ouroboros clepsanmia (月神 朧)
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1話

※この作品はArcadia様にも投稿しています。


 何度、同じ時を繰り返しただろう。

 何度、変わらない結末に唇を噛みしめただろう。

 何度、不甲斐ない自分に絶望しかけただろう。

 回数など、もう覚えていない。挫けそうになる心を叱咤し、交わした約束を支えにして進んできた。

 でも、それもようやく終わる。

 ワルプルギスの夜。多くの人達の絶望を喰らいし、災厄の魔女。

 何度も繰り返し、その度に届かなかった。もう少しで、というところで撤退せざるをえなかった事さえ何度もある。

 それでもなお諦めず、ようやく打倒するという目標にまでたどり着いた。

 正直なところ、勝てたのは奇跡にも等しい。それでも、倒したという事実は揺るがない。

 それは、本当に小さな偶然だった。あらゆる手段を講じても全くと言っていいほど攻撃が通らずに無為に消耗していくだけの中、たまたま迎撃されないままワルプルギスの夜の元までたどり着いていた爆弾が、周囲に破壊を撒き散らす大規模な攻撃の直後に炸裂したのだ。

 最初、その爆弾の効果など無いと期待はしていなかった。だが、それまではどんな攻撃を受けようが何事もなかったかのように行動していたワルプルギスの夜が、ほんの一瞬ではあるが沈黙し動きを止めたのだ。

 その光景を見て浮かんだ仮説に、全てを賭けた。

 即ち、大きな攻撃の直後には僅かながらも隙ができる、ということに。

 どこまで通じるかはわからない。そもそもワルプルギスの夜は、攻撃されていると認識しているかどうかさえ怪しいのだ。

 事実、出現してからの行動は無差別に破壊を撒き散らすだけに過ぎず、狙って攻撃されたと感じたものは一つとして存在しない。

 それでも、攻撃の範囲が広く無差別であるために、防ぐか回避するかに重点を置かなければならず、隙を見つけては散発的に攻撃をすることしか出来なかった。

 そんな、先の見えない中で見つけた小さな足がかり。

 成功する保証などはなく、分の悪い賭けでしかない。それでも、選んでいる余裕も時間もないのだ。そんな中では、どれだけ小さなものであろうと、可能性にすがるしか手段がなかった。

 急がなければ、と焦りが大きくなる。

 何故か理由は不明だが、今現在姿を見せていないキュゥべえ──インキュベーターがいつ現れるかも知れたものではない。

 狡猾な奴の事、何かを企んで姿を隠しているということも十分に考えられた。

 だからこそ、分の悪い賭けであろうとも、僅かな可能性に全力で賭けたのだ。

 ひたすら防御と回避に専念し、小さな隙を見つけては時間停止の魔術を使い、魔力を込めた爆弾を投げつけた後に離脱、自分の魔術を解除する。

 こんな時は、攻撃系の魔術を全く使えない自分が恨めしく思える。

 時間遡行と時間停止に能力リソースの大半を使ってしまい、その二つ以外で使うことが出来るのは時間操作の副産物に近い空間操作と、あまり上手くない魔力強化のみ。

 それ故に、戦闘では致命的に火力不足の自分がワルプルギスの夜と単独で戦うなど、無謀以外の何者でもなかった。

 それでも、小さな可能性の発見が、ささやかな光明を見せてくれた。

 だからこそ、覚悟を決めた。インキュベーターが姿を見せる前に、何としてでもワルプルギスの夜を倒すと。

 そこからは、もはや後のことなど気にかけず、手持ちのありとあらゆる武器、兵器を魔力強化し、時間停止を駆使して全力で攻撃した。

 急速な魔力の消費にソウルジェムが一気に黒く濁って行くが、その事を気にかけている時間はない。

 自分が倒れるか、ワルプルギスの夜が倒れるかのデッドラン。

 以前までであれば確実に負けていただろう。

 だが今回は、僅かとはいえ可能性があった。

 それがなければ、きっと心が折れて絶望してしまっていたのではないかと思う。

 それほどにワルプルギスの夜は強大であり、倒そうとするなら本当に小さな可能性にさえも賭けなければならなかった。

 その賭けに、本当に僅差で勝利をつかむことができたのは、インキュベーターがもたらすようなインスタントの奇跡ではなく、本物の奇跡だったとしか言い様がない。

 何しろ、手許に残されたのは爆弾が一つ。ソウルジェムもほぼ漆黒に染まり、残されていた爆弾を使って倒せなければもはや打つ手は何も無いと諦めかけた時、唐突にワルプルギスの夜が不気味な唸り声とともにその姿を崩し、霧散していったのだ。

 最初何が起きたか理解できずに呆然となり、ワルプルギスの夜の結界が消えて日が差し込んできて初めて我に返った。

 結界の外の街の様子は酷い有様だった。これまでの繰り返しで何度も見たものと同様の崩壊した町並みと溢れたかのように溜まっている水。

 この崩壊した街並みのどこかに、まどかがいるはずだった。

 それほど遠くない場所でワルプルギスの夜との戦いを見ていたはずなのだから。

 だが、自分にはもう時間がない。

 手のひらの上にある卵型の宝石──ソウルジェムの輝きは、ほぼ黒く染まっている。

 あとどれほどの時間保つのか、はっきりとは分からないが、半日も経たないうちに自分は魔女と化すに違いない。時折、意識に靄がかかったかのように混濁して遠のくことがあるのを自覚する。

 まるで、自分の中に別の誰かが入り込んでこようとするかのように。

 グリーフシードが無い今、打てる手は何も無い。

 それでも、まだ倒れるわけにはいかないし、魔女と化すわけにもいかない。やらなければならないことが残っているから。

 重い体を引きずり、時折混濁する意識を叱咤しながらまどかの姿を探す。

 会えないままで終われない。その想いが、身体に力を与えてくれる。

 

「ほむら……ちゃん……?」

 

 右手側から聞こえた小さな水音と呼び声に振り向けば、そこには泣きそうな表情で自分を見つめているまどかの姿。

 それを目にした瞬間に、身体から力が抜けた。

 無事であり、インキュベーターとの契約も行っていないまどかの姿を見て気が緩んだのだろう。

 そのせいか、自分の中で急速に何かが崩壊していくのが感じられる。

……もう、本当に時間がない。

 

「まどか……。もしインキュベーターが……キュゥべえが現れて願いを叶えると言ってきても、決してその話に応じては駄目。あいつは人間を消耗品のようなものとしか認識してない。

 だから、あなたは今のあなたのままでいて。それが、私の守りたかったもの……だから……!」

 

 倒れそうになった体を支えてくれたまどかに縋りつくように訴えかけた。

 もう、限界が近い。心と身体の奥底から、何かが溢れ出しそうになっている。

 これ以上は、抑えられそうになかった。

 

「まどか……。 わたし、あなたと友達になれて良かった。できるなら、これからもあなたと一緒に笑ったり悲しんだりしたかったけれど……もう、駄目みたい」

 

 弱々しい声で告げたその言葉に、まどかは大きく目を見開いた。

 

「ほむら……ちゃん? 何……言ってる……の?」

 

 理解できないと言いたげな戸惑いの言葉に胸が痛む。

 ああ、結局悲しませることになってしまった。けれど、自分の身に今起きていることを考えると、もうどうしようもない。

 力のない笑みを浮かべたまま、自身のソウルジェムを手のひらの上に取り出して掲げて見せる。

 

「…………!」

 

 まどかが息を飲む音が耳に聞こえてきた。

 この時間軸のまどかはこの状態のソウルジェムを目にしたことはないはずだけれど、今の状態が危険なものであることはわかったらしい。

 もともと澄んだ紫色の輝きを放っていたソウルジェムはほとんど黒く染まってしまっていて、僅かに紫色の輝きを残しているだけだった。

 その、残された魔力を搾り出し指先に纏わせる。

 

「まどか。……ごめんね」

 

 震える指先を自身のソウルジェムに当てて力を込める。

 一瞬、その行為を躊躇いそうになるが、自身の死への恐怖よりも、魔女と化してまどかを殺してしまうことへの恐怖のほうが大きかった。

 そして、魔力で強化された指先がソウルジェムを破壊した。

 ソウルジェムがひび割れ崩れ行く中で、意識が急速に遠のいていく。

 最期に見ることができたのは泣きそうな顔のまどかの姿。そして、泣かせてしまったという未練と、完全ではないものの望む結末を迎えることができたという達成感だった。

 ワルプルギスの夜が倒された今、まどかが魔法少女にならなければならない理由など、今はないのだから。

 ここで終わってしまう自分が情けなくも思えるけれど、これ以上はどうしようもないと諦めるしか無い。

 そうして、沈みゆく意識を闇に委ねた。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

「…………!!!」

 

 急速に意識が浮き上がる感覚の中、唐突に目が覚めた。

 飛び込んできた光景は病院の病室。そう、まどかと出会う前まで入院していた病院の、あの病室だ。

 その状況に、理解が追いつかない。

 何故なら、わたしは魔女になることを避けるために自らの手で自身のソウルジェムを砕き、間違いなく死んだはず。

 こうして再び過去に戻って目覚めることなどあり得ないはずなのに。

 そこまで考えて、違和感があることに気がついた。

 ソウルジェムがどこにもない。

 これまで過去で目覚めたときには必ず手の中に握りこんでいた自身のソウルジェムが、どこにも存在していなかった。

 そして、頭の中に生まれたのは「何故?」という疑問。

 今置かれている状況の、何もかもがわからなかった。

 理解するためには、確認して知らなければならないことがいくつもある。

 そうして、わたしは再び踏み出した。

 そこに何が待っているのかも知らないまま。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 何故?

 わたしの心の中は、その疑問で埋め尽くされている。

 ワルプルギスの夜との戦いの後、自身が魔女に堕ちることを防ぐために自害し、それで全ては終わりを告げたはずだった。

 それなのに、わたしは再び時を遡りこれまでと同じように退院直前の病院のベッドの上で目を覚ました。

────ソウルジェムを持たない、普通の人間の少女として。

 それだけでも疑問は尽きなかったけれど、考えても答えなど出るはずがないと諦めていた。

 そして、退院。ソウルジェムのない今のわたしには、何かあっても対処するだけの力を保持していない。故に状況に流されるまま、それに従うことしかできなかった。

 いや、本心では怖かったのだ。無力な一般人の少女と成り果ててしまったわたし自身が、自ら動くことが。

 そうして、見滝原中学への編入。そこで再び、晴れることのない疑問が噴出することになってしましまった。

 何度も繰り返した自己紹介の時間。その後の、まどかとの出会いの時。

 けれど……

 偶然目に入った、まどかの左手。その中指には鈍い輝きを放つ銀色の指輪。それはソウルジェムが形を変えたもの。ウィッチグラフで名前の刻まれた、契約の証。

 それを見たときに、わたしは愕然とした。

 内心の動揺を必死に押し隠し、何事もなかったかのなように話を続けながらも、本心では疑問と絶望感でいっぱいだった。

 今、わたしが置かれている状況は、わたしが魔法少女となる以前の状況とそっくりなのだ。違いは、わたしが当時は知っているはずのない知識と経験を持ち得ていること。

 なぜこんな事態になっているのか、理由はまるでわからない。わかるはずもない。

 けれど、わたしはこれを認めたくない。受け入れたくない。

 これでは、いままでわたしがしてきたことは一体なんだったのか。

 何度繰り返しても事態の悪化を防げず、望まない結果にたどり着く。そのなかで不完全ではあるけれどようやく掴みとった結末。

 ワルプルギスの夜を倒し、まどかが魔法少女と化すことを阻止する。

 ようやく届いたはずの、その結末。

 いや、ワルプルギスは倒すことはできても本当の意味で滅ぼすことなど不可能に近い存在かも知れないけれど、少なくとも数十年は再び顕現することはないはずなのに……

 そこまで考えて、ある可能性に思い至った。

 もしも、もしもだ。ワルプルギスの夜とは関係の無い理由でインキュベーターと契約を行い、その結果今の状況があるのだとしたら。

 その考えを、否定することはできなかった。事実、わたしがインキュベーターの目的と魔法少女の実態を知り、その事を告げるまでの彼女は、ワルプルギスとは一切無関係の願いで契約を行っていたのだから。

 その考えに、わたしは全身から力が抜けていくような虚無感を覚えていた。

 もしもこの考えが正しいのだとしたら、わたしのしてきたことは本当に何だったのかわからなくなってしまう。

 結局、わたしはまどかの考えを変えることはできなかったのか。それとも、そんなことは関係なく契約に踏み切るだけの何かがあったのか。それとも、わたしがしてきたことは、最初から無意味だったのか……

 恐ろしい考えが次から次へと浮かんでくる。

 

「どうかしたの?」

 

 不意に聞こえた疑問の声に、考えに没頭していたわたしは我に返る。

 顔を上げれば、わたしの座っている席の横に、まどかと志筑仁美他、数名のクラスメイトたち。

 

「あ……」

 

 とっさには言葉が出てこなかった。それ程に心が重く沈んでいたのだということをこの時になってようやく思い知らされた。

 

「転校してきたばっかりでわからないことや不安なことがあるのはあたりまえだよ。だから、聞きたいことがあったらなんでも聞いて!」

「今、とても暗い顔をしていましたわね。なにかお手伝いできるなら、言ってくださいまし」

 

 まどかと志筑仁美の言葉に、周囲のクラスメイトたちも頷いている。

 ああ、やっぱりまどかをはじめとして、このクラスの皆はいい人達が多いようだ。

 けれど今のわたしにとって、まどかの優しい言葉はただ辛いものにしかならなかった。

 何故、わたしは今ここにこうして存在しているのだろう。

 まどかの優しさに触れ、改めてそう思う。

 けれど、その疑問に答えは存在しない。わたしが今ここにいるという事実だけがある。

 こうして生きているのにこんなことを考えるのは不謹慎かもしれないけれど、こんな気持を抱くことになるくらいならあのまま死んでしまいたかった。

 わたしがこれまでしてきたことも、繰り返すたびに起きたいくつもの出来事も、何もかもが否定されたような陰鬱な気分になる。

 身勝手な考えだと、自分でも思う。

 時間を遡り、何度もやり直しを繰り返していた行為そのものが過去の否定なのだから、わたしがこんなことを考えるのは本来なら許されないだろう。

 理屈では納得できても、やはり感情はそうもいかない。

 そのうえ、今のわたしはただの無力な一人の少女に過ぎないし、知っていることを話すこともできない。

 魔法少女でもない今のわたしがソウルジェムやインキュベーターに関することを話したとしても、間違いなく信じてはもらえない。むしろ怪しまれ、疑われることが目に見えている。

 同じ魔法少女という立場にあった時でさえ、その認め難い内容故か信じてはもらえなかったのだ。今のわたしがそんな話を持ち出しては怪しすぎるにも程がある。

 それだけ、インキュベーターが人の心の隙間にうまく取り入っていたということでもあるのだけど……

 

「ごめんなさい。ちょっと考え事してて……。それと、心配してくれてありがとう」

 

 出口の見えない思考を強制的に打ち切り、声をかけてくれたクラスメイト達に返答する。

 自分では見えないからはっきりとはわからないけれど、今のわたしはずいぶんとひどい表情をしているらしい。

 その証拠に、志筑仁美に「暗い顔をしている」と言われてしまった。

 それに、今のわたしは気持ちが沈んでいるせいか、性格が引っ込み思案だった頃に戻ってしまっているような気さえする。

 考えれば考える程、気持ちが沈んでしまう。

 だから、今は考えることをやめて、わたしのことを気にかけてくれた皆の気持ちに応えよう。

 魔女のことも、魔法少女のことも、それにインキュベーターやワルプルギスの夜。この時間、この世界でも、それらは大きな問題であることに変わりはない。

 けれど、現状では解決策がないのだから、その事について考えるのは時間を無駄にするだけかも知れない。

 ならば、今は少しでも気分を変えて、心のなかに渦巻く閉塞感を払拭できるように努力しよう。そうすれば、少しは違った考えが浮かぶようになるかも知れないから。

 

「お昼休みに、学校の中案内するね!その時でいいから、色々お話聞かせてほしいな」

 

 そう言って笑いかけてくるまどかの笑顔が、とても眩しかった。

 これで、インキュベーターや魔女の問題が存在しないならば、きっととても幸せな時間に感じられただろう。けれど、それは叶わぬ夢でしかない。

 今、私の目の前にいるまどかは、既に魔法少女としての契約を行ってしまっている。そしてその事実は、インキュベーターや魔女が変わらずに存在していることの証でもあるのだから。

 この時間軸で、この世界で、わたしはどうするべきなのだろう。

 結末が同じになるとは言い切れないし、違う結末になるという保証もない。

 これまでの繰り返しの中でさえ、ワルプルギスの夜の現出という大きな結末は変化しなかったにしろ、それまでの過程やそれによる結果など、細かい部分での小さな差異が後々になって大きな影響を及ぼすことが多かった。

 それの極め付けが、わたしがまどかに執着を持ったまま何度も時間遡行を繰り返したことによる因果の収斂。

 ワルプルギスの夜を打倒する事にも執着していたから、そちらにも因果の収斂が起きていた可能性すらある。

 それらの事象と、今わたしが置かれている状況は、過去を否定しやり直しを繰り返したことへの代償なのかもしれない。

 ただ自虐的なだけの考えだと思えれば、どんなに良かっただろうか。

…………いけない。また考えが悪い方へと傾いている。

 どうやら、わたしは自分で考えている以上に精神的にまいってしまっているらしい。

 その事に溜息をつきたくなるけれど、それをすれば悪循環になるだけのように思える。

 

「いつまでそんな顔してんのよ、転校生! 不安なのはわからなくもないけど、そんなんじゃ楽しくないっしょ?」

 

 いきなりかけられた声に視線を向ければ、いつの間にか美樹さやかもわたしのところに近づいてきていた。

 言っていることはもっともだと思うし、元気なのも悪いことじゃない。だけど、相変わらず空気が読めないという点は同じらしい。

 まどかをはじめとして、わたしの周りにいたクラスメイト達は全員、苦笑か微妙な表情を浮かべている。

 発破をかけられただけで元気になれるなら、誰も苦労はしないのだけれど、ね。

 そして、まどかの控えめな突っ込みに対してノリノリで突っ込み返す美樹さやか。

 そのまま、わたしの目の前で掛け合いを始める二人。

 半ば呆れてそれを見ていたわたしに、志筑仁美が声をかけてくる。

 

「ようやく、笑って下さいましたわね。先程までの硬い表情よりも、そうして笑っている方がかわいらしいですわ」

 

 そう言って、微笑みかけられた。

 その言葉に、わたしは反射的に手を頬にあててしまう。

 自分が笑っている、そのことが意外だった。ずっと繰り返してきたやり直しの中で、そんな気持ちはとうに忘れ去っていると思っていたから。

 わたし、まだ笑えたんだ……

 ずっと忘れていた何かを突然思い出したような気分だった。

 

「人と話すことに、あまり慣れていないのでしょう? 最近まで入院していたのであれば、無理もありませんわね。でも、ご心配なさらずとも皆いい人達ばかりですから、もっと肩の力を抜いていただいて大丈夫ですわ」

「……ありがとう」

 

 志筑仁美の気遣うような言葉に何故か気恥ずかしくなってしまい、やや俯きながら小さな声で礼の言葉を返す。

 こんな気持になったのはいつ以来だろう。何度も繰り返したやり直しのせいかはっきりとは思い出せないけれど、もう何年も心を閉ざしていたような気さえする。

 こんなささやかな幸せさえも、わたしは見えなくなってしまっていたのだろうか。そう思うと自分が今までの繰り返しの中でいかに周りに目を向けなくなっていたのかを痛感する。

 ワルプルギスの夜を倒し、まどかを救う。その事を免罪符に、周りを見ているつもりになっていただけだったのだと思う。

 数日のうちにこの穏やかな時間は終わりを告げると分かっていても、少しでも長くこの時間が続いて欲しいと思わずにはいられない。

 今のこの瞬間こそが、本来わたしが目指したかった幸せに最も近いものだから。

 たとえこの先に残酷な結末が待っているのだとしても、今この時だけはその事を忘れて、このささやかな幸せを胸に刻んでおきたい。

 それが、無力な少女となってしまった今のわたしに出来る小さな努力の一つだと思うから。

 ただの自己満足に過ぎないかも知れない。けれど、いつまでも悩んでいてもなにも変わらないのだからそれでも構わない。

 いずれ魔女とインキュベーターと遭遇することになったとき、この想いがわたしを支えてくれると信じられる。

 だから、もう一度わたしは前に踏み出そう。どんな結末になっても後悔しない、その為に。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 これから、どうするべきなのか。

 学校の下校時刻になってから、わたしはずっと悩んでいた。

 魔法少女ではなくなった今、直接できる事はないに等しい。けれど、このまま何もしないでいるというのも何か落ち着かない。

 それはただの自己満足かもしれないけれど、何もしないままの傍観者にだけはなりたくなかった。

 もう一度、インキュベーターと契約するべきだろうか……

 そんな考えが脳裏をよぎる。

 けれど、今の私は契約する資格を有していない可能性すらある。

 仮にもう一度契約したとしても、以前のような能力は望めない。

 あれは、わたしがまどかを助けることも、説得して引きとめることもできなかった強い後悔の念が生み出したものだ。

 過ぎた過去を否定し、やり直すための力。

 今になって改めて考えると、強力ではあるけれど随分とネガティブな能力だと思う。

 自分の望んだ結末にする為に、それ以外の結末を否定する身勝手な願い。

 そう考えれば、繰り返すたびに見る事のできない枷が重くなっていったのも、無理のないことだったのだと感じられる。

 わたし一人の個人的な理由で、世界全体の因果律を掻き回したのだ。

 そのしわ寄せは、わたし自身かわたしの願いの対象に向かってくる。

 かつてインキュベーターに告げられた、まどかの因果の収斂。

 それこそが、わたしが気付かないままに自分とまどかを共に追い詰めることになっていた理由。

 改めて思い返してみて。まどかを魔法少女にしないという目標は正しかったのかどうか分からなくなってしまった。

 なぜなら、まどかは魔法少女になっていたほうが自信に溢れ、強い心を持っていたから。

 ただ、誰かの役に立ちたいと、それだけを純粋に願うことのできた娘であるからこそ、魔法少女という在り方に誇りを持っていたのかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていて、周囲の雰囲気に変化があったことに気が付いた。

 

────クスクス……クスクスクス……────

 

 空気が重くのしかかってくるような感覚とともに、かすかに聞こえる笑い声。

 それと同時に、周囲の景色が歪むように変化する。

 書き殴った落書きのような絵。かと思えば全体をわざと崩して描かれた抽象画。大きさや陰影などが変に強調された風景画など、数多くの絵がひしめく空間。

 狂気のごとき絵画に埋め尽くされたその空間は、芸術家の魔女の結界。

 その中を頼りなげな足取りで動き回る、単色の人影の油絵を切り抜いたかのような芸術家の魔女の使い魔。

 動きは非常に遅いため怖くはない。けれど、今のわたしは対抗する術を持っていない。

 それに、一体だけならばまだしも複数存在している上、魔女の結界の中ではいくら逃げ回っても逃げ切れない。

 この魔女の事をある程度知ってはいても、それだけでは何の役にも立たないのだ。

 

「くっ……」

 

 思わず、小さな舌打ちがこぼれる。

 完全に手詰まりだった。今のわたしでは、戦うことも、ここから逃げることもできはしない。

 まどかでも、巴さんでもいい。誰か戦うことのできる人が気付いて手を差し伸べてくれるまで、逃げ回るしかない。

 もし使い魔に捕まるか、魔女本体に遭遇してしまうようなことがあれば、わたしは助からない。

……嫌だ。

 理由は分からないけれど、わたしは今こうして生きている。まだ迷いはあるけれど、これを機会に今までとは違う一歩を踏み出そうと決めたのだ。

 それなのに、こんな終わり方だけはしたくない!

 生き延びるために使い魔から逃げ出そうとして、そして気づいてしまった。

 逃げようとした先のその空間に、わたしの逃げ道を塞ぐかのように現れたものに。

 何もなかったはずの空間から染み出すように現れる、パリの凱旋門を思わせる姿。

 そう。それこそは芸術家の魔女の本体だった。

 

「あ……あっ……」

 

 その姿を見た瞬間に、わたしは身体から力が抜けていくのを感じていた。

 今のわたしには戦う力もなければ、虚栄の性質を持つこの魔女を言葉で追い詰めることができるだけの芸術に関する知識もない。

 魔女本体が姿を見せた時点で、詰んでしまっていた。

 何も知らない少女であれば、悲鳴を上げるか、でなければ恐怖に身を竦ませてしまっていたかも知れない。

 けれどわたしは、戦う力を失ったとはいえ魔女と戦っていたのだ。

 身体から力が抜けたのも一時のもの。状況が絶望的なものであることは変わらないけれど、このまま諦めてしまっては助かる可能性は完全に消えてしまう。

 たとえ掴み取るのが不可能に思えるほど低い可能性であったとしても、諦めなければ手が届く可能性は決してゼロにはならないのだから。

 戦えないことがひどく情けなく感じもするけれど、そんなことを言っても始まらない。

 今の一番大切なことは生き延びること。

 幸いにも、この魔女の手下の動きは早くはない。だから、捕まらないように上手く間を駆け抜けることは不可能ではないと思う。

 問題があるとすれば、今のわたしは魔法少女ではなくただの少女でしかないということ。

 身体能力の強化などができない以上、わずかでもバランスを崩したりすればそれでおしまいになってしまう。

 とても分の悪い賭け。でも、今はそれが必要な時。

 荷物は鞄一つ。この程度なら邪魔にはならない。

 よろめくような動作で歩き回る使い魔に視線を走らせ、その動きに注視する。

 これまでは何の脅威でもなかった。けれど今のわたしにとっては使い魔の一体でさえも大きな脅威になって立ち塞がる。

 魔女自身は直接手を出してこないタイプである点は助かっている。もしこれが直接手を出してくるタイプであったなら、こうして悠長に逃げ出すチャンスを探したりする時間など与えてもらえずに死んでいた。

 近づいてくる使い魔をかわすように移動しながら、立ち位置と距離を確認する。

 それを繰り返すこと数度。ようやく待っていた瞬間が訪れた。

 周囲を囲むようにして歩き回る十数体の使い魔たちの間にできた、一メートルほどの隙間。そこを狙って、全力で駆け抜けた。

 後ろを振り向いたりする余裕などない。捕まってしまったら、そこで終わりなのだから。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 どの程度走り続けただろうか。魔法を使うことのない元のわたしの身体は、入院していたこともあって決して体力があるわけでも運動能力が高いわけでもない。

 魔力強化で能力を高めて動くことに慣れてしまったせいか、こんなときは自分の身体がひどく重く感じられる。

 もどかしいけれど、ないものねだりをしても仕方がない。

 結界の中にいる以上、逃げ切ることは不可能だけれど、多少は時間を稼ぐことができるくらいの距離は離れたはず、そう思って一度立ち止まり、後ろを振り返った。

 

「どうして……」

 

 視界に飛び込んできたものに愕然として、無意識にそんな呟きをこぼしていた。

 そこにいたものは、芸術の魔女の使い魔たち。数こそ数体と少ないけれど、ほんの二メートルほどの距離を開けて、まっすぐにこちらに向かってきていた。

 この時、ひとつ重要なことをわたしは忘れていた。

 ここは魔女の結界の中。すなわち、魔女の支配空間だということ。

 結界内における魔女の能力のひとつとして、望む場所に使い魔を送り込むことができるというものがある。

 ピンポイントで送り込むことができるわけではないようだけれど、それでも数メートル程度の誤差でしかないらしいのだ。

 魔法を使えないまま魔女に襲われたことに、自分で思っているよりも大きく動揺していたらしい。こんな大事なことが考えから抜け落ちていたなんて。

 自分で自分に呆れてしまう。でも、後悔している余裕はない。そんなものは後回しだ。

 やはり、立ち止まらずに常に動いてるしかないのかもしれない。

 けれど、もう体力が限界に近い。先程の全力疾走が思った以上に身体に負担をかけていたらしい。

 せめて魔力強化だけでも使えれば……

 そんな思いが脳裏をよぎるけれど、できない以上は意味のない思考でしかない。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 乱れた呼吸を落ち着ける余裕もなく、再び使い魔から距離をとろうとして……

 唐突に、足から力が抜けた。

 

「え……?」

 

 立ち上がろうとしても、足に力が入らない。力を入れようとしただけで、足が震えるのが分かる。

 必死になっていたために気付かなかっただけで、わたしの身体はかなり疲弊してしまっていたらしい。

 動けなくなったわたしに、使い魔たちがゆっくりと近づいてくる。

 もう、逃げられない。それを理解したとたん、心の中に恐怖が満ちた。

 魔女や使い魔が怖いわけではない。今は戦う術がないとはいえ、少し前までは嫌というほど相対してきたのだ。

 それよりも、なにもできないままこんな形で終わってしまうという、目の前に突きつけられたその事実がひどく怖かった。

 

「あ……い……いや……」

 

 自分でも驚くほどの弱々しい声が無意識に口からこぼれ出る。

 戦う術はなく、もはや身体もまともに動かない。

 戦うことも逃げることもできず、助けも来ない。

 このまま死ぬしかないのだと、その事に思い至るのと同時に、わたしは拒絶の叫び声を上げていた。

 

「イヤァァ──────ッッ!!」

 

 その叫びに重なるようにして響く炸裂音。

 そして、わたしの目の前まで迫っていた使い魔たちは、一体残らず砕け散った。

 

「危ないところだったわね……。間に合ってよかったわ」

「よかった……。もう大丈夫だよ。ほむらちゃん」

 

 その声に振り返れば、そこにいたのは黄色と桃色の魔法少女。

 コルセットドレスにロングブーツ、手には装飾の施された白いマスケット銃を構えている少女、巴マミ。

 桃色ベースのフリル付きフレアスカートのドレスのような服と、手には薔薇の花と枝を模した弓を構えた少女、鹿目まどか。

 それは、まるでわたしが魔法少女のことを知らなかったときの最初の出会いを焼き直したかのような光景だった。

 驚いているわたしに、二人は優しく微笑んでくれる。

 

「もう少し待ってちょうだい。決着をつけるから」

 

