アイドルヒーローズネメシス (闇の皺)
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第1章 デストルドー日本支部 急襲作戦
第1話 狙撃①


 最初だけ3話連続で投稿します。
 以後は1日1話ずつ投稿予定です。


 夜風が髪を揺らし、潮の香りをそっと頬に吹き付けた。

 ビルの屋上は埃っぽく、見下ろす人工島の無機質さと相まって、どこかディストピア然とした空気を醸し出している。

 

「今日は冷えるわね……」

 

 歌織はシートの上で、ライフルの銃身を撫でた。

 気温が低ければ火薬の燃焼速度が落ち、弾丸の飛翔速度も低下する。今夜の狙撃は、少し上を狙ったほうが良さそうだ。

 

《エンジェル1(ワン)、こちらストラテジー。感明送れ》

 

 耳元の骨伝導スピーカーが、無線のコールを告げた。

 すかさず通話機をつかみ、スイッチを入れる。

 

「ストラテジー、こちらエンジェル1。感明よし。感明送れ」

《エンジェル1、ストラテジー、感明よし。敵発見、敵状を通報する。準備はいいか、送れ》

 

 はやる気持ちを押さえながら、月明かりの下に地図を広げる。

 

「準備よし。送れ」

《場所、126443地点。時、0146。UH-60(多用途ヘリ)1機が南西へ向けて飛行中。速度、約140ノット》

 

 ペンライトをつかみ、さっと地図の上へ走らせた。

 

(発見地点は幕張付近。南西方向ということは、間違いなくこちらへ向かっている)

 

 緊張で、ライトを持つ手が小刻みに震える。

 

《エンジェル1、今夜は『特務参謀』を仕留める絶好のチャンスよ。何としてもミッションを成功させて》

「了解。エンジェル1はこれより戦闘行動を開始する」

 

 拳をぐっと握りしめ、無線を切った。

 

 ターゲットは、仮面を被った謎の幹部「特務参謀」。

 数か月前にデストルドー日本支部へ着任して以来、残虐なテロ行為を繰り返している。

 用心深い特務参謀が姿を現すのは絶好のチャンスだ。この機会を逃したら、また多くの市民が犠牲になってしまう。

 

(それだけは、絶対にさせない……!)

 

 素早く地図を折り畳み、ポケットにねじ込んだ。

 間もなく北東の空から、バタバタとローター音が聞こえてくる。

 

(あれね……)

 

 機体の左右に灯された航空灯が、蛍火のように瞬いた。

 ブラックホークの名で知られる多用途ヘリは、速度を落としながらゆっくりと降下を始める。

 

(チャンスは一瞬。絶対外せない……)

 

 眼下の発着場に、誘導員が集まってきた。

 黒い機体は、慎重にバランスを取りながら地面へ近付いていく。

 

 バタバタバタバタバタバタ……!!

 

 排気の臭いが、ツンと鼻を衝いた。

 歌織はビルの上で、じっと機会を伺う。

 

(あと少し……)

 

 ダウンウォッシュを吹き付けながら、ヘリは沈み込むように接地した。

 駆け寄ってきた誘導員がランディングギアをロックし、キャビンドアを開く。

 

(きた……!)

 

 歌織はスコープを覗き込み、ターゲットを探した。

 すると、

 

(―――――!?)

 

 照準線が予想外の人物を捉え、思わず息を飲み込んだ。

 

「あれは……」

 

 視線の先に映っているのは、中性的な容貌をしたショートカットの美少女。

 

 あの服装、まさか……、

 

「黒髪――!?」

 

 少女がレンズの向こうで二ッと口元をゆがめた。

 

 ブラック・ストレングス、通称「黒髪」。

 デストルドー最強と呼ばれる戦士で、これまで数多のヒーローを返り討ちにしてきた強敵だ。

 

(事前情報では本部に残っているはずだったのに、どうしてこんなところへ……)

 

「ストラテジー、こちらエンジェル1。黒髪を発見した、指示を請う。送れ」

 

 骨伝導スピーカーの向こうから、慌ただしい声が返ってくる。

 

《エンジェル1、ストラテジー。作戦に変更はない。エンジェル1は目標a(アルファ)を狙撃せよ。了解か?》

「了解……」

 

 歌織はライフルのグリップをぐっと握りしめた。

 

 黒髪がいる以上、撃ったらすぐ離脱しないと、確実に殺られる。

 

(二発目はない。一発で仕留める……)

 

 眼下の発着場では、高級士官らが出迎えに現れていた。

 彼らの敬礼を受けながら、キャビンドアからもう一人の人物が姿を現す。

 

 鮮やかなローズピンクで縁取られた漆黒の軍服。顔の上半分は白い仮面で覆われ、暗闇の中で幽鬼のように浮かび上がっている。

 

 歌織はゴクリと唾を飲み込んだ。

 

(あれが、特務参謀……)

 

 日本を恐怖のどん底に叩き落した冷酷なテロリスト。

 奴のために、どれほどの血が流されたことか。

 

(絶対に許せない……!)

 

 怒りの炎を滾らせながら、仮面の真ん中へ狙いを定める。

 

 一般的な狙撃銃の場合、有効射程はおおむね1km程度と言われる。

 だが今回の狙撃距離は2km以上。通常の弾薬では届かないので、大型の12.7mm弾を使用する。

 

 ヒュオオオオ―――。

 

 ビルの合間を風が吹き抜けた。

 

 狙撃の距離は、そのまま難易度の高さへとつながる。

 たとえば弾丸は、重力の影響で毎秒9.8m落下する。

 このため、2km先の標的を狙った場合、(弾速にもよるが)放物線の頂点は50m以上もの高さに達する。

 つまり、もし1km先のターゲットを2km先と見誤って撃った場合、弾は標的の頭上を約50mも飛び越えていくということだ。

 おまけに弾丸は、風や空気抵抗の影響を受けて直進しない。

 ライフリングによる高速回転も加わるため、右回転であれば右へ、左回転であれば左へと流されていく。

 

 こうした諸元をすべて知識と経験で計算し尽くし、狙った獲物を一撃で仕留める。それが、狙撃という総合技術なのである。

 

「フー……」

 

 歌織はそっと息を吐き出し、止めた。

 呼吸を止めてから照準を完了するまでの時間は約10秒。

 それ以上になると、酸素不足で視力が低下し始める。

 

 眼下では、ヘリの整備員たちが慌ただしく駆け回っていた。

 肩章を付けた幹部が、両手を広げてターゲットのほうへ歩み寄る。

 ステップに足をかけた特務参謀は、ストンと地面へ降り立った。

 

(いまだッ!!)

 

 トリガーを静かに絞る。

 だが――、

 

「くっ!」

 

 予想外の邪魔が入り、歌織は咄嗟に指を止めた。

 

(こんなタイミングで……)

 

 視線の先では、整備員が特務参謀を覆い隠すように作業している。

 彼らは発着場に勤務する一般人。巻き込むわけにはいかない。

 

(早くどいて、お願い……)

 

 グリップを握りながら、祈った。

 だが歌織の願いも虚しく、整備員は特務参謀の前に張り付いて、一向に離れようとしない。

 整備員が歩けば特務参謀も歩く。整備員が屈めば特務参謀も屈む。

 まるで影と形のように、両者の挙動はピッタリ一致している。

 

(おかしい……)

 

 違和感を覚え、歌織は眉根を寄せた。

 二人の動きは、あまりにも重なり過ぎている。

 まるでこちらが狙っていることを知っているかのようだ。

 

(まさか……作戦が漏れてる?)

 

 慌てて通話機を取り出し、戦闘指揮所を呼び出した。

 

「ストラテジー、こちらエンジェル1。目標aを整備員がカバーしている。作戦が露見している可能性はないか?」

《エンジェル1、ストラテジー。機密保持に問題はない、作戦を続行せよ》

 

 スイッチを切り、マイクを握り締めた。

 

 機密保持に問題はない。

 たしかにそうかもしれないが、何か嫌な予感がする……。

 

《――(ザザッ!)》

 

 不意に骨伝導スピーカーが、別の無線機からのコールをキャッチした。

 

《エンジェル1、こちらエンジェル3! 敵が狙撃ポイントのビルへ接近中! 送れ!》

 

 エンジェル3――杏奈の声だ。

 素早く通話ボタンを押し、呼びかけに応じる。

 

「エンジェル3、こちらエンジェル1! 敵状送れ!」

《エンジェル1、エンジェル3! 敵は自動小銃で武装した戦闘員3! 現在、ビルの1階へ進入中!》

 

 報告を聞いて、思わず歯噛みした。

 

(まずいわね……)

 

 再び戦闘指揮所を呼び出す。

 

「ストラテジー、こちらエンジェル1。敵戦闘員3がエンジェル1の現在地へ接近中。指示を請う」

《エンジェル1、ストラテジー。エンジェル1は現在地にて待機。エンジェル3は【VIVID イマジネーション】で敵を足止めせよ》

 

 ストラテジーの指示に、不吉な予感が脳裏をかすめた。

 

 【VIVID イマジネーション】は杏奈が持つ特殊スキルだ。キネティックパワーで敵の五感を操り、幻を見せることができる。

 だがこれを使うということは……。

 

(まさか、作戦中止――!?)

 

 歌織の予測を裏付けるように、戦闘指揮所から潜入中のヒーローズ全員へ向けて指示が下された。

 

《オールエンジェル、こちらストラテジー。エンジェル3を除く全エンジェルは作戦を中止し、直ちに現在地から離脱せよ》

 

 歌織は反射的に通話機をつかんだ。

 

「待ってください!!」

 

 無線交話がピタリとやむ。

 

「今回のオペレーションは、千載一遇のチャンスです。これを逃したら、特務参謀を討つ機会はありません」

 

 イヤホンの向こうから、ストラテジーの苦しげな声が聞こえてくる。

 

《……エンジェル1、こちらストラテジー。それはわたしも分かっているわ。けど、これ以上続けるのはあまりにも危険よ……》

「それならば、せめてわたしだけでも作戦を継続させてください! これでもわたしは、エンジェルフォースのリーダーです!」

《ダメよ》

 

 ストラテジーが、ピシャリと言い放った。

 

《ここであなたを失うわけにはいかないわ。それに、ターゲットが隠れたままでは狙撃もできないでしょ》

「いいえ、撃てます」

《え?》

 

 通話機の向こうで、ストラテジーが驚きの声を上げた。

 

《ど、どういうこと?》

「ロコ博士が作ってくれたこの銃なら、キネティックパワーで弾道を曲げることができるんです」

 

 その名も「キネティック・スナイパーライフル」。

 弾丸にキネティックパワーを込めることで、軌道を操作することができる。

 

《でも、それはあくまでも試作段階の機能だって……》

「そうです。けど、他に方法はありません。お願いします、やらせてください!」

《……………》

 

 無線機が沈黙した。

 歌織は胸のアミュレットを祈るように握り締める。

 

《はぁ………》

 

 骨伝導イヤホンから、小さなため息が漏れた。

 

《分かったわ。けど、撃つのは一回だけよ。当たっても外れても、すぐにその場から離脱すること。いい?》

「了解!!」

 

 すかさず通話機のスイッチを切り、スコープを覗き込んだ。

 レンズの向こうでは、特務参謀が部下たちに何か指示を下している。

 

「フー……」

 

 再び息を吐き出し、呼吸を整える。

 正中線は、銃軸線に対し約40度。両肘で銃を支え、全身から余計な力を抜き去る。

 

(距離は……黒髪の身長が3/4ミルだから、約2,100m)

 

 指を伸ばし、引き金に触れた。

 金属の冷たさが、ひやりと伝わってくる。

 

《―――(ザザッ!)》

 

 不意に、骨伝導スピーカーが緊迫した声を伝えた。

 

《エンジェル1、こちらエンジェル3! 敵兵3が【VIVIDイマジネーション】を突破! 屋上へ向かっている!》

 

 耳元のセンサーが、警報音を鳴らし始める。

 

 ピ――、ピ――、ピ――、ピ――!

 

 ノイズを遮断し、指先に全神経を集中させた。

 心拍数が下がり、意識が空気の中へ溶け込んでいく。

 

《エンジェル1、こちらストラテジー! 作戦は中止よ! いますぐ離脱して!》

 

 ピーピーピーピーピー…

 

 整備員の陰から、白い仮面がちらりと覗く。

 テロ現場で見た犠牲者たちの痛ましい姿を思い出す。

 

(地獄で罪を詫びなさい……)

 

 指が、コトリと落ちるようにトリガーを絞った。



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第2話 狙撃②

 わたしの誕生日は歌織と1日違いです。
 運命を感じます。


 パン!

 

 衝撃波が、耳元で破裂音を響かせた。

 燃焼ガスに押された弾丸が、マズルフラッシュとともに銃口から飛び出す。

 

(行け!)

 

 発射の瞬間、歌織は脳裏に必中の弾道を描いた。

 輝く魔弾が、キネティックパワーを乗せて漆黒の夜空を切り裂く。

 

 ピュン!

 

 スコープの先では、敵が発砲にも気付かず談笑を続けていた。

 超音速の弾丸は、発射音を追い越してビルの合間を飛翔する。

 

 当たる!

 

 イメージと寸分たがわぬ軌道に、歌織は命中を確信した。

 だがその瞬間――、

 

(――――!?)

 

 照準線の向こうに映る仮面が、整備員の陰からチラリとこちらを見た。

 同時に身体がフッと沈み込み、レンズの外側へフレームアウトする。

 

「なっ――!?」

 

 ビス!!

 

 弾はターゲットの頭上をかすめ、地面に小さな穴を穿った。

 

「しまっ――」

 

 間もなくサイレンの音が鳴り響く。

 

 ウウウゥゥゥゥゥ―――――――――!!

 

 歌織は弾かれたように立ち上がった。

 

「ストラテジー、こちらエンジェル1! 狙撃に失敗した、現在地から離脱する!」

《エンジェル1、こちらストラテジー! 敵兵3が間もなく屋上に到着する! ルートB(ブラボー)で離脱せよ!》

「了!」

 

 歌織は助走をつけ、タッとビルの縁を蹴った。

 キネティックパワーで空を飛べば戦闘員は追い付けない。これで何とか逃げ切れるはず。

 

 ―――ゾクッ!

 

 だがその瞬間、背中に猛烈なプレッシャーを感じ、歌織はサッと背後を振り返った。

 

「あれは……」

 

 ビルの屋上に、ショートカットの少女が立っている。

 赤く輝く双眸、にじみ出る漆黒のオーラ。

 禍々しい気配に、全身の肌が粟立つ。

 

(黒髪!? もうこんなところに……)

 

 チッと舌打ちし、すぐさま近くのビルへ降り立った。

 そのまま一気に階段室へ駆け込む。

 

(空を飛んで逃げたら追い付かれる。何とか隠れてやり過ごさないと……)

 

 ステップを下り、長い廊下へ飛び出す。

 身を潜める場所はないかと、辺りへ視線を巡らす。

 だが――、

 

 ドゴオオオォォォ!!!!

 

「きゃっ!?」

 

 突然天井が崩れ落ち、白煙が視界をふさいだ。

 

「な、何!?」

 

 朦々と舞う粉塵の中から、小さなシルエットが姿を現す。

 

 真っ赤な瞳に、アイビーグレーのコート。

 あれは……、

 

「く、黒髪……!!」

「やあ、追いかけっこかい? だったらもう少し早く逃げたほうがいいんじゃないかな」

 

 口ぶりこそ飄々としているが、伝わってくる気配はナイフのように鋭い。一瞬でも気を抜いたら、たちまち飲み込まれてしまいそうだ。

 

「くっ!!」

「フフ……手癖の悪い子猫ちゃんには、ちゃんと躾をしなきゃね」

 

 ごくりと唾を飲み込み、歌織は拳を握り締めた。

 

(どうやら逃がしてくれる気はなさそうね……)

 

 となれば、イチかバチか、ここで勝負を仕掛けるしかない。

 だが相手は数多のヒーローを返り討ちにしてきた最強の戦士。一対一で勝負になるか……。

 

「へぇ、ボクと戦う気かい?」

「そうだと言ったら?」

 

 黒髪がすっと目を細めた。

 

「……ここが君の墓場になる」

 

 紅蓮の瞳が、妖しく輝いた。

 交わした視線が火花を散らす。

 

(敵はまだ油断している。だったら……)

 

「先手必勝!」

 

 構えた拳にキネティックパワーを乗せ、歌織はダンッと床を蹴った。

 次の瞬間――、

 

 ドガアアアァァァァ!!!!

 

 いきなり目の前の壁が吹き飛び、衝撃波がビル全体を揺るがした。

 

「な、何!?」

 

 立ち込める煙の中から、ツインテールの美少女が姿を現す。

 

「あ、あなたは……」

 

 艶を帯びた長い髪、印象的な鳶色の瞳。

 

「はーい、お待たせしました! エンジェル2、麗花参上です!」

 

 突然の闖入者は、くるりと一回転して謎のポーズを決めた。

 歌織は呆気に取られ、パチパチと瞬きする。

 

「へえ、第2世代最強ヒーローのお出ましか」

 

 瓦礫の向こうで、黒髪がにやりと口角を上げた。

 

 エンジェル2――麗花。

 圧倒的な戦闘力を誇る、天才ファイターだ。

 その格闘センスは「異次元の才能」「神に愛された戦士」と称され、第2世代最強との呼び声も高い。

 

「えへ。最強だなんてそんなぁ、普通ですよ、普通」

 

 照れ笑いで応えながらも、彼女の身体から迸り出る闘気は尋常ではない。

 溢れるオーラは炎となり、渦を巻いて辺りを照らす。

 

「れ、麗花ちゃん、助けにきてくれたのね。あなたがいれば百人力だわ」

 

 力強い味方を得て、歌織は思わず胸を撫で下ろした。

 だが、

 

「えーと、歌織さんは逃げ遅れた仲間を集めて、先に離脱してくれませんか?」

「え?」

 

 意外な言葉に、歌織はきょとんと首をかしげた。

 

「あ、あなたはどうするの?」

「黒髪を倒します」

「――――!?」

 

 驚きのあまり、慌てて麗花の腕をつかむ。

 

「ダ、ダメよ! さすがのあなたでも、あの黒髪を一人で相手するなんて無茶だわ!」

「だいじょうぶです。それに、ほかの人がいると戦いづらいんですよね。わたしってほら、すぐ周りのもの壊しちゃうじゃないですか」

 

 無邪気な笑顔に、背筋がぞっと凍り付いた。

 

(この子、本気だわ……)

 

 第2世代最強の称号を持つ戦士が、いまここで、敵を仕留めようとしている。

 

「……任せて、いいの?」

「もちろんです。歌織さんこそ、早くみんなを安全な場所に案内してあげてください」

 

 自信に満ちた顔で、麗花が答える。

 

(これ以上、わたしの出る幕はないみたいね……)

 

 観念した歌織は、つかんでいた手を放した。

 

「……分かったわ。油断しないでね、麗花ちゃん。相手はデストルドー最強の戦士なんだから」

「もちろんです、油断なんてしてません」

 

 言いながら、麗花は瞳の奥に鋭い光を閃かせる。

 

「だってわたし……ひさびさに本気を出せるのが楽しみで仕方ないんですもん」

 

 再び背筋がぞくりと震えた。

 まるで抜き身の刃を首に押し当てられているような感覚だ。

 

(この子なら、勝てるかもしれない……)

 

 頷いた歌織は、踵を返して階段のほうへと駆け出す。

 

「麗花ちゃん、先に行って待ってるわよ」

「はーい、すぐに追い付きまーす」

 

 二人のやり取りを眺めていた黒髪は、フッと息を吐き出した。

 

「君は逃げなくていいのかい?」

「ん? どうしてわたしが逃げなきゃいけないんですか?」

 

 黒髪は嘲笑混じりの声で答える。

 

「君だって、もう少し長生きしたいだろう?」

 

 言われた麗花は、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐに「ああ」と手を叩いた。

 

「それなら心配いらないです」

 

 そして大きな瞳をすっと細める。

 

「だって……あなたはここで、わたしがぶっとばしちゃいますから」

 

 戦女神が見せた微笑みは、獲物を前にした肉食獣のような凄惨さで彩られていた。



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第3話 最強vs圧倒的最強

 力の麗花、技の歌織というイメージです。


 ビル全体が、いななくように鳴動していた。

 向かい合った二人の間で、空気がピシリと爆ぜる。

 

 黒髪はすっと腕を上げ、手招きした。

 

「どこからかかってきてもいいよ」

 

 余裕――。

 それは強者にのみ許された特権。

 唇の片端が、嘲笑うように吊り上がる。

 

「どこからでもいいの?」

 

 だが挑発されたはずの麗花は、怒るどころか不思議そうに首をかしげた。

 

「ああ、もちろんさ」

「じゃあ――」

 

 フッ――

 

「後ろからでもいいよね」

「――――!?」

 

 一瞬で背後に回り込んだ麗花が、黒髪の腹部に鉛のごとく重い蹴りを打ち込む。

 

 ドボォォォオオォ!!!!

 

「~~~~ッ!!!?」

 

 実力差が大きすぎると、相手の攻撃が「見えない」ことがある。

 漫画のような話だが、本気で格闘技を学んだ者なら、一度は経験したことがあるはずだ。来ると分かっている一撃が、早すぎて目にも留まらないのだ。

 

 麗花の蹴りが、まさにそれだった。

 黒髪が気付いた時には、スナップの利いた虎趾がみぞおち深く突き刺さっていた。

 

「ぐっ……はぁ!」

「まだまだ!!」

 

 続けざま、剛拳が驟雨のごとく降り注ぐ。

 

 ドドドッ、ガッ!!!!

 

 黒髪の顔が右へ左へ、パンチングボールのように跳ねる。

 止まらない怒涛の連打。右左右左右左右左。

 そして相手のバランスが崩れたところへ、腰のひねりを加えた強烈な上段回し蹴り。

 

 ズガアァ!!!!

 

 頭部を蹴り抜かれた黒髪は、半回転して地面に叩き付けられた。

 

「と・ど・め♪」

 

 最後に後足を抱え込むように引き寄せた麗花が、バウンドして宙に浮いた相手の脇腹目がけ、猛烈な足刀を叩き込む。

 

 ドゴォアァァァ!!!!

 

 衝撃波が広がり、黒髪の身体が木の葉のように吹き飛ばされた。

 

 キィィ―――ン! ドガ! ドガ! ドガァ!

 

 壁を幾枚もぶち抜いた黒髪は、建物を支えるコンクリートの柱に深々とめり込む。

 

「か………は」

 

 小さなうめき声を残し、デストルドー最強の戦士はドサリと床に崩れ落ちた。

 

 シュウウウゥゥゥゥ……。

 

 気が付けば、辺り一面、瓦礫の山と化していた。

 立ち込めた粉塵が、朦々とフロアを覆う。

 

 コツ……、  コツ……、  コツ……、

 

 煙の向こうから、ツインテールの美少女が姿を現した。

 

「黒髪って言うから黒帯くらい強いと思ったんですけど、意外と普通なんですね~」

 

 邪気のない口ぶりで、相手を貶める。

 

 戦ってみて、麗花は確信した。

 黒髪の実力は、空手で言うところのせいぜい初段程度だ。

 素人にしては立派なものだが、命のやり取りをするにはまるで足りない。

 

 最強の名は尾ひれが付いた噂だったのか。

 それともデストルドーには余程人材がいないのか。

 

「そろそろ終わりにしますよー。いいですかー」

 

 瓦礫の下で、黒髪の指がピクリと動いた。

 コンクリート片を落としながら、少女はよろめくように立ち上がる。

 

「……ぺっ」

 

 唾を吐き出すのを見て、麗花が「わぁ」と目を丸くした。

 

「すごいですね、まだ立てるなんて」

 

 皮肉ではなく、本心からの賛辞だった。

 あの手応えではアバラの一本や二本では済まなかったはず。恐らく内臓にも深刻なダメージを受けているだろう。

 そんな状態で立ち上がるなんて、実際大したものだ。

 

「無理しないほうがいいですよ、全身ずたぼろになっているはずですから」

 

 だが黒髪は、口元を拭いながらニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

 

「そうはいかないな。まだ仕事中なんでね」

「ふぅん。そんな身体でお仕事も休めないなんて、デストルドーさんはとってもブラックなところなんですねぇ」

「まあね。けど、そっちも大概じゃないかな」

 

 言いながら、黒髪はひょいと何かを放り投げた。

 

 ぺちゃり。

 

 床に落ちたそれは、コンクリートの上で湿った音を立てる。

 

「ん……?」

 

 一見すると、それは薄いゴムのようだった。

 だが、違う。ゴムにしては産毛のようなものが生えているし、断面からは赤い液体がにじみ出ている。

 

「え?」

 

 そこでようやく、麗花は自分の首筋を生温かいものが流れ落ちていることに気付いた。

 伸ばした指が、ぬるりとした何かに触れる。

 

 赤く、錆臭い液体。

 

 これは……、

 

「………血?」

 

 そして、あそこに落ちているのは……、

 

 まさか……、

 

 わたしの……、

 

 耳―――!?

 

 認識すると同時に、痛みがズキンと襲いかかってきた。

 

「あッ……ぐぅ!?」

 

 屈み込む麗花を、黒髪が冷たい目で見下ろす。

 

「痛いかい? ねえ、痛いかい?」

 

 顔を上げた麗花は、いまさらながら相手が無傷であることに気が付いた。

 

「ど、どうして……?」

 

 黒髪は、フンと鼻を鳴らす。

 

「なぁに、大したことじゃないさ。ぼくの身体はダークパワーのバリアで覆われているんだよ」

「ダークパワーの、バリア……?」

 

 頷きながら、黒髪は麗花の耳を拾い上げる。

 

「そう。だからボクは、生まれた時から一度も痛みというものを感じたことがない」

「――――!?」

 

 黒髪が拳を握り締めると、潰れた肉片が指の隙間からぶちゅっと飛び散った。

 

「さあ教えてよ、痛みという感覚を。ボクにも分かるように、いろんな表情(カオ)で……」

 

 深紅の瞳が、獲物をなぶるように麗花の肢体を睨め回す。

 少女のこめかみを、冷たい汗がしたたり落ちる。

 

「わたし、教えるのは苦手なんですけどね……」

 

 つぶやく声は、かすかに震えていた。



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第4話 特務参謀の能力①

第4話です。


 爆発音とともに、上階の窓がボンと白い煙を吐き出した。

 

「――始まったみたいね」

 

 落ちてくる破片を避けながら、歌織は外付けの非常階段を駆け下りていく。

 途中で合流した杏奈が、不安そうにビルを見上げた。

 

「麗花さん、大丈夫かな……」

「心配ないわよ。麗花ちゃんなら、すぐに追い付いてくるわ」

「そう……ですよね」

 

 その時、眼下の踊り場にサッと黒い人影が飛び出した。

 

「二人とも、こっちです!」

 

 ナース服のようなスーツを身にまとった、グラマラスなシルエット。

 バトルナース風花が、艶っぽい髪の下でパチリと瞳を閉じる。

 

「お二人を迎えにきました。脱出用のボートでみんな待ってます!」

 

 隣を走る杏奈が、ホッと息を吐き出した。

 

「みんな、無事……」

 

 そうと分かれば、あとは自分たちが離脱するだけだ。

 しかし――、

 

「二人とも、隠れて!」

 

 突然歌織が立ち止まり、叫んだ。

 風花と杏奈は、慌てて非常ドアの陰にへばり付く。

 

「ど、どうしたんですか、歌織さん……?」

「あれを見て」

 

 外を覗き込んだ風花が、「あっ」と声を上げた。

 

 立ち並ぶ倉庫の前を、黒い影が悠然と歩いている。

 顔を覆う仮面に漆黒の軍服。

 あれは……、

 

「特務参謀!」

 

 歌織がスコープを覗き込みながら頷いた。

 

「ええ……けど、護衛も付けずに歩いているなんて変ね……」

 

 一度狙撃を受けているというのに、あまりにも無防備だ。

 罠? それとも……。

 

「どこへ行くつもりですか、歌織さん!」

 

 立ち上がりかけた歌織を、風花が制した。

 

「風花ちゃんたちは先にボートへ向かって。わたしはあいつを追うわ!」

「ダメです!」

 

 風花がサッと前に立ちふさがる。

 

「作戦は失敗しました。いまはこの場から離脱するのが最優先です」

「いいえ、まだ麗花ちゃんが戦ってるわ。彼女がくれたチャンスを無駄にできない」

「麗花ちゃんが残ってくれたのは、わたしたちを逃すためです!」

 

 声を荒げる風花を見て、歌織はそっと息を吐き出した。

 

「ねえ風花ちゃん。これは千載一遇のチャンスなの。この機会を逃したら、また多くの人たちが犠牲になるわ」

「たしかにそうかもしれません。けど、いま追いかけるのはあまりにも危険すぎます。これは明らかに罠です」

 

 隣の杏奈も、すがるように歌織の袖をつかむ。

 

「歌織さん、風花さんの……言うとおり。ここは一旦、作戦を……立て直すべき」

 

 杏奈の顔をじっと見詰め、歌織は静かに口を開いた。

 

「ごめんね」

 

 そのまま手をほどき、くるりと背中を向ける。

 

「…………」

 

 観念したように目を閉じた風花が、ポシェットから小さなケースを取り出した。

 

「……分かりました。歌織さんの決意がそこまで固いのなら、これ以上は止めません。その代わり、これを持っていってください」

 

 差し出されたのは、手の平サイズのピルケース。開けてみると、中に白い錠剤が詰め込まれている。

 

「これは?」

「怪我を治すお薬です。それともう一つ……」

 

 今度は小さな薬瓶を取り出し、歌織の手に握らせた。

 

「毒薬です」

 

 意外な言葉に、歌織は思わず風花の顔を見返した。

 

「……ナースとして、こんなものは絶対に使ってほしくありません。けど、目には目を、毒には毒をという時があるかもしれません」

 

 受け取った瓶を、歌織はぐっと握り締める。

 

「分かったわ。あなたの気持ち、決して無駄にしない」

「ありがとうございます。毒は効果が表れるまで少し時間がかかりますから、その点だけ注意してください」

 

 コクリと頷き、階下を見下ろす。

 視線の先では、凶悪なテロリストが悠然と倉庫の前を闊歩していた。

 

「今度こそ……今度こそ確実にあいつを仕留めてみせる」

 

 決意を胸に、歌織はタッとステップを蹴る。

 その背中へ、風花は祈るように手を合わせる。

 

「歌織さん、どうかご無事で……」

 

 白い影は一陣の風となり、たちまち闇の彼方へ吸い込まれていった。

 

    *

 

 建物の陰から顔を出した歌織は、素早く周囲に視線を走らせた。

 

(やっぱり、護衛はいないみたいね)

 

 どれだけ注意深く観察しても、特務参謀以外、誰の姿も見当たらない。

 

 油断しているのだろうか……。

 いや、それは考えにくい。

 相手は用心深い人物。簡単に隙を見せてくれるようなら、ここまで苦労はしていない。

 

(ん……?)

 

 不意にターゲットが立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回し始めた。

 辺りの様子を慎重に窺い、古びた倉庫のドアを開ける。

 

(あそこに何かあるのかしら……)

 

 追いかけようとして、わずかに躊躇した。

 建物内には、どんなトラップが仕掛けてあるか分からない。

 しかし……、

 

(虎穴に入らずんば虎子を得ず)

 

 階段の陰から這い出し、音もなく倉庫へ忍び寄る。

 

 スッ――。

 

 壁に背を当て、窓の向こうを覗き込んだ。

 

(何も見えない……)

 

 やはり中へ踏み込むしかなさそうだ。

 罠の有無を確認し、ゆっくりとドアを開ける。

 

 カチャ、キィィィ――――。

 

 扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気が全身を包み込んだ。

 機械油の臭いが鼻を衝き、差し込んだ月明かりが埃をキラキラと輝かせる。

 

(誰も、いない……?)

 

 倉庫の中はガランとしていた。

 人の気配はなく、奥のほうに積み上げられたパレットだけが、暗闇の中にぼんやり浮かび上がっている。

 

 辺りの様子を伺いながら、歌織は慎重に歩を進めた。

 と、その時――、

 

「待っていたぞ!」

 

 パッ!

 

 突然天井のライトが灯され、まばゆい光が瞳を貫いた。

 

「くっ……!」

 

 二階のキャットウォークで、黒い影がニヤリと笑みを浮かべる。

 

「ようやく二人きりになれたな」

「あなたは……」

 

 特務参謀――!!

 

 仮面の人物が、ひらりと手すりを飛び越え地面に降り立つ。

 

「……追いかけてきたのはお前だけか?」

「そうよ。あなたこそ、ひとりで待ち伏せなんてどういうつもり?」

 

 問われた特務参謀は、フッと息を吐き出す。

 

「どういうつもりも何もない。お前と話をしたかった。ただそれだけのことだ」

「馬鹿にしているの? わたしはあなたを倒しにきたのよ?」

 

 なおも問い詰めてくる歌織に、特務参謀は軽く肩をすくめて見せた。

 

「ずいぶんな物言いだな。話せば分かるとは思わんか?」

「……テロを止めるという話なら聞くけど?」

「それはできない相談だな」

 

 歌織はギュッと拳を握り締める。

 

「なら、交渉決裂ね」

 

 同時に彼女の全身から、黄金色のオーラが溢れ出す。

 

「やれやれ、性急なやつだ」

 

 首を振りながら、特務参謀は腰のナイフを引き抜く。

 闇を塗り固めたような、真っ黒い刀身――。

 

「それは……?」

「デストルダガーだ」

 

 長いブレードが、すすり泣くように震えていた。

 刃は瘴気に覆われ、禍々しい波動をまき散らしている。

 

「どうだ、美しいだろう?」

 

 恍惚とした表情で、特務参謀はダガーの背を撫でた。

 その異様な姿に、歌織は思わず唾を飲み込む。

 

「感性の違いかしら。見ているだけでゾッとするわ」

「フッ。この程度でゾッとされては困る。デストルダガーは、まだ未完成なのだからな」

「未完成?」

 

 白い仮面がこくりと頷いた。

 

「そう。だが間もなく完成する。お前と出会ったことで、真の刃が……」

 

 赤い瞳が、狂気を帯びてギラギラ輝いていた。

 刀身を覆うオイルが、水銀灯の下で鈍い光沢を放つ。

 

「よく分からないけど、何か悪いことを企んでいるようね」

「それは見解の相違だな。何が悪くて何が正しいかなど、ラズベリーの味を甘いと感じるか、酸っぱいと感じるか程度の差異でしかない」

 

 歌織はキッと相手を睨み付けた。

 

「いいえ、違うわ。味の差異くらいなら譲り渡したっていい。けど……正義だけは……絶対に譲れない!」

 

 二人の間で、目に見えない火花が飛び散る。

 

「なら、かかってくるか?」

「言われなくても!」

 

 歌織は腕を交差させ、叫んだ。

 

「アイドルパワー・リリースッ!!」

 

 同時に体内で、キネティックパワーが激しく巡り始める。

 

 ゴオオオォォォォォ………!!!!

 

「ほう、それが貴様の力か」

 

 溢れ出したエネルギーは、倉庫の壁をまばゆく照らす。

 

「いくわよ!」

 

 歌織はグッと腰を落とし、勢いよく地面を蹴った。

 

 ドンッ!

 

 瞬間、彼女の身体は、一本の白い光の矢と化した。



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第5話 特務参謀の能力②

 金色のオーラをまとった歌織は、一瞬のうちに数メートルの距離を駆け抜けた。

 

「キネティック……パアァァァンチッ!!!!」

 

 ブン!!

 

 だが次の瞬間、相手の身体が沈み込み、拳が空を切り裂く。

 

「えっ!?」

 

 舞い上がった埃の中で、特務参謀がニヤリと笑みを浮かべた。

 

「危ない危ない。当たったら致命傷だったな」

「な……!?」

 

 渾身の右ストレートを避けられたことに驚きながらも、今度はすかさず左拳を繰り出す。

 

 ゴォッ!!

 

 だが顎を狙ったアッパーは、またしても相手の鼻先をかすめ、虚しく風を巻き起こす。

 

(攻撃が、当たらない……!?)

 

 思わず息を飲み込んだ。

 

 敵の動きは決して速くない。

 なのにこちらのパンチが一発も当たらない。

 おかしい……何かがおかしい。

 

「余興は終わりか? では、こちらからも行かせてもらおう」

 

 言いながら、特務参謀は黒いダガーを無造作に振るった。

 構えも何もなっていない、素人同然の動き。

 しかし――、

 

 スパッ!

 

「えっ!?」

 

 よけたと思った刃が、胸元のタイを真っ二つに切り裂いた。

 

(そんな……!?)

 

 再び驚愕に目を見開く。

 

 ナイフの軌道は完全に読み切っていた。

 なのに、なぜ……。

 

「どうした? まだ力を隠し持っているのなら早めに見せたほうがいいぞ?」

 

 特務参謀が、不敵な笑みを浮かべる。

 歌織は奥歯を噛み締め、キッと相手を睨み返す。

 

「だったら、これはどうかしら!」

 

 今度は上体を反らしながら、腰のひねりを加えた強烈な回し蹴り。

 目線は相手の顔面を捉えているが、繰り出した蹴りは脛を狙うローキック。

 

(素人に、このフェイントは避けられない!)

