東方千年探 ~魔理沙のはじめての文通~ (ふーてんもどき)
しおりを挟む

一話

魔理沙のことを考えていたらこの小説を書くに至りました。原作未プレイでしてストーリーのために歪めてしまっている要素などもありますが、それでもオッケー!という方はどうぞ、読んでいってください。


 

 日本の山の奥深く。

 そこにはいつの頃からか、この世とは別の世界が存在している。

 

 

 幻想郷。

 人と物怪が共存する場所。浮世から隔離された平穏な世界。縁を失ったモノが辿り着く、彼岸の地。

 

 

 

 そして切れた縁が巡り巡って、何処かでふと結ばれることもある。

 

 

 

 幻想郷。

 そこは古の隠れ里。そこは最後の原風景。そこは安穏とした不朽の世界。

 

 

 幻想郷。

 人も物も妖怪も、あまねく全てを受け入れる、忘れじの理想郷。

 

 

 

 

 

 

 霧雨魔理沙の朝は遅い。とても遅い。

 昼前になってようやく寝床から這い出る。

 

 簡素な木のベッドの周りには、彼女が読み散らかした本がそこかしこに落ちている。小説に詩集、錬金術や魔術について述べたものや、果ては絵本もある。昨晩読んだものから、もう内容も覚えていないようなものまで種々さまざま、数えればきりがない。

 その他にも雑多なガラクタが無数に散らかり、屋根裏部屋は足の踏み場もない状態だ。

 

「げ、なんだこれ」

 

 ベッドから下りようとして、足元にあった小瓶に目が行き、それを拾い上げる。

 透明なガラス瓶の中には極彩色の液体が入っている。自分で作った薬に違いないが、いつ作ったのか、そもそもどんな薬なのかまるで思い出せない。張ってあるラベルには『ごちゃ混ぜ』と書いてあり、ますます謎である。

 

 魔理沙は早々に思い出すのを諦めて「まあいっか」と瓶をゴミ箱に捨てた。

 ゴミ箱らしきカゴは、分別もされずに積み重なったガラクタですでに一杯なので、そのゴミ山の上にちょこんと瓶を乗せる形になる。この行為を『捨てる』と言い張るのは魔理沙くらいのものだろう。

 

「腹減った腹減った、ラララのラ」

 

 寝ぼけているのか、トンチンカンな歌を唄いながら屋根裏の階段をのそのそと下りる。

 

 下りた先は居間になっていて、アーチ状の枠で仕切られた奥には台所がある。

 居間の真ん中にある机は木をそのまま切り出したような丸机で、十人くらいなら食卓を囲めそうな大きさだ。

 南の窓際には古めかしくも美しい装丁の本が詰まった本棚。幅の広い窓枠にはハーブが植えられた小さな鉢が並ぶ。

 台所の近くに置いてあるアンティークの食器棚には、来客も考えてか豊富な洋食器が揃えられている。

 

 それらを見れば、少女の一人暮らしには些か贅沢な、しかし豊かな生活の場と評することができるだろう。

 

 

 

 無論、散らかっていなかったらの話ではあるが。

 

 寝室である屋根裏部屋と同様に、魔理沙の自宅の居間はひどい有様だった。まるで節操のない泥棒が一晩中荒らし回ったかのようだ。

 床が見えないほど散乱した服に本にガラクタのあれやこれや。棚の中の食器が整頓されて見えるのは使っていないからに過ぎない。

 台所に入れば目を覆いたくなるような洗い場があり、客をもてなすなど望むべくもない。

 

 しかしそんな台所に入った魔理沙は汚れたポットを平気で掴み取り、ごしごしと汚れを落として飲み水を汲む。

 

 炊事場には釜土の代わりに八角形の香炉が置いてあり、五徳を被せてある。ミニ八卦炉という、熱を自在に操れる魔法の道具である。炉にポットを乗せ、魔力によって熱を込めて「よし」と言う。

 

 他の食器を洗う気は微塵もないらしかった。

 

「なんかばっちいなぁ。そろそろ片付けないとダメか?」

 

 そんなことをぼやきながら外に出て洗面所に行き、顔を洗い歯を磨く。洗面所といっても井戸の側に桶や洗顔道具を置いただけの簡素なものだ。

 

 ついでに寝ぐせも整える。もとから癖のある魔理沙の金髪は櫛を使っても直しにくいが、彼女の場合は適当に跳ねたところを直せればそれで良いらしい。唯一、顔の横の一房だけ三つ編みにして、その先端をリボンで括ることが密かなこだわりである。

 

 家に戻って屋根裏に行き、寝間着から着替える。

 彼女が普段から好んで着ているのは長い黒のスカートで、その上から垂らす白の前掛けはフリルがたくさんついている。ブラウスの袖口にも小さなフリルがあしらってある。もちろん脱いだ寝間着はそこら辺に放っておく。

 

 一通り着てから、洗濯してあることを嗅いでみて確かめる。「よし」と言う。

 

 その後、沸かしたお湯でお茶を淹れ、昨日の余りのスープで適当に朝食を済ませる。棚にあったパンはいつ買ったものなのか、カビが生えていたので捨てた。

 

 ポットのお茶も飲み終える頃、ようやく目がぱっちりと冴え、魔理沙は一息ついて木漏れ日の差す窓を眺めた。

 

「良い朝だぜ」

 

 すでに正午を過ぎていた。

 

 

 

 

 

 

 魔法の森はとても広い。幻想郷の四割を優に占める。鬱蒼とした原生林はほとんど人の手が入っておらず、道らしい道もない。

 

 そんな森の少し開けたところに、霧雨魔理沙は居を構えていた。彼女が暮らしているのは小さめのログハウスで、家の周りはいちおうという程度に柵で囲ってある。

 

 もともとは人里で生まれ育った魔理沙が実家を出てから、もう五年の月日が流れた。出奔したばかりの頃は寺に預けられており、その三年後に魔法の森に移り住んだ。

 ログハウスは魔理沙が引っ越すために建てたものなので、まだ築二年しか経っていないが、彼女の類まれな奔放さと蒐集癖により見事なゴミ屋敷と化していた。

 

 しかし霧雨魔理沙は魔法使いである。次から次に物を拾ってくるが、全くの無作為ではなく、有用そうなものを選んではいるのだ。

 彼女における「有用そう」の範囲がやや広いことと、管理も整理もできていないことに目を瞑れば、探求者である魔法使いとしては真っ当な趣味と言える。

 

 朝食という名の昼飯を済ませた魔理沙は、自分が溜め込んできた品々を眺めながら呟いた。

 

「全部捨てちゃおっかな。邪魔だし」

 

 

 

 

 

 

 すでに午前を使いつぶした今日という日をどう過ごすか考え、魔理沙はとりあえず手近にあった薬学の本で勉強することにした。片づけはやっぱり面倒くさいし勿体ないので止めにした。

 

 勉強と言っても誰かに強制されたり、テストで良い点数を取ったりするためにやるわけではない。

 知識を得て、実践で身に付け、技術を己のものとする。誰かから資格を与えられることもない。全ては実用のため。

 それが魔法使いの勉強というものだ。

 

 魔理沙は人一倍、勉強に励む子だった。

 魔法使いの研究分野は多岐に渡るが、魔理沙はほとんど選り好みすることなく、それらに取り組む。彼女が夜型なのも、深夜まで夢中で研究に没頭する性格のせいだった。

 

 まだまだ知らないことは無数にあるし、強力な魔法などはミニ八卦炉をはじめとする魔道具に頼らざるを得ないが、齢十五歳にして半人前くらいにはなりつつあった。

 これは大変早熟と言える。同じく魔法の森に棲む魔法使いでアリス・マーガトロイドという人物がいるが、一流の彼女をして「将来が楽しみ」と評価するほどである。

 いずれは捨食の術を身に付けるだろうと目される。つまりは食事を必要としない、本物の魔法使いになるということだ。

 

 

 しかし日進月歩の成長を見せていた魔理沙は、ここ最近になって煮詰まっていた。

 何をやっても気乗りしない。本を読むにも集中力が続かず、薬の研究をしようにも想像力が欠けている。得意の熱と光の魔法さえも、これ以上の発展が見えてこない。

 

 これらは魔理沙にとって由々しき問題だった。道半ばで研鑽を止めることは彼女の意地と誇りが許さない。しかしなぜか身が入らない。視線が文字を上滑りする。

 

「だあああ、もうっ!」

 

 読みかけの本を乱暴に閉じて立ち上がる。

 貧乏がいけないのだ。貧乏が悪い。魔理沙は自分の苛立ちにそんな理由をこじつけた。

 

 彼女の経済状況はすでに破綻していると言って差し支えない。

 なにせ安定した収入が無いのだ。魔法研究のための資金もそうだが、特に食費がつらい。キノコや野草などの食料を森で調達してくることはあるが、満足のいく食事にはやはり金がいる。

 

 いずれは捨食の術を会得し、種族としての魔法使いになることを志しているものの、今は食べる必要がある。しかもたくさん食べねばならない。まだ成長の余地が大いにある十代半ば。ちゃんと食べておかないと後々になって後悔すると、魔理沙は思うものである。

 

 

 まずは金と食料が欲しい。然る後に研究成果も欲しい。

 

 

 思い立ったが吉日である。魔理沙は出かける準備を始めた。

 

 ミニ八卦炉やなけなしの金が入った財布などをポーチに入れ、頭には白黒の三角帽子をかぶる。姿見でいちおう身だしなみの確認をする。納屋から持ち出した箒は、彼女の移動手段だ。

 

 準備を整えて外に出ると、風が木々の間を吹き抜けた。暑い季節の訪れを感じさせる初夏の風だった。

 

 玄関には魔理沙の名前がかかれた表札が掛かっている。

 それとは別に立札があって、そちらには『霧雨魔法店』とあるが、文字は掠れており木の立て札自体も老朽化が進んでいるようだった。

 店名の下に小さく『何かします』とモットーが書かれているが、ほとんど消えかけたそれに気づく人はいないだろう。

 

「今日も客は来なさそうだしなー」

 

 魔理沙は色褪せた店の看板を見つつ、いかにも暇そうに言った。一年前に思い付きで始めた何でも屋だが、売り上げは皆無に等しい。ここでいくら待っても収入は期待できなかった。

 

 そもそも薄暗い森の中で客商売も何もあったものではないが、その辺りのことは魔理沙本人もよく分かっているようであり、訪れる者がいないことに対して落胆する様子はまったく無い。家を数日空けたところで、客はおろか泥棒すら来ないだろう。

 それでも様式美として家のドアには外出中の札をかけておく。

 

 魔理沙はふと思い立ち、苔とキノコが生えている郵便受けを覗いた。

 そこには一通の洋封筒が入っていた。「あっ」と声を上げて手に取り、差出人の名前を見る。

 

「また、か」

 

 送り主は魔理沙の母親だった。

 封筒の中身は開ける前から察しがつく。便箋一枚分の手紙と仕送り金だろう。

 

 一月に一度、魔理沙のもとにはこうして実家から手紙が届く。内容はいつも平凡だ。はじめに娘の安否を気遣い、最近何があったかを書き、体調には気をつけなさいと締め括る。『いつでも帰ってきなさいね』とも。

 

 思わずその場で読み終えた魔理沙は、軽いため息をついて家に戻った。屋根裏部屋に上がり、天窓の近くにある机に向かう。

 小さな文机の上は、彼女にしては意外なほど整理されている。机の隅には木の箱が置いてあり、花柄の洋封筒がいくつも詰まっている。

 

 全て、母からの手紙だった。

 

 今読んだものもそこに入れておく。お金は別にするが、そちらも仕送り金用の箱に入れる。鍵付きの木箱には今まで実家から送られてきたお金が貯めこまれている。魔理沙は一度もそれに手を付けたことはなかった。最初は送り返していたが、向こうが頑なに送って来るので諦めた。

 

「はあ…………」

 

 またため息がこぼれる。

 実家のことを思うたび、魔理沙の心には言いようのないモヤモヤとした気持ちが募る。

 

 家を出てから五年だ。もうそれだけの年月が経っている。

 父と言い争い、喧嘩別れのように出て行って一度も帰っていない自分が、今更のこのこ戻れるものかと魔理沙は思う。

 

 何より、誇れることが一つもない。

 魔力を弾にして撃てる。少しだけ薬の調合が出来る。空を飛べる。今までの成果としては、そんなところだ。

 たったこれだけのことで「どうだ凄いだろう」などとは口が裂けても言えない。

 

 魔理沙の中の魔法使い像というのは、もっと洗練されていて、もっと万能で、もっと派手なものだ。それを見て肌で感じた人々の心に、何か残せるものがなくてはいけないのだ。

 奥の手として、マスタースパークという名前を付けた大技もあるが、それだってミニ八卦炉に頼らなければ使えない。そしてミニ八卦炉は家を出るとき、知り合いがくれたものだ。魔理沙にとって大切なものに違いはないが、人からのもらい物を誇る気にはなれなかった。

 

 このような体たらくで家族に顔を見せられるものか。「私は魔法使いになる!」と親の言うことも聞かずに家出した自分が、おめおめと帰れるもんか。

 

 そんな思いを積み重ねて五年。頑固に凝りかたまった意地は魔理沙の原動力であり、そして足枷でもあった。

 

 

 

 返事を書くのはまた今度でいいだろう、と箱の蓋を閉じる。そうしたまま返事をしなかったことも、一度や二度ではない。

 

「……さ、気を取り直して行くか」

 

 再び外へ出た魔理沙は箒に跨った。使い込んだ柄をしっかりと握り、魔力の操作に集中する。空気の流れを読む。南南西に吹く風を肌でとらえる。

 

 すると少女の体はふわりと浮き上がり、重力に逆らってどんどん上へ昇っていった。

 

 背の高い木々も越えて、魔理沙は空を飛んだ。人妖ともに不思議な力を持つ者が多い幻想郷では、特に珍しくもない能力である。

 

 魔理沙の家がある場所から東、徒歩では半日ほどかかる距離に人里がある。幻想郷唯一の、人間が寄り集まって暮らす土地だ。規模はなかなかのもので、活気もある。探せば日雇いの仕事だって簡単に見つかる。

 

 しかし魔理沙は人里とは真逆の方に飛んだ。

 ぐんぐんと速度を増し、眼下の森が早送りのコマのように流れていく。太陽を背に、地上から数十メートルの高さを少女が飛翔する。

 箒の細い柄以外に掴まるところなどないが、乗りなれている魔理沙に恐怖は無く、むしろ快さそうに周囲を見渡す。

 木々が風にざわめき、その上を太陽が西から照らしている。どれだけ高い木に登っても見られない、遮るもののない絶景だ。

 

 焦りも苛立ちもわだかまりも、全てを置き去りにするように、魔理沙はいっそう速く空を駆けた。

 

 

 

 

 

 

 しばらくして魔理沙が降り立ったのは、森のはずれにある無縁塚と呼ばれる墓地だった。

 墓とは言っても見栄えのするものは何もない。『無縁塚。縁なき者ここに眠る』と書かれた簡素な木の墓標が立っているだけだ。

 

 幻想郷にはごく稀に、外の世界から人が迷い込んでくることがある。元の世界に帰れる人もいれば、そうでない者もいる。

 彼ら『無縁の者』が死んだとき、埋葬されるのがこの人里離れた共同墓地、無縁塚というわけだ。

 

 そのためか、外の世界で捨てられた物が、この一か所に集まってくる。縁を失い、浮世で忘れ去られたモノが流れ着く土地でもあるのだ。

 ブラウン管のテレビや小ぶりの土鍋、けん玉などの玩具に、大きいものだと旧式の自動車なんかもある。

 そんな統一性のない無機物があちこちに積み重なり、あるべき姿の自然の景色と合わさって、どこまでも珍妙な光景が広がっている。

 

 魔理沙の友人であり、幻想郷を幻想郷たらしめる結界にたずさわっている巫女、博麗霊夢は、この無縁塚を「さみしい場所」と呼ぶ。

 

「縁を結びたくても結べなかったものが、あそこには集まるのよ。幻想郷は全てを受け入れるっていうけど、ままならないわよね」

 

 いつだったか、縁側でお茶を飲みながら、そんな話をしていた。魔理沙は「ふうん」と気のない返事をした。

 今となっては本人は覚えていないが、魔理沙は寝そべりながらこうも言った。

 

「じゃあ私はそいつらの縁を結んであげてるわけだ。だっていつも無縁塚で物を拾ってるもんね。なんだ、良いやつだな、私」

 

「いや、あんたのはただの悪趣味だから」

 

 霊夢が冷やかに言った。

 

 

 

 

 

 

 人から悪趣味と言われて止めるような魔理沙ではない。共同墓地の傍ら、今日も今日とて仕事に励む。

 

「わあ、また増えてるなあ」

 

 魔理沙は嬉々として辺りに落ちているガラクタを物色し始めた。

 

 これが彼女の財源だった。

 ガラクタの全てが外の世界から来たものであり、幻想郷ではとても珍しいものがわんさかある。そして無縁塚は距離の問題や妖怪などの危険もあって、ほとんど人が近寄らない。

 つまり、手つかずの宝の山というわけだ。しかも不定期ではあるが、新しいものが自然と増えるので取り尽くすということが無い。

 その中から掘り出し物を見つけて人里で質に入れることが、魔理沙の主な収入源となっているのだった。

 

「何かないか、何かないか。お、変なの発見。あっ、なんじゃあの機械は。あれももーらい」

 

 目についたもので、尚且つ手ごろな大きさであれば、のべつまくなし拾い集める。

 霊夢の言うとおりで、この宝探しならぬゴミ漁りは、魔理沙にとって仕事というよりはまるっきり趣味だった。魔理沙の家がゴミ屋敷になるのもこれが原因である。

 

 珍しいものは何でもかんでも拾い、気に入ったら売らずにそのまま自分の手元に置いておく。そしてすぐにどこへ仕舞ったのか忘れてしまう。

 彼女のどうしようもない蒐集癖だった。

 

 そうして漁っていると、ガラクタの山の中でキラリと光るものがあった。魔理沙が「宝石か?」と側による。

 

「なんだあ。ただの瓶か」

 

 そこにあったのは薄汚れたガラス瓶だった。

 ガラス細工の職人なら幻想郷の人里にだっている。売れはするだろうが、文字通り二束三文のはした金にしかならない。魔理沙は金目のものでなかったことにガッカリしつつも、何となくそれを拾い上げる。

 

 しかしそこで、魔理沙はふと瓶の中身が気になった。

 丸い形の瓶には、酒などの液体の代わりに、紙が入っていた。きれいに丸められ、紐で縛られてある一枚の紙切れだ。

 固いコルクをなんとか抜いて中身を取り出す。黄ばんだ古い紙だった。紐を解いて、破かないよう慎重に広げていく。

 

「あ、これって…………」

 

 魔理沙は思わず声を上げた。

 そこには文字が書かれていた。縦書きの文章で、右上の端に「拝啓」とある。

 宛先は書いていないが、それは紛れもなく誰かの手紙だった。

 

 これはメッセージボトルだ。魔理沙はすぐに思い至った。

 

 幻想郷に海は無い。日本の山奥の一区画に結界を敷くことで作り上げた世界だからだ。しかし、書物や小さいころに親から聞かせてもらった話のなかで、魔理沙も海という存在を知ってはいた。そして見知らぬ誰かに拾ってもらうことを願って海に流す、メッセージボトルのことも。

 

 薄汚れたこの瓶は、いったいどれだけの間、海を漂流していたのだろうか。

 

 無縁塚の中にただ一人、偶然にも拾った外の世界からの手紙を見つめ、魔理沙は呆然と立ち尽くした。

 

 西に傾いた太陽の光が、ガラスの瓶に反射して、淡くきらめいていた。

 

 




次回は一週間後に投稿する予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二話

 

拝啓

はるか海の向こうのあなたへ

 

 

 はじめまして。私はかつて日本と呼ばれていたところに住んでいた者です。

 諸事情あって一人きりで、その日暮らしのような生活をしているのですが、ふと誰かと文を交わしてみたいと思い、筆をとりました。

 

 この手紙を拾ってくれたあなたは、どのような方なのでしょう。どこの国に住んでいますか。どんな生活をしていますか。そもそも何時の時代にいるのでしょうか。

 

 私がメッセージボトルを大海原に託してからあなたに拾われるまで、どれだけの年月が経っているのか想像もつきません。

 自分の手紙が未来で読まれていると思うと、それはそれで、愉快な気持ちになります。

 

 けれど、もしも私がこの手紙を書いてから何年も経っていないというのなら。

 気が向いたらで構いません。どうか一度、お返事をくださいませんか。

 

 手紙の裏に私の連絡先を記しておきます。公共施設の転送ポストが使えるのなら手紙をそちらへ。文通が難しそうでしたら、衛星通信を試してください。衛星の機能ならこんな時代でもまだ生きているはずです。

 

 最後になってしまいましたが、あなたに手紙を拾ってもらえたことを心から感謝します。本当にありがとう。

 それではお返事を待っています。

 

 

敬具

西暦××××年、〇月、△△日

八柳 誠四郎

 

 

 

 

 

 

「ま、外の世界から来たってことは、確かだよな」

 

 もう何回か手紙を読み返し、魔理沙は呟いた。

 

 無縁塚での宝探しもそこそこに家へ帰り、ありあわせの適当な夕食を済ませてからこちら、ベッドに寝転がって手紙を見つめている。

 

 ここに書かれている文章からでは、そう多くの情報はつかめない。

 名前からして送り主は男性だろう。

 その日暮らしと言うからにはお金持ちではないだろうし、「諸事情あって」などと濁すくらいだから家族と良好ではないのかしら、と魔理沙は考える。もしくは天涯孤独ということもあり得る。

 けれど字は綺麗だから、それなりの教養はありそうだ。さっぱり分からない単語もいくつかあり、それが魔理沙の好奇心をくすぐった。

 

 しかし一番目を引くのは、敬具のあとに記された日付だった。

 幻想郷の成立は明治時代にまで遡る。

 そこから外の世界の歴史、いわゆる正史とは分かたれて異なる道を歩んできたわけだが、時の流れまでは変わらないというのが定説だ。

 幻想郷の一年は外の世界でも一年。春夏秋冬に変わりなし。

 確証はないが、霊夢が言っていたことなので間違いはないだろうと魔理沙は思う。幻想郷を隔離する博麗大結界。その管理者である当代の博麗の巫女、博麗霊夢が言うのだから信憑性はある。

 

 だが魔理沙の拾った手紙は、その常識を覆すものだったのだ。

 

「西暦だと確か今が2000年ぐらいだから…………千年後って、マジかよ」

 

 魔理沙の口から乾いた笑いが漏れる。

 未来から手紙が流れてくるなんて、誰が信じられるだろう。それも千年の時を跨ぐなどと。

 魔道を志す魔理沙であっても送り主の冗談だと思わずにはいられない。あるいはただの書き間違えとか。

 

 時間や時空といった概念に触れている魔導書はいくつか読んだことがある。

 まだまだ駆け出しの魔理沙にはその理論はさっぱりだったが、時を超えることがどれほどの奇跡かはよく分かった。とても自分には出来そうにないと匙を投げたものだ。

 何より千年という時間の開きが大きすぎる。「この手紙、千年後から来たんだってよ」と言っても誰も信じてはくれないだろう。

 親友の霊夢は言わずもがな。同じ魔法使いのアリスや、『動かない大図書館』とまで称される知識人のパチュリー・ノーレッジでさえ、魔理沙と同じように「何かの間違いではないか」と疑うに決まっている。

 

「でも冗談を言ってる感じじゃないしなー」

 

 突拍子もない年号とは裏腹に、手紙の内容からは真剣な雰囲気が伝わってくる。丁寧な文体も相まって、何度か読み返すうちにその印象はどんどん強くなっていった。

 

 これがただの悪ふざけだと分かれば、手紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込んでいたことだろう。

 しかしそうやって一笑に付すには惜しい、どこか運命じみたものを、魔理沙は感じていた。

 

 ベッドに横たわったまま文机の上に置いてあるガラスの瓶を眺め、想像を巡らせる。

 孤独な人が、誰かに拾われることを願って海に流した手紙。それが幻想郷の無縁塚に行き着いたということが示す意味。

 外の世界から忘れられ、縁の切れたモノたちの集積場であるあの場所に落ちていたということは、つまり。

 

『さみしい場所よね』

 

 霊夢の言ったことが思い起こされる。

 

 その瞬間、魔理沙は自分の胸に熱いものが込み上げてくる感覚をおぼえた。それは激情とも言うべき衝動の炎であった。

 

 魔理沙はやおら立ち上がり、文机に向かった。

 まだ蝋燭が残っている枕元の燭台を持ってきて、反射板付きのランタンに火をうつす。椅子のクッションを直して座り、肩を回して凝りをほぐす。

 

 机の引き出しの一段目を開けると、毛筆や硯や文鎮といった書道道具が一式揃っていた。毛羽立たず、しかし墨の色が沈着している筆からは、これらが飾りではなく日常的に使われ、またよく手入れされていることが伺える。

 続いて開けた二段目の引き出しには様々な紙が入っていた。ハガキ、わら半紙、羊皮紙。ツルツルした感触の紙を使ったノートは、外の世界の雑貨を扱う知り合いの店で買ったものだ。

 魔理沙はその中から便箋として使う和紙を取り出した。

 

 硯に水を張って墨をすり、筆の先を浸す。一呼吸おいて神経を集中させる。

 そうして、魔理沙は紙にそっと筆を降ろし、『拝啓』と書き始めた。

 

 

 

 

 

 

拝啓

八柳誠四郎様

 

 

 梅雨も過ぎ去り、草木の香りが一層濃くなりました今日この頃、あなたはいかがお過ごしでしょうか。私は森の中に住んでいるため、虫よけの香の匂いがすっかり服に染み付いてしまいました。

 

 なんて、季語などを入れてみましたが、この手紙があなたに届くことはないのですよね。それでもあなたの思いが詰まったあのガラス瓶を拾った手前、こうして何か書かずにはいられなかったのです。

 

 信じられないでしょうが、あなたの手紙は千年前の日本、それも内陸の山奥にて、私が拾いました。私もにわかには信じられず、今も夢を見ているような不思議な気持ちで筆をとっています。

 

 けれどあり得ないことではないと考えております。

 幻想郷という場所をご存じでしょうか。存じ上げなくても無理はないと思います。千年後も残っているかどうかは分かりませんし、元々が俗世の方々には見つかりにくい隠れ里のようなものですから。

 

 私が生まれ育った場所、幻想郷はある結界によって確立された、言わばもう一つの世界です。その結界こそが、あなたの手紙を幻想郷に導いたのではないかと私は考えました。

 

 幻想郷には、外の世界、つまり現実の世界で忘れ去られてしまったものが流れ着く地と言われています。それは道具だけでなく、人や建造物、果ては妖怪や神様まで、ありとあらゆるものがここへ集まるのです。

 幻想を受け入れて成り立つ世界、だから幻想郷と言うのだと、この世界の成り立ちに詳しい私の友人は言っていました。

 

 千年という時をどうやって超えたのかまでは分かりませんが、海に流したはずのあなたの手紙がここへ流れ着いたことは確かな事実です。

 私はそのことを大変嬉しく思っています。だって普通なら届きようのない手紙が、こうして偶然にも私の前に現れ、新しい縁を結んでくれたのですから。

 

 きっと私が書いているこの手紙は、あなたの元へは届かないのでしょう。

 けれどもし、また何かの偶然で、奇跡とも言える奇妙な縁が繋がるのだとしたら、是非とも文を交わしたいと思います。

 転送ポストや衛星通信といったものは寡聞にして存じませんが、このガラス瓶で海から山へ、山から海へと便りを出せるのなら、それはなんて素敵なことでしょう。

 

 聞いてみたいことがたくさんあります。千年後の世界はどのようになっているのか、あなたがそこでどんな暮らしをしているのか、興味が尽きません。

 この手紙が届くといいなあと心の底から願うばかりです。

 

 それでは気長にお返事をお待ちしております。お一人で暮らしているとのことなので、お体には十分気をつけてください。

 

 

敬具

西暦××××年〇月△△日

霧雨魔理沙

 

 

 

 

 

 

 草木も眠る丑三つ時のこと。虫の音くらいしか聞こえない無縁塚に、人影が一つ現れた。

 

 三角帽子をかぶった少女の影は、ガラクタをより分けて何かを作り、その側にガラス瓶を置くと天の川の輝く夜空へと飛び去って行った。

 

 残された瓶にはきれいに丸められた便箋が一枚、リボンで括って入れられていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話

 無縁塚で拾った奇妙な手紙。魔理沙がそれに返事を書いてから二日が経った、朝方のこと。

 

「ぐあああ、ぐわああああ」

 

 魔理沙はたいへん後悔していた。

 自分が書いた手紙のことを思い出しては恥ずかしさで頭がいっぱいになり、呻き声を上げずにはいられない。魔法の勉強をしているときでも唐突に思い起こされ、魔理沙の集中力を大いに削いだ。

 

 あれは気の迷いだったのだと心の中で繰り返す。

 千年後から流れ着いたとかいう意味不明な手紙に感化され、情緒たっぷりに返事の手紙を書いてしまうなんて。あまつさえそれを可愛いリボンで括り、きれいに洗った例のガラス瓶に入れたのだ。

 

 なんという乙女。なんというロマンチスト。

 

 いや、それだけならまだ良い。

 問題は瓶に入れた返事の手紙を無縁塚に置いてきたことだった。魔理沙としては供養のつもりであったが、後々考えなおしてみるとマズいことをしたと思う。

 

 無縁塚に来る人はほとんどいないが、それでも皆無というわけではない。誰かにあの手紙を拾われたらと思うと、魔理沙は気が気でなかった。しっかり自分の名前も書いてある。もしもその拾った人物が知り合いだった日には、きっと魔理沙の一生に残る恥となるだろう。

 

 最悪の場合、広報活動を生業としている天狗の手に渡る可能性だってある。面白い記事のためなら人のデリケートな部分だってかまわず詮索する女天狗の、満面の笑みが脳裏を過る。

 絶対にあいつだけには渡してはいけないと魔理沙は決意を固めた。

 

「一度決めてやったことを捻じ曲げるのは、性分じゃないけどなあ……」

 

 ぶつくさと文句を言いながらも箒を持ち出す。外に出て、魔理沙は飛び立った。

 もちろん目指すは無縁塚だ。頼むからまだ誰にも拾われていないでくれよと切に願い、全速力でとばす。

 

 

 

 

 

 そうして矢のような速さで飛んでいく魔理沙を、遠くから見つけた人物がいた。

 

「あやや? あれは魔理沙さんですかね」

 

 地上の遥か彼方、ふわふわと宙に浮かんでいる黒髪の少女が手でひさしを作り、魔法の森の上空を飛んでいく魔理沙を眺めていた。

 

 少女とは言ってもその背中には黒々とした立派なカラスの翼が生えている。名を射命丸文という。新聞記者として八面六臂の活躍を見せ、一部からは蛇蝎(だかつ)のごとく疎まれながらも何ら気負わない鴉天狗。

 正真正銘の妖怪である。

 

 彼女が魔理沙の姿を目にしたのは全くの偶然だった。魔理沙が家を飛び出した時、文も記事のネタを探して人里に飛んで行く途中でちょうど魔法の森を通りかかったのだ。

 

 鴉天狗の目から見てもなかなかの速度で飛んでいく魔理沙を見送りながら、文はにんまりと笑い、懐からカメラを取り出した。それを紐で首から下げ、取材メモ用の手帳とペンがすぐ取り出せるところにしまってあるのを確認する。

 

 そして文は、黒く大きな翼をはばたかせ、幻想郷最速を誇るその力をぞんぶんに使い、すでに目視できないほど遠ざかった魔理沙の追跡を開始した。

 

 

 

 

 

 

 無縁塚に到着した魔理沙は、さっそく手紙の入ったガラス瓶を探して歩いた。

 

 あらゆるガラクタがひしめき、特定の物を探すのは困難を極める無縁塚だが、通い慣れている魔理沙にはそこまで問題ではない。それに落ちているガラクタの位置も変わっていないようだった。この一日半の間は誰もここに来なかったのだろう。

 なら自分で持ってきた瓶なんて簡単に見つかると思い、魔理沙はふうと息を吐き、余裕を持って歩を進めた。

 

「あれ、無い」

 

 一昨日の晩、たしかに置いたと思った場所に瓶が無い。サアッと魔理沙の顔が青ざめる。

 

 分かりやすい場所のはずだった。

 

 仮にも供養のつもりだったので、その辺りのガラクタの中に埋もれさせるのは忍びなく、適当な廃材を組んで墓石のような形を作りその下に置いたのだ。

 器用でもない魔理沙が作った廃材アートはお世辞にも墓石と呼べる完成度でなく、単にガラクタが積み上がっているような感じだったが、それでも作った本人が見間違えるはずもない。

 

 しかしその周りを調べても、一向にガラス瓶入りの手紙は見つからなかった。

 

「うそ、うそ……なんでだ……?」

 

 焦燥に駆られた魔理沙の首筋に冷や汗が伝う。がむしゃらに周囲のガラクタの中を漁るが、そんなところに潜り込むはずがないことは当人が一番よく理解している。

 

 頭の中でガンガンと警鐘が鳴る。

 霊夢が魔理沙の書いた手紙を読みながら「あんたけっこう乙女なのねえ」とやや呆れた様子で言う姿が思い浮かぶ。羞恥の炎が魔理沙の胸を焦がした。

 

「死ぬ!あんなの見られたら死んじゃう!」

 

 若気の至り以外の何ものでもないが、形のある物として残っているのが大問題だった。魔理沙の妄想はどんどん悪い方向に加速していく。

 

 娯楽に飢えた人里で公開される自分の手紙。号外の『文々。新聞』の大見出しに載せられ衆目に晒され、ついには自分の家族の目に入るのだ。

 喧嘩別れも同然で袂を別った父親が、あの厳めしい面で千年後の誰かに宛てた浪漫たっぷりの手紙を読む様を想像すると、魔理沙は顔から火が出る思いだった。

 

 

 

 そうして探し始めてしばらく経った時、唐突に後ろから声をかけられた。

 

「なにしてらっしゃるんですか?」

「キャアアアアアア!?」

 

 あまりの不意打ちに、魔理沙は絹を裂くような悲鳴を上げる。

 勢いよく振り向くと、そこにはカメラを携えた鴉天狗、射命丸文がいた。『文々。新聞』の記者かつ編集者であり、人妖を問わず辟易とさせるほど熱烈なパパラッチ。言わずもがな、魔理沙が今もっとも警戒している人物の一人だ。

 文は両耳を押さえながら「びっくりしたあ」と苦笑する。

 

「もう魔理沙さん、そんなに驚くことないでしょう。私の方がびっくりしましたよ」

 

「な、な、何の用だよ」

 

 なんとか落ち着きを取り戻した魔理沙が言う。邪険な言い方をされても文は堪えた様子もなく、ニコニコと人懐っこそうな笑みを浮かべて手帳とペンを取り出した。

 

「とても急いでいるようだったので、魔理沙さんが何をしているのかなーって気になったんですよう。ね、何か事件ですか?それとも異変?」

 

 身を乗り出すようにして聞いてくる文に気圧されて魔理沙が後ずさる。露骨に顔をしかめても「ほらほら、そんな怖い顔しないで」とまるで効果が無い。

 面白いネタのためなら幻想郷のどこへでも足を、もとい羽根を運ぶ女天狗だ。しかも新聞と称しながらエンターテインメント性に傾倒して、たまに事実すら湾曲して書くから手に負えない。嫌な奴に絡まれたなあ、と魔理沙が思うのもやむ無しである。

 

 しかし一方で、今のやり取りに魔理沙は安堵していた。その口ぶりからして、魔理沙の綴った手紙のことは知らないようだったからだ。少なくとも一番厄介な相手には知られずに済んでいるぞと魔理沙はホッとする。

 

「なんでもないよ。金がなくなってきたから稼ぎに来ただけ。新聞のネタになることなんかありゃしないって」

 

「うーん。そういう風には見えませんでしたけど」

 

 納得できない様子で文が食い下がる。しかし魔理沙もこれ以上余計な詮索をされたくはないので「見間違いじゃね」とすっとぼける。

 そんなやり取りを何回か繰り返し、これは折れそうにもないと流石の文も諦めたようだった。

 

「はあ、なかなか口を割りませんねぇ」

 

「物騒な言い方するなよな」

 

「まあいいです。あまり無理に聞いて私の新聞の評判が落ちても嫌ですからね。清く正しい射命丸というわけです」

 

「よく言うぜ、ほんと」

 

 すでに若干煙たがられている事実をどう受け止めているのか、魔理沙に呆れられても文は「あははー」と笑って聞き流している。

 

「それじゃあ私は人里の方で予定があるのでもう行きますね」

 

「予定?」

 

「はい。最近の外の世界じゃアポって言うんですかね。まあ要はお仕事の約束をしていまして」

 

「へえ、珍しいじゃんか。突撃取材以外で出向くなんて」

 

 文は魔理沙の言葉に「失礼ですねえ」とムッとした表情を見せる。

 

「私だってなにも、のべつまくなし取材して回ってるわけじゃありませんから。今回もそうですけど寄稿してもらったり宣伝のための依頼を受けたりもするんです。大変なんですよ、新聞一枚作るのだって。さすがの私でもあの文章量を一人で書き続けるなんて厳しいですし。様々な苦労、艱難辛苦を乗り越えて今の形があるわけですしね、それに————」

 

 いかに新聞作りが大変かを滔々と語り、次第にどういったこだわりがあるかなどに話題が変わっていく。段々と話に熱が入り早口になる文とは対照的に、魔理沙はさも興味なさげに「ふうん」と言う。

 

「苦労って言われてもな。読んだことないから知らないし」

 

「えっ、なんてこと!?」

 

 文が悲壮な叫びを上げる。彼女が珍しく見せた素の感情であった。

 

「そんな、嘘です!あの『文々。新聞』ですよ?一度も読んだことないなんてありえないでしょう!」

 

「知らん、うるさい、擦り寄るな。読んでないったら読んでない。興味もない。私以外でも同じ奴なんてたくさんいると思うぜ」

 

「ひどいです!初版から一年間はどこの家にも休まず投函し続けたっていうのに!雨の日も風の日も、郵便受けが無い家には設置サービスまでしたっていうのに!なんで読んでくれないんですか!?」

 

「お前、その郵便受け勝手に取り付けただろ」

 

「それがなんです」

 

「嫌がった人もいたんじゃないのか。いや、いたろ絶対」

 

「そんなこと気にして新聞編集が務まりますか!」

 

「そういうところだぞ」

 

 新聞のこととなると見境を失う文はがくがくと魔理沙を揺さぶる。見た目は完全に少女の姿をしていても、実に妖怪らしい身勝手さである。

 

 購読して、購読して、とあまりにうるさい。清く正しいとは何だったのかと魔理沙は辟易とする。

 しまいには「無料でいいから読んでください」とか「新聞読むか、さっきの慌てていた件の取材を受けるか選んでください」などと言い出した。無料でもとくに読む気のない魔理沙だが、例の手紙について聞かれるのは嫌なので、結局押し切られる形で新聞をもらうことになった。完全に脅迫だった。

 

 読み手が一人増えたことに文はご満悦である。先ほどとは打って変わり上機嫌で「どうぞどうぞ」と新刊を魔理沙に押し付けていく。

 

「毎度あり。これからも『文々。新聞』をよろしくお願いします。あははは」

 

「何があははだコノヤロー」

 

 人里に用があるのは本当らしく「それではこのへんで」と文は翼を広げて飛び立とうとする。

 

 しかしすぐに羽ばたかず、魔理沙の方を振り返ったかと思うと「ああ、そうそう」と言った。

 

「新聞だけじゃなく郵便のご利用もありがとうございますね。魔理沙さんのところくらいですよ。天狗の飛脚便を利用してくれるのは」

 

 文はその優れた飛行能力を使い、新聞だけでなく郵便配達の仕事も行っている。とは言っても幻想郷という狭い世界で飛脚が必要とされるはずもなく、文自身も顧客がいない状況をそれほど気にはしていないようだった。

 

 唯一の例外として、魔理沙の母が利用しているくらいのものだ。魔法の森は毒性の高い植物や、獣とたいして変わらない妖怪などが多く生息しているため、おいそれと人間が立ち入れる場所ではない。

 そんな中で生活をしている娘に手紙を送るために、魔理沙の母は天狗の文に配達を頼んでいる次第である。

 

「先日も届けたんですけど、気付かれました?」

 

「…………ああ、まあな」

 

 魔理沙は浮かない顔で、歯切れの悪い返事をする。

 

「魔理沙さんはお返事どうしているんでしたっけ。ご自分で届けに行ってるんですか?まさか一度も返信してないってことは無いでしょう。もし良かったらお母様みたいに私の定期便サービスを利用してくれちゃったりしませんか?」

 

「文さ」

 

 新聞だけに飽き足らず他のニーズも開拓しようと捲し立てる文の言葉を、魔理沙が途中で遮る。

 魔理沙の無表情には、隠そうにも隠し切れない不機嫌さが滲んでいた。

 

「なんでもかんでも首突っ込むなよ。私の家の問題なんだから」

 

 非難ともとれる厳しい口調の割に、魔理沙は視線を下に落としている。

 文はそんな少女の様子を見て「ま、気が向いたらで」と肩をすくめる。これ以上話を掘り下げるつもりは無いらしかった。

 

 僅かに重たい沈黙が流れるも、鴉天狗はそれを気にする素振りを見せず、今度こそ空中に舞い上がった。

 

「ではでは、ごきげんよう。これからも『文々。新聞』をよろしくです」

 

 そう言って手を振ると同時、文は翼を一振りし、瞬く間に空の彼方へと飛翔した。魔理沙が「飛んだ」と認識する頃には森の高さを軽々と越え、人里の方角へ一直線に飛び去ってしまっている。幻想郷においても他の追随を許さない、天狗が誇る最高峰の飛行能力であった。

 

 風がそよいで彼岸花が揺れる。魔理沙はしばらくの間、文が去った空を見上げながら突っ立っていた。

 雲一つない、ただただ青いばかりの空が広がっている。

 

「嫌な言い方だったなあ」

 

 先ほどの自分の言動を思いながら、そう呟く。

 やけに自分が子供っぽく思えて、心底うんざりした。もう家を出て五年経つのに。

 

「取りあえず……瓶、見つけなきゃな」

 

 まだ心で燻っている感情に蓋をして、魔理沙は手メッセージボトルを探すのを再開した。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四話

 

 

 炎天下。無縁塚でメッセージボトルを探す魔理沙の腕を、日光がチリチリと焼く。

 

 どれだけ探しても目的の物は一向に見つからず、魔理沙はついに「もうダメだ」と音を上げた。

 懐中時計を見るともう昼時を過ぎている。お腹の虫が大きく鳴った。

 

 諦めて心を切り替える。誰かが持って行ったと考えるしかない。

 差し当たって思い浮かぶのは、魔理沙と同じく魔法の森に住むアリス。それから色んな古道具を取り揃えている骨董屋『香霖堂』の店主である森近霖之助。無縁塚のガラクタを見に来るのはその二人くらいだろうと魔理沙は思う。

 

 もっと言うと後者の霖之助の方が可能性は高かった。

 なにせ彼は魔理沙以上の蒐集家で、無縁塚にも足繁く通っている。香霖堂で売っている品物の大半は無縁塚で拾ってきたものだ。しかも何か特定の物にこだわりがあるわけではなく、目新しい物であれば何でも持って帰ってしまう性分である。

 

 考えれば考えるほど、メッセージボトルを拾った人物は霖之助ではないかという気がしてくる。いや、それしかないと魔理沙は断定した。

 そうと決まれば行動が速いのが霧雨魔理沙という少女である。さっさと箒に跨り、無縁塚を後にする。

 

「ああ、嫌だなあ。こーりんに見られてるのかあ」

 

 飛びながら魔理沙はやるせなく呟く。香霖堂は魔理沙もよく足を運ぶ場所だ。霖之助とも長い付き合いで、気安く話す間柄である。

 

 家族のような彼に手紙を見られていると思うとむず痒くなるが、まあ口が軽いやつでもないし、と魔理沙は気を持ち直して香霖堂へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 霖之助は半人半妖で、いったい何年生きているのか魔理沙は知らない。子どもの頃に聞いた気がするが、本人もよく覚えていなさそうだった。妖怪は時間の感覚に疎いのだと、魔理沙は彼を通して知った。

 

 もともとは魔理沙の実家である霧雨店で丁稚として働いていたらしい。『らしい』というのは、魔理沙が生まれた時にはすでに霖之助は独立し、自分の店を構えていたからだ。

 その店の名を香霖堂という。主に外の世界の品物を扱う古道具屋である。

 

 今も昔も、そこは魔理沙や霊夢の溜まり場だった。

 

 夏に行けば縁側でスイカを食べさせてもらったし、雪の降る冬の日には電気コタツなるものを囲んで人生ゲームなどで遊んだものだ。勝手にお菓子は食べるし、勝手に古道具を引っ張り出して遊び始めるし、今にして思えば商売の邪魔しかしていなかったが、霖之助はいつも魔理沙たちを温かく迎え入れた。がつがつと稼がず趣味で店をやっているような、そんな男だった。

 

 霖之助は魔法の森の入り口に居を構えているが、ちょくちょく人里にも顔を出す。大抵は魔理沙の実家に用があってのことだ。そうして訪ねてきた霖之助に遊んでもらった回数も十や二十ではない。

 

 半分は妖怪の血が流れているから、彼はほとんど歳をとらない。魔理沙が赤ん坊の頃も、十六歳になった現在も、青年である霖之助の見た目にまるで変化はなかった。母に聞いた話では、数十年前から同じだという。姿だけでなく、温和な性格や物腰の柔らかい言動まで一つも変わったところはないらしい。

 

 霖之助はこれから先も変わらずに、香霖堂を営んでいるのだろう。そして自分が訪ねればお茶を出して歓迎してくれるのだ。

 

 きっと、これからもずっとそうなんだろうと、魔理沙は何とはなしにそう思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 魔法の森を抜けると、すぐそこの眼下に香霖堂が見える。

 

 地主の屋敷のような平屋で、瓦屋根の上には店名が書かれたヒノキの看板が掲げられており、横に大きな蔵がでんと建っている。玄関先にまで溢れた和洋中を問わない雑貨が店主の蒐集癖をもの語り、ここがどういった店なのかをこの上なく表現していた。

 魔理沙にも見覚えのない西洋甲冑が扉の脇に佇んでおり、外に出していたら錆びるんじゃないかしら、と魔理沙は気になった。

 

 引き戸を開けると、玄関先とは比べ物にならない量の雑貨が店内を埋め尽くしていた。陶器だけでも数百種類を超える。素焼きの壺や漬物用の大きな甕、安物の花瓶から素晴らしく緻密な柄の色絵壺。見事な漆塗りの茶碗が積まれ、その傍らの桐箱には西洋の貴族が使っていそうなアンティークの茶器が一式収まっている。陶器がある一角を見るだけでも一日潰せそうなほどだ。

 他にも大小さまざまな地球儀があったり、万年筆などの文房具があったり、鍋や包丁なんかの調理器具、冷蔵庫や電子レンジといった家電製品も置かれている。電線も発電所もない幻想郷でどうやっているのか、店の隅では扇風機が回っており、淀んだ空気をかき混ぜていた。

 

 四方八方、床から天井まで山のように雑貨が積み上げられているが、魔理沙の家とは違い、それらは全てきちんと整理されていた。埃っぽくもない。薄汚れているものも見当たらず、店主がきちんと手入れをしていることが伺えた。

 

「おーい、こーりん。いるかー」

 

 誰もいないカウンターに手をつき、魔理沙が大声で呼びかける。

 

 暖簾の掛かった奥の方でがたがたと物音がして、間もなく長身の男性が現れた。香霖堂の店主、森近霖之助だった。

 

 霖之助はズレた眼鏡を直しつつ「いらっしゃい」と言った。魔理沙が軽く手を上げて応える。

 

「玄関に変な鎧あったけど、あれ外に出しておいていいのか?」

 

「ああ、あれは門番でね。ゴーレムっていうのかな」

 

 霖之助の言葉に「へえ」と魔理沙が目を丸くする。

 ゴーレムとは魔術による自動人形のことだ。形も素材も多種多様だが、その分奥が深く、ゴーレムの研究を専門にする魔法使いも多くいる。もちろん半人前の魔理沙が上手く作れるわけもないが、興味はあった。

 

「こーりんってそんな魔法使えたっけ?」

 

 魔理沙が聞くと、霖之助は首を横に振る。

 

「アリスに手伝ってもらったんだ。鎧は無縁塚で拾ってきたものでね。せっかくだから活用したいと思って僕から頼んだ」

 

 なるほど、と魔理沙は納得する。人形使いであり、精緻な自動人形を数多く制作してきたアリスならば既製の鎧をゴーレムに改造するくらい容易いだろう。凝り性な彼女のことだから錆止めなどの老朽化防止の魔法もいくつか掛けてあるのだろうと魔理沙は思う。

 

「で、その鎧なんだけどさ、最近拾ってきたのか?無縁塚で」

 

 平静を装って魔理沙が尋ねる。霖之助は「いいや」と言った。

 

「あれ自体を拾ったのは四、五カ月くらい前だけど。それがどうかしたかい」

 

「そっかそっか。じ、じゃあさ、最近は無縁塚には行ったのか?何か拾ったりした?」

 

「まあ弔いがてら掘り出し物がないか、ちょくちょく見には行ってるよ」

 

「昨日とかはどうなんだ、こーりん」

 

 霖之助は、やけに自分の行動を聞いてくる魔理沙をじっと見つめ、しばらく考えた。

 相手が怪しむような態度をし始めたので魔理沙は「なんだよ」と焦る。

 

 やがて何かを納得したのか霖之助はなるほどと言うように頷いた。

 

「ここ数日は物の整理ばかりしていたから無縁塚には行ってないよ。何か探し物があるなら他を当たったらいい。ちなみに誰かが僕のところに持ってきたなら買い取って保管しておいても良いけど、どうする?」

 

「お、おお。そうか。じゃあ、頼む」

 

 聞きたいことやお願いしたいことを先回りして言われた魔理沙は面食らいつつも、霖之助の言葉に甘えることにした。

 

「こんくらいのガラス瓶なんだけどな。中には手紙……じゃなくて巻物が入ってて、コルクで栓をしてるんだ」

 

 手でメッセージボトルの形を伝える。霖之助は「わかった」とだけ言い、あまり詳しくは聞いてこなかった。

 

「いいか。もし見つけても開けちゃダメだからな。絶対に中の紙を読んだりしちゃいけないからな」

 

「はいはい。わかったわかった」

 

 念押しするも適当に流される。しかし了承した手前、霖之助が約束を破るようなことはしないだろうと安心し、魔理沙はホッと胸をなで下ろす。

 

「んじゃ、私はもう行くぜ。邪魔したな」

 

「なんだ。お茶も飲んでいかないのかい」

 

 いつもは茶菓子まで催促して小一時間は居座る魔理沙があまりにも足早に去っていくので、霖之助はそう聞いた。

 魔理沙は振り向きもせずに手を振って「また今度ー」と店を出ていく。扉が勢いよく開かれ、呼び鈴がけたたましく鳴った。

 

 嵐のあとのように静かになった店内で、霖之助は少し呆れたように、あるいは感慨にふけるように、頬杖をついて息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 香霖堂を出た後、魔理沙はいったん魔法の森へと引き返し、アリス・マーガトロイドの家を訪ねた。しかし彼女もここしばらくは無縁塚には行っておらず、ガラス瓶のことなんかも知らないと言った。

 

 アリスは魔女らしく研究家気質なところがある。普段は口数が少ないのだが、見知らぬ魔術道具の話でもすれば興味津々と言った風に身を乗り出してくる。魔理沙の探している瓶に何か魔法が込められていると勘違いしたらしく、執拗に「私も一緒に探してあげましょうか」と聞いてきた。そんなに大層な物でもないからと、魔理沙ははぐらかすのに大変苦労した。

 

 

 それから心当たりのある所はほとんど行き尽くした。

 道中で見かけたイタズラ好きの妖精たちにも声をかけてみたが、弾幕を撃ってくるばかりで話にならなかった。何度やられても「あたい最強!」と勝負を挑んでくる氷妖精のチルノを返り討ちにしつつ、こいつらがガラス瓶なんて気にして拾うはずもないか、と魔理沙は納得した。

 

 

 

「ここにだけは来たくなかったんだけどなあ」

 

 上空から、小高い山の頂上にある神社を見下ろして、魔理沙はそう呟く。

 

 博麗神社。

 当代の博麗の巫女であり、魔理沙の幼いころからの親友である霊夢が住んでいる場所だ。

 

 神社の周りをぐるりと回ってみると、縁側で寝転がっている霊夢を見つけた。魔理沙は急降下し、彼女の目の前にふわりと降り立つ。

 

「あ、魔理沙じゃない。なんか用?」

 

 空からいきなり人が降って来ても、霊夢は毛ほども驚かずあくびを噛み殺しながら言った。

 座布団の上で頬杖をついて横になり、煎餅が入っている器を抱きかかえるようにして、寝たままボリボリと食している。涅槃仏のごとき堂々としたくつろぎっぷりだった。

 

「お前は本当に暇そうだよなあ」

 

 魔理沙が呆れた風に言うと、霊夢は心外そうな顔をして煎餅をもう一枚かじった。

 

「なによ。良いでしょ別に。私が暇ってことはさ、幻想郷が至って平和な証なわけよ。素晴らしいことでしょうが」

 

 幻想郷の守護者と呼んでも過言ではない少女は、真顔でそんなことを口にする。

 今までに同じようなやり取りを何度もしている魔理沙は「お、そうだな」と適当に答えつつ、霊夢の側に腰かける。

 

 ついでに煎餅をひょいと一枚取っていくと、霊夢がすばやく起きて抗議の声を上げた。

 

「ちょっと、それ私のお煎餅!」

 

「え、なんだよう。いつもは普通にくれるじゃんか」

 

 そう言いながら食べる魔理沙を見て、霊夢はがっくりと肩を落とす。

 

「今は金欠なのよ。これ、私の大事な食糧なんだからね」

 

「いやお前、煎餅を食料に数えるなよ。つーかちゃんと仕事しろよ」

 

「仕事なんてないわよ。妖怪が人を襲う事件もここしばらくは全然ないしね。幻想郷が平和なせいで私はおまんまの食い上げ。酷いと思わない?」

 

「さっきと言ってること逆になってないか」

 

「なってないわよ。仕事せずにお金欲しいだけだもん」

 

「なおさら質悪いわ」

 

 冗談を言いつつ霊夢もまた煎餅に手を伸ばす。彼女の大事な食料はそろそろ底を尽きそうだった。

 

「て言うか魔理沙も仕事なんてしてないようなもんでしょ。私は実際、人里からの貰い物とかあるけどさ。あんな辺鄙な森に暮らしてて何食べてんのよ、あんたは」

 

「そりゃ森なんだから食べ物ぐらいあるさ。シイタケだろ。ブナシメジだろ。あとマイタケとかヒラタケとか」

 

 菌糸類しかなかった。指を折って数える魔理沙に、霊夢が憐れなものを見るような目を向ける。

 

「そんな、私より貧乏な人がいるなんて。しかもそれが私の友達だったなんて」

 

 よよよ、と大げさな泣きマネをする霊夢に対し、魔理沙が心外そうにツッコむ。

 

「憐れむなよ。あとそこまで貧乏でもないわ。私には無縁塚っていう最強の財源があるんだからな」

 

「うわ、出た悪趣味」

 

「悪趣味言うな。霊夢も今度やってみるか?掘り出し物があればこーりんが買ってくれるぞ」

 

「嫌よ。面倒くさいもの」

 

「霊力でも使えばパパっと片付くだろ。霊夢いっつも陰陽玉とか浮かせてるじゃん」

 

「そんなことに霊力使ったら紫に怒られちゃうわよ」

 

 そうやって話していると喉が渇いてきたので、何か飲み物はないかと魔理沙は要求する。

 

 霊夢は心底面倒くさそうに、手近にあった木桶と柄杓を魔理沙に渡した。

 

 ずっと使わずに放置してあったのだろう。ところどころ色がくすんでいる。中に入っている水は確実に雨水であり、水面には木の葉が浮いていた。

 無論、どれくらい前からこの水が溜めてあったのかは分からない。

 

 魔理沙は無言のまま、うやうやしく打ち水をした。

 

 

 

 

 

 

「なあ、さっきの話だけどさ」

 

 しばらくボーっとしてから魔理沙が口を開いた。再び横になった霊夢が「うん」と言う。

 

「霊夢は最近、無縁塚には行ってないんだよな」

 

「当たり前でしょ。怨霊が出たりしたら別だけど、それ以外で特に用事なんて無いし」

 

 重要な確認が取れたので、魔理沙の表情が緩む。

 

 人を訪ねて回ってしばらく経ち、魔理沙も冷静になっていた。

 無縁塚は本当に人気のない場所だ。あのメッセージボトルを誰かに拾われたのかもしれないという思い込みが間違いだったのだと考える。無縁塚をもっと入念に、それこそ草の根をかき分けるようにして探せばきっと見つかるはずなのだ。

 

 大変な作業だが、焦らずにやればいい。いや、基本的に人が来ないのだから、そもそも他人に見つけられる可能性自体が低い。ひょっとしたら回収するまでもないぞ、と魔理沙の楽観視はどんどん強くなっていく。

 

 霊夢は何やら急に考え込み始めた友人の様子を、横目で見ていた。

 

「やけに無縁塚のこと聞いてくるけど、なんかあったの?」

 

「えっ!? い、いや、何でもないぜ。うん」

 

「あっそう」

 

 魔理沙にとっては不意打ちに等しい質問だった。何とかなる、と思い始めた矢先にピンポイントで痛いところを突かれたのだから。

 やっぱりもう一度隈なく無縁塚を探すしかないと魔理沙は所存のほぞを固める。

 

「わ、私はそろそろ行くから、それじゃあ」

 

 魔理沙はそう言って誤魔化すように突然立ち上がり、霊夢の方も見ずに立ち去ろうとする。

 その背中に霊夢が声をかけた。

 

「そんな急いでどこ行くの。やっぱり無縁塚に何かあるんでしょ」

 

 魔理沙がギクリとして、恐る恐る振り向く。

 

 そこには靴を履いて立った霊夢がいた。満面の笑みだった。さっきまでの怠惰でだらけきった雰囲気は微塵もない。その顔は好奇心に輝いていた。

 

「私も一緒に行っていい?」

 

 質問だけど、質問じゃなかった。断っても勝手について来るんだろうと魔理沙は確信し、諦めに近い気持ちで上辺だけの抵抗をした。

 

「いやいや、お前さっき面倒くさいって言ってたじゃん…………」

 

「気が変わったのよ」

 

 霊夢はニコニコと笑顔を絶やさずにあっけらかんとして答える。その笑顔がやや腹黒く見えたのは錯覚ではないはずだ、と魔理沙は思う。

 

「ビビビッと直感に来たわ。面白いことがありそうってね」

 

 霊夢は自分の勘に絶対の信頼をおいている。

 

 人並外れた霊力や、結界における技術の高さなど、博麗の巫女を務めるに足る彼女の天才性は紛れもない本物である。

 

 しかしその中でもひと際異才を放っているのが、第六感とでも言うべき直感力だった。何かの存在を、もしくは自分に迫る危機を、理屈抜きで本能的に察知できる抜群の感性。

 

 幻想郷では異変と呼ばれる様々な事件が起きてきたが、そのほとんどで解決に役立ったのは霊夢のただの勘だったりする。天才特有の自負。実績に裏打ちされた自信が、霊夢にはあるのだった。

 

 そしてこうと決めたらテコでも考えを覆さない。

 魔理沙が霊夢の同行を止められるわけもなく、がっくりと肩を落とした。

 

 

 

 

 

 

 再び無縁塚に戻ってきた魔理沙は、霊夢を置いてそそくさとメッセージボトルを探し始めた。とんでもなく焦っていた。霊夢より先に見つけてしまわなければならないからだ。うかうかしていると、霊夢が持ち前の勘で運良く——魔理沙にとっては運悪く——見つけてしまう可能性がある。

 

 霊夢はそこかしこに溢れかえっているガラクタを眺めて「相変わらずスゴイわねえ」と驚嘆している。

 そうやって彼女がボケっとしている内に、あの黒歴史を回収して闇に葬らなければ。

 

 まさかこんな切羽詰まった状況に陥るとは。魔理沙は自分の軽率さを悔やんだ。

 

 誰かに知られたくないという焦りばかりが先行して、方々に聞き回り、結果として窮地に立たされてしまったのだ。

 霊夢にからかわれるネタを一つ握られると思うと憂鬱な気分になる。もはやありったけの魔力を注ぎ込み、苦手な探知系の魔術を無理やりにでも発動させようかと、魔理沙は考える。それほどまでに躍起になっていた。

 

 そんな魔理沙の心境を知ってか知らずか、霊夢はその辺に落ちていたけん玉を拾って暢気に遊んだりしている。

 

「ねえ魔理沙見て。十回連続でできたわ」

 

「はいはい。すげぇすげぇ」

 

 振り向きもせず適当な返事をした、その時だった。

 

 魔理沙の視界の端にキラリと光るものが映った。ドキリと心臓が跳ねる。

 

 霊夢に怪しまれないよう平静を装って近づいてみると、そこにはずっと探し求めていたガラス瓶があった。

 

 間違いない。魔理沙がここで見つけ、そして返事の手紙を入れて置いていったメッセージボトルだ。巻かれた紙もちゃんと入っている。

 

 

 

 感慨深くそれを拾おうとして、魔理沙はいくつかの違和感に気がついた。

 

 

 

 まずは瓶の落ちていた場所だ。そこは奇しくも魔理沙が供養のために組んだ墓石もどきのすぐ側であり、昼前にすでに探した場所のはずだった。

 何度も探して、この辺りに無いことは確認済みのはずだった。それなのにガラス瓶は当然のごとくそこにあったのだ。ガラクタの中に埋もれることすらなく、まるで魔理沙に見つけられるために何者かが置いたかのように。

 

 そしてもう一つの違和感は、中に入っている手紙にあった。

 

 巻いているリボンが違う。魔理沙は自分がどういう色のリボンで巻いたかをしっかりと覚えている。

 しかし今ボトルにある手紙はリボンですらなく、飾りっ気のない紐で括られている。それは一昨日拾った手紙を彷彿とさせるものだった。

 

「まさかな」

 

 震えた声が漏れる。魔理沙のなかで一つの仮説が生まれつつあった。

 

 近くに落ちていた錆びたフォークで固いコルク栓を抜き取り、慌ただしく手紙を取り出して広げる。

 

 

 そして魔理沙は、息を飲むことになる。

 

 

 手紙は魔理沙の書いたものではなかった。

 

 拝啓から始まるきれいな文体には見覚えがある。つい最近、何度か読み返した手紙に書いてあった文字と同じ感じだ。

 

 驚愕すべきはその内容で、それは紛れもなく、魔理沙の書いた手紙に対して宛てられた返信だった。魔理沙から手紙を貰えたことの望外の喜びが、その文章からは伝わってくる。

 

 以前拾ったものの倍に近い文章量を、魔理沙は夢中になって一息に読む。

 

 末尾には『八柳誠四郎』の名前。そして遥か未来、約千年後の日付が克明に記されている。

 

「嘘…………だろ」

 

 無意識に魔理沙は呟いた。頭が真っ白になっていた。

 

 理屈なんて解るわけがない。信じられないと自分の中の常識が抗議するが、目の前の一枚の紙切れがそれを否定していた。

 

 魔法や異能や奇跡なんて目じゃない。

 

 魔理沙が千年後の人間と交信を果たした確かな証拠が、そこにはあった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五話

今更だけど。オリキャラ注意です。魔理沙の家族関係とか捏造しまくってますが堪忍してください。


 

 

 人里の大通りには様々な店が連なり、いつも客で賑わっている。その中でも特に目を引く立派な屋敷の一つに『霧雨店』と書かれた看板を掲げている店がある。

 

 主に古道具を扱っている雑貨屋で、里の人間が何か道具を調達しようと思ったら真っ先にこの店の名前が挙がるほど豊富な品揃えが売りだ。

 創業は幻想郷が成立するよりも前、江戸時代の末期頃からで、人里でも屈指の歴史を持つ老舗である。現当主の男はすでに経営を息子に託しており、その息子は気立てのいい嫁に支えられながらしっかりと仕事をこなしている。

 

 常に開け放してある玄関から店の中に入ると、天井に着くほど高い棚がずらりと並んでいるのが目に入る。棚ごとに区分された商品はキレイに陳列され、どれも客が手に取って品を確かめられるようになっている。高いところにある品物は、頼めば店員が梯子で上って取ってくれる。

 土間とはいえ汚い印象はなく、店の隅々まで清潔感がある。朝晩と使用人が掃除を頑張っている賜物だ。

 

 店の奥にある襖の先は応接間などになっており、さらにその奥は霧雨家の生活の場が広がっている。中庭もある邸宅で、何人かの使用人を抱えているので炊事場は大きく、部屋の数も両手の指では数えきれない。

 

 二階に上がると一転して豪華さは鳴りを潜め、霧雨家の家族の部屋に続く襖がいくつかあるだけの、質素な廊下が伸びているのみである。

 

 廊下を進んだ一番奥、西南に位置する部屋にはそこにだけ、日本家屋にふさわしくないベッドが置かれている。

 

 ベッドの上には女性がいて、上半身を起こして静かに窓の外を眺めていた。

 

 外にはまだ霧雨邸の敷地が続いており、大きな栗の木が目立つ庭がある。花はすでに散った後で、深緑の葉が生い茂り風に揺れる。女性はどこか感慨にふけるようにその木をずっと見つめていた。

 

「入るぞ」

 

 ふいに、襖の向こうから声がした。愛想のない男の声だった。

 

 女性が「どうぞ」と言うと襖が開き、手にお盆を持った男が入ってくる。

 

 年配の男だった。

 堀の深い人相は険しく親しみやすさなどないが、代わりに気品と威厳を感じさせる。白髪の多い金髪が艶めいているのは椿油で撫でつけているからだろう。眼光鋭いその目に、仄かに青色が混じっていることから、西洋人の血が流れていることが分かる。

 

「気分は」

 

 男はそう言いながらベッドの横にある机にお盆を置いた。湯呑一杯の水と、懐紙に盛られた飲み薬が乗っている。

 

「ありがとう。今日は風が気持ちいいですね」

 

 女性は自分の夫である男にお礼を言い、薬を飲んだ。水も飲み干して一息つくと、また栗の木の方を向く。

 

 男も一緒になってそれを見つめた。たいへん大きな木で、てっ辺は霧雨邸の屋根の高さとそう変わらない。

 

「もう十六年目になるか」

 

「あら、覚えてらしたの」

 

「俺が植えたものだ」

 

 女性が「ふふふ」と上品に笑う。その口調にはからっているような趣があったが、嫌味は欠片も無く、顔にも温かな微笑みが浮かんでいる。

 

「魔理沙はよくあそこまで上っていましたね」

 

 女性が自分の目線と同じくらいの高さにある枝を指さす。

 

「九歳の頃、あいつはそれで足を折っている」

 

 男がぶっきらぼうに言うと、女性はおかしそうに笑った。

 

「良いじゃありませんか。三カ月も経てば、また元気に木登りしてたんですから」

 

「あいつは学習せんのだ」

 

「そうかしら」

 

「そうとしか思えん」

 

 それから二人はしばらく無言となり、部屋には静寂が訪れた。

 

 蝉の鳴き声と小鳥のさえずりが聞こえる。乾いた夏の風が、草や木の匂いと共に窓から吹き込んでくる。目を瞑って胸いっぱいに深呼吸する妻の様子を、男は横目で見つめていた。

 

 口を開き、静謐を破ったのは女性の方からだった。

 

「あっという間でしたね。魔理沙が出て行って、もう五年」

 

 女性の独り言のような呟きに、男は無言で話の続きを待つ。

 魔理沙が子供の頃によく登っていたという枝は他と比べて太く、ところどころから細枝を伸ばしてたくさんの緑葉を茂らせている。それが風にあおられ、太陽の光を反射してつやつやと光って見えた。

 

「あの子はきっと多くのことを学んでいます。ええ、きっと…………」

 

 女性——もとい魔理沙の母親はそう言った。

 

 

 

 

 

 

「ねえ魔理沙。あんたン家は客にお茶の一杯も出してくれないの」

 

「うん」

 

「私、勝手に淹れちゃうわよ?」

 

「うん」

 

「何種類かあるけど、どの茶葉なら使っていいのよ」

 

「うん」

 

 上の空で返事をする魔理沙に霊夢は呆れて「もう」と言う。

 無縁塚でメッセージボトルを拾ってからずっと、魔理沙はこの調子だった。霊夢が「なに拾ったの」とか「付いて行っていい?」などと聞いてもまるで糠に釘である。

 

 それで魔法の森にある魔理沙の家まで一緒に来たものの、魔理沙は早々に二階へ上がってしまった。さすがの霊夢も人の寝室に勝手に入るわけにもいかず、階段の下から声をかけるしかない。

 時たま、魔理沙は二階から降りてきては本を探してうろうろし、何冊か持ってまた上に引っ込んでしまう。その時にお茶の催促をしてみたものの、やはり「うん」としか言わなかった。

 

 明らかにおかしい友人の様子に「あのガラス瓶は何だったのかしら」と頭を悩ませる霊夢だった。

 

「あ、降りてきた」

 

 魔理沙が屋根裏の階段をのそのそと降りてくる。猫背で明らかに疲れているみたいだが、その顔は真剣そのものである。まるで何かに突き動かされるように、目が徹夜明けのごとくぎらぎらと輝いている。

 

 テーブルに肘をつきながらジッと見てくる霊夢の横を通り過ぎ、本棚にしまってある書物を片っ端から開いてはパラパラとめくっていく。目的のものが無かったのか、今度はテーブルの上に積まれている本や、床に散らばっているのを読み始める。

 しばらくして一冊の魔術書を抱え、再び二階の屋根裏部屋に戻っていった。

 

 その一部始終を見ていた霊夢は、もう我慢の限界と言うように立ち上がり、上へ向かって呼びかけた。

 

「私もそっち行くわよー」

 

 声を張ってそう言うと案の定、小さく「うん」と答えるのが聞こえてくる。

 

 許可が出たことに霊夢は満足し、ろくに掃除もされていない埃っぽい屋根裏に上がった。

 

 

 魔理沙は文机に向かい、何やら熱心に書いていた。まだ昼だというのにランタンで手元を殊更明るくしている。机の端やベッドの上には一階から持って行った本が乱雑に置かれており、ちょくちょく何かを参照するように読んでは書いて、読んでは書いてを繰り返す。

 