 表情を引き締めての巴マミの言葉に視線を追いかければ、そこには凱旋門を思わせる姿の芸術の魔女がいた。

 おそらく二人の存在と、わたしが捕まらないことを知り追いかけてきたのだろう。

 

「数はそれほど多くないけど、使い魔が厄介ね……」

 

 僅かな思案の後に呟き、巴マミは自身の首に結ばれた黄色のリボンを解くと、頭上で大きく円を描くように振り回す。

 それは、わたし自身も以前に何度か見た光景。

 リボンは円を描きながら広がりつつ、絡みあうような複雑な軌道を描いてその場にいた使い魔全てと魔女を巻き込んで一箇所に拘束する。

 

「鹿目さん」

「はい!」

 

 一言だけの短いやりとりの後、自身の武器を構える二人。

 そして、拘束された魔女とその使い魔に向かって、同時に攻撃を放った。

 轟音と共に放たれた黄色の輝きと、唸りを纏う桃色の光条が魔女と使い魔を貫き、爆音と共に魔力光の輝きの中に消えていった。

 その光景を見て、わたしは安心していた。魔女も使い魔も倒され、終わったのだと。

 けれど……

 

「気を抜くのは早いわ。まだ、終わってない」

「え?」

 

 厳しい表情をしたままの巴マミの言葉に、わたしは呆けたような声を上げてしまった。

 よく見てみれば、まどかも厳しい表情をしたまま巴マミと同じ方向を見つめている。

 その視線の先には、たった今魔女と使い魔の姿が消えた場所。

 倒せていない?そんな疑問が脳裏をよぎるけれど、それを否定するようにわたしたちが見ている前で、魔女の結界が崩れていく。

 倒したのなら、結界は消えて通常空間に戻るはず。

 その考えを覆して、変化したのはくすんだ灰色の背景を持つ、薄暗く重苦しい空気に満ちた空間。

 その中で、地面から伸びるように姿を表す、数体の白い影。

 全体のシルエットは、マントで身体を包んだ人のように見える。

 けれど、その姿には不自然なほど色がなく、純白ともいえるような白さだった。

 そして、その顔の半分を覆うように、僅かな虹色の輝きを発して蠢く、モザイクのようなもの。

 それはわたしの知らない『何か』

 

「あれは……何……?」

 

 初めて見る、未知なるものにわたしは混乱していた。

 今まで何度も時を繰り返してきたけれど、あんなものと遭遇したことは一度もない。

 ましてや、魔女を倒した後にあんなものが現れるなんて……

 

「あれは、魔獣よ」

 

 わたしの呟きが聞こえたのだろう、巴マミが疑問に答えてくれた。

 

「人の悪意から生まれて、恨みや妬みといった強い負の感情を抱えた人間にとり憑くの。とり憑かれた人間は肉体も魂も飲み込まれて……魔女と化す。それは私達魔法少女も例外じゃないわ。

 そして、魔女となった際に現れる性質は、元になった人間が抱えていた負の感情の影響が色濃く現れるのよ」

 

 それは、初めて聞く内容の説明だった。これまで繰り返した中でもそんな事は一度も見たり聞いたりした覚えはない。

 

 「魔獣に飲まれた人間はもう助からない。魔女を倒せば元となった人と魔獣を切り離せるけど、命は……ないわ」

 

 説明を続けながらも、油断無く武器を構える。

 そして、巴マミのマスケット銃が、まどかの弓が、現れた魔獣に向かってその力を解き放った。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 わたしの見ている前で、魔獣の最後の一体がもがきながら消滅していく。あとに残されたのは指の先ほどの大きさの黒い立方体状の結晶。

 最初はそれがなんなのかわからなかった。けれど二人のソウルジェムから汚れを取り込んでいるのを目にして、それがわたしの知る魔女のグリーフシードと同じものなのだということを理解した。

 それでも、何故このようなことになっているのか、それについてはまったくわからない。

 とても良く似ているけれど、決定的に何かが異なる世界。それが一番的確な表現かもしれない。

 わたしが魔法少女から普通の少女に戻ってしまった理由も、何故これまでとは異なる世界と思われる場所にいるのか、なにもかもわからないことだらけのままではあるけれど、一つだけ確実なことがある。

 それは、まどかがここにいるということ。今のわたしにとって、それだけがここにいる理由と言っても過言ではない。もしもまどかがいなかったら。わたしはきっと、どうしたら良いかもわからず、やるべきことも見つけられず、廃人のような生活を送っていたかも知れない。

 

「もう大丈夫かしらね。キュゥべえ?」

「うん。もう魔獣どもはいないみたいだ。あとは放っておいても残った瘴気は消えていくよ」

 

 巴マミの呼びかけに、いつの間にかわたしの右後ろ側にいたインキュベーターが答えを返す。その口調は以前と変わらない無感動、無感情のものでしかないにも関わらず、どこか懐かしいという気持ちを抱いてしまった。

 確かに、彼らは必要な情報であっても聞かれなければ答えないという考えの持ち主だ。答える内容も、こちらの聞き方がきちんとしていなければどうとでもとれるような曖昧なものであることも多い。けれど、それでも黒を白と断言するような完全な虚偽の情報を提示したことだけはない。

 もともと感情がひどく希薄な上に価値観が根底から異なっている。本来であれば会話すらまともに成立しないかも知れない存在なのだ。そういう意味で彼らがわたし達に対して大きく譲歩していることも間違いない。価値観や感情の機微に起因する齟齬が埋められないため、それがトラブルの元になってはいるけれど。さらに、そのトラブルの結果が、わたし達にとってのみ大きなデメリットがあり、彼らにはメリットはあってもデメリットが殆ど無いことが問題をややこしくしている。

 お互いの論点にもともと交わる位置が存在していないのだ。だからそういうものと割りきって受け止めるしかない。

 

「もう大丈夫だよ。ほむらちゃん!」

 

 元気な声で、まどかがわたしに笑いかけてくる。それを見て、わたしの胸の奥に暖かいものが生まれた。

 まどかのあんな笑顔を最後に見たのはいつだったんだろう。そんな思いが湧き上がり、不意に涙がこぼれそうになってしまった。

 このまま泣いてしまっては非常に恥ずかしい。いや、魔女に襲われた後なのだから、泣いてしまっても不自然ではないかも知れないけれど、それでもこんな場所でまどかにわたしのそんな姿を見られたくはない。

 そんなものはただの見栄でしかないとは分かっていても、それを素直に認めることもできなかった。

 

「ほむら……ちゃん……?」

 

 急に俯いてしまったわたしを見て、まどかが戸惑いの声を上げる。しどろもどろになって、どこか支離滅裂な言葉をかけてくるその様子は以前にも見たことがあるものだ。慌てたときの様子は、ここでも変わらないらしい。

 

「そろそろ、いいかしら?」

 

 まどかが落ち着くのを待って、巴マミが声をかけてきた。周りを見てみれば、すでに結界は消えて二人ともいつの間にか制服姿に戻っている。そうなれば人通りが少ない場所とはいえ、ここは街角なのだ。いつまでもこうしているわけにはいかない。誰かに見られても不審がられることはないと思うけれど、何をしているのかという程度には疑問に思われるかも知れない。通学路の途中なんて立ち止まったままで長話を続けるような場所ではないのだし。

 

「あ、ごめんなさい!」

 

 まどかが、巴マミに対して謝罪する。慌てた姿を見せてしまったことに引け目を感じているのかも知れない。それほど気にするようなことでもないと思うけれど、この頃のまどかにとって巴マミは憧れの先輩であったようだから仕方ないのかも知れない、とも思う。

 それからはゆっくりと歩きながら、三人で話をしながら巴マミの家に訪問した。二人ともわたしがただの一般人だと思っているため、魔女や魔獣についての説明をしてくれるということだった。

 わたし自身も魔女についてはともかく、魔獣に関しては全くわからなかったため、説明を受けられるのは正直ありがたく、話を聴くことにした。もっとも、あのまま何も説明せずに開放できるようなものではないのも確かなのだけれど。人によっては一度魔女に直接襲われると、助かっても再び襲われる危険性がある人もいるし、口止めもしなければならない。誰かに話したところで信じてはもらえないだろうけれど、冗談や笑い話で済まなくなってしまったら最悪精神異常者と思われてしまうかも知れないのだ。

 他愛も無い話をしながら二十分ほど歩き、巴マミの住むマンションに着く。比較的大きなマンションの最上階で、女子中学生が一人で生活するには過ぎた部屋だと以前も思ったけれど、これは確か叔父の援助によるものだと聞いた覚えがある。おそらく、彼女は親類の間で持て余されていたのではないだろうか。大きな事故で一人になってしまった思春期の少女をどのように扱えばよいか、どのように向きあえばよいかわからなかったのだろう。だから部屋の世話をし、生活に困らないだけの資金援助をして、良心の呵責を誤魔化しているのではないだろうか。もしも彼女のことを疎ましく思っていたのだとしたら、施設に放り込まれていても不思議ではないのだから。

 何度も時を繰り返したせいか、自分でもずいぶんとうがった考えをしていると思うけれど、それが的外れだとも思えない。これまで繰り返した時間の大半で、彼女は人とのふれあいに飢えていた。深く付き合いたいと思っても、魔法少女という立場が踏み込むことを躊躇させていたらしい。彼女の魔女の被害から人を守りたいという思いは立派なものではあるけれど、それは同時に他者に深く関われないことへの代償行為ではないかと思う。

 これまで何度か繰り返した中で見かけた彼女の部屋は、最低限の生活感しかない閑散とした部屋か、逆に女子中学生が一人で暮らしているにしては物が溢れすぎている部屋という両極端なものだった。どちらの場合でも、おそらくは孤独感からただひたすらに魔法少女としての活動に打ち込んで生活のことは最低限しか気を回していなかったか、さもなければ部屋を飾り立てて人を招いている場面を夢想することで寂しさを紛らわせていたのではないかと思う。

 全てはわたしの推測にしか過ぎないけれど、わたし自身もふれあいたい相手に近づきたくても近づけない苦悩はよく知っている。わたしと彼女とで感じているものは厳密には異なっているはずではあるけれど、比較的近いものであることも事実なので、彼女自身の心情を全く理解出来ないわけでもないのだ。

 

「さ、入ってちょうだい。お茶を用意するから、座って待っていて」

 

 色々と考えている間に、部屋に到着したらしい。わたし達を部屋の中へと案内すると、巴マミはまどかとわたしを残してキッチンへと行ってしまった。

 リビングでまどかと二人きりになってしまった今の状況に、わたしはどういう話をしていいのかわからなかった。今のまどかにとって、わたしは何も知らない普通の少女のはずだから。だから、わたしから話しかけることができなかった。学校でのことを含めた『普通の話』は、ここに来るまでの道程でほとんど話してしまっているし、こうして他の人に聞かれる心配のない場所まで来たのは、ただのお喋りをするためじゃない。

 

「紅茶で良かったかしら?」

 

 人数分のティーカップとティーポット、それにケーキの乗ったトレイを持って、巴マミがキッチンからリビングへ移動してきた。紅茶は比較的高級な品で、ケーキに至っては市販のものではなく自分で作ったものだという。紅茶の淹れ方といいケーキといい、プロには及ばないものの、中学生としては高い腕前を持っている。

 

「どこから話せばいいかしらね……」

 

 ガラステーブルに紅茶とケーキを並べ、全員が腰を落ち着けたところで、巴マミが話を切り出した。その表情はどこか困ったようなもので、どう説明していいのか考えあぐねているのかも知れない。

 

「僕から説明するよ。魔女と魔獣、そして魔法少女の関係について」

 

 巴マミが話しあぐねているのを見かねたのか、テーブルの隅でおとなしく座っていたインキュベーターが話し始めた。口調も表情も相変わらずで淡々としていて、他の者たち同様に私が知るままの性格のようだった。その事が安心感を与えてくれるのは皮肉なことだと思うけれど。

 

「魔獣や魔女が呪いを振りまく存在なら、魔法少女は希望を振りまく存在なんだ」

 

 話の始めは、それほど大きな違いは無く、魔獣という存在が付け足された程度のもの。けれど、話が進むうちにわたしが知っている魔女の情報とはいくつもの差異があることに気が付いた。

 魔獣は人の悪意から生まれ、自然に発生するのだという。そしてそれは、人の悪意から生まれた瘴気が凝り固まった存在に過ぎず、自我も個性も持たずに本能のまま行動する。その本能とは、恨みや憎しみ、劣等感などの負の感情を強く抱えた人間の魂を求めること。魔獣はそんな人間の魂を肉体ごと取り込んで、それを元に個性と能力を得て魔女に変貌する。そうして生まれた魔女は他の魔獣を取り込み、使い魔へと変化させて使役するらしい。

 わたしが知る魔女の在り様とはかなり異なっている。共通するのは人の魂を糧にするというところと、使い魔が成長すればやはり魔女になるという点だけ。似ているように見えて、かなり違う。やはり、ただ過去に遡ったというわけではないらしい。

 死んだはずのわたしがこうして生きていること、魔法少女ではなくなっていること、そして、魔獣という今まで無かった存在。やはりここは『似て非なる可能性の世界』なのではないだろうか。わたし自身の事といい、魔獣の事といい、そう考えなければ説明が付かなくなってしまう。何故わたしがここにいるのか、それは分からないままだけれど、それでも今おかれている状況が少しでも分かってきたのは前進だった。

 

「キュゥべえ、それで、彼女はどうなの?」

 

 話が一段落ついたところで、巴マミがインキュベーターに問いかけた。何の事か一瞬理解できなかったけれど、それが魔法少女の資質についての事だと思い至った。

 

「うん、資質はあるね。魔女の結界の中で飲まれずに自由に動き回る事ができたみたいだし、僕の事も見えている。けど……」

 

 不意にインキュベーターが言葉を切る。表情がほとんど変化しないので判断が難しいが、どうやらどのように答えるか言葉を選んでいるようだ。

 

「……資格は、ないね。彼女には、叶えたい願いを持つ人間特有の波動が感じられない。これじゃ契約は成立しないよ」

 

 その言葉は、ある意味わたしが最も聞きたくなかったもの。契約を行う資格がないということは、今のわたしは望んでも力を手に入れることはできず無力なままだということでもある。何も知らないままだったなら、それでも良かったかも知れない。けれど、今のわたしは無知な一般人ではないのだ。それ故に無力なままだという事実は、わたしの中に安堵よりも焦燥を募らせる。何もできないという事実が、ひどくもどかしい。

 

「そう……残念ね。安易に人を誘うべきではない事だと分かってはいるけれど、一緒に戦う事のできる仲間になれるかもしれないと期待してしまうのはどうにもならないわ」

「マミさん……」

 

 巴マミの自嘲気味な呟きに、まどかは悲しげな声音で彼女の名を呼ぶ。ここでわたしはまだ聞いてはいないけれど、おそらくまどかは巴マミが魔法少女となった経緯と、現在の彼女の事情を知っているのだろう。この世界でのまどかがどんな願いを対価に魔法少女となったのかは分からないけれど、以前のわたしや巴マミの願いに比べればささやかなものかも知れない。

……そういえば、わたしが魔法少女になる前の一番最初の出会いのときのまどかの願いは、目の前で交通事故にあった黒猫の命を助けて欲しい、だったわね。

 まどからしい願いではあるけれど、こんな内容の願いで契約が成立してしまった事を思えば、元から高い素質を備えていたのかもしれない。そこに、知らなかった事とはいえ、わたしの複数回にわたる時間遡行の弊害である因果の積み重ねが加わったのだ。おそらく繰り返すたびに倍々ゲームのように膨れ上がっていったのだと思う。そう考えれば、何故インキュベーターがあれほどまどかに執着したのかも理解できる。そういった外部的要因が無ければ、いくら高い素質を持っていたとはいえ、標準的な魔法少女の範疇に納まっていたのだろう。結局のところ、全てはわたしが自分で招いた事態だったのだ。けれど、この世界ではどうなっているのだろう。わたし自身は魔法少女ではなくなっているし、そもそも時間遡行で戻ってきたわけでもない。それに、魔女だけではない魔獣の存在。それらを考えれば、直接的な関係の無い全く異なる世界ではないかと思う。もしそうであるのなら、因果の収斂もここではまだ起きていないと思いたい。希望的観測でしかない事も分かってはいるけれど。

 

「ともかく、一度魔女に襲われた以上、また襲われる可能性があるわ。鹿目さん、貴女彼女と同じクラスのようだから、学校にいる間彼女の身辺の警戒をお願いしていいかしら。校内で襲われる事はさすがに無いと思いたいけれど、万が一という事も考えておかないと、ね」

「わかりました。でも、私ほむらちゃんといろいろお話したいと思ってたから言われなくても近くにいたと思いますよ?」

 

 そう言って、二人は小さく笑いあった。その雰囲気に飲まれたというわけでもないと思うけれど、わたしも二人を見て少しだけ笑ってしまっていた。学校で笑っている事を指摘されて以来、少しずつではあるけれど心の中で何かがほぐれていっているような気がしている。それはほんの小さな変化でしかないけれど、胸の中に確かに暖かなものを思い出させてくれた。これで魔女や魔獣の問題が存在していなかったなら、どれほど幸せだっただろうか。インキュベーターはわたしが資質はあっても資格が無いと言っていたけれど、おそらくはこれもまたその理由の一つなのかも知れない。何故なら、今のわたしはほんのわずかであっても、満たされたものを感じていたから。その事が以前のような渇望を感じさせなくしているのだろうと思う。

 

「ありがとう。それに、ごめんなさい」

 

 小さく礼と謝罪の言葉を呟いて二人に頭を下げる。わたしのその態度に、二人はやや不思議そうな表情を浮かべていた。

 

「……なんでほむらちゃんが謝るの?謝らなきゃいけないのは、むしろ私達のほうだと思うんだけど」

 

 まどかの疑問はもっともだと思う。けれどこれは、助けてくれた事への感謝と同時に、わたしがあの場にいた事で二人に負担をかけてしまったこと、それと力になれないわたし自身の不甲斐無さゆえの事だ。

 

「鹿目さん、いいのよ」

 

 巴マミの声に、そちらに視線を向けてみれば、彼女がわたしに向かって小さく微笑んでくれた。どうやらわたしの言葉の言外の意味を察してくれたらしい。その事が嬉しくもあり、寂しくもある。わたし自身の事、知っている事、全て話せたらこんな気持ちを抱かずに済んだかも知れないけれど、信じてもらうための根拠を示せない以上は仕方が無いと思うしかない。それに、下手に話してインキュベーターに余計な情報を渡す事になってしまっても厄介な事になる。

 だから、もし話す時があるのなら…… ワルプルギスの夜が現れる、その時だ。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 わたしは何故、ここにいるのだろう。

 答えなど存在しない疑問だと分かりきってはいるけれど、ふとした弾みで脳裏をよぎる事がなくなることは無い。魔獣の存在、魔女の在り方、そしてグリーフシード。わたしがこれまで繰り返してきた時間とは少しずつ異なるそれらは、やはりここがわたしの知るものとは異なる可能性と時間の世界なのだと示している。

 何故わたしがこの世界にいるのか、その答えは分からない。おそらくこの疑問に答えが提示される事は無いのだろうと覚悟はしているけれど、分からないままというのはどうにも気持ちが悪い。

 切っ掛けは、おそらくわたしが自分のソウルジェムを砕いた事。どういう理屈なのかは全く分からないし想像もできないけれど、それが原因でわたしは今この世界にいるのだと思う。チープな表現ではあるけれど、転生というのが一番近いニュアンスなのかもしれない。普通に考えるなら、馬鹿馬鹿しいと思ってしまうかも知れないけれど、わたし自身の魔法少女としての能力は時間遡行と時間停止だった。その事を思えば、この考えは決して荒唐無稽ではないだろう。限定条件があったとはいえ、充分に常識はずれの能力だったのだから。

 それにしても、ソウルジェムを砕いた時点でわたしの魂は消滅したのではなかったのだろうか。それとも、ソウルジェム自体はあくまでも器に過ぎず、壊れれば魂は開放されるものなのか……。穢れきって魔女化する時には魂ごと存在が歪むというのは容易に想像できるけれど、正常な状態のソウルジェムが砕けて死んだ場合にその魂がどうなるのか、その事についてわたしは何も知らなかった。今までであれば、こんなことは疑問にも思わなかっただろう。まどかを助けたい、ただそれだけを考えて邁進していたこともそうだけれど、ソウルジェムが砕けたら死ぬ、という事実としてしか認識していなかったから。だから、ソウルジェムが砕けた後の魂自体がどうなるかなんてことは一度として考えた事は無かった。

 もし、ソウルジェムが砕けた後に魂が解放されるのだとすれば、わたしはどうして今またここに戻ってきているのだろう。厳密には今まで時間を戻していた世界とは異なる世界であるようなのだけれど、目覚めた時点でソウルジェムが無かった事で、わたしの魔法少女としての能力とは無関係に発生した事態なのだと予想できる。インキュベーターに、ソウルジェムが砕けた後、魂がどうなるのかそれとなく聞いてみれば多少は推測の助けになるのかも知れない。幸いと思うのは癪だけれど、巴マミの家に招待された後も、インキュベーターは頻繁にではないけれどわたしの前に姿を表すことがある。それも、当たり前のことだと思う。今現在契約する資格がなかったとしても、資質がある以上は何かの切っ掛けで契約を可能にするだけの願いを抱く可能性はあるのだから、彼らがわたしから完全に目を離してしまうことは考えられない。喜んでいいものか、悲しむべきか、それとも怒るべきなのか、どのような感情を抱くべきかわからない複雑な気持ちではあるけれど……。後の問題は、いかにインキュベーターに不信感を抱かせずに情報を引き出すかという事だ。仮に口を滑らせてしまうような事があっても、わたしが本来はこの時間軸世界の人間ではないという事に気づかれる事は無いだろうと思う。けれど、魔法少女ですらない一般人の少女が知らないはずの情報をたとえ中途半端でも知っていると気付かれれば、間違いなくわたしの正体を探ろうとしてくる。細心の注意を払って慎重に行動しなければ、きっと激しく後悔する事になるだろう。

 

「キュゥべえ……だったかしら? 少し気になる事があるのだけれど、聞いてもいいかしら?」

 

 インキュベーターから情報を聞き出すための好機は、意外と早く訪れた。巴マミの家に訪問してから二日後の学校での昼休み、屋上で事情を知る者たちだけで昼食を摂っていた際、魔法少女の契約の話題が挙がったからだ。以前のようにやり直しはきかない。どこまで情報を聞き出せるかは分からないけれど、言葉に注意して話さないと。

 

「何かな?」

 

 いつものように、表情をほとんど変化させる事なく返事をしてくるインキュベーターに視線を向けながら、わたしは慎重に言葉を選んでから口を開いた。

 

「願いを叶える代わりに魔女と戦うための契約をする、ということだけれど、それはいつまで続くものなのかしら? 契約と呼ぶ以上はお互いに利益を分け合ってその期間を決めて行うものだと思うのだけれど。それとも、無期限契約なのかしら?」

 

 少々困ったかのような表情を作り、できるだけ不自然ではないように言葉を選んで質問する。とはいうもののあくまでも主観的なものにしか過ぎないので、もしかしたらという不安はどうしても残ってしまう。

 

「それは……」

「キュゥべえ、ちょっといいかしら?」

 

 わたしが発した問いかけに言葉を発しようとしたインキュベーターを遮ったのは、直前までまどかと話しをしながら昼食を摂っていた巴マミだった。意外なところから静止が入ったと思いながら視線を向けると、これまでわたしが見たこともないほどに厳しい雰囲気をまとって鋭い視線を投げかけてくる彼女がいた。その様子に私は内心の驚きを隠しつつも、小さく首を傾げてみせる。それを見た彼女は一度視線を下に落として何かを考えるようなしぐさをした後に再び口を開いた。

 

「暁美さん。貴女はそれを聞いてどうするつもりなの? 先に忠告しておくけれど、私達魔法少女は、結末はどうあれ普通の人と同じ死を迎える事はできないの。そして、それを知ってなお踏み込んでくる覚悟のある者でないと務まらないわ。今の貴女は契約に届くだけの願いは無いようだけれど、もし、どうしても叶えたい願いができたとき、貴女はその願い以外の全てをかなぐり捨てる事ができる? できないのなら、これ以上関わらない方がいいわ」

「…………!」

 

 驚いた。巴マミの口から、こんな発言が出てくるとは思っていなかったから。けれど、彼女もそれなりに経験を積んで戦いをこなしてきた魔法少女だ。そんな彼女の心が弱いとは思っていない。以前のループで美樹さやかが魔女化し、彼女が魔女と魔法少女の真の関係を知ったときに行った凶行は、計画的なものだったのではないかと思っている。あの時の彼女は多少冷静さを欠いていたかも知れないが、決して錯乱などしていなかった。あくまでもそう見えるように演技していただけだったように思えてならない。錯乱していたにしては、あの手際は計画的過ぎるのだ。

 まず、時間停止で全員を一瞬で無力化できる能力を持つわたしの不意を突いて拘束。身動きが取れなくなってしまえば時間停止の優位性など無いも同然になる。そして、その突然の出来事に気を取られている隙に佐倉杏子のソウルジェムを撃ち抜いて殺害。あの時生き残っていたメンバーでは一番のベテランであり、実際に戦う事になれば最も相性の悪いであろう相手を最初に始末する。ここで巴マミにとって唯一の誤算だったのは、まどかが即座に行動を起こしたことだろう。おそらくは何が起きたのか理解できずに行動できない、そう判断したのだ。だからこそ、巴マミはあの時錯乱したように見せながらわたしに向かって凶行を行った理由を口にしていたのだろう。まどかは何もできないか、もしくは自分のした事を理解してくれる、パートナーとして、友人として、そう信じたのだろう。けれど、まどかはその凶行を止める事を選んだ。

 やっている事は無理心中と変わらなかったけれど、あの状況であれだけの判断をとっさに下せる人間の心が弱いとは思わない。凶行に及んだのは、責任感の強さと知らなかったこととはいえまどかを破滅しかない道へと引き込んでしまったという後ろめたさのためだろう。まどかの件さえなければ、美国織莉子の時のように事実を知ったとしても僅かな切っ掛けで立ち直るだけの強さは持っていたはずだ。故に、巴マミの言葉に驚きはしても、あり得ないと否定する事はない。

 

「そうだね。契約を行えば純粋な意味での人間とは外れた存在になってしまう。それを受け入れる覚悟が無いままに契約をしても、早々に脱落するか、魔獣に食われて魔女と化す事になるだろうね。そうなってしまうのは僕としても非常に都合が悪い。むやみに死なせるために契約するわけじゃないし、なによりももったいないからね」

 

 巴マミの後に続いて、畳み掛けるようにインキュベーターが告げてくる。その内容にわたしは再び驚きを感じた。明言こそしてはいないけれど、彼の言葉は魔法少女が人間から外れた存在であるという点を説明している事を匂わせている。今までこのようなことは無かったけれど、魔法少女が直接魔女と化すわけではないこの世界では、インキュベーターの考え方にも差異があるということなのだろうか。それとも、これから魔法少女になるかもしれないわたしに対しての言葉だからなのか。判断材料が無いためこれ以上はわからないけれど、一つだけ理解できた事がある。それはインキュベーターが効率こそを最優先し、感情の希薄な存在である事は変わらないという事。わたしがループしていた時間軸世界での彼らに比べれば多少はマシなようではあるけれど、人の生死を扱う話題にもったいないという言葉を持ち出すあたりは、やはり彼らなのだと納得してしまう。

 

「人間じゃないって……」

 

 怪訝な表情を作って、質問を投げかけてみる。これに対してどのような答えが返ってくるかで、この時間軸世界におけるインキュベーターと魔法少女の関係がどのようなものなのかを推測する手がかりになるはず。そう考えて、巴マミやインキュベーターからの反応を待ってみた。

 

「魔法なんていう超常の力を使う存在が、普通の人間だと思う?それに……」

「魔法を行使可能にする為に、君達の本体である魂に情報を書き込む必要があってね。一度肉体と魂のつながりを切ってしまうことになるんだ。だから、普通の人間とは少し違った存在になってしまうんだよ」

 

 巴マミの苦笑交じりの言葉に続くように語られたインキュベーターの言葉は、わたしの予想したものとはやや異なっていた。まさか、魂に直接手を加えている事を明言するとは思っていなかった。という事は、巴マミもまどかも、それを知った上で契約したということなのだろうか。聞いてみたいとは思うけれど、簡単に聞いていいことではない。ましてや今のわたしは、事情を知っているだけの部外者も同然なのだ。

 

「私の場合は、たとえどうなろうと契約するしかなかったわ。そうしなければ、死ぬしかなかったから……」

 

 疑問を感じている事が表情に出ていたのか、巴マミがどこか寂しげな様子で自身の契約理由を語ってくれた。けれどその内容はわたしが知っているものとほぼ変わらないもの。インキュベーターとのやり取りに微妙な差異があるという程度の違いしかなかった。もしかしたら全く別の理由になっているかもしれない、とまで考えていただけに、これは少々拍子抜けだった。でも……

 

「私の場合はね、ほむらちゃんは知らないはずだけど、弟がいるの。弟が事故にあって、助かるかどうかも分からない、助かってもまともに日常生活が送れないっていうくらいの大怪我をして。それで、弟が元のように元気になれるように願って契約したの」

 

 巴マミに続くように、まどかの告げた契約理由の内容にわたしは愕然とした。なんてこと……。この時間軸世界では、黒猫のエイミーではなくまどかの弟が事故にあって死に掛けることになっていたなんて。けれど、まどかの性格なら自分の家族を救うためなら躊躇することなく契約に踏み出していたのだと思う。たとえそれが、悪魔に魂を売り渡すような契約であったとしても。それがまどかの美点でもあり、欠点でもあるけれど。

 

「本当に……それでよかったの?」

 

 唇を一度かみ締めてから聞き返す。どうしても表情が険しくなってしまうのを抑えられない。

 

「確かにそれでまどかの弟は助かったかもしれない。でもその代わりに、まどかが普通の人であることを捨てて魔獣や魔女と戦わなければならなくなった! 何も知らない友達や家族がその事を知ったら……」

 

 勢いと感情に任せて吐き出した言葉を最後まで言い切る前に、わたしはまどかの胸の中に抱き寄せられていた。いきなりのその出来事に、頭の中が真っ白になる。なぜまどかがそんな行動に出たのかがわからない。