 

 上体を反らせば、無意識のうちに上段蹴りがくるものと思い込んでしまう。

 その裏をかいた必殺の下段蹴り。一般人なら確実に引っかかる初見殺しの技だ。

 しかし……、

 

「フッ……」

 

 狙った足が、するりと後ろへ下がった。

 その手前を、斧のようなローキックがかすめる。

 

「――――!?」

 

 歌織はまたしても絶句した。

 

 やはり何かがおかしい。

 普通ならフェイントと分かっていても少しは反応してしまうはずだ。

 しかし敵は目線をチラリとも動かさなかった。まるで最初から、足元に攻撃がくると分かっていたかのように……。

 

「なんだ、もうネタ切れか?」

 

 唇をペロリとなめ、特務参謀はダガーを水平に構えた。

 

「言っているだろう、奥の手があるならさっさと出せと!」

 

 そして刃を真一文字に薙ぎ払う。

 

 ヒュン!

 

 その動きは、やはり緩慢で鋭さに欠ける。

 

(遅い……)

 

 歌織は冷静に軌道を見極め、攻撃を避けた。

 だが――、

 

 スパッ!

 

 よけたはずの刃は、突然リーチを伸ばしたかのように肩口を切り裂く。

 

「えっ……!?」

 

(ど、どうして……?)

 

 シャツの切れ目から、赤い血が滴り落ちた。

 

「フフ……どうした、貴様の力はこの程度か」

 

 特務参謀は、仮面の下でサディスティックな笑みを浮かべる。

 

「さあ、休んでいるヒマはないぞ!」

 

 間髪入れず、今度は連続して斬撃を繰り出してくる。

 

 ヒュン! ザッ! スパッ!

 

 刃が閃くたび、服が裂け、柔肌に傷が刻まれた。

 歌織は必死に攻撃をかわそうとするが、敵の剣筋は蛇のようにまとわり付いてくる。

 

「フハハハハ! そら! そら!」

「ぐ……うぅ……」

 

 ドン。

 

 背中が倉庫の壁にぶつかった。

 冷たい板の感触が、ひやりと肌に染み込む。

 

「クク……追い詰めたぞ」

 

 肩で息をつく歌織とは対照的に、特務参謀は余裕の表情を浮かべていた。

 呼吸が乱れるどころか、汗ひとつかいていない。

 

(やっぱり何かがおかしい……)

 

 せめて武器があればもう少し戦えるのだが、今回は狙撃ミッションのため、ほとんど基地に置いてきてしまった。

 あとはロコ博士からもらった、超小型爆弾があるだけだが……。

 

(あ!)

 

 ふと歌織は「ある方法」を思い付き、ポケットの中に手を突っ込んだ。

 

(これを使えば、特務参謀の能力の正体が分かるかもしれない……)

 

 指に触れたのは「時限式虫型地雷」、ロコ博士の発明品で、ランダムに地面を這い回り、敵の足元で爆発する小型誘導兵器だ。

 

(相手が油断しているいまなら……)

 

 歌織は拳を握り締め、ぐっと身構えた。

 そして敵の目を欺くため、あえて前に打って出る。

 

「今度はこっちの番よ!」

 

 叫びながら、ポケットの中の爆弾をサッと床へ放った。

 

 カシャン、カサカサ……。

 

 小指大のマシンが、六本の脚を広げて素早く走り去る。

 

(頼んだわよ……)

 

 セットした起爆時間は30秒後。

 それまで敵の注意を逸らすことができれば、この作戦は成功だ。

 

「でやあああああぁぁぁぁぁ!!!!」

「フッ、血迷ったか」

 

 特務参謀は鼻で笑い、ダガーを構えた。

 だがその刃が振り下ろされる前に、歌織は素早く拳を繰り出す。

 

「たあっ!」

 

 ビュッ!

 

 高速のストレートが、敵の頬をかすめた。

 

「無駄だというのがまだ分からんか」

 

 歌織は攻撃の手を緩めず、そのまま息もつかせぬ連続攻撃を放つ。

 

 ビュビュッ! ボッ!

 

(あと20秒……)

 

 拳圧の起こした風が、仮面のそばを吹き抜けていく。

 振り上げた蹴りが空を切る。

 

「まだまだ!」

 

(あと10秒……)

 

 残り時間を確認した歌織は、一気にラストスパートをかけた。

 

「たあああああああっ!!」

「フッ、悪足掻きを……」

 

 繰り出される拳を、仮面の参謀は右へ左へ柳のようにいなす。

 

「そろそろいい加減に――」

 

 言いかけたその時――、

 

 ピタッ!

 

(――――!?)

 

 突然特務参謀が立ち止まり、軍靴の先を一瞥した。

 

「……………?」

 

 カサカサ――。

 

 数瞬遅れて、物陰から虫型爆弾が這い出してくる。

 

「チッ!」

 

 敵は舌打ちしながら、爪先でそれを蹴り飛ばした。

 

 ドオオォン!!

 

 積み上げたパレットの向こうで、激しい爆発が起こる。

 

(……なるほど、そういうこと)

 

 確信を得た歌織は、すっと拳を下ろした。

 そして、告げる。

 

「あなた、未来が見えるのね。それも数秒先の未来が」

 

 特務参謀は、無言で歌織を睨み返した。

 だがその沈黙こそ、彼女の推測が正しかったことを裏付けている。

 

「やっぱり……」

 

 歌織はふう、と息を吐き出す。

 

「これまでの戦いで、あなたがわたしの攻撃を読んでいることは分かっていたわ。けどその方法が、わたしの思考を感知するものなのか、未来を予知するものなのかまでは分からなかった」

 

 そこでこの虫型地雷の登場だ。

 

「虫型地雷は自動で動く。だからわたしの心を読んでもその位置を予測することはできない。逆にこのマシンの動きを読めたら、それは未来を予知したということ」

 

 黙って聞いていた特務参謀が、ようやく口を開いた。

 

「さすがはアイドルヒーローズのエース、と褒めておくべきか」

 

 ナイフを下ろしながら、大げさに肩をすくめてみせる。

 

「だが――」

 

 仮面の奥で、赤い瞳がギラリと閃いた。

 

「それが分かったとて、お前に勝機はない」

 

 たしかにそうかもしれない。

 未来を予測できれば、どんな攻撃も読まれてしまうし、どんな防御も突破されてしまう。

 

 けど……、

 

「絶対に勝てないというわけでもなさそうよ」

「何?」

 

 歌織は静かに目を閉じた。

 そして胸の前で手を組み、喉の奥から透きとおった声を放つ。

 

【スキル:ハミングバード】

 

 キイイイイィィィィ――――――ン!!

 

 両手の平から、蒼い光が溢れ出した。

 それは腕を伝い、肩に広がり、やがて全身をまばゆく包み込む。

 

「な、何だ……!?」

 

 光はどんどん輝きを増し、次第に熱を帯びていく。

 

「くっ……こ、これは……!?」

 

 カッ――――!!

 

 次の瞬間、蒼い両目が開かれ、背中から翼のようなオーラが噴き出した。

 

 ドンッ!!!!

 

 同時に床が爆発し、歌織は弾丸のように前へ飛び出す。

 

「――――!?」

 

 蒼い炎をまとった剛拳が、うなりを上げて空を引き裂いた。

 

 ゴゥッ!!!!

 

「うおっ!?」

 

 特務参謀は咄嗟に身を屈め、砲弾のような一撃を紙一重でかわす。

 

「くっ……この!!」

 

 体勢を立て直しながら、ダガーを振るっての反撃。

 

 ヒュン!

 

 だがその一閃は、虚しく空を切り裂く。

 

「――それは残像よ」

 

 背後に回った歌織が、極超音速の蹴りを放った。

 

 ビュボッ!

 

 爪先が大気を貫き、白いヴェイパートレイルを宙に刻む。

 慌てて身を伏せた特務参謀の頭上を、ギロチンのようなキックが駆け抜けた。

 

「ぐっ!?」

 

 ドゥン!!

 

 背後で壁が崩れ落ちる。

 振り返った特務参謀は、巨獣に引き裂かれたような痕跡を見て、思わず息を飲み込んだ。

 

(これは、衝撃波……? ソニックブームが発生しているということは、攻撃が音速を超えているということ。まさか、人間にこんな動きが可能なのか……!?)

 

 相手を睨み付け、キッと尋ねる。

 

「貴様……何だ、その力は」

「スキル【ハミングバード】よ」

 

 蒼い炎の中で、ゆらりと歌織が立ち上がる。

 

「このスキルは、身体能力を一時的に跳ね上げることができるわ。たとえ未来が見えていても、音速を超えた飽和攻撃にどこまで耐えられるかしら」

 

 ドンッ!!

 

 直後、歌織の姿が目の前から消え失せた。

 残像すら追い越して、足跡だけが機関銃のように地面を穿つ。

 

 ズダダダダダダ……!!

 

「はああああッ!!」

 

 ギュオッ!!

 

 摩擦で帯電した蹴りが、スパークを放ちながら軍服の襟元をかすめた。

 

「くっ!!」

 

 紙一重で避けた特務参謀は、懐から SIG SAUER P226 を抜き放つ。

 

 パン! パン! パン!

 

 マズルフラッシュとともに、赤銅色のホローポイント弾が吐き出された。

 だが加速された歌織の目には、その軌跡がスローモーションのように見える。

 

 ヒュッ! ヒュヒュッ!!

 

 秒速300mを超す弾丸を軽々かわし、今度は目にも留まらぬ速度で左足を蹴り上げる。

 

 ガッ!!

 

 弾き飛ばされた拳銃が天井に突き刺さり、特務参謀はチッと舌打ちした。

 

「この……!」

 

 顔をしかめながら、今度は別のサイドアームを取り出そうとする。

 そこへ追い打ちをかけるように、歌織は鋭い手刀を振り下ろす。

 

「キネティック・スラッシュッ!」

 

 ヒュン!

 

 目に見えない真空波が、刃となって空を切り裂いた。

 

 ズバッ!!

 

「くっ!」

 

 仮面の端を削り取られた特務参謀は、よろめきながら後ずさる。

 

「まだまだ!」

 

 ヒュヒュン! ザッ! シュバッ!

 

 マントが破れ、肩章が千切れ飛び、軍帽の鍔が裂ける。

 

「ぬ……おぉぉぉ…………ッ!!!!」

 

 嵐のような猛攻に、特務参謀の足が一瞬立ち止まった。

 

(いまだッ!)

 

「はああああああああああああああッ!!!!」

 

 歌織の右手に、凄まじいエネルギーが凝集する。

 

「くらえ!!!!」

「―――――!?」

 

 特務参謀の顔が恐怖で引き攣った。

 

「キネティックパワー・オーバーブーストオオォォォォォオォォオォォオォォォォ!!!!」

 

 背中の翼が、ジェットエンジンのように炎を吐き出す。

 

「てりゃああああああああああああッ!!!!」

 

 目もくらむような閃光とともに、歌織は蒼く輝く一本の槍と化した。

 

(もらった!!)

 

 白い仮面の真ん中に、必殺のパンチが吸い込まれていく。

 だがその瞬間――、

 

 ガシィ!!!!

 

 突然、拳が空中で停止した。

 

「なッ……!?」

 

 振り返ると同時に、絶句する。

 歌織の背後では、不敵な笑みを浮かべた黒髪の少女が、焔に包まれた腕をガシリと握り締めていた。

 

「ふんッ!」

 

 バキバキバキィ!!

 

 少女が力を込めると、尺骨と橈骨が音を立てて砕け散った。

 

「いぎぁあぁぁぁああぁあぁぁあぁぁ!!!!」

 

 崩れ落ちる歌織の前で、黒髪の少女は恍惚とした表情を浮かべる。

 

「いい声だ……伝わってくるよ、君の痛みが」

「ぐ……、あ……」

 

 目に涙を浮かべながら、歌織はキッと相手を睨み付けた。

 

「どうして、あなたが……。あなたは麗花ちゃんと戦っていたはず……」

「麗花? ああ、あの子ならとっくに殺したよ」

 

 ――――――!!!?

 

 歌織は驚きに全身を震わせた。

 

「な、何を言っているの……? 麗花ちゃんを殺した? そんな、バカな……」

「疑うなら見てくればいい、彼女の死体を」

 

 黒髪は、いとも簡単に言い返す。

 

「そ、んな………」

 

 だが歌織には、その言葉がどうしても信じられなかった。

 麗花はアイドルヒーローズ最強の戦士。その彼女が、殺されるだなんて……。

 

「ウ、ウソよ……。そんなことあるはずないわ。麗花ちゃんが負けただなんて……そんなこと、絶対に信じない!」

 

 叫びながら、相手の顔面目がけて鋭い回し蹴りを放つ。

 

 ビュン――!

 

 ビタッ!

 

 だがその一撃は、指一本であっさり止められてしまった。

 

「くっ!」

 

 今度は身体を半回転させ、首筋を狙った鋭い延髄切り。

 

 ガシィッ!!

 

 だがその蹴りも、よけられるどころかそのまま首で受け止められてしまう。

 

「な………ッ!?」

「ふぅ……ヒーローズのエースって言うからどの程度のものかと思ったけど、これならさっきの子のほうがよっぽどマシだったね」

 

 ため息をつきながら、黒髪は無造作に拳を振るった。

 

 メキメキメキィ!!

 

「ぐ……ふぅっ!!」

 

 強烈な拳が肋骨をへし折り、歌織は人形のように吹き飛ばされる。

 

 ドグワシャァ!!

 

 突っ込んだパレットの山が、粉々に砕けて周囲へ飛び散った。

 黒髪はニヤリと口元を上げ、とどめを刺そうと一歩踏み出す。

 

「――それくらいにしておけ、マコト」

 

 ピタッ!

 

 呼び止められた黒髪は、悪戯っぽい顔で振り返った。

 

「おや、もういいのかい? お優しいんだね、うちの参謀サマは」

「からかうのはよせ。これ以上耳障りな悲鳴は聞くに堪えないだけだ」

 

 特務参謀は、散乱した木片の山にツカツカと歩み寄る。

 

「残念だったな、あと一歩だったのに」

 

 そう言い捨て、ボロボロになった相手の姿を見下ろす。

 

 歌織はキネティックパワーを使い果たし、ぐったりと横たわっていた。

 スキルの効果も切れ、手足を動かすことすらままならない。

 

「せめて苦しまぬよう、ひと思いにとどめを刺してやろう」

 

 引き抜かれたダガーが、高々と掲げられた。

 分厚いブレードが、水銀灯を反射してギラリと閃く。

 

「さらばだ、歌織よ」

 

 ヒュン―――! ブシャッ!!

 

 黒い刃が胸をえぐり、コンクリートの床に真っ赤な鮮血を飛び散らせた。



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第6話 決着

 ズバッ!

 

 胸元を切り裂かれた歌織は、口から「ごぼっ」と血の泡を吐き出した。

 

「惜しかったな、あと一歩だったのに」

 

 特務参謀が、冷たく言い放つ。

 そばで眺めていた黒髪が、ニヤリと笑みを浮かべた。

 

「何だい、本当に残念そうじゃないか」

「そう見えるか?」

「見えるね。少なくとも嬉しくはなさそうだ」

 

 皮肉めいた軽口に、仮面の参謀はフンと鼻を鳴らす。

 

「いずれにせよ、余興はこれで終わりだ。残りのヒーローズもさっさと始末して――」

 

 カラン。

 

 不意に、足元で乾いた音が響いた。

 床の上で、小さな瓶がコロコロと転がる。

 

「これは……?」

 

 怪訝そうにつぶやきながら、特務参謀はガラスの小瓶をつまみ上げた。

 次の瞬間――、

 

「うっ!?」

 

 突然胸を押さえ、特務参謀は苦しそうにうずくまった。

 

「ど、どうしたんだい!?」

 

 慌てて黒髪が駆け寄り、顔を覗き込む。

 

 乱れる呼吸、滴る汗。

 二人の背後で、「……ふふ」とかすかな含み笑いが響く。

 黒髪は振り返り、ハッと目を見開いた。

 

「お前、まだ生きて……」

 

 崩れたパレットの中で、歌織がうっすらと笑みを浮かべていた。

 

「ようやく効いてきたみたいね、毒が」

「毒?」

「そうよ。斬られた瞬間、血と一緒に吐き出したの。遅効性だから、予知能力でも気付けなかったようね」

 

 手も足も出せない歌織の、文字通り最後の奥の手だった。

 黒髪が、奥歯をギリリと噛み締める。

 

「相打ち狙いなんて、卑怯じゃないか……」

「相打ちじゃないわ。キネティックシールドでナイフの軌道を逸らせば、致命傷は避けられるもの」

 

 黒髪の腕の中で、特務参謀が激しく咳き込む。

 

「ゴホッ、ゴホッ! う……グボッ!!」

 

 吐き出した血が、歌織の頬にピチャッと跳ねた。

 

「さあ、懺悔の時間よ……」

 

 木片を落としながら、歌織はよろよろと立ち上がる。

 

「多くの人々の命を奪ってきた罰、いまここで受けるといいわ」

 

 握り締めた拳が、金色の光を発する。

 

「はああああああああああああああ……!!」

 

 大気が震え、風が巻き起こった。

 エネルギーが凝集し、バチバチと電光を放つ。

 

「くらいなさいッ!」

 

 カッ――――!!!!

 

「キネティック―――!!!」

 

 だがその時――、

 

「く………くくくく」

 

 ―――――!?

 

 不気味な笑い声が歌織の動きを押しとどめた。

 

「………何がおかしいの?」

 

 訝る歌織の前で、特務参謀は可笑しそうに肩を揺する。

 

「く……くはは……は、は……は――ッ、ハッハッハッ!」

 

 どこか狂気じみたその姿に、歌織はぞっと背筋を凍らせた。

 

「何……? どうして笑うの……?」

 

 歌織の問いには答えず、特務参謀はやれやれと首を振る。

 

「まったく、とんだ甘ちゃんだな、お前は」

「え……?」

 

 深紅の瞳が、ギラリと光を放つ。

 

「いつわたしが、数秒先の未来しか見えないと言った」

「――――!?」

 

 口元の血を拭いながら、仮面の参謀がよろよろと立ち上がる。

 

「冥途の土産に教えてやろう。わたしのスキルは数分先の未来まで予知することができる。お前が遅効性の毒を放っていたことも、とっくにお見通しだ!」

「…………!!」

 

 驚く歌織のかたわらで、黒髪がホッと胸を撫で下ろした。

 

「なんだ、驚かさないでくれよ。味方のボクまでだますなんて、ずいぶん意地が悪いじゃないか」

「フッ、意地が悪いのはお前のほうだろう?」

 

 特務参謀が、ニヤリと口の端を持ち上げる。

 

「ポケットの中のモノを見せてみろ」

 

 黒髪は一瞬首をかしげ、すぐに「ああ」と手を叩いた。

 

「これのことかい?」

 

 そしてポケットの中から、小さなガラス玉のようなものを取り出す。

 

「どうだい、綺麗だろう?」

 

 黒髪は、その球体を子供のように見せびらかした。

 ビー玉を一回り大きくしたようなボールの中心で、鳶色の円環が輝いている。

 

「そ、それは……?」

 

 尋ねる歌織に、黒髪は無邪気な声で答えた。

 

「あの子の『眼』だよ」

「―――――!!!?」

 

 衝撃が全身を貫いた。

 膝が震え、目の前がじわじわと暗くなっていく。

 

「そ、んな……、ウソ……でしょ……?」

「ウソじゃないさ。抵抗するから取り出すのに苦労したよ」

 

 平然と答えるその声からは、まったく罪の意識を感じられない。

 

「う、うぅ……うあああああああああああ」

 

 喉から嗚咽が漏れた。

 感情が堰を切り、胸を突き破って一気に溢れ出す。

 

「許せない……許せない……ッ!!」

 

 拳がギリリと音を立てた。

 

 許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない――

 

「許せないッ!!!!」

「うるさい」

 

 ドス――。

 

 え……?

 

 歌織は放心したように自分の胸を見下ろした。

 

 黒い刃が、みぞおちに突き立っている。

 水平に傾けられた刀身は、骨の隙間をくぐり抜け、柄の部分まで深々と挿し込まれている。

 

 ズルッ――。

 

「ごぼっ!!」

 

 ダガーが引き抜かれると、口から血の塊が溢れ出た。

 視界がぐらりと傾き、スローモーションのように崩れ落ちる。

 

 ドサッ。

 

 冷たい床が、肩を打った。

 ひゅーひゅーと息を吐き出しながら、歌織は敵の姿を見上げる。

 

「う……あ………」

「最後に何か言い残すことはあるか?」

 

 感情を伴わない声で、特務参謀が冷たく言い放った。

 しかし歌織はうめき声を上げるだけで、もはやしゃべることができない。

 

 特務参謀はやれやれと首を振り、ダガーを掲げた。

 

「さらばだ、ヒーローズのエースよ」

 

 別れの言葉とともに、もう一度、ダガーを振り下ろす。

 

 ズン!

 

 歌織の手足が震え、床に脂っぽい血溜まりが広がった。

 黒髪が屈み込み、歌織の手首にそっと触れる。

 

「……死んだよ」

 

 特務参謀は、静かに頷く。

 その瞳には、どこか寂しげな輝きが伴っている。

 

「……帰るぞ」

 

 マントをひるがえし、仮面の参謀は黙然と歩き出した。

 血なまぐさい倉庫に、カツンと軍靴の音が響き渡る。

 と、その時、

 

 パキン――!

 

 白いマスクに鋭い亀裂が走った。

 二つに裂けた仮面は、ウロコのように顔から剥がれ落ちる。

 

 カラン――。

 

 床の上で、破片が乾いた音を立てた。

 

「おっと、落としたよ。大事なものなんだろ?」

「……………」

 

 渡されたそれを受け取りながら、特務参謀は最後にもう一度、振り返る。

 

「所詮は、ただの人間だったか……」

 

 バツン――。

 

 天井のライトが消えた。

 倉庫が再び闇に包まれる。

 

「……さらばだ、歌織よ」

 

 割れた仮面を懐に差し入れ、仮面の参謀は静かに戦場を後にする。

 

 光を失った歌織の目は、軍服に覆われた背中を無言で見送っていた。

 

    *

 

 誰もいなくなった倉庫で、「パチン!」と指を鳴らす音が響いた。

 同時に景色がぐにゃりと歪み、血だまりが煙のように消え失せる。

 

「うぅ……」

 

 暗闇の中で、死んだはずの歌織が息を吹き返した。

 かたわらにひざまずく菫色の髪の少女が、心配そうに顔を覗き込む。

 

「大丈夫、ですか……?」

 

 パチパチと瞬きした歌織は、青白い頬に弱々しい笑みを浮かべた。

 

「……ありがとう、杏奈ちゃん。あなたのスキルのおかげで命拾いしたわ」

 

 杏奈のスキル【VIVID イマジネーション】は、敵に幻影を見せることができる。

 その能力は相手の五感をも支配し、ほぼ完璧な仮想現実を体験させることができる。

 

「大したこと……ないです。数分先の未来を、予知できるのなら……それ以上、だまし続ければいいだけ……」

 

 起き上がろうとして、歌織は痛みに「うっ」と顔をしかめた。

 

「無理……しないで。最初に斬られた傷は、そのまま……だから」

「わたしは大丈夫よ。それより麗花ちゃんは?」

 

 答える代わりに、杏奈は無言でうつむいた。

 その瞳には、涙が浮かんでいる。

 

「そう……」

 

 答えを察し、歌織は喉を詰まらせた。

 

 あまりにも、あまりにもあっけない死だった。

 目を閉じれば、瞼の裏に彼女の笑顔がよみがえる。

 

「わたしたち、また仲間を失ったのね……」

 

 悲しげにつぶやく歌織の隣で、杏奈がぐっと拳を握った。

 

「けど……今回の戦いは、無意味じゃなかった」

 

 そう言って、ポシェットから携帯端末を取り出す。

 小型の液晶モニタには、見覚えのある人物の姿が映し出されている。

 

「これは……?」

 

 倉庫にたたずむ黒い影。隣には、黒髪の姿も見える。

 

「……特務参謀?」

 

 だがその顔には、いつものマスクが嵌められてない。

 

「さっき……こっそり撮っておいた」

 

 写真を見て、歌織はごくりと唾を飲み込んだ。

 どう見ても、これがあの冷酷無比なテロリストの正体だとは思えない。

 だって、この人物は……。

 

 画面に映る、あどけない面差しの少女。

 

 彼女はかつて、「未来」という名の一人の少女だった。



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第2章 炎の中で見たもの
第7話 ティアラ


 今日と明日は、2話ずつ投稿します。


 東京が、燃えていた。

 赤い光が雲を染め、灰がビルの谷間に降り注いでいる。

 夜空は叫喚で埋め尽くされ、肉と物の焼け焦げる臭いが、熱風とともに海へ吹き流されていく。

 

「こっちよ、早く!」

 

 若い母娘が、瓦礫の合間を縫うように駆けていた。

 逃げ惑う二人の頭上を、可変翼の爆撃機が通り過ぎる。

 

 ドド――――――――ン!!!!

 

 直後、轟音が四辺を圧した。

 爆炎が花弁のように広がり、めくれ上がったアスファルトが、光とともに天上へ吸い込まれていく。

 偶然その場に居合わせた者は、波動が空気を伝わる様を目の当たりにしただろう。

 割れる窓、傾く街路樹、転がる車。

 破壊の波が、物理的な力をもって押し寄せてくる。

 

 母親は、ぎゅっと娘を抱きかかえた。

 その背中に、真っ赤な業火が――、

 

 

「―――――ハッ!?」

 

 ベッドの上で、歌織はパチパチと瞬きした。

 

「ゆ、夢……?」

 

 心臓がドクドク脈打っている。全身寝汗でびっしょりだ。

 

「ふぅ……」

 

 思わずため息が漏れた。

 ここが現実世界であることを思い出し、心の底から安堵する。

 

(これで何度目かしら……)

 

 人工島での戦い以来、妙な夢に悩まされていた。見るのは決まって東京が火の海になる夢だ。

 単なる悪夢ならどうと言うこともない。

 だがその夢は、あまりにもリアルで、あまりにも実感を伴い過ぎていた。まるで恐ろしい未来を、直接この目で見てきたような……。

 

 コン、コン。

 

 ノックの音に、歌織はハッと振り返った。

 

「はい?」

「姉さん、起きてる?」

 

 ドアの向こうから、妹がおずおずと呼びかけてくる。

 

「起きてるわよ、紬」

 

 扉の隙間から、あどけない少女がちょこんと顔を覗かせた。

 愛くるしいその姿に、思わず頬を緩ませる。

 

 紬と出会ったのは8年前、デストルドーが起こしたテロ事件がきっかけだった。

 両親の死に打ちのめされた姿が自分の境遇と重なり、以来、歌織が親代わりとなって面倒を見ている。

 

「姉さん、今朝はずいぶんゆっくりなのね。もう朝食できるてるわよ」

「ありがとう。けど、紬こそ無理しちゃダメよ。体調は大丈夫?」

 

 心配する姉に、紬はそっと微笑み返した。

 

「ええ、大丈夫。今朝はなんだか気分がいいの」

 

 紬は、常人であれば大なり小なり持っているはずのキネティックパワーを、ほとんど有していない。そのため、少しのことで体調を崩してしまう。

 

「それより姉さん、今日は10時から歌番組の収録でしょ? もう着替えないと間に合わないんじゃない?」

「あ……うん、すぐ準備するわ」

 

 歌織はベッドから起き上がり、パジャマのボタンに手をかけた。

 

 パサ――。

 

 上着を脱ぎ捨てると、レースに覆われた豊かな乳房が露わになる。

 へそからあばら骨にかけての曲線は見とれてしまうほど美しく、ほっそりした鎖骨と二の腕は、陽光の下で艶めかしく輝いている。

 

「ね、姉さん、ウチがまだいるんだけど……」

 

 妹の言葉を気にも留めず、歌織はショーツをするりと脱ぎ捨てた。

 牛脂のように白い太ももが惜しげもなくさらされ、紬は思わず頬を赤らめてしまう。

 

「ね、姉さんはヒーローであると同時にアイドルでもあるんだから、もう少し恥じらいというものを持たないと……」

「ふふ。大丈夫よ、こんな姿見せるの、紬だけだから」

 

 まぶしい笑顔で答えられ、紬は何も言えなくなってしまう。

 

「姉さんは、ずるい……」

 

 口をとがらす妹の頭を、歌織はくすくす笑いながら撫でた。

 

    *

 

 番組の収録は、午前いっぱいかけて行われた。

 楽屋で休む歌織に、マネージャー代わりの紬がペットボトルのお茶を差し出す。

 

「お疲れさま、姉さん」

「あら。ありがとう、紬」

 

 姉が飲み終えるのを待ち、紬は分厚い手帳を開いた。

 

「午後からは、雑誌のインタビューにドラマの収録ね。お昼は車中になっちゃうけど、大丈夫?」

「平気よ。お弁当、楽しみにしてるわ」

 

 弱音の一つさえ吐かない姉の姿に、紬は気遣わしげな表情を浮かべる。

 

「姉さん、本当に大丈夫? 最近疲れてるんじゃない?」

「そんなことないわ。デストルドーとの戦いに比べれば、このくらい大したことないもの」

「そう………」

 

 だが、紬は気付いていた。最近姉が、夜中にひどくうなされていることを。

 

「姉さん、本当に何かあったら言ってね。わたしだって、話を聞くことくらいはできるんだから」

「ありがとう。それじゃ、いざという時は――」

 

 コン、コン。

 

 ノックの音に、二人は同時に振り返った。

 扉の向こうから、眼鏡をかけた女性がそっと顔を覗かせる。

 

「歌織さん、ちょっといい?」

 

 手招きしているのは、「ストラテジー」こと律子だ。

 アイドルヒーローズのブレーンでありながら、歌織たちをプロデュースする敏腕プロデューサーでもある。

 

「実は、これを見てもらいたいんだけど……」

 

 彼女がバッグから取り出したのは、一通の封筒だった。

 受け取った歌織は、中身を見るなりハッと息を飲み込む。

 

「こ、これは……ティアラ章叙勲の通知!?」

 

 女性だけに与えられる勲章、ティアラ章。

 この章を授与された者は「ベル・マシェリ」と呼ばれ、式典で純白のドレスを披露するのが通例となっている。

 

「まだ2、3か月先だけど、内々に連絡があったの。アイドルヒーローズの中ではファーストに続く二人目よ。おめでとう」

「すごい、姉さん!」

 

 紬に抱き着かれ、歌織は目をぱちくりさせた。

 

「あ、ありがとう。けど、どうして急に……?」

「この間の作戦で敵の正体をつかんだでしょ。あれが決め手になったみたい」

「そう、ですか……」

 

 どこか浮かない様子の姉を見て、紬が尋ねる。

 

「どうしたの、姉さん? 何か問題でも?」

「いえ、問題というわけではないけど、仲間を失ったばかりでこんな栄誉に預かるのは、ちょっと……」

 

 すかさず律子が反論した。

 

「そんなこと言わないで。歌織さんがこの勲章を受け取ることは、あなたを支えた仲間たちの名誉を守ることでもあるのよ」

 

 紬もうんうんと首を振る。

 

「それに姉さん言ってたじゃない。小さい頃からずっとお姫様に憧れてたって。その夢がやっとかなうのよ」

 

 言われてハッと思い出した。

 

(そうだ。わたしはお姫様になりたくて、この仕事に……)

 

 元々良家の子女だった歌織は、テロで両親を失って以来、長らく極貧生活に甘んじてきた。

 だからこそ憧れた。ドレスに、プリンセスに――。

 

「お願い、受け取って姉さん。ね?」

 

 紬がじっと見詰めてくる。

 その純真な眼差しに抗い切れず、歌織も思わず頷いてしまう。

 

「そうね。分かったわ、つむ――」

 

 ――ザザッ!!

 

 その瞬間、突然目の前がフラッシュを焚かれたように白くなった。

 

(なに、これ……?)

 

 視界がくらみ、上下の感覚が消失する。

 意識が遠ざかり、彼方へ吸い込まれていく。

 

 ――――!?

 

 気が付くと、歌織は見知らぬ部屋に立っていた。

 パイプベッドとサイドデスクだけの、殺風景な部屋。窓の向こうでは、黒い煙が立ち昇っている。

 

(ここは……?)

 

 フロアの真ん中には、一人の少女がポツンと佇んでいた。

 おとぎ話に出てくるお姫様のような、白いドレスを着た少女。

 

(誰……?)

 

 少女がゆっくりと立ち上がった。

 窓から吹き込む風が、薄いヴェールをそっとひるがえらせる。

 

 サァ―――。

 

 藤色の髪がこぼれ落ち、アクアマリンの瞳がきらりと輝いた。

 

 美しい。

 あまりの美しさに、思わず見とれる。

 

 声をかけようとした瞬間、小さな唇が、そっと開いた。

 

「………やめて」

 

 少女の眼から、涙がこぼれ落ちる。

 透明な雫が、頬を静かに滑り落ちる。

 

「やめて……そんなことをしたら、もう………」

 

 なぜ泣いているの?

 あなたはわたしに何を伝えようとしているの?

 

 歌織は手を伸ばした。

 少女に触れようと、震える手を伸ばした。

 

 教えて、あなたは……。

 

 

 ――ザザッ!!

 

 

「――はッ!?」

 

 我に返った歌織の顔を、紬が不思議そうに覗き込んでいた。

 

「どうしたの、姉さん?」

 

 慌てて周囲を見回し、ここが楽屋だということを思い出す。

 

「な、何でもないわ、紬……」

「本当に大丈夫? やっぱり疲れてるんじゃない?」

「心配しないで、平気だから」

 

 優しく妹の頭を撫で、今度は律子のほうへ向き直る。

 

「ありがとうございます。わたしでなんかでいいのか不安ですけど、先方には『どうぞよろしくお願いします』とお伝えください」

「ええ、分かったわ」

 

 前向きな返事に、律子は満足そうな顔で頷いた。

 

「わたしも歌織さんのドレス姿、楽しみにしてますからね」

 

 嬉しそうに手を振りながら、彼女は足取りも軽く楽屋を後にする。

 

 バタン。

 

 閉じられたドアを、歌織はぼんやりと見詰めた。

 

(さっきのは、一体……)

 

 知らない部屋、見覚えのない景色。

 そして、ドレスを着た美しい少女……。

 

 彼女の隣では、紬が怪訝そうに姉の顔を見上げていた。

 

    *

 

 収録が終わると、日はすっかり西に傾いていた。

 仕事を終えた二人は、茜色に染まる街並みをゆったりと歩いていく。

 

「見て、姉さん」

 

 紬がショーウィンドウの前で足を止めた。

 

「この宝石、姉さんの瞳の色にそっくり」

 

 ガラスの向こうでは、緑の宝石をあつらえたネックレスがまばゆい光を放っていた。

 歌織はふっと笑みを漏らす。

 

「グリーン・グロッシュラー・ガーネットね」

 

 小さい頃、父がこの宝石を見て、同じことを言っていたのを思い出す。

 

『お前の瞳の色にそっくりだ。誕生日に買ってあげよう』

 

 その約束は、デストルドーのテロによって永遠に果たされなくなってしまった。

 

「……本当に、素敵な色」

 

 ショーウィンドウ越しに、歌織はうっとりと宝石を眺める。

 これを首から下げたら、きっと純白のドレスに映えるだろう。

 

 目を閉じれば、式典の様子が鮮やかに思い浮かぶ。

 

 煌びやかなホールに、着飾った人々。その中心で、緑の宝石を胸に下げた自分が微笑んでいる。

 背後に並んでいるのは、歌織の栄誉を讃えるヒーローズの仲間たち。

 

 けど……、

 

 歌織はポシェットの上から、そっと財布に触れた。

 

(あんな高価なもの、とてもじゃないけど手が出ないわ……)

 

 アイドルヒーローズとしての報酬は、紬の学費と医療費に消えてしまい、ほとんど手元に残っていなかった。

 式典にはドレスも必要だ。いまの家計では、一着用意するのが精一杯だろう。

 

「行きましょう、紬」

 

 未練を断ち切るように、歌織はウィンドウから離れる。

 妹に顔を見られまいと、うつむき加減でブティックを後にする。

 

「待って、姉さん」

 

 コツコツと、ヒールの音が後を追いかけてきた。

 歌織は振り返りもせず、華やかな通りを足早に過ぎ去っていく。

 

 コツ、コツ、コツ、コツ――。

 

「危ない――!」

 

 ドン!

