ザ・ヴァンパイアハンター~黒鷹のマリアッチ~ (PlusⅨ)
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1・荒野のギター弾き

 俺の目の前には荒野が拡がっていた。

 

 ちなみに後ろにも拡がっている。当然ながら右を向いても左を向いても荒野だった。まぁつまり、ここは荒野のど真ん中だ。

 

 わざわざ説明するほどの景色らしい景色も無い、漠然と広がる荒野。その上を覆う空には昼下がりの傾きかけた太陽が、冬特有のやる気の無い陽光を投げかけ、あたりは何だか明るいような暗いような微妙に薄ぼんやりとした、そんな午後の荒野だった。

 

 あぁ、冬だねえ。

 

 湿り気をおびた風が吹きぬけ、俺はその冷たさに着ていた上着の首元をかき集めた。身に纏っている服は黒い上下だが、冬の太陽の光はいくら吸収しようとも微々たる熱ももたらしてはくれなさそうだった。

 

 寒い、寒い。

 

 休憩がてら日向ぼっこしようと思っていたが、身体を動かしていた方がまだ温かそうだ。俺は立ち上がり、腰掛けていた黒いギターケースを持ち上げた。そしてやる気の無い太陽が、まるでベッドに倒れこむように傾いていくその西の方角へ向かって、俺もまた歩き出す。

 

 俺はマリアッチ。しがないギター弾き。商売道具を収めたギターケース引っさげて、今日は西へ、明日は東へ、気の向くままに流離い歌う。

 

 着ている黒の上下は親父のお下がりだ。俺の親父もマリアッチだった。何処にでも居るようなギター弾き。手にしたギターケースは祖父さんがくれたもの。祖父さんもマリアッチだった。先祖代々マリアッチ。由緒正しい、しがないありふれたギター弾き。流れ流れて、旅を終の棲家にしちまった流れ者の一族。

 

 放浪の歌人たち。なんて呼べば聞こえはいいが、所詮はしがないマリアッチ風情。よくぞまぁ途絶えなかったもんだと、俺は時々不思議に思う

 

 マリアッチとしての生き方は親父から教わった。だが、肝心のギター弾きに関しちゃ当てにならなかった。なんせ、親父は歌が下手だった。なぜなら祖父さんも歌が下手だったから。

 

 笑える話じゃないか。俺は笑えないが。

 

 だが、それ以外はよく知っていた。旅を続ける上で大切なこと。地形の読み方、天候の読み方、野宿の仕方、獲物の獲り方。――そして、銃の扱い方。

 

 でも、歌は駄目だった。たった一つの歌を除いて、てんで駄目だった。これじゃ本職で稼げない。

 

 本職では稼げないから、副業に精を出した。銃が使えるから、副業には困らなかった。おまけ流れ者だ。アシがつかないと、よく重宝された。

 

 親父も祖父さんも、良くその副業に励んでいた。多分、先祖代々こうなんだろう。風の噂じゃ、黒いギター弾きを見たら声をかけろ。歌が下手ならそいつは本物だ。なんて言われているとかいないとか。

 

 これから語る話は、そんな副業にまつわる物語だ。先祖代々、歌の苦手なギター弾きが続けてきた副業にまつわる物語。

 

 風が吹きぬけた。

 

 俺の歩く先、西の空に真っ黒な雨雲が迫っていた。太陽は、これは良い布団があるぞとばかりに、さっさと黒雲の陰に潜り込んでしまった。

 

 黒雲は俺に向かって、風を吹きかけてくる。まるで俺をこれ以上進ませたくないかのように、冷たい吐息を吹きかけ、語りかけてくる。やめな、いけばきっと後悔するぜ。

 

 俺は鼻先で笑い飛ばす。はっ、余計なお世話だ。

 

 するとパラパラと雨が降り始めた。冷たい銀糸が俺に突き刺さる。多分、雲はこう言ったんだ。莫迦野郎め、と。

 

 俺は顔をあげ、雲に向かって口笛を吹いた。Sigin`In The Rain。雨に唄えば。何処か調子外れになってしまうのは、親父の教え方が悪いのか、祖父さんから続く遺伝のせいか。きっと両方だ。

 

 俺がまともに唄える歌は一つだけ。先祖代々続く、たった一つの古い挽歌(バラード)それだけ。

 

 これは、そんなギター弾きの物語。

 

 

 

 

 

 黒雲が全天を覆い尽くした頃、俺は荒野をぬけて、雨煙に沈む墓地へと辿り着いた。

 

 降りそぼる雨の中、整然と立ち並ぶ十字架の群れ。

 

 ここは、街中の上品な地区から遥か彼方の、うら寂しい荒野の片隅の、古びた塀に囲まれた共同墓地。

 

 雨と風と、そして時間にさらされ続け風化していく古い墓石たち。その表面に書き綴られた四行詩は、ところどころ掠れはてていた。

 

 

――

 彼は眠る 奇しき運命だったが

 彼は生きた 彼は死んだ 天使を失ったときに

 全ては自然にひとりでに起こった

 昼が去ると 夜が来るように

――

 

 

 さぞかし波乱の生涯を送ったんだろうな。歩き行く俺の傍を、次々と墓石が通り過ぎてゆく。

 

 

――

 辻馬車も 四輪馬車も

 運命の世の中で

 この彼も息子の命も

 生き尽くした 朝の命を

――

 

 

 目に入った詩が、俺の口からついて出て行く。

 

 

――

 我らに返せ 銃の父を

 我らに返せ 我らの父を

――

 

 

 おっと。“銃”じゃない。多分、人名だ。発音違いか、読み間違いか。

 

 

――

 矢車草は青い バラはバラ色

 矢車草は青い 愛しいわが愛

――

 

 

 これは、子守唄の一節だろうかな。書き綴ったのは母親か。

 

 

――

 テーブルの下で音がした

 足がごとごと ひどい音

――

 

 コレは冗談。ほとんど読めないからアドリブさ。

 

 のんびり唄い倒しながら、ブラリ、ブラリと墓地を歩き行く俺の前に、一人の男が現れた。その男の持つカンテラの明かりが、雨の降りそぼる薄闇の中、俺の前でユラユラと揺れていた。

 

「……久しい男がやってきたものだ。相変わらず、歌の下手なマリアッチだ」

 

 レインコートに、深く被った鍔広の帽子。友人と言うほど親しい付き合いじゃないが、知り合いで済ますほど浅くない関係の男。

 

 グレイヴキーパー。墓守の男。先祖代々の墓守人。

 

「ようグレイヴ。こんな雨の中、見回りご苦労さん。せいが出るね」

 

 俺がそう言うと、グレイヴはその深く被った鍔広帽の下で、顔を僅かばかりにしかめたようだった。

 

「見回りだけでも、中々に難儀なものでな。ここ一年で随分と墓石が増えてしまった」

 

「それはそれは」

 

「今年はよく疫病が流行った。いずれこの墓地もいっぱいになる」

 

 商売繁盛で喜べない職業も難儀なものだ。

 

 俺たちは並んで歩き出す。

 

「それで、マリアッチがこんな墓場に何のようだ。ここにお前のギターを聴いて喜ぶ生者は居ないぞ」

 

「少なくとも、あんたが居る。一曲どうだ」

 

「遠慮する。……それよりも、死人に挽歌でも聴かせてやればいい」

 

 いつしか俺たちは墓地の外れまでやってきていた。

 

 墓地を区切る古びた塀も崩れかけ、あたり一面も草生した寂しい場所。ただ、ある一画だけは雑草が綺麗に刈り取られていた。

 

「ああ、聴かせに来た。聴いてもらいたくなった」

 

 俺の視線の先、そこに一つの墓石があった。

 

 自然石を切り出しただけの質素な墓石。いつも掃除されているのか、表面に苔も無く綺麗なものだった。

 

 その表面につづられた四行詩。

 

――

 イザベラ=シュミット ここに眠る

 彼女は日没に生まれ 夜闇で育った

 夜明けと共に 彼女は光を取り戻した

 そして天では 慈光の中に

――

 

 一年前につづった詩は、今でもはっきりと読み取れる。だけど、俺にはこの詩は口ずさめない。挽歌を歌いたくても、歌えない。

 

 なぜなら、この下にはあるべき棺が存在しないから。だれも、埋葬されてなんか居ないから。

 

「歌いたくても、聴かせる相手がここには居ない。空っぽの墓に歌っても、虚しいだけさ」

 

「そうだな。……この墓石の下に、彼女は居ない」

 

 グレイヴが墓石の傍によって屈み込んだ。手にしたカンテラが、墓石全体を照らし出す。その明かりが、墓石に彫られた日付を浮かび上がらせた。

 

 そう、それはちょうど一年前の日付だった。

 

 

 



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2・戦場のギター弾き

 今から一年前の冬の日。あれが運命の日だった。

 

 大陸の北方、それもさらに奥地の山岳地帯とくれば冬の厳しさも相当なもので、暦は 秋から冬へと変わったばかりとだというのに、吹きぬける木枯らしは身を切る冷たさで、拡がる山々の景色はすでに白銀に染め抜かれていた。

 

 まだ紅葉の残る西海岸から馬を飛ばし、陸路を行くことおよそ三週間。

 

 初めは広く整備されていた街道も、北の奥地に入るにしたがって荒れ始め、道幅も狭くなっていた。

 

 山々の峠に入った後、道は既に道路とは呼べない状態で、人も通らず、薄雪も積もりだし、もはや俺たちが乗っている馬だけが知っているような獣道と化していた。

 

 手綱を握る俺たち三人、三頭の馬が、狭い道を一列になって山々を行く。

 

 すでに山岳地帯に入ってから一週間が経過していた。しかしその間、馬を休ませるための最低限の休憩しかとっていなかった。少ない睡眠時間と、少ない食事。そして身を切る寒さが、容赦なく体力を奪う。随分と過酷な強行軍だった。

 

「マリアッチ」

 

 背後からグレイヴの声が聞こえ、俺はハッと意識を取り戻した。いつのまにか馬上でまどろんでいたようだ。

 

「すまん、グレイヴ」

 

 振り返った先で、馬上のグレイヴが気にするなとでも言うように頷いた。その背に負われたライフル・ウィンチェスター銃が揺れている。

 

「マリアッチ?」

 

 今度は女の声。俺が再び前を向くと、前方を行く馬の上から、彼女が俺の方を振り返っていた。

 

「夜更かしするからよ」

 

 イザベラ=シュミット。

 

 振り返った彼女の姿に、俺は目を細める。傾いた太陽が低い空から黄色い陽光を放ち、それが彼女のブロンドの髪と横顔を照らし上げていた。彼女のきらめくブルーアイが俺を見つめている。

 

 もっとも、かけてくれた言葉は随分と辛らつだったが。

 

「ちゃんと休めるときに休まないからだわ」

 

「お前が寝かしてくれなかったからだぜ。この温もりから離れたくないわ、なんて言って」

 

 俺の言葉に彼女の顔に赤みが差した。と、見えたのは夕日のせいかな。

 

「莫迦莫迦しい。焚火の番なんて私に任せて寝ていればよかったものを、いつまでも起きていたあなたが悪い」

 

 なんでもなくそう言って、彼女はまた前を向いてしまった。

 

 ま、実際になんでもないことだったのだけどね。俺としちゃ不服だが。

 

 昨晩はどうせなら、もうちょっと強引に迫ればよかったかな。でも二人きりならともかく、グレイヴも居るからな。なんてあくび交じりに考えていると、前方でイザベラが「あれを」と言って彼方を指差した。

 

 俺とグレイヴがその指先を追った先、この狭い道の続く先、連なりあう山々の峻厳な頂きの一つに聳え立つ古い城が見えた。

 

 俺たち三人はしばらく無言でその城を見つめ続けていた。

 

 堅牢な古い石壁に、天を突く三つの尖塔。それは訪れようとしている逢魔が時の夕空を背景に、山岳地帯の四方の谷々から湧き上がる霧を纏わり付かせ、なにやら物の怪めいた奇々怪々な様相を呈していた。

 

 この城こそ、俺たち三人が目指していた場所。

 

「魔界城……」

 

 我知らず言葉が漏れた。それは、この世の怪奇が集う、魔界の城。魔界城は一際高い山の頂上の、辺りに広がる山脈地帯を見晴らす突端に立っていた。

 

 屏風を立てたような千尋の絶壁、その天辺に立っている壮大な城の姿がここからよく見える。四方に連なる峨々たる峻峰と城との間は大きな谷になっているようだ。そのあたりには何となく凄愴な気が漂っているようであり、木枯らしとは違う冷たさが、俺たちの背筋を駆け抜けていった。

 

 ふと、視線を下ろすと、その城へと続くウネウネと曲がりくねった道の、その途中を進む集団の姿が目に入った。

 

 ここからまだ遠く、その姿はまだ小さく見えるが、およそ十人かそこらか、そのうちの五人が五頭の馬に跨り、残りの五人が乗った四頭立ての馬車を中心として一団をなしながら、城へと急ぎ上っていた。

 

 しかしその馬車の豪華なこと。

 

 目もくらむような豪奢な装飾品に身を包み、辺りに積もる薄雪よりも鮮やかな白馬に牽かれている。それなのにその一団からは、あの魔界城と同じく凄愴の気が漂っていた。

 

 斜めに差し込む夕日が、馬車に付けられた巨大なエンブレムを輝かせ、その蝙蝠をかたどったシンボルが黄金色の輝きを持って俺たちの眼を撃った。

 

 その時、イザベラが初めて我に帰ったように叫んだ。

 

「吸血王!」

 

 その声に、その言葉に、俺とグレイヴもはっと我に返った。

 

 しかし、もうその時既に、イザベラは自らの馬を駆って一団を追い始めていた。

 

 俺とグレイヴも慌てて馬を駆って彼女を追う。

 

 俺の視界に、彼女が背負う長剣がやはり夕日に輝くのが見えた。その鞘に刻まれた装飾には、あの馬車と同じ蝙蝠のシンボルが煌いていた。

 

「ま、待て。イザベラ」

 

 疾走する彼女の様子は一変していた。俺の言葉など耳にも入らないようで、ただひたすらにあの一団を目指している。

 

 再び、彼女が叫んだ。

 

「王よ。ついに見つけた。ついに追いついた。もう逃しはしない!」

 

 その叫び声を聴いたとき、俺はまるで雷撃を受けたような衝撃を受けた。

 

 そうだ、おっとり刀でイザベラの背中を追いかけている場合じゃない。あの馬車に居るのは王なのだ。俺たちは王を追いかけてここまでやってきたのだ。

 

 王。

 

 血を吸う怪物。

 

 生きている死者。

 

 遥かなる時を経た者。

 

 夜闇を統べる男。

 

 吸血鬼の王。

 

 俺たちが長き時をかけて、そう俺の人生よりも長い間にわたって、戦い続けてきた因縁の相手。その相手に、俺たちはついに、ようやく、追いついた。

 

 俺の脇を、グレイヴが追い抜いていく。彼は既に背のウィンチェスター銃を引き抜いていた。

 

「マリアッチ、遅れるな」

 

「応ッ!」

 

 答えて俺は馬の腹を蹴った。馬は一声高く嘶いて、更に速度を上げた。前を行くイザベラが、背から長剣を抜き放っていた。

 

 山々に馬蹄の音が木霊する。

 

 前を行く一団の数人が驚いたように振り返り、俺たちの姿を視認した。ついに向こうも俺たち追撃者の存在に気がついたようだ。

 

 五頭の馬のうち二頭が踵を返して、俺たちの方角へと走り出した。馬上の人影が、ライフルを構えているのが見て取れた。馬車は更に急ぎ足に、馬を駆りたて城へと急ぐ。

 

 相手のライフルが轟音と共に火を吹いた。

 

 一瞬あとに、俺の耳元を弾丸が掠め飛んでいく。反射的に、俺は片手を手綱から手放し、腰のホルスターから拳銃を引き抜いていた。

 

「イザベラ、下がれっ」

 

 先頭を行くイザベラはまったく躊躇せずに馬を走らせていた。

 

 正面から駆け向かってくる相手がまた銃を撃つ。だが、まだお互いに距離はある。馬上に揺らされながら発射された弾丸は、誰にも当たらずに彼方へ飛び去った。

 

 相対する五頭の馬。互いの馬が速度を上げ、その距離が見る見るうちに近付いていく。

 

 隣でグレイヴがウィンチェスターを構えた。俺も拳銃を構える。45口径・銃身長10,5吋(インチ)のリヴォルヴァー。“黒鷹”の銃口が奴らに向く。

 

 ついに射程内。奴らのライフルが、俺たちの先頭を行くイザベラにはっきりと向けられた。

 

 彼女は片手に長剣を引っさげたまま、上体を馬上に押し付けるようにして身体を下げる。

 

 その瞬間、俺の黒鷹とグレイヴのウィンチェスター銃が同時に火を吹いた。

 

 放たれた二発の弾丸は、正確にそれぞれの敵に命中した。二頭の馬の上、その二人組が呻き声を上げて上体を仰け反らす。

 

 その二頭の馬の間をすり抜けるように、イザベラが駆け抜けていった。その際、手にしていた長剣が一閃し、まるで手品のように二つの首が天高く舞い上がった。

 

「Amen。さすが」

 

「見事」

 

 俺たちの賛辞も、彼女は無視して馬車を追撃する。

 

 判っている。彼女は焦っているのだ。

 

 太陽は刻一刻と山の端へ沈み込もうとしていた。もうじき夜が来ようとしているのだ。

 

 まだ太陽が出ているうちなら吸血鬼は無力だ。

 

 いま、あの馬車に納められている“王”は、棺の中で文字通り「死んだ」ように眠っていることだろう。だが、日が落ちればそれは奴らの時間だ。王は再び力を取り戻し、自由の身となって、いくら追いかけても捕まらない様々な形に変化できる存在と化す。

 

 まだ日没まで多少の時間はあるだろう。しかし、馬車は今にも魔界城へ駆け込む勢いで走っていた。あの城は王の領土だ。永遠の夜の闇に閉ざされた吸血鬼の世界だ。

 

 これはまさに昼と夜の競争だった。

 

 馬車は死に物狂いで城へと走る。

 

 それを追う俺たちも死に物狂いだ。

 

 両者の距離はジリジリと近付き、ついに馬車を護衛する者たち一人ひとりの顔つきがハッキリと視認できるまでになっていた。

 

 護衛している奴らは吸血鬼ではない。だが、温かい血のかよった生者とも違う。いつか吸血鬼の一族に名を連ねることを望み、そのために魂を売り渡した者たち。

 

 レンフィールド。血隷者たち。吸血鬼からその冷たい血を与えられたことにより人間以上の力を持ちながらも、太陽の光も平気な彼らは、吸血鬼たちの昼の時間の手足といっても良かった。

 

 馬車の手綱を握るレンフィールドの一人が、俺たちを振り返り、大声で叫びだした。

 

「イザベラ=シュミット。この裏切り者。主の下から逃げるに飽きたらず、よりにもよってハンターに成り下がったか!」

 

 イザベラが叫び返した。

 

「吸血鬼に成り果てようとする者たちの言うことか!」

 

 レンフィールドたちが手に手に、拳銃、ライフル銃を構えだした。馬に乗った三人が馬頭を巡らし、銃声を響かせながら俺たちに向かってくる。

 

 弾丸は次々とイザベラを、俺とグレイヴの傍を跳び退っていく。だが、馬上から片手でもって撃たれた弾丸はただ無闇に銃声と硝煙を辺りに撒き散らすだけだった。

 

「銃ってのはなあ、こう撃つんだよ」

 

 俺の黒鷹と、グレイヴのウィンチェスターが、三人のうち二人を馬上から撃ち落した。

 

 イザベラが残る一人に迫る。

 

 相手は慌てて、目の前の彼女に対して拳銃の引き金を引いたが、その瞬間、イザベラは馬を高く跳躍させて弾丸をかわしていた。その長剣が鮮やかに弧を描き、相手は血しぶきを上げてドウッと地に落ちた。

 

 イザベラは勢い衰えず、馬車へと接近する。

 

 城が間近へと迫っていた。

 

 俺たちの視界の中で、その巨大な姿が、まるで圧し掛かるように更に大きくなっていく。道幅が急に広くなり、足元は舗装された石畳へと取って代わった。

 

 馬車上に残る五人のレンフィールドのうち、御者以外の四人が協力して、馬車の中から何かを引っ張り出してきた。連中はそれを馬車の屋根に据え付ける。

 

「ガトリングっ!?」

 

 俺はそれを見て思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 回転式機関砲。

 

 四人がかりで据え付けるだけあってまさに大砲同然の大きさだ。屋根上で踏ん張る三脚の上、八本の銃身が束ねられたその根元に着いた手回し式ハンドルを、連中の一人がグルグルと回し始めた。

 

 その銃口が向いた先に居たのは、イザベラだった。

 

 身の毛もよだつような連射音を立てて、弾丸が雨のように吐き出され、彼女の目前が血煙に包まれた。

 

 銃声に驚いた彼女の馬が棒立ちとなって、その振り上げた前足が粉々に砕かれたのだと気付いたのは、その一瞬後のことだった。前足を折るようにして馬が崩れ落ち、イザベラの身体が宙に投げ出された。

 

「イザベラっ!」

 

 俺は追いついた。

 

 ギリギリだった。投げ出された彼女の身体を身を乗り出して抱きかかえ、俺の馬の上へと引き上げる。

 

 しかしその時、俺もまた馬車のすぐ近くにいた。

 

「マリアッチ、横にッ!」

 

 イザベラの声に、俺は横を見た。

 

 まさに目の前だった。

 

 ガトリングの八つの銃口が音を立てて俺の方へ向けられていた。ハンドルを握るレンフィールドと目が合う。奴はにやりと笑ってハンドルを回し始めた。

 

 俺は咄嗟に背負っていたギターケースを引っつかみ、それを銃口に向かって掲げた。

 

 そのギターケースの向こう、ほんの1m足らずの距離でガトリングが野獣のような咆哮を上げ始めた。撃ち出された数十発もの弾丸がギターケースを穿っていく。

 

