死んだ目をしたTSロリ転生者と妖怪甘やかしロリババア (TSロリに百合乱暴するマン)
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前編 転生

 物心を覚えた頃、父親と魚を釣りに行ったことを覚えている。

 本格的な釣りではなく、堀のような場所で養殖された魚を釣るという、よくあるレジャー施設での釣りだった。

 

 それでも辺りは自然に溢れていて、樹々の間から差す光や、水のせせらぎ、笑顔の人々、遠路遥々きた家族との触れ合い、それは豊かな思い出として残るべき時間だった。

 しかし、私の記憶の中の思い出は決して良きものではなかった。

 

 魚を釣れた楽しさよりも、それを食べた美味しさよりも、私に笑顔を向けながら魚に串を刺した父の姿だけが印象に残っている。

 

 そういう施設であることも、食事という行為がそうした事であることも、知っていたはずだったのに、しかし軽々しく命を奪った父に言葉に出来ぬ何かを感じたのだ。

 今になっても言葉に表すことはできないが、それは私の中に確かな痼りを残した。

 

 幼少の頃より、感性というか、良くも悪くも私は少し人よりズレていたのかもしれない。

 

 ただ、命というものの儚さを覚えた幼少期だった。

 

 

 それは、夏の通学路だった。

 ジメジメとした熱さも、照り付けられた太陽の光も、まあ良い天気だったと言えるだろう。私は好きでは無かったが。

 

 そんな中で、私の顔を目掛けて飛んできたセミに驚き、咄嗟にそれをはたき落とした記憶がある。

 ジジ……ジジ……と鳴きながら、徐々に動かなくなったその亡骸に言葉では尽くせない感慨を覚えた。

 

 熱さを忘れるほどだった。涼しさを覚えるような嫌な汗が止まらなくなった。

 

 結局その日は来た道を辿り、気分が悪いとズル休みをした。

 思えばあれは初めて学校を休んだ日だった。

 

 それほどに、私にとっては大きな出来事だった。

 

 やはり、私は繊細な子供だったのだろう。

 

 体が大きくなるにつれて、生き物との触れ合いが減ったせいか、あるいは精神が成長したせいか、そのような心持ちになることなんてなくなっていったが、しかし、命を奪う瞬間というのは、少なくとも私の感情に2回の変革をもたらしたのだ。

 

 だからだろうか。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 肉を切った感触は今でも覚えている。

 刃が肉に入り込む感覚、動脈が傷ついたのか熱く勢いよく飛び散る血液、ずるりと粘性を持って落ちた首、何が起きたのか理解できないまま、純粋にこちらを見つめる濁った瞳。

 

 熱を失い、眠るように地に伏せ終わった屍は、しかして、私に罪ということをいっそう刻み込んだ。

 

 恐ろしかった。

 

 転生だのチートだなんだと、甘い言葉に誘われるまま、遊びのような心地で命を奪うべきではなかったのだ。

 

 熱に犯されていたのだ。馬鹿だった。こんなになるなんて思ってもみなかった。

 

 新たな生の中で夢心地だったのだ。生の実感が薄かった。自分のことすら掴み切れていなかった。

 

 そうだ、ゲーム感覚だったのだ。

 敵を倒して、倒して、力を証明する。それくらいの考えしかなかった。

 だからこそ、敵がそのあとどうなるかなんて考えもしなかったし、あるいは一つの命である実感もなかったのだ。

 ゲームのように敵はポリゴンになって消えやしない。こびりついた血と油は、ぬめりを伴ってへばりつき、簡単に消えなどしないのだ。

 だからこそ、むせるような異臭を放ちながら、臓物を撒き散らす姿に恐怖した。

 

 呼吸を失った死体の前で、ヒュー、ヒューと荒い呼吸の音が響く。

 地に染み込む赤色が私の足の側まで広がっていく。

 怯み、後ろに引いた足の先にはねとりと、赤い感触がした。

 

 自分勝手に命を弄んだことに、驚くほど後悔した。

 

 

 

 

 私が殺した生物は、人に害するものであった。

 私は誰かの危機になるかも知れなかったものを未然に防いだのだ。

 そう開き直ることも出来たはずだった。

 それに、たとえ私が殺さなかったとしても、他の誰かがきっと、それこそ無感情に駆除しにくるのだろう。

 なら私が殺しても良かったのではないかと。

 しかし、面白半分で、ただの力試しのような浮かれた心で殺してしまったという事実は消えない。

 理由をつけて、心を軽くしようとすればするほど、その浅ましさが私の罪悪をより深く強くする。

 

 

 暮れかけた森の中で、赤く色付いた光が屍に差す。

 風に草木が、枝葉が揺れる。

 それは私の罪過をせせら笑い、決して忘れるなと言っているようだった。

 

 そんな意識に苛まれながら、私は亡骸を埋めるでもなく、食すでもなく、ただ亡骸の前に立っていた。

 何もしなかった。何もできなかったのだ。

 

 しばらくの間そうしていたが、結局は逃げるようにそこから踵を返した。

 弔うでもなく、糧にするでもなく、ただそこに捨て置いた。

 だからこそ、現在まで続くほど、私の罪は深く刻まれたのだ。

 

 既に日は落ちていた。

 

 

 

 その後は、どうやって帰路に着いたかも覚えていない。道すがら、沢山の人に話しかけられた気もする。街の住人は気のいい人ばかりだったから、きっと心配してくれていたのだと思う。

 しかし、その時の私には、後ろ髪を引かれるような仄暗い罪過や後悔のせいで、人々が私を非難しているように見えたのだ。

 

 逃げるように帰った家の部屋の中は、静かで暗くてそれでいて心地よかった。

 

 現実感が乏しかったのか、あるいは強すぎたのか、何故か自分が何処かに飛んでいってしまう気がして、体に痛いほどシーツを巻き付け、枕を握りながらずうっと泣いていた。

 

 強烈な嫌悪感だった。死にたいとすら思ったほどだ。

 贖罪か。いや違うだろう。ようは許されたいのだ。同じことをされることで、自分のしたことを肯定して欲しいのだ。

 我ながら傲慢だと思う。自分で自分を殺すことすらできないのだから。

 死ぬ勇気すらないのだ。

 私が弄んで殺した命のように、悪戯に、それに意味などないように、無残に殺されたいのだ。

 それはどこまでも自分勝手で、他人任せだろう。

 

 私はひどい人間だ。

 

 そうして一晩中部屋の中で過ごした。

 自己嫌悪で潰れそうだった。

 

 

 

 

 

 眠りから醒めても後悔は収まらず、それどころか授かったチートそのものに恐怖を抱くようになった。

 私のチートは木の枝ですら命を引き裂く事ができるのだ。

 だから、刃物もまともに握れなくなった。

 箸すら震えて持てないのだ。

 店先に行ってもわざわざひと口サイズに食べ物を切ってもらわないといけないし、カトラリーを使わずに手でそのまま食事をする許可まで取らないといけない。

 礼儀知らずに思われるし、それだけではなく、1度スラムの子どもと間違われたのか暴動に発展したこともある。

 刃物が目に入っただけで、我ながら繊細で馬鹿馬鹿しいと思うが、震えが走るのだ。

 もはやどうしようもない。

 

 そんな状態で1年か、2年ほど過ごしていた。

 

 剣を捨てようと、魔法使いの真似事を始めたのはこの頃だ。

 罪過の象徴から離れたかったのかもしれない。

 しかし、私が覚えることができた魔法は命を奪うものだけだった。

 悲しいことに私は誰かを殺す才能だけは人一倍あったのだ。

 どちらにせよ罪から逃れることは出来なかった。

 

 その合間に私はいくつもの職場を転々とした。

 ギルド──そう呼ばれる派遣場のようなもの──に紹介してもらった酒場では食器を壊し尽くし、店先の客引きでは衛兵の持つ武器に怯え、ついに何にも出来なくなってしまった私は、最終的にはドブさらいに行き着いた。

 

 

 

 王都の大型下水道の中は酷い有様だった。

 打ち捨てられたゴミ、饐えた匂い、飛び回るハエ、不衛生な化け物たち、謎の死骸。

 何もかもが劣悪な状態だったが、他のどの場所よりも長く続ける事ができた。

 

 絶対に必要な仕事であると言う安心感か、捨てられて忘れられたものたちとともにあるという孤独な共感か、誰もが自分を出さず黙々と作業をする暗い沈黙のせいか、此処では私は自分の存在を認められたのだ。

 

 そして、何より私の心を支えてくれたのは、汚泥で固めた棒ならば、私が振るっても致命傷寸前までしか傷を負わず、死に至る事がないということに気づいたことだ。

 

 そこにはきっと、化膿したか、打ちどころが悪いかで亡くなってしまった命もあったはずなのだろうが、生きるためという免罪符と直接の死因でないというある種の線引きは、私に安心を与えてくれた。

 

 それは魔法という武器でも同じことのはずなのだが、結局のところ、罪過の象徴などと蔑みながらも剣という、自分を守るために絶対的な信頼を預けられる武器というものを捨て去ることはできなかったのだ。

 

