ゆきますくオリジナル短編集 (ゆきますく)
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さいごのあとがき

ある夜、駅の連絡橋で不快な音が砕け散った。
抜けていく意識の中で、親しんだ街を、全ての闇を包む藪を、ただ茫然と眺めていた。
そこに自らの最期を刻む。人生という、大きな物語の「あとがき」を。


*


大学の課題で書いた作品です。
地名は実在のものを使用していますが、内容は実在する如何なるものとも関係なく、この物語はフィクションです。


風が吹いた。朝焼けの蒼が辺りを包む。

冬の川西池田駅への連絡橋は、暗い色のコートに身を包む人が行き交う。その日の朝も同じだった。携帯電話を見ながら、本を読みながら、空を見上げながら、友達と話しながら。それぞれがそれぞれの歩き方で、その道を歩いていく。阪急アステ川西の出入り口は四つのドアがあるが、その中の一つの自動ドアに群がって、そこから多くの人がこの連絡橋に飛び出してくる。煙草やコーヒー、香水の匂いが一気に広がる。しかし誰も表情ひとつ変えず、ただの通過点のようにこの場所を過ぎ、JR川西池田駅に入っていく。朝は何かがあっても、この場所では誰も気に留めない。

昼を過ぎると風が止む。風が止んで、人も消える。

アステ川西から見て左手にある大きな立体駐車場からも音が消え、辺りは連絡橋の下を通る車の音だけになる。ラッシュを終えたこの場所は、人の気配が消える。たまに通るのは高齢の女性と子連れの母親が数人程度。時折、付近のバスのロータリーから音がするが、この一帯は運行量自体が少ないため、音を聞く方が珍しい。ロータリーには止まったままの阪急バスと、中央に鎮座する源満仲像が、このゆったりとした時間の流れを象徴している。周囲に飲食店も少ないこの街の昼下がりは、何をするでもなく、ただ雲の流れるのを待つのみだった。

川西池田駅は夕方を迎えると住民たちの帰宅ラッシュが始まり、そうして一日を終える。ただ、この日に終えるものはただの一日ではなく、誰かにとっての特別な一日だった。

 

 

*

 

 

夜十時半。ラッシュを終え、人が少なくなったこの時間にある少女が連絡橋にやって来た。冬ものらしい茶色のトレンチコートに身を包んでいる。決して顔を上げることなく、足元ばかりを見ながら歩いていた。しばらくして連絡橋の中腹までやってくると足を止め、彼女は右手のビニール袋から一束の花束を取り出した。黄色い花だった。タイル状の橋の上に置くと、しゃがんだまま空を仰いだ。前日が雨だったのもあり、この田舎町の夜空には星がよく見えた。月明りが頬を照らす。邪魔になったのか、彼女は空を見上げたまま、担いでいたギターバッグを置いた。

どうして言ってくれなかったのかな。独り言ちたその声が、過ぎてしまった時間に伝わって空に響く。思い返せば、と言いかけて、口を閉じた。誰にも届かないその声を発することに何の意味があるのかと、彼女は無言で自分に問う。しかしその答えこそ無意味であることは、ここに来るまでに思考し終えて分かっていた。雪でも降りそうな冷たい風が、ラッシュの群れという壁を失って、彼女に直接吹き付ける。既に濡れた頬をさらに冷やす。膝を抱えて一度身震いしたがもう一度息を吸いなおして、お父さん、と口を開く。

 

本当は、もっと早く仲良くなれればよかった。意地張ってた私が、バカだったなって。お母さん、辛そうだったよ。お父さんいなくなって、どんどん弱ってる。この前学校から帰ったら、リビングで一人で泣いてた。あの強気だったお母さんが、だよ。お父さんの前でも泣かなかったのに、私、それを見て一緒に泣いちゃった。全然強くなれてなかった。この前のお葬式の時は、ちゃんと我慢できたのにね。ヘンだよね。でも、やっと話せるようになったのに、どうして放っていっちゃうかな。一人じゃ、強くなれないよって、言ってくれたのはお父さんなのに。どうして、お父さんは一人でいっちゃうのかな。私たちは、そんなに頼りなかったのかな。ううん、お父さんはきっとそんなこと言わないし、きっと自分を責めるって、それは分かってるよ。でも、でも、そう思わずにはいられなくて、今日も二人で泣いたんだ。

……あのさ、この前、こっちに来てからやっと、初めて友達ができたよ。教室でも一人じゃなくなって、話せる人ができた。確かに、向こうの友達が恋しくなることはあるけど、でも、こっちも悪くないって、やっと思えるようになった。私、ちょっと幸せだった。なのに、どうしてこうなるんだろうね。どうして、こんなにつらいんだろうね。……私、分かんないよ。お父さんのこと、何にも知らなかった。教えてくれなかったもんね。いつも話聞いてくれてたよね。……ちゃんとお父さんのこと知りたかったんだけどな。……ほんと、ずるいよね。私、そういうとこ嫌いだったんだよ? お父さんらしく振舞おうとするお父さんが。嫌われ役を買って出て部屋まで怒りに来るとことか、勝手に馬が合わないと思って避けてたとことか。……お父さんはきっと、それにまだ気づいてなかったんだろうけど。

そうそう、今日、すっごく星が綺麗でね、仲直りした日のこと思い出したよ。家出の時だったよね。あの時、警察の人よりもお母さんよりも、誰よりも早く見つけてくれたのはお父さんだった。家の裏庭の倉庫の扉が開いたあの時、私、すっごく怖かったんだよ。手が伸びてきて、実は、殴られるのかと思った。だけど……お父さんはそんなことしなかったよね。お父さんのこと嫌い嫌いって言ってた私を、お父さんは嫌な顔せず手を差し伸べてくれた。警察の人にもいっぱい頭下げてくれた。その後でいっぱい話聞いてくれた。私、初めてちゃんとお父さんと話せた気がしたんだ。その時の星空、今でも忘れない。あの日はすごい星だったよね。降ってきそうな、って言えば普通に聞こえるんだけどさ。……でも、あれがもう一年前なんだ。時は早いね。

来月、卒業式なんだ。……うん。友達ができたばっかりなんだけどね。お母さん、まだ辛そうだけど、私、高校生になるんだ。私、頑張ってお母さん支えるから。ほんとは生きてた方がよかったって、思わせてみせるから。だから、離れてても、見守っててね。

 

言葉を紡ぐ息を全て出し切って、一度深呼吸してから、少女は立てかけた花束を見た。冬の風はもう吹かない。ギターバッグを持って立ち上がり、じゃあ、と口にして言葉が詰まった顔をした。白い息が数回出た後、やっぱりいいや、と無理矢理に微笑んで、彼女はアステ川西の方へ去っていく。街のカラフルな光の中へ消えていく。少しして、置かれた黄色の花は手を振るように揺れた。

 

 

*

 

 

土日の川西池田駅は時間問わず賑わっていた。というのも、JR宝塚線の快速・丹波路快速が止まる川西池田は、阪急電車の駅と隣接していることも加わって、乗り換えの人で溢れかえる。誰かと出かける為か、心なしか明るい色を身にまとっている人が多い。父親と母親と手をつないだ子どもが、二人の顔を見上げながら楽しそうに飛び跳ねている。阪急アステ川西の中の百貨店で買い物をしたらしい女性たちが、両手にいっぱいの紙袋を携えてやってくる。しかし行き交う人は誰も足元の花束に気づかない。

その日は少し曇り空だった。雨が降る予報なのか、傘を持つ人が多かった。休日は増えるバスの利用客もいつも以上に多く、人々の白い息が街にその生きた証を残していく。バスが止まる間には送り迎えの車が何台も入れ替わる。その中から一人、老婆が真っ黒な服に身を包んで降りてきた。川西池田の駅に入っていく大勢を横目に、彼女はロータリーから連絡橋への階段を上ってくる。狭い歩幅から出る足音は、突いている杖の音と大勢の雑踏、それからバスと車の騒音にかき消される。誰も気にしなかった花束の前に来ると、彼女はその場で跪いた。右手に着けていた真珠のブレスレットを外すと、その手で青のハンカチを取り出し、花束の横に広げ、重りのようにしてブレスレットを乗せる。彼女の眼は、真珠のブレスレットから視線を外すことなく、ただ静かに涙を流した。

 

彼女は何も呟こうとしなかった。周囲の目を気にしたわけではなく、はたまた何も思わなかった訳ではない。ただ、悼んだ。頭上の枝がさわさわと揺れた。揺られるがまま、風に身を任せるしかできない枝は、彼女の髪に乗せるように一枚の枯れ葉を落とす。彼女はそれにさえ動じない。俯いたまま、閉じた瞳から重い一滴を繰り返し落としつづける。そのまま数分、枝と花束と揺れていたが、やがて顔を少し起こして、ハンドバッグから一冊のアルバムを取り出した。左手でゆっくり開くと保護フィルムの上にまた水滴が垂れる。家族旅行の写真ばかりが載せられたそれには、彼女の年輪とも呼べる生きた証があった。始めは三人で写っていた写真は、子供が育ち、やがて二人になり、そして四人になる。幸せそうに笑う老夫婦と息子夫婦が写っている。最後のページには孫娘も加わって、桜の花弁に包まれた五人の写真があった。永遠に続くこの時間に終止符を打つのはきっと自分か夫かと思っていた彼女は、今は亡き息子を改めて想う。当たり前と思っていた時間が唐突に失われ、また会えると思っていたその絶対的信頼が崩れ去った。家に帰ればまた会えるとも思えてしまうのに、目の前に置かれた弔いの花と青いハンカチに鎮座する葬式の証が、その想いを断ち切る。枯れた葉が髪から落ちてきて、改めて彼に関する全てを失ったのだと、彼女は痛感する。涙の跡に冬の風が突き刺さる。その寒さに痛んだ頬が赤く染まり、しわがれた嗚咽が喉の奥を突いて漏れだした。

家を思い出した。息子と夫と過ごした二十年を思った。息子が伴侶をつれてきた時を思った。家に響くただいまの声を、何通りも思い出した。息子が家庭を持つようになって、何も手に着かなくなると思っていた自分の後生に張り合いを与えたのは、たまに帰ってくるその声だったと思った。役割を喪失した彼女の目は、まだ息子の姿を追い続けている。

私は、と言いかけて涙を拭った。こうして想うことが、私にできることだと言葉を漏らす。ありきたりな言葉しかでない自分を嘲笑したくもなる。しかし、生きている間に自身の意味を見つけられなかった息子へ、今、こうして意味を与えることが、これからの役割なのだと言い聞かせる。遺品の日記に、自分の意味を失ったと書かれていたことを思い出す。旅立つ息子に、向こうでは見失わないでほしい。ささやかな願いが届きますようにと一度手を合わせ、彼女は立ち上がる。すっかり日も暮れていつの間にか晴れていた空から、オレンジ色の太陽が彼女の帰り道を照らしている。タイルの上に伸びる一人の痩せこけた影を見て、彼女は涙をこれ以上拭うことも振り替えることもなく歩き出す。沈みかけの大きな太陽は、彼女が真っ直ぐ歩けるように、見えなくなるまでその背中を照らしていた。

 

 

*

 

 

それは早朝のことだった。まだ始発が走るその前、ロータリーの時計が五時を指す頃、紺色のウインドブレーカーを纏った男は立体駐車場にいた。少し白髪が生え始めた長髪を、車から出てすぐに手櫛で直す。そのままゆっくりと歩いて立体駐車場の出入り口に差し掛かると、外の風に冷やされて一度だけくしゃみをする。肩をすくめてポケットに両手を入れる。連絡橋に出て来て辺りを見回す。まだ誰もいないこの場所にさわさわと揺れる黄色の花束を見つけて、彼はなるほど、と呟いた。花束の前に来てその場に膝をつくと、ポケットから手を出して息で温めた。雲一つない空にはまだ沈み切っていない月が浮かんでいる。まだ明かりが灯されている建物がありながらも、月は霞むことなくそこにある。彼は、すまないと言い出してポケットの中から小さな包み紙を取り出した。

 

「久しぶり。こんな形で会うとは思わんかったわ。まぁ、とりあえず土産でも持ってきたから、見てくれよ」

包み紙を解きながら、彼は零すように言葉を出し始める。冷えてしまった指が上手く動かないながらも、少しずつ人差し指と親指でつまみながらめくっていく。

「正月に会ったんがもう遠い昔のように思えてまうな。たった一か月とちょっと前のことやというのに……年を取るというのは嫌なもんやな、ほんと。お前は結局昔と変わらず老け顔のままやったが」

包み紙の中から出てきたのは小さなサボテンの鉢だった。震える白い手で、先に置かれていたハンカチの上に鉢を乗せる。ゆったりとした動作で置いた後、そのままとんぼ返りするようにウインドブレーカーのポケットの中へ返っていく。

「あの時の顔は何もなさそうに笑ってたくせに、お前はいつも肝心なことを報告し忘れる。昔からや。いっつもいっつも、自分の判断ばかり信じて、周り見てなくて、んで自分を見失ってく。なのに、誰にも言わんと平気な顔して強がる。ガキの頃から変わらんな、ほんとに。その時に気づけなかった僕も僕やけど、さすがにあんまりやわ。……こんな奴でも長生きするのに、お前という奴は」

サボテンに生えた薄い毛が風で靡き、まだ三センチ程しかないその体は震えているようにも見えた。乾燥した冬の空気は、彼の体とサボテンに容赦なく切りかかる。痛いのを分かっていて、彼はサボテンの頭を撫でる。薄れていく指先の感覚を取り戻すように、その一本一本を確かめていく。

「思い返すとつまらんことばっかやから、最近の話なんやけどさ。見えてるかどうかは知らんが、お前の好きな花、置いてあるぞ。チューリップはまだ時期にしては早いが、でも、きっとお前のことを大事に思ってる奴が持ってきたんやろうな。僕も納得した。お前はこういう人を忘れたまま行ってしまったんだ。ちょっとは後悔しろ」

彼の眼からは何も零れない。脳裏に映る過去を見ているのか、彼の眼はサボテンを撫でながら街の奥にある地平線を眺めているようだった。

「僕の白髪もまた少し伸びたし増えた。現場でもしょっちゅういじられる。昔はペンギンとか色々言われたけど、今や落武者やで。なんか腑に落ちんよなぁ。そんなに老けて見えるか? 僕だってまだまだピチピチなはずなんやが。とか言うてると、お前の反応が見たかったりするな」

なのに、と言いかけて、そうだ、と言い直す。彼の右の頬が吊り上がって、そのまま息を吐いて震えを抑えているようだった。

「それから、お前が大事にしてたもの、預かったぞ。通勤用のカバンの中に入れてるとは、お前らしい。なのに、死ぬ時は持ち出さへんなんてな。しっかりしてるのか抜けてるのか、はっきりしてほしいところや」

仕事で使っているらしい大きめのウエストポーチからA5のノートを数冊取り出して、彼はパラパラとめくり始めた。殴り書きで、何度も力強く書いてあるせいか始めのページが黒くなってしまっているが、彼はその文字が何を示しているか、既に分かっている。

「あの頃の日記をこうやって取っとくなんてな。ほんまに変わらなかったんやな、お前は。しかもさ、それをわざわざ、死んだら僕に預ける、なんて書き残すなや。卑怯やぞこんなん。お前がそんなことするから、僕もついつい昔を思い出してしもうてな、こっちまで変な気持ちやわ」

別に言い訳なんてする必要はないとは思っていても、彼の中に残った少しの羞恥心と突然の出来事による整理の付かない名もない心が、いつものように目の前に不必要な言葉を並べたがる。それらを言い切ると、自分も変わらないなと、彼はここにきて初めて自然に笑った。もちろん、そこにはただの嘲笑以外の意味もある。日記のページが最後に辿り着き、裏表紙が閉じられると、彼はウエストポーチの中に戻してゆっくりとチャックを閉める。

「仕方ないよな。もう出会って二十……えっと、八年か。なんで僕らみたいな正反対の人間同士がこんなにも続いてるんやろうな、変よなって思う時は結構あった。でも、なんか昔に話したと思うけどさ、そういう存在が地元に帰れば居るってことが、僕にとっては大事なんよな。話したんやなくて、文字でやったっけ。まぁどっちでもええんやけどさ。お前が僕のこと羨ましいとか言うてたけど、それはきっとお互いでさ、隣の芝が青く見えるだけなんよな、きっと。性格も、境遇も、全くちゃう僕らやけどさ、でも、お互いそれに満足しながら、お互いの存在に刺激受けてたんやと思う。前にも言うたけど、なんか改めて」

サボテンを撫でるのに飽きが来たのか、ブレスレットやハンカチ、チューリップの花弁の先を撫で始める。輪郭を描くように、人差し指だけでゆっくりと撫でる。

「お前の顔、最後に見た時にさ、こんな風に撫でたんやぞ。お前に触るのなんて二十八年の中で一度もなかったのにさ、お前がもうおらんくなるって思ったら、なんか自然に棺桶の中のお前の顔に手が伸びたわ。意味不明よな、あはは」

