、エルバの鋭い眼光が突き刺さる。

 彼らが冗談交じりに談笑していると、締め切られていた会場の扉が開かれた。それ自体に特別なことはなにもなかったが、違和感を感じたのは、先程まで自分たちと同じように談笑していた周りの雑音が、まるで水が引いていくようにすっと静まりかえったからだ。

 目の前のヒューズ中佐とマスタング大佐もまた、驚いたように目を見開いて、エルバの後方にある出入り口を見つめたまま口を噤んだ。

 「あ、来ました」と、隣にいたキャスリンの嬉しそうな声だけがやけに大きく聞こえて、エルバは頭で理解する前に、ゆっくりと、後ろを振り返った。

 

「…………――――…………っ」

 

 言葉が何も出てこなかった。そこには確かに彼の待ち望んだ人がいたのだ。

 銀と水晶の飾りはまるでブリッグズの氷と雪を連想させるようで、穢れのない純白は陽光を反射する雪原のように眩く輝く。そこに大人の女性の色気と彼女の気丈さを思わせその魅力を最大限に引き出す黒衣のアクセント。

 大胆にも大きく背中の開かれたバックレスドレス、首元まで覆われて隠されたフロントは楚々たる清らかさがありながらもその大きな胸元が強調されている。その鍛え上げられながらもしなやかで、女性らしい体つきを隠しもしないマーメイドラインのシルエット。腕を隠す純白のレースのロングスリーブから覗かせる麗しき指先は、今宵、軍刀ではなく己のドレススカートをカーテシーのように摘まみ上げ歩く。

 脚を覆い隠すようなシンプルながら絢爛なドレススカートにはスリッドが入り、その逞しくも艶めかしい美麗な色白の脚が見える度にため息が漏れそうになる。

 それは豪華絢爛でありながら淑やかさと品を失わず、隠しきれない芳醇な色香に富みながらも落ち着きのある、アームストロング家に代々仕える仕立屋の渾身の一着だった。

 

「……」

 

 足下を見ることもなく凜とした佇まいで階段を降りてくるオリヴィエ。清らかなドレスながらも溢れる隠しきれない艶めかしい色香は、彼女の名家の長子たる佇まいと所作によってかき消され、淑女としての魅力へと変わる。

 前髪はいつも通り右側に流しているが、後ろ髪は結い上げ白い陶磁器のように艶やかなうなじが背中と共に露わになっている。髪にはドレスと合わせた立花を想起させる輝く金剛石の髪飾り、それはシャンデリアの明かりを吸収しては乱反射させる。

 男も女も、老いも若きも、そこにいた誰もが彼女に見とれ固まってしまう中、その男だけが引かれるように無意気にも力強い足取りで彼女の元へと歩み寄る。

 オリヴィエがエルバの姿に気がつくとその脚を止め、あと数段を残し、エルバより高い位置からその爪の先まで麗しい右の手をすっと伸ばした。

 

「約束のものだ、受け取れ」

 

 差し出された手を下からそっと、彼女を支えるように優しく掴むエルバ。普段の彼女からは想像もできないようなその美しくも儚げな姿は今にも壊れてしまいそうで、彼女の手を支えるための力加減が分からなかった。

 

「……どうか、私と踊って下さい」

 

 絞り出すようなその声が面白かったのか、オリヴィエは小さく微笑んだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そこは右足だ。ほら、私をリードしないか」

「こ、こんな感じでしょうか」

「……まったく、パーティで女一人リードできないのか」

 

 音楽家が奏でる生の演奏に乗せてダンスパーティーは始まった。会場の中央では一層明るい照明に照らされて数組の男女が手を取り合う。その中に、他を霞めてしまうほど目を引く二人がいた。

 慣れたように舞うオリヴィエに、ぎこちなく付いていくエルバ。見よう見まねのダンスは彼の身体能力と反応速度でなんとか補っているようだった。

 

「申し訳ございません……。こういった経験は初めてなもので、慣れていなくて……」

 

 エルバの体がぎこちないのは目の前にいる彼女の姿が視界に入る度に己の心臓がいちいち反応して、鼓動が高鳴ってしまうからでもあった。

 周りでは半ば呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑みを浮かべるマスタング大佐。隣のホークアイ中尉も弟を見守る姉のように暖かい瞳で彼らを見つめる。

 ヒューズ中佐もエルバの姿を見て心底喜んでいるようで、「きれい……」と思わず食事の手を止めて、二人の舞踏に魅入ってしまうエリシアの頭を撫でる。

 

「……そうか、初めてか……。……初めて、か。なら許してやる……」

 

 申し訳なさそうにするエルバの言葉に、どこか機嫌が良さそうにステップを刻み小さく呟くオリヴィエ。

 

「え、なにか?」

「ほら、次は左を下げるんだ」

「は、はいっ」

「今日は私がリードしてやる。……早く私と踊れるようになってもらわんとな」

 

 教育してやると言わんばかりに彼をリードしながらその手を引くオリヴィエ。

 

「いたた」

「ああ、怪我をしていたな。具合は大丈夫か?」

「ええ、まあ。グラン准将がいささか苛烈でして」

 

 二人はステップを刻み、エルバも多少慣れてきたのか彼女のリードに付いていきながらも言葉を交わす程度の余裕は出てきた。

 

「そういえばお前、パレードでは随分と黄色い歓声を受けていたな」

「見て、おられたのですか……?」

「……たまたまな。演習の時もだったか?」

「そう、でしたか?」

「なかなか人気があるじゃないか。さすがアメストリスの天剣、か」

「まったく耳に入っておりませんでした。この胸中を占めるのは今宵の少将との事ばかりでしたので、それ以外は、なにも」

「…………まったく」

 

 エルバの純粋でむず痒くなるほどに真っ直ぐな言葉はオリヴィエの心根をくすぐり、どうにも満更でもない様子を見せる。彼の手を引く力が少し柔らかくなった様な気もする。

 

「お前ならばダンスの相手など、引く手数多だろうに」

「いえ、あまり興味がありませんので」

「その割に今回はやけに食い下がってきたな。……そんな怪我まで負って」

 

 エルバの真意を探るようにその蒼い双眸で、彼の深い瑠璃色の瞳を下から見つめ上げるオリヴィエ。

 

「今回は……、今年は、特別でしたから。どうしても、こうして少将と踊りたかったのです」

 

 エルバはなにかを隠すように、その隠し事を見透かされないよう無意識に視線を逸らしてしまう。

 

「来年は……。次はどうなっているか、わかりませんから」

「どういう意味だ? ……お前は死地に招集されるからな、常に死と隣り合わせな仕事ばかりだからか?」

「人間、明日の事は分からないということです。だから今を、せめて今だけは、どうか……この瞬間を」

「……そうだな。だが、()()はより良い明日を目指して生きていくものだ。……来年も、その次もこうして……」

 

 まるで自分に言い聞かせるようなその言葉にエルバの胸中は温もりが広がると共に、強く締め付けられるような気がした。

 

