戦慄怪奇ピクニック ウラすぎ! (唐揚ちきん)
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ファイル1 くねくね捕獲作戦Ⅰ

 私は高校時代から廃墟探索が趣味だった。

 だから、「そこ」を見つけたのも、日常的に行っていたフィールドワークという名の不法侵入の一環だった。

 実話怪談が好きで暇を見つけては心霊スポットを一人で回る。大抵は何も見つからず、服の汚れと疲れだけを残して終わるのだが、その日だけは違った。

 降り積もった塵や埃で覆われた荒屋の一室。

 茶色い木製のドアに外れかけた金属の円形のドアノブを何気なく捻って開けた先には、()()()()()()()だった。

 以来、私はそこをこの世界の裏に属する世界という意味を込めて〈裏側〉と呼んでいる。

 

 

 ***

 

 

 うん……。ヤバイ。これは凄くヤバイ状況だ。

 高校生の時から一人で廃墟探索なんてやっていた時から、危ないなとは思っていたけど、まさかこんなことになるとは流石に想像できなかった。

 〈裏側〉の中にある色褪せた広大な草むら。暗い木立や小さな廃墟らしきものは点在しているものの、基本的に見えるのは水から生えている背の高い草だけの場所。

 そこで私が見たものは縦に無理やり引き延ばした人影だった。

 色は濁りのある白。

 狼煙に似たようにゆらゆらと蠢くそれは、人型ではあったけれど、致命的に人間性が欠如した存在に見えた。

 その白くて細長い人影は痙攣するように身をくねらせ、水に浸かった草原の上で踊っていた。

 楽しいのか、それとも苦しいのか。くねりくねりと。

 くねりくねり。

 くねりくねりくねり。

 くねりくねりくねりくねり。

 

「う……」

 

 視界の中でそれが身を捩る度に頭が痛くなる。気持ちが悪い。

 でも。

 何故だか目を離すことができない。

 むしろ、もっと見なくちゃいけないという気にさえさせられる。

 例えるなら、朝、目を覚ました時に直前まで見ていた夢の記憶を手繰り寄せるようとするような感覚。

 これを見ていれば、何かに気付けそうな、もどかしい気分にさせられる。

 

「いや……だめ。これ以上は……もう」

 

 くねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねりくねり。

 もうこれ以上見ていてはいけない。そう思うのに視線を逸らせない。

 けど、もう少し……。

 もう少しで何か忘れていた記憶を思い出せるような、自分の知らない未知を理解できるような、そんな感情が脳内を占めていく。

 

「うっ、うっ、うううううううううううっ……‼」

 

 口元から唸り声と共に涎が流れる。

 思考が汚染されている。目の前のくねる白い人影に、私の頭を汚そうとしている。

 脳内が外的な何かに満たされていく感覚に不快感と強い恐怖を感じた時——。

 

「何だ。てめえ……。くねっくねっ動きやがってよぉ!」

 

 中年のオッサンの声が聞こえた。

 奇怪に揺らめく人影の後ろに、誰か見えた。

 人間だ。多分、三十代後半から四十代くらいのオッサン。

 サイドは短く刈り込んでいるのに、前髪だけはオールバックに撫でつけている。チンピラか一昔前のヤクザがしていそうな髪型だ。

 手前に居る人影はぼやけて見えるのに、オッサンの方は剃らずに伸びた無精髭まではっきりと視認できる。

 

「舐めてんじゃねーぞ! オラァ!」

 

 オッサンはその手に長いカツラのようなものを握って、白い人影を殴り付けた。

 うん……? ()()()()()!?

 その人影、物理的な攻撃が効くの? というか、このオッサン何者!?

 脳裏に疑問が湧き出し始め、思考が汚染させる感覚が消え去ったことに気付く。

 私が目の前の状況を正常に考えようとしたせいなのか、オッサンが人影にカツラパンチを食らわせたせいかは分からないが、ひとまず、あの嫌な感覚はもうしない。

 

「オラッオラッオラァ!」

 

 殴られて傾いだ人影に再度、殴る。殴る殴る殴る。

 武道の達人のような正拳突きじゃない。本当にチンピラや不良がやるような素人めいた殴り方だ。

 オッサンの握ったカツラ……というか女性の髪の毛を集めて束ねたような塊は、白い人影に衝突する度にゴシャっと水気を含んだ布を叩くような湿った音を響かせた。

 次の瞬間、ぐりんと絞られた雑巾のような捻じれ方をした白い人影は――消滅した。

 視覚的には蒸発といった方が正しいかもしれない。マジックショーのようにパッと消えた訳ではなく、高温に熱した鉄に水を数滴零した時のような消滅の仕方だった。

 

「うおっ、消えやがった……。何だ、ここは。緑色のミミズの次はヘンテコなくねくね野郎かよ。ん? そこに誰か居るな? 市川……じゃねぇな」

 

 ヤバい。白い人影が消えたことでオッサンが私の姿を見つけてしまった。

 どうしよう。一応、人間には見えるけれど、あのよく解らない人影を殴って倒したこの人も〈裏側〉の住人ではないという確証もない。

 そして、仮に人間だとしても正気か怪しい。

 

「おい。聞こえてんだろ? 返事しろよ、返事!」

 

「は、はい! き、聞こえてます……」

 

 怒鳴り声につい返事をしてしまう。

 心霊映像とは比較的平気だけど、こういう暴力で物事を解決する人間に対してはまるで免疫がない。

 ビビりながら、相手に媚びるように上目遣いでそーっと見ると、オッサンはじっと睨むように私を眺めている。

 緊張が全身に走る。あわや私まであのカツラパンチによる打撃を喰らってしまうのかと覚えていたところ、返って来たのは溜息だった。

 

「やっぱ市川じゃねぇよな。……まあ、話通じんならいいや。それよりここはどこなんだ」

 

「えーと、私もよく解らないです。ただ向こうの建物のドアを開けたら、この草原が広がってて……それで入ってみたというか」

 

 しどろもどろになりながら視線をオッサンの顔からずらして喋る。

 ああ……止めてくれ。こういうのボッチ女子大学生には荷が重すぎる。大体、私だってこの場所に足を踏み入れるのは三回目なんだ。

 それも五十メートル以上、ドアから離れたのは今回が初。

 こっちの方が色々聞きたいくらいだ。

 

「あ……」

 

「何だよ、急に変な声出して」

 

 いけない。まずは最初に言うべき台詞があった。

 向こうはそのつもりはなくても、結果的にしてもらったならお礼の一つでも言っておくのは日本人として最低限の礼儀だろう。

 

「その、ありがとうございました。私、あの白い人影を見て、頭がおかしくなりそうだったので……」

 

「あのくねくね野郎か。まあ、お礼なんて別に要らねえよ。どうしてもって言うなら、そうだな。一発やらせろ」

 

「はぁー!?」

 

 何を言い出すんだこのオッサン。

 最低だ。本当に最低の人間。

 私の中でのこの男の認識が『命の恩人』から『下品なクソ親父』にまで転落する。株価でいえばストップ安だ。

 貞操の危機を感じ、身体を自分の手で押さえ、オッサンから数歩後退りして距離を取る。

 

「冗談だよ、冗談。んな顔すんなよ、俺が悪ぃみてぇだろうが!」

 

 いや、百パーセントあんたが悪いわ!

 何で逆切れしたんだ、この人。どういう神経しているんだろうか。

 向こうも私が本気で不愉快に感じているのを察すると、若干だが罰が悪そうに頭を掻いた。

 

「ま、なんだ。俺は工藤(くどう)(じん)。『戦慄怪奇ファイル・コワすぎ!』っつう心霊ドキュメンタリー作ってるディレクターだ」

 

 どのタイミングで自己紹介してんだよ! 正直、好感度駄々下がりで対応に困る。

 だが、相手が名乗った手前、こちらも無言を貫くことはできず、こちらも渋々と名前を名乗った。

 

「……私は紙越(かみこし)空魚(そらを)って言います」

 

「ソラ夫? 何だ、お前。男だったのか?」

 

(れっき)とした女子大生です。それに空に魚と書いて、そ・ら・を!」

 

 流石に男扱いされるのは絶え切れず、カッとなって工藤に言い返す。

 今はジャージ姿だけど、胸だってちゃんと付いてるだろうが! ……同世代の女の子より、少し、いや、かなり小さいけれど、あるかないかでいえばある。

 

「分かった分かった。そんじゃ紙越。その入口って奴の場所を教えてくれ」

 

 工藤は投げやりな態度で私にそう頼んで来る。

 どうしてやろうか。既に私の中の工藤の株価は大暴落している。素直に教えたいという気持ちはゼロに等しい。

 だが、このオッサンを撒いて、入口まで戻るのは至難の業だ。逃げている間に草むらしかないこの場所で迷子になる可能性だってある。

 それにもし逃げて追い付かれたら、それこそ何をされるか分かったものじゃない。

 

「…………分りました。教えます」

 

「今、何か間がなかったか?」

 

「イイエ、ソンナコトナイデス」

 

「この(あま)、お前、さては俺のこと見捨てて逃げようと考えたな?」

 

 ぼんくらに見えて観察眼があるのか、即座に私の目論見は見透かされた。

 まずい。私も殴られるかもしれない。

 引きつった苦笑いを浮かべ、どうにか誤魔化そうと視線を動かすと、工藤の少し先の草むらに何か光るものを発見した。

 ちょうど白い人影が消えた辺りの草むらだ。

 これはいい。何だかしないけど話題を変えるチャンスだ。

 

「工藤さん。足元に何か光るもの落ちてますよ」

 

「お前、俺がそんな手に……マジじゃねぇか!」

 

 疑っていた彼だったが、下を見て私の発言が嘘ではないと理解した瞬間、急いで草むらをかき分けて、光を反射したものを拾い上げた。

 工藤が拾ったそれは一辺が五センチくらいの、銀色の正六面体。それぞれの面は鏡のように滑らかで、空から注ぐ光を反射している。

 

「おい、こりゃ金になりそうだな。鬼神兵とのやり合って異界に送られた時にはもう終わったかと思ったが、案外俺の付きも消えてなさそうだ」

 

 キシンヘイ? 誰かのあだ名だろうか。昔金曜ロードショーで見たジブリ映画にそんな名前のキャラが登場したような気がするが、関係ないだろう。

 それより異界に送られたってなんだ。この〈裏側〉のことだろうか。

 何にせよ、この工藤という男のことはどこまでが本当なのか分からない。

 けれど、工藤があの白い人影を倒したことは確かだ。

 私がこの〈裏側〉を探索するためのボディガードになるかもしれない。

 もう一度、あの廃墟に戻ったら、少し奴と交渉してみるのもありだろう。

 そう考えて、私は工藤を連れ、元来た道を引き返す。

 

 これが明確な、初めての〈裏側〉探索だった。

 




この工藤さんは時系列的には劇場版コワすぎの直後を想定しています。


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ファイル2 くねくね捕獲作戦Ⅱ

「あの、そのカツラみたいなの、何なんですか?」

 

 銀色の正六面体を手に入れて上機嫌になった工藤を連れて、廃墟の一室に戻った私は開口一番でそう尋ねた。

 女の黒髪の毛を掻き集めて、撚り合わせたような不細工な集合体。明らかに非物質的な白い人影を殴り付けた道具。

 そして、何より工藤が持つそれから漂う熱気にも似た異様な感覚が、どうにも無関心ではいさせてくれなかった。

 部屋にある埃塗れのテーブル付近にあった椅子に彼は腰を下ろすと、そのカツラのようなものをテーブルの上に無造作に置いてみせる。

 

「ああ、これか? こいつは『呪いの髪飾り』だ」

 

「呪いの髪飾り……?」

 

 実話怪談に出てきそうな、チープかつ曰く有りげな単語に好奇心が(うず)いた。

 ただ髪に付ける飾りにしては些か大き過ぎる気がする。付け毛みたいなものだろうか。

 工藤は私が興味津々なことを見るや、得意げに腕組みをして語り出す。

 

「おうよ。こいつはな、『コワすぎのファイル01』を撮った時に手に入れたもんでな、口裂け女が残していった、人毛で作られた飾りなんだよ。この髪飾りはその口裂け女が人を呪い殺すために作った呪具らしい」

 

「ええ! じゃあ、それ、髪飾りじゃなくて、髪の毛で編まれた飾りじゃないですか⁉︎」

 

 予想を遥かに超えたヤバい物だった。

 というか、それ所持してで大丈夫なのか? そんなアイテム使っている工藤も呪われるんじゃ……。

 そう思って聞いてみると、事もなさげに返した。

 

「あ? 大丈夫大丈夫。俺もこいつが腕ん中に入った時は流石にヤベェと思ったが、なんかこっちに飛ばされたら、また分離してたし。まあ、うん。今んとこ、問題ねぇから」

 

「はい? 腕の中に、入る……? その髪の毛の飾りが?」

 

 発言の内容が意味不明過ぎる。この人、ひょっとして頭イカれてるんじゃないの?

 その時、卓上に置かれた髪飾りが揺れた。

 グニャリと軟体生物が触手を動かすように、毛の束を蠕動(ぜんどう)させる。

 要するにテーブルの上を這ったのだ。

 

「え……。なんか、これ、這ってますよ⁉︎ 動いてますよ、活発に!」

 

 工藤の方をちらりと振り返ると、奴はもう既に椅子に腰掛けてはいなかった。

 部屋の片隅に退避して、落ちていた食器の破片を握って構えていた。なんかもう一人だけ護身完了している。

 

「ちょ、工藤さん!」

 

「紙越、お前、ちょっとそれ触ってみろ」

 

 何言ってんだ、こいつ⁉︎

 傲岸不遜が服を着て歩いているような癖して、このタイミングで私に丸投げするのかよ!

 暴力的なのに臆病ってどういう性格してるんだ。

 

「オラ、早くしろ! 何かあったら、俺がなんとかしてやるから! なあ!」

 

 情けなく、私にがなり立てる工藤は髪飾りに触れることを強要してくる。

 今まで平然と使っていた奴があそこまで慎重になっている辺り、今の状況は相当ヤバいんじゃないだろうか。

 冷や汗が額にじっとりと滲む。

 触っていいのか? 余計にまずいことにならないか? 具体的には触って瞬間、私死んだりしないか?

 眼鏡の縁に流れた汗が溜まる。普段なら直ぐに顔を洗いたくなるレベルの発汗量だ。

 逃げ出したい。けれど、この怪奇なものに背を向けた瞬間、後ろから襲われそうで逃げられない。

 実話怪談の中で、どうして登場人物は怪異からさっさと逃げないか昔から疑問に思っていたが、今ならその答えが分かる。

 逃げたら逃げたで怖いのだ。視界外から何かされるより、視線の先で何か起きた方がずっとマシだ。

 

「紙越!」

 

「わ、分かりましたよ!」

 

 私は髪飾りの方に近寄ると、震える手を伸ばした。

 テーブルの上で広がったタコ、もしくはアクティブなヒトデのように動く髪飾りは絶えず、小刻みに髪束を振っている。

 大人しくしててくれよ、と無機物に内心で頼みながら、それを片手でぐっと掴んだ。

 想像していたよりもずっと湿った感覚が手のひらに密着する。私だって女だ、ウィッグのサンプルくらいはデパートで触れたことがある。

 でも、これは違う。この感触は……風呂上りにタオルで拭った後の()()()()()と同じだ。

 この髪は生きているものの質感だ!

 

「うわっ……」

 

 生理的嫌悪感が一瞬で許容量を超え、反射的に私は手を離してしまう。

 その時、髪束の一房が跳ねた。

 跳ねた房は明らかに伸びると、私の顔へ目掛けて急接近する。

 悲鳴を上げる暇もなかった。咄嗟に後ろへ仰け反ったが、伸びた髪は止まらない。

 私の左目一杯に黒い色が広がる。

 その光景を右目で見た。

 ――左目に髪が入り込んでいる。

 

「あ……ああ、あああああ!」

 

 激しい痛みと嫌悪感に私は絶叫した。

 両手で左目に入り込む髪を防ごうとするが、髪の房は眼球の中に流れ込むのを止められない。

 

「うおおおおお!」

 

 部屋の端に避難していた工藤が雄たけびを上げて、皿の破片をナイフのように持ち、私の左目から侵入してくる髪を攻撃した。

 

「暴れんじゃねぇ! 戻れゴラァ! 大人しくしやがれ‼」

 

 髪の束を掴んで、皿の破片で切断しようと突き刺した。

 ぶちぶちと鋭利な破片に切り落とされていく。何度目かの刺突でとうとう引きちぎれた髪の房は力なく髪飾り本体に戻っていった。

 左目に雪崩れ込んできた髪はどうなったかというと、そのまま私の眼球の中に吸い込まれるようにして消えてしまった。

 言語化できない奇妙な感覚が私の左目を襲う。

 例えるなら、目玉をくり抜いてその中に柔らかい布製のものを押し込まれている感触だ。

 痛みではなく、異物感だけがありありと残っている。

 

「おい、紙越! 大丈夫か?」

 

 工藤に肩を掴まれ、揺すられる。

 この人、こんなに真剣な顔もできるのかと何だか感心してしまった。

 間近で見ると案外円らな瞳をしているという至極どうでもいい情報を観測する。

 どこか他人事のような、テレビに映った映像を持ているような感覚だ。

 しばらく頭がぼんやりしていたが、次第に実感が返って来る。

 

「あー……、工藤さん、顔近いです」

 

 強面のオッサンの顔など至近距離で見ていて気分のいいものじゃない。

 私は彼を軽く手で制して離れてもらう。

 

「お前、目ぇ赤いぞ」

 

「充血してるんですか? まあ、何か左目に髪が入って来ようとしてましたけど……」

 

 内出血しているのか。無理もない。髪の毛が突き刺さっていたみたいだから、当然と言えば当然だろう。

 だが、工藤は首を横に振った。

 

「いや、そうじゃねぇよ。左目の瞳孔……真っ赤に変わってんだよ」

 

「はい? ちょ、ちょっと退いてもらえますか?」

 

 瞳孔が赤い? どういうことだ?

 私は〈裏側〉探索のために色々物を入れて来たバッグから手鏡を取り出す。

 小さな鏡の中に映る私の顔は酷く疲弊して見えたが、ある一点を除き、特筆する程の変化はなかった。

 しかし、その一点。左目だけは明らかに普通ではなかった。

 工藤が言った通り、左目の瞳孔は血のように真っ赤に染まっている。

 充血や光の錯覚じゃない。白目の部分は何ともないのに中心の瞳孔だけが変色しているのだ。

 ナニコレ……。私の目、どうなっちゃったの?

 自分の身体に明確な異変が発生し、混乱していると工藤が後ろで言う。

 

「紙越。袋持ってねぇか、袋。ビニールの奴でいいんだけどよ」

 

 このオッサン。私の目が変色したところはもうどうでもいいのか。

 仮にも自分が持って来たもので、被害に合ったというのにまるで悪びれる素振りがない。

 苛立ちはあったが、文句を言う気力はなかったので、コンビニで飲み物を買った時のビニール袋をバッグから取り出して渡した。

 

「ビニール袋なんかどうするんです、って……何やってんですかっ!?」

 

 振り返るとビニール袋の中に手を突っ込んだ工藤が、呪いの髪飾りを掴んで回収していた。

 公園で飼い犬の糞を拾う飼い主のような姿に思わず突っ込んでしまう。

 今し方、人に危害を加えたアイテムをそんなぞんざいな方法で回収していいのか……?

 呪いの髪飾りを無事掴み上げると、今度はビニール袋をひっくり返して、袋の内側に仕舞い込む。

 

「いいんだよ! 俺は大体これで回収してっから」

 

「さいですか……」

 

 感情がジェットコースターのように揺さぶられたせいで、これ以上とやかくいう元気はない。

 本当にこのオッサンは何者なんだろう。心霊ドキュメンタリーのディレクターだと名乗っていたけれど、『戦慄怪奇ファイル・コワすぎ!』なんてダサい名前の作品なんかあっただろうか。

 心霊ものは大体網羅している私でさえ、聞いたこともないものだ。

 ふとさっき工藤さんと初対面で私を誰かと勘違いしていたことを思い出し、聞いてみる。

 

「あ、そうだ。さっき工藤さん、私見て誰か別の人の名前言ってませんでしたっけ?」

 

「ああ。市川のことか。ウチのアシスタントディレクターだ」

 

「仕事仲間ですか? その人もあの場所へ一緒に来てたんですか? 映像制作のための取材とか」

 

 そう尋ねると、工藤は否定する。

 

「いや……あいつは首を切り落とされてな。よく解らねえが異界の門みたいなのになっちまってた。でも、呪いの髪飾りのせいで巨大化した俺が元に戻ってるからあるいは、あいつもこっちで戻ってるかと思ってな」

 

「え、え……? ちょくちょく、工藤さんの背景、意味不明なんですけど」

 

「うるせえよ! 色々あんだよ、俺には!」

 

 怒鳴り声を上げた工藤がドンとテーブルを叩く。

 すると、呼応するかのように〈裏側〉へと繋がるドアがガンっと鳴った。

 それは反対側から何者かが乱暴に蹴り付けたような音だった。

 お互いびくりと身体を揺らして、会話を止める。しばらく、様子を伺っていたが、その後はドアから音が聞こえてくることはなかった。

 

「……工藤さん、どうします?」

 

「紙越。お前、見て来い」

 

「そういうと思いましたよ……」

 

 工藤はいざという時には動いてくれるが、それ以外は平然と他人に危ないことを押し付けてくる。

 きっと市川というアシスタントディレクターもこの男に散々こき使われていたんだろうな。

 当てにならない工藤を放置し、私はドアに付いたドアスコープを覗き込んだ。

 さっき、目から呪い髪飾りが入って来るという怪奇現象にあったせいで恐怖に対する感覚が麻痺している気がする。

 見えた景色は青かった。

 ドアスコープの向こうに見えるのは青一色で構成された空間。

 空でも海でもない青。青い絵の具で何もかも塗り潰したような真っ青な世界。

 前あったはずの広い草原はどこにも映っていない。

 

「おい、何が見えた? 何か居たか?」

 

 後ろで工藤が聞いて来るので、私はそのまま答えた。

 

「青い色が一面に広がってます。他にはこれといって何も」

 

「紙越。ちょっとお前、ドアから離れてろ」

 

「え?」

 

 ドアスコープから離れて、振り返るとテーブルの上に乗った工藤がドアに向かって跳んだ姿が目に入る。

 何やっているんだ。その声が言葉になる前に、オッサンの飛び蹴りがドアに炸裂する。

 衝撃により弾かれたように開くドア。そこから流れる風に埃が舞い、私は酷くむせ返った。

 

「ごほッごほッ……ちょっと工藤さん!? せめて、何するか事前に……」

 

 最後まで言い切る前に、私は呆然として言葉を失くす。

 開かれたドアから覗く光景は草原でもなければ、青い世界でもなかった。

 

「えええええええええ!?」

 

 建物の隙間にある薄汚れた路地。

 ゴミが入り切らずに飛び出たポリバケツ。転がったビールの空きビン。持ち主が捨てていったと思しき錆だらけの自転車。

 〈裏側〉ではない。表だ。表の世界の単なる路地。

 ……なくなった。なくなってしまった。

 私の大切な、未知の世界。誰にも開拓されていない無限のフロンティア。

 まだ始まってもいないのに、冒険の舞台が影も形もなく消滅してしまった。

 呆然とする私の前で工藤が顎を掻きながら言う。

 

「どーなってんだ、こりゃ。……普通の裏路地じゃねぇか」

 

 その台詞は私が言いたい。

 まさか、工藤のフライングチンピラキックが〈裏側〉との繋がりを破壊してしまったとでもいうのか。

 崩れ落ちた私の耳に、遠くのアーケード街から聞こえる小さなハワイアンミュージックが届く。

 ほろりと瞳から涙が流れ落ちた。




原作の空魚の相棒、鳥子の登場は予定していますが、大分先になりそうです。


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ファイル3 くねくね捕獲作戦Ⅲ

 終わった。終わってしまった。

 紙越空魚の冒険は始まる前に終わってしまいましたとさ……完。

 何もかも投げやりな気持ちで、私はこの一週間を過ごした。

 工藤は何か向こうで拾った銀色の六面体を見て、ぶつぶつ言っていたが、もうどうでもよかった。

 ほとんど無意識で廃墟から出て行った後、アパートに帰って、ベッドの上で大泣きしてから三時間ほど眠った。

 目が覚めて、〈裏側〉の入口が消滅してしまったことを思い出して、また少し泣いた。

 心が虚ろでもお腹は空くし、通っている大学にもちゃんと通わなきゃいけない。

 友達が居ないので講義をサボれば、それだけツケがテストの時に回ってくる。

 そうして、私は今日もまた無意味で簡素なキャンパスライフウィークを堪能していた。必修の講義を死んだ目で受けた後、重い足取りで帰宅する。

 大学の門を出た時、私は背後から突然腕を掴まれた。

 私にこんなスキンシップを図る友人は居ない。というか、大学二年になっても碌に会話する知人さえ居ない。

 よってこの手の持ち主は新手の宗教勧誘か、さもなきゃ柄の悪い連中か。どちらにせよ、好意的な相手でないのは確かだ。

 このまま、振り切ってダッシュで逃げてやろうと画策したが、思いの外力強く掴まれた腕を払い退ける筋力は私にはなかった。

 