少し標準語にかぶれた関西弁を話す彼はまだ顔を上げないままだったが、乾いた笑いが響いたその瞬間、川西池田駅に数人の足音と電車のサスペンションの音が響いた。ロータリーの時計が五時半の鐘を鳴らす。すっかり冷え切った手をポケットに戻して、彼はまた少し笑った。

「でもな、そろそろ時間やから、これだけは最後に言うておくんやけどさ」

彼は顔を上げることもなく立ち上がり、流れ出てくる人の波に逆らって歩き出した。

 

「まだ言うてない、僕が本当に伝えたかったことは、生きてるお前に伝えるべきことやったから、もう言わん」

 

後頭部を右手で掻きながら、ウエストポーチにある携帯で通じない番号をコールすると、じゃあな、と言い慣れない一言を添えて、暗い駐車場の中へ消えた。彼が去って見えなくなった頃、浮かんでいた青い月は朝の光の中へ無言で沈んだ。

 

 

*

 

 

雨が降った。空が広く見える川西池田駅は、それだけで辺り一帯の光が消える。まるで土曜日の昼下がりのような気怠さが街を覆っていて、黄色のチューリップは寂し気に揺れていた。歩く人は雨よけがある細い路を大勢で通り、はみ出た人は傘を持って目線を隠しながら早足で過ぎていく。足元のタイルの色と空の色に合わせるように、人の色や雨の色が全て灰色一色に染まっているような気がした。歩く音さえも静かになり、一帯は寒い雨の音が響く。

雨が降り続く午後三時半頃、学生服に身を包んだ少年とスーツ姿の男が二人で川西池田駅から出てきた。スーツ姿の大きな男が差す黒い傘に、少年は少し委縮した様子で入っている。ゆっくりと歩き、ついに花束たちの前に来ると、少年はその場に座り込んでから目を閉じて、静かに手を合わせた。背中で傘を差す男がいるものの、足元のタイルに跳ね返った水滴が彼の足元を濡らしていて、もはやその傘の意味などないほどだった。しばらく経っても、彼は目を開けようとはしなかった。濡れようと、寒かろうと、後ろを人が何人も通り過ぎて行こうと、彼にはそれは関係なかった。濡れたカバンにさえも興味を示すことなく、彼はただ祈る。

「あの日もこんな雨の日でした」

そして、少年は目を瞑ったまま、口を開いた。

「学校の帰りが遅くなって、僕は八時ごろにここにやってきました。帰り道でした。人通りはまだ多くて、たぶん帰宅ラッシュだったと思います。僕はアステの方から出てきて、ちょうど川西池田駅に入るところだったんです。後ろの方で、音がしたんです」

彼は目線を足元に落としたまま、言葉を繋いだ。傘を差す男は無言でその背中を見つめている。

「駆けつけると、先生でした。先生がここから落ちたんです。しかも、真っ逆さまに、頭から落ちていました。僕、初めて、あんなに黒い血を見て、それで、気が付いたら……」

「そのままそこに倒れていた、ということか」

「そう、みたいです。目覚めた時には既に先生にブルーシートがかかっていて、僕は雨でびしょびしょになってて、そうしたら、警官の方が見つけてくださって」

彼はまだ目を開こうとしない。瞼の裏に、そこにあった男の死体が目に浮かんでいるのかもしれない。誰よりも近くで、誰よりも先にそれを見た彼は、きっとまだその目でその時間を見つめている。

「でも、僕は何も感じなかったんです。確かに先生はいい先生でしたし、僕の相談にいつも乗って下さってました。僕より強くて、いろんな失敗を乗り越えてきた人だと聞いていましたし、僕は安心しきっていたのかもしれません」

「つまり、自殺するような素振りはなかった、と」

「そうですね、少なくともその日は、僕らの前で先生は笑ってました」

彼は雨に濡れるチューリップを撫でる。指の先の感覚は寒さと冷たさで既にそのほとんどを失っており、チューリップが優しく揺れるのをただ見つめているだけになってしまっている。

「他に何か聞きたいことはありますか?」

「いえ、彼が生徒に素振りを見せてないとなると、これ以上は」

「そうですか。あ、傘は自分で折り畳みを持ってますので、大丈夫ですし、先にアステの方に戻っててもらってもいいですか。後で連絡しますので、詳しいことはその時に」

「分かりました」

スーツ姿の男は傘を持ったまま、アステ川西の方へ去っていった。彼は学生カバンの中から折り畳み傘を出して、そのまま開く。人並みの中に消えて男の姿が見えなくなったことを確認してから、彼は再び口を開いた

 

「今のは、警察の方です。僕は最後を見てしまったので。僕は、そんな後のこと、どうでもいいんですが」

彼は少し嘲笑気味に笑うと、はぁ、と一息ため息を漏らした。

「先生。なんだか、変な気持ちなんです。変っていうのは、僕、持ってた不安とか嫌なこととか、もう全部ふっとんじゃって、何が何だか分からないんです。悲しい、っていうんでしょうか。先生がいなくなって、進路相談室からは人がいなくなりました。教室では先生は休職したと言われ、クラスのみんなは誰も先生が自殺したなんて知りません。僕も言ってないからです。変ですよね、衝撃的な話だし、みんな嘘に騙されてるなら、僕は言うべきなんですよね、本当は。でも、そんな気にならなかった。先生は誰にも見られたくなくて、こうやって死んだんですよね。きっと、数週間前の僕がこうして死んだら、学校の誰にも知られたくなかったと思うから、僕も思うことはたくさんありましたが、学校のみんなに言うのはやめました」

雨の音が次第に強くなる中、彼は袖が濡れることも気にせず、持ち寄られたものたちに触れていく。彼は、目を閉じたまま、あは、と笑った。

「変ですよね、これから先の未来について一緒に考えてた先生が、僕の自殺を止めて、そして自分は死んでいくんですから。先生のせいで、僕はどうしたらいいかわかんなくなっちゃいました。もう国立大学の受験だって迫ってるのに、どうしたらいいか分からないまま、こんなところに来てしまってるんです。僕は、もうどうしようもないんです。……先生、僕、言ってなかったんですけど、実はあの日まで僕は将来教師になろうと思ってました。中学時代からの夢だったんです。自分の今できることを、仕事にしたいって思ってました。でも、あの日、先生は職員室に一人残ってそのまま泣いてたのを、僕は見てしまったんです。弱いところを見せたくなかったんだと思って僕はその場を去りましたが、でも、その時こうなるって分かってれば、きっと止めたと思うのに、僕は止められないまま、こうして先生の未来が消えていくのを見てしまったんです」

彼の目から数滴の涙が溢れた。雨に濡れた頬をゆっくりと伝って流れ落ちていく。

「何がつらかったのか、何が先生の負担だったのか、そんなの、分かりません。でも、僕は、僕が先生の負担になってたって思えてしまって、誰にも言い出せないまま、僕はこうしてここにいるんです。分かりますか、先生は僕の未来を奪ったんです。やっと目指そうと思うものができたのに、その先に死が待っているのを、先生は僕に見せてしまった。もう、取り返しがつかないんです」

一度深呼吸する。白い息が大きく漏れて、彼の眼鏡が白く曇った。それを濡れた学生服でふき取ると、彼はこれ以上涙を流すことはなく、目を見開いて、花束を睨みつけるように見つめた。

「僕は、言いたくない言葉ですけど、先生に言っておくべき言葉があります。それは、僕は先生が嫌いだったということ。先生がいつも教師として全力だったところは認めます。でも、何事も饒舌に話し、僕を困惑させ、そして僕には自殺するくらいなら最後まで頑張ってみないかと言った癖に、僕よりも早く自ら命を絶つ。理不尽で、身勝手で、僕が弱いのを知っていて、弄ばれた気分です。最低です。僕はもう、二度とここを通るつもりはありません。学校へ行くのもルートを変えるつもりですし、そもそももうそんな回数登校することもありません。僕の高校時代はこの事件で幕を閉じたんです」

彼は立ち上がった。傘を右手に持ち、濡れたカバンを左肩に担いだ。

「先生はその行為で、二人の人間を殺しました。一人は先生自身、そして、もう一人は夢を見ていた僕です」

 

彼は立ち上がると、ポケットから取り出した携帯電話で最近登録された番号をコールする。スピーカーから先程の男の声がし、少年は今から向かいます、とだけ言って通話切断ボタンを押した。

「さよなら、先生」

振り向くことのない少年の顔は、やがて人の波の一部に消えていく。花束にあるチューリップのうちの一本が、雨に打たれてその花の首を垂らした。重さに耐えかねたそれは、茎からぐにゃりと曲がり、起き上がることはなかった。

 

 

*

 

 

冬の間に気温が高い日を小春日和、と呼ぶが、その小春日和で今日の川西池田駅は大いににぎわっていた。もちろんどこかへ遊びに行く人ばかりではなく、制服姿の中高生が部活動の為に遠出するにも今日は絶好の一日だった。すっかり着慣れたせいか、上着の裾が少し光り始めていて、太陽の光を浴びて鈍く輝く。三人ほど横に並んで歩く女子学生や、縦にも横にも広がりながら大きく口をあけて笑っている男子学生の集団が、静かだったこの街に若さの音を授けている。しばらくして昼の二時頃になると、珍しく気温が十五度を上回り、置かれたチューリップが微かに花開く。グレーのタイルの上に咲くチューリップは、都会のタンポポのように力強く、そして凛々しくその香りと色を解き放つ。出会いの季節である春は、もうすぐそこにいるような気がした。

 

私はベンチに腰かけて、一人空を眺めていた。長く遠い空がゆったりと流れていくのを見つめていた。きっとこの場所を離れられないと、つくづく思った。笑ってみたりもした。だけど、ちっとも心の底からの笑いにならない。私の心はあの体に置いてきたのだ。もうここに残るのはただの執念のみ。置かれたチューリップの匂いを感じることも、サボテンの毛を撫でることも許されない。彼らの言葉だけを受け取り、そして、どうにもできないという事実を淡々と受け入れるしかできない。そもそも何故こんな選択をしたのか。自分でもよく覚えていない。ただ、私は、この世界のあらゆるものがつまらないと思ってしまったんだ。つまらないというのは、面白くない、楽しくない、というのとは違う。私は、疲れた。周りに合わせるのも、嫌われ役を被るのも、これから先の未来を考えることも。

娘はああ言っていたが、私たち夫婦は、離婚するつもりだった。娘は彼女が預かる予定だった。話は少しずつ進んでいた。私たちは、話す時間が少なすぎた。意思疎通も、互いのことも、長い年月を通してお互いが変化していることも、私たちは気づけなかったし、気づいても納得できないまで、私たちはすれ違っていた。大事な存在がそうして離れていくのは、もう懲り懲りだった。でも、私にはどうにもできなかった。私が何をしようと、どうしようと、彼女は既に私を見てはいない。彼女も、娘も気づいていないだろうが、私は知っていた。彼女に次の相手がいることを。私じゃない、別の人間がいることを。隠し通せているつもりだったのだろうが、私には、透けて見えてしまう。それだけ、大事だったから。愛していたから。見たくないものまで見えて、そして、私たちが過ごした十数年間は、今隣にいるであろう男に敗北したのだ、と思うと、私にはどうにも耐えられなかった。両親は、そんなこと露知らず、また顔を見せてくれと連絡してくるし、言い出すにも言い出せない。私は、一人で、一番はずれのクジを引かされるだけだったのは目に見えていた。

サボテンを持ってきた彼は、幼馴染だった。日記を押し付けてしまうことになり、彼には申し訳ないことをしたと思っていた。ただ、あれは私の心臓とも呼べる大事なものが詰まったものだったから、彼以外に預けることが考えられなかった。彼は、私が唯一いつまでも信じられる人だと思っていたから。だからこそ、私は彼の本心が知りたかった。だからこそ、彼の言葉は聞きたかった。あれを読んだ、彼の本心を。だけど、聞けなかった。彼は最近のことと葬式の時のことを話しただけで、私には大事なことを話さなかった。私は、自分の意義が見出せなくて、裏切られ、見捨てられ、そして大事な存在でさえ離れていくこの私の意味は、誰かが与えてくれるものだと思っていた。でも、誰も与えてはくれない。だからこそ、私は死ぬ時に、死んだ後の世界を覗きたいと願った。私が死んだらどうなるのか。私がいなくなったら誰がどう思うのか。彼は、応えなかった。私は知ることさえ許されない身になってしまった。謝りたくてもその言葉さえ届かない。私は、私自身の手で、彼の中の私を殺し、私という存在意義を失った。

学生服の彼は、教え子の一人だった。彼のことを、彼がやってきてから思い出した。死ぬ時は誰の顔が思い浮かぶわけでもなく、イメージできなくなった真っ黒の未来を見て、この橋から飛び降りたのだから。でも、彼の声が聞こえたことは、よく覚えている。視界が上から真っ赤に真っ黒に染まっていき、意識が朦朧とする中で、彼の叫び声が聞こえた。冷たくなる意識の中で、必死に声を出そうと粘ったが、掠れた声すら出なかった。手はピクリとも動かなかった。やっと死ぬのだと思った。解放されるのだと思った。前述した全ての苦しみから――離婚も、娘との別れも、旧友への想いも、職場でのトラブルも――、やっと。だけど、そんなことはなかった。確かに、私が死んで彼女は再婚できるようになったし、娘にはそれが知られぬまま私がいなくなることできた。私がいなくなり、私が主導していた学校の校則改革は終わり、今まで通り理不尽なものが放置された校則のままで、代理教員を補充して何事もなかったかのように運営は再開するだろう。確かに問題は解決しただろうし、物事はあるべき形を取り戻していくのだと思う。だけど、それはただ「私が不必要だったこと」を証明したに過ぎない。私がしたかったのは、私が存在する意義を証明することだったはずなのに。全てを諦め、全てを投げ打ち、誰かに思ってもらえればそれだけで価値があると思っていたのに、今となればただ無価値を証明しただけ。

私は何がしたかったのだろう。こうして空を眺めていると、何か答えが出そうな気がした。しかし、それは人生の外で見つかるものであり、テストの後の答え合わせに過ぎない。そんなものは、物語に直接関係しない「あとがき」に過ぎないのだ。

 

春という新しい季節が来ると思わせる太陽は、キラキラと輝いていた。通る人にその光が並々注がれて、彼らは影を伸ばす。それは彼らがいる意味そのものであり、立つだけでそこにいるという証明でもある。川西池田駅は今日も生きている。私はいつか見た自分の影をタイルの上に描いて、空の蒼に同化して、また思慮の世界へ消えた。

 



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四葉 花言葉「私のものになって」

四葉。クローバーの突然変異。花言葉は、幸福、幸運、そして「私のものになって」。

杏ちゃんは、私のもの。

誰にも渡さない。

誰にも。


*


後輩と同じ設定で作ることになり、出来上がった作品です。
なお、本作は他作品や現実の出来事とは、一切関係ありません。


杏ちゃん。今日は三回話しました。朝に一回、四限と五限の休み時間に一回、そして放課後で一回。他愛もない会話でした。確か、カフェの話題で、杏ちゃんは最近できた駅前のカフェを気にしているようでした。長くて名前を思い出すことはできませんが、フラペチーノと言われる種類だったことは忘れません。杏ちゃんはそれを好きだと言ったから。こっそり今日行ってきました。コーヒー一杯に三百六十円。とても払う気にはなりませんでしたが、杏ちゃんと来るならその値段も安いように思えて、今日は杏ちゃんといる気持ちになるために買いました。でも一人じゃやっぱり寂しかったです。

 

杏ちゃん。今日話した回数は一回ですが、帰り道が一緒でいっぱい話しました。もちろんカフェに一人で行ったことは話しません。私はもっぱら聞く方です。部活で最近練習が楽しいという話、お母さんと進路でもめた話、そして私の話。彼女は私が頑張るといつも褒めてくれます。四葉ちゃん、すごいね。いつもの笑顔で言ってくれます。テストで頑張ったり、部活で頑張ったりすると、必ず一番最初に連絡をくれます。小学一年生で出会ったあの時から、ずっと彼女は一番に喜んでくれました。今日もその話で私は満足です。

 

杏ちゃん。他の誰と話すよりも、杏ちゃんと話すと心が楽になります。自分の部屋にいるような、そんな気持ち。今日は杏ちゃんの言っていたカフェに二人で行きました。いつもは静かで大人し気な杏ちゃんですが、期間限定のフラペチーノを見た時だけは違い、少し上ずった声で、フラペチーノを頼みます。そして、サイズをSかTかGかと聞かれた杏ちゃんは一気に戸惑いの表情に変わって、そして私に助けを求めます。予習済みだったので、私はTでお願いします、と言います。杏ちゃんはまた褒めてくれました。