 それは一種のダブルスタンダードなのだろう。己の命を守るためだから仕方がない。

 弁解にも似た自己陶酔は新たな自己嫌悪の一つとなった。

 

 そうして、下水道労働は全てが順調だったわけではなく、罪の意識、自己嫌悪によってか、何故か無性に悲しくなって、ずっと泣いていた日もあった。

 

 しかし、ドブさらいという天職を見つけてから、私は少し前向きになったのも確かなことだった。

 

 

 ◇

 

 

 生き物を殺すということに何かしらを感じられるというのは、一種の文化の熟成とも取れる。

 倫理の成熟だ。

 それほどまでに人は豊かであり、生き物を殺さずとも人々が幸せな生活を享受できる証であるのだ。

 逆説的に、本能の勧める他殺を理性が拒むことが常識として罷り通っているということでもある。

 

 それが、私の罪悪の証明であり、またギルド内部が昼間から居酒屋のような熱気に包まれている理由の一つである事は間違いない。

 

 剣やら盾やら鎧やら、物騒な出で立ちの人々は、戦場という非日常で生まれたストレスを鎮めるため、人との付き合いという日常の中で敢えて酒を体に入れ、高揚を得ることによってバランスを取っているのだ。

 

 私はこの雰囲気は好きではない。

 楽しげであれば、喧騒であれば、ようは周りの人々の感情の振れ幅が大きければ大きいほど、自分の場所がここにはないような、そんな心持ちになるからだ。

 

 彼らは私が罪だのと呼んでいる感傷を、報酬のため、あるいは誰かからのSOSであるという大義名分で、自分の中で消化して前に進む事ができる人々だからだ。

 

 だからか、雰囲気だけではなく、ここに滞在する人々も私は好ましく思えない。

 

 私が初めてきた時に親身になって話を聞いてくれた受付も、未だにアドバイスや面白い店なんかを教えてくれる先輩にあたる人物も、何故か私の周りには優しく、人が出来たと形容するしかないような人物が集まる。

 そうした優しさを受け取り、感謝の念が強くなればなるほど、同時に自分の醜さを実感して、何もかもが嫌になる。

 

 そう、この場に好ましくないのは私だ。

 

 手を差し伸ばされても、手を取らず。

 自分から助けも求めない。

 

 嫌いなのは私。私だけだ。

 

 そうした感情のせいか、壁に貼り出された依頼書──多くは討伐の依頼で、誰が受けてもいい求人は壁に張り出される──を流し見して、そそくさと逃げ帰るように足を返すことが常だった。

 

 しかし、明るくなったかせいか、浮ついていただけか、もはや私自身ですら、自らの心の機微に区別が付かないが、そう、ギルドで一枚の貼り紙を見つけた時、漠然と何かを感じ取った。

 使命、天命、それは啓示か、暴走した感情か。

 良く分からないが、ようはそれに自らの運命を見出したのだ。

 

 若い人物にありがちな迷いだと言われるかもしれないが、私はこの張り紙が私のために用意されたものであると信じてやまなかった。

 

 それは古い廃村跡に住み着いた妖狐を駆除してくれといった内容の貼り紙だった。

 妖狐というのは尾の数によって強さが変わる化け物だ。記載されていたのは三尾の狐で、それでもそこそこの冒険者──討伐を専門、もしくは好んで受けるギルド員の蔑称──が束になって相手をするようなやつで、剣を使わない自分では容易に勝てるような相手ではなかったが、気づいたら貼り紙をちぎっていた。

 

 受付の人であったり、ギルド内にいた人々が口々にそれはあなたに相応しい仕事ではないと、私を留めようとしたが、運命という熱に当てられた私には雑音としてしか耳を通らなかった。

 

 

 

 

 

 制止の声を振り切って、件の廃村に辿り着いたのは夜だった。

 空気の綺麗さのせいか、空を見上げれば星々が瞬き、少し欠けた月が辺りを照らしていた。

 幻想的ともとれる自然の光景は、人に味方をすることはない。

 夜は化け物の時間だ。

 人は目を失い、足を失い、まともに活動することなどできない。

 

 普段なら廃村に入る前に野宿などをして、日を改めるところであったが、奇妙な高揚に当てられたのか、しばらく呑気に徘徊をしていた。

 

 それから随分と長い間、探索をしていたが、妖狐どころか、獣もいない。

 異常な静かさだけがそこにあった。

 

 熱に犯されていた私は肩透かしであったかと考え、ため息を吐くほどには気持ちが弛緩していたが、普段の私なら、虫の声、風の音すら失った廃村は明らかな危険地帯だったことに気が付いただろう。

 

 そうして、何も見当たらず帰ろうかと考えていた時、まるで初めからそこに居たように、欠けた月を背景に妖狐は現れた。

 

 九つの尾を伴って。

 

 

 

 

 

「あら、こんな夜更けに独りかしら、お嬢さん」

 

 動物型ですらなく、人型。

 

 艶やかに着こなし纏うそれは、明らかに布ではなく異常な妖気を発している。

 

「その服装は、魔法使いかしら。でもわざわざ欠けて虫食いの杖を使うのは何故かしらね」

 

 本能に任せて動く下位の化け物ではなく、知能を有している。明らかに上位の化け物。

 

 その赤く深い瞳は私の反応を伺っている。どんな考えをするのか、それを読み解くように。

 

「ふふ、あなたは剣を使うのでしょう? 杖の握り方がおかしいわ。でも、何故剣を握らないのかしら、不思議ね」

 

 こてんと傾けた顔には無邪気が彩られていたが、僅かに釣り上げられた口の端は、その深い残虐性を表していた。

 

 これは話が違う。そう思ったが、しかし、つまるところあの貼り紙をみて感じた運命が示していたのはこういうことだったのかと、奇妙だが納得できるものもあった。

 

「理由があるのかしら、それとも私は舐められているのかしら。そう、私、知りたいわ」

 

 私の意識が彼女から一瞬離れたことに気がついたのか、彼女から恐ろしいほどの威圧感が発せられる。

 殺気。

 息をすることを忘れるほどの殺気であった。

 

「ねえ、あなたが死んじゃう前に、あなたのことを私に教えて?」

 

 ここでなら、私は罪を精算することができるだろう、と頭に過ぎったのは一瞬だった。

 

 生存本能か、気づけば、体が勝手に杖を動かし、魔法陣を空に描き出していた。

 

 染み付いた反射のような動きだったが、選んだ魔法は生物に向けて撃ったことのないような、殺傷力の高いものだった。

 

 陣より飛び出した、赤熱した閃光は妖狐を焼くことなく、妖狐に触れた部分より熱を失って、どろりどろりと地に落ちていく。

 

「あら、火の魔術を使うのね。私とおそろい。火というのは古来より人が畏れ崇めてきたもの。なれば、私が操れるのもまた道理ということよ」

 

 見せつけるように手の平に灯した蛍火を妖狐が握り潰した瞬間、この廃村の家屋という家屋が炎上し始め、村の外縁には、私を逃さないためか炎で出来た壁が燃え上がり始めた。

 

 チリチリと肌を焼く異常な熱気も、肺に与えられた灼熱感とも感じられる息苦しさも、これでは普通に生存することすら難しい。

 このままではきっと逃げ出すことすらできないだろう。

 

 昇る炎に向け、空に魔法陣を描き出す。青色に輝く光の線は水を呼び出す、あるいは生み出すためのもの。

 

 今から起こす魔法は、雨乞いというには超自然的だが、雨雲を呼び出しそれ全てを水に変換するものだ。

 規模も威力も燃え盛る火炎を喰らうに相応しい。

 

 放たれた水流は炎の壁を喰らい、炎に呑まれた家屋ごと呑み潰し、炎を掻き消した。

 

 しかし、

 

「多芸ね。水というのは繁栄を約束するとともに災害を約束するものでもある。つまりはもちろん私も操れるのよ」

 

 微笑む妖狐が、手の平の水玉を握り潰すと同時に現れたのは津波だ。

 恐るべき水の量か、辺りに与えられた異常な暑さは、瞬時に肌寒く感じるほどに還された。

 私の雨雲すら呑み込む異常な規模の津波は質量だけ見てもどうすることもできない。

 まさに洪水。まさに災害。

 こちらに届けばなす術もなく私を潰していくだろう。

 

 なれば、するべきは未然に防ぐのみだ。

 幸い妖狐は一つの術しか維持しない。術のコントロールが完璧なせいか、残滓すら残らず、私の水流でも燃え残っていた妖狐の炎は消え失せていた。

 私を嬲るつもりか、それともただ維持出来ないのか。

 維持が出来ないと見るには希望的観測すぎるが、それにかけるしかない状況であるのは間違いないのだ。

 

 生み出すは雷。威力もさることながら疾さも確かなものだ。

 杖の先より描き出される魔法陣が紫に輝き、バチバチと帯電し始める。

 極限まで疾さに特化したこの魔法は、唱えてから相手に届くまでラグなんてほとんどない。

 それこそコンマ1秒の世界だ。

 瞬きすら許さないほどの速度。

 

 だというのに。

 

 私の魔法など見ずに、ただ私の目だけを見つめている妖狐は、こちらに薄く微笑みながら、何でもないように雷をはたき落とした。私の魔法など存在しなかったように、妖狐は薄く口端を歪ませ私を見ている。