 やがて書き上がったのか、しばらく手を止めてうんうんと呻る。

 どうも気に入らなかったらしく、書いた紙をくしゃくしゃに丸めてしまった。屑籠からは同じように丸めた紙が雪崩のように零れ落ちており、その上に魔理沙の放った紙が新たに追加された。

 

 そうしてまた何か書き始めるのかと思えば、今度は一枚の紙切れをじいっと見つめたまま動かない。

 

 霊夢がふと窓際を見ると、ガラス瓶が置かれている。魔理沙が無縁塚で拾って、大事そうに抱えて持って帰ったものだった。

 

「時空移動……いや並行世界っていう可能性も……けど送り返してきたのにはどう説明をつければ…………」

 

 何事かをぶつぶつと呟き思考に耽っている魔理沙の背後に、霊夢がこっそりと忍び寄る。

 

 そして肩越しに、魔理沙が広げている紙切れを盗み見た。

 

 

 

 

 

 

拝啓

霧雨魔理沙様

 

 お返事を下さり、ありがとうございます。あなたの心のこもった優しいお手紙は、しっかりと読ませていただきました。夢を見ているような気持ちだと書かれていましたが、私もまさにそのような心地でこの文を書いています。

 

 しかし本当に不思議なことがあるものですね。私は、自分の流したメッセージボトルが未来で読まれることはあっても、まさか過去に行ってしまうとは考えてもみませんでした。あまりに突飛なことで、思わず笑ってしまったほどです。

 

 失礼。笑ったというのは霧雨さんの手紙の内容をおかしく思ったわけではなく、ただ、そんな奇跡のようなことが起こるのだなと、愉快な気持ちになったのです。だって普通ならありえないでしょう。

 

 でも信じる他にないのだから、苦笑の一つも出るというものです。

 

 私があなたの手紙の入ったガラス瓶を見つけたのは、海岸の波打ち際でした。

 これがまず、本来はありえないことです。私が一年も前に流したメッセージボトルの返事が、再び海を漂って返って来るなんて起こり得ることではありません。それこそ、霧雨さんが言うように幻想郷という不思議な世界の力がはたらいたのだと考える方が、まだ納得がいきます。

 

 それに霧雨さんが当たり前のように書いていた『森』や『山』といったものが、こちらにはもう存在しないことが何よりの証拠となります。

 

 きっと、驚かれるかもしれませんね。

 私にとっては当然のことなのですが、こちらの世界(千年後の未来と言う方が正しいでしょうか)では既に植物のほとんどは絶滅しています。虫というのも、私は学校で習って知っているくらいのもので、実物を見たことはありません。

 

 このような理由で、私は幻想郷という世界や、メッセージボトルがタイムスリップしたことを信じたいと思います。千年もの時代のズレがあるなら、転送ポストなどといった物を霧雨さんが知らないことにも説明が付きますしね。

 

 さて、ここまで長々と書きましたが、実を言うと私のいる千年後の未来というのは、それほど楽しい世界ではありません。どこを見ても背の高い人工物ばかりで、先ほども述べたように自然なんて全く残っていない。地面はほとんど舗装されてしまっているし、私がメッセージボトルを流した海もすっかり汚染されていて、もう生き物が住める環境ではありません。

 空だって、分厚いスモッグがかかっているので、いつも灰色で殺風景なものです。

 

 そんな有様ですから、霧雨さんのご期待に添えるかは怪しいところです。

 けど私としては、霧雨さんのお話をとても楽しみにしています。私の生まれ育った時代では、学校の先生だって本物の森を見たことのある人はいませんでした。世界政府(元は国連というのでしょうか)が厳重に管理している富裕層のためのビオトープがあり、実在する森はそのくらいでしたからね。そのビオトープも、今はもうどこにも存在しないと思いますが。

 

 もし良かったら、あなたの身近にある自然の景色がどのようなものなのか、教えてはもらえませんか。霧雨さんの書かれていた『虫よけの香』というもののこと。空は本当は青いのだと聞きますが、それはどんな青さなんだろうと、想像も出来ないことがたくさんあります。

 

 まだまだ書き足りないですが、そろそろ便箋も埋まってきましたので、今回はこれくらいにしておきます。

 最後に、こちらの体のことまでお気遣いいただきありがとうございます。私も霧雨さんが毎日を健やかに過ごされていることを願っています。

 

敬具

西暦××××年〇月△日

八柳誠四郎

 

 

 

 

 

 

「八柳、誠四郎…………」

 

 思わず最後まで読み切った霊夢が、ぽつりと差出人の名前を呟いた。

 

 それに反応して、魔理沙が急に振り向いた。バッと勢いよく、霊夢が体をそらして避けなければぶつかっていたほどの慌てぶりだった。

 

 魔理沙はようやく霊夢がそばにいることを認識したようで、巫女服姿の友人を見つめながら何か言いたげに口をパクパクと動かしている。

 しかし言葉にならない。顔も赤くなったり青くなったりとまるで百面相である。長い付き合いの中でも見たことがないほどの魔理沙の混乱っぷりに、霊夢はやや申し訳なさそうな表情をする。

 

「…………み、見た?」

 

 ようやく魔理沙が声に出した。霊夢がこくりと頷く。

 

「ど、どれくらい?」

 

「あー、えっと。全部」

 

 そう言うと同時に、魔理沙の顔が耳まで赤くなった。次の瞬間には苦虫を噛みつぶしたような表情になり、机に突っ伏して「わあああ!」と羞恥に身もだえる。

 

 その背中を霊夢がポンポンと叩いた。

 

「ごめんごめん。あんたがずっと机にかじり付いているもんだから気になって。まさか手紙だとは思わなかったの。ね、許して」

 

 霊夢がそうやって宥めると、魔理沙は顔を伏せたまま言った。

 

「じゃあ、なんで全部読んだんだよ」

 

「え、うーんとね…………つい、勢いで?」

 

 言い訳が思いつかなかったのだろう。悪びれつつも開き直った霊夢の答えに、魔理沙はそれはもう大きなため息を吐いて「もうやだ」と消え入りそうな泣き言をこぼしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 魔理沙が機嫌を直すのにだいぶん時間がかかり、気付けば陽も沈みかけていた。霊夢の必死の説得の甲斐もあってどうにか落ち着いた魔理沙は「とりあえず晩飯を作る」と言って台所に入っていった。どうやら霊夢の分も用意してくれるらしい。

 

 霊夢がその辺に落ちている本を流し読みしながら待っていると、やがて良い匂いが漂い始めた。

 しばらくして、鍋掴みをした魔理沙が湯気の立つ鍋を持ってきて、散らかっていた物を適当にどかしたテーブルの真ん中にドンと置いた。

 

 中を覗き込むと、キノコがどっさり煮えていて、その間にぽつぽつと山菜の姿が見える。神社で話していた時に森で採ったキノコくらいしか食料がないと言っていたのは本当らしかった。しかもそれらが一つの鍋でただ雑然と煮込まれているのだから、なおさら野性味が強調されている。

 

 これがうら若き乙女の食事かと言いたげな霊夢に「なんだよ。文句あっかよ」と魔理沙がぶっきらぼうに言う。

 

「文句なんてないけどさ」

 

 霊夢は言いながら自分のぶんの鍋をお椀によそい「いただきます」と手を合わせた。

 

「うわ、めっちゃ美味いわね、これ」

 

「そうだろ」

 

 干したキノコと山菜がたっぷりの汁物は当たり前に美味しかった。出汁が濃く、味噌もいい塩梅だった。

 

「これで白米があれば良いのにね。あとお肉」

 

「贅沢言うなよな」

 

「お米を買うお金もないの?」

 

「だからそろそろ無縁塚で一稼ぎしようかなって思ってたんだって」

 

 自分で無縁塚という言葉を口にし、魔理沙はハッとしたように箸を止めた。さっきの、霊夢に手紙を見られたことを思い出したのだろう。

 

 霊夢はそんな魔理沙を見つつ少しばかり思案し、腰を据えて話すことにした。

 

「さっきの手紙なんだけどさ。魔理沙って文通してるの?」

 

 そう聞くと、魔理沙はたいへん形容しがたい表情を浮かべる。

 

「あ、ごめん。言いにくいなら別にいいけど」

 

 長い間、魔理沙はうんうんと悩み、やがて何か割り切ったのか「まあ言いづらいといえば、そうだけど」と前置きをして話に乗った。

 

「文通って言っていいのかな。まだそんな何回もやり取りしたわけじゃないし。そもそも、本当に向こうと連絡取り合えるかもはっきりしないしさ」

 

「八柳さん、だっけ」

 

 魔理沙が小さく頷く。いつになくしおらしい様子の友人を、霊夢は物珍し気に見つめる。

 

「まあ彼がどんな人かは知らないし、魔理沙もまだよく知ってはいないんだろうけど。いくつか気になることもあったのよね。巫女として」

 

「気になること?」

 

「あの手紙が未来から来たって、マジなの?」

 

 核心を突いた質問だった。魔理沙は少し考えて「分からない」と答えた。「まあ、そうよね」と霊夢。

 

 それから魔理沙は鍋をつつきながら、ぽつぽつと今回のことを語り始めた。

 

 最初に無縁塚でメッセージボトルを拾ったこと。冗談のつもりで返事を書いたこと。そして自分が書いた手紙が消えていて、時間が経って無縁塚を調べてみたら、今度は向こうからの新しい手紙が届いていたということ。

 それらの要点を掻い摘んで話して聞かせた。もちろん魔理沙自身が書いた手紙の内容や、本当は冗談ではなく弔いのつもりだったということなどは伏せておく。文通のことが露呈しても尚、一番恥ずかしい部分を隠し通したいが故の密かな抵抗だった。

 

「で、巫女として気になることってのはなんだよ」

 

 魔理沙がそう聞くと、霊夢は「さっき言った通り」と返す。

 

「前例が無いのよ。外の世界から無縁塚に色んな物が流れてくるのは当たり前のことだけどさ。でもそんだけ大きな時代の差があって、しかもこっちから向こうにも特定の物を送れるなんて、聞いたことも無いわ」

 

「返事を書くな、とか言わないよな?」

 

 霊夢の言葉に思うところがあったのか、魔理沙は食い気味にそう言った。

 

「言わないわよ、そんなこと。理屈がよく分からないってだけで、別に異変ってわけでもないみたいだし。気にはなるけど、とやかく言うつもりは無いから」

 

 「そっか」と魔理沙が安心したように言う。

 

 それからはお互い普段のように軽い口調に戻り、気楽な調子で話を続けた。

 時間旅行の方法だとか、もし過去に行けるならどの時代に行って何をするだとか、そんなことばかり議論している内に、大量にあった鍋の具も食い尽くした。残り汁に入れるものは無いかと荒廃した台所を探してみたところ素麺が見つかったので、それを煮込んで〆にした。

 

 そうやって汁の一滴まで味わっていると、ふと魔理沙の食べる手が止まった。さっきまで「カンブリア紀に行ってアノマロカリスを鍋にする」などと豪語していたのが嘘のように沈黙する。霊夢が怪訝そうに覗き込むと同時、魔理沙はパッと顔を上げて叫んだ。

 

「そうだそうだ、その手があった!」

 

「な、なに。どうしたの急に」

 

 引き気味の霊夢に詰め寄るように、魔理沙が身を乗り出す。我に妙案ありといった感じで、爛々と輝かしいばかりの笑顔を浮かべている。

 

「紫だよ、紫。あいつ幻想郷と外の世界を簡単に行き来できるし、外から人間連れてくることもあるらしいじゃん」

 

 そこまで聞いて、霊夢は魔理沙の考え付いた内容のおおよそを理解した。

 

 大妖怪・八雲紫の異能である『境界を操る程度の能力』。

 結界をすり抜け、幻想郷と外の世界とを自由に行き来できるそれを用いて、未来に行けないかと考えたのだろう。はたまた、手紙の彼を幻想郷に招待する気なのか。

 

 どちらにせよ突飛なことを思い付く、と半ば呆れる霊夢に、魔理沙は時間旅行の計画を滔々と語り始めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六話

ポンコツゆかりんが好きです


 

 

 

 八雲紫は得体の知れないことで有名な大妖怪である。

 

 一言で大妖怪といっても、力の程度はピンキリ。種族や性質の違いもあり、とても一括りには出来ない。

 

 例えば同じ鬼であっても、四天王として数えられる星熊勇義や伊吹萃香らと、その取り巻きである部下たちとでは、腕力一つとっても大変な差がある。幻想郷では固有の特別な能力を持つ者も多くいるので、それも絡めるとさらに力関係は複雑かつ細分化されていく。

 

 そんな中にあって、八雲紫の地位は絶対的だった。

 

 妖怪の賢者として名高い彼女に、同族はいない。突然変異で生まれたスキマ妖怪という種族は、紫をおいて他には存在しなかった。

 そしてこの世に生を受けると同時に天より授かった能力こそが、彼女を大妖怪たらしめる。

 

 

『境界を操る程度の能力』

 

 

 遥か昔、誰もが彼女の力を侮った。よく分からん力だと嘲笑う物の怪が多くいた。鬼の大群が、賢者とやらの鼻を明かしてやると挑んできた。

 

 その尽くが、今日に至るまで、八雲紫の前に屈することとなる。

 

 紫が言うには、全ての物事には境界が存在する。

 昼と夜の間。生と死の狭間。夢と現の境目。そこには人間では観測しえない線引きがある。それらを見極め、操り、定義する。

 

 誰かが言った。それは森羅万象を根底から覆す脅威の力であると。新たな論理を創造し、既存の道理を破壊する、神にも等しい異能であると。

 

 深謀遠慮にして天下無敵。音に聞こえた大妖怪『九尾の狐』すらも己の式神として使役する彼女を侮る者は、いつしかこの世のどこにもいなくなっていた。

 

 

 そんな稀代の化生が作り出した世界こそが、幻想郷である。

 八雲紫は長い研鑽の果て、日本のとある山の奥地に幻と現実とを分け隔てる術をかけた。それは山や森すら飲み込み、一つの箱庭を完成させた。

 

 その術の名を博麗大結界という。龍神を奉る神社を中心として四方に張り巡らされた、八雲紫の最高傑作である。

 

 人と妖怪が共存できる楽園。いつまでも平和が続く理想郷。

 長年、夢にまで見たそれを、八雲紫は成し遂げたのだ。古今東西、世界中のどこを見ても、そのような大仕掛けが成功した試しは他に無いだろう。それほどの偉業の果てに、幻想郷という安寧の地は成り立っている。

 

 一つの世界の創造主とも言える彼女を畏れ敬う者は数多くいる。なにせ見方を変えれば神と同義だ。そんな己の立ち位置を理解してか、紫はよほどのことがない限り、不用意に人里へ現れたりはしない。

 着かず離れず、いついつまでも自分の作った美しい世界を見守っている。

 

 それ故に彼女は有名ながら、得体の知れない人物————もとい妖怪と言われるのである。

 珍しく人前に姿を見せることがあっても扇で口元を隠し、言葉巧みに他者を翻弄するので、いよいよその正体は闇の中。強大な力があるということだけが確かな事実であるために、人はいっそう彼女を気味悪がる。

 

 だから大抵の人間や妖怪は、八雲紫が恐ろしい存在と信じて疑わず、また彼女の人となりを知ることもない。

 

 当代の博麗の巫女、博麗霊夢の育ての親であることも、知る由も無いのであった。

 

 

 

 

 

 

 畳に敷いた布団の上で昼間からぐーすかと眠る美女がいた。

 

 完璧と言えるほど整った美貌は絶世と称するにふさわしいが、だらしなく大口を開けてムニャムニャ言うので気品の欠片も無い。

 

 寝相が悪いのか掛布団は明後日の方向に蹴飛ばされていて、ズレた寝間着の間から腹が見えている。眠りながら腹をポリポリと掻く姿は、三年寝太郎もかくやと思われる健やかさである。

 寝る子は良く育つというが、育ち切ったこの女性が何故かくも寝こけているのかは大いなる謎だった。

 

 この光景を見れば、ほとんどの人は呆れとも憐れみともつかない微妙な気持ちになるだろう。間違っても彼女が恐るべき大妖怪だとは思わないはずだ。

 ましてや幻想郷の頂点におわします妖怪の賢者、八雲紫だとは到底考えが及ばないだろう。

 

 しかし遺憾なことに、この眠れる残念美人は八雲紫であった。

 

 最近のマイブームは昼寝。朝方の二度寝をこよなく愛していた彼女は西洋におけるシエスタ(午睡)という文化を知り、青天の霹靂ともいえる衝撃を受け、さっそく己の生活サイクルに取り入れた。従来の二度寝と組み合わせることで恐るべき相乗効果を発揮し、生活にメリハリが出るどころかよりいっそう怠惰に磨きがかかったのは言うまでもない。

 

 妖怪の賢者としての貫禄は微塵もなく、幻想郷の創設者としての威厳も地に落ちている。むしろ現在進行形で地中深くに潜っていると言ってよい。

 こんなところを誰かに見られたらお終いだということは当人もよく分かっている。でもやめられない、止まらない。そうして大妖怪・八雲紫は、今日も惰眠の限りを尽くし、幻想郷の平和を謳歌するのであった。

 

「紫様、起きてください」

 

 そんな彼女に冷や水を浴びせるがごとく、夢の外から声をかける者がいた。

 襖を開けて紫の自室に入ってきたのは、これまた美しい女性だった。その背後にはふさふさとした艶のある金色の尻尾が揺れている。全部で九本あるそれらは全て、女性の尾骨あたりから生えているものである。

 彼女こそ八雲紫に仕える九尾の式神、八雲藍だった。

 

 従者に呼びかけられても紫が起きる気配はない。むしろ嫌がるように、布団を手繰り寄せて頭から被り丸くなる。

 藍のただでさえ切れ長の瞳がさらに細く鋭くなる。「こいつ本当は起きたんじゃないか」という思いがありありと顔に出ている。

 

「早く起きてください。お客が来ていますよ」

 

「今日は来客の予定はないはずだわ」

 

 布団に埋まりながら紫が言う。藍は盛大にため息を吐いた。

 

「やっぱり起きているじゃありませんか。さあ、布団を畳んで身だしなみを整えましょう」

 

「起きてません。寝ています。なんなら今からでも眠れるわ」

 

「支離滅裂なことを言わないでください」

 

 藍が布団を引き剥がそうとするも、紫はものすごい力で抵抗する。腕力だけなら九尾の狐である藍の方が強いはずなのだが、理不尽きわまる火事場の馬鹿力が働いていた。

 業の深い主人の睡眠欲求に、藍はほとほと困り果てる。他人の前ではいつも余裕面でいるくせに、こんなことで必死になってほしくはなかったと腹の底から思う。

 

 客が来ているというのにいつまでも布団の綱引きを続ける紫に呆れて、しまいに「もういいです」と言ってパッと手を放した。

 

「客というのは霊夢だったんですけどね。なんでも紫様に相談したいことがあると言っていまして。でも仕方がありません、霊夢には申し訳ないですが帰ってもらうとしましょう。紫様はお昼寝で忙しいからとでも言っておきます」

 

 紫は起床した。

 

 妖怪の身体能力を遺憾なく発揮し、文字通り跳ね起きて、つま先から着地する。同時に彼女の姿がまばたきの間に消え去り、いなくなったと思いきや次の瞬間には現れる。再び姿を見せた八雲紫は寝間着ではなく、裾の長い瀟洒なドレスを身に纏っていた。スキマ妖怪の能力を活用した、人智を超えた早着替えだった。

 

「霊夢は客間ね。藍、お茶を用意してくれるかしら。それと何かお茶請けも」

 

 例のごとく扇子を手にして、全てを見透かすように目を光らせる彼女は、たいした知恵のある存在に見える。無論、さっきまでの寝姿を見ていなければの話だが。

 

 もはや何も言うまいと藍は呆れて「はいはい」と面倒くさそうに炊事場へ向かった。

 

 紫の「はい、は一回」という小言が従者の気苦労に追い打ちをかけた。

 

 

 

 

 

 

 紫が客間の襖を開けると、霊夢が座布団の上でちょこんと座り、茶を啜っていた。入ってきた紫の方を向き「やあ」と気安く挨拶をする。

 

「ごきげんよう。久方ぶりね、霊夢。けどいきなりで驚いたわ。あなたの訪問はいつでも歓迎するけれど、いささか急ではなくて?」

 

 しずしずと歩きながら厳かに言う紫に、霊夢は「うわあ」と顔を歪める。明らかに引いていた。

 

「やめなさいよそのノリ。こっちまで恥ずかしくなるわ。まるで近所のおばさんが鏡の前で若作りしてるのを目撃しちゃった気分よ」

 

「ひどいわ霊夢…………ちょっと本当にひどくない?」

 

「酷くない。普通の反応です」

 

「嘘よ。昔はもっと優しかったわ。霊夢が小さい頃、寺子屋の宿題で手紙を書いてくれたことあったじゃない。あれ嬉しかったなあ」

 

「覚えてないわよ。いつの話よ」

 

「『ゆかりちゃんへ』って、私にくれたのよ。買ったばかりの筆でね、紫ちゃんのことを本当のお母さんだと思っていますって、全部ひらがなで————」

 

「わかった。思い出した。もういい」

 

 輝かしい子育て時代を懐かしみ始めた紫を、霊夢が決死の表情で止めた。思春期を迎えた少女には自分の小さい頃の話を聞くなど堪えがたいことであった。

 

「まったく、寝起きだってのに元気ね、ホント」

 

「あれ。寝起きって、なんで霊夢が知ってるのよ」

 

「藍が言ったわ。紫様を叩き起こしてくるから客間で待っていてくれ、ってね。昼間から寝てばかりなんて、少しだらしないんじゃない」

 

 先ほどの意趣返しとでも言わんばかりの霊夢に「ぐぬぬ」と呻る紫。地に潜った威厳の回復は叶わなかった。

 

 そんなことを話していると、お盆を持った藍が部屋にやって来た。

 

「ちょっと藍。あなた霊夢に私が寝てたこと話したらしいわね」

 

「お腹を出していたことまで言いましたが、それが何か?」

 

 恨めしく見つめてくる主人に「もう少しちゃんとしてくださらないと困ります」と言いつつ、茶菓子と紫の分のお茶を机に置いていく。牡丹に似せた上等な練り菓子だった。

 

 それでは、とあまり邪魔をしないようにと立ち去ろうとした藍を、霊夢が引き留めた。

 

「せっかくだから藍も一緒に話しましょうよ」

 

「なんだ。わざわざ訪ねてきたから重要な話だと思ったが、いいのかい」

 

「ええ。巫女として来たわけじゃないし。ちょっと相談というか、お願いがあるんだけど」

 

 お願い、と聞いた紫の瞳がきらりと光る。すでに手を付けていた和菓子を置き、居住まいを正してコホンと一つ咳払いをする。

 

「あなたが頼み事なんて珍しい。できるだけ力になるわ。何でもおっしゃい」

 

 親としての沽券復活をしぶとく狙う紫にやれやれといった視線を送りつつ、霊夢は言った。

 

「時間旅行って出来ないかしら」

 

 紫の目がそっと細められた。

 

 

 

 

 

 

 未来にいる文通相手に会ってみたいと言う魔理沙から「紫にとりなしてくれ」とお願いされて、霊夢は八雲紫のもとを訪ねた。着いてみると案の定、紫は惰眠を貪っており、藍にもてなされて客間に上がった。

 待っているとやがて身だしなみを整えた紫がやって来たので、藍も交えて本題を話し始めた。

 

「魔理沙がヘンテコな拾い物をしてね」

 

 魔理沙から聞いた話と、覗き見した手紙の内容を語る。千年後の未来とか、そこから手紙が届いたりこちらからも手紙が送れたりすることを話しても、紫たちは茶化さずに神妙な顔をして聞いている。

 

 事のあらましを話し終え、魔理沙が文通相手を未来からこの幻想郷へ連れてきたがっていることを霊夢は言う。

 

「いやまあ、そもそもあれが未来から来た手紙かどうかなんて本当は分かんないんだけどさ。でもちょっと気になって。紫なら境界をいじくって、その辺のことも簡単に調べられるかなって思ったんだけど…………」

 

 最後辺りは声が小さくなり、自信なさげに頬を掻く。妖怪や神様なんて存在が当たり前のように生活している幻想郷で育った霊夢をしても、時空を超えるなんてことはとても信じ切ることができなかった。

 

 しかし紫は一笑に伏すこともなく、至って真面目な口調で答えた。

 

「確かに、不可能ではないと思うわ」

 

 その言葉に霊夢は思わず顔を上げ、目を丸くした。

 

「私の能力であれば過去や未来へ飛ぶことも可能でしょう。逆にそういった別の時代から何かを引っ張ってくることもね。境界の定義づけがしっかりしていれば、妖力の続く限り大抵のことはできるつもりよ」

 

「マジですか…………」

 

 思わず口調が変わってしまう霊夢。物心ついた時から親代わりとして育てられてきたが、それでも八雲紫という妖怪は底知れないと改めて実感させられる。

 

「本当に何でもありよね、紫って。でも良かった。それじゃあ今度でもいいから魔理沙と会って————」

 

 そう言いかけたところで、紫に「いいえ」と遮られる。見ると、紫は眉根を寄せて、少し申し訳なさそうな表情をしていた。

 

「残念だけど、この件に協力してあげることは出来ないわ」

 

「なんでよ。さっき自分で出来るって言ったじゃない」

 

「ええ。可能か不可能かで言えば、たぶん可能。でも実際にやってあげるわけにはいかないのよ。幻想郷の管理者として、あまりにも不確かなことには手を出せないの」

 

 紫は言う。世界とは実に複雑にできており、そして案外脆いものであると。ほんの少し新しい要素が混ざるだけで、水に落とした絵の具がサッと広がるように変化してしまうのだということを。

 

 霊夢は昔にも同じような話をされたことを、ぼんやりと思い出した。まだ巫女になるための修業をつけてもらっていた小さい頃。紫からしきりに、分からないということは怖いことなのだと教えられた。幼い霊夢は「何でもできるのに何が怖いのかしら」と不思議に思ったものだ。

 

 あの時は意味も分からず釈然としなかったが、今なら少しは理解できる。不確定な要素がこの幻想郷にどういう影響を及ぼすかなど、妖怪の賢者の知恵をもってしても見通せるはずがないということを。

 

 多少のことは何とかなる。異変と呼ばれる様々な異常事態に見舞われた幻想郷だったが、今もこうしてちゃんと成り立っている。最初は侵攻を企てていた吸血鬼のスカーレット姉妹やその従者たちはすっかりここに馴染んだし、新しい神社や寺が出来ても変化としては以前にも増して賑やかになったくらいのものだった。

 

 幻想郷は全てを受け入れるというのは紫の常套句であり座右の銘だが、本当に何でもかんでも見境なく、というわけにはいかない。外の世界から来たものが益となるのか厄介事の種になるのか、はたまた住人たちからは歯牙にもかけられず無縁塚のガラクタのようにただ累積するばかりなのか。それすらも見極めるのは困難である。

 

 ましてや千年後の未来という想像すらつかない世界からもたらされるものが一体、幻想郷にどんな波紋を呼ぶのか予測できるはずもない。触らぬ神に祟りなし。紫の判断は幻想郷の管理者としては至極真っ当なものであった。

 

「あ、じゃあ魔理沙の方から未来に行くっていうのは?それなら向こうからの影響は気にしなくてもいいだろうし」

 

 代案として魔理沙に言われていたことを口に出した霊夢だったが、それも首を横に振り却下されてしまう。

 

「ダメよ。魔理沙だって幻想郷の一員だもの。そこにどんな危険があるのかも分からないのだから、行かせるわけにはいかないわ」

 

 幻想郷の一員。危険があるかもしれない。

 そう言われては、気が強く意見をあまり引っ込めることのない霊夢でも黙るしかなかった。

 

 紫は力になれなくて残念だと言う。個人としては協力したいが、世界の管理者として断るしかない。普段はあまり表に出さない、育ての親である八雲紫の苦労を、霊夢は垣間見た気がした。

 

「そっか。それなら仕方ないわよね。分かった。魔理沙にはちゃんと理由も説明しとくから」

 

「ごめんね、霊夢。文通だけなら今のところ問題もないようだし、続けて構わないと魔理沙に伝えておいてちょうだい」

 

 場に漂っていた緊張感は解けて、和やかな空気になる。

 

「藍、あなたから他に言うことはあるかしら」

 

「ふむ。そうですね」

 

 それまで黙って二人の会話に耳を傾けていた藍に、紫が話を振る。藍は口元に手を当てて少し考えてから言った。

 

「なぜ紫様は私の分のお菓子まで食べてしまったのですか」

 

 三人の視線が紫の手元に注がれる。そこにはきれいに和菓子を平らげた後の皿が二つ並んでいる。霊夢の話に相槌を打っている内に、知らず知らず手を伸ばしてしまっていたらしい。

 

 呆れかえる霊夢と藍に向かって「てへぺろ」と紫が自分の頭を小突く。

 

 かくして彼女の権威は再び地に堕ちたのであった。

 

 

 

 

 

 

 しばらく茶を飲みつつ談笑してから、霊夢は帰っていった。見送ろうと屋敷の外まで出た紫と藍は、去っていく霊夢の背中をじっと見つめる。

 

「大きくなりましたね」

 

 藍が言う。「ええ」と紫。

 

「でも、まだまだ子どもなのよね。きっとこれからどんどん変わっていくわ。あの子自身も、その周りも」

 

「心配ですか」

 

 藍の率直な問いに、紫は「そりゃあね」と苦笑する。

 

「これでも親のつもりですからね。気にしているのよ。もう一緒に暮らしていないこととか、ね」

 

「仕方ありません。紫様は管理者として、霊夢は博麗の巫女として。お互いが幻想郷に対して中立を保たなければなりませんから。幼少期を過ぎたら過干渉をしないと決めたのは紫様ご自身ですよ」

 

「分かってるわよ」

 

「紫様はたまに霊夢を甘やかしすぎます」

 

「そうかもね。本当は娘の友達にくらい、力を貸してあげたいものだけど」

 

「我慢ですよ。我慢」

 

「分かってるわよ」

 

 もう霊夢の後ろ姿も見えなくなった。屋敷に戻る紫のあとを追いながら、藍は訊ねた。

 

「それで、どうなさいますか。先ほどの魔理沙の件は」

 

「言ったでしょう。協力はしないけど、邪魔もしない。私はあくまで中立なのだから」

 

 そこまで言って、紫はふと足を止めた。手に持っていた扇子を広げ、誰に見せるでもなく口元を覆う。細められたその瞳には妖怪の賢者にふさわしい叡智が確かに宿っていた。

 

 

 

「ただ、そうね。様子を見に行くくらいは、すべきでしょうね」

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七話

 

 

 

 夏の空はずいぶんと高く見える。太陽の光は目に痛いほど強烈なのに、それに照らされている空の色はどこまでも優しい。長いこと見つめていると、あの澄んだコバルトブルーが宇宙の果てまで続いているような気さえしてくるから不思議だ。

 遠くには、こんもりと積もった入道雲が聳え立つ。威風堂々としたその様は、まるで噂に聞くエベレストのようである。抜けるような青空にうず高い雲の白色がくっきりと映り、それが何とも芸術的に見える。

 

 野原に仰向けで寝転んでいる魔理沙は、空を見ながらそんなことをつらつらと考えていた。青空や、そこに浮かぶ雲をじっと眺め、情緒的な文を思い浮かべてはたまに独り言として呟いたりしている。

 

 やがてそれに飽きたのか、ごろんと寝返りを打って体を横にする。

 

「なんかイマイチだよなあ。宇宙とかエベレストとか無駄に壮大にし過ぎたな。うん」

 

 そう言いながら、持ってきたカバンをごそごそと探り、中から一枚の紙を取り出した。先日、千年後の未来の人間である八柳誠四郎から送られてきた手紙だった。折り目など付けないようにしてはいるが、もう何度も読み返したようで便箋の端が少しよれている。

 

 空が青いなんて当たり前のこと、どう表現すりゃいいんだか。

 魔理沙は内心でぼやく。いざ相手に読まれると思うと、なかなか筆が進まなかった。

 

 八柳は手紙の中で熱く、自然の景色が知りたいと語っていた。どうにも未来では植物や虫さえ珍しく、晴れた青空すらお目にかかれないという。あまりに自分の知る現実と乖離しすぎているので、魔理沙はその光景をしっかりと思い描くことが出来ない。

 

 手紙から目を放し、もう一度空を見上げながら、あれが全部灰色だったらと考えてみる。どんなに寂しいだろうと想像する。

 

 しかし魔理沙の頭に浮かぶのはただの曇り空で、別段なんとも思わない。連日曇ってばかりなら確かに憂鬱だろうなとは思うが、晴れて欲しいと熱望する感覚はどうにも理解しがたかった。ほっときゃその内晴れる、という楽観視がどうしても無意識に混じる。

 

「想像力無いのかなあ、私」

 

 ガッカリしたように魔理沙は言う。

 

 この幻想郷の景色を見てみたいなら、いっそ連れてきてしまえばいいんじゃないかと思い立ち、八雲紫に協力してもらうべく霊夢に仲介を頼んだのは三日ほど前のことだ。それから一晩経って意気揚々と博麗神社まで返事を聞きに行ったが「ダメだって」と霊夢に言われた。

 

 発案した魔理沙自身、その結果はなんとなく予想していたので気落ちはしなかったが「じゃあどうやったら、景色の美しさなんかを文で伝えられるのかしら」という問題に直面した。今もこうして大自然の中に身を投じて肌で味わっているが、この心地よさまでも手紙に写すのは困難に思われた。

 

 自分が未来の世界のことなど想像できないように、向こうも説明されたところでよく分からないのではないか。そんな中で相手の喜びそうな手紙は何だろうと考えれば考えるほど、いよいよ書くべきことが分からなくなっていく。

 

 そうして「空が、雲が」などと呟いている内に、魔理沙の表情がだんだんと緩み、瞼が降りてくる。うつらうつらとし始めた、そのすぐ後には寝息を立て始めてしまった。

 

 のどかな草原の、木陰の下。太陽が白熱してはいるが、吹き抜ける風は涼しく乾いていて、絶好の昼寝日和だった。

 シロツメクサがさわさわと揺れる野原の中で、魔理沙は心地よさそうに夢の世界に落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 うすぼんやりとした意識の中で、自分は夢を見ているのだと魔理沙は思った。

 

 周りには何もない。くすんだ灰色の靄みたいなものが広がっているばかりだ。いや、靄の奥に巨大な建造物らしき影が見えるが、それが何であるか定かではない。ただそこに人が住んでいる気配はなく、廃墟となった街にいるかのような荒涼とした寂しさだけが満ちていた。

 

 さざ波の音が聞こえた。

 

 振り向くと、そこは水平線の見える海岸であった。海はやっぱり灰色で、空との境目が曖昧だ。魔理沙は夢の中であるにも関わらず臭いを感じた。今までに嗅いだことのないような酷い汚臭だった。

 

 見渡すと建造物の影は無くなっており、代わりに山のような瓦礫が連峰のごとく積み重なっている。

 

 そんな中で、ふと海岸線に誰かが座り込んでいるのを見つけた。誰だかよく分からない。その人を知っているようでもあるし、全く知らない気もする。シルエットがぼやけていて、男か女かも判然としない。ただ、なぜか異様に痩せこけていて、骨に皮がべったりと張り付いている物悲しい背中だけが、魔理沙には克明に見えた。

 

 その人が今にも死んでしまうんじゃないかと思って、何か声をかけようとするが言葉にならない。言っても相手には聞こえないような気がしたし、そもそも自分がふさわしい言葉を持っていないようにも思えた。

 

 そうやって迷っているうちに、魔理沙の意識はだんだんと夢の世界から離れていく。灰色の景色に黒が混ざり始め、いつの間にか瓦礫の山も無くなった。

 

 もうちょっとなのに。あと少しで届くはずのに。

 

 自分でも訳が分からないまま、魔理沙は強くそう思った。燃えるような衝動の中に、それを凍てつかせる無力感がこびりついていた。

 

 涙を浮かべる魔理沙の視界が暗転するその瞬間、力なく項垂れて座り込んでいたその人物が不意にこちらを向いた。やはり誰かは分からない。

 

 でも微笑んだように見えた。彼は、彼女は、たしかに魔理沙を見て優しく笑った。

 

 何かを言っている。聞き取らなきゃ。

 

 そう思いながらも魔理沙はとうとう夢から弾き出されてしまった。あの人が何と言ったのか、結局聞くことは出来なかった。

 

 

 

「魔理沙…………あなたは……………………」

 

 

 

 

 

 

 魔理沙は跳ねるように起きた。心臓がバクバクと脈打っていて息も荒い。服が寝汗でびっしょりと濡れてしまい大変気持ちが悪かった。

 

 辺りを見渡せば、当然のことながら寝る前と変わらぬ草原が広がっている。青い空に輝いている太陽はまだまだ高いところにある。時計を見ると小一時間ほどしか眠っていなかったらしいことが分かった。

 

 見慣れた景色。子どもの頃も遊んだ記憶のある草原。

 

 そんな場所なのにどことなく違和感を覚えつつも、魔理沙はさっきまで何の夢を見ていたのか思い出せず首をひねった。悪夢に近かったような気がするが、内容をちゃんと憶えていない。

 

 まあ、憶えていないならそこまで大したものでもなかったのだろうと、自分に言い聞かせる。

 

「あっ!」

 

 鞄もすぐ側にあることを横目で確認したと同時、魔理沙は自分の手に握られているくしゃくしゃの手紙に気付いた。寝ている内に握り締めてしまっていたらしい。風に飛ばされるよりはずっとマシだが、落ち込まずにはいられなかった。

 

「あー、やっちまった」

 

 しょぼくれながら、どうにか真っ直ぐになるように便箋を伸ばしてみる。破れたところはなく、手汗で文字が滲んだりしていないのは不幸中の幸いだ。しかしすっかり萎れてみすぼらしくなってしまった手紙からは、そこはかとない哀愁を感じる。

 

 家に帰ったら本を重石にして伸ばしてみるかと考える。または香霖堂で、こういう手紙なんかを保管するのに便利な外の世界の道具でも探すのが良いだろうか。

 

 そんなことを考えながら手紙を伸ばしていると、魔理沙の脳裏に一つのひらめきが天啓のごとく舞い降りた。周囲に生えているシロツメクサに目を向け、その内の一つを摘み取ってまじまじと見つめる。

 

「そっか。そうだよ。何も送るのは手紙だけじゃなくても良いんだよな」

 

 昔、まだ魔理沙が右も左も分からず実家の近所で迷子になって泣いてしまうような子供だった時分、寺子屋に通わされていたのは勿論のこと、家の中でもさまざまな稽古事をさせられたものだ。

 

 魔理沙が毛筆の扱いに長じているのもそのためだが、書道の他にも茶道や華道など、良家の女性が嗜むようなことはだいたい習わせられた。嫌気の差した幼き魔理沙があの手この手でさぼろうとしたのは言うまでもないことである。

 

 華道の先生と差し向かいでお稽古をしていた折、押し花の作り方なんてものを習った覚えがあった。先生は「ごらんなさい」と言ってシロツメクサで作った押し花を見せてくれた。硝子張りの小さな額に収まったそれがとても可愛らしくて「欲しい欲しい」と駄々をこねて畳の上を転げ回った記憶が、うすぼんやりと魔理沙の海馬から蘇る。

 

 いや、そんなことはどうでもいい、と恥ずべき過去に蓋をする。

 

 とにかく魔理沙は、未来で物寂しそうにしているであろう誠四郎に押し花を送る所存のほぞを固めた。摘んだままの生きている花を送れる可能性は低いが、ある程度保存できる物なら試してみる価値はある。

 

「でも普通のじゃつまらないもんな。折角だから、どデカいことやってみっか」

 

 魔理沙は草原の向こうにある、こんもりと盛り上がっている小高い丘を見つめた。太陽の畑と呼ばれるそこは幻想郷でも類を見ないほど肥沃な土地であり、夏になればヒマワリが丘の頂上一面を覆い尽くす屈指の名所だ。

 

 今の季節はちょうど初夏。あの丘の上は黄色い大輪の花で満ちていることだろう。

 

「問題は幽香だけど…………まあタダじゃくれないわな、きっと」

 

 魔理沙は丘を見据えながら「うーむ」と呻った。

 

 太陽の畑はたいへん肥えた土地であり、低級の妖怪が出る心配がほとんどないにも関わらず、そこを訪れる者はほとんどいない。むしろ皆無と言っても良い。人足の少なさは無縁塚にも勝る。人里に住む人間はもちろん、霖之助やアリスなどの変わり者、知能の低い妖怪ですら近寄ろうとはしないのである。

 

 それはひとえに、太陽の畑を縄張りとする存在がいるからに他ならなかった。

 

 『大妖怪、風見幽香』

 

 花妖怪という極めて珍しい種族にして、その力も比肩するものはないと謳われる、幻想郷において屈指の実力者だ。彼女の可憐な容姿と、四季折々の花を司るとされる優しげな能力だけを見るならば、誰も幽香を畏れたりはしないだろう。

 

 しかし幻想郷で生きる者たちにとって、幽香は紛れもなく畏怖の対象であった。誰もが彼女を畏れている。かの妖怪の賢者と同等か、あるいは上回るとすら目される桁外れの妖力を。そして何よりも、長きに渡って語り継がれている残忍極まるその性格を。

 だからこそ人も妖怪も彼女を忌避し、太陽の畑には近づこうとしない。人里では風見幽香の縄張りには決して行かないようにと、子どもたちに口を酸っぱくして言い聞かせるほどである。魔理沙も小さい頃からそう言われて育った。太陽の畑にある花を荒らしたが最後、どんな恐ろしい目に遭うとも知れないからだ。

 

「殺されたりはしないんだけどな」

 

 魔理沙はそれが自然なことのように呟いた。その顔はまるで確信を持っているかのようだった。

 

 風見幽香が管理している太陽の畑に踏み入り、あまつさえ花を貰おうとするなど、一般人が聞いたらそれだけで卒倒しそうな話である。

 

 しかし魔理沙は「手土産の一つでも用意した方がいいかな」などと言いつつ、幽香のもとを訪ねることに決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 魔理沙は箒に乗って、鮮やかな黄色に覆われている丘の上にやって来た。一様に太陽を仰ぐようにして屹立しているヒマワリの群れの眺めは壮観だった。

 

 上空からだと太陽の畑の全体がよく見える。確かに群生するヒマワリが目立つが、他にも様々な花が咲いていたり蜜柑や桃の木が点々とあったりと、彩りがとても豊かなことを魔理沙は初めて知った。

 

 そこから少し奥へ行けば、小さな一軒家が建っている。三角の屋根をした西洋風の可愛らしい家で、白いコンクリート壁には植物がツタを這わせている。裏口にあるテラスはぶどう棚で覆われていて、その下に簡素なイスとテーブルが置かれているのが見えた。そこが風見幽香の住まいだった。

 

 魔理沙は深く息を吸ってから、箒の柄を斜めに下げて、すいっと地上に降下した。ヒマワリ畑の中に立ち、自分の背丈よりも高い花々を見上げて「おお」と感嘆の声を漏らす。空からでは分からなかったが、その威風堂々とした立ち姿は、夏の花の王様と呼んでも過言ではない貫禄があった。実物を前にして「これを贈れば誰だって驚くぞ」と魔理沙は自分のサプライズ計画に改めて感心した。

 

 あっちにもこっちにも生えているヒマワリを見回しつつ、魔理沙は幽香の家に続く小径を進んだ。

 

「久しぶりだな」

 

 石段を上り、アーチ型の玄関の前に立って、そう呟く。頬がわずかに紅潮しているのは夏の暑さのためだけではないだろう。胸に当てた手から伝わってくる心音が、自分が緊張していることを知らせてくる。

 

 魔理沙はいったん自分の腕を嗅いで、汗臭くないか確認する。一度家に帰って水浴びをしてきたので今はサッパリとしている。他にも服のほつれや前髪の先っちょを直し、土産の団子が包みの中で崩れていないか確かめる。

 

 いつになく念入りに身だしなみを整えた魔理沙は、胸に手を当てて深呼吸した。

 準備は万全。意を決して扉をノックする。少し待つと、家の中からコツコツと靴で歩く足音が聞こえてきた。ドアノブが回り、蝶番をキイと鳴らして扉が開かれる。

 

「あら」

 

 中から現れた女性は、魔理沙を見て驚きの声を上げた。

 

 整った目鼻立ちに薄い唇。背丈は魔理沙と比べて頭一つ高いくらいで、膝より少し長いスカートの裾からは細く白い足が見える。夏らしく袖のない涼しげなブラウスを着こなしていて、ただ立っているだけの姿勢やちょっとした仕草までもが実にたおやかである。その声音も慎みのある可憐なもので、威圧感など一切ない。

 

 そこだけ切り取って見れば、誰だって彼女を淑女だと思い込み、警戒などするはずもないだろう。

 

 しかしこの女性こそ、あらゆる存在から畏怖される大妖怪、風見幽香その人であった。淑女然として力強さなど微塵も感じさせないその細腕で、幾百もの強者を打ち倒し伝説を築き上げてきた怪物の中の怪物。

 

 魑魅魍魎も裸足で逃げ出すと云われる彼女は、急な来訪者をきょとんと見つめている。

 やあ、と魔理沙は遠慮がちに挨拶をした。

 

「久しぶりだな、幽香」

 

「ええ、本当に久しぶり。元気だった?」

 

「ぼちぼちかな」

 

 最初こそ面食らったように固まっていた幽香だったが、言葉を交わすうちに柔和な表情を見せ始めた。そればかりか「よく来たわね。暑かったでしょう」と、はるばる遠路から泊まりに来た孫を迎えるようなセリフまで言う。どこまでも大妖怪には似つかわしくない穏やかな対応だった。

 

 それで魔理沙も緊張が解けたようで、無意識に張っていた肩肘からストンと力が抜けた。

 

「あのさ。今日は幽香に頼みたいことがあって来たんだけどさ」

 

 魔理沙がモジモジとしながらそう言うと、幽香は「そう」と微笑んだ。

 

「立ち話もなんだし、とりあえず家にあがったら?」

 

 幽香が扉を大きく開き、魔理沙が通れるよう半身になって促す。

 

 少し悩み、魔理沙は幽香に誘われるまま、彼女の家に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八話

過去編ですね。捏造注意。


 

 

 

 魔理沙と幽香の出会いは十年ほど前まで遡る。

 

 当時の魔理沙は寺子屋に通い始めたくらいの年頃で、意味もなく穴ぼこを掘り、チャンバラごっことおままごとに明け暮れ、何度痛い目を見ても裏庭の木に登り、門限や父の言いつけを破ってはこっぴどく怒られて兄と一緒に泣き喚くといった、わんぱくな日々を全力で生きていた。

 

 魔理沙の世界は人里のなかで完結していた。きらびやかな魔法なんて、おとぎ話だけの存在だった。

 

 人里で魔法を目にする機会がまったく無いというわけではない。

 魔女のアリスは定期的に人里へやって来ては大通りの端で人形劇を開くし、霧雨家に限って言えば霖之助が持ってきた魔道具を見せてもらうこともあった。魔法とは違うが、霊夢はこの頃からすでに紫によって退魔術の基礎を教えられ始めていて、幼馴染である魔理沙がそれを目にすることも何度かあった。

 

 しかしどれも、魔理沙の心を突き動かしはしなかった。興味は持ったし面白くも感じたが、ただそれだけで、自分も覚えようなどとは考えもしなかった。

 

 幼い魔理沙にとっては魔力の糸で人形を動かしたり御札で結界を張ったりするよりも、路地裏の探検とその日の晩御飯の方がよっぽど重要であった。芋ご飯が出ると飛び上がって喜び、その日は最高の一日となったものだ。

 

 そんな毎日が続き、やがては普通に大人になるはずだった。兄は霧雨店の跡を継ぎ、自分はその元で働くか、どこか他の家に嫁ぐか。そんな未来が漠然と広がっているだけのはずだった。

 

 

 しかし思いもよらず、転機というものは訪れるものだ。

 

 

 ある夏の日のこと、魔理沙は友達数人と結成した探検隊を率いて、人里の外へと出かける計画を立てた。井戸端で大人たちがいつも「恐ろしい、恐ろしい」と噂する太陽の畑へ行くのが目的だった。

 

 一面に咲くヒマワリ畑の絶景と、そこに住む美しい大妖怪。一目見なくては好奇心に収まりがつかなかった。

 

 小さな子どもだけで里の外に行くと言えば親に止められることは分かっていたので、魔理沙はいつものように探検ごっこをすると言って家を出た。里は防衛のための塀で覆われていて、門の側には守り人の駐在所がある。魔理沙たちはずっと前にせっせと掘った穴から塀の外に抜けることが出来た。

 

 そうして順調に出発したヒマワリ探検隊であったが、丘に向かって進むにつれて隊員たちの威勢が薄れ始めてきた。それまで持参したお菓子を食べたり、拾った木の枝を振り回して遊んだりしていたのが、だんだんと口数が少なくなる。

 皆の顔には不安の色が浮かんでいた。知らないところに行く恐怖と親に怒られるかもしれない焦燥感が、好奇心を上回り始めたのだ。

 

「もーやだああああ!」

 

 一番小さい女の子がそう言って泣き出してしまった。その子のお姉ちゃんが心配して背中を擦ると「足が疲れた」とべそをかく。姉は妹を背負い、魔理沙たちに謝りながら里へと引き返していった。

 それが発端となって次々に帰りたいという者が出る。結局、丘の麓に着く頃には、意地を張った魔理沙以外、皆帰ってしまった。

 

「はくじょーだ。はくじょー」

 

 魔理沙は寺子屋で習ったばかりの言葉を口にしつつ丘を登った。なだらかな丘陵地帯が続いていて、まだ目的のヒマワリ畑は見えない。

 

 足が痛くなってきたので靴を脱いでみると、親指の付け根が靴擦れをおこして赤くなっていた。それでも負けず嫌いの魔理沙は、目尻に滲んだ涙をごしごしと拭って歩き続けようとした。

 

 

 しかし立ち上がった魔理沙の視界は、ぐるりと反転した。遅れてやってくる腹部の痛み。

 突然、草むらの中から何かが魔理沙に飛び掛かってきたのだ。腹に激突され、押し倒されて仰向けになる。

 

 

 それは野犬だった。いや、ただの犬ではない。異常に涎を垂らし、狂気さえ感じるほどに歪んだ顔を見て、幼子でもそれが物の怪の類だと理解できた。

 

「な、なんで…………」

 

 あまりに予想外の出来事に涙も引っ込んで、魔理沙は呆然としてそう呟いた。大人の話では、明るいところなら妖怪は出ないはずなのに。香霖堂に行くときには一度も襲われたことなんてなかったのに。

 

 その時の魔理沙には知る由も無かった。いくら日中でも、活動している妖怪がまったく存在しないわけではないことなど。今まで道中で襲われなかったのは、保護者が退魔の護符を持っていたからなどと。

 

 野犬に似た妖怪はそれほど大きくはなかったが、妖力によって強化されたその力は子供が振り払えるようなものではなかった。

 

「グルルルッ」

 

 長い犬歯を剥いて妖怪が呻る。今にそれが魔理沙の軟な首に突き刺さり、肉ごと頸動脈を食い千切るだろう。

 

 死への絶望がすっかり魔理沙の心を塗り潰し、ぎゅっと目を瞑った、その時だった。

 

 何かが激突したような凄まじい音とともに「ギャ」と短い悲鳴が上がり、のしかかっていた重量がかき消えた。

 

 魔理沙が目を開くと、そこにはさっきの妖犬ではなく、日傘をさした麗人が立っていた。シャツにチェック柄のスカートと、人里では珍しい洋服を着たその姿に、魔理沙は命の危機だったことも忘れて見とれてしまう。母が読んでくれた本の中に出てくる妖精のように綺麗だと思った。

 

「大丈夫?」

 

 女性が覗き込むようにして問う。魔理沙は訳も分からないままコクコクと頷いた。

 

 しかし危機はまだ去ってはいなかった。遠く離れたところから、先ほど魔理沙を脅かした獣の唸り声が聞こえる。びくりと身を震わせて振り向くと、遥か向こうの木々の間から、野犬の妖怪がよろよろと歩いてくる。

 

「頑丈なのね。少し強く蹴ったつもりだったけど」

 

 当時は何も分からなかった魔理沙だが、後々になってあれは異常なことだったのだと思い返す。

 妖犬は、その姿が点に見えるほど遠くの林まで飛んでいったのだ。女性が言う通り、たしかに妖犬の耐久力もなかなかのものだったが、なにより「少し強く蹴った」程度でそこまで吹き飛ばした彼女の脚力は妖怪のものとして見ても大いに逸脱していた。

 

「私の後ろにいなさい」

 

 女性が魔理沙の前に出てそう言う。

 

 妖犬が大きく吼えたかと思うと、その体がみるみるうちに巨大になっていく。体高はたちまち辺りの木々を超えて、もともと凶悪だった牙は太刀のように変貌した。周囲の空間すら陽炎のように歪んで見えるほどの妖力は、大妖怪の領域にすら達すると言える。

 

 しかしそれを目の当たりにしてもなお、女性の余裕は崩れない。むしろ面白がるように笑みを深めて「へえ」と言う。

 

 真の姿を現した妖犬は背中の筋肉をぐっと引き絞ったかと思うと、矢のように女性へと襲いかかった。百メートルはあった距離が一瞬にして潰れる。人間では認識することすら難しい、魔性の俊敏。

 

 流星のごときその勢いは、女性に牙を突き立てようとした刹那、進路を上へと変えられる。いつの間にか日傘を閉じていた女性が、それを振り上げ、妖犬の顎を打ち砕いたのだ。それも優雅に、片手で易々と。

 

 血をまき散らしながら、妖犬は紙切れのように空高く舞い上がる。女性はまるで銃の照準を定めるがごとく傘の先端を妖犬へと向けた。

 

 ゴウッと極太の光線が放たれる。ほぼ真上に向けて打ち出されたそれに、妖犬は成す術もなく飲み込まれた。

 やがて光が粒子となって消えた空には恐ろしい妖犬の姿など何処にもなく、ぽっかりと不自然に穴の開いた雲が、青い空に浮かんでいるだけだった。

 

「困ったものね。あれ、ここら一帯を荒らし回っていたようなの。被害の大きさにしては相応の妖力を感知できなかったから手をこまねいていたんだけど、まさかただの野犬に扮していたとはね。なんにせよ、野山が荒廃する前に退治できて良かった」

 

 魔理沙は女性の言うことのほとんどを理解できなかった。幼いからということもあるが、今しがた目にした強烈な光景に心を奪われていたのだ。

 

 空を穿った眩い極光。全てを灰燼に帰す圧倒的な力と、消えた後には何も残さない、花が散るような儚さ。その一部始終を目に焼き付けるように、魔理沙はしばらくの間ぼーっと空を見上げたままだった。

 

「ごめんごめん。驚かせちゃったわね」

 

 女性はそう言って屈みこみ、魔理沙に怪我がないか確かめた。

 

「あなた人里から来たの?危ないわよ。いくらお昼時でも、子どもが一人で外を出歩いていたらさっきみたいに襲われちゃう…………あらやだ、足が腫れているじゃない。靴擦れかしらね。歩くのも辛いでしょう。手当してあげるから、私の家まで来なさい。すぐそこだから」

 

 されるがまま、魔理沙はまともに答えることも出来ず頷くだけだった。

 

 華奢だがこの上なく安定感のある背中に負ぶってもらい、丘を登っていく。ウェーブのかかった艶のある女性の髪からは良い匂いがした。色とりどりの花を思わせる素敵な香りだった。

 女性はちらりと魔理沙の方を見て、柔らかく微笑んだ。

 

「私は風見幽香。あなたの名前は?」

 

「ま…………まりさ」

 

 それが大妖怪である風見幽香と、年端もいかない魔理沙との出会いだった。

 

 

 

 幽香の家は、まるで絵本の中に登場する小人の住処のようだった。

 

 レンガの壁と一体になった竈があり、側には銅製の鍋やフライパンが壁にかかっている。木製の食器棚には白くて美しい皿が展示されているように収まっており、他にも大きな振り子時計や、美しい装丁の本が詰まった本棚などのインテリアが魔理沙の心をくすぐった。

 

 そこで足の手当てをしてもらった魔理沙は、おまけにお茶とお菓子までご馳走になってすっかり元気になった。抱えられながら、家の周りに咲くヒマワリも間近で見せてもらった。どうしても自分の足で歩きたがった魔理沙だったが、それは「また今度」と幽香に止められてしまった。

 

「足の具合がよくなって、もっと大きくなったら、またいらっしゃい。歓迎するから」

 

 夕焼けも濃くなってきた頃、魔理沙が帰りたくないと言ってぐずっていると、幽香はお別れの品としてヒマワリを一本持たせてくれた。草丈が三十センチほどしかない小さくて可愛らしい品種の花だった。

 

「いいの?」

 

 魔理沙がそう聞くと、幽香は彼女の頭を撫でて言った。

 

「お母さんにも見せてあげてちょうだい。お体、良くなるといいわね」

 

 そうして幽香は魔理沙を抱えて人里まで送ってくれた。その時、魔理沙は生まれて初めて空を飛んだ。行きは、幼い子は怖がるかもしれないからと幽香が気を使って徒歩だったのだが、魔理沙が平気だと豪語するので帰りは飛んでいくことになったのだ。

 

 幽香は人里のすぐ側で魔理沙を降ろした。自分は怖がられているから、無暗に里へは入らないと言う。わざわざ人里に来ることがあるとすれば、たまに買い物をしに来るくらいだとか。

 

 魔理沙は別れを惜しみつつも絶対にまた来ると固く約束を交わした後、里の方へと駆けて行った。

 

 

 

 

 帰った魔理沙を待っていたのは父のお叱りだった。あれだけ太陽の畑には行くなと言ったのに、とかつてないほど長く怒られて魔理沙はしょぼくれた。

 どうやら先に帰った友達が親に話したせいで魔理沙の父にも何処へ行ったのか伝わっていたらしかった。そんな友人たちもそれぞれの親にこっぴどく説教されたようで、後日顔を赤くしながら魔理沙に謝ってきた。

 

 しかし魔理沙が納得いかなかったのは、誰も彼女が太陽の畑に行ってきて風見幽香と会った話を信じなかったことである。どんなに本当だと言っても信じてもらえず、大人たちはムスッとする魔理沙に「太陽の畑で花なんて取ってきたら、今頃お前は生きちゃいないよ」と笑った。

 幽香からもらった証拠のヒマワリは、どこか別のところで摘んできたのだと結論付けられた。唯一信じてくれたのは母くらいものだ。

 

 じゃあもう一回行ってやる、今に見てろ、と魔理沙は躍起になったが、一度里を抜け出したせいで警備が厳しくなり、もう一人では外出すらままならなくなってしまった。また塀の側に穴を掘ろうにも深くまで柵が埋められるようになったので断念せざるを得ず、たいていは父に言いつけられた兄が側にいるために、木に登ったりして抜け出すことも叶わない。結局その後、また会いに行くという幽香との約束は果たせぬままだった。

 

 大きくなるにつれて幼少の記憶は薄れていくもので、いつしか約束への使命感も無くなっていった。あの時幽香と何を話したとか、何を食べたかまでは、魔理沙もよく覚えていない。強いて言うなら、なんとなく親切にされた感覚が心の奥に秘められているくらいだ。小さい頃の思い出とはそういうものである。

 

 

 けれど今もはっきりと憶えていることはある。

 夕焼けの中、風を切って飛んだ時の感触が魔理沙の肌にまだ残っている。絶体絶命のところを助けられ、空に風穴さえ開けた強大な光の奔流が、時を経て尚、魔理沙の目に焼き付いている。

 

 そんな憧憬に焦がれて今日に至る。ごく普通の少女が魔法使いを志すようになった、人生の分岐点。

 

 十年経った今では、すっかり空を飛べるようになった。靴擦れで腫れた足に塗ってもらった軟膏も自分で作ることが出来る。

 そして霖之助からの賜り物であるミニ八卦炉を使って、あの光線を再現することにも成功した。本人はまだ完成度に満足してはいないが、一応形になったその奥義に『マスタースパーク』という名前を付けた。

 

 

 

 魔理沙はあの日の感動を、今でもずっと、追い続けている。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九話

 

 

 

 西洋風の家には似つかわしくない、どっしりとした二つの湯呑がテーブルの上に置かれている。なみなみと入れられているのは冷やした麦茶で、魔理沙が持ってきた団子に合わせて幽香が淹れたものだ。

 

 幽香は団子の礼を言いつつ食べ始めている。

 その差し向かいに座る魔理沙は、いつになくソワソワと落ち着かない様子だった。何度かクッションの位置を直しているし、お茶に口をつける回数もきわめて多い。

 

 横目で家の中を見回すと、暖炉の側の椅子に布がかかっている。作っている途中の編み物のようだった。今自分が座っているふかふかのクッションも幽香のお手製なのかと、魔理沙は考える。

 

「なんか、変わってないな。幽香の家は」

 

「そうかしら。まあ模様替えしたくなるほど、物は多くないしね」

 

「そういうもん?」

 

「ええ。不必要な物は置かない。整理整頓の秘訣よね」

 

 魔理沙は己の家の惨状を思い浮かべ、それをサッと水に流すように茶を飲んだ。

 

「んぐ、げへっ! ごほっ!」

 

 そしてむせた。お茶が器官に入り、盛大にせき込む。

 

「大丈夫?」

 

 心配半分、呆れ半分といった感じで聞いてくる幽香に、魔理沙は俯いたままかろうじて頷く。まるで大丈夫ではない。咳と羞恥で真っ赤な顔を幽香に見せないよう必死だった。

 

 やがて治まり魔理沙が「ふう」と一息つくと、幽香は頬杖をついて笑いながら言った。

 

「あなたも変わらないわね。背は大きくなったみたいだけど、落ち着きがないところは昔のまんま」

 

「あん時の私ってそんなに変だった?」

 

「変ではないけど、まあ普通に子供だったわよ。家中の色んな物を指さしては「あれなに?」って聞くし、足を怪我しているのに駆けっこしたいって言うし」

 

 自分の憶えていない記憶を掘り返されて、魔理沙の頬が再び染まる。

 

「い、今はそんなこと言わない」

 

 幽香は微笑みながら「分かってるわよ」と言う。

 

「しばらく見ない間にどれだけ変わっちゃったのかと思っていたけど、そうでもなかったなって思っただけ」

 

「…………やっぱり、変わってなきゃダメだったか?」

 

「まさか。素敵よ。とても」

 

 幽香は湯呑を傾けておごそかに麦茶を飲んだ。飲む音にさえ品があった。

 

「それで、頼み事って言っていたけど」

 

 相手からそう促されて「ああ、うん」と魔理沙が答える。

 

「ちょっとさ、ヒマワリが一輪欲しいなって思ってんだけど…………いいかな」

 

「いいわよ」

 

 即答だった。あまりに簡潔なその返事に、魔理沙は目を丸くする。子どもの頃のことがあるから断られるとは思っていなかったが、こうもあっさり了承されると何処か居心地が悪かった。

 

「やけにあっさりしてるけど、理由とか聞かないのか?」

 

 魔理沙が思わず聞くと、今度は幽香の方が意外そうに見つめ返してきた。そんなこと考えていなかった、と顔に書いてある。

 

「わざわざ律儀に手土産を持って来るくらいだもの。そんな心配はしていないし、それに太陽の畑に生えているあの子たちは、別に私のものってわけじゃないから」

 

「幽香のものじゃないだって?」

 

 初めて聞く話に、魔理沙は驚きの声を上げた。

 風見幽香は花妖怪。花を司る四季のフラワーマスターであり、誰が言ったかこの世の全ての花は彼女に通ずるとまで謳われる。事実、幻想郷でもいっとう花が美しく咲くこの太陽の畑に居を構えており、他の存在は彼女の縄張りだと敬遠して近寄らないようにしている。それなのに、今も窓から見えるあのヒマワリの一本すらも彼女のものではないと言うのは道理に合わない。

 

 そんな魔理沙の疑問が透けて見えたのか、幽香は困ったように苦笑した。

 

「花だって生きているからね。命はただそこにあるだけで美しいもの。それを自分のものと言い張ったり、所有権を決めようとしたりするのは無粋ではないかしら」

 

「あー……わびさび、みたいな?」

 

 魔理沙が思い付いた言葉を口にすると、幽香は「そんな感じ」と笑った。

 

「花を愛しむことにも、摘み取ることにも、善悪を問うつもりはないわ。何が良くて何が悪いかなんて人それぞれの価値観でしかないわけだし」

 

「そっか。あれ、でも幽香、この辺を荒らしたからって犬の妖怪やっつけていたよな」

 

「もちろん私だって心はあるもの。美しいものがただ踏みにじられているところを黙って見過ごしたくはないわ。あの日、あなたにヒマワリを持たせたのだって、私がそうしたいと思っただけのこと」

 

 魔理沙が「なんか勝手だなあ」と言う。「そう、勝手よ」と幽香。

 

「まあそれはそれとして、ヒマワリが欲しい理由は気になるわね。誰かにあげるの?」

 

「お、押し花を作ろうと、思って」

 

「へえ。押し花ねえ」

 

 幽香が興味深そうに魔理沙を見る。

 

「誰かにあげるの?」

 

「……まあ、そんなとこ」

 

「あなたのお母さんかしら。そういえば、あれから具合は良くなって?」

 

 母のことを聞かれた魔理沙は、ぐっと言葉に詰まり、思わず俯いてしまう。

 

 魔理沙の母は昔から病弱だ。生まれついてのものらしい。今でこそかなり良くなったみたいだが、以前は咳がひどくて寝たきりになることもあり、幼かった魔理沙の心胆を寒からしめた。枕元にいる自分と兄を優しく見つめながら「大丈夫」と言った母の言葉が、今も魔理沙の耳に残っていた。

 

「母さんは、違うんだ。関係ない。最近はあまり、顔も見ていないし」

 

 下を向いて茶飲みながらぼそぼそと呟くように言う魔理沙に、幽香はただ一言「そう」と返した。

 

「たしか、今は魔法の森で一人暮らししているんだったわね、あなた」

 

「そうだけど……なんで知ってんの?」

 

 自分から幽香に伝えただろうかと魔理沙は頭をひねる。幻想郷は閉じられた狭い世界だ。どんな話題でも隅から隅まで伝わっていても不思議ではないが、風見幽香にわざわざ魔理沙が一人暮らしをしていることを知らせるような物好きがいるだろうか。少なくとも魔理沙の知り合いの中で思い当たる人物はいないように思われた。

 

「風の噂ってやつね」

 

 幽香は立ち上がってキャビネックの上に置かれていた新聞紙を取り、魔理沙に手渡した。見てみると、大見出しの上に『文々。新聞』とある。言わずもがな、あの厄介なパパラッチ天狗が手掛けている新聞の名前だった。日付は何日か前のもので、魔理沙は少し考え、これが先日無縁塚で無理やり押し付けられたのと同じ朝刊だと分かった。もちろん貰った方の新聞は読んでいない。と言うか何処かに仕舞った記憶が無い。おそらくガラクタの中に埋もれてしまっているだろうと、魔理沙は他人事のように考える。

 

「だいぶ前だけど、あなたのこと新聞に載っていたのよ。なんだっけ。『魔法少女(見習い)一人暮らし始めました』みたいな題名で」

 

「あの阿保天狗め……人の許可もなく記事にするとか…………つーか新聞読むんだな、幽香って」

 

「意外?」

 

「うーん、少し」

 

「なかなか面白いわよ、あの鴉天狗の新聞。よくもまあこれだけ色々とネタを集めてくるものだわ」

 

 話しながら記事を流し読みしていくと、ある部分で魔理沙の目が止まった。

 

 片隅にある、ちょっとしたコラムだった。『第31回、古道具小話、煙管問答後編』とあるその記事には、人里の古道具屋の主人による煙管の話が載っていた。文章の傍らにある小さな写真に写っている男は魔理沙の父親だった。モノクロだが、娘の魔理沙が見間違えるはずもない。

 

 そういえば文は「一部寄稿してもらっている」とか言っていたなと思い出す。まさか自分の父親が天狗の新聞の原稿を書いているとは露知らず、魔理沙は形容しがたい気持ちになった。

 

 父は寡黙な人物で、仕事のことと子供を叱ること以外ではあまり口を開かなかった。もちろん魔理沙に送られてくる実家からの手紙もほとんどは母が書いたもの。もしくは稀に兄が寄こすくらいで、父からの手紙なんて一度も来たことがない。

 

 それなのにこの記事の饒舌なことと言ったら!

