醜女の林檎 (紫 李鳥)
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 大谷由紀恵がレストルームで手を洗っていると、仲良し三人組の佐代子、孝子、美那が入ってきた。由紀恵を見た途端、三人は顔を見合わせて嘲笑した。

 

 そんな三人を無視して由紀恵が出ようとした時だった。

 

「あっ、そうだ。大谷さんも行かない?」

 

 いつも相手にせず、ろくに話もしない佐代子が突然声をかけてきた。

 

「……え?」

 

 呼び止められて立ち止まると、振り返った。

 

「えー?大谷さんも誘うの?」

 

 他の二人が嫌な顔をした。

 

「ホストクラブって言って、ステキな男がたくさん居るの。楽しいわよ」

 

 佐代子は、初心者の由紀恵に分かりやすく説明した。

 

「そったどご行ったごどねはんで 」

 

「アッハハハ……」

 

 由紀恵の(なま)りに、三人は腹を抱えて笑った。

 

「大丈夫よ、男の人がなんでもしてくれるから、座って呑んでればいいの」

 

 佐代子が由紀恵の耳元に囁いた。

 

「すたばって……」

 

「私に任せておけば大丈夫だから。ね、行こ」

 

「……うん」

 

 結局、由紀恵は佐代子の誘いを断れなかった。

 

「じゃ、後でね」

 

 レストルームを出ていく由紀恵に手を振った。途端、

 

「なんで、あんなブス連れていくのよ」

 

 モアイ像顔の孝子が不平を溢すと、

 

「そうよそうよ」

 

 と、ホームベース顔の美那が相槌を打った。

 

「考えてごらんよ、あれほどのブスと一緒だと、私たちが引き立つじゃないよ」

 

 リーダー格の佐代子が思いつきを述べた。

 

「……なるほど」

 

 二人は、佐代子のアイデアに納得すると、目を合わせて含み笑いをした。

 

 

 

 退社時間になり、めかし込んでいた三人は、時代遅れのツーピースを着た由紀恵をほったらかしてさっさと会社を出た。

 

 通りでタクシーを拾うと、三人は急いで後部座席に乗った。残された由紀恵は助手席に乗るしかなかった。

 

 三人は、由紀恵を無視して、ぺちゃくちゃ喋っていた。取り残された由紀恵は一人、暮れ泥む街の光景を目で追っていた。

 

 ――店の前にタクシーを停めると、三人はいそいそと、「ラブリー」という店に入っていった。残された由紀恵がタクシー代を払うしかなかった。

 

 階段を下りると、薄暗い店内から、

 

「いらっしゃいませ!」

 

 と、大勢のホストが出迎えた。

 

「どうぞ、こちらへ」

 

 若いホストが由紀恵を誘導すると、ホストたちと騒ぎ立てている三人の席に案内した。

 

 由紀恵がボックスソファの端に座ると、

 

「サヨちゃん、紹介してよ」

 

 おしぼりを持ってきたオネエ言葉のホストが由紀恵のことを言った。

 

「あ、オオタニユキエさん」

 

 佐代子は面倒くさそうに言うと、隣に座っているホストと話の続きをした。

 

「あら、ユキエちゃんて言うの?僕、ヒロシです。よろちく」

 

 剽軽(ひょうきん)なヒロシの仕草に、由紀恵が笑った。

 

「飲み物何する、スルーする?なんちゃって」

 

「あまり呑めねの」

 

「じゃ、甘いのがいいわね。果実酒にしましょう」

 

 ヒロシはヘルプのホストにカシスオレンジを言いつけた。

 

「ね、和弥は?」

 

 話の面白くない隣のホストを(なじ)るかのように、指名しているホストの名前を言った。

 

「今日も同伴よ」

 

 そのぐらい我慢しなさいよ、と言わんばかりにヒロシが吐き捨てた。

 

「もう……」

 

 佐代子は顔をしかめると、ブランデーを(あお)った。孝子と美那は目を合わせると、ヤバイと言った顔をして、太鼓持ちのように佐代子を(なだ)め始めた。

 

「ね、後でダンシングしない?」

 

 我が儘な佐代子を尻目に、ヒロシは上半身を軽く動かすと、由紀恵との会話を楽しんだ。

 

「……踊ったごどねはんで」

 

 カシスオレンジを()めながら、上目をやった。

 

「おらが教えてやっから」

 

 ヒロシも訛った。

 

「ハッハッハッ……」

 

 由紀恵はヒロシと目を合わせて笑った。

 

「おめさん訛ってらよ」

 

 自分のことを棚に上げて由紀恵がバカにした。

 

「ユキエのほうが訛ってるだ」

 

 ヒロシが調子に乗った。

 

「おめのほうが訛ってらってば」

 

「ユキエのほうだ」

 

「ヒロスのほうだって」

 

「二人の訛りに乾杯!」

 

 ヒロシはそう言って、由紀恵のグラスに自分のグラスを当てた。何やら楽しげな二人に、佐代子たちは(さげす)むような視線を向けていた。

 

 

 ヒロシとの会話を楽しんでいると、

 

「和弥っ!」

 

 佐代子の大きな声がした。笑顔で手を振る佐代子の視線を追うと、そこには、モデルみたいなスレンダーな女性を伴った、これまた俳優みたいな美男子がこっちを見ていた。

 

「いらっしゃいませ。ちょっと待ってて、すぐ来るから」

 

 和弥は佐代子に挨拶すると、由紀恵に笑顔で会釈した。由紀恵はドキッとすると、乙女のように恥じらって俯いた。

 

「彼が、当店ナンバーワンの和弥よ。いい男でしょう?」

 

 初めて来店した由紀恵にヒロシが教えてやった。

 

「ヒロスさんもながながい男だ」

 

「ま、うれしい。ユキエちゃんだけよ。そったらこと言ってくれるの」

 

「そったごどねだびょん」

 

「そったらことあるのよ」

 

「ねって」

 

「ねくねぇーって」

 

「ハッハッハッ……」

 

 由紀恵はケラケラ笑った。盛り上がっている二人に、佐代子たちは面白くない顔をした。

 

「楽しそうだね。いらっしゃい」

 