 しかし、その一発たりとも、俺のギターケースを撃ちぬくことは出来なかった。銃声が鳴り止み、俺が掲げていた防弾板仕込みのギターケースを下ろした向こう、ガトリングのハンドルを握ったレンフィールドが呆然とこちらを見ていた。だが、俺が黒鷹を構えたのを見て、奴は慌ててハンドルを回し始めた。

 

 八本の銃身の束はカラカラと回り続けるだけで弾は出なかった。弾切れなのだ。馬車の屋根上で、他のレンフィールドが慌ててガトリングの弾倉を交換しようとするより速く、俺の黒鷹が火を吹き、息をもつかせぬ二連射で、砲手と給弾手を撃ち落した。

 

 御者を除く他の二人が慌ててガトリングに駆け寄ろうとしたが、今度はグレイヴのウィンチェスターが連中を撃ち落す。

 

 俺の馬から、イザベラが軽い身のこなしで馬車へと飛び乗った。

 

 屋根上へ着地すると同時に長剣が唸りを上げ、あの忌々しいガトリングの銃身を叩き斬る。破壊したガトリングには目もくれず、彼女は屋根上を御者席へと走り寄った。

 

 御者は手綱を握り締めたまま、イザベラに向かって振り返り、まるでこの世の憎悪全てを集めたような激しい形相で睨み付けた。火でも吹きつけんかとばかりに御者が口を開いて、何事か叫んだ瞬間、イザベラの長剣が御者の首を薙ぎ払っていた。

 

 御者の首は宙を跳びながら尚も呪いの言葉を吐き出して、そのまま何処かへと転がっていった。

 

「イザベラっ、早く馬車を止めるんだ!」

 

「言われずともッ」

 

 しかし、イザベラが御者席に飛び降りたとき、その首を失った御者の身体が最後の抵抗を行った。

 

 恐らく死体特有の筋肉の硬直だったのだろうか、首無しの御者は力いっぱいに手綱を引き寄せ、その勢いのあまりの強さに四頭の白馬たちはパニックに陥って、更に我武者羅に走り始めてしまった。

 

「そんな!?」

 

 激しく揺れる馬車の上、イザベラは振り落とされまいと必死にしがみつきながら、長剣を手綱めがけて振り下ろした。

 

 手綱は容易く斬りおとされ、死してなお主に忠誠を誓ったレンフィールドの身体は支えを失い、馬車から振り落とされていった。

 

 イザベラは続いて、激しく暴れる馬たちに向かって長剣を次々と振り回した。まさに電光石火とはこのことで、四頭の馬と馬車を繋いでいた綱と棒は瞬く間に斬り払われ、自由になった馬たちは各々、好き勝手な場所へと駆け去っていった。

 

 あとには、惰性でなお疾走を続ける馬車のみ。

 

「マリアッチ、グレイヴ!」

 

 馬車の上からイザベラが叫んだ。

 

「車輪を破壊して!」

 

「承知ッ」

 

「任せろッ」

 

 俺とグレイヴは馬車の両脇を並走し、それぞれ後輪に銃口を向けた。黒鷹とウィンチェスターが同時に火を吹き、二発の弾丸は正確に車輪の軸を破壊して見せた。同時にイザベラが馬車上から、再び俺の馬へとめがけ、宙へと身を躍らせた。

 

 俺がイザベラを抱きとめたと同時に、後輪を失った馬車は後部を石畳の路面にこすりつけながら、車体全身を軋ませ、まるで悲鳴のような激しい音を立て、ついに止まった。

 

 これで間に合った。日没前に吸血鬼を捕まえることができたのだ。

 

 しかし、そう思ったのも束の間だった。

 

 そこはもう、魔界城のすぐそばでもあった。

 

 その城門は、己の主の帰りを待つべく分厚い扉を開け放ち、黒々とした城内の闇を俺たちに向け晒しだしていた。

 

 夕焼けの黄金の輝きが魔界城の斜め後ろから差し込み、その逆光によって魔界城は闇そのもののシルエットと化し、その巨大な影が馬車のすぐ向こうにまで迫っていた。

 

「拙いぞ。城の影が伸びてくる!?」

 

 沈もうとする夕日が、魔界城の背後に隠れようとしていた。

 

 魔界城の影は更に濃く、大きくなり、馬車に向かってゆっくりと伸び始めていた。

 

 まるで城が自ら馬車を迎えに来たようだ。

 

 それとも夜が、王の帰還を待ちきれなくなり、この昼の時間にその手を伸ばして来たのだろうか。

 

 グレイヴが、いつも冷静沈着で知られるグレイヴが、この男にしては珍しく、焦りを隠そうとせずに大声で叫んだ。

 

「影に飲み込まれる前に、馬車から棺を出さなくては。太陽の光が残っているうちに、棺から吸血王を引きずり出さなくてはっ!」

 

 俺たち三人は馬から飛び降りるや否や、一目散に馬車へと駆け寄り、その扉に手を掛けた。

 

 だが、その扉には鍵がかかっているようで押せど引けどもビクともしない。グレイヴがウィンチェスターに残るありったけの弾丸をその扉にぶち込んで、それでようやく鍵が破壊され、扉は開かれた。

 

 そこに、漆黒の闇よりなお深い暗闇の黒で塗り固められた、巨大な棺が納められていた。

 

 俺たちはもう互いに言葉を交わすのももどかしく、三人一斉に棺の端に手をかけ、馬車から引きずり出そうと試みたが、巨大な棺はピクリとも動こうとしなかった。全体重をかけ、何度も試みるも無駄だった。

 

 城の影はもはや、馬車のほんの一歩手前まで迫っていた。

 

「間に合わないわ」

 

 イザベラは言うなり、長剣を構えた。

 

「馬車ごと破壊する」

 

 イザベラが馬車の屋根に駆け上り、その天蓋に刃を勢いよく振り下ろした。

 

 屋根に亀裂が入り、そこから僅かながらに明りが差し込み、棺に降り注いだ。何度も、何度も彼女はその作業を繰り返す。

 

 俺とグレイヴも、彼女がつけた亀裂を更に押し広げるべく、持っている銃のその銃杷を馬車に向かって叩き付けた。

 

 刻一刻と、ジリジリと、影が馬車に、棺に迫る。

 

 俺たちは一心不乱に屋根を破壊し続け、ようやく棺の半分に光が降り注ぐだけの穴を開けることに成功した。

 

 その時、城の影に沈もうとする夕日が、一際強く輝いた。

 

 あの日没の直前に起きる特有の現象。夜の支配下に置かれようとする寸前に放った、昼の最後の抵抗だった。

 

 これが最後のチャンスだった。イザベラの長剣が棺の蓋の隙間に滑り込み、梃子の原理を利用して、一気に引き上げた。蓋を固定していた釘が数本、音を立てて弾けとび、蓋はわずかに持ち上がった。

 

 俺とグレイヴはすぐさまその隙間に手をかけ、力の限りに蓋を持ち上げた。残りの釘が甲高い音を立てて抜け、蓋がついにバックリと開き、棺の中身を夕日の輝きの下に曝け出した。

 

 その瞬間、俺たちは息を呑んだ。

 

 棺の中に横たわる一人の男の姿があった。

 

 その長身を黒いマントで包み込み、その整った容貌は、一目見ただけで呼吸を忘れそうになるほどに秀麗で、差し込む黄金の夕日に照らし出された吸血鬼の姿は、まるでこの世のものとは思えない美しさだった。

 

 そこには、胸を打つ一種の荘厳さが伴われていた。

 

 そこに生と死の、昼と夜の、ある種の共存があった。

 

 “生ける死者”などと言う矛盾した存在の頂点に立つものが、昼から夜へと移行しようとするこの一瞬に、死から生へと目覚めようとする、まさにその瞬間に、俺たちは不覚にも心奪われたのだ。

 

 思わず我を忘れた。

 

 まるでこの一瞬、時が止まり、全てが幻に包まれたようだった。

 

 刻は黄昏。

 

 そう、忘れたのだ。この瞬間が逢魔が時と呼ばれていることを忘れたのだ。

 

 吸血鬼とは、その頂点に立つこの吸血鬼の王とは、何と言う恐ろしい存在なのだろう。

 

 これまで、幾多の戦いの中で吸血鬼の力を思い知ってきた。

 

 その常人離れした膂力を、どんな傷もたちどころに癒えてしまうその回復力を、蝙蝠や狼や霧にすら姿を変えるその超能力を、人間や動物を使い魔として自在に操るその支配力を、俺たちは思い知ってきたはずだった。

 

 だが、真に恐ろしいのは、その恐ろしさすら忘れさせてしまう、その存在の圧倒的な美しさなのだ。

 

 俺たちはその美しさの前に、千載一遇のチャンスを逃したのだった。

 

 太陽が出ている間ならば、この吸血鬼に銀の弾丸を撃ち込み、その首を切り落とし、そしてその心臓に杭を打ち込むなどという行為はまったく容易いものであっただろうに。

 

 俺たちは、指一本すら動かせぬ、ただ横たわるだけの無力な吸血鬼を前にして、ただその存在に圧倒されて身動き一つ出来なかったのだ。

 

 太陽はついに魔界城の影に完全にその姿を隠し、そして夜の闇が俺たちを包み込んでしまった。

 



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3・月下のギター弾き

 空に星が瞬き、その頂点に月が冴え冴えと輝いて、その月光下、世界は銀世界と化していた。

 

 漆黒のシルエットでしかなかった魔界城はいまや白銀に輝く氷の城のようであり、その自らの居城を背景として、いま、魔界城の主が棺から立ち上がった。

 

 吸血王はしばし焦点の合わぬような虚ろな目をしながら周囲の景色を眺め渡し、次に夜空を見上げ、そこに月があるのを認めて、その秀麗な相貌に満足げな微笑を浮かべた。

 

 太陽が昼の支配者ならば、月は闇の伴侶だ。

 

 吸血王は両手を拡げ夜空を眺めながら、降り注ぐ月の光を存分に浴びているようだった。

 

 その姿はまるで夜の闇から月光によって浮かび上がった幻のような儚さを伴って、それを眺めている俺たちが、まるで自分たちが夢でも見ているんじゃないかと思わせるぐらい、どこか浮世離れした景色だった。

 

「あぁ」

 

 吸血王が吐息とも取れる声を発した。

 

「ここは、私の時間だ」

 

 そう呟いた瞬間、吸血王の姿は確固たる現実味を帯び始め、その急激に増していく存在感が周りを次々と圧倒していった。

 

 この雪山の気候とはまったく違う冷気が全身を駆け抜けていき、俺は思わず身震いした。

 

 吸血王の視線が、頭上の月から、ゆっくりと、俺たち三人に降りてくる。ルビーの輝きを伴った魔眼が、はっきりと俺たちを見据えた。

 

「ようこそ。と言うべきかな、ハンター諸君。いままで遥かな時間、幾多の場所で、数多のハンター達と、幾度もの戦いを繰り拡げてきたものだが、さすがに我が領土のここまで奥に踏み込んで来た者はこれまでいなかった。私の可愛いレンフィールドたち以外に我が城を見た生者は貴公らが初めてなのだよ。長い道のりをはるばるとご苦労だっただろうに、良くぞ参られたものだ。さぞかし長い道のりだっただろうに、まったく!」

 

 その赤い目がギラギラと輝きを強め、その口元から鋭利な犬歯が姿を覗かせていた。そして吸血王は叫ぶように、生々しい感情を込めて俺たちに言葉を投げつけた。

 

「まったく、見事だ。薄汚いハンターども。貴公らのために、私は実に百年ぶりの帰還を果たさざるを得なかったとは!」

 

 その憎悪と侮蔑を隠さぬ声は、俺たちの肉体に本能的な恐怖をかきたてるのに充分な威力を秘めていた。だが、吸血王の発したその言葉は、逆に俺たちに奇妙な効果を与えたようだった。

 

「そうだ、吸血王。百年ぶりの帰還だ」

 

 グレイヴの低く重々しい声が響いた。

 

「我々がここまで来るのに、百年かかったのだ。我々は貴様を、百年かけてここまで押し戻したのだ」

 

 俺たちは思い出す。自分たちがここに居る意味を。ここまで達するために払った代償の数々を。

 

 ここに来るまでに背負い続けてきた幾つもの想いを。

 

 吸血王を前にして、その存在感を目の当たりにして萎えかけそうになっていた闘志を、再び燃やしたてていく。

 

 俺は一つ深呼吸を行い、手にしていた黒鷹の回転弾倉を取り替えた。

 

 六発の爆裂水銀弾のぶんだけ重みを増した愛銃を握り締め、俺は吸血王の赤い視線に真っ向から立ち向かった。

 

「あんたと俺たち、お互い、長い長い因縁だ。ここらでそろそろ終いにしようぜ」

 

 俺は右手に黒鷹、ギターケースを背に負い、左手でもう一丁の拳銃を抜き放った。

 

 黒鷹の対となる存在・赤鷹。

 

「あんたはもう、充分に生きた。充分に人生を楽しんだ。だから、後は充分に死ぬだけだ」

 

「マリアッチの若造が、よくぞ吼えた!」

 

 殺気が、あまりにも激しすぎる殺気が、吸血王から発せられた。

 

 俺たちの背後で、乗り捨てた二頭の馬が恐怖に怯えたように高く嘶いたかと思うと、重たい音を立てて倒れた。

 

「マリアッチ。グレイヴキーパー。貴様らハンターはまったく救いようが無い存在だ。脆弱な肉体しか持たぬくせに、その限りある短い寿命をさらに縮めることを覚悟で私に挑みかかってきた。私がこれまで、いったいどれだけのハンターを返り討ちにしてきたと思う。数などもはや忘れた。しかし、お前たちは執念深く私の前に立ちはだかり続ける。一人を退治したところで、その仲間が現れる。そいつらを潰したところで、今度はその息子たちときたものだ。何年も何十年も何百年も、貴様らは忘れるということを知らない。殺しても潰しても退治しても、貴様らは必ず現れる。まさに貴様らこそ不死だ。我が宿敵にふさわしい。今となってはもはや、敬意すら抱く」

 

 敬意を抱く。そういった割に、吸血王の瞳は憎悪によって激しく輝いていた。

 

「だが敬意を抱くに値したのも、貴様らの前の世代までだ。貴様らは宿敵だった。私の永遠の人生の、永遠の退屈しのぎの相手であったのだ。私が狩人で、貴様らはその獲物であらねばならなかったのだ。私と貴様らの間には種族の違いという、超えがたき一線が引かれ、それは決して超えてはならないものなのだ。だが、しかしだ、貴様らは、お前たちは、その一線を越えようとしている。身の程もわきまえずに、上位種である私に、本気で牙を向いたのだ。お前たちにそうさせた者、その力を与えた者、そう、イザベラ、お前だ」

 

 吸血王がイザベラに向かって、その白く細い指の、赤く鋭い爪を突きつけた。

 

「イザベラ。私の可愛いレンフィールド。愛しい下僕よ。何故だ。何故、お前は私を裏切った!?」

 

 俺たち三人のうち、イザベラはもっとも吸血王に近い場所に立っていた。

 

 俺の視界に彼女の背中が見えるが、しかし彼女は、吸血王に指を突きつけられ言葉を投げかけられて尚、その肩を震わせもせずに堂々と言い返した。

 

「私はもう、あなたの人形ではないわ」

 

 イザベラがはっきりと吸血王に対し決別の言葉を伝えたとき、吸血王は表情を変えた。

 

 憎悪と侮蔑の色をたたえながらそれでもどこか現実離れした美しさを持っていたその化け物が、初めて人間らしい表情を見せたのだ。

 

 それは困惑と哀願。

 

「イザベラっ、私は……私は、お前を――」

 

「マリアッチ!」

 

 吸血王の言葉を遮るように、彼女は俺を呼んだ。

 

「マリアッチ。いつまでこの男に好き放題、語らせておくつもりなの。あなたは私を、この男から解放すると約束してくれたのではなかったの!?」

 

「あぁ、そうだ。その通りだ」

 

 俺は答えた。

 

「お前との約束は、必ず果たして見せるさっ」

 

 俺は駆け出し、イザベラと吸血王との間に割り込み、黒鷹と赤鷹の銃口を吸血王に向けた。

 

 吸血王が吼えた。

 

「マリアッチがッ!。いいや、お前をもはやかつての宿敵と同じ名で呼ぶことも汚らわしい。このギター弾きの若造めが!!」

 

「吼えるな吸血王。いいや、お前こそ王でもなんでも無え。女に振られた腹いせに逆上する、ただの哀れな吸血鬼だ」

 

 俺は吸血王に向かって引き金を引いた。黒鷹と赤鷹が同時に火を吹き、その銃声が戦いの幕開けを告げた。

 

 吸血王は銃弾を避けようとマントを翻して身をよじったが、二発の爆裂水銀弾の一発は、吸血王のその左腕を肩の付け根から木っ端微塵に撃ち砕いてみせた。

 

「そのような玩具に頼る腑抜けが、私を殺せると本気で思っているのか!」

 

 左腕を失いながらも、吸血王の態度は微塵にも揺らぎを見せなかった。

 

 立て続けにグレイヴがウィンチェスターを放つ。その銃弾はまっすぐに吸血王の額を撃ち抜くかと思われたが、奴は“左腕”を振りかざして、その銃弾を受け止めて見せた。

 

 肩から撃ち砕いたはずの左腕は、傷口から滴るどす黒い血流によって宙へと持ち上げられ、銃弾を防ぐための盾となっていた。

 

「言ったはずだ。今は私の時間だ、と」

 

 イザベラが短く息を吐いて、長剣を振るい上げながら吸血王に駆け向かっていく。

 

「イザベラ……」

 

 吸血王は彼女の名を呟き、残った右手を掲げ上げた。

 

「下がれ」

 

 振り下ろした右腕とともに、吸血王の背後にそびえる魔界城の開いた城門の奥から、恐ろしい唸り声とともに黒々とした影が躍り出てきた。

 

 その影は巨大なアゴを開き、真っ赤な口腔内とずらりと並ぶ牙を煌めかせ、まっすぐにイザベラに襲い掛かっていく。

 

「魔狼、ヴァスカヴィル!?」

 

 漆黒の狼の牙に、イザベラは後退を余儀なくされた。魔狼に追い立てられ、彼女は吸血王はおろか、俺たちとすら引き離されてしまう。

 

「おのれ、吸血王!」

 

 グレイヴがウィンチェスターを連射し、盾となっていた吸血王の左腕を粉々に撃ち砕いていく。

 

「グレイヴキーパー。墓守人よ。お前も下がれ」

 

 滴る黒い血流は拡散し、黒い霧に姿を変えた。その血霧のなか、砕かれた肉片の一つ一つが蝙蝠へと姿を変えていく。

 

 現れたのは大量の蝙蝠たち。

 

 蝙蝠の群れは霧とともにグレイヴの周囲を取り巻き、彼の行動の自由を奪い取ってしまった。

 

「残るは、若造。お前だけだ」

 

「さぁ、俺にはどんな手品を見せてくれるつもりだ?」

 

「何も。何も無い」

 

 吸血王の右腕の拳が、硬く握り締められた。

 

「お前は、お前だけは、私が直々に殴り倒そうと思う。そうしなければ気がすまないのだ」

 

「上等ッ!」

 

 吸血王が拳を背後に引き絞りながら、猛然と向かってきた。

 

 俺は躊躇無く引き金を引く。

 

 奴が一歩踏み出すまでに四発の銃弾をその胴体へと叩き込んだが、銃弾が奴の体内で爆発し、その半身を粉々に吹き飛ばしても吸血王の拳は止まらなかった。

 

 奴の拳が襲い掛かってくる寸前、俺はとっさに身をよじり、背中を向けた。

 

 背に負う鉄板を仕込んだギターケースがその硬い拳を受け止める。

 

「うぐっ!?」

 

 俺は吸血王の怪力を背中全体で受け止める羽目になった。

 

 ギターケースを押しやる激しい圧力に、俺はつんのめり、そのまま倒れそうになったが必死で踏ん張る。

 

 次の瞬間、ほとんど本能的なものを感じて、俺は後ろを振り返りもせずに、肩越しに赤鷹を撃った。俺のすぐ背後で、吸血王が追撃に繰り出した二度目の拳が粉々に撃ち砕かれた。

 

 俺はすぐに、地面を転がるようにしてその場から離れ、吸血王に向き直った。

 

 そこに左半身を撃ち砕かれ、さらに右手も失った王の姿があったが、その表情を歪ませているのが苦痛ではないことぐらいは察することはできた。

 

 果たして、吸血王の身体の傷口の周りには、血流が霧となって渦を巻き、その下では再び身体が構築されようとしている。

 

「逃げるな、若造」

 

 吸血王が霧をまといながら俺に歩み寄ってくる。

 

「お前の祖父は、最期まで私に背を向けるなどという真似はしなかったぞ」

 

「莫迦な祖父さんだ。おかげでお前に傷一つ負わせられずに死んじまった」

 

 吸血王が再び右腕を振り上げた。黒鷹が火を吹き、その拳を撃ち砕く。

 

 だが撃ち砕いた拳は霧の塊となって、すぐに再生されてしまう。

 

「何度やっても同じだ。玩具で私を傷つけることは――」

 

 俺は吸血王の脚に三発の銃弾を素早く撃ち込んだ。

 

 両脚は太ももから破壊され、奴は霧を纏い付かせながらその場に崩れ落ちた。だがそれも僅かなこと、すぐに足は元通りになり、吸血王は立ち上がった。

 

「――何を企んでいる?」

 

 王が再び歩み寄ってくる。

 

「何も、何も無い」

 

 俺はそう答えて、二丁拳銃の銃口を吸血王に向けた。

 

 弾倉は、奴が崩れ落ちた一瞬のうちに交換してある。右手の黒鷹に六発、左手の赤鷹にも六発、しめて十二発の爆裂水銀弾。

 