 

杏ちゃん。今日は話せていません。部活が忙しくて、杏ちゃんと帰ることはできませんでした。大会が近づいてきたせいか、最近はそのことばかり他の部員と話します。頭の中もそればかり。でも、私は杏ちゃんと話したい。一緒の道を歩きたい。それはしばらくの我慢でした。大会が終わればまた一緒に帰れるのだから、杏ちゃんも我慢してるんだし、といろんな理由を考えていると、なんだか大丈夫な気がしてきました。

 

杏ちゃん。大会が終わって、まず結果の報告をしました。賞状とトロフィーの写真を送ります。杏ちゃんはすぐにおめでとうと返してくれました。うれしかった。他の誰が褒めてくれるよりも、うれしかった。やっぱり私は杏ちゃんにもっと褒められたい。変な想いかもしれないけれど、私はそれが今一番欲しいものでした。そして、明日からはまた一緒に帰ることができるという喜びもありました。一週間、ほとんど話さなかった杏ちゃん。どんな顔をするのか楽しみです。

 

杏ちゃん。一緒に帰ることは叶いませんでした。教室まで迎えに行った時には、もう既に杏ちゃんの姿はありません。確かに特別約束をしていたとかそういうのではないのですが、でも、私が大会を終えて部活が忙しくなくなったことは知っているはず。なのに、その姿はありませんでした。どうしても杏ちゃんと一緒に帰りたい気分だったので、気分だけでもと思いフラペチーノを買いました。でも、最初に飲んだ時よりもずっと空しく、そして不味い飲み物だと思いました。

 

杏ちゃん。最近は通話もしません。メッセージのやり取りも、数回だけ。内容も大したものではなく、私が模試の結果を送ったり、そんな程度の話でした。だけど、杏ちゃんの返信はあまり乗り気ではなく、前みたいに話が長引いたりしませんでした。今日は眠れるか自信がありません。こうして筆を握っているのも、私が眠れない理由かもしれないけれど、でも、書いてすっきりした方が眠れるような気がして、こうして書いています。そろそろ時間も時間なので、今日は杏ちゃんと二人で撮った写真を眺めて寝ることにします。

 

杏ちゃん。悪いうわさが流れてきました。昨日、美華と通話して、そのまま寝落ちたという話。私以外と寝落ち通話した。どうして。理由は分かりません。美華は去年私と同じクラス、そして今年杏ちゃんと同じクラスでになっただけの女。全然可愛くもない。首をかしげる仕草も、笑い声も、少しあざとく見せるのも、全部。私の杏ちゃんを取った女がいる。今日の私はそれしか思い出せません。

 

杏ちゃん。きっともっと頑張れば振り向いてくれます。また、四葉ちゃんと呼んでくれます。そう信じて今日は少し早めに帰って勉強をしました。帰り道で英単語の本を買いました。ボールペンも新しくして、少し可愛いものを選びました。来週にはまた模試があります。受験の年だし、こういう時間もたまにはありだと言い聞かせ、今日の日記はここまでにします。

 

杏ちゃん。今日はあの女と話す杏ちゃんを見ました。距離が近い。イタい。あの女のあざとさが好きなの? 杏ちゃんは嫌な顔せず笑っています。その笑顔が見られただけ、私はちょっと安心しました。でも、私に振り向いてはくれません。今日は二人が歩いている後ろを歩いて帰りました。杏ちゃんの背中だけを見つめて、それが瞼から離れないように、じっと見つめました。写真ではない杏ちゃんを見られて、満足でした。今日も勉強頑張ろう。

 

杏ちゃん。明日の模試を受けることを知っていたので、一緒に行きたいとメッセージを送りました。すると、いいよ、と帰ってきました。楽しそうな絵文字付き。久しぶりに振り向いてくれて、自然に笑顔になれました。うれしかったです。頑張った私を神様は見捨てなかった。ありがとう、神様。もっと頑張って、次は直接杏ちゃんに振り向いてもらいたい。明日のことが楽しみだったけど、ちゃんと勉強します。

 

杏ちゃん。杏ちゃんは嘘なんてつきません。でも、嘘じゃなくても騙された気分でした。私と杏ちゃん、だけじゃなくて、あの女もいました。変な笑い方のあの女。杏ちゃんが真ん中で、あの女が杏ちゃんの左側、私は右側を歩きます。顔では笑っているつもりでしたが、本当はあの女の顔すら見たくなかった。神様はずるいです。なんで私をこんな目に合わせるのか。隣で笑う杏ちゃんを見て、私は寂しくなりました。でも、模試を手を抜くことはしません。皆が見てるし、何より杏ちゃんが見てます。今まで頑張ったのだから、きっと大丈夫。行きの道で気分がブルーだったけど、ちゃんと頑張りました。

 

杏ちゃん。今日は何回か話しました。廊下ですれ違って挨拶程度。それからお昼休み、お昼ご飯を一緒に食べようと誘ってくれましたが、あの女も一緒に来たのでやめました。寂しい。本当は私だけを見てほしい。なのに、杏ちゃんは皆にやさしいので、寄ってくる全員にやさしくします。今までその視線は私だけのものだったのに。なのに、その視線をみんなが、特にあの女が持っていく。負けたくない。あの女には、負けたくない。今日も二人の後ろを気づかれないように歩いて帰りました。

 

杏ちゃん。あの女と話している内容を聞くと、あの女が痩せたという話でした。杏ちゃんはもっと話したい人なのに、あの女が延々話していて、杏ちゃんは聞くばかりでした。無理に笑っているように見えました。そして、あの女が痩せたと聞いて、私も痩せたいと思いました。今日はフラペチーノをやめて、ブラックのコーヒーにしました。好みじゃなかったです。

 

杏ちゃん。いや、あの女がうざい。ずっと一緒にいる。あの女は自分の友達の輪に杏ちゃんを引き込もうとしてる。あの女に肯定的な人ばかりを集めた箱庭に価値なんてない。綺麗なだけは脆いだけ。ただ甘いだけのお菓子には芸がない。あの女はそうして自分が満足するだけの空間を作ろうとしている。いつ見ても、杏ちゃんはあの女の集団にいる。うざい。うざいよ。いつまでも周りが優しいと思っているなら、本当はそうじゃないよ。杏ちゃんを返して。

 

杏ちゃん。模試の結果が返ってきて、今度はトイレに行く途中一人で居た杏ちゃんに直接報告しました。杏ちゃんはあの女といるときとは違う、いつもの笑顔で私を褒めてくれました。四葉ちゃん、すごいね。そう、やっぱり杏ちゃんのこの笑顔は私のもの。あの女には絶対見られないもの。これでいい。私の勝ち。幸せすぎて、その日はどんなに杏ちゃんといるあの女が視界に入ってきても、私の気持ちは揺れない。

 

杏ちゃん。今日は通話をしました。さっきまでなので、五時間ぐらい。久々で楽しかったです。杏ちゃんは私の前ではあの女の話をしません。いつものように部活の話だったり、今度ある合唱コンクールの話だったり。でも、時々あの女の話が耳に入ってきて、もやもやしました。でも、杏ちゃんの声なので全然イライラしません。なんであの女の声は不愉快なんだろう。杏ちゃんの声はこんなにも癒されるのに。あ、それから、少し痩せたという話をしました。杏ちゃんも太り気味なのに悩んでいるらしく、どうやって? と聞いてくるので、飲み物をコーヒーにした、と言いました。杏ちゃんは、じゃあまたあのカフェに行こうね、と言ってくれました。またフラペチーノを飲む機会が来るとは思わなかったけど、でも、杏ちゃんとならいくらでも行きたい。でも、太るのは嫌。本当は全部投げ出したいけれど、でも、できない。私だから。稲垣四葉には、それはできません。

 

杏ちゃん。早く連絡が欲しい。でも、昨日は来ませんでした。今日ももう三時なので、きっと杏ちゃんは寝ています。今日も来ませんでした。早く連絡が欲しい。連絡、連絡が欲しいです。私はこんなにも杏ちゃんのことばかり考えているのに、杏ちゃんには届かない。いいんです。杏ちゃんが無理やりじゃなくて、自然に私のことを考えてくれるようになるまで、私は頑張ります。もう少し痩せたら、今度は洋服を買いに行こうと誘おう。もう少し、ブラックコーヒーで我慢する生活が続きます。

杏ちゃん。杏ちゃんと、きっと、前より仲良くなりました。一時期と比べてみれば、よく話すようになりました。だけど……なんだかずっと適当にされてるような、そう、やっぱり、あの女がいるんだ。私はただの話し相手? 結局、杏ちゃんの中ではあの女が一番なの? 分からない。杏ちゃん。杏ちゃん。杏ちゃん。

 

杏ちゃん。大通りのマンションの六階、六〇三号室。

 

杏ちゃん。杏ちゃんにさえ、私のことを全部わかってもらうなんて無理に決まっています。そんなことは分かっています。でも、あまりにも見たくないものが多すぎて、毎日それに目を瞑っていたら、見たいものが見えなくなった気分です。ブラックコーヒーはもう苦くもなんともなく、お湯同然の味しかしない。もう二時。まだ目の前に課題があるのに、目の前のノートを見て、何もする気が起きなくなります。本当は、もう何もしたくない。

 

杏ちゃん。あったことを話す相手じゃなくて、本当はもっといろんなことを話してほしい。杏ちゃんの悩みが知りたい。杏ちゃんの全部を知りたい。なのにあの女がずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと

 

杏ちゃん。許されない願い。好きでした。

 

 

*

 

 

「お茶持ってきたよ、杏ちゃん。……何、読んでるの?」

 



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松葉

夏の日が来ると思い出す。
物にこもる魂を、魂が映す陽炎を、陽炎が成す親友を。

立ち止まった夏の日、僕は、今。


*
著者、yukigaがweb文芸誌「アカシアの箱」の5号誌に寄稿していた作品です。
大学の課題としても提出した作品ですので、誤字や誤表現等あるかと思いますが、その際は誤字報告からご指摘よろしくお願いします。


牛乳を注いだマグカップを持ち上げて、そのままテレビの電源を入れた。今日もいつも通りの朝が始まる。いつものニュースキャスターの声に、いつも通りのニュースたち。事件、事故、芸能人の不倫。つまらないことだらけのニュースは、BGMとしてはちょうどよかった。がやがやと流れる騒音程度のものだ。牛乳を一口飲んでマグカップを置くと、同時にトースターのパンが焼き終わった音が軽快に響いた。

サクサクとパンをかじり、当たり障りない言葉ばかりを話す出演者を見ながら、世界は今日も平常運転だと思う。最近では災害が起きても学校や会社に来い、などという意味不明な団体が増えたらしく、この世界は何が起ころうと平常運転なのではないかと思ってしまう。まぁ、僕にとってもそんなことはどうでもよくて、ただ当たり障りない毎日をすごすだけだ。昼になれば太陽が昇って、この季節特有の強い日差しが地表と人々を焼くだろうし、夜になれば蒸し暑さと疲れで、何かをするやる気すら削がれる。そうして毎日ぐだぐだと過ごすだけだ。大人も、子供も、皆。

ただ、今日だけは違う。僕にとって重大な日だ。

「なぁ、まだ準備できねえのか?」

「ごめんごめん。松葉はもう準備できたの?」

「とっくに終わってんよ。早く行こうぜ」

僕は今日を特別な日にするんだ。

 

 

*

 

 

松葉と一緒に外に出た。空に雲は重く横たわっていて、今にも空が落ちそうだった。そんな中で、隣の松葉は今にもスキップしそうな程気分がよさそうだった。

「今日はどんなの釣れるかなー」

「そんなに楽しみ?」

「ああ、お前と釣りできるのはやっぱり楽しみだ」

住宅街を抜けて向かう先は、近所の川だった。前々からこの日に行こうと決めていたが、まさかこんな天気になるとは思わなかった。途中で雨なんて降りだしたら気分は滅入るし、何より蒸し暑さが夜よりも先に来て、全てのやる気を失ってしまう。今日という一日を無駄に過ごすのだけは、避けたかった。毎日のように過ごしているどうでもいい一日ではなく、今日という日だけは。

「忘れ物してないよな?」

「うん、ちゃんと全部あるよ」

「にしてはお前、いつも軽装備だよなぁ」

「折り畳み式なんだよ」

「へぇ、最近ってそんなのあるのか」

大きな釣竿をケースに入れて背負っている松葉と違って、僕はポーチ一つで出てきた。重い装備は昔から好きではなかった。小学生の時に初めて松葉と松葉の親とうちの親と釣りに行った時、あの重い竿のケースを持たされて泣きそうになったのは、ずっと記憶にある。忘れられるはずもない。というのも、彼がことあるごとにその話を持ち出して、思い出に浸ろうとするのが主な原因である。何度も何度も聞かされている身としては、早く忘れてほしいものだと切に願っているのだが、それは叶いそうにない。

生まれてから二十年、ずっと住んでいるこの住宅街は、坂道こそ少ないものの細い道が多かった。しかし大きな荷物を持っているのに関わらず、松葉はそんな細い道を通りたがる。竿を家の窓に何度も当てて怒られているというのに、彼は変わらない。今日もまたいつものように狭い道を通る。言っても聞かないので、僕も松葉の竿を見つめながらその後についていく。

昔ながらの瓦屋根の家々を潜り抜けると、住宅地同士を結ぶ国道に出た。少し大きな交差点の横断歩道では、いつも長い信号に待たされる。松葉はこれが心底嫌いだった。

「ったく、なんでここは毎度こんなになげぇんだよ。イライラする」

「仕方ないよ、国道を跨いでるんだから」

「国道が何だってんだ。もっと住人に使いやすいようにしやがれ」

高校時代、この横断歩道に遮られ、寸でのところでバスを逃したことは少なくない。僕もだけど、松葉は特にそれで遅刻が多かった。この光景を見ると、朝練に遅れた松葉がよく顧問にどやされていたのを思い出す。

「何笑ってんだよ」

「いや、松葉が前川先生に怒られていたのを思い出しただけだよ」

「はぁ、せっかく釣りに行くってのに気分を重くさせんなよな。……あの婆さん、まだ生きってっかな」

「この前見に行ったら元気そうだったよ」

「へぇ、後輩たちも可哀想なもんだ」

松葉が少し笑って、そして軽く舌打ちをして、瞬間、信号が変わった。松葉は僕を見ることなく、前へ歩を進めた。その右斜め後ろを、僕は追いかけた。

 

 

*

 

 

交差点を過ぎたところにある狭い道を潜り抜けると視界が一気に開けて、そこに大きな山と川が現れる。天気が晴れていれば手持ちの携帯で写真を一枚とっておきたくなるが、今日の気分とこの天気ではそんな感情すら起きない。せせらぐ川の音とそよぐ風の音が、この一帯の時間をゆっくりと流していく。

「ふぃー! やっぱ心地いいなぁここは」

「そうだね」

「早速向こうに罠仕掛けてくる。お前はこっちの用意頼んだ」

「分かった」

松葉は一度うんと背伸びをすると、そのまま大きなクーラーボックスとレジャーバッグを持って上流の方へ駆けだしていった。置いて行かれた僕は、それを横目で見送った後で川の淵に腰かけた。

川下の方へ風が揺蕩う。木々が揺れて、森が囁く。雲の間から垣間見える夏の日差しが、浅い川の底を照らしていた。魚は多そうだった。心地よさげに泳ぐ川魚たちと、夏を知らせる蝉が鳴いている。こうしていると、やはり松葉との幼き日を思い出してしまう。彼がことあるごとに昔話を引き出す性格だからだろう。夏という季節はそれだけで思い出になりそうだった。何でもない一日がそうやって特別な一日へと勝手に昇華して、何も考えずに過ごしていた毎日が途端に大事な毎日に変わってしまう。無為に過ごすと、それこそ本当に取り戻せない、思い出の夏の日。同じ日をもう一度過ごすことなんて、やはりできない。そんなことを思うと、僕は夏という季節が少し苦手だった。

持ってきていたポーチを開く。そこに釣り道具は入ってなかった。入れてくるつもりもなかった。いつも釣りの時に使うポーチに、たった一冊のノートだけ。こんなことを何回も繰り返すあたり、僕はまだまだ過去というものに執着しているし、何でもない一日を過ごすという自分の考えに沿って生きることができてないと思う。だけど、仕方がなかった。

ノートをポーチから取り出して開いた。大学一回の九月から使っているこのノートは、僕の日記だった。何でもない日を、意味のある一日にするツール。ありふれた一日ではなく、特別な一日の数々が書き綴られている。去年の僕は、毎日を記すことで現実に夢を見ていた。腐るほど持て余した時間など存在せず、ゆっくりと過ぎていく濃密で特別な時間だけが存在し、そして、僕はその中に生きていると。表紙をめくり、そして次のページをめくると、そのまま夏の風がめくり続けた。そよぐ風は止まるべき時を知っている。風は、ページを今年の三月で止めた。