「あの、いきなり何ですか?」

 

 嫌々ながら振り返れば、そこに居たのは一週間に出会ったあの暴力親父だった。

 

「く、工藤さん⁉︎ なんで、ここに? ていうか、私に何の用ですか?」

 

「あん? 前にお前の財布に入ってた学生証見てたんでな。ちょいと呼びに来たんだよ」

 

 財布をなんていつの間に見たんだ……。多分、私が気落ちしてた時にこっそり抜いていたんだろうが、最低過ぎて言葉も出ない。

 見た目以上に中身の方が反社会的だ。

 

「こっちの世界な。どうにも俺が居た世界とは微妙に違うんだよ、いわゆるパラパラワールドっつう奴だな」

 

「パラレルワールドですよね?」

 

「うっせぇ、馬鹿。んなもんどっちでもいいんだよ! 要するにここは俺の元居た世界じゃねぇってことだ!」

 

 訂正したら切れられた。

 常に人に噛み付かないと生きてられないんだろうか、この人。泳ぎ続けないと死ぬマグロみたいな人種だ。

 とにかくだ、と工藤は一呼吸開けて、傍に停めてあるハイエースバンのドアを叩いた。

 

「もう一度、あの異界に行くぞ。今度はあのくねくね野郎を生きたまま、捕まえてやる。映像もきっちり残して、こっちの世界でも覇権取ってやんよ! パラパラワールドにも『コワすぎ』の名前を轟かせてやるぜ」

 

 え、ちょっと待って。色々と無駄に情報量が多いけど、重要な部分を抜き出すと……。

 

「また〈裏側〉に行くってことですか⁉︎ でも、あの廃墟のドアはもう……」

 

「馬鹿野郎! 異界の入り口が一つだけって誰が決めたんだ! あんなもん、俺が探しゃあ、千個でも二千個でも出てくんだよぉ! いいからさっさと車乗れ、紙越ィ」

 

 押し切られる形で私はハイエースに助手席に乗り込まされた。

 私としてももう一度〈裏側〉に行けるなら願ったり叶ったりだが、ホントこのオッサン無茶苦茶だな……。

 パラレルワールド、並行世界から来たと言っていたけれど、どこまで真実なのかは分からない。もっとも〈裏側〉なんてものや呪いの髪飾りがある時点で今更疑うのは野暮か。

 こうして、私は工藤に半ば拉致されるように、〈裏側〉の入り口があるらしき場所へ連れて行かれることとなった。

 だが、一つばかり気がかりなことがある。

 この車についてだ。

 

「工藤さん。こっちの世界の人間じゃないんですよね? この車ってまさか、誰かから盗んだんじゃ……」

 

 車を持ち主を恐喝して強引に奪い取る工藤は容易に想像できた。

 

「違ぇよ、馬鹿! こいつは中古で勝ったんだよ。それだけじゃねぇ、後ろ見てみろ」

 

 悪態を吐いた後、後部座席を見るように言ってくる。

 言われた通りに後ろへ顔を向けると、ハンディカムカメラや金属バッド等雑多なものが置いてある。

 聞いてもいないのに工藤は運転しながら得意げに話し始めた。

 

「あの六面体よぉ、鏡みてーに周りの景色反射するんだが、何でだか分かんねぇけど人間だけは映さない変なモンでな。ネカフェでその話を何の気なしに書き込んだら、売ってくれって奴が出て来てよ。直に会って吹っ掛けてやろうとしたんだ。したらよ、いくらになったと思う?」

 

「いくらになったんですか?」

 

 私が聞くと、横顔がにやっと歪んでこう言った。

 

「百万だよ。百万!」

 

「マジすか!?」

 

 あの六面体にそんな値段を付ける奴が居るなんて、世の中道楽な金持ちも居るものだ。

 そして、この車や後ろにある荷物はそのお金で購入したらしいと何となく読めた。

 

「そんでな、そいつとちぃと話したんだがよぉ。くねくね野郎を生きたまま捕まえたら、その五十倍で買うって話になったんだ」

 

「五十倍!? っていうと……五千万円!?」

 

 貧乏大学生の金銭感覚では、ざっと想像しずらい金額だ。

 銀色の六面体一つ百万円。白い人影、くねくね一体五千万円。まるでゲームの報酬張りに実感が湧かない。

 

「紙越。お前は見込みあっからよ。一口噛ませてやるよ。さらに俺は向こうの映像を取って、有名にもなってやる。お前はアシスタントだ」

 

「え、〈裏側〉をビデオにするんですか? それはちょっと……」

 

 くねくね捕獲には少し心惹かれるものがあったが、〈裏側〉が世間の目に晒されるのは気が進まなかった。

 あそこはあくまで未開のフロンティアで、私の秘密の場所だからいいので合って、一般に公開されるべきところでは……。

 

「売れたら、その分お前にもギャラをやるぞ。割合報酬だ。三割くれてやる。もちろん、くねくね野郎の捕獲の報酬は別で払う」

 

「やります!」

 

 学生ローンでお先真っ暗だと思っていたが、ひょっとしたら卒業する前に返せてしまうかもしれない。

 〈裏側〉が白日の下に晒されるのは抵抗があるが、目先のお金という分かりやすい報酬が私の心を揺り動かした。

 

「そうと決まれば、かっ飛ばすぜ!」

 

 ハイエースバンをかっと飛ばし、工藤が向かった先は東京の神保町。

 その一角にある十階建てのビルだった。

 古本屋街の裏手に屹立する背の高い雑居ビルは年季こそ入っているが、前の廃墟とは違って今も人の手が入っているのは一目で分かった。

 

「本当にここなんですか? あの普通にあそこ、人は入ってますよ?」

 

 前回と同じく廃屋か、廃ビルみたいな完全に人界から放棄された場所かと思いきや、バリバリ街の一部である。

 こんな場所に〈裏側〉への入口があるなら、とうの昔に誰かに発見されいるはずだ。

 不安に思って工藤を見やると、頭をべしっと叩かれる。

 本当に自然体(ナチュラル)で暴力振るうな、この人。やっぱり苦手だ。

 

「俺を信じろ、俺を! カメラ持って、付いて来い」

 

 後部座席から金属バッドとビニール袋を取って、ビルへと向かっていく工藤。

 ビニール袋の方は恐らくはあの呪いの髪飾りだ。よくあんな危険なものを平然と所持できるのか理解に苦しむ。

 冷静に考えれば、金属バッドであのくねくねと立ち向かう時点で何かおかしいが、それが気にならない程工藤という男は狂っている。

 渋々ながらハンディカムカメラを片手に私は奴に続いて、雑居ビルへと足を踏み入れる。

 もうここまでくれば腹を括るより他にない。〈裏側〉の探検は私の夢であり、全てなのだ。

 ……決して、工藤の暴力が怖くて屈した訳ではないことをここに明言しておく。

 中に入るとエントランスホールは薄汚れていて、それなりに雰囲気が出ていた。実話怪談っぽさが漂っていて、自分がまるで物語の登場人物になったような錯覚を覚えてしまう程だ。

 工藤はエントランスをそそくさと抜けるとエレベーターに乗り込む。続いて、私もそこへ乗った。

 

「紙越、そろそろビデオ付けとけ」

 

 ドアが閉まると、工藤はそう指示を出し、四階のボタンを押した。

 四階に入口があるのか、と思ったら四階に着いた直後に二階のボタンを押す。

 その次は六階。その次は九階。かと思えば一階にまで戻ったりする。

 ビデオカメラで映像を取りながら、オッサンの奇行を無言で撮影していたが、流石に我慢できなくなり問いかけた。

 

「あの、工藤さん。何をやってるんですか?」

 

「あん? お前、異世界の行き方って奴知らねぇのか? こうやってな、エレベーターで階数ボタンを特定の順番で押すと異世界に行けるっつぅ話だ」

 

「いや、まあ、知ってますよ。でも、それ、ネットで一時期流行った都市伝説じゃないですか」

 

 ネットで実話怪談を漁っている時に、異世界に行く類のネット怪談でそんな話はいくつか読んだ。

 私はそういう子供っぽい内容の話には興味が持てず、実際近くでやっている奴が居たら嫌だなと思って流し見していた。

 まさか、それをいい歳して実践するオッサンが居ようとは。これ、他の人乗り込んで来たらどうしよう。

 そんなことを思ってビデオカメラを回していると、エレベーターは五階に止まる。

 ドアが開いた瞬間、奥の暗がりから猛ダッシュで駆け込んでくる女性の姿がレンズ越しに見えた。

 背の高い、長い黒髪の女。顔の前に髪が掛かって表情は見えない。

 

「ぅ————————!」

 

 前傾姿勢で走って来るのに、物凄く速い。唸り声を上げて、こちらに直進してくる姿に血の気が凍る。

 普通じゃない。そう思って、工藤に叫ぶ。

 

「あれ、何かヤバいです! 閉めてください、工藤さん!」

 

「やってんだよ! さっきから! クソッ、このッ」

 

 だが、工藤はガチャガチャと音を立てながら、既に閉ボタンを連打していた。

 なのにドアは一向に閉まる気配がない。女とドアはもう目と鼻の先くらいの距離しかない。

 カメラを回しながら、私はその異様な存在感に押されてエレベーターの隅へと後退りして、背中を壁に押し付けた。

 

「ううううううううううううううううう――!」

 

 低い唸り声がはっきりと聞こえるようになった頃、ようやくエレベーターが締まり始める。

 ……よかった。そう安堵した時、女は閉まりかけたドアに顔を突っ込んで来た。

 乱れた髪の隙間から正気には到底見えない焦点のズレた目が私を睨む。

 

「ひッ」

 

 小さな悲鳴がしゃっくりのように喉から競り上がった。

 しかし、その脇から工藤が女の頭に向かって、金属バッドを振り下ろす。

 

「オラァ!」

 

 脳天を直撃する上から下へのスイング。女は頭を垂れるようにドアから弾き飛ばされる。

 ドアが無事締まると、私も工藤も荒い息を吐き出した。

 あれはヤバい。人じゃなかった。ひょっとしたら、頭のおかしい人かもなんて思わない。

 あの女は間違いなく、この世の人間ではなかった。そう断言できる。

 

「ネカフェで読んだが、あの女、乗せたら駄目らしい」

 

 工藤の言葉にコクコクと必死に頷いた。

 最近ネカフェで仕入れた情報かよと詰る気にもならなかった。

 再び、工藤はさっきまでと同じ階数ボタンの連打を繰り返す。階に止まる度、明らかに同じ階でも場景がまったく異なるという現象に見舞われた。

 操作盤と階数表示にレンズを向けると、もはや言語かも怪しい模様のようなものが描かれている。

 乗った時は間違いなく、アラビア数字だったのは録画した映像を見なくても分かる。

 ドアの開く速度も閉まる速度もだんだんと加速していき、1.5倍速の早送りで映像を再生させているようだった。

 そして私たちは、目的の場所へと辿り着く。

 工藤が最期にボタンを押した後、ドアが開いた先は屋上だった。

 あの雑多ビルの屋上ではない。

 亀裂の入ったコンクリートの床と鉄柵の向こうに広がる色あせた黄色の草原は、少なくとも神保町には存在していなかった。

 

「行くぞ、紙越」

 

 金属バッドを担ぎ、呪いの髪飾りが入ったビニール袋を片手に工藤がドアの向こうへ歩き出す。

 

「はい、工藤さん」

 

 私もまたハンディカムカメラを起動させながら、レンズを通してその光景を見た。

 ビルの屋上から見下ろしたそこは波のように起伏のある広い草原地帯。点々と合い間に置かれているのは蔦に覆われたビルや無造作に転がった人工物の断片。

 人の声や車のエンジン音はまったく聞こえない、無人の世界。

 私はここに帰って来たんだ。

 そう思うと胸が高鳴った。

 ――ただいま、〈裏側〉。今度こそ、じっくり探索させてもらうからね。

 一人感慨に(ふけ)っていると、工藤は鉄柵の切れ間にある梯子から早々に降りていた。

 

「え、そこ。降りて、大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫じゃなかろうが、降りんだよ。じゃなきゃ、あいつら捕まえに行けねぇだろうが! 俺が下りたらお前もさっさと来いよ」

 

 マジか……。私の前に立ち塞がったのは凡そビル十階分に及ぶアホみたいに長い錆びた梯子だった。

 




やっぱり工藤さんはイカレてるなぁと書いていて思います。


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ファイル4 くねくね捕獲作戦Ⅳ

 恐怖の軋む十階建て分の梯子をどうにか乗り越えた私は、緊張と疲労で震える手を動かして解す。

 なんせ下でカメラを落としたら殺すとがなり立ててくるオッサンまで居たのだ。その心労たるや凄まじかった。

 鞄の内側にカメラを押し込んで慎重に降りて行く。そのせいで片側に比重がかかり、梯子から降りるのに手間取らされた。

 先行していた工藤の方は金属バットの柄を腰のベルトに差し込んで降下していたため、降りる度に揺れたバットがガンガン梯子にぶつかり、衝突音が響く度驚かされて何度も硬直してしまった。

 そんなこんなで、どうにかして生きて〈裏側〉の大地に足を着けた私は、ハンディカムカメラを再び起動させ、降りて来たビルを撮影する。

 ……壁がない。あるのは天井と柱だけ。骨組みだけの廃墟だ。

 隙間から中を見ても階段はない。エレベーターシャフトも影も形も見えない。一体、私たちはどこから出てきたというのだろうか。

 

「よっしゃぁ! 行くぞ!」

 

「うわぁっ……急に大声出さないでください」

 

 背後で気合を入れた工藤の叫びにびっくりして、カメラを落としそうになる。

 文句を言うと、面倒にそうに私を睨んだ。

 

「うるせぇな! 気合入れてんだよ、こっちはよぉ! お前は大丈夫なのかよ、気合の方は」

 

 こういう精神論だけをごり押ししてくる化石みたいなオッサン、まだ現存していたのか……。

 大体、気合だけで物事良くなるなら、日本はもっと住みよい国になっていたはずだ。

 げんなりする言動に心底うんざりしていると、工藤は事も無さげに言う。

 

「しゃんとしろよ、しゃんと。お前は臨時とはいえ、『コワすぎ』のスタッフなんだからな」

 

「そうは言われましても、私、その心霊ドキュメンタリー? 見たことも聞いたこともありませんし……どんな作品なんですか?」

 

 私はそう言ってから、しまったと内心後悔した。

 質問された工藤は待ってましたとばかりに、『コワすぎ』の内容を語り出す。

 オッサンの自慢話や武勇伝ほど若者の気力を削ぐものはこの世には存在しない

 話の内容も荒唐無稽で聞いていると頭がおかしくなりそうなものだった。

 曰く、高速で追いかけて来る口裂け女を車で轢いた話。

 曰く、五芒星の上で人喰い河童と相撲で対決した話。

 曰く、トイレの花子さんを撮影するために時間遡行をする話。

 実話怪談が好きな私だが、この頭がおかしいオッサンの視点から語られる妄想じみたストーリーは怪談というよりZ級クソ映画だ。

 その内容を口頭で、しかも熱意を込めて聞かされていれば、ぐったりもしてくるというものだ。

 

「工藤さん。そろそろ……」

 

 三十分以上、『コワすぎ』の内容を聞かされて、くねくね捕獲の前に力尽きそうになる私は、切りのいいところで、話を遮った。

 こっちから止めないといつまでも話し続けそうだったので、罵倒を受ける覚悟で制した。

 しかし、意外にもさほど機嫌を悪くしなかった工藤は応じてくれる。

 

「まあ、今回はこのくらいにしとくか。暗くなると面倒だしな」

 

 そう言われて、〈裏側〉がもし夜になった場合を初めて考えさせられた。

 私が訪れた時は大抵が昼だったけれど、表側と同じように日が昇ったり沈んだりするのかもしれない。

 碌な光源もなく、こんな場所に居るのはあまりに危険だ。明るくても、くねくねが居るくらいだから夜になったらもっとヤバいのが出て来てもおかしくない。

 工藤に追従して頷いた。

 しばらく、荒れた道を進んで行くと、やがて周囲に見覚えのある草むらが見えて来る。

 工藤と最初に出会った場所の辺りだ。となれば、当然くねくねが出現していた地域な訳で、否が応でも身体が強張ってしまう。

 

「そういや、お前。くねくね野郎のことはどこまで知ってんだ?」

 

「私ですか? 結構……いや、実話怪談についてはそれなりに詳しいですよ」

 

 何気ない工藤の台詞に、大学で専攻している文化人類学の研究テーマで調べた現代の実話怪談について綴った論文を思い出す。

 教授には芳しい反応はもらえなかったが、自分での評価はそこそこ高かった。

 内容については少しオタク色が強くなった感じも否めなかったが、それでも自信があった分評価の低さに落胆も大きかった。

 

「私はくねくねのことを蛇の怪異譚の一種だと考えてました。名前が何かそれっぽいですし、出現する場所が田舎の田んぼだっていう点も蛇の生息域です。ネットで有名なくねくねの話の中には案山子(かかし)と関連付けてるのもあるんですけど、案山子の“カカ”って古い日本語で蛇って意味なんだそうです。この点からから見ても何らかの関連性が見出せ……」

 

 そこまで持論を語っていると、聞いて来たはずの工藤の視線は別の方向に向けられていることに気付いた。

 横柄な態度には多少慣れてきたとはいえ、流石の私もムッとする。聞いておいてその態度はいくらなんでもないだろう。

 確かにこういう議論を話す相手も今まで居なかったので興が乗ってしまったというか、いつもよりも舌が回ってしまった帰来はあるが、それにしたってもう少し興味を持ってくれてもいいだろうに。

 心霊ドキュメンタリーなんてオカルトめいた映像作品を作っているなら、こういう話題にも乗って来てほしいものだ。

 そう思って、工藤に呼び掛ける。

 

「工藤さん、聞いてますか?」

 

 すると、奴は正面の草むらに指差して言った。

 

「紙越。あそこ撮れ、あそこ! 何か倒れてるぞ!」

 

「えッ、どこどこどこです!?」

 

 急に振られて、工藤の指差す先にカメラを回す。

 そこにビデオカメラを向けた私は「うわっ」と思わず、声を漏らした。

 五メートルくらい先。草むらの間を通るようにしてできた細い道に人型の何かが転がっている。

 くねくねの説明に夢中だったのもあるが、草の背が高いせいでここまで近寄るまでまったく見えていなかった。

 よくよく目を凝らせば、その人型が身に着けているのは白いワイシャツだ。見える範囲での体型や特徴から察するに男性だろう。

 両手で顔を覆うようにして仰向けで倒れている。……私たちが近付いても微動だしていないので、死んでいるのかもしれない。

 化け物とは違う、人間の死体に対する恐怖が染み渡るように脳裏に過る。

 

「く、工藤さん……どうしますか?」

 

 よく見て観察するべきかと工藤に尋ねると、この理不尽を擬人化したような男は間髪入れずに答えて来る。

 

「撮るに決まってんだろ! ほら、行くぞ」

 

 明らかに襲って来るタイプの存在以外には基本強気らしい工藤は率先して、それに近寄って行く。接近するのに抵抗はあったが、金属バットを所持したこの暴力男はこういう時には頼もしく見え、私は素直に従った。

 工藤は倒れている男に言う。

 

「おい! あんた、生きてんのか? 生きてんなら返事しろ!」

 

 金属バット片手に脅すような口振りだ。もし、私なら死んだふりをして、立ち去るまでやり過ごすかもしれない。

 だが、ビデオカメラで男の顔を映そうとして、言葉を失った。

 男の顔立ちに問題があった訳ではない。彼の顔は押さえ込むように張り付いた手のひらでほとんど確認できなかった。

 代わりに映すことができたのは、その両手の指先から零れるように噴き出している謎の突起物だった。

 一見するとそれは透明な木の枝に見えた。

 しかし、枝状に分かれた突起物の先端には葉や蕾はなく、丸く膨らんでいている。

 植物というより菌類。死体に生えたキノコ、もしくは繊細なガラス細工のように思えた。

 気持ち悪いが、カメラマンを任された身としての意識からか、その姿をしっかりと撮影してしまう。

 そこで私はあることに気付いた。

 透明な突起物は顔の表面から生えているのではない。顔の内側から皮膚を突き破って伸びているのだ。

 白くなった唇から覗く歯もクラゲの幼体のようにぶよぶよとした質感に見える。

 更にカメラをズームすると、恐ろしいことに男の指は明らかに眼窩に潜り込むように突っ込まれいる。

 錯覚じゃなく、第二関節までずっぽりと男の指は目の中に入り込んでいた。

 戦々恐々としている私に工藤が言う。

 

「おい、何か魚臭ぇぞ」

 

 言われて、鼻を動かすと確かに生魚のような臭気が辺りに漂っていた。

 それに加えて、風の音が止んでいた。いつの間にか、草むらが揺れる微かな音さえ耳には届いて来ない。

 耳鳴りがするような、不穏な静寂。

 直後、視界の端で揺らめくシルエットが現れる。

 白く、濁った煙草の煙を束ねて、人型に纏めたようなもの。

 ……くねくね。

 

「ううっ……」

 

 直視しなように横目で見ているのに、眩暈に襲われる。

 それでもどうにか映像に収めようと、カメラを回して焦点を合わせなようにくねくねを映す。

 ティッシュペーパーを細く捻じって人間大にしたようなそれは、やはり蛇とは似ても似つかない。

 細く捻じれた姿は蛇というより紙縒(こよ)りだ。

 怖いというより、気持ちが悪い。視界に入れているだけで不安感を煽って来るようだ。

 

「工藤さん!」

 

「任せろ!」

 

 私が声を掛けると、工藤はビニール袋をガサゴソ漁り、呪いの髪飾りを取り出した。

 そして、数メートル離れた先で蠢くくねくねに殴り掛かる。

 

「何がくねくねだ、クソ野郎! 俺のちんぽこよりもひょろいなりしてはしゃぐんじゃねぇ!」

 

 最低かつ下品な発言と共に、かつて一撃でくねくねを葬った呪いの拳が飛ぶ。

 喧嘩慣れしているらしきその拳は見事に奴の頭に届く――はずだった。

 

「……ああ?」

 

 呪いの髪飾りを握り締めた工藤の拳は……くねくねの頭を通過して空を切った。

 腕を振り抜いた工藤はスカッと空振りして、バランスを崩してよろめく。

 

「ちょっ、工藤さん?」

 

「あ? うるせえな! 今のは生け捕りにしようとして加減を間違えただけだ! もういっちょ行くぞオラァ‼」

 

 再び、工藤はくねくねを殴ろうと拳を振り抜く。

 しかし、またも拳はすり抜け、呪いの髪飾りが勢いで揺れただけで何の効果も得られない。

 手応えはないにしろ、髪飾りが通過したはずのくねくねには一切変化が見られなかった。

 

「どうなってんだよ、紙越! 俺、ちゃんと殴ったよなぁ?」

 

「知らないですよ!」

 

 むしろ、こっちが聞きたいくらいだ。

 この危険な場所に付いて来たのは、工藤の呪いの髪飾りがくねくねに有効だと信じ切っていたからだ。

 だから、くねくねと対峙しても初見ほど焦りや恐怖は感じなかった。

 でも、今は違う。

 こちらには相手に抵抗する手段がない。

 呪いの髪飾りが駄目であれば、ただの金属バットなんて何の効果ももたらさないだろう。

 諦めが心の中で過った時、一際激しい眩暈に襲われる。

 これはヤバい。もの凄くヤバい。どうしたらいい。

 頭の中には最初にくねくねと接触した時に感じた得体の知れない感覚。

 何かを、自分の理解し得ない何かを理解してしまうような、そんな感じ……。

 待って。まさか、あの顔から透明な突起物の生え出した男って、このくねくねを見て“ああ”なったの?

 てことは何? 私も“ああ”なっちゃう訳……?

 狂って。

 顔から何かが生え出して。

 最後には自分の目を……。

 

「おい、紙越! 何か手はねぇのか!?」

 

 金属バットを杖代わりにして立つ工藤。私よりもずっとくねくねの近くに居るせいか、相当眩暈を感じている様子だった。

 何かって、私に丸投げかよ! 無茶言うな。どうにかして欲しいのはこっちの方だ。アンタが最初の時みたいにさっさと倒してくれれば、こんなことにはならなかったのに。

 無茶振りに苛立った私は、ふと疑問を感じた。

 待って。逆に何で最初のあの時は聞いたんだ?

 そう、あの時は確か私がくねくねを見ておかしくなりそうになって、そこに通りがかった工藤が呪いの髪飾りで殴った。

 そうか、それなら……!