 

「きゃっ!?」

 

 誰かにぶつかり、歌織は歩道の真ん中で尻餅をついた。

 

「だ、大丈夫っすか……?」

 

 スポーツキャップを被った男性が、申し訳なさそうに手を差し伸べてくる。

 

「すんません、急に飛び出しちゃって」

「い、いえ、わたしもちゃんと前を見てなかったから……」

 

 立ち上がろうとする歌織を見て、男がハッと帽子のつばを持ち上げた。

 

「もしかして……アイドルヒーローズの歌織さんっすか!?」

「え……? あ、はい……」

「いやぁ嬉しいなあ! 俺ファンなんです!」

 

 男は馴れ馴れしく歌織の手を握り、ぶんぶんと振り回す。

 

「そうだ、写真一枚いいっすか?」

 

 後から追いかけてきた紬が、慌てて止めに入った。

 

「ちょ、ちょっと! 写真は――」

「いいのよ、紬」

 

 それを歌織がやんわりと制する。

 

「こうして支えてくださる方たちのおかげで頑張れるんだもの。写真くらいでしたら、どうぞご遠慮なく」

「さっすが歌織さん! まじリスペクトっす!」

 

 調子に乗った男は、遠慮なくシャッターを切り始めた。

 厚かましく肩に手を回されても、歌織は嫌な顔一つしない。

 

「もう、姉さんったら……」

 

 隣で紬が頬を膨らませるのを見て、男がふとボタンを押す手を止めた。

 

「えーと、こっちは歌織さんの妹さんっすか? あんま似てないっすね」

 

 言いながら、紬のほうへスマホのレンズを向ける。

 

 スッ―――。

 

 シャッターが切られる前に、歌織が二人の間へ割り込んだ。

 

「応援ありがとうございます。申し訳ありませんが、そろそろ時間ですので……」

 

 にっこり微笑みながら、妹の腕を取る。

 

「行きましょ、紬」

「あ、姉さん……?」

 

 そのまま有無を言わせず、歌織はすたすたと歩き出してしまう。

 

「今日はありがとうございました! 応援してますよ、歌織さん!」

 

 有名人の名前を聞き、道行く人たちが驚いて振り返った。

 ブティック街に、小さなざわめきが広がる。

 

 歌織は一瞬だけ微笑み返し、逃げるように交差点の角を曲がった。

 

    *

 

「ふぅ…………」

 

 人目がなくなったところで、紬が大きなため息を吐き出した。

 

「びっくりした……。なんなん、あの人……」

「ごめんね、あなたまで巻き込んじゃって」

 

 詫びる姉を見て、紬がパタパタと手を振る。

 

「ね、姉さんが謝ることじゃないわ。わたしこそ、脇が甘くてごめんなさい……」

 

 歌織はくすりと笑い、妹の頭をそっと撫でた。

 

「いいのよ、紬。それに、あの人もわたしたちを応援する気持ちで声をかけてくれたはずだもの。だからあの人のこと、嫌いにならないでね」

「うん。姉さんがそう言うなら、わたし、あの人のこと嫌いにならない」

 

 気が付くと、二人は自宅のマンションが見える丘の上を歩いていた。

 夕陽が燃えるように輝き、ビルの稜線をくっきりと際立たせている。

 

 歌織は立ち止まり、朱と紫が混じった空を見上げた。

 

「ねえ、紬。一つだけ、あなたに覚えておいて欲しいことがあるの」

「なあに、姉さん?」

 

 ちょこんと首をかしげる妹の頬を、歌織は優しく包み込む。

 

「どんなことがあっても絶対に譲れないもの。それは……あなた自身の正義よ」

「正義?」

「そう。あなたの正義はどこにあるのか。それをしっかり見極めて、心に留めておいてね」

 

 言いながら、歌織は紬の胸にトンと触れた。

 その横顔は、夕陽を浴びて、オレンジ色に輝いている。

 

 紬は姉の神々しい笑顔を、崇めるように見上げた。

 

(きれい……)

 

 二人の視線が、降り注ぐ日差しの中で溶け合うように交わる。

 

「さあ、帰りましょう、紬。わたしたちの家に」

「うん」

 

 並んだ背中が、アスファルトに長い影を落とした。

 澄み切った空で、明星が二人を見守るように瞬く。

 

 ヒュウ―――。

 

 丘の上には、冷たい夜風が吹き始めていた。

 姉妹は肩を寄せ合いながら、沈む太陽に向かって歩き出す。

 

「寒い………」

 

 たなびく雲の彼方は、早くも濃い群青色に染まりつつあった。

 

    *

 

 薄暗い部屋の片隅で、男はチカチカと明滅するゲーミングモニタを覗き込んだ。

 

「ふぅ……」

 

 長いため息が、机の上のティッシュペーパーを揺らす。

 

「やーっぱダメかぁ。期待したほど閲覧数上がんねぇなあ」

 

 投稿した動画をチェックしながら、男は頭の後ろで腕組みをする。

 モニタでは、私服姿の歌織が微笑んでいる。

 

「結局、幸せそうにしてる奴なんか見ても、全然面白くないってことか」

 

 くるりと椅子を回し、男は背後の闇を見詰めた。

 

「けど……逆に言えば、幸せの絶頂にいるやつほど、落ちるのを見るのが楽しいってことだよな」

 

 スナック菓子をバリッとかみ砕きながら、男は脂ぎった唇を持ち上げる。

 

「いっちょ仕掛けてみっか……」

 

 その手には、間もなく開催されるアイドルヒーローズのライブチケットが握られていた。



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第8話 紬の記憶・歌織の記憶①

 バトルシーンは、明日投稿予定の第10話からです。


 ろうそくが揺らめいていた。

 照明を落とした店内は子供向けのキャラクターで飾り立てられ、白いホールケーキは、真っ赤なイチゴで彩られている。

 

「紬、6歳のお誕生日おめでとう!」

 

 頭に三角帽子を乗せた母が、包装紙でラッピングされた大きな箱を差し出した。

 「開けてごらん」と父に促され、わくわくしながら、リボンを引っ張る。

 

 いつも仕事で忙しいお父さんとお母さん。

 この日だけは、わたしの好きなものを買ってくれる約束だった。

 なのに……、

 

「あー! これじゃない!!」

 

 箱を開けた瞬間、わたしは思わず叫んだ。

 

「え? どうしたの、紬?」

「違うの! これじゃないの!!」

 

 予想と異なる反応に、母がおろおろし始める。

 

「え? けどこれ、前に紬が欲しいって言ってたジュエルボックスよ?」

「そうじゃない! 色が違う!」

「色?」

 

 抗弁の意志を込めて、力いっぱい頷いた。

 

「お友だちのあーちゃんが赤で、わたしは青にするって約束だったの。これじゃ、あーちゃんと同じになっちゃう! だめ!! やだ!!」

 

 幼い日のわたしにとって、それはとても大事な約束だった。

 膨らんでいた期待が一気にしぼみ、ヒステリックな感情が湧き上がってくる。

 

「ご、ごめんね、紬。けど、お店にはその色しかなかったの」

「やぁーだぁー!! この色じゃない!! 青いのがいい!!」

 

 喚き散らすわたしを見て、父の堪忍袋の緒がとうとう切れた。

 

「いい加減にしなさい、紬!!」

 

 わたしはビクリと肩をすくめる。

 

「お母さんはね、忙しい中いくつもお店を回ってそれを見付けてくれたんだ。わがままを言うのも大概にしなさい!!」

 

 日頃温厚な父に怒鳴られ、わたしはぐっと喉を詰まらせる。

 

「でも……あーちゃんと約束したんだもん」

「あきらめなさい。ないものはないんだ」

 

 父の言葉が、火に油を注ぐ。

 

「やだ……やだ……だったらこんなの……いらないッ!!!!」

 

 わたしはプレゼントを机から叩き落とし、ダッと外へ駆け出した。

 

「紬!」

 

 父の声を無視し、自動ドアをくぐる。

 

「お父さんもお母さんも、大きらい!!」

 

 とにかく一刻も早く、あの不快な場所から遠ざかりたかった。

 

 周囲の視線を浴びながら、ショッピングモールを駆け抜ける。

 途中、何度も転びそうになりながら、それでも人混みをかき分け走り続ける。

 

「ハァ、ハァ……」

 

 どれくらい時間が経っただろう。

 やがて息が切れ、わたしはハタと立ち止まった。

 

(ここ、どこ……?)

 

 見たこともない場所だった。

 背中をさーっと冷たいものが駆け抜ける。

 

 知らない店、知らない人たち。

 押し寄せる不安に、涙が込み上げてくる。

 

「お母さん? お父さん? どこ?」

 

 元の店へ戻ろうにも、自分がどこから走ってきたか分からない。

 このまま二度と両親に会えないんじゃないかと、不安がむくむく膨れ上がってくる。

 

「お母さん! お父さん!」

 

 今度は打って変わり、両親の姿を求めて走り出した。

 顔中涙でぐしゃぐしゃにしながら、無我夢中でショッピングモール内を駆け回る。

 

「お母さーん! お父さーん!」

 

 何度も両親の名前を呼び、手あたり次第店を覗き込んだ。

 しかし、二人の姿はどこにも見当たらない。

 

(もう家に帰れないの……?)

 

 がっくりうなだれ、絶望しかけたその時、

 

「紬!」

 

 天から光が差し込むように、母の声が聞こえた。

 

「お母さん!」

 

 わたしはダッと駆け出す。

 視線の先で、母が両手を広げる。

 

 涙がぼろぼろこぼれ落ちた。

 もう二度と母のそばを離れるまいと誓った。

 

「お母さーん!」

 

 母の姿が近付いてくる。

 胸の奥から安心感が込み上げてくる。

 

「ごめんなさい、お母さ――」

 

 その時――、

 

「紬、危ない!!!!」

 

 ドゴオオォォオォオォォォン!!!!

 

 突然視界を閃光が覆い、大音響がわたしの意識を刈り取った。

 

    *

 

 焦げ臭いにおいに、「う……」と目を覚ました。

 息を吸い込もうとして、激しく咳き込む。

 

「……大丈夫、紬?」

 

 喉と目の痛みに耐えながら、ハッと顔を上げた。

 

「お、お母さん!?」

 

 そして絶句する。

 

 母は、血まみれの姿でわたしの上に覆いかぶっていた。

 服があちこち破れ、顔は煤で真っ黒だ。

 

「お母さん、どうしたの……? 何これ……?」

 

 すぐそばで、火がパチパチと音を立てている。

 周囲は瓦礫で覆われ、母の背中にもコンクリートの破片が積もっている。

 

「お、お父さんは……?」

「そこよ……」

 

 瓦礫の隙間から、血の気のない腕がだらりと垂れ下がっていた。

 手首にはめられている時計は、見慣れた父のものだ。

 

「お、お父さん、どうしちゃったの……?」

「大丈夫よ、すぐに助けがくるから。それまでじっとしてて」

 

 訳も分からないまま、周囲を見回して何とか状況を把握しようとする。

 だが、瓦礫に脚を挟まれて自由に動くことができない。

 

「熱い……お母さん、足が熱いよ」

「うん、熱いね。でも、もう少しの辛抱よ」

 

 煙に混じって、肉の焼け焦げる臭いが漂ってきた。

 瓦礫の隙間から、チロチロとオレンジ色の炎が見える。

 

 閉塞感と恐怖で、わたしはパニックに陥った。

 

「お母さん、怖い! 早くここから出たい!」

 

 すると――、

 

「そうだ、紬にいいものあげるわね」

 

 ふと思い出したように、母は瓦礫の中からひしゃげた箱を取り出した。

 

「あそこのお店で見付けたんだけど、もう壊れちゃったかな……」

 

 それは、わたしが欲しがっていた青いジュエルボックスだった。

 

「お誕生日おめでとう、紬」

 

 煤だらけの顔で、母が微笑む。

 

「いつも一人にしちゃって、ごめんね紬」

 

 母が謝るのを見て、わたしは無性に胸が苦しくなった。

 

「お母さん……ありがとう」

 

 母は優しい笑顔を浮かべ、額をこつんと合わせる。

 

「お母さんね、本当はずっと、紬と一緒にいてあげたかったの。なのに、こんなものしかあげられなくて、ごめんね……」

 

 くすんだ頬を、涙が伝う。

 

「ねえ紬、ここを出られたら、一緒にケーキを食べようか」

 

 さっき食べ残した皿のことを思い出し、ぐーっとお腹が鳴った。

 

「紬はどんなケーキがいい? ショートケーキ? それともチョコレートケーキ?」

「わたしは……チョコがいい。お母さんは?」

「わたしは、紬が食べたいケーキがいいわ」

 

 そう言って、母はにっこり微笑む。

 

 優しいお母さん。

 暖かいお母さん。

 ここを出られるのなら、ケーキの種類なんて何だっていい。

 もう一度、お母さんとお父さんと一緒に、あのお店で、テーブルを囲めたなら……。

 

「……あぁ、紬はこれからどんなお姉さんになるのかな」

 

 母が、遠くを見てつぶやいた。

 

「小学校を卒業したら、中学生になって……高校に入れば、紬は可愛いからきっと彼氏もできるわね。それから大学生になって、大人になって……お母さんがお父さんからもらったみたいに、素敵な男性から婚約指輪をもらって。それから……それから……」

 

 炎が母の横顔をオレンジ色に照らしていた。

 耳元で火の粉が爆ぜ、パチパチと音を立てる。

 

「ごめんね、紬。あなたに寂しい思いをさせちゃって」

 

 黒く汚れた指先が、わたしの頬を撫でた。

 

「本当に……本当に、ごめんね……紬………」

 

 嗚咽が、喉を震わせる。

 大丈夫だよと言いたいが、なぜか言葉が出てこない。

 悔悟の念ばかりが、あとからあとから湧いて出てくる。

 すくってもすくっても、すくい切れないほどの後悔が胸を覆う。

 

「ねえ、お母さん……」

 

 わたしは謝ろうとして、母に声をかけた。

 

「お母さん……?」

「……………」

 

 だが返事がないことに気付き、ハッと顔を上げる。

 

「お母さん!? ねえ、お母さん!」

 

 慌てて肩を揺するが、母はうんともすんとも答えない。

 

「お母さん! ねえ、お母さん! 起きて! お願い! ねえお母さん!」

 

 わたしは必死に声を上げた。

 何度も何度も肩を揺すった。

 だがその呼び声は、炎の中に虚しく吸い込まれていく。

 

「ねえお母さん! お願い、目を開けて! わたしいい子にするから! もうわがまま言わないから! お願い、目を開けて!!」

 

 つらくてつらくて、心が折れそうだった。

 胸が引き裂かれ、心臓をえぐられるような痛みだった。

 それでも声を振り絞り、必死で母に懇願する。

 

「お母さん! 起きて!!」

 

 叫びながら、悲しみと怒りが込み上げてきた。

 誰に対してでもない、自分自身への怒りだ。

 

 腹の底から、抑えがたい感情が湧き出してくる。

 血液が煮えたぎり、マグマのように全身を駆け巡る。

 

 それは熱を帯び、炎となり、身体の内側から迸り出る。

 

「起きて、お母さん! お母さん……お母さん! お母さあああああああああああんッ!!!!」

 

 カッ――――!!

 

 ドオオオォォォォオオォオォォォン!!!!

 

 突如、大爆発が起こった。

 瓦礫が紙屑のように吹き飛び、爆風がフロア内を吹き荒れる。

 

 立ち上がったわたしは、呆然と自分の姿を見下ろした。

 

 全身が発光している。

 力が湧き出てくる。

 それはとめどなく熱を発し、身体をじりじりと焼き焦がす。

 

「熱い……熱いよ………」

 

 すぐ近くから、パチパチと何かが燃える音がした。

 

「ああッ!?」

 

 燃えているのは自分の服だと気付き、慌てて手で払う。

 

 ボワッ!

 

 だが触れた先から炎は燃え広がり、消えるどころかますます勢いを強めていく。

 

「熱い! 熱い! 誰か、助けて!!」

 

 思わず悲鳴を上げた。と、その時。

 

 ――誰かいるの!?

 

 どこからともなく、女の人の声が聞こえた。

 反射的に、わたしは「ここ!!」と叫び返す。

 

 ――いま行くわ!

 

 声の主はタッと駆け出し、やがて黒煙の向こうから、不思議なコスチュームを着た女性が姿を現した。

 

「大丈夫!?」

 

 その女の人は、白いセーラー服に、紺色のマントを羽織っていた。リボンの上で、鳥を象った金色のブローチが輝いている。

 

「う、あ……熱い」

「あなた……それ、キネティックパワー……?」

 

 彼女はわたしの姿を見るなり、ハッと息を飲み込んだ。

 言葉の意味が分からず、とにかく必死で助けを求める。

 

「お、お姉ちゃん、熱いの……助けて」

「大丈夫よ。キネティックパワーはあなたの心そのもの。気持ちをコントロールすれば、すぐに収まるわ」

「そ、そんなこと……できない」

 

 即座に否定した。

 

 だって、できるわけがない。

 わたしのせいで、お母さんとお父さんは死んでしまったんだもの。

 きっと二人とも怒ってる。

 わたしのせいで死んじゃったことを、すごく怒ってる。

 

「そんなことないわ。わたしを信じて、ね?」

「無理よ!」

 

 もう一度、吐き捨てるように叫んだ。

 

 そう、無理に決まってる。

 だって……だってわたしは、わたしに対して怒っているもの。

 自分を殴りつけたいほど怒ってる。

 自分を踏みつけてやりたいほど怒ってる。

 自分を殺してやりたいほど怒ってる。

 

 わたしはわたしを許せない。

 身が張り裂けてしまいそうなほど許せない。

 心が焼け焦げてしまいそうなほど許せない。

 許せない。

 許せない……許せない……、

 

 絶対に…………許せない!!!!

 

「う、うぁ……ああああぁぁぁ!!!!」

 

 光が爆発的に膨れ上がり、暴走したエネルギーが一気に溢れ出した。

 炎が身体を包み込み、渦となって巻き上がる。

 

「ま、まずいわ……このままじゃ………」

 

 セーラー服の女性が、じりっと後ずさった。

 

 わたしの身体はますます熱くなり、いまや耐えがたいほどの高温を発している。

 

「仕方ない、こうなったら……」

 

 突然女性がマントを脱ぎ捨て、わたしの身体をガバッと抱きしめた。

 

(――――!?)

 

「……な、にを……?」

「わたしのキネティックパワーで、あなたの力を抑え込むの。ちょっと苦しいかもしれないけど、少しだけ我慢してね」

 

 言うと同時に、女性の身体が強烈な光を放った。

 

 カァァァァァァァァァ―――――!!!!

 

 同時に、高圧電流を流されたような痛みが走る。

 

「あ……ぎああああああああああ!!!!」

 

 たまらず悲鳴を上げた。

 

「痛い!! 痛いよ!!」

「大丈夫、すぐに収まるから」

 

 女性の腕は、ガッチリとわたしの身体を抱え込んで離さない。

 必死に拘束から逃れようとするが、万力のような力で固定され、びくともしない。

 

「もうやだ!! やめて!! こわい!!」

「大丈夫、怖くないわ。この力はね、あなたのお父さんとお母さんが、あなたを守るために授けてくれたものなの。だから、受け入れてあげて。吐き出すのではなく、あなたの心の中に」

 

 キィィィィィィィィィ―――ン!!

 

 気が付くと、身体の熱がゆっくりと下がり始めていた。

 痛みも徐々に収まり、次第に心地よい感覚へと変わっていく。

 

「……いい子ね」

 

 優しい手が、そっとわたしの頬を撫でた。

 

「もう疲れたでしょう? 少し休むといいわ」

 

 そう言って、女性はわたしの知らない歌を歌い始める。

 

「―――――♪」

 

 その旋律は、鳥のように自由で、風のように伸びやかだった。

 遠ざかっていく意識の中で、わたしは思う。

 

 ああ、この人は本物の天使なんだ……と。

 

 そして、わたしはゆっくり意識を手放した。

 

    *

 

 眠りに就いた少女を、歌織はそっと床の上に横たえた。

 

「もう大丈夫ね」

 

 全身を取り巻く炎は消え、いまは静かに寝息を立てている。

 

「ん……?」

 

 ふと見ると、傍らに二つの遺骸が並んでいた。

 

「可哀想に、ご両親ね……」

 

 うつ伏せに横たわる女性は、腹部を太い鉄筋で貫かれている。そばで倒れている男性の背中にも、無数の金属片が突き刺さっている。

 二人とも、爆発の瞬間、身を挺して娘を守ろうとしたのだろう。

 

(安らかにお眠りください。お嬢さんは、わたしが必ず助けてみせます)

 

 パチパチ……。

 

 炎が爆ぜる音に、歌織はハッと顔を上げた。

 すでにフロアは火の海と化している。ぼやぼやしていると、逃げ遅れてしまう。

 

(早くこの子を安全な場所へ運び出さないと……)

 

 だが少女の柔らかな頬に触れた瞬間、歌織は思わず息を飲み込んだ。

 

「つ、冷たい……!?」

 

 慌てて脈を確かめる。

 

(止まりかけている……! それに、キネティックパワーもほとんど感じられない!)

 

 急に、どうして……?

 

(まさか、無理やりエネルギーを抑え込んだから……?)

 

 しかし、エネルギーを抑え込んだだけで体内のキネティックパワーが消えてしまうなど、聞いたことがない。

 

(となると、まさか……)

 

 一つの可能性に思い至り、歌織は少女の上着をまくり上げた。

 そして、ハッと頬を引き攣らせる。

 

「やっぱり……」

 

 少女の胸からは白い骨が飛び出し、鮮血がシャツを赤く染めていた。



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第9話 紬の記憶・歌織の記憶②

 傷口に触れた歌織は、奥歯をぐっと噛み締めた。

 

(なんてこと……骨が肺に刺さっている)

 

 素早くヘッドマイクをつかみ、無線機のスイッチを入れる。

 

「バトルナース、こちらシアター39! 感明送れ!」

《シア(ザザッ)……、……らバト…(ピー、ガガッ)、貴所の感明……(ブツッ)》

「くっ!!」

 

 マイクをむしり取り、地面に投げ捨てる。

 

「CAT止血帯じゃ胸部の出血は止められない……こうなったら直接圧迫止血法で……」

 

 腰のポーチからガーゼを取り出し、傷口にねじ込んだ。

 こうすれば、体組織が異物を認識して止血を促

進してくれる。

 だが、

 

「ぐぼっ!!」

 

 少女の口が、肺に溜まった血液を吐き出した。 リノリウムの床に、真っ赤な血溜まりが広がる。

 

「ごぼッ……う……お、母さ……苦し………」

 

 うわ言で、少女が母に救いを求めた。

 許されるならいますぐ泣き出したい気分だが、いまはそんなことをしているヒマはない。

 

(すぐに手術しないと間に合わない……けど、この状態じゃ動かすこともできない……)

 

 一体どうすれば……。

 

「そうだ!!」

 

 咄嗟にあるアイディアを閃き、歌織は少女の身体をそっと抱え上げた。

 

「……届いて、わたしの力」

 

 そのまま目をつむり、全身から黄金色の光を放つ。

 

 カアアアァァァァァァァ――――!!

 

 輝きが、少女の身体を柔らかく包み込んだ。

 

(キネティックパワーは生命力の源。わたしの力を分けてあげれば、きっと……)

 

 だが……。

 

「……ッハァ、ハァ! だ、だめだわ!」

 

 すぐに力尽き、歌織は荒い息を吐き出した。

 

(この子には生きようとする意志がない。これではいくら力を注いでも、跳ね除けられてしまう……)

 

 少女の顔は、すでに紙のように白くなっている。

 血液がどぶどぶと流れ出し、脈拍が急速に弱まっていく。

 

「……お母……さん、そこに、いるの……?」

 

 意識が混濁しているのか、少女が虚ろな瞳でつぶやいた。

 歌織はその手を握り締め、ぐっと目を閉じる。

 

 このままでは、この子を助けられない。

 どうすれば、どうすれば……。

 

 進退窮まり、そばで横たわる母親の遺骸を見やった。と、その時。

 

「そうだ!」

 

 歌織の脳裏に、窮余の策が閃いた。

 

(お母さんなら、この子を助けられるかもしれない!)

 

 少女を床に下ろし、母親の亡骸へ駆け寄る。

 

「……お母さん、ごめんなさい。けど、娘さんを助けるにはこの方法しかないんです」

 

 そう告げて、歌織は遺体の上衣を丁寧に脱がし始めた。

 亡骸を傷付けないよう、慎重に袖を引き抜く。

 

「よし、あとはこれを着て……」

 

 血と煤で汚れた服を身にまとい、今度は少女の許へ駆け戻った。

 

「さあ、もう大丈夫よ」

 

 再び小さな身体を抱え上げ、黄金色の光を放つ。

 

「う……お、かあ……さん……?」

 

 白い頬に、ほんのりと赤味が差した。

 歌織は微笑みながら、少女の前髪を優しく撫でる。

 

「お願い、生きて。それがきっと、あなたのご両親の望みだから……」

 

 金色の生命力が、少女の身体へ染み込んでいく。

 同時に苦悶の表情が、少しずつ安らいでいく。

 

「いい子ね」

 

 女の子を胸に抱きしめながら、歌織は小さく歌を口ずさんだ。

 

「――――♪」

 

 その歌声は、炎の中で、ゆりかごのように優しく少女の鼓膜を震わせる。

 

 歌織は知らなかった。

 その時、彼女の生命力とともに、もう一つの因子が幼い身体の中へ流れ込んでいったことを……。

 

    *

 

「――歌織さん、歌織さん大丈夫ですか?」

 

 風花の声で、歌織はハタと目を覚ました。

 楽屋を見回し、慌てて衣装に皺がないかチェックする。

 

「あ、ああ……大丈夫よ。ごめんね、ライブ前なのにうとうとしちゃって」

 

 謝る歌織に、風花が気遣わしげな表情を浮かべた。

 

「それはいいんですけど……もしかして、あまり眠れていないんですか?」

 

 一瞬、ギクリとした。

 

「い、いえ、そんなことないわ。ちょっとウトウトしちゃっただけ」

「けど、叙勲の話が出てから追っかけの記者さんが増えてるって……」

「心配性ね、風花ちゃんは。大丈夫よ、最近ちょっと夢見が悪いくらいで――」

 

 言いかけた瞬間、いつもの光景がフラッシュバックのようによみがえった。

 燃え盛る街、逃げ惑う人々。

 血と化学物質の味が、じわりと口内に広がる。

 

「……夢見?」

「あ、いえ。なんでもないわ」

 

 うっかり漏れ出た言葉を、すぐに打ち消す。

 

「大したことないのなら、いいんですけど……」

 

 釈然としない面持ちで頷く風花。

 

「……ところで風花ちゃん、お弁当まだ残ってるかしら?」

 

 沈みかけた空気を振り払うように、歌織はさっと話題を切り替えた。

 尋ねられた風花が、部屋の隅にある段ボール箱を指差す。

 

「それでしたら、あちらに」

「ありがとう。お昼食べ損ねちゃったから、お腹空いちゃったわ」

 

 おどけた表情を浮かべながら、茶色い段ボール箱に歩み寄る。

 

「さて、今日はどんなメニューかしら」

 

 中を覗き込むと、五目あんかけ弁当がポツンと取り残されていた。

 

「すっかり冷えちゃってるわね。えーと、電子レンジは……」

「あ、ダメですよ、歌織さん! それ、卵が入ってますから!」

 

 弁当をレンジに入れようとしたところで、風花が慌てて止めに入った。

 

「知らないんですか? 卵を電子レンジに入れると爆発しちゃうんですよ?」

「あ……ああ、そうだったわね。うっかりしてたわ」

 

 料理が得意な歌織にしては、珍しいミスだ。

 

「気を付けてください、アイドルは顔が命なんですから。火傷でもしたら大ごとになっちゃいますよ」

「そうね。その時は風花ちゃんのヒーリングガンで治してもらうわ」

 

 冗談めかして答える歌織に、風花はキッと真剣な眼差しを向けた。

 

「歌織さん、わたしのヒーリングガンは火傷を治すことはできても、その傷痕まで消すことはできないんですよ?」

「え? ええ……」

 

 厳しい口調に、さすがの歌織も気圧される。

 

「本当に気を付けてくださいね。歌織さんは無茶してしまうところがありますから」

「そうね……気を付けるわ」

 

 と、その時だった。

 

 ――ザザッ!!

 

 閃光が走り、いつもの浮遊感が全身を襲った。

 

(あ、また……)

 

 視界が白く覆われ、身体が光の中に溶け込んでいく。

 

「……………」

 

 数瞬後、足の裏に地面を感じ、歌織は恐る恐る目を開いた。

 

(ここは……?)

 

 階段状の客席に、イルミネーションで彩られた舞台。

 お馴染みのライブシアターだ。

 

 しかし見慣れているはずのシアターは、その景色を一変させていた。

 

 崩れかけた天井に、燃え上がる客席。

 通路には人が倒れ、あちこちで悲鳴が飛び交っている。

 

「………う、うぅ」

 

 背後から聞こえたうめき声に、歌織はハッと振り返った。

 

(え……? うそ、でしょ……?)

 

 そして、息を飲み込む。

 

 そこには、見覚えのある人物が倒れていた。

 淡いブラウンの髪に、編み上げたギブソンタック。

 

 あれは……、

 

(わたしだ――!!)

 

 しかもその「わたし」は、ショッキングな姿をしていた。

 

(どう、いうこと……?)

 

 右腕が、肩のところからすっぱり失われている。

 おまけに両脚が付け根から切断され、ダルマのような姿で這いつくばっている。

 

(ひ、ひどい……どうして)

 

 驚く間もなく、再び閃光が視界を包み込んだ。

 

 

「――歌織さん、聞いてます?」

 

 ぐっと寄せられた風花の顔に、歌織は驚いてのけ反った。

 

「え? ええ……聞いてるわよ」

「本当ですか? 繰り返しますけど、体調が悪くなったらすぐに言ってくださいね。歌織さんは、叙勲を控えた大切な身体なんですから」

「う、うん。ありがとう……」

 

 頷きながら、歌織は乾いた唾を飲み下した。

 

(さっき見たあれ……何だったのかしら。着ていた衣装も、今日と同じだったけど……)

 

 パン!

 

 突然背中を叩かれ、歌織は意識を引き戻された。

 

「どうしちゃったの、歌織さん?」

「あ……桃子ちゃん」

 

 アイドルヒーローズの一員、桃子だ。

 幼いながらもヒーローとしての経歴は長く、仲間たちから篤い信頼を寄せられている。

 

「ファンのみんなは歌織さんの笑顔を見に来てるんだよ? ほら、元気出して」

「そうだったわね、ごめんなさい」

 

 小さな先輩の言葉に、歌織はフッと息を吐き出す。

 

「さあ、行くわよ」

 

 桃子がウインクして、楽屋のドアを開けた。

 

 ワアアァァァァァァァ…………。

 

 会場の歓声が、長い廊下を伝って部屋まで響いてくる。

 不安を押さえつけるように、歌織はカツンとヒールを踏み出す。

 

「みんな、頑張りましょう!!」

 

 力強く頷きながら、少女たちは通路を駆け出した。

 

 まもなくライブが始まる。

 

 だが、この時はまだ誰も気付いていなかった。

 人けがなくなった部屋の片隅で、かすかに動くものがあることに……。



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第10話 ライブシアターの戦慄①

 バトル再開します。


 スポットライトの明かりが、アイドルたちのシルエットを闇の中に際立たせた。

 

 ワアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!

 

 同時に歌と歓声がシアターを揺るがし、鼓動が、足音が、波となって一気に舞台へ押し寄せてくる。

 

「プロデューサーのみなさん、こんばんわー!」

 

 歌織の声が、客席の奥まで響き渡った。

 リズミカルに振られるサイリウムが、カーテンのように揺らめく。

 

 舞台袖ではストラテジーこと律子が、じっとその様子を眺めていた。

 

「うん、順調ね」

 

 アイドルたちの歌声は澄み渡り、日ごろの練習の成果を遺憾なく発揮している。

 この調子でいけば、歌織のティアラ章叙勲式典もさらに盛大になるだろう。

 

 しかし、それは唐突に起こった。

 

 バツン!

 

 突然照明が落ち、劇場内が闇に覆われる。

 

 ザワ―――。

 

 客席にどよめきが走った。

 歌織は素早くマイクを取り、落ち着いた口調で呼びかける。

 

「みなさん、急に暗くなっちゃってごめんなさい。すぐ点きますので少しの間だけお待ちください」

 

 不安そうにしているのは観客だけではない。 アイドルたちの中にも、心配そうな表情を浮かべている者がチラホラ見受けられる。

 

《歌織さん、MCでつないでください》

 

 インカムを通じて、律子が指示を送った。

 歌織は片目を閉じ、舞台袖にOKのサインを送り返す。

 

「えー、皆さん。それではここで、初参加のバックダンサーの子をご紹介しましょう」

 

 パッ。

 

 話し始めたところで、照明が一斉に明かりを取り戻した。

 スポットライトの温かさに、アイドルたちもホッと胸を撫で下ろす。

 

《歌織さん、そのまま紹介続けてください。終わったら次の曲いきます》

 

 舞台装置が動き始め、スタッフが慌ただしく駆け出した。

 歌織はマイクを握り、すっと息を吸い込む。

 と、その時。

 

 カサ――。

 

 手の中で、何かが動いた。

 

 違和感に首をひねりながら、指を開いて中を見る。

 

(え……? 何、これ……?)

 

 手の平には、いつの間にか小さな紙切れが握られていた。

 紙片には、掠れたインクで文字が書きつけられている。

 

「ウ」「シ」「ロ」「ヲ」「ミ」「ロ」

 

(――――!?)

 

 その時になってようやく、歌織は客席の異変に気が付いた。

 

 ざわざわ……。ざわざわ……。

 

 停電から復旧したのに、不安そうな声が鳴りやまない。

 観客は、みな自分のほうを見てざわめいている。

 

(何を見ているの? わたし……?)

 

 いや、違う。

 視線はもっと奥に向けられている。

 

(わたしの、背後……?)

 

 ゆっくりと、振り返った。

 そして、息を飲み込む。

 

(ど、どういうこと……?)

 

 後ろには、何もなかった。

 

 いや、何もなかったわけではない。

 正確には、そこにいるべき人物が、いなくなっていた。

 

 背後に並んだバックダンサーたち。

 その列が、ポツリと隙間を開けている。

 

(わたしが紹介しようとした子が、いない?)

 

 他のバックダンサーたちは、おろおろと周囲を見回していた。

 彼女たちにも状況がつかめていないらしい。

 

(停電中に舞台袖へ戻った? けど、それだったら周りに声をかけていくはず……)

 

 まさか、これは……。

 

「きゃああああああああああああああ!!」

 

 突如、客席で鋭い悲鳴が上がった。

 

 バン!

 

 同時にホールドアが開かれ、赤いベレー帽をかぶった男たちが会場内へなだれ込んでくる。

 

「あれは……デストルドー!!」

 

 恐慌状態に陥った観客が、我先にと出口のほうへ駆け出した。

 

 ワァァァアァアァァァァァ!!!!

 

 怒号が飛び交い、押しのけられた女性や子供が通路に倒れ込む。

 

「まずいわ……杏奈ちゃん、避難誘導を!」

 

 振り返ったところで、歌織はピタリと立ち止まった。

 

「杏奈、ちゃん……?」

 

 杏奈がいない。

 ついさっきまで隣にいたはずなのに、影も形も見当たらない。

 

「ど、どういうこと……?」

 

 一人ずつ消えていく。

 目を離した瞬間に、痕跡すら残さず消えていく。

 

(彼女たちは、一体どこへ……?)

 

 周囲を見回したところで、歌織の目が舞台セットの一つに吸い寄せられた。

 

「あれは……」

 

 宝箱を模した小道具。

 その中から、細い腕がにょきっと突き出ている。

 

 白いグローブに、紫のリボン。

 あの衣装は、まさか……、

 

「杏奈ちゃん!?」

 

 歌織は慌てて宝箱へ駆け寄った。

 その瞬間、

 

 ズル―――、

 

 中からもう一本の手が伸び、杏奈の細い腕を箱の内側へ引きずり込む。

 

「待っ―――」

 

 バタン。

 

 呼び止める間もなく、宝箱の蓋は閉じられた。

 舞台の上で、歌織は呆然と立ち尽くす。

 

(これは……デストル怪人の攻撃!)

 

 そうとしか考えられなかった。

 あの箱の中にはデストル怪人が……それもかなり危険なスキルを持った怪人が潜んでいる。

 

 歌織は振り返り、桃子に声をかける。

 

「桃子ちゃん、この場の指揮をお願いしていい?」

「いいけど、歌織さんは?」

「わたしは、あの怪人を叩くわ……!」

 

 歌織の答えに、桃子は驚きの表情を浮かべた。

 

「まさか、一人で戦うつもり?」

「ええ。これ以上戦力を分散させるわけにはいかないもの。それに、居場所が分かっている今こそ攻撃のチャンスよ」

 

 一瞬だけ考え込み、桃子はすぐに頷いた。

 

「分かったわ。そういうことならあの敵は歌織さんに任せる。観客の避難と戦闘員のお掃除は、桃子に任せてちょうだい」

「ありがとう!」

 

 歌織は片目を閉じ、宝箱のほうへ向き直った。

 

「隠れているのなら出てきなさい! そこにいるのは分かっているのよ!」

 

 声がステージの奥へ吸い込まれていく。

 

 返事はない。

 あくまでも白を切り通すつもりのようだ。

 

(下手に攻撃すれば、杏奈ちゃんにも怪我をさせかねないわ。けど、このまま睨み合っていても埒が明かない……)

 

 決意を固め、じりっと足を踏み出した。

 

(だったら、先手必勝……!)