 

「ほむらちゃんは優しいね。わかるよ、何を気にかけてくれたのか。でもね、あのままタッくんが、弟が助からずにパパとママが悲しんでる姿を見るくらいなら、これでよかったんだって思ってる。魔女と戦う事は怖いし苦しい事も多いけど、それでみんなが笑って暮らせるなら、私はそれだけで充分幸せなんだ。もし私の命をタッくんにあげる、って選択だったら本当にそれでいいのか疑問に思って躊躇したかもしれないけど、これなら私が死んだりしたわけじゃないし、事実を知ったらママはすごく怒るだろうけど、きっと最後はわかってくれるって信じてる」

 

 言い聞かせるかのような穏やかな口調で告げられたまどかの言葉に、わたしはもう限界だった。必死に取り繕っていた仮面が剥がれ落ち、目の奥から熱いものがあふれて涙がこぼれる。突然泣き出したわたしを、まどかは何も言わずにただ受け止めてくれた。知っていることを何もかも話してしまいたい、という気持ちが湧き上がったけれど、それだけはかろうじて抑え込んだ。今のまどかなら、わたしの話す事を全て疑うことなく聞いてくれると思うけれど、インキュベーターがこの場にいるという事実がわたしを踏み止まらせてくれた。もし二人きりだったなら、わたしはきっと自分を抑えきれなかった。泣きながらなにもかも話してしまっていただろうと思う。

 

「でも……でも……っ……!」

 

 気持ちを言葉にできないまま、わたしはまどかの胸にすがるようにして泣いていた。まどかはその間、子供をあやす母親のように何も言わずにただわたしを受け止めてくれた。

 

「……お昼休み、そろそろ終わりなんだけど声をかけづらいわね」

「こういう時、ほとんどの人は声をかけることを躊躇するよね。僕には、よくわからないけれど」

「貴方みたいにドライでいられたら気が楽なんだけどね……」

「なんのことかな?」

 

 置いてけぼりにされた一人と一匹の会話が聞こえてきたけれど、わたしはそれを無視することにした。逃避かも知れないけれど、今はただこの温もりを感じていたいと、そう思ったから。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 工事現場と闘技場を思わせる場でせわしなく動き回る鬚を生やした綿帽子を思わせる姿の使い魔たち。最初、彼らはわたしたちに興味を示さなかったけれど、奥へと進んでいった事で侵入者か迷い込んだ者だと判断したのだろう。鬚を生やし大きな目が羽に描かれているかのようなコミカライズされた蝶のように見える姿の使い魔が周囲に集まってくる。彼らは薔薇園の魔女の使い魔。美樹さやかがまどかを誘ってCDショップに行こうとした際に、同席していたわたしと、なにか用事があったのだろう、教室に尋ねてきた巴マミをまどかが誘い、四人で行くことになったのだ。その帰り道、わたしたちは薔薇園の魔女の結界に捕まってしまった。

 これは、あまり良くない展開のような気がする。これまでのループで何度か戦っている相手ではあるけれど、その遭遇はほとんどがこちらから探し出して戦いに出向く追撃戦に近い形でのものがほとんどだった。今回のように偶発的な遭遇戦はほとんどない。それでも明確な弱点が存在していて、巴マミだけではなくまどかも戦えるのだから負ける事は無いだろうと思う。けれど、問題はこの後なのだ。薔薇園の魔女の後、数日以内に遭遇するであろう、お菓子の魔女。いつ、どこでどんな形で遭遇するのか、それが全く読めない。恐らく出現場所は見滝原中央総合病院とその周辺のどこかである事は間違いがないと思うけれど、病院の敷地は広い。もしもたくさんの入院患者を巻き込むような現れ方をされたら大変な事になってしまう。薔薇園の魔女は弱点は分かっているし難しい相手ではないけれど、お菓子の魔女はその攻撃方法が厄介極まりない。可愛らしい人形のような最初の姿を撃破すると、内側から蛇のような姿の第二形態が現れて不意を突く。しかも、どれだけダメージを与えようと脱皮のような行為を繰り返し再生してくる。これを完全に仕留めるには、本体なのか再生役なのかは分からないけれど第一形態と似たような姿形をしている使い魔を探し出してそれを倒さなければならない。それを倒さない限り第二形態はどれだけダメージを与えようと延々と再生し続ける。その性質そのものはこれまで出会った魔女の傾向から考えて変わってはいないと思うけれど、出現時の状況や結界内の様相などは大幅に変わってしまっている可能性が大きくなってきてしまったのだ。事実、今二人が戦っている薔薇園の魔女の結界の中は、見た目こそ大きく変わってはいないものの、以前は一部のみに固まっていただけだった薔薇の花の存在が、見渡す限りあふれ返るほどになっている。

 

「うわ……ぁ……」

 

 わたしの後ろから酷く気味悪そうな声が聞こえてくる。視線を向けてみれば、顔を青ざめさせて二人の戦いの様子を見ている美樹さやかの姿が目に入った。

 

「大丈夫? この結界の中にいる限りは大丈夫だと思うけれど……」

 

 やや声を潜めながら彼女に語りかけた。わたしたちは今、巴マミの用意してくれた結界の中で待機している。使い魔程度では破ることはできないけれど、あまり声を上げて見つかってしまっては面倒な事になってしまうかもしれない、そう考えて。

 

「転校生……あんた、平気なの? あんなの見て……」

 

 わずかに震える口調で美樹さやかが訪ねてくる。そう聞きたくなる気持ちは分からなくもない。なにせ薔薇園の魔女はひどくグロテスクな姿をしているから。肉塊のような身体の下には無数の触手。背中には巨大な蝶の羽。そして、頭にあたるであろう部分には絡み合った薔薇の枝が塊となり無数の蔓を垂れ下がらせている。そしてそのあちこちに赤い薔薇の花を咲かせているのだから、もしこれを気持ち悪いと思わずに綺麗だなどと思う人間がいたら頭を疑ってしまう。だから彼女の気持ちも分からないわけでもないけれど、なにかこう、傷つく聞き方をされているような気がしてしまう。でも、そこは今気にするべきところじゃない。

 

「わたしは少し前にアレの同類に襲われた事があるのよ。だから見た目はともかくアレがどういうものかは知っているし、二人の事情も分かってるわ」

 

 両手を握り締めながら美樹さやかの質問に答える。多少変わってしまっているところもあるとはいえ、恐らくわたしはこの場にいる誰よりも魔女のことを知っている。けれど、知っているだけで何もできない。わかってはいた事だけれど、こうして何もできない事実を突きつけられると悔しくて仕方が無い。せめて、わたしの知っていることを不自然ではない形で活かす方法があれば、と思うけれど、そんな方法が簡単に見つけられるほど世の中は甘くない。

 

「転校生……あんた……」

 

 内心の葛藤を見抜かれたのか、美樹さやかが気遣わしげな声をかけてくる。でも、それも当然かもしれない。最近は以前ほど表情や感情をうまく隠す事ができなくなっている。場の空気は読まないくせに人の気持ちを読むことにはやたらと長けている彼女の前で、今のわたしが自分の気持ちを隠しとおせるはずが無い。

 

「それ以上、言わないで……。でないと、自分で自分のことが、許せなくなりそう、だから……」

 

 掌に爪が食い込むほど強く手を握り締め、俯いて絞り出すような声で答えを返す。泣きたくなる気持ちを必至に押さえつけ、涙がこぼれる事が無いように耐えていた。この姿を見て、彼女がどう思ったのかは分からない。けれど、どこか雰囲気が変わったような、そんな気がした。

 

「そっか……」

 

 小さな呟きが、わたしの耳に届く。それに惹かれて視線を向けてみれば、美樹さやかは小さく苦笑を浮かべていた。その事にわたしは小さく首をかしげた。彼女が何故そんな顔をするのか理由が良く分からない。

 

「あたし、あんたの事少し勘違いしてたみたいだ……。っと、それより、もう終わりみたいだよ。ほら」

 

 そう言われて、彼女が指し示す方向に顔を向けてみれば、そこには巴マミのリボンで雁字搦めにされて拘束されている薔薇園の魔女と、それに向かって弓を引くまどかの姿が飛び込んできた。そして、まどかの引く弓の中に生まれた桃色の輝きを放つ光の矢が解き放たれ、魔女の姿を消し飛ばす。そして魔女の結界が崩れ、くすんだ灰色の異空間へと変化し、魔獣共が現れた。

 

「え? なに? なにこれ? どうなってんの!? えぇ? えええええええええ!?」

 

 周りを見回し、美樹さやかが酷く狼狽した声を上げる。それも無理は無いとも思う。終わったと思ったらその直後に別の存在が現れたように見えるのだから、知らなければ慌てるに決まっている。わたし自身もそうだったのだから、今の彼女の狼狽振りも理解は出来る。けれど、慌てたままでいられても困ってしまう。

 

「落ち着いて。あいつらさえ倒せばそれで終わるから」

 

 そう話している間にも、まどかの弓と巴マミのマスケット銃が現れた魔獣共を屠っていく。五体しかいなかったそれはものの数分もかからずに殲滅され、周囲の景色が元の場所のものへと戻る。結界に捕まった時とほとんど変わらぬ様子の周囲には人影も無く、無関係の人に目撃されたりした可能性はなさそうだった。結界の中にいる間、現実世界ではほとんど時間が流れないとはいえ、それでも数秒は流れるのだから、場所や時間帯によっては誰かに見られてしまう可能性は充分に考えられる。最も、大抵の魔女は人の多い場所で襲撃を行うような事は無く、魔女の口付けを使って狙いを定めた人間を人気の無い場所へと誘い出す事の方が多いので、よほど巡り合わせが悪くない限りそれほど神経質になる事もないのだけれど。

 

「それにしても……アレ、一体なんなの? あんなバケモノが本当にいるなんて、自分の目で見た今でも信じられないんだけど……」

 

 結界が消えるなり、美樹さやかが問いかけてくる。ほとんどの人間は魔女の存在を認識できないまま死ぬ事になるし、認識できた人間も助かる者はほぼいないので、こういう反応をされるのも当たり前のことではあるのだけれど……。

 

「あれは『魔女』さ。自らが生み出した結界に隠れて、誰にも気付かれずに人間に襲い掛かる存在。唯一対抗できるのは、マミやまどかのように魔法を得た魔法少女だけなんだ」

「うひゃあ!?」

 

 足元から突然聞こえてきた声に、美樹さやかが素っ頓狂な声を上げる。普通ならありえない体験をして神経質になっているであろうところへ、死角から前触れもなしに話しかけられれば驚いて当たり前だ。視線を向ければ、インキュベーターが首を傾げるような動作と共に彼女を見上げていた。感情の機微を理解しない彼ららしい行動だと思う。少しでも理解できるなら、あんな話しかけ方はしないはずだから。

 それからはわたしの時と同様、美樹さやかにも魔法少女と魔女、及び願い事に関する説明を行った。上条恭介の件があるからか、美樹さやかは願い事を叶えるという話に食いついてきたけれど、インキュベーター曰く「資質はあっても資格は無い」状態だという。淡々とした口調のため分かりにくかったけれど、その理由がわたしとは異なるらしい事を匂わせていた。

 

「……仕方ないわ。こればっかりはどうにもならないもの」

 

 見ていてはっきりと分かるほど落ち込んだ美樹さやかに、巴マミが声をかけている。下手な慰めは無意味だと思ったのか、諭すような口調の短い言葉だった。そこに同情の色は見えない。感情を押し殺して、ただ事実を伝えようとするかのようにも見えた。

 巴マミの言葉に、美樹さやかは大きく溜息をつくと「そっか……」と小さくつぶやく。諦めがついていないのかどこかどんよりとした雰囲気を漂わせたままだったけれど、少なくともそれ以上追求しては来なかった。

 

「さあ、もう帰りましょう。明日もあるんだから、これ以上ここにいても仕方ないわ」

 

 あまり大きはない声でつぶやかれた巴マミの言葉は、日が暮れ始めていた街角で思いの外大きく聞こえた。まだ人の喧騒が消えるには早すぎる時間だけれど、沈み気味になっていたわたしたちの間の雰囲気がそう思わせたのかも知れない。美樹さやかにとっては残念な結果かも知れないけれど、彼女が魔法少女になれないというのは良い事だったのではないかと思う。ただ、彼女が魔法少女になれなかった理由について、インキュベーターに問いただしてみるべきか。素直に答えてくれるとも思えないけれど、彼女が契約できなかった理由が分かれば、今のわたしが契約できない理由を知る手がかりになるかもしれないから。知ったところでどうにもならない可能性もあるけれど、知らないまま悶々としてるよりはいいだろうと思う。そう考えて、みんなと別れる際にインキュベーターに聞きたい事があるからと声をかけ、自宅で話すことにした。幸いと言っていいかは分からないけれど、今のわたしは魔法少女ではない事もあって、ワルプルギスの夜に関連する情報はインターネットからかき集めた程度のデータがパソコンの中に入っているだけでしかない。以前は時間停止を駆使して、現実での一日に満たない時間で無茶とも言える範囲から膨大な量の資料を集める事が出来ていたけれど、今のわたしではそんな事は出来ない。でも、そのおかげでパソコンの電源を入れない限り中身は見られないため、安心してインキュベーターを家まで招く事が出来るというのは皮肉な話だ。

 やや古めのアパートの二階、その一番奥にある部屋に入って電気を点けると、他の準備もそこそこにわたしはインキュベーターと向き合った。

 

「何を聞きたいのか予測はつくけれど、君の望む答えである保証は無いよ?」

 

 相変わらず変化の乏しい表情と淡々とした口調で告げてくるインキュベーターに対して苛立ちを覚えながらも、わたしは表情を厳しいものにして、抑え気味の声で問いかけた。

 

「わたしと美樹さやかが資質はあるけれど資格が無いと言っていたわよね? もし、その理由が分かるなら教えて欲しいのだけれど?」

「幾つか事例があって、それからの推測になるけどね。それでもいいのかな?」

「かまわないわ」

 

 なんでもないことのようにさらりと言ってくるインキュベーターに対し、わたしも即座に答えを返す。それを確認したのか、インキュベーターは小さく顔を揺らすように頷いた用に見える動作をすると、再び語り始めた。

 

「美樹さやかの場合、おそらく理由は比較的簡単だ。彼女は知人の──他者の為に願いを叶えようとした。多分だけれど、彼女は打算を抱えていたんじゃないのかな。『本音と建前』だっけ? この国の言葉。誰かの願いを叶える事によって、それによる何かしらの見返りをを求めていたのだとすれば、結局それは自分自身の為の願いと変わらない。その矛盾を抱えている限り、純粋な願いにはならないから契約は成立しない」

 

 インキュベーターの説明を聞いて、わたしはやや呆れた気持ちになっていた。多少変わっている部分もあるとはいえ、本質的なところでは全くといっていいほど同じらしい。けれどこれならば、美樹さやかが魔法少女になってしまう可能性は非常に低いだろう。

 

「けれど、暁美ほむら。君に関しては正直僕にも分からない。他に知っている範囲で資質を持ちながら契約できなかった事例だと、現状にある程度満足してしまっていて願いにあまり強い執着を持っていなかった場合か、さもなければ一度何かを諦めてしまった事がある場合かな。君の場合は、どうなんだろうね?」

「………………」

 

 小動物のような仕草をしながら問いかけてくるインキュベーターに、わたしは答えを返さなかった。そんなわたしの姿を少しの間見ていたソイツは「話が終わったなら、僕は帰らせてもらうよ」と言い残してその姿を消した。

 それを見送りながら、わたしはこの時間軸世界では美樹さやかは魔法少女にならずに済みそうだと考えていた。いや、考えてしまった。一つ大切な情報を見落としている事に気付かないまま。

 それは、都合の悪い情報から目を背けようとした、わたしの逃避だったのかもしれない。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 湧き上がる黒雲と鳴り響く雷鳴、そして吹き荒れる暴風がその場を蹂躙してゆく。

 その場にとどまる事が出来ぬほど荒れ狂う風が、木々を家屋を薙ぎ倒し、逃げ惑う村人達を巻き込んで暴虐の限りを尽くす。その中心に在るのは、空中に浮く巨大な歯車から逆さにぶら下がる青いドレスを纏った女性の姿のように見える異形。それは人のものではなく、無機質な人形を思わせる。その顔には目も鼻も無く、白い布に塗料で描かれたかのように見える赤い唇だけが、笑っているかのように歪んでいた。人であれば足のあるべき場所には歯車に直接繋がる軸が見えており、人形じみたその姿をより不気味なものに見せている。

 

──アハハハハハッ! アハハッ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!──

 

 吹き荒れる暴風に紛れて哄笑が響き渡る。それは自らを卑下するかのようにも、自分以外の全てを嘲るかのようにも聞こえる笑い。けれどそれは誰の耳にも聞こえる事は無く、その姿は誰の目にも見えない。村人達にとっては突然発生した嵐にしか見えないのだ。木々が薙ぎ倒され、家屋が潰れていく。そのさなかに人々の悲鳴と怒号が聞こえ、それもまた風に吹き散らされて消えていく。

 

──アハハハハハハハッ! ア────ッハハハッ! アハハハハハハハハハハッ!──

 

 もしもその光景を見ることが出来る者がいたなら、それは悪夢以外のなにものでもなかっただろう。全てを蹂躙し、その中心で笑う存在は人の身ではどうする事もできない存在なのだから。

 それは周囲には何も興味が無いとでも言うように、笑い声を響かせながらただ移動する。漂うかのようにゆっくりと移動しながらも気紛れに進路を変え、そこにこれといった目的のようなものは感じられない。見る事のできる者がいたならただ思うがままに動いているような印象を受けただろう。その姿は命を奪い、破壊し、蹂躙しながらも自らを笑う孤独な狂宴。己のしたことを正しく受け止めてもらえずに絶望に飲まれた少女の成れの果て。

 やがて、目的無く動き回っていたその異形は移動を止め、一際大きく笑い声を上げた。

 

──ア────ッハハハハハハッ! アハハッ! アハハハハハハハハハハハハッ!──

 

 その笑い声が大きく響き渡るにつれて、吹き荒れる風もまた勢いを増しながら彼女を中心に渦巻いていく。倒壊した家屋の残骸、薙ぎ倒された木々、押し潰された人々の身体。土砂を含む、その場にあるありとあらゆるものが暴風に巻き上げられて宙を舞う。それは地獄に等しい光景。何者であろうと抗う事の出来ない災厄を振り撒く魔女の姿だった。

 やがてその周囲に黒い何かが現れる。黒雲と暴風に巻き上げられた土砂によって夕暮れのごとき暗さの中、なおも黒く見える闇色の塊。無数に現れた人の頭ほどの大きさであろうそれは、風の影響を全く受けることなく魔女の周囲へと集まっていき、触れると同時に溶けるように消えていく。その黒い塊は蹂躙され命を奪われた者たちの恐怖や絶望といった負の感情。それを食らい、魔女の笑い声が更に大きくなり、暴風もまた強くなっていく。

 

──アハハハハハハハッ! アハハハハハハッ! アハハハハハハハハハハハハッ!──

 

 哄笑は半日近くにわたって響き続け、そして唐突に消えうせた。同時に暴風もまたその勢いを失い、巻き上げられていたものたちが支えを失い落下する。魔女の姿が薄れるように消えていくのに合わせるように空に渦巻いていた黒雲も霧散して消え去り、青空が戻っていた。その下に広がる光景は、瓦礫や土砂が混然となった荒れ果てた場所。そこにあったはずの村は跡形も無く、そこに生活していた人々もまた、その生命を留めた者は存在しない。見渡す限りの荒れ果てた大地の姿だけがその身を晒していた。そして、荒野へと変わってしまった場所のあちらこちらに散乱する、黒い立方体状の結晶。昼の強い陽光の下にあってなお輝きを映す事の無い漆黒のそれは、息を潜めるかのようにただ静かにその場に鎮座していた。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 生暖かい風が吹き抜け、それと共に霧が流れてくる。低い位置から湧き上がるように流れてきた霧に紛れるように、無数の異形が行進していた。象に似たその姿は本来在り得ぬような原色の肌をしており、サーカスのような多数の装飾が纏われている。周囲には全く興味が無いらしく、行進する事だけが役目だというようにただそれだけを行い続けていた。

 その異形の行進をすり抜けるようにして歩を進める少女が一人。年齢は十代半ば程だろうか。黒髪に胸元に赤いリボンをあしらった制服を身に纏い、まっすぐに歩いていく。その歩みに迷いは見られない。もしその顔を見る者がいれば、歳に似合わぬ覚悟を決めた表情に戸惑っただろう。鉄仮面ともいえるほど冷たい印象でありながらも、瞳の奥には強い光が輝いている。それはとても十代半ばの少女が浮かべるようなものではない。けれど誰一人おらず異形が行進を続ける中、その流れに逆らうように歩を進める少女は、そこにいるという事実それだけで、一般人ではないということを示していた。

 静かに歩を進めていた少女が足を止める。そして視線を上へと移動させていった。

 その視線の先、何も無かったはずの上空に現れたのは、空中に浮く巨大な歯車から逆さに吊り下がるような姿の、青いドレスを着た女性に見えるモノ。顔には目も鼻も無く、唇だけが嘲笑うかのような歪んだ形に描かれたヒトガタ。ドレスのスカートの間に見える隙間には足は無く、歯車とヒトガタを繋ぐ軸だけが見えていた。

 姿が現れるのと同時に、直下一帯にあった建物が破壊されて中に浮き上がる。小さな建物はおろか、巨大なビルでさえも半ばから折れ曲がるようにして破壊されて浮き上がる。重量を無視して巨大なものがいくつも浮遊するその光景は、あまりにも現実離れしたものにしか見えなかった。

 唐突に、歯車が激しいを音を発する。大きさの違うものが三つ重なる形になっていたそれの軸が伸縮し、ぶつかり合ったのだ。それがまるでなにかの合図ででもあったかのように、直後に周囲に漂う無数のものたちが炎に包まれる。そして──

 

──アハハハハハッ! アハハハッ! アハハハハハハハハハハッ! アハハハハッ──

 

 酷く耳障りな、嘲るかのような哄笑が響き渡った。

 それを見上げる少女の表情が厳しいものへと変化する。そして、小さな呟きと同時に少女は光に包まれた。その光が消えたとき、少女の服装は別のものへと変化しており、盾のようなものが現れている。服装そのものは、制服という印象に変化は無いものの、比較的明るい色だったものが黒と灰色主体のものに変化していた。

 

「今度こそ……!!」

 

 追い詰められたかのような悲痛なつぶやきと共に、少女の周囲に多数の兵器が現れる。ロケットランチャーに迫撃砲など、少女が使用するにはあまりにも似合わない、物騒すぎる物の数々だった。さらに、それだけでは飽き足らず、戦いの場のあちこちに艦対艦ミサイルに夥しい量のクレイモア対人地雷等、街一つ潰してもなおおつりがくるであろう尋常ではない量の兵器群を用意していた。だというのに、少女の表情には陰りが残る。まるで、やりすぎに感じるほどの準備をしているにもかかわらず、それでも届かないかもしれないという不安を映しているかのようだった。

 わずかな逡巡を見せた後に、少女が行動を開始する。左腕の盾のようなものから微かな機械音が響き、それが停止すると同時に少女以外の全てのものの動きが停止した。それは時間停止の魔術。己自身を時の流れの外に置く事で、その影響を受けない行動を可能とする術。

 停止した時の中で、少女は異形に向かってロケットランチャーを撃ち放つ。放たれた弾頭は少女の手から離れると同時に再び時の流れの影響下へと戻され、空中で静止した。その間にも、少女は次々とロケットランチャーを持ち替えては撃ち放っていく。やがて、数十発と用意されていた全ての弾頭が放たれ、停止した時の中で空中に静止したそれは、異形を囲むように展開されている。その状態を確認した少女の左腕の盾のようなものから、再び機械の動作音が響く。音が消えて時が再び動き出すと、展開されていた弾頭が一斉に異形へと殺到していった。普通の相手であれば、これだけで終わっていただろう。けれど、爆炎が荒れ狂い、爆音が響き渡る中から黒煙を押しのけて現れた異形には傷らしい傷はほとんどつけられていなかった。

 

──アハハハハハハハッ! アハハハッ! ア────ッハハハハハハハハハハッ!──

 

 意に介していないかのように、異形はただ哄笑を響かせる。事実、煙の煤による汚れらしきもの以外、傷と思しきものは見受けられない。少女にとってその姿は、そんなものは意味が無いと嘲笑われているようにも感じられた。

 

「くっ…………!」

 

 少女は悔しげに歯を噛み締める。その顔に浮かぶのは焦燥の色。淡い期待さえも打ち砕かれ、悪い予想が当たってしまった事による危機感と、やはり駄目かも知れないという諦観じみた感情の入り混じった複雑な表情だった。だというのに、少女は後に退くという事をしない。見えない何かに突き動かされるように、少女はさらに立ち向かう。

 迫撃砲による時間差を駆使した波状攻撃に始まり、燃料を満載したタンクローリーによる特攻、ハープーンミサイルによる攻撃の後、クレイモア対人地雷による迎撃等、一人の少女が扱うにはありえないほどの大火力をもって攻め立てた。だというのに。空を焦がす炎と黒煙の吹き上がる中から姿を現した異形は、多少傷つき汚れてはいるものの、何事も無かったかのように哄笑を響かせ続ける。

 

──アハハハッ! アハハハハハハハハハッ! アハハハッ! アハハハハハハッ!──

 

 少女は一瞬唖然とはしたものの、すぐに表情を引き締めた。効果は薄くとも、攻撃が全く通らないわけではない事を見て取ったからだ。けれど、その事が少女の判断を誤らせた。いけるかも知れないという半端な希望を抱いてしまった事が、心に大きな隙を生んでいる事に気がつかなかったから。

 どこからともなく爆薬を大量に取り出し、異形の隙を見つけては叩き付ける。その攻撃が効いている様子は見受けられない。だというのに、意地になったかのように時間停止を繰り返しては、取り出した爆弾を投げつけ続けた。

 だから、だろうか。少女は己の限界を踏み越えてしまったことに、最後まで気がつくことが出来なかったのだ。

 

「……あ…………」

 

 無意識にこぼれたかのようなつぶやきと共に、少女は自身の左手の甲に視線を向けた。そこにあるものは、菱形の石。魔法少女の魔力の源にして、自身の魂であり命そのものたるソウルジェム。澄んだ紫色の輝きを発していたはずのそれは、完全な漆黒へと染まってしまっていた。それが意味するもの──『魔女堕ち』

 

「……あ……ああ……あ……あああ…………」

 

 自身に起きたことを認めたくないとでもいうように首を振りながら、ソウルジェムを指の先で擦り上げる。黒く染まってしまったそれを磨き落とそうとするかのようなその行為は、何の意味もなさなかった。

 脱力したかのように、少女はその場にくずおれる。涙を浮かべ、恐怖に表情をひきつらせるその姿は、彼女がまだ歳若い少女である事を表していた。

 

「嫌……そんな……」

 

 泣きながら弱々しいつぶやきをこぼして、少女はこれから自らの身に起きるであろうことを必死に否定しようとする。けれど、現実は彼女に対して無慈悲に宣告を下した。

 

「……嫌……こんなの…………嫌ぁ……ぁ……ぁあ……ああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 少女のつぶやきは、途中から絶叫へと変化する。それと同時に、彼女の左手の甲にあるソウルジェムがひび割れ、中から漆黒の煙のようなものが噴き出した。それは力を失い、もの言わぬ骸と化した少女の上空で一瞬だけわだかまった後、近くで哄笑を続ける異形の中へと吸い込まれるように消えていく。

 

──アハハハッ! アハハッ! ア──ッハハハハハハハハッ! アハハハハハッ!──

 

 抗う者がいなくなった空に、異形の哄笑だけが響き渡る。そして、荒れ狂う暴風が街を、人を、その場に存在した全てのものを蹂躙した。そうして、全てが終わりを迎えると、異形の姿は空中に溶けるように消えていく。やがて、異形の姿が完全に消え去ると、それまでの荒れた天気が嘘のように、晴天の青空が広がっていた。けれど、その下に広がる光景は、破壊され荒れ果てた廃墟の姿。生きて動くものの姿が確認できない、死の世界。

 死の静寂に支配された世界の中、瓦礫の上や間に黒い何かが存在していた。強い陽光の下においてその輝きを映すことなく、完全な漆黒にその身を染めた立方体状の結晶体。近くで見なければその形状すら認識できないと思われるほどに完全な闇の色に染まっている。

 もし、それを目にするものがいれば、非常に明るい中で輪郭がはっきりしないことがあるというその矛盾に不気味なものを感じていただろう。瓦礫に埋め尽くされた場所であるとはいえ、それが無数に散らばっている光景は、非常に不気味なものだった。

 それらは何かを待ち続けるかのように、ただ静かにその身を晒している。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 微かな風の吹く音と、小さな水音。瓦礫と化してしまった場においては不釣合いな穏やかな音だが、それを否定するかのように奇妙な緊張感が張り詰めていた。

 

「……本当にそれは、どうにもならないことなの?」

 

 赤みがかった髪をツインテールにしている少女が、目の前にいる白い奇妙な小動物に話しかける。何気ない日常のひとコマであったのなら、それは微笑ましい光景に見えたかも知れない。けれど少女の真剣な表情と、瓦礫の山と化した周囲の無残な有様がその異常性を際立たせている。

 

「そうだね。希望と絶望は表裏一体。どちらも存在しているからこそ、それぞれに意味がある。コインの裏表の関係に例えるとわかりやすいかな。この二つは切り離して考えることはできない。もし、どちらか一方がなくなるような事態があれば、残された方は本来の意味を失い、そこにあって当たり前の、ただ存在するだけの概念に成り下がることになるだろうね」

 

 少女の問い掛けに答えたのは、その目の前にいた白い小動物だった。猫のような体躯とその体に不釣合いなリスを思わせ大きな尾と、耳から垂れ下がる毛の房のようなものが特徴的なその存在は、感情を感じさせない平坦な声と変化しない表情をもって、少女の問いに冷酷に返答した。少女のほうでもある程度は予想した答えだったのだろう、一瞬表情を濁らせるものの、即座に表情を引き締めて再び問いかける。

