飽食のけもの (乃響じゅん。)
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第1部 人食いの世界
#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-1-
最近、屋敷のクラウディア夫人はやたらと美しくなった。肌は土一つ見えない雪のように白いし、髪の色もイチョウのように一切ムラのない黄金色。目のブルーは海のよう。細い身体はたるみ一つなく引き締まっている。そんな体をしていながら、年頃の娘がいると初見の人間が聞けば、さぞかし驚かれることだろう。
その年頃の一人娘――ロコは、そんな母の様子をいぶかしく思っていた。つい数カ月前までは、シミも増え、背中のにきびを気にし、髪も痛み始めた、どうすれば若い身体を保てるのかと嘆いていたのに。あまりに急激な若返り具合に、それを褒める使用人は数多くいれど、それを疑う者が果たしてどれくらいいるのだろう。クラウディア夫人は自分の見た目について良くない言葉を発する者を容赦しなかった。紅を引いた口をむちゃくちゃに歪ませながら重い扇子で十発も殴るのを、幼いロコは発見してしまった。それ以来、ロコ自身も発言には細心の注意を払うよう心がけていた。この母との生活は戦いなのだと、ロコは思っていた。それゆえに、今回の劇的な変貌についてもこちらから聞くようなことは絶対にあってはならないと頑なに思っていた。自慢したがりのクラウディア夫人の事だ、色々な人から褒め称えられているうちに、自らその秘密を打ち明けてくるだろう。知らぬ間に、誰もが認めるほどの美を作り上げていたのだ、賞賛されない訳がない。そして調子に乗ったクラウディア夫人は私に言うのだ、「私の美しさの秘密を知りたい?」と。その一言を待とうと心に決めてから、既に一か月が経過していた。
「ねぇ、ロコ」
「何でしょうか、お母様」
黄色いドレスを来たクラウディア夫人が扇子で口元を隠しながら近づいて来る。きっとあの下には、溢れんばかりの笑みを抑えようと必死な口があるのだろう、とロコは思った。
「今日は物理の先生がお見えになる日だけれども。勉強の方は順調かしら」
「ええ。順調です」
「それでこそ私の娘!」
クラウディア夫人は喜んだ。ロコにはイングウェイという兄もいるが、既に働いているために家の中にいることはあまりない。生活に張り合いが無い夫人は、ロコに立派な教育を施すことが趣味であり、確実に知恵をつけていく様子を見ること、つまり自分好みの人間に育っていくことが楽しみなのである。妙なところで抜けた頭だ、とロコは思った。その知恵がいつか親を裏切るようなことになったらどうするつもりなのだろう。自分がもし野心家であったなら、間違いなく得た知恵で母を出し抜いていただろう。
ロコは目を閉じた。閉じた瞳の中にため息を込める。勉強自体は役に立つことも多く、嫌いではないものの、一日に7人8人も来た時は流石に気が滅入った。今何の話をしているのか、今の教師は誰なのか、だんだん分からなくなってくる。
そう言えば、一人だけ関係が少し深くなった家庭教師がいた。幾何を教えてくれた若い男だ。背が高く、鼻も高くて、控え目な眼鏡をかけていた。本を持ちながら数学について語る姿に理知を感じ、不覚にも惹かれてしまったのだ。あれは半年ほど前の話だっただろうか、いつの間にか幾何についてではなく、愛について語るようになり、ロコの方もそれに乗ってしまったのだ。誠実そうな人物だと思った。だが、運悪く両手を絡ませているところを下女に見つかり、夫人に報告されたのだ。あの時は怖かった。自室の扉をとんでもない音で開け、昔見たひどい怒りの表情を浮かべて扇子で教師を叩き、教師の方は両手を頭を抱え、謝りながら情けなく退場していったのだ。「あんな男を雇ったのが間違いだった」と夫人は憎々しくこぼした。
部屋に戻り、物理の先生を待つ。外の景色は相変わらず晴れ。
「ロコ様、先生がお見えになりました」
下女が扉を開け、小さい身体に似つかわしい高い声でロコを呼ぶ。それと同時に物理教師が部屋に入ると、ロコは椅子から立ち上がり、振り返って軽く会釈する。下女は扉を閉めた。
「こんにちは。今日も宜しくお願いします」
「やぁ、ロコ君、今日もいい天気だね。ただちょっとにおうかな? はは」
ロコはあまりこの男が好きではなかった。言葉に一切慎みがなく、品がない。肌はそれなりに奇麗なのだが、歯が上下二本ずつ欠けている。あまり見たい口内ではない。ロコは笑みを浮かべてみたが、きっと引きつっていただろう。この男の粗野な性格が人のそういう細かい所作をいちいち気にしないほどであるというところが、唯一の救いか。
物理の話をしている間じゅう、ずっと彼は眉間にしわを寄せていた。一体何がそんなにおかしいというのだろうか。他人の屋敷だ、においの違いくらいあって当然だと思うのだが。こんな醜男が細かいことをいちいち気にする様は、むしろ滑稽でもある。他人を茶化すのは苦手だが、そう思わなければ気分良く学習することは叶わないだろうと思った。
「それでは、今日はこのへんで」
「ええ、その方が良さそうですわね。ありがとうございました」
失礼な男がようやく帰ってくれるのか。ロコは少しだけそっけなく、お礼を言った。
「どういたしまして」
気付いているのかいないのか、向こうの反応も格式ばったものだった。物理教師はドアを開き、下女の案内を受けて去って行った。去り際に一言、やっぱりひどい臭いだ。
ロコはため息をついて、窓の外を眺める。広い芝生と周囲の森が、夕日の陰になり真っ黒に染まっている。
「早く帰って来ないかなぁ、兄さん」
ふとイングウェイのことを思い出し、少し懐かしい気持ちになった。嫌なことがあった後は、決まってそうなのだ。一回りも二回りも年上の兄は、幼いころからロコの話をよく聞いてくれた。きっと私は退屈しているのだ、とロコは思った。
ある日、ロコは母に誘われる。お茶会の誘いだ。
「今日もオコネルさんのところへ行くけれど、ロコ、あなたもいらっしゃいな。レベッカも寂しがっていたわ。天気もいいし、たまにはお話してきたらどう?」
そう言えば、ここ一、二週間ほど屋敷の外に出た覚えがない。庭で散歩をした程度だ。少し考えたあと、ロコは答えた。
「そうですね、お邪魔しましょうかしら」
「そうと決まれば、早速準備よ準備!」
なんだか妙に張り切っているなぁ、とロコはぼんやり考えていた。楽しそうなのは何より良いことだ。多少、厳しいお咎めが緩くなる。
外出用の帽子を被り、馬車に揺られていく。麦畑を抜け、木々の間を抜けていくと、高い塀に囲まれた、赤い屋根が見えてきた。オコネル氏の屋敷だ。門番に青銅の門を開けてもらい、正面入口へと続く道の途中まで馬車を進める。
「ようこそいらっしゃいました。それでは、クラウディア様、ロコ様、こちらでお降り下さい」
初老の男性があいさつをする。オコネル氏の家の執事だ。彼に言われるがまま、二人は馬車を降りた。
「こちらです。ささ、どうぞ」
屋敷には入らず、横の道を案内される。庭の方向へ繋がっている道だ。芝生や植木の間にレンガが敷き詰められている。幅はおよそ三人分。先頭にオコネル氏の執事、後ろにクラウディア夫人、そしてロコと続いた。
屋敷の横を通り、裏手の庭に出る。広い芝生に、色とりどりの花が咲いた花壇。奇麗に整えられた花は、ロコの家の庭とは大分違っていて新鮮に映った。そんな庭の片隅に、丸いテーブルが二つ用意されていて、それぞれに二人ずつ座っている。手前の方にはクラウディア夫人と同じ母親たち、奥にはロコと同年代の少女たち。レベッカの他にもう一人、これまた古くからの仲であるミシェルが座っていた。
「今日も良く来て下さったわね」
ベージュのドレスを着たオコネル夫人が明るい声で言う。ロコはぺこりとお辞儀をする。
「お久しぶりですわね、ロコ」
「ええ、本当にお久しぶり、ミシェルもレベッカも元気かしら」
「もちろん」
ロコは二人の旧友と、近況を報告し合った。何しろ暫く会っていないもので、語ることも語られることも多くあった。そして、時にはロコだけ知らなかったことも。
小柄なレベッカが、声をひそめて言った。
「そう言えば、ロコさん、あなた最近もちきりのウワサ知ってる?」
「いいえ」
きょとんとした顔でロコは言う。顔を三人近寄せ合って、レベッカがひそひそ声で言う。
「最近、この辺りにも出るんですって」
「出るって……何が」
「人食い」
そんな馬鹿な、とロコは思った。言い伝えでは、人間の欲に引きつけられてやってくる存在として語られるが、実在すると思っている人間はいない。
「そんなことって、あるわけないでしょう」
ロコは声をひそめたままおどけた。だけれども、レベッカが神妙な表情を崩さないので、ロコは再び居直った。
「農夫が一人、さらわれたそうなのよ。夕暮れ時に、ふとした瞬間いなくなっていたって。周りにいた人達の話によると、家に戻ろうとしている途中、林の方にぼんやりと火のような光を見たそうよ。それから、突風が吹いた。みんな目をつぶっていたわ。目を開いてみれば、一番後ろを歩いていた男がいなくなっていた。そして、代わりに落ちていたのは、男の右の腕……」
きゃあ、とミシェルとロコは叫んだ。背筋がぞっとした。
「で、でも、一体何があったのかちゃんと見た人はいないんでしょう?」
ロコは反論を試みる。レベッカは紅茶を少し口にする。そして、からっと表情を変えて、ひそひそ話の態勢を解いた。
「そう。ロコさんの言う通り、誰も見ていないから、人食いかどうかなんて本当は分からない。まじない師とか妖しい職業の人らならそういうの興味あるかもしれないけれど」
「ま、うわさですよ。う、わ、さ」
「そうよねぇ」
三人は気が抜けて、おかしそうに笑った。
あ、と思い出したように、ミシェルは声を上げた。
「そう言えば、ロコさん」
「何でしょう」
「あなたの家のある街で、変なにおいがするという話があるのだけれど、何かあったの?」
ロコは面食らった。心当たりは無いことは無いが、かぶりを振る。
「まさか。私、普段通り暮らしているけれども全然感じないですわ」
「なあんだ。お母様がそんなこと言っていたから、何かあったのかと思ったけれど。お母様が少しヘンなだけなのね」
ミシェルは安心したような、少しつまらないような表情をした。
三人はそれからもたくさんの噂話に花を咲かせた。その多くは結局噂に留まるのだが、次から次へとおもちゃ箱のように飛び出して、ロコは楽しい気分になるのだった。
帰りの路、ロコはスカッとした気分だった。
久しぶりに外出したおかげか、友人と話すことが出来たおかげか。普段の閉塞感が一気に吹き飛んだ。そこで、自分がどれだけ気が詰まる思いをしていたのかを思い知る。思えば、訳もなく憂鬱な日々が長く続いていた。
ガサガサッという音がした。ただ草むらが揺れただけだと思い、忘れようとしたが、その重い響きに嫌な予感を覚えた。馬の蹄の音が、妙にはっきり聞こえる。
「どうしたの」
隣に座っているクラウディア夫人が、不思議そうな眼でロコを見る。ロコは目を逸らした。
「い、いえ」
そう自分の心を隠そうとする。いや、どうということはない、ただたまたま狸か何かが近くを通っただけなのだと自分に言い聞かせた。だがどうも居心地が悪くて、落ち着かなかった。ほろを少しめくって外の様子を見ようとした。その瞬間。
グォォォォ!
大きな獣の咆哮が聞こえた。それと同時に、馬車が何者かに押され、傾き、横倒しになっていく。クラウディア夫人とロコは叫び声を上げ、成すがままに地面に叩きつけられた。クラウディア夫人は悲鳴を上げた。不可抗力でクラウディア夫人の身体にのしかかる。ドレスがクッションになったが、コルセットに響きそうだ。ごめんなさい、と謝ったが、返事はない。どうやら気を失っているようだ。
何とか抜け出して、ほろの外に出る。表には、二人いたはずだった。綱を握る御者の他に、ボディーガードが一人。だが、あるはずの彼の姿が見当たらない。震えながら御者が何とか馬をなだめようとして、ある一定の方から目を離せないでいた。
ロコはその方向を見た瞬間、顔を手で覆った。人間の背丈よりも遥かに大きい獣。橙と茶の縞模様と、白いたてがみ。犬のような鼻先が、紅く染まっている。その下にいるのは、上半身を失った人間の体だった。
――最近、この辺りに出るんですって……人食い。
ロコは友人の囁いた言葉を思い出す。
怖い。どうやって逃げよう。お母様をここにおいていく訳にもいかない。でも、自分の体力では、走って逃げることもきっと叶わない。ロコは御者を見た。とてつもなく怯えた目つきと血の気の引いた顔で、首を振る。きっとロコも同じ顔をしていたに違いない。この化物の腹が男一人で満ち、飽いて何処かへ去って行くことを祈るしかない。ロコは両手を組み、ぎゅっと目を閉じた。
誰か助けて。そう願うしか、ロコには出来なかった。
どれくらい経ったのだろうか、ふいに草むらを掻き分ける音が聞こえた。
「失礼」
若い男の声だった。ロコが目を開けると、全身真っ黒な衣装に包まれた男が、化物と対峙していた。
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#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-2-
青年は化物と対峙していた。既に、ボディーガードだったものの姿はなく、巨躯の前に靴が落ちているだけだった。男を引き止めようと思ったが、恐怖のあまり声が出ない。彼は振り返って、にっと笑う。
「安心して下さい。私たちが来たからには、もう大丈夫です」
私たち、という言葉にひっかかりを覚えると同時に、一匹の狐が現れ、黒服の男のそばに座った。それは普通の狐とは随分違っていた。毛並みは茶色と言うより明るい金色で、目は赤い。そして数え切れない尻尾が、扇のように広がっている。
男は巨大な化物に向かって言い放つ。その声は、人間を遥かに凌駕する化物への言葉とは思えないほど力強いものだった。
「随分と沢山の人間を食ってきたようじゃないか、ウインディ」
「何故私の名を知っている」
地の底から響くような低い声が響いた。これは、あのウインディという人食いが喋ったのか。人食いの毛が逆立つ。どうやら、この男がただ者ではないことを悟ったようだ。
「こいつが教えてくれたのさ」
黒服の青年が金色の狐の方を指差した。金色の狐は口元を歪ませた。得意げな様子で、笑っているように見えた。人食いも牙を見せたが、その表情は明らかに敵意を含んでいた。
間を置かず、人食いが行動に出る。ウオオ! という唸り声を上げると、ウインディの口から赤く光る玉が吐き出された。真っすぐに黒服の男目がけて飛んでいく。肌に感じる熱から、炎の塊なのだと直感した。危ないっ。ロコは身を固くする。だが、男は動じる様子がまるでない。
「キュウ」
「はいよっ」
金色の狐が、飛んでくる炎に向かって飛び込んだ。燃えてしまうかと思ったが、狐は全く苦しむ素振りを見せず、逆に炎の塊が狐の中にみるみる吸いこまれていく。炎が完全に消え去ると、狐は全く無傷で、むしろ毛並みが輝いているように見えた。
「人間の熱も美味いけど、あんたの炎もなかなか美味いねぇ」
男のものでも、ウインディのものでもない男の声。これはあの狐が喋ったのか。
「お前の炎は効かないぜ。キュウは火を食えば食うほど強くなる」
黒服の男が言う。人食いの獣は少し後ずさりをし、グルル、と低いうなり声を上げる。どう出るか、考えを練っているようだ。青年はウインディの次の行動を待つ。出来る事なら、逃げて欲しいとロコは願った。獣との物理的な距離が、そのまま身の危険を示すものだからだ。だが、ウインディの選択はロコの願い通りにはならなかった。ウインディの巨体が、青年の方に飛びかかる。火が効かなければ直接手を下すしかない、と踏んだのだろう。ロコは頭をぎゅっと抱えた。
「キュウ、とどめだ」
「はいよっ」
狐が、口から炎を吐き出す。その火は、先ほどウインディが放ったものよりもずっと、ずっと強い炎だった。苦しむ声を上げる間もないほど一瞬のうちに、ウインディは骨まで黒い炭と化した。ぼろぼろと、その場に黒こげの物体が崩れ落ちていく。
「……ふう。よくやったぞ、キュウ」
「お前は何もしてないけどな」
狐の言葉に対して答えに窮したのか、青年はため息をついた。おもむろにロコの方を振り返り、その目がロコの瞳を捉える。
「大丈夫ですか」
「え、ええ」
「それは良かった。最近人食いが暴れ回っていると聞いて、張っていた甲斐がありました」
「あの、あなたは」
さっきから、途切れ途切れにしか言葉が出てこない。今無事であるということが、夢のようだった。黒服の男は右手を胸に当て、軽くお辞儀をする。
「私はディドル・タルト。この周辺の街で、まじない屋を営んでいる者です。皆からはドドと呼ばれているので、差し支えなければお嬢様もそうお呼び下さい。この狐はキュウコン。先ほどの奴と同じ人食いですが、私のしもべとしてしっかりしつけてありますので、害はありません」
「よろしく」
キュウは言って、目を細めてけたけたと笑った。本当に無害なのだろうか。つい先ほど、主人に向かって口答えをしていたような気がするのだが。はあ、とロコは気の抜けた返事をした。
「あの、人食いと言うのは一体なんなのでしょう。あんな生き物を、生まれて初めて見ました」
ドドは少し眉をひそめた。どこから説明すべきか、検討しているようだった。
「人食いというのは言葉通り、人間を食らう者達のことです。ただ、滅多に人前に現れなかったり、巧妙に姿を隠しているため、その存在を知っているのはまじない師か実際に食われかけた人間くらいです。多くの人は、おとぎ話などに出てくるだけで、実際にいるとは思っていないようですね」
心当たりがある。今日の昼、レベッカからうわさを聞いているとき、自分がまずどう思ったか。まさしく、おとぎ話の中の存在だと跳ね付けようとしていたではないか。
「彼らは人間に存在を悟られないようにするのが非常に上手い。少なくとも、姿をそれと見せることは滅多にないんです。だけれども、最近はどうも違うようだ」
「違う、って?」
ロコは彼の話に聞き入っていた。
「ここ数カ月、奴らの動きが妙に荒っぽいのです。他にも一件、あからさまに人食いのそれと分かる痕跡を残した行方不明事件がありました。人食いは妖しい世界に属する生き物です。まじない師は、それに対抗する知識と技を持っているため、人食い退治も請け負うことがあるのですが……どうもキナ臭い」
そうだ、と言って、彼は黒服の内ポケットから一枚の紙を取りだした。
「お近づきのしるしに、便箋を差し上げましょう。この紙には特別なまじないをかけてありまして、折って投げると真っすぐ私の元へ飛んでくるようになっています。もしお嬢様の身に何かあれば、こちらに要件を書いて送ってください。すぐに駆けつけますから」
ロコは、渡された便箋をまじまじと見た。正方形をしており、便箋と言うにはぴんと来ない。だが罫線はちゃんと書かれてある。裏面には、投げる際の折り方が図解してあった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ドドはにっこりと頷いた。
それから、彼は御者と二人で馬車を起こしてくれた。そして、ボディーガードの靴を持って来てくれた。御者はしょげた顔をした。持って帰り、せめて靴だけでも家族の元へ帰してやろう、という話になった。
「今日あったことは、誰にも話さない方が良いでしょう。下手に広めると、混乱を招くかもしれませんからね。それでは、私はここで」
ドドに見送られて、馬車は再び走りだした。別れ際にもう一度お礼を言い、見えなくなるまで手を振った。クラウディア夫人は相変わらず気を失ったままで、目を覚ましたのはそれから暫く後のことだった。
さっきの騒動は何だったのだろうと考える。
人食いという、想像もつかないような化物に襲われたと思ったら、それを助けてくれる見ず知らずの男が現れた。何だか夢のようで、劇の舞台に立っているような出来事だった。だが、現実としてはそこにドラマチックさもなく、ただただ混乱のうちに終わったという印象を抱く。ボディーガード一人の命が失われたことも悲しくて、それ以上は思考出来そうになかった。唯一同じ経験をしている御者に相談すれば、幾分か気が晴れるだろうか。
そう考えた矢先、クラウディア夫人が目覚めてしまったので、ロコは口をつぐんだ。人食いのことは他の誰にも話さない方がいい、とドドの忠告を思い出したからだ。
「あら、やだわ私ったら。眠っていたのかしら」
「ぐっすり眠っておられましたよ。馬車の揺れが気持ち良いですからね」
ロコは努めて笑顔を崩さないようにした。夫人は腑に落ちない様子だったが、深く聞きはしなかった。
だが、それとは全く別のところに、ロコを襲うものは現れた。
「ところで……何か臭いませんか、お母様」
どこからか、いやな臭いがうっすらと漂ってきた。不快感を覚えたロコは無意識のうちに、眉間にしわを寄せていた。夫人は少し大げさに嗅いでみたが、良く分からない、という顔をしていた。
最初は、肥溜めか何かにでも近づいたのだろうと思った。だがそれなら今まで同じ道を通ったときにも感じていたはずである。それではないのだろうと結論付けた。その臭いは、馬車が街に近づくにつれ、強烈なものとなってゆく。それは徐々に、かつ確実にロコを苦しめた。臭いの大本が近くにあるのか、遠くにあるのか分からないのが、ロコの神経を苛立たせた。臭いを感じまいと、呼吸の仕方を変えてみる。そのうち、吸える息が減っていくような錯覚を覚えた。何かが胸の中でぐるぐると回っている感じがした。目の奥に、重いものがのしかかっているような感覚も。意識から振り払おうとしても、最早不可能だった。
「ロコ? ねえ、大丈夫?」
酸味、甘味、苦味、渋味、辛味、全ての味が負に転じたような臭い。この世のあらゆる食材が腐り、ごちゃまぜにしたスープを飲まされている。そんな想像が頭の中を駆け巡った。吐き気を催して、必死にこらえた。
ロコの身体が倒れそうになる。すんでのところで、夫人はそれを支えた。その動きは平常時と変わらぬ様子だった。どうやら、母は本当にこの臭いを感じていないらしい。自分だけが、この異臭をはっきりと感じている。
「はぁ、はぁ、げほっ」
屋敷に到着し、馬車を降りたロコは、えづき、胃の中のものをひっくり返した。水で口をゆすぐと、むせて咳が出る。涙も出た。
下女が大丈夫かと心配する言葉をかける。彼女もどうやら平気のようだ。
「部屋まで、連れていって」
肩を借りて、何とか自分の部屋を目指す。階段を上るために上げる足が、鉛のように重い。この時ほど、自室が二階にあることを憎らしく思ったことはなかった。
部屋に入って、お香を焚くよう下女に頼んだ。ロコはふらふらになりながら机にしがみつく。ベッドで横になりたい気持ちを抑えて、なんとか椅子に座る。下女がお香を焚き、白い煙を上げたのを確認して出て行く。お大事に、と心配する声が、ロコの耳に届いた。
胸ポケットから、一枚の便箋を取り出す。正方形の便箋。ドドと言うまじない師に贈られた不思議な紙。正体は判然としないが、この尋常じゃない臭いに頼れる人間は彼しかいない。震える手で、紙にインクを乗せていく。要件を書き、インクを乾かし、裏に書かれている通りにロコは紙を折り始めた。そうして完成した姿は、どこか滑空する鳥の嘴に似ていた。
――もう一度、助けて。
ロコは窓を開き、願いを込めて便箋を飛ばした。不思議なことに、それは投げた力以上に力強く滑空し、遠くに消えた。
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#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-3-
その夜、明かりを全て消した頃。誰かがノックする音が聞こえた。こんな時間に誰だろうと、寝ぼけた目をこする。そうこうしているうちに、もう一度ノックが聞こえた。そこで、叩いているのはドアでは無いことに気付く。
ノックは、窓から鳴っているようだ。ロウソクに火を灯し、ロコは異臭を覚悟で窓を開けた。窓の桟に人間の手がかかり、よじ登ってきた。ロコは驚き、思わず声を上げそうになる。そして、後に続いて尾の多い獣が、おじゃましますよ、と言ってロコの部屋のじゅうたんに飛び下りた。青年の黒い帽子を見て、ロコは彼が誰なのか理解した。そして、その目的も。
「ドドさん。それに、キュウも……来てくれたのですね」
「お休みのところ申し訳ございません。手紙が届きましたので、早速参上しました」
ドドは紳士然と頭を下げる。
「いいえ。悪いことなんて何もありませんわ。来てくれて、本当にありがとう」
ロコは思わず涙ぐみそうになった。一刻も早くこの臭気から解放されたい一心で、手紙を書いたのだ。窓を閉めて、臭気を遮断する。ドドは辺りを軽く見回した。
「手紙通りですね。ひどい臭いだ」
「全くだね」
うぇ、とキュウも舌を出して苦い顔をする。ドドはロコを真っすぐ見つめた。いよいよ本題に入るのだと、ロコは身構えた。
「単刀直入に言いましょう。この臭いの元凶は、この屋敷にいる人食いです」
「うそ」
ロコは衝撃を受けた。ウインディの巨躯を思い出して、背筋が凍る。あんなおぞましい生物が、身近に潜んでいただなんて。少し間を置いて、ドドは再び語りだす。
「今からこの臭気の出どころを探しに行きます。そこで、お嬢様には同行をお願いしたい」
臭いのせいで喉が痛む。それが嫌で、ロコはつばを飲み込んだ。
「もちろん、危険であることは重々承知しております。ですが、きっとお嬢様にしかできないことがある。そんな予感がするのです。お嬢様の身にお怪我がないよう、必ずお守りします」
ドドは説得を続けた。だが、ロコの心は迷っていた。人食いの姿を見て、今回も無事でいられるとは限らない。だけれど。
「分かりました。一緒に行きましょう。あなたのことを、信用致します。それに」
「それに?」
「助けて欲しい、助かりたいと言ったのは私です。私が動かなきゃ」
ロコは笑った。ドドはゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます、お嬢様。それでは、これをお渡しします」
ドドがお礼を言うと、一枚のハンカチを取り出して、ロコに渡した。
「これは?」
「ハーブの香りを配合したハンカチです。これを口に当てれば、外部の臭気から守ってくれますよ」
「ありがとう」
ロコはハンカチを顔に近付けた。すうっと爽やかなにおいが鼻を抜けていき、気分が少し楽になった。
「そういえば、どうしてここまで誰にも気付かれずに来れたのですか? 庭には警備の者がいるはずなのに」
ロコはふと疑問に思ったこ とを口にした。ドドは、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「足音を消すまじない、というものがあるのですよ。姿さえ見られなければ、勘付かれることはありません。泥棒のように、足音を殺す特別な工夫がいらないので便利なんですよ。今からお嬢様にもかけて差し上げましょう」
ドドはロコの靴をとんと指で叩いた。すると、足下がふうっと軽くなっていくような気がした。足を軽く踏み鳴らしてみると、衝撃を感じるにも関わらず、木と木の衝突音は聞こえなかった。
「さて、行きましょう」
ロコは頷いた。謎の多い人物だが、少なくとも悪意を持って屋敷に近づいたわけではないような気がした。ドドは扉を開き、ロコとキュウは後に続いた。
夜の暗い屋敷というものを、ロコは歩いたことがなかった。キュウが先頭を歩き、火を吹いて灯り代わりにする。その光が当たらない陰の部分に、何か見えない魔物が潜んでいるのではないかという気分にさせられた。どれだけ気を使わずに歩いても、一切の音が鳴らない。ドドのかけてくれたまじないが、逆に夜闇に潜む何かの存在を感じさせてしまう。身体を縮こませながらも、ロコはドドにしっかりとついていく。
二人は一階の一室に入った。母が化粧をするときに使う部屋だ。掃除の行き届いた化粧台。そして、全身鏡。ドドは全身鏡の前に立った。鏡は淵が金属で装飾されていた。それをじっくりと観察し、指でなぞった。
「ここだな」
胸ほどの高さの一部分を、ドドはぐっと指で押し込んだ。その瞬間、かちっ、という音がして鏡が淵ごと横に開く。奥は地下へと続く階段になっていた。
「なるほど、隠し扉か。何かを隠すには丁度いい」
下から、ハンカチで覆っていても分かる程の強い異臭が吹きこんできた。ハンカチをさらに強く押し当てる。この下に、人食いがいる。心臓がばくばくと鳴り始めた。
地下へと続く階段は、壁のレンガが古びていて不気味さを覚えた。キュウが、燭台に火をつけて降りる。ロウソクがまだ新しい。きっと、誰かがこの部屋に出入りしているのだ。でも、誰が。
階段が終わり、どうやら開けた場所に出たらしい。キュウが、ロウソクの全てに明かりを灯した。昼のような明るさに包まれ、ものの輪郭が浮かび上がっていく。部屋のごつごつとした壁、そして、その場所に居座る――放置されている、と言った方が正しいかもしれない――ものの姿。
「ほう。お前が人食いか」
うっ、とロコは顔をしかめた。その人食いの姿は、ウインディやキュウコンとまるで異なるものだった。
一言で言えば、それは紫のヘドロだった。半液状の物体が小さく盛り上がり、よく見ると目や口に当たる部分が分かる。光に驚いたのか、ヘドロは手のようなものを伸ばしてくるが、身体は地面に滴りすぐに全部崩れ落ちた。今まで見た人食い達よりも、遥かに鈍重な印象を与えた。
「こいつはベトベトンだな。身体がドロドロだから、自分ではほとんど動けねえんだ」
キュウが喋る。ふうん、とドドは軽い相槌を打つ。ドドは一体どうやって人食いの名前を掴んでいたのかと思っていたが、どうやら同じ人食いのキュウが知っているらしい。
ロコはベトベトンに近づけなかった。ヘドロの身体から放たれる臭いがあまりにも強烈だったためだ。ドドから貰ったハンカチも効力を失ったかのように、嫌な臭いが貫通する。
不意に、ドドはロコをぎょっとさせる行動に出た。右腕をベトベトンの前に差し出し、近付けたのだ。ベトベトンは、うおー、と鈍い唸り声を上げて、ドドの腕にヘドロを伸ばし包みこんだ。心臓が縮みそうな思いをしたが、ドドは振り返って笑う。
「大丈夫ですよ、お嬢様。人食いとは言えど、ただその肉を食らう者だけとは限らないのです。例えば、水分だけを食らう者、爪だけを食らう者、色素だけを食らう者。色々な奴がいる。こいつは恐らく、人間の垢や体内の毒素を根こそぎ食らう人食いです」
ドドの腕にまとわりついたヘドロは、事実すぐに離れた。ドドがその腕をロコに見せると、確かに包まれた部分だけ色が明るくなったように見える。
「ほらね」
ドドは呟いた。ロコの頭に、新たな疑問が浮かび上がる。
「でもどうして私、こんなにひどい臭いに気付かなかったのかしら。近くにずっといたはずなのに」
この質問には、キュウが答えた。
「こいつは人間の毒素を食うと、ゲップみたいなのを出すんだ。食えば食うほど臭いを出す。ただ一回一回の量はそんなに多くないから、臭いは少しずつ強くなっていく。それだから、ずっと屋敷にいたりなんかすると、気付かないこともあるかもしれないな」
キュウはけたけたと笑った。そういえば、そうだ。ロコは数か月家を出ていなかったことを思い出した。ロコがドドの顔を見上げると、ドドは理解したように頷く。
「しかし、自分の毒素をこいつに食わせている人間がいるということになる。毒素をこいつに全て預けて、自分の美を保っている人間が」
「一番臭いに鈍感なのはエサやってる張本人だろうな。自分の臭いだから、気付けるわけがねぇ」
ロコははっとした。ある人物が一人、頭に浮かんだ。まさかと思ったが、意思に反して人物の像がはっきりと浮かび上がる。
その時、階段を勢いよく降りてくる音。ロコは背中を冷たい金属のトゲで刺されたような感覚を覚えた。まさか。
「あなた達、ここで何をしているのです」
クラウディア夫人の声が、狭い空間に反響する。息を乱し、肩を震わせ、口元を大きく歪ませて、ドドに対して怒りをむき出しにしていた。
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#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-4-
「こんなところに勝手に入るなんて……さては泥棒ね! 人を呼ぶわよ」
クラウディア夫人はドドに向かって大声を上げる。口元を大きく歪ませ、今にもはちきれそうな怒りを露わにしている。ロコは、夫人のこの顔に見覚えがあった。夫人の容姿について疑いを持った執事を扇子で殴ったときだ。あの時と同じだ、と思った。あの時と全く変わっていない、まるで子どもが癇癪を起したような顔。
「私は泥棒などではございませんよ」
ドドは素っ気ない態度で答えた。
「私はディドル・タルト。まじない師でございます。本日はロコお嬢様の依頼を受け、人食いを退治しに来たまでのこと」
「ロコが……?」
ドドがロコの方を指した。そこでようやく夫人はロコの姿に気付いたらしい。夫人は困惑の表情を浮かべている。
「あなたはクラウディア夫人……ロコお嬢様のお母様ですね。早速ですが、今この屋敷に何が起こっているのか、奥様はご存じですか」
「さあ、ね」
毅然とした態度で夫人は答えた。
「そうでしょうね。あなたはきっと気付かないでしょう」
「何がいいたいのかしら」
夫人は苛立ちを見せる。
「貴女様は非常にお美しい顔立ちをしておられるようですが、その美貌を手に入れたのはつい最近のことだとか」
「ええ。そうよ」
「どうやって手に入れました?」
冷たい緊張が走る。中にいる者は誰ひとり、夫人から目を離せなくなった。口元を歪ませながら、夫人は思案していた。
「いつもひいきにしている商人が、特別なクリームを売ってくれたのよ。これを毎日塗れば、身体の毒を全て吸いだしてくれるっていう触れ込みでね。私は運がいいと思ったわ。塗ってみたら、本当に身体の悪いところが消えて無くなってしまった。驚きよね。シミが消えるだけじゃなくて、歳とともに痛みかけていた髪まで若いころのようにつやつやになったんだもの」
「それが、このヘドロということなのですか」
ロコがベトベトンに目をやりながら、聞いた。
「ヘドロなんて言うんじゃないわ」
夫人はキッと睨みつける。
「これをくれた人は、こう言ったわ。これは貴女の人生のごほうびです、って。私は嬉しかった。私のためにここまでしてくれる人が、いると思う? あの人は私の欲しいものをしっかり言い当ててくれたのよ」
「これが欲しかったものですって?」
ロコは怪訝な顔をした。
「これのせいで私は」
ここまで言って、ロコは口をつぐんだ。言葉が出なかったのではない。臭気にやられて、また胃の中のものをひっくり返しそうになったからだ。反射的に、ロコは背中を丸めた。ハンカチをしっかり口に当て、染み込んだ香草の匂いを感じ取ろうとした。その瞬間、ロコの身を案じ一歩踏み出した夫人の姿を、ドドは見逃さなかった。
「奥様。このクリーム……ベトベトンは、確かに人の毒素を吸い取り尽くす力がある。ですが、これには裏があるのですよ」
夫人はしゃがんで、ロコの肩を抱いた。そして、顔をドドの方へ向けた。
「このベトベトンは、毒素を吸い取った分だけ、悪臭として外部にまき散らす。あなたが美しくなるたびに、他の誰かが不幸になるのです」
夫人ははっとした。
その時、ドドの後ろで、ベトベトンが唸った。その口から吐き出される息。それがロコへ到達すると、ロコはいっそう強くえづいた。
「累積した奥様の毒素が、ベトベトンの吐きだす臭気を少しずつ、少しずつ強力なものにする」
ドドは地下室の中をゆっくりと動き回りながら語り始める。
「奥様は知っておいでですか。この屋敷の周辺で、怪しい臭気が漂っているという噂を。屋敷にいる方々は常に臭気にさらされているせいか、どなたも気付いておられないようですが、外部の人間には明らかのようですよ」
ロコはレベッカの顔を思い出した。昼間、その話を聞いたばかりだ。
「本日、お二方はオコネル氏の家にお茶をしに行った。一度家を離れたお嬢様は、その時今まで慣れていたこの家の臭気への耐性を完全にリセットしてしまった。お嬢様の今のお身体が、本来あるべき反応です。奥様、本当にこのクリームとやらを使い続けても宜しいのですか?」
ドドは夫人に問うた。喋り終わると同時に、ロコはむせた。
もうハンカチがあってもなくても変わらないほど、臭気は強くなっている。目を開けられず、何も見えなくなった。頭が揺さぶられるような感覚の中に、絶望が広がって行く。数秒先を生きる道でさえ、暗く霞んで消えてしまうのではないかと、ロコは思った。
ふと、その背中に温かいものが伝わった。とても懐かしい感覚だった。暗闇の不安が、包みこまれるような安心感に変わっていく。夫人が……母が、ロコの肩を抱いていたのだ。
「ロコ、大丈夫だから。ほんの少しだけ、我慢してね。ほら、立って」
夫人に身体を預け、ロコは立ち上がった。目を開ける気力はない。
「ロコを部屋まで送ります」
夫人はドドに言った。
「このクリームはどうされますか」
「処分してください。こんなヘドロ、もう要りません」
「かしこまりました。仰せの通りに」
ドドはにやりと笑って、深く頭を下げた。
「それから」
夫人はロコを階段に下ろし、顔を上げたドドに早足で近づく。パァン、と快気いい音が響いた。ドドの頬を平手で打ったのだ。拍子抜けするドドの顔に笑みを見せて、夫人は踵を返した。
「それじゃ、後は宜しくお願いしますわ」
夫人はロコを抱えて、階段を上っていく。呆気に取られたキュウとドドの二人だけが、地下室に取り残された。
ロコの部屋までの幾段もの階段を、夫人は誰の手も借りずに登った。ベッドにロコを寝かせ、ロコの一番好きな香を焚く。甘い匂いが広がり、ロコの身体をほぐしていく。
「本当に、いいのですか」
「何が」
夫人は優しい口調で返した。
「あのベトベトンを、処分しても」
夫人は答えなかった。ただ静かな微笑みを浮かべるだけだった。
「お母様にとって、大事なものだったのでしょう。ずっと、若さと美しさを追い求めてたんだもの。それなのに」
「だって、ロコにそんな顔されちゃ、嫌でしょう?」
夫人は苦笑した。
「我が娘のあんなに苦しそうな顔を見たら、やっぱり助けなきゃって思うのよ。あなたの親ですもの」
ロコは布団に顔を深く埋めた。
「私、昔は良家に嫁ぐためにありとあらゆる勉強をしていたのよ。周りが十の勉強をしたら、私は十二。周りが十二したら、私は十四。そんな具合にね。教養を身につけて、絶対に良家に嫁ぐんだって思ってた。あの頃は輝いていたわ。これからどんな道を歩けばいいのかはっきりと見えていたから。でも、いざこの家に来てみたら、なんだか急に穴に突き落とされたみたいな気分になっちゃってね。どれだけ土地があって、奇麗な家に住んで、服で飾ってみても、それは変わらなかった。でも、それしかないと思い込んでいたのよね。いつの間にか、自分を美しく飾ることでしか、生きていく先が見えなくなっていたのよ。でも、きっとそうじゃないのね。私には、あなたとイングウェイがいる。まだまだ終わりなんかじゃないのよ」
ロコは小さいころから、何度もこの話を聞いていた。美への執着が強くなった夫人を避けるようになってから、久しぶりに聞いた昔話だった。だが、今回はいつもと違って聞こえる。夫人の言葉が、胸の中にすとんと落ちていく。
「さあ、もう今日はお休み」
夫人は立ち上がって、布団を軽く叩いた。
「あ、そうだ、ドドさん」
地下室のことを思い出し、ロコは気になった。
「私がちゃんと言っておくわ。安心してお休み、ロコ」
クラウディア夫人は微笑んだ。
うおお、とドドの後ろで声が荒ぶった。ベトベトンは手を伸ばし、ドドの足元に近づく。少し触れそうになって、ドドは一歩離れる。
「おやおや、餌くれるご主人が帰っちゃったもんだから、怒ったか」
キュウはケタケタと笑った。
「頼んだぜ、キュウ」
「やれやれ、燃やすのはいつも俺だ」
「まあまあ、そう言わずに頼むよ。丁寧にな」
「はいはい」
キュウは炎を吐いた。高熱がベトベトンの指先に触れ、たちまち全身を覆った。ただの熱では派手な炎を上げることは恐らくないだろう。キュウの炎はそれほどまでに高温なのだ。下手をすれば周囲のものを全て燃やしてしまいかねないため、狙いと出力を外さないようにしなければならないようだ。炎の真っ白な光でベトベトンが見えなくなった。唸りが、焦れから苦しみに変わった。キュウは火を止める。
「こんだけやれば、後は勝手に燃えてくれる」
キュウは言った。悪いな、とドドは言って、頬をさすった。まだじんじん痛む。
「痛いのかい」
キュウはおかしくてたまらないといった様子だった。ドドは怪訝な顔をした。
「痛いに決まってるだろ」
「そういえば、何でお前叩かれたんだろうな?」
人食いのキュウは本当に分かっていないらしい。
「どんなに自分勝手な人間でも、夫人にはまだ娘を思う心があったってことさ。娘を傷付けられたら怒る」
「ふーん」
屋敷に漂う異臭を消し去る。ロコの依頼を解決するためには、ベトベトンの始末を夫人の口から頼まれる必要があると思っていた。秘密裏にベトベトンを消し去ったとしても、夫人は人食いの魔力にとりつかれたままだっただろう。そして、すぐに同じことを繰り返したに違いない。自身の美しさよりも、大切なことがあるのだと気付かせなければ、解決したとは言えない。
「お前も悪い奴。お嬢さんに内緒で、自分にだけ臭いを感じなくなる術かけたろ?」
「バレてたのか」
ケタケタとキュウは笑った。ベトベトンの身体が最初の十分の一にまで縮み、炎の勢いが衰え始めた。
「明日、謝んないとなぁ」
「そうよ。明日あなたには謝ってもらうわ」
夫人が再び地下室に現れた。
「今日はお泊まりになって下さいな。ロコが随分お世話になったようだから、これくらいはさせてちょうだい。部屋はもう用意させてあるわ。案内します」
ドドとキュウは顔を見合わせた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
結論はすぐに出た。
炎は消え去った。ベトベトンの鎮座していた地面には黒いしみと、僅かな燃えカスが残っていた。
ドドとキュウは二階の一室に案内された。ベッドや机などが一通り揃っていたが、ロコの部屋よりも簡素な印象を受けた。今は使われていない部屋だという。机の上のランプに火を灯し、ぼんやりと部屋がオレンジ色に輝く。
「ゆっくり休んで下さい。また明日、改めてお話し致しましょう」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
ドドは頭を下げた。キュウもそれに倣う。夫人は扉を閉めた。ふー、とため息をつくドド。日中窓を開けて風を通せば、屋敷の悪臭も全て消え去るだろう。とりあえず安心、といったところか。一つ、伸びをした。気分がいい。
「ん? 何か落ちたぞ」
キュウはドドの服の内側から、黒いものがぽとりと落ちるのを見た。コロコロと転がり、キュウの手前で止まった。床には光が届かないせいで、よく見えない。顔を近づけて、確認してみようとする。その瞬間、黒いものはキュウの口の中に跳躍した。キュウは思わず叫んだ。
「どうした」
ドドは振り返った。どたばたと手足を暴れさせるキュウを見て、異常を察知した。
「何かが、口の中に……まずい、にがいっ」
キュウは何度も口に入った何かを吐きだそうとした。だが、喉の奥に貼りついたような感覚がしぶとく残る。
「ちょっと我慢しろよ」
ドドは術を試みた。キュウの頭が上を向いたまま、硬直する。念じて指を上に振り上げると、キュウの口から黒い、いやよく見れば濃い紫の物体が飛び出した。
(こいつか)
更に術をかけ、ドドはそれを空中に縛りあげた。ピクリとも動かないが、まだ生きている。内ポケットから小さな空き瓶を取り出し、素早くそれを封じ込めた。すぐにキュウの姿を確認する。元凶と思わしきものを取りだしたにも関わらず、まだキュウはもがき苦しんでいた。
「まずい、にがいっ、ああっ」
「水を貰ってくる。我慢しろ」
ドドは部屋を出ようとする。だが、キュウの衰弱は急激だった。キュウはしゅうしゅうと白い煙を上げ、縮んでいった。苦しげな声が、徐々に細くなっていく。もう助けられない、という予感がドドの動きを縛った。煙が消え去った後には、手のひらに乗るほど小さくなったキュウの頭部だけが残っていた。目を閉じ、眠っているようにも見えた。
瓶を手に取り、中の紫色の物体を睨んだ。
「ベトベトン……お前か。畜生」
やられた、と思った。最初に触った時か、或いは燃やして油断している隙か。ベトベトンは自身の小さな分身を用意し、自分の服の隙間に潜んでいたのだ。
ふと、ドドは自分が笑っていることに気付いた。どういうわけか、ひどくおかしな気分になっていた。いや、理由は分からないでもない。己の中にある疑問に対する解を導く、一筋の光を見つけた、そんな確信があった。
「そんなにこいつが憎いかい? 言霊使い」
そう呟いて、ドドは頭部だけになったキュウを撫でた。ランプの炎が、怪しく揺らめいた。
朝、ロコは朝食を取りにテーブルにつくと、夫人が悩ましげな表情で座っていた。
「おはようございます」
「おはよう、ロコ。あなたにお手紙よ。昨日のまじない師さんから」
夫人はロコに渡す。
「本当だったら、この場で一緒に食事しようと思ったんだけどね。空き部屋使って、泊まって行くように言ったはずなのに……。朝起きたらこの紙が置いてあるだけだったのよ。ひどいわ」
夫人は本当に残念そうに言った。自分と会わせてくれようとしたことを思うと、この一言を言わずにはいられなかった。
「ありがとう、お母様」
「どういたしまして」
笑顔を交わし合い、ロコは手紙に目を通す。
手紙の内容は、今回の事件に対する考察と謝罪だった。ドドが自分だけ悪臭から逃れていたこと、ロコだけつらい目に合わせてしまったこと。だが、夫人を説得するためにはこれしか思い浮かばなかったので、どうか許して欲しい、と。
朝食も取らずに帰ってしまったことに関しても、謝っていた。どうしてもすぐに帰らないといけない事情が出来てしまった、とだけ書いてあったため、詳しい理由を知ることは叶わない。そのお詫びにと、プレゼントについて書かれていた。手紙の後ろに、何も書かれていない正方形の紙がついていた。例によって、まじないのかかった便箋だった。
――もし再び、お嬢様の身に何かあれば送ってください。必ず駆けつけますから。
「お母様の言う通り、確かにひどい人ね」
文章を読み終え、手紙を折りたたんだ。
「私を置いてすぐにどっかに行っちゃうなんて、まるでお兄さまみたい」
「確かに、イングウェイは無茶ばっかりしていたわね。いつも何かやった後で、報告するんだから」
二人は顔を見合わせる。可笑しくなって、笑いだした。ドドは、まじない師だ。きっとロコの知らない世界で、誰かの為に頑張っている。
遠い地で頑張っている、父と兄に思いを馳せた。二人は元気にしているだろうか。
「早く帰って来ないかしらね」
「そうですね」
開けた窓から差し込む朝日が眩しい。風が一つ通り抜けると、もうひどい臭いを感じさせるものはどこにも無かった。
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第2部 ジャグル・タルト
#2 火矢を放つ-1-
レガ・タルトは、弓矢を放つ構えをした。とは言え、手に握られる弓はない。弓を持つ手を模した体勢をとっているだけだった。身体を垂直に立て、左手を伸ばし右手を引く。両の人差し指をぴんと伸ばし、動かぬ的に狙いを定める。
これがただの「ふり」でないことは、見守る少年の誰もが知っていた。と言うより、誰の目にも明らかだった。
レガの引いた右腕には、一本の矢が浮いていた。術によって発生した見えない張力によって、宙に浮いたまま留まっている。射撃は、タルト一族に伝わる基本的な攻撃術だ。さらに、一人前の術師になると別の術と組み合わせることもある。
子どもたちは矢の羽根に注目した。周囲の熱が彼に吸い込まれていくかのように、一陣の風が吹く。その瞬間、羽根に橙色の火が灯った。驚きと、片時も目を離すまいとする気持ちが同時に現れ、おかしな動作をする子どもたち。そして、観客を息づかせる暇もなくレガは矢を放つ。術で浮かせた矢とは言え、その軌道、速度ともに本物の弓矢と遜色なかった。矢が正確に的の中央を貫いたその瞬間、矢の炎は消え、代わりに的が勢いよく燃え始めた。側に控えていた者が、すぐに消火する。レガが一つ息をつくと、周囲から歓声が上がった。
「十五歳までに矢を放つ。十六歳までに火矢を放つ。これが出来れば一人前だ。誰か、やってみるか」
レガの火矢を見ていた少年達の中でも、最年長は十四歳だった。矢を放てるほどの術力を得るにはまだ少し早い。そうと知りながらもレガが火矢を見せたのは、タルトの子どもたちは十六歳で火矢を大人たちの前で披露するという、通過儀礼を受けるからだった。
「おれ、やります」