 

三月九日。唐突に連絡が来た。朝、眠いながらに携帯を開くと見慣れない「松葉」の文字があって驚いた。久々に釣りに行こう、と書いてあった。どこへ? と聞くと、いつもの、と返って来た。そういう会話をしていると、なんだか心がくすぐったかった。大学ではそんな会話をする相手もいないし、話していて安心する相手も少ない。携帯の画面越しだけど、松葉と話すのは安心する。僕たちはいつも二人で過ごしていたんだから。釣りに行くのは三月の三十一日に決まった。僕も楽しみである。

三月十日。そういえば、十日の読み仮名は「とうか」ではなく「とおか」だと知った。携帯の変換で出なかった。機械に知識の盲点を突かれたようで、少しびっくりした。日常というのは思い込みがはびこっているものだと痛感する。そういえば、昨日の松葉は最近面白いことがないと言っていた。釣りに行くのがその気持ちを払拭してくれることを切に願っている。奇遇だけど、僕も同じことを考えていたから。春休みの間は本当にすることがない。家でゲームを少ししたり、大学の友達と電話したり、家でぐうたら寝ているだけだ。メリハリのない毎日はそろそろ懲り懲りだ。だからといって、忙しすぎる毎日はちょっと勘弁してほしいけど。

三月十五日。ここ最近続いた土砂降りの雨のせいで気が滅入っていたら、この日記を開くのさえ忘れていた。日課にしようと思うと上手くいかない。書きたいことがあると自然と開くのに。人間の頭ってやはり不思議だ。というのも、松葉が――

 

「おーい、仕掛けて来たぞ」

「お疲れさま」

「あれ、竿出してねえじゃん」

「あ、ごめん、ちょっと風に当たっててね」

「気分でも悪いのか?」

「いや、大丈夫。ちょっとすっきりしたよ」

松葉が大きく手を振って走って来たので、急いでポーチに仕舞った。松葉は帰って来たその足でクーラーボックスと竿のケースに駆け寄った。そのまま竿を仕掛けて、持ってきていたベンチに座る。僕は立ったまま、少し風を浴びる。やはり、ここで日記を開くのには勇気が要る。

「今日は天気があんまよくねえけど、ちゃんと釣れっかなー」

「大丈夫だよ。さっき雲の間から日が差してたし、魚は結構いるみたい」

「なら安心だな」

釣りというのは、魚が引っかかるまでは基本暇である。暇って言い方はあまりよくないかもしれないけど、とにかくすることがない。じっと待つ。大自然って言うほどの自然ではない、里山のような場所で、大きく深呼吸して獲物を待つ。松葉はここで本を読むのが昔から好きだった。

松葉が読むのはレジャーブックではなく、小説が多かった。時々エッセイも読んでいたっけ。近代の文豪たちの作品を五冊ぐらい、餌にするのと同じようにチャック付きのビニール袋に小分けして入れて、クーラーボックスに詰めてくる。手荷物をクーラーボックス一つにまとめつつ、濡れないようにしたいらしい。こんなところに頭を使うのも松葉らしかった。アウトドア用の折り畳み椅子に座って、今日もまたいつものように本を読んでいる。

「今日は何読んでるの?」

「漱石の『こころ』」

「あれ、前も読んでなかったっけ」

「そうだっけ。まぁ、別にこれを選んだ意味なんてなくて、ただ読みたかっただけなんだがな」

「そっか」

顔を向けることなく、松葉はページをめくりながら返事をする。本の世界に入っているようなので、そっとしておこう。邪魔をすると、後からいろいろと小言を言われるのは目に見えている。

「ちょっと上流の方へ散歩に行ってくるよ」

「分かった。だけど雨降ると危ねえから、早く帰って来いよ」

「うん、分かった」

立っていた僕は松葉に首を向けずに返事をして、そのまま上流へ歩き出した。松葉がこうやって心配してくれるのは、きっと昔のことが原因だと思った。

昔……中学二年のころだったか、いつものように松葉と釣りに来た時のことだった。からっと晴れていていい釣り日和だった。その日もいつものように二人で竿を仕掛けて、そして二人で罠を仕掛けた。獲物がかかるのを楽しみにして、松葉は読書、僕はぼうっと空を眺めていた。しかし時間が過ぎるにつれて暑さが増してきたせいか体が疲れてきて、僕はそのまま椅子で寝てしまった。だから気づかなかった。黒い雲が空一帯を覆っていて、途端に雨が降り始めた。松葉は急いで本をしまうと、そのまま竿を片づけ始めて、「お前は罠の撤収を頼む」と言った。僕は急いで上流の方に走って罠を外そうとしたが、かけていた場所に罠が見当たらない。雨がどんどん降ってきて、川の水が増した。流されたのだと思い、必死に探していると、瞬間、鉄砲水のようにいきなり水流が僕をのみ込んで、そのまま下流へ流されてしまった。かなり激しかったが通り雨だったらしく、意識を失った僕を松葉が下流で引き上げてくれたらしい。それ以来、松葉は一人で上流に罠を仕掛けに行くようになったし、僕が上流に行く時は必ず早く帰って来いと言うようになった。

昔話に浸っていると、いつも罠を仕掛けるポイントが見えてきた。魚たちが隠れる川べりに張った小さな罠を仕掛けるのが僕ら流だった。久しくこの場所に来ることはなかったので、やはりそのことを思い出してしまう。この場所は松葉との思い出の一つなのだと、改めて感じる。しかし止まることなく、僕はさらに上流へと歩を進めた。

里山の中へ入っていく。緑が生い茂って、蝉が鳴き、雲と葉の間から太陽が垣間見える。よく見た夏の里山だった。川沿いの砂利道は、手入れされていない木々に押されて狭くなっていく。確か、ここで松葉が竿の糸を引っ掛けて大泣きしたんだっけ。

小学五年ぐらいの時、いつものポイントで待てど暮らせど釣れないことがあった。罠も全然かからないし、魚はいるのにまったく釣れない。しびれを切らした松葉が「上の方で釣ってやる」と意気込んで、いつもの竿を担いで上流の方へ駆けあがっていった。なんだか不安に思えて追いかけると、小枝と小枝の間に釣り糸が絡まって動けない松葉が、この近くに座っていた。いろいろ動かしてみたものの、余計に絡まっている気がして、だけど助けを呼びに行くのも格好悪くてできない。そんなことを呟いていた気がする。いつもの威勢のいい松葉じゃなかったので僕も慌てて解こうとしたものの、それがびくともしない。数十分格闘した末、やはり駄目だと二人して座り込んだ。でも時間が解決してくれる訳でもなかったので、やがて太陽がくれてきて、すると松葉が泣き始めた。亡くなったおじいさんから譲ってもらったばかりという釣竿を、壊してしまったと思ったらしい。今となっては笑い話だけど、当時はつられて僕もぐずった。このままこの場所を離れるわけにも行かず、だけど門限が近づいていて、親に怒られるのが目に見えて怖くなったのだった。

「あの時は、親が来てくれたんだっけ」

僕は蝉の鳴き声に包まれたこの場所でひとりごちた。あの頃のことが、まるで昨日のことのように思い出せるこの場所は、思い出の場所と言って差し支えないだろう。少し日が照りだした。木漏れ日が差し込んで、木の根を照らした。まるであの頃の松葉が、そこにいるような気さえした。

暑い。真夏の気温が山を包んでいる。顔からしょっぱい液が流れ出す。

もう少し進もうと思ったけど、さすがの暑さに体が持たない。坂道が急勾配になり始めたので、さっきの木陰に戻る。松葉があの時座り込んでいた場所に、同じように座った。座った拍子にポーチの中が揺れる。……今日の目的である日記が、そこにある。今日ここに来た、釣りに来た目的。

僕は、また日記を開く。

 

三月二十日。久々に家の周りを散歩した。春がそこらにあった。桜の蕾、中学校の卒業式、だがしかし、花粉。どうしてこう、幸せなものばかりの春にこの厄介者は現れるのか。僕は心底辛い。そういえば松葉も杉の花粉が駄目だと言ってたっけ。一番飛ぶ時期に里山で釣りなんて大丈夫なのか。また聞いておこう。

三月二十一日。松葉は平気だと言っていた。なんでも、薬で事前に抑えるものがあるらしい。最近の医療はすごい。僕もそれを知っていれば今頃散歩にも行けたのに、なんて言うと、松葉は鼻息をふん、と鳴らしてざまぁねぇな、って返してきた。画面上のやり取りなので、鼻息を、っていうのは完全に僕による音からの推測だけど、きっとそうしているに違いない。今日は比較的暖かかった。チューリップは十五度を超えると開花するらしく、今日は今年初めての開花日になったらしい。三十一日もこれくらい晴れてくれるといいな。

三月二十五日。大学の友達にいきなり仕事を頼まれて、かなり忙しかった。この四日間、本当に何もできていなかった。だいたい、サークルの新歓のビラづくりをやれなんて、僕には全く無関係だ。……しかし、前に貸しを作っていた友人だったから、断るにも断れなかった。仕方ない。今日が木曜日だから、土日は釣りの準備に使おう。直前になるけど、下見にも行こう。僕たちが使っていた川は、あまり人が釣りに来る川ではないから問題ないだろうけど、念のため。

 

僕は一度日記を閉じた。この先はここで読むべきではない。一度だけ、大きく深呼吸をする。これから先の話を、僕は思い出さなきゃいけない。思い出す義務がある。そして、これを、思い出として僕の中に残すべきなんだ。日記をポーチへ仕舞い、立ち上がった。暑さにも慣れてきて、風と木陰に癒された僕の体はまだ先へ行けると教えてくれる。先へ進もう。

 

 

*

 

 

急勾配の坂を上ってさらに奥へ進む。里山を越えるにはこの一本の道しかなく、階段もなければ街灯もない。夜になると使えなくなるこの道は、その性質上人が通らない。僕らはそれを小さいころから知っていた。車が通るには獣道すぎるが、僕らの足なら問題なかった。松葉はクーラーボックスと竿を担いでよく走り回っていたっけ。そんな風景も、真夏の陽炎が揺らして視界から消す。あの日ももう思い出かと感じた。その感覚はどんどん僕の足を重くしていくような気がした。次第に感覚全てがゆっくりと鈍くなっていく。蝉の鳴き声は如何せんずっと聞こえているのに、僕の耳にはそれがまるで何も聞こえないかのように静かに感じられた。昨日までの僕なら、ここで引き返すだろう。だけど、今日は前へ進む。その為に来た。下流で呑気に釣りをしている松葉を思うと、また陽炎が揺らめく。僕は振り払って奥へ進んだ。

里山を登り切り、いよいよ頂上というところまで来た。僕は立ち止まった。ここが、川の源。右手に見える大きな森のゲートが、そこに佇んでいた。いくら照り付けようと太陽の光を受け付けないほど、密集した木々に包まれている。息をのむ。覚悟は、できている。右足を一歩踏み出した。

森の奥へ入っていく。小道を、ゆっくりと踏みしめる。鬱葱とした木々たちを押しのけて小道を抜けると、そこは泉のような場所だった。湧き出ている場所だけが林冠になっていて、太陽の光が差し込でいる。神秘的で、まるでゲームの世界にあるようだと、昔松葉に言った記憶が蘇った。水辺に近づくと、まだ汚れを知らない透き通った水が湧き出ていた。まだ太陽に照らされていない、冷たく、不純物がない水。暑さと陽炎が張り付いた顔を、水で流す。視界が開ける。木々の中で、蝉に囲まれた中で、太陽が照らす輝きの中で、僕はまた、ポーチを開く。

これが、最後だ。

 

三月二十九日。今日は久々に釣り道具屋へ行った。一年も使ってなかったせいか、ルアーが少し錆びていたので取り替えた。糸も絡まっていたので切ったら長さが足りず、同時に取り換えた。仕事がないと、家では暇だ。暇というのはしばしば悪い意味で使われるけど、僕はちっともそうは思わない。予定が決まっていて、それまでを待つ時間というのはこれほどまでに楽しい。松葉は下宿生で今は東京にいるらしいが、明後日の夜には帰ってくるそうだ。長旅の次の日だから疲れていないか心配だが、松葉なら大丈夫だろう。いつものあのパワーできっと僕よりもはしゃいでいるに違いない。

三月三十日。なんだか、こういう気持ちをちゃんと記しておきたくなった。やっぱり松葉は僕の一番の親友だと思う。幼いころから仲が良くて、いつも二人でいろんなことをした。高校時代、体育会系の部活に入ることもできた松葉が、僕の部活に入ってくれた時は心底嬉しかった。クラスが同じになった時はもっと嬉しかった。テストが終われば毎回のように釣りに行って、一緒に川魚を釣り上げた。そんなことができるのは、きっと僕の知り合いの中では、松葉だけだ。こんなこと、言えないだろうから、こんなところに書く。死んでもこの日記は松葉には見せたくないなと思う。こういうのは両親と、それから将来してるか分からないけど、結婚した人生の伴侶に、死んだ時に見つかればいい。こんなものを書くのは、僕のエゴだから。僕が勝手に思ったことを勝手に書いて、そして、毎日がつまらなくないという証明をし続けているに過ぎない。これは、僕が墓場まで持って行って、そこで手放そう。

 

風が止まる。ページをめくらなくなる。日記はそこで止まった。

ここから先は、僕が自分の力でめくらなきゃいけない。

運命を受け入れるために。松葉のために。

こんなことをしても、誰も喜ばないかもしれない。

だけど、松葉だけは、きっと、喜んで泣いてくれるから。

 

四月一日。あれはエイプリルフールではないらしい。

四月二日。紡ぐ言葉が見つからない。

四月三日。とりあえず日付だけは書いておく。文字を書く気にならない。

四月八日。日付さえ書くことを忘れていた。大学の授業が始まる。

四月九日。僕はやっとベッドから起き上がった。携帯にはもうあの文字はなかった。松葉は、いなくなった。死んでしまった。あの日、急に降り出した雨に流された。僕は、昔松葉が助けてくれたように、松葉を助けることはできなかった。やっぱり上流には僕が行くべきだったんだ。慣れた場所だからと油断していたのが駄目だったんだ。天気予報を信じて雨が降ることを考えていなかったのが駄目だったんだ。松葉は、もういない。松葉は、死んだ。あの日、僕の家に来た松葉の笑顔が忘れられない。親に聞いても、誰に聞いても、彼は死んだとしか言われない。あり得ない。僕よりも先に松葉が死ぬなんて。僕よりも前向きで、社会的で、誰よりも強く賢かった松葉が、何故、僕より先に死んでしまったんだ。僕らはただ、あの日のように、あの日々のように、また二人で釣りがしたかっただけだったのに。何故僕には、巻き戻してやり直す時間がないんだ。何故僕には、松葉を救う手を伸ばせなかったんだ。あの大雨の中で、松葉ならきっと、僕を助ける手を伸ばしたはずだ。何故、僕は松葉へ手が伸びなかったんだ。誰よりも大切な、誰よりも僕の親友だった松葉が、松葉が、何故。どうして。書き綴れば綴るほど、僕の言葉が乱雑になってる。涙が止まらない。昨日まで死んだように眠っていたけど、目覚めるとこんなにも辛い。でも、これも、僕の特別な一日だから、頑張って記す。ごめんよ、松葉。松葉、ごめん。君のことを忘れたくない。だから、これに記す。君と過ごした時間を忘れないために。あの日の僕が、君を救えなかったことを忘れないために。

 

四月二十日。病院から退院して家に帰って来たので、久々に日記を開いた。でも、このページより前は、何故か開けない。物理的に開けないんじゃなくて、僕の頭が開くなと言う。その声を振り払ってページをめくろうとしたけど、途端に指が重くなったので今日は諦める。医者は僕に何もない、大丈夫だと言った。今はその言葉を信じよう。

四月二十一日。松葉がやってきた。大学の授業の一環で実習地をこっちに選んだらしい。実家に相談したら昔使っていた部屋が既に使われているらしく、それなら一人暮らし中の僕の家に、ということらしい。両親がちょうど単身赴任で二人ともいなかったので、僕としてもよかった。一人寂しい家にいるのは、病院にいるより気が滅入りそうだったから。松葉との毎日は、きっと楽しい。朝からそんな嬉しいことがあったので、今日は大学の授業をサボった。

五月四日。松葉と釣りに行った。僕も釣竿を担いだ。釣りに行くのが久々だったのもあって、張り切って準備してしまった。朝五時に起きて、二人でクーラーボックスを準備して、餌をいっぱい詰めて、川へ繰り出した。この日は綺麗に晴れていて雲一つない空だった。気持ちよく釣りをした。たくさん釣れた。この日の夕飯はその魚たちになった。だけど、昔から魚が好きな松葉は、何故か食べなかった。今日は飯いいよ、って言ってそのまま外へ出ていった。帰って来た松葉に聞くと、コンビニでご飯を済ませたらしい。変な松葉だと思いながら、僕は明日以降のご飯にどう使おうかを考えている。やっぱり塩焼きがいいかな。変に味をつけると、味が落ちる気がする。松葉にも相談してみよう。