 

「でも、あなたは前に言ったよね。わたしが魔法少女になれば宇宙の法則さえねじ曲げられるって。それでも、何も変えることができないって言うの?」

 

 ある種の確信を持って、少女は再び白い小動物に問いかけた。けれどその問いは、ある程度予想できるものでもあったのだろう。言葉をまとめるようなわずかな沈黙の後、白い小動物ははっきりと言い切った。

 

「不可能ではないだろうね。でも、それはおそらく君の望んでいる形になることはない」

「どういう……こと?」

 

 返答の内容に、少女は戸惑いを含んだ疑問の声を上げた。自分でも、これならという確信があったのかも知れない。けれど、それをあっさりと肯定され、その上で結果には保証がないと否定された。その意味を理解しきれなかったのだろう。

 

「僕はさっきコインの表裏に例えたけれど、これを表だけが見えるように形を変えることはできる。でも、その場合裏は見えなくなるだけでなくなったわけじゃない。裏を潰せば必然的に表も潰される。だから、もし君が過去現在未来すべての可能性に存在する魔女だけを消して魔法少女を残すことを願ったとしても、その場合は魔女ではない別の『ナニカ』が生まれてくる。推測でしかないけれど、ほぼ確実だ」

 

 冷徹に告げられた事実に、少女は脱力したようにその場に座り込んだ。青ざめて愕然とした表情が、彼女の心が受けた衝撃の大きさを物語っている。

 

「そんな……それじゃ……」

 

 小さなつぶやきをこぼすも、それ以上は何も話す気が起きないのか、少女はそのまま俯いてしまった。やがて、小さな嗚咽と共に彼女の目から涙がこぼれる。通常の感性の持ち主であれば、慰めるなり同情するなりしたのかも知れない、けれど彼女の目の前にいる白い小動物は、それまでと全く変わらぬ様子で少女のことを見上げていた。

 

「彼女の死は、決して無駄ではないよ。君の視点で見れば、不遇な死なのかもしれない。けれど、彼女の遺してくれたエネルギーが、この惑星も含む宇宙全ての存続に役立ってくれる。それじゃ不満なのかい?」

 

 少女はその言葉に対して答えを返すことなく、俯いたまま何かに耐えるように肩を震わせている。その様子を見ながらも、やはり白い小動物は態度を変えることは無い。変化を見せる事の無い表情のまま、待っているかのようにただ静かに座っていた。

 

「……私、は…………」

 

 小さなつぶやきと共に、少女は聞き耳を立てなければ分からないほどに小さくかすれた声で何かを語った。

 その言葉が終わりを告げるのと同時に、少女は桃色の輝きに包まれる。その光は加速度的に強さを増していき、すべては白光の中へと飲み込まれた。

 

 

 



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2話

 

 それは、些細な思い違いでしかないはずだった。とても小さな、僅かな勘違い。けれど、そう思っていたのはわたしだけ。都合の悪い情報から無意識に目を背けてしまったわたしの逃避。そして、それがもたらした結果は、酷く残酷なものだった。

 見滝原総合病院でのお菓子の魔女との戦いは大きな問題もなく、とても順調だったのだ。

 ぬいぐるみのような姿をして身動きもほとんどしないというのに、わざと攻撃を受けて相手を油断させた上で、ファンシーなデフォルメをされた蛇のような姿の攻撃態へと脱皮をするように変態して食い殺すことを得意とする狡猾な魔女。出現時の可愛らしい姿とは裏腹なその実態に騙されて殺された魔法少女は数多い。そんな厄介な相手ゆえ、途中多少危うい場面もあったものの、以前のわたしのようなある種インチキをしてでもいない限りは戦いである以上あって当然のことなのでそれほど気にすることでもない。

 まどかも巴マミも攻撃が共に遠距離型であるせいなのか、役割分担を事前に綿密に決めて戦っていた。マスケット銃という単発型で連続攻撃に難があるけれど、拘束魔法が使える巴マミが敵の誘導及び援護を担当し、純粋魔力で威力の高い連続攻撃が可能なまどかが敵の殲滅を担当するという二人の連携で構築された方法で。他の魔女との戦いの時はもちろんそれだけではなく、まどかが後方援護を担当し、巴マミが近距離戦を行う事もあったけれど、二人とも遠距離攻撃こそが本領であるためか、近距離戦を強いられる相手の時にはかなり戦いづらそうだった。それでも戦いに勝つことが出来たのは、巴マミが曲がりなりにも近接戦闘を行う事が出来たからだと思う。マスケット銃を鈍器に見立てて殴り飛ばすという荒っぽい方法ではあったけれど。それに、普通の銃であればそんな使い方をすれば暴発の危険があるし、砲身が歪んで使い物にならなくなる危険性だって大きい。魔力で生み出した完全な使い捨てで、その動作を完全に意識下に置いて制御し、絶対に誤作動しないと確信できるからこそ可能な使い方だった。それでも、そんな使い方は応急的なものに過ぎないためか決定力に欠け、撃退できるのは戦闘能力が無いに等しいような使い魔がせいぜいで、ある程度の戦闘能力を持つ使い魔になるとダメージを与える事はほとんど出来ない有様であるし、魔女と魔獣に至っては言わずもがな。魔女の姿を発見すると同時に攻撃をして、接近される前に殲滅するのが二人のセオリーだ。もし、遠距離型の攻撃を一切受け付けない、もしくはさせてもらえないような能力を持つ魔女だったら、勝てない可能性だってある。

 魔法少女でなくなってしまった今のわたしは、自分から魔女の結界に飛び込むつもりは全く無いのだけれど、何故かわたしの周囲で魔女の出現が頻発する。そして戦闘が始まるたびに二人に守られて、何も出来ないわたしは守護の陣の中で二人の戦っている姿を見ながら歯を食いしばる事しかできなかった。

 何故、わたしはここにいるのだろう。

 何故、わたしは魔法少女ではなくなってしまったのだろう。

 何故、わたしは契約する事もできなくなってしまったのだろう。

 忘れようと思っても忘れられない疑問が、受け入れようと思っても受け入れきれない現実が、魔女との遭遇があるたびに容赦無くわたしの心を苛んでゆく。何も出来ないわたし自身が悔しくて仕方が無い。インキュベーターに気付かれないよう、不自然ではない形でわたしの知っていることを活かす方法さえ考え付かない。

 

「ほむらちゃん……?」

 

 泣きたい気持ちを抑えて俯いていると、不意にまどかの声が間近で聞こえた。あれこれと思い悩んでいるうちにお菓子の魔女と魔獣との戦いは終わっていたらしい。やや戸惑いながらも、心配そうな表情で覗き込んでくるまどかに、わたしは思わず抱きついてしまっていた。その行為に驚いたのか身体が強張るのを感じたけれど、それは一瞬のことですぐに元に戻っていた。普通ならどうしたのか即座に問い返したくなるはずの場面だというのに、まどかは何も言わずにただ受け止めてくれる。そのやさしさは嬉しいけれど、反面、心に痛みが走る。話していない、隠し事をしているという事実に、彼女を裏切っているのではないかという疑問を抱いてしまったから。わたしの勝手な妄想でしかないのかもしれないけれど、それでも、一度抱いてしまった疑問は簡単には消えてくれない。

 

「驚かせて、ごめんなさい。でも、見ている事だけしかできないのが、苦しくて……」

 

 三十秒ほどの短い時間まどかの胸にすがった後、俯きながらまどかに謝罪を入れる。それにしても、友人が目の前で戦っているのに自分は見ていることだけしか出来ないという状況がこれほどに心を痛めつけるのだとは思わなかった。何も知らなかったときはやり直したいという思いを抱くまで、自分にできることは何もないんだと諦めてしまっていたけれど、今は魔女に関する知識と何度も同じ時間を繰り返して培った戦いの経験が私の身体の中には眠っている。そのことが、私の心の痛みを余計に大きくしてしまっていた。戦い方は分かっていても、その為の力が無い。友人を戦わせて、恐らく一番戦い方を良く知っているわたしは何も出来ないというのは、もどかしいだけでなく刃物で抉るように心に痛みを走らせる。もしかしたら、以前の繰り返しで魔法少女となる事を阻止し続けていたまどかも、ここまで強いものではないかもしれないけれど、同じような思いを抱いていたのかも知れない。いくらまどかが契約するとそれで全てが終わってしまうといっても、随分と強引で手荒な方法をとっていたのだと思う。けれど、その事を後悔はしていない。あの時は話し合いでの解決なんて望める余裕はなかったのだから。たとえそれが、結果として自分自身で招いたものであったとしても。だからこそ、この苦しみを乗り越えなければわたしは前に進めない。

 

「暁美さん」

 

 俯いていたわたしに、巴マミが声をかけてくる。

 

「あなたが何を背負っているのか、私たちには分からない。でも、何もかも一人で背負い込む必要はないわ。不甲斐無いかもしれないけれど、頼ってくれるなら喜んで力を貸す。それを忘れないで」

 

 巴マミが、微笑みかけながら声をかけてくる。そこにわずかとはいえ寂しげな雰囲気が漂っているのは、わたしにまだ信用されていないと、そう思っているのかもしれない。実際に隠し事をしているし、彼女の言動の端々にその事に気付いていると思わせるものが見て取れるのが心苦しい。インキュベーターのことが無ければ、信じてもらえない事を覚悟の上で何もかも話してしまえるのだけれど、魔法少女に関連する一連の出来事は彼らがいなければ発生し得ないのだから、結局のところ同じところへと戻ってしまう。まどかと巴マミの二人がいるところに必ず付き従うように存在する彼の姿が忌々しい。

 

「今は話せないのかもしれないけど、いつか話してもいいと思えるようになったら話して欲しいな。それがどんな内容でも、私は信じるよ?」

 

 まどかの言葉に驚いて顔を向けると、彼女は見ているこちらが眩しくなるような笑顔で応えてくれた。急にすがりついたりしてしまったのだから、問いただしたい気持ちは巴マミよりもまどかの方が強いはずなのに、そんな様子は全く見られない。きっと、今はまだ話せないことなんだと、自然に考えてそう返してきたのだろう。当たり前のように返してくるまどかの言葉に、わたしは何も言えなくなってしまった。嬉しいような、心苦しいような、自分でも良く分からない気持ちに言うべき言葉が思いつかない。結局わたしは、俯いてただ頷きを返すだけで精一杯だった。

 

「すまないけれど、予測していたよりもグリーフシードの数が少ない。離れたところに飛んでいってしまった可能性があるから探してくれないかな。後で探せば良いと言うには場所が悪すぎる」

 

 三人の会話にインキュベーターが唐突に割り込んでくる。わざとやっているのかと文句をいいたくなるタイミングに少しだけ頭に血が上りかけたけれど、その言葉に含まれた意味が理解できた瞬間に血の気が引いていた。そう、ここは見滝原総合病院の敷地内だ。もしここでまた魔獣が発生するような事があれば、目も当てられない。

 魔獣のドロップするグリーフシードは以前わたしが繰り返していた時の魔女のものに比べると数が多い。けれどその代わりに一個の大きさが小さく、その分取り込める穢れの量も少なくなっている。そのくせ、穢れの量が限界を超えると一個のグリーフシードから一体の魔獣が生まれるというのだから面倒な話だと思う。こと、この部分に関してのみは魔女よりもたちが悪い。だからこそ、取りこぼしたグリーフシードを放置したままにはできない。病院のような負の感情が生まれやすい場所では特に。まどかと巴マミの連携でお菓子の魔女とその後に発生する魔獣をほぼ被害無しで倒しているというのに、後始末を間違って被害が出てしまいました、では笑えない。

 グリーフシードを直接探せるのはソウルジェムを持っているまどかと巴マミの二人だけなので、それぞれが二手に分かれる事になった。巴マミとインキュベーター、そしてまどかとわたしという組み合わせで探索を開始する。最初はわたし一人が先に帰るという話も出ていたけれど、それはわたし自身が強く拒否した。自己満足に過ぎないと理解してはいるけれど、それでもここまで関わっておきながら途中で外れてしまう事に耐えられないから。今のわたしには何もできないことも、足手まといでしかないことも理解している。それでもなお同行したいと考えたのは、何もできない自分自身を認めたくないという現実逃避なのか、それともわたし自身のまどかに対する執着なのか、それともそれ以外の何かなのか、自分でもよくわからない。まどかと巴マミの二人はソウルジェムの能力を使ってグリーフシードを探す事ができるし、インキュベーターもその思惑はともかく、グリーフシードを回収する役目がある。わたしには何もできることが無く、ここに残っている理由も無い。冷静に考えれば考えるほど、わたしがここにいる理由はわからなくなっていく。

 そんな自己嫌悪に陥っているときだった。視界の隅に、重い足取りで歩いている彼女の姿を見つけたのは。

 わたし達と同じ見滝原中学の制服に、青味がかったショートヘアの髪、普段であればバカがつくほどに明るい言動でまどかとコントまがいの事をやらかすこともある美樹さやかが、暗く沈んだ表情で歩いていた。その様子に、嫌な予感が湧き上がる。彼女がここにいるということは、ほぼ間違いなく上条恭介絡みだろう。そして、あの様子ではわたしが繰り返していた時よりも悪い結果になっているのかも知れない。

 

「さやかちゃん?」

 

 怪訝そうな表情で立ち止まったわたしに気づいたまどかが同じ方向へと視線を向けて、美樹さやかの様子がおかしいことに気づいたのだろう。躊躇の見て取れる、問いかけるような呼びかけがこぼれている。

 

「まどか……それに、転校生……?」

 

 二人で近づいて声をかけると、美樹さやかもこちらに気づいたのか、呼びかけに応えてくれた。けれど、その声にはいつもの覇気がなく、表情も沈んでいるし目に輝きがない。これ以上ないほどわかりやすく落ち込んでいる。

 

「なにが……あった……の?」

 

 美樹さやかの纏うあまりにも重苦しい雰囲気に、遠慮がちにまどかが尋ねた。表情と口調から本気で心配していることは伝わってくるけれど、今の彼女に何があったのか聞くのは危ない気がする。

 

「さっきさ……恭介の所で一緒に医者の話を聞いてきたんだ……」

 

 沈んだ声で話し始めた美樹さやかの様子に一抹の不安を覚えながらも、話の内容を確認しておきたいという気持ちもあったため、彼女を止めることは出来なかった。彼女は現状ではわたしが上条恭介のことは知らないはずだということに考えを巡らせる余裕はないらしく、淡々と内容を語ってくれた。それによれば、事故によって麻痺した彼の左腕は、リハビリによって日常生活には問題がない程度までは動くようにはなるという。ただ神経が深く傷ついてしまったことで鈍っている感覚は回復せず、精密な動きをさせるには難が残るため、彼が打ち込んでいたバイオリンはどれだけ頑張っても以前のように弾けるようにはならないらしい。

 

「恭介さ、こう言ってた。どうせなら完全に動かなくなってくれたほうが諦めがついたのに、って…… 中途半端でも動くから、どうしても諦めきれなくなる、って」

 

 俯いたまま話す美樹さやかの纏う雰囲気に、話が進むにつれて暗さが増して行く。話しているうちに嘆いている上条恭介の姿を思い出してしまったのかも知れない。けれど、それはもうわたし達にどうこうできる話ではなくなっている。それは上条恭介自身が受け入れるなり振り切るなりしなければならないのだ。

 それにしても、随分ときつい話になっていると思う。上条恭介自身にとっては、生殺しにも等しい気分だろう。中途半端に残された希望は、いつだって残酷だ。本当はどれだけ努力しても届かないところにあるのに、届きそうな場所にあるように見えるからどうしても手を伸ばす事を諦められない。諦めなければならないはずなのに、もしかしたらと思わせるように誘惑する。それを振り切らなければ、取り返しの付かない事なのだと受け入れなければ前に進めなくなる。周りの人間は、手助けすることはできてもそれ以上の事はできない。最終的には本人が決断しなければならないことだから。

 

「ねえ、まどか。どうすれば魔法少女になれる?どうすれば魔法少女になって願いを叶えられる?恭介のあんな姿、見たくないよ……!」

 

 美樹さやかの目が、危険な色を帯びている。けれど、この時間軸世界のキュゥべえの話していた内容に一切の偽りがないのであれば、彼女は自分で自覚していないだけで上条恭介の腕を治したいという気持ち以外に本心は別にある。その事を自覚した上でなお、その本心を捨てでも腕を治してあげたいと思えなければ、おそらく資格は得られない。

 

「……さ……さやか……ちゃん……?」

 

 美樹さやかの様子に気圧されたのか、若干引き気味になりながらまどかが彼女に呼びかける。けれど、その声もまともに聞こえていないのか、今にも掴みかからんばかりの雰囲気を纏って詰め寄っていた。それを見て、わたしは内心で小さくため息を付く。あれではまともに話を聞いてくれそうにない。そう判断して、気は進まないけれど一度頬を叩いてやろうと近づいていった。

 美樹さやかに声をかけて、注意をこちらに向けさせようとした瞬間、まどかの様子が変わったことに気がついた。焦燥と後悔入り混じった表情。よく見ればやや青ざめてさえいる。その様子に疑問を持ったけれど、まどかの指にある指輪状態のジェムが警告するように強い輝きを放っているのを見て、その理由を理解した。

 いつの間にか足元を流れる白い霧。普通の人には見えないそれは、美樹さやかを中心に集まってきているように思える。それは魔獣が人間を狙って現れるときの前兆の一つ。この霧に包まれれば結界に取り込まれ、その中で対象となった人間は魔獣に飲まれてしまう。

 美樹さやかの様子に気を取られて、まどかもわたしも周囲の異変に気づくのが遅れてしまった。彼女を連れて、少しでも移動しなければならない。気休めにしかならないけれど、その場に留まったままでいるよりは結界に取り込まれることを多少遅らせることができると巴マミから聞いている。

 わたしが見つけた時点で魔獣の影響を受け始めていたのかどうか、それはわからないけれど、美樹さやかの暗く沈んだ気持ちが魔獣を誘ったことは間違いない。今は無理矢理にでも、彼女を連れて行かないと……

 

「ダメッ! さやかちゃんっ!!!」

 

 彼女の手を引こうと一歩踏み出した時、まどかが酷く狼狽えた声を上げた。その声に驚き、わたしは思わずまどかに視線を向けて動きを止めてしまう。

 それと、ほとんど同時だった。周囲がくすんだ灰色の空間へと変貌したのは。そして、その変化に気を逸した一瞬のうちに、美樹さやかはその足元から湧き上がるように出現した魔獣の口の中へと、その姿を消していった。最期に、何の言葉も残すこともなく。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 嘆くような表情のまま変化する事の無いはずの魔獣の表情が、愉悦に歪む。楽しげに、それでいて見ているわたし達を嘲笑うかのようにその口の端がつりあがる。そして、顔の半ばを隠すような位置で蠢いているだけだったモザイクのようなものが、頭から足元へと侵食するように広がっていく。その様子に、わたしは猛烈に嫌な予感を覚えていた。

 冷や汗が背中を流れるのを自覚しつつ、まどかと共にどう逃げるべきか思案しているわたしの目の前で、まるで見えない手にブロックを組みかえられているかのごとき動きで魔獣の姿が変化していく。そして、それは結界の様相にさえも侵食し、わたし達は多数の色をごちゃ混ぜにしたかのようないような空間の中へと取り残された。

 

「……あ……う……っ……」

 

 蠢くたびにぎらつく様な輝きを振り撒くその空間に生理的な嫌悪を催し、吐き気がする。まるでコンピュータの電子ドラッグのようなサイケデリックな雰囲気のその空間が、人の感覚とは酷くかけ離れているものなのだと思い知らされた。美しくも狂気を孕んだ、おぞましい煌き。直視し続ければ、いずれ堕ちてしまう。

 

「鹿目さん!暁美さん!」

「まどか!ほむら!」

 

 あわてて目を閉じ、直視しないようにした直後に巴マミとインキュベータの呼びかけが聞こえてきた。そして、すぐ後ろから聞こえてくる駆け足の音。恐らく結界の発現時に中に飛び込んでくることができたのだろう。巴マミのほうには焦りのようなものが感じられるが、インキュベーターは相変わらずだ。冷静でいられるという意味ではいいことかもしれないけれど、あまりに無感動すぎるそのあり方にはやはり疑問を感じてしまう。

 

「大丈夫?」

 

 気遣うように呼びかけてくる巴マミに、目を閉じたまま無言で頷く。まどかにも同様に声をかけているけれど、その返事はどこか上の空だ。

 それも無理はないと思う。あんな光景を目の前で突然見せられて、冷静なままでいられるはずもない。

 

「美樹……さん……が……」

 

 頭の中がぐらつくような不快感に話しをしようという気も起きないながらも、どうにかその言葉だけを搾り出す。その場に座り込みたくなってしまうほど、酩酊感にも似た不快な感覚が心を満たす。嘔吐感がないことだけが唯一の救いだった。目を閉じていて表情は分からないけれど、巴マミが「そう……」と小さく呟くのが聞こえてきた。悲しげな響きがありながらもはっきりとしたそれは、もうどうにもならないということを理解して認めているからだろう。

 

「護りの結界を張ったから、目を開けても大丈夫よ」

 

 巴マミの言葉に、わたしはゆっくりと目を開ける。頭の中に残る不快感に一瞬ためらってしまったけれど、結界によるものか吐き気を催すようなあの不快感に苛まれる事はなかった。見た目の不快な感じは変わらないけれど、さっきよりはずっとましだ。

 

「さやか……ちゃん……」

 

 呆然としたまどかの呟きが耳に飛び込んでくる。彼女は放心したような表情のまま、美樹さやかを飲み込んだ魔獣が姿を変えていくのを見上げていた。

 それも仕方のないことだと思う。気の置けない仲だった友人が、目の前で魔獣に飲まれたのだ。しかもその要因は魔法少女という、まどかには手が届き、美樹さやかには手が届かなかったもの。まどか自身に直接の責任があるわけではないけれど、性格上きっと思い悩んでしまうだろう。

 ゆっくりと、魔獣がその姿を変えていく。虹色の煌きが蠢きながら、その輪郭を別のものへと変化させてゆく。輝きに遮られてはっきりとした姿は認識できないけれど、うっすらと見えるその外形は確かに見覚えがあるものだった。

 鎧を纏った上半身に、魚の形をした下半身。その右腕には片刃の巨大な剣を携え、どこか吹奏楽器を連想させる台座に腰を据えている。そして、その背中に広がるマントの色は深い青。染みるようにして消えていった虹色の輝きの中から現れた、海を思わせるその色とその姿は、見間違えるはずもない、人魚の魔女のものだ。

 姿が完全に現れるのと同時に、結界の様相もまた変化していく。蠢くように変化していた輝きが消えるに従い現れたのは、中心にステージがあり、周囲を観客席が囲む劇場にもコンサートホールにも見える場所。観客席の隙間から立ち上がるようにして現れる白い影は現れたそばから虹色の輝きに包まれ、その姿を変化させてゆく。

 その光景を、わたしたち三人は何をするでもなくただ見つめていた。まどかは魔獣に飲まれてしまった友を悲しみ、巴マミは厳しい表情のまま周囲を警戒し、わたしはかつての人魚の魔女のことを思い返していた。

 美樹さやかが自らの胸の内に抱きながらも、それを決して表に出す事がなかった上条恭介への思慕。あるいは彼女自身気がついていなかったのかも知れない。その想いが上条恭介自身へと向けられたものなのか、それともヴァイオリンを弾いている上条恭介という、ある意味で偶像へと向けられたものだったのか。

 いずれにせよ、美樹さやかは魔女に堕ちてなお自らの本心を表に出す事をしなかった。その結果が、結界内のあちこちに貼られていたポスターだったのだろう。本心を偽り、うわべの理由だけで邁進する者はいつか破綻する。それは至極当然のこと。結果が本心に直接繋がる事がないのだから。

 美樹さやかの上条恭介の左腕を治したいという想いそのものは否定するようなものじゃない。けれど、彼女の場合はその願いを叶える事で、上条恭介の気持ちを自分に向けさせたいという気持ちが根底にあるうえ、その事に全く自覚がないことが問題だった。そんな願いでは隠している本心にそぐわない結果になったとき、容易に壊れてしまう。事実、かつてのループ時の美樹さやかは、自らの本心に気付かぬまま願いを叶えて魔法少女となった結果、志筑仁美の告白とそれに対する上条恭介の答えに自暴自棄となり最後は魔女へと堕ちた。最も上条恭介がらみの問題が発生する前に魔法少女の裏側に潜む真実を知ってしまっていた事がより彼女を追い詰める事になっていたようだけれど……

 人魚の魔女の姿を見て浮かんできた苦い思いに唇を噛み締めていると、唐突に爆発音が聞こえてくる。驚いて音のしたほうに顔を向けてみれば、人魚の魔女の頭が白煙に包まれていた。それから巴マミを見てみれば、彼女は厳しい表情で白いマスケット銃を構えている。おそらくは抜き打ちに近い状態で人魚の魔女の頭を狙ったのだろう。

 

「やっぱりこの程度じゃ、効かないか……」

 

 巴マミのその呟きが聞こえたわけでもないのだろうけれど、その直後に煙の中から現れた人魚の魔女はある意思をわたし達に向けてきた。顔の中央に三つ並んだ不釣合いに大きな目。吹奏楽器を連想させるそれに、明らかな敵意をのせて。

 

「……ッ!!!」

 

 その視線を受けて、背筋に寒気が走る。その瞳に光はなく、映るのは虚ろな絶望に満たされた深い闇。そこには希望も救いもない。自身の抱える悪意を、絶望を他者に振り撒けば自らが救われるとでもいうかのように、ただただ無差別に人を襲う。そして、自らが救われる事は決してないということに気付かない。魔女とは、そんな許し難くも哀れな存在でもあった。

 

「暁美さん。すぐここから離れて。魔女の結界の外には出られなくても、このホールから出れば直接標的になる可能性は低いと思うわ。護りの結界は貴女の服を基点にしてるから、移動してもあなたを守ってくれる。だから、急いで!」

 

 新たなマスケット銃を人魚の魔女に向けたまま、振り向くことなく巴マミから逃走を促す言葉が響く。その判断は、正しいものだと思う。けれど、わたしは未だ心ここにあらずといった様子のまどかが心配だった。人魚の魔女はその手にした巨大な剣での斬撃も脅威だけれど、なによりも恐ろしいのは多数の車輪を召喚しての範囲殲滅攻撃だ。もし今その攻撃を放たれれば、まどかはなす術もなくやられてしまうかもしれない。

 

「鹿目さん、貴女もわかっているでしょう! こうなってしまったら、私たちにできることはもう一つしか無いわ!」

 

 わたしが躊躇している様子と、まどかの態度に事情を察したらしい巴マミから叱咤の声が飛ぶ。厳しくも気遣いに満ちたその言葉に応えたかのように、まどかが自身の武器である薔薇の弓を構える。同時に収束した魔力が形作る桃色の輝きを放つ光の矢は、どこか悲しげなものに感じられた。

 

「ほむらちゃん、私はもう大丈夫。だから、早く避難して」

 

 目尻に涙を溜めながらも、はっきりと言い切った彼女の言葉に、わたしは非難することを決意した。これ以上留まることは、足手まといにしかならないとわかったから。

 わたしが踵を返すと同時に、まどかの手から矢が放たれる。その時の彼女のつぶやきは、おそらくわたしにしか聞こえなかっただろう。

 

「さやかちゃん…… ごめんね」

 

 それは、何に対しての謝罪だったのかはわからない。自身が美樹さやかを追い詰めてしまったと感じていることへのものなのか、それとも魔獣から救うことが出来なかったことへのものなのか、友人だったものへ攻撃してしまうことへのものなのか。どれかかも知れないし、全てなのかもしれない。ただひとつだけ確実にわかるのは、それが決別の言葉であるということだけ。

 

──オオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォ!!!!──

 

 桃色の激しい輝きと魔女の咆哮を背に受けながら、わたしは必死にホールの端にある扉と思しきものへと走り寄っていた。たどり着いたとしても、本当にそこからホールの外へと出られるのかはわからない。もし結界として閉じた空間になっているのならば、見た目だけで開かない可能性だってある。それでも、真ん中にいるよりは端にいたほうが多少は安全であることも事実だからこの行動自体は無意味ではないけれど……

 桃色の輝きが消えるのとほぼ同時に、ホールの壁際へとたどり着く。そこから扉へと向かう一瞬の時間に魔女の方へと視線を向けてみれば、人魚の魔女はその左腕を失い、残された右腕に掴んでいる巨大な剣を振り上げていた。そして、掲げたその剣の周囲を取り囲むように現れる、無数の車輪。古風な木の馬車の車輪を思わせるそれは、人魚の魔女が剣を振り下ろす動作に応えるように、激しく回転しながら一斉に急降下して跳ね回り始めた。

 

「ッ!?」

 

 目に飛び込んで来たその光景に息をのむ。今のわたしがあんなものを受ければ、一撃で死んでしまうか、軽く見積もっても動けなくなるほどの怪我を負うのは分かりきっている。急いでこの場から脱出しなければと思い扉へと駆け寄る。そのドアノブに手を掛けるも、それは石のような冷たい感触を手に返してくる。もちろん、回したりなどはできなかった。

 悪い予想が当たってしまった事に歯噛みしながらも、どうするべきか考えを巡らせようとして、わたしはその事に気付くのが遅れてしまった。

 

「ほむら、あぶない!」

 

 いつの間にか近くに来ていたインキュベーターの警告の声。それに気付いて振り向いたとき目に飛び込んできたのは、わたしに向かってまっすぐに飛んでくる一つの車輪。

 

「きゃああああぁ!?」

 

 その光景に冷静さを失い、わたしはその場から慌てて飛び退いていた。一呼吸するにも満たないほどの時間で、飛んできた車輪が一瞬前までわたしが立っていた場所の壁にぶつかり、そしてそのまま跳ね返るとホールの中へと戻ってゆく。それを見送りつつ、驚愕に乱れた呼吸を整えながら立ち上がる。車輪は他にも多数あるのだ。ゆっくりと休んでいるような余裕なんて無い。魔法少女として戦っていた経験があったからこそかわせたけれど、魔力による身体強化ができない今のわたしがそう何度もかわせるとは思えないし、巴マミが施してくれた護りの結界も、こんな攻撃に対しては役に立たない。せいぜい使い魔の攻撃を邪魔する程度の強度しかないはずなのだから。