矢に灯った炎のような、くるくると丸まった鮮やかな橙色の髪をした少年が手を上げた。
「ジャグルか。君は勇気があるな。よし、やってみろ」
周囲が興奮に沸き立つ。ジャグル・タルト。まだ十四歳だが、一部の仲間は彼の才能を知っていた。そういう仲間は、こいつならやってくれるのではないかという期待のまなざしを向けた。ジャグルは頷き、少し下に目線を落としながらレガの方へゆっくりと歩み寄る。自ら志願はしたが、緊張を隠しきれない子どもらしさがそこにはあった。レガは矢を一本、ジャグルに手渡した。
「大丈夫。自分のペースで、焦らずやるんだ」
レガはジャグルの背中を軽く叩いた。やがてジャグルも、意を決したように頷き、顔を上げた。
ジャグルは的の方に顔を向け、足を前後に開いた。沸き立つ声が止み、周囲は緊張感に包まれる。両手に神経を集中させ、矢に術力を込める。矢を持つ右手を開き、術力によって右手にくっついたまま落ちないことを確かめる。親指と人差し指をぴんと伸ばすと、人差し指に矢はくっついてきた。左手も同じ形を作り、矢を構える形を取る。
ジャグルは的を睨んだ。決して近くはない。だが、狙えない距離でもなかった。ジャグルにとって、矢を操るのはこれが初めてではない。既に何度も練習を重ねている。
ジャグルは矢に術力を込める。思わず肩に力が入った。本当は、矢を放つのに力を込めてはいけない。力が素直に伝わらず、ブレる原因にもなる。基本的なことだから、レガの注意が入りそうな気がした。
――だが、構うものか。
矢の先端に全ての力が集まっていくイメージを浮かべる。そして、ただひたすらに先端が赤く燃えるさまを見ようとする。本当なら、今誰もきっと火矢を放つことまでは望んでいないだろう。だがジャグルは、今こそがチャンスだと思っていた。何としても手に入れたいものが、少年にはあった。この集団の中で、いち早く実力を認められ、一人前としてやっていけるようになること。それが願いだった。
ぼっ、という音とともに、光がはじけた。矢の先端に、熱い炎が灯っている。周囲から、期待と困惑に満ちたどよめきが起こる。レガは何も言わない。見守る連中は次第にレガの沈黙の意味を悟り、声をあげるのを止めた。しんと静まったその空気に、ジャグルの心は固まる。次の瞬間、右手に集めていた非物質の張力を解放する。弦が支えを失い、その力は恐ろしいほど綺麗に伝わっていく。炎を帯びた矢がただ一点を目がけて、宙を駆ける。
すとん、と小気味の良い音が響いた。その直後、更に大きい音を立てて、矢が的を爆破した。黒い煙がもくもくと登る。術力を込め過ぎて、燃えるどころでは済まなかったらしい。流石にジャグル本人も予期しておらず、目を丸くした。周囲の少年たちも、同じ顔をしてその場に固まっていた。
沈黙を破ったのは、一人の手を打つ音だった。レガだった。何も言わず、ただひたすらに拍手を送っている。その笑顔の意味が称賛であると気付くまでに、時間はかからなかった。この時、ジャグルの評価は完全に決まった。歓声が上がる。誰もがジャグルを褒め、激励の言葉を投げかけ、肩を叩いた。きょとんとしていたジャグルも、皆の嬉しそうな、それでいて少し悔しそうな顔を見るうちに少しずつ笑みがこぼれ、最後は大笑いした。
――あぁ、自分は認められたのだ。これでもう誰も自分のことを疑う者はいない。一流のまじない師としての将来は、約束されたも同然だった。あとは、上り詰めるだけ。そう思うと、ジャグルは生まれて初めて、心から笑えた気がしたのだった。
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#2 火矢を放つ-2-
火矢の一件はすぐさま大人たちの耳に入り、ジャグルは晴れて一足早い大人の仲間入りを果たすこととなった。今までの勉強に加え、レガの後輩として、大人になってからしか学べない術の数々や請け負った仕事の一部を、そばに付いて学ぶことが決まった。
これは、異例中の異例とも言えることだった。タルト一族は、子どもと大人とで完全に生活圏を分けていた。子ども達は、教育係である一部の大人以外の成人と関わる機会を持たない。一族が共同生活を営む村は、人食いの跋扈する深い森の中にある。中途半端に術を身に付けた者が勇んで森に入れば、逆に人食いに食われてしまうからだ。人食いは術力を持つ者を食らうと、その力を増大させてしまうことがある。共同生活圏内には守りの術がかけられており、人食いが侵入することはない。だが、力を増幅させた人食いが、人間の術力を上回らないとも限らない。たった一人の勇み足が、一族の生活を滅ぼすことになりかねないのだ。だからこそ、大人達は子どもの好奇心を統制しなければならなかった。
もちろん、ジャグルがそんな事情を知ることはない。ジャグルは目上の人間の言葉を良く聞く質で、集団に溶け込むのが上手だった。優秀で穏やかな、悪く言えば少々精神的に老成している人物であるとも言うが、大人たちの評価はおおよそ上々だった。だからこそ、ひと足早く実際のまじない師としての仕事を見る機会を与えられた。彼なら、恐らく危なっかしいことはしないに違いない。
その日、ジャグルは大人たちの集会に混じり、これから同じ道を歩む新人として挨拶をした。大人たちは噂だけはかねてより聞いていたらしく、彼がそうか、としきりに好奇の目を寄せていた。本人の置かれている状況だけでなく、見た目も少し変わっていた。燃えさかる炎のような、橙色でちぢれた髪の毛は、タルト一族でも珍しい。橙色か縮れ髪、どちらか片方が出ることはよくあるのだが、両方の特徴を持っている者はそういない。
「これからご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願いします」
明朗な声で告げ、ジャグルは頭を下げた。
「それではジャグル。明日からこのレガの助手として、精進するといい。分かったね」
「はい」
「それでは、下がりなさい。詳しい話は後で本人と相談する時間を作るから」
ジャグルは、ひと足先に外で待った。話し合いは思った以上に長く続き、昼一番に始めたと思ったのにもう太陽が傾きかけていた。流石に待たされるだけの身はつらい、と思い始め、少しだけ散歩をしようと決めた。
子ども達の暮らす母屋と、大人たちの暮らす母屋は、小さな林で隔てられている。これが、大人たちと子どもたちの生活圏の境目だった。自分は今、林の向こう側に立っている――。数歩歩けば見知った風景が広がるはずなのに、まるで遠い国に来てしまったかのような感覚を覚えた。
ふと、林で誰かが動く影が見えた。
「おーい、誰だい」
ジャグルは呼んでみた。子ども達の生活で言えば、夕方から夕食にかけては自由時間だ。物珍しさに、年下の子が覗きに来たのかもしれない。そう思って、手を振ってみた。だが、林の方に動きは無かった。
「気のせい、かな」
ジャグルは訝しく思いながら、会議をしていた母屋を振り返った。雑然とした声が広がる。どうやら、そろそろ話し合いが終わるようだ。大人たちが集会室から出て行き始める。すれ違いざまに、がんばれよ、とか、期待しているぜ、とか、ジャグルに激励の言葉をかけていく。ほぼ出て行き終わった後、ジャグルは中に招き入れられた。中にいたのはレガと、ルーディという初老の男だった。族長の側近で、初対面ではあったがかなり強い発言力を持っているらしいことは集会の短い時間の間でもすぐに分かった。
「では早速これからの話をしよう。ジャグルよ、お前はレガの仕事の手伝いをするとは言え、まだ正式に大人として認められたわけではない」
「分かっています」
「十六歳になるまで、寝床も食事場所も変えなくていい。仲の良い子もおるだろうからな、こっちに来るときは一緒にくればいい」
レガはそこまで言うと、また険しい顔をしてジャグルを指差した。
「いいか、まだお前は大人として認められたわけではないんだ。将来、一族を背負っていく者として期待をかけておるんだ」
くどくど同じ言葉を繰り返すルーディに、ジャグルは内心呆れた。要は、調子に乗るなということか。何度も言わずとも、そんなことは分かっている。咎める言葉ばかり投げられては、これから頑張ろうとしている若者のやる気を削ぐとは思わないのだろうか。そんなジャグルの思いをよそに、ルーディはレガの方を振り返る。
「レガよ、明日は依頼はあったかな」
「明日から七日ほど、近くの村々を回る予定です」
「おお、丁度いいな」
興奮ぎみに、ルーディは相槌をうつ。
「早速ジャグルも、レガに同行しなさい。レガ、遠征の準備の仕方をこの子に教えてやれ」
「了解しました」
ジャグルは腹の底から、妙な感情が湧き上がってくるのを感じた。いきなり、七日もの長旅か。不安と期待が入り混じったようなそれは、どちらに転ぶとも分からない未来へ馳せる思いだ。
「後のことは、レガに任せよう。くれぐれも精進するんだぞ、ジャグル」
「はい」
ルーディがのんびりと歩いていくのを、二人厳かに見送った。
「俺たちも行こう。持って行くものは沢山ある。さあ、ついておいで」
レガに導かれ、大人たちの暮らす母屋に立ち入った。ジャグルにとって、初めて入る建物だった。
外から見るだけでは、五、六人程度しか寝泊まり出来そうにないほど小さな母屋。さっきちらと見た限りでは、一族の男全てがあの建物に収まり切っている。一体どれほどむさ苦しい空間なのだろうかと不安を覚えていたジャグルだったが、ひと足踏み入れてみればその考えは間違いだったことに気付かされた。一歩踏み入れた瞬間、領主の城にも引けを取らない豪華でゆとりある空間が広がっていた。天井は見上げなければいけないほど高く、正面に伸びる廊下の終わりが見えない。外から見たより、中の方がよっぽど広いのだ。
「どうだ、びっくりするだろう」
レガはにっと笑った。ジャグルはただただ言葉を失い、頷くしか出来なかった。
「空間を圧縮させる術がかけられているんだ。二人か三人で一部屋、共同で使う」
廊下の両側には、木製の扉が並んでいた。ドアには、部屋に住んでいる人間の名前が書かれた真鍮のプレートがかけられている。レガの部屋は左側、入り口から六番目だ。ネームプレートには、レガの名前しか書かれていない。
「だが俺は、一人で使わせて貰ってる」
「何で?」
「期待されてるんだよ」
レガはジャグルの頭をポンと叩いた。
部屋の第一印象は、「計算されつくしている」と言う感じだった。白い壁、白い棚に、ワインレッドの本が一列に並べられている。その他、衣服も壁にしっかりとかけられ、整理整頓が行き届いていた。部屋に置かれているもの全てが、直線的なフォルムを持っている。後世の学者が見れば、幾何学的、と表現するかもしれない。レガは壁の引き出しを開け、この生活感のない部屋からは想像もつかないような、くたびれた革の鞄を引っ張り出した。
「まずは、着替え。今の季節は汗もそんなにかかないだろうから、二組あれば十分だ。紙とペンとインク。そうそう使うことはないが……。それから、これとこれと……」
普段の生活に使うもの、仕事で使うものを分け、鞄の中に詰めて行く。ジャグルの分も、レガは一緒に用意した。
「よし、ここで揃えられるものは全て揃えた。灰は……まだあるな。これはいいだろう」
小瓶に詰められた灰は、人間の女性の髪の毛と爪を燃やして作ったものである。女性は一般的に男性よりも強い術力を体内に秘めていると言われ、髪や爪を灰にすることで万能の術具となる。聞いてはいたが、実際に見るのは初めてだ。初めて聞いたときは、思わずうえと苦い顔をしたが、いざ目の当たりにしてみるとただの灰にしか見えない。ジャグルにとっては少し意外なことだった。具体的な使い方は、これから知ることになるだろう。
必要な道具や、移動時の馬の乗り方など、暫く詳しい話を詰めていき、全てが終わる頃には日が暮れそうになっていた。
「今日はお疲れ様。少し早いけど、もう帰って寝るといい。明日から、長い旅になるから」
「ありがとう」
ジャグルは手を振り、レガもそれに応じた。
持っていくものを選別しなければと、子ども達の寝床に戻ったとき、ジャグルは異変に気付いた。所狭しと並べられたベッド。その一番奥の布団が、ズタズタに引き裂かれている。自分のベッドだ。手に取ってみると、刃物で乱暴に刺したり、引き回したりしたような跡が残っていた。目の前の無残な現実を、にわかには信じられない。
自失茫然となっていたジャグルを現実に引き戻したのは、後ろから聞こえた声だった。
「お前、一人前って認められたくせに、まだ寝床はこっちなんだって?」
「だから何だよ、タム」
タム・タルト。腕っぷしも強く、矢を難なく放てるくらいには術の扱いも上手いが、その性質は蛇のように陰険だった。子どもたちの間では、彼に逆らえる者は誰もいない。指導役の大人にはいい顔をして、喜ばせるコツも心得ているので、彼の悪行を報告したところで信じてもらえない可能性が高い。今だって、どうやってタイミングを計ったのか、寝床に自分と、タムの二人だけしかいない状況を作り上げた。普段なら、こんな風にあからさまに証拠を残すような真似はしない。何かあるな、とジャグルは思った。彼の脅しを受けて屈するつもりはないが、人をすくみ上がらせることに特化したような目つきとは、どうしても視線を合わせたくない。
「俺の前で勝手なことをしてると、どうなるか分からねぇぞ」
ジャグルにしか聞こえないぼそぼそとした声。なるほど。ジャグルは理解した。こいつは、火矢の一件で自分が称賛を浴び一目置かれる存在になったことを、腹に据えかねているのだ。昼間に林に紛れてこっちを見ていた子どもも、恐らく彼だろう。
一つ、ため息をついて、反論する。
「悔しいのか。悔しかったら、レガの前で俺より先にお前が手を挙げればよかったんだ。それだけだろう」
その態度がすかしているように見えたのか、タムは今にも掴みかかりそうなほどジャグルに近づいた。
「おーい、メシだぞー」
その時、誰かが二人を呼びに来たようだ。ほっとした。そういえばそういう時間だったのか。タムは舌打ちをして、入口の方へと向かっていく。全員で同じ行動を取っている間は、全員が同じ行動を取っている間は、あいつも手を出すことはない。
夜、引き裂かれた布団に入って考える。今日は、色々なことが大きく動いた。喜びだけかと言えば、嘘になる。むしろ、戸惑いの方が大きかった気がする。明日は、長旅になると言うこともそうだが、生まれて初めて、この森から出ることになる。外の世界は、どんなところなのだろう。外の世界には、どんな人たちがいるのだろう。彼らは、まじない師のことをどんな目で見るのだろう。色々なことが頭の中を駆け巡り、ついには止まらなくなってしまった。
タムのことは腹が立つが、そのうち布団は縫い合わせればいい。今は明日に最大限備えることが何より大切だ。ジャグルは大きく息を吸い込み、思考を吹き飛ばした。これから、長旅になる。
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#2 火矢を放つ-3-
次の朝、ジャグルは少年たちの寝床で誰よりも早く起床し、レガのもとへ向かった。しかし、大人たちの誰よりも遅かった。筒のように丸めた紙を手に持つレガと、一緒に旅立つ二人の大人が既に馬屋で待機していたのを発見し、慌てて走った。
「すみません、遅くなって」
おうおう、遅いぞー、と笑ったのは、髪を伸ばした長身の男だった。もう一人、強面の男は腕を組んでしかめっ面をしている。悪意あってのことではないのだろうが、ジャグルは恐縮しきりであった。
「よし、これでメンバーが揃った訳だけど、新人もいることだし、自己紹介といこうじゃないか。改めて、俺はレガ。今回の遠征のリーダーをやらせてもらう。よろしく」
レガは手を差し出し、握手を求めた。ジャグルはそれに応じる。しっとりとした、落ち着きのある手だった。その後に、残りの二人が続いた。まず、長身の方が歩み出た。
「オイラはラッシュ。ラッシュ・タルトだ。ま、名字なんか言わなくても分かるけどね。みんなタルトだから。君もね。あはは」
ラッシュはへらへらと笑いながら、握手した。握手と言うより、振り回された感じがした。そして、強面が歩み寄る。
「ローク・タルトだ」
ロークの名乗りはその顔面に相応しい厳格さを漂わせていた。タルト姓を名乗ったのは、ラッシュとは違い明らかに意味があるように思われた。自分が一族の一員であることの自覚だろうか、それはジャグルには分からない。握手した手は分厚く、硬かった。多くの苦労を乗り越えてきたことを、物語っていた。
「ジャグル・タルトです。宜しくお願いします」
二人につられて、ジャグルもフルネームを名乗った。
「じゃ、早速予定を確認しよう」
明朗な声で、レガは告げた。
そこでようやく、持っていた紙の正体が分かった。伸ばして地面に広げると、山や森、家の絵と、それに伴う文字が描かれていた。地図だ。
レガの話によると、今回向かうのはクラウディア領の東北部にある村々だった。タルト一族が住まうハイラ山脈はそれより更に北に位置するので、ほぼ南下する形になる。周辺の村々を三、四件ほど回り、まじない方面の相談を解決していく。最初の村に着くまで丸一日。村一つ辺り二、三日滞在し、また移動する。多少の延期は最初から考慮の上だ。七日間、と言うのは、どうも比較的短い遠征を指す言葉であるらしく、おおよそ言葉通りの意味ではないようだ。八日か、十日か、それは状況とレガの采配によりけりである。
「では、行きましょう。長旅ですが、宜しくお願いします」
レガの一言が、全員の気を引き締めた。
四人は馬を走らせる。馬術の心得がないジャグルはレガの前に乗った。馬術が子供の教育カリキュラムに含まれていない訳ではないのだが、ジャグルは術を磨くことに熱心だった分、おろそかにしていたことは否めなかった。だからジャグルの体は終始カチコチに強ばっていた。それ以外にもいくらか原因はあるのだが、ジャグル自身、恐縮以外に理由を求めなかった。
村を出た後、ジャグルは一度だけ振り返った。見慣れた建物の群れが木々の間に隠れて、もうほとんど見えない。今までの自分の暮らしを、全て捨ててくるような気分だった。しっかりしなくては。どれだけ辛いことがあっても、村の少年用の宿舎で泣き寝入りすることは出来ないのだ。
やがて森が終わり、視界が広がった。まず目に飛び込んだのは、広大な麦畑だった。前方全てが平らで、ひたすらに開けた景色だった。初めて見る光景に、思わず声をもらす。外の世界は、これほどまでに広いのか。
空に少し橙色が混じり始めた頃、村が見えた。石造りの壁と木の屋根が集まっている。
「ジャグル」
不意に、ロークが呼んだ。手招きするので、レガは馬を近づける。
「いいか。町中に入ったら、お前の役割は一つだ」
「なに?」
「何もするな。勿論、返事もだ。村人に声をかけられても、反応するな。ただレガのやることをじっと見ていろ」
釘を刺すように彼は告げた。想像だにしなかった言葉に、ジャグルは面食らった。
「おいおい」
「何でさ」
レガが咎めるのとほぼ同時に、ジャグルが噛みついた。
「何でもだ」
まるで痛くもないと言わんばかりに、ロークはぴしゃりとはねのけた。
「ちぇ」
感情を滅多に露わにしないジャグルも、他の同世代とは一つ上の待遇を受けた直後だったせいもあり、内心むっとした。自分は他の子供らと違って、もっとレガの役に立てる。立たなければいけないのだと思った。
最初の村に到着するなり、小さな子どもがどこからともなく現れた。一人、二人、三人。いつの間にかわらわらと現れ、終いには大人も近寄ってきた。不思議そうな顔で見上げる小さな瞳、歓迎の眼差しを投げかける目、実に様々な視線があったが、総じて負の感情はなかった。ジャグルにしてみれば、初めて出会うまじない師以外の人間だった。歓迎されたことが嬉しくて、つい声をかけてみたくなったが、ロークの言葉を思い出しぐっとこらえた。
この村には三人ともよく来るらしく、案内されるまでもなく村長の家まで最短距離でたどり着いた。中から、髪も髭も白く染まった老爺が出て来た。
「これはこれは、タルト様。お久しぶりです。よくぞいらしてくれました。ささ、長旅でお疲れでしょう。お入り下さい。食事を用意させましょう」
「お心遣い、感謝します。短い間ですが、宜しくお願いします」
食事の間だけは人払いをしていたが、終わるやいなや村人がなだれ込んできた。皆、まじない師が珍しいのだ。彼らにしてみれば、我々の来訪は年に数度しかないイベントなのだろう。
「じゃ、元気いっぱいの子どもたちのために、いいものを見せてあげよう」
レガは立ち上がって、一枚の紙を開いた。手のひら程もない、小さな紙だ。
「これ、何に見える?」
レガが聞くと、子ども達は仕切りに手を上げて、自分の意見を言いたがっている。レガはぐるりと見回し、やがて一人の少年を当てた。
「じゃあ、君」
彼は元気よく、
「紙!」
と言い切った。
周りからは大ブーイングが巻き起こった。レガはそれを制す。
「まぁ、確かに紙だね。でも、ただの紙じゃあない」
一言一言を切っては、子ども達の顔を見渡すレガ。その語りに、いつしかその場の全員が引き込まれていく。ジャグルも、子どもと同じように、レガの手に見入っていた。
レガは手のひらに紙を貼り付けるように、指で押さえた。それを一度周囲に見せつけると、手のひらを自分の方に向けた。そして、押さえた指を離しながら、ふうっ、と大きく息を吹きかけた。バタバタと音を立てる紙が、風圧で手に引っ付いた。
少しの沈黙が訪れる。この後に何が起こるんだろう、その期待は最高潮に達した。
その瞬間だった。紙が、火花を吹いて弾けた。バチバチと、橙色の閃光が掌から飛び散っていく。爽やかな音が、鮮やかな光が、隙間なく次から次へとやってくる。
「おおおおお!!」
周囲が湧いた。火花が消えると、レガは両腕を開いて、怪しげな笑みを作った。
「ありがとう!」
一斉に、拍手が沸き起こった。
子供たちの興奮が、レガに質問や願いとなって浴びせられる。
「今のもまじないなの?」
--そうだよ。まじない師は、こんなことだって出来るんだ」
「何で火花が出るの?」
-ー火花よ出てこい! っていうまじないを紙にかけたのさ。
「ぼくにもできる?」
ーーもちろん。紙にかかったまじないだから、息をふっと吹きかけさえすれば君にもできるよ。いくつか持ってきたから、お土産にあげよう。
やったあ、とまた子供たちの喜びが聞こえる。ジャグルはレガに群がる子供たちから離れ、ロークとラッシュのそばに寄った。二人はいつの間にか、部屋の隅に逃げていたようだ。
「あいつもよくやるよなぁ。なにが楽しいのか、俺には分かんね」
ラッシュがつまらなさそうに言った。
ロークは腕を組んで、レガと子どもたちを見ていた。レガの行いは軽薄である、と言わんばかりに、その顔は険しい。ロークはまだしも、ラッシュまで乗り気ではないことが少し意外だった。
それでも、ジャグルは思った。楽しそうだな、と。子どもたちだけではない、それを見ている大人も、そしてレガ自身も。いつか自分も、こんな大人になれるだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、最初の1日が更けていった。
次の日。初めてレガの仕事を見たジャグルは、すぐに自分の仕事に対する考えが甘いことに気付いた。ジャグルは大いに落胆した。
まず、依頼の多くは失せ物や人物の特定、将来の道筋、言葉の裏に隠された心理を読み解くといったものだったことだ。自分の出番などこれっぽっちもなさそうだったのである。火矢を放つ技術など、いつ使えばいいというのだろうか。術とは武器を用いて何かを駆逐するものだと思っていたジャグルにとって、これには面食らった。少年期に学ぶ術が弓矢や剣などを用いるのは、どんな場面でもまず己の身を守れるようにすることが大事であると説く一族の方針からであるが、あまり実際に即しているとも言えないことを悟る。なんとまあ非効率的なしきたりではないかと、ジャグルは心の中で吐き捨てた。
更に何日か過ごしてみて分かったことは、どれだけ術を知っていても、実際に人の悩みに立ち会ってみれば、どれを使えば解決するのか見当もつかないことが非常に多いと言うことだ。自分なりに、レガがどんな方法を用いるのか想像しながら聞いてみたが、まるで当たらない。なぜレガがそれを提案したか分からなくとも、終わってみればかなり的確に問題の要点を見抜き、解決に導いていたように見えた。ジャグルもまた、そこで新しいまじないを知り、術の使い方を記憶に留めていった。
ジャグルの役割は、術とは全く関係のないような雑用ばかりだった。水を汲んできたり、他の一行の荷物を代わりに持ったり。そんなことばかりを繰り返すばかりの生活だった。最初は不満もあったが、そんな気持ちは次第に薄れていった。と言うより、思い直した。自分は大人として独り立ちするにはあまりにも力が足りない。むしろどんな力を身につけなければいけないのかでさえ、はっきりとした答えを見出せずにいるのだ。それでも、分かることが一つだけあった。一つ依頼が解決した時の依頼人の表情を見れば、こちらもほっとした気持ちになり、その後胸の底が疼くのだ。いつか、こんな風にできればいい。レガのように、楽しく、堂々と。だからこそ、ロークの言葉通り、自分の今の仕事は大人たちの仕事をしっかりと見ることなのだと思った。
いくつかの人里を転々とし、六日目の昼に辿り着いた街は今までとは打って変わって都会だった。馬を下りて、宿を取る手はずを整えた。街の規模が大きいと、さすがに人の家に止めてもらうのも難しいのである。荷物を預け一通りの支度が整うと、レガは自由時間にしようと告げた。大きな町だし、ちょっとくらい満喫しても罰は当たらないだろう、とのことだった。お堅いロークが反対するかと思いきや、まんざらでもないようだ。
四人同時に宿を出て、そこから先は別行動になった。ジャグルはレガについて行こうとしたが、ラッシュが強引に引っ張っていった。
さすがに街は、規模が違った。家並みはとても綺麗だし、行き交う人の数も倍ほどあった。あれよこれよと目に留まった興味引かれるものの姿を追っていると、目が回りそうだった。
「おい、ジャグル。あの子どうよ」
「どう、って言われても……」
たった今目の前を横切った女の子を指さして、ラッシュは声をひそめて言った。言葉の意味がまるで分からない。ジャグルは困惑していた。
「そんなことないだろー。もうそろそろ、そう言うこと考え出すお年頃じゃないのか」
肘で体を突っつかれる。少しよろけた。
「どういうことを考え出すって?」
「なんだよ。面白くねぇな。まだまだお子様だってことか? まぁ、初めて森を出るんじゃ、しょうがないか。今まで女になんて、会ったことないもんなぁ」
そうなのである。タルト一族で「まじない師」としてやっていけるのは、男子だけだ。ジャグルの周囲には、女子は一人もいなかった。小さい頃から、何度も聞かされた言い伝えがある。女は術力を多く持つが、それを放出する術を知らない。だから、その髪や爪を灰にして男に使ってもらうことで、初めて己の術力を解放することが出来るのだ、と。そのため、タルト一族の森には、男が暮らす集落と女が暮らす集落は、全く別の場所にある。そして、特別な事情が無い限り、その行き来は許されないのだ。
ラッシュがひどく残念そうにつぶやいたが、しかしまたくるりと表情を変えた。行き交う女性の後ろ姿に夢中である。
「いやー、しかし街中の娘さんってのは、いいボディしてるねぇ」
「何それ」
「もっと大人になったら分かるだろ。早く大人になれよ」
楽しそうに語るラッシュのにやついた顔が、妙に癇に障った。
「あーあ。てっきりもっと色々なこと、出来ると思ってたのになぁ」
「お楽しみの話?」
「違うよ、まじない家業の話」
ジャグルは頭の後ろで腕を組み、不機嫌そうに言った。
「なんで大人たちって、子供に攻撃術ばっかり教えてんのかね。おれ、全然役に立たないじゃん。何に使うってんだよ」
「なんだ、そんなことか。気にすることないでしょー。これから覚えていけばいいんだし」
ジャグルのもやもやとした怒りにまるで気付いていないかのような口ぶりで、ラッシュは話す。
「まぁ、使うときだってあるんだぜ? 人食いが出たときとか。人食い退治は金になるんだよ。世間には知られてない、理屈の分からん問題の正体を、俺らだけが知ってるんだからさぁ。何も交渉しなくても、大体すげぇ額くれんのよ」
ラッシュはさも当然のように、あっけらかんと答える。何度もそういう場面に出くわしているのだろう。
「理屈は分からなくもないけどさ。稼がなきゃ生きていけないわけだし。分かってる、けどさ」
反論を試みるも、何も言えない。我々は、人にはない特殊な術力を用いて人々を助ける。助けて、報酬をもらう。そうすることでしか生きていけないのだ。分かってる。分かってはいるけど、ラッシュの物言いには何かが腑に落ちない部分があった。そんな思いだけがぐるぐると廻り、何も言えず、やがてジャグルは口を堅く結んだ。
ふふん、とラッシュは笑って、指先でジャグルを突っついた。おちゃらけたその感触がやけに癇に障った。
「お子様だなぁ、ジャグルは」
「レガんとこ行く」
ジャグルは言い終わらないうちに、早足で歩き去ってしまった。
とは言え、レガが今どこにいるのか、見当もつかない。行き交う人の数は、森を出たばかりのジャグルからすれば目眩がしそうだった。どこか休める場所はないかと探す。宿に戻ろうかとも思ったが、そこに行き着くまでが大変だ。できれば人通りが少なく、草木に囲まれたところへ行きたい。何気なくそんな風に思い、勘を頼りに歩いていると、建物の並びが終わって街道が横たわっていた。道の雰囲気からして、来た道とはまた別の場所らしい。人々の雑踏もほとんど聞こえない、爽やかな空気だけが通り抜けていた。街道の反対側には森が広がっている。その手前に黒い柵が張ってあるのは、恐らくその先が貴族の家の敷地だからであろう。大きな屋敷の屋根が、木々の上に少しだけ顔を覗かせている。
左側に、人影が見えた。門の前に立つ姿が、見覚えがあるもののような気がして近づいてみる。
「おーい、レガ!」
その正体が分かったとき、ジャグルは名前を呼んで大げさに手を振った。レガが振り返ると、同じように手を振って答えてくれた。
「街中、堪能してるかい」
「うん。まぁ、でも、ちょっと人が多すぎて疲れちゃった」
ふふ、と柔らかな笑みを投げかけるレガ。
「普段の俺たちからしたら、そうだよなぁ。ずっと森で暮らしてきたんだ。俺たちの肌に合うのは、きっとこういう森の中なんだと思うよ」
レガにとってのタルト一族とは、一体何なのだろう。そんなことがふと気になった。
「でもさ、ここに来ることがなかったら、そんな風に思うこともなかったし」
「それもそうだな。ところでジャグル、遠征はどうだ」
突然の問いに、ジャグルは言葉に詰まる。少し考えて、自分の気持ちを素直に語った。
「大変だね。体も、心もとにかく体力が足りない。まず、馬に揺られるだけでも相当パワーが要るだろ。その後すぐに村人相手にまじない師の仕事だろ。レガもラッシュもロークも、凄い体力。付いてくだけで精一杯だった」
ジャグルは肩をすくめてみせる。
「こういうのって、続けていれば慣れるものかな。もしそうなら、こんな大変さもいつかは報われるんじゃないかって思う。だからまだまだ、やっていきたい」
ジャグルの言葉を掬い取るように、レガは耳を傾けていた。何を言っても、レガはジャグルを否定するような言葉を出さなかった。だから思わず、ジャグルもつい、沢山のことを喋ってしまった。
「それはよかった。ジャグルを遠征に連れてきたのは正解だったかもしれないな。お前は出来た奴だよ」
ぽんぽん、と頭を優しく叩かれる。思わず嬉しくなって、頬が染まる。
そういえば、とふと思う。
「レガはここで何してたの?」
「あぁ。待ち合わせをしているんだ。丁度誘いがあってね。紙の鳥便が昨日届いたんだ。この屋敷の前で待つって。折角だから、ジャグルも来るか」
えっ、と思わず聞き返した。
「いいのか」
「いいと思うぜ? あいつはそんなに悪い奴じゃないからな」
悪戯っぽく、レガは笑った。
「しかし、遅いな。約束の時間は、とっくに過ぎている筈なんだが」
辺りを見渡していたその時、後ろで錠が外される音がした。門の向こうで、高潔な佇まいをした老人が話しかけてきた。
「遅くなってしまい申し訳ございません、レガ・タルト様。とそれから、お連れ様。中であなたのご友人がお待ちです。さぁ、どうぞ」
ジャグルはレガの顔を見上げた。と同時に、レガも困った顔でジャグルを見た。彼にも事情が良く飲み込めていないらしい。
「えーと、失礼ですが。私が待ち合わせしていたのはまじない師のディドル・タルトなのですが、何かの間違いなのでは」
そうレガが訊ねると、老紳士は不敵な笑みを浮かべる。
「ディドル・タルト様は、この中にいらっしゃいますよ。さあ、遠慮なくお入り下さい」
とにかく、ついて行くしかない。ジャグルとレガは、同じ結論に至った。二人頷き合い、門をくぐった。
レガの友人、ディドル・タルトとは何者なのか。ジャグルは逸る気持ちを抑えながら、一歩一歩を踏みしめた。
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#2 火矢を放つ-4-
門の内側に広がる森は、ジャグルの知るそれとは趣が異なっていた。生えるがままに任せた荒々しい自然のそれではなく、歩きやすいように、あるいは日の光が地面にまで行き届くように剪定されていた。一族の集落でも枝を時折切り落とすことはあるが、人間の歩ける道を最低限確保するに留まっていた。人の手が細部まで入った森を、ジャグルは初めて見た。
更に進むと、視界が開けた。それは光り輝く緑の丘だった。なだらかな上り坂の上に、赤い屋根の大きな屋敷が立っている。その周りは、四角く刈られた木で囲まれていて、この広大な庭と建物のある空間を隔てる役割を果たしていた。きれいだ、と思った。それも、とても格調高い美しさだ。
そんな威風堂々とした空間にこれから立ち入るのだと思うと、急に気が小さくなってしまった。不安に駆られ、前を歩くレガの方を控えめに叩く。内緒話をするように手を口に添えると、レガは意図を察して耳を寄せた。
「なぁ、おれ、大丈夫かな。こんな格好であんな所に入って。こういう所の礼式とか全然分かんないよ」
「分かった。それなら、俺の真似しとけ。もしも駄目なら、俺が何とかするよ」
レガの声も、少し強ばっていた。レガも本当のところは礼式をよく知らない。それでもとにかく、ジャグルにだけは非難が行かないようにとのレガの配慮だった。おかげでジャグルは大船に乗ったかのような気持ちになれた。まじない師として恥のないように振る舞えれば、それでいい。やがて、屋敷の正面にやってくる。屋敷の大きな扉が開かれ、三人はその中に歩を進めた。
中にいたのは、黒い服を身に纏った、若い男だった。右手に、濃い茶色の杖を握っている。
「久し振りだな!」
レガとその男は熱い抱擁を交わした。お互いの抱きしめる強さが、再会の喜びの大きさを物語っていた。
「ドド、元気にしてたか?」
「あぁ、レガ」
「一体どうしてこんな凄い屋敷に?」
「あぁ。ちょっと前にこの屋敷の娘さんとご婦人を助けたことがあってね。以来、深いお付き合いをさせて貰ってるんだ」
「へぇー凄いな。お抱えまじない師になったってことかい?」
「そうとも言えない。有事に駆け付けるだけだよ。お嬢様に便箋を渡してるから、何かあれば投げてくれる。この家には殆ど問題はないが、付き合いのある他家には私達が必要になる家もあるみたいでね。まあ、自分の店もあるし、頻繁にくれる訳じゃないから、お抱えにはなれないよ。ところで、そっちの子は例の……?」
ドドはジャグルの方を見やった。
「あぁ。ジャグル・タルト。今回初遠征、期待の新人だ」
レガのあまりの誉めように思わず顔が赤くなった。そんなことない、とレガにかぶりを振った。
「ジャグルです。よ、よろしく」
声が上擦っていたかもしれない。
「君の噂はレガから聞いているよ。私はディドル・タルト。この街の外れでまじない師をやっている者だ。気軽にドドって呼んでくれ」
ふっと笑みを投げかけた。
「こいつがドドって呼ばれるのは、本当にちっちゃい頃に、自分の名前が言えなくてどうしてもドドルーになっちゃうからなんだ」
「お前、会う度にそれ言うよな」
おどけて楽しそうなレガと、呆れ顔のドド。こんなに無邪気なレガを見るのは初めてだ。
「そう言えば、キュウはどうした。いつもお前にべったりくっついているのに」
「あぁ。今はちょっとな」
そう言うと、一瞬女中の方に目をやった。女中はそれに気付かず、ただ預かった杖を大事そうに持っている。レガは何かを察したようで、それ以上この話題について話すことはなかった。
「そろそろ夫人たちが待っているはずだ。中に入れてもらおう」
ドドが言うと、執事が現れさっと奥の扉を開けた。中は食堂だった。暫く中で待機していると、二人のドレスを纏った女性が現れた。
「夫人、今日は無理なお願いを聞いていただき、感謝します。こちらが、申し上げていた友人、レガ・タルトと、ジャグル・タルトです 」
「初めまして。私、スージィ・クラウディアと申します。こちらは娘のロコです」
「初めまして」
ロコはスカートの両端を摘まんで、軽くお辞儀をする。参ったな、と思った。まるで別世界の住人ではないか。自分なんて場違いもいいところだ。そんな思いもあって、ジャグルの挨拶はひどくぎこちないものになってしまった。
「ジ、ジャグルで、す。よ、宜しく」
顔を上げた瞬間、ぎょっとした。ロコが、自分を睨みつけるような目をしていたからだ。きっと彼女はこの無礼者に呆れているに違いない。
だめだ。
レガに励ましてもらったが、やはり自分にはこんな格式張った場所は似合わない。逃げてしまえればどれだけ楽になれるだろう、と思った。そういえばレガの挨拶はどうなったのか。聞こえなかったが、他の四人は既に談笑し始めているので、いつの間にか終わってしまったらしい。緊張し過ぎて耳に入らなかったのだと気付くまでに、少しの時間を要した。
「そう、だからドドなのね」
夫人は笑った。レガ、名前のことをまた言ってる。さすがのドドも、貴族の前では大人びた対応で、微笑を浮かべるだけだった。
「森の中って、どんなところなのですか?」
ロコ嬢がレガに訊ねた。既にタルト一族のことについて、いくらか知っているらしい。
「以前からハイラ山脈の森に暮らしてらっしゃると言うことは聞いていたのですが、ドドさんは長らく森に帰っていないようなので」
「実は今日レガを呼んだのは、お嬢様に今の森のことを聞かせて欲しいからなんだ」
少し照れくさそうに、ドドは言う。
「良いですよ。何からお話しましょうか」
「それでは……家について、はどうでしょう」
期待に満ちた目で、夫人もロコもレガの顔を見つめる。レガは目を瞑り、上を向く。
「そうですね……タルト一族は、自分たちの住まいにもまじないをかけているんです。小さい建物の中に、多くの人が暮らす工夫が沢山施されています」
レガは喋り続けた。しかし、語るモノの焦点は、常にまじないのアイデアそのものに当てられた。家が広いと匂わす言葉を一言も発しなかったのは、貴族相手を考慮してのことだと、後で気がついた。彼は、上手く相手を立てていた。
その後も、和やかな雰囲気で会話は続いた。穏やかでないのはただひとつ、ジャグルの内心だけだった。気を使われたのか、時々質問を投げかけられるが、一言二言で終わってしまう。うまく話せない自分にもどかしさを感じる。
思えば小さい頃から、抑制、抑制の日々だった。一族にも、沢山の掟がある。よその人間が聞けば、ぞっとするような悪習もある。それに異を唱えようものなら、恐らく全てを敵に回すだろう。レガが語るタルト一族の生活は、まるで夢の国のように聞こえる。実際は、そうではないのだ。そう言ってしまいたかった。だが、それを言えば、ドドと屋敷の人々との間に築かれた関係の全てが台無しになる。そんなことをしたら、ますます自分が嫌になるだろう。これでいいのだ。これで。正しいことだけが、全てではない。一族の中に収まり切らない自分など、切り落としてしまえばいいのだ。
「あら、そろそろ日が傾きかけていますわね」
夫人が、ふとそんなことを言った。
「それでは、そろそろお暇させて頂きます。今日はこれほど素晴らしいお茶会にお招きいただき、ありがとうございます」
「私の我が儘を聞き入れてくれて、ありがとうございます」
と、ドド。
「いえいえ。また、宜しくお願いしますわね、タルト様」
「さあ、こちらへ。ドド様はこれを」
行きと同じ執事が切り出し、再び案内する。執事の手に、柄が獣の頭を模した杖があった。両手で、丁重に差し出す。
「あぁ、ありがとうございます」
ドドは同じように受け取った。そして、執事が先導する。レガとドドが振り返り、ジャグルもそれに倣う。
一礼して顔を上げると、冷ややかな視線がそこにはあった。ロコの瞳が、ジャグルの顔をしっかりと捉えている。出会い頭に突き付けられた顔だ。彼女は自分をどうするつもりだろう。最後の最後に、何かしらの罵声を浴びせるだろうか。それとも、後でタルト一族の一人が無礼を働いたとして、ドドの出入りを禁止するだろうか。何も告げない彼女が少し怖くなって、あらゆる方向に想像が働き、手が震えた。彼女はじっとジャグルを冷たく睨み続ける。落ち着きを取り戻そうにも適わず、もはやジャグルに出来ることは、そそくさとこの場所から立ち去ることだけだった。ただただ、申し訳がなかった。
屋敷を出たところで、執事にお礼を言う。それに答えた執事が戻っていくのを見送って、レガは切り出した。
「よし。ジャグル、お前は先に帰ってろ。場所は分かるな」
「ごめん、分からないよ」
ジャグルは首を振る。
「そうか。でも、簡単だぜ。そこの門を曲がって街中に入って、左に曲がって道なりに行けば着く」
「分かった。けど、レガは?」
「この昔馴染みともう少し喋りたいんだ。悪いな」
「ううん、いいよ。じゃ、行ってるね」
きっと、積もる話もあるのだろう。ジャグルはそう納得した。
「あと、くれぐれもここでドドと会ったことは内緒な!」
「分かった」
何故だろうか、ふと疑問に思ったが、聞かない方がいい気がした。あの男は、多分、わけありなのだ。ハイラの森で暮らさないタルトなんて、それだけでも相当変わってる。不思議で、少し不気味なはぐれまじない師。そんなレガの秘密の友達との時間を、無碍にすることなんてできない。
ジャグルは手を振って、宿場に戻って行った。
手を振って見送る、レガとドド。完全に見えなくなったところで、レガの顔は一気に真剣なものへと変わった。レガにとって、本題はここからだった。この話をするために、今日レガはドドと会ったのだ。決してまだジャグルには聞かせるべきでない、大事な話をするために。
切り出しは迅速だった。
「……ところで、その杖」
「うん?」
「キュウなんだろう。柄の頭の形、どう見たってそうじゃないか」
きっとドドを睨むレガ。声が荒げそうになるのを、必死で抑える。
「……さすがレガ。鋭いな」
ドドは、杖の柄の部分ーーキュウの頭を軽く撫でた。その顔は、どこか悲しげだった。
「大分弱体化してるな。何があったんだ」
レガがまじまじとキュウの顔を見つめる。ドドは屋敷の方を見やった。
「丁度、この屋敷でのことだった。屋敷の中に人食いが住み着いていたんだ。完全に葬ったつもりだったが、最後の最後で反撃してきたんだ。思った以上の毒を、口に直接ぶち込まれた。術力の強い木を接いで命を繋いではいるが、まだ復活にはほど遠い」
杖を握る手に、僅かながら力が込められた。
「それで、どうするんだ。もしキュウがこんなに弱ってるなんて族長にバレたら、一体どうなることか」
心配そうな声を出すレガに、ドドはふっと笑った。
「お前が一番そういうところから遠いくせに。らしくないことを言わないでくれよ。それからだ。レガはだからこうやって、いつも来てくれてるんだろう。お前なら絶対言わないだろ? 一族の連中には上手いこと言ってくれるって、信じてるよ」
レガはその手を取る。
「じゃあさ、信じるついでに、一つ頼まれてくれないか」
真っ直ぐなレガの瞳は、しっかりとドドを捉える。
「俺にもしもの事があったら……あの子を頼むよ」
「あぁ」
ドドは彼の瞳をまっすぐに見つめ、頷いた。
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#2 火矢を放つ-5-
非常に気分が悪かった。一人でいると、どうしてもロコ嬢の視線の意味を考えてしまう。あれはきっと、自分を非難していたのだと思う。彼女が自分を責める声が、はっきりと聞こえてくる。「あなたは未熟だ。タルト一族のなんの役にも立っていない。いてもいなくても同じだ」と。ジャグルの身支度は、誰よりも手早かった。まるで、声から逃げるかのように。
次の日、今回の遠征最後の村を訪れる。悩みを持つ住人の話を、ラッシュ、ローク、レガの三人で分担しながら聞いていく。ジャグルはレガのサポートに回る。このスタイルを、お決まりのパターンだと思えるようになったのは、少しはこの仕事に慣れてきた証拠だろうか。
レガは三人目にして、異様な真剣さを伴ってすがる女性に当たった。
「助けて下さい、タルト様」
女はかすれた声で言った。
「ご婦人、今まで辛かったのですね。まずは詳しい話をお聞かせいただいても、構いませんか」
話を聞く前に、まず相手の気持ちを救っておくこと。たとえハッタリでも、嫌な気持ちをする人間はまずいない。それが彼の編み出したテクニックなのだと、ジャグルは知っていた。
「はい」
そして、ゆっくりと彼女は話し始めた。レガは彼女の言葉を引き出せるよう、時々頷いたり、相槌を打ったりした。さっき聞いた概要に加え、何かに見られているような感覚がある、と彼女は新たに語った。
どうやら、彼女は不眠症を患っているらしかった。夜中、目を閉じていてもどうしても眠れない。おかげで、日中も何となく気だるい気分が続いている。それだけではない。夜中じゅう、誰かに見られているような気がするのだ。試しに起きて探しても、誰もいない。夫と一緒にベッドを共にしているが、彼はぐっすりと眠っている。何故自分だけなのか、納得出来ずに時折夫にも当たってしまうのだった。
「なるほど。分かりました。それでは早速あなたのご自宅へ行きましょうか」
レガは促し、彼女は快く応じた。
彼女の家に着く。レガは自分の小さな鞄を持ち出していた。レガ愛用の道具箱だ。ジャグルはこれまでに何度か見たことがある。中に入ると、男が立ち上がり、彼女とまじない師たちを代わる代わる見た。どうやら彼女の夫らしい。彼も事情は知っていたようで、どうか妻を助けて下さい、と告げた。任せて下さい、とレガ。そして、部屋全体を見回す。夕方、暗い室内はよく眠れそうにも思える。奥の扉をちらと見やり、レガは彼女に尋ねる。
「普段寝るとき、どこでどちらを向いていますか」
「え? ええと、こちらの寝室です」
「失礼ですが、見せて頂いても?」
「はい。どうぞ」
二つのベッドを繋げて、一つにしている。愛する夫と、夜を共にしているのだろう。
「こっちを頭にして」
窓のある方に頭を向けているようだ。朝に太陽の光を浴び、自然に目が覚めるようにしているのだろう。レガは鞄の中から小さな金属の板を取り出す。井戸水を拝借し、桶に張る。その上に金属板を浮かべた。それを見て、レガはうーんと唸った。
「南向き、ですか……」
レガの表情に、女性はひどく不安げな顔をする。
「おそらく、夢を食らう化物に、夢を食われているのでしょう。それらは南からやってくることが多いのです」
「そうなんですか」
「一般的には、北だと思われがちなんですがね。本当は、体に良い力は、北から南に向かって流れているのですよ。枕を逆にしてみてください。よく眠れると思いますよ」
「へぇ! ありがとうございました」
どういたしまして、とレガは落ち着き払った声で返す。知らなかった、とジャグルは少々の冷や汗をかいた。
家を出る。ひと段落したかと思ってレガの顔を見ると、予想に反して神妙な表情を浮かべていた。訳を尋ねようとするより先に、レガはジャグルに耳打ちした。
「いいかい。この件はこれで終わりじゃない。今後の予防にはなるが、根本的な解決はまだしていないんだ」
「そうなの?」
「あぁ。人食いの仕業だ」
人食い。その言葉が、胸に重くのしかかる。
「夢を食らう人食いが、近くにいるはずなんだ。矢、持ってるか」
ジャグルは鞄から取り出す。よし、とレガは頷く。
「そう言えば、人食いを見たことはないよな」
「うん」
ジャグルは頷いた。
「よし。今日で最後だし、ジャグルも一つ大仕事をしてみないか」
「大仕事?」
聞き返すジャグルに、レガは頷く。
「ああ。お前が、人食いを退治するんだ」
へ、と間抜けな声で返してしまった。どうやら自分は、ずっと見てばっかりで、自分でやることをすっかり忘れそうになっていたらしい。
「人食いを見つけるところまでは、俺がやろう。タイミングも、ちゃんと指示する。最後に、矢を放つのはお前だ。いけるか、ジャグル」
「……分かった」
手が震えているのが分かる。自分に出来るだろうか。またとない機会だ。自分に出来るだろうか、と不安な気持ちを押しのけて、とりあえずやってみよう。ジャグルは気を引き締めた。