「次は」

「右ですね」

「覚えるのが早いな」

「ええ、せっかくの短い至極の時間です。踊れなければもったいない」

 

 微笑むエルバに思わず面を食らうオリヴィエ。冷静沈着で大人びており、戦闘となれば慈悲もなく修羅の如き凶刃で敵を屠る。そんな男が今必死に、自分との時間を目一杯共有するためだけに不慣れなダンスを覚えようとしているのだ。どうにもその姿が愛らしく、オリヴィエにはたまらなかった。

 心地よい時間はあっという間に流れ、演奏は終盤へと差し掛かる。それを察したオリヴィエがなにかを考えるように、求めるようにエルバの瞳を見つめると、そっと優しく、扇情的に囁いた。

 

「……最後だ、私を抱き寄せろ」

「えっ、それは」

「早く……」

 

 オリヴィエがエルバの腕をそっと引き寄せ自身の腰へと回す。そのまま倒れそうになるオリヴィエを慌てて支えるエルバは図らずも彼女を抱き寄せてしまう。

 

「……」

「…………っ」

 

 瞬きするまつげがこそばく感じるほど、吐息の湿度で唇が濡れそうなほど、今にもその艶やかで色っぽい唇に触れてしまいそうなほどの距離。

 エルバの深い瑠璃色の瞳にはオリヴィエの蒼い双眸が反射する。顔にかかったプラチナの前髪がはらりと垂れると、彼女の頭を支えるエルバの左手をくすぐる。

 ダンスで微かに上がった体温は今ここに来て更に温度を上げる。戦っていたときとはまた違った心臓の鼓動が体内を反響してエルバの脳を揺らす。微かな汗の混じったシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、緊張で喉が乾くも唾を飲み込むのもはばかられる。

 ぱちりと瞬きする彼女のやけに長いまつげが、エルバの眼にはゆっくりに見えた。

 その美しく絵になる二人の姿に、周りも思わず固唾をのんで魅入ってしまう。まるで皆が口を噤んで絵画でも視ているようで、演奏の止まった会場は呼吸の音さえ聞こえそうなほど静寂に包まれた。

 

「…………っ」

 

 見つめ合う二人の影がそっと近づき、その唇が今にも触れそうになる瞬間、オリヴィエを支えるように身を乗り出すエルバの腰に下げられた、美しい黒革に銀細工の軍刀サーベルの鞘が、とんっとオリヴィエの脚に触れた。

 はっとしたように目を開いた彼女が、触れそうになる唇を離し、愛しげに優しくエルバを抱き寄せてその耳元に唇を添える。

 

「⋯⋯早く抜け、馬鹿者が……」

 

 吐息混じりにそう囁くオリヴィエの息が耳に触れ、エルバの体は思わずぞくりと震える。

 するとオリヴィエは顔を離し、エルバの厚い胸板を押してその腕の中からそっと抜けだした。

 思わず抱き留める形のまま腕を突き出し呆けるエルバに、顔を見られまいと後ろを向くオリヴィエ。何度か息を整えるようにその肩が上下に動く。

 そのまま少し離れたところで小さく振り返ったその表情はブリッグズ砦では見たことがないほど儚く、不安と不満を表すように眉尻が小さく垂れ、その瞳はどこか寂しげに揺れているようにも見えた。

 彼女の小さな囁きはエルバの耳に確かに残り、頭の中を反響する。彼の腰に下げられた銀細工の軍刀が、シャンデリアの明かりを鈍く、反射していた。

 先程まで確かにあった腕の中のぬくもりが、少しずつ消えていく。それを手放したくなくて、己の手を強く握りしめることはできても、今すぐに彼女の背中を追いかけることはできなかった。

 彼の胸中に去来する思いは、人ならざる身でありながら一線を越えずにすんだ事へ安堵か、もう二度と得られない幸福な時間への羨望か……。

 オリヴィエと迎える未来を思い描くと得も言われぬ心地よさがじんわりと胸に広がり、それと同時に黒く重く冷たい絶望が、その描く幸せな未来の絵に墨汁を零したかのようにじわりと広がり、真っ黒に染め上げられていくような気がした。

 

「少将……私は……」

 

 己の中にある想いと使命、やりたい事とやるべき事の狭間、人間の心と人為らざる右の瞳の疼きに、若きその心は引き裂かれるような思いだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 建国祭から一月(ひとつき)ほど。あの日の夜の事は夢だったのではと思ってしまうほどに、オリヴィエの態度は元に戻り、軍服がすっかり似合っていた。

 体の節々に残る怪我の痛みだけが確かな現実の物となってエルバを苦しめる中、興味津々に「建国祭はどうだった」「ダンスパーティーは上手くいったか」と尋ねてくるブリッグズ砦の兵士達をのらりくらりと躱していた。

 

「クライス大尉、中央(セントラル)よりお電話です」

「私に? 中央からの仕事ですか?」

「『ヒューズ中佐からだ』と言えばいいとだけ」

「……」

 

 砦内の執務室で資料をまとめていた彼に通信部の部下が尋ねてきた。エルバは少し嫌そうな顔をすると小さく溜め息を吐いてから通信室へと向かい、受話器を取る。

 

『おー、エルバ聞いたぜ、東部に行くんだってな』

「ええ、まあ。この電話がなければ今頃資料をまとめて出発している頃だと思いますが、なにかありましたか、ヒューズ中佐」

 

 冷静ながらも少し苛立たしげに受話器の向こうに応えるエルバ。すると通話口からヒューズ中佐の笑い声が聞こえる。

 

『悪りぃ悪りぃ、だが間一髪間に合ったって訳だ。ちょっと手伝ってほしいことがある』

「私は東部に行く予定なのですが……?」

『わかってるって。俺も東だ。……綴命(ていめい)の錬金術師の話は聞いたか?』

「……はい。鋼の錬金術師殿が暴いた、国家錬金術師の(うみ)ですね」

 

 唐突に真剣な声色に変わるヒューズ中佐に、エルバもまた真面目に応答する。

 

『その引き渡しで東部まで出向いてやつを中央(セントラル)の中央裁判所まで連れ帰る』

「……その仕事にどうして私が?」

『その綴命の錬金術師、ショウ・タッカーが殺された』

「……話が見えませんが」

『……傷の男(スカー)、って知ってるか?』

 

 乾いた北部の空に降り注ぐ雪がブリッグズ砦の窓を撫でていく。こんな雪の日は中央や東部では雨が降っているだろうと、窓の外を眺めるエルバはぼんやりと考えていた。

 しばらくこの雨は止みそうもない。若き人造人間(人ならざるモノ)の胸中晴れる間もなく、新たな火種は確かに燻りはじめていた。

 

 



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06話 傷の男

 

「おいおいマスタング大佐さんよ。俺ぁ生きてるタッカー氏を引き取りに来たんだが……」

 

 アメストリス東部、綴命(ていめい)の錬金術師ショウ・タッカー邸。

 昨日から降り続く雨により街は灰色に染められ、大きな雨粒は邸宅の窓をパタパタと叩く。

 街を行き交う市民の姿は少なく、湖の底にでも沈んだかのように静謐で暗鬱とした街の雰囲気に反して、この埃っぽい邸宅の中は多くの軍人や憲兵に溢れせわしない空気が漂っていた。