 

 煙管の歴史や用途などの蘊蓄に終始するその文章からは、隠そうにも隠し切れない煙管への愛が読み取れる。後編とあるからには前編もあったはずで、文との対談形式になっている部分を見ればなるほど、たしかに続きもののようである。随分と気合を入れているもんだ、と魔理沙は呆れるしかなかった。

 

「どこ読んでるの? ああ、霧雨道具店のコラムね。あなたの実家」

 

 魔理沙が食い入るように新聞を読んでいると、いつの間にか幽香が後ろに回り込んで覗き込んでいた。驚いた魔理沙は思わず新聞の見開きを閉じる。

 

「お父さん、煙草好きなのね」

 

「…………いや、私は小さい頃から、父さんが吸ってんのは見たことないけど。道具が好きなだけじゃないかな」

 

「ふうん。自分で使わない物を集めるなんて、やっぱり人間って変わってるわ」

 

 実家のことについて何を言われるかと身構えていた魔理沙だが、話はそれであっさりと終わって、幽香は新しくお茶を淹れに台所の方へ行った。

 

 新聞を畳んで置き、魔理沙はふうとため息をつく。不意打ちだった。まさかこんなところで父親の知られざる一面を見ることになるとは。昔から鉄面皮で、何を考えているか分からなくて苦手だったが、いよいよ理解が困難になる。父が煙管を好きで集めているのはもちろん魔理沙とて知っていた。しかしここまで造詣が深いとは思っていなかったので面食らうばかりである。

 

「今度、こーりんにでも聞いてみるかな」

 

 ふと、霖之助のことが魔理沙の頭を過る。彼と霧雨家との付き合いはとても長いと聞く。そんな彼なら父が煙管を集める理由なんかも知っているだろうと、魔理沙は考えた。

 

「おまたせ」

 

 幽香がお茶の入ったやかんを持って戻ってきた。ほとんど空になっていた魔理沙の湯呑におかわりが注がれる。椅子に座った幽香は自分の麦茶に口を付けようとして「あ、そうだ」と言う。

 

「魔理沙、あなた魔法の修業をしているんでしょう。やっぱり将来は魔法使いになるつもり?」

 

 魔法使いとはれっきとした種族名だ。魔力を栄養の代替にする捨食の術というものがあり、これを会得すれば人間ではなく魔法使いとして見られる。生き方の根幹が違うからだ。さらにその先には肉体年齢を止める秘術、すなわち不老を実現させられる捨虫の術というものもあるが、どちらも魔理沙にとっては未到達の領域だ。

 

 きっと以前なら「当たり前だ」と答えていた。だって魔道を志す者なら、誰もがそこを目指すことになるから。考えるまでもなく、それが当然のことだから。

 

 しかし魔理沙は幽香の質問に答えあぐねていた。どこかに引っ掛かりを感じて、上手く言い表せられない。

 

「どうだろ。そんなに先のことは、まだよく分かんないかな」

 

 目をそらし曖昧な答え方をする魔理沙へ、幽香は穏やかに言う。

 

「じゃあ何か他に目指しているものはあるの?」

 

 その言葉に、魔理沙はハッとして顔を上げる。目の前では自身の羨望と憧れの的である風見幽香が微笑みを浮かべている。

 

 父には荒唐無稽だと言われた。兄にも普通に暮らすことを勧められた。親友の霊夢にだって、危ないことはしない方がいいんじゃないかと注意を受けた。

 

 それでも意地になって、一人で突っ走ってでも目指すものがあるのなら、それはきっと————。

 

「別に…………今は目の前にあることをやるだけだよ」

 

 魔理沙の口からは、なんとなく誠実に聞こえるような、ありふれた言葉が出た。それが本心なのかどうか、自分ですら分からなかった。分からないことが何よりももどかしい。

 

「そう。見てみたいものだわ。あなたの魔法」

 

「きっと度肝抜かすと思うぜ」

 

「いいわね。抜かしたいわ、度肝」

 

 不敵に笑ってみせた魔理沙だったが、こう真っ直ぐに返されると弱ってしまう。マスタースパークという自慢の技もあるけれど、まだ自分一人の力で撃つこともできないそれを幽香に見せびらかすのは憚られた。

 

 幽香は言い淀む魔理沙を見つつ、何を思ったのか、口角を吊り上げた。

 

「ところで、さっきのヒマワリの話に戻るんだけど、結局誰にあげるつもりなの」

 

 聞かれて、魔理沙はまたも返事に窮する。未来から送られてきた手紙なんて突拍子もない話——霊夢には仕方なく打ち明けたが——やはりどう説明したものかと悩む。

 

 いやそれ以前に、文通相手に送るためにわざわざ押し花を作りたいだなんて、魔理沙が素直に言えるはずもなかった。

 

 そんな魔理沙の心境を見越してか、幽香は楽しそうに笑みを深めて言った。

 

「話しにくいみたいだけど、やっぱり太陽の畑の管理者としては、ちゃんと理由くらい知っておきたいわねえ」

 

「さっきと言ってること違くない? 花は別に自分のものじゃないとか言ってたじゃん」

 

「そうだったかしら」

 

「言ってた! 言ってた!」

 

 抗議する魔理沙に対して「それはそれ」と幽香は軽く受け流す。「勝手だ、横暴だ」と喚かれてもどこ吹く風。話してくれなきゃ花は譲らないと言う。幽香の唐突な心変わりに魔理沙は目を白黒させるばかりだ。

 

「ではこうしましょう」

 

 黙ってヒマワリを持ち帰りたい魔理沙と、そんな魔理沙から押し花を贈る相手のことを聞きたい幽香。ここに両者の意見は割れ、対立することとなった。かなり強引にその状況を作った幽香は、心底楽しそうな笑みを浮かべたまま言った。

 

「弾幕ごっこで私が勝てば、詳しい話を聞かせてもらう。魔理沙が勝てば、これ以上の詮索は止めるし、どれでも好きなヒマワリを持って行って良い」

 

 弾幕ごっこ。八雲紫が考案した、スペルカードによる宣誓式の、清く正しく安全な決闘方法。

 幻想郷は人妖入り乱れる魔境とも呼ぶべき場所であり、その自由な空気感もあって個人間での争いが絶えない。昔は力にものを言わせる、たいへん妖怪的な実力主義がまかり通っていた時代もあったが、今では弾幕ごっこという平和的な解決手段が普及し始めている。単純な強さではなく、妖力などによって形成する弾幕の美しさや、それを回避する際の華麗さなどに重きを置くこの遊戯は、なかなかどうして人と妖怪の双方に受け入れられつつある。

 

 魔理沙も弾幕ごっこを嗜む一人だった。のめり込んでいると言ってもいい。

 もともと勝負事は好きな質だし、自分の魔法修行の成果を存分に発揮することが出来るのは何においても喜ばしいことだった。賭け事の有無に関わらず、霊夢とはもう何度もやり合っている。あの非凡極まる博麗の巫女を相手に魔理沙が勝てた試しはまだないが、おかげで弾幕ごっこの経験は豊富だった。

 

「…………わかった。言っとくけど、けっこう強いぜ、私」

 

 自信に胸を張り、魔理沙がそう言う。正真正銘の実力勝負ならいざ知らず、弾幕ごっこでなら勝機があると踏んでいた。少なくともそれくらいの自負を持てるくらいには、研鑽を重ねてきたつもりだった。

 

 それに何より、あの幽香と手合わせできる。かつて雲の上にいるように思えた彼女の背中に、どれほど近づいたか試せるまたとない機会だ。そう考えると、俄然やる気が湧いてくる。

 

 魔理沙の啖呵を受け、幽香は「決まりね」と言って立ち上がり、玄関へ向かって歩き出した。魔理沙も箒を手に取り、幽香のあとに続いて外へ出て行く。

 

 飲みかけの麦茶が入った湯呑の肌を、結露した水滴が伝って落ちた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十話

 

 

 

 ヒマワリが咲き誇る丘の上空で、二人は対峙していた。一方は箒の柄に立って空を飛び回り、一方はスカートの裾をはためかせながらふわふわと宙に浮いている。

 

「ハアッ、ハアッ、ハアッ…………」

 

「もう終わり?」

 

 幽香の挑発に、魔理沙は答えない。服は汗でぐっしょりと濡れ、肩を上下させて荒い息を吐く。そんな限界の見え始めた魔理沙に対し、幽香は涼しい顔をして日傘を差している。仮にも決闘の最中だというのに、野道を散歩でもしているような優雅さだった。

 

 魔理沙はあらゆる手を尽くした。今自分が持ち得るスペルカードをいずれも適切に使い、時にはフェイントを巧みに織り交ぜて攻め立てた。間違いなく全力を出したと言える。

 

 それなのに相手は無傷。いや、疲れてすらいない。一つ一つが高密度の弾幕となる魔理沙のスペルカードを全てかわし、名も付けていない単純な妖力弾で相殺して見せたのだ。それは圧倒的な実力を持つ者にのみ許される絶技。人間程度の反射神経ではどう転んでも不可能な、神がかりとすら言える卓越した技巧であった。

 その悠然とした一挙手一投足に込められたしなやかな美は、ただ派手な弾幕を撃つだけでは決して至れない領域にある。

 

 弾幕ごっこを始めて僅か十分。魔理沙の劣勢は明らかであった。

 

「もうタネも尽きたかしら。けれど驚いたわ。まだ子どもなのに、こんなにも多くの魔法を扱えるなんて。なかなか良いものを見せてもらった」

 

「勝手に、終わらせんじゃねえ!」

 

 魔理沙が吼えて突貫する。立っていた箒の柄に跨り、身体を極力倒すようにして風の抵抗を減らす。

 

 幽香の言う通り、ほとんどの手はすでに使い果たしていた。残る望みはあと一つ。それに一縷の希望をかけて、魔理沙は最後の勝負に出たのだ。

 

 真っ直ぐに、猛烈な速度で飛来する少女の姿を見つめながら、幽香は不敵に笑って一枚の紙を掲げた。

 

「花符・幻想郷の開花」

 

 スペルカードの宣言と共に、花吹雪のごとき無数の弾幕が幽香から放たれる。魔理沙がぎょっと目を剥き、一瞬とはいえ特攻の覚悟を忘れさせるような、妖力の暴風雨が襲いかかる。ただでさえ数が多いそれらは、風に舞う花びらのように不規則な動きをして魔理沙の行く手を阻んだ。

 

 しかし避ける。当たらない。花弁の一つとして、魔理沙に触れることはない。

 

 人間の少女にあるまじき回避性能に、今度こそ幽香は感嘆し目を大きく開いた。

魔理沙が幽香の凶悪な攻撃を回避できているのは、これまでに霊夢と何度も試合をした経験があってこそだった。幻想郷の守護者としての役割を持つ博麗の巫女を務めるほどの才気は尋常ではなく、魔理沙は霊夢の理不尽とすら言える実力の前に幾度となく敗北を喫している。それでも諦めなかった成果の一端が今、この場で発揮されていた。

 

 無限に思える花弾幕の隙間を縫うように、魔理沙は幽香に接近し続ける。五感が研ぎ澄まされる。自分が一本の槍になった感覚。大きかった回避動作が徐々に洗練され、必要最小限の動きで避けるようになる。

 対して幽香は動かない。眩しいものを見るように目を輝かせながら、一層弾幕の放出に力を入れ、魔理沙を待ち構える。

 

 嵐を抜け、魔理沙が幽香の目と鼻の先に到達する。両者の視線が交錯する。

 

 その瞬間、たおやかに差し出された幽香の指先から強烈な光線がほとばしった。魔理沙が目前に迫ったと同時にそれは放たれた。かつて妖犬に対して使ったような威力は込められていないが、回避はまず不可能。人間どころか妖怪ですら、目視と共に光の奔流に飲まれるが必然である。

 

 そう、目視してからでは遅い。

 

「そこだっ!」

 

 気炎万丈の一声。ぎりぎりまで相手を引き付けた幽香の攻撃は、魔理沙が最も欲していたものだった。

 そのための突貫だった。弾幕ごっこにおいて有効な一定以上の距離を潰し、わざわざ相手の懐にまで飛び出たのはこの一撃のため。つまりは予見していたのだ。弾幕に隠された、幽香が放つこの光線を。

 

 だからこそ避けることが出来た。

 魔理沙は飛ぶ速度をそのままに大きく体勢を傾けて、光線の真下を掻い潜るようにして間一髪でかわしてみせた。すさまじい遠心力に体が悲鳴を上げ、意識を持っていかれそうになるが、全身に魔力を漲らせ歯を食いしばってこらえる。

 

 今、幽香の視点ではちょうど魔理沙の姿と自分の放った光線が重なり合ったはず。つまり敵を見失った状態にある。それは無敵の大妖怪がほんの一瞬だけ思考を硬直させることを意味する、値千金の刹那。

 

 その一瞬を手にした魔理沙は、幽香の足元でミニ八卦炉を構えた。すでに魔力の充填を終えた八卦炉が、複雑な幾何学模様を光らせる。

 

「恋符・マスタースパーク!」

 

 魔理沙の奥の手が炸裂した。さきほど自身が放ったものに酷似した閃光が、幽香を真下から飲み込んだ。色とりどりの光が煌めくのは、八卦にまつわる元素をなべて魔力へと変換したためか。荒々しくも美しさを内包したそれは雲を突き抜け、空にまで達した。

 全身全霊、不可避の一撃だった。魔理沙にとってこれ以上はないと思えるほどに。

 

 そうして勝利を確信し笑みを浮かべる魔理沙は、しかし次の瞬間、凍り付くことになる。

 

「今のは、かなり良かったわね」

 

 マスタースパークが消えたそこには、変わらず無傷の幽香が浮かんでいた。開いた瀟洒な傘を、魔理沙に向けている。状況を見るに明らかだった。幽香は魔理沙の攻撃を防いだのだ。あの瞬き一回にすら満たない時間の中、たった一本の傘で。

 

「これは幻想郷で唯一枯れぬ花。誇っていいわよ、私にこの傘を使わせたこと」

 

 幽香が言うと同時、魔理沙の全身に強い衝撃が走った。幽香の傘の先端から妖力によって作られた大輪の花が咲き、魔理沙を打ち据えたのだ。

 それはヒマワリだった。蕾から放射状に開かれた黄色い花は、満開となって魔理沙を討つと、その花弁を散らして空気に溶けて消えてしまう。妖力が見せた幻の花ではあったが、たった一瞬とは言え地上にあるどのヒマワリよりも大きく、美しく咲き誇った。

 

 しかしまともに攻撃を食らった魔理沙はそれどころではない。空中でのバランスを失い、どうにか立て直そうとするも、魔力の制御が乱れて箒から落ちかける。

 

「わ、あ、わああっ」

 

 そうして上下が逆さになり地上へ落ちようとした時、振り回していた魔理沙の手が掴まれ、ぐいと引っ張り上げられた。尋常ではない力が少女一人分の体重を難なく支える。

 

「はい、おしまい」

 

 魔理沙を助け起こした幽香が言った。さっきまでの闘争の空気は完全に霧散しており、家で茶を飲んでいた時の穏やかな雰囲気に戻っている。

 

「さ、一旦下へ降りましょう。そのまま掴まっていなさい」

 

「ひ……一人で降りられるから……!」

 

 魔理沙は幽香の手を振りほどき、再び自力で空中に浮くと、少しずつ降下し始めた。魔力の消耗と、緊張が切れたことによって一気に押し寄せた疲労感のせいで、その飛び方はふらふらと危なっかしい。

 幽香はそんな魔理沙の様子を眺めつつ苦笑し、ゆったりと魔理沙のあとに続いて地上へ降りて行った。

 

 

 

「はーっ、負けた負けた」

 

 魔理沙はヒマワリ畑にある小径に降り立つと、足を投げ出して座り込んだ。そのまま仰向けに倒れ込み、手を広げて寝そべる。開き直ったその声にはありありと不満の色が浮かんでいた。手札を全て切らされ、その上で華麗に打ち取られたのだ。文句のつけようもない完敗であった。

 

「服が汚れちゃうわよ」

 

 幽香が魔理沙の隣に降り立つ。疲れ切った魔理沙はしばらく動かないという意思を込めて手をひらひらと振った。

 

 ヒマワリの大輪が咲きこぼれる小径の間を柔らかな風が通り過ぎ、魔理沙の額に浮かぶ汗を乾かしていく。それが大変涼しく感じ、五体投地している下草の感触さえ心地よく思われた。息を深く吸うと、土や草や花々の豊かな匂いが胸いっぱいに広がっていく。

 

「…………夏だな」

 

「ええ、夏ね」

 

 魔理沙の呟きに、幽香は側にあるヒマワリを眺めつつ応える。魔理沙は仰向けに寝転んだまま続けた。

 

「なあ幽香、この夏だなあって感じを知らないってのは、どんなんだろうな」

 

「え?」

 

「文通相手がそう言うんだよ。花とか虫とか、晴れた空も見たことないって。それじゃあきっと、季節に匂いがあるなんてことも分かんないんだろうなあって」

 

 幽香は傘を閉じて屈みこみ、魔理沙の方を向いた。

 弾幕ごっこで幽香が勝った際に教えると約束していた話を魔理沙がし始めたのだと気付いたのだ。

 

「文通ね…………その口ぶりだと、お相手は幻想郷の人間や妖怪じゃないのよね」

 

「うん。でも単純に外の世界ってわけでもなくて…………幽香って、タイムスリップって信じる?」

 

 魔理沙はそれから、八柳誠四郎という千年先の未来の人物から送られてくる手紙のことについて話した。とりわけ、未来では自然が失われているらしいことを詳しく聞かせると、幽香は「まあ」と驚いた様子だった。花妖怪である彼女にとって、植物のない世界のことなどにわかには信じられなかったのだろう。

 

 事情を一通り説明し終えると、幽香は納得したように頷いた。信憑性など欠片も無い話だと普通なら笑われそうなものだが、悠久の時を生きるこの大妖怪相手に、そんな心配は不要だったらしいと魔理沙は内心で安堵する。

 

「それで、押し花を作って送りたいってわけ。良いアイデアね」

 

「だろ?」

 

 事情を理解して魔理沙の手紙に贈り物を添えるという考えを褒めた幽香だったが、口元に手を当てて難しい顔をした。

 

「手紙のやり取りって、ガラス瓶でしているんでしょう。難しいというか、無理なんじゃない? ヒマワリを贈るのは」

 

 当たり前と言えば当たり前すぎる事実に、魔理沙は開いた口が塞がらなかった。押し花にすればある程度小さくなるとは言っても、ヒマワリの花が瓶に収まるわけがない。

 なぜそんなことにすら思い至らなかったのか。魔理沙の顔が赤く火照った。

 恥ずかしがってか寝返りを打ってそっぽを向いてしまった魔理沙の背中を、幽香は親が子をなだめるようにポンポンと叩いた。

 

「小さな花にしておけばいいじゃない。それでも十分気持ちは伝わるわよ」

 

「…………」

 

「そんなにヒマワリが良いの?」

 

 魔理沙が小さく頷く。幽香は「じゃあ」と言って立ち上がり、側にあるヒマワリに手を伸ばし、その花びらを一枚プツリと取った。

 

「これで妥協しなさいな」

 

 魔理沙はむくりと起きあがり、幽香の差し出した黄色い花弁を受け取った。しばらく眺めた後、しぶしぶといった様子ではあるが、ヒマワリの花びらを持ってきた紙に包んで本の間に挟み、カバンにしまった。

 

「あとはあなたの手紙の書き方次第ね」

 

「私、文才はあるほうなんだぜ」

 

「へえ。じゃあ今度、私とも文通してみる?」

 

「やだ。なんかヤダ」

 

 提案を断られて幽香は「えー」と残念そうに言う。

 

「なら、またこうして弾幕ごっこでもしましょうよ。今日のはなかなか楽しかったし」

 

「一方的に勝っておいてよく言うぜ。あーくそ、悔しいなあ」

 

 大声で悔しい悔しいと言う魔理沙を見ながら幽香は微笑んだ。

 

「いいえ。良い勝負だったわ。特にあなたが最後に使ったあの大技は凄かったなあ。たしかマスタースパークだったかしら。ただの人間の子供があんなのを撃てるだなんて思わなかったもの」

 

 マスタースパークの話を持ち出されて、魔理沙の肩がピクリと反応する。

 

「見たところ、私が撃つ光線とどこか似ているのよね。あなたのその魔道具が関係しているのかしら」

 

 ちょっと見せて欲しいと言われて、魔理沙は少し迷った後、懐からミニ八卦炉を取り出して幽香に渡した。普通なら決して他人に貸したりはしないが、他ならぬ尊敬している相手とあっては魔理沙も断る気にはなれなかった。

 

 幽香は不思議な金属で出来たその八角形を物珍し気に観察しながら、時折「へえ」とか「ふうん」と感心するように呟く。

 

「私のは自分の妖力に加えて太陽のエネルギーを素にしているんだけど、これも外部からエネルギーを吸収して魔力に変換する機能が備わっているのね。それも太陽光だけじゃなくてもっと多目的な…………ああ、だから八卦炉というわけ」

 

「分かるのか?」

 

 魔理沙が驚いた声を上げると、幽香は「なんとなくね」と答える。

 

「いいわね、これ。すごく便利じゃない。でも使いこなすには相当苦労したでしょう?」

 

 魔理沙は一瞬、押し黙った。図星だったからだ。

 家を出て魔法使いになる道を選んだ時、霖之助からは「まずはこれを使えるように頑張りなさい」と言われ、このミニ八卦炉を持たされた。

 

 自然のエネルギー、すなわちマナを魔力に変えるという機能を使いこなすには、ある程度の魔力操作の技術が必要になる。理論をしっかり知った上で、感覚で覚えなければいけないそれをモノにするのに魔理沙は一年近くかかった。それは少女にとっては長く険しい道のりであり、うんともすんとも言わないミニ八卦炉を投げ捨てたくなったことだって何度もあった。

 

 それでも諦めず、試行錯誤の末に扱えるようになったことは紛れもなく魔理沙の誇りだった。そうして撃てるようになったマスタースパークは魔理沙の切り札と呼ぶにふさわしい大技だ。

 

 しかし少女はふと、立ち止まって考える。ここが自分の目指していた場所なのかと思うことがある。その漠然とした思いが、魔理沙の足を止めて、将来への不安を喚起させる。

 

「……私くらいにもなると楽勝だって。今度はもっと強化した凄いやつ見せてやんよ」

 

「そう。楽しみだわ」

 

 魔理沙はよっこらせと立ち上がり、スカートについた汚れを軽く手で払ってから箒に跨った。

 

「もう行くの?」と幽香。

 

「うん。これから押し花作ったり手紙書いたりしなきゃだし。今日はありがとな」

 

 そう言ってから、魔理沙はふわりと浮き上がる。空へ上っていく彼女に向かって幽香は手を振った。

 

「またいらっしゃい。いつでも歓迎するわ」

 

 聞き覚えのある言葉だった。どこで言われたのだったか、魔理沙は不意に熱くなった目頭を押さえながら、魔法の森へと帰って行った。

 

 幽香は小さくなっていく少女の背中を見送りながら、感慨に耽るように細く長く息を吐いた。

 

 

 

 直後、温和だった幽香の表情が引き締まった。

 

「で、いつまで覗き見をしているつもりかしら」

 

 幽香がそう言うと、彼女の背後の空間がパックリと裂けて、深遠なる闇を覗かせた。次元を超越する、異質な力の行使。

 その裂け目から現れたのは、妖怪の賢者と呼ばれる八雲紫その人であった。扇子を広げ口元を隠しながらクスクスと笑う。その笑い声が不愉快だったのか、幽香は眉をひそめた。

 

「流石ね。いつから気付いてらして?」

 

 幽香は後ろを振り返ることなく、しかし体の隅々にまで妖力を漲らせ、臨戦態勢を取りながら答えた。

 

「私と魔理沙が弾幕ごっこを始めた時から。滑稽だったわよ、大慌てで駆けつけてきた貴女は」

 

 あからさまに煽られても紫は涼しい顔を崩さなかった。

 

「そう言う貴女も、人間の少女相手にずいぶんと戦いを長引かせていたけれど、風見幽香ともあろうものがどうしたのかしら」

 

 紫が言い終わらないうちに、幽香から膨大な量の妖力が溢れ出した。人間であれば卒倒するであろうその圧力を受けても紫は平然とし、同じく凄まじい妖力の発露によって相殺した。

 

 幽香が首を傾け、目の端で紫を見つめる。妖気によって赤く光る瞳が言外に、さきほどの勝負を侮辱する発言は許さないと物語っていた。もしくは死力を尽くして戦った魔理沙を人間の少女風情と評する物言いに憤ったのか。いずれにせよ、その眼光は紫すらも閉口させるのに十分な力を持っていた。

 

「あの子を監視して何をしようとしているのかは知らないけど、あまり無粋な真似はしないことね」

 

 幽香がそう言うと、紫はすっと目を細める。

 

「千年後の未来とこの幻想郷が縁を結んでいるという話は、さきほど魔理沙から聞いていたでしょう。あの子が文通をしていると」

 

「それがなにか?」

 

「繊細な問題よ。私は幻想郷の管理者として、未知の存在を裁定する義務がある」

 

「ご苦労なことね。で、あの子がやっていることを止めようってわけ?」

 

 再び、幽香からの威圧感が高まる。紫は「誤解しないでほしいわ」と心外そうに言った。

 

「私も無粋は好まないの。ただ今回は貴女に一つお願いがあるだけ。聞き入れて下さるかしら」

 

「お願い?」と幽香が聞き返す。

 

「魔理沙が未来に行きたいと言っても、手を貸さないこと。未来から人を招きたいと言う場合も同じように不干渉を貫いていただくわ」

 

 幽香はしばらくの間、紫の真意を探るように黙考していたが、やがて妖気を収めて臨戦態勢を解除した。

 

「大変ね。妖怪の賢者とやらも」

 

 そうして紫の方を見ずに家へ向かって歩き出す。何歩か歩いたところで「恩に着るわ」という紫の声がして、背後に感じていた大妖怪の気配は雲散霧消した。来た時と同じく、スキマの能力を使って八雲邸へと帰ったらしい。

 

「はあ、なんでああも胡散臭いのかしらね」

 

 幽香はなんとはなしに空を見上げながら、ため息交じりに言った。あの妖怪の相手は疲れる。今日はもうゆっくりしようと思いつつ、強張った腰を反らしてぽんぽんと叩いた。

 

 

 

 

 

 

 幽香は知らない。彼女と話した紫もまた、疲弊していることに。

 

「あー怖かったあ…………もー、何。何なのあの殺気は。私何か悪いことした?」

 

「紫様、帰って来るなり寝転ばないでください。みっともない」

 

「藍まで私に意地悪を言う」

 

「どうせ紫様が迂遠な言い回しをなされたのでしょう」

 

「だって幻想郷の管理者だもの。なめられたらお終いだもの」

 

 着替えもせずに自室の布団の上で俯せになった紫は、従者の小言に耳を塞ぎながら、そのまま寝落ちするまで愚痴をこぼし続けたのであった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一話

 

 

 

 太陽の畑から帰った魔理沙はさっそく押し花を作ることにした。押し花は基本的に、何日かかけてじっくりと花の水分を抜いていく。

 

 しかしここで魔理沙の物臭な性格が遺憾なく発揮され、ミニ八卦炉で熱を送ればすぐに押し花が作れるのではないかと出来心で試したところ、挟んでいた和紙ごと燃やしてしまった。テーブルを水浸しにすることで事無きを得たが、広げてあった本が数冊、見るも無残な姿となり、魔理沙はおんおんと泣いてしばらく不貞腐れた。

 

「やっぱ掃除しなきゃ駄目かあ」

 

 魔理沙はそう言ったまま寝こけてしまった。完全に不貞寝だった。

 

 それでも一晩経てば落ち着くもので、恥を忍んでもう一度幽香のところへヒマワリの花びらを貰いに行った。これには流石の幽香も呆れていた様子だったが、勝手に取って行っていいとのことで、魔理沙は予備に十数枚ほど貰って帰った。幽香の「普通に作ったら?」という忠言が耳に痛かった。

 

 しかし一度こうと決めたら諦められないのが魔理沙の性分であり、貰って来た追加の花びらを全て燃やし尽くす勢いで研究に励んだ。

 

 納得のいくものが出来上がったのは最後の一枚の時であり、これに失敗すれば死ぬと言うような必死さで取り組んでいたので、魔理沙の喜びはひとしおであった。有頂天となり「私こそは稀代の魔法使い」と箒を振り回したりした。その風圧でせっかく出来た押し花がひらひらと宙を舞い、稀代の魔法使いはあたふたと慌てた。

 

 いつだったか魔法の実験用にと香霖堂で買ってあった薄いガラス板が何故か食器棚の中にあり、これ幸いと魔理沙はそのガラス板に押し花を挟み込んで縁を糊付けし、ようやく文通相手への贈り物は完成した。ガラス板の角を丸く削るとさらに見栄えが良くなり、魔理沙は自分の仕事ぶりに満足し、その勢いに任せて手紙をしたためた。

 

 手紙の内容の大部分は押し花を作る経緯について書かれ、特に幽香との手に汗握る激戦を熱く語った。実力伯仲の弾幕戦を繰り広げたり、幽香をあと一歩のところまで追い詰めたりと脚色が甚だしかったが、書いている内に魔理沙もそれが本当のような気がしてきて筆は乗りに乗った。

 

 そうして最後まで書ききったところで、八柳誠四郎が知りたいと言っていた自然の美しさにほとんど触れていないことに気付き、魔理沙は末尾に幻想郷の景色の説明を付け足すことにした。自分が暮らす魔法の森や、ヒマワリが咲き誇る太陽の畑のこと。人里の、長屋の連なる町並みに、そこを行き交う人々のこと。

 つらつらと思いつくままに列挙していけば、もはや末尾とは呼べないほどに文章が膨れ上がり「なんだかスゴイことになっちゃったぞ」と魔理沙自身もやや唖然とした。

 

 それでもここまで書いたんだからと手紙としての未熟さには目を瞑り、押し花と一緒に瓶に詰めて無縁塚へ置きに行った。

 

「なんか緊張するなあ」

 

 外界から流れ着いたガラクタの山の中で一人立ち、魔理沙はそう言った。本当に向こうに手紙が届くのか、まだ確証はない。もしかしたらあの一回がまぐれだったのかもしれないし、魔理沙の手紙が届いたとして再び相手からの返事が来るとは限らない。

 

 そんな不安を振り切るように、魔理沙は前回と同じ位置にメッセージボトルを置き、その辺に転がっていたソファーの上に腰かけて、ボトルが消えるのを今か今かと待った。何の変哲もない手紙入りのガラス瓶を見つめる少女の目には知的好奇心の光が満ち溢れ、爛々と輝いていた。

 

 未来へ送られというのであれば、前回がそうだったようにボトルは無縁塚から消えるはずだ。その瞬間を目撃したい衝動に駆られるのは、魔法使いならば当然のことである。

 

 

 十分経つ。三十分経つ。一時間経つ。

 

 

 瓶はサッパリ消える気配がない。木陰にいるとはいえ夏の空気は暑く、魔理沙の額に汗を滲ませる。好奇心に輝いていた目がだんだんと苛立たし気に曇っていく。

 

「あーもう!」

 

 魔理沙は痺れを切らして叫んだ。彼女にしては実に気長に待った方だった。立ち上がってガラス瓶をぺたぺたと触ってみるが何の変哲もない。

 

 やっぱり一晩くらいは経たなきゃ駄目なのかしら、と魔理沙は顔をしかめる。幽香と霊夢には文通のことを知られてしまったが、やはり誰かに見つかりたくはないので、出来れば自分の見ている内に未来に届いて欲しいというのが本音である。新聞屋の文が性懲りもなくネタ探しに来るかもしれない。そう思うとなかなか無縁塚を離れられない。

 

 その後も魔理沙は暇つぶしがてらに無縁塚をうろうろして、売れそうなガラクタの収集をしながら逐一ガラス瓶を気にしていた。しかし一向に消えそうになく、日も暮れかけてきたのでさしもの魔理沙もついに諦めることにした。

 

「まあ、さすがにこーりんや文も夜のうちに無縁塚に来たりはしないだろ」

 

 瓶の様子はまた明日の朝一で見に来ればいいと魔理沙は判断し、しぶしぶその場を立ち去ることにした。

 

 恭しく置かれたメッセージボトルがその輪郭をぼやけさせ、霞のごとくふっと消え去ったのは、魔理沙が箒に乗って無縁塚を離れた後のことであった。

 

 

 

 

 

 

 早朝、眠気眼をこすりながら無縁塚に再び訪れた魔理沙は、メッセージボトルが無いことを確認して「うーむ」と複雑そうな顔をした。結局、瓶が消える瞬間を目撃することは出来なかった。低級妖怪に襲われる危険はあるが、今度からは徹夜でこの無縁塚に居座ろうかと考える。

 

 しかし、とにもかくにも手紙を送れたことには変わりない。あとは返事を待つばかり。今ちょうど、千年後の未来に流れ着いた手紙を八柳誠四郎が見つけて読んでいるかもしれない。同封した押し花を珍しげに見つめているかも。顔も知らぬ彼がそうしている様を想像すると、魔理沙は居ても立ってもいられずぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 

 そうやって浮かれていた魔理沙はこの時、待つということの苦悩を欠片も想像できないでいた。

 

 それはまさに一日千秋の思いであった。

 

 昨日と同じように返事の手紙が来るのを待ってみたが、虚空に穴が空くほど見つめてもガラス瓶は現れない。それから昼飯を食べに一度家に帰りまた来てみても、香霖堂でしばらく時間を潰してから訪れてみても、やはり返事は来ない。夜中になっても気になって仕方がないので、ランタンを片手に恐る恐る無縁塚まで足を運んだが、それでもガラス瓶は見当たらなかった。

 

 眠れぬ夜だった。

 

 ひょっとしたら自分の手紙は未来へ送られたは良いものの、八柳の手に届かなかったのではないかという一抹の不安が魔理沙の頭にこびりついて離れなかった。もっと酷くなると、八柳が魔理沙の手紙の内容に愛想を尽かしてもう文通を止めてしまったのでは、などという妄想まで浮かんでくる。

 

 いや、彼は文面からして誠実な紳士だった。さすがにそんな、一方的に関係を打ち切ったりはしないはず。ああ、でも幽香との弾幕ごっこの内容は盛りすぎたかもしれない。それを見透かされていたらどうしよう。

 

 そうやって悶々とする内に暗かった空が白み始め、東の小窓から陽光が差し込むのを魔理沙は見た。絶望的な顔色で朝日を拝んだ魔理沙は「うああ」とまるでゾンビか悪霊が太陽の光を浴びて消滅するような声を上げ、枕に突っ伏していびきをかき始めたのであった。

 

 二日目も同じように過ごした。違いと言えば目の下の隈が濃くなったことくらいか。

 

 ここ数日でさらに寂しくなった台所から食料をかき集めて食事を済ませ、無縁塚へと向かう。収穫はない。また香霖堂で茶を飲みながら時間を潰す。霖之助から「何だかただならない気配をしている」と心配されたが、寝不足で目が充血している魔理沙は大丈夫とだけ言って幽鬼のごとく無縁塚に行った。

 

 手紙はまだ来ない。夜になっても確認しに行き、再び不眠で朝を迎えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 三日目の昼過ぎのことである。このままではあまりに不毛だと考えた魔理沙は、魔法により一計を案じることとした。

 

 そもそもここ数日頻繁に無縁塚に通っているのは、例のガラス瓶を他の誰かに拾われるという事態を防ぐためだ。しかしそのために睡眠や食事をおろそかにしている現状はよろしくないと魔理沙は思う。今までの生活も気ままに過ごしてきたので実際はそう大差ないのだが、それはあくまで自分の裁量下での話。自由のもとに不摂生の限りを尽くし堕落するのは良くても、必要や不安に駆られて己の生活から自由が剥奪されるのとでは天と地ほどの差がある。

 

 少なくとも、魔理沙は夜更かしのあとに昼間までぐっすりと安眠できる時間を取り戻したかった。

 

 

 要点としては、自分以外の者があのガラス瓶を拾わないようにすること。それを達成するために魔理沙はいくつかの案を出し、どの手段が一番現実的だろうかと考えた。

 

 まず初めに、無縁塚に誰も寄り付かなくすればいいではないかと抜本的すぎることを思い付いたが、魔理沙はどう足掻いても今の自分にそんな大掛かりな仕掛けを打つ技術は無いと悟ってすぐに諦めた。

 

 もしもそれを成すとしたら、一度張れば自立して四六時中作動してくれる認識阻害の結界が必要になる。訪れた者に「ここには何もない。居るだけ無駄」と思わせるような効果のものが理想だ。しかしつまりそれは、博麗大結界の小型版を作るようなもので、結界術に長けている霊夢であっても一人でやるには無理があるほどの高等技術だ。魔理沙が手を出せる代物ではない。

 

 結界の代案として、無縁塚全体に霧雨魔法店特製のけったいな臭いのする香水をぶっかけて人を寄り付かせないといったことも考えてはみたが、これも即座に却下された。そんなことをしては「ここには何かあります」と宣伝しているようなものだからだ。最悪の場合、異変として騒ぎになることすら予想される。文通を隠すために無縁塚に香水をふりまいた女として別の意味で笑い者になるかもしれないと考え、そのあまりに悲惨な結末に魔理沙は身震いした。

 

 そうやって無暗やたらに壮大なことを考えつつ、結論としてはガラス瓶が現れる位置をガラクタで囲みカモフラージュするという、大変無難なところに落ち着いた。魔法の森に生えている幻覚キノコでも使って盤石の態勢を取りたいという邪念にも駆られたが、やはり悪手になる懸念があったので断念した。

 

 三日目の昼時になっても返事の瓶は届いていない。魔理沙は落胆しつつもせっせと作業に取り掛かった。

 

 まず、最初に作ってあった墓石の模造品を解体してしまう。元々は幻想郷に流れ着いてしまったメッセージボトルを供養するために作ってみたものだ。状況が変わった今ではあまり意味がなくなってしまった。

 

 以前の作品を取り壊した魔理沙は、そこと全く同じ場所にガラクタを積み立てていく。出来るだけ雑多に配置し、人為的に見えないように注意する。中が空洞になるように組み、蓋の役割を果たす木箱を被せてひとまず形としては完成した。

 傍から見ればいい歳になってガラクタで遊んでいるようにしか見えないが、魔理沙はやはり自分の仕事に満足して「良し」と言った。さらにその木箱を簡単には動かされないように軽いおまじないを掛けてやれば尚良し。

 

 カモフラージュが完成してみると、魔理沙は唐突に肩の力が抜けたような気がした。どっと疲れを感じて欠伸を噛みころす。

 少しして、緊張の糸が切れたのだと自覚した。これでひとまずは安心できると思ったら今までの気苦労や寝不足の反動が一気に押し寄せたようだった。立ち上がって背筋をぐいと伸ばすと、凝り固まった腰がパキポキを小気味良い音をたてた。

 

「あ、でもこの角の部分が少し気になるかも」

 

 そう言って再びしゃがみ込み、ガラクタで作った郵便受けの手直しをしようとした時、中からカタンと音がした。

 

 魔理沙は何処か崩れてしまったかとため息をつき、木箱のまじないを解いて手を突っ込んでみると、なにやら硬質でひやりと冷たい物に触れる。すべすべとしたその表面を撫で、もしやと思い掴んで取り出す。

 

「わあっ」

 

 魔理沙は子供のような歓声を上げた。彼女の手には透明なガラス瓶が握られていた。中には巻かれた紙が入っている。その紙を括ってあるのはリボンではなく麻糸に似た紐。

 間違いない。未来の彼から届いた手紙だ。

 

「やった……やったやったやった! 本当に届くんだ!」

 

 魔理沙は瓶を大切に抱えて箒に乗り、ぐんと飛び上がった。自宅を目指して一直線に飛ぶ。一刻でも早く、この手紙を読むために。

 さっきまで感じていた疲れはどこかに吹っ飛んでしまっているようだった。眠気も空腹感も今はどうでもいい。

 

「きゃほーう!」

 

 少女の黄色い歓声が、幻想郷の夏空に響いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二話

 

 

 

拝啓

霧雨魔理沙様

 

 お手紙拝読しました。前から思っていましたが、霧雨さんの字はとても綺麗ですね。それに見たことのない文体です。どのような筆を使ったら霧雨さんのような文字が書けるのか、不思議に思います。

 

 手紙だけでなく素敵な贈り物もありがとうございます。この押し花というのはとても綺麗ですね。今回、私が描いた絵を同封しました。霧雨さんの手紙の内容をもとにヒマワリの全体像を描いてみたのですが、このような形であっているでしょうか。花びらであれだけ美しいのですから、ヒマワリが群生する太陽の畑という場所はさぞ綺麗なのでしょう。そんな場所でご友人とお茶をしているとのこと。とても憧れます。

 

 太陽の畑に住んでいるという風見幽香さんとの決闘も、ハラハラとする楽しいものでした。単純な力ではなく美しさで競い合う、というのは風情があって良いですね。風見氏と相打ちになり、両者とも克己して立ち上がるところは、読んでいるこちらも思わず立ち上がりそうになりました。それにしても霧雨さんはまだ十代だと言うのに、本当にお強い。魔法使いというのは、みんな霧雨さんのような力を持っているものなのでしょうか。

 

 僕の世界はそもそも魔法なんて存在しないのですが、自然を全く無くしてしまうほどには科学技術は進歩しました。幻想郷の無縁塚には自動車も流れ着いているとのことですが、どのような形をしていますか? 僕の生まれた時代の自動車はとろけたような流線型をしていて、反重力装置によってふわふわと浮きます。ああ、でも魔理沙さんは空を飛べるから、あまり珍しくはないかもしれませんね。お友達も普通に空を飛ぶという話ですし、本当に幻想郷というのは不思議な場所です。

 

 キノコと山菜の汁物だけでは力が出ないとのこと。どうかご自愛ください。

 とは言うものの、例によってキノコも山菜もどんなものか知らないので上手く想像は出来ませんが。カロリーが足りていないということでしょうか。ただ、温かいスープが飲めるのもまた羨ましいことです。私の食事はたいていスナック系の人工栄養食ですから味気のないものです。他にも超長期保存の缶詰がありますが、こちらは珍しくなかなか手に入らないので大切に食べています。開けてみるとたまに果物の缶詰(これも人工ですが)の時があり、飛び上がるほど嬉しくなります。甘い物を食べると人心地つけますね。

 

 ボトルの中にスナックバーを一本入れておきました。上述した人工食です。長期保存のために分厚い包装で真空パックされています。こちらの食や文化などに興味があるということでしたので、良かったら食べてみてください。ただ、パサパサとしているのでよく噛むか、水と一緒に食べることをおすすめします。あまり美味しくないけど、タンパク質やビタミン、ミネラルなど栄養面は完璧です。

 

 それでは感想をお待ちしています。

 

敬具

西暦××××年〇月△日

八柳誠四郎

 

 

 

 

 

 

「ふーん。人工食ねえ」

 

 手紙と一緒にガラス瓶に入っていた棒状の物を、魔理沙はしげしげと眺める。八柳からの手紙にあった通り銀紙のような包装にぺったりと包まれている。包装材はツルツルとしていて魔理沙の知らない素材の感触だった。

 

 しばらく観察してから包みを破ってみる。中身の人工栄養食というのはクッキーなどの焼き菓子に似ていた。こんがりとした狐色で、ポソポソと乾いている。匂いは乏しく、鼻に近づけて嗅いでみても焼き菓子特有の香ばしさは感じない。

 

 人に必要な栄養がこんな物に全て詰まっているのか、と魔理沙は訝しみつつも、ものは試しと食べてみることにした。

 

「味がしない」

 

 魔理沙は「うーむ」と微妙な表情を浮かべながら、やたら口の中が乾燥する保存食をもそもそと食べた。八柳の言う通り茶を飲みながらようやくまともに食べられるような物だった。

 

 こんなものが主食なのだろうか、と未来の食文化の乏しさに魔理沙はがっかりするも、ちゃんと食べ進めつつ、八柳が書いたというヒマワリの絵を見てみた。上手な絵だった。描いた人の繊細さが絵によく出ている。実物に似ているかどうかはともかく、一枚の花弁から一生懸命に想像して描いたことが素人の魔理沙であっても分かり、思わず笑みがこぼれる。

 

「そうだ。今度は写真を送ろう。やっぱ天才だな、私」

 

 カメラは香霖堂か無縁塚で見繕おうと企てる。ヒマワリ畑の写真を見せれば八柳は本当に驚くに違いないと思い、魔理沙はニマニマと笑った。人を驚かせる計画を立てるのが何よりも面白い。

 

「でも未来には、めっちゃ凄いカメラがあるんだろうなあ。良いなあ。向こうからも何か写真送ってくれないかな」

 

 考え出すと、どんどんこの先の展開が頭に浮かび、魔理沙の心臓は高鳴った。

 

 

 目を瞑り、科学が発達し尽くしたであろう未来の街の様子に思いを馳せる。きっと大きくてピカピカの工場が地平線を埋め尽くすほどに建っていて、煙突から四六時中もくもくと煙を吐いていることだろう。想像するだけでも圧倒されそうな光景だ。

その工場で作られているのはもちろん、先ほど自分も食べた人工栄養食とかいう食べ物だ。きっと一日に数えきれないほどの量を生産しているに違いない。たい焼きを焼くみたいに生地を型に流し込むのだろうかと考えて、普通のたい焼きの方が美味しいのだからそちらを焼けばいいのに、なんて思う。

 

 住宅はサイコロみたいなのや丸っこいのまで、変な形のものがたくさん。凄まじい高さの高層建築も至る所に建っている。その間を縦横無尽に道路が走っていて、円盤型の自動車が地面すれすれに浮かびながら凄いスピードで行き交っているのだろう。いや、八柳は「とけたような流線型」と言っているから、自動車の形はもっと違っているかもしれない。想像も及ばない未知だ。

 

 

 やがて空想の海から抜け出して目を開ける。魔理沙の瞳はまだ見ぬ世界への期待に輝いていた。高揚をそのままに、屋根裏部屋の文机に向かい、筆や紙を引っ張り出す。

 

 硯の上で墨を擦りながら、魔理沙はふと手元に置いてある筆に視線を移す。八柳の「どういう筆を使っているのですか」という質問を頭の中で反芻する。

 

 筆と言ったら毛筆だろうにと思いつつ、魔理沙はいったん墨を擦るのを止めて、八柳の手紙を読み返してみる。均一な太さで書かれた字は、たしかに毛筆のものではない。そういえば、こーりんが万年筆という物を使っていたなあ、と思い出す。八柳の文字はかつて見たことのある万年筆で書いた字に似ているので、魔理沙は「未来では万年筆が主流になったのだろう」と考えた。

 

 毛筆が無くなるなんて想像もできない。魔理沙は肩をすくめて硯に向き直る。家を出る際に父から餞別として貰った書道道具一式は、今やすっかり少女の手になじんでいた。

 

 

 

 

 

 

 それから幾度となく、魔理沙と八柳誠四郎との間で文が交わされた。大抵、魔理沙が無縁塚にボトルを置いてから一日経つと、向こうから返事が返って来る。長くても三日以上空いたことはなかった。魔理沙も魔理沙で、出来るだけ早く返信を送るように努めた。そのおかげでかなり頻繁に手紙を書き、魔理沙は忙しなくも充実した気持ちで夏の日々を過ごした。

 

魔理沙が手紙を送る際には必ず一枚、押し花を入れる。幻想郷のあちこちで花を摘んできては押し花にして「今回はこれ」とその日の気分で八柳に送るものを選んだ。また送られる度に八柳が喜ぶので、魔理沙はすっかり押し花作りに夢中になった。

 

 他にも彼らは、手紙に乗せて様々な物を贈りあった。

 

 八柳は未来の変てこな小型道具や、彼が想像して描いた幻想郷の絵を寄こしてきた。至って真面目に描いているらしいが、二足歩行のタヌキにしか見えない猫がでんと立っていたり、丸っこいビルの頂上に木がわさわさと生えていたりして、ひたすらに可笑しい。

 

 魔理沙は霖之助から借りたカメラで写真を撮りまくって八柳の絵の答え合わせをしたり、味気ない食事をしている八柳を不憫に思って、煎餅などのお菓子や干したキノコなんかを贈ってみたりした。煎餅は大変好評だった。キノコに関しては「口の中が渇きますね」と言っていた。干し椎茸をそのまま食べた彼を想像して魔理沙は大笑いしつつも、今度はキノコと一緒に乾燥させた山菜も一緒に入れてやり、水で戻したり煮たりして食べるのだということを教えた。八柳は初めて食べる味だと感激していた。八柳の手紙を読むたびに「この人はどんなことにでも感動するなあ」と魔理沙は微笑ましい気持ちになる。

 

 手紙のことを考えている間、魔理沙は悩みを忘れることが出来た。遅々として進まない魔法の勉強や、実家から送られてくる手紙のことや、漠然とした将来のことなどを考えなくて済んだ。今はそんなことより目の前にやるべきものがあるのだと思うと、心が解放されるようだった。

 

 

 

 そうやって筆まめに文通をし続ける内に一カ月ほどが過ぎ、早くも夏の盛りを迎えた。この時期になるとミニ八卦炉はそのエネルギー変換の機能を利用され、送風機として魔理沙が少しでも涼むために稼働する。古今東西でも稀なる魔術道具にしては実に庶民的な使い方だが、おかげで魔理沙の家の屋根裏部屋は快適そのものである。

 

 文机に置いてある真新しい封筒入れには、今までに八柳から届いた手紙が整然と収まっている。魔理沙はそれを一枚一枚数えながら、あっという間に過ぎ去った濃い時間の感慨に耽るように、ほうっと息を吐いた。

 

 魔理沙が思っていた以上に、八柳の生まれた時代の日本の話は面白かった。文化も文明も、何から何まで幻想郷とは大違いである。その中でもやはりと言うべきか、科学技術にまつわる話がいっとう魔理沙の興味を引いた。

 

 八柳は以前からそんな未来の世界を「語るに値しない」と評しているが、幻想郷よりもずっと面白そうだと魔理沙は思うものだ。

実際に手紙にそう書いてみたところ、八柳にはぐらかされてしまったが。何故だろう。たくさんの画期的な発明があってとても楽しそうなのに。向こうは幻想郷の方がずっとずっと素晴らしい世界だと言う。どんな時代に生きようとも、慣れてしまえば面白味もなにも感じないのだろうか。

 

「結局、無い物ねだりなのかな」

 

 魔理沙はそう呟いた。

 

 呟いた途端に、腹が鳴った。地鳴りを思わせるようなすさまじい音だった。「むむっ」と呻いて腹を擦るのと同時、今度は強い空腹感に襲われる。時計を見れば、そろそろ正午になる。ついさっきまで八柳への手紙を書いていて、今しがたメッセージボトルを無縁塚に置いてきたところだった。朝ごはんは食べ損ねていた。

 

 

 何か適当に腹に入れようと思い、魔理沙はふらふらと立ち上がる。明らかに元気のない足取りで台所に入っていったが、そこで彼女が目にしたのは、底をついた食料棚であった。すっからかんだ。綺麗さっぱり何もない。そういえば昨日の深夜に食べたそうめんが最後の食料だったかも、と思い出す。常備していたはずのキノコや山菜などの干物もいつの間にか食べ尽くしてしまっていた。ズボラここに極まれりである。

 

「買い出し、行かなきゃなあ」

 

 蜘蛛の巣でも張りそうな食料棚の扉を閉めて、重苦しいため息をつく。食料の買い出しに行くということは即ち人里に行くということであり、それが魔理沙の気分をどんよりとさせた。

 

「ま、いつも通り、パッと行ってパッと帰ってくれば大丈夫だろ」

 

 魔理沙は自分を励ますようにそう言って家を出る。

 

 向かう先は、ここ最近毎日のように通っている無縁塚とはほぼ真逆の方角。幻想郷において唯一人間が集まって暮らす大きな里。そこは言わずもがな魔理沙が生まれ育った故郷であり、今も家族が生活を営んでいる場所である。道中、その家族の顔が脳裏に浮かび、魔理沙は複雑な気持ちを抱えながら人里を目指して飛んだ。

 

 月が替わって新しく送られてきた母の手紙にも、まだ返事を書いていないままだった。

 

 




投稿が遅れたのに文字数少なくて申し訳ないです。次回はもう少し早く更新できると思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十三話

 

 

 

 久しぶりに訪れた人里の活気は相変わらずで、昼間の東大通りには露店が軒を連ねている。魔理沙が前回来たのは約一月前のこと。幽香に渡す手土産の団子を買いに来た時以来である。その時にみたらし団子を一本おまけしてくれた団子屋も、前と変わりなく繁盛しているようだ。

 

大小さまざまな建物が建ち並ぶ町を見渡すと、にゅっと突き出た鐘付きの火の見櫓が視界に入る。火事が身近にある長屋には必須の建物だ。目を凝らすと、真面目そうな番屋が櫓の上に立って里の様子を見守っている姿が見える。町の平和のために頑張っている番屋に向かって「ごくろーさまです」と魔理沙は小さく敬礼をした。

 

 さて、と魔理沙は気を引き締める。いかに感慨深かろうと、故郷の景色に浮かれている場合ではない。

 

 人里を訪れるというのは、魔理沙にとってなかなかに度胸のいる行為であった。それというのも、ひょっとしたら自分の家族に出くわす可能性があるかもしれないからだ。

 

 家出中の身でありながら町中で顔を合わせるというのは何とも気まずいものがある。

 

 いい歳になり、親から「いつになったら結婚するんだ」などと口酸っぱく言われるといった悩みは幻想郷でもよく聞く話で、結婚ではなくとも若い身空で社会の枠組みから半ば外れている魔理沙は、両親や兄の顔を思い浮かべるたびに複雑な心境になる。

 特に父なんかは「そろそろ真っ当に生きろ」などと言ってきそうであり、そのことを考えるだけで辟易とする。母にだってこの前の手紙の返事を出さずにすっぽかしたままでいるので、気まずいどころか居た堪れなくすらあった。

 

 今いる場所は人里の東大通り。魔理沙の生家はその反対側にあり、生活圏も少々異なるため家族や霧雨家の使用人たちがわざわざ此方に出向くことは少ない。

 

 それでもいつ鉢合わせるか分からないので、人里に訪れた際の魔理沙は内心穏やかではなく、周りの様子に気を配りながら素早く目的を達成して立ち去るのである。その気構えは戦場で刀を振るう剣士か、はたまた敵城に忍び込んだ忍者のごとし。

 

「あ、うどんだあ」

 

 藍色に染め抜かれた暖簾を掲げている店を見つけ、魔理沙は恍惚の表情を浮かべた。鉄の心構えは一瞬にして腑抜けと化した。

 

 店に近寄ってみると、なんとも言えない出汁の香りが仄かに漂ってくる。ここしばらく、山菜とキノコ以外でまともな食料にありつけていない魔理沙にとっては麻薬に等しい魔性の香りであった。店の中からは「天丼お待ち」という声が聞こえてくる。どうやら天ぷらも揚げているらしい。丼に張った黄金色の一番出汁にサクサクの海老天を浸して食べる様を思い浮かべ、魔理沙の理性はもはや風前の灯であった。

 

 今回の目的は食料の調達。断じて美食を堪能するために来たわけではない。もしも店の中で家族と出くわしてしまったらどうする。しかし、ああ、ここで本能を拒絶してしまうのはあまりに人間味に欠けているのではないか。魔法使いだけれども。

 

 そんな風に理性と衝動の板挟みにあって悶々と悩んでいた魔理沙はふらりとよろめき、うどん屋から出てきた客とぶつかってしまった。

 

「わっ、と、ごめんごめん」

 

 魔理沙が咄嗟に謝ると、相手も「いやこちらこそ」と返す。声の低さからして若い男のようだ。

 

 しかし魔理沙はその声にひどく聞き覚えがあった。

 

 恐る恐る見上げると、そこにはやはりと言うべきか、よく知った顔があった。相手方も魔理沙のことを半ば呆けて見つめ返している。

 

「に、兄ちゃん…………」

 

 魔理沙にそう呼ばれた男は「ああ、びっくりした」と朗らかに笑った。父譲りの金髪に、母とよく似た鳶色の瞳。

 

 彼こそは現在の霧雨店の店主であり、そして見た目からしても間違いなく、魔理沙の兄であった。

 

 

 

 

 

 

 立ち話もなんだから、ということで霧雨の兄妹は近くの茶屋の前に腰を下ろした。畳敷きの腰かけ台には大きな赤い唐傘が差してある。風が吹くたびに店の軒下に掛けてある風鈴が鳴り、日陰の下でその音色に耳を澄ませば真夏日であっても涼しく感じる。

 

「お前、昼飯は済んでいるのか?」

 

 兄にそう聞かれて、魔理沙は首を横に振ろうとするが、返事をするまでもなく腹の虫が鳴る。兄は大笑した。

 

「昼飯の邪魔にならないなら、団子でも食うかい」

 

「…………お饅頭が良い」

 

「わかったよ」

 

 茶を持ってきた娘に饅頭と軽い茶請けを注文している兄を、魔理沙は横目でちらりと見た。最後に会ったのは家を出る前だったか。十歳近く離れた兄は二年ほど前となんら変わっていないように見える。

 

「しかし久しぶりだなあ。二年ぶりくらいか」

 

 兄はのんびりと茶を飲みながらそう言う。

 

「二年と三カ月だよ」と魔理沙。

 

「そうか。そんなに経ったか」

 

 本当に久しぶりの再会だというのに、なんの気負いもなさそうな兄の横顔を魔理沙は訝しげに見つつ、運ばれてきた饅頭をかじった。

 

「なんで兄ちゃんがこんなとこ来てうどん食ってるんだよ。今はまだ店やってるだろ」

 

 魔理沙の言う『こんなとこ』とは、霧雨家のある西の大通りから離れた所、という意味である。

 

「儲かってないの?」

 

ぶっきらぼうな妹の問いに、兄は「まさか」と言って笑う。

 

「至って順調だよ。こっちに来たのは商談があったからさ。前までは骨董品専門だったけど、今は修理の依頼や内装の相談なんかも受けているから、儲け自体は増えたくらい」

 

「そんな手広くやって兄ちゃん一人で回せてるのか?」

 

「別に俺一人ってわけじゃない。従業員も女房もよくやってくれている。むしろ女房たちに比べれば、俺の力なんて微々たるもんさ。そこら辺は今も昔も変わらんね」

 

 そう答える兄に気負った様子は欠片も無い。魔理沙と同じく厳格な父に育てられたはずなのに、その気質は彼女とは全く異なっているようだった。

 

 老舗である大きな店の責任者なんて立場は、魔理沙からすると考えるだけで身震いのするものである。そんな跡目を何の不平も言わずに継いだ兄の心情は理解しがたいものがある。まあ、彼がつつがなく店を切り盛りしてくれるから自分は自由にできるのだけど、と魔理沙は複雑な気持ちを抱きつつそれを茶と一緒に飲み下した。

 

 兄は実際、万事上手くやっているらしい。母からの手紙にそう書いてあった。最近になって兄の妻はめでたく懐妊したようで、家族の喜びようが文面からでも手に取るように分かった。そうすると近いうちに魔理沙は叔母という立場になるわけだが、もちろんそんな実感が湧くわけもなく、祝いの言葉すらまだ満足に送れてはいない。

 

「魔法の修業は順調か?」

 

 兄にそう聞かれて、魔理沙は固い表情で「まあな」と嘘をついた。涼しい顔の裏で、魔理沙は鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。そうだ、魔法の修業は行き詰っていたのだ、と兄の言葉で思い出した。八柳との文通に心を躍らせて、ここ最近はそのことをすっかり忘れていた。

 

「空とか飛べるようになったのか」

 

「出来るよ。とっくに」

 

「凄いじゃないか」

 

 何が凄いというのだ。魔理沙は密かに唇を噛みしめる。

 

 今までは子供の頃に見た憧憬をなんとなく追っていれば満足だった。けれど時を経るにつれて、それだけが全てではないように思えてきた。霊夢や幽香よりも強くなれれば満足なのか、満遍なく技術を習得すれば満足なのか、自分のことなのに判断がつかない。目的と手段がごっちゃになって行く末が見通せず、ただ焦りだけが募る感覚。

 魔理沙はそんなことを、目の前にいる兄に吐露する気にはなれなかった。

 

「そういえば、この前また母さんが手紙送っていたけど、届いたか?」

 

「うん。届いた」

 

「読んだら返事も書いてあげてくれよ。心配してたぞ」

 

「…………うん」

 

 手紙の返事を待っている母の姿を思うと、心がきゅうと締めつけられるようだった。これまでも魔理沙は母への返信を何度かすっぽかしたことがあるが、今なら待つ方の気持ちがどんなものか、少しは分かる。

 

 魔法修行のこと。家族のこと。これからの人生のこと。その全部が上手いこといくにはどうしらいいだろう、と考えて魔理沙は陰鬱な気持ちになった。光明は見えそうにもなかった。今唯一の楽しみである八柳からの手紙がこのまま来なかったら自分はどうなってしまうのだろう、と思うほどに。

 

 固い表情を浮かべる魔理沙を見ながら、兄はふと微笑んだ。妹の頭に手を伸ばしかけ、引っ込める。茶屋の娘がお茶のおかわりを持ってきたが「もう行きますから」と断って代金の支払いを済ませ、湯呑に残った茶を飲み干して立ち上がった。

 

「俺はそろそろ行くよ」

 

「仕事?」と魔理沙が聞く。

 

「うん。今日は他のところも何件か回らなきゃいけない。大忙しさ」

 

「そっか。じゃあ、またな」

 

 遠慮がちに手を振ってそう言う魔理沙に、兄もまた軽く片手を挙げた。

 

「ああ、また。今度はゆっくり話そう。というか里に来るなら家にも寄っていきなよ。みんな魔理沙に会いたがってる」

 

「ふうん」

 

 不愛想な魔理沙の返事に兄は苦笑して背を向けた。そうしてこのまま別れるかと思いきや「あ、そうだ」と振り向いて懐から麻袋を取り出す。さきほど茶屋にお金を払う時にも出していた小銭入れだった。そこから幾らか小銭を掴むと、魔理沙に差し出してきた。

 

「これで昼飯を食べてきなよ。そこのうどん屋、美味しかったよ」

 

 魔理沙の視線が、兄の手の平にある小銭から、さっき兄と鉢合わせたうどん屋のある方を向く。魔理沙の腹が小さく鳴る。

 子どもの頃から兄には何かと物を買ってもらっていた。父に内緒で水飴を買いに行ったことは数知れず、魔理沙の誕生日には兄が店の手伝いをして得た小遣いで綺麗なガラス玉や寄木細工のカラクリ箱なんかもくれた。昔と何も変わらない、魔理沙への親切。

 

 再び兄に視線を戻した魔理沙の目は、不機嫌そうに吊り上がっていた。

 

「いらない。私だってお金くらい持ってる。余計なお世話だぜ」

 

 そう言って魔理沙も立ち上がり、スカートをぱんぱんと叩いて箒を携える。

 

「もう子供じゃないんだよ。全部一人でやれるし、一人でも生きていける。魔法だって全部独学で覚えたんだ。もう心配とかしなくていいから、兄ちゃんはそのお金で義姉さんにもうどん食わせたり、生まれてくる子どもにお菓子でも買えよ」

 

 魔理沙はそう捲し立てて、足早にその場を後にした。兄がどんな顔をしているのか気になって仕方なかったが、魔理沙が振り向くことはなかった。

 

 何故だか心臓がうるさく、胸の内が痛んだ。

 

 

 

 

 

 

「兄貴にひどいこと言っちゃった」

 

「だからって何で家に来るのよ」

 

 ちゃぶ台に突っ伏して頭を抱える魔理沙を、霊夢が冷ややかに眺める。魔理沙の側には、空になった丼に箸が突っ込まれている。

 

 兄と別れた後、あのまま人里でゆっくりするのも気が引けた魔理沙は食料の買い出しだけ済ませると、昼飯も食べずにさっさと飛び去った。飛んで風に流されるまま、ふわふわと行き着いた先は霊夢のいる博麗神社だった。

 

 いつものように縁側で和んでいた霊夢は、やって来た魔理沙を見て「せんべいなら無いわよ」と言い放ったが、どうも魔理沙の様子がおかしい。いつもは天真爛漫な粗忽者のはずが青白い顔を浮かべているのを見て、これはただ事ではない、と察して家に招き入れた。

 

 しかし話を聞いてみれば、魔理沙は開口一番に「腹が減った」などとぬかす。さらに「うどんが食いてえ」と注文までしてきたので、霊夢は怒りを通り越して呆れかえり、乾麺を茹でてネギを浮かべただけのかけうどんを食わせてやった。天ぷらも欲しいという願いは当然のごとく却下された。

 

 そして遅い昼飯を食べ終わり人心地ついた魔理沙に詰問すると「兄貴と喧嘩した」と言って頭を抱えだしたわけである。

 

「なあ霊夢、どうしよう」

 

「知らないわよ。阿保らしい」

 

 兄と何やら気まずくなった魔理沙が人里から逃げるようにして博麗神社まで来たことは分かったが、実際にどう酷いことを言ったのか、何故そうなったのかは何も言わないので、霊夢はこの件について深入りするのを早々に止めた。博麗の巫女にふさわしい英断である。

 

 魔理沙は畳の上で大の字になって「うー」とか「あー」とか呻く。見ているだけであらゆる意欲が失われる光景であった。すっかり気の抜けたその姿に霊夢はへっぽこ妖怪を見つめるような視線を向けつつも、なんとなしに思ったことを口にする。

 

「しかしあんたも変わったわよね」

 

「えっ、そう? ほんとに?」

 

 親友の意外な言葉に魔理沙がパッと顔を上げる。

 

 

「冗談言ったつもりは無いわよ」

 

「他からは、昔と全然変わらないとか言われてんだけど」

 

 

「そりゃあ、やること成すこと行き当たりばったりだし、変な物拾う癖は昔からだし、そういうのは確かに変わらないと思うけどさ」

 

「なぜ唐突に酷評を?」

 

 友人からの散々な評価に軽くショックを受ける魔理沙。なまじ本当のことだから反論も出来ない。

 

 霊夢は頬杖をつきながら「でもそういう事じゃなくて」と話を続ける。

 

「少し前のあんたなら人と口喧嘩したくらいでそんなに思い詰めたりしなかったと思うんだけど」

 

「そうか?」

 

「絶対そうよ。むしろ相手が悪いって言って譲らない感じだったでしょ。唯我独尊、天衣無縫、傍若無人、四面楚歌…………みたいな」

 

「何がみたいな、だ。言いすぎだろ。あと最後のはなんか違うだろ」

 

 軽口を叩くうちに調子を取り戻してきた魔理沙を見て、霊夢はやれやれと言うように欠伸を噛みころした。

 

「それに相手がお兄さんなら尚更じゃない? 普通遠慮しないもんなんでしょ、兄妹って」

 

「そのへん複雑なんだよ。兄貴とは歳がけっこう離れているし、それに今回は久しぶりに会ったわけだから」

 

「ふうん」と霊夢。

 

 幼馴染と言っても、霊夢と魔理沙はお互いの家の事情にそれほど詳しくはない。子どもの頃は同じ寺子屋に通っていたし、霊夢が魔理沙の家に遊びに来たりしたこともあったが、家庭内でのことなど知る由もなし。魔理沙がどういった経緯で実家を出て今の生活に落ち着いているのか、霊夢もぼんやりと分かるような気がするくらいで、直接魔理沙の口から聞いたことはない。

 

 育った環境が違えば、今の境遇だって違う。霊夢は魔理沙の悩みにイマイチ理解が及ばない。

 

 しかし理解が及ばないということを自覚しているからこそ、無暗やたらに質問することもなかった。無難なところで一歩、距離を置いたのだ。霊夢はそういった機微に長けていた。

 

 二人の間に沈黙が流れる。縁側の向こうからは蝉の鳴き声がする。今はアブラゼミが隆盛を極めているが、すぐにツクツクボウシが鳴くようになって、やがて季節は秋へ、そして寒さの厳しい冬へと移ろっていくだろう。茶の間に吹いた一陣の涼風は、そんな残された夏の儚さを伝えてくるようだった。

 

「なあ」

 

「ん?」

 

 寝転んだまま手足を動かして畳の感触で遊んでいた魔理沙が、不意にその動きを止めて口を開いた。ちゃぶ台を挟んで向かいに座っていた霊夢もごろんと横になりながら適当に応える。

 

「霊夢って、将来の夢とかあるのか」

 

「将来? どうしたのよ、突然」

 

 聞き返された魔理沙は「何となく」と言う。

 

「将来も何も、私は博麗の巫女だし、他になにをするってわけでもないでしょ」

 

 当然と言えば当然の答えだった。しかし魔理沙はなおも話を続けた。

 

「でもさ。ずっと今のままってわけじゃないだろ。大人になったら次の巫女育てたりするんだろうし、そんでその子が正式に後を継いだら、霊夢はどうするのかなって」

 

「どうするって…………」

 

 霊夢は押し黙った。先ほどのように意図的に話を区切ったのではなく、単純に言葉が見つからないようだった。博麗の巫女を降りた後のこと。巫女ではなくなった自分の人生。それらは少女にとって想像も出来ないほど漠然とし過ぎていた。

 

「…………分かんないわよ。そんな先のこと」

 

 ややあって霊夢が答えると、魔理沙は「そっか」とだけ言った。霊夢は顔をしかめ、寝ころんだまま魔理沙に視線を向ける。

 

「そういうあんたはどうなのよ」

 

「私もよく分かんないよ。でも、今やりたいことがあるから、今はそれをやる」

 

「例の文通?」

 

 霊夢の質問に、魔理沙はこくりと頷いた。

 

「上手くいってるんだ。もう何回もやり取りしてる。それに今はまだ無理だけどさ、いつかお互いに行き来できるようになったら良いなって思うよ」

 

 魔理沙は目を瞑ったまま、夢想するように言う。本気で言っているのか、あるいは何となく思ったことを口に出したのか、その口調からは読み取れない。未来の科学がどんなに発達しているとかどんな建物が建っているとか、魔理沙は手紙で知ったことを思い出すようにぽつぽつと話した。

 

 華々しい未来の文明やそこでの人の暮らしを、霊夢は神妙に聞く。より正確に言うと、それを語る魔理沙を物思いに耽るような顔で見つめていた。

 

 

 

「ねえ魔理沙、今日の夕飯、うちで食べていったら?」

 

 しばらくして、魔理沙の話の区切りが良いところで霊夢はそう口を挟んだ。

 

「えっ、まあ私はいいけど、霊夢は万年金欠だろ」

 

「やかましいわね。食材ならあんたが持ってきたのがあるじゃない」

 

「えー! せこいぜ、それ! せこい!」

 

「ふん。さっきのうどん代よ。まずはその食べ終わった丼、洗ってちょうだい」

 

 有無を言わせぬ霊夢の指示に、魔理沙は「横暴だ、横暴」とぶつくさ言いながらも、空の丼を持って洗い場へと向かって行った。

 

 そうして魔理沙が客間から姿を消したのを確認してから、霊夢は一枚のお札を取り出した。念話を可能にする、霊夢の手製の品だ。草書体で書かれた呪文の中には『八雲』の二文字がある。

 

 指先から霊力を流すことでお札全体が淡く光り、その効力を発揮し始める。

 

「もしもし、紫? 今、魔理沙が神社に来ているわ。うん。夕飯食べていくって。分かってるわよ。泊っていくようにも言うから。決まったらまた連絡する」

 

 

 

 

 

 

 その日の夜のことだ。草木も眠る丑三つ時、静謐な魔法の森に建つ一軒家。森閑とした屋根裏部屋には、天窓から満月の淡い光が差し込んでいる。明かりの灯っていないそこに、家主である魔理沙の姿はなかった。今は博麗神社の一室で、霊夢と布団を並べて寝ていることだろう。

 

「霊夢は上手いことやってくれたようね。丁度よく魔理沙が訪ねたのもあるみたいだけど」

 

 突然のことだった。誰もいないはずの屋根裏に、二つの人影が夜闇からするりと抜け出るように立ち並んだ。一人は扇子を片手に持ち、もう一人は背後に九本の尻尾を揺らめかせている。月明かりしか光源がない部屋の中で、その二人の目だけが妖力によって光っていた。

 

「初めて立ち入るけれど、この子の家は……その、あまり綺麗ではねいわね」

 

「紫様はあまり人のことを言えないかと」

 

「何を言うの藍。私の部屋はいつも清潔そのものじゃない」

 

「私がいつも掃除していますからね」

 

 大妖怪である八雲紫と藍はそんなことを言い合う。「ぐぬぬ」と威厳の欠片も無い主人に対して、従者がため息をつく。

 

「まったく…………それにしても、こんなに回りくどいことをしなくても魔理沙に直接頼めば良かったじゃないですか。未来の調査に行くから触媒となる物を貸してほしいと」

 