その夜、ジャグルとレガは女性の家の南側にある広場の芝生に腰を下していた。人食いに感づかれない為に、灯りは点けない。今日は満月に近いため、月の光でよく見える。レガは女性の髪と爪を燃やして作った灰を中指から手首にかけて塗りつけた。今から使う道具の精度を高めるためだ。
「来るかな」
ジャグルは小さく呟いた。
「きっと来るよ。あの奥さんのことを、きっといい餌場だとか何とか思ってるはずだからな。きっと油断してる。こっちから罠を張ってやらなくても、来るだろう」
レガは手に紐を巻きつけている。その手の中で複雑に絡み合った糸は、まるで何かの模様のようだった。
「すごいな」
「この結びか? 紐に術力を与えて操作する、汎用性の高い結び方だ。今度教えてやるよ」
「本当?」
やった、と心の中で呟く。ああ、とレガは笑った。
「レガって、本当に何でも知ってるんだな」
「そう見えるかい」
「うん」
レガはジャグルの頭に手を置き、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「じゃあ、お前にずっとそう思ってもらえるよう、頑張んないとな」
「やめろよー」
そう言って、いたずらっぽく笑う。
レガはジャグルの指導係でありながらも、時には友達のように気さくに接してくれた。レガは今までの経験を話し、ジャグルは自分の考えや夢を話す。レガは決して、ジャグルの考えを否定しなかった。どんなに幼い考えでも、レガは大まじめに聞いてくれた。長かった七日間も、レガがこうして仲良くしてくれるから、乗り越えられたのだとジャグルは思う。きっと彼がいなければ、心細さに潰されてしまったに違いない。彼の笑顔を見るたびに、勇気づけられる自分がいる。いつか彼のようになりたい。彼のように、人に勇気を与えるまじない師になりたい。心の底から、そう思う。
「さて、来たぞ」
ふわふわと浮かぶ、自分の体よりも大きなピンク色しただ円形の物体。これを生き物と呼ぶには、あまりにも不気味すぎる。鳥のように羽ばたくこともなく、ゆっくりと空から降りてくる。背中を丸めて眠っているのだろうが、一切体を動かす様子もなく移動する様は異様だった。ピンク色のそいつは、おでこの辺りから煙を出し始めた。煙は風もないのに一定の方向に引き寄せられていた。その先にあるのは、彼女の眠る家の窓。どうやら、あの煙を通じて夢を食べるらしい。誰が言った訳でもないが、ジャグルにも想像がついた。
「動きを止める。矢を番え。まだ撃つな」
小さくレガが呟いたのが聞こえた。その瞬間、レガの手首から紐が伸び、ピンク色の巨体を縛り上げた。奇襲を受けたそいつは想像より大きな目を見開いた。頭から伸びる煙が方向を失ったことから、ひどく慌てているのだろう。
「お前たちに安全な餌場ってのはないんだぜ、ムシャーナ」
「どうして私の名前を」
ーー喋った、だと。
ジャグルにはそれが意外で、思わず矢を構える意識が途切れそうになった。こいつらは、ただ強い力を持って、人間を食らうだけの獣ではないのか。
「さぁ、どうしてだろうな。ジャグル、打て」
人間と同じように、言葉を持っている。とどのつまり、心も持っているということなのだろうか。人食いと言うのはもしや、ただ食らう対象がたまたま人間であるだけで、感情もちゃんと持っている。その辺を飛び回る虫や、歩き回る犬とは一線を画す生物なのではないか。
それに、だとしたら、我々は、このタルト一族はーー。
「ジャグル! 今は考えるな! 火矢を放て!」
レガの言葉にはっとして、ジャグルは矢じりに火を灯した。こいつらは人間より遥かに強大な力を持つ。いくらレガでも、動きを封じていられるのも僅かな間でしかない。生き物に向けて撃つのは初めてだということも忘れ、ただ的を狙うつもりでムシャーナに向かって火矢を放った。
火矢はムシャーナの体に突き刺さり、小さく爆ぜた。さっきとは違い、獣の叫び声が辺りに響いた。刺さった部分が黒く焼け焦げ、肉が抉れていたが、まだ致命傷とは言い難い。今の一発でレガの紐も千切れかかっていた。ムシャーナは暴れて、必死に逃げだそうとしている。
「ジャグル、もう一発だ」
「でも、もう懲りたんじゃ」
「やらなきゃ、こっちがやられるんだ。彼女がじゃない。人間が、だ」
レガの叱咤に目をぎゅっと閉じた。不意に、ロコの冷たい視線が浮かんだ。そして、彼女はジャグルに言い放った。「あなたは、役立たずなのね」。いや、違う。ジャグルは首を振った。目を開き、もう一度矢を構えた。おれは役立たずなんかじゃない。
「……やってやる」
半ばやけっぱちで、ジャグルはありったけの術力を矢に込める。術力が火力に変換されたとき、既に矢は燃えるような赤い光を放っていた。もしこれが術を用いた矢でなかったならば、高熱のあまり持つことさえできないだろう。
ジャグルは高熱の矢をムシャーナに放った。何の偶然か、矢はムシャーナの急所――おでこの煙を出す器官を貫いた。矢は大きく爆ぜた。人食いは叫び、ごろごろと地上と空中を彷徨いもがいた。だが炎は、人食いが身体を動かす度に執拗に追いかけ、焼き続けた。やがて表面は炭と化し、身体を中まで燃やし続ける。やがて声が消え、そのうち動きも止まった。今度こそ、ムシャーナの息の根を止めることに成功したのだ。
ジャグルは手に嫌な汗をかいていることに気付いた。明らかに、火矢の熱に当てられただけのものではない。ジャグルはもがく姿の中に、自身の心を揺さぶるものを見てしまった。涙だった。炎の中で人食いの目から雫が溢れるのを、確かに見たのだ。感情を持つ生き物が自分の死に直面したときに発露する、悲しみと、憎悪と、虚無。なぜ? という、自分に降りかかった理不尽へのやるせなさ。もしかすると、人間だって同じ表情をするのかもしれない。殺される寸前の人間を見たことはなかったが、きっと同じ思いが、その瞳から伝わってくるに違いない。
不意に、頭に何かが触れた。レガの手だった。暖かいその手が、くしゃくしゃの髪を優しく撫でた。
「よくやった、ジャグル。お前は、よくやったよ」
レガは、自分の上着をジャグルの頭に被せた。ムシャーナの亡骸を私に見せないように隠したのだ。ジャグルも見たいとは思わなかった。頭の中に浮かぶのは、あの大きく見開かれた目。最期の最期、自分を見つめるその視線を、ジャグルはいつまでも忘れることが出来なかった。
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#2 火矢を放つ-6-
あれから、そろそろ一年が経とうとしていた。
仕事は大人とする。だが、寝床は最初の取り決め通り子ども時代のままだった。大人たちに翻弄され、仕事から帰って来て、ばたりと自分のベッドに倒れるジャグル。たとえ休みの日であっても、部屋から出る気も無くなかった。些細なことで言い争ったり怖がったりする子どもたちのことが、取るに足らない存在に思えた。気が付けば、ここ数ヶ月まともに同じ年頃の子ども達と口を聞いていない。ただ、時々聞こえる噂がある。あいつは一足先に大人になったことを、鼻にかけている、と。そんな噂にみて見ぬ振りをしているうちに、誰と仲良くできるのか自分でも分からなくなった。そして同時に、下らないと思った。彼らのことを、本当に罵りたくなることが多々あった。子どもたちは皆、口では大人になりたいと言っていても、本当は大人とは何なのか、よく分かっていないのだ。その反対側にある辛い部分、苦労を、彼らはまるで知らないのだ。それ故に、こちらからも歩み寄る気になれない。悪循環だった。
ジャグルには、決定的に欠けるものがあった。心の底から信頼し、どんなことでも打ち明けられる友達だ。一人で頑張ってきたということは、誰にも頼らなかったということだ。仲間がいないことが、今になって牙を向く。
暫くして、軽く蹴りを入れられる。敵意に満ちた一撃だったが、最早慣れていた。
「お前さぁ、やっぱり俺らのこと舐めてるんだろ」
低い声が呟く。タム・タルトだ。子どもたちの中では、随一の術の才能を持っている。後ろに二人の取り巻き。面倒なので目を開けなかったが、笑い声がしたので奴らもいるのだろうなと推測される。
「俺の顔見ても挨拶もなしに読書とか、いい度胸してんじゃねえか。ちょっと早く大人になれたからって、調子に乗るなよ」
ジャグルは反応しない。
「だが、今年は俺も大人の儀式を受けるんだ。今に見てろよ」
呟き、乱暴な足音が聞こえる。どうやら行ったようだ。ジャグルは手足を伸ばし、リラックスした体制をとる。息を大きく吸い込み、吐く。体を休め、機能を高めるまじないでもある。ジャグルは目を開けた。
タムは知らないだけなのだ。自分が本を読むのは、そうしないと大人たちの仕事に追いつかないからだ。帰って来て、すぐにベッドに倒れこむのは、それだけの力を使ったということだ。大人になったら、抱えるものもことも大きくなる。鼻にかけてる? 冗談じゃない。他のことを構っている余裕がないだけだ。
「そろそろ仕事の時間か」
あまり気が乗らない仕事なので、つい本を長く読みふけってしまった。いい加減行かないと、また怒られるに違いない。
タルト一族の集落には、女はいない。まじない師として育てられるのは、男だけだった。女は術力を体に溜め込むばかりで、それを放出することはできない。だから、それができる男が、女の体の一部を使うことで、彼女らの術力を開放してやっている。そういう理屈だった。
例えば、髪の毛。あるいは、爪。それらを編んだり灰にしたりしたものが、まじない師たちの重要な道具になる。今日ジャグルが取りに行くのは、その中でも最も特別なものの一つ、血液だった。大人への通過儀礼に必要なのだ。十六歳を迎えたタルト一族の男子は、火矢を放ち、女の血液を飲み干すことで、大人の仲間入りを果たすことになる。ちなみに、ジャグルはまだ年齢が満たないと言うことから、血を飲み干す儀式はしていない。それほどまでに、血液は女性の体の中でも神聖なものと見なされていた。正直言うとジャグルは儀式の詳細を聞かされた時、その生々しさにひどく顔をしかめた。人の血を奪って飲むなんて、何と残酷なことだろうか。今年は、三人の男子がこの儀式を受ける。その三人のうちに、あのタム・タルトが入っている。それを思うと、なおさら気が重い。
集落を外れて、起伏の激しい森の山道を歩いていく。
「遅いぞ、ジャグル」
今日のパートナーである一族の男が叱咤する。遥か先を歩き、坂道の頂上でジャグルを見下ろした。
「すみません」
ジャグルは顔を上げ、伏し目がちになる。
「しっかりしろよ、まったく」
男の小言を必死で聞き流す。
最初の遠征から一年。ジャグルの術力は、どういうわけか成長を止め減衰しつつあった。
大人たちはジャグルの強烈な術力を知覚していた。それ故、将来はきっと大物になるだろうと予測した。だが、その期待は半年を過ぎた頃、少しずつ裏切られていった。ジャンルは、術の習得が致命的に遅かった。初めての遠征の後にレガに教えてもらった、糸を操る術は辛うじて扱えるようになった。だが、その他の術になるとまるで扱えず、コツも何も掴めないほどの要領の悪さを露呈した。知識はあるのだが、それを実践しようとするとうまくいかない。そんな状態が、6ヶ月続いた。大人たちの反応は、大きく分けて二つだった。完全に失望した者と、まだ女の血を飲んでいないから、術力が弱いのだと弁護する者。自分に浴びせられる視線が嫌で、ジャグルはとにかく知識だけでも詰め込もうと、本の世界に没頭した。かつてのように、ひたすら火矢に打ち込むようなことは、もうしなくなっていた。
「おら、着いたぞ」
言わなくても分かってるよ、と心の中で呟き、喉元で押し留める。顔を上げれば、集落の屋敷とは全く趣の異なる、暗くくすんだ建物がそこにあった。二人はその扉をくぐった。
中から、耳をつんざくような黄色い声が聞こえた。相変わらず、狂った連中だと訝る。どうやら、大勢で何かを楽しみ、熱中していたらしい。
「あら、いらっしゃい。今日は何のご用?」
30歳くらいの女性が、煙草をふかしながら応対した。彼女は、貴族よりも派手で、なおかつ露出だらけの衣装を身に纏っていた。低い声の響きが、体の弱い部分をくすぐる。男は一歩歩み出た。
「知っていたかい。そろそろ大人の儀式の季節なんだ。今年は三人」
彼は急に気取った喋り方を始めた。
「あら、そうなの? もうそんな時期なのね。リム! ロール! おいで」
女は中にいるうち、二人の名前を呼んだ。騒いでいた群れの中から、二人の少女が立ち上がった。彼女達は立ち上がり、ジャグル達のそばへやってきた。この女と負けず劣らず派手な衣装だったが、幾分若い。自分より一つ年上、あるいは同い年ではないかとさえ思う。そしてやはり、かなりの美貌の持ち主に見えた。
「この子たちの血を使いなさいな。部屋はこっち」
「分かった。付いて来い」
女に案内され、男は若い娘二人を連れて行く。大部屋の隅の、死角になっている場所の扉をくぐる。ジャグルもそれに続く。ここは、一族の男が女性の体の一部を貰うときのためにある部屋だった。中には、簡単な机と椅子が用意されていた。男はそこにどかりと腰掛ける。
「腕」
顎を突き出し、娘たちに促す。二人は一瞬だけ顔を見合わせ、先にリムの方が差し出すことにした。
男は持ってきた瓶を机の上に置き、利き手に集中を始める。何か細いものをつまむように、親指と人差し指を合わせ、他の指をぴんと伸ばす。針の形に見立てているのだ、とジャグルは本で読んだ話を思い出した。男は、術で作った針をリムの腕に、斜めに突き刺す。
「!……っ」
リムは歯を食いしばった。ジャグルも体を強ばらせ、目を閉じそうになる。彼の指の内側から、赤い塊が風船のようにぷくぷく膨れていく。彼女の血液が、術の力で流れずに空中で固定される。何かの膜を張っているかのように、空中に止まる。
そして、掌で握れるほどのサイズになったところで、血の塊を瓶の上に移動させる。球体がしゅるしゅると皮が剥けるようにほどけて、瓶の中で球体に戻っていく。
「はい、終わり」
事務的な口調で男は告げる。リムは大きなため息と共に、少し目に涙を浮かべていた。そして、何も言わず、そそくさと立ち去ってしまった。腕に針を刺されたのだから、きっと痛かったに違いない。精神的にも疲れたのだろうと思った。ジャグル自身にそういう経験はないから、その痛みについては想像するしかない。
「じゃ、次」
ロールと名乗る少女が座る。リムよりも少し大人びた少女だった。男は彼女の手を取り、腕に滑らせる。
「痛いかもしれないけど、我慢して。力を抜いて」
そして、針をゆっくりと彼女の腕に刺す。事前に知らされていても、針の痛みが和らぐものでもないようだ。ロールの顔を見れば、苦悶の表情をあらわにした。
ふと、ジャグルは違和感を感じた。
血を抜くスピードが、さっきよりも断然遅いのだ。
「うー、んっ」
「もう少し、もう少しだ」
男は励まし、彼女の顔を見上げた。二人の間に、得体の知れない張り詰めた空気が漂い始める。だが心なしか、二人にはこの状況を楽しんでいるかのような、余裕が感じられた。
あえて、なのだろうか。この手抜きは。いや、ゆっくりと抜いたのは、身体をいたわっているからなのか。
「はい、終わり」
緊張が解き放たれる。ロールの首筋に、うっすらと汗が流れるのを見た。そして、ちょっと恥ずかしそうに笑っている。
男は血を集めた瓶を、ジャグルによこした。
「それはお前が預かっとけ。いくらなんでも、それくらいしてもらわなくちゃここに連れてきた意味がないからな」
男の言葉の端々に、刺々しさを感じる。だが、敢えて気づかない振りを通した。
男は大きく伸びをして、全身の力を抜いた。
「さーて、もう一つ仕事といきますか」
小声でそう呟いた。酷くじっとりとした声に思えた。
「もう一つ?」
「ああ」
男は聞き返したのか、納得したのかよくわからない返事をした。
「男の最大の仕事は、女の術力の解放さ」
男はにたりと笑った。
その意味をジャグルは、最近ようやく理解しつつあった。だが、その中に埋もれることは出来ないことも、理解していた。ジャグルは男から目を逸らした。
「おれは、いいよ」
「そうかい。強制じゃないのも確かだ。瓶はちゃんと持って帰れよ。じゃあな」
男はにやついた顔を隠そうとしていたようだが、却ってひきつっていた。入り口までジャグルを見送り、ロールと共に別の部屋へと消えた。
ーーそういうことかよ。
針を刺した時から、彼とロールの関係は始まっていたのだ。ジャグルはそれを理解すると、無性にやるせない気持ちになった。術力の解放だって? 冗談じゃない。
気がつけば、リーダー格の女と二人になっていた。
「あなた、本当にいいのかしら。ここに来れることなんて、一年を通してもあまりないわよ」
彼女は最後の確認を取ってくる。
「余計なお世話だよ」
ジャグルは顔をぷいと背けた。
「ふーん。まぁ、いいけど。じゃあそれ、宜しくね」
瓶を指さして、彼女はゆっくりと、扉が閉めた。女達の騒ぎ声が消えて、ジャグルは一人になった。自分はあの楽しそうな騒ぎ声の外にいる。一族のしきたりとか、共通の感覚という大きな輪の中に、自分が入っていないことを実感する。自ら選んだこととは言え、寂しい気持ちは確かにある。だが、その輪の中に入ってしまえば最後、自分が自分でなくなるような気がして、ジャグルは恐ろしかった。それ故に、わからなくなった。自分って、一体何なのだろう。
振り返ると、レガがいた。
坂の下でジャグルを見つめて立っていた。ジャグルが彼の姿に気付くと、彼は優しく微笑んだ。
ジャグルは駆け寄って、彼の体を抱きしめた。
「泣いているのか、ジャグル」
レガの手が背中を包む。レガの察しの良さには、驚かされることもあるが、今はそれが心地よかった。
「おれ、分かんねえよ」
彼はいつでも、自分のことを分かってくれる。
「どうしたらいいか、分かんねえよ」
感情が爆発した。レガの服を容赦なく濡らし、ジャグルはひたすら泣き続けた。 今のジャグルに、味方はレガただひとりだった。
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#2 火矢を放つ-7-
ひとしきり泣いたあと、近くの小川で水を飲んだ。
「たまにはこんな寄り道も悪くないだろ」
「うん」
膝を抱えながら、川の流れる音だけを静かに聞いた。レガはうんと伸びをした。
「レガも、女の屋敷に用事があったんじゃないの」
膝を抱えたままのポーズで、ジャグルは聞いた。
「あぁ」
レガは足元の石を蹴る。
「ちょっと厄介な依頼があってね」
「厄介な依頼?」
「あぁ。リズ村の村長からだ」
リズ村は、ハイラ山脈の麓にある、タルト一族の集落に最も近い村だ。その村人のうち何人かは、集落への行き方を知っている。集落と村との間には、まじないを無料で施す代わりに外部からの依頼者の窓口になってもらうという取り決めがある。普段は村の中心人物のうちの誰かが来るのだが、村長自らが来るということは、滅多になかった。
「村人が三人、惨殺されたそうだ」
昔の自分なら、ここでごくりと唾を飲み込んだだろう。人が死んでも、さほど心が動かなくなった。冷静になった、と言うべきか。だが今回は少し、事情が違う。
「人食いがリズに現れたってこと?」
「そういうことだ」
「それって、マズいんじゃあ」
レガは無言で頷く。
「リズとタルトの位置はかなり近い。奴らの行方が分からない以上、この森のどこかにいる可能性は十分にある」
レガの目が、少し伏せられた。その表情から、問題の深刻さを伺い知ることができた。
「下手をしたら、」
一族が滅びるかもしれない。と口に出しそうになり、止めた。滅多なことを言うものじゃないし、言わなくても二人とも分かっていることだから。
もし、襲われるのが夜だったら。子供たちがばらばらに行動している時だったら。人食いは術力を持つ人間を食べると、その力を増す。一人でも食われてしまえば、大人でも太刀打ちできなくなるかもしれない。それだけは、何としても避けなければ。
「昨日夜、緊急の会議があった。そこで、七人
の討伐隊を作ることになったんだ。タルトの集落を嗅ぎつけられる前に始末しなければならない」
ジャグルは頷く。少しの間、レガは沈黙した。
「それで、俺もその討伐メンバーに選ばれた」
「ええっ」
たっぷり溜めた効果も相まって、ジャグルは驚きのあまり叫んでしまった。ふっふっふ、と冗談めかした笑い方をするレガ。
「他のメンバーは?」
レガは残り六人の名前を挙げる。その中には、ロークの名前があった。最初の遠征を共にした為か、ラッシュとロークとは余り喋らないにしても、ジャグルを邪険に扱うようなことはしなかった。
「ロークもか」
「あいつも結構出来る奴だからな。いざって時は頼りになるよ」
確かにそんな気がする。無口で愛想は悪いが、高い実力の持ち主だ。
「決行は三日後の朝。明後日は通過儀礼の日だから、それが終わったらすぐに出られるようにする。今の所は俺たち以外には内緒にしておく。あまり事を荒げて、子ども達に影響があるといけないからな」
子ども達、とジャグルは呟く。明後日、あのタムも大人になる。あいつは順当に大人になるのだから、ベッドも大人用になるのだろう。と言うことは、一年間は寝床で蹴られずに済むのかもしれない。
そんな考えをよそに、レガはしゃべり続ける。
「儀式中も、絶えず集落には結界を張り続ける。儀式の日程を覆ることはないから、まずは守りに徹して様子を見る。まぁリズとここが近いとは言え、ハイラの森は広い。三日くらいの猶予は十分あるだろう」
「なるほど」
その見立てに至る道筋を知るにはまだ知識が足りないから、そういうものなのかと納得するより他なかった。
「まぁ、俺にかかればどんな奴でも楽勝だけどな」
急に、レガばおどけた調子で言い放った。腕を組んで、不敵な笑みを浮かべた。いつものように、おどけた調子の、口に出したことは何でもやってのけてしまう時のレガだった。
「ホントだよ。頼むぜ未来の族長さんよ」
ジャグルもいつものように、そんな彼につい軽口を叩いてしまう。
「はっはっは、人食いでも戦いでも、何でも持って来いだ」
「言うねぇ」
うりうり、と言いながらレガの脇腹を突っつく。
「おいっ、脇腹弱いの知ってるだろ」
「あははは」
「このやろ」
逃げるレガを追いかけるジャグル。河原の石を蹴りながら、まるで子どものようにはしゃぐ。
「でもさ」
切れた息を整えながら、ジャグルは言った。
「レガは本当にすごいと思うんだ」
きょとんとした彼の顔を見つめながら、ジャグルは言った。
「人食い、絶対倒してくれよ」
「あぁ」
いつものように、ジャグルはレガの明るさにつられて笑う。年上の連中からしたら、まだまだレガは不十分なのかもしれない。レガより凄いまじない師が一族の中にいることも知っている。それでもジャグルにとっては、一番頼りになるのはレガだった。
「俺たちは、まじない師だ。人に仇なすものは、何であっても退ける」
この一言だけで、ジャグルは安心できるのだ。
それから、二日後。十六歳を迎えた少年が、いよいよ大人への一歩を踏み出す日だ。そして、この日だけは大人と子どもが、一同に会する。この日の為に、大人たちの建物の前に舞台が用意される。それは広場を丸ごと覆い尽くすほど、広い。普段のこの空間の面影が全くと言っていいほどない。ジャグルも、小さい頃から知っているのはこの舞台だった。
「まさか、ここがいつもの広場だったなんてなぁ」
ジャグルはレガに言った。
特別に作られた舞台はジャグルも毎年目にしていたが、あれがどこにあるのかは全く知らなかった。多くの子どもたちにとって、「大人の住む場所」はこの舞台であるイメージが強い。それにも関わらず、今の今までこの場所が見つからなかったことにようやく合点が行った。
「俺も、大人になってから驚いたよ」
レガは言った。
「しかも、一日で組み上げるなんてな」
別の班が、材料となる木材の調達や組み上げを行っていた。大人たちにしてみれば、術を使えばわけのないことだそうだ。己の手を一切使わずに、勝手に組み上がっていく様は、見ていて圧巻だった。
笛の音が鳴る。
大人も子どもも、舞台の上に注目する。
いよいよ始まるのだ、と誰もが胸を高鳴らせる。去年、自分が大勢の子どもの前で火矢を放った時よりも遥かに大きな舞台だ、とジャグルは思った。この場に自分が立っていたら、どうだったろうかと想像する。
舞台の横から、三人の男が現れた。並び歩き、奥から順番に座っていく。タムはその一番奥だった。
大人になる、火矢を放つ儀式の始まりである。
「タム! 前へ」
低い声が響く。ルーディが、普段のしわがれた声を強引に張っていた。少しだけ裏返る。
タムは立ち上がり、脇に立つ大人から一本の矢を受け取る。そしてそれをつがえ、後ろの羽に火を灯す。反対側で、的が待つ。
見えない張力のかたちが、はっきりと分かる。まじないを自分で使えなくても、術力に対する感性は磨かれていた。タムのそれは大きくはないが、綺麗にまとまっていた。それがジャグルの抱いた素直な感想だった。普段から、もっとダイナミックな術の数々を見ているから、無意識のうちに比べてしまったのかもしれない。
張力が解放される。
ひゅるひゅると緩い弧を描き、矢は吸い込まれるように的の中心を貫いた。矢の炎は、緩やかに的を燃やす。
観客たちはその成功に盛大な拍手を送った。
まるであいつそのものだな、とジャグルは心の中で毒づいた。ちゃんとやっているようで、手を抜いている。外さぬよう、張力をかなり手加減していることが、ありありと分かる。大人たちの何人かは、手を叩きながらもその顔は苦笑に近い。彼らも気付いているのだろう、タムがどういう男であるのかを。
その日は、夜まで宴が続いた。普段は見ないような色とりどりのメニューが並び、大人も子どもも盛り上がった。この時を毎年楽しみにしてきたジャグルでも、今回だけは楽しめる気がしなかった。楽しそうに騒ぐ人々を見れば見るほど、疎外感に苛まれていく。タムは、一昨日女の館へ一緒に行った男と意気投合していたようだ。嫌なタッグだ、と思った。
気付けばレガの姿がない。何処へ行ったのかと、ジャグルは探した。
「おーっす、ジャグル、やってるかー」
ラッシュが肩を乱暴に組んでくる。酒に酔っているらしい。
「痛いって。それより、レガ知らない?」
「レガ? あいつなら、さっき部屋に戻ってったよ」
「ありがとう」
「おー」
ラッシュは返す。
「……離してくれないかな」
「やだね」
ジャグルは顔をひくつかせた。
「さては酔っ払ってるな。離してくれよ」
左右に揺さぶってみたが、ラッシュは一向に離れようとしない。
「ん? ジャグル、お前って……」
ラッシュが何かに気付きかけた気がした。ジャグルは慌てて遮る。
「そ、それよりさ、ラッシュは明日行くの?」
少しの沈黙があった。一瞬、何のことか解らなかったらしい。
「あぁ、あれのこと」
それに察しがついた途端、明らかに不機嫌になるのが分かった。失言だったか、と思ったが、ジャグルの肩に顔をうずめて、大げさに泣く真似をしてみせた。
「なーんで俺を選んでくれないかなぁ、まったくよぉ」
酷く恨めしそうな声で、そう言った。
「確かにさ、レガとかの方がよっぽど術の扱いは上手いけどさ。俺だって頑張ってるはずなんだけどなぁ」
「……そう?」
「いやー俺は頑張ってるはずなんだよ。俺はさぁ」
少し軽薄なその態度のせいじゃないだろうか。酒に飲まれたり、街の娘にうつつを抜かしたり。普段の行いが見られているんじゃないかと思ったが、心に留めた。それにしても、酒癖が悪い。今日の祭りでラッシュの絡みの犠牲になったのは、ジャグルで三人目だった。何とか関わらずにいこうと思っていたのだが、油断した。
「んじゃ、そろそろレガ探してくるね」
「おー」
すっかり意気消沈したラッシュを置いて、ジャグルはそそくさと立ち去った。どうも、彼は他の連中とは違った意味で苦手だ。
「レガ」
自室を訪ねてみると、彼はいた。剣を磨いていたらしい。
「ジャグルか」
「そんな剣、あったっけ?」
「この集落の三つの隠し倉庫の一つ、魔具庫。その中にある宝物だよ」
「隠し倉庫?」
ジャグルは首を傾げた。そんなものは、聞いたことがない。
「あぁ。一族の中でも、ほんの一部の人間しか知らない部屋さ。貴重な物が納められている」
「へぇ」
何だか恐れ多くて、詳しく尋ねるのははばかられる。
「……明日から、なんだよな」
ジャグルは拳を握り締める。
「頑張って、倒してきてくれよ」
「もちろん」
レガは笑う。
「一つ、まじないをかけてみようか」
唐突に、そんなことを言い始めたレガ。
「倉庫は三つ。一つは術力を加えることで力が大幅に増す魔具庫、一つは古の術の記された本が眠る書庫、もう一つは……まぁいいや。二つのうち、どっちか好きな方の場所を教えてあげよう」
「え、いいの!?」
ジャグルは思わず身を乗り出した。
「そんな大事な秘密……」
「いいんだよ。それくらい。いつかお前も知っとかなきゃいけないんだし」
そう言って、いたずらっぽく笑うレガ。
「じゃあさ、じゃあさ、すぐ倒して来いよ。絶対だからな」
レガは大げさに剣を片手で掲げて、ジャグルに応えた。
「なんだよ、それ」
ジャグルは笑った。
そんな小さなやり取りの一つが、楽しくて仕方がなかった。レガと一緒なら、いつまでも笑っていられる。こんな穏やかな時間が、いつまでも続けばいいと思った。
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#2 火矢を放つ-8-
レガ・タルトが死んだ。
その知らせがジャグルの耳に入ってきたのは、二日後の朝だった。
七人の精鋭が、とりわけ気合いを入れて出て行った朝。ジャグルは早起きをして、彼らを見送った。心のどこかで、いつものように簡単に、良い知らせを持って帰ってくるのだろうと高をくくっていた。
だがその考えは甘かった。部隊は、壊滅した。
最初に異変に気付いたのは、ラッシュだった。ロークを先頭に、三人の男がそれぞれ一人を背負って帰ってきた。全員、傷だらけだった。背負っている者はまだましで、服が破けたり、切り傷を負ったりする程度だったが、背負われている方はぐったりとして、完全に動かない。足を片方失っている者もいた。
ラッシュは大人たちを呼び、手当てを求める。しばらくして、ざわめきが起こる。
担架の上に寝かされる、生死の境を彷徨う男たち。ジャグルは大人たちに混じって、ただ彼らを見つめていた。何か行動を起こそうにも、動けなかった。今の自分には、何も出来ない。
「おい、もっと水を持って来い」
「誰か女の館に! ありったけの灰を作れ」
「治療のまじないが得意な奴いるか」
「薬草だ! 蓄えがあったはずだ」
大人たちは、それぞれに役割を振り分け始めた。右へ左へと人が往来し、全てが慌ただしく動き出す。その中で、ジャグルはどこにも行けなかった。ただただ、怪我人たちの姿をまじまじと見つめることしか、ジャグルに出来ることはなかった。
ロークが地面に座り込む。土と汗にまみれたその顔は、憔悴しきっていた。
「なぁ、ローク」
「すまない」
ジャグルが何かを言う前に、ロークはそれだけ言った。
「レガは」
うなだれるローク。討伐隊は七人だったはずだ。だが今いるのは、担架で運ばれた三人と、ロークのようにその場に腰を下ろしている三人だけ。一人、足りない。何だか、嫌な予感がする。
「レガはどうしたんだよ」
ジャグルはすがるような声で言った。
「すまない」
「レガはどうしたんだよ!」
ジャグルはついに叫んだ。最早、泣きそうだった。自分の感じる不安をどうにかしたくて、真実を知ろうと迫った。だが、今彼がここにいないというだけで、その答えは明らかになっているようなものだった。
「あいつは殺された」
ロークは、聞いたこともないような低い声で呟いた。
「人食いに殺されたんだ!」
ロークは拳を地面に叩きつけた。やり場の無い怒りを、地面に向けて放った。殺された。レガが。人食いに。そんな。昨日あんなにへらへらと笑っていたじゃないか。やるせなさが胃の底から込み上げてくる。
とっさに、自分の手がロークに伸びた。自分は彼を殴るのだ、と思った。胸ぐらを掴んで、反対の手で、彼の頬を、ありったけの力で。怒りに任せて、胸にぽっかりと開いた穴の虚無感に任せて、レガを見殺しにしたこいつを殴るのだと。
だが、手は肩に伸び、ぐっと握り締めただけだった。おれにこいつを殴る権利は、ない。だって、俺はその場に居合わせたわけじゃないから。ただただ、やり場のない怒りに堪えて震えることしか、自分には許されないのだ。
「あいつは、俺たちを逃がしたんだ」
ロークは、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
討伐隊が森の散策を始めて二日後。つまり、今日の朝。突然、鬱蒼と生い茂る木々が燃え始めた。そして火の向こう側から、明らかに感じる妖気。この炎が、人食いの放ったものであることは、容易に想像出来た。
攻防があったというより、一方的になぶられただけだった、とロークは言う。
「奴らの奇襲に手も足も出なかった」
全員警戒を強め、陣を組んで広範囲から対応しようとした。だが燃えた木の間から、赤い炎が隊目掛けて飛んできた。あまりに速い速度で噴射される火炎に一瞬全員の動き乱れるが、何とか態勢を立て直す。間違いなく、そこに人食いはいる。討伐隊はそう確信した。炎の向こうから、こちらを狙っているのだと。ほんの数秒のことだったが、丸一日続く睨み合いのようにも思えた。
敵が動いた。とてつもなく速い。草の擦れる音が、有り得ない速度で移動する。目で追うことでさえ適わない。裏手に回った瞬間、人食いの二撃目が討伐隊を襲う。青白い閃光が、一番後ろの男を襲った。堪えきれず、叫び声を上げる。矢を放って反撃するも、連射される閃光の前にあっさりと燃え尽きた。そして再び、人食いは高速で移動する。
止まった瞬間、もう一人が火矢を試みる。矢を撃つために腕を伸ばす。その瞬間、無色透明の何かが彼を襲った。火矢を放つはずの腕が、無残に切り落とされていた。
悶絶する彼に、急いで一人が止血に回る。そうしているうちに、無色透明の弾はたたみかけるように一行を襲う。弾の嵐に、前を見ることさえ適わない。ロークは術で弾を逸らすことを試みた。開いた傘のように、円錐形の力の流れを作り出す。しかし、弾の一つ一つが想像以上に重い。作り出した力の流れを拒絶するように、無色透明の弾は突き進もうとする。一人、また一人と防御を弾かれ、生身の身体もろとも貫通する。全員が、多かれ少なかれ傷を負う。何とか防いだとしても、集中する意識の隙を突くように、閃光が襲ってくる。一行の足元は血で染まった。最早、立っていられるのは四人だけ。まともに戦える状況ではなかった。
「撤退しましょう!」
そう叫んだのは、レガだった。彼の負傷も、かなり激しいものだった。辛うじて立ってはいたが、最早気力のみで動いているように見えた。
レガは、守りの術をかけた。作り上げた結界はひどく弱々しく、大きさも七人がぎりぎり入れる程度だった。
「ここは俺が時間を稼ぎます。まだ歩ける人は、歩けない人を担いで」
極限の状況の中、皆がレガの言葉に従うしかないと思った。ロークは一番近くにいた男を背負い上げる。
「走って!」
レガ以外の三人は、その声を合図に駆けた。全力。ただ前だけを見て。集落の方角だけを目指して。
一度だけ、ロークはレガの方を振り返った。レガが、紅の体を持つ獣と対峙するのが見えた。獣は、白い炎をレガに吹き付ける。それと同時に、レガが崩れ落ちた。
助けに戻ろう、とは言えなかった。そんなことをすれば、全員奴の餌食になるのが目に見えていたからだ。
「自分を囮にしたってこと?」
ジャグルは訊く。
「なんだよ。なんだよそれ」
「すまない。俺たちのせいだ」
ロークは首を振る。
手が震えている。握るでも、開くでもなく、やりどころに困った中途半端な掌から、力が離れていく。
これは、怒りだろうか。
「最後に見た人食いって、どんな奴だったの」
ロークは顔を上げる。答えようとしたが、その表情を見て躊躇った。
「あいつら、今もその辺りにいるのかな。戦った場所はどこ」
「……お前、それを聞いてどうする」
「決まってるだろ。レガを助けに行く」
「止せ」
「なぜ!」
「お前の力で、何ができる。火矢を放つことしか出来ないお前に」
何かを言い返そうとしたが、出来なかった。
「それでも、おれは行きたいんだ」
やっとのことで絞り出したその声は、殆ど力がなかった。ロークはジャグルの顔を見て、呆れたように首を振った。
「犬死にするだけだ」
そのまま、ロークはうなだれた。もう、前を向く気力もないと言わんばかりに。
「なんなんだよ……なんなんだよそれ……」
ジャグルはひたすら、同じ言葉を繰り返した。自分の今抱いている感情が何なのか分からないのは、今まで自分をずっと抑えて、本当の気持ちを隠して生きてきたことに対する罰だろうか。この状況をどうにかしたい。今すぐにでも駆け出したい。だが、何もできない。
結局やるせない気持ちを抱えたまま、ふらふらと自室に戻り、ベッドに倒れ込むしかなかった。この寝室に、邪魔者タムはもういない。だけど、それでも、レガまでいなくなっちゃ、意味がないじゃないか。
次の日、召集がかかった。一日立っても予期せぬ敗北のショックから立ち直れない者もいれば、自分が行けば油断などせず、もっとうまくやれたと息巻く者もいた。だが、少なくともかなり強大な力を持つ人食いが、すぐ近くに潜んでいる。いつ襲われるか分からない危機を目前にしていることを自覚しない者はいなかった。だがここに残っているのは、それを打開する実力のない連中ばかりだ。レガで敵わなかった奴に、他の連中が勝ってたまるかとさえ思う。そうやって、自分の中でレガの存在を高めておかなければ、気がどうにかなりそうだった。
族長が檀の上に立って演説を始める。おほん、と咳払いをすると、一人、また一人とその顔を上げていく。
「今こそ、一つになることが大事であるぞ諸君。その為には、指針が必要だ。昨晩、私とルーディでその指針を考えた。今からこの方策に従って、タルトは動く。方策は三つだ」
三の形を作って、前に突き出す。
「一つ。集落の結界を強化する。今は確か、毎日二人がかわりばんこに結界を張っているな。それを四人に増やす」
辺りを見渡して、全員の顔を確認してから、続きを話した。
「二つ。二人一組で森の偵察を行う。その際、もし人食いに出会ったときのために、いつでもここに戻ってこられる術をかけたペンダントを作った。これをつけて、行動してもらう。もし見つけたら、速やかに報告するように」
一瞬息が止まった。危険な任務だ、と思った。だが、今はそのくらいの危険を犯すくらいでないと、状況を打破することはできないだろう。
「そして、三つ。先ほどの件にも関わることだが……一族の分家を召集する」
辺りがざわついた。一族の分家。つまり、普段はこの森にいないタルト一族の者達のことだ。そんなまじない師なんていただろうか。
いや、いる。
ジャグルの脳裏に、かつてたった一度だけ会った男の顔が浮かぶ。
「昨日の夕方には、既に各地に手紙を送っている。そろそろ、一人くらい来てもいい頃なのだが……」
ルーディがそう呟いたのとほぼ時を同じくして、集会所の扉がゆっくりと開かれた。
「皆さん、お待たせしました」
その笑みはやけに、不敵に見える。獣の頭部を模した杖を手にする、黒い帽子の男。彼こそが、かつて一度だけ会った分家のタルトであり、レガの唯一無二の友人でもある男、ディドル・タルトだった。
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#2 火矢を放つ-9-
集会は一旦解散となり、ルーディとドドは別室に入っていく。挨拶と、打ち合わせのためだ。聞かれて困る話でもないので、真剣に聞きたい者が好きに立ち会った。むしろ、積極的に集まることは情報の共有にもなる。最終的にはその場に居合わせない者の方が少なかった。ロークもジャグルも、もちろん参加した。
ルーディはドドの肩を叩いた。
「やあやあ。待っていたよ。長旅で疲れただろう」
「いえいえ。馬とまじないを組み合わせれば一日もかかりませんよ。とは言っても、馬の方はバテているので、しばらく休息が必要ですが」
「キュウコンの調子はどうかね」
「ええ。とても良いですよ。今はこの結界を越えられなかったので、外に待機させています」
ふっと笑うドド。それが嘘であることは、ジャグルはまだ知らない。知っていたのは、レガだけだ。
「そうか。邪な力を持つ人食いでは仕方あるまいな」
ドドは微笑を崩さないことに努めた。ぺこりと頭を下げ、これ以上の言葉は控えた。
「さて。本題に移ろう」
全員の視線が、ルーディに注がれる。
「手紙のことについてだが……君はどう思うね?」
ふむ、とドドは悩む仕草をする。
「この近くに潜む人食い。こちらには腕利きが七人もいたにも関わらず、その奇襲に誰も対処できなかった。話をまとめると、こういうことですね」
「あぁ」
ロークが答える。ドドは頷くと、目を閉じてゆっくりと息を吸う。彼の中で、一つの答えが弾き出された。中に居る者が、固唾を飲んでドドの口元を見る。
「敵は、複数」
沈黙の後、ドドは言い放った。部屋の中が落胆の声に包まれた。誰もが残念がり、何を抜けたことを言っているのだ、と言う顔をしている。呆れて部屋を出て行く者もいた。
「馬鹿なことを言うんじゃないぜ。人食いは群れを作らないだろうが」
参加者の一人が声を漏らした。人食いは常に単独で行動する。これは、タルト一族が長い年月と経験をかけて得た知識だ。二匹以上同時に行動するなど、有り得ないと言っていいほどだった。人食いと戦う心得のあるタルトの常識と言っていい。
「火と雷と透明の物体……恐らく水でしょうね。それを同時に操る人食いはいません。それに、火が燃えた方向とはまるで別の方向から、攻撃は始まったのでしょう? ならば、そう考えるのが最も単純で明快かと思いますが」
レガの言葉に、部屋が静まり返る。ジャグルは、全員が反論の余地を探しているよう
に見えた。だが、ドドを上回る説得力を持った言葉を口に出せる者はいなかった。そこに、ドドに加勢するようにロークが口を開く。
「確かに、変だとは思った。高速で移動したにしては、音や気配が全くなかった。攻撃も、種類によって少しずつ方向が違っていたように思う」
彼の一言で、議論の方向は決した。無言ではあるが、皆敵が複数いるという可能性を描きつつある。ドドは続ける。
「少なくとも三匹。それぞれの力を操る人食いが組み、討伐隊を包囲する形で襲ったのでしょう」
メンバーの顔を見渡して、ルーディが口を開く。
「そう考えるのがよいかもしれんな」
ルーディのことを頭の固い頑固ジジイだと思っていたジャグルには意外な一言だった。最も、自分の意見を押し殺して全員の総意を述べているに過ぎないことが分かるほど、ジャグルは大人ではなかった。
「偵察は二、三人で良いと思います。ただ、もし連中の姿を捉えて、いざ討伐に出るとなった場合は少なくとも九人はいないとキツいですね」
一体につき三人。実力者を七人集めて壊滅したことを思えば、これでも少ないくらいだろう。ドドの提示は、まさに最低限の人数だった。
「そうだな。では、その方向で検討するとしよう」
ルーディはそう言って納得し、話し合いの場は解散となった。
ドドが部屋を出て、何処かへ立ち去ろうとするのをジャグルは呼び止めた。
「待てよ」
ドドはゆっくりと振り返る。
「何か用か」
「お前、悔しくないのかよ。レガはお前の、友達だったんだろ。すっごく仲良かったんだろ」
「何が言いたい」
「何でそんなに冷静に話し合いなんかしてられるんだって聞いてるんだよ」
いちいち説明するのも煩わしい。ジャグルは拳を壁に叩きつけた。ドドの語りは、冷静であるというより、ひどく事務的で、全く感情を感じさせないものだった。まるで、レガの死を何とも思っていないかのように。ドドは目線を逸らし、上にあげる。そして、再びジャグルに向き直る。
「奴らは、一人で勝てる相手じゃない。ましてや、冷静さを失った状態では、なおさらだ」
「冷静になれだとか、落ち着けだとか、そんな話ばかりしやがって。死んでったレガの思いとか、そう言うのを汲まなくてどうするんだよ」
「では、聞こう。君ならどうする、ジャグル」
ドドの口から、自分の名前が出てくるとは思わなかったので、ついたじろいでしまった。そこで改めて、ドドがどういう人間なのかを殆ど知らないことに気付く。獣の頭を模した杖を持つこの男は、分家のタルトであり、レガの友人である。だが、彼が一体どんな家に生まれ、どんな生活を送ってきたのか、ジャグルは知らない。
自分ならどうするか。ジャグルは考えた。
「まず、数人で奴らの居場所を突き止める。ここまではあんたの言ってたことと同じさ。だけど、見つけ出したなら、タルトの男たちを全員使って、一網打尽にしてやるね。三匹だろうが四匹だろうが関係ない。どんな人食いが現れようと、一族全員でかかれば倒せないことはないはずだ」
さっきの会議でドドの提案したやり方は、非常に回りくどい。最低九人という言い方には、人材を出し惜しみしようという魂胆があるように見えた。使える力を最大限使えば、どんな人食いも一瞬にして消せるはずなのに。
ドドは深く息を吐いた。
「その考えは現実感覚が足りないな」
「何だと」
ドドは思案するように、杖の頭をそっと撫でる。
「果たして本当に皆が皆、敵を取りたいと思っているだろうか」
ドドはゆっくりと顔を上げ、ジャグルを見つめる。ジャグルは言葉に詰まった。
確かに、自分はレガを慕っていた。だからこそ彼の死を悔しいと思う。だがこの感情は個人的なもので、一族全体の意思ではない。
「気付いたか」
ドドの声にはっとして、いつの間にか思案のために顔が下を向いていたことに気付く。
「例えば、レガは将来を特に期待された若手のまじない師だった。だが、自分よりも秀でていて注目もされる、優秀な人間を疎んじている者がいてもおかしくはない。彼のために戦争を挑んだとしても、引き出せる力は半分にも満たないだろうな。それでも、君はいいのか」
ドドは首を振った。
だがそれでも。
それでも、自分がレガの敵を取りたい気持ちは変わらない。
「お前はレガが死んで悔しくないってことかよ。見損なったぜ」
ジャグルは踵を返す。何かもっともらしい反論をしたかったが、できなかった。捨て台詞を吐いてその場を立ち去るのが精一杯だった。
悔しい、と思った。自分は、言葉で何かを伝えるのが下手だ。思いと憶測だけがぐるぐると回って、肝心なことを言えやしない。
たとえ死んでも、志さえ守れればそれでいいじゃないか。それが誇りってものじゃないのか。言ってやりたかったが、言えなかった。感情を抑えるのに精一杯で、うまく言葉にできなかった。よくよく考えてみれば、こいつに言ってもしょうがないのだ。一族全体が抱える、おかしな妬みそねみのせいなのだから。
その二日後、事態は動き始めた。
調査隊が、人食いの姿を捉えた。場所を記録し、首飾りのまじないで飛んで戻ってきた。慌てて族長とルーディに報告した。首飾りを使ったこと、彼らが慌てていたことから、おおよその人間には事態の察しがついていた。皆、それとなく集会所に集まってきた。
「さて、諸君。我々の探していた人食いが、とうとう見つかった。かねてよりの計画通り、討伐隊を編成する。戦う勇気のある者はこの後名乗り出るように」
ルーディはそう告げて、会議室に入っていった。我先にとジャグルが後を追うと、志願者を待つドドとルーディの姿があった。ドドはいつの間にか、事実上の人食い討伐の統括者としての地位を確立している。昨日は本来ルーディと族長との二人きりの相談にも立ち会ったらしい。志願者を待つ姿が、すっかり板についていた。
部屋の中は会話もなく、沈黙が続く。これから命を懸けた戦いに行くせいか、空気が少し殺気立っていた。息を殺して待っていると、一時間もしないうちに、続々と人が集まってきた。その中に、因縁のある顔もちらほらと見受けられた。
まず、ラッシュ。前回の討伐隊に参加させて貰えなかったのが、悔しかったのだろう。命を懸けた戦いの手前、不安な表情を隠せないが、何とか自分を奮い立たせているように見えた。
そして、タム。腕を組んで、余裕を見せ付けている。この戦いを機に、自分の名を上げようという魂胆か。こちらを一瞥すると、嫌みったらしく鼻で笑われた。むっとしたが、こいつの売った喧嘩を買うのは得策ではない。
最終的に、十四人の志願者が集まった。ドドも合わせれば、十五人である。
ルーディは全員の顔を見渡し、不敵な笑みを浮かべた。
「そろそろ時間にしようか。どうする、ディドル君。当初の九人を超えているが」
横目でちらと見やる。ドドは目を瞑り腕を組んだ。
「多くなる分には、問題ないでしょう。最低でも九人は欲しいと言ったまでですよ。良いことです」
ルーディは頷き、一歩前に出る。
「さて、諸君。まずは参加を決意してくれたことに礼を言う。君たちの勇気に拍手を送りたい」
ドドとルーディの二人が、ほんの短い間だけ手を叩いた。
「決戦は、明日の日の出と共に始めよう。今回の件に関して、魔具庫の使用を完全に許可する。各々、戦いの準備を進めよ!」
おおお!