 

 拳を握り締め、右腕にエネルギーを集中させる。

 

「くらえ!」

 

 気合一閃、

 

「キネティック・パンチ!!」

 

 拳圧が空を裂き、宝箱の蓋を吹き飛ばした。

 蝶番が外れ、床の上でガランと音を立てる。

 

「さあ、出てきなさい!」

 

 すかさず反撃に備え、身構えた。

 

(……………)

 

 だがいくら待っても、敵は姿を現さない。

 

(まだ隠れているつもり……?)

 

 警戒しながら、そろりと足を踏み出した。

 拳を構え、じりじりと歩を進める。

 

(あの中に、敵と杏奈ちゃんが……)

 

 蓋がなくなった宝箱に、そっと近付く。

 ごくりと唾を飲み込み、中を覗き込む。

 

 次の瞬間――、



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第11話 ライブシアターの戦慄②

「えっ!?」

 

 歌織はぱちぱちと目を瞬いた。

 

「ど、どういうこと……!?」

 

 そしてもう一度箱の中を覗き込む。

 

 そこには、敵の姿も杏奈の姿もなかった。

 

「ウ、ウソでしょ……?」

 

 視線を巡らし、空箱の中を隈なく見回す。

 しかし、杏奈や敵がいた痕跡は何一つ発見できない。

 

(外へ抜け出られるような仕掛けはないわ。けど、杏奈ちゃんは間違いなくこの中に引きずり込まれていった。彼女は一体どこへ……)

 

『う、うぅ………』

「――――!?」

 

 その時、歌織の耳がかすかなうめき声を捉えた。

 

(この声……杏奈ちゃん!?)

 

「どこにいるの!? 返事して!!」

『あ、うぅ………』

 

 声はすぐそばから聞こえる。

 なのに姿だけが見当たらない。

 

(間違いない、この近くにいるわ。けど、一体どこに……?)

 

 歌織は目を閉じ、じっと耳を澄ました。

 

『く……あぁ……』

 

(やっぱり聞こえる。すぐそばだわ……)

 

 まさか――、

 

 ハッと視線を落とし、床に広がる液体の存在に気付いた。

 

「もしかして、この液体は……」

「歌織さん、後ろ!!」

 

 突然桃子に呼びかけられ、歌織はハッと飛びのいた。

 

 ヒュン!

 

 同時に鋭利な何かが腕をかすめ、戦闘服の袖を切り裂く。

 

「くっ!!」

 

 歌織は身構えながら、驚きに目を見開いた。

 

「な、何、これ………?」

 

 床に広がった透明な液体――その真ん中から、細い腕が突き出している。

 

 ごぼ、ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼご……、

 

 濡れた腕が、ぺちゃりと床を叩いた。

 そして肩が、胸が、顔が、水溜まりの中から這い出してくる。

 

「こ、これは……!?」

 

 紫がかった髪に、無機質な瞳の少女。

 耳の骨伝導スピーカーが、ザッと音を鳴らす。

 

《エンジェル1、こちらストラテジー! 気を付けて、そいつはデストル怪人『ジョーカー』よ!》

「ジョーカー!?」

 

 聞き覚えのある名前だった。

 たしか隠密行動が得意で、幹部クラスの実力を持つという……。

 

「こんな女の子が……」

 

 目の前の少女が、薄い唇を開いた。

 

「女の子だからといって、甘く見ないでください。あなたはすでに、わたしの術中にはまっています」

 

 ゴトン。

 

 何か重たいものが落ちる音がした。

 歌織は足元の「それ」を見て、息を飲み込む。

 

「う、うそ……?」

 

 くの字に曲がった、白い棒状の物体。

 これは、まさか……、

 

「……わたしの腕!?」

 

 右腕の肩から先が、いつの間にかなくなっていた。

 痛みや出血はない。切り口が水あめのように溶け、どろりと糸を引いている。

 

「触れたものを溶かす。これがわたしのスキル、【Melty Fantasia】です」

「――――!?」

 

 驚愕が、全身を包み込んだ。

 

 たしかに恐るべき能力だ。

 どうやら幹部クラスの実力を持つというウワサは本当だったらしい。

 

「ご安心ください。わたしがスキルを解除すれば元に戻ります。いま液体になっている、あなた方の仲間もです」

 

 歌織は息を吐き出し、キッと相手を睨み付けた。

 

「なるほど……杏奈ちゃんやバックダンサーの子がいなくなったのは、あなたのせいだったのね」

「はい。そして今からあなたも、同じ目に遭います」

 

 ジョーカーの目がギラリと光る。

 

「さあ、ダンスの時間です!」

 

 直後、床に広がる液体から無数の透明な槍が飛び出した。

 

 ドシュシュシュシュ!!

 

「くっ!!」

 

 咄嗟にバックステップで敵の猛攻をかわす。

 

「歌織さん!」

 

 襲撃に気付いた桃子が、ステージに駆け上がろうとした。

 

「待って!」

 

 それを歌織が鋭く呼び止める。

 

「桃子ちゃんには、取ってきてもらいたいものがあるの」

「取ってきてもらいたいもの……?」

「ええ、それは――」

 

 二人の会話を、ジョーカーが遮った。

 

「打ち合わせをしているヒマなど与えませんよ!」

 

 ドシュッ!

 

 今度は少女の腕から水の矢が発射される。

 

「くっ!」

 

 間髪入れず、歌織が懐から銃を取り出した。

 

 パン! パン! パン!

 

 弾丸が透明な矢を撃ち抜き、パシャリと飛沫をまき散らす。

 

「行って、桃子ちゃん!」

 

 頷いた桃子が、タッと床を蹴った。

 

「行かせると思いますか!」

「あなたの相手はわたしよ!」

 

 ジョーカーに向けて、歌織は再び引き金を引く。

 

 パンッ! パンッ!

 

 左胸に丸い穴が開き、ジョーカーの身体がビクンと跳ねた。

 

「まだまだ!」

 

 パンッ! パンパンッ!!

 

 弾丸が連続して突き刺さり、ジョーカーは後ろへ大きくのけ反る。

 

 ドサッ!

 

 歌織は銃を回転させ、ふともものホルスターにストンと落とし込んだ。

 

「キネティックガンの威力はどう?」

 

 倒れた敵へ向けて、静かに言い放つ。

 

(銃弾は確実に急所を打ち抜いたわ。無傷では済まないはず……)

 

 だが、

 

「ふ、ふ、ふ……」

「―――――!?」

 

 笑い声とともに、ジョーカーがむくりと上体を起こした。

 

「な………!?」

「さすがはアイドルヒーローズのエース、と言っておきましょうか」

 

 驚く歌織の前で、ジョーカーはコキコキと首を鳴らす。

 

「ですが、わたしに物理攻撃は効きません」

 

 言い終えると同時に、銃創が白い泡を吐き出した。

 

 ぼこ、ぼこぼこぼこぼこぼこ……。

 

 数秒とかからず、傷口はあっという間にふさがってしまう。

 

「液体に銃弾を撃ち込んでも無駄です。これが【Melty Fantasia】の真の能力」

「な、何てスキルなの……」

 

 赤い瞳が妖しく輝く。

 

「さあ、今度はこちらの番です!」

 

 少女が腕を振り上げた瞬間、足元の水たまりから、無数の槍が繰り出された。

 

「くっ!!」

 

 飛び出してくる切っ先を、歌織はギリギリのところで回避する。

 

「逃げているだけでは勝てませんよ」

 

 今度はジョーカーの指先から、小さな水滴が発射された。

 

 ピュン!

 

 水の弾丸がスカートの端をかすめ、布地をどろりと溶かす。

 

「チッ!!」

「おやおや、もう終わりですか?」

 

 ジョーカーは余裕の笑みを浮かべた。

 

「では、そろそろとどめを――!」

 

 言いかけたところで、ジョーカーはピタリと立ち止まった。

 そして歌織の手に握られているものを目にし、フンと鼻を鳴らす。

 

「なるほど、そうきましたか……」

 

 バチ、バチチッ……!!

 

 歌織の手には、いつの間にか太い電線が握られていた。その先端からは、青白い火花が飛び散っている。

 

「銃がダメでも、電気ならどうかしら?」

「ふむ……最初に撃った弾丸は、背後にある電線を狙っていたわけですね」

 

 液体になっても、電撃は防げないはず。

 

「素晴らしい判断力です。しかし、本当にそんなことをしていいのですか?」

「え?」

「ほら、足元を見てください」

 

 歌織はそっと目線を下へ向けた。

 そして思わず歯噛みする。

 

「くっ……」

 

 ステージの床は、いつの間にか水浸しになっていた。

 

「これじゃ杏奈ちゃんたちまで巻き込んでしまうわ……」

 

 抜け目のない敵だ。

 優れているのはスキルだけではないらしい。

 

「残念でしたね。こちらの弱点は、とっくに織り込み済みです」

「やるわね……けど、わたしだって次の手は考えてあるのよ」

「ほう……」

 

 ジョーカーがピクリと眉を上げた。

 

「では、その次の手とやらを見せてもらいましょうか……」

「それならとっくに見せてあるわ」

「何――ぐッ!?」

 

 言い終える前に、ジョーカーは胸を押さえて苦しみ始めた。

 

「ゴホッ……う……こ、これは……?」

 

 キッと睨み付けてくる敵を、歌織は静かに見下ろす。

 

「毒入り弾丸――『ポイズンバレット』よ。お気に召したかしら」

「ぐ……そ、そんなものまで……」

 

 ジョーカーのこめかみを、つつつと汗が流れ落ちる。

 

「さあ、ここに解毒剤があるわ。助かりたければ杏奈ちゃんたちを元に戻して」

「そんな取引に応じるとでも……うっ」

 

 苦悶の表情を浮かべ、ジョーカーはガクリと膝をついた。

 

「強がるのはやめなさい。どうせ意識を失えば、スキルも解けてしまうのでしょう?」

 

 言われたジョーカーは、観念したように目を閉じる。

 

「フッ……これ以上の抵抗は無駄というわけですか……」

 

 そして、両手をそろそろと持ち上げる。

 

「いい子ね。物分かりがよくて助かるわ」

 

 だが、

 

「……などと言うと思いましたか?」

「え?」

 

 不意にジョーカーの胸が、ボコボコと泡立ち始めた。

 皮膚が生き物のようにうごめき、気泡の中から緑色の液体がビュッと吐き出される。

 

「まさか……毒を取り除いた!?」

「言ったでしょう、弱点は織り込み済みだと」

 

 ニヤリと微笑み、ジョーカーは腕を鞭のようにしならせた。

 

 ピュン!

 

 かすめた一撃が、歌織の首筋を溶かす。

 

「くっ……か、はっ」

「フフ……これであなたの奥の手も使えなくなりましたね」

 

(しまった!)

 

「歌をトリガーに発動するスキル【ハミングバード】。わたしが毒を吐き出すよりも早く大量に銃弾を撃ち込まれたらやっかいでしたが、これで怖いものは何もありません」

 

 喉をかきむしる歌織を見下ろしながら、ジョーカーは口の端をにぃっとゆがめる。

 

「さあ、これで最期です!」

 

 細い腕を振り上げると、歌織の足元から水の槍が一斉に飛び出した。

 不意を衝かれた歌織は、右脚をグサリと貫かれる。

 

「うぐっ!!」

 

 白い太ももが溶け落ち、床の上をごとりと転がった。

 

「ふふ……これで機動力も失いましたね」

 

 倒れた歌織のほうへ、ジョーカーが、コツ、コツと近付いてくる。

 

「おとなしく液体になってください。あなたを捕まえてこいと、上から命じられています」

 

 歌織は床の上で拳を握り締めた。

 

(まだ負けるわけにはいかない。キネティックパワーで空を飛べば――)

 

 キィィィィィィィィィン!

 

 だが――、

 

 フッ―――。

 

 黄金色の光は消え去り、練り上げたエネルギーも煙のように消失してしまう。

 

(と、飛べない!?)

 

「無駄です。劇場内に新兵器『デストルグラビトン』を仕掛けました。重力子の干渉で、飛翔スキルはキャンセルされます」

「くっ……!!」

 

 あらゆる手を断たれ、歌織はギリリと奥歯を噛み締めた。

 

 電気も使えない。毒も通用しない。

 おまけに片腕片脚を失い、【ハミングバード】と飛翔スキルも封じられた。

 

(強い、強すぎる……!!)

 

 あらゆる物理攻撃を無効化し、触れた相手を一瞬で溶かす攻防一体のスキル。

 その能力は並みの怪人をしのぎ、幹部の実力をも凌駕している。

 

「さあ、これでフィナーレです!」

 

 ジョーカーは床を蹴り、ダンッと宙へ舞い上がった。

 そのまま全身を液化させ、雨のようにザアッと降り注ぐ。

 

(――――!!)

 

 見上げた視界が、無数の水滴で覆われた。

 脚を奪われ、飛翔スキルも発動できないいま、あのすべてを回避する術はない。

 

 どうする――!?

 

 拳を握り締め、歌織はグッと天井を睨み付けた。



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第12話 ライブシアターの戦慄③

「さあ、これでフィナーレです!」

 

 降り注いでくる水滴を睨み付け、歌織はぎゅっと拳を握り締めた。

 

(逃げられない……なら、これしかない!!)

 

 サッと腕を掲げ、歌織は叫ぶ。

 

(キネティックシールド!)

 

 瞬間、空中に光の壁が出現した。

 

 キィンッ!!

 

 輝く盾は雨を弾き、ステージ上に水滴を飛び散らせる。

 

 バシャシャッ……!

 

 歌織を取り囲むように、薄い水溜まりが出来上がった。

 その縁から、少女の上半身がにゅっと突き出す。

 

「……しぶといですね。しかし、この程度でわたしの攻撃を防ぐことはできませんよ」

 

 言いながら、ジョーカーはずるりと水の中から這い出した。

 歌織は光の盾を構え、攻撃に備える。

 

「無駄です!」

 

 パリン――!!

 

 次の瞬間、少女の拳がシールドを粉々に打ち砕いた。

 

「――――!?」

「わたしがスキルだけの怪人だと思ったら大間違いです。腕力だって、ほかの怪人には負けません」

 

 虹色の欠片が、キラキラと舞い落ちる。

 不敵な笑みを浮かべた敵が、一気に間合いを詰めてくる。

 

「さあ、とどめです!」

 

 再び拳を振り上げ、ジョーカーはオーバーハンドブローを繰り出した。

 

「くっ!!」

 

 パキン――!!

 

 咄嗟に展開したキネティックシールドを貫き、剛腕が床に大穴を開ける。

 

 バゴオォォォ!!

 

 砕けた板が飛び散り、歌織はステージの上をゴロゴロと転がった。

 

「くっ!!」

 

 背中を打ち付けられ、小さな悲鳴を上げる。

 

「ふふふ……」

 

 コツ、コツと足音を立てながら、ジョーカーが近付いてきた。

 

「言ったでしょう。そんなシールド、何の役にも立たないと」

 

 歌織の脳裏に、楽屋で見た奇妙なビジョンが甦る。

 両脚を失い、ダルマのような姿で床を這いつくばる自分。

 

(まさか、あれは予知夢だったとでもいうの……?)

 

 恐ろしい予感に、ぞっと背筋が粟立つ。

 

(けど、まだ両脚は失っていない。そうなる前に、何とか勝機を見出さないと……)

 

 起死回生の一手を求め、歌織は敵の様子をじっと観察した。

 

(無敵の能力なんてあるはずがない。きっとどこかに弱点があるはず……)

 

 ん……?

 

 直後、瞳がかすかな違和感を捉える。

 

(あれは……?)

 

 頬に刻まれた小さな切り傷。

 大した怪我ではないが、わずかに血がにじんでいる。

 

 普通であれば、気に留めるほどのこともない些細な怪我だろう。

 しかし、

 

(変ね。彼女に物理攻撃は一切効かないはず……)

 

 銃弾ですら傷をつけることができなかった液体の身体。

 それなのに、どうして……。

 

(―――はっ!)

 

 そこまで考え、歌織はようやく「ある事実」に思い至った。

 

(たとえ身体を液体にできても、攻撃の瞬間だけは固体に戻らざるを得ない。きっとあの怪我は、床を殴った時の破片で付いたんだわ……)

 

 歌織の視線に、ジョーカーが警戒の色を浮かべた。

 

「その目、まだ戦意を失っていないようですね。そろそろとどめを刺しておきましょう」

 

 言いながら、脚を一歩踏み出す。

 

(くっ………)

 

 歌織はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 たしかに敵の弱点は分かった。

 けど、片手片脚しかない状態でカウンターを叩き込むのは至難の業だ。

 

 コン、コン――。

 

(――――?)

 

 ふと天井からかすかな物音が聞こえ、歌織はわずかに目線を上げた。

 薄暗い梁の上で、胡桃色の髪の少女が手を振っている。

 

(あれは……桃子ちゃん!)

 

 どうやら頼んでいたものを持ってきてくれたらしい。

 

 歌織はそっと、指先で床を叩く。

 

 トン―、ト、ト、トン―、ト。

 

(気付いて、桃子ちゃん。わたしのモールス信号に……)

 

 メッセージを理解した桃子が、梁の上からOKのサインを送り返した。

 

(通じた! よし、これで……)

 

「――何をしているんですか?」

 

 そこにサッと黒い影が差す。

 

「いまさら何をしても無駄ですよ。策を弄する前に、これでフィナーレです!」

 

 同時に少女は床を蹴り、ステージの上へ飛び上がる。

 

「はぁっ!!」

 

 ドシュッ!!

 

 全身から鋭い槍が突き出し、無数の穂先が歌織へ襲いかかった。

 

(いまだ!)

 

 すかさず歌織は、腕の先から黄金色のエネルギーを放つ。

 

 キネティックシールド!

 

 光の障壁が箱型に展開し、ジョーカーを上下左右から挟み込んだ。

 

「むっ!?」

 

 空中に閉じ込められたジョーカーは、一瞬だけ驚いた様子を見せる。

 だがそれも、束の間のこと。

 

「無駄だと言ったでしょう。この程度のバリア、時間稼ぎにもなりません!」

 

 叫びながら、拳を大きく振りかぶる。

 

(いまよ、桃子ちゃん!)

 

 同時に歌織が合図を送った。

 直後――、

 

 ヒュゥゥゥ……ドズンンンッッッッッ!!!!

 

 天井から落下してきた巨大な金属の塊が、ジョーカーの身体を押し潰した。

 

「~~~~~~!!」

 

 スキル【メタル桃子】

 

 桃子はキネティックパワーで、身体の構成原子を変えることができる。

 いま彼女の全身を覆っているのは、最重の金属タングステン。比重は19.3、単位体積当たりの質量は鉄の倍以上にも及ぶ。

 

(やった!)

 

 舞い上がる埃の中で、歌織は思わずガッツポーズを作った。

 

 ギリギリの戦いだった。

 桃子の到着があと少し遅かったら、確実に負けていただろう。

 

(何とか両脚までは失わずに済んだわね)

 

 正夢でなかったことが証明され、ホッと胸を撫で下ろす。

 

(ん……?)

 

 とそこで、歌織はハタと動きを止めた。

 

(ちょっと待って。どうしてまだ喉や手足が治っていないの……?)

 

 たしかジョーカーは、自分を倒せばすべて元に戻ると言っていたはずだ。

 それなのに手足が失われたままということは……、

 

 ヒュン!

 

「ぐっ!?」

 

 突如飛び出した水の鞭が、歌織の左脚を貫いた。

 太ももが根本から溶け落ち、ごろりと床の上を転がる。

 

“……残念でしたね、歌織さん”

 

 メタル桃子の下から、くぐもった声が響いた。

 

“液化したわたしは、目の位置も自由に変えることができます。天井に仲間が隠れていたことくらい、とっくにお見通しです”

 

(そんな、あの奇襲攻撃が読まれていたというの……?)

 

 透明な液体が、桃子の下からじわじわとにじみ出た。

 

“さあ、今度こそ年貢の納め時です。大人しく溶かされてください”

 

 最後の策を打ち砕かれた歌織は、瞳に無念の色をにじませる。

 

「そうね……もう逃げるのはやめにするわ」

 

 水溜まりが、勝利を確信したかのようにポコポコと泡を立てた。

 

“ようやく逃げるのをあきらめましたか”

「ええ、あきらめたわ。だって……その必要がないもの」

“…………?”

 

 同時に歌織の腕が、床に落ちていた「あるもの」をつかむ。

 

 唯一残された歌織の左腕が握り締めているもの。

 それは――、

 

“――サイクロン掃除機!?”

 

 水溜まりの中から、引き攣った声が響いた。

 

「最近の掃除機は便利ね。コードレスなのに吸引力も抜群なんだから」

 

 スイッチを入れると、モーターが激しい音を立てる。

 

“くっ! そんなもの、液化を解いてしまえば――”

「もう遅いわ! ゴミの気分を味わいなさい!」

 

 ブオオォォォオオオオォォォォオォォ!!!!

 

“あ……ひ、ひえええええええええ!!!!”

 

 絶叫が轟き、液体がホースの中へ吸い込まれていく。

 

 ズルルルルルルルル………ドプン!!

 

“………………!!”

 

 ダストカップの中に浮かんだ顔が、すぐに溶けてなくなった。

 

「ふぅ……、お掃除完了っと」

 

 同時に失われていた手足が、アメーバのように復元する。

 

「あ……治ったわ」

 

 床に散らばっていた水溜まりの中から、杏奈たちも姿を現した。

 

「う、うぅ……」

「よかった。みんな無事だったのね……」

 

 胸を撫で下ろす歌織のそばで、スキルを解いた桃子がひょいと肩をすくめる。

 

「まったく……サイクロン掃除機を持ってきてなんて言われた時は何に使うのかと思ったけど、こういうことだったのね」

「ええ。今回の勝利は、桃子ちゃんのおかげよ」

 

 言われた桃子は、顔を赤らめ照れ臭そうにそっぽを向く。

 

「さて――」

 

 歌織は掃除機を脇に置き、劇場内を見渡した。

 

「デストルドーの戦闘員たちも撃退できたみたいだし、あとは逃げ遅れた観客の手当てをするだけね」

 

 だがその時――、

 

 ドゴオオォォオォオォォォン!!!!

 

 突然、客席のど真ん中で大爆発が起こった。

 衝撃で窓ガラスが割れ、破片がバラバラと飛び散る。

 

「な、何!?」

 

 耳の骨伝導スピーカーが、ザッと音を立てた。

 

《エンジェル1、こちらストラテジー! 劇場内でセムテックス(高性能プラスチック爆薬)が多数発見されたわ! 自動で爆発するようセットされていたみたい! 早く、逃げ遅れた観客の避難を!》

「――――!?」

 

 歌織の脳裏に、惨劇の記憶が甦った。

 紬と出会ったあの日。

 炎が少女の家族を焼いた、あの運命の日――。

 

 歌織はすぐさま桃子のほうへ向き直る。

 

「桃子ちゃんは2階の救助をお願い! わたしは1階を回るわ!」

「分かった!」

 

 二人は頷き合い、弾かれたように駆け出した。

 

    *

 

(ひどい……なんて有様なの……)

 

 周囲には、焼けただれた患者や、血を流した怪我人が息も絶え絶えに横たわっていた。

 

「重傷者はバトルナースのところへ! 軽傷者は外の救護所に!」

 

 歌織はシアター内を駆け回り、矢継ぎ早にヒーローズへ指示を下していく。

 

「ほかに残っている人は……」

 

 すでに客席は炎で覆われていた。

 カーテンが激しく燃え、天井を火で炙っている。

 

「歌織さーん!」

 

 2階の救助作業を終えた桃子が、肩で息をつきながら戻ってきた。

 

「歌織さん、そろそろ桃子たちも避難しないと」

「そうね。でも最後に残っている人がいないか、もう一度確認してくるわ」

 

 そう告げて、歌織は瓦礫が散乱した通路に飛び込む。

 

「誰か、逃げ遅れた方はいませんか!」

 

 炎の中で、歌織は声を張り上げた。

 ハンカチで口元を押さえながら、何度も念入りに呼びかける。

 

「誰か、いたら返事を!」

「うぅ……」

 

 一瞬、煙の向こうからかすかなうめき声が聞こえた。

 

「いまのは……?」

 

 立ち止まった歌織は、周囲を注意深く見回す。

 

「あ……!!」

 

 そして、息を飲み込んだ。

 

 積み上がった瓦礫の下で、中学生くらいの男の子が苦悶の表情を浮かべていた。

 周囲からは炎が押し寄せ、いまにも飲み込まれてしまいそうだ。

 

「いま助けるわ!」

 

 歌織はタッと駆け出した。

 だが、

 

 ゴォォォォォォォ!!!!

 

「あっ!!」

 

 天井から焼けた梁が落ちてきて、行く手を紅蓮の猛火でふさいでしまう。

 

「くっ……!!」

 

 炎が燃え広がり、視界をオレンジ色に染め上げた。

 

(何てこと……)

 

 男の子の許へ行くには、瓦礫のわずかな隙間をくぐり抜けていかなければならない。

 だがその道は、熱でゆらゆらと揺らめいている。体感温度は軽く50度を超えているだろう。

 

(このまま見捨てるわけにはいかない……)

 

 歌織は意を決し、灼熱の地獄へ足を踏み出した。

 

「う……くっ………!!」

 

 吹き付ける熱風に目をすがめながら、焼けた梁の下へ身を屈める。

 直後、顔のすぐそばでパチンと火の粉が爆ぜた。

 

「つッ!!」

 

 頬に鋭い痛みが走り、思わず手で押さえる。

 

「くうぅ………熱っ……」

 

 ドクン!

 

 その瞬間、楽屋で聞いた風花の言葉が脳裏をよぎった。

 

『気を付けてください、アイドルは顔が命なんですから』

『わたしのヒーリングガンは火傷を治すことはできても、その傷痕まで消すことはできないんですよ』

 

 立ち昇る炎を前に、歌織はごくりと唾を飲み込む。

 

 あの子の許へたどり着くには、焼けた瓦礫の隙間をくぐり抜けて行かなければならない。

 何とか通過できたとしても、そこから無事に戻ってこられる保証はない。

 

 ゴオオォォォオォォォオォォォッ!!

 

 燃え盛る焔が、歌織の横顔を赤々と照らした。

 目の前に立ちふさがる業火の壁は、まるで地獄の門のように見えた。



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第3章 胸を貫くものは
第13話 獅子身中の虫


 今日は2話連続で投稿します。


「なに、これ……」

 

 事務所でノートPCを開いた杏奈が、画面を見るなりサッと顔を青ざめさせた。

 

「どうしたの?」

 

 覗き込んだ律子が、モニタ越しに息を飲み込む。

 

「こ、これは……!?」

 

 動画サイトに映っていたのは、先日起こったシアター襲撃事件の様子だった。

 

 立ち昇る炎、崩れ落ちる天井。

 瓦礫の中で、少年が必死に助けを求めている。

 その手前で、歌織がふいと顔を背け、逃げるように立ち去った。

 

「歌織さんが……悪者に見えるよう……編集、されている」

「かなり悪質ね。意図的に歌織さんのイメージダウンを図ったものだわ」

 

 閲覧数は、すでに数万回に達している。

 アップロードから数時間しか経っていないことを考えると、かなりのアクセス数だ。

 

「早く……止め、ないと……」

「そうね。ヒーローズ本部に至急連絡を取ってみるわ」

 

 カチャリ――。

 

 まさにその時、ドアの向こうから渦中の人物が姿を現した。

 

「おはようございます。あら? 皆さん何を見てるんですか?」

「か、歌織さん……」「いえ、別に……」

 

 うろたえる二人を訝った歌織は、テーブルの上のノートPCを覗き込む。

 

「こ、これは……!?」

 

 画面を見た瞬間、歌織の表情が凍り付いた。

 

「き、気にしないほうがいいわよ、歌織さん」

「そう……こんな中傷、相手にするだけ、時間のムダ……」

 

 杏奈と律子が慌ててたしなめる。

 

 歌織の脳裏に、あの時の記憶がまざまざとよみがえった。

 

    *

 

 客席は、紅蓮の炎に包まれていた。

 灼けた瓦礫が道を阻み、押し寄せる熱風が肌を焦がす。

 

「こうなったら……」

 

 歌織は炎に向けて、手の平をかざした。

 

「キネティックシールド!」

 

 シュン――。

 

 だが光の壁は、一瞬のうちに消え去ってしまう。

 

「くっ、さっきの戦闘でエネルギーが……」

 

 こうなれば、生身のまま飛び込むしかない。

 

 しかし……、

 

 周囲を見渡し、歌織はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 燃え盛る炎、渦を巻く火柱。

 少年の許へ行くには、この中をくぐり抜けて行かなければならない。

 通路を覆う瓦礫の山は、触れただけで火傷してしまいそうなほど熱せられている。

 

 一瞬、

 ほんの一瞬、躊躇した。

 

 それは、時計で測ることもできないほどの一刹那。

 だがその瞬きするほどの逡巡が、歌織と少年の運命を分けた。

 

 ガラッ――!!

 

「あっ!!」

 

 ドオォォォォ!!

 

 傾いたコンクリート片がバランスを崩し、一気になだれ落ちる。

 

“た、たす――”

 

 ゴォォォォォォォ!!!!

 

 赤い炎が、少年の身体を飲み込んだ。

 パチパチと音を立て、小さな影は猛火の中へ消え去る。

 

「なにボーッとしてるの、歌織さん!」

 

 桃子がぐいっと腕を引っ張った。

 

「も、桃子ちゃん! わたし、あの子を助けに行かないと!」

「バカ言わないで! 自殺する気!?」

「けど……!」

「けどもなにもない! いいからこっち来なさい!」

 

 取り乱す歌織を羽交い絞めにして、桃子は無理やりシアターの外へ引っ張っていった。

 

    *

 

(――あの時、わたしが踏み出していれば)

 

 一瞬ためらってしまった自分。

 ほんのわずかな勇気が足りなかった自分。

 本当に彼を救えなかったのかと問われれば、堂々と反論することができない。

 

 モニタには、容赦ないバッシングの嵐が吹き荒れている。

 

《どうせ誰も見てないと思ったんだろうな》

《天知る、地知る、我が知る》

《こんなのが勲章もらうとかいうクソ事実》

《やっぱヒーローも、立場を得ると保身に走るものなのか》

《言うな。ヒーローだって自分が可愛い》

《俺がこの子の親だったら死んでも許せない》

 

 脚が震える。

 吐き気が込み上げてくる。

 視界が狭まり、目の前が暗くなっていく。

 

 ソファの陰で、誰かがつぶやいた。

 

「助けることができて当たり前、助けられなければ非難される。何なんだろうね、こんな世の中……」

 

 重い沈黙が、事務所を覆った。

 

    *

 

 ストロボフラッシュを浴びて、歌織はハッと我に返った。

 

「歌織ちゃん、どうしたの? 今日はちょっと調子悪い?」

 

 カメラマンの問いに、思わず「え?」と尋ね返す。

 いつもと同じ笑顔、いつもと変わらないスマイル。普段と何一つ違わないはずなのに……。

 

「もしかして、例の動画のこと?」

 

 カメラマンが、何気ない口調で尋ねた。

 

「気にしないほうがいいよ。ネットの中傷なんてトイレの落書きみたいなもんだから」

 

 歌織は曖昧な笑顔で応える。

 

 そうは言うものの、あの動画が拡散して以来、明らかに仕事のオーダーが減っていた。

 なじみのファッション誌からは声がかからなくなり、予定されていた撮影もいくつかキャンセルされた。一部では、ティアラ章の叙勲を取りやめるべきという声も上がっているらしい。

 

「気分が乗らないなら、今日はやめにしとく?」

「いえ、大丈夫です。さっきのカット、もう一度撮り直していただけませんか?」

 

 仕切り直しのお願いに、カメラマンがバツの悪そうな表情を浮かべた。

 

「ごめんね歌織ちゃん。実は、撮り直してる時間はないんだ。この後、もう一人予定が入っちゃってて……」

「え?」

 

 すまなそうに詫びながら、カメラマンは奥の部屋へ声をかける。

 

「そっちの準備はいい?」

「はい」

 

 聞き覚えのある声に、歌織はギクリと身を強張らせた。

 

(もう一人って、まさか……)

 

 スタジオに姿を現したのは、藤色の髪にアクアマリンの瞳の少女。

 

 あれは……、

 

「紬――!?」

 

 驚く歌織の前で、妹は照れくさそうに微笑む。

 

「黙っててごめんね、姉さん。実は、わたしもアイドルの真似ごとを始めてみたの。本当はこういうの苦手なんだけど、姉さんみたくなれたらと思って……」

 

 バチッ――――!

 

 一瞬、脳裏に閃光が走った。

 

(また、いつもの……)

 

 そして意識が彼方へと吸い込まれていく。

 

 ……………。

 

 そこは、荒廃した街だった。

 崩れかけたツインタワーから、赤い炎が立ち昇っている。

 

 ガキン!

 

 ビルの向こうから、何かがぶつかり合う音が聞こえた。

 

 戦っている。

 二人の戦士が、空でせめぎ合っている。

 

 白いマントの少女が、黄金色に輝く拳を繰り出す。

 それをかわした軍服姿の女が、黒いサーベルを薙ぎ払う。

 

 シュバッ!

 

 セーラー服に鮮血が飛び散り、少女の身体がぐらりと傾いた。

 ゴホッと血を吐き出し、少女はビルの谷間へと落ちていく。

 

 ヒュオオオオオオ……。

 

 冷たい風が、女の軍帽を傾けた。

 揺れる前髪の下から、見覚えのある顔が現れる。

 

 長いまつ毛に、特徴的なギブソンタック……、

 

 あれは……あの姿は……、

 

 まさか……、

 

「……わたし!?」

 

 

 ――はっ!

 

 シャッターが切られる音で、歌織は再び意識を取り戻した。

 

(い、いまのは、幻……?)