「他人に手紙を見せろと言われて良い顔はしないでしょう。それに以前、あの子の要望を拒んだこともある。それなのに私だけが未来に行きたいからと協力を仰ぐのも、少しいやらしい話ではなくて?」

 

「どちらにせよ、留守の家に忍び込んだところで五十歩百歩な気もしますけどね」

 

 「はいはい」と従者の小言を聞き流しつつ、紫は部屋の隅にある文机へと足を向ける。部屋と相反するように整頓の行き届いている机の隅には、鍵付きの木箱や、便箋が収められている封筒入れなどが置かれている。

 

 紫はそこから便箋を一枚取って、紙面を指でなぞった。「どうですか」と藍が聞く。

 

「本物ね。微かにだけど、幻想郷にあるべき物とは違った感触がする」

 

 紫はそう言いながら、綺麗に折りたたまれた便箋を一枚一枚撫でていく。書かれている文章ではなく、便箋自体に隠された何かを読み取るように。

 

 一枚や二枚では確証を得られなかったが、こうも頻繁にやり取りをしていることから、未来の世界と幻想郷との繋がりは安定しているのだと分かる。()()()()()()()()()()()

 

 それぞれの手紙に残っている僅かな情報が統合され、紫の中で形を成す。大妖怪においても抜きん出た異質の感性が『縁』と呼ばれるあやふやなものを実態として捉えはじめる。千年先の異界へと繋がっている、その長くか細い道筋を。

 

「紫様」

 

 藍が紫の側に寄り、主の額に滲みだした汗を手拭いで拭き取る。当の紫はそれにさえ気付かない。凄まじいまでの集中力。もっとも妖力の高まる満月の深夜を選び、あの八雲紫を以てしてなお、それは至難と呼ぶべき業だった。

 

 やがて紫は「ふう」と息を吐き、藍に下がるよう命じた。

 

「見えたわ。今から発ちます。藍はここに残って、私の補助をお願い」

「かしこまりました」

 

 藍が懐から水の入った小瓶を取り出して床に置く。その瓶を中心に魔方陣を描けば、紫が帰還するための準備が整う。瓶の中の水にはあらかじめ紫の妖力が込められており、未来から引き上げる際にはその気配を伝って帰って来ることになる。

 

 藍の作業が終わったことを確認した後、今度は紫が動いた。紫の前方、何もない空間に一筋の線が現れ、パックリと割れる。その先は何も映さない暗澹たる闇が満ちているのみである。

 いや、闇の中に僅かな光の粒があった。それらは線を描くように時空の狭間を抜け、まだ見ぬ世界への道を示している。

 

 紫が一歩踏み出す。藍は「いってらっしゃいませ」と恭しく頭を下げて見送った。

 

 スキマが閉じた時、そこに紫の姿はなく、異常な力が行使された痕跡も残らなかった。

 

 主人の身を案じるように虚空を見つめていた藍は、ふと机の上に目を向ける。魔理沙が作ったのであろう、様々な種類の押し花が置いてある。それを眺めながら、藍は申し訳なさそうに目尻を下げて「すまんな」と一言呟く。

 

 

 

 

 ある夏の夜のことだった。

 妖怪の賢者は虫の音に紛れるようにひっそりと、千年の時を飛び越えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十四話

 

 

 

 それは単調な一本道でありながら、複雑怪奇に曲がりくねっていた。

 

 八雲紫は時空のねじれの中を進んだ。視覚も聴覚も嗅覚も働かない。頼りになるのは第六感ともいえる直感と、己の能力に対する全幅の信頼のみである。もしも迷いが生じればたちどころに足を踏み外して奈落の底へと落ちてしまう。そんな危うさを常に感じていた。

 

 これが時間旅行。いや、世界線を跨ぐということ。長い時を生きてきた紫であっても初めて体験する感覚だった。

 

 闇の中にか細い光の筋が通っており、道標の役目を果たしている。幻想郷と千年後の異界とを——より正確に言うなら魔理沙と八柳誠四郎とを——結ぶ縁。肉眼では見ることの叶わないそれを直感的に捉えつつ、手繰り寄せるようにして進む。

 

 どれくらい前に出発したのか。今はどの程度進んだのか。もしくは下がったのか。上下の間隔もすっかり曖昧になってきた時、紫の目の前が眩しく光り始めた。

 

 

 

 

 

 

 異空間から出て、紫は地面に足を降ろした。厚底の靴がカツンと硬い音を立てる。

 

「これは…………」

 

 千年後の未来。科学が行き着く最先端の時代。その景色は、妖怪の賢者と呼ばれる彼女を絶句させるに足るものであった。

 

 

 そこはどう見ても廃墟そのものだった。

 

 

 乱立する摩天楼のごときビル群には、一つの灯りも点いていない。道路だけでなく、地上全土が金属によって完璧に舗装されているが、その上を移動するものは何もない。瓦礫が散乱していたり、崩壊した建物が無様に横たわっていたりするばかりだ。

 

 一面灰色の空はのっぺりと重たく、どんなに遠くを眺めても雲が途切れることはない。凍えるほど寒いのは、あのスモッグによって太陽の光が遮られてしまっているためか。周りにガスを排出しているような構造物は見当たらない。どれもこれも機能を停止した廃墟のようにしか見えなかった。ならば空を覆い尽くしているスモッグは一体どうやって形成されているのか。それは幻想郷においても突出した頭脳を持つ紫でさえ、想像すらできないことだった。

 

「うっ…………!」

 

 無機質極まる景色を唖然として眺めていた紫は、突如襲ってきた吐き気と眩暈に思わず呻き声を上げた。

 

 咄嗟に口元を手で覆いつつ、己の周囲に素早く結界を構築する。しばらくすると呼吸は落ち着きを取り戻し、吐き気も過ぎ去った。

 

 

 唐突な体調悪化の原因を、紫は瞬間的に確信した。

 

 大気汚染と放射線だ。

 

 

 空気が汚染されている原因の大部分は、上空にあるだろうと思われる。自然発生したとは思えないスモッグから有害物質が絶え間なく降り注いでいるのだ。よく注意して見れば、人とは隔絶した性能をほこる大妖怪の視力が大気中に漂う極微細な粒子を捉えた。先ほど吸い込んだその毒性を改めて分析し、紫は慄いた。こんなものを人間が少しでも吸ってしまえば、肺が使い物にならなくなるだろう。

 

 しかしそんな毒素より恐ろしいのが、放射線の濃度だった。即座にスキマ能力によって遮断しなければ危なかったと、紫の額に冷たい汗が滲む。

 

 観察を一時取り止め、紫は己の内部に意識を集中させる。ソナーの要領で細胞一つ一つに妖力を伝搬させ、汚染された空気を吸い込んだことによる内部被曝の程度を計る。肺胞を中心に異常が見つかった個所に片っ端から『境界を操る程度の能力』を使って除染していく。すでに壊死し始めている細胞には妖力を重点的に流し込むことで活性化を図り、事なきを得る。外科手術にも劣らない精密な検査をその場で行えるのは、世界広しといえども紫くらいのものだろう。

 

 やがて体の異常をあらかた治療し終えた紫は疲れたように息を吐いた。目を開き、改めて周囲を見渡す。

 

 まるで爆撃されたかのように四散した建築物の成れの果て。長い間放置されていることを思わせる、ひどく古びた流線型の乗り物らしき物体。地面を埋め尽くす舗装と、天を突かんばかりに聳え立つ無機質なビルの集合体。薄暗いにもかかわらずその内の一つとして明かりが灯っていない光景は、筆舌に尽くしがたい寂静感が漂っている。

 

 そして、その全てが有害物質や放射線により汚染されているという絶望が、厳然たる事実として紫の目の前に広がっていた。人どころか、生命体が活動できるような環境ではなかった。

 

 千年後の未来。そこは紛れもなく滅びた世界だった。

 

 紫がわざわざ出向いたのは、幻想郷と奇妙な繋がりを持ったこの世界がいかなるものか見定めるためである。重要なのは幻想郷の害にならないかどうか。むしろ益になりそうであれば良好な関係を気付く算段も立ててはいたが、その必要はなかったようだと紫は判断を下す他に無かった。

 

 見て回る必要すらない。この世界は既に終わっていると断定しながら、しかし、紫は歩を進めた。すでに視察の目的の大部分は達成していたが、どうしても確かめておくべきことが残っていたのだ。

 

 紫は確かに、この時代の人間との『縁』を伝ってここへやって来た。そうしなければ初見ではとても辿り着けないような場所だった。

 

 つまり存在していなくてはおかしいのだ。魔理沙の文通相手、未来からの手紙の差出人である八柳誠四郎が必ず生きているはずである。そもそもの原因である彼について少しでも調べないことには、紫は帰るに帰れなかった。

 

 

 先ほど自分に対してそうしたように、周囲一帯に対して妖力の探査網を広げる。どんな微細な生命でも見落とさないようにじっくりと、全方位に満遍なく意識を配る。

 

 この世界に来るための手掛かりに使ったものが八柳の手紙である以上、必然として彼に近い場所に着地しているはずだが、有害物質を防ぐために結界を張っていることもあり探索に手間取る。

 

 微生物すら一つも見当たらない異様な空間に眉根を寄せながら、紫は地味な作業を淡々とこなし続けた。

 

 

 

「っ!」

 

 やがて微弱な生命反応を発見した紫は、その方角へと飛翔した。空高く飛び上がっても灰色の景色は何ら代わり映えしない。どこまでも続く、崩壊した文明の跡地。ビル群の向こう側にある海ですら薄暗く、生命の母と称されていたとは思えない色に染まっている。

 

「あれね」

 

 紫の目が、海岸にしゃがみ込んでいるたった一つの人影を捉えた。海岸とは言っても砂浜や岩場ではない。海岸線は全て、ブロックで不自然に埋め立てられている。

 

 その一角にぽつねんと座っている人物は、全身を何やら特殊なスーツで覆っており、頭にも宇宙飛行士が着けるようなヘルメットを被っているので、見た目には男か女かすら分からない。しかし探知できた生命はあの人間だけだったし、状況的に見ても間違いなく彼が目的の人物と見て間違いない、と紫は判断する。

 

 彼はただ静かに殺風景な海を眺めていた。何かを待ち焦がれるようにぼんやりと、遥か遠くの海岸線を見続けている。身動ぎ一つしないので意識が無いようにも見えたが、紫になおも伝わってくる生命反応から、彼が死んでおらず寝てもいないことが分かる。

 

 いや、得られた情報はそれだけではなかった。

 

 はっきり言って、彼は死に体だった。

 

 生物であればどんなものにも魔力が流れている。生命力とも言い換えられるそれは修業を積まなければ自在に操ることは出来ないが、例え目に見えないほどの微生物であっても僅かながら保有しているものだ。

 

 男から感じられる魔力は、常人を遥かに下回っている。紫は外の世界に出向いた時などに、それと同じような波長を感じたことは何度かあった。末期のがん患者や、エボラ出血熱発症者、もしくは老衰し余命幾ばくもない寝たきりの老人。そういった類のものだ。

 

 この世界の現状を見るに、彼の体が過酷な環境に耐えられず悲鳴を上げていることは明らかである。他に協力し合える人間がいないということも鑑みれば、生きていること自体が奇跡のような存在だった。

 

 

 紫は気配を消し、上空からすうっと降りていき、彼に忍び寄る。近くで見れば死に体だと評した自分の観察眼が確かだったとよりはっきり分かる。

 

 彼が着ている白い防護スーツはどのような素材で出来ているのか判然としない。しかしこれで放射線を防いでいることは確かだ。ガスマスクと一体になっているヘルメットも同等の性能をしていると見える。そうでなければこうして外に出るなんて自殺行為以外の何ものでもない。覗き込んでも気付かれないのは、紫が不可視の結界を発動させているからだ。

 

 一通り観察を終えた紫は、ふと彼の視線と同じ方を向く。ここが日本のどこに当たるのかは分からないが、目の前には墨汁を混ぜたような海が広がっているばかりで、他の陸地は目視できない。灰色の空と同系色の海。靄がかかっているように空気が汚れているのもあって水平線はぼやけて見える。

 

 

 やがて、ただでさえ薄暗かった景色がさらに暗さを増してきた。日が沈もうとしているのだ。海の向こう側からだんだんと闇が上ってくる。逢魔時になり、世界の終末めいた色合いはいっそう濃厚になっていく。

 

 するとそれまで座り呆けていた男が動いた。膝に手をつき老人のようにのっそり立ち上がり、踵を返してビルが倒壊して出来た瓦礫の山の方へ歩いていく。おそらくはねぐらに戻るのだろう。紫もしずしずとその後に続く。

 

 迷路のように入り組んだ道なき道を、男はまったく迷う素振りもなく進む。どの瓦礫がどのように絡み合っているのか完全に理解しているらしく、不必要な部分には触れないように気を付けている様子だった。紫が見るに、一つ間違えると崩落しそうな箇所がいくつかあり、それらを的確に避ける男の経験と観察眼は大したものであった。

 

 よじ上ったり下ったり、狭い所を這いずったりしてしばらく行くと、男は地面に埋め込まれた一つの円盤の前で足を止めた。頑丈そうな金属で出来た丸い物体。つまみがあることから、ハッチのようなものであると推測できる。

 

 決まった手順があるようで何重かに渡る複雑な施錠を解除し、男が分厚い蓋を開けると、地下へと続く階段が現れた。灯りが無く真っ暗な闇がわだかまっているが、新月の夜でも遠方が見渡せる紫の視力は、階段をずっと下りた先にある鈍色の鉄扉を見つけた。今しがた開いたハッチよりも重厚な造りを思わせる扉だ。男はヘルメットの上部にあるライトを点灯すると、階段に足をかけて降り始める。

 

 

 

 紫はそこから先には付いて行かなかった。内側から閉じていくハッチを、地上に留まって眺める。

 

「この先はシェルターになっているのね。食料の備蓄もあるだろうし、彼はここで暮らしていると見て間違いない」

 

 私生活までつぶさに見ても仕方がない、と紫は判断した。知るべきところは知った。どうやってたった一人生き残ったのかは分からないが、今ある事実は見たままだ。

 

 彼はどこまでもただの人間で、幻想郷への憧れはあるにしても害を為すような存在ではない。縁が繋がったのも偶然と見るのが正しいと思われる。暮らしぶりは至って単純。シェルターで寝泊まりし、食料を探すために外へ出て、魔理沙との文通だけを楽しみに生きている。または死に向かっていると言った方が正確か。

 

 そう遠くない内に、彼は亡くなるだろう。

 

 幻想郷の害になるものは無い。逆に利益にもならない。この世界はどこまでも空っぽで、あまりに手遅れだった。

 

 そんな場所に一人きりで取り残されている彼へ黙祷を捧げるように、紫は目を閉じた。すでに日は暮れ、辺りはシンとした夜闇に包まれている。

 

 紫は目を瞑ったまま、己の内部、心胆の中心へと意識を集中させる。出発地点である魔理沙の部屋では、藍が帰還術式の展開を維持しながら紫の帰りを今か今かと待っていることだろう。自分自身と幻想郷が繋がっている縁を感じ取り、そこへ向けて能力を発動する。

 

 来た時と同様に、異空間へといざなうスキマが現れ、紫は愛しの幻想郷に戻るためにその中へ入っていく。振り向きはしなかった。紫が完全に地上から足を放した瞬間にスキマは閉じ、後には何も残らなかった。

 

 来訪者が立ち去った世界はなおも森閑とし、虫の音一つしない。豊かな土も、青々と茂る木々も、可憐に咲く季節の花も、何も無い。かつて科学文明が隆盛を極めたことを示す残骸が捨て置かれているばかりである。青い惑星と呼ばれた面影は欠片も無く、灰色の雲が空を埋め尽くしている。

 

 

 そこは死の星だった。

 

 少女が夢見た未来の形は、どこにも無かった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十五話

 

 

 霊夢が朝起きて顔を洗っている時、藍からの念話が届いた。紫の式神としていくつかの能力を有している彼女は霊夢と違って御札が無くても自在に念話を飛ばせる。ずるいなあ、と思いつつも霊夢はまだ半分寝ぼけた頭のまま応答した。

 

「おはよー」

『ああ、おはよう霊夢。魔理沙はまだそっちにいるか?』

 

 挨拶もそこそこに質問が飛んできた。霊夢は「んー」と呻って寝室に行き、さっきまで隣で寝ていた魔理沙の様子を伺う。襖を開けると、今ちょうど起きたのか布団の上で座り込んでいる魔理沙が欠伸交じりに手を振った。霊夢もあいさつ代わりに手を振り返してから洗面所へと戻り、藍に答える。

 

「いるわよ。今起きたっぽい」

『そうか。ならば引き続き、こちらからの合図があるまで引き留めておいてくれないか』

 

 矢継ぎ早に下された指令に霊夢は怪訝そうな顔をする。

 

「どういうこと? もう一晩経っているのよ。まだ終わってないの?」

 

 藍の無言が肯定の意を示す。霊夢は呆れるようにため息を吐いた。「なにをやっているのよアイツは」と眉間を揉む。

 

『心配するな。こっちの術式は安定している。紫様はちゃんと帰って来られる』

「…………別に心配なんて」

『では、頼むぞ』

「あ、こら。ちょっと待————」

 

 一方的に念話を切られ、霊夢は不機嫌そうに「もう」と言う。寝癖でぼさぼさの頭を掻く。とりあえず朝の支度を整えようと髪を櫛でとかし、寝間着から巫女服に着替える。

 

そうこうしている内に魔理沙も洗面所にやって来た。彼女はまだ眠そうに目を擦りながら憚ることなく大きな欠伸をする。

 

「霊夢―。飯はー?」

「昨日の余りの味噌汁とご飯でねこまんまでもしたら。自分でやってよね」

「あいー」

 

 魔理沙は間の抜けた返事をしながら顔を洗い始める。

 

「そういえばさ。さっき誰かと話してなかったか?」

 

冷たい井戸水を浴びて目が覚めたのか、さっきよりしっかりとした口調で魔理沙が聞いた。洗面桶を譲るように一歩引いて髪を結っていた霊夢は、ぴくりとその手を止める。

 

「別に。夢でも見てたんじゃない」

 

 霊夢の口から出た咄嗟の誤魔化しに、魔理沙は「うーむ」と首をひねる。彼女自身、起き抜けの時のことは夢と区別がついていないらしい。魔理沙が昔から朝に弱いことを知っている霊夢は密かにホッと息をついた。

 

「あ、そうだ。朝飯食ったら私はもう帰るから」

 

 安心したのも束の間、魔理沙の一言に霊夢は再び髪結いを中断せざるを得なかった。宴会などで博麗神社に泊まる時はたいてい昼間まで寝ているというのに、何故今日に限って早起きして、その上さっさと出て行こうとするのか。

 

「い、いや。もうちょっとゆっくりしていけば?」

 

 いきなり窮地に立たされた霊夢が咄嗟にそう言うも、魔理沙は「用事あるし」と取り付く島がない。

 

「あー。やっぱり朝ごはん用意してあげるわよ。ちょっと時間かかるかもだけど待っててくれる?」

「いや猫まんまでいいよ」

「え、えっと。そういえば味噌汁残ってなかったかも」

「どう見ても残ってただろ。つーか昨日の味噌汁は私が作ったし」

 

 飯関連はダメだ。もっと別の切り口はないか、と思案する霊夢の顔を魔理沙が怪しむように覗き込む。顔を洗い終わって、変な問答も交えたことにより魔理沙の鳶色の瞳はぱっちりと冴えている。霊夢は「うっ」と言葉に詰まりたじろいだ。

 

「なんか変だな、今日の霊夢」

「そ、そんなことないと思うけど。それより用事があるって言っていたわね。どんな用なの?」

 

 露骨に話題を変えた霊夢をさらに訝しみながらも、魔理沙は寝ぐせを直しつつ答えた。

 

「まあ霊夢にはもうバレてるから言うけど、ほら、文通だよ文通。そろそろ向こうからの返事が届いているはずだから無縁塚行って確認するんだよ」

 

 よりにもよって未来関連の用事。無縁塚は魔法の森の中にあるので手紙の有無に関わらず、荷物や昨日買いこんだ食料を片すために魔理沙は家に帰ることだろう。霊夢は合理的に阻止する理由も思いつかず「そう」とだけ返すことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

「なんで霊夢まで付いてくんだよ」

 

 朝から何かと話しかけてきて、結局無縁塚まで付いてきた霊夢に魔理沙が言う。

 

「いいでしょ。ちょっと暇してたのよ」

「巫女の仕事大丈夫かよ。朝だったら参道の掃除とかするんじゃねーの、普通」

「べ、別に毎日しなくても平気よ、そのくらい。誰も困りゃしないって」

「なんつー巫女だ」

 

 話しながらも魔理沙は目的の場所に向かって真っすぐに進む。対して霊夢はどうにか魔理沙の気を引こうと努めていた。

 

「ほら魔理沙。けん玉あるわよ」

「お前好きだなあ、それ。前も拾ってなかったっけ」

「どっちが多くできるか勝負しない?」

「いやしないよ。忙しいの、私は」

「負けた方が勝った方に今度ご飯奢るとかどうよ」

 

 奢りという言葉に反応してか、魔理沙が足を止めて振り向く。

 

「ご飯って、どんなのだよ」

「え? うーん。ねこまんまとか」

「止めとくわ」

 

 景品のあまりの貧乏くささに魔理沙はそっぽを向いてしまった。メッセージボトルの出現定位置でしゃがみ込みガラクタの囲いの中をごそごそと漁る。ほどなくして薄汚れた瓶を拾い上げた彼女を見て、霊夢は思いつく限りのことを捲し立てた。

 

「あー、あー! 今の無し! そうだ、うどん! 人里のうどん屋さんで好きなの奢ってもらえるっていうのならどう!?」

 

 人里のうどん屋と聞き、魔理沙は再び興味を示した。昨日食べ損ねたうどんにまだ未練があるようで、ごくりと喉が鳴る。

 

「天ぷらもつけていいのか?」

「もちろんよ。海老天、かしわ天、椎茸にナスまで何でも頼んでいいものとするわ」

「出前というか、負けた方に買って来させることも出来る?」

「敗者は勝者に従うのみよ」

 

 魔理沙は次々に注文を付けていく。魔理沙の興味を引きたい一心の霊夢は調子に乗って全て承諾する。最終的にただの奢りとは言い難いところまで行き着き、魔理沙は「よしやろう」と首を縦に振った。食欲に光る眼は、やたらめったらに具をのせた絢爛なうどんを狙っているに違いなかった。

 

「じゃあ私から」

 

 ようやく時間稼ぎができる、と内心で安堵した霊夢はけん玉をぽんぽんと乗せ換える。少しでも長く続けるために自身の有り余る才能を遺憾なく発揮している霊夢の手元に狂いは無い。子気味いいリズムは一定で、機械のごとく正確無比に回数を重ねていく。最初は勝気な顔でそれを眺めていた魔理沙だったが、百回辺りから困惑し始め、二百回を超えてもなお止まる気配のない霊夢に青ざめ始めた。魔法を使ってインチキをしても勝てそうになかった。

 

「320、321、322…………」

「れ、霊夢さん?」

 

 魔理沙の呼びかけに霊夢は全く反応しない。自分の手先に全神経を使っている霊夢の真剣な表情は、妖怪退治をする時の比ではない。魔理沙は「霊夢がこんなに張り切るなんて、一体どんな恐ろしい要求をされるのだろう」と戦々恐々とする。一方で霊夢はさっさと紫が用を済ませることを願いながら時間稼ぎに努める。両者の思考は無慈悲なまでにすれ違っていた。

 

「498、499、500、501…………」

 

 風が吹こうが声をかけられようが一向に霊夢の快進撃は止まらない。魔理沙はもはや涙目だった。「もういいよ。私の負けだよ」と言う。しかし霊夢には止めたくても止められない理由がある。魔理沙の自尊心とうどん代は必要な犠牲だったのだ。

 

 しかしどれだけ待っても藍からの連絡は入らない。内心で業を煮やした霊夢は、懐に忍ばせておいた御札を使った。けん玉をしながら手も触れずに御札へ霊力を流し込めるその技量は、さすが博麗と言う他にない。いじける魔理沙の横で、霊夢は藍に念話を繋げた。

 

『霊夢か』

「ねえ、まだなの?」

 

 念話とは言っても術式の関係上、相手と話すには声に出すことが必要である。けん玉をこなしながら唐突に口を開いた霊夢を見て「いや、もう充分だろ」と魔理沙が言う。回数は既に六百を超えていた。

 

『そろそろお帰りになると思うが…………もう少し持たせられんか』

「もう限界なんですけど」

 

 念話をしているとは知る由も無い魔理沙は「限界なら止めろよ」と半ば呆れる。念話の先には藍、目の前には魔理沙。二方向からの会話に板挟みにされて霊夢の手元が狂い始めた。気もそぞろとなり、玉の動きが不安定になる。自分なら大丈夫と思っての行動だったが完全に裏目。己の才能を過信したあまり窮地に陥り、博麗霊夢の集中力がついに底を見せた。

 

「分かった、よく分かったよ霊夢。お前もそんなにうどん食いたかったんだな」

「そ、そんなに食い意地張ってないわよ」

『食い意地? 何の話だ』

「こっちの話」

「は? 何言ってんだ霊夢。今日のお前やっぱり変だぞ」

「別に変じゃないわよ。そっちこそ変なこと言わないで」

『む、私は変な発言などした覚えはないが。訂正してくれないか』

「あんたちょっと黙っててくれる?」

「なんだよ、態度悪いな」

『その態度はどうかと思うぞ霊夢』

「あんたらうっさいわねえ!」

 

 あっ、と声を上げたのは霊夢だったか、それとも魔理沙だったか。

 

 耐えかねた霊夢が叫ぶと同時、けん玉の赤い球は皿の淵をぐるりと一周し、外へこぼれて落下した。垂れた糸の先で玉がゆらゆらと揺れている。実に呆気ない幕切れだった。

 

 魔理沙が目を細めてじいっと霊夢の顔を見つめる。霊夢は無表情のまま静かにけん玉を置くと、念話に回していた霊力の流れを閉じて、お説教モードに入りつつある藍をシャットアウトした。「うるさい」と言われたのが心外だったらしく向こうから連絡をかけ直してくるが、それも繋がる前に撥ねつける。いわゆる着拒である。

 

「霊夢さ、あんたらって、なに?」

 

 魔理沙の問いは鋭かった。答えず、目線も合わせようとしない霊夢に重ねて質問する。

 

「私以外の誰かと話していた? でもここには誰もいないし、もしかして念話で? いやそもそも、なんでこっそり念話で話す必要がある?」

 

 魔理沙は霊夢の念話の発動条件を知っている。普通は念話用の御札を指に挟んで用いることも。

 下から覗き込まれて、霊夢はダラダラと汗を流しながら目を左右に反らした。しかし魔理沙の視線からは逃れられない。

 

「ひょっとして私に隠し事でもあるんじゃないか。そういや今朝からやけに引き留めたがっていたよな。私が帰るって言ったら慌てだしたりして…………」

 

 魔理沙はそこまで考えを口に出した瞬間にハッとして、回収したメッセージボトルを懐にしまい込むと箒に飛び乗った。どうやら一つの結論に達したらしい。霊夢が焦って待ったをかける。

 

「ちょっと、どこ行くのよ」

「私ん家だ! お前変なこと企んでるだろ!」

「けん玉勝負はどうすんのよ!」

「知るかそんなもん! 無効だ無効!」

 

 言うが否や、魔理沙は無縁塚から飛び立ってしまった。残された霊夢は小さくなっていく友人の背中を見ながら「ああもう」とぼやきつつ後を追った。動きの正確さでは他の追随を許さない霊夢だが、直線での速さ比べなら魔理沙に軍配が上がる。

 

「あたしゃもう知らないわよ」

 

 全ての元凶、今は幻想郷から遠く離れたところにいる妖怪の賢者に対して、霊夢は諦念を多分に含んだ声で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 魔法の森の住処に帰ってきた魔理沙は制圧部隊のように家の中に突入する。さっと一目で一階には誰もいないことを確認すると、ミニ八卦炉を片手に階段を駆け上る。二階の屋根裏部屋には案の定、不埒な侵入者がいた。突風のごとくやって来た魔理沙を気まずそうに見つめる九尾の式神は、魔理沙も知っている顔だった。

 

「ま、魔理沙…………」

「なんで藍が私の家にいるんだよ! その魔方陣なに!?」

 

 魔理沙の指さした先には、床に書かれた円状の術式がある。真ん中に水の入った小瓶が置かれたそれは、現在進行で発動しているのか赤い光を帯び、複雑な文字列が物理法則に反してゆっくりと回っていた。

 

「お、落ち着いて話を聞いてくれ。これには訳が……」

「ワケもワカメもあるか。紫はどこだよ。どうせあいつが変なこと企んでんだろ」

「紫様は今この場にはいない。この術は紫様が帰って来られるのに必要なものなんだ。どうか今しばらく待って————」

 

 藍がそう言いかけた時、魔方陣が停止し、瓶がパリンと割れた。空間に一本の線がすっと走り、両側に割けて異空間へと繋がる深遠な闇を覗かせる。その中から、八雲紫がとぼとぼと猫背で現れた。

 

「あー、疲れたあ。こんなに疲れたのは久々よ。さあ藍、さっさと帰ってお饅頭でも食べてお昼寝を…………って、え? 魔理沙? なに? Why?」

 

スキマから出てきた紫は実に分かりやすく狼狽した。威厳も何もあったものではない。言い分によっちゃ斬り捨てる、とでも言わんばかりだった魔理沙もこれには唖然として閉口せざるを得なかった。妖怪の賢者で、幻想郷の管理者で、深謀遠慮の底知れぬ大妖怪。そういった外面としての八雲紫しか知らなかったので当然の反応と言える。

 

 しかし紫もだてに賢者と呼ばれてはいない。混乱したのも束の間。状況を瞬時に把握しすると、巧みに開いた扇子で口元を覆うと背筋を伸ばし、平然とした態度を取った。その胆力には部下の藍も呆れ返るほかない。

 

「あら魔理沙。ご機嫌麗しゅう」

「あら、じゃねえよ。ご機嫌も麗しくない。なんであんたらが私の家に上がり込んでいるんだよ」

 

 紫はちらりと天窓の方を見る。太陽の光が差し込み、部屋は明るかった。出発したのは深夜。行って帰って来るまでに紫が体感した時間はものの数時間だったはずだが、幻想郷では既に半日ほどが経過しているらしいということを悟る。規則性があるのかは定かでないが、こちらと未来との間で時間にズレがあることは確かなようだった。おかげで家主の少女も帰ってきてしまい、紫と藍の体裁は非常に悪い。

 

「魔理沙、落ち着いて。何もあなたに害を為しに来たわけではなくてよ」

「信じられるか! 霊夢まで使ってコソコソと忍び込んだくせに」

 

 憤慨する魔理沙をなだめつつ、さてどうしようかと紫が頭を悩ませているところに、魔理沙のさらに後ろから声がした。

 

「もう洗いざらい話しちゃいなさいよ」

 

 ようやく追いついたのか、霊夢が会話に割り込んできた。魔理沙は振り向いて霊夢を睨み、藍と紫はその発言が意外だったのか目を少し見開いた。

 

「禍根を残さないためにもこの際きちんと話しておくべきでしょ。何をしていたのかも、紫が何を見てきたのかもさ」

「…………そうね。たしかに霊夢の言うとおりだわ。魔理沙には知る権利がある」

 

 霊夢の進言を聞き入れた紫が頷く。なんの話なのかいまいち要領を得ない魔理沙は怪訝そうに顔をしかめるが、紫は魔理沙に向き直って言った。

 

「まずは謝罪させていただくわ。留守の間に忍び込むなんて無作法なことをしてごめんなさいね、魔理沙」

 

 真っ向から粛々と謝られて、さすがに魔理沙もたじろぐ。紫は返答を待たずに続けた。

 

「それでわざわざ貴女の家に上がってまで何をしていたかということだけど、おおよその察しはついているんじゃないかしら」

「…………もしかしてとは思っていたけど、行ったのか?」

 

 魔理沙に関することで、あの八雲紫が直々に動くほどのこととなると、必然として候補は限られる。いや、一つしかないと言っていい。先ほど紫がスキマから現れたことも、魔理沙の推察の正しさを補強していた。

 あえて目的語をぼかした言い回しであったが、紫は頷いた。

 

「千年後の未来、そしてあなたの文通相手である八柳誠四郎が如何なるものかを観察しに行ってきたわ」

 

 魔理沙の目が皿のように大きく開かれた。推測こそしていたがにわかには信じられず霊夢の方を見ると、沈黙で以て肯定される。

 

「ただ、いくら私でも何の足掛かりも無しに行くのは不可能。そこで失礼ながら、彼の手紙を触媒にしてスキマを開かせてもらったの。あなたの家に上がる必要があったのはそういうわけ。ああ、心配しないで。手紙の中身は読んだりしていないわ。傷やシワもつけていない」

 

 文机の上を確認すると、たしかに誠四郎からの手紙はきちんと揃っている。いや、もはや問題はそんな所にはない。勝手に家に入られたことも、大切な手紙に触られたことも今は些末事だった。

 

「それで…………見てきたんだな」

「ええ。しかとこの目で」

 

 魔理沙がごくりと唾を飲みこむ。無縁塚で初めてメッセージボトルを手にしたあの日から、思いを馳せない日は無かった。行くことは叶わないと半ば諦めて尚、想像して止まなかった未来の真実が、実際に目にしてきた者の口から語られようとしている。それは魔理沙にとって大変に期待させられる、垂涎の話題だった。

 

 そうして千年後の世界がどのような場所だったのか話し始めると思われたが、紫は扇子で口元を隠したまま黙ってしまった。彼女が何を目にしたのか知らない藍と霊夢はその重苦しい沈黙に首をかしげる。

 

「先に言っておくけれど、あなたが期待するような話ではないわ。きっと……いいえ、必ず傷付くことになる。聞くからにはそれを覚悟しておいてちょうだい」

 

 不穏な前置き。一瞬、困惑するように魔理沙の瞳が揺れたが、ここまできて聞かないという選択肢はない。無言で話の続きを促してくる魔理沙の顔を見据え、紫は扇子を静かに閉じた。

 

「千年後の未来。そこはね、生物が絶滅した世界だったわ」

 

 

 

 

 

 

 紫は先ほど実際に見てきたことを余さず、詳細に語って聞かせた。

 

 瓦礫の山が累積し、海も空も灰色に包まれている景色。降り注ぐ死の塵と、大妖怪の生命すら脅かしかねない濃度の放射線。増長しすぎた文明がもたらした星の終焉。そして、そんな世界の片隅でたった独り生き残ってしまった青年、八柳誠四郎。

 

 そこには情報の不足も、誇張した表現もない。紫自身が目で見て、肌で感じた客観的事実が淡々と述べられていく。

 

 魔理沙だけでなく霊夢もその話に聞き入っていた。あまりに荒唐無稽で、幻想郷という箱庭しか知らない彼女たちからしてみれば到底受け入れがたい事実だったが、紫の毅然とした語り口調には冗談めかした雰囲気など微塵もない。

 

「これは私個人の見立てだけど、彼の余命はもう幾許も残されていないわ。時間にズレがあるみたいで正確なことは言えないけれど、冬を迎えるまで持たないでしょうね」

 

 一通り話し終えた紫は、そう言って締め括った。時間は正午を回っており、窓から入る光の角度が変わっている。放射線などの説明も踏まえての話だったので気付けばかなりの時間が経っていた。

 

 場には沈痛な空気が漂っている。紫は「何か質問はあるかしら」と言外に魔理沙を真っ直ぐに見続ける。対して魔理沙は帽子を目深に被り、顔を伏せていた。少女にとっては実際に見てもいない架空のおとぎ話。しかし感情に任せて否定しないのは、彼女自身、手紙をやり取りする中で思い当たる節がいくつもあったからだろう。

 

「信じるか信じないかはあなたの自由よ。私から話すことは、もう無いわ」

 

 紫はそれだけ告げると、何も言わない魔理沙の横を通り抜ける。藍も床に書いていた術式や割れた小瓶の破片を綺麗に消し、主人のあとに続いた。霊夢はこちらに来る紫と、魔理沙の背中を交互に見つめている。

 

「待って」

 

 魔理沙が声を上げた。紫が足を止める。

 

「その…………今の話が本当だったとしてさ、紫なら、あいつを助けてあげられるんじゃないのか」

「無理よ」

 

 魔理沙の申し出を、紫は一言で斬り捨てた。その無慈悲な返事に魔理沙はバっと振り向き、声を荒げる。

 

「な、なんでだよ! 実際に未来には行けたんだろ!? 向こうから誠四郎を連れてくることくらい…………!」

「彼の身体や魂が時空移動に耐えられないわ」

 

 すぐに返ってきた簡潔な答えに魔理沙はぐっと言葉を詰まらせるも、語気を強めて言った。

 

「じゃ、じゃあ誠四郎を治してやってくれよ! そんで回復したら、連れて来られるんだろ?」

「確かに私の能力であれば、生と死の境界を操って死者すら蘇らせることも出来るわ。当然、彼を死の運命から引き離すことだって」

「だったら…………!」

「それをすると彼は人どころか、生き物ですら無くなるけれどね」

 

 魔理沙は今度こそ絶句した。生死の操作。八雲紫が語るその末路の悲惨さに言葉を失う。

 

 物事は境界によって線引きされているからこそ、はっきりとした実態をもって存在できる。生きるということは死ぬことと表裏一体。死の概念を取り払われることは、生の権利を剥奪されることと同義なのだ。そうして世の理から外れた者の魂が輪廻の中にいられるはずもない。現世はおろか、天国にも地獄にも居場所は無いだろう。すなわち、永遠の孤独に陥ることを意味する。

 

 死者の蘇生。死の運命からの脱却。それは八雲紫をもってしてさえ犯しがたい禁忌の領域だった。

 

「質問は以上かしら」

 

 黙ってしまった魔理沙から視線を外し、紫は出て行こうとする。しかし魔理沙は再三、提案を口にした。いや、それは提案とも呼べない、藁にも縋るようなものだった。

 

「せ、誠四郎に手が出せないならさ、私を向こうに連れて行ってくれよ。幻想郷にも迷惑はかけない。それなら————」

 

 うわ言のように呟く魔理沙に、式神の藍はこれ以上は聞くだけ無駄と判断してか「すまないが無理なものは無理だ」と言いながら前に出て、二人の間に入る。

 

 しかし紫がすっと片手を挙げて忠実な従者の言葉を遮った。再び魔理沙の方に振り向いた彼女の口元がまた扇子で隠されている。扇子の奥で細まった鋭い眼光は無力な少女を強かに射抜いていた。

 

「行ってどうする気? あなたに何ができるの?」

「そ、それは」

「救えもしないのに、悪戯に会いに行って何になるというの。それとも彼と無理心中でもするつもりかしら」

「心中なんて…………私はただ…………」

「そもそもの話、彼が救いを求めているかどうかすら定かではない。にも拘らず無理を押して、何もできないあなたが行くことは、ただの自己満足ではなくて?」

 

 痛烈な正論は魔理沙を完膚なきまでに打ちのめした。子どもの癇癪。無知ゆえの生き急ぎ。無意識に目を反らしていた事実が少女の心に突き刺さる。

 

「何にせよ幻想郷の管理者という立場である以上、幻想郷の民を危険と分かっている場所にわざわざ連れて行ったりはしない。下手な期待や、希望的な考えは捨てることね」

 

 紫はそう言い残すと、空間移動用のスキマを開く。行き先は彼女の住まいか、博麗神社のどちらかだろう。「行くわよ」と藍と霊夢を促し、自身は一足先にスキマの中へと入っていく。藍も、今回の不法侵入に関しては別の形で埋め合わせるという旨を簡潔に伝えると、紫の後を追って姿を消した。

 

 最後に残った霊夢は俯いたままの魔理沙を見つめていたが、結局は何も言うことはなく、八雲の二人に続いてその場を立ち去った。スキマが閉じるその最後まで、霊夢は打ちひしがれている様子の友人に視線を送っていた。

 

 

 

 

 

 

 紫たちが立ち去った後、魔理沙はベッドに腰かけて八柳誠四郎から送られてきた手紙を読み返していた。古い順に、無縁塚で初めてメッセージボトルを拾ったあの日から貯め続けてきた交信の記録を一枚ずつ、じっくりと目を通していく。

 

 魔理沙は千年後の未来を自分の目で見てはいない。しかし手紙に書かれている一文字一文字は、たしかに八柳誠四郎が生きた証なのだ。そうして今もきっと、自分からの返事を待っている。全てが滅び去った、家族も友人もいない、万に一つの希望も無い世界でただ一人、黙々と。

 

 最後に、今回送られてきた、いつも通り他愛のない内容が綴られている手紙を読む内に、魔理沙は自分の胸に熱いものが込み上げてくる感覚をおぼえた。

 

「いいよ。だったら私だけでもやってやる」

 

 呟いたその声には並々ならぬ意志が込められている。今までだって、一人でも逞しく生きていこうと決意してやってきた。たとえ協力を得られず、他人から無力だと言われても、魔理沙はそれで諦められるような性格はしていなかった。

 

「私が、私の魔法で、あいつを必ず救ってやる。そんで誰にも文句は言わせない!」

 

 勢いよく立ち上がった魔理沙は階段をけたたましく駆け下りて、乱雑に散らかった本の山をかき分け始めた。

 

 やがて見つけた目当ての一冊は、時間や時空といった概念を研究していた近代の魔術師の著書、その和訳本であった。それを持ってまた二階に上がり、文机に向かう。

 

 魔理沙の充血した瞳が、意地と執念によってギラリと光った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十六話

 

 

 

 その日の早朝は雨だった。

 

 魔法の森に建つ一軒家の屋根裏部屋で、魔理沙は森に降り注いでいる雨の音を聞きながら黙々と本を読んでいた。彼女の傍らには小さな火の灯っているランタンが置かれていて、その受け皿からは溶けた蝋が溢れそうになっていた。足元の床には分厚い魔術書がいくつも積み重ねられ、魔理沙の腰あたりの高さまで及んでいる。

 魔理沙は本に書かれている文章を指でなぞりながらブツブツと何事かを呟いている。彼女の目は赤く充血しており、目元には濃い隈が浮かんでいる。もともと癖毛の長い金髪はしばらく手入れしていないのか所々毛羽立っていて、彼女が寝ていないことは明らかだった。

 

 たまに魔導書の一文を書き写したり要点をまとめてみたりしてはいるが、あまり成果は出ないようで、書いた側からぐしゃぐしゃと紙を丸めるとその辺にポイと放ってしまう。「ああもう」と苛立たし気に頭を掻きむしり、大きくため息を吐いてまた魔術書に向き直る。それをずっと繰り返していた。

 

 八柳誠四郎を救うために未来へ。

 

 そう決意した日から一週間が経った。実際に未来へ行った八雲紫の協力が得られない以上、自分の力で何とかするしかないと時間魔法の研究に取り掛かったのは良いが、まるで進展はなかった。自宅にある魔術書には一通り目を通した。しかしそこに魔理沙が求めるものは書かれていなかった。時間という概念に対して言及している本はいくつかあるが、そのどれにも時間移動の具体的な方法は載っていない。著者である魔術師が各々の理論を展開しており、魔理沙はそれらを理解しようと根気強く読み込んだが、今のところめぼしい結果は得られず。いや、それどころか取っ掛かりすら掴めていなかった。

 

「くそ…………全然分かんねえ」

 

 誠四郎の時間はもうあまり残されていない。刻一刻と彼の死が迫っているその実感が、魔理沙の心に重くのしかかる。

 

 八雲紫から未来のことを聞かされた日、紫の話だけではどうしても納得できなかった魔理沙は一昼夜悩んだ末、件のメッセージボトルを使い、誠四郎に確認の手紙を送った。

 

『未来について、あなたのことについて、本当のことを教えてください』

 

 いつものような前置きや雑談めいたことは一切書かれていない、簡潔で有無を言わせぬ内容の手紙だった。それに対して八柳からの返信が来たのが今から三日前のこと。彼にしては返事が来るのが遅かった。おそらく向こうも、どう答えたものか迷ったのだろう。

 

 結局、彼が送ってきた手紙は、紫の言葉が全て真実だったことを裏付けするものであった。

 

 

 

 

 

 

拝啓

霧雨魔理沙様

 

 お手紙ありがとう。幻想郷ではまだ暑い季節が続いているのでしょうか。こちらも最近はどこか温かく、過ごしやすい日が続いています。

 

 なんて前置きを書いてみましたが、今回はそんな雰囲気ではないですね。実はいつ踏み込んだ話をされるかと、魔理沙さんの手紙を受け取る度、毎回身構えていました。もしかしたら生活について明言を避けている私の手紙に違和感を抱いていたことかと思います。魔理沙さんを不安にさせてしまったのなら申し訳ない。私としてもそろそろ話しておかなければならないと考えていたので、この際ですからちゃんと説明します。

 

 私のいる世界は既に滅んでいます。周りに人はおらず、食料が新たに生産されることもありません。私が一人でその日暮らしのような生活をしているというのは、そういう意味です。ひょっとしたら世界のどこかで私と同じように生き残った人間がいるのかもしれませんが、今のところ見つかってはいません。あらゆる方法を試しましたが、返事があったのはこのメッセージボトルのみでした。

 

 今までに手紙で書いたことから、魔理沙さんは未来の世界が素晴らしく発展していて、便利なもので溢れていると想像しているかもしれませんね。けど人類が科学によって繁栄できたのは、もうずいぶん昔のことです。およそ百年ほど前ですね。端的に言うと戦争が起きました。大昔にあったという世界大戦とは比べ物にならないほどの規模の戦いだったと思います。凄まじい威力の兵器によって地表は瞬く間に火の海となり、自然環境も激変して人がどんどん死んでいきました。

 

 聡明な魔理沙さんなら、私がどうやってそんな世界で生き残ったのか、そして百年という時の隔たりを疑問に思うことでしょう。コールドスリープというものはご存じですか。あまり難しい理論は説明できないのですが、人体を冷凍保存しておく技術のことです。長い年月眠りに就き、肉体はほとんど劣化しないので、遠い未来で目覚めることが出来ます。戦争が終結しているかもしれない、その時まで。

 

 私が住んでいた地域にも戦火が広がり始めた時、私は両親と一緒に地下のシェルターへ逃げ込みました。そこにコールドスリープの装置があったのです。町の共用施設にあった小さなシェルターでしたが、入ってきた人は多く、誰が装置を使うかで揉めました。その時のことは、すみません。あまり詳しくは書けません。ただシェルター内での騒乱の中、両親は僕を装置に押し込み、結果として僕は百年間眠り続けました。

 

 そうして次に目覚めた時、シェルターに人は残っていませんでした。もちろん、外に出ても生きている人間は見つからず、私は目覚めてからの三年間を生き残りの捜索に費やしました。今はもう出来ることはあらかたやってしまい、あまり余力もありませんが。

 

 きっと地球という生命は終わっているのだと思います。度重なる環境汚染のせいで大戦が始まる前からまともに生き物が住める場所ではありませんでしたし、今では防護服を着なければ満足に外も歩けない状況です。そんな環境に長く身を置いたせいか、私の体も最近ではあまり言う事を聞かなくなってきました。

 

 重たい話をしてしまいすみません。ただ、私は魔理沙さんとの文通で救われました。誰かと言葉を交わせるというだけで心が軽くなりますし、魔理沙さんが教えてくれた幻想郷の風景を思い浮かべると何故だかとても懐かしい気持ちになります。行ったことも無いのに不思議ですね。

 

 一つだけお願いです。これからも同じように私と文通を続けてもらえますか。今まで通り、他愛のない話で構いません。いえ、むしろその方が好ましく思います。こちらからは魔理沙さんのためになるような面白い話が出来ないことが心苦しいですが、どうかお願いします。

 

敬具

2×××年□月◆日

八柳誠四郎

 

 

追伸

 

 魔理沙さんの生きている世界は本当に素晴らしい場所です。幻想郷という楽園がいつまでも穏やかであり続け、私の生まれた時代のようにならないことを、心から願っています。

 

 

 

 

 

 

 淡々とした語り口で書かれている手紙は、部分部分の筆圧がバラバラだった。いつもは几帳面な誠四郎の文体が歪にブレている。僅かな違いだったが、それは魔理沙にとって大きな意味を持っていた。読み返した手紙をそっと元の場所に戻し、魔理沙は自分の両頬を叩く。

 

 しかしそうして喝を入れてみたところで、状況は好転しない。満足に寝ていない脳みそはきちんと働いてくれず、本を読んでいてもすぐに集中力が切れて文字がぼやけて見える。

 

 雨の音に混じって木を叩くような音が聞こえた気がした。聞き違いだろうか。または鳥が木を突いたりしているのか。

 

 魔理沙は重い頭を振って、かじりつくように机と向き合う。魔術の叡智が詰まった分厚い本の塔は、もはや敵にしか見えない。どれもこれもが寄ってたかって学術という名の暴力を加えてくるように思われた。

 一文一文が難解なことこの上ないのに、読んでみれば結局、時間移動の方法は分からず終いだ。そもそも時間という概念に人が触れ得るのか、という疑問から始まる。いくつかの論文から自分なりに魔術式を組み上げられないものかと考えてもみたが、それは一流の魔法使いをもってしてさえ困難を極める大事業だろう。半人前の魔理沙がいくら頭を悩ませたところで到底答えが出るものでもなかった。

 

 コンコン、と木の鳴る音がする。今度は確かに聞こえた。魔理沙は突っ伏すようにして読んでいた本から顔を上げ、耳を澄ませる。木を……いや、扉を叩いている。その音に混じって声がする。魔理沙の名前を呼んでいる。

 

「誰だ? こんな時間から」

 

 時計を見ればまだ日の出からさほど時間は経っていない。そんな早朝に、魔法の森にあるこの家を訪ねるなど霊夢以上の物好きになるが。鈍い頭痛のするこめかみを抑えつつ、一階に降りて玄関扉を開ける。

 

 そこにはカラスの黒い翼を生やした天狗、射命丸文が立っていた。

 

「いやー、おはようございます。もしかして寝てました?」

 

 文はいつも通りに人好きのする笑顔を浮かべながら「雨は困りますねえ」と言って羽ばたき、水気を飛ばす。今日の彼女は雨合羽を着ており、頭からくるぶしまで防水布に覆われている。背中の翼を除けばまるでてるてる坊主のようである。

 

「こんな朝っぱらから何の用だよ」

 

 魔理沙がぶっきらぼうな口調でそう言う。不機嫌と言うよりかは、疲れの滲んだ声だった。

 

「やだなあ。私といえば新聞。新聞といえば朝刊でしょう。朝の新聞配達は私の日課ですよ」

 

 魔理沙と対照的に元気はつらつな文は「はい、今日の朝刊」と言って合羽の下から新聞を一部取り出す。魔理沙は「ご苦労さん」とそれを受け取った。

 

 ここしばらく、魔理沙は『文々。新聞』を購読していた。以前、向日葵の花を貰いに幽香の元を訪ねてからあの日以来、文に配達を頼んでいる。きっかけは霧雨店の前店主である魔理沙の父がコラムに小さな記事を寄稿していると知ったことだった。魔理沙から定期購入したいという話をされた文は最初こそ仰天同地といった様子で驚いていたが、すぐさま有頂天になり「雨の日も風の日もお届けに上がります!」と意気込んでいた。

 

 そうして日々の生活の中に新聞を読むという習慣が加わった魔理沙だったが、今まで一度も、文が手渡しに来たことはない。新聞は当然郵便受けに入れられる。代金も封筒にまとめて郵便受けの中に入れておき、月毎に文がそれを回収するという約束になっているので、基本的に二人が顔を合わせることはない。

 

 だというのに何故、雨も降っている今日に限って自分に会いに来たのだろう、と魔理沙は訝しんだ。妖怪である文の身勝手さには定評があるので、空も白い早朝に訪ねて来たのはこの際目を瞑るとしても、やはり怪しいことに変わりはない。文通のことがバレたのか。それともその延長で、八雲紫が未来へ行ったり自分が時間魔法の研究を始めたりしたことを何処かから嗅ぎつけたのか。「何の用だ」と魔理沙が聞いたのはそういった意味でのことだった。

 

「そんなに睨まないでくださいよ。ひょっとして本当に寝てました? 二階の窓から灯りが漏れていたので、てっきり起きているのかと思ったんですけど」

「いや、まあ起きてたけどさ……」

「良かった。ああ、別に大した用じゃないですよ。ちょっと依頼人から魔理沙さんに手渡しするよう頼まれていまして」

 

 文がそう言って取り出したのは、花柄の包装がされた小包だった。大きさは片手でも掴める程度で、実際に持ってみると見た目よりも軽く感じる。

 

「元払いなのでお金は大丈夫です。こちらに印鑑だけお願いします」

「はいはい。ちょっと判子取ってくるから待ってて」

 

 魔理沙は居間に戻り、長いこと使われていない箪笥の小さな引き出しから判子と朱肉を見つけ出して、文が開いた手帳の受領欄に赤い判を押した。

 

「魔理沙さんって判子持ってたんですね」

「おい、そりゃ嫌味か」

「純粋に感心してるんですよ。いやあ、それにしても凄いお宅ですね。今チラッと見えただけでもかなり面白そうな……また今度取材させていただいてもよろしいですか?」

「よろしくない。あと覗くな」

 

 魔理沙は顔を赤らめて玄関扉を閉めた。しかし霧雨魔法店の恥ずべきゴミ屋敷っぷりは玄関先にまで及んでいるのであまり効果はなかった。

 

「しかし誰からなんだ、この荷物」

「まずは受け取ったらその場で開くように、とのことです。私は立ち合い人になって欲しいと頼まれました」

「はあ、今ここで?」

 

 おかしな注文に首を傾げつつ、魔理沙は小包の包装紙をびりびりと破く。小さな木箱が入っており、その蓋は見慣れない文字の書かれている紙で封がしてある。

 寝不足でボケた頭の魔理沙は深く考えず、その封を切って蓋を開けた。瞬間、飛び出したのは眩い紅色の閃光。魔理沙と文は揃って「きゃっ」と驚き、咄嗟に顔を覆った。

 

「な、なんだったんだ。今の光は」

「さあ…………」

 

 しばらくしても他に何も異変が起きないので、魔理沙はゆっくりと目を開け、箱の中身を覗いた。小さいながらしっかりとした造りの箱には、一枚の封筒があるのみ。それ以外には何も入っていない。さっきの赤い光といい、どういう贈り物だと一層怪しさが増す。

 

「それで差出人は…………え、パチュリー?」

 

 封筒の裏に書かれていた名前を見て、魔理沙が素っ頓狂な声を上げる。パチュリー・ノーレッジ。七曜の魔女、もしくは動かない大図書館という異名で知られる生粋の魔女だ。霧の湖の側に建つ吸血鬼の屋敷『紅魔館』に客人として住まう彼女は、膨大な蔵書量を誇る紅魔館の書庫に籠って日がな本を読み耽っている。一に読書、二に研究。三四が無くて、五に読書。そういった気質の魔法使いだ。外に出ることは滅多になく、他人と関わることもない。魔理沙は同じ魔道を志す者として交流はあるが、パチュリーが自ら人に対して働きかけるような人物ではないことを知っている。そんな彼女が何故贈り物を、それも開けた瞬間に発光するような仕掛けまで施すのか、魔理沙は不思議に思った。

 

 木箱を文に持たせて封筒から便箋を取り出す。そこには端正な文字で、実に簡素かつ明瞭な文が綴られていた。

 

 

 

『魔理沙へ。本の返却期限から三カ月が経ったわ。この手紙を読んでいるということは赤い光を浴びたでしょう。今日中に返却しない場合、問答無用で心肺が停止して死ぬ呪いをかけました。それでは返しに来るのを待っています。かしこ』

 

 

 

 ただでさえ疲れ切っていた魔理沙の顔から血の気が引き、蒼白になる。

 

 何という理不尽。何という横暴。いや、どちらが悪いかと言えば、パチュリーが命の次に大事にしている魔導書を期限超過して我が物顔で持っていた自分に他ならないが、いくら何でもその代償が死刑とは重すぎる。本の取り立てのためだけに複雑かつ高度な呪いの術式をひょいと組んでしまうパチュリーを流石と褒めるべきか、阿呆と罵るべきか。魔理沙は天を仰いだ。

 

「あっ。裏面。文宛てにも何か書いてあるぞ」

「え、なんですか」

 

 便箋を裏返した魔理沙がそこに書いてあった文章を見つけた。顔色が悪くなった魔理沙をどうしたのかしらと見ていた文は、突然自分の名前を呼ばれてきょとんとする。

 

「えー…………追伸。不躾な鴉天狗の記者にも一つ呪いをかけました。私の盗撮写真を新聞に載せたら全身の毛という毛が抜けて最後には焼き鳥になる呪いよ。くれぐれも注意されたし。だってさ」

「は!? 呪い? なにが、なんで!?」

 

 文はその実年齢に似つかわしくないほど狼狽して自分の頭部を押さえた。盗撮は良くないけど確かにこれはやり過ぎだろう、と魔理沙は文に憐れみを込めた視線を投げつつ説明する。

 

「さっき箱を開けた時なんか光っただろ。あれ、呪いだったんだってさ」

 

 文が声にならない悲鳴を上げた。魔理沙にかけられたものより残虐で手が込んでいることから、パチュリーの文に対する印象が伺える。

 

「そんな、ベストショットだったのに…………明日の見出しに何を載せればいいの…………」

 

 そんなうわ言を呟く文を見ながら「パチュリーの判断は正しかったのだろう」と魔理沙はコロッと意見を変えた。

 

 誠四郎の安否を思えば、今は一刻でも惜しい。しかし呪いまで掛けられては仕方ない。それに、魔理沙自身も現状では手詰まりであることを理解しつつあった。自分の力でやると決めた以上、独学から逸れるのは業腹だが、そうも言ってはいられない状況だ。

 

「ちょうど良かったのかもな」

 

 少女の小さな呟きが、雨音に混じって消えた。

 

 

 




合羽着たあややが見たいです(切実)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十七話

 

 

 

 昼前、魔理沙は紅魔館に向かっていた。寝間着から普段の服に着替え、その上に文が着ていたような雨合羽を身に付けている。日常的に空を飛ぶ彼女たちにとって合羽は必須だった。ちなみに魔理沙は合羽の他にゴーグルを着用する。香霖堂で霖之助に勧められて買ったものだ。高速で飛んでも雨が目に入らず、大変重宝する。

 

 霧の湖は妖怪の山の麓にあり、その辺り一帯はたいてい昼間になると霧が立ち込める湿地帯である。通常、霧というのは気温が下がってこそ発生するものだが、何故か気温のピークとなる昼時に出やすいというあべこべな状態がいかにも幻想郷らしい。昨晩から雨が降っていて気温に変化があまりないため、今はそれほど濃い霧は出ていない。

 

 しばらく飛ぶと、木々の間に聳え立つ深紅の洋館が魔理沙の目に映った。周囲を高い塀で囲み巨大な時計塔まで有する絢爛さであるにも関わらず、窓が一つも無く、血を塗り付けたようなおどろおどろしい色の外壁が薄気味悪さを演出している。人里離れた湖畔に佇むそれは、吸血鬼の居城としてこれ以上は無いほどふさわしいと言えるだろう。

 

 箒の柄を下に向けてすいと下降し、魔理沙は紅魔館の正門前に降り立った。屋根付きの正門の側には一人の女性が立っている。名を紅美鈴という。この屋敷の門番だ。見た目は完全に人間のそれだが、彼女も射命丸文や八雲紫などと同じようにれっきとした妖怪である。

 

 美鈴はだいたい寝ている。門番なのに寝ている。今もそうだ。本人も「立ったまま寝るのが特技です」などと憚らず宣う体たらくだ。彼女は妖怪でありながら武術の達人でもあるという呼び声が高い。不動明王のように毅然と立ちながら堂々と寝こける様はなるほど、たしかに凄まじい達人ぶりであった。

 

「おい美鈴。起きろよ」

 

 魔理沙がそう言うと、美鈴は鼻ちょうちんを膨らませた。恐ろしく無礼な返答に魔理沙は怒りを通り越して呆れ、実力行使に出た。とは言っても、箒で美鈴の肩を軽く小突いただけだが。

 

 その瞬間、美鈴はカッと目を開いた。直前まで寝ていたのが嘘だったのかと思えるほど機敏に動き、蛇のように腕を箒の柄に絡ませる。そして足払いをかけるべく姿勢を低くし————。

 

「あれ?」

「あれ、じゃねえよ」

 

 完全に目を覚ました美鈴は、反射的に技をかけようとしたのが人ではなく何の変哲もない箒だったことに気付いてポカンとする。もしも魔理沙が彼女を起こすために直接触れていたら、問答無用で関節技を極められていただろう。

 

「魔理沙さんじゃないですか。それにしても何故私が魔理沙さんの箒を?」

「予防策。いいから返してくれ」

「はあ、なんだかすみません」

 

 箒を返してもらった魔理沙は柄に傷みがないかを確認する。

 

「門番やってるのに寝るのはどうなんだよ」

「あはは、よく言われます」

「よく言われちゃダメだろ」

「今日は雨ですからね。雨音を聞いていたらなんだか眠くなってしまうんです」

「前は晴れていたら温かくて眠たくなるとか言ってなかったか。しかも冬の日に」

「森羅万象、これ全て睡眠に通ずるのです」

 

 美鈴はとぼけたことを言いながらも、重厚な木の門を押し開けた。門の向こうには噴水付きの庭が広がり、その先に紅魔館の立派な玄関扉が見える。

 

「パチュリー様から、魔理沙さんが来たら通すように言われています。どうぞお通り下さい」

「はいよ。じゃあ遠慮なく」

 

 ひと悶着あったものの、すんなり通してもらえたことに魔理沙は気を良くする。そうして門をくぐろうとした時、美鈴が小声で耳打ちしてきた。

 

「パチュリー様から直々の呼び出しなんて、いったい何をやらかしたんです?」

「やらかしたのは前提かよ。借りてた本を返しに来ただけだよ」

「一大事じゃないですか」

「一大事なのかよ」

 

 魔理沙は表情を固くした。返却する以上、呪いで死ぬことは無いにせよどんな罰則を与えられるか分かったものではない。最低限いつでも逃げ出せるように身構えておこうと心に決める。しかしそんな魔理沙よりも顔を青くした美鈴が懇願するように言った。

 

「あの、私が寝てたことは言わないでくださいね。ね?」

 

 魔理沙は無視して紅魔館に入っていった。

 

 

 

 

 

 

「こんにちは、魔理沙」

 

 魔理沙が書庫——その規模は図書館と言って差し支えないが——に入ると部屋の真ん中でソファに座っている女性が声をかけてきた。抑揚のない、囁くような声。彼女の前には巨大な文机が置かれていて、その上には本が山と積まれている。女性は挨拶をしたものの読んでいる本から目を離さず、顔を上げる素振りも無い。

 

「よっ、パチュリー。相変わらず愛想無いなあ」

「魔女に愛想は必要ないわ」

 

 ページをめくる速度が異様に速い。あれで本当に内容が頭に入っているのかと思いつつ、魔理沙は書庫を見渡した。

 

 ドーム状の天井は高く、巨大なシャンデリアが提げられている。今パチュリーが腰かけている文机を中心に、見上げるほど背の高い本棚が蜘蛛の巣を張るように並び立ち、そのいずれにも隙間なく本が収められている。大理石の床は魔理沙が歩くたびにコツコツと固い音を鳴らした。

 

「約束のものは?」

「ちゃんと持ってきたぜ。まったく、こんなことであんな回りくどい脅しなんかかけて…………」

 

 魔理沙は文句を言いながら鞄の中を漁り、パチュリーから借りていた数冊の本を机にどんと乗せる。どれも一目で高級と分かる立派な装丁の魔術書だ。

 

 その内の幾つかは、今朝まで魔理沙が時間魔法の参考資料にしていた和訳本である。裏表紙を見れば羽ペンで『Translator(翻訳者) Patchouli Knowledge(パチュリー・ノーレッジ)』と記されている。

 

 魔術書は英語やラテン語、もしくはギリシャ語で書かれているものが大半を占める。それにも関わらず紅魔館の書庫には同じ内容の本でも和訳、中国語訳されているものが幾つもある。そのほとんどはパチュリーが手ずから翻訳したものだった。

 

 パチュリー曰く「本は読まれるからこそ価値がある」とのことだ。他者をほとんど顧みないはずの彼女だが、幻想郷の誰であっても書庫の本を手に取ることが出来るよう配慮しており、頼めば快く貸し出してくれる。惜しむらくは、魔理沙のような変わり者でもない限り、吸血鬼の根城である紅魔館にわざわざ難解な本を借りに来る者がいないということか。

 

 返ってきた本を前にして、ようやくパチュリーは読書を止めて顔を上げた。魔理沙が積んだ本を上から順に取って、流し見するようにパラパラとめくる。

 

「数は揃っているわね」

「そりゃもちろん」

「落書きもしていないようね」

「私を何だと思ってるんだ?」

 

 ほどなくして確認作業を終えたパチュリーはさっさと読書に戻ってしまった。この書庫には時計が無く、分厚い壁に守られているので雨の音すら聞こえない。完全に無音の空間に、本をめくる乾いた音だけがやけに大きく聞こえる。

 あまりに素っ気ない対応に魔理沙は呆然とした後、焦った様子で口を開いた。

 

「お、おいおい。呪いはどうなったんだよ」

「呪い?」

「小包に仕込んでたあの赤い光! 本はちゃんと返したんだから忘れずに解除してくれなきゃ困るぜ」

 

 魔理沙の言葉に一瞬考えこんだパチュリーだったが、ややあって「ああ、あれ」と言う。

 

「あれは、嘘」

「は?」

「光を浴びせただけで命を奪えるほど強力な効果を持つ呪いなんてあるわけないでしょう。しかも特定条件を付けた自立可動式。呪術はそんなに簡易的なものではないし便利でもないわ。あれはただ、箱を開けたら赤く発光するようにしただけ」

 

 パチュリーは一息にそう説明し、何事もなかったかのように再び本に向き直る。対する魔理沙は開いた口が塞がらない。恨み言の一つを言おうにも相手があまりに泰然としているので気勢を削がれる。

 

 しかし再び静寂に支配されては敵わないのでどうにか話を続けようとする。此方から常に話題を振り続けないといけないのが、この大魔女との会話の難点であった。

 

「じゃあ文も呪いはかかってないのか?」

 

 パチュリーの盗撮写真を悪用すれば焼き鳥になる呪いをかけられていた鴉天狗のことを思い出しながら魔理沙は聞いた。幻想郷最速の名が泣きそうなほどヨロヨロと情けなく去っていく背中が印象的だった。

 

「あの子のは半分嘘で、半分は本当。呪いはあの小包でなく、私の写真を撮った瞬間に自動でかかるようにしておいたわ。焼き鳥にはならないけど、相応の罰は受けてもらうことになるわね」

「ちなみにどんな写真撮られたんだ?」

「…………」

 

 魔理沙の一歩踏み込んだ質問をパチュリーは華麗にスルーした。大抵の問いかけには機械的に答えてくれる彼女がわざわざ黙秘権を行使するとは、よほど言いたくないことのようだ。

 またもや話題が打ち切られた魔理沙はどう本題を切り出そうかと悩んだ末、意を決した。端からパチュリーを相手に談笑する気などなかったし、魔理沙自身がもともと迂遠な前置きをするのは好かない性格だ。

 

「話は変わるんだけどさ」

 

 そう言った魔理沙の声は若干固かった。努めて平静さを装っていることを感じさせる声色だった。

 

「魔法の研究の相談に乗って欲しいんだけど…………」

 

 雑談をしている間にも本を読み終えてしまい、積んである中から新たな一冊を取ろうとしていたパチュリーの手が止まった。魔力を宿したアメジストのような瞳が魔理沙を見つめる。相変わらずの無表情ではあるが彼女にしては珍しく、意外なものを見る目つきをしている。

 

「内容次第ね。私も全てに精通しているわけではないから」

「それは、その」

 

 話を促されても、魔理沙は言いにくそうに口籠る。パチュリーは呆れたようにまた読書を再開しようとする。それが魔理沙を急かす何よりもの圧力だった。

 

「じ、時間だよ。私、未来に行きたいんだ!」

 

 それはこの広大な書庫の蔵書をほとんど網羅しているパチュリー・ノーレッジをして、興味を惹かれるものだったらしい。開きかけた本を閉じ、彼女は今度こそ魔理沙に向き合った。

 

「未来へ? 何故」

「理由、言わなくちゃダメか?」

「大切なことよ。何かを成す時には必ずふさわしい理由がある。いわゆる因果関係ね。魔法という分野においては殊更重要。そのくらいは、あなたも知っているでしょう」

 

 魔法使いとは云わば研究者であり、発明家だ。科学とは方向こそ異なれど、この世の法則を論理立てて解釈し、己が技術に落とし込むという本質は変わらない。その中でもパチュリーは大変な理論家であり、そんな彼女にじいっと見つめられながら動機を問われては、さしもの魔理沙も煙に巻こうという気は起きなかった。

 

「た、助けたい奴がいるんだよ。そんだけ」

 

 最低限の情報だったが、それで一応納得はしたのかパチュリーは深く追及して来なかった。「そう」と言って口元に手を当て、しばらく考え込む。脳内検索をかけているのだ。知識や記憶はよく海に例えられるが、彼女の場合はまさしく大海そのものと言っていい容量を誇っている。吸収したほとんどの知識は無意識下に定着し、必要に応じて引き出しを開けるように取り出される。

 やがてパチュリーはついと魔理沙に視線を戻して口を開いた。

 

「残念だけど、私では力になれそうにないわ」

「うーん。そっかあ」

 

 ある程度の予測はしていたのか、魔理沙の声に落胆の色は少ない。しかし魔法使いとして遥か高みにいるパチュリーなら或いは、という思いが大きかったのも事実で、内心では途方に暮れていた。次に打てる手としては、この紅魔館にある魔術書から時間に関する本を一通り貸してもらうことだが、延滞常習犯である自分にそこまで快く本を貸し出してくれるのかという問題がある。

 魔理沙がそう考えて黙りこくっていると、パチュリーは意外にも話を続けてきた。

 

「そもそも魔法で時間を操るのは無理があるわ。少なくとも、私の知る限りではね」

「無理があるって、魔力量が足りないとか?」

「いいえ。もっと根本的な問題」

 

 時間という概念に干渉する魔法。言うなれば世界の摂理に逆らう禁忌の技術だ。必要とされる魔力量は、弾幕ごっこで撃ち合うような光弾の比ではないだろう。その辺りのことは魔理沙も考えてはいたが、パチュリーはもっと別のところに問題があると言う。

 