 

「あら、凄いわね。稲光。雷というものは、一部では神の怒りなんて表現もされることもあるらしいわね」

 

 そうして、微笑む妖狐は手の平に電気で出来た球を生み出した。

 まさに絶望だ。

 

 しかし、妖狐の後ろに見えた水の壁は消えた。

 空中で霧散した水の魔力は塵や他の魔力と混じり合い、異常な雨降りとなって、この大地に降り注いだ。

 それは私の甘い考えを咎めるようだった。

 魔法は維持できないのではなく、維持していないのだと。

 魔力をまとった水のせいか、すぐに服が水を吸い、一瞬で体温と体力が奪われていく。

 

「ねえ、雷。私は扱えるかしら」

 

 能面のように貼り付けられた顔のまま、吐き出された白々しい言葉とともに、妖狐が小さな雷球を握り潰した瞬間、黒く陰る空より光がいくつも光り輝いた。

 

 反射なのか、私の生意地の汚さなのか、私の意識が防御を命令する前に、大地を盾にする魔法は発動していた。

 

 異常な爆音が辺りに何度も響く。

 その度に、盾とした大地から砂がポロポロと落ちてくる。

 

 咄嗟の魔法だったからか、防壁は私のパーソナルマークと化した魔女帽を真っ二つにしたが、しかしついに、電撃はこちらに届くことはなかった。

 

 このまま、立ち去ってはくれないか。

 そんな弱気が仄かに浮かぶ。

 しかし、祈りは虚しく、ひび割れた防壁の隙間から妖狐の赤い目が光る。

 

「本当に凄いわ。魔法使いとしても一流とは思わなかったもの。ところで、もう説明は要らないわよね。私は大地すら操れる」

 

 足元が波打つ。

 私の魔力の宿っていた土の防壁は、瞬く間に妖狐の魔力で汚染され、そのコントロールを奪われた。

 まるで、自分が湖の上に立っているのかと錯覚を起こすほど滑らかに、土で出来た濁流は私を呑み込み、地中深くへ埋め込もうとする。

 

 口に泥が入り込み、苦い味が広がる。息ができない。

 泥流に手足を掬われ、逃れることもできない。

 私の足掻く力よりも、土の質量の方が強いのだ。

 

 このままでは死ぬ。死んでしまう。

 

 思うが先か、私は残った魔力を起爆剤として私を呑み込む大地を魔力の奔流で抉り返していた。

 

 私の魔力、元々あった大気中の魔力、妖狐の魔力、すべてを反発させ暴走させたのだ。

 

 爆発音。熱。痛み。視界を埋め尽くす白色の閃光は周囲の大地ごと、妖狐の魔法を消しとばした。

 

 辺りは土色一色となった。

 木々、廃屋、泥塊、全てが弾け、消え去ったのだ。剥き出しの断層は被害の規模を示している。

 

 代償は大きい。

 

 体の中がズキズキと痛む。魔力の回路に傷が付いたのだろう。魔法はもう上手く使えないと考えた方がいい。

 

 息が上がる。

 息を整えようとすればするほど、逆に呼吸が乱れていく。

 吐いた息からは土の香りがする。

 魔力を失ったからだろう、異常な頭痛と発汗が止まらない。目も上手く開かない。

 杖を持つ手は震える。

 

 土煙の晴れた跡より、妖狐は私を見つめて、笑う。

 

「ここまで感動したのは初めてかも知れないわ。だってあなたは純粋な魔法使いではないのだもの。」

 

 そう言ってから、妖狐は4つの災害を生み出した。

 

「でも、そろそろ稚拙な術の繰り出し合いには飽いてきたわ。こんな手慰めじゃ満足できないの」

 

 もはや壁となり肥大化した炎。

 私の水流とは比較にならないほどの質量を持った水塊津波。

 あまりの莫大な電力によって真っ黒な雲を太陽と見間違えるほど輝かす雷。

 まだ威力を解放していないのにもかかわらず、余波によって立っていられないほどの揺らぎを起こす地震。

 

 それぞれが反発し合い威力が削られている筈だが、それでも人を1人殺すには余剰な力だった。

 

「さあ、本当に死んでしまうわよ。その前に剣を取りなさい」

 

 期待か失望か、それとも他の感情を隠すためか、浮かべられた微笑みは酷く歪んで見えた。

 

 

 迫る死を前に、心がざわめく。

 

 ──いつか願ったことを思い出す。

 

 迫る炎は肺を焼き、私の呼吸を殺す。

 

 ──私は死にたいのだ。

 

 炎に混じり蒸発したのか、水蒸気となった水は皮膚を焼き、視界を殺す。

 

 ──無残に散ることを望んだ。

 

 雷の破裂音が水蒸気を辿り、私に届くはずの音を殺した。

 

 ──そのはずなのに。

 

 もとより退路はないが、大地の興隆は私から移動を殺した。

 

 

 なのに、ああ、私は醜い人間だ。

 

 この期に及んで、この期に及んで。

 

 私は、死にたくない。

 

 まだ、死にたくないのだ。

 

 

 だから。

 

 

「やっと見せてくれるのね。どれほどの──

 

 

 だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お前が死ね。

 

 

 

 

 魔法陣を描くためだけに買ったボロボロの杖は、剣を持つように振るう、たったそれだけの動作で、4つの災害を切り裂き、妖狐の体をバラバラにした。

 

 

 ◇

 

 

 空より月の暖かな光が地に降り注ぐ。

 見渡せば、先程の戦闘などなかったかのようにあたりは静まり返っていた。

 

 しばらくの間呆けていたが、身を焼く灼熱感と折れた足の骨が私を現実に引き戻した。

 

 そして後悔した。

 死ぬべきは私だったのにと。

 

 このままでいれば死ぬだろう。それくらいの傷だ。火傷も骨折も、視界も霞み、耳は聞こえない。機能が死んだ。もはや生活を過ごす力はない。

 

 ならば、妖狐を殺さずとも私だけで死ねば良かったのにと。

 

 

 こんなはずじゃなかったのに。

 

 殺すつもりなんてなかったのに。

 

 死にたかったはずだったのに。

 

 私が死ぬべきだったのに。

 

 

「ごめんなさい……」

 

 私はまた罪を重ねたのだ。

 自分が生きたいがために。生き足掻いたために。

 

「ごめんなさい……」

 

 ぐちゃぐちゃになった妖狐は何も語らない。

 当たり前だ。死んだ者に語る口などない。

 

「ごめんなさい……」

 

 妖怪だ。化け物だ。もしかしたら集めたら生き返るかもしれないと、折れた足を引きずり肉塊の側まで寄ってみたが、もはや命として存在出来ない程に切り刻まれていた。

 

「ごめんなさい……」

 

 それでも形を整えれば生き返るかも知れないと、肉をこねくり回していたが、やはり動くことはなかった。

 

「ごめんなさい……」

 

 

「ごめんなさい……」

 

 

「ごめんなさい……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、私の死を哀しんでくれるの。嬉しいわ」

 

「でも、ごめんなさいね。人は死を恐れるものだから。つまり、私は死なないの」

 



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後半 化け物の死

 

 化け物とは何だろうか。

 

 人に仇なすもの。

 魔力や恐怖が結実したもの。

 力をつけすぎたもの。

 理解が及ばないもの。

 価値観が他よりズレたもの。

 嫌われたもの。

 

 そう他者によって決めつけられたもの。

 

 それが化け物の定義なら、全てを持つ私は化け物でしかないのだろう。

 

 でも、人の心が姿を象り、生命となった私は、ただの化け物でしかないのだろうか。

 私の心は、存在は、人から生まれたはずなのに。

 私は人足る存在となるに値しないのか。

 

 ずっと、その問いは、私の中で燻り続けている。

 

 

 

 

 


 

 

 

 あれはまだ私がただの妖狐だった頃。

 軒先にて休んでいたところ、汚い身なりの人間の子供がやってきて、私を見ては狐だ狐だと騒ぎ立てるのだ。

 尾の数が一つしかなかったから、ただの狐と間違われたのだろう。

 身なりの通りに学がないのか、野生の動物、ましてや怪生の類に対する危機感すらなく、魚だよ、魚。といって私の前に骨しかないような貧相な魚を差し出した。

 

 その日は気分が良かったのか、騒がしいと子どもを食い荒らすことなく、それどころか、期待したような顔で見られていたから、仕方なしにその魚を食ってやった。

 

 その様子を、少年は何が楽しいのかニコニコと眺めていた。

 

 やがて、見つめるだけでは満足できなくなったのか、おずおずと私に触れようとしてきた。

 その手を引き裂く事など容易かったが、貧相で、さらには必要のないものとはいえ施しを受けた以上、例を返すべきだと考えた私は、その手を受け入れた。

 汚い手で触られるのにやはり拒否感はあったが、馬鹿みたいに喜ぶ顔を見たら、怒る気概もなくした。

 