 

 スタジオでは、紬が恥ずかしそうにポーズを取っている。カメラマンの視線も、心なしか熱を帯びているように見える。

 

(……………)

 

 胸の奥で、もやっとしたものがうごめいた。

 

 経験したことのない、黒い気分。

 その陰鬱な感情の名を、歌織はまだ知らない。

 

「姉さんっ」

 

 歌織の視線に気付いた紬が、嬉しそうに手を振った。

 その屈託ない眼差しに微笑み返しながら、歌織は自らの内で渦巻く名もなき感情を、ぐっと押し殺した。

 

    *

 

 大型モニタの前で、ストラテジーこと律子が、ピシャリと指示棒を叩いた。

 

「それじゃ、作戦の概要を説明するわね」

 

 画面に首都の地図が映し出され、その一か所に赤い光点がプロットされる。

 

「捕獲したデストル怪人、ジョーカーを尋問した結果、奴らの秘密基地の所在が分かったわ」

 

 作戦室に、ピリリとした緊張感が漂う。

 

「今回は、そのサーバールームに侵入して、敵の本部につながる機密データを吸い出してもらいます」

 

 言いながら、律子はジュラルミンケースから手の平サイズの小型端末を取り出す。

 

「これはロコ博士が開発した『携帯型量子コンピューター』よ。どんなパスワードも、あっという間に解読することができるわ。問題は潜入方法だけど、今回は……杏奈、あなたにミッションをお願いしたいの」

 

 片隅で呆けていた杏奈が、ハッと目を開けた。

 

「杏奈、に……?」

「そう。あなたの【VIVIDイマジネーション】は潜入作戦にうってつけよ。ただ、基地の入り口には生体認証キーがあるの」

 

 今度は作戦室の真ん中で、桃子が立ち上がった。

 

「だったらそこは桃子に任せてちょうだい」

 

 ヒーローズの視線が、幼い少女に集中する。

 

「桃子なら、キネティックパワーで身体の構成原子を変化させることができるわ。他人に変身することだってお手のものよ」

 

 少女の説明に、律子が頷く。

 

「そうね、桃子のスキル【ラストアクトレス】なら、ジョーカーに変身して入口の生体認証キーも簡単に突破できるわ。問題は……」

 

 律子が困り顔で頬を掻く。

 

「桃子がパソコンを使えないところかしら」

 

 慌てて桃子が言い訳を始めた。

 

「しょ、しょうがないでしょ! 桃子、お家でもまだパソコン触らせてもらったことがないんだもん!」

 

 キャリアが長いので忘れがちだが、彼女はまだわずか11歳の少女なのだ。

 

「律子さん、パソコンなら……杏奈が、操作する」

「うーん……杏奈にはスキルに集中してほしいのよね」

「だったらわたしが行きます」

 

 すかさず歌織が名乗りを上げた。

 律子はわずかに眉をひそめる。

 

「歌織さんが行ってくれれば安心ですけど、いまは無理をしないほうが……」

「いいえ、むしろじっとしてるほうが落ち着かないんです。だからお願い、いいでしょ?」

 

 ヒーローズのエースから懇願され、さすがの律子も断りあぐねてしまう。

 

「……そういうことでしたら、お願いします」

 

 希望が受け入れられ、歌織はホッと息を吐き出す。

 

「ありがとう。今度こそミッションを成功させてみせるわ」

 

 律子は頷き、再びモニタに向き直る。

 

「それでは、これから作戦の詳細を説明します。まずこれが、デストルドー秘密基地の内部図面です」

 

 大画面に、迷路のような立体図が表示された。

 

「目標のサーバールームは、地下の最深部にあります」

 

 図面上で、赤い点がチカチカと瞬く。

 広い基地の最下層、進入路はエレベーター1本だけだ。

 

「危険な任務ですけど、平和のため、未来のため、何としてもこのオペレーションを完遂してもらいたいの。三人とも、いい?」

「「「はい!!」」」

 

 「未来」という言葉に、こめかみがズキンと痛んだ。

 

 なんだか妙に落ち着かない。

 ざわざわと胸が波立つ。

 

(ダメよ歌織、これは汚名を返上するチャンスなんだから……)

 

 かすかな不安を押し殺しながら、歌織はモニタをキッと睨み付けた。



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第14話 デストルドー地下基地 潜入作戦①

 巨大な空洞に、カツンと足音が響いた。

 「ジョーカー」に変身した桃子が、生体認証パネルの前でごくりと唾を飲み込む。

 

「これね……」

 

 ジョーカーが捕まったという情報はすでに伝わっているはず。

 もしセキュリティコードが変更されていたら、防衛システムが作動するのでただちに離脱しなければならない。

 

「いくわよ……」

 

 ゆっくり手を伸ばし、認証開始ボタンに触れた。

 同時に赤外線ビームが放出され、顔の立体データと網膜の毛細血管パターンをスキャンする。

 

 顔認証システムは、ドットプロジェクターが照射する数万点の赤外線プロットをIRカメラが捉えることで、対象の顔形状を正確に読み取る。

 一方、網膜認証システムは、眼球の裏にある複雑な毛細血管を赤外線ビームで浮かび上がらせることで、その精緻な形状を捕捉する。

 二つのセキュリティを突破するには、顔面上の数万点に及ぶ照査箇所と、網膜を流れる複雑な血管構造を寸分違わずコピーしていなければならない。

 

 ピ―――………、

 

 赤外線ビームが通り過ぎるのを、桃子は息を殺して待った。

 スキャンが終わり、液晶パネルに「Now Loading……」の文字が流れる。

 

(大丈夫、桃子の【ラストアクトレス】は完璧よ。神様だって、このコピーは見抜けない!)

 

 間もなく、画面に「Complete」の文字が表示された。

 同時に、

 

 ビ―――!! ビ―――!! ビ―――!!

 

「うそッ!?」

 

 頭上のランプが赤く切り替わり、三人の背後でガシャン!と鉄格子が降りる。

 

「しまった!!」

 

 歌織が慌てて鉄格子に駆け寄った。

 

「どう、しよう……」

「杏奈ちゃんは【VIVIDイマジネーション】で敵が来るのを足止めして! 鉄格子はわたしが壊すわ!」

 

 杏奈が頷くのを確認し、歌織は必殺の拳を構える。

 

「みんな、下がって……」

 

 鉄格子を睨み付け、体内のエネルギーを一気に練り上げる。

 

「はああぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 

 腕にまばゆい光が集中し、黄金の闘気が焔となって渦を巻く。

 

「キネティック――!!」

「待って!」

「――――!?」

 

 渾身の一撃を繰り出そうとした瞬間、杏奈の声が歌織を呼び止めた。

 

「見て、液晶画面が……!」

 

 振り返ると、「Alert」の文字が次々「確認完了」の表示へ切り替わっていく。

 

「こ、これは……?」

 

 警報がやみ、頭上の赤いランプが消えた。

 

 ガコン。

 

 鉄格子のロックが外れ、ゆっくりと天井へ持ち上がっていく。

 

「ど、どういうこと?」

「たぶん、一度削除された登録データが、復旧された、とか……」

 

 自信なさげに答える杏奈。

 

「そんなことあるのかしら?」

「分から、ない……けど、ほかに理由は、思いつかない……」

 

 イマイチ腑に落ちない話だが、隣の桃子はホッと胸を撫で下ろしている。

 

「やっぱり桃子のスキルは完璧ね」

 

 目の前の扉が、プシュッと音を立てて左右に開く。

 

「さ、早く行きましょ。ぼやぼやしてると閉まっちゃうわ」

 

 警戒する歌織と杏奈を差し置き、桃子がタッと前に出る。

 

 ヒュオォォォォォ………。

 

 暗い通路は、どこまでも長く続いていた。

 それはまるで、黄泉へいざなう死者の道のようにも見える。

 

「さあ、行くわよ」

 

 歌織と杏奈は頷き、重い脚を踏み出す。

 ゲートをくぐった直後、背後で分厚い扉がゴン、と音を立てて閉じた。

 

(大丈夫、よね……)

 

 かすかな胸騒ぎを覚えながら、歌織たちは薄暗い通路を歩き出した。

 

    *

 

 基地の内部は、まるで映画に登場する宇宙船のようだった。

 壁一面、白で覆われ、頭上には無数のエアダクトが走っている。

 

「こっちみたいね……」

 

 端末のナビゲーションに従い、三人は迷路のような道を歩いていく。

 同じような景色が続くので、地図を見なければどこにいるのか分からなくなってしまう。

 

 カツン――。

 

「待って!」

 

 先頭を歩く歌織が、停止の合図を送った。

 

(前方から敵兵1。壁に寄って)

 

 ハンドサインで、桃子と杏奈に警戒を呼びかける。

 

(杏奈ちゃん、【VIVIDイマジネーション】は使える?)

(もう、発動済み……)

 

 壁に背を当て、三人はじっと息をひそめる。

 通路の向こうから、軍靴の音が響いてくる。

 

 カツン……、 カツン……、 カツン……、

 

(来たわね……)

 

 数メートル先の曲がり角に、赤いベレー帽をかぶった戦闘員が姿を現した。

 タクティカルスーツで身を包み、肩からアサルトライフルを提げている。

 

(二人とも、動かないでね)

 

 杏奈と桃子は目線で頷いた。

 戦闘員は、次第にこちらへ近付いてくる。

 

 コツ……、コツ……、

 

(大丈夫、気付かれていないわ……)

 

 ライフルの銃身が、蛍光灯の下でギラリと輝く。

 

(このまま通り過ぎてくれれば……)

 

 だが、

 

 ピタ――。

 

 歌織たちの目の前で、戦闘員が突然足を止めた。

 

(――――!?)

 

 男はクルリと向きを変え、こちらをじっと見詰めてくる。

 

(……………ッ!)

 

 桃子がごくりと唾を飲み込んだ。

 

(ね、ねえ杏奈さん、本当にわたしたちの姿は見えてないんでしょうね……)

(大丈夫……【VIVIDイマジネーション】は、完璧……)

 

 自信満々で杏奈が答える。

 だが歌織は、その隣で険しい表情を浮かべていた。

 

(そう、たしかに杏奈ちゃんのスキルは完璧だわ。けど……)

 

 前回のシアター襲撃事件で、敵は飛翔スキルを無効化する兵器を使用していた。

 もし今回も、こちらのスキルを妨害する機械を使っていたとしたら……。

 

「……………」

 

 戦闘員が、じっと目をすがめる。

 何かを疑うように、歌織たちのほうへ顔を寄せてくる。

 

(や、やっぱりバレてるんじゃないの? さっさとこいつを片付けちゃいましょうよ!)

(ダメよ桃子ちゃん。騒ぎを起こせばサーバールームへの道を封鎖されてしまうわ)

(けど、このままじゃ……)

 

 戦闘員は、なおもこちらを凝視してくる。

 吐き出された息が、歌織の胸元にかかる。

 

「……………」

 

 不意に戦闘員が、携帯無線機のスイッチを入れた。

 

「00(マルマル)、こちら04(マルヨン)。B1医務室付近で異状を発見した。送れ」

 

 「異状」という言葉に、ピリリと緊張感が走る。

 

《(ザザッ)……ちらマル……、状……れ》

「やつらの痕跡を見付けた。このまま放置するのは危険と思料する。指示を請う。送れ」

 

 歌織はぐっと拳を握り締める。

 

(やっぱり、やるしかないの……?)

 

 いつでも攻撃できるよう、全身に力をみなぎらせる。

 

「00、04。了解、確認して報告する。終わり」

 

 通話を終えた戦闘員は、無線機をポーチに戻した。

 

(…………!)

 

 そして片手を伸ばし、歌織のほうへゆっくり近付けてくる。

 

(……二人とも、合図をしたら攻撃よ)

 

 杏奈と桃子が頷くのを確認し、歌織はカウントダウンを始める。

 

 3……、

 

 男の手が迫ってくる。

 

 2……、

 

 黒い影が覆いかぶさってくる。

 

 1……、

 

 互いの目線がパチリと合う。

 

(いま!)

 

 ス――。

 

 だがその瞬間、戦闘員の手が歌織の頬をかすめて壁に触れた。

 

(――――!? 待って!)

 

 敵は背後の壁を撫で、再び無線機をつかむ。

 

「00、こちら04。やっぱり『ヤ二』の跡が残っていた。こないだの掃除で見落としたんだ」

 

(ヤニ……?)

 

 三人は、恐る恐る振り返った。

 壁には、うっすらと黄色い染みが付いている。

 

(ヤニって……もしかして、タバコのこと?)

 

 戦闘員は、鹿爪らしい顔で通話を続ける。

 

「昨日の掃除当番は06と08だな。あのバカども……。ああ、喫煙がバレる前にこちらで処理しておく。以上だ」

 

 無線を切った戦闘員は、「くそっ」と力任せに壁を蹴った。

 隣で桃子がビクッと肩を震わす。

 

「掃除道具が必要だな……まったく、とんだとばっちりだぜ」

 

 舌打ちを繰り返しながら、戦闘員は通路の向こうへ遠ざかっていく。

 

(……………)

 

 敵の姿が見えなくなったところで、一斉に「はぁ~~」とため息が漏れた。

 

「……勘弁してよね。早くサーバールームに着かないと心臓がもたないわ」

 

 うんざり顔でつぶやく桃子。

 

「そうね。今回は大丈夫だったけど、次もうまくやり過ごせるとは限らないわ」

 

 歌織も疲れた面持ちで頷く。

 だがその二人とは対照的に、杏奈だけは自信満々の表情を浮かべていた。

 

「大丈夫。杏奈のスキルなら、何が来ても、問題ない……」

 

 歌織と桃子は顔を見合わせ、再び深いため息をついた。

 

    *

 

 エレベーターが降りていく。

 まるで奈落の底へと続くかのように、どこまでも、どこまでも降りていく。

 

 ポーン。

 

 チャイムが鳴り、ゆっくりと下降が止まった。

 スライドドアが開き、細い通路が目の前に現れる。

 

「ここが、最下層……」

 

 歌織はごくりと唾を飲み込んだ。

 いまだ誰も足を踏み入れたことのない、デストルドー日本支部の最奥部。

 ここに、敵の本部へとつながる最重要機密が隠されている。

 

「行きましょう」

 

 歌織の先導で、三人は長い通路を歩きだした。

 無人の廊下に、カツン、カツンと足音が響き渡る。

 

「ここがサーバールームね」

 

 白い扉の前で、歌織は立ち止まった。

 ドアの脇には、生体認証パネルが設置されている。

 

「桃子ちゃん、お願い」

「ええ」

 

【スキル:ラストアクトレス】

 

 瞬間、少女の全身がオレンジ色の光で包まれた。

 細い手足がぐんぐん伸び、胡桃色の髪が薄紫のショートヘアへと変わる。

 

 シュウウウ……。

 

「……変身、完了」

 

 あっという間に、幼い少女はスレンダーで中性的な女性の姿へと変貌してしまった。

 

「頼むわね、桃子ちゃん」

 

 頷きながら、桃子は生体認証パネルの前に立つ。

 

「……いくわよ」

 

 認証開始ボタンを押すと、システムが作動し、桃子の顔に赤外線ビームを放った。

 

 ピ――――。

 

 今度は何のトラブルもなく「認証完了」の文字が表示される。

 

「ふぅ……問題なさそうね」

 

 思わず歌織たちも胸を撫で下ろす。

 

「杏奈ちゃんはここで待機してもらえるかしら。万一敵がきたら、【VIVID イマジネーション】で足止めして欲しいの」

「了解……」

 

 彼女が頷くのを確かめ、歌織と桃子は狭い通路へ足を踏み出す。

 

 カツン――。

 

 ひんやりした空気が肌を撫でた。

 無機質な壁に足音が反響し、目の前の闇へ吸い込まれていく。

 

 コツ、コツ、コツ……。

 

 天井の低い通路を、二人は無言で進んでいった。

 間もなく、四面を機材ラックで覆われた薄暗い部屋にたどり着く。

 

「ここね……」

 

 広さはせいぜい会議室程度といったところか。

 LEDランプがあちこちで瞬き、ファンの音がゴウゴウ鳴り響いている。

 

「あったわ。あれがターゲットのメインサーバーよ」

 

 ラックに歩み寄り、歌織はポーチの中から小型端末を取り出した。

 背部を覗き込み、伸ばしたケーブルを端子へ差し込む。

 

「さあ、始めましょう」

 

 ソフトウェアを立ち上げ、エンターキーを叩いた。

 

《System booting.》

 

 同時に白い文字列がコンソール上を流れ、量子演算装置が起動する。

 

「頼むわよ……」

 

 プログラムが動き出し、モニタに無数のポップアップ表示が現れた。

 画面がめまぐるしく切り変わり、フォルダウィンドウが浮かんでは消える。

 そして――、

 

《Connection successful.》

 

 成功の文字が現れ、データのダウンロードがスタートした。

 

「よし、うまくいったわ……」

 

 プログレスバーに表示された作業時間は約10分。あとはデータコピーが終わるのを待つだけだ。

 

「もう済んだの? 案外簡単だったわね」

「ロコ博士のおかげよ。さて、杏奈ちゃんのほうは大丈夫かしら」

 

 歌織はポーチから無線機を取り出し、スイッチを入れた。

 

「エンジェル3、こちらエンジェル1。状況送れ」

《エンジェル1、こちら、エンジェル3。現在地異状なし》

 

 問題ないことを確かめ、通話を切る。

 ダウンロードのほうも滞りなく進んでいる。プロセスはすべて順調だ。

 

「この調子なら、予定よりも早く終わりそうね」

 

 安堵しかけた、その時だった。

 

 ビ―――!! ビ―――!! ビ―――!!

 

「――――!?」

 

 突如警報が鳴り響き、頭上に赤いランプが灯った。

 プログレスバーがストップし、画面に「Error」の文字が表示される。

 

「か、歌織さん、どうしたの!?」

「わ、分からない……律子さんに聞いてみるわ」

 

 無線機をつかみ、すぐさま指揮所を呼び出す。

 

「ストラテジー、こちらエンジェル1! 異状発生。サーバーが警報音を発し、ダウンロードが停止している。指示を請う、送れ!」

《エンジェル1、こちらストラテジー。いまロコ博士が遠隔操作で警報の停止信号を送っている。しばし待て》

 

 無線を切った歌織に、桃子が震える声で尋ねる。

 

「律子さんは何て?」

「いまロコ博士が対処してるって」

 

 ビ―――! ビ―――! ビ――…、ピタ。

 

 間もなくビープ音が鳴りやみ、LEDランプが赤から緑へ切り替わった。

 

「止まった……みたいね」

 

 端末のプログレスバーが、再び動き始める。

 

「よかった。これでもう大丈夫だわ」

 

 歌織はホッと息を吐き出し、安堵の表情を浮かべる。

 一時はどうなるかと思ったが、どうやら窮地は脱したようだ。

 だが……、

 

 カツン――。

 

 はっ!?

 

 歌織の鋭い聴覚が、かすかな異音を捉えた。

 

「ど、どうしたの、歌織さん?」

「誰かが近付いてくるわ。数は2」

 

 桃子がギクリと頬を強張らせる。

 

「まさか、敵……?」

「おそらく」

「け、けど、杏奈さんがいるんじゃ……」

「ええ。でも変ね、止まる気配がないの」

 

 訝った歌織は、ポーチから無線機を取り出した。

 

「エンジェル3、こちらエンジェル1。敵兵2が現在地へ向かっている。状況送れ」

《――(ザザッ)、(ピー)……(ガリッ)》

 

 雑音に、眉をしかめる。

 

「エンジェル3。どうした、感明送れ」

《(ガガガ)………(ガッ)》

 

 ブツンと音を立て、信号が途絶えた。

 

「………切れたわ」

 

 歌織は無線機をギュッと握り締める。

 

「あ、杏奈さんは?」

「分からない……応答がないの」

 

 チラリと端末を見やる。

 ダウンロードは75%。いま終了すれば、これまでの苦労がすべて水の泡になってしまう。

 

「ど、どうするの、歌織さん?」

「……………」

 

 足音は、サーバールームの前に差し掛かろうとしている。

 離脱するならいましかない。

 

「ねえ、歌織さんってば!」

 

 桃子に肩を揺すられながら、歌織は奥歯を噛み締める。

 

 どうする……。一体どうすれば……。

 

 サーバーラックの背部では、赤いLEDがチカチカと瞬いていた。



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第15話 デストルドー地下基地 潜入作戦②

 薄暗いサーバールームに、ふたつの影が差し込んだ。

 

「――閣下、警報が鳴ったのはこちらのほうです」

 

 一人は上級戦闘隊指揮官の制服を着た将校。

 もう一人は肩に飾緒を付けた仮面の人物。

 

 机の陰から様子を窺った歌織は、その姿を見てハッと息を飲み込んだ。

 

(あれは……特務参謀!)

 

 よりによってこんなタイミングで……。

 

(ど、どうするの! これじゃ袋のネズミじゃない!)

 

 慌てた桃子が歌織の肩を揺する。

 

(いいえ、外の状況も分からず部屋から出れば敵と鉢合わせになる可能性があったわ。いまは黙ってやり過ごすのが先決よ)

 

 本当のところを言うと、歌織自身、迷いはあった。

 安全を優先すべきか、作業を優先すべきか。

 

 だがここで離脱すれば、作戦は元の木阿弥になってしまう。

 作戦が1日遅れるということは、それだけ犠牲者も増えるということ。

 それだけは絶対に避けたい……。

 

「――閣下、どのサーバーを確認されますか?」

 

 部下に問われた特務参謀は、おもむろに室内を見回した。

 

「そうだな、奥のメインサーバーからにしよう」

 

 ギクリ!

 

 歌織たちが隠れる机のほうへ、二人が近付いてくる。

 

 コツ、コツ、コツ……。

 

(歌織さん、どうしよう……)

 

 桃子が泣きそうな顔で歌織の腕にすがった。

 

(大丈夫よ……)

 

 しかし軍靴の音はどんどん近付いてくる。

 

 コツ、コツ、コツ……。

 

 歌織はギュッと目を閉じた。

 

(このままじゃ、逃げられない……)

 

 こめかみを、汗がつつつと流れ落ちる。

 

(こうなったら……)

 

 イチかバチか、奇襲をしかけようかと考えたその時、

 

「こちらです、閣下」

 

 ピタ――。

 

 机のすぐそばで、足音が止まった。

 

(はぁ………)

 

 二人はホッと息を吐き出す。

 

「ふむ……警報が鳴ったのはいつ頃だ?」

「5分ほど前です。その前後のアクセスログを点検してみましょう」

 

 ポータブルPCを開き、将校がサーバーの端子にUSBケーブルを差し込む。

 再び歌織の首筋に緊張が走る。

 

(まずい、ハッキングが見付かってしまう……)

 

 薄暗いサーバールームに、キーボードを打つ音が鳴り響く。

 

 カタカタカタ、タン!

 

 だが……、

 

「特に問題はありませんでした。念のため数日分のログを確認いたしましたが、異常なアクセスはないようです」

 

 思わず胸を撫で下ろす歌織。

 恐らくハッキングの痕跡が残らないよう、ロコ博士が書き換えておいてくれたのだろう。

 

「そうか……ではこちらのサーバーはどうだ?」

「は、確認いたします」

 

 再び将校が端末を開く。

 

 カタカタカタ……。

 

 しばらくの間、実りのない作業が繰り返された。

 最初は生真面目に対応していた将校だったが、そのうちチラチラと腕時計を見始める。

 

「……閣下、間もなく作戦会議のお時間です。そろそろ移動なされては……」

「おお、そうか。それでは今日はこのくらいにしておくか」

 

 歌織たちは、机の陰で安堵の表情を浮かべた。

 

(何とかやり過ごせたみたいね……)

 

 間もなくダウンロードも終了する。

 あとはここを無事に離脱するだけだ。

 

 だがその時……、

 

 ピ――――――――――――!!!!

 

「――――!?」

 

 突然、メインサーバーがビープ音を発した。

 

「どうした、何が起こった」

「ハッ! メインサーバーに不具合が……」

 

 将校が慌てて奥のサーバーラックに駆け寄る。

 

「くそ、一体何が……」

 

 ブツブツつぶやきながら、将校は機材のチェックを始めた。

 そしてラックの背部を覗き込み、ピクリと眉を上げる。

 

「何だ、このコードは……?」

 

 訝りながら、男は配線の先をたどった。

 黒いケーブルは、すぐそばにある机の裏側へ伸びている。

 

「これは……まさか、ハッキング!?」

 

 素早くコードを引き抜き、将校は腰の拳銃をつかむ。

 

「そこにいるのは誰だ!」

 

 歌織と桃子の肩がビクリと跳ね上がった。

 

「隠れているのは分かっているぞ、出てこい!」

 

 叫びながら、じりじりと歩み寄ってくる。

 歌織はぎゅっと拳を握り締めた。

 

(他に隠れる場所はない。逃げようとしても、この状況では確実に見付かってしまう……)

 

 まさに絶体絶命のピンチ。

 

「出てこないのなら、こちらから行くぞ!」

 

 将校が脚を踏み出そうとしたその時、

 

 スッ――――。

 

 机の裏から小柄な人影が立ち上がった。

 

「――――!!」

 

 現れた人物を見て、将校は驚きの表情を浮かべる。

 

「あ………」

 

 紫がかったショートヘアに、無機質な顔。

 

「あなたは……ジョーカー様!」

 

 慌てて踵をそろえ、挙手の礼を取る。

 

「た、大変失礼いたしました! しかし、なぜこのようなところに……?」

 

 デストル怪人ジョーカーは、けだるげな声で答える。

 

「敵の本部に潜入して得られた情報を、このサーバーにアップロードしていた」

 

 返答を聞いた将校は、不思議そうに首を傾げた。

 

「あの……データのアップロードでしたら、作戦室にあるご自身の端末から行えば良かったのでは……?」

 

 ジョーカーの頬が、ピクリと震える。

 

(ど、どうしよう、歌織さん……)

 

 もちろん、このジョーカーは本物ではない。桃子がスキル【ラストアクトレス】で変身したものだ。

 

《大丈夫よ、桃子ちゃん。こう答えて……》

 

 足元に隠れている歌織が、指文字でそっと指示を出す。

 桃子は平静を装いながら、将校の質問に答える。

 

「て、敵に捕まったと勘違いされたせいで、サーバーのアクセス権を削除されてしまった……無念」

 

 男はなるほどと頷く。

 

「そういうことでしたら、あとで通信隊にアクセス権の復旧を命じておきましょう」

「……感謝」

 

 ようやく疑問が解けた将校は、再び踵を揃えて挙手の礼を取った。

 

「それでは、我々はこれで失礼いたします。ジョーカー様も、お早めに上へお戻りください」

「分かった」

 

 一礼して、ツカツカとドアのほうへ歩き出す。

 桃子も思わず安堵の息を吐き出す。

 

 だが――、

 

「待て」

 

 仮面の参謀が、部下を呼び止めた。

 

「は、何でしょうか……?」

「話はまだ終わっていない。もう少しこいつに聞きたいことがある」

 

 そしてじろりと桃子を睨み付け、机のほうへ歩み寄る。

 

「お前、敵の本部に潜入したと言ったな」

「はい……言いました」

 

 仮面の奥で閃く怜悧な視線に、桃子は乾いた唾を飲み込む。

 

「だったら一つ確認しておきたいことがある」

 

 言いながら、特務参謀はじっと桃子の顔を覗き込んだ。

 

「今回の作戦で、お前に指示しておいたことがあったはずだ。その件はどうなった?」

「――――!?」

 

 薄い唇が、にやりと歪む。

 

(指示しておいた件? 一体何のこと?)

 

 机の下で、歌織は拳を強く握り締めた。



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第16話 デストルドー地下基地 潜入作戦③

「ジョーカーよ、今回の作戦で、お前に指示しておいたことがあったはずだ。その件はどうなった?」

 

 仮面の参謀が、にぃっと口角を上げた。

 

(指示しておいた件? 一体何のこと?)

 

 机の下で、歌織はぐっと拳を握り締める。

 

 桃子のスキル【ラストアクトレス】は、外見や声色を完璧に真似ることができるが、記憶までは読み取れない。

 

(歌織さん、どうしよう……)

 

 桃子の腕が、恐怖を伝えてくる。

 歌織は目を閉じ、思考をフル回転させた。

 

(相手はカマをかけている可能性がある。かと言って、指示を問い返せばますます疑われてしまう……)

 

「どうしたジョーカー、早く答えろ。これでもわたしは忙しい身なんだ」

 

(助けて、歌織さん……)

 

 震える脚が、必死に救いを求めてくる。

 

 こうなったら……、

 

《桃子ちゃん、いまからわたしが言うとおりに答えて――》

 

 指文字を読み取った桃子は、ピクリと頬を震わせた。

 

《本当にその答えで正解なの、歌織さん?》

《いえ、正解かどうかは分からないわ》

《え?》

《けど……不正解ではないはずよ》

 

 歌織の言葉に、桃子はごくりと唾を飲み込む。

 そして顔を上げ、白いマスクを正面から見据える。

 

「……ご指示とおっしゃいますのは、ヒーローズを捕獲してこい、というご命令のことでよろしかったでしょうか?」

 

 冷笑がぴたりとやんだ。

 サーバールームの温度が一気に下がる。

 

 歌織は息を潜め、「あの時」のことを思い出した。

 

『――おとなしく液体になってください。あなたを捕まえてこいと、上から命じられています』

 

 シアターで戦ったとき、ジョーカーはたしかにそう言った。

 それが特務参謀の言う「指示」のことかどうかは分からないが、少なくとも下された命令の一つであることに間違いはないはず。

 

(さあ、どう反応する?)

 

 桃子の手が、小刻みに震えていた。

 腕を伝った汗が、ポタリと床に落ちる。

 

「ふう」

 

 仮面の下で、特務参謀が大きく息を吐き出した。

 

「……何を言っているんだ、お前は?」

「――――!?」

 

 一瞬で全身から血の気が引いた。

 

(まさか……間違えた!?)

 

 首筋がチリリと灼け、手の平から汗が噴き出す。

 

「まったく……あんな大切な指示を忘れるとは、嘆かわしい限りだ」

 

 コツ、コツと床を打ち鳴らしながら、特務参謀が近付いてくる。

 蛇に睨まれた蛙のように、桃子は一歩も動くことができない。

 

「いいか、わたしの指示は『ヒーローズを捕えてこい』などという漠然としたものではない」

 

 少女の前に立った特務参謀は、人差し指をピッと薄い胸に突き付けた。

 

「わたしが捕えてくるよう命じたのは……『歌織』一人だけだ!」

「――――!?」

 

 机の下で、歌織は驚愕に目を見開いた。

 

(わ、わたしを? どうして……!?)

 

「さあどうなんだ、歌織は捕獲できたのか?」

 

 詰問された桃子は、カラカラに乾いた喉で答える。

 

「も、申し訳ございません。あと一歩のところで……取り逃がしました」

 

 ため息をつき、特務参謀はくるりと背を向けた。

 

「もういい。貴様には失望した」

 

 吐き捨てるように言い、チラリと時計を見やる。

 

「時間だ。戻るぞ」

「はっ!」

 

 呼びかけられた将校は、サッと挙手の敬礼を取り、回れ右する。

 

(たす、かった……)

 

 歩き出した二人の背中を見て、桃子はホッと息を吐き出した。

 握り締めていた手を緩め、にじんだ汗を指でこする。

 

「おっと、そうだ」

 

 不意に特務参謀が足を止め、くるりと振り返った。

 

「一つ、大事なことを忘れていた」

 

 言いながら、大股で引き返してくる。

 

「…………?」

 

 訝る桃子の前に立ち、仮面の参謀はそっと懐へ手を差し込んだ。

 

「受け取れ」

 

 そのまま黒いダガーを抜き取り、少女の胸にズブリと突き立てた。

 

「え……!?」

 

 何が起こったかも分からず、桃子はパチクリと瞬きする。

 

 太いブレードが、みぞおち深く突き刺さっている。

 強張った筋肉が、ギチリと刀身を咥え込んでいる。

 

 ズル――。

 

「ごぼっ」

 

 ダガーを引き抜くと、細い体がゆっくり地面に沈み込んだ。

 

 ドサッ!

 

 血溜まりが広がり、サーバーラックの下へ吸い込まれていく。

 

 シュウウゥゥゥ……。

 

 スキルの効果が解け、手足が風船のように縮んだ。

 

「ほう、珍しいスキルだな」

 

 元の姿に戻った桃子を見て、特務参謀が興味深げにつぶやく。

 

「ぐ……ゴボッ! ど、どうして……変身は……完璧、だったのに……」

「ああ、完璧だったさ。お前が変身していたとはまったく気付かなかった」

「じゃあ、なぜ……」

 

 血まみれの少女を見下ろしながら、仮面の参謀はフンと鼻を鳴らす。

 

「なあに、わたしは敵に捕まるような役立たずを生かしておくほど、お人好しではないということだ」

「――――!?」

 

 桃子は愕然と目を見開いた。

 つまりこいつは、最初から自分を生かして帰す気などなかったのだ。

 

 二人のやり取りを見て、歌織はわなわなと全身を震わせていた。

 突然の出来事に理解が追い付かず、凍り付いたように身体が動かない。

 

「さて、次はこちらの質問に答えてもらうぞ。潜入したのはお前一人か? それとも、他に仲間がいるのか?」

 

 問われた桃子は、かすれ声で答えた。

 

「桃子は……一人よ。あんたたちを倒すのなんて、桃子一人いれば……充分、なんだから……」

 

 ため息を吐き出し、仮面の参謀はやれやれと肩をすくめる。

 

「ウソが下手なやつだな。歌織も一緒に来ているんだろう?」

「――――!?」

 

 相手の反応を見て、特務参謀は「図星か……」とつぶやいた。

 

「痛い目を見たくなければ奴の居場所を教えろ。正直に言えば助けてやる」

 

 答える代わりに、桃子はペッと唾を吐き出した。

 

「冗談、でしょ……。誰が、言うもんですか……」

「フッ、強情なやつだ。しかし、その強気がいつまで続くかな」

 

 言いながら、特務参謀は桃子の太ももに、つつ……とナイフを這わせた。

 

「…………っ!」

 

 冷たい感触が敏感な肌を撫で、少女はぞくりと背筋を震わせる。

 

「さあ、歌織の居場所を言え」

 

 刃先が脚を這い上がり、スカートの中へ潜り込んだ。

 そこで仮面の参謀は腕に力を込め、内太ももの付け根にぐっとナイフを押し込む。

 

「ぎ……やあああぁぁぁぁあぁぁ!!!!」

 

 絶叫が冷たい壁に反響した。

 

「安心しろ、動脈は避けている」

 

 ゴリリ……。

 

「い、ぎぃいぃぃぃいいぃぃぃ!!!!」

 

 身体がエビのようにのけ反り、痙攣した手足が床を叩く。

 

「どうした、まだ言わないのか?」

 

 サディスティックな笑みを浮かべながら、特務参謀は血まみれの刃をさらにねじ込んだ。

 再び悲鳴が起こり、少女の眼球がぐるりと裏返る。

 

 とその時――、

 

「やめなさい!」

 

 机の背後から、白い影が立ち上がった。

 特務参謀はフンと鼻を鳴らし、ナイフを引き抜く。

 

「なんだ、もう出てきたのか。つまらん」

 

 歌織は返り血で染まった仮面を睨み付け、ギリリと奥歯を噛み締める。

 

「わたしはここよ。それ以上桃子ちゃんを傷付けることは許さないわ」

 

 冷笑を浮かべながら、特務参謀はナイフの腹でペチペチと桃子の頬を叩く。

 

「ほう、どう許さないと言うんだ? えぇ?」

「くっ……!!」

 

 歌織は目を閉じ、観念したように拳を緩めた。

 

「ここにメインサーバーからダウンロードしたデータがあるわ。これで満足でしょ?」

 

 差し出された小型端末を見て、特務参謀は小さく肩をすくめる。

 

「いいだろう。よし、この女を縛り上げろ」

「はっ!」

 

 命令された将校が、素早く歌織の背後へ回り込んだ。そして強化プラスチック製のハンドカフを取り出し、手首をきつく固定する。

 

「おい、口にも布をねじ込んでおけよ。こいつのスキルは歌をトリガーに発動する」

「はっ!」

 

 男がポケットからハンカチを取り出すのを見て、歌織は抗弁の声を上げた。

 

「待って! 桃子ちゃんを医務室へ運ぶのが先よ!」

「うるさいやつだな……」

 

 特務参謀は、面倒臭そうにため息をついた。

 

「だったらこれでどうだ?」

 

 言いながら、握ったダガーを真っ直ぐ振り下ろす。

 

 ドス。

 

「え――?」

 

 黒い刃が、少女のこめかみを貫いた。

 細い手足がびくんと震え、脂っぽい血が、リノリウムの床に広がる。

 

「な……んで………」

 

 歌織はぺたりとその場に座り込んだ。

 魂が抜けたように、呆然と赤い血溜まりを見詰める。

 

「フッ、放心するのはまだ早いぞ」

 

 特務参謀はニヤリと口元をゆがめ、部下のほうへ振り返った。

 

「おい、廊下で寝ている奴もここへ持ってこい」

「はっ!」

 

 命令を受けた将校は、サッと部屋の外へ走り出る。

 

 間もなく通路の奥から、何か重いものを引きずるような音が聞こえてきた。

 

「運んでまいりました!」

「ご苦労」

 

 サーバールームの真ん中に投げ出された「それ」を見て、歌織はさらに身を強張らせる。

 

「あ……杏奈……ちゃん?」

 

 菫色の髪の少女が、虚ろな瞳で天井を眺めていた。

 額には丸い銃創が開き、溜まった血液がゆらゆらと波打っている。

 

「どうだ歌織、わたしからのプレゼントは」

 

 特務参謀の声が、耳の奥でこだました。

 歌織は全身を震わせながら、杏奈の遺骸にすり寄る。

 

「どう……して……、こん……な………」

 

 特務参謀は酷薄な笑みを浮かべ、薄い唇を開いた。

 

「なあに、すべてお前のためだ」

 

 その瞳は、狂気を帯びてギラギラ輝いている。

 

「さて、そろそろ本題に入ろうか」

 

 言い終えると同時に、軍服の少女は将校の手からハンカチを奪い取り、歌織の口へねじ込んだ。

 

「むぐっ!?」

「さあ、おしゃべりの時間はおしまいだ。お待ちかねの宴を始めるとしよう!」

 

 そのまま強引に相手を押し倒し、グイッと襟を引っ張る。

 

 ビリリ!

 

 ボタンがはじけ飛び、白い胸元が露わになった。

 

「―――――!?」

「か、閣下!? 一体何を……!?」

 

 驚く部下に向かって、特務参謀は冷たく言い放つ。

 

「お前、この女を犯せ」

「え!?」

 

 常軌を逸した命令に、将校は困惑の表情を浮かべた。

 

「あ、あの……それはどういう意味で……?」

「言葉通りの意味だ。分からんか?」

 

 言いながら、特務参謀は細い指を乳房の下に這わせる。

 

「……………ッ!」

 

 歌織の美しい顔が、恥辱の色に歪んだ。

 

「フッ、無駄な抵抗は考えるなよ。わたしのスキル【未来飛行】の能力は、お前もよく知っているだろう」

 

 仮面の参謀は立ち上がり、再び部下を叱咤する。

 

「さあ、早くしろ!」

「し、しかし……」

「命令だ、やれ!」

 

 「命令」という言葉に、将校は不承不承頷いた。

 

「わ、分かりました……」

 

 ごくりと唾を飲み込みながら、男はじり、と歌織ににじり寄る。

 

「……………ッ!」

 

 艶めかしい肢体が、蛍光灯の下で後ずさった。

 最初はいやがっていた将校だったが、いざ美しい女囚を前にすると、むらむらと情欲が湧き上がってくる。

 

「すまんな、俺も命令には逆らえないんでね……」

 

 言い訳がましいセリフを述べ、男はガバッと歌織の上へ覆いかぶさった。

 

(―――――!?)