六月二十日。雨が強くなりだした。梅雨の時期は気分が滅入るから本当に嫌だ。松葉もなんだか元気がなさそうにしてる。僕が大学から帰ってくると、松葉は最近調子悪いんだ、と言っていた。季節の変わり目なので風邪になりやすい。気を付けてもらわないと。僕も松葉も、元気が一番だ。

七月十二日。今日も松葉は釣りへ行こうと言い出した。休みになれば毎日のように行っている気がする。最近松葉はちっとも釣れない。僕ばかりが釣っている。昔は逆だったのに、なんだか面白くなかった。こういうのはやはり競い合う相手と切迫しているから面白いのであって、あまりにも相手がゼロに近いと張り合いがない。今日も僕が釣った魚を食べた。松葉は食べなかった。

七月三十日。最近松葉との話ばかり書いている気がする。僕だって大学に行っているのに、その話を書く気になれない。何故だろう。昔は書いていた気がするのに。松葉も、自分の実習先の話なんてしない。そして、あまりにも期間が長い。こんなに長い実習って、松葉は何の実習なんだろうか。そして僕に大学の話を聞いてこない。松葉は意図的に避けているのかもしれない。そっとしておこう。最近、ゲームをする時間が減った。だけど、こうして毎日話す相手がいるのは、ゲームをするよりも喜ばしいことだ。

八月四日。松葉の様子がおかしい。釣りに行こうと誘うくせに、僕がちょっと電話に出ていたりすると、勝手に準備を済ませて行ってしまう。僕が荷物を持たずに家を出たら、松葉がフル装備で重そうに歩いていた。持とうか? と聞くと、いやいい、と言われる。結局僕はその日、釣り道具に触れないまま釣りを終えた。なんだか変な気分だった。

八月二十五日。意を決して、前のページを開いた。やっぱりそうだ。松葉は、いないんだ。今リビングで鼻歌を歌っている松葉は、もういない。やっぱりそうだったんだ。魚を食べない松葉もおかしい。釣りの話ばかりする松葉もおかしい。松葉はいつも魚をおいしそうにかぶりついて食べるし、いつも大学でのサークルの話と釣りの話を混ぜて話す。釣りにしか目がないのは、松葉じゃない。これは、幻影だ。松葉に見られないように、今度からはポーチに仕舞おう。

 

 

*

 

 

風が一度吹いた。山の中には、僕と、水と、風と、太陽と、木しかない。僕は、この場所にこれを捨てに来た。一緒にいた松葉はただの幻覚にすぎない。そう、幻。僕が過ごしたかった日々が綴られていて、それが結局足かせになっていただけなんだろうな。意を決して開いたページには、涙が滲んでいて、思わず今またシミを増やすところだったが、なんとか耐えた。僕は、前へ進まなきゃいけない。こんな幻影と戯れていても、きっと松葉は喜ばない。

「やっと、僕は捨てるんだ」

声に出すと、途端に喪失感が全身を揺さぶる。それを上書きするように、次の声が喉まで上がってくる。

「僕は、特別な毎日を捨てて、思い出にして、何でもない一日を生きようと思う」

水辺に跪いた。手帳サイズの日記を、震える両手で握りしめた。

「君は、僕に、特別な毎日をくれた」

三月のページを一枚、ちぎった。

「僕はそれがすごく嬉しかった。楽しかった」

その一枚を、泉へ浮かべる。

「一緒に過ごす日々が、特別に思えた」

また一枚ちぎって、浮かべる。まるで、花占いをする時に花弁をちぎる様に。

「何でもない日なんて、ないと思った」

三月三十日をちぎる。

「でも、君はもういない」

四月は、破る。

「だから僕は、何でもない一日に、また戻ろうと思う」

声に出すと、目頭から陽炎が暑さに耐えかねて零れる。破った四月が滲む。

「こんなものを持っていても、僕は戻れない」

シミがついた四月を、さらに破って、小さくして、その破片を水に流す。

「大事な時間は、記すものじゃない、覚えておくものだよ」

書かれた文字が、水で滲んだ。紙片が透けて、水になって、陽炎のように揺らめいて。

「だから、ちゃんと思い出したかったんだ」

川の流れに乗って、四月は流れていく。そして、見えなくなっていく。もう手に入らない時間、やり直せない時間、手が届かない時間になる。

「僕は生きている限り、思い出す」

最後に、幻影を見つめていた時間をちぎって浮かべる。文字だけが浮いて、揺らめく。

「松葉、またね」

松葉は、彼は、彼の幻影は、陽炎になって消えた。

 



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Masked BorderLine

醜い右の頬の痣のような傷。私はずっと隠してきた。
誰にでも、一つや二つ、隠したいことがあるように、私は痣を隠してきた。
マスクで覆って、見えなくして、でも痛みによってそこにあることがはっきりと分かる、消えない傷。
ただ私の傷は、一つに収まらなかっただけ、なのかもしれない。


*
大学の課題で書いた作品です。
実在の事件をベースに書くというテーマで書いたものですが、本作品はその事件をベースにした以上の関係はなく、フィクションです。


私は、どうしたかったのだろう。

 

二十九になった時、ああ、もう十年が終わるのかと思った。あんなに濃密だった十代と比べて二十代は本当に薄かったと実感した。誰でもそう思うかもしれない。だけど、自分を隠して、へらへらとこうしてアルバイトで食いつないできただけの私には、それがまるで人生で得られる悟りの全てのように感じた。昔はこんな日々が毎日続くんだろう、と未来を見ていたこの目は、今、こんな十年をあと数回繰り返せば死ぬんだろう、としか見つめられない。真っ暗なこの先を、私はどこを見るでもなく無駄な思慮をするしかできなかった。

 

父も母も兄も、皆地元で頑張っているらしい。兄は父の農業を継ぐつもりらしいし、最近よく携帯で画像が送られてくる。そろそろ米の収穫らしく、稲とともに兄が映った写真がやってきた。兄は昔から何でもよくできるしその上家族思いで、上京して大手のエリート営業マンとして七年も続けたのに、三年前父親が体調を崩したって報告だけでその日限りで会社を辞めて実家に飛んで帰ったらしい。結局ちょっと風邪をこじらせただけだったのだが、兄は放っておけないらしく、父の跡を継ぐと言い出して、今。世間一般は三十路を過ぎて私と同じようなことを悟るのに、兄はこの二十代が一番輝いているようだった。

 

私の周りは、いつもこんな人間ばかりだ。私が世間一般と思っているイメージを平然と裏切ってくる。二十九を祝ってくれると集まった大学時代の友人たちの中に居た智子は、同い年でありながら既に自分で起業して今はコスメの会社の社長。愛実は金融会社に勤める幼馴染と結婚してそれまで勤めていた会社を寿退社。友里はバンドマンの夢を追いかけ続けてるし、静香は大学時代から目指していた教師で毎日大忙し。祝ってくれるとなってスケジュールを合わせる時、一番空きが多かったのは間違いなく私だった。三十路か、なんて呟く友人はいないし、なんなら彼女たちにはその余裕すらない。昔は変わった子だと言われ続け、時には犬みたいな扱いをされてきたのに、今となっては私が一番一般に近くて、一般だと思っていた私の周りの人間は、皆その一般から外れていく。そして私は、一般という名の取り柄のない存在に落ちぶれていったのだ。

 

それでも時間は平等に過ぎていく。バイトで働いていようが、ぼーっと携帯を眺めていようが、買い物をしていようが、一人で帰り道を歩いていようが。残酷だ。私にはもう足掻くだけの時間もないのに、三十路という一つの境界線を越えてしまう。でもそんなこと、生きる上ではあまり意味がなく、そういうのは時々訪れる「大義的に人生を考える時」だけ、意味と価値を持つ。高校時代に仲が良かった男友達がこっそり寄稿していたらしいエッセイでそんなことを語っていた。携帯のSNSの欄の一番上に、そのエッセイのサイトの更新通知が今やってきた。

 

時間が過ぎても変わらないのは私だけだったのかもしれない。相変わらず右の頬にある青黒い痣のような傷は消えないし、マスクを手放すことはできない。鏡に映る醜い私の顔は脳裏にずっと焼き付いて、これからも毎朝更新し続け、そして消えることはないだろう。人間が下衆だといつも思うのは、自分で操作できない顔の出来というのが、人生を大きく左右するという点にある。この傷は物心ついたころにはあった傷で、小学生の時は散々からかわれたし、中学生になるといじめにも遭った。あざおんな、とか、ばけもの、とか、当時流行っていたゲームに出てくる怪物の名前を取って、あおおに、とか呼ばれた。私は逃げた。逃げて県外の高校に進学して、そこでマスクをつけ始めた。その頃から人の前でご飯を食べたりしなくなったし、マスクを手放すことはなくなった。この傷を見るのは、ついに私だけになった。でも、それでも見たくないから、家の中でも外さない。

 

今日買ってきたもやしと茄子を味噌で軽く炒めて、初めて兄が作った米が送られてきたので久々にご飯を炊いた。すると、不思議となんだか全てどうでもよくなる。ご飯の温かさと甘みが、そして茄子ともやしのみずみずしさに味噌が合わさって喉の奥へ溶けていく。正直、人生に張り合いを感じられなくても、大義がなくとも、アルバイトをしているだけの二十九歳には、ご飯が美味しくて、趣味が謳歌できればそれでいい。一次欲求が満たせるという幸せで視界を埋め尽くせば、三十路の境界線なんて見えにくくなるし興味も失せる。でも、そんな単純な私が嫌になる。目の前のご飯程度で私の十年の薄っぺらさを蔑ろにできてしまう程、私は単純で馬鹿で思慮が浅くて、だからこんなに失敗してアルバイトの仕事だけしかできないでいるというのに、何も反省していない。でも、ご飯はおいしい。おいしいご飯の香りはそれだけで頭を湯気で一杯にしてくれるし、エネルギーが入ってきて、夜の趣味の時間を精一杯使ってやろう、という気になる。あの兄が作った米だと思うと、なんだか泣けてくる味でもある。私は一次感情に流されやすいし、それ故に馬鹿だとは分かっていても、理屈抜きで湧き出るこの感動は抑えられない。

 

ワンルームのアパートの台所は立ち飲み屋みたいな雰囲気だと思う。食事を済ませて部屋の中に唯一ある大型のテレビの前に胡坐をかく。座布団と、テレビと、私。クローゼットの中に生活用品の全てを詰め込んで、現実逃避の体制を作り上げる。テレビの電源が入ると、そこにはテレビ番組などといった現実の虚像が映るのではなく、本当の虚像、バーチャルでゲームな世界が広がる。端麗な顔立ちの少年少女たちが私には手に入らなかった美しい青春を謳歌したり、生まれながら選ばれた天才が世界の危機を救ったりする世界が、そこにある。味わえなかったその幸せを疑似体験できる。同じ気持ちになれる。

 

 

いつもはこの幸せを感じながらまどろんでそのまま寝てしまうのに、今日は何故か眠れなかった。

 

 

微塵も眠さが現れない。ゲームとバイトで心身ともに疲労困憊のはずなのに。今日は妙に深く考えすぎただろうか。こんな風に自分を見つめなおしても何も起きないというのに、つい大学時代の癖でそうしてしまう。レポートのネタを探す時はいつもこんな風に自分の身の回りをよく見ていた。いいネタは常に身の回りにある、と教養の授業の先生が言っていたのを思い出す。おかげでレポートだけは真剣に取り組んで、真面目に点数を取っていた。今となってはその癖によっていい結果なんて一つも得られず苦痛でしかないのに、やめられない。

 

考えるのも疲れたしゲームも疲れた。これからの未来なんて明日やそこらで何かが変わる訳でもないし、ゲームはかれこれ五時間近くしているし、これ以上やるのはあまりいいとは思えない。といっても他にすることもないし、明日は昼からの出勤だから朝はゆっくり寝ていられるので早く寝る必要もない。時計は既に一時半を指していた。いつの間にか日付が変わっていたらしい。ちょっと前まで(といっても十年以上前だが)、父親と母親に合わせて私たち兄妹も日付が変わる前に寝るのが当たり前だったのに、今やこれでも眠くないとは、変わってないと言えば嘘になると思った。確かに見た目は変わらないし私は何も変わらなかったけど、確かに生き方は変わったかもしれない。昔ほどエリート思考みたいなものもなく、向上心もない。だからこんな生活なのだと自分を嘲笑してやりたくなるが、そんなことを深夜にすると泣いてしまって、今度こそ本当に眠れなくなる。私はちっぽけで弱い、ということを誰よりも知っているのは、私自身だ。

 

ゲームの音だけが部屋に響く。軽快な日常を示すゆったりとしたBGM。ゲームのシナリオの中の季節は既に三月を迎えており、これからお花見やクラス替えのイベントが発生する。彼らのクラスには、真っ白なマスクを一年中つける、陰湿な女子はいない。目鼻立ちが整った華麗な少女と、すらっとした立ち姿で爽やかな少年ばかり。か弱い人間を板ぶる極悪非道な人間もいないし、桜が舞い散る初々しい教室に全員が背を伸ばして座っている。理想とは常に美しく、輝かしいものだと痛感する。昔は、こういうのを作るプログラマーになりたかったんだっけ。

 

そういえば、まだお風呂には入ってなかったな。まだ二十九なのに、もうすっかり四十代さながら、よいしょと腰を持ち上げて風呂場へ向かう。給湯器の電源を入れて、ユニットバスにシャワーを向けてから水を出す。しばらく出していないと冷水しか出ないので、毎度少し待たされる。そのまま風呂場の扉を閉めて、また部屋に戻ってくる。なんだかまたゲームでもしようかな、という気になってきた。コントローラーを握る。我ながら、本当に気まぐれだと思う。

 

 

でもそうはいかない。

 

 

ぷつんとブレーカーが切れた、らしい。いきなり部屋の明かりが消えた。シャワーの音だけがする。あ、ゲーム、セーブしたっけ……。そんな呑気なことを考えるのも一瞬で、体の内側から得も知れない恐怖が湧いてくる。電気が消えると鏡を見られなくなるし、携帯が手元にないと怖くて仕方がない。もしかしたら自分にしか見えない何かが出てくるかもしれない。ゲームのやりすぎだとは理性で分かってはいるが、自分一人しかいない家で何かが起こっても、誰も助けてくれない恐怖がある。部屋の中に一人座っていたが、このままでは埒が明かないのは分かっているし、体の震えを抑えて手探りで立ち上がる。本当は携帯を持っていきたかったがあいにく場所が分からず、諦める。つかむものは何もない。己の方向感覚だけを信じてなんとか部屋の入口の段差までたどり着き、躓かないようにゆっくりと足を上げる。両手で柱を確認し、力強く掴んだ。一度深呼吸する。シャワーの音はずっとユニットバスから響いてきていて、水のはじける音が余計にその不気味さを掻き立てる。両手で柱をもう一度つかみ直し、そのまま前へ進む。台所の冷蔵庫を左手で確認し、風呂場の入口の扉のざらざらを右手の人差し指で感じる。左足を出して、右足を擦るようにして出す。一歩、二歩、数回繰り返したら靴箱の取っ手が左手にあるのが分かった。ブレーカーはこの上なので靴箱に乗らなければならない。履いていたスリッパを脱いで、右足を靴箱の一段目にかけた。

 

 

だけど、やっぱり、今日はおかしかった。

変だ。シャワーの音しか聞こえないのに嫌な予感が背筋を貫いていた。

左手にある靴箱に上る時に、何故右手につかむものがあるのか。

その先は、玄関扉しかないのに。

 

 

瞬間、靴箱から引きずり降ろされる。私より高い何かが、首を、締める。しめる。ざらざらしてて、少し臭い。紐のようなものが、私の首を締めあげる。軌道を塞ぐ。何故ここに人がいるのかは分からない。でも、こんな時でも頭がしっかり動くあたり、私は不幸だと思う。マスクが息を塞いでいる。今まで生きるために着けてきたマスクが、今となっては、後ろにいる不審者と同じ、殺人鬼なんだ。そう思うと、マスクと共に生きてきたなんて思っていた私が馬鹿馬鹿しく思えてくる。顔から血の気が引いていくのが分かる。頭の中がだんだん白くなる。そのせいか、後ろにいる私を殺そうとする人間に対して、嫌悪感や恐怖感が消えていく。私、上手く生きることすらできなかった私を、過去ごと葬り去ってくれるのだと思うと、むしろそれでもいいような気さえする。だけど、とにかく苦しい。苦しくて苦しくて、体だけが生きたいと主張し続けているせいで、一次欲求が満たされなくなっているせいで、体は必死にもがく。声も出ないのに、もがいて、もがいて、紐を少しでも緩めようとする。最後の最後まで私の体は出来損ないだと思う。苦しい。死ぬ。本当に、死ぬ。あえて使っていなかった視界が、首を締めあげられるにつれて赤く滲んでいく。血が滲んでいくのだろうか。苦しくてもう限界らしく、体は最後の抵抗で足を動かし始める。少し浮いた私の体はばたばたと跳ね始める。まな板の上の魚のごとく、息の根を止められる寸前で跳ねる。