「撃ち砕いても再生するのなら、また撃ち砕けばいい。単純な話だ。それだけだ」

 

「愚か者だな」

 

 吸血王が拳を振り上げるのと、俺が右手の黒鷹を頭上に放り投げたのはほぼ同時だった。

 

「何?」

 

 と、吸血王が疑念を抱くよりも早く、俺の右手は、左手の赤鷹の撃鉄をすばやく叩いていていた。

 

 早撃ちコンマ二秒。

 

 一秒弱で赤鷹は六発すべての銃弾を撃ちつくし、吸血王の腹部に巨大な穴を開け、上半身と下半身を切り放した。

 

 俺は目の前に落ちてきた黒鷹を右手で掴み取り、赤鷹を手放した左手で撃鉄を叩く。下半身を失った上半身が大地に落下するより早く、四発の弾丸がその胸を穿つ。

 

 吸血王は胴体部をただの霧と化して、大地に転がり落ちた。

 

 まともな形を残しているのは頭部のみで、首から下は黒い霧と化し、しかしその霧の中、ドクンドクンと脈打ち続ける心臓があった。

 

 俺はその心臓めがけ、さらに一発を撃ち込んだ。

 

 しかし、弾丸は心臓に穴を開けて潜り込んだものの、爆発はせずにそのまま飲み込まれてしまったかのようだった。

 

 穴はあっという間に塞がり、心臓は変わらず脈打ち続けていた。

 

 首だけとなった吸血王が、呵呵と笑い声を上げた。

 

「これは懐かしい。お前の父と戦ったときそのままだ」

 

「ああ、そうだ。その通りだ。ここまでは親父もやった」

 

 銀の弾丸を持ってその不死の身体を撃ち砕き、心臓すら露出させ、そこに弾丸を撃ち込んだ。

 

「しかし、それでもお前は死なない。死ななかった。いや、きっと昼間であれば、お前の再生能力にも限界があったはずだ。だが、夜のお前はまさしく不死身だ。いったいどうすればお前を殺せる? どうすればその心臓をとめることが出来る? 俺は、考えた」

 

 俺は背負ったギターケースを足元に落とした。その衝撃でギターケースは口を開き、内部に納めていたそれをさらけ出して見せた。

 

 ギターケースにすっぽり収まっていたそれは、木製の十字架。

 

「銀の弾丸だろうと殺せないなら、もっと別のものが必要だ。お前の肉体だけでなく、その精神まで穿ち抜く様な、そんないわくつきの代物が必要だと、俺は考えた」

 

 俺の目の前で、吸血王の身体が再構築されていく。心臓の周囲の霧が再び骨と肉になっていく。

 

 俺はギターケースから十字架を掴み上げた。その先端は杭のように削り尖らせてある。その十字架を前にしたとき、吸血王が焦りの声を上げた。

 

「それは、まさか!?」

 

「聖都中央教会の大礼拝堂に奉られていた聖遺物の一つ。ゴルダゴの丘で救世主を磔にした杭の一部を削って造り上げたとされる十字架だ。わざわざ、お前のために危険を冒して無断拝借してきた代物だ。ありがたくその心臓に突き立てやがれぇっ!!」

 

 俺が十字架を振りかぶったとき、吸血王はその咽喉から野獣のような咆哮を上げた。そのあまりの凄まじさに俺は思わず後ずさってしまう。

 

 吸血王の身体のすべてが、奴の首と心臓を残して、霧となって蝙蝠となって、俺に向かって一挙に襲いかかってきたのだ。

 

「うっ!?」

 

 俺の視界すべてを霧と蝙蝠に塞がれてしまった。これでは吸血王に十字架を突き立てるどころか、奴に再び近づくことすら出来そうにない。

 

 鼻と喉の奥に、鉄錆のような強い刺激を感じ、思わず口元を手で覆い隠したが、すでに遅かった。

 

 奴の血霧を吸ってしまったのだ。

 

 吸血鬼の血には精神に干渉する恐ろしい力がある。一瞬、目眩のようなものを感じ、たたらを踏んでしまった。

 

 さらに野獣の吼え声があたりに響き渡り、なにやら巨大な影が俺に向かって走りこんできた。

 

「マリアッチ、よけて!」

 

「っ!?」

 

 イザベラの声に、俺は反射的に横へ跳んでいた。

 

 地面に転がった俺の脇を、真っ黒な巨躯が真っ赤な口を開きながら駆け抜けていく。

 

 魔狼・ヴァスカヴィル。

 

 数匹の蝙蝠が、その牙に巻き込まれ噛み砕かれた。

 

 魔狼は首をめぐらせて俺をしっかと見据えると、その耳まで裂けた巨大な口をさらに両端まで吊り上げ、そして咽喉の奥からまるで絞り出すかのように、ゲッゲッという不気味な鳴き声を上げた。

 

 それは、笑っていた。狼の嘲笑は、いままでに見たことの無い醜悪な笑顔だった。

 

 ヴァスカヴィルが太い前足を振り上げ襲い掛かってきたのと、イザベラが長剣を振るいながら俺の元に駆け込んできたのは、ほぼ同時だった。

 

「ヴァスカヴィルは私が抑えるわ。マリアッチ、あなたは王を!」

 

 イザベラの長剣と狼の爪と牙とが、激しくぶつかり火花を上げた。

 

 横に振るわれたイザベラの長剣を、ヴァスカヴィルの強力なアゴがガップリと銜え込んでしまう。そのまま彼女から長剣をもぎ取ろうと、首を右に左へと振り回し始めた。

 

「くっ」

 

 長剣を離すまいと力をこめるイザベラ。

 

「その牙と私の剣、どちらの斬れ味が鋭いか、勝負!」

 

 ヴァスカヴィルが力いっぱい首を振り上げたのと同時に、イザベラも力いっぱい長剣を引いた。

 

 その口元の、その居並ぶ牙の間を、咥えられていた長剣の刃が火花を上げながら滑り出し、引き抜かれた。

 

 長剣とともに、何本もの牙がこぼれ出し、ヴァスカヴィルは口元を己自身の血で染め上げながら、苦痛に満ちた絶叫を上げた。

 

 夜空と山々の端々にまで響き渡る大絶叫。

 

 その上下に大きく開かれた血染めのアゴをめがけて、イザベラが長剣を横なぎに払いぬいた。

 

 ヴァスカヴィルの上アゴと頭部が鮮血を吹き上げながら宙を舞い、絶叫はやんだ。

 

 俺はまだ少し目眩のする頭を振って意識をはっきりさせると、十字架を手に、ヴァスカヴィルの脇を通り抜け、吸血王の元へ走る。

 

 しかし、幾百もの蝙蝠の群れが、それをさせじと、俺に群がり襲い掛かってくる。手にした十字架で払っても払っても、キリが無い。

 

 だったら、最後の手段だ。

 

 俺は懐を探り、白い砂をいっぱいに詰め込んだ一本の小瓶を取り出し、声の限りに叫んだ。

 

「グレイヴ、俺の場所が判るか!?」

 

「蝙蝠と霧はすべてお前を取り囲んでいる。その中心に居るのだな」

 

「銀火炎瓶を使う。撃ってくれ!」

 

「任せろ」

 

 グレイヴの声を聞き、俺は小瓶を頭上に投げ上げた。そして近くにまだ居るはずのイザベラに向かって叫ぶ。

 

「伏せろ!」

 

 彼女が地面に伏せる気配がする。

 

 同時にウィンチェスターの銃声。

 

 俺の頭上で真っ赤な炎が拡がり、それは瞬く間にあたりの霧を、蝙蝠を、俺の視界を、埋め尽くした。

 

 火薬と、水銀と、特殊な薬品を混ぜ合わせた対吸血鬼用の特製火炎瓶だ。

 

 肌を焦がす熱波を無視し、燃え落ちていく蝙蝠の残骸を振り払い、俺は炎の壁を走りぬけ、飛び出した。

 

 視界が開け、そこに吸血王が居た。

 

 首と心臓のみを残し、後のすべてを蝙蝠と霧と化していた吸血王。

 

 燃え残った霧と蝙蝠が急いでその身体を再構築しようと集まってくるより早く、俺は奴の心臓に十字架を突き立てた。

 

 鋭く尖った先端の下、心臓はまるで張り詰めた風船のように音を立てて弾け飛び、そこから信じられないくらい大量の血液がどっと溢れ出してきた。

 

 それは今まで吸血王が見せてきた、まるで手足のように蠢く血流のそれではなく、器からこぼれおちた水のように、ただただ、あたり一面に広がっていく。

 

 同時に、残された吸血王の首から、徐々にその表情が失われつつあった。

 

「やった…か?」

 

 俺は呟いていた。たぶん、目の前の状況が自分でも信じられなかった。

 

 吸血王の眼が、その、すでに虚ろを宿し始めていたその紅い瞳が、はっきりと俺を見据えた。

 

「まさか……ここまで、とは…な」

 

 吸血王の口から弱弱しく声が漏れ出した。

 

「百年か……百年。………ハ、ハ、ハ、これではとんだ道化芝居だ」

 

「あぁ、そうさ」

 

 ふと、俺の胸になんとも言いようのない感情がこみ上げてきた。

 

「俺たちは道化だ。これは長すぎた茶番劇だよ。そろそろ幕を引くべきだ」

 

「幕引きか。確かに……私は心のどこかで、……それをずっと……」

 

 吸血王の瞳は閉じられ、その口元にうっすらと笑みが浮かんでいるようだった。

 

「……Amen…これで」

 

 終わった。

 

 ついに終わった。

 

 そう思った。

 

 しかし。

 

「フ…フ…フ…フ…フ…」

 

 始め静かに、だがやがてハッキリと、吸血王が笑い声を上げた。

 

「幕引きか。そうだ、それでも良かった。不死を得て幾百年。長すぎる生に厭き、しかし死ぬことも狂うことも出来ずに過ごしてきた私の人生において、お前たちハンターの存在は私の一種の慰みだった。百年前なら、マリアッチに殺されてやっても良かった。お前の祖父になら、お前の父になら、心臓を貫かれたまま死んでやっても良かったのだ。だが、……お前では駄目だ。いや、ほんの十年前までなら、お前たちが、お前が、まだ私の宿敵であったころなら!」

 

 あまりにも信じられないことが起き始めていた。

 

 辺りに拡がった血が、灰となった蝙蝠が、雨散霧消した霧が、恐ろしい勢いで吸血王の身体を再構築し始めた。

 

 それは、まったく、信じがたい、信じたくない光景だった。

 

「そ、そんな、莫迦な。本当に、本当にお前は死なないのか!? どうあっても、お前を殺せないのか!?」

 

「そうだ。どうあっても、私は死なない。死ぬわけにはいかないのだ。お前にだけは殺されるわけにはいかないのだ。私は、生きていたいのだ。……イザベラ!」

 

 吸血王はすでに俺を見ていなかった。

 

 その眼は、ただ真っ直ぐにイザベラの姿を捉えていた。

 

「十年、ほんの十年。ただそれだけの時間なのに、お前と過ごした日々は私にとってかけがえの無いものだった。私に生きる喜びを与えてくれたのだ。……しかし、お前は去った。私を捨てた!」

 

 吸血王が立ち上がった。

 

 その身体はもうすでに完全に再生し、長身が俺の視界を埋め尽くしていた。

 

「若造、マリアッチの息子、私からイザベラを奪った憎き男。お前にだけは決して負けたくは無かった。殺されたくは無かった。しかしもう、さすがに限界のようだ。……だが、ただでは死なぬ」

 

 吸血王の右手が唸りをあげた次の瞬間、その硬く握られた拳が俺の横面を殴り飛ばした。

 

「がっ……!?」

 

 一瞬、視界が真っ暗になった。

 

 意識を失っていたのは一秒にも満たないだろうが、気がついたとき俺はすでに大地に四つん這いに臥していた。ぐらぐらと揺れる視界の中、立ち上がることも出来ない。

 

「……私自身の手で殴り倒す。そう言った筈だ」

 

 だったら、これで気が済んだだろう。なんて軽口を返す余裕はもはや無い。

 

 吸血王の両手が俺の肩を掴み上げた。

 

 俺は動けなかった。

 

 殴られたダメージもさることながら、目の前に聳え立つ怪物の、そのあまりに生々しい人間らしさの迫力に圧倒されていたといっても良かった。

 

「マリアッチ、マリアッチ!?」

 

 俺を呼ぶイザベラの声が聞こえるが、それでも俺の身体は金縛りにあったかのようにビクともしなかった。

 

「このまま殴り殺してやろうかと思ったが、それでは、駄目だ。私の受けた苦しみを返すには死すら生温い。だから、お前には死よりも深い苦しみを味わわせてやる。私の過ごした幾百年という苦しみと同じ苦しみを与えてやる。永劫の時間に囚われるが良い」

 

 言うや否や、吸血王のアゴがまるで蛇が獲物を飲み込むように大きく開かれた。その口の中で鋭い犬歯が、さらに長く伸びていく。

 

 奴が何をしようとしているかぐらい、考えるまでも無く知れた。

 

 奴は俺の血を吸う気だ。

 

 そして、俺はすでに、奴の血を飲んでしまっている。霧となった血を吸い込んでしまっている。

 

 その結果、どうなるか。

 

「イ、イヤだ!?」

 

 恐怖に背筋が凍りつき、身体が震えた。

 

 いやだ、それだけは絶対にいやだ。

 

 吸血鬼になんかなりたく無いっ!

 

 恐怖が俺に底力を出させたようだ。俺は絶叫を上げながら必死に身をよじって吸血王の手から逃れようとした。

 

 それでも吸血王の腕の力は強く、俺をしっかとつかんだまま、その牙がどんどん迫ってくる。

 

 そのとき、吸血王に何かがぶつかり、それでわずかに俺への拘束が緩んだので、俺はその瞬間に奴の身体を突き飛ばした。

 

 そして、再度捕まえようと伸ばしてきた吸血王の手から必死に逃げるべく、転がるように背を向けて駆け出していた。

 

 俺は、後にこの瞬間を悔やむことになる。いや。後悔は、俺が再び吸血王を振り返った瞬間から始まっていた。

 

 吸血王が俺の身代わりにその腕に捕らえた者の首筋に、牙を突き立てていた。

 

 吸血王はその口腔に広がった血の味に酔いしれているようだったが、すぐに己が抱き血を吸った者が誰かを知って、慌ててその牙を引き抜いた。

 

「あ…あぁ…!?」

 

 そのときに漏れ出した悲痛な声は、吸血王のものか、それとも、俺自身の声だったのか。

 

 ただ、そのとき俺と吸血王は同じ後悔に身を震わせていたのは確かだった。

 

「イザベラ!?」

 

 俺を吸血王から救い出し、その牙の元へ身代わりとなったのは、イザベラだった。

 

 彼女は吸血王の腕の中、首筋から多量の血を流し、青ざめた顔色でぐったりと王の胸に身をもたれさせていた。

 

 吸血王はすぐにイザベラの顔を両の手で包み込み、その顔を覗き込んだ。

 

「イザベラっ、馬鹿なっ、あってはならぬっ。お前まで吸血鬼になるなど、あってはならんのだっ!?」

 

 吸血王の血染めの口元がわなないていた。

 

 と、イザベラの片手が差し伸べられ、吸血王の頬を撫でた。

 

「王よ、……吸血王、私の主」

 

「イザベラっ!?」

 

 彼女は、王に微笑みかけていた。

 

 吸血王はその微笑を見て、安堵の表情を見せたが、しかし次の瞬間、それは驚愕に取って代わっていた。

 

「っ!?」

 

 吸血王の背から、長剣の刃が突き出されていた。

 

 イザベラの片手が、その掴んだ長剣の柄をひねり上げ、さらに深々と吸血王の胸元へと押し込んでいく。

 

「イザベラ……」

 

 吸血王の赤い瞳から、血の涙が溢れ出していた。

 

「王よ、……あなたは私の育ての親だった。……あなたは私の全てだった。……さようなら」

 

 イザベラも、泣いていた。

 

 彼女は泣きながら、突き立てた長剣を力の限りに横へ振りぬいた。

 

 吸血王はがっくりと膝を突いた。それはまるでイザベラを前に跪いているようにも見えた。彼はほんのわずかに目前に立つイザベラを見上げたかと思うと、やがて許しを請うかのように頭を垂れた。

 

 そして、吸血王の身体は崩壊を始めた。

 

 これまでのように霧になるのではなく、まるで砂で造られた彫刻が崩れるように、ぼろぼろと灰となって、崩れ落ちていった。

 

 ここに、吸血王は真の死を迎えたのだった。

 

 

 



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4・暁のギター弾き

 いまにも降ってきそうな満天の星空の下、銀世界の山々を冷たい風が吹き抜けていき、積もった薄雪が風に乗ってチラチラと舞い飛んでいく。

 

 かつて吸血王だった大量の灰もまた、その虚空へと消えていった。

 

 冷たい石畳の上に身を横たえたまま、イザベラは黙ってその風の行く先を見つめていた。

 

 俺は、彼女のその横顔をただ見つめていた。

 

 静寂が世界を支配していた。

 

 誰も、一言も発しようとしなかった。それはまるで時が止まったようであり、そのとき俺は、心の底から、本当に時が止まってしまえばいいと願っていた。

 

 俺の願いを打ち破るように、静寂は破られた。

 

 破ったのは、グレイヴだった。

 

 グレイヴは手にしたウィンチェスターのレバーを引き起こし、その薬室に銃弾を送り込み、撃鉄を下ろし、そして、ゆっくりと、横たわるイザベラのそばへと歩み寄っていく。

 

 俺はグレイヴの前に立ちはだかった。

 

「待ってくれ」

 

「マリアッチ、これ以上は待てない」

 

「だが…だが、しかし……」

 

 俺は必死に懇願していた。

 

 唇は震え、声がかつえた。

 

 俺は、惨めだった。

 

「お願いだ。まだ、まだ他に方法があるはずなんだ……」

 

 俺は頭を抱えて蹲った。

 

 そして必死に、必死になって考えていた。

 

 だが、すでに夜通し考え続けて答えが出なかったのに、いまさら考え続けたところで何になるのだろう。答えが出るはずも無いのに、それでも俺は考え続けた。その無意味な思考を繰り返し続けた。

 

 なぜなら、認めたくなかったからだ。出来るはずもなかったからだ。

 

 彼女を、イザベラを、この手で殺さなければならないなんて。

 

 イザベラは、ゆっくりと変貌しつつあった。

 

 彼女は吸血王に大量の血を奪われたことで貧血を起こしていたが、吸血王の牙にさらされた首の傷はすでに塞がり、その青ざめていた表情にももう血色が戻りつつあった。

 

 だが同時に、この凍て付くような寒さにも関わらず、彼女の口元から漏れ出るはずの白い吐息が、目に見えて少なくなっていた。

 

 ふと、イザベラが呟くように言った。

 

「もうじき夜が明けるわ」

 

 その言葉に、俺は肩を震わせた。

 

 今までずっと風の行く先を眺めていたイザベラが、俺に振り向いた。

 

 俺を見つめる彼女のブルーの瞳が、今はルビーのように輝いていた。

 

「恐らく、夜明けを迎える前に私は転生を果たしてしまうわ。だから、せめて……」

 

 彼女はそう言って、俺に微笑みかけた。

 

 そのときの笑みをどう表現したらいいか。とにかく、俺は胸を引き裂かれそうだった。

 

「無理だ」

 

 子供が駄々をこねるように、俺は言った。

 

 どうして? と、彼女がすがるような目つきで俺を見た。

 

「お願いよ、マリアッチ。あなたの銃にはまだ銀の弾丸が残っているはずよ。だって、ハンターは常に最後の一発は自分用に残しておくはずだから。自分が吸血鬼になったとき、自らその命を絶つために残しておくはずだから。……ごめんね。もしあの時、私がすぐに自分の剣で咽喉を掻き切っていれば、あなたたちにこんな思いをさせなくて済んだのに、あの時、本当なら、それぐらいの力は残されていたはずなのに、私は―――」

 

「やめてくれ!」

 

 俺は叫んだ。

 

「俺は、俺は生きて欲しかったんだ。だって、お前を助けると言ったじゃないか。お前と一緒に生きて行きたいって言ったじゃないか。お前が何者であろうとも、俺はそばにいると言ったじゃないか!」

 

「でもね」

 

 イザベラの瞳から涙が零れ落ちた。

 

 赤い、血の涙が。

 

「でもね、あなたはこうも言ってくれた。いつか私が吸血鬼に成り果てるときが来たら、そのときは、あなたの手で終わらせてくれる。と」

 

「まだ、お前はまだ、人間なんだ」

 

「そうよ、だから……だから、まだ、人間である間に。……お願いよ、マリアッチ」

 

「俺は……俺は……畜生。畜…生」

 

 俺は俯いた。

 

 歯を食いしばった。

 

 俺の右手には、黒鷹が握り締められていた。

 

 グレイヴが、じっと俺を見つめていた。彼は本来、静かな男だった。沈黙を美徳とする男だった。

 

 その彼が、俺に声をかけた。

 

「………出来ぬなら、俺が撃つ」

 

 グレイヴの声が、震えているのがわかった。

 

「グレイヴ……」

 

 鍔広の帽子の下、その彫刻のように静かな無表情のなか、彼の瞳に感情の色が宿っていた。

 

 その色から読み取ったのは、迷いと、そして激しい後悔。

 

 あぁ、そうなのだ。グレイヴもまた、俺と同じように一晩中、考え抜いていたのだ。同じ思いでいたのだ。

 

「……いや、俺にやらせてくれ」

 

 グレイヴは無言で頷き、ウィンチェスターをおろした。

 

 俺は黒鷹を手に、イザベラのそばに跪いた。

 

「許してくれ……」

 

「……謝らないで」

 

 微笑む彼女を、俺は胸に抱きしめた。

 

 イザベラは瞳を閉じ、俺に体重を預ける。俺は黒鷹の銃口を、彼女の左胸の下に押し当てた。

 

「……ありがとう、マリアッチ」

 