 

 節くれだった指が、豊かな乳房を荒々しく揉みしだく。

 

「……………ッ!!」

 

 スカートの内側に、男のたくましい手が這入り込んできた。

 最初は脚を閉じて抵抗した歌織だったが、無理やりショーツを引きずり降ろされると、観念したように目を閉じる。

 

 汗ばんだ肌が、熟れた果実のように紅潮した。

 湿った唇から、熱い吐息が漏れる。

 

「……………」

 

 かたわらでは、白い仮面がじっとその様子を見下ろしていた。

 その口元には、嗜虐的な笑みが浮かんでいる。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 タイトスカートの中で、柔らかな内太ももが暴れた。

 おわん型に潰れた乳房が、ゆさゆさと揺れる。

 

「おとなしくしてろよ。すぐに気持ちよくしてやるからな……」

 

 男が腰のベルトをするりと引き抜いた。

 

 獣のような息遣いを耳にしながら、歌織はすべての思考を頭から追い払った。



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第17話 獣たちの謝肉祭

 まどろむ意識の中で、誰かの声が聞こえた。

 

《歌織………………、歌織…………………》

 

 どこかで聞いたことのある声だった。

 すぐそこまで答えは出かかっているのだが、誰の声か思い出せない。

 

(誰なの、わたしの名前を呼ぶのは………)

 

《わたしだ……歌織》

 

 声は問いに答えない。

 いや、そもそも答える気があるのだろうか。

 

(なぜわたしの名前を知っているの? あなた、わたしと会ったことがあるの?)

 

《もちろんだ……お前も知っている……。わたしだ………わたしだ………歌織》

 

 何かを必死に訴えているようだが、先ほどからまるで会話が噛み合わない。

 

(ねえ、せめて名前だけでも教えてくれないかしら。『あなた』では呼びづらいわ)

 

 歌織の懇願に、相手は一瞬沈黙した。

 

《……名前なら、先ほどからずっと名乗っている》

 

 まるで禅問答だ。

 ますます混乱が深まり、次第に苛立ってくる。

 

(どういうこと? 言っていることが全然分からないわ)

 

 思わず強い口調で尋ねると、相手はわずかに声のトーンを落とした。

 

《それではもう一度言う。よく聞け……》

 

 今度こそ聞き逃すまいと、歌織は耳をそばだてる。

 

《呼びかけているのは……【わたし】だ》

 

 

 ――――ハッ!?

 

 薄暗い部屋で、歌織は目を覚ました。

 

 そばに倒れているのは、桃子と杏奈。

 二人とも、虚ろな瞳で天井を見詰めている。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 乱れた息遣いが聞こえた。

 誰の………?

 

 ………わたしの?

 

 獣じみた顔で、男が覆いかぶさっている。

 

 痛い……。

 やめて、もうやめて……、

 

《……目覚めろ、歌織》

 

 また声が聞こえた。

 

《わたしの声が聞こえているのなら、目を覚ますのだ、歌織》

 

 不思議な声。

 次第に下腹が熱くなってくる。

 

《目覚めろ、歌織……》

 

 痛い……。

 

 いえ、違う。

 この感覚は、痛いのではなく……、

 

《目を覚ませ……【カオリ】》

 

 パチン!

 

 頭の中で、何かが弾けた。

 

「う、うぅぅぅうぅぅ……、ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 カッ―――――!!!!

 

 ドオオオォォォォオオォオォォォンッ!!!!

 

 閃光が走り、衝撃波が基地全体を揺るがした。

 

 立ち上がろうとして、自分の身体が漆黒の炎で覆われていることに気付く。

 

「ようやく目覚めたか、【カオリ】」

 

 瓦礫の向こうで、特務参謀が満足げに微笑む。

 

「気分はどうだ? デストルドー因子を解放した気分は?」

 

(デストルドー因子?)

 

 カオリは自分の姿を見下ろした。

 

 全身を包む黒い炎。

 これは、まさか……ダークパワー?

 

「お前の体内には、強力なデストルドー因子が眠っている。それを、いま解放したのだ」

 

(――――!?)

 

 踵を鳴らしながら、仮面の参謀がコツ、コツと近付いてくる。

 

「初めて会った時からずっと感じていた。だから浴びせたのだ、わたしの血を」

 

(血………?)

 

 そういえば人工島で、返り血を浴びたことがあった。

 まさかあれが……。

 

「そしてわたしの血は、時間をかけて少しずつお前の体内に眠るデストルドー因子を呼び起こした。……見ろッ!」

 

 黒い炎が、哀れな将校を焚き木のように燃やしていた。

 桃子と杏奈も、漆黒の業火の中でパチパチと音を立てている。

 

「見えるだろう、深い闇が。聞こえるだろう、力へのいざないが。わたしはずっと感じていたぞ、お前の中にある……もうひとつの存在を!!」

 

 火に囲まれているのに、身体は震えるほど凍え切っていた。

 

 お腹が痛い……。

 痛くて寒い……。

 寒くて痛い……。

 痛くて苦しい……。

 

 だがその痛みが、苦しみが、次第に熱を帯びてくる。

 

「自分を解き放て、カオリ。そのために、わたしはきっかけを与えたのだ」

 

 仮面の参謀が、ゆっくりと近付いてくる。

 鬼火を背に、裂けた唇が耳まで持ち上がっている。

 

「ほら、心地良いだろう? そら、流されたいだろう? 偽るのはやめろ、快楽に身を委ねろ。お前はそっちの側の人間じゃない。こちら側の人間だ!!」

 

(いや……やめて………)

 

 涙が頬を滑り落ちる。

 だがその雫は、汚泥のように黒く濁っている。

 

(来ないで……こっちへ来ないで………)

 

 闇が視界を覆う。

 黒い影が覆いかぶさってくる。

 

「くるんだ……カオリ」

 

 仮面の奥で、紅蓮の瞳が閃いた。

 

「お前は………悪だ」

 

(やめてえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!)

 

 カッ―――!!!!

 

 ドゴオオォォオォオォォォ!!!!

 

 熱風が天井を吹き飛ばし、炎がドアから溢れ出した。

 業火は基地内を駆け巡り、哀れな生贄を次々と飲み込んでいく。

 

 ゴオオォォオォオォォォォ………!!

 

「クッ、クッ、クッ……」

 

 崩れ落ちた瓦礫の中で、特務参謀は昏い笑みを浮かべた。

 

「そうだ、それでいい。それでこそ『我が器』となるべき存在だ……」

 

 視線の先では、黒い炎がカオリの全身を包み込んでいた。

 燃え盛る火柱の中、カオリは踊るようにのたうち回っている。

 

 特務参謀の目には、その姿がまるで、穢れを掃う浄化の儀式のように見えた。

 

    *

 

 かすかな胸のざわめきを感じ、紬は窓の外を見上げた。

 

 雨が街を濡らしている。

 垂れこめた雲が天を覆い、黒いカラスが寂しげに飛び去っていく。

 

「何かしら、この感じ……」

 

 外を眺めているだけなのに、なぜか胸がドキドキした。

 じっとしていられなくて、事務所の中を行ったり来たりする。

 

「どうしたの、紬ちゃん?」

 

 見かねた風花がそっと声をかけた。

 

「あ、いえ。その……なんだか空が気になって」

「そうねえ。こんな日は洗濯物も乾かないものねえ」

 

 噛み合わないセリフに愛想笑いを返しながら、そっと拳を握り締める。

 

(違う。これはそんな感覚じゃない。もっと……何か良くないものだ)

 

 再び窓のそばに寄り、灰色の空を見上げる。

 

 具体的には分からないけれど、とても悪い何かが、この街で起ころうとしている……。

 一体何が……。

 

「あの、風花さん――」

 

 振り返り、声をかけようとしたその時、

 

 ドゴオオォォオォオォォォン!!!!

 

 突然大爆発が起こり、鳥の群れが一斉に宙へ飛び立った。

 

「な、何!?」

 

 慌てて窓から身を乗り出し、ハッと息を飲み込む。

 

「あ、あれは……!?」

 

 臨海部のほうで、黒い煙が朦々と立ち昇っていた。

 緊急車両のサイレンが鳴り響き、騒然とした気配が街を包み込む。

 

「あれは……デストルドーの基地がある辺りだわ」

 

 風花が青ざめた顔でつぶやいた。

 

(デストルドーの基地?)

 

 不吉な予感が脳裏をかすめる。

 

(まさか……姉さんの身に、何か………)

 

 ジリリリリリリ!!!!

 

 突然、壁のベルがけたたましい音を立てた。

 

《ホットスクランブル、エンジェルフォース。場所は中央区晴海五丁目。大規模な爆発あり、負傷者多数。D事案との関連性を最優先で調査せよ》

 

 アイドルたちが一斉に立ち上がり、出口へ向かって駆け出す。

 

「待って!」

 

 部屋から飛び出そうとする風花の腕を、紬が咄嗟につかんだ。

 

「つ、紬ちゃん!? 何!?」

 

 戸惑う風花に向かって、紬は決然と告げる。

 

「風花さん、わたしも……わたしも一緒に連れて行ってください!!」

 

    *

 

 立ち込める煙の中を、黒い影がさまよっていた。

 影は獣じみた唸り声を上げ、獲物を求めるように周囲を見回す。

 

「た、助けてー!!」

 

 すぐそばを、若い男女が駆け抜けていった。

 影はにやりと口角を上げ、赤い眼を大きく見開く。

 

 カッ―――!!!!

 

 瞬間、瞳から光線が放たれ、道路を真っ二つに切り裂いた。

 

 ドオォォオオォォォン!!!!

 

 大爆発が起こり、沿道の建物がガラガラと崩れ落ちる。

 

「グルルル……」

 

 逃げ惑う人々を前に、影は獰猛な笑みを浮かべた。

 尖った犬歯がギラリと輝き、赤い瞳に再びエネルギーが凝集する。

 

「やめなさい!」

 

 鋭い声が空から響き渡り、ナース姿のヒーローがタッとアスファルトの上へ降り立った。

 注射器型の銃を構えた女戦士は、黒い影をキッと睨み付ける。

 

「これ以上人々を傷付けることは、このバトルナースが許さないわ!」

 

 だが相手の姿を目にした瞬間、バトルナース・風花は思わず息を飲み込む。

 

「え……!? あ、あなたは………歌織さん!?」

 

 しかし駆け寄ろうとして、風花はピタリと立ち止まる。

 

 赤く燃える瞳。

 全身を取り巻く黒い炎。

 

 姿形こそ似ているが、彼女が知っている歌織とはまったくの別人だ。

 

「か、歌織さん……? あなた、一体………」

「グァウ!!」

 

 カッ!!!!

 

 深紅の瞳がギラリと光り、熱線を放った。

 

 ――――!?

 

「キ、キネティックシールド!!」

 

 咄嗟に両手をかざし、防護壁を展開する。

 

 バリバリバリバリ!!

 

 レーザーが、光の壁にぶつかって青白い火花を散らした。

 

「か、歌織さん、一体どうしたんですか!? やめてください!!」

「グルルル………ガァッ!!」

 

 歌織が咆哮を上げると、光線の出力が一気に上がる。

 

「く、うぅ……!!」

 

 ピシ、ピシピシ………。

 

 シールドにひびが入る。

 

「も……う、限……界」

 

 ―――パリン!!

 

「きゃぁ!!」

 

 ドオォォオオォォォン!!!!

 

 爆風に吹き飛ばされ、風花はアスファルトの上を転がった。

 

「あうっ! く、うぅ……」

 

 痛みに顔をしかめながら、傷付いた身体を起こす。

 その頭上に、サッと黒い影が差した。

 

「――――!?」

「ゴルルルル……」

 

 赤い双眸が、じっと風花を見下ろしていた。

 

「か、歌織さん……どうして……」

 

 後ずさる風花に向けて、狂戦士が手刀を振り上げる。

 

「い、いや……」

 

 むき出しの犬歯が、炎の中でギラリと閃く。

 黒炎に包まれた腕が、降り注ぐ雨を瞬時に蒸発させる。

 

 そして――、

 

「グオォルァアアア―――!!」

「い、いやああああああああああああああ!!」

 

 バキィ!!!!

 

 咄嗟に掲げた腕が、血飛沫とともに宙を舞った。



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第18話 痛みのない世界

 バキィ!!!!

 

 咄嗟にかざした風花の腕を、黒い手刀が真っ二つに斬り裂いた。

 

「ひっ!? ああぁあぁぁあぁぁぁぁ!!!?」

 

 肘から先が、ボトンと地面に落ちる。

 

「う、腕が……! わたしの腕がぁ……!!」

 

 露出した骨を見て、風花は全身をわななかせた。

 

「ヒーリングガン……ヒーリングガンは!?」

 

 血がどぶどぶと溢れ出す。

 早く腕をつなげなければ、手遅れになってしまう。

 

「あっ!」

 

 探し求めた銃は、数メートル先の路上に転がっていた。

 風花は腕を抱え、ずるずると地面を這う。

 

「早く、早くヒーリングガンを………」

 

 傷口が、蛇口をひねったように血を吐き出している。

 戦闘服は真っ赤に染まり、砂利と混じってべたりと肌に張り付く。

 

「あ、あとちょっと……」

 

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、注射器型の銃へ腕を伸ばした。が……、

 

 カツン!

 

「――――!?」

 

 黒いブーツが、ヒーリングガンを蹴飛ばした。

 顔を上げた風花は、絶望に頬を引き攣らせる。

 

「グルルル……」

 

 真っ赤な瞳が、こちらを見下ろしていた。

 犬歯をむき出しにしたカオリが、獣のようなうなり声を上げている。

 

「い、いや……」

 

 風花は恐怖のあまり、チョロチョロと失禁した。

 

 カオリがじり、と足を踏み出す。

 風花は血にまみれながら、必死に路上を後ずさる。

 

「や、やめて……」

 

 頭上の両目が真っ赤に輝く。

 闇の力が凝縮し、どんどん膨れ上がっていく。

 

 キィィィィィィン……。

 

 そして――、

 

 カッ―――!!

 

「待って!」

 

 突然、どこからともなく声が響き渡った。

 

「ガウゥゥ……!?」

 

 振り返ったカオリは、瞳に警戒の色を浮かべる。

 

「やめて、姉さん……」

 

 瓦礫の陰から、あどけない面差しの少女が姿を現した。

 

「つ、紬ちゃん!」

 

 少女はヒーリングガンを拾い上げ、傷付いた仲間に駆け寄る。

 

「大丈夫ですか、風花さん。さあ、これを」

「あ、ありがとう……」

 

 受け取った風花は、震える手で傷口に癒しのエキスを垂らした。

 

 パァ――――!!!!

 

 黄金色の光が腕を包み込み、切断された箇所を瞬時につなぎ合わせる。

 

「よかった、これでもう大丈夫ですね……」

 

 震える風花の背中を撫でながら、紬は別人と化した姉を睨み付けた。

 

「姉さん、一体どうしてしまったの!? 元の姉さんに戻って!!」

「ウ、グゥゥゥ……」

 

 妹の呼びかけに、カオリはかすかな苦悶の色を浮かべた。

 

「姉さん、わたしの声が聞こえているの……?」

 

 手応えを感じた紬は、姉に向かって一層強く呼びかける。

 

「お願い、いつもの優しい姉さんに戻って! 姉さんは、こんなことをする人じゃないわ!」

「グ、ゥゥ………つ、むギ?」

 

 カオリが頭を押さえ、うめき声を上げた。

 

「そうよ、紬よ! 姉さん、わたしはここよ!」

 

 カオリはよろめき、ガクリと膝をつく。

 

「ツ、ムぎ………」

「ええ、紬よ! お願い! 正気に戻って、姉さん!」

 

 少女が懸命に叫ぶ。

 

「グ…………つ、むぎ……」

 

 瓦礫の山の上で、カオリは妹の名前を繰り返しながら苦しそうに顔をゆがめる。

 

「姉さん! 負けないで!」

 

 だが、

 

「つむ、ぎ……は………………」

 

 カオリの身体から黒いオーラがにじみ出る。

 

「コロス!!!!」

 

 カッ―――!!!!

 

 瞬間、両目から深紅の光が放たれた。

 

「紬ちゃん、危ない!」

 

 咄嗟に飛び出した風花が、二人の前に光の防壁を展開する。

 

「キネティックシールド!」

 

 バリバリバリバリ―――!!

 

 閃光が、まばゆく周囲を照らした。

 ぶつかり合ったエネルギーが、激しい火花を辺りに撒き散らす。

 

「ね、姉さん!! どうして!?」

「ウゥゥゥ……!!」

 

 熱線はますます勢いを強め、光の盾にピシリと亀裂が走る。

 

「紬ちゃん、下がって!」

 

 つながりかけた腕から、ぼたぼたと血がこぼれた。ピンク色の肉が覗き、風花の顔が苦痛にゆがむ。

 

「くっ、このままじゃ……」

 

 ピキピキ……。

 

 その状況へ追い打ちをかけるように、ビルの向こうから救急車のサイレンが聞こえてきた。

 

 ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー……

 

「え……!? どうしてこんなところに!?」

 

 白い車両が停止すると、中から救急隊員が飛び出す。

 

「こっちだ!」

「負傷者を確認しろ!」

 

 青いユニフォームを着た救急救命士が、道端で倒れる若い男女の許へ駆け寄った。

 

「大丈夫ですか!?」

「早く、ストレッチャーへ!」

 

 シールドが、ピシリと音を立てる。

 小さなヒビが、蜘蛛の巣状にどんどん広がっていく。

 

「つ、紬ちゃん、あなただけでも逃げて!」

「そんな! 風花さんは!?」

「わたしは……あの救急車が離れるまで、何とかがんばってみる……」

 

 そうは言うものの、シールドが限界を迎えているのは明らかだ。このままではみんな共倒れになってしまう。

 

(ど、どうしよう……わたしにできることは……)

 

 紬はおろおろと周囲を見回した。

 キネティックパワーを持たない紬にできることと言えば、せいぜい姉に呼びかけるくらいのものだ。

 だがその言葉も、結局彼女には届かなかった。

 

 一体どうすれば……。

 

(ん………?)

 

 紬は「あること」に気が付き、ハッと顔を上げた。

 

(たしかに『言葉』は届かなかった。けど、あの方法なら……)

 

 確信はない。勝算もない。

 だが、このまま手をこまねいているよりはずっとマシだ。

 

(イチかバチか――)

 

 紬は意を決し、立ち上がった。

 そして両手を広げ、すうっと息を飲み込む。

 

『――――――♪』

 

 閃光の中に、澄んだ歌声が響き渡った。

 

「つ、紬ちゃん!? 何を……!?」

 

 風花が驚いて振り返る。

 

『――――――♪』

 

 紬は、歌っていた。

 その旋律は姉のものと比べて粗削りだったが、そのぶん素直で屈託がなく、どこまでも伸びやかだった。

 

「グ、ゥ………」

 

 カオリが苦悶の表情を浮かべる。

 光線の勢いがわずかに弱まる。

 

(姉さん、覚えてる? 初めて会った時のこと。あの時姉さんが聞かせてくれた歌で、今度はわたしが姉さんを救ってみせる……!)

 

 少女の歌声が、一層力強く響き渡る。

 そのメロディは淀みなく、聞く者の胸に深く沁み込んでいく。

 

「グ、アァァ………」

 

 カオリがガクッと片膝をついた。

 

(いまだ!!)

 

『――――――♪♪♪♪』

 

「グ……ガ……ガアアァアァァァ!!!!」

 

 カッ―――!!!!

 

 ドオオオォォォォオオォオォォォン!!!!

 

 シールドが割れると同時に大爆発が起こり、紬は道路の反対側へ吹き飛ばされた。

 

「あうっ!!」

 

 瓦礫の向こうで、カオリがドサリと崩れ落ちる。

 

「ね、姉さん!」

 

 紬はすぐに起き上がり、姉の許へ駆け寄った。

 

「姉さん! しっかり!」

「つ、つ……むぎ………?」

 

 歌織がうっすらと目を開いた。

 その瞳は、元の美しいエメラルドグリーンの輝きを取り戻している。

 

「よかった……正気に戻ったのね、姉さん!」

「こ、ここは……?」

 

 パチパチと瞬きしながら、歌織は周囲を見回した。

 そして崩れた街並みを目にし、愕然とした表情を浮かべる。

 

「こ……これは……まさか、わたしが……?」

「大丈夫……大丈夫よ姉さん。もう終わったから……」

 

 姉を抱きしめる紬。

 その背後から、まばゆい陽光が差し込む。

 

 雨は、いつのまにかやんでいた。

 砕けたコンクリートの先から、水滴がピチョンとしたたり落ちる。

 

「紬……わたし……何てことを………」

「泣かないで、姉さん。もう大丈夫だから」

 

 ビルの向こうで、大きな虹が輝き出した。

 

「姉さん、まずは基地に戻りましょう。きっとみんな心配してるわ」

 

 助け起こされた歌織が、再び周囲を見回す。

 

「そ、そうだ……風花ちゃんは?」

「風花さんなら、あそこに」

 

 瓦礫の陰に風花の姿が見えた。

 壊れたヒーリングガンを抱え、こちらへ手を振っている。

 

「よかった、無事だったのね……」

 

 ホッと息をつき、胸を撫で下ろした。

 と、その時。

 

 ドン。

 

 何かが歌織の背中にぶつかった。

 強い衝撃を感じ、歌織は恐る恐る振り返る。

 

「あ…………?」

 

 そして、息を飲み込んだ。

 

 太い柳刃包丁が、背中に突き立っていた。

 見知らぬ中年女性が、震える手で柄を握り締めている。

 

「あ、なた……だれ………?」

 

 頬を引き攣らせた女性は、血走った目で歌織を睨み付けた。

 

「あんたが……あんたがわたしの息子を見殺しにしたのよ!」

 

 瞬間、過去の映像がフラッシュバックのようによみがえった。

 

 燃え盛る炎、崩れ落ちた天井。

 そして……瓦礫の中で救いを求める少年。

 

「ま、さか……あなた……は…………」

「そう、わたしはライブシアターで犠牲になった……あの子の母親よ!」

 

 女性は包丁を握る手にぐっと力を込めた。

 ゴリ、と音を立て、刃が骨に食い込む。

 

「あんたがすぐ助けに行けば、うちの子は、死なずに済んだのに……!!」

 

 女性がさらに包丁を押し込もうとすると、強張った筋肉がミチリと抗った。

 やむなく女性は歌織の背に足をかけ、力任せに得物を引っこ抜く。

 

 ずるーり、と気が遠くなるような音がして、長い刃が背中から引き抜かれた。

 

「あんたは鬼よ! 人でなしよ! 街もめちゃくちゃにして……地獄に墜ちなさい!!」

 

 叫びながら、女性は勢いよく包丁を振り下ろす。

 

 刃の感触が、ぶすり、ぶすりと不快な音を脳に響かせた。

 痛みはない。だが刺されている感覚だけはある。

 

 近くで紬が悲鳴を上げた。

 立ち上がろうとした風花が、よろめいて瓦礫の中に倒れ込む。

 

 女性が何か叫びながら、仰向けになった歌織の胸へ肉厚の刃を突き立てた。

 包丁があばら骨にぶつかり、女は一層高く得物を振り上げる。

 

 ズン!

 

 今度は刃が肋骨の間をくぐり抜け、背中のほうまで押し込まれた。

 

(……………)

 

 全身から、力が抜けていく。

 意識が吸い込まれるように遠のいていく。

 

 必死で女性を止めようとする紬を見て、歌織は思った。

 

 ああ、そんなに泣かなくていいのに、と……。



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第4章 天使か? 悪魔か?
第19話 ディストラード99①


 まどろみが、視界をぼんやりと霞ませていた。

 朦朧とした意識の中で、夢とうつつの狭間をたゆたう。

 

(うう………)

 

 全身がズキズキと痛んだ。

 絶え間ない苦痛に、気が狂いそうになる。

 

 どうして身体がこんなに痛いの?

 誰か、この痛みを何とかして……。

 お願い……誰か………。

 

「―――ハッ!?」

 

 暗闇の中で目が覚め、歌織はパチパチと瞬きした。

 自室とは違う空気に、一瞬頭が混乱する。

 

(ここは……どこ?)

 

 真っ白い天井。クリーム色のカーテンに、テレビとキャビネットだけの殺風景な部屋。

 

(わたし、どうしてこんなところに……?)

 

 記憶の糸を手繰り寄せようとするが、靄がかかったようでうまく思い出せない。

 

(たしかデストルドーの地下基地に潜入して、それから……)

 

 周囲を見回そうとして、ふと四肢に違和感を覚えた。

 

(身体が……動かない?)

 

 かろうじて腕を持ち上げることはできるが、ほかの部分は痺れて思うように力が入らない。

 寝ぼけているのかと思ったが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。

 

(麻酔のせい……かしら?)

 

 ナースコールを探したが、それらしいものは見当たらない。

 やむなくドアに向かって呼びかける。

 

「あ、うぅ……は、あ………え?」

 

 そして、愕然とする。

 

(こ、声が……出ない!?)

 

 口から漏れるのは、掠れた音ばかり。

 顔の右半分も何かに引っ張られているようで、呂律がうまく回らない。

 

(ど、どうして……?)

 

 頭がますます混乱した。

 

 自分は夢でも見ているのだろうか。

 それとも……、

 

 カチャ――。

 

「おや、目が覚めたようだね?」

 

 扉のほうから聞こえた声に、歌織はハッと振り返った。

 

 白衣の男性が、ドアのそばでにっこり微笑んでいる。その隣には、女性看護師の姿も見える。

 

「……せ……ん、せ……。わ、たし………」

 

 必死にしゃべろうとする歌織を、男は片手で制した。

 

「いまは無理にしゃべらないほうがいい。そのうち日常会話くらいはできるようになるから」

 

 医師の何げない一言に、歌織はピクリと反応した。

 

(『日常会話くらい』? どういう意味?)

 

 戸惑う歌織を見下ろしながら、男は穏やかな口調で説明を始める。

 

「まずは落ち着いて聞いて欲しい。実は……君の身体は大事な神経を傷付けられてしまったせいで、自由に動かなくなっているんだ」

 

(――――――!!!?)

 

 恐怖がぞくりと心臓をつかんだ。

 足の先から、冷たい血液が這い上がってくる。

 

「緊急手術で一命はとりとめたが、顔と喉頭神経の麻痺、それから、下肢不随が残ってしまった」

「な、お………る……の?」

 

 医師は曖昧な笑顔を浮かべ、カルテを開いた。

 

「正直に言うと、現在の医療技術では、君の障害を治すことはできない」

 

 ―――――――――――!!!?

 

 一瞬、すーっと気が遠くなった。

 視界が急速に狭まり、目の前が暗くなっていく。

 

「どうか落胆しないでほしい。リハビリをすれば、日常生活くらい一人でできるようになる。それまで一緒に頑張っていこう」

 

 医師が手を取り、ぎゅっと握り締めた。

 だが歌織は何も答えず、呆然と宙空を見詰める。

 

(うそ………でしょ?)

 

 まるで現実味を感じられなかった。

 他人の話を聞いているようで、何ひとつ実感が湧いてこない。

 

「さて、そろそろお薬の時間にしよう」

 

 医師に促され、看護師が点滴のボトルをつかんだ。

 放心する歌織に向けて、女性がそっと微笑みかける。

 

「いまお薬を入れますからね。リラックスしてください」

 

 コックをひねると、薬液がぽたぽた落ち始めた。

 

「痛み止めも入ってますけど、どうしても我慢できないときは、このスイッチを押してくださいね」

 

 渡されたボタンを、力なく握り締める。

 

 歌織は口を半開きにしたまま、死んだ魚のように天井の一点を凝視していた。

 

(これは、夢? それとも幻? わたし、一体どうしちゃったの?)

 

 意識が遠のいていく。

 医師たちの声が彼方へ遠ざかっていく。

 

(夢なら、早く……覚め、て………)

 

 やがて瞼の重さに耐え切れなくなり、歌織は深いまどろみの淵へと沈んでいった。

 

    *

 

「――眠ったか」

 

 寝息を立て始めた歌織を見て、医師はおもむろに伊達メガネを外した。

 

「デストルドー因子の活動状況はどうだ」

「いまのところ鎮静化しています。ディストラード99の効果があったようです」

 

 看護師の回答に、医師は満足げな面持ちで頷く。

 

「そうか。成果は上々といったところだな」

「はい、ですが……」

 

 看護師は、口ごもりながらクリップボードの端を握り締めた。

 

「本当に……これでよかったのでしょうか」

「これでよかったのか、とは?」

 

 尋ね返され、ナースは視線を床に落とす。

 

「ディストラード99は、デストルドー因子だけでなく、その対となるキネティックパワーの働きも阻害します。生命力の源であるキネティックパワーが低下すれば、身体機能にも著しい影響が……」

 

 言葉の途中で、医師はサッと手を上げた。

 

「それ以上言うな。どのみちあれだけのことをしでかしたんだ。もうこの病院から出ることはできない」

 

 言いながら窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間へ指を差し込む。

 

 病院の前では、プラカードを持った群衆がシュプレヒコールを上げていた。

 

「街を破壊するヒーローは要らない!」

「アイドルヒーローズは危険な爆弾だ!」

 

 看護師はそっと目を伏せ、上着の裾を握り締める。

 

「分かるだろう、君にも、この状況が」

 

 吹き込んだ風が、レースのカーテンを音もなく揺らした。

 首から下げた聴診器が、光を反射してキラリと輝く。

 

「さあ、今日のところは一旦ラボへ戻ろう。研究の進捗状況を報告しなければならない」

 

 相手が頷くのを確認し、医師はドアへ向かって歩き出した。

 

「せめて眠っている間だけは、良い夢を……」

 

 バタンとドアが閉じられ、病室は再び陰鬱な闇に包まれた。

 

    *

 

 ズキン! ズキン! ズキン!

 

(う…………)

 

 繰り返し襲ってくる鈍痛に、歌織は表情をゆがめた。

 握り締めたシーツに、じわりと汗が沁み込む。

 

「はぁ……はぁ……はぁ…………うっ!」

 

 激しい痛みで目が覚めた。

 周囲を見回し、ここが病室であったことを思い出す。

 

(わたし……どのくらい、眠っていたのかしら)

 

 閉ざされた部屋は薄暗く、昼か夜かも分からない。

 

 ギシ――。

 

 背中の下で、スプリングが音を立てた。

 見上げた点滴バッグは、いつの間にか底を尽きかけている。

 

(そういえば、お手洗いは……)

 

 ふと尿意を覚え、歌織はきょろきょろと室内を見回した。

 だが、それらしいものはどこにも見当たらない。

 

(もしかして、部屋の外かしら……?)

 

 確認したいところだが、両脚が動かないので、ベッドから降りることもできない。

 

(どうしよう。これじゃ、お手洗いに行けないわ……)

 

 身動きが取れない分かった途端、急激に尿意が込み上げてきた。

 そわそわと辺りを見渡し、ブランケットの下で太ももをこすり合わせる。

 

(あ、そうだ。たしかナースコールが……)

 

 看護師から渡されたボタンのことを思い出し、歌織は頭上のスイッチに手を伸ばした。

 

 カチリ。

 

「……………」

 

 しかしボタンを押しても、インターホンからは何の返事もかえってこない。

 

(変ね、誰もいないのかしら……?)

 

 カチリ。

 

 念のため、もう一度強めにボタンを押す。

 

「……………」

 

 だが待てど暮らせど、返事は一向にかえってこない。

 

 歌織は患者衣の裾をつかみ、そわそわと身体を揺すり始めた。

 

(どうして誰も出ないの? 早くしないと、このままじゃ……)

 

 居ても立ってもいられず、ボタンを何度も押す。

 

 カチカチカチ、カチカチ。

 

 だがそれでもインターホンは反応しない。

 

(うう……もう、ダメ………)

 

 いよいよ限界が近付いてきたその時、

 

 ガラ―――、

 

 スライドドアが開き、待ちかねた人物がようやく姿を現した。

 

(あ……よかった)

 

 ホッと胸を撫で下ろす歌織。

 だが入ってきた相手を見て、ギクリと表情を強張らせる。

 

「え………?」

 

 現れたのは、男性看護師だった。

 性別の違いに一瞬戸惑ったが、いまはそんなことを言っている余裕はない。

 

「大丈夫ですか? どうしました?」

「とイ、れ………」

 

 羞恥心をこらえながら、用件を伝える。

 

「ああ、はいはい、トイレね」

 

 男性看護師は頷くと、ベッドサイドからプラスチックの容器を取り出す。

 

「はい、どうぞ」

 

 その形状を見て、歌織はぞっと顔を青ざめさせた。

 

(それは……、まさか………)

 

 平べったいボトルに、ゴム製のラッパ口が付いた半透明の器。

 

「どうしました? 我慢はよくないですよ」

 

 男性看護師が差し出したのは、いわゆる排尿用の尿瓶(しびん)だった。

 

「い、や……」

 

 やはり女性に代わってもらおうと、歌織は身振り手振りで必死に訴える。

 だが相手は、まるで取り合おうとしない。

 

「歌織さん、夜は人が手薄なんですから、早く済ませちゃってください」

 

 面倒臭そうに言って、掛布団を無理やり引き剥がそうとする。

 

「や、あ……っ!」

 

 思わず男の手を払いのけた。

 拒絶された看護師は、苛立ちも隠さずため息をついた。

 

「はぁ……あのねえ歌織さん、あんまり困らせないでもらえます? あなた一応『元』アイドルヒーローズなんでしょ?」

 

 無神経な言葉に、カーッと頭へ血が上った。

 「元」じゃない。わたしはいまもアイドルヒーローズだ。

 

「さ、続けますよ」

 

 再び掛布団を剥がそうとした男の手を、歌織は乱暴に振りほどいた。

 そしてうんざり顔の相手に向けて、掠れた声で言い放つ。

 

「……もう、いい……です」

 

 憤慨しながら、ベッドサイドに立てかけられていた松葉杖をつかむ。

 そのまま腕の力で、無理やり身体を引き起こそうとする。

 

「ちょ、ちょっと、無理しないほうがいいですよ……」

 

 呼びかけてくる男性看護師を無視して、歌織は一気に上体を持ち上げた。

 

「ふっ、く……!」

 

 脇当てに体重を乗せ、何とか立ち上がることに成功する。

 

(やった……!)

 

 起き上がってしまえばこっちのものだ。あとはこのままトイレに向かえばいい。

 

 男性看護師は、これ見よがしにため息をついた。

 

「はぁ……しょうがないなぁ………」

 

 小さくぼやき、横から肩を貸そうとする。

 だが歌織は、身じろぎして相手の助けを拒否した。

 

「や………!」

 

 親切心をないがしろにされた看護師は、苦々しげな表情でドアを開ける。

 

「……もうどうなっても知りませんからね?」

 

 吐き捨てるように言い放ち、そのままスタスタと歩み去ってしまう。

 

「……………」

 

 歌織は無言で松葉杖を突き出した。

 足元を確かめながら、慎重に歩き出す。

 

 カツン――。

 

(いける……)

 

 多少ふらふらするが、どうにか前へ進めそうだ。

 自信を得た歌織は、ゆっくりとドアをくぐって廊下に出る。

 

(あそこね……)

 

 数メートル先の壁に、トイレの表札が見えた。

 大した距離ではない。これなら充分間に合いそうだ。

 

(落ち着いて、慎重に………)

 

 カツン……、カツン……、

 

 杖を突くたび、鈍い振動が下腹に響き渡った。

 焦燥感に駆り立てられながら、一歩一歩、ゆっくり前進していく。

 

(大丈夫、間に合う……)

 

 自分に言い聞かせながら、必死に歩を進める。

 突き上げた衝撃が膀胱を揺すり、ショーツがじわりと湿り気を帯びる。

 

(くっ……まだ、大丈夫……)

 

 トイレはもうすぐそこだ。

 これならギリギリ間に合う。

 

 歌織は懸命に杖を運ぶ。

 ステッキと脚を、交互に前へ出す。

 

(はぁ、はぁ……)

 

 いよいよ化粧室のドアが目前に迫ってきた。

 思わず安堵の息をつきながら、細い手を伸ばす。

 

 と、その時――。



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第20話 ディストラード99②

 永田町二丁目、総理大臣官邸5階。

 石庭を臨む長い回廊を、二人の男が早足で歩いていた。

 

「メディアのコントロールは順調か?」

「はい、ご指示通りに」

 

 銀縁メガネの男が、即座に答える。

 

「ただ、ここまでの規模となりますと、メディアにも相応の借りを作らざるを得ません」

「構わん。後で当たり障りのない情報をリークして顔を立ててやれ」

 

 カツ、カツ、カツ――。

 

 中庭を横目に見ながら、二人は無言で廊下を歩いて行く。

 天井から差し込む陽光が、孟宗竹を青々と照らす。

 

 ピタリ。

 

 男が執務室の前で立ち止まった。

 ドアノブに手をかけようとして、くるりと振り返る。

 

「いいか、今回の事件はあくまでもアイドルヒーローズ個人の暴走ということで片を付けろ。絶対に政局へは飛び火させるな」

「はっ」

 

 緊張した面持ちで、銀縁メガネの男が頭を下げる。

 

「ところで、各紙から今回の件についてコメントを求められていたな」

「はい。どのように答えておきますか?」

 

 初老の男は、ふっと肩をすくめた。

 

「遺憾の極みとでも言っておけ。それと、このような事態が二度と起こらないよう、徹底的に膿を出し切るとな」

 

 執務室のドアを押し開けながら、男は昏い笑みを浮かべる。

 

「これでようやく、あのアイドルヒーローズどもに手綱を付けることができる……」

 

 窓の向こうでは、「H」の文字を象ったツインタワービルが街を睥睨していた。

 その特徴的なシルエットを一瞥し、男は忌々しげに舌打ちする。

 

「アイドルヒーローズがいるから日本に軍隊は必要ないだと? バカを言え。これで夢想家どもも少しは現実を見るだろう」

 

 くっくと肩を揺すり、男は執務室のドアを閉じた。

 ガラスで囲まれた園庭には、長い影が伸び始めていた。

 

    *

 

 カツン、と音を立て、歌織は松葉杖を突いた。

 衝撃が下腹へ伝わり、思わず「く……」と声を漏らす。

 

 目的地はもうすぐそこだ。

 一時はどうなるかと思ったが、この距離なら充分間に合いそうだ。

 

 グリップを握り直し、キッと顔を上げる。

 慎重に足元を確かめながら、一歩ずつ前へ進んでいく。

 

「着いた……」

 

 化粧室の表示板を見上げ、歌織は大きく息を吐き出した。

 長かった道のりを思い返し、小さな達成感に浸る。

 

(ここまで来れば、もう大丈夫)

 

 安堵しながら、スライドドアに手を伸ばす。

 

 と、その時――、

 

 ガラ!