ルーディの声に、全員が拳を振り上げて応える。全員の士気はかなり高まっていた。
ジャグルの心は、自分でも不思議なほど落ち着いていた。何をすればこの戦いに貢献できるか。この面子で、誰がどんな役割を果たすのか。持てる少ない情報の中で、限りなく冷徹に計算しようとしていた。
そうしていくうち、自分の瞳には冷たい炎が宿っているのだろうと思った。周りの熱に埋もれて誰もが気付けないほど、小さな炎が。
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#2 火矢を放つ-10-
十五人の男が、ハイラの森を歩いていた。
各々が武器を持ち、常に周囲に神経を張り巡らせる。この森に潜む強大な獣を倒すために。見つけた瞬間、いつでも戦えるように身構える。集落から南東方向、歩いて二十分ほどの距離。昨日人食いの発見された場所だ。恐らく、ここからかなり近い位置にいる。
ジャグルは魔具庫の武器を取らなかった。術力を込める方法は多少会得しているものの、自信がなかった。「術の一つも覚えられない奴には、どうせ使えるはずがない」。周りのあざ笑う声が聞こえてくるようで、躊躇ってしまった。結局手に掴んだのは、いつも使っている木製の矢だった。自分にはこれが一番なんだと必死に言い聞かせる。
「お前、結局それしか使えないんだろ」
実際のところ、タムには嫌味を言われた。彼はうっすらと緑色にきらめく剣を持って、にやにやと笑う。今度ばかりは図星で、何も言い返せず、目を合わすことも出来なかった。きっと彼なら、これを使いこなすだろう。ジャグルは魔具庫から逃げるように立ち去った。
いつだって、戦うときは一人だ。仲間などいらない。ジャグルはそううそぶいた。
そのとき、ドドの物憂げな顔が浮かんだ。
「本当に誰もが仇を取りたいと思っているのだろうか?」
彼はそうジャグルに問いかけた。あの時自分は、全員の力を合わせれば、と言った。それはきっと、果てしなく困難な道のりなのだと気付いた。何より自分自身が、他人の協力を得ようとなんて最初から思ってなかったのだ。できることなら自らの手で、レガを殺した獣を仕留めたい。本当は他の奴らの手柄になど、させたくないのだ。
二十数本ある矢のうちの一つを強く握りしめる。どこからでも来い。見つけた瞬間、その額をぶち抜いてやる。心の中でそう呟いた。虚勢に等しいことは分かっている。足は震え、手からは汗が止まらない。それを必死で止めるために、呪文のように決意の言葉を唱え続けた。見上げれば、空がいやに低い気がする。自分たちの足音だけが小さく反響する。その外側は、完全な闇であるようにさえ思えた。何があるのか分からない、そんな不確定な世界から恐怖はやってくるのだと思った。だからこそ目に見えるものだけを信じ、前だけを見る。
先頭を歩く集団が足を止めた。手を伸ばして、進軍を制する。そして、姿勢を低くするように合図を出した。緊張感が走る。
全員が顔を寄せ合う。
「右斜め前のあの木の根元に、二匹いる。奴らだ」
リーダーは呟いた。
「では、事前の打ち合わせ通り、四方八方を取り囲む方法でいこう」
「了解」
姿勢を低くしたまま、全員が持ち場につく。矢や術で遠距離射撃を行い、疲弊したところで近距離戦にもつれこむ寸法だ。矢を担当するジャグルは、前半戦を担当する。一応剣も持っているが、恐らく出番はないだろう。剣を扱うのは、自分以外の誰かでいい。
草の陰から顔を出し、寝そべった標的の顔を拝む。いるのは二匹。水色の獣と、黄色い獣。犬よりは大きいが、狼よりは小さい。それぞれ、およそ自然のものとは思えないほど鮮やかな体色をしていた。人食いの多くに見られる特徴である。自然の獣は己の姿を草木や土に溶け込ませようとするが、彼らはまるでその逆をゆく。そんなことだから、奴らが人食いであることはジャグルの目にもすぐに分かった。水色の方は背中と首周りに魚のひれのようなものがついており、黄色の方は全身の毛が針のように尖っていた。
水色の方が大きなあくびをして、体を伸ばす。そして、おもむろに会話を始めた。
「ねぇサンダース。ブースターの食べたニンゲンって、そんなにおいしかったのかなぁ」
水色の獣が口を開いた。
「どうなんだろうな。おれが食べたわけじゃないし、わかんないな」
「ブースター、ずっとおいしかったって言ってるじゃん。あれ、きっと本当においしかったんだよ。ちょっとうっとうしくなっちゃうくらいだけど。どれくらいおいしかったのか、そこまで言われると気になっちゃうよね」
「ちょっとくらい、味見させてくれてもよかったのにな。なぁ、シャワーズ」
「うん。ブースター、ちょっとケチ」
「まったくなー」
黄色い方はサンダース、水色の方はシャワーズと言うらしい。二匹は無邪気に喋り続ける。
「ねぇサンダース。これからどうしよっか」
「そうだなぁ。ここらへんのどっかにニンゲンがいっぱいいるのは分かるんだけど。どこにいるのかは分かんないし」
「おいしいニンゲンとそんなにおいしくないニンゲンっているけど、ここにいるのはどっちかなぁ」
シャワーズはうっとりとしながら呟き、サンダースはうんうん、と同意を示す。
「ここにいるのは多分おいしいやつだな。うん、きっとそうだ。ニンゲンのくせにおれたちみたいな力を使えるみたいだし」
「ジュツリョクってやつ? あぁ、いるね。前もどっかで会ったことあるけど、おいしかったの覚えてるよ。でも、守りも固いからむずかしいんだよね。ここのやつらも、結界張ってるのかな」
「たぶん。すごくじょーうずに隠してるんだろうな」
「やっぱりかぁ。ちぇ。ブースターの食べたやつみたいなのが、他にもいるかもしれないのに。めんどくさいなぁ、あれを解くの」
「まぁまぁ、動いた後なら何でもうまいってことで」
「でも、やっぱりどんな味かはみておきたいよね。本気出してマズかったら、動き損だし」
人間には、味のいいものとそうでないものがいる、ということだろうか。なんと残酷な連中だろう。ジャグルはじっと耳を傾ける。矢に込められていく術力の熱を、必死で抑えながら。
「じゃあ、そうだな、せっかくここまで来たんだし」
サンダースは少しためてから言う。
「……今周りにいる奴らで試し食い、ってのはどうだろう」
隠れていたタルト全員に、戦慄が走った。サンダースがぐるりと辺りを見渡す。圧倒的な力で獲物を押さえ込もうとする獣の視線が、全員の心臓を射抜いた。
「弓矢、撃てぇぇ!」
ジャグルの身体がすくみ切るより早く、リーダーが声を張り上げた。ジャグルははっと我に返る。すかさず立ち上がり、他の弓師とともに一斉に火矢を放った。
標的までの距離、歩数にしてわずか十歩。ただの矢と遜色ない速度、むしろ構える時間を必要としない分よけいに速い術力の矢を、避けることは難しい。事前に軌道を予測するのならまだしも、放たれてから反応するのは恐らく不可能だろう。
だが、ジャグルが見たのはその予想を覆す結果だった。一瞬の出来事を、ジャグルは常時の何倍もの時間の密度となって体感した。
サンダースと呼ばれた方が動き出したのは、明らかに全員が矢を放ってからだった。
「ごぉ、ろく、しち、はち……きゅー、じゅー、じゅーいち、……」
獣の敏捷性を越えている、とジャグルは思った。四つの足で踊るように、軽やかに動くサンダース。あまりの速さに、黄色い残像だけしか見えない。
「にじゅなな、にじゅはち。あれ、もう終わり?」
サンダースはその脚を止める。弓矢隊の顔を一人一人眺め回すと、うっすらと微笑んだように見えた。楽しそうに、壊れやすい玩具で遊ぶように。品定めをするように。
「十人はいるっぽいね。うひょお」
サンダースは興奮気味に語る。
不意に、まるで別の方向から声が聞こえる。
「ねー、サンダース。こんなもんでいいの」
黄色い獣に気を取られ、いつの間にか水色の獣の姿が見えなくなっていたことを思い出した。
「おい、後ろ!」
剣使いの一人が慌てて叫んだ。振り返ると、そこにあったのは木ではなく、銀色の壁だった。壁がぐるりと周囲を囲って、木々の高さまで伸びている。どうやら、細かい泡で出来ているらしい。
「閉じこめられた……!」
「くそっ、こんなもの」
一人が剣で払ってみたが、まるで手応えがない。素手で触ってみようとしたが、勢いよく弾かれる。
「ただの泡ではないらしいな」
泡を振り払って告げた。
「攻めるぞ。逃げる道理はない」
剣を持った奴らが一斉に切りかかる。それを見たサンダースは、勢いよく、嬉しそうに先頭の男に飛びかかる。ずがぁん、と言う男と同時に、男の体が横に吹き飛んだ。イカズチだ、と辛うじて判断できた。
全員が一瞬怯んだ。その後、我に返ったリーダーが檄を飛ばす。
「気をつけろ。奴は強力な術を使う」
「分かってる」
次の剣が、サンダースに襲いかかる。
「うひょー」
サンダースは男の横を走り抜けた。初速が速いのだ、とジャグルは気付いた。走り出すときの踏み込む動作を一切せず、まるでイカヅチのようにこの獣は走り出せるのだ。男は見失い、剣を構えたまま停止する。そして、いつの間にか後ろに回り込んだサンダースは、全身の毛を針のように飛ばし、男の背中一面を刺し尽くした。男は叫び声を上げて倒れた。
何人かは、シャワーズを斬りにかかった。サンダースに比べて、こちらの獣は動作が緩やかなように思えた。
「はぁっ」
剣を前に突き出すと、何の抵抗もなく水色の身体を貫通した。だが、獣はその瞳の色を失わない。ぐずぐずと体が水のように溶けていき、見えなくなった。何が起こったのか、瞬時に判断出来る者はいなかった。彼の横から水が浮き上がり、シャワーズの形が出来上がる。そして、その口から、大量の泡を吹き付けた。身体に触れると大きく弾け、その皮膚を衝撃と摩擦で焼いた。背後の壁も、この泡によるものだ。泡を吐く力、水のように溶ける力。それがこの獣の能力か。
剣の戦いの中に、機を見て火矢を放つ。ジャグルの役割は、ひどく自身を落ち着かせた。冷静に、敵の能力について分析と考察を重ねている。だが、見れば見るほど、心の中に、絶望が広がっていった。
勝てない。
一度挑んだ戦いだ。奴らも我々を狩りつくすまで離しはしないだろう。攻めれば死ぬ。逃げても死ぬ。何も出来ず、その場にただただ立ち尽くす。
「ぐあっ」
サンダースがまた一人、戦士を戦闘不能に追いやった。獣の走りは徐々に速度を上げ、最早遠目からも追うことができないほど速くなっていた。黄色い帯状の何かが、空間を通り抜けるだけにしか見えず、手に負えない。
「つっ」
避けられない理由がもう一つある。ふよふよと周囲を漂い、触れると強烈な衝撃を与えながら割れる、シャワーズの吐き出した泡だ。不規則な動きを繰り返し、サンダースの動きに意識を奪われているうちに、そっと背中に近付き不意を突く。
まさに、絶妙のコンビネーションだった。奴らの仕掛けた「罠」に、我々は確実にはまりかけている。まるで、砂地獄に落ちた蟻のように。
--こいつらに、戦いを挑むのは、間違いだったんだ。力の差が、ありすぎる。
最早逃げ場はないのだという予感。確実な終わりの気配。そして、後悔。様々な思いが、ジャグルの背中を突き刺し、首をじわりじわりと絞めていくようだった。
そのとき、誰かが腕を掴んだ。振り返ると、ドドの顔があった。
驚いて、何か口に出そうとしたが、彼は人差し指を唇に当てて制した。ジャグルが理解を示すと、彼はうっすらと笑った。
「行こう、ジャグル。今が好機だ」
「好機って、なんの」
ドドは、場違いなほど落ち着き払っているように見えた。ジャグルはますます困惑した。
「君にしかできない、君の一番したいことをする好機さ。さあ、しゃがんで。草の陰に頭が隠れるように」
ジャグルは彼の言葉におずおずと従う。戦いの混乱の中に、身を隠すかのように。
その姿勢のまま、シャワーズの作り出した泡の壁に駆け寄る。そして、手の杖で泡を突つくと、泡は驚くほどきれいに弾けて消えた。ぽっかりと開いた穴に、奥の景色がのぞいて見えた。
人が一人、低姿勢で抜けられるほどの高さ。ドドはするりと外に出た。穴の向こう側から、手招きが見える。いぅたい何だと言うのだろう。自分にしか出来ないこととは、何なのだろう。
ためらいながら、ジャグルも後を追った。
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#2 火矢を放つ-11-
泡の外に出ると、今までの戦いの喧騒が嘘のように消え去った。火矢の炎による熱もどうやらここまでは届かないらしい。
「さあ、急ごう。他の誰かに気付かれる前に」
ドドはジャグルを促した。
「勝手に抜け出して、後で怒られないかな」
ジャグルの心配に、
「その時の為に、俺がいる」
とドドは笑った。こいつは、何だかレガに似ているなと、ふと思った。思わず微笑みそうになり、慌ててわざと顔を強ばらせる。こういう期待は、往々にして裏切られるのが世の常だ。火矢を放てば楽になれるかと思えばより困難な状況に直面し、生きて帰るかと思ったレガはもういない。いつだって、悪いことは自分の思考の外側から訪れる。ジャグルにはまだ、そう考えるしかできないほど幼い。
「余計な心配は、止めておく」
ジャグルは表情を作らずに答えた。真っ直ぐに、前だけを見据えた。
「よし。では、行こう」
二人は足早に、泡の壁から立ち去った。少し進んでから、ジャグルは問う。
「そう言えば、どうしてこんなことをしているのか、まだちゃんと聞いてないな。教えてくれ。おれ達はどこへ向かっている」
「三体目の人食いのところだ」
ドドは答える。ジャグルははっとした。三体目。その言葉が、ここ数日の記憶を一つに繋げていく。
「敵は複数。少なくとも、三体以上」
「そう」
ドドがタルトの集落に到着した日。彼がタルトの男たちに語った仮説だ。あの時はばかなと思ったが、現に本当に人食いが仲良く一緒に戦う姿を両の目で見ている。
そしてサンダースとシャワーズの会話からも推察されるもう一体の獣の存在。確か、ブースターと呼ばれていた人食い。
三体目は確実に近くにいる。
その確信を得た瞬間、二人は三体目の存在に気付いた。
幼い子のような声が聞こえた。耳を澄ませるよう、ドドはジャグルに促した。足音を殺して、その声に集中する。よく聞くと、ぶつぶつと何か同じ言葉を呟き続けているらしいことが分かった。
「おいしかったなぁ。うん、あれはとってもおいしかった」
居場所は既にはっきりとしている。腰をかがめて身を隠しつつ、さっと声の主に忍び寄る。そして、声の主の姿を視界に捉えた。なんとまぁ、他の二匹にも劣らぬ、鮮やかな体をしているではないか。その姿を見た瞬間、いてもたってもいられなくなった。
「おい」
ジャグルは立ち上がり、己の姿をさらした。草の擦れる音がして、獣は顔を向けた。ジャグルの立ち上がりはあまりにも自然かつ唐突で、ドドが咎める隙もなかった。描いていた作戦を変更し、己の身を隠しながら、成り行きを見守ることにした。ジャグルがどうするのか、興味があった。
「あれ? ニンゲンか?」
ジャグルはじっと獣の顔を見つめる。灼熱の黄色い尾と焔のような赤い身体を持つ獣だった。おっとりとした口調で、獣は黒い瞳を向ける。人語を話すと言うことは、こいつが三体目で間違いないと確信した。
指先で軽く矢に触れる。だがまだ取らない。やり合う前に聞かなければいけないことがある。ジャグルは目を逸らさぬまま、三、四歩獣に歩み寄った。ジャグルの背中からは、猛烈な気迫が発せられていることをドドは察した。迂闊に声をかけることさえはばかられる、底知れぬ威圧感だった。
「お前、人食いだな」
ジャグルは脅すように言い放つ。
「そうだよ」
当たり前だと言わんばかりの、あっけらかんとした返事だった。ジャグルは続ける。
「一週間前、七人組の人間がお前たちと戦っただろう。その一人が、帰ってこないんだ。その人は、レガは、食われたんだ。それはお前のしわざか」
「うん」
それは、あまりに無邪気な一言だった。
「おいしかったよ」
人食いとして、当然とも言える反応。
「そうか」
ジャグルは呟いた。その瞬間、ドドはジャグルの異変に気付いた。周囲の温度が上昇している。ジャグルの発する気迫が更に熱を増し、周囲の空気にまで影響を及ぼし始めた。
ふふふ、という、低い笑い声をジャグルは聞いた。それが自分のものであると気付いたのは、再び息を吸い込んでからのことだった。
「お前か」
矢がジャグルの手に吸い付いた。
「お前がやったのかぁぁぁァァ!!」
凄まじい怒号とともに、ジャグルは火矢を放った。ありったけの術力。最大の張力と、最大の熱を矢に込めた。
一歩引いた場所にいるドドにも、矢の熱はありありと伝わった。火山の中の、あらゆるものを溶かそうとする煮えたぎったマグマ。あるいは、あらゆるものをカラカラに干からびさせんとする太陽の灼熱。これがジャグルの本来持っている力なのだと、ドドは確信した。他の術師を遥かに凌ぐほどの術力を、少年はその体内に宿していたのだ。
ジャグルは矢を放った。音よりも早く、誰にも気付けない速度で、獣の身体を貫こうと飛んでいく。当たれ、と強く願った。空気を切り裂き、ただ獣を殺すためだけに込められた力で。
だが、矢は獣まで届かなかった。獣の手前で燃え尽き、炭と化して消えた。あまりの高温に、木製の矢が耐え切れなかったのである。
くそっ。
ジャグルは歯を食いしばり、二発目を放つ。一発目よりも、更に強い力を込めて。こうなればもうやけくそだった。またしても、獣の手前で矢は消滅した。
くそっ。くそっ。
更に繰り返す。くそっ。お前なんか、俺が倒してやる。殺してやる。お前のせいで、レガが死んだんだ。おれがお前に、レガと同じ苦しみを味わわせてやる。知らず知らずのうちに目から涙が溢れ、頬を伝い、自分の出した熱ですぐに乾いた。
矢が燃え尽きることを知ってか知らずか、獣はまるで避ける気配を見せなかった。ジャグルは我を忘れてひたすら射撃を繰り返したが、次第に疲労の色が強くなっていった。五発目を放つ頃には、既に標的に狙いを定めることさえまともにできなくなっていた。
「お前なんか……お前なんか……」
周囲に籠もった熱気と疲労で、既に声も掠れていた。八発目を放つと、逆に術力が弱まったお陰で矢は燃え尽きずに届いたが、その炎は渦を巻くように獣の身体に吸収されていき、矢も弾かれた。
ブースターは舌を出して、苦い顔をする。
「うげ。この炎、あんまりおいしくないね。前食べたニンゲンの方がおいしかったなぁ、うん。おいしかった。君もあれくらいおいしいのかな? お口なおし、させてちょーだいっ」
そう言うと、獣は口から火球を放った。
「……」
もはや、何かを言い返す喉も、避ける気力もなかった。その場に崩れ落ち、羽虫を潰されるように死を待っている自分がいた。
ずがぁん、と大きな音が響いた。直撃したかと思ったが、身体には熱もダメージもない。顔を上げると、黒い服の男の姿がそこにあった。ドドが、ジャグルの前に立っていた。
ドドは杖を横に持ち、獣の頭部を模した先端を火の塊にぶつける。杖がその熱と光を吸収していく。まるで、さっき人食いが炎を食ったときのように。
「残念だが、こいつを食ってもうまくはないだろう。もちろん、俺の身体も。他の人間だってそうさ。お前はもう、うまい人間には出会えないんだよ。ブースター」
何か知らないことを言っている、と思った。だが、疲弊して彼の言葉の意味を考えることが出来ない。言葉と共に、ドドはその杖の先端をブースターに向ける。ブースターは無言で踵を返し、森の奥に消えた。
「ふぅ」
ドドはため息をつき、杖を下ろした。そしてしゃがみ崩れ落ちたジャグルに顔を近づけ、いきなり頭を殴った。いきなり不意を突かれ、痛みが後からやってきた。何があったのかようやく理解すると、彼に対する怒りがこみ上げてきた。
「痛いな。何するんだよ」
「目は覚めたか」
彼は一言一言、切るように喋った。彼の言葉には一切の怒りも、呆れも見られかった。心の動きの細かいところまで見透かして、自分の声を聞き入れられる時まで待ち、やっと諭す時が来た、そんな口調だった。
「……うん」
ジャグルは俯いた。激しく怒り狂い、術力を放出し尽くした空っぽになった身体には、彼の言わんとしていることがすっと入ってくるようだ。
ドドは、ジャグルに木で出来た筒を手渡した。中には水が入っている。
「飲むといい。体力を取り戻せるよう、まじないをかけてある」
ジャグルは言われるがままに、中の水分を一気に飲み干した。少し甘くて、体の隅々までに染み渡るようだった。体に力が戻っていく。熱された体も、優しく冷やされていった。
「ごめん。頭、冷えたよ。もう大丈夫」
ジャグルは深く息を吐いた。悔しいけど、認めるしかない。自分は、戦い方を知らない。矢を放つ技術があっても、それを敵に当てる冷静さを持ち続ける精神もなければ、確実に敵を追い込む術も持っていない。
おれは、ばかだ。
「教えてくれ。どうやったら、あいつを倒せる。おれは、あいつを、倒したいんだ」
ジャグルは目を瞑った。これが自分の偽らざる本心だった。心をさらけ出すことは、言い訳出来ないということでもある。否定されたらと思うと怖かった。ドドの目を見ることが出来ない。
「教えるよ」
ドドは言った。
「君と俺の、全てを使って奴を倒そう。策はある」
ふっとドドは微笑んだ。
胸の内から、熱いものが込み上がってくるのを感じた。彼は、自分の一番してほしいことを分かってくれた。自分の気持ちを丸ごと受け入れてくれることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。涙がこぼれそうになったが、見せるのが恥ずかしくて顔を背けた。そのまま、前に進まんとばかりに立ち上がった。
「まず、何をすればいいんだ」
涙声になっていないか心配だったが、ドドは何も言わなかった。
「やつを追いかけよう。そう遠くへは行ってないはずだ」
振り返ることなく、ジャグルは頷いた。
草木を焦がす渇いた熱がさぁっと引いて、空が開けた。
「俺に何かあったら、あの子を頼むよ」。
ジャグルの後ろ姿を眺めながら、ドドはふと、かつての友人の言葉を思い出した。
果たして告げるべきだろうか。火矢を放った途端、ジャグルの姿がまるで別のものに変わってしまったことを。
いや、と首を振る。まだその時ではない。この戦いは綱渡りの連続なのだ。ジャグルの動揺を誘うことは、しない方がいい。
その判断が果たして正しかったのかどうか、この時点ではまだ誰にも判らない。
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#2 火矢を放つ-12-
「地面をよく見てごらん」
ドドの指し示す先をじっと見つめる。ブースターの足跡が点々と続いていた。そして、一つ一つがかなり深くまで沈み込んでいる。
「足跡がはっきりと残り、消えなくなるまじないを地面にかけた。これを追えば、いずれはやつの居場所に辿り着く」
「いつの間に」
それと、どれだけ広範囲に。思わず周囲を見渡した。試しに地面を踏みしめると足跡がくっきりと残り、雨上がりの土のように固まった。この一帯全てを、こんな土に変えてしまったというのか。どうやら彼の術力もまた、強大なものらしかった。
「私も、実は特別なんだよ」
ドドはそう言って笑った。特別。レガも度々口にした言葉だ。それは、一体どういう意味なのだろう。だが、今はこの集中力を途切れさせたくない。余計なことは、考えないでおこうと思った。
ブースターの足跡を追い、二人は早足で進んだ。ドドのかけた術の効果はてきめんで、辿るのはあまりに容易だった。わざわざ目を凝らさなくても、目につくのだ。
歩きながら、見つけた後の算段をドドから聞いた。急ぎながらであったせいか、口調もつられて早くなり、喋り終わる頃には二人とも息が荒くなっていた。
「しっ」
燃える赤い毛並みが見え、ドドはジャグルを制した。ブースターは、そこにいる。
「ジャグル、頼むぞ」
「分かった」
と、頷く。矢は残り七本。ドドの見立てでは、やつを仕留めるまでにぎりぎり足りるかどうかと言う本数だった。無駄打ちは出来ない。ジャグルは矢立てに手を伸ばし、その一つを手に取った。
「やつの、視界掠める、横」
呟き、矢に火を灯し、軽く放つ。矢はブースターの目の前を通過し、すぐ近くの地面に刺さった。すぐにこちらに気付き、顔を向けた。
「さあ、始めよう」
ドドは呟き、ジャグルは応じた。ブースターは自分の居場所をなぜ辿れたのか分からず、わずかに驚いた顔を浮かべる。そして状況を判断したのか、遠くへ逃げ、隠れようともがく。二人はその姿を視界から消さないように追った。ジャグルはその矢を、いつでも放てるように腕の横に浮かせた。
「ほらほら、追いつくぜ」
ジャグルは二発、火を灯さずに放った。すうっと弧を描きながら、ブースターの身体を掠めた。自分なりに冷静に狙ったつもりだったが、どうも音や空気を察知して避けられているらしい。
「さすが獣、鋭い感覚を持っている」
ドドは呟いた。ジャグルは次の矢をつがえる。
「でも、このままでいいんだよな」
「あぁ。続けてくれ」
焦ることはない。この段階では、まだ牽制と威嚇だけで良いというのが、ドドの指示だ。
「くっそー。こうだ!」
ブースターが振り返りざま、火球を放ってくる。すかさずドドはジャグルの前に杖をかざして、火を打ち消す。
「守りは任せろ」
ドドの微笑みに、ジャグルも応えた。
ブースターの走りが徐々に速くなっていく。それに合わせて、二人も速度を上げる。一瞬木の葉に隠れて見えなくなったが、避けてみればまたその姿を見ることができた。矢を放ち、更にブースターを追い立てる。途中、ドドはジャグルの放った矢を術力を使い回収した。流れるような動作で、二本の矢を矢立てに戻す。
そろそろだ、とドドは言った。
「火矢に切り替えろ!」
ジャグルは術力を右手に込めた。矢の中の中まで、しっかりと伝わるのを感じ取る。熱を発した矢の先端に、炎となって溢れ出す。
そして、放った。
獣の身体を貫くほどの張力はかけていない。矢は弓なりの軌道を描き、ブースターの頭上を飛び越えた。
ジャグルは願った。気付け。矢を見ろ。矢に灯った炎を見ろ。
それでいい、という確信がドドにはあった。
ドドは、ジャグルの炎が獣の体を焼くことは無いだろうと考えていた。ブースターが炎を吐く人食いである以上、その身体はきっと熱に強いはずだからだ。自分の扱うエネルギーが、そっくりそのまま人食いの好物となることは多い。
「お」
獣から、声が漏れた。走りながらも、その首は、目は、矢を追っている。
ジャグルは二発目の火矢を放った。さっきよりも、更に遠くの方へ。矢がブースターを追い越した瞬間、灯る炎は吸い込まれるようにブースターに寄せ付けられた。炎を食っている。
「さあ、食え、食え」
ジャグルは火矢を連射した。矢が壊れない程度の高熱を込めて、出来る限りブースターにとって美味しそうな炎を作った。まるで、釣りにおける擬似餌のように。
「おおお! んっ!」
奇妙なうめき声を上げながら、一つ、また一つと串に刺して焼いた肉を噛みちぎるように食らっていく。
「うすあじだけど、んまい!」
ブースターは叫ぶ。薄味かよ、と心の中で呟いた。
そして、矢が残り三本になった頃。
目の前の視界が急に開けた。それと同時に、ブースターの姿がふっと消えた。
この先は、切り立った崖だった。さぞかしブースターは驚いたことだろう。自分の足元にあるはずの地面が、消滅しているのだから。矢の炎に気を取られたブースターは、足元が崖になっていることに気付かず真っ逆様に落ちていった。
「うわああああああ」
そしてその底は、湖だ。
どぼん、と濁った水の中に落ちる音がした。二人は落ち行く獣と、広がり渡る水の波紋をしっかりと見届けた。
「ジャグル」
「分かってる」
十人近い人間を圧倒するような獣が、この程度の水でくたばるとは思えない。追い討ちのため、ジャグルは矢を構えた。もちろん、食われて体力を戻されないように、火は灯さない。張力だけをただひたすらに込める。
「はぁっ」
ドドがその両手を獣の方にかざす。術力を行使して、とどめを刺しにかかる。ブースターは水の中で暴れた。少しでも水面に顔を出して息を吸おうと、もがき、あがく。だがそのたびにドドの術力によって押さえつけられ、また沈む。
火事場の馬鹿力というものだろうか。元々強力な獣の力が、更に強大になってドドに抵抗する。ドドは腕が反動で押し返されそうになるのを、必死で食い止める。
「いいぞ、ジャグル。よく狙うんだ」
目をすっと閉じ、矢の張力を絞りきり、真っ直ぐその身体を貫通するイメージを浮かべる。目を開き、獣にしっかりと狙いを定める。ばしゃり、ばしゃりと上がる水しぶきの中、息を吸おうともがく獣の姿をはっきりと見定めた。
――ごめんな。
心の中で呟き、ジャグルは矢を放った。
すとん。高速で宙を駆ける矢が、赤い毛皮を貫通する。更に一発、もう一発と繰り返す。すとん。すとん。まるでただの的のように、矢はブースターの喉を、腹を、足を貫いていく。
その衝撃に、ブースターの身体がびくん、と痙攣した。
水しぶきが止み、獣の姿が沈んでいく。全てを諦めたように、辺りが静かになった気がした。
「死んだ……のか」
「あぁ」
レガは頷く。獣はとうとう、自らの命を手放したのだ。
術力の通った手を振り上げると、ブースターの死体をぐぅんと引き上げた。それが、捕えられた兎のように、頭を下にしてドドの目の高さにぶら下がる。急に上げたせいか、毛に含まれた大量の水がしたたり落ちた。黒い目は薄く閉じられ、四肢に力がないことを見るに、本当に死んでいるのだろうと思った。三本の矢は、それぞれの部位に刺さったまま残っている。自分でやったことではあるが、むごい姿だとジャグルは思った。
人食いは、人間の敵だ。だがこうして死体をみる度に、薄ら寒さと憐れみを覚えてしまう。ジャグルは死体から目を逸らした。
ふいに、ドドがもう片方の手の杖を振った。ブースターの尻尾と胴体が切り離され、残った身体を湖に落とす。宙に投げられた身体はむなしく落下し、湖に叩きつけられた。
「さよならだ、ブースター」
ドドは、切り離した尻尾を手に取り、獣に向かって呟いた。今度こそ、全ての緊張感が取り払われた気がした。ジャグルはどっと疲れて、腰を下ろした。
「……それは?」
ブースターの尻尾の方に目を向けた。
「戦利品だよ。炎の力が宿っているだろう」
確かに、ほんのりと熱を感じる。内在している力のせいか、湖に落ちて水浸しになっていたはずの毛並みはすっかり乾いて、かつての柔らかな調子を取り戻している。
ドドはそれを、杖の先端に近付けた。突然、尻尾の毛並みが本物の炎に変わり、杖に施された獣の頭部を包んだ。いや、これは炎を食っているのか。徐々に沈静化していく炎を見て、ジャグルはそう感じた。炎が完全に消えて、ドドは少し待っていたようだったが、何も起こらなかった。
「……だめか」
残念そうに呟くと、ドドは調子を変えてジャグルに微笑みかけた。
「ありがとう、ジャグル。君がいなければ、あのブースターという人食いを倒すことはできなかった」
口元には笑みを浮かべているものの、額から汗を流して、肩で呼吸をしていた。彼も相当に気を張っていたのだろう。
「いや」
ジャグルは首を振った。
「俺は、駄目だったよ。あんたがいないと」
勝手に怒り狂うだけで、まともに傷も負わせることもできず、焼かれて終わっていたはずだか ら。この勝利は、自分の力で成し遂げたとは全く思っていなかった。むしろ、自分がしたことなど、これっぽっちもない。
俯くジャグルに、ドドは微笑みを投げかける。何か言葉を紡ごうとしたが、息を整えるのに必死で、それどころではなさそうだ。その様子を答えと見て、ジャグルは次の質問を投げかける。
「でも、何で俺を連れてきたんだよ。それだけ強力な術をいくつも使えるんだったら、あんな人食い、そんなに苦労しないんじゃないのか」
「そう、見えるかい」
ドドの様子がおかしいことに、ジャグルはようやく気が付いた。彼は憔悴しきっていた。ふらふらと身体が左右に揺れ、振り子の動きは段々大きくなってくる。
「おい、どうしたんだよ。大丈夫か」
ジャグルが言い切るより先に、ドドはジャグルの肩に倒れこんだ。全体重を乗せてきたため、非常に重かった。
「すまない、術力を使い過ぎた……ここで……休ませてくれ……」
最後の方の言葉がほとんど声にならないまま、ドドは意識を失った。
「おい、ちょっと待てよ」
ジャグルは慌てて体を離そうとした。だが、完全に体重の乗った身体を起こすのには骨が折れそうだ。呼吸は少し落ち着いたものの、昏々と眠っていて起きる気配を見せない。
よくよく考えれば、無理もない話だ。彼がこの戦いに使った術は、とどめを刺すために使ったものだけではない。足跡を残すまじないを広範囲にかけ、崖と湖に誘導するために結界を張って道を作っていた。その範囲、歩数にして千歩四方か。それだけの術を扱える人間は、きっとタルトの中でも数少ない。それほどの高等技術であることは、すぐに分かった。だからこそ、体力的にも精神的にも大きな負担を強いていたことは想像に難くなかった。今までの疲労が、術を解除したと同時に一気に押し寄せたのだろう。
さて、どうしたものか。ジャグルは思案した。ここで休む、と彼は言ったが、放っておくわけにもいかない。サンダースやシャワーズと戦う人達のことも気になる。勝手に抜け出してしまったが、後で何を言われるだろうかと呑気な考えを振り払い、戦いの行方を案じた。
「戻ろう」
ドドの体は重たかったが、運べないわけじゃない。肩を担げば、多少引きずるけれど何とかできそうだ。杖を腰の紐に差し、ドドの肩に手を回した。方向は、ドドのかけた術のおかげでよく分かる。ドドの体をしっかりと抱きかかえ、足跡を辿った。
かつて泡の壁があった場所には、もう何もなかった。壁どころか、人間も獣も、一つとして生き物の気配がなかった。戦いの痕跡だけが、そこにあった。
木に刺さった矢。焦げた草木。千切れた布。血の臭い。みんなが消えてから、それほど時間は経っていない。
この戦いの途中で、何かが起こったのだろうか。ジャグルの胸の中に、一抹の不安がよぎる。ここから全員を別の場所に移動させた、何かがある。でも、どこへ。
頭の中に、ある一つの答えが浮かんだ。これ以上ないほどの、最悪としか言いようのない答えが。ジャグルは背筋が凍りつくのを感じた。
とにかく、戻らないと。この予感が、ただの杞憂であればいいのだが。激しく鼓動する心臓を何とか静めながら、ジャグルは集落の方へひたすら歩いた。
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#2 火矢を放つ-13-
集落は変わり果てた姿になっていた。
シャワーズとサンダースと戦ったあの場所と、状況は大差ない。人の手で作り上げられた造形物が崩されていることが、余計にそのひどさを物語っている。建物の屋根は崩れ、壁は煤で黒くくすんだ色に変わっていた。あちこちから煙が上がり、所々が水でびしょびしょに濡れていた。
一族にとっての最悪の状況が、脳裏をよぎる。これは、まさか。
ジャグルが歩を進めると、その予感が確信に変わった。
タルトの人間が、あちらこちらに倒れ、重なりあっていた。そして、彼らは例外無く体の一部を失っていた。ある者は、右腕が。ある者は、頭が。ある者は、下半身まるごと。大人も子供も区別なく、みんな、みんな、殺されていた。
「なんだよ、これ」
震える唇で、ジャグルは呟いた。
食われたのだ、人食いに。シャワーズとサンダースと名乗る、無邪気な二匹の獣に。
「おーい!」
ふと別の場所から、叫ぶ声が聞こえた。
「他に生きてる奴はいるかー! いたら返事しろー!」
はっとして、ジャグルはその方角を向いた。ドドをその場にゆっくりと下ろし、声の主を探す。どうやら雑木林の向こう側にいるらしい。声の主とは、すぐに合流出来た。ジャグルは男の姿を見つけ、状況を聞き出すために駆け寄った。
「なあ、何があったんだ」
「お前、ジャグルか」
男は怪訝な顔をする。ジャグルはそんなことを意に介さず、答えた。
「そうだけど」
男はひとしきり考え事をした後、踵を返して歩き始める。ジャグルはその後を追う。倒れる人、人。もう動かなくなってしまった、タルトの男たち。
「惨い」
ジャグルは呟いた。男はジャグルを見やる。
「酷い有り様だろう。急に集落に人食いが入って、仲間を食い散らかして行きやがったんだ」
ぎり、と歯の軋む音が聞こえた。彼も、きっと人食いが憎いのだろう、と思った。
だが、違った。
「それもこれも、おまえ等のせいだ」
彼は小さく呟く。
「お前らが」
彼の声が、ドスの利いたような低い声に変わる。そして振り返り、ジャグルの肩を掴んだ。
「お前らがちゃんと倒して来ないから、こんなことになるんだ」
――何の話だ!?