 

「暁美さん!?」

 

 わたしの悲鳴が聞こえたのだろう、巴マミの声が聞こえてきたけれど、彼女自身もまどかも今は暴れまわる車輪から身をかわすだけで精一杯で、こちらの手助けをしてくれるような余裕はないらしい。わたし自身は壁側に背を向けていれば、飛んできた車輪から身をかわすのは簡単ではないけれど酷く難しいわけでもない。ただしそれは、飛んできた車輪が一つだけだった場合のみ。二つ以上の車輪が飛んできた場合にかわしきれる自信は全くといっていいほど無いし、体力だってそう長くもつわけじゃない。きっと途中でかわし損ねるか、疲れて動けなくなることが目に見えている。二人が車輪を迎撃して数を減らしているけれど、ある程度数が減ると人魚の魔女は再び剣を振り上げて車輪を召喚してしまうため、いつまで経っても状況が変わらない。このままだとじり貧になるのはわかっていても、状況を打開できるような案も要素も見当たらない。

 魔女の結界の中には身を隠せるようなものが多数ある場合もあるけれど、人魚の魔女の結界に関してはそういったものが何もない。今わたし達がいる場所は中央のステージのような場所だけれど、結界内部の構成は規模の違いこそあれど劇場というよりも野球場や競技場に近いものだ。

 

「このまま、じゃ……!」

 

 焦燥が募るけれど、だからといってそれに身を委ねてしまう訳にはいかない。そんな事をすればわたし自身の身をより危険に晒すだけではなく、二人の足を引っ張ってしまう。ただでさえ他の誰かを守りながら戦うような余裕なんてない状況なのだから、ここでわたしが更に状況を悪化させるようなことをしては、完全に勝てる見込みがなくなってしまう。

 そうして、わずかではあるけれど身をかわすことから思考を逸したのがいけなかったのかも知れない。再び迫ってきた車輪から身をかわしたその先に、更に別の車輪が迫ってきていた事に気づけなかったのだから。

 体勢を崩しているわたしのところに車輪の一つがまっすぐに向かってくる。あわてて立ち上がろうとしたけれど、立ち上がった瞬間に直撃を受けてしまうタイミングだ。それでもわたしは、半ば無理矢理に体を捻ることでどうにか直撃を避けることだけは成功した。でも、壁へ衝突した轟音と共に生まれた衝撃が背中を叩く。

 

「きゃあっ!?」

 

 思わず口から悲鳴がこぼれてしまった。護りの結界のおかげか痛みはないけれど、固定されたものではないせいか衝撃などは完全に受け止めることができないらしい。紙一重で避けることは問題があると思いながら立ち上がろうとすると、左の足首から激痛が走る。どうにか声を出す事はこらえたけれど、これはまずいことになってしまった。おそらく無理に体を捻ってかわした時に、左足首を痛めてしまったらしい。少し体重をかけるだけで痛みが走るようでは、もうまともに動くこともできなくなってしまう。

 

「ほむらちゃん、大丈夫?」

 

 自分の状態に歯噛みしていると、近くでまどかの心配そうな声が聞こえてきた。その事に驚いて顔を上げれば、目の前に巴マミとまどかがわたしを守るように立っている。

 

「ごめんなさい。私の見立てが甘かったわね」

 

 一瞬だけこちらに視線を向けた後、前方を厳しい表情で警戒しながら巴マミが声をかけてくる。同様に、まどかも前を見据えていた。そして、二人の視線の先にいるのは、左腕を失った人魚の魔女。いつの間にか、車輪での攻撃は止まっている。おそらく、あれでは二人を倒せないと判断して止めたのだろう。

 

「壁を背にしていれば後ろからの攻撃は気にする必要がないし、貴女を守りながらでも戦えると思ってなんとかここまで来たんだけど……まずいわね」

 

 わたしの視線を問いかけるものだと思ったのだろう。巴マミが自分たちの行動の理由を話してくれた。けれど、その最後に表情が苦々しいものになる。

 

「大丈夫かい? あの様子だとあいつの次の攻撃は確実にこちらを潰しに来る」

 

 いつの間にかまたわたしの傍らに姿を表したインキュベーターが、そんな疑問を投げかける。内容は二人を心配しているものだけれど、こんな状況だというのに、表情も口調も相変わらず変化に乏しい。

 

「わかってる。……鹿目さん、悪いけれどとどめお願いね。準備ができるまでの間、私が足止めと妨害をするわ」

 

 数歩前に出て自身の周囲にマスケット銃を取り出しながら巴マミが言う。頷くまどかの顔が若干青ざめて見えるのは気のせいではないと思う。あの魔女は美樹さやかが魔獣に飲まれて変化したもの。それにとどめを刺すというのは友人を自らの手で殺すことに等しいのだから。けれど、魔女と化してしまった者を救う方法などないということもわかっているためか、その目に迷いは見られない。

 まどかが薔薇の弓を引き、桃色に輝く光の矢が生まれ出る。けれどそれを即座に放つことはなく、まどかの手の中でその輝きはゆっくりと強まっているようにも思えた。

 

「暁美さん、鹿目さんの後ろに下がっていて。決着を付けるわ。その為の準備ができるまでの間、絶対にやらせない……!」

 

 目を細めながら人魚の魔女を見据える巴マミの放った言葉は、私がこれまでに一度も聞いたことがないほどに決意に満ちたものだった。その目の奥に見える覚悟に、わたしは一瞬だけれど呆けてしまう。そんな彼女の姿など、一度も見たことがなかったから。

 そして、巴マミのマスケット銃が放つ最初の一撃を合図に、この戦いに決着を付けるための攻防が始まりを告げた。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 連続で響く炸裂音と共に、魔力の輝きが瞬く。

 黄色味のかかったその輝きは、巴マミの白いマスケット銃から放たれたもの。けれどそれは、一つとして人魚の魔女へとは届いていない。なぜなら、周囲に立つ使い魔たちの奏でるヴァイオリンの音にのせられて放たれた魔力波動が、壁の如く立ちはだかっているからだ。普段なら結界に迷い込んできた人間の魂を抜き取るための曲を奏でているというのに、そんな使い方もできるのだということは知らなかった。

 巴マミは先程からずっとマスケット銃を人魚の魔女に向かって撃っているけれど、一発たりとも届いてはいない。だというのに、彼女の表情に焦りの色はない。どちらかというと苦々しいととれる色が浮かんでいる。そう、それは面倒臭いとぼやく人間の浮かべる表情だった。こんな戦いの場面で浮かべるものとしてはいささか不釣合いだけれど、その理由は恐らくまどかにある。彼女の手の中にある桃色の光の矢は、生み出されたからゆっくりとではあるけれど確実に輝きを強めている。おそらく、そこに込められた魔力も同様に。たぶん、力を限界まで溜め込んだうえで放つ一撃。当たりさえすれば、たとえ防御されようとそれごと叩き潰す必殺の攻撃なのだろう。かつてのループ時にワルプルギスの夜に対して放った一撃に比べれば規模も威力もはるかに劣るだろうけれど、普通の魔女に対してであればそれでもお釣りがくるだろう。

 ただ、気になるのは、あんな戦い方をして二人ともソウルジェムの穢れは大丈夫なのだろうかという点。巴マミもまどかも、消費している魔力は決して少なくはないはず。もしジェムの穢れをほとんど除去してあったとしても、これではまただいぶ濁ってしまっていても不思議ではないと思う。グリーフシードの手持ちに余裕があるのなら問題はないし、出し惜しみが過ぎて敗れてしまっては本末転倒だ。戦う事のできない今のわたしがこんな事を考えても意味はないのかもしれないけれど、やっぱり考えずにはいられない。

 この時間軸世界では、ソウルジェムの穢れの蓄積が限界を超えたときどうなるのだろう。少し前にインキュベーターに問い質そうとして有耶無耶になってしまったけれど、今思い返してみればはぐらかされたような気もしてしまう。疑り深過ぎるのではないかという思いはある。あのインキュベーターは利点以外の部分についても話しているようだし、なによりこの時間軸世界では中途半端な想いの悩みでは魔法少女契約まで届かない。それがわかっていても、以前のインキュベーターのやり口が頭に焼き付いているせいで、どうしても全てを話していないのではないかという疑惑を拭うことができないのだ。疑心暗鬼なのかも知れないとも思うし、わたしが知っている奴とは別の存在だと頭の中では理解していても、姿が同じである以上気持ちが納得してくれないのだ。

 銃撃の音と炸裂音だけが何度も響き渡り、魔力の残滓が煙のようにうっすらと漂っている。巴マミと人魚の魔女の使い魔たちによる競合いはほとんど膠着状態に陥ってしまっていた。漂う魔力煙の向こう側で、人魚の魔女に何も動きが見られないことがとてつもなく不気味に思えて仕方がない。インキュベーターが言ったように、何かを仕掛けてこようとしているのは間違いないとわたしも思う。けれどその為の予備動作と思しきものすらも見受けられないのが警戒心を刺激する。

 

「埒が明かないわね、これじゃ。でも……」

 

 ややうんざりした呟きと共に、巴マミがこちらに一瞬だけ視線を向けた。その先にいるのはわたしではなく、まどかだ。その手の中で矢の輝きは最初よりも強く、大きくなっているけれど、二人の様子から考えると、まだ不十分なのかも知れない。それがどの程度の時間が掛かるものなのかわたしは知らないけれど、その様子に何か引っかかるものを感じた。巴マミの視線に、わずかだけれど戸惑いのようなものがあるように感じたのだ。まどかの表情にも焦りのような、困惑のような表情が見てとれる。もしかしたら、この攻撃は本来ならもっと早く準備が整うものなのかもしれない。だとするなら、人魚の魔女の結界に魔力の収束を阻害する効果があるのか、でなければまどかの心に動揺か躊躇いが残っているか。

 可能性として考えるなら、後者のほうが高い。まどかと美樹さやかは友人としてかなり親密な関係でもあった。その友人が、目の前で魔獣に食われてしまったのだから、わずかな時間でその事を割り切って考えるなんてできる訳がない。理屈ではわかっていて納得したつもりでも、気付いていないだけで本当は納得できていないなんてよくある話なのだから。そう、仲の良い友人のことを、大切に想う人のことをどうしても諦められない、時には狂気さえも孕みかねない激しい気持ちはわたしも良く知っている。

 

「まどか……」

 

 小さな声で呼びかけながら、わたしはまどかの両肩にそっと手を置いた。服越しにわずかだけれど強張っているのが掌に伝わってくる。

 

「ほむら……ちゃん……?」

 

 わずかな戸惑いを含んだまどかの声。その声をあえて流しつつ改めてまどかに声をかける。

 

「もう少し肩の力を抜いて。力みすぎてたら上手くいかないわ」

 

 肩の力みを指摘した後、美樹さやかの話を切り出すと、案の定まどかは肩をびくりと震わせた。やはり心のどこかで割り切れていないのだろう。赤の他人ならばまだしも、親しい友人だったのだから当たり前だ。まどかかが死ぬ世界を認められずに足掻き続けたわたしにはこんなことを言う資格は無いのかもしれないけれど、今は状況を好転させる事が最優先。このまま負けてしまっては意味が無いし周りへの被害が大きくなってしまう。だからわたしはまどかに語りかけた。美樹さやかは魔女と化してしまったけれど、その為に無関係な人々に被害を出してしまう事を彼女は決して望まないだろうと、戦いの場には似合わない穏やかな声で諭すように。かつて、あなたの破滅する姿をまどかに見せたくないと語って美樹さやかを手にかけようとした時と同じ仮面を被りながら。

 

「今ならまだ、彼女は人としての終わりを迎えられる。でも、もし一人でも手にかけてしまったらそれはできなくなる。だから……」

 

 途中で、言葉に詰まる。話を続けようとしても、どうしてもそこから先を口に出す事ができなかった。まどかほどではないけれど、わたしにとっても美樹さやかは友人なのだ。相性の良い友人とはいえなかったけれど、今になって思い返せばわたし自身の対応の失敗が招いたものだったようにも思う。少なくとも彼女は、自分が認めれば受け入れてくれる人間だった。うまくいかない事が多かったのは彼女の性格の問題だけではなくて、わたしが彼女自身を理解しようとはしていなかった事、一ヶ月という時間の制約に心のどこかで焦りを感じていた事、やり直しがきくのだからという驕った考えがどこかにあった事、考えられる要因はいくつもある。そして、これは学校でのやり取りのときにも感じられた事だけれど、わたし自身が焦りのために周りを見ようとしていなかった事。最も大きな理由はわたし自身に起因するものだった。

 

「……ありがとう。さやかちゃんのために泣いてくれて」

 

 まどかの言葉にわたしは一瞬呆然として、そして気付いた。知らず知らずのうちに涙を流していた事に。この涙が本当に美樹さやかの死を悲しんで流したものなのか、自分でもわからない。けれどこの時間軸世界でようやく結べた彼女との穏やかな関係はとても短いものだったけれど、間違いなく友人だったと断言できる。

 

「でも、ほむらちゃんの言うとおり、さやかちゃんはこのままじゃずっと苦しみ続けなくちゃいけなくなる。魔女になっちゃったさやかちゃんを助けてあげる事はもうできないけど、せめてその苦しみを私たちで終わらせてあげよう?」

 

 視線だけをわたし向けて問いかけるように語るまどかは、とても穏やかな表情を浮かべていた。その目の端に浮かぶ涙が彼女のどんな思いによるものなのかはわからないけれど、心に残っていた迷いを断ち切ったのは間違いないようだ。

 

「ちょっとおおおおぉぉぉ!?」

 

 次々とマスケット銃を持ち替えて撃ちながら、巴マミが叫び声をあげる。相変わらず人魚の魔女の使い魔が放つ魔力波動に攻撃をかき消されてしまっているようだけれど、手を休めずに攻撃してるおかげで使い魔もまた反撃をしてきてはいない。だというのに、その叫び声に含まれた焦りに惹かれるように前方へと顔を向けてみれば、人魚の魔女が残された右手に握った剣を大きく振りかぶっていた。その刃に、蒼白い輝きを湛えながら。

 

『!?』

 

 その光景に、二人揃って言葉を失った。直前までしんみりとしていたけれど、それにかまけすぎて攻撃のタイミングを逸してしまったらしい。戦いのさなかである事を一瞬であっても忘れてしまった自分自身を悔いながらも、わたしはまどかに対して頷いて見せた。それに応えるように、まどかの手の中にある桃色の輝きが一際大きなものへと変化していく。でも、これでは間に合わない。人魚の魔女は既にその剣を振り下ろそうとしている。接近してこない点から考えても、おそらくは斬撃を飛ばすタイプのもの、そしてわたし達全員をまとめて薙ぎ倒せるだけの威力がある可能性が高い。でなければこの場面で使ってくる事など考えられない。そして、まどかの弓が放たれるよりもわずかに早く、人魚の魔女の剣が振り下ろされた。

 それは蒼白い輝きを伴う暴風にも等しい魔力の奔流。まどかと巴マミの二人はともかく、今は生身の人間であるわたしがまともに受ければひとたまりもないだろう。そう諦めかけていた。まどかも巴マミも、遠距離攻撃型のためか広範囲を守る手段を持っていない。わたしが知る限りでも、広い範囲を守る事のできる手段を持っていたのは佐倉杏子ただ一人だった。わずかに遅れて放たれたまどかの攻撃が人魚の魔女を貫いている光景は目に入っていたけれど、一度放たれてしまった攻撃は止まらない。右腕に握られていた剣の剣閃に沿うように放たれた斬撃は、何かを行おうとしていた巴マミを掠めるようにして、まっすぐにわたし達に向かって飛んでくる。まどかの最初の一撃が意図したものであったのかはわからないけれど、あわてて第二射を用意しようとしていたところから、人魚の魔女の攻撃を迎撃しようとしたのかもしれない。

 

「……っ!」

 

 今のわたしにはアレを防ぐ手段も回避する手段もない。魔力による身体強化だけでも可能なら、まだまどかを抱えてとっさにかわす事もできたかも知れないけれど、それはかなわないこと。魔法も使えず、身体能力も一般人にすぎないが故に、わたしの中に残された記憶と経験がもう間に合わないと冷徹に告げてくる。

 

「しまっ……!?」

 

 巴マミの焦った後悔の声が聞こえてきたのとほとんど同時だった。右側から何かがぶつかってくる衝撃と、「ったく……」というぶっきらぼうな呟きが聞こえたのは。そのまま宙に持ち上げられる感覚と、ほんのわずかに遅れて衝撃と共に轟音が鳴り響く。一秒でも遅ければ、まどかもわたしもあの攻撃に飲み込まれていたのは間違いない。けれど、今はそれよりもわたし達を助けてくれた存在により大きな驚きを感じていた。赤い胸元の開いたノースリーブのドレスコートにロングブーツ。長い赤味がかった髪をポニーテールにしているその少女は、八重歯を覗かせてどこか猛獣を思わせるような獰猛な印象の笑みを浮かべている。

 

「あなたは……」

 

 思わず、口から呟きがこぼれる。けれど、彼女はそこに含まれたわたしの驚きに気付かなかったのか、着地した後に視線を一瞬だけこちらに向けると、わたし達から手を離した後にそのまま巴マミに歩み寄った。

 

「佐倉……さん……?」

 

 呆然としたその呟きが、彼女の驚きを物語っている。けれど、呆けている場合ではないと気付いたのだろう。すぐに表情を引き締め、再びマスケット銃を生成する。

 

「普段なら他人のシマで戦いの最中に乗り込んだりしないんだけどさ。流石に病院で続けて魔女が出やがったら無視もできないから来てみれば…… ずいぶんとらしくないじゃないか」

「……話は後よ」

 

 どこか小馬鹿にしたような響きのある佐倉杏子の物言いに対して、巴マミは返答せずに魔獣の掃討を促した。まどかによって人魚の魔女が倒されたために結界の形が崩れ始めている。結界内部の光景と残された使い魔たちの姿が溶けるように消えていき、くすんだ白い空間へと変わる直前に見えたのは、コンサートホールの中央に一体だけ佇む使い魔の姿。それは他の使い魔のようにヴァイオリンを奏でることもなく、ただ一人で孤独に佇んでいる。けれど、それが見えたのも一瞬のこと。崩れて消えていく光景に飲み込まれ、最後は何も無い空間へと変化する。

 

「さやかちゃん!?」

 

 突然、まどかが悲鳴のような声を上げた。その視線を追いかけてみれば、横たわる美樹さやかの姿と、それを取り囲むように出現した十体を超える魔獣の姿。

 

「美樹さんっ!?」

 

 思わず、わたしも声を上げてしまう。全く身動きせず、青ざめたその顔は生きているなどとはとても言えないはずだけれど、もしかしたらという気持ちがわいてくることを抑えられない。何もできず、駆け寄ることすら許されない今の自分が情けないけれど、こればかりはどうしようもない。下手に前に出れば、わたしが魔獣の餌食になるだけなのだから。

 轟く銃撃の音と共に黄色い輝きが数体の魔獣を消し飛ばす。わずかに遅れるように、まどかも弓を放ち、残された魔獣たちはまどかと巴マミの手によって掃討された。

 ゆっくりと、周囲の光景が変化を始める。そしてそれに合わせるかのように、駆け寄ったわたし達の目の前で美樹さやかの肉体は、砂が崩れるかのように崩壊してゆく。

 

「これ……は……」

 

 その光景にわたしは無意識に呟きをこぼしていた。そして、目の前で起きていることを信じたくない自分がいることを自覚する。

 

「それが、魔獣に飲まれた人の末路よ…… 大抵は魔女を倒しても肉体が原形を残したままなんて事ないんだけれど、魔女に変じてから倒されるまでの時間が短かったから、綺麗なまま残ってたのね」

 

 巴マミの説明を兼ねたその言葉は、心に酷く強烈な痛みを残して流れていった。喉の奥から苦々しいものがこみ上げてくる。どうにもならないことだとわかっているけれど、だからこそ悔しくて仕方がない。出会ったその時にもう少し早く気がついていれば、もしかしたら助けられたかもしれない。仮定の話は意味が無いとわかっていても、その考えをどうしても振り払えない。

 

「さやかちゃん…… ごめんね、助けてあげられなくて。もう少し早く気付いてたら、助けてあげられたかも知れないのに……」

 

 あふれる涙を拭うこともなく、まどかは崩れて消えてゆく美樹さやかの肉体へと語りかけていた。意味のないことだと理解しているはずだけれど、だからといってなにもしないままというのは納得できないのだ。そして、後悔しているのは私も同じ。

 

「……もう少し早く行動を起こしていれば、助けられたかも知れない。だから、許して欲しいなんて言わない。こうなってしまった責任の一端は、わたしにもあるはずだから」

 

 俯いたまま、小さな声で語りかける。ここにいる美樹さやかは魂のない抜け殻で、今目の前でその形を失いつつある。だから、今のわたしの行動は意味のないただの自己満足。そうわかっていても、謝罪しないという選択肢は最初から存在していない。

 

「おい……あいつら……」

「ええ。彼女たちは友人だったのよ…… そして、美樹さんと、もう一人の暁美さんはどちらも候補者だった……」

 

 すぐ後ろから聞こえてくる会話が少し気になるけれど、今はそれについてどうこう言うような気分でもない。まどかと二人、無言のままでその姿を失ってゆく美樹さやかに黙祷を捧げる。魔獣に飲まれて魔女と化した者の魂がどうなるのかはわからない。けれど、こんな最期を迎えてしまった彼女が、せめて安らかに眠れることを願わずにはいられない。

 

「さよなら、さやかちゃん……」

 

 まどかの別れのつぶやきとともに、美樹さやかの身体は着ていた服も含めて全て砂のように崩れ去り、消え去る結界に呼応するように光の粒子となって散り消えていく。そして完全に結界が消えて元の病院の場所へと戻った時、そこに美樹さやかは存在しない。事実を知るわたし達も、その事を誰にも話せないし、話した所で信じてもらえるような内容でもない。これから彼女は行方不明者として処理されることになるだろうけれど、その事について聞かれても、わたし達は全て知らぬ存ぜぬで押し通さなければならない。

 

「……ッ」

 

 白くなるほどに手を握りしめ、唇を噛み締めながら声を出すことを堪える。そうしなければまどかと一緒に声を上げて泣いてしまいそうだった。わたしは自分で考えていた以上に、美樹さやかを友として受け入れていたらしい。その事に今になって気づくだなんて、自分のことながら呆れてしまう。

 ふと、肩に触れられた感触に顔を上げれば、巴マミがまどかとわたしの肩に手を置いて小さく笑みを浮かべていた。それが引き金になったのか、まどかは巴マミの胸にすがりつき堪えるようなすすり泣きを始めてしまった。

 

「うあ……あ……ひぅ……ひぐっ…………」

 

 すがりついてきたまどかを胸に抱きながら、彼女はなにも言わなかった。慰めるでもなく、ただまどかのしたいようにさせている、そんな印象だったけれど、そこに横槍が入る。

 

「……先に他の場所に移動したほうが良くないか? 人間が少ない場所とはいえ病院の一角なんだから、誰に見られるかわかんないぞ」

 

 それまでなにも言わずにこちらを見ているだけだった佐倉杏子がそんなことを言う。空気を読んでいないかのようなタイミングではあるけれど、内容は正論だ。そして、その言葉を聞き終えた瞬間に、まどかが巴マミの胸から飛び離れ、頬を赤くしながら涙を拭う。

 

「確かに、いつまでもここでこうしているわけにもいかないわね。一度私の家にでも行きましょうか」

 

 巴マミのその言葉に従い、わたし達は見滝原総合病院を後にした。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 前を歩く巴マミと佐倉杏子の二人に視線を向けると、互いにいがみ合いながらもそこには険悪な雰囲気のないじゃれあいのような光景が飛び込んできた。どちらも気付いていないようだけれど、それは仲の良い姉妹の喧嘩のようにも見えて、どこか微笑ましいものに映る。隣を歩くまどかも笑いをこらえているのがわかる。

 見滝原総合病院を出てから、わたし達は巴マミの家に向かっていた。今回の事、これからの事、いくつも話さなければならないことがあるから。

 佐倉杏子は最初、見滝原総合病院を出るなりどこかに行こうとした。それを引きとめ質問をしたのは他ならぬ巴マミ自身だった。魔女と魔獣の対応に関しての意見の食い違いからあまり仲が良くないと言われることも多いけれど、その実この二人は良く似ていると思う。結局のところ見ている範囲が違うだけで考え方そのものはそれほどかけ離れてはいないのだ。詳しい経緯は知らないけれど、佐倉杏子が魔法少女になったばかりの頃、巴マミに師事していたことがあると聞いている。父親の一件があるまでは、二人の関係は良好だったのではないだろうか。巴マミの行動方針は、方向性の違いこそあれ佐倉杏子の父親と同じ信念に基づくものだ。二人の出会いの形がどんなものであったのかはわからないけれど、憧れや敬愛の念があって教えを乞うたのだとしてもおかしくはない。近接戦闘主体で幻惑系魔法を使う佐倉杏子と遠距離戦闘主体で拘束系魔法を使う巴マミはきっと良いコンビだったのだろう。戦闘スタイルと能力のバランスもそうだけれど、当時の二人は同じ信念で肩を並べて戦っていただろうから。

 不意に、前を歩く二人の喧嘩の声が途切れる。思考を中断して再び視線を向けてみれば、そこには不貞腐れたような表情であらぬ方向に顔を向けている佐倉杏子と、呆れたような困ったような微妙な表情の巴マミがいた。それを見て、わたしは自分の感じていた事が間違いではないと判断した。

 父親と家族を含めた他者のために奇跡を願い、結果として自分自身のためだけにその力を振るうようになった佐倉杏子。

 自分自身の命を繋ぐために奇跡を願い、その罪悪感から他者を救う事のためにその力を振るうようになった巴マミ。

 やはりこの二人は、互いが互いを映し出す鏡のような関係だ。余計なお節介かもしれないけれど、きちんと和解できればきっと良い友人に戻れるのではないかと思う。対人関係でいくつも失敗してきたわたしが言えたことではないのだろうけれど……

 

「……?」

 

 巴マミの住むマンションに近づいたとき、視界の隅に何か黒いものが映った気がして、何気なくその方向を見て、そして目に飛び込んできた光景にわたしは絶句した。場所は見滝原中央公園のあたりだろうか。その上空に浮かぶ、巨大な黒い立方体。それが何であるのかは考えなくてもわかる。

 

「ほむらちゃん……?」

 

 急に足を止めて呆けているわたしに気付いたのかまどかが声をかけてくる。けれど、見ている光景に衝撃を受けているわたしはその事に気付かなかった。返事を返さないわたしを疑問に思い、視線を追いかけたまどかも言葉を失う。見滝原上空に巨大なグリーフシードが浮かんでいる光景は、それほどに衝撃的なものだった。

 

「なんだ……ありゃ……?」

「なに……あれは……」

 

 わたし達の様子に気がついた巴マミと佐倉杏子の二人も同様に驚愕している。今ここにいる四人全員が、自身の目で見ている光景が何であるのかの理解が追いついていなかった。誰も見たことがないのだ、このような現象は。

 

「……キュゥべえ?」

 

 巴マミが表情をひきつらせながらインキュベーターに疑問の声を投げる。けれど、その返事は即座には返ってこなかった。

 

「すまない。僕もあんなものははじめて見るから答えられない。調べてみる必要があるだろうけれど……」

 

 普段なら淡々としながらも澱みなく答えてくるインキュベーターが、歯切れの悪い答えを返してくる。表情こそ変化しないものの、その声にはわずかに困惑があるようにも聞こえる。おそらくは彼にとっても予想外の出来事なのかもしれない。

 それにしても、あの巨大なグリーフシードは一体なんなのだろう。もしあれが魔獣として孵化すれば、どれほどの被害が出るか。考えただけで背中に冷たい汗が流れる。周りを見てみれば、他の皆もわたしとあまり変わらない心境のようだ。巴マミと佐倉杏子は顔をひきつらせながら冷や汗をかいているし、まどかは未だに立ち尽くしている。インキュベーターも巨大なグリーフシードから視線を外そうとしない。ここには、あれの危険性を理解できない者は一人もいないのだ。だからこそ、誰一人としてすぐには行動に移せなかった。

 

「……こうしてても仕方がないわ。不用意に近づくのは危険でしょうけど、遠くから見てるだけじゃ何もわからないし、様子を見ながら少しずつ近づいてみましょう」

 

 巴マミが行動の提案を出してくる。内容は消極的なものだけれど、これは仕方がないだろう。放置するわけにはいかず、だからといって不用意に近づけばなにが起きるかわからないのだから、情報収集のためにも様子を見ながら近づくという判断になって当たり前だ。もちろん、すぐ近くまで接近できたとしても触れたりなどするわけにはいかない。

 日の暮れはじめた街の空に浮かぶ巨大なグリーフシード。誰の目にも見えるようなものであったなら今頃は大騒ぎになっていてもおかしくはなかったと思う。現状で見えているのは、おそらくわたし達だけではないだろうか。もしかしたら他にも見えている人間がいるかもしれないけれど、いたとしても事情を一切知らないのだから、見えていてもその事を口にしようとはしないだろう。他の人達に信じてもらえるはずもないし、しつこく口にすれば病院に連れて行かれることになるのが目に見えているのだから。

 

「しっかし……なんだよ、ありゃ」

 

 佐倉杏子が口にした疑問は、この場にいる全員の疑問でもある。だからこそ調べようとしているのだ。彼女自身も返事がないことなど承知の上でのことのはず。何かしら喋っていないと不安で仕方がないのだろう。

 

「わからないけれど、あれをそのまま放置したら大変な事が起きるのは間違いないわ。それと、どれだけ近くまでいけたとしても、絶対に触れたりしてはダメ。近づいている途中に何か動きがあったら即座に撤収。いい?」

 

 佐倉杏子に応えつつ、巴マミが行動方針の確認をしてくる。わたしもまどかもその内容に異論はない。佐倉杏子は巴マミが場を仕切っている事が気に入らないのか不機嫌そうな表情をしていたけれど、内容自体に文句はないらしく、小さな声で「……ああ」とだけ言って黙ってしまった。