 

 

もう、死んじゃってもいいかな。

 

 

赤を通り越して視界が白になった瞬間、私は気づいたらアパートの駐車場にいた。咳をしながら大きく深呼吸する。生きている。感覚が少しだけ戻るが、全部は戻ってこない。動かせるのに触覚がない部分がある。。アパートの階段を降りる音がする。足が動き出す。そして、醜くも叫ぶ。

 

 

「助けて!」

 

 

私はそれ以来、マスクを着けなくなった。痣は白くなって、次の日の夜には痣が剥がれ落ちて新品の右頬が私の顔に張り付いた。この日は、私の三十歳の誕生日だった。

 



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乖離

とある島の小さな村に置いていってしまった、妹はどうしているだろう。
きっと、今まさに高校生活を謳歌している頃で、小さかったあの時の姿のその面影すら、もう思い出せない程かもしれない。

そんな淡い思いは、たった一通のビデオレターによって消える。


*
大学の課題として提出した作品です。
タイトルの意味と作品の構成を考えながら読んでいただけると幸いです。


「拝啓、お兄ちゃんへ。桃果です。これを見ているお兄ちゃんは、島を出て先生になったあの日から、何年後のお兄ちゃんですか?」

 

部屋は静かだった。和室の六畳間に、座布団の上に正座する少女が一人、まるでそこに置かれた置物のように鎮座している。その雰囲気からか、書院造の棚もかけじくも、あらゆる全てが今はその口をつぐむ。静まり返ったこの部屋で言葉を発するのを許されているのは、後にも先にも彼女だけだ。

 

「きっと、今もお兄ちゃんは先生を続けていると思います。中学校で生徒に会うのが楽しくて、毎日が新鮮で、何気ない話に笑える、そんな幸せな先生だと思います」

 

彼女は普段の派手な服装ではなく、白い無地のシャツと褪せて薄くなった青のジーンズを身にまとっており、そこにそれ以上のメッセージを生み出させない。両腿の上にある手は固く握られており、彼女の目は鋭く研ぎ澄まされていた。

 

「お兄ちゃんは頑張り屋で、何事にも一生懸命で、でもちょっぴり手抜きで、それでいてちゃんとノルマは達成する、要領のいい人でした。だから、お母さんもお父さんも、お兄ちゃんがすることに対しては何も文句を言わない、一家で唯一のエリートでした」

 

彼女を包む和室の一面にあるふすまには、大きく二つの樹が描かれている。左には松の木が、右には梅の木が。水墨と顔料だけで描かれたらしいそれらは、この部屋で唯一の暖色であり、彼女しかいないこの空間の中で唯一の彩りであった。

 

「前にも言ったかもしれませんが、私はお兄ちゃんを尊敬しています。こんなビデオレターを撮ることにしたのも、尊敬するお兄ちゃんには全てを話しておきたいと思ったからです」

 

ふすまの絵の松の木の近くには、鶴の親子が描かれていた。幼体の鶴は二匹おり、まだ幼くてまっすぐに歩くことさえ困難なようで、親鳥は前を向いて歩くことさえできず、常に幼体の鶴たちを見つめ続けていた。

 

「お兄ちゃんはこの島から出ていく時、いろんなものを残してくれました。私たちとの思い出はもちろん、お父さんとお母さんから借りていた学費の全額、私や弟のために用意された教科書やノート、お兄ちゃんのお気に入りだった小説、愛用していたパソコンまで。私たちは数年の間、それらをそれらとしか考えず、そのままにしていました。もちろん、私たちのために置いて行ってくれたものは、今でも愛用しています」

 

梅の木の近くには何もいなかった。そこにあるのは、どっしりと構える梅の木の幹と優雅に開かせている花弁だけで、そこには先ほどの鶴たちがぴったり収まるような空間が無を主張している。

 

「しかし、その中にはお兄ちゃんが忘れていったもの、つまり、置いていくはずではなかったものもありました。私は、一か月前、それをたまたま見つけてしまったのです」

 

和室に残されている座布団はどれも大きなもので、法事などで僧侶が使うそれのようなサイズしかなく、幅をとるので積み上げられている。それがふすまの松と梅の間に居座っており、その間に何が描かれているか、垣間見ることはできない。

 

「開くと一人の女の人の名前が出てきました。お兄ちゃんの昔の彼女の名前です。私が見つけたのは、日記でした。その頃のお兄ちゃんの心境がつづられていて……そしていつも丁寧で読みやすかったお兄ちゃんの字ではなく、そこにあったのは書きなぐったような悲痛な跡だけでした」

 

天井には吊り下げ型の照明が一つ。木製の枠に裸電球が差し込まれているタイプで、今時地震の対策だの停電の対策だので見かけなくなったものだった。それはこの家が建ってもう数十年たった今でさえ変えることなくこの部屋を照らし続けているらしい。

 

「私は、お兄ちゃんはこの家族が大好きだと思っていました。家族で旅行に行く時はいつもお兄ちゃんが計画してくれたし、お父さんとお母さんにはずっと気にいられていたし、私も弟もお兄ちゃんが大好きで、そしてお兄ちゃんはそれを受け入れてくれていた……疑うことは何もなかったんです。日記を読むまでは」

 

風が吹き抜けた。それにつられて、畳の香りがした。この部屋が和室たる所以である畳は、その管理が少しずさんになってしまっていたらしく、所々ほつれのような傷が見えている。ささくれのような傷もある。古くなろうとイ草の香りはそのままで、新品同様の香りがした。今も昔も変わらない香り。

 

「お兄ちゃんは、家族よりもその彼女を愛していました。永遠にさえ思っていました。全てを捧げてでも彼女を守りたがっていました。お母さんが血と涙を流して稼いだお金で行った大学の授業を休んでまでも、お兄ちゃんは彼女に会いに行きました。あんなに仲の良かったお父さんの宝物を密かに質に入れて手に入れたお金で、彼女にプレゼントを買いました。お使いに行く振りをして悩み苦しんでいる彼女を慰めに行ったり、課題をしていると言って彼女と深夜遅くまでメールを交わしたり、とにかく、お兄ちゃんは彼女を家族より愛していた、それは事実だと思います」

 

古いながらも整った書院造のこの部屋には、一か所だけ傷がある。それは柱だ。四隅の大きな柱のうちの一つには、刃物を突き立てたような傷がある。それも既に長い時間を超えて風化しており、部屋の一部のように見えないこともないが、それはやはり異質であり、刃物の跡はその異質な存在感を放ち続けている。

 

「だからこそ……私は許せなかった。あの人はただ自己満足でお兄ちゃんを振り回していただけだということが、お兄ちゃんの日記につづられていました。書く時は読む人の気持ちを考えて丁寧に書けと教えてくれたお兄ちゃんの字ではなく、まるでその悲しみをぶつけて投げ捨てるような書き方で、あの人に捨てられたことが書かれていて、私はいたたまれなくなって、日記を閉じました」

 

かけじくは伏せられており、その文字を読むことはできない。長い間かけられていたそれはもはや風景と同じで、その文字に意味は持たないだろうが、それでもこうして伏せられているということは、その文字に何らかの意図があったのかもしれない。この場にそぐわない何か別のメッセージが。しかし今、それを確認することはできない。

 

「しかし弟やお母さん、お父さんに話すわけにもいかず、私は無意識のうちに家を出て、あの人の家へ向かいました。一度お兄ちゃんと散歩した時に、ここが彼女の家だと紹介された記憶を頼りに、なんとか行きました。そして、そこには変わらずあの大きな塔のような家はありました」

 

障子から差し込む光は既に橙色になっており、日の傾き加減からおよそ午後五時ぐらいだろうと思わされる。念入りに手入れされたらしい貼りたての障子からじりじりと照らすその光は、まるで畳のイ草を焼いているようで、鮮やかな緑の色合いを狐色に変えていく。

 

「そこで私は手紙を入れ、後日連絡が来るのを待ちました。来ないかもしれないと思った連絡はあっさりやってきて、私たちは駅前のあの古びた喫茶店で会うことになりました」

 

かけじくが伏せられている隣には、熊の置物が置いてある。陶磁器で作られたそれは、雪のような白い肌に、青い花や葉といった文様が描かれていて、大熊と小熊が対になるように置かれている。

 

「あの人は、何も知らない顔でやってきました。聞いてみると、お兄ちゃんとは別れたけど仲良くしているという風に言いました。しかし、日記にはそんなことはなく、お兄ちゃんは一方的に苦しんでいたことが書かれていたので、私はすぐに嘘だと分かりました」

 

大熊の爪の先は青く、鋭く、そして獰猛なその佇まいを忠実に再現してある。対して小熊はまだ爪は白く、丸みを帯びていてその手に野獣のような力強さはない。大熊は自らの子ではない小熊でさえ、こうして食らう。

 

「話は続きました。お兄ちゃんの話はもちろん、あの人の今の話も聞きました。あの人はただ不幸な人を応援する自分が好きなだけでした。お兄ちゃんが愛した理由がよく分からない程に、あの人はただ自分が好きなだけでした。お兄ちゃんは、こんな人のために家族を投げうったのだと思うと、私は胸の中から黒いものが湧き出る思いがしました」

 

天井と梁の間には、老夫婦の写真が飾られている。モノクロのそれらはに映る一組の夫婦は、幸せな笑顔とまっすぐな瞳を携えている。その人生に一片の悔いがないかのように。

 

「私は……外に出ようと提案しました。あの人は笑顔で承諾しました。私が苦しんでいるのを楽しんでいるかのような顔でした。私は高架下に誘導し、そのまま、そのまま……刺しました。お兄ちゃんが置いて行った嫁入り用の包丁で、何度も何度も、その女を刺しました。悔しくて、つらくて、お兄ちゃんは人生をかけるほどの想いだったのに、その無念を、何度も突き刺しました」

 

太陽が沈み、その光は赤みを増していく。ゆっくりと滲み、畳の色を茶色へ変えていく。少し飛び出たささくれや、ほつれたような傷は茶色の中に沈んでいき、その姿を隠していく。

 

「お兄ちゃんは……こんなことを言うのも変だけど、私の初恋でした」

 

沈みきると、部屋はどんどんその明度を失っていく。赤みがかった部屋はどんどん黒くなり、茶色になった畳は薄い緑を暗闇の中に携えるだけになる。見えていた熊の置物や伏せられたかけじくさえもその姿を隠し、障子の白が薄っすらとその存在を示すだけになる。

 

「だから、お兄ちゃんには、ちゃんと話したかった。話して、そして、お別れしたかった。こんな私を家族として愛してくれたのに、私はお兄ちゃんの思い出を、お兄ちゃんからもらったもので殺した。私は、もうお兄ちゃんを好きでいる資格は、ありません」

 

真っ暗な部屋の中に響く音は、畳と何かが擦れる音だった。擦っているような音で、畳の凹凸が生み出すその音は、息をするようなか細い音だった。

 

「私は、去ります。永遠に、この家から。このビデオレターが見つかっても、私を探さないでください。私は、お兄ちゃんとは、家族とは、もう一緒にはなれないから」

 

障子の締まる音がした。暗闇は永遠を意味した。畳の擦れる音は、これ以降聴くことはなかった。

部屋の中央の座布団の上にあった大きなテレビは、音を立てて消えた。

 



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確個

誰のものでもない。前を向いて、黒を塗って、そこに少しの青を足した思考の空へ。いざ。


*


著者、yukigaがweb文芸誌「アカシアの箱」の3号誌に寄稿していた作品です。
大学の課題としても提出した作品ですので、誤字や誤表現等あるかと思いますが、その際は誤字報告からご指摘よろしくお願いします。


僕は変わってるんだろうな。

誰かが、キャンバスは真っ白と決めた。でもそんなの糞喰らえと、僕はそこに真っ青を流し込む。すると誰かがそれを空と呼ぶ。僕は止まらず、それをかき消すように黒を塗りたくる。それから白を少しだけちりばめて、僕はそこを夜空にする。真っ白のように輝いているものでもなく、真っ青のように希望に満ちているものでもない。ただ、白も、青も、少しだけ残った黒でいい。それが、僕のキャンバス。本当は、もっと自由なんだと思ってる。

僕はそこへ一歩踏み出す。すると足元にコンクリートの階段が一段現れる。また一歩踏み出すと、また一段、それは夜空の中に象られていく。僕は下を見ずに、上だけを見てゆっくりと上る。カツカツと足元の音が響く度、心臓が少し跳ねる。数十段上って、目を瞑ってから息を一度大きく吸って、もう一度目を開く。そこには灰色で小型のプロペラ機が一台。僕が一番乗りこなせる飛行機。もう使い古しているけど、それでも僕にとっては他のどれにも代えがたいもの。僕が認めてあげないと、飛行機とも呼べないかもしれない。だけどこの世で一番大事で、ずっと一緒。そんな相棒。

今日も、僕は旅に出る。夜の空へ。

 

 

*

 

 

飛び立つと、機体の軋む音が少しするけど気にしない。いつものこと。僕らは完全じゃない。使い古したおんぼろ機体とおんぼろパイロット。夜空を飛ぶのは、青空を飛ぶのより難しいと思うかもしれない。雲がどこにあるか分からないし、光っているのは星か月か、はたまた他の飛行機か。だけど、慣れるとここが飛びやすいと分かる。青空なんて眩しくて飛びづらい。軋む音が気になってしまって飛べない。純粋な空は、いろいろとすっきりしすぎてる。星や月や見えない雲があって、不純物の混じった下手なガラスみたいな空の方が、僕は僕の操縦だけに集中できる。僕は、そういう人間になってしまったんだと思う。

さっそく見えない雲に突っ込んでしまったらしい。ライトをつけ忘れたこの機体では、進む方向がよく分からなくなる。だけど、気にせず僕は進み続ける。僕の考えは止まらない。操縦桿さえ握っていれば、空は飛べる。むちゃくちゃな操縦でも、多少下手でも、ぶっ飛んでいても、飛行機と一緒ならとりあえずは飛べるのだ。出口を探しながら飛ぶしかない。

 

僕はこうして飛ぶしか力がない。夜空を飛ぶことしかできない。それもいつも正しく飛べるとも限らない。僕がしていることは、もしかすると他の人はそれを青空でできるのかもしれない。

 

雲を突き抜けた。今日の進む方向が見えた。加速させる。前へまっすぐ進める。操縦桿を力いっぱい握りしめる。タコメーターの加速度をチェックして、それが目一杯右に振れているのを見て、少し笑顔になる。僕にできることが、ちゃんとできてるって実感できる。最大速度まで加速したのを確認して、一度操縦桿を右手に任せる。左手でスピードのロックを解除。そして、どんな攻撃が、いつ、どこから飛んできても大丈夫なように、迎撃モードのロックも解除する。今日は久々に戦ってもいい気がしてきた。機体の軋む音が少し大きくなった気がする。この機体も追い詰められているのかもしれない。

夜空はいくら飛んでも変わらない訳じゃない。ちょっとずつ変わる。星の数が増えたり、月の光量が増したように感じられたり、周りで自己主張の激しい飛行機が飛ぶ数が増えたり。青空はただ雲の流れだけかもしれないけど、夜空にはこんな楽しみがある。ほら、あれがカシオペア。あの近くに北極星。それは知ってる? なら、みずがめ座は? あんなに小さいけど、あれも星座だし、それも見える時間が限られる。あっちはペルセウス座。流星群で有名だけど、あれもちゃんと星座。秋の星座なんて知らなかったんじゃないかな。夜空は変わるって、僕はちゃんと知ってる。だからこそ、こうして小さな変化を見逃さないようにちゃんと見てて、そして、自分の進むべき方向と周りを確認してる。

でも名前のついてない星なんて山ほどある。一番明るい一等星と一番暗い六等星は、およそ百倍違うって言われてる。僕は、他の飛行機みたいに自己主張用のライトなんてつけてない。だから、きっと他の飛行機から見ると僕の飛行機なんて六等星よりも見えないだろう。だって、知らなかったんだ。そんな方法があるなんて。僕は必死に飛行技術を身につけて、それでこの夜空で気づいてもらおうとした。複雑な軌道を描けば、きっと他の飛行機たちとは違うということに気づいてもらえる、分かってもらえるって。でも、そんなことはない。ライトをつけてゆっくり飛んでいるだけで実際はよく見える。なのに僕はライトをつけずに飛行機を作ってしまったせいで、今更つけるスペースがない。不器用ながら、他の飛行機にぶつからないようにするために、僕は今日も少し複雑で変わった飛び方をする。ナイトフライトをしたり、旋回飛行をしたり。