 

 突然ドアが開き、中から年配の女性が出てきた。

 

 ドシン!

 

「きゃっ!?」

 

 肩を当てられ、バランスを大きく崩す。

 

(危ない!)

 

 カッ――!

 

 咄嗟に突いた松葉杖が、歌織の身体を支えた。

 

(ふぅ……)

 

 思わず胸を撫で下ろす。

 だがその瞬間、

 

 ブルッ!

 

(あ………!)

 

 温かいものが、じわりと下着を濡らした。

 溢れた液体が太ももを流れ落ち、両脚の間に大きな水溜まりを作る。

 

「あ……あぁ………」

 

 目から涙がこぼれた。

 喉から嗚咽が漏れた。

 

「……うぇ、え……、ええええぇぇ………」

 

 人目もはばからず、歌織は泣いた。

 

 悔しさと、恥ずかしさと、情けなさでいっぱいだった。

 塩からい涙が、唇を濡らす。

 

(どうして……どうしてこんな目に遭わなければならないの?)

 

 濡れたスリッパが、わずかに残ったプライドを汚した。

 

(これまでたくさんの人を救ってきたのに……何度も日本の未来を守ってきたのに……それなのに、どうして……どうして………)

 

 絶望の中で、自らの頭を掻き毟る。

 

 チクッ――!

 

「つッ!?」

 

 突然鋭い痛みを感じ、歌織はそっと手を下ろした。

 そして指に絡まったものを目にし、首をひねる。

 

(何、これ……?)

 

 手の平に、真っ白な毛束が垂れ下がっていた。

 

(白髪……? どうして………?)

 

 まさか……。

 

 恐ろしい事実に思い当り、そっと頭皮に触れる。

 パサリと音がして、銀髪が足元の水溜まりに落ちる。

 

(あ…………)

 

 ドクン、ドクンと心臓が胸を叩いた。

 化粧室に入り、ミラーを覗き込む。

 

(………これは………誰?)

 

 鏡には、やつれた女性が映っていた。

 

 土気色の肌に、ボサボサの白髪頭。

 歌織が自分の頬に触れると、鏡の女性も頬に触れる。

 

(うそ……でしょ………?)

 

 美しかった亜麻色の髪が、見る影もなく抜け落ちていた。

 瑞々しかった肌は、あちこちシミでくすんでいる。

 

「い……や…………」

 

 歌織は震える手で、顔を覆った。

 

「い……やだ………………」

 

 涙を流し、頬に爪を立てる。

 

 いや………いや…………、

 いや………いや…………、

 

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 悲鳴が響き渡り、歌織はパタリとその場に昏倒した。

 

    *

 

 トゥルルルルルル――。

 トゥルルルルルル――。

 

 リビングから聞こえた着信音に、紬は料理の手を止めて振り返った。

 テーブルへ駆け寄り、携帯電話をつかむ。

 

「もしもし、姉さん!?」

 

《あ……紬ちゃん? いま大丈夫?》

 

 聞こえてきたのは風花の声だった。

 落胆を気取られないよう、慌てて態度を取り繕う。

 

「え、ええ、大丈夫です。どうしました?」

《……この間は、本当にごめんね。わたしが力を使い切っていなければ、歌織さんをすぐ治療できたのに……》

 

 嫌な記憶がよみがえり、ぐっと胸を押さえる。

 

「そんな、風花さんのせいじゃありませんよ。わたしのほうこそ、もっと力があれば……」

 

 言いながら、視線を床に落とす。

 

 二人とも、まるで罰してもらうことを求め合っているかのようだった。

 しかしそんな行為に意味がないことくらい、お互いイヤというほど分かっている。

 

《……ところで、歌織さんが運ばれていった病院、分かった?》

 

 風花の問いに、紬は一瞬言葉を詰まらせた。

 

「それが……まだ分からないんです。ヒーローズの本部に問い合わせても確認中としか答えてくれなくて……」

《そう……なんだ》

 

 考えてみれば……いや、考えるまでもなくおかしなことだった。

 唯一の肉親である妹にさえ入院先が知らされないなんて……。

 

「風花さんは、何か聞いてませんか?」

《ごめんなさい、わたしも何も……》

 

 声が小さくしぼんでいく。

 

《ただ……ちょっとだけ気になることがあるの》

「気になること?」

《ええ。紬ちゃんのところには、記者さんから取材のオファーって来たかしら》

「いえ、何も」

 

 質問の意図を測りかね、紬は困惑気味に答える。

 

「取材がないと、どうかしたんですか?」

 

 風花が、そっと声をひそめる。

 

《変だと思わない? この間みたいなことがあれば、すぐに記者さんたちが押しかけてくるはずなのに》

「……まあ、たしかに」

 

 言われてみればそのとおりだ。

 アイドルヒーローズの本部が抑えてくれているのかもしれないが、それにしても静かすぎる。

 

《他の子たちにも聞いたんだけど、やっぱり誰も取材を受けてないんですって。これってやっぱり変よね……》

「そう、ですね……」

 

 紬はそっと胸に手を当てる。

 

 大事件が起こったのに動かないマスコミ。

 入院先さえ分からない姉。

 

 まるで、誰かが自分たちを隔離しようとしているかのようだ……。

 

《紬ちゃんも、何かあったら遠慮なく相談してね。わたしたち、同じ事務所のアイドルなんだから》

「……はい、ありがとうございます」

 

 先輩の心遣いに、胸がほんのり温かくなった。

 きっと風花は、これが言いたくて電話をかけてくれたのだろう。

 

《それじゃあまた。何かあったら電話するわね》

「わたしも、姉さんの居場所が分かったらご連絡します」

 

 ピッ。

 

 通話を切ると、部屋の中が一層静かになったように感じられた。

 誰もいないリビングで、紬はポツリとつぶやく。

 

「……どこに行っちゃったの、姉さん?」

 

 テーブルには、二人分の料理が並んでいた。

 歌織が着るはずだったドレスが、壁を白く飾り立てている。

 

「せっかくの誕生日なのに、おめでとうも言えないなんて……寂しいよ、姉さん」

 

 ため息をつきながら、テーブルの上の小箱をそっと手に取る。

 

「早く渡したいな、誕生日プレゼント」

 

 ケースのリボンを、大切そうに撫でる。

 と、その時――。

 

 ドガァアアアァァン!!!!

 

「きゃっ!?」

 

 突如、爆発音が鳴り響き、テーブルの上のワインボトルがカタカタと音を立てた。

 慌てて窓に駆け寄り、外へ身を乗り出す。

 

「あ、あれは――!?」

 

 街の様子に絶句した。

 

 市街地から朦々と煙が立ち昇っている。

 あちこちで火の手が上がり、ガラス張りのビルがオレンジ色に染まっている。

 

 ズシン――!!

 

 巨大な足音が、地面を震わせた。

 炎の背後で、大きな影が揺らめく。

 

「え……? 何、あれ……?」

 

 マンションほどの高さの何かが、摩天楼の陰へサッと隠れた。

 

「い、いまのは、一体……?」

 

 茜色の空にサイレンが鳴り響き、携帯電話がアラーム音を発する。

 

《緊急避難警報です。いますぐ付近のシェルターに退避してください。緊急避難警報です。いますぐ付近のシェルターに退避してください》

 

 紬は慌てて周囲を見回した。

 

「わたしも逃げなきゃ……!!」

 

 考えるより早く、ハンガーからドレスをむしり取った。

 

 これは姉の努力と苦労の結晶だ。

 これだけは……これだけは何としても守らなければならない。

 

 デイパックへ素早く衣装を詰め込み、ドアのほうへ駆け出す。

 

「姉さん、どうか無事でいて……」

 

 見上げた空の彼方では、不穏な気配が漂い始めていた。



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第21話 襲撃①

 歌織は呆然と、天井を眺めていた。

 テレビがチカチカ瞬くそばで、死んだようにパネルの染みを見詰め続ける。

 

《――政府は今回の事件について、アイドルヒーローズに対する強い憤りを示すとともに――》

《事件を起こしたヒーローについては、すでに叙勲の取り消しが決定されており――》

 

 キャビネットには、見慣れたタイトルのファッション誌が置かれていた。

 かつて自分が映っていた表紙では、いまや知らないモデルが艶然と微笑んでいる。

 

「……………」

 

 手に取ろうとして、やめた。

 どうせ書いてあることは、自分に対する悪口ばかりだ。

 

(みんな、どうしてるのかしら……)

 

 入院してから、訪ねてくるものは誰一人としていない。

 アイドルヒーローズの仲間はおろか、妹の紬でさえ一度も顔を見せない。

 

(こんな状態じゃ、仕方ないか……)

 

 いまや自分は完全に犯罪者扱いだ。

 そんな人間に関わりたいと思う者など、一体どこにいるだろうか。

 

 だがそれは、歌織にとって一種の救いとも言えた。

 

 そっと自分の身体を見下ろす。

 

 やせこけた手足、シミだらけの肌、抜け落ちた頭髪。

 握り締めたシーツに、ぽたぽたと小さな雫がこぼれ落ちる。

 

(こんな身体じゃ、ドレスも着られないわ……)

 

 せっかく買った衣装は、すっかり無駄になってしまった。

 楽しみにしていた自分が馬鹿みたいだ。

 

(どうして……どうして、こんなことになってしまったのかしら……)

 

 自分はただ、ヒーローになって、誰かを救いたいだけだった。

 困っている人を助け、少しでもその痛みを取り除きたいと願っただけだった。

 

 それなのに、こんな……。

 

 ドガァアアアァァン!!!!

 

「―――――!?」

 

 突如響き渡った轟音に、歌織はハッと顔を上げた。

 

(あ、あれは……!?)

 

 窓を見て、ハッと息を飲み込む。

 燃え盛る炎が、ビルをオレンジ色に染め上げていた。

 立ち上った黒煙が空を覆い、あちこちでサイレンが鳴り出している。

 

(何が起こったの……?)

 

 ただの事故にしては規模が大きい。

 まさか、デストルドーのテロだろうか。

 

 ズシン――!!

 

 突き上げるような衝撃に、身体がふわりと浮き上がった。

 

(い、いまの振動は……?)

 

 ベッドから身を乗り出し、もう一度窓の外を覗き込む。

 

 ズシン――!!

 

 再び足元が揺れ、マットレスがぎしりと音を立てる。

 

(この音、まさか……)

 

 目を凝らした歌織は、ビルの合間でうずくまる巨大な影に、思わず息を飲み込んだ。

 

 グルルルルルル…………。

 

(うそ、でしょ……)

 

 炎の中から、巨大な獣が立ち上がる。

 爬虫類じみた皮膚に、竜のような頭部。

 

(あれは……)

 

 真っ黒い瞳が、ギロリとこちらを睨み付けた。

 歌織は慌てて身を屈める。

 

(……聞いたことがあるわ、デストルドーが開発している生体兵器があるって。名前はたしか、『暗黒怪獣』。まさか、もう完成していたの……?)

 

 蠢く影は、黙示録の獣そのものだった。

 冒涜と破壊を具現化した咢が、天に向かって雄叫びを上げる。

 

 グオオオォォォオォォオオオォォォン!!!!

 

「ひっ!?」

 

 思わず耳を押さえ、身体をすくめた。

 窓がビリビリ震え、院内のあちこちから緊急速報のアラーム音が上がる。

 

 ウィン、ウィーン!  ウィン、ウィーン!

 

 不安を煽るその音に、歌織は自分の肩をかき抱いた。

 

(どうして……どうしてまだアイドルヒーローズは現れないの……?)

 

 通常であれば、すぐにホットスクランブルがかかるはずだ。

 それなのに、姿を現さないというのはどういうことか。

 

(まさか、彼女たちの身にも何か……?)

 

 見上げる空に、ターボファンエンジンの排気音が鳴り響いた。

 白い飛行機雲が、真一文字に天を切り裂いていく。

 

(あれは……空自のF-2?)

 

 二機の戦闘爆撃機は、銀翼を閃かせながら、暗黒怪獣目がけてレーザー誘導爆弾を投下した。

 

 ドガァァァアアァァン!!!!

 

 炎の華が咲き乱れ、巨体が業火に包まれる。

 

 しかし……、

 

 ブルルル……。

 

(ダメ、あんな攻撃じゃ……)

 

 煙の下から現れたのは、傷一つ負っていない魔獣の姿だった。

 

(暗黒怪獣の身体はダークパワーで守られている。それを打ち破ることができるのは、キネティックパワーによる攻撃だけ……)

 

 巨獣が尾を振ると、機体は空中で真っ二つに裂けた。

 黒い煙を後に残し、F-2がビルの谷間へと墜ちていく。

 

(ああ……このままじゃ、街が……)

 

 爆発がオフィス街を揺らした、その時だった。

 

「グルルルル……」

 

 暗黒怪獣が不意に立ち止まり、尻尾の先端を地面に向けた。

 鱗の下から赤い光が漏れ、巨体がぶるぶると震える。

 

(え……? な、何をする気……?)

 

 尾の付け根が、ぼこりと膨らんだ。

 先端部が花弁のように割れ、中から白い卵が吐き出される。

 

「――――!?」

 

 粘液で包まれた球体は、ドスンと音を立てて地面にめりこんだ。

 キャビネットの上にあるテレビが、その様子をリアルタイムで映し出している。

 

《ご覧ください! 怪獣の尻尾から卵のようなものが生まれました!》

 

 マイクを持ったリポーターが、興奮した口調で卵へ近付いていく。

 

(いけない、離れて!)

 

 その目の前で、厚い殻にピシリとひびが入る。

 

《あ、卵の中から何か出てきました!》

 

 固い表面が剥がれ落ち、中から茶色い物体が飛び出す。

 同時にモニタの向こうで悲鳴が上がる。

 

《な、何でしょうかあれは。生き物でしょうか。これまで見たこともない姿をしております》

 

 揺れる画面の中を、黒い影がサッと走る。

 

《おい、こっちに来たぞ!!》

《危ない、離れろ離れろ!!》

 

 突然カメラが横倒しになり、バタバタと足音が響き渡った。

 

《ちょ、待っ……あ、ぎゃあああああ!!!!》

 

 アスファルトに、赤い液体が広がる。

 

 ザッ――。

 

 映像が途切れ、すぐさまスタジオへ画面が切り替わった。

 

 プツン。

 

 震える手が、テレビのスイッチを切る。

 

(に、逃げなきゃ……)

 

 窓の外では、怪獣が卵を産み続けていた。

 じきにここにもあのモンスターが押し寄せてくるだろう。

 

(ひとりじゃ動けない。看護師さんを呼ばないと……)

 

 頭上のナースコールに手を伸ばし、ボタンを押す。

 

 カチリ。

 

 だがマイクからは何の反応もない。

 

(まさか、また……)

 

 再びボタンを押す。

 だが、インターホンはずっと沈黙している。

 

(どうして……? どうして誰も出ないの?)

 

 カチカチカチ、カチカチカチカチ。

 

 何度もボタンを押した。

 だがいくら押しても、ナースステーションからは返事がない。

 

(まさか……わたし、置いていかれた?)

 

 恐ろしい予感が脳裏をよぎった。

 もしそうであれば、自分の脚で逃げるしかない。

 

 意を決した歌織は、ベッドから身を乗り出し、松葉杖へ手を伸ばした。

 だがしびれる指は、グリップを握ろうとして、そのまま押し倒してしまう。

 

 カタン、カラカラ――。

 

 アルミ製の杖が、椅子の下へ転がり込んだ。

 

(しまった……!!)

 

 ベッドの縁から身を乗り出し、必死に松葉杖を拾い上げようとする。

 だがいくら腕を伸ばしても、指先は杖に届かない。

 

「あっ!?」

 

 不意にバランスを崩し、歌織は頭から床に転げ落ちた。

 

 ガツン!

 

「うっ!?」

 

 激しく肩を打ちつけ、痛みでうめき声を上げる。

 

(こ……こんなことをしてる場合じゃ――)

 

 ガシャン!!

 

 その時、階下からガラスの割れる音が聞こえた。

 同時に玄関口で悲鳴が湧き起る。

 

 ゴルルウゥゥウゥゥゥゥ……。

 

「―――――!?」

 

 獣のようなうなり声に、背筋がぞっと凍り付いた。

 

(まさか……モンスターがもう院内に!?)

 

 頭上の蛍光灯が頼りなく瞬き、プツリと消える。

 病室が薄闇に覆われ、恐怖がどっと押し寄せてくる。

 

(に、逃げなきゃ……! 早くここから逃げ出さなきゃ!)

 

 歌織は必死に松葉杖へ手を伸ばした。だが、

 

 ズル………、

 

 ズル………、

 

「……………!!」

 

 廊下のほうから、脚を引きずるような音が聞こえてきた。

 それは、ゆっくりとこの病室へ近付いてくる。

 

(ダメ、間に合わない……!!)

 

 逃げることをあきらめた歌織は、ベッドの下へもぐり込んだ。

 そのまま息を殺し、足音が通り過ぎるのをじっと待つ。

 

(ハァ、ハァ、ハァ……)

 

 自分の息遣いだけが、やけにハッキリと聞こえた。

 心臓が激しく脈打ち、耳の裏の血管をドクドクと鳴らす。

 

 ズル………、

 

 ズル………、

 

 ズル………、

 

 不気味な足音は、じりじりと部屋に近付きつつあった。

 通り過ぎてくれることを念じながら、ベッドの下でぎゅっと目を閉じる。

 

 ピタ――。

 

 病室の前で、音が止まった。

 

 ハァ………、  ハァ………、

 

 息遣いが聞こえてくる。

 扉の向こうで、何かがじっとこちらの気配を窺っている。

 

 歌織は首をすくめながら、曇りガラスをそっと見上げた。

 

「―――――!?」

 

 赤い瞳が、じっと歌織の視線を捉えていた。



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第22話 襲撃②

「ハァ……ハァ……ハァ……!」

 

 逃げ惑う人々の流れに逆らい、紬は一人、街の中心部目がけて走っていた。

 肩で息をつきながら、燃えるような夕陽を見上げる。

 

(さっき飛んで行った影……あれはきっとデストルドーだわ。だとすれば、その先に姉さんがいるかも……!)

 

 グルルルル………!!

 

「――――!?」

 

 突如聞こえた不気味なうなり声に、紬は慌てて立ち止まった。

 周囲を見回し、サッと植え込みのそばへ逃げ込む。

 

 ズシン――。

 

 ビルの陰から、小型のドラゴンのような生き物が姿を現した。

 

(な、何……あれ?)

 

 高さは大人の背丈くらいだが、頭部だけは異様に発達している。子供一人くらいなら、簡単に丸呑みできてしまいそうだ。

 

 ドラゴンは地面に顔を寄せ、すんすんと鼻を鳴らした。

 執拗に臭いを嗅ぎ回り、何かを探し求めるように辺りを見回す。

 

(何をしているのかしら……)

 

 訝る紬の耳に、かすかな呼び声が聞こえた。

 

「――たす、けて」

 

 はたと顔を上げ、周囲に視線を巡らす。

 

(いまのは、女の子の声……?)

 

 勘違いではない。たしかに聞こえた。

 耳をそばだて、声の主を探す。

 

「だれ、か……助、けて………」

 

 目を凝らすと、数メートル先の瓦礫の下で、救いを求める小さな影が見えた。

 

(あそこだわ!)

 

 立ち上がろうとした瞬間、ドラゴンがぐりんと巨大な頭部をこちらへ向ける。

 慌てて屈み込み、身を隠した。

 

(まずいわね……)

 

 ウゥウゥゥウウゥゥゥ………!

 

 低いうなり声を発しながら、ドラゴンが脚を踏み出す。

 瓦礫の陰で、女の子がビクリと身をすくめる。

 

(このままじゃ、見付かるのも時間の問題だわ……)

 

 女の子とドラゴンの距離は、せいぜい数メートル。いまは瓦礫の下に隠れているが、もう2、3歩進めば、すぐに気付かれてしまう。

 

(あの子を助けなきゃ。けど、いま飛び出せば、わたしも……)

 

 膝がガクガクと震えた。

 汗が吹き出し、吐き気が込み上げてくる。

 

(見捨てるわけにはいかない。けど、姉さんの身にも危険が迫っている……)

 

 紬は奥歯を噛み、ギュッと目を閉じた。

 

(わたし、どうすればいいの――!?)

 

    *

 

 すーっとドアが開き、冷たい空気が病室に流れ込んできた。

 もぐり込んだベッドの下で、歌織は震えながら恐怖に耐える。

 

 ズル……、

 

 足音が、部屋の中へ入ってきた。

 室内に、血の臭いがむわっと広がる。

 

 ズル……、

 

 ズル……、

 

 吐いた息が、蒸れたゴムの床に白い円を描いた。

 ギュッと目を閉じ、足音が去ってくれることを祈る。

 

(お願い、こっちにこないで……!)

 

 足音が、ピタリと止まった。

 

(………………?)

 

 病室がしんと静まり、物音一つ聞こえなくなる。

 

(いなく、なった……?)

 

 瞼を開き、ゆっくり顔を上げる。

 すると――、

 

 ギロッ!!

 

「―――――!?」

 

 黒い影と目が合った。

 

 それは、モンスターではなく、人の形をしていた。

 

「そこにいたのか……」

 

 紅い瞳の少女が、にぃっと口の端をゆがめる。

 

 黒い軍服に、金モールの飾り緒。

 間違いない。特務参謀だ。

 

 少女は立ち上がり、いきなりベッドの縁を蹴り上げた。

 

 ドカァ!!

 

「きゃっ!?」

 

 寝台は紙切れのように吹き飛び、壁にぶつかってズシンと倒れ込む。

 

「探したぞ、歌織よ……」

 

 朦々と立ち込める埃の中、軍服の少女は、歌織を冷たい目で見下ろした。

 その顔に、いつもの仮面は嵌められてない。

 

「さて、改めて自己紹介をさせてもらおう」

 

 特務参謀は軍帽を脱ぎ、慇懃な素振りで頭を下げた。

 

「わたしがデストルドーの特務参謀……『ミライ』だ」

 

(―――――!!)

 

 歌織は床の上を、ずるずると後ずさる。

 

「わ、たしを……どう……する、気……?」

 

 声を聞いた瞬間、ミライはピクリと眉をひそめた。

 

「ひどい声だな……」

 

 他人事のようなセリフに、カッと頭へ血が上る。

 

「あ、なたの……せい、で……しょ……?」

「わたしのせい?」

 

 ミライは怪訝そうに眉をひそめた。

 

「それは違うな。お前は大きな勘違いをしている」

「かん、ちがい……?」

「そうだ」

 

 軍服の少女は屈み込み、じっと歌織の目を覗き込む。

 

「いいか、よく聞け。お前は――」

 

 言いかけた瞬間、ミライは「うっ」と口を押えた。

 

「ゴホッ! ゴホッ、ゴホッ!!」

 

 指の隙間から、赤い血が飛び散る。

 

「…………? どう、したの……?」

 

 脂汗を浮かべながら、ミライはグイッと口元を拭った。

 

「見苦しい姿を見せてしまったな。どうやらこの身体も、限界に近付いているらしい……」

「げん、かい……?」

「そうだ。デストルドー因子の力に耐えきれなくなって、身体が崩れ始めているのだ」

 

 意味が分からず、歌織は瞬きを繰り返す。

 

「時間が惜しい。単刀直入に言わせてもらうぞ」

 

 そっと息を吐き出し、少女は相手の両目をじっと見据える。

 

「歌織よ……お前の身体が欲しい」

「――――!?」

 

 歌織は再び困惑の色を浮かべた。

 

「どう……いう、こと………?」

「戸惑うのも無理はない。だがこれを見れば、少しは理解できるだろう」

 

 言いながら、ミライは懐から黒いダガーを取り出す。

 その刃は、以前よりも一層禍々しい気配を放っている。

 

「見ろ、この美しい刀身を」

 

 恍惚とした表情で、少女は黒いブレードを撫でた。

 

「これこそが、暗黒核で作られた我が本体……【ネメシス】だ」

「ネメ……シス?」

 

 こくりと頷き、ミライは口元にゆがんだ笑みを浮かべる。

 

「いまの身体は仮の住まいに過ぎない。この黒い刃に宿る怨念や憎悪こそ、わたしの核であり、魂そのものなのだ」

「……………!」

 

 こめかみを、冷たい汗がしたたり落ちた。

 

 武器が意思を持ち、人の身体を乗っ取るなど、にわかには信じがたい話だ。

 しかしそれが事実だとすれば、この参謀に過去の経歴が一切ないことも含め、すべて辻褄が合う。

 

「どう、して……わたし、に……その、話を……?」

 

 ミライは静かに歌織の目を覗き込んだ。

 

「この少女の身体では、わたしのダークパワーに耐え切れない。だが、お前の身体なら別だ」

 

 オレンジ色の夕陽を背に、赤い瞳がギラリと光を放つ。

 

「お前は優れたデストルドー因子を有している。お前なら、この【ネメシス】の力を最大限に発揮することができる」

 

 ―――――!?

 

「わた、しが……デ、ストルドー……因子を、有、して……いる?」

 

 歌織は愕然と目を見開いた。

 

 わたしはアイドルヒーローズだ。

 平和を守る、正義の象徴だ。

 そのわたしが、デストルドー因子を保有している……?

 

「そ、んな……バ、カな………」

「バカではない。お前も本当は気付いているのだろう? 自分自身の本性に」

 

 逆光を背に浴びながら、ミライがささやく。

 

「思い出してみろ、あの時のことを。破壊の衝動に身を任せ、守るべき者たちを傷付けた、あの時のことを」

 

 脳裏に忌まわしい記憶がよみがえった。

 吹き飛ぶ街並み、逃げ惑う人々。そして、湧き上がる暴力への渇仰。

 

「だから言っただろう、わたしのせいではないと。あれは……すべてお前自身が望み、お前自身が引き起こしたことだ」

「―――――!!」

 

 息が詰まり、ぎゅっと胸を押さえた。

 酸素が不足し、視界がどんどん狭まっていく。

 

「ウ……ソよ。そんなこと………」

「ウソかどうかは、お前自身が一番よく分かっているはず。もう一度思い起こせ、あの時の解放感を。甘美でしびれる、狂おしいほどの解放感を!!」

 

 少女の声が、耳を貫いた。

 汗ばむ手の平を、じっと見詰める。

 

 信じられない……。

 信じたくない……。

 

 だがあの時味わった快感の余韻は、いまも肌にまとわりついている。

 

 下腹をかき回されるような悦楽の波。全身を突き上げるようなエクスタシー。

 その一つ一つが、どんな言葉よりも鮮明に真実を物語っている。

 

「もう一つ、いいことを教えてやろう」

 

 ミライが薄い唇をにっと持ち上げた。

 

「わたしと一体になれば、お前が失った声も、力も、美しさも……すべて、完璧に取り戻すことができる!!!!」

「――――――!!!?」

 

 燃えるような衝動が、歌織の胸を駆け抜けた。



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第23話 瑠璃色の記憶

 植え込みの陰から、紬はそっと周囲の様子を窺った。

 

 スンスン……、スンスン………。

 

 ドラゴンは、臭いを嗅ぎ回りながら交差点の向こう側をウロウロしている。

 

(いまならあの子を助け出すことができるかもしれない……)

 

 立ち上がろうとして、一瞬躊躇した。

 

(わたし、震えてる……?)

 

 失敗した時のことを想像して、ぞっと肌が粟立つ。

 巨大な鉤爪、ギザギザに並んだ牙。

 それらが腕に噛み付き、脚を引きちぎる様子をイメージして、思わず全身を強張らせる。

 

(考えてみれば、わたしはアイドルだけど、ヒーローじゃないわ。危険を冒してまで誰かを助けるなんて、そんなことをする義理はない……)

 

――本当にそう?

 

 誰かの声が、耳の奥に響き渡った。

 

――たしかにわたしはヒーローじゃない。できることだって限られている。

 けど、姉さんだって、乗り越えられるかどうか分からない試練に、何度も飛び込んできたんじゃない?

 そこに、ヒーローかどうかないかなんて違いはないはずよ。

 

(でも……)

 

 もう一つの声が、紬を呼び止めた。

 

(もしわたしが死んでしまったら、誰が姉さんを助けに行くの……?)

 

 デイパックのヒモが、ずしりと肩に食い込む。

 

(ここであの怪物に食べられてしまったら、ドレスも届けられなくなってしまう……)

 

 自分の声が、脳内で反響する。

 互いに正反対のことを主張し、真っ向から対立する。

 

(わたし、どうすれば……)

 

 紬は頭を抱えた。

 

(あの子の命と、姉さんの命。どちらか一つを選ぶなんて、わたしにはできないよ)

 

 それに、二人だけの命ではない。

 自分自身の命もかかっている。

 

(こんな時、姉さんだったらどうするの……?)

 

 救いを求め、天を仰ぐ。

 

 その瞳に、まばゆいオレンジ色の夕焼けが映った。

 記憶の底から、かつて見た景色がよみがえる。

 

『――ねえ、紬。一つだけ、あなたに覚えておいて欲しいことがあるの』

 

 あの時、姉さんは優しく微笑みながら言った。

 

『どんなことがあっても、絶対に譲れないもの。それは……あなた自身の正義よ』

『あなたの正義はどこにあるのか。それをしっかり見極めて、心に留めておいてね』

 

 わたしの正義……。

 わたし自身の正義……。

 

 一体、どこにあるのか……。

 

 目を閉じ、首を左右に振る。

 

(分からない……わたしは姉さんみたいに頭が良くないから、考えても分からないよ)

 

 けど……、

 

 再び顔を上げ、瓦礫の山を見詰める。

 

(だからこそ、分かるかもしれない。頭の悪い……わたしだけの正義)

 

 打算じゃない。

 計算でもない。

 正解なんて、最初から分からない。

 

 けど、伸ばした手は、留めない。

 つかむと決めたら、離さない。

 

 いま目の前にいる人を助けたいという気持ち。

 

 それが……それだけが……、

 

(わたしの正義!!)

 

 拳を握り締め、大きく息を吸い込んだ。

 

「そうだよね……きっと姉さんも、そう思って戦い続けてきたんだよね」

 

 恐怖がなくなったわけじゃない。

 不安を克服したわけでもない。

 だがいまは、そうすることが当たり前であるかのように、身体が動いた。

 

 タッ――!

 

 植え込みの陰から飛び出し、素早く道を渡る。

 足音を潜めながら、瓦礫の下で怯える少女の許へ駆け寄る。

 

「大丈夫!?」

 

 突然呼びかけられた少女は、驚きに目をみはった。

 

「お、お姉、ちゃ――」

「し――っ!!」

 

 口に指を当て、言葉を遮る。

 

 ドラゴンは、交差点の反対側にある総菜屋へ顔を突っ込み、食べ物を漁っていた。まだこちらには気付いていないようだ。

 

「待っててね、いま助けてあげるから」

 

 少女は足を鉄筋に挟まれている。まずはこれをどうにかしなければならない。

 

「うっ……んん………!」

 

 ためしに持ち上げてみようとしたが、紬の細腕ではびくともしなかった。

 

(ダメだわ。時間がかかるけど、回りの瓦礫を少しずつどけていくしかない……)

 

 デイパックを下ろし、今度は足元のコンクリート片に手を伸ばす。

 

「ん……うっ!」

 

 つかんでみると、ブロック大の塊は予想以上の重さだった。

 息を止め、顔を真っ赤にしながら持ち上げる。

 

 ゴトン――。

 

 一個取り除くだけで、ひと苦労だった。手は汚れ、指先から薄く血がにじんでいる。

 

 痛い……。

 けど、いま立ち止まるわけにはいかない。

 

「………くっ!」

 

 気合を込め、ひとつひとつ丁寧にコンクリート片をどかしていく。

 除かれた瓦礫は、背後にうずたかく積み上がっていく。

 

「はぁ、はぁ………」

 

 しばらくすると、鉄筋がわずかながら動くようになった。

 

「頑張って、もう少しよ!」

 

 紬は笑顔で少女を励ます。

 

 だが……、

 

「…………?」

 

 少女は紬の顔を見て、カタカタと歯を打ち鳴らしていた。

 

「どう、したの……? 急に……」

 

 言いかけたその時、

 

 グルルルル……。

 

 背後で、うなり声が聞こえた。

 交差点の向こうにいたドラゴンが、いつの間にか姿を消している。

 

 ハァ―……、ハァ―……、ハァ―……。

 

 腐臭のようなにおいが、埃に混じってツンと漂ってきた。

 

(ま、まさか………)

 

 恐怖に慄きながら、恐る恐る振り返る。

 

 そして――、

 

「ゴアァァァアアアアァァアァァァァ!!!!」

「きゃああああああああああああああ!!!?」

 

 紬は反射的にデイパックをつかみ、ダッと駆け出した。

 

 ビリィッ!

 

 長い爪が背中をかすめ、ワンピースを腰まで引き裂く。

 

 ズシン! ズシン! ズシン!

 

 足音が轟然と追いかけてきた。

 すぐ後ろに、獣の息遣いを感じる。

 

(くっ、速い! でも……)

 

 交差点の向こうを見て、紬は奥歯を噛み締めた。

 

(あの総菜屋へ逃げ込めば、エサで足止めすることができる!)

 

 目的地までわずか数メートル。だがその小さな距離が、無限に長く感じられる。

 アスファルトが揺れ、獣の足音がすぐ背後に迫ってくる。

 

「はぁ! はぁ! はぁ!」

 

 息が切れ、足がもつれた。

 肺が悲鳴を上げ、脇腹に鈍痛が走る。

 

 それでも必死に腕を振り、夢中で道路を駆け抜ける。

 

(あと少し……!)

 

 残り2メートルを切ったところで、紬は勢いよく地面を蹴った。

 

「たあっ!」

 

 頭から店内へ飛び込み、床の上で一回転する。

 

(やった!)

 

 紬はガバッと起き上がった。

 

(――――!?)

 

 だが店内を見回した瞬間、絶望に頬が引き攣る。

 

(そ、そんな……ウソでしょ?)

 

 食い散らかされたパックに、割れたショーケース。

 すぐそばには、バラバラに引き裂かれた店員の死体が転がっている。

 

 店内は、すでに食い散らかれた後だった。

 

 ジャリ……。

 

 巨大な影が、ドアの向こうから差し込む。

 獣独特の臭気が、狭い店内にむわっと立ち込める。

 

「グルルルル………」

 

 恐ろしさのあまり、紬は声を上げることすらできなかった。

 ゆっくりと振り返り、牙の並んだ咢を見上げる。

 

「あ、あぁ………」

 

 死の予感が心臓を鷲づかみにした。

 血液が凍り、喉の奥がきゅっとすぼまる。

 

 怖い、死にたくない……。

 

 だが、不思議と後悔だけはなかった。

 自分はやり遂げたんだという達成感と、他に選択肢はなかったという諦観が、胸の中をスッキリ洗い流している。

 

 歯の根が合わさらないほど怯えているが、自分の行動に悔いはない。

 恐怖で膝の震えが止まらないが、あの子への恨みはない。

 

 そして気付く。

 

 ああ……お父さんとお母さんも、きっとこんな気持ちだったんだ……。

 

 てっきり恨んでいるのかと思っていた。

 怒り、嘆き、悔やんでいるのかと思っていた。

 

 けど、違った。

 それは、自分の勝手な思い込みでしかなかった。

 だっていま……わたしの心はこんなにも澄み渡っている。

 

 お母さん、お父さん。待たせちゃってごめんね。

 わたしも……すぐそっちへ行くよ。

 

『―――紬』

 

 えっ?