「そんな言葉は聞きたくない。………イザベラ」

 

 俺は撃鉄を起こし、そして、引き金にかけた指に力をこめた。

 

 銃声が暁の空に響き渡った……

 

 ……………

 

 …………

 

 ………

 

 ……

 

 …

 

 

 

 

 いつの間にか、共同墓地はすっかり夜の暗闇に覆われてしまっていた。

 

 グレイヴの手にしたカンテラのオレンジの光の中を、雨が細い糸となって煌めきながら降り注いでいく。

 

 空は雨雲に覆われたまま星も見えず、ただ、俺と、グレイヴと、そして目前の墓石だけが、暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がっているみたいだった。

 

 今から一年前のあの日、吸血王が滅んだ夜。イザベラは、夜明けを迎えても、灰にはならなかった。恐らく、転生が途中で中断されたためだろう。

 

 彼女は、望みどおり人間のまま死を迎えた。

 

 俺たちは三人一緒に帰ってきた。そして、イザベラをこの墓地に埋葬した。

 

「我々の……」

 

 墓石を見つめたまま、グレイヴが口を開いた。

 

「我々の、ハンターとしての宿命は、あの時で終わったと思っていたのだがな」

 

「………」

 

 傍らのグレイヴはいつもの通り、何の感情も浮かべずに、ただ一種の哀愁のみが漂っていた。彼は言った。

 

「あれから一月後のことだったな。気がついたときにはもう、この墓は空だった。棺は内側から破壊され、後に残されたのは、空っぽの墓穴だけだった」

 

 誰かが墓を暴いた。

 

 などとは、俺たち二人は思わなかった。

 

 内側から暴かれた墓。その意味するところを、俺たちは判りすぎるくらい、判っていた。

 

「マリアッチ。お前はあの時、たしかに彼女の左胸を撃った。だが、本当は知っていたのではないのか?」

 

「………」

 

 グレイヴが何を言わんとしているのか、それは判っている、判っているから、俺は沈黙で答えていた。

 

 イザベラの心臓は、右側にあった。

 

「彼女はいまだ、この世のどこかを彷徨い続けているのだろう」

 

 グレイヴの口調は、何も変わらず、非難しようともせず、ただ、その視線がわずかに動き、俺の腰のホルスターに納まった拳銃を認めた。

 

「黒鷹、か。とうに捨てたと思っていた」

 

「………旅の途中で、ひとつ、気になる噂を聞いたのさ。北のはずれの教会に、奇跡を起こす女が現れたそうだ」

 

 俺の言葉に、グレイヴの目がスゥと細められた。

 

「女、か」

 

「ああ、その女にかかれば、怪我を負うた者は傷口が塞がり、難病に冒された者も、たちどころに回復するそうだ。人々は女を聖女として崇めていると聞く」

 

「聖女。……しかし、マリアッチ。医術の心得がある者ならば、それぐらい容易い。その様な者が、まだ祈りと呪術に頼る田舎の地方で聖人と崇められる事は、よくあることだ」

 

「だが、どれだけ医術に長けたところで、若返らせることは不可能だろう。………その聖女の奇跡は、年老いた者に若さをも与えるそうだ。なにより、その教会を訪れ奇跡を受けた者は、誰一人として昼にその姿を見たものは居ないそうだ」

 

「………」

 

 今度は、グレイヴが沈黙する番だった。

 

 沈黙したまま、俺の黒鷹と、その反対側のホルスターに納まった赤鷹、そしてギターケースを眺めていた。

 

「すまん、マリアッチ」

 

 ややあって、グレイヴが口を開いた。

 

「共に行くことは出来ない。俺には、もう………」

 

「ああ、判っているさ。これは俺が始末をつけるべき事だ。あの時、トドメを刺しきれなかった、俺の責任だ。ただ、あんたにだけは伝えておきたかった」

 

「……そうか」

 

 俺たちは互いに目をそらし、その視線は再び墓石に向けられた。

 

 誰も埋葬されていない墓。

 

 墓というものが命の抜け殻を収める場所というのなら、今のこれは死の抜け殻というべきだろう。

 

 だから俺は、その死を取り戻さなくてはならない。

 

「マリアッチ。持って行くのだろう、あれを」

 

 グレイヴの言葉に、俺は頷く。

 

 グレイヴはしばし墓の前から離れ、何処からか二つのシャベルを持ってきた。

 

 カンテラを墓のそばに置き、俺たちは二人で、しばらくの間、無言で墓石の前の地面の土を掻き続けた。

 

 十分もしないうちに、さして地面の深くも無い場所から、布にくるまれた棒状のものが掘り出された。

 

 俺はギターケースの蓋を開け、その棒状の品を納めて蓋を閉めた。

 

 そして、

 

「こいつも、持っていくが良い」

 

 グレイヴはそう言って、おそらくシャベルと一緒に持ってきていたのだろう、一本のギターを、俺に手渡した。

 

「随分と前から預かったままのものだ。いい加減、お前に返そうと思う」

 

 受け取ったギターには、妙な重みがあった。そのギターは肩紐を取り付け背に負う。

 

「ありがとうよ、……戦友」

 

 友人と言うほど親しい付き合いじゃないが、知り合いで済ますほど浅くない関係の男。

 

 グレイヴキーパー。

 

 彼との関係を言葉で表すなら、そう、戦友だ。

 

「さらばだ、マリアッチ」

 

 グレイヴの声を背中で聞きながら、俺は共同墓地を後にした。

 

 

 

 



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5・夢の狭間のギター弾き

 暗闇の荒野に光が差したと見えたのは、あれはもう真夜中も過ぎたくらいだったか。

 

 細かい雨は変わらず霧のようにあたりを漂い続けていたが、空を覆う黒雲の一画が途切れ、ちょうどそこに煌々と輝く満月が姿を覗かせていた。

 

 青白い光が霧雨に溶け込み、周囲はぼんやりとした薄明かりに包まれていた。

 

 俺はその景色を、荒野の真ん中にぽつんと生えていた樹の根元から見上げていた。

 

 俺の頭上には、雨をよけるための簡単な天幕、俺の目の前にはパチパチと音を立てて爆ぜる焚き火。

 

 こうしていると、一年前の北方地帯を思い出す。吸血王を追っていたあの三週間の強行軍。雪の積もった山岳地帯での野宿。

 

 俺は木の枝を一本手に取り、揺れる炎の中からこぶし大の石を掻き出した。

 

 熱く焼けたその石を厚手の布で包みこみ、それを懐に収める。そして懐の中の温もりを逃さぬよう、背中を丸め、手足を縮め、まるで赤子のような格好で俺は眠った。

 

 夢を見た。

 

 妙な夢だった。

 

 親父がいて、祖父さんがいた。俺を含めてマリアッチが三人揃って焚き火を囲んで座っていたんだ。

 

 これのどこが妙だと言えば、ひとつは、俺は祖父さんの顔を知らないということだ。

 

 俺が生まれる前に祖父さんはくたばっちまったのに、俺は当たり前のようにそこにいる男に「よう祖父さん、まだお迎えが来ないのか」なんて、とうの昔に彼岸に行っちまった人間に何を言っているんだか。

 

 で、もうひとつは、親父がギターを奏でながら唄っていて、これが上手いんだ。

 

 じゃあ、これはやっぱり夢以外の何ものでもないと、俺もわけの判らない納得の仕方をして、それで親父の歌を聴き始めた。

 

 

――

 

 迷った街の片隅の

 寂しい路地の暗がりで

 思い出すのは幼い日々

 埃にまみれた夢のあと

 

 空にうずめた宝箱

 水のつるはし振るい上げ

 掘り出したのは老いた日々

 磨き上げた夢のあと

 

 日々から生まれた夢ならば

 夢から生まれた日々もある

 思い出すのが夢ならば

 見果てぬ日々もまた夢だ

 

――

 

 

 すると、祖父さんもまた歌いだした。

 

 

――

 

 思い悩むな過ぎた夢

 どうせ忘れて消えていく

 

 思い悩むな先の夢

 どうせ勝手に去ってゆく

 

 所詮この世は夢の夢

 うつつのままに過ごせばいい

 

 所詮この世は夢の夢

 忘れてしまえばそれでいい

 

――

 

 

 彼岸の夢、か。俺はぼんやりとそう思った。

 

 逝っちまった連中には全てがまさしく夢で、自分自身も、周りの全ても、昔も未来も、夢なんだろう。

 

 勝手な連中め。

 

 親父も祖父さんもこの世の向こう側に逝っちまったから全てが夢だといえるんだ。

 

 因縁と未練は此岸で俺の背中に置いてきたわけだ。

 

 不意に俺も口ずさむ。

 

 

――

 

 夢の狭間で目が覚めた

 

 苦みばしった望みを胸に抱き

 まだ逢いもせぬ少女の手紙

 待ちくたびれて夢のあと

 

 毒を食らって全力疾走

 皿も食らって無我夢中

 

 好いても好かれぬ不合理に

 我が身滅ぼす自虐の炎

 

 涙流せば水族館

 泣いて走れば走馬灯

 

 見知ったはずのあの街で

 捜し続けた面影は

 消えない悔いに押しつぶされた

 

 夢が覚めるのはいつ?

 

 夢から覚めた夢の中

 

 夢を忘れるのはいつ?

 

 狭間と狭間の狭間の中

 

 哀しい夢の終わりはいつ?

 

 決して終わらぬ夢のあと

 

 男は切ない夢を見て

 

 男は見知らぬあなたを探す

 

 夢の狭間で目が覚めた

 

 されど狭間で夢を探す

 

――

 

 

 親父と祖父さんが苦笑しているのは、やっぱり俺が調子を外したせいか。

 

 でも、それで良い。

 

 これが夢の中であれ、俺がまともに唄える歌は一つでいい。

 

 しかし、親父が笑うところを見たのは初めてだ。

 

 重い宿命をシワにして、歳の数だけ額と眉間に刻んできたような男だった。

 

 きっと祖父さんも、そんな生き方をしてきたんだろう。

 

 逝っちまって、解放されて、夢となって、夢の中で自由に笑って歌えるようになったんだろうけど、俺はまだ夢になる気は無いから、不便な夢の狭間で、未練も因縁もついでに後悔も、まだ背中から降ろさずに行こうと思う。

 

 

 俺は焚火の傍から立ち上がり、そして、夢から覚めた。

 

 

 

 

 目を覚ましたのは、夜明けにはまだ程遠い時分だった。

 

 既に雨は止んでいるようだが、焚火も消えていて、あたりは暁闇のなか腕の先も見通せなかった。

 

 黄昏に太陽がもっとも強く輝くように、暁こそ闇がもっとも濃くなる。

 

 きっと人生もそんなものかも知れないわね、なんてイザベラが言っていたのを、ふと思い出した。

 

 すると胸の内を一抹の寂しさが過ぎり去って、俺は鼻をスンとならした。

 

 鼻腔の奥が、冷たい空気の香りに満ちた。

 

 雨とは違う、独特の雪の香り。恐らく、降り始めるのもそう先のことじゃない。

 

 星も見えない真っ暗な空は、もう厚い雲に覆われてしまっているのだろう。

 

 俺は懐からマッチを取り出そうとしたが、寒さで指がかじかみ、足元に落としてしまった。

 

 手探りでようやく探り当て、今度は慎重な手つきでマッチを擦り、新たな火種で焚火に再び火を燈す。

 

 もう一度燃え上がった炎に手をかざしながら、俺はぼんやりと夜明けを待った。

 

 やがて周囲がうっすらと明るくなりだしたころ、予想通り雪が降り出した。

 

 音も無く静かに降り注ぐ粉雪は、それでも俺の耳にさらさらという音ともつかない音を残し、荒野に白銀の化粧を施していく。

 

 冷たくなっていた両の手にじんわりと血が通ったのを感じ、俺は出立の準備を始めることにした。

 

 天幕を片付け、手袋をはめ、ギターを背負い、ギターケースを左手に持つ。ズボンのポケットには、もう一度暖めておいた石をやはり布に包んで収めてある。空いた右手はポケットに突っ込んで、残った焚火に雪交じりの土を蹴りつけて、炎を消す。

 

 見渡す限り白い平原。そこに足跡をつけながら俺は歩いていく。

 

 粉雪はいつしかゆったりと降り落ちる牡丹雪にかわり、寒いのにどこかぬくもりを感じさせるようなそんな中を、俺は一人歩みを進めた。

 

 それから、どれだけ歩いたころだったか。

 

 三十分か、一時間ぐらい後のことだった。

 

 自分の足音以外に音も無かったこの荒野に、一発の銃声が轟いた。

 

 

 



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6・用心棒のギター弾き

 荒野に鳴り響いた銃声はどこか遠雷にも似ていたが、その後すぐに三発の銃声が聞こえ、続いて複数の馬の嘶きと、ガラガラと馬車が走り去るような音も聞こえてきた。俺はそちらに目を向けた。

 

 視界の遠く、雪に隠されてはっきりと見えないが、馬車か荷車のようなものが走っているのが見えた。

 

 それを追うように四頭の馬も走っている。

 

 やがてそれらは、雪の向こうに消えていった。

 

 俺はそちらに向けて歩き出す。

 

 すぐに雪の平原に、荒々しい馬蹄の跡と、真新しい轍が現れた。その後を追うように俺は進む。

 

 何故かって?

 

 それはこの進む先に、あるものを見つけたからだった。

 

 一人の男が雪の平原を朱に染めて仰向けに倒れていた。両手で散弾銃を構えたまま、その表情は苦痛と驚愕に冷たく固まっていて、胸に数発の弾痕が生々しく残っている。

 

 なるほど、さっきの銃声の正体はこれか。傍に残る轍と馬蹄の跡からみて、恐らくこの男は馬車に乗っていたのだろう。となれば、撃ったのは馬に乗っていた連中か。

 

 などと考えていると、轍の伸びる先で再び銃声が上がった。

 

 続いて馬の嘶きと車輪が軋む音がし、雪の白幕の向こうから一台の馬車が勢い良くこちらめがけて近付いてきた。

 

 馬車は一頭立ての荷馬車で、剥き出しの荷台には一抱えぐらいの大きさの木箱やパンパンに膨らんだ麻袋が積み上げられていたが、その荷馬車の手綱を握っていたのはたった一人の老婆だった。

 

 その老婆は左手で手綱を握りながら、もう片手に切り詰めた散弾銃を持っていて、後方を気にしながら必死の形相で馬を駆る。

 

 荷馬車が倒れたままの死体の傍まで近づいて止まった。

 

 老婆はそこで初めて俺の存在に気がついたようで、ギョッとして白髪を振り乱しながら叫んだ。

 

「な、何やお前はっ。連中の仲間かっ!?」

 

 そう言って俺に散弾銃の銃口を向けてきた。

 

 フム、なるほど。どうやらあの馬の連中に追われているというわけか。

 

「なあに、俺は怪しいもんじゃない」

 

 俺はギターケースを足元に置き、背中のギターを示して見せた。

 

「ただの、マリアッチ」

 

「ギタ-弾きじゃと?」

 

 老婆は訝しげに眉をひそめたが、その時、遠くからあの馬蹄の音が近付いてきたのを聞いて、カッと目をむいて、背後を振り返ってその音のする方向へ向けて散弾銃をぶっ放した。

 

 雪の向こう、馬が怯えてたたらを踏む気配がする。

 

 だが、すぐに体勢を立て直し、またこちらへ向かってくる。

 

「ええい、しつこい連中じゃわい」

 

 老婆は再び散弾銃を撃とうとしたが、今度は弾が出なかった。

 

 弾切れか、不発か。

 

 老婆はすぐに散弾銃を投げ捨てると、まるで転げ落ちるように荷馬車から飛び降りて、例の死体へと駆け寄った。

 

 その死体の持っていた散弾銃をひったくると、すぐに馬がやってくる方向めがけて撃とうとした。

 

 が、やはり弾は出なかった。

 

 老婆は驚いたように手元の散弾銃を見つめ、もう一度引き金を引いてみて、それでもやはり弾が出ないことを知ると、それを放り出してあたりをキョロキョロと見渡し始めた。

 

 そこで、もう一度俺の方を向いて、老婆は再びギョッとしたように目を見開いた。

 

 正確に言うと、老婆は俺と目が合ったわけじゃなく、俺の腰のホルスターに目を止めたのだ。

 

「何じゃそのゴツイ銃は!?」

 

「ただの、護身用さ」

 

「よこせ!」

 

 俺は一瞬、自分の耳を疑った。

 

 なんだって、よこせだと? 今度は俺が目を剥く番だった。

 

「莫迦いうな」

 

「ならば買い取る。二百出す。早くよこせっ。ええい、三百じゃ、これでいいじゃろう!」

 

 なんて無茶苦茶な婆さんだ。

 

 俺の腰のホルスターに取りすがってこようとする婆さんを、俺は押し留めようとして――ほんの一瞬早く感じ取った殺気に、俺は婆さんの肩を掴んだままその場に伏せた。

 

 銃声と同時に、伏せた俺の頭上をライフル弾が風を裂いて飛び去っていった。

 

 すぐに、雪景色の向こうから四頭の馬と、それに跨る四人の男たちが手に手に銃を持って現れた。

 

 ライフルが二人、散弾銃が一人、拳銃が一人。意識するまでも無く目がそれを確認し、自分でも気がつかぬうちに手袋を外して、俺は立ち上がった。

 

「かっ。乱暴な若造じゃ」

 

 俺に引き倒された婆さんも、俺をジロリと睨み付けながら立ち上がる。

 

 命拾いしたのは誰のおかげだ、と言いたい所だが黙っておくとしようか。

 

 婆さんは服についた雪を払いながら――またみすぼらしい服だな、おい――やってきた男たちに目を移し、フンとふてぶてしく鼻を鳴らした。

 

 男たちの訝しげな視線が俺に集まり、すぐに四人の間にも視線が飛び交う。

 

 無言の会話は一瞬で終わり、拳銃の男が俺に銃口を向けて、引き金を引いた。

 

 男が発砲する直前に、俺は右脚を僅かに後ろへ引いた。

 

 相手の銃口の角度から予想した通り、一瞬前まで俺が右脚を置いていた場所が銃弾に抉られ、雪交じりの土が舞い上がった。

 

 問答無用でえげつない真似しやがる。とりあえず、そのまま後ろへ倒れるように座り込んだ。

 

 そんな俺の姿を見て、男たちの視線は訝しげなものから、愉快げな表情に取って代わった。連中の遊び相手と認識されたらしい。

 

「婆さん、もう次の用心棒を雇ったのか。手際の良い事だ」

 

 拳銃が乱射され、目の前で土が次々に舞う。

 

「まてまて、俺は用心棒なんかじゃない。俺はただのマリアッチだ」

 

 俺は、ギターケースを引き寄せて見せた。

 

「マリアッチ? ギター弾きか。こりゃあ良い。おい、早速一曲頼もうか」

 

「選曲は?」

 

「挽歌だ。婆さんとお前の分」

 

「ご冗談」

 

 俺はギターケースを前に立て、身を隠す。

 

 拳銃の最後の一発が、ギターケースに当たって跳ね返った。気がつきゃ、婆さんも俺の背後に隠れている。

 

「四百じゃ。まだ売らんか」

 

 まだ言うのか。

 

「あんたに扱える代物じゃない」

 

「フン、ケチめ」

 

 他人を勝手に盾にしておいて良くぞ言えたものだ。

 

「おいマリアッチ、腰に必要ないものがぶら下がっているぜ。そいつをよこせ」

 

 男の一人が散弾銃で示しながら、俺に命じてくる。

 

「こりゃ、よこすならワシによこせ」

 

「だから、そいつは無理だって。……いやいや、あんたらに言ったわけじゃない。なぁ、大人しく渡したら見逃してくれんのかい?」

 

「そうだな、寿命は延びるだろう」

 

 ライフルが、散弾銃が、今度ははっきりと俺に向けられた。

 

「今すぐじゃなく、婆さんの後に殺してやる」

 

 ありがたい申し出に涙が出そうだ。

 

 俺の背中からは相も変わらず、婆さんが俺の拳銃を競り落とそうとしていた。

 

「六百じゃ。もう出さんぞ」

 

 この婆さんも大概だな。だが、まあ仕方ない。

 

「こいつは、サービスにしとくよ」

 

 座り込み、ギターケースに身を隠したまま、俺は黒鷹をホルスターから引き抜いた。

 

「あっ」

 

 と誰かの驚きの声と、銃声。散弾銃と二挺のライフルが跳ね飛んだ。

 

 三人は呆然として、何も無くなった手元を見ていた。

 

 拳銃の男が慌てて俺に向けて引き金を引いたが、撃ちつくしたはずの銃から弾が出るはずも無く、撃鉄の落ちる音だけが虚しく響いた。

 

 とりあえず、その拳銃も弾き飛ばしておく。

 

「さて、どうする?」

 

 俺は赤鷹も引き抜いて立ち上がる。

 

「寿命は選ばしてやるよ。だれから死にたい?」

 

 俺の言葉に、男たちの表情が見る見ると変わっていくのが判った。それはもう、はっきりと。

 

 捨て台詞の一つも吐かずに、連中は馬頭を巡らせて一目散に逃げ去っていった。

 

 その姿が雪霧の向こうに消え、その馬蹄の谺が遠ざかっていくのを確認して、そこで俺はようやく黒鷹と赤鷹をホルスターに納めた。

 

「さて婆さん、こんなもんでどうかな?」

 

 そう言って振り返ってみると、婆さんが散弾銃を構えていた。

 

「おいおい、何の冗談だよ?」

 

 銃口ははっきりと俺に向けられている。

 

「おぬし、一体何者じゃ?」

 

 俺を睨み付けながらそう言う婆さんは、今にも散弾銃の引き金を引きそうな勢いだ。

 

 でも、この銃は確か弾が出なかったんじゃないか?