「魔法は言うなれば巨大な学問大系。その歴史は少なく見積もっても古代メソポタミアまで遡るわ。様々な分野に枝分かれしていく中で当然、時間を操ろうとする者もたくさん現れた。連綿と研究は受け継がれ、そして現代に至り、魔法史は一つの結論を出している」

 

 すなわち、魔法による時間移動は不可能である、と。

 

 遥か紀元前から研究され尽くした結果、その定説が生まれたのだとパチュリーは言う。その言葉には魔法史に精通する彼女だからこそ持たせられる重みが備わっていた。

 

 いくら若く向こう見ずな魔理沙でも、何千何万という年月の積み重ねがどれほどの意味を持つのか分からないわけではない。ぐっと押し黙ってしまう。

 しかし口をつぐんだのも一瞬のこと。歴史がいくら無理だと否定したところで、諦められる性格をしてもいなかった。

 

「今までに無いんなら、これから作ればいいだろ」

「たしかに、普通なら私もそう言いたいところだけれど」

 

 パチュリーは魔理沙が今しがた返却した魔術書の一冊を手に取り、その古めかしい厚手の表紙を撫でる。彼女が漏らした小さなため息には、魔理沙の無知に対する憐憫が仄かに含まれていた。

 

「魔法の行使は私たちが生きるこの世界の摂理に則ることを原則とする。それは貴女も知っているでしょう」

 

 魔法使いならば、見習いだろうが駆け出しだろうが知っているべき初歩の初歩。空を飛ぶことも、火を吹くことも、水を凍らせることも、全ては自然現象の範疇にある。パチュリーが扱う七曜の魔法がその最たるものだ。精霊を通じて行使される彼女の専門魔法は自然摂理の模倣といっても過言ではない。七つの原初の力(エレメンタル)を組み合わせることで無限の可能性を生み、不可能など無いとすら思わさせられる万能の力。しかしそれでさえ、実のところは世界の枠組みに縛られるものでしかないのだ。

 

 魔法では世界を変えられない。魔法では、時を超えることはできない。

 

 パチュリーはその当たり前すぎるが故に見落とされがちな事実を、噛んで含めるように説明した。

 

 魔理沙は悔しそうに唇を噛んで俯く。その表情は、パチュリーの話を受け入れざるを得ない魔法使いの端くれとしての諦念と、魔法の万能性を信仰している少女の無垢な意地がせめぎ合っているようだった。

 

「でも……紫は行ったんだ。だから私だって……」

「なんですって? 紫って、あの八雲紫が?」

 

 やるせない魔理沙の呟きにパチュリーが反応する。

 

 魔理沙は紫が何故、どうやって未来へ渡ったのかを、自分の憶測のもとに話した。その過程で未来にいる人間と手紙のやり取りが出来ることも話さざるを得なかった。

 

 それで何か新たな可能性が切り開けないものかと一縷の望みを託したが、話を聞きながら吟味するように考え込んでいたパチュリーはややあって首を横に振った。

 

「あの大妖怪の能力なら決して不可能ではないのかもしれないけど……それでも魔法に転用するのは限りなく不可能に近いでしょうね」

「なんでさ」

「境界を操るという力が異質すぎることと、そんな能力を駆使しても特定の場所にしか行けないみたいだというのが、主な要因よ」

 

 今、幻想郷と千年後の未来は非常にか細く曖昧模糊とした縁によって繋がっている。パチュリーの見立てとしては、紫の異能をしてさえその縁を辿るのが精一杯で、自由自在にあらゆる時間軸を移動できるわけではない。魔理沙か誠四郎、どちらか一方に何かあれば、おそらく簡単に縁は切れてしまい、未来へ行くことは全く不可能になるだろう。

 

 パチュリーの説明を聞きながら、魔理沙は苦虫を噛み潰した顔になった。勉強漬けだったこの一週間の努力が無駄になっただけでなく、全幅の信頼を寄せていた魔法の限界を思い知らされた彼女の口惜しさは計り知れない。しかし魔理沙の表情にはそれでも諦めきれない執念の色があった。

 

 パチュリーは俯いている魔理沙の顔を見ながら一瞬、ふっと表情を和らげた。それは彼女をよく知る紅魔館の主人でも分からないような微細な変化だった。

 

「それにしても貴女、ひどい顔ね。寝不足?」

「え、ああ、うん。ちょっとな」

 

 魔理沙がやや無意識に自分の目元を擦る。

 

「人間の体は不便よね。睡眠や食事をとらなければいけないし、寿命は短いし」

「まあ、確かに。やっぱり私も早く捨虫の術覚えた方がいいのかな」

「それは貴女が悩んで決めることだわ」

 

 パチュリーはそう言って立ち上がった。机の端に置いてあった短い杖を持ち、ついと振れば机の上の本が一斉に浮き上がり、各々が収まるべき本棚へ飛んでいく。そうしてあっという間に片付けは済んでしまった。

 

 次に杖をもう一振りすると風が外行きの服を運んでくる。パチュリーは今まで着ていたゆったりとしたローブを脱ぎ、何処からともなく魔法で持ってきた外套の袖に腕を通す。腰部分にホルダーがあり、そこに杖を携える。

 

「なに、どっか行くの?」

 

 突然、余所行きの格好になったパチュリーに魔理沙は戸惑う。

 

「時間になったから、ちょっと地底までね。仕事を依頼されているの」

 

 パチュリーは簡潔にそう答えて歩き出した。時計も無いのにどうやって時間を把握しているんだ、と魔理沙は不思議に思いつつその場に突っ立ってパチュリーの背中を見送る。しかし数歩進んだところでパチュリーは振り向き、魔理沙に付いて来るよう言った。

 

「魔理沙、あなたも来なさい。そんな状態じゃ何事も満足に出来ないわ。温泉にでも入って疲れをとるべきよ」

 

 パチュリーが行こうとしている地底は、旧地獄とも呼ばれている。その名の通り、かつては亡者の魂が集い、裁きを受けていた場所だ。そこにある元灼熱地獄地区では、地熱を利用した温泉が設営されている。もともとは地獄だというのに今では温泉街としてすっかり定着し魑魅魍魎が楽しげに行き交う娯楽施設と化している、なんとも気の抜ける経緯を持つ土地である。

 唐突な誘いに「なんで」だの「でも」だのと渋る魔理沙に、パチュリーは「いいから」と手招きをした。

 

「今、ミニ八卦炉は持ってきているかしら」

 

 聞かれて、魔理沙は懐にしまってあった八角形の香炉を取り出して見せる。パチュリーが「よし」と頷く。

 

「ついでに私の仕事も手伝ってちょうだい。その八卦炉が役に立つかもしれないのよ」

「な、なんで私がそんなことしなきゃなんないんだよ」

「本の返却期限の遅延料、とでも言えば納得してもらえる?」

 

 魔理沙の一見もっともに思える反論を、パチュリーがばっさりと切り捨てた。苦々しい顔をする魔理沙に「お給料はちゃんと出すから」と、何処となく楽しそうなパチュリー。

 

「それに、あなたにとっても悪くない経験になるはずよ」

 

 これで断って今度こそ変な呪いをかけられたり、本を貸してもらえなくなったりしたら堪らない。

 魔理沙は仕方がないと項垂れて大魔女の申し出に従い、トボトボと紅魔館を後にしたのだった。

 

 




美鈴のパートはストーリー上不必要だった。でも美鈴好きだから入れてしまった。あと外から見た紅魔館のビジュアルや、雨合羽を着た魔理沙を少しでも書きたかったという理由もあったり。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十八話

 

 

 

 街の至るところから湯けむりが立ち上っている。石畳の舗装が美しい大通りには饅頭を売る露店や、炭火の良い匂いをさせる飲み屋などがひしめき合うように並び、客を呼び込んでいる。

 

 そんな街中を闊歩するのは鬼を始めとした妖怪や、霊魂だけの姿でふよふよと浮かぶ幽霊である。人間は一人として混じっていない。かつては地上で忌み嫌われ追いやられる形で地底に住み着いた彼らだが、温泉街はそんな不幸とは無縁の活気に満ちていた。

 

 仄かに鼻をつく硫黄の匂い。店先の蒸籠で蒸されている温泉饅頭。酒の入った大徳利を片手に浴衣姿で街を練り歩く鬼の団体。「極楽浄土は地下にあり」と誰かが言う。

 

 この温泉街は地底の中心地である旧都からほど近い場所にある。以前、地底に住む一人の妖怪が力を暴走させてしまい、博麗神社の付近に巨大な間欠泉を噴き出させるという異変が発生した。地底で管理されていた怨霊までもが熱湯の激流に乗って脱走してしまうというなかなかに厄介な事件だったが、博麗霊夢らの活躍もあって今ではすっかり解決している。

 

 しかし、そんな異変の影響の一端がここに現れていた。かつては巨大なばかりで大した娯楽も無かった旧地獄の都だが、間欠泉の異変を機に一転、温泉街として目も眩むような躍進を遂げたのである。故に出来てから日はまだ浅く、建っている家々もほとんどは新築だった。

 

 心身に染み渡る効能豊かな温泉が妖怪霊魂の区別なく魅了せしめたのだ。人気はさらなる人気を呼び、いつしか商いが生まれて経済が回り、あれよあれよという間に現在に至る。

 

 

 

 

 

「なんか向こうは賑やかで楽しそうだなあ。温泉入るなら私、あっちが良かった」

 

 華々しい温泉街から遠く離れた場所、人気のない荒野にも一つ、大きな温泉があった。滔々と湧き出る天然のお湯が丸石で囲った露天の湯船を満たしている。そこに浸かっている霧雨魔理沙は、遠くから聞こえてくる微かな喧騒に耳を立て、薄暗い地下世界で煌びやかに光を放っている温泉街の方角を眺めて愚痴をこぼした。

 

「うるさいだけよ。温泉はゆっくり浸かるべきだわ」

 

 魔理沙の側で石に背もたれ、気持ちよさそうに肩まで温泉に浸かっているパチュリーがそう言った。二人とも長い髪をしているので邪魔にならないように結い上げている。魔理沙はその金髪をお団子にまとめて簪を差し、パチュリーは白いうなじの横で簡単に束ねて肩に垂らしている。

 

「でもさあ、温泉饅頭とか食べたくないか。それと地獄蒸しで卵とか蒸したい。あ、旧地獄で地獄蒸しってなんか面白いよな」

「別に。仕事が終わればあなた一人で遊びに行くといいわ」

「なんでだよ。つまんないこと言うなよ」

 

 紅魔館にやって来た時の切羽詰まった様子もどこへやら、魔理沙は噂を聞くばかりでまだ行ったことのない地底の温泉街に思いを馳せてはしゃいでいる。

 

「せっかくなんだから温泉巡りしようぜ。勿体ない」

「私は嫌。温泉に入る時はね、誰にも邪魔されず、救われていなければ駄目なのよ。独りで静かで豊かで…………」

 

 パチュリーは目を瞑って露天風呂の心地よさに身を預けながら持論を展開する。魔理沙が「意味わからん」と言った。

 

 街から離れたところに人知れず湧くこの温泉に、彼女たち以外の客の姿は無い。いわゆる貸し切り状態だ。小高い丘の上にあるので地底の殺風景な大パノラマを見渡せる。

 

 近くにある人工物と言えばこの温泉と、入り口にある簡易脱衣所。そして圧巻の存在感を誇る白亜の巨塔だけだ。塔の直径は今二人が浸かっている温泉よりも大きい。白く滑らかな外壁が円筒上に伸びており、その高さは易々と地底世界の天井を貫き、上部は地上にまで達している。

 幻想郷では類を見ない大きさの建造物は『間欠泉地下センター』と呼ばれる研究施設である。パチュリーの言う仕事とは、どうやらその施設で行われていることに関係するようだった。

 

「しかし仕事前なのにこんなのんびり温泉に浸かってていいのか?」

 

 魔理沙がもっともな疑問を口にする。

 

「平気よ。これも仕事の内だもの」

 

 露天風呂を楽しむことが仕事とはこれ如何に。よく分からず首を傾げる魔理沙だったが、仕事だなんだと言いつつ、パチュリーが持参してきた風呂道具一式から単なる温泉好きであることだけは確信できた。紅魔館の魔女は温泉にご執心。文にでも知られれば瞬く間に記事にされること請け合いだろう。

 

「それにちょうど、依頼人も来たみたい」

 

 パチュリーが言いながら脱衣所の方に視線を向ける。魔理沙もつられてそちらを見ると、引き戸がガラリと開いて誰かが入ってきた。短く切った桃色の髪をした、華奢で小さな女の子。しかし彼女の体から伸びている細い触手と、その先に繋がっている大きな目玉のような物体が、この少女もまた人間ではないことを示していた。

 

「こんにちは、お二人とも」

「依頼人って、さとりかよ」

 

 魔理沙がげんなりとした様子で呟く。会って早々あんまりな態度をされた妖怪の少女は、しかし意にも介さず二人の側まで歩いて来ると温泉に肩まで浸かった。気持ちよさそうに「ふう」と小さな息を漏らし、パチュリーがそうしているように縁の丸石に背を預ける。

 

「いつもご足労いただきありがとうございます、パチュリーさん。今日は魔理沙さんもご一緒ですか。ええ、もちろん構いませんよ。私たちの仕事を助けてもらえるのなら何も文句はありませんし。ただ、なにぶん急なことですから、お給金などについてはまた相談し後日お渡しするという形にしたいのですが、よろしいですか」

 

 魔理沙とパチュリーのどちらも喋っていないのに、とんとん拍子で話を進めてくる。

 この少女の姿をした妖怪がパチュリーの依頼主であることに疑う余地はないが、魔理沙の急な来訪に驚かないばかりか、何もかも訳知り顔で話すその超然とした態度は、ある種異様とすら言えるものだ。

 

 万が一、パチュリーが何らかの手段で魔理沙も一緒に来ることを事前に伝えていたのなら辻褄も合うのだが。魔理沙はそういった確認の意思を込めてパチュリーに視線を送るも、首を横に振られる。事前打ち合わせはなかったらしい。

 

 古明地さとりは、その名の通り覚り妖怪である。触手と繋がっている大きな目によって人間でも妖怪でも、果ては霊魂であっても相手の心情を読んでしまえる異質な力を持った希少種族だ。

 地底の妖怪は、その多くが地上で疎まれて人気のない地下に潜ったという経緯を持つが、さとりはその筆頭とも言える。心を読めるが故の弊害。破壊的なまでのコミュニケーション能力が、彼女を嫌われ者No.1の座に君臨させ、さらには地底世界のトップに立たせている。旧都の中心に建っている地霊殿の主、そこにおわす地底の総まとめ役、怨霊すら恐れ怯む存在とは、彼女のことであった。

 

「そんなに畏まらないでください。私に害意も戦闘能力もないことは、以前申し上げたでしょう」

 

 カチューシャで前髪を上げているさとりは、不服そうな口調で魔理沙に言う。

 

「私たち覚り妖怪にとって人の心が読めてしまうというのは、これはもうどうしようもないことなんです」

 

 そのことは魔理沙も理解している。間欠泉の異変に首を突っ込んだ際にさとりと顔を合わせており、今が初対面というわけでもない。しかしやはり、繊細な悩み事や、自分ですら意識できていない感情の機微を探られるというのは、心穏やかではいられないものだ。複雑な事情を抱えている今は、特に。

 一方でパチュリーは変わらず堂々としたものだった。大魔女ともなると、心が読まれることにも抵抗は無いのだろうか。

 

「それで、パチュリーさん。この後の予定なんですが」

 

 さとりは身を固くしている魔理沙から目を離し、パチュリーと仕事の段取りなどの話を始めた。話とは言っても、さとりには相手の考えていることが手に取るように分かるのでパチュリーが喋ることはほとんど無いが。

 

 時間はそれほどかからなかった。覚り妖怪の類い稀な能力とパチュリーの小ざっぱりした性格が見事にかみ合い、事務的な話は二、三言さとりが喋るだけで終わってしまった。第三者からすればどのような会話の内容だったのか、そもそも本当に会話をしていたのかすらよく分からない。自分がどのような役回りで呼ばれたのか理解できなかった魔理沙は目を白黒とさせるばかりだ。

 

「魔理沙、だいたいは分かったかしら」

 

 珍しく気を利かせてか、パチュリーがそう聞いてくる。魔理沙が「いや、何が?」と言うと、今しがた話していた仕事のことを説明してくれた。

 

 魔理沙たちが浸かっている温泉のすぐ側にある巨塔、間欠泉地下センターは有体に言えば研究所だ。それもただ単に温泉や地熱などの観測をしているだけではない。あの巨大建造物の最奥で行われているのは核融合技術の研究である。

 

 核融合炉。それは幻想郷にあって異質なほどに発達した科学技術の結晶だった。

 

 霊烏路空という妖怪がいる。元は地獄鴉と呼ばれていた彼女は、さとりのペットとして地霊殿で暮らしている。そんなしがない一妖怪にある日、はた迷惑な神から特別な能力が与えられた。下賜されたるは八咫烏の御力。太陽神にまつわるその力は、霊烏路の中で『核融合を操る程度の能力』とされる破格の異能として顕現した。そのせいで間欠泉と共に怨霊が地上へ出て行ってしまう異変が発生したのだが、暗く殺風景だった地底が温泉街として繁栄する起点にもなった。なんやかんやあって霊烏路の力の暴走も収まり、今は元気に間欠泉センターで研究対象として働いているという。

 

「で、なんでそこにパチュリーが出てくんの」

 

 前置きとしてパチュリーが経緯の説明をしていたところに魔理沙が質問を挟む。

 

「技術顧問として雇われているのよ。核融合の研究の手助けはもちろん、施設を建てる時、外壁に強化魔術を施したりもしたわ」

 

 パチュリーはおもむろに両手でお湯を掬うと、そこに魔力を流した。すると湯の中に含まれていた魔素と反応し、掌の中にあるお湯全体が淡く光を発した。この露天風呂に注がれている温水は一度間欠泉センターを経由して湯量や温度などを調整されている。その際にパチュリーの仕組んだ魔術式を通すことで、温泉としての効能がより高まっているとのことだ。

 

 言われてみれば、魔理沙も心なしか体が軽くなったように感じる。いつの間にか肩こりがほぐれ、寝不足で気怠かった頭もすっきりとしていた。血潮と一緒に身体中を流れている魔力はさらさらと淀みなく、手足の先まで活性化しているようだった。

 

 無論、地底の誇る間欠泉センターの恩恵はそれだけではない。短期間で温泉街が発展できたのも、この研究施設が生み出すエネルギーがあってこそだ。

 核融合によるエネルギー生産は外の世界でも未だに実現していない驚異の技術である。それが霊烏路空の持つ八咫烏の力を発端にして、河童の技術とパチュリーによる魔法の掛け合わせで飛躍的な進展を遂げていた。

 

「パチュリー、質問」

「なにかしら」

「そもそも核融合って何さ」

 

 今までの話の前提となっていた部分について問いただされたパチュリーはぽかんと口を開く。しかし魔理沙の側からすれば至極真っ当な疑問だった。

 

 なんだか凄く便利らしいということは分かった。それだけ。

 

 魔理沙は生まれてこの方、聞いたことも無い単語に首を捻るばかりだ。仕方がないじゃないか。寺子屋で習わなかったんだもの。今の今まで太陽が核融合によって出来ているなんて知らなかったし、霊烏路空の能力にしても凄い高温を出せる程度の能力くらいにしか考えていない魔理沙であった。

 

「まあ、とても制御が難しい技術なんです。もちろんお空も使いこなせてはいません」

 

 さとりが横合いからそう言った。複雑な科学知識をどうやって説明したものかと悩んでいたパチュリーへの助け舟だった。一応は納得したのか「ふうん」と魔理沙。

 

「でもさ、それって私にどうこう出来ることなのか?」

 

 今まで聞いたことも無いような最先端技術の実験だの研究だのと言われても力になれそうもない、と魔理沙は考える。

 

「あなたの持っている八卦炉を、制御装置の参考にさせて欲しいのよ。今のところは河童もお手上げでね。私としては魔法でどうにか中性子線の安定した利用の目途を立てたいのだけれど…………あ、中性子線っていうのは放射線のことで…………」

 

 先ほどの反省を活かしてかパチュリーが用語の説明をしようとしたその時、魔理沙はやおら立ち上がった。バシャッっと勢いよく水飛沫が上がる。

 

「今、放射線って言ったか」

 

 魔理沙の顔が驚愕と怒りによって歪んでいる。いや、それは怒りと言うよりは憎悪と呼ぶ方が適切かもしれない。パチュリーは魔理沙の唐突な変化についていけず、小首を傾げる。

 

「どうしたの、急に」

「どうしたもこうしたも…………危険なものなんだろ、放射線って。もの凄く」

 

 紫から聞かされた生々しい未来の話が、魔理沙の脳裏に鮮明に蘇る。今や魔理沙にとって放射線とは八柳誠四郎を苦しめている諸悪の根源に他ならなかった。世界の滅ぶ原因となった技術。それがまさか幻想郷にすでに存在していたとは夢にも思わなかったのだ。

 

「核融合ことは知らないのに、放射線のことは知っていたのですか」

 

 心を読む第三の目に見つめられ、魔理沙は言葉を詰まらせる。その質問は核心を突くものだった。知識の矛盾。そこから遡れば魔理沙の抱えている事情や感情の機微までが見えてくることだろう。

 さとりの真っ直ぐな視線が、激情に駆られそうになった魔理沙を射抜いていた。

 

「安心してください。と言っても難しいでしょうが、パチュリーさん達は皆の生活を豊かにするために研究に励んでいるんです。決して悪用はしませんし、させませんよ」

「でも、でもさ。危ないことに変わりはないんだろ?」

「その危険を無くすための研究です。まあ私に詳しいことは分かりませんが……技術はあくまで技術でしょう。肝心なのは使い方。使う者の心が問われると、私は思っています」

 

 さとりは言いながら、サードアイをそっと撫でる。パチュリーも同感だと言うように頷く。

 

 魔理沙は再び腰を下ろして温泉に浸かった。感情的ではなくなったが複雑な心境に変わりはないようで、表情は曇ったままだった。目を瞑ると、瞼の裏に荒んだ未来の光景が映るようだった。幻想郷は美しいままでいて欲しい、と書かかれていた誠四郎の手紙が思い起こされる。

 

 さとりもパチュリーも黙って魔理沙の返事を待つ。しばらくして「わかった」と魔理沙は言った。

 

「協力はするよ。乗りかかった船だし、それに、ちゃんと見ておきたいし」

 

 魔理沙の答えに頬を緩めたのはパチュリーだった。ちゃんと見るという言葉が、純粋な探究者である彼女の心に響いたのだ。

 

「じゃあ、そろそろ行きましょうか」

「うん。これ以上入っているとのぼせそうだぜ」

「ちょっと待ってください。私まだ入ったばかりなんですが」

 

 湯船から立ち上がった二人に、さとりが苦言を呈する。

 

「泉質の確認は十分出来たでしょう。それにあなたはいつでも入れるじゃない」

 

 パチュリーの口調には若干妬みが篭っていた。

 心を読めるにも関わらずわざわざ口に出して言われ、さとりは膨れ面をする。いつも泰然としている彼女にしては珍しい不満たらたらな表情を見て、魔女でも妖怪でも温泉が好きなんだなあ、と魔理沙はしみじみ思うのだった。

 

 

 

 

 

 

「この台座にミニ八卦炉を置けばいいのか?」

「ええ、私の七曜の魔法に対応するように魔法陣が組んであるわ。原理が少し違うから十全にとはいかないけど、ちゃんと機能するはずよ」

 

 地底にある研究所の、さらに下へ潜ったところにある奥深く。核融合の実験エリアに立ち入った魔理沙はパチュリーに言われるままミニ八卦炉を幾何学模様の描かれた台座に置いた。

 

 白一色の室内は、虫どころか菌さえ入る余地がないほどの無機質な清潔感に満ちている。そんな中に複雑怪奇な実験装置や計器類がずらりと並んでいる光景はまさしく近未来。幻想郷の地底から一転異世界に迷い込んだような錯覚を魔理沙に抱かせた。

 

「あまり変なところには触らないでくださいね」

 

 魔理沙の後ろからさとりがジト目を向けながら言った。

 

「わ、分かってるよ。失礼だな全く」

 

 魔理沙は「実に心外だ」といった風にぼやくが、その手はこっそりと近くにあった計器に触れようとしていた。明らかに好奇心が隠し切れていない魔理沙に、さとりは一層警戒を強める。間欠泉センターに入ってからキョロキョロと忙しなく辺りを見回す様はまるで工場見学に来た子供のようだった。と言うか、そのものだった。

 

「大丈夫だよ。どの装置にもセーフティが掛かってるから不味いことにはならないよ」

 

 横合いからそう言ったのは河童の少女、河城にとりだった。幻想郷の河童は総じて大変な発明家気質である。中でも彼女は電気工学や機械工学に並々ならぬ関心を持っており、この実験施設では所長という地位に収まっている。もっとも役職は形だけのもので、河童たちは各々好き勝手に自分のやりたい実験を繰り返しているだけなのだが、それを良しとしてしまうのはさすが妖怪と評すべき大らかさである。

 

「で、今回やるのはそのミニ八卦炉を使ったエネルギー変換ってことで良いんだね」

「ええ。より正確に言うなら熱エネルギーを純粋な魔力に変えられるか、という内容になるわね」

 

 にとりとパチュリーが作業内容や段取りの確認をしているところに、魔理沙が質問を挟んだ。

 

「熱を魔力に変えるのってそんなに難しいのか?」

「ええ。私の魔法でもあらかた試してはみたんだけど、ロスが多すぎてあまり使えなかったのよ。魔力はいろいろな方法での保存が可能だし使い勝手も格段に良いから、是非とも実現させたいところなんだけど…………」

 

 結局、魔理沙のやることは単純で、いつも使っているようにミニ八卦炉を駆動させるだけで良いらしかった。

 

「じゃ、準備するよー」

 

 にとりが操作盤のキーを手慣れた様子で叩く。するとミニ八卦炉を乗せた台座や、そこと太いチューブで繋がれている機器が稼働し始める。同時に、魔理沙たちの近くにあるモニターが光り、とある部屋が映し出された。

 

 ドーム状の部屋には物が一つも置かれていない。その代わりに、台座に刻まれているのと同じ魔方陣や、今の魔理沙では到底理解できそうにもない魔術式が壁一面にびっしりと描かれていた。

 

「霊烏路、お待たせ。今から始めるから入ってきて」

 

 マイクに向かってにとりがそう言うと、ややあってモニターに映っている殺風景な部屋に、黒い翼を持った長身の女の子が入ってきた。さとりのペットの地獄鴉、今はこの間欠泉センターの重要な研究対象として働いている霊烏路空である。彼女は辺りを見回し、こちらのカメラを見つけると嬉しそうに笑って手を振った。

 

『さとり様ー! 見てますかー!』

「ええ。見ているわよ、お空。頑張ってね」

『はい! 頑張ります!』

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねて全身で自分がここにいると伝えてくる霊烏路と、そんな彼女に微笑みながら答えるさとり。外見年齢こそあべこべだが、まるで小学生とその子の授業参観に来た親のようなやり取りが衆目の前で繰り広げられる。

 

「なあパチュリー。ひょっとして毎回このやり取りしてんの?」

 

 魔理沙が小声で聞く。パチュリーは慣れた顔でこくりと頷く。

 霊烏路はこの研究所の要とも言うべき存在だ。重要度で言えばここにいる誰よりもダントツで高い。現状、彼女の能力なくしては核融合を行えないので当然と言える。しかし画面に映っている霊烏路は今まさに新しいことに挑戦するような初々しさで、自分の主人に手を振っているのである。凄まじきは地獄鴉の鳥頭と、そんな彼女に全力の愛情を注ぐさとりの親バカっぷりだった。

 

「じゃ、お二人さん。そろそろ始めるからね」

 

 にとりが遠隔操作で霊烏路のいる実験室の扉を閉める。それを確認したパチュリーが持参した魔導書を開き、呪文を詠唱し始めた。呪文に呼応するように、ドーム室内のてっ辺に描かれている一際巨大な魔方陣が光り出す。そこを中心として壁面の魔術式も次々に輝き始め、室内は見る見るうちに何重にもかけられた七曜の魔法の光で満たされていく。

 

「変換魔術式の起動を確認、っと。電力補助42%を維持。内壁の防護結界も問題なく作動しているよ」

 

 にとりはそれぞれの計器を確認しながら状況を逐一報告する。魔理沙は今まで考えもしなかった科学と魔法の共同作業をポカンとした顔で見つめている。しばらくして詠唱を無事に終えたパチュリーに「そろそろ準備して」と言われ、慌ててミニ八卦炉に魔力を流し込む。

 

「なあ、こんな大掛かりなもんなの? 私のミニ八卦炉壊れない?」

「大丈夫よ。実験は空の最低火力でしか行わないから。それに、その八卦炉はヒヒイロカネで出来ているのよ。この実験室の内壁でもそこまで丈夫な素材は使っていないわ」

 

 さらりとミニ八卦炉にまつわる重大な事実を述べるパチュリー。何故そんなことまで知っているのかと問い詰めたくなった魔理沙だったが、早く準備してと急かされる。

 

「魔理沙はマスタースパークを撃つときの要領でミニ八卦炉の操作に専念してくれればいいわ。あ、実際に撃たないでね」

「撃たないよ。そこ心配するなよ」

 

 二人がそんなことを話している内に全ての準備が整ったようで、にとりが「よしやろう」と振り向いて言う。ミニ八卦炉も台座に描かれている七曜の魔法と上手いこと連結し、稼働していた。

 

「三つ数をかぞえるから、それに合わせて出力最大にしてね。じゃあ行くよ。さーん。にー。いーち…………」

 

 意外にその辺はハイテクじゃないんだな、と魔理沙が拍子抜けしたのも束の間。にとりが「ゼロ! はい今!」と叫んだ瞬間、触れているミニ八卦炉を通して凄まじい熱量の発生を感じ取った。

 

 驚愕に目を剥いて、魔力変換に全神経を集中する。パチュリーの言った最低火力という言葉が嘘に思えるほどの膨大なエネルギー。それは魔理沙が全力で撃ったマスタースパークと比べても、なんら遜色のないものだった。

 

 八咫烏の力による核エネルギーの発露はすぐに終わった。たった一瞬の出来事だったが、魔理沙は額から汗を流して息も切らせていた。

 

「わあ、すごいすごい!」

 

 にとりのはしゃぐ声に皆が視線を向ける。

 

「今までで一番良い数値出てるよ。ほら、パチュリーたちも見てこれ」

 

 呼びかけられて、にとりの周りに皆が集まる。台座に寄りかかってぐったりしていた魔理沙も遅れて歩み寄った。

 

「あら、本当。上手くいったわね」とパチュリー。

「でしょでしょ!? まだ実用段階には程遠いけど、一歩前進って感じ」

「うーん。最初から魔理沙さんに頼れば良かった気もしますね」

「さとりは分かってないなあ。実験っていうのは度重なる失敗の上に成り立つんだよ。結果じゃない。過程が大事なわけよ。繰り返し繰り返し、何度でも挑戦するのさ!」

「それは単にあなたが実験大好きっ子なだけでは?」

 

 各々が感想を言いつつも、実りのあった結果に喜色を浮かべている。

 

「ん、あれ?」

 

 どこからか取り出したキュウリを齧ってご機嫌だったにとりが、計器の一つを見て眉根を寄せる。端末に映されているデータと交互に見比べながら「おかしいなあ」と呟く彼女にパチュリーが問いかけた。

 

「どうしたの?」

「いやさ、これ見てよ。残留している放射線濃度のところ。ちょっとおかしくない?」

 

 まさか失敗でもしたのかと魔理沙が食い入るように計器を覗き込む。しかし機械には疎いので何が何やらさっぱり分からない。対してある程度の知識を持っているパチュリーはにとりに賛同した。

 

「確かにおかしいわね。低すぎる」

 

 霊烏路がいる実験室の放射線濃度が、限りなく低い値を示していた。具体的に言えば、人体や環境にはただちに影響の表れない規定値の範囲内である。それは地下間欠泉センター発足当初から研究に携わってきたパチュリーやにとりから言わせれば、あり得ない現象だった。

 

 放射線の濃度が低いことに問題は無い。むしろこの結果だけなら喜ばしいことだと言える。クリーンエネルギーと謳われる核融合でも、放射性廃棄物などの問題は避けては通れない。通説では低レベルのものであっても百年は管理する必要があるとされている。

 

 化学的な除染技術はこの研究所だけでなく外の世界であっても全く見通しが立っておらず、夢のまた夢と言っても過言ではない。

 その常識が今、なんの前触れも無く覆されようとしていた。

 

「…………まさか、ミニ八卦炉の効果がこれほどのものだとはね」

 

 口元に手をあててしばらく黙考していたパチュリーは、台座に置いたままだったミニ八卦炉を手に取る。八卦の要素を司る幾何学模様を撫でながら、感慨深げにじっくりと見つめる。

 

「放射性物質の除染……いえ、中和かしら。或いは中性子が単純な熱エネルギーに変換された? そのプロセスを経たなら魔力に変えることも可能か……だとしたら魔力量の数値が高いことにも説明がつくけど…………」

「おい、どういうことだよ。私にも分かるように説明してくれ」

 

 ぶつぶつと何事かを呟いて思考するパチュリーに対し、魔理沙が困惑気味に言う。パチュリーは顔を上げると、魔理沙にミニ八卦炉を返した。

 

「魔理沙。核融合で発生する放射性廃棄物の処理に何年かかるか知ってる?」

「いや、そもそも単語が分かんないし…………」

「百年よ、百年。ひどいものだと何万年もかかると聞くわ」

「つまりどういうとだってばよ」

 

 魔理沙がやや興奮気味のパチュリーから身を引く。あからさまに引かれてもパチュリーは気分を害した様子は無く饒舌に話を続けた。

 

「つまり、今この場で、あなたは従来の技術ではどうにもならなかった問題を抜本的に解決してしまったのよ。それがどれだけ凄いことか分かる?」

 

 実感こそ湧かないが、何となくパチュリーの言わんとしてることを掴みかけた魔理沙はこくりと頷く。だんだんと胸の奥が熱くなる感覚をおぼえ、鳶色の瞳は爛々とした輝きを帯びる。

 

「これはまだ私の憶測だけれど、ミニ八卦炉のエネルギー変換は思った以上に万能だったということよ。おそらく、十二分に使いこなしたのなら、エネルギーと呼べるものは自由自在に操れる」

 

 パチュリーの言葉を聞きながら、魔理沙はミニ八卦炉を見つめた。森近霖之助から門出の餞別にともらった摩訶不思議な道具。魔力を熱や光に変えることができ、修業を積んだ今では火力の調節も自在である。しかし、魔理沙の半身とでも言うべきそれが、ここにきて全く別の意味を持ち始めている。

 

 遥か未来で苦しむ独りの人間を救うかもしれない希望の光を、魔理沙は手にしている香炉の中に見た気がした。

 

 

 




お空ちゃんの能力マジで扱い難しい……。さすがは熱かい悩む神の火ですわ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十九話

 

 

 

 魔理沙はふわふわと温かな夢見心地の中を漂っている。

 

「魔理沙、魔理沙」

 

 どこかから懐かしい声が聞こえる。魔理沙の名前を優しく呼ぶのは母だった。病弱でいつも床の間にいた母。おいそれと外に出られないので、連れ立って歩いた記憶もほとんどない。しかしこちらへ向ける優しい微笑みを、絵巻物を読み聞かせてくれたその声を、魔理沙はしかと憶えているのだった。

 

「魔理沙、起きなさい」

 

 肩を揺すられる感覚がある。母のひざ元に顔を埋めている魔理沙は目を閉じたまま、心地よい微睡みに身を任せる。郷愁に焦がれて空いた胸の穴を埋めていくような幸福感が少女を包み込む。ずっとこのまま、こうしていたいと思うほどに。

 

「もう起きなければいけませんよ」

 

 いやだ。起きない。

 魔理沙は口元を綻ばせながらもいっそう目を固く瞑った。今は、今だけは存分に甘えてもいいだろう。だってずっと会えていなかったのだから。離れていてもずっと心配していた。体の調子は大丈夫だろうかと慮っていた。もう何年もそう思い続けてきたのだから、今この夢の中だけは…………。

 

「起きて、魔理沙」

 

 と、それまで意識を蕩けさせていた魔理沙はすうっと頭の冴える感覚を覚えた。それと同時に今まで感じていたぬくもりが消え、気持ちが冷えていく。

 

 そうだ。もう何年も会っていない。声も聞いていないし、顔も見ちゃいない。魔法使いになりたいと言って家を飛び出してから、ずっとだ。

 そうだった。私は母さんに、まだ何も、してあげられていない。

 

 

 

 

 

 

 魔理沙が目を開けると、本の山が乱立していた。突っ伏している机の上には本の他に巻物やら羊皮紙やらが散らばっている。のっそり顔を上げると、頬に紙がくっついてくる。乾いた涎で張り付いていたのだ。ぺりぺりと剥がしながら横を向くと、パチュリーが立ってこちらを見下ろしていた。

 

「やっと起きた。もう朝よ」

 

 そう言われてからしばらくして、ここが自宅ではなく紅魔館の書庫であることを魔理沙は思い出す。魔法の勉強のために泊まり込んでいたのだ。顔にくっ付いていた紙には夜遅くまで魔導書を読み込んで得た知見が記されており、無意識に丸めてようとしていたのを慌てて伸ばす。涎でインクが滲んでしまっているが、文字の判別はなんとかつきそうだった。魔理沙はホッと息をつき、ようやくパチュリーに「おはよう」と言った。

 

 

 

 

 

 

 地底で核融合の実験に立ち合った魔理沙は、ミニ八卦炉の持つ潜在能力を知ることとなった。名付けるとするなら『エネルギーを操る程度の能力』と言ったところか。それは魔力を熱に変換するだけに留まらず、あらゆるエネルギーに干渉し得る破格の力だった。道具である以上耐久性などに限界はあるが、それを差し引いても汎用性に富んだ性能は唯一無二のものだろう。知識人のパチュリーをして、放射性物質を即座に安定化させる方法など他に知らない、と言わしめるほどに。

 

 その事実を告げられた時、魔理沙の頭に一つの考えが浮かんだ。この力を使えば千年後の未来の世界を救えるかもしれない、と。放射線とやらに汚染されている世界と、そこに住まう誠四郎を自分だけが救えるのではないか。

 一度そう思ったら、もう止められない。可能か不可能かという問題は忘却のはるか彼方に吹き飛び、どうしたら実現できるかというその一点のみに魔理沙の思考は巡らされた。

 

 八柳誠四郎を幻想郷に連れてくることは出来ない。ならば彼のいる世界を生きていける環境に戻す。その考えを起点に魔理沙はこれからの計画を立てた。以前、八雲紫に自分を未来へ連れて行ってくれと言った時「何も出来ないのに行ってどうする」と一蹴された。しかし今は光明が見えている。ミニ八卦炉の力を使えば可能なのだ。そして毒に侵されているであろう誠四郎を回復させるために薬を携えて行けば良い。幸いにして、幻想郷には蓬莱の薬という不老長寿の妙薬さえ作り出せる者がいる。

 

 全ての条件を揃えてしまえば、あとは再び八雲紫に直談判を掛けにいくだけ。もう無力ではないと知らしめる。無駄ではないと証明する。そうして未来へ行く片道切符をこの手にするのだ。そう思うにつけ魔理沙は興奮し、心臓が早鐘のように脈打った。

 

 無論、簡単ではない。やらなければいけないことが幾つかある。

 

 まずは魔理沙自身がみっちりと勉強すること。魔法の性能は持っている知識に比例する。この世の事象を根本から理解してこそ、自然摂理の具現である魔法という技術は真価を発揮するからだ。少なくとも、霊烏路空の最低火力とやらを魔力に変換するだけで音を上げているようでは話にならない。未来を救うのだという壮大な使命感が魔理沙を机に向かわせた。

 

 二つ目にミニ八卦炉の強化を行うことにした。これはパチュリーから提案されたことだった。パチュリーの扱う七曜の魔法を組み込むことで性能を向上させる。より複雑な機構となるそれを扱うためにも、魔理沙にはさらなる刻苦勉励が必要不可欠であった。

とは言っても、独学には限界がある。

 

「はあ、難しいよー。八卦も七曜も同じようなもんだろ。なんで今さら勉強なんか…………」

「原理が違うと前にも言ったでしょう。八卦思想は中国の易学が発端だけど、私の七曜の魔法は錬金術が土台になっているのよ。まだまだ覚えることはたくさんあるわ。文句言わない」

 

 結果、パチュリーが教鞭を振るうことになった。基本は紅魔館に泊まり込み、たまに地底に赴き間欠泉センターの実験を手伝うこともある。ここしばらく、魔理沙は自宅を空けたままであった。

 

 パチュリーに詳しい事情は話していない。しかし二人の間に利害の一致があり、懇切丁寧に魔法を一から教えてもらえている。魔理沙がミニ八卦炉を使いこなせるようになれば、パチュリーが担っている核融合の研究もさらに捗るというものだ。パチュリーほどの魔女であればミニ八卦炉を解析するなりしてその技術を自分のものにするという方法もあっただろうが、そうはならず魔理沙を鍛える道を選んだ。まあ、他人を使うことに何らかの意味があるのだろうと魔理沙も一人納得し、教えを受けている。

 

 食事は紅魔館の方から提供してもらえているので、魔理沙が外出するときはパチュリーの仕事に付き添って地底に行くくらい。

 

 もしくは無縁塚に手紙の確認をしに行くかのどちらかである。

 

 昼夜を問わない魔法修行の日々であっても、文通だけは変わらず続けている。ただ、魔理沙から送る手紙の内容は少し変わった。幻想郷の風景や徒然なる日常ついて書くことが少なくなり、今行っている勉強や、それが誠四郎のいる未来を救うことになるという話を書くようになった。誠四郎に少しでも生きる希望を持ってもらいたいという思いから、魔理沙は筆を走らせた。

 

 そうして向こうから届いた手紙が魔理沙を奮起させる。明確な目標があり、そこに向かって進んでいるのだという実感が、魔理沙の誇りとなり自負心の肥やしになっていた。たまに知恵熱が出そうなほど疲弊することがあっても、かつて自分が誠四郎に送った手紙を思えば総身に活力が宿る。

 

 八雲紫に未来の真実を告げられて一度は無力に打ちひしがれた日。その夜にメッセージボトルへと込めた想いが衝動の炎となって魔理沙を突き動かしていた。

 

 

 

『待っていてください。私の魔法で、必ずあなたを救ってみせます』

 

 

 

 

 

 

「顔洗ってきなさい。寝ぐせも酷いわよ」

「あいあい」

 

 パチュリーの言葉に適当に返事をしつつ、魔理沙は書庫の隅にある手洗い場へと向かった。寝ぼけていても涎の跡が残る頬っぺたのあたりが気持ち悪かった。

 一応の身だしなみを整えて戻ってみると、さっきまで突っ伏して寝ていた机の上に朝食が置かれている。紅魔館のメイド長が運んできてくれたらしかった。サンドイッチは食パンも卵もふんわり柔らかく、ポタージュスープの温かさが寝起きの頭を覚まさせてくれる。

 

「香霖堂の方から連絡が来ていたわよ」

 

 自分では滅多に用意しないちゃんとした朝食を味わっていると、パチュリーがそう言ってきた。

 

「こーりんが?」

「ミニ八卦炉の調整のためにあなたに来て欲しいそうよ」

 

 現在、ミニ八卦炉は森近霖之助に預けられている。パチュリーと魔理沙で考案した設計をもとに改良してくれているのだ。もともとミニ八卦炉は霖之助が作ったものなので、この仕事の適任は彼を置いて他にはいない。一カ月で済ませて欲しいと言ったときには温厚な彼もさすがに渋い顔をしていたが、そうじゃなきゃ間に合わないと切羽詰まった表情の魔理沙に折れて「分かった」と了承してくれた。

 そして今日は、依頼してからそろそろ一カ月弱が経とうという日。本業の古道具屋もこなしながらなので厳しい期限だったはずだが、もう調整段階に入っているのだ。彼の仕事に対する真摯さは魔理沙であっても素直に感心するものがある。

 

 これでもう少しすれば、無事にミニ八卦炉は強化されて返って来ることだろう。魔理沙は約一月もの間離れ離れになっていた相棒との再会を思い、心が沸き立った。パチュリーの付きっきりの指導もあって確かな成長を感じている。その成果を未来で振るう日が待ち遠しくて仕方がなかった。

 

「じゃあ行ってくるよ。他のところにもついでに寄って来るから、ちょっと遅くなるかもだけど」

「分かったわ。いってらっしゃい」

 

 居ても立ってもいられないといった様子で、魔理沙は怒涛の勢いで外出の支度をすると息つく暇も無く出掛けて行った。

 

 頬を紅潮させて出て行った魔法使い見習いの少女を見送ったパチュリーは、手近にあった本を広げていつものように読書を始める。かのように思われたが、数ページめくったところでパタンと閉じて、物憂げなため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 魔理沙が香霖堂に入ると、霖之助が茶を出してもてなしてくれた。立ってするような話でもないということで勘定台の奥にある座敷に上がり、火鉢を挟んで向かい合う。一段高くなっている座敷からは店内の様子が一望できる。相変わらず眩暈がするほどに物で溢れ返っていて、それが魔理沙には居心地が良かった。

 幼い頃、霊夢と連れ立ってよくこの座敷に上がり込んだものだ。火鉢も、餅を焼いたり持ってきた握り飯を焼きおにぎりにした記憶のある思い出深い品だった。

 

「これに魔力を通してみてくれ」

 

 霖之助は修理工房になっている店の奥から持ってきたミニ八卦炉を魔理沙に手渡す。

 

「なんか、あんまり変わってないな」

 

 魔理沙が残念そうに言う。長らく待った期待感に反して、ミニ八卦炉の見た目は以前と何ら変わったところがなかった。

 

「依頼されたのは内側の改造だからね。と言うか、そういう設計にしたのは魔理沙たちじゃないか」

 

 外側は元の八卦の紋様を残し、内側に七曜の術式を。

相乗効果を生むように仕組まれた二重構造は無駄がない。言い換えれば遊びがない。早さを何より優先した結果だが、魔理沙はその遊びのなさに「うーむ」と渋い顔をする。

 

「龍とか虎とか彫ってもらうんだったかな。これじゃあ強化した感じが薄いぜ」

「折角作ったのにひどいな。あと魔術式を彫り込んでいる魔道具なんだから、術式に支障が出るような彫り物はできないよ」

「あ、鳳凰とか格好いいかも。鳳凰どうよ、こーりん」

「僕の話を無視するな」

 

 文句を垂れる魔理沙に、試しに使ってみてくれと霖之助が言う。

 

「そっとだぞ。間違っても火柱を立てたりマスタースパークを撃つんじゃないぞ」

「分かってるってば」

 

 なんだか地底でも同じようなことを言われた気がする。そんなにも無鉄砲に見えるのかと心外に思いつつも、魔理沙はミニ八卦炉に魔力を流し込み————。

 

「おっ……」

 

 その手応えに驚く。今までのものとは魔力の伝わり方が格段に違っていた。霖之助の言う通り、慣れるまでは注意しなければ無闇に高火力を出してしまうかもしれない。それほどまでに道具としての性能が上がっていた。

 

「どうだい」

 

 霖之助に聞かれて魔理沙は強く頷く。

 

「うん。すげえよ、これ。魔力をちょっと流しただけでも違うって分かる」

「それは良かった。そのままでも使えそうかな」

「使えるっちゃ使えるけど、まだしっくり来ない部分があった気がする。慣らさないと上手く火力調節出来んかも」

「じゃあ調整する箇所を調べるから、もう一度弱く魔力を流してみてくれ」

 

 魔理沙がミニ八卦炉に魔力を込めると八卦の術式が淡く光る。おそらく内側の七曜の魔術式も作動していることだろう。ただ魔理沙の言う通り全体に淀みなく魔力が巡っているわけではない。霖之助は半妖の目によってその問題個所を見極め、設計書に書き込んでいく。

 

 見つけた修正点を直すべく霖之助がミニ八卦炉を弄っては、魔理沙が具合を確かめる。個人のために作られるオーダーメイドの魔道具の調整はその地味な作業の繰り返しだった。

 

「あ、こーりんも文の新聞とってんのか」

 

 仕事をこなす霖之助の横で、魔理沙は座敷の隅に置いてあった新聞の束を拾い上げた。日付を見ると今朝の朝刊だった。

 

「“も”ってことは魔理沙も読んでいるのかい」

「まあ、ちょっとな」

 

 霖之助は霧雨家との付き合いが長い。もはや家族のようなものだ。魔理沙が実家を出た詳しい経緯を知る彼に「父親が寄稿しているコラムを読むために買っている」とは言いづらかった。それではまるで、実家に未練があるようで格好悪いではないか。

 

 意外だと言わんばかりの霖之助に魔理沙は曖昧な答えを返しつつ、左端にあるコラム『古道具小噺』に目を通す。今回も煙草に関する話だ。煙草の葉っぱの種類や、何を混ぜたらどういう味になるだとか、数日寝かせると旨くなるだとか、やたらマニアックなことが書かれている。

 

 こんなもん誰が読むんだと魔理沙は思いながらも、ふと以前にも抱いた疑問が頭に浮かんだ。

 

「こーりんさ」

「なんだい。今けっこう繊細な作業をしているんだけども」

「父さんって、昔はタバコ吸ったりしてたのか?」

 

 魔理沙の記憶では、父は喫煙家ではなかった。古道具の中でも煙管などを蒐集する趣味があることは、家族のみならず里でも周知の事実だったが、それを実際に使っている姿を見たことは一度も無い。愛煙家であれば着物に染み付くはずの煙の臭いも、父からは全然しなかった。

 

 なのにこの記事に書かれている内容ときたら、まるで煙草の味を熟知した人間のそれである。父は他人にも自分にも厳格な昔気質の性格だ。当てずっぽうや知ったかぶりをこの世で最も憎む人間である。魔理沙も子供の頃、それで散々怒られている。だから煙草の味の蘊蓄(うんちく)を語るなら実際に吸っていたのだろうと考えるのは自然なことだった。

 

「ああ、そりゃもう、いつもモクモクさせていたね。魔理沙は知らなかったのかい?」

「だって吸ってるとこ見たことないし…………」

「そうか。そういえば彼が禁煙してからもう二十年以上は経つのか。長く生きているとその辺の感覚が曖昧になっていけないね」

 

 霖之助曰く、若かりし頃の魔理沙の父は大変な愛煙家だったらしい。日がな煙管に口をつけ、彼の通った後は紫煙が尾を引くとまで言われたほどだったとか。古物商としての性か道具類のこだわりにも余念が無く、その蒐集癖から一時期は「霧雨店はタバコ屋になりそうだ」とまで噂されたこともあったという。

 

「あの人はいつも右の懐に煙草を忍ばせていたよ。たしか今でもお気に入りだった煙管をお守り代わりに持ち歩いているって聞いたなあ」

「へえ……でも、そんなに好きなのに禁煙したのか?」

 

 よく分からんと言った風に魔理沙は首を傾げる。煙草は体に悪いと聞くし禁煙自体は不思議でも何でもないが、人生を賭けるほどに熱中していたものをパタリと止めてしまった父の心境は魔理沙には理解し難いものがあった。自分なら誰から何と言われようと止めないのにと思う。

 

「煙草を止めた理由は単純だよ」

 

 霖之助は言った。

 

「君のお母さんだ」

 

 その一言を聞いて、ようやく魔理沙も合点がいった。

 

 母は昔から肺や喉が弱い。生来の喘息持ちなのだ。それで体力も無く、日がな床に就いていることも少なくなかった。

 

「びっくりしたよ。縁談がまとまった日の夜、彼はいつになく重苦しい顔をして金勘定をしていた僕の隣に座った。いつものように一服やるかと思って火を着けてあげようとしたら止められた。俺はもう吸わん、ってさ。まるで誰かとの今生の別れみたいに、血を吐くように言うものだから流石に面食らったね。で、実際にその日から全く吸わなくなって更に驚いたもんさ。誰も、君のお父さんが煙草を止められるなんて思っていなかったからね」

 

 それは魔理沙が初めて聞く、魔理沙が生まれる以前の父の話だった。何故今まで誰からも聞かなかったのだろうと思う。いや、何故今まで、自分の親の軌跡を気にしたことも無かったのだろうかと。

 

 父は商売にしか目を向けない人だと思っていた。一本気で融通が利かず、自由人の魔理沙とは何かと性が合わない。小うるさい言いつけも、たくさんの習い事もうんざりするばかりだった。そんな父の知られざる一面を聞いて、魔理沙は呆気にとられる他なかった。

 

「まあ、これ以上話すと怒られそうだから止めておくけど」

 

 霖之助はそう言ってミニ八卦炉に細工を施していた作業の手を止め、魔理沙の方を向いた。その顔には温和な微笑みが浮かんでいる。

 

「手紙くらいは返しておあげ。あれで家族思いなんだよ、あの人は」

 

 霖之助の言葉にガツンと頭を殴られたような衝撃を受ける。毎月、仕送り金と共に送られてくる母からの手紙。たまに兄の字も混ざっていることは気付いていたが、父も関わっているとは知らなかった。駄々をこねて家を出て以来、愛想を尽かされているとばかり思っていたのに。

 

 しかし実家からの手紙にはやはり父らしい筆の跡はなかったように思う。他に考えられることは、あの仕送り金か。毎月、魔理沙が食っていく分くらいは入っている茶封筒。まだ一度も手を付けずに鍵付きの箱に整然と収めているそれを、魔理沙はまざまざと脳裏に思い浮かべた。

 

 それからミニ八卦炉の調整が済むまでの間、魔理沙は黙りこくって何やら考え込んでしまった。とりあえず、久しぶりに魔法の森の自宅に寄って行こうと決めたのは、香霖堂を出て飛び立った後のことだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十話

 

 

 

 香霖堂でミニ八卦炉の調整に付き合った後、迷いの竹林にある永遠亭に行き、魔法の森の自宅、妖怪の山と各所を回った魔理沙は最後の訪問先を目指していた。

 

 使い古した箒に乗って低空を飛行する。山向こうから差し込む西日が疲れの滲んだ少女の顔を照らす。しかし自然とこぼれる笑みには達成感、あるいは冒険心に満ちた不敵さがあった。

 

 準備は整いつつある。魔理沙は入手した薬がしまわれている懐を大事そうに撫でた。

 

 

 

 

 

 

 迷いの竹林と呼ばれる場所がある。

 天然の迷路となっているその奥深くには平屋の屋敷が建っている。凄腕の薬師として名高い八意永琳の住処、永遠亭だ。

 

 高度文明が築かれている月世界から来たという永琳の持つ医学、薬学の知識は膨大で、人智を遥かに超越している。彼女が調合し処方する薬はてきめん病理に効く。飲めば不老不死になれる蓬莱の薬さえ作り出した恐るべき技術力。永琳自身や、永琳の同居人であり主人でもある蓬莱山輝夜はその薬を遥か昔に服用している。それ故に罪人となって月を追われ、幻想郷に流れ着いたという経緯があったりするのだが、その辺りは割愛する。

 

 要するに、八意永琳の薬学は天下一品であるということだ。幻想郷に住んでいて薬を求める時、彼女以外を訪ねる者は一人もいない。というか永琳の登場によって人里の医師はおまんまの食い上げ、手術や診療はともかくとして薬を調合する者は誰もいなくなってしまった。

 薬と言えば永遠亭。幻想郷で暮らし始めてまだ日が浅いにも関わらず、それが常識として定着しつつあった。

 

 無論、魔理沙もその例に漏れない。

 八柳誠四郎のいる世界を救うためにミニ八卦炉を活用しようと思い立った後、では既に毒に侵されているという誠四郎本人を助けるにはどうしたら良いかと考えた。答えはすぐに出た。永遠亭に行って薬をもらう。えらく単純だが、これが一番現実的であり、また確実な方法であることに疑う余地はなかった。

 

『死の否定は、そのまま生の否定にも繋がる』

 

 八雲紫が言ったことだ。そこは魔理沙も認めざるを得ないところで、死を回避できるからと言って安易に蓬莱の薬を与えるわけにはいかない。しかし不死などにならずとも、人を一人回復させるだけなら容易いことだろう。八意永琳の神技は、他者にそう思わせるに十分なものだった。

 

 

「難しいわね」

 

 容易いと思っていたから、永琳にそう言われたとき、魔理沙は純粋に驚いた。薬を処方してもらうからには下手に隠し事をしたり誤魔化したりすることはできない。

 放射線被ばく、空から舞い落ちる有毒物質。それ以外にも八柳誠四郎の容態に関わることは思いつく限り全て伝えた。

 

 永琳の理解は早かった。地球よりも格段に科学文明が発達しているという月に住んでいた彼女は、幻想郷ではとんと聞かない放射線などの知識も当然のように有している。無論、その危険性も。

 魔理沙が語った情報をもとに永琳は少しの間考え「難しい」と告げた。

 

「何がダメなんだ? 手遅れなのか?」

 

 焦って詰め寄らんとする魔理沙を切れ長の目で制しつつ、永琳はいたって冷静に説明する。

 

「手遅れかどうかも分からない、と言うのが正確ね。さすがに情報が不足しているわ。その人に合う薬を処方することはとても難しい」

「とびきりの奴でいいんだ。死にかけの人間でも元気になっちゃうようなさ。そういうの無いのか」

 

 魔理沙はかつて魔術書で読んだことのある霊薬や秘薬といったものを思い浮かべながら言う。

 

「細胞を活性化させたり、脳内麻薬を操ることで回復に向かわせたりするような類の薬はあるわ。その系統で、体力が弱っていても服用できる物もある。でもそれだって無闇に使っていいわけではないのよ」

「副作用のせいとか?」

「まあ、それも一因ではあるけど。結局のところ、薬だけで解決できることなんてたかが知れているのよね」

 

 自嘲するでもなく、当たり前のように永琳は言った。誰よりも抜きんでている自分の専売特許を『たかが知れている』と。それは魔法という奇跡を追い求め、自負心の支えとしている魔理沙にとっては理解に苦しむ言葉だった。ただそこには、悠久の時を生きてきた者だけが持ち得る重みのようなものが確かに存在していた。

 

「でも不老不死の秘薬だって作れたんだろ」

「……言っておきますけど、蓬莱の薬は間違っても処方しませんからね」

 

 永琳は長い足を組み替えて、鋭く告げる。そんなつもりはない、と否定しつつも魔理沙は若干気圧される。咄嗟に俯いてしまったのは、僅かでも安直な解決の選択肢を心のどこかで残していた後ろめたさからか。誠四郎が永遠に生きたいなどと思っていないのは考えずとも分かることなのに。

 

「別に蓬莱の薬じゃなくたって、そんな凄いのが作れるなら、どんな効果の薬でも作れるんじゃないのかよ」

「さっきも言ったでしょう。情報が足りないし、無暗に使っていいわけでもないと。ぽんと薬一つ手渡して何でも解決するのなら良いけど、生憎そうはいかないものよ。少なくとも、現状で私がその患者のために用意できる特効薬は無いわ」

 

 淡々と述べられる永琳の言葉の前に、魔理沙は唇を噛んで押し黙ってしまう。膝に置いてあった手は無自覚にスカートを握っており、その指先が白くなっている。

 そんな魔理沙の手元を見た永琳が何か言おうと口を開いた時、診察室の引き戸が開かれた。入ってきたのは長い黒髪の少女だった。作法も礼節も無く、医者と患者の対面の場に上がり込んできた少女はしかし、他を圧倒する品格を醸していた。

 

「いいじゃない永琳。蓬莱の薬の一つや二つ、あげたって」

 

 どうやら聞き耳を立てていたらしい。悪戯っぽく、さらりと、とんでもないことを口に出す少女——蓬莱山輝夜に永琳は困り顔を向ける。

 

「姫様…………いけませんよ。あれはもう作りませんし、作れません」

「やあね。冗談よ。永琳はたまに真面目過ぎると思うの。ほら、お客さんも困ってしまっているわ」

 

 輝夜は何かを面白がるような微笑みを浮かべている。魔理沙と一応の面識はあるはずなのだが素っ気なく『お客さん』と呼ぶあたり、憶えていないか、そもそも魔理沙に関心を持っていないと見える。魔理沙を見つめる輝夜の瞳は黒く澄んで美しく、まるで新月の夜闇のようだった。

 

「面白そうじゃない。未来で待つ人に贈り物を届けようだなんて。お伽噺のようで素敵だしぜひ協力するべきだわ。ああ、私も未来に行ってみたい」

「まったく、面白いかどうかだけで物事を判断するのはお止め下さい。ろくなことになりません」

 

 夢見がちな乙女のようにつらつらと話す輝夜にため息をつきつつ、永琳は魔理沙に向き直った。組んでいた足は揃えられている。

 

「さっきはああ言ったけど、何もせず放置しようとは思っていないわ。患者がいるのに匙を投げることは、私の医学への冒涜になる」

 

 少し待っていて、と言って立ち上がると、永琳は輝夜が入ってきたのとは別の扉を開けて隣室に姿を消す。

 

 彼女が戻って来るまでの間、未来の世界に対して異様な興味を示す輝夜から質問攻めにあった魔理沙はえらく精神を消耗した。普段から魔理沙は自分のことをけっこうな変わり者だと自負しているが、こうして幻想郷に住む本物の変わり者と話すと自身の凡庸さを痛感する。一方的に質問攻めにするかと思いきや、変てこな空想を並べ立てて同意を求めてくるその会話術はまさしく天衣無縫。機微も何もあったものではない。魔理沙はロマンチズムに溢れていた文通のことを誤魔化すのに必死だった。

 

「お待たせ。さあ、姫。ちょっと離れてください。お客様が困っているわ」

 

 しばらくして戻ってきた永琳の手には薬を乗せたお盆がある。白と赤、二種類の懐紙で几帳面に包まれた薬がそれぞれ何個かあり、永琳はそれを魔理沙に見せながら説明した。

 

「副作用の出ない漢方よ。今ここで用意できる最適なものを選んだわ。これなら体力が弱っていても服用には問題ないはず。白の包みと赤の包みの薬はそれぞれ効果が違うから間違えないように」

 

 なんでも陰陽にちなんでおり、互いが互いの効果を補い合うのだという。飲む順番を守るようにとか、服用の時間は何時から何時までとか、永琳は事細かな用法を教えつつ、その内容をさらさらと紙に書いていく。

 

「はいこれ。無くさないようにね。きちんと服用すれば体組織の活性化を図れるわ」

 

 話し終えると、紐で薬を束ね、用法用量を記した紙と一緒に魔理沙に手渡す。花が咲くような笑顔で魔理沙はお礼を言うが、永琳は厳しい表情をして「でもね」と付け加える。

 

「万能ではないということを忘れないで。貴女が助けたいというその人が、薬ではどうにもならない状態にある可能性にだけは留意しておいてちょうだい」

「分かってるよ。精一杯やったならどんな結果になっても私は後悔しないつもりだし、永遠亭に文句なんかつけたりしないって」

「文句とかそういう話ではないのだけど…………」

 

 魔理沙は軽い口調で言った。本当にそう覚悟しているのか、あるいは目的の薬が手に入って気が大きくなっているのか、悠久を生きる永琳であっても正確には読み取れない。輝夜は面白がるように二人のやり取りを見守っている。

 

 薬の代金を置き、立ち去ろうとした魔理沙はふと足を止めて永琳の方に振り向いた。

 

「この薬、もう一組もらえるか。お金ならちゃんと払うからさ」

 

 怪訝そうな永琳から追加分をもらうとそれを懐にしまい込み、魔理沙は意気揚々と永遠亭をあとにした。

 

 

 

「ああ、思い出した」

 

 魔理沙が出て行った後、従者の玉兎に淹れさせたお茶を飲んでいた輝夜が口を開いた。永琳が「何をです」と聞く。

 

「あの子、霧雨といったわね。たしか人里の商家で、永琳の薬をいつも買っているお宅もそういう名前だったじゃない」

「ええ、魔理沙はそこの娘さんですよ。奥様の体調が優れないらしくて。毎月二回、鈴仙に薬を届けに行かせています」

「まだ良くはなっていないのかしら」

 

 輝夜はどこか意味ありげな微笑みを浮かべて自ら話を広げる。普段、永琳の仕事に全く興味を示さない彼女にしては珍しいことだった。

 

「最近調子が良いというお手紙はいただきましたけど、まだまだでしょうね。先天的な体質を改善するのには時間がかかります」

「不憫なものね。蓬莱の薬を飲めばそれで解決するのに」

 

 またその話か、と永琳は呆れ顔で、咎めるような口調を主人である輝夜に向ける。

 

「姫様、何度も言っていますがそういった安直な方法は解決とは…………」

「分かっているわよ」

 

 永琳の言葉にかぶせるようにして輝夜が言う。変わらぬ微笑みは、そうやって永琳を呆れさせることも楽しんでいるようだった。

 

「今そこにある命こそが最も尊いのよ。たとえ散りゆく定めだとしてもね」

 

 永遠なんて、つまらないもの。

 

 対面に座る永琳ではなく自分に向けるように、あるいは未来を目指して進んでいる魔理沙へ投げかけるように、輝夜は独り言ちた。

 

 

 

 

 

 

 永遠亭で薬をもらった魔理沙はその足で魔法の森へ向かった。拓けた場所には見慣れた自宅が建っている。

 

 家の前にある郵便受けは凄いことになっていた。突っ込まれた新聞で一杯になっている。ぎゅぎゅう詰めになって軽く引っ張ったくらいでは取れない新聞の束が、射命丸文の怒りを表しているようだった。実際に怒っているようで、一番新しい朝刊と一緒に『新聞読んでください!』という切実な書置きが挟まっていた。可愛らしい鬼がぷんぷんと怒っている絵は文が描いたものか。

 

 魔理沙が気合を入れて新聞を引っこ抜くと、一枚の封筒がくっ付いてきて足元の草むらに落ちた。母……いや、実家からの手紙だ。いつものように仕送り金も同封されている。普段なら少しばかり辟易とする魔理沙だが、今回はこれこそが目当てだった。

 

 手紙と新聞の束を抱え、草葉の陰に埋もれている『霧雨魔法店』の看板を横切り、玄関扉を開く。

 中に入ると相変わらず物が散乱している居間が魔理沙を迎える。歩くだけのことで、本やガラクタを踏まないように気を付けなければいけない。しばらく紅魔館の書庫に泊まっていたので、改めて自分のだらしなさを思い知ることとなった魔理沙だが、雑然とした部屋にどことなく安心感を覚えてもいた。足の踏み場も無いほど溜め込んだ道具類が、家を出てから一人でやってきた歳月と苦労を象徴しているかに思われた。

 

 二階の屋根裏部屋も同様で、魔理沙は物をどかしつつ文机の前に腰かける。新聞はあとで読もうと思い、まとめてベッドの上に放った。

 封筒から取り出した便箋には、端正な母の字が綴られている。いつも通りの他愛のない内容だ。魔理沙の身を案じ、先行きが明るいことを願っている。それを読み終わると、魔理沙は一息ついてから書道具一式を机に広げ、墨を擦り始めた。誠四郎との文通以外で筆をとるのは久しぶりのことだった。

 

「…………。んー」

 

 拝啓、と書き出して魔理沙の筆が止まる。何と書いたらいいものか。誠四郎に未来のことを聞くときはすらすらと筆が進むのに、いざ家族に手紙を送るとなると、どうもしっくりこない感じがした。

 

 しかし書くべきことは既に決まっている。魔理沙はしばらく悩んだ末、えいと思い切って手紙を書き上げた。実に簡素で事務的。伝えるべき内容を淡々と綴っただけのもの。これまでに文通を重ねてきた手前、魔理沙は出来上がった文面を見て「これはどうなんだろう」とその報告書じみた素っ気なさに首を捻ったが、結局は良しとした。

 

 糊付けした封筒には、手紙と一緒に薬を入れておく。先ほど永遠亭で余分に買ってきた、紅白の懐紙に包まれた漢方薬だ。手紙には永琳から教えられた用法用量を書き写しておいた。地下間欠泉センターでの仕事で得た収入の大半を使ってしまったが、魔理沙に後悔の色は無い。生来、宵越しの銭は持たない性格だ。

 

 これから遠い場所に行ってくる。もしかしたら戻れないかもしれない。

 

 母には体を大事にするように。兄には商売繁盛と、妻と子の幸福を願って。父には、何を伝えればいいか分からなかったので何も書かなかった。

 

 

 

 妖怪の山に寄ったのは、射命丸文に手紙を届けてもらうよう依頼するためだ。妖怪の山はその名の通り古くから物の怪が住み着いている地で、よそ者は立ち入らない決まりになっている。自分たちの縄張りにずかずかと踏み込んでくる不埒者に、天狗たちは容赦しない。

 山中に足を踏み入れた魔理沙もまた、哨戒中の白狼天狗に見つかり検問じみた質疑をかけられていたが、そこにちょうど良く文が通りかかった。

 

「え、魔理沙さんが『文々。郵便』をご利用になるんですか。それもご家族に手紙を送るために? いったいどういう風の吹き回しですか」

「別になんでもいいだろ。ほら、お金。ちゃんと届けてくれよな」

「ううむ。お金はいいので、中身をあらためて記事にしちゃダメですかね」

「ダメに決まってんだろ」

 

 飛脚屋失格の発言をする文に不安を感じつつも、魔理沙は手紙を預けた。念のために中身を開けたら発動する呪いをかけておいた、と釘を刺したところ効果てきめんで「魔理沙さんまでそんな意地悪を!」と文は嘆いていた。よっぽどパチュリーに呪い(嘘)をかけられたことが堪えているらしい。

 

「そういえば最近ご自宅に帰ってらっしゃらないんですか? 新聞溜まっているんですけども」

 

 不服そうな文の言葉に「ああ、そうそう」と魔理沙は思い出したように言った。

 

「新聞の定期購読だけど、ちょっと止めといてくれ」

「なんでですか!? 呪いのことといい、何か私に恨みでもあるんですか!?」

 

 文が悲痛な叫び声をあげた。決して自分の書いている記事に問題があるという可能性を考えないところが天狗らしい。変に受け答えてこちらの事情を深堀されても敵わないので、魔理沙は適当にあしらいつつ別れを告げた。

 

 一方的に購読を打ち切って、文には申し訳ない気持ちがあったが仕方ない。

 遥か遠い未来に行ってしまったら、新聞をとっても何の意味も無いのだから。

 

 

 

 

 

 

 しばらく飛ぶと、小高い山の上に建つ博麗神社が見えてくる。そこが最後の訪問先だった。霊夢を通して八雲紫に話を付けにいくのだ。

 

 いつも裏手の縁側あたりに着地する魔理沙だが、今回は神社に続く山道の中腹に降りた。彼女の顔は心なしか緊張で固くなっている。坂の上にある神社を見上げる。鳥居の朱色が夕陽に照らされて濃く映えている。それを眺めて、魔理沙の箒を握る手に力がこもった。