がんと殴られたような衝撃が走った。吐き捨てられた言葉は、明らかにジャグルを非難していた。自分は、シャワーズ達が何をしたのか、まるで知らない。ドドに言われるがまま、別の戦いに身を投じていたのだから。そう反論を試みたが、彼の目を見るとそんな反論でさえ受け付けてはくれなさそうで、言うに言えない。抜け出したあの戦いで、何が起こったのか。
「お前なんか役に立たなかったろう。最初からいてもいなくても同じだったんだな……いや、そんなことよりも。お前、本当にジャグルなんだよな」
「何度言ったら分かるんだよ。そうだって言ってるだろ」
相手の態度に、思わず言葉が刺々しくなる。まだジャグルは、その言葉の意味するところを察することが出来ない。
男はジャグルの身体のある部分に触れた。感覚が鋭くなっていることに気付き、思わず声を上げそうになる。その瞬間、ジャグルはこの男の言葉の意味を悟った。思わず触られた部位を手で隠す。自分の身体に、変化が起こっている。いつの間にか、元の姿に戻っている。
まさか。まさか。とうとう気付かれてしまったと言うのか。そんなことが。一体、いつ。なぜ。ジャグルの目に、怯えの色が浮かぶ。
男の顔が歪む。いや、自分の視界が歪んだだけかもしれなかったが、それすらも判別できないほど、ジャグルの頭はもはや正常に働いていなかった。
「お前はずっと、俺たちを騙していたんだな」
その言葉と同時に、乱暴に腕を掴まれた。
「来い!」
腕が潰れるほど強く握られ、強引に引っ張られる。
姿勢を立て直すことが出来ないまま、半ば引きずられるように集会所に連れ込まれた。集落の壊滅という異常事態に、大人も子どもも一所に集められている。
「また一人、ノコノコ帰ってきやがったぞ」
ジャグルはタルトの男達の間に投げ込まれる。辺りにざわめきが起こる。
「おい、こんな奴いたか」
「ああ。確かにいたよ。姿を違うが、確かにみんな知ってる奴だ」
誰なんだよ、とじれる声が聞こえる。
「ジャグルだ。こいつ、女だったんだ。ずっと男のふりをして、俺たちを騙してたんだ!」
男はジャグルを指さして、そう叫んだ。
ジャグルは震えた。口をぱくぱくとさせて、手を情けなく宙に浮かせた。バレた。バレてしまった。十五年間、今までずっと隠し通してきた秘密が、ついに。
彼が自分の胸を触るまで、ジャグルは身体の異変に気付かなかった。髪が長く伸び、肩は少し撫で肩になり、胸が膨らんでいることに。
恐らく、あの時だ。ブースターに対して怒りとともに自分の術力を全放出し、火矢を放った時。あの瞬間に、自分の秘密も一緒にほどけてしまったのだ。
ざわめく男達の声は、怒りと困惑に満ち溢れていた。女だって。全然気付かなかった。女だから、術が使えなかったのか。当然だな。
ジャグルに向けられる視線は、最早明らかに同じまじない師を見る目ではなくなっていた。
「俺たちを、騙していたのか」
「穢らわしい。こんな奴、最初から切り捨ててしまえばよかったんだ」
「心の中で俺たちのことを笑ってたんだ。こいつは、きっと」
「クズだ。女の館にいる女より、もっと淫らに俺たちを誘惑しようとしている」
焦点を定めることができない。何も聞こえない。目の前の全てが信じられず、体を動かすこともままならない。
「だったら」
誰かが言った。
「こいつの血を飲んでしまおう。そうしたら、あの人食いに対抗できる力を、一時的でも得られるかもしれない」
すべてが、恐ろしいほどの早さで決まっていった。
明日の朝まで、ジャグルは幽閉されることになった。血の濃度を高めるため、一切の飲食を禁止するという。逃げないように地下の深くに閉じ込めて、日の出とともにその血を抜く。残ったタルトの術力を高めて、全員であの人食い、恐らくサンダースとシャワーズに対抗するために。
全員分の血をたった一人の身体からまかなうことなど、恐らく出来ないだろう。それなのにジャグル一人から取るつもりがない理由は、容易に想像できた。きっと、憎いのだ。大見得きって出かけた戦いに敗北した討伐隊が。十五年間、女の身でありながらずっと男の世界で生きてきたジャグルが。彼女が、タルトを騙していたことが。自分は今、二重にタルトの恨みを買っている。きっと彼らは罰を与えたくてたまらないのだ。今までずっと一族を欺いてきた報いを受けて欲しいのだ。戦闘の出来る人間を増やすため、というのは恐らく建前でしかないだろう。全てを失った悲しみや恨みを晴らすためには、戦犯を裁く以外に最早方法がないのだ。朝が来れば、死んでもなおその血を抜かれ続けるのだろう。
扉の迷宮に、四人がかりで担ぎ込まれる。
魔具庫に行く時にも使った、不思議な廊下の奥へと進む。
魔具庫への扉とはまた違う道筋を辿り、辿り着いたのは暗く湿った石畳の部屋だった。壁にいくつも垂れ下がった手錠を、両手にかけられた。
「この手錠は、繋いだ者の術力をかき消す力がある。お前なんかにはもったいない代物だが、念のためだ。明日の朝まで、俺たちを騙してきた今までの人生を詫びるんだな。このカタリが」
連れてきた男は、そう吐き捨てた。もはや、タルトの全てがジャグルの敵だった。何もかもがどうでもよくなった。このまま自分は死ぬのだ。タルトで生きていくことができなくなってしまえば、もう自分の居場所はどこにもない。ひっそりと、ただ静かに死を待つのみだった。
音も、光もなかった。臭いは、わずかにあった。肉の腐ったような、嫌な臭い。暫くすると、それすらも気にならなくなっていた。一体どれくらいの時間が経ったのか分からないまま、ただただ時が過ぎ去った。
がちゃりという微かな音と共に、扉が開いた。ついに時が来たか、と思ったが、どうも様子がおかしい。音を殺そうとしているのか、動きがやけに密やかだ。
ろうそくの火に映った顔を見て、ジャグルは驚いた。タムだった。彼もまた、まるで人が変わったように虚ろな顔をしている。
「……よう」
先に声をかけたのは、ジャグルの方だった。強がって、笑ってみたが、それもすぐに消えた。強気なふりをする気が起きなかった。
タムの顔を見上げると、どこか様子がおかしかった。その瞳はただ虚ろなだけではない気がする。
「お前、女だったんだってな」
妖しく、ろうそくの火が揺らめいた。タムの両手がいきなりジャグルの服に伸び、閉じた胸元を開いた。
「おい、何をするんだっ」
「なぁ、いいだろ。こちとら、色々ありすぎて気が滅入ってんだよ」
タムの生暖かい息が、ジャグルの耳にかかる。
「色々、だと」
「最悪だったよ」
その声には、やり場のない感情が込められていた。
「テレポート用のペンダントをな、使われちまったんだ。サンダースとかシャワーズとかいうケモノに!! そうでなくても、やつらは強すぎた。あの二匹の連携は俺たちの手に追えるものじゃなかった。お前も見てたから知ってるだろ」
声を荒げるタム。
「奴らがペンダントを使ったのに気付いて、追った所で後の祭りだった。子どもも大人も、皆殺しだった」
揺らめくろうそくの炎で、わずかに見えるタムの顔をぼんやりと見つめる。
「お前、あの時どこにいた」
タムの声が、塊となってジャグルの心に吹きかけられる。
「あ、あれは」
「俺は気付いてたぜ。お前が途中でいなくなってたこと。あのドドとか言う分家の野郎と一緒に。あんだけ偉そうな顔をしておいて逃げやがった。ふざけんじゃねえよ」
ジャグルの体を乱暴に揺さぶるタム。時々殴りつけたりもした。その度に、繋がれた手錠の鎖がじゃらじゃらと鳴る。
「待ってくれ。あれには訳が」
「訳なんかあるわけねえだろ。ずっと男だってウソついてたような奴の言うことなんか、聞くわけねぇだろ!」
もう一発、怒りを乗せた拳が飛んできた。口の中いっぱいに、血の味が広がる。
タムはジャグルに身体を密着させる。
「これは罰だ。舐めやがって。どいつもこいつも、俺を舐めやがって」
タムは乱暴にジャグルの身体を抱きしめた。
ジャグルはもう、何かを感じたり、考えたりはしなかった。部屋に閉じこもって本を読むときのように、心を閉じ、外からの声を拒絶する。そうすれば、体の痛みも心の痛みもなかったことに出来るような気がした。何もかもが、早く終わってしまえばいい。ただ夜の揺らめきに任せて、ひたすらに時は過ぎ去っていく。かいくぐった先に待つのは、どうせ死だ。
ふと、ぱきん、という音が聞こえた気がした。音の方向を向くと、手錠が割れている。理由は分からないが、どうやら片手は自由になったらしい。タムはまだ気付いていない。
獣なのだ。タルトも、この男も。そして、自分も。
そう考えると、全てが簡単に思えた。
誰もが、己の欲望と憎しみに忠実な獣。人食いは、そんな人間の弱みを食らって生きている。
食われる人間は、食われるべくして食われているのだ。自分の心の中に潜む、欲望と言う名の獣に。
ジャグルの中で何かが弾けた。手足の枷が外れるような音がした。自分を閉じ込める檻から解き放たれ、完全に自由になる感覚があった。ジャグルの中に存在する、溢れんばかりの術力を阻害するものは何もなくなった。自分を捉える枠を失ったことで、心はどこまでも広がっていく。他者の存在しない、唯一無二の自分。言葉は意味を無くし、それゆえに自我は次第に消滅してゆく。
灰色の力が、爆発する。目の前に広がる現実を、自分の心の方に引き寄せ、合わせるような感覚があった。力が勝手に暴れ出そうとしている。
ジャグルは力に従った。
まず、部屋の片隅にあった木製の箱を浮かせて持ち上げ、タムの頭めがけて思いっきり飛ばした 。
「おぐっ」
情けない声を上げて、タムは吹っ飛んだ。木箱と共に、壁に叩きつけられる。
まだ片方に残っている手錠を見やる。もう片方の手で触れると、ぱきん、と音を立てて割れ落ちた。立ち上がり、倒れたタムを見下ろす。力なく、四肢をだらりと放り投げて気を失っている。
「……」
次の術を行使する。ぱちん、と指を鳴らすと、タムの姿がふうっと消えた。ペンダントにかけられた瞬間移動のまじないと同じもののつもりだった。見よう見まねでやってみたが、上手くいったらしい。ちゃんと目標地点ーー彼の寝床に下ろせたかどうかは分からないが。
これでもう誰もいなくなった。揺れる蝋燭を背に、ジャグルは扉を開いた。ぼろぼろに破けた衣服を辛うじて纏い、長く伸びて無造作に広がる髪を持つ女。今のみずほらしい姿を見て、恐らく誰一人としてそれをジャグルだと解しないだろう。
廊下に出た。感覚が研ぎ澄まされているのが分かる。真っ暗で壁と扉の境目も分からなかったが、目に術力をかければわけのないことだった。周囲の様子どころか、正しい出口への道筋までもがはっきりと見えた。
扉の迷路を何一つ間違えることなく抜け出し、そっと建物の外に出る。見上げてみれば、月がこうこうと輝いていた。森が青白く光って見えた。まだ夜は少し寒い。風がほんの少しそよいで、ぶるっと震えた。
冷たくなった足を無視しながら、ジャグルはひたすら歩いた。タルトの建物を通り過ぎ、集落を抜けて、青い森の中へと入っていく。
奥へ進むにつれ、木々の背丈が高くなったような気がした。自分の存在が、森に飲み込まれていくような感覚を覚えた。奥へ進めば進むほど、闇の中へ進んでいるような気もするし、明かりの中へ進んでいるような気もする。どこまで行っても同じ葉が、高いところで揺れている。森は何も言わない。ただ、踏み込んだ者を己の一部とするだけだった。
草木を踏みつける音と共に、獣のうなり声が聞こえた。ジャグルはゆっくりと振り返った。
人食いか、と思ったが、どうやらただの野犬らしい。闇の中から、一匹、また一匹と現れて、黄色い目を光らせ、ジャグルを囲む。
ぐるる、と唸った。その声を聞いて、ジャグルは微笑んだ。
「……食べていいよ」
不思議と、怖さはなかった。
これは罰なのだと思った。自分を信じてくれた人間を、おれは生まれた時から裏切り続けてきた。いつかはこうなるのだと、心の底では理解していた。随分昔から、覚悟は出来ていた気がする。自分が生まれてきたことが、のうのうと育ってきたことが全ての間違いだったのだ。ひたり、ひたりとにじりよる獣の歩調が、段々速度を増して近付いてくる。
だがせめて、受ける罰は選ばせて欲しかった。奴らの、タルトの血になるくらいなら、森と言う名の自由に身を委ねてしまったほうがましだと思った。本望だ。全てにさよならを告げて、大地に還ろう。ジャグルはふっと目を閉じた。獣の飛びかかる勇ましい声を、首もとで聞いた。
痛みは、なかった。
死の感覚かと思ったが、どうやら違うらしい。
目を開けると、野犬達の身体が全て、ぴたり、と静止していた。死んではいない。ただ動きを止められているだけだ。獣の姿から、かすかな術力を感じる。ジャグルが食われる寸前で、誰かが術をかけたのだ。
どこかから、馬の駆ける音がする。こんな所に誰だろう、と振り返ってみると、一匹の馬と、人間がそこにいた。
「……」
黒髪を揺らし、その手に獣を模した杖を握り、ジャグルを見下ろす姿。ディドル・タルトだった。彼は馬をその場に止めて、ジャグルの目をじっと見つめた。つかの間の、静寂があった。
「行くぞ」
彼はジャグルに手を伸ばした。
「こんなところに、いてはいけない」
ほとんど無意識に、ジャグルは手を伸ばした。ぐっとドドが引き上げると、ドドの後ろにすっぽりと収まった。ジャグルはドドの背中に手を回した。
ドドは馬を走らせた。月明かりの下、深い森をひたすら駆け抜けた。
ドドの背中に顔を押し付けながら、なぜ自分は手を伸ばした理由について、考えてみた。答えは見つからず、やがて堂々巡りとなり、ついに眠ってしまった。
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#3 Vanishing Point-1-
これは夢だ、と思い続けていると、本当に夢の中にいることがある。
そこで見るのは、森の夢だ。ハイラの森とはまた違う植物の森。気がつくと、木々の間にうっすらと残る道を辿って歩いていた。その道は常に右に傾き、少しずつ下っている。まるで螺旋を描くように下へ、下へと向かっている。植物自体が発光しているせいか、夜なのに明るく、ものを見失うことはない。一体どこへ向かっているのだろう、と思う。思いながら、わけもなく歩き続ける。そうしていることが心地よくもあった。一歩踏み出せば踏み出すほど、あるべきものがあるべきところに戻っていくような感覚に包まれた。時折振り返ってみると、道は暗闇に消えている。もう戻らなくていいんだよ、あんな間違った世界には。自分の声がそう語りかけているような気がする。歩んでいる道のりに更なる自信を得て、彼女は再び歩き出す。
いつも道の途中で目が覚める。自分は切り裂かれてぼろぼろになったベッドに横たわっていて、窓の隙間から差し込んでくる太陽光が顔を照らす。このまぶしさが、彼女の嫌いなものだった。人の営みが始まる。秘密と劣等感を抱え込みながら、ひたすら人の、男どもの中に溶け込む時間が始まる。
朝など来なければ、夢など覚めなければ、どれだけいいだろう。もう私は疲れた。休ませてくれ、ずっと、ずっと。そう願っても、朝は来る。
夢を何度も見るうちに、目の覚めるまでの時間が計れるようになった。あぁ、そろそろ頃合いなのだな、と誰に教えられる訳でもなく、自分で分かるようになってしまった。出来れば知りたくなかった感覚だった。
今夜も頃合いなのだな、と思った。歩いた距離と時間を思うと、残り少ないであろう夢の歩道を、惜しみながら歩いていく。
だが、そう自覚してから、なかなか目が覚めることはなかった。
ふわふわとした感覚が疑惑に変わり、意識がはっきりとしてくる。何かが、いつもと違っている。頭が働くような気がして少し考えてみたが、思い当たる節はない。いや、目覚めの感覚はまだ不完全で、まだどこか呆けている部分があるのかもしれない。
とりあえず、もう少し降りてみよう、と思った。
背後を見れば、道は闇に食われて消え去っている。どのみち、前に進むことしかできないのだ。いつも通りにやるしかない。いつもと違う感覚の正体も、いずれ分かるに違いない。そこに意味があるのかどうかも。
一歩、一歩と歩みを進め、やがて螺旋の底に到着した。
道は終わり、円形に広がった草の絨毯に繋がった。大きな大きな筒の底のように、草の絨毯はきれいに丸い。そして、その中には切り株が三つあった。そのうちの一つに近いてみる。誰かが足をかけていたのだろうか、下の土や葉っぱが散らかっている。それと同時に、なぜ夢の中でこれほど細かい部分に気付くことが出来たのか、不思議に思う。夢とは通常、曖昧なものだ。そう思いながら、土の粒をつまみ上げる。ただの湿った土の粒だ。それと同時に、はっきりと感触を認識した自分に驚いた。ここは、本当に夢なのだろうか?
「とうとう君も、ここまで辿り着いてしまったんだね」
ふと誰かの声が聞こえた。
誰、と振り向きざまに尋ねようとした瞬間、夢が途切れた。
目を覚ますと、ジャグルは布団に寝かされていたことに気付いた。どうやら、ベッドの上らしい。
自分のよく知るものとは、硬さも肌触りもまるで違った。一晩分の温もりが、しっかりと残っている。随分と良い素材のようだ。ゆっくりと生地を撫でると、ふわりと熱を帯びた。心地よさに包まれていく。
堪能しようとして、ふと状況を思い出す。そういえば、自分はあれからどうなった。
置かれている状況を考えた瞬間、意識が覚醒した。思わず飛び起きて、辺りを見回す。狭く、薄暗く、静かな部屋の中。どうやらここは誰かの家の一室らしく、自分の他には誰もいないようだった。とりあえず、命の危機にさらされている訳ではないらしい。ほっとため息をついた。
改めて、部屋の中を確認していく。高いところにある窓から差し込む光で、ぼんやりと薄明るい。大まかなものの位置は確認出来そうだった。
部屋唯一の扉のとなりに、大きな机があった。とは言え、その上に乗っているものはかなり雑多なようだ。本が無造作に平積みされ、場合によっては開いた状態のままひっくり返しているものもある。更に目を凝らしてみると、宝石やら動物の骨やらが本の間に敷き詰められており、どうやら天板は完全に顔を隠しているようだ。整然とはほど遠い。
その机に、一本の杖が立てかけられていることに気付いた。小さな獣の頭部を模した、茶色い杖だ。目に埋め込まれた赤い宝石が、こちらを向いている。妙に生気を宿していて、少々気味が悪い、と思った。それと同時に、この杖をどこかで見たことがあると思った。それも、つい最近。ジャグルは杖とにらみ合った。
杖は、いきなり、ぶぅん、と音を立てて震えた。
振動によって力の均衡が崩れ、杖は机の側面を滑り落ちていく。だが転んでしまいそうになったところで、ぴたりと止まって持ちこたえた。そして、今度は自力で元の位置に体勢を立て直した。
「ふぅ、危ない危ない。あんまりまじまじ見つめないでくれよ。照れるだろ、ジャグル・タルト」
声がした。この杖が喋っているのか。
「おれの名前を、どうして知っているんだ。お前、何?」
ジャグルは聞いた。驚きと警戒から、無意識に布団を手元に引き寄せた。身を隠すには少し頼りない。
「どうしてと言われても、俺はお前のことを知っているからとしか答えようがないね。お前だって、俺に会ったことはあるだろ」
杖はケタケタと笑った。あっ、とジャグルは呟いた。この杖は、ディドル・タルトがいつも握っていたものだ。
「ということは、ここはあいつの家なのか」
ジャグルはぐるりと部屋を見回した。
「その通り。ドドの野郎の住みかだ。狭いところだが、悪くはないと思うぜ。おっと、勝手に部屋を出るなよ。お前のことを見張っておけって言われてるんだ。あいつが帰ってくるまで、おとなしくしてろよ」
「……出かけているのか」
「仕事だよ。町外れの屋敷に呼ばれているんだ」
そういえば彼は確か、屋敷の貴族のお抱えまじない師をやっているのだったか。半年以上も前のことだからうろ覚えだったが、初めて会ったあの時、そんな話をしていたような気がする。
「そう」
ジャグルは布団の中でひざを抱えた。
「君は、一体何者なんだ。どう見ても、人間ではなさそうだけれど」
足の指をこすり合わせて温もりながら、聞いてみる。
「俺? 今でこそこんな姿だが、人食いだよ。キュウコン、ってのが名前だが、ドドなんかはキュウって略したりもする」
キュウは妙に自慢げに答えた。
「ちょっと前にへましちまったが、お前のお陰で喋るくらいは出来るようになったぜ」
その目が妖しく光ったような気がした。
「おれのおかげ?」
「ブースターの尻尾さ。俺は人間の熱や術力の宿った炎とかを食うんでね。いいもん食わせてもらったおかげで、力がついた。もうちょっと力が戻った暁には、人間の格好にでも変身してみせてやるよ」
キュウはけたけたと笑った。よく笑うなぁ、とぼんやり考える。からかわれているようで、いい気はしない。
「いや、いいよ」
ジャグルは首を振った。正直、人間には会いたくなかった。人食いと喋っている方がマシだと思った。人間以外のものと触れていれば、自分のことを思い出さずに済む。
「しかし、すっかり変わり果てたなぁ。髪もすっかり伸びちゃって、女みたいだ。どことなく体つきもしなやかになったねぇ。アンタ、自分にずっとまじないをかけていたんだろう。自分の身体を男のものに変える、そんな術。それ、術力を食う上にずっと使い続けていなきゃいけないんだろ。他の術を覚えようったってそりゃ無理な話だ」
ジャグルは目を丸くして、キュウを見つめた。図星だった。
「よく分かったな」
「人食いだからな。何となく術のことは分かるってもんよ。人間って苦労してる割には弱っちいままなのだけはよく分からんけどな」
キュウはケタケタと笑った。
「出来ることなら、両立したかったんだけどなぁ」
「あ~、むりむり。やめときなって。無駄な努力なんか、むなしいだけだぜ。ドドの野郎も言ってたけどさ、本来あるべき流れに逆らうのは、力が掛かるんもんなんだよ」
「ドドにもバレてたのかな。おれの術のこと」
「さあて、どうだろう。バレてたんじゃないかねぇ」
キュウはしみじみと言った。本当のことは、本人にしか分からない。
「ところで、やっぱり人食いにしてみたら、女の方が美味い、とかってあるのかい」
「まぁ、その方が多いと言えば多い」
キュウの答えに、ジャグルは笑みを浮かべた。自分はいま、とても人間らしくない会話をしている。そのことが奇妙で、可笑しかった。妙に気持ちが安らぐのは、思い出したくない人間のことを忘れていられるからなのだろうか、と考えたりもした。
「そうだ、キュウ。何ならお前のことを聞かせてよ」
「ほう、俺のこと」
「そう。お前のこと。どこでどうやって生まれたかとか、どんな人間を食ってきたかとか。どうしてドドと一緒にいるのかとか」
「人食いを退治するまじない師が、人食いに頼みごとかい」
「別に憎んでいるわけじゃないから」
「へぇ、そうかい」
そう言って、不敵な笑みを浮かべる。
「話してやってもいいが、その代わり」
その代わり、とジャグルは繰り返す。もったい付けるようにキュウは次の言葉を溜めた。
「お前は丁度、火や熱を扱う術に長けているだろう。その術で作った炎を、話を一つする度に俺に食わせる。どうだ、乗るかい」
ジャグルは少し考えて、答えを返す。
「炎か。それくらいならいいよ」
ジャグルは一差し指を空中に向けると、その先端に小さな火を灯した。
「これでどうだ」
「いや、小さすぎる。そんなの、唾飲んだ方がまだマシってもんだぞ。腹の足しにもならん。その倍の倍くらいはないと、貰ったうちには入らねぇよ」
「贅沢だな」
次々と出てくる文句に、ジャグルは呆れた。とは言え、ここで意固地になる理由もない。
「ほら」
手のひらを上に向け、その上に、自分の顔より大きな炎を作り上げた。
すると、炎は上の方から引っ張られるように、渦を巻いてキュウの方へと吸い寄せられていった。見る見るうちに、火は消えてなくなっていく。完全に消火するまで、一息つく間もなかった。
「ごちそうさま。なかなかいい炎してんじゃねぇか」
キュウは満足そうに、ケタケタと笑った。
「約束だ。話、聞かせてよ」
「あぁ、もちろん」
「まさかこのまま、食い逃げするんじゃないかって思って」
「食わせた後にそれを聞くたぁ、アンタも案外抜けてるねぇ」
「返す言葉も無いよ」
ジャグルは肩をすくめた。
「さあて、何から話したもんかねぇ」
身体があったならきっと首を傾げていたに違いない口ぶりで、キュウはぽつり、ぽつりと喋り始めた。
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#3 Vanishing Point-2-
ーー俺が生まれた場所、というものについては、よくは知らない。
人間だってそうだろう、生まれたばかりの赤ん坊の頃のことなんて、誰も覚えちゃいないんだから。それは人食いも同じさ。だけど、人間と違うのは、親が子を育てる、ということはしないことだ。というか、親がいるのかどうかも分からない。気がついたら森の中で独りぼっちで、あたかもずっと昔からそうしていたかのようにそこにいるんだ。ある時、自分の存在にふっと気がつく、そんな感じさ。産んだ奴が生まれた奴を育てる生き物がいるなんてことは、人間に会わなきゃ知らなかったよ。
俺もしばらくは、目的もなく、ただ森をさまよっているだけだった。覚えているのは、どこにでもあるありふれた山の風景ぐらいで、別段変わったものがあるわけでもない。はじめの何年かは、一つ一つの植物、天気、地形、あらゆるものに興味を持ったけれど、感動はなかった。
生まれて最初の感動は、山を越える人間を食った時さ。人間ってのを初めて見たが、直感したね。「こいつは、うまそうだ」って。今まで感じたこともないくらい、嬉しい気分になったんだ。この生き物を、食ってみたい。一度そう思い始めると、お腹は鳴るわ、よだれは出るわ、身体が勝手に反応して、止まらなかったね。とうとう我慢できなくなって、そいつらの首根っこをがぶっと捕まえてやった。腕とか、頭とか、脚とか、食ってみて、美味い! って思って、ようやく俺は生まれた意味が分かったのさ。こうやって、この生き物を食べていけばいいんだってね。
最初は森の中にやってきた人間を。次は、人里に降りて。それに飽きたら、街の中で。調子づいてた俺は、色んな人間を食い散らかした。だんだん人間の美味い部分も分かってきて、そういう部分だけを狙って食っていた。人間の体温とか、怒りとか、そういうあっついあっつい部分さ。特に怒りや恨み、妬みそねみと言った感情は、ドロドロと煮えたぎっていてとても美味い。
でも、街の中で人を食うのは、人食いにとっては危険なことだった。人食い退治を請け負う、まじない師がやってくるから。
知り合いの人食いも何匹かいたが、口を揃えて言うのは「まじない師には気をつけろ」ってことだった。馬鹿だった俺は、あいつらの言葉にぜんぜん耳を貸そうとしなかった。人間なんてひと噛みすればすぐにぽっくり行っちまうし、俺は火を吹いたりも出来るから、そう簡単にやられたりはしないだろう。そう思ってたんだ。他の奴らは、うまく人間を食った跡を残さないようにしているが、俺はそういうまどろっこしいことは苦手だった。多少人の目についたとしても、気にしない。食った人間も食いっぱなしで、ほったらかした。
おかげで何度か、まじない師に襲われたこともあった。けれど、ことごとく返り討ちにしてやったね。爪をちょいとひっかけて、火をごうと吹けば、すぐに死んじまう。人間なんてモロいもんさ。人間に対抗する力を持つとは言え、大したことなんてなかった。所詮、人間は人間。そう思ったのさ。
一つ違うことがあるとするなら、うまみだ。そいつらをいざ食ってみたら驚いた。他の人間より、十倍も百倍もうまかったんだ。人生最大の、大発見だったね。
こんなに面白いことを知ってしまったからには、もう止められねえ。すぐにこのまじない師の住処を探しに行こうと思った。まじない師とか、そういう俺たちと似たような力を持っている人間には、独特のにおいがあった。俺は殺した奴の残り香を辿った。身体に染み着いたにおいだけじゃなく、意外と術力も残るもんでね。追いかけるのはとても簡単だった。スキップをするみたいに、腰を振りながら、おどけた感じで歩いた。あのゾクゾクとする感覚を、言葉だけじゃ伝えられないのが残念だよ。
ただ、相手はさすがにまじない師。普通の人間よりは勘が鋭い。仲間が死んだことも、俺が奴らの本拠地に向かっていることも、奴らはどうやらお見通しだったみたいだ。道中、いくつもの罠をしかけてきやがった。一歩歩けば脚をひっかけようとするロープが迫り、一歩歩けば千本のナイフが喉を掻き切ろうと飛んできた。どこで聞きつけたのか、俺が炎を操る人食いだってことも知っていた。炎のたぐいは一切使わず、逆に水攻めにしようとしていた。ただ、術者の力が未熟だったんだろうな、水を操る呪文を唱えているうちに、喉笛を噛み切っちまった。あいつらの用意の良さ、頭の良さには恐れ入ったが、いかんせん力が弱すぎた。準備してくれた罠に一個一個かかってみたくなるぐらい、あいつ等の用意したものは貧弱だった。ありがたかったが、拍子抜けだったね。つまらなささえ覚えた。俺はあっと言う間に、集落のほぼ全ての術師を食い尽くしたんだ。
後でドドに聞いた話だが、このまじない師の一族は「言霊使い」って呼ばれている連中でな。呪文や言葉の力を扱うのは得意だが、実際戦ったりするとかいうことは苦手なんだとさ。実際どんなもんなのかは知らないが、まぁその辺り一帯では名のあるまじない師だったらしいぜ。だが、他の術師の一族が幅を利かせてきたせいで、最近は落ち目だったそうだ。
だが、ちょろい、と思ったのは間違いだった。
最後の最後で、言霊使いの一族はとんでもない罠を用意してやがったんだ。
言霊使いは戦う力を身につけるため、人食いを言葉の力で使役する術を研究していたんだ。ちょっとその机の本をどけてみな? 上が紫で、下が真っ白の球があるはずだから。……そうそう、それだ。俺はそいつに捕まっちまった。色の分かれ目のところでパクッと割れて、人食いを中に閉じこめる。閉じこめられた人食いは、その球に込められた呪いの言葉で、閉じこめた人間の命令に逆らえなくされちまうのさ。
力のありそうな大人や年寄りは全員食い尽くした。子どもだって、あんまり美味くはないが、力が弱いから簡単にほふってやった。
残った人間は、あと二人。そのうちの一人が、あのドドの野郎だ。俺はちょっと名残惜しい気持ちになりながら、最後の一品に手をつけようとした。その時だ。
奴が隠し持っていたその球から、目がつぶれそうになるほど眩しい光が放たれた。最初はただの目潰しかと思った。びっくりしたが、最後の抵抗ぐらいさせてやってもいいかな、そんな気持ちだった。だが、球はとてつもない勢いで俺の身体を吸い込み始めた。足を踏ん張ることも出来ず、身体は宙ぶらりんになって、ぐるぐると回りながら球の中に引きずり込まれていった。気がつけば、俺は出口のない丸い部屋の中にいて、四方八方から声を聞かせられたんだ。ディドルの言うことを聞け、ディドルの言うことを聞け、従え、従え、って。延々と声を聞かせられ続けて、気がおかしくなりそうだった。頭もきりきりと痛んできた。俺はとうとう耐えきれなくなって、言ったんだ。「分かった、言うとおりにする! だからこの声をやめてくれ!」って。そしてようやく、声は止んだ。気がつけば、すっかり俺は飼い慣らされた獣になっちまったってわけさ。
俺がこの呪いで出来なくなったことは二つ。ディドルの野郎の命令に逆らうこと、奴の許可なしに人を食うこと。犬みたいで、なんかヤなんだけどさ、それをしてしまうとまた呪いの言葉で頭を締め付けられるんだ。ひどいもんだぜ、あの痛さは。奴の飼い犬やってた方がまだましってくらいだからな。そんなわけで、俺はそれから十年ちょっとくらい、こうやって飼い犬生活を続けているわけさ。
え? さっき自分の炎を食ったじゃないかって?
問題ないね。
あの野郎はまじない師としては不器用過ぎるほど不器用だが、先見の明ってヤツがあるって言うか、やけにカンが鋭いって言うか。出て行く間際に言っていたよ。「ジャグルがお前に話をせがんできたら、その対価として炎を貰ってもいい」ってさ。
今回の話はここまでだ。ドドの野郎、たぶんスープを作り置きしているはずだから食ってこいよ。聞いてばかりだと疲れるだろ。ほら、行った行った。
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#3 Vanishing Point-3-
ジャグルはキュウに言われるがまま、扉を開いた。
話を半ば強引に打ち切られたような気がして顔をしかめたが、腹が減っているのも事実である。
扉を開くと、丸机に二つの椅子が対面していた。その上には器とスプーンが置いてある。ドドが自分のために準備してくれたのだろうか。よその人間なのにここまでしてもらうと、妙に居心地の悪い思いがする。遠征先でもてなしを受けるのとは、また違った心構えが必要だった。それでも食わねばなるまい、と、横にある調理場の鍋のふたを開いた。中からふわっと湯気が立つ。
掴んだ鍋のふたから、ふと術力の流れを感じた。誰かがこの鍋に、何かの術を施している。特に悪さをするものではないことはすぐに分かったが、何の術なのか気になった。ずっと火がかけられていたわけでもない鍋が、時間を置いた後でも出来立ての温度を維持している理由を考えて、一つの結論に至った。
「まさかこの鍋……熱を封じ込めるまじないがかけてあるのか」
ジャグルは驚き、感心した。タルト一族の集落では、こういった日常生活の手助けをするような使い方はしなかった。専ら専門知識の修得と戦闘訓練ばかりを繰り返し、またまじないとはそういうものだと思っていたので、こんな活用方法があるなんて思いもしなかった。
鍋の中身を椀に移して、椅子に座る。中の野菜をつつくと、ほんのり甘い味がする。目を閉じて、改めて立ちゆく香りを吸い込んでみる。息を吐く。
「うまい」
そう呟くと、ようやく体も気も休まったような気がした。
いつから張り詰めていたのだろう、と思う。女だとバレてからか。レガが死んでからだろうか。一足早く大人の仲間入りをしてからか。いや、違った。生まれてすぐに、性を偽って生きていかねばならなくなったあの時からだ。あの連中のちょっとした手違いと戯れのせいで。
今まで、タルトの男達の中で生きていられるよう、ありとあらゆる努力を重ねてきた。自分の正体がばれないように、あるいは、もし暴かれてしまったとしても一族に必要な存在だと許してもらえるように。実現するには、あと十年の時間が必要だろう。だがしかし、乗り越えるにはあまりに高すぎる壁だった。
「……髪、邪魔だな」
女を取り戻したおかげで、すっかり髪は伸びきってしまった。気を抜くと、スープの中に入りかねない。髪留めの代わりになるものがないか後で探してみよう、そんなことを考えた。
一息ついて、キュウの話を思い返す。キュウは人間を食らっているうちにまじない師を襲うようになり、その一族を襲った時に返り討ちに合ったという。言霊使いの一族の生き残り、ディドル・タルトの手によって。
(どういうことだ?)
矛盾を感じた。初めて会ったあの時、ルーディ翁からはタルト一族の分家だと聞かされた。だが、さっきのキュウの口振りだと、ドドは言霊使いの一族の人間ということになる。言霊使いの一族がタルト一族の分家である、ということだろうか。いや、そうだとしたら、あまりにも術の系統が違いすぎる。タルトの中には言霊に近い術を使う者はいないし、そもそも言霊とはどういうものなのかすら知らなかった。言霊使いの一族と、タルト一族。あの時のルーディの説明からは、二つのまじない師の関わりとか、そういった大事なところが省かれていたのかもしれない。
どちらにしろ、今情報を集める方法がただ一つあるとしたら、キュウの話の続きを聞くことだ。少なくともドドの帰りを待つよりは早いはずだ。
(まさかあの人食い、炎をたくさん食えるようにわざと気になる終わり方をしたんじゃないだろうな)
いかにも真実らしくて、ジャグルは苦笑した。
ふと、トントン、と何かを叩く音が聞こえた。最初は気に留めなかったが、音はどんどん大きくなっていく。どうやらこの家の扉を叩く音らしい。居留守を使うべきか、応対すべきかと迷っているうちに、音が止んだ。諦めて帰ったのかな、と思ったら、そうではないらしい。扉がぎいと開いていく。
扉を開けたのは、まだ小さな少年だった。自分よりも五つは年下だろう。
少年は驚いて、こちらの目を見つめたまま固まっていた。
「ど、どうも」
愛想笑いを浮かべてみたものの、場を和ますほど効果があるものとは思えない。
しばらくの硬直からようやく解けた少年は、大きく息を吸い込んだ。
「なんだ、人がいたのかよ」
「ああ。いたよ。スープを飲んでいたんだ。体が暖まる」
器を手でくるくると回す。少年は警戒心を露わにしながら、こちらを見つめている。
「魔女のスープか」
「さぁ。作ったのは俺じゃないけど。なんだよ、魔女のスープって」
魔女のスープ。大げさな響きが子供らしくて、思わずジャグルは笑ってしまった。そんな様子を見ながら、少年は押し黙ったままだった。自分に心を許そうかどうかを計っているようにも見えたので、ジャグルは次の質問を投げた。
「ここの家の主に、用があったのかい」
少年は頷いた。
「その人の名前は知ってる?」
「ディドル・タルトだろ。街じゃ有名だよ」
そっけなく答えると、視線を横に逸らした。
「どんな風に有名なんだい」
「不思議で不気味で、気味の悪いことが起こったら、何でも解決してくれる人だって」
「ふうん。まぁ、間違ってはいない、かな。つまり、君はそういう問題を何とかしたくてこの家に来た。そういうことで、いいかな」
少年はぎこちなく頷く。
「ねーちゃんも」
彼は呟いた。ねーちゃん、と呼ばれることに違和感があったが、今の自分の姿を見ればそう言われても全くおかしくはないので、文句は言えない。
「ねーちゃんもまじない師なの?」
何か決心を固めるような視線を、少年はジャグルに向けた。嫌な予感がする。この少年は、恐らくドドにしようとした頼みごとを、自分に引き受けてもらおうとしているのではないか、と言う予感だ。ここで迂闊に返事を返してしまえば、自分の手に負えないことに巻き込まれるかもしれない。主の判断を仰ぐことのできない今、引き受けることはマズい。
少しの考慮のすえ、ジャグルは口を開いた。
「まじない師、見習いだよ」
「見習い……」
「そう。まだ半人前。おれの力じゃ何もできない。もし何かを倒せとかって言われても、出来ないよ」
きっぱりと告げた。
「じゃあさ、」
少年は、負けじと言い返す。
「まじない師の術ってのも、俺にも教えてくれないかな」
「悪いけど、それもできない」
「一つでいいから」
「無理な話なんだ」
「どうして? ねーちゃんが見習いだから?」
「いや、それ以前の問題。術が使えるかどうかは生まれつき決まっているものだから。力を持っている血筋の人間じゃないと、術は使えない」
「……ふうん」
彼は口をとがらせた。
「俺だって術の扱いが上手いわけじゃないけれど、使える人間は生まれた時から多少はその予兆みたいなものがあるらしい。力の発現の予兆ってやつがさ。君にはそういうの、あったかい?」
少年に問いかけると、首を振った。
「そうだろ。こればかりはどうしようもないんだ」
ジャグルは肩をすくめた。
「分かったよ」
少年はつまらなさそうに吐き捨てる。そうかと思うと、思いついたような顔をして言った。
「じゃあさ、代わりにそのまじないってやつを見せてよ」
「まじないを? 言っておくけど、使えるのはまだ一つだけだぜ」
「それでもいいから。お願いします」
少年はにやにやと笑った。しょうがないな、と思いながらも、ジャグルは立ち上がる。やった、と少年は嬉しそうに言う。ふいに、レガのことを思い出した。目を輝かせて、何が起こるのかを楽しみにじっと見守る子どもの目。彼は遠征先で、いつもこんな眼差しを作り出していたんだ。そう思うと、悪い気はしなかった。まじない師の力、驚くがいい。
「一回だけだぞ」
「うん」
ジャグルは手を突き出し、力を込めた。
ぼっ、という音とともに、赤い炎が一瞬だけ宙に広がった。
「うぉーすっげー!」
「どんなもんだい。今はまだ、こうやって火を出すことしか出来ないけれど、これからもっともっといろんな術を覚えて、いろんな人を笑顔に出来たらいいって思っているんだ」
「凄いんだな、まじない師って。でも」
少年の声は、次第に陰を落としていく。
「それならなおさら、俺のお願いを聞いてくれたっていいのになぁ」
「お願いって?」
話のはずみで、つい聞いてしまった。
「うん、これは……本当はディドルの方に言おうと思ってたんだけど、ねえちゃんでもいいや。ねえちゃん、名前はなんて言うの」
「ジャグルだよ」
「ジャグルかぁ。かっこいい名前。それでね、ジャグルねえちゃん。実は僕、母親を殺されてるんだよ」
「母親を」
「うん」
少年は頷いた。
「あれはとってもよく晴れた夜だった。僕の住んでる場所はこの裏の小さな家。ちょっと治安が悪いところらしいんだけど、家族で一軒の家が持てているだけマシだよね。お父さんとお母さんと、三人暮らしでさ。みんなで仕事して、みんなでご飯を食べてた。だけどある晩、何か大きな……熊みたいな生き物が、お母さんを飲み込んじゃったんだ。お父さんは戦おうとしたけれど、そのでっかいやつに吹き飛ばされてすぐに気を失った。僕は怖くて怖くて、動けなかった……」
その時の恐怖を思い出しているのだろうか、少年は目をぎゅっとつぶり、しばらく黙り込んだ。
「気が付いた時には、朝だった。お父さんはそれから飲んだくれになっちゃって、僕のことなんか見向きもしなくなった。だから僕は、家族をめちゃくちゃにしたあいつを見つけて、殺してやりたいんだよ」
自分の平穏を乱した奴を殺してやりたい。ジャグルは胸が鈍く疼くのを感じた。
「でも僕一人じゃきっとかないっこない。だから、ディドル・タルトにお願いしにきてる。来る度にあしらわれるけれど、いつか必ず、僕のお願い、聞いてもらうんだ」
少年の瞳が、真っ直ぐジャグルの顔を捉える。ジャグルは顔を背けてしまいたかったが、出来なかった。なんてぎらぎらとした目なのだろう。まるで冷たいナイフだ。つい何日か前まで、自分もこんな目をしていたのだ。レガ・タルトを殺した奴を、この少年が思うのと同じくらいに残酷に焼き尽くしてしまいたかった。結果として復讐は叶ったが、果たしていざ殺すとなった時、殺した奴を憎む気などどこにもなくなっていた。本当に自分がやるせないと感じているのは、そこじゃないと気づいたからだ。この少年に言うべきことは決まっている。
「簡単じゃないよ、復讐は。仇を取ることを目的にしてしまうと、あとで必ずしわ寄せが来る。そいつを殺して、後に何が残るのか。空っぽになってしまうか、はたまた別の憎しみを呼ぶか。いずれにせよ、何らかの形でひどいしっぺ返しが来るんだ。ドドはきっと、そういうことまで見通した上で君を追い出しているんじゃないかな」
ジャグルは言った。想像でしかないが、自分の中ですとんと落ちるものがあった。きっと、そういうところだろうと思った。
「そんなこと、分かってるよ」
反論する声は、小さかった。
「分かってるよ……」
「お父さんを助けてあげな。まだ生きてるんだろ」
彼のことはよく知らないが、そうするのが一番だと思った。彼は俯いて、小さく頷き、この家を出て行った。
ドアの外の景色が見えた。立ち上がって、少しだけ顔を出した。左右に延びる、石畳の道。ここは裏路地の一角にあるようだ。石造りの建物の反射を見るに、これから夕方に向かっていくというところだろうか。少年の後ろ姿を少しだけ眺めたあと、ジャグルはそっとドアを閉じた。
「表でなんかあったみたいだな」
部屋に戻ると、キュウはケタケタと笑いながら、話しかけてくる。
「小さい男の子の相手をしていた」
そう言いながら、ベッドに腰を下ろす。
「親の仇を取る、っていう奴か」
ジャグルは頷く。
「あのガキもしつこいからなぁ。ウチに来るの、これで十五回目だぜ。その度にドドの野郎が適当にあしらっていたけどな。お前も運が悪かったな」
「いや、案外悪くないよ。楽しい時間だった」
「ふうん。変わってるな、お前。自分自身に邪気が無くても、周りにそういう悪いのを呼んじまうような、そういう性格だね。嫌いじゃないぜ、そういうの」
「げっ、本当?」
「さあて、どうかな」
キュウはまた笑う。からかわれているのかもしれないと思うと、少し腹が立つ。
「それはともかくとして、ドドはどうしてあの子の話を聞いてやらないんだ。まじない師なのに」
「簡単なことさ。文無しだからだ」
おいおい。
頭痛がしそうで、ジャグルは眉間を摘んだ。ただでさえよく分からないのに、ディドル・タルトという人物は近づけば近づくほどよく分からなくなってくる。飄々としていて、その行動と理屈はこちらの予想を裏切ってばかりだ。そしてその真意を掴めたことも一度もない。
「まあいいや」
気持ちを切り替えようと、ジャグルは膝を打った。きっと、勝手に想像すればするだけ彼の実像とかけ離れていくだけなのだろう。となれば、自分のやるべきことは一つ、共に何年もの時を過ごした人食いの話を聞くことだ。大事なことははぐらかしてばかりだが、語る言葉に嘘はないだろう。
「飯も食って、準備は出来た。ドドの話の続き、喋ってもらうぜ」
腕を前に出し、掌から炎を燃え盛らせる。もう自分の炎が食われることに抵抗はない。これくらいならいくらでも出せる。杖はひゅう、嬉しそうな声を上げると、炎を上の方からくるくると吸い込んだ。橙色が細く不思議な軌道を描いた。
「ごちそうさまでした。さぁて、次はお待ちかね、ディドル・タルトの生い立ちについて話してやろうかな」
そう言って杖は妖しげな笑みを浮かべる。
ふいに、あの少年は何故あんなにも簡潔に自分の境遇を話すことが出来たのだろう、という考えが過ぎったが、気には留めなかった。
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#3 Vanishing Point-4-
人間って、血縁を作ればお互いの家と家が結びつくきっかけになるらしいじゃん。自分の一族を末永く繁栄させようってことで、やれ息子をどこの婿にやるだの、娘をどこの嫁にやるだのってやるわけさ。
そういうのはどうも、まじない師にもあるらしくってな。タルト一族も時々、一族の女性を他のまじない師の一族に嫁がせることがあったんだ。この場合、嫁さんは言うなればスパイなのさ。他の一族の術を盗み取り、裏で本家にその技術を流す。普通におつきあいしていたら、多少は技術を教え合ったりするもんらしいが、嫁さんの狙い目はそんなところからはずれた、門外不出の秘伝の術さ。タルト一族はそうやって他の家の術を根こそぎ盗んで、まじない師の一族として成長してきたんだとよ。でもこれは、どうも上層部だけで勝手にやっていることらしいから、タルトの人間のほとんどは知らない。ジャグル、お前も知らないだろ? ……そうか、やっぱり。
その時もタルトの女が一人、言霊使いの一族の嫁に貰われていった。やたらと美人で、一見おしとやかでいて、その実芯の強い人物だったそうだ。お見合いを通じて、すっかり言霊使いの男は惚れ込んじまって、二人はあっと言う間に結婚した。
そうして出来た子どもが、ディドル・ガレット……今のディドル・タルトってわけさ。
生まれてから十六年とちょっとの間、俺が言霊使いを皆殺しにするまでは、あいつもただの言霊使いの子どもとして生きてきた。言霊使いの一族はタルトと違って男と女を分けたりはしない。そういった意味では窮屈さはなかっただろうな。あいつは随分なお母さんっ子だったらしくてな、十歳近くになるまで、寝る前には母親のお話を聞いてからじゃないと眠れなかったらしい。周りにしつこく茶化されて、ようやくそれをやめる決心をしたそうだ。親ばか親にばか息子、なんて呼ばれてさ。母親も母親で、本人が拒否しても時折部屋に立ち入ってはもう寝てる息子に語りかけていた。あまりの親バカっぷりに周りも呆れかえっていたが、大体は好意的に受け止められていたってところだ。だが、この夜のお話には仕掛けがあった。母親は言葉にまじないと言霊を混ぜて、息子の意識の下に、自分の記憶と役割を少しずつ、少しずつ刷り込ませていったんだ。もちろん、本人はそんなことをされていることに気が付かない。条件を満たさない限り、その記憶はずっと閉じこめられたままになっているからだ。
俺はまじない師のにおいに誘われて、言霊使いの一族を食い尽くした。その中で、俺はあいつの母親も食った。そして、それこそが刷り込ませた記憶の蓋を開く鍵だったんだ。
自分の母親が死んだ瞬間、ドドは何もかもを理解した。
自分はどうして言霊使いの一族に生まれてきたのか。