 

「死体連れて帰って裁判にかけろってのか?」

 

 タッカー邸の床には防水性のシートが広げられ、その端からは中年男性と思しき人間の腕が零れるようにはみ出していた。

 大きなシートでも隠しきれないほどに床一面に、酸化し黒々と変色した血の海が広がっており、タイル地の床にこびりつくように乾ききっていた。

 どうやらその遺体はここの主、ショウ・タッカーその人のようだ。

 遺体の側には()()()彼を引き取るために中央から派遣されてきたヒューズ中佐が、突き立てた親指でシートを指差しながら、困ったと言わんばかりに眉間に皺を寄せてマスタング大佐へと尋ねる。

 ヒューズ中佐の護衛役も兼ねて共に中央からやってきたアームストロング少佐も傍らに立ち、後ろ手に手を組み無駄にその胸筋を張りながら参ったものだと髭を撫でる。

 

「たくよ――、俺たちゃ検死するためにわざわざ中央から出向いて来たんじゃねぇっつーの」

「こっちの落ち度はわかってるよヒューズ中佐。とにかく見てくれ」

 

 ヒューズ中佐の詰問に思わず額に手を当て頭を抱えるマスタング大佐。忌々しげに口元を歪ませながら彼ら二人に遺体の確認を求める。

 

「ふん……、自分の娘を実験に使うような奴だ。神罰がくだったんだろうよ」

 

 シートの端を摘まみ上げて中の遺体を確認するヒューズ中佐がその凄惨な遺体に表情を歪める。

 

「うええ……案の定だ」

 

 その遺体の損傷は想定内だったのか、シートを持ち上げてその状態をアームストロング少佐にも確認させる。

 

「外の憲兵も同じ死に方を?」

「ああ、そうだ。まるで内側から破壊されたようにバラバラだよ」

 

 ヒューズ中佐の質問に、外の憲兵の遺体の状態を思い出したのか眉間に皺を寄せ腕を組み嘆息混じりに答えるマスタング大佐。

 それを聞くとヒューズ中佐はピンッと弾くようにシートを離し、その手をハンカチで拭きながらいつになく真剣な面持ちで傍らの少佐へと尋ねる。

 

「どうだ、アームストロング少佐」

「ええ、間違いありませんな。“奴”です」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ごらんなさい、グラトニー。人間はどうしようもなく愚かだわ」

「おろか、おろか」

「……」

 

 リオール。かつて偽りの神の名の下に、欺瞞の教主に支配されていた東部の片田舎の町。しかしそれは鋼の錬金術師の活躍によって阻止され、町には安寧が訪れるはずだった。

 アルフォンス兄弟の活躍も虚しく、町が(くだん)の新興宗教、レト教から解放されることはなかった。

 町は荒れ果て血と埃にまみれた瓦礫と怨嗟の声に満ち満ち、住民達は暴徒となって争い続けていた。

 瓦解したかつての家に力無く座り込む子供。路地裏で力尽きたまま放置され虫と鼠にたかられる死体。倒壊するレト教の石像、鉄パイプを担ぎ血走った目で周囲を威嚇するように練り歩く大人達。飢えと渇きは泥の水にも手を伸ばさせ、人の尊厳が軽くなっていく。

 辺りは、血が混じり黒々とした泥と瓦礫、怒号と罵倒、子供達の鳴き声が響き渡るこの世の地獄の様相を呈していた。

 そんな町の様子をレト教の教会、その上層階のバルコニーから見下ろすのは人造人間(ホムンクルス)色欲(ラスト)暴食(グラトニー)、そして憤怒崩れ(エクスラース)。足下で争う人間達を見下ろすラストが侮蔑するように冷めた目で吐き捨てると、傍らに控えるエルバは何を言うでもなく強く手を握りしめ、ただじっと逸らすことなく、その瞳は地獄の光景を反射していた。

 

「ああ、まったくだ。こうもうまくいくと、その愚かさも清々しくさえあるな」

「これはこれは“教主様”」

「さまー」

 

 のっそりと重い足取りで階段を上ってきたのは影が、ラスト達の後ろから声をかける。それはかつてこの町を支配し、エルリック兄弟に敗走し、そしてラストに殺されたはずのレト教の教祖、コーネロその人だった。

 しかしコーネロの登場に人造人間(ホムンクルス)の三人は驚く様子もなく、ラストはどこか呆れたように薄く笑った。

 

「悪いわね、手をわずらわせちゃって」

「ああ、これが終わったらさっさと受け持ちの街に帰らせてもらうからな」

 

 コーネロもまたラスト達に怯えた様子もなく肩をすくめた。

 

「本当に……、鋼の坊やに邪魔された時はどうしようかと思ったけど……。結果として予定より早く仕事が終わりそうで助かっちゃったわ」

「ふふ……、それにしても……」

 

 コーネロが彼女の傍らへと歩み寄り、バルコニーの柵へ手をかけて同じく街を見下ろす。

 

「あんたがちょっと情報操作して、わしが教団の者どもを煽ってやっただけでこの有様だ。まったくもって単純だよ、人間ってやつらは」

「流血は流血を、憎悪は憎悪を呼び、膨れ上がった強大なエネルギーはこの地に血の紋を刻む……」

 肩にかかるその長く艶のある髪をかき上げながら再び街を見下ろすラスト。愉快そうにその瞳を歪め笑う教祖の言葉にラストは静かに冷徹に、そして心底呆れ返ったように続けた。

 

「何度繰り返しても学ぶことを知らない。人間は愚かで悲しい生き物だわ」

「だから我々の思うツボなのだろ?」

 

 ニヤリと嗤い人間を嘲笑するコーネロの言葉を肯定するように、ラストの口角もまた愉悦に釣り上がった。

 難しい話は分からないと言わんばかりにグラトニーはきょとんとしたまま二人の話を聞き、エルバは逡巡するようにその視線を自身の足下へと伏せた。

 

「また人がいっぱい死ぬ?」

「そうね、死ぬわね」

「死んだの全部食べていい?」

「食べちゃダメ」

 

 まるで子供がおやつをねだるように尋ねるグラトニーに、ラストもまた子供を優しく咎める母のようにその頭をそっと撫でた。

 純粋な()()のいないこの場では人の命の価値はあまりに軽く、彼女らの会話を聞いたエルバは静かに踵を返す。

 

「もう、よろしいですね。私は戻ります……」

「……そういえば、憤怒崩れ(エクスラース)……」

 

 足早にその場を後にしようとするエルバをラストの艶やかな声が呼び止めた。

 

「建国祭では、随分と熱が入っていたようね」

 

 こちらを揺すり、その氷のように冷たい視線で心根を覗き込もうとするような、彼女の探るような言葉に思わずエルバの足が止まる。

 

「あんなの大事の前の小事を起こさないための、人間達を高揚させて扱いやすくするための、ただの張りぼてのお祭りよ」

 