 

「工藤さん。最初! 最初の奴、再現します!」

 

「最初ぉ!? 何言ってんだ、お前」

 

「私、くねくねを見て頭おかしくなりかけてたんです! その時は工藤さんの呪いの髪飾りが効きました。だから、もう一回同じことやれば……!」

 

「くねくね野郎も殴れるって寸法か! いいぜ、紙越。乗ってやるよ!」

 

 むしろ、危険なのはアンタじゃなくて、私の方なんだけど……まあ、いいや。やる気になったのなら、こっちはこっちで覚悟決めるだけだ。

 

「私が本気でヤバくなったら、何とかしてくださいね!」

 

「おお、そんときゃまともに戻るまでこのバットで何回でもド突いてやるよ!」

 

 いい笑顔でそんなふざけた提案を投げて来る。

 

「いや、死にますよ! それぇ!?」

 

「じゃあ、死ぬ気でやれよ。俺たち、『コワすぎ!』のスタッフはな、いつだって映像に命懸けてんだよ!」

 

 駄目だ、このオッサン……。程よく頭がイカレてる。

 何でこんな奴について来ちゃったんだか。

 それでも、まあ……死にたくないから。

 

「死ぬ気でやりますよ! ……うっ」

 

 工藤を無視して、私の方に寄って来ていた白い人型の姿を直視する。

 脳に響くような衝撃。続いて、脳の中身を指で弄られているかのような不快感。

 込み上げてくる吐き気。頭痛。眩暈。緊張。

 

「ひ、ひひひひひひいいいいいいいいじいいいいいいいいいいいいいいりいいいいいいいいいいいのおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 喉から漏れたのは唸り声のような叫び。

 

「ひいいいいいいいいいじいいいいいいいいりいいいいいいのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおかあああああああでええええええええええええええ‼」

 

 揺れる揺れる、頭が、脳が揺らされる。

 それなのに眼球だけはがっちりとくねくねを焦点に合わせたまま、動かない。

 もう少し……もう少しで何かが分かる。理解できる。

 チカチカと点滅する視界は、青いインクを直接流し込まれたように真っ青に染め上げられて……。

 ——気付く。それをリカイする。

 これは、こいつは物体じゃない。これは映像。投影。スクリーンに映された映像のようなものなんだ。

 くねくね自体に実体はないんだ。脳に流し込まれているこれは、私と世界の間にある何かに投影されているだけ。

 前回、工藤の攻撃が合ったのはこの映し出しているスクリーンのような何かを、私が認識していたからなんだ!

 視界の中で滑るように蠢くくねくねを見て、確信する。

 これは……()()にあって、()()にない存在なのだ!

 私がようやく、その真実を気付いた時、目の中でくねくね以外の何かが動いた。

 白い半透明のミミズ……。そうとしか言い表せない小さなものが、踊るくねくねの周囲に一つ、また一つと増え始める。

 一瞬、くねくねの一部かと思ったが、次の瞬間違うと確信した。

 その白いミミズのようなものは滑るように蠢くくねくねを攻撃するように群がり始めた。

 くねくねは蟻に集られた昆虫のようにもがき、苦しむようにしてのた打ち回る。

 青い世界は一変して、赤い世界に塗り替えられた。

 

「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

 目から、視界から何かが飛び出す。

 それは大量の白いミミズが張り付いたくねくねだった。

 ミミズの幽霊のようなものはくねくねを、正確にはくねくねが映し出されている膜のようなものを食べるようにその体積を削っている。

 何? 何が起きたの? この大量のミミズの幽霊みたいなものは、一体?

 呆然とした私の前で呪いの髪飾りを握った工藤の拳がミミズに纏わり付かれているくねくねの真芯を捉えた。

 

「オオォラァ!」

 

 殴られた白い人型は、それが投影されている膜ごとガラスが割れたように砕け散る。

 次の瞬間にはその膜の破片は一塊に集合するようにして、一つの物体へ変わった。

 細道の間に転がったのは銀色の六面体、ではなかった。

 工藤が歩み寄って、それを拾い上げる。

 

「何だ、こりゃ……。ちゃんと売れるんのか、これ?」

 

 その手の中には、歪な凹凸(おうとつ)のある銀色の塊が握りられていた。

 六面体だったかも分からない程に虫食い穴ができている。表面を大量の小さな虫に齧られたリンゴのようにも見えた。

 

「かー! くねくね生け捕りは失敗か、おまけにこんなんじゃ百万になるかもあやしいじゃねぇか! 返せよ、俺の五千万!」

 

 無機物相手に切れて、怒鳴り付ける工藤の姿を見て、私は脱力した。

 生命の危機を乗り越えたというのに、このオッサンはまだ金のことしか頭にないのか……。

 大きく息を吐いた後、ハッとして顔からあの突起物が生え出していないかチェックした。顔の表面をペタペタ触ると指先にはふにふにとした感触しか返って来ない。

 どうやら、あの倒れた男の死体のように突起物は生えてはいない様子だ。

 ひょっとすると、あのミミズの幽霊のおかげなのか。あれが何かは具体的には分からないが、心当たりならある。

 工藤が持つ呪いの髪飾り。あの一部が私の左目の中に入り込んでいた。

 実話怪談の一つに寄生するように憑いた悪霊が別の悪霊を倒したという話がある。今回のそれも多分、それに近いんじゃないだろうか。

 くねくねが視界を通して侵入してくるものだったから、先に入っていた呪いの髪飾りの一部が自分たちが攻撃されたと誤認して、防衛反応を働かせた。

 そんな気がする。少なくても、あのミミズたちは私に対して別段好意があるようには思えなかった。

 ……やめよう。今は思考が纏まらない。ただ、おかしくならずに済んだことを素直に喜ぼう。

 怒鳴り声を上げる工藤を撮影しながら、私は緊張から解放されて、引きつった笑みを浮かべた。

 この〈裏側〉は怖い。そして、ヤバい。

 想像していたよりも、この場所はずっと異様で危険なところだ。

 それでも。

 それでも、私はこの場所が、気に入ってしまった。

 くねくねのせいで頭が少し変になってしまったのかもしれない。

 

「工藤さん」

 

「ああん? 何だよ」

 

 身勝手、理不尽で、暴力的で、その癖臆病なオッサンに言った。

 

「楽しいですね、何か……私、充実してます」

 

 工藤はしかめっ面を次第に弛め、口角を引き上げた。

 

「分かって来たじゃねぇか、お前。それが『コワすぎ!』の醍醐味って奴だ」

 

 ほう……。このオッサンも少しは尊敬できるところがあるみたいだ。

 年長者らしい振る舞いを見て、少し彼の評価を見直す。

 工藤はそう言った後、私の持っていたビデオカメラへ視線を向けた。

 

「そうだ、紙越ィ! ちゃんとカメラ回してたんだろうな! 映像取れてなきゃ、ぶっ飛ばすぞ!」

 

 前言撤回。このオッサンはどこまでも最低だ。

 一瞬でも見直した私が馬鹿だった。

 

「あ……撮れてますよ、バッチリでーす」

 

 がくりと肩を落とした私は雑に返事を投げて、周囲の景色を撮る。

 この青空も、この野原も気に入った。怖い存在が居るのもいい。

 要らないのは……このオッサンだけだ。

 レンズから〈裏側〉を覗いて、私はそう思った。




くねくね編終了です。
もう少し進んだら、ネオ様も出したいなーと思ってます。


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ファイル5 振り返る八尺様Ⅰ

「うわ、また更に赤くなってる……」

 

 真っ赤に染まった鮮血のような左目の瞳孔を鏡で眺め、深い溜め息を吐いた。

 三日前までは顔を近付けてよく見ないと気付かない程度の濃さだったのだが、今は遠目で見てもはっきり分かるくらいに濃い赤になっている。

 綺麗というよりは毒々しいカラーリングだ。ルビーのように透き通る赤ならまだしも、どこか濁った感じがするから余計に性質が悪い。

 くねくね捕獲作戦の時にミミズの幽霊が左目から飛び出して以来、日に日に色が増していた。

 幸い、あれから左目からはあの白いミミズのようなものは飛び出して居ない。だけど、今も何かが左目の奥に詰まっているような異物感は消えていない。

 目の中に非存在が棲んでいるなんて、中学生がファンタジー漫画に憧れて懐く妄想みたいだが、棲んでいるのが邪竜だと魔王だのではなく、ミミズの幽霊だっていうんだからどうにも格好が付かない。

 取りあえず、工藤からバイト代をもらったら黒のカラーコンタクトでも買おう。そう思いながら市販の眼帯を着けて、自宅から出た。

 今日は大学で取っている講義はない。金を渡すから寝泊まりしているネットカフェに三日後に来いと言われたのでちょうど今から向かうところだ。

 私としてはあの横暴なオッサンに再び会うのは気が進まないが、もらう物はもらって置くに越したことはない。

 呼び出されたネカフェは最寄りの駅前から少し離れた場所に建っていた。

 中に入ると、側面に引き戸が付いているタイプの個室がずらりと並んでいる。まだ平日の午前中だというのに、半分以上のドアはぴっちりと閉じられていた。

 他人のことをとやかく言える立場じゃないが、他に行くところはないのだろうか。

 いや、工藤のようにネカフェ難民になって、ここを仮宿代わりに使っている人間も少なからず居ることを考えると、彼らも好き好んで来ている訳でもないのかもしれない。

 柄にもなく日本の将来を憂いてから、指定されていた番号の個室まで行った私はドアを二回ノックする。

 

「工藤さん。私です、紙越です」

 

 名乗ってから数秒後、引き戸式のドアが開き、工藤が顔を覗かせる。

 

「おう、紙越か。ちょうど、向こうさんも来てるから入って来いよ」

 

 え……。ネカフェの狭い個室に私含めて三人も入るの? というか、それ以前に一週間オッサンが寝泊まりしている空間に入りたくない。

 部屋に入らず、お金だけもらって、ちゃっちゃと帰りたいというのが偽らざる本音だが、正直に言えば工藤は間違いなくキレてへそを曲げる。ひょっとしたらバイト代を出してもらえない恐れすら出てくる。

 ここまで来て手ぶらで帰るハメになるのは避けたいところだ。

 不本意ながら、私はその言葉に従った。

 

「……じゃあ、お邪魔します」

 

 部屋の中は思ったよりも散らかってはいなかったが、畳三畳(たたみさんじょう)分くらしかない個室の人口密度は高く、気分が悪い。

 私が極度の人見知りだというのを差し引いても、暴力的な中年のオッサンと密室に居たいと思う女はまず居ないだろう。

 そして、もう一人。

 〈裏側〉で入手したものを購入しに来ているという人物が正座をして待っていた。

 

「初めまして。貴女が工藤様の助手の紙越様でいらっしゃいますね。わたくしはDS研の(みぎわ)と申します」

 

 座っていたのは三つ揃いスーツ姿の男性だった。正座をしていても手や足がすらりと長く、スタイルの良さが目立つ。

 頬がこけた細面だが、高級感のあるスーツと体格の良さから貧相というイメージは皆無だ。

 癖のある長い髪を丁寧にセットしてあり、工藤とは比べるまでもない清潔感が感じられた。

 年齢は三十代くらいに見えるが、落ち着いた物腰と理性的な口調は老成しているので見た目よりも高齢なのかもしれない。

 

「あ、ども……紙越、です……」

 

 何で名前まで知っているんだと思ったが、工藤のアホが喋ったのだろう。個人情報当たり前のようにバラしやがって……と思うが、文句を言った後の報復が怖すぎるから、拳は心の中だけで握っておく。

 汀は年下の私にも丁寧に名刺を差し出して、お辞儀をしてくれた。

 おずおずとこちらも無言で頭を下げるが、社会人マナーなど知らない私は余計に困惑する。

 目を合わせるのも気が引けたので、もらった名刺に視線を落とす。

 名刺にはこう印字してあった。

 〈一般財団法人 DS研究奨励協会 事務局長 (みぎわ)曜一郎(よういちろう)〉。

 DS……? 何の略称だ、これ。

 そう思っていると、こちらが悩んでいる雰囲気を察してか、汀が説明を始めた。

 

「DSというのは、ダーク・サイエンスの略です」

 

「ダッ、ダークサイエンス!?」

 

 日本語に直訳すると、『闇の科学』……。それの研究を奨励している協会。

 一気に胡散臭くなった肩書きに自然と表情が強張る。

 カルトだ。カルト宗教の臭いがする。関わりたくないという意志が警戒心と共に私の中で膨れ上がった。

 私の反応を見た汀は白い皮手袋をした指で頬を掻いて、苦笑いを浮かべた。

 

「わたくしもこのネーミングは些か不穏なので公式の書類でも省略しています。何しろ、今から三十年前以上に付けられた名前ですから……。科学における未知の分野という意味で呼称されたものですが、今ならもう少し柔らかいニュアンスの名前にしていたでしょうね」

 

「は、はあ……」

 

 弁解されても私の中でも評価は怪しげな暫定カルト団体のままだ。似非科学をお題目に掲げたカルト宗教なんて死ぬほど見てきたし、何ならその内の一つに父親が入信して経験すらある。

 

「まあ、俺らにはダークサイエンスだろうが、ドラックサイエンスだが何でもいいよ。こっちが持って来たモンを言い値で買ってくれるならな」

 

 工藤がずいっとビニール袋を提げて、備え付けの椅子の上で脚を組む。

 踏ん反り返った態度は、物を売るような立場を感じさせない不遜さを全身で示している。

 不本意だが、そんな工藤を見て私の緊張は少しだけほぐれた。

 目の前の相手がカルトだろうが、このオッサンなら不利益をもたらす存在だと思えば、金属バットを振り回して追い払ってくれるだろう。

 奴の言葉を聞いた、汀は頷いて、背の裏に置いていた紙袋を手前に持ち出す。

 ちらりと見えたその中身は見た事のないくらい分厚い札束が詰まっていた。

 

「そうですね。それでは商談と行きましょう。UBLで見つけたものだと確信できれば、それなりの値段で買い取ります」

 

「UBL?」

 

 新たな略称につい口を挟むと、汀が軽く微笑んで教えてくれた。

 

「〈ウルトラブルー・ランドスケープ〉。工藤さんのいう異界のことですね」

 

 つまり、私で言う〈裏側〉のことか。

 何でも横文字にする当たり、似非科学っぽくて好きになれそうにないネーミングだ。

 それにしてもブルー……青色か。廃墟で見た色やくねくねを理解した時に見えた色と同じだ。青は〈裏側〉を指し示す色なのかもしれない。

 私が一人考え込んでいると、工藤はあの虫食い状態の銀の六面体をビニール袋から取り出す。

 

「こいつはくねくね野郎をぶち殺した時に落とした奴だ」

 

「前回買い取ったものより劣化しているように見えますが……これは!」

 

 工藤から手渡されたそれをよく眺めていた汀は目を丸くした。

 彼を驚かせたのは銀色の塊の中で泳ぐようにうねる、小さな影だった。

 くねくねを襲ったミミズの幽霊たち。大多数は工藤の呪いの髪飾りパンチを受けて消滅したが、その一部は六面体の中で取り込まれて、今なお存在蠢いていた。

 

「劣化じゃねぇよ、馬鹿野郎。その中身によく分からねぇ、ミミズが泳いでるよな。そんなの現在の科学で説明付けられんのかよ、なあ。百万の価値あるだろ?」

 

 恐喝しているように見える工藤。やっぱり商品を売り込む人間の態度じゃない……。

 しかし、汀は気にした風もなく、それを買い取った。

 

「確かに。では、こちらは前回と同じく百万で」

 

 紙袋から一万円の札束を工藤へと差し出した。

 すごい。百万円! お金、百万円! こんなにあっさり手渡される金額じゃないぞ!

 興奮した私は工藤に小声で耳打ちする。

 

「工藤さん、工藤さん。アレも売っちゃえばいいんじゃないですか?」

 

 アレというのは捕獲作戦の後、くねくねを生け捕りにできなかった工藤が事もあろうに凶行に及んで入手したものだ。

 その凶行の内容というのが……くねくねの被害に合って顔から突起物を生やして死んでいた男の死体から、突起物を採取したこと。

 最初、工藤は死体ごと持って帰ろうとしていたのだが、梯子の前まで引きずって来たところで、成人男性一人を抱えて梯子を登ることが不可能であるという至極当然な答えを得て断念した。

 その後、ポケットからバタフライナイフを(おもむろ)に取り出したかと思うと、目の当たりから飛び出している透明な突起物を切り落として、ビニール袋に回収し始めた。

 流石にそのリアル羅生門行為には、人としてどうかと思ったが、刃物を所持した工藤に文句を言うことなどできず、私は若干引いた顔で眺めていた。

 「エノキみてぇだ」と呑気なこと言いながら、呪いの髪飾りが入ったビニール袋に切り落とした突起物を入れていく非人道的姿はまさに狂人だったと言えた。直接、触れるのは嫌だったようでうまくビニール袋の位置を調節して、切断した突起物がそのまま入るように作業していた。

 あの時は何やってんだと思ったものの、今ならばナイス判断だったと感じる。汀ならアレも高値で購入してくれるはずだ。

 ワクワクして工藤を見つめていると、金のためなら何でもやる奴にしては歯切れ悪く答える。

 

「アレかぁ……」

 

「どうしたんですか?」

 

 この後に及んで、良心の呵責など感じる人間でもないだろうに。

 工藤はビニール袋を逆さにする。しかし、出てきたのは呪いの髪飾りだけで、切断した突起物は落ちて来ない。

 

「あれ? あの透明な突起物はどうしたんです? ざっと数えても十本くらい集めてませんでしたか?」

 

「ありゃあ、何か消えてたんだよ。ひょっとしたら、髪飾りが食っちまったのかもしんねぇな……」

 

「ええ⁉︎」

 

 その発言を受けて、髪飾りに目を向ける。

 見れば、髪飾りの一部が半透明に変色していた。

 白っぽい半透明な色……くねくね被害者の突起物と同じ色だ。まさか本当にこの髪飾りがあの突起物を取り込んだのか?

 この呪具が単なる髪の毛の集合体じゃないことは充分承知していたものの、ここまででたらめなものとは思っていなかった。

 

「おや、こちらは?」

 

 汀は呪いの髪飾りに興味を持ったようで工藤や私に聞いてくる。

 説明するのは容易ではないし、〈裏側〉由来のものでもないので取り敢えず、誤魔化した。

 

「えーと……工藤さんのお守り、みたいな。ですよね?」

 

「触んな。こいつは俺の商売道具だ。売りモンじゃねぇ」

 

 乱雑に呪いの髪飾りを掴むと、またビニール袋に戻す。引き際を弁えているらしく、汀も「そうなんですか」と答えたきり、それ以上追求してくる様子はなかった。

 狭い個室に気まずい沈黙が訪れる。この雰囲気を作り出した張本人である工藤は呑気にコーヒーを紙コップから啜っていた。

 え……何この空間、堪えられないんですけど。

 私が気にする必要はないのだけれど、ここで抜け出すこともできないのなら、せめて話題を転換して少しでも空気を良くしたい。

 

「あ、あっ、そうだ。工藤さん、汀さんに〈裏側〉で撮影した映像見せてあげたらいいんじゃないですかねぇ!」

 

 声が裏返りそうになりつつも、重苦しい沈黙をぶち壊すためにそう提案する。

 〈裏側〉で一度ちゃんと撮れていたか撮影後、工藤と一緒に確認していたあの録画映像。

 やはり手振れが酷いところが何箇所かあったが、初めてビデオカメラを使ったにしてはよく撮れていたと自負していた。

 汀が〈裏側〉を研究しているのなら、向こう側に行く瞬間やくねくねが六面体に変わるところは興味を持つはずだ。

 しかし、工藤は映像を汀に公開することを渋った。

 

「おい、あれはどっかに売り込んで大々的に宣伝してから、地上波で流す予定なんだよ! こんな場所でほいほい見せられっか」

 

「いや、地上波では流せないシーンいくつもありましたけど……」

 

 いくらこの世の人間とは思えない相手とはいえ、金属バットで頭をかち割るシーンとか、死体から突起物をナイフで切り落とすシーンとか、絶対にお茶の間に届けてはいけない映像の類だ。

 

「うるせえ! 俺はそういう日本の腰抜けなところをバシッと変えてやんだよ! パラダイスシフトをよぉ!」

 

「……パラダイムシフトなんじゃ」

 

「うるせえな、どっちでもいいんだよ。名称なんか」

 

 工藤と益体もないやり取りを続けていると、汀も興味を惹かれたようで食い付いてきた。

 

「UBLで撮影した映像ですか……。それなら是非一度鑑賞させていただきたいですね」

 

「まあ、じゃあ、ちょっとだけなら」

 

 工藤も一応は取引相手である汀がそれを言い出せば断るのは難しいらしく、あまり乗り気ではないものの、データを吸い出した映像を部屋に備え付けているパソコンで再生し始めた。

 録画映像は神保町の雑貨ビルに入るところから始まる。そこから、エレベーターで起きたことが流れ、〈裏側〉への入口としてエレベーターが開く。

 その瞬間、突如映像は青一色で覆われた。

 

「えっ? あれ、向こうで確認した時はこんなこと、起きませんでしたよね?」

 

「ああ、どうなってんだ。おい、何か聞こえるぞ」

 

 青い空間の中、聞こえてきたのは私と工藤の話し声だった。

 

『……振り返る八尺様は鳥居の中に入ります』

 

『神隠しきさらぎ駅じゃあ、米軍がいつまで経っても迷子だ』

 

『時空のおっさんの真相は……』

 

『風車風車カザグルマカザグルマカザグルマかざぐるまかざぐるまかざぐるまかざぐるま……』

 

 ……会話ではなかった。

 間違いなく、声の質は私と工藤の声なのに言った覚えもなければ、文脈もめちゃくな言葉を羅列するかの如く語り続けている。

 しばらく呆然として眺めていると、画面中央にゴマ粒ほどの黒い点が現れた。

 青い背景の中で黒い点がズームするように拡大されていく。

 すると、それが人であることが分かった。

 まるでカメラが高速にその人物に近寄るように大きくなって……。

 顔が映る。

 眼鏡を掛けた女の顔だ。黒くて長い髪をした若い女性。切れ長の鋭い目からはどこか冷めた印象が伝わってくる。

 汀がポツリと呟いた。

 

閏間(うるま)冴月(さつき)さん……」

 

「知り合いなんですか?」

 

 私が尋ねると、目線を映像から離さぬまま、彼は静かに答えた。

 

「DS研の客室研究員です。UBLへ赴き、数々の異物を持ち帰りましたが……三か月前にUBLに行ったきり消息を絶ちました」

 

 〈裏側〉で失踪した人間なのか。

 当たり前だが、私はこんな女性に会った記憶はない。どうして自分が撮った映像にこの閏間冴月という女が映っているのか見当が付かなかった。

 

『……(ひじり)の丘で待つ』

 

 閏間冴月はそう言った後、ぶつりと映像は切れてブラックアウトする。

 パソコンを見ていた私たちは彼女の雰囲気に気圧されて、映像が途切れた後も誰一人口を開かなかった。

 少しして工藤が喋り始める。

 

「おい、これじゃ売り込めねぇよ。俺とくねくね野郎の熱い死闘はどこ行ったんだよ」

 

「この期に及んでそれですか……」

 

 呆れを通り越して尊敬しそうになる能天気さだ。憧れはしないが、素直にすごいと思う。

 余韻に浸るようにブラックアウトしたモニターを眺めていた汀は、工藤に言った。

 

「もし別の用途がないのでしたら、この映像お売りいただけませんか?」

 

「俺が自分の作品をそんな安値で売ると思ってんのか!? 俺にとってこの映像作品は自分の子供も同然なんだよ!」

 

 そこからの二人のやり取りは長いので割愛させてもらうが、結論から言うと工藤は三百万円でこの映像を売り渡した。

 あれだけ豪語した割には、我が子を売り飛ばす辺りが本当にこのオッサンらしい。

 やはり最終的に決め手となったのは、汀以外でこの映像の価値を理解してくれそうにないことだろう。映像そのものは謎の手抜き動画でしかない。

 ちょっとした動画編集技術があれば、これと同じようなものを作るのは可能だ。

 汀も価値を見出したのは〈裏側〉で行方不明になった同僚が映っていたからだろう。

 最初の百万円と合わせ、計四百万円を支払った彼は一礼した後、退出する。

 閏間冴月について何か聞こうかと思ったが、どうやら急いでいる様子だったので、呼び止めるタイミングが掴めなかった。

 これはあくまで私の想像だが、閏間冴月の家族か友人にあの映像を見せにいくのかもしれない。

 汀が消えて行ったドアを見ていると、札束が私の前に突き出された。

 

「ほら、お前の取り分。百二十万」

 

「お、おお……」

 

 工藤からお金を受け取り、私は感嘆の声を上げる。

 百二十万。すごい。短時間でこんな儲けが出るなんて……。

 思わず顔がにやけてしまう。苦労した甲斐があったというものだ。

 お札の枚数を数えるのがここまで楽しいとは思わなかった。

 

「そんじゃ、次はいつ行く?」

 

「はい? どこにですか」

 