 そのまま、なすがままの私に気を良くしたのか、少年は私を家に連れて帰ったのだ。

 余程私は気分が良かったのだろう、抵抗はしなかった。

 予想した通りに住んでいた者たちは汚らしい格好をしていた。

 妖狐という存在を知っていたかも危うい程、貧しい者たちだったのだ。

 

 そこで、好き勝手をされたのだと、そこに住むものたち全てを殺しても良かったはずだが、それを実行することはなく、それどころか、いつの間にか私は彼らのペットとして身を窶していた。

 

 しかし、彼らといた日々は楽しかった。

 動物が面白いのか、様々な芸を仕込まれたが、そのどれもを1度で覚え、披露するたび、馬鹿馬鹿しく思えるほど大げさなリアクションで驚くのだ。

 天才だ、天才だと騒ぐ彼らは見るに堪えなかったが、何故か私は何度も何度も芸を見せてやったのを覚えている。

 

 ある時、少年が似顔絵を私に見せに来た。

 最初はなんだろう、このゴミは、と疑問を抱いたが、少年曰く、これは似顔絵なのだと、たいそうなリアクションを私に見せた。

 馬鹿馬鹿しいと引き裂いても良かったが、結局それはしなかった。

 最終的には、壁に貼り付けられ、飾られることになったそれには、ぐちゃぐちゃな輪郭に、理解し難い配色の並びで、父、母、少年、私が描かれていた。

 

 いつだったか、私専用の食事が渡されるようになった。

 私は皆と同じ食事で良かったが、狐用の餌を買ってきたとはしゃぐ彼らを見たら、それを食わない訳にはいかなくなった。

 

 いつか、ボロボロの鏡の前で、下手くそなリボンを頭に結ばれて、可愛い、可愛いと撫でられたこともあった。

 その頃にはもう、気安く触るなという感情を抱くことはなかった。

 

 満ちていた。

 あの時間、私たちは違う生物であったが、間違いなく家族だった。

 

 何もかもが輝いて見えた。

 全てが楽しかった。楽しかったのだ。

 

 己が化け物である事を忘れるほどに。

 

 

 

 

 足の先から沸騰した本能が、脊髄を、脳を犯し、視界を赤で染めていく。

 

 私に人を説いた口は、私に愛を説いた口は、私に心を説いた口は。

 

 悲鳴。悲鳴。悲鳴。

 血は溢れ、溢れ、溢れ、こぼれた。

 

 赤い部屋。吹きさらしの部屋。私以外がいない部屋。

 似顔絵も、古びた家具も、思い出も、全て、全て、私が壊した。

 あの笑顔も、あの声も。

 

 優しく、美しかった愛情は、赤黒くかすれた塊になった。

 

 私は獣だった。化け物だった。

 尊さも、美しさも、輝きも、心も、理性も、全てが本能の前には無力だった。

 

 私の愛したものは、他でもない私が壊した。求めて、求めて得たものは痛みだけだった。

 

 ああ、何故私は化け物という器に生まれたのだろう。

 何故私は人という器に生まれることができなかったのだろう。

 

 この感情はきっと化け物が持つべきものじゃないはずだ。

 だって、こんなにさみしくて、辛くて、苦しい感情は、化け物に似合わないだろう。

 

 どうして、化け物に生まれてしまったのか。

 化け物として生まれ無ければ、私は皆と家族でいられたのに。

 

 心を持とうと、言葉を理解しようと。

 結局、私は化け物でしかないのだ。

 

 くるしい。さみしい。

 

 感情が溢れる。

 滲む視界は、どうしようもなく未成熟な私を表していた。

 

 心なんてものから生まれ無ければ、私はただ化け物でいられたのに。

 心さえなければ、こんな気持ちになる事もなかったのに。

 

 いらなかったのに。

 心なんて。

 苦しいだけのものなんて。

 辛いだけのものなんて。

 

 そう考えた時、私の形は崩れ去ったのだ。

 

 ──内側から与えられる熱が私を溶かしていく。その熱は私を溶かし、崩し、塗り替えた。

 

 そうして、やっと私は一分の隙もなく完成した。

 

 ──もはや痛みはなかった。苦しみも、寂しさも。消え失せた心の残滓には、歓喜だけが固まった。

 

 私は化け物。心より生まれ、人を喰らう。

 全てに仇なし、全てを喰らう。

 ならばきっと、いつかは私の心さえ喰らう事ができるのだろう。

 

 赤黒くひび割れた鏡には、能面みたいに微笑む少女がいた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 どうやら、私はまだ生きているらしい。

 熱、痛み、重み。あれ程の怪我をしたというのに、目覚めの時はそれらを忘れるほどに好調であった。

 

 記憶はない。私が罪の意識で満たされた時。

 気づいた時にはここにいた。私の意識はあの時よりの地続きであった。

 

 気を失ったのかさえ不明だが、目を開いた時、私の前には妖狐がいた。

 

「あら、お目覚めかしら、寝坊助さん」

 

 呼吸が止まる。

 目の前の現実を信じられなかったのか、私の中に空白が生まれた。

 

 妖狐は生きていた。私は罪を重ねなかったのだ。

 

「……死んだと思ったの? たった一度、切っただけなのに?」

 

 しかし、達成感にも似た充足感は長くは続かなかった。

 

 少し困ったような表情で、口をもにょもにょと動かす妖狐は、この状況でなければ可愛いとさえ思ったかも知れない。

 

 しかし、妖狐には、何か違和感があった。

 知性を感じさせる瞳も、無垢の中に蠱惑的な艶を感じる(かんばせ)も、惨虐性を見せた口の端も、そのどれもが違和感を作り出していた。

 

 ああ、そうか。この違和感は。

 

 揺らぎすら感じさせないほど完成された表情は。

 目尻の下がり具合も、頬の吊り上がった角度も、何もかもが計算し尽くされたかのように同様で、誤差すら無い。

 

 困ったように微笑む姿には、光がない。

 生き物とは思えないほどの冷たさだけがあった。

 

 これは作り物なのだ。ただ、相手に自分の存在を植え付けるためだけの、作り物。

 内心を、思考を隠すための仮面なのだ。

 

 そう考えたのが悪かったのか、私を見つめる妖狐からは得体の知れない恐ろしさだけしか感じられなくなった。

 

 まるで機械のようだ。

 機械が人を真似ているような、感情が見受けられないような無機質だけがあった。

 言葉使いも、声色も、仕草一つをとっても、何もかもが偽物に見える。

 最適を選び使用しているような、そんな虚だけが妖狐から感じられた。

 それはやはり、ただただ不気味であった。

 

 結果として、妖狐が生きていたという安堵は私の中に満ちることはなく、罪の意識もその安堵すらも忘れるほどの底知れない恐ろしさだけが私の中に残された。

 

 赤く光る目、何も見せない微笑み。優しげな手つきでなぞられた肌には鳥肌がたった。

 

「酷いわ。傷がないか見てただけよ」

 

 不満げな様子を作り、妖狐は呟く。

 

 傷。

 妖狐の存在に気を取られて、忘れていたが、私はあの時に生命を脅かすほどのダメージを負っていたはずだった。

 

「傷、痛み、病。人を脅かすもの全てを私は操ることができる。つまり、私はそれを癒すこともできるわ」

 

 そう言って、妖狐は私の腕に爪を立てた。

 痛みよりも先に熱さが脳に届いた。

 後に来た痛みに、妖狐の手を振り払おうとしたが、空間に固定されているのかと勘違う程に強く拘束されていて、振り払うことは叶わなかった。

 

「痛かったかしら。でも、ほら」

 

 傷を隠すように肌に重ねられた手は朧げに輝き、妖狐が手を退かした後には、まるで初めから傷なんてなかったように綺麗な状態の肌があった。

 

「こうやって、あなたの傷を治してあげたのよ」

 

 そう話した後に、妖狐は再び感情の見えない微笑みを作り上げ、私の目を見ながら停止した。

 

 気味の悪い存在であった。

 どうやら、妖狐という存在は私の知る化け物の範疇とは違うようだ。

 

 殺し殺され合う、それが人と化け物の関係である筈だ。

 死にそうな私など放置すれば良かっただろう。

 しかし、妖狐は私を治療した。

 それは人情味溢れる妖狐が私を哀れんだ結果なのかも知れないが、今私を見つめる虚構的な様子とはどうしても噛み合わない。

 そして、戦闘の時に見せた、他虐的な様相ともやはり一致しない。

 

 だからこそ、妖狐の作られた優しさのようなものがいっそう恐ろしげに感じるのだろうか。

 

 それは私の恐怖が引き起こした幻覚なのかも知れないが、もはや私には妖狐が何かの機械にしか見えなくなっていた。

 

 停止した妖狐は私を見つめている。

 

 瞬きすら無しに見つめられるその目線から逃れるように、部屋を見渡せば、机、椅子、扉、窓。何処にでもあるような物しか置いていないような、およそ特徴のない部屋が広がっていた。

 

 窓の外は暗く、しかし、そこから映える景色すらも、普遍的な植生、家屋であった。

 かろうじて分かるのは、私の住む大陸からは離れていないだろうということだけだ。

 

 結局のところ、どこかの集落の夜である、それしか分かるものはなかった。

 