 腕を組み頬杖を突くようにそのシャープな顎のラインに細いしなやかな指を絡ませるラストが、振り返る様子のないエルバの背中に続ける。

 

「最近、人間に肩入れしすぎじゃないかしら?」

「……なにが、言いたいのですか」

 

 思わず鋭く研ぎ澄まされるその眼光を見られぬように、エルバは振り返らず尋ねた。

 その凜と伸びた背筋(せすじ)に大きく広がる広背筋、だらりと適度に脱力した腕は素早く動かすことに適していた。仲間と会話を交わす、と言うには余りに隙の無いその佇まいと、ほのかに冷気を帯びた声色に辺りの空気がピンと張り詰めた。

 

「ただ、そのままの意味よ。人間に入れ込んでないかしら、って……」

 

 対するラストはエルバを値踏みするように瞳を細め、口元は愉快そうに綻ぶ。まるでイタズラをした子供の言い訳に耳を傾ける母親のように。

 

「あなたはあくまで人心を操るために英雄として祭り上げられただけ。まさか本当に、()()()()()()にでもなったつもりじゃ、ないわよね?」

「……あなた達が指示した通りに、……人々が望む英雄の姿を、私は演じているだけです」

「そう。わかっているならいいわ。忘れちゃダメよ。北に送り込んだのも、いざその時が来たら北の大地に――」

「血の紋を刻むため……。心得ています」

 

 エルバとラストが言葉を交える度に空気は不穏な色を帯びていく。

 指を咥え眉尻を垂らしたグラトニーが困惑するように二人を交互に見比べ、コーネロも片眉を吊り上げどこか訝しがるような視線をエルバの背へと向ける。

 

()()()の連中を捨て置いているのも、万が一にも隣国(ドラクマ)にあの()()を取られると計画に支障をきたしかねないから。その時が来るまで国境を守らせるためよ」

「……私はその任を全うしているつもりですが……」

 

 ラストの瞳が怪しく光り、(あで)やかな唇が下弦の月のように釣り上がる。

 

「そうね……。あの少将閣下も有能みたいだし」

「……っ」

「……でも、少し有能すぎるかしら?」

 

 ラストの口元からオリヴィエを示唆する言葉が零れると、エルバの指先が思わずピクリと跳ねる。

 

()()()()分にはほどほどが一番なのよね。……必要であればあの少将にも、少し早めにご退場して頂いて代わりの人員を――」

「――――ッ!」

 

 ピンと伸ばしたその白く細長い指先を艶めかしく顎に這わせ、視線を宙に彷徨わせながらわざとらしく挑発するように呟くラスト。思わず振り返ったエルバの、刺し貫くような鋭い瑠璃色の眼光が向けられた。

 

「あら、やっとこっちを向いた」

「っ……!」

 

 振り向いたエルバの胸元をトンと人差し指で突く。彼にも気取られないほど静かにその背後に佇むラストが、楽しそうな、それでいて少し拗ねたように眉尻を垂らして彼の瞳を見上げる。

 

「冗談よ。そんな恐い顔しないで。……でも、そうならないように、自身の立ち位置を見誤らないでね」

「――――ッ、失礼します……っ」

 

 いつもの、まるで子供に言い聞かせるような、いたずらを咎めるようなその声色と、掌の上で転がる様を楽しそうに眺めるような瞳を前に、思わず眉間に皺を寄せてしまうエルバ。

 深く息を吸い込むと、その甘く絡みつく蜜のような視線を振りほどくように力強く踵を返し部屋を後にした。

 

 

 

*****

 

 

 

「な、なんで軍人がこんなところにっ」

「……」

 

 教会を後にしようと階下へ降りる途中コーネロの部下、と言うより未だコーネロの宗教を信奉している教徒と鉢合わせるエルバ。

 思わぬアメストリス軍人の登場に困惑する男を気にもとめる様子もなく、エルバは彼の横を通り過ぎる。

 

「お、おいっ」

「……お気になさらず。何かを咎めに来たわけではありません」

 

 呼び止める男に振り返ることもなくそう告げると、エルバは再び歩を進める。エルバの態度にいささか戸惑うも、男も急いでいるのかエルバを捨て置き上階へと向かう。

 

「……上へは……」

「な、なんだ?」

 

 しかしエルバは階段を駆け上がろうとする男に声をかけてしまう。振り返らないその表情は読み取れないが、その沈黙には男を呼び止めてしまったことへの戸惑いのような色が滲んでいた。

 

「上へは、行かない方がいいですよ。……あなたのために」

「な、何を言っている? 急いでいるんだ、早くコーネロ様にっ」

 

 エルバの言葉に耳を傾けることもなく、男は慌てた様子で駆け足に階段を登っていってしまう。

 しばらく立ち止まっていたエルバの耳に届いたのは男の叫び声、水気を帯びた肉の潰れる音と骨の砕ける不快な咀嚼音だけだった。

 小さく鼻から息を零して、エルバは地獄の街を後にした。

 

 

 

*****

 

 

 

 不愉快そうな足取りでエルバが階段を降りていく音が遠のいていく。残されたコーネロが変わらず怪訝そうな視線をその階下へと向けたまま懐疑的に声を上げる。

 

憤怒崩れ(アイツ)、大丈夫なのかよ、ラスト」

「あら、大丈夫って?」

「だから、あんたが言った通り人間に肩入れしすぎだって話だよ。さっきも焦臭(きなくさ)い雰囲気だったぜ。なんか考え込んでるっていうか迷ってるって言うかさ」

「ふふっ、そこが可愛いんじゃない」

 

 不信感を隠すことなく尋ねるコーネロにラストはあっけらかんと答える。両手を組んで微笑む彼女はさながら子供の成長を楽しむ母親のような寛容さが見え、それでいて恋する少女のように明るかった。

 

「ところでエンヴィー。いつまでその口調と格好でいるつもり? 気持ち悪いわね」

「やだなあ、ノリだよ、ノリ。でもどうせ変身するならさぁ、やっぱりムサいじいさんより――――」

 

 微笑んでいたラストの瞳が呆れたような半眼となりコーネロ、もとい彼に姿を変えた嫉妬(エンヴィー)へと向けられる。

 エンヴィーがニヤリとイヤラシく笑うと、そのコーネロの姿から赤く瞬く漏電のような反応が走り、見る見るうちにその姿を少年とも少女ともとれるような中性的な姿へと変貌させていく。

 

「――――こういう若くてかわいい方がいいよね」

 

 得意気にニヤリと笑うエンヴィー。その声色もしゃがれた老人のものから若々しい声変わり前の少年のように高くなる。

 

「中身は仲間内で一番えげつない性格だけどね」

「ケンカ売ってんのラストおばさん」

 

 からかうように大きく笑うラストに対してエンヴィーの声は静かにドスが効いていた。

 

「ばっ……化け物……!!」

 

 この血と憎悪と瓦礫にまみれた地獄でも和気藹々と言葉を交わす人造人間(ホムンクルス)達。その空気を裂くように男の叫び声が響き渡った。

 