 わたしが一緒に行くことに関しては反対されると思ったけれど、意外なことに何も言われなかった。巴マミに関しては説得は無理だと諦めたのかもしれないけれど、佐倉杏子が何も言わない事が不思議だった。足手まといだのお荷物だのと言われる事を半ば以上覚悟していただけに、肩透かしを食らってしまった。ただ、何も思うところがないというわけではないらしく、時折こちらに視線を投げてきているのがわかる。多少気にはなるけれど、おそらく互いに納得できる話などできないだろうからこれでいいのかもしれない。もしかしたら巴マミが同じような事を考えて佐倉杏子に釘を刺したのかも知れないけれど。

 おしゃべりをしながら歩いているように見せて、迂回しつつ近づいていく。空が完全に暗くなれば、この巨大なグリーフシードはほぼ見えなくなってしまうだろう。街の明かりや星が見えなくなるから、そこにあることがわからなくなるようなことはないけれど、全容を把握するのは難しくなる。短い時間では期待できないとは思うけれど、ほんのわずかでも何かしらの情報が得られれば御の字だろう。

 

「それにしても……なぜ急に、それもあんなに大きなグリーフシードが現れたんでしょうか……?」

 

 不安に瞳を揺らしながら、まどかがポツリとつぶやいた。誰に対しての問いかけなのかわからないけれど、口調から巴マミへのものではないかと推測する。そして、それは巴マミ自身も同じ考えであったらしい。

 

「わからないわ……キュゥべえもあんなのは見たことがないみたいだし……」

「グリーフシードじゃなくて魔獣が原因なら似たような現象はあるんだけどね。ただ、それが発生するほどあの公園は瘴気が濃い場所じゃないし、いくつもの偶然が重ならないと発生しないような稀なものだ。関連は薄いと思う」

 

 インキュベーターの発言に多少引っかかるものを感じるけれど、今は追求している場合ではない。何もわからないならわからないですぐにここから離れなければならないのだ。むしろ何も起きて欲しくないとさえ思っている。それだと進展が何もないけれど、何の準備もないままに危険を冒す必要がなくなるのだ。どちらにも一長一短があるし、状況によっては悠長な事は言っていられなくなってしまうだろうけれど、まどか達にはできるだけ危険は冒して欲しくないし、わたしも冒したくはない。

 何も知らないまま生活している町の風景の中、巨大な黒い物体が浮遊している光景は酷く現実離れした歪なものに見える。それでいて何も起きていない今の状況は、嵐の前の静けさなのだろう。もし状況が動く事になったとき、それは酷く大きなものとなるのかもしれない。

 

「これは……」

 

 先導するように歩いていた巴マミが立ち止まる。上げられた声には驚きとも戸惑いともとれるものが混じっていた。その事を疑問に思い、わたしは考えていた事を一時棚上げして前方に視線を向ける。

 

「……!」

 

 そうして目に飛び込んできたものに、わたし自身も声を上げる事こそしなかったものの、それが何かを理解する事を頭が拒否して思考が停止するのを自覚していた。

 

「げ……」

「なに……これ……」

 

 まどかも佐倉杏子もわたしと同じような心境なのか、あからさまに顔をひきつらせている。インキュベーターは相変わらず表情に変化がないうえに無言のままなのでわかりにくいが、普段であればそれなりに動かしている尻尾が止まっているあたり、彼なりの驚きを感じているのかもしれない。

 それに気付いたのは偶然の産物だった。日が暮れ始めていたことはわたし達にとって幸運だったのかもしれない。何故なら、夕焼けに染まり始めた太陽がグリーフシードの影に差し掛かったときに透けるように抜けてくるわずかな陽光に気がついたからだ。それを目にした事を疑問に思い、目を凝らして前方で浮遊する巨大なグリーフシードを観察して、その実態を全員が把握したのだ。

 目の前まで行けば嫌でも気付いていただろうけれど、ある程度距離があるうちに気付けたのは僥倖だったと思う。もし目の前まで接近した状態で何かしらの動きがあれば、きっと撤退する余裕なんて無いまま襲われて終わっていたかもしれないのだから。

 差し込んでくる夕陽にその身を晒しながら鎮座する巨大なグリーフシード。それは単一の物体ではなく、夥しい数が寄り集まって一つの巨大な物体に見えている代物だった。それは数十や数百などという数ではなく、少なく見積もっても数千、もしかしたら数万にも及ぶかもしれない。もしこれが一斉に魔獣として孵化するような事があれば、などと考えると背筋を冷たいものが流れ落ちていく。

 

「………………ねぇ、キュゥべえ?」

「悪いけど、さすがにこれは僕たちの処理能力の限界を超えてる。それに少しずつ処理しようにも下手に手を出して刺激するとなにが起きるかわからないから迂闊な事もできない」

 

 重く長い沈黙の後に発した巴マミの問いかけに、インキュベーターは即座に否定の言葉をもって応対した。おそらく理屈の上では絶対に不可能というわけではないのだろうけれど、それを実行するためには世界中に散らばっている個体全てをこの場に呼び集めなければならないのだろう。現実的に考えれば実行不可能であるだろうし、可能だとしても準備ができるのを待っている時間的な余裕が無い可能性も高い。

 

「けどよ、このままにしとくわけにも……」

 

 抗議の声を上げようとした佐倉杏子の言葉が尻すぼみに消えていく。おそらくは何もいい案が浮かばなかったのだ。そして、この場にいる誰もが同じ事を考えて、結局何も思い浮かばないまま沈黙している。何か行動しようにも不確定要素が多くてリスクが高すぎるうえ、なにか動きがあった場合には、ほぼ間違いなく状況が悪化する事が容易に想像できる。貨物コンテナに匹敵する大きさの巨大なグリーフシードが、実際には多数のグリーフシードが寄り集まったものであるという事実は、酷く重いものとしてわたし達の中にのしかかっていた。

 

「……え?」

 

 全員が言葉も無く立ちすくむ中、唐突にまどかが呟きをこぼした。それは疑問と戸惑いを含んだ、困惑の声。

 

「まどか?」

 

 様子のおかしいまどかに呼びかけるも、こちらの声が聞こえていないのか反応を示さない。わたしだけではなく他の皆がその様子に怪訝な表情を向ける中、まどかは視線をさまよわせながら両耳をふさぐかのように頭を抱えてよろめいていた。顔を青ざめさせて肩を震わせているその姿は、わたしたちにはわからない何かが起きている事を示している。けれどまどかにはわたし達とは別の光景が見えていて、こちらの声も聞こえていない事が伺える。

 

「鹿目さん!しっかりして、鹿目さん!」

 

 巴マミが肩をつかんで呼びかけるものの何も反応を示さない。俯いたまま戸惑いの声をこぼし続けている様子から考えてもそれがまともな事ではないとわかる。何が見えて、聞こえているのかまではわたし達からはわからないけれど、よほど凄惨な光景が見えているのか、まどかは泣き出しそうな表情で取り乱していた。

 

「何……これ……そんな……駄目……駄目えええぇぇッ!!」

 

 何かを止めようとするかのような声が絶叫に変わる。その姿はあまりに痛々しく、直視する事をためらわせるほどのものだ。まどかに見えているものが見えていないわたし達にはそれがどれほどのものなのかわからない。そんなまどかの様子を見ながら、わたしは泣きたくなるのを必死になってこらえていた。

 まただ。戦う事ができないのなら、それ以外のところで少しでも助けになることがあればと思っていたけれど、見ていることしかできないことのほうが多い。今だってそうだ。まどかが苦しんでいるのに、助ける事も原因を突き止めることもできない。手を握ったり抱きしめてあげる事はできるけれど、今のまどかには届かないような気がする。それでも、そのぬくもりが何かの切っ掛けになれば状況が変わるかも知れない。気休めにもならないかもしれないし、ただの自己満足に過ぎないかもしれない。それでも、何も行動を起こさずに見ているだけなんてできないのだ。

 

「まどかっ!」

 

 わたしは取り乱しているまどかに近づくと、強い調子で呼びかけながら思い切り抱きしめた。けれど、予想していた通り反応はない。わずかでも身を強張らせるようなことがあれば少しは気が楽になったかもしれないけれど、そのことを嘆いても意味は無い。

 突然のわたしの行動に、巴マミも佐倉杏子も若干引いている。二人にどう説明しようかという考えが脳裏をよぎるのと同時に、何かに引かれるように意識が遠のいて行くのを自覚する。

 身体の感覚が曖昧になり、見ている光景の現実感が薄れていく。視界が白く塗りつぶされ、上下の感覚さえも曖昧なものになる。それは立ちくらみをおこしたときの自覚症状に良く似ていた。そして、それに抗う事もできないままにわたしの意識は闇に閉ざされる。疑問も不安も、何もかも飲み込んで。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 気がついて、一番最初に目に飛び込んできたのは酷く凄惨な光景だった。

 数人の男性が、縄で拘束された少女一人を相手に暴行を加えている。中には腕の太さほどもある棒を構えている者さえいた。

 暴行を受けている少女には、別段おかしなところは見受けられない。平凡なごく普通の少女にしか見えなかった。少女は耐えるように蹲り背中を丸めているけれど、意識があるのかどうか怪しい感じがする。胸が多少上下している様子から生きてはいるのだろうけれど、このままでは殴り殺されても不思議ではない。

 そこまで考えて、違和感に気付く。周りの景色も、目の前にいる人たちの服装もどう見ても現代のものには見えない。どれほど昔かまでははっきりとはわからないけれど、中世のヨーロッパあたりの農民のものではないだろうかと思う。衝撃の強すぎる光景に気付くのが遅れてしまったけれど、これは夢のようなものらしい。とはいうものの、これが普通の夢であるはずが無いとも思う。

 わたしはあの不可解なグリーフシードの集合体がが現れた公園にまどかや巴マミたちといたはずなのだ。けれど、まどかの様子がおかしいことに気づいてその身体に腕を回してからの記憶がない。意識が遠のいていったところまでは覚えているけれど、そこからこんな光景を見せられているのだから、状況的に無関係だとも思えない。

 考えている間にも目の前の状況は止まらずに動いていき、少女は木で組まれた台座の上に縛り付けられてしまった。その足元に細かい樹の枝や藁の束が重ねられていくのを見て、それが何を意味するものかにも気づく。

 あれは、火炙りだ。拘束された者を晒し者にして焼き殺す残酷な処刑法。それが村人の手で行われているということは、これは魔女狩りの光景なのだろうか。キリスト教の異端審問によって行われたと勘違いされることの多い魔女狩りだけれど、その実態は当事者の村人による私刑がほとんどだったらしい。理解出来ない技とそれを使う人間に恐怖を覚え、魔女のレッテルを貼って排除することで安心しようとする。今も昔も、人間の内面はそれほど大きくは変わっていない。

 幾人もの村人達の前で火をかけられ燃え盛る炎の中で、少女は最初何かを訴えようとでもする素振りを見せていたけれど、やがてそれすらも諦めたのか俯いて動かなくなってしまった。焼かれる熱さも痛みも感じなくなってしまったのか、服も燃え始めているというのに気にした素振りさえ見せなくなってしまったのだ。熱気のせいでまともに呼吸もできてはいないはずなのだから、すでに息絶えてしまっていてもおかしくは無い。目の前で起きている出来事が夢のようなものに過ぎず、実際に目の前で行われているわけではないと理解しながらも、見ていることしかできないという状態が酷くもどかしい。そう、現在進行形でおきている事態ではないとしても、過去に起きた悲劇の一つである可能性は高いのだから。

 燃え落ちる少女の服の間から、何かが彼女の足元に転がり落ちた。完全に見ていることしかできない代わりに、何をしようと一切干渉することの無い今の状況を利用して近づいてみる。熱さを感じる事は無いけれど、それでも燃えている炎の中を覗き込むのは躊躇われた。それに、奥まで覗き込まなくてもかろうじて落ちたものを判別する事もできた。

 そこにあったのは寄り添うようにして転がっているソウルジェムとグリーフシード。ソウルジェムはもともと青い輝きを発していたのだろうけれど、それは今急速に濁りを溜めている。こんな状況では無理もないだろう。

 グリーフシードは黒い結晶体状のものではなく、金属の装飾が施されたかのような、ソウルジェムから変化するわたしの良く知るモノ。魔法少女が魔女へと堕ちる際に変化する、おぞましいモノ。二つ並んだそれは、内部に濁りを、闇を、急速に湛え始めている。

 これはもう、保たない──

 そんな考えが脳裏をよぎったときだった。わたしの耳にその声が飛び込んできたのは。

 

「……ぁ……は…………」

 

 それまで聞こえていた、録音されたかのような実感のない声や音とは異なる、生々しい感情のこもった声。それは目の前の、すでに息絶えてしまったと思っていた少女の口からこぼれている。まともに呼吸もできず声を発する事もできなくなっているのかほとんど言葉にすらなってはいなかったけれど、それは笑い声にしか聞こえなかった。俯いていて表情は見えなかったけれど、肩がかすかに揺れているように見えるのは気のせいだろうか。そんな疑問を抱きながら何気なく村人達のいる方向へと視線を向ける。そして、そこに渦巻いているものに恐怖した。そこにいる人達が浮かべている表情は、理解できないものに対する恐怖だけではなく、それが今受けている仕打ちを当然のものとして受け止め、その姿に溜飲を下げている嘲笑と侮蔑の色。その事実に、当時の村人達はおそらく気付いていない。村に害をなすものを打倒したという程度の認識しか持っておらず、意識しないまま心が悪意に塗りつぶされていることにも気付いていない。

 それは自衛の行動であると同時に、人間の持つ最も醜い面の一つでもある。人の心は虚ろいやすくほんのわずかな切っ掛けでも揺れ動くもろいものだ。

 詳しい状況はわからないけれど、村の人間のなかに魔女に襲われている者がいたのだろう。そして、火刑にされている少女が魔法少女の力を使ってそれを撃退した。けれどどういった経緯かは不明ながらその事を村の者に知られ、魔女と思われてしまった。

 おそらくはそんなものなのだろう。何も知らない、冷静に物事を見ることができない状況の人間の目から見れば、魔女も魔法少女もたいした違いがあるようには見えないだろうから。事実、使う力の性質が真逆なだけで基を同一とする存在である事は事実であるのだし、その認識は間違ってもいないのだろうけれど。

 そうしているうちに少女の青いソウルジェムは臨界を迎え、形を変えながらもう一つのグリーフシードと共に闇を吐き出す。わたしはそれを酷く冷静なまま見つめていた。見ていることだけしかできない、動画のようなものでしかないと考えていた事が大きいけれど、そんな自分自身に驚いてもいた。

 噴き出した闇が形をとり始める前から、上空には暗雲が生まれて突風が吹き始める。それは焼かれてる少女がいる場所を中心に流れるように渦を巻き、生まれた暴風は周囲にあるもの全てを薙ぎ払う。異常に気付いて逃げ出した村人達も、周囲にある家屋や生い茂る木々など、ありとあらゆるものを蹂躙して破壊する。少女のいた場所から噴き出した闇は暴風の動きに合わせるように膨れ上がり、ゆっくりとあるものの姿を形作ってゆく。

 巨大な歯車と、そこから吊り下がるような形の青いドレスを纏った出来の悪いヒトガタ。その顔には目も鼻も無く、歪に描かれた口だけがある。

 それはわたしが知る姿と比べてかなり小さなものではあったけれど、間違いなく同じもの。かつて魔法少女だった者達の残滓たる影を道化の使い魔として従えながらも、自らが道化だと気付かぬままに踊り続ける逆しまの魔女。

 目の前の光景に驚き、呆然と立ち尽くす中、笑い声がこだまする。自分自身をも含めた全てを嘲笑うかのような狂笑の声。それを最後に、わたしの意識は唐突に闇の中へと閉ざされていた。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 ぼんやりとした意識の中、闇が晴れ思考が覚醒する。

 

「……ん……! あ……さ……!」

 

 まだ完全は目が覚めていないせいか、わたしに呼びかける声が聞こえるものの、その内容までは聞き取れない。この声は、巴マミだろうか?佐倉杏子以外には彼女しか無事な人間はいなかったのだから間違いはないはずだけれど、その声にはどこか必死な響きがある。命に関わるような怪我をしたわけでもないのだから、そこまで悲壮な声を出さなくてもいいのではないかと疑問に思うほどだ。

 

「ん……っ……」

 

 いつまでも倒れたままでいるわけにもいかないので、今気がついたかのように振舞って身体を起こす。実際には少し前に気がついていていたけれど、意識がはっきりしていない部分もあったのでこれでも間違ってはいないはず。

 

「よかった、気がついたのね」

 

 泣きそうな表情で巴マミが問いかけてくるけれど、今はそれを気にしている場合ではない。

 

「……まどかは?」

 

 わたしの問いかけにつられるように巴マミが視線を向けた先を見れば、まどかが目に涙を溢れさせながら呆然とへたり込んでいた。声も無く、涙を拭う事さえもしないその様子は、悲しみの折り合いをつけられずに身動きの取れなくなっている人間の様子そのものだ。わたしが意識を失う前の様子を考えても、同じように酷い光景を見ることになっていたのかもしれない。その内容が同じものではない可能性もあるけれど……

 

「ほむら……ちゃん……?」

 

 わたしの問いかけの声が聞こえたのか、恐る恐るという雰囲気でわたしの名前を呼びながらまどかがこちらに視線を向けてきた。その問いかけに応えるように小さく首を傾げて見せると、突然彼女はわたしに抱きついてくる。

 

「え……ちょ……!?」

 

 しがみついてわたしの名前を何度も呼びながら泣きじゃくるまどかは、幼い子供がはぐれた親とようやく出会えた時のような雰囲気を漂わせていた。でも、これほど取り乱すなんてただ事ではない、と思う。期間は短いかもしれないけれど、曲がりなりにも魔法少女として魔獣や魔女と戦い抜いてきた経験があるはずなのだから、よほどの事が無い限りここまで心乱すことは考えにくい。

 可能性があるとすれば、正体不明のグリーフシードの集合体に近づいたときに起きた、あの発作のようなもの。あの時のまどかは実際に見えているはずの景色とは違う何かを見ている様子だった。だからこそわたしと同じように何か見たのかもしれないと思ったけれど、この様子だととても聞きにくい。

 結局、まどかが平静を問い戻したのは十分ほどたってからのことで、巴マミが一度なだめながら声をかけようとしたけれど、泣きじゃくっているまどかの様子にやはりためらってしまったのか、困り顔をしながらわたしに視線だけで謝ってきた。

 

「……まどか…………」

「ほむらちゃん……生きてるよね? ……ここにいる……よね……?」

 

 目を真っ赤に泣き腫らして愚図りながらわたしの問いかけに答えるまどかの様子は、本当に小さな子供のようで、酷く弱弱しく見える。一体何を見ればこうまで取り乱したりするのか気になるけれど、焦って聞いてはまたまどかの心を乱すことになってしまうかもしれない。じれったいけれど少しずつ聞き出していくのが一番だと判断する。

 

「大丈夫。わたしは生きてるし、ここにいる。まどかが何を見たのかわたしにはわからないけれど、なにもないから安心して」

 

 まどかが何を見たのかはわからないけれど、わたしと同様にろくなものじゃない可能性が高い。目を合わせたときの反応からして、わたしが死ぬ場面でも見たのだろう。どういう経緯を経た場面なのかはわからなくても、それが相当に心を抉るものであった事は想像に難くない。

 わたしがそこにいることを確かめるかのように腕や背中に手を這わせるまどかをそのままに、わたしは自身が見た光景を思い返していた。いつの時代かまではわからないけれど、おそらくは数百年前。ヨーロッパ辺りでのことなのだろう。そして、最後に見たあの姿。大きさこそ全く違ってはいたけれど、青いドレスと歯車の姿は間違いなくワルプルギスの夜のもの。あれはおそらく、ワルプルギスの夜が生まれたその時のものなのだろう。

 そこまで考えて、一つの疑問が頭をよぎる。それは、なぜわたしなのだろうかということ。魔法少女に対して反応したのであれば、対象はまどかと巴マミ、それに佐倉杏子の三人であったはず。けれど実際に影響と思われるものを受けたのはまどかとわたしの二人だった。それに、わたしが見た映像の中に出てきたグリーフシードはこの時間軸世界のものではなく、わたしがここにくる前の時間軸世界のもの。なにか理由がありそうだけれど、それを推測できるほどの情報は何も無い。ただ、わたしがここにくる前の時間軸世界と何か関連がありそうだという、それだけのことしかわからない。

 

「鹿目さん、暁美さん、一体何があったの? 一体何を見たの? 話せる範囲でいいから教えてくれないかしら」

 

 巴マミ自身は何も見ていないようで、わたし達に何を見たのか聞いてきた。まどかの様子を気にかけたのか、全て話すように言って来ないあたりが彼女の性格を現している。わたし自身は話すことに抵抗は無いけれど、まどかは大丈夫だろうか。無理に話をさせてまた泣かれては後味が悪いし、きちんと話が出来ないようであれば意味が無い。それに、わたしの見たものはそのまま話すわけにはいかない内容も混じっている。もしそのまま話そうとすれば、わたしの抱える事情も全て話さなければならないだろう。他にも、どこまで信じてもらえるかわからないという問題も残っている。

 

「……不安そうね。話すべきなのか、それとも信じてもらえるか疑問に思っているのかはわからないけど、今はどんなものであれ情報が必要よ。内容がどんなに荒唐無稽でも構わない、話してもらわないと進めないわ」

 

 どこか言い聞かせるような口調で巴マミが話しかけてくる。それにしても、考えている事を表情に出してしまっていたのだろうか。でなければ不安そうなどという言葉が出てくるはずが無い。以前のわたしであれば考えられないけれど、今はこれはこれで悪くないのかもしれないなどと考えている自分がいることも自覚している。

 

「今のところは何もなさそうだし、話を続けるならファミレスにでもいかないか? こんなところじゃ落ち着いて話もできないだろ」

 

 佐倉杏子が移動を提案してくる。確かに彼女の言うとおり、暗くなり始めた公園で目の前に危ういものがある状態では話に集中できないというのは事実だと思う。けれど、それで移動先に食事をする場所を出すあたりは彼女らしいと言うべきなのだろう。でも……

 

「場所を移動するのは賛成だけれど、あなたが食事したいだけなんでしょ? 移動先がファミレスである必要はないものね」

 

 苦笑しながら巴マミが佐倉杏子に話しかける。不貞腐れたようなぶすっとした表情で「……悪いかよ」と呟くと、佐倉杏子は視線をそらしてしまった。口調こそ乱暴だけれど、顔が僅かに赤くなっているあたり、照れているのだろうか。世話好きなくせにそれを素直に表に出せない彼女らしい反応ではあるけれど。

 

「暁美ほむら」

 

 唐突に聞こえたインキュベーターからの呼びかけに、わたしは肩を震わせて驚いてしまった。目の前のどこかほのぼのとした雰囲気を醸し出していた光景に気が緩んでしまっていたらしい。あわてて声の聞こえて来た方向に目を向けてみれば、そこにはインキュベーターがわたしをまっすぐに見つめている。

 

「……キュゥべえ?」

 

 まどかが驚いたように彼に問いかける。それだけではなく、巴マミも佐倉杏子も同様にインキュベーターに視線を向けていた。

 表情がほとんど変化しない事も、口調が淡々としてる事も今までと変わらない。けれど、その様子というか、纏っている雰囲気が今までとは違っている。酷く重要な話をしようとする時の息がつまるような空気、というのが一番近いかもしれない。酷く似合わない光景に、わたしがめまいがするような気さえしていた。

 

「君やまどかが見たものと同じかはわからないけれど、僕にも少しだけ見えたものがあった。だから、君に聞きたい」

「わたしに……?」

 

 話の流れがよくわからない。インキュベーターにも何かが見えたということはわかる。けれど、そこから何故わたしに話を聞きたいということにつながるのだろう。

 心当たりが全く無かったわけじゃない。けれどこの時のわたしは無意識にその事を考えないように頭の中から排除していた。あって欲しくない、考えたくない可能性だったから。

 

「そう。僕たちが知らない、けれど君だけが知っていて隠している、すべての事を」

 

 その言葉を聞いた瞬間、わたしは頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた気がした。誰にも話していないはずの、わたしだけが知っている事。今まで一度もインキュベーターの前では言葉に出した事は無い。それを、何故知っているのだろう。

 勝手に思考を読まれた可能性は考えられない。彼らは自分の思考情報を相手に強制的に送りつける事は出来ても、伝える意思の無い思考を勝手に読む能力は有していないのだから。それは何度も繰り返してきた時間の中で確認しているし、もしそんな能力があるのなら、繰り返しの最初に接触した瞬間にわたしの事を全て把握されてしまっていただろう。

「暁美ほむらであって暁美ほむらではない君が知る、見滝原でありながら見滝原ではない場所の情報。推測でしかないけれど、鍵はそこにある」

 その言葉と共に、一斉に向けられる全員の視線。戸惑いと疑惑の込められたそれに、わたしはこれ以上隠すのは無理だと判断した。

 そうして、わたしは全てを語った。かつて繰り返した時の中で経験した事の顛末を



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3話

 

 その場を重く、痛々しい沈黙が支配していた。ファミリーレストラン内の座席の一角だというのに、周囲に聞こえてくるわずかな喧騒が酷く遠いものに感じられる。外から見れば、この座席のある場所だけどんよりとした空気が覆っているように見えたかもしれない。それほどにこの場にいる全員の表情は暗く微妙なものになっている。

 わかってはいたことだけれど、わたしの話の内容が相当衝撃だったようだ。佐倉杏子にいたってはわずかに口元を歪めているあたり、どこまで信用していいのか疑問に思っているのかもしれない。むしろ信じてもらえない方が当たり前のような荒唐無稽なものなのだから、いきなり否定されないだけマシなのだろう。その理由は、やはり公園でのまどかの様子と、インキュベーターの言葉にあるのだという点は認めざるを得ない。事前情報が何も無ければ、話を聞いた瞬間に正気を疑われてもおかしくない内容なのだ。以前のループ時に信じてはもらえないだけでそれ以上の追求が無かったのは、同じ魔法少女同士である程度耐性があったからなのだろう。

 改めて見回してみれば、インキュベーターを除いて皆戸惑っているのがわかる。ある程度信用に値するのだとしても、それと心の中での整理がつけられることとは別の問題なのだから仕方のないことだけれど。

 

「なるほど……ね」

 

 どれほど沈黙していたか分からなくなっている中、インキュベーターがポツリと何かに納得したかのような呟きをこぼす。それが何に対するものなのかは分からないけれど、彼のなかで何かが噛み合ったのだろう。そうでなければ口にしない言葉だった。

 

「お待たせしましたー…………」

 

 注文した食事を持ってきたウェイトレスの言葉が尻すぼみに消えていく。おそらくこのテーブルを包む雰囲気に気付いたのだろう。けれどそれも一瞬で、即座に配膳に移るのはプロとしての矜持なのかもしれない。普通なら避けて通ろうとしてもおかしくないほど、重苦しい雰囲気なのだから。

 

「Aランチセット二つ、Bランチセット一つ、ソーセージとフライの盛り合わせのランチセット、ライス大盛りが一つ、以上でおそろいですか?」

 

 注文したものが揃っているか確認してくるウェイトレスに問題ないことを伝え、その去っていく後姿を見るけれど、それがどこかそそくさとしているように見えるのは気のせいだろうか。今の状況も含めて、変な噂が流れなければいいと場違いな事を考えてしまう。

 

「冷めないうちに食べようぜ。話の続きはそれからでもいいだろ」

「食べ終わってからも長時間居座るのはお店に迷惑だから、終わったら私の家にいきましょう」

 

 佐倉杏子の催促を引き継ぐように出た巴マミからの提案に、わたしは頷いていた。まどかや佐倉杏子自身もそれに異論はないらしい。それに時間もだいぶ遅くなってきてしまっていて、食事が終わったあとも話を続けては警察に連絡されてしまうかもしれない。幸いといっていいのかどうか分からないけれど、まどかは家に連絡を入れれば少しくらい遅くなっても問題はないようだし、わたしを含む三人はそもそも連絡を入れるべき相手がいないので問題はない。とはいえ、ここで話を続けるのは別の問題があるので、巴マミの提案はありがたいと思う。佐倉杏子は多少悪い噂がたっても気にしないかもしれないけれど、わたし達はそういうわけにはいかないのだ。

 

「しっかし、なんでこんなことになってんだろうね……」

 

 やや重い雰囲気の食事が続く中、佐倉杏子がぼやくように口を開いた。それが誰に向けられたものかはわからない。あるいは自分自身に対して向けたものなのかも知れない。当然だけれど、それに答えられる人間はここにはいないので、誰も返事はしなかった。

 夕闇の帳に閉ざされた空にグリーフシードの集合体が静かにその身を晒しているけれど、それがどうなるのか予想がつかない。インキュベーターは推測から何かをつかみかけているようだけれど、先ほどの口ぶりから考えても仮定に仮定を重ねた上で導き出した信憑性の無い結論なのだろう。おそらくは補足情報としてわたしの話を聞かなければ明言しないと思う。完全な虚偽の情報を出さない事と信憑性の低い情報を断定しないという二点においては最低限信用できるのだから。

 結局、食事が終わって巴マミの家に移動するまでの間、会話らしい会話はほとんどなかった。何か話さなければ不安で仕方ないのに、何を話題に話したらいいのかわからない、そんなもやもやとした気持ちを抱えているのが全員顔に出てしまっている。当たり前だが、インキュベーターだけは何を考えているのか表情からは読み取れないけれど。

 巴マミの家に到着してからも、しばらくは誰も何も話さなかった。わたし自身何をどこから話せばいいのかわからなかったし、他の皆も心の中の整理がついていないのだろうと思う。こういう時にこそインキュベーターが空気を読まずに話し出すだろうと思っていたのだけれど、意外なことに自分からは何も切り出さず、待っているかのように静かに佇んでいる。気を利かせるなどということとは無縁の存在のはずなのだけれど、それだけに、何か裏があるのではという疑惑がいつまでも意識の中から消えてくれない。もう他に手段が無いであろう事もわかっている。それなのに、以前の詐欺同然だったインキュベーターのやり方が記憶にこびりついているために、どうしても躊躇ってしまう。

 

「あの話、普通なら信じないだろうけど、あなたが嘘をついているようにも見えないし、キュゥべえも何かつかみかけてるみたいだし、本当のことなんでしょうね」

 