 私の思考に一段落ついたのが分かったのか、停止していた妖狐は突然、やはり機械のように動き出し、私の着せられていた病衣のような服を剥ぎ取り、無遠慮に体を弄って来た。

 

 私の理解を超えた行動に、咄嗟に抵抗しようとしたが、金縛りのような術の一つか、全く持って体を動かす事が出来なくなっていた。

 

 体の上を手が這い進む。足に、腹に、手に、頬に。私の体を確かめては、至るところに手を滑らす。

 妖狐の吐息が体に触れる。

 その赤い瞳にはやはり何も浮かんでいなかった。

 

 触られたところから凍りつくような心地だった。

 視界が歪み、頬を雫が辿る。

 はっ、はっと荒い息遣いだけが響いていた。

 

 しばらく、機械的な触診は続いたが、やがて満足したのか、妖狐は部屋から出て行った。

 

 理解ができない。

 それがここまで苦痛であるとは思っていなかった。

 分からないというのはそれだけで恐ろしさを持つのだ。そう教え込まれた。

 

 脱がされた病衣を再び身につける。

 

 寒さなど感じていないのに、体が震えていた。

 

 服というものにこれほど感謝した日はないだろう。

 たかが布一枚であれ、何かを身につけるという行為がここまで心強いものだとは知らなかった。

 

 そうして、妖狐が部屋に帰ってくるまでの空白を、服を握りしめていた。

 

 普段の私ならば、この空白の時間にドアを突き破り、外に助けを求めようと、逃げ出す決断を下したかもしれない。

 いや、あれほどまでの化け物であったら、外に逃げ出したところで意味などなかっただろうか。

 

 しかし、そうした逃げ出すという原初的な方法が浮かばないほど、私の心は妖狐という存在に侵食されていた。

 

 どうやら完全に参ってしまったようで、意味などないのに、妖狐が入ってくるだろうドアを、見つめておくべきか、見ないでおくべきか、そんなことを真剣に考えていた。

 

 そうしている内に、何故か食欲を唆るような香りとともに、妖狐は部屋に入って来た。

 

「食べるでしょう。あなた、あの日から何も食べてないわよ」

 

 あの日。

 いつ目が覚めたのか定かではないが、昨日、という訳ではないのだろう。

 ならば、いつから私は妖狐といるのだろう。

 

 目の前に出された粥は美味しそうな見た目で、香りも良い。

 しかし、得体の知れない相手から差し出された食べ物だからかは分からないが、食指は動かなかった。

 

「動けなくして、無理やり胃に流し込まれるのと、今食べるの、どちらがいいかしら」

 

 返事をしなかったからか、いやな沈黙が生まれた。

 鋭く見つめられる視線に耐えきれず、目を逸らした。

 食事、添えられた匙、そして妖狐。私は、それらを視界に入れることを拒んだ。

 

 食事という生死を感じる場所で武器となるものを見るのがダメなのか、私のチートへの嫌悪は食事の際に際立つのだ。

 そのせいで、私は普段から手掴みで食事をする事を強制させられているのだ。

 たかだか匙である。しかし、私にとってそれは武器足り得るのだ。

 

 そんなことを、妖狐に言うつもりも、そもそも食事を取る気すらもなかったが、何故か妖狐はベッドに腰を下ろし、

 

「…そう、じゃあ口だけ開きなさい」

 

 と、その長い尾で私の視界を隠してきた。

 ふさふさとした毛が顔を撫でる。

 料理の香りに混じり、甘い匂いがした。

 

 金縛りのような拘束はされなかった。

 

「ねえ、火傷したいの? …治すのは私なのよ」

 

 口を開かなかった私を咎めるように告げられた言葉に、内心にこびりついた怖気が私の口を開かせた。

 カタ、と食器のぶつかる音が鳴り、口に粥が入れられた。

 少し熱すぎるような気がしたが、味は良かった。

 

 しばらくの間、言葉なく、私の咀嚼音と、食器の掠れる音だけが耳に届いていた。

 

 何故こんなことになっているのか。

 しかし、この奇妙な時間を私は嫌いではなかった。

 

 私にとって、食事というのは苦痛をともに得る時間だった。

 

 どうしても死がちらつく。

 そして武器が視界に入る。私に歪めた顔を見せる人々が想起される。

 

 しかし、チートの影を見ずに、静かに、それでいて、誰かに嫌な顔をされずにものが食べられるというのは、そう、心地良かった。

 

 しかし、妖狐はそうではなかったのか、揶揄うような声色で、偉いわねと仕切りに頭を撫でてきた。

 それは、舐められているというより、赤子のような扱いだった。

 お前は私の母親になったつもりか、と喉元まで出かけたが、怖気が勝り、言葉にはせずそのまま飲み込んだ。

 

 しばらく奇妙な食事は続き、最後に「ちゃんと食べられたじゃない。偉いわ」と私の頭を撫で、妖狐は部屋から出て行った。

 

 暗がりに目が慣れたのか、開けた視界は少し眩しく見えた。

 

 分からない存在である、妖狐は。

 あの時、出会った印象には、私に殺意しか持っていないように見えたが、だとするならば、私に介護じみた世話や傷の治療などする理由が分からない。

 完全に回復した私と戦いたかったとするならば、世話をする必要はないし、ただ遊べる人形が欲しかったのならば、積極的な世話などしないだろう。

 籠絡、のような形で私を操り人形にしたいということなのだろうか。

 しかし、妖狐がしきりに話す、人の恐れるものを私は操れる云々というのを考えるのであれば、きっと人の意思すら簡単に操ることが出来るだろう。

 そう思わされる程には妖狐の力は超越的であった。

 

 …つまりは私には理解できない存在である、ということが分かった。

 私はこのような行動パターンの人間を見たことがない。

 まあ、化け物であるから人間のパターンには当てはまらないだけかも知れないが。

 

 しかし、何を考えてみても、やはり掴み所のない存在であるのは間違いなかった。

 

 そう考えている間、私はずっとベッドの上にいた。別に動かない理由もなかったが、妖狐という存在のどこに逆鱗があるかが分からないために、下手に刺激しないようにしていた。

 それに、布切れ一枚で安心を買えるように、布団に包まれる重さや暖かみに安堵を覚えていたのも事実であった。

 

「それで、ちゃんと体は動くかしら」

 

 扉の開く音も光景も何もなく、一瞬、瞬きをしたその間に妖狐は私の隣に座っていた。

 思わず悲鳴を上げそうになったが、恐怖に喉が引きつり過ぎたのか、掠れた呼吸音しか音は鳴らなかった。

 心臓の音が鳴り止まないが、何とか妖狐と目を合わせる。

 

 見れば見るほど、不気味である。

 顔の筋肉が固定されているのかと疑うほど、妖狐の表情は変わらず、作られたような笑みだけが貼り付けられていた。

 そのせいか、笑う声も、変に優しげな仕草も何もかもが不気味であった。

 

「さっき確かめた限りでは傷はないけれど」

 

 そう言って、妖狐は憂いたような表情を作る。

 しかし、傷心したような顔をしても、そこにはまるで心が宿っていないのだ。

 それがまた恐ろしくて、握り締めた掌が、綺麗に整えられていたシーツにシワを作った。

 

「そう、元気そうでなによりだわ。じゃあ殺し合いましょうか」

 

 そう言って、妖狐はまるで世間話のように殺し合いの始まりを告げた。

 唐突過ぎて、聞き間違いじゃないのかと、疑うほどだったが、しかし、息が詰まるような殺気が語る内容の真実を証明していた。

 

 その温度差とも取れるような、穏やかさと攻撃性のスイッチはひたすらに気持ちが悪かった。

 

 私が何かを口にするより早く、虚空より目の前にストンと、軽快な音を立て、剣が床に突き刺さった。

 

「必要でしょう。あなたが私を殺すには」

 

「遊びでは終わらせたくないの。だから、魔法なんて陳腐なものは使わせないし、使わないわ」

 

 そう言って、妖狐は握り掴むような動きをした。

 途端にあたりから魔力が掻き消える。

 

 突き刺さった刀身は鈍い光を携えて、怯える私を映していた。

 

 全身から嫌な汗が出る。

 視点が定まらず、呼吸が乱れる。

 無自覚に握りしめていた手の平を開くことが出来ない。

 

「持てないの?」

 

 問い詰めるその声色にはどこか同情のようなものが宿っていた。

 目を背け、意味のない口の開閉を繰り返す私に、妖狐は肝を煎たのか、顎を摘まれ、強制的に面を正される。

 瞳の赤い色が視界に広がった。

 

「ねえ、あなたが大事そうに抱えている罪悪って、一体何かしら」

 

 妖狐とは、一言も話していない。たったの一言さえ。

 なのにも関わらず、妖狐の口からは罪悪という言葉が出てきた。

 

 私の抱える罪悪。

 

 眠っていたときに寝ぼけて話したのか。誰にも話したことなどなかったのに。

 混乱に支配された頭は一つの答えも下せなかった。

 

「剣を持つこと? いいえ、それは違うわ。だって武器は手段だもの。それ単体では意味を為せない」

 

 突き刺さった剣を妖狐が撫でる。

 

「殺すということ? ふふ、そうなんでしょうね。でも……」

 