 由紀恵の横に座った和弥から、何だか(かぐわ)しい匂いがした。



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「ユキエちゃんて言うの。ユキエちゃん、和弥よ」

 

 ヒロシが紹介した。

 

「ユキエちゃん、よろしく。一条和弥です」

 

 名刺入れから一枚抜くと、由紀恵に手渡した。

 

「……どうも、初めますて」

 

 名刺を受け取った由紀恵が会釈した。和弥がヒロシを見ると、由紀恵の訛りについての問い合わせに回答する目配せがあった。

 

「……初めて?」

 

 和弥は長いタバコを一本抜くと、カルティエのライターを出した。

 

「こったどご来だごどねもの」

 

「これをきっかけによろしく」

 

 ヒロシがブランデーを注いだグラスを由紀恵のグラスにカチッと当てた。

 

「和弥、こっちに来てよ!」

 

 佐代子が怒ったように言った。

 

「ヒロシと楽しんでて。すぐ戻るから」

 

 和弥はタバコを揉み消すと席を立った。

 

「あ、この曲いいじゃない。踊ろ」

 

 ステージのバンドがラテンのリズムを演奏すると、ヒロシが由紀恵を誘った。

 

「踊れねって」

 

「おらが教えるってば」

 

 由紀恵の手を引っ張ると、ステージに導いた。

 

 ヒロシに指導されながら、由紀恵は誰も踊っていないステージで恥ずかしそうにステップを真似た。

 

 和弥は、金蔓(かねづる)になりそうなステージの由紀恵を虎の目で狙っていた。

 

 ヒロシに連れられてステージから戻った由紀恵を、今度は和弥がチークダンスに誘った。躊躇(ちゅうちょ)する由紀恵の手を引くと、ステージのど真ん中に連れていった。

 

 由紀恵は初めてのチークダンスに、和弥の足を踏んでしまった。

 

「あっ、かにな」

 

「気にしなくていいよ。それより、今度は一人でおいで。安くしてあげるから」

 

 癖毛の由紀恵の髪に触れると、耳元に囁いた。

 

「……ええ」

 

 由紀恵は恥じらうように言葉を漏らした。

 

 相手にされない佐代子は、悔しそうな顔で二人を睨み付けていた。

 

 ……なんのために由紀恵を連れてきたのよ。私の美を引き立たせるためでしょ。これじゃ、逆じゃない。なんであんなブスがちやほやされるのよ!

 

 佐代子の顔はまるで、そんな不平を言っているかのようだった。

 

 満席になった頃、ほったらかしにされた佐代子は酒を浴び、かなり酔っていた。やがて、気が大きくなった佐代子は和弥を呼びつけた。

 

「何よ、開店から居るのに座ったのはちょっとじゃない。それに、あんなブスと踊って!」

 

「いい加減にしろよ。客はあんただけじゃないんだ!」

 

 和弥が眉間に皺を寄せて怒鳴った。

 

「……ワァーッ」

 

 佐代子は突然泣き出すと、逃げるように店を出ていった。慌てて、孝子と美那が後を追った。

 

 由紀恵もショルダーバッグを手にすると、席を立った。

 

「ほっときな。呑むといつもああなんだから」

 

 横に座った和弥が引き止めた。

 

「……すたばって、割り勘だど思って、あんまりじぇんこねはんで」

 

 四人分の飲み代を払わされるのかと思った由紀恵が勘定を気にした。

 

 ……こういう、金に細かい女ほど金を貯めてるもんだ。

 

 それは、和弥の経験上の統計だった。

 

「大丈夫だよ、いつも“ツケ”だから。佐代子には自分が呑んだ分だけ払えば」

 

 安心したのか、由紀恵が笑顔を見せた。

 

「初めて来て、どうだった?」

 

 由紀恵の肩にそっと手を置いた。

 

「……楽すかった」

 

「これからもっと楽しいことを教えてあげるから」

 

 意味深な言葉を由紀恵の耳元に囁いた。

 

「……」

 

 由紀恵は頬を紅潮させると俯いた。

 

 

 

 帰途、遅くまでやっているスーパーに寄った。

 

 ……今日は酔ってるから風呂は明日にしよう。

 

 由紀恵は高校を卒業すると、得意だった珠算と簿記の資格を取得して上京した。求人があった西新宿の設備会社に就職すると、珠算と簿記の資格を買われて経理を任された。容貌や標準語が求められる受付や電話応対と違って、経理は計算間違いをしないようにひたすら算盤を弾いていればいい。顔と訛りにコンプレックスがあった由紀恵にはぴったりの仕事だった。

 

 上京してから、この風呂なしのアパートで三度の更新をした。由紀恵の趣味は貯金。お洒落もせず、映画も観ず、休日は(もっぱ)ら掃除と洗濯。唯一の楽しみはテレビを観ることぐらいという、実に絵に描いたような地味の典型だった。

 

 いつものように家計簿に収支を記載する。

 

「……タクスー代勿体ながったな 」

 

 と、独り言を呟いた。

 

 …… 後は飲み代幾らになるがだ。……ばって、和弥さ会えだはんで、少すぐらい高ぐでもいや 。

 

 由紀恵は使い古したバッグから和弥に貰った名刺を取り出すと、〈一条和弥〉の活字を(つくづく)と眺めた。

 

 ……上京すて六年。今日みでぐ楽すかったごどは一度どすてながった。いや、生まぃでこの方初めでの体験だ。

 

 と、由紀恵はしみじみと思った。

 

 何年経っても訛りの抜けない由紀恵は、嘲笑の対象にされるだけで、友達もできず、いつも一人ぼっちだった。そんな時、和弥に出会った。由紀恵にとってそれは、生まれて初めての“ビッグイベント”だった。



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 翌日、出社すると、仲良し三人組は由紀恵を相手にせず、いつもの無視をした。由紀恵にはその方が気が楽だった。

 

 手弁当の昼飯の後、銀行で金を下ろした。

 

 定時に退社した由紀恵は一旦アパートに帰ると、銭湯に行った。食事を作る時間はなかったので、帰途、スーパーで惣菜を買った。炊飯器に残っていたごはんをよそうと、きんぴらごぼうとひじきの煮物をおかずにした。

 

 一張羅のモスグリーンのワンピースを着ると、和弥の出勤時間を見計らって電車に乗った。

 