あ、あそこに列をなして飛んでる飛行機団が居る。まっすぐに飛ぶことだけをするなら、ああしているほうがリスクがすくない。他の飛行機とぶつからないようにするには、他の飛行機と同じ飛び方をすればいいから。僕みたいに気づいて避けてもらおう、というのが一番に来るパイロットは早々いない。できれば僕もああして身を守ってみたいけど、ライトがないのでできない。今回も合流を諦めてその飛行機団を見送る。

他の飛行機が見えなくなったので、一度操縦桿を元に戻す。自然と真っすぐ飛ぶこの飛行機は、当時の僕にしては傑作だった。装甲は人一倍硬く分厚く作って、攻撃用のミサイルは通常の二倍、迎撃用の機銃は通常の四倍以上の数を搭載した。誰も一緒に飛んでくれないと分かった僕は、一人で飛ぶことを決めた。その為には一番強い飛行機に乗る必要があった。強く、正しく、もっとも信用できる機体。不格好だけど、実用性が一番大事だったから、それはもう仕方ない。

夜空を飛んでいると、微細な何かに接触することは珍しくない。空中に飛んでいる塵にはしょっちゅう当たるし、たまにヘリウムが詰まった風船がプロペラに当たって破裂することもある。そうなると、いくら僕が乗りこなせる機体とはいえ、さすがにびっくりして機体を上下に揺らしてしまう。一度そういうことがあった日は、下から何か飛んできたりしないかちょっと過敏になってしまう。と思えばたまに上から、誰かの飛行機から落とされたのか、ゴミが降ってきたりすることもある。夜空は見えづらいからこそ、そうやって適当なことをするパイロットもいる。全く、そこは弁えてほしいところだ。

この空も、時間がたてば白んできて朝を迎えて、青空へ戻る。つまりは青空の延長上にあるのが僕のフィールドである夜空なのだ。だから、青空のパイロットも大勢夜空で飛んでいるし、青空にあった眩しいものが浮遊して残っていたりする。僕はそういうのが苦手だ。夜空は暗いからいい。暗い中を飛べる、というその優越感も含めて僕は夜空が好きなのに、それを他のパイロットが汚していく。

ほら、また汚す奴がいる。そうやって適当にゴミを零して過ぎ去っていく。僕の好きな夜空に、僕の機体が傷つく危険を残していく。さっきから右翼に何か当たってると思ったらそれだったのか。なんだか気に障った。高度を上げて過ぎ去っていくその飛行機を追いかける。気に食わない。

そいつはゴミを零し続ける。誰のでもない夜空を、ゴミで自分に染め上げようとしてる。適当な言葉でいつも他のパイロットを惑わせるような奴。僕は奴が落とすゴミを迎撃用のマシンガンで撃ち砕く。一機のマシンガンでことが足りる、なんて思ったら、そいつは零す量を増やし始めた。喧嘩を売られてる気がした。夜空を、そうして汚していくのがなんとなく許せなかった。きっと他にそうしている奴はいっぱいいて、こいつだけじゃないとは分かっていても、僕はそれを諦められなかった。落とす数が二つ、三つと増えるにつれて僕も稼働させる機銃の数を増やす。落とした瞬間に威嚇するように撃ち砕く。

軌道を変えてきた。高度を上下に操作して、軌道が波打つように動き出す。僕は直接機銃を当てると戦争になりかねないとは分かっているから、それに合わせて細かく追尾してゴミを撃ち落とす。あくまでミサイルは使わない。機銃で対処できる分は機銃で行う。安易に機体へダメージを与えることを狙ってはいけない。そこは僕なりのマナーだった。

それでも奴はゴミを零すのを止めなかった。しばらくして、急に高速旋回でこっちに機首を向けてきた。まさか―

ズガガガガガ!

デカい音を立てて機銃が僕の機体へ降り注いだ。しかも、ミサイルなどを迎撃するためのものじゃなくて、装甲を貫くための鋭い機銃。まずい。一度右に旋回しながら高度を落とす。少し疑似的に失速させてやられたふりをして、相手の追尾を逃れよう……と思ったら、それでも追尾してきて僕の機体へ撃ち続ける。夜空に発砲炎が輝いて、せっかくの黒がめちゃくちゃになる。装甲が軋む音以上に悲鳴を上げている。幸いエンジン部分にはまだ届いていないが、これは大きなダメージになりかねない。次の修理も見当がついてない。まずい。回避行動を続けていると、ついにはミサイルまで撃ちこんできた。ゴミを撃ち落としたことがそこまで気に障ったのか、と僕は少し呆れる。それをとりあえず迎撃用の機銃で撃ち落とし、もう一度そいつに向き直る。

「なんで私の星を壊すのよ!」

どうやら女性の機体らしい。機体についた大きなメガホンから叫んでくる。いや、これはメガホンだけじゃない、プライベートの回線にまでねじ込んできてる。傲慢な奴だな、なんて思いながら、それでも僕は冷静に答える。

「それ、ゴミにしかなってないよ、やめなよ」

「うるさい! 夜空ってのはこういうものなの!」

強引な理論……いや、理論でもない、もはやその人の考え方というべきものを振りかざされて、さすがにどうしようもないと思った。だけどそいつはひたすらミサイルを撃ち込んでくる。僕はそれをひたすら落とす。落として、落として、止むまで全部落とす。一撃くらいなら被弾しても大丈夫だったけど、プライドとして、一発も着弾させるつもりはなかった。

「あんたにはこれが星に見えないっていうの!?」

「だいたいそれ星じゃないじゃないか。星ってのは作るもんじゃなくて元々あるものでしょ」

「これだって同じ星だもの、夜空に置いて何が悪いっていうのよ!」

言葉を並べながら、同じスピードでミサイルを撃ち続けるパイロット。撃ち落とし続けるけどきりがない。このままでは長引くだけだ。分かっていた。分かっていたけど、僕はそいつを止める方法を「パイロットを機体ごとミサイルで撃ち落とす」しか知らない。

そんなことしていると、まずいことになってきた。他の機体に発砲炎が見つかってしまったらしい。夜空でこういうことをすると本当に目立ってしまう。だから嫌いなのに。

「おい、なんでこいつの邪魔するんだよ、いいじゃないか、別に」

どうやら、周辺の一機が奴に加担するようだ。威嚇程度に、数発のミサイルをこちらへ飛ばしてくる。僕はそれさえ撃ち落とす。

「ゴミをまき散らしてそのまま放置はできないよ。大事な場所なんだ、ここは」

「ここはあんただけの場所じゃないのよ!」

「誰のでもねえ、なら、別に星と同じ成分なんだし、夜空に置いたっていいじゃないか」

厄介な奴がやって来た、と苦虫を噛んだ。奥歯がギリっと音を立てる。同時に後ろでミサイルが一発被弾したらしい。装甲が痛む音がした。はぁ、また修理だよ……いつになるかなぁ。そんな呑気なことを考えながら、とりあえず今目の前のミサイルは叩き落すつもりで、必死になる。

「星の成分でもこれは放っておくと落下するし、こんなところに置くと危ない」

「じゃあ何も置くなってことか?」

「そう、こういう場所には何も置かない方がいい」

「そいつは困る、俺だって置きたいものがある時だってある。何でもかんでも辞めろっていうのはおかしいと思う」

やはりこういうタイプか、と予想通りで笑ってしまう。つまり、自分が禁止されると困るから他人への禁止を止めようとするタイプ。ああ、つくづく面倒だ。僕はただ夜空をすんなり飛んで、すんなり帰りたかっただけなんだけどな。

「別に空中で静止したりすることまで、ダメって言ってるわけじゃない。ただ夜空は物を置く場所じゃないってだけだよ」

「あんたに何の権利があってそんなこと決めるわけ?」

「何の権利とかじゃない、普通はそんなことしないって話だよ」

「普通って何よ、そんなの決まってないわ。少なくとも、あんたが決めるようなことじゃない」

ミサイルのタイプが変わった。もう最初のゴミのような低火力のミサイルじゃない、高火力の「機体を落とすためのミサイル」。

こいつ、僕を堕とす気だ。

「所詮夜空に何も干渉できないあんたなんて、何もできないパイロットじゃない。ライトもろくにつけてないし、普通でもない。見てたらさっきはちょこちょこと複雑な飛び方して、あれがかっこいいとでも思ってるの?」

ミサイルの威力は増していく。焦りからか、機銃の数は足りているけど、それを上手く扱えなくなっていく。あまりにも多いミサイルを、手持ちで落とすには難しすぎる。

「確かに、あの飛び方は危険だ」

「何もできないあんたなんかより、私みたいにちょっとでもよくしようとしてるほうがずっと有益。何のために空飛んでるの、あんた」

僕は。僕は、ただ。

機銃の操作がおぼつかなくなっていく。ミサイルの量は増える。周りはそれを花火が上がっているかの如く楽しんで見てる。僕の機体は削れていく。羽ばたくことが好きだった鳥は、その羽を一枚ずつもがれていく。右翼も左翼も関係ない。夜空の中でどこから伸びてくるか分からないその理不尽な腕で、羽をもぐ。彼女のミサイルは、それほど容赦のないものだった。僕というパイロットは、用意した機銃を全て完璧に使いこなせるわけじゃなかった。理論上この量でも落とせる程たくさんの機銃をつけていても、僕はまだそれを全て使いこなせない。まだ未熟だと自分で一番よく分かっていて、そして、それでも僕は上を見続けて飛ぶことだけを頑張ってきた。他の人が飛ぶこと以外に、ライトをつけたり、装飾をしたり、カラーリングをしたり、スモークをつけたり、いざとなったら逃げだせるようにパラシュートを搭載したり、仲間と飛ぶ練習をしてる間、僕はただ一人で綺麗に飛ぶことだけ頑張ってきた。それだけが得意だったから。

「結局そんなもんじゃない、あんたの夜空なんて」

ミサイルの数はどんどん増える。撃ち落とし損ねたミサイルの中に、榴弾が混じっていた。機体に突き刺さって爆発、背中から熱風が吹き荒れる。大きく穴が開いた機体から夜空の空気が流れ込んできて、僕の機体の内側を黒く染めていく。

「あんたの機体、あんたというパイロット、全部、そんなもんじゃない」

ただごり押すことしかできない糞野郎に、僕は散々に罵られながら、ミサイルを喰らう。メカアームを使って機体の穴を応急処置で塞ぎながら、ミサイルを落とすのも疲れてきた。集中が途切れないけど、息は途切れ始める。

「私みたいに、私じゃなければできないことなんて、あんたにはないでしょ」

相手の声に合わせて、榴弾がまた破裂して機体の後ろに穴が開く。悔しくて涙が出そうになる。でも、機体が涙を流さないようにしているなら、中に乗っている僕が流すわけにはいかない。機体は耐えている。反撃しようとしてる。僕は応えなきゃいけない。相手の声に、ミサイルに、応戦しなきゃいけない。

 

「僕は、僕にできることは、飛ぶことだけだから」

「は?」

 

おかしいと思われるかもしれない。でも、今更、僕を、この飛行機を、見て理解してくれとは言えない。僕がこの攻撃に応えなければ、こいつはきっと分からない。

 

「僕にしかできないことは、僕が飛ぶことを極めることだから。僕はこの空を守りたいから」

 

応える。機銃を構える。

 

「僕にしか、こうやって多くのミサイルを落とせない。僕にしか、こうやって素早くゴミを処理できない。僕にしか、この飛び方はできない。僕にしか、この機体は扱えない」

 

無線で訴える。声はもう震えてない。操縦桿から左手を放して、その手で禁断のレバーを握り、ボタンに指を置く。

 

「僕は、飛ぶために、ここにいるから」

 

機銃の轟音が鳴り響く。搭載している全てが一気に火を噴いて全てのミサイルを撃ち落とし、一瞬だけ、夜空に無と静寂の空間が戻ってくる。

 

今だ。

 

僕は、仕返しの一発を放った。

 

 

*

 

 

空が白んできた。朝の六時。星も、飛行機も、ミサイルもない。ただ二段ベッドの上で汗びっしょりの僕がそこにいるだけだった。たった一人、孤独を感じながら大の字で寝転がっていた。僕らしいや、なんて思って起き上がる。もう寝る必要もない。このまま起きちゃってもいいかなって思った。別に夜空みたいに丁寧に飛ばなくてもいい。今から僕がいくのは青空で、今日の夜空は青空のための戦闘演習だったのだから。

 

僕は僕であるために、空を飛ぶ。みんなができることかもしれないけど、僕は皆よりも上手に飛ぶ。それだけが僕にできることだから。それだけは、負けたくないから。

 

今日も僕は一人で飛ぶ。夜空のように、青空を。

 

 



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まだ見ぬ部屋

謎の手紙。謎の記憶。謎の部屋。私にとって、まだ知らないこと。


*
昔、大学の課題で書いた作品です。
当時の批評では色んな角度からとらえられる、とちょっとだけ評判でした。
みなさんはどの角度からとらえますか?


そこは小さな部屋の入口だった。鉄扉は背丈と同じぐらいの高さで、すりガラスがはめられている。すっかり古びているらしく、錆の匂いが鼻の奥に自然と入ってくる。すりガラスの向こうは薄っすらと光があり、雑居ビルの一角のような雰囲気が漂っていた。慣れない場所で感じる緊張感みたいなものが張り詰めたこの空気は、ガラス以上に脆そうで、それでいて無機質なコンクリートのような固さがある。

 

見せたいものがある、と先方から連絡があり、ここへ案内された。呼び出し人はまだ来ていないが先に入ってくれと受付で言われ、言われるがままに進めばこの部屋が待っていた。背丈ほどしかないのにずいぶん重厚感があり、未境への入口のような大きさを感じて、未だこの鉄の扉を開けられない。

 

この通路もそんなに落ち着くようなものではなく、ただのコンクリート打ちっぱなしの通路で、上から数メートルごとに裸電球がぶら下がっているだけの、簡素な造りだ。所々コンクリートが風化して欠けた穴があり、足元のそれはネズミが通れそうなほどの大きさで、何故ここを打ち合わせの場所にしたいと言い出したのか、その真意は暗闇の中に行ってしまってつかめなくなってしまった。黙っていると、通路の奥からかコンクリートの暗闇の奥から、紙切れが風で揺れるような乾燥した音が響いてくる。その瞬間、いないのにネズミの声が聞こえてきそうな不気味さが背筋を襲ってきて、私はついに重い鉄の扉を開いた。

 

中は真っ白な壁にフローリングが施された簡素な部屋だった。通路からして、もっと暗い取調室のようなものを想像していたので、拍子抜けか、それとも安堵か、口元から少し息が漏れた。奥には予想通り、両手を広げた程度の幅の窓があり、しかしその窓は固く閉ざされている。淡い黄色のカーテンが左右に留められていて、外の様子に比べて冷たい風が吹きそうな不気味さはない。むしろここだけが安堵できる場所のような、実家のリビングのような安心感がある。窓の右側から西日が差し込んで、部屋の中を薄っすらとオレンジ色に染めていく。

 

窓を背にして部屋を見渡すと、中央に木製のダイニングテーブルが一つと鉄パイプの椅子が二脚、向かい合わせにおいてある。鉄パイプからは外との境界にあるあの鉄扉のような錆びを感じず、真新しい鉄の輝きが部屋の中の光によって現れる。座席部分のクッションもまだ新しいらしく、消毒剤の匂いがかすかに残っていた。ダイニングテーブルの真ん中には白い花瓶が置いてある。縦に長いつぼ型で、恐らく陶器。さしてあるのは、これはマリーゴールドだろうか。トマトのような、夏の草の香りがした。昔、通学路の脇に生えていたのを思い出す、懐かしい香り。深紅の花びらの中に、その花の中央から薄く広がる黄色やオレンジが花を立体的に見せている。薄いオレンジ色になった部屋で、ここだけが際立って明るく見える。外の無機質さとは全く異なる、生き物の香りと色。そして温かさを感じる。そう思うと、なんだかじっとしている気にもなれず、そわそわと部屋をうろつき始める。

 

窓を背に立って左側には写真がかけられていた。どこか見覚えのある、懐かしさのある、大きな空の写真。下は膝ぐらいの高さから、上は窓の淵の高さまである大きな写真だった。夏の畑が地平線になり、そこから大きな入道雲がいっぱいに立ち上り、白と薄い鼠色の濃淡が、まるで迫ってくるかのように映っている。写真には人の影は一切なく、こんなに広い景色に人が映らないのも珍しいと感じさせられる。むしろそれは、これは写真ではなく絵画なのではないかとも思わせる一因になって、私の頭に入ってくる。どこか見覚えのあるような懐かしい景色には、人影がない。そう思うとこの写真が、絵が、少し不気味にも思える。