 勿体ぶった話し方で私を詰る。

 どこまでも私を見透かしているような、赤く、暗い瞳。

 それから逃れようと頭では考えているのに、私を映す赤色から目を背けることは何故か出来なかった。

 

「命を奪わなければ、その命は潰えるわ。食物連鎖。弱肉強食。誰かの席を奪うというのは生物としての本能。それが自然。理。そういうふうに生物は出来ている」

 

 そんな摂理、理解しているに決まっている。

 それでもなお、何かから奪うというのは。

 ましてや、私が殺す必要すらなかった者たちを殺したという事実は、罪というにふさわしいものではないのか。

 

「…ねえ、あなたの罪を私は全く理解できないわ。だって、それは罪じゃないもの」

 

 なんにも映らない、虚だけの微笑み。

 まるで何も見ていないような表情を残し、妖狐は私の髪に触れる。

 

「このままじゃあなたは私に殺されちゃうわ。その役に立たない、脚を引っ張ることしかできない罪悪のせいで」

 

 心臓の音がいやにうるさい。

 耳障りな脈音は途切れない。

 

「…なら、その罪の意識を超えるほどの痛みがあったら手に取れるのかしら」

 

 そう言うが早いか、妖狐の腕が私の腹を貫いた。

 ゴホッと意図せぬ音が口から溢れる。

 熱い。熱い。痛い。

 体が危険信号に反応して、混乱しているのか、目の前がチカチカとした。

 

 しかし、それでも、柄を掴むことは出来なかった。

 まるで手だけが私の制御下から離れたように力を入れることすら出来ないのだ。

 

「ねえ、怒りなさい。理不尽でしょう。何故あなたが私に痛めつけられるのか」

 

 怒りはある。

 それでも、私の手は動かない。

 

「ねえ、恨みなさい。理不尽でしょう。何故あなただけがこんな仕打ちを受けないといけないのか」

 

 恨みはある。

 でも、そのどちらもが私の恐怖の中で霞む程度でしかなかった。

 例えここで朽ちるにしても、あのとき味わった罪悪の後悔よりは霞むのだ。

 

 言葉にならない呻きだけが響いた。

 肺に傷が付いたのか息ができない。

 

「振るうだけであなたの痛みは消えるのよ」

 

 ゴボッと口から血がこぼれる。

 手は、どうしても動かなかった。

 

 動く足で剣を蹴り飛ばした。

 

 力を入れたのが悪かったのか、押し出された血液が私の喉に詰まる。

 溢れかえった血液が肺を満たし、溺れたような感覚になった。

 

 カラカラと音を立てて剣は倒れた。

 

 殺すという罪。きっと誰も私のように深くは考えていないのだろう。当たり前だ。

 そんな事を考えずとも生きていけるのだから。

 なのに、こんなに私の中に残る、この重くて、重くて、暗い、決して消えてくれない思いは、どうしようもないほど私の欠陥を示していた。

 私は生物として失敗作であったのだ。

 そして、未熟な精神のまま、成長すらできなかった。

 

 それが、私の死への願いを後押ししていた。

 

 私の罪悪は生への渇望を超えたのだ。

 もはや、妖狐になら殺されても良いと、そんな気分だった。

 

 苦しい。痛い。寒い。

 

 しかし、その中に私は充実を見出していた。

 これは罪滅ぼしなのだと、私はやっと全てから解放されるのだと。

 

 体の中に感じる妖狐の熱が、とても熱く感じた。

 目を開いているはずなのに、視界を黒が覆っていく。

 

 きっと今私は笑っている。この寒さが幸せをだと感じている。

 

 意識が下っていく。

 

「可哀想な子……」

 

 その声だけがやけに耳に残っていた。

 

 

 

 

 

 

 再び目を覚ました時、しかし妖狐が目の前にいた。

 それはまるであの日の再現のようだった。

 

「おはよう。寝坊助さん。外はいい天気よ」

 

 私はどうやら死ぬことを許されないようだった。

 安堵のような、失意のような矛盾した感慨が内に巡る。

 

 そうして、その日より妖狐との奇妙な生活が始まった。

 

 何を考えていたのかはわからないが、妖狐は私を殺しはしなかった。

 傷つけては癒し、猫可愛がりをしては、暴力をぶつける。

 まるでペットを道具のように考えているタイプの飼い主のような態度であった。

 

 ある日はひたすら赤子のような扱いでひたすら偉い偉いと撫でまわされた。

 またある日は一日中拷問を受けた。

 一緒に料理を作るような穏やかな日もあれば、指先から齧られ腹を抉り食われるような思い出したくもない日もあった。

 

 妖狐の心理を理解することは叶わなかったが、どの日にも共通して妖狐は私に剣を持たせようとした。

 私のチートの真価が見たいのだろうか。

 

 戦士と呼ばれる人種には、より強き者に殺される事を誉れとする文化がある。

 それは、言い換えるのであれば、弱小、塵芥には全くの価値がないという事だ。

 ようは妖狐はそういうタイプの化け物で、自分の奪う命が弱い、戦えないようなものであるというのは、プライドのせいで認めたくないとかなのかも知れない。

 

 だとしても、私が心から剣を振るう時は来ないだろうが。

 

 しかし、そんな妖狐との生活の中で、私は妖狐という存在に依存を始めていた。

 それは私の孤独と恐怖が作り出した幻想なのだろうが、偶に優しくされる時に、私は妖狐に必要とされているのだと、訳の分からない気持ちが溢れるのだ。有り体に言えば、この生活の中で幸福を見出していた。

 どうして、そんなふうになったのかは分からない。

 これではまるでDV被害者の依存だな、と他人事のように思った。

 

 この空間は妖狐の物で、出ることは叶わないと聞いた時も、どこか浮世の出来事のように感じていた。

 

 だからこそ、

 

「ねえ、あなたの救出隊が組まれるそうよ」

 

 その発言に言葉を失った。

 脳が理解を拒んだのだ。

 

「いつだったか、あなたが寝ていた時にね。ふふ、血塗れのあなたを見て、凄い顔をしていたわ」

 

 そして、妖狐は髪の青い、業物の弓を持った人だったわ、と微笑んだ。

 

 ああ、私の日常は壊れるのだ。

 変に抱いていた親愛も、どこか楽しさを見出していたこの空間も偽りだと、分かってしまう。

 

 語られたその人は、こんな私にずっと優しくしてくれた大切な先輩なのだ。

 先輩に何かがあったなら、私は妖狐を以前と同じ目で見ることが出来なくなる。

 

「ふふ、怖い顔。大丈夫よ安心して。ちゃんと帰してあげたわ。だってちょっと待つだけで、たくさん殺せるのでしょう?」

 

 歪められた口の端はどうしてもその残虐性を示していた。

 きっともう、どう転んでも良い展開にはならない。

 この歪んでいて、それでいて心地の良かった日常は還らないのだ。

 

「この空間の外は、あの時の場所なの。意味が分かるかしら?」

 

 ああ、そうか。ならば彼らはあの場所にいるのだろう。そして、生殺与奪はもはや妖狐にある。

 耳鳴りが酷い。知らず掻いた汗が体温を奪い、寒気がした。

 

「ふふ。そう、私の目は彼らを捕らえているわ。いつでも、なんならあなたと遊びながら殺しに行ける」

 

 失望にも似た、感傷が私の中に満ちる。

 知らずのうちに、私はどこか妖狐に潔白を求めていたのだろう。

 私たちの関係に他の誰かを巻き込ないような、高潔さのようなものを。

 

「ねえ、まだその剣は持てないのかしら」

 

 もはや、私は、妖狐を切らなくちゃいけないのだ。

 そうじゃなければ、私を助けに来てくれた人たちに報いる事が出来ない。

 しかし、剣に手を伸ばそうとしているのに指先は震え、どうしても腕が持ち上がらない。

 

「薄情ね。そんなに自分の矜恃が大事かしら」

 

 プライドなんて大層なものなわけがない。この仄暗い感傷が矜恃であったなら、私は今にも剣を手に取れるはずなのだから。

 

「大事な人達なのでしょう? それを見捨てるのかしら」

 

 見捨てたいわけなどない。

 見捨てたいわけなどないだろう。

 しかし意に反して剣を持ち上げることは叶わない。

 

「まさか、見捨てた上で、また罪悪を語るつもりかしら。面白いわね。私にはそっちの方がよっぽど罪深く見えるけど……あなたは?」

 

 私だってそう思っている。

 なのにも、何故か、私の口からは何の言葉も出てこなかった。

 

「ねえ。あなたが剣を持てないのはあなたのせいよ。殺しの罪じゃないわ。理由を何かに求めるのはやめなさい」

 

 赤く、どこまでも暗い瞳が私を貫く。

 

「剣が悪いのではないでしょう。そして他殺は本能。あなたが悪いわけではない。あなたが許せないのは、理性的ぶっていた自分よ。自分を制御出来なかったのがそんなに嫌だったのかしら」

 

 そんな筈がない。

 私の感情がそう叫んでいるのにもかかわらず、私の口は意味のない開閉しかしない。

 

 分からない。

 