 工藤の発言の意味が分からず、首を傾げると奴は平然と言い放つ。

 

「決まってんだろ。向こう側にだよ。碌な映像が持ってこれないってのは分かったが、金にはなる。——儲けるぞ、紙越!」

 

 髭面のオッサンはにやりと笑ってみせた。

 




八尺様編開始です。

小桜じゃなく、汀さんなのは工藤を家に呼ぶ彼女が想像できなかったからです。


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ファイル6 振り返る八尺様Ⅱ

 三日後、私はまたも大学の帰りにハイエースで拉致されて神保町へ連行された。

 百二十万の臨時収入を奨学金(学生ローン)の返済以外にどう使おうかなんて、浮ついた考えていた矢先のできごとだった。

 歩道を歩いていたら、真横に見覚えのあるハイエースが停まり、何かと助手席側のドアが開いて、運転席に座っていた工藤に引きずり込まれたのだ。

 犯罪擦れ擦れどころか、普通にラインを飛び越した行為に面食らった私だが、文句の代わりに出たのは質問だった。

 

「工藤さん……今回は何を捕まえに行くつもりなんですか?」

 

 ここで拉致に対する非難を浴びせても、工藤の機嫌をそこねるだけで建設的な議論にはならない。

 だったら、どういう目的で〈裏側〉に行こうとしているか尋ねた方がまだ意味がある。

 なんだか飼い慣らされてる気がするけど、頭のネジが何本か抜け落ちているこのオッサンとの付き合い方はこれしかない。

 

「おう。分かってるじゃねぇか。今回は『八尺』の野郎を捕獲しに行くぞ。あの撮った映像で俺らが言ってた発言がどうにも気になってるんだわ」

 

「ああ、あのテープに残ってた異言ですか」

 

 意外だった。あの傲岸不遜な工藤が超常的とはいえ、他人の言動に左右されるなんて思いも寄らなかった。

 しかし、考えてみれば、こう見えてこのオッサンは数々の心霊現象をドキュメンタリー映像にしてきたという過去があるらしい。似たような状況に直面したことがあり、経験則から先手を打とうとしているのかもしれない。

 文脈としては意図が掴みづらいが、閏間冴月が吐いた単語にはネットで流行った怪談に関するものがちらほらあった。

 その一つが『八尺様』。

 身長が八尺、分りやすくセンチメートル換算すると二百四十センチある女の怪異。

 「ぽっぽぽ……」と奇声を上げて、自らが気に入った若い男を襲うと言われているネット怪談の一つだ。

 

「『振り返る八尺様は鳥居の中に入ります』……でしたっけ」

 

 紛れもない自分自身の声色で録音されていたにも関わらず、絶対に発言した覚えのない台詞。

 気味が悪いとは思うが、〈裏側〉では何が起きても不思議じゃない。何せ、くねくねなんていうネット怪談の化け物が跋扈している場所だ。

 謎の言葉が入ってるくらいはさして驚くことではない。

 だけど、工藤はそれとは別件で何か気になることがあると言い出した。

 

「それも何だが、その後に出てた閏間って奴の言葉だよ」

 

「えーと、『(ひじり)の丘で待つ』とか……」

 

「そう、それだよ。〈聖の丘〉。ありゃ、俺が元居た世界で、聞いた覚えのある単語なんだよ……」

 

 珍しく少し大人しいテンションで語る工藤に、私は尋ねた。

 

「聞き覚え?」

 

「『コワすぎ』にも何度か出た発言なんだがな……その〈聖の丘〉ってのが……うおっ!」

 

 答えようとした矢先、工藤が何かに驚いたと思いきや、ガクンと衝撃が走り、車体が揺れた。

 何が起きたのか判断できず、私も呼吸が一旦止まりかけたが、工藤が急ブレーキを掛けたと理解した時には思わず、文句が口を突いて出た。

 

「っ、工藤さん、いきなり……!」

 

「お前ら、何やってんだよ! 危ねぇだろうがよぉ‼」

 

 自分よりも遥かにぶち切れた工藤の怒声に一瞬で私の怒気が委縮する。

 しかし、怒りの矛先が自分ではなく、別の誰かだと気付いた私は視線の先に目をやった。

 ハイエースの正面に見える道路に男女の二人組が立っている。

 男の方は黒いスーツ姿で二十台後半、女の方はカジュアルな格好で二十代前半……いや、私と同い歳ぐらいだろうか。二人とも金髪だが、よく見ると男の方は髪の根元が黒く、単に染めている様子だった。

 逆に言えば、女の方は自然体の金髪であり、藍色の瞳も相まって西洋人風の相貌をしている。

 そして、これが私的には一番重要なのだが、二人とも人目を引くほど容姿が整っていた。

 金髪の男は工藤の怒鳴り声も気にせず、さっさと歩道の方に歩いて行ってしまう。

 取り残された金髪の女は状況が掴めていないのか、始終キョロキョロ辺りを見回していたが、何故かほっとした表情で男の後を追いかけて行った。

 その後ろ姿を見て気付いたが、彼女の膝から下は泥水がべっとり付着していて、まるでついさっきまで沼にでも浸かっていたような有様をしていた。

 「ネオさん」と先に行ってしまった男の名前らしきものを呼びながら、道路から早足で退場して行く。

 

「何だったんだ。急に車の前に現れやがって……」

 

「現れた? 飛び出して来たんじゃなくて、ですか?」

 

 工藤の言葉に引っかかりを感じて聞き返すが、「知らねぇよ」と返すだけだった。

 思い返せば、助手席に座っている私が前を横切るあの男女に気付けなかったのはおかしい。

 いくら工藤の方を見ていようが、視界の端で動くものがあれば、そちらに気を取られるはずだ。決して視力は高くはないが、人間二人が前方の道路へ駆け出すのを見逃すほどではない。

 工藤の言う通り、歩道から飛び出して来たというよりも、突然目の前に現れたと表現する方が正しいのかもしれない。

 もしかして、空間移動を使う超能力……なんて小学生のような妄想が脳裏を過ぎる。

 路上で急停車したままにもいかず、ハイエースは再び発進していく中、去って行った金髪の男女に想い馳せていた。

 

 

 ***

 

 

 なんやかんやあった道中、雑居ビルのエレベーターを使い、私たち二人は〈裏側〉へ訪れていた。

 前回と違い、工藤の方はビニール袋だけではなく、少し大きめなリュックサックを背負っている。話によれば、八尺様を捕獲するために網まで持って来たらしい。

 くねくねの時よりも本格的に捕獲しに来ている様子だった。

 私の方にはまたハンディカムビデオカメラが手渡され、撮影を命じられる。

 何でも映像としては公開できないが、汀が高値で購入することを狙ってのものだそうだ。

 あれだけ映像作品に対する情熱だの矜恃だの語っていた癖に、即物的過ぎて若干呆れる。

 そもそも、〈裏側〉に八尺様が本当に居ると確認もできてないのに、捕獲する気で望むこと自体が既におかしい。

 でも、八尺様を捕まえられなくても、〈裏側〉の映像が売れるなら無駄骨にはならずに済みそうだ。充分な報酬が確約されているなら私も手伝うのに異論はない。

 私は梯子を降りた後でカメラを起動して撮影を始める。

 

「よっしゃ! 行くぞ、紙越」

 

「はい。それじゃあ、今回はどこから探しますか?」

 

「そうだな……上から見た時、南西の方角に廃ビルみたいな場所見えたよな。あそこにしてみるか」

 

 廃ビルか……。骨組みビルの屋上から見た景色にはいくつかそういった人工物の痕跡が残っていた。

 廃墟探索になれた私でもこの世界にある建造物はどういう扱いのものか分からない。

 自分一人なら物怖じするが金属バット片手に持ったこのオッサンが居ると、心持ち安心感がある。

 私はその言葉に頷いてカメラで撮影しながら、工藤の後を続いた。

 またくねくねが出現するかと気を張ってカメラを回したが、ここに居るのは工藤と私だけで人影らしきものは一切見られない。

 風に揺れて擦れる草と私たちの足音以外に音を立てるものがない。人間の存在がないと世界はこんなにも静かなのか。

 無人の世界……考えてみれば、当たり前か。〈裏側〉の存在を知っているDS研の連中でさえ、安易にこちらへ来ようとは思わないのだ。

 私たちのようなちょっとおかしい人間しかこの場所には訪れない。

 そんな風に考えながら草原を突き進んでいると、私はふと工藤のアシスタントディレクターだという市川という人物のことを思い出した。

 

「そういえば、工藤さん。市川って人は探さなくていいんですか? 工藤さんと同じようにこっちに来てるかもしれないんでしょう?」

 

 そう聞くと、工藤は「あー……」と歯切れ悪く呟く。

 

「市川の奴はもう死んでるかもしんねぇな。何せ、生首だけになってたし」

 

「ええ、生首って……どういうことですか!? 前は門になったとか言ってましたけど」

 

「まあ、色々あってな。首、ちぎれてよぉ。そのまま異界に呑み込まれて、でもそこで門みたいになって俺とカメラマンの田代を助けてくれた。呪いに取り込まれた俺が戻ってるんだから、あいつもこっちに来てんなら戻ってる可能性があるかと思うんだが」

 

 相変わらず、訳の分からない話をする人間だ。

 お世辞にも説明の上手いとは言えない工藤が、更に突拍子もない話をするものだから、ますますこんがらがってしまう。

 どういう状況で何が起きたのかは把握しづらいけど、その市川という人が工藤に散々面倒を掛けられていただろうことは察せられた。

 

「大切な仕事仲間……だったんですか?」

 

「ああん? 市川が? 馬鹿言うな。あいつは、アレだ。口煩いアシスタントディレクターだよ。俺のやることに一々文句付けやがって」

 

 市川に悪態を吐くその様子が、どこか強がってるような子供のような印象を受けて、少しだけ微笑ましかった。

 そんな風に思える相手が居るだけで羨ましく感じる。

 私にはそんな相手は居ない。悪態を吐く友達どころか家族すら居ない。

 嫉妬するまでいかないのは、誰かにそこまでの親しみを懐いた記憶がないからだろう。

 未だにぶつくさ文句を呟いている工藤だったが、そこで何者かの声が鼓膜に飛び込んで来た。

 

「と、止まれ!」

 

「……っ!?」

 

 私も工藤も自分たち以外の人間の声に驚き、声が飛んで来た方向に目を向ける。

 私たちが居る草むらから十メートルほど離れた場所に異様な格好の男が立っていた。

 一瞬全身が銀色に光ったため、くねくねと同じ異形かと思ったが違った。

 安っぽく凸凹した銀色のテカリは私もキッチンでよく見るものだった。

 男はアルミホイルを撒いたヘルメットを被り、同じくアルミホイルをべたべたに貼り付けた上着を着込でいた。

 手に持っているのは……何だ? ビニール傘の骨組みにアルミホイルを貼り付けたような、小学生の工作じみた物体を握っている。

 無精ひげを生やし、血走った瞳をぎらつかせている双眸(そうぼう)は奇怪な衣装と合わせて、正気を失った狂人にしか見えなかった。

 

「何だ、お前は!」

 

 工藤が金属バッドを担いで威嚇するように怒鳴り付けるが、アルミホイル男は制止するように手を突き出す。

 

「死ぬぞ……。踏むと死ぬぞぉ!」

 

「はあ? 何を踏むってんだよ。地雷でも埋めてんのか!」

 

「グ、グリッチ。グリッチ、だ……」

 

 アルミホイル男はそれだけ言うと、アルミホイルを貼った骨組みの傘から金具の一部を外して、工藤の一メートルくらい手前に投げた。

 その瞬間、耳をつんざくような轟音がして、閃光が走った。

 反射的に目を瞑った私の頬に熱風がふわりとかかる。

 恐る恐る目を開いた先には、空中に落下途中で静止した金具が浮いていた。

 赤銅色に焼け焦げたそれは瞬時に黒く萎びて朽ちていく。

 ぽとりと落ちたそこには一部灰化した草むらだった。

 

「ト、ト……〈トースター〉だ。踏むと燃えて、し、死ぬ。〈ゾーン〉にはたくさんある。グリッチの一つだ……」

 

 呆然としていた私たちにアルミホイル男は灰化した地点を避けて、近寄って来る。

 取りあえず、この人のおかげで突然の焼死を回避できたらしい。

 

「あの、ありがとうございます。助けてくださって」

 

「あ、……あ、うん。〈ゾーン〉のグリッチには気を付け、て……てて、て」

 

 硬直が解けて、改めて彼に感謝しようとするが、男は突然顔を押さえて、私の顔を凝視した。

 

「みみ……美智子?」

 

「え、ミチコって、誰ですか?」

 

 唐突に言われた人名に戸惑って聞き返すが、目の焦点のズレたアルミホイル男はそのまま私に突進してくる。

 

「美智子ぉ……美智子美智子! ああ。ああ! よかっ、ああっ‼」

 

 そのまま、接近してきたアルミホイル男は、知らない女性の名前を連呼しながら、私に抱き着こうと腕を伸ばした。

 ぎょっとして仰け反る私だったが、その前に前に立っていた工藤の金属バッドが男の胴を殴り付ける。

 

「何だ、お前! イカれてんのか、おいコラァ!」

 

 体勢を崩して倒れ込んだアルミホイル男にすかさず飛び掛かって、首を絞め上げた。

 上体だけを引きずり起こした工藤はチョークスリーパーの要領でぎりぎりと首を押さえる。

 男は口から泡を吐きながら手足をバタバタと動かして逃れようとする。しかし、がっちりと後ろから抱え込んだ拘束から逃れることはできず、返って喉が絞まる結果に終わった。

 

「うっぐあっ! はなっ、はなっせぇ!」

 

「キチガイだろ? お前、キチガイだろ? なあ! なあ、オイ!」

 

 放送禁止用語を連発して男を捕縛する工藤。

 頼もしいと感謝したのは数秒で、工藤が男を絞め殺す前に慌てて放させた。

 

「工藤さん、やりすぎですよ! 死んじゃいます、その人死んじゃいますから!」

 

 この人もこの人でヤバい。通常の狂人より少しマシな狂人でしかないことを改めて思い知らされた。

 その後、工藤の暴力により大人しくなったアルミホイル男は、私に謝罪と感謝の言葉を吐いて、地面に膝を突いた。

 

「す、すまない。間違えた。間違えたんだ……」

 

 男の顔には深い落胆と悲しみが刻まれ、その場で少し泣き出す。

 

「何がだよ。何と間違えたんだ、このキチガイ」

 

 バッドの先を突き付けた工藤は相変わらずの恫喝を始め、収拾が付かなくなりそうになる。

 駄目だ、このオッサンには『脅す』と『殴る』以外に対人コマンドが存在しない。ここは私が何とかしないと……。

 

「脅さないでください。取りあえず、自己紹介しましょう。私は紙越って言います。こっちが工藤さん」

 

 何故、コミュニケーション能力の低い私が、率先して初対面の人間とコミュニケーションを取りに行かなくてはならないのだ。

 だが、仕方ない。社交性マイナスと社交性ゼロなら、ゼロの方がまだマシだ。

 私たちが名乗ると、アルミホイル男も名乗り返してくれる。

 

「俺は……肋戸(あばらと)だ」

 

 そう名乗った男は神隠しにあった妻を探して〈裏側〉に入って来たのだと答えた。

 




肋戸のルックスも白石作品風に変わっています。
何故、堀光男スタイルなのかというと原作の彼のままだと、白石作品に登場する狂人枠と比べて薄味に感じたからです。


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ファイル7 振り返る八尺様Ⅲ

「み、見間違えた。混乱して、妻と……美智子と……」

 

 アルミホイル男改め、肋戸は私にたどたどしく釈明する。

 いきなり襲われかけた身としては、だから何だと言うところなのだが、散々工藤にバットでド突かれていたシーンを見た後だと許せてしまう。

 正直に言って、さっきの様子から正気が残っているか怪しいが、拙い説明の要点を纏めると肋戸は行方不明になった妻を探しに〈裏側〉、彼の言うところの〈ゾーン〉へと訪れたらしい。

 どのくらいここに滞在しているのかと聞くと、震える手で数を表しながら言った。

 

「八十三日……」

 

「三か月近く居るんですか? こっちの世界に!?」

 

 ぎょっとして尋ね返すと、肋戸は当然のように頷いた。

 うわあ……。マジか。こんな異様な空間で一年の四分の一を過ごしてるなんて、ますます以って正気とは思えない。

 

「ほーん。じゃあ、アンタさ、八尺様見たことない、八尺様。こーんなデケェ女なんだけどよぉ」

 

 自分の身長よりも高いところまで手を伸ばしてジェスチャーをする工藤。

 今の話を聞いてまったく動じてない辺り、この人もこの人で正気じゃないな……。それにくっ付いて来た私が言える立場でもないけど。

 

「み、見た……」

 

「え、本当ですか!?」

 

「本当だろうな。ガセだったらお前、これだぞ。これぇ……」

 

 肋戸の発言を疑うような目で見る工藤はおもむろに鉄バットを振り上げ、威嚇する。

 先ほどしこたまそれで工藤に殴られたことを思い出したのか、肋戸はびくりと身を震わせた。

 

「やめてくださいよ、工藤さん。せっかく糸口になる目撃情報が聞けるかもしれないんですから。それでどこで八尺様を見たんですか?」

 

 やむなく私は工藤から庇うように彼の前に立って尋ねた。

 

「少し先の……白い建物だ。や、奴は美智子を……美智子を攫った〈ゾーン〉の住人だ! だ、だから俺は奴と戦うための、ち、力を蓄えていたんだっ!」

 

 正気と狂気の境界線を行ったり来たりしながら、肋戸はそう答える。

 喋る彼は徐々に語調を強め、最後には唾を飛ばす勢いで叫んだ。

 

「俺は……命を懸けてるっ! 美智子を取り戻すために、あの〈ゾーン〉の住人と戦う! お、お前らにはその覚悟があるのかぁっ……!」

 

「バカヤロー! あるに決まってんだろぉが!」

 

 肋戸の熱気に当てられたのか、興奮した工藤は何故か彼を拳で殴った。

 え、何で……? 何で今殴ったの、この人。

 

「俺はなぁ! こっちの世界に命を懸けてんだよ! こっちで八尺の野郎捕まえて、金持ちになって、良い車乗って、良い女(はべ)らすためになぁ!」

 

 凄まじく俗っぽい野望を熱く語り始める。

 こうして考えると、工藤は本当にクソ下らないことのために命懸けている。

 それでも、愛する妻のためにここでサバイバルしている肋戸よりは共感できる自分が少し悲しかった。

 工藤が私にもこの話題を振って来る。

 

「こいつもなぁ! 俺と同じで命懸けでここまで来てんだよ! なあ、紙越ぃ!」

 

「ええ!?」

 

 命までは捧げたつもりはないぞ。

 確かに〈裏側〉までやって来たのは好奇心とお金のためとはいえ、ここで死ぬつもりは毛頭ない。

 死ぬなら是非とも工藤一人で死んでほしい。

 

「そ、そうか! 君らも命懸けか! わ、分かった! それなら、俺と協力してくれ……! 俺と一緒に奴を倒そう!」

 

「望むところだよ! 俺たちゃ覚悟決まりまくってからなぁ!」

 

 キマッてんのはこいつらの脳内麻薬だけなんだよなぁ……。

 だけど、ここで「あ、やっぱ自分抜けます」と言い出したら、テンションの上がった男二人にリンチされる可能性がある。

 私は渋々、彼らに同調した。

 

「ああ、はい……そっすね」

 

 こうして、私たちはなし崩し的に八尺様捕獲同盟を結成。

 作戦を立てて、肋戸が八尺様を見たという場所に全員で向かう流れとなった。

 先導するのはこの場所に詳しい知識を持つ肋戸。私と工藤はタモ網を持って後を続く。

 

「小さな物、とか……投げて進め。な、なかったら長い棒とかで……突け」

 

 彼は身に着けているアルミホイルの服をちぎって丸めては、前方へ落としながら歩いている。

 

「死だ……この世界は死で満ちている。〈ゾーン〉は見えない罠で、俺たちを襲おうと、し、している」

 

 ポロリと落とされたアルミホイルの小玉は地面に触れた瞬間、液状に溶けたり、高速で跳ねたり、異様な現象に見舞われている。

 この罠を総称して肋戸はグリッチと呼んでいるのだそうだ。

 グリッチは草むらに隠れてはいるが、何かしらの物体と接触すると姿を露わにする。

 見せてもらった内、名称を教えてもらったのは、三種類だけだった。

 白い挽肉じみた細かい塊が円錐状に突き出たもの、〈仏壇飯〉。

 髪の毛で作られたジャングルジム、〈カスミ網〉。

 そして、最初に見た炎の出る噴出孔、〈トースター〉。

 これらは発生頻度が非常に多く、名前を付けて判別する必要があったのだという。

 

「他には、ふ、触れたものに力を与えるグリッチもある……」

 

「力を与えるってどんな風にですか?」

 

「じ、実際に見た方が、早い……。工藤」

 

 肋戸が工藤を呼ぶ。

 彼は、目の前にある場所を指差して工藤に言った。

 

「この場所に触れて、みろ……」

 

「ああん? 何でだよ、お前が触れよ」

 

「工藤……!」

 

 強面の割りにビビりの工藤はその指示に逆らうが、相手も引かないところを見て、不承不承ながら従う。

 

「ああ、分かったよ。おさわりバーの姉ちゃんのケツみてえにベロンベロンに触ってやるよ!」

 

 下品な発言と共に男らしく決めてはいるが、二分くらい渋った上に、私の方をちらちら見て変わってもらおうとしていたのに気付いている。

 この男は基本的に情けなさと下品な欲望で構成された人間なのだ。

 

「おるらぁ!」

 

 勢いを付けて触った彼は、ほとんど一瞬で手を引っ込める。

 ……どこまでも覚悟の決まらないところは一周回って、尊敬してしまいそうだ。

 工藤がグリッチ触れた瞬間、ビカビカと目に悪そうな光の点滅が工藤の身体から発生した。

 

「うおっ! 何だこりゃ!」

 

「ふ、服を脱いでみろ」

 

「ああ? 服? ……おお!?」

 

 訳も分からないまま、突然肋戸が工藤の上着を剥ぎ取る。

 怒号を上げて抵抗する工藤だったが、やせ細った見た目に反し、力は強いようであっという間に上半身裸にされてしまった。

 男性にほとんど免疫のない私は本来ならば「キャー」とか言って目を覆うべきなのかもしれないが、目の前で突然行われると羞恥より早く、驚愕の方が来て、硬直してしまう。

 上半身の衣服を脱がされた工藤の光は点滅をすぐに止める。

 それから奇妙な紋様のようなものが胸から腹部、肩にまで滲むように現れた。

 その模様は、両端を丸で挟んだ棒の羅列のように見えた。

 

「な、何なんだよ。この模様は」

 

「力を与えるグリッチ、〈タトゥー〉だ……。これは触れた生物の、パ、パワーを、引き上げる……」

 

「おお、そう言われてみるとパワーが(みなぎ)ってくる気がするぜ!」

 

 頭のネジが二三本行方不明の工藤はその得体の知れない模様が身体から出ているのに無邪気に喜んでいる。

 私は触れさせられずにほっと胸を撫で下した。

 あんな模様が身体から浮かび上がった日には、ショックで二晩は寝込んでしまうだろう。

 

「そ、その模様は一時間程度で消える……一度その効果を受けると、もう一度〈タトゥー〉に触れても効果を受けることは、できない……」

 

「ほー。ってことは一回ポッキリのドーピングって訳か」

 

 工藤は感心して頷いた。

 一応、あの模様は消えるらしい。

 肋戸が使わないのは恐らく既にその効力を過去に受けているからだ。

 もし、一時間以内に勝負を掛けないと、次に私があのヘンテコな模様を受けさせられるかもしれない。

 何としてもそれは乙女の尊厳に置いて避けたいところだ。

 

「これが力を与えるグリッチか」

 

「も、もう一つ……ある」

 

 腕をグルグル回して、感覚を確かめる工藤に肋戸が言った。

 彼によれば、そのもう一つの力を与えるグリッチが重要らしい。

 

「どこにあんだよ、それは」

 

「白い……建物の中。や、奴が居る場所だ……」

 

「その白い建物って、八尺様を見かけた場所と同じですか?」

 

 私が聞くと、彼は首を縦に振った。

 ボスのダンジョンの中にパワーアップポイントがあると聞くと、途端にテレビゲームっぽく感じてしまうのは私だけだろうか。

 どうにも都合が良すぎて作為的なものを感じてしまう。

 能天気な工藤は「好都合だ」と喜んでいた。この人はどこまでも低能というか、臆病な割りに物を考えない。

 準備の大半が整ったということで私たちは、今度こそ白い建物へと向かって歩き始める。

 一抹の不安と期待を込めて、足は前へと進んで行った。

 

 




しばらくぶりの更新です。
他の抱えている連載小説の方を書いていたのですが、アニメ化された記念に頑張りました。


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ファイル8 振り返る八尺様Ⅳ

 話に聞いた白い建物は、三階建ての廃ビルで全体的に横に長く伸びていた。

 イメージとして一番近いものを上げるなら、小学校の校舎だろうか。

 窓の割れられた廃校舎。それが白い建物に対して、私が懐いた感想だ。

 

「……こ、これは!」

 

 先導していた肋戸が急に声を上げる。

 

「何だ何だ? またグリッチってヤツか」

 

 工藤が覗き込むと、彼は首を横に振って地面を指差した。

 向いた先にあったのは地面の窪み。草の根元が折れ曲がり、何か大きな棒状のもので押し当てられたのような痕跡だが……。

 

「足跡だ……〈ゾーン〉の住人の足跡に、ま、間違いない……」

 

「これが八尺の野郎の足跡なんだな。おい、紙越。カメラで撮っとけ」

 

「はいはい。でも、撮影した映像が正しく録画できるか分かりませんよ?」

 

 〈裏側〉の映像は〈裏側〉でしか認識できない。この映像は向こうに持って行くと変質する。

 いや、ひょっとすると私たちが認識しているこの光景自体が間違っていて、映像の方が正しいのかもしれない。

 どちらにせよ、私たちが見ている景色を表の世界に持って行くことは不可能なのだ。

 もっとも別世界の映像としての価値は保障されるから汀のような人間は高値で購入してくれる。

 

「それでいいんだよ。これが俺の『コワすぎ流』の制作法だ。面白そうなモンがあったら取りあえず撮る。どう映ったかなんて編集段階で考えりゃいい」

 

 その行き当たりばったりの思考はディレクターとしてどうなんだ……。

 感心よりも呆れが先行するが、特に反論せず、足跡らしい窪みを撮影する。

 ズームにして撮り終えると、屈み込んでいた肋戸はぼそりと呟く。

 

「ま、待っていろ、美智子……俺が、必ず……」

 

 まだこの足跡の主が近くに居る可能性もあるにも関わらず、彼は焦点の合わない目付きで草むらを突き進んで行った。

 気がせいでいるのか、あれだけ慎重だったグリッチ探査はおざなりになっていき、背の高い草むらを抜けると急激に駆け出した。

 

「ええ、走っちゃっていいんですか!? グリッチとかあるんでしょ!?」

 

「紙越!」

 

 肋戸を止めるぞとでも言うのかと思ったら、カメラを顎で指し示す。

 

「あいつにカメラ向けとけ」

 

「ええ!? 下手すると燃え上がったり、弾け飛んだりするかもしれないんですよっ!?」

 

「そうなったらそれで見物だろ。最悪、あいつが死んでも八尺の野郎が現れる場所は判明し(われ)てんだからよ」

 

 ひ、人でなし過ぎる……!