 巴マミが疲れた声でつぶやくと、それまで黙っていた他の皆も緊張を解くかのように息を吐き出した。それはどこかため息のようにも聞こえる。

 

「……にしても、魔法少女が魔女になる世界、ねぇ。ヘマして魔獣に食われちまうヤツがときたまいるのは事実だけどさ」

 

 佐倉杏子がどこか呆れを含んだような口調でこぼした後、「そういやジェムが濁りきるとどうなるんだったっけ?」とこぼして巴マミに小突かれていた。

 

「杏子が忘れてるみたいだし、ほむらへの説明もかねて僕から話そう」

 

 それまで黙っていたインキュベーターが話に割り込んでくる。その事に巴マミも佐倉杏子も何も言わなかった。まどかが苦笑いを浮かべていることにもどうしたのかと疑問に思う。けれど、そのことには答えを得られぬままにインキュベーターの話が始まってしまった。

 

「魔獣と魔女、そして魔法少女の関係について最初から説明するよ。今のほむらが知っていることとはかなり食い違う部分も多いだろうからね」

 

 そう言って続けられた話には、確かにわたしが知るものとは異なる部分が多く存在していた。まず、魔獣という存在について。人間の恨みや憎しみ、絶望といった負の感情が凝り固まって形を成した存在。インキュベーター曰く、一定以上の強さの感情を持つ種族の住む星では形こそ違えど同じような現象が発生するようだけれど、地球人のそれはとりわけ強力なものだという。他の種族のそれと比べるのが馬鹿馬鹿しいほどに。

 そして、魔女。この時間軸世界においては魔獣が人を食らい、取り込んだ負の感情や思考を糧に固有の能力や性質を得た存在。それ故に魔獣とは異なり、固体ごとに異なる特性を持っている。個体能力も魔獣よりも高い。これについては全てではなかったけれど、これまでも何度か巴マミから話を聞いている。

 魔法少女については、ある一点を除いて大きな違いは無い。でもその違う部分があまりにも大きい。魔法を使うとソウルジェムが濁る点は変わらない。けれど、ジェムが濁りきったとき、その内部に溜め込んだ穢れを周囲に撒き散らしながら消滅して、魔法少女自身は死亡する。

 

「それは……」

「うん。君が考えている通り、魔法少女が死亡したその場所は数日間魔獣が大量に湧き出すホットスポットになってしまう。普通に魔獣なり魔女なりを狩って鍛錬していれば、そこまで追い詰められる事はまずないけど、時々そういうことをやっちゃう娘がいるんだよね」

 

 絶句したわたしの後を引き継ぐように、インキュベーターが淡々とした声で説明を続ける。その内容は、わたしの脳裏に浮かんだものとほぼ同じものだった。これは、もしかするとある意味で魔女化するよりも性質が悪いかもしれない。いや、方向性が違うだけで内実はそれほど違うものでもないのかも知れないけれど。

 

「迷惑な話ではあるけどさ、だからってやらかしたヤツを責めるわけにもいかねーし。湧いてくる魔獣を放置するわけにもいかないからな。魔女にでもなられたらもっと厄介だしよ……」

 

 不機嫌そうな声で佐倉杏子が口を挟んでくる。話しぶりからして、そんな経験があるのかもしれない。実際に目にしたのか、それとも後始末をしただけなのかはわからないけれど。ただ、どう転んでも気分のいい話ではないことに変わりはない。

 

「ほむらちゃん……」

 

 まどかが心配そうな表情で私の顔を覗き込んでくる。わたしはそこまで痛々しい表情を浮かべていたのだろうかという疑問が浮かぶほどにその声は悲哀に満ちているように思えてしまう。それはインキュベータが話した内容についてなのか、わたしが話した内容についてなのか、それともその両方についてなのかの判断はできないけれど、まどかにそんな顔をさせてしまったという事実に胸が痛む。現状では仕方のない事だとわかってはいても、それをそのまま受け入れられるほど懐は深くないし諦観もしていない。

 

「大丈夫。でも……」

 

 続けようとした言葉を遮るように、まどかがゆっくりと首を横に振る。

 

「わたしも、マミさんも、きっと杏子ちゃんだってそう。みんな何もかも知った上で契約したの。バカだって思われるかも知れないけど、目の前に何とかする手段があるのに何もしないのは嫌だった。それで自分自身を追い詰めているんだとしても、忘れられない後悔を抱えたままでいるよりはずっといいって、そう思ったの」

 

 どこか寂しそうな笑顔を浮かべながらも、まどかはそう言い切った。そこに、迷いのようなものは感じられない。

 そこで微妙な表情を浮かべていたのは、佐倉杏子だった。巴マミがバツの悪そうな表情で彼女に視線を向けているあたり、わたしが知る内容と同じ願いをしたのだろうか。完全に同一ではないかも知れないけれど。

 

「あんたは知らないだろうし詳細を話す気も無いけど、あたしは願い方を間違えたんだ。でも、その事を後悔することはあっても願った事自体を後悔したことはないよ。あれは、あたしの考えが足りなかったから起きたことなんだから」

 

 悲しげな表情でありながらも、さらりと答える佐倉杏子の口調は、どこか吹っ切れたものだった。おそらく、心の中での折り合いはもうついているのだろう。少し慌てた様子で謝るまどかに対して、苦笑いを浮かべながら「気にすんな。もう過ぎたことなんだ」と責める気配も見せない彼女は、今までと違って眩しく映っていた。

 

「なんにせよ、ほむらが言うように魔法少女がいきなり魔女になることはない。そんな事が可能なら確かに効率良くエネルギーを集められるだろうけど、あまりいい方法とはいえないかな。後先を考えずにやるのならそれもありだろうけどね」

「……どういうこと?」

 

 かつての繰り返しの中で聞いた言葉とは違う内容の言葉に疑問を感じて問い返すと、インキュベーターは首を傾げる様な動作をした後に解説を始めた。

 その解説によれば、魔法少女が魔女になるシステムは酷くリスクが大きなものらしい。それは使い魔が魔女に成長すること、産み落とされたグリーフシードが魔女として孵化することとも関連が深い。

 

「何故かって? 君の話では、使い魔も成長すれば魔女になるうえに、魔女が産み落としたグリーフシードも魔女として孵化するんだろう? しかも魔法少女さえ最期には魔女になるのなら、一つ間違えば魔女の処理が追いつかなくなって、この惑星の地表は魔女に埋め尽くされることになってしまうだろう。そうなってしまったら本末転倒だ」

 

 地球人ほど良質で莫大なエネルギーを提供してくれる種族は他におらず、可能なかぎり長い時間、地球人類には存続して欲しいという。そのためにこれまでも発展に手を貸してきたのだとも。彼らにとって地球人類は良質のエネルギーを提供してくれる良き隣人であり、これからもその関係を続けたいのだと語った。

 

「生かさず殺さず……ってわけ?」

 

 思わず、冷たい声でそう聞き返してしまう。これまで繰り返してきた時間の中でも、その度に彼らの考え方や価値観にわずかながらも差異があることは理解している。けれど、わたしにとってはまどかが魔女と化した時の、絶望のエネルギー回収をノルマと言い切り、自らが投げ込んだにもかかわらず、魔女を地球人の問題だといってはばからなかったあの姿が脳裏に焼き付いてしまっている。

 

「人聞きの悪いこと言うね……」

 

 抑揚のない声ながらも、表面上は呆れているという内容の返事が返ってくる。わかってはいても、やはり彼らとは馴れ合うような関係にはなれそうもない。他の皆も、わたしの言葉に対してか奇妙な空気を漂わせている。

 

「ねぇ……暁美さん」

 

 そんな中、巴マミがわたしに声をかけてきた。

 

「なにかしら?」

 

 それに対する返答が酷く冷たいことを自覚するけれど、どうしても止まれない。自分でもわかってはいるのだ。ここはこれまで繰り返してきた時間軸世界とは全くの別物で、インキュベーターとの関係も違うものだというのはこれまで自分の目で見てきたのだから。

 

「あなたが話してくれたことが全て真実なら、そんな態度をとることも理解できるわ。でも、今のあなたにとって、それは意味のあることなのかしら。少なくともわたしたちの知っているキュゥべえは、あなたが言うほど悪辣な事はしていないわ。性格的にドライなのは確かだけれどね」

 

 その言葉に、わたしは反論することができなかった。わかっていはいるのだ。主観的事実だけで話をしてしまっている事は。それでも、わたしが真実を知ったときの衝撃の大きさゆえか、どうしてもそれを前提にしてしまう。先入観というよりも、もはやトラウマになっているのかもしれない。

 

「とりあえず、話を続けさせてもらってもいいかな? 全部終わってから判断してくれればそれでいいよ」

 

 巴マミの後を引き継ぐようにインキュベーターが語りかけてくる。それに対し、わたしは小さく「そう」とだけ答えてそれ以上口を開く事はやめることにした。口を開くと、どうしても辛辣な物言いになってしまうのを抑えることができそうになかったから。

 そうしてインキュベーターの口から語られた話は、わたしにいくつかの驚きと納得をもたらしてくれた。

 ソウルジェムとは、魔法少女の魂が霧散しないように納めておくためのものであり、同時に、正の感情を削る事で消費した魔力と入れ替わりに溜まっていく負の感情である穢れからの影響を最小限にとどめるための保護器でもあるという。当然上限が存在するため、限界を超えてしまえば内部崩壊を起こして溜まった穢れがばらまかれてしまうけれど、同時に魔法少女の魂は消滅してしまう。穢れが瘴気となって魔獣として具現するには、ある程度の濃さで一定に時間空気中に澱んでいる必要があるため、ソウルジェムの崩壊と同時に魔獣が生まれて魔法少女を食らうことはないらしい。もちろん、ソウルジェムの状態に関係なく、直接魔獣に食われた場合はその限りではないけれど、とすまし顔で語る彼は、やはりいつもどおりの彼であるのだろう。

 

「改めて聞いてみても、やっぱエグイ話だよなぁ…… まぁ、全部聞いた上で選んだんだから今更だけどよ」

 

 微妙にげんなりとした口調で佐倉杏子が語るけれど、たしかに聞いていて気持ちの良い話ではないし、かかわらずに済むのならそれが一番であるかも知れない。彼女の言うとおり、本当に今更な話ではあるけれど……

 

「それでキュゥべえ、暁美さんのことについては?」

 

 巴マミがインキュベーターに話の先を促す。まだ話の本題に入っていなかったのだから当然ではあるけれど、魔獣と魔女、魔法少女のついての関係もわたしが未だ知らない情報が幾つか含まれていたため充分に有意義だった。

 

「事実関係の確認のしようがないから、あくまでも仮説に仮説を重ねた上で導いた結論であることを念頭において聞いて欲しい。ほむらの話が仮に本当だったとしても、どこまで正確に記憶しているかもわからないからね」

 

 そうして、インキュベーターはいつもと変わることのない淡々とした口調で話し始めた。わたしが話した内容から推測した仮説と、その結論を。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 インキュベーターの話が進んでいくにつれて、わたしは酷く気分が悪くなっていた。全身から冷や汗が流れ落ちている事を自覚する。おそらくは顔色も相当酷い事になっているのだろう、まどかや巴マミが心配そうな表情でこちらに視線を向けている。けれど、今のわたしには、話すどころか顔を向けるだけの余裕さえも持ってはいなかった。

 最初は、インキュベーターが時間遡行についての考察について語り始めた事。それが最初だった。

 

「かつての君が持っていたと言う時間遡行の魔法。それはおそらく擬似的なものでしかないんじゃないだろうか。君にも薄々とではあるけれど自覚があったはずだよ。でなければ時間軸の移動なんていう言葉は出てこないはずだからね」

 

 その言葉に、わたしは否定の言葉を返せなかった。なぜなら、わたし自身が自分の扱う魔法の本質を理解しきれていなかったし、初めての魔法行使のときの感覚から、こういうものだろうという曖昧な把握しかしていなかったから。

 どう魔法を使用するのかについては理解を深め経験を積み上げていったけれど、魔法がどのような作用をしてわたしの認識している結果をもたらしたのかということについては目を向けてこなかった。ただ使うだけならば必要がないし、家電製品を使用するときと同様、どんな原理で動いているのかわからなくても、使用方法さえ理解していれば運用できてしまっていたからだ。ただ、わたし自身の行動に関連しない部分でも異なる状況が発生していたため、時間というのは一本道ではないのだろうという漠然とした考えは持っていた。インキュベーターはそこに踏み込んできたのだ。

 

「そもそも時間が一本道のものであるのなら、時間遡行という概念そのものが成立しないからね。タイムパラドックスぐらい君達だって知っているはずだ」

 

 そう。時間というのは可能性によって無限に分岐しているもの。もしも一本道のものであるのなら、仮に時間遡行ができたとしても記憶をとどめたままでいることも魔法少女のままでいることも不可能なのだ。なぜなら、それらは戻った時点で存在しなかったことにされてしまう。過去である時間に未来にあたる時間の要素や情報を持ち込める時点で、時間というものは可能性によって分岐するのだという証だとも考えられる。そしてそれは、わたしが可能性に気づきながらも極力考えないようにしていたこと。それを全面的に認めてしまえば、わたしは自分自身を許せなくなるとわかっていたから。

 

「おかしいとは思わなかったのかい? 可能性によって無限に分岐する時間概念において、過去とは不変ではあっても確定した事象ではない。異なる可能性を持つ過去の時間軸に移動するという行為は、肉体ごと全て移動するのでないのならもともとそこにいたはずの君自身を乗っ取る行為にほかならない。それがどういうことか、理解できないなんてことはないはずだ」

 

 インキュベーターの言葉に、わたしは歯の根が合わなくなっていた。時間に関わる魔法を得て、それを使用しているうちにおぼろげながらも理解していた本質。無意識に目を向ける事を避け続けていた事実を目の前に突きつけられた。

 他の可能性の時間軸に存在する自分。それは自分自身でありながら、同時に他人でもある。時間遡行の魔法は、他の時間軸に存在している自分の意識と記憶を消去して肉体を乗っ取る行為だ。ありていに言ってしまうなら、魂を抹殺して肉体を奪う行為に等しいのだ。それが、もしかしたらと思いつつも無意識に否定していた事。

 

「……もっともこれは、仮定のうえに推測を重ねたものにすぎないから、事実かどうかなんてわからないけどね。でも、その様子を見る限りあながち間違いというわけでもないようだし、ほむらの妄想というわけでもなさそうだ」

 

 首を傾げるような動作とともに、インキュベーターがそんなことを言う。それを見た佐倉杏子は低い声で「……おい」といいながらジト目で睨みつけ、巴マミは「キュゥべえ、あなたねぇ……!」と激昂しそうになっているのをまどかに抑えられている。それらの出来事を視界に納めながら、わたしは何も言葉を発する事ができなくなっていた。

 吐き気にも似た息苦しさと、揺れ動いて定まらない視界。身体の感覚とともに意識が遠のいていくのがわかる。強い光に目が眩むように視界が白く染まっていき、そのままわたしは意識を失った。

 そして、目が覚めたとき最初に見えたものは、インキュベーターと向かい合っている巴マミと、そんな二人の姿を苦笑いしながら見ているまどかと佐倉杏子の姿だった。

 

「……前から考え方がドライなのはわかっていたけど、あなたデリカシーもなかったみたいね」

「えーと、僕はただ、得られた情報から推測した事柄を述べただけに過ぎないんだけど……?」

「言い方ってものがあるでしょ! だいたい……」

 

 なんだろう。まるで友人同士の口論のような、どこか場違いにも思える会話が聞こえてくる。困惑した表情で二人を見れば、彼女達もまた苦笑いとともに微妙に困惑した表情を浮かべている。

 その理由自体は簡単で、巴マミがあんな態度をとることは全くないわけではないけれど、とても珍しい。友人の間違いを気付かせるために怒っているのだといえば聞こえはいいけれど、インキュベーター相手に意味があるとは思えない。けれど、わたしの事を心配してくれているのがわかるのは素直に嬉しいとも思う。以前のわたしだったなら、絶対にこんな事は考えなかっただろう。当時のわたしは、ただまどかを救う事だけに目を向けていて、他のことには目を向けているつもりでしかいなかったのだから。

 長く入院していて人付き合いが希薄だったわたしは、どうすればきちんと話を聞いてもらえるのか、それに対する理解をほとんどしていなかった。魔法少女が魔女になる、そんな荒唐無稽な話をいきなりするべきではなかったのだ。何も証明するものがない状態で話しても信じてもらえるはずがなかった。それを理解していなかったのだから、こじれるのも当たり前だった。

 

「暁美さん! 気がついたのね」

 

 ほんの少し考え事をしている間に巴マミはインキュベータとの会話を終わらせていたらしく、いつの間にかわたしが寝かされていたソファの傍らに寄ってきていて、身を乗り出すような態度で不意に声をかけられた。

 

「え、あ、はい……」

 

 あまりにいきなりすぎて、ずいぶんと間抜けな返事をしてしまったけれど、正直引きたくなる勢いだ。心配してくれているのはわかるのだけれど……彼女、こんな性格だったかしら……?

 環境が人の性格に大きな影響を及ぼすのはわたし自身が良く分かっているけれど、巴マミが性格に影響を与えるほどの出来事に出会ったという記憶はない。もしくは、わたしの知らないところでなにかあったのだろうか。

 考えてみたところで、答えなど出ないのはわかっているけれど、気にしないというのも無理な話だ。彼女自身の寂しがりやなところは変わってはいないだろうし、それが理由で時折積極的な態度をとることがあるのも知っている。けれど、その、なんというか、こういう感じに迫るような態度をとるところは見たことがない。もしかしたら、わたしが知らないだけでもともとそういうところも持っていたのかも知れないけれど、なにかこう、わたしが巴マミに対して持っていたイメージと少し違うような気がして仕方がない。

 けれど、わたしがインキュベーターの真意を知り、伝え方にも問題があったとはいえ、それを信じてもらえず、受け入れてももらえなかったあのときから深く関わる事をやめてしまっていたのだから、わたしが知らない一面を持っていても不思議はないのだけれど。

 

「暁美ほむら、気分はど……むぎゅ」

 

 不意に視界に姿を見せて問いかけてきたインキュベーターの顔を、わたしは反射的に鷲掴みにしてしまった。考えてした行動ではなく、気がついたらそうしていたのだ。でも、これまでの経緯から生まれた印象と先ほどのやり取りの後では無理もないのではないかと思う。むしろ同じような経験をして思うところなく普通に接する事ができる人がいたら会ってみたい。

 ふと視線を周りに向けてみれば、まどかは何か苦笑いしているし、佐倉杏子はざまあみろといわんばかりの溜飲を下げた笑みを浮かべているし、巴マミは拗ねたような表情でインキュベーターの方を見ようともしない。わたしが気を失っている間に、一体何があったんだろう。疑問が浮かぶけれど、どうも何かを聞くという雰囲気ではない。

 

「放して……くれないかな。テレパシーを使うから会話には困らないけれど、痛いし動きが取れないじゃないか」

 

 何事もないかのようにいってくるインキュベーターに、わたしは掴んでいる手にさらに力を込めた。魔力強化できるわけではないので大したことはないだろうけれど、平然と言葉を放つ彼に腹が立ったのだ。

 指がわずかに食い込むものの、それ以上はどれだけ力を込めようとも何も変わらない。結局数分と持たずに指が痺れてきてしまった。やはり魔力強化無しのわたしの身体は、並以下の力しかないらしい。

 

「気は済んだかな。それにしてもひどい事するね」

「あなたにいわれる筋合いはないわ」

 

 どういう意図かわからないけれど、非難するような事を言ってきたインキュベーターに、わたしは冷たく言い返した。本人には自覚がないのだろうけれど人の心を踏みにじるようなことを言ってきたのは向こうなのだから、まともにとりあう気は全くない。

 

「皆の反応を見る限り、どうやら僕が対応を間違えたようだ。だから、細かい説明は抜きにして結論だけ話そう。その後で聞きたい事があれば質問して欲しい」

 

 インキュベーターの言葉に、わたしはソファに座りなおしながら無言で頷いた。他の皆も真面目な顔で頷いている。どんな事を言われるのかはわからないけれど、どんな言葉が出てきても驚かない、その覚悟を決めていたはずだった。

 

「全ての始まりである本当の特異点、それは…… 暁美ほむら、おそらく君だ」

 

 だから、インキュベーターが語ったその言葉に、わたしはこれまで出一番大きな衝撃を受けた。今、目の前にいる白い生き物は何と言った?

 全ての始まり、本当の特異点、それが……わたし?

 そこから語られた内容は、私の心をもう一度真っ白に塗りつぶすのに十分な内容だった。まどかと魔法少女に関わる出来事のほぼ全てがわたしに端を発する事、わたしが契約をしていなければ最悪の魔女が生まれるような事もなかった事、そしてなにより、境遇に少々変わった点があるとはいえ一般人でしかないわたしの抱える因果では、どれだけ才能があって強い願いがあろうとも時間と平行世界の移動に関わるなどという能力が発現することは普通ありえないということ。最低でも英雄と呼ばれるレベルの因果が必要になるはずだからね、と語った。

 

「ただ、これは君の主観で語られた内容を元に仮説を重ねたものだ。あくまでも納得できる仮説がこれだというだけで、最初に説明したように事実である保証なんてどこにもない」

 

 何事もないかのように語るインキュベータの前で、わたしは何も言い返すことができなかった。確かに事実ではないのかもしれない。けれど思い当たる節があまりにも多すぎる。

 確かにわたしが何もしなければ、まどかに途方もない量の因果を背負わせる事も、最悪の魔女が生まれるような時間軸世界が存在するような事もなかったかもしれない。でもそれだと、わたしはまどかを見捨てる事と同義になってしまう。身勝手なエゴでしかないとわかっていても、わたしにはまどかを助けないという選択肢は在り得なかった。でもそれだと、結局はまどかを追い詰める事に……。

 思考が、同じところを何度も繰り返す。どうすれば良かったのか、どうするべきだったのか、余計にわからなくなっていく。

 

「あ……ああ……あああ…………」

 

 意味のない嗚咽が口からこぼれ出す。声も涙ももう抑えることができなかった。わたしのしたことは、してきたことは、結局絶望を積み重ねるだけに過ぎなかったのだろうか。

 

「ねぇ……キュゥべえ、その話って……」

 

 誰も口を開かずにいた中、まどかがインキュベーターに声をかける。

 

「僕や君たちにとっては推測、仮説でしかないけれど、この反応を見る限り彼女にとってはそうではないらしい。少なくとも意味のない妄想ではないことだけは確かだよ」

 

 普段と変わらぬその物言いに、まどかも「そうなんだ……」と呟いたきり何も言わなくなってしまった。その中で、わたしの嗚咽だけが小さく響く。わたしは、何もするべきではなかったんだろうか。まどかに死んでほしくない、助けたいと思った気持ちを否定したくはない。けれど、全てはそれこそが始まりだった。救えない結末に至るたびに時間を巻き戻してきたけれど、それも同一の時間を逆行していたわけではなく、他の時間軸の過去にあたる場所へと移動していただけのこと。主観的に、戻ったように見えるだけ。移動する前の時間軸がどうなったのかはわからない。そのまま続いているのかもしれないし、何らかの要因で消滅しているかもしれない。ただ、もし続いているのであれば、その時間軸のわたしは時間遡行をすると同時にその場で息絶えていたのかもしれない。

 失敗するたびに、わたしは自分自身の身体を捨てて、他の時間軸のわたしの身体と可能性を奪い取る。そんなことを繰り返してきたのだとしたら、わたしはどれほどの罪を重ねてきたというのだろう。見捨てることも、諦めることも、全て受け入れてきたつもりだった。必要とあればまどかとその家族以外の誰かを切り捨てることも躊躇しなかった。けれど、この時間軸世界に来て思い出してしまった。何度もの失敗を重ねて心を凍らせる前に目指そうとしていた温もりを。

 

「ああああああああああああああああ!!!!」

 

 嗚咽が号泣に変化するけれど、止まらないし止められない。

 きっとまどかや佐倉杏子は泣いているわたしにどう接するべきか困惑しているだろう。巴マミはまたインキュベーターに説教をしているかもしれない。誰かの前で恥も外聞もなく声を上げて泣くことにがあるなんて、何度か繰り返した後は考えもしなくなっていたけれど、いまはそんなことも気にならない。

 

「ほむらちゃん……」

 

 まどかの呼びかける声に顔を上げると、そこには酷く心配そうな表情で私を見つめているまどかがいた。気づかなかったけれど、いつの間にかわたしのすぐ近くにまで移動してきている。涙でぐちゃぐちゃの酷い表情を間近で見られるのが恥ずかしいという考えが頭をよぎったけれど、涙を拭おうとするよりも早くわたしはまどかの腕の中へ抱え込まれていた。

 

「私は信じるよ、ほむらちゃんの話。だって、作り話でここまで泣ける人なんていないって、そう思うから」

「まーなぁ…… 演技でそんな号泣ができるなら役者になれるだろうとは思うけどよ」

 

 まどかの言葉に、佐倉杏子がやや呆れたような声で答える。なんだかんだ言いながらも、もう疑ってはいないとわかる口調だった。

 情けない、と思う。まどかを守りたいと願って契約し何度も時間を繰り返したけれど守ることができず、今またまどかや他の皆に支えられている。どこまでいっても、わたしは守られるだけだった。

 

「キュゥべえ、この話って……」

「不確かではあるけれど、ほむらの話が全て真実なら可能性は高いと思う。それに、ごまかす意味も理由もないからね。君たちにとってはあまり良くないやり方なのかも知れないけど」

 

 聞こえてきた巴マミとインキュベーターの会話に多少引っかかるものがあったけれど、今のわたしはそれについて考える余裕は持ちあわせてはいなかった。

 流れ落ちる涙が乱れた心をゆっくりと洗い流していく。どれだけの時間泣いていたのか、自分でもよくわからない。それほど長い時間ではないと思うけれど、大声を上げて泣いてしまったのは恥ずかしい。近所に聞こえていたりしなければいいけれど……

 

「……っく…………んくっ…………」

 

 いつまでもこうしている訳にはいかない。そう考えて、嗚咽を強引に飲み込み涙を拭う。三人が気遣わしげにわたしを見てくるけれど、わたしはそれに大丈夫だと答えて大声で泣いてしまったことを謝罪した。

 

「落ち着いたかな? 暁美ほむら」

 

 唐突に、インキュベーターの声が聞こえてくる。それにわたしは、睨みつけるように視線を向けた。まどかと巴マミが表情をひきつらせていたから、相当に怖い顔をしていたのかも知れない。

 

「そんな顔で睨まれても僕は困るんだけど、まだ終わってないよ。君の言う最大の魔女、『ワルプルギスの夜』と君自身の関わりについての話が残っている」

 

 インキュベーターの持ち出した話に、わたしは奥歯を強く噛み締めていた。ここまできては聞くしかないということは覚悟している。でも、その内容がきっとろくでもないものだということが容易に予想できてしまったから。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 ワルプルギスの夜、と呼ばれる魔女がいる。

 いつから存在しているのか、何故生まれたのか、詳しい事は誰も知らない。

 そういう名で呼ばれる強力な魔女がいるという噂だけが、口伝として魔法少女の間に伝わっていた。これまで立ち向かった者たちは皆例外無く敗れて死んでいるのだ。詳しい話が伝わらないのも当たり前の事だと思う。後に残された惨劇の現場と、おそらくは本体に到達する前に道化の使い魔に勝てず、逃走した者たちの話しから伝承が始まったのだろう。

 抗う事すら難しい暴風と、その中で踊る魔法少女の影の姿をした道化の使い魔たち。それらの情報から、中欧や北欧に伝わる春祭りの前夜祭になぞらえてワルプルギスの夜と呼ばれるようになったのではないだろうか。厳密には魔女そのものをワルプルギスの夜と呼んでいる訳ではなく、出現する日のことをそう呼んでいるはずだけれど、実態がつかめないこともあり、そのあたりの認識はまちまちだった。

 わたしは確かに、これまでの繰り返しの中でワルプルギスの夜を倒す事に執着してきたけれど、それ以外でのつながりはないはずだった。そのはずなのに、なぜグリーフシードの集合体を目にした後に見えた映像はワルプルギスの夜の誕生を表すものだったのだろう。そもそもあのときに何かしらの影響を受けたと思われるのは、わたしとまどか、それにインキュベーターだけだった。同じ場所に居合わせていた巴マミと佐倉杏子には何も起きてはいないし、その理由もわからない。

 

「ワルプルギスの夜と自分には直接的な関連などなかったはず……そう思っているんだろう? 暁美ほむら」

 

 口を開かないわたしを待っても仕方がないと考えて話を進めようとしたのだろうか、インキュベーターが話しかけてくる。それに対してわたしは何も言わずに視線を向ける。もちろん、ただ見るだけではなく睨みつけるようにして。たいして意味のないことだとわかっていても、そうせずにはいられなかった。

 

「私達には見当もつかないけど、なにかあるの?」

 

 巴マミがインキュベーターに対して疑問をぶつける。まどかと佐倉杏子はよく分からないと言いたげな表情をしているけれど、彼女だけは何か引っかかるものを感じたのだろう。このあたりはやはり一番のベテランの面目躍如といったところだろうか。

 インキュベーターが何を言いたいのかわからないけれど、これまでの話もあくまで仮説、推測だと言っていた。事前にそう断っている以上、彼らにも確証はないのだろう。もっとも可能性が高いと思われる仮説を重ねて導いた結論であるからこそ推測だと言ってるのだろうけれど、わたしにとってはそれら一つ一つに心を抉られるような気さえしていた。なぜなら、それはわたしが考えたくないと目を逸らしてきた可能性にとても近いものだったから。たとえそれが事実ではないとわかっていても、絶対に違うという保証もなければ、もしかしたらという不安を振り払う事もできない。だからこそ、何の解決にもならないと知りながらも考えないようにしていたのだから。

 

「ほむら、君は話の中でワルプルギスの夜にほとんど攻撃が効かなかったと言っていたね?」

 

 改めて確認を取るようにインキュベーターが問いかけてくる。それに対してわたしは「そうよ」とだけ返事をして次の言葉を待った。相手が相手でもあるし、今は自分からあれこれ話そうという気分でもない。もしインキュベーターの話の中におかしな点があれば容赦なく指摘してやろうと考えながら耳を傾ける。