 私は、心のどこかで、私の罪悪の所在の証明を求めていたのかも知れない。

 そんな浅ましさが、妖狐に否定を叩き付けることに否を唱えたのだろうか。

 

 私の感傷は、真に嫌いだったのは、自分自身すら理解できず、制御もできない、そんな自分だったのだろうか。

 

「…ねえ、本当にあなたがしないといけないのは、ここで罪悪の所在について問うことではなく、彼らを救うことよ。違うかしら」

 

 言いあぐねたように、口の開閉を繰り返す私に妖狐は諭すように優しく語りかける。

 そうだ。もはや、罪を言い訳にして、逃げることは許されないのだ。

 必要なのは今、ここで彼らを救うことだけなのだから。

 

 しかし、頭の中に溢れる言葉や感情は纏まることはなかった。

 正しいのか、間違っているのか。

 きっと間違っているに決まっている。

 命の選別をしようとしているのだから。

 ぐちゃぐちゃになった思考の中で、私の片方は、剣を握る事を決して許容しなかったが、しかし、もう片方は妖狐を殺せと叫ぶのだ。

 

「さあ、剣をとりなさい」

 

 妖狐がわたしの腕を掴む。

 

 握らされた剣は、震えるこの手から滑り落ちることなく、手中に収まった。

 

「そう、それでいいわ。それでいいの」

 

 囁く妖狐は歓喜の表情で塗りつぶされていた。

 

「さあ! 私を、この化け物を引き裂いて見せなさい!」

 

 その言葉を皮切りに、おぞましいほどの殺意が質量を伴って爆発を起こした。

 

 咄嗟に爆風を切ることで、穴を作り、そこに飛び込むことで回避したが、何日か過ごしてきた家は跡形もなく消滅した。

 

 感傷に浸る間もなく、私の居たところに妖狐の腕が突き刺さる。弾けた大地がまるで金属音のように甲高く鳴く。

 

 牽制するように、振り払った剣戟は簡単に妖狐に弾かれた。

 それに少なくはない驚愕を覚えたが、それ以上に未だに気のない剣を振るう自分にただただ失望した。

 

 助けるのだ。こんな様では何にも為せないだろう。

 

 風切音が鳴る。

 気合いを入れた一撃は、それでも弾かれてしまったが、手応えはあった。

 

 殴る、蹴る。それしかしない妖狐の戦い方は原始的で直線的であったが、あまりに隔絶された力が起こす副次的な災害のせいで、まるで魔法使いと戦っているような錯覚を受けた。

 

 一度腕を振り抜けば、大地はめくれ、空は裂ける。

 脚を蹴り抜けば、そこから先の景色は抜け落ちたかのように消滅する。

 その余波は空気すら燃やし、後ろに見えていた湖すら干上げさせた。

 窓から見えていた景色は余すことなく、灰塵と化した。

 

 原理は全く分からないが、振り抜かれた腕からは、空間の歪む音なのか、金属音のような、人の悲鳴のような、気味の悪い音がした。

 

 迫る爪を弾く。

 

 妖狐の通った後には、甘ったるいような、それでいて焦げているような匂いが残されていた。

 

 明らかな異常現象である力の波は、剣を振るうことで掻き消す事が出来るのに、ただの肉体の延長にあるはずの妖狐の爪は私の剣にまで届くのだ。

 

 弾き、弾かれを繰り返す今の戦いは、その現象を抜きにしてみれば、単なる鍔迫り合いでしかない。

 それは、私の持つチートを考えれば、恐ろしい事であった。

 妖狐の力は私のチートの格をただの少女の棒振りにまで落とすのだ。

 

 私はそれらの攻撃に回避をとることは決してしなかった。否、避けることで対処が出来なかったのだ。

 だから斬った。

 爪を。牙を。空間にうねりすら生む純粋な力の波を。

 もしも避けようとしていたなら、その波に飲み込まれ、とっくにお陀仏となっていただろう。

 

 繰り返す応酬の中、次第に私の体は悲鳴を上げ始めた。

 

 経験が足りないのだ。

 まともに剣など振るったことがない。

 当たり前だ。戦いとは振れば終わる、そういうものだった。だから振るわなかった。

 しかし、その影響がここに来て響き始めた。

 

 息が苦しい。

 激しい動きに体がついてこれていない。

 魔法使いの真似事なんかしていたからこうなったのだ。ちゃんと鍛錬をしておくべきだったのだ。

 私の怠惰が私を助けに来てくれた皆を殺すのだ。

 そんな事を考えたが、全てが後の祭りだった。

 

 あまりに前のめりな姿勢で振り払った腕のせいで、何度も転びかけた。

 力が乗り切らない体制で振るったせいで、何度も吹き飛ばされた。

 そんな事を繰り返した。

 

 …ああ、これは勝てないかも知れない。そんな諦念が内に宿る。

 どれだけ心を奮わそうと、気力だけで超えられる実力の差ではない。

 精彩を欠いた動きでは、きっと、妖狐の首には刃は通らない。

 

 そう頭によぎった瞬間。不意に、激情が渦巻く。

 これは火事場の馬鹿力か。いや、そんなものではない!

 心に恨み、怒り、殺意、負の感情が爆発する。

 まるで、私の意識の中に別の誰かの感情が流入してきたかのように、心がざわつき、色めき出す。

 暗い殺意が視界を狭めていき、妖狐以外のものが見えなくなっていく。

 私の体が感情に支配されていく。

 

 殺せ。殺せ。何としてでも妖狐を殺せと、心が騒ぎ出す。

 

 乱雑に振り払った剣筋は、今までと違い、妖狐の皮膚に傷を作った。

 

 付けられた傷を見て、妖狐は笑みを深くした。

 

 それから、妖狐の攻撃はより激しくなった。私が防ぎ、しかし振り上げられた足の先では、空間が凍て付き、結晶となって降ってきた。

 

 私に傷が増えるたび、妖狐に傷が増えるたび、殺せという合唱は酷くなっていく。

 

 殺せ。殺せ。何としてでも妖狐を殺せと。

 

 耳鳴り、頭痛にも似たその響きは、ついには私から体の自由を奪い去った。

 

 無尽に湧き出る殺意は枯れることなく、妖狐だけをつけ狙う。

 

 そうして放たれた、感情に囚われた斬撃は、大振りで見ていられないような形だったが、妖狐の爪を砕いた。

 

 咄嗟に後ろに退いた妖狐に追撃する。

 体勢を崩しながらの追走で、見苦しいような様であったが、今までのどんな速度よりも早く、気がつけば妖狐の顔が目の前にあった。

 

 振り下ろす。力と勢いに任せた斬撃は、妖狐の肩から脇腹にかけてを裁断した。

 

 血飛沫が舞う。

 それと同時に、居座っていた激情は掻き消えた。静まりかえった心の中には殺意なんてものはなかった。

 肉を断つ嫌な感触だけが手の内に残る。

 どう考えても致命傷である。

 入った裂傷は、まるで植物の根のように、体に複雑に入り渡り、血を溢れさせた。

 なのにも関わらず、私は妖狐が死んだとは思えなかった。

 

「……痛いわ。なんてね」

 

 肩から脇腹にかけて入った亀裂のような裂傷はパズルのピースが嵌るように再生し始めた。

 赤い煙を立てながら、ついた傷跡が塞がっていく。

 血の匂いが私にまで届いた。

 余裕か、期待か、妖狐の笑みは深くなっていく。

 

「ねえ、あなたはまだ、私を恐れている。恐れてしまっている。……つまり、その恐れを克服しない限り、あなたの剣戟は私の命に届かない!」

 

 叫ぶ妖狐の周りに砕けた大地が岩石となって浮かび上がる。

 魔力すら存在しないこの場所で、身から溢れ出たエネルギーの余波だけで、魔法のような現象を起こしているのだ。

 

「あ、はは。ほら! この私を全身全霊を持って止めて見せなさい!」

 

 瞳孔は開き、血管が浮き出ていく。

 溢れ出た力が現象と化し、赤い煙を纏っているようにすら見えた。

 あまりの威圧感に足が竦みそうになる。

 

 私はこの世界で類なき他殺の才を得たが、妖狐という存在は正しく次元違う。

 殺戮の顕現と呼べるだろう。

 

 ただの叫び声の余波。それだけで抉れ、吹き飛ぶ大地は正しく妖狐の桁外れの力を表していた。

 

 怖気を隠すため振り払った斬撃は、その力の一部を掻き消し、そしてまた大地は弾け飛んだ。

 

 視界の外。左右、後方より飛んでくる力の波動を音で、皮膚で、全ての感覚で掴み取り、かき消して行く。

 

 先ほどの無茶な体の使い方のせいで、上がりきった呼吸は戻らない。

 

 しかし、死を間近に感じる故の高揚か、自身の呼吸音すら耳に入らないほどに、私の集中は高まっていき、まるで吸い込まれるように振るう剣に妖狐の力は消えていった。

 

 濃密な死の感覚。咄嗟に自らの首の前に剣を構えれば、凄まじい衝撃が手の平を通じて、体に駆け巡った。

 

 死。死。死。凍りつくような死の予感が何度も何度も私の前に現れる。

 