 散々ヤクザだのキチガイだの内心で呼んでいたが、ここまで外道じみた発言するとは流石に思わなかった。

 笑いながら冗談めかして言うなら、まだしもこの人真顔で言っている。

 恐らく、素。偽りない本音で人命よりもインパクトのある映像の方に興味があるのだ。

 これが根っからの映像ディレクターとしての性分だとするなら擁護のしようもあるかもしれないが、映像そのものよりもそれに付加される金銭目的なのが透けて見えるからタチが悪い。

 そう思いつつも、私は走る肋戸へハンディカムビデオのレンズを向けた。

 スプラッタ光景など見たくはないし、さっきまで会話を交わしていた相手が凄まじい死に方をする場面など想像もしたくない。

 だけど……。

 興味はあった。

 こちら側で死んだ人間の映像は、一体元の世界ではどのような映像に変換されるのか。

 仄暗い好奇心。あからさまにタブーなものへの安全地帯から手を伸ばす感覚。

 濡れた猫を電子レンジで温めたらどうなのか、のような思考の端を掠めても絶対に実行しない行動への興味。

 私の身体はそんな悪趣味な興味に動かされて、肋戸を撮り続ける。

 肋戸は何事もなく、草原地帯を抜けたところを見て、自分が安心したのか、それともガッカリしたのか判断できなかった。

 いけないいけない。工藤と関わったせいで、私のなけなしの人間性と倫理観が著しく摩耗している気がする。

 しっかりしろ、紙越空魚。私までダークサイドに堕ちるなよ。

 

「おーい、無事かー?」

 

 白々しく工藤が心配の言葉を掛けつつ、後を追う。

 安全が確認できたので彼の踏んだ足跡の箇所を踏みながら白い建物に接近していく。

 先行していた肋戸は地面に四つ這いになり、何かを見つめていた。

 

「あ、足跡だ……奴らの足跡……」

 

「え、足跡って……? それ、ですか?」

 

 カメラ越しに彼の言う「足跡」を観察する。

 一言で表すなら、それは巨大な判子を押し付けたような痕跡だった。

 直径三十センチほどの円の中にみっちりとくさび型文字のような図形が刻まれている。

 人間どころか、生物の足跡には到底見えないそれは二メートル間隔で点々と続いていた。

 これが八尺様の足跡だとするなら、少なくても脚部は人間とは完全に異なる見た目をしているだろう。

 それは白い建物の入口の辺りまで続いていた。

 

「やはり……ここだ! こ、ここに居る……! 美智子をこの〈ゾーン〉に連れ去った奴がぁ……!」

 

 白い建物の正面玄関へと肋戸が向かう。

 

「あ、ちょっと!」

 

 無策で異形の存在が居る場所へ突入するのはまずいのではと、言おうとするが怒りで興奮している彼の足は止まらない。

 どうすべきか判断を工藤に仰ぐと、ビビり……もとい慎重派の彼には珍しく、進むぞとの回答が返って来た。

 

「ここまで来たからな。もう一つの力を与えるグリッチもこの中らしいし、俺らも行くぞぉ!」

 

「……そうですね。ここまで来ておいて引き返すって選択肢はないですよね」

 

「お前もなかなか『コワすぎ流』が板に付いてきたじゃねぇーか! よっしゃ! 気合入れて、八尺の野郎をとっ捕まえてやろうぜ!」

 

 工藤がそう言って、建物の中へと入っていく。

 私はその背中を撮影しながら、恐る恐る追従した。

 廃ビル内は薄暗く、外の陽射しとの明暗差に眩暈を覚えるほどだった。

 ビルの中は二階から三階まで床が崩れ、吹き抜け状態になっている。

 意外にもあれだけハイテンションで先に飛び込んでいった肋戸は入って少し先の場所で呆然と立ち竦んでいた。

 

「肋戸さん? 大丈夫ですか?」

 

「…………」

 

 話しかけても反応はない。ただ焦点の合わない目で室内を眺めている。

 ほとんど伽藍堂(がらんどう)になった室内を割れた窓から差し込む光がスポットライトのように照らしていた。

 中央で光の帯を浴び、床に大きなシルエットを作っているのは……女性。

 二メートルは超えていると思われる、とても背の高い女性だ。丈の長い白いワンピースとツバの広い帽子を身に着けている。

 こちらに背を向ける彼女はその長い黒髪を垂らして佇んでいた。

 ――八尺様。

 身長は八尺、センチメートルに直すと二百四十センチある女の怪異。

 くねくね同様、ネット怪談で有名になった異形だ。

 女の容姿は都市伝説で伝えられる姿、そのものだった。

 

「み、み、美智子ぉぉぉ!」

 

「……っ!?」

 

 ある種の感動を感じながら、その姿をハンディカムカメラに収めていた私だったが、真横で突如起きた叫び声につられて、そちらにレンズを向けた。

 肋戸が、泣いていた。

 小さめの瞳から、よくもそこまで涙が出るものだと感心してしまうほどの号泣。

 身体を歓喜の震えで満たした彼は独り言のように呟く。

 

「よ、ようやく……見つけた……み、美智子だ……あれは美智子だぁ!」

 

「え、ええー……」

 

 奥さん!? あれが奥さんの美智子さんなの!?

 多分、というか絶対に違うだろう。もし美智子さんが二メートル以上ある女性だとするなら、八尺様の話を工藤が持ちかけた時点で何かそれに対するコメントをしていたはずだ。

 ひょっとすると、彼にはあれが二メートル以上ある髪の長い女には見えていないのかもしれない。

 

「あれ、二メートル以上身長ありますよ? 肋戸さんの奥さんてそんなに背が高い人だったんですか?」

 

 自分でも少し状況からズレた質問だと思ったが、私の視界に映っているあの女と彼の目にある奥さんの映像が同じかどうかは確かめられるはず。

 

「た……確かに、美智子は、あんなに背が高くはなかった……髪ももっと短くて……でも、美智子だ。あれは紛れもなく美智子なんだ!」

 

 そう力強く断言する。

 視界に映る女の姿が、当時消えた奥さんに見えている訳ではない様子だが、それなら逆に何故肋戸はあれが妻だと断言できるのだろうか。

 

「み、美智子……すぐに俺も行くからな……」

 

 悩んでいた私を余所にふらりと肋戸が室内の中央へ向かって歩き出す。

 視線は八尺様に固定され、瞳はさっきよりも虚ろだ。

 

「あ、肋戸さん! ヤバいですよ!? それ、近付いちゃまずい奴です!?」

 

 言っても彼の足は止まらない。ゆっくりだが、着実に背を向ける八尺様に引き寄せられるように近付いていっている。

 

「美智子……美智子……美智子ミチコみちこぉ……」

 

 私はそこで『八尺様』のネット怪談の内容を思い出した。

 簡潔に内容を表すなら、「八尺様は気に入った若い男を見つけると、その男をどこかへと連れ去って行こうとする」という怪談だ。

 肋戸は若いと形容するには、かなりオッサン過ぎるが、魅入られた男が連れ去られるという部分に関してはこの状況と一致している。

 彼は八尺様に魅入られてしまったのだ。

 どうしようかと、工藤に尋ねようとした時、既に前に居た工藤はビニール袋からあの呪いの髪飾りを取り出していた。

 

「目を覚ませ、オラァ!」

 

 髪飾りを掴んで肋戸の後部から殴り掛かる。

 プロレスでいうところのラビットパンチ。禁じ手である。

 

「ミチコみちッ!?」

 

 八尺様へと接触する十数歩前で、彼の身体が横に傾ぎ、床に倒れる。

 工藤は彼の着ているアルミホイル塗れの服のボタンを強引に引きちぎり、呪いの髪飾りを懐に押し込んだ。

 そして、ビンタ。

 往復ビンタを肋戸の顔に幾度も打ち込み始める。

 

「え、え……な、何をなされているんですか?」

 

 驚愕の奇行についいつも以上に丁寧な言葉遣いで聞いた。

 工藤はさも当然と言った口ぶりで言う。

 

「見て分かんねえのかよ! こいつを正気に戻してやってんだよ。オラ、起きろ、肋戸ォ! 戻れ、正気に戻れぇ!」

 

 泡を吐いて目を瞬かせている肋戸の顔が腫れ上がる勢いで叩きまくる工藤。

 

「こいつで八尺の野郎の力を追い払えるはずだ!  呪いと怪異のデスマッチ! 呪いの髪飾りが勝つのか、八尺の力が勝つのか決戦だ、決戦! オラァ、オラオラオラァ!」

 

 無茶苦茶な理屈で、肋戸の顔を叩き続けていく。

 大体、その呪いの髪飾りは人体に接触させて良いものなんだろうか。

 毒を以って毒を制すと言う格言はあるが、更なる猛毒にならないことを祈りたい。

 




もう一話で八尺様編が終わりそうです。


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ファイル9 振り返る八尺様Ⅴ

「目を覚ませ、オラァ、オラァ!」

 

 身体中に横線の紋様が入った上半身裸の工藤が、肋戸の頬を叩きまくる。

 するとパンパンに頬を腫れ上がらせた肋戸は、口の中から黒いシャボン玉のような泡を吐き出し始めた。

 

「ぼっ、ぼぼぼぼっボぼぼぼボボぼぼぼぼぼぼぼっ‼」

 

 奇妙な奇声と共に吐き出された黒いシャボン玉は天井付近まで近付くとパチンパチンと一斉に割れていく。

 割れた途端に生魚のような臭いが辺りに漂い、室内に充満する。

 この生臭さは……くねくねの時と同じ臭い!

 もしかして、あの黒いシャボン玉が肋戸の認識を歪めて、引き寄せようとしていたものなのかもしれない。

 その証拠に肋戸の瞳はしっかりと自分を叩く工藤を見据えている。

 

「や、やめてくれぇ……だ、大丈夫だから……正気に戻った……」

 

「おう、戻ったか。なら早速だが、この場所にある『力を与えるグリッチ』ってのを教えろよ」

 

 正気に返ったことを確認すると、工藤は呪いの髪飾りを彼の懐から引きずり出す。

 

「グ、グリッチは……あそこだ」

 

 肋戸が指で示した先には数歩先。ちょうど建物の中央だった。

 だけど、その場所には目に見えて何かある訳ではない。強いて言うなら、八尺様が背を向けている場所のすぐ近くということぐらいだ。

 

「あそこだな? よーし」

 

「工藤さん、流石に危なくないですか!? あれに近付くのはまずいですよ!」

 

 私や工藤はまだ肋戸のように認識を歪められてはいないものの、くねくねの時のように近距離で視認すれば、同じようにおかしくなる可能性は高い。

 

「安心しろ、紙越。俺にはこいつがあるからなぁ」

 

 右手に握り締めた呪いの髪飾りを見せる付ける。

 ん……。それを改めて見直した私は違和感を感じた。

 くねくねの被害者の遺体から採取した突起物を呑み込んだ呪いの髪飾りは一部だけ半透明に変化していた。

 半透明になった部分は、全体からすると八分の一くらいだったはずだ。

 だが、今は五分の一くらいの髪の束が半透明になっている。

 明らかに変色した箇所が増えている……!

 

「工藤さん、それ、何か透明の部分増えてますよね!? 成長してますよ! 何かヤバい気がしますよ!」

 

「ガタガタうるせえ! 俺はなぁ、この髪飾りでヤベー状況を幾つも乗り越えて来たんだよ! いいから黙って見てろぉ!」

 

 怒鳴り散らす工藤に一瞬、身を強張らせる。

 クソオヤジめ……こっちが珍しく心配してやったのになんて言い草だ。

 ムッとして何か言い返してやろうと思った時、今の今まで背中を見せて佇んでいた八尺様が――。

 

『……ぽ』

 

 ――振り返った。

 濡れたカラスの羽ような黒髪。

 目蓋のない魚類じみた澱んだ眼球。

 真っ赤な弓型に反り返った唇。

 人間を模していながら、致命的に人間を理解していない歪な造形。

 ()()は唇を不自然に(すぼ)めて、鳴き始める。

 

『ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽっぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっ‼』

 

 肋戸が黒いシャボン玉を吐き出した音に近かったが、致命的な悍ましさを含んだ鳴き声。

 泡が割れる時に発生する破裂音を無理やり、喉から出しているような形容しがたい音が連続して続く。

 ヤバいヤバいヤバいヤバい。

 これ、ヤバい!

 頭の中を掻き混ぜられているような気分だ。

 (はし)で溶いた生卵を混ぜられた脳みそが叫びを上げる。

 ――懐かしい。

 何が?

 ――帰りたい。

 どこへ?

 ――着いて行きたい。

 誰に?

 ――そこへ、戻りたい。

 やめろ。やめろやめろ。それ以上考えるな。

 自分の思考を弄られている。感情を弄ばれている。

 私自身理解できない思考が感情を伴って、湧き上がってくる。

 駄目だ……。感情を抑えられない。

 とうとう噴出された郷愁が、脚を勝手に動そうしたその瞬間、工藤の声が聞こえる。

 

「紙越! お前はそこでカメラ回しとけ! 一世一代のおもしれー映像(モン)見せてやるからよぉ」

 

 何だ、この人。この状況で何を言ってるんだ?

 俯いていた顔を上げた先には。

 

 五芒星の上に立った半裸の工藤が八尺様を迎え撃っていた。

 

 一瞬目に入った情報を処理しきれず、思考が凍る。

 何で足元に巨大な五芒星が発生したのかもそうだが、八尺様を呪いの髪飾りを握り締めた拳で殴り付けている光景は純粋にインパクトが強すぎた。

 唖然としつつも、私は持っていたハンディカムカメラを片目に当て、その光景を撮影し始める。

 身体はもう、八尺様へ向かっていこうとはしなかった。

 

「オラァ! 何がぽぽぽだ! 鳩ぽっぽかよ! ボケがぁ! まーめがほしいか、鳩ぽっぽ!」

 

 五芒星の上で工藤が殴る。

 八尺様を殴る。殴り付ける。

 恐怖の権化のようだった八尺様は、もはやただの背の高い女性にしか見えない。

 

「おめえが八尺様なら、俺は八百尺様だ、コラァァァ!」

 

 非現実な怪異が、生々しい暴力という現実に叩きのめされている。

 為すがままの八尺様、いや、背の高い女はサンドバッグでしかない。

 ……いや、冷静に考えれば、何で攻撃が当たるんだ?

 くねくねの時は〈裏側〉の理屈に歩み寄らなければ、干渉することもできなかったというのに。

 あの呪いの髪飾りがくねくねの影響を受けた突起物を吸収してからだろうか。

 それとも……。

 

「あ、あのグリッチは……〈五芒星〉。〈ゾーン〉の住人に干渉できるようになるグリッチだ……」

 

 私の視線に気付いたのか、肋戸はぼそりとそう呟いた。

 異存在に干渉するためのグリッチ。だとするなら、あの〈五芒星〉こそが彼の切り札だったということか。

 

「グリッチを制する者が……〈ゾーン〉を制する……。工藤なら、奴に勝てる……!」

 

 肋戸にとっては八尺様は奥さんを連れ去った仇だ。

 憎悪を込めた瞳で工藤に殴り付けられる八尺様を見つめていた。

 だが、あれだけ殴られ続けているのに八尺様は堪えた様子はなかった。

 拳が当たれば、身体は傾ぐものの、致命的なダメージは与えらていない。

 まだ、何か足りていないのだ。

 〈タトゥー〉の作用なのか、工藤は激しく動いているのに息を切らしていなかった。

 しかし、工藤の表情には致命傷を与えられない焦りが見え隠れしている。

 このままだとマズいかもしれない。私も何かしないと……。

 思い出せ。くねくねの時はどうやって窮地を脱したのかを。

 確かあの時は……ミミズだ。

 ミミズの亡霊が私の左目から出て、それを受けたくねくねが弱っていた。

 あの感覚を思い出せば、また同じことが起きるかもしれない。

 右目をカメラに、そして左目を八尺様に向ける。

 

「出て来て、ミミズの亡霊!」

 

 まっすぐに殴られ続ける八尺様を見据える。

 すると何か半透明の小さな粒が視界の端で蠢き始めた。

 ずるりと這い出たそれらは悶えるように細い身体をくねらせながら、八尺様へと降り注ぐ。

 

『ぽ……ボボボぼっ』

 

 半濁音だった鳴き声が、濁音に変わった。

 半透明のミミズの亡霊に纏わり付かれた八尺様は、姿を歪めて〈歪な鳥居〉へと変化する。

 大きな二本の縦棒を小さな横棒が繋いだそれはできの悪い巨大なコンパスにも見える。

 

「うおっ、何かいきなりコンパスみたいになったぞ!」

 

「工藤さん、それが多分、奴の本当の姿なんだと思います! その鳥居モドキを思いっきり殴り付けてください!」

 

「お、おお! 任せろ、紙越! これが最後の一・撃・だぁぁぁぁぁ!」

 

 鳥居モドキになった八尺様へ、大きく振り被った工藤に拳が突き刺さる。

 

『ぼぼぼぼぼぼぼおぼボボボぼぼぼオボぼぼぼぼぼぼぼぼぼボボボぼおぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼおお!』

 

 殴られたそれは鳴き声。いや、排気音と呼べる音を出し、八尺様の姿に戻って倒れ伏した。

 横たわった八尺様は、身長こそ変わらなかったが、横幅が細くなり、空気の抜けた長風船のような姿を呈している。

 これで、一応倒せたのだろうか。

 萎びた八尺様をハンディカムカメラで撮っていると、それにバサリとタモ網が上に覆い被さる。

 

「おっしゃあああ! これで八尺様捕獲成功だぜぇ!」

 

 カメラをスライドさせると、タモ網を持ってガッツポーズを取る工藤が映り込む。

 今回ばかりは流石にこのバイタリティには平服するしかない。

 ただのビビりで金にがめつい暴力的なチンピラかと思っていたが、勇気を持って怪異に立ち向かう姿はちょっとしたヒーローのようだった。

 せっかくなのでバストアップして撮ってやろうと、カメラをズームした私はふと奥の壁で動くものに気付く。

 

「ん……? 何だ、これ」

 

 奥の壁から黒く長いものが垂れていた。

 帯のようにも見えるそれを更に拡大する。

 

「……っ!?」

 

 右目に映った光景に、血の気が引いた。

 これは髪だ。濡れカラス色の垂れ下がる髪は八尺様と同じもの……。

 慌てて、カメラから目を離して周囲を見れば、屋内の壁という壁から髪が飛び出していた。

 いや、髪だけではない、頭が、腕が、胴体が孵化した虫の幼虫のように這い出ようとしている。

 

「工藤さん!」

 

「お、何だ、紙越! ちゃんと俺の雄姿を撮って……」

 

「八尺様が、八尺様がまた壁から生え出してる!」

 

「は? ……うおっ!」

 

 勝利の余韻に浸っていた工藤は、壁の異変に気付き、私と同じように驚愕している。

 肋戸は私が落としたタモ網を拾い、それを構えて私たちに言う。

 

「ゾ、〈ゾーン〉の住民はまだ居る……戦うぞ、工藤!」

 

 彼の戦意は衰えるどころか、なお激しく燃え上がっている。

 ひょっとするとこの状況も想定していて、私たちを連れて来た可能性まである。

 私はどうするべきかと工藤を見つめると、彼は一目散に出口へと駆け出した。

 

「やべやべやべっ! オイ、早く逃げっぞ!」

 

 戦う気満々の肋戸を後目に猛ダッシュをかます。

 私も当然その後に続いた。

 背後で肋戸の叫びが飛ぶ。

 

「く、工藤ー! 逃げるのかー! 命懸けてたんじゃないのかぁぁぁぁあ! おぉぉぉぉぉい!」

 

 ちらりと背後を一瞥した時に見えたのは、大量の八尺様に群がられている彼の姿だった。

 入口から全速力で飛び出した私たちは、白い建物自体が巨大な八尺様へと変化していくのを目撃した。

 

「う、うわああああああああああああああ! やべえ、これやべえって」

 

「わああああああああ! 逃げましょう! いいから遠くに逃げましょう!」

 

 巨大八尺様が見えなくなるまで充分に距離を離すと、私たちは足を一度止め、息を整える。

 グリッチに引っかかって死ななかったのは、奇跡と言ってもいいだろう。

 

「はあ、はあ……あいつ何で逃げなかったんだ?」

 

 「命懸け」を豪語していた工藤は心底不思議そうに建物の方を振り返る。

 この人の頭には自分が何と言って肋戸に協力を要請したのか記憶にないらしい。

 いや、覚えていた上で、命懸けの定義が常人とは違うのかも……。

 だが、私もあのオッサンのために残って戦う気は起こらなかったので、責める気はあまりしない。

 

「どうします? 一応、戻ります? あの人居ないとグリッチ調べられませんし……」

 

「そうだな。とりあえず、どうなったか見に戻るか」

 

 お互いに同意見だったので元来た道を恐る恐る戻って、白い建物があった場所を見に行く。

 すると、そこには何もなかった。

 四角く開かれた空き地だけが、そこに残されていた。

 

「マジかよ……」

 

 呆然と呟く工藤。

 私はそんな彼に何て声を掛けたらいいか、分からず名前を呼ぶ。

 

「工藤さん……」

 

「俺の五百万が、消えちまった……」

 

「……やっぱそこですか」

 

 肋戸と共に消えた白い建物の跡地で、守銭奴は残念そうに項垂れた。

 

 




今回で八尺様編は終了です。
次回はネオ様と鳥子の話にしたいと思ってます。

それにしてもアニメ化したというのに、裏世界ピクニックの二次創作が増えません……。
やはり一話のくねくねの出来が悪かったからでしょうか。
漫画版はクリーチャーデザインが良いので、興味がある方はぜひ購入を検討してみてください。


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ファイル10 神隠しきさらぎ駅伝説Ⅰ

久しぶりの投稿になります。


 ……ああ、これは流石に死ぬかなぁ。

 綿飴みたいな入道雲がゆっくりと移動している青空を眺めながら、私はそんなことを思った。

 生温い水に身体を浸し、徐々に体温が奪われつつあるのが分かった。

 決して深い水底に落ちた訳でも、激しい激流に呑まれた訳でもない。

 水深は多分、三十センチもない。足が届かないどころか、普通に立っていれば、濡れるのはせいぜい膝下辺りの深さだ。

 それでも私はあと数分以内に溺死するだろう。

 身体が横たわった姿勢から動かない。仰向けになった状態で顎まで水に浸かっている。

 きっと、今の私を誰かが見たら、こう思うだろう。

 溺死体(オフィーリア)みたいだって……。

 意外にも私はこの状況に対する恐怖感は低かった。

 実感が薄いというか、他人事のように俯瞰した視点で眺めている。

 心残りがあるとすれば、それは彼女を……冴月(サツキ)にまた会えなかったことぐらいだ。

 私が本当に死んだら、一体どれくらいの人が悲しんでくれるだろうか。

 お母さんでしょ、次にママでしょ。それから…………小桜は悲しんでくれるかな?