この母親は自分の一生を、誰に捧げようとしていたのか。
ドドはあの時、自分に与えられた使命に忠実に従った。この混乱に乗じて、言霊使いの秘伝……あの封印玉を手に入れることが出来るんじゃないか、と考えた。突然現れた人食いのせいでみんながばかになっている中、あいつは一人だけ冷静だった。
既に母親は秘伝のありかやその暴き方まで掴んでいた。後はいかにして他の一族の目を盗むか。後は時期の問題だった。秘伝への監視をかいくぐるのは、他に術を持たない母親にとっては至難の業だったろう。彼女は全てを息子に託すことを決意した。息子がそれをやり遂げられるほど成長したら、自分で自分の命を絶とうとしたんだ。
俺が一族を襲った時には、ドドはもう母の信頼を得るだけの力を持っていた。あとはどうやって、他の連中に怪しまれずに死ぬかということだけだった。彼女にしてみればまさに好機だったろうな。他の連中がバッタバッタと死んでいく中に、自分も紛れればいいんだからよ。
ドドはまんまと玉を自分のモノにして、一族を裏切ることに成功したんだ。一人を除いて全員が死んじまったんだから、買う恨みもほとんどない。すぐに言霊使いの一族の住処を出て、タルトの集落を目指した。タルトに尽くすための記憶や知識は完全に受け継がれたから、迷うことなく森の中の集落にたどり着いた。この時点で、もはやドドは完全にタルトの人間だった。
最初に出迎えたのは、長老と補佐のルーディの二人だった。お前も知っている奴らさ。ドドは彼らに、自分の身に何が起こったのか、こと細やかに説明した。最初は訝っていた二人も、あの母親の息子だって聞いた途端、ころっと態度を変えた。よくぞ帰ってきてくれた。数十年の悲願、よくぞその玉を手に入れてくれた、ってね。
ドドは他の上部の人間を交えて、さっそく紫色の玉の力を披露した。あれはたまったもんじゃなかった。ドドが火を吹けと言ったら吹かなきゃならなかったし、逆立ちしろと言ったら逆立ちしなきゃならなかったし、ただの見世物にされていた。あれは今でも思い出すだけで腹が立つ。ああ、屈辱だ。呪縛が解けたら、あの時の俺を見た連中を真っ先に燃やしてやろうかと思っていたんだが、この前の騒動でみんな死んだんだっけな。いや何人か生き残ってるんだっけか……まあいいや。生きていたらそのうちやるさ。ふん。
何日かかけて、連中は玉の呪縛について研究を重ねた。まず最初に分かったのは、この呪縛で俺に言うことを聞かせられるのは、捕まえたドドだけだってことだ。俺個人としても、他の奴に命令されても頭が痛くなることはないから従わなくても平気だった。だから今日みたいなことでも無い限り、お前の言葉なんて聞かないからな、覚えておけよ。
それから、玉はめちゃくちゃ頑丈だ。どんだけ強い力で殴っても壊れない。火をつけても燃えない。水も吸わない。タルトの術じゃ、土で出来ているのか金属で出来ているのかさえも分からなかった。中のまじないの構造についても、タルトの人間からしたら訳の分からないシロモノだった。まるで外国の言葉を聞いているみたいだって、言ってる奴もいた。そんなわけで、結局構造の本質的なところは分からずじまいだ。
上部の人間ってのは大体歳を食った男ばかりだったんだが、その中に一人だけ若い奴がいた。それがお前も良く知ってる、レガ・タルトだ。確か、最初はレガの方から近づいて来たんだったかな。
「初めまして、ディドル・ガレット、いや、もうタルトか。俺はレガ・タルト」
「初めまして、レガ。君は若いな。まわり年上ばっかりなのに、この計画に参加できるなんて、すごいじゃないか」
「そりゃあそうさ。俺は特別だからな。他の一族の子ども達よりも二年早く大人になれた。期待されているんだぜ。それが出来るだけの実力と、境遇があるからな」
二人が握手を交わしたその時、レガはドドに顔を近づけて何か耳打ちをした。それを聞くと、ドドはやたらと安心したような顔になったのがやたらと印象に残っている。何を言われたのかは絶対に教えてはくれなかったが、この一言が二人の距離をぐっと近づけたことには違いねえ。
案の定、二人はすぐに仲良くなった。どちらかと言えば、ドドの方がレガに絡んでいくことが多かったな。隙あらばレガの姿を探していたし、レガも喜んでそれに応じた。二人は色んなことを語り合った。まじないのことだとか、将来のことだとか、本当に色々だ。無二の親友、ってのはああいう関係のことを言うのかねぇ。あるいは、秘密を共有する運命共同体ってところか。
レガは自分で言うだけあって、まじない師としての実力は申し分なかった。遠征に連れていってもらったことがあるが、多くの人間の心を掴み、問題の要点を掴むのも早い。まじないも見せてもらったことがあるが、確かに万能だ。そして何より人なつっこい。自分のことをやたらと特別だと言い張るのはいけ好かないが、それを抜きにすれば謙虚で朗らかで、誰にでも親切だった。人間の世界では、ああ言うのが好かれるんだろうってことをひしひしと感じさせてもらったよ。ただ、その裏で何を考えているのかは全く読めないところがあってな。あいつとだけは絶対にやりあいたくはないとは思ったね。だがそいつも、この前の戦いで食われたんだっけか。あぁ、悪い悪い。泣きそうな顔するなって。悪かったよ。もう言わねえから勘弁してくれ。
二年くらい経った頃、玉の解析も煮詰まってきたこともあって、ドドは別の場所で暮らすことに決まった。ドドにとってタルトの集落はあまり肌に合わなかったらしく、新しいところで一人で住んだ方が気が楽だったそうだ。とりあえず俺が勝手に人間を襲うことはないって納得したから、ドドの手元にさえあればいい。一度環境を変えて観察することも必要かもしれない。タルトの勢力が及ばない土地で活躍してくれれば、自分達もやりやすくなる。まぁ、向こうの腹はそういうところにあって、ドドの願いは割と好意的に聞き入れられた。俺の状態について、定期的に報告はする。住む場所はタルトの方で手配する。その条件で、ドドは集落を離れたんだ。
まじない稼業を一人でやっていくってのは、楽じゃあなかった。タルトの用意した家はこんなへんぴでちっぽけなところなもんだから、当然ながら客が来ない。誰もこんな所に店を構えてるなんて知らないんだ。いざ仕事が入ってみればやれ結婚相手はどっちがいいか占えだの、やれ効力のあるお守りを作ってくれだの、すぐに終わってしまうようなものばっかりでな。実際のところは人食いを相手にするような依頼は殆どなかったんだ。そしてそういう仕事も、大抵は割に合わないときたもんだ。自分一人の食い扶持を稼ぐってだけで、苦労してたぜ。タルトの奴らからも色々もらったりするが、ほんのわずかだった。いつか腹が減りすぎて死ぬんじゃないかってちょっと期待してたぜ。だがだんだんと軌道に乗ってきて、そうやすやすとは死にそうにはなくなっちまった。残念。
ドドは暇な時はいつも、自力で封印玉を作ろうとしていた。奴自身も言霊は使えるから、やってやれないことはないだろうと思ったんだろう。森に入って自分で木を掘って器の形を作って、まじないをかける。だが、この玉の詳しい仕組みが分かっていない以上、手探りもいいところだった。暇は十分あったから、実際のところは気楽なもんだったがな。
タルトとドドの橋渡し役は、専らレガが請け負った。ちょくちょくこの家にやってきてはドドと喋り、時々食い物も持ってきたりした。自分の仕事に連れていったこともあったな。常に一人で生活するドドの身にしてみたら、それが一番の楽しみだったかもわからねえ。二人は時々、まじないを使ってまで人払いをすることがあった。それも、何時間にも渡ってだ。中で一体何を喋っていたのか分からねえ。後で聞いても絶対に答えなかった。あの二人の間には、きっと俺たちには想像もつかないような秘密があるんだぜ、けけっ。そのうちお前にも探ってもらいたいもんだ。
ある日、ドドは人探しをすると言い始めた。何でも、同業者の中に探している人物がいるらしい。馬を借りて、北は雪の降る土地まで、南は雨の降らない荒野まで、ひたすらに動き回って他のまじない師を探した。まじない師ってのは秘密の多いものらしいからな、普通の人間にはその存在すら知られていない一族も多かった。それでもあいつは根気よく根気よく根気よーく探して、これまでに片手では数え切れないくらいのまじない師に会ってきた。偽名を使って、表向きはまじないの武者修行をしているってことで通していた。こう言うと、案外色々教えてくれるもんで。自分の知っているまじない師の知識と引き替えに新たなまじないを身につけたりもした。まじない師の一族同士の交流ってのはどこもタルトほどはやってないところが多いみたいで、よその知識をほぼタダ同然で教えてくれるドドを重宝がったよ。
さて、封印玉の複製だが、実は既に完成してるんだ。
人間、必要に迫られたときには何事も成せるものらしくってね。俺がちょっとへまをやらかしてこんな格好になっちまったあの日から、一ヶ月もしないうちに完成させちまいやがった。言霊の密度を上げたら、上手くいったらしい。俺のときみたいに無傷でも絶対閉じこめられるようなものとは違って、相手を多少弱らせる必要があるがな。それでも一度閉じこめてしまえば、自分の言葉に従わせるくらいの封印力はあるんだぜ。
この机の下にじゅうたんが敷いてあるだろう。それをめくってみな。地下室の入り口があるから。全部、そこにしまってある。
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#3 Vanishing Point-5-
ジャグルはキュウに言われた通り、じゅうたんの下を覗いた。地面には四角く縁取られた部分があり、取っ手が付いて取れるようになっていた。それを丁寧に取り外し、地下をのぞき込む。
「さすがに真っ暗だな」
何も見えず、広さも深さも分からない。壁に取り付けられたはしごが闇の中に吸い込まれている。ジャグルはキュウを手にして、慎重にはしごを降りていく。
段数は八、九段といったところか。手を伸ばして飛び上がれば、ぎりぎり天井に付くというくらいの高さだ。暗室特有の湿気や、かび臭さというのは殆どない。その代わり、部屋全体を包む術力が感じられる。
明かりの代わりとして、指先に火を灯す。ぼんやりと部屋全体が浮かび上がり、物の位置が把握できた。広さは人一人がやや余裕をもって横になれる程度で、およそ真上の部屋の半分だ。正面には四段の棚があり、それぞれに木箱が入っている。右手には作業用の細い棚が取り付けられている。家具の作りはどれも単純だが、どことなく繊細さを感じさせる。
「ここにあるものは全部ドドの手作りさ。木の切り出しから中での組立てまで、全て一人でやっちまったぜ」
「そうなのか。すごいな」
ジャグルは空いた方の手で、棚を撫でる。表面はしっかりと磨かれ、ニスは濡れたような艷を演出している。節も少なく、まるで本職の大工が作ったかのような出来ばえだった。
「それで、お目当てのものは」
「ここ」
杖がひとりでに伸び、奥の棚の一番上の箱を示した。
ジャグルはそれを引っ張り出すと、机の上に置く。
「これがそうなのか」
上半分が赤、下半分が白く塗られた不思議な球体が、箱いっぱいに入っていた。
「そう。ドドが作り出した封印玉。中にどんな奴が入っているか、うっすら透けて見えるぜ。覗いてみろよ。但し、触っちゃ駄目だぜ。迂闊に触ると開くかもしれないからな」
ジャグルは頷き、恐る恐る顔を近づける。
白い鳥のような羽の生えた薄黄色の土蛇、トサカが鎌のように前に伸びた大鷲、植物の蔦が絡み合って出来た塊。その他にも、様々な姿の生き物が閉じこめられている。
「ここ二年でこれだけだ。あの手この手で封じ込めてきたが、年々人食いの数が増えてきてね。あいつも困っていたよ」
「二年でこの数だって? しかも一人で?」
ジャグルは驚いた。人食いは、巡り会おうと思ってもなかなか会えるものではない。通常ならば、タルトのまじない師があちこちに遠征に出かけて、年に十匹行くかどうかだと聞いている。この年は少し多い傾向にあるらしかったが、ジャグル自身大人の仲間入りをしてから出会った人食いでさえ、ムシャーナとブースター達だけであった。
「ドドが言ってたが、最近は人食いの動きが活発になってるらしいからな。増えてあぶれた人食いがいつ人間の街を襲うか分からないって言って、ちょくちょく人食い狩りに出かけるんだ」
「それでこの数か。でも、この数はさすがに変だ。何か理由でもあるんだろうか」
「さあてねえ」
キュウはとぼけたように笑う。ただはぐらかしているだけなのか、本当に知らないのか。
状況の異様さに不信感はあったが、それでもドドの術師としての技量には感服せざるを得なかった。これだけの人食いを手込めにする手腕。術に対する応用力。どれも集落に居たままでは決して得られなかった発想が、彼の中には溢れている。自分との違いを思い知らされ、また、もっと彼を知りたいという気持ちが沸き上がる。
「よし」
一つ膝を打つと、箱を棚に戻して地下室を後にした。
杖を机に立てかけて、ベッドを椅子代わりに腰掛けると、キュウは尋ねる。
「どうだい、封印玉を見た感想は」
「すごいな。何が違うのか分からないくらい、自分とはかけ離れてる」
ジャグルは素直に、思ったことを口にした。
「玉を作る技術についてもそうだけど、あの地下室も凄い。柱とか梁が一本も入ってなかった。あれ、ドドがまじないで崩れないように留めてるんだろう。何年も、何十年も、ともすればずうっと先まで効果が残っていなくちゃいけない術だ。おれ、一年間何も出来なかったけど、いろんなまじないを見てきたから分かる。あのまじないは、並の術師だったらかける気にならない。疲れるだけだからだ。軽々と使えてしまうってことは、それだけ身体に術力が満ちているってことだ。正直、無尽蔵なんじゃないかって思うよ。ブースターと戦った時もそうだけど」
ふと、キュウに目線を合わせる。何かおかしいと思ったら、よく喋るはずの杖がやけに静かだった。
「おれ、何か変なこと言ったかな」
「い、いや」
キュウの声は、妙に戸惑っている。
「おまえって、結構喋るんだな」
「そうかな」
そうかもしれない、と思った。
「大体いつもしょんぼりして、黙りこくったままその場をやり過ごすような陰気な奴だと思ったんだがねぇ」
心当たりがないわけではない。生まれてこの方、喜んだり激昂したりなんてしたくても出来なかったのだ。ジャグルは苦笑する。
「自分で使うことはできなかったけれど、ずっとまじないのことばかりを考えて生きてきたから」
「女っ気がないね」
キュウはけたけたと笑う。
「まあね」
ジャグルはそう切り返し、苦笑した。
その夜遅く。月がこうこうと輝く頃。
ジャグルは眠りと覚醒の間をさまよっていた。昨日は十分過ぎるほど眠ったし、栄養のあるスープもたらふく飲んだ。身体の調子は非常に良い。だがそれでも、落ち着かない気持ちだった。ドド・タルトという男の過去、そして高度なまじないを目の当たりにして、どうやっても興奮が冷めなかった。
世の中には、まだまだ自分の知らないまじないが溢れている。様々なまじない師に出会ってきたというドドが、少し羨ましかった。
諦めて、身体を起こした。僅かな月明かりを頼りにキュウの姿を見つける。元々動かないので、起きているのかどうかは分からなかった。耳を澄ませてみる。とても静かな夜だ。タルトの子どもはみな一つの部屋で眠るので、誰かがいびきをかいたり寝言を言ったり騒がしかった。今は寝息すら立てない人食いと二人きりである。悪くないな、と思った。もう少しこの静寂を楽しんだら今度こそ眠ろう。そんなことを考えながら、そっと部屋を抜け出した。
月の光が差し込んで、ぼんやりと表の部屋を照らし出す。鍋の中を確認してみると、中身はやはり温かいままだった。野菜の甘みが香りになって鼻をくすぐり、夜食の一杯をいただくことに決めた。お玉を鍋に突っ込むと、奇妙な違和感があった。夕方に結構飲んだはずなのに、中身がまるで減っていないのだ。この鍋にかけられた術は、温度を保つなんてものではない。鍋の中身そのものを永遠に保つものなのだ。ジャグルは思わず身震いした。なんて事だ。こんなに凄いまじないがあるなんて。更なる興奮で、もっと眠れなくなりそうだった。
その時だった。
コツン、コツン。
小さくドアをノックする音が聞こえた。
こんな夜遅くに何だろうと訝った。今日のところはお引き取り願おうと、立ち去るのを待ってみる。だが、ノックの主はおかまいなしにドアを開けてきた。もしかしたら、ドドが帰って来たのだろうか。いや、それならわざわざ叩く必要もないはずだ。
その答えは、部屋に立ち入る男の顔が見た瞬間に分かった。そして、それが自分にとってどんな意味を成すのかも。ジャグルは思わず、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「そんな、いや、嘘だろ……」
その男は、ジャグルの姿を認め立ち止まった。頼りがいのある広い肩。若い生気に満ちあふれた顔つき。見たいと思っても叶わなかった。ジャグルが最もよく知る人物の姿が、そこにあった。
「よう、ジャグル」
「レガ!」
そこに居たのは、死んだはずのレガ・タルトその人だった。
「心配かけたな」
レガは微笑む。ジャグルの顔も、いつの間にかほころんでいた。
「どうしてここに、いや、なんで」
うまい言葉が見つからない。話したいことがたくさんありすぎて、何から喋れば良いのか分からない。
「なんで、って何がだい」
「いや、だって」
いつのまにか溜まっていた涙を拭う。温かいものがこみ上げて、声を出すのが難しくなる。
「あの日、てっきり死んじゃってたのかと思って。ロークからそう聞いていたから」
「別にジャグルだって、俺が死んだところを見たわけじゃないんだろ」
彼はいたずらっぽく笑う。自分の涙など、知らないようなそぶりで。
「確かにそうだけど、それでも、あんなひどい状態じゃ、もう駄目だって、思うじゃないか。誰だってそう、思うに決まってるだろ、うわああん」
口を開くうち、堪えきれなくなったものが溢れ出す。みっともないから早く止まれ、と願ったが、止まらなかった。思えばいつも、レガの前では泣いてばかりだ。レガがいなくなってから、少しでも強くなろうとした。人食いへの復讐を誓い、もう泣かないと前を向いてきた。命を捨ててしまう覚悟だって決めた。だが、それも全て、今ここで、何もかもが報われたのだ。そう思った。
「泣くな、ジャグル」
目を開けて、レガの顔を見上げた。優しげな瞳が自身の瞳を深くのぞき込む。
「うん。ありがとう」
レガの手が後ろに回された。レガが、自分の大事な人が戻ってきてくれた。なんて幸せな日なのだろう。ジャグルはその身体を抱きしめた。
彼の温もり、彼のにおい。何もかもが懐かしい。たった数日のことなのに、もう何年も前のことのような気さえする。
「おかえり、レガ」
「ただいま、ジャグル」
「ずっと、ここにいて」
「もちろん。時が許す限りは」
ふふっ、とジャグルは笑った。
「なんだか、レガっぽくないな」
「何がだい」
「だって、普段そんな口説くようなこと、言わないもの」
レガの手が、一瞬強ばったような気がした。強く抱きしめたのだと、ジャグルは思った。
「たまには俺だって、そういうことも言うさ」
「あはは。レガはそうでなくっちゃ」
ジャグルはにいっと笑った。
ふと、レガはジャグルの髪を指で優しく梳く。
「それにしても、髪伸びたな。あんなに短い間のことだったのに」
「ああ、これか」
触れられたくはないことだったが、もう隠すことは出来ない。
「実はおれ、レガに言わなきゃいけないことがあるんだ」
思い出すだけでも、胸が痛くなるが、ぐっと堪える。
「実はおれ、女だったんだ。それで、一族の奴らにもバレて、殺されかけて、逃げてきた」
レガは何も言わず、次の言葉を待った。
「本当はもう、何もかもどうでもよくなっちゃって、オオカミに食われて死んでしまおうって思ったんだ。だけど、ドドが連れ出してくれた」
「そうか」
レガはジャグルの頭をくしゃくしゃと回す。
「良かったな。生きてて」
「……うん」
まだ気持ちの整理はついてはいないけれど、彼の言葉は確かにその通りだと思った。自分が死んでいたら、今レガに会うことだってなかったのだから。ジャグルはもう一度、レガにしがみついた。
「もうちょっとこうしててもいいかな」
「もちろん。ディドル・タルトもいないしな」
レガは呟き、ジャグルに応えようと彼女の背中に腕を回そうとする。だが言葉とは裏腹にジャグルは抱きしめる腕をほどき、彼の体からそっと離れた。殆ど無意識に行った動作だったが、次第にそれが、蜃気楼のようにそこにあるはずのないものが見えているような、奇妙な違和感であることに気付いた。
「どうしたんだ、ジャグル」
予想外のジャグルの動きに、レガは困ったような顔を浮かべた。何故だろう。レガの顔を見ることができない。
「レガってドドのこと、そんな風に呼んでたっけな、って思って」
「そんなことはないさ。俺はいつもこんな感じだろう」
「そう、だよな」
両手を広げ、おどけてみせるレガ。そうして見せる様子は、確かに自分のよく知るレガ・タルトのように見えた。
「そういえばさ、レガってどうやって助かったの。あの日、三匹の人食いを退治しに行って、生きているタルト達を逃がして、自分がおとりになったって聞いてたけど。あんな強い奴らから、どうやって逃げ延びたんだ」
ジャグルは質問を投げかける。レガは手を顎に当て、考えながら言葉を紡いでいく。
「正直、覚えてないんだ。無我夢中でみんなを助け出そうと思ったから。気がついたら奴らはいなくなっていて、自分は倒れていた。そんなところさ。情けない話だけれど、ただ運が良かっただけなんだ」
「ちぇ。何かいい方法があったら、俺にも教えて欲しかったのになぁ。人食いと戦うときに絶対役に立つのに」
「悪いな。でも、もし仮に知っていたとしても、術一個しか使えないような見習いじゃ、まだまだ使いこなせないんじゃないか?」
冗談じみた言葉とともに、レガは指で頭を小突こうとする。何かがおかしいと思った。実体と認識の差がぐわりと大きくなり、ますますひどくなる。そしてまた、不自然さの正体が後から追って意識の表面に浮かび上がる。彼の語る言葉は、ジャグルの知る彼の姿と、ほんの少しだが確実に、違っている。
「おれ、術を一つしか使えないなんて話したっけ」
自分のおでこを小突こうとするレガの腕が、ぴたりと静止した。煙のように捕らえ所のない不安を、実体のある確かな形として作り上げていく。
「そりゃあ、お前はまだまだ見習いだからな。そんなもんだろ」
「タルトの人間は、見習いなんて言葉は使わない。大人と子どもがいるだけだ」
この男は、レガではない。ジャグルの疑念が確信に変わった。
彼もそれを察知したのか、すぐさまわざと足音を立てるようにしてジャグルに近づく。あまりの気迫に数歩後ずさる。すぐに、これが失策であることに気がつく。思っていた以上に壁が近く、自分で背中を打ちつけてしまう。その一瞬の隙を突かれ、彼の手がジャグルの腕を壁に押さえつけた。扉の向こうのキュウに助けを求めることは、できそうにない。
「おとなしくしてくれるかな、ジャグル・タルト」
ジャグルは男の顔を見上げた。笑みを浮かべているようにも見えるが、まるで人間から人格や相というものの一切を取り払ったかのように平たく映る。もはやレガの面影など、どこにもなかった。
「お前、何者だ」
「そう、そうやって口を開けてくれているのがいい」
男は質問には答えず、代わりにジャグルの口の中にその腕を突っ込んだ。口の中で腕は形を変え、ドロドロとしたものに変わった。これがこの男の正体なのだと思った。そして腕は有無を言わさずジャグルの口内へと潜り込んでいった。口の中を覆い尽くし、喉の奥へと落ちていき、胃袋の中を埋め尽くす。
くそっ。口を閉じることさえできないまま、ジャグルは涙を流した。息が吸えず、身体から力が抜けていく。頭の回転も鈍りつつある。
「お前が生きていてよかったよ。弱いまじない師がこの家にのこのこやってきてくれたおかげで、とんだご馳走にありつけるってもんだ」
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#3 Vanishing Point-6-
顎が外れそうだ。口の中に異物を突っ込まれ、身体を内側から浸食していく。まるで自在に曲がる丸太を突っ込まれたようだ。歯に当たる感覚は、どろどろとしているのに堅い。鼻の方にも上がってきて、呼吸器官は完全に塞がれた。
「ふむふむ、なるほど皮膚から胃の粘膜までなかなかうまそうなニオイがしているぜ。これが術力を持った人間の匂いか。味が楽しみだ」
男は恍惚とした表情を浮かべて言った。
薄れゆく意識の中で、この人食いは何を食べるのだろう、と考えた。中から全ての部位を貪り尽くすのか、それとも胃や腸の表面を削るようにしていただくのだろうか。胃の中まで覆われるまでは感覚があったが、それ以上のことはよくわからない。
「むっ……奥の方が堅いな」
彼は不審を口にした。
「ぎゃっ」
次の瞬間、彼の叫びが耳をつんざいた。同時にどろどろの腕が一気に引き上げられ、ジャグルの身体を押さえていたものも全て彼の身体に戻っていく。解放されて支えを失い、その場に崩れ落ちて手をついた。
「げほっ、げほっ」
咳込みながらも、何とか息を吸い、男の姿を捉えようとする。
男は低いうなり声を漏らしながら、先端の無くなった腕を押さえつけている。腕は紫色のつやつやとしたものに変わっていた。これが口の中に無理矢理押し込まれた、彼の本当の姿のようだ。
「貴様っ、何をした」
ぜえぜえと息を吐きながら、彼は言う。
後ろの方で、戸がゆっくりと開いた。
「悪いが、こいつを食わせる訳にはいかねえんだ。誰もいないと思って油断したか? 運が悪かったなあ、メタモン」
顔を上げると、開いた扉の向こうで杖が自立していた。キュウ。ジャグルは名前を呼ぶが、声にならない。杖はゆっくりと傾き、ジャグルの方へ倒れた。
「もしもの時の為に、こいつの身体には守りのまじないをかけてあったのさ。神秘の守りって奴だ。お前ごときの術力じゃあ、皮膚をなで回すのがせいぜいだと思うぜ。それより先に進んじまえば、守りの力の反動で大怪我するしかないってもんだよ。けけっ」
キュウはけたけたと笑う。
「図ったな、キュウコン」
メタモンは低いうなり声を上げ、憎々しく言い放つが、キュウは微塵もうろたえない。
「騙し討ちはお前の得意技だろう? お互いさまだ」
キュウはジャグルの方に倒れ、背中をぽんと叩いた。
「ジャグル、聞け。人食いの中には人間の好きそうな姿に擬態する奴が存在する。こいつはとりわけその力に長けているんだ。確かに俺からしてもこいつの顔はレガ・タルトそっくりだぜ。だが長けているのは猿真似する力だけで、戦闘能力は大したことはない。俺を火矢代わりにして貫けば死ぬぐらいには弱っちい人食いなんだ。お前さえよければ、俺を使ってもいい」
「ああ。だが、その前に聞いておきたいことがある」
ジャグルは杖を手に持ち、立ち上がった。
「メタモン、と言ったな。どうしてお前がレガの姿を知っている」
ナイフの刃を当てるように、杖を彼の首筋に向けた。術力を発揮し、すぐに杖を放てるように張力を込める。だが、メタモンは不適な笑みを浮かべてジャグルの顔を見上げるだけだった。
「答えろ!」
ジャグルは叫んだ。思わず、杖に必要以上の熱を込めそうになったが、キュウの一言がそれを思いとどまらせた。
「今日の昼に来たガキンチョ、あれはお前だったんだな」
えっ、と声を漏らすジャグル。真実は想定していなかった方向から押し寄せる。
「こいつは他の生き物に変身してしまえば、まるっきり元と同じになれるからな。ある程度なら、その記憶でさえ真似することができる。自分の術力を隠すことなんて簡単も簡単だったろう。俺もついさっきまで、騙されていたよ」
キュウは語る。
「きっと本当のあのガキンチョは、この家のことなんて知るまでもなく死んだんだろう。こいつは母親を食った時に得た記憶をたよりに家族の居場所を探り当て、一家全員を皆殺しにした。そして、人食いに復讐を誓う人間を装ってドドの元を訪ね、話を聞いてもらうフリをして食ってしまうことを考えた……だから最初からこの家に来ていたのは人間のガキじゃなくて、メタモンだったんだ」
キュウはケタケタと笑った。
「前から目はつけていたんだ。強い術力を持つまじない師、一度は食ってみたいと思ったからな」
メタモンは杖の先端を掴み、立ち上がる。
「怪しまれないようにするためには、もっともらしい話が必要だった。まじない師ならば、人食いに食われた家族のこととなったら興味をそそられるに違いないだろう、と。だが、あいつは中々本性を見せない。何十回と訪ねたが、一向に取り合ってはくれなかった。見抜かれたのかもしれないが、こっちの正体を暴くでもなく、ただ追い返すだけを繰り返す。食えない奴だぜ、まったく」
メタモンはそう吐き捨てるように言った。そして、杖の先端を掴み起き上がる。レガの姿を借りたままなので、立ち上がるとジャグルを見下ろす形になった。
「だが、今日はお前が現れた。普通の人間よりも強く、それでいてあの男よりも未熟なまじない師。俺は計画を変更することにした。まじない師にはまじない師の仲間がいる。その中で、弱い奴を優先的に狙っていけば怪我をすることもない。食って力を付けたら、最後にはあいつを食ってやるのさ。今日はその最初の一歩のつもりだった」
メタモンの身体が変化を始めた。身体が青く変色し、二足歩行の鰐のような大柄な姿へと変わっていく。
「ほほう、オーダイルとも知り合いなのか。なるほどね」
キュウはケタケタと笑った。オーダイルと化したメタモンの、大きな顎の端が歪む。これも人食いか、とジャグルは敵を見据える。そして、驚くほど冷静な自分がいることに気が付いた。真実が一つ分かり、少なからず下る溜飲もあった。だが、胸の奥のざわつきはまだ続いている。今まで感じたことのない熱が、体に満ちあふれている。
「水を操る人食いなら、お前の炎も効かないはずだ。おとなしくしてれば、楽に死なせてやれるぜ、ちょっと痛いぐらいだろうが……まあ、勘弁してくれよ。黙っちまって、可愛いやつだぜ。言うとおりにしてくれるなら、とてもありがたいねェ。へへ、いただきまあす」
メタモンは姿を変えると、その性質ごと写し取るようだ。きっと元の人食いらしく、荒々しく、それでいて鈍く、頭の悪そうな口調だった。鰐の口が開かれ、ジャグルの頭がすっぽりと入り、胴体からぶちりと食いちぎられようとしている。
ジャグルの瞳に閃光が宿る。
そして、何もかもが一瞬で行われた。
「キュウ、少し我慢してくれ」
呟くやいなや、片手で自分の髪の毛を掴み、もう片方の手で杖を振り上げた。杖はまるで鋭利なナイフのような切れ味を発揮し、ジャグルの髪の毛を美しく刈り取った。
ジャグルは身体から離れた橙色のそれを、大鰐の口の中に投げ入れる。
「針っ」
鋭い叫びが響きわたる。その声に呼応するように髪の毛が鋭く立ち、オーダイルの口の中で刺さった。突然の出来事に反応できず、大鰐は痛みに鈍い声を上げた。
「雷っ」
ジャグルの二声。鰐は口の中で雷の落ちたような衝撃が走り、全身の筋肉の自由を奪われる。もはや叫び声を上げることすらままならない。
「馬鹿な、炎のまじないしか使えないと言っていたはずなのに」
「俺もそう思っていたよ。さっきまではね」
イカヅチ、と再び呟き、追い打ちをかける。
「お前もおれの記憶を読んだからには知っているだろう。おれは小さい頃から自分を男と偽って生きてきた」
一つ息を吸い込み、ハリ、と呟く。鰐の体のあちこちから、貫通したジャグルの髪が突きだしている。鰐の姿はほぼ解けかかっていた。
「全てはそれがいけなかったのさ。自分の正体を隠し、周囲に女であることを疑わせないようなまじないを常に自分でかけていたんだ。それも無意識のうちに。寝ても覚めてもずっと走っているようなもんだよ。休まる暇も、他のことに手をつけている余裕もない。だから、他に覚えていられるようなまじないは、炎を何かに灯す、これくらいしかなかったんだ。着火はタルトのまじないの基本だから。だけど、もう自分を隠す必要なんてない。自分を縛るものが消えたなら、他のまじないもいくらだって覚えられる。いくらだって使えるんだ」
ジャグルが語り終える頃には、メタモンは完全に元の姿に戻っていた。二つの黒目と口のついた、紫色の小さな軟体生物。体の所々から、ジャグルの髪の毛がはみ出している。だらりと全身を地面に溶かしそうになったところで、異変が起こった。メタモンの体が別の生物へと形を変えながら、しかし姿を定められないまま、少しずつ肥大化していったのだ。
「生意気な口を」「俺は何にでもなれる」「お前が一番怖いものにだって」「つべこべ言わずに」「餌め」「くそっ」「人間風情が」「食われとけばいいんだ」「俺の力があれば」「お前なんか」「お前なんか」「お前なんか」
狂い始めた人食いの言葉に、ジャグルはもう心を波立たせることはなかった。どんな姿に変身しようとも、自分を圧倒するような気迫や術力は感じられなかった。きっと騙されさえしなければ、こんな人食いなど並のまじない師でも勝てるだろう。所詮姿を変えたところで、それはかりそめの隠れ蓑でしかないということだ。
一つ深く呼吸をすると、杖を術で浮かせて張力を作る。
「お前が一番嫌いなぁぁ」
メタモンは自分の記憶を探ったのか、サンダースの姿を再現した。高速で移動し、雷の力を操る獣。髪の雷を警戒してのことだろうが、それが失策であることは明らかだった。
「レガの形を借りたこと、おれは絶対に許さないからな」
呟き、キュウの矢を放つ。ジャグルの怒りが、確かな指向性を持ってメタモンの眉間を貫いた。
そしてようやく、全身を駆けめぐる熱の意味を理解した。レガがこの世からいなくなったという事実をようやく受け入れ、深い喪失に悲しみを抱いているのだ。皮肉にも、彼を騙る人食いの登場によって。
「ぎっ」
メタモンは短い叫びをあげ、しゅるしゅるともとの姿に戻る。傷は負ったがまだ生きてはいるようで、なめくじのような動きで必死に退路を探している。
「逃がすものか」
床に突き刺さった杖を再び手に取ろうとしたが、メタモンの動きは気味が悪いほど俊敏だった。あっと言う間に扉に到達し、半分液体のような体を使って、扉と地面との隙間をくぐり抜けようとする。
悔しがったその時、扉がほんの少しだけ、きいと開いた。それと同時にメタモンの動きがぴたりと止まった。扉の動きを認め、警戒したというより、まるで全身がすくんでしまったかのような動きだった。
誰かが、まじないをかけたのだと悟る。
扉が開く。部屋の中にいる者は誰一人身動きがとれないまま、その人物の姿をゆっくりと認めた。黒い帽子を被った男が、ジャグルを一瞥してから、メタモンに目線を落とす。
「捕獲させてもらうぞ」
その男ーーディドル・タルトは、ポケットの中から赤と白の封印玉を取り出し、メタモンに向かって落とした。封印玉がメタモンに触れると、不自然に大きく弾み、半分に割れ、紫色の体をその中に吸い込んでしまった。
再び地面に落ちた玉を拾い上げると、ドドはそれを机の上に置いた。
「無事だったようだな」
「そうとは言えないよ。死にかけたんだから。大変だったんだぞ」
ジャグルはキュウを引き抜く。
「そうか。でも生きてる」
「でも危なかった」
ジャグルはむくれる。ドドは小さく笑った。まるで含むところがなく、ただ慈しむかような瞳でジャグルを見つめた。
「一人にさせたことは申し訳なかったよ。座ってくれ。食べ物はいるかい」
「さすがに人食いを殺す殺さないの戦いをした後じゃ、そんな気にはなれないよ」
「やっぱり、そうだろうな」
ドドは笑う。その訳を尋ねるより早く、ドドは背中を向けてしまった。
「それならお茶を出そう。気持ちを落ち着かせる効果がある」
後ろで何をやっているのかは見えなかったが、手を二度、三度動かすだけで、あっというまに淹れたてのお茶が完成してしまった。
「どうぞ」
ドドの手つきはしなやかで、つい見入ってしまいそうだった。ありがとう、とお礼を言おうとするも、すこし声がうわずってしまった。一口飲むと、スープの時と同じような、ほっとする温もりが胸の中に広がる。
「キュウから、話は聞いたのか」
「一応。どうしてドドが、タルトから離れた場所でまじない師をやっているのかとか、レガとどうやって知り合ったのかとか、いろいろ」
その全部をちゃんと覚えているかどうかは、自信はないのだが。
「俺はちゃんと仕事したからな。文句言うなよ」
キュウが横で抗議の声を上げる。
「分かってるよ。十分働いてくれた」
ドドは笑う。
しばしの沈黙の後、ジャグルはボールに目線を落とした。
「今日の昼、親を人食いに殺された男の子が来たんだ。まあ、実際会ったのはメタモンだったわけだけど、ドドはどうして何度も追い返したりしたんだ。最初から人食いが変身した姿だって見抜いていたのか。それとも単純に、男の子がお金を持っていなかったから引き受けたくなかったのか」
ドドは腕を組んで、低い声で唸った。
「悔やんでも悔やみきれないことだ」
話すのに心構えが必要な話なのだ、とジャグルは思った。
「正直、人食いを退治するという点においては、あいつを倒すことには何のためらいもなかった。無償で戦うことだって、喜んでやっただろう。だが、問題は少年の動機だ」
「復讐」
ドドは頷いた。
「ここで簡単に俺が手を下してしまったとして、この子の人生が果たして好転するのだろうか。母親は死んだ。父親は生きてはいるが、最愛の妻を失った悲しみに耐えられず、自棄を起こして息子に当たり散らす。少年を愛してくれる家族は、最早どこにもいない。居場所のない中で、彼は母の仇を討つことだけを頼りに何とか生き延びてきたのだと思う。だが、憎しみの上には、同じ憎しみしか積み重なりはしないんだ。人食い相手であっても、それは同じだ。やがて自分の重ねた憎しみに押しつぶされて、自分自身を壊すことにもなりかねない。そう思うと、彼の復讐には賛成できなかった。何か別の形で、彼に生きる希望を見いだして欲しかったんだ。
だが、次に彼がここを訪れたとき、すでに彼は彼ではなかった。親の仇を討つという名目で、俺を食らおうとする人食いにすり替わっていたんだ」
彼は机に肘を置き、自分の顔を隠した。ジャグルはお茶を口に含む。時間が経ったせいで、少し冷めてしまった。
「既にキュウはこの姿になっていたこともあって、こいつの正体が分かっていても手を出すことが出来なかった。この家を壊すことにもなりかねない。放っておくわけにもいかず、ずるずると今日まで来てしまった」
この男にも、迷うことはあるのだとジャグルは思った。何でも出来そうなまじない師が、自分にも読めない未来のことで悩んでいる。そして、たった一回の迷いが結果的に一人の少年を死なせてしまった。
「俺の代わりにあいつを倒してくれてありがとう、ジャグル。礼を言うよ」
「……うん」
ジャグルは短く答えた。思いがけない出来事だったが、少しは彼の助けになっただろうか。彼の顔は、心底安心しきった様子だった。機会仕掛けの人形のような表情から解き放たれて、血の通った彼自身の人格が、そこに表れているような気がした。それも、母親のまじないが発動するよりも前の、純粋なディドル少年の心が。
「だけどさ」
ジャグルは言う。
「おれはやっぱりまだまだ半人前だよ。キュウが助けてくれなかったら、今頃きっと何も出来ないまま、食われて死んでた。キュウの助けは、ドドの指示だ。だからお礼を言うのは、おれの方だよ。ありがとう、ドド」
「……ああ」
会話が途切れ、しばらく二人はお茶を飲んで過ごした。おかわりはいるか、と聞かれたので、遠慮なくいただいた。
「あのさ」
ジャグルはふと、口に出した。
「もし良かったら、しばらくここでドドの仕事を手伝わせてくれないか。おれはいつかきっと、一人でも生きて行かなくちゃいけないから。助けてくれたのは嬉しかったけれど、いつまでもそれに甘えているわけにはいかない。そのための力をつけるためにも、ドドの近くで色んなことを見聞きしなきゃ、駄目なんだ。だから……お願いします」
思いつきのようでいて、実は心のどこかで考えていたことだった。ドドの近くで、色々なことを学んでいけたらと、そう思っていた。自分の知らないまじないのこと、そしてドド本人のことを。
「いいだろう」
「本当!?」
ジャグルは叫んだ。ドドはゆっくり頷いた。
「レガと昔話したとき、約束をしたんだ。もしレガが死んだ時には、代わりに俺がお前のこと守る。例え拒まれようとも、俺は約束を守るつもりだったんだ」
ドドは大きな笑みを作り、右手を差し出した。
「君の方からそう言ってもらえて良かった。よろしく、ジャグル」
「ありがとう。こちらこそ、よろしく」
ジャグルは満面の笑みを浮かべて、固くその手を握った。これから、どんな生活が始まるのだろう。ほんの少しでも、彼の役に立てるようになるだろうか。未来がこんなに楽しみなのは、生まれてはじめてのことだった。
「ただ一つ、条件がある」
ドドは人差し指を一つ立てて、ジャグルを止めた。
「条件」
ジャグルが繰り返すと、ドドはその通り、と笑った。
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#3 Vanishing Point-7-
次の日になり、身支度を整えると、ドドは一緒に出かけようと提案した。どこへ行くんだ、と聞くと、
「条件について、さ」
と短い返事が返ってきた。
「驚くかもしれないが、怖じ気付くなよ」
奇妙な前置きに、いったいどんなことが待っているのだろうと心がざわついた。だが、ここに住ませてもらう以上は、どんなことでも受け入れなければ、と言い聞かせる。
「分かった」
ジャグルは頷いた。
「よし、じゃあ出かけよう」
ドドは家の扉を開いた。ジャグルもその後に続く。
外はよく晴れていた。わた雲が穏やかに流れていて、気持ちの良い陽気だった。表通りに出ると、日差しも相まって暖かい空気が全身を包んだ。
「はぐれないように」
ドドは人通りの間をするすると抜けていく。あまりに器用に通るので、体が少し薄くなってしまったのではないかと疑った。
やがて通りを抜けると、金属で出来た門の前に辿り着いた。その景色を見て、ジャグルはドドの目的地を察した。彼女にとっても、見覚えのある場所だった。
「もしかして、ここって」
「そう。クラウディア夫人のお屋敷だ。君も来たことがあるだろう」
「もちろん覚えている、けど」
初めての遠征のとき、レガに連れられてきた場所だ。ここで初めてドドに会い、そして苦い経験をした。
「……ちょっとなぁ」
ジャグルは顔を歪ませる。高貴な雰囲気に気圧されて、屋敷の一人娘のお嬢様に無言で睨まれた時の記憶は、今でも鮮烈に残っている。あまりに冷たく、卑しいものを見るような瞳。それ以来、貴族というものに苦手意識を抱いていた。遠征でも、そういう者を相手にするような状況は出来るだけ避けて通ろうとしたものだ。
「おれ、大丈夫かな。服も糸が解れてるところがあるし、髪もざっくばらんだし、こんな立派なところに来れるような格好じゃないよ」
「そんなに悪くは見えないさ。俺にしっかりついてくること、恥ずかしがらずに堂々と振る舞うこと。それさえ覚えておけば大丈夫」
本当に大丈夫、なのだろうか。ジャグルは首を傾げる。
丁度その時、門の向こう側から近づいてくる姿があった。初老の男だ。彼に会ったことがあるかどうかまでは、覚えていない。
「ディドル・タルト様ですね。お待ちしておりました。さあ、さあ。こちらへ」
手で順路を指し示すと同時に、ジャグルの姿を認め、微笑みを浮かべた。
「あなたがジャグル・タルト様ですね。お待ちしておりましたよ」
突然の言葉に、思わずまごついてしまった。自分のことを知っているのかもしれないし、ドドが話したことでちょっとした噂になっているのかもしれない。その言葉の意味するところを聞いてみたい気もしたが、何となくためらわれた。
雑木林を抜けると、丘の上に大きな白い建物の背中が見えた。広大な庭を横切って、屋敷の表玄関へと向かう。屋敷と大きな門を繋ぐ石畳は荘厳で、思わず見入ってしまった。前に来たときは、この美しさにさえ気付かなかった。
「ジャグル」
「あ、うん、ごめん」
名前を呼ばれて、置いて行かれそうになったことに気付く。
大広間に通されると、さすがに全身を襲う緊張は止められなかった。手がじんわりと汗ばみ、顔が強ばる。
男は近くにいた侍女に耳打ちし、二階へ向かわせた。
「奥様とお嬢様をお呼びしましたので、しばらくここで」
「ありがとうございます」
しばらくの間、沈黙が続いた。
失礼にならない程度に、部屋をゆっくりと見渡す。壁の白には黒ずみひとつなく、絨毯には土一つついていない。手すりの金色は外の光をそっくりそのまま反射している。細部にまで行き届いた室内の施しは、高貴な佇まいを変えない。その一つ一つには、華やかさと同時に厳格さが備わっている。肌がぴりぴりとした。
やがて、二つの足音が聞こえて、ジャグルは顔を向ける。
黄色いドレスのクラウディア夫人、そして紫色のドレスはその娘、ロコ。一年ぶりの再会であった。
「ごきげんよう、ドドさん。そして、ジャグルさん」
「ごきげんよう」
夫人に続いて、ロコがおしとやかにドレスの裾をつまみ、お辞儀をする。
「ご機嫌麗しゅう、夫人、ロコお嬢様。紹介します。こちらはジャグル・タルト。最近、我が家に住むことになった妹です。ジャグル、挨拶を」
「ジャグルと言います。宜しくお願いします」
こういう時は、どうするのが良いのだろう。自己紹介をするという機会もないので戸惑いながらも、胸を張って声を出す。夫人の顔を見るとにっこりと笑っていたので、少なくとも悪い印象ではなさそうだ。
「お久しぶりですね。あなた、前にも来たことがあったでしょう」
「えっ、覚えて下さっていたんですか」
てっきり忘れられているものだと思っていたので、不意を突かれた。
「ええ。ちょうど一年くらい前のことだったかしらね。確かこれくらいの季節に、ドドさんが紹介して下さったわ。あの時はもう一人、男性の方がいらっしゃったと思うのだけれど……あの時のことは、よく覚えていますわ。あんなにまじない師のお話を聞かせていただけるなんて、滅多にないことですもの」
そう言って、夫人は笑った。ドレスの黄色も相まって、ぎらぎらと眩しい 印象を抱いた。
「私も口べたなもので、彼……レガがいると色々とありがたいのです。放っておいても、ぺらぺらと喋って場が華やぎますから」
ドドの言葉に、夫人も笑った。ドドは恐らく、レガが死んだことはこの二人には話していない。そして、伝えるつもりもないのだろう。名前を聞くだけで悲しい気持ちに覆われそうになったが、涙はぐっとこらえて平静を装う。
「それでも、ジャグルさんのこともよく覚えていますわよ。特にロコなんか」
「お母様、お二人を立たせたままですよ」
ロコは呆れたように言う。
「あら、ごめんあそばせ」
おほほ、と照れ隠しに笑う夫人。気を取り直して、部屋の方を向く。
「もし宜しければ、一緒にお菓子でもいかがでしょう。食べながら、昨日の話の続きをしませんか」
「そうですね。宜しくお願いします」
ドドは会釈した。
一室に入ると、長いテーブルがあり、白いテーブルクロスの上には既にお菓子を乗せるためのお皿が用意してあった。こんなに立派な招かれ方をしたのも初めてのことで、どうしていいのか分からず、とりあえずドドの隣に座った。
「よくいらっしゃいました、と言いたいところだけれど、ひどいですわ。泊まって行ってって言ってるのに、また部屋を抜け出したりなんかして」
「申し訳ありません、ご夫人。昨日はいやな胸騒ぎがしたので、早々に帰らせて頂きました」
「もしかして、また人食いが現れたのですか?」
ロコが問う。
「ええ。予感通り、我が家に人食いが進入しておりました。ですが、この子の助力もあって無事退治するに至りました」
手のひらを向けて、ドドはジャグルを指さした。
「まぁ、すごいのですね」
ロコは手を叩いてジャグルを見て喜ぶ。
「まだまじない師になって一年経ったぐらいですが、なかなか才能のある子ですよ」
そうなのだろうか。気恥ずかしくなって、頭をかく。ちらとロコの方を見やると、にんまりとした笑みを浮かべてこちらを見ている。
やがてお茶やお菓子が運ばれ、四人はそれらをゆっくりと楽しんだ。焼き菓子は初めて食べるものばかりだったので、思わず踊り出しそうなほど興奮した。
「うちのお菓子はどう? ジャグルさん」
「はい! とってもおいしいです」
満面の笑みを浮かべて答えたら、いつのまにかくっついていた食べかすがぽろりと落ちた。ごめんなさい、と慌てて謝る。いいのよ、と夫人は笑った。
もっと食べたいと思ったが、さすがにわがままが過ぎるだろう。一口一口を大事に味わうことで目一杯堪能した。