 

 まぁ、整備不良だろうが、不発弾だろうが、何にしろ銃なんてものは正面から拝むもんじゃない。

 

「何者も何も、最初に言っただろう? 俺は、ただのマリアッチ。しがない、流しのギター弾き」

 

 とりあえず、敵意の無いことを示すために両手を頭上に掲げ挙げて見せた。

 

「“ただの”“しがない”ギター弾きのくせして、銃の扱いに長けとるようじゃの?」

 

 妙に強調して言うのはやめて欲しいもんだ。自分で言っておいてあれだが、他人に改めて言われると気が滅入る。

 

「言っただろう、護身用だって。お守りじゃない。使いこなせなきゃ、ただの重い鉄の塊だ」

 

「フン」

 

 婆さんは不審げに鼻を鳴らして見せた。果たして納得してくれたかな。

 

 と言うより、この婆さんこそ何者だ。

 

「婆さん、何であんな物騒な連中に追われていたんだ?」

 

「こりゃ、質問しとるのはワシじゃぞ」

 

 俺の胸に、銃口がぐいぐいと押し付けられた。

 

「判った判った、俺は何も聞かない。婆さんの質問に答えるだけ。だから、頼むから引き金引くなよ。弾が出ても出なくても、心臓に悪い」

 

「もう一つじゃ。ワシを婆さんと呼ぶな」

 

「じゃあ、なんて呼べば良い?」

 

「マドモアゼルに決まっとるじゃろう」

 

 お嬢さん(マドモアゼル)。なんて呼べる少女が何処にいる?

 

 口が曲がっても言えるか。

 

「なんじゃい、その嫌そうな顔は?」

 

「いやいや、そんな顔しないから、お願いだから鼻先に銃口押し付けるのは止めてくれ」

 

「だったらワシをちゃんと呼んでお願いせい。ほれ」

 

「マ、マドモ……マド…モア――」

 

 いかん、喉が引きつりそうだ。

 

「無理だ!」

 

「失礼なやっちゃのう」

 

 ガチン、と俺の目前で撃鉄の落ちる音が響き渡った。うわぁ、あっさり引き金引きやがったよ、この婆さん。

 

「驚いたか? 安心せい、この銃はとっくに弾切れじゃわい」

 

 婆さんはそう言って、ようやく俺から銃口を逸らした。そのシワだらけの顔に、何とも人の悪そうな笑みが浮かんでいる。

 

「おぬし、悪い人間じゃなさそうじゃのう」

 

「すぐにでも悪人になりそうだ」

 

「ふぇっふぇっふぇっ、どうせ弾が出ない銃と気付いていたんじゃろうに。それでも大人しく従ってくれたお人好しがそんなこと言っても説得力無いわい」

 

 婆さんは俺の横をすり抜けて、俺が撃ち落した散弾銃やライフル銃を拾い出した。

 

 拾いながら、

 

「おかげさんで助かったわい。礼を言うぞ」

 

「ようやくか。まぁ良いけどな。俺のこと、信用してくれたんだな」

 

「本物のギター弾きかどうかは別としてだがの。ま、どっちでもワシには関係ないわい」

 

 婆さんは両手いっぱいに武器を抱えもつと、よたよたと自分の馬車へ歩き戻った。

 

 荷台に拾った銃を放り込み、よっこらせと掛け声をかけて御者席によじ登る。

 

 婆さんはそこで荷台に手を伸ばし、手近にあった袋から何かを一掴み取り出した。婆さんは手の中でそいつをより分けると、

 

「ほれ、さっきの礼じゃ」

 

 そう言って、俺に放ってよこしたのは、数枚の銀貨だった。

 

「サービスだって、言ったぜ」

 

「物事には常に相応の値が付きまとうんじゃ。見返りを求めない行為なんぞワシは信用せん。ええか、タダほど怖いもんは無いんじゃぞ。黙って受け取れ」

 

「なるほど」

 

 なかなか、面白い人生哲学だ。

 

 俺は受け取った銀貨を懐にしまいこんだ。

 

「じゃあな、婆さん」

 

 俺はそう言って歩き去ろうとしたが、

 

「まぁ待てマリアッチ、おぬしはこれから何処へ行く?」

 

「北はずれの村だ」

 

「ワシと同じじゃな」

 

 婆さんは一つ頷くと、御者席の自分の隣の席をポンポンと叩いた。

 

「何だ婆さん、乗せて行ってくれるのか?」

 

「言っておくが、タダじゃないぞい」

 

「いくらだ?」

 

「ちょうどおぬしに渡した銀貨分じゃ」

 

 そう言ってにやりと笑った。まったく、この婆さんは。

 

「客じゃなく用心棒として乗せてくれ。それでチャラだ」

 

「ええじゃろう。商談成立じゃ」

 

 俺が御者席の婆さんの隣に座ると、荷馬車は再びガタゴトと進みだした。

 

「ところで」

 

 と、俺は背後の荷馬車を眺めながら、隣で手綱を握る婆さんに訊ねた。

 

「この大荷物は一体なんだい?」

 

「気になるか?」

 

「そりゃ当然。さっきの連中に襲われていたのもこれが原因じゃないのかい」

 

「ふぇっふぇっふぇっ、そうじゃ。ワシの全財産よ」

 

「本当かよ」

 

 俺は改めて荷台をしげしげと眺めてみた。

 

 さして広くも無いその空間に、木箱が一つと、大中小といろんな大きさのズダ袋が身を寄せ合って詰め込まれている。

 

「中身は?」

 

「食料と衣服と金じゃ。ついでに銃」

 

 どれがどの袋に入っていようが、これはかなりの量だ。婆さん一人の荷物にしちゃあ多すぎる。

 

「旅の商人か何かか?」

 

「いいや、ワシの土地と家を売り払って手に入れたもんじゃ。まったく、どこから嗅ぎ付けてくるのか、盗賊どもがしつこく襲ってきよる」

 

 そりゃそうだろう。大荷物に婆さん一人じゃ、襲ってくれと言っている様なものだ。

 

 振り向いた俺の視界の遠く、野ざらしのままの男の死体が、雪幕の向こうに消えていった。

 

「あれは前の用心棒か?」

 

「気にする必要は無いわい。用心棒ゆうても、盗賊に襲われた途端に手の平を返したような奴じゃ」

 

「盗賊の一味だったのか」

 

「違うじゃろう。単に命が惜しくなったか、ワシの財産が欲しゅうなったか、どちらにしろ裏切りそうになったからワシが先に銃を突きつけてやった。そうしたら泡食らって馬車から飛び降りて行ったわい。その後は知らん。銃声が聞こえたから、盗賊どもに撃たれたんじゃろう」

 

 さいですか。あの用心棒も、盗賊も、この婆さんを侮ったのが運のつきって訳だ。

 

 名も知らぬ元・用心棒に対し、とりあえず十字を切っておく。

 

「Amen」

 

「何の真似じゃ?」

 

「死者は、悼むべきだ。一応」

 

「一応、か。いい加減な男じゃのう。マリアッチじゃろう。どうせなら鎮魂歌の一つでも歌ったらどうじゃ」

 

「マリアッチだからな、商売じゃないと歌わない。どうせ、あんたは金を払う気なんかないんだろう?」

 

「当然じゃ」

 

「だったら、これだけの財産、何のためにここにある?」

 

「これだけの財産と引き換えにするだけの、価値あるものを手に入れるためじゃ」

 

 婆さんの声が不意に低くなった。

 

 その目は、馬車の行く先をジッと見つめていた。

 

「おぬし、若さを与える聖女の噂を知っておるか」

 

 この問いに、俺は首を横に振った。即座に、本当に知らないように、だ。

 

 俺は、ただのマリアッチ。北はずれの村へ行くことに、商売以上の意味は無い。

 

 俺のそんな態度を、婆さんは横目で見て、そしてゆっくりと説明しだした。

 

「おぬしがこれから行こうとするところ、ワシが向かおうとするところ、その村の教会に、人を若返らせる術を持つ女が居るそうじゃ。ワシはその真偽をこの目で確かめに行く。そして、もしそれが本当なら……」

 

「……若返らせてもらおうというのか。この、全財産と引き換えに」

 

 婆さんは頷いた。

 

 その表情は真剣そのもので、それどころか妙な気迫まで漂っている。

 

 若返る。

 

 それだけのために、家も土地も売り払い、盗賊の横行する荒野を老いた身一つで旅する危険を冒すのか。

 

「そこまでして、若返ってどうしようって言うんだ」

 

「どうしよう、じゃと?」

 

 婆さんが俺を睨み付けてきた。

 

「若返るんじゃぞ。それ以上のことなぞあるか」

 

「それだけ。それだけなのか」

 

 理解できない俺に、婆さんの視線が不意に哀れみを込めたようなものに変わった。

 

「のうマリアッチ、おぬし、歳は幾つじゃ」

 

「歳?」

 

 突然の質問に、俺は少々面食らいながらも、自分の年齢を指折り数えてみようとして―――途中でやめた。

 

「二十から三十の間ぐらい、どっかその辺りだと思う」

 

「何じゃいそりゃ」

 

「親は、俺の生まれた歳を憶えちゃいなかったのさ。親父自身も自分の歳を知らなかった。俺たちの一族にとっちゃどうでも良い事だったんだ。だから俺も知らないのが当たり前だった」

 

「とことん適当な男じゃのう。おぬしは」

 

 婆さんは呆れたように溜息を一つ吐いたが、

 

「だが、おぬしは若い。それだけは確かじゃ。恐らく普通の生き方をしていれば、この先、今の年齢の倍ぐらいは生きることも出来るじゃろう。たとえ今の行き方を変えたとて――そう、おぬしがマリアッチ以外の生き方を選んだとして――充分にやり直す時間が残されておる。だがな、ワシを見ろ。この先いくらも残らぬ老いた身じゃ。ワシが出来る事といったら、朽ち果てるのを指折り数えてただ待つだけの日々じゃ。それは、あまりにも虚しいと思わんか。悔しいと思わんか。だから、ワシは若さを買いに行くんじゃ」

 

 真剣に語るその表情。

 

 俺は、問いかけた。

 

「人生を、やり直したいのか。……自分の人生を後悔しているのか」

 

「ふむん。後悔、か」

 

 婆さんは鼻を鳴らした。

 

 俺は重ねて問うた。

 

「だって、そうだろう? 若返るってことは、今までの人生を否定することだ。あんたが積み重ねてきた時間も、思いも、人生そのものを、巻き戻したいということじゃないのか?」

 

「ふぇっふぇっふぇっ」

 

 突然、婆さんが笑い出した。

 

「だから、おぬしは若いというのじゃ。たかだか三十年も生きておらんようなガキに、いったい何が判る」

 

「判らんね。だが、俺はたとえ激しく後悔するような人生でも、やり直そうなんて思わない」

 

「いっちょ前の振りして気張ったことを言いよってからに。人生なんていつだってやり直せるんじゃ。こんな老人でもじゃ。ワシはそれを証明しちゃる。そのためには、今のワシの全財産をなげうっても構わんのじゃ。いや、ワシの新しい人生を買うんじゃ。それだけの対価はむしろ当然じゃろうて」

 

 婆さんが手綱をふるい、馬車が僅かに速度を上げた。揺れた荷台で、積み込まれた婆さんの全財産がゴトリと音を立てる。

 

 この重そうな荷物を、婆さんは本気で全部捨て去るつもりなのだろうか。己の若さと引き換えに。そのことに、それだけの価値があるのか。

 

 若返りの術。

 

 その正体がもし俺の考えているものだとしたら、婆さんのその行為は単なる愚か者の所業に過ぎない。

 

 だが、俺はふと自分の服装と、そしてギターケースに目を落とした。

 

 黒い服は親父から、そしてギターケースは祖父さんから、先祖代々受け継がれてきた、俺の全財産にして宿命そのもの。

 

 もしも、これを投げ捨てることが出来るなら。などという考えが、ほんの一瞬、俺の脳裏を過ぎり去った。

 

 すぐに俺の心に激しい後悔が襲い掛かってきた。

 

 何を莫迦なことを考えているんだ。出来るはずが無い。一年前、自分勝手な想いから、彼女を殺せずに苦しめ続けているこの俺に、そんな資格は無い。

 

「……罪は、消えない……」

 

 我知らず、思わず口を吐いて出た言葉に、

 

「ふん」

 

 と、婆さんは短く鼻を鳴らして見せた。

 

 日暮れが近付いてきたのか、少しずつ、周囲が薄暗くなり始めた頃、馬車は北はずれの村に辿り着いた。



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7・奇跡の町のギター弾き

 雪幕に煙る荒野の、そのだだっ広い景色の向こうに薄ぼんやりと街並みが浮かび上がっていた。

 

 荷馬車はその町へ向かって、雪でぬかるんだ地面を進んでいく。

 

 街の入り口から真直ぐ東西に伸びる表通り。

 

 その両脇には乗合馬車の詰め所や、その馬車の修繕屋。

 

 酒場に、その二階には宿屋。

 

 郵便局に、保安官の詰め所。

 

 床屋に棺桶屋。

 

 そして教会なんかがひしめいていて、要するに、この荒野の何処にだってありそうな、典型的な開拓民の街並みだった。

 

 町の入り口は東側を向いていて、そこから西へ伸びる表通りの手前に宿屋。通りの一番奥に教会という配置だったが、それにしても奇妙な雰囲気が漂っていた。

 

 表通りに、人っ子一人見当たらないのだ。

 

 俺たちを乗せた荷馬車が町の入り口に差し掛かり、その宿屋の前に差し掛かっても、その建物の窓と言う窓の全てはカーテンで閉ざされていて、中の様子をうかがい知ることは出来なかった。

 

「こりゃどういうことじゃ?」

 

 婆さんが訝しげに首を捻った。

 

「誰もおらんとは、廃村にでもなってしもうたのか」

 

「いいや、そうでもないだろう」

 

 俺は首を横に振った。

 

 人の住まない町は急速に荒廃していく。だが、ゴーストタウンにしては、この町は整然としていた。どの建物も放置されたような様子は無いし、表通りの雪でぬかるんだ土の上には、この荷馬車以外にも轍や足跡が残っている。

 

 この町には紛れも無く、人の気配があった。

 

「まるで、眠っているような町だな。例えるなら、そう、真夜中の町並みだ」

 

「なに言うとる。まだ日暮れ時じゃろうに」

 

「夜行性の住人なのだろうさ、きっと」

 

 俺の言葉は半分以上は本気だったが、婆さんには半分以下の冗談としか伝わらなかったらしい。

 

「おぬし、ユーモアのセンスが無いのう」

 

 やれやれと溜め息を吐かれてしまった。

 

 そうこうしているうちに荷馬車は、町のちょうど中心近くまで歩みを進めていた。

 

 その時、辺りに鐘の音が響き渡った。

 

 カーン、カーン、と何処かヒビ割れたような古臭い鐘の音色。

 

 曇天の下、ゆっくりと牡丹雪が舞い降りるこの町の中を、冷たい風が吹きぬけていくようにカーン、カーンと通り過ぎていく。

 

 それが教会の鐘楼の鐘だと気付いたのは、既に六つ目の鐘が鳴り終えた後だった。

 

 日暮れの鐘だ。俺はそう思った。

 

 その鐘が合図だったように、辺りに急速に人の気配が満ち始めた。

 

 今まで締め切られていた窓のカーテンが次々と払いのけられ、建物の戸が開け放たれ、中から人々が通りへと繰り出してくる。さっきまでのゴーストタウンぶりがまるで嘘のように、町に活気が溢れ出していた。

 

 空は更に暗くなり、何処からか現れた街灯守がカンテラを手に、通りの両端に並び立つ街灯に次々と火を燈していく。

 

 建物の窓々から漏れ出す蝋燭の明かりも手伝って、町は雪降る夜の暗闇に薄ぼんやりと浮かび上がった。

 

 本当に、遠くから町を眺めたときといい、今といい、何処までも薄ぼんやりとした町だった。

 

 ユラユラと揺らめく灯火の元を、人々がまるで影法師のように歩きわたって行く。現実感に乏しいその景色はまるで、無人の町で幽霊たちが舞台を演じているような、そんな感覚だった。

 

 不意に、俺たちに声がかけられた。

 

「来訪者かね?」

 

 その声に、俺と婆さんは声のした方へ振り向いた。

 

 そこに、テンガロンハットを目深に被り、腰に革鞭を吊るした青年が立っていた。

 

 胸に光る金バッヂは保安官の証。

 

「見聞の旅じゃ」

 

 と、婆さんはニヤリと口端を歪めた。

 

「この町の名物は何じゃ?」

 

「敬虔なる信者にのみ姿を現したもう天使」

 

 保安官が気取った口調で答えた。

 

「ようこそ、奇跡が舞い降りし町へ」

 

 そして、テンガロンハットに隠された視線が俺に向けられた。

 

「滞在するのなら、武器を預からせていただく」

 

 そこに居たのは保安官ただ一人だと思っていたのに、その背後からまるで湧き出るように五人の青年たちが現れた。

 

 全員がライフルと拳銃で武装した保安官助手で、彼らはぬかるんだ通りの土の上を滑るように音も無く移動し、荷馬車を取り囲んだ。

 

「よかろう、従うわい」

 

 婆さんは大人しく荷台からライフルや拳銃を彼らに放ってよこした。これは町に入る際の当然のルールだ。逆らう理由は無い。

 

 俺もホルスターに手を伸ばそうとしたが、保安官に止められた。

 

「我々の手で預からせてもらう。荷馬車から降りていただこう」

 

 俺はギターケースを置いたまま御者席から降り立とうとしたが、ギターケースも持って降りるようにと指示してきた。

 

 ケースを左手に下げた俺に、銃に触れないよう右手を上げるようにと保安官は命じた。

 

 言われたとおりにすると、助手の一人が俺の背後からホルスターに手を伸ばし、慣れた手つきで黒鷹と赤鷹を抜き去っていった。そして、

 

「ケースも開けていただこう」

 

 俺はためらった。

 

「ただのギターさ」

 

「なら、その背負っているものは何かね?」

 

「これも、ギターさ。俺は、マリアッチ。二本のギターを使い分ける」

 

「開けて確認させてもらう。こちらに渡したまえ」

 

 俺は渋々従った。

 

 渡すことをためらったのは、この地面のためだ。俺の悪い予想通り、ギターケースを受け取った助手は、それを一切の躊躇無くぬかるんだ地面に下ろした。

 

「祖父さんの形見なんだぞ。そんなところで開けるな」

 

「それは、失礼したな」

 

 保安官は口だけ謝ってみせただけで、そのまま助手に蓋を開けるように指示した。まったく、人の商売道具を何だと思っていやがる。

 

 憮然とする俺の態度を意にも介さず、その蓋が開けられた。

 

 蓋の下から、ケースにピッタリと収まった一本のギターが姿を現した。

 

「もういいか?」

 

「充分だ」

 

 俺の言葉に保安官の青年は頷き、助手がケースの蓋を閉めると、それを俺に返した。

 

 俺が泥だらけのままのケースを受け取った、そのときだった。

 

 突然、通り一帯に悲鳴が響き渡った。

 

 保安官を含め、俺たちは一斉に悲鳴のした方向に顔を向けた。

 

 俺たちの視界の先、床屋の戸が勢いよく外に開かれ、一人の男が首筋を手で押さえながら通りへ飛び出してきたところだった。

 

 その手で押さえた首筋からは鮮血が勢いよく噴出し、男の着ていた上着を赤く染め上げている。

 

 男は通りの真ん中でばったりと倒れ臥した。

 

 そのすぐ後に、床屋からもう一人の男が飛び出してきた。

 

 恐らくは床屋の店主だろうか。手に剃刀を持ち、前掛けを着ているものの、元は白かったであろうその布地は、血で汚れていた。

 

 床屋のその顔には、笑みが張り付いていた。

 

 明らかに正常でない、その笑みが、通りをグルリと見渡して、そして、俺と婆さんに向けられ止まった。

 

 そこから先はあっという間の出来事だった。

 

 床屋はまるで獣のような咆哮をあげると、剃刀を振るい上げながら俺たちめがけ突進してくる。

 

 俺は反射的に腰のホルスターに手を伸ばしていたが、それよりも早く、目の前で細長い影が宙をうねり、風切音が響いた。

 

 鞭だ。それも十メートルはある長大な鞭だった。

 

 鞭を放ったのは、俺の傍らにいた保安官だった。もしも蛇が空を飛んで獲物に襲い掛かるならば、正にこのような光景だろう。保安官が操る長大な革鞭はまるで意思を持っているかのように宙をうねり、突進してくる床屋の脛をしたたかに打ち払っていた。

 

 脚を払われて、もんどりうって倒れたその床屋に、跳ね上げられた鞭が再び唸りを上げて打ち下ろされる。

 

 激しく響く肉打つ音。

 

 それと同時に五人の助手たちが拳銃を撃っていた。

 

 全身に五発の弾丸を浴び、床屋は泥にうつ伏せに倒れたままそれきり動かなくなった。

 

 ホルスターに伸ばされた俺の指は、虚しく空を掴んでいた。

 

「な、なんじゃい。一体どうしたって言うんじゃ?」

 

 本当に、一体いつの間に移動したのやら。婆さんが俺の背後から顔をのぞかせた。

 

「お騒がせ、いたしましたな」

 

 保安官がテンガロンハットを被りなおしながら、事も無げに言った。

 

 伸ばされた革鞭がその右手にスルスルと巻き戻されていく様は、まるで魔法のようだ。

 

「どうやら、気が触れてしまったようだ」

 

 二人の助手が床屋の傍へ行き、その身体の両手両足を持ち上げ、何処かへと運び去っていく。

 

 残る三人が通りの真ん中で倒れている男のそばへと向かい、その容態を見ていたようだが、そのうちの一人がこちらを振り返って首を横に振って見せた。

 

 保安官が頷いてみせると、助手たちはその男の身体も、どこかへと持ち去っていってしまった。

 

「…Amen」

 

 まるで何事も無かったかのように、通りは元通りになった。

 

 周りを歩く人々も、保安官も、何一つ狼狽したそぶりが見られない。

 