「どういうことだ……、教主は……、本物のコーネロ教主はどこへ行った!? なんなんだお前達は!!」

 

 目を見開き顔を驚愕に染める男。額に滲む汗は急いで階段を駆け上がってきたからだけではなく、目の当たりにした異様な光景への恐怖も溶け出していた。

 対する人造人間(ホムンクルス)たちは面倒くさそうに男を眺める。

 

「……どうする?」

「化け物だってさ。失礼しちゃうよね」

「食べていい?」

「「……」」

 

 男の()()は空腹を我慢できなくなったグラトニーに任せ、その鳴り響く血肉を貪る音を気にする様子もないエンヴィーとラスト。

 エンヴィーが錆びた鉄柵に身を乗り出すように寄りかかり、ラストは肘を突き柵に背中を預けて髪をかき上げる。

 

「そういえばさぁ。イーストシティのショウ・タッカーが殺されたって」

「タッカー……。ああ、綴命(ていめい)の錬金術師。いいんじゃないのべつに、あんな雑魚錬金術師」

「タッカーの事はいいんだけどさ。また例の()なんだよね」

 

 エンヴィーの言葉に鋭く瞳を吊り上げるラスト。

 

「イーストシティって言ったら焔の大佐がいたかしら」

「そ。ついでに鋼のおチビさんも滞在中らしいよ」

「鋼の……。私達の仕事のジャマしてくれたのは腹が立つけど、死なせる訳にはいかないわね。大事な人柱だし」

 

 意味深に呟くラストにエンヴィーも同意するように口角を吊り上げる。

 

「ラスト~~~~~、ごちそうさまでしたー~~~」

「ちゃんと口のまわり拭きなさいグラトニー」

 

 骨の一片も残さず男を平らげたグラトニーが、相変わらずこの場の雰囲気に似つかわしくない無邪気な声を上げる。呆れたようなラストの指摘に、その手の平でごしごしと口元を拭う姿はさながら大きな幼児のようだ。

 

「どこの誰だか知らないけど、予定外の事されちゃ困るのよね。……わかったわ、この街もあらかたケリがついたし、そっちは私達が見ておきましょう」

 

 気が進まないとでも言わんばかりにのっそりと身を起こしたラストがグラトニーを傍らに携え、腰に手を当ててエンヴィーへと向き直る。

 

「――で、なんて言ったっけ、例の()

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

傷の男(スカー)

「ん? よう、来たかエルバ。そっちの仕事はもういいのか?」

 

 イーストシティにてショウ・タッカーの死体を確認するマスタングやヒューズたちに聞き慣れた声がかけられた。

 ヒューズからの問いかけに微かに表情を曇らせたエルバだったが、誰にも聞こえないほど小さく息を吐き、いつものように柔和な笑みを浮かべた。

 

「ええ、先程……戻ってきたところです」

 

 脳裏に過ぎていくリオールでの光景が彼に言葉を詰まらせた。

 

「それで、傷の男(スカー)とは?」

「ああ、素性がわからんから俺達はそう呼んでいる」

 

 腕を組むマスタングが訝しげに聞き慣れないその通り名について尋ねる。ヒューズは参ったと言わんばかりにため息を吐く。

 アームストロング少佐が申し訳なさそうに自身の額を指差し、ヒューズは指折り(くだん)の被害人数を数える。

 

「素性どころか武器(エモノ)も目的も不明にして神出鬼没。ただ額に大きな傷があるらしい、という事くらいしか情報が無いのです」

「今年に入ってから国家錬金術師ばかり中央で五人。国内だと十人はやられてるな」

「ああ、東部(こっち)にもその噂は流れてきている」

 

 辺りを気にするようにキョロキョロと見回してから、ヒューズは眼鏡を持ち上げて小声で続ける。

 

「ここだけの話、つい五日前にグランのじじいもやられているんだ」

「『()()()()()()()』グラン准将がか!? 軍隊格闘術の達人だぞ!?」

 

 ヒューズからの思いも寄らない報告にマスタングも思わず声を荒げて聞き返す。

 

「ついこの間の建国祭の軍事演習も見ただろう!? ただの殺人犯が()()を相手取って殺したって言うのか!?」

「しっ、声がでけえよ。わかってる、あの演習での活躍は軍部だけでなく一般の国民にも知れ渡っている。だから准将の死は公にはまだ伏せてある。国民の不安を煽るだけだからな」

「准将の件は私も先程伺ったところですが、にわかには信じられませんね」

 

 目を見開き驚愕するマスタングを落ち着かせるように、口元に指を当てがい静かに声を潜めるヒューズ。エルバもグラン准将の死を聞かされていたものの、准将と闘った彼だからこそ尚のこと信じられないようで、不愉快そうにその眉間に皺を深く刻む。

 

「信じられんかもしれんが、それ位やばい奴がこの街をうろついているって事だ。悪いことは言わん、護衛を増やしてしばらく大人しくしててくれ。これは親友としての頼みでもある」

 

 真剣な眼差しでマスタングに言い聞かせるヒューズにはいつものひょうきんな雰囲気も

なりを潜め、純粋に友を心配しているようだ。

 

「ま、ここらで有名どころと言ったらタッカーとあとはお前さんだけだろ? タッカーがあんなになった以上、おまえさんが気をつけてさえいれば……」

「まずいな……」

 

 顎に手をあてがい、何かを考え込むようにヒューズの言葉に耳を傾けていたマスタングの表情が徐々に焦りにかられる。

 

「? おい!」

「エルリック兄弟がまだ宿にいるか確認しろ。至急だ!」

「あ、大佐。私が司令部を出る時に会いました。そのまま大通りの方へ歩いて行ったのまでは見ています」

「こんな時に……!」

 

 どうやら未だエルリック兄弟はこのイーストシティに滞在しているようで、ホークアイ中尉の報告にマスタングも思わず苛立たしげに舌を打ってしまう。

 その様子からヒューズやアームストロング少佐達も事の次第を理解したようだ。

 

「車を出せ! 手のあいている者は全員大通り方面だ!!」

「では私は裏道から回り込んで捜索します」

 

 マスタングの号令に応えるように皆が散開し、エルバも足早にその場を後にする。

 空から零れはじめた雨粒は次第に勢いを増し、瞬く間に街を濃い灰色へと染め上げていく。鈍色(にびいろ)の曇天は太陽を遮り、昼間だというのに辺りは薄暗い影の中へと沈んでいく。

 地を打つ雨粒の音は、報復者の力強い足音をも掻き消すほどに。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 降り出した雨が顔を濡らし、それを鬱陶しそうに拭うエルバ。マスタング隊とは別ルートから大通りへと来たものの、エルリック兄弟の姿は見当たらなかった。

 当てが外れたか、と踵を返そうとした彼の耳に届いたのは、街の喧騒と雨音に掻き消されそうになりながらも確かに響く発砲音だった。

 その音に振り返るやいなやエルバは駆け出した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そこまでだ」

 