 

 突然耳元で聞こえた声に、紬は慌てて周囲を見回した。

 

『こっちよ、紬。わたしたちは……ここよ』

 

 ――――!?

 

 再び呼び声が聞こえ、紬はくるりと振り返る。

 瞬間、景色がガラリと入れ替わった。

 

(え……? こ、ここは……)

 

 薄暗い部屋に、ロウソクが立ったケーキ。

 小さなこたつと、それを囲む親子。

 

 それは、在りし日の我が家の光景だった。

 紬の両脇で、父と母が、にっこり微笑んでいる。

 

(ど、どうして、お父さんとお母さんが……?)

 

 不思議がる紬に、父がメガネの奥から優しい視線を投げかけた。

 

『やっと僕らの声に気付いてくれたね、紬』

 

 隣に座る母が、紬の頬にそっと触れる。

 

『紬ったら、いくら呼んでも全然気付いてくれないんだもの』

(呼んでいた? わたしを? 一体いつから……?)

 

 両親が、同時に微笑んだ。

 

『『ずっとだよ、紬』』

 

 ロウソクの炎が、ふわりと揺らめく。

 

『あの日から、わたしたちは毎日、あなたに呼びかけていたの』

 

 気が付くと、目から大粒の涙がこぼれていた。

 抑えても抑えきれない感情が、頬をぽろぽろ伝い落ちる。

 

(知らなかった……全然気付かなかった。わたし、ずっと二人に会いたいと思っていたのに……)

『わたしたちもよ。ずっと、あなたとお話ししたいと思っていたわ』

 

 そこは、とても暖かい部屋だった。

 心地良くて、穏やかで……すべてが安らぎに満ちた世界。

 

(ねえ、お母さん。わたし、ずっとここにいてもいい?)

『ダメよ、紬。あなたはもう行かなければならないの』

(そんな……いやよ、せっかく会えたのに)

『大丈夫よ、紬。またすぐに会えるから』

 

 母がそっと、紬の手に指を重ねる。

 その上へさらに、父が大きな手の平を乗せる。

 

『そうだよ紬。僕らだって、僕らのお父さんやお母さんと、ここで会えたんだ』

(お爺ちゃんや、お婆ちゃんと?)

 

 父が微笑みながら頷く。

 

『そうさ。だから紬には、これだけは知っておいてほしいんだ』

 

 言いながら、娘の手をぎゅっと握り締める。

 

『紬、君は僕らの宝物だ。だから君も……そろそろ自分を許してあげてほしい』

(自分を……許す?)

 

 母が、涙ににじむ目で紬の顔を覗き込んだ。

 

『そうよ、紬。だって……わたしたちは最初から、あなたのすべてを許しているんだもの』

 

 カアァァァァァアァァァァ――!!

 

 その瞬間、光が溢れ出し、全身を包み込んだ。

 不思議な浮遊感が身体を覆い、胸の痛みがすうっと溶けていく。

 

 ああ、そっか。

 わたしは、とっくに許されていたんだ。

 

 気付くと同時に、涙がとめどなく溢れ出た。

 

 どれだけ……どれだけその言葉を聞きたかったことか。

 

 八年間流すことのできなかった想いが、心の一番奥から、堰を切ったように溢れ出す。

 

『さあ、行きなさい、紬。あなたはもう、自由よ』

 

 

 キィィィィイイイィィィイイィィィン!!!!

 

 

 不思議な力が背中を押した。

 懐かしい景色が、はるか彼方へ遠ざかっていく。

 

(お父さん、お母さん、ありがとう)

 

 もう、寂しさは感じなかった。

 

(少し先になっちゃいそうだけど……また会おうね)

 

 消え去る二人の笑顔へ向けて、紬はそっと手を振る。

 

(それじゃ……行ってくるよ、お父さん、お母さん)

 

 

 スウ――――。

 

 目を開けると、そこは先ほどの総菜屋だった。

 ドラゴンが、怯えた表情を浮かべ、じりじりと後ずさっている。

 

 キィィィィイイイィィィイイィィィン!!!!

 

 全身から、黄金色の光が迸っていた。

 

(これが……キネティックパワー)

 

 力が湧き上がってくるのを感じる。

 鼓動が高鳴るのを感じる。

 

(いまなら分かる。お父さんとお母さんが、わたしを見守ってくれていたこと……)

 

 紬を抑圧していた罪悪感は、心の蓋を抑え込むことで、逆に力のキャパシティを限界まで押し広げていた。

 その許容量は並みのヒーローをはるかにしのぎ、いまや超人と呼ぶべき域にまで達している。

 

 すーっと息を吸い込み、静かに吐き出した。

 

「キネティック……パンチ」

 

 瞬間、右の拳に爆発的なエネルギーが集中する。

 

「グルルル……」

 

 ドラゴンの瞳に、恐怖の色がにじんだ。

 低いうなり声を上げ、一歩、さらに一歩、後ずさる。

 だが自分より強い生物に出会ったことのなかった若い獣は、本能に逆らって雄叫びを上げた。

 

「グォアァァァァァアアァ!!」

 

 それは、この若いドラゴンにとって致命的なミスとなった。

 

 巨獣を前にして、紬はゆっくり呼吸を整える。

 その瞳が、黄金色に輝く。

 

 キィィィィイイイィィィイイィィィン!!!!

 

「キネティックパワー・アクセラレート!!」

 

 少女は吼える。

 

「オォォバアァァァァ…………ブーストオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 刹那、空気が爆発した。

 太陽のような白い光が、ドラゴンの頭部を貫く。

 

 カッ!!!!

 

 死の間際、ドラゴンは悟った。己が最強の生物でなかったことを。

 そして悔やんだ。この場から尻尾を巻いて逃げ出さなかったことを。

 

 超高熱の拳が突き刺さると同時に、血と脳漿が蒸発し、頭蓋が内側から破裂した。

 厚い皮膚は一瞬で炭化し、巨体を支えていた筋肉と骨も、たちまち塵となって爆散する。

 

 ドゴオオォォオォオォォォン!!!!

 

 衝撃波が大気を揺らした。

 荒れ狂う爆風が、轟音とともに竜の死骸を彼方へ吹き飛ばしていく。

 

 藤色の髪をなびかせながら、紬は自分の姿を見下ろした。

 

「これが、わたしの力……」

 

 そして同時に確信した。

 この力は、わたしの味方なんだと。

 わたしを守るために、父と母が授けてくれた力なんだと。

 

「もう、大丈夫……」

 

 振り返り、窓の外を見た。

 交差点の向こうには、まだ瓦礫の山が残っている。

 あの子はきっと、怯えながらわたしの助けを待っているだろう。

 

 タッ―――。

 

 駆け出そうとしたところで、紬はふと立ち止まった。

 

「あ………」

 

 そして、ボロボロになった自分の姿を見詰める。

 ガラス戸に映った自分は、ひどい格好だ。

 ワンピースが腰まで裂け、羽織っていたボレロもいつの間にか千切れ飛んでいる。

 上半身は胸まではだけ、ほとんど半裸に近い。

 

「こんな状態じゃ、外に出られないわ……」

 

 せめて身体を隠すものがあればいいのだが……。

 

「ん………?」

 

 そこで紬は、床に転がるデイパックに目を留めた。

 

「そうだ、これなら……」

 

    *

 

 そのころ、病室では二人の人物が静かに向き合っていた。

 

「くっくっくっ……歌織よ、それがお前の答えか」

 

 病室の床に、ぽたり、ぽたりと赤い雫が滴り落ちる。

 ダガーの柄を、血まみれの手が握っている。

 

 ミライの胸には、黒い刃が深々と突き立っていた。



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第24話 The fallen bird

 最終話です。
 ここまでわたしの趣味にお付き合いくださった方々、本当にありがとうございました。
 このあと短いエピローグがあります。


 黄昏に包まれた病室で、運命の二人は静かに向かい合っていた。

 

「もう一つ、いいことを教えてやろう。このわたしと一体になれば、お前が失った声も、力も、美しさも、すべて……完璧に取り戻すことができる!」

 

 一瞬、燃えるような衝動が全身を貫いた。

 

 以前のわたしを、取り戻すことができる……?

 

 わなわなと震えながら、動かなくなった脚を見下ろす。

 歌い、舞い、美しさで羨望の眼差しを浴びていたあの頃。

 いまとなっては夢のように思えるあの頃を、もう一度、やり直すことができる……?

 

 窓に映った自分が、じっとこちらを見詰めていた。

 

 ガサガサの肌、抜け落ちた頭髪。

 こんな姿じゃ、ドレスだって着られない。

 

 もう一度……もう一度、あの頃の自分に戻ることができたなら……。

 

 顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。

 

「おこと、わり……よ」

 

 少女の眉が、ぴくりと動く。

 

「ほう……? なぜだ?」

「わたしは、ヒーロー。たとえ、どんな……ゆう、わくをうけ、ても……正義だけは……ぜったいに……ゆずれない!」

 

 ミライは目を閉じ、くるりと背を向けた。

 

「……歌織よ、お前は『無常』という言葉を知っているか?」

 

 唐突な問いかけに怪訝な表情を浮かべながらも、歌織は答える。

 

「すべてのものは、うつり、かわるという、ぶっきょう、の……おしえのこと……?」

「そうだ。この世に変わらないものなど存在しない。万物は留まることなく移ろい続ける」

 

 言い終えると同時に、ミライは再び振り返った。

 

「だがお前は、『無常』という言葉の本当の意味を理解していない」

 

 軍服の少女は両手を掲げ、天を仰いだ。

 

「考えてもみろ……変わらないものが存在しないということは、地球も、太陽も、この宇宙でさえも、すべては滅びの定めを持っているということだ」

 

 赤い瞳が妖しい光を放つ。

 

「だったらこうは思わないか? もしすべて必ず滅ぶ定めなら、誰が壊してしまっても構わないのではないか……と」

「……………!?」

 

 コツ、コツと足音を立てながら、軍服の少女が近付いてきた。

 

「憎いだろう、身勝手な人間どもが。悔しいだろう、踏みにじられた努力が。そして許せないだろう、お前から美しさと歌声を奪った、この世界のすべてがッ!」

 

 悪魔が耳元でそっと囁く。

 

「だから歌織よ……お前には、この世界を壊す権利がある」

 

 気が付くと、歌織はガタガタと震えていた。

 

(寒い……どうして?)

 

――飲み込まれそうだからだよ。

 

 内なる声が語りかけてくる。

 

――お前は正義だの勇気だのと立派なお題目を掲げているけど、その実、誰よりも強い欲望をその内に秘めている。

――だから間違えたんだよ、あの時。

 

 炎に飲み込まれた少年の姿が脳裏をよぎる。

 

(やめて! あれは仕方がなかったの!)

 

――仕方がなかった? 本当に?

――でもあの時、お前はそんなこと考えてなかったよね。

――お前が考えていたのは、自分の身を守ること、ただそれだけ……。

 

(違う! わたしは正義のため、みんなのために戦ってきたわ!)

 

――みんなって、誰?

 

(え………?)

 

――あれだけもてはやしておきながら、たった一度の過ちで断罪する人たちのこと?

 

――それとも、これまで数えきれないほど命を救ってきたのに、たった一人の命を見限っただけで激しく糾弾してくる連中のこと?

 

――それとも、ずっと一緒に戦ってきたのに、立場が悪くなると、たちまち他人のように遠ざかっていく奴らのこと?

 

「うる……さいッ!!!!」

 

 歌織は床を叩いた。

 

「わたしは……わたしはッ………」

「――歌織よ」

 

 軍服の少女が、悲哀に満ちた眼差しを向けた。

 

「歌織よ、お前はわたしと同じだ。誰かのため尽くしながら、些細なことで捨てられた、哀しい存在」

 

 そして目の前に屈み込み、黒いダガーを差し出す。

 

「だから、この刃を握れ! お前の仲間はわたしだけだ。わたしと一緒に、この世界へ報いを与えてやろう!」

 

 歌織は黒い刃をじっと見詰める。

 虚ろな表情で、差し出されたナイフに手を伸ばす。

 

「そうだ、それでいい。お前には、この世界を切り裂く権利がある」

 

 金属の柄を、ギュッとつかんだ。

 グリップの感触を確かめながら、刃の重みをずしりと受け止める。

 

「どうだ、ネメシスの握り心地は」

 

 そしてナイフを手にした歌織は、黒い切っ先をそのまま前に押し出した。

 

 ドス。

 

「――――!?」

 

 病室の床に、ぽたり、ぽたりと赤い雫が滴り落ちた。

 朱に染まった手が、ぶるぶると小刻みに震える。

 

「………くっ、くくっ」

 

 口元に血をにじませながら、ミライはうめくように肩を揺すった。

 

「それが、お前の答えか……」

 

 問われた歌織は、キッと少女を見返す。

 

「そう、よ。言った……でしょう。わたしは、ヒーロー。あなたのゆう、わくなんかに……決して、屈しない……」

「本当に、そうか?」

 

 血まみれの少女は、薄い唇を二ッとゆがめた。

 

「いま、揺らいだんじゃないか、心が?」

 

 見透かしたようなセリフに、歌織はほんの一瞬、視線を彷徨わせる。

 

「そんなこと、ない……」

「いいや、たしかに迷った。その証拠に、見ろ。わたしはまだ生きている」

 

 ミライはぐっと歌織の手をつかんだ。

 そして、一気にダガーを引き抜く。

 

「ぐっ……ごぼっ!」

「…………!? な、なに、を……!?」

 

 血を滴らせながら、ミライはふう、と息を吐き出した。

 

「もう時間がない。これが最後のチャンスだ」

 

 そう言って、じっと歌織の顔を覗き込む。

 

「これからお前に、本当の未来を見せてやろう。そのうえで、決めろ。お前にとって……何が一番大切なのかを」

 

 言い終えると同時に、少女の両目が赤い光を放つ。

 

 カッ―――――!!!!

 

 燃えるような閃光が二人を包み込んだ。

 

「く、うぅ………!!」

 

 視界がかすみ、足元の感覚が消失する。

 落下していくような浮遊感に、ぎゅっと目を閉じる。

 

 やがて歌織は、意識ごと光の中へ溶け込んでいった。

 

    *

 

 ………………。

 

「――織さん? 歌織さん?」

 

 誰かが自分を呼んでいる。

 

「ねえ、歌織さんってば! 起きて! もうステージが始まっちゃうよ!」

 

 ――――ハッ!?

 

 目を覚ました歌織は、きょろきょろと周囲を見回した。

 

「こ、ここは……?」

 

 並んだミラーに座り慣れたチェア。壁には「野球をしてはいけません!!」という注意書きが貼られてある。

 

 間違えようがない。ここはライブシアターのドレスルームだ。

 

「わたし、一体……」

 

 目の前で、桃子が呆れたように肩をすくめる。

 

「もう、しっかりしてよね歌織さん。早くしないと本番に間に合わなくなっちゃうよ?」

 

 言われてハタと思い出した。

 

(そうだ、今日はライブの日……)

 

 壁の時計は、間もなく開演の時刻を指そうとしている。

 

「いけない、急がなくちゃ!」

 

 慌てて立ち上がり、桃子と一緒に楽屋を飛び出す。

 

(どうしてうたた寝なんかしちゃったんだろう……)

 

 廊下を走りながら、自己嫌悪に襲われた。

 本番前だというのに、気が抜けているにもほどがある。

 

「あ、歌織さん! こっちこっち!」

 

 バックステージでは、ほかのアイドルたちが主役の到着をいまかいまかと待ちわびていた。

 ツインテールの美少女が、歌織の姿を見て頬を膨らませる。

 

「もう~。歌織さん、あんまり遅いから迷子になっちゃったのかと思いましたよ~?」

「ごめんね、麗花ちゃん……」

 

 一瞬、なぜか涙が出そうになった。

 不思議な感覚に戸惑いながら、乱れた前髪を手櫛で整える。

 

「さあ、ビビッと行っちゃいましょう! ファンのみんなが待ってますよ!」

 

 麗花の隣で、杏奈がフォローするようにガッツポーズを作った。

 力強く頷き返し、歌織はステージへ続く階段に足を伸ばす。

 

 ブ――――――!!!!

 

 開演のブザーが鳴り響き、ざわめきがぴたりとやんだ。

 

 胸を打つ鼓動、震える空気。

 カーテンの向こうから、熱い高揚感が伝わってくる。

 

 自分の息遣いが聞こえる。

 マイクを持つ手に汗がにじむ。

 緊張感が、背中を這い上がってくる。

 

 ドクン、ドクン―――。

 

 ゆっくりと、幕が上がり始めた。

 暗闇の中で、少女たちはスタートの合図を待つ。

 そして――、

 

 ピカッ!!!!

 

 スポットライトが、歌織たちのシルエットを鮮やかに浮かび上がらせた。

 

 ワアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!

 

 同時に響き渡る、歓声、歓声、歓声。

 サイリウムの波がうねり、激しい足音が会場を揺るがす。

 

 歌織はマイクを握り、息を吸い込んだ。

 

「みんなッ! 今日は来てくれて、本当にありがと――!!!!」

 

 そして、ライブが始まる。

 

《――――――♪》

 

 歌声が、客席の彼方まで鳴り響いた。

 まばゆい光の中で、歌織は何度も手を振る。

 

《――――――♪♪♪》

 

 声が出る!

 歌を歌える!!

 

 じんと目頭が熱くなった。

 

 音は無限に広がり、メロディーが鳥のように羽ばたいていく。

 

(気持ちいい! 本当に気持ちいい!! 歌うって……最高に気持ちいいッ!!!!)

 

 まるで、何年も声を出していないかのようだった。

 目の前の光景が、ひどく懐かしく感じられる。

 

 スポットライトを浴びながら、歌織は力いっぱい喉を震わせた。

 ステップを踏むたび、ライトが躍り、汗が飛び散る。

 

(不思議………)

 

 いつもより、自由に感じられた。

 

 わたしが弾めば観客も弾む。

 わたしが回れば観客も回る。

 

 言葉では言い表せない一体感。

 ライブでしか味わえない興奮と感動。

 

「わたし……いま……本当に幸せ!!!!」

 

    *

 

 バックステージに戻ると、仲間たちが一斉に歌織を出迎えてくれた。

 

「歌織さん、今日はすごくいい感じでしたね!」

「ほんと、イキイキしてましたよ!」

「ありがとう。みんなのおかげよ」

 

 笑顔で応えながら、パイプ椅子に腰を下ろす。

 

「ふー……」

 

 汗を拭い、ペットボトルに口をつけた。

 冷たい水が喉を潤し、清涼感が身体の隅々まで染み渡る。

 

 楽しい。なんて楽しいんだろう。

 幸せすぎて、怖いくらいだ。

 

 心地よい疲労感が全身を満たしていた。

 ひと呼吸ひと呼吸が喜びで溢れている。

 

(これが……わたしたちのライブ)

 

 ステージから差し込む光が、歌織の横顔を照らした。

 

 そう、これがわたしたちのミリオンライブ。

 「ひゃくまん」の想いを乗せた、奇跡のライブ。

 最高を更新し続ける、汗と情熱のライブ。

 虹色の光がつなぐ、笑顔と希望のライブ。

 

 天井を仰ぎ、彼方の空を見詰める。

 

 そう、だから……、

 

 この夢は……決して終わらない!!

 

「歌織さーん! 次の曲始まりますよー!」

 

 舞台袖から、出番を告げる声が聞こえた。

 

「いま行くわ」

 

 答えながら、ペットボトルを脇に置く。

 

 次はわたしのソロ曲だ。

 少し疲れているけど、いまなら何時間でも歌える。

 

 張り切って、椅子の背もたれをつかんだ。

 

(さあ、行くわよ歌織)

 

 駆け出そうと、前へ身を乗り出す。

 

 とそこで、歌織は「ん?」と首をかしげた。

 

(脚が、動かない……?)

 

 下半身が痺れて、抜け落ちてしまったかのように力が入らない。

 

『どウ、シて……』

 

 言葉を発した瞬間、歌織は慌てて口をつぐんだ。

 

(何、いまの声……?)

 

 ひどい声だった。

 まるで喉が潰れてしまったかのようで、とても自分の口から出たものとは思えない。

 

(一体どうなってるの……?)

 

 背中がぶるっと震えた。

 

 おかしい。何かがおかしい。

 

「だ、レか……」

 

 仲間を呼ぼうとして、周りに人影がないことに気が付く。

 舞台裏は死んだように静まり返っている。

 

(どういうこと? どうして誰もいないの……?)

 

 不安になり、バックステージのほうへ視線を向けた。

 

 パサリ――。

 

 と同時に、糸のようなものが膝の上に落ちる。

 

(何、これ……?)

 

 拾い上げてみると、ライトの下で真っ白い髪がキラリと輝いた。

 

(白、髪……?)

 

 恐る恐る自分の頭へ手を伸ばす。

 触れた指に、無数の抜け毛が絡みつく。

 

(どう、して………)

 

 よく見れば、その指も深いしわに覆われている。

 

(な、に……? なんな、の……これ……?)

 

 おかしい。さっきからすべてがおかしい。

 まるで悪い夢でも見ているかのようだ。

 しかし心のどこかで、これは現実だとささやく声がする。

 

「い、や……いや………」

 

 歌織は節くれだった指で、自分の頬を覆った。

 はらはらと前髪が抜け落ち、糸くずのように足元へ散らばる。

 

「いやああああああああああああああ!!!!」

 

 ―――タンッ!

 

 その時、軽やかな足音と共に、一陣の風が歌織の脇をすり抜けた。

 長くたなびいた藤色の髪が、光を浴びてシルクのようにきらめく。

 

(あれは……)

 

 抜けるような白い肌に、印象的なアクアマリンの瞳。

 

(………紬!?)

 

 少女は純白のドレスをまとっていた。

 

 刺繍に彩られた艶やかなローブデコルテ。

 あのデザイン、どこかで見覚えがある……。

 

 まさか、あれは……、

 

(わたしのドレス!?)

 

 紬は階段を駆け上がり、ステージに飛び出した。

 豊かな髪が、スポットライトの下で鮮やかに舞い踊る。

 

(待って……)

 

 少女の背中へ、歌織は手を伸ばした。

 

(それは、わたしのドレスよ……)

 

 必死に腕を伸ばし、自分のドレスをつかもうとする。

 

(お願い、返して……)

 

 まばゆい光の中へ、少女の輪郭が吸い込まれていく。

 

「おね、がい………まって!!」

 

 ガシャン!

 

 椅子が倒れ、歌織は床に投げ出された。

 痛みにうめきながら、かすむ目でステージを見上げる。

 

「あ、れは……」

 

 黄金に輝くオーラ。

 視線の先で、紬の身体がふわりと浮き上がる。

 

「キネティック……パワー?」

 

 不意に誰かの視線を感じ、歌織はハッと振り返った。

 暗闇の中から、老婆がじっとこちらを見ている。

 

(誰……?)

 

 老婆は何もしゃべらない。ただじっと、歌織の姿を凝視している。

 

「あな、た……は」

 

 歌織が口を開くと、老婆もまた口を開いた。

 驚いて身じろぎすると、鏡の中の老婆も身じろぎする。

 

 薄い頭髪、シミだらけの肌。

 歌織が頬をさすると、老婆も一緒に頬をさする。

 

「い、や………」

 

 涙がすーっとこぼれ落ちた。

 

「いや…………」

 

 深く刻まれた皺に、涙がじわりと染み込む。

 

「いや……いや………」

 

 いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!

 

 バックステージに、悲鳴が響き渡った。

 

(ウソよ! こんなのウソ! こんなの……絶対に認めない!)

 

 歌織は床を這い、姿見から離れようとした。

 その背後で、不意に黒い影が立ち上がる。

 

「―――――!?」

 

 影は、静かに歌織を見下ろしていた。

 

「………可哀想に」

 

 影がつぶやく。

 その影の名を、歌織は知っている。

 

 ミライ――。

 

 テロリストと呼ばれ、悪魔と罵られた少女。

 すべてを破壊し、冷酷無比と恐れられた少女。

 その彼女が、歌織を見て、涙を流している。

 

「見ろ、これがお前の姿だ。近いうちに必ず訪れる、未来のお前の姿だ」

「ウ、ソ……そんなはず、ない……」

 

 歌織は自分の腕に、ぎゅっと爪を立てた。

 痛い、どうしようもないほど痛い。

 

「い、や………そんな、の、いや……」

「いやかどうかは関係ない」

「でも、いや……ぜったいに、いや………」

 

 目の前の鏡に、手を伸ばした。

 

「こんな、のが……わたしの、未来、だなんて……い、や………」

 

 拳を握り締め、醜い老婆を睨み付ける。

 

 いやよ…………認めない。

 誰が何と言おうと、絶対に認めない。

 

 絶対に…………絶対に、

 

「ぜったいに………イヤ!!!!」

 

    *

 

 ――――はっ!?

 

 自分の声で、歌織は目を覚ました。

 

 きょろきょろと周囲を見回し、ここが病室であることを思い出す。

 

「いまの、は……ゆめ?」

「いいや、夢ではない」

 

 振り返ると、ミライがじっと歌織を見詰めていた。

 

「わたしのスキル【未来飛行】は、これから起こる出来事を完璧に予知することができる。お前が見たのは、わたしが最後の力を振り絞ってお前に見せた、そう遠くない未来のお前自身の姿だ」

「――――!!」

 

 歌織は震える手で自分の頬をさすった。

 

「ウ、ソよ……だって、わた、しが……あんな、みにく、い、老婆……みたいに……」

「それはお前が飲まされている薬、ディストラード99のせいだ」

「ディストラード……99?」

 

 ミライはこくりと頷いた。

 

「あの薬は、デストルドー因子を抑制すると同時に、キネティックパワーの働きも阻害する。こうしている間にも、お前の身体はどんどん老化し続けている」

「そ、んな……!」

 

 歌織は震える手足を見下ろした。

 

「だったら……そんな薬……もう、のまない」

「勝手にすればいいい。そうすれば、お前の身体は短期間でデストル化するだけだ。それに……」

 

 すっと目を細め、ミライは歌織の姿を見下ろす。

 

「いま飲むのをやめたところで、衰えた肉体が元に戻るわけではない」

「…………!!!!」

 

 歌織は、ガクリとその場に手をついた。

 

「う、そ……そんな、の……うそ、よ。だって……つむぎ、は……空を、とんで……いた。キネティックパワーを……使えない、はず、なのに……」

「ウソではない」

 

 ミライが振り返り、窓のほうへ視線を向けた。

 

「見ろ」

 

 そして、おもむろに天を指差す。

 

「姉さ――――ん!」

 

 見上げた空の彼方から、聞き覚えのある声が響き渡った。

 

「そ、んな……」

 

 歌織は息を飲み込み、その場に凍り付く。

 

 風にたなびく藤色の髪。

 夕陽の下できらめくアクアマリンの瞳。

 

 あれは……あれは………、

 

「紬―――!?」

 

 少女は純白のドレスをまとっていた。

 シルクの生地が、天使の翼のようにはためいている。

 

「どう、して……つむぎ、が……。それに……あれは……わたしの、ドレス………」

 

 壁にピシリと亀裂が入った。

 摩天楼の陰で、巨大な怪獣が雄叫びを上げる。

 

 グオオォォオオォォオオオオォォォン!!!!

 

 床が震え、天井が軋んだ。

 キャビネットから雑誌が滑り落ち、バサリと音を立てる。

 

「あ…………」

 

 開かれたページには、元気だった頃の自分の姿が写っていた。

 

 艶めく髪、陶器のような肌。

 美しさと健やかさが全身を飾り立て、自信に満ち溢れていた頃のわたし……。

 

「もう時間がないぞ、歌織」

 

 ミライがそっとささやいた。

 

「間もなくこの身は朽ち果てる。そうすれば、お前はヒーローとしての正義を全うすることができるだろう。だが――」

 

 少女はそこで息をつき、歌織の顔をじっと見詰める。

 

「だが……その代わりお前は、間違いなくあの予知と同じ未来をたどることになる」

 

 ドクン、と心臓が震えた。

 

 動かない脚、醜く老いさらばえた身体、そして……二度と出ない歌声。

 

 ドクン……、 ドクン……、 ドクン……、

 

「さあ選べ、お前が進むべき道を! 貫くのは正義か、それとも……自分自身の心か!!!!」

 

 天井が、ミシリと音を立てた。

 白い破片が剥がれ落ち、足元で粉々に砕け散る。

 

「姉さ―――ん!!」

 

 茜色の陽射しが、少女のシルエットをまばゆく際立たせていた。

 歌織はそっと顔を上げ、妹の姿を見詰める。

 

(そういえば、あの日も同じ、こんな夕焼け空だったっけ……)

 

 風が吹き付け、ほどけた髪をそよとなびかせた。

 

(ねえ、紬……あなたは、わたしの自慢の妹よ)

 

 窓から差し込む光が、スポットライトのように歌織を照らす。

 

(だから、これだけは忘れないでね……)

 

 あの日、あの時、あの場所で見せたのと同じ笑顔で、歌織は微笑んだ。

 

 

 紬……あなたのことを、愛してる。

 

 

「姉さ――――ん!!!!」

 

 ゴオォオオォォォォオォォォォォォォ!!!!

 

 直後、天井が崩れ落ち、歌織の姿は瓦礫の中へと消え去った。

 

 

    *

 

 

 ――三年後。

 

 吹きすさぶ風の中、カオリは立ち並ぶ摩天楼を見下ろしていた。

 虚空に浮かぶその手には、黒いサーベルが握られている。

 

「フン……このデストサーベルが手元にあれば、もっと早く身体を修復することができたものを」

 

 無線通話を聞いた「黒髪」が、モニタの前で肩をすくめる。

 

《仕方ないさ。君が回復に専念している間、ヒーローたちを牽制する必要があったんだから》

 

 ゴォォォォォォォ………!!

 

 彼方から、無数のエンジン音が聞こえてきた。

 カオリは悠然とした面持ちで振り返る。

 

《閣下――》

 

 耳にはめたイヤホンが、もうひとつの声を拾った。

 

《閣下、敵は想定以上の兵力のようです。ここはやはり援軍を――》

「必要ない」

 

 部下の申し出を、カオリはにべもなく一蹴する。

 

「この体がどの程度使えるのか、少し見ておきたいだけだ」

 

 暗黒剣の握り心地を確かめながら、カオリは口の端に冷たい笑みを浮かべた。

 

「さあ……終わりの始まりだ」

 

 近付いてくる戦闘機隊に向けて、黒い剣をぐっと構える。

 

「この身体に刻まれた記憶と共に……滅ぶがいい、人間どもよ!!!!」

 

 ビュッ――!!

 

 ドオオオォォォォオオォオォォォン!!!!

 

 直後、夜空に炎の華が咲き乱れた。

 轟音が天を圧し、首都の眠りを一刀の元に切り裂く。

 

 サイレンが鳴り出した街の片隅で、一人の少女が顔を上げた。

 

「あ………」

 

 真っ赤に燃える空を見詰め、少女はひとりつぶやく。

 

「この気配……まさか、姉さん?」

 

 それは悲劇の再演を告げる、残酷な運命の合図だった。



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エピローグ
ハミングバード(アナザー)


 エピローグです。
 ミリシタコミュの第10話を見る前に考えた内容なので、公式のラストとは少し異なりますが、二次創作ということでご了承いただければと思います。


 たなびく雲が、金糸のように彼方を彩っていた。

 刻々と移り行く空は、西の茜色から東の群青へ、ゆっくり染まりつつある。

 

「きれいね……」

 

 瓦礫の上で、歌織がぽつりとつぶやいた。

 

「まるで、水彩絵の具みたい」

 

 エメラルド色の瞳は、夕陽を映して明るく輝いている。

 

 隣に横たわる紬が、そっと姉の手に指を絡めた。

 

「あの日と同じね。丘の上から一緒に見た、あの日の夕焼けと」

 

 崩れかけたアイドルヒーローズ本部の上では、早くも一番星が瞬き始めていた。

 遠い空へ向けて、歌織がそっと息を吐き出す。

 

「……ありがとう紬、わたしを解放してくれて。本当はね、わたし……あなたのことがうらやましかったの」

 

 意外なセリフに、紬はパチパチと瞬きした。

 

「うらやましかった? わたしが?」

「そう。アイドルとして成長していくあなたが、ヒーローとしての未来を手に入れたあなたが、わたし、うらやましかったの……」

 

 西日の中で、歌織は静かに微笑む。

 

「わたしは……お姉さん失格ね」

 

 黄昏の斜光が、ビルをキャンドルのように燃え立たせていた。

 天を横切る鳥たちの影が、摩天楼の果てに吸い込まれていく。

 

「違うわ、姉さん。わたし、そんなことのためにアイドルになったんじゃないの」

 

 吹き始めた夜風が、二人の間をさっと流れた。

 

「わたしがアイドルになったのは……」

 

 言いながら、胸のポケットにすっと手を差し込む。

 

「……遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」

「え……? これは……?」

 

 銀色のチェーンが、風に揺れてシャランと音をたてた。

 

「わたしね、姉さんにこれをプレゼントしたくて、アイドルの仕事を始めたの」

 

 音符をかたどったペンダント。

 その中心で、グリーン・グロッシュラー・ガーネットが、緑のきらめきを湛えている。

 

「ごめんね、黙ってて。けど……いつも頑張ってくれている姉さんに、どうしても喜んでもらいたくて……」

 

 歌織の視線が、透明な石の真ん中にすーっと吸い込まれていった。

 そのまなじりから、小さな雫がこぼれ落ちる。

 

「知らなかった……わたし、全然知らなかった……そんなことも知らずに、わたしは……わたしは……」

「謝らなきゃいけないのはわたしのほうよ」

 

 目を閉じて、紬は言う。

 

「姉さんがそんなに苦しんでいたなんて、わたし、全然気付かなかったもの……」

 

 ビルの稜線で、太陽が最期の輝きを放っていた。

 光の輪が、大地の奥へと静かに飲み込まれていく。

 

「……わたしね、初めて出会った時から、ずっと姉さんのこと、天使みたいだなって思ってたの。だから――」

 

 紬は振り返り、そっと息を飲み込んだ。

 

「………………」

 

 姉は、穏やかに目を閉じていた。

 その表情からは、苦しみも悩みも、いまは一切感じられない。

 

「――眠ったのね、姉さん」

 

 涙が頬を伝い落ちた。

 にじんだ視界の中で、亜麻色の髪が静かに揺れる。

 

 ―――ピィ。

 

 ふとどこからか、鳥の鳴き声が聞こえたような気がした。

 紬は顔を上げ、周囲を見回す。

 鳴き声は、折り重なったコンクリートの隙間から聞こえてくる。

 

「あ………」

 

 声の主を見付け、思わず目をみはった。

 触れれば崩れてしまいそうなほど狭いスペースに、針金でできた巣が、ちょこんと居座っている。

 

 ピィピィ――。

 

 並んだ卵のひとつから、小さなくちばしが飛び出していた。

 

「いま、生まれたのね……」

 

 紬はそれをすくい上げ、割れた殻を慎重に取り除く。

 

「ピィ……」

 

 現れた黒い瞳が、不思議そうに紬を見詰めた。

 無垢な眼差しに、紬はくすりと微笑む。

 

「好きなだけ歌っていいのよ。あなたはもう、自由なんだから……」

 

 雛が「ピィ」と力強く鳴き返した。

 その声が、インディゴブルーの空へ吸い込まれていく。

 

「……………」

 

 頭上には、いつの間にか無数の星が輝き出していた。

 薄闇が街の輪郭を溶かし、灯されたライトが夜の始まりを告げる。

 

 澄んだ空気の中、紬はそっと息を吸い込んだ。

 

《………高鳴りに、少し、戸惑いながら……見上げてた、空の輝きを……♪》

 

 雛のさえずりに合わせ、紬は歌を口ずさむ。

 

《ああ、どこまでも高く、雲をはらって……風のように、飛んでいけるなら》

 

 かつて姉から聞かせてもらった歌。

 いまも胸に染みついている歌。

 

《知らない、世界に……指先すくむけど、知りたい、この気持ちが、翼に変わる》

 

 わたしがいま、できること。

 それは歌うこと。

 

 風が、歌声を運んでいく。

 どこまでも遠く、運んでいってくれる。

 

(姉さん……いつかまた、二人で)

 

 銀河のきらめきに頬を洗われながら、紬は無限の空を見上げた。



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