 あくまでも仮説だと、念を押すように断ってからインキュベーターは話し始めた。それによれば、どんなに強大であっても魔力を用いた攻撃であればまったく傷つける事ができないなどということは考えにくいという。全く同質の魔力でもない限り干渉し反発しあう性質があり、それがダメージになるらしい。物理攻撃に関しては強い魔女ほど耐性が高くなるものの、これも全く傷つける事ができなくなるということはないようだ。ただ、わたしの話す魔女とこの時間軸世界の魔女が同一のものでない以上、参考になるかわからないとインキュベータに言われたけれど。

 

「あくまでもひとつの仮説としてだけど、ほむらがワルプルギスの夜に敗れて取り込まれてしまった時間軸世界があったんじゃないのかな。そして、いくつもの時間軸を渡り歩いていると考えれば、まどかには倒せて君にはまともに傷つける事ができなかったことへのひとつの回答になる」

 

 インキュベーターのその言葉を、ばかばかしいと笑う事はできなかった。もしわたしがワルプルギスの夜に敗れていれば、そうなっていてもおかしくはなかったはずなのだから。

 魔女の能力は、必ずしも魔法少女の時のものと同一であるわけではないけれど、願いを根幹にしたものであるという点は共通している。だからこそ、可能性を否定できない。自分が魔女になった姿なんてわかるわけもないけれど、わたしの場合似たような能力である可能性が高いと自分でも思う。

 

「でも……それって」

 

 まどかがポツリとこぼした呟きに、全員が視線を向ける。一斉に見られてやや戸惑いながらも、浮かんだであろう疑問を口にした。

 

「ほむらちゃんが同時に二人存在してる事にならない……?」

 

 それは、詳しいことを知らないなら抱いて当然の疑問だった。可能性によって過去も未来も無限に分岐して存在しているものだという事は知らなくて当たり前なのだ。可能性の一つとしてそれを考える人はいるだろうけれど、確認も検証もできないのだから結局は夢物語の範疇から逸脱する事はない。

 

「……まぁ、そういうことになるね。でも、時間が一本道のものではなく過去も未来も可能性によって無限に分岐しているのであれば、それは矛盾しない。分岐した時間軸である以上は他人も同然だからね。肉体ごと時間軸を移動する方法が存在するのなら、複数の同一人物が同時に存在する事は決して不可能ではないと思う。確認する方法なんてないけれどね」

 

 いつもと同じ調子で話すインキュベーターが腹立たしくもあり、同時に羨ましくもある。わたし達に比べて感情がほとんどないという彼らは、きっと動揺したり必要以上に思い悩んだりする事はないのだろう。けれどそれは、喜びを感じる事もないということ。苦しむ事がないかわりに心が弾む事もないということだ。

 

「結局のところ、そうかもしれないってだけなんだろ? だったらこれ以上話してもあんま意味ないだろ。それよりもアレどうにかする方法考えようぜ」

 

 微妙に苛立った様子で佐倉杏子が会話に割り込んでくる。彼女には少し難しい話だったのかもしれないけれど、正直わたしだって充分に理解しているとは思っていないし、巴マミだってわたしよりも理解しているという事はおそらくないだろう。まどかにいたっては先ほどの様子から考えても言わずもがなだ。

 

「そうね……いつまでもあのままでいるなんて保証はないし、あれがもし一斉に魔獣として孵化するようなことがあれば大惨事になるわ」

 

 巴マミが眉間に皺を寄せながら考え込む。佐倉杏子も難しい顔をして考え込んでいるようだけれど、彼女はどちらかというと考えるよりも先に動くタイプの人間だ。決して頭が悪いわけではないけれど、あれこれと考えるのは向いていない。

 それよりも、わたしにはひとつどうしても引っかかっている事があった。もしも、もしもだ、あのグリーフシードの集合体と、近くに行った時にわたしが見た映像というか夢のようなものに関連性があるのだとしたら、あれは……

 浮かんできた考えを、軽く頭を振りながら中断する。ひとつの可能性としてあり得ないとは思わないけれど、明確なつながりを確認できないまま決め付けて考えてしまうわけにもいかない。

 

「え……これ……って」

 

 まどかの戸惑いの声が聞こえてくるのと同時に、わたしも気付いた。窓の外に、いつの間にか霧が立ち込め始めている。ただの霧ではなく、魔獣が出現する前兆の、瘴気を含んだ白い幻霧。夜で暗い中に立ち込めているせいか、どのくらいの範囲に発生しているのかよくわからない。ただ、かなり大規模である事は間違いがなさそうだった。

 

「これは……まずいわね。まだ魔獣は出現していないみたいだけれど、これじゃいつどこに現れてもおかしくないわ。それに……」

 

 一度言葉を切って視線を向ける先は、見滝原中央公園の上空に鎮座するグリーフシードの集合体。

 おそらくは巴マミが考えている事と同じ、最悪の可能性が脳裏をよぎる。今のこの状況下で、何もないまま済むはずがないのだから。魔獣の一斉孵化か、最悪なのは強力な魔女が生まれてしまう事。

 焦りを抱えつつも、周囲から見て不自然ではないように巴マミのマンションの外に出る。普通の人間には感知できない異常であるのだし、目立つ行動をして注目を集めるようなことはしたくない。暗くなってきている時間帯とはいえ、まだ外を歩く人がいなくなるほど遅い時間帯でもないのだから。

 狙ったかのような、酷くいやらしいタイミングだ。明るい時間帯でもなく、外を歩く人々がいなくなるほど遅い時間帯でもない。夕方から夜にかけての時間帯。人間の目の調光機能よりも早い速度で暗くなっていくため、自動車事故などの危険も増す。逢魔ヶ刻とは言うが、ここで活動を開始するなんて、なにか影響でもあるのだろうか?

 疑問を抱きながらも外に出て、初めて気付いた。それほど強くはなかったけれど、風が出始めている。湿り気を帯びた、不快感を煽る生ぬるい風。幻霧に遮られてはっきりとは分からないけれど、空には雲も出てきているように見える。

 

「嫌な感じね……」

 

 巴マミの呟きが、全員の気持ちを代弁していた。風は湿り気だけではなく、濃い瘴気も含んでいたからだ。それほど強くもない風が、酷く不吉なものに感じられる。

 

「チッ……おいでなすったぜ」

 

 佐倉杏子の低い声に視線を向ければ、その先には白い影。意思を感じさせずに佇むその姿は間違いなく魔獣のもの。少し離れた周囲にもところどころで同じものが立ち上がっているのが見える。

 

「あ……あちこちに……」

 

 泣きそうな声のまどかが言うように、魔獣は見通せる範囲内だけでも数体出現している。しかも、固まらずに一体ずつバラバラだ。これは、非常にまずい。こういう状況のときにこそ最も効果的に動けるのが、かつてわたしが持っていた時間停止能力なのに、今は何もできない。その事を悔しく思いながら見回せば、何か様子がおかしい。魔獣どもは出現した位置から動く素振りさえ見せずにじっと立っている。わたし自身魔獣との遭遇回数は少ないけれど、こんなことは初めてだ。他の三人もやはり魔獣に対して警戒を向けながらも訝しげな表情を浮かべている。

 

「なんだ……?」

 

 佐倉杏子の疑問の声。まるでそれに応えるかのように、一呼吸置いて突然強風が吹き抜けていく。

 

「きゃあっ!?」

「うわっ!?」

 

 悲鳴を上げつつも、風に煽られないように腰を落として両足に力を入れる。正面からではなかったけれど、驚いたせいで一瞬目を閉じてしまった。

 風はそれほど弱まる事はなく吹き続ける。落ち着いてから確認のために周囲を見回せば、風の流れに従うかのように魔獣たちがゆっくりと移動を始めていた。何事かと思い視線を向けてみれば、風の流れの先にあったものは、あのグリーフシードの集合体。雲が上空でそこを中心に渦巻いているような流れの動きを見せていることを考えると、魔獣たちはグリーフシードの集合体の下に集まっているのかも知れない。

 なにが起きようとしているのかはわからない。でも、酷く嫌な予感がする。魔獣たちの様子から人が襲われる可能性は低いと考えて問題はないだろうけれど、このまま様子を見ていてはなにか大きな動きがあったときにはすでに手遅れだった、なんてことになりかねない。

 

「……暁美さん」

 

 厳しい表情で魔獣たちの動きを目で追っていた巴マミが、視線をこちらに向けないままに声をかけてきた。何を言おうとしているのか、何故それを言われるのかは自覚している。今の私は戦う術どころか自分自身を護る術すら持っていない。これ以上わたしが同行すれば、足手まといにしかならないだろうということも理解している。

 

「これから先、戦いがどうなるか予想もできないわ。だから、これ以上あなたを連れて行くわけにはいかない。酷な言い方かも知れないけど、あなたを護りながら戦えるほどの余裕はなくなるかも知れないから」

「ほむらちゃん……」

 

 巴マミの言う事はごく当たり前のこと。誰かを護りながら戦うなんてことは、自分よりも弱い相手か数の少ない相手の時にしかできないことだ。互いの力の差が少なければ少ないほど、自分以外のものに意識を向ける事ができなくなってくる。だから、これはいつか必ず言われるはずだった事。むしろ今までわたしの同行を認めてくれていたことのほうが異例なのだと思う。わたしに向けられたまどかの声も、今までとはどこか響きが違うように聞こえる。それが何に起因するものかはわからないけれど、きっとわたしに避難して欲しいと思っているのだろう。

 

「……っ」

 

 悔しいけれど、確かにこれ以上同行するのは難しいのかもしれない。グリーフシードの集合体がどうなるのかはわからないけれど、今まで戦ってきた魔獣や魔女とは比較にならないことが起きようとしているのだという予感がある。このままわたしが留まれば、三人は全力で戦えないばかりか、最悪の場合わたしをかばって死んでしまうなどという事が起きかねない。目の前でそんなことにはなって欲しくないし、三人に死んで欲しくもない。わたし自身が戦いの場において邪魔者でしかない事も理解している。

 それなのに、わたしは自分だけこの場から去ることに納得する事ができなかった。状況全てがこれ以上同行するのは無理だと告げているというのに、わたしの心はまどか達三人から離れたくないと思っている。

 

「……わたし……は……」

「なにか……聞こえねぇか……?」

 

 俯いていたわたしは、答えの出ないままに口を開きかけたけれど、それを遮るように佐倉杏子の呟きが聞こえてきた。

 

「なに……この音……」

 

 まどかも怯えるかのように周囲を見回しながら同じような事を呟いている。

 そして、言われてみて初めて気がついた。吹き荒れる風の音に混じって、かすかに聞こえる異質な音。金属を捻り上げ軋ませているかのような音をいくつも重ねたかのような不協和音。風にのって聞こえてくるのかとも思ったけれど、どうやら違うらしい。なぜなら、グリーフシードの集合体の周囲の景色が歪んでいるのが見えたのだから。おそらくではあるけれど、これは空間そのものが軋んでいる音なのかもしれない。

 

「これは……ヤベェんじゃねぇのか?」

 

 佐倉杏子の焦りを含んだつぶやきも、この時わたしにはまともに聞こえていなかった。何故なら、グリーフシードの集合体が融け合うように形を失って生まれた闇の奥から垣間見えたその姿に目を奪われてしまっていたから。全体像が見えたわけではないけれど、闇を押しのけるようにして僅かに姿を見せた巨大な歯車の一部。その近くで翻る白いフリル付きの青い衣。そんな特徴を持つ存在を、わたしはひとつしか知らない。

 空間の軋む音が大きくなるにつれて、その姿が少しづつ顕になっていく。そのあまりの光景に、誰も動くことはおろか言葉を発することさえも出来なかった。わたしを含め、全員がその光景に注意を注いでしまっている中、それは突然に訪れた。

 背中に感じた小さな衝撃。それに疑問を感じる前に、わたしの胸元から突き出る黒いナニカ。

 

「……え?」

 

 理解が追いつかず、小さなつぶやきだけが口からこぼれた。

 

「あ……え……?」

 

 息ができずにまともな言葉を発する事ができなくなる。それを自覚するのと同時に、激痛が全身を走り抜けていく。けれど、それも長くは続かない。手足の先から痺れるような感覚の後に何も感じなくなってゆく。首だけを半ば強引にまわして後ろに視線を向ければ、そこには剣を手にした黒い影法師のようなモノ。

 

「ほむらちゃん!?」

 

 わたしの様子に気付いたらしいまどかの悲鳴のような声を耳にしながら、わたしの意識は急速に遠のいていく。

 

「暁美さんッ!?」

「ほむらぁっ!!」

 

 暗くなっていく視界と遠のいていく音の中に巴マミと佐倉杏子の声を聞きながら、わたしの意識は暗い闇の中に飲み込まれていった。この感覚は二回目だなぁと、妙に冷めたことを思い浮かべながら。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 意識が目覚める感覚とともに、身体の感覚も戻ってくる。その事に気づき身体を動かそうとして、胸に激痛が走った。

 

「あぅっ!?」

 

 口からこぼれ出た小さな悲鳴とともに、視界に明るさが戻ってくる。閉じていた瞼を開き、目に飛び込んできた光景はまだぼんやりとしていた。

 目が慣れてきて、ようやく気づく。泣き出しそうな表情で私の顔を覗き込んで座り込んでいる巴マミと、その傍らに鎮座する白い小動物──インキュベーターの存在に。

 

「よかった、気がついたのね」

 

 目尻に浮かんだ涙を拭おうともせず、巴マミが声をかけてきた。わたしの胸元に添えるようにして置かれた手から柔らかな黄色い輝きが溢れているのは、彼女の治癒魔法によるものなのだろうか。

 

「まだ、動いては駄目よ。魔法による治療が間に合ったから助けられたけれど、普通なら治療する方法の無い致命傷だったのよ」

 

 その言葉を聞いて、わたしは自分の身に何が起きたのかを思い出した。影法師の使い魔に背中から貫かれて、そのまま死んでしまってもおかしくなかったのだ。また足を引っ張ってしまったことに気分が暗くなるけれど、その事を悔やんでも何も変わらない。それよりも、確認しなくてはいけないことがある。

 

「まど……か……達は……?」

 

 声を絞り出して巴マミに問いかける。意識を失っている間の体力の消耗と、覚醒直後に無理をして起き上がろうとしてしまったことの影響か、途切れ途切れにしか言葉を発することができなかった。

 焦点の甘い視界の中で、巴マミが悲痛な表情で俯くのが見える。それだけで、どうなっているのか予想がついてしまった。

 

「ごめん……なさい。私は、あなたを助けるだけで精一杯だったの」

 

 未だぼやけ気味の視界の中で、巴マミが涙を浮かべているのを、自分でも驚くほど冷静に見ていることに気づく。予想はできていたからだろう。目覚めたとき、まだ戦いが続いているにしてはあまりにも周囲が静か過ぎたし、意識を失う直前に受けた傷を思い返してみても、数分で癒せるような軽い物ではなかったのだから。

 それに、あの子自身が無理を言って巴マミにわたしの治療を優先するように頼み込んだのだろうということが予想できてしまった。何度も繰り返した時の中で、あの子はただ一度の例外も無く、自身を省みることなく他者を優先する行動をとっていたのだから。違っていたのは対象となる者だけ。『自分のため』が『誰かのため』より優先することはただの一度として存在しなかった。

 もし何かあれば、友人たちや家族がどう思うのか、事実を知ることができないままにどうなるのか、そんなことも考えられなかったのか、それとも全て承知の上であえて踏み込んだのか、今となってはもうわかるはずも無いのだけれど。

 わたしだって似たようなものなのだから、人のことは言えないし、言ってはいけないのかもしれない。でも……

 

「……マミ」

 

 それまで無言だったインキュベーターが、唐突に巴マミに呼びかける。普段と変わらない、淡々とした口調。けれど、その呼びかけにわたしはひどくいやな予感めいた物を感じていた。

 

「キュゥべえ、暁美さんのこと……お願いね。グリーフシードももう無いし、私も限界……みたい……」

 

 脱力するかのように、巴マミの身体が横たわっている私のほうに向かって傾いでくる。その時視界に飛び込んできたのは、漆黒に染まりひび割れている彼女のソウルジェム。ほんの数秒前まで確かに会話をしていたはずの巴マミの魂が、ひび割れから噴出する穢れとともに、わずかなきらめきを残して消え去ってゆく。それとともに肉体もまた、細かな光の粒子となり、溶けるかのように空気中に消えていく。

 目の前で起きたその光景を、わたしは言葉も無くただ呆然と見ていることしかできなかった。

 わたしを救うために魔力も手持ちのグリーフシードも全て使い切って消えていった巴マミ。

 正面から戦えば決して勝てないとわかっている相手に挑んでいったまどかと佐倉杏子。

 

「バカよ……みんな……!」

 

 気がつけば、そんな言葉をこぼしていた。わたしも、まどかも、美樹さやかも、巴マミも、佐倉杏子も、結局みんな似た物同士だったということなのだろうか。後悔と悲しみと腹立たしさがごちゃ混ぜになったような、もやもやした気分を抱きながらも、その気持ちをどうしたらいいのかわからずにただ嘆くことしかできなかった。

 

「暁美ほむら」

 

 巴マミが消えた空間を見ていたインキュベーターが声をかけてくる。

 

「今の君であれば、契約することもできるだろう。その気があるのなら、願うといい。また繰り返すつもりであればお勧めはできないけれど、引き止めもしないよ。願いの内容に直接干渉する権限は僕たちには無いからね」

「……どうして、そう思うの?」

 

 耳に飛び込んできたインキュベーターの言葉が、わたしの心に動揺を生む。顔に出てしまっているかもしれないと思いながらも、今更そんなことを気にしても仕方ないと思い直し、わたしがまた繰り返そうとしているといわんばかりのインキュベーターの言葉に対してその根拠を問いかけてみた。

 

「いくら地球人類と僕たちが異なる考え方や価値観をしていたとしても、あれだけ執着しているのを見ればある程度の予想はつく。それを愚かだとは言わないよ。きっと、正解とか間違いとかそういう概念で論じることが無意味だろうからね」

 

 相変わらず、淡々とした事務的な口調で話しかけてくる。予想はつくといっても、それはその行動の理由を理解してのものではなく、これまで見てきた人間の行動パターンのデータから割り出して把握したというだけに過ぎないのだろう。けれど、今はそんな無機質な在りようがありがたい。もしもここで変な気遣いを見せてくるような相手だったなら、きっと苛立ちを抱え込んでいただろうと思う。

 あの日、あの時、あの場所で、わたしが口にしたのはささやかな願いのはずだったもの。けれど、最初に感じた歓喜は、すぐに戸惑いと怒りへと取って代わられた。救いの無い未来を変えたいと思って始めた行動は、失望と後悔を積み重ねて無自覚のままにわたし自身の心を歪ませ、さらに深みへとはまってしまった。

 わたしは途中から、本当は何がしたいのか見失っていたのだろう。だからこそ、何かをするたびに自分自身を追い詰めていることに気づかなかったのだ。

 同じことを願えば、同じことを繰り返してしまうだろうか。それとも、少しでも違う結末にたどり着けるだろうか。答えなどわかるはずの無い疑問が頭の中に渦巻いていく。どちらを選ぶにしても、今の状態ではわかることなど無いに等しいのだから、考えるのは無駄なのだろう。

 

「契約……するわ」

 

 後戻りのできない言葉を口にしながら、表情に出さずに心の中でほくそ笑む。望むとおりに契約してやっても、その結果まで思い通りになるなんて思わないで欲しい。わたしは、こいつらに益となることをする気は全く無い。けれど、それでも問題は無いはずなのだ。

 おそらく、彼らは提示された願いを叶えることに対しての拒否権を持っていない。もしくは拒否するという発想が無い。そうでなければ自分たちに都合の良い願い事だけを叶えているだろうし、かつてのわたしが口にした『やり直したい』という願いを躊躇無く叶えてきたことに対しても説明がつかなくなる。だから、わたしは今思い描いている願いを拒否されることは無いと確信している。資質が足りずに叶えられない可能性は否定できないけれど、自ら積極的に事実を捻じ曲げることはしないという点においてのみ、彼らは信頼できる。

 それは、愚者の選択なのかもしれない。けれど、それならそれでかまわないと思う。愚者なら愚者なりの悪あがきをしてみるのも良いだろう。

 

「……ならば、教えてごらん。今の君がソウルジェムを輝かせる、その願いを」

 

 インキュベーターの言葉に、思い描いていた願いを口にする。わたし自身の希望と、インキュベーターへの怒り。それらをないまぜにした、自身でもよくわからない感情を言葉に乗せて。

 

「……わたしは、みんなを助けるためにやり直したい。あなたたちと共に、結末をより良くするために。こんな悲しい結末にならないための戦いをあなたも見届けなさい。インキュベーター」

 

 睨み付けるようにして吐き出した言葉にも、インキュベーターは表情を変えることは無い。当然だろう、彼らは表情を変化させる能力をほとんど持ち合わせていないのだから。生理現象に必要な物ものとして、口と瞼を動かすくらいのことしかできなかったはずだ。けれど、そのまとう雰囲気にわずかながらに変化があったことは感じ取れる。だというのに、その口から吐き出された言葉は、憎たらしいほどに今までと同じ口調だった。

 

「……やれやれ、そうまでして君は鹿目まどかから僕たちを引き離したいのかい? あまり意味は無いはずだけど。それとも、なにか別の意図があるのかな」

 

 わずかに戸惑いのようなものを感じさせつつも、呆れとも受けとれる言葉。感情の希薄な彼らをうろたえさせるほどのものではなかったけれど、予想外のものではあったようだ。反応が薄いのは仕方の無いことかもしれないけれど、少し悔しい気もする。どうせならあからさまにうろたえるのがわかるくらいのことをしてやりたかった。

 

「まぁ、いいけどね。どんな内容であれ願いであることには変わりないんだし」

 

 インキュベーターのそんなつぶやきと共に、胸元から何かが引きずり出されるような苦痛が生まれ、小さな輝きが浮かび上がってくる。それは、わたしの魂そのものであるソウルジェム。以前に比べて少し色が濃いような気もするけれど、紫色の輝きを湛えている点は変わらない。

 輝きが落ちつき、手の中に降りてきたソウルジェムに懐かしさと妙な安心感を抱いてしまうわたしは、やはり後戻りなどできなかったのだろう。辛く嫌な思いしかしてこなかったはずの魔法少女というその在り方に、そんな思いを抱いてしまっている時点で壊れてしまっているのかも知れない。

 でも、それでもいいと思っている。違う選択肢もあっただろう。もしかしたら、とても充実した日々を送ることができたかもしれない。けれど、きっと後悔は消えなかっただろうとも思う。結局、どちらに転んでもまともな人生にはならなかった気がする。

 思考を中断して身体を起こす。魂がソウルジェムへと変化した際に肉体の修復が行われたのか、思っていたほど重くは感じられなかった。

 

「行くのかい?」

 

 短いその問いかけの言葉に、短く一言だけ「ええ」と言葉を返す。ソウルジェムが手の中に納まった時点で。わたしの魔法が時間に関係する物だということは理解できているけれど、願いの内容が以前とは違うのだから使用できる魔法が全く同じだとは思えない。似ているけれど何かが違うということになっていてもおかしくは無いだろう。

 そんなことを考えながら、魔術を起動する。紫の輝きを放つ魔力が全身を覆い、服が魔法少女のものへと変化した。左腕に現れた盾型の魔導具も、以前と比べて変わったところは見受けられない。やり直し、繰り返していることに皮肉をこめてウロボロスの砂時計と呼んでいるその魔導具の変わらぬ姿に安堵してしまうあたり、わたしはやはり壊れた人間なのだろう。

 

「……本当に、これで良かったのかい?」

 

 時間遡行の魔術を発動させようとした瞬間を狙ったかのように、インキュベーターが話しかけてくる。すでに契約は成されているし、この世界において魔法少女の心に揺さぶりをかける事はあまり意味が無い。そうなると、今ここで話しかけてくることに何の意味があるのかと疑問を抱いた。目的の達成と、その為の効率を最も重視する彼らには、こんな質問はたいした意味など持たないはずなのに。

 

「どういう意味?」

 

 無愛想に聞き返してみる。質問に質問で返す形になるけれど、意図が読めず答えようが無いのだから仕方が無い。何か少しでも情報を引き出せれば、そんな考えでやってみただけだった。

 

「そのままの意味だよ。終わりの無い時間の中、何度も繰り返しを行うのは、人間の精神にとってひどく重い負担になるんじゃないのかい? 君自身が一番そのことを理解していると思っていたんだけどね」

 

 これまでと変わらぬ口調でさらりと言い放ったその言葉に、湧き上がってきた衝動を無理矢理に押さえ込む。腹は立つけれど、ここで殴り飛ばしたところで何も変わらないのだから。

 それに、これはわたし自身が自ら望んだこと。どれだけ危険で、それでいて無意味になりかねない行為であるかもわかっている。でも、それでも、皆を見捨てて自分だけが一般人の生活に戻るには、知ってはいけない事を知りすぎてしまっているし、何よりも思い出したこの気持ちを自分から踏みにじることになると思う。

 

「嫌になるくらい、よくわかってるわ。それでも、やらずに後悔するよりは、やって後悔するほうがずっとマシなのよ」

 

 インキュベーターにこの気持ちは絶対に理解できないだろうと思いつつも、そう宣言する。彼らはきっと、結果がどうなったのかという部分にしか興味を示すことは無いはずだ。

少しでも理解できるのなら、命や魂、肉体といった生物を構成する要素を、ただのモノと同列に扱うような考え方はしなかったはずなのだと思う。彼らなりの良識はあるのだろうけれど、それは私たちのものとはあまりに相容れないものだ。

 

「うーん、よくわからないな。結局それは、方向性が違うだけで結果としてはほとんど変わらないじゃないか」

「わかってもらう必要はないわ。最初から理解できるとも思っていないしね」

 

 冷たい口調で告げてみるものの、インキュベーターは首をかしげているだけで何も感じてはいないようだ。ある意味予想通りでもあるその反応に、小さくため息を吐いてしまう。

やはり、彼らにとっては過程の違いなど誤差程度の認識しかないのかもしれない。

 

「まぁ、僕たちとしては最終的に宇宙が存続できればいいし、君についていくことでその為の情報が得られるならいいんだけどね。一つ問題があるとすれば、得られた情報をきちんと伝える手段があるかどうかなんだけど……」

 

 微妙に言葉を濁してはいるけれど、彼らにとってそんなものは何の障害にもならないだろう。同一の記憶を共有する彼らにとって、同族に対して能動的に情報伝達が必要になることなどほとんど無いはずだ。そうなると、今の言葉は彼らなりの皮肉だろうか。そんな気の利いた真似のできる連中ではないはずだけれど。

 

「……それにしても、魔獣と魔女って今ひとつ関連性が薄い呼び名よね。どうしてこうなったのかしら?」

 

 堂々巡りを始めかけている思考に気づき、それを強制的に終わらせるために不自然を承知で疑問をぶつけてみた。内容自体はこの時間軸世界に来て魔獣のことを知ったときからずっと心に引っかかっていたことなので、いい機会だろうとも思ったからだ。だいたい、魔獣にしろ魔女にしろ、その呼び名から連想できる姿とはあまりにかけ離れていることが多い。

 

「あまり深い意味は無いよ。ただ、この星では自分達に理解できない技術を使う者を総称して『魔女』と呼んできたじゃないか。その呼称を使わせてもらっただけさ。いつ、誰が始めたのかまでは正確な記録が無いけれどね」

 

 口調はいつもと変わらないし、インキュベーター自身に何か変化があったようにも感じられない。内面的にどうなのかはわからないけれど、表面上だけとはいえ全く変わった様子が無いのはどうにも神経を逆撫でされる。

 

「魔獣についてはもっと単純で、理性の抑制が効かなくなった男性を狼や獣にたとえたりするだろう? 魔獣が人間の男性に近い姿をしていたから、それを当てはめただけにすぎないよ。事実、本能だけで動いてる存在なんだしね」

 

 淡々と話しているに過ぎないのに、どことなくはしゃいでいるような印象を受けるのはなぜだろうか……。 

 おそらくインキュベーターにしては珍しく、丁寧に説明しているからなのかも知れないけれど、それだけではない気もする。そもそも、どこまで情報を開示しているのか、それすらも怪しいのだ。以前の世界よりははるかにマシになっているみたいではあるけれど、だからといって信用はできない。油断すると知らないところで勝手に何かやっていても不思議ではないのが奴等なのだから。もっとも、今目の前にいるインキュベーターはわたしと一蓮托生なのだから、協力的ではないにしろあからさまに妨害になるようなことはしてこないだろうとも思う。

 

「これ以上おしゃべりしてても仕方ないわ。行きましょう」

「やれやれ、契約は契約だし、仕方ないね」

 

 だらだらと話が長引かないうちに切り上げることを宣言して、わたしは左腕に具現した盾に手をかける。『ウロボロスの砂時計』と呼称してずっと使い続けてきた、わたしの魔法の象徴にして魔導具たる盾。繰り返してきた時間の中で、意識しなくとも望むとおりに行使できるほどなじんだ相棒ともいうべきもの。

 意識を集中して盾の縁に手をかける。そうして、心の中に描いた砂時計を反転させるイメージと共に盾を回転させた。腕の中でわずかな振動と共に内部機構の作動する駆動音が鳴り響く。同時に視界に真っ白な光があふれ、浮遊感に包まれるのを自覚しながら、わたしの意識は遠のいていった。

 これから先、どれだけこの感覚を味わうことになるのかはわからない。目的を達成できるのか、できないままに心を磨耗させて壊れることになってしまうのか、どうなってしまうのだろう。けれど、それでもかまわないと思う。たとえどんな結果になろうと、わたしは見つけた目的に向かって進むだけだ。永劫に同じ時を繰り返す時間の狭間で迷子になったのだとしても、きっと後悔することはない。わたしの歩む道が破滅の道であるのなら、最期は笑いながら逝けばいい。以前は失敗する度に少しずつ心を凍らせ、忘れていった気持ち。ようやく思い出したこの想いを、今度は決して捨てることはしない。ひどく往生際が悪くてみっともない姿を晒す事になっても、手を伸ばし続けよう。身も心も壊れる、その時まで。



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