 その言葉と共に、己に注意を引くように上空へと威嚇射撃を行ったのはマスタング大佐。車から降り散開するマスタング隊が各々に銃を構え目の前の容疑者へとその銃口を向ける。

 大きな体躯のシルエットに褐色の肌、灰色がかった白く短い頭髪。額に残る大きなクロスの古傷、視線の読めない色の濃いサングラス。そしてその恵体にコートを纏った男、傷の男(スカー)は背後からの発砲音にゆっくりと振り返った。

 スカーの眼前には右腕の機械鎧(オートメイル)を破壊されたエドワードがへたり込み、少し離れた路地の方には体の半分を分解され身動きが取れなくなったアルフォンスが文字通り()()()()()いた。

 スカーと戦闘により窮地に追い込まれていたというのは誰が見ても一目瞭然だった。間一髪のところで間に合ったようだと、マスタングも思わず小さく息を()く。

 

「危ないところだったな、鋼の」

「大佐ッ、こいつは……」

「その男は一連の国家錬金術師殺しの容疑者……、だったがこの状況から見て確実になったな」

 

 銃口を向けられるスカーはエドワードへと向けていたその凶手を止め、マスタングへと向き直る。サングラスの奥の瞳は見えないが、その悠然たる所作は諦めや恐怖のそれではなさそうだ。

 

「タッカー邸の殺害事件も貴様の犯行だな?」

 

 マスタングの確認するような問いかけに、エドワードはスカーへと向き直りその横顔を睨み付ける。

 地面を打つ雨音さえも聞こえる静寂の中で、スカーは己の内に溢れかえりそうになる熱き信仰心を抑え込み、努めて冷静さを保ち静かに口を開いた。

 

「……錬金術師とは元来あるべき姿の物を異形の物へと変成する者……。それすなわち万物の創造主たる神への冒涜。……我は神の代行者として裁きを下す者なり!」

 

 スカーはその大きな右の手を己の眼前で力強く握りしめ宣誓する。対するマスタング大佐は眉間に皺を寄せ、スカーの挙動に注意を払いながらも問いかける。

 

「それがわからない。世の中に錬金術師は数多いるが、国家資格を持つ者ばかり狙うというのはどういう事だ?」

「……どうあっても邪魔をすると言うのならば、貴様も排除するのみだ」

「……おもしろい!」

 

 スカーの一言に大佐のこめかみがピクリとヒクつき、目の色が変わる。手にしていた銃をホークアイ中尉へと預け、錬成陣の刻印された発火布製の手袋を装着する。スカーの言葉は大佐のプライドを刺激し、些か聞き捨てならなかったようだ。

 

「マスタング大佐!」

「お前達は手を出すな」

「マスタング……国家錬金術師の?」

「いかにも! 『焔の錬金術師』ロイ・マスタングだ!」

 

 マスタングの名前を耳にしたスカーの声色が呻るように重く低く響く。不快さと怒りを隠そうともせず眉間に深い皺が寄せられ、クロスの古傷が歪む。己の内に巣くう負の感情を握りしめるように指の骨が軋んだ。

 

「神の道に背きし者が捌きを受けに自ら出向いて来るとは……。今日はなんと()き日よ!!」

「私を焔の錬金術師と知ってなお戦いを挑むか!! 愚か者め!!」

「大ッ……――」

 

 まさにマスタング大佐とスカーの戦いの火蓋が切って落とされようとしたその瞬間、大佐の傍らに控えていたホークアイ中尉が咄嗟にマスタングへと強烈な足払いを見舞った。

 

「おうっ!?」

 

 足が抜けたようにガクリと体を仰け反らせたマスタングに、スカーの凶手も空を切った。そのまま尻餅を着く大佐を横目にホークアイ中尉は大佐から預かった銃と自身の腰から引き抜いた銃の二丁拳銃の銃口をスカーへと向ける。躊躇う間もなくその銃口は火を噴くも、スカーは身を翻し距離を開ける。

 

「いきなり何をするんだ君は!!」

「雨の日は無能なんですから下がっててください大佐!」

「あ、そうか。こう湿ってちゃ火花出せないよな」

 

 スカーから視線を外さぬまま素早くリロードするホークアイ中尉。彼女の辛辣な言葉に思わず項垂れてしまうマスタング大佐を横目に、ハボック少尉は掌で雨の具合を確かめながら納得していた。

 

「わざわざ出向いて来た上に焔が出せぬとは好都合この上ない。国家錬金術師! そして我が使命を邪魔する者! この場の全員滅ぼす!!」

 

 一同から距離を取り体勢を立て直したスカーが改めて自身を囲む軍人達へと怒号にも似た雄叫びを上げる。

 しかしその張り上げた声に応えたのはまた別の男。そのちょろんとカールした黄金の前髪と張り裂けそうな程に膨れ上がった筋肉が特徴的な、豪腕の錬金術師アレックス・ルイ・アームストロング少佐だった。

 

「やってみるがよい」

「ッ!?」

 

 振り抜かれる少佐の拳を身を屈めてすんでの所で躱したスカー。空ぶる拳はコンクリート製の建物の外壁を穿つほど。

 

「新手か……!!」

「ふぅーーむ……。我輩の一撃をかわすとは、やりおる、やりおる」

 

 ボコリと壁にめり込まれた自身の右拳を引き抜きながら思わずスカーの身のこなしを賞賛するアームストロング少佐。

 その拳には少佐の大きな拳を覆う程の更に大きなアイアンナックルにも似たガントレットが。拳骨部分に太い棘が備え付けられ戦闘時の実用性が考慮されており、また手の甲には錬成陣が刻まれていた。

 

「国家に(あだ)なす不届き者よ。この場の全員滅ぼす……と言ったな」

 

 決して焦ることのない優美で力強い所作でゆっくりとスカーへ向き直るアームストロング少佐。

 彼の強烈な一撃により崩れていく外壁を背にその拳を見せつけながらスカーへと宣戦を布告する。

 

「笑止!! ならばまず!! この我が輩を倒してみせよ!! この“豪腕の錬金術師”アレックス・ルイ・アームストロングをな!!」

「……今日はまったく次から次へと……。こちらから出向く手間が省けるというものだ、これも神の加護か!」

 

 筋骨隆々な大男の突然の登場にも焦ることはなく、スカーのその色の濃いサングラスの奥で見開かれた瞳は血走っていく。

 闘う意思の消えないスカーに対し少佐もどこか得意気に応える。

 

「ふっふ……やはり引かぬか。ならばその勇気に敬意を表して見せてやろう! わがアームストロング家に代々伝わりし芸術的錬金法を!!」

 

 少佐がレンガほどの大きさの瓦礫を上空へと放り投げ、準備運動と言わんばかりに右の肩をぐるりぐるりと回す。そして拳を大きく振りかぶるやいなや、眼前に落下してくるその瓦礫を力の限りぶん殴り飛ばす。

 拳と瓦礫のインパクトの瞬間に青白い漏電にも似た錬成反応が起こり、瓦礫は見る見るうちに極太のアンカーへとその形を変えた。

 まるで少佐の拳から発射された徹甲弾かのように飛来するそれをスカーは体を横に逸らして躱す。背後のコンクリート製の外壁に容易に突き刺さる程の威力であるそれをまともに受けるわけにはいかない。