 なんでもない、いつものこと。そんな感じだ。

 

「今年はよく、病が流行る」

 

 保安官が自分のテンガロンハットを指でトントンとつついて見せた。

 

「脳にくるようだ。気をつけるといい」

 

 保安官はそう言い残し、保安官の詰め所へと歩き去っていった。

 

 通りに残された荷馬車と俺たち二人だったが、保安官が立ち去るのを待ちかねていたように新たな人物が俺たちめがけ歩み寄ってきた。

 

「いらっしゃい、旅人さん。いきなり大変な場面に遭遇したもんだね」

 

 少年の面立ちを微かに残すその男は、酒場からやってきた。

 

「流行り病らしいのう。本当かの?」

 

「風土病の一種でね。厄介なもんだ。床屋があの有様じゃ、店もしばらく休業だな」

 

 そう言って首をすくめて見せる。

 

 男のそのあっけらかんとした態度に、俺と婆さんは思わず顔を見合わせてしまった。

 

「さあさ、旅人さん」

 

 男が陽気に声をかけてきた。

 

「ついに日が暮れた。あたりはどんどん暗くなる。僕の酒場に来なさいな。カウンターでワインを飲み、二階のベッドに潜り込めば、冷えた身体も暖まるというものです」

 

 男――つまりは宿屋の従業員だろう――につれられ、俺たちは酒場へと向かった。

 

 その酒場は、夕食時だからだろうか、そこそこ客が入っているようだったが、賑わっているかといえば、それはそれで違うようだった。

 

 店の広さに対して、数も光量も足りなさそうなランプの灯りの下、客は皆、一人ひとりカウンターやテーブルに向かって背中を丸めながら腰掛け、声を発することも無く、ちびりちびりと赤ワインを嗜んでいた。

 

 表通りを漂っていた影法師たちは、酒場の中でもやっぱり影法師のままだった。

 

 薄明かりの酒場の中、彼らの飲んでいる赤ワインのグラスだけが、異様な色彩を周囲に放っているように見えた。

 

 婆さんは店の外で、あの男と荷馬車の置き場所について話し合っていた。

 

 一人で店内に入った俺に、カウンターの向こうでグラスを磨いていたバーテンが声をかけてきた。

 

「ギター弾きか、珍しいね」

 

 俺たちを酒場に案内した男とよく似た顔立ちの、やはり若い男だった。

 

「この店には足りないものがあるみたいだ」

 

 俺はそう言って、背中のギターを示して見せた。

 

「一曲どうだい?」

 

「いらないよ」

 

 バーテンの言葉はにべも無かった。

 

「この町の住民が好む曲は、あんたには歌えないね」

 

「随分な言い草だな。古い歌から、流行り歌まで、何でも歌って見せるさ」

 

 もっとも、上手いか下手かは別として。

 

「じゃあ、あんた。ギターで賛美歌が歌えるかい?」

 

「賛美歌だって? 酒場で歌う曲じゃない。それとも何か。酒の神バッカスにでも捧げるのか?」

 

「荘厳なパイプオルガンの調べに乗せてたおやかに流れる無垢なる歌声。この町の住民が聞きたいのはそれだけだよ。……少し静かに、耳を済ませてみな」

 

 バーテンに言われるまでも無く、俺の耳にもそれは届いていた。

 

 静寂に満ちた酒場の中、何処からともなく囁くように聞こえてくるその歌声。

 

 

――

 

主よ 寄るべ無き者をお救いください

 

哀れみをお与えください

 

この世は醜すぎるから

 

迷えるものをお救いください

 

皆 主を頼っています

 

主に見放されたなら

 

誰に救いを求めましょう

 

――

 

 

 俺は窓に眼を向けた。

 

 ガラス越しの景色に、教会が見えた。歌声はそこから流れてきているようだった。

 

 大声で歌っているわけではない。耳を澄まさなければ聴き取れない。だが、その良く通る澄んだ歌声は、この酒場の静寂に染み入るように届いていた。

 

 それはきっと、祈りの歌だからだろうか。

 

 神に向けられた祈りの歌はきっと天にむけて歌われていて、その想いが波紋となってここにも届いているのかもしれない。

 

 

――

 

主よ 寄るべ無き者をお救いください

 

傷つき敗れ去っていく人々を

 

なぜ この世に生まれたか

 

答えを求めようとする人々を

 

不幸せな風に運び去られ

 

天の運に見捨てられた人々を

 

どうか見捨てないで下さい

 

貧しきもの 不幸なもの

 

弱きもの  異形のもの

 

私たちは皆 神の子のはずです

 

――

 

 

 しばし聞き惚れていた。

 

 だが、その微かな歌声も終わりを告げた。

 

 バーテンの意味ありげな視線が俺に向けられたので、俺は素直に降参の意として懐から銀貨を取りだした。

 

「メシ代替わりに一曲と思っていたが、そいつは無理みたいだ。メニューは何があるんだ?」

 

「パンとワインしかない」

 

「充分だ。しかし、ワインか。……他の酒は無いのか?」

 

「ワインしかない」

 

「赤だけか?」

 

「赤だけだ」

 

「………水でいい」

 

 俺の言葉にバーテンは怪訝な顔をしたが、すぐに注文どおりのものが前に出てきた。

 

 俺は出された黒パンとコップ一杯の水を手にとって、酒場の片隅のテーブルに腰を落ち着けた。

 

 冬の冷気で更に硬くなった黒パンを指で小さく千切り、俺は耳の奥底に残る歌の余韻に浸りながら、それを頬張った。

 

 俺が一口目を飲み込んだときに、婆さんがズタ袋をひとつ担ぎながら酒場へと入ってきた。

 

「なんじゃい。店の中なら少しは温いと思うたら、外とちっとも変わりゃせんわい。なぜストーブを焚かん?」

 

 婆さんの文句に答えるものはバーテンを含め一人も居ないようだった。

 

 婆さんが店内をキョロキョロと見渡し始めたので、俺は手を振って自分の位置を示した。

「そこにおったんか。黒服なのにそんな暗がりに座ったんじゃ判らんわい」

 

 言うなり、婆さんは俺の向かい側の席によっこらせと腰を下ろした。

 

「陰気な酒場じゃな。マリアッチじゃろうに、商売はせんのか?」

 

「ときおり、静寂に勝る名曲は無いと思うことがあってね」

 

「ふん。教会から聞こえた、さっきの歌か。ギター弾きが人の歌に聞き惚れるとはのう」

 

 婆さんは呆れたように笑った。

 

「……少し、懐かしかった……」

 

「ん、何か言ったかの?」

 

 ぼそりと呟いた俺の言葉は、聞き取れなかったようだ。だが、それでいい。三口目のパンと共に、感傷は胸の奥に飲み下した。

 

 それにしても、この黒パンは味気ない。

 

 と、俺の鼻に、食欲を刺激するような香ばしい香りが漂ってきた。

 

 温もりを感じさせるコンソメの風味に、油のはじける音まで聞こえてきそうなジューシーな肉の香り。香辛料がそれらを引き立て、食事中にも関わらず俺の腹がグゥとなった。

 香りにつられ店内を見渡すと、ちょうど店の男が料理を盆に乗せてやってくる所だった

 

 その手にした盆の上には、湯気の立ったスープと、キツネ色に焼きあがった鳥の照り焼きが乗せられている。店の男はそれを俺の目の前に置いた。

 

「うむ、ご苦労じゃの」

 

 婆さんが鷹揚に言った。

 

 俺の目の前、つまり婆さんの目の前でもある。婆さんは早速、その熱いスープを匙で掬って一口飲み込んだ。

 

「おう、熱い熱い。ワシゃ猫舌なんじゃ」

 

 俺は立ち去ろうとした店の男に声をかけた。

 

「パンとワインしかないんじゃなかったのか?」

 

「ええ、そうですよ。この料理はそちらの方が持ってこられた食材で作ったものです」

 

 男が去り、入れ替わりにバーテンが近付いてきた。

 

「ワインはどうだい?」

 

「それより、もちっとマシな食器は無いんか? これじゃ肉に歯が立たんわ」

 

 婆さんの手には木製のフォークがあった。

 

「生憎とそれしかないんだ」

 

 その答えに、婆さんは首を横に振って、傍らのズタ袋から銀製のフォークと酒瓶を取り出した。

 

 バーテンはそれを認めると肩をすくめて立ち去っていった。

 

「全部、自前か。呆れたもんだな」

 

 婆さんは口いっぱいに頬張った肉を、壜からラッパ飲みした酒で飲み下した。

 

「何言うとる。ワシにとっちゃこれが当たり前じゃ。持っていた食料は全部、この店の主に売ってやったわい。おかげで荷物がかさばらずに済む」

 

 そう言って、傍らのズタ袋をポンポンと叩いた。おそらく、そのズタ袋に金や装飾品といった貴重なものが納まっているのだろう。

 

 ところで、

 

「店の主?」

 

「そうじゃ。さっきのあの若い男。従業員か何かと思っておったら、あれで主だそうじゃ。弟と一緒に店を切り盛りしとるといっていたのう。弟ってのはあれか?」

 

 婆さんがカウンターに居るバーテンに目を向けた。

 

「妙じゃの」

 

「何が? 若すぎることか?」

 

「おぬし、気付かんのか。さっきの保安官も妙に若かったじゃろう」

 

 そう言って、酒場の中をぐるりと見渡した。どうやら、婆さんは気がつき始めたようだ。

 そう、ここに居るものは皆、

 

「……若い。年寄りがおらん」

 

「そこに居るじゃないか」

 

 と、俺が目の前を指差すと、その当の本人から頭をはたかれた。

 

「やかましいわい、年寄りと莫迦にしよってからに。いいか、ワシが若返ったらなぁ――」

 

「――つまり、若返ったんだろう?」

 

 俺の言葉に、婆さんは「はぁ?」と怪訝な顔をした。

 

 俺は言った。

 

「ここは若返りの術をもつ、聖女の居る町だろう?」

 

「当たり前じゃろう、それを確かめるためにここまで来たんじゃ。……ん? …おお、そういうことか」

 

 婆さんはようやく納得し、ポンと掌を打った。

 

「これが聖女の奇跡、か。ワシらは実例を目にしとるかも知れんのじゃな」

 

「そうかも知らん」

 

「ふぇふぇふぇ、こりゃ良いわい。乾杯じゃ。ほれ、おぬしも杯をもて」

 

 婆さんは急に上機嫌になり、酒瓶を掲げ持った。

 

 俺は水を飲み干し、空になったコップを差し出した。

 

「おぬし、なにをやっとる? 空にしては乾杯にならんわい」

 

「俺にも注いでくれるんじゃないのか?」

 

「欲しけりゃ、払うもん払ってもらわんと」

 

 まったく、人生哲学を徹底している婆さんだ。この、しわい屋め。

 

「かわりに一曲、捧げてやるよ」

 

「静寂に劣る歌なぞ願い下げじゃ」

 

「揚げ足を取るなよ」

 

 酒を煽り、肉を頬張る婆さんを目の前に、俺は固いパンに噛り付いた。そのパンがあんまりにも固いので、だんだん顎が疲れてくる。

 

 俺がようやくパンを食べ終えた頃には既に婆さんも自分の分を食べ終わっていた。

 

 そこへ、酒場に新たな人物がやってきた。

 

 黒いレインコートの下に黒い服。その首元に巻かれたマフラーの隙間から、小さな銀の十字架が細い鎖に吊るされ、控えめに鈍い光を放っている。

 

 それは、教会の神父だった。

 



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8・過去の語りとギター弾き

 酒場に現れたその神父は、年の頃なら四十か、五十か。この町に来て初めて見た年配の男だった。

 

 神父は俺たち二人の姿を見つけると、朗らかな笑みをその顔に浮かべた。

 

「こんばんは、旅の方。良い夜ですね」

 

 神父は俺たちのテーブルの傍で丁重に頭を下げてみせた。

 

 それにしても、良い夜ときたもんだ。

 

「さっき、通りで床屋が撃ち殺されたけどな」

 

 皮肉のつもりでそう言ってみたが、

 

「あれは不幸な事故でした。まったく、痛ましい。喉を裂かれたのは棺桶屋でした」

 

「Amen。棺桶屋が余分に棺を作って有りゃ良いが」

 

「その心配はございませんよ。喜ばしいことに二人とも命を取り留めております」

 

「生きて、居る?」

 

 俺と婆さんはまたもや顔を見合わせた。

 

「棺桶屋は手当てが早かったおかげで。また、床屋も幸い急所は全て外しまして。しかし何より、全ては聖女様のお蔭といえるでしょう。どんな傷も、病も、たちどころに癒す聖女様の奇跡。あなた方も、その噂を聞きつけ、この町へいらしたのではないのですか」

 

 婆さんの顔が酒と興奮によって見る見ると紅潮していくのがわかった。

 

「聖女の奇跡とは、それほどのもんか」

 

「あの方は、主が遣わしたもうた天使です」

 

「棺桶屋と床屋の様子を見てみたい。その奇跡がどれほどのもんか、この目で確かめてみたいんじゃ」

 

 婆さんのその勢いに、神父は流石に困った様子だった。

 

「残念ながら、あの二人は重傷ですので、今は安静にしておきたいのです。しかし、あなたが奇跡をこの目で確かめたいというのなら、よろしい、この町が授かった聖女様の奇跡の数々のうちの一つを、お目にかけるとしましょう」

 

 神父はそう言って、自分のマフラーを解いた。露わになったその首を、神父は指で示して見せた。

 

 神父の首には、横に伸びた黒々とした痣が残っていた。それはまるで、荒縄で首を締め付けた痕のようにも見えた。

 

「これが何かお判りになるでしょうか。そうです。これは縄で首を絞められた痕なのです。……実を申しますと、私はかつて人の道を踏み外したことがあったのです。これは言い訳にしか聞こえないでしょうが、私は非常に貧しかったのです。何日も食事を取れない日がありました。餓死寸前だったその時、たった一度の食事のために、私は見知らぬ人からお金を盗もうとし、そして捕まったのです」

 

 神父は自分の首を手で撫でた。

 

「私に課せられた刑は、縛り首でした。厳しいと思っていただけますか。しかし、当時の私はそれを辛いとは思いませんでした。捕まってからというもの、私は牢の中でパンと水を頂けましたし、雨に打たれることも無く眠ることが出来たからです。再び釈放されて、またあの辛い浮世に戻るくらいならいっそ。そう思っておりました。そして、私の刑が執行されました。踏み板がはずされた瞬間のことまでは良く憶えております。覚悟はしておりましたし、半分望んでいたことでもありましたのに、どうしようも無く足が震え、泣き出しそうな気持ちでした。最期の最期で、私は叫んでいました。神様、とね。どうか、お助けください。そう願っていました」

 

 神父はそこで一旦、言葉を切った。

 

 カウンターに向き直って、少し手を上げると、バーテンは心得たように一杯の赤ワインを持ってきた。

 

「ワインは救世主の血と申します。あなた方も一杯いかが?」

 

 俺たちが遠慮したのを見て、神父は少し残念そうに杯を傾けた。唇をワインで湿らせ、神父は再び語りだす。

 

「刑が執行された瞬間、私の意識は途切れ、暗闇の底へ落ちていきました。そこは何も無い、真っ暗な闇なのです。闇と言う言葉すら消え去ってしまうような、そんな闇。だが、私を吊るした縄は、落下する私の身体の勢いに耐え切れず途中で切れてしまいました」

 

「それが、奇跡だと言うんかの?」

 

 婆さんの問いに、神父は静かに首を横に振った。

 

「確かに、奇跡の一つであったかもしれません。ですが、その時既に綱は私の首に食い込み、私は意識を失ったままの状態でした。もう一度刑を執行するまでも無く、私は死んでいたでしょう。事実、執行人たちは私が既に死んだものと考え、私の身体を処刑台に残したまま去って行ったのです。罪人は数日間、さらし者にされるのが決まりでしたからね。やがて日が暮れました。――妙ですか? そうですね。私は意識を失い生と死の淵を彷徨っていたというのに、まるで他人事のような話しぶりですから――つまり、私が意識を取り戻したとき、すでに周りは夜であったということです。そして、私の前には聖女様がおられました」

 

 神父は再びマフラーを首に巻きなおし、胸の前で十字を切った。

 

「それが、聖女様との出会いでした。あの方は私を抱き上げ、その首筋に手を添えられておりました。その指に触れられていますと、不思議なことに苦しくか細かった私の呼吸がだんだんと楽になっていくのです。その時、私は確信いたしました。このお方は神の使いなのだと。聖女様は私にこうおっしゃいました。私の力を、人々を救うために役立てたい。その手伝いをしてもらいたい、と。私は、聖女様に救われたこの命を、聖女様のために捧げることを誓いました」

 

 やがてこの町に辿り着き、彼は教会で働き始めた。

 

 教会は聖女の力を認め、いつしか彼は正式な神父となり、この教会を引き継いだと言う。

 

「信じて、もらえましたでしょうか?」

 

「だから、この目で確かめさせいと言うとるじゃろ」

 

 婆さんの言葉はにべも無かった。

 

「ワシゃ、自分の目で確かめたもの以外は信じない性質じゃ」

 

「では、まさか主の存在を疑っておられるのですか?」

 

「言葉尻だけを捕らえるもんじゃないぞい。神の姿は見えずとも、神の御意思は見ることが出来る。この世の森羅万象は神の意思によってあるからの。ただ、世にある奇跡と言うものが本当に神の意思に沿ったものか、それとも小手先のまがい物か。ワシが確かめるのはそれじゃ」

 

 婆さんのその言葉に、神父はその表情に喜色満面の笑みを浮かべて見せた。

 

「素晴らしい。貴女の信仰心はまさに本物です。判りました。彼らの元へ案内しましょう。その目で、奇跡をお確かめ下さい」

 

「ふん、つまらん真似しよってからに」

 

 立ち上がった神父に促されるように、婆さんも傍らのズタ袋を引っつかんで立ち上がった。

 

「待てよ。忘れもんだぜ」

 

 俺は机の上に置きっぱなしの銀のフォークを、布巾で綺麗に拭うとそのズタ袋に押し込んでやった。

 

「おぉ、すまんのう」

 

「物事には常に対価があるらしいな」

 

「ちゃんと対価分の礼は言ったぞ」

 

 やれやれ、この婆さんには敵わん。

 

 神父が、俺に顔を向けた。

 

「貴方は来られないのですか?」

 

「遠慮するよ。俺はただ、婆さんをここまで送る為に雇われた用心棒だ。いい加減、本職に戻るよ」

 

「ギター弾き、ですかな。結構なことです」

 

「何なら一曲どうだい?」

 

「ありがたいですが、遠慮しておきます。私は、あの方の歌で充分に満ち足りておりますゆえ」

 

「そりゃ幸せなことだ」

 

 神父は丁重に頭を下げると、婆さんと共に店を後にした。

 

 去り際に俺は婆さんに、声をかけた。

 

「ホントの奇跡だと良いな」

 

「若返ったワシに惚れるんじゃないぞい」

 

「あんたは、今の方が魅力的だよ」

 

 この町の奇跡の正体が、俺の予想と外れていれば、もう婆さんと共にある必要は無い。

 

 しかし、それを確かめるために、もう少しこの婆さんには動いてもらうとしよう。

 

「ふぇふぇふぇ、若造が言うてくれるわい。だがの、今の方が、じゃ無く、ワシは今でも魅力的なんじゃ」

 

 何処までも図太い婆さんだ。

 

 婆さんは皺だらけの笑みを残し、神父と共に店を出て行った。

 



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9・殺意が見つめるギター弾き

 二人が店を去るのを見届けると、俺はギターケースとギターを持って立ち上がった。

 

「泊まらせてもらうぜ。部屋は空いているんだろう?」

 

「二階の一番奥の部屋を使えば良いさ」

 

 バーテンの言葉に、俺はカウンターの傍の階段を登ろうとして、足を止めた。

 

 カウンターの上に、俺の支払った銀貨がそのまま置き去りにされていた。

 

「あんまり、金を放り出しておくもんじゃないぜ」

 

「どうせ、はした金さ」

 

 バーテンは見向きもしなかった。

 

 俺は肩をすくめ、そのまま二階の一番奥の部屋へと向かった。

 

 ベッドと机だけの質素な部屋に入ると、俺はまずベッドに腰掛け、ギターを背から降ろした。

 

 一年前から、ずっとグレイヴに預けきりにしていた俺の商売道具だ。

 

 膝の上でギターを裏側に引っ繰り返した。

 

 裏側に、普通のギターにあるはずの無い、止め螺子が幾つか付いている。ギターの底板は、その螺子によって固定されていた。

 

 俺は婆さんのズタ袋に押し込む振りをして、実は自分の袖に隠しておいた銀のフォークを取り出すと、一つ一つ、その螺子を取り外していった。

 

 螺子を外し、底板が外れ、ギターがその中身を曝け出した。

 

 ギターの中には、グレイヴの思いが詰まっていた。きっとこれが、あいつなりのケジメのつけ方だったんだろう。

 

「ありがとうよ、戦友」

 

 俺はその中身を確認すると、もう一度、底板を閉じ、螺子で固定した。

 

 ギターを元通りにし終わった頃だった。

 

 何気なく見下ろした窓の下、雪降る外の通りを、店の主が教会へと歩き去っていく姿が見えた。

 

 特に気にすることでもない、と、ここで油断したのが拙かった。

 

 このとき既に、俺の部屋のすぐ外に拳銃で武装した保安官助手の一人が立っていた。

 

 俺がその気配に気付き、窓から振り返ったと同時に、そいつは扉を蹴破って飛び込んできた。

 

 そいつがいきなり銃を撃つような真似をしなくて、本当に助かった。

 

 恐らく、殺すまでも無く、痛めつけるのが目的だったのだろうか。俺の脳天めがけ振り下ろしてくる銃把を、紙一重でかわし、お返しに保安官助手の顎に右フックを引っ掛けてやった。

 