 

 「ラブリー」の階段を下りると、

 

「いらっしゃいませ!」

 

 昨日と同様にホストたちが出迎えた。席に案内されると、指名をした。

 

 間もなく、ヒロシが手を振りながら駆け付けた。

 

「ユキエつぁん、いらっしゃい。ご指名ありがとさん」

 

 由紀恵の前に座ると、ヘルプにオーダーした。

 

「ピーチ百パーの美味しいのを注文したわ。昨日のより甘くて美味しいわよ」

 

「ヒロスさんに任せるって。ヒロスさんも何が飲んで」

 

「サヨコのボトルを呑むから大丈夫よ。酔っ払ってから空にしても誤魔化せるわよ。『あら、サヨコさまがお召し上がりなされたではございませぬか。何をお(たわむ)れを?おっほっほっほ……』」

 

 口に手を当てて、ヒロシが女みたいな仕草をした。

 

「ハッハッハッ……」

 

 由紀恵がゲラゲラ笑った。

 

「失礼します」

 

 ヘルプは由紀恵の前にグラスを置き、ヒロシの前にはマイボトルと、ウイスキーが入ったグラスを置いた。

 

「じゃ、乾杯!」

 

 二人はグラスを持った。

 

「後で踊ろうか」

 

「昨日みでぐ教えで 」

 

「オッケー、教えてあげる」

 

「いらっしゃいませ。ご指名ありがとうございます」

 

 背後から来た和弥が、深々と頭を下げて、由紀恵の来店を歓迎した。

 

「じゃ、また、後でね」

 

 ヒロシが気を利かせて席を立った。

 

「来てくれて嬉しいな。昨日は嫌な思いをさせてごめんね」

 

 横に座った和弥が由紀恵の顔を覗き込んだ。

 

「何も……気にすてね」

 

「ユキエちゃんは大人だな。どんな字を書くの?ユキエって」

 

「……由来の由さ、紀元前の紀さ、恵む」

 

「……いい名だ。僕の漢字は知ってる?」

 

「うん。……名刺さ書いであったはんで」

 

「失礼します」

 

 ヘルプが和弥のヘネシーと、ブランデーが入ったグラスを置いた。

 

「再会を祝って乾杯」

 

 二人はグラスを当てた。

 

「素敵な色だね」

 

 由紀恵の服を褒めた。

 

「……どうも」

 

 恥ずかしそうに俯いた。

 

「でも、店内だと暗くて、折角の色が映えない。ね、今度、外でお茶しよう。その素敵な服の本当の色を見せてくれ」

 

 安いシャンプーの匂いがする由紀恵の耳元に囁いた。

 

「……ええ」

 

 

 終電を気にして、何度も安物の腕時計に目をやる由紀恵の勘定を和弥は安くしてやった。

 

 閉店後、和弥のヘルプの一人が由紀恵のことを話題にすると、「あの子、まだバージンじゃない?」と、言った。和弥は、フン、と鼻で笑うと、売上を上げる手練手管(てれんてくだ)(ろう)した。

 

 

 翌日、待ち合わせた喫茶店に行くと、由紀恵は和弥が褒めたモスグリーンのワンピースを着ていた。

 

「やっぱ、明るいとこで見た方が綺麗だ」

 

 その言葉を、由紀恵はどっちに受け止めたのか?……もしかして、顔だったりして。和弥はそう思って腹の中で笑った。いずれにせよ、由紀恵は恥じらうように俯くだけだ。

 

 ラブホテルに誘うと、由紀恵は後ろからゆっくりとついてきた。和弥はぐずぐずしている由紀恵にイラつくと、強引に腕を引っ張った。――

 

 

 ホテルから出ると、近くの定食屋に入った。由紀恵の頬はほんのりと紅潮していた。

 

「何するか……。嫌いなものはない?」

 

 メニューを手にした和弥が訊くと、由紀恵がゆっくりと頷いた。

 

「最近は野菜不足だから、野菜炒め定食にするか」

 

 決めると、メニューを由紀恵に手渡した。

 

(ったく。自分の目の前にあるメニューを見ろよ。……“同伴するまでは相手を怒らせるな”それが俺たちの鉄則だろ?)

 

 和弥は苛立(いらだ)つ感情を抑えた。

 

「……同ずものでい」

 

 由紀恵がボソッと言った。

 

(時間をかけた割には答えがそれかよ。バリエーションに乏しい女だな)

 

 注文すると、タバコを一本抜いた。

 

「由紀恵ちゃんも野菜不足?」

 

「和弥さんと同ずものが食ったがったはんで」

 

 その返事に、オエッとなりそうなのを和弥は我慢した。

 

「由紀恵ちゃんは、料理は得意なの?」

 

 和弥のその問いに、由紀恵は異常な反応を示した。いつも俯いている由紀恵の垂れた細い目が輝いたのだ。

 

「自炊すてらはんで料理は色々作れるの」

 

 と、歯を覗かせた。

 

「へえ。例えば?」

 

「和食だばなんでもでぎる。……筑前煮、だす巻ぎ卵、ぶりでご、肉じゃが――」

 

「スゴいな」

 

 永遠に続きそうだったので、話を終わらせた。

 

「今度、ごちそうしてくれる?」

 

 その言葉に、由紀恵は笑顔で頷いた。

 

 

 同伴した由紀恵をヒロシに任せると、和弥は他の指名客の挨拶に回った。

 

「何か、いいことあった?」

 

 ヒロシが意味深に訊いた。

 

「何もね。ヒロスさんに会えだはんでだびょん」

 

 ピーチカクテルに口を付けながら上目をやった。

 

「そったらまた、うれしいことを」

 

「嘘でねって」

 

「おらもユキエちゃんと話すのが楽しいだ」

 

 そう言って、グラスを傾けた。

 

「ほんとに?」

 

「嘘じゃねえってば」

 

「ハッハッハッ」

 

 二人は笑い合った。



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 由紀恵は週に一、二度、和弥と会っていた。

 

 ――そんなある休日。和弥は由紀恵から教えてもらったアパートに出向いた。

 

 木造モルタルの一階のドアをノックすると、化粧した顔とさほど変わらない素っぴんの由紀恵が満面の笑みを浮かべた。

 