 

「もう一発!!!」

 

 しかし少佐の攻撃は止まらない。再び振り上げた拳で今度は地面を殴りつける。

 その衝撃が走るように少佐の拳からスカーの足下まで、青白い錬成反応を伴って地面が波打つように瓦解しながら隆起する。

 その瓦礫の波がスカーに到達すると一際大きな錬成反応と共に、地面は幾本もの太く巨大な円錐状の棘となってスカーへと襲いかかる。

 

「この……ッ」

 

 その猛攻は流石に躱しきれないとスカーは自身の右腕を大きく振り払った。彼の腕が錬成された巨大な棘に触れるやいなや錬成反応が瞬き、棘はまるで泥か発泡スチロールで出来ているかのようにあっさりと崩れ去ってしまう。

 

「少佐! あんまり市街を破壊せんでください!!」

「何を言うッ!! 破壊の裏に創造あり! 創造の裏に破壊あり! 破壊と創造は表裏一体!! 壊して創る!! これすなわち大宇宙の法則なり!!」

 

 少佐の苛烈な戦闘に思わず外野からハボック少尉が注意喚起してしまう。隣で呆然と佇むエドワードも少佐の闘い振りに口を噤んでしまっている。

 注意された少佐はおもむろに自身の軍服を脱ぎ捨て、その破壊にも創造にも使えそうな屈強な肉体を誇示しながら自身の理念を雄叫ぶ。彼が声を張り上げる度にその胸筋がピクピクと脈動する。

 

「……」

「なぜ脱ぐ」

「て言うかなんてムチャな錬金術……」

 

 少佐の雄々しき姿にスカーも言葉を失った。

 ハボック少尉とホークアイ中尉の至極真っ当な反応に、少佐はスカーへと勘ぐるような視線を向けながら応える。もっとも、なぜ脱いだのかについての返答はなかったが。

 

「なぁに……、同じ錬金術師ならムチャとは思わんさ。そうだろう? 傷の男(スカー)よ」

「錬金術師……、奴も錬金術師だと言うのか!?」

「やっぱりそうか」

 

 少佐の言葉に驚嘆する大佐。得心した様子のエドワードは直接手合わせしたことでおおよその見当はついていたようだ。

 

「錬金術の錬成過程は大きく分けて“理解”“分解”“再構築”の三つ――」

 

 少佐が再び瓦礫へ拳を振り抜けば礫は砲弾の如くスカーを襲いかかるも、彼が右の手でそれを防げば礫はダメージを与える間もなく粉砕され四方へと飛び散ってしまう。

 

「なるほど、つまり奴は二番目の“分解”の過程で錬成を止めているという事か」

「自分も錬金術師って……。じゃあ奴の言う神の道に自ら背いてるじゃないですか!」

「ああ……。しかも狙うのは国家資格を持つ者というのはいったい……」

 

 少佐の言葉にスカーの能力には得心のいったマスタング大佐だったが、隣のハボック少尉はその目的や意図についてはますます理解が及ばないと困惑する。

 しかしその間もスカーと少佐の激しい攻防は止まらない。スカーとの距離を詰めるアームストロング少佐が、遠距離から得意の肉弾戦と錬金術のハイブリッド戦術に切り替えるもスカー相手では一筋縄ではいかない。

 白兵戦を繰り広げる二人の大男へと銃を構えるホークアイ中尉だったが、入れ替わり立ち替わり素早く動き回る二人に照準が合わせられない。

 

「ぬうッ!?」

「ここだッ――くッ!?」

 

 大振りの攻撃を放つ少佐の一瞬の隙を突いたスカーだったが、彼の破壊の右手が少佐の脇腹に触れるすんでの所で二人の間を裂くように何かが高速で飛来した。

 鈍色(にびいろ)の軌跡を残しながら壁に突き刺さったそれがアメストリス軍支給の軍刀サーベルであると理解すると同時に、そのサーベルを追うように何者かが目にも止まらぬ速さで駆け抜ける。

 迎撃する間もなく迫ってきたその影が、突き刺さったサーベルを引き抜く勢いそのままに円を描くような切り上げをスカーへと見舞う。

 認識して躱せるような速さではなかった。しかしスカーのこれまで修羅場をくぐってきた経験と、獣のような野性とも呼べる危機察知能力が無意識に大きく身を仰け反らせた。

 

 もともと殺す気が無かったであろうその剣先は致命傷を負わせる軌道を描いてはいなかった。そこにスカーが身を引いたことで刃先は浅く彼の右こめかみを裂くのみだった。

 同時にスカーのかけていたサングラスの柄は一刀に切り飛ばされ、石畳の上に砕けながら転がっていった。

 

「ぐっ……!」

「エッ、エルバ殿ッ、かたじけないッ」

「クライス大尉!」

「……ふう、出遅れたようですね。咄嗟のことで思わず割って入りましたが………彼が一連の騒動の容疑者ということでよろしいですね?」

 

 エルバの登場に体勢を立て直すアームストロング少佐。微かに刃面に付着した血を振り払ったエルバがその刃面を眼前に突き立てながら、チラリと視線だけを大佐へと向け現状の確認を行う。

 エルバの問いかけに小さく頷いたマスタング大佐が右の手を上げると、ホークアイ中尉やハボック少尉をはじめとした周囲の軍人達が改めてスカーへと銃口を構える。

 スカーは後ろへ下がり突然現れた新手の脅威から距離を取る。自身のこめかみから吹き出す血をジャケットの裾で抑えて出血を止めると、自身を落ち着かせるように深く息を()きながら持ち上げた顔の眉間には忌々しげに深いしわが湛えられ、サングラス下の鋭い視線が露わとなった。

 しかしその場に居合わせた一同が驚愕したのは今にも爆発しそうな彼の怒りの表情のせいではなかった。

 

「褐色の肌に赤目の……!!」

「……ッ、イシュヴァールの民か……ッ!」

 

 真っ先にその赤い双眸に反応したのはマスタング大佐とアームストロング少佐。しかしスカーの瞳を見て驚いた様子の彼らと同じかそれ以上に、スカーも目の前の男、エルバ・クライスの姿を目の当たりにして驚愕に目を見開く。

 

「……ッ、エルバッ、クライスゥッッ!!!! 我らが神イシュヴァラッ、そしてイシュヴァール人民最大の怨敵ッ!!」

 

 その男がそこらの国家錬金術師とは比にならぬ程の憎き仇敵であると理解するやいなや、周囲の者を思わず萎縮させるほどの雄叫びが轟く。その怒気に当てられて幾人かの軍人が思わず銃口を下げてしまう程だった。

 

「私はあなたを知りませんが。……なるほど、確かにイシュヴァール人であれば私のことを心底憎んでいて当然」

 

 対するエルバは至って冷静にスカーを視界に捕らえながら応える。

 