 そのくらいかなぁ。大学にも友達は居なかったし、他に知り合いは居ない。

 思ったよりも盛り上がらない死への絶望に、絶望しかけていると近くの草むらが揺れた。

 それから水を踏むパチャパチャとした音が続く。

 この大きくて規則正しい音は、二本足で歩く足音だ。

 人間か、さもなくば、さっき見た“気持ち悪いアレ”だ。

 でも裏世界(こっち)に人が居る可能性って大分、低いから多分アレだろうな。

 トドメでも刺しに来たのか、捕食でもする気なのか。

 溺死で死ぬのとどちらがマシだろうか、なんて私が考えていると水音がすぐ近くまでやって来る。

 

「何、やってんだ。お前」

 

 黒いスーツ姿の男が仰向けで水に浸かる私を見下ろしていた。

 私と同じく金髪ではあったが、頭頂部が黒く、俗に言うプリン頭になっている。

 金色に染めた黒髪の根元が伸びるせいで、上の方が黒くなっていってできるらしいが、生まれつき金髪の私には馴染みがない。

 髪の長さは男性にしては長めだが、目に掛からないようにちょうどセンターで綺麗に分かれていた。

 第一印象としては柄の悪いホストか、美形のチンピラといった感じだ。

 

「普通に死にかけてる」

 

「あ、そう」

 

 正直に答えたら、黒スーツの男はポケットに両手を突っ込んだまま水音を立てて、さっさと通り過ぎて行こうとする。

 

「あー、ちょっとちょっと」

 

「……何だよ?」

 

 鬱陶しそうにそう聞き返してくる。

 凄いな、この人。私の状況を見て、平然と見過ごそうとしている。

 ひょっとして、死に際の私が見ている幻覚なのかも……。

 

「早く要件言えよ。俺も暇じゃないんだから」

 

 あ、違う気がする。こんな傍若無人な物言いは私の中からは生まれて来ない。

 取りあえず、助けを求めてみる。

 

「身体が動かないから助けてほしいんだけど……ダメ?」

 

「あー。お前、こっちで何か触ったな? もしくは見たか、聞いただろ?」

 

 ポケットから両手を出しながら、ダルそうに尋ねて来る。

 左手だけに嵌めていた黒い手袋を外すと私の方に伸ばした。

 その手を掴んで立ち上がりたいのは山々なのだけど、やはり手足は麻痺したように動かない。

 

「あの、腕動かないから手を伸ばされても意味ないんだけど」

 

「黙ってろ」

 

 伸びた指が私の顔のすぐ前に伸び、視界一杯に広がる。

 何をする気なのかと叫ぼうとして、彼の指が私の視界の奥まで刺さる。

 

「え……えっ!?」

 

 指が私の眼球に刺さっている。

 痛みはない。ただ視界の奥に何か異物が差し込まれたような奇妙な違和感だけがあった。

 何も見えなくなった暗闇の中で、低い黒スーツの男の声が聞こえる。

 

「あった。こいつか」

 

 私の視界の奥から何か引き抜かれる感覚がして、視力が戻る。

 ――痺れが消えた!

 身体中にあった痺れが綺麗さっぱり消えてなくなり、手足が動くようになった。

 大きく水飛沫を飛ばして、水底に腰を付けて上体を起こす。

 男が湿った左手を開いて、私に見せた。

 

「これ、お前の中に入ってた奴」

 

 手のひらには半透明なガラス細工の枝のようなものが乗せられていた。

 よくよく見ると、その半透明な枝はピクピクと小刻みに(うごめ)いている。

 気持ちが悪い。これは生き物……?

 

「うぇっ、それ何?」

 

「さあな。お前の中に潜り込んでたのは確かだ」

 

 ゴミでも放るように近くの草むらにそれを投げ、左手を軽く振るって水気を払った後、黒い手袋を嵌め直した。

 私はしばし呆然としてしまったが、彼が自分を助けてくれたのだと思い直し、お礼を述べた。

 

「ありがとう。お陰で身体が動くよ」

 

「で、お前、何をやった?」

 

 私の感謝など意にも介さない様子で再度尋ねる。

 小桜には「お前は人の話を聞かない奴だ」と度々怒られたが、この人は私とは比べ物にならないほど話を聞いてくれない。

 仕方なく、私は先ほどあったことを簡潔に話した。

 

「こっちに来たら、何か白くて、くねくねした気持ち悪いのに()って……それを見た途端、目の前がぐにゃってなって、気付いたら身体が動ない状態で水の中に浸かってた」

 

 黒スーツの男はそれだけ聞くと、急にそっぽを向いて、その先を顎で差した。

 立ち上がった私はそちらの方を向いた。

 その瞬間、鼻腔に強烈な生魚のような臭いが飛び込んで来る。

 ……この臭い。さっきも嗅いだアレの臭いだ。

 嫌な予感通りに数メートル先の草むらに、縦に引き延ばされた蠢く人型が居た。

 煙草の煙のような濁りのある白一色で統一され、絶えず陽炎のように揺らめいていた。

 踊っているように、苦しんでいるように、身を捩り、変形し続ける不定形のソレ。

 視界に入れた時、かつて味わったような途方もない気持ち悪さが私の中に雪崩(なだ)れ込む。

 

「うっ……やば」

 

 見たくもないし、知りたくもないのに目が離せなくなる。

 意識がぼやけてくるのに、アレについてもっとよく考えなければいけないという意識が強まっていく。

 

「あんま、見るなよ」

 

 その声にハッと正気に戻った私は焦点をスーツの男へ向けた。

 彼は両手を緩く丸めて、おにぎりでも握るような形を作り、口元へと持っていく。

 フーっと形の良い唇から手の隙間に息を吹き込んだかと思うと、野球のピッチャーのようなフォームでその握った手の中のものを揺らめく白い人型に投げる。

 当然、形のあるものを投げた訳ではないので、何かが放物線を描くことはなかった。

 しかし、次の瞬間、ガラス窓が石で割られたような激しい音が響く。

 白い人型は砕け散って、跡形もなく消え失せていた。

 

「えぇ? な、何やったの?」

 

「あ? 見て分からねぇなら、口で言っても分からねぇよ」

 

 黒スーツの男は答えにならない答えを返して、人型が消えた場所まで歩いていく。

 草むらを掻き分けて、銀色の何かを拾い上げた。

 最初に見た時は球体かと思ったけれど。よく見れば多面体だった。

 凧形(たこがた)二十四面体。

 冴月にいくつかの多面体のサイコロを見せてもらった時に教わったから知っている。

 確か、冴月はこの多面体の別名をトラペゾヘドロンと呼ぶのだと言っていた。

 銀色の凧形二十四面体は鏡のように空に浮かぶ雲や色あせた草むらを反射していた。

 

「面白れぇな。認識の狭間に根を張るのか。こいつは」

 

 指先で挟んだ二十四面体を眺めながら、黒スーツの男はそんなことをポツリと漏らす。

 意味はさっぱり理解できなかったが、彼にはあの白い人型の正体が分かったのだろう。

 

「私、仁科(にしな)鳥子(とりこ)。あなたは何者なの? 名前は?」

 

 思い切って私は聞いてみた。多分、こういう風に聞かないとこの人確実に自分から名乗らない。

 少なくとも偶然、この裏世界に迷い込んだ人間というよりも何らかの特別な知識と力を備えた存在に思えた。

 

「俺か? まあ、霊能者って奴だ。名前は好きに呼べよ。シャアでも田中でも」

 

「いや、好きに呼べって言われても。大体シャアって……何?」

 

 霊能者らしいこの黒スーツの男は、どうにも本名を明かしたくはない様子だ。

 でも、私が困っていると彼は面倒そうに付け足した。

 

「じゃあ、“ネオ”でいいよ。前はそう名乗ったし」

 

 ようやく、名前を聞かせてもらえたが、これも間違いなく偽名だろう。

 ただ、シャアとか田中よりは妙に彼の風貌に似合っていると思った。

 

「それより、お前はどっからこの場所に出たんだ」

 

「私は神保町の雑貨ビルだよ。そのエレベーターで特定の手順でボタンを押すとこっち側に来られるの」

 

 これも冴月から教えてもらったことだった。

 裏世界について研究をしているらしい冴月が、その一環として私を連れてフィールドワークを行なっていた時に教えてもらったのだ。

 他にも行き方があるのかもしれないが、少なくとも私は知らない。

 

「ふーん。ここから遠いのか?」

 

「ここからだと、結構距離あるかな」

 

「じゃあ、いいや。こんな場所、歩き回りたくねぇ」

 

 水に浸かった足元を見て、ネオさん(仮名)は不機嫌そうに口の端を曲げた。

 あの気持ちの悪い人型と遭遇したくないからではなく、単純に靴やズボンをこれ以上汚したくないという意味合いだろう。

 多分、またアレと出遭ってもこの人ならさっきみたいに平然と対処できるだろうし。

 

「……俺は探知とか空間転移とかはそういうの苦手なんだが。あ、お前にやらせっか」

 

「え、何を?」

 

「いいから俺の言う通りに動け」

 

 傲岸不遜が服を着たような人ってこういうのを言うんだろうな。

 普段なら見ず知らずの赤の他人がこんな風に威圧してくれば、不快に感じるはずなのに、ネオさんに言われてもあまり腹は立たなかった。

 口調も見た目も性別さえも違うのに、そういう自分勝手で何物にも屈しない部分が冴月を思い起させるからかもしれない。

 

「で、どうすればいいの?」

 

 ネオさんに指示を仰ぐと、彼は次のように答えた。

 目を瞑り、元居た場所(この場合は神保町だと思う)を想像すること。

 想像は具体的なイメージを固めて、可能なら音や匂いまでも思い出すように言われた。

 

「後は?」

 

「息を吸い込んでから、指先で空間を掴んで思い切り、横に引け。そうだな……イメージ的にはカーテンでもを開く感じだ」

 

「はいはい。……本当にこんなので何か起きるのかな?」

 

「無駄口叩くな」

 

 目を瞑ったまま、小さくぼやくとネオさんの叱責が飛んで来る。

 ひょえー……地獄耳。

 右手で虚空を摘まもうとして、ネオさんの声が聞こえた。

 

「おい」

 

「どうかしたの?」

 

「利き手は右か?」

 

「そうですけど」

 

 私は右利きだ。昔、ママが便利だからと両利きに矯正しようとしてくれたが、結局は右利きのままだった。

 

「だったら、左手にしとけ」

 

「利き手じゃ駄目なんだ?」

 

 そう言えば、この人も片方だけに手袋を嵌めているが、それと何か関係しているのかな。

 

「そうじゃないが、普段使いしてる方だと日常生活で間違えて“使っちまう”かもしれない」

 

「よく分かんないけど、取りあえず、左手でやるよ」

 

 頭の中で神保町の景色を思い出す。

 まず思い出すのが交通道路だ。それなりの人通りがあって、喋り声や車の排気音が騒がしくて、実はあまり好きな街じゃない。

 左手の人差し指と親指で虚空を摘まむように曲げる。

 それから息をスーっと吸い込んで……。

 

「えいっ!」

 

 カーテンの布を開くように横に引いた。

 次の瞬間、想像していた都会の喧騒が実際に耳から流れ込んで来た。

 驚いて、目を開くと私は車道の真ん中に立っていた。

 背の高い草むらも、膝下まである水嵩(みずかさ)の水もない。

 踏んでいる地面も抜かるんだ泥ではなく、固く安定感のあるコンクリートだ。

 本当に神保町に移動したの……?

 あまりの驚きに声すら出ない。

 状況が掴めず、困惑していると、こちらに向かって走行していた白いハイエースが私のすぐ前で急停止した。

 運転席に座っていた髭面でソフトモヒカン頭のチンピラ風中年が怒号を上げる。

 

「お前ら、何やってんだよ! 危ねぇだろうがよぉ‼」

 

 今にも降りて来て掴み掛かってきそうな剣幕だ。その隣に眼鏡をかけた黒髪のショートカットの女の子が乗っている。年頃は多分私と同じ大学生くらいの子だ。

 結構可愛い顔立ちをしている。

 傍に居たネオさんはそれを煩そうに一瞥した後、私を置いてさっさと歩道の方へ歩いて行った。

 私はしばし周りを見回して、本当に私の知っている神保町だと確信する。

 とりあえず、無事に帰って来られたみたいだ。

 ホッと安心した私は去って行くネオさんの背中を追った。

 

「待ってよ、ネオさん」

 

 この人きっと、裏世界を探索するために必要な知識を持っている。

 そして、私は今回の件で一人で探索をするには危険過ぎる場所だと学んだ。

 冴月を裏世界で探すには絶対にネオさんの協力が必要だ。

 

 これが、私とネオさんの初めての出会いだった。

 




鳥子とネオさん編です。
取りあえず、ステーション・フェブラリーの話はこの二人が主役になります。
お金にがめつい二人は一旦お休みです。


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ファイル11 神隠しきさらぎ駅伝説Ⅱ

「……って、ことがあったんだ」

 

 小桜の家に顔を出しに行った後、軽く事のあらましを伝えたところ、バカヤローと罵声を浴びせられ、ビンタが飛んできた。

 ビンタの方はひょいと首を逸らして避けると、「避けるな!」と更に怒られた。

 大激怒を止め、多少落ち着いた小桜は大きく息を吐いた後、低い声で私に言う。

 

「……心配かけんなよ」

 

「うん。ごめん」

 

「……あたしはお前まで冴月と同じようになったら、って思って」

 

「ホントにごめんね。あと……ありがと。私のこと、本気で心配してくれて」

 

 そう言うと小桜――私と冴月の共通の知り合いで、裏世界と認知科学を研究している学者の女性は、恥ずかしくなったのか不服そうに鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 背が低く童顔のため、そうやって子供じみた仕草をすると私よりも年下の少女に見える。

 小桜は向いた先に私以外の客が居ることを思い出し、咳払いをしてそちらをまっすぐに向いた。

 

「あー……えっと何さんって言ったっけ? この馬鹿がお世話になったそうで本当にありがとうございました」

 

 誰に対しても基本的に不遜な態度を崩さない彼女は珍しく敬語を使い、あまつさえ頭を下げた。

 私が目を丸くして隣で見ていると、視線に気付いたのか小桜は椅子から腰を浮かせて、私の頭を掴んでお辞儀をさせようとしてくる。

 

「何見てんだ、あんたも頭下げろ」

 

 だけど、身長が足りてないせいで伸びて来た腕は私の肩くらいの位置で右往左往していた。

 

「くっ、中身はガキの癖に身長ばっか大人びやがって!」

 

「ごめんごめん。この人はネオさんだよ」

 

「根尾さん?」

 

「違う、ネオさん。仮名らしいけど、そう名乗ってた」

 

 来客用のソファに背中を丸めて、やや顔を俯けて座っているのはプリン頭の男、ネオさんを紹介した。

 彼の表情は垂れた前髪で隠され、どんな顔をしているのか分からない。

 取りあえず、付いて来てほしいと頼んで小桜の家まで引っ張って来たが、怒っているのか呆れているのかさえ判断が付かなかった。

 

「ネオさん……?」

 

 声を掛けると俯いていたネオさんが僅かに姿勢を正した。

 前分けヘアーの中央から鋭い眼光が小桜を捉える。

 

「…………」

 

 小桜は威圧感に気圧され、表情を硬くした。

 私よりは幾分マシだが、小桜も小桜であまり社交的な方ではない。

 まして男性の知り合いなど数えるほどしかいないと思う。

 私が助けてもらった相手だと紹介しなければ、家にすら上げていなかったはずだ。

 ネオさんはじっと小桜の顔を眺めながら、ぽつりと言う。

 

「その声。ひょっとして――〈夜桜お姉さん〉?」

 

 その言葉を聞いた小桜はさっきとは少し違う様子でびくっとと身体を揺らした。

 

「〈夜桜お姉さん〉……?」

 

 ネオさんの口から出た聞き覚えのない発言に首を傾げると、ちらりと視線を私の方に寄こす。

 

「人気バーチャルユーチューバーだ。主に突発で深夜に雑談配信してる黒髪で眼鏡を掛けた3Dモデルの」

 

「え? いや、バーチャルなんちゃらっていうのがまず知らないけどネットのアイドルみたいなもの……?。小桜は知ってる?」

 

 硬直している小桜に尋ねると、抑揚のないぎこちない声で答えが返って来る。

 

「シラナイ……全然シラナイ……」

 

「小桜?」

 

 目を合わせようとせず、そう呟く。

 心理学に決して詳しくない私でも必死に誤魔化そうとしていると分かる動揺振りだった。

 そんな小桜の態度に頓着せずに、ネオさんはスーツの懐から黒いスマートフォンを取り出して画面を見せる。

 私でも知っている有名な緑色の枠の無料通話メールアプリが表示され、3Dイラストのスタンプ画像が並んでいる。

 

「メンバーシップ入ってる」

 

「げっ、初期に戯れで作ったスタンプ……てことは超古参の“ハナ民”かよ!」

 

「転生前から追ってた。あの最初の幼い感じのモデルの時から」

 

「……前世から追いかけてるとか……古参どころかガチ信者じゃねーか!」

 

 急にテンション高めで突っ込みを入れ始めた小桜の豹変について行けず、私はぽかんとしながら尋ねた。

 

「あのさ、二人が何を言ってるのか、私何一つ分かんないだけど……取りあえず、その〈夜桜お姉さん〉って小桜のことでいいの?」

 

「うっ……」

 

 小桜は心底嫌そうな表情をした後、諦めたように頷いた。

 意外だった。

 彼女がそんな活動をしているというのも初めて聞いたし、何より誰かにちやほやされたがるような人間だとは思っていなかった。

 同時に私とそれなりに親しい人間が、私の知らない側面を持っていたことに僅かながら、ショックを感じていた。

 ……何だろう。別に好き好んで吹聴することじゃないけど、隠し事をされてたみたいで何かヤダな……。

 私が少し複雑な顔をしていると、何を勘違いしたのか小桜は慌てた素振りで言う。

 

「あんた、後で絶対検索すんなよ! いいな!」

 

「あ、うん……」

 

「よし! ……おっほん。えっと、それでネオさん」

 

「何だ? 〈夜桜お姉さん〉」

 

「その呼び方止めてください。あたしのことは小桜でお願いします」

 

「分かった。あとでサインもらえる?」

 

 引きつった笑みを浮かべ、コクコクと頷いた小桜は要求を呑み、再びわざとらしい咳払いをした。

 表情をいつものダウナー気味のものに直すと、ネオさんに問いかける。

 

「それでネオさんは……裏世界で鳥子を助けたそうですけど、向こう側を研究しているんですか?」

 

 その問いかけにネオさんは首を横に振った。

 

「いや、全然。あそこに居たのは……たまたまって奴? ま、面白れぇ場所だとは思うけど」

 

「偶然裏世界に入った人間がこっちの世界に戻る方法なんか知らないと思いますが……」

 

 小桜の視線が私の方に向く。

 私もその小桜の意見に同調して発言する。

 

「そうだよ。向こうに居た化け物もよく分からない方法で倒しちゃうし、私をこっちの世界に戻してくれたのもネオさんでしょ?」

 

「あれはお前にやらせただろ」

 

「いや、その方法を教えてくれたのネオさんだから。あのゆらゆらした半透明の奴も銀色の多面体に変えちゃうし」

 

「銀色の多面体?」

 

 小桜が話に割って入る。

 ソファに座るネオさんはまたスーツの懐を探ると、話題に上がった銀色の凧型二十四面体を小桜の前に差し出した。

 「どうも……」と軽く頭を下げた小桜がそれを受け取る。

 

「……こいつは〈鏡石〉か。こんな大きくて、複雑な形のものもあるのか?」

 

 驚いた様にしがしげとその銀色の多面体を眺める小桜だったが、私は彼女の発言が気になった。

 

「小桜。〈鏡石〉って何でもう名前が付いてるの? それにまるで似たものを見たことがあるような口ぶりだけど」

 

「ああ、そういえばあんたは知らなかったな。あんた以外にも裏世界に進んで入る奇特なこと考えてる連中が居てな。ほら、例のあの冴月が映ってたビデオ映像取ったって奴ら。そいつらがあたしの知り合いのとこにこれと同じ材質のものを売りつけたらしくてな。これよりも二回りくらい小さくて、六面体だったけど」

 

「ええ……何それ、聞いてないよ」

 

 不満げに口を尖らせると、呆れたように小桜が返す。

 

「あの映像を見せた時、『やっぱり冴月は生きてるんだ!』とか目を輝かせて、そのまま飛び出して行っただろーが」

 

「いや、だって。あんなビデオテープ見せられたら、普通はそう思うでしょ?」

 

「あんたは直情的過ぎるんだよ。餌を与えられた犬か」

 

「ひどーい」

 

 まあ、実際あの時は私も普通じゃなかった。

 小桜がこの家に呼び出したかと思うと、「向こうで撮影したビデオカメラに冴月が映っていた」なんて聞かされたのだ。

 最も映っていた風景はどこか安っぽく、冴月が喋っていた内容はあまり意味が解らなかった。

 

『……(ひじり)の丘で待つ』

 

 聖の丘……それが裏世界の地名なのかさえ私には分からなかった。

 ただ、冴月が生きてる。それだけ解れば探しに行くには充分過ぎた。

 最も浮足立った結果が溺死一歩手前だったけれど。

 

「ん!? 何だ、これ。あたしの知ってる〈鏡石〉と全然違うぞ……」

 

 渡された凧型二四面体の〈鏡石〉を弄り回していた小桜は急に声を潜めて、眉根を寄せる。

 

「違うって、形が?」

 

「いや、そんなレベルじゃない。あたしが見せてもらった〈鏡石〉は六面がすべて鏡面になっていた。でも、そこに()()姿()()()()()()()()()()んだ。でも、これは……」

 

 私が覗き込むと銀色の凧型二十四面体には――光がシルエット状に映っていた。

 鏡のように部屋の風景を映しながらも、赤いぼんやりとした光が、まるで人影のように……。

 そこまで考えて、気付いた。

 

「この赤い光って、ひょっとして私たち……?」

 

 私が誰に尋ねるでもなく漏れた呟きに小桜が頷いた。

 

「あんたが襲われたって言うのは例の映像撮った奴らが出会ったっていう『くねくね』って奴だと思う。話を人づてに又聞きした内容での考察だから確証はないけど、聞いた限りは“人間の視覚を経由して人間の内側に入り込もうとする”存在みたいだ。つまり、認識して理解すると動けなくなるか、正気を失う」

 

 小桜の仮説に思い当たる節があり、声に出さないまでも同調した。

 私が動けなくなったのもあのくねくねした化け物を目にして、理解しようとしてしまったせいだ。

 

「くねくねが認識の中へ入り込むと、くねくねとその人間が接触する界面が生まれる。件の撮影した連中は一人が認識して、もう一人が……何か良く分からん〈呪いの髪飾り〉とかいうので殴ったそうなんだが、そこで認識した奴の界面が破壊され、結晶化して〈鏡石〉になった」

 

「えーと、つまりその壊されて固まった“認識の界面”、っていうのが〈鏡石〉なの?」

 

「なのかもしれないって話だ。あくまで一考察だ。だとすると、私たちが光のシルエットとして映り込むのは……」

 

 小桜が視線をネオさんに向ける。

 私も小桜が言おうとしていることが分かった。

 この〈鏡石〉はネオさんの認識の界面なのだ。

 その人の映らない六面体を作った人は、もしかしたら人が嫌いだったのかもしれない。

 ならば、人が光として映り込むネオさんの認識は……一体何を表しているのか。

 自分のことを霊能者だと名乗ったこの人は、本当に私と同じ人間なのだろうか。

 分からない。

 あのくねくね以上に、彼のことは何も知らない。

 もしかしたら、裏世界の存在なのかもしれない。

 小桜もそれを案じているのだろう。

 彼を見る目付きに恐れの色が見て取れた。

 でも。

 

「大丈夫だよ、ネオさんは」

 

「鳥子……」

 

 心配そうな顔の小桜に私は微笑みを返す。

 少なくともネオさんは私を助けてくれた。

 それなら、私は信じる。

 信じられる。

 そう思って改めて、ネオさんを見つめた。

 彼は自分の膝の上に肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せていた。

 閉じていた口を開き、小桜へと視線を伸ばす。

 

「それで、〈夜桜お姉さん〉のサインはいつもらえるんだ?」

 