 もはや妖狐の姿をこの目にまともに捉える事が出来ない。

 長い髪が、赤い影の下から伸びているのが偶に見えるだけだった。

 勘だけで、来るだろう攻撃の前に剣を置いているだけの状態になっていた。

 

 何度も何度も死を掻い潜っているが、きっと1分すら経っていないだろう。

 いつまで続ければ、反撃の糸口は見つけられる。どう考えてもこの実力差をひっくり返すのは不可能だ。

 

 そう弱気になる心に火を灯す。

 

 ここで諦めたのなら、私は皆に顔向けできない。関わりすらなかったような他人のために命を張ってくれた人達なのだ。

 ならば、例え負けるとしても、私には死力を尽くす義務がある。

 私の命を掛けて、腕一本、例え指一本しか奪えないとしても、彼らに繋げられるよう、私は尽くさねばならないのだ。

 

 頭が痛い。息が苦しい。足が痛い。腕も痛い。何もかもが辛い。

 しかし、死ねない。負けられない。

 

 もはや私は意志だけで戦っていた。

 

 剣と爪が交錯するほんの一刹那。

 

 何故かはっきりと見えてしまった妖狐の顔には涙が流れていた。貼り付けられた微笑みの中で、白く残った涙の筋が印象に残った。

 

 気のせいだった、そう取るべき状況であったが、私の内は納得で満ちた。

 

 私は不思議な共心を得た。妖狐の姿に私が重なって見えたのだ。

 あれはそう、死にたいと、何もかもを投げ出したいと、そう願っていた、暗く自罰的な私と同じ姿だった。

 

 それを見て、こんな状況なのにも関わらず、私は妖狐について何も知らないことに気づいた。

 何が好きで、何が嫌いで、どんな時に楽しくて、はたまた辛いのか。私は何も知らない。

 

 しかし、思うことはあった。きっと妖狐は私と同じで死にたかったのだろう。

 

 考えれば自明の理であった。

 まともに剣を振るう鍛錬すらしていない私の斬撃が、本気の妖狐の攻撃をかき消すことなど不可能だろう。

 まるで剣に吸い込まれるように見えた私の冴えた斬撃は、実際のところ、妖狐が調整しながら、私が防げるようにしたものだったのだ。

 

 それを示すように、この戦いの中で、妖狐が私に致命傷を与えることはなかった。

 きっと、ずっと手加減していたのだろう。

 死合いに見せかけるために。私が剣を振るえるように。

 

 思えば、妖狐の行動は一貫していたのだ。

 全ては私に殺されるためであった。

 痛みによる、怒り、恨み。それで剣を振るわせようとしていたのだろう。

 痛めつけるだけが目的なら、治す必要などないのだから。

 そうだ、先輩たちを人質に取ったのも、私の価値観が自分のことよりも他人の方が重いと気づいたからなのだろう。

 

 私は何も知らない。妖狐は何を思い、生きてきたか。どうして死を望んでいるのか。

 そして、それを知ろうとするには、余りに遅すぎた。

 

 私が感じた運命とは、こういうことだったのだろうか。

 死にたいと願い、生きたいと縋り付いた私が、死を望む妖狐を殺すことが。

 

 その考えをどこまでも肯定する様に、妖狐の攻撃は私の命に届かない。

 

 この爪の角度は、この足の範囲は、全てが私にとって都合の良い軌道に乗っていた。

 重く、受け止めるしか無かった攻撃は、よく見れば、先の攻撃よりも著しく遅い。

 私は気力だけで立っていたのではなく、徹底的な手加減の上に生かされていた。

 

 突然、妖狐の動く先が頭の中に浮かび上がった。

 まるで未来を予測しているかのように、頭の内に描かれた光景が現実に投影されていく。

 ああ、妖狐は私に介入しているのだ。きっと、さっきの激情も、いや、もしかしたらそれ以前から私の意識を操っていたのかも知れない。

 

 まるで詰将棋のように、私が妖狐に刃を突き付けるまでが描かれていく。心の内にその最後、必中の軌跡が現れる。

 

 そして、私はそれに従った。完全に私は妖狐の傀儡であった。

 

 きっと私は最悪の方法を選んでいるのだろう。もはやこれはただの殺害の一つでしかないのだ。きっと後悔する。あの時、対話を選んでおけば、こんな方法以外もありえたはずだ。

 

 胸の内にはぐちゃぐちゃになった心の形が浮かんでは沈む。

 

 でも、それでも、例え体が操られていようと、意識すら操られていようと、私はそうしたいと思ったのだ。死にたいと願いながら生き続ける、その辛さを知っているから。きっとその決意は私だけのものだ。

 

 先の力任せの斬撃とはまるで逆。側から見れば風を薙ぐように見えるだろう、静かな太刀筋は、しかし、間違いなく私の繰り出す必殺の斬撃であった。

 

 そして、それを妖狐は避けなかった。

 きっと、決まっていたことなのだろう。

 避けようとすれば避けれたはずなのだから。

 

 その剣撃は妖狐という存在を引き裂いた。

 音すらなく、ただ刃は妖狐に入り込み、そしてすり抜けた。

 

 生と死の、生という理を断ったのだ。

 

 外傷などない。

 命を切った。文字通りの命だ。

 復活などしない。回復など出来ない。

 生物である以上、もはや存在することなどできない。それが、どれだけの力を持つ化け物であろうと。

 

 纏う赤が消える。

 逆立った毛も、異常に伸びた爪も牙も、全てが無かったかのように、元に戻っていく。

 そうして、最後には眠るように穏やかに倒れた。

 

 妖狐という空間の主がそれを維持できなくなったからだろう、崩壊が始まった。

 暗い空が千切れていき、青い薄雲の浮かぶ空が映え出してきた。

 大地は崩れ落ち、奈落のように暗い跡がポツポツと開いていく。

 

 早く脱出すべきだろうに、何故か私は妖狐のもとに足を運んでいた。

 

 足下に見下げた妖狐は、私が見ていたよりも、ずっと幼げに見えた。

 

 目を閉じたままの妖狐は、

 

「ひとつ。嘘をついたわ」

 

 と、ぽつりと呟いた。

 

「いつか、あなたの罪悪を理解できないといったけど、ふふ、本当は理解していたわ。」

 

「でも」

 

 赤く、透き通った瞳が私を見る。

 

「でもね。死人は口を開かないわ。…だから、だからこそ、あなたは幸せに暮らしなさい。充足の中に生きて、生きて、そうして死になさい。それを殺した者たちの手向けとするの」

 

「ふふ、そんなこと私は出来なかったのにね。…でも、あなたが私を殺したことを罪として、重石として背負うのなら、私のために、そう、私のために幸せに生きなさい」

 

 ああ、妖狐は。

 きっと妖狐は私と同じような罪の意識で苦しんだろう。

 だからこそ、こんな事を言うのだ。言えるのだ。

 私達の罪の意識は消えることはない。

 でも、それでも、私は幸せに生きてもいいのだと。そうするべきなのだと。

 

 溢れる感情に唇を噛みしめた。

 

「そうしたら、少しは楽に生きることができるでしょう?」

 

 そう言って、妖狐は私の頬に触れた。

 その手は、何故か濡れていた。

 

「ふふ、もうあなたの(こえ)も聴こえないわ」

 

 瞳に映る私は、こんなにも少女じみているのかと思うほどに頼りない顔をしていた。

 

「もうちょっとだけ、話していたかったけれど」

 

「残念ね。もう、行きなさい」

 

 空間が綻び、欠けていく。

 

「ああ、最期に」

 

 ボロボロと抜け落ちた空には、朝と夜が混じり合い、少し欠けた月が浮かんでいた。

 

「ありがとう。こんな化け物に終わりをくれて」

 

 さようなら。

 

 それを最期に妖狐は動かなくなった。

 誰が見ても、彼女を屍とは認めないだろう、それくらい綺麗な姿だった。

 

 震える手で剣を振るう。

 一閃。虚空に向けて放った一撃は、ポロポロと崩壊する空間を切り裂いた。

 

 妖狐は私に呪いを刻み込んだのだ。

 それは新たな罪。知らない誰かではなく、大事な人を殺したというもう一つの罪だ。

 きっと私が自分を許せる時は来ないのだろう。それほど彼女の存在は私の心を占めていた。

 どうしようもないような寂寥は心に居座り、出て行く気配はない。

 

 しかし、私は生きていかなくてはいかないのだ。

 惨めなままでは、醜い最期では、私が奪ったもの達の価値すら歪めてしまうから。

 私は誰よりも幸せにならないと行けないのだ。

 散らせたもの達のために。

 それが生きるということなのだ。

 

 滲む空が剥がれ落ちていく。

 

 恐怖はある。しかし、この力に溺れることも、振り回されることもないだろう。

 未熟な精神も、背負った罪も、その全てを認めて生きていく覚悟ができたからだ。

 

 ごめんなさいとは言わなかった。

 謝罪の言葉は、この最期には相応しくないと思ったからだ。

 

「…ありがとう、私に生きるための理由をくれて」

 

 さようなら。

 

 崩れる世界の最期で、視界に映った妖狐の顔は笑みを浮かべていたように見えた。

 

 



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