 六畳一間には、テレビと中古品のような洋ダンス、ギシギシ言いそうな組立式のパイプベッドがあるだけで、花一つ飾ってなかった。部屋の真ん中には折り畳み式の卓袱台(ちゃぶだい)を挟んで、真っ白いカバーの座布団が二枚置かれていた。レースのカーテンを引いた窓からは、一戸建ての隣家の庭が見えた。

 

 和弥は窓際で脚を伸ばすと、ブルゾンのポケットからタバコを出した。由紀恵は急いで、捨てずに取って置いた縁の欠けた小皿をシンクの下から引っ張り出すと、灰皿代わりにした。

 

「……何作るべがな」

 

「お前に任せるよ」

 

 七面倒(しちめんどう)な言い方をすると、窓辺に顔を向けた。

 

「嫌いなものはね?」

 

「ねえよ」

 

 由紀恵に釣られて訛ってしまった自分に、和弥は苦笑した。

 

 

 ――ナイターを観ていると、いい匂いがしてきた。横目で見ると、貧相な卓袱台を隠した真っ白いテーブルクロスの上に色とりどりの料理が所狭しと並べられていた。

 

「野菜不足だって喋ってだはんで、野菜メインにすてみだわ」

 

 いつの間にか、由紀恵はピンクのエプロンをしていた。

 

「さあ、食うべ」

 

 テレビから目を離さない和弥に声をかけた。

 

「いだだぎます」

 

 由紀恵は手を合わせると、マイ箸を持った。

 

 和弥は箸を持つと、テレビに何度も顔を戻しながら、牛肉とパプリカの中華風炒め、水菜とじゃこの和風サラダ、ハムと玉ねぎのオムレツ、キュウリの古漬けを口に運んでいた。

 

(うむ……、自慢するだけあってなかなか旨い)

 

 結局、(ほとん)どの料理を平らげた。

 

 ――一服しながら、巨人の逆転ホームランに興奮していると、

 

「ね、リンゴ食う?」

 

 後片付けを終えた由紀恵が一個の林檎を手にしていた。

 

「要らねぇ。腹一杯だ」

 

 和弥が迷惑そうな顔をした。

 

「ね、片手さ持ったリンゴ半分にでぎる?もう一方の手も包丁も使ったっきゃまいねよ」

 

 何だか訳の分からないことを喋っていた。訛っているからなおのこと意味不明だった。和弥が無視していると、

 

「ねえってば」

 

 執拗(しつよう)だった。

 

「なんだよ」

 

 露骨に嫌な顔をして由紀恵を見た。

 

「……リンゴ半分にでぎる?何ももの使わねで」

 

「……分からん」

 

 和弥は考えもせずに答えを出した。すると、由紀恵はそれを食べ始めた。――

 

「ほら、半分になった」

 

 半分ほど食べると、歯形が付いた林檎を和弥に見せた。

 

(……バカじゃねえ、こいつ)

 

「あ~あ、巨人も勝ったし、帰るか」

 

 和弥はオーバーアクションで伸びをすると、

 

「明日、いつものとこで待ってるから」

 

 と、半分食べた林檎を持ったままの由紀恵に念を押した。

 

「料理、ごちそうさん。じゃあな」

 

 和弥は振り向くとドアを閉めた。

 

 由紀恵は林檎を持ったままで呆然と佇んでいた。

 

 …… 泊まっていぐのがど思ってだのに。

 

 由紀恵にとって、和弥は初めての男だった。恋愛経験のない由紀恵は勝手に和弥の恋人になったつもりでいた。

 

 既に変色した、手にしていた林檎をゴミ箱に捨てると、由紀恵は窓辺に佇み、久しぶりに空を見上げた。そこには上弦の月があった。

 

 …… 月のごどさえ気付ぎもせずに、むったど(せわ)すく生ぎでらんだな。

 

 由紀恵は何だか時雨心地(しぐれごこち)になっていた。――

 

 

 和弥とのそんな関係が数ヶ月ほど続いた頃、到頭(とうとう)(たくわ)えが底を突いた。途端、和弥の態度が一変した。店に金を落とさない客を必要としなかった。勿論、そんな金の無い女と外で会ってくれるはずもなかった。

 

 由紀恵は同伴客への嫉妬と、和弥への恋慕で、毎日のように悶々として眠れぬ夜を過ごした。

 

 ……わーにすたごどど同ずごどすて、色んな女ど同伴すちゅのがすら?……和弥、会いで。

 

 

 その日、和弥と使っていたラブホテルの近くにあるビルの隙間に隠れると、由紀恵はホテルの入り口に目を据えた。――果たして、和弥の笑い声と共に女の肩に手を置いたアベックが由紀恵の目の前を横切った。

 

 由紀恵は、悋気(りんき)の渦の中でグルグル掻き回されると、方向感覚を()くしたかのようにヨロヨロと二人の後を歩いていた。そして、バッグから果物ナイフを取り出すと、和弥の背中を目掛けた。

 

「キャーッ!」

 

 気配を感じた連れの女が由紀恵に振り向くと悲鳴を上げた。和弥は咄嗟(とっさ)に身を(かわ)すと、よろめく由紀恵からナイフを奪った。

 

 連れの女の悲鳴に、何の騒ぎかと野次馬が集まってきた。和弥はナイフを側溝に放り投げると、女の顔を確かめた。

 

「……なんだ、お前かよ。一体なんの真似だ?ブスのくせに一丁前の女を気取ってんじゃねぇよ。ブスはブスらしくおうちで料理でも作ってな。それとも、殺人未遂で交番に届けよか!」

 

 茫然自失(ぼうぜんじしつ)と佇んでいた由紀恵は、

 

「イヤーッ!」

 

 と声を上げると、逃げるように走り去った。

 

「ひどいこと言うもんだな、ブスだってよ。可哀想に。それでも人間かよ」

 

 野次馬の一人が和弥を(ののし)った。

 

「フン」

 

 鼻で笑うと、和弥は野次馬を相手にせず、連れの女とホテルに入った。

 

 

 

 由紀恵は電気も点けず、月明かりが漏れる窓辺に(もた)れていた。どうやって帰ってきたか覚えていなかった。

 