「さて」
一通り食べ終わり最後の一杯を味わっているところで、ドドは急に居住まいを正した。どうやら、重要な話を切り出すつもりらしい。
「ご夫人。今日お伺いしたのは、昨日のお詫びともう一つ、お願いがあってのことなのです」
ドドの声に、若干の緊張が混じっているのが分かった。
「昨日お聞かせ頂いた、人食い退治の報酬についてですね」
「はい」
ドドは立ち上がり、ジャグルの後ろに回ると、両手を方にぽんと置いた。
「お嬢様の家庭教師の時間に、このジャグルを同席させて頂きたいのです」
その場にいた全員が驚き、声を上げた。ジャグルは飛び上がりそうになったところをドドの両手で止められた。夫人とロコは目を丸くして、顔を見合わせた。
「勿論、お嬢様の都合というものもありますし、毎回とは言いません。ただ、時々この子にも勉強を教えてやって欲しいのです。どうか、お聞き入れ頂けませんでしょうか」
ドドは頭を下げた。二人の視線がこちらに注がれる。ここからが彼の言う「怖じ気付くな」というところなのだろう。過酷な人食い退治の旅をすることや、何日にも渡るまじないの研究のようなことばかりを思い描いていたジャグルにとって、不意打ちも良いところだった。だが、これもドドのもとで暮らし、強くなるための一環なのだと思うと、負けるわけにはいかなかった。
「宜しく、お願いします」
ジャグルは立ち上がり、頭をぶん、と下げた。
「顔を上げて下さい、二人とも」
夫人は促す。顔を上げると、太陽のような笑みがこちらに向けられていた。
「それくらいでしたら、全然構いませんことよ」
そう言って、一つ頷く。
「いつもお世話になっているドド様のお願いを、無碍にするわけにはいきませんし、それに何より、知恵を身につけることは素晴らしいことです。ドド様の妹様でしたら、私だって大歓迎。ただせっかくロコと同じ時間を過ごすのなら、この子のよきお友達になってほしいのです。だから、私はこの子さえ良ければ、お受けいたしますわ」
夫人はロコの方を向いた。
「どうかしら、ロコ」
「私は」
ロコの瞳がジャグルを射抜く。自分を試されているような気がして、堂々と彼女の視線に応える。だが、過去のことを思い出すと、ほんの少しだけ見つめる先が下がってしまう。心の中を見透かされるような瞳は、こそばゆい気持ちになる。
ほんの一呼吸のあと、ロコはふっと力を抜いた表情を浮かべた。
「私も、構いませんわ」
「本当ですか」
思わず叫ぶような声を上げたのは、ドドだった。ありがとうございます、と深々と頭を下げた。一瞬ロコは目を伏せた気がしたが、すぐにまた元の表情に戻り、こちらの方を向いた。
「これから宜しくね、ジャグルさん」
「はい、ありがとうございます。宜しくお願いします」
「そうだ、早速今日先生がお見えになるから、一緒に授業を受けてみてはどうかしら」
夫人は提案する。
「いいですわね。ジャグルさん、一緒に受けましょう」
ロコもすっかり乗り気のようだ。
「決まりですね。ジャグルを宜しくお願いします」
ドドが頭を下げた。
ジャグルは机が置いてある、小さな一室に通された。学習用の部屋なのかな、と思った。もう一時間も待てば、家庭教師が来るらしい。一体どんなことを喋るのか、自分にもついていける話だろうか、考えれば考えるほど、期待と不安が増していく。
「大丈夫よ、ジャグルさん。初めての人にはそんなに難しいことは話さないはずですよ」
「そう、でしょうか」
「そうですわ」
ロコはジャグルに寄ると、椅子に並んで座らせた。窓際に彼女が座った。
ロコの家庭教師は突然増えたもう一人の生徒に少し困惑したが、屋敷の母娘の願いとあっては断るわけにもいかず、急遽授業の内容を変更し、小さい子どもでも分かるような話をした。最初はぎこちなかったものの、だんだんと議論は白熱し、あっという間に時間が過ぎ去った。
「いやぁ、ジャグルさん。あなたは飲み込みが早い。将来が楽しみですよ」
「良かったじゃないですか」
「ロコさんも先生も教えるのうまいから」
ジャグルは少しはにかむ。
「それじゃ、私はこれで」
先生を見送ると、ロコとジャグルは二人きりになった。
「ねぇ、ジャグルさん。いえ、ジャグル。二つお願いがあるのですが、聞いて下さいますか」
「何ですか、お嬢様」
「私たちはもうお互い対等なお友達なのだから、気さくなしゃべり方にしましょ。その方がきっといいと思うの。その方があなたの良さも、きっと出るわ」
「はい……うん、わかった」
「そうそう、そんな感じ。もう一つ、その髪……整えさせてもらってもいいかしら」
「この髪を?」
「そうよ」
何故だろうか、急にロコの顔つきが変わったような気がした。まるで、夫人のような太陽の笑みに。
「あなたのそのきれいな髪を、そのままにしておくのは勿体ないわ。うちの理髪師はとっても優秀なのよ、きっとあなたに一番似合う髪型を作って下さるわ!」
「そ、そう? じゃあ、お願いしてもいいかな」
「そうと決まれば、さっそく呼んでくるわね! そこで待ってて、すぐに来るから!」
呆気に取られているうちに、ロコは部屋を飛び出して行ってしまった。なるほど、あの夫人の娘だ。本質的には、きっととんでもなく強気な人なのかもしれない。
「ただいま、ジャグル! 連れてきたわ!」
あまりの早さに、一息つく間さえない。
「お嬢様、そんなに引っ張らないでください」
背の高い理髪師が、困った顔をしてロコに連れられていた。彼女のドレスの裾を踏んでしまわないように走るのは苦労しそうだった。思わずひきつった笑みを浮かべてしまう。
外に出て、髪を切ってもらった。既に短くなっていたこともあって、ロコのようなふわりとした髪型には出来なかったが、理髪師の手さばきによって先端までしっかりと仕上っていく。
「さぁ、出来ましたよ。いかがでしょう」
理髪師の言葉に従って、鏡の前に立って見つめてみる。
「あまり、変わり映えがしないなぁ」
率直に言い過ぎた、と思い直して、顔がひきつる。だが実際に鏡の前にいたのは、性別を偽っていた頃と殆ど違いのない髪型をした自分だった。
「でもよく似合っているわよ。短いならこうでなくっちゃ」
ロコが言う。なんだか釈然としないが、それでも鏡に映る姿をよく見れば、以前とは全く違う印象を受ける。
「そうだな。動きやすそうだし、いいか。ありがとう」
ジャグルはそう言って、理髪師とロコにお礼を言う。
「やっぱり、あなたはその格好があなたのあるがままの姿、という感じがするわね。とっても素敵」
「あるがまま」
何のことを喋っているのだろうか。聞くのをついためらってしまったが、それは向こうから切り出された。
「こう見えても人を見る目はある方でね。一年前初めてあなたを見たとき、一目でとても良い心を持った人だと分かったわ。けれど、あなたはそのあなたらしさを隠そうとすることばかり考えているようにも見えたの。それがとても勿体なくて、私は少し悔しくなってしまった。ほんの少し勇気を出せば、あなたの良さなんていくらでも花開くと言うのに。私が立ち入る問題ではないと分かっているだけに、何も言えなかった。
だけど、もうあなたは大丈夫みたいね。何かを乗り越えたような、そんな顔をしているわ」
自分が乗り越えたものとは、何だろう。一族のしがらみか、レガの死か。思い返せばまだ胸の奥が痛くなるようなことばかりだが、それでも前と比べれば、未来のことを考えようとしている。
「そうかもしれない」
ジャグルは応えた。
「そうかもしれないな……」
外の光が眩しくて下を向く。整えられた髪は涙を隠してはくれなかったが、隠そうとは思わなかった。友達の前で、自分の弱いところを隠す必要はないはずだ。ロコは何も言わず、ただ見守ってくれていた。
月は庭を青白く照らす。風が吹き抜けると、首もとに冷たい流れを感じた。暑い季節の終わりを告げているようだ。すぅっと気持ちも透き通っていく。
丘の下には、ドドが待っていた。屋敷の住人と別れを告げ、ドドの家へと帰っていく。今日はきっと、よく眠れるに違いない。きっと、明日も、明後日も。何かに怯える日々は終わったのだ。
今はまだ「何があっても平気」とまでは言えない。だがいつか必ず、確固たる自信を身につけた自分が、どんな風にもなびかない強さを身につけて、己の足だけで進むことになるのだろう。遠く、点にしか見えない場所にも、歩き続ければいつか必ずたどり着く。そうすれば、また新しい点が見えてくる。そうやって生きていけばいいのだと、ジャグルは思った。
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#3 Vanishing Point-8-
「ジャグル・タルトは眠ったか」
「ああ。よく眠っている」
「こちらには気付いていなさそうだな」
「仮に意識があったとしても、我々の会話を認識することはできない。すべては曖昧な夢の話だ。それで終わる」
「それなら安心だ。まだこの話を聞かせるわけにはいかない」
誰かの話し声が聞こえる。だが、何を喋っているのかまでは分からない。声が小さいからではなかった。彼女自身の意識が奥深くに沈み、表面で起こっていることを認識できないのだ。肉体もなく、ただ意識だけがふわふわと漂っている感じだ。
実際に、ここは夢の中だった。いつもならはっきりとした意識を持ちながら降りていく、夢の下り坂。その下りきった先で、ジャグルは殆ど自我を持たないまま漂っていた。
目の前で、二人の男が話していた。一人は白い髪の少年で、もう一人は黒い服を着た男である。自分のことを話しているような気がするが、意識がはっきりせず、その内容を認識出来ない。会話は木々のさざめきのように、耳を通り抜けていく。
「ジャグルを保護してから四日か。目覚めてからは二日。ずいぶんと時間がかかったな」
白い髪の少年がしゃべり出す。見た目は幼いが、その精神は黒い服の男と同等か、それ以上の年月を生きた人間のもののようだった。
「先日の不運の連続が、彼女の心を蝕んだのだろう。その傷から立ち直るまでに、時間が必要だった」
黒服は応じる。
「あるいは、目覚めたくなかった、とも言えそうだ」
少年は不適な笑みを浮かべる。
「彼女は目覚める直前に、この夢の底に辿り着いたよ。いつもより長い時間この夢の中を歩いていたからね。予定より早い到着だ。喜ばしいことだとは思わないか。俺たちの計画成就が、また一歩確実になったわけだ」
嬉しそうに話す少年とは裏腹に、黒服は少年を睨みつける。その様子を少年は鼻で笑う。
「分かってるよ。ジャグルはあくまで代理ってことだろ」
二人の間に、沈黙が流れる。何やら、意見が分かれているらしい。少年は計画を進めたがっているが、黒服はその方法に迷いがあるらしい。
「やっぱり、あいつで行くべきだよ。俺はそう思う」
少年の見やった方向には、もう一つの魂が浮いていた。どんな姿をしているかまでは、分からない。もう一つの意識は、彼らの会話を認識しているのだろうか。疑問が浮かんでは、空中に漏れて霧のように消える。
「あいつのことについては、まだジャグルには喋っていないんだろう?」
少年の質問に、黒服は黙って頷く。
「どうしてだい。俺たちには時間がないというのに」
「出来る限り、ジャグルを巻き込んではいけない。この計画は俺とお前、そしてあの女の三人で完結させなければいけないんだ。それが、俺たちの責任。そう思わないか」
少年は黒服の顔をまじまじと見つめる。
「考え方が変わったな。お前はもっと、手段を選ばないものだと思っていたよ。あの子の心を掌握して、この計画に協力してもらう。それくらい、お前には出来たはずじゃないか」
少年の口調がほんの少しだけ、刺々しさを持つ。しばらくにらみ合った後、黒服はため息をつく。
「正しい判断をしただけさ」
「ふぬけたか? この期に及んで、まだ覚悟が出来てないとぬかすんじゃないだろうな」
「そういうことじゃないさ。お前の命を無駄にするつもりだって、毛頭ない。俺一人で、決着をつけるのが筋だってことを言いたいだけさ」
黒服の言葉の後、しばらくの沈黙が続く。
そして、少年は諦めたように口を開いた。
「わかった。言い過ぎたよ。ジャグルはあいつには関わらせない。それでいいな」
「ああ、助かる」
「だけど、あいつは手強い相手なんだろう。本当に大丈夫か」
「それでも、やるしかない。それくらいのことは、やらなきゃならないんだ」
黒服は切り株に座る。
「具体的な期限は、どれくらいだ」
「そうだな……もって二年、というところだと思う。短いだろ?」
「短いな」
黒服は呟き、手を組んで一点を見つめた。到達すべき未来を、見据えるように。
「頼むぜ。俺はこうなってしまった以上、お前の手助けをすることはできない。何もかもを終わらせてくれ。ディドル・タルト」
「勿論だ、レガ・タルト。パルスの最終魔術は、何としても俺たちの手で完成させる」
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第3部 師弟が過ごした二年間
#4 蜂蜜 -1-
ジャグル・タルトがディドル・タルトの家にやってきてから起こった事件のうちのいくつかを、ここに書き記す。
クラウディアの屋敷の一室で、ロコとジャグルは机に向かって一枚の紙を眺めている。
数学の家庭教師から、ロコは課題を出された。学のないジャグルに対して、勉強を教えるというものだ。教師に見守られて、二人は問題に向き合っている。
机の上に置かれた紙には、直角三角形が描かれていた。一辺の長さを求める問題のようだ。
ロコの説明は的を射ず、ジャグルの頭を混乱させる。最初は一致団結して、はりきっていた二人だったが、徐々に雲行きが怪しくなってくる。
「だから二乗ってなんだよ。数字を二回掛けることと直線の長さと、どう関係するんだ? 分からん、全然分からねえ」
「実際に長さを出してみればどうかしら」
そう言って、ロコは紙に線を描く。
「書いてみないで頭の中だけで考えるからそうなるのよ。ほら、この直角三角形の直角側の長さを3と4とするでしょう。斜めの長さを測って」
目盛りのかかれたひもを使い、実測してみる。
「……5だな」
「でしょう。3の二乗は9、4の二乗は16。5の二乗は25。9+16は?」
「ち、ちょっと待って、書かせてくれ」
ロコのを理解する前にどんどん話が先に進むので、全く追いつける気がしない。止めれば止めたで苛立つので、整理している時間もない。焦った手で羽根ペンを持ち直す。慌てて引き上げたせいでインクがぽたぽたと垂れ、いざ文字を刻もうとする頃には掠れてほとんど書けない。何とか答えにたどり着いたものの、ジャグルの右手は真っ黒に染まっていた。
「あれ」
「どうしたの」
「えーと、結局なんで二乗したんだっけ」
頭の中を整理する為に呟いた一言で、ロコは降参しそうになった。
そうこうしているうちに、予定の時間を大幅に過ぎてしまった。ロコの勉強に付き合っているとつい議論が白熱するので、いつも長引いてしまう。家庭教師もクラウディア夫人も、熱中することがあるのはいいことだ、と笑って済ませてくれるが、ドドからは後で何を言われるか分からない。
迎えに来たドドを見つけるなり、ジャグルは慌てて謝った。クラウディア夫人と雑談を交わしながら、二人を待っていてくれたらしい。
「ごめん、遅くなった」
「ごめんなさい、お待たせいたしました」
ロコもドドに頭を下げる。
「教えるって、難しいことなのですね。自分でやってみて、私の至らなさを思い知りましたわ」
家庭教師は微笑んで頷いた。ジャグルは神妙な面持ちで頷いた。
クラウディアの屋敷を離れると、
「さて、」
とドドは言った。普段から感情を露わにしない寡黙な性格が、ここぞとばかりに恐ろしさを発揮する。クラウディア家の敷地では何事もないようなそぶりだが、遅刻の後には決まって罰がある。ドドの家に帰ったら一体どんな仕事を言い渡されるのだろうかと、ジャグルは内心恐怖していた。洗濯、掃除、あるいは薪拾いか。それも、尋常ではない量の。
「本当にごめん。反省してるからさ、このとおり」
大きく頭を振り下ろす。大げさかもしれないが、これくらいしなければ伝わるものも伝わらない。さて、しか言っていなくても、後に続く言葉は阻止できるものなら阻止したいところだ。ドドは怒鳴ることはしないが、言葉一つ一つが重みを持ってジャグルの心を揺さぶってくる。
「約束をないがしろにしようってわけじゃなかったんだぜ。あまりに熱中し過ぎちゃってさ、つい、……ね」
ははは、と笑ってごまかす。しかしドドの表情は全く動かない。
「いち、に、さん、よん、ご……ろく」
ジャグルによって歩みを止められたドドは、指を折りながらゆっくりと数え上げる。ろく、の声と共に人差し指を再び開く。何の回数かは分かっている。クラウディア家で、ドドを待たせた回数だ。
「とうとう片手で数え切れなくなってしまったな。なあ、ジャグル」
ジャグルは顔を上げる。ドドの握られた手を見やり、顔を見る。ドドはまるで老いた賢者のように、にっこりと微笑んでジャグルの顔を覗いた。
「な、何さ」
無言の中に秘められた心臓を握り上げられるような感じがして、まるで大蛇に睨まれ石にでもなったかのようであった。不気味な沈黙が続く。
何を言われるのかとひやひやしたが、ドドはなぜか急に何かに納得したように頷き、歩き出してしまった。石化は解けたものの、まだ心臓はきゅっと縮んでいる。どんなに厳しい罰よりも、自分の処分が決まらないことの方が居心地が悪いことを、ジャグルは学んだ気がした。今回はそういう罰なのだ、と言うことに気付いたのは、もう少し後になってからのことだった。
ドドの家に帰ったらすぐ、ジャグルはいつも与えられている役割をこなした。
薪に火を付け、お湯を沸かす。
机などに積もった埃をふき取る。
晴れている日は天の月を観測し、満月に近い日は天窓を開け、寝室に月光を取り入れる。
月光のもとにまじない石を置き、浄化する。
髪や爪が伸びていたら切り、集めておく。
これらを行う際には、まじないを使ってはならない、とドドは言う。一度だけその理由を聞いたが、彼は微笑むだけで何も語らなかった。ジャグルもそれ以上は聞かなかった。
お湯が沸騰すると、皿に湯を注いだ。茶葉を盛った小皿と一緒に、机の前に座ったドドに出す。飲むための茶葉ではない。近い将来を占うまじないのために、必要な道具である。ドドは茶葉をつまみ、ぱらぱらと湯の上に落とす。そして、皿に両手をかざした。
ほどなくして、ふわっ、と周囲に香りが漂う。最初は茶葉の香りのようであったが、徐々に別のものへと変化していく。朗らかで、強烈に甘い香りだ。すぐに手を伸ばして、舌で溶かしてしまいたくなるような甘い香り。幼い頃に、どこかで味わったことがあるような気がしたが、どうにも思い出せない。
「……ふむ」
ドドは軽く唸り、顎に手を当てる。
「実は今日、夫人から依頼があった。目的地は、クラウディア領の北のはずれだ。三日後に出発する。ジャグルは出来るだけ多くの携帯食を用意してくれ」
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#4 蜂蜜 -2-
ジャグルとドドの荷物は日数の割にかなり多くなった。特に多いのは携帯食料で、移動予定に対し3日ほど多めに積み込んでいる。これだけの量を用意させる理由について、ドドに聞いてみたものの、彼は答えを教えてくれなかった。それを不服に思わないわけではなかったが、彼のことだから何か思惑があるのは間違いないだろうと疑問を飲み込む。
ジャグルは仕事をしながら、彼の考えについて思いを巡らせてみた。まず考えられるのは、現地で食料を分けてもらえない可能性がある、ということだ。今回向かう先は、北方の山奥にひっそりと佇む辺境の村だと言う。採れる資源も限られているかもしれない。そうであれば、旅人に分けられる食料も多くはないだろう。そうなれば、自分の食べ物は自前で用意するしかなくなる。確かにそれなら、理屈は通る。
クラウディア夫人から馬を借り、移動を始めてから4日が経過した。天気も良好で、馬に疲労を癒すまじないを逐一施したことが功を奏し、際立った不調は無さそうだ。それでも油断は禁物である、と気持ちを引き締め、普段以上に様子を気遣いながら進む。
「そういえばさ、馬の姿をした人食いっていないの」
ある日の休憩時間に、ジャグルはドドに聞いてみた。
「どんな能力があるかはおいといて。そういうのを使役できれば、こういう移動も楽になんじゃないかなって思うんだよ」
おどけて喋るジャグルに、ドドは笑う。
「いたにはいたんだが、捕獲するより前に倒してしまったよ。キュウの火力が強すぎてね。炎のたてがみを持つ馬だった。あれは本当に惜しいことをした」
「手加減しろだなんて言われてなかったからな」
ケタケタと、杖が笑う。
「二言目に言おうとしたのに、それより前に相手は灰になっていたじゃないか」
ドドは反論する。おかしくて、ジャグルはけらけらと笑っていた。
その日のうちに、5つ目の山を越えた。ここから先は、村がある山まで平坦な道が続く。
道中に、クラウディア家の別荘がある。ここが最後の宿だった。道中でもいくつかの宿に泊まってきたが、やはり設備も待遇も段違いに良い。馬の世話役には移動距離と荷物の割に馬が元気そうであったことを驚かれ、ジャグルは改めてまじないの効果を思い知った。
季節は、秋。麦などを収穫し、薪を集め、冬に向けて備えていく時期だ。風は時折柔和な表情を失い、厳しさを露わにしようとしている。自分たちが北方の山中と向かっていることを考えると、目的地ではもう少し季節が進んでいるかもしれない、と思った。せめて自分たちが滞在している間は、天気が悪くならないければいいのだが。休憩所で温かいお茶をすすりながら、ジャグルは窓の外を見つめた。
「タルト様、長旅お疲れ様です」
この別荘地を管理している壮年の男が歩み寄り、ねぎらいの言葉をかけた。
「いえ、こちらこそ。泊めてくださってありがとうございます」
ドドが応対する。
軽い挨拶を交わすと、管理人がすぐに表情を曇らせた。それが気がかりで、ジャグルは二人の会話を注意深く聞くことにした。
「しかし、あの山村へ行かれるとは。いくらご夫人様からの依頼とは言え……正直なところ、私は心配です」
「と、言いますと」
「あの村については、半年くらい前ですかねえ、急に余所の村との付き合いをきっぱり止めてしまった、ということがありまして。元々山で採れた植物や獣を、小麦などと交換して成り立っていた場所なのですが、ある時急に『うちはもう小麦はいらない。だから山で採れたものも出さない。取引は終わりにしよう』と言い出したようで」
困ったような表情を浮かべ、一つため息を付くと、再び管理人は話し始める。
「元々採れる物の質が良かった訳でもなし、周囲の村への影響がそれほど大きくはなかったようなのですが、何とも奇妙な話でしてねえ。私も聞いただけのことですが、それ以来、殆ど人の往来もないようですよ」
「それは……不思議な話ですね」
「えぇ。何とも」
外部との付き合いを絶った山村。不気味が過ぎる、とジャグルは思った。タルト一族の集落を思い出し、ぞっとする。閉鎖的な環境に置かれた者達は、周りを見下し、互いの足を引っ張り合い、のけ者を作り、辛辣になり、臆病になって自滅していく。我々の目的地も、そういうところなのではないかという嫌な考えが脳裏をよぎった。
「ところが最近、あの村の使者と思われる女性がやってきましてね。山奥の村娘にしては妙にまばゆい赤い服を着ていたのですが……とにかく慌てた様子で、村を助けて欲しいと懇願されました。あまりに奇妙な事件が起こっている、そういう専門家がいるなら、一度村を見て欲しい、と。あまりに力強いお願いだったもので、我々も困りましたよ。一応領主に伝えてみると言って、その時は帰っていただきましたがね。タルト様が引き受けて下さると知った時は、ほっとしたような気持ちと、本当にお願いして良かったのかと迷う気持ちが、正直どちらもありました」
管理人は嘆息した。
「中の様子は、我々にも分かりません。なのでどうか無事に、戻っていらして下さい。私の方からも、お願いします」
「ええ。もちろんです」
ドドはゆっくりと頷いた。
温かかったはずのお茶も、次に口を付けたときには冷めてしまっていた。思い切って、ぐいと飲み干す。
中で何が起こっているのか。想像を巡らせつつ、ジャグルは窓の外を見つめた。日はもうすぐ暮れ落ちる。部屋の明るさのせいか、外の景色はもうほとんど分からなくなっていた。これから向かう場所も、そういう場所なのだ、と思った。先の見えない暗闇に、我々は足を踏み入れようとしている。
翌朝、二人は再び目的地へと馬を駆る。
ドドの話によれば、山村には昼前には着くだろうとのことだった。地平線の向こうに見えていた山々も、既に木の揺れ方まで分かるほどに近づいている。いよいよ気を引き締めなければ。強い風が吹き、少し震えた。
やがて二人は、木々の間を縫う道を進むようになっていた。道筋も弧を描くような形が多くなり、見通しは悪化していく。どうやら、山に入ったらしい。ここからは馬を引いていこう、とドドは提案した。道幅は狭くはないが、足を滑らせては困る。馬を引き、自分の足で歩いた。落ち葉に隠れてしまいそうな道を辿り、曲がりくねった道をいくつも抜け、ようやく人の気配を感じられる物が目に入ってきた。
二本の棒の間に板を張り付けただけの、簡単な門だ。村の名前が書いてあるようだが、掠れて読むことが出来ない。
「さあ、入るぞ」
ドドは言う。
ジャグルは頷き、彼の後を追う。山奥の冷たく湿った空気が手の甲を突き刺し、心臓まで到達しようとしている感じがした。山の中の閉鎖的な村。どうしてもタルトの集落と重ね合わせてしまいそうになる。この一年、自分は前に進んでいるようで、ただ平和ボケしていただけなのかもしれない。冷気を追い出すように拳をぎゅっと握りしめ、弛緩する。何とか気持ちを落ち着かせようと、目を閉じて、ふぅ、と息を吐き出す。
そして、顔を上げた時には、既に村の門をくぐっていた。
「ジャグル、あらかじめ言っておく」
馬から降りると、ドドはジャグルの耳元でささやいた。
「この村で施されたものは、一切食べてはいけないよ」
「えっ」
反射的に聞き返そうとした途端、建物から人が姿を現した。ドドは一礼し、彼の方へ向かう。
「それさえ守れば大丈夫。さあ、行こう」
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#4 蜂蜜 -3-
「あなた方はもしや、まじない師様ですか」
最初に出会った村人は、まるで天の恵みと言わんばかりに声が震えていた。
「お待ちしておりました。今、村長をお呼びいたしますので」
勢いよく飛び出し、村長の名前を叫びながら建物の中へ入っていった。しばらくして、二人の人物が姿を現した。
「初めまして、ようこそいらっしゃいました。こんな辺鄙な村までお越し下さりありがとうございます」
出迎えたのは、妙に甲高い声をした白髪の村長だった。その髪色の割に肌は若々しく、背筋もしゃんとしている。ただ目の周りだけが黒く落ち窪んでおり、不健康そうな印象を受けた。よく見れば、三人の付き人も、似たような目をしている。
「長い道のりでさぞお疲れでしょう。早速本題に参りたいところですが、まずはゆっくり休んで下さい。ささ、馬を預かりましょう」
付き添いの男のうち二人が、ドドとジャグルの馬を預かろうとする。その動きにジャグルはやや強引なものを感じた。ドドも同じだったのか、制止するように声を出す。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。しかし、馬のことはこちらのジャグルが行いますので、この子を案内してやって下さい。ジャグル、馬舎まで頼めるかい」
「分かった」
ジャグルは頷いた。荷物を下ろし、ドドとすぐに合流する約束をして、村の男について行く。とりあえず、彼らに敵意はなさそうだ。
落ち葉を踏みながら、ジャグルは周囲を見渡した。家を見る限り、何もおかしなところはない。いかにも辺境の小さな村、と言った印象だ。やはり山奥は平地よりも季節の進みは早く、村は冬支度の真っ最中と言ったところだった。薪割りをしている家族や落ちた枝を拾う子ども達の姿を見かけた。ただ、皆一歩進む度に周囲を警戒するようにきょろきょろとしていた。まるで何かに怯えているかのようだった。
「いやあ、あなた達が来てくれたのは本当に嬉しいことですよ。まさに天の恵みと言ってもいいでしょう」
男は嬉しそうに語る。
「うちの師匠なら、何とかしてくれると思いますよ」
馬屋に馬を繋ぎながら、ジャグルは答えた。師匠、か。ふと口をついて出た言葉に、自分で笑ってしまう。ドドと自分の関係性を言い表すなら、師匠と弟子、というのが明快だろう。人に説明するために分かりやすくそう言ったのか。はたまた本当に自分がそう思っているのか。正直なところ、よく分からない。
「ん?」
ジャグルの視界の端に、人影が映った。はっとして、その方向に顔を向ける。大男だった。他の村人たちに比べて、明らかに身なりが悪い。ジャグルが顔を向けると、少し遅れて彼は気付き、こそこそと物陰に隠れてしまった。
「どうかされましたか」
「いや……大きな男の人がいたな、と思って」
「大きな男……まさかマティアス。あいつ、こんなところで何してるんだ……」
ぶつぶつと彼は嫌悪感たっぷりに呟く。すぐに我に返って、ジャグルに平謝りしてきた。
「申し訳ありません。まじない師様が気にすることではないので。早く戻りましょう」
マティアスという名の大男のことはどうやら、我々には見られたくはないらしい。彼の存在を忘れてもらうためか、案内役はいそいそと歩き出し、ジャグルに着いてくるよう促した。
村の集会所に戻ると、ドドと村長たちが雑談を交わしていた。和やかな雰囲気に包まれており、本題に入るには十分な信頼関係を築けていたようだ。村長と目が合う。不安を悟られないように、出来るだけ穏やかに微笑んだ。
「さて、それでは始めましょう。我々を呼んだ理由から、お話いただけないでしょうか」
ドドが言うと、村長の表情が急に沈痛なものになった。
「まずは何から話せば良いのやら」
言葉を選び、ためらいながら、彼は話し始めた。しばらくして、決心したように言葉を紡ぎ始める。
「今、この村では虫の被害がひどいのです。虫に襲われて、四人が亡くなりました」
眉間を抑える。悲しみを堪えているようだった。
虫、とジャグルは心の中で反芻した。
「最初に亡くなったエミルは5歳でした。次に亡くなったファスタは4歳。子どもだけではありません。山に立ち入った大人も二人、同じようにやられてしまいました」
周りの男たちも、深刻そうな表情を浮かべてうなだれている。
「そこで、あなた様にお願いしたい。我が村を虫の驚異から守っていただけないでしょうか」
よろしくお願いします、と村長は頭を下げる。周りの男も彼に合わせた。
ドドはしばらく彼らの姿を見つめた後、ようやく口を開いた。
「分かりました」
その瞬間、村長はすがるような声を上げ、ありがとうございます、とお礼を言った。
「我々にお手伝いできることがあれば、何でもいたしますので、どうぞお申し付け下さい」
ドドは村長の顔を見つめ、頷く。
「分かりました。では一度、亡くなった方が襲われたという場所を見せていただいてもよろしいでしょうか。まだ日暮れまでには時間がありますので、そこを見ながらお話を伺いたい」
山の奥へと歩き、案内されたのは湖のほとりだった。視界が開けて、空が反射している。普段は子どもたちの遊び場にもなっている、とのことだった。周囲は極めて穏やかで、人が死んでいたとは思えないほどである。
「このあたりがエミル……一人目が殺された場所です」
案内された場所で、ドドはしゃがみこむ。杖の先端を耳に当てているようにも見える。キュウと相談しているのだろうか。ジャグルも別の角度から、その場所を眺める。時間が経っているからか、既に痕跡らしい痕跡は残っていない。
「事件があったのは、いつ頃でしょうか」
ドドは尋ねる。
「3、4ヶ月前のことです」
「エミル君は一人で湖に?」
「いえ。その時はほかの子どもと一緒でした。ものすごい羽音がして、気がつけば大量の巨大な虫が近づいてきたと。彼も一緒に逃げようとしたのですが、足を滑らせて転んでしまったと、他の子が言っておりました。助けようとした頃には、もう彼は囲まれており近づけなかったそうです」
「なるほど。……さぞ悔しかったことでしょうね」
「ええ。本当に」
ドドは降り積もった木の葉を手でさっと払う。土は軟らかい。傾斜もある場所だ。慌てて走ろうとして転んでしまうのも、無理はない。
「遺体に変わった傷はありましたか」
「虫の毒のせいか……顔は痛々しいほどに膨れ上がっていました。それと……唇と舌がなくなっていました」
「舌が?」
ジャグルの脳裏に、ある可能性がよぎる。恐らく、ドドが得ている確信と同じだろうと思った。
「他の子ども達も、同じ状態でした。皆、口の周りがなく、歯だけが残っていたのです」
なんともおぞましい話だ。あまり想像はしたくない。
恐らく、人食いの仕業だろう。口の中の柔らかい部分を好んで食らうようなものだ。
ジャグルとドドは目を合わせ、頷き合った。
「ひとまず、虫除けの煙を焚きましょう。それでしばらくは寄ってこなくなるはずです」
ドドは提案する。お願いします、と村長は頭を下げた。
聞くところによると、被害があった場所は村の北東に集中しているらしい。湖も同様の方角にある。他の被害があった場所や山道の数を確認し、煙を焚く数を決める。村が小さいことも幸いし、日が暮れるまでには済みそうだ。
必要な道具を持って、二人は燻煙地点に向かう。
「どう思う? ジャグル」
ドドは尋ねる。
「人食いの仕業だとは思う。きっと、舌を食うのが好きなやつなんだろ。偏食家の人食いだ」
「そうだね」
ジャグルの答えに、ドドは同意する。
人食いには、身体の一部のみを食らう者も少なくない。おおよそ三回か四回依頼を受ければ、一度はこういう連中に当たる。そして、偏食のひどい人食いは、全身の肉を食いちぎるものよりも相手取るのが難しい。分かりやすい被害が出づらく、我々が呼ばれる頃には状況が複雑になっていることが多いからだ。我々は、まず彼らの問題が人食いの仕業なのか、人間の仕業なのかというところから考え始めなければならない。それをいち早く見抜くのも、優れたまじない師の資質と言える。
かつて倒したムシャーナのことを思い出す。あれは夢を食らう人食いだった。ドドは自分より経験が豊富だから、さらに多くの事例を知っていることだろう。
「どんな人食いなんだろう。正直、まだおれには想像がつかない」
ジャグルは自分の思いを告げた。
「考え続けていれば、必ず答えにたどり着く。今はよく観察するんだ」
「うん。分かってる」
ジャグルは手に持った小瓶の蓋を開ける。中に入っているのは、自分の切った爪や髪を燃やして灰にしたものだ。まじない師の術力を最大限に発現させる、まじないをかける上でなくてはならないものだ。タルトの集落では女がたくさんいたが、今は自分一人分からしか取ることが出来ない貴重品だ。無駄遣いはできない。
しかし、その効果はあまりに大きい。よく目を凝らせば数えられるほど少ない量の粒でも、ジャグルが土に被せ、
「煙れ。虫よ去れ」
と呟くだけで、その場所からは三日三晩、虫除けの煙が立ち上がり続けるのだから。
「終わりました」
集会場に戻り、村長に報告する。
「村の方々がよく利用する山道に四カ所、煙を焚かせていただきました。多くの虫はこれで寄りつかなくなります。煙自体は数日で消えますが、周囲の木々が煙を吸って、効果はより長く持続します。蜂も煙の内側には立ち入らないようになるでしょう」
「さすがはまじない師様です。ありがとうございます」
「ですが、しばらくの間は油断出来ません。通常の虫であれば、これで十分ですが、今回の事件を起こしているものに効果があるかどうか。場合によっては、直接駆除に向かう必要があるでしょう」
ドドは自身の見立てを説明する。
「そうですか」
「今日のところはお疲れになったでしょう。こちらに食事を用意しました。こんなへんぴな場所なので大したものは用意出来ませんが、是非好きなだけ召し上がって下さい。この村自慢の特産品です。寝室は、この集会所の扉の向こうにあります。今日のところはゆっくりお休みになって下さい」
そう言って、村長は再び柔和な笑顔を浮かべる。
「お気遣い、ありがとうございます」
ドドは答えると、おやすみなさいませ、と言って村人たちは出て行った。
食事。
この村のものは口に入れるな、というドドの忠告を思い出す。
用意されていたのは、皿一杯の木の実と、蒸した穀物。そして、食卓に並べるには妙に大きい壷だった。他の食べ物に対して、明らかに不釣り合いな大きさである。
ドドは壷に近づき、蓋を開いた。その瞬間、甘いにおいが部屋中に広がる。たとえ満腹だったとしても、胃袋の中身を一瞬で忘れてしまうような、魅力的な香りだった。嗅いだ瞬間、ジャグルは得も言われぬ幸福感を覚えた。思わず顔がほころんだ。ああ、これを食べることができたら、どれだけ幸せなことだろう。ずっとこれを食べ続けていられたら、どんなに嬉しいことだろう。これだけで一生、十分だ。
ジャグルは無意識のうちに自分の手が壷に伸びかけていたことに気付き、強引に引き戻した。危なかった。心臓が高鳴り、身体が震えた。この壷の中身が放つ香りの魔力に、とらわれかけてしまった。そんなジャグルの様子を見て、ドドはうっすらと笑みを浮かべる。
冷静になったジャグルは、この匂いに心当たりがあることを思い出した。つい最近、嗅いだことがある。確か、この村に来る前の占いで、茶葉が放った芳香。それと同じ匂いだ。
「ねえ、それは、何」
ジャグルは壷を指さし、目を逸らすことなく尋ねる。またしても、この蠱惑的な匂いにつられてしまいそうで恐ろしかったが、知らなければ始まらない。
ドドは壷に近づいた。中身を柄杓ですくい上げ、ジャグルに見せるように壷の中に流し落とす。
「蜂蜜だな」
壷の中に落ちていく粘性の高い液体は、ゆっくりと細い線を作っていた。
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#4 蜂蜜 -4-
ドドは蜂蜜たっぷりの柄杓を壷に戻し、蓋を閉めた。
ジャグルが何か言おうとすると、ドドは口元に人差し指を当てた。
「静かに。盗み聞きをされている」
ジャグルは慌てて振り返る。ドドは、入り口近くの右の隅の壁を指さした。
「あそこにほんの小さな穴があいているようだね。角度が悪いからこちらのことは見えないだろうけど、大きな声は恐らく漏れてしまうだろう」
「うん……分かった」
ジャグルは頷く。危うく、聞かれてはいけないことを話すところだった。
ドドは壁の方に歩いていき、キュウの杖の先端で、こん、と叩いた。空気が変わった気がした。
「音を遮断するまじないをかけた。これでもう大丈夫」
そう言うと、再び壷の前に戻ってくる。
「食べちゃいけない、って言うのは、この蜂蜜のこと?」
ドドは頷く。
「ほんの僅かだが、料理にも使われている。これも食べてはいけないね」
そう言いながら、穀物の盛られた皿を避けるように動かす。
「食事は、持ち込んだ携帯食料だけにする。それが一番安全だろう」
なるほど、そのために多めの食料を持ち込んだ、と言うわけか。ジャグルは得心した。
「だけど、怪しまれないかな。食べ物に一つも手を付けなくて」
「俺たちはまじない師だ。うまくやるさ」
キュウの杖を食料にかざすと、食べ物がどんどん吸い上げられていく。
「キュウが食ってる……わけじゃないよな」
「遠い山の土の中に移動させている。食べ物を粗末にするようで残念だが、これが一番だろう」
ドドはあっと言う間に、穀物と木の実を完食したように見せかける状況を作り上げていく。匙で擦り、食べきれなかった部分を多少残すのが肝らしい。蜂蜜の壷にも杖をかざし、量をほんの少し減らした。
一息ついて、鞄の中から持ち込んだ干し肉などを取り出す。小さくちぎって、口に放り込んだ。そして、味がしなくなるまでよく噛み続ける。蜂蜜の香りが気にならなくなるまで、肉の味という味を味わい尽くす。細かくなった食べ物が喉を通る感覚の一瞬一瞬を感じ取る。胃の中に落ちたことを確認し、次の塊を口に入れる。同じことを何度も繰り返していくうちに、蜂蜜の匂いが気にならなくなってくる。
「ちなみに、この蜂蜜を食べたらどうなるんだ」
ジャグルは壷を指さす。
「味覚を食われる、だろうね」
ドドは語る。
「この蜂蜜も、人食いの一部なのさ。口に含んで舌に触れれば、人間の味覚を少しずつ奪っていく。甘いものは美味いから、もっと食べたい、もっと食べたいと思うのが人間だ。だが、それこそが蜂達の罠なんだ。気付いた時には、蜂蜜以外の食べ物を食べても、味を全く感じなくなってしまう。うまみを感じることが出来ないから、更に蜂蜜の甘さを求めるようになる。味覚を奪われた人間は、また蜂蜜を求めて奴らの住処に向かう。やってきた人間を殺し、その肉体を食らう。こうやって二重に人間を食らうことで、餌が自然に寄ってくる仕組みが作られたのだろう」
「まるで人間が家畜みたいじゃないか」
ジャグルは怪訝な顔をする。そうなるね、とドドは頷く。
この甘さに囚われれば最後、蜂に飼い殺されるしかないのだろう。哀れな村の一部になってしまうことは、免れない。
「さあ、今日はもう眠ろう。匂いを防ぐ膜は張っておくよ」
ドドは用意された寝床にまじないをかける。
「途中で交代するよ。ドドの術力も温存しておかなくちゃ」
「ありがとう。途中で起こすから、その時は頼む」
「わかった」
野営で見張りを交代するようなものだ。おやすみ、と互いに言葉を交わし、ジャグルは横になる。
もう少し眠りやすいかと思ったが、なかなか寝付けない。ずっと気を張り続けていて、落ち着く暇がなかったせいだ。明日以降のことを考える。我々はこれから、あの蜂蜜を食べたふりをしなければならない。嘘を付き続けられるのは、いつまでか。不安な気持ちを打ち消したくて、いくつか対策を考える。思考を巡らせているうちに、意識は眠りに落ちていた。
「起きろ、ジャグル。交代だ」
ドドの一言で、目が覚めた。体を左右に転がしてみる。全身の調子は悪くない。よし、と心の中で呟いて、起き上がった。
「うん。ありがとう。じゃ、おやすみ。気を付けて」
あぁ、とドドは返事をして、寝床に横になった。しばらくすると、蜂蜜の匂いがかすかに漂ってきた。ジャグルはドドがかけたものと同じまじないを使い、蜂蜜の壷を封印した。
よくよく考えたら、交代なんかしなくても自動で動き続けるまじないだってあるのに、何故わざわざ一人ずつ眠るようにしたのだろう。自分の提案を、なぜドドは当たり前のように受け入れたのだろう。ジャグルはふと、考える。
ドドの家は、ドドのまじないによって支えられている。眠っている間にまじないが切れてしまうのであれば、崩れてしまうはずなのだ。自分だって、眠っている間に女としての成長に歯止めが利かなくなっていたわけではない。この程度のことならば、交代の申し出を断ることだって出来たはずだ。
(まじないに疲れて、おれに肩代わりさせるって魂胆じゃないよなあ)
自分で考えて、笑ってしまった。まさかなあ、と思った。それはどうにも、彼らしくない気がした。
ならば、起きて甘い香りを封じ込めなければいけない理由がある、ということなのだろうか。彼は寝る直前、気を付けて、と言った。
その瞬間、ジャグルは理由を理解した。
封印が、解けそうになったのだ。
(まさか、蜂蜜が)
壷の中身が、己を閉じこめる膜を破ろうとしている。
つまりこいつは、封じ込められていることを理解している。明確な意志を持って、我々を誘惑しようとひたすらに手を伸ばしているのだ。
飲まれてなるものかと、ジャグルは何度もまじないを重ねてかける。それでもゆっくりと、一つずつ封印は破られる。その速度が、忘れかけた頃に一枚程度であるのが救いだ。ただ定期的に、ぐっ、と強く押し出される感覚がある。まじないで封じきれない、底力がある。ドドはこんなものを相手に、戦っていたのか。これは確かに、気を抜くわけにはいかない。
建物の中に、光が射し込んだ。どうやら日が昇ってきたらしい。それに伴って、明らかに蜂蜜の押し返しが弱くなっていく。人食いの特性なのか、悪意ある誘惑は夜の間にしか出来ないのかもしれない。
空が明るくなるのは、あっと言う間だった。ドドはかなり長い時間、粘っていたようだ。
(気を遣われてるんだか、信用されてないんだか)
ジャグルは唇を尖らせた。
蜂蜜の攻撃がなりを潜め、うんともすんとも言わなくなったことを確認して、少し外に出てみようと思った。まだ朝も早い。村人に見つかっても、恐らくまじない師の来訪は伝わっているはずだ。見られても、怪しまれる可能性は低い。多少の散策は構わないだろう。
太陽の光は眩しいが、空気は少し湿気を含んだ冷たさを持っていた。陽が当たれば、心地の良い暖かさを味わうことができた。散策するにあたって、何か目的が欲しいな、と思う。とりあえず、昨日に煙を焚いた場所を巡ってみることに決める。現在地から一番近いのは、北東方向の燻煙地点。そこまで歩いてみよう。落ち葉をしゃくしゃくと踏みならしながら、秋の森を抜ける。
昨日より色は薄くなったが、確かに煙は立ち上り続けている。周囲に羽虫の姿はなくなっている。周囲の植物が吸ってくれれば、更に効果は持続するはずだ。風が吹けば、村の中にもじきに効果は現れる。冬には大抵の虫が冬眠することを考えると、次の春まで村は驚異に悩まされることはないだろう。人食いにも効果があるかと言われれば、分からないところではあるが。
「おはよう。まじない師さん」
ふと、背後から声をかけられた。
「おはようございます」
ジャグルは振り返った。髪が長く、背の高い女性だった。冴えるような赤い服が印象的で、樹海の底に咲く妖艶な花を連想させた。
「あなた、昨日来たまじない師さんでしょう。いかがかしら、この村は」
そんな自分の心証など意にも介さず、女性は微笑む。
「ええ。のどかで、とてもいいところですね」
「この村の特産品、召し上がった?」
「あの蜂蜜ですよね。はい、とても美味しかったです」
ぎこちない嘘だった。心の準備をしたつもりではあったが、嘘をつくの苦手だった。どうしても自然な振る舞いにはならない。ドドならきっとあっさりとこなせてしまうのだろう。
「そう。それは良かった。初めて食べたときは、私も感動しちゃった。あんなにおいしいものがこの世にあるなんて、ってね。あなたも気に入ってくれたのなら嬉しいわ」
「ええ。またいただきたいです」
「もちろん、いくらでも。この村にいる限りは、好きなだけ食べていいわよ。なくなったら言ってね。おかわりを用意するから」
蜂蜜を執拗に勧めてくる。この人も、味覚を奪われ、甘い味にとりつかれた村人なのだろうか。ありがとうございます、と言って、話を流す。
「あ、そうだ」
折角会った村人だ。彼女から何か得られるものがあるかもしれないと思い、提案してみることにする。
「あの蜂蜜がこの村に行き渡った経緯、もしご存じでしたら教えていただけませんか」
彼女は、うーんと少し悩んだ後、「いいわよ」と彼女は答えた。
「それなら、ちょっと歩きながら話さない? 見せたい場所もあるし」
「分かりました。よろしくお願いします」
思わぬ収穫を得られそうだ。案外、悪い人ではないのかもしれない。もしそうであったとしても、必要な情報を抜き出してみせる。ジャグルは嬉々として彼女の横を歩いた。
「あの蜂蜜はね、木こりのマティアスさんが見つけたのよ。この先の方に家があるんだけどね。彼が仕事をしている時、偶然にね。急においしそうな匂いがして、木のうろを覗いてみたらしいのよ。そしたら蜂の巣があったんだって。蜂の姿は無かったそうで、甘い匂いに我慢出来なくなって、ついつい手をだしちゃったみたい。そしたら中から大量の蜜が出てきて、食べてみたら美味しかったんだって」
へえ、とジャグルは言う。
「それからと言うもの、この森の奥の方ではそんな不思議な蜂の巣があちこちで見つかるようになった。それ以来、私たちは喜んで蜂蜜ばっかり食べてるのよ。男の仕事は農作業から蜂蜜採取に変わったわ」
女性は興奮気味に語る。
「みんな、蜂蜜を取りに行っちゃってるんですか」
ジャグルは驚いた。他の食料は何も作っていないのだろうか。
「そうね。正直、あれがあれば他には何もいらないもの。あれに比べれば、他の何を食べても味がしないも同然だわ。おいしくないなら、べつに食べなくてもいいんじゃない? たぶん、他のみんなも同じことを考えてると思うわ」
彼女はさも当然のように語る。蜂蜜に味覚を奪われて、他の食べ物を食べる気力が失せている。村中の人間がこうだから、ここは外の村との交易を絶ったのか。ジャグルはなるほど、とひとりごちた。