逆側には――

「ここには君のベッドがあったね」

振り返ると、扉から一人の男が顔を覗かせていた。

「どう? 何か思い出せそう?」

彼は扉を軽々と開け、そのまま軽やかな足取りで中へ入ってくる。

「昔君の家に遊びに行った時を思い出して再現してみたんだけど、やっぱり駄目か」

「どういうことだ?」

「いや、この部屋に来れば何か思い出せるんじゃないかと思ってね」

「すまない」

彼は鉄パイプの椅子に腰かけて、足を組んだ。

「いや、いい。ちなみに、そこの花は何かわかる?」

「マリーゴールドだろう?」

「残念。それはキンセンカ。昔、僕も同じ間違いをして君に正されたんだよ」

「そうか」

彼は私ではなく、閉ざされた窓の向こうを見てつぶやく。西日はすっかり落ちて、部屋の中はだんだん暗くなってきていた。

「じゃあ、今日の用事はおしまい。呼び出してごめんね」

彼は手を顎に当てて、暗闇になっていくこの部屋で目を閉じる。

「じゃあ、また来てね」

気づくと私はまたあの通路にいた。無機質で誰もいない、コンクリートでできた不気味な通路。まだ何もわからない場所。キンセンカの香りだけが、頭の中にこびりついていた。

 



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ゼンマイ

これは、むかしむかし、あるところにいた、おくびょうな彼と、ちいさな人形のお話。

*

この作品は過去に文芸サークルの新歓用に作成した読み切り短編です。
ボーカロイド楽曲の「からくりピエロ」を聞きながら読んでいただけると、よりイメージしやすいかと思います。


 

誰かが、ひねった。じりじりと音を立てて回る。歯車が軋んで、ゆっくりと歩く。遅すぎて、待ち合わせには間に合わない。左手の時計が二時過ぎを指している。昼下がりに街の中で誰も来ない待ち合わせ場所に立つ、可哀想な人形。世界が全て黒く塗りつぶされたように、人形を見つめる人々の目は濁っていて、嘲笑うようだった。

 

彼女の友達は僕一人だった。大きなお屋敷から出ない彼女に会いに行くのも、当然僕一人。周りの大人の顔を見て怯えている彼女も、僕の前だけでは笑ってくれる。だから、僕はもっと彼女に笑ってほしかった。笑ってほしくて、いろんなものを家から持ち出した。でも何も持ち出せない日もあって、それでも彼女は僕とお話しして笑ってくれる。僕は毎日のように彼女のお屋敷へ向かう。お母さんに買い物にいってくると伝えたり、習い事をサボったり、なんとしてでも彼女のお屋敷へ向かった。それは僕が十歳の春だった。

 

人形は気味悪がられた。ただ立ち尽くしているだけで、避けられ、そして街ゆく人の視界の隅へ追いやられる。なかったことにされる。誰にも見せられないようになる。誰も見向きしなくなる。フリルのあしらわれた赤いドレスも、なめらかで薄紅に染まった綺麗な頬も、流れる雲のように真っ白な手袋も、真っ黒な隅へ追いやられた。

 

彼女は時々僕に言った。何故毎日来てくれるの? と。僕は正直なことを言うのが恥ずかしくて、一秒だけ息を止めて、君と話すのが好きだからだよ、と言った。でも、僕にはそれだけが理由じゃないことぐらい気づいていた。咄嗟についた嘘に気づいていた。彼女に惹かれた理由が、何であるかも分かっていた。でも、それを認めるのは僕にはできなかった。その時の僕は、ただ彼女とお話ししたい、それだけだったから。

 

人形は知ってしまった。心に触れるぬくもりを感じた。知らない方がいいと分かっていたのに、人形はその感情を知ってしまう。幸せ。ぬくもり。それらを得てしまった人形は、自らの運命までも知ってしまう。

 

彼女は僕を疑わなかった。僕が本心でそう言っているように思っているらしかった。僕は何も言わなかった。傷つけたくなかった。僕が来ることで傷ついたなんて思ってほしくなかった。だから僕は微笑み続けた。彼女に笑ってほしくて、一緒に笑っていたくて、ずっと笑っていられるように、笑い続けた。

 

恋をした。人形は、心を手に入れた。しかし余計に気味悪がられるのを恐れて、人形はそれを隠してしまう。ゼンマイの歯車の、最も深い場所に。人形は、自分で自分のゼンマイを回す。今日も回す。明日も回す。張り付いた表情を今日も見せる。ただ、笑っている自分を魅せるために。

 

彼女は変わらなかった。僕がやってくると笑って、いらっしゃい、と出迎えてくれるし、僕が学校であったことを話すと、どんなことでも笑ってくれる。楽しそうね、幸せそうね、と笑ってくれる。綺麗なドレスと大きなお屋敷があると、心が広くなるんだ、なんて思った。でも、僕が安心するのは、変わらないからじゃない。きっと、この子のことが、すきなんだ。

 

ゼンマイは回る。人形が笑うたびに回る。人が息をするように、人形のゼンマイは毎日周り、そして自身で巻き直す。奥でギシギシと心が軋むのが分かる。人形には心の入る隙間などなく、心が歯車の邪魔をする。分かってはいた。しかし、人形には抗う力すらない。向けられた笑顔を、笑顔で返すことしかできない。軋む心を携えて、人形は今日も笑う。

 

でもある日、彼女はおかしくなった。お話しても、うん、としか返さなくなった。笑ってはくれる。だけど、その目には何も写っていなくて、僕すらも見えていないようで、不安で、僕は彼女の肩に触れて、大丈夫? と聞いた。初めて彼女に触れてドキドキした。でも、彼女はやっぱり、うん、としか答えない。何度聞いても、うん。僕は、どうしようもなくて、お屋敷を飛び出した。ごめん、ごめん、って心の中で呟いたけど、直接言えなかった。彼女の目が、なんだか怖く見えたから。

 

人形は変わってしまうのを恐れた。怖かったのだ。彼の笑顔、仕草、そしてこの燃え滾る心が、内側から自分を壊していく。もう、彼をこの部屋に招き入れることは、できない。ゼンマイはもう回らない。回るだけの力もない。緩やかにそれは止まっていく。温かい心が、笑顔が、歯車を歪ませて、ついにその日はやってくる。

 

次の日、少し怖かったけど、彼女のお屋敷に向かった。だけど、お母さんらしき人に、今日からは来なくていいよ、と言われた。どうして? と聞くと、もう会えないから、と言われた。悲しかった。悔しかった。彼女がまた本当の笑顔を見せてくれると思って、今日は特別いろんなものを持ってきたのに、彼女に会えなくて、つらかった。でも、どうしても会いたくて。どうしても笑ってほしくて、何度もお願いしたけど、駄目だった。外から部屋を覗いてもいなかった。彼女は、僕の目の前からいなくなってしまったんだ。

 

人形は捨てられた。緩やかに停止までのカウントダウンを刻みながら、街の隅に立たされた。あの日と同じ、嘲笑の隅。彼女の心は、新しく悲しみという感情を覚えた。それは幸せよりも、温かさよりも、もっと大きくて重いもの。彼女の歯車はついに崩れ去る。ゼンマイはただ回るだけの存在になり、彼女の瞳がそれ以上動くことは、もうこれ以上、二度とない。

 

でも……彼女は笑ってた。彼女は、ずっと笑ってた。帰り道にあるゴミ置き場に居た彼女は、笑顔で立っていて、ずっと笑ってた。じりじりとゼンマイの音だけが響いて、彼女は声も出さない。僕が通っても目で追ってもくれない。彼女は人形だった。僕は気づかなかった。彼女がゼンマイで動いている間、僕は人形の彼女に笑ってほしくて、何度も何度も通った。お話しした。笑った。変装した。笑ってくれた。手品をした。笑ってくれた。彼女はいつの日も、同じ顔で、僕に笑ってくれていた。でも、彼女は壊れてしまったんだ。僕が、壊しちゃったんだ。

 

人形は人が何故涙を流すのかを知った。彼が目の前で泣く姿は、かつて見たことがなかった。目の前を過ぎていく人はいつも嘲笑っていたのに、彼は違う。彼は、彼は、そう思い続けて、人形の心さえもついに動きを止める。ゼンマイはもう回さない。人形はこの涙のためになら、止まっていいと思った。他の誰でもなく、彼の涙なら。壊れゆく自分と愛しき彼に、彼女は最後に笑った。

 



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僕だけのコンサルタント

彼女と別れて、僕は一人になった。
一人だけど、今度は「一人と一匹」になった。
いつかまた「二人と一匹」になることを夢見て。

*

過去に、大学の課題で「会話文のみで書く」というテーマのもと、作成した作品です。


「もしもし、いるかな」

「あ、光博! 元気にしてた?」

「ああ、こっちは暑くて死にそうだけど、まあ元気だよ」

「こっちと違って熱いもんね」

「君こそ、元気そうで何よりだ」

「うんうん、今年もこの季節だしね、元気よ」

「そうだよな、秋口と言えばおいしいお魚が入るもんな。……お父さんは?」

「今ちょうどご飯中。ご飯がおいしい季節だからゆっくり食べてるみたい。もうすぐ帰ってくると思うけど」

「そっかそっか、お父さんとも話したいね」

「うん、光博に会いたがってたよ、お父さんも」

「そっかそっか、仲良くさせてもらえるなら、それは嬉しいね」

「私もそっちに行って遊びたいなあ」

「事情が事情だから仕方ないよ。僕だってなんとかしてあげたいんだけどさ」

「……私のこと、恨んでたりする?」

「まさか。君のせいで彼女と別れたわけじゃないんだ。僕に原因があったからさ、気にしなくていいよ」

「それでも、こうして会える時間が減っちゃうのは、私としては寂しいんだけど……」

「ごめんね、僕のせいで」

「ううん……私は光博のこと恨んでたりしないし、むしろ、それでもこうして話に来てくれて、私は嬉しいのよ?」

「まあ、だいぶ無理を言ってるけどね。僕も君ぐらいしか相談相手がいないのさ」

「あら。大学では女の子の友達いないの?」

「ああ……あいつらは、なんというかそういう相談には向かないんだ」

「ふーん、恋愛に興味のない女の子なんているのね。私の周りじゃいないわよ」

「僕らにはそういうタイプもいるのさ」

「変わってるわね。で? 今度はどんな相談?」

「彼女の誕生日、そろそろだろう?」

「ええ、十月の十三日だもんね」

「プレゼント、何がいいかなって」

「振られたのに諦めないのね」

「僕はそういうタイプだよ」

「お熱いことで」

「熱いのは僕だけだけどね」

「そうね、あの子、最近は何も欲しがらない感じだよ。強いて言うなら、時間」

「忙しいのは聞いてるけど……ずっと忙しいみたいだね」

「うん、あの子いろいろできちゃうから……」

「この前連絡したら、なんか掛け持ちが多いとか言ってたっけな」

「別れても仲良くできるのは、きっとあの子の性格よね」

「ああ、僕の気持ちには深く踏み込んでこないから、それは意地悪だと思うけどね」

「あの子は天然タラシだからねぇ……」

「でも困ったよ。僕が聞き出すには難しいし、君でも知らないとなると、本当に困った」

「誕生日のプレゼントなんて、去年も一昨年も渡してたじゃない。その感覚で行けばいいんじゃない?」

「あれは付き合ってたから、だいたいどういう感じで行けばいいか分かってただけ。今はてんで分からなくて困ってる」

「経験少ないもんね、光博は」

「第一、僕がそういうことできると思ってないよ。あんなの奇跡なんだ」

「へえ、光博、結構魅力的だと思うんだけどなぁ」

「それは毎回こうやってお土産持ってきてるからでしょ」

「バレたか」

「バレバレ」

「まあ、でも、それでもあの子とこれだけ長い間上手くやれてたのは、あの子史上光博だけよ」

「うーん、努力はしたんだけどなあ」

「まあ、光博もまだまだってことね。人を見抜く力はあっても、行動に移すのはまだまだ経験が足りないってわけね」

「君に言われるなんて、僕もほんと、まだまだだなぁ」

「うーん……でも、私もわかんない。あの子の欲しいものなんて」

「これはもう少し探る必要がありそうだね」

「連絡はいつでも取れるんでしょ?」

「ああ、あの子は仲良くはしてくれるようだしね。先輩と後輩って関係で、だけど」

「もう、あの子も罪な人なんだから」

「僕の我儘でもあるからね。もう一度やり直したいのは」

「私としても、早く仲直りしてほしいなぁ。あの子が今付き合ってる彼、全然私に構ってくれないの」

「構ってたらもう僕はお払い箱だから、そうじゃなくてよかったよ」

「何言ってんの、光博はあの子と付き合ってなくてもお土産持ってきてくれるんだから、ずっと仲良しよ、私とは」

「はぁ……物で釣ってる感じあって嫌だなぁ」

「私たちはそういう生き物だからね、仕方ないわよ」

「彼女にバレないように君に連絡するのも難しいんだからね?」

「家が隣でよかったってことね」

「うーん……まあ、そういうことにしておこう」

「ちぇー……素直になれない光博は瑞樹ともっかい付き合えないよー?」

「からかうのはよしてくれ。まだあの子を諦められてないんだから」

「よくそんな恥ずかしげもなく言えるわよね」

「今更君に隠しても仕方ないよ。ていうか、そうでなきゃ何を欲しがってるかとか、君に聞かないさ」

「まあ、私が一番近いからね、あの子には」

「そういうこと。……それでも分からないと言われたから困ってるんだけどね」

「光博はもう少し自分で考えなきゃ。……欲しいものをあげる、ってのは付き合ってる時までよ」

「というと?」

「積極的にもう一度アタックしたいなら、自分の思いを具現化したものじゃないと。欲しいものをあげるってよりか、あげたいものをあげるの。私たちだって、その方が嬉しい」

「じゃあ今度からはお魚じゃない方がいい?」

「それはないんじゃない? 光博が持ってくるの、家族みんな楽しみにしてるのに」

「あはは、ごめんよ」

「まあいいけど。とりあえず、瑞樹にあげるプレゼントは、もっと自分本位に考えてみたら?」

「うん、やっぱりタマちゃんに聞いたのは正解みたいだ」

「そう言ってもらえたら嬉しいわね。……あ、お父さん帰って来たみたい」

「久しぶり、光博君」

「あ、お久しぶりです。お元気ですか?」

「ああこの通りね……最近はご飯が美味しいから、元気だよ」

「あはは、タマちゃんと同じこと言ってますよ」

「もう、お父さんったら」

「親子だから仕方ないね。あ、今日はサンマを持ってきてくれたのかい?」

「ええ、今が旬ですから、そこらのスーパーで安売りしてたので」

「これは嬉しい。最近、瑞樹さんがくれるご飯の量じゃ少ないと、息子たちがうるさくてね」

「ちょっと、私の分も残しといてよね、お父さん」

「分かってるよ。息子たちに半分、残りでいいかい?」

「むー……それならいいけど」

「あはは、なんだかまだまだタマちゃんも子供ですね」

「光博君はもう二十歳だったかな」

「はい、この前なりました」

「ほんと、いい人だからうちのタマを嫁にとってほしいくらいだよ」

「ちょっとお父さん!」

「あはは、冗談はきついですよお父さん」

「光博君がネコだったら、私は是非歓迎だよ」

「僕は人のままですから」

「もう……お父さんったら、年取るごとにほんとおっさんみたいになっていくのね」

「猫でも年を取ればおっさんだよ。この前の寄り合いに行ったら、若手に『年取りましたね』って言われてしまったしね」

「あはは。お父さんの年齢ぐらいだと、人で言うともう四十くらいですかね」

「そんな感じだろう。私には、人間が何歳ぐらいでおっさんと呼ばれるのかは分からないけどね」

「まあ、光博、また来てよ。お隣さんなんだから、ここに来れば会えるでしょ?」

「うん、まあね。でもお魚は毎回持ってこれないよ?」

「いいんだ、光博君。娘もこう言ってるんだ、うちの飼い主さんの話以外でもいいから、なんでも話しに来ておくれ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、私たちはそろそろ昼寝の時間だから」

「ええ、また今度来ます」

「待ってるよ、光博」

「うん。じゃあ、また」

 

「タマ」

「なあに、お父さん」

「変わってる子だね、光博君は」

「ええ、私たちと話せるのは彼だけだもの」

「……好きなんだろう?」

「えっ、もう、何言ってるのお父さんったら」

「はは、照れるとすぐ髭が動くんだから、お前は嘘をつくのが下手だよ」

「もう……」

「まあ、今から昼寝でもしよう。そしていい夢でも見なさい。そうだな、タマが人間になれる夢でも」

 



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