 

 八雲紫に自宅に入られて、未来の真実を告げられた日。それ以降、魔理沙は霊夢と会ってはいなかった。魔法の勉強で忙しかったというのもあるが、どうにも気まずかったのだ。霊夢は紫に加担して、魔理沙の裏をかいた。それで実害を被ったわけではないが、その事実が魔理沙の心に影をさしていた。

 何よりも去り際の、魔理沙を見つめる霊夢の目。憐憫とも同情ともつかない視線が印象的で、ここ一カ月の間にふと思い出すことがあった。あれは魔理沙に対する後ろめたさの表れだったのか、もしくはもっと別の感情が含まれていたのか判然としない。判然としないことが、魔理沙の中でモヤモヤとした言い表しがたい違和感としてこびりついていた。

 

「いいさ。謝ってきたら許してやろう」

 

 魔理沙は諸々の感傷をかき消すように深く息を吐いて、博麗神社への道を上り始めた。霊夢があの時のことを申し訳なく思っているのなら幾分か自分の要求も通りやすくなるだろう。「ごめんなさい」と素直に謝るのならこちらには許す準備がある。

 そんな風に考えながら階段を上りきり、鳥居をくぐった魔理沙の目の前に、一人の人物が立っていた。博麗霊夢だった。

 

「来たわね」

 

 社を背にした霊夢が短くそう言った。魔理沙は何かしら返事をするのも忘れて怪訝そうに友人を見る。霊夢の口ぶりは、まるで今日魔理沙が来ることを予知して待ち受けていたようだった。

 

 いや、それだけならまだ怪しむほどではない。霊夢の直感が優れていることは魔理沙もよく知るところであり、なんとなく来る気がしたから、という理由で魔理沙の来訪を察知していたとしても不思議ではなかった。

 しかし今の霊夢はどうだろう。雰囲気がいつもとは違う。仁王立ちで待ち構え、魔理沙を見つめる目には険があり、まるでこれから戦いに臨むような顔つきだった。

 

「な、なんだよ霊夢。怖い顔して」

 

 当初の予定が外れ、魔理沙はやや上擦った声を出す。

 

「そろそろ来ると思っていたわ」

 

 相変わらず剣呑な空気を漂わせている霊夢が言った。彼女の右手には何故かお祓い棒が握られている。霊力がふんだんに込められているそれは祭事用の道具ではなく、霊夢が妖怪退治をするときなどに用いるれっきとした武器である。

 

「何の用? わざわざ正面から上ってくるってことは、単に遊びに来たってわけでもないんでしょ」

 

 どうやら霊夢は魔理沙が博麗神社を訪ねることだけでなく、どんな用事で来たかも予想がついているらしい。いくら勘が良いと言ってもここまでだったかと魔理沙は内心で驚く。

 しかしそれなら話も早いと思い直し、口を開いた。

 

「紫に取り次いでもらいに来た。理由は分かってるんだろ?」

「そう……」

 

 霊夢は、何かを思い悩むように目を閉じた。しかしそれも一瞬のことで、再び魔理沙を睨みつける。

 

「悪いけど、紫には会わせられないわ。あんたがその件で来たら追い返すように言われているの」

 

 その言葉で魔理沙は、霊夢が何故自分を待ち構えていたのかようやく理解した。霊夢がお祓い棒を持っている意味にも納得し、それと同時に相対する霊夢を睨め付ける。

 

「私はもう前とは違うぜ。ちゃんと未来に行くための準備をしてきた」

「問答無用よ。帰って頂戴」

 

 取り付く島もない。一体何が霊夢をここまで強情にさせるのか。

 魔理沙はわざとらしく大きなため息を吐いた後「いやだ」と声を張った。霊夢の目が一瞬、怒ったように見開かれた。

 

「なんでお前がそんな不機嫌なのか知らないけど、意地でも言う事聞いてもらうぜ。今までの努力を無駄にするわけにはいかねえんだ」

 

 二人の間の緊張が高まる。一触即発の空気をつつき割るように、魔理沙は箒の柄を霊夢に向けた。

 

「押し通るぜ。弾幕ごっこで勝負だ」

 

 言葉の節々に激情を滲ませる魔理沙に対し、霊夢はあくまで冷静だった。しかし彼女もまた、氷のような刺々しさを含んだ口調で応えた。

 

「良いわ。叩きのめしてあげる」

 

 

 

 

 

 







目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十一話

 

 

 

 弾幕ごっこの最中、魔理沙は己の成長を実感していた。

 魔力の運用がスムーズだった。血潮が全身を巡るように、淀みなく魔力を光弾に変えて放てる。さわりとは言え七曜の魔法を理解したからか無駄な漏出も少なかった。今までより遥かに少ない魔力量で弾幕を張ることが可能になっている。

 

「ハアッ……ハアッ……」

 

 空の飛び方も巧みだった。弾幕に力を入れすぎるとどうしても直線になりがちだった動きが洗練されている。風を読むために力む必要がない。複雑な軌道を描く箒さばきは、これまでなら決着がついていただろう数多の光弾を紙一重で躱していた。

 

「ねえ魔理沙」

 

 出力も、速度も、技巧も。一カ月前とは比べるべくもない。努力は確実に魔理沙の糧となり、目に見える成果として表れている。

 

「そろそろ諦めたら?」

 

 それでも尚、博麗はあまりに遠かった。

 

 感情を一切合切排したかのような声が魔理沙に投げかけられる。肩で息をする魔理沙は「うるせえ」と相手を見上げて激昂する。対照的に、遥か上空に陣取っている霊夢は涼しい顔をしていた。息を乱すどころか汗の一つさえかいていない。

 

 日はとうに落ちている。欠けた白い月が夜空に浮かび、二人の少女を淡く照らしていた。

 霊夢の周りには二種類の陰陽玉が円を描くように飛んでいる。博麗を表すように紅白に塗り分けられたそれは時に弾幕を放ち、時に結界を張って霊夢の死角を補う。まさしく難攻不落の要塞。攻防一体の性能を誇る博麗の秘宝は、着々と魔理沙を追い詰めていた。

 

「なんでそんなに反対するんだよ…………! 関係ないだろ、霊夢には!」

「博麗の巫女としての務めよ」

 

『霊符・陰陽印』

 

 魔理沙の叫びを押さえつけるように霊夢が新たな弾幕を展開する。陰陽玉が瞬時に無数の分身を作る。うっすらとした光を放つ半透明なそれは、儚い見た目とは裏腹に暴力的な速度をもって魔理沙に殺到した。

 息つく暇もない。魔理沙は舌打ちをして弾幕の間隙を縫う。自在に飛び回るものと、魔理沙を執拗に追尾するものの二つがある光弾は、反撃の余地すら与えない。場は、最早ごっこ遊びとは言い難い熾烈な戦いの様相を呈していた。

 いやそれは戦いと呼べるものなのか。第三者から見れば勝負ですらなく、一方的な狩りを彷彿とさせる光景だっただろう。それほどまでに両者の間には隔絶された実力差が横たわっていた。

 

「魔符・スターダストレヴァリエ!」

 

 数瞬の猶予もない中で、魔理沙はスペルカードを切る。以前までなら不可能だったことだ。展開された星屑のごとき弾幕は天の川のように光の尾を引いて霊夢を襲う。

 これで霊夢は回避に注意を割かなくてはならない。ほんのわずかとは言え弾幕の操作が乱れるだろう。そこに反撃の活路を見出した魔理沙は次の攻め手を準備しようとする。

 

「霊符・二重結界」

 

 魔理沙が放った弾幕の着弾と同時に、告げられるスペルカード名。霊夢の周囲に発生した結界によって魔理沙の攻撃は受け流され、逆に魔理沙を襲う弾幕には極小の霊力弾が新たに加わった。

 攻勢に転じたと思った矢先に追い詰められる。見開いた魔理沙の目に一瞬、絶望の影が差した。

 

 それでも魔理沙は避け続ける。三百六十度余すことなく周囲を弾幕で埋め尽くされている中で、魔法が使える程度のただの人間がもがいていた。

 魔理沙を包み込むそれは巨大な蜂球のようにも見える。悠然とその光景を見下ろしている霊夢は、しかし追撃の手を緩めなかった。矢継ぎ早のスペルカード宣言により、先に放った弾幕が減っていく側から新たに注ぎ込んでいく。眩い光球に阻まれて、もはや対戦相手の姿は見えない。それでも尚、霊夢は苛烈に攻め立てる。

 

 一見して過剰とすら言える霊力弾の暴雨が降り注ぎ続ける。そうまでして徹底的に攻撃を重ねる理由は一つ。魔理沙がまだ沈んではいないからだ。

 

 弾幕の巣の中から、一つの流星が飛び出した。箒に乗った魔理沙だった。弾幕が掠ったのか服の所々が裂けており、箒の房も短くなっている。箒には被弾した名残である光の粒子がまだ付いていて、それが流れ星のように夜空へ線を描いていた。

 間一髪、なんとか窮状を脱した魔理沙の顔に油断の色はない。弾幕に掴まらないよう飛び回りながら、闘志を燃やした瞳で霊夢を睨み上げる。以前であればここまで意地になって喰らいついてくることはなかった魔理沙の姿を見て、霊夢は不愉快そうに眉をひそめた。

 

「なんだってあんたは…………」

 

 漏らしかけた呟きを噛み殺す。名状しがたい感情を飲み込み、一瞬だけ歪んだ表情もすぐに元の冷たい無表情に戻す。

 

 魔理沙は霊夢のいる場所よりも高く飛んだ。対して霊夢は動かず、その代わりに彼女の弾幕が逃すまいと魔理沙の後を追う。

 上へ上へ。星になったよだかの如く、光の線を描きながら空へと昇っていった魔理沙は、次の瞬間、一転して進路を真逆に変えた。追ってきた霊夢の弾幕が恐るべき速さで目前へと迫るも、それを紙一重のところで躱す。

 

 余力は残り僅か。このままではジリ貧だ。そう考えた魔理沙は最後の攻勢に打って出た。直線的に相手へと肉薄するその様は、太陽の畑で風見幽香と対峙した時にとった戦法と酷似していた。自由落下も加えた速度は並大抵ではなく、いま霊夢が展開している弾幕では魔理沙を捉えきることはできない。いくつかが掠めつつも、そのどれも決定打にはならなかった。

 

 みるみる内に彼我の距離が縮まっていく。魔理沙は後ろ手に持ったミニ八卦炉に魔力を流し始めた。八卦と七曜の術式が起動する。淡く光るそれは持ち主の魔力を火付けとして大気中の魔素をふんだんに取り込む。霊夢に到達するまでの数秒にも満たない時間。魔理沙のためだけに調整された魔道具はたったそれだけの猶予で、今までに撃ってきたマスタースパークとは比べるべくもない熱量を集めてしまった。

 

 仕込みは万端。ここまできて魔理沙が注意を払うのはたった三つだけだ。

 ミニ八卦炉が暴発しないよう制御すること。飛び落ちる速度を決して緩めないこと。そして————。

 

「霊符・夢想封印」

 

 それは博麗の巫女が何代にもわたって受け継いできた基本にして絶対の技。霊夢が誇る、もっとも練度が高い切り札の一つ。

 タイミングは完璧だった。さすがは博麗の巫女と言ったところ。必殺の敵意を持った相手をぎりぎりまで引き付けられる観察眼と胆力。人でありながら大妖怪である風見幽香が成したことを寸分違わず再現してみせるその才覚は紛れもない天性のものだ。違う点があるとすれば、幽香が放ったのが何気ない極太の光線だったのに対して、霊夢は色とりどりの弾幕を放射状に展開したこと。それによって魔理沙は上下左右への逃げ場を失い、反撃の好機を潰される。間違って躱して弾幕に当たるも良し、真っ直ぐに飛んだまま霊夢の持つお祓い棒の餌食になるも良し。

 

 だからこそ魔理沙は勝ち筋を見出していた。親友として誰よりも近くで博麗霊夢を見てきたからこそ、この大一番、彼女なら絶対にそうするであろうという確信があった。技術や読み合いでは勝てない。故に狙うは一点突破。博麗の卓越した技も天与の勘も、まとめて叩き伏せてみせよう。

 

「恋符・マスタースパーク!」

 

 衝撃波が生まれるほどの急停止と共に、霊夢の目と鼻の先でそれは炸裂した。正しく全身全霊。大気に満ちるオドを取り込んだ七色の光線は博麗霊夢を、陰陽玉が張った防御結界ごと飲み込んだ。全てを灰燼に帰さんとする超火力。霊夢が得意とする然しもの結界も、強化された魔理沙の奥義の前には意味を成さない。

 

「霊符・夢想封印・集」

 

 成さないはずだった。

 

 背後から聞こえた声に魔理沙が振り向こうとした瞬間、躱したはずの弾幕が翻って一斉に襲いかかってきた。何故、どうしてと考える暇もない。急停止の反動で動けない魔理沙に、それらを防ぐ術は残されていなかった。

 

「ぐあっ…………!」

 

 四方八方から迫りくる弾幕に直撃し、空中での自由を失って落下していく。そのまま地面に衝突するかに思われたが、魔理沙はなんとか体勢を立て直して自力で無事に降りることが出来た。

 

 完敗である。博麗神社の裏庭に膝と手をついた魔理沙は、項垂れて歯噛みする。最後の大技が当たったと思ったのは幻想だったのだ。全てを薙ぎ払うはずだった奥の手に対して、霊夢は御札で分身を作ることによって悠々と回避していた。いつ、どうやって本物と入れ替わったのかは分からない。しかし瞬間移動のごとく背後に回られていたという事実がそれを証明している。

 到底追い付けない、抜群の戦闘センス。だが何よりも、手加減されたことが魔理沙に言いようのない屈辱を与えていた。肌に残る、弾幕を受けた感覚。魔理沙が地面に落ちる前に制御を効かせられたのは彼女の意地によるものでなければ、偶然でもない。霊夢が『そうなるように』わざわざ力を微調節したからだ。魔理沙が気を失って墜落しないよう適度に手を抜いた。弾幕ごっこは非殺生を旨としているので当然と言えば当然の配慮であるが、実際に行うのは至難の業だ。それも勝負の山場、瞬き一回にも満たない時間の中で。そのことが何よりも雄弁に、彼我の力の差を物語っていた。

 故に完敗。一分一理、言い訳すら許されない完敗だった。

 

「これで十一敗」

 

 頭上から降ってきた声に魔理沙が顔を上げる。まだ息を乱している魔理沙とは正反対で、霊夢の顔に疲労は見られない。冷徹に対戦相手を見下ろすその姿は、まるで先の戦いなど無かったかのようだ。

 

 夕時から始めた弾幕試合はすでに十一回繰り返されており、その全てにおいて魔理沙は敗北している。霊夢の多彩な手札に翻弄されたのも、決着の一撃で手加減をされたのも、今回に限ったことではない。二桁を超える対戦のほとんどがその焼き増しのようなものだった。魔理沙がいかなる手を使おうと敵わない。差異があるとすれば、過剰な威力だと思い使用を自制していた改良ミニ八卦炉によるマスタースパークを使ったことだが、それを以てしても博麗霊夢には届かなかった。

 

 何も通じない。未来の世界を救うために用意した手札すら、何でもないかのようにあしらわれた。魔理沙はうずくまって額を地面に擦り付け、悔しさのあまり痛みも無視して砂利を拳で叩く。

 

「もう、十分でしょ」

 

 地を這うような傷ましい姿を見下ろしながら霊夢は言った。うんざりとした感情がその冷たい声音から伝わってくる。

 勝機など欠片もないことは惨憺たる戦績が証明している。いや、そもそも互いの主張をかけての弾幕勝負。道理で言えば、最初の一回目で負けたことで魔理沙の意見が通る余地はとっくに無くなっているのだ。それでも「もう一勝負」と食い下がること十一回。その尽くを霊夢は完膚なきまでに叩き伏せてみせた。どこの誰であれ、ここまでされれば負けを認めざるを得ない。

 しかし魔理沙は俯いたまま、駄々をこねる子供のように、首を横に振る。それを見た霊夢の目が大きく見開かれた。

 

「あんたねえ、いい加減にしなさいよ!」

 

 ついに鉄面皮を崩して霊夢は叫んだ。

 

「未来未来ってバカの一つ覚えみたいに! 何なのよ、本気でどうにかなると思ってるわけ!? 私に勝つことだってできないのに!」

 

 容赦のない言葉が、尚も地面に這いつくばっている魔理沙の背中に投げつけられる。魔理沙は言い返すことも顔を上げて睨み返すこともせず、黙して言われるがままとなっている。

 

「少し考えれば分かるでしょ。世界を救うなんて大それたこと出来やしないって。私は…………博麗の巫女だって、この幻想郷を守るのが精々なのに。身の丈に合わないことばかりして、本当に意味わかんない…………!」

「…………違う」

 

 戦いの中ではついぞ冷酷無慈悲な無表情を崩さなかった霊夢が、息を乱して声を荒げる。ややあって、それに答えた魔理沙の声はひどく弱々しかった。

 

「私が、結んだ縁なんだ。だから私が助けてやらなくちゃいけないんだ。そのために勉強して、ミニ八卦炉だって強化して————」

「私にも通用しなかったのに?」

 

 まるで自分に言い聞かせるように呟く魔理沙に、霊夢は言葉を被せる。

 

「魔理沙の見つけた方法が少しは有効だったとして、それが何になるっていうのよ。紫が言っていたでしょ。あの世界はとっくに終わっているって。いったい何年かけるつもりなの? その間どうやって暮らしていくつもりなの? そもそも本当に救えるっていうちゃんとした根拠があるの?」

「いいから、通せよ」

 

 魔理沙は膝に手をついてよろよろと立ち上がった。どう見ても満身創痍で、もう十分に戦える状態ではない。しかしその手には、まだミニ八卦炉が握り締められていた。

 

「霊夢には関係ないって言っただろ。いいから紫に合わせろよ」

 

 怒気の滲んだ声は、ほとんど自棄になっているようにしか聞こえない。それを受けて霊夢は開いていた瞳孔をすっと細め、冷たく相手を見据える。魔理沙は涙の滲んだ目で霊夢を睨みつけ、ミニ八卦炉を向けていた。もう魔力を流しているのか、小さな香炉に再び光が集まり始めている。

 

 開戦の合図も何もない。霊夢がため息を吐いたのと、魔理沙が再度マスタースパークを撃ったのはほぼ同時だった。そして矢の如く飛来する光の束を前にして、霊夢は短く、とあるスペルカードの名を告げた。

 

「夢想天生」

 

 それが今宵、魔理沙が最後に聞いた霊夢の声だった。

 

 

 

 

 

 

 昼前になって魔理沙は目が覚めた。無骨な枠組みのベッドと、その周りに散らばっている数多のガラクタ。見慣れた光景だ。寝ている場所は紛れもなく魔法の森にある自宅、その屋根裏部屋である。

 

 魔理沙は体を起こそうとして、全身に走った痛みに呻いた。筋肉痛か。それに魔力枯渇による特有の気怠さもある。

 ぼんやりとしていた頭が冴えていき、それと共にだんだんと眠る前の記憶を思い出していく。

 

 そうだ。たしか自分は未来へ行くための権利をかけて、霊夢と戦っていた。そして負けた。負け続けた。この上ない無様を晒してまで繰り返し挑み、その度に返り討ちにされたのだ。肉薄した場面もあったが、最後は霊夢の持つ反則級の切り札の前に手も足も出なかった。

 

 だんだんと鮮明になっていく昨夜の記憶。魔理沙は手で目元を覆って、痛いほどに唇を噛みしめた。悔しくて涙がこみ上げてきたが、泣くとさらに惨めになる気がして痛みで激情を堪えた。

 

 霊夢に敗れた後、おそらくはその場で気絶したはずなのにどうして自宅のベッドの上で寝ているのか。一瞬そんな疑問が頭を過ったが、深く考えずとも分かることだった。わざわざ運ばれたのだ。酷使した体が悲鳴を上げているが、それは内側だけの問題で、弾幕によって負ったはずの外傷はほとんど見当たらない。どうやら霊術を使ってか、傷まで癒されたらしい。それらことがより一層、魔理沙に敗者としての自覚を植え付ける。負けた実感が、あとからあとから止めどもなく湧いてくる。

 

 慟哭を抑え込む魔理沙の顔を覆っていない方の手が、何かに触れた。横目で確認すると、それは魔理沙がいつも外行きに使っている肩掛け鞄だった。霊夢がベッドの傍らに置いていったようだ。中身を確認する。どうやら無くした物はないらしい。

 その中から魔理沙は鈍色に光るミニ八卦炉を見つけ、取り出した。パチュリーの協力のもと設計し直し、霖之助に改良を施してもらった愛用の道具。華々しく未来を救う要になるはずだった物。

 

 魔理沙は目を吊り上げて、ミニ八卦炉を投げ捨てようとした。しかし腕を振りかぶったところで思い留まり、なるべく遠くの方にそっと置いた。惨めになるだけだ。魔理沙は心の中でそう繰り返し唱える。仮にもパチュリーや霖之助の好意で得たそれを、ぞんざいに扱うことはできなかった。

 

 しばらく魔理沙はベッドの上から動かなかった。寝直すでもなく何か考え事に耽るわけでもなく、ただ茫然とその場に横たわっていた。

一時間か、二時間か。窓から差し込む光の傾きが目に見えて変わった頃、魔理沙のお腹が鳴った。大きなその音は、静謐な部屋の中によく響いた。魔理沙の口から自嘲するような乾いた苦笑が漏れる。

 

「こんな時でも、腹は空くもんだな」

 

 のそりと立ち上がり、台所に向かう。何か簡単につまめるものをと思ったが、湿気た煎餅以外にはこれといった食料が無かった。ここしばらく紅魔館の厄介になっていたので何も管理できていなかったのだ。最後に買出しに行ったのはだいぶん前。そう、人里の街中でばったり兄と出くわしたあの日だったか。一カ月ほど前なのに随分と昔のことのように感じられる。某日は博麗神社にも顔を出した。そして翌日、紫から未来の真実を伝えられたのだったか。

 

 もそもそとして不味くなった煎餅を齧りながら当時のことを振り返っていた魔理沙は、無意識のうちに眉間にしわを寄せる。どうしても拭いきれないヘドロのようなわだかまりが胸に詰まっているかに思われた。

 

 何ができるのだ、という昨晩の霊夢の声が思い起こされる。確かに、何もできないかもしれない。嫌というほど無力を思い知らされた魔理沙は柄にもなくそんな思いを抱く。しかし心の奥底にあるものがそれを許さなかった。

 

 諦めろと冷めた声がする。諦めたくないと思う。

身の程を弁えろと自分の中の常識が告げる。弁えて堪るかと思う。

 

 気付いた時には魔理沙は文机に向かっていた。文通はしばらく前に誠四郎から貰ったのを最後に止まっている。紫に未来行きの許可をもらったら、そちらへ赴く旨を伝えようと思っていたのだ。

 今でこそ、その道は断たれた。けど全てを捨てきることなんて、まだ出来ない。魔理沙は自分に言い聞かせるようにそう思い筆を走らせる。手元が狂って何度か書き直すはめになったが、なんとか見せられる文章を書き上げる。

 

 ガラス瓶に詰めた手紙は、いつも通りリボンで結ぶ。それと一緒に紅白の懐紙に包まれた漢方薬を、今ある分だけ入れておく。用法用量を書いた紙を添えるのも忘れない。未来へ持っていくために永琳から買った薬だ。持参することは無理となってしまったが、こうして手紙と共に送れば彼に飲んでもらうことは出来る。

 

 魔理沙は出来上がったそれを早速無縁塚へ届けに行かんと外へ出た。昨日の弾幕ごっこのせいで房が不揃いになってしまった箒での飛行は危なっかしいが、それを無視するように魔理沙は飛んだ。彼女が小脇に抱える瓶が濡れたように光っていた。

 

 

 

 

 

 

拝啓

八柳誠四郎様

 

 返事が遅くなってすみません。

 先日、腕の立つ薬師に薬を処方してもらいました。きっと貴方の役に立つことと思います。用法などを別の紙に書いておきましたので、その通りに服用なさってください。どうかあなたの体が良くなりますよう。

 何か変化があれば教えてくださいね。いえ、特に変化が無かったらまた違うお薬を処方してもらう必要があるので、どちらにせよ結果を知らせて欲しいです。飲まなかったら駄目ですよ。

 

 それでは吉報をお待ちしています。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十二話

 

 

 

 深夜まで及んだ魔理沙との弾幕ごっこの翌日。霊夢が目を覚ました時にはもう太陽が西に傾いていた。布団に俯せになったまま、光の透ける障子をボーっと見つめる。

 

 寝ぼけた頭で、どうやら一日をふいにしてしまったらしいと理解した霊夢は大きなため息を吐いた。日課である境内の掃き掃除をしていないし、先日人里から注文を受けた魔除けの護符の作成にもまだ手を付けていない。小腹が空いている気もしたが、妙に食欲が湧かず眠気を覚ますことはなかった。

 

 ぼんやりした脳裏に過るのは、昨晩の弾幕ごっこのこと。無理と知っていて尚も追いすがってくる魔理沙の必死な姿が思い出されて、霊夢は顔をしかめた。

 とにかく疲れた。何もする気が起きない。今はもう寝てしまおう。

諸々の感情を打ち消すようにそう思い切り、布団に潜って目を瞑る。

 

「あら、また寝るの?」

 

 聞き慣れた声がして、霊夢はガバッと起きた。見ると布団のすぐ側に八雲紫が座っていた。たった今スキマから現れたのか、それともずっと横にいたのかは定かでない。座布団の上で正座している紫は微笑みを浮かべている。

 

「もうお昼過ぎよ。珍しいわね、こんな時間まで寝るなんて」

 

 霊夢が苦々しい顔をする。いつもは紫の寝汚さを注意しているのに今は立場が逆転してしまっている。

 紫はそんな霊夢の表情を何故だか好まし気に見つめながら言った。

 

「何も食べてなくてお腹空いたでしょう。余り物でご飯作っておいたわよ」

 

 紫が立ち上がり、霊夢も続いて布団から起きあがった。依然として食欲はあまり湧かないが、食事の準備があると言うなら腹に入れておくに吝かではなかった。

 

 居間に入ると、ちゃぶ台に置かれている小ぶりの土鍋が目に入った。その手前には茶碗と匙も用意されている。紫が鍋の蓋を取ると湯気が立ち、卵とネギの入ったおじやの良い匂いがした。出来立てのように熱々なのは紫の能力で今しがた温め直したからだ。温冷の境界を操れば造作もないことである。

 それを甲斐甲斐しく茶碗によそってくれる紫を見ながら霊夢は思う。何故紫がここにいるのかと。しかも霊夢の枕元で起きるのを待っていたかのように。

 まあ考えるまでも無いことである。なにせ昨日の今日だ。追い返した魔理沙のことで話があるのは明らかだった。

 

 ただ霊夢が疑問なのは、わざわざこうして報告を聞きに来る必要があるのかということだった。紫なら霊夢と魔理沙が弾幕ごっこを行ったことも、その結果もすでに知っているはずである。何なら二人の様子をスキマの陰から見ていた可能性もある。その上で何故か食事まで用意して自分が起きるのを待っていた理由が霊夢には分からなかった。

 

「昨日、魔理沙が来たわ」

 

 ちゃぶ台の前に座った霊夢はそう言った。相手の行動にどんな理由があるにせよ、本題があるならさっさと終わらせてしまおうと考えて自分から話題を振った。

 

「ええ、そうみたいね」と紫。

「やっぱり見ていたの?」

「随分と長くやっていたもの。あんなに何回戦も、暇を持て余した妖怪でもあまりやらなくてよ」

 

 どうやら一部始終を観戦されていたらしい。そうなると魔理沙に対して声を荒げてしまった場面も見られていたのだろう。霊夢は気まずそうに紫から視線を逸らす。

 

「じゃあ私の報告を聞くまでもないでしょ。あれだけ徹底的にやっておけば、魔理沙でもまた来ることは無いと思う。あいつも、現実の厳しさを知っただろうし」

「現実の厳しさね。それを教えようとしたわけね、霊夢は」

「…………紫だって、そのつもりで魔理沙を追い返すように言ったんでしょ。私は博麗の巫女としての仕事をした。それだけ」

 

 紫がふと困ったような淡い苦笑を浮かべる。霊夢に注がれる視線には深い慈愛が満ちていた。もっとも、顔を背けていた霊夢本人はそれに気付かなかったが。

 紫は無意識にしてしまった表情の変化を隠すように扇を広げる。

 

「務めと言うには、少しだけ感情的だったようだけれど」

 

 紫の言葉は今の霊夢に深く刺さった。心外だとでも言うように目を大きく開くも、紫の視線と交わると昂ぶりかけたその気勢が弱まり、唇をきゅっと結ぶ。

 感情的になった。紫のその発言を真っ向から否定できず、しかし受け入れることも出来ない。周囲から年不相応な泰然自若とした態度で知られる霊夢にしては珍しい、迷いがあるような仕草だった。

 

 やり過ぎた自覚はあった。紫に言いつけられたのは、魔理沙が無謀な嘆願をしてきた時に追い返すということだけ。十何戦と弾幕ごっこをやらなくとも霊夢がにべもなく断るだけで済んだ話だ。それ以前に、昨日のような厳しい言葉をぶつけず出来るだけ柔和な姿勢を取った方が事は穏便に済み、魔理沙との仲もひどく拗れるようなことは無かったかもしれない。

 合理的に考えれば対話だけで解決するべきだった。しかし現実にそうすることはなかった。何故そのような選択肢を取ったのか自分でも判然とせず、不快感が胸に残り続けている。そんな自分自身に、霊夢は言いようのないもどかしさを感じていた。

 

 一つはっきり言えることがあるとしたら、弾幕ごっこをするような雰囲気を作ったのは自分の方からだったということだ。弾幕ごっこを始める前、空の向こうから魔理沙が博麗神社にやって来る気配を感じた時に、霊夢は「徹底的にやろう」と心のどこかで決めていた。魔理沙を門前払いするだけなら他の方法もあったのに、その時は勝負以外の手段がすっかり思考から抜け落ちていて、自然とあの運びになった。

 

 そして、傍から見れば感情的と思えるほど苛烈に、魔理沙と対立した。

 

 居間に気まずい沈黙が流れる。いや、気まずいと思っているのは自分だけだろうか、と霊夢は紫の様子を視界の隅で確認しつつ思う。物心つく前から親身になって育ててくれた彼女が今の自分をどのように思って言いるのか、霊夢に計り知ることはできなかった。

 

「おじや、冷めちゃうわよ」

 

 少しして紫が言った。霊夢の働きを労うでもなく、咎めるでもない。尻切れトンボとなった話題にモヤモヤとした気持ちを抱きつつも、霊夢は黙って食事にありついた。

 ほぼ丸一日なにも食べていなかったせいか、素朴なおじやが大変に美味しく感じられた。今は食欲なんて無いと思っていたのに、いざ一口食べてみると唾液腺が刺激され、口の奥がすぼまって痛いほどだった。

 

「これ紫が作ったの? 藍じゃなくて?」

「失礼ね。私だっておじやくらい普通に作るわよ」

「ふうん。何気に初めて食べたかも、紫の料理」

 

 霊夢がそんな感想をこぼすと、紫は「まあ!」とひどく驚いた顔をする。

 

「あなたが小さい時は私もよく作っていたのよ」

「そうなの? あんまり記憶にないけど」

「寂しいわあ。外の世界から料理本まで持ってきて色々やったのに」

「……なんかごめん」

 

 冗談めかした口調の紫に、彼女の料理の味を思い出せない霊夢は取り敢えずといった風に謝る。「まあほとんどは藍に任せきりだったんだけどね」と紫が言い、やっぱり謝るべきではなかったとちょっぴり後悔した。

 

 霊夢がもくもくと食べる間、紫は霊夢のことを見つめている。私が何かしら自分から話すことを待っているのかしら、と霊夢は思案する。食べ始める前に流れた沈黙とどこか同じ空気だ。それがどうにも居心地が悪い。

 

「ねえ紫」

 

 霊夢が食べる手を止め、口を開いた。

 

「魔理沙は、これからどうなると思う?」

 

 質問は要領を得ず、声もか細い。しかし紫は霊夢の意図を汲み取ったのか聞き返すようなことはしなかった。

 

「きっと後悔するでしょうね。幻想郷という箱庭に嫌気が差してしまうかもしれない」

 

 紫の歯に衣着せぬ言葉に、霊夢は表情を一層固くする。

 

「おそらくは、暫くしない内に未来との交信は途絶える。私が言えた義理でもないけど、その時の魔理沙の心境を考えると不憫に思うわ」

 

 未来との交信が途絶える。それはつまり八柳誠四郎の死を意味する。

霊夢は断片的なことしか知らないが、文通を始めてからの魔理沙の生き生きとした表情を見ていれば、自ずと彼女の思いの丈が分かるというものだ。その反面、相手が亡くなったと知った時の悲しみは如何ほどか。

 そう考えた霊夢だったが、紫は別の可能性があることを告げた。

 

「このまま行くと彼の死期を待たずに、彼我の縁は切れるはずよ」

「……どういうこと?」

「霊夢には詳しく説明していなかったわね。実際に幻想郷と未来とを行き来したから分かったの。魔理沙と彼の”縁“はとても脆弱で、けれど確かな法則によって結ばれているわ」

 

 話を促すように、霊夢は黙って紫の言葉に耳を傾ける。

 

「まず始めに、八柳さんは誰かと話したい一心で海に手紙を流した。きっと長い時間、延々と海を漂っていたのでしょうね。何年も待って、本人でさえ手紙のことを忘れた時、この幻想郷と繋がる条件が整ったのよ。正確には、無縁塚に流れ着くための条件と言うべきかしらね」

 

 無縁塚はその名の通り幻想郷に迷い込んだ外来人のための墓地であり、そのせいか外界で忘れ去られた物が自然と引き寄せられる土地として有名である。

 しかしただ単に人から忘れられれば無縁塚に至る条件を満たすのかと言えば、そうでもないと紫は説明する。

 

「あの場所は物の意志を引き寄せる。誰かが大事にしていた物だったり古い謂れがある物だったりね。すると、付喪神がそうであるように、物自体に意志が宿るわ。感情があるのかは分からないし、宿している人の思いもそれぞれ違うだろうから一概には言えないけれど、切れた縁を求めてやって来ることだけは確かなのよ」

 

 それは霊夢も知るところだった。いつだったかは忘れたが、魔理沙に同じようなことを言った気もする。

 

「時間の流れも越えたということは、彼の手紙には相当な思いが込められていたのでしょうね。それを魔理沙が拾って返事を書いたことで縁が繋がり、ガラス瓶を触媒として未来との交信を可能にした。八柳さんの人と関わりたいという思いと、魔理沙の彼に報われて欲しいという思いがあって初めて、それは成り立ったのよ」

 

 ——どちらかが少しでも欠けていたら、文通をすることは叶わなかったでしょうね。

 

 紫の口調は静かで、しかし確信めいていた。人の思いなどという曖昧なはずのものを確かな存在として捉えるその瞳には、様々な人間模様を見守ってきた超越者だけが持ち得る深い見識が滲んでいるようだった。

 

「じゃあ相手が亡くなる前に縁が切れるっていうのは」

 

 霊夢の口をついて出た言葉に紫は頷く。

 魔理沙と八柳のどちらの意志が欠けるのか。その答えは明らかだった。

 

「あの子は焦っているように見えた」

 

 紫は一カ月前に対面した時の魔理沙を思い浮かべながら言った。

 

「努力が報われないというのは、とても悲惨なことよ。誰にとっても身近で当たり前にある恐怖。それに囚われると周りが見えなくなってしまうことがあるわ。努力しても努力しても、目標に辿り着かない。焦りが視野を狭めて、いつしか目標が何であったのかさえ忘れてしまう。そんな状態では何事も上手くいかないものよ。あとあと気付いたとしても、引き返せなくなってからでは遅すぎる」

 

 霊夢の脳裏に、昨晩見た魔理沙の顔が過る。何回も何回も、気を失って倒れるまで鬼気迫る表情をして立ち向かってきた親友。幼い頃から一緒にいたが、あんな様子の魔理沙は見たことが無かった。

 

「霊夢も昨日のことは色々と思うところがあるでしょうけど、後は見守るしかないわ。誰が何を言っても仕方がないこともあるのよ。結局、一番大切なことは自分で気づく他に無いんだから」

「…………紫も、そういう時があったの?」

「長く生きているもの。挫折の一つや二つあるわよ。幻想郷を作る時だって、私の力だけじゃ何一つ出来なかった。それを納得するのに苦労したものだけどね」

 

 「あの時は大変だったわ」と屈託のない笑顔で言う紫を、霊夢は信じられないと言うように見つめる。比類なき大妖怪、八雲紫の能力は誇張無しに万能である。身近にいる霊夢でなくとも、この幻想郷に住まう実力者であれば当たり前に知っている事実。なにせついこの間も、千年の時を跨ぐというバカげた偉業を成し遂げたばかりだ。

 そんな彼女をして挫折や、一人では何もできないという言葉がこうもすんなり出てくることに霊夢は少なくない衝撃を受けていた。

 

「今回の件がどう転ぶにせよ、魔理沙にとって自分を見つめ直すきっかけになれば良いのだけど」

 

 紫は眩しいものを見つめるように目を細める。彼女の言葉に何を感じたのか、霊夢は考え込むように俯いて黙ってしまった。

 

 ややあって、持ったまま冷めてしまっていた茶碗が何故か温まっているのに気付き、霊夢は顔を上げた。どうやら紫が能力を使って再び温め直してくれたらしい。紫は霊夢の視線に答えるように優しく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様です魔理沙さん。これ、今日の日当です」

 

 もう何度目かになる地下間欠泉センターでの魔法実験を終えた魔理沙に、さとりが給料袋を渡す。礼を言って受け取った魔理沙はそれを大事そうに懐にしまい込んだ。

 

 未来行きを断念してからというもの、魔理沙は仕事に精を出していた。主にはこうして間欠泉センターでの実験手伝いをし、他にもさとりから温泉街の下働きの仕事を斡旋してもらったり、パチュリーに頼み込んで書庫の整理や掃除などの雑用を任せてもらったりと手広くやっている。

 それこそ、休日など無いほどに根を詰めて。

 

「いつもありがとな。仕事もたくさん回してもらってさ」

「いえ、魔理沙さんはよく働いてくれていますし、私の方こそ助かってはいるんですが……」

 

 さとりは浮かない顔で魔理沙を見つめる。

 

「大丈夫ですか? ここ以外でも働いていると聞きましたけど、休んでいますか?」

「平気平気。私って要領良いからさ、適当に力抜いてるわけよ」

「まあ魔理沙さんがそう言うなら、私からとやかく言うこともありませんけど」

 

 心を読み取れる覚り妖怪を前にして、魔理沙はいつもと変わらない気楽な口調で話す。しかし魔理沙の目元には隠しようのない濃い隈が浮かんでいた。明るく、四方が真っ白な実験室内では尚更目立つ。

 

「平気なわけないでしょう。ちょっとは休みなさい」

 

 さとりに代わってそう言ったのは、実験記録をまとめていたパチュリーだった。魔理沙に歩み寄り、彼女の手首を無造作に掴む。突然のことに魔理沙が驚いて声を上げた。

 

「ちょ、な、なんだよ」

「魔力の流れが良くないわね。きちんと休養をとっていない証拠よ」

「パチュリーだって別に休んだりしないじゃんか。何日も徹夜で本読んだりしてるじゃん」

「種族が違うんだから当たり前でしょう。私は魔法使いで、あなたは人間」

「人間だって徹夜くらいするよっ」

 

 理路整然と説き伏せるパチュリーの手を振り払って、魔理沙は「ちょっとくらい大丈夫だってのに」と文句を垂れる。

 

「そんなにお金ばかり稼いでどうするつもり?」

「いいだろ、そんなことは。色々と要りような年頃なの」

 

 子どもが親の小言を嫌がるように、親の小言を魔理沙は早々に話を切り上げて出て行こうとする。そんな彼女をパチュリーが「ちょっと、忘れ物」と言って引き留めた。魔理沙へと差し出したパチュリーの手には、今しがた実験に使ったミニ八卦炉がある。変換炉の台座に置いたまま忘れてしまっていたらしい。

 魔理沙はそれを受け取ろうと手を伸ばしかけるも、触れる寸前で動きを止めた。どうしたのかとパチュリーが魔理沙の顔に視線を向ける。

 

「いや、いいよそれは。これからも実験で使う物なんだし、パチュリーが預かっておいた方が良いだろ」

 

 魔理沙本人のものとは思えない発言に、パチュリーは内心呆気にとられた。魔理沙の言っていることは、表面上は合理的だ。現在ミニ八卦炉が一番活躍しているのがこの地下間欠泉センターでの実験であることは間違いない。それにパチュリー個人としても、希少なヒヒイロカネを使った万能変換炉はとても魅力的な研究対象であり、預けてもらえるというのであれば願ってもないことだ。

 

 しかしあの魔理沙が、ミニ八卦炉をいつも肌身離さず持ち歩き、決してぞんざいに扱うことが無かった魔理沙がそれを他人に預けるなどと、あり得ることなのか。

 パチュリーが確認の意味を込めてさとりの方を見ると、さとりは難し気な顔をしていた。魔理沙の言葉が本心から出たものなのか、否か。心を読めるさとりの表情を伺ってもパチュリーがそれを知ることは出来なかった。

 

「……それは魔理沙さんが持っておいた方が良いと思いますよ。少なくとも、今は」

 

 さとりが言葉を選ぶように言った。魔理沙が「なんでだよ」と食い下がる。パチュリーは逡巡した後、さとりに話を合わせた。

 

「そうね、魔理沙が持っているべき。これはあなた専用にチューニングされた物だし。なにより魔法使いが自分の物を軽々しく人に渡すのは感心しないわ」

 

 納得していない様子の魔理沙の手にミニ八卦炉を持たせる。魔理沙はまだ何か言いたそうだったが、二人の視線に観念してか「わかった、わかったよ」と言いミニ八卦炉を懐にしまった。

 まるで聞き分けのない子どものようだ。理解しかねると言った風に、パチュリーは手をこめかみに当てて言った。

 

「最近は紅魔館にもすっかり顔を出さなくなったし、ちゃんと魔法の勉強はしているの?」

「独学でやってるよ。今まで通り。心配しなくてもここの仕事だって真面目にやっているだろ」

「そういう事を言っているんじゃないけど……」

 

 殊更明るい口調で答える魔理沙に、パチュリーは顔を顰める。

 

「とにかく私は忙しいから、もう行くぜ」

「ちょっと話はまだ————」

 

 魔理沙はこれ以上説教されてはたまらないとばかりにパチュリーが引き留めるのも聞かずその場を立ち去った。

 

 

 

「まったく、何をあんなに急いでいるのかしら……」

 

 魔理沙がさっさと出て行ってしまった後、パチュリーはため息交じりに呟いた。未来に強い興味を示していたのは知っているし、柄にもなく生真面目に働いて金を稼いでいるのはそれに関係しているだろうという事くらいは察しが付く。

 ただ魔女として長い時を生きられるパチュリーには、魔理沙が何故ああも駆り立てられるように生き急ぐのかどうにも理解しきれなかった。ミニ八卦炉を遠ざけるような態度といい、少女の急な心境の変化についていけない。魔術書に書かれていることばかりに知識が偏っているパチュリーは不思議に思うばかりだ。

 

「まあ、ああいう時はそっとしておくのが一番ですよ。特に私たち外野は」

 

 パチュリーの心でも読んだのか、さとりはそう言った。

 

「睡眠不足のようだったわ。それに栄養も十分ではない。人間は脆いのだから衰弱死が危ぶまれるわ」

 

 本で得た知見をそのまま読み上げたようなパチュリーの言葉にさとりが苦笑する。

 

「ああいう時期は誰にでもあるものです。人間だけでなく妖怪にだって。生きる上で誰しもが一度は直面する心の問題です」

「心ね。魔法ではまだほとんど解明されていない分野だわ」

「複雑ですからね、とても」

 

 

 

 

 

 

 夕陽が魔法の森一帯を黄金に染めている。箒に乗ってその上空を飛んでいるのは魔理沙だった。柄に結んである風呂敷には、先ほど香霖堂で霖之助から買った米や芋などの食料、それから永遠亭に行き手に入れた薬が包まれている。薬とはもちろん、未来にいる文通相手、八柳誠四郎に送るためのものである。

 

 日雇いの仕事をしては薬を買い、僅かに余った金を食料に換える。そんな生活がここしばらく続いていた。そして向こうからメッセージボトルが送られて来れば、すぐに手紙を書き、薬を添えて送り返す。手紙の内容に悩んで次の日に持ち越すようなことはしない。自分の都合で返信が遅れて誠四郎が薬を飲めなくなっては何の意味も無いからだ。

 

 無縁塚は相変わらず何の役に立つとも知れないガラクタで溢れている。初めて訪れる人であれば目を白黒させて呆然と立ち尽くしそうな中を、魔理沙は慣れた様子でひょいひょいと進んでいく。

 迷わずある地点まで来た魔理沙は、足元にガラス瓶が落ちているのを目敏く見つけると嬉々とした面持ちで拾い上げた。しかし透明なガラス越しに中身を見ると同時、顔が曇り眉間にはしわが寄る。

 

「あれ、おかしいな。まだ届いていないのか」

 

 メッセージボトルの中には八柳誠四郎からの新しい返事ではなく、先日自分が書いた手紙が入ったままだった。蓋を開けて中を改めて見れば、確かにそれは魔理沙が書いた手紙に違いない。同封してある薬もそのままだった。

 ここ最近になって、こうしたことが多くなっていた。以前であれば無縁塚に置いた手紙は一晩も経てばその場から消え、もう暫くすると相手からの返事が届くといった具合が常だったが、今は一日経ってもなかなか向こうに送れないことがある。長い時では三日ほどガラス瓶がそのままだったこともあり、魔理沙はかなり焦れたものだった。

 

 まあ、不安定なのは仕方がないことだ。何せこの文通は幾つもの偶然が折り重なって成り立っている摩訶不思議な現象なのだから。

 魔理沙は何となしにそう考える。そう考え、胸に過った一抹の不安に気付かないふりをする。自分にはどうせ分からないことだと、ある種の諦念を覚えながら。

 

 今日買ってきた薬も前回のと一緒に瓶に入れ、そのまま所定の場所に安置し、魔理沙は無縁塚を後にした。ゆるゆると箒を飛ばしながら、欠伸交じりの大きな溜息を吐く。猫背に丸まった背中からは、老婆のような疲れが滲み出ているようだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十三話

 

 

 

 魔理沙は唸っていた。無縁塚の片隅、倒木に腰かけて何やら難しい顔で悩んでいる。

 彼女の手にはガラス瓶があった。それは文通に必要な道具。千年後の未来、滅びかけた世界にいる八柳誠四郎との唯一の連絡手段だ。コルク栓は開いており、中にはリボンで括られた便箋といくつかの薬包紙が入っている。それを睨みつけながら魔理沙は考えに耽っていた。

 魔理沙が新しい手紙を書いて無縁塚に持ってきてから、もう四日目になる。これまでは一晩も経てば自ずと未来に送られていた物が、どういうわけか四日も野ざらしとなっていた。最長記録だ。今までにこんなことはなかった。

 

 誠四郎を待たせてしまっているなあ、と魔理沙は困り果てる。毎日のようにやり取りしていた手紙の返事が渋くなったらどんなに不安になるだろうか。もしも自分がこう何日も待たされたら堪らないと焦りばかりが募る。

 

 どうして送ることが出来ないのか。そう考えるにつけ不吉な考えが頭を過るのだが、魔理沙はそれを深く考えようとはしなかった。蓋をするように目を反らすのみである。なにも報われることなく唐突に訪れるであろう文通の終わりが今は怖くて仕方がない。そんな焦燥にも似た恐怖から逃げるために、魔理沙はどうにかして以前のように手紙が送れないかと考える。今彼女の中にある誠四郎を助ける方法は、永遠亭の薬を届ける以外に無いのだから。

 こうして悩んでいる間にも刻一刻と誠四郎の容態が悪くなっているのかと思うと気が気ではなかった。

 

 やがて、魔理沙は痺れを切らしたようにやおら立ち上がった。近くの木に止まっていた小鳥が逃げていく。

 理由など、どれだけ考えても分かるはずがない。この文通の不思議が解明できるのならば、時間だろうが時空だろうがとっくに飛び越えて誠四郎に会いに行っている。それが出来ないからこれだけ苦心しているのだ。

 

 一瞬、脳裏に八雲紫の存在が浮かんだが、すぐに頭の中から追いやった。紫はどういうわけか魔理沙を未来へ連れて行きたがらない。手紙一つを軸に易々と千年の時を飛んでいけるのに、まるで協力してくれない。それとグルになっている霊夢など特にひどいものだ。親の仇でも見るかのような霊夢の顔がチラつく。それと共に、今では若干トラウマになりかけているこの間の弾幕ごっこのことを思い出し、魔理沙は苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめた。

 

 自尊心の摩耗していく音がする。

 最初から何も出来ないと決めつけられているような気がして、それが何よりも不満でならなかった。世界の全てを救うのが土台無理であることは、霊夢や紫に言われずとも心のどこかで理解している。

 ただそれでも何かしなくてはいけないのだ。

 一つでもいい。何か出来なくては、前に進まなくては。そうでなければ、今までの自分に一体何の意味が……。

 

「あー、駄目だ、駄目だ」

 

 卑屈になりかけた思考を否定するように魔理沙は叫んだ。このまま無縁塚の隅っこでしゃがみ込んでいたところで埒があかない。そう結論を出したばかりではないかと己を叱咤する。

 

 紫には頼めない。霊夢に取り次いでもらうことも出来ない。無論、自分では手紙が送りにくくなっている理由すら分からない。

 魔法で易々と解決、ともならないのが辛いところである。幻想郷においては誰よりも魔法史に精通しているだろうパチュリーが「時間に関することは無理」と断言しているのだ。望みは限りなく薄い。

 

 気合を入れ直したはいいが手詰まりのように思えて魔理沙は落胆した。意気込みは瞬く間に消沈し、再びその場に座り込もうとする。

 しかし魔理沙は何を思い立ったのか、次の瞬間パッと顔を上げた。すぐさま箒に跨り、無縁塚を飛び出て行く。小脇には薬と手紙が入った瓶を抱えている。

 

 煮詰まってどうにもならなくなった時、躓いてやり切れなくなった時、魔理沙が行く場所は決まっている。

 しばらく飛ぶと魔法の森の切れ目が見えて来る。その縁に佇む一軒の平家。香霖堂の看板を掲げている玄関口へ、魔理沙は一直線に向かって行った。

 

 

 

 

 

 

「うーん。僕にはどうも分からないけど」

 

 森近霖之助は何の変哲もないガラス瓶を見つめながら言った。彼の目の前でカウンターに身を乗り出している魔理沙は「もっとちゃんと見て」とさらに前のめりになる。

 

「これがその、未来との通信機? 僕には普通のガラス瓶にしか見えないが」

「本当だって。それと通信機じゃなくて、文通するためのメッセージボトル。これに手紙とか入れてやり取りすんの」

「ひょっとしてそっちの魔理沙が持ってる手紙に何かあるんじゃないか」

「あ、読むなよ。絶対に読んじゃダメだから」

 

 霖之助が伸ばした手から庇うように、魔理沙は巻いてある手紙を胸に抱いた。不承不承、霖之助は瓶の観察に戻る。

 

 香霖堂に入ってきた魔理沙は狭い店内を駆けて、茶器を磨いていた霖之助に「この瓶を調べて欲しい」と詰め寄った。あまりの勢いに、霖之助は思わず茶器を落としそうになった。

 そうして魔理沙に言われるがままガラス瓶を調べてみてはいるが、彼の目にはただの瓶にしか見えなかった。何故これまで出来ていた文通がしにくくなっているのか分かるはずもない。いや、そもそも本当にこんなものが千年の時を行ったり来たりしているのか、魔理沙の必死な説明を聞いてもにわかには信じられなかった。

 

 というか君、文通なんてやっていたのか。

 霖之助はそう思った。しばらく前に変な様子の魔理沙が「ガラス瓶を探している」と訪ねてきた日のことを思い出し、あの時言っていたのはこのことだったのかと得心いった。

 

「こーりんの能力って道具の鑑定だろ? 何か分かんないかなあ」

「厳密には『道具の名前と用途が分かる程度の能力』だね」

「じゃあ今何が分かるんだ?」

「名前はガラス瓶、またはボトル。用途は飲料等を入れておくためのもの……くらいかな」

「何も分かんないじゃん! それじゃあただの瓶じゃん!」

「だからさっきからそう言っているだろう。まったく信じ難いよ。これが時間移動を可能にするなんて」

 

 魔理沙はがっくりと項垂れた。魔理沙が霖之助の元を訪ねたのは彼の鑑識眼を頼ってのことでもあった。その生涯が道具と共にある半妖、森近霖之助。彼の固有能力を使って何かしら、音信不通の原因の一端でも分からないかと期待したのだが、その結果はご覧の有り様だった。

 

「どうしよう。それが無きゃ手紙を送れないんだよ。あまり時間もないし待たせられないのに……」

 

 魔理沙は青ざめてほとほと弱り果てる。今にも泣き出しそうだった。

 そんな様子を見ながら、どうやら本当に困っているらしいと霖之助は思う。少し前は赤ら顔で秘密にしたがっていたことを何でも喋る。それだけ切迫しているのだろう。

 

「まあ座って。もう少し色々とやってみるよ」

 

 霖之助は魔理沙に座敷へ上がるよう勧めてお茶を出した。魔理沙は座っても尚そわそわと落ち着かなかったが、霖之助の鑑定を待つ以外にすることもないので茶菓子に手をつける。

 

 霖之助は眼鏡をいくつか変えながら丹念にガラス瓶を観察する。彼は魔道具の類も扱っており、眼鏡にも特別な効果が施されているのだろう。

 鼈甲(べっこう)の縁取りや西洋貴族の片眼鏡。小さな歯車が付いた機械仕掛けは、右端にあるつまみを捻ると歯車が回り出し、レンズに幾何学模様の魔法陣を映す。他にも可動式のレンズが三つも付いている虫眼鏡のような物だったり、霊獣の牙を削って枠を作ったという大変高価な物だったりと、まるで珍品の見本市である。

 中には巨大な鼻と髭が付いているふざけた宴会用のオモチャもあり、魔理沙は「真面目にやってくれよ」と抗議した。しかし霖之助は至って真面目だったらしく「これは凄いんだぞ」と毅然と返した。その顔に付いているものが物なだけに説得力は皆無だった。

 

 次々に多種多様な眼鏡を付け替えては鑑定に勤しむ霖之助を、魔理沙はハラハラとした気持ちで眺める。

 もしこれで何も分からなかったら。それは瓶以外に問題があることになる。決してそうではないように、大事にはならないように、と魔理沙は心の中で祈るばかりだ。

 

「そういえばさ」

 

 固唾を飲んで見守っていた魔理沙に、霖之助が声をかけた。何か分かったのかと弾かれるように半ば立ちかけた魔理沙だったが、霖之助の視線は未だにガラス板に集中している。

 

「君、実家の方に帰るつもりはないのかい」

 

 魔理沙は息を吐いて座り直す。そっちの話か、と少なからず落胆する。今はそんなことに気を取られている場合ではないのに。

 

「無いに決まってるだろ、こーりん。私決めてんの。一丁前の魔法使いになるまでは死んでも家の敷居は跨がないって。前から言ってるだろ?」

 

 何を今更、と呆れた口調の魔理沙。いつもの霖之助の小言である。たまには帰って顔を見せなさいと言うのだ。それを魔理沙が突っぱねて、霖之助は「仕方ないな」と苦笑し、話は終わる。慣れたやり取りだ。

 

 しかし霖之助はいつになく渋い顔をしていた。険しいと言ってもいい。鑑定をしている真剣さとは別種の、何かを言い淀むような顔。魔理沙があまり見たことのない表情だった。

 

「一度、ちゃんと顔くらいは見せた方がいい。今年の盆も帰らなかっただろう」

 

 そう言われて、今度は魔理沙が顔を(しか)める。何か言い返そうにも言葉が見つからない。此方を向いた霖之助の視線がかち合う。魔理沙は咄嗟に目を逸らしてしまった。八柳のことを思うのとは違った焦燥が胸を焦がしている。

 苦しそうな様子の魔理沙をどう捉えたのか、霖之助は困ったように眉をひそめて言った。

 

「君がこの文通を大切にしていることは分かるよ。一人前になるまで家に戻らないというのも、人間にはよくあることだと思う。でも違うだろ。家族に心配をかけて、それで自分自身が苦しんでまで意固地になる必要は無いじゃないか」

「何で、そんな、今更」

「今だからだろう。魔理沙、家族が弱っている時は側にいるべきだ」

 

 魔理沙は霖之助の言葉に頭を捻った。弱っている時、と言う意味が一瞬分からなかった。

 ややあってそれが自分のことだと納得する。今の自分はきっと弱り果てていて、家族の助けを必要としているように見えるのだろうと。霖之助の言う意味をそのように理解した。

 

「あー。大丈夫。そんな心配することじゃないって。確かに最近仕事のし過ぎで目に隈とかあるけど、ほら、私まだ若いんだからさ」

 

 から元気の乾いた笑いを漏らす魔理沙。しかし霖之助は「何を言っているんだこの子は」と言いたげに首を傾げるばかりだった。その様子に魔理沙も怪訝な表情を浮かべる。

 おかしい。会話がどこか噛み合っていない。

 霖之助はその細目を見開いて意外そうに言った。

 

「魔理沙、君たしか鴉天狗の新聞を取っていなかったか」

「え? ああ、うん」

 

 話題の変化に魔理沙は戸惑い、やや遅れて射命丸文が発刊している『文々。新聞』のことだろうかと思い至る。仕事で忙しく忘れていたが、少し前までは朝刊を取っていたのだ。霊夢との弾幕決戦の前、家族への手紙を出す為に文のもとを訪れた際に定期購読を断ってしまったのだが。未来に行きっぱなしになってしまったらどうしようもないからと、泣きつく文を袖にしたのである。

 

 今となっては、父親の寄稿が載るコラム目当てにまた買い始めても良いのだろうが、購読を打ち切って間も無い。文に何か勘繰られそうだと思い、魔理沙は今日まで新聞を読んでいなかった。人里での日々の出来事も知らずに、八柳との交信だけを中心に過ごしてきたのだ。

 

 しかしそれが先ほどまでの話と何か関係があるのか。魔理沙は不思議そうに霖之助を見つめた。

 

「読んでいないのか? 三日前の記事」

「いやあ、実は最近金が足りなくてさ。しばらく前から新聞買ってないんだよね」

「……そう、だったのか」

 

 魔理沙は世情をろくに知らないことに照れたような苦情を浮かべながらも、内心ではどこか不穏な落ち着かなさを感じていた。三日前とはえらく具体的だ。事件でも起きたのだろうか。

 

 しかし何があったのか聞いても、霖之助は「いや、なんでもないんだ」と答えをはぐらかし鑑定作業に戻ってしまう。どうも一人で勝手に納得されたような気がして魔理沙は不満そうな顔をする。

 

「こーりんは読んでるんだろ。何処にあんの、三日前の朝刊」

「あ、ちょっと、待ちなさい」

 

 魔理沙がいる座敷の隅にちょうど新聞が積まれている。それをガサガサと漁り出すと霖之助は少々慌てた様子で声を上げる。知らせたいのか知らせたくないのかどっちだよ。魔理沙は是が非でもその新聞を見てみたくなった。

 目当ての日付のものはすぐに見つかった。霖之助は几帳面な性格で、新聞も角を揃えられ日付順に並んでいた。

 

 魔理沙がそれを広げて大見出しを読もうとした時だった。鈴の音が響いた。店の玄関扉が開いたのだ。霖之助と魔理沙が揃って振り向くと、一人の若い男性客が入ってきた。

 

 その姿を見て、魔理沙に衝撃が走った。やって来た客とは兄だったのだ。

 あまりに驚いたので咄嗟に隠れようとしたが、狭い店内にはすぐに隠れられる場所が無く、ただ慌てるばかりだった。そうこうしている内に魔理沙の兄が歩いてくる。

 

「こんにちは、霖之助兄さん。前に言ってた修理の件で来たんだけど……」

 

 言いながら歩いてきた彼もまた、座敷の奥で小さくなっている魔理沙を発見し、瞠目した。

 交錯する視線。魔理沙は気まずそうに目を逸らす。

 

 魔理沙は今までにない引け目を家族に感じていた。これまで努めて忘れようとしてきたこと。未来へ行くために「遠くへ行くのでもう帰ることはないかもしれない」と書いて送った手紙の内容がまざまざと思い出され、魔理沙は死にたい気持ちになった。前へ進むはずだったのに、今こうして香霖堂の座敷に座っている自分がひどく矮小な存在に思えて仕方ない。

 

 兄の目から見て、自分はどのように映っているのだろう。顔を上げることも出来ないまま、魔理沙はそんなことばかりが心配になる。

 

 痛いほどの沈黙だった。兄は今どんな表情をしているのか。どうして黙っているのか。何故こーりんは助け舟を出してくれないのか。

 散々頭を悩ませた挙句、魔理沙の口から出たのは「久しぶり」という掠れた声だけだった。

 

「……魔理沙、そのだな、実は」

 

 深い思慮から抜けたように、兄が言葉を紡ぐ。

 しかしそれを魔理沙は遮った。兄と対面してからの態度とは打って変わり「ああ、いけね!」とわざとらしく大きな声を上げた。

 

「私、この後仕事が控えてるんだった! ごめんこーりん。これ持ってくな」

 

 奪うような勢いで霖之助が手に持っていたガラス瓶を取る。すぐにでも出て行こうとする魔理沙だったが、鑑定結果だけは気になったのか足踏みをして霖之助に小声で聞く。

 

「ちなみに何か分かった?」

「いや、何も。きっとこれ以上見ても同じだとは思うが……」

「そ。ありがとう。邪魔したな」

「あ、おい、魔理沙!」

 

 壁に立て掛けていた箒を片手に、もう一方の手には瓶を抱えて魔理沙は短い別れを告げた。霖之助の静止の声には振り向かない。

 

「魔理沙」

 

 扉の取手に手をかけたところで、兄が呼んだ。朗らかな兄らしくない重たく低い声だった。意識とは別に、ドアノブを半ばまで捻った魔理沙の手が止まる。

 

「魔理沙、家には」

 

 しかし今度も、兄の言葉を最後まで聞くことはなかった。魔理沙の硬直は一瞬で、家という単語が兄の口から出たと同時、勢いよく扉を押し開けて香霖堂を出て行った。

 「ごめん、兄ちゃん」とだけ、捨てるように残して。

 

 

 

 

 

 

 魔理沙は出鱈目に飛んだ。体にかかる負荷にも気を払わず、鬱屈とした気持ちを晴らすように、魔法の森の上空を我武者羅に飛び回る。言葉にならない叫びは風に掻き消える。

 

 なんだあの醜態は。

 なんだあの醜態は。

 

 成長したはずだった。魔法使いになりたいという夢を追って五年、自分の歩んだ道が家族にも誇れるものになると思っていた。

 特にこの数ヶ月、千年先の未来の人と文通をするという誰もしたことのない奇跡を体験し、目新しいことや慣れないことにも取り組んできた。幼い頃からの憧れだった風見幽香を訪ねるきっかけにもなったし、様々なことに今までより積極的に関われている気がしていた。

 何よりも、未来を救うという大目標を掲げて研鑽の日々を過ごしたはずだった。

 

「————ッ!!!」

 

 その結果がこれだ。何も変わらない。人里で、うどん屋の軒先で兄と鉢合わせた時もそうだった。地に足をつけて生きている兄を前に、ただ目を伏せるばかりで満足な会話も出来ない。さらには耐えかねて逃げ出す始末。こんなにも恥ずべきことはない。

 

 兄から、霖之助から、母から、父から、今まで何をしていたのかと聞かれる想像が頭を過ぎる。きっと何も答えられない。未来と交信をしたからなんだと言うのか。結局は何も出来ず、自分の身の程を知っただけじゃないか。それが五年間の、これまでの半生の集大成だというのか。

 

 魔力が暴走気味に発散し、下層雲に近いところまで飛び上がる。まるで箒に振り回されるような、無茶苦茶な飛び方だった。

 最低だ。最悪だ。消えてしまいたい。最悪な自分を叩き潰して無くしてしまいたい。

 

 瞬間、切り返すように風向きが変わり、一段と強い突風が吹きつけた。魔理沙はそれに煽られて揺らめく。ぎゅっと目を瞑って飛んでいたので簡単に制御を失い、箒は己の意思と関係なく暴れ出した。

 

「わっ、わっ、わっ」

 

 慣れたはずの飛行術は見る影もなく右往左往。すごい勢いで上がったり下がったりを繰り返しながら地面に近付いていく。

 眼下には木々が生い茂っている。針葉樹の天辺にぶつかりそうになったのを急制動で何とか回避し、落下の速度が一瞬弱まる。

 

 そうして魔理沙は箒から投げ出され、重なり合った葉の上に墜落した。咄嗟にガラス瓶の入っている鞄を胸に抱え込む。

 枝に体を打ち据えられながら落ちていき、苔むした地面に落ちた。重たく鈍い音が鳴る。小鳥がけたたましく鳴いて飛び去っていった後には、魔理沙の荒い息遣いだけが聞こえていた。

 

 魔理沙は横向きに倒れたまま暫く動けなかった。打った右肩がジンジンと痛む。肺が潰されたような感じがして、何度か咳き込まずにはいられなかった。

 乱れた呼吸を必死に整えた後、緩慢な動きで仰向けになる。寝返りを打った感じ、身体中のあちこちが傷んだが骨折はしていないようだった。

 

 しかし魔理沙がいの一番に気にしたのはガラス瓶だった。今も魔理沙の書いた手紙と薬が入っているメッセージボトル。節々が痛むのを無視してガバッと起き上がり、鞄を開けて中身を確認する。

 どうにか無事だ。(ひび)も欠けたところも無い。

 魔理沙は長く大きく息を吐き、再び倒れ込んだ。バクバクと脈打っていた心臓も落ち着いてきたのでそろそろ起き上がれるはずだが、魔理沙は地面で仰向けになったままでいた。目元を右腕で覆い、唇を噛んでいる。

 

 ああ、泥まみれの傷だらけ。まともに飛べもしない自称魔法使い。今の自分になんてピッタリなんだろう。

 そんな腐った思いが勝手に湧き上がり、ジクジクと魔理沙の胸を苛んだ。

 

 湿っぽく肌寒い木陰の下でどれだけの時間そうしていたか。ようやく体を起こした魔理沙は、ふらつく足取りで周囲の茂みを漁って回り、箒を引っ張り出す。霊夢との弾幕決戦以降に新調した物だが、柄が折れてしまった。

 それを抱えてとぼとぼと歩き始める。住み慣れた森で迷うことはない。一際背の高い木々に付けてある印を道標にすることができる。魔法の森に住み始め、まだ飛べなかった駆け出しの頃に迷子にならないよう自分で掘ったものだ。箒を乗り回すようになってからはてんで見ることのなかった目印が今になって役立つとは。魔理沙は自嘲的な嗤いを漏らした。

 

 仕事があると言って香霖堂を出て来たが、それは嘘だ。今日は久しぶりに仕事の予定が入っていない。せっかくの休みだったのに、いつもより心身が疲れているのはどうしたことか。

 

「まあ、当分は、いいかな」

 

 そんな独り言をぽつりと呟く。ここ最近手紙を送りにくくなっているせいで、毎日買っている薬も持て余し気味だ。今の状態ではあくせく働く意味もない。

 

 しばらく歩くと自宅の屋根が見えてきた。幻想郷には珍しい西洋式。掃除をしていないレンガの煙突は煤けている。獣よけの囲い柵、手入れをしていない野放途な庭、キノコと苔の生えた赤い郵便受け。見慣れた住処が魔理沙を迎える。

 家に前に着いた魔理沙はしかし、中には入らなかった。柵の内側に折れた箒を放り込み、そのまま森の奥へと消えてしまう。

 

 彼女が歩く先には無縁塚がある。徒歩で行くにはなかなか根気のいる場所だが、魔理沙はふらふらとおぼつかない足取りでそこへ向かった。

 

 夕暮れ時になって無縁塚に辿り着いた魔理沙は、所定の場所に瓶を置いた。斜陽が魔理沙の影法師を長く、色濃く映している。

 魔理沙は座り込み、太陽が落ちるまでの間、ずっとそこにいた。無縁塚の片隅で手を合わせ祈りを捧げた。

 どうか送れますようにと、切実に、痛々しいほどに。

 

 

 

 

 

 

 翌日、瓶は消えていなかった。魔理沙が置いたままの状態で無縁塚にある。

 家から本を持ち出し、おまじないを掛けてみる。

 

 その翌日もガラス瓶は送れない。

 おまじないの種類を増やした。慣れていないので全部かけ終えるのに半日もかかったが、その間もガラス瓶が透けて消えることはなかった。

 

 さらに翌日もガラス瓶は送れない。

 言霊でのおまじない以外に薬品を試してみる。本の通りに作ったそれは、正常に作用すれば縁結びの効果があるはずだ。

 

 それでも瓶は送れなかった。無縁塚にいる時間が増えていく。意味もなく朝から晩まで待つこともあった。

 

 朝も昼も、何の変哲もない瓶は変わらずそこにある。深夜に目が覚めて見に来ても、やはりガラス瓶は送られていない。

 

 次の日も、その次の日も、またその次の日も。

 八柳誠四郎の元に、メッセージボトルが送られることはなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十四話

 

 

 

 地の底から厚い岩盤を貫いて屹立する白亜の摩天楼。幻想郷において類を見ない科学技術の結晶、その最奥では核融合の実験すら行われている地下間欠泉センターである。

 そこでは今も最新鋭の科学と魔法を用いた壮大なエネルギー実験をしている最中なのだが…………。

 

「ちょっと魔理沙、出力が不安定よ!」

 

 変換術式を調整しながらモニターを見ていたパチュリーは、目まぐるしく変化する異常な数値に叫び声を上げる。彼女にしては珍しい、悲鳴に近い大声だった。名を呼ばれた魔理沙はミニ八卦炉に両手をかざして必死に制御を試みているが、結果は芳しくないようであった。

 

 パチュリーが機器操作を担当している河童のにとりに実験の緊急停止を告げる。にとりは即座に了承。停止スイッチを押すと、魔法によって強化された安全装置が滞りなく作動し、場は事なきを得た。