「養蜂はおこなってはいないんですか。自分で蜂を育てて、蜜を取る」
ジャグルは思ったことを口に出した。すると、女性は残念そうにかぶりを振った。
「何度か試したことはあったみたいんだけどね。でも、出来なかった。今のところは、彼らの巣を探して蜂蜜を取るしかないのよね。残念だけど」
そうですか、とジャグルは残念がるふりをする。
「でも安心して。蜂の巣は山の奥でいくらでも見つかるそうだから。ちょっと探せばすぐに見つかるわ」
「山の奥ですか。どのあたりにあるか、ご存じなのですか」
「さては自分で取りに行ってみようってクチ? いいわねえ。湖の方よ。わき道を抜けて、歩いていった先。ちょっと探せばすぐに見つかるわ。でも気を付けてね。最近は蜂に刺される子も多いみたいだし。あなたもまだ若いから、もう一人のまじない師さんと行った方がいいわね」
うんうん、と頷く彼女。
「あ、そうだ。今度はあなたのこと、教えてくれないかしら」
今思いついたように、彼女は提案する。彼女はまっすぐにジャグルの目を見た。
「おれのこと、ですか?」
「そう。あなたの名前は」
「ジャグル・タルトです」
「ジャグル。かわいい名前ね」
彼女は自分の名前を繰り返すと、にっこりと微笑んだ。名前を褒められることなど滅多にないので、少し居心地の悪い気持ちになる。
「ジャグルは、どんなまじないが使えるの」
少し考えを巡らせるが、あまり思いつかない。
「例えば、虫除けの煙を焚いたりだとか。あれ、おれのまじないなんです。ちゃんと働いてくれたらいいんですけど」
「すごいじゃない」
驚いた様子で彼女は自分を見る。振り返れば、この一年で様々なまじないを修得したと思う。自分に出来ることは、一つ一つ確実に増やしてきたつもりだった。
「他にも馬を走らせるときの体力の消耗を抑えたりとか。まあ、色々あります」
ジャグルは頭をかく。今ここで会った人に語るのは、自慢話をしているようでどこか恥ずかしさがあった。
「頑張っているのね」
「そんなことないです。うちの師匠の方がよっぽど凄いですから」
「あなたのお師匠さんって言うと……あの男の人?」
はい、とジャグルは頷く。
「正直、出来ないことなんてないんじゃないかってくらい、凄い人です」
「へえ……凄いね」
彼女の声の調子が、少し下がったように聞こえた。そして、少し間を置いてから、話題を変えてきた。
「そういえば、二人はどこに住んでいるの? 遠かったんじゃないかしら」
「ここまで、四日か五日ぐらいですかね。クラウディア領の中心街から山を五つ越えてきました」
ジャグルは目を閉じながら旅程を思い出す。随分と遠くまで来たものだ、と思う。依頼さえあればどこへでも向かうのが、ドドの方針だった。まじないのおかげで、我々は一般人よりも多くの距離を移動することができる。
「あれ」
目を開けたとき、妙なことが起こった。
女性の姿が、跡形もなく消えていたのである。
周囲を見渡してみたものの、やはり赤い服の女性の姿はどこにもなかった。
彼女が消えたのは、聞かれた質問に自分が答えようとしたときだ。自発的に姿を消すにしては、タイミングがおかしい。
とは言え、周囲に誰かがいたとも思えない。朝早い時間だったせいで、彼女以外の姿は見えなかった。まだ自分の知らない、蜂の人食いの力だろうか。あるいは気付かなかっただけで、実は別の誰かがいたのか。
考えても分からず、仕方なくドドの元へ引き返した。
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#4 蜂蜜 -5-
部屋に戻ると、ドドは既に起きていた。
「おはよう。ジャグル」
「おはよう、ごめん、ちょっと散歩してた。朝になったら蜂蜜が襲ってこなくなったから」
持ち場を離れていたことを咎められるかな、と思い、つい言い訳がましくなってしまう。
「やはり襲ってきたのか」
うん、とジャグルは頷いた。するとドドは顎に手を当て、苦い顔をした。
「十分に封じ込めたと思ったが……破られるとは思わなかったよ」
ドドは、どうやら蜂蜜を封じ込めきったと思っていたらしい。あるいは、自分のかけた封印で朝まで持つだろうと考えていたのか。勝手に外出したことは咎められずに済みそうで、内心ほっとした。
「その様子だと無事だったみたいだな」
「まあね。封印しても封印してもゆっくり破ってくるからびっくりしたよ」
ちらと蜂蜜を見やる。今のところは悪さを働くつもりはないらしい。
持ち込んだ携帯食を今のうちに食べ、動く準備を整える。
「そうだ、さっき村の人に会ってさ。色々話を聞いたよ。蜂蜜は湖へ行く道をもっと奥に行ったところにあるんだって。行ってみる?」
ジャグルは提案する。ドドは少し考え込んだ後、そうだな、と短く答えた。
「おはようございます、タルト様」
身支度を整えて外に出ると、丁度村長と従者一人がジャグル達を迎えに来たところだった。
「昨日はよく眠れましたか」
「はい。お陰様で。蜂蜜もおいしかったです」
ドドが言うと、急に村長の目が輝き出した。
「おお!! お口に合いましたか!! それは良かった。本当に良かった」
さっきまでの表情とはまるで別物だ。まるで秘密を共有する悪友のような顔をしている。蜂蜜の味を知ったことで、遠くから来たまじない師二人はこの村の仲間になった。彼らはそう思っているに違いない。
「是非今後とも、好きなだけ召し上がって下さいね」
知ってしまったからにはもう逃げられないぞ、という警告のように、ジャグルには聞こえた。
「ええ、遠慮なく」
平然とドドは言う。こういう時に、この男の飄々とした態度は本当に頼りになる。ジャグルは苦笑し、後をついていった。
蜂蜜の採取現場を見てみたい、とドドは提案した。村長は、案内しますよと頷いた。村の人間が一緒だとやりにくそうだな、とジャグルは残念に思ったが、こちらの動きはなるべく明らかにしておいた方が不信感は少ないというのがドドの意見だった。
「ここからが、蜂蜜の採取場になります」
案内された場所には、柵も何もない、ただの森を行く道の半ばだった。確かに少し開けてはいるが、言われなければ素通りしてしまいそうなほど、特徴のない空間だった。
「蜂は木の根本に巣を作っているんです」
従者が適当な木に近づき、しゃがみ込む。あまりの無防備さに、ジャグルはぎょっとした。
「身を護る服とか、要らないんですか?」
「はは、大丈夫ですよ。近づいただけでは、彼らはうんともすんとも言いません。お二人もどうですか、見てみませんか」
ジャグルとドドは顔を見合わせる。彼がそう言うからには、大丈夫なのだろう。
「うわぁ」
中を見て、ジャグルは思わず声を上げた。
木の根本に開いた穴の隙間に、びっしりと六角形の巣が詰まっていた。六角形の構造体は外を向いているが、中身が詰まっているものがほとんどである。六角形の一つ一つは、おおよそ小指ほどの大きさである。想像していたものより、はるかに大きい。
「大きいな。ぎょっとしちゃったよ」
ジャグルは顔をしかめた。
「巣の形態も大きさも、通常の蜂とは異なるようだね」
ドドはつぶやく。
「良かったら、少し蜂蜜を分けてもらいましょうか」
「大丈夫なんですか、近づいても」
ジャグルはぎょっとする。
「ええ、大丈夫ですよ。ちょっとくらいなら、触っても彼らは動じたりしません」
従者はニコニコと笑いながら、蜂の巣に手を突っ込む。中からつまみ出したのは、芋虫のような姿だった。幼虫だろうか。
「手を出してください」
ドドは言われた通りに、右手を差し出す。従者はつまんだ芋虫を、指先で押しつぶした。すると、中から粘度の高い液体が滴り落ちてくる。その様に、ジャグルは思わず顔をしかめたが、すぐさま取り直して、興味があるふりをする。
「蜂蜜は、この蜂の体液で出来ているのですね」
ドドは言うと、満足そうに従者は頷いた。
「では、お味を拝見」
そう言って、ドドは手のひらの蜂蜜を口に放り込んだ。
ジャグルは驚いたが、すぐにそれは見せかけなのだと気付く。蜂蜜をまじないの膜で包み、口に手を当てる瞬間に袖口に滑り落としたのだ。なんて器用なことを。思わず苦笑しそうになる。
「ジャグル様もどうですか」
従者はこちらを向いて微笑む。
「今はお腹がいっぱいなので……大丈夫です」
ドドの真似をするのは、ちょっと自分には難しそうだ。
従者に案内され、蜂蜜の採取場を大まかに歩き回る。この蜂が巣を作る木の種類には、統一感がない。この場所に巣を作っているのは、少なくとも周囲の木々が適しているため、というわけではなさそうだ。だが、少しでも太い木には、必ずと言っていいほど巣が存在している。巣穴の六角形が外を向いているせいで、常に監視されているような薄気味悪さがつきまとっていた。
蜂達はまだ、直接我々を攻撃して来たことはない。自分の身体をすり潰されても、抵抗すらしない。自分たちは安全ですよ、あなた達に有益なものを差し上げますよと、親切な顔をして近づいてくる。それは、彼らが献身的だからではない。我々の油断を誘っているのだ。何度も何度も思い出して、ジャグルは警戒を怠らないようにする。
ふいに、ドドは足を止めた。
どこかの一点を、じっと見つめている。木の根本ではなく、上の方だった。
「どうしたんだ」
聞いてみると、一瞬だけ、彼が見る方向を指さした。
「親玉があそこにいる」
思わず息を飲む。目を凝らして見てみたが、木の葉に隠れているのか、まるで見えない。
「あまり探そうとしないように。気取られると良くない」
ドドの忠告に、思わず顔を背ける。彼は振り返り、歩き出したので、ジャグルは後を追う。
どうかされましたか? と、従者が聞いてくる。
いいえ、何でもありませんよ。ドドは何事も無かったかのように返事をした。
昼過ぎに二人は集会所に戻る。一度休憩を挟み、携帯食料を噛んでいると、ドドの口から思いがけない言葉が飛び出してきた。
「さて、ジャグル。今夜中にここを出るぞ」
えっ、と思わず聞き返してしまう。
「蜂はいいのか。このまま放っておくのか」
「いや。蜂はきっちりカタをつけるさ。だが、村の住人の同意を得るには、恐らく時間がかかりすぎる。俺たちが蜂蜜を食べていないことも、じきに暴かれてしまうだろう。携帯食料も底を尽きかねない。そうなれば、蜂蜜を食べざるを得なくなる。多少強引な方法だが、蜂達を駆除し、気付かれないうちに村を抜け出すしかないだろう」
「確かにそうだけどさ」
ジャグルは言う。
「何か、納得が行かないところがあるようだね」
「うん。何が村の人にとって本当にためになるのか、分からなくって」
村の人たちは、人食いの犠牲者だ。味覚を食われ、蜂蜜の虜にされ、蜂達に食われる為だけに生かされている。
「蜂を倒して蜂蜜がなくなってしまえば、この村の人たちは蜂達の支配から解放されるかもしれない。だけど、そのままじゃ宙ぶらりんじゃないかって思うんだよ。彼らはその後、どうやって生きていいんだろう。そんなことを、考えてしまうんだ」
依頼は、虫の被害をどうにかすること。だけど、原因を退けたり、大本を絶ったりするだけでは、村人達は救われない。彼らを悩ませているものと、求めているものが同じだから。皮肉にも、本人達はそれに気付いていない。
「本当のことを教えてしまってもいいんじゃないか。あの蜂蜜を供給しているのが、この村の人たちの命を奪っていた張本人だって気付かせて、自分たちから離れてもらう。それが出来れば、手っ取り早いだろ」
ドドはうっすらと笑みを浮かべて語る。
「それでも、彼らは蜂蜜をやめることは出来ないだろう。真実から目を背け、犠牲者を増やしてでも蜂蜜を守ろうとする。教えたところで、彼らは変わらないよ。人とはそういうものだ」
「……だけどさ」
何かいい手はないものか。考えても、他に方法は思いつかない。ジャグルは頭を抱えた。
「手が無いわけじゃないさ」
ドドは言う。
「少し卑怯な方法かもしれないけどね。気に入らなければ、手伝わなくても構わないよ。聞くかい」
「分かった。教えてくれ」
ドドには策があるらしい。少し戸惑ったが、ジャグルは身を乗り出した。自分に出来ない発想を、彼は持ち合わせている。状況が良くなるのであれば、それがどんなやり方であろうと手を貸すつもりだった。自分に何が足りなくて、彼には何があるのか。それを見極めたいと思った。
そして、日は暮れていく。夜になってからが、本番だ。
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#4 蜂蜜 -6-
その男……マティアスの手は、震えていた。
元はと言えば、自分が見つけた蜜だった。不器用で、大した仕事もできずに蔑まれていた自分が、唯一手にした功績。それが、この蜂蜜の発見だった。
木こりの家に生まれたものの、斧の扱いも上達せず、図体ばかりが大きくなってしまった。それ故、家庭内では無駄飯食らいと呼ばれ続ける始末。自信のない、整わない顔面もまた、己の自尊心を傷つけた。他の村人の前に姿を晒すのも恥ずかしくて、滅多なことでは人前に出ることもはばかられた。それでも山に入り、木を切り倒し続けたのは、村に役立つことをしていなければ生きていけなかったからだ。
人目を避けながら木を切り倒す日々の途中、村の女が珍しくマティアスに話しかけてきた。木こりの自分に、何か相談したいことがあるのだと言う。彼女の名前は何と言ったか。村人との関わりが少ないせいで、彼女がどの家の子だったのかも思い出せない。だが、若い女性に頼られるというかつてない経験に、動揺と興奮を隠せなかった。
「怖い虫が出てきたの。一緒に来てくれないかしら」
彼女はそう切り出した。
一瞬、理屈が理解できなかった。自身を脅かすもののところに、なぜまた行こうとしているのか。木こりであるマティアスを頼りに来たのは、彼に駆除して欲しいということなのだろうか。何を頼まれるか分からないが、出来ることなら、この美しい女性の力になりたいと思っていた。期待に応えられなくて、彼女を落胆させるのが怖かった。
「俺に、できる、ことなら何でも、する」
気がつけば、そう答えていた。彼女に伝わるように喋れたかどうかすら分からない。緊張で汗が溢れ出ていた。
「本当!? ありがとう!」
彼女はマティアスの手を握る。喜び笑った顔は春に咲く赤い花を思わせる。手のひらが汗でにじんで汚れているのが恥ずかしい。
「マティアスさんには、あの虫の巣がどうなってるか確かめて欲しいの」
湖へと続く山道の、分かれ道。立ち入る者は少なく、殆ど整備されていない道だった。草木をかき分けて進むと、少し開けたような場所に到着する。マティアス自身にとって来たことがないわけではないが、立ち入ることは稀な場所だった。
「この辺りで見つけたんだけど……」
彼女はマティアスの巨体に隠れながら、周囲を見渡す。
「あっ、あれがそうじゃないかしら」
指さした方向に視線を向ける。そこにあったのは、根本に大きな穴の空いた木だった。
六角形の穴が、こちらを向いている。何かしらの蜂の巣であることは、すぐに分かった。彼らは群れで暮らし、近づく者には羽音で警告音を鳴らす。それでも立ち去らない相手には、猛毒の針で攻撃する。襲われたらひとたまりもない。本来だったら、近づきたくないものだった。
「あの、これはあまり、近づかない方が」
「お願い」
助言を遮り、彼女の瞳が強くマティアスに要求する。
結局のところ、マティアスは彼女に従うことにした。正常とは到底言い難い判断だった。だが、普段から他人に避けれられてきた彼にとって、頼ってきた彼女をがっかりさせることは、自分の身が危険に晒されることよりも恐ろしいように思えたのだ。
巣穴を凝視しながら、一歩ずつゆっくりと歩いていく。働き蜂が飛び出して、襲ってくるのを警戒したが、近づいても全く羽音は聞こえてこなかった。ついには、しゃがんで手を伸ばせば届く距離まで来たが、それでも反応はない。もう既に主のいない、からっぽの巣なのだろうか。そう思って巣穴をよく見ると、六角形の中身は黄色いもので詰まっている。幼虫か、はたまた彼らの栄養か。
「なんだか、甘い匂いがしない? とってもおいしそう」
後ろから彼女の声がした。
言われてみれば、確かに蜜のような香りがする。色々な花の香りを混ぜ合わせて煮詰めたような、濃厚な香りだ。気がつけば、大きく息を吸い込んでいた。もっと嗅いでいたい、甘い匂いに浸っていたい、と。一度、二度と嗅いでいるうちに、息を吐いている時間すら惜しくなってくる。視界のすべてが、蜂の巣で覆われていく。マティアスの頭の中は、この匂いの元をどうすれば手に入れられるのか、ということだけしかもう考えられなくなっていた。
蜂の巣に向かって、乱暴に手を伸ばす。
黄色い虫の身体を巣穴から引っ張り出して、口に放り込む。
噛み潰した瞬間、口の中に甘さが広がる。
声にならない美味しさだった。最初は歯が浮くような甘さだと思ったが、不思議と身体に馴染んで染み込んでいった。こんなものがあるなんて。自然と、二つ目に手を伸ばしていた。もはや、蜂の反撃も、彼女も、どうでも良かった。ひたすらに、蜂を噛み潰し、蜜を舐める。
腹が満たされるまでに何百匹食べたのだろう。気がついたら、日が暮れていた。
それから、何を食べても味がしなくなった。頭の中は、あの蜜の味のことで一杯になっていた。食欲はなくなり、他のものを食べると味の薄さに苛立ちさえ覚えた。仕事の合間を縫っては、蜂の巣の場所へ向かう毎日を送る。ただでさえ遅い仕事が更に遅れ、父にはさらに叱られた。それでも、あの蜜を食べられるのであれば些細なことだった。
ある日、服に大量の蜜をこぼしていたことに気付かず、村へ戻った。
「甘い匂いがするな」
父は言った。やってしまった、と思った。こうなってしまっては、隠しても無駄だった。気付くまでにそう時間はかからない。服の汚れに気付かれて、ぐいと引っ張られる。
「お前、それをどこで見つけたんだ」
強い口調で言われ、マティアスは渋々蜂の巣の場所を教えた。
巣穴に近づくと、父も自分と同じように、蜂蜜をむさぼり食い続けた。邪魔されたくない気持ちは良く分かるので、声をかけずに先に帰った。
それから、採取場に人が立ち入るようになった。父は蜂蜜の存在を他の連中に教えてしまったらしい。壷を持ってきて、蜂蜜を集めて村に持ち帰る様子を何度も見た。家で出てくる食べ物も変化した。雑穀も、肉も、果物も、少しずつ蜂蜜に置き換わっていった。ここ数ヶ月はもう、麦一粒に匙五杯の蜜をかけて食べている。他のものを食べても味がしないので、マティアスは喜んだ。
しかし、マティアスに不都合なことが起こった。蜂蜜の採取が、村で管理されることになったのだ。見張りが立てられ、勝手に採取場に立ち入ることが出来なくなってしまった。近づこうとしたら、「勝手に蜂蜜を取るな」と一喝される。泥棒だと蔑まれる。何度か接近を試みたものの、突破することは出来なかった。それどころか、かえって彼らの警戒を強めてしまった。おかしいだろ。見つけたのは自分なのに。マティアスは苛立ちを募らせた。
我慢の限界だった。その夜、とうとうこっそり家を抜けだした。皆が寝静まった頃を見計らって、採取場へと向かった。月は満月に近く、周囲の様子はよく分かる。誰かに見つかりはしないかと怯えながらも、山道を抜ける。途中、不可解な煙が立ちこめていたが、火事ではないらしく、すんなりと通り抜けることが出来た。追っ手があったとしても、煙のおかげで身を隠せるかもしれない。内心ほっとした。見張りは幸いなことに立てられていなかった。夜はいつもこうなのだろうか。採取場は、静寂に包まれていた。今、この場にいるのは自分一人だけ。蜜を取るのを遮る者は、誰もいない。時間帯をずらすだけでこうもあっさり上手く行くのなら、今までどうしてこの手を使わなかったのだろう。懐かしさすら覚える風景だ。木々の一つ一つが、輝いて見える。今も蜂は同じように木の根本に巣を作っているのだろうか。手頃な木の根本を覗くと、六角形の巣穴が見えた。心を躍らせて、手を伸ばす。
その瞬間だった。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
唸るような羽音がした。
木の穴から、何かが飛び出してくる。マティアスは思わずのけぞり、しりもちをついた。
蜂が目覚めたのだと、直感で分かった。六角形の巣穴が三つ連結したものが、空を舞っている。敵意を向けられていることは、羽音からして明確だった。
「ま、待って」
口元に向かって、飛び交う虫の一匹が飛び込んできた。驚き、身を守る暇もない。口を無理矢理開かれ、固いものが、舌先をつまんだ。乱暴な力だった。虫に襲われて死んだ子どもがいるという話を小耳に挟んでいたが、ふとその話を思い出した。これがまさか、そうなのか。この蜂が、人間を襲ったのか。舌先へ加わる力が更に大きくなる。噛み千切られる、そう直感した。耐えられない痛みが走る。手で六角形の図体を掴んだが、まるで離れない。やめろ、やめてくれ。あまりの苦痛に、足を踏み鳴らした。それでも、食らいついたものは離れない。
「手を離して!」
もう駄目だ、と思った瞬間、声が聞こえた。
「一旦、そいつから手を離して、手をおろして下さい!」
少年とも少女ともつかない声がした。その声は力強く、思わずその声に従った。
目の前を、熱風が駆け抜けた。火の玉が飛んでいったように見えたが、あまりの速さに状況を理解できずにいた。理解できたのは、掴まれていた舌先から、蜂が離れていたと言うことだけだった。
助かった、のだろうか。全身の力が入らない。情けない声を出しながら、その場に座り込んだ。
ジャグルの放った火矢は、正確に標的を射抜いた。対象まで、およそ十五歩という距離である。夜中でも、十六夜の月が周囲を照らしており、視界が良いのが幸いだった。食われそうになっていた村人が、その場に倒れ込む。この人は確か、マティアスと言う名前だったか。この村に来てすぐの時に一瞬だけ見えた、大男だった。
ドドは手短に指示を出した。
「ジャグルはその人を抱えて安全なところへ。それまでは俺が蜂を食い止める」
「分かった」
二人は駆け出した。ジャグルは倒れ込んだマティアスの方に、ドドは彼と蜂の巣の間に。
「さて、蜂退治だ。ミツハニー……そしてビークイン。お前達を、倒させてもらうぞ」
ドドは呟く。杖を掲げると、見えない壁を周囲に張り巡らせた。空を飛び回る蜂……ミツハニー達も、その壁に押しやられて近づくことができない。まじないの力が空に広がるのを確認して、ジャグルは村人の巨体に肩を貸した。
「さあ、今のうちに行きましょう。蜂達は大丈夫です」
「う、う」
何ともつかない声を漏らしながら、彼はジャグルに体を預けた。みすぼらしい身なりのこの男は、この時間に何をしていたのだろうか、と考える。夜は山道も暗く、真夜中に見張りを立てることは殆どないと聞いていた。村の役割があって、蜂蜜の採取場に来たわけではないのだろう。そうなると、目的は密猟、ということになる。
「俺の、蜂蜜は」
彼はぼそぼそと呟いた。
「……とにかく、今は危険ですから」
ジャグルは答える。彼はまた黙ってしまった。
採取場の入り口まで到着すると、木の陰にマティアスを下ろした。肩を支える腕を離すと、彼は力なくその場に座り込んだ。
「ここで待っていてください。すぐに終わります」
声をかけたが、返事はなかった。聞こえているのだろうか、と訝るも、彼に構っていられる時間はそう多くはない。ジャグルは振り返り、ドドの元へと向かった。
空を見上げながら、ジャグルは駆ける。飛び交うミツハニー達は、ドドの張った防護壁を破ろうと体当たりを繰り返していた。彼らの体が軽いからか、一回一回はそれほど効果があるようには見えなかった。単体の攻撃力自体はそこまで驚異ではなさそうだ。
少し安心しかけたところで、その判断は間違いだということに気付いた。びっ、という、ミツハニー達のはばたく音とは違う音が、一瞬聞こえた。その瞬間、ばらばらに飛び交っていたミツハニー達の行動が、急にまとまりを見せた。六角形の巣が組み合わさっていき、巨大な巣の板を形成する。巣の板が防護壁を殴りつけると、壁は耐えきれず崩壊し、その衝撃でドドの体が後方に吹き飛ばされた。
「大丈夫か!?」
驚き、ジャグルはドドに声をかける。ああ、と返事が返ってくる。
「今の音を聞いたかい。ビークインはあれでミツハニー達の統率を取っているようだ。それに併せて、ミツハニーも一時的に能力を高めることが出来るらしい。女王蜂からの、攻撃せよ、という指令だね」
防護壁が消えたことで、身を守るものが何もなくなってしまった。ドドの怯んでいる隙に襲われることを警戒して、ジャグルはドドのそばに近づき、炎の渦で二人を包んだ。炎の渦にミツハニー達はぶつかり、燃えて消え去る。体液が溶け出し、わずかに甘い匂いが広がる。燃えてしまえば彼らの意志は届かないのか、その匂いに誘惑はない。
「数が多過ぎる。どうすればいい」
「頭を叩くしかないだろうね」
ジャグルの質問に、ドドは答える。
「蜂の親玉……ビークイン。奴を倒せば、ミツハニー達も行き場を失う」
「場所は?」
「あっちだ」
ドドは杖で、採取場の奥を指し示す。その方向に向けて、防護壁の筒を伸ばした。
ジャグルは炎の渦を解除し、矢をつがえる。まじないの灰を惜しまず刷り込んだ、特別な矢だ。
親玉とジャグル達の間に、阻む意志を持つものは何もない。極限まで炎の力を込めて、解き放つ。神速の矢は、防護壁の筒の中身を丸ごと燃やし尽くした。
範囲内の木がすべて灰となり、敵の親玉の姿が浮き彫りになる。さすがに一筋縄ではいかない丈夫さだ。蜂の巣のような下半身、人型に近い上半身。その姿は、ドレスを纏った貴族のようだ、と思った。羽が燃えて上手に飛べないらしく、ふらふらとしている。
びっ、と音がした。次の指令を出したようだ。防御のためか、回復のためか。ビークインの元に、ミツハニーが集まろうとする。だが、ドドの防護壁を破ることが出来ず、はじき返される。
「出す指令を間違えたようだな。お前は防護壁に攻撃の指令を送るべきだったんだよ」
ドドはジャグルに向かって合図を送る。ジャグルは頷き、二本目の矢をつがえた。
「とど……うぐうっ」
張力を高め、火矢を放とうとした瞬間、体に予想外の衝撃が走った。
何かがジャグルの体にぶつかってきたのだ、ということだけは分かった。衝撃のせいで矢はあさっての方向に飛んでいく。地面に倒れ込んで、マティアスの巨体が突進してきたのだと理解した。彼はジャグルの上に覆い被さり、手足でジャグルの四肢を封じた。乱暴な拘束だった。
「何をするんですか!」
ジャグルは怒鳴った。
「あいつらを、殺さないでくれ。あれは俺のもんだ」
マティアスは目を見開き、歯をむき出しにしながら言った。必死な形相に思わず息を飲む。彼は全身を強ばらせて、ジャグルの両手がちぎれそうになるほどの力で握り締めていた。
抵抗を試みるも、振り払うにはあまりに非力だった。彼は確か、村で木こりとしての役割を担っていたはずだ。仕事で培った筋力は本物だ、とジャグルは感じた。単純な腕力では、自分をはるかに圧倒している。だが、その形相を見ても、身動きが取れなくなっても、恐ろしいという気持ちは殆ど沸き上がって来なかった。ジャグルを掴む手は震えており、それが怯えによるものだと分かってしまったからだ。そして、彼は強引な手段に出たことにためらいを覚えている。
「蜂蜜を失うのが、怖いんですね」
ジャグルは冷めた口調で言った。
「蜂蜜が自分のモノなんて、そんなの錯覚ですよ。マティアスさん、逆です。あなたが、蜂達のモノになってしまっているんです」
言い放ち、ジャグルは自分の全身をまじないの炎で覆った。
「ひっ」
突然人体が発火し、燃え盛るさまにマティアスは思わず離れる。ジャグルは何事もなかったかのように起き上がり、空を見上げる。
ジャグルがマティアスに倒されている僅かな時間、ドドは防護壁を張り続けていたようだ。状況を理解した瞬間、壁が破られるのが見えた。ビークインがその隙を見逃さず、びっ、と次の攻撃の指令を飛ばす。
「来るぞ!」
ドドが言い放つ。壁の張り直しは間に合わない。束になった六角形の蜂達は、真っ直ぐにマティアスの方へと向かってきた。彼は両手で頭を覆い、蜂を背にうずくまった。
ジャグルは即座に次の矢を手に持ち、火をつけて放った。蜂に触れた瞬間、爆発を起こす。隊列を成していた六角形はその大半が燃えて炭となり、残ったものも飛行能力を失い落下していく。
マティアスは恐る恐る顔を上げる。ジャグルの瞳と、目があった。
「……マティアスさん。蜂の食い物にされたくなかったら、大人しく隠れていて下さい」
恐怖のためか、抵抗すべきか悩んでいるのか。マティアスは動かない。
「早く!!」
ジャグルは叫んだ。その声に、マティアスは慌てて走り出した。
「ごめん、ドド」
ジャグルは言った。
「いや、こちらこそすまない。助けに行けたら良かったんだが、壁を張るしか出来なかった。まだいけるか」
「もちろん」
ビークインの方を見ると、一度目の火矢で傷を与えた部分にミツハニーが集まっている。どうやら、自身を回復させるような指令を与えているらしい。治療が終われば、逃げられてしまうことも有り得る。
ジャグルは矢を取り出した。これが最後の一本だった。失敗は出来ない。
「ビークインまでの距離は4、高さは3」
ドドの呟いた数字で、直感的に思い出した。つい最近、ロコと一緒に勉強していた内容だ。頭の中に直角三角形が思い浮かぶ。距離と高さで斜辺が決まる。
「直線距離は5、ってか」
最大限の張力を火矢に込め、打ち放つ。
女王蜂の体に到達した瞬間、矢が轟音を立てて弾け飛び、火と衝撃が炸裂した。熱で巨体は働き蜂もろとも灰となり、跡形もなく消え去っていく。
なるほど、数学も確かに役に立つものだな。ジャグルは大きく息を吐いた。
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#4 蜂蜜 -7-
ビークインがいなくなったことで、ミツハニー達は指令系統を失い、混乱していた。一糸乱れぬ動きは見る影もなく、少しずつばらばらに散らばっていく。
「こいつら、女王がいなきゃ人を食う意志すら持てないんだ。放っておいても勝手にくたばるだろうぜ」
ケタケタと、キュウが笑う。
「だが、そうなってしまっては困る」
ドドはそう言うと、杖を掲げて広範囲のまじないを発動する。ミツハニー達に、偽の指令を与えたのだ。
「木の根本に戻れ。そのまま、眠れ」
空に散らばる蜂達は、緩やかに指令に従っていく。するすると、元々いた木の根本に整列していった。ビークインが指令を出したときほど機敏な動きではないものの、確実にドドの指示には従っている。
「巣穴の中で、永久にじっとしていろ。食われても、抵抗せず、味覚も食らわず、ただ飲み込まれるんだ」
杖には、ジャグルの灰が大量に塗り込まれている。二人の力が合わされば、蜂達にとって理不尽な指令を下すのは造作もないことだった。あっけなく元の巣穴に戻っていくミツハニーを眺めながら、ジャグルは唸った。
全てのミツハニーが整列するのを見届けて、ドドは口を開く。
「さて、最後の仕上げだね」
ドドは背後を振り返る。ジャグルも同じ方向を見た。木陰からマティアスがこちらをのぞき込んでいたのが見えた。ジャグルと目が合い、ひっ、と彼は声を上げた。
「ご安心ください。人食いは退治しました。あなたを襲うものは、もうありません」
ドドは優しい声で彼に話しかける。彼はきょとんとした顔をしていた。
「蜂蜜も無事です。どうぞ、心おきなく召し上がって下さい」
ドドは続ける。優しげな口調に、ジャグルは訝る。
彼は恐る恐る出てきた。だが、顔色を伺うようにこちらを見て、足を止めた。ジャグルに一喝されたこともあり、本当に蜂の巣へ向かってもいいのか迷っているようだ。しばらく黙っていると、結局彼は背中を丸めながら蜂の巣に向かって早足で駆けていった。
一心不乱に蜂蜜を取ろうとする彼の姿を、ジャグルはじっと見つめた。
彼をどうすべきか考えあぐねているうちに、ドドは先に動いた。彼に近寄り、耳元でささやく。
「ただし蜂蜜は、もう生まれません。ここにあるのが最後です」
紛れもない真実を告げると、えっ、と彼は振り返った。
「なんてことを」
彼はすがるように、ドドに向かって手を伸ばした。
「なんてことをするんだ」
「ええ。蜂を『何とかする』のが我々の仕事なので」
救いの無いことを言う、とジャグルは思った。だがそれ以上に、マティアスを哀れだとも思った。彼はうなだれ、落胆する。小さな声で何かをぶつぶつと呟いている。恐らく、怒りに近い感情だと推察する。ただその恨みを、我々に向けるべきか、依頼した村長達に向けるべきか、分からないのだろう。
その様子を見て、ドドは微笑みを浮かべる。そして、ミツハニーを一匹取り出し、彼に指で受けるように勧めた。虫の体を割り、彼の無骨な指に体液がしたたり落ちる。
「どうぞ、召し上がって下さい」
ドドは手を出して、マティアスに勧める。彼は少し迷ったのち、ゆっくりと指を口に入れた。その瞬間、目を丸くする。そして、指とドドの顔を交互に見た。
「恐らく、あなたはこう思ったでしょう。甘いけど味が違う。そして、もういらない、と」
ドドの言葉に、彼は震えるように頷く。自身の思考を読まれているような言葉に、動揺を隠せないらしい。
まじないの力で、ドドは蜂蜜に細工をしていた。三つ目の偽の指令を与え、奪った味覚の回復に努めるよう指示を出したのだ。勿論、人食いが食らったものはすでに糧となっているため、そっくりそのまま戻せるわけではない。だが、食った味覚を再び育てる力はある、と言うのがドドの見立てだった。
「これでこの村も、元に戻るかな」
人食いの力に振り回され、崩壊しかけていた集落。
「嫌だ」
村人の言葉に、へ、と声を上げるジャグル。
「嫌だ、村が、元に戻るのは」
マティアスはすがるように、ドドのことを見つめた。ジャグルは初めて彼を見かけた時のことを思い出す。彼を見かけた村人の態度は、嫌悪感に満ちたものだった。彼が村の中でどんな扱いをされているのか、ジャグルは察した。つらい思いをしているのだろう、と思う。
ジャグルはドドを見つめた。
ドドは少し思案した後、指を宙に走らせた。すると、インクのようになぞった跡が宙に残った。夜闇で内容は分からないが、どうやら文字を書いていることは分かった。ドドが二行ほどの文章を書き終えると、最後にそれを指で押し、村人の額に押しつけた。宙に描かれた文字は、するすると彼の頭の中に入っていく。
「今、あなたに一つの場所を伝えました。もしこの村がいやでいやで仕方がない、と言うのであれば、そこを訪ねて下さい。少し遠いかもしれませんが、あなたには出来るはずです」
どの場所を、と聞きたそうなジャグルの顔に気付いて、ドドは微笑む。
「この村に来る前、最後に泊まったクラウディア夫人の別荘だよ。彼を受け入れていただけるように、俺からも打診してみる」
ドドは、彼の分厚い手を取った。手のひらは固く、血豆もできている。
「あなたはもしかしたら、ここでは鈍い者だと言われてきたのかもしれません。ですが、この手を見るにきっと働き者なのだと思います。夫人のところなら、重宝してくれることでしょう」
そう言ってドドは微笑み、手を離した。
「あとは、あなた次第です」
立ち去る二人を、マティアスはぼんやりと眺めていた。
ドドとジャグルは、ひっそりと村を離れた。
戻りの旅支度を誰にも見つからずに済ませるのは簡単だった。姿を隠すまじない。自分から出る音を消すまじない。足跡が残らないまじない。悟らせない方法は、いくつもある。まじないさえかけてしまえば、後は何食わぬ顔をして拠点に戻り荷物をまとめて、馬屋から馬を連れてくるだけでいい。ドドは一枚の便せんに、仕事の完了報告と挨拶もせずに出て行った詫び、そして村が元通りになることを願う文をしたため、集会所の机に置いていった。
夜の山道は危険を伴うが、馬が足を踏み外さないように感覚を補助してやれば、何も問題はない。
「マティアスさん……あの人、本当に来るのかな」
ジャグルはふと呟いた。彼の優柔不断な性格のせいで、結局ドドの助け船を諦めてしまうのではないか、という疑念はあった。それなら、最初から一緒に連れ出す方法もあったはずだ、とも。ジャグルの疑問に、ドドは答える。
「彼にはまじないをかけておいた。新天地を渇望する気持ちと、行動する勇気を奮い立たせるまじないだ。たとえ誰かの手助けがあったとしても、自分の意志で動き、何かを成し遂げた、という感覚が、彼には必要なんだと思う」
そうかもしれない、とジャグルは思った。
「おれは、どうなんだろうな」
今の生き方は、自分で決めた道なのだろうか。
「この仕事は、つらいかい」
ふいに、ドドが尋ねる。予想していない質問だったので、驚いてしまった。
「つらいときもあるけど、楽しいと思ってるよ」
少し考えてから、答える。人食い退治も、雑用も、勉学も、すべて同じ思いだ。それがジャグルにとって、嘘もいつわりもない答えだった。
「そう思えるのなら、それはお前が決めた道だよ」
ドドは言った。
「さあ、やることはまだまだたくさん残っているよ。蜂蜜が尽きれば、きっとこの村は周囲との交易を再び申し出るはずだ。そうなった時に受けれてもらえるよう、夫人にお願いしなければね。俺たちも挨拶回りだ。忙しくなるぞ」
ああ、とジャグルは頷く。
木々の間を抜け、視界が開ける。馬は速度を上げて、クラウディア夫人の別荘へと向かった。
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#4 蜂蜜 -8-
静かな朝だった。
まじない師を名乗る二人組がこの村を訪れた翌日。私は赤い服を身に纏い、まじない師のうちの一人に会いに、集会所へ向かった。
集会所へたどり着くより先に、彼女の後ろ姿が見えた。確か、名前はジャグル・タルト。
朝の散歩でもしているのか、景色を眺めながらゆっくりと歩みを進めている。
「おはよう。まじない師さん」
私は後ろから声をかけた。
「おはようございます」
彼女は私の存在に驚いたのか、肩を震わせた。返す挨拶の声も、どことなくぎこちない。恐らくこの集落の謎に、早くも気付き始めているのだろう。さすがまじない師、勘がいい。秘密を暴いたのは、もう一人の方かもしれないが。
「あなた、昨日来たまじない師さんでしょう。いかがかしら、この村は」
私はにっこりと微笑んで、尋ねる。
「ええ。のどかで、とてもいいところですね」
「この村の特産品、召し上がった?」
「蜂蜜ですね。はい、とても美味しかったです」
嘘だということはすぐに分かった。あの蜜を舌に乗せて、正気を保っていられるはずがないからだ。
「そう。それは良かった。初めて食べたときは、私も感動しちゃった。あんなにおいしいものがこの世にあるなんて、ってね。あなたも気に入ってくれたのなら嬉しいわ」
私は話を合わせる。
「ええ。またいただきたいです」
「もちろん、いくらでも。この村にいる限りは、好きなだけ食べていいわよ。なくなったら言ってね。おかわりを用意するから」
この村の人間は、よそから来た人間を招いた際にはきっとこういう反応をするであろう言葉を並べる。あの蜂蜜を食べたのであれば、すでに同じ穴の狢だ。共犯者だ。村人達は積極的に村の中へ取り込もうとする。そして食べた者も、喜んでそれに応じる。このまじない師もそうなってくれれば、こちらにとっては都合が良いのだけれど。きっと彼女は、誘いには乗らないだろう。
「あ、そうだ。あの蜂蜜がこの村に行き渡った経緯、もしご存じでしたら教えていただけませんか」
ジャグルは思いついたように言った。
探りを入れるにしては、あまりに素直すぎるな、と思った。見た目通り、彼女はまだまだ若い。経験不足だな、と苦笑する。果たして彼女に情報を与えてもいいものかと少し考える。こちらから内情を話せば、会話の流れで私も彼女のことを聞くことが出来るだろう。
「いいわよ。それなら、ちょっと歩きながら話さない? 見せたい場所もあるし」
私は答え、提案する。見せたい場所など本当はない。歩きながら話す方が、自然だと思ったからだ。
遅かれ早かれ、彼女らは真実にたどり着く。ミツハニー共の採取場を案内してやってもいいかもしれない。
「分かりました。よろしくお願いします」
彼女は嬉しそうな顔をしている。ここは彼女にとって敵地のようなものなのに、呑気なものだ。私がもし、あなたを騙そうとする人間だったらどうするつもりなのだろう。甘い女だ。内心呆れてしまう。
そんな感情を表には出来るだけ出さないように、彼女にこの村のことを話す。
「あの蜂蜜はね、木こりのマティアスさんが見つけたのよ。この先の方に家があるんだけどね。彼が仕事をしている時、偶然にね。急においしそうな匂いがして、木のうろを覗いてみたらしいのよ。そしたら蜂の巣があったんだって。蜂の姿は無かったそうで、甘い匂いに我慢出来なくなって、ついつい手をだしちゃったみたい」
食べるようにそそのかしたのは私である、ということを棚に上げて、可能な限り他人事のように語る。
「そしたら中から大量の蜜が出てきて、食べてみたら美味しかったんだって。それからと言うもの、この森の奥の方ではそんな不思議な蜂の巣があちこちで見つかるようになった。それ以来、私たちは喜んで蜂蜜ばっかり食べてるのよ。男の仕事は農作業から蜂蜜採取に変わったわ」
あの蜂蜜は、この村の生活を一変させた。あっという間に、皆狂ったように蜂蜜のみを求めるようになった。
つくづく、人食いの力とは恐ろしいものだと思わせてくれる。
「みんな、蜂蜜を取りに行っちゃってるんですか」
ジャグルは驚いたように相づちを打つ。
「そうね。正直、あれがあれば他には何もいらないもの。あれに比べれば、他の何を食べても味がしないも同然だわ。おいしくないなら、べつに食べなくてもいいんじゃない? たぶん、他のみんなも同じことを考えてると思うわ」
「養蜂はおこなってはいないんですか。自分で蜂を育てて、蜜を取る」
「何度か試したことはあったみたいんだけどね。でも、出来なかった。今のところは、彼らの巣を探して蜂蜜を取るしかないのよね。残念だけど」
私は残念がるふりをする。
「でも安心して。蜂の巣は山の奥でいくらでも見つかるそうだから。ちょっと探せばすぐに見つかるわ」
「山の奥ですか。どのあたりにあるか、ご存じなのですか」
「さては自分で取りに行ってみようってクチ? 湖の方よ。わき道を抜けて、歩いていった先。ちょっと探せばすぐに見つかるわ。でも気を付けてね。最近は蜂に刺される子も多いみたいだし。あなたもまだ若いから、もう一人のまじない師さんと行った方がいいわね」
うんうん、と頷いてみた。これは本心ではない。本当は、もう一人のまじない師に出てきて来られては困るのだ。この女はこちらの助言にバカ正直に従ってしまいそうなので、そろそろ私の目的も果たさせてもらうことにしよう。
「あ、そうだ。今度はあなたのこと、教えてくれないかしら」
私は尋ねる。出来る限り、このまじない師たちの情報が欲しい。
「おれのこと、ですか?」
「そう。あなたの名前は」
「ジャグル・タルトです」
「ジャグル。かわいい名前ね」
私はにっこり微笑んだ。彼女は居心地が悪そうに照れている。既にこちらを信用しきっているのだろうな、と思った。質問さえ間違えなければ、怪しまれることはないだろう。
「ジャグルは、どんなまじないが使えるの」
まずは当たり障りのないことから聞いてみる。知りたいのは、彼女のまじない師としての実力……戦闘力だ。
「例えば、虫除けの煙を焚いたりだとか。あれ、おれのまじないなんです。ちゃんと働いてくれたらいいんですけど」
「すごいじゃない」
日常使いのまじないだった。一般的な術師なら、誰でも使える。確か昨晩より、煙が上がっていたが、あれはこの子のまじないだったのか。恐らく効力は十日ほど持つだろう。なるほど、全くの無能という訳ではなさそうだ。
「他にも馬を走らせるときの体力の消耗を抑えたりとか。まあ、色々あります」
ジャグルは頭をかいた。
「頑張っているのね」
私は彼女を褒めた。素直に、まじない師としての努力を怠らない性格のようだ。彼女の元々の性質か、それとももう一人のまじない師の教えの功績か。
「そんなことないです。うちの師匠の方がよっぽど凄いですから」
彼女の口から、ついにあの男……ディドル・タルトの話が出る。今まで彼女の退屈な話に付き合ってきたのは、この時のためだと言っても過言ではない。
「あなたのお師匠さんって言うと……あの男の人?」
「はい。正直、出来ないことなんてないんじゃないかってくらい、凄い人です」
「へえ……それは凄いね」
私はあの男がいるであろう、集会所の方向を見つめた。何を聞くべきか。まず彼の名前を聞こうとしたが、耳に入れたとしても冷静でいられる自信がない。あくまでジャグルの前では、ただの親切な村人を演じなくてはならない。私の正体を晒すのは最悪だ。
もう少し、周辺の情報から攻めるべきだと判断した。まず、何を聞くべきか。身近で見ているこの女でさえ、あの男の弱点は見抜けないのだ。色々考えたが、拠点の場所を聞くのが最も良いと結論づけた。この二人組がこの村に来た時点で、ある程度は絞り込めてはいるのだが、もっと具体的に聞くことができれば手っ取り早いと思った。ジャグルに見抜けないことは、私が見抜けばいい。
「そういえば、二人はどこに住んでいるの? 遠かったんじゃないかしら」
何気なく聞いたつもりだった。
ジャグルが答えようとした瞬間、彼女の動きがぴたりと止まった。
今にも声を発するような体制のままで、ジャグルは固まってしまった。
何が起こっているのか分からず、私は彼女から遠ざかる。自分の身にも、何かしらの攻撃を仕掛けられる可能性があったからだ。
数秒様子を伺ってみたものの、状況は変わらない。朝の空気は変わらず、風は静かに囁いている。彼女の時間だけが、止められてしまったようだ。ふう、と私は息を吐く。とりあえず、私の方へ危害を加える様子はないようだ。
ならば、こういうのはどうだろう。
私は懐に忍ばせていた小刀を取り出し、ジャグルの背中に向けて振り下ろした。
だが刃は彼女の胴を貫くことなく、根本から折れ飛んだ。貫くどころか、服に切り傷一つ付けることができなかった。
なるほど。私は折れた刃を拾い、人形のようになった彼女の姿を見つめる。
「ふふふ、そういうこと」
私は笑う。ディドル・タルト、なんて狡猾な男なのだろう。
あの男は、自らの弟子に対してまじないを施していたのだ。ジャグルが私に対して、ドドの情報を告げようとしたときに、彼女の動き……または時間を止めるまじないを。恐らく、私に自分の情報を渡さないために。
昔から、何でもできる男だった。その中でも何かを止めるまじないは、彼の十八番だった。こんなことをするのは、あの男らしいとすら思えた。
村一つを巻き込んで、ようやく彼らを誘い出すことに成功した。私のまじないを使えば、この村を蜂蜜に狂わせることは造作もないことだった。村の住人として溶け込み、立場の無いマティアスをそそのかし、自然な形で蜂蜜の存在に気付かせる。後は勝手にミツハニーとビークインの餌となっていく。蜂が人を殺し始めたところで、彼らは外の人間に助けを求めようとする。渉外役を私が請け負えば、より対応してもらえる可能性が高まるように仕向けられる。担当するまじない師がディドル・タルトであれば万々歳だった。同じようなことをいくつかの場所で行い、そのどれかに彼らが来れば接触を図ることができる。居場所を掴めなかった私が彼に近付くために取れる方法は、これしかなかった。
ドドを始末する為には、取り巻くものを一つずつ消していくのが効果的だと思っていた。彼に気付かれないようにジャグルを始末し、彼が使役する人食いを始末し、最後に彼の命を奪う。それが最も確実だと考えたが、存外私の存在は警戒されているようだ。昨晩は彼らの会話を盗み聞いてやろうと近付いたが、即座に防音のまじないをかけられてしまった。今後は、少しやり方を改めなくてはならない。
「残念だけど、今回はここまでね」
私はひとりごちた。
ジャグルにかけられた時間停止のまじないは、きっと私が立ち去るまで解けることはないのだろう。今、ドドとやり合うのも得策ではない。術力の差でこちらが負けるのは明白である。ここは引き上げるしかなさそうだ。
心配はいらない。私が蒔いた種は、他にもある。それらは世界のあちこちで、芽吹くのを待っているのだから。
ディドル・タルト。
いや、ディドル・ガレット。
一族を見殺しにし、あまつさえ我々の秘術を奪った裏切り者。
私はあなたを許さない。
言霊使い最後の生き残りである、このベルラ・ガレットが、必ずお前を殺してやる。
お読みいただき、ありがとうございます。
現在完成しているのはここまでになります。
続きは鋭意執筆中です。再開しましたら、またお付き合いいただければ幸いです。
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