 由紀恵は二者択一で、あの場所に行った。

 

①女とホテルに入ったら殺す。

 

②優しい言葉をかけてくれたら、会社の金を横領してでも和弥に貢ぐ。

 

 ……結局、どっちとも遂行でぎねがった。

 

 カーテンの間から窓を覗くと、いつか見た、あの、上弦の月があった。



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 二年近くが過ぎた。色と欲で彩られたネオンサインは、(だま)された女の涙の数だけ光り輝いていた。

 

 「ラブリー」は今夜も、寂しい女たちの溜まり場だった。その夜、高級ブランドに身を包んだストレートヘアの美女が来店した。客やホストは、その女に羨望(せんぼう)眼差(まなざ)しを向けた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 目の保養をしながら、若いホストがおしぼりを手渡した。

 

「この店のナンバーワンのお名前は?」

 

 女は、洋モクのメンソールとダンヒルのライターをクロコダイルのバッグから取り出した。

 

「は。和弥と申します」

 

 若いホストは、知らず知らずに丁寧な言葉遣いになっていた。

 

「カズヤ?うむ……。では、その方を指名するわ。飲み物は、果実酒で、ピーチのカクテルはある?」

 

「はい、ございます」

 

「では、それを」

 

「はい、かしこまりました」

 

 若いホストは深々と頭を下げると、角を直角に曲がるがごとく歩いていった。

 

 注目の的になりながら、女は悠然(ゆうぜん)とタバコを吸った。

 

「いらっしゃいませ。和弥と申します」

 

 和弥は頭を下げると、女の横に座ろうとした。

 

「前に座っていただけます」

 

 女が露骨に嫌な顔をした。

 

「……申し訳ありません」

 

「本当にあなたがナンバーワンなの?」

 

 女は眉をひそめると、「信じられない」と言った顔で和弥を蔑視(べっし)した。

 

「じゃ、ナンバーツーを指名するわ。呼んでちょうだい」

 

「……」

 

 いまだかつて経験のない客に、和弥はあたふたした。和弥は手を上げてヘルプを呼ぶと、その旨を伝えた。それを聞いたヘルプはドギマギしていた。

 

「早くしてくださらない」

 

「はい、ただいま」

 

 ヘルプは大急ぎで離れた。

 

 女はタバコを一本抜くと、火を点けようとした和弥のライターを拒否し、自分のダンヒルドレスを使った。

 

 和弥は咳払いをすると、

 

「こちらは初めて?」

 

 と訊いた。

 

「お待たせしました」

 

「あら、ありがとう」

 

 女は和弥を無視すると、カクテルを持ってきたホストに礼を言った。ホストが会釈をして背を向けると、

 

「いらっしゃいませ。ご指名をいただき、ありがとうございます。加納翔(かのうしょう)と申します。どうぞよろしくお願いします。お隣に座ってもいいですか?」

 

 次にやって来たナンバーツーが謙虚に訊いた。

 

「ええ、いいわよ。どうぞ」

 

 女は快諾した。

 

「あ、素敵な爪ですね。アートネイルでしたっけ?」

 

「逆。ネイルアートよ。ふふふ……」

 

「あ、そうでしたね」

 

「お好きなものを飲んで」

 

 翔に言った。

 

「はい、いただきます」

 

 翔が片手を上げてホストを呼んだ。

 

 相手にされない和弥は、孤独にタバコを吹かしていた。

 

「……では、ごゆっくり」

 

 和弥はタバコを消すと腰を上げた。

 

「ちょっと待ちなさい。指名したからには指名料が発生するのよ。あなたは接客しなかったんだから指名料は払いませんから。よろしくて」

 

「結構です。指名料はいただきませんので、ご安心くださいませ」

 

 和弥はそう言い切ると背を向けた。

 

「何?あんなホストがナンバーワンなの?信じられない」

 

 女は和弥に聞こえるように言った。

 

「ショウの方が全然素敵よ。謙虚だし、明るいし」

 

「ありがとうございます」

 

 翔のヘルプがウイスキーの入ったグラスを運んできた。

 

「それじゃ、乾杯」

 

 女は翔の持ったグラスにカチッと当てた。

 

 和弥は指名客の席で酒を(あお)ると、翔と楽しげに語らう女の横顔を憎しみを込めて睨んでいた。

 

「……どうしたの?怖い顔して」

 

 指名客が肘で突っついた。

 

「……なんでもない」

 

 だが、和弥の気は収まらなかった。

 

「踊るぞ」

 

 客の腕を強引に引っ張ると、スローバラードの流れるステージに連れ出した。まるで、その女に見せ付けるかのように和弥は濃厚なチークダンスをした。だが、その女は一度として和弥に視線を向けなかった。

 

 その女のテーブルには、ドンペリとフルーツの盛り合わせがあった。ざっと計算してもン万円にはなる。翔のヘルプが集まって、その女の席だけが際立って華やかだった。

 

「お前もボトル入れろよ」

 

 ダンスの相手に強制した。

 

「さっきキープしたばっかりじゃない」

 

 不平を溢した。

 

 この客と同様に他の指名客もボトルをキープしたばかりだった。新たに客が来ない限り、今日の売上は翔に負けてしまう。焦った和弥は、顧客の自宅や会社に片っ端から電話をした。――

 

「お名前を教えてください」

 

 ヘルプを席から外した翔が(おもむろ)に訊いた。

 

 すると、バッグから名刺を一枚抜き取り、翔に渡した。

 

〈竹下建設株式会社

 社長秘書 竹下彩花

 03――〉

 

「えっ、竹下建設って、あの有名な?」

 

 翔が目を丸くした。

 

「ええ」

 

「……アヤカ?」

 

「そう」

 

「同じ名字だけど……」

 

 翔は彩花の横顔に目を据えて返事を待った。

 

「父の会社です」

 

「えっ、お嬢様?」

 

 驚いた翔は、次の言葉を失った。

 

「実は……、今日はね、お婿さん探しの社会勉強のつもりだったの」

 

 彩花はチラッと翔を見た。翔は生唾を飲み込んだ。

 

「女性を相手にする仕事でナンバーワンを争う方なら、相手の気持ちとか、心配りとか、忍耐力とか、人一倍()けてると思って。そういう人を父の片腕にしたいなって思って」

 