 荒ぶっていた数値が落ち着き、計器類も軒並み0の値を示したところでパチュリーは深い安堵の息を漏らす。しかし次の瞬間には立ち上がって魔理沙の元へ歩いて行く。肩を怒らせ、ずかずかと大股で歩む姿は普段の彼女らしからぬ迫力に満ちている。

 

「魔理沙、あなた……!」

「ごめんパチュリー……ごめん……」

 

 魔理沙は呼吸を乱し、その場にへたり込んでいる。苦しそうに俯いて謝罪をこぼす様は何ともみすぼらしく、叱ろうとしていたパチュリーも毒気を抜かれたようだった。

 

「どうしたの最近。調子がひどく悪いけれど」

 

 今回だけではなく、もう何度か同じようなことが起こっているらしい。パチュリーの問いに魔理沙は答えず「ごめん」と弱々しく言うばかりだ。

 

「さとりから日雇いの仕事も急にしなくなったと聞いているけど、それも何か関係があるの?」

「……」

 

 尚も答えない魔理沙にパチュリーは嘆息する。

 永遠亭の高価な薬を買うために、魔理沙は人里以外の方々で日雇いの仕事をもらっては働き詰めの毎日を送っていた。それがここ暫くはパタリと途切れ、今もやっているのは地底での実験手伝いくらいのものである。

 詳しいことを知らないパチュリーは体調が悪いのかなどと聞くが、魔理沙は頑として答えなかった。

 

 やがて魔理沙から事情を聞き出すのを諦めたパチュリーは、今日はこれ以上実験を続けられないだろうと判断した。

 

「今日はもう帰って休みなさい。次までにはちゃんと体調を整えておくように」

 

 魔理沙が膝に手をついて立ち上がる。目は依然として伏せており、パチュリーの方を見ようとはしない。そのまま出て行こうとする魔理沙を、実験の様子を見ていたさとりが呼び止めた。

 

「魔理沙さん、これは本日の」

 

 そう言いながら渡そうとした給料袋を魔理沙は固辞した。

 

「いいよ、お金は。今日は役に立たなかったし。ごめんな」

「いえそれは仕方がないと言うか、働いていることに変わりはないので、こちらとしては貰っていただきたいのですが」

 

 さとりが穏和に言うも魔理沙は受け取らず、短い別れを告げて実験室を出て行ってしまった。強引に引き止めることの出来なかった二人は心配そうにその背中を見送った。 

 

「仕事は減らしているのに体調は悪くなっているだなんて、どうしてかしら」

 

 パチュリーがため息混じりにそう言う。さとりは腕組みをして暫く考え、一つ提案した。

 

「霊夢さんに頼んで、魔理沙さんの様子を見て来てもらうのはどうでしょう。あの二人は親友らしいですから」

 

 

 

 

 

 

 魔法の森の上空、巫女服の長い袖をなびかせて博麗霊夢が飛んでいた。その表情は固く、頭上にある灰色の曇り空は今の彼女の心情を写したかのようだ。

 

 霊夢が向かっているのは魔理沙の家だった。先日、魔理沙の様子を見て来てほしいと、奇しくも二人の人物から同時に頼まれたからだ。

 

 一人はパチュリー・ノーレッジ。仕事をしている時の魔理沙がどうにも変だからと霊夢に相談してきた。本にしか興味がないと噂の魔女が他人を、それも半人前の人間の少女を気遣うことに、霊夢は少なからず驚いた。

 いや、それ以上に驚いたのは魔理沙が真面目に働いているのを知ったことだが。

 

 そしてもう一人というのは魔理沙の兄で、博麗神社を訪ねて来た彼は思い詰めた表情をしていた。きっと魔理沙との間で何かあったのだろう。霊夢は深く聞かなかったが、それくらいは分かった。

 

 霊夢の顔色は優れない。先の弾幕決闘のせいで魔理沙に対して引け目があり、それがまだ尾を引いている。しかし複数の人物から真剣に相談されては重い腰を上げないわけにはいかなかった。

 

「まったく、なんで私が……」

 

 渋面でそう呟く。言いながらも、自分くらいしか魔理沙に気軽に会いに行ける人間はいないのだろうと分かっている。客観的に見れば当たり前のことだ。

 魔理沙の親友である、自分くらいしか。

 

 木が生い茂っている中に、少し拓けている場所がある。ぽつんと長いレンガの煙突が伸びているそこへ、霊夢は憂鬱な思いを抱えたまま向かって行った。

 

 小さな庭門の前に降り立つ。蔓草が野放途に絡み合っている庭を進み、霊夢は玄関扉の手前で立った。呼び鈴を鳴らそうとした手が、しかし直前で止まる。

 どのように声を掛けようか。

 そんならしくもない悩みがふと湧いて出る。いつも己の直感を頼りにし、何の迷いもなく生きてきた彼女にとって、未知とも言える気持ちだった。

 

 魔理沙は自分を許しているだろうか。いやきっと許していないだろう。やはり謝るべきなのだろうけど、何と言えばいいのかまだ分からない。ずっと考えているのに。

 

 霊夢はしばらく扉の前で考え込んでいた。考えれば考えるほど正解から遠ざかっていくような気がする。何かが胸の奥につっかえていて、そのせいで思考が堂々巡りをしている。

 

 しかしやがて、霊夢は悩みから脱却した。より正しく言うなら無理矢理蓋をした。自分は博麗の巫女として依頼を受け、それを遂行しに来たのだ。自分に言い聞かせるように心の中でそう唱える。

 息を深く吸い、えいと気合いを入れて呼び鈴を鳴らす。鋳鉄製の鈴の音が静かな森の中に響く。

 

 魔理沙は出てこなかった。留守なのだろうかと霊夢は思いつつも、念のためもう何回か間を置いて呼んでみた。二回、三回と繰り返しても家はシンと静まり返っている。

 

「居ないなら、仕方ないわね」

 

 そう言って踵を返そうとした霊夢だったが、立ち去りはしなかった。はたと思いとどまるように、その場で足を止める。

 魔理沙が留守だと分かった瞬間、心のどこかでホッとしたことを霊夢は自覚した。今まで何度も魔理沙の家には遊びに来ている。呼び掛けても返事がないこともあった。そんな時、自分はどうしていたか。扉が開いていたなら勝手にお邪魔するくらいの気安さがあったではないか。なのに今の態度はどうだ。

 認め難い感情だった。仕方がないと、まるで言い訳のように、つい口を突いて出た言葉が霊夢は許せなかった。

 

 魔理沙の家の扉に向き直る。もう一度だけ、強く呼び鈴を鳴らすがやはり反応はない。霊夢は再び深呼吸をし、思い切って声をかけた。

 

「魔理沙ー、いないのー?」

 

 しかしそれでも返事はなかった。家の中からは物音一つもしない。本当に留守なのか、それとも寝ているのか。はたまた、居留守を使われているのか。

 霊夢は最後の可能性をあまり考えないようにしながら、試しにドアノブを捻ってみる。すると何の抵抗もなく、扉は簡単に開いてしまった。キイと蝶番の軋む音が鳴り、隙間から家の中が見える。

 相変わらずガラクタに溢れている居間は灯りがついておらず薄暗い。ただでさえ森の中に建っている上に天気が曇りなので、昼時と言えども何かしら灯りを点けているべき暗さだった。二階の窓を見上げるが、そちらも照明が灯っている様子はない。

 

「入るわよ」

 

 よく通る声で一言断ってから、霊夢は家の中に足を踏み入れた。

 人がいる気配は無い。埃っぽい居間は外から見た印象よりも尚、様々な物が乱雑に散らかっている。心なしか荒らし回った後のように感じるのは気のせいか。

 霊夢は後ろ手に玄関扉を閉め、床に散らばっている物を踏まないよう気を付けながら歩く。少し躊躇った後、屋根裏部屋となっている二階も確認してみたが、ベッドはもぬけの殻で魔理沙はいなかった。どうやら出掛けているらしい。

 文机の側にある窓は開け放されていて、レースのカーテンがはためいている。雨が降ってきたら大変だろうと思い、霊夢は窓を閉めてやった。机の上に置いてある便箋等は極力見ないようにしながら。

 

 一階に戻ると、そちらの窓も開いていたことに気付き、雨戸まで閉めて錠をおろす。外からの明かりが閉ざされて部屋はすっかり夜のように暗くなった。霊夢は手持ちのお札を一枚使い、霊力の灯火を手元に出した。青い光が室内を冷たく照らす。

 

 霊夢は魔理沙がどこに行ったのかということに考えを巡らせる。

 扉に鍵がかかっていないことはままあるが、今にも雨が降りそうな空模様なのに窓も全開とは、魔理沙であっても些か不用心過ぎるように思った。何もかも放ったらかして、急いで出掛けたような雰囲気だ。霊夢の直感がそう告げている。

 

「博麗神社ってことは、無いと思うけど」

 

 魔理沙の様子が変だというのは十中八九、件の文通が原因だと察しはつく。きっとその関係で慌てて家を飛び出ただろうということも。ただそれで何処に向かったのかまでは、さしもの霊夢も分からなかった。

 

 今日は帰って出直そうかと思った霊夢だったが、悩んだ末に魔理沙が帰って来るまで待つことに決めた。一度会って話すと決めたからにはそうしなければ気が済まない。博麗霊夢はそんな人間だった。気まずさに負けて堪るかと、意固地な感情が霊夢の中に燻っていた。

 

 しかし待つとは言っても、勝手に家に上がったままでいるわけにはいかない。以前、魔理沙を出し抜くような形で紫たちの未来探索を手伝ったことが思い出される。その轍を踏むようなことは避けたかった。いつ帰って来るかも分からない相手を外で待ち続けるのは相当堪えるだろうが、霊夢にとって図々しく魔理沙の家の中でくつろぐよりはずっとマシだった。

 

 外に出て玄関扉を閉め、そこに背もたれる。霊夢は少なくとも日が暮れるまではそのまま待つ所存だった。待つと言ったら待つ。彼女の厳しい表情にはそんな融通の利かない思いが現れていた。

 

 腕を組んで空を見上げる。一層灰色の濃くなった曇り空を眺めながら、魔理沙は今何をしているのかしらと、霊夢は考えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 その日、風見幽香は暖炉の前で編み物をしていた。外は曇りで、今にも雨が降りそうだった。晴れているなら葡萄棚のテラス出る。それ以外なら家の中に篭ると決めている。

 

 本来、他を圧倒する大妖怪である彼女が糸を編む必要はない。しかし随分昔、暇に任せて手慰みにやり始めてから、自分の性に合っていることを知った。

 

 幽香が紡ぐ毛糸は仄かな光を帯びている。微量の妖力を流し、まじないを掛けながら編んでいるのだ。つまり魔道具を作成しているのである。

 どうせ作るのなら良い物を、と本人は思っているのだが、決してそのような気楽さでやるものではない高等技術だった。

 そうやって今までに退屈しのぎに作った魔法の品々が、幽香の家の倉庫に眠っている。蒐集家である森近霖之助が知れば慌てて買い取りに飛んで来ることだろう。

 

 幽香はふと手を止めて、だいぶん編み上がったマフラーを掲げて見る。熟練の技による編み目は細かく規則正しい。満足そうに頷く。

 

 ただ作って、いたずらに置いておくだけというのも勿体ない。懐っこい人間の少女の顔が思い浮かび、彼女にでもあげようかしらと幽香は考える。これからだんだんと寒くなってくる時期だ。幻想郷の冬は厳しい。贈り物としてはふさわしいだろう。

 

 一息ついてお茶でも淹れようと立ち上がったのと、玄関からノックの音が聞こえたのは同時だった。来客自体が珍しいので、幽香は一瞬反応が遅れた。

 

「まあ」

 

 扉を開けてみると、そこに立っていたのは今しがた頭に過った少女、霧雨魔理沙だった。

 

「いらっしゃい。ちょうどお茶でも淹れようと思っていたところなのよ」

 

 さあ上がって、と温かく歓迎しようとした幽香だったが、どうも魔理沙の様子がおかしい。かなり急いで来たようで息を切らせている。特徴的なとんがり帽子を被っておらず、髪もボサボサだ。何よりも、はつらつとした印象にそぐわない、今にも泣きそうな顔で幽香を見上げてくる。

 

「どうしよう幽香。これ、全然送れなくて」

 

 魔理沙は鞄からガラス瓶を取り出して幽香に見せた。中にはリボンで括られた紙が入っている。幽香は怪訝そうにそれを見つめた後、取り敢えず魔理沙を中に入れた。

 

「まずは落ち着いて。ちょっとここで座って待っていてちょうだい」

 

 暖炉の前にもう一つ椅子を持ってきて魔理沙を座らせる。少しして幽香が出したお茶を啜って呼吸を落ち着けても、その表情は依然として暗かった。

 

「それで、どうかしたの? その瓶は?」

「未来に手紙が送れなくなっちゃったんだよ。幽香、私どうしたらいい?」

 

 どうやら以前言っていた文通のことらしいと幽香は理解する。本人は至って深刻そうだが、少女が文通で悩んでいるだけ。可愛らしいものだと思う。

 

 しかし、なだめながら話を聞くうちに、幽香も魔理沙の焦燥の理由が分かってきた。

 魔理沙は辿々しくもこれまでのことを幽香に話した。八雲紫が見た未来の真実を。そこに暮らす文通相手、八柳誠四郎の尽きかけている命を救うために試行錯誤したことを。

 

「それは……」

 

 事情を一通り聞き終えた幽香は言い淀んだ。余命幾ばくも無い男。そんな彼との文通が途絶えたことの示す意味。出せる結論は一つだけだった。

 

 八柳誠四郎はとっくに亡くなっている。

 

 きっと魔理沙も半ばそれを理解している。手遅れと分かっていながら、それでも認められず、どうにかしたいという一心で幽香の元を訪れたのだ。魔理沙の必死さがそう語っていた。

 

「魔理沙、残念だけど」

「そうだ、この瓶を調べて欲しいんだ。幽香なら何か分かるんじゃないかって思って」

 

 幽香の言葉を遮るように、魔理沙はガラス瓶を優雅に手渡した。幽香は言いかけたことを飲み込み、妖力の宿った瞳でガラス瓶を観察する。

 

 魔理沙の考えていることは理解できる。未来探索を成した八雲紫と同列に扱われる風見幽香ならば或いはと、そう思ったのだろう。

 しかしそれは初めから望み薄だった。幽香は手に取るまでもなく、このガラス瓶からは何も感じ取れないことを悟っていた。直接触れてみればより顕著に分かる。少なくとも幽香から見て、それはどこまでも普通の、何の変哲もないガラス瓶だった。

 

 八雲紫なら何かしら別のものが見えるのだろうか。長い時を生きた幽香でも、時空を超えるという体験はしたことがない。自分が読み取ることが出来ないだけか、それともやはり八柳誠四郎が死んだことにより未来との縁が切れてしまったから瓶の力も無くなったのか。理由は判然としない。

 

 ただ、幽香が魔理沙に告げられる答えは一つだけである。

 瓶をそっと魔理沙に返し、幽香は首を横に振った。魔理沙の目が大きく見開かれる。

 

「残念だけど、私には何も分からないわ」

「そんな……だって、もっとよく調べれば…………瓶がダメなら、直接私を向こうに送ってくれよ。そうしたらまだ可能性はあるから」

 

 魔理沙は縋るように幽香の袖を掴んで言う。切実なその様は、幽香だけでなく誰の目から見ても危うく見えることだろう。

 

『頼み事をされても不干渉を貫いていただきたいの』

 

 以前、八雲紫が釘を刺してきたことを幽香は思い出す。実のところ、幽香にはそんな口約束を守る気などさらさらなかった。魔理沙の考え方次第では協力するに吝かでないと思っていた。

 しかし今の魔理沙の状態を見て、幽香はあの妖怪の賢者の意見が正しいのだろうと知った。

 

 やんわりとした所作で魔理沙の手を離させる。そして幽香は屈んで、少女と視線を合わせた。

 

「よく聞いて。世の中には、どうしようもないことがたくさんあるわ。命は必ずどこかで終わるものなの。花も、人も、妖怪も。今は辛いでしょうけど、時間が経てば貴女もきっと」

 

 幽香は噛んで含めるように諭しながら、魔理沙の頭を撫でようとする。

 幽香の言葉にはたしかな重みがあり、そして母親のような温かさがあった。

 

 だからこそ、幽香の手を、魔理沙は振り払った。瓶を乱暴にカバンの中に突っ込んで立ち上がり、背を向けて駆け出す。

 

「魔理沙!」

 

 幽香の静止の声。魔理沙は立ち止まらなかった。走る勢いのまま玄関の扉を押し開け、外に立てかけておいた箒を取って跨る。真ん中辺りで折れた柄は蔓草で雁字搦めに繋げられていた。

 

 外はいつの間にか雨が降り始めていた。冷たい秋雨だった。

 追いかけてくる幽香から逃げるように、魔理沙は飛び出て行った。濡れるのもお構いなしに雨の帷の中に姿を消す。

 

 幽香は開け放された玄関の前に立ち、しばらくの間、魔理沙が飛んで行った方を物憂げに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 降りしきる雨に打たれながら、魔理沙は無縁塚に立っていた。立ち尽くして自分の足元を見下ろしている。彼女の足元には手紙を入れたガラス瓶がある。それを無縁塚に置いてからけっこうな時間が経っていた。

 

 幽香の家を出た後、魔理沙は無心でこの無縁塚まで飛んで来た。もはや擦り切れた、望みとも言えない虚無的な期待に賭けて。

 

 頭からつま先までぐっしょりと濡れた魔理沙は、呆然と瓶を眺め続けている。

 やはり消える様子はない。

 

 背筋を上る寒気にぶるりと体を震わせる。雨にぐっしょりと濡れ、体が芯から冷えていた。明日には風邪を引くかもしれない。まあ、どうでもいいことだ。いっそ風邪でも何でも拗らせてしまいたい気分だった。

 ふと近くにあった古い鏡に映る自分の姿を見て「なんて惨めだろう」と魔理沙は思った。

 

「無理だな、もう」

 

 無機質な呟きは雨音に混じって消えた。魔理沙はメッセージボトルを一瞥する。拾い上げようと伸ばしかけた手を止め、踵を返した。

 壊れた箒に跨り、無縁塚から離れていく。猫背で俯きながら、頑として振り返らず、魔理沙は帰路に着いた。

 

 もう二度とここに来ることはないだろうと、冷えた心で思いながら。

 

 

 

 

 

 

 自分の家に帰った魔理沙は、箒を捨てるように玄関先に投げ、ズカズカと家の中に入って行った。

 魔理沙を待っていた霊夢は、ずぶ濡れで鬼気迫るような魔理沙の表情を見て、咄嗟に軒先の物陰に隠れてしまった。そのため魔理沙は霊夢がすぐ側にいることを知らない。

 暗い部屋で灯りも点けず、魔理沙は濡れて重たい服を脱ぎ捨て、その辺に落ちているくたびれた部屋着に着替えた。風呂に入って温まりたいと思ったが、湯を沸かす気力も、今は無かった。タオルで乱雑に頭の水気を拭き、床に転がっていた椅子を立ててそこにどかりと座る。

 

 終わりとは、こんなにも呆気ないものか。

 

 魔理沙は固く目を瞑った。不思議と涙は零れなかった。悲しみも寂しさも無い。ひたすらに気力だけが失われていた。

 

「はあ」

 

 もう寝てしまおうかと思い、魔理沙は二階へと上がった。雨戸まで閉められた屋根裏部屋は真っ暗だ。ベッド横のサイドテーブルにあるランタンに火をつける。

 そのまま寝床に倒れ込もうとした魔理沙だったが、ベッドの上には紙が散らばっていた。八柳誠四郎からの手紙だった。読み散らかしてそのままにしていたらしい。

 

 手紙を拾い集めて角を揃える。ついでに文机の方に保管してあるものも持ってくる。魔理沙はベッドに座り、ランタンの灯りの元、おもむろにそれを読み始めた。やり取りを始めた最初。まだ時間旅行など半信半疑だった頃の手紙から。

 

「はっ」

 

 笑いが漏れる。誠四郎の手紙を読んでいると、それに自分がどう返事をしたかも克明に思い出され、魔理沙をむず痒い気分にさせた。今して思えば青臭い内容の手紙を何通も飽きずに送ったものだ。

 楽しさに彩られていた八柳の手紙はしかし、ある日からほんの少しずつ、その内容に陰りを帯び始める。それを読むにつれて魔理沙の表情も固くなっていく。

 

 

『霧雨さんの押し花はどれも綺麗ですね。写真に写っている元の花と見比べるのは大変楽しいです。これが緑の草原に生い茂る季節があるというのですから、私は堪らず、昨日はつい夢にまで見てしまいました』

 

『ご心配なさず、と言っても優しい貴女のことですから、きっと心配して下さるのでしょう。けれど私は大丈夫です。魔理沙さんからの手紙が来るたびに生きていて良かったと思います。それはもう、望外な喜びです』

 

『原子核融合の実験が順調とのこと。本当に凄いことです。魔理沙さんのおっしゃる通り、その技術があれば僕のいる世界も変わっていたかもしれませんね』

 

『魔理沙さんの心遣いはとても嬉しいです。思わず涙が零れました。ただ、どうかこちらに来ることはお止めください。ここは危険です。もう、人の住む場所ではないのです』

 

『最近、なんだか体が軽いような気がします。呼吸も楽です。魔理沙さんが送ってくださる薬のおかげだと思います。お母上にも同じ薬を送られたとのこと。必ず良くなられることと思います』

 

『ふと思ったのですが、こんなに凄い薬はとても高価なのではないですか。私のために無理をされていませんか。そればかりが心配です』

 

 そして最後の一通を読んだ魔理沙は、痛いほどに唇を噛んだ。

 

 

 

 

 

 

拝啓

霧雨魔理沙様

 

お手紙ありがとう。薬も助かっています。ここ最近、喀血が治まってきて苦しいことが減りました。これも魔理沙さんのおかげです。

 

一つ、そろそろ魔理沙さんには伝えておかねばなりません。きっと、僕はもうすぐ死ぬでしょう。自分の体のことですから、何となくそんな予感がするんです。この手紙が最後になるかもしれません。

魔理沙さんが送ってくれる薬には本当に助けられました。苦痛が和らいだように感じます。これならば安らかに逝けるのだろうと思います。

 

魔理沙さん。今までありがとう。本当に感謝しています。貴女がいなければ、僕はこの世界に絶望しながら死ぬしかなかった。魔理沙さんには十分すぎるほどたくさんのものを貰いました。手紙も押し花も写真も、全部大切にとってあります。それを見るたびに、僕は自分が幸せなのだと分かるのです。

 

これが最後になるかもしれない、と書きましたが、改めます。最後にしましょう。勝手に決めてしまいすみません。

でも、だから魔理沙さんもどうか自分の人生を前向きに歩んでください。それが僕の一番の願いです。魔理沙さんは立派な女性で、たいへん素晴らしい魔法使いですから、きっと充実した人生を送れるものと確信しています。

 

短い間でしたが貴女との文通はとても楽しかったです。お体には気を付けて、いつまでも壮健でありますよう。

それでは、さようなら。

 

敬具

八柳誠四郎

××××年×月××日

 

 

 

 

 

 

 短い手紙を読み終えて、魔理沙は肺の空気を全て出し切るほど長く息を吐いた。

 順繰りに読んだ手紙を再びまとめて文机に置きに行く。

 

「ああ…………」

 

 魔理沙の嘆息は、机の上に向けられたものだった。いつも綺麗にしているはずの文机には便箋や書道具が散乱している。手紙を書き殴った後、放置してしまっていたのだ。今まで大事に使ってきた筆は墨が乾き固くなってしまっている。

 

 魔理沙はそれを持ってまた階段を降り、台所の水汲み場でタライに水を張り、そこへ筆を浸した。墨がきちんと溶けるには数日ほどかかるかもしれない。

 きっともう、ちゃんと使うことはないのかもしれないが。

 

 台所の暖簾をくぐり、魔理沙は自宅の居間を一望する。まったくひどい有様だ。どこもかしこも散らかって、まるでゴミ溜めではないか。

 

「なんだ、これ」

 

 使い方も分からぬ機械部品を拾い上げ、魔理沙は皮肉気に笑う。こんな、何の役にも立たないものが数え切れないほどこの家には転がっているのだと思うと、笑うしかなかった。

 

 文通が終わり、魔法の勉強などする気も起きず、何もすることがなくなった魔理沙は今度こそ片付けをしようと決めた。ずっと面倒くさがってしなかったことだ。それを思うと、今は絶好の機会だった。

 

「これいらない。これと、これも」

 

 物置から大きな麻袋をいくつも持ってきて、そこにガラクタを詰めていく。見れば見るほどいらないものばかりだ。無縁塚に落ちていた機械も、香霖堂で買った魔道具も、全部が全部。

 

「これもゴミだな。この辺も。ハッ。ゴミばっかりだな、私ん家」

 

 目についたもの全部をゴミ袋に放り飲込む。一杯になった袋はその場に捨て置き、新しい袋を広げてまたそこに入れ始める。

 魔理沙の行軍は階段を上り二階にも及んだ。だんだんとその手つきは乱暴になっていった。まるで叩き付けるようにゴミを捨てていく。

 

「これも、これも、これも、これもゴミ」

 

 それは側から見れば投げやりな姿にしか見えなかっただろう。しかし現実にそれを知るのは、家の外にいる博麗霊夢ただ一人だった。雨の中、家から響く荒れている物音を聞きながら、霊夢は辛そうに目を閉じた。

 

「これ、は……」

 

 床に転がっていた、液体の入っている小瓶を捨てようとした魔理沙の手が止まった。それには『ごちゃまぜ』と書かれたラベルが貼ってある。おそらくは魔理沙が自作した薬が入っている。

 この瓶を見つけてゴミ箱に捨てたのが、ちょうど八柳のメッセージボトルを無縁塚で拾った日だったのに気付くのと、これがどういう薬なのかを思い出したのは全くの同時だった。

 

 咳止めの薬だった。

 作ったのはもう二年も前になるか。魔法の森に越してきたばかりで、まだ空も飛べなかった頃、魔理沙は薬学の本にかじりついて薬の勉強をしていたのだ。確かに使命感に燃えて、あれこれと試していた。

 

 それは何故だったか。母のためではなかったのか。

 

 結局は何も成功せず送れなかった母への贈り物。持病を治す霊薬を完成させると息巻いていた日々。その失敗作の一つであった。

 

「馬鹿か私は!」

 

 叫んで、小瓶を麻袋に投げ捨てる。薬品用の丈夫な厚手のガラス瓶は他の物にぶつかり、固く冷たい音を鳴らす。

 

「全部ゴミだ! 全部!」

 

 魔理沙は荒れた。やたらめったら、もう片付けの体すら成さず、自分に鞭を打つように今まで集めてきた宝物を捨て続ける。

 

「これも……ッ!」

 

 それが何かも確かめずに捨てようとした魔理沙は、しかしそれをゴミ袋に叩き込むことは出来なかった。

 魔理沙の手にはミニ八卦炉が握られていた。

 

 捨てようとする。けれど捨てられない。こんなもの、と思い切って捨てようとする。それでも捨てられない。

 

 それは魔理沙だけの物ではなかった。霖之助の、パチュリーの、大切な人たちが作ってくれた自分の身には余る魔道具だ。自分の力では無いそれを、後ろめたくも今まで相棒のように何時如何なる時も側に置いてきた。

 

 結局、魔理沙はミニ八卦炉を捨てられなかった。胸に抱いて床に蹲る。

 

「ゴミは私だ!!」

 

 魔理沙の慟哭は張り裂けんばかりだった。屋根を打つ雨音をかき消し、部屋中に響き渡った。

 

「クソッタレの、何も出来ない……何が魔法だ! 何がマスタースパークだ! 一人も助けられなかった! ただの能天気のバカだった!」

 

 思いつくままに魔理沙は自分を罵倒した。もうめちゃくちゃに叩き潰して、いなくなってしまいたかった。

 

「ゴミみたいな五年間だった!!」

 

 涙でくぐもった叫びが魔法の森に広がる。

 空に被る雨雲と、外の壁に背もたれて顔を伏せる霊夢だけが、魔理沙の嘆きを聞いていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十五話





 

 

 

 正午、振り子の置き時計が重い音を鳴らし、魔理沙はそれに促されるように床からのそりと起きた。

 雨戸を閉め切ったままの部屋は暗い。魔理沙は寝不足で鈍痛のする頭を押さえながら窓を開けにいく。

 

「はあ」

 

 空を見上げた魔理沙の口から重いため息が漏れる。半日経って雨こそ上がっているが、灰色の雲は依然として空を覆っていた。魔法の森全体の空気が暗く淀んでいるようだった。

 いや、そう見えるのは自身の心境のせいか。魔理沙は部屋を振り返り、昨日のことを脳裏に浮かべる。

 

 誠四郎の死を悟った夜。文通の日々も、家を出てから積んだはずの研鑽も全てが無意味だと悟った魔理沙は、八つ当たり気味に目につくものを片っ端から捨てた。

 それは確かに自暴自棄になっての行動だったが、これまでに貯め込んできた物を捨てるというのはある種の快感であり、過去の痕跡を一つ一つ目の前から消すことに憑きものが落ちていくような感覚を魔理沙は覚えていた。

 

 魔法の森に移り住んで二年と半年。その間に築いてきたものは今やすべて重石に過ぎない。ならば捨てるのが道理だろうと、短絡的にそう結論付けた。

 そして断捨離をしている内に夜が更け、ついに体力の限界がきて、その場に倒れ込むように眠りこけてしまった次第だ。

 

 結果として、居間はこれまでにないほど片付いている。中央にどっしりと据えられているダイニングテーブルの上には何も乗っていないし、二階へと続く階段にも脱ぎ散らかした衣服は落ちていない。床に散乱していたガラクタの類いは全てずた袋に詰めて玄関先の隅に放ってある。

 今度、無縁塚に返しに行かねばならない。その手間を考えると憂鬱だったが、ずっと自分の目の付くところに置いておくよりはよっぽど良いと魔理沙は思うものだ。

 

「しかしほんと、何も無いなあ」

 

 小ざっぱりとしていつもより広く見える空間を眺めて、魔理沙は苦笑交じりに嘆息した。今までこの家を構成していた物のほとんどが拾い集めたガラクタだったことを改めて悟り、笑わずにはいられなかった。

 

 魔理沙はうろうろと何の気なしに居間の中を歩き回り、やがて椅子に腰を落ち着けた。机の上で腕を組み、その上にこてんと頭を乗せて俯せになる。喉が渇いているので茶の一杯でも淹れようかとも考えたが、今はそれさえも億劫だった。

 頭は働かず、やる気も無く、しかしもうひと眠りしようにも目だけは冴えているので、魔理沙はただ何もない虚空をぼーっと見つめるばかりだ。

 

 これから何をしよう。そんな考えが浮かんでは、答えに行き着かず沈んでいき、また取り留めもなく浮かぶ。

 

 魔法使いになるということ。人生の大目標として掲げていたそれは今やみすぼらしく風化している。どうしてあんなにも焦がれていたのか、魔理沙はさっぱり分からなかった。幽香と初めて会った日のことが思い出されるが、あの時に感じた確かな憧れがどこか他人事のように思えて仕方ない。振り返ってみれば、そればかりを支えにして生きてきたというのに。

 

 なら魔法使いの道は諦めてこの森から出て行くのかというと、そうもいかない。

 実家に帰るのは一人前になってからと決めている。おめおめと帰れるものかと、今でもその気持ちだけはハッキリと持っている。

 しかしその決意が、誇り高い信念や己に課した使命感などに支えられたものではないことも魔理沙は自覚していた。自覚せざるを得なかった。

 何のことはない。ただ恥をかくのが嫌だったからだ。必ず一人前の魔法使いになる、それまでは絶対に帰らない、と家出を反対する父に生まれて初めて真っ向から主張した。一人前という言葉が何者を指すのか知りもしないまま、いつしか引くに引けなくなって。そんなつまらない理由で五年もの間奔放に生き、家族と疎遠になっていたのだ。

 

 魔法への熱意は消えてしまった。さりとて実家にも戻れない。

 

「このまま森で、一人で生きてくのかなあ、私」

 

 ぼやいてみるとそれが思ったよりも現実味を帯びていて、魔理沙をさらに憂鬱な気分にさせた。

 振り子時計の音がする。魔理沙がうだうだと悩んでいる間に時計の短針は一周してしまったらしい。

 時間が経つのが早い。しかし時計を見つめていると逆に遅く感じる。無為な時間とはそういうものだ。魔理沙は自分がこれから一生、そんな寂れた時間の中で生きていくように感じた。

 

 喉の渇きがひどかった。半日以上水分を摂っていないので当たり前だ。肺のあたりも何だかムカムカとして息を吸うのも煩わしい。

 あまりに不快なので魔理沙は嫌々ながら席を立ち、外にある井戸へ行って桶に水を汲み、湯呑も使わず木杓子で掬って飲んだ。

 

 人心地ついて空を見上げるが、依然として陰鬱な雲模様だ。苔むした地面もぬかるんでいて靴越しに嫌な感触が伝わる。

 ついと向けた視線の先には郵便受けがある。何気なしに開けてみたが中は空っぽだった。まあそりゃそうかと魔理沙は思う。射命丸文から買っていた新聞と、あとは毎月届く母からの手紙を受け取る以外はもともと役に立ってなどいなかった。一時期気まぐれでとっていた新聞を止めた今、郵便受けは空ではない方が珍しい。他人とそう大した繋がりなど持っていないのだから。

 

 しかし何故か、魔理沙は違和感を覚えた。郵便受けの蓋を開けたままその場に立ち尽くす。

 

 しばらく考えて今日が何日かという考えに至った。秋も深まりつつある神無月の第一週。月初めは、実家から手紙が送られてくる時期だ。違和感の正体はそれだった。今まで必ず届いていた母からの便りが郵便受けに入っていない。

 

 ついに見捨てられたか。

 一番最初に魔理沙の頭に浮かんだのはそんな考えだった。

 最後に実家とやり取りをしたのはちょうど一カ月ほど前。珍しくも魔理沙の方から手紙を出している。その内容を、魔理沙は今でも一字一句違わず思い出せた。もう帰って来られないかもしれないほど遠いところに行くけど心配はしないで欲しいと、そんな勝手過ぎることを書いて寄こしたのだった。

 ああも無茶苦茶な、決別ともとれる手紙を一方的に送っておいて、ついこの間香霖堂で兄に出くわしてしまった。兄は聡い。自分が行き場を失って腐っていることなど、きっと一目で見抜いたことだろう。普段の兄らしからぬ険しい表情も、出来の悪い妹の凋落ぶりを嘆いていたというのなら納得がいく。むしろそれ以外に考えられないと魔理沙は結論を出し、思わず笑いをこぼした。自嘲的で小馬鹿にしたような最低の笑い方だと我ながら思った。

 

 空っぽの郵便受けから逃げるように家の中に戻り、意味もなく鍵を閉める。

 片付けをしたばかりの居間はこれまた空っぽで、何の面白味も無く、魔理沙は一瞬気が狂いそうになるほどの激情に駆られた。訳が分からない。もう自分が自分ではないみたいで心底嫌になる。これから一生こんな気持ちを抱えて生きていくのかと思うとそれこそ気が狂ってしまいそうだった。

 

 寝よう。寝てしまおう。そうすれば幾分かマシだ。

 まるで眠くないことを無視して、魔理沙は屋根裏の寝室に上がった。乱雑に靴を脱ぎ、自分の体を叩きつけるような勢いでベッドに倒れ込む。ベッドの枠組みがギシリと悲鳴に似た軋みを上げた。

 

 一向に眠れる気配は無く、魔理沙はごろごろと何度も苛立たし気に寝返りを打つ。目を閉じればその内眠くなるだろうと思ったが、今はかえって音に敏感になってしまい余計に落ち着かないだけだった。

 

 しかし目を開けていても不快である。嫌なものばかりが視界に映る。屋根裏部屋はまだ一階ほど片付けておらず、あまり綺麗とは言えない状態だ。散乱したままのガラクタはやはり魔理沙を腹立たせるし、前までは気にならなかった埃っぽさも嫌に鼻についた。母からの手紙や、八柳誠四郎とのやり取りの記録が残されている文机など見たくもない。

 

 そうやってうじうじとベッドの上で無意味に腹を立てていた魔理沙の目が、サイドテーブルに置いてある愛用の鞄に向いた。昨晩に放り出したままの状態で、ベルトの留め具が外れて口がだらしなく開いている。中からはくしゃくしゃになった新聞がはみ出していた。

 

 なぜ新聞が。

 

 魔理沙は覚えのないそれを訝しみながら手に取り、しわを伸ばして見てみる。『文々。新聞』だ。日付は四日前のもの。ややあって、香霖堂から持ち出してしまった物だと気付いた。霖之助がやけに神妙な顔で「この前の新聞を読まなかったのか」と聞いてきたのでその場で物色したのをそのまま持って帰ってしまったらしかった。居合わせた兄から逃げることに精一杯で意識の外だったのだろう。実に情けない話だ。情けないくせに手癖も悪いのだからどうしようもない。

 

 魔理沙はまた内心で自分を責めながらも、好奇心に惹かれて新聞を読み始めた。霖之助が何を伝えようとしていたのか気にはなっていた。また、一度言いかけておいて「知らないならいい」と思わせぶりに突き放すのだから余計に知りたくなるというものだ。

 

 初めに目を通したのは裏面の端にある小さなコラム。父の寄稿する『古道具小噺』を追っていたため、確認する記事の順番に癖がついていた。

 今回は他の人が書いたらしい野菜の話だった。魔理沙はやや残念そうに息をつき、改めて霖之助が話題に出した記事がどれかを探そうと紙面を翻した。

 

『長屋で大火事。四軒が全焼す』

 

 表にある大見出しはそれだった。綺麗に撮られたモノクロ写真も載っている。映したのは消火後のことのようで、見るも無残に焼け落ちてしまった家々とその周りに集まる大人数の民衆が映っている。

 

 写真に色こそ無いが、そこは魔理沙の見覚えのある景色だった。火事を免れた他の家と、後ろから覗く火の見櫓から、自分の実家の近くであることが分かった。

 魔理沙の呼吸がにわかに浅くなる。心臓を鷲掴みにされたような心地がした。

 

 火事が起こったのは五日前の夜中だったと書いてある。出火元は煮炊き用の釜土で、おそらく燃え残っていた炭か灰が原因だろうと記者の考察が添えられている。

 よくある話だ。実際、魔理沙も小さい頃に何度か、火事の現場を見たことがあった。問題は、そう、実家のすぐ近くで火事が起きたという事だ。

 

 記事を読み進める。被害情報。幸いにして死者は出ていないとのことだ。住人数名と火消しの男衆のうち一人が軽い火傷を負ったが命に別状は無いらしい。

 しかしその後に載っている文面は、魔理沙の顔面を蒼白にさせるのに十分だった。

 

『古道具屋・霧雨店の奥方が意識失う。煙を吸い込んだのが原因か』

 

 魔理沙はそこから先の文を読むことが出来なかった。多くの人が見舞いの品を持って訪れている様子が書かれているが、瞳孔が開いた魔理沙の目は紙面を上滑りするだけだ。

 

 母の心肺の弱さはよく知っている。新鮮な空気が必要で、常に部屋の窓を開け放しているのだ。そこから煙が入ったというのか。

 

 幼少期、もうダメかもしれないという瀬戸際まで悪化し、眠る母の横で一晩中すすり泣いたことを魔理沙は今も覚えている。長すぎる夜だった。その時の恐怖がまざまざと思い出され、魔理沙の思考を埋め尽くした。

 

 脳内で、先日の香霖堂での出来事が瞬時に結び付く。朗らかなはずの兄が見せた固い表情。いつになく真剣な様子で家に帰ることを勧めてきた霖之助。

 彼は言った。家族が弱っている時は側にいるものだろうと。

 

 魔理沙は弾かれたように駆けだした。

 衣服のしわや乱れた髪を梳く暇もない。持ち物の確認もせず鞄を掴み、他のゴミと一緒にまとめておいた箒を引っ張り出す。乱暴に扱ったせいで、蔓草で縛っていた柄がまた折れてしまっている。ゴミの山から針金を見つけた魔理沙は、それで応急手当とした。醜く不格好で、決して空を飛ぶのに相応しい代物ではないが、今そんなことに気を配る余裕は欠片も無かった。

 

 箒に跨り、間髪入れずに飛び上がる。出力調節を無視した急上昇。押し潰されそうな風圧を受けるが、そんなものを気にしてはいられない。

 人里の方角を睨む魔理沙の表情は鬼気迫っていった。一直線に風を切り裂いて飛翔する。箒が壊れているせいか時々ふらつくが、それを無理やりに立て直しながら魔理沙は飛んだ。

 

 バカだ。本当にバカだ。

 

 心の中で繰り返しそう唱えた。滲んだ涙が風に吹かれて落ちていく。

 自分のことばかりにかまけて何も見えていなかった。前に進んでいる気でいたのに、本当は昔よりずっとダメになっている。兄が自分の堕落ぶりに失望していたなどと、月一の手紙が届かなかったから家族に見捨てられたなどと、そんなふざけたことを考えていた自分を魔理沙は殴り殺してやりたくなった。

 

 しばらく飛ぶと、森の切れ目が見えてきた。その遥か先に人里がある。数刻前、もう二度と帰ることはないと思っていた故郷。それを目にした魔理沙の瞳が躊躇いがちに揺れる。

 魔理沙は僅かでも躊躇したことを恥じるように、箒を握る手に力を込めた。

 

 人里が近づく。魔理沙の生まれ育った郷里が。

 空から見下ろすと焼失した長屋の一部が一目で分かる。その側に立つ、自分の実家も。

 

 魔理沙は墜落するように砂塵を上げて大通りに着陸した。道を行き交う人々がどよめく。

 すぐ目の前には大きな屋敷がある。霧雨店の看板を掲げる、魔理沙の生家があった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十六話

 

 

 

 曇天のある日、霧雨店は通常通りに営業していた。豊富な骨董品を見て回る客は多く、店員は様々な要望に応えるため忙しなく動いている。

 

 勘定台で番をしている店員もまたひっきりなしに来る客の対応に追われているが、会計を済ませる客の中にちらほらと、何やら物を預けていくだけの人々が幾人かいる。大きい風呂敷に包まれた荷物を置いていく奥方や、野辺に咲いているような可愛らしい花を持って来る子供まで、物も人も種々さまざまである。

 

 店員はお礼を言いながらそれらを恭しく受け取る。持参した品を渡し終えた客は皆一様に「奥さんにはお大事にと」などと言って去っていく。どうやらそれらは全て見舞いの品のようだった。

 

 そんな店内からは目立たない場所、応接間となっている奥座敷に通ずる襖が開き、霧雨店の店主である青年が出てきた。その後からは恰幅の良い中年の男が続く。ふくよかな顔に笑みが浮かんでいるのは商談が上手くまとまったからか。二人は「本日はありがとうございました」とか「いやいや、こちらこそ、またよろしく」などと話しながら店の外へ向かう。

 

 勘定台の上にいる店員が二人に気付いて頭を下げた。店員の側には上等な布が敷かれ、そこに客から預かった見舞いの品の数々が置かれている。

 それを中年の男が見て、自分も持ってきたことを思い出したのか「おお、そうだ。これを良かったら清さんに」と袖内から小さな包みを取り出して渡す。北の大通りにある有名な菓子屋の品だった。

 

「ありがとうございます。これは母の好物でして、きっと喜んでくれます」

 

 頭を下げる霧雨の若店主に、「それは良かった」と中年は笑う。しかし今度は眉を八の字に曲げ、難しそうな顔をした。

 

「どうだい調子は。まだ良くはならないかい」

「ええ……かなり煙を吸い込んでしまったみたいで、まだ苦しそうにしていまして。熱も出てしまいましたから、今は侍女に付ききりで世話を頼んでいます」

「そうかあ。早いとこ元気になればいいがなあ」

「はい。永琳先生が言うには命に関わるわけじゃないそうですが……」

 

 店主である青年の顔にはどれだけ上手に繕っても隠し切れない疲労が滲んでいた。「そんなに悪いのかい」と心配する中年に、困ったように微笑んで「いや違うんです」と答える。

 

「どちらかと言えば妹のことが気がかりで。母の話を聞きつければ飛んで帰ってくると思ったのですが、この前会ったらどうもひどく思い詰めた様子でろくに話も出来なかったものですから」

 

 言わずもがな、魔理沙のことである。霧雨家のやんちゃ娘が家を飛び出て魔法の森に移り住んだというのは人里では有名な話で、中年の男もなるほどと納得したように頷いた。彼女がずっと実家に帰っておらず、鬱蒼とした森の中で魔法使いの修業に明け暮れていることは周知の事実だった。

 

 ここ最近快方に向かっていた母親は不運な事故で容態が悪化し、妹は帰省しないどころかあまり手紙も寄こさず安否が気遣われる。今、若くして店を継いだこの青年の背には、家族が散り散りになってしまうかのような重苦しい不安が圧し掛かっているに違いない。

 

「大丈夫さ。魔理沙ちゃんは昔からお母さん子だったじゃないか」

「はい、その通りで」

「あの子だって何か事情があって会いに来られないんだよ」

 

 人の良い中年の男は「君も元気を出しなよ」「きっと大丈夫だ」とひとしきり励ましの言葉を送ってから店の外へと出て行く。青年は父の代から何かと世話になっている男に感謝を述べて見送った。

 

「事情があって、か」

 

 青年は側にいる店員にも聞こえないくらいの小声で呟いた。その事情とやらが分からないから心配せずにはいられないのだと、彼の表情が物語っている。

 

 妹の魔理沙と香霖堂で出くわしたことは記憶に新しい。逃げられてしまいまともに話が出来なかったが、切羽詰まったような、後の無くなった人間がするかのような表情を実の妹が浮かべていたことは確かだった。夏の頃に会った時はまだ元気に見えただけに、この短期間で何があったのかと心配になるのは無理からぬことだ。

 

 あの後、森近霖之助に事情を尋ねてみたがはっきりとした答えは返って来なかった。何か知っている風ではあったが霖之助もそこまで詳しい話を聞いたわけではないのか、説明に困っていた。しばらく考えて彼が言ったのは「まあ、なんとかなるだろう」と悠長なものだった。

 

 それで余計に心配になった青年は、魔理沙の親友である博麗霊夢に様子を見て来てもらうよう頼んでいたのだが、まだその報告も聞けていなかった。近頃の魔理沙について知っていることがないか聞いても、常に泰然自若とした博麗の巫女には珍しく歯切れが悪かった。彼女と魔理沙の間に何かあったのだろうかと、青年はさらに不安を募らせるばかりである。

 

「大丈夫です。お客様の言った通り、魔理沙お嬢様はきっとお戻りになられますよ」

「……うん。そうだな」

 

 表情を固くしている店主を心配してか使用人の一人がそう言って励ます。

 帰って来るか、来ないのか。妹に対して真に心配しているのはそこではないものの、青年は笑顔を作って応えた。

 

 いずれにせよ、魔理沙はまだ幻想郷から出て行ってはいない。しばらく前に珍しく向こうから送ってきた手紙には『ずっと遠くに行く。もう会えないかも』と実に不穏なことが書かれていたため霧雨家は一時騒然となったが、霖之助の伝手でどうも大事は無いらしいという事を知った。

 消息を断つことが無ければ、いずれ好機にも相まみえる。母の容態も良いとは言えないが、決して死に瀕しているわけではない。

 

 そう、いずれ。いずれ魔理沙と話し合い、昔のように家族団欒を…………。

 

 突然、店の外からとんでもない轟音が響き、祈りにも似た青年の思考を吹き飛ばした。

 

 何が起こったというのか、恐るべき風圧により重い暖簾がめくり上がり、それと共についさっき店を出た得意客である中年の男が間の抜けた悲鳴を上げながら倒れ込んできた。

 

 いったい何が。

 とにかく無事を確認しなくてはと青年が駆けつけたのと、金色の髪の少女が飛び込んできたのは同時だった。

 

「母さんは!?」

 

 挨拶も何もかもすっ飛ばして襲来した少女、霧雨魔理沙が叫ぶ。血相を変えた彼女はどれだけ急いで来たのか、普段から愛用しているとんがり帽子は無く長い髪は散々に乱れている。

 

「兄ちゃんってば! 母さんは無事なの!?」

 

 魔理沙に揺さぶられるも、青年はあまりのことに言葉を失っていた。

混乱した頭でどうしたものかと必死に状況を整理しようとする傍ら、不幸にも魔理沙に吹っ飛ばされてしまった得意客を心配してそちらに目を向ける。

 中年の男は倒れたまま「ほら言った通りだろう」とでも言うように、兄妹の再開を祝し笑顔でサムズアップをして見せた。

 

 

 

 

 

 

 先ほどまで商談に使っていた応接間で霧雨の兄妹が向かい合わせに座っていた。魔理沙は気まずそうに俯いて出された茶を啜り、青年はそんな妹の様子をじいっと見ている。

 

 いきなり帰って来たかと思えば「母さんに会わせて」と言って聞かない魔理沙を宥めるのに霧雨店の面々は苦労した。肺を患っている母は先ほど寝たばかりで今は安静にしなければならない。兄がそのことを根気強く伝え、なんとか今の状況に落ち着いた次第である。

 

「新聞、読んだのか?」

 

 兄が聞いた。責める様子なんて欠片も無い、優しい声だった。

 魔理沙がこくりと頷く。新聞の購読を止めていたこと、霖之助が持っていた朝刊を持ち帰ってしまい、それで初めて火事の件を知ったことをしどろもどろに伝えると、兄は納得したように「なるほど」と息をついた。

 

「心配だろうけど大丈夫だよ。永琳先生に診てもらえてさ、命に別状はないって話だ。今朝からはだいぶん呼吸も安定してきて寝苦しそうな様子も無くなったしね」

「そう、なんだ。良かった。ほんとに」

 

 口調こそ固いが、魔理沙の言葉に込められている安堵は本物だった。それを察してか兄は嬉しそうに笑った。

 

「俺は魔理沙のことの方が不安だったよ。ほら、前に香霖堂であった時、様子が変だったから」

 

 言われて、魔理沙の肩が震える。俯いて体を強張らせている様は、まるで悪いことをした子供が親の拳骨が飛んでくるのを今か今かと恐れているようである。

 

「前にもらった手紙も……なあ魔理沙。困っていることがあるなら家を頼っても良いんだよ」

 

 それは兄の心からの言葉だったのだろうが、魔理沙は顔を下げたまま黙りこくってしまった。間を持たせるためにちびちびと飲んでいた茶もすでに飲み干してしまっている。

 

 魔理沙は今、悩んでいた。

夢を諦めたことを言うべきか否か。

 

 まだ年端も行かぬうちから家を出て魔法の森に住みついた自分のせいで、どれだけ家族に心配をかけてきたか。今ここで「魔法使いになることは諦めて家に帰る」と言ったなら兄を安心させられるだろうと魔理沙は思った。母も、きっと父も。もう迷惑をかけずに済む。

 

 しかし一方で、それは耐え難く惨めだと、幼い自分が叫んでいることも魔理沙は自覚していた。在りし日、魔法の森に移り住んでまだ間もない頃の自分。独り立ちの興奮と、これからの躍進を想い胸躍った記憶はあまりに色濃く、はっきりと魔理沙の中に残っていた。

その日の自分が告げる。ここで「諦めた」と口にしたら、もう二度と戻れなくなると。

 

 それは憧憬への明確な否定であり、夢を追い続けてきた過去との別離であり、もっと言うなら八柳誠四郎との文通や彼のためと東奔西走した日々の全てを『過ぎた事』として扱うことに他ならない。自分の夢を応援してくれていた人、それも血を分けた兄に面と向かって挫折を告白してしまえば、魔法使いの霧雨魔理沙ではいられなくなる。

 

 昨晩、家を片付けて気持ちの整理も付けたと思っていた。すでに覚悟を決めたものと自分に言い聞かせていた。

 だというのに土壇場になるとこうも簡単に心が揺らぐ自分を魔理沙は恥じた。あれだけうだうだと考えたのに、結局は一歩たりとも前に進んではいなかったのだ。

 

 部屋はシンと静まり返っている。ちゃぶ台の下でスカートの裾をぎゅっと握り締める妹に何を思ったのか、兄である青年はしばらくしてその沈黙を破った。

 

「ひとまず、母さんに会って来ると良い」

「えっ」

 

 魔理沙が初めて顔を上げた。

 

「でも、寝てるんだろ?いいよ。私はまた、今度来るから」

「無理に起こしたりしなければ大丈夫」

 

 店に突貫してきた時とは打って変わって魔理沙の態度はしおらしい。反対に、兄の温和な口調の奥には有無を言わせぬ力強さが込められていた。

 

「母さんに会うために帰ってきたんだろう」

 

 その一言で魔理沙は拳をいっそう固く握りしめた。香霖堂の時のように逃げ出したい衝動に駆られたが、なけなしの理性が打ち勝った。

 

「分かった。行ってくる」

 

 兄にそう告げて部屋を出る。

 

 住み慣れた実家は、久しぶりに帰ったにも関わらず懐かしいという感じはしなかった。板張りの廊下の僅かな軋みも、骨董屋特有のどこか古臭い匂いも、全てが幼い頃の記憶のままだった。

 

 一歩一歩、階段を上がる魔理沙の足取りは重い。

 兄との会話を挟んだことで焦燥がなくなった今、魔理沙はどんな顔で母親に会えばいいのか分からなくなっていた。

 

 二階の廊下の突き当りに母の部屋はある。そのほんのわずかな距離がどうしようもなく長く感じる。

 

 やっとの思いで廊下を渡った魔理沙は襖の取っ手におそるおそる手をかけて、決して音を立てないよう慎重に戸を開いた。

 

 家の様子がそうだったように、母の部屋も数年前から代わり映えしていなかった。四隅に埃一つない清潔を保った床。折り畳まれた美しい着物がいくつも入っている檜の和箪笥。起き上がるのが楽なようにと設えた足の高いベッド。薄絹のカーテンが掛かった窓から見える大きな栗の木。

 

 景色も、匂いも、肌に触れる空気の感覚さえも、昔のままだった。

 そしてベッドに横たわっている母の姿も。

 

「母さん」

 

 魔理沙の口から無意識に呟きが漏れる。足音を殺して歩み寄り、寝ている母の顔を覗き込む。

 

 目を瞑り静かに眠る母を、魔理沙は息すら呑んで見つめた。二年ぶりに見る母親の顔はほんの少しだけ老いた印象を受ける。何一つ昔と変わらない部屋の中で、母だけが時を跨いだようだった。

 

 布団から出ている母の手は瘦せている。魔理沙は起こさぬよう気を付けながらその手に触れた。伝わってくる体温により確かに母が生きているのだという実感が湧き、魔理沙の表情がほんの少し緩む。

 小さい頃によく頭を撫でてもらったり、破いてしまった手拭いや着物などを巧みな針仕事で繕ってくれた手は、いま改めて見ると随分とか細くて小さかったが、それでも紛れもなく母の手だった。

 

 魔理沙は母の手を握りながら、自分の胸の奥から深い愛情が湧いてくるのと同時、ずっと抱き続けてきた罪悪感が息苦しいほどに膨れ上がるのを感じていた。自分の身勝手でこの人をどれだけ心配させたのかと思うと、涙すら浮かんでくる。

 

 そうして思わず握る手に力を込めてしまったからか、はたまた側に人がいる気配を感じたからか、眠っていた魔理沙の母がゆっくりと瞼を開けた。

 

「……魔理沙?」

 

 やや眠たそうに、まだ半分夢の中にいるような声音で娘の名を呼ぶ。魔理沙は咄嗟に手を放して視線をさ迷わせた。母の顔がこちらに向くのを視界の端にとらえながら、ぎこちない言葉を紡ぐ。

 

「うん、その……ただいま。母さん」

 

 人里を出てから今まで一度も会いに来なかった娘が突然枕元に現れたことに母である女性はしばらく驚いていたが、少しずつ状況を理解し始めたようで柔和に微笑んだ。

 

「おかえり、魔理沙」

 

 温かく、当たり前のようにそう言われて、魔理沙は次に何を言えばいいのか分からくなり黙ってしまう。非難されるのも覚悟の上だったのに、実際に会ってみればやはりと言うべきか、兄も母も自分の帰りを喜んでくれる。それがどうしようもなくむず痒く感じてしまう。

 

「お見舞いに来てくれたの?」

「うん……火事のこと、新聞で読んだから」

「そう。ありがとね」

 

 そう言いながら体を起こそうとする母親を魔理沙は慌てて止めた。

 

「あ、安静にしてなきゃ駄目だって!」

 

 肩を掴んで強引に、しかし決して手荒な扱いはしないよう気を配りながら寝かせようとする魔理沙に、母は「大丈夫よ、起き上がるくらい」と可笑しそうに笑う。その笑顔にはあまり力が無くやはり弱っているのだろうと分かるが、兄が言っていたように命に関わることはないというのも本当らしい。

 

 魔法を学んできた魔理沙には伝わるのだ。生き物であれば必ず持ち得る生命力、時に魔力とも言い換えられる、その脈動が。

 先ほど母の手を握ったとき確かに感じ取った。母はまだちゃんと生きているのだと。自分が心配するようなことは無かったのだと。

 

「とりあえず、大丈夫そうでちょっと安心した」

「皆から随分と良くしてもらったもの。平気よ、このくらい」

「そっか……えっと。あのさ。急いで来たから花とか何も持ってこれてないんだけど」

「いいのよ。魔理沙の顔を見れただけで十分。こっちこそごめんね。いつもの手紙送り損ねちゃって、心配かけたわね」

「いや、私の、方こそ…………」

 

 安心してしまった魔理沙は、次にどんなことを話せばいいのか分からなくなり、まごついてしまう。数年ぶりに会ったというのに兄の時と同様、普段の自分らしくもなくぎこちない態度になってしまうことが無性に腹立たしかった。

 

 魔理沙がそうやって悩み沈黙し続けても、母は不思議と何も喋らなかった。温かく真摯な瞳を向けながら娘の言葉を待つその様子は泰然自若としたものだった。

 

 魔理沙はそんな母の姿勢に覚えがあった。自分も兄も、子供が何か話したいことがあった時、それがどんなに下らないことでもちゃんと聞いてくれた。たったそれだけのことが幼心をどれほどに満たしてくれたことか。

 

 今そこにいるのはまさしく、記憶にある母親そのものだった。家を離れて何年経ったとしても、やはり母は母だった。

 

「帰ってきたのはお見舞いのためでもあるんだけど、少し話しておかなきゃいけないことがあって」

 

 暫くの逡巡の後、魔理沙はそう口にした。母が頷いて話の先を促す。

 

「私さ、ガキの頃に家を出てもう随分経つじゃん。それで、その、色々やってみたんだ。箒で空飛んだり、魔法の森のキノコで薬作ってみたり、弾幕ごっこの特訓したり、動く石像なんてのも作ろうとしたりさ。まあ最後のは全然できなかったんだけど」

 

 取り留めもない思い出をぽつぽつと語る。魔法の森に移り住んで三年にも満たない、短くも濃かった日々を。

 

「でも最近分かってきたんだよね。なんつーかな、年取ってちょっとは大人になったっていうか、自分が客観視できるようになったていうかさ」

 

 『好きなだけではやっていけない』

 家を出る前、父親に嫌というほど言われた言葉。あの時は右から左に聞き流していたその説教が今になってこれ以上ないくらいの真実味を帯び、魔理沙の心の大部分を占拠していた。

 

「魔法ってあんまし役に立たないんじゃねえかな……なんて」

 

 一つの物事を突き詰めるというのは大変なことである。やっていく内に、理想を語るばかりではどうにもならない現実の壁というものに突き当たる。自分の才能の底だったり、成長の限界だったり、様々に表現されるそれを知った時、凡人は理想の形というものを見失うのだ。

 

 当初、未熟な頃に抱いた誇大妄想とも呼ぶべき理想は、経験を積むにつれて神秘のヴェールを脱がされていく。そうしてある時ふと、かつての情熱を失っている自分に気が付く。まだ叶えてもいないはずの夢が色褪せて見えることを知ってしまう。

 

 知ってしまえば、平静ではいられない。先に待っているのは胸を苛むような苦しい葛藤だ。

 そして大抵は折れてしまう。理想と現実のズレはいとも容易く、人の夢を砕き得る。掲げた夢が大きければ大きいほどに葛藤もまた強くなる。

 

 魔理沙が今まさに直面している壁とは、そういうものだった。

 

「いや、本当に役に立たないわけじゃないんだけどな。実際にアリスとかパチュリーは凄いし。でもそれって、魔法の中でも一つの分野を極めているからこそなんだよね。魔法を極めるって私も家を出る前はしょっちゅう言ってたけど、よく考えたら滅茶苦茶大変なことだった。地味だし、忍耐力もいるし、掃除しないとゴミもすぐに溜まっちゃうし」

 

 魔理沙は父が何故、魔法使いになることを反対していたのか理解した。老舗の骨董屋を切り盛りし、年相応に経験を積んだ父には分かっていたのだろう。人里の出の、なんの変哲もない少女の貧弱な足では、魔道という茨の道を突き進めないことに。

 

「役に立たないって言ったのは、その……つまり私のこと」

 

 魔理沙の声が僅かに震え始める。母親と目を合わせていられず視線が泳ぐ。

 

「ほら、母さんも知っての通り私って飽き性じゃん。それなのに色んなことにすぐ興味持つから、あちこち目移りしちゃってさ。たぶん出来ないんだよね。一つを極めるっていうのが。結局どれもこれも中途半端で、一流なんか全然遠くて、一人の人間も助けられなくてさ」

 

 おそらく自分以外の皆はとっくに分かっていたことなのだろうと魔理沙は思う。家族や森近霖之助はもちろん、霧雨家に奉公する使用人や魔理沙を知るご近所の方々、そして博麗霊夢も。

 

 今まで散々わがままばかり言ってきたのだ。これを機に踏ん切りをつけなくてはいけない。過去の清算をしなくては、この先一歩も前には進めなくなる。

 

 魔理沙の頭の中にはそんな考えがぐるぐると途切れることなく渦巻いていた。煮詰まった思考が他の一切を追いやって、口から言葉を吐き出させる。

 

「母さんや兄ちゃんには心配かけたし……あと父さんにも。だから、ごめん。今まで迷惑かけてごめん。母さんがこんなことになるまで家にも帰ってなくて、ごめんなさい」

 

 俯いてこぼす途切れ途切れの謝罪は涙声だった。もう魔理沙は止まれなかった。ついさっき、兄と話していた時には土壇場で口にするのを躊躇った言葉が、喉でつっかえることなくスルリと上ってくる。

 

「もう満足したから、十分わかったから、だから私はもう、魔法は……」

 

 そう言いかけた魔理沙は、はたと喋るのを止めた。自分でも気付かぬうちに膝の上でぎゅっと握り締めていた拳に、母の手が柔らかく被さっていた。

 伝わってくる魔力はやはり弱々しい。自分よりもずっと。しかしそれと同時に感じる体温はとても温かかった。

 

「悩んでいるのね、魔理沙」

 

 それまで魔理沙の話を真摯に聞いていた母は言った。

 

「……悩んでいるっていうか、悩んだ後っていうか」

 

 思ってもみなかった言葉をかけられて魔理沙はたじろいだ。戸惑う中で、今の自分は悩んでいるように見えただろうかと考える。

 すでに結論は出た。夢は諦めたのだ。

 そう思っていたのだが母のたった一言に魔理沙の心は揺らいだ。何故か、核心を寸分の狂いなく射抜かれたような感覚があった。

 

「もういいって本気で思っている人は、そんなに苦しそうな顔しないわ」

 

 苦しそうな顔を、しているだろうか。

 魔理沙は母に何か言い返そうとしたが言葉にならなかった。もう自分が今どんな表情をしていて、どんな気持ちでこの場にいるのかも分からなかった。

 

「たくさん色んなことを知って、たくさん悩んだのね。母さんも父さんも知らないことを、いっぱい見てきたのよね」

「そんな……私は、何も……」

「母さんは魔理沙のように頑張れたことが無いからあまり大層なことは言えないけど、苦しいくらい悩むのはきっとそれだけ真剣だったからよ。ずっと頑張ってきたのよね、魔理沙?」

 

 偽りの決心が脆く崩れていく。自分を納得させるために繰り返し唱えていた『諦め』の二文字が霞のように薄れて消える。見切りをつけたと思っていた気持ちが灰の中から蘇り、魔理沙の胸を焦がすように燃え始めた。

 

 頬に何かが伝う感触がある。拭ってみて、魔理沙はようやく自分が泣いていることに気付いた。燃えるような胸の内から込み上げてきた熱い涙だった。

 

「ねえ魔理沙。あなたはどんな魔法が使えるの?母さんに教えて欲しいな」

 

 虚飾さえ張ることのできなくなった魔理沙は記憶にあるがまま自分のできることを挙げ連ねた。

 

 空を飛べることや熱を操れること。薬の調合や、パチュリーから借りた本で古今東西の民間療法を勉強したこと。アリスに手伝ってもらって小さな泥人形を僅かに動かしたこと。多くの人に協力してもらってミニ八卦炉を改良したこと。

 

 成功したことも失敗したことも。今までの経験が魔理沙の口から自然に言葉として紡がれる。

 

 段々と嗚咽交じりになっていく。魔理沙は止めどなく流れてくる涙を何度も何度も拭った。それでも拭いきれずポタポタと床に落ちる。

 

 話すうちに魔理沙の脳裏にはかつての憧憬が、当時の感動をそのままに、色彩すら伴って蘇っていった。それは家を出る五年前よりも遥か昔のこと。子どもだけで里を抜け出して探検に出た、忘れじの記憶。

 

 大妖怪・風見幽香と出会った日、初めて魔法というものを目にした。そして憧れ、自分も魔法を使えるようになりたいと思った。

 

 今の今まで、力に魅入られたからだと思っていた。魔法使いになりたいという夢を抱いたのは、自分を助けてくれた幽香のようにカッコよくなりたかったからだと魔理沙は思い込んでいた。

 

 でも違った。

 あの日の出来事で何よりも鮮明に思い出せるのは、幽香におぶってもらった時の心強さと安心感。家に招かれてお茶をした喜び。そして幽香が持たせてくれた花を贈った時の、とても嬉しそうに笑った母の顔。

 

 あんなにも幸せなことがこの世にあるのかと思った。この気持ちをこれから先何度でもと、そう思った。

 

 だから、自分にとっての魔法は、きっと……。

 

「う、うう……ひぐっ、ぐすっ……」

 

 もう魔理沙は言葉を続けられなかった。膨れ上がった感情を抑えようもなく、ただひたすらに泣くしかなかった。

 

 母は起き上がり、泣きじゃくる愛娘を優しく抱きしめた。そんな母の目にもまた、一粒の涙が光っていた。

 

「本当にたくさんのことを経験してきたのね。色んな人に囲まれて、色んなことを知って。とても素敵なことを学んできたのね、魔理沙」

 

 魔理沙はついに大声で泣き出してしまった。今まで溜め込んできたものを全て吐き出すかのような泣き声が部屋いっぱいに響く。

 

 母は小さな子どもみたいに泣き続ける魔理沙を抱きしめたまま、泣き止むまでその背中を撫で続けていた。

 

 

 

 

 

 

「落ち着いた?」

「うん……」

「やっぱり私、もうちょっとやってみるよ。本当の一人前になんて何時なれるのか分からないけど今までみたいに……ううん。今までより真剣にやってみる」

「そう。応援してるわね。お母さんも、皆も」

 

 しばらくして泣き止んだ魔理沙は、赤く腫れた目元を恥じるように擦りながらも確固たる意志を込めて言った。

 

「あと、それとさ、このことは誰にも喋んないでくれよ」

「分かったわ。二人だけの秘密ね」

 

 魔理沙のせめてもの口止めに、母は穏やかに答えた。秘密も何も、かなり大きな声だったので階下にいる人たちにも魔理沙が泣いているのは聞こえていただろうけど。

 

「なんか私、ずいぶん変なこと言っちゃってたな。そもそもたった数年で一人前になれるわけないのにさ。なのにごちゃごちゃ考えて、分かったようなこと言って……ほんと、冷静になってみると恥ずかしい」

「好きなことでも続けている内に悩みの一つや二つ出るものよ。お兄ちゃんだって、お店を継いでから暫くはすっごく苦労していたんだから」

「そうなの?」

 

 魔理沙が目を瞬かせて聞く。兄が経営に苦労していたというのは初耳だったし、露ほども考えたことが無かった。以前、うどん屋の軒先で出くわして話した時は至って順調そうだったし、今まで母が寄こした手紙にもそんなことは書かれていなかったからだ。

 

「品物の管理のことでお父さんに怒られたり、仕事を間違えて得意先の方々へ謝りに行ったりね。何もかも初めてのことばかりだもの。きっと誰だって最初は大変よ。でも魔理沙もお兄ちゃんも、うちの子は二人とも立派に自分の道を歩いていて、母さん鼻が高いわ」

 

 真っ直ぐにそんなことを言われて、魔理沙は照れ臭くなりそっぽを向いた。母が可笑しそうに笑う。

 

「そうだ、折角だもの。今日は家で晩御飯を食べていったらいいじゃない。魔理沙の部屋も昔のまま、綺麗にしてあるわよ」

 

 母は顔を輝かせながらそう言った。やはり娘が帰ってきたことは嬉しいらしく、その喜びようが傍目にも伝わってきて恥ずかしいやら申し訳ないやら、魔理沙はなおさら内心で悶えた。

 

 これまでに散々心配をかけてきた罪悪感はまだ拭えない。そしてこれから先、二度と同じような失敗は繰り返したくないと魔理沙は思うものだ。

 であれば数年で出来た溝を少しでも埋めるべく久しぶりに実家で食事をするのも吝かではない。家族と和やかに食卓を囲むなどつい先刻までは考えもしなかったことだが、今の魔理沙は「そうしても良い」と思えるような心境を持っていた。

 

 しかしそれはきっと、今日でなくとも良い。

 

「ごめん母さん。今日は無理」

「あら。どうして?」

「私さ、すぐにやんなくちゃいけないことがあるんだ。これから先に進むために」

 

 魔理沙はそう言って椅子から立ち上がった。

 

 夢の在り方を見つめ直した今、魔理沙は自分のやるべきことを明確に意識していた。

 千年後の未来。その有り様を実際にこの目で見る。一度は完膚なきまでに挫折したが、だからこそ再び立ち向かいたいと魔理沙は心の底から思った。

 

 自分の魔法で何とかする、頑張れば全部上手くいく。そんな思い上がりはもはや微塵もない。魔理沙の胸中にあるのは、合縁奇縁で結ばれた八柳誠四郎との関係をこのまま有耶無耶に終わらせたくないという強い意思。

 

 誠四郎がいなければこうして自分を見つめ直すきっかけなと得られなかった。何かに熱中し希望を追いかけ壁にぶつからなければ、挫折を挫折とも知らず、進む覚悟も退く勇気も持てず、怠惰な日々がずっと続いていたかもしれない。