 俺の拳に鈍い衝撃を感じると同時に、助手は足元から崩れるように膝をついたが、すぐにその体勢から俺の脚に組み付いてきた。恐ろしいまでの勢いの下段タックルに、俺は床に引きずり倒されてしまう。

 

 組み敷かれた俺の顔面めがけ、保安官助手が手にした拳銃を振り下ろしてくる。

 

 身をよじり、首を捻ることで、何とかその狙いをかわすことに成功した。もっとも、俺の顔のすぐ横に叩き付けられた銃把は、床板を突き破るくらいの威力を持っていたのだから、たまらない。

 

 馬乗りになり、俺を見下ろす保安官助手の瞳が真っ赤に燃え上がっていた。

 

 再び、その銃把を握った掌が振り上げられる。恐らく、二度目は避けきれないだろう。

 

 俺は押し倒された格好のまま、右脚を保安官助手の背中めがけ振り上げた。

 

 右膝が保安官助手の背中に当たり、奴が一瞬、前につめって隙が出来た。次の瞬間、俺はすかさず振り上げた右脚を力の限りに振り下ろし、床を蹴った。その踏み込みの勢いに任せ、全身を一気に反らす。

 

 俺を殴りつけようと前へ重心を移していたところに、その背中を蹴られ僅かにバランスを崩したうえ、組み伏せていた相手に突然そり返られたことによって、保安官助手は前方へ頭から転げ落ちていった。

 

 自由になった俺はすぐに立ち上がり、机の上に置き去りにしたままだった銀のフォークに手を伸ばした。

 

 同時に保安官助手もすぐに立ち上がっていた。

 

 俺がフォークを手に持ったのを認めると、奴はついにその掌の拳銃を持ち替え、俺に銃口を向けた。

 

 奴が引き金を絞るより速く、俺の投げたフォークがその赤い目に突き刺さった。

 

 保安官助手は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げると、拳銃を放り出して両手で我が目を押さえた。

 

 その目に突き立ったフォークを引き抜こうとしたが、銀鍍金されたその柄を掴んだ指先は、熱した火鉢を掴んだように皮膚が焼け焦げていた。

 

 保安官助手は呻き声を上げながらフォークを引き抜いたが、その目の傷口からも煙が吹き上がり、傷口は無惨に焼け爛れていた。

 

 保安官助手は怒りとも苦しみとも区別の付かぬ唸り声をあげながらフォークを投げ捨てると、俺に向かって再び襲い掛かってきた。だが、すでに片目を失い、銃も握れぬそいつをあしらうのは簡単だった。

 

 俺は、突進してきた保安官助手をかわすと、床に落ちていたフォークを拾いあげながら奴の背後に回りこみ、その延髄に銀の歯先を突き立てた。

 

 保安官助手は最期にヒュウと風船から空気の抜けるような息を吐き、息絶えた。

 

「Amen」

 

 十字を切る俺の目の前、保安官助手の遺体はフォークを中心にジワジワと煙を噴き上げながら灰化していった。

 

 俺は足元に落ちていた拳銃を拾い上げると、ギターケースを持ち上げ、ギターを背負って、部屋を後にした。

 

 階段を下り一階の酒場に出ると、すでに他の客は引けており、カウンターの向こうでバーテンがグラスを磨いている姿があるだけだった。

 

 そのカウンターには、相変わらず銀貨が置きっぱなしになっていた。

 

 バーテンはグラスを磨きながら、俺に目向けることなく言った。

 

「派手に騒いでいたな。ギター弾き一人に、手こずるなんて――」

 

 そう言いながらこちらを見て、そこで「あっ!?」と叫んで、手にしたグラスを取り落とした。

 

「よう、バーテン。なかなか良いルームサービスじゃないか」

 

「そいつは、………気に入ってくれたなら何よりだ」

 

 バーテンは額に脂汗を流しながら、それでもその右手がそろそろとカウンターの下へと伸ばされて行くのが見えた。

 

「随分と、荒っぽい歓迎だな」

 

「そいつが、この町の流儀さ」

 

 バーテンがカウンターの下から銃身を短く切り詰めた散弾銃を引っ張り出した。

 

 と、同時に銃声が鳴り響く。

 

 俺の放った銃弾に撃ちぬかれて、バーテンはカウンターに突っ伏した。

 

「悪いが、宿泊はキャンセルだ。料金は返してもらうぜ」

 

 俺はカウンター上の銀貨を掴むと、そのまま店を出ようとして――再びカウンターを振り返った。

 

 バーテンが身を起こし、その徐々に紅く染まっていく瞳で俺を見ていた。

 

「鉛弾で死ぬほど、聖女様の奇跡はちゃちじゃない」

 

「そうだろうな」

 

 バーテンが散弾銃の銃口を俺に向ける。

 

 俺は、手にした銀貨の一枚をバーテンに投げつけると同時に、右手の銃で空中の銀貨を撃った。

 

 バーテンはついさっきと同じようにカウンターに突っ伏して、そして、もう二度と立ち上がることは無かった。

 

 保安官助手と同じように灰化していくその身体が、カウンターからずり落ち、仰向けに倒れる。

 

 その胸には、銃弾によって押し込まれた銀貨が鈍く光りながら突き立っていた。

 

「真の吸血鬼は、銀の弾丸で撃たれても蘇る。お前たちの受けた奇跡なんざ、その程度のものなんだよ。……Amen」

 

 この町に来て、確かめるべきことの一つは、これで確かめた。

 

 あとは、聖女の居場所のみ。

 

 俺は、酒場を出た。

 

 



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10・情け無用のギター弾き

 神父は一人、教会の礼拝堂の脇にある一室に戻ってきていた。

 

 神父は暗がりの中で手探りしながら蝋燭に灯を燈す。

 

 ぼんやりと薄明かりが広がった室内に、まるで影から浮かび上がったかのように保安官の姿が現れた。

 

神父はそのことに別段驚きもせず、保安官へ問いかけた。

 

「先ほど、銃声が聞こえましたが?」

 

 保安官は一つ頷くと、その腰から二挺の拳銃を取り出し、神父に手渡した。

 

「マリアッチだ。部下が返り討ちにされ、宿屋の“息子”も撃ち殺された」

 

「やはり、ハンターでしたか。しかし、銃も無く?」

 

 神父は受け取った黒鷹と赤鷹を、腫れ物でも扱うように手近の机の上に置いた。

 

 保安官は、傍らでその様子を眺めながら言った。

 

「部下は銀のフォークで刺し殺され、宿屋の息子は銀貨で胸を撃ち抜かれていた。恐ろしいまでに鮮やかな手並みだ。やはり、部下を一人で行かすべきではなかった」

 

「仕方ありません。訪れる流しのギター弾き全てがハンターではないのですから」

 

「老婆の方は?」

 

「恐らく、ハンターとは関係ないでしょう。あのマリアッチとは偶然に知り合っただけのようです。先ほど、床屋と棺桶屋の様子を見せてきましたが、聖女様のお力を確かに認め、いたく感激していました。手持ちの全財産の全てを寄付しても良いから、今すぐにでも若返らせてくれと言ってきましたよ」

 

「了承したのか?」

 

 神父は頷いた。

 

「聖女様の血を受けて、あの二人は既に完治しました。床屋も再び正気に戻っております。しかし、引き換えに聖女様が……」

 

「聖女様に捧げる新たな血が必要だったわけか。……もう、俺たちの血では駄目なんだな」

 

「もう、夜の間ですら僅かな時間しかお目覚めになりません。その上、起きているときでもどれほどの正気を保っておられるのか」

 

 神父の言葉に、保安官は僅かに俯いた。

 

「また、歌っておられたな。今は、どうなのだ?」

 

「眠っておられます。ただ、不思議と穏やかな寝顔でした。いつもは、悪夢に魘(うな)される様でしたのに、今夜ばかりは、何処か幸せそうに」

 

「何故だ?」

 

「きっと、おそらく」

 

 神父の視線が、机の上の拳銃に向けられた。

 

 机の上の蝋燭の明かりに照らし出され、黒鷹の銃把に掘り込まれた鷹の姿が浮かび上がっている。

 

「ハンターが来たことに、気付いておられるのかも知れません」

 

 そう言って、神父は深い溜息を吐いた。

 

 保安官が机の上から黒鷹と赤鷹を取り上げた。

 

「マリアッチは俺が探し出し、始末する」

 

「お一人で大丈夫ですか」

 

「数を増やしたところで犠牲が増えるだけだ。相手は相当の手練だ。生半可な腕では敵わないだろう。捜索に出してある残りの部下は全部、教会の警護に当たらせる」

 

 保安官が戸を開けると、そこに、保安官助手の一人が控えていた。

 

「全員を教会に集合させろ。聖女様から血を賜り、まだ正気を保っている者たち全員だ。教会で聖女様をお守りしろ」

 

 そう言って、助手に黒鷹と赤鷹を手渡した。

 

 助手は二挺の拳銃を僅かに手の内で弄ぶと、それを自分の拳銃の代わりにホルスターに納め、踵を返して教会から出て行った。

 

 その後を追うように、保安官も出て行く。

 

 神父は保安官を見送ると、彼も部屋を出て礼拝堂へと向かっていった。

 

 誰も居なくなった部屋の中、俺は隠れていた天井裏から音を立てないように降り立ち、扉の影から隣の礼拝堂を窺った。

 

 神父は礼拝堂に掲げられた聖母の像に向かって手を組み、頭を垂れて祈りを捧げていた。

 

 そこには婆さんの姿もあった。

 

 婆さんも同じように、妙にしおらしく祈りを捧げているようだった。本人の言う通り、ちゃんと信仰心は持ち合わせているらしい。普段のあの態度からすると、どうにも疑ってしまうのだが。

 

 その近くには、宿屋の主と、そして、全身に銃弾を喰らったはずの床屋と、喉を裂かれたはずの棺桶屋が、確かにそこに居て、祈りを捧げていた。

 

 その表情に、もはや狂気の色は見えない。

 

 そうやって、彼らはしばらく無言で祈りを捧げていたが、やがて教会の扉が開き、四人の保安官助手と三人の町の住民らしき男女が礼拝堂へとやってきた。

 

 神父は祈りを止め、礼拝堂に集まって来た者たちへと向き直り、そして、厳かに告げた。

 

「揃ったようですね。では、皆さん。これより儀式を始めたいと思います。今宵、ここにおられるご婦人が聖女様から祝福を賜り、我らと共に歩まれることを決断なさいました。このご婦人は、はるばる荒野を渡り、ご自身の全財産を寄付なさろうとまでする、大変信心深いお方です。ですが、私たちにとって、いえ、聖女様に置かれましても、その厚き信仰心以上のものは望んでおられません」

 

 神父はもったいぶったように、ゆっくりと聖母の像へと向き直り、その台座の一角に手をかけた。

 

 一体どういう仕掛けか、その重そうな聖母の像が、台座ごと音も無く横に滑り、その奥に地下へと下りていく階段が現れたのだった。

 

「この先に聖女様がおわします。この階段を下りることは貴女の人生の終焉であり、そして再び上がってこられるとき、それは貴女の人生の始まりであることでしょう。さあ、どうぞお行きください」

 

 神父が婆さんを促した。

 

 その周りには、床屋と、棺桶屋と、宿屋と、そして三人の男女、四人の保安官助手が、婆さんの一足一動をある種の期待をこめながら見守っていた。

 

 十一人、二十二の瞳に囲まれながら、婆さんはジイっと階段の奥に広がる暗闇を見つめていた。

 

 その表情はなにやら考え込んでいるようだった。もしやこの期に及んで臆したか、それとも、何か引っかかるものがあるのか、とにかく、婆さんは中々動こうとはしなかった。

 

「一体どうされたのですか?」

 

 流石に、神父が声をかけてきた。

 

「何も、恐れることはありません」

 

「ふん、何も恐れとるわけじゃないわい」

 

 婆さんがようやく口を開いた。

 

「一つ、確かめたいんじゃが?」

 

「何なりと、お答えいたしましょう」

 

「本当に、ワシの全財産はいらんのじゃな?」

 

 この質問に、神父は僅かに眉をひそめたが、

 

「無論です。私たちはただ、聖女様と共にある以上の事は望んでおらず、また、その幸福を分かち合う事に見返りを求めておりません」

 

「ならば、ワシは聖女に何を捧げれば良いんじゃ?」

 

「ただ、貴女の御身とお心さえあれば」

 

「ふむん」

 

 婆さんは神父の言葉を聞くと一つ鼻を鳴らし、そしてようやくその表情に笑みを浮かべた。

 

「判った。心を決めたわい」

 

「そうですか。では――」

 

「――やめておくわい」

 

 婆さんは一言そう言い捨てると、くるりと踵を返してしまった。

 

 神父をはじめ周りの人間は、教会の出口へ向かおうとする婆さんを呆気にとられたように見ていたが、

 

「おぉ、何故です!?」

 

 神父が慌てて声を上げた。

 

「簡単なことじゃ。ワシは値のつかないものは信用せん。それだけじゃ」

 

「何を言っているのです!? 貴女はその目で奇跡をお認めになったではありませんか!?」

 

「確かに、この目で見た。認めた。あれはまさに奇跡じゃ。ワシが全財産をかけるに値する奇跡じゃ。しかし、おぬしらは見返りを求めぬという。それは奇妙じゃ。何かおかしい。……物事には常に相応の値が付きまとうんじゃ。見返りを求めない行為なんぞワシは信用せん。ええか、タダほど怖いもんは無いんじゃぞ」

 

 婆さんのその言葉に、俺は思わず声を挙げて笑い出しそうになった。

 

 まったく、何なんだこの婆さんは。

 

 周囲を固めている連中相手に物怖じ一つせずに、飄々と教会を出て行こうとしている。

 

 婆さんが教会の出口まで来たとき、その前に保安官助手の一人が立ちはだかった。

 

「なんじゃい、邪魔するでないわ」

 

「貴女は、大変な間違いを犯そうとしています」

 

 婆さんの背中に向かって神父が声をかけた。

 

「貴女が何を思って帰られようとするのか私には理解しかねますが、しかし、一目でも聖女様にお目にかかればその誤解も解けることでしょう」

 

「遠慮しとくわい。ワシは、ワシの勘を信じるんじゃ。ええい、そこを退かんか」

 

 婆さんは保安官助手の脇をすり抜けようとしたが、

 

「致し方ありません。その方をこちらへお連れしなさい」

 

 と、神父の言葉によって保安官助手が婆さんの腕を掴みあげた。

 

「やっ、こりゃ何をするんじゃ。離さんかい!」

 

 ジタバタとあがく婆さんだが、保安官助手は意に介さず、ずるずると礼拝堂の中央へと引きずっていく。

 

「無礼をお許しください。しかし、きっと貴女は私たちに、聖女様に感謝することになるでしょう。あの時、帰ってしまわなくて本当に良かった、と」

 

「いいや、婆さんの考えは実に正しいと、俺はそう思うね」

 

 手にしたギターをひとつ、爪弾いた。

 

 礼拝堂に居た全員の視線が、聖母の像の近くまで出てきた俺に集められた。

 

「お、おぬし!?」

 

 老婆の言葉に、俺はもうひとつギターを鳴らして答える。

 

 神父が唇を戦慄かせながら叫んだ。

 

「ギター弾き!?」

 

 皆も口々に叫びだす。

 

「ハンターマリアッチ!?」

 

 一瞬にして、礼拝堂が騒然となった。

 

 神父が金切り声を上げ、保安官助手たちが一斉に腰の銃を抜く。

 

 俺はすぐに床を蹴って礼拝堂の中央へと駆け出した。

 

 目指すのは、婆さんの居る場所。

 

 婆さんの腕を掴んでいる保安官助手がもう片手で引き抜いた拳銃を俺に向けた。

 

 銃声と共に放たれた銃弾を、俺は目の前に掲げたギターで受け止める。

 

 鈍い衝撃と共に、ギターに穴が開き、張られていた弦が弾けとんだ。

 

 それでも俺は構わず駆け続け、保安官助手が二発目を撃とうとするより速く、その脳天にギターを振り下ろした。

 

 バキィっと激しい音と共に保安官助手は倒れ、ギターは粉々に砕けた。

 

 俺はすかさず傍らにいた婆さんの肩を掴み、床に引きずり倒す。

 

 同時に伏せた俺の頭上を二発の銃弾が掠め飛んでいった。

 

「何じゃ、何じゃ一体!?」

 

「しばらく伏せてろ」

 

 俺はギターの残骸に手を突っ込むと、その中に納められていた物を引っ張り出す。

 

 それは、銃身と銃把を短く切り詰めたウィンチェスター銃だった。

 

 そう、これがグレイヴが俺に残してくれたもの。

 

 銃を構える三人の保安官助手。

 

 左右に一人ずつ。正面に一人。

 

 正面の一人は、両手に俺から奪った黒鷹と赤鷹を構えていた。

 

 俺は迷わず右側の保安官助手に銃口を向けた。

 

 そいつが撃つよりも先に、ウィンチェスターの銀鍍金された銃弾がその心臓を穿つ。

 

 同時に二発の銃声。

 

 俺の左側と、正面の保安官助手が発砲したのだ。

 

 俺のすぐ傍を一発の銃弾が掠め飛ぶ。

 

 俺はすかさずその銃弾が来た方へ発砲した。

 

 左側に居た保安官助手は喉を撃ち抜かれ、声も上げずに崩れ落ちる。

 

 正面に残る保安官助手が、またもや黒鷹を撃つ。

 

 しかし、黒鷹の反動は強すぎて、そいつにとって片手で扱いきれる代物ではなかったらしい。

 

 銃弾はさっきと同じく、見当違いの方向へ飛んでいった。

 

 ウィンチェスターの弾丸に眉間を撃ち抜かれ、保安官助手の三人目もまた息絶えた。

 

「婆さん、あんたにゃ礼を言わなきゃならんな。おかげで、吸血鬼の居場所がはっきりした」

 

 俺は黒鷹と赤鷹を取り戻すべく、撃ち倒した男に向けて歩き出す。

 

「きゅ、吸血鬼じゃと。い、いったいおぬしは何者なんじゃ!?」

 

「俺か、俺は」

 

 振り向き様にウィンチェスターの銃口を婆さんに向けた。

 

「滅び行く者に挽歌を奏で、不死者に安らかなる眠りを与えし者」

 

 婆さんの足元めがけ銃を撃つ。

 

 銃弾は、そこに倒れている最初に殴り倒した保安官助手の心臓を撃ち抜いた。

 

 その手に構えられていた拳銃が床に落ちる。

 

「俺は、ヴァンパイアハンター。利用して悪かった。だけど、早くここから立ち去ることだ。ここは、生者の居る場所じゃない」

 

 俺は再び向き直り、背後で婆さんが慌てて礼拝堂から逃げ出していく足音を聞きながら、灰化していく保安官助手の両手から黒鷹と赤鷹を取り返した。

 

 四人の保安官助手は倒した。しかし、まだ敵は居る。

 

 俺は迫る殺気に、振り向き様に赤鷹を撃った。

 

 俺に向けて投げつけられていた鋭利な剃刀を、寸前で狙い撃つ。

 

 銃弾によって跳ね返された剃刀は、そのまま真直ぐ投げつけた本人である床屋の胸に突き立った。

 

 その意外な反撃に、床屋だけでなく、その傍にいた棺桶屋や宿屋や、他の三人も 浮き足立ち、こちらに背を向けて慌てて礼拝堂の出口めがけ駆け出していこうとした。

 

 俺はその背中めがけ、両手の二挺拳銃を連射する。

 

 放たれた弾丸を浴び、六人は次々とその場に倒れ臥した。

 

 もっとも、いま黒鷹と赤鷹の弾倉に詰まっていたのは単なる鉛弾だ。

 

 俺が弾を装填し直している間に、彼らはムックリと身を起こして、再び逃亡しようと礼拝堂の出口めざして走り出していた。

 

 再び銃声。

 

 六発の爆裂水銀弾に撃ち抜かれ、彼らは教会の外に出ることなく、残らず塵に帰った。

 

「塵は、塵へ。……Amen」

 

「なぜだ、何故ここまでする!?」

 

 礼拝堂の片隅で蹲る神父がいた。

 

「ヴァンパイアの血を拡めるなど、許されはしない」

 

「お前のやっていることは、ただの殺戮ではないか!」

 

「何とでも、言うが良いさ」

 

 婆さんが出て行ったときに開け放たれた扉から、雪と共に夜の風が舞い込んできた。

 

 その風に煽られて、礼拝堂のあちらこちらに出来上がった灰の塊が舞い上がる。

 

 風と、雪と、灰と、それらがおさまったとき、礼拝堂にその男が入ってきた。

 

 テンガロンハットを目深に被り、腰に長い革鞭を吊るした青年。胸に光る金バッヂは保安官の証。

 

 保安官は礼拝堂の中を見渡しながら、一歩、また一歩と俺に向けて歩み寄ってくる。

 

「ハンターとは、やはり噂どおりの存在のようだな。吸血鬼とあれば誰であれ情け容赦なく殺す」

 

 保安官は足を止めた。

 

 そこは、俺の必殺の間合いから一歩だけ離れた距離。

 

 そして恐らく、奴の鞭の間合いからも一歩だけ離れた場所に違いない。

 

「吸血鬼であれば、殺す」

 

 俺は答えていた。

 

「たとえ生者でも、レンフィールドならやはり殺す」

 

 今、俺の手には右手の黒鷹に三発、左手の赤鷹に三発の、計六発の爆裂水銀弾。

 

 俺の構えた二挺券銃の銃口の先、保安官もまた、腰に吊るした革鞭の柄に手をかけた。

 

「マリアッチ、お前に彼女は殺させない」

 

「殺すさ。殺さなきゃならないんだ」

 

 俺と保安官は同時に一歩踏み込み、互いの間合いの中に入った瞬間に戦いが始まった。

 

 黒鷹の銃声と共に保安官の鞭が宙を裂き、放たれた爆裂水銀弾を叩き落した。

 

「なっ!?」

 

 まさに神業だった。

 

 銃弾を叩き落した鞭の先端が、間髪いれずに俺に向けて襲い掛かってくる。

 

 俺は咄嗟に左手の赤鷹でその鞭を撃った。

 

 銃弾によって鞭の先端が跳ね返り、俺はその隙に再び黒鷹で保安官を狙い撃つ。

 

 しかし保安官は、柄近くの根元の鞭を使って銃弾を防いで見せた。

 

 ここまでの攻防に一秒もかかっていないにも関わらず、俺にとってこの瞬間は無限にも等しく引き伸ばされたように感じていた。

 

 恐らく保安官も同じように感じているだろう。

 

 極限にまで研ぎ澄まされた感覚の中、奴の鞭が再び襲い掛かってくるのが判る。

 

 だが、それを知覚できたとして、鞭を避けるにしろ撃ち返すにしろ、その行為をする俺の身体はもどかしいくらいに重く遅い。

 

 残る弾丸は黒鷹に一発、赤鷹に二発。

 

 赤鷹の撃鉄を起こし、引き金にかけた指に力を込める、その永遠にも似た一瞬。

 

――外した!