「光栄です。その一人に選んでもらって」

 

 翔は感激していた。

 

「あ、名刺、よろしい?一枚しか残ってないの。今度持ってくるわね」

 

 そう言って、翔の指から名刺を抜いた。

 

「だから、先程のカズヤ?さんの件はとても残念。日本一の繁華街、歌舞伎町の日本一のホストクラブのナンバーワンの方に、“謙虚さ”が欠けていたんですもの。……もし、その謙虚さがあったら、ショウさんにするか、カズヤさんにするか迷っていたと思うわ」

 

 彩花が憂いを帯びた表情をした。



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「……立候補してもいいですか?」

 

 翔が謙虚さを印象付けた。

 

「ええ、勿論。でも、私の身元は伏せておいてね。ホストクラブに行ったことが父にバレたら叱られちゃうもの。それに、ホストと結婚したいなんて言ったら反対されちゃうわ。だから、あなたも、父に会ってもホストだったことは絶対に言わないでね」

 

 彩花が不安げな目を向けた。

 

「はい。分かりました」

 

 翔の気持ちは既に、彩花の父親に会う準備をしていた。

 

「もう少し通うわね。あなたのことをもっと知りたいし」

 

「はいっ。ご期待に添えるように頑張ります」

 

 翔はまるで、兵隊長に物を言う二等兵のようだった。

 

 彩花はキャッシュで勘定を済ますと、深々とお辞儀をして見送る翔と大勢のホストの前で、流しのタクシーに乗った。

 

 

 翌日も、彩花は「ラブリー」にやって来た。ソフトウェーブのヘアにローズピンクのツーピースで決めた彩花は、客やホストに注目されながら、案内された席に腰を下ろすと、セリーヌのバッグからタバコとライターを取り出した。

 

 翔のヘルプたちが一斉に集まって挨拶すると、翔の右腕である吾郎だけが残って、翔が来るまで彩花の相手をした。

 

「今日も素敵なお召し物で。ワインレッド?」

 

 吾郎が洋服の色をしげしげと見た。

 

「ううん。ローズピンクよ。店内が暗いから……」

 

 彩花はそこまで言って、似たような会話を以前に経験したと思った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 その声に彩花が顔を上げると、和弥が深々と頭を下げていた。

 

「昨日は大変失礼しました。申し訳ございません。以後失礼のないように心を配りますので、今後ともよろしくお願いします」

 

 和弥はもう一度深く頭を下げると、背を向けた。

 

「あなたもお座りになったら」

 

 タバコを手にした彩花は、和弥を一瞥(いちべつ)すると、吾郎が差し出したライターの火に付けた。

 

 前に座ろうとした和弥に、

 

「いいわよ、横に座って」

 

 彩花が許可した。気を利かせた吾郎は、軽く会釈して席を離れた。

 

「ありがとうございます」

 

 一変して和弥が謙虚さを強調している理由は言わずと知れた。翔が漏らした彩花の素性。〈大出世への手引き〉とでも名付けましょうか。

 

「……自惚(うぬぼ)れていました」

 

 和弥がボソッと呟いた。

 

「語る前に何かお飲みになったら?」

 

 皮肉った言い方をした。

 

「……いただきます」

 

 和弥は手を上げてヘルプを呼ぶと、マイボトルを注文した。

 

「あら、遠慮しないで、お好きなものを飲んで」

 

 彩花が横目を使った。

 

「はあ。では、お言葉に甘えて」

 

 和弥はブランデー注文すると、彩花の方に向きを変えた。

 

「……長年、ナンバーワンの座に君臨し、どんな女でも思いのままだと――」

 

「いらっしゃいませ。昨日はありがとうございました」

 

 和弥の話の途中に翔が挨拶に来た。

 

「後で呼ぶわね」

 

 彩花の指示に、翔は会釈をして背を向けた。

 

 和弥は、ヘルプが運んできたグラスを持つと、

 

「ごちそうになります」

 

 と、頭を下げた。

 

「……だが、あなたは違っていた。僕の自惚れを指摘してくれた。もし、あなたから何も言われなかったら、僕は自分の自惚れに気付かないでいた。……多分」

 

 肩を落とし俯き加減に語る和弥の姿が哀れに見えた。……しかし、もう二度と騙されないわよ、一条和弥さん!

 

「最初からそのぐらいの謙虚さがあったら、自信を持って父に推薦したのに」

 

「はあ?」

 

 和弥を見ると、彩花の言ってる意味を理解していないようだった。

 

 ……翔から話を聞いて便乗したわけじゃなかったのか……。単に指名料欲しさの自作自演か。

 

「私の目的はズバリ、婿探し」

 

 和弥が、意外、と言った顔をした。

 

「何度か恋愛もしたけど、父の条件に合格しそうな男はいなかった。そこで考えたの。ホストのナンバーワンだったら、仕事柄いろんな女性を相手にしてるから、心配りとか、配慮とか、忍耐力とかを兼ね備えてるのではないかと。あ」

 

 彩花は思い出したようにバッグから名刺を取り出すと和弥に手渡した。

 

「えっ、あの竹下?」

 

 和弥は翔と同様の表情と台詞(せりふ)を吐いた。

 

「……名字が一緒ですね」

 

 彩花の横顔に確認を取った。

 

「娘です」

 

「えっ、お嬢さん?」

 

 和弥が目を見開いた。

 

「ええ」

 

 和弥を見つめた。

 

「ショウさんも立候補の一人なんだけど、カズヤさんは建設業なんて興味ないでしょう?」

 

 和弥の指から自分の名刺を抜き取りながら訊いた。

 

「いや、そんなことないですよ。男だったら一度は設計図どおりのビルを建ててみたいもんですよ」

 

 初めて見る、熱く語る和弥の姿だった。

 

「ただ、父にはホストなんて言えないじゃない。それに父は仕事のできない男は嫌いなの。だから、建設業の勉強をしてくれると助かるわ。……あ、勿論、独身ですわよね?」

 

「えっ?ああ、ええ」

 

 和弥は慌てふためきながらも冷静を装った。

 