「先程の身のこなし、少佐との拮抗した闘い振り。確かに腕が立つようですが、その程度でグラン准将を()ったとは些か信じられませんね。さぞ、()()()()を使ったのでしょう」

「ッッ!!」

 

 サーベルを構え刃面にスカーを反射させながら眉尻を吊り上げるエルバもまた、グラン准将を殺害したスカーに静かな憤怒を燃やしていた。

 己の行いを神罰の代行と信じているスカーにとってもまた、それを姑息と(さげす)まれては、ましてや憎き相手に煽られては頭に血が上っていく。努めて冷静さを欠かぬよう繰り返す呼吸も次第に荒くなり、思わず噛みしめた歯がギチリと鈍い音を立てる。こめかみの血管がピクリとヒクつけば止まりかけていた血が再び吹き出してくる。

 

「お相手致しましょう、あなたが望まなくとも――ッ」

「願ったりだッ、邪神の権化めッ!!」

 

 重く熱い怒りと殺意が二人の男の間に黒く激しく渦巻いていく。腰を落とし刃先を自身の後方へと振りかぶり構えるエルバと、目を血走らせ飛びかかりたい衝動を抑え込むように身を低く油断せぬよう構えるスカー。

 ジリリと転がる細かな瓦礫の破片を踏みしめたのはどちらの靴か。今にも踏み込みそうな一触即発の張り詰めた空気を引き裂いたのは一発の銃声だった。

 

「そこまでだ、スカー。()()()が現れたことで、状況はお前にとってますます悪い方へと進んでいる。先程までとは比にならない程にだ」

 

 忠告にも似た言葉で降伏を迫るマスタング大佐。その横には彼の合図で威嚇射撃を行ったホークアイ中尉がライフル銃を構えたまま。先程までの混戦とは違い、その銃口は確実にスカーのみを捕らえて放さない。

 スカーはチラリと横目に大佐を見やると、心底忌々しそうにエルバを睨み付けてから何とかその怒気を押さえ込むように一際大きく深く息を吐いた。

 

「……やはり、この人数を相手では分が悪い」

「おっと! だからといって逃がすとは言っていないぞ。それとも、この包囲から逃れられると思っているのかね」

 

 大佐が再び右の手を掲げれば、スカーの怒気に飲み込まれていた周囲の軍人達が慌てて銃を構える。

 しかし大佐達に捕獲する意思はあれど殺す気は無いと察していたスカーは、迷うことなく自身の右腕を掲げそのまま地面を叩きつけるように振り下ろした。

 スカーの手が触れるやいなや周囲の地面広範囲に大きな錬金反応が走り、瞬く間に地面は瓦解していく。

 

「うわあああ!!!」

「おおおお!!?」

 

 自身を包囲する軍人達の足下もまとめて崩し、地面の下、陥没した地下水道へと飲み込んでいく。

 石レンガが崩れ落ちる騒音に立ち上る粉塵、穴に落ちないように距離をとる者や落ちかける仲間を慌てて引っ張り上げる者。現場が騒然とする中でスカーはその隙に地下水道の奥へと身を隠す。

 周囲が慌てふためく中、地下水道から見上げたスカーの視線の先には同じくこちらを見下ろしてくるエルバの姿があった。

 

「……」

「…………」

 

 地下の薄暗い影の中、見上げるのは復讐に燃えた赤き双眸。対するは、降りしきる黒々とした雨粒を背で受け止め見下ろす深き瑠璃色の隻眼。

 その姿を目に焼き付けると言わんばかりに眼光鋭く睨み付けたスカーは、何を言うでもなく身を翻し地下水路の奥へと溶けるように消えていった。

 エルバは追うでもなく、去って行くスカーの背中を見送った。復讐者の背中に己の過去の行いが重ね合わされるようで、その瞳は微かに歪んでしまう。

 そして後悔や自責、葛藤と責務で惑う己の心中を誤魔化すように、天を仰いでゆっくりと息を吐くのだった。頬を伝う滴が鬱陶しく、一向に止む気配のない灰色の空が忌々しく思えた。

 

「あ……、野郎、地下水道に!!」

「追うなよ」

「追いませんよ、あんな危ない奴」

「クライス大尉、君もだぞ。奴は特に君を……憎悪しているようだからな。なりふり構わない奴は何をしでかすか分からんからな」

「……ご忠告痛み入ります」

 

 足下に広がる大穴を見下ろしながら悪態を吐くハボック少尉に警告する大佐。もっとも少尉はスカーを追う気など更々ないようだが。

 大佐の言葉に小さく黙礼するエルバが抜いた剣を鞘へと収め、雨でほつれた前髪を撫で上げる。

 

「すまんな。包囲するだけの時間を稼いでもらったというのに」

「いえいえ。時間稼ぎどころかこっちが()られぬようにするのが精一杯で……。エルバ殿の助力が間に合わなければもしかしたら今頃……」

 

 アームストロング少佐の奮闘を労う大佐だったが、少佐は滅相もないと額の汗を拭いながら安堵の溜め息を零すのだった。

 すると事態が落ち着いたのを確認して路地の奥からひょっこりと顔を覗かせるヒューズ中佐。

 

「お? 終わったか?」

「ヒューズ中佐……、今までどこに」

「物陰に隠れてた!」

「おまえなぁ、援護とかしろよ!」

「うるせぇ!! 俺みたいな一般人をおまえらデタラメ人間の万国ビックリショーに巻き込むんじゃねえ!!」

「デタ……」

「オラ! 戦い終わったら終わったでやる事沢山あるだろ! 市内緊急配備! 人相書き回せよ!」

 

 後ろでのマスタング大佐とヒューズ中佐の漫才を尻目にエルバは一人、スカーの去って行った巨大な暗い陥没孔を見つめながら、その眼帯にそっと触れ物思いに耽る。

 忘れまいと思っていた彼の地での己の蛮行。しかしそう思い込んでいただけで心のどこかで風化しそうだった記憶が、スカーの遠慮の無い怨嗟の念に当てられて鮮明に蘇ってきたのだ。

 かつては何も考えるでも思うでもなく、人造人間(ホムンクルス)としてもアメストリス軍人としても()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 しかし今はどうか。エルバは自身の心に暗雲のような感情が広がれば広がるほどに、己の剣先が鈍っていくような気がした。

 

「――ッ!!」

 

 ふと視線を感じ顔を上げると、遙か遠くの建物の屋上。おおよそ常人では肉眼で視認できない距離に二人の人造人間の影があった。どこか楽しげに口角を吊り上げてこちらを見下ろす色欲(ラスト)の視線から逃れるようにエルバは背を向け踵を返した。

 

「……どうやら彼らの方は一段落といったところか」

「こっちはまだ一段落とはいかねぇだろ。やっかいな奴に狙われたもんだな」

「……イシュヴァールの民か……」

 

 エドワード兄弟の一悶着は解決したようだが、こちらはまだだとヒューズ中佐は頭を抱える。マスタング大佐とアームストロング少佐も足下に広がる雨の波紋へと視線を落とし、小さく呟いた。

 

「まだまだ荒れそうだ……」

 

 



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