 ミステリアスで胡乱(うろん)な瞳には似つかわしくない、酷く俗っぽい要求が彼の唇から流れた。

 小桜は『本当にこんな奴信じていいのか』という眼差しを私に向ける。

 ……大丈夫、だと思う、多分……。

 段々自信がなくなってきたが、それでもこの人の力は本物なのだから。

 




しばらく間が空きましたが、何とか投稿できました。

ちなみに小桜がバーチャルユーチューバーをやっているというのは漫画版の巻末に載っている短編の設定なので、一応公式設定です。
ネオさんはアイドル好きの設定なので、小桜と絡ませるならこういう形にしようと前々から決めていました。


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ファイル12 神隠しきさらぎ駅伝説Ⅲ

「……おい。馬鹿女。どうしてこうなったか、言ってみろ」

 

 暗闇の道を先導するネオさんは振り返ることなく、不機嫌な声音で私に呼び掛けてくる。

 出会ってまだ丸一日も経っていない私でも分かる。……これは相当怒っている。

 いや、まあ、それこれも私が悪いんだけどさ。

 

 

 ***

 

 

 遡ること、二時間。

 小桜に銀色の凧形二十四面体……〈鏡石〉の処遇をどうするかから始まった。

 ネオさんとしてはもはや〈鏡石〉には興味がなく、欲しければタダで小桜に渡すというスタンスだったのだけど、それじゃあ主義に反すると突っぱねて百万円の札束を半ば無理やり彼に押し付けた。

 どちらかというと、私には、自分に対して好意を持っている相手に無償で貢がせたような形になるのを避けたかっただけのように見えた。

 渡された札束をどうでも良さげに眺めていたネオさんだったが、近くに居た私と目が合うとそれを投げて寄越す。

 

「欲しけりゃ、やるよ」

 

「え? まあ、くれるならもらうけど。本当にいいの?」

 

「何度も聞くな」

 

 私はそこまで守銭奴という訳じゃないけど、お金はあるに越したことはない。

 ラッキーくらいに考えてバッグに入れようとして、何気なく聞いてみた。

 

「ならさ、せっかくだし、このお金でパーっと飲みに行かない? 三人で」

 

「は? 何言ってんだ、鳥子。大体、急にそんなこと言われてもネオさんだって予定があるだろうし、私も暇じゃ……」

 

 小桜が心底嫌そうに早口で(まく)し立てるが、それを遮るようにネオさんの一言が割り込んだ。

 

「行く」

 

「え、ホントに? ホントに飲みに行ってくれるの?」

 

「行く」

 

 確認する私に対して、ネオさんは再度子供のように短く繰り返す。

 それが何よりも強い意志表明のように思えて、私はそれ以上聞き返すのを止めた。

 代わりに小桜へと視線を向ける。

 

「ネオさん、来るって。小桜も当然来てくれるよね? はい、決まりー」

 

「……マジか」

 

 露骨に嫌そうな顔をして、猫のように項垂(うなだ)れる。

 こうして、私たちは裏世界からの帰還を祝うパーティをすることになった。

 だが、居酒屋へ先に行っていた私とネオさんの元に小桜は現れることはなかった。

 『緊急の予定が入った』と無題のメールが届いた頃、既に私の対面に座っているネオさんの機嫌は大分悪くなっていた。

 手袋で覆われた指先で神経質に空になったジョッキの縁を突いている。

 小桜目当てで参加を表明したのに、肝心の小桜がいつまで待っても来ないのだから無理もない。

 加えて、すぐ近くの席で飲んでいる人たちがやたら煩かったのも理由の一つだろう。

 一人は口の周りに髭を生やした目付きの悪いの中年男性。もう一人は後ろ姿しか見えないが、黒髪ショートの女性。身長は低く、ぱっと見では高校生くらいに見える背格好だけど、お酒を飲んでいる以上は二十歳は超えているのだろう。

 

「畜生~! あとちょっとで五百万が手に入ったのによぉ~!」

 

「もう、それ言うの止めましょうよ。今は生きて帰ってきたこと喜びましょうって」

 

紙越(かみこし)ぃ~。元はと言えばな、お前がもっとしっかりしてたら八尺の野郎だって捕まえられてたんだ」

 

「はぁ~? 言うに事を欠いて、私のせいにするんですか? 工藤さんなんて、私が居なかったら普通にやられてましたからね、あれ」

 

 何のことを話しているのかよく分からないが、年齢差があるのにお互いに遠慮なく相手を責め立ている。

 居酒屋だから声が大きくなるのは分かるが、大声で文句を言い合っているのは断片的に聞こえるだけでも気分がいいものじゃない。

 

「……〈夜桜お姉さん〉は?」

 

 しらばらく無言を貫いて、おつまみの枝豆の殻を指先で弄っていたネオさんがようやく、口を開いた。

 

「え、あー……それがちょっと急用が入ったってメールが……」

 

「来ないか?」

 

「来ないですね」

 

「……何だよ。サインもらえそうだから、わざわざお前とこんなとこ来たのに」

 

 浮世離れした雰囲気なのに、意外とこの人俗っぽいなぁと思いつつ、私は謝った。

 

「ごめんなさい。代わりに好きなもの、じゃんじゃん頼んじゃってください」

 

「いや、いい……もう帰る」

 

 目に見えてテンションが下がったネオさんは、椅子を(かかと)で押しつつ、立ち上がるとスーツの上着に手を入れて立ち去ろうとする。

 

「あ、待って待って。ネオさんてば」

 

 ネオさんとは連絡先も交換していない。

 この場で別れてしまえば、この人とコンタクトを取る方法がなくなってしまう。

 裏世界を探索して冴月(さつき)を見つけ出すためにはネオさんの協力は不可欠なのだ。

 慌てて、店員さんを呼んでお会計を済ませようとする。

 ネオさんはマイペースにスタスタと出入口の方まで行ってしまうので、お釣りは結構ですと五枚くらい一万円札を渡して、急いで入口へと小走りで向かった。

 ギリギリでネオさんの先回りをした私は機嫌を取るべく、ネオさんの方に笑顔を向けて出入口の引き戸を開ける。

 

「さあ、どうぞ」

 

「…………」

 

 『何だこいつ』という目で見られたが、私はそれを笑って受け流す。

 ネオさんの後を続いて私もまた店から出て行く。

 

「おい」

 

「はい? どうしました?」

 

「お前……今、()()使()()()()()

 

「……え?」

 

 ネオさんの言葉の意味が一瞬、分からなかったが、後ろ手で今し方出てきた引き戸を閉めようとして、違和感に気付く。

 背後にあるはずの戸口がなかった。

 振り返って、そちらを見るとさっきまで居た居酒屋すら忽然(こつぜん)と消えていた。

 あるのは膝丈ほどある雑草と拳大の石ころが転がった剥き出しの地面。

 何より異様なまでに暗かった。

 二十時前の新宿とは思えない闇が辺りを覆っている。

 そこでやっと私はネオさんの言葉の意味を理解した。

 私は左手で引き戸を引いてしまった。

 それも裏世界のことを考えながら。

 つまり、私たちが〈こっち側〉に還ってきたのと逆の手順を踏んだのだ。

 空を見上げる。

 東京ではまず見られないほど、星の光がはっきりと見て取れた。

 ここは〈裏世界〉。

 それも冴月ですら危険だからと避けていた“夜の〈裏世界〉”だ。

 




久しぶりの投稿です。短めなのはご愛敬。


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ファイル13 神隠しきさらぎ駅伝説Ⅳ

「スゥー……えい! スゥー……えい!」

 

 大きく息を吸い込んから、左手でカーテンを真横へ引く動作を何度か繰り返して行ってみるけど、効果はまるでなかった。

 イメージが大事らしいので、どうしてもこの薄暗い夜の闇から明るい空間に戻れる光景が思い浮かばないせいかもしれない。

 それとも、私がネオさんの手を借りて裏世界で冴月を見つけ出すことを望んでいるから……?

 

「ねえ、ネオさんはどう思う?」

 

「はあ? 知らねぇよ」

 

 相変わらず、ネオさんはピリピリした様子で前を歩いている。

 私の不注意から起きた事故なので強くは出られないけど、流石に機嫌を直してくれないと困る。

 ご機嫌取りって苦手なんだよねぇ、私。

 反りの合わない相手とは関わろうと思わないし、大抵、私の見た目に興味を持って近寄ってくる類の人間は、ちょっとこっちが凄むと勝手に離れてくれるから余計な手間を掛けずに済んでいた。

 進んで行く度に生えている草むらや茂みが増えて、どんどん奥地へ入っている気がする。

 本当にこっちでいいの、とネオさんに聞きたいところだが、話しかけても素っ気なく怒鳴られそうで言葉が出ない。

 それにしても革靴にスーツ姿という格好で野外を突き進むネオさんは、私以上に場違いに思えた。足元さえもほとんど見えない中、怯える素振りもなく直進するこの人はやっぱり凄い。

 私を裏世界へ連れて来た冴月でさえ、もう少し周囲に対する警戒があった。

 だけど、そんなネオさんが。

 

「おい、馬鹿女。止まれ」

 

「ば、馬鹿女って……何もそこまで……」

 

「黙ってろ」

 

 暴言に対して抗議しようとするが、背を向けたままで静かに言葉を遮ったことで、私も察する。

 何かまずいことが起きたのだ。

 同時に暗闇に慣れてきた目が動く大きな影を見つけた。

 動物かと思ったが、違う。

 こちらに向けられた部位は金属のバンパーのようだった。

 機械だ。小型の軽自動車よりも更に一回り小さなその機械はタイヤではなく、物干しざおのように細長い四本の支柱で支えられている。

 人工物だと思った瞬間、張り詰めていた神経がほんの少しだけ弛んだ。

 裏世界には時折、表の世界のものが落ちていることがある。この目の前のオブジェもその類なのだろうと推測した。

 だが、その四本の長い棒で支えられた機械の真下。その中央で縦に長い袋のようなものがいくつも揺れているものが目に入った。

 何だろうと目を凝らした時、揺れている長い袋のシルエットの正体に気付く。

 

「──っ!」

 

 楕円形の部位からくびれを挟んで、扁平(へんぺい)に広がり、真上に伸びるほど先が細まっていくその物体は──人間だった。

 それは袋に入れられて、逆さまにされた()()()()

 四つほど等間隔で吊るされているのは、袋詰めにされた人間だった。

 ぞわりと背筋が凍り付いた私に反応するかのように、四つ脚の機械が鳴いた。

 

 ジイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィィィィィィ!!

 

「ひっ……」

 

 その様子に思わず、悲鳴が喉から漏れる。

 もう死骸だと思って近付いた蝉が突然、けたたましい鳴き声と共に低空で跳ね回り始めた時に似た驚きと恐怖。

 耳障りな異音と一緒に細長い四つ脚が前後に動き、近寄って来る。ぶら下った逆さまの袋詰めの人間がぶつかり合って鈍い音を立てた。

 振り子のように揺れては衝突するその光景は、悪趣味過ぎるアメリカンクラッカーのようにも見えて、気分が悪くなる。

 モーター音と不規則な動作で迫って来る機械に私はパニックに近い衝動が湧き上がる。

 反射的に後ろへ後ずさりしようとして、背後から犬の鳴き声がした。

 振り返るけれど、野犬のような影はどこにもない。

 いや──居た。

 背の高い草の隙間からじっとこちらを覗き見る顔。

 犬、ではない。もっと別の何か。殻を剥いたゆで卵のような白くて楕円の顔に三つの穴があった。

 空っぽの目玉と口だけが夜の闇よりも暗く、どこまでも暗くぽっかりと開かれていた。

 

 ……ワァン。

 ワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァンワァン──!

 

 人面……いや、亡霊の顔をしたそれは犬のような鳴き声を壊れた警報みたいに繰り返す。

 何かが揺らぐ。私を形成する根本的な何かが、激しく地震にあった時のように足元から揺さぶられていく。

 これは何。

 何? 何? 何が起きてるの? ねえ、誰か。誰か、教えてよ! ねえぇっ!

 背後で草むらを忍び寄る四つ脚の機械と、目の前で吠える亡霊の顔が私の根本から塗り替えようとしている。

 私は。

    私は。

 

   ワタシ、ハ。

            ワタ、シ……。

 

「──呑まれんな。鳥子」

 

 何もかもがぼんやりとして、自分の意識も曖昧になっていた私の耳に誰かの声が聞こえた。

 誰かのって……誰?

 そうだ。私は一人でここに居るんじゃない。

 確か、そう……その人は。

 

「ネオ、さん……」

 

 明るい小さな光が視界の中で灯っている。

 蝋燭(ロウソク)だ。それも普段見かけような細くて小さな蝋燭じゃなくて、長くて縁が広がったもの。

 ひょっとするとSMプレイで使うとかいう低温で融ける蝋燭なのかもしれない。

 その蝋燭を右手の指で摘まむように持っているのは、ネオさんだ。

 意識や思考がその(ほの)かな明かりによって、正常に戻された私はネオさんの方だけを見ていた。

 左手に付けていた黒い皮の手袋を中指を咥えるようにして、引っ張っていく。

 外された黒い手袋が音を立てて、足元の草の上に落ちた。

 その瞬間、空気が変わったことを肌で感じた。

 歪なモーター音と共に近付いて来ていた機械も、茂みの隙間で吠えていた顔もまだ(そば)に居る。

 だけど、何故だか恐怖の対象と思えなかった。

 剥き出しになった左手を額に添え、ネオさんは喉を震わせた。

 

「ぅぅぅぅぅ……あああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 左手が蝋燭の火にかざされた。

 蝋燭の火は突如、燃え盛り、巨大な炎になると四つ脚の機械と吠える顔へと二つに分かれて、爆ぜ飛んだ。

 草むらに引火することなく、炎は二つの対象のみに纏わりつく。

 吠える顔は一瞬で焼き尽くされ、灰になって草むらに散った。その様子はまるで乾燥した新聞紙が燃え尽きる光景を早送りで見ているかのようだった。

 機械の方は大きさのせいか、それとも別に理由があるのか、バチバチと音を立てながら燃え、黒ずんでから地面へと沈み込む。

 炭化したそれは崩れた土塊のようになって、その場で小さな山を作った。

 落とした手袋を拾い上げ、左手に()め直したネオさんは黒焦げになった残骸を見下ろして、呟いた。

 

「通りが悪い。こりゃ、向こうから持ち込んだものが()()()()()か」

 

「向こうって……まさか、この訳分かんない機械、表の世界から入って来たものってこと? こんな薄気味悪いものが?」

 

「さあな。だが、こっち側に染められちまえば、ヒトもモノも変わんだろ」

 

 投げやりな台詞だったが、その言葉は私の胸にずしりと重しのようにのしかかる。

 裏世界に染められてしまえばヒトも、モノも変わる。それなら、裏世界へ行ったまま帰って来ない冴月もまた、こちら側に染め上げられてしまっているのではないか。

 冴月は生きている。冴月がそんな簡単に死ぬ訳ない。

 そう思って捜索する気でいた私だったけれど、ここに来て、別の可能性が脳裏に浮かぶ。

 冴月がまだ裏世界で生きていたとして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 たった今、自分という自意識が呑まれそうになった私だから分かる。

 ネオさんの声が声を掛けてくれなかったら、多分、私は私ではない何かに変えられていた気がする。

 サバイバルがどうとか、食料がどうとか、そういうまともな理由を抜きにしても、この世界に留まり続けるのは危険過ぎる。

 改めて、裏世界のヤバさを思い知らされた私だったが、当のネオさんは蝋燭を左手に持ち替えて、そそくさに先に進んで行ってしまう。

 

「えっと、ネオさん。こっちでいいの? さっきからずっと直進してるけど、道とか分かってる?」

 

「いや」

 

「いやって……」

 

 基本的にこの人、私に対して素っ気ない。

 だけど、さっきみたいに本当に危ない時には名前を呼んで助けてくれるくらいには情があると分かって、少しホッとする。

 ピリピリモードから平常運転に戻ってくれたので、前よりも雰囲気は幾分楽になったと思う。

 私はネオさんの後ろをピッタリ追うようにして歩きながら尋ねた。

 

「あの、呑まれるなって言ってたけど」

 

「そのままの意味だ。こっちの世界は恐怖を抱かせることで干渉してくる。早い話、ビビればビビるほど、向こうの思うつぼだ」

 

「それだとまるで、この世界自体に人間を取り込もうとする意思があるように聞こえるけど?」

 

「それ以外にどう聞こえるんだよ」

 

 面倒くさそうにそう言い放ってくるが、この人、私が想像しているよりもずっと裏世界に詳しいのかもしれない。

 もっと踏み込んで話を聞こうかと思った時、道の先が上り坂になっていることに気付いた。

 結構な勾配(こうばい)だ。アウトドア用のブーツの私はともかく、革靴のネオさんはキツイんじゃないかと思って前を見るが、草むらで滑ることもなく、するすると登って行く。

 足の裏に吸盤でも付いているのか疑いたくなるくらい澱みのない足取りだ。

 さっきの蝋燭の火のように特別な力を使っているのかもしれない。そう考えるとちょっぴりズルさを感じられずにいられなかった。

 それにしてもこの斜面、どこまで続くんだろう。

 足腰に自信のある私も少々辛くなってきたところで、ようやく坂に終わりが見えた。

 草むらも途中で途切れ、蠟燭の明かりに照らされた前方には砂利で覆われた地面が映る。

 そして、その少し先に見えたのは……。

 

「え? これって……線路?」

 

 何で裏世界に線路があるの、なんて考えても無意味なことが頭を過ぎった。

 見慣れた人工物があるからと言って油断はできない。ただ、線路があるならこの先に駅もあったりするのかも。

 ネオさんもまた視線を線路に落として、少しだけ考えた後、線路に沿って歩き始めた。

 私もまた同じように後を続く。草むらに比べて格段に歩きやすくなったおかげか、口も軽くなった。

 

「ねえ、ネオさん。スタンドバイミーって映画知ってる?」

 

 気分を変えるためにも雑談を試みた。

 

「知らない」

 

 が、一言で打ち切られてしまう。

 

「興味もねえ」

 

 駄目押しの一撃。

 そして、無言。本当にこの人、コミュニケーション能力を取ろうとする気がないなぁ。

 意気消沈した私はさっきの話の続きをすることもできず、黙々とネオさんの後に続いた。

 明かりを受けて、私とネオさんの影が線路の脇の砂利道に伸びる。

 一定の速度で動く黒い背中と根本だけがほんのり黒いひっくり返したプリンのような頭を見つめた。

 そういえば、私。人生の中でここまで男の人と二人きりで居たのって初めてだ。

 私には“ママ”と“お母さん”の二人が居た。他の子には当たり前のように持っていた『父親』という存在は絵本の中のペガサスやドラゴン並みに遠いものだった。

 それについては別段、何とも思っていない。むしろ、誰よりも親の愛情を受けて育ってきたと自負できる。

 だけど、その家庭事情のせいで私は世間一般の女子大生よりも男性という存在が縁遠いと思っている。

 もし、私に歳の離れた兄が居たらこんな感じなんだろうか。

 そんな他愛もない思考が脳を支配しかけた時、後ろから何かが迫っている気配を感じ取った。

 大きくて、鈍い何か。四つ脚の機械とも吠える顔とも違う、もっと危険な認識の何か。

 どうして、それに気付けたのかは分からない。

 こんな砂利道だというのに音すら立てず、忍び寄ることができるとは思えない。

 だけど、分かる。

 確かに分かる。

 ()()が真っ直ぐに私たちの後を追って来ている。

 

「ネオさん、後ろからヤバい何かが来てる……」

 

「ああ?」

 

 振り返ったネオさんは値踏みするように私の顔を覗き込む。

 さっきの恐怖がぶり返して、幻聴でも聞いたと思っているようだった。

 

「気付いてないの? さっきよりもずっとヤバいのが向かって来てるんだって!」

 

「……伸びしろ、思ったよりあるかもな」

 

「え? 何が」

 

 言っている意味が分からずに聞き返すと、ネオさんは鼻を鳴らして私に言う。

 

「どっから来る。お前が感じてるものを変に訳さず、そのまま伝えろ」

 

「えっと……大きくて鈍いものが近付いて来てる。私たちのこと、追いかけて来たんだと思う」

 

「もっと詳しく。目を瞑って意識を研ぎ澄ませ」

 

 詳しくって言われても困るだけど……と心の中でぼやきながら、目を瞑って意識を集中させる。

 暗がりの中で閉じた目は更なる暗黒が訪れる。

 その闇をキャンバスの代わりにして、脳裏に浮かぶイメージの造形を固めていく。

 動いている。重たい感じ。

 足音、規則正しい……二本脚?

 人型……。でも、人間よりもずっと大きい。

 頭……そう、頭が大きい。いや、違う。これは……角だ。

 

「大きな、ヘラジカみたいな角の生えたの巨体……?」

 

 脳裏で描いた造形はまるでどこかの映像をそのまま持ってきたように鮮明になっていった。

 筋骨隆々の裸の人体。その上に蔦状のものをぐちゃぐちゃに丸めた塊が頭の代わりに乗っている。その頭の脇からは枝分かれしたヘラジカの角ようなものが生えていた。

 それは線路に沿って歩いて来ている。私たちが歩いてきた痕跡を伝うようにしてこちらへと向かって来ようとしている。

 

「鳥子。お前は今、空間を認識してそれを観測してる。どのくらい近い?」

 

「結構、近くまで来てる。明かりが、見える。蝋燭の明かり……」

 

 そこまで言った時、地響きのような音と共に砂利が擦れる音が数メートル先で聞こえた。

 目を見開いて、そちらの方を向くと闇の中で脳裏に描いていたものがゆっくりと現れた。

 気温が一気に氷点下まで下げられたような錯覚がした。

 さっき出会った恐ろしい存在とは比べ物にならない圧迫感が私の全身を襲った。

 喉を掴まれたみたいに呼吸が止まる。

 視線を這わせるように動かして、私は傍に居るネオさんを見た。

 この存在を目の当たりにして、私と同じような状態に陥っていないだろうかと。

 けれど……。

 

「ようやく……」

 

 それは私の杞憂でしかなかった。

 

「ようやく、ちょっと面白くなってきたな」

 

 蝋燭の明かりで照らされたネオさんの顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。

 




ちょびちょび更新していこうと思ってます。


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ファイル14 神隠しきさらぎ駅伝説Ⅴ

 鬱蒼と生い茂る土手の上。

 敷き詰められた砂利道の中央に取り付けられた線路道。

 私とネオさんを追いかけてきた影がとうとう姿を現していた。

 大きな木の枝のように広がった角。束ねた蔦を丸めたような頭。はち切れそうな筋肉で覆われた巨体。

 怪物(モンスター)

 分かり易いB級ホラー映画に出てくる怪物そのものが、そこに立っていた。

 さっき見た四つ脚の機械や吠える顔とは違って、想像し易い暴力性が漂っている。

 丸太ように太く分厚い腕や脚での殴打。もしくはヘラジカのような枝分かれした大きな角での刺突。

 そういった物理的な攻撃をする存在だと思った。

 

『……………』

 

 けれど、それは誤りだった。

 私はまだこの世界に居る存在を理解し切れていなかったのだ。

 角が、()()()()

 

「……え?」

 

 硬質でその重量感さえも伝わってくるような枝状の角が。

 海の底に生える海藻のように。風になびく湯気のように。

 ゆらゆらと揺らめいた。

 不定形に変容し、膨れ上がった枝状の角が夜の闇すら覆い尽くすかのように中空で広がっていく。

 尋常ではない大きさの触手の群れが空間を占領している。それはイソギンチャクの画像を拡大して切り抜いたような、粗雑な合成映像のようだった。

 グジョグジョと湿り気を帯びた耳障りな音が辺りに注がれる。

 私の中で恐怖と生理的嫌悪と混乱が一気に膨張して────破裂した。

 

「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 絹を裂くような甲高い叫び。

 自分の喉から流れ出ている悲鳴を、私の意識は他人事のように聞いている。

 壊れた絶叫を上げている私と、それを冷静に認識している私。

 異様な感覚。尋常ではない意識。

 何これ……怖い。

 怖い怖い怖いこわいこわいコワいコワいコワいコワいコワいコワいコワいコワい。

 空間を侵食する大量の触手が雪崩れ込むように、視界で広がって……。

 

「面白れぇ」

 

 いつの間にか、広がる(おぞ)ましい触手以外の物が見えなくなっていた私に、ネオさんの声を捉えた。

 蝋燭を足元に立てると、ネオさんは左手の手袋を剥ぎ取り、迫り来る触手の枝角へ向けて掲げる。

 

「面白れぇよ。お前」

 

 掲げたネオさんの手のひらから、真っ白く光るミミズを何百匹も絡めた塊のようなものが現れた。

 発光してうねるその塊に、伸びて来ていた触手の枝角は吸い込まれていくように収束する。

 

「……ぅぅぅぅぅええええぇぇぇぇぇぇぇえええええええぇぇぇぇぇぇ……」

 

 抑揚のある唸り声。

 リズムはあるが、お経や聖歌のような意味のあるものはまるで含まれていない音の羅列。

 だけど、その声が響けば響くほど、触手の枝角は発光する塊に呑み込まれ、ついには本体の巨体さえもひしゃげ始める。

 

「ぅぅぅぅぅぅぅえああああああああぁぁぁああぁぁ!」

 

 叫びと共に光るミミズの塊が一際激しく輝きを放つ。

 その瞬間、触手の枝角ごとひしゃげていた怪物は、排水溝へ流れ落ちる汚水のように呑み込まれた。

 質量も何も関係なく、光の中へと吸い込まれていくと発光する塊もまた、役目を終えたためなのか、フッと消え失せる。

 最初から怪物も発光する塊もなかったかのように薄暗がりが戻っていた。地面に立てられた一本の蝋燭の光だけがその場にただ残っている。

 左手を降ろしたネオさんは珍しく疲労した様子で足元にしゃがみ込んだ。

 ずっと口を閉ざして見ていた私はそこでようやく言葉を発せた。

 

「や、やっつけたの?」

 

「……見りゃ分かんだろ。いちいち、聞くな……」

 

 気怠げな声は苛立ちよりも疲れの色が濃く聞こえる。やっぱり、今の怪物はさっきまでの奴よりもヤバい奴だったんだ……。

 私はネオさんの傍へ寄って、顔を覗き込んだ。

 蝋燭の灯りで照らされたネオさんは軽く息を切らしていた。

 常人離れした体力を見せ付けていたあのネオさんが、ここまでへとへとな姿を見せるなんて想像もしていなかった。

 

「大丈夫? 顔色悪いけど」

 

「…………」

 

「ああ、見れば分かること。いちいち聞くなって? 分かったよ。じゃあ、もう聞かないから」

 

 視線だけで大体言いたいことが分かってきた。

 この人は基本的にぶっきらぼうで面倒くさがりなんだ。

 仕方ない。こんな場所で立ち止まって休憩するのは少し不安だったけど、それでもネオさんが回復しないことには動けない。

 私も蝋燭を挟んでネオさんの隣に座り込もうとしたその瞬間。

 背後で砂利を踏む足音が聞こえた。

 

「……!」

 

 それも一つや二つじゃない。

 五人……いや、その奥も合わせると十人以上は居る……!