 

 弾丸は、微かに鞭の先端を掠めるにとどまった。

 

 刹那の狭間の中、銃弾と鞭はすれ違い、しかしその衝撃で両者の軌道は僅かにはずれ、銃弾は保安官のテンガロンハットを、鞭の先端は俺の右手の黒鷹を、それぞれ弾き飛ばしていた。

 

「チッ!」

 

 思わず舌打ちが漏れた。

 

 俺の右手に痺れたような痛みが残る。

 

 その痛みに気をとられていた隙に、保安官は既に鞭を巻き戻し、すぐにでも攻撃に移れる構えに入っていた。

 

 対して、俺に残された武器はもはや左手の赤鷹の一発のみ。

 

 迂闊に撃てば、それは容易く叩き落されてしまうだろう。だが、悠長に再装填させてくれる隙を与えてくれるはずが無い。

 

 保安官の足元に、テンガロンハットが舞い落ちる。

 

 その露わになった灰色の瞳が、油断無く俺を見据えていた。

 

 そうか。

 

 俺は保安官に対して、あることに気がついた。

 

「保安官。その尋常じゃない鞭捌き、あんたもハンターじゃないのか?」

 

 俺の問いに、保安官は表情ひとつ変えずに、

 

「そうだ」

 

 と、肯定した。

 

「ハンターが、レンフィールドに成り下がったとでも言うのか?」

 

「いいや、違う。俺も、そこの神父も、彼女の血を飲んだことは無い。ただ、与えただけだ。………俺たちは、自分の意思で彼女と共にいる」

 

「何を、考えていやがる。何を、企んでいやがる?」

 

「何も、企んでなど無い」

 

「だったら何なんだ。まさか、吸血鬼に惚れでもしたか」

 

 俺がそう言った時、保安官がその表情に笑みを浮かべた。

 

 それは心に傷持つものが自嘲気味に笑うような、そんな哀しい笑い方をしていた。

 

 あぁ、そうか。この男は本当に――

 

「マリアッチ」

 

 出し抜けに保安官が口を開いた。

 

「惚れた女を、殺したことがあるか」

 

「何?」

 

「徐々に変貌していく彼女を前にどうすることも出来ずに、“殺してくれ”とせがまれるがまま、無力感にさいなまれつつ、紅く染まった瞳で血の涙を流す女を撃つ――。お前に、その気持ちが判るか?」

 

 その言葉に息を呑みながらも俺は、保安官の鞭を握る腕に、僅かに力がこもったのを見て取った。

 

 恐らく、次の攻撃が来る。

 

 俺は僅かに瞳を動かし、あたりを見渡した。

 

 右側の方向、そこに、蹲ったままの神父がいた。その神父のすぐ目の前に、弾き飛ばされた黒鷹が転がっている。

 

 神父が、黒鷹に手を伸ばそうとしていた。

 

「もう二度と、そんな事は繰り返さない。それが俺たちの理由だ!」

 

 保安官が叫び、鞭を放つ。

 

 同時に神父もまた立ち上がり、黒鷹の銃口を俺に向けた。

 

 俺の手元に弾丸は一発、敵は二人。

 

 俺は――

 

 ――神父の手元を狙い撃った。

 

 爆裂水銀弾が神父の手を吹き飛ばし、その衝撃で黒鷹が火を吹いた。

 

 と、同時に保安官の鞭が俺の左手をしたたかに打ち、赤鷹を叩き落してしまう。

 

 もう、これで俺に武器は無い。

 

 しかし、止めの鞭は、来なかった。

 

 俺は打たれた左手を庇いながら、保安官に向き直る。

 

 保安官は左わき腹を手で押さえ、うつ伏せに倒れて呻いていた。

 

 銃弾に弾かれた黒鷹は、保安官に銃口を向けて発砲されたのだ。

 

 保安官の左わき腹は、爆裂水銀弾によって深く抉られていた。

 

 苦しげに顔を上げ、俺に対して何か言おうと開いたその口から、どっと血反吐があふれ出し、保安官は息絶えた。

 

 そして、残るは。

 

「う…うぁああ…」

 

 右手の指を全部失った神父が、激痛に身を震わせながら再び蹲っていた。

 

 その傍に、血まみれになった黒鷹が転がっている。

 

 俺は黒鷹を拾い上げ、その弾倉から空薬莢を排出していく。

 

 一発、また一発と爆裂水銀弾を込め直す俺を、神父は額に脂汗を流しながら見上げていた。

 

「わ、私たちと、聖女様が初めて出会ったとき……あの方は、言った。……“殺してくれ”……と…」

 

 荒い呼吸の中、神父は語りだす。

 

「あの方は、彼女と同じだったのだ。…強力な吸血鬼の血に徐々に理性を焼き尽くされ、狂おしいまでの血への渇望に苛まれ続ける。転生した者たちに待ち受ける末路を、あの方もまた知っていた」

 

 再装填し終えた黒鷹の銃口を、神父に向ける。

 

「私たちは今度こそ、救おうと思った。………そのために偽りを重ね、人の道を外れようとも、あらゆるものを代償にしようとも……救えずに殺すしかなかった、彼女への償いとして……」

 

 莫迦な、話だった。

 

 こんなにも莫迦な話は無い。

 

 俺は黒鷹の撃鉄を起こし、そして言った。

 

「俺も、償いに来た」

 

「何?」

 

「……イザベラが転生したとき、彼女に“殺してくれ”とせがまれたとき、俺は殺せなかった」

 

 俺の言葉に、神父は痛みすら忘れたように唖然とした表情を浮かべた。

 

 が、やがて、そして次第に、その表情を崩していく。

 

 神父の顔に、笑みが浮かんでいた。

 

 それは酷く皮肉に満ちていて、全てを嘲笑っているかのような声で、彼は笑った。

 

 銃口の先に、もしかしたら在り得たかも知れない、俺が居た。

 

 その銃を握っているのは、もしかしたら在り得たかも知れない、彼らの姿だ。

 

 黒鷹を境に、対峙するのは合わせ鏡のような因縁。

 

「呪われろ、ハンター」

 

 黒鷹が、火を吹いた。

 

「Amen」

 

 礼拝堂に神父と、保安官の死体だけが残された。

 

 周囲に散らばった大量の灰は風にかき回され、もう、誰のものとも区別は無い。

 

 俺は身を潜めていた部屋からギターケースを持ち出し、そして、聖母像の裏から地下へと伸びる階段へと足を踏み入れた。



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11・さすらいのギター弾き

 深い深い階段を下りた先、真直ぐ伸びる通路に出た。

 

 その通路の奥、その先に蝋燭の灯りに照らされて、ぼんやりと浮かび上がる棺の姿があった。

 

 壁にもたれかかるように斜めに立掛けられたその棺の蓋の表面に、その持ち主の名が刻まれている。

 

 蓋は何の抵抗も無く開けることが出来て、俺の目の前に、ずっと捜し求めていた彼女の姿が現れた。

 

 流れるようなブロンドの髪と、透き通るような白い肌。

 

 白いドレスに身を包んだ彼女はまるで眠っているようで、吸血鬼に転生した今となっては、その美しさはもはや魔性の域に達していた。

 

 けれども、俺の目の前で眠る吸血鬼はやはり彼女だった。思い出の中で生き続ける、俺の愛した女だった。

 

「イザベラ……」

 

 思わず呟いてしまったその名に、彼女の閉ざされていた瞼が震え、ゆっくりと開かれていく。

 

 そのルビーのように鮮やかな瞳が、蝋燭の灯りを反射して怪しく輝いていた。

 

「…うぅ……うあ…ぁあ……」

 

 その口から漏れ出したのは、もはや言葉ですらなかった。

 

 開かれた唇の端から、鋭く伸びた犬歯がのぞく。

 

 彼女のその瞳は虚ろを宿したまま、ただ、血への渇望に紅く燃えている。

 

「……あ……あ…」

 

 彼女は上体を起こすと、その両手を俺に向けて挿し伸ばした。

 

 たおやかな指が俺の首筋に触れ、その指の下で頚動脈がドクドクと脈打っているのを感じとった彼女は、嬉しそうにその美しい顔を綻ばせた。

 

 そして彼女は、まるで縋り付く様に俺に身を寄せてきた。

 

 温もりの無いその細い身体。

 

 近付いてくる美しい唇に目を奪われ、俺はいっそこのまま自分の首を差し出してしまいたいような衝動に駆られた。

 

 彼女に血を分け与え、そして俺もまた彼女を押し倒し、その白い首筋に齧り付き、彼女の血を貪り飲みたかった。

 

 彼女と共に、この暗闇の中で永遠の刻を――

 

 

 

 銃声。

 

 

 

 俺は、彼女の右胸に押し当てた黒鷹の引き金を引いていた。

 

 爆裂水銀弾に心臓を撃ち抜かれ、彼女は驚愕の表情を浮かべながら棺の中へ倒れこんでいく。

 

 白いドレスを血で紅く染めながらも、その傷口の向こう、吸血王直系の血筋である彼女の心臓はいまだ脈打ち続けていた。

 

 その心臓めがけ、俺は更に撃った。

 

 撃った。

 

 撃った。

 

 心臓を撃ちぬかれるたびに彼女の身体は棺の中で激しく震えた。

 

 その心臓は一発撃たれるたびにすかさず再生してしまうが、そのたびに体力を消耗するのか、彼女は棺の中で力なくもたれかかったまま、もう、何の抵抗も示さなくなっていた。

 

 俺はギターケースを床に落とし、その蓋を開けた。

 

 内側にあるギターを模した内蓋も開け、中に納められていた布にくるまれた棒状のものを、俺は取り出した。

 

 その布を剥ぎ取り、俺はその正体を顕わにした。

 

 蝙蝠のシンボルが刻まれた鞘に納められた長剣。

 

 一年前、吸血王に真の死を与えた、イザベラの長剣だった。

 

「……う……あぅ……」

 

「苦しませて、済まなかった」

 

 長剣の切っ先を彼女に向けた。

 

「助けられなくて、済まなかった」

 

 脈打つ心臓に、その切っ先が触れた。

 

「いくら謝っても、もう許されるはずもないことは判っている。だから――」

 

 腕に力を込め、俺は彼女の心臓を刺し貫いた。

 

「――だから、俺もすぐに、逝く」

 

 心臓が溶けるようにその形を失い、長剣の刃に触れた先から、彼女の身体は灰と化して崩壊を始めた。

 

 その全身から力が抜け、彼女はまるで糸の切れた人形のように手足を垂らしている。

 

 そして、その瞳からは徐々に赤い光が失われていき――

 

「――マリ…アッチ」

 

「っ!?」

 

 彼女が、俺を呼んでいた。

 

 青い目をした彼女が、はっきりと俺を見つめていた。

 

「…マリアッチ……ありがとう…」

 

「イザベラ!?」

 

「……あなたは、生きて…――」

 

 彼女は優しく微笑んでいた。

 

 彼女は最期に微かな声で俺に呟き、そして、

 

「イザベラ……なんでだよ……イザベラぁ…」

 

 そして、灰となり、塵へと帰した。

 

 大量の灰が棺から零れ落ちていき、後には、まるで十字架のように棺に突き立つ、彼女の長剣のみが残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 地下から礼拝堂に上がったのは、もう夜明け近くのことだった。

 

 雪はもう止んでしまい、空は晴れ渡っているようだ。開け放たれたままの礼拝堂の扉から、白み始めた東の空が見える。

 

 そこに何の感慨も抱かなかった。

 

 礼拝堂に倒れる、二人のハンターの死体。太陽が昇る頃には、そこにもう一人加わることになる。

 

 俺は、腰のホルスターから黒鷹を引き抜いた。

 

 ハンターは常に、最後の一発を残しておく。

 

 自分自身の、最期の為に。

 

 俺は祭壇の近くに腰を降ろし、黒鷹を自分のコメカミに押し当て、その撃鉄を起こし、引き金に指をかけた。

 

「Amen」

 

 唱えたところで、神の御許なんて所に行けそうに無いのは自分が一番判っている。それでも呟いてしまったことに、自分自身に対して皮肉を感じていた。

 

 さぁ、いい加減に仕舞いにしよう。この愚かで莫迦げた茶番劇に幕を下ろすんだ。

 

 俺は引き金を引こうと指先に力を込めた。

 

 込めたのに、込めようとしているのに、引き金は頑として動こうとしなかった。

 

――マリアッチ…

 

 俺の耳に、イザベラの最期の言葉が蘇る。

 

――あなたは、生きて…

 

「何でだよ……イザベラぁ」

 

 俺はもう一度、引き金を引くために力を込めようとした。

 

 が、どれだけ念じても、俺の指先はそれを拒否し続ける。

 

 銃把を握る手が震える。

 

 人の命を奪うためには、あれだけ容易く軽く引いていた引き金が、いざ、自分の命を奪うにあたって限りなく重く感じられた。

 

――生きて…

 

 違う。

 

 違う。

 

 違う。

 

 イザベラがそんな事を言うはずが無い。

 

 身勝手に止めを刺しきれず、今更になってまた身勝手に現れて殺すような男を、イザベラが許してくれるはずが無い。

 

――生きて…

 

 あれは幻聴だったんだ。

 

 俺は死ぬのが怖いんだ。

 

 だから、イザベラの言葉を勝手に聞き違えて……

 

――生きて…

 

 俺は死ななくちゃならないんだ。

 

 生きるにはあまりにも罪を犯しすぎたんだ。

 

 だから……

 

 だから……

 

――生きて…

 

 何でだよ。

 

 何でだよ、イザベラぁ……

 

 気付けば、俺は泣き出していた。

 

 震える手で黒鷹をコメカミに押し付けたまま、涙と鼻水で顔をグシャグシャに濡らし、喉から嗚咽を漏らして泣いていた。

 

 イザベラの声はずっと俺の耳の奥で囁き続ける。

 

 涙で滲んだ視界に、イザベラの最期の微笑みが焼き付いていた。

 

 俺は泣き続けた。

 

 辛くて、

 

 苦しくて、

 

 情けなくて、

 

 腹立たしくて、

 

 悲しくて、

 

 哀しくて、

 

 子供のように泣きじゃくっていた。

 

 いつまで、そうしていただろうか。

 

 ふと、横合いから伸びてきた手が、俺の手から黒鷹をそっと掴んで、その銃口を俺の頭から逸らすと、一息に奪い去ってしまった。

 

「…あっ?」

 

 俺の横に、いつの間に戻ってきたものやら、婆さんがズタ袋を担いで立っていた。

 

「やれやれ、物騒な真似しよるわい」

 

 その手に掴まれた黒鷹は、婆さんの小さな手にはあまりにも不釣合いで、婆さん自身も、その大きさと重さを持て余している様だった。

 

「…返してくれ」

 

「いやじゃ」

 

 婆さんは、やっぱりにべも無かった。

 

「…返してくれ。俺は、俺は、死ななくちゃならないんだ」

 

「ふん、泣きべそかいて震えとった奴が何を言う」

 

「うっ……」

 

 その言葉に、俺はもう何も言い返せなかった。

 

 婆さんはそんな俺を見下すと、礼拝堂の中を見渡した。

 

「はぁ、それにしてもずいぶんと派手に殺ったもんじゃな。神父も、保安官も、……そして」

 

 婆さんの視線が、地下へと通じる階段に向けられた。

 

「聖女とやらも……か」

 

 そう言って、婆さんは俺の横に腰を下ろした。

 

「聖女を殺したことを、後悔しとるのか?」

 

「殺さなきゃ行けなくなったことを、後悔しているんだ。こうなってしまったのも全部、俺のせいだったんだ。だから、俺はケリを着けなくちゃならない。俺自身の命で、贖わなくちゃならない」

 

「だけど、死ねんかった訳じゃ」

 

 俺は黒鷹を取り戻そうと手を伸ばしたが、婆さんはそれを予期していたかのように立ち上がって俺から離れてしまった。

 

「頼む、返してくれ。俺はもう生きていたってどうしようもないんだ!」

 

「この莫迦もんが。ワシみたいなのを前にして、よくそんな事が言えたもんじゃ!」

 

 婆さんが吼え立つような声で叫んだ。

 

「ええか、ワシを前にしていい若いもんが人生を無駄に踏みにじるような発言をするのは許さんぞ。まだまだ余りある人生を棒に振ろうというのは、ワシに対する冒涜と一緒じゃ」

 

「そんな、何を言っているんだ。俺は、何人も殺しているんだぞ」

 

「そうじゃ。しかし自分の命は奪えん臆病者じゃ」

 

「違う、俺は――」

 

「――死ぬのが怖いんなら、生きればいいんじゃ」

 

「えっ?」

 

 婆さんのその意外な言葉に、俺の思考が一瞬停止した。

 

 死にたくないから、生きろ?

 

 そんな、身勝手なことが出来る…わけが…

 

「ワシはそうやって生きてきた。そして、これからもそうやって生きていくつもりじゃ。これから先も、とことん生きていくんじゃ」

 

 婆さんは胸を張ってそう言った。

 

 そうだ。

 

 この婆さんは身勝手な婆さんだった。

 

 どこまでも、とことん身勝手に生きていく。

 

 そして、俺も充分に身勝手に生きてきたじゃないか。そして、あの神父も。そして、あの保安官も。

 

 誰もみんな身勝手に生きていた。

 

「マリアッチ。生きるのに理由が必要と誰が決めた。どうせ放っておいても人間はみんな、勝手に老いぼれて、勝手に死んでいくんじゃ。この歳になればおぬしも判るじゃろうて。ほんと、あっという間じゃぞ、人生は。だから、ワシはもう一度青春を取り戻そうとして足掻いておる訳じゃが」

 

 婆さんはふぅっとため息を一つついて、ちょっとだけ笑った。

 

「まぁ、さすがに吸血鬼というのは勘弁じゃのう。あれの末路が生ける屍だと言う噂は聞いたことはあったんじゃが、本物にお目にかかったのは生まれて初めてで、気が付かんかったわい。……助けてくれて、礼を言うぞ。もっとも、おぬしもワシを囮として利用したんじゃし、利用した以上は救うのは当然の責任とも言えるがな」

 

 婆さんは手にしていた黒鷹を、ズタ袋の中に押し込んでしまった。

 

 そして代わりに小袋を取り出すと、その中身を確かめ、そして俺に向けて放り投げた。

 

 じゃらりと音を立てて、小袋が俺の足元に落ちる。

 

「六百ある。この拳銃はワシが買い取った。……では、さらばじゃマリアッチ。生きておれば、また何処かで逢うじゃろう。その時は、おぬしの歌を聞かせてもらおうかのう」

 

 婆さんはそう言ってズタ袋を担ぎ、俺に背を向けて、礼拝堂の外へ向けて歩き出していった。

 

 東の空には朝日が昇り、その日差しが扉から差し込んで、歩き去る婆さんの姿を照らし出している。

 

 俺は呆然とその姿を見送ると、足元の小袋を取り上げた。

 

 中には銀貨が五枚、入っていた。

 

「………」

 

 六百には、一枚足りない。

 

「おお、そうじゃ」

 

 不意に婆さんの声がした。

 

 礼拝堂の扉の脇から、ひょっこりと顔を出し、こちらを覗き込んでいる。

 

「銀のフォークの代金分は、差し引いておいたからの」

 

 そして婆さんは、まぶしい朝日の中へと消え去っていった。

 

「そうか……フォーク代か…」

 

 婆さんにとって黒鷹は、フォーク六本分の価値でしかなかったのか。

 

「………………ははっ」

 

 不意に、笑いがこみ上げてきた。

 

 理由は判らない。ただ、無性に可笑しくなった。

 

 俺は笑った。声を上げて笑い出した。

 

 散々泣きじゃくって涙の痕も乾かない頬に、再び涙が伝った。

 

 笑いながら涙が止まらなかった。

 

 泣きながら笑った。

 

 笑いながら泣いた。

 

 どれぐらい、そうしていただろうか。

 

 時間の感覚もおかしくなっていたみたいだった。

 

 心も、身体も、全部が空っぽになってしまいそうなぐらい、声を上げて笑い続けて、声を上げて泣き続けて。

 

 とことん笑って、とことん泣いて。

 

 やがて、喉が嗄れ、涙も涸れた頃。

 

 俺はようやく立ち上がることができた。

 

「……ありがとうよ、婆さん」

 

 愛すべき奇特な老婆に、感謝を。

 

 そして。

 

「ありがとう、イザベラ」

 

 生きろと言ってくれた、愛する女に感謝を。

 

 右手で銀貨の入った袋を持ち、左手には中身の無いギターケースを持ち、俺は礼拝堂を後にした。

 

 ただ、最後に一度だけ振り向く。

 

「愛しているぜ、いつまでも。………さよならだ」

 

 これで良かったのか、判らない。

 

 この先どうなるかも、判らない。

 

 ただ、とりあえずこれからどうするか。

 

「……ギターでも買うか」

 

 そう、俺はマリアッチ。

 

 俺はまた、荒野に向けて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~完~



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