「父はどちらを気に入ってくださるかしら。わたくしはそれぞれに違う良さがあると思うけど、父の捉え方はまた違うと思うし……」

 

 和弥には彩花の話は耳に入っていなかった。それより、どうやって独身になるかが問題だった。



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 ……この十年、ホスト業界で名を馳せ、夜の世界でしか物の尺度を測れなくなっていた。しかし、こんな俺にも就職活動に精を出した時期もあった。だが、どんな仕事も長続きせず、気が付いたら夜の世界に身を投じていた。

 

 人気が出るようになってからは、金銭感覚が麻痺し、女イコール金としか見られなくなっていた。そんな堕落した自分にさえ気付かぬままに今日まで来た。

 

 だが、この彩花という女が、熱かった若い頃の、あの思いを再び掻き立てた。このまま、虚飾の世界で生き続けたとて何になる。それより、まともな仕事で達成してみたい。第二の人生を生きてみたい。

 

 だが俺には、一昨年入籍した妻と、生まれたばかりの子供がいる。納得のいく慰謝料と養育費を払って離婚するのは簡単だが、戸籍には×が残る。何一つ資格を持たない三十過ぎのバツイチには不利だ。しかし、どうにかしてこのチャンスを活かしたい。……どうすればいい。

 

 

 野球帽を目深に被り、マスクをした和弥は代々木公園に行くと、ブルーテントが集まった場所で、同世代のホームレスを物色した。

 

 あっ、居た!

 

 条件に(かな)った男を見付けると、早速、仕事の話をした。男は半信半疑だったが、報酬の金額を知ると、どぶのような臭いがする口から黄ばんだ前歯を覗かせた。

 

 人目につかない路地裏に()めておいた車の助手席に男を乗せると、真新しいセーターとズボンを手渡して、履歴書を書かせた。

 

「仕事は明日だ。ホテル代をやるから今夜はビジネスホテルにでも泊まって、その服に着替えてくれ。それと、先方は身元を気にするお方だ。何か身分を証明するものはあるか?」

 

 和弥はアウトローを演じた。

 

「……期限切れの免許証と保険証が」

 

 履歴書に書かれた一つ年下の〈斉藤英行〉が、手垢で汚れたリュックサックの中を漁った。

 

「先方は神経質だ。斉藤さんがホームレスだと知ったら、この(もう)け話もパーになる恐れがある。金をやるから散髪に行って、髭を剃ってもらえ。そして、ゆっくり風呂に入って綺麗に垢を落としてくれ。あ、歯磨きも忘れるな」

 

「あ、はい」

 

 斉藤が手渡した免許証と保険証は間違いなく本人のものだった。いよいよ、架空の仕事を持ち掛けた。

 

「明日の十時、渋谷にあるビルに行って、永田という男に後ろにある袋を渡してくれ。住所を書いたものは後で渡す。……何、ジャブとかハジキじゃないから安心しろ。単に俺の顔見知りだとまずいだけだ」

 

「……はい」

 

 和弥が用意しておいた高級幕の内弁当を、斉藤は旨そうに頬張っていた。

 

「酒を呑むなら後ろにあるぞ。旨いか?」

 

「ええ。久しぶりです、こんな旨い弁当」

 

「履歴書には佐賀とあったが、いつ東京に?」

 

「高校卒業してすぐです。もう十年以上になります」

 

「なんでまた、ホームレスなんかに」

 

「六年勤めた工場が倒産して、負債を抱えた社長が、……自殺したんです。そのことがあってから生きる希望をなくし、働く気力もなくして。気が付いたら、公園のベンチに居ました」

 

「……親は?」

 

「俺が六歳の時に母が、二十歳の時に父が。母は病気でしたが、父は事故で」

 

「……天涯孤独か?」

 

「……はい」

 

「……寂しいな。妻や子は?」

 

「こんな(つら)じゃ、女も寄ってこないですよ」

 

 斉藤は苦笑いしながら、和弥が手渡したカップ酒を(あお)った。

 

「兄弟や親戚もいないのか?」

 

「一人っ子ですから。ま、親戚ぐらいはいるでしょうが、……故郷(いなか)に帰ってないから、……付き合いはないです」

 

 斉藤は欠伸(あくび)をすると、目を閉じた。――やがて、(いびき)をかき始めた。

 

 和弥は躊躇(ためら)った。斉藤に深入りしたことを後悔した。果たして、人を殺すだけの価値があるのか……。

 

①このままホストを続け、年老いたら年金で暮らす。

 

②彩花と結婚。社長の椅子という将来は保証されている。

 

 一条和弥の本名は妻の裕美以外、店の者は誰も知らない。「ラブリー」に入店した時も、以前働いていたクラブからの引き抜きで、履歴書というものを書いていなかった。水商売にはそんな特権がある。つまり、面接の時点で売れると見込んだら経歴など問題にしない。店側は実力重視なのだから。

 

 

 車窓から辺りを見回すと、夕闇に包まれたビルが要塞(ようさい)のように屹立(きつりつ)していた。

 

 斉藤を()るのは、彩花との話が決まってからでも遅くない。だが、この件を斉藤が他言しないとは限らない。漏れるのはまずい。都合よく斉藤は眠ってる。今がチャンスだ。

 

 後部座席のドアを静かに開けると、用意していたゴム手袋をして紐を握った。

 

「……すまない」

 

 和弥は小さく呟くと、鼾をかいている斉藤の首に紐を回した。――そして、埼玉の山中に埋めた。

 

 

 裕美を納得させるために和弥は話を作った。

 

「……今の仕事を辞めようと思う。子供のためにも。建設の仕事が見付かった。だが、各地を転々とする。家には帰れない。お前には苦労をかけるが、毎月の生活費と養育費は振り込むから安心しろ」

 

 ホストを辞めてくれることが嬉しかったのか、裕美は涙目の笑顔を向けた。

 

 

 当夜、彩花から店に電話があった。

 

「急用で今夜は行けそうもないの。明日の午後四時に、成田にあるGホテルの五〇五にいらして。父が会いたいんですって――」

 

(ヤッター!殺った甲斐(かい)があった)

 

 和弥は天にも昇る気持ちだった。

 

(翔、悪いな。俺の勝ちだ。ハッハッハッハ!)