 

 文通を交わす中で得たものはあまりに多い。空の青さも、花や木の香りも、身近に誰かがいる幸運も、当たり前すぎて気にも留めなかったことに目を向けるようになれたのは、紛れもなく誠四郎あってこそのものだった。

 

 だからこそ行かねばならないと魔理沙は決心した。

 いつになっても手紙が向こうに届かなかった事実は、今も気分を暗くさせる。きっともう亡くなっているのだろうと思うとやり切れない。

 しかしそれでも、誠四郎が生まれ育った時代をこの目で見ることに意味はある。

 

 自分にとっての魔法。それを確かに認識した魔理沙は所存のほぞを固める。一度深く関わったものに見て見ぬふりをし綺麗に忘れて生きていくことなどしたくはないと。そんな道を歩む気は毛頭無いと。

 

 魔理沙の瞳には、溜め込んだ思いを吐き出す前とは打って変わり、迷いの一切を振り払った意志の光があった。目標をこれと定めた者にしかできない目。それを認めた母は静かに頷いた。

 

「分かったわ。いってらっしゃい」

「その、どこに行くかとか聞かないの?」

「どこへ行っても良いのよ。今の魔理沙ならきっと大丈夫だって信じているもの。それに、また帰ってきてくれるんでしょう?」

 

 確信を持って尋ねる母に、魔理沙はもちろんと言うように強く頷いた。

 

「たぶん、今度は待たせないよ。どんな結果になっても、きっとすぐに終わらせられる。次帰って来る時はちゃんと説明もするからさ。だから母さんも少しは元気になっていてくれよな」

「そうね。魔理沙のお話、楽しみにしてる」

 

 もう別れるような雰囲気だったが、言葉を交わした後、親子はしばらく見つめ合った。正確には魔理沙が踵を返さず、その場で何やらもじもじとしていた。娘の意図を察し、母が手を大きく広げる。

 魔理沙はしばらく恥じらって迷った後、母に抱き着いた。先ほどの大泣きした時とは違う、温かい別れの抱擁だった。

 

「気を付けて行ってきてね」

「うん」

「あまり無理ばかりしては駄目よ」

「分かってる」

「本当に困ったときは周りを頼って。あまり力にはなれないかもしれないけど、お母さんにも相談してくれると嬉しいわ」

「うん。そうする。絶対そうする」

 

 それほど長く抱き合わず、魔理沙は母から離れた。

 

「出掛ける前に、お父さんにもちゃんと挨拶しておくのよ。今日はたしか、書斎の方にいるはずだから」

 

 最後の最後に目下最大の悩み事を突かれて魔理沙は苦い顔をした。それでも誤魔化したりはせず「分かったよ」と答え、母の部屋を後にする。魔理沙が敷居を跨ぎ、襖を閉めるまで、母は穏やかに手を振っていた。

 

 廊下を歩く音が遠ざかって行き、部屋に静寂が戻る。魔理沙の母は薄いカーテンのはためく窓の外に目をやる。そこには霧雨邸の庭があり、一角にどんと大きな栗の木が聳えている。

 地面から垂直に生え、枝中に栗の実をたわわに実らせているそれは魔理沙が誕生した翌日に、霧雨の当主——つまり魔理沙の父が手ずから苗木を植えたものである。

 

 ひ弱で小さかった木は、今や霧雨邸の屋根すら追い越しそうなほど見事に成長している。その事実は、十数年という歳月の長さを推し量るに十分すぎるものだ。

 

 まっすぐ育って、いつかたくさんの実をつけるように。

 らしくもなく旦那がそんな願掛けをしていたことを思い出し、彼女はたまらなく幸せそうに微笑んだ。

 

「本当、大きくなったわねえ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十七話

 

 

 

 魔理沙はずっと父親が苦手だった。

 

 昔気質の頑固者。手を上げられたことは一度も無いが、とにかくよく怒られた。それもただ単に怒鳴り散らすといったものではなく、どんな悪いことをしたか理路整然と並べ立てこちらが腹の底から反省するまで決して許さないという方針があり、魔理沙にとっては思い出すのも憚られる記憶ばかりが残っている。

 静かに叱られるというのは、得てして激憤よりも恐ろしいものだ。

 

 下手に言い返したところでより一層厳しく怒られるので、当時まだ幼くやんちゃだった魔理沙も父にだけは歯向かわなかった。

 

 しかし、ただ一点においてのみ、真っ向からぶつかったことがある。

 魔法使いになるという夢を反対された時だ。

 

 父は当然のことながら理詰めで魔理沙を窘めた。

 里の人間で魔法使いなんぞ目指した者は一人もいない。どうやって生きていく。誰かが親切に教えてくれるのか。魔法で飯を食っていけるのか。

 

 子どもの魔理沙は、そんな父の言葉に何一つまともに答えることはできなかった。癇癪を起したように騒ぐばかりだった。出来たことと言えば一歩も引かなかっただけで、何年経ってもそれが続くと流石の父も参ったらしく魔理沙を寺に出した。

 三年間、寺での質素倹約の生活に耐えて身の回りのことができるようになったら、何処へなりとも行くが良い。そういう話になった。

 そして今の魔理沙がいる。まだまだ半人前で、一人ではにっちもさっちもいかない霧雨魔理沙が。

 

 かつてのように聞かれたら、今の自分なら何か答えられるだろうか。

 

 父の書斎に向かう最中、家の廊下を歩きながら魔理沙は思う。胸に手をあてて考えてみてもあまり自信は湧かなかった。それでも母と約束したのだから挨拶は済ませなければいけない。

 

 えい、とっとと会いに行ってしまおう。なるようになるさ。

 そうやって未だに情けない自分に発破をかけ、重くなりがちな足取りを早めた時、近くの襖がすっと開いた。

 応接間の襖。そこから顔を覗かせたのは兄だった。魔理沙と話した後も部屋に残っていたらしい。

 

「兄ちゃん」

「母さんと話せたか?」

 

 魔理沙がこくりと頷くと兄は嬉しそうに頬を緩める。

 

「な、思ったよりも元気だっただろう」

「うん……でも触ってみた感じやっぱり魔力の流れが悪かったから、安静にしていた方が良いかもな。ああ、魔力って、つまり生命力みたいなものなんだけど」

 

 魔理沙の言葉に、今度は驚いた顔をした兄が「そんなこと分かるのか」と問う。魔法を使うのならばできて当然のことだと、魔理沙はそのように答えた。

 

「そうか……で、これからどうするんだ。今日は泊っていくのか」

「ううん。ちょっとやらなきゃいけないことがあってさ」

 

 言いながら廊下の向こう、父の書斎のある方を見た魔理沙の視線を兄も追う。ついさっき応接間で話した時とはまるで違う、魔理沙のまっすぐな瞳。しかしそれは心なしか、一抹の不安に揺れているようだった。

 

「今から父さんの所に?」

「……母さんから言われたからさ、一応」

「そう苦い顔するなよ。父さんだって魔理沙に会いたがってる」

「まさか」

「本当だよ。母さんよりも魔理沙のこと心配しているんじゃないかな。毎月の母さんの手紙に同封している仕送り金は父さんが入れてるんだし」

「え、あれ、父さんが?」

 

 目をぱちくりとさせる魔理沙に兄が頷いて言う。

 

「あんまり怖がる必要ないよ。俺も大人になってから分かってきたことだけど、父さんもあれで随分悩んでいるからさ。魔理沙は自分の意見をハッキリ言えばいいと思うよ」

「別に、怖くはないけど……でも私が魔法使い目指すことにはまだ反対してるだろ。たぶん」

「どうだろう。そんなことないかも」

 

 即答した兄の口調はどこか確信めいていた。何故かと魔理沙が聞く。

 

「昔さ、魔理沙がこの家を出るか出ないかで揉めてた時のことなんだけど」

 

 あまり思い出したくない語り出しに魔理沙は顔をしかめる。流石の魔理沙も、あの頃は父親から使用人まで家中の人間に迷惑をかけていたという自覚があり、今になってそれを鑑みるのはとにかく精神力を必要とした。

 しかしそんな羞恥心も、続く兄の言葉によって消えた。

 

「ある日の夜中、厠に行きたくなって起きたらさ、父さんの書斎の方にまだ灯りがついていたんだ。消し忘れかもと思って見に行ったら、父さんと母さんが二人きりで魔理沙のことについて話していた」

「私の……」

「魔理沙が家を出るのを許すか許さないかって。父さんはあり得ないって言ってたよ。そんなことは普通じゃないって。でも母さんがそれに反論したんだ」

 

 魔理沙はいつの間にか息をするのも忘れて話に聞き入っていた。

 父の意見は知っていた。耳にタコができるほどに言われた。しかし母が密かに魔理沙の後押しをしていたとはまるで知らなかった。

 

 あの母が。いつも大らかで、何をしても笑って許してくれて、常に人の意見を尊重することを忘れない母が、よりにもよって厳格さを絵に描いたような自分の夫に面と向かって反論した。

 

 それは魔理沙にとってあまりに信じ難く、想像の及ばない話だった。

 

「お前は魔理沙を甘やかしすぎる。父さんがそう言った時、母さんはなんて返したと思う?」

「なんて、返したの」

 

 兄の焦らすような問いに、魔理沙は食い気味で聞き返した。当時の光景を頭に思い浮かべるように遠い目をして、兄はその時の両親の会話を述べた。

 

 

 

 

 

 

『甘やかしているのはあなたでしょう』

『なに』

『可愛い我が子を旅にも出させてやれなくて何としますか。ずっとずっと、魔法を学びたいとあの子は言っているんです。飽き性なあの子が。学ばせてあげればいいじゃありませんか』

『一体どう学ぶのかと言っている。魔女に弟子入りさせたとして、食い殺されんとも限らん』

『あら、人形師のアリスさんは素敵な方ですよ。子どもたちにも人気ですし、魔女と言って嫌ってはあんまりです』

『どうだかな。よしんば魔法というのをいくつか扱えるようになったところで、それで生きていけるものか』

『どう学ぶか。どう生きていくのか。それを考えるのは魔理沙自身の仕事です。やりたいことに取り組んで喜び、苦しみ悩むところ全部が、あの子の人生のはずです』

『何故そこまで肩入れする』

『当然のことを言っているだけです。あなたこそ、どうしてそこまで反対なさるの。仮に失敗したとしても、最後は私たちが受け止めてあげれば良いだけではありませんか。そのための実家でしょうに』

『……取り返しがつかないことはある。嫁入りも出来ず行き遅れるかもしれん。元より上手くいく保証など何所にも無い』

『そう……不安なのですね。それを取り除きたいとおっしゃるのね』

『当たり前だ』

『ならその不安は誰のためのものですか』

『どういうことだ』

『魔理沙のためですか。それとも、あの子の人生を案じる親心を、あなたを安心させるためのものですか』

『それは、無論…………』

『前者であれば私もこれ以上口さがなく物申しはしません。もう一度魔理沙とよく話し合われるのが良いでしょう。けれど後者であるのなら、決して許しません。そればかりは私が許しません』

『…………』

 

 

 

 

 

 

「その後は父さんが黙っちゃってさ。びっくりしたよ本当。父さんが口論で黙るのも、あんな母さんを見たのも、最初で最後だったからさ」

 

 兄が笑いながら語る昔話を、魔理沙は自分の魂に刻み付けるように聞き入っていた。どうにもこうにも知らないことばかりだ。自分が毎日「魔法魔法」と騒いでいた裏で、両親がそんな話し合いをしていたなんて魔理沙は想像すらしたことがなかった。

 

 きっと昔なら、父を黙らせた母に拍手喝采を浴びせたことだろう。門出の後押しをしてくれたということを単純に喜んでいただけだっただろう。

 いや、ほんの少し前でも大して変わらなかったかもしれない。それこそ一カ月くらい前の自分ならいけ好かない父がしてやられたことにしか目がいかなかったに違いないと魔理沙は思った。

 

「父さんでも、迷う時があるんだな」

 

 魔理沙がそう言う。「そりゃそうさ」と兄。

 

「酒が飲めるようになってから、俺もだんだん知っていったよ。実は父さんって酔うと意外なくらい喋るからさ、昔のこととかも結構話してくれるんだよ。店の業績が傾いた時に四苦八苦したこととか。母さんと結婚する時の結納金を用意するのに苦労したとかさ」

「なんか、金の話ばっか……」

「大人の悩みなんて皆そんなもんだよ。俺もいつも悩んでる」

 

 店主は辛いよ、などと言いたげな顔をする兄に魔理沙は「ふうん」と返す。父が酒を嗜むということも初めて知った。酒も煙草もやらない堅物だとばかり思っていたのに、どうやら子供の前ではそういったところを見せなかっただけらしい。魔理沙は何だか弱みを握った気分になった。

 

 しかし話を聞けば聞くほど父の元々の印象が薄ぼんやりとしていく。父らしくない。いや、むしろ今兄が話したことが本来の父らしさなのか。もうよく分からない。

 よく分からないから、会って確かめてみたいという思いが魔理沙の中にふと湧いて出た。緊張で強張っていた口元が自然と緩む。

 

 魔理沙の微細な表情の変化を見て、兄は穏やかに言った。

 

「まあ、だから変に怖がることないよ。父さんもきっと、久しぶりに魔理沙に会ったら緊張して何を言えばいいか分かんなくなると思うし」

「ははっ、なんだそれ」

 

 兄に簡単に別れを告げて再び歩き出す。義姉さんにもよろしく、と至って普通のことを言う魔理沙に「大人になったなあ」と兄は感心していた。

 

 そうか。あの人も緊張するのか。そうかそうか。

 

 魔理沙は心の中で何度も神妙に頷きながら、父のいる書斎へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 家の中をのべつまくなし走り回って使用人に手を焼かせていた魔理沙でも、あまり立ち入ったことのない場所は幾つかある。その一つが父の書斎だった。興味こそあったが、勝手に入ったら間違いなく怒られるだろうと子供ながらに思慮深く敬遠してのことである。

 

「父さん」

 

 魔理沙が襖越しに声をかける。中で人の動く気配があった。

 

「…………魔理沙か」

 

 しばらくしてそう返ってきた。やたらと遅かった。魔理沙が意を決して声をかけてから少なくとも二、三言話せるくらいの間があった。

 

「少し話があるんだけど、入っても良い?」

「……構わん」

 

 また間を置いた返事。今度は少し短かったが。

 

「お、お邪魔します」

 

 えらく他人行儀に入ってきた魔理沙を、数年ぶりに会う父の鋭い眼光が射抜いた。魔理沙は目を逸らすまいと頑張る。

 

 文机を挟んだ向こうにいる父は、母と違ってあまり老けたようには見えなかった。子どもたちと同じ金髪もほとんど昔のままの色だ。ついさっきまで読んでいたのか、机の上には本が広げられている。

 

「座りなさい」

「言われなくても座るよ」

 

 魔理沙は憮然と言い返して部屋の片隅にあった座布団を引っ張り、父の前にちょこんと座る。

 

 両手の指で数えるくらいしか入ったことのない父の書斎。しかも大体は分別の付かぬ小さい頃に勝手に上がり込んだくらいだ。

 大きくなって改めて目にしたそこに、魔理沙は強い既視感を覚えた。何故だろうと考え、程なくして理解する。

 

 物が多いのだ。やたらと、雑多に。

 

 さすがは生粋の古物商とでも言うべきか、父の書斎は和洋中を問わない骨董品に満ちている。そして、それはまさしく森の中にある魔理沙の自宅に似ているのだ。整理整頓されているかどうかという、割と決定的な違いはあるが、しかし蒐集家の部屋だと一目で見て取れることは共通する。

 

「なんだ。部屋を見に来たのか」

「いや、そういうわけじゃないけどさ」

 

 眺め回す魔理沙を訝しむように父が言う。

 

 もう一つ、魔理沙は気になったことがあった。どうしても気になったので聞くことにした。

 

「そのガラスの箱に入ってるのって、全部煙草なわけ?」

 

 魔理沙が顎で指した部屋の隅には大きく重厚な造りをしたガラス張りのショーケースが置いてあり、その中には上段から下段まで喫煙のための道具が整然と並んでいた。煙管に灰皿、マッチやライター。ケースの上には摩訶不思議な形をした水煙草の器具が幾つもある。遥か昔に使われていただろう木製の煙草盆や美しい細工の煙管入れまであり、さながら博物館の展示のようだった。

 

「煙草ではない。喫煙具と言う。言葉は正しく使え」

 

 父の凄むような声に魔理沙は肩を縮こませ、思わず俯いてしまう。

 いや、特に凄んでいたり脅かしていたりするわけではない。元からこういう話し方をする人なのだ。それくらいは魔理沙も分かっているが、苦手意識のせいで反射的に緊張してしまう。

 

「里を出て行ってから二年半が経つが、どうだ。一人前とやらにはなったのか」

「それは……まだだけど……」

「なれそうか」

「それもよく、分からないけど……」

 

 魔理沙がさらに小さくなる。大口を叩いて家を出た時のことがにわかに鮮明に思い出され、兄の激励も何処へやら、魔理沙はもう穴を掘って埋まってしまいたくなった。

 

「諦めたのか」

 

 父のその一言が、魔理沙に顔を上げさせた。打ちのめされるどころか逆に、沈みかけていた気持ちを押し上げ、再燃させた。

諦める?それだけはないと魔理沙は強く、強く思った。

 

 変に怖がることは無い。

兄の言葉をしっかりと思い出し、息を入れる。

 

「違う。諦めそうだったけど、諦めないことにした」

 

 再び前を向いた魔理沙の目を見て、父は瞠目した。ついさっき、この書斎に入ってきた時とはまるで違う。ましてや家を出ると言って聞かなかった昔とも違う。意地も虚勢もない澄んだ瞳には、何物にも揺るがない強い意志の力が見てとれた。

 

「父さんと話をしに来たのはその報告と、あとは、これから遠くまで出掛けてくるってことを言うため」

「遠くとは何処だ」

「それは言えない。言いたいけど、説明するのが難しいんだ」

「親に説明も出来ない場所に行かなければならんのか」

「うん。今すぐにでも。じゃなきゃ前に進めないから」

 

 父にいくら質問を重ねられても、魔理沙の態度は毅然としたものだった。今度は全く縮こまらず、目も逸らさない。

 

「そのこと、母さんにはもう話してきたのか」

「うん。話した。応援してくれるって言ってた。ちゃんと帰って来るって約束もした」

「そうか……」

「だから、どうか認めてください。お願いします」

 

 魔理沙が三つ指をついて頭を下げる。昔、習い事の一環で教わった所作だ。

 

 暫く、父は考え込むように黙ってしまった。魔理沙は何も言わず、じっと父の言葉を待つ。振り子時計が秒針を刻む音だけが静謐な書斎に響いていた。

 

 時間にすれば一分弱。短くも長い間を置いた後、父は「まったく」とため息をこぼした。そっぽを向くように背を向け、手近にあった骨董の茶碗を手に取って磨き始める。それは魔理沙が初めて見る、父が真っ向からの話し合いで折れた姿だった。

 

「お前は本当に、昔から親の気苦労が絶えん。手のかかる娘だ」

 

 そう言う父の口調には厳しさがまるでなかった。魔理沙がゆっくりと頭を上げる。

 

「どこへでも行くが良い」

 

 ありがとう、と礼を言う魔理沙。父は相変わらずそっぽを向いたまま、おもむろに懐に手を入れた。魔理沙は少し前の記憶をたぐる。

 霖之助曰く、父はいつも懐に煙草道具を忍ばせており、家でも外でも常に煙を蒸かしていたという。

 

 話に聞いた通り、父はさも当たり前のように凝った意匠の長煙管を取り出した。

 それを口に咥えようとしたところで、はたと我に帰ったのだろう。かつて、娘が生まれる遥か昔に禁煙をした男は罰が悪そうに頭を掻き、それきり黙ってしまった。

 

 魔理沙はそんな父の一部始終を、物珍しそうにまじまじと見つめていた。

 

「父さん、やっぱり煙草吸ってたんだ」

「やかましい」

 

 

 

 

 

 

 相も変わらずどんよりとした空の下を魔理沙は飛んだ。父との会話を終えた後、兄を始めとした霧雨店の面々に見送られて里を発った。跨っている新品の竹箒は、魔理沙が家を出る前に兄がくれた物だ。柄が折れていないので大変に飛びやすい。

 

 雨の降り出しそうな中を飛び続け、魔法の森を横断する。霖之助のいる香霖堂や、魔女アリス・マーガトロイドの工房、そして魔理沙の住む家を眼下に通り過ぎる。その先にある、無縁塚を目指して。

 

 雑多なガラクタの山が積み上げらている場所に、魔理沙はふわりと着地した。

 つい先日も訪れた無縁塚はやはり代わり映えしていない。質素な墓標と、その周りに来る人を戸惑わせんばかりのガラクタが散らばっているだけだ。

 

 魔理沙は全く迷う素振りも無く、一点だけを目指してその中を歩いた。

 

 八雲紫は未来へ飛んだ時、魔理沙が溜め込んでいた誠四郎からの手紙を触媒にしていた。魔理沙はその状況から、仮定ではあるが未来から送られてきた物には何かしらの見えない手がかりが宿っているのだろうと考えた。

 

 魔理沙の見当は限りなく正解に近い。八雲紫が便宜上『縁』と呼ぶそれは曖昧ながらも確かにこの世に存在する。外の世界で忘れられた物が際限なく無縁塚に引き寄せられるのが最たる証拠である。

 

 魔理沙はそこから思考を進め、縁にも強弱、ないしは細い太いといった違いがあるとするのなら、触媒にする物を変えればそれだけ未来へ行きやすくなるのではないかと仮説を立てた。

 すなわち文通の要であり、何度も時代を往復しているあの瓶を触媒にすれば、時空をかなり渡りやすくなるはずである。

 

『行って何が出来るというのか』

 

 一度はにべもなく断られた身だが、八雲紫に示す意志は固めてある。母や兄と話し、父からも無愛想ながら温かい言葉をもらった今、何一つ恥じることなく自分の素直な思いを伝えるつもりだった。

 その一環として、触媒を持参するというのは最低限必要な行為だ。相手に覚悟を示すにはあらかじめそれなりの準備を整えておかなければならない。

 

 そんな信念のもとに無縁塚を訪れた魔理沙だったが、彼女の期待は早々に外れることとなる。

 

「……あっ」

 

 いつもの場所。慣れ親しんだ文通の交信場。無縁塚の一角にあるそこには確かに今もガラス瓶がそこにあったはずだった。

 

 しかし魔理沙の目の前には何も無かった。中に入っていた魔理沙直筆の手紙ごと消え去っていた。

 

 魔理沙はいつかのように血眼になって探すこともなく空を仰いだ。風に流れたのか覆っていた雲がそこはかとなく薄くなり、僅かに青空が覗いている所もある。

 

 魔理沙は確信した。手紙は未来へ届いたのだ。

 そしてその事実が示すことは唯一つ。

 誠四郎はまだ生きている。

 

 手に力が篭る。震えるほどに強く、魔理沙は拳を握りしめていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十八話

 

 

 

 夕刻、魔法の森の上空を一つの影が飛んでいた。

 箒に跨り、矢のように鋭く真っ直ぐに飛ぶ魔理沙は、いつになくきっちりとした装備をしている。

 

 背嚢が大きく膨らんでいるのは、食料や衣類旅に役立つ様々な小道具が入っているためだ。箒の柄に吊り下げてある薬箱には薬品や包帯だけでなく調合に必要な乳鉢や天秤なども揃っている。どんな場所、どんな状況でも旅ができるよう練られた伝統的な魔法使いの旅装だ。

 

 メッセージボトルが消えていたことにより八柳誠四郎の生存を確信した魔理沙は、急ぎ自宅に帰って支度を整え、再び家を飛び出した次第だ。大慌てでの準備だったが、今まで学んだことを活かして思いつく限りの旅支度をこしらえた。

 

 もっとも、大気が猛毒に冒されているという世界では全く通用しないかもしれないが。その辺りのことを自分一人でどうにかしようとしても仕方ないと魔理沙は理解している。懐に入れたミニ八卦炉もお守りとして以外で役に立つのかどうか。

 旅の準備を整えたのはあくまで自分に出来る範囲のことを精一杯やったに過ぎなかった。

 

 魔法の森の領域を抜け、香霖堂を過ぎ、人里を横目に通り過ぎていく。人里から少し離れた小高い山。その上に建つ博麗神社目がけて魔理沙は降下した。

 

「すう、はあ……よし」

 

 着地した魔理沙は鳥居の前で深呼吸をして歩き出した。この場で霊夢と弾幕ごっこを行い、辛酸を舐めさせられた記憶が頭を過ぎるが、そんなことは今の自分に関係ないと胸を張る。

 

 博麗神社に来たのは他でもない。霊夢から八雲紫に話を通してもらい、未来へ行くためだ。もう一度、今度こそは懇切丁寧に頼み込むのだと魔理沙は意気込む。

 自分で考えられる限りの装備は整えてきた。人を頼る覚悟も決めてきた。たとえ恥を晒すことになっても自分の信念が揺るがないことを魔理沙は確信していた。

 

 鳥居をくぐって参道を抜ける。社の前で霊夢の名前を呼んだが、しばらく待っても出て来ない。いつものように昼寝でもしているのかと思い裏手に回ってみると、霊夢こそ居なかったが、代わりに一人の女性が縁側に腰掛けていた。

 

「あら魔理沙。ご無沙汰ね」

「紫……」

 

 目的の人物に一足跳びで出会った魔理沙は呆然としてその名を呟いた。八雲紫はさも当然のように博麗神社の縁側で茶を啜りながら寛いでいた。金色に輝く長髪。それとよく目立つ紫色のドレスを着ているというのに、神社の裏庭で団子を茶請けに湯呑みを傾けるその姿は妙に様になっている。それは人ならざる大妖怪の魔性のせいか。

 

 やはり得体が知れないと緊張しつつも、魔理沙は物怖じしなかった。これは好都合だと思い直し、姿勢を正して歩み寄る。

 

「霊夢なら今は出かけてるわよ。朝から出て行ったきりまだ戻って来ないのよね」

「いや、用があるのは霊夢じゃないんだ。あんたに頼みがある」

 

 紫の正面に魔理沙は立った。並々ならぬ気迫を滾らせる少女に対して、変わらず底の見えない微笑を浮かべている紫だが、その目は魔理沙が背負っている大荷物を観察していた。

 

「私を、千年後の未来に連れて行ってほしい」

 

 淀みなく告げた魔理沙の口調には、しばらく前に同じことを言った時とは違い、危険も無謀も理解した上での覚悟が込めらていた。

 それを読み取ったのか、紫は前回のように即断で拒否することはなかった。ただしジッと魔理沙の目を見続ける。理知的で妖艶で、何もかも見透かしているような眼差しで魔理沙を見据えている。

 魔理沙は表情を固くしたものの目だけは逸らさなかった。見つめ合うこと数秒。紫はフッと短く息をついて圧を解いた。

 

「なるほど。色々と考えてきたようね。覚悟も本物なのでしょう」

「じゃ、じゃあ」

 

 認められたと思って前のめりになる魔理沙を、しかし紫は扇子を広げて制した。華美な扇子で口元を覆い、何かを見極めるかのように再び魔理沙の目を見つめて話す。

 

「それでも連れて行ってあげるかどうかは別。以前私が言ったことを覚えているわね?」

 

 考えるまでもなく魔理沙は思い出す。紫が未来の様子を見てきたと知り、自分も行きたいと縋った時のことを。

 行ってどうする。何ができる。ただの自己満足じゃないのか。

 紫に面と向かって言われた後も、延々と頭の中を巡ってた言葉。それを振り払うように未来へ行く方法を模索したり、ミニ八卦炉の強化に熱中した日々の記憶はまだ新しい。

 

「未来へ行ったとしてあなたに何が出来るのか。あの時聞けなかった答えを、今ここで聞かせてもらおうかしら」

「無いよ。出来ることなんて」

 

 試すような紫の質問に、魔理沙は毅然と言い放った。

 

「前に紫が言った通りだよ。私が世界をどうにかするなんて無理だろうし、ひょっとしたら誠四郎にだって歓迎されないかもしれない。私が向こうに着いた時には相手がすでに死んでる可能性だって十分にある。だからこれは、どこまでいってもただの自己満足だよ」

「おかしなことを言うのね。自己満足だと分かっていて尚行きたいだなんて」

「いいや。分かっているからこそ行かなくちゃならないんだ」

 

 窘めるような言葉にも魔理沙の瞳は揺るがなかった。間断のない返答からは彼女の意志の固さが伺える。

 

「ここで行かなきゃ私は後悔する。一度、深いとこまで関わっちまったんだ。とことんまでやらなきゃ気が済まないんだよ。私は私のために、未来がどんなもんかを、誠四郎が生きてきた世界がどうなっているのかをこの目で確かめたい」

 

 だからどうかお願いします。

 魔理沙は背嚢を地面に降ろして帽子を取り、頭を下げる。

 

「……前にも言ったけれど、私には幻想郷の管理者としての立場もあるわ。この世界に住まうあなたたちを外の世界の影響から守るのも務めの一つ。もしも未来に送り届けたとして、あなたが無事に帰って来ないようでは話にならない。その辺りのこともきちんと考えてきたのでしょうね」

「いやあ。それなんだけどさ」

 

 顔を上げた魔理沙は罰が悪そうに苦笑して頬を掻いた。

 

「いくら考えても私じゃどうにもならなそうだったからさ、その辺は紫が何とかしてくれないかなって」

 

 あまりにも開けっ広げな他力本願に、さすがの八雲紫も目を丸くする。魔理沙は恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、どこか吹っ切れた様子で話を続けた。

 

「正直この荷物でも向こうに行ったらどんだけ生きられるのか分からないし、帰り方も知らないからさ。おんぶに抱っこで本当に悪いんだけど頼まれちゃくれないかな。幻想郷の一員を助けると思って、お願い!」

 

 鬼すら慄く大妖怪に向かって人間の小娘が力を貸してくれとあけすけに宣う。千年以上の半生、八雲紫の能力に惹かれて寄ってきた者は数え切れない。いつの間にか御神体として祀られていたことすらある。そのほとんどが下卑た利己心を剥き出しにしており、紫は決まって冷たくあしらってきた。

 

 しかし目の前の少女は恥知らずな願いを口にしながらも、そこに醜さはなかった。人事を尽くして天命を待つ。自分の出来ることと出来ないことを判別し、他人の力を頼る羞恥も理解した上で助けを求めている。絶望を乗り越え、ひたむきに希望へ進もうとする人間のみが持ち得る輝き。

 

 これだから人間は。

 紫は扇子の裏で笑う。長い時の中でいくつもの醜悪を見て尚、八雲紫が人間に失望しない理由を、十数年生きただけの少女が体現している。そのことが堪らなく嬉しかった。

 

「傲慢ね」

「やっぱり駄目?」

「いいえ、気に入ったわ。でもその装備はいただけないわね」

 

 地面に置かれた魔理沙の背嚢を示す紫。

 魔理沙が思っていた通り、今持っている荷物では大気汚染と放射線に侵された未来の世界では生きていけないらしい。魔法の水薬や霖之助謹製の小型空気清浄機などを見せてみるが、紫は首を横に振った。

 

「もう一度よく考え準備を整えてから出直しなさい。何年かかってでもね。もしそれで私を納得させられたら、未来に送ってあげても良くてよ」

 

 紫の出した条件は正当なものだ。しかし今は一刻を争う状況にある。八柳誠四郎がまだ生きているかもしれない以上、すぐにでも未来に飛びたい。数年と言わず、明日にでも亡くなってしまうかもしれない命だ。

 確かにもっと研鑽を積み入念な準備をするべきだと理性が告げる一方で、それでも誠四郎が生きている内に行きたいと願う気持ちが綱引きをする。

 

 未来の世界での安全の確保も紫に頼もうとしていた自分の不甲斐なさに魔理沙は歯噛みした。急ぎであるためそれ以外に方法が無いのは事実だが、無力はどうしても選択肢の幅を狭める。自覚し受け入れても、やはり何も出来ない自分に腹が立つ。

 

「その必要は無いわ」

 

 背後から声。聞き慣れたその強い口調に、魔理沙はパッと振り向いた。

 いつの間に現れたのか、博麗霊夢が立っていた。堂々とした仁王立ちだが、走って来たかのように息を乱している。

 

 しかし魔理沙は疲れている霊夢の様子よりも、彼女が抱えている荷物が気になった。花束に外套に被り物、それからよく分からない魔道具のような物まで、袋にも入れず両手で抱えて持っている。無縁塚に行ってガラクタを手当たり次第拾ってきたような風体だ。

 

 一体何なのか魔理沙が聞く暇もなく、霊夢はズンズンと歩み寄ると手に持っていたそれらを押し付けるように魔理沙に差し出した。

 

「ちょっと何。なんだよこれ」

「餞別よ。あんたが未来に行くための」

 

 目を白黒させる魔理沙に、霊夢はまず被り物を掲げた。触ったことのない感触の布とヘンテコな形の金属が一体化した、顔全体をすっぽりと覆えそうな品だ。

 

「これは霖之助さんから。ガスマスクっていうらしいわ。空気の汚れている所でも呼吸が出来るって言ってた。一点物の非売品だから使ったら返してくれって」

 

 そう言って有無を言わさず霊夢はガスマスクを魔理沙に持たせる。次に絹のようにきめ細かい濡羽色の外套を広げる。

 

「この外套はパチュリーから。あとは靴とか手袋も。魔力を込めて作ったんだって。色々と詳しい説明されても分からなかったけど、要は魔法の力で身体を守れるってこと。コカトリスの石化の息も弾き返すとか言ってたわ。もちろん絶対に返せって念を押されたわよ」

 

 折り畳まれた魔法の外套が魔理沙の手に渡る。さらに霊夢は小さくまとまった花束を見せた。彩豊かなその中には何故か季節外れのひまわりが添えてある。花全体が魔理沙の手に収まる程度の小さな品種だ。

 

「これは風見幽香から。あいつが能力で作り出したものよ。どんな所へ持って行ってもしばらくは枯れないって言ってたわ。化け物みたいな妖力が込められているけど害は無いから平気よ。現に私も触っているわけだし。むしろ手に持っている間は生命力を供給してくれるみたいね」

 

 他にも人形師アリス・マーガトロイド謹製の水薬や、地底の間欠泉センターの河童から借りたガイガーカウンターなどを渡される。

 両手いっぱいに物を抱えさせられた魔理沙は面喰らいながらも、状況を理解し始めた。受け取ったのはどれもこれも未来の世界へ行くのに役立ちそうなものばかりだ。魔理沙が持参した物とは比べるべくも無い一級品ばかり。霊夢が朝から出掛けていたというのは、幻想郷中を巡ってこれらを集めるためだったらしい。

 

 しかしその動機までは解せない。以前、取り付く島もなく一蹴され弾幕ごっこでコテンパンにやられた魔理沙は、途端に協力的になった霊夢を怪訝に思う。そんな魔理沙の疑問を遮るように霊夢が十枚ほどの紙切れの束を突きつけた。

 

「で、これは私から。護身用のお札。効能はそれぞれ違うけど、真面目に作ったからきちんと機能するはず」

「いったい全体なんなのぜ……」

 

 博麗の巫女が作るお札は龍脈の加護を得る。人里ではどんな神具よりも重宝される霊験あらたかなそれを、麻紐で無造作に縛って気安くあげようとするあたりが実に霊夢らしかった。

 あまりの貴重品を前に魔理沙は手を伸ばせない。お札を差し出したまま、霊夢はまっすぐに魔理沙を見つめてから「ごめん」と頭を下げた。

 

「私、あんたに酷いことした。弾幕ごっこをしたあの日からずっと考えてたの。なんでこんなにムカつくんだろうって」

 

 腰を折り頭を低く下げたまま霊夢が言う。告解を始めた友人に戸惑う魔理沙。そんな二人を八雲紫が見守っている。

 

「ずっと、魔理沙が未来なんかに行かなきゃいいって思ってたの。あんたのことを心配してるんだと自分に言い聞かせていたけど、向こうの世界が危険だって知る前から、本当は気に食わなくて仕方なかった。だって、それまで私と同じで毎日ダラダラしてたのに、急に活気づいてさ。すごく生き生きして、私とは正反対になっていって……」

 

 博麗の巫女としてはあまりに世俗的で、年相応な悩みの告白。進歩のない日々や将来に対する漠然とした不安は、達観しているとよく言われる博麗霊夢の中にもあったのだ。無意識だったそれが、幼馴染の友人が前へ進もうとしている様子を目の当たりにして表に出てきた。

 

「紫に協力を断られているのを見て、内心でホッとしてた。なのに全然あんたは諦めてなくて、無理だって言われてるのに努力して、私に弾幕ごっこまで挑んできて。あの時は意味分かんなくてめちゃくちゃ腹が立ったけど、今なら少し分かる。私、博麗の巫女としての務めとか言ったけど、そんなの嘘だったのよ。無謀でも破れかぶれでもぶつかっていく魔理沙が憎かった。友達ならちゃんと手助けするべきなのに、そんなことは全然思い付きもしないで、足引っ張ることばかり考えていて、本当に最低だった」

 

 強気だった霊夢の口調が震え始める。本音を吐き出すたびに虚飾の威勢が剥がれ落ちていく。それでも目尻に力を込めているのは涙を堪えているからだ。ここは魔理沙の背中を押すための場だ。自分勝手な感情を優先して泣くことは霊夢の中に残った誇りが許さなかった。

 

「私はまだ魔理沙の友達でいたい。厚かましいと思うけど、今更だけど、魔理沙が目的を持って前に進むなら、それに協力させて欲しいの」

 

 お願い。

 

 霊夢はそう言ってもう一度頭を下げた。

 魔理沙の表情がふっと緩む。母親によく似た、穏やかな微笑み。

 

 霊夢がこれまでどんな想いを抱えていたのか。どんな葛藤の末に今この場に姿を現したのか。それを魔理沙が理解した今、二人の間にこれ以上言葉を重ねる必要はなかった。

 差し出したままのお札の束を、魔理沙はしかと受け取った。泣くのを堪えて顔を赤くした霊夢が頭を上げる。

 

「分かった。大事に使わせてもらうぜ」

「……! うん。うん。応援してるから。私も、皆も」

 

 値も付けられないような貴重な品々を魔理沙が身に付ける。外套を羽織り、靴を替え、帽子を外して手にはガスマスクを。幽香が作った花束をもう片方の手に抱え、お札は懐に仕舞い込む。持参した荷物も一応まとめて背負い直し、お守り代わりにと持ってきたミニ八卦炉があることも確認する。

 

 魔理沙は振り返り、八雲紫に向き直った。

 

「ってわけで、どうかな。これで合格?」

 

 審議の程を聞く魔理沙の横から霊夢も口を出す。

 

「紫、私からもお願い。魔理沙に協力してあげて」

 

 扇子を広げたままの紫はため息をこぼす。不安そうに顔を見合わせる霊夢と魔理沙の二人は、紫の表情が嬉しそうに緩んでいることを知る由もない。

 パチンと扇子を閉じ、紫が毅然とした顔を作って立ち上がった。

 

「藍」

「はっ、ここに」

 

 従者の名を呼ぶや否や、何処からともなく旋風と共に八雲紫の式神である九尾の狐の八雲藍が現れた。

 

「これから転移の儀を執り行います。送還の方はこちらで進めるから、藍は帰還のための術式の準備をなさい」

「かしこまりました」

 

 主人の絶対命令に藍は即答し、すぐさま作業に取り掛かる。

 

「霊夢、お前も手伝わないか。大掛かりな儀式だ。人手がいる」

「あ、は、はいっ」

 

 付いていけずポカンとしていた霊夢は藍に言われ、いそいそと駆け寄って複雑な術式構築の手伝いを始める。

 

 やはりポカンとしている魔理沙の肩に八雲紫が手を置く。

 

「ゆ、紫?」

「動かないで」

 

 紫はそう言って目を瞑る。魔理沙は自分の魔力の流れの中に、別の力が流れ込んでくるのを感じた。八雲紫の妖力。拒絶反応が起きそうなものだが、ぼんやりと温かいだけで嫌な感触はしない。何となく、自分の中の何かを紫が探っているのだろうと理解する。

 

 紫が魔理沙に触れているのは未来との『縁』を探っているのもそうだが、魔理沙に術を施すためでもあった。古い妖術とスキマ能力を掛け合わせた八雲紫独自の見えない防護壁が魔理沙の全体を覆う。

 改造された高性能のガスマスク、魔女の旅装と博麗のお札、それに飲み下した水薬も合わさることにより、一時的ではあるが千年先の科学技術すらも凌駕する完全防護となる。

 

 探知も終わり、しばらくして目を開けた紫は、触れていた魔理沙の肩から手を離した。

 

「縁は確かにまだ繋がっているみたいね」

「あの、私いちおう触媒のために誠四郎の手紙持ってきたんだけど」

「大丈夫よ。元々未来との繋がりはあなたと彼とのもの。部外者である私が行く分には触媒が必要だったけど、あなた本人なら自分の内にある縁を頼りにすればちゃんと行くことが出来る。私は能力でその手助けをするに過ぎないわ」

 

 言われて、魔理沙は自分の胸に手を当てる。魔力のように感じ取ることは出来ないがら八柳誠四郎と結び育んできた縁は自身の中に宿っているらしい。その事実が魔理沙の胸を熱く焦がした。

 

「いってらっしゃい。帰ってくる時は幻想郷のことを想って。家族や、霊夢や、あなたのことを待っている人達との縁を強く想いなさい」

 

 気を付けて。そう言うように紫は魔理沙の頭を撫でる。大妖怪と恐れられ、数多の人間や怪異を屈服させてきたとは思えないほど優しい手つきだった。

 魔理沙は気恥ずかしそうにしながらも「いってきます」とはっきり言い、霖之助が貸してくれたガスマスクを着ける。

 

 目の前の空間に亀裂が走り、世界を引き裂くようにして闇色の扉が開かれる。スキマ妖怪、八雲紫が持つ異能の発露。

 

 それに臆することなく、魔理沙は一歩踏み出した。背中にいってらっしゃいと霊夢の声がする。軽く手を振って応え、魔理沙は次元の裂け目に姿を消した。

 

 何事も無かったかのようにスキマは閉じて消える。あとは魔理沙が無事に帰るのを待つばかりだ。

 藍の手伝いを終えた霊夢は、魔理沙が消えた空間を心配そうに見つめて立ち尽くしている。そんな少女の肩を、紫はそっと抱き寄せた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十九話

 

 

 

 それは単調な一本道で、どこまでも真っ直ぐに続いていた。行けども行けども白く細い線が暗闇の先に伸びている。

 緊張に体を強張らせながら歩く魔理沙は、その道のりが八雲紫の辿ったものとはまるで違うことを知らない。

 時空は捻じれることなく整然と連なり、秩序と混沌の渦巻く多次元空間の暗黒は霧雨魔理沙という存在の定義を侵食してくることがない。真に縁起を結んだ者だけが辿れる一条の綱。

 道理を知らずとも資格と覚悟を有している少女は、その上を慎重かつ正確に一歩一歩進んでいく。

 

 気付いた時には闇が途切れていた。唐突に固い地面を踏む感覚があり、暗闇ばかりだった視界にはいつの間にか灰色の荒廃した世界が広がっていた。

 

 空をのっぺりと覆う雲。巨大なビル群が倒壊してできた瓦礫の山。倒れていない建物のいずれにも明かりは灯っておらず生活感はまるで無い。

 あらゆる自然を排除した、見渡す限りの廃墟。八雲紫が話した未来の景色がそっくりそのまま、なんの偽りもなく魔理沙の目の前に広がっている。

 

 鈍色の空からは綿埃のような細かい雪が降っている。いや、これこそが毒か。大気に迸る乱雑で異様なマナの流れは話に聞く放射線によるものだろう。霊夢が集めて来てくれてた装備が無かったら今頃死んでいたかもしれない。

 どんな歴史を辿ればこんな世界が出来上がるのか、魔理沙にはこれっぽっちも理解できない。ガスマスクの下で嫌悪に顔をしかめる。

 

 かつて夢にまで見た千年先の未来の光景を眺めていた魔理沙は、背後で波の音がすることに気付いた。振り向くとそこには黒々とした海がある。塩水の代わりに石油を満たしたような海には生命の母と呼ばれた面影など無く、僅かな漣を立てるだけで沖の方は暗くのっぺりと澱んで見える。

 

 しかし魔理沙は、生まれて初めて見る海にほとんど意識を割かなかった。

 舗装され尽くした岸辺で、一人の人間が座り込んでいる。白い服にすっぽりと身を包んでいるその人物は海を眺めているのか身じろぎ一つせずそこにいた。まるで誰かが訪れるのを待っているかのように。

 

 間違いない。間違えようはずもない。

 

 魔理沙は興奮と緊張に胸を高鳴らせながらゆっくりと近付く。足音に気づいていないのか、座っている彼はまだ振り向きもしない。

 

「誠四郎……さん?」

 

 恐る恐る尋ねる。反応はない。聞こえなかったのだろうかと思い、今度はガスマスク越しのこもった声でも聞こえるようにハッキリと名前を呼ぶ。八柳誠四郎と。

 

 それでも振り向かないので、もしかして既に死んでしまっているんじゃないかと魔理沙が不安に思い始めた時、彼がピクリと動いた。下がっていた頭をのそりと上げ、暫くしてからようやく後ろを振り返る。老人より緩慢な動作には生気がほとんど見られない。

 しかし彼は、この滅びきった世界でたった一人取り残された彼は今も確かに生きていた。生き抜いて、初めて文通相手の少女と対面を果たしたのだ。

 

「その、はじめまして、で良いのかな。こういう時って」

 

 魔理沙が気恥ずかしそうに言う。八柳誠四郎は魔理沙の方を振り返ったままの姿勢で固まっている。驚きのあまり声も出ないのだろう。

 傷だらけのフェイスメットの奥にある顔はひどく痩せこけているが、それでも優しそうな青年であることが伺える。呆然としたその表情が、信じられないものを目の当たりにしたと物語っていた。

 

「分かるかな。私、魔理沙だぜ。あんたと文通していた霧雨魔理沙」

「っ……ど、どうして……」

 

 やっとのことで絞り出した誠四郎の声は、喉が錆びついているかのようにしわがれている。長らく人と話さなかったのもあるが、声を出すのもやっとなほどに衰弱していることは明らかだった。

 

 魔理沙は誠四郎のすぐ側まで近寄って膝を折り、「ちょっとごめんな」と一言断って彼の肩に手を置く。感じ取れる魔力は皆無に等しい。特殊繊維の防護服越しであることを鑑みても、それは異常なことだった。すでに死んでいても何ら不思議ではない。今こうして生きていることが奇跡だった。

 

 魔理沙は唇を噛みしめる。ガスマスクのせいでちゃんと顔を合わせられないのは残念だが、泣きそうな表情を誠四郎に見せなくて済むという点では幸いだった。折角会えたのに此方が悲しんでいては彼に無用な気遣いをさせかねない。

 

「手紙に書いたことあるだろ、幻想郷には凄い力を持った奴がいるって。その人に頼んでここに送ってもらったんだ。どうしてもあんたと……誠四郎と話がしたかったからさ」

 

 魔理沙は簡潔に、誠四郎でも分かりやすいように言葉を選びながらここまで来た経緯を話した。一人でも行こうと無茶をしていた自分にたくさんの人が協力してくれたこと。そのおかげで今も放射線や毒に侵されず誠四郎と対面できていることを。

 帰る方法はあるのかと誠四郎に心配されたが、それも大丈夫だと説明する。科学ではついに叶わなかった時空旅行を成し遂げた存在を前に、誠四郎はただひたすらに驚愕するばかりだった。

 

「向こうでは何人か誠四郎のことを知っている人がいるんだぜ。私が色々言いふらしちゃったからさ。まあ半分くらいは妖怪なんだけど」

「そう、か。そうか……」

 

 最初、呆気にとられるばかりだった誠四郎だが、段々と目の前にある現実を受け入れ始めたようで感嘆に震えながら頷いていた。

 

 幽香から貰った花束も誠四郎に渡した。

 驚く彼にそれが本当のひまわりであることを伝える。ガラス細工を扱うように、慎重に黄色い花弁に触れる誠四郎。小さくとも立派に咲いているひまわりの花を見つめるその顔はひたすらに穏やかだった。過去も未来も変わらない。人は自然に触れた時、同じ顔をする。

 

 ずっとこの海岸にいたのかと魔理沙が聞く。あまり記憶が無い、と誠四郎。気付いたら地下のシェルターではなく海岸に来ていたという。食料が底を尽き、命綱である除染浄水器も数日前に故障したらしい。

 

「最後だからさ。暗い地下よりは、こっちの方がマシだと思ったんじゃないかな。よく覚えていないけど」

 

 誠四郎が言う。たぶん僕は君を待っていたんだろうな、と。その口調に悲哀は無かった。死ぬことを受け入れた達観と、ある種の安堵が彼の浮かべる淡い微笑みに映っていた。

 魔理沙が旅立つ時期があと少しでも遅かったら。或いは誠四郎が無意識にも外へ出ることなく地下深くのシェルターで力尽きていたら、この出会いはあり得なかったかもしれない。偶然か、それとも運命か。恐らく後者だろうと、魔理沙は直感で思った。自分はこの人の最期を看取るために来たのだと、強く思った。

 

「そういえば、文通の時とはずいぶん口調が違うね」

「ああ、うん。びっくりしたろ。素はこっちなんだけど文だと変にかしこまっちゃう癖があってさ。ちょっとダサいよな」

「いや、素敵だよ。手紙で想像していたよりずっと」

 

 照れ隠しの自嘲に率直で嘘のない誉め言葉で返され、魔理沙は恥ずかしそうに苦笑した。

 もっともっと他愛のない会話をしたい。この人とたくさん話がしたい。

 そう思うも、残された時間はあと少しも無いようだった。誠四郎が大きく咳き込み崩れ落ちそうになる。魔理沙は慌てて彼の身体を支えた。もはや自力で体を起こしているのもやっとのようで、地面についた手が震えている。

 

 誠四郎は支えてくれた魔理沙に礼を言いながら、やつれた青白い顔で笑ってみせる。

 

「来てくれて本当にありがとう。僕はもうこれで、何も思い残すことなく逝ける」

 

 きっとそれは心からの言葉なのだろう。魂も擦り減る孤独の中で生きてきた彼にとっては、もう十分すぎるほどの奇跡が起きたのだろう。

 

 しかし魔理沙はそんな誠四郎を見つめながら、胸を締め付けるような痛みを感じていた。

 見える景色は一面の灰色。無機質な瓦礫の山に黒い海、空を閉ざす分厚い雲。冷え切った世界に、八柳誠四郎が夢に見た自然の風景は一欠片も存在しない。

 

 ここでこの人は死ぬのか。こんなところで。空の青さも知らぬまま。

 

 そう思った瞬間、胸の痛みは憤怒に変化した。

 何度となく手紙を交わした魔理沙は、誠四郎がどれほど自然の風景や青空を見たがっていたかを知っている。それを思うとこのままではやり切れなかった。誠四郎は喜んでくれたが、暗い空の下では幽香の素晴らしい花束さえ霞んで見えてしまう。日の光を浴びてこその向日葵だろうに。

 何もかもが気に食わない。穏やかに死ねるならそれで良いなどと、馬鹿にしているにも程がある。

 

 そう思った瞬間には、魔理沙は立ち上がっていた。考えるまでもなく自分が何を成すべきか心が告げる。

 

「魔理沙…?」

「誠四郎。あんたに見せたいものがある」

 

 つかつかと歩いて距離を取る魔理沙に誠四郎が戸惑った声を上げる。魔理沙は大丈夫だと頷いてみせ、空を見上げる。どこまでも厚く覆う雲睨み付ける。

 

「ごめん母さん。ちょっと無茶するよ」

 

 魔理沙は僅かに、唇もほとんど動かさず小さく呟く。目を瞑って深呼吸をする。そうして再び開いた瞳には何にも揺るがない決意が宿っていた。

 

 外套の内側、懐から取り出したるはミニ八卦炉。

 希少なヒヒイロカネをふんだんに使った、あらゆるエネルギーの変換を可能にする唯一無二の魔道具。パチュリー・ノーレッジと森近霖之助が共同で改造したそれは魔理沙個人のためにこれ以上ない調整が施されている。

 

 

 辺り一帯の、果てしなく広がる荒んだ景色に対し、魔理沙は思う。確かに世界を救うなんて土台無理な話だったと。いくら強化したところで、この小さな八卦炉で出来ることなどたかが知れている。

 けど、それでも……。

 

 ミニ八卦炉を強く握り、天に掲げる。魔理沙の魔力を初動力として八卦の紋様がその機能を発揮し始める。

 

 呼応するように裏側に刻まれた七曜の術式も起動する。似て非なる論理によって構築された二つの魔法は、反発するどころか互いの欠陥を補い合い、加速度的にその効力を高めていく。

 

 八柳誠四郎は瞠目した。魔理沙を中心にして渦を巻くように風が吹き始めていた。それは気付くのも難しい微かなそよ風から始まり、段々と速さを増す。強く、大きく、瞬く間に台風の如き勢力となって尚、規模を広げる。

 

 少女の手にも収まる程度の小さな魔道具が、この世界に満ちる不条理を際限無く吸い込んでいく。空から降る死の灰も、大妖怪にさえ危険を及ぼす放射線も。それどころか半減期という常識を無視して、汚染された放射性物質から放射能を根こそぎ抜き取ってしまう。

 生命を脅かす歪んだ莫大なエネルギーの全てが、熱と光の魔力に書き換えられていく。

 

「まだだ。まだ……っ」

 

 エネルギー変換の仲介役と、魔力暴走を食い止めるバランサーとしての役割を同時にこなす魔理沙の手が震え始めている。既に通常のマスタースパークが持つ熱量は超えている。何倍にも何十倍にも膨れ上がり、しかし今も止まることなく熱量を蓄え続ける。

 

 まだ足りない。これでは届かない。

 あの空を穿つには限界の先に到達するしかない。

 

 歯を食いしばり、魔理沙は前人未到の領域に踏み入った。

 ミニ八卦炉に施されていた自動制御機構を解除する。リミッターの破棄。七曜の術式の導入、そして魔理沙専用にチューンナップするという強化を経て大幅に増した蓄積魔力の上限をとっぱらい、青天井にしてしまう。

 

「〜〜〜っ!」

 

 ピシリ、と嫌な音が聞こえた。ミニ八卦炉のどこかが壊れかけているのだ。無類の頑丈さを持つヒヒイロカネですら耐えられない圧倒的な魔力の奔流。

 

 このままいけば二度と使い物にはならなくなる。魔法使いを目指してから今まで、片時も手放したことの無かった相棒との別れ。半人前の自分を魔法使いたらしめてくれた寄る辺の喪失。

 それを理解しながらも魔理沙は決して思い悩み止まることなどなかった。ただ一つ、霖之助に心の中で謝る。

 

 ミニ八卦炉から魔法陣が展開される。八卦の紋様が巨大な光の輪となって魔理沙の頭上に広がる。それを起点にしていくつもの魔術式が円陣を成して上へと伸びていく。

 出来上がったのは巨大な砲塔だった。全長十メートルにも及ぶ光の大砲。それを形作る魔法陣の一つ一つに恐るべき魔力が備わっている。

 

 ミニ八卦炉がついに臨界点に達した。辺り一帯のマナはことごとく吸い尽くした。蓄えた魔力の総量を表すとしたら天文学的な数値になるだろう。

 気を抜いた瞬間に暴発しそうなそれを、魔理沙は一つの魔法として収束させる。

 一度限り、空前絶後の奥義を今ここに。

 

 狙うは直上。大気圏の遥か彼方。

 八卦七曜を束ねて一と成し、遮る一切を灰燼に帰す。

 

 穿て、貫け、突き抜けろ。

 

「マスタースパアアァーク!!!」

 

 満を持して放たれた、渦巻く七色の光線。

 いや、それは光線と呼ぶにはあまりに太く強大だった。宙空に漂う毒を巻き上げて焼き尽くし、何層にも重なった分厚い暗雲を紙切れのようにいとも容易く突き破る。

 遠目であれば、天空をそれ一つで支える巨大な柱にも見えたことだろう。

 

 圧倒的な熱量は天を衝くだけに留まらず、周囲の雲さえも吹き飛ばしてしまった。

 長く続いた放射が終わり、光の柱はだんだんと細く薄くなり、最後は粒子となって散り散りに儚く消えてゆく。

 

 そうして魔理沙が手を下ろした時、頭上を遮るものは何も無かった。ひたすらに青い空が広がっているばかりだ。百年以上もの間、人工雲が覆い隠していた先には、太古から何も変わらない空の色があった。降り注ぐ太陽の光が冷めた大地を温める。

 

 空を見上げる誠四郎は声すら出なかった。思い焦がれ、しかし決して見ることは叶わないと諦めていた光景が現実として視界一杯に広がっていることに彼の思考はついていけなかった。ただただその美しさに心を奪われている。

 

 魔理沙は喘ぐように息をしながら自分の手のひらを見つめる。

 持っていたはずのミニ八卦炉はそこに無かった。マスタースパークを撃ち終えたと同時、使命を果たしたと言うように砕けて塵となり、サラサラと跡形もなく消えてしまったのだ。

 その名残を惜しんで拳をぎゅっと握りしめる。涙はこぼさなかった。今は堂々と胸を張り、笑うべきなのだと知っているから。

 

 乱れたマナの気配はもう無い。未来に降り立ってからずっと稼働していた霊夢のお札も鳴りを潜めている。今なら大丈夫だと魔理沙は確信していた。

 

「誠四郎!」

 

 呼びかけなければ死ぬまで呆然としていそうな誠四郎を振り向かせ、被っているガスマスクに手をやる。何をしようとしているのか察した誠四郎が止める間も無く、魔理沙は顔を覆っていたマスクを颯爽と脱ぎ去った。

 

「どうだ、これが魔理沙様の魔法だぜ!」

 

 腰に手をやって仁王立ち。満面の笑顔で魔理沙は高らかに告げた。

 

 生命線であるガスマスクを取るという、この世界の常識では考えられない自殺行為じみたことをやってのけた少女は、死ぬどころか平然と笑ってのけ深呼吸さえしている。

 

「誠四郎もやってみろよ。綺麗な空気だぜ」

 

 信じられないとでも言うように見つめてくる青年の側に行き、魔理沙は外套も脱いでひらひらと振ってみせた。

 

 誠四郎は恐る恐るといった様子でヘルメットに手をかける。しかし脱ごうとしても手が震えて持ち上げられない。

 精神的な要因だった。空気が汚染されきった時代に生まれた誠四郎は、これまで外へ行く際は必ずマスク等を着け、肌も一切露出させてこなかった。それは世界の隅々にまで浸透している疑う余地のない常識である。何せそうしなければ呼吸器系に異常をきたし、最悪の場合はころっと死ぬのだから。

 目の前に安全を証明してくれている少女がいても、集合的無意識にまで及ぶ常識には抗えない。心でどう思おうと魂が拒絶する。

 

「そりゃ」

 

 見かねた魔理沙は気の抜けたかけ声と共に誠四郎のヘルメットを取ってしまった。慌てた誠四郎の手が宙を掻き、咄嗟に息を止めて目を閉じる。

 魔理沙はそんな彼の両肩に手を置いてあやすように言った。

 

「大丈夫。大丈夫だから」

 

 しばらくして少しずつ呼吸を始めた誠四郎がゆっくりと目を開いていく。その顔は驚嘆でいっぱいだった。

 

「息が……」

「な、良いもんだろ?」

 

 慣らすように何度か息を吸っては吐き、魔理沙のように深呼吸をした誠四郎は、その瞳から涙を零した。透明で、喜びに満ちた温かい涙だった。

 生まれて初めて吸う綺麗な空気もそうだが、ありのままの目で見る青空のなんと美しいことか。防護ヘルメットのガラス越しでは決して気付けなかった、自然で澄んだ青。

 

 片手には魔理沙が先ほど渡してくれた花束を抱いている。小さなひまわり。太陽の下で見るそれはまるで別物のようにキラキラと輝いているように思われた。空も花も初めて見るはずなのに、誠四郎は不思議と懐かしさを感じていた。堪らなく、泣きたくなるような郷愁がそこにはあった。

 

「本当に、君の手紙にあった通りなんだな」

「うん。同じだよ。誠四郎の故郷の空も、幻想郷と同じなんだよ」

「そうか。そうか…………」

 

 誠四郎につられて涙ぐむ魔理沙。

 誠四郎は噛み締めるように「そうか」と何度も言う。全てが報われたと分かったその表情は柔らかく穏やかで、まさしく幸福そのものといった様子で……。

 

 と、そんな彼の身体が突然力を失った。

 にわかに感動も忘れて、魔理沙は彼に手を伸ばす。後ろに倒れそうになるのを肩を抱いて支え、そっと横に寝かせる。

 

 彼の頬に手を添えた魔理沙は息を呑んだ。ただでさえ少なかった誠四郎の魔力、つまり生命力がどんどん失われていっているのだ。先程測った時とは比較にもならない。まるでバケツの底が抜けたように、彼を生物たらしめているものが零れていく。

 

「誠四郎!誠四郎!」

 

 魔理沙が叫んで肩を揺さぶる。誠四郎は閉じかけていた目をうっすらと開け、己の防護服を指し示す。「ジッパーを」と力のない声で呟く。魔理沙は苦労しながらも誠四郎が着ている防護服の上半身部分を脱がせてあげた。服越しにも分かる痩せ衰えた誠四郎の身体が外気に触れる。

 

 誠四郎は骨と皮ばかりの手を、自分を支えてくれている魔理沙の手に重ねた。とうに死んでいたはずの命。花をたむけ、空を見せられたことは奇跡に等しい。彼がここまで持ち堪えてくれたことに魔理沙は運命と呼ぶに相応しい巡り合わせを感じていた。

 今目にしているのは、肌で直接感じているのは、この世界でたった一人生き残った彼が最後に見せる命の輝きそのものだった。

 

 八柳誠四郎の目はだんだんと虚ろになっていく。それでも最後まで目を開けていようとしているのは、青空の色を一秒でも長く見るためか。

 いや、彼の目は魔理沙に向けられていた。泣きそうな魔理沙を見つめ、穏やかに微笑む。これまで凄惨な人生を送ってきたであろう青年の笑顔はあまりに満足そうで、一片の後悔すら感じさせない晴々としたものだった。

 

「魔理沙……」

 

 掠れ声はもはや蚊が鳴くように小さかった。手に伝わる魔力から、魔理沙は感じ取る。これが最後なのだと。今まさに自分は、この人の遺言を聞こうとしているのだと。

 しかし何事かを言いかけた誠四郎は声を絞り出すほどの力も残っていないらしかった。胸が上下していない。息も心臓も止まっている。

 

「なんだ誠四郎。聞いてるよ。私ちゃんと聞いてるから」

 

 彼の手を握り、懸命に声をかける。

 すると息絶えたかに思われた誠四郎の手に微かな力が戻り、ぎゅっと魔理沙の手を握り返した。唇を僅かに動かし、魔理沙の耳元でそっと囁く。

 

 それを最後に、ついに八柳誠四郎の全身から力が抜けた。滑り落ちそうになった彼の手を魔理沙が掴む。

 薄く開けたままの目はもう瞬きをしない。微弱にも鼓動と共に手から伝わってきた魔力の脈動も感じ取れない。

 

 彼女だけが知る、一人の男が最後に遺した言葉。それは魔理沙の心を満たすに十分だった。

 

 まだ一人前など程遠い。魔法使いと名乗るのも烏滸がましい。それでもここまでの道程が決して無意味などではなかったのだと、心から思うことが出来た。ありがとう、と。天に還った八柳誠四郎の命に惜しみない感謝を告げる。

 

 魔理沙は顔を上げ、天を仰いだ。世界を包む雲はいまだに大穴を開け、太陽は幾ばくかの光を恵んでいる。

 誠四郎に言った通り、幻想郷と全く変わらない。遥か昔から生命を育んできた陽光が、崩れた廃墟も、暗い海も、その真ん中にぽつんといる二人の人間も温かに照らす。

 

 抜けるような青空の下、魔理沙は誠四郎を抱きかかえたまま、静かに涙を流していた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

 

 

 

 霧雨魔理沙の朝は遅い。とても遅い。

 昼前になってようやく寝床から這い出る。

 

 ベッドの脇には昨晩読み耽った本が山積みとなっている。高等な魔術書から児童用の絵本まで一緒くたに積み上げられ、今にも崩れそうである。というか崩れた。魔理沙が身じろぎした振動で本の山は無惨にも散乱した。

 

 のそのそと起きた魔理沙はそれらをまとめ、再び積み上げて放置する。ついこの間パチュリーから『少しマシになった半人前』の称号が与えれたものの、片付けの技能に関しては全く進歩が見られない。部屋の隅を占領するガラクタの量は前よりも増えたくらいだ。

 

 まだ寝呆けているのか覚束ない足取りで歩く魔理沙は、床に落ちている小瓶を踏みそうになった。屈んでつまみ上げたそれには『ごちゃ混ぜ』と書かれたラベルが貼られている。

 少し考え、一週間前に作った咳止めの水薬の試作品だったと思い出して棚に戻す。近頃は永琳にも悪くないと言ってもらえるくらいの物が出来るようになってきたが、それでもまだまだ試作段階だ。サンプルは取っておくに越したことはない。

 

 歯磨きなどを済ませて遅すぎる朝食を摂っている内に正午になる。

 やかんの沸いている音がして台所へ駆けていく。ミニ八卦炉を失ってからというもの炊事が面倒になった、と恥も外聞もなく愚痴をこぼす魔理沙に、森近霖之助は呆れて苦笑していた。

 

 今でも八卦炉の研究はパチュリーと共に続けている。八卦にまつわる要素を一つ一つ深く掘り下げていくという新しい切り口からの研究は可能性に満ちており、エネルギーの変換以外での用途も見出せるかもしれないと考えられている。

 共同開発と言ってもまだまだパチュリーから学ぶことの方が多いが、いずれは自分なりに理論をまとめて炉を小型化し、全く新しいミニ八卦炉を作ることが魔理沙が現在掲げている目標だ。

 具体的な目標に向かって研鑽を積む日々はこの上なく充実している。ちなみに研究資金の出資者は古明池さとりを始めとする地下間欠泉センターの関係者たちである。

 

 研究によって金が入るので今の魔理沙は金欠になることが無い。それなのに相変わらず無縁塚からガラクタを拾ってきては家のそこかしこに貯め込んでいる。こればかりは治そうにも治らぬ魔理沙の性分らしい。

 少し前に家へ招待した兄や父も、あまりの散らかり様に魔理沙を叱ることも忘れてただ唖然としていた。世の中には諦めるしか無いこともある。そう宣ってあっけらかんと笑う魔理沙には、あの父親すら苦笑するしかなかった。

 

 ちょうど十二時を知らせる置き時計の音がした直後、ゴンゴンゴンと玄関扉が鳴る。

 

 食後のほうじ茶を嗜んでいた魔理沙が応じるより早く「入るわよ」と霊夢が上がり込んでくる。いつものことなので特段魔理沙も何か文句を言うこともなく軽く手をあげて挨拶する。「ぐっもーにんぐ」

 

「おはようじゃないわよ。もしかして今起きたの?」

「私の優雅なライフスタイルさ。朝のお茶は婦人の嗜みだぜ。霊夢も飲んでく?」

 

 ほうじ茶入りの湯呑みを掲げ、優雅さとは程遠い散らかった居間にでんと座った魔理沙が言う。新しい湯呑みを取ってきてやかんから茶を注いでくれる。霊夢はため息をついてほうじ茶をぐいっと飲み干した。

 

「くつろいでる場合じゃないっての。あんた今日何の日か忘れてるんじゃないでしょうね」

「……あ、やべえやべえ」

 

 霊夢に言われて何だったかと暫く考えていた魔理沙は慌てて立ち上がった。

 近々、博麗神社を主催として大きな祭りが行われる。十五夜の収穫祭にも似た盛大なものだ。今日はその予行として有力者やら関係者やらが神社に集まり、様々な打ち合わせをする約束がある。

 魔理沙は前夜祭を飾る花火師としての役割を買って出ていた。人里の職人や他の妖怪たちを差し置いての大抜擢だ。

 光と熱の魔法を得意分野として掲げる魔理沙にとってはまさしく面目躍如であり、何としても成功させようと意気軒高。昨晩も遅くまで魔法の調整に精を出していたのだが、眠気で使い物にならなくなった彼女の頭は日付を勘違いしていたらしい。

 

 ドタバタと辺りをひっくり返しながら支度をする魔理沙。祭りの本番では父と兄、それから母も顔を出すに違いない。

 さらに余興をやるメンバーの中にはあの風見幽香もいる。娘が世話になっているとか何とかで、最近はやたらと実家と幽香の仲が良い。そんな彼女を待たせたとあっては末代までの恥。ごちゃごちゃとした衣装棚から少しでもマシな服を選ぼうとする魔理沙の目は必死だった。

 そんな友人の様子を霊夢は呆れつつも楽しげに眺めながら茶のおかわりをしている。

 

 ややあって準備を終えた魔理沙は霊夢と共に家を出ていく。家に鍵をかけ、新しく建てられた霧雨魔法店の看板に臨時休業の札をかける。

 急かす霊夢に断りを入れて郵便受けを確認した魔理沙は、いつも通り実家から送られてきた手紙が入っているのを見つけた。帰ってきたら返事を書こうと思いつつ懐にしまう。

 

「もう皆集まってるのよ。早く早く」

「分かってるって。つーか霊夢は何やかんやで寛いでたじゃんか」

 

 少女二人は飛行術でたちまち森の上に出て、瞬く間に遥か彼方へと飛んで行く。天気はすこぶる快晴。夜までこの調子なら魔理沙の打ち上げる魔法の花火もさぞ映えることだろう。

 

 真昼の太陽は中天でさんさんと輝いている。

 魔法の森に建つ魔理沙の家、その屋根裏部屋の窓からも木々の葉を抜けた木漏れ日が僅かに差し込んでいる。

 

 窓辺に置いてある文机は整然としており、普段からよく使われ、手入れもされているようで目立った汚れは無い。

 

 その片隅にガラス瓶が一つ。使い込まれ薄汚れたそれは、整頓された文机の一箇所に鎮座している。

 インテリアにしては質素で見栄えに欠けるにも関わらず、持ち主である少女が宝物のように大事にしているためか、不思議としっくり来る何とも言えない趣があった。

 

 胸のすくような青空が広がる幻想郷の昼下がり。

 日の光を受け、透明なガラスの瓶はきらきらと輝いていた。

 

 

 

 

 

 

おしまい




完結です。読んでくださった方々、ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。