 振り返った闇の中から、ぬっと姿を現したのはアサルトライフルを携えた兵士だった。

 迷彩柄の軍服に緑のヘルメット。顔には暗視ゴーグルを装備している。

 人間……? それとも姿だけ真似た怪物……?

 

動くな(ドン・ムーブ)!」

 

 英語で静止の警告を促したことで、私はその兵士たちを人間として対応することに決める。

 

撃たないで(ドン・シュート)

 

 返事を返したことで向こうもやや警戒レベルを下げたのか、銃口を向けたままだったけれど、さっきよりも近付いて来た。

 

「人間、なのか……? だが、人間にあのホーンドマンを撃破できるとは……」

 

 兵士の内、一人がゴーグルを上げて私たちを疑うように見つめてきた。

 金髪碧眼。明らかに欧米風の顔立ちだったが、口から出てきたのは何故か日本語だった。多分、私ではなく、ネオさんを見ての反応だと思う。ネオさん、金髪に染めてはいるけど、普通に日本人顔だし。

 

「中尉! あなたも見ていたでしょう。少なくとも男の方は手の先から得体の知れないものを放ってホーンドマンを倒しました! 明らかに人間じゃない! 撃ちましょう!」

 

「銃を降ろせ、グレッグ曹長! 化け物であれば、ホーンドマンと戦う必要はない!」

 

 近付いて来た最初の一人……話を聞く限り“中尉”らしき兵士と、グレッグと呼ばれた曹長が口論している。

 今度は早口の英語だったが、ネオさんにもある程度通じているのか、疲弊した顔で事の成り行きを黙って見ていた。

 アサルトライフルの銃口がこちらを向いているのに、面倒そうな眼差しは相変わらずだった。状況説明や釈明をする素振りを一切見せない辺りが、かえって清々しい。

 ここは私が何とかしないと……。

 

「私たちは人間です。東京の、新宿からここへ来ました」

 

 日本語は通じるようだったが、念のために英語で伝えると周りの兵士たちまで一斉にざわついた。

 ──東京? 東京だって?

 ──何百マイルも先じゃないか? 適当なことを言ってるんじゃ……。

 当惑。混乱。疑問。

 兵士たちはこちらが会話をしても未だ銃口を降ろせずにいる。

 中尉が兵士たちに向けて叫ぶ。

 

「落ち着け! 全員、銃を降ろせ! これは命令だ!」

 

 疑惑の目でこちらを向け、ざわめいていた兵士たちがその命令を受けて、一斉に銃口を下げた。

 グレッグ曹長だけは釈然としない様子だったが、渋々といったように銃口を降ろす。

 それを確認してから、中尉は再び、私たちへ顔を向ける。

 

「すみません。我々もこの状況に混乱していて、殺気立っていて……。僕はウィル・ドレイク中尉。ペイルホース大隊第三中隊の副官です」

 

 日本語でそう伝えてくれたドレイク中尉は柔らかな物腰で私たちに接してくれた。

 一応の信用を得られたようで、兵士たちに囲まれながらも銃を突き付けられることなく、同行することになった。

 ドレイク中尉から話を聞けば、彼らは沖縄に駐屯する在日米軍だそうだった。

 山の中で演習をしていた最中にいつの間にか部隊ごと裏世界へと入り込んでしまったと語ってくれた。

 

「〈アザーサイド〉に来てから、一ヵ月以上経ちますが、未だ脱出方法が見つからず、駅舎を拠点にして野営しています」

 

 一ヵ月……。その期間は半日で死にかけた私からすれば途方もない時間に思えた。

 そして、〈向こう側(アザーサイド)〉というのがこの人たちの裏世界の呼び方らしい。

 こちらへ既に足を踏み入れてから付けるには少し皮肉が効き過ぎているネーミングだ。

 それにしても、ドレイク中尉を除いた兵士たちからの警戒心は一向に解ける気配はない。特にグレッグ曹長は隙あらば、撃って来そうな殺気さえ漂わせている。

 しかし、一番その殺気を向けられているネオさんは怠そうに脚を動かしているだけで、まったく意に介した様子はない。

 図太いというか、ここまで来るとグレッグ曹長の方が可愛そうに思えてくるくらいの無関心さだ。

 ドレイク中尉は私ではなく、その斜め後ろを歩くネオさんの方へ視線を向けながら尋ねて来る。

 

「それで……あなた方は一体何者なんですか? 我々でさえ有効打を与えられなかったあの〈角持つ男(ホーンドマン)〉をどのような方法で撃退……いえ、撃破できたのです」

 

「さっきからチラホラ会話に出てたホーンドマンっていうがあの枝角の怪物だよね? やっぱりヤバい奴だったんだ?」

 

 他の化け物とは違って、あいつはもっと私の深いところまでへ()()()()()()()()としていた。

 恐怖や嫌悪で感情を支配するだけじゃなく、あの触手で直接的に接触しようとしていたと今なら分かる。

 ドレイク中尉は表情を強張らせて、頷いた。

 

「アザーサイドに迷い込んでから執拗なまでに我々を狩り立ててきたこの世界の狩人です。ライフルはもちろん、迫撃砲すらも効果はありませんでした」

 

 なるほど。大体分かってきた。

 要するに銃火器のまったく効かない化け物を倒したネオさんを中尉たちは恐れていると同時に期待をしている訳だ。

 だけど、状況が状況だけに完全な信用をすることはできず、こうやって手探りで私たちが信頼できる相手か確かめようとしている。

 それが分かって、少しだけホッとする。

 

「ネオさん……あ、あっちのスーツ方がネオさんで、私が仁科(にしな)鳥子(とりこ)。でー、ネオさんは霊能者なの。そのホーンドマンっていうのは霊能力で退治した、と思うんだけど……。どう? ネオさん。こんな感じの説明で合ってる?」

 

「…………それでいい」

 

 私が聞くと、口を開くのも億劫(おっくう)だと言うように最小限の声で答えてくれた。

 

「そんな感じだよ」

 

「霊能力……ですか。確かに母国ではサイコメトラーなどが事件解決の糸口になっているという話も聞きますが、そういった存在を目にするのは初めてです」

 

 くたびれたイメージが強かったドレイク中尉だったけれど、ネオさんが霊能者だと伝えるとほのかに視線に羨望のようなものが混じる。

 コミックのヒーローが実在すると言われ、舞い上がる少年のようにも見えた。

 けれど、そこでネオさんの真後ろを歩いていたグレッグ曹長が割り込む。

 

「……中尉、そんな口車に騙されないでください。こいつらはあのホーンドマンとグルなんだ。まともじゃない。自分たちを油断させて寝首を掻こうとしてる。そうに違いありません……」

 

「曹長、やめろ。今のお前の方がまともには見えない」

 

「中尉!」

 

 二人が口論に発展しそうになったので、私は仕方なく話を変えるために質問する。

 

「ねぇ。そういえば、さっき駅舎がどうとか言ってたけど」

 

「……はい。『ステーション・フェブラリー』。古くて小さな駅がこの先にあります」

 

 一拍空けて表情を柔らかくしてから、ドレイク中尉が私にそう答えてくれた。

 

「どうして、“二月(フェブラリー)”?」

 

「そう書いてありましたから。実際に見て頂いた方が早いでしょう」

 

 右手にカーブした線路を更に少し進むと、木立(こだち)に隠れていた駅が目に入る。

 ホームの端にある段差を上っていくと木造の今にも崩れてきそうな駅舎があった。

 黄ばんだ電灯のすぐ近くに駅名が書かれてある看板を見つける。

 

 きさらぎ

 KISARAGI

 

 そう駅名が記されていた。

 きさらぎ……ああ! 如月(きさらぎ)だから“二月(フェブラリー)”ってことか。

 だから何って感じではあるけれど、わざわざ如月を二月と言い換えるところがおかしくて少し苦笑してしまう。

 その時、上着のポケットに入っていたスマートフォンが震えた。

 何かと思って取り出すと、画面には『小桜』の名前が表示されていた。

 

「えっ、ここ。電波あるの?」

 

 ただし、表示がおかしい。ずっと見ているとちかちかと文字が瞬間的に変化している。

 とりあえず『通話』の方に親指でタッチしようとして──。

 

「やめろ! ()()で電話をするな!」

 

 グレッグ曹長が叫ぶと同時に私へ銃を構えた。

 突然の剣幕に驚き、思わず手のひらからスマートフォンが滑り落ちる。

 カツンと小さな音を立てて転がった画面には『通話中』と表示されていた。

 しかし、スマートフォンから流れ出した声は小桜のものではなかった。

 

『あ、ああああああ……ぎは らぎ えき さら でご ます まも くれ っが ござ す』

 

 意味不明な言語の羅列。

 それを耳にしたグレッグ曹長は躊躇なく、引き金を引いた。

 

「うわああああああ!」

 

 弾丸は私が落としたスマートフォン。

 画面を貫き、衝撃で跳ね上がったそれからはカーンカーンと鐘の音に似た音が流れ出す。

 この音を私は知っている。聞いたことがある。

 

「……踏切?」

 

 その耳障りな金属音にも似たものは、踏切の警告音だった。

 ドレイク中尉が苦虫を嚙み潰したような表情で警告音を鳴らし続けるスマートフォンの残骸を見た。

 

「何てことだ──()()()()()!」

 

「電車……?」

 

 聞き返すよりも早く、激しい振動が私たちを襲う。

 ホームから見て右側から光る何かが接近してくる。プオーーンとラッパのような軽快な音が光と共に大きくなって……。

 ──きさらぎ駅に、電車が停まった。

 



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ファイル15 神隠しきさらぎ駅伝説Ⅵ

「あれ? ここは……?」

 

 ふと気が付くと私はロングシートの座席に腰を下ろしていた。

 向かい側にも同じように座席があり、そこに人が座っている。

 頭のすぐ上には吊り革がぶら下っていて、脇には床から天井まで垂直に通る鉄製の手すりが見えた。

 これは確か“スタンションポール”っていう電車なんかにある手すりだ。

 じゃあ……ここ。電車の、中……?

 そう気付くと、背中と太ももに定期的な振動が伝わってくる。

 寝起きの頭のようなぼんやりとした思考で周囲を見回した。

 立っている人は一人も居ない。全員が(そろ)えたように(うつむ)いてロングシートに座っている。

 そして、その誰もが迷彩柄の軍服を着込んでいた。

 軍服……軍人……そうだ。この人たちは、さっき会った在日米軍の……。

 朦朧(もうろう)としていた思考が、ようやく定まってきたその時。

 

『次はぁ……石打(いしうち)ぃー。石打ぃーでぇ、ございまぁす……』

 

 どこからともなく流れてきたのは男性の声。

 次の駅名を告げる乗務員のアナウンスに聞こえたが、どうにも違和感があった。

 妙にねっとりとした低い声で告げているものは駅名にしてはおかしい気がする。それに日本語のアナウンスの後に英語や中国語で繰り返さないのも変だ。

 

「あぁあ……っ」

 

 未だぼんやりする思考で私が更に考え込もうとした瞬間、悲鳴に似た短い叫びが聞こえて、とっさにそちらを向いた。

 大体目測で五メートルほどだろうか。少し離れたその座席に人だかりができていた。

 いや……()()じゃない!?

 猿。

 四(ひき)の人間サイズの猿が拳くらいの石を握って、座っている軍人を殴り付けていた。

 何度も何度も執拗(しつよう)なまでに叩き付けられ、ヘルメットが砕け散り、赤い血飛沫が飛ぶ。

 軍人は首を激しく動かして抵抗するが、立ち上がって逃げ出すことができないらしく、十数回目の殴打で妙に首が傾いだ姿勢で静かになった。

 

「……っ」

 

 猿たちの陰に隠れて、細部までは見えなかったけれど、軍人の頭が割られたスイカより酷いことになっているのは想像が付いた。

 猿たちは動かなくなった軍人を見下ろした後、持っていた石を通路へ無造作に放り投げる。

 硬い音を立てて、私の足元へ転がった石にはべっとりの赤い血がこべり付いていた。

 

『次はぁ……火炙(ひあぶ)りぃー。火炙りぃー、でぇ、ございまぁす……』

 

 乗務員のアナウンスが再び、聞こえてくる。

 もう間違いない……。これは駅名なんかじゃない!

 これは──処刑方法だ。

 猿たちが別の軍人に燃え上がる松明(たいまつ)を押し付けようとする様子を見て、私を確信する。

 そして、同時に猿たちが少しずつ私が居る座席まで近付いていることにも気付く。

 

『この先はぁ……首吊りぃ、四つ裂きぃ、内臓抉りぃとなっておりまぁす……』

 

 いますぐ、座席から立ち上がって逃げ出したいのに、首から下が金縛りにあったかのように動かない。

 まるで見えない縄で全身が縛り上げられているような感覚がある。

 恐怖から身体のありとあらゆる場所から、冷や汗が染み出す。

 どうして、こんなことになっているの……!?

 そもそも、何で私は電車の中に……覚えている最後の記憶は。

 はっきりしてきた頭には、電車がきさらぎ駅へ到着した光景が浮かぶ。

 そうだ……小桜から電話が来て。それをグレッグ曹長が銃で撃って……電車が……。

 電車が停まったんだ。

 ……その後の記憶はない。

 ネオさん! ネオさんはどこに居るの?

 辛うじて動いてくれる首を回して、彼の姿を探すが、目に見える範囲には見当たらない。

 電車内には居ないの? それとも……まさか、もう……あの猿たちに。

 最悪の状況が脳裏に浮かぶ。

 かなり消耗していた今のネオさんだったら、その可能性も充分にあり得た。

 お願い、ネオさん。

 お願いだから……無事でいて……。

 

『次はぁ……骨砕きぃー。骨砕きぃーでございまぁす……』

 

 私の視界に影が映る。

 

「え……」

 

 四匹のが、もう私の前にまで来ていた。

 隣を見ると身体をくの字にして座っている迷彩柄の背中が見えた。

 ウソ……もう、私の番なの……。

 すぐ横で人が殺されていることにも気付けないほど、私の頭はやられていたのか。

 それとも、思考が一杯になるほどネオさんのことを考えていたのかな……?

 猿たちはそれぞれ、大きな鉄製のハンマーを握っていた。きっとそれで、私の骨をアナウンスの通りに砕くつもりなんだろう。

 粉々に粉砕する気なんだろう。

 怖い。凄く怖いけど……それ以上に申し訳なかった。

 私の不注意のせいでネオさんを裏世界に連れて来て、そして、こんな風に残酷な方法で殺させてしまったことを心から反省した。

 

「ネオさん……本当に、ごめんなさい」

 

 目を瞑って、私はぽつりとそう呟いた。

 

「そう思うなら最初から、しおらしくしとけよ」

 

 ……え?

 聞き覚えのある声が耳に届いて、私は目を見開く。

 そこには猿たちの代わりに仏頂面で私を見下ろすネオさんの顔があった。

 足元の通路に散らばった灰のような残骸を踏み付けるように立っている。多分、それがさっきの人を殺して回っていた猿たちだろう。

 

「ネオさん!? 無事だったんだ……よかったぁ」

 

「お前如きが上から目線で俺の心配なんかしてんな。もう立てるだろ、とっとと行くぞ」

 

 うん、辛辣さ。間違いなく、本物のネオさんだ。

 安心すると共にまったくブレないきつい口調に笑ってしまいそうになる。

 ネオさんの言った通り、さっきまでの金縛りがウソのように解けていた。ロングシートから立ち上がった私は改めて、周囲を見渡した。

 座っている軍人たちは一人残らず、事切れている。

 ここに放置したままなのは可哀そうに思えたが、それでもこの数の死体を担いで運べるほど余裕はない。

 

「おい、とろとろしてんな。置いて行くぞ」

 

「あ、うん。すぐ行くから」

 

 軽く手を合わせてから移動しようとして、通路に落ちていたハンドガンを一丁見つけた。

 SIG SAUER P320。銃身の長さから見て、M18かな……。勝手に持っていくのは少しだけ気が引けたが、丸腰で居るにはこの場所はあまりに危険過ぎる。

 マガジンの残弾数をチェックすると、まだ三発だけ残っていた。

 

「ごめん。悪いけど、これ。もらっておくね」

 

 誰が持ち主なのか見当も付かないのでとりあえず、全員にそう告げて、私は先導してくれるネオさんの後に続いた。

 前の方に進んで行くと、ロングシートには空席が目立つようになっていった。腰掛けている人影は居るには居るが、よく見るとそれはゴミ袋と丸めた新聞紙で作った出来の悪い人形に洋服を着せたものだった。

 

「何あれ……」

 

「知るか。まあ……大方、()()()()()()ってとこだろ」

 

「成り代わり用?」

 

 オウム返しで尋ねると、素気なく無視を決められた。ちょっと寂しい……。

 だけど、力の使い過ぎで弱っている手前、文句を言う訳にもいかず、私もそれ以上は聞かなかった。

 更に前方の車両に進むと、こちらに背を向けて立っている人影が見えた。

 一瞬だけまだ無事だった人が居たのかと思った。でも、その考えがどれほど甘かったのかを理解させられる。

 

「次はぁ……捩じり首ぃー。捩じり首ぃーでございまぁす……」

 

 ぐるりと首だけが一回転捻じれたその顔はグレッグ曹長。

 開かれた目と口からは、輪郭のぼやけた腕のようなものが何本も飛び出している。

 

「グレッグさん……もう人間じゃ、ない……」

 

「ああ。こいつはもう──化け物だ」

 

 私たちに好意的な人間ではなかったけれど、化け物を恐れていた彼がここまで人間性を失うような姿へ変わってしまったことはあまりにも残酷だった。

 目と口から伸びた腕はグレッグ曹長の首を更に回転させていく。

 ぶちりと音がして捩じ切れた彼の生首は、生やした腕と(あい)まって不格好なクラゲのようにも見えた。

 糸が切れた操り人形(マリオネット)のように崩れ落ちる身体とは逆に、捩じ切れたグレッグ曹長の頭部は空中を浮遊していた。

 泳ぐように空中を回遊する狂気の生首クラゲは、目口の穴と首の断面から生やした輪郭のぼやけた白い腕を触手のように長く伸ばして、私たちへと差し向ける。

 

「ぇぇええぁぁぁぁあああぁぁ!」

 

 左手を掲げたネオさんが叫びを上げると、まるで見えない砲弾にでも激突したかのように生首クラゲは吹き飛んで消滅した。

 だが、それを見届けた後、ネオさんの身体が傾ぎ、通路に膝を突いて倒れ込む。

 

「ネオさん!」

 

「……でかい声出すな。ただ、力を使い過ぎただけだ……」

 

 荒く息を吐いてから、ネオさんは私が拾っていたM18を指差すと静かに言う。

 

「お前のそれに俺の残ってる力を注ぎ込む。それで後はどうにかしろ」

 

「どうにかしろって……」

 

「来るぞ……構えろ!」

 

 ネオさんの言葉に正面へ向き直る。

 振り向いた私の目に映ったのは……。

 

「……冴月……?」

 

 首から上を失って倒れたグレッグ曹長の死体の真上に、佇むように浮かび上がっていたのは私がずっと追い求めていた想い人──閏間(うるま)冴月(さつき)だった。

 長くて綺麗な黒髪。陶器のように白い肌に黒い縁の眼鏡。

 足首から先がなく、空中に浮かんでいるが、それは紛れもなく、冴月だった。

 ただ一点思い出の中の彼女と違うのは瞳の色。

 黒曜石のような黒い瞳は、今は深い海のような青に染まっていた。

 

「本当に……本当に冴月、なの……?」

 

 冴月は私にとって特別な存在だった。

 見てくれが日本人離れしている私は日本の学校に馴染むことができず、友達ができなかった。

 家に引き籠っていた私にママとお母さんが見るに見かねて、家庭教師として付けてくれたのが冴月だった。

 色んなことを教えてくれて、友達だって言ってくれた。

 裏世界のことだって教えてくれて、探検に連れて行ってくれた。

 白黒だった私の人生に鮮やかな色で塗り替えてくれた、凄くて、特別で、大好きな人……。

 ようやく再会できた私の想い人……。

 

「鳥子……こっちに、おいで……」

 

 浮かぶ彼女は迎え入れるように両腕を開いて、私を青い瞳で見つめている。

 銃口を持ち上げ、構えた私はその姿を見て、ほんの少し口元が弛んだ。

 

「もう、冴月じゃないんだね」

 

 引き金(トリガー)を引く。

 眼鏡が吹き飛び、黒い髪が揺れた。

 片目に撃ち込まれた弾丸が白く輝き、青い瞳を撃ち抜いた。

 穴が開いた顔で冴月が私の名前を呼ぶ。

 

「とり、こ……」

 

「さよなら……──化け物」

 

 引き金(トリガー)を再度引く。

 両目を失った化け物がどの言語とも違う、単語の羅列を吐き出して、身体を揺らした。

 

「るるらぁぁぁいぼおおおおおぅぅぅずわぁぁあああぃぃぃどおおおぉぉうばぁぁぁそぉぉぉるるるぅぅ……」

 

 意味のある言葉じゃない。

 そして、それは最初から。

 私の名前を呼んだのも、共に来るように誘った言葉も同じだ。

 姿形は冴月でも、どうしようもなく冴月じゃないってことが今の私には分かった。

 弾丸で穿(うが)たれたヒトガタに亀裂が入る。それは映像が映り込んだガラスや鏡が割れていくかのようにも思えた。

 

「さよなら。私の、初恋」

 

 最後の弾丸の引き金(トリガー)を引く。

 心臓部分へ向かって放たれた弾丸が(ひび)だらけのカタチをついに打ち砕いていく。

 

「ぅぅうううぅぅぅあああぁぁぁ……!」

 

 反響する(うな)り声が空間を歪めてるほどの渦となる。

 

「モウ始マッテル。止メラレナイ……神様ハ……来ル、来ル、来ル……皆、終ワリ……」

 

 腕や脚から徐々に崩れて黒い灰へ変わっていく化け物は最後にこう言い残して消えた。

 ──『(ヒジリ)ノ丘デ待ツ』。

 灰状になった残骸が渦の中をぐるぐると風車のように二度、三度回った後、完全に消えてなくなった。

 膝を突いていたネオさんが、よろめきながらもゆっくりと立ち上がる。

 

「本当の戦いは……これからだな」

 

「……うん」

 

 私はそれに静かに頷いた。

 きっと、これは始まり。これからもっと大きなことが起きる前触れに過ぎないのだと感じられた。

 化け物が浮かんでいた辺りの場所が揺らめいている。

 私はその場所に近付くと、大きく息を吸い込んでから、左手で見えないカーテンを摘まむように引いた。

 

「スゥー……えいっ!」

 

 開いた先に街灯の灯りに照らされた新宿の街並みが見えていた。

 

「でも、今は帰ろう。小桜が心配だから」

 

 今度はネオさんが黙って頷く番だった。

 




今回で、きさらぎ駅編は終了です。
次回からはまた空魚視点に戻ると思います。


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