 

 珍しくお茶を()いて、待機席でタバコを吹かしている翔の横顔に薄ら笑いを浮かべると、勝ち誇ったように顎を突き出した。



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 ――約束の時間より少し早めにドアを叩いた。ドアスコープで確かめたのか、中からチェーンを外す音がした。

 

 開けられたドアの向こうには、バイオレットのワンピースを着た彩花が笑みを湛えていた。

 

「父から電話があって、少し遅れるって。酒でも呑んで、くつろいでいてくれって。何呑みます?ビールにウイスキー」

 

「じゃ、ビールを」

 

 和弥はソファに腰を下ろすと、タバコを出した。

 

「……どうして、わざわざ成田で待ち合わせを?」

 

「父が明日の便でアメリカに行くの。ロス支社のジェームズからの誘いだから、たぶん、取引先との接待ゴルフだと思うわ。どうぞ」

 

 プルタブを開けた缶ビールを、もう一方の手に持ったグラスに注ぎながら来て、それを和弥の前に置いた。

 

「ありがとう。……ゴルフか」

 

「ゴルフやるの?」

 

 缶コーヒーを飲みながら、彩花が訊いた。

 

「ええ、たまに。お客さんの社長夫人と」

 

「ああ、駄目ね。ホストの件は内緒でしょ?」

 

「えっ、もう始まってるんですか?」

 

 和弥が慌てて背筋を伸ばした。

 

「父から何を訊かれるか分からないのよ、注意しないと」

 

「あ、はい」

 

「じゃ、予行演習しましょう」

 

「えっ?」

 

 台本を用意していなかった和弥は慌ててタバコを揉み消した。

 

「私が父になるから。いくわよ」

 

 狼狽(うろた)える和弥を見た。

 

 和弥の思考は整理されていなかった。

 

「名前は」

 

「あー、斉藤、……ヒデユキ」

 

 和弥はしどろもどろになっていた。

 

「え?斉藤?」

 

「ええ。……どうして?」

 

(まさか、本名を知ってるわけないよな)

 

 これで一巻の終わりかとハラハラした。

 

「……一条じゃなかった?」

 

 彩花が疑いの目を向けた。

 

(なんだ、そっちの方か。ビックリさせやがって)

 

「一条和弥は源氏名です」

 

「へえ、そうだったんだ。ご出身は?」

 

「佐賀の嬉野です」

 

「うむ……。これまでどんな仕事をしていた?」

 

「……訪問販売です。アクセサリーやランジェリーなどの」

 

 ホスト業で身に付けた知識だが、貴金属や宝石の真贋(しんがん)を見分ける自信があった。

 

「うむ……。それで、売れたかね?」

 

「はい。お陰さまで、売上はトップでした」

 

 旨そうにビールを呑んだ。得意分野になると、水を得た魚のようだった。

 

「ほう。で、売る、何かコツはあるのか」

 

「そうですね、まず、女性の肌質や体型を見極めてから、その女性に合ったものをご提供させていただきます。中には金属アレルギーの方もいらっしゃいますので」

 

「うむ……。ハンサムだからモテただろ」

 

「いいえ、とんでもありません。誠心誠意、良い品をご提供するのが使命だと考えています」

 

「うむ……。畑違いの仕事だが、やれるか?」

 

「……はい。営業で……頑張り、……社長のお役に……立ちたい……です」

 

 何度も欠伸をした。

 

「はい、オッケー。でも、父は何を訊いてくるか分からないわよ。墓穴を掘らないようにね」

 

「ああ。ごめん、……眠い。ちょっと横になる」

 

 そのまま、ベッドに横たわった。

 

 彩花は、そんな和弥の寝顔を軽蔑するような目で見下ろした。

 

「睡眠薬が効いたみたいね。……あなたの本名は斉藤ヒデユキなんかじゃないわ。自分で喋ったのを忘れたの?……井上アツシさん。――あれは二年前、上弦の月が出ていた。あなたは、テレビの巨人×阪神戦に夢中になっていた。私の手料理に箸を付けながら、画面と料理を交互に見ていた。

 

『……一条和弥は本名だびょん?』

 

『バーカ。嘘に決まってるだろ』

 

『……そすたっきゃ本名は?』

 

『井上アツシ』

 

 あなたは無意識のうちに名乗っていた。……斉藤ヒデユキさんて誰?名前を買ったの?それとも、その男を殺して、本人に成り代わったの?そこまでする価値はなかったのに。……このお芝居に」

 

 彩花こと大谷由紀恵はソファに腰を下ろすと、寝息を立てている和弥の顔を見ながらタバコに火を付けた。

 

「……二年前。あれから間もなくして会社を辞めるとアパートを引き払って池袋に行った。寮付きの風俗で働きながら話し方教室に通って、訛りを矯正した。風俗で稼いだ金を株に投資して大金を儲けた。その金で美容整形するとブランドに身を包んだ。

 

 あなたに復讐するために今回の芝居を打ったのよ。野心家で金の亡者のあなたなら、私の書いたシナリオに興味を持つはずだ。案の定、あなたの頭には社長の椅子が思い浮かんだ。

 

 あなたに妻子がいるのは、下調べして知ってたわ。独身かと訊いた時、あなたは思わず嘘をついた。さて、どうする?離婚でもするのかと思ったら、なんだか思い切ったことをしたみたいね。斉藤さんになっちゃったんだものね。ああ、恐ろしい。もっと面白い復讐劇も考えたけど、これ以上あなたに関わる必要がなくなったわ。だって、あなたは自らの手で自分に復讐したんだから。大きな犠牲を払ってあなたは斉藤という別人になった。この先を井上アツシで生きるのか、一条和弥を続けるのか、それとも斉藤ヒデユキを(かた)って第二の人生を生きるのかは、あなた自身が決めること。犯罪という名の(とが)を背負って」

 

 由紀恵は、和弥の寝顔を暫く見詰めると、

 

「……さようなら」

 

 そうぽつりと言って、ソファの後ろに隠していた旅行カバンを手にした。

 

 

 

 

 

 目を覚ました和弥が、ふと、テーブルに目をやると、カーテンの隙間から漏れる街灯が、一口かじった林檎を照らしていた。――

 

 

 

 

 

  完



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